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ウンベルト・エーコ
ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932年1月5日 - 2016年2月19日)は、イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前(Il nome della rosa)』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの記号論的分析、聖書分析、中世研究、文学理論の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。後に発表した小説作品には、『フーコーの振り子(Il pendolo di Foucault)』、『前日島(L'isola del giorno prima)』などがある。2010年に上梓した『プラハの墓地(Il cimitero di Praga)』はベストセラーとなった。 エーコは学術書や論文、児童書、エッセイなども著した。サンマリノ共和国大学コミュニケーション学科創立者、ボローニャ大学大学院人文学研究科長、アカデミア・デイ・リンチェイ会員、オックスフォード大学ケロッグ・カレッジ名誉フェローを務めた。2016年2月19日、癌のために84歳で死去した。 イタリア北部のピエモンテ州アレッサンドリアに生まれる。父のジュリオは会計士だったが後に政府から3つの戦争へ招聘された。 第二次世界大戦中、ウンベルトと母のジョヴァンナはピエモンテの山腹へ避難した。サレジオ会の教育を受けたため、作品中やインタビューなどでサレジオ会やその創設者について言及している。彼のファミリーネームは、ex caelis oblatus (ラテン語で「天からの贈り物」の意)の頭文字を取ったものと一般に信じられている。これは孤児であった彼の祖父が市の職員から名付けられたものである。 13人兄弟だった父に法律家になるよう強く勧められたが、中世哲学や文学を学ぼうとトリノ大学に入学。トマス・アクィナスの美論についての論文を書き、1954年に学位を取得。この時期に信仰が揺らぎカトリック教会から距離を置いた 。その後に国営放送局のイタリア放送協会(RAI)でドキュメンタリー番組のプロデューサーとして勤務した後、トリノ大学でも講義を行った(1956–64)。63年グループで親しくなった一団の前衛芸術家、画家、音楽家、作家たちは、その後の作家人生における重要で影響力のある要素となった。博士論文の延長である初の自著Il problema estetico in San Tommasoを1956年に出版してからこれは特に顕著となった。この著書はまた、母校での教鞭活動の出発点ともなった。 1962年9月にドイツ人美術教師Renate Ramgeと結婚、息子と娘をひとりずつもうけた。ミラノのマンションとリミニ付近の別荘の2つを拠点とした生活を送った。ミラノに3万冊、リミニに2万冊の蔵書を誇る。1992年から翌年にかけてハーバード大学の教授を務めた(Six Walks in the Fictional Woods)。2002年5月23日、ニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学より名誉文学博士を贈られた。イタリア懐疑論者団体CICAPの会員である。 1959年に2冊目の著作Sviluppo dell'estetica medievale (中世美学の発展)を刊行した。これによって並外れた中世思想家としての地位を確立し、その文学活動が価値あるものと、彼の父親にも証明した。イタリア陸軍での18ヶ月の兵役を終え1959年にはRAIを後にして、ミラノのBompiani出版社のノンフィクション編集長となった。1975年までこの地位に就いていた。 中世美学に関するエーコの研究が強調するのは理論と実践の区別である。彼によると中世の時代に存在したのは、ひとつには「幾何学的合理性のある何が美であるべきかのスキーマ」であって、他方には「弁証法的な形相と内包」であった。それはお互いをあたかも一枚の窓ガラスのように退け合うのだという。当初は"読者反応"のパイオニアのひとりであったが、時を経てエーコの文学理論は焦点を変えた。 3年の間、エーコは真剣に「開かれた」(オープンな)テクストや記号論についての考えを発展させ始めた。そういった主題のエッセイを数多く執筆し、1962年にOpera aperta (開かれた仕事)を、世に送り出した。その中で論じられているのは、真の文学テクストは一連の意味を持つというより、意味の領域なのであるということ、またそれらは、オープンで精神的にダイナミックで心理学的に研究される分野であると理解されるということである。評価術語学は専門領域ではないのだが、エーコはこのように論じている。読み甲斐のない文学とは、読者の潜在理解力を一面的で明瞭な言葉、すなわち閉じられたテクストに制限するようなものである。その一方で精神、社会、人生の間で最も活動的であるようなテクスト、すなわち開かれたテクストは活気に満ちていて最高のものなのだ。エーコが強調する事実は、単に語彙的な意味を持つ単語はなく、発話の文脈の中で作用するのだということである。これは従来、イギリスのアイヴァー・リチャーズらによって指摘されてきたことだが、エーコはこの考えを言外の意味・含意にまで敷衍した。また発話中の言葉の不定な意味から意味の予測と補完による作用にまで意味の軸を拡張した。エーコがこういった考え方に至ったのは言語学を通してでありまた記号学によるものであって、心理学や伝統的分析を通してではない。後者のアプローチはヴォルフガング・イーザーらのような理論家によるもの、前者はハンス・ロベルト・ヤウスによるものである。本格的な理論を発展させたわけではないが、大衆文化研究にも影響を及ぼしている。 エーコはVersus Quaderni di studi semiotici(イタリアの学術用語で『ヴァーサス』として知られる)という有力な記号論ジャーナルを共同創設し、意味論や記号論に関係する学者の重要な発表基盤となった。その機関誌の基金や活動はイタリアを含むヨーロッパ全土において、記号論の影響をそれ自体の学術分野として増大させることに貢献してきた。 ヨーロッパの有名な記号学者のほとんど、すなわちウンベルト・エーコ、アルギルダス・ジュリアン・グレマン、ジャン=マリー・フロック、パオロ・ファッブリ、ジャック・フォンタニユ(英語版)、クロード・ジルバーベルグ(英語版)、ウゴ・ヴォリ(英語版)、パトリジア・ヴィオリはヴァーサス上に論文を発表してきた。記号論の新たな研究展望を扱う若く無名な学者にもまたヴァーサスのほとんど毎号の中に発表する場が与えられている。 1988年にレッジョ・カラブリア大学でアレッサンドロ・ビアンキ校長から建築学の名誉学位を受け、ボローニャ大学で「非西洋人(アフリカ人・中国人学者)の観点から見る西洋の人類学」という一風変わった課程を創設した。このプログラムはアフリカ人・中国人学者の独自基準で定義されている。エーコは、西アフリカのAlain Le Pichonの考えに基づいた異文化国際ネットワーク発展させ、1991年中国の広州において「知のフロンティア」という名の初の会議を開催するに至った。この最初のイベントの後すぐに"普遍探究の誤解"についての欧州・中国セミナーがシルクロードに沿って広東から北京で開かれた。後者は最終的にThe Unicorn and the Dragonという名の本となった。その中で中国とヨーロッパの知識を創造することの疑問について議論している。この書籍に関わった学者は、中国人ではタン・イジー、ワン・ビン、Yue Dayunなどがいる。ヨーロッパ人ではフーリオ・コロンボ、アントワーヌ・ダンシャン(英語版) ジャック・ル・ゴフ、パオロ・ファッブリ、アラン・レイなどがいる。 洋の東西の相互知識を省察すべく、ボローニャでの会議に続いてマリのトンブクトゥで2000年にセミナーが開かれた。これが今度はブリュッセル、パリ、ゴアでの一連の会議につながり2007年には遂に北京で会議が行われた。北京会議の議題は"秩序と無秩序"、"戦争と平和の新概念"、"人権"、"社会正義と調和"であった。開会講演はエーコが行った。プレゼンテーションを行った人類学者は次の通りである。インド:Balveer Arora、Varun Sahni、Rukmini Bhaya Nair。アフリカ:ムサ・ソウ。ヨーロッパ:ローランド・マーティ、モーリス・オーレンダー。韓国:チャ・インスク。中国:ホワン・ピン、チャオ・ティンヤン。有力な法学者や科学者(アントワーヌ・ダンシャン、アーメド・ジェバー、ディーター・グリム)もまたプログラムに参加した。 国際コミュニケーションや国際理解を容易にする対話への興味は洋の東西を問わず、国際補助語のエスペラントにも関心を抱いている。一方、SNSには「孤独を深めるだけ」と懐疑的だった。 エーコの創作作品は好調な売れ行きを見せており、多数の言語に翻訳され世界中で楽しまれている。小説はしばしば歴史上の人物や書物に言及し、濃密で難解なプロットは幻惑的な展開をたどる傾向がある。 1980年出版の小説第1作『薔薇の名前』は、14世紀の修道院が舞台の歴史ミステリーであるが、その中でエーコは中世研究者としての知識をふんだんに用いている。バスカヴィルのフランシスコ会修道士ウィリアムが、ベネディクト会の見習修道士のアドソと共に、重要な宗教議論を開催するため設置された修道院での連続殺人を調査するという内容である。エーコは、読者が神学専門家でなくとも内容を楽しめるように、中世の神学論争や異端審問を現代の政治・経済用語へ翻訳することに特に長けている。『薔薇の名前』は後にショーン・コネリー、F・マーリー・エイブラハム、クリスチャン・スレーターら主演で映画化されている。 この小説の注目すべき事実のひとつは、根底をなす殺人事件が(リチャード・バートンによってアラビア語から英訳された)『アラビアンナイト』からの借用であるということである。また、バスカヴィルのウィリアムの調査シーンの描写のいくつかは、アーサー・コナン・ドイルによる19世紀の架空の探偵シャーロック・ホームズの特徴を換骨奪胎している。実際、直接・間接を問わず他作品へ多くの言及がなされている。それゆえ、それがメタテクスト性の作品として作用し読者に「謎解き」をすることを要求することになる。 『薔薇の名前』は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスへの独創的かつ伝記的な賛辞でもあり、小説や映画の中で彼は、盲目の修道士であり図書館司書であるブルゴスのホルヘ(英語名:ジョージ)として表現されている。ホルヘと同じように、ボルヘスは書物への情熱に身を捧げて禁欲生活を送り、晩年は目が不自由になった。 1988年出版の小説第2作『フーコーの振り子』も好調な売れ行きを見せ、数年で多国語に訳された。この小説では、零細出版社に勤める3人の編集者らが、戯れに陰謀説をでっちあげようと思い立つ。彼らが「計画」と呼ぶその陰謀は、テンプル騎士団に端を発する秘密結社が世の中を転覆させようとしているという、巨大で深遠なものだった。物語が展開するにつれ、3人は徐々に「計画」の細部にとりつかれていく。やがて「計画」を知った部外者たちが、3人が本当にテンプル騎士団の失われた財宝を手に入れるための秘密を発見したと信じ込んでしまい、彼らの遊びは危険なものになってしまう。 1994年に第3作目『前日島』が出版され、この小説は17世紀を舞台に、海上に停泊した無人船に漂着した主人公の青年は、船べりから見える島を日付変更線の向こう側の「前日にある島」だと考えるようになる。しかし、泳げない主人公は身動きがとれず、自分を現在の境遇に追いやったこれまでの半生と冒険を回想するのに時を費やす。 2000年に第4作目の小説『バウドリーノ』が出版。騎士バウドリーノは、第4回十字軍によるコンスタンティノープル略奪のさなか、ビザンチン歴史学者ニケタス・コニアテスを救う。嘘つきを自称するバウドリーノは、農家のせがれである自分がフリードリヒ1世の養子になり、やがて司祭ヨハネの幻の王国を探す旅をするまでの自らの半生を打ち明ける。しかしこの話の至るところで彼はペテンやほら吹きの才能を鼻にかけ、ニケタスは(そして読者も)彼の話がどこまで本当なのかわからなくなってしまう。 2004年に第5作目の小説『女王ロアーナ、神秘の炎』(英訳:The Mysterious Flame of Queen Loana)が出版された。昏睡状態から回復し過去を取り戻す記憶しかなくなってしまった、年老いた古書商人Iambo Bodoniを中心に話が展開する。これがエーコの最後の小説になるという噂があったが、2009年の「ロンドン・ブックフェア」でのインタビューで、自分はまだ「若い小説家」であり、この先ももっと小説を書くだろう、と本人が述べたことで打ち消された。 2010年10月に第6作目の小説『プラハの墓地』(伊語: Il cimitero di Praga、英訳:The Prague Cemetery)は、出版された。 エーコの作品が示しているのは間テクスト性、すなわちすべての文学作品にまたがる相互関連の概念である。彼の小説には、文学や歴史への、巧妙でしばしば多言語的な言及が豊富に含まれる。例えばバスカヴィルのウィリアムという登場人物は、修道士であり探偵でもある論理思考型のイギリス人であり、その名はオッカムのウィリアムや(『バスカヴィル家の犬』を介して)シャーロック・ホームズを想起させる。エーコは自らの作品に最も影響を与えた現代作家として、ジェイムズ・ジョイスとホルヘ・ルイス・ボルヘスを挙げている(On Literatureによる)。 (エウジェニオ・カルミ作画)
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ウンベルト・エーコは、イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの記号論的分析、聖書分析、中世研究、文学理論の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。後に発表した小説作品には、『フーコーの振り子』、『前日島』などがある。2010年に上梓した『プラハの墓地』はベストセラーとなった。 エーコは学術書や論文、児童書、エッセイなども著した。サンマリノ共和国大学コミュニケーション学科創立者、ボローニャ大学大学院人文学研究科長、アカデミア・デイ・リンチェイ会員、オックスフォード大学ケロッグ・カレッジ名誉フェローを務めた。2016年2月19日、癌のために84歳で死去した。
{{Infobox philosopher | region = [[西洋哲学]] | era = [[20世紀哲学]]、[[現代哲学]] | image = Umberto Eco 04.jpg | caption = ウンベルト・エーコ(2005年撮影) | name = ウンベルト・エーコ<br/>Umberto Eco | birth_date = [[1932年]][[1月5日]] | birth_place = {{ITA1861}}、[[ピエモンテ州]][[アレッサンドリア]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1932|1|5|2016|2|19}}<ref name="Corr2016"> {{cite web | website = Corriere Della Sera Online | url = http://www.corriere.it/cultura/16_febbraio_20/morto-umberto-eco-6a6c8fac-d760-11e5-a4d1-c8704a1e2204.shtml | language = italian | date = 19 February 2016 | accessdate = 19 February 2016 | title = È morto lo scrittore Umberto Eco | trans-title = The writer Umberto Eco is dead }}</ref><ref name="reuters1">{{cite web|url=http://uk.reuters.com/article/uk-italy-eco-idUKKCN0VT037|title=Umberto Eco, Italian author of 'The Name of the Rose,' dies at 84 |author=|date=20 February 2015|work=[[Reuters]]|accessdate=20 January 2016}}</ref> | death_place = {{ITA}}、[[ロンバルディア州]][[ミラノ]] | school_tradition = [[大陸哲学]] | main_interests = [[記号論]] | notable_ideas = 開かれた作品(opera aperta)、読者の意図(intentio lectoris)、解釈の「限界」 | influences = [[トマス・アクィナス]]、[[チャールズ・サンダース・パース]]、[[ジェームズ・ジョイス]]、[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]、[[イマヌエル・カント]]、[[アーサー・コナン・ドイル]] | influenced = | signature = Umberto Eco signature.svg }}'''ウンベルト・エーコ'''({{lang|it|Umberto Eco}}, [[1932年]][[1月5日]] - [[2016年]][[2月19日]])は、[[イタリア]]の[[小説家]]、[[エッセイスト]]、[[文芸評論家]]、[[哲学者]]、[[記号学]]者。[[イタリア共和国功労勲章]]受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『[[薔薇の名前]](Il nome della rosa)』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの[[記号論]]的分析、[[聖書]]分析、[[中世]]研究、[[文学理論]]の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。後に発表した小説作品には、『[[フーコーの振り子 (小説)|フーコーの振り子]](Il pendolo di Foucault)』、『前日島(L'isola del giorno prima)』などがある。2010年に上梓した『プラハの墓地(Il cimitero di Praga)』はベストセラーとなった。 エーコは学術書や論文、児童書、エッセイなども著した。[[サンマリノ共和国大学]]コミュニケーション学科創立者、[[ボローニャ大学]]大学院人文学研究科長、アカデミア・デイ・リンチェイ会員、[[オックスフォード大学]]ケロッグ・カレッジ名誉フェローを務めた。2016年2月19日、癌のために84歳で死去した<ref>[http://news.biglobe.ne.jp/international/0220/jj_160220_8856169395.html ウンベルト・エーコ氏死去=「薔薇の名前」、84歳—伊哲学者] 時事通信 2016年2月20日</ref>。 == 経歴 == イタリア北部の[[ピエモンテ州]][[アレッサンドリア]]に生まれる。父のジュリオは会計士だったが後に政府から3つの戦争へ招聘された。 [[第二次世界大戦]]中、ウンベルトと母のジョヴァンナはピエモンテの山腹へ避難した。[[サレジオ会]]の教育を受けたため、作品中やインタビューなどでサレジオ会やその創設者について言及している<ref>[http://www.sdb.ph/sdb4/N7/20040644ENG.doc Don Bosco in Umberto Eco's latest book] N7: News publication for the Salesian community p.4 2004年6月</ref>。彼のファミリーネームは、ex caelis oblatus (ラテン語で「天からの贈り物」の意)の頭文字を取ったものと一般に信じられている。これは孤児であった彼の祖父が市の職員から名付けられたものである<ref>[http://www.themodernword.com/eco/eco_biography.html A Short Biography of Umberto Eco] 2004年3月22日</ref>。 13人兄弟だった父に法律家になるよう強く勧められたが、中世哲学や文学を学ぼうと[[トリノ大学]]に入学。[[トマス・アクィナス]]の美論についての論文を書き、1954年に学位を取得。この時期に信仰が揺らぎ[[カトリック教会]]から距離を置いた<ref>[http://www.kirjasto.sci.fi/ueco.htm Umberto Eco (1932-) - Pseudonym: Dedalus]2003年</ref> 。その後に国営放送局の[[イタリア放送協会]](RAI)でドキュメンタリー番組のプロデューサーとして勤務した後、トリノ大学でも講義を行った(1956–64)。[[63年グループ]]で親しくなった一団の前衛芸術家、画家、音楽家、作家たちは、その後の作家人生における重要で影響力のある要素となった。博士論文の延長である初の自著Il problema estetico in San Tommasoを1956年に出版してからこれは特に顕著となった。この著書はまた、母校での教鞭活動の出発点ともなった。 1962年9月に[[ドイツ人]]美術教師Renate Ramgeと結婚、息子と娘をひとりずつもうけた。[[ミラノ]]のマンションと[[リミニ]]付近の別荘の2つを拠点とした生活を送った。ミラノに3万冊、リミニに2万冊の蔵書を誇る<ref>{{cite web|url=http://www.telegraph.co.uk/culture/books/3642577/Heavyweight-champion.html |title=Heavyweight champion |accessdate=2009-10-23 |last=Farndale |first=Nigel |date=2005-05-24 |work=Telegraph.co.uk |publisher=[[The Daily Telegraph]] }}</ref>。1992年から翌年にかけて[[ハーバード大学]]の教授を務めた([[:en:Six Walks in the Fictional Woods|Six Walks in the Fictional Woods]])。2002年5月23日、[[ニュージャージー州]][[ニューブランズウィック (ニュージャージー州)|ニューブランズウィック]]の[[ラトガース大学]]より名誉[[文学博士]]を贈られた。イタリア懐疑論者団体CICAPの会員である<ref name="GuardianNaples2005">{{Cite news|url=http://www.guardian.co.uk/world/2005/oct/06/worlddispatch.italy | title=No blood, sweat or tears | first=Barbara | last=McMahon | newspaper=[[The Guardian]] | date=2005年10月6日 | accessdate=2009年7月28日}}</ref>。 == 研究 == 1959年に2冊目の著作Sviluppo dell'estetica medievale (中世美学の発展)を刊行した。これによって並外れた中世思想家としての地位を確立し、その文学活動が価値あるものと、彼の父親にも証明した。[[イタリア陸軍]]での18ヶ月の兵役を終え1959年にはRAIを後にして、ミラノのBompiani出版社のノンフィクション編集長となった。1975年までこの地位に就いていた。 中世美学に関するエーコの研究が強調するのは理論と実践の区別である。彼によると中世の時代に存在したのは、ひとつには「幾何学的合理性のある何が美であるべきかの[[スキーマ]]」であって、他方には「弁証法的な形相と内包」であった。それはお互いをあたかも一枚の窓ガラスのように退け合うのだという。当初は"読者反応"のパイオニアのひとりであったが、時を経てエーコの[[文学理論]]は焦点を変えた。 3年の間、エーコは真剣に「開かれた」(オープンな)[[テクスト]]や記号論についての考えを発展させ始めた。そういった主題のエッセイを数多く執筆し、1962年に''Opera aperta'' (開かれた仕事)を、世に送り出した。その中で論じられているのは、真の文学テクストは一連の意味を持つというより、意味の領域なのであるということ、またそれらは、オープンで精神的にダイナミックで心理学的に研究される分野であると理解されるということである。評価術語学は専門領域ではないのだが、エーコはこのように論じている。読み甲斐のない文学とは、読者の潜在理解力を一面的で明瞭な言葉、すなわち閉じられたテクストに制限するようなものである。その一方で精神、社会、人生の間で最も活動的であるようなテクスト、すなわち開かれたテクストは活気に満ちていて最高のものなのだ。エーコが強調する事実は、単に語彙的な意味を持つ単語はなく、発話の文脈の中で作用するのだということである。これは従来、イギリスの[[アイヴァー・リチャーズ]]らによって指摘されてきたことだが、エーコはこの考えを言外の意味・含意にまで敷衍した。また発話中の言葉の不定な意味から意味の予測と補完による作用にまで意味の軸を拡張した。エーコがこういった考え方に至ったのは言語学を通してでありまた記号学によるものであって、心理学や伝統的分析を通してではない。後者のアプローチは[[ヴォルフガング・イーザー]]らのような理論家によるもの、前者はハンス・ロベルト・ヤウスによるものである。本格的な理論を発展させたわけではないが、大衆文化研究にも影響を及ぼしている。 == 人類学活動 == [[File:Umberto Eco 03.jpg|300px|left|thumb|[[レッジョ・カラブリア県|レッジョ・カラブリア大学]]にてアレッサンドロ・ビアンキ校長から建築学の名誉学位を受けるエーコ]] エーコはVersus Quaderni di studi semiotici(イタリアの学術用語で『[[:en:Versus (journal)|ヴァーサス]]』として知られる)という有力な記号論ジャーナルを共同創設し、意味論や記号論に関係する学者の重要な発表基盤となった。その機関誌の基金や活動はイタリアを含むヨーロッパ全土において、記号論の影響をそれ自体の学術分野として増大させることに貢献してきた。 ヨーロッパの有名な[[記号学|記号学者]]のほとんど、すなわちウンベルト・エーコ、{{仮リンク|アルギルダス・ジュリアン・グレマン|en|Algirdas Julien Greimas}}、[[ジャン=マリー・フロック]]、[[パオロ・ファッブリ]]、{{仮リンク|ジャック・フォンタニユ|en|Jacques Fontanille}}、{{仮リンク|クロード・ジルバーベルグ|en|Claude Zilberberg}}、{{仮リンク|ウゴ・ヴォリ|en|Ugo Volli}}、[[パトリジア・ヴィオリ]]はヴァーサス上に論文を発表してきた。記号論の新たな研究展望を扱う若く無名な学者にもまたヴァーサスのほとんど毎号の中に発表する場が与えられている。 1988年にレッジョ・カラブリア大学でアレッサンドロ・ビアンキ校長から建築学の名誉学位を受け、ボローニャ大学で「非西洋人(アフリカ人・中国人学者)の観点から見る西洋の人類学」という一風変わった課程を創設した。このプログラムはアフリカ人・中国人学者の独自基準で定義されている。エーコは、西アフリカのAlain Le Pichonの考えに基づいた異文化国際ネットワーク発展させ、1991年中国の広州において「知のフロンティア」という名の初の会議を開催するに至った。この最初のイベントの後すぐに"普遍探究の誤解"についての欧州・中国セミナーがシルクロードに沿って広東から北京で開かれた。後者は最終的にThe Unicorn and the Dragonという名の本となった。その中で中国とヨーロッパの知識を創造することの疑問について議論している。この書籍に関わった学者は、中国人では[[タン・イジー]]、[[ワン・ビン]]、[[Yue Dayun]]などがいる。ヨーロッパ人では[[フーリオ・コロンボ]]、{{仮リンク|アントワーヌ・ダンシャン|en|Antoine Danchin}} [[ジャック・ル・ゴフ]]、[[パオロ・ファッブリ]]、[[アラン・レイ]]などがいる<ref>[http://carbon.cudenver.edu/~mryder/itc_data/eco/eco.html "A Conversation on Information" Interview with Umberto Eco by Patrick Coppock, 1995年2月]</ref><ref>[http://www.justicescholars.org/pegc/archive/Articles/eco_ur-fascism.pdf ''Ur-Fascism''] (essay in ''The New York Review of Books'', 1995年6月22日)</ref>。 洋の東西の相互知識を省察すべく、ボローニャでの会議に続いてマリの[[トンブクトゥ]]で2000年にセミナーが開かれた。これが今度はブリュッセル、パリ、ゴアでの一連の会議につながり2007年には遂に北京で会議が行われた。北京会議の議題は"秩序と無秩序"、"戦争と平和の新概念"、"人権"、"社会正義と調和"であった。開会講演はエーコが行った。プレゼンテーションを行った人類学者は次の通りである。インド:[[Balveer Arora]]、[[Varun Sahni]]、[[Rukmini Bhaya Nair]]。アフリカ:[[ムサ・ソウ]]。ヨーロッパ:[[ローランド・マーティ]]、[[モーリス・オーレンダー]]。韓国:[[チャ・インスク]]。中国:[[ホワン・ピン]]、[[チャオ・ティンヤン]]。有力な法学者や科学者([[アントワーヌ・ダンシャン]]、[[アーメド・ジェバー]]、[[ディーター・グリム]])もまたプログラムに参加した<ref>[http://weekly.ahram.org.eg/2003/665/bo3.htm "Vegetal and mineral memory"], November 2003. Considers, among other things, [[encyclopedia]]s</ref>。 国際コミュニケーションや国際理解を容易にする対話への興味は洋の東西を問わず、[[国際補助語]]の[[エスペラント]]にも関心を抱いている。一方、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]には「孤独を深めるだけ」と懐疑的だった<ref>[http://digital.asahi.com/articles/DA3S12223848.html イタリアの作家・思想家、ウンベルト・エーコ氏を悼む]朝日新聞2016年2月23日</ref>。 == 小説 == [[Image:Umberto Eco in his house.JPG|thumb|right|自宅にて(2010年4月)]] エーコの創作作品は好調な売れ行きを見せており、多数の言語に翻訳され世界中で楽しまれている。小説はしばしば歴史上の人物や書物に言及し、濃密で難解なプロットは幻惑的な展開をたどる傾向がある<ref group="注釈">基本的なプロットの構成法は[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]の技法に倣っている。マンゾーニが風景描写や人物描写を挿話してページ数を稼いだのに対し、エーコはそれをひねって専門の中世哲学や美学の分野における研究業績として発表できないような豆知識や推測を挿話してページ数を稼いだ。</ref>。 1980年出版の小説第1作『[[薔薇の名前]]』は、[[14世紀]]の修道院が舞台の歴史ミステリーであるが、その中でエーコは[[中世]]研究者としての知識をふんだんに用いている。[[バスカヴィル]]の[[フランシスコ会]][[修道士]]ウィリアムが、[[ベネディクト会]]の見習修道士のアドソと共に、重要な宗教議論を開催するため設置された修道院での連続殺人を調査するという内容である。エーコは、読者が[[神学]]専門家でなくとも内容を楽しめるように、中世の神学論争や[[異端審問]]を現代の政治・[[経済用語]]へ翻訳することに特に長けている。『薔薇の名前』は後に[[ショーン・コネリー]]、[[F・マーリー・エイブラハム]]、[[クリスチャン・スレーター]]ら主演で映画化されている。 この小説の注目すべき事実のひとつは、根底をなす殺人事件が([[リチャード・バートン]]によって[[アラビア語]]から英訳された)『[[千夜一夜物語|アラビアンナイト]]』からの借用であるということである。また、バスカヴィルのウィリアムの調査シーンの描写のいくつかは、[[アーサー・コナン・ドイル]]による19世紀の架空の探偵[[シャーロック・ホームズ]]の特徴を換骨奪胎している。実際、直接・間接を問わず他作品へ多くの言及がなされている。それゆえ、それが[[メタ|メタテクスト性]]の作品として作用し読者に「謎解き」をすることを要求することになる。 『薔薇の名前』は、[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]への独創的かつ伝記的な賛辞でもあり、小説や映画の中で彼は、盲目の修道士であり図書館[[司書]]である[[ブルゴス]]のホルヘ(英語名:ジョージ)として表現されている。ホルヘと同じように、ボルヘスは書物への情熱に身を捧げて禁欲生活を送り、晩年は目が不自由になった。 1988年出版の小説第2作『[[フーコーの振り子 (小説)|フーコーの振り子]]』も好調な売れ行きを見せ、数年で多国語に訳された。この小説では、零細出版社に勤める3人の編集者らが、戯れに陰謀説をでっちあげようと思い立つ。彼らが「計画」と呼ぶその陰謀は、[[テンプル騎士団]]に端を発する秘密結社が世の中を転覆させようとしているという、巨大で深遠なものだった。物語が展開するにつれ、3人は徐々に「計画」の細部にとりつかれていく。やがて「計画」を知った部外者たちが、3人が本当にテンプル騎士団の失われた財宝を手に入れるための秘密を発見したと信じ込んでしまい、彼らの遊びは危険なものになってしまう。 1994年に第3作目『前日島』が出版され、この小説は[[17世紀]]を舞台に、海上に停泊した無人船に漂着した主人公の青年は、船べりから見える島を[[日付変更線]]の向こう側の「前日にある島」だと考えるようになる。しかし、泳げない主人公は身動きがとれず、自分を現在の境遇に追いやったこれまでの半生と冒険を回想するのに時を費やす。 2000年に第4作目の小説『バウドリーノ』が出版。騎士バウドリーノは、[[第4回十字軍]]による[[コンスタンティノープル]]略奪のさなか、ビザンチン歴史学者[[ニケタス・コニアテス]]を救う。嘘つきを自称するバウドリーノは、農家のせがれである自分が[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の養子になり、やがて[[プレスター・ジョン|司祭ヨハネ]]の幻の王国を探す旅をするまでの自らの半生を打ち明ける。しかしこの話の至るところで彼はペテンやほら吹きの才能を鼻にかけ、ニケタスは(そして読者も)彼の話がどこまで本当なのかわからなくなってしまう。 2004年に第5作目の小説『女王ロアーナ、神秘の炎』(英訳:''The Mysterious Flame of Queen Loana'')が出版された。昏睡状態から回復し過去を取り戻す記憶しかなくなってしまった、年老いた古書商人Iambo Bodoniを中心に話が展開する。これがエーコの最後の小説になるという噂があったが、2009年の「ロンドン・ブックフェア」でのインタビューで、自分はまだ「若い小説家」であり、この先ももっと小説を書くだろう、と本人が述べたことで打ち消された<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=TWeoJcDv4Kw Professor Umberto Eco at The London Book Fair Part 1] 2009年6月</ref>。 2010年10月に第6作目の小説『プラハの墓地』(伊語: ''Il cimitero di Praga''、英訳'':The Prague Cemetery'')は、出版<ref>[http://prajdzisvet.org/events/346-novy-raman-umberta-eka.html Новы раман Умбэрта Эка /New novel by Umberto Eco]</ref>された。 エーコの作品が示しているのは[[間テクスト性]]、すなわちすべての文学作品にまたがる相互関連の概念である。彼の小説には、文学や歴史への、巧妙でしばしば多言語的な言及が豊富に含まれる。例えばバスカヴィルのウィリアムという登場人物は、修道士であり探偵でもある論理思考型のイギリス人であり、その名は[[オッカムのウィリアム]]や(『[[バスカヴィル家の犬]]』を介して)[[シャーロック・ホームズ]]を想起させる。エーコは自らの作品に最も影響を与えた現代作家として、[[ジェイムズ・ジョイス]]と[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]を挙げている(''On Literature''による)。 == 著書 == {{Refbegin|2}} {{Main|en:Bibliography of Umberto Eco}} ===小説=== *''Il nome della rosa'' (1980; English translation: ''The Name of the Rose'', 1983) *:[[河島英昭]]訳『[[薔薇の名前]]』 東京創元社(上下)、1990年 *''Il pendolo di Foucault'' (1988; English translation: ''Foucault's Pendulum'', 1989) *:[[藤村昌昭]]訳『[[フーコーの振り子 (小説)|フーコーの振り子]]』 各(上下)、文藝春秋、1993年/文春文庫、1999年 *''L'isola del giorno prima'' (1994; English translation: ''The Island of the Day Before'', 1995) *:藤村昌昭訳『前日島』 文藝春秋、1999年/文春文庫(上下)、2003年 *''Baudolino'' (2000; English translation: ''Baudolino'', 2001) *:[[堤康徳]]訳『バウドリーノ』 各(上下)、岩波書店、2010年/岩波文庫、2017年4月 *''La misteriosa fiamma della regina Loana'' (2004; English translation: ''The Mysterious Flame of Queen Loana'', 2005) *:[[和田忠彦]]訳『女王ロアーナ、神秘の炎』、岩波書店(上下)、2018年1月 *''Il cimitero di Praga'' (2010; English translation: ''The Prague Cemetery'', 2011) *:[[橋本勝雄]]訳『プラハの墓地』 東京創元社・海外文学セレクション、2016年2月 *''Numero zero'' (2015; English translation: ''Numero Zero'', 2015) *:中山エツコ訳『ヌメロ・ゼロ』 河出書房新社、2016年9月/河出文庫、2018年11月 ===ノンフィクション=== *''Il problema estetico in San Tommaso'' (1956 – English translation: ''The Aesthetics of Thomas Aquinas'', 1988, revised) *:和田忠彦監訳、石田隆太・石井沙和訳『中世の美学 トマス・アクィナスの美の思想』[[慶應義塾大学出版会]]、2022年 *"Sviluppo dell'estetica medievale", in ''Momenti e problemi di storia dell'estetica'' (1959 – ''Art and Beauty in the Middle Ages'', 1985) *''Opera aperta'' (1962, rev. 1976 – English translation: ''The Open Work'' (1989) *:[[篠原資明]]・和田忠彦訳『開かれた作品』青土社、1984年。新装版1990年・1997年・2002年、新訂版2011年 *''Diario Minimo'' (1963 – English translation: ''Misreadings'', 1993) *:和田忠彦訳『ウンベルト・エーコの文体練習』新潮社、1992年/新潮文庫、2000年/河出文庫(増訂版)、2019年 *''Apocalittici e integrati'' (1964 – Partial English translation: ''Apocalypse Postponed'', 1994) *''Le poetiche di Joyce'' (1965 – English translations: ''The Middle Ages of James Joyce'', ''The Aesthetics of Chaosmos'', 1989) *''La Struttura Assente'' (1968 – ''The Absent Structure'') *''Il costume di casa'' (1973 – English translation: ''Faith in Fakes: Travels in Hyperreality'', 1986) *''Trattato di semiotica generale'' (1975 – English translation: ''A Theory of Semiotics'', 1976) *:[[池上嘉彦]]訳『記号論』 各(Ⅰ・Ⅱ)岩波書店・岩波現代選書、1980年、同時代ライブラリー、1996年/講談社学術文庫、2013年 *''Il Superuomo di massa'' (1976) *''Dalla periferia dell'impero'' (1977) *''Lector in fabula'' (1979) *:篠原資明訳『物語における読者』青土社、1993年、新装版2003年 *''Sette anni di desiderio'' (1983) *''Postille al nome della rosa'' (1983 – English translation: ''Postscript to The Name of the Rose'', 1984) *:[[谷口勇]]訳『「バラの名前」覚書』而立書房、1994年 *''Semiotica e filosofia del linguaggio'' (1984 – English translation: ''Semiotics and the Philosophy of Language'', 1984) *:谷口勇訳『記号論と言語哲学』国文社、1996年 *''De Bibliotheca'' (1986 – in Italian and French) *''Lo strano caso della Hanau 1609'' (1989 – French translation: ''L'Enigme de l'Hanau 1609'', 1990) *''I limiti dell'interpretazione'' (1990 – ''The Limits of Interpretation'', 1990) *''La ricerca della lingua perfetta nella cultura europea'' (1993 – English translation: ''The Search for the Perfect Language (The Making of Europe)'', 1995) *:[[上村忠男]]、廣石正和訳『完全言語の探求』平凡社、1995年/平凡社ライブラリー、2011年 *''Six Walks in the Fictional Woods'' (1994) *:和田忠彦訳『エーコの文学講義――小説の森散策』岩波書店、1996年/新版『小説の森散策』岩波文庫、2013年 *''Incontro – Encounter – Rencontre'' (1996 – in Italian, English, French) *''Cinque scritti morali'' (1997 – English translation: ''Five Moral Pieces'', 2001) *:和田忠彦訳『永遠のファシズム』岩波書店、1998年/岩波現代文庫、2018年 *''Kant e l'ornitorinco'' (1997 – English translation: ''Kant and the Platypus: Essays on Language and Cognition'', 1999) *:和田忠彦監訳『カントとカモノハシ』(上・下) 岩波書店、2003年 *''Serendipities: Language and Lunacy'' (1998) *:[[谷口伊兵衛]]訳『セレンディピティー――言語と愚行』而立書房、2008年 *''How to Travel with a Salmon & Other Essays'' (1998 – Partial English translation of ''Il secondo diario minimo'', 1994) *''La bustina di Minerva'' (1999) *''Experiences in Translation'', University of Toronto Press (2000) *''Sulla letteratura'' (Bompiani, 2003 – English translation by Martin McLaughlin: ''On Literature'', 2004) *: 和田忠彦訳『文学について』岩波書店、2020年9月 *''Mouse or Rat?: Translation as negotiation'' (2003) *''A passo di gambero. Guerre calde e populismo mediatico'' (Bompiani, 2006 – English translation:''Turning Back the Clock: Hot Wars and Media Populism'', Alastair McEwen, 2007) *:リッカルド・アマデイ訳『歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア』岩波書店、2013年/[[岩波現代文庫]]、2021年5月 *''Dall'albero al labirinto: studi storici sul segno e l'interpretazione'' (Bompiani, 2007 – English translation: "From the Tree to the Labyrinth: Historical Studies on the Sign and Interpretation", Anthony Oldcorn, 2014)、「セレンディピティー」の増補版 *''Confessions of a Young Novelist''([[ハーバード大学出版局|Harvard University Press]], 2011) *: 和田忠彦『ウンベルト・エーコの小説講座:若き小説家の告白』筑摩書房、2017年7月 *''De la estupidez a la locura:Pape Satán Aleppe''(La nave di Teseo, 2016) *: 谷口伊兵衛・ジョバンニ・ピアッザ訳『現代「液状化社会」を俯瞰する』而立書房、2019年。精選コラム集 *''Sulle spalle dei giganti''(La nave di Teseo, 2017) *: 和田忠彦監訳、石田聖子ほか全5名訳『ウンベルト・エーコの世界文明講義』[[河出書房新社]]、2018年11月 *''Sulla televisione'' (La nave di Teseo, 2018) *: 和田忠彦監訳、小久保真理江ほか全6名訳『ウンベルト・エーコのテレビ論集成』河出書房新社、2021年3月 ;以下は日本語訳のみ * 谷口勇訳『テクストの概念――記号論・意味論・テクスト論への序説』而立書房、1993年 * 谷口伊兵衛(勇)訳『記号論入門――記号概念の歴史と分析』而立書房、1997年 * 谷口伊兵衛編訳『エコの翻訳論――エコの翻訳論とエコ作品の翻訳論』而立書房、1999年 * 谷口伊兵衛訳『中世美学史――「バラの名前」の歴史的・思想的背景』而立書房、2001年 {{Refend}} == 共著・編著 ほか == *''Carnival!''(Mouton De Gruyter, 1984 - with V. V. Ivanov, Monica Rector) *: 池上嘉彦・[[唐須教光]]訳『カーニバル!』岩波書店、1987年。[[ヴャチェスラフ・イヴァーノフ (言語学者)|V・V・イワーノフ]]、モニカ・レクトールとの共著 *''A semiotic Landscape. Panorama sémiotique''. Proceedings of the Ist Congress of the International Association for Semiotic Studies, Den Haag, Paris, New York: Mouton (Approaches to Semiotics, 29) (with Seymour Chatman and Jean-Marie Klinkenberg). *''The Role of the Reader: Explorations in the Semiotics of Texts'' (1979 – English edition containing essays from ''Opera aperta'', ''Apocalittici e integrati'', ''Forme del contenuto'' (1971), ''Il Superuomo di massa'', ''Lector in Fabula''). *''Interpretation and Overinterpretation'' (1992 – with R. Rorty, J. Culler, C. Brooke-Rose; edited by S. Collini) *:『エーコの読みと深読み』 柳谷啓子、具島靖訳、岩波書店、1993年、新版2013年 ::[[リチャード・ローティ]]、ジョナサン・カラー、C. ブルック=ローズ共著、ステファン・コリーニ編 *''In cosa crede chi non crede?'' (1996 - with Carlo Maria Martini) – English translation: ''Belief or Nonbelief?: A Dialogue'', 2000) *''Storia della bellezza'' (2004, co-edited with Girolamo de Michele – English translation: ''History of Beauty''/''On Beauty'', 2004) *:ジローラモ・デ・ミケーレ共編著『美の歴史』 [[植松靖夫]]監訳、川野美也子訳、東洋書林、2005年 *''Storia della bruttezza'' (Bompiani, 2007 – English translation: ''On Ugliness'', 2007) *:川野美也子訳『醜の歴史』東洋書林、2009年 *''La Vertigine della Lista'' (Rizzoli, 2009) – English translation: ''The Infinity of Lists'' *:川野美也子訳『芸術の蒐集』東洋書林、2011年 *''Jean-Claude Carrière et Umberto Eco, N’espérez pas vous débarrasser des livres''(Paris, Éditions Grasset, 2009), ジャン=フィリップ・ド・トナック聞き手 *:[[ジャン=クロード・カリエール]]共著『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ、2010年 *''Costruire il nemico e altri scritti occasionali'' (Bompiani, 2011) – English translation by Richard Dixon: ''Inventing the Enemy'' (2012) *''Storia delle terre e dei luoghi leggendari'' (Bompiani, 2013) – English translation by Alastair McEwen: ''The Book of Legendary Lands'' (2013) *:三谷武司訳『異世界の書――幻想領国地誌集成』[[東洋書林]]、2015年 ===アンソロジー=== *{{Citation | editor-last=Eco | editor-first=Umberto | editor-link= | editor2-last=Sebeok | editor2-first=Thomas A. | editor2-link= | publication-date=1984 | title=The Sign of Three: Dupin, Holmes, Peirce | publisher=''History Workshop'', Indiana University Press | publication-place=Bloomington, IN | isbn=978-0-253-35235-4}} *:トマス・A・シービオク編、小池滋監訳『三人の記号――デュパン、ホームズ、パース』東京図書、1990年 ::エドガー・アラン・ポー作品のC・オーギュスト・デュパン、アーサー・コナン・ドイル作品のシャーロック・ホームズ、そしてチャールズ・サンダース・パースその他によって用いられるアブダクション的推論方法に関する論文集10編。 ===マニュアル=== *''Come si fa una tesi di laurea'' (1977) – English translation ''How to Write a Thesis'' (2015) *:谷口勇訳『論文作法――調査・研究・執筆の技術と手順』而立書房、1982年。新版1991年・1998年・2003年 ===児童書=== (エウジェニオ・カルミ作画) *''La bomba e il generale'' (1966, Rev. 1988 – English translation: ''The Bomb and the General'' Harcourt Children's Books (J); 1st edition (February 1989) ISBN 978-0152097004) *:海都洋子訳『爆弾と将軍』阪急コミュニケーションズ、1990年;[改題]『爆弾のすきな将軍』六耀社、2016年 *''I tre cosmonauti'' (1966 – English translation: ''The Three Astronauts'' Martin Secker & Warburg Ltd; First edition (3 April 1989) ISBN 978-0436140945) *:海都洋子訳『三人の宇宙飛行士』阪急コミュニケーションズ、1990年;[改題]『火星にいった3人の宇宙飛行士』六耀社、2015年 *''Gli gnomi di Gnu'' (1992 – English translation: ''The Gnomes of Gnu'' Bompiani; 1. ed edition (1992) ISBN 978-8845218859) ===エーコに関する研究文献=== * [[篠原資明]] 『エーコ 記号の時空―現代思想の冒険者たち29』[[講談社]]、1999年 * ルイス・パンコルボ、セース・ノーテボーム、トマス・シュタウダー『ウンベルト・エコ インタヴュー集――記号論、『バラの名前』そして『フーコーの振り子』』[[谷口勇]](伊兵衛)訳、而立書房、1990年 * ジュール・グリッティ 『ウンベルト・エーコ』 谷口勇(伊兵衛)訳、ユーシープランニング、1995年 * ロベルト・コトロネーオ 『不信の体系―「知の百科」ウンベルト・エコの文学空間』 谷口伊兵衛・ジョバンニ・ピアッザ訳、而立書房、2003年 * トマス・シュタウダー 『ウンベルト・エコとの対話』谷口伊兵衛・ジョバンニ・ピアッザ訳、而立書房、2007年 * 谷口伊兵衛/ジョバンニ・ピアッザ、トマス・シュタウダー『追悼―ウンベルト・エコ マンドローニョ魂から遺言『ヌーメロ・ゼロ』まで』谷口伊兵衛編訳、文化書房博文社、2016年 == 主な受賞歴 == *1981年 [[ストレーガ賞]] *1982年 [[メディシス賞]]外国小説部門 *2000年 [[アストゥリアス皇太子賞]]コミュニケーションおよびヒューマニズム部門 *2001年 [[オーストリア国家賞ヨーロッパ文学部門|オーストリア国家賞]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[イタリア現代思想]] * [[イタリア文学]] * [[推理作家一覧#南欧]] == 外部リンク == {{wikiquotelang|en|Umberto Eco}} * [http://www.umbertoeco.it/ 公式webサイト] * [http://www.umbertoeco.com/ ウンベルト・エーコ.com] * [http://www.themodernword.com/eco Porta Ludovica]: 広範な情報 * {{imdb name|0248767}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ええこ うんへると}} [[Category:20世紀イタリアの哲学者]] [[Category:21世紀イタリアの哲学者]] [[Category:無神論の哲学者]] [[Category:記号論研究者]] [[Category:20世紀イタリアの小説家]] [[Category:21世紀の小説家]] [[Category:イタリアの小説家]] [[Category:イタリアの推理作家]] [[Category:イタリアの風刺作家]] [[Category:テレビプロデューサー]] [[Category:テレビ評論家]] [[Category:ストレーガ賞受賞者]] [[Category:メディシス賞受賞者]] [[Category:アストゥリアス皇太子賞受賞者]] [[Category:オーストリア国家賞ヨーロッパ文学部門受賞者]] [[Category:イタリア共和国功労勲章受章者]] [[Category:ドイツ連邦共和国功労勲章受章者]] [[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員]] [[Category:チャールズ・サンダース・パース]] [[Category:ボローニャ大学の教員]] [[Category:フルブライト奨学生]] [[Category:ピエモンテ州出身の人物]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:2016年没]]
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薔薇の名前
『薔薇の名前』(ばらのなまえ、イタリア語原題:Il Nome della Rosa イル・ノーメ・デッラ・ローザ)は、ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説。1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとベネディクト会の見習修道士メルクのアドソが解き明かしていく。 全世界で5500万部を超える世界的なベストセラーとなり、1986年には映画化(西独、伊、仏)された。詳しくは薔薇の名前 (映画)を参照。また、2019年3月にはイタリアでテレビドラマも放送されている(全8回)。 物語は、もともとラテン語で書かれ、フランス語に訳されたメルクのアドソの手記を「私」が手にし、その真偽を疑いながらも内容を明らかにし、イタリア語で出版したという形式をとっている。 舞台はアヴィニョン教皇庁の時代、フリードリヒ美王の特使としてバスカヴィルのウィリアム修道士が北イタリアの某所にあるベネディクト会修道院を訪れる。ウィリアムはかつて異端審問官としてそのバランスのとれた判断が高く評価されていた。物語の語り手である見習修道士メルクのアドソは、見聞を広めてほしいという父親メルク男爵の意向によってこのウィリアムと共に旅をしている。 ウィリアムの本来の目的は、当時「清貧論争」と呼ばれた、フランシスコ会とアヴィニョン教皇庁のあいだの論争に決着を付ける会談を調停し、手配することにあった。ところがその修道院において、両者の代表の到着を待たずに奇怪な事件が次々と起こる。二人は文書館に秘密が隠されていることを察知し、これを探ろうとするがさまざまな妨害が行われる。修道院内で死者が相次ぎ、老修道士がこれは黙示録の成就であると指摘すると、修道士たちは終末の予感におののく。 やがてフランシスコ会の代表と教皇側使節一行が到着するが、論争の決着は付かず決裂する。教皇使節と共に会談に訪れていた苛烈な異端審問官ベルナール・ギーが、修道院で起こっている殺人事件は、異端者の仕業であるとして、異端審問を要求した為、事態は、まったく異なる方向へと進行して行く。ウィリアムはそれでも、事件の秘密解明に全力を注ぐことを決意する。 物語は7日間にわたって進行し、章として聖務日課(教会の祈り)の時課が用いられている。主人公アドソとその師ウィリアムの関係は、あくまで探偵小説にあらわれる探偵とその助手(シャーロック・ホームズとワトソン博士など)という定式のフォーマットを踏んでいる。助手であるアドソのイタリア語での発音がワトソンに似ていたり、また、ウィリアムの出身地がバスカヴィルであることから『バスカヴィル家の犬』が連想される等の例にあるように、この作品は無数の書物の記述への言及と参照、オマージュが散りばめられている。ホルヘ・ルイス・ボルヘス的な書物と知の迷宮世界への参照と言えるが、そのボルヘス自体に対し、「迷宮図書館」とか、その図書館に大きな影響力を持つ修道士たちの長老、盲目の師ブルゴスのホルヘなどの登場人物設定を通じて参照が行われている(ボルヘスはアルゼンチンの国立図書館の館長で、盲目となった人物で、さらに「迷宮図書館」を主題とした作品がある)。 物語自体は殺人事件の真相を解明するというシンプルなものだが、その背景に、喜劇について論じた詩論とされるが伝来しておらず、本当に存在したのか論争があるアリストテレスの『詩学』の第二部や、当時の神学論争(普遍論争など)や、フランシスコ会における清貧論争とそこから発生した異端論議、神聖ローマ皇帝とアヴィニョンに移った教皇の争い、当時のヨーロッパを覆っていた終末意識などが複雑にからみあっている。また、実在した有名な異端審問官ベルナール・ギー(ドミニコ会士)や同じく実在したフランシスコ会士カサーレのウベルティーノの登場などによって、複雑な知と言説の模様を造っている。聖書やキリスト教神学からのさまざまな形での引用が多いことも本書の理解を難しくしているが、逆に言えばそれらについての知識が増えれば増えるほどさらに面白く読むことができるということもある。 また本書はキリスト教の歴史と笑いの関係について問題提起した書でもあり、この本を受けてキリスト教と笑いに関する多くの書籍が出版された。 この小説の原題は、イタリア語で「Il Nome della Rosa」で、英訳すると「The Name of the Rose」である。薔薇(rosa)にも名前(nome)にも定冠詞が付いている。小説は、その最後が、/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ というラテン語の詩句で終わっている。これはモーレーのベルナールの説教詩の一行で、小説の最後の部分では、ベルナールの詩の句が幾度も引用されている。 もっとも単純には、「薔薇の名前」とは、メルクのアドソの初恋の相手で、生涯の唯一の恋人となった、この小説の主要登場人物中でただ一人、名前が明記されていない農民の少女の名前のことだと解釈されている。しかし、最後の一行の詩句が、非常に多義的な意味を持つことから、様々な解釈が行われている。 ラテン語の詩句は、形式的に直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」というような意味であるが、ベルナール自身の詩のなかで象徴的な意味を持っており、さらに小説のなかでも、多義的象徴的意味を持っている(この詩は、ヨハン・ホイジンガ『中世の秋』に引用されており、その詩の全体がどういうものかは、『中世の秋』(日本語版は堀越孝一訳で、新版・中公クラシックス全2冊)で、知ることができる)。 エーコの小説のなかでは述べられていないが、フランシスコ会と教皇庁の争いは、フランシスコ会総長チェゼーナのミケーレ他幹部が、論争に決着を付けるためアヴィニョンを訪れるが、教皇庁側の対応に疑問を抱いた彼らが、一夜にしてアヴィニョンを逐電し、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国領)へと逃れるに及んで最終的に決裂した。このとき、逃走した者のなかには、当時の普遍論争において、唯名論の側の立場に立つ筆頭の論客として知られた、オッカムのウィリアムも含まれていた(この後、教皇庁はミケーレを解任し、フランシスコ会に新しい総長を選出させた結果、二人の総長が並立するという事態になる)。 オッカムのウィリアムは、論理思考における「オッカムの剃刀」で良く知られているように、近代合理的な思考、経験的科学的な認識論を指向していた。従って、オッカムのウィリアムが、またバスカヴィルのウィリアムのモデルだとも言える。 普遍論争とは中世に存在した、実在するのは何かという哲学議論で、簡単には、事物(レース)について、その類観念つまり類のエイドス(形相)が実在しているというのが、「実念論」の立場で、これに対し、オッカムのウィリアムなど「唯名論」の立場では、実在するのは個々の事物(レース)であって、類の普遍観念つまりエイドスは、「名(nomen)」に過ぎないという考えであった。 この事物の類観念と個々の事物の関係を、「薔薇(rosa)」という事物または類観念で考えると、「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」とは、「その名前」が普遍観念で実在か、「その薔薇」こそが具体的事物で実在で、「その名前」は形式に過ぎないのか。オッカムは後者の立場であり、したがってバスカヴィルのウィリアムも唯名論の立場で、後者である。しかしメルクのアドソは晩年に至って、師の教えに反し、「その名前」が実在である、つまり実念論の立場に転向した趣旨が小説の「最後の頁」で示唆されている。 /stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という小説最後のラテン語の詩句が、ここで中世の普遍論争の文脈に置かれることになる。また、時代錯誤であるが、作者エーコは、バスカヴィルのウィリアムに20世紀の分析哲学の思想に類似した内容を語らせており、ヴィトゲンシュタインの言葉の引用に似た表現が登場する。分析哲学は、中世の普遍論争の問題を20世紀において継承した思想である。 エーコの小説の「枠」を外した事実上の「始まり」の部分は、「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』1章1節)であり、「最後」は、筆写室に手稿を残してアドソが部屋を後にするという説明であり、そして、最後の最後に、上のラテン語の詩句が置かれている。「原初の薔薇(rosa pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か、作品は、言葉と実在の関係をめぐり、記号と世界の秩序の関係をめぐり、壮大な「薔薇の名前」の物語を築いている。
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『薔薇の名前』は、ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説。1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとベネディクト会の見習修道士メルクのアドソが解き明かしていく。 全世界で5500万部を超える世界的なベストセラーとなり、1986年には映画化(西独、伊、仏)された。詳しくは薔薇の名前 (映画)を参照。また、2019年3月にはイタリアでテレビドラマも放送されている(全8回)。
{{出典の明記|date=2023年5月}} {{Portal|文学}} 『'''薔薇の名前'''』(ばらのなまえ、[[イタリア語]]原題:''Il Nome della Rosa'' <small>イル・ノーメ・デッラ・ローザ</small>)は、[[ウンベルト・エーコ]]が[[1980年]]に発表した小説。[[1327年]]、[[教皇]][[ヨハネス22世_(ローマ教皇)|ヨハネス22世]]時代の[[北イタリア]]の[[カトリック教会|カトリック]][[修道院]]を舞台に起きる怪事件の謎を[[フランシスコ会]]修道士バスカヴィルのウィリアムと[[ベネディクト会]]の見習修道士[[メルク修道院|メルク]]のアドソが解き明かしていく。 全世界で5500万部を超える世界的な[[ベストセラー]]となり、1986年には映画化(西独、伊、仏)された。詳しくは[[薔薇の名前 (映画)]]を参照。また、2019年3月にはイタリアでテレビドラマも放送されている(全8回)。 ==概要== ===構成とあらすじ=== 物語は、もともと[[ラテン語]]で書かれ、[[フランス語]]に訳されたメルクのアドソの手記を「私」が手にし、その真偽を疑いながらも内容を明らかにし、[[イタリア語]]で出版したという形式をとっている。 舞台は[[アヴィニョン教皇庁]]の時代、[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ美王]]の特使としてバスカヴィルのウィリアム修道士が北イタリアの某所にあるベネディクト会修道院を訪れる。ウィリアムはかつて異端審問官としてそのバランスのとれた判断が高く評価されていた。物語の[[語り手]]である見習修道士メルクのアドソは、見聞を広めてほしいという父親メルク男爵の意向によってこのウィリアムと共に旅をしている。 ウィリアムの本来の目的は、当時「[[清貧論争]]」と呼ばれた、フランシスコ会とアヴィニョン教皇庁のあいだの論争に決着を付ける会談を調停し、手配することにあった。ところがその修道院において、両者の代表の到着を待たずに奇怪な事件が次々と起こる。二人は文書館に秘密が隠されていることを察知し、これを探ろうとするがさまざまな妨害が行われる。修道院内で死者が相次ぎ、老修道士がこれは[[ヨハネの黙示録|黙示録]]の成就であると指摘すると、修道士たちは終末の予感におののく。 やがてフランシスコ会の代表と教皇側使節一行が到着するが、論争の決着は付かず決裂する。教皇使節と共に会談に訪れていた苛烈な異端審問官ベルナール・ギーが、修道院で起こっている殺人事件は、[[異端]]者の仕業であるとして、[[異端審問]]を要求した為、事態は、まったく異なる方向へと進行して行く。ウィリアムはそれでも、事件の秘密解明に全力を注ぐことを決意する。 ===物語の背景=== 物語は7日間にわたって進行し、章として[[聖務日課]](教会の祈り)の[[時課]]が用いられている。主人公アドソとその師ウィリアムの関係は、あくまで探偵小説にあらわれる探偵とその助手([[シャーロック・ホームズ]]と[[ジョン・H・ワトスン|ワトソン博士]]など)という定式のフォーマットを踏んでいる。助手であるアドソのイタリア語での発音がワトソンに似ていたり、また、ウィリアムの出身地がバスカヴィルであることから『[[バスカヴィル家の犬]]』が連想される等の例にあるように、この作品は無数の書物の記述への言及と参照、オマージュが散りばめられている。[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]的な書物と知の迷宮世界への参照と言えるが、そのボルヘス自体に対し、「迷宮図書館」とか、その図書館に大きな影響力を持つ修道士たちの長老、盲目の師ブルゴスのホルヘなどの登場人物設定を通じて参照が行われている(ボルヘスはアルゼンチンの国立図書館の館長で、盲目となった人物で、さらに「迷宮図書館」を主題とした作品がある)。 物語自体は殺人事件の真相を解明するというシンプルなものだが、その背景に、[[喜劇]]について論じた詩論とされるが伝来しておらず、本当に存在したのか論争がある[[アリストテレス]]の『[[詩学]]』の第二部や、当時の神学論争([[普遍論争]]など)や、フランシスコ会における[[清貧論争]]とそこから発生した[[異端]]論議、[[神聖ローマ皇帝]]と[[アヴィニョン]]に移った教皇の争い、当時のヨーロッパを覆っていた終末意識などが複雑にからみあっている。また、実在した有名な[[異端審問]]官[[ベルナール・ギー]]([[ドミニコ会]]士)や同じく実在した[[フランシスコ会]]士[[カサーレのウベルティーノ]]の登場などによって、複雑な知と言説の模様を造っている。[[聖書]]や[[キリスト教]][[神学]]からのさまざまな形での引用が多いことも本書の理解を難しくしているが、逆に言えばそれらについての知識が増えれば増えるほどさらに面白く読むことができるということもある。 また本書は[[キリスト教の歴史]]と笑いの関係について問題提起した書でもあり、この本を受けてキリスト教と笑いに関する多くの書籍が出版された。 == 登場人物 == * [[枠物語]] ** わたし(ウンベルト・エーコらしい。たまたま、中世の写本を不思議な巡り合わせで入手する) * 主人公(師と弟子) ** バスカヴィルのウィリアム(フランシスコ会修道士、元異端審問官、アドソの師) ** メルクのアドソ(ベネディクト会見習修道士、ウィリアムの弟子、記録本文の筆者) * ベネディクト会修道院の修道士たち ** フォッサノーヴァのアッボーネ(修道院長) ** レミージョ・ダ・ヴァラージネ(修道士、厨房係) ** サルヴァトーレ(助修士、厨房係の助手、かつて異端の[[ドルチーノ派]]に属していた) ** マラキーア・ダ・ヒルデスハイム(修道士、修道院の文書館長) ** ベレンガーリオ・ダ・アルンデル(修道士、文書館長補佐) ** ザンクト・エンメラムのセヴェリーノ(修道士、薬草係) ** ニコーラ・ダ・モリモンド(修道士、ガラス細工師) ** アデルモ・ダ・オートラント(修道士、細密画家) ** ヴェナンツィオ・ダ・サルヴェメック(修道士、古典翻訳が専門) ** ベンチョ・ダ・ウプサラ(修道士、修辞学が専門) ** アリナルド・ダ・グロッタフェッラータ(最長老の修道士) ** ホルヘ・ダ・ブルゴス(盲目の老修道士) ** アイマーロ・ダ・アレッサンドリア(修道士) ** ピエートロ・ダ・サンタルバーノ(修道士) ** パチーフィコ・ダ・ティーヴォリ(修道士) * フランシスコ会士と教皇庁代表 ** ミケーレ・ダ・チェゼーナ(フランシスコ会総長) ** ウベルティーノ・ダ・カサーレ(フランシスコ会修道士、聖霊派の指導者) ** ニューカッスルのヒュー(フランシスコ会修道士) ** ベルトランド・デル・ポッジェット(枢機卿) ** ベルナール・ギー(ドミニコ会修道士、異端審問官) * その他 ** 娘(谷間の村の娘) == 日本語訳 == *『薔薇の名前』 [[河島英昭]]訳、[[東京創元社]](上下)、1990年。[[日本翻訳文化賞]]、[[BABEL国際翻訳大賞]]、[[日本翻訳出版文化賞]] == 「薔薇の名前」とは何か == この小説の原題は、[[イタリア語]]で「Il Nome della Rosa」で、英訳すると「The Name of the Rose」である。薔薇(rosa)にも名前(nome)にも定冠詞が付いている。小説は、その最後が、/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という[[ラテン語]]の詩句で終わっている。これは[[ベルナール・ド・モーレー|モーレーのベルナール]]の説教詩の一行で、小説の最後の部分では、ベルナールの詩の句が幾度も引用されている。 もっとも単純には、「薔薇の名前」とは、メルクのアドソの初恋の相手で、生涯の唯一の恋人となった、この小説の主要登場人物中でただ一人、名前が明記されていない農民の少女の名前のことだと解釈されている。しかし、最後の一行の詩句が、非常に多義的な意味を持つことから、様々な解釈が行われている。 ラテン語の詩句は、形式的に直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」というような意味であるが、ベルナール自身の詩のなかで象徴的な意味を持っており、さらに小説のなかでも、多義的象徴的意味を持っている(この詩は、[[ヨハン・ホイジンガ]]『[[中世の秋]]』に引用されており、その詩の全体がどういうものかは、『中世の秋』(日本語版は[[堀越孝一]]訳で、新版・[[中公クラシックス]]全2冊)で、知ることができる)。 === 「薔薇の名前」と普遍論争 === エーコの小説のなかでは述べられていないが、[[フランシスコ会]]と[[教皇庁]]の争いは、フランシスコ会総長チェゼーナのミケーレ他幹部が、論争に決着を付けるため[[アヴィニョン]]を訪れるが、教皇庁側の対応に疑問を抱いた彼らが、一夜にしてアヴィニョンを逐電し、ドイツ(当時の[[神聖ローマ帝国]]領)へと逃れるに及んで最終的に決裂した。このとき、逃走した者のなかには、当時の[[普遍論争]]において、[[唯名論]]の側の立場に立つ筆頭の論客として知られた、[[オッカムのウィリアム]]も含まれていた(この後、教皇庁はミケーレを解任し、フランシスコ会に新しい総長を選出させた結果、二人の総長が並立するという事態になる)。 オッカムのウィリアムは、[[論理]]思考における「[[オッカムの剃刀]]」で良く知られているように、近代合理的な思考、経験的科学的な[[認識論]]を指向していた。従って、オッカムのウィリアムが、またバスカヴィルのウィリアムのモデルだとも言える。 普遍論争とは中世に存在した、実在するのは何かという哲学議論で、簡単には、事物([[レース (哲学)|レース]])について、その類[[観念]]つまり類のエイドス([[形相]])が実在しているというのが、「[[実念論]]」の立場で、これに対し、オッカムのウィリアムなど「[[唯名論]]」の立場では、実在するのは個々の事物(レース)であって、類の普遍観念つまりエイドスは、「名(nomen)」に過ぎないという考えであった。 この事物の類観念と個々の事物の関係を、「薔薇(rosa)」という事物または類観念で考えると、「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」とは、「その[[名前]]」が普遍観念で[[実在]]か、「その[[バラ|薔薇]]」こそが具体的事物で実在で、「その名前」は形式に過ぎないのか。[[オッカムのウィリアム|オッカム]]は後者の立場であり、したがってバスカヴィルのウィリアムも唯名論の立場で、後者である。しかしメルクのアドソは晩年に至って、師の教えに反し、「その名前」が実在である、つまり実念論の立場に転向した趣旨が小説の「最後の頁」で示唆されている。 /stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という小説最後の[[ラテン語]]の詩句が、ここで中世の普遍論争の文脈に置かれることになる。また、時代錯誤であるが、作者エーコは、バスカヴィルのウィリアムに[[20世紀]]の[[分析哲学]]の思想に類似した内容を語らせており、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ヴィトゲンシュタイン]]の言葉の引用に似た表現が登場する。分析哲学は、[[中世]]の[[普遍論争]]の問題を20世紀において継承した思想である。 エーコの小説の「枠」を外した事実上の「始まり」の部分は、「初めに(原初に)、[[言葉]]があった( In principio erat verbum.)」(『[[ヨハネ福音書]]』1章1節)であり、「最後」は、筆写室に手稿を残してアドソが部屋を後にするという説明であり、そして、最後の最後に、上の[[ラテン語]]の詩句が置かれている。「原初の薔薇(rosa pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か、作品は、[[言葉]]と[[実在]]の関係をめぐり、[[記号]]と世界の秩序の関係をめぐり、壮大な「薔薇の名前」の物語を築いている。 == 関連文献 == *ウンベルト・エーコ 『中世美学史 「バラの名前」の歴史的・思想的背景』 谷口伊兵衛訳、而立書房 *ウンベルト・エーコ 『「バラの名前」覚書』 谷口勇(谷口伊兵衛)訳、而立書房-※以下も同 *エーコほか 『「バラの名前」探求』 *クラウス・イッケルト、ウルズラ・シック 『バラの名前 百科』 *アデル・J・ハフト 『バラの名前 便覧』 *ロリアーノ・マッキアヴェッリ 『バラの名前 後日譚』 谷口勇ほか訳 *ニルダ・グリエルミ 『「バラの名前」とボルヘス エコ、[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス|ボルヘス]]と八岐の園』 *コスタンティーノ・マルモ 『ウンベルト・エコ作『バラの名前』原典批判』文化書房博文社  *[[和田忠彦]]『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前 笑いは知の限界を暴く [[100分de名著]]』[[NHK出版]]。放送テキスト(2018年9月) *図師宣忠『エーコ『薔薇の名前』 迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』[[慶應義塾大学出版会]]「世界を読み解く一冊の本」(2021年4月) == 関連項目 == {{commons|Category:Il nome della rosa}} *[[アヴィニョン捕囚]] *[[異端審問]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はらのなまえ}} [[Category:イタリアの小説]] [[Category:推理小説]] <!--[[Category:イタリアの推理小説]]--> [[Category:1980年の小説]] [[Category:宗教施設を舞台とした作品]] [[Category:イタリアの歴史を題材とした小説]] [[Category:哲学を題材とした小説]] [[Category:図書館を題材とした小説]] [[Category:書物を題材とした小説]] [[Category:中世ヨーロッパを題材とした作品]] [[Category:宗教研究の哲学]] [[Category:キリスト教を題材とした作品]] [[Category:修道士を主人公にした作品]] [[Category:聖職者を主人公にした作品]] [[Category:ストレーガ賞]]
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SI組立単位
SI組立単位(エスアイくみたてたんい、英: SI derived unit)または単に「組立単位」は、国際単位系 (SI) において基本単位の冪乗の積と定義されている。 組立単位の中には固有の名称を持つ 22 の SI単位がある。7つのSI基本単位(以下、「基本単位」と呼ぶ。)とこの22個の組立単位は、SI単位の中核となっている。他のSI単位は全て、この 29個の単位のいくつかとSI接頭語との組み合わせである。 世の中に存在する量は限りなくあるので、SI組立単位も限りなくあることになる。国際単位系国際文書に掲げられているSI組立単位(#固有の名称と記号を持つ22個のSI単位以外の組立単位)は例示に過ぎず、法定計量単位ではない単位も含まれている。 組立単位は、基本単位の冪乗の積であるが、この積の係数が 1 のとき、その組立単位は「一貫性のある組立単位」と呼ばれる。SIの基本単位と 一貫性のある組立単位は、一貫性のある集合を形成し、これを「一貫性のあるSI単位」と呼ぶ。 下記に、国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版 産業技術総合研究所 計量標準総合センター「2.3.4 組立単位」表4~表6で挙げられているSI組立単位を列挙し、更に参考としてその他の組立単位を示す。表5と表6については、世の中に存在する量は限りなくあり、すべてを挙げることは不可能であるので、いくつかの例が挙げられている。 いくつかのSI組立単位には、利便性の観点から固有の名称と記号が与えられている。固有の名称を持つSI組立単位は、下記に示す22個である。国際単位系国際文書の表4に掲げられている。下方の4つの単位は、健康保護の観点から特別に固有の名称を与えられたものである。 22個のSI組立単位のうち、カタール(kat)は、法定計量単位ではない(法定計量単位の欄が「非」となっている)。 1 K の温度差は 1 °C の温度差と等しいが、絶対温度に関しては、273.15 K の差を考慮しなければならない。「セルシウス度」は、温度差を表すときのみ一貫性がある。 これらの単位のうち、ラジアン(rad)、ステラジアン(sr)、ルーメン(lm)、ルクス(lx)、カタール(kat) の5個の単位は人名に由来しないので、その記号は、小文字で始める。残りの17個の単位は人名に由来するので、その記号は大文字で始める。 なお、単位記号(例えばニュートンの N )の場合とは異なり、単位の名称を英語で綴る場合は、文頭の場合もしくは表題のように大文字で書き始めるものを除き、newton のように、すべて小文字で書き始める。セルシウス度 (degree Celsius)についても例外ではなく、degree を小文字で始め、その修飾語である Celsius は2語目であり、かつ人名に由来するため大文字の C で始める。 国際単位系国際文書の表5に掲げられている。 この表のうち、法定計量単位の欄が「非」となっている組立単位は法定計量単位ではない。 国際単位系国際文書の表6に掲げられている。 固有の名称を持つSI組立単位(22個)は、SI基本単位や他のSI組立単位と組み合わせて他の組立量を表すために用いることができる。 この表のうち、法定計量単位の欄が「非」となっている組立単位は法定計量単位ではない。 以下の一貫性のある組立単位は、SI文書第9版(2019)には掲げられていない。参考として列挙したものである。 この表のうち、法定計量単位の欄が「非」となっている組立単位は法定計量単位ではない。 ラジアンとステラジアンは、かつては補助単位に位置づけられていたが、1995年の国際度量衡総会(CGPM)において、補助単位という区分は廃止すること、この2つの単位は無次元の組立単位として解釈することが決議された。この決議に基づき、1998年のSI国際文書第7版から、補助単位のカテゴリーは廃止され、ラジアンとステラジアンは組立単位に分類された。
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SI組立単位または単に「組立単位」は、国際単位系 (SI) において基本単位の冪乗の積と定義されている。 組立単位の中には固有の名称を持つ 22 の SI単位がある。7つのSI基本単位(以下、「基本単位」と呼ぶ。)とこの22個の組立単位は、SI単位の中核となっている。他のSI単位は全て、この 29個の単位のいくつかとSI接頭語との組み合わせである。 世の中に存在する量は限りなくあるので、SI組立単位も限りなくあることになる。国際単位系国際文書に掲げられているSI組立単位(#固有の名称と記号を持つ22個のSI単位以外の組立単位)は例示に過ぎず、法定計量単位ではない単位も含まれている。
{{数量の比較}} '''SI組立単位'''(エスアイくみたてたんい、{{lang-en-short|SI derived unit}})または単に「'''組立単位'''」は、[[国際単位系]] (SI) において[[SI基本単位|基本単位]]の[[冪乗]]の積と定義されている。 組立単位の中には固有の名称を持つ 22 の [[SI単位]]がある。7つの[[SI基本単位]](以下、「基本単位」と呼ぶ。)とこの22個の組立単位は、SI単位の中核となっている<ref name="名前なし-1">[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.105</ref>。他の[[SI単位]]は全て、この 29個の単位のいくつかと[[SI接頭語]]との組み合わせである。 [[File:SI組立単位.jpg|500px|thumb|SI組立単位の一例]] 世の中に存在する[[量]]は限りなくあるので、SI組立単位も限りなくあることになる<ref>[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.107</ref>。[[国際単位系国際文書]]に掲げられているSI組立単位([[#固有の名称と記号を持つ22個のSI単位]]以外の組立単位)は例示に過ぎず、[[法定計量単位]]ではない単位も含まれている。 == 一貫性のある組立単位 == 組立単位は、基本単位の[[冪乗]]の積であるが、この積の係数が 1 のとき、その組立単位は「一貫性のある組立単位」と呼ばれる。SIの基本単位と 一貫性のある組立単位は、[[一貫性]]のある集合を形成し、これを「[[SI単位#一貫性のあるSI単位|一貫性のあるSI単位]]」と呼ぶ<ref name="名前なし-1"/>。 == SI組立単位 == 下記に、[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版 産業技術総合研究所 計量標準総合センター]「2.3.4 組立単位」表4~表6で挙げられているSI組立単位を列挙し、更に参考としてその他の組立単位を示す。表5と表6については、世の中に存在する[[量]]は限りなくあり、すべてを挙げることは不可能であるので、いくつかの例が挙げられている。 === 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位 === いくつかのSI組立単位には、利便性の観点から固有の名称と記号が与えられている<ref name="名前なし-2">[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.106</ref>。固有の名称を持つSI組立単位は、下記に示す22個である。[[国際単位系国際文書]]の表4に掲げられている<ref name="名前なし-2"/>。下方の4つの単位は、健康保護の観点から特別に固有の名称を与えられたものである。 22個のSI組立単位のうち、[[カタール (単位)|カタール]](kat)は、[[法定計量単位]]ではない([[法定計量単位]]の欄が「'''非'''」となっている)<ref>[https://www.meti.go.jp/shingikai/keiryogyoseishin/pdf/g50913a412j.pdf 資料4(12)] 2005年度第1回計量行政審議会、p.21 計量法に定めがなくSI単位に例示のある組立単位、2005年7月2</ref>。 1 K の[[温度差]]は 1 &deg;C の温度差と等しいが、[[絶対温度]]に関しては、273.15 K の差を考慮しなければならない。「セルシウス度」は、温度差を表すときのみ[[一貫性]]がある<ref>[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.110</ref>。 これらの単位のうち、ラジアン(rad)、ステラジアン(sr)、ルーメン(lm)、ルクス(lx)、カタール(kat) の5個の単位は人名に'''由来しない'''ので、その記号は、小文字で始める。残りの17個の単位は人名に'''由来する'''ので、その記号は大文字で始める。 なお、単位記号(例えばニュートンの N )の場合とは異なり、単位の名称を英語で綴る場合は、文頭の場合もしくは表題のように大文字で書き始めるものを除き、newton のように、すべて小文字で'''書き始める'''。[[セルシウス度]] (degree Celsius)についても例外ではなく、degree を小文字で始め、その修飾語である Celsius は2語目であり、かつ人名に由来するため大文字の C で始める<ref>[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.117</ref>。 {| class="wikitable" |+ 表4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位 !組立量||単位の固有の名称||基本単位のみによる表現||他のSI単位も用いた表現||SIへの導入年||法定計量単位 |- |[[角度|平面角]]||[[ラジアン]] (radian)||rad = m/m||&nbsp;||1960|| |- |[[立体角]]||[[ステラジアン]] (steradian)||sr = m<sup>2</sup>/m<sup>2</sup>||&nbsp;||1960|| |- |[[周波数]]||[[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] (hertz)||Hz = s<sup>−1</sup>||&nbsp;||1948|| |- |[[力 (物理学)|力]]||[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (newton)||N = kg&sdot;m&sdot;s<sup>−2</sup>||&nbsp;||1948|| |- |[[圧力]]、[[応力]]||[[パスカル (単位)|パスカル]] (pascal)||Pa = kg&sdot;m<sup>−1</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>||N/m<sup>2</sup><ref group="注">この表記は[[国際単位系国際文書]]第9版のVer.1.08には記載されていなかった。2022年12月に改訂されたVer.2.01において記載された。</ref> || 1971|| |- |[[エネルギー]]、[[仕事 (物理学)|仕事]]、[[熱量]]||[[ジュール (単位)|ジュール]] (joule)||J = kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>||N&sdot;m||1948|| |- |[[仕事率]]、[[放射束]]||[[ワット (単位)|ワット]] (watt)||W = kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−3</sup>||J/s||1948|| |- |[[電荷]]||[[クーロン]] (coulomb)||C = A&sdot;s||&nbsp;||1948|| |- |[[電位差]] ||[[ボルト (単位)|ボルト]] (volt)||V = kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−3</sup>&sdot;A<sup>−1</sup>||W/A||1948|| |- |[[静電容量]]||[[ファラド]] (farad)||F = kg<sup>−1</sup>&sdot;m<sup>−2</sup>&sdot;s<sup>4</sup>&sdot;A<sup>2</sup>||C/V||1948|| |- |[[電気抵抗]]||[[オーム]] (ohm)||&Omega; = kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−3</sup>&sdot;A<sup>−2</sup> ||V/A||1948|| |- |[[コンダクタンス]]||[[ジーメンス]] (siemens)||S = kg<sup>−1</sup>&sdot;m<sup>−2</sup>&sdot;s<sup>3</sup>&sdot;A<sup>2</sup>||A/V||1971|| |- |[[磁束]]||[[ウェーバ]] (weber)||Wb = kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;A<sup>−1</sup>||V&sdot;s||1960|| |- |[[磁束密度]]||[[テスラ (単位)|テスラ]] (tesla)||T = kg&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;A<sup>−1</sup>||Wb/m<sup>2</sup>||1960|| |- |[[インダクタンス]]||[[ヘンリー (単位)|ヘンリー]] (henry)||H = kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;A<sup>−2</sup>||Wb/A||1948|| |- |[[セルシウス温度]]||[[セルシウス度]] (degree Celsius)||&deg;C = K||&nbsp;||1948|| |- |[[光束]]||[[ルーメン]] (lumen)||lm = cd&sdot;sr||cd&sdot;sr||1948|| |- |[[照度]]||[[ルクス]] (lux)||lx = cd&sdot;sr&sdot;m<sup>−2</sup>||lm/m<sup>2</sup>||1948|| |- |放射性核種の[[放射能]]||[[ベクレル (単位)|ベクレル]] (becquerel)||Bq = s<sup>−1</sup>||&nbsp;||1975|| |- |[[吸収線量]]、[[カーマ (物理学)|カーマ]]||[[グレイ (単位)|グレイ]] (gray)||Gy = m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>||J/kg||1975|| |- |[[線量当量]]||[[シーベルト]] (sievert)||Sv = m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>||J/kg||1979|| |- |[[酵素]]活性||[[カタール (単位)|カタール]] (katal)||kat = mol&sdot;s<sup>−1</sup>||&nbsp;||1999||非 |} === 基本単位を用いて表現された一貫性のある組立単位の例 === [[国際単位系国際文書]]の表5に掲げられている<ref>[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.108</ref>。 この表のうち、[[法定計量単位]]の欄が「'''非'''」となっている組立単位は法定計量単位ではない<ref name="名前なし-3">[https://www.meti.go.jp/shingikai/keiryogyoseishin/pdf/g50913a412j.pdf 資料4(12)] 2005年度第1回計量行政審議会、p.21 計量法に定めがなくSI単位に例示のある組立単位、2005年7月26日</ref>。 {| class="wikitable" |+ 表5 基本単位を用いて表現された一貫性のある組立単位の例 !組立量!!量の典型的な記号!!名称!!基本単位のみによる表現!!法定計量単位 |- |[[面積]]||''A''||[[平方メートル]]||m<sup>2</sup>|| |- |[[体積]]||''V''||[[立方メートル]]||m<sup>3</sup>|| |- |[[速さ]]、[[速度]]||''v''||[[メートル毎秒]]||m/s|| |- |[[加速度]]||''a''||[[メートル毎秒毎秒]]||m/s<sup>2</sup>|| |- |[[波数]]||''&sigma;''||[[毎メートル]]||m<sup>−1</sup>|| |- |[[密度]]、質量密度||''&rho;''||[[キログラム毎立方メートル]]||kg/m<sup>3</sup>|| |- |[[面密度]]||''&rho;''{{sub|A}}||[[キログラム毎平方メートル]]||kg/m<sup>2</sup>|| |- |[[比体積]]||''v''||[[立方メートル毎キログラム]]||m<sup>3</sup>/kg||非 |- |[[電流密度]]||''j''||[[アンペア毎平方メートル]]||A/m<sup>2</sup>||非 |- |[[磁界]]強度<ref>計量法の[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]は、「磁界の強さ」</ref>||''H''||[[アンペア毎メートル]]||A/m|| |- |[[濃度|物質量濃度]]||''c''||[[モル毎立方メートル]]||mol/m<sup>3</sup>|| |- |[[濃度|質量濃度]]||''&rho;'', ''&gamma;''||[[キログラム毎立方メートル]]||kg/m<sup>3</sup>|| |- |[[輝度 (光学)|輝度]]||''L''{{sub|v}}||[[カンデラ毎平方メートル]]||cd/m<sup>2</sup>|| |- |} === 名称および記号の中に固有の名称と記号を持つ一貫性のあるSI組立単位が含まれている、一貫性のあるSI組立単位の例 === [[国際単位系国際文書]]の表6に掲げられている<ref>[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.109</ref>。 固有の名称を持つSI組立単位(22個)は、[[SI基本単位]]や他のSI組立単位と組み合わせて他の組立量を表すために用いることができる。 この表のうち、[[法定計量単位]]の欄が「'''非'''」となっている組立単位は法定計量単位ではない<ref name="名前なし-3"/>。 {| class="wikitable" |+ 表6 名称および記号の中に固有の名称と記号を持つ一貫性のあるSI組立単位が含まれている、一貫性のあるSI組立単位の例 !組立量!!一貫性のある組立単位の名称!!記号!!基本単位のみによる表現!!法定計量単位 |- |[[粘度]]||[[パスカル秒]]||Pa&sdot;s||kg&sdot;m<sup>−1</sup>&sdot;s<sup>−1</sup>|| |- |[[力のモーメント]]||[[ニュートンメートル]]||N&sdot;m||kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>|| |- |[[表面張力]]||ニュートン毎メートル||N/m||kg&sdot;s<sup>−2</sup>||非 |- |[[角速度]]、[[角周波数]]||[[ラジアン毎秒]]||rad/s||s<sup>−1</sup>|| |- |[[角加速度]]||[[ラジアン毎秒毎秒]]||rad/s<sup>2</sup>||s<sup>−2</sup>|| |- |[[熱流束|熱流密度]]、[[放射照度]]||ワット毎平方メートル||W/m<sup>2</sup>||kg&sdot;s<sup>−3</sup>|| |- |[[熱容量]]、[[エントロピー]]||ジュール毎ケルビン||J/K||kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;K<sup>−1</sup>|| |- |[[比熱容量]]、[[比エントロピー]]||ジュール毎キログラム毎ケルビン||J/(kg&sdot;K)||m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;K<sup>−1</sup>|| |- |比エネルギー||ジュール毎キログラム||J/kg||m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>||非 |- |[[熱伝導率]]||ワット毎メートル毎ケルビン||W/(m&sdot;K)||kg&sdot;m&sdot;s<sup>−3</sup>&sdot;K<sup>−1</sup>|| |- |[[エネルギー密度]]||ジュール毎立方メートル||J/m<sup>3</sup>||kg&sdot;m<sup>−1</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>||非 |- |[[電界]]の強さ||[[ボルト毎メートル]]||V/m||kg&sdot;m&sdot;s<sup>−3</sup>&sdot;A<sup>−1</sup>|| |- |[[電荷密度]]||クーロン毎立方メートル||C/m<sup>3</sup>||A&sdot;s&sdot;m<sup>−3</sup>||非 |- |[[表面電荷密度]]||クーロン毎平方メートル||C/m<sup>2</sup>||A&sdot;s&sdot;m<sup>−2</sup>|| |- |[[電束密度]]、電気変位||クーロン毎平方メートル||C/m<sup>2</sup>||A&sdot;s&sdot;m<sup>−2</sup>||非 |- |[[誘電率]]||[[ファラド毎メートル]]||F/m||kg<sup>−1</sup>&sdot;m<sup>−3</sup>&sdot;s<sup>4</sup>&sdot;A<sup>2</sup>||非 |- |[[透磁率]]||[[ヘンリー毎メートル]]||H/m||kg&sdot;m&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;A<sup>−2</sup>||非 |- |モルエネルギー||ジュール毎モル||J/mol||kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;mol<sup>−1</sup>||非 |- |モルエントロピー、モル熱容量||ジュール毎モル毎ケルビン||J/(mol&sdot;K)||kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−2</sup>&sdot;mol<sup>−1</sup>&sdot;K<sup>−1</sup>||非 |- |[[照射線量]]([[X線]]および[[ガンマ線|γ線]])||[[クーロン毎キログラム]]||C/kg||A&sdot;s&sdot;kg<sup>−1</sup>|| |- |[[吸収線量率]]||グレイ毎秒||Gy/s||m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−3</sup>|| |- |[[放射強度]]||ワット毎ステラジアン||W/sr||kg&sdot;m<sup>2</sup>&sdot;s<sup>−3</sup>|| |- |[[放射輝度]]||ワット毎平方メートル毎ステラジアン||W/(m<sup>2</sup>&sdot;sr)||kg&sdot;s<sup>−3</sup>||非 |- |酵素活性濃度||カタール毎立方メートル||kat/m<sup>3</sup>||mol&sdot;s<sup>−1</sup>&sdot;m<sup>−3</sup>||非 |} == その他の組立単位の例 == 以下の一貫性のある組立単位は、[[国際単位系国際文書|SI文書]]第9版(2019)には掲げられていない。参考として列挙したものである。 この表のうち、[[法定計量単位]]の欄が「'''非'''」となっている組立単位は法定計量単位ではない。 {| class="wikitable" |+ 表 その他の組立単位の例 !組立量!!名称!!記号!!SI基本単位による表し方!!法定計量単位 |- |[[動粘度]]||[[平方メートル毎秒]]||m<sup>2</sup>/s||&nbsp;|| |- |[[質量吸収係数]]||平方メートル毎キログラム||m<sup>2</sup>/kg||&nbsp;||非 |- |[[質量モル濃度]]||モル毎キログラム||mol/kg||&nbsp;||非 |- |[[モル体積]]||立方メートル毎モル||m<sup>3</sup>/mol||&nbsp;||非 |- |[[拡散率]]||平方メートル毎秒||m<sup>2</sup>/s||&nbsp;||非 |- |[[質量流束|質量流量密度]]||キログラム毎平方メートル毎秒||kg/(m<sup>2</sup>&sdot;s)||&nbsp;||非 |- |[[導電率]]||[[ジーメンス毎メートル]]||S/m||kg<sup>−1</sup>&sdot;m<sup>−3</sup>&sdot;s<sup>3</sup>&sdot;A<sup>2</sup>||非 |- |モル導電率||ジーメンス平方メートル毎モル||S&sdot;m<sup>2</sup>/mol||kg<sup>−1</sup>&sdot;s<sup>3</sup>&sdot;A<sup>2</sup>&sdot;mol<sup>−1</sup>||非 |} == 補助単位の廃止 == [[ラジアン]]と[[ステラジアン]]は、かつては[[補助単位#SI補助単位|補助単位]]に位置づけられていたが、[[1995年]]の[[国際度量衡総会]](CGPM)において、補助単位という区分は廃止すること、この2つの単位は無次元の組立単位として解釈することが決議された<ref>[[#SI9J|国際単位系(SI)第9版(2019)]] p.147</ref>。この決議に基づき、1998年のSI国際文書第7版から、補助単位のカテゴリーは廃止され、[[ラジアン]]と[[ステラジアン]]は組立単位に分類された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{reflist|2}} ==関連項目== * [[国際単位系]] * [[SI単位]] * [[SI基本単位]] * [[国際単位系国際文書]] * [[法定計量単位]] * [[物理単位]] == 参考文献 == * (準拠すべき基本文献){{Cite|和書|author=BIPM|authorlink=BIPM|date=2020-03|translator=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf |type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|id= |isbn= |quote= }} 【正誤表】 2022年7月15日 更新{{Cite|和書|date=2022-07-15|title=国際単位系(SI)第9版(2019)正誤表|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/20220714_seigohyo.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター}} {{SI units navbox}} [[Category:SI組立単位|*]] [[sv:SI-enhet#Härledda enheter]]
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4,564
1865年
1865年(1865 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1865年(1865 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。", "title": "他の紀年法" } ]
1865年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1865}} {{year-definition|1865}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[乙丑]] * [[日本]]([[天保暦]]) ** [[元治]]元年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]] - 元治2年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]]、[[慶応]]元年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]] - 慶応元年[[11月14日 (旧暦)|11月14日]] ** [[皇紀]]2525年 * [[清]]:[[同治]]3年12月4日 - 同治4年11月14日  * [[朝鮮]] <!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし--> ** [[李氏朝鮮]] : [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4198年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]18年  * [[仏滅紀元]]:2407年 - 2408年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1281年8月3日 - 1282年8月12日 * [[ユダヤ暦]]:5625年4月3日 - 5626年4月13日 * [[修正ユリウス日]](MJD):2237 - 2601 * [[リリウス日]](LD):103078 - 103442 <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1865}} == できごと == === 1月 === * [[1月12日]](元治元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[功山寺挙兵]]{{要出典|date=2021-03}} * [[1月13日]] - [[南北戦争]]: [[第二次フィッシャー砦の戦い]] * [[1月31日]] ** [[アメリカ合衆国憲法修正第13条]]が提案される([[批准]]成立12月6日) ** [[南北戦争]]: [[ロバート・リー]]が[[南部連合]]陸軍総司令官に就任 === 2月 === * [[2月1日]] - [[アメリカ合衆国]]大統領[[エイブラハム・リンカーン]]が奴隷制全廃を定めるアメリカ合衆国憲法修正第13条に署名([[:en:National Freedom Day|National Freedom Day]]) * [[2月8日]] - [[メンデル]]が[[メンデルの法則|遺伝の法則]]を発表([[ブルノ]]自然協会で口頭発表) * [[2月20日]] - [[マサチューセッツ工科大学]]開学(設立1861年) * [[2月26日]](元治2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[酒井忠績]]が[[大老]]に就任([[江戸幕府]]最後の大老) === 3月 === * [[3月1日]](元治2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[天狗党の乱]]: [[武田耕雲斎]]斬首 * [[3月3日]] - [[香港上海銀行]] (HSBC) 設立 * [[3月4日]] - [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]が米大統領2期目に就任 * [[3月17日]](元治2年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]) - [[大浦天主堂]]で[[隠れキリシタン]]が発見される('''信徒発見記念日''') * [[3月19日]] - [[南北戦争]]: [[ベントンビルの戦い]] * [[3月20日]](元治2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[天狗党の乱]]: [[藤田小四郎]]斬首 === 4月 === * [[4月1日]] - [[南北戦争]]: [[ファイブフォークスの戦い]] * [[4月3日]] - [[南北戦争]]: [[南部連合]]の首都[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]が陥落 * [[4月6日]] - [[BASF]]設立 * [[4月8日]] - [[南北戦争]]: 南部連合の[[ロバート・リー|リー]]将軍が[[ユリシーズ・グラント|グラント]]将軍に降伏(南北戦争の実質的な終了) * [[4月14日]] ** [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]米大統領が[[フォード劇場]]で狙撃される([[リンカーン大統領暗殺事件]]) ** [[ウィリアム・スワード]]米国務長官暗殺未遂 * [[4月15日]] - リンカーン死亡により[[アンドリュー・ジョンソン]]米副大統領が米第17代大統領に就任 * [[4月27日]] - 米国[[ミシシッピ川]]で貨客船[[サルタナ]]が爆発炎上(死者1700名) === 5月 === * [[5月]](慶應元年[[4月 (旧暦)|4月]]) - 長野県稲核村の前田喜三郎が養蚕業において寒い空気に蚕卵紙を触れさせて孵化の時期を人為的に操作することに世界で初めて成功 * [[5月1日]](慶應元年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]) - 元治から[[慶應]]に[[改元]] * [[5月10日]] - [[南北戦争]]: [[ジェファーソン・デイヴィス|デイヴィス]]南部連合大統領らが逮捕さる * [[5月13日]] - [[南北戦争]]: [[パルメット農場の戦い]](最後の陸戦) * [[5月17日]] - 万国電信連合(後の[[国際電気通信連合]])設立 * [[5月]] - 慶応元年遣仏使節団([[柴田剛中]]、[[福地源一郎]]、[[塩田三郎]]ら) === 6月 === * [[6月10日]] - [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]] 楽劇「[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]」初演([[ミュンヘン]]) === 7月 === * [[7月4日]] - [[ルイス・キャロル]]「[[不思議の国のアリス]]」出版 * [[7月5日]] ** 米国で[[アメリカ合衆国シークレットサービス|シークレットサービス]]設立 ** 英国で[[赤旗法]]施行 * [[7月8日]](慶應元年[[閏5月16日 (旧暦)|閏5月16日]]) - [[ハインリヒ・シュリーマン]]が訪日 * [[7月10日]](慶應元年[[閏5月18日 (旧暦)|閏5月18日]]) - [[ハリー・パークス]]が駐日英国公使として着任 * 7月11日-24日 - [[イギリス]]で{{仮リンク|1865年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1865}}。[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン卿]]内閣の与党[[自由党 (イギリス)|自由党]]勝利。 * [[7月13日]] - [[ホレス・グリーリー]]が「西部に行け、若者よ」([[:en:Go West, young man]])を掲載([[:en:New York Tribune|New York Tribune]]社説) * [[7月14日]] - [[マッターホルン]]初登頂([[エドワード・ウィンパー]]ら) * [[7月27日]] - ウェールズ人入植者がアルゼンチンチュブ州に到着。 === 8月 === *[[8月14日]] - プロイセン首相[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]、オーストリア代表{{仮リンク|グスタフ・フォン・ブローメ|label=ブローメ|de|Gustav von Blome}}との間に{{仮リンク|ガスタイン協定|de|Gasteiner Konvention}}を締結。 === 9月 === * [[9月1日]] - [[ジョゼフ・リスター]]が手術で初めて[[消毒]]を行う * [[9月14日]] - [[ジュール・ヴェルヌ]]「[[地球から月へ]]」連載開始( - 10月14日、[[:fr:Journal des débats|Journal des débats]]紙) === 10月 === * 10月 - ビスマルクが[[ビアリッツ]]を訪問してフランス皇帝[[ナポレオン3世]]と会見。「[[ビアリッツの密約]]」が結ばれたとも。 *[[10月2日]] - [[スリランカ]]の[[コロンボ・ターミナス駅]] - [[アンベプッサ駅]]間で鉄道が正式開業 * 10月30日 - イギリスで第2次[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ラッセル伯爵]]内閣([[自由党 (イギリス)|自由党]]政権)成立 === 11月 === * [[11月4日]]([[慶応元年]][[9月16日 (旧暦)|9月16日]])…(日本)[[京都]]の[[朝廷 (日本)|朝廷]]が[[開国]]に転ずる([[安政五カ国条約]]を[[勅許]]) === 12月 === * [[12月6日]] - 米国で[[アメリカ合衆国憲法修正第13条|憲法修正第13条]]批准成立 * [[12月17日]] ** [[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]がベルギー王に即位 ** [[フランツ・シューベルト]][[交響曲第7番 (シューベルト)|交響曲第7番]]「未完成」初演([[ウィーン]]) * [[12月19日]] - [[テンペル・タットル彗星]]発見 * [[12月29日]](慶応元年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]) - 酒井忠績、大老を罷免される === 日付不詳 === * [[レフ・トルストイ|トルストイ]]「[[戦争と平和]]」発表( - [[1869年]]) * [[ルドルフ・クラウジウス]]が[[エントロピー]]を命名 * [[ジョン・ニューランズ]]が元素のオクターブ則を発表 * [[ケープライオン]]絶滅 * [[雷門]]焼失<!-- 「慶応元年(1865年)12月12日」との説多いが,同日は1866年1月28日である--> * 長崎で[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]が[[蒸気機関車]]を日本で初めて走らせる * [[アウグスト・ケクレ]]が[[ベンゼン]]の環状構造を提唱 == 誕生 == {{see also|Category:1865年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月6日]] - [[ニコライ・マル]]、[[言語学者]]・[[民族学者]](+ [[1934年]]) * [[1月10日]] - [[メアリー・インガルス]]、「大草原の小さな家」シリーズの作者である[[ローラ・インガルス・ワイルダー]]の姉(+ [[1928年]]) * [[1月23日]](元治元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]])- [[山路愛山]]、[[評論家]]・[[歴史家]](+ [[1917年]]) * [[2月19日]] - [[スヴェン・ヘディン]]、[[地理学|地理]]学者・探検家(+ [[1952年]]) * [[3月1日]](元治2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[安部磯雄]]、[[社会主義]]者(+ [[1949年]]) * 3月1日(元治2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[白鳥庫吉]]、東洋史学者(+ [[1942年]]) * [[3月27日]] - [[エフゲニー・ボトキン]]、ニコライ2世一家の[[主治医]](+ [[1918年]]) * [[4月22日]](元治2年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[大橋翠石]]、[[日本画家]](+ [[1945年]]) * [[4月26日]] - [[アクセリ・ガッレン=カッレラ]]、[[画家]](+ [[1931年]]) * [[5月5日]](慶応元年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[石井十次]]、社会事業家(+ [[1914年]]) * [[5月17日]](慶応元年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[沢柳政太郎]]、[[文部官僚]]・[[教育者]](+ [[1927年]]) * [[6月3日]](慶応元年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[樺山愛輔]]、[[実業家]]・[[政治家]](+ [[1953年]]) * [[6月9日]] - [[カール・ニールセン]]、作曲家(+ [[1931年]]) * [[6月10日]] - [[フレデリック・クック]]、[[探検家]](+ [[1940年]]) * 6月10日(慶応元年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]])- [[村上鬼城]]、[[俳人]](+ [[1938年]]) * [[6月13日]] - [[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、詩人・劇作家(+ [[1939年]]) * 6月13日 - [[カール・ブロスフェルト]]、[[写真家]]・[[植物学者]](+ [[1932年]]) * [[8月1日]] - [[エウシェン (ネルケ公)|エウシェン]]、[[スウェーデン]]の王族(+ [[1947年]]) * [[8月15日]](慶応元年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[長岡半太郎]]、[[物理学者]](+ [[1950年]]) * [[8月20日]](慶応元年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[泉重千代]]、長寿世界一とされたが、生年の信憑性に疑問あり(+ [[1986年]]) * [[9月17日]](慶応元年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]])- [[狩野亨吉]]、教育者(+ [[1942年]]) * [[9月23日]] - [[シュザンヌ・ヴァラドン]]、[[画家]](+ [[1938年]]) * 9月23日 - [[ルー・バイアーバウアー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1926年]]) * [[10月20日]](慶応元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]) - [[石橋忍月]]、文芸評論家・小説家(+ [[1926年]]) * [[11月2日]] - [[ウオレン・G・ハーディング]]、[[アメリカ合衆国]]第29代[[大統領]](+ [[1923年]]) * [[11月7日]](慶応元年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]])- [[小杉天外]]、[[小説家]](+ [[1952年]]) * [[11月17日]](慶応元年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[内田康哉]]、[[外交官]]・政治家(+ [[1936年]]) * [[11月22日]](慶応元年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]])- [[福田英子]]、[[婦人解放運動]]家(+ [[1927年]]) * [[12月8日]] - [[ジャン・シベリウス]]、作曲家(+ [[1957年]]) * [[12月18日]](慶応元年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]])- [[村上浪六]]、小説家(+ [[1944年]]) * [[12月28日]] - [[フェリックス・ヴァロットン]]、[[画家]](+ [[1925年]]) * [[12月29日]] - [[オーティス・ハーラン]]、俳優・コメディアン(+ [[1940年]]) * [[12月30日]] - [[ラドヤード・キップリング]]、作家(+ [[1936年]]<ref>[http://www.literarytraveler.com/literary_articles/kipling_browns_hotel.aspx Rudyard Kipling's Waltzing Ghost: The Literary Heritage of Brown's Hotel], Sandra Jackson-Opoku, Literary Traveler</ref>) * [[12月31日]] - [[エミール・ファブリ]]、[[美術家]](+ [[1966年]]) == 死去 == {{see also|Category:1865年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月12日]]([[元治]]元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]])- [[歌川国貞]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1786年]]) * [[1月19日]] - [[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]、[[アナキズム]]思想家(* [[1809年]]) * [[1月28日]] - [[フェリーチェ・ロマーニ]]、[[オペラ]]台本作家(* [[1788年]]) * [[2月6日]] - [[ビートン夫人]]、[[家政|家政書]][[著作家]](* [[1836年]]) * [[2月10日]] - [[ハインリヒ・レンツ]]、[[物理学者]](* [[1804年]]) * [[2月16日]] - [[ルイ・ピエール・グラチオレ]]、[[解剖学者]]・[[動物学者]](* [[1815年]]) * [[2月17日]] - [[ジョージ・フィリップス・ボンド]]、[[天文学者]](* [[1825年]]) * [[3月1日]] - [[アンナ・パヴロヴナ]]、[[ウィレム2世 (オランダ王)|オランダ王ヴィレム2世]]の妃(* [[1795年]]) * 3月1日(元治2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[武田耕雲斎]]、水戸[[天狗党の乱|天狗党]]首領(* [[1803年]]) * 3月1日(元治2年2月4日) - [[徳川寿千代]]、第6代[[田安徳川家]]当主(* [[1860年]]) * [[3月2日]](元治2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[津軽順承]]、第11代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1800年]]) * [[3月20日]](元治2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]])- [[山南敬助]]、[[新選組]]総長(* [[1833年]]) * [[4月15日]] - [[エイブラハム・リンカーン]]、第16代[[アメリカ合衆国大統領]]、狙撃により暗殺される{{Sfn|マクドナルド|2020|p=122}}(* [[1809年]]) * [[4月23日]] - [[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|ジェームズ・スターリング]]、初代[[西オーストラリア州]]総督・[[イギリス海軍]][[将官|提督]](* [[1791年]]) * [[4月24日]] - [[ニコライ・アレクサンドロヴィチ]]大公、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[皇太子]](* [[1843年]]) * [[4月26日]] - [[ジョン・ウィルクス・ブース]]、[[俳優]]・リンカーンの[[暗殺|暗殺者]](* [[1838年]]) * [[4月28日]] - [[サミュエル・キュナード]]、[[キュナード・ライン]]創業者(* [[1787年]]) * [[4月30日]] - [[ロバート・フィッツロイ]]、[[軍人]](* [[1805年]]) * [[5月21日]] - [[クリスチャン・トムセン]]、[[考古学者]](* [[1788年]]) * [[5月29日]](慶応元年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[飯沼慾斎]]、[[博物学|本草学者]](* [[1783年]]) * [[6月3日]](慶応元年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[岡田以蔵]]、土佐藩士(* [[1838年]]) * [[6月18日]] - [[アントワーヌ・ヴィールツ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](* [[1806年]]) * [[7月3日]](慶応元年[[閏]][[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[武市瑞山|武市瑞山(半平太)]]、[[土佐勤王党]]盟主(* [[1829年]]) * [[7月6日]] - [[ソフィア・ヴィルヘルミナ・アヴ・スヴェーリエ]]、バーデン大公レオポルト1世の妃(* [[1801年]]) * [[8月13日]] - [[イグナーツ・ゼンメルワイス]]、[[医学者]](* [[1818年]]) * [[8月26日]] - [[ヨハン・フランツ・エンケ]]、天文学者(* [[1791年]]) * [[8月29日]] - [[ロベルト・レーマク]]、[[生理学者]](* [[1815年]]) * [[9月2日]] - [[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]、[[数学者]](* [[1805年]]) * [[9月7日]](慶応元年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[斎藤拙堂]]、[[朱子学|朱子学者]](* [[1797年]]) * [[9月10日]] - [[クリスティアン・パンダー (動物学者)|クリスティアン・パンダー]]、[[動物学者]](* [[1794年]]) * [[9月27日]] - [[ウィリアム・デュアン (政治家)|ウィリアム・ドウェイン]]、[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1780年]]) * [[10月8日]] - [[ハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1814年]]) * [[10月18日]] - パーマストン子爵[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・ジョン・テンプル]]、[[イギリスの首相]](* [[1784年]]) * [[11月12日]] - [[エリザベス・ギャスケル]]、[[小説家]](* [[1810年]]) * [[12月6日]] - [[セバスティアン・イラディエル]]、作曲家(* [[1809年]]) * [[12月10日]] - [[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]、[[ベルギー|ベルギー王]](* [[1790年]]) == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|translator=矢羽野 薫・服部 真琴・雨海 弘美 |editor=ウィリアム・マクドナルド |title=ニューヨークタイムズが報じた 100人の死亡記事 |date=2020-05-30 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-20797-1 |ref={{Sfnref|マクドナルド|2020}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|1865}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1865ねん}} [[Category:1865年|*]]
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1695年
1695年(1695 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1695年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1695}} {{year-definition|1695}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2355年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]34年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]21年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4028年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]16年 * [[仏滅紀元]] : 2237年 - 2238年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1106年 - 1107年 * [[ユダヤ暦]] : 5455年 - 5456年 * [[ユリウス暦]] : 1694年12月22日 - 1695年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1695}} == できごと == * [[2月6日]] - [[ムスタファ2世]]が[[オスマン帝国]][[皇帝]]に即位。 * [[7月17日]] - [[スコットランド王国議会]]が[[スコットランド銀行]]法を制定。 * 10月-11月、[[イングランド王国|イングランド]]で{{仮リンク|1695年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, 1695}} === 日本 === * [[9月14日]](元禄8年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]])- [[江戸幕府]]が金銀吹き替え(改鋳)の触書を公布。 * [[10月17日]](元禄8年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[元禄小判]]の流通はじまる * [[11月3日]](元禄8年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[元禄丁銀]]の通用開始。 == 誕生 == {{see also|Category:1695年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月6日]] - [[ジュゼッペ・サンマルティーニ]]、[[イタリア]]の[[作曲家]]、[[オーボエ]]奏者(+ [[1750年]]) * [[7月13日]] - [[エドワード・ブラドック]]、[[イギリス]]の[[将軍]](+ [[1755年]]) * [[8月20日]] - [[マリー・ルイーズ・エリザベート・ドルレアン]]、[[ベリー公]][[シャルル・ド・ブルボン (ベリー公)|シャルル]]の妃(+ [[1719年]]) * [[9月3日]] - [[ピエトロ・ロカテッリ]]、イタリアの[[バロック音楽]]の作曲家、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1764年]]) == 死去 == {{see also|Category:1695年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月6日]] - [[アフメト2世]]、[[オスマン帝国]]の第21代[[皇帝]](* [[1643年]]) * [[2月20日]] - [[ヨハン・アンブロジウス・バッハ]]、[[ドイツ]]の[[音楽家]](* [[1645年]]) * [[3月25日]] - [[ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウ]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の女性[[貴族]](* [[1667年]]) * [[4月5日]] - [[ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)|ジョージ・サヴィル]]、[[イングランド]]の[[政治家]]、初代[[ハリファックス侯]](* [[1633年]]) * [[4月13日]] - [[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ]]、[[フランス]]の[[詩人]](* [[1621年]]) * [[5月24日]](元禄8年[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]) - [[松平頼重]]、[[大名]]、讃岐[[高松藩]]初代藩主(* [[1622年]]) * [[7月8日]] - [[クリスティアーン・ホイヘンス]]、[[オランダ]]の[[数学者]]、[[物理学者]]、[[天文学者]](* [[1629年]]) * [[8月12日]](康熙34年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[黄宗羲]]、[[儒学者]]、[[陽明学者]](* [[1610年]]) * [[8月24日]](元禄8年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]) - [[円空]]、行脚僧(* [[1632年]]) * [[11月21日]] - [[ヘンリー・パーセル]]、[[イギリス]]の[[作曲家]](* [[1659年]]) * [[11月22日]]([[元禄]]8年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[高泉性潡]]、[[中国]]の[[黄檗宗]]の渡来僧(* [[1633年]]) * [[12月30日]] - [[サミュエル・モーランド]]、イングランドの[[外交官]]、[[スパイ]]、[[発明家]]、[[数学者]](* [[1625年]]) * [[チャオプラヤー・コーサーパーン]]、[[アユタヤ王朝]]の[[王族]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1695}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1695ねん}} [[Category:1695年|*]]
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4,566
1706年
1706年(1706 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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1706年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1706}} {{year-definition|1706}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[宝永]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2366年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]45年 *** [[魏枝葉]] : [[文興]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]32年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4039年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2248年 - 2249年 * [[ヒジュラ暦]] : 1117年 - 1118年 * [[ユダヤ暦]] : 5467年 - 5468年 * [[ユリウス暦]] : 1705年12月21日 - 1706年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1706}} == できごと == * [[2月3日]] - [[大北方戦争]]、[[フラウシュタットの戦い]]{{要出典|date=2021-03}} * [[5月23日]] - [[スペイン継承戦争]]、[[ラミイの戦い]] * [[9月7日]] - [[スペイン継承戦争]]、[[トリノの戦い]] * [[オテル・デ・ザンヴァリッド]]落成。 * [[マチンの公式]]([[円周率]]の計算公式)が発見される。 == 誕生 == {{see also|Category:1706年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[ベンジャミン・フランクリン]]、[[科学者]]・[[政治家]](+ [[1790年]]) * [[1月28日]] - [[ジョン・バスカヴィル]]、印刷業者(+ [[1775年]]) * [[2月1日]]([[宝永]]2年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]])- [[山脇東洋]]、[[医学者]](+ [[1762年]]) * [[10月18日]] - [[バルダッサーレ・ガルッピ]]、作曲家(+ [[1785年]]) * 月日不明 - [[荷田在満]]、歌人(+ [[1751年]]) * 月日不明 - [[板倉勝清]]、[[老中]](+ [[1780年]]) * 月日不明 - [[稲葉正恒]]、[[淀藩]]藩主(+ [[1730年]]) == 死去 == {{see also|Category:1706年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月3日]] - [[ヨハン・パッヘルベル]]、音楽家(*[[1653年]]) * [[3月4日]](宝永3年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[吉良義周]]、[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]](* [[1685年]]) * [[3月10日]](宝永3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[独湛性瑩]]、中国から来日した[[黄檗宗]]の僧(* [[1628年]]) * [[5月25日]](宝永3年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]) - [[戸田茂睡]]、歌学者(* [[1629年]]) * [[11月15日]] - [[ダライ・ラマ6世|ツァンヤン・ギャムツォ]]、[[ダライ・ラマ]]6世(* [[1683年]]) * [[12月9日]] - [[ペドロ2世 (ポルトガル王)|ペドロ2世]]、[[ポルトガル王]](*[[1648年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1706}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1706ねん}} [[Category:1706年|*]]
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1700年代
1700年代(せんななひゃくねんだい)は、 18世紀の開始年
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1700年代(せんななひゃくねんだい)は、", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "18世紀の開始年", "title": "できごと" } ]
1700年代(せんななひゃくねんだい)は、 西暦(グレゴリオ暦)1700年から1709年までの10年間を指す十年紀。本項で詳述する。 西暦1700年から1799年までの100年間を指す。18世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
{{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 18 | 年代 = 1700 | 年 = 1700 }} '''1700年代'''(せんななひゃくねんだい)は、 # [[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1700年から1709年までの10年間を指す[[十年紀]]。'''本項で詳述する'''。 # 西暦1700年から1799年までの100年間を指す。[[18世紀]]とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。 == できごと == === 1700年 === {{main|1700年}} * 1699年か1700年に最後の[[モーリシャスクイナ]]が最後に死亡し、絶滅した。 * [[大北方戦争]]が勃発(-[[1721年]])。 * 米国北西部の[[カスケード沈み込み帯]]にて大規模な[[地震]]発生。 * [[コンスタンティノープル条約 (1700年)|コンスタンティノープル条約]]締結。 === 1701年 === ''18世紀の開始年'' {{main|1701年}} * [[4月21日]]([[元禄]]14年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]])- 江戸城本丸御殿の[[松之大廊下]]で、[[浅野長矩]]が[[吉良義央]]に刃傷におよぶ。 * [[5月23日]]([[ユリウス暦]]5月12日) - [[海賊]][[ウィリアム・キッド|キャプテン・キッド]]、[[ロンドン]]にて絞首刑に処せられる * [[プロイセン王国]]成立(+ [[1918年]])。 * [[カトリック教会|カトリック教徒]]を[[イギリス君主一覧|イギリス王位]]継承者として認めないという王位継承法が制定される。 === 1702年 === {{main|1702年}} * [[スペイン継承戦争]]、[[アン女王戦争]]が勃発(-1713年)。 === 1703年 === {{main|1703年}} * [[1月30日]](元禄15年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]])- 浅野長矩の遺臣が本所の吉良屋敷に夜討をかける([[赤穂事件]])。 * [[12月31日]](元禄16年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]])- [[江戸]]で大[[地震]]発生([[元禄大地震]])。 * [[江戸幕府|幕府]]、[[大和川]]付替え工事を正式に決定。 === 1704年 === {{main|1704年}} * [[4月16日]](元禄17年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - 日本、改元して[[宝永]]元年。 === 1706年 === {{main|1706年}} * [[スウェーデン]]が[[ポーランド・リトアニア共和国]]を支配する(-1709年)。 * [[大和川]]付替え工事完成。 === 1707年 === {{main|1707年}} * [[イングランド|イングランド王国]]と[[スコットランド|スコットランド王国]]が合併し、[[グレートブリテン王国]]となる。 * [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]が噴火([[宝永大噴火]])。 === 1709年 === {{main|1709年}} * [[徳川家宣]]、[[徳川幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]]となる。 * [[7月8日]](旧暦[[6月27日]])、[[ポルタヴァの戦い]]。 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=2|世紀=11|年代=1000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:1700ねんたい}} [[Category:1700年代|*]]
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4,568
1660年
1660年(1660 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
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1660年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1660}} {{year-definition|1660}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[万治]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2320年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[順治]]17年 ** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]14年 ** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]): [[定武]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3993年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永寿 (黎朝)|永寿]]3年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]23年 * [[仏滅紀元]] : 2202年 - 2203年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1070年 - 1071年 * [[ユダヤ暦]] : 5420年 - 5421年 * [[ユリウス暦]] : 1659年12月22日 - 1660年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1660}} == できごと == * [[3月16日]] - [[イングランド王国|イングランド]]で[[長期議会]]が解散。 * [[4月4日]] - [[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]に亡命中の元[[プリンス・オブ・ウェールズ|イングランド王太子]][[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ王子]]が[[ブレダ宣言]]を発表。<!--×スコットランド王チャールズ2世--> * [[4月23日]] - [[オリヴァ条約]]で[[ポーランド]]と[[スウェーデン]]間の戦争終結。ポーランドの没落と[[対抗宗教改革]]の勝利が決定的となり、スウェーデンは[[バルト海]]における覇権を確立した。([[大洪水時代]](1655年-)の終焉) * [[4月25日]] - イングランドで[[仮議会 (1660年)|仮議会]]が開会。 * [[5月29日]] - イングランドでチャールズ2世が即位([[イングランド王政復古|王政復古]])。 * [[8月23日]](万治3年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[伊達綱宗]]隠居事件&nbsp;([[伊達騒動]]の始まり)。 * [[11月28日]] - [[ロバート・ボイル]]や[[クリストファー・レン]]らによって[[王立協会|王立協会(ロイヤル・ソサエティ)]]発足。 * [[サミュエル・ピープス]]、日記を書き始める(-[[1669年]]) * [[ロバート・フック]]、[[フックの法則]]を発見。 * [[チベット]]政府「[[ガンデンポタン]]」が本拠を[[ポタラ宮]]に移動(-[[1959年]]) * [[歌舞伎]]芝居小屋の[[守田座|森田座]]が[[木挽町]]に開場。 == 誕生 == {{see also|Category:1660年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月6日]] (万治2年[[11月24日 (旧暦)|旧暦11月24日]])- [[松前矩広]]、[[蝦夷国]][[松前藩]]第5代藩主(+ [[1721年]]) * [[2月15日]]([[順治]]17年[[1月5日 (旧暦)|旧暦1月5日]])- [[尚純]]、[[琉球王国]]の王族(+ [[1707年]]) * [[4月6日]] - [[ヨハン・クーナウ]]、[[作曲家]](+ [[1722年]]) * [[4月16日]] - [[ハンス・スローン]]、[[医師]]、[[博物学者]](+ [[1753年]]) * [[5月2日]] - [[アレッサンドロ・スカルラッティ]]、作曲家(+ [[1725年]]) * [[5月20日]] - {{仮リンク|アンドレーアス・シュリューター|en|Andreas Schlüter|Andreas Schlüter}}、[[彫刻家]]、[[建築家]](+ [[1714年]]) * [[5月28日]] - [[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]、[[イギリス国王]]、[[ハノーヴァー朝]]開祖(+ [[1727年]]) * [[7月27日]] - [[ヨハン・パトクル]]、[[政治家]](+ [[1707年]]) * [[10月21日]] - [[ゲオルク・シュタール]]、医師、[[化学者]](+ [[1734年]]) * [[12月4日]] - [[アンドレ・カンプラ]]、作曲家、[[指揮者]]、[[聖職者]](+ [[1744年]]) * 月日不明 - [[ダニエル・デフォー]]、イギリスの[[作家]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1731年]]) * 月日不明 - [[ヨハン・ヨーゼフ・フックス]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1741年]]) * 月日不明 - [[市川團十郎 (初代)|初代市川團十郎]]、[[元禄]]歌舞伎を代表する[[江戸]]の役者(+ [[1704年]]) == 死去 == {{see also|Category:1660年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[ガストン (オルレアン公)|ガストン]]、[[オルレアン家|オルレアン公]](* [[1608年]]) * [[2月10日]] - [[ユディト・レイステル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Judith-Leyster Judith Leyster Dutch painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](* [[1609年]]) * [[2月13日]] - [[カール10世 (スウェーデン王)|カール10世]]、[[スウェーデン]]([[バルト帝国]])国王(* [[1622年]]) * [[4月6日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ホディエルナ]]、[[天文学者]](* [[1597年]]) * [[6月1日]] - [[メアリ・ダイアー]]、[[クエーカー]]教徒(* [[1611年]]頃) * [[8月6日]] - [[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]<ref>「スペイン文化事典」pp122-123 川成洋・坂東省次編 丸善 平成23年1月31日発行</ref>、スペインの画家(* [[1599年]]) * [[10月6日]] - {{仮リンク|パウル・スカロン|en|Paul Scarron|Paul Scarron}}、[[詩人]]、[[劇作家]](* [[1610年]]) * [[11月5日]] - [[アレクサンドル・ドゥ・ロード]]、[[イエズス会]][[宣教師]](* [[1591年]]) * 月日不明 - {{仮リンク|ジュディス・レイスター|en|Judith Leyster}}、女流画家(* [[1609年]]) * 月日不明 - {{仮リンク|ヤン・バプティスト・ウェーニクス|en|Jan Baptist Weenix}}、画家(* [[1621年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1660}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1660ねん}} [[Category:1660年|*]]
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4,569
1849年
1849年(1849 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。 死亡年を+で付記してある
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1849年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1849}} {{year-definition|1849}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[天保暦]]) ** [[嘉永]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2509年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[道光]]29年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]15年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4182年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嗣徳]]2年  * [[仏滅紀元]] : 2391年 - 2392年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1265年2月6日 - 1266年2月15日 * [[ユダヤ暦]] : 5609年4月7日 - 5610年4月16日 * [[ユリウス暦]] : 1848年12月20日 - 1849年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -3607 - -3243 * [[リリウス日]](LD) : 97234 - 97598 <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1849}} == できごと == * [[3月26日]] - [[第二次シク戦争]]: [[シク王国]]が[[イギリス]]に降伏。 * [[3月29日]] - イギリスがシク王国の領土の併合を宣言。イギリスによるインドの植民地化が完了。 * [[4月18日]]([[嘉永]]2年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]) - 米国軍艦[[プレブル号]]長崎来航。漂流民の受け取りを要求。 * [[5月29日]](嘉永2年閏[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - 英国軍艦[[マリナー号]]相模三浦郡松輪崎沖に停泊、''江戸''湾測量。 * [[7月28日]](嘉永2年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[蝦夷地]][[松前藩]]、第12代藩主[[松前崇広]]が襲封 * [[11月16日]] - [[フョードル・ドストエフスキー]]に対し死刑判決。後に執行直前に特赦によりシベリア流刑に減刑。 ===日付不詳=== * 最後の日本式城郭である[[松前城]]築城開始。[[1854年]]落成。 == 誕生 == {{see also|Category:1849年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> 死亡年を+で付記してある * [[1月5日]] - [[ジェスロ・ティール]]、[[地質学者]](+ [[1924年]]) * [[1月7日]]([[嘉永]]元年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[本多庸一]]、[[キリスト教]][[伝道者]]・[[牧師]]・[[教育家]]・[[政治家]](+ [[1912年]]) * [[1月9日]] - [[ジョン・ハートリー]]、[[テニス]]選手(+ [[1935年]]) * [[1月13日]] - [[エルヴィン・フォン・ベルツ]]、[[草津温泉]]の再発見者として知られる[[医師]](+ [[1913年]]) * [[1月16日]]- [[ウジェーヌ・カリエール]]、[[画家]](+ [[1906年]]) * [[1月17日]] - [[ポール・リッシェ]]、[[解剖学者]]・[[生理学者]]・[[彫刻家]](+ [[1933年]]) * [[1月18日]] - [[エドモンド・バートン]]、初代[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]](+ [[1920年]]) * [[1月22日]] - [[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ]]、[[作家]](+ [[1912年]]) * [[1月27日]](嘉永2年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[折田彦市]]、教育者(+ 1920年) * [[2月13日]] - [[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]] - [[財務大臣 (イギリス)|イギリス大蔵大臣]](+ [[1895年]]) * [[2月20日]](嘉永2年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[曾禰荒助]]、[[韓国統監]](+ [[1910年]]) * [[3月3日]] - [[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]、第4代[[ドイツ国首相]](+ [[1929年]]) * [[3月7日]] - [[ルーサー・バーバンク]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1926年]]) * [[3月12日]](嘉永2年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[朝吹英二]]、[[実業家]](+ [[1918年]]) * [[3月15日]](嘉永2年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) [[末広鉄腸]]、政論家・[[新聞記者]]・政治家(+ [[1896年]]) * [[3月16日]] - [[カール・ブルークマン]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1919年]]) * [[3月25日]](嘉永2年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[平田東助]]、[[官僚]]・政治家・元[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]・[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[内大臣]](+ [[1925年]]) * [[3月29日]] - [[ジョージ・ホール (野球)|ジョージ・ホール]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1923年]]) * [[4月6日]] - [[ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス]]、[[画家]](+ [[1917年]]) * [[4月17日]] - [[ウィリアム・デイ]]、第36代[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1923年]]) * [[4月19日]] - [[エヴァ・ゴンザレス]]、画家(+ [[1883年]]) * [[4月24日]] - [[ジョゼフ・ガリエニ]]、[[フランス陸軍]]の[[元帥]](+ [[1916年]]) * [[4月25日]] - [[フェリックス・クライン]]、[[数学者]](+ 1925年) * [[5月5日]] - [[ハンブルトニアン10]]、[[種牡馬]](+ [[1876年]]) * [[5月8日]](嘉永2年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]) - [[中村歌六 (3代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ 1919年) * [[5月9日]](嘉永2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[昭憲皇太后]]、[[明治天皇]]の[[皇后]](+ [[1914年]]) * 5月9日 - [[ヴィトリド・ツェラスキー]]、[[天文学者]](+ 1925年) * [[5月12日]](嘉永2年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[濱尾新]]、政治家(+ 1925年) * [[6月5日]] - [[パット・ギャレット]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](+ [[1908年]]) * [[6月6日]] - [[ジム・デブリン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1883年]]) * [[6月20日]](嘉永2年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[上村彦之丞]]、海軍軍人(+ 1916年) * [[6月29日]] - [[セルゲイ・ウィッテ]]、[[ロシア帝国]]首相・[[ポーツマス条約|ポーツマス会議]]ロシア代表(+ [[1915年]]) * [[7月2日]] - [[マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ (1849-1919)|マリア・テレジア]]、[[バイエルン王国|バイエルン王]][[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]の妃(+ 1919年) * [[7月3日]] - [[ルネ・ブロンロ]]、[[物理学者]](+ [[1930年]]) * [[7月5日]] - [[ウィリアム・トーマス・ステッド]]、[[ジャーナリスト]](+ 1912年) * [[7月12日]] - [[ウイリアム・オスラー]]、[[医学者]](+ 1919年) * [[7月19日]] - [[イェールハルド・ムンテ]]、[[画家]](+ 1929年) * [[7月22日]] - [[ゲザ・ジチー]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](+ [[1924年]]) * [[7月29日]] - [[マックス・ノルダウ]]、[[シオニズム]]運動指導者(+ 1923年) * [[8月1日]] - [[ジョージ・マーサー・ドーソン]]、[[探検家]](+ [[1901年]]) * [[8月8日]] - [[ヴェーラ・ザスーリチ]]、[[革命家]](+ [[1919年]]) * [[8月9日]] - [[チャールズ・ネイゲル]]、第4代[[アメリカ合衆国商務労働長官]](+ [[1940年]]) * [[8月18日]] - [[バンジャマン・ゴダール]]、[[作曲家]](+ [[1895年]]) * [[8月24日]](嘉永2年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) - [[河野広中]]、政治家・第10代[[衆議院議長]](+ [[1923年]]) * [[8月30日]] - [[カル・マクヴィー]]、メジャーリーガー(+ [[1926年]]) * [[9月18日]] - [[エーミール・ツッカーカンドル]]、[[医学者]](+ [[1910年]]) * [[9月21日]] - [[アル・サーク]]、[[野球選手]](+ [[1872年]]) * [[9月23日]] - [[フーゴ・フォン・ゼーリガー]]、[[天文学者]](+ [[1924年]]) * [[9月26日]] - [[イワン・パブロフ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Ivan-Pavlov Ivan Pavlov Russian physiologist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[生理学|生理学者]](+ [[1936年]]) * [[10月1日]] - [[スティーブ・ベリャン]]、メジャーリーガー(+ [[1932年]]) * [[10月7日]] - [[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]、[[教育者]](+ [[1915年]]) * [[10月21日]](嘉永2年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[鮫島重雄]]、陸軍軍人(+ [[1928年]]) * [[10月30日]](嘉永2年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[高木兼寛]]、医学者・[[東京慈恵会医科大学]]創設者(+ [[1920年]]) * [[10月31日]] - [[スティーブ・ベリャン]]、元メジャーリーガー(+ [[1932年]]) * [[11月21日]] - [[パウル・レー]]、[[哲学|哲学者]]・[[医師]](+ 1901年) * [[11月22日]] - [[フリッツ・マウトナー]]、哲学者(+ 1923年) * [[11月24日]] - [[フランシス・ホジソン・バーネット]]、[[小説家]](+ 1924年) * [[11月29日]] - [[ジョン・フレミング]]、物理学者(+ [[1945年]]) * [[12月6日]] - [[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]、[[ドイツ陸軍]]の[[元帥]](+ [[1945年]]) * [[12月7日]](嘉永2年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]) - [[西園寺公望]]、政治家・第12・14代内閣総理大臣(+ 1940年) * [[12月25日]](嘉永2年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[乃木希典]]、陸軍軍人(+ 1912年) * [[12月27日]](嘉永2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]) - [[池田七三郎]]、[[新選組]]隊士(+ [[1938年]]) == 死去 == {{see also|Category:1849年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月13日]]([[嘉永]]元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[調所広郷]]、[[薩摩藩]][[家老]](* [[1776年]]) * [[1月25日]] - [[エライアス・パリシュ・アルヴァーズ]]、[[作曲家]]・[[ハープ]]奏者(* [[1808年]]) * [[2月8日]] - [[フランソワ・アントワーヌ・アブネック]]、[[指揮者]](* [[1781年]]) * 2月8日 - [[フランツェ・プレシェーレン]]、[[詩人]](* [[1800年]]) * [[3月12日]](嘉永2年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[井上正鉄]]、[[国学者]](* [[1790年]]) * [[3月17日]] - [[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]、[[オランダ|オランダ王]](* [[1792年]]) * [[3月23日]] - [[アンドレス・マヌエル・デル・リオ]]、[[化学者]](* [[1764年]]) * [[3月24日]](嘉永2年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[徳川斉彊]]、第12代[[紀州藩|紀州藩主]](* [[1820年]]) * [[4月29日]](嘉永2年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]) - [[徳川慶臧]]、第13代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1836年]]) * [[5月10日]](嘉永2年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]) - [[葛飾北斎]]、[[江戸時代]]の[[浮世絵]]師(* [[1760年]]) * [[5月11日]] - [[ジュリエット・レカミエ]]、フランスの[[セレブリティ]](* [[1777年]]) * 5月11日 - [[オットー・ニコライ]]、[[作曲家]]・[[指揮者]](* [[1810年]]) * [[5月28日]] - [[アン・ブロンテ]]、[[小説家]](* [[1820年]]) * [[6月10日]] - [[トマ・ロベール・ブジョー]]、[[フランス軍]]の軍人(* [[1784年]]) * 6月10日 - [[フリードリヒ・カルクブレンナー]]、[[ピアニスト]]・作曲家(* [[1785年]]) * [[6月14日]](嘉永2年[[4月24日 (旧暦)|閏4月24日]]) - [[尾上菊五郎 (3代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1784年]]) * [[6月15日]] - [[ジェームズ・ポーク]]、第11代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1795年]]) * [[7月12日]] - [[ドリー・マディソン]]<ref>{{Cite web|url=http://www.firstladies.org/biographies/firstladies.aspx?biography=4|title=First Lady Biography: Dolley Madison|publisher=National First Ladies' Library|language=英語|accessdate=2021年3月14日}}</ref>、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1768年]]) * [[7月13日]](嘉永2年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[橘守部]]、[[国学者]](* [[1781年]]) * [[7月28日]] - [[カルロ・アルベルト]]、第7代[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]](* [[1798年]]) * [[8月2日]] - [[ムハンマド・アリー]]、[[ムハンマド・アリー朝]]創始者(* [[1769年]]?) * [[8月12日]] - [[アルバート・ギャラティン]]、[[アメリカ合衆国財務長官]]・[[文化人類学|民族学者]](* [[1761年]]) * [[8月23日]] - [[エドワード・ヒックス]]、[[画家]](* [[1780年]]) * [[9月25日]] - [[ヨハン・シュトラウス1世]]<ref>{{Cite web|和書 |url = https://kotobank.jp/word/シュトラウス%28父%29-78011 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-04-25 }}</ref>、作曲家(* [[1804年]]) * [[10月7日]] - [[エドガー・アラン・ポー]]、小説家・[[詩人]](* [[1809年]]) * [[10月17日]] - [[フレデリック・ショパン]]、作曲家(* [[1810年]]) * [[11月21日]] - [[フランソワ・マリウス・グラネ]]、[[画家]](* [[1777年]]) * [[12月2日]] - [[アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン|アデレード]]、[[イギリス|イギリス王]][[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]の妃(* [[1792年]]) * [[12月12日]] - [[マーク・イザムバード・ブルネル]]、[[技術者]](* [[1769年]]) * [[12月17日]](嘉永2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[松本幸四郎 (6代目)]]、歌舞伎役者(* [[1811年]]) * [[12月29日]] - [[ディオニシオ・アグアド]]、[[ギタリスト]]・作曲家(* [[1784年]]) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1849|date=2011年7月}} === 誕生 === * 春 - 神谷清三郎、[[風光る (渡辺多恵子の漫画)|風光る]]の主人公 * [[6月20日]] (嘉永二年5月1日)- [[緋村剣心]]、[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]の主人公 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1849}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:1849ねん}} [[Category:1849年|*]]
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4,570
1732年
1732年(1732 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
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1732年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1732}} {{year-definition|1732}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]17年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2392年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]10年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4065年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永慶]]4年、[[龍徳 (黎朝)|龍徳]]元年8月 - * [[仏滅紀元]] : 2274年 - 2275年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1144年 - 1145年 * [[ユダヤ暦]] : 5492年 - 5493年 * [[ユリウス暦]] : 1731年12月21日 - 1732年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1732}} == できごと == * [[ニホンオオカミ]]の間で[[狂犬病]]が流行。対策として駆除が進む。 *[[メキシコ]]で文献で確認出来る中では最古の津波が発生<ref>{{Cite web|和書|title=1537年メキシコ津波は「幻」 理科年表1959年版改訂で誤記|url=https://mainichi.jp/articles/20210622/k00/00m/040/152000c|website=毎日新聞|accessdate=2021-06-23|language=ja}}</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1732年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[カロン・ド・ボーマルシェ]]、[[劇作家]](+ [[1799年]]) * [[2月22日]] - [[ジョージ・ワシントン]]、初代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1799年]]) * [[3月31日]] - [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]、[[作曲家]](+ [[1809年]]) * [[4月5日]] - [[ジャン・オノレ・フラゴナール]]、[[画家]](+ [[1806年]]) * [[6月14日]] - [[ルイジ・ランツィ]]、考古学者(+ [[1810年]]) * [[9月30日]] - [[ジャック・ネッケル]]、フランスの銀行家・[[政治家]](+ [[1804年]]) == 死去 == {{see also|Category:1732年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月17日]] - [[ルイ・マルシャン]]、[[作曲家]](* [[1669年]]) * [[3月2日]]([[享保]]17年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]])- [[二条綱平]]、[[江戸時代]]の[[公卿]](* [[1672年]]) * [[7月16日]] - [[ウッズ・ロジャーズ]]、[[海賊]]・初代[[バハマ]]総督(* [[1679年]]) * [[7月22日]](享保17年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[林鳳岡]]、[[儒学者]](* [[1645年]]) * [[8月3日]](享保17年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[杉山杉風]]、[[俳人]](* [[1647年]]) * [[8月16日]](享保17年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]])- [[細川宣紀]]、第4代[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主(* [[1676年]]) * [[9月19日]](享保17年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[小笠原長重]]、[[老中]]、[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]主、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]主(* [[1650年]]) * [[9月24日]](享保17年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]])- [[霊元天皇]]、第112代[[天皇]](* [[1654年]]) * [[10月30日]] - [[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]](* [[1666年]]) * [[11月20日]](享保17年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]])- [[大久保忠方]]、[[相模国|相模]][[小田原藩]]主(* [[1692年]]) * [[12月1日]](享保17年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])- [[井伊直陽]]、[[越後国|越後]][[与板藩]]第2代藩主(* [[1719年]]) * [[12月4日]] - [[ジョン・ゲイ]]、[[詩人]]・[[劇作家]](* [[1685年]]) * [[12月16日]] - [[ヨーゼフ・ヨーハン・アダム]]、[[リヒテンシュタイン]]公(* [[1690年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == == 関連項目 == {{Commonscat|1732}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1732ねん}} [[Category:1732年|*]]
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1730年代
1730年代(せんななひゃくさんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1730年から1739年までの10年間を指す十年紀。
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1730年代(せんななひゃくさんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1730年から1739年までの10年間を指す十年紀。
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神の一覧
神の一覧(かみのいちらん)では、各神話の神を列記する。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信じている。しかし、ユダヤ教徒とイスラム教徒は神を、厳格な唯一神教的な語として思い浮かべるのに対して、ほとんどのキリスト教徒の神は三位一体として存在すると信じている。 モーセの十戒の1つ、出エジプト記 20章7節の命令を根拠として、ユダヤ教においては古代から神の名を発音することを避けてきた。このため、現在では正確な呼称を知っている者は少なく、祭司家系の者たちの間で口伝されるのみであると伝えられる。 歴史的には、キリスト教はひとりの神を信じ、「神」として知られ、ひとりの神また神格を成す神聖な三者(三位一体)を信じると公言した。(参照 : アタナシウス信経)。 そのため、三位一体論的一神論者であるキリスト教徒がほとんどであるが、中にはそれに異議を唱える者もいる。以下の記事を参照。 アリウス派、ユニテリアン主義、例えば末日聖徒イエス・キリスト教会、エホバの証人。これら反三位一体論のグループは、ただひとりの父なる神が神であると信じている。末日聖徒は父と子イエス・キリストと聖霊とが三つの別個の神々を成すと信じている。エホバの証人はエホバ(ヤハウェ)はイエス・キリストより上位であり、聖霊は神の活動する力であると信じている。 アッラーフはイスラム教のもっとも伝統的な神を表す言葉である(固有名詞ではない)。イスラム教の伝統はまた99の神名も語る。ユダヤ教やキリスト教よりもある意味では詳細に神の存在の状態を定義しており、キリスト教で伝える三位一体は明確に否定し、その実態については「目なくして見、耳なくして聞き、口なくして語る」物理的な要素はない精神と力のみの存在としている。 二つの小宗教はアブラハムの宗教のどの区分にもまったく該当しない。ラスタファリ運動はジャーを崇拝し、バハイ教もユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じ神を崇拝する。 エジプト神話の神々は実在の動物と関連する姿をとることが多い。例えば、アヌビスは人の体を持つが、頭はイヌである。 参照:エジプト観光省のエジプトの神々膨大な資料 メソポタミア地方に伝わる神話の総称。シュメール神話とアッカド神話から成る。 シュメール神話の神々。 シュメール人を支配したアッカド人が継承した神話。言語によりバビロニア神話とアッシリア神話に分けられる。 ウガリット神話はアブラハムの宗教と民族的に近縁の神話体系。 ヒッタイトは紀元前15世紀頃現在のアナトリア半島に王国を築いた民族。(ヒッタイト神話も参照) アルメニア神話はキリスト教が入るよりも以前の古代アルメニアで信仰されていた神話 エヴェンキはシベリアの民族。 (詳細は中国神話を参照) 道教は中国三大宗教(三教)の一つ。 神道、民間信仰で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。 日本神話において天津神・国津神の神々のなかでもとくに三柱の御子が尊いとされ、その天照大神は主神となっている。 仏教では神は扱われないが、数多くの仏(ほとけ)があり、神のように扱われる場合もある。 ヒンドゥー教はインドやネパールで多数派を占める民族宗教。 ギリシア神話の固有名詞一覧も参照。 以下も参照。 その他 ⚫︎ アルケーの神(アペイロン)- 全宇宙と万物の神 (詳細はローマ神話を参照) エトルリア人はイタリア半島中部の先住民族。(エトルリア神話(英語版)) サルデーニャ島は西地中海の島。(Sardinian Deities) Sardinian deities, mainly referred to in the age of (Nuragici people), are partly derived from (Phoenicia)n ones. ダキア人はダキア地方に住んでいたトラキア系の民族。(Dacian Deities) ケルト人は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族。(ケルト神話も参照)(Celtic pre-Christian Deities) 詳細は北欧神話、北欧神話の固有名詞一覧を参照。 詳細はナルト叙事詩を参照。 スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団。(スラヴ神話も参照) ラトビア人はラトビア共和国の基本住民を形成する民族。(ラトビア神話(英語版)も参照) 自然や祖霊を崇拝し、日本神道と似ているラトビア土着信仰「ラトビア神道」における主要な神々は約20柱いる。 リトアニアは北ヨーロッパの国家。(リトアニアの宗教#信奉されていた神々とそれにまつわる神話、リトアニア神話(英語版)も参照) プロイセンはバルト海南東岸の地域。(プロイセン神話(英語版)も参照) 古フィンランドの宗教に関する文書はあまり残されていない上、神々の名前や崇拝の仕方に関していえば土地土地で異なっていた。次に示すのは、最重要かつ最も広範に崇拝されている神々の概略である。 アカン族(英語版)は、西アフリカの民族。(アカン人の宗教も参照) アカンバ族は、ケニアの先住民族。 アシャンティは、かつてガーナにあった王国。(アカン人の宗教も参照) イボ人は、ナイジェリアの民族。(Ibo mythologyも参照) ズールー族は、南アフリカの民族。(Zulu mythologyも参照) (Bushongo mythology) ダホメ(ダオメともいう)は、17世紀から19世紀にかけて西アフリカにあった王国。(Dahomey mythologyも参照) ディンカ族は、北アフリカの民族。(Dinka mythologyも参照) (Efik mythology) (Isoko mythology) コイコイ人は、南アフリカの民族。「ホッテントット」と呼ばれた。(Khoikhoi mythologyも参照) サン人は、南アフリカの民族。「ブッシュマン」と呼ばれた。(サン人の宗教も参照) トゥンブカ族は、マラウイ北部、ザンビア東部、タンザニア南部に住む民族。(Tumbuka mythologyも参照) ドゴン族はマリ共和国に住む民族。(ドゴン族の神話も参照) ピグミーは中部アフリカ各地で暮らす民族。(Pygmy mythologyも参照) ヨルバ族は、ナイジェリアの民族。(Yoruba mythology、Orishaも参照) (Lugbara mythology) (Lotuko mythology) アステカは北アメリカ大陸のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家(アステカ神話も参照)。 マヤ文明はメキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどの地域を中心に栄えた文明。(詳細はマヤ神話、en:List of Maya gods and supernatural beingsを参照) アメリカ大陸のインディアン(ネイティブ・アメリカン)たちは、「大いなる神秘」という概念を共有している。これは部族によって呼び名は違うが、森羅万象を包み込む「真理」であり、万物の中心である。あらゆる神々、精霊もすべてこの「偉大なる神秘」のもとにあるが、「偉大なる神秘」そのものは神でも精霊でもない。 アベナキ族は北米、バーモント州のインディアン部族。(Abenaki)) エスキモーはカナダ・アラスカの極北に暮らす狩猟民族。(Inuit mythology) グアラニー族は、中南米のインディオ。(Guarani mythology) クリーク族は、アメリカ南東部とオクラホマのインディアン部族、ムスコギー族のこと。(Creek mythology) クワキウトル族は、カナダ西海岸部のインディアン部族。(Kwakiutl mythology) サリシ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟部族。(Salish mythology) チペワ族は、アメリカのミネソタに住むインディアン部族。(Chippewa mythology) ハイダ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟民族。(Haida mythology) ヒューロンは、北アメリカ大陸北部の、オンタリオ湖周辺やヒューロン湖周辺などに居住するインディアン部族で、ワイアンドット族のこと。(Huron mythology) ポーニー族は、アメリカ中西部平原のインディアン部族。(Pawnee mythology) ホピはアメリカ・アリゾナ州に暮らすインディアンで、彼らの宗教観はニューエイジなど現代の文化に影響を与えている。(Hopi mythology) イロコイはアメリカ合衆国とカナダの間にあるインディアン国家。合衆国憲法の元となった仕組みを持っている。(Iroquois mythology) スー族は、アメリカの大平原に住むインディアン部族。(Lakota mythology) ナバホ族は、アメリカ南西部に住むインディアン部族。プエブロ族神話を原典に持つ。(Navaho mythology) ズニ族は、アメリカ南西部のインディアン部族。定住農耕民。(Zuni mythology) セネカ族は、インディアンのイロコイ連邦の6部族のひとつ。(Seneca mythology) インカ帝国は南アメリカのペルーを中心に存在し、インカ人は現在も伝統を伝えている。(インカ神話参照) アボリジニーは、オーストラリアの先住民族。(Australian Aborigine mythology) ポリネシアは、オセアニアの海洋部の区分の一つ。(Polynesian mythology) 明確に創作物であるクトゥルフ神話の神々が、神を紹介するときに持ち出されることがある。 ※ムー大陸の神一覧
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"paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団。(スラヴ神話も参照)", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ラトビア人はラトビア共和国の基本住民を形成する民族。(ラトビア神話(英語版)も参照)", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "自然や祖霊を崇拝し、日本神道と似ているラトビア土着信仰「ラトビア神道」における主要な神々は約20柱いる。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "リトアニアは北ヨーロッパの国家。(リトアニアの宗教#信奉されていた神々とそれにまつわる神話、リトアニア神話(英語版)も参照)", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "プロイセンはバルト海南東岸の地域。(プロイセン神話(英語版)も参照)", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "古フィンランドの宗教に関する文書はあまり残されていない上、神々の名前や崇拝の仕方に関していえば土地土地で異なっていた。次に示すのは、最重要かつ最も広範に崇拝されている神々の概略である。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アカン族(英語版)は、西アフリカの民族。(アカン人の宗教も参照)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アカンバ族は、ケニアの先住民族。", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": 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"サン人は、南アフリカの民族。「ブッシュマン」と呼ばれた。(サン人の宗教も参照)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "トゥンブカ族は、マラウイ北部、ザンビア東部、タンザニア南部に住む民族。(Tumbuka mythologyも参照)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ドゴン族はマリ共和国に住む民族。(ドゴン族の神話も参照)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ピグミーは中部アフリカ各地で暮らす民族。(Pygmy mythologyも参照)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ヨルバ族は、ナイジェリアの民族。(Yoruba mythology、Orishaも参照)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "(Lugbara mythology)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "(Lotuko mythology)", "title": "アフリカ(エジプト以外)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アステカは北アメリカ大陸のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家(アステカ神話も参照)。", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "マヤ文明はメキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどの地域を中心に栄えた文明。(詳細はマヤ神話、en:List of Maya gods and supernatural beingsを参照)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アメリカ大陸のインディアン(ネイティブ・アメリカン)たちは、「大いなる神秘」という概念を共有している。これは部族によって呼び名は違うが、森羅万象を包み込む「真理」であり、万物の中心である。あらゆる神々、精霊もすべてこの「偉大なる神秘」のもとにあるが、「偉大なる神秘」そのものは神でも精霊でもない。", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アベナキ族は北米、バーモント州のインディアン部族。(Abenaki))", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "エスキモーはカナダ・アラスカの極北に暮らす狩猟民族。(Inuit mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "グアラニー族は、中南米のインディオ。(Guarani mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "クリーク族は、アメリカ南東部とオクラホマのインディアン部族、ムスコギー族のこと。(Creek mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "クワキウトル族は、カナダ西海岸部のインディアン部族。(Kwakiutl mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "サリシ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟部族。(Salish mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "チペワ族は、アメリカのミネソタに住むインディアン部族。(Chippewa mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ハイダ族は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟民族。(Haida mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ヒューロンは、北アメリカ大陸北部の、オンタリオ湖周辺やヒューロン湖周辺などに居住するインディアン部族で、ワイアンドット族のこと。(Huron mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ポーニー族は、アメリカ中西部平原のインディアン部族。(Pawnee mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ホピはアメリカ・アリゾナ州に暮らすインディアンで、彼らの宗教観はニューエイジなど現代の文化に影響を与えている。(Hopi mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "イロコイはアメリカ合衆国とカナダの間にあるインディアン国家。合衆国憲法の元となった仕組みを持っている。(Iroquois mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "スー族は、アメリカの大平原に住むインディアン部族。(Lakota mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ナバホ族は、アメリカ南西部に住むインディアン部族。プエブロ族神話を原典に持つ。(Navaho mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ズニ族は、アメリカ南西部のインディアン部族。定住農耕民。(Zuni mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "セネカ族は、インディアンのイロコイ連邦の6部族のひとつ。(Seneca mythology)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "インカ帝国は南アメリカのペルーを中心に存在し、インカ人は現在も伝統を伝えている。(インカ神話参照)", "title": "アメリカ大陸" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "アボリジニーは、オーストラリアの先住民族。(Australian Aborigine mythology)", "title": "オーストラリア・オセアニア" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ポリネシアは、オセアニアの海洋部の区分の一つ。(Polynesian mythology)", "title": "オーストラリア・オセアニア" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "明確に創作物であるクトゥルフ神話の神々が、神を紹介するときに持ち出されることがある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "※ムー大陸の神一覧", "title": "その他" } ]
神の一覧(かみのいちらん)では、各神話の神を列記する。
'''神の一覧'''(かみのいちらん)では、各神話の神を列記する。 ;凡例:日本語名(英語名) :一覧は、ウィキペディア日本語版に多数の記事がある神話は五十音順、他言語版ウィキペディアの記事へのリンクが大勢を占める神話はアルファベット順になっている。 :各単語の定義も参照されたい : [[神]]、[[女神]]、[[仏]]、[[神話]]、[[宗教]]、[[聖典]]、[[世界の宗教]]。 == 中近東 == === アブラハムの宗教 === [[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]は、同じ神を信じている。しかし、ユダヤ教徒とイスラム教徒は神を、厳格な[[唯一神教]]的な語として思い浮かべるのに対して、ほとんどのキリスト教徒の神は[[三位一体]]として存在すると信じている。 ==== ユダヤ教 ==== [[モーセの十戒]]の1つ、[[出エジプト記]] 20章7節の命令を根拠として、ユダヤ教においては古代から神の名を発音することを避けてきた。このため、現在では正確な呼称を知っている者は少なく、祭司家系の者たちの間で口伝されるのみであると伝えられる。 {{main|ヤハウェ}} ==== キリスト教 ==== 歴史的には、キリスト教はひとりの神を信じ、「神」として知られ、ひとりの神また神格を成す神聖な三者([[三位一体]])を信じると公言した。(参照 : [[アタナシウス信経]])。 そのため、三位一体論的一神論者であるキリスト教徒がほとんどであるが、中にはそれに異議を唱える者もいる。以下の記事を参照。 [[アリウス派]]、[[ユニテリアン主義]]、例えば[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]、[[エホバの証人]]。これら反三位一体論のグループは、ただひとりの[[父なる神]]が神であると信じている。末日聖徒は父と子[[イエス・キリスト]]と[[聖霊]]とが三つの別個の神々を成すと信じている。エホバの証人は[[ヤーヴェ|エホバ]]([[ヤハウェ]])はイエス・キリストより上位であり、[[聖霊]]は神の活動する力であると信じている。 ==== イスラム教 ==== [[アッラーフ]]はイスラム教のもっとも伝統的な神を表す言葉である(固有名詞ではない)。イスラム教の伝統はまた[[アッラーフの99の美名|99の神名]]も語る。ユダヤ教やキリスト教よりもある意味では詳細に神の存在の状態を定義しており、キリスト教で伝える三位一体は明確に否定し、その実態については「目なくして見、耳なくして聞き、口なくして語る」物理的な要素はない精神と力のみの存在としている。 ==== その他 ==== 二つの小宗教は[[アブラハムの宗教]]のどの区分にもまったく該当しない。[[ラスタファリ運動]]は[[ヤハ|ジャー]]を崇拝し、[[バハイ教]]もユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じ神を崇拝する。 === エジプト神話の神々 === [[エジプト神話]]の神々は実在の動物と関連する姿をとることが多い。例えば、アヌビスは[[人間|人]]の体を持つが、頭は[[イヌ]]である。 * [[アトゥム]] - 創造神の一柱。 * [[アテン]] - 太陽の光の化身。 * [[アヌビス]] - 冥界の神。ミイラ作りの神。リコポリスの守護神。 * [[アペプ]] - 闇と混沌の象徴。 * [[アメン]] - 雄羊の神。 * [[イシス]] - 魔法の女神。ネフテュスの姉妹。 * [[イムホテプ]] - 知恵、医術と魔法の神。 * [[ウアジェト]] - [[コブラ科|コブラ]]の女神。 * [[オシリス]] - 冥府の神。 * [[クヌム]] - 創造神の一柱。 * [[ゲブ]] - 大地の神。 * [[ケプリ]] - [[スカラベ]]、日の出の化身。 * [[コンス]] - 風の神。 * [[シュー (エジプト神話)|シュー]] - 大気の神。 * [[セクメト]] - 戦闘の女神。[[ライオン]]の頭を持つ。 * [[セト]] - 嵐、戦争、砂漠<ref>{{Cite web|和書|title=セトとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%BB%E3%83%88-87457 |website=コトバンク |access-date=2022-11-25 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>の神。アヌビスの父ともいわれる。 * [[セベク]] - [[ワニ]]の神。 * [[セルケト]] - [[サソリ]]の女神。イシスの従者。 * [[ソプデト]] - [[シリウス]]星の女神。 * [[タウエレト]] - [[カバ]]の女神。 * [[テフヌト]] - 天候の女神。秩序、公正、時、天国と地獄の守護神。 * [[トート]] - 月、製造、著述、幾何学、知恵、医術、音楽、天文学、魔術の神。 * [[ネイト (エジプト神話)|ネイト]] - 戦いの女神。偉大なる母なる女神。<!--the great mother goddess--> * [[ネクベト]] - [[ハゲタカ]]の女神。 * [[ヌト]] - 天国と空の女神。 * [[ヌン]] - 原始の海。 * [[ネフテュス]] - アヌビスの母。 * [[バステト]] - [[ネコ]]の女神。 * [[ハトホル]] - 愛の女神、音楽の女神、ホルスの妻。 * [[ハピ]] - ナイル川の神、豊穣の神。<!--God of the Nile and Fertility--> * [[プタハ]] - 創造神の一柱。 * [[ヘケト]] - [[カエル|蛙]]の女神。 * [[ベス]] - 出産や娯楽、保護の神-魔神(?)<!-- God-Demon of Protection, Childirth and Entertainment--> * [[ホルス]] - 隼の頭を持つ神。 * [[ホルスの4人の息子]] - 4個の[[カノプス壷]]を人格化した神。 ** [[イムセティ]]([[:en:Imsety|en]]) ** [[ハピ (ホルスの息子)|ハピ]]([[:en:Hapi (Son of Horus)|en]]) ** [[ドゥアムトエフ]]([[:en:Duamutef|en]]) ** [[ケベフセヌエフ]]([[:en:Qebehsenuef|en]]) * [[マアト]] - 真理、調和、秩序の女神。 * [[マヘス]]([[:en:maahes|maahes]]) - ライオンの頭をもつ戦闘の神。 * [[メンヒト]]([[:en:Menhit|Menhit]]) - 雌獅子の神。 * [[モンチュ]] - 戦争の神。 * [[ムト]] - アメンの妻。ムートとも。 * [[ラー]] - 太陽神。アヌビスの父ともいわれる。 * [[メジェド]] 参照:[http://touregypt.net/godsofegypt/ エジプト観光省のエジプトの神々膨大な資料] === メソポタミア神話の神々 === [[メソポタミア地方]]に伝わる神話の総称。[[シュメール神話]]と[[アッカド神話]]から成る。 * [[アンシャル]] - 天の父。 * [[アヌ (メソポタミア神話)|アヌ]] - 最高の天の神<!--the god of the highest heaven--> * [[アプスー]] - 神々と地下世界の海の支配者<!--the ruler of gods and underworld oceans--> * [[アッシュール]] - アッシリアの国家神。 * [[ダムキナ]] - 地球の母なる女神 * [[エア (メソポタミア神話)|エア]] - 知恵の神。 * [[エンリル]] - 天候と嵐の神。 * [[エヌルタ|ニヌルタ]] - 戦争の神。 * [[アダド]] - 天候の神。 * [[イシュタル]] - 愛の女神。 * [[キングー]] - ティアマトの夫。 * [[キシャル]] - 地を司る女神([[アンシャル]]の妻にして妹) * [[マルドゥク]] - バビロニアの国家神。 * [[ムンム]] - 霧の神。 * [[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]] - 知恵と書紀の神。 * {{仮リンク|ニントゥ|en|Nintu}} - 全ての神々の母 * [[シャマシュ]] - 太陽と正義の神。 * [[シン (メソポタミア神話)|シン]] - 月の神。 * [[ティアマト]] - 原初の女神。 * [[ラフム]] - [[アプスー]]と[[ティアマト]]の子。[[ラハム]]の夫。[[アンシャル]]と[[キシャル]]の父。 * [[ラハム]] - アプスーとティアマトの娘。[[ラフム]]の妻。アンシャルとキシャルの母。 ==== シュメール神話の神々 ==== [[シュメール神話]]の神々。 * [[アヌ (メソポタミア神話)|アン]] * [[エンキ]] * [[エンリル]] * [[イナンナ]] * [[ナンム]] * [[シン (メソポタミア神話)|ナンナ]] * [[ニンフルサグ]] * [[ニンリル]] * [[シン (メソポタミア神話)|シン]] * [[ウトゥ]] {{See also|アヌンナキ}} ==== アッカド神話 ==== [[シュメール人]]を支配した[[アッカド人]]が継承した神話。言語により[[バビロニア神話]]と[[アッシリア神話]]に分けられる。 ===== バビロニア神話の神々 ===== * [[エア (メソポタミア神話)|エア]] * [[ダムキナ]] * [[ティアマト]] * [[ナブー]] * [[マルドゥク]] ===== アッシリア神話 ===== * [[アッシュール(神)|アッシュール]] * [[イシュタル]] * [[ナブー]] === ウガリット神話の神々 === [[ウガリット神話]]はアブラハムの宗教と民族的に近縁の神話体系。 * [[アーシラト]] - 神々の女王 * [[アスタルト|アシュタロテ]] - 豊穣多産の女神 * [[アナト]] - 愛と戦いの女神 * [[エール (神)|エール]] - 神を指す言葉 * [[コシャル・ハシス]] - 工芸神 * [[シャプシュ]] - 太陽神 * [[バアル]]/[[メルカルト]] - 嵐と慈雨の神 * [[モート]] - 炎と死と乾季の神 * [[ヤム (ウガリット神話の神)|ヤム=ナハル]] - 海と川の神 === ヒッタイト神話の神々 === [[ヒッタイト]]は紀元前15世紀頃現在の[[アナトリア半島]]に王国を築いた民族。([[ヒッタイト神話]]も参照) * [[アラル (神)|アラル]] (Alalu) * {{仮リンク|へパト|en|Ḫepat|label=ヘバト}} (Hebat) * {{仮リンク|クマルビ|en|Kumarbi}} (Kumarbi) * [[シャルマ]] (Sharruma) * {{仮リンク|シャウシュカ|en|Šauška}} (Shaushka) * [[テリピヌ]] (Telipinu) * {{仮リンク|テシュブ|en|Teshub}} (Teshub) - 嵐・天候神。 === アルメニア神話 === [[アルメニア神話]]はキリスト教が入るよりも以前の古代[[アルメニア]]で信仰されていた神話 * [[アストヒク]] - 愛と美貌・水源と湖の神 * [[アナヒット]] * [[アラマズド]] - 太陽・光・豊穣の神 * [[ヴァハグン]] - 太陽・火・戦いの神 * [[ハイク・ナハペト]] * [[美麗王アラ]] === ゾロアスター教の神々 === * [[アフラ・マズダー]] - [[ゾロアスター教]]の最高神。 * [[アムシャ・スプンタ]] - アフラ・マズダーに従う7柱の善神。 ** [[スプンタ・マンユ]] ** [[アシャ・ワヒシュタ]] ** [[ウォフ・マナフ]] ** [[フシャスラ・ワルヤ]] ** [[スプンタ・アールマティ]] ** [[アムルタート]] ** [[ハルワタート]] - 水の神 * [[ヤザタ]] - アムシャ・スプンタに次ぐ地位の善神。 ** [[アータル]] - 火の神 ** [[アープ]] - 水神 ** [[アナーヒター]] - 川・水を司る神 ** [[ウルスラグナ]] - 英雄神 ** [[スラオシャ]] ** [[ティシュトリヤ]] - 星、慈雨の神 ** [[ハオマ]] ** [[フワル・フシャエータ]] - 太陽神 ** [[ミスラ]] - 英雄神、司法神、光明神、牧畜の守護神 ** [[ラシュヌ]] * [[フラワシ]] - 万物に宿るとされる精霊。 * [[アンラ・マンユ]] - ゾロアスター教の最大の悪神 * [[ズルワーン]] == 北アジア == === エヴェンキ族の神話 === [[エヴェンキ]]は[[シベリア]]の民族。 * [[ジャブダル]] == 東アジア == === 中国の神々 === (詳細は[[中国神話]]を参照) * [[天]] * [[四神]] * [[四凶]] * [[盤古]](ばんこ) - 創世神 * [[三皇五帝]]の三皇 ** [[伏羲氏]] / [[伏羲氏|伏羲]](ふっき、ふくぎ) ** [[女カ氏|女媧]](じょか) ** [[神農氏]]<!-- [[三神農]] --> * [[蒼頡]](そうけつ) - 漢字の発明者 * [[三清]] * [[玉皇大帝]] * [[西王母]] * [[東王父]] * [[八仙]] * [[関帝]] * [[哪吒]](なた) * [[媽祖]](まそ) - 航海・漁業の守護神 * [[碧霞元君]](へきかげんくん) / 天仙娘娘 * [[北斗星君]] * [[南斗星君]] === 道教の神々 === [[道教]]は[[中国]]三大宗教([[三教]])の一つ。 * 元始天王([[盤古]]) – 天地創造の神 * 天地人三才 ** [[天皇 (三皇)|天皇]] – 元始天王から生まれた神 ** [[地皇 (三皇)|地皇]] – 天皇から生まれた神 ** [[人皇]] – 地皇から生まれた神 * [[伏羲]] * [[女媧]] * [[神農]] * [[黄帝]] – 神農の後裔 * [[顓頊]](せんぎょく) * [[嚳|帝嚳]](こく) * [[三清]] ** [[元始天尊]](玉清) – [[道士]]でないと近づき難い最も神格の高い最高神 ** 道徳天尊(太清・[[太上老君]]・[[老子]]) ** 霊宝天尊(上清・[[太上道君]]) * [[九天応元雷声普化天尊]](雷帝) – 雷神の最高神 * 五老 ** [[西王母]](九霊太妙亀山金母) ** [[水精]] ** [[黄老]] ** [[赤精]] ** 東王公([[東王父]]) * [[九天玄女]] * [[玉皇大帝|玉皇上帝]](昊天上帝・天公) – [[道教]]信仰者にとって事実上の最高神 * [[斗母元君]] * 五斗星君 ** [[北斗星君]] – 北斗七星の神格化 ** [[西斗星君]] ** [[中斗星君]] ** [[南斗星君]] – 南斗六星の神格化 ** [[東斗星君]] * [[南極老人]](寿星) – [[南極老人星]]の神格化で[[七福神]]の[[寿老人]]・[[福禄寿]]と同一神とされることもある。 * 四霊星君([[四神]]) ** [[青竜|青龍星君]] ** [[朱雀|朱雀星君]] ** [[白虎|白虎星君]] ** [[玄武|玄武星君]](玄天上帝) – [[太極]]の分身とされる * [[雷公]](五雷元帥) – 雷帝の部下 * [[電母]] * [[三官大帝]]([[三界公]]) ** [[下元水官大帝]] – 水界の神 ** [[中元地官大帝]] – 地界の神 ** [[上元天官大帝]] – 天界の神 * [[北辰五至尊]] ** [[天皇大帝]]([[天帝]]) – 北極星の神格化 ** [[紫微大帝]] ** [[天一大帝]] ** [[北辰大帝]] ** [[北斗大帝]] * [[九宮貴神]] ** [[招揺]] ** [[軒轅]] / [[黄帝]] ** [[太陰]] ** [[天一]] ** [[天符]] ** [[太一]] ** [[摂提]] ** [[咸池]] ** [[青竜|青龍]] * [[五岳神]] ** [[東岳大帝]](泰山府君) – [[泰山]]([[山東省]])の神 ** [[南岳大帝]] – [[衡山]]([[湖南省]])の神 ** [[中岳大帝]] – [[嵩山]]([[河南省]])の神 ** [[西岳大帝]] – [[華山]]([[陝西省]])の神 ** [[北岳大帝]] – [[恒山]]([[山西省]])の神 * 救済の神 ** [[太乙救苦天尊]] – 免罪の神 ** [[清水祖師]] – 国難打破の神 * [[媽祖]](天上聖母) – 航海の守護神 * 衣食神 ** [[かまど神|竈神]] – かまどの神 ** [[火神]] * 財神 ** 関聖帝君([[関帝]]) – [[関羽]]を神格化した武神・財神 ** [[五路財神]] *** 趙玄壇 – [[趙公明]]の神格化 *** [[招財]] *** [[利市]] *** [[招宝]] *** [[納珍]] * 冥界の神 ** [[酆都大帝]] – 地獄の最高神 ** [[十殿閻君]] * [[斗母元君]] – 仏教の[[摩利支天]]を取り込んだ神 * 学問の神 ** [[文昌帝君]] – 学問・科挙の神 ** 蒼頡 / 制字先師 – [[漢字]]を作ったとされる神 * 生育の神 ** [[碧霞元君]](へきかげんくん) ** [[臨水夫人]] – 安産の神 * [[斉天大聖]] – [[孫悟空]]の神格化 * 芸能神 ** [[伶倫]] – 黄帝の臣で音楽の神 ** [[田都元帥]] ** [[西秦王爺]] – 唐の皇帝[[玄宗 (唐)|玄宗]]を神格化した芸能・芸術の神 * 医神 ** [[保生大帝]] – 病気治癒の医神 ** [[華陀]] – 医師の守護神 * 辟邪神 ** [[石敢當]](いしがんどう) ** [[方相氏]] ** [[鍾馗]](しょうき) ** [[門神]] – 悪霊の侵入を防ぐ神 ** 中壇元帥([[哪吒]]) * [[鬼谷仙師]] * [[四海竜王|四海龍王]] * [[天仙娘々]] * 張天師([[張道陵]]) * [[劉猛将軍]] * [[東華帝君]] * [[至聖先師]] – [[孔子]]の神格化 * [[紫姑神]]([[紫姑]]、[[子姑]]、[[廁姑]]{{small|([[厠姑|厠]])|}}、[[茅姑]]、[[坑姑]]、[[坑三姑孃]]{{small|([[坑三姑嬢|嬢]])|}}) – トイレで殺害された女性の[[厠神]]<ref>[[:zh:紫姑]]</ref> * [[椅仔姑]]{{small|([[椅子姑]])|}} – 厠神<ref>[[:zh:椅仔姑]]</ref> * [[籃姑]]{{small|([[菜籃姑]]、[[籃仔姑]])|}} – 厠神<ref>[[:zh:籃姑]]</ref> * [[城隍神]]/城隍爺(じょうこうしん) – 城壁都市の支配神 * [[土地公]] – 村落・郊外の守護神 * [[后土神]] – 墓の守護神 * [[八仙]] ** [[李鉄拐]] ** [[鍾離権]](しょううりけん)/[[漢鍾離]] ** [[呂洞賓]] ** [[藍采和]] ** [[韓湘子]] ** [[何仙姑]] ** [[張果老]] ** [[曹国舅]](そうこっきゅう) * [[太歳星君]] * [[河伯]] – 黄河の神 * [[二郎神]](じろうしん) – 治水の神 * [[広成子]] * [[青面金剛]] * [[蒼天]] * [[歳徳神]] === 日本の神々 === [[神道]]、[[民間信仰]]で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。 日本神話において[[天津神・国津神]]の神々のなかでもとくに[[三貴子|三柱の御子]]が尊いとされ、その[[天照大神]]は主神となっている。 {{main|日本の神の一覧}} {{See also|神 (神道)|日本神話}} === 仏教 === [[仏教]]では神は扱われないが、数多くの仏(ほとけ)があり、神のように扱われる場合もある。 {{main|仏の一覧}} == インド・南アジア == === ヒンドゥー教の神々 === [[ヒンドゥー教]]は[[インド]]や[[ネパール]]で多数派を占める[[民族宗教]]。 * [[アディティ]] ** [[アーディティヤ神群]] * [[アグニ]] - 火神 * [[アシュヴィン双神]] * [[アルダーナリシュヴァラ]] * [[インドラ]] - 雷霆神。 * [[ウシャス]] * [[ヴァーユ]] - 風神。 * [[ヴァイローチャナ]] * [[ヴァス神群]] * [[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]] * [[ヴィシュヌ]] - 維持の神。 * [[カーラネミ]] * [[カーリー]] - 戦いの女神。 * [[ガネーシャ]] * [[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ]] - 愛の神。 * [[ガンガー]] - ガンジス川を神格化した女神。 * [[クベーラ]] - 富と財宝の神 * [[サヴィトリ]] - 太陽神 * [[サティー (インド神話)|サティー]] * [[サラスヴァティー]] - 芸術・学問・知恵の女神 * [[シヴァ]] - 破壊の神 * [[スカンダ]] - 軍神 * [[スーリヤ]] - 太陽神 * [[ソーマ]] * ダーキニー([[荼枳尼天]]) * [[ディヤウス]] - 天空神 * {{仮リンク|ヴィシュヴェーデーヴァ神群|en|Visvedevas}} * [[ドゥルガー]] * [[ナンディン]] * [[ハヌマーン]] * [[ハリハラ]] * [[パールヴァティー]] * [[パルジャニヤ]] * [[プーシャン]] * [[ブラフマー]](梵天) - 創造の神。 * [[プリティヴィー]] * [[閻魔|ヤマ(閻魔)]] * [[ラクシュミー]] * [[ラートリー]] - 夜の女神 * [[ルドラ]] - 暴風雨神。 ** [[マルト神群]]/ルドラ神群 * [[ローカパーラ]] == ヨーロッパ == === ギリシャ神話 === [[ギリシア神話の固有名詞一覧]]も参照。 * [[アイテール]] - 原初神、天空神 * [[アスクレーピオス]] - 医神 * [[アストライオス]] - 星空の神 * [[アテーナー]] - 知恵、芸術、工芸、戦略の神 * [[アネモイ]] - 風の神々 ** エウロス - 東風 ** ゼピュロス - 西風 ** ノトス - 南風 ** ボレアース - 北風 * [[アプロディーテー]]/アフロディテ - 愛と美と性を司る神 * [[アポローン]]/アポロン - 太陽と光明と芸術を司る神 * [[アルテミス]] - 狩猟、純潔の神 * [[アレース]] - 戦を司る神 * [[イーアペトス]] - ティーターン族 * [[イーリス]] - 虹の女神 * [[ウーラノス]] - 天空神 * [[エーオース]] - 暁の神 * [[エリーニュス]] - 復讐の女神達 ** [[アレークトー]] ** [[ティーシポネー]] ** [[メガイラ]] * [[エレボス]] - 暗黒の神 * [[エロース]] - 恋心と性愛の神 * [[オーケアノス]] - 海の神 * [[オネイロス]] - 夢の神 * [[オルペウス]]/[[オルペウス|オルフェウス]] - 吟遊詩人 * [[ガイア]] - 原初の地母神、世界そのもの * [[カイロス|カイロス -]] 時間の神 * [[カオス]] - 混沌の神、神々の始祖 * [[カリス]] - 美と優雅を司る女神達 * カリテス - カリスの複数形 * [[キュクロープス]]/[[キュクロープス|サイクロプス]] -単眼の巨人 * [[クレイオス]] - ティーターン族 * [[クロノス]] - ティターン族・農耕の神 * [[クロノス (時間の神)|クロノス (時間の神) -]] 時間の神 * [[コイオス]] - ティーターン族 * [[ゼウス]] - 雷と天空を司る最高神 * [[セレネー]] - 月の女神 * [[タナトス]] - 死の神 * [[タルタロス]]/[[タルタロス|タルタロイ]] - 地獄・奈落の神 * [[テーテュース]] - 地下水の女神の母 * [[ディオニューソス]] - 豊穣とブドウ酒と酩酊の神 * [[ディオーネー]] - 天空の女神 * [[ティーターン]] - 古の神々 * [[テミス]] - 法・掟の女神 * [[デーメーテール]] - 穀物の栽培を人間に教えた神 * [[ニュクス]] - 夜の女神 * [[ネメシス]] - 義憤の女神 * [[ハーデース]] - 地下・豊穣・冥界の神 * [[パーン (ギリシア神話)|パーン]] - 牧羊神 * [[ヒュプノス]] - 眠りの神 * [[ヒュペリーオーン]] - 太陽神・光明神 * [[プロメーテウス]] - 人に火を与えた神 * [[ヘカテー]] - 地母神 * [[ヘカトンケイル]]/[[ヘカトンケイル|ヘカトンケイレス]] - 三人の巨人 * [[ヘスティアー]] - 炉の女神 * [[ヘーパイストス]] - 炎・鍛冶の神 * [[ヘーベー]] - 青春の女神 * [[ヘーメラー]] - 昼の女神 * [[ヘーラー]] - 結婚・母性・貞節の女神 * [[ヘーリオス]] - 太陽神 * [[ペルセポネー]]/[[コレー]] - 春の女神・冥界の女王 * [[ヘルメース]] - 幸運と盗みと旅人の神 * [[ホーラー]] - 時間の女神 * [[ホーライ]] - ホーラーの複数形 ** [[エウノミアー]] ** [[ディケー]] ** [[エイレーネー (ギリシア神話)|エイレーネー]] * [[ポセイドーン]] - 海洋の神 * [[ムーサ]]/ミューズ - 文芸を司る女神達 * ムーサイ - ムーサの複数形 * [[モイラ (ギリシア神話)|モイラ]] ** [[クロートー]] ** [[ラケシス]] ** [[アトロポス]] - 運命の三女神 * [[モロス (ギリシア神話)|モロス]] - 定業の神 * [[レアー]] - 大地の女神 * [[レートー]] 以下も参照。 :[[ギリシア神話]]、[[半神]]、[[ティテュオス]]、[[ドリュアース]]、[[ニュンペー]]、[[ヒッポリュテー]]、[[プレイアデス]] その他 ⚫︎ アルケーの神(アペイロン)- 全宇宙と万物の神 === ローマ神話の神々 === * アポロー ⇒ [[アポローン]](「ギリシア神話の神々」)参照 * ウーラヌス/カイルス ⇒ [[ウーラノス]](「ギリシア神話の神々」)参照 * [[ウゥルカーヌス]] - 火の神 * [[ウェスタ]] - 竈の女神・家庭の守護神 * [[ウェヌス]] - 愛と美の女神 * [[クピードー]]/キューピット - 愛の神 * [[ケレース]] - 豊穣神、地母神、地下神 * [[サートゥルヌス]] * [[ソール (ローマ神話)|ソール]] - 太陽神 * [[ディアーナ]] - 狩猟、貞節、月の女神 * [[ネプトゥーヌス]] - 海神、馬の神 * [[バックス (ローマ神話)|バックス]] * [[フォルトゥーナ]] * [[プルートー]] * プルートゥス ⇒ [[プルートス]](「ギリシア神話の神々」)参照 * [[プロセルピナ]] * [[マイア]] * [[マールス]] - 戦神、農耕神 * [[ミネルウァ]] - 医学・知恵・工芸・魔術を司る女神 * [[メルクリウス]] * [[ヤーヌス]] * [[ユースティティア]] * [[ユーノー]] * [[ユーピテル]] - 最高神 * [[ラウェルナ]] * [[ルーナ]] - 月の女神 * [[ルーミーナ]] ''(詳細は[[ローマ神話]]を参照)'' === エトルリア人の神々 === [[エトルリア人]]は[[イタリア半島]]中部の先住民族。({{仮リンク|エトルリア神話|en|Etruscan Deities|redirect=1}}) * {{仮リンク|アルパン (エトルリア神話)|en|Alpan|アルパン}} * {{仮リンク|メンルヴァ|en|Menrva}} * [[ネタンス (エトルリア神話)|ネタンス]] * {{仮リンク|ティニア|en|Tinia}} * [[トゥラン (エトルリア神話)|トゥラン]] (Turan) - 愛と活力の女神 * {{仮リンク|ユニ (エトルリア神話)|en|Uni (mythology)|label=ユニ}} * [[ウォルトゥムナ (エトルリア神話)|ウォルトゥムナ]] === サルデーニャ島の神々 === [[サルデーニャ島]]は西[[地中海]]の島。([[:en:Sardinia|Sardinia]]n Deities) Sardinian deities, mainly referred to in the age of ([[:en:Nuragici people|Nuragici people]]), are partly derived from ([[:en:Phoenicia|Phoenicia]])n ones. * ([[:en:Janas|Janas]]) - Goddesses of death * ([[:en:Maymon|Maymon]]) - God of ([[:en:Hades|Hades]]) * ([[:en:Panas|Panas]]) - Goddesses of reproduction (women dead in childbirth) * ([[:en:Thanit|Thanit]]) - Goddess of Earth and fertility === ダキア人の神々 === [[ダキア人]]は[[ダキア地方]]に住んでいた[[トラキア]]系の民族。([[:en:Dacian mythology|Dacian]] Deities) * [[ザルモクシス]]([[:en:Zamolxis|Zamolxis]]) * ([[:en:Gebeleizis|Gebeleizis]]) * [[ベンディス]]([[:en:Bendis|Bendis]]) *([[:ro:Derzelas|Derzelas]]) ([[:en:Derzelas|英語版]]) *([[:ro:Dionis|Dionysos]])=(ギリシア神話 トラキア人の[[ディオニューソス]][[:en:Dionysus| 英語版]]) *([[:ro:Kotys|Kotys]])([[:en:Kotys|英語版]]) *([[:ro:Pleistoros|Pleistoros]])([[:en:Pleistoros|英語版]]) *([[:ro:Sabazios|Sabazios]])([[:en:Sabazios|英語版]]) *([[:ro:Semele|Semele]])=(ギリシア神話 [[ディオニューソス]]の母、[[セメレー]] [[:en:Semele|英語版]]) *([[:ro:Sirenă|Seirenes]]) *([[:ro:Silenus|Silenus]]) *(Ispir) *(Palty) === ケルト神話の神々 === [[ケルト人]]は[[中央アジア]]の草原から[[ウマ|馬]]と[[車輪]]付きの乗り物を持って[[ヨーロッパ]]に渡来した[[インド・ヨーロッパ語族]][[ケルト語派]]の民族。([[ケルト神話]]も参照)([[:en:Celtic mythology|Celtic pre-Christian Deities]]) * [[アヌ (ケルト神話)|アヌ]] * [[アリアンロッド]] * {{仮リンク|アルティオ|en|Artio}} (Artio) - 熊の女神。 * [[エポナ]]- 馬・ロバ・ラバの神。 * [[エリウ]] - 戦いと豊穣の女神。 * [[オェングス]](アンガス・マク・オグ) * [[オグマ]] - 戦い・言語・霊感の神。 * [[グウィディオン]] * [[クー・フーリン]] * {{仮リンク|クレーニュ|en|Creidhne|label=クルーニャ}} (Creidhne) - ゴヴニュの息子で金属細工の神<ref>[[#井村 2008|井村 2008]], p. 126.(「ゴブニュ」の項)</ref>。クレーニュとも。 * [[ケリドウェン]] - 月の女神、冥界の女神。 * [[ケルヌンノス]] - 狩猟の神・冥府神。 * [[ゴヴニュ]] - 工芸の神の一柱。 * [[スカアハ]] * [[ダグザ]] * [[ダヌ]] * {{仮リンク|タラニス|en|Taranis}} - 雷神<ref>[[#井村 2008|井村 2008]], pp. 117-118.(「エスス、タラニス、テウタテス」の項)</ref>。 * [[ディアン・ケヒト]] * [[ヌアザ]] - 戦いの神、水に縁のある神。 * [[ネヴァン]] * [[バンバ]] * [[フィン・マックール]] * [[ブリギッド]] * [[ブレス (ケルト神話)|ブレス]] * [[ベリサマ]] * [[ベレヌス]] - 光・火・治癒を司る神。 * {{仮リンク|ベンディゲイドブラン|en|Brân the Blessed}}(「祝福されたブラン」とも。Bendigeidfran) - 『[[マビノギオン]]』に登場するウェールズ王。その名前は「祝福されたカラス(またはワタリガラス)」を意味する<ref>[[#井村 2008|井村 2008]], p. 140.(「ベンディゲイドブラン」の項)</ref>。 * {{仮リンク|ボアーン|en|Boann|label=ボアン}} (Boann) - [[ボイン川]]の女神<ref>[[#井村 2008|井村 2008]], pp. 140-141.(「ボアン」の項)</ref>。 * [[マッハ (ケルト神話)|マッハ]] * [[マナナン・マクリル]] * {{仮リンク|ミアハ|en|Miach|label=ミァハ}} (Miach) - ディアン・ケヒトの息子。父より優れた医術を持っていたため父に恐れられて殺される<ref>[[#井村 2008|井村 2008]], p. 132.(「ディアン・ケヒト」の項)</ref>。 * [[ミディール]] * [[モリガン]] * [[リル (ケルト神話)|リル]] * [[ルー (神)|ルー]] - 太陽神。 * [[ルフタ]] === 北欧神話の神々 === 詳細は[[北欧神話]]、[[北欧神話の固有名詞一覧]]を参照。 * [[イズン]] * [[ヴァーリ (オーディンの息子)|ヴァーリ]] - オーディンの息子。 * [[ヴィーザル]] * [[ウル (北欧神話)|ウル]] - 狩猟、弓術、スキー、決闘の神。 * [[エーギル]] - 海の神。 * [[エイル]] * [[オーズ]] * [[オーディン]] - 神々の王。 * [[クヴァシル]] * [[シヴ]] * [[ソール (北欧神話)|ソール]] - 太陽の女神 * [[テュール]] - 軍神。 * [[トール]] - 雷神・農耕神・戦神。 * [[ニョルズ]] - 海の神。 * [[ノルン]] - 運命の女神。複数形は[[ノルン|ノルニル]]。 ** [[ヴェルダンディ]] ** [[ウルド]] ** [[スクルド]] * [[バルドル]] - 光の神。 * [[フォルセティ]] - 正義、平和、真実を司る神。 * [[ブラギ]] - 詩の神 * [[フリッグ]] - 愛と結婚と豊穣の女神 * [[フレイ]] - 豊穣の神。 * [[フレイヤ]] * [[ヘイムダル]] - 光の神 * [[ヘーニル]] * [[ヘズ]] * [[マーニ]] - 月神 * [[ミーミル]] * [[ユミル]] * [[ヨルズ]] * [[ロキ]] ** [[フェンリル]] ** [[ヘル]] - 冥界の女神 ** [[ヨルムンガンド]] * [[ワルキューレ|ヴァルキュリヤ]](ワルキューレとも。[[北欧神話にみられるヴァルキュリヤの名前一覧]]も参照) === オセティア・ナルト神話=== 詳細は[[ナルト叙事詩]]を参照。 * [[ズーカウ]]<small>([[:en:Xucau|英語]])</small> - 最高神。万物の創造神。 *[[ハー]]<small>([[:ru:Хур|ロシア語]])</small> - 太陽神。 * [[サファ]]<small>([[:ru:Сафа|ロシア語]])</small> - 武器、囲炉裏と契約の神。 * [[クルダレゴン]] - 天上の鍛冶師として知られる神。ナルトの協力者として複数の物語に登場して彼らを助ける。 * [[ワシラ]]<small>([[:ru:Уархаг|ロシア語]])</small> - 雷神。 * [[ガラゴン]]<small>([[:ru:Уархаг|ロシア語]])</small> - 風神。 * [[ドン・ベッテュル]]<small>([[:en:Donbettyr|英語]])</small> - 海神。 *[[ガタカ]]<small>([[:ru:Гатаг|ロシア語]])</small> - 水神。 * [[ゼラセ]] - 海神ドン・ベッテュルの娘。 * [[アフサティ]] -野生動物の守護神。 === スラヴ神話の神々 === [[スラヴ人]]は、[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[東ヨーロッパ|東欧]]に居住し、[[インド・ヨーロッパ語族]][[スラヴ語派]]に属する言語を話す諸民族集団。([[スラヴ神話]]も参照) * 東スラヴの神々 ** [[ヴォーロス|ヴォーロス/ヴェレス]] ** [[スヴァローグ]] - 太陽神、火の精霊 ** [[ストリボーグ]] - 風神 ** [[セマルグル]] ** [[ダジボーグ]] - 太陽神 ** [[ペルーン]] - 雷神 ** [[ホルス (スラヴ神話)|ホルス]] - 太陽神 ** [[モコシ]] * 西スラヴの神々 ** [[スヴェントヴィト]] - 天神 ** [[チェルノボグ]] - 死神 ** [[トリグラフ (スラヴ神話)|トリグラフ]] ** {{仮リンク|ヤロヴィト|ru|Яровит}} (Jarovit) - 豊穣神。南スラヴの[[ヤリーロ]]と同一起原と考えられている<ref>{{Cite book |和書 |author=中堀正洋 |editor=松村一男ほか|editor-link=松村一男 |title=神の文化史事典 |publisher=白水社 |date=2013-02 |isbn=978-4-560-08265-2 |page= 549 |chapter=ヤロヴィト }}</ref>。 * 南スラヴの神々 ** [[ドレカヴァク]] ([[:en:Drekavac|Drekavac]]) ** [[ベロボーグ]] ** [[ヤリーロ]] - 植物、肥沃、春を司る神。 === バルト神話 === ==== ラトビア人の神々 ==== [[ラトビア人]]は[[ラトビア|ラトビア共和国]]の基本住民を形成する民族。({{仮リンク|ラトビア神話|en|Latvian mythology}}も参照) * [[アウセクリス]] (Auseklis) - 明星神。 * {{仮リンク|デークラ|lv|Dēkla}} (Dēkla) - 女神。かつては運命を司ると考えられていた<ref name="運命の女神p265">[[#ブレードニヒ,竹原訳 2005|ブレードニヒ,竹原訳 2005]], p. 265.(第6章 バルト族の女神(ライマ) A ラトヴィア人)</ref>。 * {{仮リンク|ディエヴァス|en|Dievas|label=ディエヴス}} ([[:en:Dievas|Dievs]]) - 天空神<ref name="世界宗教史5p59">[[#エリアーデ,鶴岡訳 2000|エリアーデ,鶴岡訳 2000]], p. 59.(249 バルト諸民族の宗教)</ref>。 * {{仮リンク|ユミス|lv|Jumis}} (Jumis) - 豊饒神<ref name="木漏れ日のラトヴィアp76">{{Cite book |和書 |author=黒沢歩 |title=木漏れ日のラトヴィア |publisher=[[新評論]] |date=2004年11月 |isbn=978-4-7948-0645-1 |page= 76 }}</ref>。 * {{仮リンク|カールタ|lv|Kārta (mitoloģija)}} (Kārta) - 女神。かつては運命を司ると考えられていた<ref name="運命の女神p265" />。 * {{仮リンク|ライマ (バルト神話)|en|Laima|label=ライマ}} (Laima) - 運命の女神<ref name="運命の女神p265" /><ref>[[#エリアーデ,鶴岡訳 2000|エリアーデ,鶴岡訳 2000]], p. 61.(249 バルト諸民族の宗教)</ref>。 * {{仮リンク|マーラ (バルト神話)|en|Māra|label=マーラ}} (Māra) - 地母神<ref>{{Cite book |和書 |title=木漏れ日のラトヴィア |pages= 14-15 }}</ref>。 * {{仮リンク|メーネス|lv|Mēness (dievība)}} (Mēness) - 月の神<ref name="世界宗教史5p60">[[#エリアーデ,鶴岡訳 2000|エリアーデ,鶴岡訳 2000]], p. 60.(249 バルト諸民族の宗教)</ref>。 * [[ペルクナス|ペールコンス]] (Pērkons)<ref name="木漏れ日のラトヴィアp76" /> またはペールクオンス (Pērkuons)<ref name="世界宗教史5p59" /> - 雷神。 * [[サウレ]] (Saule) - 太陽の女神。 * {{仮リンク|ウーシンシュ|en|Ūsiņš}} (Ūsiņš) - 光と[[ミツバチ]]の神。馬との結びつきも深く、この神を象徴する記号は太陽を運ぶ馬を表現している<ref>{{Cite book |和書 |title=木漏れ日のラトヴィア |page= 23 }}</ref>。ウースィンシュとも。 * {{仮リンク|ヴェリュ・マーテ|lv|Veļu māte}} (Veļu māte) - 祖霊母。 自然や[[祖霊]]を崇拝し、日本神道と似ているラトビア土着信仰「[[ラトビア神道]]」における主要な神々は約20柱いる。 ==== リトアニアの神々 ==== [[リトアニア]]は北ヨーロッパの国家。([[リトアニアの宗教#信奉されていた神々とそれにまつわる神話]]、{{仮リンク|リトアニア神話|en|Lithuanian mythology}}も参照) * {{仮リンク|ダーリア (リトアニア神話)|en|Dalia (mythology)|label=ダーリア}} (Dalia) - 運命の女神<ref>[[#ブレードニヒ,竹原訳 2005|ブレードニヒ,竹原訳 2005]], pp. 268-269.(第6章 バルト族の女神(ライマ) B リトアニア人)</ref>。 * {{仮リンク|ディエヴァス|en|Dievas}} (Dievas) - 天空神<ref name="世界宗教史5p59" />。 * {{仮リンク|ライマ (バルト神話)|en|Laima|label=ライマ}} (Laima) - 運命の女神<ref>[[#ブレードニヒ,竹原訳 2005|ブレードニヒ,竹原訳 2005]], p. 267.(第6章 バルト族の女神(ライマ) B リトアニア人)</ref>。 * {{仮リンク|メーネス|lt|Mėnulis (mitologija)|label=メーヌオ}} (Menuo) - 月の神<ref name="ロシアを知る事典p600">{{Cite book |和書 |author=村田郁夫 |others=[[川端香男里]]他監修 |title=新版 ロシアを知る事典 |publisher=[[平凡社]] |date=2004-01 |isbn=978-4-582-12635-8 |pages= 599-601 |chapter=バルト神話 }}(参照:p. 600)</ref>。 * [[ペルクナス|ペルクーナス]] (Perkūnas) - 雷神。 * [[プラアムジス]] (Praamžius) ==== 古代プロイセン、バルト海地方の神々 ==== [[プロイセン]]は[[バルト海]]南東岸の地域。({{仮リンク|プロイセン神話|en|Prussian mythology}}も参照) * ([[:en:Bangputtis|Bangputtis]]) * {{仮リンク|ディエヴァス|en|Dievas|label=デイヴァス}}<ref name="世界宗教史5p59" /> またはDeiwas<ref name="ロシアを知る事典p600" /> - 天空神<ref name="世界宗教史5p59" /> * ([[:lt:Mėletėlė|Melletele]]) * ([[:en:Occupirn|Occupirn]])<!--オッコピルヌス?『ヨーロッパ異教史』p. 282。原著https://books.google.co.jp/books?id=vYtrv5qD9isC&pg=PA177&lpg=PA177&dq=Occopirnus&source=bl&ots=zhzvSk2bcL&sig=NT1e2peOuvEdZp-BF1S4Rh0DQOY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwix3siHq8rWAhXD2LwKHanbCg0Q6AEIQzAG#v=onepage&q=Occopirnus&f=false--> * ([[:en:Perkunatele|Perkunatete]])<!--ペルクナテレ『ヨーロッパ異教史』p. 280--> * ([[ペルクナス]]) * ([[ピクラス]]) * ([[パトリムパス]]) * ([[:lt:Svaikstikas|Swaigstigr]]) === フィンランド神話の神々 === 古[[フィンランド]]の宗教に関する文書はあまり残されていない上、神々の名前や崇拝の仕方に関していえば土地土地で異なっていた。次に示すのは、最重要かつ最も広範に崇拝されている神々の概略である。 * {{仮リンク|アハティ|en|Ahti}} - 川、湖、海の神。 * [[ロウヒ]] - 冥界の女神。 * [[ミエリッキ]] - タピオの妻。 * {{仮リンク|ペッコ (フィンランド神話)|en|Peko|label=ペッコ}} - 草原と農業を司る神もしくは女神(実際の性別は不明)。 * [[ペルケレ]] - 古代のフィン族あるいはエストニア人の神。 * {{仮リンク|ラウニ (フィンランド神話)|en|Rauni (deity)|label=ラウニ}} - ウッコの妻。豊穣の女神。 * [[タピオ]] - 森と野生動物の神。 * [[ウッコ]] - 最高神。天と雷の神。 == アフリカ(エジプト以外) == === アカン族の神話 === {{仮リンク|アカン人|en|Akan people|label=アカン族}}は、[[西アフリカ]]の民族。([[アカン人の宗教]]も参照) * [[アナンシ|クワク・アナンセ]] * [[ブレキリフヌアデ]] === アカンバ族の神話 === [[カンバ族|アカンバ族]]は、[[ケニア]]の先住民族。 * アサ (Asa) === アシャンティの神話 === [[アシャンティ王国|アシャンティ]]は、かつて[[ガーナ]]にあった王国。([[アカン人の宗教]]も参照) * [[アナンシ]] * {{仮リンク|アサセ・ヤ|en|Asase Ya}} * ビア (Bia) * [[オニャンコポン]] === コンゴの神話 === * [[ンザンビ]] === イボ神話 === [[イボ人]]は、[[ナイジェリア]]の民族。([[:en:Odinani|Ibo mythology]]も参照) * ([[:en:Ahia Njoku|Aha Njoku]]) * ([[:en:Ala (odinani)|Ala]]) * ([[:en:Chukwu|Chukwu]]) === ズールー族の神々 === [[ズールー人|ズールー族]]は、[[南部アフリカ|南アフリカ]]の民族。([[:en:Zulu mythology|Zulu mythology]]も参照) * ([[:en:Mamlambo|Mamlambo]]) * ([[:en:Mbaba Mwana Waresa|Mbaba Mwana Waresa]]) * ([[:en:Unkulunkulu|uKqili]]) * ([[:en:Umvelinqangi|Umvelinqangi]]) * ([[:en:Unkulunkulu|Unkulunkulu]]) === ブションゴ族の神話 === ([[:en:Bushongo mythology|Bushongo mythology]]) * {{仮リンク|ボマジ|en|Bomazi}} * {{仮リンク|ブンバ (神)|en|Bumba|ブンバ}} === ダホメ神話 === [[ダホメ王国|ダホメ]](ダオメともいう)は、17世紀から19世紀にかけて西アフリカにあった王国。([[:en:Dahomean religion|Dahomey mythology]]も参照) * ([[:en:Ag&#233;|Ag&#233;]]) * (Ayaba) * ダ (Da) * (Gbadu) * ([[:en:Gleti|Gleti]]) * ([[:en:Ogun|Gu]]) * [[リサ (神)|リサ]] ([[:en:Mawu|Lisa]]) * ロコ (Loko) * [[マウ]] ([[:en:Mawu|Mawu]]) * [[サクパタ]] ([[:en:Shakpana|Sakpata]]) * [[ソグボ]] (Sogbo) * [[セヴィオソ]] ([[:en:Xevioso|Xevioso]]) * (Zinsi) * (Zinsu) === ディンカ族の神話 === [[ディンカ族]]は、[[北アフリカ]]の民族。([[:en:Dinka religion|Dinka mythology]]も参照) * [[アブク]] ([[:en:Abuk (mythology)|Abuk]]) * ([[:en:Denka|Denka]]) * ([[:en:Juok|Juok]]) * ニャリッチ (Nyalitch) === エフィク族の神話 === ([[:en:Efik mythology|Efik mythology]]) * アバッシ (Abassi) * アタイ (Atai) === ウルホボ族の神話 === ([[:en:Isoko mythology|Isoko mythology]]) * ([[:en:Cghene|Cghene]]) === コイコイ人の神話 === [[コイコイ人]]は、南アフリカの民族。「ホッテントット」と呼ばれた。([[:en:Khoikhoi mythology|Khoikhoi mythology]]も参照) * ([[:en:Gamab|Gamab]]) * ([[:en:Heitsi-eibib|Heitsi-eibib]]) * ([[:en:Tsui'goab|Tsui'goab]]) * {{仮リンク|ウティホ|en|Utixo}} (Utixo) - ティクア (Tiqua) とも。天空神。キリスト教の宣教師が聖書の神を表す名として用いた。 === サン人の神話 === [[サン人]]は、南アフリカの民族。「ブッシュマン」と呼ばれた。([[サン人の宗教]]も参照) * {{仮リンク|カグン|en|Cagn}}(Cagn。カアング (Kaang)、カッゲン (Kaggen) とも) - 太陽神、創造神 * コティ (Coti) - カグンの妻 * ガウナブ (Gaunab) - 疫病神、死神 * ヘイツィ・エイビブ (Heitsi-Eibib) - 文化英雄 * ツイ・ゴアブ (Tsui'goab) - 天空神、雷神 * {{仮リンク|クー (アフリカ神話)|en|ǃXu (god)|label=クー}} (!Xu) - 慈悲の神、全能の神 === トゥンブカ族の神話 === トゥンブカ族は、[[マラウイ]]北部、[[ザンビア]]東部、[[タンザニア]]南部に住む民族。([[:en:Tumbuka mythology|Tumbuka mythology]]も参照) * チウタ (Chiuta) - 全能の神 === ドゴン族の神話 === [[ドゴン族]]は[[マリ共和国]]に住む民族。([[ドゴン族の神話]]も参照) * [[アンマ]] (Amma) * [[ノンモ]] (Nonmo) * [[ユルグ]] (Yurugu) === ピグミー族の神々 === [[ピグミー]]は[[中部アフリカ]]各地で暮らす民族。([[:en:Mbuti mythology|Pygmy mythology]]も参照) * [[アレバティ]] (Arebati) <!--* [[ティンギ]]--> * ([[:en:Khonvoum|Khonvoum]]) * トレ (Tore) === ヨルバ族の神話 === [[ヨルバ人|ヨルバ族]]は、ナイジェリアの民族。([[:en:Yoruba religion|Yoruba mythology]]、[[:en:Orisha|Orisha]]も参照) * [[アジャ]] ([[:en:Aja (orisha)|Aja]]) * アジェ (Aje) * [[エグングン・オヤ]] ([[:en:Egungun-oya|Egungun-oya]]) * [[エシュ]] ([[:en:Eshu|Eshu]]) * [[オバ]] ([[:en:Oba (Orisha)|Oba]]) * [[オバタラ]] ([[:en:Obatala|Obatala]]) * [[オドゥドゥア]] ([[:en:Oduduwa|Odudua]]) * [[オロドゥマレ]] ([[:en:Olorun|Oloddumare]]) * [[オロクン]] ([[:en:Olokun|Olokun]]) * [[オロルン]] ([[:en:Olorun|Olorun]]) * [[オルンミラ]]([[:en:Orunmila|Orunmila]]) * ([[:en:Oshun|Oschun]]) * [[オシュンマレ]] ([[:en:Oshunmare|Oshunmare]]) * [[オヤ (ヨルバ神話)|オヤ]]([[:en:Oya|Oya]]) * [[シャクパナ]] ([[:en:Shakpana|Shakpana]]) * シャンゴ (Shango) * [[ヤンサン (ヨルバ神話)|ヤンサン]] ([[:en:Oya|Yansan]]) * [[イェマジャ]] ([[:en:Yemoja|Yemaja]]) === ルグバラ族の神話 === ([[:en:Lugbara mythology|Lugbara mythology]]) * [[アドロア]] ([[:en:Adroa|Adroa]]) * [[アドロアンジ]] ([[:en:Adroanzi|Adroanzi]]) === ロトゥコ族の神話 === ([[:en:Lotuko mythology|Lotuko mythology]]) * [[アジョク]] (Ajok) == アメリカ大陸 == === メソアメリカ === ==== アステカ神話の神々 ==== [[アステカ]]は[[北アメリカ大陸]]の[[メキシコ]]中央部に栄えた[[メソアメリカ文明]]の国家([[アステカ神話]]も参照)。 * [[イツトラコリウキ]] - 霜の神 * [[ウィシュトシワトル (アステカ神話)|ウィシュトシワトル]] - 塩の女神 * [[ウィツィロポチトリ]] - 太陽神・軍神・狩猟神 * [[ウェウェコヨトル]] - 音楽・ダンスの神 * [[エエカトル]] - 風の神 * [[オメテオトル]]/オメテクトリ/オメシワトル - 創造神 * [[オポチトリ]] - 狩猟と釣りの神 * [[ケツァルコアトル]] - 文化神・農耕神 * [[コアトリクエ]] - 地母神 * [[コヨルシャウキ]] - 星の神 * [[シペ・トテック]] - 穀物神 * [[ショロトル]] - 金星の神 * [[シワコアトル]] - 地母神 * [[センテオトル]]/シンテオトル - トウモロコシの神 * [[チコメコアトル]] - トウモロコシと豊穣の女神<!--the goddess of Corn and Fertility--> * [[チャルチウィトリクエ]] - 水の神 * [[チャンティコ]] - かまどと火山の火の女神<!--the goddess of Hearth Fires and Volcanoes--> * [[テスカトリポカ]] - 創造神・悪魔 * [[テペヨロトル]] - 地震・山彦・ジャガーの神 * [[トナカテクトリ]] - 食物の創造者にして分配者<!--the creator and provider of Food--> * [[トナティウ]] - 太陽神 * [[トラウィスカルパンテクートリ]] - 破壊神 * [[トラソルテオトル]] - 大地・愛欲の女神 * [[トラロック]] - 雨・稲妻の神 * [[マヤウェル]] - リュウゼツランの女神、[[パテカトル]]の妻<!--a goddess of Maguey--> * [[ミクトランシワトル]] - 死神 * [[ミクトランテクートリ]] - 死神 * [[ウェウェテオトル]]([[:en:Huehueteotl|Huehueteotl]]) - 古き神 * [[イラマテクウトリ]]([[:en:Ilamatecuhtli|Ilamatecuhtli]]) - 大地と死と銀河の女神<!--Goddess of the earth, death, and the milky way--> * [[イツパパロトル]]([[:en:Itzpapalotl|Itzpapalotl]]) - 農耕の女神、 [[ツイツイミトル]]([[:en:Tzitzimitl|Tzitzimitl]])の女王<!--a goddess of Agriculture--> * [[イシュトリルトン]]([[:en:Ixtlilton|Ixtlilton]]) - 癒しと祝祭とゲームの神<!--the god of Healing, Feasting, and Games--> * [[マクイルショチトル]]([[:en:Macuilxochitl|Macuilxochitl]]) - 音楽と踊りの神 * [[メツトリ]]([[:en:Metztli|Metztli]]) - 月の神 * [[ナナワツィン]]([[:en:Nanauatzin|Nanauatzin]]) - 卑しき神<!--the most humble of the gods--> * [[パテカトル]]([[:en:Patecatl|Patecatl]]) - 酒の神、薬の神 * [[パイナル]]([[:es:Painal|Painal]]) - ウィツィロポチトリの伝令<!--the messenger to Huitzilopochtli--> * [[テクシステカトル]]([[:en:Tecciztecatl|Tecciztecatl]]) - 古き月の神 * [[トシ (アステカ神話)|トシ]]([[:en:Toci|Toci]]) - 大地の女神 * [[シロネン]]([[:en:Xilonen|Xilonen]]) - 若いトウモロコシの実の女神<!--the goddess of young Maize--> * [[シウテクトリ]]([[:en:Xiuhtecuhtli|Xiuhtecuhtli]]) - 死の中の生命を司る神<!--the personification of life after death--> * [[ショチケツアル]]([[:en:Xochiquetzal|Xochiquetzal]]) - 花、肥沃、ゲーム、ダンス、農業、職人、売春婦、および妊婦の女神<!--a goddess of flowers, fertility, games, dancing and agriculture, as well as craftsmen, prostitutes and pregnant women--> * [[ショチピリ]]([[:en:Xochipilli|Xochipilli]]) - 花の神、狩猟の神、祝祭と若いトウモロコシの神<!--the god of Feasting and young Maize--> * [[ヤカテクトリ]]([[:en:Yacatecuhtli|Yacatecuhtli]]) - 商人の神、旅人の守護神<!--the god of Merchant Adventurers--> ==== マヤ神話の神々 ==== [[マヤ文明]]はメキシコ南東部、[[グアテマラ]]、[[ベリーズ]]などの地域を中心に栄えた文明。(詳細は[[マヤ神話]]、[[:en:List of Maya gods and supernatural beings]]を参照) * [[ア・プチ]] * [[イシュタム]] - 自殺の女神。 * [[イシュ・チェル]] - 月の女神。 * [[フンアフプーとイシュバランケー|イシュバランケー]] - ジャガーの神。 * [[イツァムナー]] - 知識の神。 * [[カウイル]] (Kauil) - 稲妻、火、王朝の始祖に関連づけられる神。「{{仮リンク|パウル・シェルハス|de|Paul Schellhas|label=シェルハス}}の神々 ({{lang-en-short|Schellhas gods)}}」においては神Kに分類されている<ref>[[#ミラー&タウベ編 2000|ミラー&タウベ編 2000]], p. 154.(「シェルハスの神々」の項)</ref>。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化#マヤ文明|スペインによる征服]]後は「ボロン・ザカブ」<ref>[[#ミラー&タウベ編 2000|ミラー&タウベ編 2000]], p. 261.(「パレンケの三神」の項)</ref>(ボロン・ツァカブ (Bolon tza cab) とも)と呼ばれた。 * [[カマソッソ]] - 蝙蝠の悪神。 * [[キニチ・アハウ]] - 太陽神。 * [[ククルカン]] - 羽の生えた蛇の神。 * [[シバルバー]] - 死の神。 * [[チャク]] - 雨の神。 * [[バカブ]] - 4つの方角の神。 * [[フナブ・クー]] - 創造神。 * [[フラカン]] - 創造神。 * [[フンアフプーとイシュバランケー|フンアフプー]] * [[フン・カメーとヴクブ・カメー]] * [[フン・フンアフプー]] * [[ユム・カアシュ]] - トウモロコシの神。 === 北アメリカ === [[アメリカ大陸]]の[[インディアン|インディアン(ネイティブ・アメリカン)]]たちは、「[[大いなる神秘]]」という概念を共有している。これは[[部族]]によって呼び名は違うが、[[森羅万象]]を包み込む「[[真理]]」であり、万物の中心である。あらゆる神々、[[精霊]]もすべてこの「偉大なる神秘」のもとにあるが、「偉大なる神秘」そのものは神でも精霊でもない<ref>『''Lame Deer Seeker of Visions''. Simon and Schuster』(Lame Deer, John (Fire) and Richard Erdoes. New York, New York, 1972)</ref>。<!--キリストの神も「偉大なる神秘」の一部と考えるため、[[西洋]]から来たキリスト教者たちはネイティブ・アメリカンを「宗教を持たない野蛮人」として現在も圧迫・迫害している<ref>『Ojibwa Warrior: Dennis Banks and the Rise of the American Indian Movement』(Dennis Banks,Richard Eadoes,University of Oklahoma Press.2004年)</ref>。--> ==== アベナキ族の神話 ==== [[アベナキ族]]は[[北米]]、[[バーモント州]]のインディアン部族。([[:en:Abenaki|Abenaki]])) * ([[:en:Azeban|Azeban]]) - ([[:en:trickster|trickster]]) * ([[:en:Bmola|Bmola]]) - ([[:en:bird|bird]]) spirit * ([[:en:Gluskap|Gluskap]]) - kind protector of humanity * ([[:en:Malsumis|Malsumis]]) - cruel, evil god * ([[:en:Tabaldak|Tabaldak]]) - the creator ==== エスキモー・イヌイットの神話 ==== [[エスキモー]]は[[カナダ]]・[[アラスカ]]の[[極北]]に暮らす狩猟民族。([[:en:Inuit mythology|Inuit mythology]]) * [[アイパルーヴィク]]([[:en:Aipaloovik|Aipaloovik]]) - 海の邪神、死と破壊を司る * [[イガルク]]([[Igaluk]]) - 月の神 * [[イガルク|テュロク]]([[:en:Igaluk|Tulok]]) - イガルクの宿敵、敗れて星となる * [[セドナ (イヌイット神話)|セドナ]]([[Sedna]]) - 地母神であり海の女神 * [[トーンガルスク]]([[:en:Torngarsuk|Torngarsuk]]) * [[ナヌーク]]([[:en:Nanook|Nanook]]) - 熊の神 * [[ネリビック]]([[:en:Nerrivik|Nerrivik]]) - セドナの別名 * [[ピンガ (イヌイット神話)|ピンガ]]([[:en:Pinga|Pinga]]) - 狩猟の女神 * [[マリナ (イヌイット神話)|マリナ]]([[Malina]]) - 太陽の女神 ==== グアラニー族の神話 ==== [[グアラニー族]]は、[[中南米]]の[[インディオ]]。([[:en:Guarani mythology|Guarani mythology]]) * ([[:en:Abaangui|Abaangui]]) * ([[:en:Jurupari|Jurupari]]) ==== クリーク族の神話 ==== [[クリーク族]]は、アメリカ南東部と[[オクラホマ州|オクラホマ]]のインディアン部族、[[ムスコギー族]]のこと。([[:en:Creek mythology|Creek mythology]]) * ([[:en:Hisagita-imisi|Hisagita-imisi]]) ==== クワキウトル族の神話 ==== [[クワキウトル]]族は、[[カナダ西海岸]]部のインディアン部族。([[:en:Kwakiutl mythology|Kwakiutl mythology]]) * ([[:en:Kewkwaxa'we|Kewkwaxa'we]]) ==== サリシ族の神々 ==== [[サリシ族]]は、カナダのインディアン部族で、西海岸の漁猟部族。([[:en:Salish mythology|Salish mythology]]) * ([[:en:Amotken|Amotken]]) ==== チペワ族の神話 ==== [[オジブワ族|チペワ族]]は、アメリカの[[ミネソタ州|ミネソタ]]に住む[[インディアン]]部族。([[:en:Chippewa mythology|Chippewa mythology]]) * [[ナナボーゾ]]([[:en:Nanabozho|Nanabozho]]) - [[トリックスター]]。 * ([[:en:Sint Holo|Sint Holo]]) * [[ウェミクス]]([[:en:Wemicus|Wemicus]]) ==== ハイダ族の神話 ==== [[ハイダ族]]は、[[カナダ]]のインディアン部族で、西海岸の漁猟民族。([[:en:Haida mythology|Haida mythology]]) * ([[:en:Gyhldeptis|Gyhldeptis]]) * ([[:en:Lagua|Lagua]]) * ([[:en:Nankil'slas|Nankil'slas]]) * ([[:en:Sin|Sin]]) * ([[:en:Ta'axet|Ta'axet]]) * ([[:en:Tia|Tia]]) ==== ヒューロン族の神話 ==== [[ヒューロン]]は、北アメリカ大陸北部の、[[オンタリオ湖]]周辺や[[ヒューロン湖]]周辺などに居住するインディアン部族で、[[ワイアンドット族]]のこと。([[:en:Huron mythology|Huron mythology]]) * ([[:en:Iosheka|Iosheka]]) ==== ポーニー族の神々 ==== [[ポーニー族]]は、アメリカ中西部平原のインディアン部族。([[:en:Pawnee mythology|Pawnee mythology]]) * [[アティラ]] ([[:en:Atira (goddess)|Atira]]) - 大地母神。 * パー (Pah) - 月の神。 * [[シャクラ]] ([[:en:Shakuru|Shakuru]]) - 太陽神。 * [[ティラワ]] ([[:en:Tirawa|Tirawa]]) - 創造神。19世紀末までは、[[人身御供]]を捧げられた。 ==== ホピ族の神話 ==== [[ホピ族|ホピ]]は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[アリゾナ州]]に暮らすインディアンで、彼らの宗教観は[[ニューエイジ]]など現代の文化に影響を与えている。([[:en:Hopi mythology|Hopi mythology]]) * [[アホリ]]([[:en:Aholi|Aholi]]) * ([[:en:Angwusnasomtaka|Angwusnasomtaka]]) * [[ココペリ]]([[Kokopelli]]) - 収穫の神 * ([[:en:Koyangwuti|Koyangwuti]]) * ([[:en:Muyingwa|Muyingwa]]) * [[タイオワ]] ([[:en:Taiowa|Taiowa]]) - 原初の創造神 * ([[:en:Toho (kachina)|Toho]]) * See also [[カチナ|カチーナ]]([[:en:kachina|kachina]])娯楽の神ターニングチーゴ ==== イロコイ族の神話 ==== [[イロコイ連邦|イロコイ]]は[[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]の間にあるインディアン国家。合衆国憲法の元となった仕組みを持っている。([[:en:Iroquois mythology|Iroquois mythology]]) * ([[:en:Adekagagwaa|Adekagagwaa]]) * ([[:en:Gaol|Gaol]]) * ([[:en:Gendenwitha|Gendenwitha]]) * ([[:en:Gohone|Gohone]]) * ([[:en:Hahgwehdaetgan|Hahgwehdaetgan]]) * ([[:en:Hahgwehdiyu|Hahgwehdiyu]]) * ([[:en:Onatha|Onatha]]) ==== スー族の神話 ==== [[スー族]]は、アメリカの大平原に住むインディアン部族。<!--ラコタだけでなく、ダコタやナコタも共有する神話なので「スー族」としました-->([[:en:Lakota mythology|Lakota mythology]]) *[[ワカンタンカ]] - 宇宙の真理。神、精霊ではない。 *[[インヤン]] - 石の精霊。 *[[マカ (神話)|マカ]] - 母なる大地の精霊。 *[[スカン]] - 空の精霊。 *[[ウィ]] - 太陽の精霊。([[:en:Wi|Wi]]) *[[ハンウィ]] - 月の精霊。ウィの妻。 *[[タテ]] - 風の精霊。 *[[ウォペ]] - ウィとハンウィの娘。偉大なる仲介者。([[:en:Whope|Whope]]) *[[イヤ]] - 邪悪の精霊。 *[[ワズィヤ]] - 地下に棲む「オールド・マン」 *[[ワカンカ]] - 魔女。 *[[アヌング・イテ]] - ワズィヤとワカンカの娘。二つの顔を持つ。 *[[ハオカー]] - 雷の精霊。 *[[イクトミ]] - 蜘蛛の精霊。[[トリックスター]]。 ==== ナバホ族の神話 ==== [[ディネ|ナバホ族]]は、アメリカ南西部に住むインディアン部族。[[プエブロ族]]神話を原典に持つ。([[:en:Navaho mythology|Navaho mythology]]) * ([[:en:Ahsonnutli|Ahsonnutli]]) * ([[:en:Bikeh Hozho|Bikeh Hozho]]) * ([[:en:Estanatelhi|Estanatelhi]]) * ([[:en:Glispa|Glispa]]) * ([[:en:Hasteoltoi|Hasteoltoi]]) * [[ハストシェホガン]]([[:en:Hastshehogan|Hastshehogan]]) * [[トネニリ]]([[:en:Tonenili|Tonenili]]) * [[ツォハノアイ]]([[:en:Tsohanoai|Tsohanoai]]) * [[ヨルカイ・エスツァン]]([[:en:Yolkai Estasan|Yolkai Estasan]]) ==== ズニ族の神々 ==== [[プエブロ|ズニ族]]は、アメリカ南西部のインディアン部族。定住農耕民。([[:en:Zuni mythology|Zuni mythology]]) * [[アポヤン・タチュ]]([[:en:Apoyan Tachi|Apoyan Tachi]]) * [[アウィテリン・ツィタ]]([[:en:Awitelin Tsta|Awitelin Tsta]]) * [[アウォナウィロナ]]([[:en:Awonawilona|Awonawilona]]) * [[ココペリ]]([[:en:Kokopelli|Kokopelli]]) ==== セネカ族の神々 ==== [[セネカ族]]は、インディアンの[[イロコイ連邦]]の6部族のひとつ。([[:en:Seneca mythology|Seneca mythology]]) * ([[:en:Eagentci|Eagentci]]) * ([[:en:Hagones|Hagones]]) * ([[:en:Hawenniyo|Hawenniyo]]) * ([[:en:Kaakwha|Kaakwha]]) === 南アメリカ === ==== インカ神話の神々 ==== [[インカ帝国]]は[[南アメリカ]]の[[ペルー]]を中心に存在し、インカ人は現在も伝統を伝えている。([[インカ神話]]参照) * [[アマル (インカ神話)|アマル]] (Amaru) - 竜神 * [[アポカテクイル]]([[:it:Apocatequil|Apocatequil]]) - 稲妻の神 * [[アプ]]([[:en:Apu (god)|Apu]]) - 山の神 * [[チャスカ]]([[:en:Chasca|Chasca]]) - 夜明け、夕暮れ、金星の女神 * [[チュイチュ]] (Chuychu) - 虹の神 * [[コニラヤ]] (Coniraya) - 創造神の一柱、月の神 * [[エッケコ]]([[:en:Ekkeko|Ekkeko]]) - 家庭と富の神 * [[ワカ (インカ神話)|ワカ]]([[:en:Huaca|Huaca]]) - 神的存在 * [[ワリャリョ・カルウィンチョ]] (Huallallo Carhuincho) - 創造神の一柱、火の神 * [[イヤーパ]]([[:en:Illapa|Illapa]]) - 天候の神 * [[インティ]] (Inti) - 太陽神 * [[コン (インカ神話)|コン]]([[:en:Kon (Inca mythology)|Kon]]) - インティとママ・キリャの息子。 * [[ママ・アルパ]]([[:en:Mama Allpa|Mama Allpa]]) - 豊穣と収穫の女神 * [[ママ・コチャ]]([[:en:Mama Cocha|Mama Cocha]]) - 海と魚の神 * [[パチャママ]] (Pachamama) - 竜の姿をした沃土の女神 * [[ママ・キリャ]]([[:en:Mama Quilla|Mama Quilla]]) - 月の女神 * [[ママ・ザラ]]([[:en:Mama Zara|Mama Zara]]) - 穀物の女神、ザラママ(Zaramama)ともいう。 * [[マンコ・カパック]] (Manqu Qhapaq) * [[パチャカマック (神話)|パチャカマック]] (Pachacamac) - 創造の神 * [[パリアカカ]] (Pariacaca,) - 創造神の一柱、水の神 * [[スーパイ]]([[:en:Supay|Supay]]) - 死の神 * [[ウルカグアリー]]([[:en:Urcaguary|Urcaguary]]) - 金属と宝石の神 * [[ウルクチレイ]]([[:en:Urcuchillay|Urcuchillay]]) - 動物の保護神 * [[ビラコチャ]] (Viracocha) - 文明の創造者 * [[ヤナムカ・トゥタニャムカ]] (Yanamca Tutañamca) - 創造神の一柱 == オーストラリア・オセアニア == === アボリジニーの神話 === [[アボリジニー]]は、[[オーストラリア]]の先住民族。([[:en:Australia|Australia]]n [[:en:Aborigine mythology|Aborigine mythology]]) * ([[:en:Altjira|Altjira]]) * [[バイアメ]]([[:en:Baiame|Baiame]]) * [[バマパナ]]([[:en:Bamapana|Bamapana]]) * ([[:en:Banaitja|Banaitja]]) * [[ボッビ・ボッビ]]([[:en:Bobbi-bobbi|Bobbi-bobbi]]) * [[ブンジル]]([[:en:Bunjil|Bunjil]]) * [[ダラムルム]]([[:en:Daramulum|Daramulum]]) * [[ディルガ]]([[:en:Dilga|Dilga]]) * [[ジャンガウル]]([[:en:Djanggawul|Djanggawul]]) * [[エインガナ]] (Eingana) * [[ガレル]]([[:en:Galeru|Galeru]]) * ([[:en:Gnowee|Gnowee]]) * ([[:en:Kidili|Kidili]]) * [[クナピピ]]([[:en:Kunapipi|Kunapipi]]) * [[ジュルングル]]([[:en:Julunggul|Julunggul]]) * [[マンガル・クンジェル・クンジャ]]([[:en:Mangar-kunjer-kunja|Mangar-kunjer-kunja]]) * ([[:en:Numakulla|Numakulla]]) * ([[:en:Pundjel|Pundjel]]) * [[ウランジ]]([[:en:Ulanji|Ulanji]]) * [[ワロ]]{{要曖昧さ回避|date=2018年2月}}([[:en:Walo|Walo]]{{要曖昧さ回避|date=2018年2月}}) * [[ワワラグ]]([[:en:Wawalag|Wawalag]]) * [[ウリウプラニリ]]([[:en:Wuriupranili|Wuriupranili]]) * [[ユルルングル]] (Yurlungur) *ターニングチーゴ 娯楽の神 === ポリネシアの神話 === [[ポリネシア]]は、[[オセアニア]]の海洋部の区分の一つ。([[:en:Polynesian mythology|Polynesian mythology]]) * [[アテア]] ([[:en:Atea|Atea]]) * [[イナ (ハワイ神話)|イナ]] ([[:en:Ina (goddess)|Ina]]) * タンガロア、タガロア、タアロア、[[カナロア]] ([[:en:Tangaloa (Tongan mythology)|Tangaloa]], [[:en:Tangaroa|Tangaroa]], [[:en:Tagaloa|Tagaloa]], [[:en:Ta'aroa|Ta'aroa]], [[:en:Kanaloa|Kanaloa]]) * [[カーネ・ミロハイ]] ([[:en:Kane Milohai|Kane Milohai]]) * [[カマプアア]] * [[タネ・マフタ]] * [[トゥナ]] * [[ハウメア (ハワイ神話)|ハウメア]] * [[マウイ (ポリネシア神話)|マウイ]] * [[パパトゥアヌク]] ([[:en:Rangi and Papa|Papatuanuku]]) * [[ペレ (ハワイ神話)|ペレ]] * [[ランギヌイ]] ([[:en:Rangi and Papa|Ranginui]]) * [[ロンゴ]] ([[:en:Rongo|Rongo]]) {{See also|メネフネ|w:Menehune}} == その他 == === クトゥルフ神話 === 明確に創作物である[[クトゥルフ神話]]の神々が、神を紹介するときに持ち出されることがある。 * [[外なる神]] * [[旧支配者]] * [[旧神]] * [[地球本来の神々]] === ムー大陸 === ※[[ムー大陸]]の神一覧 * [[太陽神]][[ラ・ムー]] * [[ラナヤナ]](7頭の蛇神) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=井村君江|authorlink=井村君江 |title=妖精学大全 |publisher=[[東京書籍]] |date=2008年7月 |isbn=978-4-487-79193-4 |ref=井村 2008 }} * {{Cite book |和書 |author=エリアーデ, ミルチア|authorlink=ミルチャ・エリアーデ |others=[[鶴岡賀雄]]訳 |title=世界宗教史 5 ムハンマドから宗教改革の時代まで(上) |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま学芸文庫]] |date=2000年7月 |isbn=978-4-480-08565-8 |ref=エリアーデ,鶴岡訳 2000 }} * {{Cite book |和書 |editor1-first=メアリ|editor1-last=ミラー|editor1-link=:en:Mary Miller (art historian)|editor2-first=カール|editor2-last=タウベ|editor2-link=カール・タウベ |others=増田義郎監修、武井摩利訳 |title=図説 マヤ・アステカ神話宗教事典 ||origyear=1993 |date=2000-09 |publisher=[[東洋書林]] |isbn=978-4-88721-421-7 |ref=ミラー&タウベ編 2000 }} * {{Cite book |和書 |author=ブレードニヒ, ロルフ・W.|authorlink=ロルフ・ヴィルヘルム・ブレードニヒ |others=竹原威滋訳 |title=運命の女神 - その説話と民間信仰 新装 |publisher=[[白水社]] |date=2005年6月 |isbn=978-4-560-02458-4 |ref=ブレードニヒ,竹原訳 2005 }} == 関連項目 == * [[神]] * [[宗教一覧]] * [[無神論]] * [[天使の一覧]] * [[悪魔の一覧]] * [[聖書の登場人物の一覧]] * [[神話・伝説に関する文献の一覧]] {{宗教}} {{DEFAULTSORT:かみのいちらん}} [[Category:神|*]] [[Category:宗教関連の一覧]]
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ルートサーバ
ルートサーバ(英: root server)、ルートネームサーバ(英: root name server)またはDNSルートサーバとは、ドメインネームシステム (DNS) において、ドメイン名空間の頂点にある情報を保持するサーバ。ドメイン名の名前解決において、トップレベルドメイン (TLD) 部分の名前解決を担当する。 ルートサーバはドメインネームシステム (DNS) の中核を担う非常に重要な地位を占めている。もし仮にルートサーバが全てダウンしてしまうと、ホスト名やドメイン名の「名前解決」が一切不可能になるので、通常の(すなわち、ホスト名やドメイン名を使っている)URLやメールアドレスを利用するための名前解決ができなくなる。 ルートサーバーは13クラスタ存在する。(13クラスタになった理由はDNSルートゾーン参照) すべてのルートサーバは、*.ROOT-SERVERS.NETという形式のホスト名を持つ。"*"の部分には、AからMまでの13種のアルファベットのうちの1文字が入る。セカンドレベルドメイン以下の情報を持たせる各DNSサーバは、この13系統あるルートサーバのIPアドレスをあらかじめ知っている必要がある(DNSサーバソフトのインストール時に予め設定しておく)。 多くのルートサーバーはアメリカ合衆国の団体が管理しているが、アメリカ以外の国の団体としてスウェーデン (I)、オランダ (K)、日本 (M)の団体が管理しているルートサーバーが存在する。尚、実際のルートサーバーの所在地についてはその多くがエニーキャストによる負荷分散とディザスタリカバリを行っており、例えばMサーバーは日本だけでなく、米国等複数の国に実サーバーが存在する。
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ルートサーバ、ルートネームサーバまたはDNSルートサーバとは、ドメインネームシステム (DNS) において、ドメイン名空間の頂点にある情報を保持するサーバ。ドメイン名の名前解決において、トップレベルドメイン (TLD) 部分の名前解決を担当する。
[[Image:Root Nameserver.svg|thumb|350px|ルートサーバの位置]] '''ルートサーバ'''({{Lang-en-short|root server}})、'''ルートネームサーバ'''({{Lang-en-short|root name server|links=no}})または'''DNSルートサーバ'''とは、[[Domain Name System|ドメインネームシステム]] (DNS) において、ドメイン名空間の頂点にある情報を保持する[[サーバ]]。[[ドメイン名]]の[[名前解決]]において、[[トップレベルドメイン]] (TLD) 部分の名前解決を担当する。 <!-- == 動作と役目 == [[DNSクライアント]]や[[DNSサーバ#DNSキャッシュサーバ|DNSキャッシュサーバ]]が[[ドメイン名]]や[[ホスト名]]からIPアドレスを引く場合、まずは自組織(LAN上やプロバイダ)のDNSサーバに問い合わせを行う。自組織上のDNSサーバは、問い合わせを受けたドメイン名やホスト名が自分自身が管理しているものではなく、かつキャッシュデータにもデータがない場合は'''再帰検索'''を行ってIPアドレスを検索する事になる。再帰検索を行う場合、DNSサーバは最初にルートサーバに問い合わせて検索対象のドメイン名(ホスト名)を管理するTLDのDNSサーバのIPアドレスをもらう。以後、順次下位ドメインのDNSを検索していき、目的のドメイン名やホスト名のIPを管理するDNSサーバを探し出して最終的なIPアドレスを得る。 --><!-- キャッシュサーバとコンテンツサーバを混同してないですか? --> == ルートサーバーの重要性 == ルートサーバは[[Domain Name System|ドメインネームシステム]] (DNS) の中核を担う非常に重要な地位を占めている。もし仮にルートサーバが全てダウンしてしまうと、[[ホスト名|ホスト名やドメイン名]]の「名前解決」が一切不可能になるので、通常の(すなわち、ホスト名やドメイン名を使っている)[[URL]]や[[メールアドレス]]を利用するための名前解決ができなくなる。<!--また、ルートサーバ以外のDNSサーバに対してはルートサーバのIPアドレスを事前に登録する必要があるので、ルートサーバのIPアドレスを変えた場合には、インターネット上のルートサーバ以外のDNSサーバを再設定する必要がある。--><!--これもキャッシュサーバとコンテンツサーバの混同じゃないかな?--> * '''IPアドレスの変更・ルートサーバの追加''' ** [[2002年]]11月にはネットワーク機器の変更にともない、ルートサーバのひとつである "J.ROOT-SERVERS.NET" のIPアドレスが変更された<ref>John Crain「[http://www.cafax.se/dnsop/maillist/2002-11/msg00025.html Important Informational Message - root.zone change]」。Mon, 4 Nov 2002 15:26:30 -0800、DNSOP mailing list。</ref><ref>「[https://srad.jp/story/02/11/05/1453258/ J.ROOT-SERVERS.NET.のIPアドレスが変更される]」。2002年11月5日、スラッシュドット ジャパン。</ref>。 ** [[2004年]]1月には "B.ROOT-SERVERS.NET" のIPアドレスにIPv6に基づく変更がなされた(古いアドレスも[[2006年]]までは有効)<ref>「[https://srad.jp/story/04/01/29/1351225/ B.ROOT-SERVERS.NET の IP アドレス、変更の模様]」。2004年1月29日、スラッシュドット ジャパン。</ref>。 ** [[2007年]]11月1日 - "L.ROOT-SERVERS.NET"のIPアドレスが変更された<ref>Kim Davies 「[http://blog.icann.org/?p=227 Advisory — “L Root” changing IP address on 1st November]」。2007年10月24日、ICANN。</ref><ref>「[https://srad.jp/story/07/10/26/0359208/ L.root-servers.netのIPv4アドレス、11月1日に変更]」、2007年10月26日、スラッシュドット ジャパン。</ref>。 ** [[2008年]]1月22日 - "F.ROOT-SERVERS.NET"のIPv6のIPアドレスが変更される<ref>参考:"[https://groups.google.com/g/comp.protocols.dns.bind/c/JR3MR41Xe6s F.ROOT-SERVERS.NET IPv6 address has changed.]"。Newsgroup ''comp.protocols.dns.bind''. </ref>。 ** [[2008年]]2月4日 - ルートゾーンへAAAAレコードが追加される<ref>「[https://jprs.jp/tech/notice/2008-02-05-root-aaaa-add.html ルートゾーンへの AAAA レコードの追加について]」。2008年2月5日、株式会社日本レジストリサービス。2008年2月7日閲覧。</ref>。 ** [[2013年]]1月3日 - "D.ROOT-SERVERS.NET"のIPv4のIPアドレスが変更される<ref>「[https://www.nic.ad.jp/ja/topics/2012/20121218-02.html Dルートネームサーバ(D.ROOT-SERVERS.NET)のIPv4アドレス変更について]」。2012年12月18日、社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター。</ref>。 ** [[2015年]]12月1日 - "H.ROOT-SERVERS.NET"のIPv4アドレスが変更される<ref name="hserver">[http://h.root-servers.org/renumber.html H-Root will change its addresses on 1 December 2015]</ref>。 ** [[2017年]]6月1日 - "B.ROOT-SERVERS.NET"のIPv6アドレスが変更される<ref name="bserver-2017">[https://jprs.jp/tech/notice/2017-06-02-b.root-servers.net-ip-address-change.html b.root-servers.net(B-Root)のIPv6アドレス変更に伴う設定変更について]</ref>。 ** [[2017年]]10月24日 - "B.ROOT-SERVERS.NET"のIPv4アドレスが変更される<ref name="bserver">[http://www.root-servers.org/news/b-root-ipv4-address-renumbered.txt B-Root will change its addresses on 24 October 2017]</ref>。 ** [[2023年]]11月27日 - "B.ROOT-SERVERS.NET"のIPv4/IPv6アドレスが変更される<ref name="bserver-2023">[https://jprs.jp/tech/notice/2023-11-28-b.root-servers.net-ip-address-change.html b.root-servers.net(B-Root)のIPアドレス変更に伴う設定変更について]</ref>。 * '''ルートサーバに対する主な攻撃''' ** [[2002年]][[10月21日]] - ルートサーバ13台に一斉に[[DDoS攻撃]]が仕掛けられ、7台のホストに大きな影響が出る<ref>「[https://www.itmedia.co.jp/news/0210/23/njbt_01.html ルートサーバに一斉DoS攻撃]」。ITmedia、2002年10月23日。</ref><ref>「[http://www.watch.impress.co.jp/INTERNET/www/article/2002/1024/dns.htm DNSルートサーバーに分散サービス拒否攻撃]」。INTERNET Watch、2002年10月24日。</ref> ** [[2007年]][[2月6日]] - ルートサーバに2002年の攻撃以来最大規模の攻撃が仕掛けられ、3台のホストの機能が一時麻痺<ref>Ted Bridis, The Associated Press「[http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0702/07/news073.html DNSルートサーバの一部がハッカーの攻撃で一時まひ]」。ITmedia、2007年2月7日。</ref><ref>「[http://www.technobahn.com/cgi-bin/news/read2?f=200702131011 インターネットの基幹サーバーに大規模攻撃、発信源は韓国のもよう]」。Technobahn、2007年2月13日。</ref>。 == ルートサーバ一覧 == ルートサーバーは13クラスタ存在する。(13クラスタになった理由は[[DNSルートゾーン]]参照) すべてのルートサーバは、<code>*.ROOT-SERVERS.NET</code>という形式のホスト名を持つ。"*"の部分には、'''A'''から'''M'''までの13種のアルファベットのうちの1文字が入る。{{要出典範囲|[[セカンドレベルドメイン]]以下の情報を持たせる|date=2020年10月}}各DNSサーバは、この13系統あるルートサーバのIPアドレスをあらかじめ知っている必要がある(DNSサーバソフトのインストール時に予め設定しておく)。 多くのルートサーバーは[[アメリカ合衆国]]の団体が管理しているが、アメリカ以外の国の団体として[[スウェーデン]] (I)、[[オランダ]] (K)、[[日本]] (M)の団体が管理しているルートサーバーが存在する。尚、実際のルートサーバーの所在地についてはその多くが[[エニーキャスト]]による[[サーバロードバランス|負荷分散]]と[[ディザスタリカバリ]]を行っており、例えばMサーバーは日本だけでなく、米国等複数の国に実サーバーが存在する。 {| class="wikitable" ! 頭文字 ! [[IPv4]]アドレス ! [[IPv6]]アドレス ! 古い名前 ! 管理者 ! サーバ所在地 ! ソフトウェア |- ! [https://a.root-servers.org/ A] | 198.41.0.4 | 2001:503:BA3E::2:30 | ns.internic.net | {{USA}} [[VeriSign]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND]] |- ! [https://b.root-servers.org/ B] | 199.9.14.201(2023年11月26日まで)<br/>170.247.170.2(2023年11月27日から)<ref name="bserver-2023"/> | 2001:500:200::b(2023年11月26日まで)<br/>2801:1b8:10::b(202311月27日から)<ref name="bserver-2023"/> | ns1.isi.edu | {{USA}} [[南カリフォルニア大学]][[情報科学研究所]] | {{USA}} [[マリナ・デル・レイ]] | [[BIND]] |- ! [https://c.root-servers.org/ C] | 192.33.4.12 | 2001:500:2::c | c.psi.net | {{USA}} Cogent Communications | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND]] |- ! [http://d.root-servers.org/ D] | 199.7.91.13 | 2001:500:2d::d | terp.umd.edu | {{USA}} [[メリーランド大学カレッジパーク校]] | {{USA}} [[カレッジパーク_(メリーランド州)|カレッジパーク]] | [[BIND]] |- ! [https://e.root-servers.org/ E] | 192.203.230.10 | 2001:500:a8::e | ns.nasa.gov | {{USA}} [[アメリカ航空宇宙局]] | {{USA}} [[マウンテンビュー_(カリフォルニア州)|マウンテンビュー]] | [[BIND]] |- ! [http://f.root-servers.org/ F] | 192.5.5.241 | 2001:500:2f::f | ns.isc.org | {{USA}} [[Internet Systems Consortium]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND|BIND 9]]<ref name="f">[https://www.isc.org/community/f-root/ F-root | Internet Systems Consortium]</ref> |- ! [https://disa.mil/G-Root G] | 192.112.36.4 | 2001:500:12::d0d | ns.nic.ddn.mil | {{USA}} [[アメリカ国防情報システム局]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND]] |- ! [https://h.root-servers.org/ H] | 128.63.2.53(2015年11月30日まで)<br/>198.97.190.53(2015年12月1日から)<ref name="hserver"/> | 2001:500:1::803f:235(2015年11月30日まで)<br/>2001:500:1::53(2015年12月1日から)<ref name="hserver"/> | aos.arl.army.mil | {{USA}} [[アメリカ陸軍|アメリカ陸軍研究所]] | {{USA}} [[メリーランド州|アバディーン]] | [[NSD (ソフトウェア)|NSD]] |- ! [https://i.root-servers.org/ I] | 192.36.148.17 | 2001:7fe::53 | nic.nordu.net | {{SWE}} [[Autonomica]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND]] |- ! [https://j.root-servers.org/ J] | 192.58.128.30 | 2001:503:C27::2:30 | | {{USA}} VeriSign | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND]] |- ! [https://k.root-servers.org/ K] | 193.0.14.129 | 2001:7fd::1 | | {{NLD}} [[RIPE NCC]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[NSD (ソフトウェア)|NSD]]<ref name="k">[http://k.root-servers.org/ K-root Homepage]</ref> |- ! [https://l.root-servers.org/ L] | 199.7.83.42 | 2001:500:3::42 | | {{USA}} [[ICANN]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[NSD (ソフトウェア)|NSD]]<ref name="l">[http://l.root-servers.org/ l.root-servers.net]</ref> |- ! [https://m.root-servers.org/ M] | 202.12.27.33 | 2001:dc3::35 | | {{JPN}} [[WIDEプロジェクト]] | [[エニーキャスト]]による負荷分散 | [[BIND]] |} == 関連項目 == * [[エニーキャスト]] * [[DNSルートゾーン]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://root-servers.org/ ルートサーバのIPアドレス一覧](管理者、所在地もここで見られる) * [https://www.internic.net/domain/named.root BIND用ルートサーバゾーンファイル] [[Category:Domain Name System|るうとさあは]]
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Djbdns
djbdnsは、ダニエル・バーンスタインにより開発されたDNSサーバ用ソフトウェア。 DNSキャッシュサーバのdnscacheとDNSコンテンツサーバのtinydnsを2つの柱として構成されている。BINDとは違い非常にシンプルかつ堅牢な構造をしており、バーンスタインは djbdns のセキュリティホールの第一発見者へ1000ドルの懸賞金を与えることを発表していた。2009年2月に Matthew Dempsky によりキャッシュ汚染攻撃が可能であることが発見され、Dempsky は懸賞金を獲得した。2009年3月現在、発見されたセキュリティホールはこの1個のみである。 2007年冬、パブリックドメインとなる。 キャッシュサーバとコンテンツサーバの分離が djbdns の大きな特徴である。BIND では、このふたつのサーバ機能を単一の named と呼ばれるデーモンで管理していた。キャッシュサーバである dnscache の機能は、クライアントからのクエリを受付けて再帰検索を行い、名前解決を行い、得た情報をキャッシュすること、コンテンツサーバである tinydns の機能は、回答すべきゾーン情報を管理し、問い合わせに答えるという機能をもつ。コンテンツサーバはあくまでも自ゾーン情報を公開するためのもので、DNS情報のキャッシュや再帰検索は行わない。キャッシュサーバとコンテンツサーバの機能はまったく別であり、同一サーバでこのふたつのデーモンを稼働させることは推奨されていない。また、組織外に公開すべきではないキャッシュサーバをうっかり公開してしまうミスを防ぐこともできる。 djbdns は、デーモンだけでなく、各種のツールも単機能のプログラムが協調して動く設定になっている。また、可能な限り root 権限を使用せず、デーモンは、chroot して動作する。設定ファイルも簡素である。djbdns はその管理に、daemontools と呼ばれるミドルウェアを使用する。tinydns の DNSデータベースの格納には、cdbと呼ばれる高速なハッシュ化データベースが使用される。 djbdns では、CNAME の使用は可能だが推奨されてはいない。Aレコードを使用することが推奨されている。 djbdnsは2001年にバージョン1.0.5がリリースされて以来、公式の改良は行われていない。このため、DNSSECなどの新しい機能には対応していない。また、ダニエル・バーンスタインがIPv6の導入や普及に対して懐疑的な立場であることから、IPv6に対応していない。これに対して、有志によるパッチが提供されているが、以下の点が問題として考えられる。
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djbdnsは、ダニエル・バーンスタインにより開発されたDNSサーバ用ソフトウェア。
{{小文字}} '''djbdns'''は、[[ダニエル・バーンスタイン]]により開発された[[DNSサーバ]]用[[ソフトウェア]]。 == 概要 == [[DNSキャッシュサーバ]]のdnscacheと[[DNSコンテンツサーバ]]のtinydnsを2つの柱として構成されている。[[BIND]]とは違い非常にシンプルかつ堅牢な構造をしており、バーンスタインは djbdns の[[セキュリティホール]]の第一発見者へ1000[[ドル]]の懸賞金を与えることを発表していた<ref>{{Cite web|author=Daniel J. Bernstein|title=The djbdns security guarantee|url=http://cr.yp.to/djbdns/guarantee.html|year=2001|accessdate=2009-03-11}}</ref>。2009年2月に Matthew Dempsky により[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]汚染攻撃が可能であることが発見され<ref>{{Cite web|first=Matthew|last=Dempsky|title=Bugtraq: djbdns misformats some long response packets|url=http://seclists.org/bugtraq/2009/Feb/0239.html|year=2009|accessdate=2009-03-11}}</ref>、Dempsky は懸賞金を獲得した<ref name="g.n.d-13864">{{Cite web|author=Daniel J. Bernstein|title=djbdns<nowiki><</nowiki>=1.05 lets AXFRed subdomains overwrite domains|url=http://article.gmane.org/gmane.network.djbdns/13864|year=2009|accessdate=2009-03-11}}</ref>。2009年3月現在、発見されたセキュリティホールはこの1個のみである。 2007年冬、[[パブリックドメイン]]となる<ref name="publicdomain">{{Cite web|author=Daniel J. Bernstein|title=Frequently asked questions from distributors|url=http://cr.yp.to/distributors.html|year=2007|accessdate=2008-04-26}}</ref>。 == 特徴 == キャッシュサーバとコンテンツサーバの分離が djbdns の大きな特徴である。BIND では、このふたつのサーバ機能を単一の named と呼ばれる[[デーモン (ソフトウェア)|デーモン]]で管理していた。キャッシュサーバである dnscache の機能は、クライアントからのクエリを受付けて再帰検索を行い、[[名前解決]]を行い、得た情報をキャッシュすること、コンテンツサーバである tinydns の機能は、回答すべきゾーン情報を管理し、問い合わせに答えるという機能をもつ。コンテンツサーバはあくまでも自ゾーン情報を公開するためのもので、DNS情報のキャッシュや再帰検索は行わない。キャッシュサーバとコンテンツサーバの機能はまったく別であり、同一サーバでこのふたつのデーモンを稼働させることは推奨されていない。また、組織外に公開すべきではないキャッシュサーバをうっかり公開してしまうミスを防ぐこともできる。 djbdns は、デーモンだけでなく、各種のツールも単機能のプログラムが協調して動く設定になっている。また、可能な限り root 権限を使用せず、デーモンは、[[chroot]] して動作する。設定ファイルも簡素である。djbdns はその管理に、[[daemontools]] と呼ばれるミドルウェアを使用する。tinydns の DNSデータベースの格納には、[[cdb]]と呼ばれる高速なハッシュ化データベースが使用される。 djbdns では、CNAME の使用は可能だが推奨されてはいない。Aレコードを使用することが推奨されている。 == コンポーネント == * dnscache - DNSキャッシュサーバ * tinydns - DNSコンテンツサーバ * axfrdns -[[DNSゾーン転送|ゾーン転送]]用[[Transmission Control Protocol|TCP]]版DNSコンテンツサーバ * walldns - [[ファイアウォール]]で使用するための、匿名の逆引き用DNSコンテンツサーバ * rbldns - リアルタイムブラックホールリストのためのデーモン * dnsライブラリ - libresolvに代わるDNSクエリのためのライブラリ == パッチによる保守 == djbdnsは2001年にバージョン1.0.5がリリースされて以来、公式の改良は行われていない。このため、[[DNS Security Extensions|DNSSEC]]などの新しい機能には対応していない。また、ダニエル・バーンスタインが[[IPv6]]の導入や普及に対して懐疑的な立場である<ref>{{Cite web|author=Daniel J. Bernstein|title=The IPv6 mess|url=http://cr.yp.to/djbdns/ipv6mess.html|year=2003|accessdate=2009-08-02}}</ref>ことから、IPv6に対応していない。これに対して、有志によるパッチが提供されているが、以下の点が問題として考えられる。 * 将来性 - DNSSECやIPv6に対応していないことなど、DNSサーバとしての機能の不足は否めない * 安全性 - 公式配布の状態では堅牢であるが、実用上パッチの適用が必要であり、パッチを当てた状態での堅牢性については誰も保証しない == 関連項目 == * [[qmail]] * [[daemontools]] * [[dbndns]] * [[Unbound]] == 脚注 == <div class="references-small">{{脚注ヘルプ}} <references /></div> == 外部リンク == * [https://cr.yp.to/djbdns.html djbdnsホームページ] (英語) {{Computer-stub}} [[Category:DNSソフトウェア]] [[Category:サーバ]] [[Category:ダニエル・バーンスタイン]]
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Qmail
qmail(キューメイル)は、ダニエル・バーンスタインにより開発されたメール転送エージェント (MTA)。Unix系オペレーティングシステム (OS) で動作する。現在の最新バージョンは1998年6月15日にリリースされた1.03。 複雑化によりセキュリティホールが頻発したSendmailとは異なり、高速で、非常にシンプルかつ堅牢な構造を目指して作成された。1997年2月から公開されているが、運用上問題となる点はDoS攻撃に対する脆弱性(リソース制限で回避可能)のみで、その他に発見されたセキュリティホールはない。ちなみに、セキュリティホールを発見すると500ドルの賞金がもらえる。 設定に関しても、難解で煩雑なsendmailに対し、1ファイル1設定で簡素である。インストールした時点でオープンリレーができないようになっている。 メールボックスの形式は、堅牢さから独自に設計されたMaildir形式がデフォルトで、またそれが推奨されている。ただし、mboxで運用することも可能である。 バーチャルホストなどを実現するためのユーティリティとしての、vpopmailなど、様々な周辺ツールがあるが、原作者による開発が事実上終了しており、最新のOSでのコンパイルや、STARTTLS等、qmail開発当時にはなかった規格に対応しようとすると、非公式のパッチを探して当てなければならず、構築を複雑なものとしている。 他の一般的なMTAは、宛先不明のメールは受け取りを拒否するのに対し、qmailは、一旦受け取った後、差出人(エンベロープFrom)に送り返す動作をする。このため、スパムメール等の詐称に利用された第三者に大量のリターンメールを送信し、backscatter(後方拡散)またはcollateral spam(巻き添えスパム)と呼ばれる二次被害を起こすことがある。 また、改行コードの扱いについてもRFCに準拠しない動作をする問題がある。 qmailは長らくソースコードの状態で配布が許され、コンパイル済みの状態で配布される場合には、 ディレクトリ構成を変更しないなど定められた条件に合致した場合のみ配布が許され、 各OSでの独自のソフトウェアパッケージを作成することは困難であった。 その後、2007年11月30日にダニエル・バーンスタインはqmailをパブリックドメインに置くことを宣言した 。 しかし作者は依然として、プログラムを/var/qmail以下に配置するなど、インタフェースをオリジナルと一致させることを推奨している。
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qmail(キューメイル)は、ダニエル・バーンスタインにより開発されたメール転送エージェント (MTA)。Unix系オペレーティングシステム (OS) で動作する。現在の最新バージョンは1998年6月15日にリリースされた1.03。
{{Otheruses|メール転送エージェント|[[日本シティメディア]]のサービス|Qメール}} {{Infobox Software | 名称 = qmail | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = [[ダニエル・バーンスタイン]] | 最新版 = 1.03 | 最新版発表日 = [[1998年]][[6月15日]] | 最新評価版 = netqmail 1.06 | 最新評価版発表日 = [[2007年]][[11月11日]] | 対応OS = [[Unix系]] | 対応プラットフォーム = | 種別 = [[メール転送エージェント]] | ライセンス = [[パブリックドメイン]]<ref>http://cr.yp.to/talks/2007.11.02/slides.pdf</ref> | 公式サイト = [http://cr.yp.to/qmail.html qmail] }} {{小文字}} '''qmail'''(キューメイル)は、[[ダニエル・バーンスタイン]]により開発された[[メール転送エージェント]] (MTA)。[[Unix系]][[オペレーティングシステム]] (OS) で動作する。現在の最新バージョンは[[1998年]][[6月15日]]にリリースされた'''1.03'''。 == 特徴 == 複雑化により[[セキュリティホール]]が頻発した[[Sendmail]]とは異なり、高速で、非常にシンプルかつ堅牢な構造を目指して作成された。[[1997年]][[2月]]から公開されているが、運用上問題となる点は[[DoS攻撃]]に対する脆弱性([[計算資源|リソース]]制限で回避可能)のみで、その他に発見されたセキュリティホールはない。ちなみに、セキュリティホールを発見すると500ドルの[[懸賞金|賞金]]がもらえる。 設定に関しても、難解で煩雑なsendmailに対し、1[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]1設定で簡素である。[[インストール]]した時点で[[不正中継|オープンリレー]]ができないようになっている。 メールボックスの形式は、堅牢さから独自に設計された[[Maildir]]形式がデフォルトで、またそれが推奨されている。ただし、[[mbox]]で運用することも可能である。 [[バーチャルホスト]]などを実現するための[[ユーティリティソフトウェア|ユーティリティ]]としての、[[vpopmail]]など、様々な周辺ツールがあるが、原作者による開発が事実上終了しており、最新のOSでの[[コンパイラ|コンパイル]]や、[[STARTTLS]]等、qmail開発当時にはなかった規格に対応しようとすると、非公式の[[パッチ]]を探して当てなければならず、構築を複雑なものとしている。 他の一般的なMTAは、宛先不明のメールは受け取りを拒否するのに対し、qmailは、一旦受け取った後、差出人(エンベロープFrom)に送り返す動作をする。このため、[[スパム (メール)|スパムメール]]等の詐称に利用された第三者に大量のリターンメールを送信し、'''backscatter'''(後方拡散)または'''collateral spam'''(巻き添えスパム)と呼ばれる二次被害を起こすことがある。 また、改行コードの扱いについても[[Request for Comments|RFC]]に準拠しない動作をする問題がある<ref>{{cite web | url = http://ya.maya.st/mail/qmail-violations.html | title = http://ya.maya.st/mail/qmail-violations.html | accessdate = 2016-06-09}}</ref>。 === ライセンス === qmailは長らく[[ソースコード]]の状態で配布が許され、コンパイル済みの状態で配布される場合には、 [[ディレクトリ]]構成を変更しないなど定められた条件に合致した場合のみ配布が許され、 各OSでの独自の[[パッケージ管理システム|ソフトウェアパッケージ]]を作成することは困難であった。 その後、2007年11月30日にダニエル・バーンスタインはqmailを[[パブリックドメイン]]に置くことを宣言した <ref>{{cite web | url = http://cr.yp.to/qmail/dist.html | title = Information for distributors | accessdate = 2007-12-14 }}</ref><ref> {{cite web | url = https://web.archive.org/web/20110520034313/http://video.google.com/videoplay?docid=-3147768955127254412&q=%22Bernstein+releases+code+to+public+domain%22&total=1&start=0&num=10&so=0&type=search&plindex=0 | title = Bernstein releases code into the public domain | accessdate = 2007-12-14 }}</ref>。 しかし作者は依然として、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を/var/qmail以下に配置するなど、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]をオリジナルと一致させることを推奨している。 == 参考文献 == {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[daemontools]] == 外部リンク == * [http://cr.yp.to/qmail.html qmail] * [http://www.qmail.org/netqmail/ netqmail] {{Normdaten}} [[Category:メール転送エージェント]] [[Category:メール配送エージェント]] [[Category:ダニエル・バーンスタイン]]
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ダニエル・バーンスタイン
ダニエル・ジュリアス・バーンスタイン(英語: Daniel Julius Bernstein, 1971年10月29日 - )は、イリノイ大学シカゴ校の数学及び暗号学教授で、qmailやdjbdnsなどのネットワーク基幹ソフトウェアの開発者でもある。djbとも呼ばれる。 これまでに作成したソフトウェアは、当初、コンパイル済みでのバイナリでの再配布は一部条件下でのみ許可をしていた。2007年冬、作成したソフトウェアの大半をパブリックドメインとしている。
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ダニエル・ジュリアス・バーンスタインは、イリノイ大学シカゴ校の数学及び暗号学教授で、qmailやdjbdnsなどのネットワーク基幹ソフトウェアの開発者でもある。djbとも呼ばれる。 これまでに作成したソフトウェアは、当初、コンパイル済みでのバイナリでの再配布は一部条件下でのみ許可をしていた。2007年冬、作成したソフトウェアの大半をパブリックドメインとしている。
{{翻訳依頼中|date=2020-12}} {{Infobox Engineer |氏名=ダニエル・J・バーンスタイン<br />{{lang|en|Daniel J. Bernstein}} |画像=Dan Bernstein 27C3.jpg |画像のサイズ=220px |画像の説明=ダニエル・バーンスタイン(2010年) |別名= |国籍={{USA}} |生年月日={{生年月日と年齢|1971|10|29}} |生誕地={{USA}}・[[ニューヨーク州]][[サフォーク郡 (ニューヨーク州)|サフォーク郡]] |死没日= |死没地= |最終学歴= |職業=大学教授 |配偶者= |両親= |子供= |専門分野= |所属機関=[[イリノイ大学]]シカゴ校 |勤務先= |雇用者= |プロジェクト= |設計= |成果=[[qmail]]、[[djbdns]]などの開発 |受賞歴= |署名= |公式サイト=[http://cr.yp.to/djb.html D. J. Bernstein] |補足= }} {{wikiquotelang|en|Daniel J. Bernstein|ダニエル・バーンスタイン}} '''ダニエル・ジュリアス・バーンスタイン'''({{lang-en|Daniel Julius Bernstein}}, [[1971年]][[10月29日]] - )は、[[イリノイ大学]]シカゴ校の数学及び暗号学教授で、[[qmail]]や[[djbdns]]などのネットワーク基幹ソフトウェアの開発者でもある。'''djb'''とも呼ばれる。 これまでに作成したソフトウェアは、当初、コンパイル済みでのバイナリでの再配布は一部条件下でのみ許可をしていた。2007年冬、作成したソフトウェアの大半を[[パブリックドメイン]]としている<ref name="publicdomain">{{Cite web|author=Daniel J. Bernstein|title=Frequently asked questions from distributors|url=http://cr.yp.to/distributors.html|year=2007|accessdate=2008-04-26}}</ref>。 == 主な業績 == *セキュアなソフトウェアの作成 ** [[qmail]] ** [[djbdns]] ** [[ucspi-tcp]] ** [[daemontools]] ** [[publicfile]] *技術提案 ** [[SYN cookies]] ** [[Salsa20|Salsa20およびChaCha20]] ** [[Poly1305]] ** [[エドワーズ曲線デジタル署名アルゴリズム|Ed25519]] *ライブラリ ** [[cdb]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|hashbreaker|Daniel J. Bernstein}} * [https://cs.uic.edu/profiles/daniel-j-bernstein/ Daniel J. Bernstein] - [[イリノイ大学シカゴ校]] * [https://cr.yp.to/djb.html D. J. Bernstein] {{People-stub}} {{Computer-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はあんすたいん たにえる}} [[Category:ダニエル・バーンスタイン|*]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の数学者]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の数学者]] [[Category:計算機科学教育者]] [[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]] [[Category:アメリカ合衆国の暗号研究者]] [[Category:イリノイ大学シカゴ校の教員]] [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:イリノイ大学出身の人物]] [[Category:ニューヨーク州サフォーク郡出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:数学に関する記事]]
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Internet Relay Chat
Internet Relay Chat(インターネット・リレー・チャット、略称 : IRC)とは、サーバを介してクライアントとクライアントが会話をする枠組みの名称である。インスタントメッセンジャーのプロトコルの一つに分類される。また、これに基づいて実装されるソフトをIRCクライアントと呼び、しばし略してクライアントもIRCと呼ばれる事がある。文章のみをやり取りして会話を行い、DCCなどを利用することでファイル転送も対応する。 TCPを通信用のプロトコルとして主に用いる。TLSで暗号化することもできる。 Internet Relay Chat(以下「IRC」と記述する)は1988年8月にフィンランドの OuluBox というBBSで使われていたMUTと呼ばれるプログラムの代替としてヤルッコ・オイカリネン (Jarkko Oikarinen) によって作られた。BITNETネットワークで運用されていたBitnet Relay Chatに発想を得た。 IRCはその後鉄のカーテンの崩壊に際して東欧の人々が、あるいは湾岸戦争(1991年)の際に現地からIRCで情報発信されたために有名となった。 IRCはデータの通信に関するプロトコルが簡素かつオープンとなっているため、ユーザ・クライアントに用いるソフトウェアの開発が容易であり、また、種類も多い。主なクライアントソフトは以下の通り。 Pidginなどは、複数のプロトコルを扱えるクライアントである。 IRCには主なサーバ・ネットワーク群として、 などがあり、日本人向けには などがある。 IRCにおけるサーバ群はツリー構造のネットワークを形成している。そしてクライアントはネットワークを構成するサーバのどれかと接続することで、他のサーバと接続しているクライアントとも通信が可能になる。これがインターネット・リレー・チャットと言う由来である。 サーバは接続されたクライアントの情報やクライアントから送信されたデータを共用する必要がある。 クライアントには一般のクライアント(ユーザ・クライアント)と、限られた動作を行うためのクライアント(サービス・クライアント)がある。サーバはクライアントのラベルを設定することでこれを認識する。それとは別にニックネームがあり、これはクライアントが自由に変える事が出来るが、ニックネームはそのネットワークで単一の存在である必要がある。クライアントはネットワークにつき一つの接続のみをすべきである。クライアントはチャンネルと呼ぶ、チャットをするためのグループを構成する。 チャンネルは参加者が居れば一定の命名法のもとで自由に作ってよく、最初にそのチャンネルに参加したクライアントがオペレータとなる。オペレータはチャンネルの所有者とみなされ、そのためそのチャンネルに関して好ましくない行為を行うものをチャンネルから追放したり、トピックを設定することが出来る。その他にもチャンネルに関して様々な設定が可能であり、また、オペレータの権限を他のクライアントに分け与えることも可能である。 チャンネルは一つまたはそれ以上のクライアントで構成する。サーバはクライアントからデータを受け取ると、そのデータが何に向けて発信されたデータか判別し、チャンネルに発信されたデータならばそのチャンネルを構成するクライアントへ送信し、サーバへ送られたデータならば、それを処理する。チャンネルを構成するクライアントがそのサーバ以外にも接続していた場合、サーバは他のサーバに向けてデータを送信する。 クライアントがサーバに送るデータはプリフィクス(送信元を特定する情報)、コマンド、パラメータからなり、コマンドをサーバが解釈し処理することによってネットワークやチャットが成立する。 コマンドとしては以下がある。 サーバはツリー構造を組んで作られているためサーバ同士の接続がなんらかの原因によって切断されることがある。 後述するIRCプロトコルの定義において、サーバー・ネットワーク内で使用する文字コードについては定義されていない。そのため利用者間で違う文字コードを使って接続・利用していると、お互いに文字化けを起こして会話にならなかったり、日本語(を含めたASCII以外の文字コードを使う言語)を含むチャンネルに入ろうとして入れなくなってしまうことがある。 しかしサーバーはデータだけリレーしていくので、たとえ文字コードが違っても何の問題もない。困るのは利用者だけである。 そこで、利用者間で「暗黙の了解」的に使われる文字コードが存在する。ただしあくまで「暗黙の了解」であるため、同じサーバー・ネットワークを利用しているユーザー同士でも、全く関わりのない場合は違う文字コードを使っていることさえある。 2014年8月現在、「IRCnet」や「FriendChat」をはじめとする多くのIRCネットワークでは、暗黙の了解としてよく使われる文字コードは"ISO-2022-JP"である。これは電子メールでよく使われる文字コードで、単に"JISコード"などと呼ばれるものである。IRCサーバーに接続した際、自動的に送られてくるデータの中に"MOTD"と言う、サーバーのメンテナンスや何かが起こった時の連絡先などが書かれていることの多いデータがあるのだが、それが"ISO-2022-JP"で書かれている(ほかの文字コードで接続すると文字化けする)ことから確かめることができる。 もちろん、他の文字コードを採用したり、「暗黙の了解」ではなく公式として利用する文字コードを指定しているIRCネットワークもある。例えば「irc.cre.jp系IRCサーバ群」では、"UTF-8"を採用している。ISO-2022-JPでは、一般的に環境依存文字と呼ばれる一部の文字(丸付き数字や絵文字など)や、日本語以外の文字(ハングルなど)が相手のコンピュータで正しく再生されないことがあるが、UTF-8は多くの環境依存文字や多言語にも対応している文字コードである。チャットを楽しんでいる最中に余計な文字化けで水を差されることがまれにあるが、この問題を気にせずに済む。 またクライアントソフトによっては、複数の文字コードを選択できるようになっている。接続先のIRCネットワークやチャットする相手が使っている文字コードによって、適宜使い分けることが可能である。 RFC 1459がIRCに関する最初のRFCでその後2000年にRFC 2810から2813までが出された。現在利用されているIRCのプロトコルはIRC 2が主で、RFC 1459もIRC 2のものである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Internet Relay Chat(インターネット・リレー・チャット、略称 : IRC)とは、サーバを介してクライアントとクライアントが会話をする枠組みの名称である。インスタントメッセンジャーのプロトコルの一つに分類される。また、これに基づいて実装されるソフトをIRCクライアントと呼び、しばし略してクライアントもIRCと呼ばれる事がある。文章のみをやり取りして会話を行い、DCCなどを利用することでファイル転送も対応する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "TCPを通信用のプロトコルとして主に用いる。TLSで暗号化することもできる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Internet Relay Chat(以下「IRC」と記述する)は1988年8月にフィンランドの OuluBox というBBSで使われていたMUTと呼ばれるプログラムの代替としてヤルッコ・オイカリネン (Jarkko Oikarinen) によって作られた。BITNETネットワークで運用されていたBitnet Relay Chatに発想を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "IRCはその後鉄のカーテンの崩壊に際して東欧の人々が、あるいは湾岸戦争(1991年)の際に現地からIRCで情報発信されたために有名となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "IRCはデータの通信に関するプロトコルが簡素かつオープンとなっているため、ユーザ・クライアントに用いるソフトウェアの開発が容易であり、また、種類も多い。主なクライアントソフトは以下の通り。", "title": "クライアント・ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Pidginなどは、複数のプロトコルを扱えるクライアントである。", "title": "クライアント・ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "IRCには主なサーバ・ネットワーク群として、", "title": "主なネットワーク" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "などがあり、日本人向けには", "title": "主なネットワーク" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "などがある。", "title": "主なネットワーク" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "IRCにおけるサーバ群はツリー構造のネットワークを形成している。そしてクライアントはネットワークを構成するサーバのどれかと接続することで、他のサーバと接続しているクライアントとも通信が可能になる。これがインターネット・リレー・チャットと言う由来である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "サーバは接続されたクライアントの情報やクライアントから送信されたデータを共用する必要がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "クライアントには一般のクライアント(ユーザ・クライアント)と、限られた動作を行うためのクライアント(サービス・クライアント)がある。サーバはクライアントのラベルを設定することでこれを認識する。それとは別にニックネームがあり、これはクライアントが自由に変える事が出来るが、ニックネームはそのネットワークで単一の存在である必要がある。クライアントはネットワークにつき一つの接続のみをすべきである。クライアントはチャンネルと呼ぶ、チャットをするためのグループを構成する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "チャンネルは参加者が居れば一定の命名法のもとで自由に作ってよく、最初にそのチャンネルに参加したクライアントがオペレータとなる。オペレータはチャンネルの所有者とみなされ、そのためそのチャンネルに関して好ましくない行為を行うものをチャンネルから追放したり、トピックを設定することが出来る。その他にもチャンネルに関して様々な設定が可能であり、また、オペレータの権限を他のクライアントに分け与えることも可能である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "チャンネルは一つまたはそれ以上のクライアントで構成する。サーバはクライアントからデータを受け取ると、そのデータが何に向けて発信されたデータか判別し、チャンネルに発信されたデータならばそのチャンネルを構成するクライアントへ送信し、サーバへ送られたデータならば、それを処理する。チャンネルを構成するクライアントがそのサーバ以外にも接続していた場合、サーバは他のサーバに向けてデータを送信する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "クライアントがサーバに送るデータはプリフィクス(送信元を特定する情報)、コマンド、パラメータからなり、コマンドをサーバが解釈し処理することによってネットワークやチャットが成立する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コマンドとしては以下がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "サーバはツリー構造を組んで作られているためサーバ同士の接続がなんらかの原因によって切断されることがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "後述するIRCプロトコルの定義において、サーバー・ネットワーク内で使用する文字コードについては定義されていない。そのため利用者間で違う文字コードを使って接続・利用していると、お互いに文字化けを起こして会話にならなかったり、日本語(を含めたASCII以外の文字コードを使う言語)を含むチャンネルに入ろうとして入れなくなってしまうことがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかしサーバーはデータだけリレーしていくので、たとえ文字コードが違っても何の問題もない。困るのは利用者だけである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "そこで、利用者間で「暗黙の了解」的に使われる文字コードが存在する。ただしあくまで「暗黙の了解」であるため、同じサーバー・ネットワークを利用しているユーザー同士でも、全く関わりのない場合は違う文字コードを使っていることさえある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2014年8月現在、「IRCnet」や「FriendChat」をはじめとする多くのIRCネットワークでは、暗黙の了解としてよく使われる文字コードは\"ISO-2022-JP\"である。これは電子メールでよく使われる文字コードで、単に\"JISコード\"などと呼ばれるものである。IRCサーバーに接続した際、自動的に送られてくるデータの中に\"MOTD\"と言う、サーバーのメンテナンスや何かが起こった時の連絡先などが書かれていることの多いデータがあるのだが、それが\"ISO-2022-JP\"で書かれている(ほかの文字コードで接続すると文字化けする)ことから確かめることができる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "もちろん、他の文字コードを採用したり、「暗黙の了解」ではなく公式として利用する文字コードを指定しているIRCネットワークもある。例えば「irc.cre.jp系IRCサーバ群」では、\"UTF-8\"を採用している。ISO-2022-JPでは、一般的に環境依存文字と呼ばれる一部の文字(丸付き数字や絵文字など)や、日本語以外の文字(ハングルなど)が相手のコンピュータで正しく再生されないことがあるが、UTF-8は多くの環境依存文字や多言語にも対応している文字コードである。チャットを楽しんでいる最中に余計な文字化けで水を差されることがまれにあるが、この問題を気にせずに済む。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "またクライアントソフトによっては、複数の文字コードを選択できるようになっている。接続先のIRCネットワークやチャットする相手が使っている文字コードによって、適宜使い分けることが可能である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "RFC 1459がIRCに関する最初のRFCでその後2000年にRFC 2810から2813までが出された。現在利用されているIRCのプロトコルはIRC 2が主で、RFC 1459もIRC 2のものである。", "title": "仕様" } ]
Internet Relay Chatとは、サーバを介してクライアントとクライアントが会話をする枠組みの名称である。インスタントメッセンジャーのプロトコルの一つに分類される。また、これに基づいて実装されるソフトをIRCクライアントと呼び、しばし略してクライアントもIRCと呼ばれる事がある。文章のみをやり取りして会話を行い、DCCなどを利用することでファイル転送も対応する。 TCPを通信用のプロトコルとして主に用いる。TLSで暗号化することもできる。
{{WikipediaPage|ウィキペディアン同士で対話できるInternet Relay Chatについては、[[Wikipedia:チャット]]をご覧ください。}} {{IPstack}} <!-- Edit the stack image at: Template:IPstack --> '''Internet Relay Chat'''(インターネット・リレー・チャット、略称 : '''IRC''')とは、[[サーバ]]を介して[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]とクライアントが会話をする枠組みの名称である。[[インスタントメッセンジャー]]のプロトコルの一つに分類される。また、これに基づいて実装されるソフトをIRCクライアントと呼び、しばし略してクライアントもIRCと呼ばれる事がある。文章のみをやり取りして会話を行い、[[DCC (IRC)|DCC]]などを利用することでファイル転送も対応する。 [[Transmission Control Protocol|TCP]]を通信用の[[プロトコル]]として主に用いる。[[Transport Layer Security|TLS]]で暗号化することもできる。 == 歴史 == Internet Relay Chat(以下「IRC」と記述する)は[[1988年]]8月に[[フィンランド]]の OuluBox という[[電子掲示板|BBS]]で使われていたMUTと呼ばれるプログラムの代替として[[ヤルッコ・オイカリネン]] (Jarkko Oikarinen) によって作られた<ref>http://www.irc.org/history_docs/jarkko.html</ref>。[[BITNET]]ネットワーク<ref group="注釈">Because It's Time Network、学術機関の国際的なコンピュータのネットワーク</ref>で運用されていたBitnet Relay Chatに発想を得た。 IRCはその後[[鉄のカーテン]]の崩壊に際して東欧の人々が、あるいは[[湾岸戦争]]([[1991年]])の際に現地からIRCで情報発信されたために有名となった{{要出典|date=2023年11月}}。 == クライアント・ソフトウェア == IRCはデータの通信に関する[[プロトコル]]が簡素かつオープンとなっているため、ユーザ・クライアントに用いるソフトウェアの開発が容易であり、また、種類も多い。主なクライアントソフトは以下の通り。 * クロスプラットフォーム ** [[Irssi]] ** [[LimeChat]] ** [[Pidgin]] ** [[Trillian]] ** [[WeeChat]] * [[Microsoft Windows|Windows]] ** [[Miranda IM]] ** {{仮リンク|mIRC|en|mIRC}} * [[macOS]] ** {{仮リンク|Colloquy|en|Colloquy_(software)}} * [[Linux]] ** [[Empathy (ソフトウェア)|Empathy]] ** [[Konversation]] ** [[KSirc]] ** [[polari]] [[Pidgin]]などは、[[インスタントメッセンジャー#マルチプロトコルクライアント|複数のプロトコルを扱える]]クライアントである。 == 主なネットワーク == IRCには主なサーバ・ネットワーク群として、 * {{仮リンク|EFnet|en|EFnet}} * {{仮リンク|UnderNet|en|Undernet}} * {{仮リンク|DALnet|en|DALnet}} * {{仮リンク|QuakeNet|en|QuakeNet}} * [[freenode]] * [[Libera Chat]] * {{仮リンク|IRCnet|en|IRCnet}} ([[WIDEプロジェクト|WIDE project]]のネットワークが接続されていた) などがあり、日本人向けには * [https://www.scenecritique.com/ SceneCritique] * ReichaNet * [https://www.cre.ne.jp/services/irc irc.cre.jp系] (旧 TRPG.NET系) などがある。 <!-- == 問題点 == * サーバ同士が絶えず情報を共有するのはネットワーク帯域を大量に利用することを意味する。負荷が大きく、効率が良いとはいえなかった。 * 情報の共有がすぐには出来ないので、遅延が発生する。 * サーバ間の接続が切れるという事はリレーが分断される事であり、リレー先のユーザーがこれを認識できず、メッセージも伝わらない。チャンネルオペレータの引継ぎが正常に行えず、結果的にオペレータ不在に陥るといった事が起こりうる。 * Nickの文字数制限が短い。 * プロトコルに文字エンコーディングに関する規定が無い。日本語に関しては通例的にIRCnetなどでISO-2022-JP、freenodeでUTF-8が用いられている。UnderNetではShift_JISが用いられていたが、現在は廃れている。 --> == 構造 == IRCにおけるサーバ群は[[ツリー構造]]のネットワークを形成している。そしてクライアントはネットワークを構成するサーバのどれかと接続することで、他のサーバと接続しているクライアントとも通信が可能になる。これがインターネット・リレー・チャットと言う由来である。 サーバは接続されたクライアントの情報やクライアントから送信されたデータを共用する必要がある。 クライアントには一般のクライアント(ユーザ・クライアント)と、限られた動作を行うためのクライアント(サービス・クライアント)がある。サーバはクライアントのラベルを設定することでこれを認識する。それとは別にニックネームがあり、これはクライアントが自由に変える事が出来るが、ニックネームはそのネットワークで単一の存在である必要がある。クライアントはネットワークにつき一つの接続のみをすべきである。クライアントはチャンネルと呼ぶ、チャットをするためのグループを構成する。 チャンネルは参加者が居れば一定の命名法のもとで自由に作ってよく、最初にそのチャンネルに参加したクライアントがオペレータとなる。オペレータはチャンネルの所有者とみなされ、そのためそのチャンネルに関して好ましくない行為を行うものをチャンネルから追放したり、トピックを設定することが出来る。その他にもチャンネルに関して様々な設定が可能であり、また、オペレータの権限を他のクライアントに分け与えることも可能である。 チャンネルは一つまたはそれ以上のクライアントで構成する。サーバはクライアントからデータを受け取ると、そのデータが何に向けて発信されたデータか判別し、チャンネルに発信されたデータならばそのチャンネルを構成するクライアントへ送信し、サーバへ送られたデータならば、それを処理する。チャンネルを構成するクライアントがそのサーバ以外にも接続していた場合、サーバは他のサーバに向けてデータを送信する。 クライアントがサーバに送るデータはプリフィクス(送信元を特定する情報)、コマンド、パラメータからなり、コマンドをサーバが解釈し処理することによってネットワークやチャットが成立する。 コマンドとしては以下がある。 ; NICK : ニックネームを設定するコマンド ; USER : クライアントを特定するコマンド ; QUIT : サーバとの接続を終了するコマンド ; JOIN : チャンネルに参加するコマンド ; PART : チャンネルから外れるコマンド ; MODE : チャンネルに関してクライアントの権限やチャンネルの設定をするコマンド ; PRIVMSG : 特定のクライアントやチャンネルと通信するコマンド サーバはツリー構造を組んで作られているためサーバ同士の接続がなんらかの原因によって切断されることがある。 === 文字コード === 後述するIRCプロトコルの定義において、サーバー・ネットワーク内で使用する文字コードについては定義されていない。そのため利用者間で違う文字コードを使って接続・利用していると、お互いに文字化けを起こして会話にならなかったり、日本語(を含めたASCII以外の文字コードを使う言語)を含むチャンネルに入ろうとして入れなくなってしまうことがある。 しかしサーバーはデータだけリレーしていくので、たとえ文字コードが違っても何の問題もない。困るのは利用者だけである。 そこで、利用者間で「暗黙の了解」的に使われる文字コードが存在する。ただしあくまで「暗黙の了解」であるため、同じサーバー・ネットワークを利用しているユーザー同士でも、全く関わりのない場合は違う文字コードを使っていることさえある。 2014年8月現在、「IRCnet」や「FriendChat」をはじめとする多くのIRCネットワークでは、暗黙の了解としてよく使われる文字コードは"[[ISO-2022-JP]]"である。これは電子メールでよく使われる文字コードで、単に"JISコード"などと呼ばれるものである。IRCサーバーに接続した際、自動的に送られてくるデータの中に"MOTD"と言う、サーバーのメンテナンスや何かが起こった時の連絡先などが書かれていることの多いデータがあるのだが、それが"ISO-2022-JP"で書かれている(ほかの文字コードで接続すると文字化けする)ことから確かめることができる。 もちろん、他の文字コードを採用したり、「暗黙の了解」ではなく公式として利用する文字コードを指定しているIRCネットワークもある。例えば「irc.cre.jp系IRCサーバ群」では、"[[UTF-8]]"を採用している。ISO-2022-JPでは、一般的に環境依存文字と呼ばれる一部の文字(丸付き数字や絵文字など)や、日本語以外の文字(ハングルなど)が相手のコンピュータで正しく再生されないことがあるが、UTF-8は多くの環境依存文字や多言語にも対応している文字コードである。チャットを楽しんでいる最中に余計な文字化けで水を差されることがまれにあるが、この問題を気にせずに済む<ref>http://www.cre.ne.jp/services/irc/servers</ref>。 またクライアントソフトによっては、複数の文字コードを選択できるようになっている<ref group="注釈">例えばLimeChat2(2.40)の場合、ISO-2022-JPやUTF-8を含め、全部で6種類の文字コードに対応している。</ref>。接続先のIRCネットワークやチャットする相手が使っている文字コードによって、適宜使い分けることが可能である。 == 仕様 == {{IETF RFC|1459}}がIRCに関する最初の[[Request for Comments|RFC]]でその後2000年に{{IETF RFC|2810}}から2813までが出された。現在利用されているIRCのプロトコルはIRC 2が主で、{{IETF RFC|1459}}もIRC 2のものである。 * {{IETF RFC|1459}} * {{IETF RFC|2810}} * {{IETF RFC|2811}} * {{IETF RFC|2812}} * {{IETF RFC|2813}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == <!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク --> {{Wikidata property}} * [[DCC (IRC)]] * [[IRCサーバ]] * [[チャット]] * [[ボットネット]] == 外部リンク == * [http://www.irc.org/ ircdの配布] * [http://www.ircnet.ne.jp/ IRCnet-JP 情報提供サイト] {{インスタントメッセンジャー}} [[Category:RFC|1459]] [[Category:アプリケーション層プロトコル]] [[Category:Internet Relay Chat|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Relay_Chat
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新保守主義
新保守主義(しんほしゅしゅぎ、英: Neoconservatism)とは、旧来の保守と新しい保守の分別のために使われてきたが、特に明確な定義は存在しない。概念は時代と共に変容し、国によっても異なっている。 1950年代には、保守反動を避けつつ漸進的政策や社会福祉の再分配政策を行っていこうとする保守党の路線が新保守主義と言われ、1980年代には、アメリカ合衆国やイギリスなどで、1970年代の社会民主主義や自由主義に代わり誕生したニューライトを稀に新保守主義と呼ぶこともあった。 米国で「ネオコン」と呼ばれる勢力は、1930年代に反スターリン主義左翼として活動した後に「ニューヨーク知識人」と呼ばれるトロツキストたちによるグループである。ニューヨーク知識人の多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の1つであるニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)を根拠地として活躍していたが、アメリカの消極的な対外政策に失望した集団である。アメリカの伝統的な保守主義は対外政策はモンロー主義に則った孤立外交を重視し、他国の人権問題には関心を示さない、あるいは自国の利益のためには(中国などの)独裁国家とも同盟を結ぶとの姿勢であったが、ネオコンの場合は民主主義、ひいては自由主義の覇権を唱え、独裁国家の陥落を外交政策の目的に置くという極めて革新的な思想および外交政策を標榜する。中東においては、唯一の近代民主国家であるイスラエルを基盤に周辺の独裁国家を滅ぼすことが中東問題の解決策であると主張する。 彼らは1970年代に相次いで民主党を離れて共和党へ向かい、第1期レーガン政権で台頭し、主に外交や軍事の分野で強い影響力を持った。レーガン大統領はネオコンのジーン・カークパトリックを外交顧問に指名し、ソ連を「悪の帝国」と呼び、ネオコンの師であるアルバート・ウォルステッターの限定核戦争を採用し、SDI構想など軍備増強を推し進めた。しかし、2期目に入ってからレーガン政権は柔軟姿勢に転換し、カークパトリックらネオコンは事実上追放された。 ブッシュ政権はネオコンの主張を容れてイラク戦争を始めたとされる。口実にした大量破壊兵器は、イラク占領後も見つからず、代わりにアメリカ資本がイラクの石油を押さえた。 残る石油大国はロシア、イラン、リビアなどとなった。リビアにはネオコンのポール・ウォルフォウィッツが謀略を巡らし、ガダフィを失脚、殺害させたといわれる。 イラクとの開戦に導いた、ネオコンの代表的人物ジョン・ボルトンは、その後もイラン爆撃や北朝鮮攻撃を主張している。
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新保守主義とは、旧来の保守と新しい保守の分別のために使われてきたが、特に明確な定義は存在しない。概念は時代と共に変容し、国によっても異なっている。
{{複数の問題|出典の明記=2017年5月|独自研究=2017年5月}} {{保守主義}} '''新保守主義'''(しんほしゅしゅぎ、{{lang-en-short|Neoconservatism}})とは、旧来の[[保守]]と新しい保守の分別のために使われてきたが、特に明確な定義は存在しない。概念は時代と共に変容し、国によっても異なっている。 == 概要 == [[1950年代]]には、保守反動を避けつつ漸進的[[政策]]や[[福祉|社会福祉]]の[[富の再分配|再分配政策]]を行っていこうとする[[保守党 (イギリス)|保守党]]の路線が新保守主義と言われ<ref>広辞苑</ref>、[[1980年代]]には、[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス]]などで、[[1970年代]]の[[社会民主主義]]や[[自由主義]]に代わり誕生した[[ニューライト]]を稀に新保守主義と呼ぶこともあった。 == アメリカ新保守主義 == {{main|新保守主義 (アメリカ合衆国)}} 米国で「'''ネオコン'''」と呼ばれる勢力は、1930年代に[[反スターリン主義]]左翼として活動した後に「[[ニューヨーク知識人]]」と呼ばれる[[トロツキズム|トロツキスト]]たちによるグループである。ニューヨーク知識人の多くは、アメリカの公立大学の中で最も歴史のある大学の1つである[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]](CCNY)を根拠地として活躍していたが、アメリカの消極的な対外政策に失望した集団である。アメリカの伝統的な保守主義は対外政策は[[モンロー主義]]に則った孤立外交を重視し、他国の人権問題には関心を示さない、あるいは自国の利益のためには(中国などの)独裁国家とも同盟を結ぶとの姿勢であったが、ネオコンの場合は[[民主主義]]、ひいては自由主義の覇権を唱え、独裁国家の陥落を[[外交政策]]の目的に置くという極めて[[革新]]的な思想および外交政策を標榜する。中東においては、唯一の近代民主国家である[[イスラエル]]を基盤に周辺の独裁国家を滅ぼすことが[[中東]]問題の解決策であると主張する。 彼らは1970年代に相次いで民主党を離れて共和党へ向かい、第1期レーガン政権で台頭し、主に外交や軍事の分野で強い影響力を持った。レーガン大統領はネオコンの[[ジーン・カークパトリック]]を外交顧問に指名し、ソ連を「[[悪の帝国]]」と呼び、ネオコンの師である[[アルバート・ウォルステッター]]の限定[[核戦争]]を採用し、[[戦略防衛構想|SDI構想]]など軍備増強を推し進めた。しかし、2期目に入ってからレーガン政権は柔軟姿勢に転換し、カークパトリックらネオコンは事実上追放された。 [[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権はネオコンの主張を容れてイラク戦争を始めたとされる<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/item/n/545224/ 詐欺を忘れるな] 西日本新聞 2019年9月22日</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20180330/ddm/005/070/026000c ネオコンとの合体] 毎日新聞 2018年3月30日</ref>。口実にした大量破壊兵器は、イラク占領後も見つからず、代わりにアメリカ資本がイラクの石油を押さえた<ref>p.75『世界を操る支配者の正体』馬渕睦夫 2014年10月</ref>。 残る石油大国は[[ロシア]]、[[イラン]]、[[リビア]]などとなった。リビアにはネオコンの[[ポール・ウォルフォウィッツ]]<ref>[https://www.cnn.co.jp/usa/35088101.html ネオコン代表格、クリントン氏に投票を検討]CNN 2016.08.27</ref>が謀略を巡らし、ガダフィを失脚、殺害させたといわれる。 イラクとの開戦に導いた、ネオコンの代表的人物[[ジョン・ボルトン]]は、その後も[[イラン]]爆撃や北朝鮮攻撃を主張している<ref>[https://www.businessinsider.jp/post-183254 イラン攻撃をめぐる危険な要求] BUSINESS INSIDER 2019年1月17日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{政治思想}} {{DEFAULTSORT:しんほしゆしゆき}} [[Category:アメリカ合衆国の政治史]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係]] [[Category:20世紀の経済]] [[Category:保守主義|しんしゆき]]
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神々
神々(かみがみ、deity または god )とは、神性があり神聖であると考えられている、超自然的な存在である。オックスフォード英英辞典では、deity を「(多神教における)神または女神」、及び神のように畏敬されるものと定義している。C ・スコット・リトルトンは神々を「普通の人々のそれよりも偉大な力を伴った存在ではあるが、人々を普段の人生の閉塞した囚われを越えて、新しい意識の水準へと連れて行くことで、肯定的または否定的に、人々と交流する者である」と定義している。神々は、男神や女神として言及される。 宗教は幾つの神々を崇拝するかによって分類され得る。一神教は(主に神として言及される)唯一神のみを受け入れ、多神教は複数の神々を受け入れている。単一神教は最高神を受け入れるが他の神々を否定せず、それらを同じ神性の原理の側面であると考える。そして非有神的宗教はあらゆる至上で永遠なる創造神を否定するが、生きて死にそしてまた同様の他の存在に生まれるかもしれない神々のパンテオンを受け入れる。 大抵の一神教は伝統的にその神を全能・遍在・全知・全ての善・永久であると見做しているが、 これらの性質は「神々」の定義付けにとって必須ではなく、様々な文化がそれらの神々を異なって概念化した。一神教は概して神を男性形の語で指し示すが、その他の宗教ではそれらの神々を、男性・女性・両性・無性別といった様々な形で言及する。 歴史的に、古代メソポタミア人・エジプト人・ギリシア人・ローマ人・ノース人などの多くの古代の文化が、自然現象を意図的な因果であるとして様々に人格化した。一部のアヴェスターとヴェーダの神々は倫理的な概念として見なされた。インド発祥の宗教では、神々は感覚器官や頭脳としてあらゆる生き物の体内に宿り現れていると想像された。神々は転生後の存在の一形態(輪廻)として描かれた。そこで道徳的な人生を通じて功徳を得た人は守護神となって天国で至福に生きるが、その功徳が失われたら死なねばならないともされた。
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神々(かみがみ、deity または god )とは、神性があり神聖であると考えられている、超自然的な存在である。オックスフォード英英辞典では、deity を「(多神教における)神または女神」、及び神のように畏敬されるものと定義している。C ・スコット・リトルトンは神々を「普通の人々のそれよりも偉大な力を伴った存在ではあるが、人々を普段の人生の閉塞した囚われを越えて、新しい意識の水準へと連れて行くことで、肯定的または否定的に、人々と交流する者である」と定義している。神々は、男神や女神として言及される。 宗教は幾つの神々を崇拝するかによって分類され得る。一神教は(主に神として言及される)唯一神のみを受け入れ、多神教は複数の神々を受け入れている。単一神教は最高神を受け入れるが他の神々を否定せず、それらを同じ神性の原理の側面であると考える。そして非有神的宗教はあらゆる至上で永遠なる創造神を否定するが、生きて死にそしてまた同様の他の存在に生まれるかもしれない神々のパンテオンを受け入れる。 大抵の一神教は伝統的にその神を全能・遍在・全知・全ての善・永久であると見做しているが、 これらの性質は「神々」の定義付けにとって必須ではなく、様々な文化がそれらの神々を異なって概念化した。一神教は概して神を男性形の語で指し示すが、その他の宗教ではそれらの神々を、男性・女性・両性・無性別といった様々な形で言及する。 歴史的に、古代メソポタミア人・エジプト人・ギリシア人・ローマ人・ノース人などの多くの古代の文化が、自然現象を意図的な因果であるとして様々に人格化した。一部のアヴェスターとヴェーダの神々は倫理的な概念として見なされた。インド発祥の宗教では、神々は感覚器官や頭脳としてあらゆる生き物の体内に宿り現れていると想像された。神々は転生後の存在の一形態(輪廻)として描かれた。そこで道徳的な人生を通じて功徳を得た人は守護神となって天国で至福に生きるが、その功徳が失われたら死なねばならないともされた。
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Scott|title=Gods, Goddesses, and Mythology|year=2005|publisher=Marshall Cavendish|location=New York|isbn=978-0-7614-7559-0|page=378|url={{google books |plainurl=y |id=3ufSStXPECkC |page=378 }} |accessdate=28 June 2017 |language=en }}</ref>。神々は、[[:en:God (male deity)|男神]]や[[女神]]として言及される。 [[宗教]]は幾つの神々を崇拝するかによって分類され得る。[[一神教]]は(主に[[神]]として言及される)[[唯一神]]のみを受け入れ<ref>{{cite book|last1=Becking|first1=Bob|last2=Dijkstra|first2=Meindert|last3=Korpel| first3=Marjo|last4=Vriezen |first4=Karel|title=Only One God?: Monotheism in Ancient Israel and the Veneration of the Goddess Asherah|date=2001|publisher=New York|location=London|isbn=978-0-567-23212-0|page=189|url={{google books |plainurl=y |id=eMneBAAAQBAJ|page=189}}|accessdate=28 June 2017|language=en|quote=The Christian tradition is, in imitation of Judaism, a monotheistic religion. This implies that believers accept the existence of only one God. 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{{Reflist |refs = <ref name="OBrien2">{{cite book |last = O'Brien |first = Julia M. |title = Oxford Encyclopedia of the Bible and Gender Studies |year=2014 |publisher=Oxford University Press, Incorporated |isbn=978-0-19-983699-4 |url = {{Google books |plainurl = y |id = ZU-nBAAAQBAJ }} |accessdate=22 June 2017 |language = en }}</ref> <ref name="Bullivant">{{cite book |last1=Bullivant |first1=Stephen |last2=Ruse |first2=Michael |title=The Oxford Handbook of Atheism |year=2013 |publisher=Oxford University Publishing |isbn=978-0-19-964465-0 |url = {{Google books |plainurl = y |id = jbIVAgAAQBAJ }} |accessdate=22 June 2017 |language = en }}</ref> <ref name="Keown">{{cite book |last=Keown |first=Damien |title=Buddhism: A Very Short Introduction |year = 2013 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn = 978-0-19-966383-5 |edition=New |url = {{Google books |plainurl=y |id=_QXX0Uq29aoC }} |accessdate=22 June 2017 |language=en }}</ref> }} == 関連項目 == {{Portal|宗教}} * [[神格化]] * [[:en:Deicide|神殺し]] * [[:en:Hero cult|英雄崇拝]] * [[君主崇拝]] * [[神の一覧]] * [[:en:List of deities in fiction|フィクション上の神々の一覧]] * [[:en:Odinism|オーディン派]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かみかみ}} [[Category:神々|*]]
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DNSサーバ(ディーエヌエスサーバ)は、コンピュータ・ネットワークにおいて、Domain Name System(DNS)の「名前解決」機能が実装されたサーバである。 DNSサーバには、後述するように2種類があり、それぞれ全く異なる働きをするので、「DNSサーバはこのようなことを行う」と説明することはできない。そのためここでは、Domain Name Systemの役割をまず説明する。 インターネットでの通信に際し、URLの中やメールアドレスの中などでの相手先は、IPアドレスが直接指定されることはまず無く、ドメイン名などといった「名前」が使われている。そういった名前から、IPアドレスなどを得る「解決」を行うシステムがDomain Name Systemである。 あるコンピューターが他のコンピュータとインターネットプロトコル(IP)を介して通信する際には、通信の相手となるコンピュータに付与されたIPアドレスを知る必要がある。一方、URLなどには(IPアドレスを、直接指定することもできるが)、もっぱらドメイン名を使って対象を記述する。ドメイン名から、IPアドレスなどといった必要な情報を得る(名前を解決する)ために、ネットワーク上で情報を提供する仕組みがDomain Name Systemであり、それを担う各サーバがDNSサーバである。 DNSサーバは分散型データベースの1ノードとして機能している。DNSサーバには以下の2種類がある。 DNSサーバが持つ「ゾーン情報」(ゾーンファイル)を他のDNSサーバから取得し、同期する仕組みを「DNSゾーン転送」と言う。 DNSサーバは、ドメインの持ち主が情報を提供するための「DNSコンテンツサーバ」と、ネットワークの利用者(ドメイン名システム(DNS)の利用者)が名前解決に利用するための「DNSキャッシュサーバ」の2種類に大別できる。 両者は全く違うものだが、これらを総称して「DNSサーバ」と呼ぶ。コンテンツサーバはドメインの持ち主が管理することもできるが、多くの場合、プロバイダやレンタルサーバ業者などが提供しているものを利用する。キャッシュサーバは、接続プロバイダなどがほとんどの場合に用意しており、「インターネットを利用するための機器の設定」にその設定が含まれていたり、あるいはDHCPでIPアドレス等と一緒に自動的に設定してしまうことが専らであるが、ユーザのLAN内に(あるいは端末自身の中のサーバとして)用意して、そちらを使うこともできる(分散システム的な観点からは、そのほうが望ましい)。DNSの仕組み上キャッシュすることが前提の設計になっているため、キャッシュを持っていて「キャッシュサーバ」と専ら呼ばれるのであるが、中継するのみでキャッシュしない、いわゆるプロキシ的な動作をするものもある。 BINDなどのDNSサーバソフトウェアでコンテンツサーバとキャッシュサーバの両方の設定が行えるため、誤った設定によりセキュアでない状態で運用されてしまうことが指摘されている。 DNSコンテンツサーバの役割は、Domain Name Systemにおいて、ドメインの管理情報、すなわち、自ゾーンの管理するサーバのIPアドレスなどの各種リソースレコード(RR)と、ドメインの委任に関する情報を保持し、問い合わせ要求があったときに応答することである。 DNSサーバが保持する「ゾーン情報」(ゾーンファイル)内のリソースレコード(資源レコード)の種類の例を以下に示す。 など。 なお、ドメイン名からIPアドレスを検索する事を正引きと呼び、反対にIPアドレスからドメイン名を検索することを逆引きと呼ぶ。 コンテンツサーバの役割での「プライマリサーバ」と「セカンダリサーバ」は、マスタとスレーブの関係にある。類似の用語である、オペレーティングシステムのネットワーク構成で指定する「DNSサーバ設定」の「優先」「代替」とは全く無関係であり、混同しないよう注意したい(#OSで指定する「DNSサーバ」)。 DNSサーバが応答不能になれば、管理しているゾーン内のコンピューターが提供しているサービスを利用できなくなり、誤った情報を回答するとクライアントコンピューターは意図していないノードにアクセスしてしまうことになる。 健全な利用環境を確保するために、DNSサーバのリソースレコードの改ざんやDoS攻撃を防ぐよう、DNSサーバソフトウエアおよびOSの設定やセキュリティ更新プログラムの適用、コンテンツサーバの多重化(セカンダリサーバを公開し、プライマリサーバは非公開とするなど)、ファイアウォールや侵入防止システムの導入などにより対策を講じる必要がある。 電子署名を用いてDNSの応答が正しいことを検証する「DNSSEC」機能が提供されている。 DNSSECにおいて、電子署名の正当性検証に使われる最上位の暗号鍵である「ルートゾーンKSK」を更新する際に、EDNSによるIPフラグメンテーションが発生するほどのサイズの応答データが発生するが、通信設定が対応できていないDNSで通信ができず、DNSSECによる正当性検証ができなくなり、インターネットの利用に問題が発生する。 これは、「ルートゾーンKSK」が2016年まで更新されてこなかったために問題になっていなかったが、2016年10月から2018年3月にかけて、 順次変更を行うことになったために顕在化した問題である。特に2017/09/19、2017/12/20、2018/01/11から始まる更新では、IPフラグメンテーションが発生しない1280bytesを超える1414~1424Bytesの応答データが発生するために、問題が発生する。 基本的には、DNSの運用責任者がソフトウェアのアップデートや設定変更で対応すべきものであるが、一般消費者向けのルータに内蔵されているDNS Proxyでも問題が発生する可能性があり、インターネットの利用に問題が発生する場合がある。 DNSキャッシュサーバの役割は、DNSクライアント(ウェブブラウザなど、ドメイン名を利用する何らかのアプリケーション等)からの再帰的問い合わせによって名前解決の依頼を受け、非再帰的問い合わせを行い名前を解決することである。たとえば、Webブラウザで、www.wikipedia.orgなどを入力した際、そのコンピュータがまず名前解決しに行くのがDNSキャッシュサーバである。 DNSキャッシュサーバ自身については、直接なんらかの方法でそのIPアドレスを設定する。近年のLinux環境などでの典型としては、ネットワークインタフェースの立ち上げ時に、DHCPによって受け取ったかネットワーク設定スクリプトに書き込まれているものが、設定ファイル(典型的には /etc/resolv.conf )に書き込まれる。あるいは古典的には /etc/resolv.conf は静的な設定ファイルであった。 名前解決における問い合わせには、再帰的問い合わせと非再帰的問い合わせ(反復問い合わせ)の2種類がある。典型的で単純な例で説明すると、ユーザプログラムからlibcの gethostbyname (3) を通して、/etc/resolv.conf で設定されたDNSキャッシュサーバへの問い合わせが再帰的問い合わせで、キャッシュサーバが行う、DNSコンテンツサーバ群への繰返しの問い合わせが非再帰的問い合わせである。 代表的なDNSサーバソフトウエアは次のものがある。 DNSサーバの中には、DNSコンテンツサーバとDNSキャッシュサーバが別々になっているものもあれば、両方機能を搭載するものもある。 PCに搭載されるWindowsやmacOS、携帯端末に搭載されるiOSやAndroidをはじめとする、ネットワーク通信可能なオペレーティングシステムには、ネットワーク関連の設定に「DNSサーバ」のIPアドレスを指定する項目がある。一般に gethostbyname(3) といったようなライブラリ関数による処理の中で、これらの設定に従い、DNSキャッシュサーバへの問い合わせ等が行われる。 これらの情報は、DHCPによる管理下にあるネットワークでは、DHCPサーバから(割当IPアドレス情報とあわせて)受け取ることが可能である場合もある。管理ポリシーによっては、それに従うよう要求されている場合もある。 大抵、複数のDNSサーバを指定可能になっている。DNSサーバへ問い合わせる際に優先順位の高い順に行い、応答がない場合(該当DNSサーバが停止、通信経路で障害発生など)に次位(代替)以降のDNSサーバへ問い合わせを行うようになっている。
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DNSサーバ(ディーエヌエスサーバ)は、コンピュータ・ネットワークにおいて、Domain Name System(DNS)の「名前解決」機能が実装されたサーバである。
{{出典の明記|date=2023年1月}} '''DNSサーバ'''(ディーエヌエスサーバ)は、[[コンピュータネットワーク|コンピュータ・ネットワーク]]において、[[Domain Name System]](DNS)の「名前解決」機能が実装された[[サーバ]]である。 == 概要 == DNSサーバには、後述するように2種類があり、それぞれ全く異なる働きをするので、「DNSサーバはこのようなことを行う」と説明することはできない。そのためここでは、Domain Name Systemの役割をまず説明する。 インターネットでの通信に際し、URLの中やメールアドレスの中などでの相手先は、[[IPアドレス]]が直接指定されることはまず無く、[[ドメイン名]]などといった「名前」が使われている。そういった名前から、IPアドレスなど<ref group="注">MXレコードなどはIPアドレス以外に解決される。他にも近年はメイルの返信元の真正性確認などに使われるTXTフィールドなどがある。設計上は任意の拡張が容易なように作られている(たとえば、IPv6のために追加されたAAAAレコードなど)。</ref>を得る「解決」を行うシステムがDomain Name Systemである。 あるコンピューターが他のコンピュータと[[インターネットプロトコル]](IP)を介して通信する際には、通信の相手となるコンピュータに付与されたIPアドレスを知る必要がある。一方、URLなどには(IPアドレスを、直接指定することもできるが)、もっぱら[[ドメイン名]]を使って対象を記述する。ドメイン名から、IPアドレスなどといった必要な情報を得る(名前を解決する)ために、ネットワーク上で情報を提供する仕組みがDomain Name Systemであり、それを担う各サーバがDNSサーバである。<!-- [[ウェブブラウザ]]や[[メールサーバ]]などの[[ネットワーク]][[アプリケーション]]は、[[オペレーティングシステム]]を介して、[[Uniform Resource Locator]](URL)に示されたドメイン名のIPアドレスや、[[メールアドレス]]に応じた配送先メールサーバなどを知るために、DNSサーバに問い合わせを行う。DNSサーバに対して問い合わせを行う[[クライアント]]を特に[[リゾルバ]]と呼び、リゾルバは[[Webブラウザ]]などが動作しているコンピュータだけでなく、他のDNSサーバへ問い合わせを行うDNSサーバである場合もある。 --> DNSサーバは[[分散型データベース]]の1ノードとして機能している。DNSサーバには以下の2種類がある。 * [[#DNSコンテンツサーバ]] - 自らの「ゾーン」(ドメイン名空間)について、情報を管理し問い合わせに回答する。独自のドメイン名をドメインレジストラで登録する際、「そのドメイン名を管理するDNSサーバ」として指定するのがDNSコンテンツサーバである。 ** 社内専用など、一般に公開しないゾーンを管理するコンテンツサーバというようなものもある。当然ながら、レジストラへの登録の必要はない。 ** コンテンツサーバについては、「権威DNSサーバ」という用語もある。コンテンツサーバという語は上記のような役割のサーバ全般の総称であるのに対し、権威DNSサーバは例えば「wikipedia.orgドメインの(wikipedia.orgドメインが管理・委譲している情報を持っている(それに関して権威がある))権威DNSサーバ」といったように、個々のドメインとの関係を意味する。 * [[#DNSキャッシュサーバ]] - 依頼された問い合わせに応じて、コンテンツサーバへ必要な問い合わせを行い、結果を依頼元に返す。結果を再利用できるよう、一定期間自らキャッシュする。 ** フルリゾルバ・フルサービスリゾルバ・キャッシュDNSサーバとも呼ばれる。 <!-- また一般的な利用者がコンピュータのネットワークを設定する際、「DNSサーバ」として指定するのがDNSキャッシュサーバである。これはそのコンピュータのリゾルバが最初に問い合わせるDNSキャッシュサーバの[[IPアドレス]]を指定するものであり、[[Windows]]などでは[[コントロールパネル (Windows)|コントロールパネル]]の「ネットワーク設定」、あるいは[[UNIX]]の<tt>/etc/resolve.conf</tt>などへの設定が該当する。 DNSキャッシュサーバのIPアドレスを知るためにDNSキャッシュサーバを使うことはできないので、リゾルバはあらかじめDNSキャッシュサーバのIPアドレスを知っている必要がある。前述のように利用者が手動で指定する場合のほかに、[[Dynamic Host Configuration Protocol]](DHCP)により自動的に設定する方法が多い。 --><!-- 名前解決する方法にも2種類ある。 * 再帰検索 - リゾルバからの問い合わせの要求を受け取ったDNSサーバが、他のDNSサーバに対して問い合わせを行い、その結果をリゾルバに返答する方法。 * 非再帰検索 - リゾルバからの問い合わせの要求を受け取ったDNSサーバが、管理下のゾーンやキャッシュされた情報を返答するか、またはそれらの情報が無いという応答をする方法。 単純な問い合わせ機能しか持たないリゾルバ(スタブリゾルバ)がDNSキャッシュサーバに要求する場合には再帰検索の要求が行われる。それによりDNSキャッシュサーバは、キャッシュされた情報が無ければ他のDNSサーバに対して問い合わせを行う。 DNSキャッシュサーバが他のDNSサーバに非再帰検索で要求すると、問い合わせを受けたDNSサーバ(通常はDNSコンテンツサーバ)は自らが知っている情報を応答する。 リゾルバが問い合わせた内容に対して、より適切な情報を持っているDNSサーバを示す応答を受け取った場合、再帰検索を要求されていたDNSキャッシュサーバはそのDNSサーバに対して問い合わせを行い、名前解決の結論が出るまで繰り返す。このように問い合わせを繰り返すリゾルバをフルリゾルバと呼ぶ。 --> DNSサーバが持つ「'''ゾーン情報'''」(ゾーンファイル)を他のDNSサーバから取得し、同期する仕組みを「'''[[DNSゾーン転送]]'''」と言う。 == コンテンツサーバとキャッシュサーバ == DNSサーバは、ドメインの持ち主が情報を提供するための「'''DNSコンテンツサーバ'''」と、ネットワークの利用者(ドメイン名システム(DNS)の利用者)が名前解決に利用するための「'''DNSキャッシュサーバ'''」の2種類に大別できる。 '''両者は全く違うもの'''だが、これらを総称して「DNSサーバ」と呼ぶ。コンテンツサーバはドメインの持ち主が管理することもできるが、多くの場合、プロバイダやレンタルサーバ業者などが提供しているものを利用する<ref group="注">特に、可用性を上げるためのセカンダリサーバは、上流のネットワークなどができるだけ別系統であることが望ましく、2系統のネットワークを持たない場合などには外部に出すのが現実的なことが多い。</ref>。キャッシュサーバは、接続プロバイダなどがほとんどの場合に用意しており、「インターネットを利用するための機器の設定」にその設定が含まれていたり、あるいはDHCPでIPアドレス等と一緒に自動的に設定してしまうことが専らであるが、ユーザのLAN内に(あるいは端末自身の中のサーバとして)用意して、そちらを使うこともできる(分散システム的な観点からは、そのほうが望ましい)。DNSの仕組み上キャッシュすることが前提の設計になっているため、キャッシュを持っていて「キャッシュサーバ」と専ら呼ばれるのであるが、中継するのみでキャッシュしない、いわゆるプロキシ的な動作をするものもある。 BINDなどのDNSサーバソフトウェアでコンテンツサーバとキャッシュサーバの両方の設定が行えるため、誤った設定によりセキュアでない状態で運用されてしまうことが指摘されている。<ref>{{Cite web|和書|title=DNSサーバの脆弱性に関する再度の注意喚起:IPA 独立行政法人 情報処理推進機構 |url=https://www.ipa.go.jp/security/vuln/documents/2008/200812_DNS.html |website=www.ipa.go.jp |accessdate=2022-03-10}}</ref> == DNSコンテンツサーバ == DNSコンテンツサーバの役割は、[[Domain Name System]]において、ドメインの管理情報、すなわち、自ゾーンの管理するサーバのIPアドレスなどの各種リソースレコード(RR)と、ドメインの委任に関する情報を保持し、問い合わせ要求があったときに応答することである。 DNSサーバが保持する「ゾーン情報」(ゾーンファイル)内の'''リソースレコード'''(資源レコード)の種類の例を以下に示す。 {{main|DNSレコードタイプの一覧}} ; リソースレコードの例 * Aレコード : 名前に対する[[IPv4]]アドレス * AAAAレコード : 名前に対する[[IPv6]]アドレス * PTRレコード : 逆引き(IPアドレスに対する名前)たとえば 198.51.100.234 というIPアドレスを逆引きするには 234.100.51.198.in-addr.arpa という名前のPTRレコードを問い合わせればよい * NSレコード : そのゾーンの権威あるDNSコンテンツサーバの名前 * MXレコード : {{main|MXレコード}}そのゾーンのメールサーバの名前 * SOAレコード : ゾーンそのものの情報 * CNAMEレコード : その名前に対する別名 * TXTレコード : テキスト情報 * DNSKEYレコード/RRSIGレコード : [[DNS Security Extensions|DNSSEC]]のための公開錠/署名 など。 ; wikipedia.orgのDNSコンテンツサーバの例 : このDNSコンテンツサーバは、ja.wikipedia.orgやwww.wikipedia.orgなどwikipedia.orgゾーンの各種リソースレコードを保持している。ただし、orgゾーンに保持されているIPアドレスは知らない(間違った設定によってorgのNSレコードをキャッシュで答えてしまうサーバも実際には多く存在する)。このDNSコンテンツサーバは、ja.wikipedia.orgのIPアドレスを教えるよう要求を受けると、自らが保持しているコンテンツから、ja.wikipedia.orgのIPアドレスを探し、その情報を含めた返答を返す。 なお、[[ドメイン名]]から[[IPアドレス]]を検索する事を[[正引き]]と呼び、反対にIPアドレスからドメイン名を検索することを[[逆引き]]と呼ぶ。 === プライマリサーバとセカンダリサーバ === コンテンツサーバの役割での「プライマリサーバ」と「セカンダリサーバ」は、マスタとスレーブの関係にある。類似の用語である、オペレーティングシステムのネットワーク構成で指定する「DNSサーバ設定」の「優先」「代替」とは全く無関係であり、混同しないよう注意したい([[#OSで指定する「DNSサーバ」]])。 ;プライマリサーバ:ゾーン情報を自ら管理し、自らのゾーン情報に関する問い合わせに回答したり、セカンダリサーバへ配信したりする。[[Windows Server]]同梱のDNSサービスにある動作モード「[[Active Directory]]統合ゾーン」は、プライマリサーバとしての役割に機能拡張<ref>http://technet.microsoft.com/ja-jp/library/cc731204.aspx</ref>がされたものである。 ;セカンダリサーバ:担当するゾーンに関する問い合わせに回答するが、自らはゾーン情報を管理せずプライマリサーバから受け取ったゾーン情報を保持している。 === セキュリティ === DNSサーバが応答不能になれば、管理しているゾーン内のコンピューターが提供しているサービスを利用できなくなり、誤った情報を回答するとクライアントコンピューターは意図していないノードにアクセスしてしまう<ref group="注">フィッシングサイトなど悪意のあるウェブサーバへ誘導されてしまったり、メールの転送先を変更され窃取されたりすることになる。</ref>ことになる。 健全な利用環境を確保するために、DNSサーバのリソースレコードの改ざんや[[DoS攻撃]]を防ぐよう、DNSサーバソフトウエアおよびOSの設定やセキュリティ更新プログラムの適用、コンテンツサーバの多重化(セカンダリサーバを公開し、プライマリサーバは非公開とするなど)、[[ファイアウォール]]や[[侵入防止システム]]の導入などにより対策を講じる必要がある。 電子署名を用いてDNSの応答が正しいことを検証する「[[DNS Security Extensions|DNSSEC]]」機能が提供されている。 ==== KSKロールオーバー問題 ==== DNSSECにおいて、電子署名の正当性検証に使われる最上位の暗号鍵である「ルートゾーンKSK」を更新する際に、EDNSによるIPフラグメンテーションが発生するほどのサイズの応答データが発生するが、通信設定が対応できていないDNSで通信ができず、DNSSECによる正当性検証ができなくなり、インターネットの利用に問題が発生する。 これは、「ルートゾーンKSK」が2016年まで更新されてこなかったために問題になっていなかったが、2016年10月から2018年3月にかけて、 順次変更を行うことになったために顕在化した問題である。特に2017/09/19、2017/12/20、2018/01/11から始まる更新では、IPフラグメンテーションが発生しない1280bytesを超える1414~1424Bytesの応答データが発生するために、問題が発生する。 基本的には、DNSの運用責任者がソフトウェアのアップデートや設定変更で対応すべきものであるが、一般消費者向けのルータに内蔵されているDNS Proxyでも問題が発生する可能性があり、インターネットの利用に問題が発生する場合がある。 == DNSキャッシュサーバ == DNSキャッシュサーバの役割は、DNSクライアント(ウェブブラウザなど、ドメイン名を利用する何らかのアプリケーション等)からの再帰的問い合わせによって名前解決の依頼を受け、非再帰的問い合わせを行い名前を解決することである。たとえば、Webブラウザで、www.wikipedia.orgなどを入力した際、そのコンピュータがまず名前解決しに行くのがDNSキャッシュサーバである。 DNSキャッシュサーバ自身については、直接なんらかの方法でそのIPアドレスを設定する。近年のLinux環境などでの典型としては、[[ネットワークインタフェース]]の立ち上げ時に、[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]によって受け取ったかネットワーク設定スクリプトに書き込まれているものが、設定ファイル(典型的には <tt>/etc/resolv.conf</tt> )に書き込まれる。あるいは古典的には <tt>/etc/resolv.conf</tt> は静的な設定ファイルであった。 === 再帰的問い合わせと非再帰的問い合わせ === 名前解決における問い合わせには、再帰的問い合わせと非再帰的問い合わせ(反復問い合わせ)の2種類がある。典型的で単純な例で説明すると、ユーザプログラムからlibcの <code>gethostbyname</code> (3) を通して、<tt>/etc/resolv.conf</tt> で設定されたDNSキャッシュサーバへの問い合わせが再帰的問い合わせで、キャッシュサーバが行う、DNSコンテンツサーバ群への繰返しの問い合わせが非再帰的問い合わせである。 ;再帰的問い合わせ:名前解決がされたのであれば、その完全な結果を、できなかった場合は「存在しない」とするやはり完全な結果を求める問い合わせである。ユーザのパーソナルコンピュータなどといった端末から、DNSキャッシュサーバに対して送られる。 ;非再帰的問い合わせ:反復問い合わせとも。この問い合わせを受けたDNSコンテンツサーバは、自分自身が持っている情報であればそれを、委任している情報であればそのこと(委任情報)を返す。DNSキャッシュサーバはその内容に応じて次々と問い合わせを反復する(一般的には[[ルートサーバ]]から順にドメインツリーをたどる)。 == 実装 == 代表的なDNSサーバソフトウエアは次のものがある。 DNSサーバの中には、DNSコンテンツサーバとDNSキャッシュサーバが別々になっているものもあれば、両方機能を搭載するものもある。 * [[BIND]] * [[djbdns]] - コンテンツサーバであるtinydnsとキャッシュサーバであるdnscacheからなる * [[Dnsmasq]] * [[Microsoft DNS Server]] * [[NSD (ソフトウェア)|NSD]] * [[Unbound]] * [[Knot DNS]] * [[PowerDNS]] * [[Yadifa]] *XACK DNS - 国産のDNS製品 == 端末で指定する「DNSサーバ」 == PCに搭載される[[Microsoft Windows|Windows]]や[[macOS]]、携帯端末に搭載される[[iOS]]や[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]をはじめとする、ネットワーク通信可能なオペレーティングシステムには、ネットワーク関連の設定に「DNSサーバ」のIPアドレスを指定する項目がある<ref group="注">Windowsでは、[[コントロールパネル (Windows)|コントロールパネル]]のネットワーク設定、macOSでは「システム環境設定」の「ネットワーク」、Unix系では<tt>/etc/resolve.conf</tt>など</ref>。一般に gethostbyname(3) といったようなライブラリ関数による処理の中で<ref group="注">「オペレーティングシステムが名前解決を必要とした際」ではない。</ref>、これらの設定に従い、DNSキャッシュサーバへの問い合わせ等が行われる。 これらの情報は、DHCPによる管理下にあるネットワークでは、[[DHCP|DHCPサーバ]]から(割当IPアドレス情報とあわせて)受け取ることが可能である場合もある<ref group="注">DHCPサーバから得た情報で設定する場合の指定項目は「DNSサーバのアドレスを自動的に取得する」などと表現されている。</ref>。管理ポリシーによっては、それに従うよう要求されている場合もある。 大抵、複数のDNSサーバを指定可能になっている。DNSサーバへ問い合わせる際に優先順位の高い順に行い、応答がない場合(該当DNSサーバが停止、通信経路で障害発生など)に次位(代替)以降のDNSサーバへ問い合わせを行うようになっている。<!--クライアントコンピュータが名前解決できないと、電子メールやウェブサーバの利用ができなくなってしまうため、DNSサーバの[[可用性]]は大変重要である。--><!--最後のこの文は、OSで指定する「DNSサーバ」の話題じゃない--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 外部リンク == * [https://www.ipa.go.jp/security/vuln/documents/2008/200809_DNS.html 情報処理推進機構:DNSキャッシュポイズニングの脆弱性に関する注意喚起] * [https://dnsops.jp/ 日本DNSオペレーターズグループ] * [http://www.dns.jp/ JP DNS Web Page] == 関連項目 == * [[Domain Name System]] * [[ダイナミックドメインネームシステム]] * [[リゾルバ]] * [[DNSルートゾーン]] * [[DNS over HTTPS]] * [[DNS64]] === パブリックなキャッシュDNSサーバ === *[[Quad9]] * [[1.1.1.1]] * [[OpenDNS]] * [[Google Public DNS]] *[[ヤンデックス|Yandex.DNS]] {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:ていえぬえすさあは}} [[Category:Domain Name System]] [[Category:サーバ]] [[de:Domain Name System#Nameserver]]
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イラク戦争
イラク戦争(イラクせんそう)とは、アメリカ合衆国が主体となり、2003年3月20日からイギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題での、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とする、『イラクの自由作戦』の名の下にバアス党政権下のイラクへ侵攻がなされたことで始まった軍事介入である。 この戦争で日本は戦後初めてPKO活動外での自衛隊派遣を行い、有志連合の一員として参加し、主にイラク南部においてインフラ整備、治安維持任務を実施した。 正規軍同士の戦闘は2003年中に終了し、同年5月にジョージ・W・ブッシュ米大統領により「大規模戦闘終結宣言」が出たが、アメリカが指摘した大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。2010年8月31日にバラク・オバマ米大統領により改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。 2011年12月14日、米軍の完全撤収によってオバマ大統領が、イラク戦争の終結を正式に宣言した。 戦争の名称は、戦争の場となった国名・地名を付けることが多く(バルカン戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争など)、この慣例から「イラク戦争」の名称が一般的である。ただし、この名称はアメリカの立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。 また、大規模戦闘終結宣言はブッシュ米大統領が2003年5月に一方的に行っているが、改めてオバマ米大統領が2010年8月に終結宣言を出しており、さらには同大統領により2011年のアメリカ軍のイラクからの完全撤退に際してイラク戦争終結宣言が出されており、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてか英語版ウィキペディアでは、2003年の戦争を2003 invasion of Iraq = 2003年イラク侵攻としており、大規模戦闘終結宣言以降の戦闘状況から2011年12月までの米軍のイラクからの完全撤退までも合わせてIraq war = イラク戦争としている。 アラビア語でも様々な呼称があるが、アラビア語版ウィキペディアではアメリカのイラク侵攻(الغزو الأمريكي للعراق)、あるいはイラン・イラク戦争を第1次と数えて第3次湾岸戦争(حرب الخليج الثالثة)などとも呼ばれている。 1991年の湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)において、イラクに大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、国連は主に米英の人間で構成された「UNSCOM」(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)を設置し、イラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査した。イラク側もこれを受け入れ、1998年頃までは大きな混乱はなかった。ところがUNSCOMは事前通達を伴う従来の方式から抜き打ち方式に調査方法を変更し、イラクはUNSCOMの査察に協力的ではなくなり受け入れを拒否した。 また、アメリカは国際連合安全保障理事会決議688を根拠としてイラク北部に飛行禁止空域を設定し、1992年にはフランス、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定した。これに反発したイラクは、地対空ミサイルの配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行った。このため制裁措置として米英両国はイラク軍施設に対して攻撃を繰り返した。 1995年、元イラク国防相フセイン・カーミル・ハサンの亡命の際に国連、MI6、CIAの三者による聴取が行われ湾岸戦争の後に生物・化学兵器およびミサイルを全て破壊したことをハサンは供述したが、一方で、査察終了後に再度生産する意図があるとも述べた。これを受けUNSCOMは抜き打ち調査をするようになり、イラク政府の対応が消極的になっていった。 1998年にUNSCOMはイラクにはミサイルと核兵器は無く、化学兵器もほとんどないと考えてよいが生物兵器が疑問であるとする報告を行った。同年12月、空爆やイラク政府の非協力によりUNSCOMの査察活動は停止した。1999年12月にはUNSCOMにかわり「UNMOVIC」(国際連合監視検証査察委員会)を設置するという国際連合安全保障理事会決議1284が採択された。この採択ではロシア、フランス、中国が棄権しており、イラクも受け入れを拒否した。 2001年にアメリカ大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは、就任直後からIAEAの核査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃から米英両国の国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。強硬論が高まった背景としては、国連主導の経済制裁に緩みが発生し、密貿易で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった。2月には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための米英両軍による空爆が行われた。 6月、アメリカとイギリスは2001年11月に期限が切れる『石油と食糧の交換計画』に代わるイラクに対する経済制裁案である「スマート・サンクション」の導入を提案した。しかし、ロシアと中国の強硬な反対により、従来の制裁が継続されることになった(国際連合安全保障理事会決議1328(英語版))。 9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。世界各国からテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、当時のイラク国営放送のコメンテーターは第一報として対米テロ攻撃を「アメリカがこれまで犯してきた人道への犯罪に対する結果だ」と論評した。この報道は、アメリカ側のイラクに対する心証を悪化させたものの、アメリカ政府はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた。10月20日になって、サッダーム・フセイン大統領はアメリカ市民に対する弔意を初めて示した。 アメリカ政府内ではフセイン政権の完全な武力征伐が安定への最善の方法であるという対イラク強硬派のポール・ウォルフォウィッツ国防副長官、リチャード・パール国防省国防政策諮問委員長などの発言力が強まり、イラクに対する政権転覆を狙った軍事行動を取るべきであるという見解が度々持たれた。11月にアメリカはクウェートへ2000人の増派を行った。 ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、2002年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。 一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にベンヤミン・ネタニヤフ首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月にシモン・ペレス外相がCNNの取材に対し「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)ビン=ラーディンと同じくらい危険」と答えた。アリエル・シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めた。また、ヘブライ大学教授のシュロモ・アヴィネリ(英語版)は、『ロサンゼルス・タイムズ』にイラク戦争反対派を1930年代のナチス・ドイツへの宥和政策になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。 2002年11月8日、国連では、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難したが、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があった。これに対して、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。12月7日にイラクは膨大な量の申告書を提出した。 2003年1月9日、UNMOVIC委員長のハンス・ブリックスとIAEA事務局長のモハメド・エルバラダイは国連安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」があるとした。また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察に対する非協力的な態度も明らかになった。1月16日には化学兵器搭載可能なミサイル14基の存在が不明であるとUNMOVICによって説明され、イラクが長距離弾道ミサイルに該当しないとしていたアルサムード2の射程が安保理決議違反であると認定されたほか、炭疽菌、タブン、ソマンなどの生物兵器・化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容があるとされていた。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。 2月14日から2月16日にかけて、カトリックの信徒でもあるイラク副首相のターリク・ミハイル・アズィーズはバチカンとイタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。 3月7日、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。米英両国に加え、この時点で理事国ではない日本は、態度が不明確な非常任理事6か国に決議賛成の根回しを行ったが、失敗した。このため、フランスが拒否権を行使せずとも決議否決となる可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議なしでの攻撃に踏み切ることにした。 3月17日、ブッシュ大統領は全米向けテレビ演説を行い、48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう勧告し、全面攻撃の最後通牒を行った。2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。 イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声が強かったが、それを押し切った形での開戦となった。 また、アメリカに合わせて武力行使を支持したイギリスのトニー・ブレア政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日にロビン・クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日にフィリップ・ハント(英語版)保健担当、ジョン・デナム(英語版)内務担当両政務次官が辞任。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた。 米英両国が主張した開戦事由は次の通り。 まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連安保理決議1154、1441に基づき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決議687)を破棄し、なおかつ米英の先制的自衛権の行使として起こったものである。 フランス、ドイツなどは開戦するなら決議1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、決議1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及びその同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、地中海にいた原子力空母「シャルル・ド・ゴール」のペルシャ湾派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。 ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やディック・チェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたため、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の「大義」が失われたという批判が巻き起こる結果となった。 2004年6月25日、ポーランド軍はイラクの遺棄された化学兵器を発見した。 亡命イラク人が、フセイン政権打倒のために、大量破壊兵器を保有しているとの情報を捏造し、アメリカ当局に伝えたとの疑惑が浮上している。イギリスの『ガーディアン』紙によると、ある亡命イラク人男性が既に捏造を認めているという。 後に元財務長官のポール・オニールが「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」した。 開戦時のCIA長官だったジョージ・J・テネットは「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、ジョゼフ・ウィルソン元駐ガボン大使が2003年7月6日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿した記事に端を発したプレイム事件によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている。 またプレイム事件などの裁判などでも、ブッシュ政権におけるブッシュ大統領やチェイニー副大統領ら複数の政府高官らによる情報操作とその関わりについて 裁判の中で語られている。 ブッシュは開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。 戦争の経過はイラク戦争の年表を参照。 イラクをサウジアラビアの軍事基地の代替地として確保し、サウジアラビアから米軍部隊を移転することでムスリム(イスラム教徒)の反米感情を和らげ、テロの発生を予防する。ビン=ラーディンは湾岸戦争の際、イスラム教の聖地メッカのあるサウジに異教徒の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守るためという名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していたため、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった。 イラクを民主国家にし、資本主義経済を根付かせる事で将来起こるであろう石油枯渇による中東経済の混乱を最小限に抑える。 イラクを親米化させることで中東(イラン、シリア、その他反米の諸国)に「民主化のドミノ倒し」を起こさせる(いわゆるドミノ理論)。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある。ブッシュ政権中枢で影響力を持ちイラク戦争を強く支持したネオコングループでは、フセインがアラブ世界で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルは親パレスチナ、反イスラエル路線のフセイン政権を脅威と見ていたから、国民レベルでも開戦支持が反対を上回った数少ない国の一つだった。イスラエルは、イラクを穏健路線のヨルダン(ハーシム家)に統治させる戦略を打ち出していた。そのため、イスラエル・ロビーが開戦を働き掛けたと指摘されている。 後に逮捕されたフセインは、ブッシュの意図を見誤り、空爆程度で収まると考えていたため、強気の発言をしていたと語っている。また大量破壊兵器の存在を示唆することで、中東諸国におけるプレゼンスを高める狙いがあったとされる。 フランス・ロシア・中国の各国は石油や開発プロジェクトを巡ってイラクと良好な関係にあり、このためこの国連安保理常任理事国の3カ国が武力行使に反対する姿勢を崩さなかった背景にはその利益を守ろうとする動機があったとも言われている。また、この3カ国は武器輸出も行っており、イラク軍の保有する兵器の大半はロシア・フランス・中国製で国際社会から武器禁輸を受ける湾岸戦争前はこの3カ国はイラクの武器輸入の90%も占めていた。また、ペルシャ湾への空母「シャルル・ド・ゴール」派遣を準備していたにもかかわらず中止したフランスはイラクに多額の借款を持っており、戦争による体制の崩壊で当該借款が回収不能になることが危惧された。中国はフセイン政権時代の1997年にアルアーダブ油田の権益を得ており、イラクが戦後初めて外国企業との油田開発契約を結んだ相手も中国のCNPCでこの権益を保った。 また、国連においてもイラク関連人道支援事業石油食料交換プログラムに関わる汚職が後に問題となった。これは経済制裁を受けていたイラクが石油と食料や衣料品を交換するという国連の事業であり、この計画に関与したブトロス・ブトロス=ガーリ元事務総長のファミリー企業やベノン・セバン(英語版)事務次長(当時)、コフィー・アナン元事務総長の長男コジョ(英語版)が密輸やイラク政府、関連企業からの賄賂によって利益を得ていたという事件である。イラクを軍事支援していたロシア、フランス、中国がこの計画で最も利益を得ていた。フセイン政権がこの計画で不正に得た収益は19億ドルにのぼるとされており、そのための賄賂と見られている。なお、国連に懐疑的なブッシュ政権や戦争賛成国のイギリスやオーストラリアにはイラク戦争前に本来構内は不可侵とされている国連本部を盗聴していたとする国連盗聴疑惑(英語版)も起き、実際に盗聴器が設置されていたことがわかっている。 開戦直後の各国の反応は以下の通りであった。 イギリスのブレア首相は政府声明として、アメリカの武力行使を支持し、共に参戦すると表明。参戦の際の声明では、かつてウィンストン・チャーチル元首相が発した「陸海空から」という文言が用いられた。 日本の小泉純一郎首相は記者会見で、「アメリカの武力行使を理解し、支持いたします」と表明した。後に明らかになったことだが、小泉の同声明は外務省の事務方が用意した文書よりも踏み込んだ内容になっている。文書では「理解する」との表現が盛り込まれていたが、開戦の際の記者会見では小泉は「支持」という踏み込んだ文言を用いた。また、開戦前から安保理理事国にアメリカ支持を働きかけていた。 オーストラリアもアメリカの武力行使を支持し、空軍の戦闘攻撃機、海軍のフリゲート、特殊部隊を派遣した。 開戦後、国際反戦団体のUFPJ(正義と平和のための連合(英語版))やANSWER(戦争を止め差別を終わらせるために今行動しよう(英語版))の呼びかけにより、24時間かけて世界を一周させるリレー反戦デモが繰り広げられ、一部の国では規制しようとする警察と小競り合いが起き、負傷者や逮捕者が出るほど激化した。著名アーティスト達は揃って攻撃を非難。これと同時にワシントンにおいては開戦を支持するデモも大規模に行われた。 3月27日の国際連合安全保障理事会の席上において、米英側が戦争の正当性を主張。ロシア、中国、イラクなどがこれに批判的な発言を行った。 フランスのドミニク・ド=ビルパン外相は、開戦を強行したアメリカに強く反発した。アメリカ国防長官のドナルド・ラムズフェルドから「(開戦反対の)フランスとドイツは古いヨーロッパだ」と皮肉られると、国連安保理で「フランスは古い国(歴史がある、という意)だからあえて反対する」と切り返した。 4月14日、アメリカ政府はシリアを非難。イラクの政府要人などを匿い、化学兵器を所持していることなどを理由としたものだが、これは当のシリアは元よりフランス外相、国連事務総長などの反発を招いた。 日本政府はイラク政府に対する債権放棄に応じ大きな損害を蒙った。2005年11月24日の外務省のプレスリリースによると繰延金利を加味しない場合、約7,100億円の債権削減と発表された。イラク戦争でアメリカに追従したが大量破壊兵器も見つからず、7,100億円もの債権放棄と原油高の長期化だけが日本にとっての結果となっており、不利益しかなかった日本国民から批判が起こった。 イラク戦争によってイラクの原油輸出が減少したことも原油価格上昇の要因の一つになった。 湾岸戦争時、総計130億ドルもの資金を提供し大きな批判が国内から起こったため、直接資金提供を実施するのではなく債権放棄という形で国民からの批判を回避しているとの指摘が出された。 アメリカの突きつけた最後通牒の期限が切れる2003年3月20日の午前中(日本時間)は、各局とも特別報道体制を敷いていた。 2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した(イラク侵攻 (2003年))。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らうが、制圧した。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダードで合流して突入し、これを攻略した。なお、この攻略に際しては、米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとのニセ情報を出し、バグダード市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などをおびきだし、それらが進攻部隊攻撃のため市内を出たところを、空爆によって大半を破壊した。(これは市内での空爆の困難さから、市街地の外に戦車などをおびきだした戦術といえる。) 合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは、戦争開始前後から積極的にメディア工作を行っていたサッハーフ情報大臣がバグダードの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。 投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとした。 これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイルと対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。 この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。ラムズフェルドはかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。 実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空爆と巡航ミサイルによる結節点の破壊によって、イラク軍の指揮系統は早期に崩壊した。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。 事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダードまで進軍することに成功した。このことはアメリカの圧倒的軍事力を(一時的なイメージだけであれ)世界中に見せつける結果となった。軍事大国アメリカの存在感をいっそう高めて、中東を始め世界各国に改めて示すことができた。「開戦前から戦争が泥沼化する」と予想していた研究者もいたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられなくなった。 この戦争ではスティンガーで武装させたMQ-1がイラク軍のMiG-25と交戦して互いに対空兵器を装備した有人機と無人攻撃機の史上初の空中戦も行われ、続く占領下の武装勢力との抗争では遠隔操作の無人自走機関銃を初めて実戦投入され、戦場のロボット化が進んだ。 この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、RMA(軍事革命)という考え方が台頭した。イラク軍に69式戦車など兵器を大量に供与していた中国もイラク軍の一方的な敗北に衝撃を受けて中国人民解放軍は特にC4ISRと無人航空機(ドローン)の活用などに注目していたとされる。 大量破壊兵器の保有に関してはUNSCOM主任査察官のスコット・リッター、IAEA事務局長(肩書きはいずれも当時)のエルバラダイらは当初から否定的であった。 イラク国内に入ったアメリカ軍は、大量破壊兵器の捜索を行った。また、UNMOVICも現地入りし捜索を行った。しかし捜索にもかかわらず新たな大量破壊兵器は発見されず、2004年9月13日にパウエル国務長官は「見つからないだろう」と捜索断念を明らかにした。 CIAに依頼されて大量破壊兵器調査団長を務めた政治評論家のデビッド・ケイ(英語版)が、2004年1月28日の上院軍事委員会公聴会で「私を含めてみんなが間違っていた。調査活動が85%ほど終了した今、生物・化学兵器が発見される可能性はもうないだろう」と証言した。同年10月にはアメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出。匿名密告者カーブボール(英語版)による大量破壊兵器の情報の信憑性が薄いものであったことが明らかになった。この事に関してサッダーム・フセインは、拘束後のFBIの取調べで、イラクが査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持しているのをほのめかすことでイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器などの大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」と証言している。 アメリカ政府は大量破壊兵器に関するCIAの情報に誤りがあったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となった。 一方、大量破壊兵器が発見されなかったことで、イラク戦争を支持した同盟国にも動揺が走った。最大の同盟国であるイギリスでは、ブレア首相が開戦前に「フセイン政権が生物化学兵器の使用を決定した場合、45分以内に配備できる」という報告書を提出し、情報の真偽を巡って政府職員に自殺者まで出していたため「国民を騙した」として支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれた。デンマーク国防相のイエンスビュ(デンマーク語版)も開戦前に「大量破壊兵器問題をめぐる報告書」を提出してイラク戦争を支持したため辞任を余儀なくされた。また、ポーランド大統領のクワシニエフスキは「アメリカに騙された」と批判し、日本の久間章生防衛相も「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」と発言し物議を醸した。アメリカを当初から支持した日本の外務省は、2012年12月にイラク戦争への対応に対する検証結果の報告を行った。この報告ではイラクに大量破壊兵器が不存在であることを証明する情報を外務省が得ていなかったと結論付け、外務省のとった対応は概ね適切であったと述べている。オーストラリア国防相のブレンダン・ネルソン(英語版)にいたっては、「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」と開き直る発言をして批判を浴びた。 ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けた。また、イラク戦争に賛成したヒラリー・クリントンは、2014年に侵攻は誤りだったと述べている。 ISILはイラク国内にあり、米軍が破壊できなかった元化学兵器工場で略奪を行い、サリンなどを含む2500発もの化学兵器を持ち去った可能性が示唆されている。元化学兵器工場はバグダード付近にあり、1980年代から1990年代に実際に稼動していた。イラクでは2014年夏ごろから武装勢力やテロ集団による襲撃により、この元化学兵器工場のコントロールを失っていたとされている。 2008年3月、アメリカ国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめた。なお、報告全文は当初インターネット上での公開が予定されていたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられた。 イラク戦争は5月1日の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグダード進攻によるフセイン政権崩壊以降、国連安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなった。 アメリカ軍がバグダードに進撃すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権であったが、その観測は後に裏切られることになる。 少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ったが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられている。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行えず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いている。 進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍だが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬を密かに隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられている。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保したが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下に潜り、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手であった。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加している。 また、バグダードなど大都市を占領すると、圧政から解放されたと感じた市民が略奪に走り、博物館の展示物や商店の品物が略奪の対象となった。これはこのような無政府状態に対する準備が行われていなかったことの表れでもある。また市民の略奪に紛れ、武装勢力の中には市役所や警察署などを対象に狙う者もあり、米英軍はこれも防ぐこともできなかった。後に占領政策に移ると、市民の登録情報や個人情報、自動車の登録番号などが根こそぎ持ち去られるか、破壊されていることがわかった。このため、車爆弾や自爆テロで用いられた自動車のナンバーが判明しても、所有者がわからないためレジスタンス組織の検挙に繋がらなくなっている。 2009年1月、ブッシュ大統領は最後の記者会見で対テロ戦争は正当化したものの、2003年に行なった「戦闘終結宣言」は誤りであったことを認めた。正式な「終結宣言」は、さらに7ヵ月後の2010年8月31日、新たに大統領に就任したバラク・オバマによってようやく為されることになる。 復興業務には「ハリバートン」社、「ベクテル・インターナショナル」社らアメリカの民間企業がいくつも参加していた。戦闘終結直後に民間企業が続々と参加してくることは初めてであったが、これら実験的な政策はチェイニーらブッシュ政権閣僚の肝いりであったと言われている。 本来は軍が行ってきた輸送業務などを、安全が確保された地帯に限って民営化し、民間企業がトレーラーなどを使って食糧や物品、軍事物資を輸送する、民間企業は同時に石油開発事業も行って利益を得る、と言うものであった。アメリカ国防総省から見れば、戦争で大きな比重を占める輸送業務を民営化することで、その分の兵力と予算を作戦に回すことができ、効率的だと考えられた。 しかし、実際にはイラクは戦闘状態にあり、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついているとはいえ、すぐに武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手にはアメリカ人の他、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となり、また度重なる攻撃によって幹線道路周辺は治安が悪化し、民間企業では手に余る状態となった。アメリカ軍は治安悪化によって兵力が不足し始めると、警備業務を民間軍事会社などの企業に委託するようになった。民間軍事会社に所属するかなりの数の警備員が高報酬に応じてイラクに入ったが、彼らも数多く殺害されている。武装勢力と戦闘して死亡した者も多い。ただし、警備員は飽くまで民間人であるため、死亡しても“戦死者”には計上されない。民間軍事会社の社員は多くは警察、軍の出身者であり、国籍も多様である。2007年9月にブラックウォーターUSAがイラク民間人17人を殺害、24人を負傷させる事件(ブラックウォーター事件(英語版))が起き、非難を浴びた。合衆国政府は少なくとも14人の射殺には正当性が認められないと判断しているが、ブラックウォーター社との契約を延長している。 このように、輸送業務は麻痺状態に陥っているため、前線の兵士まで物資が十分に届いていないことが、兵士が家族に当てた電子メールなどでわかっている。特に水不足が深刻で、摂氏50度の砂漠の中で水分補給をぎりぎりまで制限されていると言う。また、現在のアメリカ軍はベトナム戦争の頃とは違って徴兵を行っていないため、イラクの状況から入隊希望者が集まらず、兵士の絶対数の確保が困難となっている。このため前線の兵士は数か月で帰還できるところを、1年以上待たされていることも普通である。この人員不足をアメリカ軍は州兵(国家防衛隊)で補っているが、彼らも同様に扱われる上、同じ州兵を繰り返しイラクに派遣するなど、待遇は悪化している。さらに州兵の不在が、結果としてアメリカ国内での災害の発生・拡大に深く影響を与えることも、2005年のハリケーン・カトリーナによって明らかとなった。 一方、石油開発は油田施設やパイプラインへの攻撃で産油量が低迷。世界第二位の埋蔵量でありながら、安定した供給を行えない上、ブッシュ大統領が発言した「世界民主化」は、民族自決に反するものであり、王政や専制であるアラブ諸国の不信感をますます募らせたため、石油危機の再来が恐れられた。このため、石油メジャーを中心に石油資源買いが発生し、原油価格は戦闘終結宣言後から急速に価格が上昇した。 連合軍はイラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、いわばアメリカが(起こる兆候さえなかった)クーデターに手を貸して旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎず、前述したように、旧軍やバアス党旧政権が地下に潜ってしまったためである。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かった。 イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じるなど戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えた。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなった。しかし、サッダームの一族や旧政権関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになった。8月には国連事務所を爆破して国連事務総長特別代表だったセルジオ・デメロ(英語版)らを殺害、国連チームの撤収に至った。 この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、大統領だったサッダーム・フセインや、その2人の息子であるウダイとクサイや政権幹部らに指示されていると思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって逃亡した政権幹部の逮捕が進められ、7月にはウダイとクサイが共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えた。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生した。 だが2004年に入ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい警察や新しいイラク軍を標的とする事件が増えた。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリカ軍への攻撃に加えて、新体制の象徴たるものの破壊を狙ったと考えられる。また、民間外国人を狙った誘拐事件も頻繁に発生し、日本人民間人も被害に遭った。これらはイラク国内の武装勢力によるものと思われ、誘拐した人質と引き換えに軍を撤退させるよう要求するのが手口であった。ただ、彼らは宗教指導者の呼びかけに応じることも多かった。 2004年4月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった(ファルージャの戦闘)。また、この頃から南部でもシーア派イスラーム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至る。6月に暫定政権が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われた。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになる。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれた。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。 さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となった。シーア派民兵はムクタダー・サドルに率いられ、組織的な戦闘を行ったが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者アリー・シースターニーの停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かった。 続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃した(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的であるザルカーウィーらアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後であった。米軍が直接制圧に当たっているが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われている。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がる。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっている。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダードの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダードに転戦させた。 ファルージャの戦闘の一方は米軍だったが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できない。 この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。特に開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で2004年3月11日に列車爆破テロが発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えた。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万人に増強する旨を発表した。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもあったが、実際は14万5千人までの増強で抑えられた。2005年4月には新憲法案の採択を行う移行政府が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入った。 ところが、2005年の夏に起こったハリケーン「カトリーナ」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣され救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次いだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させ、イラク駐留兵力は13万8千人となった。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員したが、翌2006年2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となった。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド、韓国、イタリアに引き続き、イギリス、オーストラリア、日本が相次いで兵力削減・離脱を発表した。しかし、シーア派とスンナ派(あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、同月22日のアスカリ廟爆破事件(英語版)によって宗派対立に発展した。このため、日英豪3か国の撤退計画は不透明なものとなった。 アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンナ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられたが、多国籍軍はこれを否定した。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難している。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンナ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンナ派はシリアが援助しているとも言われる。ただし、シリアは少数派のシーア派系アラウィ派がスンナ派を支配する国家形態であり、イラクのスンナ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在する。また、フランスに海外拠点を置く旧バアス党残党も他のスンナ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダード市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からもイスラム主義勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていた。 2006年4月に入ると、エジプトやサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは内戦である」と発言し、これに対してイラク移行政府が強く反発した。しかし国内はシーア派とスンナ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンナ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派のサドル(英語版)と親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「統一イラク同盟(英語版)」(UIA)は、首相にヌーリー・マーリキーを擁立した。スンナ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官とコンドリーザ・ライス国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。 閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内相をマーリキーが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマーリキーが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、正式政府が発足した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。 政権発足直後の6月7日、マーリキー首相とアメリカ軍は共同で、それまでイラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィーを、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が電撃訪問してマーリキーを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマーリキー政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。 イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダードで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構(OIC)が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで路肩爆弾による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。 2006年12月30日、サッダーム・フセインが処刑された。 スンナ派が多数を占める町では米軍に対する攻撃が盛んであるが、国外から侵入するアルカーイダ系勢力に対しても外国の武装勢力だとして武力衝突が生じていた。その一方で資金力に優れるアルカーイダと一部スンナ派武装勢力が対米攻撃で協力関係を結ぶなど、スンナ派地域へのアルカーイダの浸透も進んでいた。 そこでアメリカ軍はイラクのアルカーイダ系組織の幹部ザルカーウィーの脅威を強調し、ザルカーウィー派掃討を目的とした空爆などの過激な攻撃をスンナ派地域で繰り返した。この時スンナ派の間では、攻撃による巻き添え被害の大きさからザルカーウィーを追放しようとする動きが強まった。 2007年に入り、アルカーイダの過激な活動に反発するスンナ派市民までがテロの対象とされ、塩素ガスを用いたテロによる多数の被害者を出し両者間の溝が表面化した。4月には主要なスンナ派武装勢力の一つ「イラク・イスラーム軍」が構成員30人をアルカーイダに殺害されたとして、ビン=ラーディンに対する非難声明を出した。 こうした「反アルカーイダのスンナ派」と「アルカーイダ系スンナ派」の対立のなかで、アメリカ軍が反アルカーイダのスンナ派部族と協力関係を持つなど、事態は一層複雑化している。バグダード中心部にあるマンスール・ホテルのロビーで6月25日に発生した自爆テロでは、アルカーイダ系過激派との戦いに協力した6人のスンナ派部族指導者が殺害された。 2007年1月10日、ジョージ・ブッシュ米大統領は「イラクの混乱の原因はすべて私にある」とテレビ演説し、陸軍5個師団・1万7500人、海兵隊2個大隊・4000人から成る、最大で米兵2万2000人のイラクへの一時増派を明らかにした。兵力増強をブッシュに進言したのはジョン・マケイン上院議員だとされる。2月にはイラク駐留米軍の司令官にデービッド・ペトレイアスが就任した。具体的には、1万数千人がバグダードで治安維持に当たるほか、治安悪化の著しい西部の州にも7000人程度が派遣され、ゲリラ掃討に当たるというものであった。また、この戦争と占領によって、米本国の陸軍と海兵隊の人員が不足したことから、数万人規模で増員した。 さらに、ペルシャ湾に空母打撃部隊2個部隊を配備するなど、イラクのほか、イランやシリアに対する軍事的威嚇の度合いを強めている。同年3月までに憲兵やヘリコプター部隊が増派され、増派規模は最終的に3万人となった。しかし、過去数度にわたる増派の効果がいずれも薄かったことから今回の増派の効果を疑問視する声は根強く、同年1月24日には上院外交委員会で増派反対決議案が可決・上程され、翌月17日には下院本会議で増派反対決議が賛成:246対、反対:182で可決、共和党からは17人が賛成に転じた。ただ、上院では本会議に上程されたものの審議打ち切りに必要な60票には到達せず同案は廃案となった。増派反対の世論は61%(2007年3月18日・CNN世論調査)にも上っていた。前述のマケイン上院議員は、側近議員数名と同年4月にバグダードを訪問し治安状況を視察したが、その際には護衛が100人以上つくなど、治安状況は悪化の一途をたどっていた。 しかしながら、同年5月25日には、撤退期限を明示しない1000億ドル相当の対イラク戦費法案が上下両院を通過(下院では280対142、上院では80対14)、夏以降の増派は一定の成果を見せ、2007年の米兵死者数は年間では過去最悪の901人を記録したが、5月の126人をピークに9月以降減少傾向を見せ、10月にの米兵戦死者は39人に減少、11月には37人、12月はその数は更に下回り23人となった。米軍は依然として状況を楽観していないが、2004年2月の20人に次ぐ低水準となった。これには、ペトレイアスの新たな治安維持戦略が挙げられる。 ペトレイアスの戦略は「交番作戦」と称されるもので、防御を固めた少数の大規模駐屯地を中心に活動を展開した前任の司令官ジョージ・ケイシーとは異なり、地域に広く展開して継続的なプレゼンスを確立することに重点をおいていた。また、同時に人道復興活動等を強化して地域住民に対する心理的プレゼンスを確立することも重視しており、前述のアルカーイダに反発するスンナ派諸部族や同派部族を代表する覚醒評議会(Majlis al-Sahwa)との連携強化につながった、こうした硬軟の使い分けにより、2007年7月のバアクーバでの戦闘でイラク聖戦アルカーイダ機構に大攻勢をかけ、ペトレイアス司令官によると、聖戦機構の6 - 7割に打撃を与えたとしている。2007年10月には軍内部で対聖戦機構勝利宣言が検討されたが、その際には慎重論が大勢を占めた。 2008年1月には石油生産量が開戦前と同水準の250万バレルにまで回復した。また、フセイン拘束を指揮したことでも知られるレイモンド・オディエルノ副司令は2008年8月までには米軍の駐留規模を2、3万人削減できるとの見通しを示している。2008年4月8日にはペトレイアス司令官が上院で証言を行い、増派前の水準への兵力削減を発表する一方、武装勢力との攻防が依然一進一退の状況であることから、それ以上の追加撤退については否定した。同年7月22日までに増派された部隊は撤退完了を遂げた。 また、同年4月の米兵戦死者は、後述のシーア派同士の抗争から一時的に治安が悪化し52人に上るが、翌5月は戦況が再び好転し、米兵の死者は開戦以来最低の19人、多国籍軍全体でも21人に留まった。更に、同年7月には戦死者は11人に留まり治安回復傾向がより顕著になった。それを受けブッシュ大統領は派遣された兵士の駐留期間を15か月から12か月に短縮することを発表した。また、CBSの調査によれば2007年8月には2000人を数えていた民間人の死者は、2008年6月には490人に減少、多国籍軍に対する攻撃も1500件から200件に激減した。更に、同年9月の米兵の死者は8人に減少し、10月には7人にまで減少した。同月のイラク人の死者も238人と開戦後最低を記録した。 ペトレイアスは、治安回復の功績を認められ、ディック・チェイニー副大統領との対立から米国中央軍司令官の職を辞した海軍大将ウィリアム・ファロン(英語版)の後任に、10月31日付けで就任した。また、これらを受け、同戦争及び増派に反対の立場を取ってきたバラク・オバマ上院議員は9月4日のフォックス放送の取材に対し、増派の成果を認めている。2008年12月現在、イラクには14万6000人の米兵が駐留している。 2009年3月にABC、BBC、NHKが行った合同調査によると、85%が治安が良い、もしくはかなり良いと答えているなど、イラク人の治安に対する実感も上昇しているとされる。 多国籍軍がイラク国軍と警察により管理ができるまでに治安が回復したと認める県についてイラク政府へ治安管理権限が返還されている。これを治安権限の委譲(Transfer of Security Responsibility / control)という。2006年9月にイギリス軍管理下のムサンナー県から始まり、2008年9月に11番目として初めてスンナ派が多数を占めるアンバール県の治安管理がイラク政府に返還された。 フセイン政権下では人口の2割の少数派のスンナ派が支配していた。フセイン政権崩壊後はこれまで支配下に置かれていたシーア派勢力が政権の中枢に躍り出たが、スンナ派にとっては不満が残るものであった。 さらにイラク戦争から5年を迎えた2008年3月に入ると、そのシーア派内でも内部抗争が勃発。同派の強硬派であるムクタダー・サドル一派と政府との対立が表面化した。政府軍とマフディー軍が、同月25日にバスラで衝突したのを皮切りに、クート、ヒッラ、バグダードに拡大。マーリキー首相自身が陣頭指揮を執った、25日のバスラでの戦闘では双方合わせて31名が死亡した。26日にマーリキー首相は、28日までのマフディー軍の武装解除を要求、一方のサドルも前日のナジャフでの声明で徹底抗戦の構えを見せている。27日には両者の戦闘でバスラ近郊の石油パイプラインが爆破された。また同日には、ジョージ・ブッシュ米大統領がオハイオ州での演説で政府軍支持を鮮明にした。更に、同日深夜にはバグダードで外出禁止令が発令された。翌28日には政府軍に同調した米軍が南部・バスラのマフディー軍施設を空爆した。同日にマーリキー首相は、マフディー軍の武装解除期限を4月8日まで延長すると発表した。30日にはサドル自身がマフディー軍に対し戦闘中止を呼びかけ、31日にはバグダードの外出禁止令が解除された。 イラク北部の都市キルクークには巨大な油田があるために、サッダーム・フセイン政権の下、トルコ人、クルド人が追い出された経緯を持つ。2003年4月の第2週頃、アメリカ軍のキルクークへの進攻に伴いイラク人は町を離れ、周辺都市からクルド人が来訪、略奪を繰り返すようになった。トルコは自国のクルド人が独立国家を設立しようとする可能性について懸念を抱いており、キルクークがクルド人自治区となること(ひいては原油関連事業の資金がクルド人の手に渡ること)に反対していた。アメリカ政府もトルコ政府のこの方針に賛成し、クルド人自治区はほとんど現状維持という形となった。 しかしながら、当然のこととしてクルド人の独立志向がそれで止むということにはならず、キルクークやモスルでペシュメルガによるアラブ人やトルクメン人、アッシリア人に対する民族浄化が多く報告される他、2006年9月にはクルド民主党党首であり、自治区議長を務めるマスード・バルザニが自治区でのイラク国旗使用を廃し、クルド旗の掲揚を命じる議長令を発布する等事実上の独立に向けた動きを加速させている。 こうした中、2007年3月末にはクルド人のキルクーク帰還と入植アラブ人の帰郷を進める法律にマーリキー首相が署名した。 しかし、入植アラブ人の帰郷が強制的な追放ではなく当人の任意とされたことに同法案をキルクークのクルド自治区編入と、対アラブ人民族浄化の総仕上げと位置づけるクルド側は強く反発しており、またアラブ人側もシーア派主体の同市においてマフディー軍が躍進するなど強い抵抗の構えを見せている。 また、同市の民族紛争においてはアルカーイダを始めとするスンナ派の武装組織がマフディー軍に協力を与えているとの報道もあった。この様な民族間、宗派間の綱引きの結果、2008年現在未だにキルクークの帰属に関する投票は行われていない。 また後述するトルコとの緊張状態もあわせ、イラク政府も含めた『自治区全周の脅威に備えるため』としてPKK、PUK両党は一貫してペシュメルガの拡充を続けており、その総兵力は公称だけでも20万を超えるに至った。 一方で、民族としての単一性を高めることで治安・経済を安定させ、独自に海外からの投資も多く受け入れるクルド人自治区に安全と職を求めて自治区外からアラブ人の国内難民が流入する矛盾に満ちた状況も発生している。ただし、元々の経済規模の小ささに加え、根強い反アラブ感情もありアラブ系難民にまともな仕事があてがわれることが少ないこともまた事実である。 トルコは国内に多くのクルド人を抱えており、クルド人勢力のテロと分離独立の動きを警戒している。イラクからのクルド人勢力の越境テロもあり、アメリカとイラクに対して対応を求めているが、治安の悪化を恐れて積極的な対応はされていない。こうした中、トルコは国境地帯に軍を展開させたが、逆に国境地帯でクルド労働者党(PKK)がトルコへの攻撃を激化させた。2007年6月にはPKKが拠点とするイラク北部のクルド人自治区に対してトルコ軍が大規模な越境攻撃を実施したとの報道が流れたが、トルコ側は限定的な作戦だったとして否定した。 その後、10月7日(ハッキャリでの武力衝突 (2007年))にトルコ兵13人が死亡するPKKの攻撃があり、トルコではイラク北部への1年間の越境軍事活動を可能にする法案が可決された。しかし21日には再びPKKの攻撃によりトルコ兵17人が死亡、応戦でPKKの32人が死亡し緊張が高まった。 イラク国境を挟んだ緊張状態はPKK及びトルコ軍航空部隊両者の数次に渡る越境攻撃を経て持続され、2008年2月21日、トルコ軍はついに2個旅団数千人規模の部隊をイラク北部へ越境進行させた。 これに対しPKKは激しく抵抗、クルド自治区もペシュメルガにトルコ軍との遭遇した場合には応戦するよう命じ、情勢は一触即発の事態にまで進展した。しかし、トルコ軍は結局アメリカ政府の強い圧力の下に初期の目的を果たせぬまま撤退を余儀なくされ、イラク政府は3月1日までにトルコ軍越境部隊の撤収を確認し、危機は一応の収束を迎えた。また、同軍の越境攻撃に関してはレジェップ・タイイップ・エルドアン首相は消極的であったとされるが、ケマル・アタテュルク以来の国是である政教分離を守ろうとする軍部と首相の所属政党でイスラム主義を標榜する公正発展党の内部から突き上げられ、両者との板ばさみになっている側面もある。 2008年米大統領選で、イラク戦争を「間違った戦争」と批判し、駐留米軍の早期撤退を公約とするバラク・オバマが当選。2009年1月に就任すると、翌月には2010年8月末までにイラクからほとんどの米軍部隊を撤退させ、同国での戦闘任務を終了させることを発表した。度々の延期がありながらも、2011年末の完全撤退が決まり、2011年12月14日にオバマはイラク戦争終結を宣言した。 2011年にアラブの春が勃発し、イラクの周辺でもシリア内戦が勃発するなど不安定化が著しくなった。ISILは旧バアス党員を吸収し、スンナ・シーア両派の対立を利用しながらイラクとシリアで勢力を拡大、内部分裂で弱体化していたイラク軍は2014年にモースルを奪われた。これを受けて、米国は2014年8月から航空攻撃を行い、地上部隊を再派遣、当初は300人程のつもりが、最終的に5200人になった。モースルの戦いをはじめとした激しい攻防戦の末、2017年12月にイラクからのISIL勢力の一掃を宣言した。 その後もISILを根絶するために駐在し続け、2020年にドナルド・トランプ米大統領が縮小を発表。2021年1月には2500人になった。同年12月9日にイラクの駐留米軍による戦闘任務の完了が発表されたが、イラク軍支援のため完全撤退はしないとされた。 人員は時期によって変動があるため、最大時期のおよその数を示す。イラクの他にクウェート、サウジアラビア、バーレーンにも駐留している。東欧・旧ソ連諸国からの派遣がある一方、湾岸戦争に参戦したアラブ連盟諸国は派遣しなかった。 2007年12月、国連安保理は駐留にイラク政府の同意を要すると定めた2004年の決議1546に基づき、多国籍軍の駐留を2008年一杯とする決議を採択した。この決議によりアメリカ・イギリス軍以外の各国駐留軍は2008年度で撤退した。 アメリカ政府とイラク政府はアメリカ軍の駐留期限を2011年に延長する二国間協定を締結し、2009年1月に大統領に就任したバラク・オバマは、2010年8月までにアメリカ軍の戦闘部隊9万人を撤退させ、イラク軍の育成のために残留する5万人は2011年12月までに全軍撤退を完了させると表明。2011年12月18日に全部隊がクウェートに移動、撤収が完了した。 開戦からブッシュ大統領による“戦闘終結宣言”が出されるまでの期間は非常に短かったが、2008年3月現在もイラク人兵士・警察官・民間人、そしてアメリカ軍をはじめとする多国籍軍兵士も、ともに犠牲者が増え続けている。イラク治安部隊(新イラク軍・新イラク警察)は、イラク警察だけで少なくとも8,000人から10,000人が戦死している。 アメリカ兵の犠牲者は4,000人を突破し、これに加えて、軍に従事する民間軍事会社の契約要員が、これまでに少なくとも1,000人以上が死亡していると報じられている。 2007年10月現在、イラクでは各種民間警備会社は、アメリカ正規軍を上回る計18万人が活動していた。その活動内容は政府が管理していないため、誰を殺しても誰に殺されてもさしたる問題にはされていない。民間警備会社の警備員による虐殺・暴行も報道されており、前述したとおり2007年9月16日にはブラックウォーターUSA社の警備員が乱射で民間人17名を射殺、「武装勢力に対し正当防衛を行った」と偽証をした事件が表面化し、イラク・アメリカで問題となった。 また、英軍の死者170人、その他諸国軍の死者132人と合わせて、連合軍全体の死者数では4,000人以上(民間軍事会社の契約要員を除く)となる。 また、アメリカでは、外的な負傷を負っていないものの即席爆発装置(IED)の影響で、外傷性脳損傷(高次脳機能障害)で苦しむ帰還兵が増加、社会問題となった。アメリカ政府は、2009年に外傷性脳損傷の診断基準を変更した結果、2001年から2009年10月まで(アフガニスタンでの戦闘も含め)約14万人が受傷したとのデータを集計している。 アメリカ国籍取得を目的にアメリカ軍に入隊したグリーンカード取得者は死者数に計上されていない。 ※2008年4月までの集計 ※戦死者のみ2008年4月までの集計 イラクに派遣された自衛隊は戦死者が一人も出ていないと公式に発表されている。ただし、イラクを含む海外派遣任務に就いた1万9700人の自衛官のうち35人が在職中に何らかの原因で死亡している。内訳は海上自衛隊員が20人、陸上自衛隊員が14人、航空自衛隊員が1人となっており、死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人と発表されている。「在職中」には任務から帰国した以降も含まれており、イラク国内で死亡した自衛官の数はわかっていない。 戦闘終結後の民間人犠牲者総数の推計にはばらつきが多く、正確な数字はわかっていない。アメリカ軍は戦闘で殺害した武装勢力や、アメリカ兵の過誤(誤認・誤爆・誤射)で死亡したイラク民間人の数を公表していない。なお、報道を基にこれらを集計しているサイト"Iraq Body Count"の2007年11月30日付のデータによると、直接の殺害数は約80,000-87,000人と集計されている。一刻も早い治安の回復が望まれている。 Lancet Studyによる2004年10月の推計によると、兵士・民間人あわせて約98,000人という推計が出ている。ただしその推計は95%信頼区間が8,000人から194,000というもので、大雑把である。また、Lancetによれば死亡率増加の調査を基にした研究では、2006年6月時点でイラク戦争の死者は約655,000人になると推計された。ただし、あくまで死亡率増加からの推計であるため、直接の戦死とは直接結びつかない推計である。また、中国国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来のイラク民間人死亡数は66万人以上であるとされている。2007年9月14日にイギリスの世論調査会社・オピニオンリサーチビジネスが行った調査(英語版)では、死者が最大で120万人を上回る可能性があるという結果が報告されている。世界保健機関は2008年1月に推計で151,000人だとする調査結果を発表している。2013年10月にはアメリカとカナダの研究者により、査読された医学専門誌として最も権威があるとされるPLOS メディシンジャーナル(英語版)において、およそ500,000人の民間人が犠牲になったと発表されている。 1990年の湾岸戦争後、経済制裁により栄養失調が幼児を襲い、UNICEFによれば50万人の犠牲者が出た。(この数字には反論もある。)国民の所得が10分の1にまで落ちたとも言われる。 イラク戦争はそこに追い打ちをかけ、治安が悪化し、社会は混乱した。2004年頃には失業率が7割に達し、2005年には若者の失業率は37%であった 。慢性的な栄養不足により4人に1人の子供が、身体的・知的な成長阻害を経験していた。 UNICEFでは17歳以下で,親を一人また二人亡くした子どもを孤児としている。UNICEFによれば、イラクでは孤児が約80万人存在する 。親がいる子どもでも、生活苦により親が絶望して子供を捨てることがあった。 マサチューセッツ工科大学国際研究センターの資料によると、イラクに孤児が450万人存在するという。イラクの子どものうち、約6人に一人が孤児である。孤児の70%は両親を失っている。親戚に預けられた孤児が大勢存在したようである。イラクの2003年時点での出生率は4.62人であり、各家庭に子どもがたくさんいる。戦争の影響で食糧が不足しており、親は自分の子供にすら十分な食べ物を与えられない。そんな状況で親戚から孤児を預かった叔父・叔母は、どうやって子どもたちを食わせていったら良いのか、頭を抱えたことだろう。 太平洋戦争直後、日本の各家庭は同じように食糧難で、子沢山だった。親戚に預けられた日本の戦争孤児は、親戚から邪魔者扱いされ、暴言をはかれ、時には暴力を受けた。「毎日が精神的虐待だった。」「心の傷はずっと消えない。親と一緒に死んだほうが良かったと何度も思った。」と話す日本の孤児がいた。イラクの孤児の中に同じような経験をした人がいると想像される。 約60万人の子供が、食糧も家も無く路上で生活していた。路上で生活する子どもたちは、物乞いをしたりガムなどを大人に売ろうとする。煩わしいと思うのか、子どもに暴力を振るう大人もいる。子どもが性的暴力の対象になることもある。生活が苦しく、働かなければ生きて行けず、学校に行く時間がない。そのため読み書きや計算が出来ない子どももいる。読み書きが出来なければ、将来、まともな仕事を得ることは難しい。栄養失調を患う子が多い。一部の子どもは人生に希望を持てず、ドラッグに手を出し不良集団に加わる。物を盗む子供もいるため、周りの大人からは邪魔者扱いされ、子どもの心が大きく傷ついたことと想像する。 2006年に日本政府のサポートを受けて、WHOとイラク政府保健省が子どもの精神障害に関して調査を行った。バグダッドでは、調査対象の小学生600人のうち47%が大きな精神的外傷を経験していた。14%がPTSDの症状を示した。モスルでは調査対象の中学生1090人のうち、30%がPTSDの症状を示した。ほとんどの子どもが治療を受けていない。 2003年のイラク侵攻直後は、学校の出席率はほぼ100%だった。しかしイラク教育省によれば、2006年9月時点で350万人の生徒のうち、授業に出席しているのは30%だけだった。国中でエスカレートする暴力によるものだという。予定通りの年齢で小学校を卒業できる子どもは4割だけである。毎年45万人の子供が、予定通りの年齢で小学校を卒業できない、または学校からドロップ・アウトしてしまう 。文字の読み書きが出来ない子供が増えてしまった。読み書きができければ、就職の選択肢は極めて狭くなる。 イラクでは紛争の影響で15万人が障害を抱えて生活している。そのうち、ほとんどの人は地雷等で傷を負った市民である。 イラクでは11人に1人の女性が夫を亡くしている。その数は90万人だと言われている。アメリカ侵攻以降、イラクでは路上で女性が誘拐され、性的暴力を受ける事例が多発した。売春目的で女性が海外に売り飛ばされることもあった。 リビアは、2003年12月に最高指導者カダフィ司令官が大量破壊兵器の放棄を宣言し、2006年にはブッシュ政権はテロ支援国家指定を解除した。この行動はイラク戦争後に自国が標的にされる可能性があったためであると解釈する論説と、カダフィ司令官がアフリカ連合へと活動の主軸を移したことによる大量破壊兵器の必要性低下と偶然に時期が合致しただけだとの論説がある。 アメリカは放棄の見返りに、大量破壊兵器を保有し反米武装闘争を支援し、またかつてはイラク以上に敵視し、カダフィ司令官個人の暗殺まで企てたリビアをテロ支援国家リストから外し、経済制裁も解除した。 一方、北朝鮮の金正日総書記は、開戦直前から約60日間テレビなどの前から一切姿を消した。これはアメリカの精密誘導兵器がどのようなものかを海外の衛星テレビを通じて分析をしていたものと見られる。中華人民共和国はイラク戦争開戦による衝撃から仲介に乗り出して六カ国協議が始まったと言われ、六カ国協議で核兵器の放棄が合意されて寧辺核施設の爆破や核開発計画申告などされたことからブッシュ政権はテロ支援国家指定を解除した。 名古屋高等裁判所は2008年4月17日、自衛隊イラク派兵が日本国憲法違反であることの確認などを求めた訴訟(自衛隊イラク派兵差止訴訟)において航空自衛隊のイラクにおける空輸活動について「自らも武力を行使した」と認識し憲法違反であるとする傍論を含む判決を出した。これは主文において原告敗訴を判決するものであったにもかかわらず原告側が実質勝訴として上告しなかったため、翌月5月3日に同判決は確定した。 この裁判および「傍論」記述は議論を呼び、当時の航空幕僚長であった田母神俊雄による「純真な隊員には心を傷つけられた人もいるかもしれないが、私が心境を代弁すれば大多数はそんなの関係ねえという状況だ」の発言などが一種の舌禍事件として報道された。国会において田母神発言を含めた質問主意書が提出されたが、日本政府は、国側勝訴の判決と説明を加えた上で、日本国憲法第9条(第1項。戦争を放棄し国際紛争に武力を用いて関与しない)に違反するとの傍論の部分は「判決の結論を導くのに必要のない傍論にすぎず、政府としてこれに従う、従わないという問題は生じないと考え」ており、田母神の発言は「政府と同様のこのような認識に立った上で〔中略〕必ずしも正確な表現ではないが、自らの言葉でこのような発言をしたものと承知している。また、防衛行政については、シビリアン・コントロールの下、法令に基づき、適切に行われている。」と答弁している。防衛省が情報公開法に基づいて開示した「週間空輸実績」と称する内部資料によれば、派遣期間中の輸送人員は延べ28,000人であり、うち7割はアメリカ軍兵士であることが2009年10月6日に判明している。 開戦前の1月初旬、ナイト・リダー社(英語版)の発表した世論調査結果によると、調査に応じたアメリカ人の内44%が、2001年9月11日の同時多発テロのハイジャック犯の一部または大半がイラク人だと考えていた。実際には、報道によれば大半がサウジアラビア人でイラク人は一人もいなかった。 あるイラク紙の主張によれば、米軍によるイラク占領以来、全土に点在する監獄や強制収容所には大勢のイラク人女性が拘留されているとされる。その大半が政府の要員や占領軍兵士によって性的暴行を受けており、結果としてエイズなどが蔓延しているとする。また、強姦の被害を受けた女性が、一家の恥として家族の者の手によって殺害されてしまうケースがあり、(大半が被害を受けているという主張にも拘らず)正確な被害者の数は把握されていないとする。また、あるイスラム機関誌の主張によればイラクの民間組織である「イラク政治捕虜・受刑者連合」は、米軍はイラク抵抗勢力の士気を砕くための圧力カードとして、無実のイラク人女性捕虜に対して意図的、組織的な性的暴行、拷問、恥辱を加えている、と告発している。 また、米軍は、イラク戦争中及びブッシュ政権の戦争終結宣言後の一連の戦闘においても劣化ウラン弾を使用していた。陸上自衛隊が人道支援・戦後復興支援のために派遣され駐留したイラク南部のサマーワ近郊周辺からも、実際にこの戦争で米軍が使用したものと見られる劣化ウラン弾(複数)が発見されている。 2010年1月26日、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会は、マイケル・ウッド外務省元主席法律顧問を喚問した公聴会で、同顧問が「2003年3月の対イラク武力行使は国際法違反と考えていた」と述べた文書を公表した。この文書中で「武力行使は国連安保理によって認められておらず、他の法律根拠もなかった」と同法律顧問は延べ、イラクに武装解除を求める安保理決議1441を武力行使の根拠とする主張を退けた。同法律顧問は開戦前の2003年1月にその見解をジャック・ストロー外相に伝えたところ「独断的だ」と退けられたと証言した。 2010年1月29日、2003年のイラク侵攻を決断したブレア前首相は、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会の公聴会で証言した。調査委員ではチルコット委員長と5人の委員が6時間にわたり喚問した。ブレアは「サッダーム・フセインの脅威」を強調して、イラク侵攻によるフセイン政権打倒を正当化し、「後悔していない」と述べた。また、当時と同じ条件なら再びイラク侵攻をするだろうとも述べた。さらに、2007年までのイラクの民間人死者数増大に関して、全体で10万という数字を示して、「殺したのは連合軍ではなくテロリストだ」と占領軍の責任を回避した。そして、イラクが兵器製造能力を高めていたと証言した。 開戦時に議会の反対にもかかわらずイラクへの侵攻支持を表明したオランダでは、政府の外交政策に対して独立調査委員会の調査が行われた。2010年の調査報告ではヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル外相が政策決定の掌理をなし、ヤン・ペーター・バルケネンデ首相は政策決定から除外されたと指摘した。また、国連安保理決議1441は武力攻撃を容認する解釈とは成り得ないと断じ、イラク戦争は国際法違反であり政府は米英との同盟関係を重視するため侵攻の違法性に目をつぶったと結論づけた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イラク戦争(イラクせんそう)とは、アメリカ合衆国が主体となり、2003年3月20日からイギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題での、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とする、『イラクの自由作戦』の名の下にバアス党政権下のイラクへ侵攻がなされたことで始まった軍事介入である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この戦争で日本は戦後初めてPKO活動外での自衛隊派遣を行い、有志連合の一員として参加し、主にイラク南部においてインフラ整備、治安維持任務を実施した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "正規軍同士の戦闘は2003年中に終了し、同年5月にジョージ・W・ブッシュ米大統領により「大規模戦闘終結宣言」が出たが、アメリカが指摘した大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。2010年8月31日にバラク・オバマ米大統領により改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2011年12月14日、米軍の完全撤収によってオバマ大統領が、イラク戦争の終結を正式に宣言した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "戦争の名称は、戦争の場となった国名・地名を付けることが多く(バルカン戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争など)、この慣例から「イラク戦争」の名称が一般的である。ただし、この名称はアメリカの立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、大規模戦闘終結宣言はブッシュ米大統領が2003年5月に一方的に行っているが、改めてオバマ米大統領が2010年8月に終結宣言を出しており、さらには同大統領により2011年のアメリカ軍のイラクからの完全撤退に際してイラク戦争終結宣言が出されており、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてか英語版ウィキペディアでは、2003年の戦争を2003 invasion of Iraq = 2003年イラク侵攻としており、大規模戦闘終結宣言以降の戦闘状況から2011年12月までの米軍のイラクからの完全撤退までも合わせてIraq war = イラク戦争としている。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アラビア語でも様々な呼称があるが、アラビア語版ウィキペディアではアメリカのイラク侵攻(الغزو الأمريكي للعراق)、あるいはイラン・イラク戦争を第1次と数えて第3次湾岸戦争(حرب الخليج الثالثة)などとも呼ばれている。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1991年の湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)において、イラクに大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、国連は主に米英の人間で構成された「UNSCOM」(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)を設置し、イラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査した。イラク側もこれを受け入れ、1998年頃までは大きな混乱はなかった。ところがUNSCOMは事前通達を伴う従来の方式から抜き打ち方式に調査方法を変更し、イラクはUNSCOMの査察に協力的ではなくなり受け入れを拒否した。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、アメリカは国際連合安全保障理事会決議688を根拠としてイラク北部に飛行禁止空域を設定し、1992年にはフランス、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定した。これに反発したイラクは、地対空ミサイルの配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行った。このため制裁措置として米英両国はイラク軍施設に対して攻撃を繰り返した。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1995年、元イラク国防相フセイン・カーミル・ハサンの亡命の際に国連、MI6、CIAの三者による聴取が行われ湾岸戦争の後に生物・化学兵器およびミサイルを全て破壊したことをハサンは供述したが、一方で、査察終了後に再度生産する意図があるとも述べた。これを受けUNSCOMは抜き打ち調査をするようになり、イラク政府の対応が消極的になっていった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1998年にUNSCOMはイラクにはミサイルと核兵器は無く、化学兵器もほとんどないと考えてよいが生物兵器が疑問であるとする報告を行った。同年12月、空爆やイラク政府の非協力によりUNSCOMの査察活動は停止した。1999年12月にはUNSCOMにかわり「UNMOVIC」(国際連合監視検証査察委員会)を設置するという国際連合安全保障理事会決議1284が採択された。この採択ではロシア、フランス、中国が棄権しており、イラクも受け入れを拒否した。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2001年にアメリカ大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは、就任直後からIAEAの核査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃から米英両国の国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。強硬論が高まった背景としては、国連主導の経済制裁に緩みが発生し、密貿易で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった。2月には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための米英両軍による空爆が行われた。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "6月、アメリカとイギリスは2001年11月に期限が切れる『石油と食糧の交換計画』に代わるイラクに対する経済制裁案である「スマート・サンクション」の導入を提案した。しかし、ロシアと中国の強硬な反対により、従来の制裁が継続されることになった(国際連合安全保障理事会決議1328(英語版))。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。世界各国からテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、当時のイラク国営放送のコメンテーターは第一報として対米テロ攻撃を「アメリカがこれまで犯してきた人道への犯罪に対する結果だ」と論評した。この報道は、アメリカ側のイラクに対する心証を悪化させたものの、アメリカ政府はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた。10月20日になって、サッダーム・フセイン大統領はアメリカ市民に対する弔意を初めて示した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アメリカ政府内ではフセイン政権の完全な武力征伐が安定への最善の方法であるという対イラク強硬派のポール・ウォルフォウィッツ国防副長官、リチャード・パール国防省国防政策諮問委員長などの発言力が強まり、イラクに対する政権転覆を狙った軍事行動を取るべきであるという見解が度々持たれた。11月にアメリカはクウェートへ2000人の増派を行った。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、2002年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にベンヤミン・ネタニヤフ首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月にシモン・ペレス外相がCNNの取材に対し「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)ビン=ラーディンと同じくらい危険」と答えた。アリエル・シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めた。また、ヘブライ大学教授のシュロモ・アヴィネリ(英語版)は、『ロサンゼルス・タイムズ』にイラク戦争反対派を1930年代のナチス・ドイツへの宥和政策になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2002年11月8日、国連では、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難したが、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があった。これに対して、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。12月7日にイラクは膨大な量の申告書を提出した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2003年1月9日、UNMOVIC委員長のハンス・ブリックスとIAEA事務局長のモハメド・エルバラダイは国連安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」があるとした。また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察に対する非協力的な態度も明らかになった。1月16日には化学兵器搭載可能なミサイル14基の存在が不明であるとUNMOVICによって説明され、イラクが長距離弾道ミサイルに該当しないとしていたアルサムード2の射程が安保理決議違反であると認定されたほか、炭疽菌、タブン、ソマンなどの生物兵器・化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容があるとされていた。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2月14日から2月16日にかけて、カトリックの信徒でもあるイラク副首相のターリク・ミハイル・アズィーズはバチカンとイタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "3月7日、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。米英両国に加え、この時点で理事国ではない日本は、態度が不明確な非常任理事6か国に決議賛成の根回しを行ったが、失敗した。このため、フランスが拒否権を行使せずとも決議否決となる可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議なしでの攻撃に踏み切ることにした。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "3月17日、ブッシュ大統領は全米向けテレビ演説を行い、48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう勧告し、全面攻撃の最後通牒を行った。2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声が強かったが、それを押し切った形での開戦となった。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、アメリカに合わせて武力行使を支持したイギリスのトニー・ブレア政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日にロビン・クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日にフィリップ・ハント(英語版)保健担当、ジョン・デナム(英語版)内務担当両政務次官が辞任。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "米英両国が主張した開戦事由は次の通り。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連安保理決議1154、1441に基づき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決議687)を破棄し、なおかつ米英の先制的自衛権の行使として起こったものである。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "フランス、ドイツなどは開戦するなら決議1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、決議1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及びその同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、地中海にいた原子力空母「シャルル・ド・ゴール」のペルシャ湾派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やディック・チェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していたため、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の「大義」が失われたという批判が巻き起こる結果となった。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2004年6月25日、ポーランド軍はイラクの遺棄された化学兵器を発見した。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "亡命イラク人が、フセイン政権打倒のために、大量破壊兵器を保有しているとの情報を捏造し、アメリカ当局に伝えたとの疑惑が浮上している。イギリスの『ガーディアン』紙によると、ある亡命イラク人男性が既に捏造を認めているという。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "後に元財務長官のポール・オニールが「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」した。 開戦時のCIA長官だったジョージ・J・テネットは「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、ジョゼフ・ウィルソン元駐ガボン大使が2003年7月6日付の『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿した記事に端を発したプレイム事件によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "またプレイム事件などの裁判などでも、ブッシュ政権におけるブッシュ大統領やチェイニー副大統領ら複数の政府高官らによる情報操作とその関わりについて 裁判の中で語られている。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ブッシュは開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "戦争の経過はイラク戦争の年表を参照。", "title": "公式発表による開戦理由" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イラクをサウジアラビアの軍事基地の代替地として確保し、サウジアラビアから米軍部隊を移転することでムスリム(イスラム教徒)の反米感情を和らげ、テロの発生を予防する。ビン=ラーディンは湾岸戦争の際、イスラム教の聖地メッカのあるサウジに異教徒の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守るためという名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していたため、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった。", "title": "政府の公式発表以外の開戦理由の仮説[107]" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イラクを民主国家にし、資本主義経済を根付かせる事で将来起こるであろう石油枯渇による中東経済の混乱を最小限に抑える。", "title": "政府の公式発表以外の開戦理由の仮説[107]" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イラクを親米化させることで中東(イラン、シリア、その他反米の諸国)に「民主化のドミノ倒し」を起こさせる(いわゆるドミノ理論)。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある。ブッシュ政権中枢で影響力を持ちイラク戦争を強く支持したネオコングループでは、フセインがアラブ世界で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルは親パレスチナ、反イスラエル路線のフセイン政権を脅威と見ていたから、国民レベルでも開戦支持が反対を上回った数少ない国の一つだった。イスラエルは、イラクを穏健路線のヨルダン(ハーシム家)に統治させる戦略を打ち出していた。そのため、イスラエル・ロビーが開戦を働き掛けたと指摘されている。", "title": "政府の公式発表以外の開戦理由の仮説[107]" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "後に逮捕されたフセインは、ブッシュの意図を見誤り、空爆程度で収まると考えていたため、強気の発言をしていたと語っている。また大量破壊兵器の存在を示唆することで、中東諸国におけるプレゼンスを高める狙いがあったとされる。", "title": "イラク側の思惑" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "フランス・ロシア・中国の各国は石油や開発プロジェクトを巡ってイラクと良好な関係にあり、このためこの国連安保理常任理事国の3カ国が武力行使に反対する姿勢を崩さなかった背景にはその利益を守ろうとする動機があったとも言われている。また、この3カ国は武器輸出も行っており、イラク軍の保有する兵器の大半はロシア・フランス・中国製で国際社会から武器禁輸を受ける湾岸戦争前はこの3カ国はイラクの武器輸入の90%も占めていた。また、ペルシャ湾への空母「シャルル・ド・ゴール」派遣を準備していたにもかかわらず中止したフランスはイラクに多額の借款を持っており、戦争による体制の崩壊で当該借款が回収不能になることが危惧された。中国はフセイン政権時代の1997年にアルアーダブ油田の権益を得ており、イラクが戦後初めて外国企業との油田開発契約を結んだ相手も中国のCNPCでこの権益を保った。", "title": "開戦反対国や国連のイラクでの利害" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、国連においてもイラク関連人道支援事業石油食料交換プログラムに関わる汚職が後に問題となった。これは経済制裁を受けていたイラクが石油と食料や衣料品を交換するという国連の事業であり、この計画に関与したブトロス・ブトロス=ガーリ元事務総長のファミリー企業やベノン・セバン(英語版)事務次長(当時)、コフィー・アナン元事務総長の長男コジョ(英語版)が密輸やイラク政府、関連企業からの賄賂によって利益を得ていたという事件である。イラクを軍事支援していたロシア、フランス、中国がこの計画で最も利益を得ていた。フセイン政権がこの計画で不正に得た収益は19億ドルにのぼるとされており、そのための賄賂と見られている。なお、国連に懐疑的なブッシュ政権や戦争賛成国のイギリスやオーストラリアにはイラク戦争前に本来構内は不可侵とされている国連本部を盗聴していたとする国連盗聴疑惑(英語版)も起き、実際に盗聴器が設置されていたことがわかっている。", "title": "開戦反対国や国連のイラクでの利害" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "開戦直後の各国の反応は以下の通りであった。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "イギリスのブレア首相は政府声明として、アメリカの武力行使を支持し、共に参戦すると表明。参戦の際の声明では、かつてウィンストン・チャーチル元首相が発した「陸海空から」という文言が用いられた。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本の小泉純一郎首相は記者会見で、「アメリカの武力行使を理解し、支持いたします」と表明した。後に明らかになったことだが、小泉の同声明は外務省の事務方が用意した文書よりも踏み込んだ内容になっている。文書では「理解する」との表現が盛り込まれていたが、開戦の際の記者会見では小泉は「支持」という踏み込んだ文言を用いた。また、開戦前から安保理理事国にアメリカ支持を働きかけていた。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "オーストラリアもアメリカの武力行使を支持し、空軍の戦闘攻撃機、海軍のフリゲート、特殊部隊を派遣した。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "開戦後、国際反戦団体のUFPJ(正義と平和のための連合(英語版))やANSWER(戦争を止め差別を終わらせるために今行動しよう(英語版))の呼びかけにより、24時間かけて世界を一周させるリレー反戦デモが繰り広げられ、一部の国では規制しようとする警察と小競り合いが起き、負傷者や逮捕者が出るほど激化した。著名アーティスト達は揃って攻撃を非難。これと同時にワシントンにおいては開戦を支持するデモも大規模に行われた。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "3月27日の国際連合安全保障理事会の席上において、米英側が戦争の正当性を主張。ロシア、中国、イラクなどがこれに批判的な発言を行った。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フランスのドミニク・ド=ビルパン外相は、開戦を強行したアメリカに強く反発した。アメリカ国防長官のドナルド・ラムズフェルドから「(開戦反対の)フランスとドイツは古いヨーロッパだ」と皮肉られると、国連安保理で「フランスは古い国(歴史がある、という意)だからあえて反対する」と切り返した。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "4月14日、アメリカ政府はシリアを非難。イラクの政府要人などを匿い、化学兵器を所持していることなどを理由としたものだが、これは当のシリアは元よりフランス外相、国連事務総長などの反発を招いた。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本政府はイラク政府に対する債権放棄に応じ大きな損害を蒙った。2005年11月24日の外務省のプレスリリースによると繰延金利を加味しない場合、約7,100億円の債権削減と発表された。イラク戦争でアメリカに追従したが大量破壊兵器も見つからず、7,100億円もの債権放棄と原油高の長期化だけが日本にとっての結果となっており、不利益しかなかった日本国民から批判が起こった。 イラク戦争によってイラクの原油輸出が減少したことも原油価格上昇の要因の一つになった。 湾岸戦争時、総計130億ドルもの資金を提供し大きな批判が国内から起こったため、直接資金提供を実施するのではなく債権放棄という形で国民からの批判を回避しているとの指摘が出された。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アメリカの突きつけた最後通牒の期限が切れる2003年3月20日の午前中(日本時間)は、各局とも特別報道体制を敷いていた。", "title": "各国での反応" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した(イラク侵攻 (2003年))。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らうが、制圧した。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダードで合流して突入し、これを攻略した。なお、この攻略に際しては、米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとのニセ情報を出し、バグダード市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などをおびきだし、それらが進攻部隊攻撃のため市内を出たところを、空爆によって大半を破壊した。(これは市内での空爆の困難さから、市街地の外に戦車などをおびきだした戦術といえる。)", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは、戦争開始前後から積極的にメディア工作を行っていたサッハーフ情報大臣がバグダードの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとした。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイルと対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。ラムズフェルドはかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空爆と巡航ミサイルによる結節点の破壊によって、イラク軍の指揮系統は早期に崩壊した。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。 事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダードまで進軍することに成功した。このことはアメリカの圧倒的軍事力を(一時的なイメージだけであれ)世界中に見せつける結果となった。軍事大国アメリカの存在感をいっそう高めて、中東を始め世界各国に改めて示すことができた。「開戦前から戦争が泥沼化する」と予想していた研究者もいたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられなくなった。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "この戦争ではスティンガーで武装させたMQ-1がイラク軍のMiG-25と交戦して互いに対空兵器を装備した有人機と無人攻撃機の史上初の空中戦も行われ、続く占領下の武装勢力との抗争では遠隔操作の無人自走機関銃を初めて実戦投入され、戦場のロボット化が進んだ。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、RMA(軍事革命)という考え方が台頭した。イラク軍に69式戦車など兵器を大量に供与していた中国もイラク軍の一方的な敗北に衝撃を受けて中国人民解放軍は特にC4ISRと無人航空機(ドローン)の活用などに注目していたとされる。", "title": "戦術" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "大量破壊兵器の保有に関してはUNSCOM主任査察官のスコット・リッター、IAEA事務局長(肩書きはいずれも当時)のエルバラダイらは当初から否定的であった。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "イラク国内に入ったアメリカ軍は、大量破壊兵器の捜索を行った。また、UNMOVICも現地入りし捜索を行った。しかし捜索にもかかわらず新たな大量破壊兵器は発見されず、2004年9月13日にパウエル国務長官は「見つからないだろう」と捜索断念を明らかにした。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "CIAに依頼されて大量破壊兵器調査団長を務めた政治評論家のデビッド・ケイ(英語版)が、2004年1月28日の上院軍事委員会公聴会で「私を含めてみんなが間違っていた。調査活動が85%ほど終了した今、生物・化学兵器が発見される可能性はもうないだろう」と証言した。同年10月にはアメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出。匿名密告者カーブボール(英語版)による大量破壊兵器の情報の信憑性が薄いものであったことが明らかになった。この事に関してサッダーム・フセインは、拘束後のFBIの取調べで、イラクが査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持しているのをほのめかすことでイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器などの大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」と証言している。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "アメリカ政府は大量破壊兵器に関するCIAの情報に誤りがあったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となった。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一方、大量破壊兵器が発見されなかったことで、イラク戦争を支持した同盟国にも動揺が走った。最大の同盟国であるイギリスでは、ブレア首相が開戦前に「フセイン政権が生物化学兵器の使用を決定した場合、45分以内に配備できる」という報告書を提出し、情報の真偽を巡って政府職員に自殺者まで出していたため「国民を騙した」として支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれた。デンマーク国防相のイエンスビュ(デンマーク語版)も開戦前に「大量破壊兵器問題をめぐる報告書」を提出してイラク戦争を支持したため辞任を余儀なくされた。また、ポーランド大統領のクワシニエフスキは「アメリカに騙された」と批判し、日本の久間章生防衛相も「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」と発言し物議を醸した。アメリカを当初から支持した日本の外務省は、2012年12月にイラク戦争への対応に対する検証結果の報告を行った。この報告ではイラクに大量破壊兵器が不存在であることを証明する情報を外務省が得ていなかったと結論付け、外務省のとった対応は概ね適切であったと述べている。オーストラリア国防相のブレンダン・ネルソン(英語版)にいたっては、「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」と開き直る発言をして批判を浴びた。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けた。また、イラク戦争に賛成したヒラリー・クリントンは、2014年に侵攻は誤りだったと述べている。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ISILはイラク国内にあり、米軍が破壊できなかった元化学兵器工場で略奪を行い、サリンなどを含む2500発もの化学兵器を持ち去った可能性が示唆されている。元化学兵器工場はバグダード付近にあり、1980年代から1990年代に実際に稼動していた。イラクでは2014年夏ごろから武装勢力やテロ集団による襲撃により、この元化学兵器工場のコントロールを失っていたとされている。", "title": "大量破壊兵器捜索" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2008年3月、アメリカ国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめた。なお、報告全文は当初インターネット上での公開が予定されていたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられた。", "title": "フセイン政権とアルカーイダの関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イラク戦争は5月1日の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグダード進攻によるフセイン政権崩壊以降、国連安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなった。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アメリカ軍がバグダードに進撃すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権であったが、その観測は後に裏切られることになる。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ったが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられている。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行えず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いている。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍だが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬を密かに隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられている。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保したが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下に潜り、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手であった。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加している。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、バグダードなど大都市を占領すると、圧政から解放されたと感じた市民が略奪に走り、博物館の展示物や商店の品物が略奪の対象となった。これはこのような無政府状態に対する準備が行われていなかったことの表れでもある。また市民の略奪に紛れ、武装勢力の中には市役所や警察署などを対象に狙う者もあり、米英軍はこれも防ぐこともできなかった。後に占領政策に移ると、市民の登録情報や個人情報、自動車の登録番号などが根こそぎ持ち去られるか、破壊されていることがわかった。このため、車爆弾や自爆テロで用いられた自動車のナンバーが判明しても、所有者がわからないためレジスタンス組織の検挙に繋がらなくなっている。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2009年1月、ブッシュ大統領は最後の記者会見で対テロ戦争は正当化したものの、2003年に行なった「戦闘終結宣言」は誤りであったことを認めた。正式な「終結宣言」は、さらに7ヵ月後の2010年8月31日、新たに大統領に就任したバラク・オバマによってようやく為されることになる。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "復興業務には「ハリバートン」社、「ベクテル・インターナショナル」社らアメリカの民間企業がいくつも参加していた。戦闘終結直後に民間企業が続々と参加してくることは初めてであったが、これら実験的な政策はチェイニーらブッシュ政権閣僚の肝いりであったと言われている。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "本来は軍が行ってきた輸送業務などを、安全が確保された地帯に限って民営化し、民間企業がトレーラーなどを使って食糧や物品、軍事物資を輸送する、民間企業は同時に石油開発事業も行って利益を得る、と言うものであった。アメリカ国防総省から見れば、戦争で大きな比重を占める輸送業務を民営化することで、その分の兵力と予算を作戦に回すことができ、効率的だと考えられた。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかし、実際にはイラクは戦闘状態にあり、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついているとはいえ、すぐに武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手にはアメリカ人の他、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となり、また度重なる攻撃によって幹線道路周辺は治安が悪化し、民間企業では手に余る状態となった。アメリカ軍は治安悪化によって兵力が不足し始めると、警備業務を民間軍事会社などの企業に委託するようになった。民間軍事会社に所属するかなりの数の警備員が高報酬に応じてイラクに入ったが、彼らも数多く殺害されている。武装勢力と戦闘して死亡した者も多い。ただし、警備員は飽くまで民間人であるため、死亡しても“戦死者”には計上されない。民間軍事会社の社員は多くは警察、軍の出身者であり、国籍も多様である。2007年9月にブラックウォーターUSAがイラク民間人17人を殺害、24人を負傷させる事件(ブラックウォーター事件(英語版))が起き、非難を浴びた。合衆国政府は少なくとも14人の射殺には正当性が認められないと判断しているが、ブラックウォーター社との契約を延長している。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "このように、輸送業務は麻痺状態に陥っているため、前線の兵士まで物資が十分に届いていないことが、兵士が家族に当てた電子メールなどでわかっている。特に水不足が深刻で、摂氏50度の砂漠の中で水分補給をぎりぎりまで制限されていると言う。また、現在のアメリカ軍はベトナム戦争の頃とは違って徴兵を行っていないため、イラクの状況から入隊希望者が集まらず、兵士の絶対数の確保が困難となっている。このため前線の兵士は数か月で帰還できるところを、1年以上待たされていることも普通である。この人員不足をアメリカ軍は州兵(国家防衛隊)で補っているが、彼らも同様に扱われる上、同じ州兵を繰り返しイラクに派遣するなど、待遇は悪化している。さらに州兵の不在が、結果としてアメリカ国内での災害の発生・拡大に深く影響を与えることも、2005年のハリケーン・カトリーナによって明らかとなった。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一方、石油開発は油田施設やパイプラインへの攻撃で産油量が低迷。世界第二位の埋蔵量でありながら、安定した供給を行えない上、ブッシュ大統領が発言した「世界民主化」は、民族自決に反するものであり、王政や専制であるアラブ諸国の不信感をますます募らせたため、石油危機の再来が恐れられた。このため、石油メジャーを中心に石油資源買いが発生し、原油価格は戦闘終結宣言後から急速に価格が上昇した。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "連合軍はイラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、いわばアメリカが(起こる兆候さえなかった)クーデターに手を貸して旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎず、前述したように、旧軍やバアス党旧政権が地下に潜ってしまったためである。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かった。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じるなど戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えた。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなった。しかし、サッダームの一族や旧政権関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになった。8月には国連事務所を爆破して国連事務総長特別代表だったセルジオ・デメロ(英語版)らを殺害、国連チームの撤収に至った。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、大統領だったサッダーム・フセインや、その2人の息子であるウダイとクサイや政権幹部らに指示されていると思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって逃亡した政権幹部の逮捕が進められ、7月にはウダイとクサイが共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えた。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生した。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "だが2004年に入ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい警察や新しいイラク軍を標的とする事件が増えた。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリカ軍への攻撃に加えて、新体制の象徴たるものの破壊を狙ったと考えられる。また、民間外国人を狙った誘拐事件も頻繁に発生し、日本人民間人も被害に遭った。これらはイラク国内の武装勢力によるものと思われ、誘拐した人質と引き換えに軍を撤退させるよう要求するのが手口であった。ただ、彼らは宗教指導者の呼びかけに応じることも多かった。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2004年4月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった(ファルージャの戦闘)。また、この頃から南部でもシーア派イスラーム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至る。6月に暫定政権が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われた。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになる。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれた。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となった。シーア派民兵はムクタダー・サドルに率いられ、組織的な戦闘を行ったが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者アリー・シースターニーの停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かった。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃した(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的であるザルカーウィーらアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後であった。米軍が直接制圧に当たっているが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われている。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がる。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっている。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダードの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダードに転戦させた。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ファルージャの戦闘の一方は米軍だったが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できない。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。特に開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で2004年3月11日に列車爆破テロが発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えた。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万人に増強する旨を発表した。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもあったが、実際は14万5千人までの増強で抑えられた。2005年4月には新憲法案の採択を行う移行政府が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入った。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ところが、2005年の夏に起こったハリケーン「カトリーナ」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣され救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次いだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させ、イラク駐留兵力は13万8千人となった。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員したが、翌2006年2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となった。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド、韓国、イタリアに引き続き、イギリス、オーストラリア、日本が相次いで兵力削減・離脱を発表した。しかし、シーア派とスンナ派(あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、同月22日のアスカリ廟爆破事件(英語版)によって宗派対立に発展した。このため、日英豪3か国の撤退計画は不透明なものとなった。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンナ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられたが、多国籍軍はこれを否定した。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難している。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンナ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンナ派はシリアが援助しているとも言われる。ただし、シリアは少数派のシーア派系アラウィ派がスンナ派を支配する国家形態であり、イラクのスンナ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在する。また、フランスに海外拠点を置く旧バアス党残党も他のスンナ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダード市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からもイスラム主義勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていた。", "title": "占領政策" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2006年4月に入ると、エジプトやサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは内戦である」と発言し、これに対してイラク移行政府が強く反発した。しかし国内はシーア派とスンナ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンナ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派のサドル(英語版)と親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「統一イラク同盟(英語版)」(UIA)は、首相にヌーリー・マーリキーを擁立した。スンナ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官とコンドリーザ・ライス国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内相をマーリキーが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマーリキーが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、正式政府が発足した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "政権発足直後の6月7日、マーリキー首相とアメリカ軍は共同で、それまでイラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィーを、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が電撃訪問してマーリキーを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマーリキー政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダードで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構(OIC)が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで路肩爆弾による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2006年12月30日、サッダーム・フセインが処刑された。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "スンナ派が多数を占める町では米軍に対する攻撃が盛んであるが、国外から侵入するアルカーイダ系勢力に対しても外国の武装勢力だとして武力衝突が生じていた。その一方で資金力に優れるアルカーイダと一部スンナ派武装勢力が対米攻撃で協力関係を結ぶなど、スンナ派地域へのアルカーイダの浸透も進んでいた。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "そこでアメリカ軍はイラクのアルカーイダ系組織の幹部ザルカーウィーの脅威を強調し、ザルカーウィー派掃討を目的とした空爆などの過激な攻撃をスンナ派地域で繰り返した。この時スンナ派の間では、攻撃による巻き添え被害の大きさからザルカーウィーを追放しようとする動きが強まった。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2007年に入り、アルカーイダの過激な活動に反発するスンナ派市民までがテロの対象とされ、塩素ガスを用いたテロによる多数の被害者を出し両者間の溝が表面化した。4月には主要なスンナ派武装勢力の一つ「イラク・イスラーム軍」が構成員30人をアルカーイダに殺害されたとして、ビン=ラーディンに対する非難声明を出した。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "こうした「反アルカーイダのスンナ派」と「アルカーイダ系スンナ派」の対立のなかで、アメリカ軍が反アルカーイダのスンナ派部族と協力関係を持つなど、事態は一層複雑化している。バグダード中心部にあるマンスール・ホテルのロビーで6月25日に発生した自爆テロでは、アルカーイダ系過激派との戦いに協力した6人のスンナ派部族指導者が殺害された。", "title": "正式政府の発足" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2007年1月10日、ジョージ・ブッシュ米大統領は「イラクの混乱の原因はすべて私にある」とテレビ演説し、陸軍5個師団・1万7500人、海兵隊2個大隊・4000人から成る、最大で米兵2万2000人のイラクへの一時増派を明らかにした。兵力増強をブッシュに進言したのはジョン・マケイン上院議員だとされる。2月にはイラク駐留米軍の司令官にデービッド・ペトレイアスが就任した。具体的には、1万数千人がバグダードで治安維持に当たるほか、治安悪化の著しい西部の州にも7000人程度が派遣され、ゲリラ掃討に当たるというものであった。また、この戦争と占領によって、米本国の陸軍と海兵隊の人員が不足したことから、数万人規模で増員した。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "さらに、ペルシャ湾に空母打撃部隊2個部隊を配備するなど、イラクのほか、イランやシリアに対する軍事的威嚇の度合いを強めている。同年3月までに憲兵やヘリコプター部隊が増派され、増派規模は最終的に3万人となった。しかし、過去数度にわたる増派の効果がいずれも薄かったことから今回の増派の効果を疑問視する声は根強く、同年1月24日には上院外交委員会で増派反対決議案が可決・上程され、翌月17日には下院本会議で増派反対決議が賛成:246対、反対:182で可決、共和党からは17人が賛成に転じた。ただ、上院では本会議に上程されたものの審議打ち切りに必要な60票には到達せず同案は廃案となった。増派反対の世論は61%(2007年3月18日・CNN世論調査)にも上っていた。前述のマケイン上院議員は、側近議員数名と同年4月にバグダードを訪問し治安状況を視察したが、その際には護衛が100人以上つくなど、治安状況は悪化の一途をたどっていた。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "しかしながら、同年5月25日には、撤退期限を明示しない1000億ドル相当の対イラク戦費法案が上下両院を通過(下院では280対142、上院では80対14)、夏以降の増派は一定の成果を見せ、2007年の米兵死者数は年間では過去最悪の901人を記録したが、5月の126人をピークに9月以降減少傾向を見せ、10月にの米兵戦死者は39人に減少、11月には37人、12月はその数は更に下回り23人となった。米軍は依然として状況を楽観していないが、2004年2月の20人に次ぐ低水準となった。これには、ペトレイアスの新たな治安維持戦略が挙げられる。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ペトレイアスの戦略は「交番作戦」と称されるもので、防御を固めた少数の大規模駐屯地を中心に活動を展開した前任の司令官ジョージ・ケイシーとは異なり、地域に広く展開して継続的なプレゼンスを確立することに重点をおいていた。また、同時に人道復興活動等を強化して地域住民に対する心理的プレゼンスを確立することも重視しており、前述のアルカーイダに反発するスンナ派諸部族や同派部族を代表する覚醒評議会(Majlis al-Sahwa)との連携強化につながった、こうした硬軟の使い分けにより、2007年7月のバアクーバでの戦闘でイラク聖戦アルカーイダ機構に大攻勢をかけ、ペトレイアス司令官によると、聖戦機構の6 - 7割に打撃を与えたとしている。2007年10月には軍内部で対聖戦機構勝利宣言が検討されたが、その際には慎重論が大勢を占めた。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2008年1月には石油生産量が開戦前と同水準の250万バレルにまで回復した。また、フセイン拘束を指揮したことでも知られるレイモンド・オディエルノ副司令は2008年8月までには米軍の駐留規模を2、3万人削減できるとの見通しを示している。2008年4月8日にはペトレイアス司令官が上院で証言を行い、増派前の水準への兵力削減を発表する一方、武装勢力との攻防が依然一進一退の状況であることから、それ以上の追加撤退については否定した。同年7月22日までに増派された部隊は撤退完了を遂げた。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "また、同年4月の米兵戦死者は、後述のシーア派同士の抗争から一時的に治安が悪化し52人に上るが、翌5月は戦況が再び好転し、米兵の死者は開戦以来最低の19人、多国籍軍全体でも21人に留まった。更に、同年7月には戦死者は11人に留まり治安回復傾向がより顕著になった。それを受けブッシュ大統領は派遣された兵士の駐留期間を15か月から12か月に短縮することを発表した。また、CBSの調査によれば2007年8月には2000人を数えていた民間人の死者は、2008年6月には490人に減少、多国籍軍に対する攻撃も1500件から200件に激減した。更に、同年9月の米兵の死者は8人に減少し、10月には7人にまで減少した。同月のイラク人の死者も238人と開戦後最低を記録した。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ペトレイアスは、治安回復の功績を認められ、ディック・チェイニー副大統領との対立から米国中央軍司令官の職を辞した海軍大将ウィリアム・ファロン(英語版)の後任に、10月31日付けで就任した。また、これらを受け、同戦争及び増派に反対の立場を取ってきたバラク・オバマ上院議員は9月4日のフォックス放送の取材に対し、増派の成果を認めている。2008年12月現在、イラクには14万6000人の米兵が駐留している。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2009年3月にABC、BBC、NHKが行った合同調査によると、85%が治安が良い、もしくはかなり良いと答えているなど、イラク人の治安に対する実感も上昇しているとされる。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "多国籍軍がイラク国軍と警察により管理ができるまでに治安が回復したと認める県についてイラク政府へ治安管理権限が返還されている。これを治安権限の委譲(Transfer of Security Responsibility / control)という。2006年9月にイギリス軍管理下のムサンナー県から始まり、2008年9月に11番目として初めてスンナ派が多数を占めるアンバール県の治安管理がイラク政府に返還された。", "title": "増派による治安回復" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "フセイン政権下では人口の2割の少数派のスンナ派が支配していた。フセイン政権崩壊後はこれまで支配下に置かれていたシーア派勢力が政権の中枢に躍り出たが、スンナ派にとっては不満が残るものであった。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "さらにイラク戦争から5年を迎えた2008年3月に入ると、そのシーア派内でも内部抗争が勃発。同派の強硬派であるムクタダー・サドル一派と政府との対立が表面化した。政府軍とマフディー軍が、同月25日にバスラで衝突したのを皮切りに、クート、ヒッラ、バグダードに拡大。マーリキー首相自身が陣頭指揮を執った、25日のバスラでの戦闘では双方合わせて31名が死亡した。26日にマーリキー首相は、28日までのマフディー軍の武装解除を要求、一方のサドルも前日のナジャフでの声明で徹底抗戦の構えを見せている。27日には両者の戦闘でバスラ近郊の石油パイプラインが爆破された。また同日には、ジョージ・ブッシュ米大統領がオハイオ州での演説で政府軍支持を鮮明にした。更に、同日深夜にはバグダードで外出禁止令が発令された。翌28日には政府軍に同調した米軍が南部・バスラのマフディー軍施設を空爆した。同日にマーリキー首相は、マフディー軍の武装解除期限を4月8日まで延長すると発表した。30日にはサドル自身がマフディー軍に対し戦闘中止を呼びかけ、31日にはバグダードの外出禁止令が解除された。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "イラク北部の都市キルクークには巨大な油田があるために、サッダーム・フセイン政権の下、トルコ人、クルド人が追い出された経緯を持つ。2003年4月の第2週頃、アメリカ軍のキルクークへの進攻に伴いイラク人は町を離れ、周辺都市からクルド人が来訪、略奪を繰り返すようになった。トルコは自国のクルド人が独立国家を設立しようとする可能性について懸念を抱いており、キルクークがクルド人自治区となること(ひいては原油関連事業の資金がクルド人の手に渡ること)に反対していた。アメリカ政府もトルコ政府のこの方針に賛成し、クルド人自治区はほとんど現状維持という形となった。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "しかしながら、当然のこととしてクルド人の独立志向がそれで止むということにはならず、キルクークやモスルでペシュメルガによるアラブ人やトルクメン人、アッシリア人に対する民族浄化が多く報告される他、2006年9月にはクルド民主党党首であり、自治区議長を務めるマスード・バルザニが自治区でのイラク国旗使用を廃し、クルド旗の掲揚を命じる議長令を発布する等事実上の独立に向けた動きを加速させている。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "こうした中、2007年3月末にはクルド人のキルクーク帰還と入植アラブ人の帰郷を進める法律にマーリキー首相が署名した。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "しかし、入植アラブ人の帰郷が強制的な追放ではなく当人の任意とされたことに同法案をキルクークのクルド自治区編入と、対アラブ人民族浄化の総仕上げと位置づけるクルド側は強く反発しており、またアラブ人側もシーア派主体の同市においてマフディー軍が躍進するなど強い抵抗の構えを見せている。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "また、同市の民族紛争においてはアルカーイダを始めとするスンナ派の武装組織がマフディー軍に協力を与えているとの報道もあった。この様な民族間、宗派間の綱引きの結果、2008年現在未だにキルクークの帰属に関する投票は行われていない。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "また後述するトルコとの緊張状態もあわせ、イラク政府も含めた『自治区全周の脅威に備えるため』としてPKK、PUK両党は一貫してペシュメルガの拡充を続けており、その総兵力は公称だけでも20万を超えるに至った。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "一方で、民族としての単一性を高めることで治安・経済を安定させ、独自に海外からの投資も多く受け入れるクルド人自治区に安全と職を求めて自治区外からアラブ人の国内難民が流入する矛盾に満ちた状況も発生している。ただし、元々の経済規模の小ささに加え、根強い反アラブ感情もありアラブ系難民にまともな仕事があてがわれることが少ないこともまた事実である。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "トルコは国内に多くのクルド人を抱えており、クルド人勢力のテロと分離独立の動きを警戒している。イラクからのクルド人勢力の越境テロもあり、アメリカとイラクに対して対応を求めているが、治安の悪化を恐れて積極的な対応はされていない。こうした中、トルコは国境地帯に軍を展開させたが、逆に国境地帯でクルド労働者党(PKK)がトルコへの攻撃を激化させた。2007年6月にはPKKが拠点とするイラク北部のクルド人自治区に対してトルコ軍が大規模な越境攻撃を実施したとの報道が流れたが、トルコ側は限定的な作戦だったとして否定した。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "その後、10月7日(ハッキャリでの武力衝突 (2007年))にトルコ兵13人が死亡するPKKの攻撃があり、トルコではイラク北部への1年間の越境軍事活動を可能にする法案が可決された。しかし21日には再びPKKの攻撃によりトルコ兵17人が死亡、応戦でPKKの32人が死亡し緊張が高まった。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "イラク国境を挟んだ緊張状態はPKK及びトルコ軍航空部隊両者の数次に渡る越境攻撃を経て持続され、2008年2月21日、トルコ軍はついに2個旅団数千人規模の部隊をイラク北部へ越境進行させた。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "これに対しPKKは激しく抵抗、クルド自治区もペシュメルガにトルコ軍との遭遇した場合には応戦するよう命じ、情勢は一触即発の事態にまで進展した。しかし、トルコ軍は結局アメリカ政府の強い圧力の下に初期の目的を果たせぬまま撤退を余儀なくされ、イラク政府は3月1日までにトルコ軍越境部隊の撤収を確認し、危機は一応の収束を迎えた。また、同軍の越境攻撃に関してはレジェップ・タイイップ・エルドアン首相は消極的であったとされるが、ケマル・アタテュルク以来の国是である政教分離を守ろうとする軍部と首相の所属政党でイスラム主義を標榜する公正発展党の内部から突き上げられ、両者との板ばさみになっている側面もある。", "title": "再不安定化" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2008年米大統領選で、イラク戦争を「間違った戦争」と批判し、駐留米軍の早期撤退を公約とするバラク・オバマが当選。2009年1月に就任すると、翌月には2010年8月末までにイラクからほとんどの米軍部隊を撤退させ、同国での戦闘任務を終了させることを発表した。度々の延期がありながらも、2011年末の完全撤退が決まり、2011年12月14日にオバマはイラク戦争終結を宣言した。", "title": "終結" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2011年にアラブの春が勃発し、イラクの周辺でもシリア内戦が勃発するなど不安定化が著しくなった。ISILは旧バアス党員を吸収し、スンナ・シーア両派の対立を利用しながらイラクとシリアで勢力を拡大、内部分裂で弱体化していたイラク軍は2014年にモースルを奪われた。これを受けて、米国は2014年8月から航空攻撃を行い、地上部隊を再派遣、当初は300人程のつもりが、最終的に5200人になった。モースルの戦いをはじめとした激しい攻防戦の末、2017年12月にイラクからのISIL勢力の一掃を宣言した。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "その後もISILを根絶するために駐在し続け、2020年にドナルド・トランプ米大統領が縮小を発表。2021年1月には2500人になった。同年12月9日にイラクの駐留米軍による戦闘任務の完了が発表されたが、イラク軍支援のため完全撤退はしないとされた。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "人員は時期によって変動があるため、最大時期のおよその数を示す。イラクの他にクウェート、サウジアラビア、バーレーンにも駐留している。東欧・旧ソ連諸国からの派遣がある一方、湾岸戦争に参戦したアラブ連盟諸国は派遣しなかった。", "title": "イラクと周辺国への部隊派遣国・参戦国" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "2007年12月、国連安保理は駐留にイラク政府の同意を要すると定めた2004年の決議1546に基づき、多国籍軍の駐留を2008年一杯とする決議を採択した。この決議によりアメリカ・イギリス軍以外の各国駐留軍は2008年度で撤退した。", "title": "イラクと周辺国への部隊派遣国・参戦国" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "アメリカ政府とイラク政府はアメリカ軍の駐留期限を2011年に延長する二国間協定を締結し、2009年1月に大統領に就任したバラク・オバマは、2010年8月までにアメリカ軍の戦闘部隊9万人を撤退させ、イラク軍の育成のために残留する5万人は2011年12月までに全軍撤退を完了させると表明。2011年12月18日に全部隊がクウェートに移動、撤収が完了した。", "title": "イラクと周辺国への部隊派遣国・参戦国" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "開戦からブッシュ大統領による“戦闘終結宣言”が出されるまでの期間は非常に短かったが、2008年3月現在もイラク人兵士・警察官・民間人、そしてアメリカ軍をはじめとする多国籍軍兵士も、ともに犠牲者が増え続けている。イラク治安部隊(新イラク軍・新イラク警察)は、イラク警察だけで少なくとも8,000人から10,000人が戦死している。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "アメリカ兵の犠牲者は4,000人を突破し、これに加えて、軍に従事する民間軍事会社の契約要員が、これまでに少なくとも1,000人以上が死亡していると報じられている。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "2007年10月現在、イラクでは各種民間警備会社は、アメリカ正規軍を上回る計18万人が活動していた。その活動内容は政府が管理していないため、誰を殺しても誰に殺されてもさしたる問題にはされていない。民間警備会社の警備員による虐殺・暴行も報道されており、前述したとおり2007年9月16日にはブラックウォーターUSA社の警備員が乱射で民間人17名を射殺、「武装勢力に対し正当防衛を行った」と偽証をした事件が表面化し、イラク・アメリカで問題となった。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "また、英軍の死者170人、その他諸国軍の死者132人と合わせて、連合軍全体の死者数では4,000人以上(民間軍事会社の契約要員を除く)となる。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "また、アメリカでは、外的な負傷を負っていないものの即席爆発装置(IED)の影響で、外傷性脳損傷(高次脳機能障害)で苦しむ帰還兵が増加、社会問題となった。アメリカ政府は、2009年に外傷性脳損傷の診断基準を変更した結果、2001年から2009年10月まで(アフガニスタンでの戦闘も含め)約14万人が受傷したとのデータを集計している。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "アメリカ国籍取得を目的にアメリカ軍に入隊したグリーンカード取得者は死者数に計上されていない。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "※2008年4月までの集計", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "※戦死者のみ2008年4月までの集計", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "イラクに派遣された自衛隊は戦死者が一人も出ていないと公式に発表されている。ただし、イラクを含む海外派遣任務に就いた1万9700人の自衛官のうち35人が在職中に何らかの原因で死亡している。内訳は海上自衛隊員が20人、陸上自衛隊員が14人、航空自衛隊員が1人となっており、死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人と発表されている。「在職中」には任務から帰国した以降も含まれており、イラク国内で死亡した自衛官の数はわかっていない。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "戦闘終結後の民間人犠牲者総数の推計にはばらつきが多く、正確な数字はわかっていない。アメリカ軍は戦闘で殺害した武装勢力や、アメリカ兵の過誤(誤認・誤爆・誤射)で死亡したイラク民間人の数を公表していない。なお、報道を基にこれらを集計しているサイト\"Iraq Body Count\"の2007年11月30日付のデータによると、直接の殺害数は約80,000-87,000人と集計されている。一刻も早い治安の回復が望まれている。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "Lancet Studyによる2004年10月の推計によると、兵士・民間人あわせて約98,000人という推計が出ている。ただしその推計は95%信頼区間が8,000人から194,000というもので、大雑把である。また、Lancetによれば死亡率増加の調査を基にした研究では、2006年6月時点でイラク戦争の死者は約655,000人になると推計された。ただし、あくまで死亡率増加からの推計であるため、直接の戦死とは直接結びつかない推計である。また、中国国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来のイラク民間人死亡数は66万人以上であるとされている。2007年9月14日にイギリスの世論調査会社・オピニオンリサーチビジネスが行った調査(英語版)では、死者が最大で120万人を上回る可能性があるという結果が報告されている。世界保健機関は2008年1月に推計で151,000人だとする調査結果を発表している。2013年10月にはアメリカとカナダの研究者により、査読された医学専門誌として最も権威があるとされるPLOS メディシンジャーナル(英語版)において、およそ500,000人の民間人が犠牲になったと発表されている。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "1990年の湾岸戦争後、経済制裁により栄養失調が幼児を襲い、UNICEFによれば50万人の犠牲者が出た。(この数字には反論もある。)国民の所得が10分の1にまで落ちたとも言われる。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "イラク戦争はそこに追い打ちをかけ、治安が悪化し、社会は混乱した。2004年頃には失業率が7割に達し、2005年には若者の失業率は37%であった 。慢性的な栄養不足により4人に1人の子供が、身体的・知的な成長阻害を経験していた。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "UNICEFでは17歳以下で,親を一人また二人亡くした子どもを孤児としている。UNICEFによれば、イラクでは孤児が約80万人存在する 。親がいる子どもでも、生活苦により親が絶望して子供を捨てることがあった。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ工科大学国際研究センターの資料によると、イラクに孤児が450万人存在するという。イラクの子どものうち、約6人に一人が孤児である。孤児の70%は両親を失っている。親戚に預けられた孤児が大勢存在したようである。イラクの2003年時点での出生率は4.62人であり、各家庭に子どもがたくさんいる。戦争の影響で食糧が不足しており、親は自分の子供にすら十分な食べ物を与えられない。そんな状況で親戚から孤児を預かった叔父・叔母は、どうやって子どもたちを食わせていったら良いのか、頭を抱えたことだろう。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "太平洋戦争直後、日本の各家庭は同じように食糧難で、子沢山だった。親戚に預けられた日本の戦争孤児は、親戚から邪魔者扱いされ、暴言をはかれ、時には暴力を受けた。「毎日が精神的虐待だった。」「心の傷はずっと消えない。親と一緒に死んだほうが良かったと何度も思った。」と話す日本の孤児がいた。イラクの孤児の中に同じような経験をした人がいると想像される。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "約60万人の子供が、食糧も家も無く路上で生活していた。路上で生活する子どもたちは、物乞いをしたりガムなどを大人に売ろうとする。煩わしいと思うのか、子どもに暴力を振るう大人もいる。子どもが性的暴力の対象になることもある。生活が苦しく、働かなければ生きて行けず、学校に行く時間がない。そのため読み書きや計算が出来ない子どももいる。読み書きが出来なければ、将来、まともな仕事を得ることは難しい。栄養失調を患う子が多い。一部の子どもは人生に希望を持てず、ドラッグに手を出し不良集団に加わる。物を盗む子供もいるため、周りの大人からは邪魔者扱いされ、子どもの心が大きく傷ついたことと想像する。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2006年に日本政府のサポートを受けて、WHOとイラク政府保健省が子どもの精神障害に関して調査を行った。バグダッドでは、調査対象の小学生600人のうち47%が大きな精神的外傷を経験していた。14%がPTSDの症状を示した。モスルでは調査対象の中学生1090人のうち、30%がPTSDの症状を示した。ほとんどの子どもが治療を受けていない。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "2003年のイラク侵攻直後は、学校の出席率はほぼ100%だった。しかしイラク教育省によれば、2006年9月時点で350万人の生徒のうち、授業に出席しているのは30%だけだった。国中でエスカレートする暴力によるものだという。予定通りの年齢で小学校を卒業できる子どもは4割だけである。毎年45万人の子供が、予定通りの年齢で小学校を卒業できない、または学校からドロップ・アウトしてしまう 。文字の読み書きが出来ない子供が増えてしまった。読み書きができければ、就職の選択肢は極めて狭くなる。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "イラクでは紛争の影響で15万人が障害を抱えて生活している。そのうち、ほとんどの人は地雷等で傷を負った市民である。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "イラクでは11人に1人の女性が夫を亡くしている。その数は90万人だと言われている。アメリカ侵攻以降、イラクでは路上で女性が誘拐され、性的暴力を受ける事例が多発した。売春目的で女性が海外に売り飛ばされることもあった。", "title": "ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "リビアは、2003年12月に最高指導者カダフィ司令官が大量破壊兵器の放棄を宣言し、2006年にはブッシュ政権はテロ支援国家指定を解除した。この行動はイラク戦争後に自国が標的にされる可能性があったためであると解釈する論説と、カダフィ司令官がアフリカ連合へと活動の主軸を移したことによる大量破壊兵器の必要性低下と偶然に時期が合致しただけだとの論説がある。", "title": "反植民地主義諸国への影響" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "アメリカは放棄の見返りに、大量破壊兵器を保有し反米武装闘争を支援し、またかつてはイラク以上に敵視し、カダフィ司令官個人の暗殺まで企てたリビアをテロ支援国家リストから外し、経済制裁も解除した。", "title": "反植民地主義諸国への影響" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "一方、北朝鮮の金正日総書記は、開戦直前から約60日間テレビなどの前から一切姿を消した。これはアメリカの精密誘導兵器がどのようなものかを海外の衛星テレビを通じて分析をしていたものと見られる。中華人民共和国はイラク戦争開戦による衝撃から仲介に乗り出して六カ国協議が始まったと言われ、六カ国協議で核兵器の放棄が合意されて寧辺核施設の爆破や核開発計画申告などされたことからブッシュ政権はテロ支援国家指定を解除した。", "title": "反植民地主義諸国への影響" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "名古屋高等裁判所は2008年4月17日、自衛隊イラク派兵が日本国憲法違反であることの確認などを求めた訴訟(自衛隊イラク派兵差止訴訟)において航空自衛隊のイラクにおける空輸活動について「自らも武力を行使した」と認識し憲法違反であるとする傍論を含む判決を出した。これは主文において原告敗訴を判決するものであったにもかかわらず原告側が実質勝訴として上告しなかったため、翌月5月3日に同判決は確定した。", "title": "航空自衛隊の関与" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "この裁判および「傍論」記述は議論を呼び、当時の航空幕僚長であった田母神俊雄による「純真な隊員には心を傷つけられた人もいるかもしれないが、私が心境を代弁すれば大多数はそんなの関係ねえという状況だ」の発言などが一種の舌禍事件として報道された。国会において田母神発言を含めた質問主意書が提出されたが、日本政府は、国側勝訴の判決と説明を加えた上で、日本国憲法第9条(第1項。戦争を放棄し国際紛争に武力を用いて関与しない)に違反するとの傍論の部分は「判決の結論を導くのに必要のない傍論にすぎず、政府としてこれに従う、従わないという問題は生じないと考え」ており、田母神の発言は「政府と同様のこのような認識に立った上で〔中略〕必ずしも正確な表現ではないが、自らの言葉でこのような発言をしたものと承知している。また、防衛行政については、シビリアン・コントロールの下、法令に基づき、適切に行われている。」と答弁している。防衛省が情報公開法に基づいて開示した「週間空輸実績」と称する内部資料によれば、派遣期間中の輸送人員は延べ28,000人であり、うち7割はアメリカ軍兵士であることが2009年10月6日に判明している。", "title": "航空自衛隊の関与" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "開戦前の1月初旬、ナイト・リダー社(英語版)の発表した世論調査結果によると、調査に応じたアメリカ人の内44%が、2001年9月11日の同時多発テロのハイジャック犯の一部または大半がイラク人だと考えていた。実際には、報道によれば大半がサウジアラビア人でイラク人は一人もいなかった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "あるイラク紙の主張によれば、米軍によるイラク占領以来、全土に点在する監獄や強制収容所には大勢のイラク人女性が拘留されているとされる。その大半が政府の要員や占領軍兵士によって性的暴行を受けており、結果としてエイズなどが蔓延しているとする。また、強姦の被害を受けた女性が、一家の恥として家族の者の手によって殺害されてしまうケースがあり、(大半が被害を受けているという主張にも拘らず)正確な被害者の数は把握されていないとする。また、あるイスラム機関誌の主張によればイラクの民間組織である「イラク政治捕虜・受刑者連合」は、米軍はイラク抵抗勢力の士気を砕くための圧力カードとして、無実のイラク人女性捕虜に対して意図的、組織的な性的暴行、拷問、恥辱を加えている、と告発している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "また、米軍は、イラク戦争中及びブッシュ政権の戦争終結宣言後の一連の戦闘においても劣化ウラン弾を使用していた。陸上自衛隊が人道支援・戦後復興支援のために派遣され駐留したイラク南部のサマーワ近郊周辺からも、実際にこの戦争で米軍が使用したものと見られる劣化ウラン弾(複数)が発見されている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "2010年1月26日、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会は、マイケル・ウッド外務省元主席法律顧問を喚問した公聴会で、同顧問が「2003年3月の対イラク武力行使は国際法違反と考えていた」と述べた文書を公表した。この文書中で「武力行使は国連安保理によって認められておらず、他の法律根拠もなかった」と同法律顧問は延べ、イラクに武装解除を求める安保理決議1441を武力行使の根拠とする主張を退けた。同法律顧問は開戦前の2003年1月にその見解をジャック・ストロー外相に伝えたところ「独断的だ」と退けられたと証言した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "2010年1月29日、2003年のイラク侵攻を決断したブレア前首相は、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会の公聴会で証言した。調査委員ではチルコット委員長と5人の委員が6時間にわたり喚問した。ブレアは「サッダーム・フセインの脅威」を強調して、イラク侵攻によるフセイン政権打倒を正当化し、「後悔していない」と述べた。また、当時と同じ条件なら再びイラク侵攻をするだろうとも述べた。さらに、2007年までのイラクの民間人死者数増大に関して、全体で10万という数字を示して、「殺したのは連合軍ではなくテロリストだ」と占領軍の責任を回避した。そして、イラクが兵器製造能力を高めていたと証言した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "開戦時に議会の反対にもかかわらずイラクへの侵攻支持を表明したオランダでは、政府の外交政策に対して独立調査委員会の調査が行われた。2010年の調査報告ではヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル外相が政策決定の掌理をなし、ヤン・ペーター・バルケネンデ首相は政策決定から除外されたと指摘した。また、国連安保理決議1441は武力攻撃を容認する解釈とは成り得ないと断じ、イラク戦争は国際法違反であり政府は米英との同盟関係を重視するため侵攻の違法性に目をつぶったと結論づけた。", "title": "その他" } ]
イラク戦争(イラクせんそう)とは、アメリカ合衆国が主体となり、2003年3月20日からイギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる有志連合によって、イラク武装解除問題での、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とする、『イラクの自由作戦』の名の下にバアス党政権下のイラクへ侵攻がなされたことで始まった軍事介入である。 この戦争で日本は戦後初めてPKO活動外での自衛隊派遣を行い、有志連合の一員として参加し、主にイラク南部においてインフラ整備、治安維持任務を実施した。 正規軍同士の戦闘は2003年中に終了し、同年5月にジョージ・W・ブッシュ米大統領により「大規模戦闘終結宣言」が出たが、アメリカが指摘した大量破壊兵器の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。2010年8月31日にバラク・オバマ米大統領により改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から米軍撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。 2011年12月14日、米軍の完全撤収によってオバマ大統領が、イラク戦争の終結を正式に宣言した。
<!--泥沼化した2022ロシアのウクライナ侵攻と対比するべく、鮮やかな開戦からの一か月後の初めの終了宣言までの損害、飛行機、戦車などと、以降の損害の分離表記はできないでしょうか-->{{Redirect|第二次湾岸戦争|アラブ圏で同様の名称で呼ばれている戦争|湾岸戦争}} {{Infobox military conflict |conflict = イラク戦争 |image = [[ファイル:Iraq War montage.png|border|360px]] |caption = フセイン家長男[[ウダイ・サッダーム・フセイン]]、次男[[クサイ・サッダーム・フセイン]]の潜伏する拠点を強襲する[[:en:Task Force 20|第20合同任務部隊]]の[[デルタフォース]]と、[[:en:327th Infantry Regiment (United States)|米第101空挺師団第327歩兵連隊]]第3大隊(上部)<br />北部イラクで[[小火器]]を構える[[民兵]]、民兵による[[地対空ミサイル|MANPADS]]対空攻撃、倒されるサッダーム・フセイン大統領銅像(下段)。 |date = {{start date|df=yes|2003|3|20}} – {{End date|df=yes|2011|12|15}}<br />(8年8ヵ月3週4日)<ref> {{cite news |url=http://www.usatoday.com/news/world/story/2011-12-17/iraq-us-troops/52032854/1?csp=ip |title=Last U.S.&nbsp;troops leave Iraq, ending war |accessdate=18 December 2011 | work=[[USA Today]]|date=2011-12-17|language=英語}}</ref> |place=[[イラク]] |result = * [[2003年イラク攻撃|イラク軍事介入(2003年)]]及び[[連合国暫定当局|多国籍軍占領下のイラク(2003年 - 2011年)]]の開始 * [[:en:Arab Socialist Ba'ath Party – Iraq Region|アラブ社会主義バアス党イラク党支部]]政府崩壊、[[サッダーム・フセインの死刑執行|サッダーム・フセイン元大統領の処刑]] * [[:en:Iraqi insurgency|住民反乱]]、[[:en:al-Qaeda in Iraq<!-- リダイレクト先の「[[:en:Tanzim Qaidat al-Jihad fi Bilad al-Rafidayn]]」は、[[:ja:イラクの聖戦アル=カーイダ組織]] とリンク -->|アルカイダを始めとする海外テロ組織の流入]]、[[:en:civil war in Iraq|宗派間抗争]]の発生<ref>{{cite news|title=Sectarian divisions change Baghdad’s image|publisher=[[NBC|MSNBC]]|date= 2006-07-03|url=http://www.msnbc.msn.com/id/13684759/|accessdate=18 February 2007|language= 英語}}</ref> * 段階的な反乱鎮静化<ref>{{Cite news |title= U.S. says Iraq pullout won't cause dramatic violence|date= 2010-11-08|url= http://uk.reuters.com/article/2010/11/18/idINIndia-53010120101118|accessdate= 2010-11-26|agency= [[REUTERS]]|language= 英語}}</ref>と[[治安]]回復<ref>{{cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-11816974|title=UK 'to continue deporting failed Iraqi asylum seekers'|publisher=[[BBC]]|language= 英語|accessdate=26 November 2010|date=22 November 2010}}</ref> * [[民主化]]の進展(イラク暫定政権及びイラク移行政府の樹立、[[:en:Iraqi parliamentary election, January 2005|2005年イラク議会選挙]]の実施、[[イラク正式政府]]成立) * イラクの[[大量破壊兵器]]の保持に関する物証・決定的証拠が見つからなかった。 * [[:en:U.S.-Iraq Status of Forces Agreement|アメリカ・イラク地位協定]]締結 * [[:en:Withdrawal of U.S. troops from Iraq|米軍撤収]]による戦争終結宣言(2011年12月18日) * [[:en:Iraqi insurgency (post-U.S. withdrawal)|米軍撤退後のイラク治安問題]] |combatant1 = '''軍事介入時(2003年)'''<br /> *{{flag|アメリカ合衆国}} *{{flag|イギリス}} *{{flag|オーストラリア}} *{{flag|ポーランド}} *{{Flag icon|Kurdistan}} [[ペシュメルガ]] |combatant1a = '''占領統治(2003年–2011年)'''<br /> {{flag|Iraq}}<br /> *[[イラク治安部隊|イラク国軍]] *[[:en: Sons of Iraq|イラクの息子達]]<br />(現政府派の民兵組織) {{Flag icon|Kurdistan}} [[クルディスタン地域|イラク領クルド]] *[[ペシュメルガ]]<br />([[クルド人]]民兵組織) [[ファイル:MultinationalForce-IraqDUI.svg|22px]] [[:en:Multi-National Force – Iraq|イラク多国籍軍]]参加国 *{{flag|アイスランド}} *{{flag|アゼルバイジャン}} *{{flag|アフガニスタン}} *{{flag|アメリカ合衆国}} *{{flag|アルバニア}} *{{flag|アルメニア}} *{{flag|イギリス}} *{{flag|イタリア}} *{{flag|ウズベキスタン}} *{{flag|ウクライナ}} *{{flag|エストニア}} *{{flag|エルサルバドル}} *{{flag|オーストラリア}} *{{flag|オランダ}} *{{flag|カザフスタン}} *{{flag|South Korea}} *{{flag|グルジア}} *{{flag|シンガポール}} *{{Flag|スペイン}} *{{Flag|スロバキア}} *{{flag|タイ}} *{{flag|チェコ}} *{{flag|デンマーク}} *{{flag|ドミニカ共和国}} *{{flag|トンガ}} *{{flag|ニカラグア}} *{{flag|日本}} *{{flag|ニュージーランド}} *{{flag|ノルウェー}} *{{flag|ハンガリー}} *{{flag|フィリピン}} *{{flag|ブルガリア}} *{{flag|ボスニア・ヘルツェゴビナ}} *{{flag|ポルトガル}} *{{flag|ホンジュラス}} *{{flag|マケドニア共和国}} *{{flag|モルドバ}} *{{flag|モンゴル}} *{{flag|ラトビア}} *{{flag|リトアニア}} *{{flag|ルーマニア}} |combatant2 = '''軍事介入時(2003年)'''<br /> {{IRQ1991}}<br /> *[[:en:Iraqi Armed Forces|旧イラク国軍]] *[[共和国防衛隊]] *[[特別共和国防衛隊]] |combatant2a = '''占領統治(2003年–2011年)'''<br /> '''[[:en:Arab Socialist Ba'ath Party – Iraq Region|旧政権勢力]]''' * [[:en:Supreme Command for Jihad and Liberation|聖戦と解放の最高司令部]] * [[:en:Army of the Men of the Naqshbandi Order|ナクシュバンディー軍]]<br />([[スーフィズム|スーフィズム派]]<ref group="注釈">正確にはスーフィズム派の一派[[ナクシュバンディー教団]]による。</ref>民兵組織) [[:en:Iraqi insurgency#Sunni Islamist|'''スンニ派民兵組織''']] *[[イラク・イスラム国]] *[[イラク・イスラム軍]] *[[アンサール・アル・スンナ軍|アンサール・アル・スンナ]] [[:en:Iraqi insurgency#Shia Islamist|'''シーア派民兵組織''']] *[[マフディー軍]] *[[:en:Special Groups (Iraq)|シーア派民兵集団]] *[[:en:Asa'ib Ahl al-Haq|アサイブ・アフル・アル=ハク]] ---- <small>これらの反政府組織はお互いに対しても攻撃を行っている。詳細は[[:en:civil war in Iraq|イラク内戦]]の項目を参照。</small> ---- |commander1 = {{Flag icon|Iraq}} [[イヤード・アッラーウィー]] <br /> {{Flag icon|Iraq}} [[イブラーヒーム・アル=ジャアファリー]]<br /> {{Flag icon|Iraq}} [[ヌーリー・マーリキー]]<br /> [[ファイル:MultinationalForce-IraqDUI.svg|22px]] [[:en:Ricardo Sanchez|リチャード・サンチェス]]<br /> [[ファイル:MultinationalForce-IraqDUI.svg|22px]] [[:en:George W. Casey, Jr.<!-- [[:ja:ジョージ・ケイシー・ジュニア]] とリンク -->|ジョージ・W・ケイシー・ジュニア]]<br /> [[ファイル:MultinationalForce-IraqDUI.svg|22px]] [[デヴィッド・ペトレイアス]]<br /> [[ファイル:MultinationalForce-IraqDUI.svg|22px]] [[:en:Raymond T. Odierno<!-- [[:ja:レイモンド・オディエルノ]] とリンク -->|レイモンド・T・オディエルノ]]<br /> [[ファイル:MultinationalForce-IraqDUI.svg|22px]] [[:en:Lloyd Austin|ロイド・オースティン]]<br /> {{Flag icon|USA}} [[ジョージ・W・ブッシュ]]<br /> {{Flag icon|US}} [[バラク・オバマ]]<br /> {{Flag icon|UK}} [[トニー・ブレア]]<br /> {{Flag icon|UK}} [[ゴードン・ブラウン]]<br /> {{Flag icon|UK}} [[デーヴィッド・キャメロン]]<br /> {{Flag icon|Australia}} [[ジョン・ハワード]]<br /> {{Flag icon|Australia}} [[ケビン・ラッド]]<br /> {{Flag icon|Poland}} [[アレクサンデル・クファシニェフスキ]]<br /> {{Flag icon|Poland}} [[レフ・カチンスキ]] |commander2 = '''旧政権勢力'''<br /> {{nowrap|{{Flagicon|IRQ1991}} [[サッダーム・フセイン]] {{POW}} [[ファイル:Skull and crossbones.svg|14px|link=サッダーム・フセインの死刑執行]]}}<br /> {{Flagicon|IRQ1991}} [[クサイ・サッダーム・フセイン]]{{KIA}}<br /> {{Flagicon|IRQ1991}} [[ウダイ・サッダーム・フセイン]]{{KIA}}<br /> {{Flagicon|IRQ1991}} [[イッザト・イブラーヒーム]]<br /> '''スンニ派民兵組織'''<br /> [[アブー・ウマル・アル=バグダーディー|ウマル・アル=バグダーディー]]{{KIA}}<br /> [[アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー|ムスアブ・アッ=ザルカーウィー]]{{KIA}}<br /> [[アブー・アイユーブ・アル=マスリー|アイユーブ・アル=マスリー]]{{KIA}}<br /> [[:en:Abu Suleiman al-Naser|スレイマン・アル=ナーセル]]{{KIA}}<br /> [[:en:Abu Dua<!-- リダイレクト先の「[[:en:Abu Bakr al-Baghdadi]]」は、[[:ja:アブー・バクル・アル=バグダーディー]] とリンク -->|アブ・ドゥア]]<br /> [[:en:Ishmael Jubouri|イスマーイール・ジュブーリー]]<br /> [[:en:Abu Abdullah al-Shafi'i|アブドゥル・アル=シャフィッイ]] {{POW}} '''シーア派民兵組織'''<br /> [[ムクタダー・アッ=サドル|ムクタダー・アル=サドル]]<br /> [[:en:Abu Deraa|アブ・ダルア]] |strength1 = '''[[:en:2003 Invasion of Iraq|イラク派遣軍]]''' <small>(2003–2004)</small><br />〜30万名<br /> ---- '''[[:en:Multinational Force Iraq|連合軍]]''' <small>(2004–2009)</small><br />17万6000名(最大時)<br /> '''[[:en:United States Forces – Iraq|イラク駐留米軍]]''' <small>(2010–2011)</small><br />11万2000名<br /> '''[[民間軍事会社]]''' 6000〜7000名 <small>(概算)</small><ref>{{cite web|url=http://www.state.gov/m/ds/rls/rm/143420.htm|title=Deputy Assistant Secretary for International Programs Charlene Lamb's Remarks on Private Contractors in Iraq|publisher=State.gov |date=17 July 2009 |accessdate=23 October 2010|language=英語}}</ref><br /> '''[[イラク治安部隊]]'''<br /> 80万5269名<small>([[正規軍]]及び[[準軍事組織]]:57万8,269名<ref>{{cite book| title=The Military Balance 2010|author1= [[国際戦略研究所|International Institute for Strategic Studies]]| author2=Hackett, James (ed.)| date=3 February 2010| publisher=[[Routledge]]| location=London| isbn=1-85743-557-5| ref=IISS2010}}</ref> 警察軍22万7000名)</small><br /> '''[[:en:Sons of Iraq|イラクの息子達]]'''<br />〜10万3000名 (2008)<ref>{{cite news| url=http://www.nytimes.com/2009/03/29/world/middleeast/29iraq.html?hpw | work=[[The New York Times]] | title=Troops Arrest an Awakening Council Leader in Iraq, Setting Off Fighting | first1=Alissa J. | last1=Rubin | authorlink1= :en:Alissa J. Rubin | first2=Rod | last2=Nordland | date=29 March 2009 | accessdate=30 March 2010|language= 英語}}</ref> <br /> '''[[クルディスタン地域|クルディスタン自治政府軍]]'''<br />〜40万名 <small>(国境警備隊: 3万名<ref>{{cite web|url=http://www.ekurd.net/mismas/articles/misc2010/1/independentstate3441.htm |title=The Kurdish peshmerga forces will not be integrated into the Iraqi army: Mahmoud Sangawi&nbsp;— Interview |publisher=Ekurd.net |date=22 January 2010|language= 英語|accessdate=23 October 2010}}</ref> '''[[ペシュメルガ]]''' 37万5000名)</small> |strength2 = '''[[:en:Iraqi Army<!-- [[:ja:イラク治安部隊]] とリンク -->|旧イラク陸軍]]''': 37万5000名 <small>(2003年に解散)</small> ---- '''[[:en:Iraqi insurgency#Sunni Islamist|'''スンニ派民兵組織''']]'''<br />〜7万名<small>(2007)</small><ref>{{Cite web |url= http://www3.brookings.edu/fp/saban/iraq/index.pdf|title= Iraq Index: Tracking Variables of Reconstruction & Security in Post-Saddam Iraq|accessdate= 2014-06-11|date= 2007-10-01|format=PDF|publisher= [[ブルッキングス研究所|The Brookings Institution]]|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20131019170433/http://www.brookings.edu/fp/saban/iraq/index.pdf|archivedate= 2013-10-19}}</ref><br />'''[[マフディー軍]]'''<br />〜6万名<small>(2007)</small><ref>{{cite news|last=Ricks|first=Thomas E.|coauthors=Ann Scott Tyson|title=Intensified Combat on Streets Likely|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/01/10/AR2007011002581_pf.html|publisher=[[Washington Post]]|date=11 January 2007|page=A01||language= 英語}}</ref> <br />'''[[アルカーイダ|アルカイダ]]'''<br />〜1300名 <small>(2006)</small><ref>Pincus, Walter. [http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/11/16/AR2006111601509.html "Violence in Iraq Called Increasingly Complex"]. (英語)''Washington Post,'' 17 November 2006.</ref><br /> '''[[イラク・イスラム国]]'''<br />〜1000名<small>(2008)</small> <br />'''[[:en:Army of the Men of the Naqshbandi Order|ナクシュバンディー軍]]'''<br />〜500名–1000名<small>(2007)</small> |casualties1 = '''[[:en:List of Iraqi security forces fatality reports in Iraq|イラク治安部隊]]'''(2004-)<br /> '''戦死''' 1万6623名{{Refnest|group="注釈"|2003年の死者260人<ref>{{Cite news|title= 260 Iraqi police killed in attacks: official|publisher=[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]|date= 2003-12-23|url= http://www.abc.net.au/news/2003-12-19/260-iraqi-police-killed-in-attacks-official/108430|language= 英語}}</ref>、 2004年から2009年の死者15,196 人(ただし2004年5月と2009年3月を除く)<ref>{{Cite news|title= Iraq war logs reveal 15,000 previously unlisted civilian deaths|newspaper= [[The Guardian]]|date= 2010-10-22|url= http://www.theguardian.com/world/2010/oct/22/true-civilian-body-count-iraq|language= 英語}}</ref>、 2009年3月の死者67人<ref> {{Cite news|title= March violence claims 252 Iraqi lives|publisher= news352|date= 2009-01-04|url= http://hello.news352.lu/edito-4036-march-violence-claims-252-iraqi-lives.html|archiveurl= https://web.archive.org/web/20120226181744/http://hello.news352.lu/edito-4036-march-violence-claims-252-iraqi-lives.html|archivedate= 2012-02-26|language= 英語}}</ref>、2010年の死者1,100人<ref>{{Cite news|title= Fewer Iraqi civilians, more security forces killed in 2010|publisher= [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date= 2011-01-02|url= http://edition.cnn.com/2011/WORLD/meast/01/02/iraq.casualty.figures/index.html?_s=PM:WORLD|language= 英語}}</ref>、以上の合算により16,623人の死者を数える。}}<br /> '''負傷''' 4万名以上<ref>{{cite web|url=http://fpc.state.gov/documents/organization/77707.pdf |title=Iraqi Police and Security Forces Casuality Estimates|author=Hannah Fischer |publisher= [[アメリカ国防総省|U.S.Department of Defense]]|date= 2006-11-17|accessdate=2012-11-18|language= 英語}}</ref><br /> ---- '''[[:en:Multi-National Force – Iraq|多国籍軍]]'''(2003-)<br /> '''戦死:''' 4807名<ref name="icas">{{cite web|url=http://icasualties.org/Iraq/index.aspx |title=Operation Iraqi Freedom |publisher=iCasualties |accessdate=24 August 2010|language= 英語}}</ref><ref>{{cite news| url=https://edition.cnn.com/SPECIALS/2003/iraq/forces/casualties/index.html | work=CNN | accessdate=30 March 2010 | title=Home and Away: Iraq and Afghanistan War Casualties|language= 英語}}</ref> (米兵4489名<ref name="defenselink.mil">{{Cite web |url= http://www.defenselink.mil/news/casualty.pdf|title= OPERATION IRAQI FREEDOM (OIF) U.S. CASUALTY STATUS|accessdate= 2014-06-11|date= 2014-05-26|format= PDF|publisher=U.S.Department of Defense|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20140528071908/http://www.defense.gov/news/casualty.pdf|archivedate= 2014-5-28}}</ref>英兵179名<ref>{{cite web|url=http://www.mod.uk/DefenceInternet/FactSheets/OperationsFactsheets/OperationsInIraqBritishFatalities.htm |title=Ministry of Defence &#124; Fact Sheets &#124; Operations Factsheets &#124; Operations in Iraq: British Fatalities |publisher=[[国防省 (イギリス)|Mod.uk]]|accessdate= 2009-10-17|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20121130065501/http://www.mod.uk/DefenceInternet/FactSheets/OperationsFactsheets/OperationsInIraqBritishFatalities.htm|archivedate= 2012-11-30}}</ref>他139名)<br /> '''失踪・捕虜''' 8名(8名とも米兵)<ref>{{cite news| url=https://edition.cnn.com/SPECIALS/2003/iraq/forces/pow.mia/index.html | work=CNN | accessdate=22 February 2011 | title=Forces: U.S. & Coalition/POW/MIA|language= 英語}}</ref><BR> '''戦傷''': 3万2765名以上 <small>(米兵3万2238名<ref name="defenselink.mil"/>英兵315名 他212名以上{{Refnest|group="注釈"|ウクライナ兵33名<ref>{{Cite news|title= Ukraine withdraws last troops in Iraq|publisher= reliefweb|date= 2005-12-20|url= http://reliefweb.int/report/iraq/ukraine-withdraws-last-troops-iraq|language= 英語}}</ref>、イタリア兵31名以上 <ref>{{Cite news|title= Attack on Italian police kills 26 in Iraq / Gasoline truck crashes into compound|newspaper= Hearst|date= 2003-11-13|url= http://www.sfgate.com/news/article/Attack-on-Italian-police-kills-26-in-Iraq-2549351.php|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Iraq descends into chaos|publisher= middle east online|date= 2004-04-06|url= http://www.middle-east-online.com/english/?id=9524|language= 英語}}</ref>、ブルガリア兵30名<ref>{{Cite news|title= Bulgaria mourns its dead soldiers|publisher= BBC|date= 2003-12-30|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3355749.stm|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= 3 Bulgarian Soldiers Wounded in Iraq|publisher= novinite|date= 2004-04-06|url= http://www.novinite.com/view_news.php?id=33103|language= 英語}}</ref>、エルサルバドル兵20名<ref>{{Cite news|title= El Salvador withdraws last soldiers from Iraq|newspaper= USA TODAY|date= 2009-02-07|url= http://usatoday30.usatoday.com/news/world/iraq/2009-02-07-salvador-iraq_N.htm|language= 英語}}</ref>、グルジア兵19名 <ref>{{Cite news|title= Georgian Soldier Killed in Iraq|publisher= [[Civil.Ge]]|date= 2008-06-05|url= http://www.civil.ge/eng/article.php?id=18470|language= 英語}}</ref>、エストニア兵18名<ref>{{Cite news|title= Estonian troops may go to Afghanistan, not Iraq|publisher= Global Security.org|date= 2009-02-09|url= http://www.globalsecurity.org/military/library/news/2009/02/mil-090209-rianovosti06.htm|language= 英語}}</ref>、ポーランド兵16名以上<ref> {{Cite news|title= 3 Bulgarian Soldiers Wounded, Driver Shot Dead in Iraq|publisher= novinite|date= 2004-04-06|url= http://www.novinite.com/view_news.php?id=33116|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Tomasz Jura|publisher= The Iraq Page|date= 2007-05-04|url= http://iraq.pigstye.net/article.php/JuraTomasz/print|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20070612101918/http://iraq.pigstye.net/article.php/JuraTomasz/print|archivedate= 2007-05-04}}</ref><ref> {{Cite news|title= Three Polish soldiers injured in patrol skirmish in Iraq|publisher= HighBeam|date= 2003-12-28|url=http://www.highbeam.com/doc/1P2-16186603.html|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110501084237/http://www.highbeam.com/doc/1P2-16186603.html|archivedate= 2011-01-05}}</ref><ref>{{Cite news|title= Two Polish Soldiers Dead, Five Injured in Iraq -PAP|publisher= vBulletin Solutions|date= 2004-08-19|url= http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?19484-Two-Polish-Soldiers-Dead-Five-Injured-in-Iraq-PAP|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Slovak soldier killed in Iraq|publisher= spectator|date= 2006-11-13|url= http://spectator.sme.sk/articles/view/25148|language= 英語}}</ref>、スペイン兵15名<ref>{{Cite news|title= Seven Spanish Intelligence Officers Killed in Iraq|publisher= [[Fox News]]|date= 2003-11-30|url= http://www.foxnews.com/story/2003/11/30/seven-spanish-intelligence-officers-killed-in-iraq/|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Soldier dead after attack on Spanish convoy in Afghanistan |publisher= think Spain|date= 2010-02-01|url= http://www.thinkspain.com/news-spain/17607/soldier-dead-after-attack-on-spanish-convoy-in-afghanistan|language= 英語}}</ref><ref> {{Cite news|title= Five Spanish soldiers, four US troops injured in Iraq bomb attacks|publisher= Al Bawaba|date= 2004-02-11|url= http://www.albawaba.com/news/five-spanish-soldiers-four-us-troops-injured-iraq-bomb-attacks|language= 英語}}</ref><ref> {{Cite news|title= Three Spanish soldiers wounded in Iraq|publisher= People's Daily Online|date= 2004-04-09|url= http://english.peopledaily.com.cn/200404/09/eng20040409_139905.shtml|language= 英語}}</ref>、ルーマニア兵10名<ref>{{Cite news|title= Romania's last contingent in Iraq returns home|publisher= People's Daily Online|date= 2009-07-24|url= http://english.people.com.cn/90001/90777/90853/6708832.html|language= 英語|}}</ref>、オーストラリア兵6名<ref>{{Cite news|title= Combat troops pull out of Iraq|publisher= The Canberra Times|date= 2009-06-02|url= http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/combat-troops-pull-out-of-iraq/780839.aspx|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20111104112807/http://www.canberratimes.com.au/news/local/news/general/combat-troops-pull-out-of-iraq/780839.aspx|archivedate= 2011-11-04}}</ref>、アルバニア兵5名、カザフスタン兵4名<ref>{{Cite news|title= Bomb blast kills 7 Ukrainians, 1 Kazakh serving with coalition in Iraq|publisher= The Iraq Page|date= 2005-01-12|url= http://iraq.pigstye.net/article.php/20050112090041443/print|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20120130025416/http://iraq.pigstye.net/article.php/20050112090041443/print|archivedate= 2012-01-30}}</ref>、フィリピン兵3名<ref>{{Cite news|title= RP troops to stay in Iraq despite ambush|publisher= Asian Journal|date= 2004-04-06|url= http://asianjournalusa.com/rp-troops-to-stay-in-iraq-despite-ambush-p929-67.htm|language= 英語}}</ref>、タイ兵2名<ref>{{Cite news|title= First Thai soldier injured in Iraq|publisher= ABC|date= 2003-12-23|url= http://www.abc.net.au/news/2003-12-23/first-thai-soldier-injured-in-iraq/110066|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Iraqi Insurgency: 2 Thai soldiers killed, 1 injured|publisher= Asian Tribune|date= 2003-12-28|url= http://www.asiantribune.com/news/2003/12/28/iraqi-insurgency-2-thai-soldiers-killed-1-injured-br-0|language= 英語}}</ref> 、合計212名以上となる。}})</small><ref name=mil>Many official U.S.&nbsp;tables at {{Cite web |url= http://siadapp.dmdc.osd.mil/personnel/CASUALTY/castop.htm|title= Military Casualty Information|accessdate= 2014-06-12|publisher= Defense Manpower Data Center|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20111022053401/http://siadapp.dmdc.osd.mil/personnel/CASUALTY/castop.htm|archivedate= 2011-10-22}}</ref><ref name=antiwarcasualties>{{Cite web |url= http://www.antiwar.com/casualties/|title= Casualties in Iraq|accessdate= 2014-6-12|date= 2006-05-14|publisher= Antiwar.com|language= 英語}}</ref><ref name=icasualties>iCasualties.org (was lunaville.org). Benicia, California. Patricia Kneisler, ''et al.'', [http://icasualties.org/Iraq/index.aspx "Iraq Coalition Casualties"](英語)</ref><ref name=ukcasualties>{{Cite web |url= http://www.mod.uk/DefenceInternet/FactSheets/OperationsFactsheets/OperationsInIraqBritishCasualties.htm|title= Operations in Iraq: British Casualties|accessdate= 2014-06-12|publisher= UK Ministry of Defense|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20121120055226/http://www.mod.uk/DefenceInternet/FactSheets/OperationsFactsheets/OperationsInIraqBritishCasualties.htm|archivedate= 2012-11-20}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.mod.uk/DefenceInternet/AboutDefence/CorporatePublications/DoctrineOperationsandDiplomacyPublications/OperationsInIraq/OpTelicCasualtyAndFatalityTables.htm|title= Op Telic casualty and fatality tables|accessdate= 2014-06-12|publisher= Mod.uk|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20121004051608/http://www.mod.uk/DefenceInternet/AboutDefence/CorporatePublications/DoctrineOperationsandDiplomacyPublications/OperationsInIraq/OpTelicCasualtyAndFatalityTables.htm|archivedate= 2012-10-04}}</ref><br /> '''負傷/病気/その他''': 5万1139名<small>(米兵4万7541名<ref>{{Cite web |url= http://siadapp.dmdc.osd.mil/personnel/CASUALTY/oif-total.pdf|title= GLOBAL WAR ON TERRORISM - OPERATION IRAQI FREEDOM BY CASUALTY CATEGORY WITHIN SERVICE|accessdate= 2014-06-12|format=PDF|publisher= Defense Manpower Data Center|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110602035127/http://siadapp.dmdc.osd.mil/personnel/CASUALTY/oif-total.pdf|archivedate= 2011-06-20}}</ref>英兵3598名)</small><ref name=mil/><ref name=icasualties/><ref name=ukcasualties/><br /> ---- '''[[民間軍事会社]]'''<br /> '''[[:en:List of private contractor deaths in Iraq|戦死]]''': 1554名<ref name="dol.gov">{{cite web|url=http://www.dol.gov/owcp/dlhwc/dbaallnation.htm |title= Office of Workers' Compensation Programs (OWCP) - Defense Base Act Case Summary by Nation |publisher= [[アメリカ合衆国労働省|Dol.gov]]|accessdate=15 December 2011|language= 英語}}</ref><ref name="projects.propublica.org">{{cite web|author=T. Christian Miller |url=http://projects.propublica.org/tables/contractor_casualties |title=U.S.&nbsp;Government Private Contract Worker Deaths and Injuries|publisher=Projects.propublica.org |date=23 September 2009 |accessdate=23 October 2010|language= 英語}}</ref><br /> '''戦傷/負傷''': 4万3880名<ref name="dol.gov"/><ref name="projects.propublica.org"/><br /> ---- '''[[:en:Sons of Iraq|イラクの息子達]]'''<br /> '''戦死''': 1002名以上{{Refnest|group="注釈"|2007年6月から12月の[[ディヤーラー県]]で185名<ref>{{Cite news|title= Attacks Imperil U.S.-Backed Militias in Iraq|newspaper= The New York Times|date= 2008-01-24|url= http://www.nytimes.com/2008/01/24/world/middleeast/24sunni.html?pagewanted=print&_r=0|language= 英語}}</ref>、 [[アブドゥル・サッタール・アブー・リシャ|アブー・リシャ]]暗殺時に4名、2007年11月12日に25名<ref>{{Cite news|title= Iraq Allies Claim Friendly Fire Killed 25|publisher= [[CBS News]]|date= 2007-11-15|url= http://www.cbsnews.com/news/iraq-allies-claim-friendly-fire-killed-25/|language= 英語}}</ref>、2008年に528名<ref>{{Cite news|title= Finding a Place for the‘Sons of Iraq'|publisher= [[Council on Foreign Relations]]|date= 2009-01-09|url= http://www.cfr.org/iraq/finding-place-sons-iraq/p16088|language= 英語}}</ref>、2009年1月2日に27名<ref>{{Cite news|title= Suicide Attack Kills 24 at Iraqi Tribal Gathering|newspaper=The New York Times|date= 2009-01-02|url= http://www.nytimes.com/2009/01/03/world/middleeast/03iraq.html|language= 英語}}</ref>、2009年4月6日から12日にかけて53名<ref>{{Cite news|title= Sunni Iraqis Fear a Bloodbath of Reprisal After Possible U.S. Exit|publisher= Alter Net|date= 2009-04-13|url= http://www.alternet.org/story/136476/sunni_iraqis_fear_a_bloodbath_of_reprisal_after_possible_u.s._exit|language= 英語}}</ref>、2009年11月16日に13名<ref>{{Cite news|title= Thirteen anti-Qaeda tribe members killed in Iraq|agency= [[フランス通信社|AFP]]|publisher= France 24|date= 2009-11-16|url= http://www.france24.com/en/node/4926131|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110429002216/http://www.france24.com/en/node/4926131|archivedate= 2011-04-29}}</ref>、2009年12月に15名<ref>{{Cite news|title= 4 Sunni Guards at Checkpoint in Baghdad Are Found Dead|newspaper= The New York Times|date= 2009-12-29|url= http://www.nytimes.com/2009/12/30/world/middleeast/30iraq.html?_r=1|language= 英語}}</ref>、2010年4月から6月にかけて100名以上<ref>{{Cite news|title= Iraq disarms Sunni tribal militias|publisher= [[Aljazeera]]|date= 2010-01-06|url= http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2010/06/20106653940383435.html#|language= 英語}}</ref> <ref>{{Cite news|title= Bitterness Grows Amid U.S.-Backed Sons Of Iraq|publisher= npr|date= 2010-01-24|url= http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=128084675|language= 英語}}</ref>、2010年6月18日に52名<ref>{{Cite news|title= Suicide bomber kills dozens of US-backed militia in Baghdad|publisher= The Guardian|date= 2010-07-18|url= http://www.theguardian.com/world/2010/jul/18/iraq-suicide-bombings-kill-militia|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Bombs Targeting ‘Sons of Iraq’ Leave at Least 44 Dead|agency= [[Bloomberg L.P.]]|date= 2010-07-18|url= http://www.businessweek.com/news/2010-07-18/bombs-targeting-sons-of-iraq-leave-at-least-44-dead.html|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110628200916/http://www.businessweek.com/news/2010-07-18/bombs-targeting-sons-of-iraq-leave-at-least-44-dead.html|archivedate= 2011-06-28}}</ref>、合計1,002名以上が死亡した。}}<br />'''負傷''': 500名以上(2007)<ref>{{cite news| url=http://www.nytimes.com/2008/01/24/world/middleeast/24sunni.html?_r=1&pagewanted=print | work=The New York Times | first1=Solomon | last1=Moore | first2=RICHARD A. | last2=OPPEL Jr | title=Attacks Imperil U.S.-Backed Militias in Iraq | date=24 January 2008|language= 英語}}</ref>828名(2008)<ref>{{Cite web |url= http://www.cfr.org/iraq/finding-place-sons-iraq/p16088|title= Finding a Place for the ‘Sons of Iraq’|accessdate= 26 December 2011|author= Greg Bruno|date= 2009-01-09|publisher= [[Council on Foreign Relations]]|language= 英語}}</ref> ---- '''戦死者合計: 2万4219名''' <br />'''戦傷者合計: 11万7961名''' |casualties2 = '''軍事介入時'''<br /> '''戦死:''' 7600名–1万1000名<ref>{{Cite news |title= Project on Defense Alternatives 2003-10-28 Common Dreams New Study Finds: 11,000 to 15,000 Killed in Iraq War; 30 Percent are Non-combatants; Death Toll Hurts Postwar Stability Efforts, Damages US Image Abroad|url= http://www.commondreams.org/news2003/1028-01.htm|accessdate= 2014-06-12|agency= Project on Defense Alternatives|publisher= Common Dreams|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news |title= The Wages of War:Iraqi Combatant and Noncombatant Fatalities in the 2003 Conflict|date= 2003-10-20|author= Conetta, Carl|url= http://www.comw.org/pda/0310rm8.html|accessdate= 2014-06-12|agency= Project on Defense Alternatives|publisher= Commonwealth Institute|language= 英語}}</ref> ---- '''占領統治時'''<br /> '''戦死:''' 2万1221名–2万6405名(2003-2011){{Refnest|group="注釈"|2003年に597名死亡<ref>{{Cite news|title= 19,000 insurgents killed in Iraq since '03|newspaper= USA TODAY|date= 2007-09-27|url= http://usatoday30.usatoday.com/news/world/iraq/2007-09-26-insurgents_N.htm|language= 英語}}</ref>、2004年から2009年にかけて 23,984名死亡(ただし2004年5月と2009年3月は含まない)<ref>{{Cite news|title= Iraq war logs reveal 15,000 previously unlisted civilian deaths|newspaper= The Guardian|date= 2010-10-22|url= http://www.theguardian.com/world/2010/oct/22/true-civilian-body-count-iraq|language= 英語}}</ref>、2004年5月に652名死亡<ref>{{Cite web |url= https://www.iraqbodycount.org/analysis/numbers/warlogs/|title= Iraq War Logs: What the numbers reveal|accessdate= 2014-06-14|date= 2010-10-23|publisher= Iraq Body Count|language= 英語}}</ref>、2009年3月に45名死亡<ref>{{Cite news|title= March violence claims 252 Iraqi lives|publisher= relief web|date= 2009-04-01|url= http://reliefweb.int/report/iraq/march-violence-claims-252-iraqi-lives|language= 英語}}</ref>、2010年に676名死亡<ref>{{Cite news|title= Iraq Civilian Deaths Drop for Third Year as Toll Eases After U.S. Drawdown|agency= Bloomberg L.P.|date= 2010-12-30|url= http://www.bloomberg.com/news/2010-12-30/iraq-civilian-deaths-drop-for-third-year-as-toll-eases-after-u-s-drawdown.html|language= 英語}}</ref>、2011年に451名死亡(2月を除く)<ref>{{Cite news|title= Jan Iraq death toll highest in four months|newspaper= Fairfax Media|date= 2011-02-01|url= http://news.theage.com.au/breaking-news-world/jan-iraq-death-toll-highest-in-four-months-20110201-1ac9m.html|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Two U.S. troops killed in Iraq|agency= [[UPI通信社|UPI]]|date= 2011-04-03|url= http://www.upi.com/Top_News/World-News/2011/04/03/Two-US-troops-killed-in-Iraq/UPI-84151301845983/|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Iraq monthly death toll falls in April|publisher= Space War|date= 2011-05-01|url= http://www.spacewar.com/reports/Iraq_monthly_death_toll_falls_in_April_999.html|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Iraq death toll in May lowest in 2011|publisher= middle east online|date= 2011-06-01|url= http://www.middle-east-online.com/english/?id=46442|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= Iraq death toll for July second highest in 2011|publisher= OT VENTURES|date= 2011-08-01|url= http://arabia.msn.com/news/middle-east/193645/iraq-death-toll-for-july-second-highe/|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news|title= 239 people killed in Iraq in August and killed by the U.S. military|publisher= NENO'S PLACE|agency= AFP|date= 2011-09-01|url= http://www.nenosplace.com/showthread.php?45792-239-people-killed-in-Iraq-in-August-and-killed-by-the-U.S.-military|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20120513134427/http://www.nenosplace.com/showthread.php?45792-239-people-killed-in-Iraq-in-August-and-killed-by-the-U.S.-military|archivedate= 2012-05-13}}</ref><ref>{{Cite news|title= Death toll in Iraq falls in September|publisher= Gulf-Times|agency= AFP|date= 2011-10-02|url= http://gulf-times.com/site/topics/article.asp?cu_no=2&item_no=461485&version=1&template_id=37&parent_id=17|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20121118211828/http://gulf-times.com/site/topics/article.asp?cu_no=2&item_no=461485&version=1&template_id=37&parent_id=17|archivedate= 2012-11-18}}</ref><ref>{{Cite news|title= Iraq death toll up sharply in October|publisher= Postmedia Network|date= 2011-11-01|url= http://www.montrealgazette.com/news/Iraq+death+toll+sharply+October/5638077/story.html|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20111111064434/http://www.montrealgazette.com/news/Iraq+death+toll+sharply+October/5638077/story.html|archivedate= 2011-11-11}}</ref>、以上の合算により26,405名が死亡。}}<br /> '''[[拘留]]:''' 1万2000名<ref name="cnn1">{{cite news|url=http://articles.cnn.com/2010-09-13/world/iraq.detainees_1_detainees-iraqi-authorities-moussawi?_s=PM:WORLD|title=Amnesty: Iraq holds up to 30,000 detainees without trial|publisher=CNN|date=13 September 2010|accessdate=6 January 201|language= 英語}}</ref><br /> ---- '''戦死者合計: 2万8821名–3万7405名''' |casualties3 = '''民間死亡者数'''<br /> '''[[:en:Iraq Body Count project|イラクボディカウント]]'''による調査(2003年から2011年12月14日まで)によれば、イラク市民の紛争による死亡数は'''10万3160名–11万3728名'''<ref>{{cite web|url=http://www.iraqbodycount.org/ |title=Iraq Body Count |publisher=Iraq Body Count |accessdate=14 December 2011|language= 英語}}</ref>とされ、これに'''12,438'''名を新たに加えている<ref>{{cite web|url=http://www.iraqbodycount.org/analysis/numbers/warlogs/ |title=Iraq War Logs: What the numbers reveal |publisher=Iraq Body Count |accessdate=3 December 2010|language= 英語}}</ref><ref group="注釈">ただし、この調査は報道されたもののみの集計であり実数とは異なる。</ref>。<br /> '''[[:en:Lancet surveys of Iraq War casualties|ランセット]] '''(2003年3月 - 2006年7月): '''60万1027名''' (95% [[信頼区間]]: 42万6369名–79万3663名)<ref name="lancetOct2006">{{PDFlink|[http://brusselstribunal.org/pdf/lancet111006.pdf "Mortality after the 2003 invasion of Iraq: a cross-sectional cluster sample survey"]|242&nbsp;KB}}(英語). By Gilbert Burnham, Riyadh Lafta, Shannon Doocy, and [[:en:Les Roberts (epidemiologist)|Les Roberts]]. ''[[The Lancet]],'' 11 October 2006</ref><br /> '''[[AP通信]] '''(2003年3月 - 2009年4月): '''11万600名'''<ref group="注釈">2009年10月14日報道</ref><br /> '''[[:en:Iraq Family Health Survey|イラク家庭健康調査]] '''(2003年3月 - 2006年7月): '''15万1000名''' (95% 信頼区間: 10万4000名–22万3000名)<ref>[http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMsa0707782 "Iraq Family Health Survey"](英語) [[New England Journal of Medicine]] 31 January 2008</ref><br /> '''[[:en:PLOS Medicine|PLOS Medicine]]'''掲載論文(2013年10月掲載):'''約50万名'''<ref name="TIME2013-10-25">{{Cite news |title= New Study Estimates Nearly 500,000 Died in Iraq War|date= 2013-10-15| newspaper =[[Aljazeera]]|author= Courtney Subramanian|url= http://world.time.com/2013/10/15/new-study-estimates-nearly-500000-died-in-iraq-war/|accessdate= 2014-6-12|publisher= [[TIME]]|language= 英語}}</ref> |campaignbox = }} '''イラク戦争'''(イラクせんそう)とは、[[アメリカ合衆国]]が主体となり、[[2003年]][[3月20日]]から[[イギリス]]、[[オーストラリア]]と、[[工兵|工兵部隊]]を派遣した[[ポーランド]]等が加わる[[有志連合]]によって、[[イラク武装解除問題]]での、イラクによる[[大量破壊兵器]]保持における武装解除進展義務違反を理由とする、『イラクの自由作戦』の名の下に[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]下の[[イラク]]へ[[侵攻]]がなされたことで始まった軍事介入である<ref>{{Cite web|和書|title=「イラクの大量破壊兵器情報はうそ」、情報提供者が認める 英紙報道 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2785653 |website=www.afpbb.com |accessdate=2022-03-09 |language=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=コリン・パウエル氏が長く悔やんだ出来事 |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35178335.html |website=CNN.co.jp |accessdate=2022-03-09 |language=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=英イラク調査委、ブレア政権のイラク参戦は不当と |url=https://www.bbc.com/japanese/36732246 |website=BBCニュース |date=2016-07-07 |accessdate=2022-03-09 |language=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2004/pdf/002.pdfMPDenxoD |website= |accessdate=2022-03-09 |title=イラク戦争における ブッシュ政権の情報操作とメディアの責任 |publisher=NHK}}</ref>。 この戦争で日本は戦後初めて[[PKO]]活動外での[[自衛隊]]派遣を行い、有志連合の一員として参加し、主にイラク南部においてインフラ整備、治安維持任務を実施した。 正規軍同士の[[戦闘]]は2003年中に終了し、同年[[5月]]に[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]により「[[任務完了演説|大規模戦闘終結宣言]]」が出たが、アメリカが指摘した[[大量破壊兵器]]の発見に至らず、さらにイラク国内の治安悪化が問題となり、戦闘は続行した。[[2010年]][[8月31日]]に[[バラク・オバマ]]米大統領により改めて「戦闘終結宣言」と『イラクの自由作戦』の終了が宣言され、翌日から[[アメリカ軍|米軍]]撤退後のイラク単独での治安維持に向けた『新しい夜明け作戦』が始まった。 [[2011年]][[12月14日]]、米軍の完全撤収によってオバマ大統領が、イラク戦争の終結を正式に宣言した<ref>{{Cite news |title= 米大統領、イラク戦争終結を宣言 帰還兵に「お帰り」|date= 2011-12-15|url= http://www.cnn.co.jp/usa/30004929.html|accessdate= 2014-06-12|publisher= CNN|language= 日本語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20120214023750/http://www.cnn.co.jp/usa/30004929.html|archivedate= 2012-2-14}}</ref>。 == 名称について == 戦争の名称は、戦争の場となった国名・地名を付けることが多く([[バルカン戦争]]、[[朝鮮戦争]]、[[ベトナム戦争]]など)、この慣例から「イラク戦争」の名称が一般的である。ただし、この名称はアメリカの立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、また、戦争に至った経緯を考えて'''第2次湾岸戦争'''と称する場合もある。 また、大規模戦闘終結宣言はブッシュ米大統領が2003年5月に一方的に行っているが、改めてオバマ米大統領が2010年[[8月]]に終結宣言を出しており、さらには同大統領により2011年のアメリカ軍のイラクからの完全撤退に際してイラク戦争終結宣言が出されており、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてか[[:en:Main Page|英語版ウィキペディア]]では、2003年の戦争を[[:en:2003 invasion of Iraq|{{Lang|en|2003 invasion of Iraq}}]] = '''2003年イラク侵攻'''としており、大規模戦闘終結宣言以降の戦闘状況から2011年12月までの米軍のイラクからの完全撤退までも合わせて[[:en:Iraq War|{{Lang|en|Iraq war}}]] = '''イラク戦争'''としている。 [[アラビア語]]でも様々な呼称があるが、[[アラビア語版ウィキペディア]]では'''アメリカのイラク侵攻'''({{Lang|ar|الغزو الأمريكي للعراق}})、あるいは[[イラン・イラク戦争]]を第1次と数えて'''第3次湾岸戦争'''({{Lang|ar|حرب الخليج الثالثة}})などとも呼ばれている。 == 前史 == {{main|イラク武装解除問題}} [[1991年]]の[[湾岸戦争]]の後にイラクが受諾した停戦決議([[国際連合安全保障理事会決議687|決議687]])において、イラクに[[大量破壊兵器]]の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、[[国際連合|国連]]は主に米英の人間で構成された「UNSCOM」([[国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会]])を設置し、イラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査した。イラク側もこれを受け入れ、[[1998年]]頃までは大きな混乱はなかった。ところがUNSCOMは事前通達を伴う従来の方式から抜き打ち方式に調査方法を変更し、イラクはUNSCOMの査察に協力的ではなくなり受け入れを拒否した。 また、アメリカは[[国際連合安全保障理事会決議688]]を根拠としてイラク北部に[[飛行禁止空域 (イラク)|飛行禁止空域]]を設定し、[[1992年]]には[[フランス]]、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定した{{Refnest|group="注釈"|ただし、飛行禁止空域の設定自体が国連決議に則ったものではなく、国際法上は明らかに違反行為であると指摘する声も多い<ref name="sakai"/>。}}。これに反発したイラクは、[[地対空ミサイル]]の配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行った。このため制裁措置として米英両国はイラク軍施設に対して攻撃を繰り返した{{Refnest|group="注釈"|米英による空爆は軍施設を対象としていたが民間人に対する誤爆もあり、1999年には年間で44人の犠牲者を出したことが国連により報告されている<ref name="sakai"/>。}}。 1995年、元イラク国防相[[フセイン・カーミル・ハサン]]の亡命の際に国連、[[秘密情報部|MI6]]、CIAの三者による聴取が行われ湾岸戦争の後に生物・化学兵器およびミサイルを全て破壊したことをハサンは供述したが、一方で、査察終了後に再度生産する意図があるとも述べた<ref>{{Cite news |title=The Defector's Secrets |newspaper=[[Newsweek]] |date=2003-03-03 |author=John Barry |url=http://www.commondreams.org/headlines03/0226-01.htm |accessdate=2014-06-15 |language=英語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030305110920/http://www.commondreams.org/headlines03/0226-01.htm |archivedate=2003-03-05}}</ref>。これを受けUNSCOMは抜き打ち調査をするようになり、イラク政府の対応が消極的になっていった<ref name="sakai" />。 1998年にUNSCOMはイラクには[[ミサイル]]と[[核兵器]]は無く、[[化学兵器]]もほとんどないと考えてよいが[[生物兵器]]が疑問であるとする報告を行った<ref name="sakai">[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Topics/pdf/45_09syo.pdf 第9章9・11テロ事件とアメリカの対イラク政策]JETROアジア経済研究所 [[酒井啓子]]論文</ref>。同年12月、空爆やイラク政府の非協力によりUNSCOMの査察活動は停止した。[[1999年]]12月にはUNSCOMにかわり「UNMOVIC」([[国際連合監視検証査察委員会]])を設置するという[[国際連合安全保障理事会決議1284]]が採択された。この採択では[[ロシア]]、フランス、[[中華人民共和国|中国]]が棄権しており、イラクも受け入れを拒否した。 == 開戦までの経緯 == === 2001年 === [[2001年]]にアメリカ大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは、就任直後からIAEAの核査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃から米英両国の国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。強硬論が高まった背景としては、[[国際連合|国連]]主導の[[経済制裁]]に緩みが発生し、[[密輸|密貿易]]で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった<ref name="sakai"/>。[[2月]]には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための米英両軍による空爆が行われた。 [[6月]]、アメリカとイギリスは2001年[[11月]]に期限が切れる『[[石油食料交換プログラム|石油と食糧の交換計画]]』に代わるイラクに対する経済制裁案である「スマート・サンクション」の導入を提案した。しかし、[[ロシア]]と[[中華人民共和国|中国]]の強硬な反対により、[[対イラク経済制裁|従来の制裁]]が継続されることになった({{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1328|en|United Nations Security Council Resolution 1328}})。 [[9月11日]]、[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカで同時多発テロ事件]]が発生した。世界各国からテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、当時のイラク国営放送のコメンテーターは第一報として対米テロ攻撃を「アメリカがこれまで犯してきた人道への犯罪に対する結果だ」と論評した<ref name="sakai"/><ref>[https://web.archive.org/web/20070813060324/http://archives.cnn.com/2001/WORLD/europe/09/12/mideast.reaction/index.html "Attacks draw mixed response in Mideast"]{{En icon}}. CNN. September 12, 2001. Retrieved 2011-09-04. Retrieved from Internet Archive 15 February 2014.</ref>。この報道は、アメリカ側のイラクに対する心証を悪化させたものの、[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた<ref name="sakai"/>。[[10月20日]]になって、[[サッダーム・フセイン]][[イラクの大統領|大統領]]はアメリカ市民に対する弔意を初めて示した<ref>[https://edition.cnn.com/2001/WORLD/meast/10/20/gen.iraq.letter/ CNN.com - Saddam offers condolences on Web - October 20, 2001]{{En icon}}. CNN. October 20, 2001. </ref>。 アメリカ政府内ではフセイン政権の完全な武力征伐が安定への最善の方法であるという対イラク強硬派の[[ポール・ウォルフォウィッツ]]国防副長官、[[リチャード・パール]]国防省国防政策諮問委員長などの発言力が強まり、イラクに対する政権転覆を狙った軍事行動を取るべきであるという見解が度々持たれた。11月にアメリカは[[クウェート]]へ2000人の増派を行った<ref name="sakai"/>。 === 2002年 === ブッシュ大統領は2002年初頭の[[一般教書演説]]において[[悪の枢軸|悪の枢軸発言]]を行い、イラク、[[イラン]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]は大量破壊兵器を保有する[[テロ支援国家]]であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、2002年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。 一方、かねてよりフセイン政権と対立していた[[イスラエル]]は、2002年4月に[[ベンヤミン・ネタニヤフ]][[イスラエルの首相|首相]]が訪米して「フセイン大統領は[[核兵器]]を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月に[[シモン・ペレス]]外相が[[CNN]]の取材に対し「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ビン=ラーディン]]と同じくらい危険」と答えた。[[アリエル・シャロン]]首相も、イラクへの早期攻撃を求めた<ref>『[[中日新聞]]』2008年8月17日号「早期の対イラク攻撃支持を伝達 イスラエル、米に」 [[共同通信社]]配信</ref>。また、[[ヘブライ大学]][[教授]]の{{仮リンク|シュロモ・アヴィネリ|en|Shlomo Avineri}}は、『[[ロサンゼルス・タイムズ]]』にイラク戦争反対派を[[1930年代]]の[[ナチス・ドイツ]]への[[宥和政策]]になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。 2002年[[11月8日]]、国連では、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする[[国際連合安全保障理事会決議1441]]が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難した<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00484/contents/070.htm イラク・国連決議受託書簡(要旨)] [[日本財団]]図書館。2002年11月15日[[毎日新聞]]朝刊からの転載</ref>が、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があった。これに対して、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。[[12月7日]]にイラクは膨大な量の申告書を提出した。 === 2003年 === 2003年[[1月9日]]、UNMOVIC委員長の[[ハンス・ブリックス]]と[[国際原子力機関|IAEA]]事務局長の[[モハメド・エルバラダイ]]は[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]に調査結果の中間報告を行った<ref>{{cite news|title=安保理への中間報告要旨|work=共同通信|date=2003-01-09|url=https://web.archive.org/web/20100106223345/http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003011001000057.html}}</ref>。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」があるとした。また、イラク側が国連[[ヘリコプター]]による飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察に対する非協力的な態度も明らかになった<ref>{{cite news|title = イラク査察の正式報告要旨|date = 2003-01-27|url = https://web.archive.org/web/20100106223350/http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003012701000500.html|work = 共同通信|accessdate = 2012-01-23}}</ref>。[[1月16日]]には化学兵器搭載可能なミサイル14基の存在が不明であるとUNMOVICによって説明され、イラクが[[弾道ミサイル|長距離弾道ミサイル]]に該当しないとしていたアルサムード2の射程が[[国際連合安全保障理事会決議|安保理決議]]違反であると認定されたほか、[[炭疽菌]]、[[タブン]]、[[ソマン]]などの生物兵器・化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容があるとされていた<ref name="外務省平成15年10月">{{Cite press release|和書|title=イラクにおける大量破壊兵器問題|url=http://www.mofa.go.jp/Mofaj/area/iraq/th_heiki.html|publisher=外務省|date=2003-10|accessdate=2012-01-23|archiveurl= https://web.archive.org/web/20040214165247/http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/th_heiki.html|archivedate=2004-02-14}}</ref>。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。 [[2月14日]]から[[2月16日]]にかけて、[[カトリック教会|カトリック]]の信徒でもあるイラク副首相の[[ターリク・ミハイル・アズィーズ]]は[[バチカン]]と[[イタリア]]に渡り[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。 [[3月7日]]、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。米英両国に加え、この時点で理事国ではない[[日本]]は、態度が不明確な非常任理事6か国に決議賛成の根回しを行ったが、失敗した。このため、フランスが[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を行使せずとも決議否決となる可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議なしでの攻撃に踏み切ることにした。 [[ファイル:BushWolfowitz-050316.jpg|thumb|220px|ブッシュ大統領とウォルフォウィッツ国防副長官]] [[3月17日]]、ブッシュ大統領は全米向けテレビ演説を行い、48時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう勧告し、全面攻撃の[[最後通牒]]を行った。2日後の[[3月19日]]([[東部標準時|アメリカ東部標準時]])に予告どおり、イギリスなどと共に『'''イラクの自由作戦'''』と命名した作戦に則って、侵攻を開始した。 イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声が強かったが、それを押し切った形での開戦となった。 また、アメリカに合わせて武力行使を支持したイギリスの[[トニー・ブレア]]政権では、閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日に[[ロビン・クック]]枢密院議長兼下院院内総務、[[3月18日]]に{{仮リンク|フィリップ・ハント|en|Philip Hunt}}保健担当、{{仮リンク|ジョン・デナム (政治家)|en|John Denham (politician)|label=ジョン・デナム}}内務担当両政務次官が辞任{{Refnest|group="注釈"|[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/politics/2860583.stm BBCニュースの記事]に更に詳細なリストがある。}}。結果としてブレア[[イギリスの首相|首相]]は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた。 == 公式発表による開戦理由 == 米英両国が主張した[[開戦事由]]は次の通り。 *イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている *独裁者サッダーム・フセインが国内で[[クルド人]]を弾圧するなど多くの圧政を行っている *度重なる国連査察の妨害により、大量破壊兵器の廃棄確認が困難である *度重なる査察妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である[[国際連合安全保障理事会決議687|国連安保理決議687]]が破られている *[[国際連合安全保障理事会決議1154]]で「いかなる侵害も、イラクにとって最も重大な結果をもたらすであろう」という、湾岸戦争停戦協定破棄条件の決議、つまり最終警告がされていた。 *決議1441では『最後の機会』が与えられたにもかかわらず、イラク側は査察に積極的な協力をしていない。 *フセインとアルカーイダが協力関係にある可能性がある<ref name="White House2002-10-07">{{Cite press release |和書 |title= President Bush Outlines Iraqi Threat|publisher= [[The White House]]|date= 2002年10月7日|url= http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2002/10/20021007-8.html|language= 英語|accessdate= 2014-06-13}}</ref> まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連安保理決議1154、1441に基づき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決議687)を破棄し、なおかつ米英の[[先制的自衛権]]の行使として{{Refnest|group="注釈"|{{仮リンク|アリ・フライシャー|en|Ari Fleischer}}[[ホワイトハウス報道官|報道官]]の言明。}}起こったものである。 フランス、ドイツなどは開戦するなら決議1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、決議1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及びその同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、[[地中海]]にいた[[原子力空母]]「[[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]」の[[ペルシア湾|ペルシャ湾]]派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。 ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領や[[ディック・チェイニー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していた<ref>WGBH「Bush's War〜ブッシュの戦争〜」</ref>ため、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の「大義」が失われたという批判が巻き起こる結果となった。 2004年6月25日、[[ポーランド軍]]はイラクの遺棄された化学兵器を発見した<ref>{{Cite news|url=http://www.nti.org/gsn/article/poland-announces-iraqi-chemical-weapons-find/}}</ref>。 <!-- 2014年10月、過激派組織[[ISIL]]がイラク国内にあり、米軍が破壊できなかった元化学兵器工場で略奪を行い、[[サリン]]などを含む2,500発もの化学兵器を持ち去った可能性が示唆されている<ref>{{Cite news|url=http://www.dailymail.co.uk/news/article-2793731/will-rusting-chemical-weapons-cache-ignored-americans-fall-isis-hands-iraq-claims-2-500-rockets-containing-deadly-sarin-hands-terrorists.html}}</ref>。{{-}} --> === 亡命イラク人による情報捏造疑惑 === 亡命イラク人が、フセイン政権打倒のために、大量破壊兵器を保有しているとの情報を捏造し、アメリカ当局に伝えたとの疑惑が浮上している。イギリスの『[[ガーディアン]]』紙によると、ある亡命イラク人男性が既に捏造を認めているという<ref>2011年2月17日の[[朝日新聞]]朝刊11面</ref>。 === ブッシュ政権の戦争計画・情報操作疑惑 === 後に元[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]の[[ポール・オニール (実業家)|ポール・オニール]]が「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」した<ref>{{Cite book|和書||author = ロン・サスキンド|authorlink = :en:Ron Suskind||translator= 武井楊一|title= 忠誠の代償 : ホワイトハウスの嘘と裏切り|date= 2004-06|publisher= [[日本経済新聞社]]|isbn= 4532164729}}</ref>。 開戦時の[[中央情報局|CIA]]長官だった[[ジョージ・J・テネット]]は「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、[[ジョゼフ・チャールズ・ウィルソン|ジョゼフ・ウィルソン]]元駐[[ガボン]]大使が2003年[[7月6日]]付の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に寄稿した記事に端を発した[[プレイム事件]]によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている<ref>ニューヨークタイムズ 2004年5月30日付 記事より</ref>。 またプレイム事件などの裁判などでも、ブッシュ政権におけるブッシュ大統領やチェイニー副大統領ら複数の政府高官らによる情報操作とその関わりについて 裁判の中で語られている。 === ブッシュ大統領の開戦前後の演説 === ブッシュは開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。 * 生物・化学兵器等、大量破壊兵器を保有し続け、その事実を否定し、国連の武器査察団に全面的な協力を行わない(部分的な協力に止まっている)ことに対する武力制裁のため。 * イラクの一般市民をサッダーム・フセイン大統領の圧政から解放するため。 * テロリストに対する支援国であるイラクを「民主的な国」に変えるため([[対テロ戦争]]の一環)。 ''戦争の経過は[[イラク戦争の年表]]を参照。'' == 政府の公式発表以外の開戦理由の仮説<ref>{{Cite web|和書|title=Wikipediaとは - IT用語辞典 |url=https://e-words.jp/w/Wikipedia.html#:~:text=Wikipedia%20%E3%80%90%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%80%91.%20Wikipedia.%20%E3%80%90%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%80%91.,Wikipedia%20%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E9%9D%9E%E5%96%B6%E5%88%A9%E5%9B%A3%E4%BD%93%E3%81%AE%20%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E8%B2%A1%E5%9B%A3%20%EF%BC%88Wikimedia%20Foundation%EF%BC%89%E3%81%8C%E4%B8%BB%E5%82%AC%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%81%E8%AA%B0%E3%81%A7%E3%82%82%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AB%E9%96%B2%E8%A6%A7%E3%83%BB%E5%9F%B7%E7%AD%86%E3%83%BB%E7%B7%A8%E9%9B%86%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%99%BE%E7%A7%91%E4%BA%8B%E5%85%B8%E3%80%82. |website=IT用語辞典 e-Words |access-date=2023-09-05 |language=ja}}</ref> == イラクを[[サウジアラビア]]の軍事基地の代替地として確保し、サウジアラビアから米軍部隊を移転することで[[ムスリム]](イスラム教徒)の[[反米]]感情を和らげ、テロの発生を予防する{{要出典|date=2017年3月}}。ビン=ラーディンは湾岸戦争の際、[[イスラム教]]の聖地[[メッカ]]のあるサウジに[[異教徒]]の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った{{要出典|date=2017年3月}}。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守るためという名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していたため、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった{{要出典|date=2017年3月}}。 イラクを民主国家にし、[[資本主義]]経済を根付かせる事で将来起こるであろう[[石油]]枯渇による[[中東]]経済の混乱を最小限に抑える{{要出典|date=2017年3月}}。 イラクを[[親米]]化させることで中東(イラン、[[シリア]]、その他反米の諸国)に'''「[[民主化]]のドミノ倒し」'''を起こさせる(いわゆる[[ドミノ理論]])。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある{{誰2|date=2017年3月}}。ブッシュ政権中枢で影響力を持ちイラク戦争を強く支持した[[新保守主義|ネオコン]]グループでは、フセインが[[アラブ世界]]で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルは親[[パレスチナ国|パレスチナ]]、反イスラエル路線のフセイン政権を脅威と見ていたから、国民レベルでも開戦支持が反対を上回った数少ない国の一つだった<ref group="注釈">もう一つは湾岸戦争でイラクの侵略を受けた[[クウェート]]。</ref>。イスラエルは、イラクを穏健路線の[[ヨルダン]]([[ハーシム家]])に統治させる戦略を打ち出していた。そのため、[[イスラエル・ロビー]]が開戦を働き掛けたと指摘されている<ref>{{Cite book|和書||author= [[ジョン・ミアシャイマー|ジョン・J.ミアシャイマー]]、[[スティーヴン・ウォルト|スティーヴン・M.ウォルト]]|translator= [[副島隆彦]]|title= イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 2|date= 2007-10|publisher= [[講談社]]|isbn= 9784062142588|pages= 83-85}}</ref>。 *石油の一大産出地域である中東に戦乱を生じさせ、石油価格を上昇させて石油市場の流れを操作する{{要出典|date=2017年3月}}。 *アメリカ人の気質として、戦時に大統領が代わるのは好ましくない、とする風潮があり、戦争開始時点で再選を目指していたブッシュ大統領のキャンペーンの一環([[報道におけるタブー#戦時大統領タブー]]){{要出典|date=2017年3月}}。 *イラクは石油輸出の決済を[[ドル]]仕立てから[[ユーロ]]決済への移行を決定していた。これが実行されると[[アメリカ合衆国ドル|アメリカドル]]の世界[[基軸通貨]]としての地位が揺らぐため、それを阻止するための防衛戦争として侵略を決行した<ref>{{Cite book|authorlink=北野幸伯|date=2005年1月|title=ボロボロになった覇権国家 : 次を狙う列強の野望と日本の選択|author=北野幸伯|publisher=風雲舎|isbn=978-4938939359 }}</ref>。 *[[冷戦]]以後、目立った戦争を経験していなかった[[軍需産業]]が衰退していたため戦争を誘発するよう[[ホワイトハウス]]に圧力をかけた(いわゆる[[軍産複合体]])<ref>{{cite journal |last1=Hinnebusch |first1=Raymond |title=The US Invasion of Iraq: Explanations and Implications |journal=Critique: Critical Middle Eastern Studies |date=1月2007年 |volume=16 |issue=3 |pages=209–228 |doi=10.1080/10669920701616443 |language=英語 |url=https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/10669920701616443}}</ref><ref>Hartung, W. D. (2012年). [https://watson.brown.edu/costsofwar/files/cow/imce/papers/2011/The%20Military-Industrial%20Complex%20Revisited.pdf The Military-Industrial Complex Revisited: Shifting Patterns of Military Contracting in the Post-9/11 Period.]{{En icon}}''Costs of War, Watson Institute for International and Public Affairs.''</ref>。 *戦争により武器・兵器を消費するため。一定の周期で過剰に生産された武器・兵器を消費しなければ軍事マーケットにおける需給のバランスが崩れる{{要出典|date=2017年3月}}。 *サウジ、ロシアに次ぐ埋蔵量(世界第三位)を持つイラク北部の[[油田]]地帯を反米のフセイン政権が握っているのは、アメリカ(特に[[国際石油資本]])にとって好ましいことではなく、利権を押さえるため。しかし戦後、開発の権利は入札によって他国に取られてしまった<ref>リベラル21「“石油戦争”の勝者はイラク国民] 坂井定雄2010年1月10日(lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1028.html)</ref>。 *数十年後に予想される原油枯渇によるエネルギー危機に備えて、石油利権を確保するため。開戦当初から、イラクの石油をアメリカ資本、イスラエルが独占するための戦争であると主張する説。イスラエルの[[左翼|左派]]系新聞『[[ハアレツ]]』が主張している<ref>{{cite web |url=http://www.haaretz.com/hasen/pages/ShArt.jhtml?itemNo=332835&contrassID=2&subContrassID=1&sbSubContrassID=0&listScr=Y |title=U.S. checking possibility of pumping oil from northern Iraq to Haifa, via Jordan |author= Amiram Cohen |publisher=[[Haaretz|Haaretz.com]] |date=2007年8月2日 |accessdate=2007年8月2日}}</ref>。 <!-- *{{要出典範囲|イラクが大量破壊兵器を放棄をしたのを確認したので見せしめのため。これは開戦当初から言われている|2008年12月20日 (土) 10:01 (UTC)}}。 *{{要出典範囲|[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|目には目を歯には歯をテロにはテロを]]から脱却し先制テロを行う新しい時代を築くため|2008年12月20日 (土) 10:01 (UTC)}}。 --> == イラク側の思惑 == 後に逮捕されたフセインは、ブッシュの意図を見誤り、空爆程度で収まると考えていたため、強気の発言をしていたと語っている。また大量破壊兵器の存在を示唆することで、中東諸国におけるプレゼンスを高める狙いがあったとされる<ref>{{Cite news |title= 「アメリカの進攻、予期せず」フセイン元大統領が供述|newspaper= [[読売新聞]]|date= 2008-01-27|author= 坂元隆|url= http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080115-899570/news/20080126-OYT1T00505.htm|accessdate= 2014-06-13|archiveurl= https://web.archive.org/web/20080220232408/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080115-899570/news/20080126-OYT1T00505.htm|archivedate= 2008-02-20}}</ref>。 == 開戦反対国や国連のイラクでの利害 == フランス・ロシア・中国の各国は石油や開発プロジェクトを巡ってイラクと良好な関係にあり、このためこの[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連安保理常任理事国]]の3カ国が武力行使に反対する姿勢を崩さなかった背景にはその利益を守ろうとする動機があったとも言われている。また、この3カ国は武器輸出も行っており、イラク軍の保有する兵器の大半はロシア・フランス・中国製で国際社会から武器禁輸を受ける湾岸戦争前はこの3カ国はイラクの武器輸入の90%も占めていた<ref>[http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/values.php SIPRI Database] Indicates that of $29,079 million of arms exported to Iraq from 1980 to 1988 the Soviet Union accounted for $16,808 million, France $4,591 million, and China $5,004 million (Info must be entered)</ref>。また、ペルシャ湾への空母「シャルル・ド・ゴール」派遣を準備していたにもかかわらず中止したフランスはイラクに多額の借款を持っており、戦争による体制の崩壊で当該借款が回収不能になることが危惧された<ref>{{Cite news |title= Q 各国なぜ対応違う A 膨大な石油資源めぐり利害と思惑が絡み合い|newspaper= [[北海道新聞]]|date= 2002-10-19|url= http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20021019/qa2.html|accessdate= 2014-06-13}}</ref>。中国はフセイン政権時代の1997年にアルアーダブ油田の権益を得ており、イラクが戦後初めて外国企業との油田開発契約を結んだ相手も中国の[[CNPC]]でこの権益を保った<ref>{{Cite news |title= 中国、イラクとアルアーダブ油田開発30億ドルで合意|newspaper= [[AFPBB]]|date= 2008-08-28|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2512131|accessdate= 2019-07-11}}</ref>。 また、国連においてもイラク関連人道支援事業[[石油食料交換プログラム]]に関わる[[汚職]]が後に問題となった。これは[[経済制裁]]を受けていたイラクが石油と食料や衣料品を交換するという国連の事業であり、この計画に関与した[[ブトロス・ブトロス=ガーリ]]元[[国際連合事務総長|事務総長]]のファミリー企業や{{仮リンク|ベノン・セバン|en|Benon Sevan}}[[国際連合事務次長|事務次長]](当時)、[[コフィー・アナン]]元事務総長の長男{{仮リンク|コジョ・アナン|label=コジョ|en|Kojo Annan}}が密輸やイラク政府、関連企業からの賄賂によって利益を得ていたという事件である<ref>{{Cite news |title= 前事務総長にも波及 国連・イラク支援疑惑|newspaper= asahi.com|date= 2005-02-14|url= http://www.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200502130127.html|accessdate= 2014-06-13|publisher= [[朝日新聞社]]}}</ref>。イラクを軍事支援していたロシア、フランス、中国がこの計画で最も利益を得ていた<ref>デュルファー報告 Vol.1, 'Regime Finance and Procurement' p.31 figure 16,</ref>。フセイン政権がこの計画で不正に得た収益は19億ドルにのぼるとされており、そのための賄賂と見られている<ref>{{Cite news |title= 米検察、元国連事務次長を起訴…フセイン政権下の収賄|newspaper= [[YOMIURI ONLINE]]|date= 2007-01-17|author= 白川義和|url= http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4500/news/20070117i203.htm|accessdate= 2014-06-13|publisher= 読売新聞社|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100106033032/http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4500/news/20070117i203.htm|archivedate= 2010-01-06}}</ref>。なお、国連に懐疑的なブッシュ政権や戦争賛成国のイギリスやオーストラリアにはイラク戦争前に本来構内は不可侵とされている[[国際連合本部ビル|国連本部]]を盗聴していたとする{{仮リンク|国連盗聴疑惑|en|Spying on the United Nations}}も起き、実際に盗聴器が設置されていたことがわかっている<ref>{{cite news|url=http://www.theage.com.au/articles/2004/06/18/1087245106216.html|title=Australia 'party to bugging of UN'|author=Mark Forbes|work=The Age|date=19 June 2004|accessdate=1 May 2008|location=Melbourne}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.cbc.ca/world/story/2004/12/17/un-bug-geneva041217.html|title=New bugging device found in UN offices|publisher=CBC News|accessdate=2019-05-10}}</ref><ref>{{cite web|url=http://cryptome.quintessenz.at/mirror/un-bug.htm|title=Technical analysis of the bug|publisher=|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928170757/http://cryptome.quintessenz.at/mirror/un-bug.htm|archivedate=28 September 2007|df=dmy-all|accessdate=2019-05-10}}</ref><ref>[http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,1376585,00.html Bugging device found at UN offices], Brian Whitaker, 18 December 2004, ''The Guardian''</ref>。 == 各国での反応 == [[ファイル:Pentagon March.jpg|right|thumb|250px|[[ペンタゴン]]に集まるイラク戦争に関するデモ参加者 (2007年3月)]] 開戦直後の各国の反応は以下の通りであった。 イギリスのブレア首相は政府声明として、アメリカの武力行使を支持し、共に参戦すると表明。参戦の際の声明では、かつて[[ウィンストン・チャーチル]]元首相が発した「陸海空から」という文言が用いられた{{要出典|date=2019年3月}}。 日本の[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]]は記者会見で、「アメリカの武力行使を理解し、支持いたします<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2003/03/20kaiken.html|title= 小泉総理大臣記者会見 イラク問題に関する対応について|accessdate= 2014-06-13|date= 2003-03-20|work= 小泉総理の演説・記者会見等|publisher= [[首相官邸]]}}</ref>」と表明した<ref>なお、日本政府がアメリカの武力行使・武力介入を非難批判したことは一度もない</ref>。後に明らかになったことだが、小泉の同声明は[[外務省]]の事務方が用意した文書よりも踏み込んだ内容になっている。文書では「理解する」との表現が盛り込まれていたが、開戦の際の記者会見では小泉は「支持」という踏み込んだ文言を用いた。また、開戦前から安保理理事国にアメリカ支持を働きかけていた。 オーストラリアもアメリカの武力行使を支持し、[[オーストラリア空軍|空軍]]の[[戦闘爆撃機|戦闘攻撃機]]、[[オーストラリア海軍|海軍]]の[[フリゲート]]、[[特殊部隊]]を派遣した。 *[[フィリピン]]は支持。中国、ロシア、[[欧州連合]]、[[アラブ連盟]]は非難。 *イスラエルは開戦を強く支持。イラクからのミサイル攻撃に対して即時報復の構え。国内では非常事態体制に入り、ガスマスクの携帯を勧めた(生物・化学兵器への備え)。開戦前の2月、ペレス外相は開戦反対のフランスを国連安保理常任理事国にふさわしいかどうか疑問だと非難した。 *イラク政府はこの戦いを[[聖戦]]([[ジハード]])であるとした。 *[[国際連合]]のアナン事務総長は強い遺憾の意を表明。 *[[大韓民国|韓国]]は3月21日の臨時閣議で、600人以内の建設工兵支援団と100人以内の医療支援団を派遣することを決定。だがその後、[[国会 (大韓民国)|議会]]で反対に遭い、与党の分裂などもあって派遣が実現するかどうかは不透明化した。4月2日の国会での演説で、[[盧武鉉]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]は再び派兵の承認を議会に要請。 開戦後、国際反戦団体のUFPJ({{仮リンク|正義と平和のための連合|en|United for Peace and Justice|}})やANSWER({{仮リンク|戦争を止め差別を終わらせるために今行動しよう|en|A.N.S.W.E.R.|}})の呼びかけにより、24時間かけて世界を一周させるリレー[[反戦デモ]]が繰り広げられ、一部の国では規制しようとする警察と小競り合いが起き、負傷者や逮捕者が出るほど激化した。著名アーティスト達は揃って攻撃を非難。これと同時に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]においては開戦を支持するデモも大規模に行われた。<!--基地の提供などの形で協力している国でも、公式には戦争に反対を表明している場合があった。--> 3月27日の国際連合安全保障理事会の席上において、米英側が戦争の正当性を主張。ロシア、中国、イラクなどがこれに批判的な発言を行った。 フランスの[[ドミニク・ド・ビルパン|ドミニク・ド=ビルパン]]外相は、開戦を強行したアメリカに強く反発した。アメリカ国防長官の[[ドナルド・ラムズフェルド]]から「(開戦反対の)フランスとドイツは[[古いヨーロッパ]]だ」と皮肉られると、国連安保理で「フランスは古い国(歴史がある、という意)だからあえて反対する」と切り返した。 4月14日、アメリカ政府はシリアを非難。イラクの政府要人などを匿い、化学兵器を所持していることなどを理由としたものだが、これは当のシリアは元よりフランス外相、国連事務総長などの反発を招いた{{要出典|date=2019年3月}}。 === 日本の債権放棄 === [[日本国政府|日本政府]]はイラク政府に対する債権放棄に応じ大きな損害を蒙った。[[2005年]][[11月24日]]の外務省のプレスリリースによると繰延金利を加味しない場合、約7,100億円の債権削減と発表された<ref>{{Cite press release|和書|title=イラク共和国に対する債務救済措置について|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/17/rls_1124c.html|publisher=[[外務省]]|date=2005-11-24|accessdate=2012-01-23}}</ref>。イラク戦争でアメリカに追従したが大量破壊兵器も見つからず、7,100億円もの債権放棄と原油高の長期化だけが日本にとっての結果となっており、不利益しかなかった日本国民から批判が起こった{{要出典|date=2019年3月}}。 イラク戦争によってイラクの原油輸出が減少したことも原油価格上昇の要因の一つになった{{要出典|date=2019年3月}}。 湾岸戦争時、総計130億ドルもの資金を提供し大きな批判が国内から起こったため、直接資金提供を実施するのではなく債権放棄という形で国民からの批判を回避しているとの指摘が出された{{要出典|date=2019年3月}}。 === 日本における報道対応 === アメリカの突きつけた最後通牒の期限が切れる2003年3月20日の午前中(日本時間)は、各局とも特別報道体制を敷いていた{{要出典|date=2019年3月}}。 *[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]は11時41分から報道特別番組を行った<ref>{{NHKアーカイブス|A200303201141501300100|ニュース}}</ref>。 *[[フジテレビジョン|フジテレビ]]では『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』が休止となり、『米英軍イラク攻撃』(12時 - )<ref name="minpo2003"/>を放送。 *日本テレビは午後の『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』が休止となり『報道特別番組「開戦か48時間期限切れる」 』(10時25分 - 11時20分)<ref name="藤井貴彦のTV出演情報">{{Oricon TV|990002255|藤井貴彦}}</ref><ref name="笛吹雅子のTV出演情報">{{Oricon TV|1155881|笛吹雅子}}</ref>・『NNN緊急報道特番 イラク攻撃・第2部 』(12時 - 13時55分)が放送<ref name="藤井貴彦のTV出演情報"/><ref name="笛吹雅子のTV出演情報"/><ref name="minpo2003">{{Cite book|和書|editor=日本民間放送連盟|title=日本民間放送年鑑2003|publisher=コーケン出版|date=2003-11-20|pages=101}}</ref>。 *3月21日より通常の編成に戻ったが『[[JNNニュース]]』([[TBSテレビ|TBS]])、『[[産経テレニュースFNN]]』(フジテレビ([[日曜日|日曜]]))などは[[パーティシペーション]]で放送された{{要出典|date=2019年3月}}。 == 戦術 == === 迅速な攻略 === [[ファイル:Iraq-CIA WFB Map.png|thumb|250px|イラク全図]] {{see also|イラク戦争の年表}} 2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した({{仮リンク|イラク侵攻 (2003年)|en|2003 invasion of Iraq}})。[[ウンム・カスル|ウムカスル]]や[[ルマイラ油田|ルメイラ油田]]を攻略し、南部最大の都市[[バスラ]]の攻防戦で幾分足止めを食らうが、制圧した。鉄道と道路沿いを西に向かい、[[ナーシリーヤ]]で[[クート]]に北上する部隊と[[サマーワ]]を経て[[ユーフラテス川]]沿いに[[ヒッラ]]を目指す部隊に分かれ、4月に[[バグダード]]で合流して突入し、これを攻略した。なお、この攻略に際しては、米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとのニセ情報を出し、バグダード市内にいた[[共和国防衛隊]]、[[特別共和国防衛隊]]の戦車などをおびきだし、それらが進攻部隊攻撃のため市内を出たところを、空爆によって大半を破壊した。(これは市内での空爆の困難さから、市街地の外に戦車などをおびきだした戦術といえる。) 合わせて北部の[[モスル]]、[[ティクリート]]、[[キルクーク]]には空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは、戦争開始前後から積極的にメディア工作を行っていた[[ムハンマド・サイード・アッ=サッハーフ|サッハーフ]]情報大臣がバグダードの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。 === 小規模兵力とハイテク兵器の投入 === [[ファイル:Iraq_War_2003.gif|thumb|right|220px|戦闘の経過]] [[ファイル:Iraq-dusk.jpg|thumb|220px|前線に配備されたアメリカ陸軍のヘリコプター、UH-60 ブラックホーク(2003年4月2日)]] [[ファイル:US_Army_soldiers_in_a_firefight_near_Al_Doura,_Baghdad.jpg|thumb|250px|首都バグダードで銃撃戦を行う米軍兵士]] 投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千([[アメリカ陸軍]]と[[アメリカ海兵隊]]で約10万、[[イギリス軍]]3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊する[[ドクトリン]]とした。 これは、湾岸戦争後に[[コリン・パウエル]]によって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイル{{Refnest|group="注釈"|圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの。}}と対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。 この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。ラムズフェルドはかねてより、パウエル・ドクトリンは[[ベトナム戦争]]からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。 実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機の[[精密爆撃|ピンポイント爆撃]]をはじめとする空爆と[[巡航ミサイル]]による結節点の破壊によって、イラク軍の指揮系統は早期に崩壊した。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。 事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダードまで進軍することに成功した。このことはアメリカの圧倒的軍事力を(一時的なイメージだけであれ)世界中に見せつける結果となった。[[軍事大国]]アメリカの存在感をいっそう高めて、中東を始め世界各国に改めて示すことができた。「開戦前から戦争が泥沼化する」と予想していた研究者もいたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられなくなった。 この戦争では[[スティンガーミサイル|スティンガー]]で武装させた[[RQ-1 プレデター|MQ-1]]がイラク軍の[[MiG-25]]と交戦して互いに[[対空兵器]]を装備した有人機と[[無人攻撃機]]の史上初の[[ドッグファイト|空中戦]]も行われ<ref>Krane, Jim. "Pilotless Warriors Soar To Success." CBS News, 25 April 2003.</ref><ref>Paul J. Springer, Military Robots and Drones: A Reference Handbook (Santa Barbara, CA: ABC-CLIO, 2013), p.23</ref>、続く占領下の武装勢力との抗争では遠隔操作の無人自走機関銃を初めて実戦投入され<ref>[https://wired.jp/2007/08/07/機関銃搭載の兵器ロボット、イラクに初配備/ 機関銃搭載の兵器ロボット、イラクに初配備] WIRED 2007年8月7日</ref>、戦場の[[ロボット]]化が進んだ。 この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、[[軍事における革命|RMA]](軍事革命)という考え方が台頭した。イラク軍に[[69式戦車]]など兵器を大量に供与していた中国もイラク軍の一方的な敗北に衝撃を受けて[[中国人民解放軍]]は特にC4ISRと[[無人航空機]]([[UCAV|ドローン]])の活用などに注目していたとされる<ref>Yang Jun, “Yilake jiujing shi shui de zhanchang” (Whose Battlefield is Iraq in the End?” Renmin Ribao (People’s Daily), August 10, 2007</ref>。 == 大量破壊兵器捜索 == {{main|{{仮リンク|イラクと大量破壊兵器|en|Iraq and weapons of mass destruction|label=大量破壊兵器}}}} 大量破壊兵器の保有に関しては[[国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会|UNSCOM]]主任査察官の[[スコット・リッター]]{{Refnest|group="注釈"|ただし、リッターはイラク政府に近い実業家から40万ドルの現金を受領したとされる疑惑が出ており、アメリカ議会ではイラクに買収されたという見方もされている<ref>{{Cite news |title= 米批判の元査察官を買収か イラク系実業家から40万ドル|date= 2002-11-30|url= http://www.47news.jp/CN/200211/CN2002113001000151.html|accessdate= 2014-06-14|agency= 共同通信|publisher= [[47NEWS]]}}</ref>。}}、IAEA事務局長(肩書きはいずれも当時)のエルバラダイらは当初から否定的であった。 イラク国内に入ったアメリカ軍は、大量破壊兵器の捜索を行った。また、UNMOVICも現地入りし捜索を行った。しかし捜索にもかかわらず新たな大量破壊兵器は発見されず、[[2004年]]9月13日にパウエル国務長官は「見つからないだろう」と捜索断念を明らかにした<ref>{{Cite news |title= 「大量破壊兵器、見つからないだろう」米国務長官が断念|newspaper= asahi.com|date= 2004-09-14|url= http://www.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200409140147.html|accessdate= 2014-06-14|publisher= 朝日新聞社}}</ref>。 CIAに依頼されて大量破壊兵器調査団長を務めた政治評論家の{{仮リンク|デイヴィッド・ケイ (政治評論家)|label=デビッド・ケイ|en|David Kay}}が、2004年1月28日の[[アメリカ合衆国上院軍事委員会|上院軍事委員会]][[公聴会]]で「私を含めてみんなが間違っていた。調査活動が85%ほど終了した今、生物・化学兵器が発見される可能性はもうないだろう」と証言した<ref>{{Cite book|和書|author= 前坂俊之|authorlink=前坂俊之|title= イラク戦争の真実・・大量破壊兵器は存在しなかった|url= http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/iraq13.pdf|format= PDF|accessdate=2014-06-14|date= 2004-02-03|publisher= [[日本新聞協会]]|id={{全国書誌番号|00061131}}}}</ref>。同年10月にはアメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出。匿名密告者{{仮リンク|カーブボール (密告者)|en|Curveball (informant)|label=カーブボール}}による大量破壊兵器の情報の信憑性が薄いものであったことが明らかになった。この事に関してサッダーム・フセインは、拘束後の[[連邦捜査局|FBI]]の取調べで、イラクが査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持しているのをほのめかすことでイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器などの大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」と証言している<ref>CBS 60ミニッツ「サダム・フセインの告白」</ref>。 アメリカ政府は大量破壊兵器に関するCIAの情報に誤りがあったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となった。 一方、大量破壊兵器が発見されなかったことで、イラク戦争を支持した同盟国にも動揺が走った。最大の同盟国であるイギリスでは、ブレア首相が開戦前に「フセイン政権が生物化学兵器の使用を決定した場合、45分以内に配備できる」という報告書を提出し、情報の真偽を巡って政府職員に自殺者まで出していたため「国民を騙した」として支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれた。[[デンマーク]]国防相の{{仮リンク|スヴェン・イエンスビュ|da|Svend Aage Jensby|label=イエンスビュ}}も開戦前に「大量破壊兵器問題をめぐる報告書」を提出してイラク戦争を支持したため辞任を余儀なくされた。また、ポーランド大統領の[[アレクサンデル・クファシニェフスキ|クワシニエフスキ]]は「アメリカに騙された」と批判し、日本の[[久間章生]][[防衛大臣|防衛相]]も「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」と発言し物議を醸した。アメリカを当初から支持した日本の外務省は、[[2012年]]12月にイラク戦争への対応に対する検証結果の報告を行った。この報告ではイラクに大量破壊兵器が不存在であることを証明する情報を外務省が得ていなかったと結論付け、外務省のとった対応は概ね適切であったと述べている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/pdfs/houkoku_201212.pdf|title= 報告の主なポイント|accessdate= 2014-06-11|date= 2012-12|format= PDF|work= イラク共和国|publisher= 外務省}}</ref>。オーストラリア国防相の{{仮リンク|ブレンダン・ネルソン|en|Brendan Nelson|}}にいたっては、「[[原油]]の確保がイラク侵攻の目的だった」と開き直る発言をして批判を浴びた<ref>2007年07月08日付クドゥス・アラビー紙</ref>。 ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けた<ref>{{Cite news |title= ブッシュ米大統領、イラク情報活動失敗が「最大の痛恨事」|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2545021?pid=3577607|accessdate= 2014-06-14|agency= AFP|publisher= [[AFPBB News]]}}</ref>。また、イラク戦争に賛成した[[ヒラリー・クリントン]]は、[[2014年]]に侵攻は誤りだったと述べている<ref>{{Cite news |title= クリントン前国務長官「米国のイラク侵攻は誤りだった」|date= 2014-06-13|url= http://japanese.ruvr.ru/news/2014_06_13/273489156/|accessdate= 2014-06-14|agency= [[インターファクス]]|publisher= [[VOICE OF RUSSIA]]}}</ref>。 [[ISIL]]はイラク国内にあり、米軍が破壊できなかった元化学兵器工場で略奪を行い、[[サリン]]などを含む2500発もの化学兵器を持ち去った可能性が示唆されている。元化学兵器工場は[[バグダード]]付近にあり、1980年代から1990年代に実際に稼動していた。イラクでは2014年夏ごろから武装勢力やテロ集団による襲撃により、この元化学兵器工場のコントロールを失っていたとされている<ref>{{Cite news|url=http://www.dailymail.co.uk/news/article-2793731/will-rusting-chemical-weapons-cache-ignored-americans-fall-isis-hands-iraq-claims-2-500-rockets-containing-deadly-sarin-hands-terrorists.html}}</ref>。{{-}} == フセイン政権とアルカーイダの関係 == 2008年3月、アメリカ国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめた。なお、報告全文は当初インターネット上での公開が予定されていたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられた。 == 占領政策 == [[ファイル:George W Bush on the deck of the USS Abraham Lincoln.jpg|thumb|right|220px|対イラク戦争「勝利宣言」を行うため空母[[エイブラハム・リンカーン (空母)|エイブラハム・リンカーン]]に降り立ったアメリカのブッシュ大統領]] イラク戦争は[[5月1日]]の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグダード進攻によるフセイン政権崩壊以降、[[国際連合安全保障理事会決議1483|国連安保理決議1483]]に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および[[連合国暫定当局]](CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなった。 アメリカ軍がバグダードに進撃すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権であったが、その観測は後に裏切られることになる。 === 占領政策のつまずき === 少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ったが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられている{{誰2|date=2023年3月}}。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行えず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いている。 進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍だが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬を密かに隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられている。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保したが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で[[爆弾]]を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下に潜り、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手であった。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加している。 また、バグダードなど大都市を占領すると、圧政から解放されたと感じた市民が[[略奪]]に走り、[[博物館]]の展示物や商店の品物が略奪の対象となった。これはこのような[[無政府状態]]に対する準備が行われていなかったことの表れでもある{{Refnest|group="注釈"|略奪防止の措置は後手に回り、日本のフォトジャーナリストである森住卓の現地報告によれば、米英軍は他省庁を放置して石油省のみを厳重に[[警備]]していた。また、略奪物の8割ほどはイスラム聖職者などの教えによって返却された。}}。また市民の略奪に紛れ、武装勢力の中には市役所や警察署などを対象に狙う者もあり、米英軍はこれも防ぐこともできなかった。後に占領政策に移ると、市民の登録情報や個人情報、自動車の登録番号などが根こそぎ持ち去られるか、破壊されていることがわかった。このため、[[車爆弾]]や[[自爆テロ]]で用いられた自動車のナンバーが判明しても、所有者がわからないためレジスタンス組織の検挙に繋がらなくなっている。 [[2009年]]1月、ブッシュ大統領は最後の記者会見で対テロ戦争は正当化したものの、2003年に行なった「戦闘終結宣言」は誤りであったことを認めた。正式な「終結宣言」は、さらに7ヵ月後の2010年8月31日、新たに大統領に就任した[[バラク・オバマ]]によってようやく為されることになる。 === 占領政策の民営化 === 復興業務には「[[ハリバートン (企業)|ハリバートン]]」社、「[[ベクテル|ベクテル・インターナショナル]]」社らアメリカの民間企業がいくつも参加していた。戦闘終結直後に民間企業が続々と参加してくることは初めてであったが、これら実験的な政策はチェイニーらブッシュ政権閣僚の肝いりであったと言われている<ref group="注釈">参入した多くの企業が、ブッシュ政権の閣僚を重役に置いていた時期があり俗に「回転ドア」と称される。</ref>。 本来は軍が行ってきた輸送業務などを、安全が確保された地帯に限って民営化し、民間企業がトレーラーなどを使って食糧や物品、軍事物資を輸送する、民間企業は同時に石油開発事業も行って利益を得る、と言うものであった。アメリカ国防総省から見れば、戦争で大きな比重を占める輸送業務を民営化することで、その分の兵力と予算を作戦に回すことができ、効率的だと考えられた。 しかし、実際にはイラクは戦闘状態にあり、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついているとはいえ、すぐに武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手にはアメリカ人の他、現地のイラク人や[[ネパール人]]、[[フィリピン人]]ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となり、また度重なる攻撃によって幹線道路周辺は治安が悪化し、民間企業では手に余る状態となった。アメリカ軍は治安悪化によって兵力が不足し始めると、警備業務を[[民間軍事会社]]などの企業に委託するようになった。民間軍事会社に所属するかなりの数の警備員が高報酬に応じてイラクに入ったが、彼らも数多く殺害されている。武装勢力と戦闘して死亡した者も多い。ただし、警備員は飽くまで民間人であるため、死亡しても“戦死者”には計上されない。民間軍事会社の社員は多くは警察、軍の出身者であり、国籍も多様である。[[2007年]]9月に[[ブラックウォーターUSA]]がイラク民間人17人を殺害、24人を負傷させる事件({{仮リンク|ブラックウォーター事件|en|Blackwater Baghdad shootings|}})<ref name="フランス通信 2007年10月8日付">{{Cite web|和書 |url =https://www.afpbb.com/articles/-/2294852?pid=2220520 |title =ブラックウォーター問題、「正当な理由なく発砲」との調査結果 |publisher = [[フランス通信社|フランス通信]] |accessdate=2007年10月8日 }}</ref><ref>{{Cite news |title= ブラックウオーター問題で会長が反論、「要員は銃撃されていた」|date= 2007-10-14|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2297637?pid=2239569|accessdate= 2014-06-14|agency= AFP|publisher= AFPBB News}}</ref><ref>{{Cite news |title= ブラックウオーター事件、発砲に正当理由なし FBI調査|date= 2007-11-15|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2311770?pid=2351531|accessdate= 2014-06-14|agency= AFP|publisher= AFPBB News}}</ref>が起き、非難を浴びた。合衆国政府は少なくとも14人の射殺には正当性が認められないと判断しているが、ブラックウォーター社との契約を延長している。 このように、輸送業務は麻痺状態に陥っているため、前線の兵士まで物資が十分に届いていないことが、兵士が家族に当てた電子メールなどでわかっている。特に水不足が深刻で、摂氏50度の砂漠の中で水分補給をぎりぎりまで制限されていると言う。また、現在のアメリカ軍はベトナム戦争の頃とは違って[[徴兵]]を行っていないため、イラクの状況から入隊希望者が集まらず、兵士の絶対数の確保が困難となっている。このため前線の兵士は数か月で帰還できるところを、1年以上待たされていることも普通である。この人員不足をアメリカ軍は[[州兵]](国家防衛隊)で補っているが、彼らも同様に扱われる上、同じ州兵を繰り返しイラクに派遣するなど、待遇は悪化している{{Refnest|group="注釈"|2006年には戦傷を受けて休養中の予備役や、果ては物故者にまで現役復帰を呼びかける文書が送付されていたことが発覚した。軍当局は「古い名簿に基づく誤った処理」と弁解している。}}。さらに州兵の不在が、結果としてアメリカ国内での災害の発生・拡大に深く影響を与えることも、[[2005年]]の[[ハリケーン・カトリーナ]]によって明らかとなった。 一方、石油開発は[[油田]]施設や[[パイプライン輸送|パイプライン]]への攻撃で産油量が低迷。世界第二位の埋蔵量でありながら、安定した供給を行えない上、ブッシュ大統領が発言した「世界民主化」は、[[民族自決]]に反するものであり、王政や専制であるアラブ諸国の不信感をますます募らせたため、石油危機の再来が恐れられた。このため、石油メジャーを中心に石油資源買いが発生し、原油価格は戦闘終結宣言後から急速に価格が上昇した{{Refnest|group="注釈"|ただし、石油価格高騰は投資資金の石油市場流入や中国経済の急成長も関わっているため、原因は1つではない。}}。 === 反米武装勢力の攻撃 === 連合軍はイラクと[[平和条約|講和]]したわけでも、[[停戦協定]]を結んだわけでもなく、いわばアメリカが(起こる兆候さえなかった)[[クーデター]]に手を貸して旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎず{{Refnest|group="注釈"|初期の[[ヌーリー・マーリキー]]政権は米英の[[傀儡政権]]である。}}、前述したように、旧軍やバアス党旧政権が地下に潜ってしまったためである。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かった。 イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じる{{Refnest|group="注釈"|米軍は当初8000名と発表。}}など戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えた。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなった。しかし、サッダームの一族や旧政権関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになった。[[8月]]には国連事務所を爆破して国連事務総長特別代表だった{{仮リンク|セルジオ・デメロ|en|Sérgio Vieira de Mello|}}らを殺害{{Refnest|group="注釈"|爆発の瞬間が、たまたま取材に入っていたNHKのクルーに撮影された。}}、国連チームの撤収に至った。 この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、大統領だったサッダーム・フセインや、その2人の息子である[[ウダイ・サッダーム・フセイン|ウダイ]]と[[クサイ・サッダーム・フセイン|クサイ]]や政権幹部らに指示されていると思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって逃亡した政権幹部の逮捕が進められ、7月にはウダイとクサイが共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えた。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生した。 [[ファイル:Saddamcapture.jpg|thumb|220px|right|拘束直後のサッダーム・フセイン]] だが2004年に入ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい[[警察]]や新しいイラク軍を標的とする事件が増えた。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリカ軍への攻撃に加えて<!-- 米軍の被害も減っていない -->、新体制の象徴たるものの破壊を狙ったと考えられる。また、民間外国人を狙った誘拐事件も頻繁に発生し、[[日本人]]民間人も被害に遭った。これらはイラク国内の武装勢力によるものと思われ、誘拐した人質と引き換えに軍を撤退させるよう要求するのが手口であった。ただ、彼らは宗教指導者の呼びかけに応じることも多かった。 === 大規模戦闘の勃発 === 2004年4月には[[ファルージャ]]で反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった([[ファルージャの戦闘]])。また、この頃から南部でも[[シーア派]]イスラーム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至る。6月に'''[[イラク暫定政権|暫定政権]]'''が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われた。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになる。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれた。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。 さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となった。シーア派民兵は[[ムクタダー・サドル]]に率いられ、組織的な戦闘を行ったが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者[[アリー・シースターニー]]の停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かった。 続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃した(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的である[[アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィー|ザルカーウィー]]らアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後であった。米軍が直接制圧に当たっているが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われている。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がる。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっている。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダードの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダードに転戦させた。 ファルージャの戦闘の一方は米軍だったが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できない{{誰2|date=2009年4月}}。 === 政権発足と兵力縮小 === この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。特に開戦当初から支持を表明していた[[スペイン]]国内で2004年[[3月11日]]に[[スペイン列車爆破事件|列車爆破テロ]]が発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えた。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万人に増強する旨を発表した。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもあったが、実際は14万5千人までの増強で抑えられた。2005年4月には新[[憲法]]案の採択を行う'''[[イラク移行政府|移行政府]]'''が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入った。 ところが、[[2005年]]の夏に起こった[[ハリケーン]]「[[ハリケーン・カトリーナ|カトリーナ]]」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣され救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次いだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させ、イラク駐留兵力は13万8千人となった。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員したが、翌[[2006年]]2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となった。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド、韓国、イタリアに引き続き、イギリス、オーストラリア、日本が相次いで兵力削減・離脱を発表した。しかし、シーア派と[[スンナ派]](あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、同月22日の{{仮リンク|アスカリ廟爆破事件|en|2006 al-Askari Mosque bombing|}}によって宗派対立に発展した。このため、日英豪3か国の撤退計画は不透明なものとなった。 === 武装勢力抗争の激化 === [[ファイル:Car bomb in Iraq.jpg|thumb|200px|イラク警察を狙った車両の爆破]] [[ファイル:Apache-Iraq-killing-2.jpg|right|thumb|200px|[[AH-64 アパッチ]]のガンカメラから撮影されるイラク人。この直後アメリカ軍によって攻撃される。武装は確認できない(2004年頃)]] アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンナ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられたが、多国籍軍はこれを否定した。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難している。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンナ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンナ派はシリアが援助しているとも言われる。ただし、シリアは少数派のシーア派系[[アラウィー派|アラウィ派]]がスンナ派を支配する国家形態であり、イラクのスンナ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在する。また、フランスに海外拠点を置く旧[[バアス党]]残党も他のスンナ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダード市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からも[[イスラム主義]]勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていた。 == 正式政府の発足 == === マーリキー政権の発足 === [[2006年]]4月に入ると、[[エジプト]]やサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは[[内戦]]である」と発言し、これに対して[[イラク移行政府]]が強く反発した。しかし国内はシーア派とスンナ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンナ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派の{{仮リンク|サドル潮流|en|Sadrist Movement|label=サドル}}と親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「{{仮リンク|イラク国民同盟|en|National Iraqi Alliance|label=統一イラク同盟}}」(UIA)は、首相に[[ヌーリー・マーリキー]]を擁立した。スンナ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官と[[コンドリーザ・ライス]]国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。 閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内相をマーリキーが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマーリキーが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、'''[[イラク正式政府|正式政府]]が発足'''した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。 政権発足直後の6月7日、マーリキー首相とアメリカ軍は共同で、それまでイラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィーを、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が電撃訪問してマーリキーを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマーリキー政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。 イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダードで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟、[[イスラム諸国会議機構]](OIC)が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで[[即席爆発装置|路肩爆弾]]による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。 === サッダーム・フセインの死刑執行 === {{main|サッダーム・フセインの死刑執行}} 2006年12月30日、サッダーム・フセインが処刑された。 === スンナ派住民とアルカーイダの対立 === スンナ派が多数を占める町では米軍に対する攻撃が盛んであるが、国外から侵入するアルカーイダ系勢力に対しても外国の武装勢力だとして武力衝突が生じていた。その一方で資金力に優れるアルカーイダと一部スンナ派武装勢力が対米攻撃で協力関係を結ぶなど、スンナ派地域へのアルカーイダの浸透も進んでいた。 そこでアメリカ軍はイラクのアルカーイダ系組織の幹部ザルカーウィーの脅威を強調し、ザルカーウィー派掃討を目的とした空爆などの過激な攻撃をスンナ派地域で繰り返した{{Refnest|group="注釈"|結果として2006年6月のザルカーウィー殺害後もイラク情勢への影響はあまりなかった。}}。この時スンナ派の間では、攻撃による巻き添え被害の大きさからザルカーウィーを追放しようとする動きが強まった。 [[2007年]]に入り、アルカーイダの過激な活動に反発するスンナ派市民までがテロの対象とされ、塩素ガスを用いたテロによる多数の被害者を出し両者間の溝が表面化した。4月には主要なスンナ派武装勢力の一つ「[[イラク・イスラム軍|イラク・イスラーム軍]]」が構成員30人をアルカーイダに殺害されたとして、ビン=ラーディンに対する非難声明を出した。 こうした「反アルカーイダのスンナ派」と「アルカーイダ系スンナ派」の対立のなかで、アメリカ軍が反アルカーイダのスンナ派部族と協力関係を持つなど、事態は一層複雑化している。バグダード中心部にあるマンスール・ホテルのロビーで6月25日に発生した自爆テロでは、アルカーイダ系過激派との戦いに協力した6人のスンナ派部族指導者が殺害された<ref>{{Cite news |title= Al-Qaida linked to Baghdad hotel bombing|newspaper= The Guardian|date= 2007-06-26|author= Mark Tran|url=http://www.theguardian.com/world/2007/jun/26/iraq.marktran|accessdate= 2014-06-14|language= 英語}}</ref>。 [[ファイル:Obama Petraeus Hagel.jpg|thumb|right|ヘーゲル、オバマ両上院議員とヘリでバグダードを視察するペトレイアス司令官(中央)]] == 増派による治安回復 == === ペトレイアス戦略 === 2007年1月10日、ジョージ・ブッシュ米大統領は「イラクの混乱の原因はすべて私にある」とテレビ演説し、陸軍5個師団・1万7500人、海兵隊2個大隊・4000人から成る、最大で米兵2万2000人のイラクへの一時増派を明らかにした。兵力増強をブッシュに進言したのは[[ジョン・マケイン]]上院議員だとされる。2月にはイラク駐留米軍の司令官に[[デービッド・ペトレイアス]]が就任した。具体的には、1万数千人がバグダードで治安維持に当たるほか、治安悪化の著しい西部の州にも7000人程度が派遣され、ゲリラ掃討に当たるというものであった。また、この戦争と占領によって、米本国の[[アメリカ陸軍|陸軍]]と[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の人員が不足したことから、数万人規模で増員した。 さらに、ペルシャ湾に空母打撃部隊2個部隊を配備するなど、イラクのほか、イランやシリアに対する軍事的威嚇の度合いを強めている。同年3月までに[[憲兵]]やヘリコプター部隊が増派され、増派規模は最終的に3万人となった。しかし、過去数度にわたる増派の効果がいずれも薄かったことから今回の増派の効果を疑問視する声は根強く、同年1月24日には上院外交委員会で増派反対決議案が可決・上程され、翌月17日には下院本会議で増派反対決議が賛成:246対、反対:182で可決、共和党からは17人が賛成に転じた。ただ、上院では本会議に上程されたものの審議打ち切りに必要な60票には到達せず同案は廃案となった<ref>{{Cite news |title= US Senate blocks vote on Iraq war|date= 2007-2-17|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/6370847.stm|accessdate= 2014-06-14|publisher= BBC|language= 英語}}</ref>。増派反対の世論は61%(2007年3月18日・CNN世論調査)にも上っていた。前述のマケイン上院議員は、側近議員数名と同年4月にバグダードを訪問し治安状況を視察したが、その際には護衛が100人以上つくなど、治安状況は悪化の一途をたどっていた<ref>{{Cite news |title=McCain defends Iraq war support|date= 2007-04-12|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/6547233.stm|accessdate= 2014-06-14|publisher= BBC|language= 英語}}</ref>。 しかしながら、同年5月25日には、撤退期限を明示しない1000億ドル相当の対イラク戦費法案が上下両院を通過(下院では280対142、上院では80対14)、夏以降の増派は一定の成果を見せ、2007年の米兵死者数は年間では過去最悪の901人を記録したが、5月の126人をピークに9月以降減少傾向を見せ、10月にの米兵戦死者は39人に減少、11月には37人、12月はその数は更に下回り23人となった。米軍は依然として状況を楽観していないが、2004年2月の20人に次ぐ低水準となった。これには、ペトレイアスの新たな治安維持戦略が挙げられる。 ペトレイアスの戦略は「'''交番作戦'''」と称されるもので、防御を固めた少数の大規模駐屯地を中心に活動を展開した前任の司令官[[ジョージ・ケイシー・ジュニア|ジョージ・ケイシー]]とは異なり、地域に広く展開して継続的なプレゼンスを確立することに重点をおいていた。また、同時に人道復興活動等を強化して地域住民に対する心理的プレゼンスを確立することも重視しており、前述のアルカーイダに反発するスンナ派諸部族や同派部族を代表する[[覚醒評議会]](Majlis al-Sahwa)との連携強化につながった、こうした硬軟の使い分けにより、2007年[[7月]]の[[バアクーバ]]での戦闘で[[イラクの聖戦アル=カーイダ組織|イラク聖戦アルカーイダ機構]]に大攻勢をかけ、ペトレイアス司令官によると、聖戦機構の6 - 7割に打撃を与えたとしている。2007年10月には軍内部で対聖戦機構勝利宣言が検討されたが、その際には慎重論が大勢を占めた。 === 2008年 === 2008年1月には石油生産量が開戦前と同水準の250万[[バレル]]にまで回復した。また、フセイン拘束を指揮したことでも知られる[[レイモンド・オディエルノ]]副司令は2008年8月までには米軍の駐留規模を2、3万人削減できるとの見通しを示している。2008年4月8日にはペトレイアス司令官が上院で証言を行い、増派前の水準への兵力削減を発表する一方、武装勢力との攻防が依然一進一退の状況であることから、それ以上の追加撤退については否定した。同年7月22日までに増派された部隊は撤退完了を遂げた。 また、同年4月の米兵戦死者は、後述のシーア派同士の抗争から一時的に治安が悪化し52人に上るが、翌5月は戦況が再び好転し、米兵の死者は開戦以来最低の19人、[[多国籍軍]]全体でも21人に留まった。更に、同年7月には戦死者は11人に留まり治安回復傾向がより顕著になった。それを受けブッシュ大統領は派遣された兵士の駐留期間を15か月から12か月に短縮することを発表した。また、[[CBS]]の調査によれば2007年8月には2000人を数えていた民間人の死者は、2008年6月には490人に減少、多国籍軍に対する攻撃も1500件から200件に激減した。更に、同年9月の米兵の死者は8人に減少し、10月には7人にまで減少した。同月のイラク人の死者も238人と開戦後最低を記録した。 ペトレイアスは、治安回復の功績を認められ、ディック・チェイニー[[副大統領]]との対立から[[アメリカ中央軍|米国中央軍司令官]]の職を辞した[[海軍大将]]{{仮リンク|ウィリアム・ファロン|en|William J. Fallon}}の後任に、10月31日付けで就任した。また、これらを受け、同戦争及び増派に反対の立場を取ってきた[[バラク・オバマ]]上院議員は9月4日の[[フォックス放送]]の取材に対し、増派の成果を認めている{{Refnest|group="注釈"|オバマは前述の戦費法案に反対票を投じた14人の議員の一人。}}。2008年12月現在、イラクには14万6000人の米兵が駐留している。 [[2009年]]3月に[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]、[[英国放送協会|BBC]]、NHKが行った合同調査<ref>{{Cite news |title= イラク人の8割超が「治安はよくなった」 米英日3放送局の合同調査|date= 2009-03-17|author= 木村正人|url= http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090317/mds0903170920007-n1.htm|accessdate= 2014-06-14|publisher= [[MSN産経ニュース]]|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100106041336/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/090317/mds0903170920007-n1.htm|archivedate= 2010-01-06}}</ref>によると、85%が治安が良い、もしくはかなり良いと答えているなど、イラク人の治安に対する実感も上昇しているとされる。 === 治安権限委譲 === {{節スタブ}} 多国籍軍がイラク国軍と警察により管理ができるまでに治安が回復したと認める県についてイラク政府へ治安管理権限が返還されている。これを治安権限の委譲({{Lang|en|Transfer of Security Responsibility / control}})という。2006年9月にイギリス軍管理下の[[ムサンナー県]]から始まり、2008年9月に11番目として初めてスンナ派が多数を占める[[アンバール県]]の治安管理がイラク政府に返還された<ref>{{Cite web |url= http://www.mnf-iraq.com/index.php?option=com_content&task=view&id=22088&Itemid=128|title= Joint Statement - Transfer of Security Responsibility for Anbar Province|accessdate= 2014-06-14|date= 2008-09-01|publisher= [[:en:Multi-National Force – Iraq|Multi-National Force – Iraq]]|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100106131527/http://www.mnf-iraq.com/index.php?option=com_content&task=view&id=22088&Itemid=128|archivedate= 2010-01-06}}</ref><ref>AFPBB News 2008年9月1日「[https://www.afpbb.com/articles/-/2512829?pid=3282071 イラク・アンバル州、米軍から治安権限移譲]」</ref>。 {|class="wikitable" ! 番号 !! 年月 !! 県 !! 備考 |- |1||2006年9月||ムサンナー県||イギリス軍管理下 |- |2||||[[ジーカール県]]||イギリス軍管理下 |- |3||||[[ナジャフ県]]||ポーランド軍管理下 |- |4||||[[マイサーン県]]||イギリス軍管理下 |- |5||||[[アルビール県]]||アメリカ軍管理下、クルド人自治区 |- |6||||[[スレイマニヤ県]]||アメリカ軍管理下、クルド人自治区 |- |7||||[[ドホーク県]]||アメリカ軍管理下、クルド人自治区 |- |8||||[[カルバラー県]]||ポーランド軍管理下 |- |9||2007年12月||[[バスラ県]]||イギリス軍管理下 |- |10||2008年7月||[[カーディーシーヤ県]]||? |- |11||2008年9月||アンバール県||アメリカ軍管理下、スンナ派 |- |12||2008年10月||[[バービル県]]||アメリカ軍管理下、スンナ派<ref>{{Cite news |title= 駐留米軍、イラク南部のバビル州の治安権限を移譲 12州目|date= 2008-10-23|url= http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200810230041.html|accessdate= 2014-06-14|publisher= CNN|language= 日本語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20081025010438/http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200810230041.html|archivedate= 2008-10-25}}</ref> |} == 再不安定化 == === スンナ派とシーア派の対立、シーア派内部の対立 === フセイン政権下では人口の2割の少数派の[[スンナ派]]が支配していた。フセイン政権崩壊後はこれまで支配下に置かれていた[[シーア派]]勢力が政権の中枢に躍り出たが、スンナ派にとっては不満が残るものであった<ref name="koukou">[http://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/227「イスラム国」なぜ生まれた? 国際政治学者・酒井啓子先生に高校生記者が聞く(前編)|高校生新聞オンライン|高校生を応援するニュース・情報サイト]</ref>。 さらにイラク戦争から5年を迎えた2008年3月に入ると、そのシーア派内でも内部抗争が勃発。同派の強硬派である[[ムクタダー・サドル]]一派と政府との対立が表面化した。政府軍とマフディー軍が、同月25日にバスラで衝突したのを皮切りに、クート、[[ヒッラ]]、[[バグダード]]に拡大。マーリキー首相自身が陣頭指揮を執った、25日のバスラでの戦闘では双方合わせて31名が死亡した。26日にマーリキー首相は、28日までのマフディー軍の武装解除を要求、一方のサドルも前日の[[ナジャフ]]での声明で徹底抗戦の構えを見せている。27日には両者の戦闘でバスラ近郊の石油パイプラインが爆破された。また同日には、ジョージ・ブッシュ米大統領が[[オハイオ州]]での演説で政府軍支持を鮮明にした。更に、同日深夜にはバグダードで外出禁止令が発令された。翌28日には政府軍に同調した[[アメリカ軍|米軍]]が南部・バスラのマフディー軍施設を空爆した。同日にマーリキー首相は、マフディー軍の武装解除期限を4月8日まで延長すると発表した。30日にはサドル自身がマフディー軍に対し戦闘中止を呼びかけ、31日にはバグダードの外出禁止令が解除された。 === クルド人自治区の問題 === イラク北部の都市[[キルクーク]]には巨大な油田があるために、サッダーム・フセイン政権の下、トルコ人、クルド人が追い出された経緯を持つ。2003年4月の第2週頃、アメリカ軍のキルクークへの進攻に伴いイラク人は町を離れ、周辺都市からクルド人が来訪、略奪を繰り返すようになった。[[トルコ]]は自国のクルド人が独立国家を設立しようとする可能性について懸念を抱いており、キルクークがクルド人自治区となること(ひいては原油関連事業の資金がクルド人の手に渡ること)に反対していた。アメリカ政府もトルコ政府のこの方針に賛成し、[[クルド人自治区]]はほとんど現状維持という形となった。 しかしながら、当然のこととしてクルド人の独立志向がそれで止むということにはならず、キルクークやモスルでペシュメルガによるアラブ人やトルクメン人、アッシリア人に対する[[民族浄化]]が多く報告される他、2006年9月には[[クルド民主党]]党首であり、自治区議長を務める[[マスード・バルザニ]]が自治区での[[イラクの国旗|イラク国旗]]使用を廃し、クルド旗の掲揚を命じる議長令を発布する等事実上の独立に向けた動きを加速させている。 こうした中、2007年3月末にはクルド人のキルクーク帰還と入植アラブ人の帰郷を進める法律にマーリキー首相が署名した。 しかし、入植アラブ人の帰郷が強制的な追放ではなく当人の任意とされたことに同法案をキルクークのクルド自治区編入と、対アラブ人民族浄化の総仕上げと位置づけるクルド側は強く反発しており、またアラブ人側もシーア派主体の同市においてマフディー軍が躍進するなど強い抵抗の構えを見せている。 また、同市の民族紛争においてはアルカーイダを始めとするスンナ派の武装組織がマフディー軍に協力を与えているとの報道もあった。この様な民族間、宗派間の綱引きの結果、2008年現在未だにキルクークの帰属に関する投票は行われていない。 また後述するトルコとの緊張状態もあわせ、イラク政府も含めた『自治区全周の脅威に備えるため』としてPKK、PUK両党は一貫してペシュメルガの拡充を続けており、その総兵力は公称だけでも20万を超えるに至った。 一方で、民族としての単一性を高めることで治安・経済を安定させ、独自に海外からの投資も多く受け入れるクルド人自治区に安全と職を求めて自治区外からアラブ人の国内難民が流入する矛盾に満ちた状況も発生している。ただし、元々の経済規模の小ささに加え、根強い反アラブ感情もありアラブ系難民にまともな仕事があてがわれることが少ないこともまた事実である。 <!--これら非クルド人難民は今後、クルド人自治区が独立を追求する場合に足枷となる事に疑いはなく、悲願たる民族国家への希求と独立に欠かせない欧米の目の狭間で自治区は難しい選択を迫られそうだ。--> === トルコとの緊張状態 === トルコは国内に多くのクルド人を抱えており、クルド人勢力のテロと分離独立の動きを警戒している。イラクからのクルド人勢力の越境テロもあり、アメリカとイラクに対して対応を求めているが、治安の悪化を恐れて積極的な対応はされていない。こうした中、トルコは国境地帯に軍を展開させたが、逆に国境地帯で[[クルド労働者党]](PKK)がトルコへの攻撃を激化させた。2007年6月にはPKKが拠点とするイラク北部のクルド人自治区に対してトルコ軍が大規模な越境攻撃を実施したとの報道が流れたが、トルコ側は限定的な作戦だったとして否定した。 その後、10月7日([[ハッキャリでの武力衝突 (2007年)]])にトルコ兵13人が死亡するPKKの攻撃があり、トルコではイラク北部への1年間の越境軍事活動を可能にする法案が可決された。しかし21日には再びPKKの攻撃によりトルコ兵17人が死亡、応戦でPKKの32人が死亡し緊張が高まった<ref>{{Cite news |title= Turkish soldiers killed by rebels|date= 2007-10-07|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7033075.stm|accessdate= 2014-06-14|publisher= BBC|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite news |title= U.S. urges restraint after Turkish soldiers killed in clashes with PKK|date= 2007-10-21|url= https://edition.cnn.com/2007/WORLD/meast/10/21/turkey.kurds/|accessdate= 2014-06-14|publisher= CNN|language= 英語}}</ref>。 イラク国境を挟んだ緊張状態はPKK及びトルコ軍航空部隊両者の数次に渡る越境攻撃を経て持続され、2008年2月21日、トルコ軍はついに2個旅団数千人規模の部隊をイラク北部へ越境進行させた。 これに対しPKKは激しく抵抗、クルド自治区もペシュメルガにトルコ軍との遭遇した場合には応戦するよう命じ、情勢は一触即発の事態にまで進展した。しかし、トルコ軍は結局アメリカ政府の強い圧力の下に初期の目的を果たせぬまま撤退を余儀なくされ、イラク政府は3月1日までにトルコ軍越境部隊の撤収を確認し、危機は一応の収束を迎えた。また、同軍の越境攻撃に関しては[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]首相は消極的であったとされるが、[[ケマル・アタテュルク]]以来の国是である[[政教分離原則|政教分離]]を守ろうとする[[トルコ軍|軍部]]と首相の所属政党で[[イスラム主義]]を標榜する[[公正発展党]]の内部から突き上げられ、両者との板ばさみになっている側面もある。 == 終結 == [[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年米大統領選]]で、イラク戦争を「間違った戦争」と批判し、駐留米軍の早期撤退を公約とするバラク・オバマが当選。2009年1月に就任すると、翌月には2010年8月末までにイラクからほとんどの米軍部隊を撤退させ、同国での戦闘任務を終了させることを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=オバマ大統領、イラク駐留米軍の撤退計画を発表 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2576510 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-08-13}}</ref>。度々の延期がありながらも、2011年末の完全撤退が決まり、2011年12月14日にオバマはイラク戦争終結を宣言した<ref>{{Cite news|title=米大統領がイラク戦争終結を宣言、「多大な業績」と評価|url=https://www.reuters.com/article/tk0685984-iraq-usa-war-obama-idJPTYE7BE00L20111215|work=Reuters|date=2011-12-15|access-date=2022-08-13}}</ref>。 == その後 == === ISILとの攻防 === {{main|ISIL#歴史}} 2011年に[[アラブの春]]が勃発し、イラクの周辺でも[[シリア内戦]]が勃発するなど不安定化が著しくなった。[[ISIL]]は旧[[バアス党]]員を吸収し、スンナ・シーア両派の対立を利用しながらイラクとシリアで勢力を拡大<ref name="koukou" /><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/50287 「イスラム国」との戦いは第3次イラク戦争だ | アジア諸国 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]</ref>、内部分裂で弱体化していたイラク軍は2014年に[[モースル]]を奪われた<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/isis-164.php ISIS残党がイラクを襲う | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト]</ref>。これを受けて、米国は2014年8月から航空攻撃を行い、地上部隊を再派遣、当初は300人程のつもりが、最終的に5200人になった<ref>{{Cite web|和書|title=イラク:地域情勢緊張の影響 #2 |url=https://www.meij.or.jp/kawara/2019_049.html |website=公益財団法人 中東調査会 |access-date=2022-08-13}}</ref>。[[モースルの戦い]]をはじめとした激しい攻防戦の末、2017年12月にイラクからのISIL勢力の一掃を宣言した<ref>[https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000116335.html イラク、「イスラム国」完全に一掃と“勝利宣言”] テレビ朝日</ref>。 その後もISILを根絶するために駐在し続け、2020年に[[ドナルド・トランプ]]米大統領が縮小を発表。2021年1月には2500人になった<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガンとイラクの米軍をさらに削減へ|url=https://www.bbc.com/japanese/54969478|work=BBCニュース|access-date=2022-08-13|language=ja}}</ref>。同年12月9日にイラクの駐留米軍による戦闘任務の完了が発表されたが、イラク軍支援のため完全撤退はしないとされた<ref>{{Cite web|和書|title=駐イラク米軍2500人、戦闘任務を終了 撤退はせず助言や訓練専念 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPDB5J08PDBUHBI02B.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-08-13}}</ref>。 == イラクと周辺国への部隊派遣国・参戦国 == 人員は時期によって変動があるため、最大時期のおよその数を示す。イラクの他にクウェート、サウジアラビア、[[バーレーン]]にも駐留している。[[東ヨーロッパ|東欧]]・旧[[ソビエト連邦|ソ連]]諸国からの派遣がある一方、湾岸戦争に参戦したアラブ連盟諸国は派遣しなかった。 2007年12月、国連安保理は駐留にイラク政府の同意を要すると定めた2004年の[[国際連合安全保障理事会決議1546|決議1546]]に基づき、多国籍軍の駐留を2008年一杯とする決議を採択した。この決議によりアメリカ・イギリス軍以外の各国駐留軍は2008年度で撤退した。 アメリカ政府とイラク政府はアメリカ軍の駐留期限を2011年に延長する二国間協定を締結し、2009年1月に大統領に就任したバラク・オバマは、2010年8月までにアメリカ軍の戦闘部隊9万人を撤退させ、イラク軍の育成のために残留する5万人は2011年12月までに全軍撤退を完了させると表明。2011年12月18日に全部隊がクウェートに移動、撤収が完了した<ref>{{Cite news |title= 米軍、イラク撤退完了 8年9カ月の戦争終結|date= 2011-12-18|url= https://web.archive.org/web/20111220094346/http://www.47news.jp/CN/201112/CN2011121801001355.html|accessdate= 2014-06-14|agency= 共同通信|publisher= 47news}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 *アメリカ:168,000人 バラク・オバマ大統領が2011年までに撤収する事を決定(2011年12月撤収) *イギリス:9,000人(治安部隊顧問団400人を残し2009年7月撤収) *韓国:3,600人(戦闘終結宣言後に増派)→参照:[[ザイトゥーン部隊]](2007年撤収) *イタリア:3,000人(2006年12月撤収) *ポーランド:2,400人(2008年10月撤収) *[[ウクライナ]]:1,600人(2005年12月撤収) *スペイン:1,400人(2004年5月撤収) *[[オランダ]]:1,350人(2005年3月撤収) *オーストラリア:920人(開戦時2000人で侵攻 2008年6月撤収) *日本:800人(戦闘終結宣言後に派遣、陸上自衛隊600人は2006年7月末撤収 [[航空自衛隊]]も前述国連決議に基づき2008年末撤収)→参照:[[自衛隊イラク派遣]] *[[ルーマニア]]:850人(2006年撤収) *デンマーク:540人(2007年8月撤収) *[[ブルガリア]]:462人(2010年8月撤収) *[[タイ王国|タイ]]:450人(2004年9月撤収) *[[エルサルバドル]]:380人(2008年撤収) *[[ホンジュラス]]:370人(2004年5月撤収) *[[ドミニカ共和国]]:300人(2004年4月撤収) *[[ハンガリー]]:300人(2004年12月撤収) *[[シンガポール]]:180人(2005年撤収) *[[グルジア]]:160人(2009年10月撤収) *[[アゼルバイジャン]]:150人(2010年9月撤収) *[[フィジー]]:134人(2010年12月撤収) *[[モンゴル国|モンゴル]]:130人(2010年11月撤収) *[[ポルトガル]]:127人(2005年2月撤収) *[[ラトビア]]:120人(2007年8月撤収) *[[リトアニア]]:120人(2007年撤収) *[[ニカラグア]]:120人(2004年2月撤収) *[[スロバキア]]:102人(2007年1月撤収) *フィリピン:100人(2004年7月撤収) *[[チェコ]]:98人(2010年10月撤収) *[[アルバニア]]:71人(2010年5月撤収) *[[トンガ]]:44人(2004年撤収) *[[エストニア]]:34人(2010年3月撤収) *[[マケドニア共和国|マケドニア]]:33人(2010年11月撤収) *[[カザフスタン]]:27人(2010年6月撤収) *[[モルドバ]]:24人(2010年7月撤収) *[[ノルウェー]]:10人(司令部要員 2006年撤収) *[[北大西洋条約機構]](NATO)からもイラク軍訓練要員が派遣された(2011年12月撤収)。 == ブッシュ大統領の戦闘終結宣言後の犠牲者 == 開戦からブッシュ大統領による“戦闘終結宣言”が出されるまでの期間は非常に短かったが、2008年3月現在もイラク人兵士・警察官・民間人、そしてアメリカ軍をはじめとする多国籍軍兵士も、ともに犠牲者が増え続けている。イラク治安部隊(新イラク軍・新イラク警察)は、イラク警察だけで少なくとも8,000人から10,000人が戦死している。 アメリカ兵の犠牲者は4,000人を突破し、これに加えて、軍に従事する民間軍事会社の契約要員{{Refnest|group="注釈"|米軍から民間委託分野として警備や輸送業務に従事し、治安作戦への参加も指摘されている。実態として[[傭兵]]に近い。}}が、これまでに少なくとも1,000人以上が死亡していると報じられている{{Refnest|group="注釈"|その中には、軍事経験のある日本人の契約要員が1名いる。}}。 2007年10月現在、イラクでは各種民間警備会社は、アメリカ正規軍を上回る計18万人が活動していた。その活動内容は政府が管理していないため、誰を殺しても誰に殺されてもさしたる問題にはされていない。民間警備会社の警備員による虐殺・暴行も報道されており、前述したとおり2007年9月16日にはブラックウォーターUSA社の警備員が乱射で民間人17名を射殺、「武装勢力に対し正当防衛を行った」と偽証をした事件が表面化し、イラク・アメリカで問題となった。 また、英軍の死者170人、その他諸国軍の死者132人と合わせて、連合軍全体の死者数では4,000人以上(民間軍事会社の契約要員を除く)となる。 また、アメリカでは、外的な負傷を負っていないものの[[即席爆発装置]](IED)の影響で、[[外傷性脳損傷]]([[高次脳機能障害]])で苦しむ帰還兵が増加、[[社会問題]]となった。アメリカ政府は、2009年に外傷性脳損傷の診断基準を変更した結果、2001年から2009年10月まで(アフガニスタンでの戦闘も含め)約14万人が受傷したとのデータを集計している<ref>[http://mainichi.jp/select/world/news/20100203ddm001030018000c.html 米兵脳損傷問題:14万人に アフガン・イラク派遣の7%(2010年2月3日 毎日新聞)]{{リンク切れ|date=2011年1月}}</ref>。 ===多国籍軍の人的損害状況=== アメリカ国籍取得を目的にアメリカ軍に入隊した[[グリーンカード]]取得者は死者数に計上されていない。 {|class="wikitable" ! colspan="3"|アメリカ合衆国軍 |- !年度!!戦死!!負傷者 |- |2003年||486||2,416 |- |2004年||849||8,004 |- |2005年||846||5,946 |- |2006年||822||6,411 |- |2007年||902||6,103 |- |2008年||160||1,098 |} *全参加国軍合わせて即席爆発装置(IED)による死者は1770名。その内米軍は1687名{{Refnest|group="注釈"|約40%がIEDによる死者ということになる。}} ※2008年4月までの集計 {|class="wikitable" ! colspan="4"|その他の多国籍軍 |- !国!!戦死!!国!!戦死 |- |{{GBR}}||176||{{LVA}}||3 |- |{{ITA}}||33||{{ROM}}||3 |- |{{POL}}||23||{{AUS}}||3 |- |{{UKR}}||18||{{EST}}||2 |- |{{BGR}}||13||{{NLD}}||2 |- |{{ESP}}||11||{{THA}}||2 |- |{{DEN}}||7||{{HUN}}||1 |- |{{SLV}}||5||{{KAZ}}||1 |- |{{SVK}}||4||{{KOR}}||1 |- |{{GEO}}||4||{{CZE}}||1 |} ※戦死者のみ2008年4月までの集計<ref>「[[陸戦研究]]」(陸戦学会)2008年8月号より</ref> ===自衛官の死亡者=== イラクに派遣された[[自衛隊]]は戦死者が一人も出ていないと公式に発表されている。ただし、イラクを含む海外派遣任務に就いた1万9700人の自衛官のうち35人が在職中に何らかの原因で死亡している。内訳は海上自衛隊員が20人、陸上自衛隊員が14人、航空自衛隊員が1人となっており、死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人と発表されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168182.htm|title= 衆議院議員照屋寛徳君提出イラク帰還自衛隊員の自殺に関する質問に対する答弁書|accessdate= 2014-06-14|date= 2007-11-13|publisher= [[衆議院]]|archiveurl= https://web.archive.org/web/20130121185913/http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168182.htm|archivedate= 2013-01-21}}</ref>。「在職中」には任務から帰国した以降も含まれており、イラク国内で死亡した[[自衛官]]の数はわかっていない。 === 民間人の犠牲者 === 戦闘終結後の民間人犠牲者総数の推計にはばらつきが多く、正確な数字はわかっていない。アメリカ軍は戦闘で殺害した武装勢力や、アメリカ兵の過誤(誤認・誤爆・誤射)で死亡したイラク民間人の数を公表していない{{Refnest|group="注釈"|「数えていない」という発言がアメリカ軍上層部から出ている。}}。なお、報道を基にこれらを集計しているサイト"[http://www.iraqbodycount.org/ Iraq Body Count]"の2007年11月30日付のデータによると、直接の殺害数は約80,000-87,000人と集計されている。{{誰範囲2|一刻も早い治安の回復が望まれている。|date=2023年3月}} {{Lang|en|Lancet Study}}による2004年10月の推計によると、兵士・民間人あわせて約98,000人という推計が出ている。ただしその推計は95%信頼区間が8,000人から194,000というもので、大雑把である。また、Lancetによれば死亡率増加の調査を基にした研究では、2006年6月時点でイラク戦争の死者は約655,000人になると推計された。ただし、あくまで死亡率増加からの推計であるため、直接の戦死とは直接結びつかない推計である。また、[[中華人民共和国国務院|中国国務院]]が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来のイラク民間人死亡数は66万人以上であるとされている。2007年9月14日にイギリスの世論調査会社・{{仮リンク|オピニオンリサーチビジネスが行った調査|en|ORB survey of Iraq War casualties}}では、死者が最大で120万人を上回る可能性があるという結果が報告されている<ref>{{Cite news |title= Poll: Civilian toll in Iraq may top 1M|newspaper= [[Los Angeles Times]]|date= 2007-09-14|author= Tina Susman|url= http://www.latimes.com/world/la-fg-iraq14sep14-story.html|accessdate= 2014-06-14|language= 英語}}</ref>。[[世界保健機関]]は2008年1月に推計で151,000人だとする調査結果を発表している。[[2013年]]10月にはアメリカとカナダの研究者により、[[査読]]された医学専門誌として最も権威があるとされる{{仮リンク|PLOSメディシン|en|PLOS Medicine|label=PLOS メディシンジャーナル}}において、およそ500,000人の民間人が犠牲になったと発表されている<ref>{{Cite news |title= New Study Estimates Nearly 500,000 Died in Iraq War|date= 2013-10-15| newspaper =[[Aljazeera]]|author= Courtney Subramanian|url= http://world.time.com/2013/10/15/new-study-estimates-nearly-500000-died-in-iraq-war/|accessdate= 2014-6-12|publisher= [[TIME]]|language= 英語}}</ref>。 === 生き残った市民に対する影響 === 1990年の湾岸戦争後、[[対イラク経済制裁|経済制裁]]により栄養失調が幼児を襲い、UNICEFによれば50万人の犠牲者が出た<ref>{{Cite web |title=Iraq surveys show 'humanitarian emergency' - Iraq {{!}} ReliefWeb |url=https://reliefweb.int/report/iraq/iraq-surveys-show-humanitarian-emergency |website=reliefweb.int |date=1999-08-12 |access-date=2023-10-27 |language=en |author=OCHA}}</ref>。(この数字には反論もある<ref>{{Cite web |url=https://gh.bmj.com/content/bmjgh/2/2/e000311.full.pdf |title=Changing views on child mortality and economic sanctions in Iraq: a history of lies, damned lies and statistics |access-date=2023-10-24 |publisher=BMJ Global Health |author=Tim Dyson, Valeria Cetorelli |date=2017}}</ref>。)国民の所得が10分の1にまで落ちたとも言われる<ref>{{Cite web |title=Razing the Truth About Sanctions Against Iraq |url=https://www.gicj.org/positions-opinons/gicj-positions-and-opinions/1188-razing-the-truth-about-sanctions-against-iraq |website=Geneva International Centre for Justice |date=2017-09-07 |access-date=2023-10-27 |language=en-gb}}</ref>。 イラク戦争はそこに追い打ちをかけ、治安が悪化し、社会は混乱した。2004年頃には失業率が7割に達し<ref>{{Cite news|和書 |title=Iraqi unemployment reaches 70% |newspaper=AL JAZEERA |date=2004年8月1日 |url=https://www.aljazeera.com/amp/news/2004/8/1/iraqi-unemployment-reaches-70 |access-date=2023年10月19日 |language=英語}}</ref>、2005年には若者の失業率は37%であった<ref>{{Cite news|和書 |title=Daily living conditions in Iraq dismal, UN survey finds |newspaper=UN News |date=2005年5月12日 |url=https://news.un.org/en/story/2005/05/137672-daily-living-conditions-iraq-dismal-un-survey-finds |access-date=2023年10月19日 |language=英語}}</ref> 。慢性的な栄養不足により4人に1人の子供が、身体的・知的な成長阻害を経験していた<ref name=":UNICEF_2011">{{Cite web |url=https://mics.unicef.org/files?job=W1siZiIsIjIwMTUvMDEvMjcvMDgvNTIvNTgvNTM0L01JQ1M0X0lyYXFfSGlnaGxpZ2h0c19TaG9ydFZlcnNpb24ucGRmIl1d&sha=9c070be6cd2a6f84 |title=The Situation of Children and Women in Iraq |access-date=2003年10月22日 |website=UNICEF |language=en |pages=栄養不足に関する記載は8ページ、教育に関しては11ページ、孤児に関する記載は17ページ参照}}</ref>。 ==== 孤児が80万人以上に ==== UNICEFでは17歳以下で,親を一人また二人亡くした子どもを孤児としている。UNICEFによれば、イラクでは孤児が約80万人存在する<ref name=":UNICEF_2011" /> 。親がいる子どもでも、生活苦により親が絶望して子供を捨てることがあった<ref>{{Cite web |title=Iraq's new crisis: Moms, dads abandoning kids - CNN.com |url=https://edition.cnn.com/2007/WORLD/meast/11/09/iraq.children/index.html#cnnSTCVideo |website=edition.cnn.com |access-date=2023-10-22 |author=Jomana Karadsheh and Jennifer Deaton |date=2007年 |language=en}}</ref>。 マサチューセッツ工科大学国際研究センターの資料によると、イラクに孤児が450万人存在するという<ref>{{Cite web |url=https://web.mit.edu/humancostiraq/index.html |title=End of U.S. troops occasions minor reflection on war & destruction |access-date=2023年10月20日 |publisher=MIT Center for International Studies |author=John Tirman, Executive Director |language=en |date=2011年12月16日}}</ref>。イラクの子どものうち、約6人に一人が孤児である。孤児の70%は両親を失っている<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.gicj.org/iraq_conference_speeches/Bie_Kentane_Presentation.pdf |title=Iraqi Children: Deprived Rights, Stolen future. Presentation UN Geneva 15th of March 2013. Article 20 (Children deprived of family environment) |access-date=2023年9月20日 |publisher=GICJ |author=Bie Kentane |language=en}}</ref>。親戚に預けられた孤児が大勢存在したようである。イラクの2003年時点での出生率は4.62人であり、各家庭に子どもがたくさんいる。戦争の影響で食糧が不足しており、親は自分の子供にすら十分な食べ物を与えられない。そんな状況で親戚から孤児を預かった叔父・叔母は、どうやって子どもたちを食わせていったら良いのか、頭を抱えたことだろう。 太平洋戦争直後、日本の各家庭は同じように食糧難で、子沢山だった。親戚に預けられた日本の戦争孤児は、親戚から邪魔者扱いされ、暴言をはかれ、時には暴力を受けた。「毎日が精神的虐待だった。」「心の傷はずっと消えない。親と一緒に死んだほうが良かったと何度も思った。」と話す日本の孤児がいた。イラクの孤児の中に同じような経験をした人がいると想像される。 ==== ストリートチルドレンが増加 ==== 約60万人の子供が、食糧も家も無く路上で生活していた<ref name=":0" />。路上で生活する子どもたちは、物乞いをしたりガムなどを大人に売ろうとする。煩わしいと思うのか、子どもに暴力を振るう大人もいる。子どもが性的暴力の対象になることもある。生活が苦しく、働かなければ生きて行けず、学校に行く時間がない。そのため読み書きや計算が出来ない子どももいる。読み書きが出来なければ、将来、まともな仕事を得ることは難しい。栄養失調を患う子が多い。一部の子どもは人生に希望を持てず、ドラッグに手を出し不良集団に加わる<ref>{{Cite news|和書 |title=Street children face hunger and abuse |newspaper=The New Humanitarian |date=2005年12月26日 |author=Afif Sarhan |url=https://www.thenewhumanitarian.org/report/25835/iraq-middle-east-street-children-face-hunger-and-abuse |access-date=2023年10月20日閲覧 |language=英語}}</ref>。物を盗む子供もいるため、周りの大人からは邪魔者扱いされ、子どもの心が大きく傷ついたことと想像する。 ==== 子どもがPTSDを発症 ==== 2006年に日本政府のサポートを受けて、WHOとイラク政府保健省が子どもの精神障害に関して調査を行った。バグダッドでは、調査対象の小学生600人のうち47%が大きな精神的外傷を経験していた。14%がPTSDの症状を示した。モスルでは調査対象の中学生1090人のうち、30%がPTSDの症状を示した。ほとんどの子どもが治療を受けていない<ref>{{Cite web |url=https://www.thelancet.com/pdfs/journals/lancet/PIIS0140-6736(06)69320-3.pdf |title=www.thelancet.com Vol 368 September 2, 2006. Mental health of Iraqi children |access-date=2023年10月21日 |coauthors= |language=en |author=Ali H Razokhi, Issam K Taha, Nezar Ismat Taib, Sabah Sadik, Naeema Al Gasseer}}</ref>。 ==== 教育の崩壊危機 ==== 2003年のイラク侵攻直後は、学校の出席率はほぼ100%だった。しかしイラク教育省によれば、2006年9月時点で350万人の生徒のうち、授業に出席しているのは30%だけだった。国中でエスカレートする暴力によるものだという<ref>{{Cite web |title=School attendance rates drop drastically |url=https://www.thenewhumanitarian.org/report/61896/iraq-school-attendance-rates-drop-drastically |website=The New Humanitarian |date=2006-10-18 |access-date=2023-10-21 |language=en |author=Afif Sarhan}}</ref>。予定通りの年齢で小学校を卒業できる子どもは4割だけである。毎年45万人の子供が、予定通りの年齢で小学校を卒業できない、または学校からドロップ・アウトしてしまう<ref name=":UNICEF_2011" /> 。文字の読み書きが出来ない子供が増えてしまった。読み書きができければ、就職の選択肢は極めて狭くなる。 ==== 障碍者の増加 ==== イラクでは紛争の影響で15万人が障害を抱えて生活している。そのうち、ほとんどの人は地雷等で傷を負った市民である<ref>{{Cite web |title=Iraq: giving disabled people a chance to resume a normal life - ICRC |url=https://www.icrc.org/en/doc/resources/documents/update/2011/iraq-update-2011-10-20.htm |website=www.icrc.org |date=2011-10-20 |access-date=2023-10-21 |language=en-us |publisher=International Committee of the Red Cross}}</ref>。 ==== 女性に対する影響 ==== イラクでは11人に1人の女性が夫を亡くしている。その数は90万人だと言われている<ref>{{Cite news |title=After Nearly 9 Years of War, Too Many Widows |url=https://www.nytimes.com/2011/11/25/world/middleeast/iraqi-widows-numbers-have-grown-but-aid-lags.html |work=The New York Times |date=2011-11-25 |access-date=2023-10-21 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Andrew E. |last=Kramer}}</ref>。アメリカ侵攻以降、イラクでは路上で女性が誘拐され、性的暴力を受ける事例が多発した。売春目的で女性が海外に売り飛ばされることもあった<ref>{{Cite web |title=The Hidden War on Women in Iraq |url=https://archive.globalpolicy.org/security/issues/iraq/attack/consequences/2006/0713hidden.htm |website=Global Policy Forum/ archive.globalpolicy.org |access-date=2023-10-21 |author=Ruth Rosen |date=2006年7月13日 |publisher= |language=en}}</ref>。 == 反植民地主義諸国への影響 == [[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]は、2003年12月に最高指導者[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ]]司令官が大量破壊兵器の放棄を宣言し、2006年にはブッシュ政権は[[テロ支援国家]]指定を解除した<ref>{{cite news |first= |last= |url= http://abcnews.go.com/International/story?id=1965753 |title= Libya Is Off U.S. Terrorist List |date= 2006-05-15 |publisher= [[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]] |access-2016-07-29}}</ref>。この行動はイラク戦争後に自国が標的にされる可能性があったためであると解釈する論説と、カダフィ司令官が[[アフリカ連合]]へと活動の主軸を移したことによる大量破壊兵器の必要性低下と偶然に時期が合致しただけだとの論説がある{{誰|date=2009年4月}}。 アメリカは放棄の見返りに、大量破壊兵器を保有し反米武装闘争を支援し{{Refnest|group="注釈"|フセイン政権はどちらも実行していなかった。}}、またかつてはイラク以上に敵視し、カダフィ司令官個人の暗殺まで企てたリビアをテロ支援国家リストから外し、経済制裁も解除した。 一方、北朝鮮の[[金正日]]総書記は、開戦直前から約60日間テレビなどの前から一切姿を消した。これはアメリカの精密誘導兵器がどのようなものかを海外の衛星テレビを通じて分析をしていたものと見られる。[[中華人民共和国]]はイラク戦争開戦による衝撃から仲介に乗り出して[[六者会合|六カ国協議]]が始まったと言われ<ref>寺林裕介 「{{PDF|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/2006070773.pdf 北朝鮮の核開発問題と六者会合(上)-北東アジアにおける多国間枠組みの形成]}}」</ref>、六カ国協議で核兵器の放棄が合意されて[[寧辺核施設]]の爆破や核開発計画申告などされたことからブッシュ政権はテロ支援国家指定を解除した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/20/dnk_1012.html 米国による北朝鮮のテロ支援国家指定解除について 中曽根外務大臣談話,日本外務省,平成20年10月12日]</ref>{{Refnest|group="注釈"|オバマ政権への交代後の[[2009年]]4月14日に北朝鮮側が核兵器開発の再開と六カ国協議からの離脱を表明した。}}。 == 航空自衛隊の関与 == {{See also|自衛隊イラク派遣}} [[名古屋高等裁判所]]は2008年4月17日、自衛隊イラク派兵が[[日本国憲法]]違反であることの確認などを求めた訴訟(自衛隊イラク派兵差止訴訟)において[[航空自衛隊]]のイラクにおける[[空輸]]活動について「自らも武力を行使した」と認識し憲法違反であるとする[[傍論]]を含む判決を出した。これは主文において原告敗訴を判決するものであったにもかかわらず原告側が実質勝訴として上告しなかったため、翌月5月3日に同判決は確定した<ref>{{Cite press release |和書 |title= 名古屋高等裁判所違憲判決に関する会長声明|publisher= [[愛知県弁護士会]]|date= 2014-06-14|url= http://www.aiben.jp/page/frombars/topics2/329iken.html|accessdate= 2014-06-14}}</ref>。 この裁判および「傍論」記述は議論を呼び、当時の[[航空幕僚長]]であった[[田母神俊雄]]による「純真な隊員には心を傷つけられた人もいるかもしれないが、私が心境を代弁すれば大多数はそんなの関係ねえという状況だ」<ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/2008/04/19/0000956494.shtml 違憲判決?「そんなの関係ねえ」]{{リンク切れ|date=2014年6月}} [[デイリースポーツ]]2008年4月19日)</ref>の発言などが一種の[[舌禍事件]]として報道された。[[国会 (日本)|国会]]において田母神発言を含めた[[質問主意書]]が提出されたが、日本政府は、国側勝訴の判決と説明を加えた上で、[[日本国憲法第9条]](第1項。戦争を放棄し国際紛争に武力を用いて関与しない)に違反するとの傍論の部分は「判決の結論を導くのに必要のない傍論にすぎず、政府としてこれに従う、従わないという問題は生じないと考え」ており、田母神の発言は「政府と同様のこのような認識に立った上で〔中略〕必ずしも正確な表現ではないが、自らの言葉でこのような発言をしたものと承知している。また、防衛行政については、[[文民統制|シビリアン・コントロール]]の下、法令に基づき、適切に行われている。」と答弁している<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169319.htm|title= 航空幕僚長の「そんなの関係ねえ」発言と官房長官の「戦闘地域で民間航空機が飛ぶはずがない」発言に関する質問主意書|accessdate= 2014-06-14|author= [[辻元清美]]|date= 2012-04-22|publisher= 衆議院|archiveurl= https://web.archive.org/web/20130208003019/http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169319.htm|archivedate= 2013-02-08}}</ref>。[[防衛省]]が[[情報公開法]]に基づいて開示した「週間空輸実績」と称する内部資料によれば、派遣期間中の輸送人員は延べ28,000人であり、うち7割はアメリカ軍兵士であることが2009年10月6日に判明している。 == その他 == 開戦前の1月初旬、{{仮リンク|ナイト・リダー|en|Knight Ridder|label=ナイト・リダー社}}の発表した[[世論調査]]結果によると、調査に応じたアメリカ人の内44%が、2001年9月11日の[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]のハイジャック犯の一部または大半がイラク人だと考えていた。実際には、報道によれば大半がサウジアラビア人でイラク人は一人もいなかった。 あるイラク紙の主張によれば、米軍によるイラク占領以来、全土に点在する[[監獄]]や[[強制収容所]]には大勢のイラク人女性が拘留されているとされる。その大半が政府の要員や占領軍兵士によって性的暴行を受けており、結果として[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]などが蔓延しているとする。また、強姦の被害を受けた女性が、一家の恥として家族の者の手によって[[名誉の殺人|殺害]]されてしまうケースがあり、(大半が被害を受けているという主張にも拘らず)正確な被害者の数は把握されていないとする<ref>[http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200707171226062 イラクの女性収容所で性的暴行が多発、エイズ・疥癬がまん延] 日刊ベリタ2007年7月17日</ref>。また、あるイスラム機関誌の主張によればイラクの民間組織である「イラク政治捕虜・受刑者連合」は、米軍はイラク抵抗勢力の士気を砕くための圧力カードとして、無実のイラク人女性捕虜に対して意図的、組織的な性的暴行、拷問、恥辱を加えている、と告発している<ref>[http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200710281044590 占領米軍がイラク女性捕虜に暴行、拷問 「政治捕虜・受刑者連合」が告発] 日刊ベリタ2007年10月28日</ref>。 また、米軍は、イラク戦争中及びブッシュ政権の戦争終結宣言後の一連の戦闘においても[[劣化ウラン弾]]を使用していた。[[陸上自衛隊]]が人道支援・戦後復興支援のために派遣され駐留したイラク南部の[[サマーワ]]近郊周辺からも、実際にこの戦争で米軍が使用したものと見られる劣化ウラン弾(複数)が発見されている。 2010年1月26日、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会は、[[マイケル・ウッド]]外務省元主席法律顧問を喚問した公聴会で、同顧問が「2003年3月の対イラク武力行使は[[国際法]]違反と考えていた」と述べた文書を公表した。この文書中で「武力行使は[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]によって認められておらず、他の法律根拠もなかった」と同法律顧問は延べ、イラクに武装解除を求める[[安保理決議|安保理決議1441]]を武力行使の根拠とする主張を退けた。同法律顧問は開戦前の2003年1月にその見解を[[ジャック・ストロー]]外相に伝えたところ「独断的だ」と退けられたと証言した<ref> {{Cite news |title= Iraq war was illegal, top lawyer will tell Chilcot inquiry|newspaper= The Guardian|date= 2014-06-14|author= Mark Townsend|author2= Toby Helm|author3= Rajeev Syal|url= http://www.theguardian.com/uk/2010/jan/24/iraq-chilcot-inquiry-michael-wood|accessdate= 2014-06-14|language= 英語}}</ref>。 2010年[[1月29日]]、2003年のイラク侵攻を決断したブレア前首相は、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会の公聴会で証言した。調査委員ではチルコット委員長と5人の委員が6時間にわたり喚問した。ブレアは「サッダーム・フセインの脅威」を強調して、イラク侵攻によるフセイン政権打倒を正当化し、「後悔していない」と述べた。また、当時と同じ条件なら再びイラク侵攻をするだろうとも述べた。さらに、2007年までのイラクの民間人死者数増大に関して、全体で10万という数字を示して、「殺したのは連合軍ではなくテロリストだ」と占領軍の責任を回避した。そして、イラクが兵器製造能力を高めていたと証言した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2688969?pid=5252437 ブレア英前首相の証言に衝撃、英各紙が論評 イラク参戦調査委公聴会] 2010年01月30日 発信地:ロンドン/英国 AFP</ref>。 開戦時に議会の反対にもかかわらずイラクへの侵攻支持を表明した[[オランダ]]では、政府の外交政策に対して独立調査委員会の調査が行われた。2010年の調査報告では[[ヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル]]外相が政策決定の掌理をなし、[[ヤン・ペーター・バルケネンデ]]首相は政策決定から除外されたと指摘した。また、国連安保理決議1441は武力攻撃を容認する解釈とは成り得ないと断じ、イラク戦争は国際法違反であり政府は米英との同盟関係を重視するため侵攻の違法性に目をつぶったと結論づけた<ref>{{Cite news |title= イラク戦争は国際法違反と結論 オランダ調査委が報告書|date= 2010-01-12|url= https://web.archive.org/web/20100116121745/http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010011201001126.html|accessdate= 2014-06-14|agency= 共同通信|publisher= 47news}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == * [[ニジェール疑惑]] - イラクが[[ニジェール]]から[[ウラン]]を買い求めようとした疑惑。結果的に[[偽情報]]であったことが確認された。 * [[プレイム事件]] - ニジェール疑惑絡みで、イラク戦争において大量破壊兵器プロパガンダを指導するブッシュ政権を批判した外交官の妻がCIAエージェントであると暴露した事件。2007年3月6日有罪評決。 * [[WikiScanner]] - [[共和党 (アメリカ)|米共和党]]から接続のIP利用者がイラクの「占領軍」との記述を「解放軍」に書き換えた。 * [[越前谷儀仁]] - この戦争にアメリカ海兵隊の軍人として参加した日本人。 * [[:en:Curveball (informant)]](Rafid Ahmed Alwan al-Janabi) * {{仮リンク|イラン・サウジアラビア代理戦争|en|Iran–Saudi Arabia proxy conflict}} * [[イラクでの戦い (2013–2017)]] * [[対イラク経済制裁]]:クウェート侵攻を止めるために行われた。UNICEFから多大な犠牲者が出たとの調査結果が出た。反対意見もある。 * [[第145任務部隊]] {{col| * [[第十次十字軍]] * [[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]] * [[イラク航空]] * [[国際連合安全保障理事会決議1441]] * [[バグダッドの少年]] | * [[ブッシュ・ドクトリン]] * [[ブラックウォーターUSA]] * [[アブグレイブ刑務所における捕虜虐待]] * [[アメリカニゼーション]] * [[オユトルゴイ鉱山|イラク丘]](イラク・トルゴイ) }} == 関連作品 == {{See also|:Category:イラク戦争を題材とした作品}} * [[さいとう・たかを]]『[[ゴルゴ13]]』「ラストグレートゲーム」 * [[浦沢直樹]]『[[PLUTO]]』‐ 本作にイラク戦争をモデルにした「第39次中央アジア紛争」という戦争が登場する。 * [[B'z]]『[[BIG MACHINE]]』- 収録曲「愛と憎しみのハジマリ」は、この戦争の開戦を知った[[稲葉浩志]]が感じたことを歌詞にしている。 == 外部リンク == {{脚注の不足|date=2012年10月20日 (土) 14:52 (UTC)}} {{Commons|Iraq War}} * {{Cite news |url=http://www2.asahi.com/special/iraq/ |title=特集:イラク情勢 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-03-19}} * {{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20150127091759/http://www.yomiuri.co.jp/feature/yokoku/20150120-OYT8T50157.html |title=基礎からわかる「イラク情勢」 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2014-07-13 |accessdate=2017-03-19}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/josei.html イラク関係] - 外務省サイト * {{Wayback |url=http://www.unmovic.org/ |title=UNMOVIC公式サイト |date=20150227120536}}{{En icon}} * [http://costofwar.com/ Cost of War開戦から今日までのイラク戦費] * [https://www.iraqbodycount.org/ Iraq Body Count]:イラク戦争の犠牲者数を、報道を基に集計 * {{Wayback |url=http://www.icasualties.org/oif/ |title=Iraq Coalition Casualties |date=20100211193249}}:イラク戦争の多国籍軍側被害を、報道を基に集計 * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/riverbendblog/ |title=バグダッド炎上―リバーベンドの日記 |date=20190314192926}}バグダッド在住だったイラク人女性[[リヴァーベンド|リバーベンド]]による現状リポートのボランティア日本語訳[[ブログ]] * {{NHK放送史|D0009030315_00000|イラク戦争フセイン体制崩壊}} ---- {{アメリカの戦争}} {{イラク戦争2003年の作戦}} {{イラク戦争2004年の作戦}} {{イラク戦争2005年の作戦}} {{イラク戦争2006年の作戦}} {{イラク戦争2007年の作戦}} {{イラク戦争2008年の作戦}} {{対テロ戦争}} {{ポスト冷戦時代のアジアの紛争|state=collapsed}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いらくせんそう}} [[Category:イラク戦争|*]] [[Category:アメリカ合衆国・イラク関係]] [[Category:バアス党]]
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物質
物質()は、最も初等的には、場所をとり一定の量(mass)をもつもののことである。同じことを、もう少し技術的用語を使えば、ものが質量と体積を持っていれば物質であるというのが古典的概念である。 「matter(物質)」という概念は西洋哲学史において、古代ギリシアで発祥したが、その正体について、20世紀初頭以前の科学者や哲学者、宗教家は論争を繰り返した。1930年代初頭以降、原子の構造が明らかになり、その性質を説明する量子力学が成立すると、物質の本質を厳密かつ統一的に理解する事が可能になった。これは、20世紀における最大の科学的成果の一つである。 古代ギリシャでは物質は「本質的に不活性なもの」と見なす人がいたが、ビュヒナーやマルクス主義では「運動や活動と一体で切り離せないもの(つまり活性のあるもの)」と見なした、 デカルトが「本質的に空間に延長する(空間を占める)もの」と見なしたのに対しライプニッツやボスコヴィチは物質を「延長の無い(空間を占めない)、エネルギーの中心」と見なしたし、バークリーやカントが物質を「本質的に理解不能のもの(あるいは不可知のもの)」と見なしたが、ホッブズは「哲学にとっての唯一な明瞭な根拠」と見なしたし、 デモクリトスが「その本質として永遠に現実的」と見なしたが、プラトンやヘーゲルは「可能態以上のものではありえないある種の存在」と見なした、といった具合である。 20世紀初頭まで、科学界において原子の存在の有無について論争が続いたために、物質について様々な解釈が共存した。例えば、物質はものの仮の姿にすぎず、エネルギーのみが本質であるとする Energetiker 論者は原子の存在を否定した。1930年代初頭までに電子と陽子、中性子が相次いで実験的に発見されて、量子力学が完成することによって、矛盾の無い、物質の統一的な理解がはじめて可能になった。物質は物理化学的には「原子で構成されるもの」、初等量子力学または第一量子化の範囲では「質量をもつ波」、場の量子論または第二量子化においては「場の励起状態」と理解される。一般に、1/2のスピン角運動量をもつクオークやレプトンなど物質を構成するフェルミ粒子はパウリの排他原理に従い、2つ以上の粒子が同一の量子状態を占めることができないため、「場所をとるもの」の性質を持つ。一方、光子のようにスピン角運動量が1であるような素粒子は、複数の粒子が同一の量子状態を占有することが許されるボース粒子であるために、パウリの排他原理に従わず、「場所をとる」という物質特有の性質を持たない。また、光子はゲージ粒子の一種であり、質量をもたない。光子と光子は直接は相互作用したり、原子のような構造を作ったりはしない。このため日常生活においても、光や電波は「物質の一種」であるとは認識されない。 クオークやレプトンそのものは元来、SU(2)L ゲージ対称性を保つ性質を持つために質量を持たないが、ビッグバン後、宇宙が冷却する過程でヒッグス場が自発的対称性の破れにより有限な真空期待値を獲得すると、この量子場との相互作用により質量をもつ物質粒子が出現したと考えられている。一方、ヒッグス場のうち、電荷をもつSU(2)弱アイソスピンゲージ群のz成分は真空期待値をもたないために、光とは相互作用せず、光子は質量を獲得しない。この理論は、2012年のヒッグス粒子の発見により実証された。こうして「場所をとり、質量があるような物質」の背景にある複雑な機構が解明された。宇宙には重力相互作用はするが、直接的な検出が難しい、正体不明の暗黒物質が充満している証拠が得られつつある。また、中性子のみで構成された中性子星や、超高温で出現するクオークグルーオンプラズマなど、新たな物質の形態が存在することがわかってきた。 なお、哲学的に言えば、物質は宇宙を構成する諸存在のうちの1つである。哲学的には物質と対置される概念的存在は「非物質」と呼ばれ、空間、時間、情報を始めとして、多数存在する。一方、現代科学における場の量子論においては、真空は場の基底状態、物質はスピン1/2の場の励起状態、光はスピン1の場の励起状態であると理解される。一方、時間と空間を量子化して重力現象を説明する量子重力理論は、まだ成立にいたっていない。なお、WMAP等の人工衛星による宇宙マイクロ波背景放射の観測結果により、原子等の通常物質は宇宙の全エネルギーの5%程度に相当しているに過ぎないことが見積もられている。一方、残りの70%は暗黒エネルギー、25%前後は暗黒物質で構成されていると考えられている。このように、人間が日常的に接する物質は、宇宙全体に存在する物質の形態のうちの一部に過ぎないことがわかっている。 物質は変化、現象、出来事などと区別されることが多い。変化は物質に生じる1つの出来事、現象でありうるが、変化自体は物質ではない。ある現象やある出来事も、そこに物質が関与していることはあるが、それ自体としては物質ではない。物質はそうした現象や出来事が起こる場や対象のような位置を占めている。日本語ではこの区別は、物と事の区別、「モノ」と「コト」の区別として、日常的に用いられている。 この様に、観念的には物質の概念と存在概念と分離することは難しい。この様な観念論は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という観念論より派生しており、「物体を認識することが、すなわち存在である」と概念付けられる為に他ならない。存在と結び付けられた物質は、その性質(物性)以外にも哲学的な属性(記事 存在を参照のこと)が付加される。そして、物質に着目、執着する姿勢は「物質主義」と呼ばれる。また、そのような信念の持ち主は「物質主義者」と呼ばれる。 すなわち物質と対比されることのある概念として、心(精神、意識)、情報、エネルギー、空間などがあるが、これは人間の直感による区分であり、現代科学の知見とは必ずしも一致しない。 メソポタミアでは紀元前3000年までに、液体の蒸留および鉱石の昇華用の巧妙に考案された過熱ポットが用いられていた。それからほどなくして、東地中海あたりには合金・ガラス・香料の製造技術が広がっていった。一方、物質の変化に関するもろもろの過程を当時の人々は、自然神や半神たちの人格的な関係、という神話のかたちで説明したものもあった。バビロニアには「七つの主天体」「七つの金属」「七つの人体部位」「七つの色」「(一週間の)七つの日」「魂の目覚めの七つの段階」といった複雑な理論体系があったが、現代の「物質」に相当するような概念がはっきりとあったとは言えず、経験の様々の要素・側面の一部として他と混然一体であった。 次に学術の世界で「フォアゾクラティカーVorsokratiker」と呼ばれているソクラテス以前の哲学者(紀元前6世紀ころ~前4世紀ころ)は、さかんに自然について考察していたわけであるが、現代まで伝わっているのは基本的に、後の哲学者たちが書いた文章の中に含まれる断片的なテキストなので、彼らがどのように考えていたのか正確に知ることは難しい。彼らは深い思想をたたえていたようにも読めるが、伝えられたのが断片的な短い言葉であるがゆえにそういう印象を生んでいるだけなのか判断のつきかねる面もある。 イオニア人たちは、αρχη アルケー を探求したが、このアルケーというのは現代ではぴったり一致する概念があるわけではないが、「原理」とも「起源」とも、知識理論の「公理」とも、物質世界の「(構成)単位」とも言えるようなものであったのかも知れない。(アルケーの探求などと関連させて)「イオニア人たちはミュトス(神話)を超えてソピア(知)へと向かった」などと言われる。アルケーは、タレスが水と、アナクシメネスが空気と、ヘラクレイトスが火と言ったと伝わるが、それはそこに語られる水や空気や火が、生命・心・思考なども含めて全ての自然の諸現象を説明するのに充分なほどに精巧なものだ、とする見方を示している。またアナクシメネスにおいては空気が「すべてのものがそこにおいて構成されている」といった性質のものとされていたことからすると、それは形而上学的な宇宙論へと連なるものであったともいえる。こうした考え方は、現代では唯物論寄りのものと見なされることが多いが、その一方で彼らは物質的存在の内に生命力を見出していた。 デモクリトスは原子論を、プラトンは有機体論を、アリストテレスは質料形相論を提示した。これら、紀元前400年から紀元前300年ころにかけて提示された競合的な理論は、この時代にしてすでに、その後の時代の哲学や学問が見せることになるおおまかな輪郭をあらかじめ示しており、これらの観念群は、その後 物質に関する知識が進展する中で、繰り返し現れてくることになり、大きな影響を与えることになった。 デモクリトス(B.C 460-367)の原子論については「原子論」の記事に説明を譲ろう。 エンペドクレスは、紀元前440年ごろに、空気が物質であることを実証した。 オリジナルとは少々異なるが簡単に確認することができる。大きなバケツに水を一杯に入れる。そのバケツに漏斗の細い口を指で塞ぎながら、広い開口部を下に向けてバケツに入れると、漏斗には水が入ってこない。指を漏斗口から外すとそこに水が流れ込み、空気がその口から勢いよくで出てくる。空気が水が空間を占めるのを邪魔していたことから、空気は物質であるというわけである。物質の基本的な属性の一つである、空間を占有する(体積を持つ)という性質を空気が持っていたことを実証したわけである。 これは、物質(Matter)の基本的な古典的定義の一つである「物質は質量をもち、空間を占有するもの」という後者の属性を実証するものである。 プラトンはイデア論を唱え、永遠不変なのはidea イデアである、としたのであるが、それに対して物質をどのように見なしたかというと、永遠に現実的なものではない、とした。物質的なものは「いつも生成の過程の中にあって、真実にあるものではない」(『ティマイオス』27e-28a)としたのである。弁論術の方法と階層秩序を用いているイデア論は、部分によって全体を説明するのではなく、全体によって部分を説明する有機体論的な傾向を示している。 イデアは普遍的、絶対的、永遠的、遍在的、可知的、調和的で完全なものであったのに対して、物質というのは特殊的、相対的、時間的、局所的で、混乱し、不協和で、欠陥のあるものであった。 こうした見方をしていたにもかかわらずプラトンが原子的な構造についての仮説も述べていた(『ティマイオス』53c-58c)と知ると多くの人は驚く。プラトンにおいては物質と空間は《受容体》として同一視された。彼の原子的な理論は、物質と空間を同一視し、(材料ではなく)幾何学的構造を用いて説明されている。彼はエンペドクレスの四元素とテアイテトスが確立した五つの正立体を同一視した。正四面体がひとつの「火原子」、正八面体が2個の「空気原子」、正二十面体が1個の「水原子」、だと考えた。1正方形を半分にした三角形 2正三角形の半分の三角形、 これらを組み合わせてできる幾何学的立体を用いて幾何学的な説明を行ったのである。一個の水原子(=正二十面体)は2個の空気原子(=正八面体)および1個の火原子(=正四面体)になることができる、ということになる。物質の秩序に関してこれほどまで幾何学的な仮説が提示されているのは画期的なことである。 プラトンの物質観でもうひとつ重要なのは《非在》という概念である。彼はイデアという永遠で完全に理解可能な原型を考えたわけであるが、だとするとその感覚的現れが多様なのは何によるものなのか? という疑問も生じるが、それを解決するために、《非在》がある(『ソピステス』241e)と述べる必要を感じたのであった。(デモクリトス同様に)充満する存在と対立する原理の必要性を感じたのである。 なお新プラトン主義には「物質の慣性的受動性」という概念があるが、マックス・ヤンマーが「質量」概念の起源を探った時にたどり着いたのはその概念であった。 世界が物質だけからなるとか、全ての物事は物質的作用として説明できると考える立場を唯物論などと呼ぶ。唯物論という単語は、マルクス主義のような思想や通俗的な信念を反映したものであり、通俗的な用法が多い。これとは異なり、複数の実体を根本原理とする実体二元論もある。 これ以前に、哲学の分野では、機械論自体が絶対的なものではなく、生気説も知られている。 物質もしくは物質的な対象が非存在であるとか、本質に対置される概念としての現象であるとする考え方もある。代表的な研究者としてバークリーの名を挙げることが許されるが、彼の哲学は主観的観念論の典型であると看做される。懐疑論や不可知論、生気説も哲学の分野では、現代でも主題になる。 ドルトンは原子説を提唱し、アボガドロは分子説を提唱した。ラボアジェによる質量保存則の確立以来、質量が物質を特徴づける本質的な量と考えられるようになった。物質は置かれた条件により種々の相転移を起こす。特に分子や原子が集まって構成された多くの物質は、固体・液体・気体と呼ばれる3つの相をとる。それ以外にも、ボース=アインシュタイン凝縮、超流動相、超臨界流体などの特殊な形態をとることもある。 20世紀初頭までは、主に哲学の分野から派生して、物体の力学的運動の法則など根元的な原理の解明を目的とした物理学(Physics)と、中世や産業革命以降、新たな化合物の合成等を主な目的として、より工学的な要素を伴って発展した化学(Chemistry)の境界は割合に明確であった。しかし原子の存在が確認されると、化学の分野において量子力学等の理論を用いて化合物の構造や化学反応を解明しようとする化学物理学や、原子核物理と化学が融合した核化学と呼ばれる分野が出現した。現在では、物理と化学の明確な境界を見出すことは難しく、主に学校教育における伝統的な区分が慣習的に続いている側面もある。 次に化学変化の例を挙げる。 単に複数の物質を混合した場合は物理変化と見なされる。特に粒子同士の混合や懸濁液の調製、またはその逆の分離、は明確に物理変化と見なされる。だが分子レベルの混合の場合には化学変化を伴う場合もあり、化学変化とも物理変化とも断定しにくい場合もある。 次の例は典型的な物理変化である。古代以前から、これらの変化では材質が変化しないと認識されていたと考えられる。 次の例は、物の性質の一部が変化するが現在では物理変化と認識されているものである。 われわれの身の回りにある土、水、そして、空気、あらゆるものが物質である。その物質は純物質と混合物に分類できる。純物質とは混合物から単一の成分を分離・精製したものである。混合物は何種類かの物質が混じったものである。自然に存在する物質のほとんどが混合物である。 物質を化学的概念で分類する場合、化学物質と言い表される。 物質が単一の主たる成分(化学物質)で構成される場合は「純物質」、複数の主成分から構成される場合は「混合物」と呼ばれる。なお、純物質の微量副成分は不純物と呼ばれ、不純物と混合物とは存在比の程度の差であり、その境界は曖昧である。 物質の成分が同一であっても化学構造の違いにより異なる化学物質となる。 構成する原子の核種が異なるものを「同位体」と呼ぶ。同位体は化学的性質は同一で物性もほとんど同一である為、同位体は化学物質の違いとしては通常は区別しない。放射線に関する物性など特定の用途に用いる場合はどの同位体であるかを区別する。 物質は通常、巨視的には電荷を帯びていない。化学変化により永続的な電荷をもつ原子・分子を「イオン」と呼ぶ。イオンは正と負とでイオン対を形成し、見かけ上は電荷を帯びていない状態で安定化している(高温化において原子核と分子との結合が乖離した状態が「プラズマ」) 物質は、ビッグバンにより始まったエネルギーの形態分化の枝の1つを成している。 ビッグバン仮説によれば、ビッグバンにより始まったエネルギーは、やがて素粒子を生み出し、素粒子が結合して原子となる。宇宙初期には水素やヘリウムといった最も軽い元素が作られたと考えられている。これらの軽元素からなる雲は重力の影響により原始星を通じて恒星となる。より重い鉄や珪素、我々の体を構成する炭素や窒素などの元素は恒星内部での核融合反応で生成し、超新星爆発により恒星間空間にばらまかれた。また、鉄より重い元素は超新星爆発時に生成したと考えられている。 ディラック方程式によれば、物質を構成するあらゆるスピン角運動量1/2 の粒子と対をなす、反粒子が存在する。電子の反粒子を陽電子、陽子の反粒子を反陽子、中性子の反粒子を反中性子と呼ぶ。反粒子は、粒子とは符号が逆の電荷をもつ。こうした反粒子で構成された原子のことを反物質とよぶ。物質は反物質と衝突すると対消滅を起こし、両者は消えて、光子や中間子など別の粒子に変化して放出される。
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オリジナルとは少々異なるが簡単に確認することができる。大きなバケツに水を一杯に入れる。そのバケツに漏斗の細い口を指で塞ぎながら、広い開口部を下に向けてバケツに入れると、漏斗には水が入ってこない。指を漏斗口から外すとそこに水が流れ込み、空気がその口から勢いよくで出てくる。空気が水が空間を占めるのを邪魔していたことから、空気は物質であるというわけである。物質の基本的な属性の一つである、空間を占有する(体積を持つ)という性質を空気が持っていたことを実証したわけである。 これは、物質(Matter)の基本的な古典的定義の一つである「物質は質量をもち、空間を占有するもの」という後者の属性を実証するものである。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プラトンはイデア論を唱え、永遠不変なのはidea イデアである、としたのであるが、それに対して物質をどのように見なしたかというと、永遠に現実的なものではない、とした。物質的なものは「いつも生成の過程の中にあって、真実にあるものではない」(『ティマイオス』27e-28a)としたのである。弁論術の方法と階層秩序を用いているイデア論は、部分によって全体を説明するのではなく、全体によって部分を説明する有機体論的な傾向を示している。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イデアは普遍的、絶対的、永遠的、遍在的、可知的、調和的で完全なものであったのに対して、物質というのは特殊的、相対的、時間的、局所的で、混乱し、不協和で、欠陥のあるものであった。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうした見方をしていたにもかかわらずプラトンが原子的な構造についての仮説も述べていた(『ティマイオス』53c-58c)と知ると多くの人は驚く。プラトンにおいては物質と空間は《受容体》として同一視された。彼の原子的な理論は、物質と空間を同一視し、(材料ではなく)幾何学的構造を用いて説明されている。彼はエンペドクレスの四元素とテアイテトスが確立した五つの正立体を同一視した。正四面体がひとつの「火原子」、正八面体が2個の「空気原子」、正二十面体が1個の「水原子」、だと考えた。1正方形を半分にした三角形 2正三角形の半分の三角形、 これらを組み合わせてできる幾何学的立体を用いて幾何学的な説明を行ったのである。一個の水原子(=正二十面体)は2個の空気原子(=正八面体)および1個の火原子(=正四面体)になることができる、ということになる。物質の秩序に関してこれほどまで幾何学的な仮説が提示されているのは画期的なことである。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "プラトンの物質観でもうひとつ重要なのは《非在》という概念である。彼はイデアという永遠で完全に理解可能な原型を考えたわけであるが、だとするとその感覚的現れが多様なのは何によるものなのか? という疑問も生じるが、それを解決するために、《非在》がある(『ソピステス』241e)と述べる必要を感じたのであった。(デモクリトス同様に)充満する存在と対立する原理の必要性を感じたのである。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお新プラトン主義には「物質の慣性的受動性」という概念があるが、マックス・ヤンマーが「質量」概念の起源を探った時にたどり着いたのはその概念であった。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "世界が物質だけからなるとか、全ての物事は物質的作用として説明できると考える立場を唯物論などと呼ぶ。唯物論という単語は、マルクス主義のような思想や通俗的な信念を反映したものであり、通俗的な用法が多い。これとは異なり、複数の実体を根本原理とする実体二元論もある。 これ以前に、哲学の分野では、機械論自体が絶対的なものではなく、生気説も知られている。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "物質もしくは物質的な対象が非存在であるとか、本質に対置される概念としての現象であるとする考え方もある。代表的な研究者としてバークリーの名を挙げることが許されるが、彼の哲学は主観的観念論の典型であると看做される。懐疑論や不可知論、生気説も哲学の分野では、現代でも主題になる。", "title": "哲学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ドルトンは原子説を提唱し、アボガドロは分子説を提唱した。ラボアジェによる質量保存則の確立以来、質量が物質を特徴づける本質的な量と考えられるようになった。物質は置かれた条件により種々の相転移を起こす。特に分子や原子が集まって構成された多くの物質は、固体・液体・気体と呼ばれる3つの相をとる。それ以外にも、ボース=アインシュタイン凝縮、超流動相、超臨界流体などの特殊な形態をとることもある。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "20世紀初頭までは、主に哲学の分野から派生して、物体の力学的運動の法則など根元的な原理の解明を目的とした物理学(Physics)と、中世や産業革命以降、新たな化合物の合成等を主な目的として、より工学的な要素を伴って発展した化学(Chemistry)の境界は割合に明確であった。しかし原子の存在が確認されると、化学の分野において量子力学等の理論を用いて化合物の構造や化学反応を解明しようとする化学物理学や、原子核物理と化学が融合した核化学と呼ばれる分野が出現した。現在では、物理と化学の明確な境界を見出すことは難しく、主に学校教育における伝統的な区分が慣習的に続いている側面もある。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "次に化学変化の例を挙げる。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "単に複数の物質を混合した場合は物理変化と見なされる。特に粒子同士の混合や懸濁液の調製、またはその逆の分離、は明確に物理変化と見なされる。だが分子レベルの混合の場合には化学変化を伴う場合もあり、化学変化とも物理変化とも断定しにくい場合もある。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "次の例は典型的な物理変化である。古代以前から、これらの変化では材質が変化しないと認識されていたと考えられる。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "次の例は、物の性質の一部が変化するが現在では物理変化と認識されているものである。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "われわれの身の回りにある土、水、そして、空気、あらゆるものが物質である。その物質は純物質と混合物に分類できる。純物質とは混合物から単一の成分を分離・精製したものである。混合物は何種類かの物質が混じったものである。自然に存在する物質のほとんどが混合物である。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "物質を化学的概念で分類する場合、化学物質と言い表される。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "物質が単一の主たる成分(化学物質)で構成される場合は「純物質」、複数の主成分から構成される場合は「混合物」と呼ばれる。なお、純物質の微量副成分は不純物と呼ばれ、不純物と混合物とは存在比の程度の差であり、その境界は曖昧である。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "物質の成分が同一であっても化学構造の違いにより異なる化学物質となる。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "構成する原子の核種が異なるものを「同位体」と呼ぶ。同位体は化学的性質は同一で物性もほとんど同一である為、同位体は化学物質の違いとしては通常は区別しない。放射線に関する物性など特定の用途に用いる場合はどの同位体であるかを区別する。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "物質は通常、巨視的には電荷を帯びていない。化学変化により永続的な電荷をもつ原子・分子を「イオン」と呼ぶ。イオンは正と負とでイオン対を形成し、見かけ上は電荷を帯びていない状態で安定化している(高温化において原子核と分子との結合が乖離した状態が「プラズマ」)", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "物質は、ビッグバンにより始まったエネルギーの形態分化の枝の1つを成している。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ビッグバン仮説によれば、ビッグバンにより始まったエネルギーは、やがて素粒子を生み出し、素粒子が結合して原子となる。宇宙初期には水素やヘリウムといった最も軽い元素が作られたと考えられている。これらの軽元素からなる雲は重力の影響により原始星を通じて恒星となる。より重い鉄や珪素、我々の体を構成する炭素や窒素などの元素は恒星内部での核融合反応で生成し、超新星爆発により恒星間空間にばらまかれた。また、鉄より重い元素は超新星爆発時に生成したと考えられている。", "title": "自然科学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ディラック方程式によれば、物質を構成するあらゆるスピン角運動量1/2 の粒子と対をなす、反粒子が存在する。電子の反粒子を陽電子、陽子の反粒子を反陽子、中性子の反粒子を反中性子と呼ぶ。反粒子は、粒子とは符号が逆の電荷をもつ。こうした反粒子で構成された原子のことを反物質とよぶ。物質は反物質と衝突すると対消滅を起こし、両者は消えて、光子や中間子など別の粒子に変化して放出される。", "title": "自然科学" } ]
物質は、最も初等的には、場所をとり一定の量(mass)をもつもののことである。同じことを、もう少し技術的用語を使えば、ものが質量と体積を持っていれば物質であるというのが古典的概念である。 いわゆる「もの」のことで、生命や精神(心)と対比される概念。「生命の世界、物質の世界」などと使う。 (哲学)感覚によってその存在が認められるもの。人間の意識に映じはするが、意識からは独立して存在すると考えられるもの。 (物理学)物体をかたちづくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在。空間の一部を占め、有限の質量をもつもの。 (化学) 化学品の分類および表示に関する世界調和システム(GHS)においては、「物質」(Substance) という用語は次の意味で使用される。自然状態にあるか、または任意の製造過程において得られる化学元素およびその化合物をいう。製品の安定性を保つ上で必要な添加物や用いられる工程に由来する不純物を含むが、当該物質の安定性に影響せず、またその組成を変化させることなく分離することが可能な溶媒は除く(GHS7版 1.3.3.1.2)。
{{Otheruses2|物質|材質|マチエール}} {{読み仮名|'''物質'''|ぶっしつ}}は、最も初等的には、場所をとり一定の量(mass)をもつもののことである<ref name="McGRAW-HILL">Richard Moyer, Lucy Daniel et al. McGRAW-HILL Science Macmillan/McGraw-Hill Edition, 2002, {{ISBN2|0-02-280036-0}} </ref>。同じことを、もう少し技術的用語を使えば、ものが質量と体積を持っていれば物質であるというのが古典的概念である<ref>ブルーバックス 新しい高校化学の教科書ー現代人のための高校理科―, 佐伯健夫, 2006, 株式会社講談社, {{ISBN2|4062575086}}</ref>。 * いわゆる「もの」のことで、[[生命]]や[[精神]]([[心]])と対比される[[概念]]<ref name="js">大辞泉</ref>。「生命の世界、物質の世界」などと使う。 *(哲学)感覚によってその存在が認められるもの<ref name="js" />。人間の意識に映じはするが、意識からは独立して存在すると考えられるもの<ref name="js" />。 *(物理学)物体をかたちづくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在。空間の一部を占め、有限の質量をもつもの。<ref name="js" /> *(化学) [[化学品の分類および表示に関する世界調和システム]](GHS)においては、「'''物質'''」(Substance) という用語は次の意味で使用される。自然状態にあるか、または任意の製造過程において得られる化学元素およびその化合物をいう。製品の安定性を保つ上で必要な添加物や用いられる工程に由来する不純物を含むが、当該物質の安定性に影響せず、またその組成を変化させることなく分離することが可能な溶媒は除く(GHS7版 1.3.3.1.2)。 == 諸説 == 「matter(物質)」という概念は西洋哲学史において、古代ギリシアで発祥したが、その正体について、20世紀初頭以前の科学者や哲学者、宗教家は論争を繰り返した<ref name="seiyoushisou_intro">西洋思想大事典 vol.4、平凡社 1990 [[ハロルド・ジョンソン]] Harold J. Johnson『物質概念の変遷』 pp.88</ref>。1930年代初頭以降、原子の構造が明らかになり、その性質を説明する量子力学が成立すると、物質の本質を厳密かつ統一的に理解する事が可能になった。これは、20世紀における最大の科学的成果の一つである。 <!--以下は、哲学及び哲学史の解説としては、癖が強く不適切。対比されている主張の接点が無い。--> 古代ギリシャでは物質は「本質的に不活性なもの」と見なす人がいたが、ビュヒナーや[[マルクス主義]]では「運動や活動と一体で切り離せないもの(つまり活性のあるもの)」と見なした<ref name="seiyoushisou_intro" />、 [[ルネ・デカルト|デカルト]]が「本質的に空間に延長する(空間を占める)もの」と見なしたのに対し[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]や[[ボスコヴィチ]]は物質を「延長の無い(空間を占めない)、エネルギーの中心」と見なしたし<ref name="seiyoushisou_intro" />、[[バークリー]]や[[カント]]が物質を「本質的に理解不能のもの(あるいは[[不可知]]のもの)」と見なしたが、[[ホッブズ]]は「哲学にとっての唯一な明瞭な根拠」と見なしたし<ref name="seiyoushisou_intro" />、 [[デモクリトス]]が「その本質として永遠に現実的」と見なしたが、[[プラトン]]や[[ヘーゲル]]は「[[可能態]]以上のものではありえないある種の存在」と見なした、といった具合である<ref name="seiyoushisou_intro" />。 20世紀初頭まで、科学界において原子の存在の有無について論争が続いたために、物質について様々な解釈が共存した。例えば、物質はものの仮の姿にすぎず、エネルギーのみが本質であるとする Energetiker 論者は原子の存在を否定した。1930年代初頭までに電子と陽子、中性子が相次いで実験的に発見されて、量子力学が完成することによって、矛盾の無い、物質の統一的な理解がはじめて可能になった。物質は物理化学的には「原子で構成されるもの」、初等[[量子力学]]または第一量子化の範囲では「質量をもつ波」、[[場の量子論]]または第二量子化においては「[[場]]の励起状態」と理解される。一般に、1/2の[[スピン角運動量]]をもつクオークやレプトンなど物質を構成する[[フェルミ粒子]]は[[パウリの排他原理]]に従い、2つ以上の粒子が同一の量子状態を占めることができないため、「場所をとるもの」の性質を持つ。一方、光子のようにスピン角運動量が1であるような素粒子は、複数の粒子が同一の量子状態を占有することが許される[[ボース粒子]]であるために、パウリの排他原理に従わず、「場所をとる」という物質特有の性質を持たない。また、光子はゲージ粒子の一種であり、質量をもたない。光子と光子は直接は相互作用したり、原子のような構造を作ったりはしない。このため日常生活においても、光や電波は「物質の一種」であるとは認識されない。 クオークやレプトンそのものは元来、SU(2)L [[ゲージ対称性]]を保つ性質を持つために質量を持たないが、[[ビッグバン]]後、宇宙が冷却する過程で[[ヒッグス場]]が自発的対称性の破れにより有限な[[真空期待値]]を獲得すると、この量子場との相互作用により質量をもつ物質粒子が出現したと考えられている。一方、ヒッグス場のうち、電荷をもつSU(2)弱アイソスピンゲージ群のz成分は真空期待値をもたないために、光とは相互作用せず、光子は質量を獲得しない。この理論は、2012年の[[ヒッグス粒子]]の発見により実証された。こうして「場所をとり、質量があるような物質」の背景にある複雑な機構が解明された。宇宙には重力相互作用はするが、直接的な検出が難しい、正体不明の[[暗黒物質]]が充満している証拠が得られつつある。また、中性子のみで構成された中性子星や、超高温で出現するクオークグルーオンプラズマなど、新たな物質の形態が存在することがわかってきた。 なお、哲学的に言えば、物質は[[宇宙]]を構成する諸[[存在]]のうちの1つである。哲学的には物質と対置される概念的存在は「非物質」と呼ばれ、[[空間]]、[[時間]]、[[情報]]を始めとして、多数存在する。一方、現代科学における場の量子論においては、真空は場の基底状態、物質はスピン1/2の場の励起状態、光はスピン1の場の励起状態であると理解される。一方、時間と空間を量子化して重力現象を説明する[[量子重力理論]]は、まだ成立にいたっていない。なお、[[WMAP]]等の人工衛星による[[宇宙マイクロ波背景放射]]の観測結果により、原子等の通常物質は宇宙の全エネルギーの5%程度に相当しているに過ぎないことが見積もられている。一方、残りの70%は[[暗黒エネルギー]]、25%前後は[[暗黒物質]]で構成されていると考えられている。このように、人間が日常的に接する物質は、宇宙全体に存在する物質の形態のうちの一部に過ぎないことがわかっている。 === 現代の日常的な用法 === 物質は[[変化]]、[[現象]]、出来事などと区別されることが多い。変化は物質に生じる1つの出来事、現象でありうるが、変化自体は物質ではない。ある現象やある出来事も、そこに物質が関与していることはあるが、それ自体としては物質ではない。物質はそうした現象や出来事が起こる場や対象のような位置を占めている。日本語ではこの区別は、物と[[事]]の区別、「モノ」と「コト」の区別として、日常的に用いられている。 この様に、観念的には物質の概念と存在概念と分離することは難しい。この様な観念論は、[[ルネ・デカルト|デカルト]]の「われ思う、ゆえにわれあり」という観念論より派生しており、「物体を[[認識]]することが、すなわち存在である」と概念付けられる為に他ならない。存在と結び付けられた物質は、その性質([[物性]])以外にも哲学的な属性(記事 [[存在]]を参照のこと)が付加される。そして、物質に着目、執着する姿勢は「[[物質主義]]」と呼ばれる。また、そのような[[信念]]の持ち主は「[[物質主義者]]」と呼ばれる。 すなわち物質と対比されることのある概念として、[[心]]([[精神]]、[[意識]])、[[情報]]、[[エネルギー]]、[[空間]]などがあるが、これは人間の直感による区分であり、現代科学の知見とは必ずしも一致しない。 === 古代 === [[メソポタミア]]では[[紀元前3000年]]までに、液体の[[蒸留]]および鉱石の[[昇華 (化学)|昇華]]用の巧妙に考案された過熱ポットが用いられていた<ref name="seiyoushisou_kodai">西洋思想大事典 vol.4、平凡社 1990 [[ハロルド・ジョンソン]] Harold J. Johnson『物質概念の変遷』 pp.88-92</ref>。それからほどなくして、東地中海あたりには[[合金]]・[[ガラス]]・[[香料]]の製造技術が広がっていった<ref name="seiyoushisou_kodai" />。一方、物質の変化に関するもろもろの過程を当時の人々は、[[自然神]]や[[半神]]たちの人格的な関係、という[[神話]]のかたちで説明したものもあった<ref name="seiyoushisou_kodai" />。[[バビロニア]]には「七つの主天体」「七つの金属」「七つの人体部位」「七つの色」「(一週間の)七つの日」「魂の目覚めの七つの段階」といった複雑な理論体系があったが、現代の「物質」に相当するような概念がはっきりとあったとは言えず、経験の様々の要素・側面の一部として他と混然一体であった<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 ==哲学== === ギリシア哲学 === ==== ソクラテス以前 ==== 次に学術の世界で「フォアゾクラティカーVorsokratiker」と呼ばれている[[ソクラテス以前の哲学者]](紀元前6世紀ころ~前4世紀ころ)は、さかんに自然について考察していたわけであるが、現代まで伝わっているのは基本的に、後の哲学者たちが書いた文章の中に含まれる断片的なテキストなので、彼らがどのように考えていたのか正確に知ることは難しい。彼らは深い思想をたたえていたようにも読めるが、伝えられたのが断片的な短い言葉であるがゆえにそういう印象を生んでいるだけなのか判断のつきかねる面もある<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 イオニア人たちは、αρχη [[アルケー]] を探求したが、このアルケーというのは現代ではぴったり一致する概念があるわけではないが、「原理」とも「起源」とも、知識理論の「公理」とも、物質世界の「(構成)単位」とも言えるようなものであったのかも知れない<ref name="seiyoushisou_kodai" />。(アルケーの探求などと関連させて)「イオニア人たちはミュトス(神話)を超えてソピア(知)へと向かった」などと言われる。アルケーは、[[タレス]]が[[水]]と、[[アナクシメネス]]が[[空気]]と、[[ヘラクレイトス]]が[[火]]と言ったと伝わるが、それはそこに語られる水や空気や火が、[[生命]]・[[心]]・[[思考]]なども含めて全ての自然の諸現象を説明するのに充分なほどに精巧なものだ、とする見方を示している<ref name="seiyoushisou_kodai" />。またアナクシメネスにおいては空気が「すべてのものがそこにおいて構成されている」といった性質のものとされていたことからすると、それは[[形而上学]]的な[[宇宙論]]へと連なるものであったともいえる<ref name="seiyoushisou_kodai" />。こうした考え方は、現代では[[唯物論]]寄りのものと見なされることが多いが、その一方で彼らは物質的存在の内に[[生命力]]を見出していた<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 [[デモクリトス]]は[[原子論]]を、[[プラトン]]は[[有機体論]]を、[[アリストテレス]]は[[質料形相論]]を提示した<ref name="seiyoushisou_kodai" />。これら、紀元前400年から紀元前300年ころにかけて提示された競合的な理論は、この時代にしてすでに、その後の時代の哲学や学問が見せることになるおおまかな輪郭をあらかじめ示しており<ref name="seiyoushisou_kodai" />、これらの観念群は、その後 物質に関する知識が進展する中で、繰り返し現れてくることになり、大きな影響を与えることになった<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 [[デモクリトス]](B.C 460-367)の原子論については「[[原子論]]」の記事に説明を譲ろう。 ===== エンペドクレス ===== [[エンペドクレス]]は、紀元前440年ごろに、[[空気]]が物質であることを実証した。 オリジナルとは少々異なるが簡単に確認することができる。大きなバケツに水を一杯に入れる。そのバケツに漏斗の細い口を指で塞ぎながら、広い開口部を下に向けてバケツに入れると、漏斗には水が入ってこない。指を漏斗口から外すとそこに水が流れ込み、空気がその口から勢いよくで出てくる。空気が水が空間を占めるのを邪魔していたことから、空気は物質であるというわけである。物質の基本的な属性の一つである、空間を占有する(体積を持つ)という性質を空気が持っていたことを実証したわけである。<ref name="empedocles">Lee R, Summerlin, Christie L. Borgford, and Julie B. Ealy "Chemical Demonstration", ''A Sourcebook for Teachers Volume 2, Second Edition'', American Chemical Society, 1988</ref> これは、物質(Matter)の基本的な古典的定義の一つである「物質は質量をもち、空間を占有するもの」<ref name="USChemicalText">Sarquis and Sarquis, "Modern Chemistry", Houghton Mifflin Harcourt Publishing Company, 2017</ref>という後者の属性を実証するものである。 ==== プラトン ==== [[ファイル:Plato.png|right|70px|thumb|プラトン]] [[プラトン]]は[[イデア論]]を唱え、永遠不変なのはidea [[イデア]]である、としたのであるが、それに対して物質をどのように見なしたかというと、永遠に現実的なものではない、とした<ref name="seiyoushisou_kodai" />。物質的なものは「いつも生成の過程の中にあって、真実にあるものではない」(『[[ティマイオス]]』27e-28a)としたのである。弁論術の方法と[[階層構造|階層秩序]]を用いているイデア論は、部分によって全体を説明するのではなく、全体によって部分を説明する[[有機体論]]的な傾向を示している<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 イデアは普遍的、絶対的、永遠的、遍在的、可知的、調和的で完全なものであったのに対して、物質というのは特殊的、相対的、時間的、局所的で、混乱し、不協和で、欠陥のあるものであった<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 [[Image:Tetrahedron (PSF).svg|thumb|60px|right|正四面体]] [[File:Octahedron.svg|thumb|60px|right|正八面体]] [[File:Icosahedron.svg|thumb|60px|right|正二十面体]] こうした見方をしていたにもかかわらずプラトンが原子的な構造についての仮説も述べていた(『ティマイオス』53c-58c)と知ると多くの人は驚く<ref name="seiyoushisou_kodai" />。プラトンにおいては物質と空間は《受容体》として同一視された<ref name="seiyoushisou_kodai" />。彼の原子的な理論は、物質と空間を同一視し、(材料ではなく)幾何学的構造を用いて説明されている<ref name="seiyoushisou_kodai" />。彼はエンペドクレスの[[四元素]]と[[テアイテトス (数学者)|テアイテトス]]が確立した五つの[[正立体]]を同一視した。[[正四面体]]がひとつの「火原子」、[[正八面体]]が2個の「空気原子」、[[正二十面体]]が1個の「水原子」、だと考えた<ref name="seiyoushisou_kodai" />。①正方形を半分にした三角形 ②正三角形の半分の三角形、 これらを組み合わせてできる幾何学的立体を用いて幾何学的な説明を行ったのである<ref name="seiyoushisou_kodai" />。一個の水原子(=正二十面体)は2個の空気原子(=正八面体)および1個の火原子(=正四面体)になることができる、ということになる。物質の秩序に関してこれほどまで[[幾何学]]的な仮説が提示されているのは画期的なことである<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 プラトンの物質観でもうひとつ重要なのは《[[非在]]》という概念である。彼はイデアという永遠で完全に理解可能な原型を考えたわけであるが、だとするとその感覚的現れが多様なのは何によるものなのか? という疑問も生じるが、それを解決するために、《非在》がある(『ソピステス』241e)と述べる必要を感じたのであった。(デモクリトス同様に)充満する存在と対立する原理の必要性を感じたのである<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 なお[[新プラトン主義]]には「物質の慣性的受動性」という概念があるが、[[マックス・ヤンマー]]が「[[質量]]」概念の起源を探った時にたどり着いたのはその概念であった<ref name="seiyoushisou_kodai" />。 === その後 === 世界が物質だけからなるとか、全ての物事は物質的作用として説明できると考える立場を[[唯物論]]などと呼ぶ。唯物論という単語は、マルクス主義のような思想や通俗的な信念を反映したものであり、通俗的な用法が多い。これとは異なり、複数の[[実体]]を根本原理とする[[実体二元論]]もある。 これ以前に、哲学の分野では、[[機械論]]自体が絶対的なものではなく、[[生気説]]も知られている。 物質もしくは物質的な[[対象]]が[[非存在]]であるとか、[[本質]]に対置される[[概念]]としての[[現象]]であるとする考え方もある。代表的な研究者として[[バークリー]]の名を挙げることが許されるが、彼の哲学は[[主観的観念論]]の典型<ref>岩波書店『広辞苑』</ref>であると看做される。[[懐疑論]]や[[不可知論]]、[[生気説]]も哲学の分野では、現代でも主題になる。 <!-- ===物質と観念=== {{独自の研究}}  百科事典や哲学事典などの【物質】の記事・項目に以下のようなことは書いていない。 観念が物質の一種であるとされたり、物質と観念の区別がつけられない、とする考え方は稀である。例えば、大脳生理学などを通じて人間がりんごの赤さや甘さをどのように感じ取るのか、その物質的な過程についての細かな解明を進めることはできるだろうと多くの人が考える。だが、赤さや甘さの感触自体は脳内の物質ではなく、その変化でもないために、何故、ある特定の物質や現象が赤さや甘さの感受という経験に結びついているのかについてはわからないままに留まる。より一般的には、人間は身体を持っており、物質的な存在だが、意識の持つ主観的な側面(現象的意識)については物質や物質の変化の一種として捉えられないのではないか、という漠然とした疑問がある。(「[[現象的意識]]」「[[クオリア]]」の項を参照)。 --> == 自然科学 == {{出典の明記|date=2012年11月}} {{独自の研究|date=2012年11月}} [[ジョン・ドルトン|ドルトン]]は原子説を提唱し、[[アボガドロ]]は[[分子説]]を提唱した。[[ラボアジェ]]による[[質量保存則]]の確立以来、質量が物質を特徴づける本質的な量と考えられるようになった。物質は置かれた条件により種々の[[相転移]]を起こす。特に[[分子]]や[[原子]]が集まって構成された多くの物質は、[[固体]]・[[液体]]・[[気体]]と呼ばれる3つの相をとる。それ以外にも、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]、[[超流動]]相、[[超臨界流体]]などの特殊な形態をとることもある。 === 物理学と化学 === 20世紀初頭までは、主に哲学の分野から派生して、物体の力学的運動の法則など根元的な原理の解明を目的とした[[物理学]](Physics)と、中世や産業革命以降、新たな化合物の合成等を主な目的として、より工学的な要素を伴って発展した[[化学]](Chemistry)の境界は割合に明確であった。しかし原子の存在が確認されると、化学の分野において量子力学等の理論を用いて化合物の構造や化学反応を解明しようとする[[化学物理学]]や、原子核物理と化学が融合した[[核化学]]と呼ばれる分野が出現した。現在では、物理と化学の明確な境界を見出すことは難しく、主に学校教育における伝統的な区分が慣習的に続いている側面もある。 ==== 物理変化と化学変化の例 ==== {{main|物理変化|化学反応}} 次に化学変化の例を挙げる。 *[[化合]] - 化学変化により複数の物質から、別の単純な物質が生成する過程。 *[[分解]] - 化学変化によりある物質から、複数の物質が生成する過程。 *[[酸化]] *[[還元]] 単に複数の物質を混合した場合は物理変化と見なされる。特に粒子同士の混合や懸濁液の調製、またはその逆の分離、は明確に物理変化と見なされる。だが分子レベルの混合の場合には化学変化を伴う場合もあり、化学変化とも物理変化とも断定しにくい場合もある。 次の例は典型的な物理変化である。古代以前から、これらの変化では材質が変化しないと認識されていたと考えられる。 *物体の変形、破壊、切断、接合、組み立て *目に見える混合 固体粒子と液体、固体粒子同士 次の例は、物の性質の一部が変化するが現在では物理変化と認識されているものである。 *[[三態]]変化、水と氷 *液体の混合、[[溶解]] === 物質の分類 === われわれの身の回りにある土、水、そして、空気、あらゆるものが物質である。その物質は純物質と[[混合物]]に分類できる。純物質とは混合物から単一の成分を[[分離]]・[[精製]]したものである。混合物は何種類かの物質が混じったものである。自然に存在する物質のほとんどが混合物である。<ref name="教科書">竹内 敬人他「改訂 化学基礎」東京書籍. 平成30年. ISBN 978-4-48716547-6</ref> === 物質の種類 === 物質を[[化学]]的概念で分類する場合、[[化学物質]]と言い表される。 *[[化学物質]] **[[単体]] - 単一の元素から構成される化学物質 **[[化合物]] - 複数の元素から構成される化学物質 物質が単一の主たる成分(化学物質)で構成される場合は「[[純物質]]」、複数の主成分から構成される場合は「[[混合物]]」と呼ばれる。なお、純物質の微量副成分は[[不純物]]と呼ばれ、不純物と混合物とは存在比の程度の差であり、その境界は曖昧である。 物質の成分が同一であっても[[化学構造]]の違いにより異なる化学物質となる。 *[[同素体]] - 同一元素の単体で化学構造が異なり物理的性質(物性)が異なる物質。 *[[異性体]] - [[分子]]の内部構造が異なる化学物質。 *相変態 - [[金属]]など圧力や温度により結晶構造が変化した化学物質。 構成する原子の[[核種]]が異なるものを「[[同位体]]」と呼ぶ。同位体は化学的性質は同一で物性もほとんど同一である為、同位体は化学物質の違いとしては通常は区別しない。放射線に関する物性など特定の用途に用いる場合はどの同位体であるかを区別する。 物質は通常、巨視的には電荷を帯びていない。化学変化により永続的な電荷をもつ原子・分子を「[[イオン]]」と呼ぶ。イオンは正と負とでイオン対を形成し、見かけ上は電荷を帯びていない状態で安定化している(高温化において原子核と分子との結合が乖離した状態が「[[プラズマ]]」) === 物質の基本法則 === *[[質量保存の法則]] *[[定比例の法則]] *[[倍数比例の法則]] *[[気体反応の法則]] *[[E=mc2]](特殊相対性理論) === 物質の誕生 === {{main|宇宙の年表|宇宙の元素合成}} 物質は、[[ビッグバン]]により始まった[[エネルギー]]の形態分化の枝の1つを成している。 ビッグバン仮説によれば、ビッグバンにより始まったエネルギーは、やがて[[素粒子]]を生み出し、素粒子が結合して[[原子]]となる。宇宙初期には[[水素]]や[[ヘリウム]]といった最も軽い[[元素]]が作られたと考えられている。これらの軽元素からなる雲は[[重力]]の影響により[[原始星]]を通じて[[恒星]]となる。より重い[[鉄]]や[[珪素]]、我々の体を構成する[[炭素]]や[[窒素]]などの元素は恒星内部での核融合反応で生成し、超新星爆発により恒星間空間にばらまかれた。また、鉄より重い元素は超新星爆発時に生成したと考えられている。 === 物質の消滅 === [[ディラック方程式]]によれば、物質を構成するあらゆるスピン角運動量1/2 の粒子と対をなす、[[反粒子]]が存在する。電子の反粒子を[[陽電子]]、陽子の反粒子を[[反陽子]]、中性子の反粒子を[[反中性子]]と呼ぶ。反粒子は、粒子とは符号が逆の電荷をもつ。こうした反粒子で構成された原子のことを[[反物質]]とよぶ。物質は反物質と衝突すると[[対消滅]]を起こし、両者は消えて、光子や中間子など別の粒子に変化して放出される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> ==参考文献== *{{cite book |title=The Rise of the Standard Model |author= Lillian Hoddeson, Michael Riordan |isbn=0521578167 |publisher=Cambridge University Press |year=1997 |url=https://books.google.co.jp/books?id=klLUs2XUmOkC&printsec=frontcover&source=gbs_summary_r&redir_esc=y&hl=ja#PPR5,M1 }} *{{cite book |title=Hidden Worlds |chapter=The search for quarks in ordinary matter |author=Timothy Paul Smith |page=1 |url=https://books.google.co.jp/books?id=Pc1A0qJio88C&pg=PA1&redir_esc=y&hl=ja |isbn=0691057737 |year=2004 |publisher=Princeton University Press}} *{{cite book |title=Elementary Particles: Building blocks of matter |isbn=9812561412 |year=2005 |publisher=World Scientific |author=Harald Fritzsch |url=https://books.google.co.jp/books?id=KFodZ8oHz2sC&pg=PA1&redir_esc=y&hl=ja |page=1}} *{{cite book |title=A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz |author= Bertrand Russell |url=https://books.google.co.jp/books?id=R7GauFXXedwC&pg=PA88&redir_esc=y&hl=ja |page=88 |chapter=The philosophy of matter |isbn=041508296X |year=1992 |edition=Reprint of 1937 2nd |publisher=Routledge}} ==関連項目== {{Commonscat|Matter}} {{Wiktionary|物質}} * [[物体]] - [[物理学]] * [[非局所性]] * [[光速]] * [[原子論]] - [[全体論]] * [[唯物論]] * [[存在論]] * [[質料]] * [[モナド (哲学)]] ==外部リンク== *{{EoE|Matter|Matter}} * {{Kotobank}} {{自然}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつしつ}} [[Category:哲学の主題]] [[Category:哲学の概念]] [[Category:物質|*]] [[Category:化学]] [[Category:物理学]] [[Category:科学史]] [[Category:哲学の和製漢語]] [[Category:和製漢語]]
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物(もの、ぶつ)とは、広義には対象を特定化せず一般的・包括的にいう語であり、人間が知覚し思考し得る対象の一切である。英語ではthing。
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物(もの、ぶつ)とは、広義には対象を特定化せず一般的・包括的にいう語であり、人間が知覚し思考し得る対象の一切である。英語ではthing。
{{Wiktionary|物|thing}} '''物'''('''もの'''、'''ぶつ''')とは、広義には[[対象]]を特定化せず[[一般的]]・包括的にいう[[語]]であり、[[人間]]が知覚し思考し得る対象の一切である<ref> [http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%82%82%E3%81%AE&match=beginswith&itemid=20167000 『大辞林-第二版』、三省堂 「もの」]。</ref>。[[英語]]では[[:en:thing|thing]]。 ==一覧== *[[空間]]のある部分を占め、人間の[[感覚]]で捉えることが出来る形を持つ対象。 **[[物質]]、[[実体]]、または[[物体]]等。 *具体的な[[存在]]から離れた、人間が考えられ得る形を持たない対象。 **[[物事]]や事物、[[言葉]]、[[学問]]等。 *[[妖怪]]や[[霊魂]]等、不可思議で[[霊力]]を持つ得体が知れない存在。この用法の例は古くは『[[春秋左氏伝]]』[[wikisource:zh:春秋左氏傳/宣公#宣公三年|宣公三年]]に見られる<ref>{{Cite book|和書|title=古代中国 天命と青銅器|year=2006|publisher=京都大学学術出版会|author=小南一郎|authorlink=小南一郎|isbn=978-4876988143|chapter=第2章 2 精霊としての"物"|date=}}</ref>。 *[[哲学]]では[[経験]]の[[対象]]([[客観]])とされる時間的存在者のこと。空間的・時間的対象。[[ドイツ語]]で Ding。(反対語:[[物自体]] Ding an sich) **狭義にはこのもの、あのものと指示し得る[[感覚]]的個物(「椅子」「机」等)を意味するが、広義には[[思考]]の対象となり、[[命題]]の主題となり得る万物、例えば[[心]]や[[価値]]などの非感覚的個物をも含めて意味する。 *商品。また、[[経済学]]では、[[財]]のうち、物理的なものを指す。「'''[[モノ]]'''」と書かれることもある。 *[[物 (法律)]]とは、人([[自然人]])に対する言葉で、権利等の客体となるものをいう。[[民法]]上は、有体物をいう。法律家は「'''ブツ'''」と読むことも多い。 *[[日常生活]]では、[[食材|食べ物]]、[[飲む|飲み物]]、[[宝|宝物]]、[[ゲテモノ|下手物]]、[[旬|初物]]、[[色物]]等、不特定または多様な物品、個体などを指すのに用いられることが多い。 *「'''ブツ'''」と[[音読み]]にする場合でも、[[廃棄物]]、[[動物]]、などのように同様の意味を持つことが多い。また[[隠語]]的に、(公言できない)物品の[[代名詞]]としても用いられる。{{main|[[ブツ]]}} == 出典 == <references/> ==関連項目== *{{prefix}} *{{intitle}} {{aimai}} {{デフォルトソート:もの}} [[Category:日本語の語句]]
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UFJ銀行
株式会社UFJ銀行(ユーエフジェイぎんこう、英語: UFJ Bank Limited)は、かつて存在したUFJホールディングス(UFJHD)傘下の都市銀行。2006年に東京三菱銀行と合併して三菱東京UFJ銀行となり、2018年に行名を三菱UFJ銀行に改称した。 2002年1月15日にUFJホールディングス(UFJHD)傘下の、大阪市に本店を置く三和銀行と名古屋市に本店を置く東海銀行が合併して誕生した都市銀行。三和銀行は三和グループの中核企業で、在阪三大都市銀行の一角であった。一方の東海銀行は中京圏に本店を置く唯一の都市銀行であり、かつては「名古屋五摂家」として名古屋財界における有力企業であった。 UFJは、United Financial of Japan(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン)の頭文字を取って名付けられた。スローガンに「こたえていくチカラ。」を定めていた。 本店は愛知県名古屋市中区にあった(旧:東海銀行本店)が、実質的な本社機能は東京都千代田区大手町のUFJ東京ビル(現・三菱UFJ銀行大手町ビル)に設置された東京本部(旧:三和銀行東京本部)であった。 収益力は高かったものの金融再生プログラムに基づく巨額の不良債権処理に奔走することになり経営が悪化した上、旧三和・旧東海間での熾烈な派閥抗争や金融庁特別検査による経営陣退陣(後に検査妨害で一部が逮捕)など経営面でも混乱を極めることとなる。 最終的に三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)に親会社のUFJHD共々救済されることとなり、2005年10月1日にMTFGとUFJHDが合併して誕生した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)の傘下となった後、2006年1月1日に同じくMUFG傘下の東京三菱銀行(BTM)と合併し、三菱東京UFJ銀行(現:三菱UFJ銀行)となり、発足からわずか約4年弱(3年11か月15日)で発展的に姿を消した。 1998年9月にあさひ銀行(現:りそな銀行、埼玉りそな銀行)と東海銀行が2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意(東海あさひ銀行構想)し、2001年秋には地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針だった。 しかし、両行の交渉が長引く中で、1999年8月、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行による3行の経営統合(みずほフィナンシャルグループの設置)、続く同年10月には三井財閥系のさくら銀行、住友財閥系の住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。 こうした金融再編に取り残されたのは、拓銀破綻後は都銀下位行に甘んじた大和銀行と、強烈な行風が倦厭された三和銀行であった。 再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。東海あさひは、営業エリアが首都圏・東海地方に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大阪を地盤とする大和銀行の参加を呼び掛けた。 しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「フィナンシャルワン」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。 その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したため、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱。結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。 この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には不良債権処理による損失から公的資金注入の優先株に対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。一方、東海あさひへの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀と金融持株会社大和銀ホールディングスを設立した。2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。両行は2003年5月のりそなショック発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。 2001年4月2日に上場企業であった 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行株式を、新設した金融持株会社UFJホールディングスへ株式移転させ、経営統合を行った。ここからUFJ銀行の発足までの間は、UFJホールディングスの傘下に三和・東海・東洋信託銀行が入っていた。また、この期間中に 三和銀行・東海銀行はシステム統合の準備のため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止。ハッピーマンデー制度による成人の日明けの2002年1月15日に合併し、UFJ銀行が発足した。 三和・東海が合併した2002年(平成14年)1月15日に、両行の勘定系システム(三和が日立製作所・東海が日本IBM)を三和銀行系のシステムに統合している。両行とも日立製作所を窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。 これによって顧客は、三和・東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。口座自動振替の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。後の同年4月に発生したみずほ銀行のシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させた、みずほフィナンシャルグループは非難されることになる。 三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、三和・東海はそれぞれ近畿地方・東海地方を地盤とする銀行であり、首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。 また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れるダイエー、ニチメン・日商岩井(現:双日)、日本信販(現:三菱UFJニコス)、アプラス、大京、国際興業、国際自動車などみどり会構成企業や三和銀行親密先および、東海銀行のフジタ・藤和不動産(現:三菱地所レジデンス)・トーメンに対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字を計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。 特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。 2002年9月、金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「金融再生プログラム」が発表された。これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらにわかしお銀行との逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。しかし、全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る。」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。 ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、メリルリンチから1200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。しかし、あさひ銀行が合流した大和銀ホールディングスは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「りそなショック」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。 結果、日本の株式市場はりそなショック後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1300億円程度であった。 当時のUFJ銀行内は三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧:東海の1.6倍あった旧:三和が主導権を握っていた。三和行員は、“緑化作戦”あるいは“緑一色作戦”(コーポレートカラーが東海の赤色に対し三和が緑色であることによる)と称して東海行員を放逐し、愛知県を中心に東海店舗を30店近く統廃合していた。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。こうした動きは、元々名古屋財界のメインバンクとして機能していた地元銀行を(在阪銀行であった三和により)事実上冷遇した事となり、名古屋財界から顰蹙を買ってしまう。結果、東海3県における預貸シェアは低下し、多くの地元企業が地方銀行、信用金庫などに融資元を変更するに至り、これによる海外進出への弊害も発生した。皮肉にもこの一件により、住友銀行とトヨタとの因縁により手薄となっていた東海地方への三井住友銀行の営業拡大を許してしまうことや、東京三菱銀行との合併後に、元々東海銀行系だったセントラルファイナンスが三井住友フィナンシャルグループに移籍するなどの遠因となった。 2003年(平成15年)10月に実施された『金融庁特別検査』では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。 この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(慶應大卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にMOF担だった早川潜常務(一橋大卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。 岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧:三和銀行は、尾上縫事件や大蔵省接待汚職事件(別名・ノーパンしゃぶしゃぶ事件)等、過去の金融スキャンダルでは、常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年(平成10年)の大蔵省接待汚職事件の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に東京地方検察庁特別捜査部に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興を買っていた。また早川自身も、金融当局に対しては、かねてより反抗的であった。 こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、「海外はやめて、地方銀行になればいい」という、UFJの検査を統括する目黒謙一・金融庁検査局検査管理官のこの一言で決定的となり、「金融庁は当行を狙い撃ちにして、潰そうとしている」と解釈し、金融当局からの宣戦布告と受け止めた。その検査の過程で、敵対派閥からと見られる内部告発により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場担当の目黒検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年(平成16年)1月、日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年(平成16年)4月、今度は中日新聞がスクープの形で、UFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ、金融庁に約束した利益が未達となり、寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。 結局、2004年(平成16年)3月期決算では、不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって、約4000億円の赤字となった。この2期連続の赤字となり、経営責任を取って、2004年(平成16年)5月に、頭取の寺西正司は退任に追いこまれ、この検査忌避により、UFJ銀行は一部業務停止を含む金融庁の行政処分を受け、さらに、2004年(平成16年)10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が、銀行法違反(検査忌避)容疑で金融庁より刑事告発を受け、同12月には東京地検特捜部は同法違反容疑で岡崎元副頭取ら3人を逮捕した。 メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する都銀大手6行(三和・東京三菱・第一勧業・さくら・住友・富士)の中で、三和銀行は唯一地方銀行の業容が拡大した銀行であった。このため、財閥系や特殊銀行を起源とする他行に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。これらは、必然的にリクルーターを通じて学閥内の繋がりが密接になり人事抗争に繋がっていく事になった。他行はこれを「三和のDNA」と蔑称した。また、2019年1月4日の朝日新聞の記事では、実力主義をかかげ、「野武士集団」と呼ばれていたことが触れられている。 特に渡辺滉頭取(一橋大学卒)時代には企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に一橋大・京都大学出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は高杉良の経済小説『金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ最後の頭取となる沖原隆宗が居た)を補佐役として登用、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で都市銀行トップを実現した。 こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(東京大学卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等陰惨を極めた。 結局両者が辞任し、中間派の室町鐘緒(名古屋大学卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。 室町の後任は秘書室長経験者だった寺西正司(大阪大学卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(慶應義塾大学卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し三和銀行時代にフィナンシャルワンを立ち上げるなどかつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をアプラスに転出させ、また東海で合併を担当した藤田泰久常務(京都大卒)に事実上退行を迫るなど、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。 前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任。沖原隆宗が取締役付きでないにもかかわらず常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる」などと述べ不良債権処理の断行を示唆した。 しかし、人事面で見れば寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を日本信販会長へ、常務の中村をJCB専務への転出を決定、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である佐野極(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。 こうした旧態依然たる人事施策は再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなくUFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊、派閥抗争の余裕すら失っていくこととなった。 前述の巨額赤字決算は自己資本を大きく毀損し、このままでは国際業務に必要な自己資本比率8%の維持が困難となった。このため、2004年5月21日に持株会社のUFJホールディングスはUFJ信託銀行を住友信託銀行へ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。しかし、この売却でようやく繰延税金資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められ、2004年3月期の自己資本比率割れをなんとか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。特に問題になった債権は ダイエー、双日で貸付の規模は1兆円を上回っていた。この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。 この売却発表から2か月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却の撤回と、三菱東京フィナンシャル・グループ (MTFG)とUFJホールディングス(UFJHD)の経営統合で大筋合意し、翌7月16日にMTFGと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年8月12日、2005年10月をメドにMTFGが三菱UFJホールディングス(当時の仮称)へ商号変更の上、UFJHDは吸収合併される事に基本合意し、「三菱東京UFJ銀行」に行名を改める予定となった。 これに対して、住友信託側が東京地方裁判所に交渉差し止めを求める仮処分申請を行い、東京地裁は2004年7月27日、当該仮処分申請を認める決定を下した。UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、8月4日に却下された。 さらに、UFJ側は即日東京高等裁判所に抗告。2004年8月11日、東京高裁は、地裁の決定を取消し、東京三菱とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。住友信託側は同日、最高裁判所に特別抗告を行ったが、最高裁は8月30日、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、2006年11月21日に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。 2004年7月30日、電撃的に三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)がUFJホールディングス(UFJHD)に対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった。8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。 2004年8月12日、MTFGとUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていたMTFGからUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。増資は、公開企業のUFJHDに対してではなく、その傘下の非公開企業であるUFJ銀行に優先株7000億円で行い、さらに、TOB(公開買い付け)によりUFJホールディングス株が20%超買い占められた場合は、その優先株に議決権が発生するポイズンピルを盛り込ませる。 2004年9月下旬、SMFGは、株主提案を行うために必要なUFJHD300株を取得、「委任状争奪戦」(プロキシーファイト)を仕掛ける姿勢を鮮明にする。しかし、UFJ側にしてみれば先の住友信託に続く2度目の契約反故は許されない道義的な問題のほか、公的資金を完済したMTFGに対して、SMFGの中核企業である三井住友銀行(SMBC)は当時1兆3000億円の公的資金残高があり、UFJの1兆5000億円を合わせると「SMBC+UFJ」新銀行は発足当初から2兆8000億円の公的資金を抱え込む経済的な問題がネックとされていた。 2004年秋までには、SMFG側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。 この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのはダイエー向けの債権だった。当時のダイエーは中内㓛の会長退任後、高木邦夫の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向で産業再生機構に送られてしまうことに難色を示した。また経済産業省もこれを支持していた。しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。 年が明けた2005年2月17日、MTFGとUFJHDは正式に合併を決定し社名を「三菱UFJフィナンシャル・グループ」(MUFG)とすることになった。翌2月18日には合併比率を「1:0.62」で最終合意。4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3か月延期が発表された。そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、東京三菱銀行に救済合併され、発足からわずか3年11か月と15日余りで消滅した。 東京三菱との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループ が2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、UFJグループが過去に積んだ貸倒引当金戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。前述の金融庁の指導により旧UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。その内訳は、2005年度上期で約4000億円、同年下期にも、UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していた繰延税金資産を、5000億円近く資本として繰入れた。2005年通期だけでUFJからの戻益は9000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。 これは三菱東京がUFJ救済のため出資した7000億円を大きく上回るだけでなく、UFJにとって「統合に突き進んだ過去の経営判断が正しかったのか」という疑問を想起させかねず(2006/11/21付日経金融新聞)、さらに、過去の金融庁検査が妥当であったかの疑問を提起させた。もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。 関連会社 関連会社
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社UFJ銀行(ユーエフジェイぎんこう、英語: UFJ Bank Limited)は、かつて存在したUFJホールディングス(UFJHD)傘下の都市銀行。2006年に東京三菱銀行と合併して三菱東京UFJ銀行となり、2018年に行名を三菱UFJ銀行に改称した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2002年1月15日にUFJホールディングス(UFJHD)傘下の、大阪市に本店を置く三和銀行と名古屋市に本店を置く東海銀行が合併して誕生した都市銀行。三和銀行は三和グループの中核企業で、在阪三大都市銀行の一角であった。一方の東海銀行は中京圏に本店を置く唯一の都市銀行であり、かつては「名古屋五摂家」として名古屋財界における有力企業であった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "UFJは、United Financial of Japan(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン)の頭文字を取って名付けられた。スローガンに「こたえていくチカラ。」を定めていた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本店は愛知県名古屋市中区にあった(旧:東海銀行本店)が、実質的な本社機能は東京都千代田区大手町のUFJ東京ビル(現・三菱UFJ銀行大手町ビル)に設置された東京本部(旧:三和銀行東京本部)であった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "収益力は高かったものの金融再生プログラムに基づく巨額の不良債権処理に奔走することになり経営が悪化した上、旧三和・旧東海間での熾烈な派閥抗争や金融庁特別検査による経営陣退陣(後に検査妨害で一部が逮捕)など経営面でも混乱を極めることとなる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "最終的に三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)に親会社のUFJHD共々救済されることとなり、2005年10月1日にMTFGとUFJHDが合併して誕生した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)の傘下となった後、2006年1月1日に同じくMUFG傘下の東京三菱銀行(BTM)と合併し、三菱東京UFJ銀行(現:三菱UFJ銀行)となり、発足からわずか約4年弱(3年11か月15日)で発展的に姿を消した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1998年9月にあさひ銀行(現:りそな銀行、埼玉りそな銀行)と東海銀行が2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意(東海あさひ銀行構想)し、2001年秋には地域別に銀行を再編し、さらに賛同する地方銀行を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし、両行の交渉が長引く中で、1999年8月、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行による3行の経営統合(みずほフィナンシャルグループの設置)、続く同年10月には三井財閥系のさくら銀行、住友財閥系の住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "こうした金融再編に取り残されたのは、拓銀破綻後は都銀下位行に甘んじた大和銀行と、強烈な行風が倦厭された三和銀行であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。東海あさひは、営業エリアが首都圏・東海地方に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大阪を地盤とする大和銀行の参加を呼び掛けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「フィナンシャルワン」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したため、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱。結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には不良債権処理による損失から公的資金注入の優先株に対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。一方、東海あさひへの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀と金融持株会社大和銀ホールディングスを設立した。2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。両行は2003年5月のりそなショック発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2001年4月2日に上場企業であった 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行株式を、新設した金融持株会社UFJホールディングスへ株式移転させ、経営統合を行った。ここからUFJ銀行の発足までの間は、UFJホールディングスの傘下に三和・東海・東洋信託銀行が入っていた。また、この期間中に 三和銀行・東海銀行はシステム統合の準備のため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止。ハッピーマンデー制度による成人の日明けの2002年1月15日に合併し、UFJ銀行が発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "三和・東海が合併した2002年(平成14年)1月15日に、両行の勘定系システム(三和が日立製作所・東海が日本IBM)を三和銀行系のシステムに統合している。両行とも日立製作所を窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これによって顧客は、三和・東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。口座自動振替の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。後の同年4月に発生したみずほ銀行のシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させた、みずほフィナンシャルグループは非難されることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、三和・東海はそれぞれ近畿地方・東海地方を地盤とする銀行であり、首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れるダイエー、ニチメン・日商岩井(現:双日)、日本信販(現:三菱UFJニコス)、アプラス、大京、国際興業、国際自動車などみどり会構成企業や三和銀行親密先および、東海銀行のフジタ・藤和不動産(現:三菱地所レジデンス)・トーメンに対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字を計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2002年9月、金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「金融再生プログラム」が発表された。これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらにわかしお銀行との逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。しかし、全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る。」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、メリルリンチから1200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。しかし、あさひ銀行が合流した大和銀ホールディングスは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「りそなショック」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "結果、日本の株式市場はりそなショック後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1300億円程度であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当時のUFJ銀行内は三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧:東海の1.6倍あった旧:三和が主導権を握っていた。三和行員は、“緑化作戦”あるいは“緑一色作戦”(コーポレートカラーが東海の赤色に対し三和が緑色であることによる)と称して東海行員を放逐し、愛知県を中心に東海店舗を30店近く統廃合していた。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。こうした動きは、元々名古屋財界のメインバンクとして機能していた地元銀行を(在阪銀行であった三和により)事実上冷遇した事となり、名古屋財界から顰蹙を買ってしまう。結果、東海3県における預貸シェアは低下し、多くの地元企業が地方銀行、信用金庫などに融資元を変更するに至り、これによる海外進出への弊害も発生した。皮肉にもこの一件により、住友銀行とトヨタとの因縁により手薄となっていた東海地方への三井住友銀行の営業拡大を許してしまうことや、東京三菱銀行との合併後に、元々東海銀行系だったセントラルファイナンスが三井住友フィナンシャルグループに移籍するなどの遠因となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)10月に実施された『金融庁特別検査』では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取(慶應大卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時にMOF担だった早川潜常務(一橋大卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧:三和銀行は、尾上縫事件や大蔵省接待汚職事件(別名・ノーパンしゃぶしゃぶ事件)等、過去の金融スキャンダルでは、常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年(平成10年)の大蔵省接待汚職事件の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に東京地方検察庁特別捜査部に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興を買っていた。また早川自身も、金融当局に対しては、かねてより反抗的であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、「海外はやめて、地方銀行になればいい」という、UFJの検査を統括する目黒謙一・金融庁検査局検査管理官のこの一言で決定的となり、「金融庁は当行を狙い撃ちにして、潰そうとしている」と解釈し、金融当局からの宣戦布告と受け止めた。その検査の過程で、敵対派閥からと見られる内部告発により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場担当の目黒検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年(平成16年)1月、日本経済新聞が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年(平成16年)4月、今度は中日新聞がスクープの形で、UFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ、金融庁に約束した利益が未達となり、寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "結局、2004年(平成16年)3月期決算では、不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって、約4000億円の赤字となった。この2期連続の赤字となり、経営責任を取って、2004年(平成16年)5月に、頭取の寺西正司は退任に追いこまれ、この検査忌避により、UFJ銀行は一部業務停止を含む金融庁の行政処分を受け、さらに、2004年(平成16年)10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が、銀行法違反(検査忌避)容疑で金融庁より刑事告発を受け、同12月には東京地検特捜部は同法違反容疑で岡崎元副頭取ら3人を逮捕した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "メガバンク再編前、全国銀行協会会長を輪番で担当する都銀大手6行(三和・東京三菱・第一勧業・さくら・住友・富士)の中で、三和銀行は唯一地方銀行の業容が拡大した銀行であった。このため、財閥系や特殊銀行を起源とする他行に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。これらは、必然的にリクルーターを通じて学閥内の繋がりが密接になり人事抗争に繋がっていく事になった。他行はこれを「三和のDNA」と蔑称した。また、2019年1月4日の朝日新聞の記事では、実力主義をかかげ、「野武士集団」と呼ばれていたことが触れられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特に渡辺滉頭取(一橋大学卒)時代には企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に一橋大・京都大学出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は高杉良の経済小説『金融腐蝕列島』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ最後の頭取となる沖原隆宗が居た)を補佐役として登用、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で都市銀行トップを実現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取(東京大学卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等陰惨を極めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "結局両者が辞任し、中間派の室町鐘緒(名古屋大学卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "室町の後任は秘書室長経験者だった寺西正司(大阪大学卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長(慶應義塾大学卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し三和銀行時代にフィナンシャルワンを立ち上げるなどかつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)をアプラスに転出させ、また東海で合併を担当した藤田泰久常務(京都大卒)に事実上退行を迫るなど、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任。沖原隆宗が取締役付きでないにもかかわらず常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる」などと述べ不良債権処理の断行を示唆した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし、人事面で見れば寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を日本信販会長へ、常務の中村をJCB専務への転出を決定、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である佐野極(秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "こうした旧態依然たる人事施策は再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなくUFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊、派閥抗争の余裕すら失っていくこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "前述の巨額赤字決算は自己資本を大きく毀損し、このままでは国際業務に必要な自己資本比率8%の維持が困難となった。このため、2004年5月21日に持株会社のUFJホールディングスはUFJ信託銀行を住友信託銀行へ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。しかし、この売却でようやく繰延税金資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められ、2004年3月期の自己資本比率割れをなんとか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。特に問題になった債権は ダイエー、双日で貸付の規模は1兆円を上回っていた。この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この売却発表から2か月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却の撤回と、三菱東京フィナンシャル・グループ (MTFG)とUFJホールディングス(UFJHD)の経営統合で大筋合意し、翌7月16日にMTFGと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年8月12日、2005年10月をメドにMTFGが三菱UFJホールディングス(当時の仮称)へ商号変更の上、UFJHDは吸収合併される事に基本合意し、「三菱東京UFJ銀行」に行名を改める予定となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これに対して、住友信託側が東京地方裁判所に交渉差し止めを求める仮処分申請を行い、東京地裁は2004年7月27日、当該仮処分申請を認める決定を下した。UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、8月4日に却下された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "さらに、UFJ側は即日東京高等裁判所に抗告。2004年8月11日、東京高裁は、地裁の決定を取消し、東京三菱とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。住友信託側は同日、最高裁判所に特別抗告を行ったが、最高裁は8月30日、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、2006年11月21日に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2004年7月30日、電撃的に三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)がUFJホールディングス(UFJHD)に対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった。8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2004年8月12日、MTFGとUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていたMTFGからUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。増資は、公開企業のUFJHDに対してではなく、その傘下の非公開企業であるUFJ銀行に優先株7000億円で行い、さらに、TOB(公開買い付け)によりUFJホールディングス株が20%超買い占められた場合は、その優先株に議決権が発生するポイズンピルを盛り込ませる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2004年9月下旬、SMFGは、株主提案を行うために必要なUFJHD300株を取得、「委任状争奪戦」(プロキシーファイト)を仕掛ける姿勢を鮮明にする。しかし、UFJ側にしてみれば先の住友信託に続く2度目の契約反故は許されない道義的な問題のほか、公的資金を完済したMTFGに対して、SMFGの中核企業である三井住友銀行(SMBC)は当時1兆3000億円の公的資金残高があり、UFJの1兆5000億円を合わせると「SMBC+UFJ」新銀行は発足当初から2兆8000億円の公的資金を抱え込む経済的な問題がネックとされていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2004年秋までには、SMFG側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのはダイエー向けの債権だった。当時のダイエーは中内㓛の会長退任後、高木邦夫の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向で産業再生機構に送られてしまうことに難色を示した。また経済産業省もこれを支持していた。しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "年が明けた2005年2月17日、MTFGとUFJHDは正式に合併を決定し社名を「三菱UFJフィナンシャル・グループ」(MUFG)とすることになった。翌2月18日には合併比率を「1:0.62」で最終合意。4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3か月延期が発表された。そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、東京三菱銀行に救済合併され、発足からわずか3年11か月と15日余りで消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "東京三菱との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループ が2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、UFJグループが過去に積んだ貸倒引当金戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。前述の金融庁の指導により旧UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。その内訳は、2005年度上期で約4000億円、同年下期にも、UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していた繰延税金資産を、5000億円近く資本として繰入れた。2005年通期だけでUFJからの戻益は9000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "これは三菱東京がUFJ救済のため出資した7000億円を大きく上回るだけでなく、UFJにとって「統合に突き進んだ過去の経営判断が正しかったのか」という疑問を想起させかねず(2006/11/21付日経金融新聞)、さらに、過去の金融庁検査が妥当であったかの疑問を提起させた。もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "関連会社", "title": "関連企業" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "関連会社", "title": "関連企業" } ]
株式会社UFJ銀行は、かつて存在したUFJホールディングス(UFJHD)傘下の都市銀行。2006年に東京三菱銀行と合併して三菱東京UFJ銀行となり、2018年に行名を三菱UFJ銀行に改称した。
<!--テンプレートの使用法については、[[Template‐ノート:基礎情報 銀行]]まで。--> {{Pathnav|三菱UFJフィナンシャル・グループ|三菱UFJ銀行|frame=1}} {{出典の明記|date=2023年12月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社ユーエフジェイ銀行 | 英文社名 = UFJ Bank Limited | ロゴ = [[File:UFJ Bank Logo.svg|250px]] | 画像 = [[File:UFJ銀行本店.jpg|300px]] | 画像説明 = UFJ銀行本店(旧:[[東海銀行]]本店)<br />のちに三菱UFJ銀行名古屋営業部になるが2018年6月に移転、8月に解体 | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = {{上場情報|東証1部|8320|1949年5月16日|2001年3月27日}}{{上場情報|大証1部|8320|1949年5月16日|2001年3月27日}} | 略称 = UFJ | 国籍 = {{JPN}} | 本社所在地 = '''本店・名古屋本部'''<br />[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[錦 (名古屋市)|錦]]三丁目21番24号<br />'''東京本部'''<br />[[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]一丁目1番1号<br />'''大阪本部'''<br />[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]伏見町三丁目5番6号 | 設立 = [[1933年]]([[昭和]]8年)[[12月9日]]<br />(株式会社[[三和銀行]]) | 業種 = 7050 | 事業内容 = [[普通銀行|普通銀行業務]] | 代表者 = [[沖原隆宗]]<br />(最後の[[代表取締役]][[頭取]]) | 資本金 = 1兆2585億円8279万1310円 | 発行済株式総数 = 90億7008万3452株 | 売上高 = 単体:1兆7029億8300万円<br />連結:2兆109億円<br />(経常収益、2005年3月期) | 営業利益 = 単体:△6711億8400万円<br />連結:△5508億3900万円<br />([[経常利益]]、同期) | 純利益 = 単体:△6272億7600万円<br />連結:△5027億2400万円<br />(同期) | 純資産 = 単体:1兆7714億2000万円<br />連結:1兆6805億9300万円<br />(同期末) | 総資産 = 単体:68兆1840億4300万円<br />連結:73兆6302億3000万円<br />(同期末) | 従業員数 = 16,758人(単体、同期末) | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = [[三菱UFJフィナンシャルグループ]] 100% | 外部リンク = [https://web.archive.org/web/20051231042404/http://www.ufjbank.co.jp/ 公式サイト]([[インターネットアーカイブ]]) | 特記事項 = いずれもUFJ銀行最後の決算である[[2005年]][[3月]]期決算による<ref>数値は、後身の「[[三菱UFJフィナンシャルグループ]]」ウェブサイトに記載されているUFJ銀行財務諸表({{PDFlink|[http://www.mufg.jp/ir/disclosure/2005ufjh/pdffile/d2005f27.pdf 単体決算]}}、{{PDFlink|[https://www.mufg.jp/ir/disclosure/2005ufjh/pdffile/d2005f27.pdf 連結決算]}})によって記載した。</ref>。 }} {{基礎情報 銀行 |銀行 = UFJ銀行 |英名 = |英項名 = |統一金融機関コード = '''0008''' |SWIFTコード = '''SANWJPJT''' |代表者種別 = |氏名 = |店舗数 = 国内:'''488'''店、海外:'''26'''店<br />(2005年3月31日現在) |従業員数 = |資本金 = |総資産 = |貸出金残高 = '''33'''兆'''7455'''億'''1600'''万円 |預金残高 = '''46'''兆'''9028'''億'''8600'''万円<br />(※譲渡性預金を含まない) |設立日 = |郵便番号 = |所在地 = |外部リンク = |特記事項 = 数値は、後身の「[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]」ウェブサイトに記載されているUFJ銀行の貸借対照表<ref>{{PDFlink|[https://www.mufg.jp/ir/disclosure/2002ufjh/pdf/d2002f0.pdf 貸借対照表]}}</ref>による。 }} [[File:Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ Otemachi Building 2012-01-26.JPG|thumb|right|250px|UFJ銀行東京営業部・東京本部が入居した[[UFJホールディングス|UFJ]]東京ビル(後:[[三菱東京UFJ銀行大手町ビル]]、2012年解体され現在は[[大手町ホトリア|大手町パークビルディング]]が建つ)]] '''株式会社UFJ銀行'''<ref group="注釈">登記上の商号は「'''株式会社ユーエフジェイ銀行'''」。</ref>(ユーエフジェイぎんこう、{{Lang-en|UFJ Bank Limited}})は、かつて存在した[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]](MUFG)<!-- 合併直前時点の親会社 -->傘下の[[都市銀行]]。[[2006年]]に[[東京三菱銀行]]と[[合併 (企業)|合併]]して三菱東京UFJ銀行となり、[[2018年]]に行名を[[三菱UFJ銀行]]に改称した。 == 概説 == [[File:History of MUFG Bank.jpg|thumb|銀行合併の沿革]] [[2002年]][[1月15日]]に[[UFJホールディングス]](UFJHD)傘下の[[大阪市]]に本店を置く'''[[三和銀行]]'''と[[名古屋市]]に本店を置く'''[[東海銀行]]'''が[[合併 (企業)|合併]]して誕生した。三和銀行は[[三和グループ]]の中核企業で、在阪三大都市銀行の一角であった。一方の東海銀行は[[中京圏]]に本店を置く唯一の都市銀行であり、かつては「[[名古屋五摂家]]」として名古屋財界における有力企業であった。 '''UFJ'''は、{{en|'''U'''nited '''F'''inancial of '''J'''apan}}(ユナイテッド・フィナンシャル・オブ・ジャパン)の頭文字を取って名付けられた<ref name="disclosure2002ufjh">{{PDFlink|[http://www.mufg.jp/ir/disclosure/2002ufjh/pdf/d2002f0.pdf UFJグループディスクロージャー誌2002]}} 三菱UFJフィナンシャル・グループ</ref>。スローガンに「'''こたえていくチカラ。'''」を定めていた<ref name="disclosure2002ufjh" />。 本店は[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]にあった(旧:東海銀行本店)が、実質的な本社機能は[[東京都]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]のUFJ東京ビル(現・三菱UFJ銀行大手町ビル)に設置された東京本部(旧:三和銀行東京本部)であった<ref group="注釈">*三和・東海時代には本店の営業窓口においても「本店営業部」と呼称したが、合併にあたり登記上本店を名古屋にあった元々の東海銀行本店としつつ、本社機能は事実上は三和銀行東京本部(サンワ東京ビル、後の三菱東京UFJ銀行大手町ビル)に置いたため、本店営業部と称する営業店を設けなかった。 ** 三和の「本店営業部」「本店公務部」は、「大阪営業部」「大阪公務部」へ、東海の「本店営業部」「本店公務部」は、「名古屋営業部」「東海公務部」へと、それぞれ合併時に改称された。いずれも三菱東京UFJ銀行の店舗として承継している。 ** 尚、東京本部内には「東京営業部」があったが、これは合併前の三和店舗であり、東海の「東京営業部」([[大手町 (千代田区)|大手町]]の東海朝日ビルに所在。2006年に[[朝日生命大手町ビル]]へ改称)は合併時に「東京中央営業部」と改称後、旧:三和・東京営業部に統合・閉鎖された。さらに、東海の「東京公務部」は「虎ノ門公務部」に改称後、三和の「東京公務部」に統合されたが、その跡地に統合後の東京公務部が設置された。 </ref>。 収益力は高かったものの[[金融再生プログラム]]に基づく巨額の[[不良債権]]処理に奔走することになり経営が悪化した上、旧三和・旧東海間での熾烈な派閥抗争や[[金融庁]]特別検査による経営陣退陣(後に検査妨害で一部が逮捕)など経営面でも混乱を極めることとなる。 最終的に[[三菱東京フィナンシャル・グループ]](MTFG)に親会社のUFJHD共々救済されることとなり、[[2005年]][[10月1日]]にMTFGとUFJHDが合併して誕生した三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)の傘下となった後、[[2006年]][[1月1日]]に同じくMUFG傘下の[[東京三菱銀行]](BTM)と合併し、'''三菱東京UFJ銀行'''(現:[[三菱UFJ銀行]])となり、発足からわずか約4年弱(3年11か月15日)で発展的に姿を消した<ref group="注釈">なお、2001年3月31日に開業したユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のパーク内には、2001年3月31日から2002年1月14日までの間、UFJ銀行の前身でありUFJホールディングス傘下の三和銀行がATMコーナーを設置していた関係で、UFJ銀行大阪営業部が「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン出張所」として、UFJ銀行のATMコーナーを設置していた。</ref>。 == 歴史 == === 三行経営統合の破談 === [[1998年]]9月に[[あさひ銀行]](現:[[りそな銀行]]、[[埼玉りそな銀行]])と[[東海銀行]]が[[2000年]]10月を目処に[[持株会社]]方式の[[経営統合]]で合意(東海あさひ銀行構想)し、[[2001年]]秋には地域別に銀行を再編し、さらに賛同する[[地方銀行]]を組み合わせ“マルチ・リージョナル・バンク”を目指す方針だった。 しかし、両行の交渉が長引く中で、[[1999年]]8月、[[第一勧業銀行]]、[[富士銀行]]、[[日本興業銀行]]による3行の経営統合([[みずほフィナンシャルグループ]]の設置)、続く同年10月には三井財閥系の[[さくら銀行]]、住友財閥系の[[住友銀行]]の合併([[三井住友銀行]])が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行の[[メガバンク]]への再編が進む。 こうした金融再編に取り残されたのは、[[北海道拓殖銀行|拓銀]]破綻後は都銀下位行に甘んじた[[大和銀行]]と、強烈な行風が倦厭された[[三和銀行]]であった<ref group="注釈">[[1990年代]]前半に富士銀行との合併も検討されたが、この時は[[公正取引委員会]]の許可が出ず決裂となった。また、1998年には東京三菱銀行との合併交渉もあったが、東京三菱側が合併間もないこともあり、雲散霧消した。しかし、この事が後の救済合併の伏線になる。</ref>。 再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ[[名古屋大学の人物一覧#経済人#銀行|名古屋大学]]出身<ref group="注釈">当時、3行の首脳であった[[室町鐘緒]]三和銀行頭取、西垣覚東海銀行会長、[[伊藤龍郎]]あさひ銀行頭取は、ともに名古屋大学出身であった。</ref>であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。東海あさひは、営業エリアが[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[東海地方]]に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大阪を地盤とする大和銀行の参加を呼び掛けた。 しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「[[フィナンシャルワン]]」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。 その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて'''三和東海あさひ銀行'''の発足構想を主張したため、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱<ref group="注釈">この背景には、あさひ行内で主導権を握りつつあった旧:[[埼玉銀行]]出身者及び埼玉財界の意向が働いた。</ref>。結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。 この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には[[不良債権]]処理による損失から[[公的資金]]注入の[[優先株]]に対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。一方、東海あさひへの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀と[[金融持株会社]][[大和銀ホールディングス]]を設立した。2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。両行は[[2003年]]5月の[[りそなショック]]発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。 === UFJグループ発足 === 2001年4月2日に上場企業であった [[三和銀行]]・[[東海銀行]]・[[東洋信託銀行]]株式を、新設した[[金融持株会社]]'''[[UFJホールディングス]]'''へ[[株式移転]]させ、経営統合を行った。ここからUFJ銀行の発足までの間は、UFJホールディングスの傘下に三和・東海・東洋信託銀行が入っていた<ref group="注釈">後年に救済合併相手となる[[三菱東京フィナンシャル・グループ]]も、同日に東京三菱銀行・三菱信託銀行らの株式移転によって発足している。</ref>。また、この期間中に 三和銀行・東海銀行はシステム統合の準備のため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止。[[ハッピーマンデー制度]]による[[成人の日]]明けの[[2002年]]1月15日に合併し、'''UFJ銀行'''が発足した。 ==== 合併時のシステム統合 ==== 三和・東海が合併した2002年([[平成]]14年)1月15日に、両行の[[勘定系システム]](三和が[[日立製作所]]・東海が[[日本IBM]])を三和銀行系のシステムに統合している。両行とも[[日立製作所]]を窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。 これによって顧客は、三和・東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。[[口座自動振替]]の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。後の同年4月に発生した[[みずほ銀行]]のシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させた、[[みずほフィナンシャルグループ]]は非難されることになる。 === 不良債権処理の遅れ === 三和銀行時代から引き継がれた[[体育会系]]的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかで[[三井住友銀行]]に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、三和・東海はそれぞれ[[近畿地方]]・[[東海地方]]を地盤とする銀行であり、[[首都圏 (日本)|首都圏]]における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。 また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れる[[ダイエー]]、[[双日|ニチメン]]・日商岩井(現:[[双日]])、日本信販(現:[[三菱UFJニコス]])、[[アプラス]]、[[大京]]、[[国際興業]]、[[国際自動車]]など[[みどり会]]構成企業や[[UFJグループ|三和銀行親密先]]および、東海銀行の[[フジタ]]・藤和不動産(現:[[三菱地所レジデンス]])・[[トーメンエレクトロニクス|トーメン]]に対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、[[不良債権]]比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び[[不良債権]]の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字を計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。 特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、[[住友銀行]]がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。 2002年9月、金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に[[竹中平蔵]]が就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「[[金融再生プログラム]]」が発表された。これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件で[[ゴールドマン・サックス]]に優先株を発行し、さらに[[わかしお銀行]]との[[逆さ合併]]により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。しかし、[[全国銀行協会]]会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。[[サッカー]]をしていたのに、突然、[[アメリカンフットボール]]だといわれても困る。」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。 ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、[[メリルリンチ]]から1200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていた[[UFJホールディングス]]の株式を[[モナコ]]の投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。しかし、あさひ銀行が合流した[[りそなホールディングス|大和銀ホールディングス]]は2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「[[りそなショック]]」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。 結果、日本の株式市場は[[りそなショック]]後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、[[金融庁]]から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。[[業務改善命令]]に対して約束した利益は1300億円程度であった。 === 派閥抗争 === 当時のUFJ銀行内は三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧:東海の1.6倍あった旧:三和が主導権を握っていた。三和行員は、“[[緑化]]作戦”あるいは“[[緑一色]]作戦”([[コーポレートカラー]]が東海の赤色に対し三和が[[緑]]色であることによる)と称して東海行員を放逐し<ref name="asahi201090104">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13835815.html?iref=pc_ss_date|title=(カイシャで生きる:3)銀行辞めても、自分の「物差し」|publisher=朝日新聞|date=2019-01-04|accessdate=2019-01-04|author=古屋聡一}}</ref>、愛知県を中心に東海店舗を30店近く統廃合していた。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。こうした動きは、元々名古屋財界のメインバンクとして機能していた地元銀行を(在阪銀行であった三和により)事実上冷遇した事となり、名古屋財界から顰蹙を買ってしまう。結果、東海3県における預貸シェアは低下し、多くの地元企業が地方銀行、信用金庫などに融資元を変更するに至り、これによる海外進出への弊害も発生した。皮肉にもこの一件により、[[住友銀行#トヨタ自動車との確執|住友銀行とトヨタとの因縁]]により手薄となっていた[[東海地方]]への[[三井住友銀行]]の営業拡大を許してしまうことや<ref>さくら銀行と住友銀行の合併後に、トヨタグループと三井住友銀行(存続会社は住友銀行)の取引が本格再開されたが、三井住友銀行発足の際には、トヨタに対しかなりの根回しがなされたという。</ref>、東京三菱銀行との合併後に、元々東海銀行系だった[[セントラルファイナンス]]が[[三井住友フィナンシャルグループ]]に移籍するなどの遠因となった。 === 金融庁との対立と特別検査 === [[2003年]](平成15年)10月に実施された『[[金融庁]]特別検査』では、多額の不良債権の処理不足が指摘された。しかし、当局の指示通りに不良債権処理を行えば、UFJ銀行は巨額の赤字決算となり、これは公的資金注入行に対する「3割ルール」<ref group="注釈">金融庁に提出した経営計画の目標数値が2期連続して3割以上下回った場合、その経営責任を問うというもの。</ref>により、経営陣が退陣することを意味し、必死の抵抗を試みた。 この検査時に、大口融資先の再建・処理は、頭取直轄の「戦略支援グループ」が担当していた。実権を握っていたのは、グループ長の岡崎和美副頭取([[慶應義塾大学|慶應大]]卒)、その補佐で大蔵省接待汚職時に[[MOF担]]だった早川潜常務([[一橋大]]卒)、稲葉誠之執行役員審査第五部長(慶應大卒)の3人である。彼らは、大口先の審査資料として「楽観」「成り行き」「最悪」の3シナリオを用意し、どれを採用するかは、その協議で決めた。その結果、「楽観」シナリオが採用され、債務者区分は「破綻懸念先」が格上げされることにより、不良債権処理損失は圧縮された。また、「成り行き」「最悪」のシナリオは隠蔽され、さらに議事録も改竄し、金融当局と全面対決する道を選んだ。 岡崎らがここまで金融当局に強気に出たのは、過去における実績からであった。旧:三和銀行は、[[尾上縫]]事件や[[大蔵省接待汚職事件]](別名・[[ノーパンしゃぶしゃぶ]]事件)等、過去の金融スキャンダルでは、常に自行に有利な事後処理を実現していた。特に1998年(平成10年)の大蔵省接待汚職事件の際は、当時MOF担だった早川常務を中心に[[東京地方検察庁]][[特別捜査部]]に積極的に情報提供し、自行から逮捕者を出さない目的は達成したものの、大蔵省金融検査部門よりノンキャリア検査官2名が逮捕、1名が自殺に追い込まれる結果となり、以来、金融当局から不興を買っていた。また早川自身も、金融当局に対しては、かねてより反抗的であった。 こうした状況下での特別検査におけるUFJ銀行の金融当局に対する姿勢は、「海外はやめて、地方銀行になればいい」という、UFJの検査を統括する[[目黒謙一]]・金融庁検査局検査管理官のこの一言で決定的となり、「金融庁は当行を狙い撃ちにして、潰そうとしている」と解釈し、金融当局からの宣戦布告と受け止めた。その検査の過程で、敵対派閥からと見られる[[内部告発]]により前述の資料等の隠蔽・改竄が発覚するに及んで金融庁、特に現場担当の[[目黒謙一|目黒]]検査官の逆鱗に触れることになる。また、2004年(平成16年)1月、[[日本経済新聞]]が金融庁の特別検査が入っている実態が報道され計画されていた永久劣後債による4000億円にのぼる増資は取り止めになった。さらに、2004年(平成16年)4月、今度は[[中日新聞]]がスクープの形で、UFJグループの不良債権に対する引き当てが不十分とされる報道がなされ、金融庁に約束した利益が未達となり、寺西らの経営トップの辞任の見通しを報じた(UFJショック)。 結局、2004年(平成16年)3月期決算では、不良債権処理のために損失引当の大幅な積み増しによって、約4000億円の赤字となった。この2期連続の[[黒字と赤字|赤字]]となり、経営責任を取って、2004年(平成16年)5月に、頭取の[[寺西正司]]は退任に追いこまれ、この検査忌避により、UFJ銀行は一部業務停止を含む金融庁の行政処分を受け、さらに、[[2004年]](平成16年)10月、法人としてのUFJ銀行と、岡崎元副頭取ら「戦略支援グループ」の元担当役員ら3人が、[[銀行法]]違反(検査忌避)容疑で金融庁より刑事告発を受け、同12月には東京地検特捜部は同法違反容疑で岡崎元副頭取ら3人を逮捕した<ref group="注釈">2005年4月、一審・東京地裁は岡崎元副頭取に[[懲役]]10月・[[執行猶予]]3年、早川・稲葉元役員に懲役8月・執行猶予3年、法人としてのUFJ銀行に罰金9000万円とする判決を言い渡した。3名とUFJ銀行は控訴せず判決は確定した。</ref>。 === 三和銀行の行風 === [[メガバンク]]再編前、[[全国銀行協会]]会長を輪番で担当する都銀大手6行([[三和銀行|三和]]・[[東京三菱銀行|東京三菱]]・[[第一勧業銀行|第一勧業]]・[[さくら銀行|さくら]]・[[住友銀行|住友]]・[[富士銀行|富士]])の中で、[[三和銀行]]は唯一[[地方銀行]]の業容が拡大した銀行であった。このため、財閥系や[[特殊銀行]]を起源とする他行<ref group="注釈">東京三菱・さくら([[太陽神戸銀行]]と[[三井銀行]]が合併)・住友・富士(旧:安田)は旧財閥系であり、第一勧銀([[第一銀行]]と[[日本勧業銀行]]が合併)は前身の第一が1873年8月1日に営業開始した日本初の商業銀行で、勧銀は旧特殊銀行である。</ref>に比べ優秀な新入行員確保に苦労した。これらは、必然的にリクルーターを通じて[[学閥]]内の繋がりが密接になり人事抗争に繋がっていく事になった。他行はこれを「三和のDNA」と蔑称した。また、2019年1月4日の朝日新聞の記事では、実力主義をかかげ、「野武士集団」と呼ばれていたことが触れられている<ref name="asahi201090104"/>。 特に[[渡辺滉]]頭取([[一橋大学]]卒)時代には企画・秘書・人事中枢部門に権限を集中させ、同時に一橋大・[[京都大学]]出身者、中でも中村明秘書室長(京都大卒)が重用された。中村は[[高杉良]]の[[経済小説]]『[[金融腐蝕列島]]』で「カミソリ佐藤」と呼ばれ恐れられる銀行マンのモデルとも言われ、頭取の渡辺に「私の思う通りにやらせてもらえば、三和を収益ナンバーワンにしてみせる」と豪語、行内で“七奉行”と呼ばれた若手秘書役(この一人に、UFJ最後の頭取となる[[沖原隆宗]]が居た)を補佐役として登用、権勢を揮う中、実際に業務純益・経常利益・当期利益で[[都市銀行]]トップを実現した。 こうした経営の意思決定の迅速化は成果を出したものの、学閥を中心にした側近政治の弊害に対する内部に溜まった不満は1999年当時会長となった渡辺と佐伯尚孝頭取([[東京大学]]卒)の主導権争いで爆発し、怪文書等の流布等陰惨を極めた。 結局両者が辞任し、中間派の[[室町鐘緒]]([[名古屋大学]]卒)が頭取に昇進したものの、2002年、UFJ銀行の発足を目前にして赤字決算の責任を取り退任した。 室町の後任は秘書室長経験者だった[[寺西正司]]([[大阪大学]]卒)であった。寺西は幹部層を岡崎副頭取、中村正人企画部門担当常務、末席の執行役員から抜擢した松本靖彦秘書室長([[慶應義塾大学]]卒)ら阪大・慶大出身の側近で固める一方、対立派閥に属し三和銀行時代に[[フィナンシャルワン]]を立ち上げるなどかつて頭取候補と言われた杉山淳二常務(東京大卒)を[[アプラス]]に転出させ<ref group="注釈">後にアプラスの親会社となった[[SBI新生銀行|新生銀行]]の副会長に転出、後に同社会長。新生銀行の会長就任後にアプラス会長も兼任していたが、2008年6月にいずれも退任している。</ref>、また東海で合併を担当した藤田泰久常務([[京都大学|京都大]]卒)に事実上退行を迫るなど<ref group="注釈">その後藤田は2007年6月より[[トヨタファイナンス]]社長に就任。</ref>、より側近政治・派閥抗争を悪化させる。 前述の金融庁特別検査の結果、2004年5月に寺西頭取が退任。沖原隆宗が取締役付きでないにもかかわらず常務執行役員からいきなり頭取に就任するという異例の昇進をした。この時沖原は「(2005年3月期の)上期中に大口融資先の対応について布石を打つ」「十指に満たない融資先の債権の処理を念頭に置いている」「UFJ銀行の問題は一言で言えば大口融資先の問題に尽きる」などと述べ不良債権処理の断行を示唆した。 しかし、人事面で見れば寺西と共に退任を余儀なくされた岡崎副頭取を[[日本信販]]会長へ、常務の中村を[[JCB]]専務への転出<ref group="注釈">後に[[イオン (企業)|イオン]]に[[顧問]]として迎えられ、[[イオン銀行]]副社長に就任。現在は退任。</ref>を決定、また松本秘書室長も常務執行役員に昇格させ、松本を筆頭に直属の部下である[[佐野極]](秘書役、京都大卒)・企画部長・広報部次長のいわゆる「4人組」を側近に据えた。 こうした旧態依然たる人事施策は再び金融庁の逆鱗に触れ、これらの人事が撤回させられたばかりでなくUFJ消滅への遠因となった。その後、すでに優秀な人材は流出していたUFJ内部は疲弊、派閥抗争の余裕すら失っていくこととなった。 === 三菱による救済 === ==== 住信へのUFJ信託売却と撤回 ==== 前述の巨額赤字決算は自己資本を大きく毀損し、このままでは国際業務に必要な[[自己資本比率]]8%の維持が困難となった。このため、2004年[[5月21日]]に持株会社の[[UFJホールディングス]]は[[UFJ信託銀行]]を[[住友信託銀行]]へ3000億円で売却すると発表せざるを得なくなった。しかし、この売却でようやく繰延税金資産の自己資本への組み入れが監査法人に認められ、2004年3月期の自己資本比率割れをなんとか繕っている形であり、UFJの不良債権処理は体力的に難しい問題を抱えていた。特に問題になった債権は [[ダイエー]]、[[双日]]で貸付の規模は1兆円を上回っていた。この発表からわずか3日後の5月24日、UFJホールディングスの2004年3月期決算がUFJ信託銀行の売却でも埋められない大幅赤字となることが判明する。 この売却発表から2か月も経たない7月14日、持株会社経営陣はUFJ信託銀行の住友信託銀行への売却の撤回と、'''[[三菱東京フィナンシャル・グループ]] (MTFG)'''と[[UFJホールディングス]](UFJHD)の'''経営統合'''で大筋合意し、翌[[7月16日]]にMTFGと経営統合に向けての協議を開始すると発表した。統合の時期は2005年度上半期を目標とし、2004年[[8月12日]]、2005年10月をメドにMTFGが[[三菱UFJフィナンシャル・グループ|三菱UFJホールディングス]](当時の仮称)へ商号変更の上、UFJHDは吸収[[合併 (企業)|合併]]される事に基本合意し、「三菱東京UFJ銀行」に行名を改める予定となった。 これに対して、住友信託側が[[東京地方裁判所]]に交渉差し止めを求める[[仮処分]]申請を行い、東京地裁は2004年[[7月27日]]、当該仮処分申請を認める決定を下した。UFJ側がこれに対し異議を申し立てるも、[[8月4日]]に却下された。 さらに、UFJ側は即日[[東京高等裁判所]]に[[抗告]]。2004年[[8月11日]]、東京高裁は、地裁の決定を取消し、東京三菱とUFJの統合交渉を可とする決定を下した。住友信託側は同日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]に特別抗告を行ったが、最高裁は[[8月30日]]、高裁の判断を妥当とし、住友信託側の申請を退ける決定が確定した。その後、住友信託側が売却の白紙撤回に対する民事訴訟に切り替えてUFJ側と争ったものの、[[2006年]][[11月21日]]に東京高裁の提案による住友信託に対して25億円の和解金を支払う事で和解が成立した。 ==== 三井住友FGによる経営統合の申入れ ==== 2004年7月30日、電撃的に[[三井住友フィナンシャルグループ]](SMFG)がUFJホールディングス(UFJHD)に対して経営統合の申入れを表明、8月24日に発表した「1:1」の合併比率はUFJにとっては破格の条件だった<ref group="注釈">前日8月23日の株価を基準にすれば、MTFG:UFJは「1:0.48」、SMFG:UFJは「1:0.78」だった。</ref>。8月30日には、UFJに対する増資引受条件に関する提案を送付する。 2004年8月12日、MTFGとUFJが2005年10月までの経営統合で基本合意。さらに、9月10日、それまで9月29日までに行うとしていたMTFGからUFJに対する増資を9月17日への前倒しする事を発表した。増資は、公開企業のUFJHDに対してではなく、その傘下の非公開企業であるUFJ銀行に優先株7000億円で行い、さらに、[[株式公開買い付け|TOB]](公開買い付け)によりUFJホールディングス株が20%超買い占められた場合は、その優先株に議決権が発生する[[ポイズンピル]]を盛り込ませる。 2004年9月下旬、SMFGは、株主提案を行うために必要なUFJHD300株を取得、「委任状争奪戦」([[プロキシーファイト]])を仕掛ける姿勢を鮮明にする。しかし、UFJ側にしてみれば先の住友信託に続く2度目の契約反故は許されない道義的な問題のほか、公的資金を完済したMTFGに対して、SMFGの中核企業である[[三井住友銀行]](SMBC)は当時1兆3000億円の公的資金残高があり、UFJの1兆5000億円を合わせると「SMBC+UFJ」新銀行は発足当初から2兆8000億円の公的資金を抱え込む経済的な問題がネックとされていた。 2004年秋までには、SMFG側が大勢を覆すには至らないのは明白になっていくが、この動きが、三菱東京との交渉においてUFJ側に有利に働いたことは否定できない効果であった。 ==== 救済までの不良債権処理 ==== この間、UFJは三菱東京との統合前に不良債権処理を進めていく。特に、UFJグループのなかでもっとも問題とされたのは[[ダイエー]]向けの債権だった。当時のダイエーは[[中内㓛]]の会長退任後、[[高木邦夫]]の指揮下で資産の売却や売り場の改善を進めていたがその売り上げは低迷凋落の一途をたどっていた。高木は2002年3月に決まった再建計画の途中(期限は2005年2月)でメインバンクサイドの意向で[[産業再生機構]]に送られてしまうことに難色を示した。また経済産業省もこれを支持していた。しかしダイエーの決算の前提に金融機関の支援の不可欠とする監査法人の見解を受けて高木が翻意して再生機構へ送られることが決定した。 ==== 金融庁の懸念と合併延期 ==== 年が明けた[[2005年]][[2月17日]]、MTFGとUFJHDは正式に合併を決定し社名を「[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]」(MUFG)とすることになった。翌2月18日には合併比率を「1:0.62」で最終合意<ref group="注釈">直近の時価比率は「1:0.6弱」で推移していた。</ref>。4月20日、合併契約が正式調印、同年6月29日、それぞれの株主総会で合併が承認される。なお、東京三菱銀行との合併について、持株会社や傘下の信託銀行・証券会社と同じく2005年10月1日を予定していたが、システム統合準備の遅れが金融庁より指摘され、8月12日、3か月延期が発表された。そして、2006年1月1日にUFJ銀行は、[[東京三菱銀行]]に救済合併され、発足からわずか3年11か月と15日余りで消滅した<ref group="注釈">合併による新行名は、合併の主導権である「[[三菱銀行|三菱]]」と、国際業務における周知行名である「[[東京銀行|東京]]」、そして救済合併した「UFJ」の順に並べて「'''三菱東京UFJ銀行'''」となり、「UFJ」の名は消滅しなかった。</ref>。 ==== 引当と経営統合の妥当性 ==== 東京三菱との経営統合から1年後、三菱UFJフィナンシャル・グループ が2006年11月21日発表した2006年9月中間決算では、UFJグループが過去に積んだ[[貸倒引当金]]戻入益などが過去の累計で1兆円を超えた。前述の金融庁の指導により旧UFJが2004年度から一気に不良債権として処理を進めた大口債務者の一つが、この中間期に正常債権となり、多額の繰戻益につながったためである。その内訳は、2005年度上期で約4000億円、同年下期にも、UFJの経営悪化で「評価性引当金」として簿外に計上していた[[繰延税金資産]]を、5000億円近く資本として繰入れた。2005年通期だけでUFJからの戻益は9000億円規模となり、2006年上期分を合わせて1兆円を超えたことになる。 これは三菱東京がUFJ救済のため出資した7000億円を大きく上回るだけでなく、UFJにとって「統合に突き進んだ過去の経営判断が正しかったのか」という疑問を想起させかねず(2006/11/21付[[日経金融新聞]])、さらに、過去の金融庁検査が妥当であったかの疑問<ref>{{Cite news|title=「伝説の検査官」の遺訓=求めた規律、不良債権問題に区切り|newspaper=JIJI Financial Solutions|publisher=時事通信社|date=2020-01-31|url=https://financial.jiji.com/magazine_bk/back_number_news.html?number=25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201002205704/https://financial.jiji.com/magazine_bk/back_number_news.html?number=25|archivedate=2020-10-02}}</ref>を提起させた。もっとも、戻益の過半を占める繰延税金資産の計上は、経済環境の好転もさることながら、経営統合により収益性が増したために可能であったとの見方もあり、一概には言えない。 == 沿革 == * [[1999年]](平成11年)- 東洋信託銀行と三和信託銀行が合併。 * [[2001年]](平成13年)[[4月2日]] - 三和銀行・東海銀行・東洋信託銀行が株式移転により株式会社UFJホールディングスを設立し、これら三行はUFJホールディングスの完全子会社となる。同年7月、東洋信託銀行と東海信託銀行が合併。 * [[2002年]](平成14年)[[1月15日]] - 三和銀行が東海銀行を合併し、株式会社ユーエフジェイ銀行となる。 * [[2003年]](平成15年)[[10月1日]] - 個人顧客サービスの24時間営業化を図る「UFJ24」が開始。「UFJちょっとコール」を「UFJ銀行コールセンター」に改称し、24時間有人対応を開始。 * [[2005年]](平成17年)10月1日 - 三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)が UFJホールディングス(UFJHD)を合併し、'''三菱UFJフィナンシャル・グループ'''(MUFG)が発足。東京三菱銀行及び当行は、MUFGの傘下に入る。 * [[2006年]](平成18年)[[1月1日]] - 東京三菱銀行に合併し消滅、'''三菱東京UFJ銀行'''が誕生する。 == 関連企業 == === 三和銀行 === {{see|みどり会}} 関連会社 {| |- | valign="top" | * 三和システム開発(現:[[三菱UFJインフォメーションテクノロジー]]) * [[UFJつばさ証券]](現:[[三菱UFJモルガン・スタンレー証券|三菱UFJ証券]]) * [[UFJ信託銀行]](現:[[三菱UFJ信託銀行]]) * 東洋情報システム(現:[[TIS (企業)|TIS]]) * 東洋興業 * 東洋ホテル<br />(現:[[ラマダホテル]]大阪) * 東洋不動産 * 東洋プロパティ * 洋伸不動産<ref group="注釈">東洋信託の関連会社</ref> | valign="top" | * 三信(東京都新宿区) * T&Tアド([[ハウスエージェンシー]]) * 大蔵屋 * [[オークラヤ住宅]] * [[日本ハウズイング]] * [[フィナンシャルワン]] * [[三菱UFJニコス|フィナンシャルワン・カード]] * [[三菱UFJニコス|日本信販]]<ref group="注釈">2004年に連結子会社化し、[[UFJカード]]を吸収合併。</ref> * [[池田泉州銀行]]<ref group="注釈">前身の泉州銀行は子会社としていた。</ref> |- |} === 東海銀行 === 関連会社 * [[UFJカード|ミリオンカード・サービス]](後にUFJニコスを経て、現:[[三菱UFJニコス]]) * セントラルリース(現:[[三菱HCキャピタル]]) * セントラルシステムズ(後に[[ユーフィット]]を経て、現:[[TIS (企業)|TIS]]) * [[セントラルファイナンス]]<ref group="注釈">2007年に[[三井物産]]・[[三井住友フィナンシャルグループ|SMFG]]と資本提携しグループ離脱。</ref>(現:[[セディナ]]) * 東栄 * 新東昭不動産 * 御幸ビルディング * T&Tアド === 融資親密先 === ;<nowiki>旧:三和銀行関連</nowiki> {| |- | valign="top" | * [[鴻池組]] * [[大京]] * [[双日]]<ref>[https://www.sojitz.com/jp/ir/stkholder/stock.html 双日株式会社|投資家情報|株式・株主情報|株式の状況]</ref> * [[髙島屋]] * [[大丸]] * [[ダイエー]] * [[セブン&アイ・ホールディングス]] ** [[イトーヨーカ堂]]<ref group="注釈">[[三井住友銀行]]と親密であるが[[セブン銀行|アイワイバンク銀行]]の設立に協力。</ref> * [[そごう]]<ref group="注釈">[[長期信用銀行|長信銀]]2行に次ぐ最多の融資をしていた。[[そごう・西武|ミレニアムリテイリング]]発足により離脱するが買収により7&i傘下となる。</ref> * [[マイカル]]<ref group="注釈">準主力行であったが破綻時点で457億円を融資していた。</ref> * [[阪急阪神東宝グループ]]<ref group="注釈">[[三井住友銀行]]([[住友銀行|住銀]])と親密。</ref> ** [[阪急電鉄]] ** [[阪神電気鉄道]] ** [[阪急百貨店]] ** [[阪神百貨店]] ** [[東宝]] * [[南海電気鉄道]] * [[相模鉄道]]<ref group="注釈">三井住友銀行(住銀)と親密。</ref> * [[日立グループ]] ** [[日立製作所]]<ref group="注釈">[[日産コンツェルン|春光グループ]]の中核企業であり、[[興銀グループ]]にも属する。</ref> * [[シャープ]]<ref group="注釈">[[みずほ銀行]]([[富士銀行|富士]])と親密。</ref> * [[ロート製薬]] * [[京セラ]]<ref group="注釈">[[京都銀行]]と親密。</ref> * [[日立造船]]<ref group="注釈">戦後の時点で既に日立製作所のグループ外企業。</ref> * [[帝人]] | valign="top" | * [[スクウェア・エニックス]](旧:[[エニックス]])<ref group="注釈">旧:[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]は[[四国銀行]]と親密。</ref> * [[タイトー]] <ref group="注釈">[[三井住友銀行]]([[住友銀行|住銀]])と親密。</ref> * [[デジキューブ]] ** ミックスキューブ<ref group="注釈">三和銀と合弁で設立。</ref> * [[UBE (企業)|宇部興産]] * [[コスモ石油]] * [[月島機械]] * 中央倉庫 * [[福助]] * [[東京會舘]] * [[パレスホテル]] * [[エスエス製薬]] <ref group="注釈">[[三井住友銀行]]([[住友銀行|住銀]])と親密。</ref> * [[ニチイ学館]] * [[オカモト]] * [[オートバックスセブン]] * [[イトキン (企業)|イトキン]] * ブルーブルーエ<ref>[https://www.bleubleuet.jp/shop/pages/company.aspx ブルーブルーエ ジャパン]</ref> * シナジーキャピタル * [[グリーンスタンプ]] * [[大阪ソーダ]] * [[毎日放送]]<ref group="注釈">同行が第3位の大株主となっている。</ref> * [[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]] * [[関西テレビ放送|関西テレビ]] * [[読売テレビ放送|読売テレビ]] <ref group="注釈">[[三井住友銀行]]([[住友銀行|住銀]])と親密。</ref> * [[テレビ大阪]] <ref group="注釈">[[三井住友銀行]]([[住友銀行|住銀]])と親密。</ref> * [[エイベックス]] | valign="top" | * [[日本生命保険]] * [[サンライズ (ペットフード)|サンライズ]] * [[UHA味覚糖]] * [[日清食品]] * [[江崎グリコ]] * [[ジェーシービー|JCB]]<ref group="注釈">三和銀行・東洋信託銀行と[[三菱UFJニコス|日本信販]]によって設立。</ref> * [[アプラスフィナンシャル]]<ref group="注釈">2004年に[[SBI新生銀行|新生銀行]]へ持株売却し離脱。</ref> * [[SMBCコンシューマーファイナンス|プロミス]]<ref group="注釈">2004年に[[三井住友銀行]]へ持株売却し離脱。</ref> ** [[モビット]] * [[あいおいニッセイ同和損害保険]]<br />(旧:同和火災) * [[スズキ (企業)|スズキ]] * [[日本興亜損害保険]] * [[紀陽銀行]] * [[大正銀行]](現在の[[徳島大正銀行]]) * [[静岡中央銀行]] * [[徳島銀行]](現在の徳島大正銀行) * [[オリックス (企業)|オリックス]]<ref group="注釈">[[双日|日綿実業]]と三和銀行を主体に設立。MUFG発足後は[[りそなグループ]]と親密。</ref> |- |} ; <nowiki>旧:東海銀行関連</nowiki> {| |- | valign="top" | 旧:'''さつき会'''構成企業 * [[トヨタ自動車]] * [[中央信託銀行]]<ref group="注釈">[[中央三井信託銀行]]発足により[[三井グループ]]構成企業へ。</ref> * [[千代田生命保険]](2000年経営破綻) * 千代田火災海上保険<br>(現:[[あいおいニッセイ同和損害保険]])<ref group="注釈">あいおい損害保険発足時に[[トヨタグループ]]へ軸足を移す。</ref> | valign="top" | * [[東海東京証券]]<ref group="注釈">東海証券として設立。2006年に[[三井住友海上]]と資本提携し東海色が薄まる。</ref> * [[リコー]]・[[三愛]]グループ * [[トヨタグループ]]の一部 ** [[豊田通商]] ** [[トヨタファイナンシャルサービス]] *** [[トヨタファイナンス]] ** [[ダイハツ工業]] * [[名古屋鉄道]] * [[松坂屋]] * [[ユニー]] * [[東海旅客鉄道]]<ref group="注釈">[[みずほ銀行]](旧:[[日本興業銀行|興銀]])に次ぐ準主力行。</ref> | valign="top" | * [[フジタ]]<ref group="注釈">三井住友銀行(旧:さくら銀行)とも親密。</ref> * [[藤和不動産]](現:[[三菱地所レジデンス]]) * [[藤田観光]] * [[日本旅行]]<ref group="注釈">[[西日本旅客鉄道]]の完全子会社化に伴い関係色が薄まる。</ref> * [[出光興産]]<ref group="注釈">[[三井住友銀行]](旧:[[住友銀行|住銀]])・[[三井住友信託銀行|旧:住友信託銀行]]に次ぐ準主力行。</ref> * [[東京エレクトロン]] * [[東陽倉庫]] * [[名港海運]] * [[東海テレビ放送]]<ref group="注釈">同行が第7位の大株主となっている。</ref> * [[中部日本放送]]<ref group="注釈">2006年3月31日の[[有価証券報告書]]によると第4位の大株主となっている。また、同行の親会社である[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]から大量保有報告書が提出されている。</ref> * [[中京テレビ放送]]<ref group="注釈">同行が第9位の大株主となっているほか、[[ユーフィット]]が第2位の大株主となっている。</ref> |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[貨幣・浮世絵ミュージアム]] * [[ゆうちょ銀行]] - システム統合後の旧:UFJ銀行の基幹システムを引きとる。 * [[金融腐蝕列島]] - [[高杉良]]の[[経済小説]]。完結編である「消失 金融腐蝕列島・完結編」で、協立銀行と東亜銀行が合併してJFG(Japan Financial Group)銀行となり、その後の派閥争いや金融庁検査を経て、最後は東都光陵銀行に救済合併され「東都光陵JFG銀行」が成立する。協立は三和、東亜は東海、東都光陵は東京三菱がそれぞれモデルである。JFGはいわずともかなUFJがモデルであり、旧三和側行員が「緑化作戦(劇中では「グリーン化作戦」)」と称して旧東海側行員を冷遇する部分などを再現している。 * 小説 金融庁 - [[江上剛]]の[[小説]]。五輪銀行と大東銀行が合併して発足した大東五輪銀行の不良債権処理のために金融庁の特別検査が行われ、遂には大東京四菱銀行に吸収合併されるという物語。五輪は三和、大東は東海、大東京四菱は東京三菱がモデルである。旧五輪銀行と旧大東銀行の派閥争いやそれに端を発する内部告発、また合併で業績不振だった国内最大手スーパーのメインバンクとなる設定などが再現されている。 == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20020525083753/http://www.ufjbank.co.jp/ UFJ銀行] * [https://www.bk.mufg.jp/ 三菱UFJ銀行] {{三菱UFJフィナンシャル・グループ}} {{DEFAULTSORT:ゆうえふしえいきんこう}} [[Category:かつて存在した都市銀行]] [[Category:三菱UFJ銀行の前身行|*ゆえふしえいきんこう]] [[Category:UFJホールディングス|きんこう]] [[Category:かつて存在した愛知県の企業]] [[Category:三和グループの歴史]] [[Category:2005年廃止の企業]] [[Category:栄 (名古屋市)]] [[en:UFJ Bank Limited]]
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AEカメラ
AEカメラ(エーイーカメラ)は、露出を自動で行なう機能(英語: Automatic Exposure)をもつ写真機である。絞りやシャッター速度(シャッタースピード)を自動的に制御し、被写体の明度に応じた露光が得られるようにする機能をAE機能(エーイーきのう)と呼ぶ。この種の写真機については、ほかにも、自動露光調節式カメラ(じどうろこうちょうせつしきカメラ)、自動露出カメラ(じどうろしゅつカメラ)とも呼ぶ。当初は、EEカメラ(英語: Electric Eye の略、「電気の眼」の意)と呼ばれた。 AEは、大別して、 がある。 AEの方式は、露出の2大要素である「絞り」と「シャッター速度」のうちどれをカメラに自動制御させるかによっていくつかの方式に分かれており、これを「露出モード」という。 一般的に採用されている露出モードは以下の通りのものがある。 S/Tv モード、あるいはシャッター優先オート、シャッター速度優先AEとも言われる。設定したシャッター速度を基準とし、そのシャッター速度に応じて絞りを自動的に変える事で適正な露出値を得る。被写界深度よりも露光時間による効果を重視する場合、あるいは手ブレを防止したい場合に有効である。 一般的な使用例 A/Avモード、あるいは絞り優先オート、絞り優先AEとも言われる。設定した絞りを基準とし、その絞りに応じてシャッター速度をAE機能が自動的に変える事で適正な露出値を得る。絞り値を調節し、被写界深度を意識した撮影をする場合に有効である。 一般的な使用例 Pモード、プログラムオートとも言われる。シャッター速度・絞りの両方を一定のプログラムを元にして割り振ることで、適正な露出値を得る。あらかじめ決められた絞り・シャッター速度の組み合わせをグラフにしたものをプログラムライン図という。絞り・シャッター速度の中間的な露出をすばやく決めたいときに有効である。 一般的な使用例 プログラム露出の方式は2種類存在する。一つは、あるEV(フィルムに対する明るさ)に対して1つのシャッター速度と1つの絞りが決まっている方式で、もう一つはEVが同じになる絞りとシャッターの組み合わせを自由に変更できる方式である。前者はシャッター機構を簡単に作ることができ、複雑な操作も不要になるため現在のコンパクトカメラなど初心者向けのカメラではもっとも一般的な露出機能である。後者は高度な写真表現を可能とするが、機構はほかの露出モードやマニュアル露出と同様のものを必要とするため、他の露出方式とともに一眼レフカメラに搭載されることが多い。後者の方式において、絞りとシャッター速度の組み合わせを変えることをプログラムシフトと呼ぶ。 なおプログラム自動露出機構は、24×36mm(ライカ)判コンパクトカメラ、24×36mm(ライカ)判一眼レフカメラ、110フィルム用カメラ、デジタルカメラ以外にはほとんど搭載されない。 現在の24×36mm(ライカ)判マルチモードAF一眼レフカメラやデジタルカメラでは、このプログラム露出の発展型として、多数の露出プログラムを用意し、カメラが撮影シーンや使用するレンズなどに合わせて最適な露出プログラムを自動選択するマルチプログラム、撮影シーン(スポーツモードや夜景モードなど)に合わせ最適化したシーン別全自動プログラム露出、さらに通常のプログラム露出モードとシーン別プログラム露出を自動選択する自動シーンセレクターを搭載する機種も多い。 デジタルカメラはフィルムカメラと異なりISO感度を自由に設定できる特徴を持つ。そこで、撮影者がシャッター速度と絞り値の両方を任意に設定し、ISOのみをAE機能が自動的に変える事で適正な露出値を得る。 TAvモードとも呼ばれる。 近年のデジタルカメラでは、シャッター速度と絞り値をマニュアルで設定すると、感度が適正露出になるよう自動設定される、というモードを備えるものが現れている。従来プログラムオートモードのみで有効だった自動感度調節(主に暗い場所で自動的に感度を上げる目的)がマニュアルモードでも有効にできる、別の新しいモードが追加されている、など今のところ方式はメーカー・モデルによりまちまちである。 それまで機械式フラッシュ自動露出機能として使われていたフラッシュマチックに替わり、フラッシュ撮影を完全自動化するために開発されたフラッシュ撮影専用の露出モードである。このモードを使用するにはフラッシュ側もTTLフラッシュ自動露出に対応している必要がある。 このAEでは、撮影前に一度フラッシュを発光して、実際のフラッシュ使用時の明るさを測り(プリ発光)、その後実際の発光・撮影が行われる。 深度優先AE(しんどゆうせんエーイー)は、被写体との任意の2点を測ることで、被写界深度を優先させて、絞り・シャッター速度を自動調節するAE機能である。任意の2点、最遠部と至近部の距離の浅さ・深さで、被写界深度を決められる。1987年(昭和62年)3月1日にキヤノンが発売したキヤノン EOS 650で、初めて採用した。その後、自動的に深度が深くなる自動深度優先AE(じどうしんどゆうせんエーイー)が開発され、同社が製造販売するデジタル一眼レフカメラに搭載している。被写界深度優先AE(ひしゃかいしんどゆうせんエーイー)とも。 TTL露出計内蔵式のAEカメラにおいて、各AE機能によって得た適正露出値、つまり シャッター速度 と 絞り値 を一定時間中固定(ロック・記憶状態)させる機能である。「メモリー・ロック (Mロック)」、「像面光量ロック」とも呼ばれる。 この機能を使った主なテクニックの一例として、絞り値優先自動露出モードにおいて、適正露出を得るのに厳しい撮影環境、つまり撮影フレーム内にて光量差の大きな被写体が混在するような状況などで、スポット測光で被写体の中の適正露出を得やすい、光の反射率の色(緑、青など)や経験にて適正補正値を把握している箇所を測光し、AEロックによって一時的に露出値を固定させて撮影者がその間に記憶し、再フレーミングしてからスポット測光によって得た露出値を加味して撮影する、などの使用法が考えられる。カメラの機種によって、専用ボタンが設けられているもの、シャッターボタン半押し状態でロックされるものや、またAEロックされた状態を機能解除するまで続行可能なものなどがある。 自動露出で得た露出値が、必ずしも適正な露出値ではない場合がある。また、意図的に露出を外す撮影をする場合もある。そうした場合に、専用のダイヤル、あるいはボタン操作によって、より撮影者の意図に沿った露出を容易に実現する機能である。 基本的な自動露出の3方式 のうち、最も早く実用化されたのがシャッター速度優先AEである。これは、機械式のシャッターの速度を露出計に連動させて変更することはほとんど不可能だったからである。この時代に自動露出のことをEEと呼んでいたのは、当時の自動露出カメラが人間の目で虹彩に当たる絞りを制御して適正露出を得ることから、「電気仕掛けの目=ElectricEye」と呼んだからであった。 最初にAEが普及したのは、当時一般ユーザー向けとして最も普及していた24×36mm(ライカ)判や24×18mm(ハーフ)判のレンズシャッター式距離計連動カメラあるいは目測カメラであった。 世界で初めて実用的なAEを搭載したカメラは1960年(昭和35年)に発売されたオリンパスの24×36mm(ライカ)判レンズシャッター式距離計連動カメラ「オートアイ」である。このカメラはセレン光電池を使用した受光部とシャッター速度リング、フィルム感度ダイヤルに連動した擦動可変抵抗によって露出計を駆動する。レリーズボタンを半押しすると、その力で露出計の針を針押さえと鋸刃状の段カムで挟み込んでメーターの針の位置を読み取る。さらにレリーズボタンを押し込むと絞りが絞り込まれていくが、このとき先述の段カムの位置によって制御される絞りストッパーが動き、適正露出になったところで絞込みにストップをかけ適正露出を得るという仕組みである。 1961年(昭和36年)に圧倒的な低価格で販売され一大ブームを巻き起こしたキヤノンの「キヤノネット」も同じ仕組みのシャッター速度優先AEを装備しており、この方式は一般ユーザーの間で瞬く間に普及した。 この方式は全機械式連動でシャッター速度優先AEを可能にするほぼ唯一の方法であり、その後あらゆるカメラメーカーで10年以上に渡ってAEカメラ設計の常套手段であり続けた。 シャッターの半押しで自動制御の状態がロック、というユーザインタフェースはまさにこのメカニズムにより自然発生したものであるが、こんにちまで使われている。 後にプログラムAEが普及していくと、シャッター速度優先AEはレンズシャッターカメラ用AEの主役を明け渡したが、いくつかのシャッター速度優先AEのコンパクトカメラが、仕組みもほとんど1960年当時から変えないまま販売され続けた。しかし、1980年代後半に入るとコンパクトカメラのシャッターは電子プログラムAEが常識となり、シャッター速度優先AEはコストや小型化の競争についていけなくなりほぼ姿を消した。 シャッター速度優先AEに数ヶ月遅れて実用化され出したのが、プログラムAEである。 プログラムAEは、絞りもシャッター速度もカメラ側が調整しなくてはならない。しかしこの段階ではまだシャッター速度を露出計で制御する手立ては無かった。そこで、シャッター速度は固定して絞りのみを制御する方式が開発された。簡単なものは富士写真フイルムから発売された簡易カメラ「フジペットEE」に採用された方式で、露出計指針に直接絞りプレートを取り付けるものである。しかしこれでは暗い場所では一切撮影不可であり、フィルム感度も固定になるなど撮影条件において大幅な制約を受けるため、より本格的な仕組みが考案された。絞りはシャッター速度優先AEのような段カム制御方式で制御し、シャッター速度はフィルム感度に連動させるというものである。この方式はリコーのオート35などに採用された。 またオリンパスは1961年(昭和36年)に発売した24×18mm(ハーフ)判カメラの「ペンEE」に絞りに加え二速ながらシャッター速度も自動切換えできるシャッターを自社開発して搭載した。 ミノルタの「ユニオマット」、キヤノン「デミ」、コニカ「コニカL」などはひとまず絞りリングとシャッター速度リングをつないでプログラムシャッターとしながらも、AEとするのは諦め追針式として適正EVを合わせる方式とした。 翌1962年(昭和37年)にはコパルが機械式マルチプログラムシャッター「コパルマジック」を発明し、これを搭載する唯一のカメラ「フジカ35オートM」が富士写真フイルムから発売された。複雑なギア連動機構を用いて、絞りでの制御限界時にはシャッター速度も変化させるという特殊なシャッターであった。このシャッターは極めてコスト高となったためこのカメラ以外には採用されなかった。 一方シチズンからは羽根を半開させることで絞り兼用とした5枚羽根シャッターを持つ、プログラムAE専用シャッターのシチズンユニEが製品化され、このシャッターとセレン光電池駆動のメーターを段カムの代わりに針押さえと回転カムで検出・制御する機構を搭載した「ハイマチック」がミノルタから発売された。このカメラは画期的な全自動カメラとして高い評価を受け、世界で初めて宇宙で使用されたカメラにもなった。 1963年(昭和38年)にはコパルから2枚の絞り兼用シャッター羽根の開角度をフライホイルで制御する「コパルユニーク」シャッターが製品化され、ヤシカより発売された「ミニマチックS」に搭載された。この方式が現在一般的なプログラムシャッターの、露出計と絞り兼用のシャッター羽の開角度を連動させて適正露出を得る仕掛けの直接の元祖である。 後にシャッター速度優先AEとプログラムAEを兼ね備える「セイコーALA」シャッターがセイコーから発売され、このシャッターを用いていわゆるマルチモード自動露出を装備した数少ない距離計連動カメラ「ハイマチック11」がミノルタから発売された。 また、セイコーからは安定して動作する電子プログラムシャッターである「セイコーESF」が登場し、電磁作動という特徴からさまざまな形状・大きさのものが製作可能とあって多くのカメラに搭載された。このシャッターは後にオートフォーカスモジュールにも組み込まれた。同社が以前製造していた「セイコーシャSE電子プログラムシャッター」は非常に作動安定性が悪いという欠陥を抱えており普及しなかった(⇒#絞り優先AE)。 後年、家庭用にはよりコンパクトで簡単操作のコンパクトカメラが求められるようになると、これらのカメラにはプログラムAEが搭載されることが当たり前となった。2000年代を過ぎても、コンパクトカメラに搭載されているのはプログラムAEがほとんどだが、一部高級志向のコンパクトカメラではプログラムAEのほかに絞り優先AEを搭載するものもある。これらのシャッターは小型化を追求し、羽根の駆動に必要なバネ、ソレノイド以外は全てマイコンによるデジタル制御になっていることがほとんどである。 しかし、現在のコンパクトデジタルカメラにおいてはもはや機械的なシャッターを廃してしまったものが多くを占めており、文字通りシャッターはプログラムそのものとなった。このためプログラム露出専用としてもコストの優位性はなくなり、一眼レフ同様のマルチモード露出を搭載するものが増えているが、それらも依然として基本は操作の易しいプログラム露出で使用するように設計されている。 シャッター速度優先AEに遅れること5年の1965年(昭和40年)、コパルから従来のシャッターの調速機構をソレノイド使用の制御装置に置き換えた電子制御シャッター「コパルエレク」が世に出された。電子制御シャッターはシャッター速度を電気信号で制御できるため、今まで不可能だった露出計によるシャッター速度の制御がついに実現できるようになった。また精工舎からはプログラムAEの電子シャッターであるセイコーシャSEが発売された。 前者のコパルエレクをいち早く採用し絞り優先AEのカメラを実現したのがヤシカの24×18mm(ハーフ)判カメラ「エレクトロハーフ」である。この後24×36mm(ライカ)判の「エレクトロ35」が発売されると、明るいレンズと電子制御ならではの超長時間露出が極めて高い評価を受けブームとなった。 一方、他のカメラメーカーはそろってプログラム電子シャッターのセイコーシャSEを採用した。新しい方式である絞り優先AEによってカメラに詳しくない一般ユーザーを戸惑わせることを懸念してのことだったが、セイコーシャSEはまだ性能の低かったゲルマニウムトランジスタを多数使用し、羽根の作動も2つのソレノイドの電磁力で行う設計で、しかも電源は水銀電池一つだけとしたため、動作が不安定で故障が多発した。このためヤシカ以外のカメラメーカーは電子シャッターそのものの信頼性に懐疑的になり、コパルの絞り優先式にも乗り換えることはなく機械式のシャッターに戻してしまった。 一方のコパルエレクはセイコーシャSEよりも高電圧を必要とする代わりに、安定したシリコントランジスタと抵抗器による制御で、羽根の作動そのものは機械式だったため安定して動作したが、セイコーシャSEでの失敗に懲りたヤシカ以外のメーカーにはなかなか理解されなかった。 この後、絞り優先AEは一眼レフカメラに搭載されて発達し、コンパクトカメラにはプログラムAEが普及することになる。 一眼レフはレンズ交換をするため、AE特にシャッター速度優先方式を搭載するにはレンズとカメラの間に複雑かつ精密な連動機構を搭載しなければならず、連動機構を備えていないそれまでのマウントではそのためにマウントを変更しなければならなかったこともあり、AEの搭載は遅れた。1963年(昭和38年)、東京光学(現トプコン)が外光式露出計とそれに連動するシャッター速度優先AEを搭載したレンズ交換可能なレンズシャッター搭載一眼レフカメラ「ウインクミラーS」を発売、さらに1964年にはTTL開放測光を採用した「トプコンユニ」を発売する。同機は、ウインクミラーS発売時に採用されたレンズマウントはレンズの全群を交換するもので、AE機構を前提に設計されたため、絞り制御のための連動機構を搭載しており、マニュアル撮影時も絞りはボディ側で設定するようになっていた。さらに1965年(昭和40年)12月、コニカがフォーカルプレーンシャッター搭載機としては世界初のシャッター速度優先AEを実用化した一眼レフカメラ「オートレックス」を開発した。同機の開発にあたってコニカは、一眼レフのレンズマウントを変更している。この後もトプコンレンズシャッター機とコニカ以外はコーワ(レンズシャッター方式)、キヤノン(フォーカルプレーンシャッター方式)などが前群レンズ交換方式の一眼レフでシャッター速度優先AEやプログラムAEを実現した程度で、長きに渡って一眼レフのAE化は距離計連動カメラに対して遅れていた。 1971年(昭和46年)、旭光学が電子シャッターによる絞り優先AEを搭載した一眼レフカメラ「アサヒペンタックスES」を発売した。この後旭光学・日本光学・ミノルタ・ヤシカが絞り優先AE陣営になり、キヤノン・コニカ・ペトリがシャッター速度優先AE陣営となった。 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"text": "一方シチズンからは羽根を半開させることで絞り兼用とした5枚羽根シャッターを持つ、プログラムAE専用シャッターのシチズンユニEが製品化され、このシャッターとセレン光電池駆動のメーターを段カムの代わりに針押さえと回転カムで検出・制御する機構を搭載した「ハイマチック」がミノルタから発売された。このカメラは画期的な全自動カメラとして高い評価を受け、世界で初めて宇宙で使用されたカメラにもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)にはコパルから2枚の絞り兼用シャッター羽根の開角度をフライホイルで制御する「コパルユニーク」シャッターが製品化され、ヤシカより発売された「ミニマチックS」に搭載された。この方式が現在一般的なプログラムシャッターの、露出計と絞り兼用のシャッター羽の開角度を連動させて適正露出を得る仕掛けの直接の元祖である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "後にシャッター速度優先AEとプログラムAEを兼ね備える「セイコーALA」シャッターがセイコーから発売され、このシャッターを用いていわゆるマルチモード自動露出を装備した数少ない距離計連動カメラ「ハイマチック11」がミノルタから発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、セイコーからは安定して動作する電子プログラムシャッターである「セイコーESF」が登場し、電磁作動という特徴からさまざまな形状・大きさのものが製作可能とあって多くのカメラに搭載された。このシャッターは後にオートフォーカスモジュールにも組み込まれた。同社が以前製造していた「セイコーシャSE電子プログラムシャッター」は非常に作動安定性が悪いという欠陥を抱えており普及しなかった(⇒#絞り優先AE)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "後年、家庭用にはよりコンパクトで簡単操作のコンパクトカメラが求められるようになると、これらのカメラにはプログラムAEが搭載されることが当たり前となった。2000年代を過ぎても、コンパクトカメラに搭載されているのはプログラムAEがほとんどだが、一部高級志向のコンパクトカメラではプログラムAEのほかに絞り優先AEを搭載するものもある。これらのシャッターは小型化を追求し、羽根の駆動に必要なバネ、ソレノイド以外は全てマイコンによるデジタル制御になっていることがほとんどである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、現在のコンパクトデジタルカメラにおいてはもはや機械的なシャッターを廃してしまったものが多くを占めており、文字通りシャッターはプログラムそのものとなった。このためプログラム露出専用としてもコストの優位性はなくなり、一眼レフ同様のマルチモード露出を搭載するものが増えているが、それらも依然として基本は操作の易しいプログラム露出で使用するように設計されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "シャッター速度優先AEに遅れること5年の1965年(昭和40年)、コパルから従来のシャッターの調速機構をソレノイド使用の制御装置に置き換えた電子制御シャッター「コパルエレク」が世に出された。電子制御シャッターはシャッター速度を電気信号で制御できるため、今まで不可能だった露出計によるシャッター速度の制御がついに実現できるようになった。また精工舎からはプログラムAEの電子シャッターであるセイコーシャSEが発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "前者のコパルエレクをいち早く採用し絞り優先AEのカメラを実現したのがヤシカの24×18mm(ハーフ)判カメラ「エレクトロハーフ」である。この後24×36mm(ライカ)判の「エレクトロ35」が発売されると、明るいレンズと電子制御ならではの超長時間露出が極めて高い評価を受けブームとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方、他のカメラメーカーはそろってプログラム電子シャッターのセイコーシャSEを採用した。新しい方式である絞り優先AEによってカメラに詳しくない一般ユーザーを戸惑わせることを懸念してのことだったが、セイコーシャSEはまだ性能の低かったゲルマニウムトランジスタを多数使用し、羽根の作動も2つのソレノイドの電磁力で行う設計で、しかも電源は水銀電池一つだけとしたため、動作が不安定で故障が多発した。このためヤシカ以外のカメラメーカーは電子シャッターそのものの信頼性に懐疑的になり、コパルの絞り優先式にも乗り換えることはなく機械式のシャッターに戻してしまった。 一方のコパルエレクはセイコーシャSEよりも高電圧を必要とする代わりに、安定したシリコントランジスタと抵抗器による制御で、羽根の作動そのものは機械式だったため安定して動作したが、セイコーシャSEでの失敗に懲りたヤシカ以外のメーカーにはなかなか理解されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この後、絞り優先AEは一眼レフカメラに搭載されて発達し、コンパクトカメラにはプログラムAEが普及することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一眼レフはレンズ交換をするため、AE特にシャッター速度優先方式を搭載するにはレンズとカメラの間に複雑かつ精密な連動機構を搭載しなければならず、連動機構を備えていないそれまでのマウントではそのためにマウントを変更しなければならなかったこともあり、AEの搭載は遅れた。1963年(昭和38年)、東京光学(現トプコン)が外光式露出計とそれに連動するシャッター速度優先AEを搭載したレンズ交換可能なレンズシャッター搭載一眼レフカメラ「ウインクミラーS」を発売、さらに1964年にはTTL開放測光を採用した「トプコンユニ」を発売する。同機は、ウインクミラーS発売時に採用されたレンズマウントはレンズの全群を交換するもので、AE機構を前提に設計されたため、絞り制御のための連動機構を搭載しており、マニュアル撮影時も絞りはボディ側で設定するようになっていた。さらに1965年(昭和40年)12月、コニカがフォーカルプレーンシャッター搭載機としては世界初のシャッター速度優先AEを実用化した一眼レフカメラ「オートレックス」を開発した。同機の開発にあたってコニカは、一眼レフのレンズマウントを変更している。この後もトプコンレンズシャッター機とコニカ以外はコーワ(レンズシャッター方式)、キヤノン(フォーカルプレーンシャッター方式)などが前群レンズ交換方式の一眼レフでシャッター速度優先AEやプログラムAEを実現した程度で、長きに渡って一眼レフのAE化は距離計連動カメラに対して遅れていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)、旭光学が電子シャッターによる絞り優先AEを搭載した一眼レフカメラ「アサヒペンタックスES」を発売した。この後旭光学・日本光学・ミノルタ・ヤシカが絞り優先AE陣営になり、キヤノン・コニカ・ペトリがシャッター速度優先AE陣営となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "このころ、ユーザー側ではシャッター速度優先AEと絞り優先AEのどちらが優れているかという論争があった。一眼レフカメラの場合、レンズ交換機構を持たないレンズシャッター機とは逆に露出計によって絞りを制御することが困難であった。レンズ交換をする一眼レフカメラは、レンズの開放絞り値が一定ではなく、さらに当時のAE撮影を想定していないレンズは、絞りを開閉するピンを同じ距離動かしても絞りが絞られる量はレンズの設計によってまちまちだったためである。このため、絞り優先AE陣営のメーカーは電子シャッターを用いてシャッター速度を自動制御する方式のカメラを作り、シャッター速度優先AE陣営のメーカーはマウントに何らかの変更を加えて絞りの自動制御を実現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)、ついにミノルタからシャッター速度優先AEと絞り優先AEを兼ね備える世界初のマルチモード一眼レフカメラ「XD」が発売され、1978年(昭和53年)にはキヤノンから絞り優先AEとシャッター速度優先AEに加え、プログラムAEも搭載したマルチモード一眼レフ「A-1」が発売された。ミノルタは結局上位互換ながらレンズマウントを変更したが、「XD」では瞬間絞込み測光を採用して旧式レンズや絞りを最小絞りにしていない状態のレンズでも代わりにシャッター速度を再調整することで適正露出を可能にしていた。また、キヤノンの「A-1」は積極的にコンピューターを搭載して多彩な露出モードを備えた。こうして一眼レフの自動露出システムもほぼ完成を見ることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "現在では高度な電子技術と各社の適正露出を算出するノウハウの蓄積によって、カメラに内蔵されたプロセッサで各測光タイプに基づいて露出を測定、自動的に適正な露出値を割り出す方式の完全自動露出が実現された。さらにフラッシュにも連動したTTLフラッシュ自動露出なども可能になった。その後は複数の完全自動露出パターン(マルチプログラム)を実装し、自動選択されるまでに昇華した。現在はごく一部のマニュアルカメラを除く、オートフォーカスカメラ、そしてデジタルカメラにはほぼ必ず完全自動露出機能が実装されており、もはや一般的には「カメラ = AEカメラ」という構図が成り立ったため、使われることのない呼称である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方、中判一眼レフカメラでは基本的に速写性を求められることが少なく、また露出に関する知識の豊富なユーザーが使用することがほとんどだったため、近年まで自動露出はほとんど搭載されなかった。しかし、24×36mm(ライカ)判のプロ用一眼レフカメラなど、露出がわかっているユーザー向けのカメラでもAEが装備されるのは当たり前になっているため、1990年代~2000年代以降は中判一眼レフカメラにもAEを搭載するものが現れるようになった。", "title": "歴史" } ]
AEカメラ(エーイーカメラ)は、露出を自動で行なう機能をもつ写真機である。絞りやシャッター速度(シャッタースピード)を自動的に制御し、被写体の明度に応じた露光が得られるようにする機能をAE機能(エーイーきのう)と呼ぶ。この種の写真機については、ほかにも、自動露光調節式カメラ(じどうろこうちょうせつしきカメラ)、自動露出カメラ(じどうろしゅつカメラ)とも呼ぶ。当初は、EEカメラと呼ばれた。 AEは、大別して、 シャッター速度優先AE ⇒ 概要、略歴 絞り優先AE ⇒ 概要、略歴 プログラムAE ⇒ 概要、略歴 がある。
[[File:Bell and Howell Electric Eye 127.jpg|thumb|[[ベル&ハウエル]]エレクトリックアイ127、1958年。]] [[File:Polaroid-EE-44 1-1200x1600.jpg|thumb|[[ポラロイド]]EE44、1976年。]] '''AEカメラ'''(エーイーカメラ)は、[[露出 (写真)|露出]]を自動で行なう機能({{lang-en|'''''A'''utomatic '''E'''xposure''}})をもつ[[写真機]]である<ref name="大辞泉AEカメラ">{{Kotobank|AEカメラ|2=デジタル大辞泉}}、2012年1月29日閲覧。</ref>。[[絞り (光学) #レンズ絞り|絞り]]や[[シャッター速度]](シャッタースピード)を自動的に制御し、[[被写体]]の明度に応じた露光が得られるようにする機能を'''AE機能'''(エーイーきのう)と呼ぶ<ref name="大辞泉AEカメラ" />。この種の写真機については、ほかにも、'''自動露光調節式カメラ'''(じどうろこうちょうせつしきカメラ)、'''自動露出カメラ'''(じどうろしゅつカメラ)とも呼ぶ<ref name="大辞泉AEカメラ" />。当初は、'''EEカメラ'''({{lang-en|'''''E'''lectric '''E'''ye''}} の略、「電気の眼」の意)と呼ばれた<ref name="大辞泉EEカメラ">{{Kotobank|EEカメラ|2=デジタル大辞泉}}、2012年1月29日閲覧。</ref>。 AEは、大別して、 * '''シャッター速度優先AE''' ⇒ [[#シャッター速度優先自動露出|概要]]、[[#シャッター速度優先AE|略歴]] * '''絞り優先AE''' ⇒ [[#絞り値優先自動露出|概要]]、[[#絞り優先AE|略歴]] * '''プログラムAE''' ⇒ [[#プログラム自動露出|概要]]、[[#プログラムAE|略歴]] がある。 == 種類別分類 == AEの方式は、露出の2大要素である「絞り」と「シャッター速度」のうちどれをカメラに自動制御させるかによっていくつかの方式に分かれており、これを「露出モード」という。 一般的に採用されている露出モードは以下の通りのものがある。 <!--('''書きかけ項目です。特に一眼レフカメラだけでなく、AEカメラ全般についての執筆協力を求めております''')--> === シャッター速度優先自動露出 === '''S/Tv モード'''、あるいは'''シャッター優先オート'''、'''シャッター速度優先AE'''とも言われる。設定したシャッター速度を基準とし、そのシャッター速度に応じて絞りを自動的に変える事で適正な露出値を得る。[[被写界深度]]よりも露光時間による効果を重視する場合、あるいは手ブレを防止したい場合に有効である。 '''一般的な使用例''' *高速シャッターを使用し、動体を止めて撮影する場合 - スポーツ、自動車・航空機、動物・野鳥、水しぶきなどの撮影。 *高速シャッターを使用し、手ぶれを防止する場合 - 自動車の車内、艦船の船内、不安定な岩石の上、揺れの激しい場所などでの撮影、[[望遠レンズ]]による手持ち撮影、撮影者が激しく動きながらの撮影など。 *低速シャッターを使用し、流感・軌跡などの表現をする場合 - 噴水・川・滝などの流れ、自動車・列車・艦船・航空機・遊園地のアトラクションなどの移動照明による軌跡、歩いている人の動感表現など。 *低速シャッターを使用し、[[流し撮り]]をする場合。 === 絞り値優先自動露出 === '''A/Avモード'''、あるいは'''絞り優先オート'''、'''絞り優先AE'''とも言われる。設定した[[絞り (光学)|絞り]]を基準とし、その絞りに応じてシャッター速度をAE機能が自動的に変える事で適正な露出値を得る<ref name="大辞泉絞り優先AE">{{Kotobank|絞り優先AE|2=デジタル大辞泉}}、2012年1月29日閲覧。</ref>。絞り値を調節し、[[被写界深度]]を意識した撮影をする場合に有効である<ref name="大辞泉絞り優先AE" />。 '''一般的な使用例''' *絞りを開けて[[ポートレート]]撮影 - 被写界深度を浅くすることで背景をぼかして被写体を浮き立たせる効果がある。 *絞りを開けて暗所での手持ち撮影 - シャッター速度が速くなるため手ブレしにくくなる。 *適切な絞り調節による[[接写]] *絞りを絞って[[パンフォーカス]]撮影 - 被写界深度を深くすることで画面全部にピントが合っている状態にする。 === プログラム自動露出 === '''Pモード'''、'''プログラムオート'''とも言われる<ref name="大辞泉プログラムAE" />。シャッター速度・絞りの両方を一定のプログラムを元にして割り振ることで、適正な露出値を得る<ref name="大辞泉プログラムAE">{{Kotobank|プログラムAE|2=デジタル大辞泉}}、2012年1月29日閲覧。</ref>。あらかじめ決められた絞り・シャッター速度の組み合わせをグラフにしたものを'''プログラムライン図'''という。絞り・シャッター速度の中間的な露出をすばやく決めたいときに有効である。 '''一般的な使用例''' * [[スナップ写真|スナップ撮影]] プログラム露出の方式は2種類存在する。一つは、ある[[EV]](フィルムに対する明るさ)に対して1つのシャッター速度と1つの絞りが決まっている方式で、もう一つはEVが同じになる絞りとシャッターの組み合わせを自由に変更できる方式である。前者はシャッター機構を簡単に作ることができ、複雑な操作も不要になるため現在の[[コンパクトカメラ]]など初心者向けのカメラではもっとも一般的な露出機能である。後者は高度な写真表現を可能とするが、機構はほかの露出モードやマニュアル露出と同様のものを必要とするため、他の露出方式とともに一眼レフカメラに搭載されることが多い。後者の方式において、絞りとシャッター速度の組み合わせを変えることを'''プログラムシフト'''と呼ぶ。 なおプログラム自動露出機構は、24×36mm(ライカ)判コンパクトカメラ、24×36mm(ライカ)判一眼レフカメラ、110フィルム用カメラ、デジタルカメラ以外にはほとんど搭載されない。 現在の24×36mm(ライカ)判マルチモードAF一眼レフカメラやデジタルカメラでは、このプログラム露出の発展型として、多数の露出プログラムを用意し、カメラが撮影シーンや使用するレンズなどに合わせて最適な露出プログラムを自動選択する'''マルチプログラム'''、撮影シーン(スポーツモードや夜景モードなど)に合わせ最適化した'''シーン別全自動プログラム露出'''、さらに通常のプログラム露出モードとシーン別プログラム露出を自動選択する'''自動シーンセレクター'''を搭載する機種も多い。 === シャッター速度&amp;絞り値優先AE === デジタルカメラはフィルムカメラと異なりISO感度を自由に設定できる特徴を持つ。そこで、撮影者がシャッター速度と絞り値の両方を任意に設定し、ISOのみをAE機能が自動的に変える事で適正な露出値を得る。 '''TAvモード'''とも呼ばれる。 ==== 感度自動設定 ==== 近年のデジタルカメラでは、シャッター速度と絞り値をマニュアルで設定すると、感度が適正露出になるよう自動設定される、というモードを備えるものが現れている。従来プログラムオートモードのみで有効だった自動感度調節(主に暗い場所で自動的に感度を上げる目的)がマニュアルモードでも有効にできる、別の新しいモードが追加されている、など今のところ方式はメーカー・モデルによりまちまちである。 === TTLフラッシュ自動露出 === それまで機械式フラッシュ自動露出機能として使われていた[[フラッシュマチック]]に替わり、フラッシュ撮影を完全自動化するために開発されたフラッシュ撮影専用の露出モードである。このモードを使用するにはフラッシュ側もTTLフラッシュ自動露出に対応している必要がある。 このAEでは、撮影前に一度フラッシュを発光して、実際のフラッシュ使用時の明るさを測り(プリ発光)、その後実際の発光・撮影が行われる。 === 深度優先AE === [[ファイル:Canon EOS 650.jpg|thumb|[[キヤノン EOS 650]]、1987年。]] '''深度優先AE'''(しんどゆうせんエーイー)は、被写体との任意の2点を測ることで、被写界深度を優先させて、絞り・シャッター速度を自動調節するAE機能である<ref name="大辞泉深度優先AE">{{Kotobank|深度優先AE|2=デジタル大辞泉}}、2012年1月29日閲覧。</ref><ref name="カメラマン深度優先AE">{{Kotobank|深度優先AE|2=カメラマン写真用語辞典}}、2012年1月29日閲覧。</ref>。任意の2点、最遠部と至近部の距離の浅さ・深さで、被写界深度を決められる<ref name="カメラマン深度優先AE" />。1987年(昭和62年)3月1日に[[キヤノン]]が発売した'''[[キヤノン EOS 650]]'''で、初めて採用した<ref name="カメラマン深度優先AE" />。その後、自動的に深度が深くなる'''自動深度優先AE'''(じどうしんどゆうせんエーイー)が開発され、同社が製造販売する[[デジタル一眼レフカメラ]]に搭載している<ref name="カメラマン深度優先AE" />。'''被写界深度優先AE'''(ひしゃかいしんどゆうせんエーイー)とも<ref name="大辞泉深度優先AE" />。 == 自動露出に関連する機能 == <!--('''書きかけ項目です。特に一眼レフカメラだけでなく、AEカメラ全般についての執筆協力を求めております''')--> === AEロック === TTL露出計内蔵式のAEカメラにおいて、各AE機能によって得た適正露出値、つまり シャッター速度 と 絞り値 を一定時間中固定(ロック・記憶状態)させる機能である。「'''メモリー・ロック (Mロック)'''」、「'''像面光量ロック'''」とも呼ばれる。 この機能を使った主なテクニックの一例として、絞り値優先自動露出モードにおいて、適正露出を得るのに厳しい撮影環境、つまり撮影フレーム内にて光量差の大きな被写体が混在するような状況などで、スポット[[測光]]で被写体の中の適正露出を得やすい、光の反射率の色(緑、青など)や経験にて適正補正値を把握している箇所を測光し、AEロックによって一時的に露出値を固定させて撮影者がその間に記憶し、再フレーミングしてからスポット測光によって得た露出値を加味して撮影する、などの使用法が考えられる。カメラの機種によって、専用ボタンが設けられているもの、シャッターボタン半押し状態でロックされるものや、またAEロックされた状態を機能解除するまで続行可能なものなどがある。 === 露出補正機能 === {{See also|露出 (写真)#露出補正}} 自動露出で得た露出値が、必ずしも適正な露出値ではない場合がある。また、意図的に露出を外す撮影をする場合もある。そうした場合に、専用のダイヤル、あるいはボタン操作によって、より撮影者の意図に沿った露出を容易に実現する機能である。 === オートブラケット機構 === {{Main|オートブラケット機構}} == 歴史 == === レンズシャッターカメラのAE === 基本的な自動露出の3方式 * '''シャッター速度優先AE''' * '''絞り優先AE''' * '''プログラムAE''' のうち、最も早く実用化されたのがシャッター速度優先AEである。これは、機械式のシャッターの速度を露出計に連動させて変更することはほとんど不可能だったからである。この時代に自動露出のことを'''EE'''と呼んでいたのは、当時の自動露出カメラが人間の目で虹彩に当たる絞りを制御して適正露出を得ることから、「電気仕掛けの目=ElectricEye」と呼んだからであった。 最初にAEが普及したのは、当時一般ユーザー向けとして最も普及していた24×36mm(ライカ)判や24×18mm(ハーフ)判のレンズシャッター式距離計連動カメラあるいは目測カメラであった。 ==== シャッター速度優先AE ==== 世界で初めて実用的なAEを搭載したカメラは[[1960年]](昭和35年)に発売された[[オリンパス]]の24×36mm(ライカ)判レンズシャッター式距離計連動カメラ「'''オートアイ'''」である。このカメラは[[セレン]]光電池を使用した受光部とシャッター速度リング、フィルム感度ダイヤルに連動した擦動可変抵抗によって露出計を駆動する。レリーズボタンを半押しすると、その力で露出計の針を針押さえと鋸刃状の段カムで挟み込んでメーターの針の位置を読み取る。さらにレリーズボタンを押し込むと絞りが絞り込まれていくが、このとき先述の段カムの位置によって制御される絞りストッパーが動き、適正露出になったところで絞込みにストップをかけ適正露出を得るという仕組みである。 [[1961年]](昭和36年)に圧倒的な低価格で販売され一大ブームを巻き起こしたキヤノンの「キヤノネット」も同じ仕組みのシャッター速度優先AEを装備しており、この方式は一般ユーザーの間で瞬く間に普及した。 この方式は全機械式連動でシャッター速度優先AEを可能にするほぼ唯一の方法であり、その後あらゆるカメラメーカーで10年以上に渡ってAEカメラ設計の常套手段であり続けた。 シャッターの半押しで自動制御の状態がロック、というユーザインタフェースはまさにこのメカニズムにより自然発生したものであるが、こんにちまで使われている。 後にプログラムAEが普及していくと、シャッター速度優先AEはレンズシャッターカメラ用AEの主役を明け渡したが、いくつかのシャッター速度優先AEのコンパクトカメラが、仕組みもほとんど1960年当時から変えないまま販売され続けた。しかし、1980年代後半に入るとコンパクトカメラのシャッターは電子プログラムAEが常識となり、シャッター速度優先AEはコストや小型化の競争についていけなくなりほぼ姿を消した。 ==== プログラムAE ==== シャッター速度優先AEに数ヶ月遅れて実用化され出したのが、プログラムAEである。 プログラムAEは、絞りもシャッター速度もカメラ側が調整しなくてはならない。しかしこの段階ではまだシャッター速度を露出計で制御する手立ては無かった。そこで、シャッター速度は固定して絞りのみを制御する方式が開発された。簡単なものは[[富士フイルム|富士写真フイルム]]から発売された簡易カメラ「フジペットEE」に採用された方式で、露出計指針に直接絞りプレートを取り付けるものである。しかしこれでは暗い場所では一切撮影不可であり、フィルム感度も固定になるなど撮影条件において大幅な制約を受けるため、より本格的な仕組みが考案された。絞りはシャッター速度優先AEのような段カム制御方式で制御し、シャッター速度はフィルム感度に連動させるというものである。この方式はリコーのオート35などに採用された。 またオリンパスは[[1961年]](昭和36年)に発売した24×18mm(ハーフ)判カメラの「[[オリンパス・ペン|ペンEE]]」に絞りに加え二速ながらシャッター速度も自動切換えできるシャッターを自社開発して搭載した。 ミノルタの「ユニオマット」、キヤノン「デミ」、コニカ「コニカL」などはひとまず絞りリングとシャッター速度リングをつないでプログラムシャッターとしながらも、AEとするのは諦め追針式として適正[[EV]]を合わせる方式とした。 翌[[1962年]](昭和37年)には[[日本電産コパル|コパル]]が機械式マルチプログラムシャッター「コパルマジック」を発明し、これを搭載する唯一のカメラ「フジカ35オートM」が富士写真フイルムから発売された。複雑なギア連動機構を用いて、絞りでの制御限界時にはシャッター速度も変化させるという特殊なシャッターであった。このシャッターは極めてコスト高となったためこのカメラ以外には採用されなかった。 一方[[シチズンホールディングス|シチズン]]からは羽根を半開させることで絞り兼用とした5枚羽根シャッターを持つ、プログラムAE専用シャッターのシチズンユニEが製品化され、このシャッターとセレン光電池駆動のメーターを段カムの代わりに針押さえと回転カムで検出・制御する機構を搭載した「ハイマチック」がミノルタから発売された。このカメラは画期的な全自動カメラとして高い評価を受け、世界で初めて宇宙で使用されたカメラにもなった。 [[1963年]](昭和38年)にはコパルから2枚の絞り兼用シャッター羽根の開角度をフライホイルで制御する「コパルユニーク」シャッターが製品化され、[[ヤシカ]]より発売された「ミニマチックS」に搭載された。この方式が現在一般的なプログラムシャッターの、露出計と絞り兼用のシャッター羽の開角度を連動させて適正露出を得る仕掛けの直接の元祖である。 後にシャッター速度優先AEとプログラムAEを兼ね備える「セイコーALA」シャッターがセイコーから発売され、このシャッターを用いていわゆるマルチモード自動露出を装備した数少ない距離計連動カメラ「ハイマチック11」がミノルタから発売された。 また、セイコーからは安定して動作する電子プログラムシャッターである「セイコーESF」が登場し、電磁作動という特徴からさまざまな形状・大きさのものが製作可能とあって多くのカメラに搭載された。このシャッターは後にオートフォーカスモジュールにも組み込まれた。同社が以前製造していた「セイコーシャSE電子プログラムシャッター」は非常に作動安定性が悪いという欠陥を抱えており普及しなかった(⇒[[#絞り優先AE]])。 後年、家庭用にはよりコンパクトで簡単操作のコンパクトカメラが求められるようになると、これらのカメラにはプログラムAEが搭載されることが当たり前となった。2000年代を過ぎても、コンパクトカメラに搭載されているのはプログラムAEがほとんどだが、一部高級志向のコンパクトカメラではプログラムAEのほかに絞り優先AEを搭載するものもある。これらのシャッターは小型化を追求し、羽根の駆動に必要なバネ、ソレノイド以外は全てマイコンによるデジタル制御になっていることがほとんどである。 しかし、現在のコンパクトデジタルカメラにおいてはもはや機械的なシャッターを廃してしまったものが多くを占めており、文字通りシャッターはプログラムそのものとなった。このためプログラム露出専用としてもコストの優位性はなくなり、一眼レフ同様のマルチモード露出を搭載するものが増えているが、それらも依然として基本は操作の易しいプログラム露出で使用するように設計されている。 ==== 絞り優先AE ==== シャッター速度優先AEに遅れること5年の[[1965年]](昭和40年)、コパルから従来のシャッターの調速機構を[[ソレノイド]]使用の制御装置に置き換えた電子制御シャッター「コパルエレク」が世に出された。電子制御シャッターはシャッター速度を電気信号で制御できるため、今まで不可能だった露出計によるシャッター速度の制御がついに実現できるようになった。また精工舎からはプログラムAEの電子シャッターであるセイコーシャSEが発売された。 前者のコパルエレクをいち早く採用し絞り優先AEのカメラを実現したのがヤシカの24×18mm(ハーフ)判カメラ「エレクトロハーフ」である。この後24×36mm(ライカ)判の「エレクトロ35」が発売されると、明るいレンズと電子制御ならではの超長時間露出が極めて高い評価を受けブームとなった。 一方、他のカメラメーカーはそろってプログラム電子シャッターのセイコーシャSEを採用した。新しい方式である絞り優先AEによってカメラに詳しくない一般ユーザーを戸惑わせることを懸念してのことだったが、セイコーシャSEはまだ性能の低かったゲルマニウム[[トランジスタ]]を多数使用し、羽根の作動も2つのソレノイドの電磁力で行う設計で、しかも電源は水銀電池一つだけとしたため、動作が不安定で故障が多発した。このためヤシカ以外のカメラメーカーは電子シャッターそのものの信頼性に懐疑的になり、コパルの絞り優先式にも乗り換えることはなく機械式のシャッターに戻してしまった。 一方のコパルエレクはセイコーシャSEよりも高電圧を必要とする代わりに、安定したシリコントランジスタと[[抵抗器]]による制御で、羽根の作動そのものは機械式だったため安定して動作したが、セイコーシャSEでの失敗に懲りたヤシカ以外のメーカーにはなかなか理解されなかった。 この後、絞り優先AEは一眼レフカメラに搭載されて発達し、コンパクトカメラにはプログラムAEが普及することになる。 === 一眼レフカメラのAE === 一眼レフはレンズ交換をするため、AE特にシャッター速度優先方式を搭載するにはレンズとカメラの間に複雑かつ精密な連動機構を搭載しなければならず、連動機構を備えていないそれまでのマウントではそのためにマウントを変更しなければならなかったこともあり、AEの搭載は遅れた。[[1963年]](昭和38年)、東京光学(現トプコン)が外光式露出計とそれに連動するシャッター速度優先AEを搭載したレンズ交換可能なレンズシャッター搭載一眼レフカメラ「ウインクミラーS」を発売、さらに[[1964年]]にはTTL開放測光を採用した「トプコンユニ」を発売する。同機は、ウインクミラーS発売時に採用されたレンズマウントはレンズの全群を交換するもので、AE機構を前提に設計されたため、絞り制御のための連動機構を搭載しており、マニュアル撮影時も絞りはボディ側で設定するようになっていた。さらに[[1965年]](昭和40年)12月、コニカがフォーカルプレーンシャッター搭載機としては世界初のシャッター速度優先AEを実用化した一眼レフカメラ「オートレックス」を開発した。同機の開発にあたってコニカは、一眼レフのレンズマウントを変更している。この後もトプコンレンズシャッター機とコニカ以外はコーワ(レンズシャッター方式)、キヤノン(フォーカルプレーンシャッター方式)などが前群レンズ交換方式の一眼レフでシャッター速度優先AEやプログラムAEを実現した程度で、長きに渡って一眼レフのAE化は距離計連動カメラに対して遅れていた。 [[File:Pentax ES 50mm.jpg|thumb|アサヒペンタックスES、1971年。]] [[1971年]](昭和46年)、旭光学が電子シャッターによる絞り優先AEを搭載した一眼レフカメラ「アサヒペンタックスES」を発売した。この後旭光学・日本光学・ミノルタ・ヤシカが絞り優先AE陣営になり、キヤノン・コニカ・ペトリがシャッター速度優先AE陣営となった。 このころ、ユーザー側ではシャッター速度優先AEと絞り優先AEのどちらが優れているかという論争があった。一眼レフカメラの場合、レンズ交換機構を持たないレンズシャッター機とは逆に露出計によって絞りを制御することが困難であった。レンズ交換をする一眼レフカメラは、レンズの開放絞り値が一定ではなく、さらに当時のAE撮影を想定していないレンズは、絞りを開閉するピンを同じ距離動かしても絞りが絞られる量はレンズの設計によってまちまちだったためである。このため、絞り優先AE陣営のメーカーは電子シャッターを用いてシャッター速度を自動制御する方式のカメラを作り、シャッター速度優先AE陣営のメーカーはマウントに何らかの変更を加えて絞りの自動制御を実現した。 [[1977年]](昭和52年)、ついにミノルタからシャッター速度優先AEと絞り優先AEを兼ね備える世界初のマルチモード一眼レフカメラ「XD」が発売され、[[1978年]](昭和53年)にはキヤノンから絞り優先AEとシャッター速度優先AEに加え、プログラムAEも搭載したマルチモード一眼レフ「[[キヤノンA-1|A-1]]」が発売された。ミノルタは結局上位互換ながらレンズマウントを変更したが、「XD」では瞬間絞込み測光を採用して旧式レンズや絞りを最小絞りにしていない状態のレンズでも代わりにシャッター速度を再調整することで適正露出を可能にしていた。また、キヤノンの「[[キヤノンA-1|A-1]]」は積極的にコンピューターを搭載して多彩な露出モードを備えた。こうして一眼レフの自動露出システムもほぼ完成を見ることとなった。 現在では高度な電子技術と各社の適正露出を算出するノウハウの蓄積によって、カメラに内蔵されたプロセッサで各[[TTL露出計#測光タイプ|測光タイプ]]に基づいて露出を測定、自動的に適正な露出値を割り出す方式の完全自動露出が実現された。さらにフラッシュにも連動したTTLフラッシュ自動露出なども可能になった。その後は複数の完全自動露出パターン([[マルチプログラム]])を実装し、自動選択されるまでに昇華した。現在はごく一部のマニュアルカメラを除く、[[オートフォーカス]]カメラ、そして[[デジタルカメラ]]にはほぼ必ず完全自動露出機能が実装されており、もはや一般的には「カメラ = AEカメラ」という構図が成り立ったため、使われることのない呼称である。 一方、中判一眼レフカメラでは基本的に速写性を求められることが少なく、また露出に関する知識の豊富なユーザーが使用することがほとんどだったため、近年まで自動露出はほとんど搭載されなかった。しかし、24×36mm(ライカ)判のプロ用一眼レフカメラなど、露出がわかっているユーザー向けのカメラでもAEが装備されるのは当たり前になっているため、1990年代~2000年代以降は中判一眼レフカメラにもAEを搭載するものが現れるようになった。 <!--('''書きかけ項目です。特に一眼レフカメラだけでなく、AEカメラ全般についての執筆協力を求めております''')--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[TTL露出計]] * [[オートフォーカス]] == 外部リンク == * {{Kotobank|AE|2=デジタル大辞泉}} * {{Kotobank|AE|2=ASCII.jpデジタル用語辞典}} * {{Kotobank|AE|2=百科事典マイペディア}} * {{Kotobank|AE|2=カメラマン写真用語辞典}} {{camera-stub}} {{DEFAULTSORT:ええいいかめら}} [[Category:カメラ]]
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ポルトガル
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。ユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有している。 正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa([ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ] レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal ([puɾtuˈɣaɫ] プルトゥガル)。 日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称 ポルトガル 。 漢字表記は葡萄牙で、 葡と略される。これは広東語の発音(Pou4tou4nga4≒ポウトウガー)による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記である。それまでは「波爾杜瓦爾」「保留止賀留」「蒲麗都家」などの多くの表記もあったが、幕末期より日本でも葡萄牙の漢字表記が優勢となっている。 英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。 国名の由来は、ポルトのラテン語名である「Portus Cale(ポルトゥス・カレ、「カレの港」の意)が転訛したものとされている。 現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年ごろに新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年ごろにイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年ごろから断続的にケルト人が侵入を続けた。 紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導のもとでローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」のもとでイベリア半島のラテン化が進んだ。 ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領(スパニア属州)を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。 キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まったあと、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャのもとで統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。 ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いのあと、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。 ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、このときに定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。 ディニス1世のもとで最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化した。最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。 ヨーロッパでもっとも早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年 - 1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。 1492年にグラナダ戦争(スペイン語版、英語版)に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進はさらに進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。 以後、ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀とともに資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年のディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズとさらに東進したポルトガル人は、1541年 - 1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。この時にポルトガル商人は日本人や中国人らを奴隷として買い付け、奴隷貿易を行い、16~17世紀にかけて続いた(後述)。 こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。 スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方、この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。 1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現・アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。 1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。 広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。 1755年のリスボン大地震のあと、ジョゼ1世のもとで権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。 1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。 ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者たちによる独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジーたちがポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。 ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続き、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制のもとでロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。 また、19世紀になっても工業化が進まず、農業においても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域をめぐって対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。そのほかにも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。 1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく、第一次世界大戦が終結したあとも政治不安は続いた。 幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返したあと、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領のもとで財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。 対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。 第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。 一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻)、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニアビサウ独立戦争が始まり、モザンビークも1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。 サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相まって1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。 1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月、大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)(MFA)」に再編された。 1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血のうちにカーネーション革命が達成された。革命後、共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針をとったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制のもとで急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことをもって革命は穏健路線に向かった。この間、海外植民地ではすでに1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5か国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオもまた中華人民共和国から軍事侵攻をほのめかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけはポルトガル植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。 1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと3つの内閣が成立したが、いずれも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァのもとで1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。 1990年代に入り経済が失速したことを受けて、1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権のもとでは1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により、1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが形式的にも中華人民共和国に返還され、実質上植民地をすべて手放した。2002年、名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールがインドネシアの占領・実効支配から独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりとともに生まれたポルトガル帝国は、21世紀の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。 大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。 一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。 憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。 半大統領制を採用している。政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(1回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、および国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。 大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出などの権限を有する。行政権限の一部は、議会で多数の議席を持つ政党から選ばれる首相が掌握している。 NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとってもっとも重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。 旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。 EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。 2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張しているため、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係はおおむね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。 16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった。ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている。 ポルトガル人が日本に来て以降、16〜17世紀にかけて日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した。龍谷大学の教授であった池本幸三によると、天正10年(1582年)、ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、アフリカのモザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し、衝撃を受け、豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「伴天連(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述があるとした。同座記には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷と同等の過酷なものであった。21世紀に入っても、ポルトガル人の約31%が子供がアジア人(日本人を含む)を愛するようになると不快に感じると報告している。 龍谷大学の池本幸三が引用した『デ・サンデ天正遣欧使節記』や『九州御動座記』は歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売るなどの道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている。またポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている。デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。 豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。 ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。 さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた。仏教説話集『沙石集』には生き肝を薬とする説話があり仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダなどによる西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。 日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて年季奉公人とするように人道的な働きかけが行われた。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改善するよう介入したとされている。マテウス・デ・クウロスなどの宣教師らによって、こうした人道的介入が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の奴隷(または年季奉公人)購入への宣教師の人道的介入は禁じられた。 中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にしていた。 龍谷大学の教授であった池本幸三の主張によると日本人の奴隷は黒人奴隷との境遇と同じであったしているが、黒人奴隷の生活は、多くの点で白人の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合うなど、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。しかし彼らは同じ法律、宗教、道徳の規範に従うことを期待されていた。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた。 ポルトガルでは残酷な行為は非常にまれであり、全体として公平に扱われていた。そのため、黒人奴隷が主人のもとから逃げ出すことはほとんどなかったと考えられている。ポルトガルにおける奴隷制度は、同化のしやすさや衣食住を含めた公平な待遇をうけ、また多くの黒人奴隷は、長年の忠実な奉仕と引き換えに自由を手に入れることができたが、外部からの雇用で得た賃金の一部で自由を購入する法的権利を行使することが一般的であった。 ポルトガルの奴隷制度では、奴隷は時には粗末に扱われることもあったが、ほとんどの場合、奴隷は公平に扱われ、多くの場合、自由民よりも良い扱いを受けていた。奴隷はカトリックに改宗し、言葉を覚え、クリスチャン・ネームを名乗ることによって、すぐにポルトガル社会の一員となった。ポルトガルには多くの黒人奴隷がいたが、彼らの経済的役割は非常に小さく、反社会的団体に組織されてプランテーションで働くということはほとんどなかった。最新の研究ではアジア人の奴隷は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある。 マカオではほとんどの奴隷はアフリカ出身であり、アジア出身の奴隷も少数いたとされる。 ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍2万2,400人、海軍1万4,104人、空軍8,900人。ほかに国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。 2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。 アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中でもっとも西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500キロ離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900キロ離れている。 ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351メートル。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991メートル。エストレーラとは星を意味する。 東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第2の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440kmにとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。 本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候(Cs)に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200 - 1,500ミリである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500 - 700ミリである。南部は典型的な地中海性気候で、夏季の雨量が少なく年間降水量は500ミリを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。 首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21°C、1月の平均気温が11.2°C、7月は22.8°C。年降水量は706ミリである。冬季の雨量は100ミリ程度だが、夏季は数ミリにとどまる。 ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。 2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70% - 90%(たとえば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。 2020年には、購買力平価に基づくポルトガルの1人当たりの実質GNI(国民総所得)は33,980ドルになる。 この結果は、ポルトガルの非常に低い物価を考慮しても、ポルトガルの一人当たりの収入は日本よりも低いことを意味する。2013年のポルトガルのGDPは約2,199億ドルであり、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である。同年の1人あたりの名目GDPは2万727ドルで世界平均の約2倍だが、EU加盟国の中では平均を下回る。 1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。 1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。1人あたり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。 主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛んである。オリーブ油の生産高は世界7位で、ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)で、森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている。 鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。おもな鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。 2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易である。おもな輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)で、おもな相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。おもな輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)で、おもな相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。 2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。おもな品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの3分の2はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアに次いで2位で、輸入が6.5億ドル。おもな品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。 2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある。 国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。 おもな高速道路は以下のとおり。 リスボン、ポルト、ファロがおもな国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。 ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。 かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには19世紀後半から20世紀初めまでの期間にかけて多くのポルトガル人が移住した。しかし、ブラジルの生活環境や労働環境に耐えられず帰国するものが多かった。ブラジル以外にもベネズエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。 しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。 このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。 言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)が公用語である。 1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。 また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。 宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。 婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置もしくは後置することを選択することが可能である。1977年の法改正で別姓を選択できるようになった。2011年の時点では、既婚女性の60%が婚前の姓をそのまま用いている。また、2010年からは、同性同士の婚姻(同性婚)が認められるようになった。 6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。 おもな高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。 ポルトガルの治安は欧州諸国の中では比較的良い方だが、2022年世界平和度指数の「安全・セキュリティ」部門そのものは韓国より下位に位置している。最近はリスボンやポルトなどの大都市を中心にスリ、置き引き、ひったくりといった一般犯罪が増加傾向にある。 同国政府が発表した2018年の犯罪認知件数は333,223件で、前年より2.6%減少しているが、この内 殺人や強盗ならび放火などの凶悪犯罪認知件数は13,981件で前年より8.6%減少しており、2008年以降最も低い水準となっている。 認知件数の多い犯罪は、車上狙い(平均65/日)、暴行(平均63件/日)、飲酒運転(平均50件/日)、置き引き(平均34件/日)、スリ(平均34件/日)の順となっている。車上狙いは前年より5.1%増加しており、スリや置き引きなど観光客を狙った犯罪も後を絶たない。 欧州委員会の2019年5月の調査によると、ポルトガルは日本人を含むアジア人に対する差別が欧州連合平均より高いことが判明した。 ポルトガルの文化の多くは、大西洋に面した立地の影響を受けている。 イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人などの影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダージ」(Saudade)という言葉がある。 ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、イワシ、サバ、アンコウなどの多様な魚の中でも、特に干鱈(ほしだら、バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。ほかには豚肉が使われる。おもな料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。 ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。 ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。 16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。 17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダージ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。 現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。 カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。 ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれてきた。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。 ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽、ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920 - 1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。そのほかにも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼びがたいが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。 近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。 また、ポルトガルは近来、デス、ブラック、シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。 絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスがもっとも傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラのほかに傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだヴィエイラ・ポルトゥエンセやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、1836年にリスボンに美術アカデミーが作られ、フランシスコ・アウグスト・メトラスらが学んだ。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義のもとにポルトガル北部の田園風景を描いたアントニオ・ダ・シルバ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。 ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。 ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5か月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。 現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。 ポルトガルは建築の歴史が長い国の一つに数えられている。その起源は新石器時代に遡ることができ、巨石文化に関連するものが遺されている。 紀元前2世紀にはイベリア半島のヒスパニアでローマ帝国の襲来による古代ローマ人の到来と共に古代ローマ文化が齎され、文明が著しく発展して行った。これにより征服された同国地域の集落や村は、ローマ形式に従って近代化されることが多く、広場や道路をはじめ劇場や寺院、大浴場、水道橋、その他の公共の施設がローマ建築の影響を受けた形で建築されていた。やがて5世紀に始まったゲルマン人(特にスエビ族と西ゴート族)による侵略により、ローマ文化からロマネスクへの転換が図られていった。その後、711年にマグレブからのムーア人によるイベリア半島の侵略で西ゴート族のポルトガル地域支配に終止符が打たれ、ムーア人の文化はポルトガル地域南部の芸術と建築に強い影響を与えることとなった。 以降もイスラム系の文化とキリスト教系の宗教文化が交わりつつも入れ替わる時代が続いたためにポルトガルの建築における文化は独自性を窮めて行くこととなった。近代建築においてはエスティロ・プルトゥゲザ・スァーブ(Estilo Português Suave,Soft Portuguese style)と呼ばれる建築様式が1930年代から1960年代にかけて同国の公共および民間の建物で使用されている。 一方で、ポルトガルの建築技法は近隣諸国をはじめ、同国植民地の歴史を持つアフリカや中南米の国々ならびアジアの地域に強い影響を与えている。 ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。 ポルトガル国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1934年にプロサッカーリーグのプリメイラ・リーガが創設された。リーグはトレス・グランデスと呼ばれるSLベンフィカ、FCポルト、スポルティングCPの3強によって支配されている。 ポルトガルサッカー連盟(FPF)によって構成されるサッカーポルトガル代表は、FIFAワールドカップには1966年大会で初出場して以降、1986年大会、2002年大会、2006年大会、2010年大会、2014年大会、2018年大会、2022年大会と8度の出場歴を持つ。 UEFA欧州選手権では自国開催となった2004年大会で準優勝し、2016年大会では国際大会初優勝を果たした。2018年に新設されたUEFAネーションズリーグでは、第一回大会となった2018-19シーズンで初代王者の座についた。 他方で、女子サッカーで権威のある「アルガルヴェ・カップ」を、ポルトガル南部のアルガルヴェ地方で1994年より毎年開催している。 陸上競技においては、1984年のロサンゼルス五輪・男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウル五輪・女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタ、1995年世界陸上と1996年アトランタ五輪・10,000mを優勝したフェルナンダ・リベイロ、2008年北京五輪・三段跳で金メダルを獲得したネルソン・エボラ、2021年東京五輪・三段跳で金メダルを獲得したペドロ・ピカルド(英語版)などがいる。 F1やMotoGPのポルトガルグランプリ、WRCのラリー・ド・ポルトガル、WTCRのエストリル戦などの国際的イベントが開催されている。また、ヨーロッパやアフリカ開催時代のダカール・ラリーでは首都のリスボンが経由地となっており、2006年には同地が出発点となった。さらに、モトクロスやクロスカントリーで活躍するエルダー・ロドリゲス、MotoGPで初のポルトガル人ウィナーとなったミゲル・オリベイラはCDPアワーズの男性部門を受賞したことがあり、特にオリベイラは直近6年間で4度受賞という人気ぶりを見せている。F1での優勝者はまだおらず、ティアゴ・モンテイロの3位表彰台が最高である。 卓球ではマルコス・フレイタスがITTF世界ランキングで最高7位、ITTFワールドツアーグランドファイナルのシングルスで銅メダルを獲得しており、ティアゴ・アポローニャやジョアン・モンテイロも国際大会でメダルを獲得した。ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコス(英語版)では国内で唯一牛を殺す闘牛が行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。ユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa([ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ] レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal ([puɾtuˈɣaɫ] プルトゥガル)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称 ポルトガル 。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漢字表記は葡萄牙で、 葡と略される。これは広東語の発音(Pou4tou4nga4≒ポウトウガー)による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記である。それまでは「波爾杜瓦爾」「保留止賀留」「蒲麗都家」などの多くの表記もあったが、幕末期より日本でも葡萄牙の漢字表記が優勢となっている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国名の由来は、ポルトのラテン語名である「Portus Cale(ポルトゥス・カレ、「カレの港」の意)が転訛したものとされている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年ごろに新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年ごろにイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年ごろから断続的にケルト人が侵入を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導のもとでローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」のもとでイベリア半島のラテン化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領(スパニア属州)を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まったあと、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャのもとで統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いのあと、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、このときに定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ディニス1世のもとで最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化した。最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでもっとも早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年 - 1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1492年にグラナダ戦争(スペイン語版、英語版)に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進はさらに進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以後、ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀とともに資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年のディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズとさらに東進したポルトガル人は、1541年 - 1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。この時にポルトガル商人は日本人や中国人らを奴隷として買い付け、奴隷貿易を行い、16~17世紀にかけて続いた(後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとしたポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方、この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現・アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1755年のリスボン大地震のあと、ジョゼ1世のもとで権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者たちによる独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジーたちがポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続き、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制のもとでロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、19世紀になっても工業化が進まず、農業においても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域をめぐって対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。そのほかにも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく、第一次世界大戦が終結したあとも政治不安は続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返したあと、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領のもとで財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻)、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニアビサウ独立戦争が始まり、モザンビークも1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相まって1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月、大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)(MFA)」に再編された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血のうちにカーネーション革命が達成された。革命後、共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針をとったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制のもとで急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことをもって革命は穏健路線に向かった。この間、海外植民地ではすでに1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5か国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオもまた中華人民共和国から軍事侵攻をほのめかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけはポルトガル植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと3つの内閣が成立したが、いずれも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァのもとで1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1990年代に入り経済が失速したことを受けて、1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権のもとでは1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により、1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが形式的にも中華人民共和国に返還され、実質上植民地をすべて手放した。2002年、名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールがインドネシアの占領・実効支配から独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりとともに生まれたポルトガル帝国は、21世紀の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "半大統領制を採用している。政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(1回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、および国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出などの権限を有する。行政権限の一部は、議会で多数の議席を持つ政党から選ばれる首相が掌握している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとってもっとも重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張しているため、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係はおおむね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった。ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ポルトガル人が日本に来て以降、16〜17世紀にかけて日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した。龍谷大学の教授であった池本幸三によると、天正10年(1582年)、ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、アフリカのモザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し、衝撃を受け、豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「伴天連(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述があるとした。同座記には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷と同等の過酷なものであった。21世紀に入っても、ポルトガル人の約31%が子供がアジア人(日本人を含む)を愛するようになると不快に感じると報告している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "龍谷大学の池本幸三が引用した『デ・サンデ天正遣欧使節記』や『九州御動座記』は歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売るなどの道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている。またポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている。デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた。仏教説話集『沙石集』には生き肝を薬とする説話があり仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダなどによる西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて年季奉公人とするように人道的な働きかけが行われた。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改善するよう介入したとされている。マテウス・デ・クウロスなどの宣教師らによって、こうした人道的介入が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の奴隷(または年季奉公人)購入への宣教師の人道的介入は禁じられた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にしていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "龍谷大学の教授であった池本幸三の主張によると日本人の奴隷は黒人奴隷との境遇と同じであったしているが、黒人奴隷の生活は、多くの点で白人の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合うなど、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。しかし彼らは同じ法律、宗教、道徳の規範に従うことを期待されていた。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ポルトガルでは残酷な行為は非常にまれであり、全体として公平に扱われていた。そのため、黒人奴隷が主人のもとから逃げ出すことはほとんどなかったと考えられている。ポルトガルにおける奴隷制度は、同化のしやすさや衣食住を含めた公平な待遇をうけ、また多くの黒人奴隷は、長年の忠実な奉仕と引き換えに自由を手に入れることができたが、外部からの雇用で得た賃金の一部で自由を購入する法的権利を行使することが一般的であった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ポルトガルの奴隷制度では、奴隷は時には粗末に扱われることもあったが、ほとんどの場合、奴隷は公平に扱われ、多くの場合、自由民よりも良い扱いを受けていた。奴隷はカトリックに改宗し、言葉を覚え、クリスチャン・ネームを名乗ることによって、すぐにポルトガル社会の一員となった。ポルトガルには多くの黒人奴隷がいたが、彼らの経済的役割は非常に小さく、反社会的団体に組織されてプランテーションで働くということはほとんどなかった。最新の研究ではアジア人の奴隷は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "マカオではほとんどの奴隷はアフリカ出身であり、アジア出身の奴隷も少数いたとされる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍2万2,400人、海軍1万4,104人、空軍8,900人。ほかに国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中でもっとも西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500キロ離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900キロ離れている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351メートル。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991メートル。エストレーラとは星を意味する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第2の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440kmにとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候(Cs)に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200 - 1,500ミリである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500 - 700ミリである。南部は典型的な地中海性気候で、夏季の雨量が少なく年間降水量は500ミリを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21°C、1月の平均気温が11.2°C、7月は22.8°C。年降水量は706ミリである。冬季の雨量は100ミリ程度だが、夏季は数ミリにとどまる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70% - 90%(たとえば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2020年には、購買力平価に基づくポルトガルの1人当たりの実質GNI(国民総所得)は33,980ドルになる。 この結果は、ポルトガルの非常に低い物価を考慮しても、ポルトガルの一人当たりの収入は日本よりも低いことを意味する。2013年のポルトガルのGDPは約2,199億ドルであり、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である。同年の1人あたりの名目GDPは2万727ドルで世界平均の約2倍だが、EU加盟国の中では平均を下回る。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。1人あたり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛んである。オリーブ油の生産高は世界7位で、ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)で、森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。おもな鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易である。おもな輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)で、おもな相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。おもな輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)で、おもな相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。おもな品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの3分の2はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアに次いで2位で、輸入が6.5億ドル。おもな品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "おもな高速道路は以下のとおり。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "リスボン、ポルト、ファロがおもな国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには19世紀後半から20世紀初めまでの期間にかけて多くのポルトガル人が移住した。しかし、ブラジルの生活環境や労働環境に耐えられず帰国するものが多かった。ブラジル以外にもベネズエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)が公用語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置もしくは後置することを選択することが可能である。1977年の法改正で別姓を選択できるようになった。2011年の時点では、既婚女性の60%が婚前の姓をそのまま用いている。また、2010年からは、同性同士の婚姻(同性婚)が認められるようになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "おもな高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ポルトガルの治安は欧州諸国の中では比較的良い方だが、2022年世界平和度指数の「安全・セキュリティ」部門そのものは韓国より下位に位置している。最近はリスボンやポルトなどの大都市を中心にスリ、置き引き、ひったくりといった一般犯罪が増加傾向にある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "同国政府が発表した2018年の犯罪認知件数は333,223件で、前年より2.6%減少しているが、この内 殺人や強盗ならび放火などの凶悪犯罪認知件数は13,981件で前年より8.6%減少しており、2008年以降最も低い水準となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "認知件数の多い犯罪は、車上狙い(平均65/日)、暴行(平均63件/日)、飲酒運転(平均50件/日)、置き引き(平均34件/日)、スリ(平均34件/日)の順となっている。車上狙いは前年より5.1%増加しており、スリや置き引きなど観光客を狙った犯罪も後を絶たない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "欧州委員会の2019年5月の調査によると、ポルトガルは日本人を含むアジア人に対する差別が欧州連合平均より高いことが判明した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ポルトガルの文化の多くは、大西洋に面した立地の影響を受けている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人などの影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダージ」(Saudade)という言葉がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、イワシ、サバ、アンコウなどの多様な魚の中でも、特に干鱈(ほしだら、バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。ほかには豚肉が使われる。おもな料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダージ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれてきた。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽、ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920 - 1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。そのほかにも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼びがたいが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "また、ポルトガルは近来、デス、ブラック、シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスがもっとも傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラのほかに傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだヴィエイラ・ポルトゥエンセやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、1836年にリスボンに美術アカデミーが作られ、フランシスコ・アウグスト・メトラスらが学んだ。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義のもとにポルトガル北部の田園風景を描いたアントニオ・ダ・シルバ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5か月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ポルトガルは建築の歴史が長い国の一つに数えられている。その起源は新石器時代に遡ることができ、巨石文化に関連するものが遺されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "紀元前2世紀にはイベリア半島のヒスパニアでローマ帝国の襲来による古代ローマ人の到来と共に古代ローマ文化が齎され、文明が著しく発展して行った。これにより征服された同国地域の集落や村は、ローマ形式に従って近代化されることが多く、広場や道路をはじめ劇場や寺院、大浴場、水道橋、その他の公共の施設がローマ建築の影響を受けた形で建築されていた。やがて5世紀に始まったゲルマン人(特にスエビ族と西ゴート族)による侵略により、ローマ文化からロマネスクへの転換が図られていった。その後、711年にマグレブからのムーア人によるイベリア半島の侵略で西ゴート族のポルトガル地域支配に終止符が打たれ、ムーア人の文化はポルトガル地域南部の芸術と建築に強い影響を与えることとなった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "以降もイスラム系の文化とキリスト教系の宗教文化が交わりつつも入れ替わる時代が続いたためにポルトガルの建築における文化は独自性を窮めて行くこととなった。近代建築においてはエスティロ・プルトゥゲザ・スァーブ(Estilo Português Suave,Soft Portuguese style)と呼ばれる建築様式が1930年代から1960年代にかけて同国の公共および民間の建物で使用されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "一方で、ポルトガルの建築技法は近隣諸国をはじめ、同国植民地の歴史を持つアフリカや中南米の国々ならびアジアの地域に強い影響を与えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "ポルトガル国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1934年にプロサッカーリーグのプリメイラ・リーガが創設された。リーグはトレス・グランデスと呼ばれるSLベンフィカ、FCポルト、スポルティングCPの3強によって支配されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ポルトガルサッカー連盟(FPF)によって構成されるサッカーポルトガル代表は、FIFAワールドカップには1966年大会で初出場して以降、1986年大会、2002年大会、2006年大会、2010年大会、2014年大会、2018年大会、2022年大会と8度の出場歴を持つ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "UEFA欧州選手権では自国開催となった2004年大会で準優勝し、2016年大会では国際大会初優勝を果たした。2018年に新設されたUEFAネーションズリーグでは、第一回大会となった2018-19シーズンで初代王者の座についた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "他方で、女子サッカーで権威のある「アルガルヴェ・カップ」を、ポルトガル南部のアルガルヴェ地方で1994年より毎年開催している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "陸上競技においては、1984年のロサンゼルス五輪・男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウル五輪・女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタ、1995年世界陸上と1996年アトランタ五輪・10,000mを優勝したフェルナンダ・リベイロ、2008年北京五輪・三段跳で金メダルを獲得したネルソン・エボラ、2021年東京五輪・三段跳で金メダルを獲得したペドロ・ピカルド(英語版)などがいる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "F1やMotoGPのポルトガルグランプリ、WRCのラリー・ド・ポルトガル、WTCRのエストリル戦などの国際的イベントが開催されている。また、ヨーロッパやアフリカ開催時代のダカール・ラリーでは首都のリスボンが経由地となっており、2006年には同地が出発点となった。さらに、モトクロスやクロスカントリーで活躍するエルダー・ロドリゲス、MotoGPで初のポルトガル人ウィナーとなったミゲル・オリベイラはCDPアワーズの男性部門を受賞したことがあり、特にオリベイラは直近6年間で4度受賞という人気ぶりを見せている。F1での優勝者はまだおらず、ティアゴ・モンテイロの3位表彰台が最高である。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "卓球ではマルコス・フレイタスがITTF世界ランキングで最高7位、ITTFワールドツアーグランドファイナルのシングルスで銅メダルを獲得しており、ティアゴ・アポローニャやジョアン・モンテイロも国際大会でメダルを獲得した。ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコス(英語版)では国内で唯一牛を殺す闘牛が行われている。", "title": "スポーツ" } ]
ポルトガル共和国、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。ユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有している。
{{基礎情報 国 |略名 = ポルトガル |日本語国名 = ポルトガル共和国 |公式国名 = {{lang|pt|'''República Portuguesa'''}} |国旗画像 = Flag of Portugal.svg |国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Portugal.svg|100px|ポルトガルの国章]] |国章リンク = ([[ポルトガルの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = [[ア・ポルトゥゲーザ|{{lang|pt|A Portuguesa}}]]{{pt icon}}<br>''ポルトガルの歌''<br>{{center|[[file:A Portuguesa.ogg]]}} |位置画像 = Portugal on the globe (Europe centered).svg |公用語 = [[ポルトガル語]] |首都 = [[リスボン]] |最大都市 = リスボン |元首等肩書 = [[ポルトガルの大統領|大統領]] |元首等氏名 = [[マルセロ・レベロ・デ・ソウザ]] |首相等肩書 = [[ポルトガルの首相|首相]] |首相等氏名 = [[アントニオ・コスタ]] |面積順位 = 109 |面積大きさ = 1 E10 |面積値 = 91,985 |水面積率 = 0.5% |人口統計年 = 2020 |人口順位 = 87 |人口大きさ = 1 E7 |人口値 = 10,197,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/pt.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> |人口密度値 = 111.3<ref name=population/> |GDP統計年元 = 2020 |GDP値元 = 2000億8800<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月15日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=182,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,NGAP_NPGDP,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LE,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> |GDP統計年MER = 2020 |GDP順位MER = 48 |GDP値MER = 2283億5600万<ref name="economy" /> |GDP MER/人 = 2万2148.801<ref name="economy" /> |GDP統計年 = 2020 |GDP順位 = 51 |GDP値 = 3475億7100万<ref name="economy" /> |GDP/人 = 3万3711.684<ref name="economy" /> |建国形態 = [[独立]] |確立形態1 = [[レオン王国]]より独立 |確立年月日1 = [[1128年]] |確立形態2 = [[ポルトガル王国]]成立 |確立年月日2 = [[1139年]] |確立形態3 = レオン王国国王が承認 |確立年月日3 = [[1143年]] |確立形態4 = [[ローマ教皇]]が承認 |確立年月日4 = [[1179年]] |確立形態5 = [[1910年10月5日革命|革命]]により[[ポルトガル第一共和政|共和制]]に移行 |確立年月日5 = [[1910年]][[10月5日]] |確立形態6 = [[カーネーション革命]] |確立年月日6 = [[1974年]][[4月25日]] |通貨 = [[ユーロ]] (&#8364;) |通貨コード = EUR |通貨追記 = <ref group="注釈">[[1999年]]以前の通貨は[[ポルトガル・エスクード|エスクード]]。</ref><ref group="注釈">[[ポルトガルのユーロ硬貨]]も参照。</ref> |時間帯 = ±0 |夏時間 = +1 |時間帯追記 = <ref group="注釈">[[アソーレス諸島]]はUTC-1(DST: ±0)。</ref><br />[[ポルトガル時間]] |ISO 3166-1 = PT / PRT |ccTLD = [[.pt]] |国際電話番号 = 351 |注記 = <references /> }} '''ポルトガル共和国'''(ポルトガルきょうわこく、{{lang-pt|República Portuguesa}})、通称'''ポルトガル'''は、[[南ヨーロッパ]]の[[イベリア半島]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[リスボン]]。[[ユーラシア]]大陸最西端の国である。北と東に[[スペイン]]と[[国境]]を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は[[大西洋]]に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上に[[アゾレス諸島]]と[[マデイラ諸島]]を領有している。 == 国名 == 正式名称は[[ポルトガル語]]で、{{lang|pt|'''República Portuguesa'''}}<small>({{IPA-pt|ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ|}} {{small|レプーブリカ・プルトゥゲザ}})</small>。通称、{{lang|pt|'''Portugal'''}} <small>({{IPA-pt|puɾtuˈɣaɫ|}} {{small|プルトゥガル}})</small>。 [[日本語]]の表記は、'''ポルトガル共和国'''。通称 '''ポルトガル''' 。 [[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''葡萄牙'''で、 '''葡'''と略される。これは[[広東語]]の発音(Pou4tou4nga4≒ポウトウガー)による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記である。それまでは「波爾杜瓦爾」「保留止賀留」「蒲麗都家」などの多くの表記もあったが、幕末期より日本でも葡萄牙の漢字表記が優勢となっている。 英語表記は{{lang|pt|'''Portugal'''}}、国民・形容詞は{{lang|en|'''Portuguese'''}}。 国名の由来は、[[ポルト]]の[[ラテン語]]名である「{{lang|la|'''Portus Cale'''}}(ポルトゥス・カレ、「カレの港」の意)が転訛したものとされている。 == 歴史 == {{Main|ポルトガルの歴史}} === 先史時代とローマ化 === 現在から35,000年前には[[クロマニョン人]]が[[ピレネー山脈]]を越えて[[イベリア半島]]に進出し始め、ポルトガルにも{{仮リンク|コア川|en|Côa River}}([[ドウロ川]]支流)沿いに[[コア渓谷とシエガ・ベルデの先史時代の岩絵遺跡群|動物壁画]]が残されている。[[紀元前3000年]]ごろに[[新石器時代]]に突入すると、この地でも農業が始まった。[[紀元前1000年]]ごろにイベリア半島に到達した[[フェニキア人]]によって青銅器文明がもたらされ、[[ギリシャ人]]もこの地を訪れた。当時この地には[[イベリア人]]が定住していたが、[[紀元前900年]]ごろから断続的に[[ケルト人]]が侵入を続けた。 [[紀元前201年]]に[[第二次ポエニ戦争]]に勝利した[[共和政ローマ|ローマ共和国]]は、それまでイベリア半島に進出していた[[カルタゴ]]に代わって半島への進出を始めた。先住民の{{仮リンク|ルシタニア人|en|Lusitanians}}は{{仮リンク|ヴィリアトゥス|en|Viriathus}}の指導のもとでローマ人に抵抗したが、[[紀元前133年]]にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州[[ルシタニア]]と{{仮リンク|ガラエキア|en|Gallaecia}}に再編された。これ以降、「[[ローマの平和]]」のもとでイベリア半島のラテン化が進んだ。 === ゲルマン諸王国とイスラームの侵入 === [[ファイル:Hispania 560 AD.PNG|thumb|260px|紀元560年のイベリア半島の勢力図。[[スエヴィ王国]]と[[西ゴート王国]]が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州]] [[ローマ帝国]]が衰退すると、イベリア半島にも[[ゲルマン人]]が侵入を始めた。[[411年]]にガラエキアに侵入した[[スエヴィ人]]は[[スエヴィ王国]]を建国し、[[西ゴート人]]の[[西ゴート王国]]がこれに続いた。西ゴート王国は[[585年]]にスエヴィ王国を滅ぼし、[[624年]]に東ローマ領(スパニア属州)を占領、[[キリスト教]]の下でイベリア半島を統一<ref group="注釈">但し、統一年についてはスパニア属州に関する史料の少なさにより、確定できていない。624年説の他にも、[[625年]]説、[[628年]]説、[[629年]]説、[[634年]]以降の説が乱立しているのが現状である。</ref>したが、内紛の末に[[711年]]に[[ウマイヤ朝]]の[[イスラーム]]遠征軍によって国王[[ロデリック (西ゴート王)|ロデリック]]が戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下の[[アル=アンダルス]]に再編された。アンダルスには[[後ウマイヤ朝]]が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。 キリスト教勢力の[[ペラーヨ]]が[[アストゥリアス王国]]を建国し、[[722年]]の[[コバドンガの戦い]]の勝利によってイベリア半島で[[レコンキスタ]]が始まったあと、[[868年]]に[[アストゥリアス王国]]の[[アルフォンソ3世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ3世]]は[[ガリシア]]方面から{{仮リンク|ポルトゥ・カーレ|en|Portus Cale}}を解放し、{{仮リンク|ヴィマラ・ペレス|en|Vímara Peres}}を最初の[[伯爵]]とした[[ポルトゥカーレ伯領]]が編成された。[[1096年]]にこのポルトゥカーレ伯領と[[コインブラ伯領]]が、[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]からポルトゥカーレ伯領を受領した[[ブルゴーニュ]]出身の騎士[[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|エンリケ・デ・ボルゴーニャ]]のもとで統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。 === ポルトガル王国の盛衰 === ポルトゥカーレ伯の[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ・エンリケス]]は、[[1139年]]に[[オーリッケの戦い]]で[[ムラービト朝]]を破ったことをきっかけに自ら[[ポルトガル王]]アフォンソ1世を名乗り、[[カスティーリャ王国]]との戦いのあと、[[ローマ教皇]]の裁定によって{{仮リンク|サモラ条約|en|Treaty of Zamora}}が結ばれ、[[1143年]]にカスティーリャ王国の宗主下で[[ポルトガル王国]]が成立した。 ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。[[1149年]]には[[十字軍]]の助けを得て[[リスボン攻防戦|リスボンを解放し]]、[[1249年]]には最後のムスリム拠点となっていた[[シルヴェス]]と[[ファロ]]が解放された。レコンキスタの完了後、首都が[[1255年]]に[[コインブラ]]から[[リスボン]]に遷都された。[[1290年]]にはポルトガル最古の[[大学]]である[[コインブラ大学]]が設立された。また、[[1297年]]には[[カスティーリャ王国]]との国境を定めるために{{仮リンク|アルカニーゼス条約|pt|Tratado de Alcanizes}}が結ばれ、このときに定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の[[国境線]]となっている。また、この時期に[[ポルトガル語]]が[[文章語]]となった。 [[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]のもとで最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は[[14世紀]]半ばから[[黒死病]]の影響もあって衰退し、[[百年戦争]]と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、[[1383年]]に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化した。最終的に[[イングランド]]と結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、[[コルテス (身分制議会)|コルテス]](イベリア半島の[[身分制議会]])の承認のもとで[[1385年]]に[[アヴィス朝]]が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。 [[File:Henry the Navigator1.jpg|thumb|150px|エンリケ航海王子]] [[File:Ignoto portoghese, ritratto di un cavaliere dell'ordine di cristo, 1525-50 ca. 02.jpg|thumb|150px|[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]]] [[ファイル:Descobrimentos e explorações portuguesesV2.png|thumb|420px|16世紀ポルトガルの領土拡張]] ヨーロッパでもっとも早くに[[絶対主義]]を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、[[1415年]]にポルトガルは[[モロッコ]]北端の要衝[[セウタ]]を攻略した。この事件は[[大航海時代]]の始まりのきっかけとなり、以後、'''[[エンリケ航海王子]]'''([[1394年]] - [[1460年]])を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家は[[モロッコ]]や[[西アフリカ]]の沿岸部を攻略しながら[[アフリカ]]大陸を西回りに南下し、1482年には[[コンゴ王国]]に到達、[[1488年]]には[[バルトロメウ・ディアス]]が[[アフリカ大陸]]南端の[[喜望峰]]を回り込んだ。 [[1492年]]に{{仮リンク|グラナダ戦争|es|Guerra de Granada|en|Granada War}}に勝利して[[レコンキスタ]]が終結したスペインが、[[1494年]]にポルトガルと[[トルデシリャス条約]]を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進はさらに進み、[[1498年]]に[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[インド]]に到達した。また、[[1500年]]にインドを目指した[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]が[[ブラジル]]を「発見」し、[[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化]]が進んだ。 以後、ブラジルは[[1516年]]に[[マデイラ諸島]]から[[サトウキビ]]が持ち込まれたこともあり、黒人[[奴隷貿易]]によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、[[奴隷制]][[砂糖]][[プランテーション]]農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と[[低開発]]が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスや[[オランダ]]などヨーロッパの[[先進国]]に流出し、[[イスパノアメリカ]]の金銀とともに[[資本の本源的蓄積]]過程の原初を担った<ref>[[エドゥアルド・ガレアーノ]]『[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年]]』大久保光夫訳 新評論 1986</ref>。一方、[[1509年]]の[[ディーウ沖の海戦]]で勝利し、[[インド洋]]の[[制海権]]を確保して[[マラッカ]]、[[ホルムズ]]とさらに東進したポルトガル人は、[[1541年]] - [[1543年]]には[[日本]]へもやってきた<ref group="注釈">日本では、明の寧波を目指し遭難した船が1543年(天文12年)8月25日に種子島の門倉岬に漂着した出来事を初のポルトガル人の来日であるとしているが、ポルトガル史料では1542年説が有力であるとしている。またポルトガル共和国リスボン県リスボン市ベレン地区の[[発見のモニュメント]]では1541年に[[豊後国]]に漂流したことを日本の発見と位置付けている。</ref>。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では[[南蛮貿易]]が始まり、[[織田信長]]などの有力大名の保護もあって[[南蛮文化]]が栄えた。さらに、[[1557年]]には[[明]]から[[マカオ]]の居留権を得た。この時にポルトガル商人は日本人や中国人らを奴隷として買い付け、[[ポルトガルの奴隷貿易#アジア人の奴隷|奴隷貿易]]を行い、16~17世紀にかけて続いた([[#ポルトガルの日本人奴隷貿易|後述]])。 [[ファイル:Joao IV proclaimed king.jpg|thumb|320px|[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]の即位([[ポルトガル王政復古戦争|ポルトガルの独立回復]])]] こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって[[16世紀]]後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指した[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]が[[1578年]]に[[アルカセル・キビールの戦い]]で戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に[[1580年]]の[[アヴィス朝]]断絶による、ポルトガルの[[スペイン・ハプスブルク朝]]併合に帰結した([[スペイン帝国]])。 スペイン併合後もポルトガルは形式上[[同君連合]]として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、[[1640年]]の[[カタルーニャ]]の反乱([[収穫人戦争]])をきっかけとした<ref>金七紀男『ポルトガル史(増補版)』彩流社、2003年4月増補版。p.128</ref>[[ポルトガル王政復古戦争]]によりスペインから独立し、[[ブラガンサ朝]]が成立した。一方、この時期に植民地では、スペイン併合中の[[1624年]]に[[ネーデルラント連邦共和国]]の[[オランダ西インド会社]]がブラジルに侵入し、[[サルヴァドール・ダ・バイーア]]を占領した。[[北東部地域 (ブラジル)|ブラジル北東部]]に[[オランダ]]が{{仮リンク|ブラジル植民地 (オランダ領)|en|Dutch Brazil|label=オランダ領ブラジル}}を成立({{仮リンク|オランダ・ポルトガル戦争|en|Dutch–Portuguese War}})させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の[[1646年]]に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが[[公国]]に昇格し、以降ポルトガル王太子は[[ブラジル公国|ブラジル公]]を名乗るようになった。 [[1654年]]にオランダ人はブラジルから撤退し、[[1661年]]の[[ハーグ条約 (1661年)|ハーグ講和条約]]で、賠償金と引き換えにブラジルと[[ポルトガル領アンゴラ]](現・[[アンゴラ]])の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは[[1665年]]に[[コンゴ王国]]を事実上滅ぼした。また、この時期に[[モザンビーク]]の支配も強化されたが、[[18世紀]]までにそれ以外の[[東アフリカ]]地域からは[[オマーン]]=[[ザンジバル]]によって駆逐された。[[南アメリカ]]では[[トルデシリャス条約]]で定められた範囲を越えて[[バンダ・オリエンタル]](現在の[[ウルグアイ]])に[[コロニア・ド・サクラメント]]を建設し、以降[[南アメリカ]]でスペインとの戦争が続いた。 [[1696年]]にはブラジルで[[ズンビ・ドス・パルマーレス|パルマーレスのズンビ]]を破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家{{仮リンク|キロンボ・ドス・パルマーレス|pt|Quilombo dos Palmares}}を滅ぼしたことにより支配を安定させ、[[1750年]]には[[スペイン帝国]]と{{仮リンク|マドリード条約 (1750年1月13日)|en|Treaty of Madrid (13 January 1750)|label=マドリード条約}}を結び、[[バンダ・オリエンタル]]と引き換えに、[[アマゾン川]]流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。 広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、[[17世紀]]から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは[[1703年]]に[[イギリス]]と締結した[[メシュエン条約]]によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。[[1696年]]に[[南東部地域 (ブラジル)|ブラジル南東部]]の[[ミナス・ジェライス州|ミナス]]で[[金]]が発見され、[[ゴールドラッシュ]]が発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。 [[1755年]]の[[1755年リスボン地震|リスボン大地震]]のあと、[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]のもとで権力を握った[[ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ|セバスティアン・デ・カルヴァーリョ]](のちのポンバル侯爵)はポルトガルにおける[[啓蒙専制君主]]の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、[[イエズス会]]の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。 [[1777年]]に即位した[[マリア1世 (ポルトガル女王)|マリア1世]]の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、[[1789年]]の[[フランス革命]]によって[[フランス革命戦争]]/[[ナポレオン戦争]]が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、[[1807年]]11月に[[ジャン=アンドシュ・ジュノー|ジュノー]]将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は[[半島戦争]](スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後[[1808年]]から[[1821年]]まで南米の[[リオデジャネイロ]]がポルトガルの正式な首都となり、[[1815年]]にはブラジルが[[王国]]に昇格し、[[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]]が成立した。フランスは[[1811年]]にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。 === 近代のポルトガル === [[ファイル:Portugal Império total.png|thumb|420px|19世紀末までに[[ポルトガル帝国]]が領有した経験を持つ領域]] ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により[[1820年]]に[[ポルト]]で[[1820年自由主義革命|自由主義革命]]が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌[[1821年]]に招集された[[コルテス (身分制議会)|コルテス]]では[[憲法]]が制定され、[[ジョアン6世 (ポルトガル王)|ジョアン6世]]がポルトガルに復帰し、[[立憲君主制]]に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、[[ブラジル人]]の[[国民主義]]者たちによる独立運動が盛んとなり、{{仮リンク|ブラジル独立戦争|pt|Guerra da independência do Brasil}}の末に[[1822年]]に[[ジョゼー・ボニファシオ・デ・アンドラーダ|ジョゼー・ボニファシオ]]らを中心とするブラジル人ブルジョワジーたちがポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]に擁立し、[[ブラジル帝国]]が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。 ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって[[1832年]]から[[1834年]]まで[[ポルトガル内戦]]が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続き、[[1842年]]に[[ブラジル帝国憲法]]をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制のもとで{{仮リンク|ロタティヴィズモ|pt|Rotativismo}}と呼ばれる[[二大政党制]]が確立され、[[鉄道]]の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける[[議会制民主主義]]は{{仮リンク|コロネリズモ|pt|Coronelismo|label=カシキズモ}}({{lang-pt-short|Caciquismo}})と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、[[19世紀]]後半から[[20世紀]]後半まで多くの[[ポルトガル人]]がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ[[先進国]]に移住することとなった。 また、19世紀になっても工業化が進まず、農業においても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めて[[アフリカ]]に目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末の[[アフリカ分割]]の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。[[列強]]によるアフリカ分割が協議された[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]後の1886年には、[[大西洋]]の[[ポルトガル領アンゴラ]]と[[インド洋]]の[[ポルトガル領モザンビーク]]を結ぶ「{{仮リンク|バラ色地図|pt|Mapa Cor-de-Rosa}}」構想が打ち出されたが、[[1890年]]に[[3C政策|アフリカ縦断政策]]を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在の[[ザンビア]]、[[マラウイ]]、[[ジンバブエ]]に相当する地域をめぐって対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。</ref>。この事件がきっかけとなって[[共和主義者]]による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。そのほかにも[[1887年]]に[[マカオ]]の統治権を[[清]]より獲得している。 === 共和制の成立とエスタド・ノヴォ体制=== [[ファイル:Estremoz13.jpg|thumb|320px|[[1910年10月5日革命|共和制革命]]の寓意画]] [[1910年]][[10月3日]]に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王[[マヌエル2世 (ポルトガル王)|マヌエル2世]]が早期に亡命したこともあって、[[1910年10月5日革命]]が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは[[ポルトガル第一共和政|共和政]]に移行した。翌[[1911年]]には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は[[1916年]]に[[ドイツ帝国]]に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の[[1917年]]に[[シドニオ・パイス]]が[[クーデター]]で政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく、第一次世界大戦が終結したあとも政治不安は続いた。 幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返したあと、[[1926年5月28日クーデター]]により、[[マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ]]将軍、[[ジョゼ・メンデス・カベサダス]]将軍を首班とする[[軍事政権]]が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権の[[オスカル・カルモナ]]大統領のもとで財務相[[アントニオ・サラザール]]が混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、[[世界恐慌]]をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、[[1932年]]には首相に就任した。翌[[1933年]]にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。[[エスタド・ノヴォ]](新国家)体制が確立された{{efn|サラザール政権は[[枢軸国]]に[[タングステン]]を売り、その取引に[[純金]]を利用していた。純金の出所はユダヤ人からの没収資産ということを知りつつ取引をおこなった。このときに保持した純金が戦後も独裁体制を維持する財政基盤となった<ref>『朝日新聞GLOBE』2012年5月18日</ref>。}}。 対外的には[[ナチス党]]政権下の[[ドイツ]]や[[ファシスト党]]政権下の[[イタリア]]に近づき、[[スペイン内戦]]では[[フランシスコ・フランコ]]を支持したサラザールだったが、対内的には[[ファシズム]]よりも[[コーポラティズム]]を重視し、[[第二次世界大戦]]も親[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。 第二次世界大戦後、[[反共]]政策を維持したサラザールはポルトガルの[[北大西洋条約機構]]や[[国際連合]]への加盟に成功し、こうした[[西側諸国]]との友好政策もあって[[1950年代]]は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、[[1958年]]の大統領選挙に立候補した反サラザール派の{{仮リンク|ウンベルト・デルガード|en|Humberto Delgado}}将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、[[1961年]]の{{仮リンク|エンリケ・ガルヴァン|en|Henrique Galvão}}退役大尉が指導する{{仮リンク|イベリア解放革命運動|es|Directorio Revolucionario Ibérico de Liberación}}による[[サンタマリア号乗っ取り事件]]が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。 [[ファイル:Sempreatentos...aoperigo!.jpg|thumb|[[アンゴラ]]に展開する[[ポルトガル軍]]。[[脱植民地化]]時代にもポルトガルはアフリカの植民地維持のために戦争を続け、[[植民地]]とポルトガル双方に大きな傷跡を残す激しい[[ゲリラ]]戦争が繰り広げられた]] 一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が[[脱植民地化]]時代に突入していたこともあり、[[1951年]]にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「[[植民地]]」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えた[[ナショナリズム]]はもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年[[2月4日]]に[[国際共産主義運動]]系列の[[アンゴラ解放人民運動]](MPLA)が[[ルアンダ]]で刑務所を襲撃したことにより[[アンゴラ独立戦争]]が始まり、同年12月には[[インド軍]]が返還を要求していた[[ゴア州|ゴア]]、[[ディウ]]、[[ダマン]]のポルトガル植民地に侵攻し([[ゴア併合|インドのゴア軍事侵攻]])、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも[[1963年]]には[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]](PAIGC)によって[[ギニアビサウ独立戦争]]が始まり、モザンビークも[[1964年]]には[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)によって[[モザンビーク独立戦争]]が始まった。 サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら[[ポルトガルの植民地戦争|植民地戦争]]の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相まって[[1960年代]]には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、[[フランス]]、[[ルクセンブルク]]などの西ヨーロッパ先進国に移住した。 [[1968年]]にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り<ref group="注釈">意識不明の状態のまま辞任の手続きが取られ、2ヶ月後に覚醒したが本人には事故後の政局は全く伝えられることなく、事実上の軟禁状態のままサラザールは死去した。詳しくは[[アントニオ・サラザール#事故による失脚と死|1968年の事故について]]を参照のこと</ref>、後を継いだ[[マルセロ・カエターノ]]首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では[[学生運動]]が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、[[1973年]]9月には[[ポルトガル領ギニア]]で勤務した中堅将校を中心に「{{仮リンク|大尉運動|pt|Movimento dos Capitães}}」が結成された。翌[[1974年]]3月、大尉運動は全軍を包括する「{{仮リンク|国軍運動|en|Movimento das Forças Armadas}}(MFA)」に再編された。 === カーネーション革命以降 === [[ファイル:Mural2.jpg|thumb|left|320px|「自由の日、4月25日万歳」、[[カーネーション革命]]を記念する壁画]] 1974年[[4月25日]]未明、{{仮リンク|国軍運動|en|Movimento das Forças Armadas}}(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血のうちに[[カーネーション革命]]が達成された。革命後、[[ポルトガル共産党|共産党]]と[[社会党 (ポルトガル)|社会党]]をはじめとする全ての政党が合法化され、[[秘密警察]]{{仮リンク|ポルトガル国家防衛警察|label=PIDE|en|PIDE}}が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAの{{仮リンク|アントニオ・デ・スピノラ|en|António de Spínola}}将軍は革命を抑制する方針をとったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相の{{仮リンク|ヴァスコ・ゴンサウヴェス|en|Vasco Gonçalves}}、共産党書記長の[[アルヴァロ・クニャル]]、MFA最左派の{{仮リンク|オテロ・サライヴァ・デ・カルヴァーリョ|en|Otelo Saraiva de Carvalho|label=オテロ・デ・カルヴァーリョ}}と結んだ{{仮リンク|コスタ・ゴメス|en|Francisco da Costa Gomes}}将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制のもとで急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、[[1975年ポルトガル議会選挙|1975年の議会選挙]]で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことをもって革命は穏健路線に向かった。この間、海外植民地ではすでに1973年に独立を宣言していた[[ギニアビサウ|ギネー・ビサウ]]をはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地[[アンゴラ]]と[[モザンビーク]]、大西洋上の[[カーボベルデ|カーボ・ヴェルデ]]と[[サントメ・プリンシペ]]など5か国の独立を承認した。一方、[[ポルトガル領ティモール]]では、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に[[東ティモール独立革命戦線]](FRETILIN)が全土を掌握したが、12月に[[インドネシア]]が[[東ティモール]]に侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオもまた中華人民共和国から軍事侵攻をほのめかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけはポルトガル植民地として残った)、{{仮リンク|レトルナードス|pt|Retornados}}と呼ばれた[[ポルトガル系アフリカ人|アフリカへの入植者]]が本国に帰還した。 [[1976年]]4月には「[[階級]]なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的な[[ポルトガル1976年憲法]]が制定されたが、[[1976年ポルトガル議会選挙|同年の議会選挙]]では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、[[マリオ・ソアレス]]が首相に就任した。ソアレスの後に{{仮リンク|アルフレッド・ノブレ・ダ・コスタ|en|Alfredo Nobre da Costa|label=ダ・コスタ}}、{{仮リンク|カルロス・モタ・ピント|en|Carlos Mota Pinto|label=モタ・ピント}}、[[マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ|ピンタシルゴ]]と3つの内閣が成立したが、いずれも短命に終わった。[[1979年ポルトガル議会選挙|1979年の議会選挙]]では民主同盟が勝利し、{{仮リンク|フランシスコ・デ・サー・カルネイロ|en|Francisco de Sá Carneiro|label=サー・カルネイロ}}が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は[[中道左派|左派]]の[[社会党 (ポルトガル)|社会党]]と[[中道右派|右派]]の[[社会民主党 (ポルトガル)|社会民主党]]を中心とした[[二大政党制]]を軸に動くこととなった。[[1985年ポルトガル議会選挙|1985年の議会選挙]]では社会民主党が第一党となり、[[アニーバル・カヴァコ・シルヴァ]]が首相に就任し、翌年[[1986年]]1月1日にポルトガルの[[ヨーロッパ共同体]](EC)加盟を実現したが{{要出典|date=2021-05}}、[[1986年ポルトガル共和国大統領選挙|同月の大統領選挙]]では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存する[[コアビタシオン]]体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァのもとで[[1987年]]には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって[[1980年代]]後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。 [[1990年代]]に入り経済が失速したことを受けて、[[1995年ポルトガル議会選挙|1995年の議会選挙]]では社会党が第一党となり、[[アントニオ・グテーレス]]が首相に就任した。さらに、[[1996年ポルトガル共和国大統領選挙|翌1996年の大統領選挙]]でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権のもとでは[[1998年]]の[[リスボン万国博覧会]]に伴う経済ブームや民営化政策の進展により、[[1995年]]から[[2000年]]までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、[[ヨーロッパ連合]](EU)の始動に伴って[[1999年]]に欧州統一通貨[[ユーロ]]が導入された。しかし、[[2000年代]]に入って経済が停滞すると、[[2002年ポルトガル議会選挙|2002年の議会選挙]]では[[中道右派|右派]]の社会民主党が第一党となり、[[ドゥラン・バローゾ]]が首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では[[1996年]]に[[ポルトガル語諸国共同体]](CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年には[[マカオ]]が形式的にも[[中華人民共和国]]に[[マカオ返還|返還]]され、実質上植民地をすべて手放した。[[2002年]]、名目上ポルトガルの植民地だった[[東ティモール]]が[[インドネシア]]の占領・実効支配から独立を果たした。こうして[[1415年]]の[[大航海時代]]の始まりとともに生まれた[[ポルトガル帝国]]は、[[21世紀]]の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。 == 政治 == [[ファイル:Palácio de São Bento (Lissabon 2009).jpg|thumb|250px|[[共和国議会 (ポルトガル)|共和国議会]]が置かれている[[サン・ベント宮殿]]]] [[ファイル:Palacio Belem Lisboa.JPG|thumb|250px|大統領府、[[ベレン宮殿]]]] [[File:Marcelo Rebelo de Sousa em 2017.png|thumb|150px|ソウザ大統領]] [[File:António Costa em 2017.jpg|thumb|150px|コスタ首相]] {{main|{{仮リンク|ポルトガルの政治|pt|Política de Portugal|en|Politics of Portugal}}}} [[大統領]]を[[元首]]とする立憲[[共和制]][[国家]]であり、20世紀においては[[第二次世界大戦]]前からの[[独裁]]制が長く続いたが、[[1974年]][[4月25日]]の[[カーネーション革命]](無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。 一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、[[1976年]][[4月2日]]に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、[[民主社会中道・人民党|民主社会中央党]]が躍進した。1976年の[[マリオ・ソアレス]]政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。 憲法の制定により[[民主主義]]が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた[[社会主義]]を修正している。さらに、1983年に[[社会党 (ポルトガル)|社会党]]・[[社会民主党 (ポルトガル)|社会民主党]]の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙では[[アニーバル・カヴァコ・シルヴァ]]率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党の[[ジョルジェ・サンパイオ]]が大統領に選出された。 === 統治機構 === [[半大統領制]]を採用している。政府は直接[[普通選挙]]で選出される任期5年の大統領(1回に限り再選が認められている)、[[議会]]の勢力状況を考慮して大統領が任命する[[首相]]が率いる[[行政]]府、任期4年の230人の議員で構成された[[一院制]]の[[共和国議会 (ポルトガル)|共和国議会]]からなる[[立法]]府、および国家[[最高裁判所]]を頂点とする[[司法]]府により構成されている。 大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出などの権限を有する。行政権限の一部は、議会で多数の議席を持つ政党から選ばれる首相が掌握している。 {{See also|ポルトガルの大統領|ポルトガルの首相}} === 最近の政治状況 === *[[2005年ポルトガル議会選挙|2005年の総選挙]]で、社会党が1976年の民主化以降初めて単独過半数を獲得。同年3月、社会党党首[[ジョゼ・ソクラテス]]が首相に就任。 *[[2006年ポルトガル共和国大統領選挙|2006年の大統領選挙]]で、社会民主党の[[アニーバル・カヴァコ・シルヴァ]]が50.6%の得票率で当選。無所属で立候補した[[社会党 (ポルトガル)|社会党]]の[[マヌエル・アレグレ]]は20.7%、社会党の[[マリオ・ソアレス]]は14.3%、[[ポルトガル共産党|共産党]]の[[ジェロニモ・デ・ソウザ|デ・ソウザ]]は8.6%をそれぞれ獲得した。 *2011年3月の大統領選でカヴァコ・シルヴァが再選。 *[[2011年ポルトガル議会選挙|2011年6月の総選挙]]にて社会党が敗北。社会民主党の党首[[ペドロ・パッソス・コエーリョ]]が首相に就任。 *2015年の総選挙で、財政緊縮政策を進めてきた社会民主党を中心とする連立与党が勝利。コエーリョが首相に再任されたが、連立与党の獲得議席は過半数を下回った。そのため、社会党が共産党などと野党連合を組み、過半数を確保。その結果、コエーリョ政権の政策方針は議会で否決され、事実上の内閣不信任決議となった。これを受けて、大統領のカヴァコ・シルヴァは社会党の書記長[[アントニオ・コスタ]]に政権の樹立を要請し、社会党政権が発足した<ref name="nenkan2016">「ポルトガル共和国」『世界年鑑2016』([[共同通信社]]、2016年)429頁。</ref>。 *2016年の大統領選で、社会民主党の元党首[[マルセロ・レベロ・デ・ソウザ]]が52%の得票率で当選<ref name="nenkan2016"/>。 {{see also|{{仮リンク|ポルトガルの政党|en|List of political parties in Portugal}}}} == 国際関係 == [[File:Portuguese embassy map.png|thumb|520px|ポルトガルが外交使節を派遣している諸国の一覧図]] {{main|{{仮リンク|ポルトガルの国際関係|en|Foreign relations of Portugal}}}} [[北大西洋条約機構|NATO]]、[[経済協力開発機構|OECD]]、[[欧州自由貿易連合|EFTA]]の原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年には[[ヨーロッパ共同体|EC]]に加盟した。現在は[[ヨーロッパ共同体|EU]]加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとってもっとも重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的に[[イギリス]]との関係が深く、現在も1373年に締結された[[英葡永久同盟]]条約が効力を保っている。 旧植民地の[[ブラジル]]とは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。 EUとブラジル以外では[[アンゴラ]]や[[モザンビーク]]などの旧植民地諸国と関係が深く、1996年には[[ポルトガル語諸国共同体]](CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどの[[ルゾフォニア]]諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、[[東ティモール]]の独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。 2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力[[紛争]]を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが[[実効支配]]している[[オリベンサ]]の領有権を主張しているため、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係はおおむね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとの[[イベリスモ|イベリズモ]]思想も存在する。 ===日本との関係=== {{see|日本とポルトガルの関係}} *[[1543年]]にポルトガル船が[[種子島]]に漂着、ヨーロッパで初めて日本と接触した国となった。漂着した当初から日本人を対象にした[[奴隷貿易]]が開始され、大規模に発展していった([[#ポルトガルの日本人奴隷貿易|後述]])<ref>『近代世界と奴隷制』(1995年,人文書院)</ref>。 *[[1603年]]には、『[[日葡辞書]]』が[[イエズス会]]によって[[長崎市|長崎]]で発行された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/20/1/2004510.html|title=邦訳日葡辞書|accessdate=2016-08-17|author=土井忠生|coauthors=森田武, 長南実(編訳)|date=1980|publisher=[[岩波書店]]}}</ref>。4年以上の歳月をかけて編纂され、[[中世]]の[[日本語]]と[[ポルトガル語]]を研究するうえでの貴重な資料となっている。 *ポルトガル出身の[[イエズス]]会士[[ジョアン・ロドリゲス]]は1577年に来日し、その後1620年に[[マカオ]]で語学書「[[日本語]]小文典」を発行している<ref> ロドリゲス『日本語小文典(上)(下)』池上岑夫 訳、岩波書店(岩波文庫)1993年</ref>。 *[[岩倉使節団]]の記録である『[[米欧回覧実記]]』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・5』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、140~145頁</ref>。 ==== ポルトガルの日本人奴隷貿易 ==== {{Main|ポルトガルの奴隷貿易|バテレン追放令|天正遣欧使節|排外主義}} [[16世紀]]のポルトガルにおいて[[中国人]][[奴隷]](人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、[[モリスコ|改宗イスラム教徒]]、[[アフリカ人]][[奴隷]]の方が圧倒的に多かった<ref name=peter>{{cite book|publisher=UNC Press Books|year=2007|location=|url=https://books.google.co.jp/books?id=Vrj4gApIJz4C&pg=PA228&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false|quote= |volume=|page=228|title=The Atlantic World and Virginia, 1550-1624|editor=Peter C. Mancall|isbn=080783159X|edition=illustrated|accessdate=2014-02-02}}</ref>。[[ポルトガルの奴隷貿易]]については、歴史家の[[岡本良知]]は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年の[[セバスティアン1世 (ポルトガル王) ]]による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本は[[イエズス会]]はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている<ref>OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730</ref>。 {{信頼性要検証範囲|ポルトガル人が日本に来て以降、16〜17世紀にかけて日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した<ref>{{cite news |last= HOFFMAN|first= MICHAEL|date=May 26, 2013|title=The rarely, if ever, told story of Japanese sold as slaves by Portuguese traders |url=http://www.japantimes.co.jp/culture/2013/05/26/books/the-rarely-if-ever-told-story-of-japanese-sold-as-slaves-by-portuguese-traders/|newspaper=The Japan Times |location= |publisher= |accessdate=2020-11-23}}</ref>。[[龍谷大学]]の[[教授]]であった池本幸三によると、天正10年(1582年)、ローマに派遣された[[天正遣欧少年使節]]団は、[[アフリカ]]の[[モザンビーク]]や欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し、衝撃を受け、[[豊臣秀吉]]の言を伝える『九州御動座記』には、「伴天連(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述があるとした<ref name = "dorei">{{cite |和書| author = 池本幸三/[ほか]| title = 『近代世界と奴隷制』 | date = 1995| pages =158-160 |url=|newspaper= |location= |publisher=人文書院 |accessdate=2020-11-23}}</ref>。同座記には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷と同等の過酷なものであった<ref name = "dorei" />。21世紀に入っても、ポルトガル人の約31%が子供がアジア人(日本人を含む)を愛するようになると不快に感じると報告している<ref>{{Cite web|title=Discrimination in the EU in 2015 : report.|url=http://op.europa.eu/en/publication-detail/-/publication/d629b6d1-6d05-11e5-9317-01aa75ed71a1|website=op.europa.eu|date=2015-10-01|accessdate=2021-07-06|language=en|first=Publications Office of the European|last=Union}}</ref>。|date=2022年6月}} [[龍谷大学]]の池本幸三が引用した『'''デ・サンデ天正遣欧使節記'''』や『'''九州御動座記'''』は[[歴史学]]の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ[[天正遣欧使節]]記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている<ref name="matsuda">MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5</ref>。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売るなどの道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする[[日本]]の[[文化]]・[[宗教]]の道徳的退廃に対して批判が行われている<ref name="tensho">デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235</ref>。また[[ポルトガル国王]]による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている<ref name="tensho" />。デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており<ref name="tensho" />、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた<ref name="matsuda" />。 [[豊臣秀吉]]の功績を喧伝する[[御伽衆]]に所属した[[大村由己]]の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した[[仏教]]の元[[僧侶]]の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。 {{quotation|牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。}} ポルトガル人が牛や馬を買い、'''生きたまま皮を剥いで素手で食べる'''との記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり<ref> CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.</ref>、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている<ref>Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346</ref>。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある<ref>岡田章雄『キリシタン・バテレン』至文堂、1955</ref>。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。 {{quotation|司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした<ref>フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第一冊、同朋舎、1987</ref>}} さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた<ref>松田毅一監訳『一六・七世紀イエズス会日本報告集』第二冊、同朋舎、1987、217-289頁</ref>。[[仏教]]説話集『沙石集』には生き肝を[[薬]]とする説話があり{{sfn|小学館|2020a|p=「猿の生肝」}}仏教徒には馴染みのある説といえ、[[ルイス・デ・アルメイダ]]などによる[[西洋医療]]に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である[[大村由己]]が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。 日本における[[ポルトガルの奴隷貿易]]を問題視していた'''[[宣教師]]はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため'''、永代人身売買をやめさせて[[年季奉公]]人とするように人道的な働きかけが行われた<ref>BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 275. RUIZ DE MEDINA, Juan G. Orígenes de la Iglesia Catolica Coreana desde 1566 hasta 1784 según documentos inéditos de la época. Rome: Institutum Historicum S.I., 1986, p. 114-22. </ref>。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から[[年季奉公]]に改善するよう介入したとされている。マテウス・デ・クウロスなどの宣教師らによって、こうした[[人道的介入]]が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の奴隷(または年季奉公人)購入への宣教師の人道的介入は禁じられた<ref>BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 273-276v. Pagès in PAGÈS, Léon. Histoire de la religion chrétienne au Japon – Seconde Partie, Annexes. Paris: Charles Douniol, 1870, p. 70-9. SOUSA, Lúcio de. “Dom Luís de Cerqueira e a escravatura no Japão em 1598.” Brotéria, 165. Braga, 2007, pp. 245-61.</ref>。 [[中世]]日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2022a|p=「年季奉公」}}、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する[[年季奉公]]人が記録されている<ref>OKA Mihoko. “Kirishitan to Tōitsu Seiken.” In: ŌTSU Tōru et alii. Iwanami Kōza Nihon Rekishi Dai 10 Kan, Kinsei 1. Tokyo: Iwanami Shoten, 2014, pp. 185-187</ref>。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、[[マカオ]]への渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという<ref name="名前なし-pYFA-1">Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473</ref>。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して[[労働契約]]を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した<ref>PÉREZ, Lorenzo. Fr. Jerónimo de Jesús: Restaurador de las Misiones del Japón – sus cartas y relaciones (1595-1604). Florence: Collegii S. Bonaventurae, 1929, p. 47.</ref>。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという<ref name="名前なし-pYFA-1"/>。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある<ref>OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 730-2</ref>。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、[[農民]]と[[奴隷]]の区別をいっそう困難にしていた<ref>MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.</ref>。 [[龍谷大学]]の[[教授]]であった池本幸三の主張によると日本人の奴隷は黒人奴隷との境遇と同じであったしているが、[[黒人奴隷]]の生活は、多くの点で[[白人]]の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合うなど、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。しかし彼らは同じ法律、宗教、道徳の規範に従うことを期待されていた<ref>Saunders, A.C. De C.M. A social history of black slaves and freedmen in Portugal 1441-1555. New York: University of Cambridge Press, 1982 p.89</ref>。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は[[社会的包摂]]の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と[[教会法]]の管轄に服し保護をうけることができた<ref>OM, Lib. 4, Tit. XVI; LARA, Silvia Hunold. ‘Legislação sobre escravos africanos na América portuguesa’. in: ANDRÉS-GALLEGO, Jose (Coord). Nuevas Aportaciones a la Historia Jurídica de Iberoamérica. Madrid: Fundación Histórica Tavera/Digibis/Fundación Hernando de Larramendi, 2000 (CD-Rom), p. 57. Tit. XCIX.</ref><ref>Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 91</ref>。 ポルトガルでは残酷な行為は非常にまれであり、全体として公平に扱われていた。そのため、黒人[[奴隷]]が主人のもとから逃げ出すことはほとんどなかったと考えられている。ポルトガルにおける奴隷制度は、同化のしやすさや衣食住を含めた公平な待遇をうけ、また多くの黒人奴隷は、長年の忠実な奉仕と引き換えに自由を手に入れることができたが、外部からの雇用で得た賃金の一部で自由を購入する法的[[権利]]を行使することが一般的であった<ref>Northrup, David. Africa’s Discovery of Europe 1450-1850. New York: Oxford University Press, 2009. Northrup, 2009, p.10</ref>。 ポルトガルの奴隷制度では、奴隷は時には粗末に扱われることもあったが、ほとんどの場合、奴隷は公平に扱われ、多くの場合、自由民よりも良い扱いを受けていた。奴隷はカトリックに改宗し、言葉を覚え、[[クリスチャン・ネーム]]を名乗ることによって、すぐにポルトガル社会の一員となった<ref name="saunders-p178" />。ポルトガルには多くの黒人奴隷がいたが、彼らの経済的役割は非常に小さく、反社会的団体に組織されてプランテーションで働くということはほとんどなかった<ref name="saunders-p178">Saunders, A.C. De C.M. A social history of black slaves and freedmen in Portugal 1441-1555. New York: University of Cambridge Press, 1982 p.178</ref>。最新の研究では[[アジア人]]の[[奴隷]]は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある<ref>SOUSA, Lúcio de, and OKA Mihoko. Daikōkai Jidai no Nihonjin Dorei. Tokyo: Chuokoron-Shinsha, 2017.</ref><ref>Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 33</ref>。 [[マカオ]]ではほとんどの[[奴隷]]はアフリカ出身であり、アジア出身の奴隷も少数いたとされる<ref name="George Bryan Souza 2004 32">{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=nPyg0evI8ykC&pg=PA32&dq=and+soldiers+5000+slaves+20000+Chinese+1643+2000+moradores+(Portuguese+inhabitants)+1644+40000+total+inhabitants+1648&hl=en&ei=XfC6TtDND-jo0QGsscDeCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=and%20soldiers%205000%20slaves%2020000%20Chinese%201643%202000%20moradores%20(Portuguese%20inhabitants)%201644%2040000%20total%20inhabitants%201648&f=false|title=The Survival of Empire: Portuguese Trade and Society in China and the South China Sea 1630-1754|volume=|year=2004|author=George Bryan Souza|editor=|publisher=Cambridge University Press|edition=reprint|location=|isbn=0-521-53135-7|page=32|pages=|quote=5000 slaves 20000 Chinese 1643 2000 moradores (Portuguese civil citizens) 1644|accessdate=4 November 2011}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=oCx0D0iE2QoC&pg=PA323&dq=typical+cross+section+of+the+population+consisted+of+about+600+casados,+100-200+other+Portuguese,+some+5000+slaves+and+a+growing&hl=en&ei=bPC6TrzhGIrs0gGKoIzfCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=typical%20cross%20section%20of%20the%20population%20consisted%20of%20about%20600%20casados%2C%20100-200%20other%20Portuguese%2C%20some%205000%20slaves%20and%20a%20growing&f=false|title=Atlas of languages of intercultural communication in the Pacific, Asia and the Americas|volume=|year=1996|author=Stephen Adolphe Wurm, Peter Mühlhäusler, Darrell T. Tryon|editor=|publisher=Walter de Gruyter|edition=|location=|isbn=3-11-013417-9|page=323|pages=|quote=The Portuguese population of Macao was never very large. Between the period 1601 -1669, a typical cross section of the population consisted of about 600 casados, 100-200 other Portuguese, some 5000 slaves and a growing number of Chinese|accessdate=4 November 2011}} </ref>。 == 軍事 == {{Main|ポルトガルの軍事}} ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、[[ポルトガル陸軍|陸軍]]2万2,400人、[[ポルトガル海軍|海軍]]1万4,104人、[[ポルトガル空軍|空軍]]8,900人。ほかに[[国家憲兵]]として[[ポルトガル共和国国家警備隊]](Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。 2004年11月に[[徴兵制]]が廃止され、[[志願兵制|志願兵制度]]が導入された。 == 地理 == [[File:Portugal topographic map-pt.png|left|200px|thumb|地形図]] [[ファイル:Burgau, Algarve, Portugal.jpg|right|200px|thumb|[[アルガルヴェ]]の海岸]] [[ファイル:Azoren (14).jpg|right|200px|thumb|[[アソーレス諸島]]の[[ピコ島]]]] {{main|{{仮リンク|ポルトガルの地理|en|Geography of Portugal}}}} [[アイスランド]]に次いで、[[ヨーロッパ]]諸国の中でもっとも西に位置する。[[イベリア半島]]西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上の[[アソーレス諸島]]、[[マデイラ諸島]]も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500キロ離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900キロ離れている。 ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえる''[[ピコ山]]'' (Montanha do Pico) 。標高は2,351メートル。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置する[[エストレーラ山脈]]中の[[トーレ (エストレーラ山脈)|トーレ]]の標高1,991メートル。エストレーラとは星を意味する。 東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川である[[テージョ川]]が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第2の河川である[[ドウロ川]]が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km<sup>2</sup>にとどまる。また、沿岸部には[[ポルトガル海流]]が南西に流れている。 === 気候 === 本土は北大西洋に面しているものの、[[ケッペンの気候区分]]では、[[地中海性気候]](Cs)に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流の[[カナリア海流]]が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200 - 1,500ミリである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500 - 700ミリである。南部は典型的な地中海性気候で、夏季の雨量が少なく年間降水量は500ミリを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。 首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706ミリである。冬季の雨量は100ミリ程度だが、夏季は数ミリにとどまる。 == 地方行政区分 == {{Main|ポルトガルの地域区分}} ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、[[欧州連合]]によるものが採用されている。 === 主要都市 === {{Main|ポルトガルの都市の一覧}} {| class="infobox" style="text-align:center; margin-right:10px; font-size:90%" |- ! align=center style="background:#f5f5f5;" | ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 都市 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 人口 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 都市 ! align=center style="background:#f5f5f5;" | 人口 |- |----- |align="center"| '''1''' |align="center"| '''[[リスボン]]''' |align="right"| 564,657 |align="center"| '''11''' |align="center"| '''[[ケルス (ポルトガル)|ケルス]]''' |align="right"| 78,040 |----- |align="center"| '''2''' |align="center"| '''[[ポルト]]''' |align="right"| 263,131 |align="center"| '''12''' |align="center"| '''[[アヴェイロ]]''' |align="right"| 55,291 |----- |align="center"| '''3''' |align="center"| '''[[ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア]]''' |align="right"| 178,255 |align="center"| '''13''' |align="center"| '''[[ギマランイス]]''' |align="right"| 52,181 |----- |align="center"| '''4''' |align="center"| '''[[アマドーラ]]''' |align="right"| 175,872 |align="center"| '''14''' |align="center"| '''[[オディヴェラス]]''' |align="right"| 50,846 |----- |align="center"| '''5''' |align="center"| '''[[ブラガ]]''' |align="right"| 109,460 |align="center"| '''15''' |align="center"| '''[[リオ・ティント]]''' |align="right"| 47,695 |----- |align="center"| '''6''' |align="center"| '''[[アルマーダ (ポルトガル)|アルマーダ]]''' |align="right"| 101,500 |align="center"| '''16''' |align="center"| '''[[ヴィゼウ]]''' |align="right"| 47,250 |----- |align="center"| '''7''' |align="center"| '''[[コインブラ]]''' |align="right"| 101,069 |align="center"| '''17''' |align="center"| '''[[ポンタ・デルガダ]]''' |align="right"| 46,102 |----- |align="center"| '''8''' |align="center"| '''[[フンシャル]]''' |align="right"| 100,526 |align="center"| '''18''' |align="center"| '''[[マトジーニョス]]''' |align="right"| 45,703 |----- |align="center"| '''9''' |align="center"| '''[[セトゥーバル]]''' |align="right"| 89,303 |align="center"| '''19''' |align="center"| '''[[アモーラ]]''' |align="right"| 44,515 |----- |align="center"| '''10''' |align="center"| '''[[アグアルヴァ=カセーン]]''' |align="right"| 81,845 |align="center"| '''20''' |align="center"| '''[[レイリア]]''' |align="right"| 42,745 |----- | colspan="11" align=center style="background:#f5f5f5;" | 2004年調査 |} 2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70% - 90%(たとえば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、[[アルバニア]]や[[セルビア]]、[[スロベニア]]などのバルカン諸国である。 == 経済 == [[File:Avenida_da_Liberdade_(22344060581)_(cropped).jpg|right|thumb|200px|リスボン中心街]] [[ファイル:Quercus suber corc.JPG|left|220px|thumb|ポルトガルの[[コルク]]]] {{main|{{仮リンク|ポルトガルの経済|en|Economy of Portugal}}}} [[2020年]]には、[[購買力平価説|購買力平価]]に基づくポルトガルの1人当たりの実質[[国民総所得|GNI]]([[国民総所得]])は33,980ドルになる。 この結果は、ポルトガルの非常に低い物価を考慮しても、ポルトガルの一人当たりの収入は日本よりも低いことを意味する<ref>{{Cite web|title=GNI per capita, PPP (current international $) {{!}} Data|url=https://data.worldbank.org/indicator/NY.GNP.PCAP.PP.CD?end=2020&most_recent_value_desc=true&start=2020&year_high_desc=true|website=data.worldbank.org|accessdate=2021-08-26}}</ref>。[[2013年]]のポルトガルの[[国内総生産|GDP]]は約2,199億ドルであり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=41&pr.y=11&sy=2013&ey=2013&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=182&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMFによるGDP]</ref>、[[日本]]の[[埼玉県]]よりやや大きい経済規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。同年の1人あたりの名目GDPは2万727ドルで世界平均の約2倍だが、[[欧州連合|EU]]加盟国の中では平均を下回る。 1975年に植民地を一度に失ったため、[[石油]]を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。 1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。1人あたり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。 主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。[[地中海性気候]]を生かし、[[オリーブ]]、[[コムギ|小麦]]、[[ワイン]]、[[コルク]]の生産が盛んである。[[オリーブ油]]の生産高は世界7位で、ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)で、森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では[[代替エネルギー]]に力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている<ref name="20080417nikkeibo">「ポルトガル:「共産主義だった遠い国」からの脱皮」『日経ビジネスオンライン』日経BP社、2008年4月17日付配信</ref>。また、[[波力発電]]のトップランナーを目指し研究を重ねている<ref name="20080417nikkeibo"/>。 鉱業資源には恵まれていないが、[[鉄]]、[[銅]]、[[錫]]、[[銀]]などを産する。特筆すべきは世界第5位の[[タングステン]]鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。おもな鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。 2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易である。おもな輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)で、おもな相手国は、スペイン(21%)、[[ドイツ]](18%)、[[フランス]](13%)。おもな輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)で、おもな相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。 2002年時点では、[[日本]]への輸出が1.7億ドル。おもな品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの3分の2はポルトガル産である。タングステンの輸入元としては[[ロシア]]に次いで2位で、輸入が6.5億ドル。おもな品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。 2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるために[[モザンビーク]]など旧植民地に移民する動きがある<ref>{{Cite news|title=ポルトガルから旧植民地への「逆頭脳流出」|newspaper=JBPress|date=2012-3-21|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34805}}</ref>。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|ポルトガルの交通|en|Transport in Portugal}}}} === 道路 === {{main|{{仮リンク|ポルトガルの道路|en|Roads in Portugal}}}} 国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした[[高速道路]]網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。 おもな高速道路は以下のとおり。 *A1 リスボン - ポルト *A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を[[4月25日橋]]で渡る。 *A3 ポルト - スペイン・[[ガリシア]]地方国境方面 *A4 ポルト - アマランテ *A5 リスボン - カスカイス *A6 マラテカ - スペイン・[[バダホス]]国境方面 国境にて[[マドリッド]]方面のA-5に接続。 === 鉄道 === {{Main|ポルトガルの鉄道}} *[[ポルトガル鉄道]](CP) *[[リスボンメトロ]] リスボン市 *[[ポルトメトロ]] ポルト都市圏 === 航空 === {{main|{{仮リンク|ポルトガルの空港の一覧|en|List of airlines of Portugal}}}} リスボン、ポルト、ファロがおもな国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。 *[[TAPポルトガル航空]] *[[:pt:SATA_Air_A%C3%A7ores|SATA Air Açores]] - ポルトガル のアソーレス諸島を中心とした航空会社 == 国民 == [[ファイル:Detailed SVG map of the Lusophone world.svg|right|200px|thumb|ポルトガル語圏諸国を表す地図]] [[ファイル:Mosteiro dos Jeronimos - Igreja 2.jpg|right|200px|thumb|[[ジェロニモス修道院]]]] [[ファイル:Portugal 120716 Coimbra University 07.jpg|right|200px|thumb|[[コインブラ大学]]]] {{main|{{仮リンク|ポルトガルの人口統計|en|Demographics of Portugal}}}} ポルトガルの国民の大部分は[[ポルトガル人]]である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、[[ケルト人]]、[[ラテン人]]、[[ゲルマン人]]([[西ゴート族]]、[[スエビ族]]、[[ブーリ族]])、[[ユダヤ人]]、[[ムーア人]](大多数は[[ベルベル人]]で一部は[[アラブ人]])が[[混血]]した民族である。 かつてポルトガルは移民送出国であり、特に[[サンパウロ州]]での[[コーヒー]]栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していた[[ブラジル]]には19世紀後半から20世紀初めまでの期間にかけて多くのポルトガル人が移住した。しかし、ブラジルの生活環境や労働環境に耐えられず帰国するものが多かった。ブラジル以外にも[[ベネスエラ|ベネズエラ]]、[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]などの[[ラテンアメリカ]]諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、[[アフリカ]]のポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけては[[フランス]]や[[スイス]]、[[ルクセンブルク]]など、[[西ヨーロッパ]]の[[先進国|先進諸国]]への移民が増えた。 しかし、1973年の[[オイル・ショック]]による先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの[[ポルトガル系アフリカ人|在アフリカポルトガル人]]が本国に帰国し、代わりに[[カナダ]]、[[アメリカ合衆国]]への移住が行われるようになった。 このように移民送出国だったポルトガルも、近年では[[ブラジル]]をはじめ、[[ウクライナ]]、[[ルーマニア]]、[[カーボ・ヴェルデ]]([[カーボベルデ系ポルトガル人]])、[[アンゴラ]]、[[ロシア]]、[[ギニア・ビサウ]]など、旧植民地や[[東ヨーロッパ]]からの移民が流入している。 === 言語 === {{see|{{仮リンク|ポルトガルの言語|en|Languages of Portugal}}}} 言語は[[インド・ヨーロッパ語族]][[ロマンス語系]]の[[ポルトガル語]]([[イベリアポルトガル語]])<ref group="注釈">ポルトガル語は[[アラビア語]]につぎ、世界第7位の話者人口を擁する。これは[[ブラジル]]の存在による。同じポルトガル語でも[[ブラジルポルトガル語]]と[[イベリアポルトガル語]]では発音や語彙にかなりの差がある。</ref>が[[公用語]]である。 1999年[[ブラガンサ県]]の[[ミランダ・ド・ドウロ]]で話されている[[ミランダ語]]が同地域の公用語として認められた。 また、ポルトガルの北に位置するスペインの[[ガリシア]]地方の言語[[ガリシア語]]はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。 === 宗教 === {{see|ポルトガルの宗教}} 宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が国民の97%を占める。[[ファティマ]]は[[マリア出現]]の地として世界的に有名な[[巡礼]]地となった。 {{節スタブ}} === 婚姻 === 婚姻の際には、自己の姓を用い続ける([[夫婦別姓]])、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置もしくは後置することを選択することが可能である。1977年の法改正で別姓を選択できるようになった<ref>[http://www.theportugalnews.com/news/majority-of-married-women-in-portugal-keep-maiden-name/6288 Majority of married women in Portugal keep maiden name]、The Protugal News、 2011年8月20日。</ref>。[[2011年]]の時点では、既婚女性の60%が婚前の姓をそのまま用いている<ref>[http://www.theportugalnews.com/news/view/1126-10 "Majority of married women in Portugal keep maiden name"], News Online, August 20, 2011.</ref><ref>[http://www.labourmobility.com/does-my-surname-change-when-i-get-married-in/ "Does my surname change when I get married in?"], ELM Expertise, April 10, 2012</ref>。また、2010年からは、同性同士の婚姻([[同性婚]])が認められるようになった<ref name="PDF">[http://dre.pt/pdf1sdip/2010/05/10500/0185301853.pdf Lei n.º 9/2010 de 31 de Maio Permite o casamento civil entre pessoas do mesmo sexo]</ref><ref name=Segunda-feira> [http://www.publico.pt/portugal/jornal/segundafeira-ja-vai-ser-possivel-celebrar--casamentos-entre-pessoas-do-mesmo-sexo-19521550 Segunda-feira já vai ser possível celebrar casamentos entre pessoas do mesmo sexo]</ref>。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ポルトガルの教育|en|Education in Portugal}}}} 6歳から15歳までが基礎教育([[義務教育]])期間であり、6歳から10歳までが初等学校([[初等教育]]。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校([[前期中等教育]])となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における[[高等学校]]に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると[[高等教育]]への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。 おもな高等教育機関としては[[コインブラ大学]](1290年)、[[リスボン大学]](1911年)、[[ポルト大学]](1911年)、[[リスボン工科大学]](1930年)、[[ポルトガル・カトリカ大学]](1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字]]率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり<ref name="2009cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/po.html CIA World Factbook]2009年3月30日閲覧。</ref>、ヨーロッパ諸国の中では[[マルタ]]に次いで[[セルビア・モンテネグロ]]と並ぶ低さだった。なお、[[第一次世界大戦]]直前の識字率は約25%だった。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|ポルトガルの保健|en|Health in Portugal}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{see|{{仮リンク|ポルトガルの医療|en|Healthcare in Portugal}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|ポルトガルにおける犯罪|en|Crime in Portugal}}}} ポルトガルの治安は欧州諸国の中では比較的良い方だが、2022年世界平和度指数の「安全・セキュリティ」部門そのものは[[大韓民国|韓国]]より下位に位置している<ref>{{Cite web |title=Global Peace Index Map » The Most & Least Peaceful Countries |url=https://www.visionofhumanity.org/maps/ |website=Vision of Humanity |date=2020-07-24 |access-date=2022-10-12 |language=en-US}}</ref>。最近はリスボンやポルトなどの大都市を中心に[[スリ]]、[[置き引き]]、[[ひったくり]]といった一般[[犯罪]]が増加傾向にある。 同国政府が発表した2018年の犯罪認知件数は333,223件で、前年より2.6%減少しているが、この内 [[殺人]]や[[強盗]]ならび[[放火]]などの凶悪犯罪認知件数は13,981件で前年より8.6%減少しており、2008年以降最も低い水準となっている。 認知件数の多い犯罪は、[[車上狙い]](平均65/日)、[[暴行]](平均63件/日)、[[飲酒運転]](平均50件/日)、置き引き(平均34件/日)、スリ(平均34件/日)の順となっている。車上狙いは前年より5.1%増加しており、スリや置き引きなど[[観光客]]を狙った犯罪も後を絶たない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_099.html|title=ポルトガル 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-10-04|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権・差別 === {{see|{{仮リンク|ポルトガルにおける人権|en|Human rights in Portugal}}}}欧州委員会の2019年5月の調査によると、ポルトガルは日本人を含むアジア人に対する差別が欧州連合平均より高いことが判明した<ref>{{Cite web |title=Eurobarometer |url=https://europa.eu/eurobarometer/surveys/detail/2251 |website=europa.eu |access-date=2022-10-12}}</ref>。{{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ポルトガルのメディア|en|Mass media in Portugal}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ポルトガルの文化|pt|Cultura de Portugal|en|Culture of Portugal}}}} ポルトガルの文化の多くは、大西洋に面した立地の影響を受けている。 イベリア半島にかつて居住していた[[ケルト人]]、[[ローマ人]]、[[アラブ人]]などの影響を受けながら、[[カトリック教会|カトリック]]を基盤に[[ポルトガル人]]によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面では[[イギリス#文化|イギリスの文化]]の影響よりも[[フランス文化|フランスの文化]]の影響が強い。隣国スペインと同様に[[闘牛]]の文化もある。なお、ポルトガルの文化と[[ブラジルの文化]]を象徴する言葉に郷愁を表す「[[サウダージ]]」(Saudade)という言葉がある。 === 食文化 === {{Main|ポルトガル料理}} [[ファイル:Port wine.jpg|left|180px|thumb|[[ポルトワイン]]]] [[ファイル:Feijoada à transmontada.jpg|right|180px|thumb|ポルトガルの[[フェジョアーダ]]]] [[File: MargaretCafe PasteisDeNata.JPG|thumb|パステル・デ・ナタ]] ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、[[イワシ]]、[[サバ]]、[[アンコウ]]などの多様な魚の中でも、特に[[タラ|干鱈]](ほしだら、バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては[[コムギ|小麦]]、[[トウモロコシ]]、[[ライムギ|ライ麦]]、[[コメ|米]]が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。ほかには豚肉が使われる。おもな料理として、[[フェジョアーダ]]([[ブラジル]]のものとは異なる)、[[石のスープ]]、[[ガスパチョ]]、[[パステル・デ・ナタ]]、[[アルフェニン]]などが挙げられる。 [[ポルトガルワイン]]([[ポルトワイン]]、[[マデイラ・ワイン|マデイラワイン]]、[[ヴィーニョ・ヴェルデ]]、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。 === 文学 === [[ファイル:Luís de Camões por François Gérard.jpg|right|180px|thumb|[[ルイス・デ・カモンイス]]。ポルトガルの民族[[叙事詩]]『[[ウズ・ルジアダス]]』(1572年)を残した]] [[ファイル:JSJoseSaramago.jpg|180px|thumb|[[ノーベル文学賞]]作家、[[ジョゼ・サラマーゴ]]。『[[白の闇]]』(1995)はブラジルの[[フェルナンド・メイレリス]]によって『[[ブラインドネス]]』として映画化された]] {{Main|ポルトガル文学}} ポルトガル文学は12世紀末の[[ガリシア=ポルトガル語]]で[[トゥルバドゥール]]([[吟遊詩人]])によって詠われた中世[[叙事詩]]にはじまった。 16世紀の[[ルネサンス]]時代にはポルトガル[[演劇]]の父となった[[ジル・ヴィセンテ (劇作家)|ジル・ヴィセンテ]]や、詩人の[[サー・ダ・ミランダ]]などが現れ、叙事詩『[[ウズ・ルジアダス]]』などの作品を残した[[ルイス・デ・カモンイス]]は、特に国民的な詩人であるとされている<ref name="WDL">{{cite web|url=http://www.wdl.org/en/item/11198/|title=The Lusiads|accessdate=2013-09-01|date=1800-1882|website=[[World Digital Library]]}}</ref>。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して[[紀行文学]]が栄え、ポルトガル人による[[西アフリカ]]探検と[[奴隷]]狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』の[[ゴメス・エアネス・デ・アズララ]]に始まり、ブラジルの「発見」を記録した『[[カミーニャの書簡]]』の[[ペロ・ヴァス・デ・カミーニャ]]、『東方諸国記』の[[トメ・ピレス]]、『[[東洋遍歴記]]』(1614)の[[フェルナン・メンデス・ピント]]などが現れた。 17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年に[[アルメイダ・ガレット]]の『カモンイス』によってポルトガルに導入された[[ロマン主義]]は、ガレットと[[アレシャンドレ・エルクラーノ]]によって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いた[[カミーロ・カステロ・ブランコ]]によって完成された。19世紀半ばからは[[写実主義]]の[[ジュリオ・ディニス]]、[[エッサ・デ・ケイロス]]、[[テオフィロ・ブラガ]]などの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、[[テイシェイラ・デ・パスコアイス]]はポルトガル独自のアイデンティティを「[[サウダージ]]」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人[[フェルナンド・ペソア]]が生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、[[ヴェンセスラウ・デ・モラエス]]が特に言及される。 現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『[[白の闇]]』(1995)で知られ、1997年に[[ノーベル文学賞]]を受賞した作家の[[ジョゼ・サラマーゴ]]や、ポルトガル近現代史を主なテーマにする[[アントニオ・ロボ・アントゥーネス]]などの名が挙げられる。 カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られる[[カモンイス賞]]が創設された。 === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|ポルトガルの音楽|en|Music of Portugal}}}} ポルトガルの音楽は、宮廷[[吟遊詩人]]や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれてきた。[[クラシック音楽]]においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残した[[ジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタ]]や、交響曲『カモンイス』の[[ルイ・コエーリョ]]、古代[[ルシタニ族]]の英雄[[ヴィリアトゥス]]を題材にした[[オラトリオ]]『葬送』の[[ルイス・デ・フレイタス・ブランコ]]などの名が特筆される。 ポルトガル発の[[ポピュラー音楽]](いわゆる[[民族音楽]]、[[ワールドミュージック]])としては、特に[[ファド]](Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にした[[アマリア・ロドリゲス]](1920 - 1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年では[[ドゥルス・ポンテス]]や[[マリーザ]]など、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。そのほかにも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『[[グランドラ、ビラ・モレーナ]]』が用いられたポルトガル・フォーク歌手[[ジョゼ・アフォンソ]]の名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になった[[マドレデウス]]の音楽はファドとは呼びがたいが([[アコーディオン]]は通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。 近年は、アンゴラからもたらされた[[キゾンバ]]や[[クドゥーロ]]のような音楽も人気を博し、ポルトガルからも[[ブラカ・ソン・システマ]]のようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。 また、ポルトガルは近来、デス、ブラック、シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、[[ムーンスペル|MOONSPELL]]はポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなった[[ムーンスペル|MOONSPELL]]は、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。 === 美術 === [[ファイル:Jose malhoa fado.jpg|right|200px|thumb|[[ジョゼ・マリョア]]画『ファド』]] {{Main|{{仮リンク|ポルトガル美術|en|Portuguese art}}}} 絵画においてはルネサンス時代に[[フランドル]]学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派の[[ヴァスコ・フェルナンデス]]とリスボン派の[[ジョルジェ・アフォンソ]]の対立があり、『[[サン・ヴィセンテの祭壇画]]』を描いた[[ヌーノ・ゴンサルヴェス]]がもっとも傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』の[[アヴェラール・レベロ]]、『リスボンの全景』の[[ドミンゴス・ヴェイラ]]のほかに傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだ[[ヴィエイラ・ポルトゥエンセ]]や[[バロック美術|バロック]]の[[ドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラ]]のような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、1836年にリスボンに美術アカデミーが作られ、[[フランシスコ・アウグスト・メトラス]]らが学んだ。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、[[写実主義]]のもとにポルトガル北部の田園風景を描いた[[アントニオ・ダ・シルバ・ポルト]]や、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いた[[ジョゼ・マリョア]]が活躍した。 ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクの[[アズレージョ]]や、金泥木彫の[[ターリャ・ドラダ]]などが存在する。 === 映画 === {{Main|ポルトガルの映画}} ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5か月後にはポルトで[[アウレリオ・ダ・バス・ドス・レイス]]が自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年には[[マノエル・デ・オリヴェイラ]]によって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラは[[ネオレアリズモ]]の先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスの[[ヌーヴェルヴァーグ]]とイタリアのネオレアリズモに影響を受けて[[ノヴォ・シネマ]]運動がはじまり、『[[青い年]]』の[[パウロ・ローシャ]]や、[[ジョアン・セーザル・モンテイロ]]らが活躍した。 現代の映像作家としては『[[ヴァンダの部屋]]』(2000)の[[ペドロ・コスタ]]の名が挙げられる。 === 建築 === {{Main|{{仮リンク|ポルトガルの建築|en|Portuguese Architecture}}}} ポルトガルは建築の歴史が長い国の一つに数えられている。その起源は[[新石器時代]]に遡ることができ、[[巨石文化]]に関連するものが遺されている。 紀元前2世紀には[[イベリア半島]]の[[ヒスパニア]]でローマ帝国の襲来による古代ローマ人の到来と共に古代ローマ文化が齎され、文明が著しく発展して行った。これにより征服された同国地域の[[集落]]や[[村落|村]]は、ローマ形式に従って近代化されることが多く、広場や道路をはじめ劇場や寺院、大浴場、水道橋、その他の公共の施設が[[ローマ建築]]の影響を受けた形で建築されていた。やがて5世紀に始まったゲルマン人(特にスエビ族と西ゴート族)による侵略により、ローマ文化から[[ロマネスク]]への転換が図られていった。その後、711年に[[マグリブ|マグレブ]]からの[[ムーア人]]によるイベリア半島の侵略で西ゴート族のポルトガル地域支配に終止符が打たれ、ムーア人の文化はポルトガル地域南部の芸術と建築に強い影響を与えることとなった。 以降もイスラム系の文化とキリスト教系の宗教文化が交わりつつも入れ替わる時代が続いたためにポルトガルの建築における文化は独自性を窮めて行くこととなった。近代建築においては'''エスティロ・プルトゥゲザ・スァーブ'''([[:pt:Estilo Português Suave|Estilo Português Suave]],[[:en:Soft Portuguese style|Soft Portuguese style]])と呼ばれる建築様式が1930年代から1960年代にかけて同国の公共および民間の建物で使用されている。 一方で、ポルトガルの建築技法は近隣諸国をはじめ、同国植民地の歴史を持つアフリカや中南米の国々ならびアジアの地域に強い影響を与えている。 {{also|{{仮リンク|ポルトガル植民地建築|en|Portuguese colonial architecture}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ポルトガルの世界遺産}} ポルトガル国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が12件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。 <gallery> Terceira CathedralAngra.jpg|[[アングラ・ド・エロイズモ|アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモ中心地区]] - (1983年) Torre de Belem 20050728.jpg|[[リスボン]]の[[ジェロニモス修道院]]と[[ベレンの塔]] - (1983年) Mosteiro da Batalha - Claustro 2.jpg|[[バターリャ修道院]] - (1983年) Tomartemplarschurch2.jpg|[[トマールのキリスト教修道院]] - (1983年) Sé Évora.JPG|[[エヴォラ|エヴォラ歴史地区]] - (1986年) Alcobaca fountain hires.jpg|[[アルコバッサ修道院]] - (1989年) Ippar-palacio-pena-aerea.jpg|[[シントラ|シントラの文化的景観]] - (1995年) Porto Ribeira.jpg|[[ポルト|ポルト歴史地区]] - (1996年) Rock Art Foz Coa 01.jpg|[[コア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群]] - (1998年) Laurazeen wood madeira hg.jpg|[[マデイラ島の照葉樹林]] - (1999年) Rio douro.jpg|[[アルト・ドウロ・ワイン生産地域]] - (2001年) Pt-gmr-castelo.jpg|[[ギマランイス|ギマランイス歴史地区]] - (2001年) Pico.jpg|[[ピコ島|ピコ島のブドウ畑の景観]] - (2004年) </gallery> === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|ポルトガルの祝日|en|Public holidays in Portugal}}}} {| class="wikitable" |+ !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |[[1月1日]] |[[元日]] |Ano Novo |&nbsp; |- |2月 |[[謝肉祭|カルナヴァル]] |Carnaval |移動祝日 |- |3月~4月 |[[聖金曜日]] |Sexta-Feira Santa |[[復活祭]]前の金曜日 |- |3月~4月 |[[復活祭]] |Páscoa |移動祝日<!-- 日曜日 --> |- |[[4月25日]] |解放記念日 |Dia da Liberdade |[[カーネーション革命]]([[1974年]])記念日 |- |[[5月1日]] |[[メーデー]] |Dia do Trabalhador |&nbsp; |- |[[6月10日]] |ポルトガルの日 |Dia de Portugal |[[ルイス・デ・カモンイス|カモンイス]]の命日 |- |6月 |[[聖体の祝日]] |Corpo de Deus |移動祝日<br/>復活祭60日後 |- |[[6月13日]] |[[パドヴァのアントニオ|聖アントニオ]]の日 |Dia de Santo António |リスボンのみ |- |[[6月24日]] |[[洗礼者ヨハネ|聖ジョアン]]の日 |Dia de São João |ポルト、ブラガのみ |- |[[8月15日]] |[[聖母被昇天]]祭 |Assunção de Nossa Senhora |&nbsp; |- |[[10月5日]] |共和国樹立記念日 |Implantação da República |&nbsp; |- |[[11月1日]] |[[諸聖人の日]] |Todos os Santos |&nbsp; |- |[[12月1日]] |独立回復記念日 |Restauração da Independência |[[1640年]]に[[スペイン]]との[[同君連合]]を廃絶 |- |[[12月8日]] |[[無原罪の御宿り|無原罪の聖母]] |Imaculada Conceição |&nbsp; |- |[[12月25日]] |[[クリスマス]] |Natal |&nbsp; |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ポルトガルのスポーツ|en|Sport in Portugal}}}} === サッカー === {{see|{{仮リンク|ポルトガルのサッカー|en|Football in Portugal}}}} [[ファイル:Cristiano Ronaldo - Dagur Brynjólfsson.jpg|thumb|right|200px|[[サッカーポルトガル代表]]の[[クリスティアーノ・ロナウド]] (2010年)]] ポルトガル国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、1934年にプロサッカーリーグの[[プリメイラ・リーガ]]が創設された。リーグは[[トレス・グランデス]]と呼ばれる[[SLベンフィカ]]、[[FCポルト]]、[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]の3強によって支配されている<ref>{{cite web|url=http://soccernet.espn.go.com/columns/story?id=920989&root=uefaeuropaleague&cc=null|title=Red, Green and Royal Blue|accessdate=23 May 2011|date=18 May 2011|author=John Brewin|publisher=ESPN}}</ref>。 [[ポルトガルサッカー連盟]](FPF)によって構成される[[サッカーポルトガル代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1966 FIFAワールドカップ|1966年大会]]で初出場して以降、[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]、[[2002 FIFAワールドカップ|2002年大会]]、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年大会]]、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年大会]]、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年大会]]、[[2022 FIFAワールドカップ|2022年大会]]と8度の出場歴を持つ。 [[UEFA欧州選手権]]では自国開催となった[[UEFA EURO 2004|2004年大会]]で準優勝し、[[UEFA EURO 2016|2016年大会]]では国際大会初優勝を果たした<ref>{{Cite web|和書|title=ポルトガルが悲願の欧州制覇…C・ロナ負傷交代も延長戦を制して初タイトル|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/euro/20160711/466828.html|website=サッカーキング|accessdate=2019-10-22|language=ja|first=FromOne|last=co.,Ltd}}</ref>。2018年に新設された[[UEFAネーションズリーグ]]では、第一回大会となった[[UEFAネーションズリーグ2018-19|2018-19シーズン]]で初代王者の座についた。 他方で、[[女子サッカー]]で権威のある「[[アルガルヴェ・カップ]]」を、ポルトガル南部の[[アルガルヴェ]]地方で1994年より毎年開催している。 {{See also|オ・クラシコ|{{仮リンク|デルビー・デ・リスボア|en|Derby de Lisboa}}}} === 陸上競技 === [[陸上競技]]においては、1984年の[[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス五輪]]・男子マラソンで金メダルを獲得した[[カルロス・ロペス]]や、1988年の[[1988年ソウルオリンピック|ソウル五輪]]・女子マラソンで金メダルを獲得した[[ロザ・モタ]]、[[1995年世界陸上競技選手権大会|1995年世界陸上]]と[[1996年アトランタオリンピックの陸上競技|1996年アトランタ五輪]]・[[10000メートル競走|10,000m]]を優勝した[[フェルナンダ・リベイロ]]、[[2008年北京オリンピック|2008年北京五輪]]・[[三段跳]]で金メダルを獲得した[[ネルソン・エボラ]]、[[2020年東京オリンピック|2021年東京五輪]]・三段跳で金メダルを獲得した{{仮リンク|ペドロ・ピカルド|en|Pedro Pichardo}}などがいる。 === モータースポーツ === [[フォーミュラ1|F1]]や[[ロードレース世界選手権|MotoGP]]の[[ポルトガルグランプリ]]、[[世界ラリー選手権|WRC]]の[[ラリー・ド・ポルトガル]]、[[世界ツーリングカーカップ|WTCR]]のエストリル戦などの国際的イベントが開催されている。また、ヨーロッパやアフリカ開催時代の[[ダカール・ラリー]]では首都のリスボンが経由地となっており、2006年には同地が出発点となった<ref>[https://www.mitsubishi-motors.com/jp/innovation/motorsports/dakar/2006/ Dakar Rally - ダカール・ラリー 2006]三菱自動車工業公式サイト 2021年10月17日閲覧</ref>。さらに、[[モトクロス]]や[[オフロード|クロスカントリー]]で活躍するエルダー・ロドリゲス、MotoGPで初のポルトガル人ウィナーとなった[[ミゲル・オリベイラ]]はCDPアワーズの男性部門を受賞したことがあり、特にオリベイラは直近6年間で4度受賞という人気ぶりを見せている。F1での優勝者はまだおらず、[[ティアゴ・モンテイロ]]の3位表彰台が最高である。 === その他の競技 === {{see also|オリンピックのポルトガル選手団}} [[卓球]]では[[マルコス・フレイタス]]が[[ITTF世界ランキング]]で最高7位、[[ITTFワールドツアーグランドファイナル]]のシングルスで銅メダルを獲得しており、[[ティアゴ・アポローニャ]]や[[ジョアン・モンテイロ]]も国際大会でメダルを獲得した。ポルトガルの[[闘牛]]はスペインとは異なり基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯の{{仮リンク|バランコス|en|Barrancos}}では国内で唯一牛を殺す闘牛が行われている<ref>市之瀬敦『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』社会評論社、2000年12月。p.139</ref>。 == 著名な出身者 == {{Main|ポルトガル人の一覧}} <!-- 王族以外のポルトガル出身者や関係者を挙げる --><!-- [[{人名}]] - [[{職業}]]のように記載して下さい --> {{colbegin|2}} * [[アントニオ・サラザール]] - 元[[ポルトガルの首相|首相]]、[[政治家]]、[[経済学者]]、[[独裁者]] * [[ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ]] - 元首相、元[[欧州委員会委員長]] * [[マリア・デ・ルルデス・ピンタシルゴ]] - 元[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]、元[[欧州議会]]議長 * [[ジョアン・ロドリゲス]] - [[イエズス会]]士、[[通訳]]士 * [[ルイス・フロイス]] - イエズス会士([[フロイス日本史]]の著者) * [[ルイス・デ・カモンイス]] - [[詩人]]([[ウズ・ルジアダス]]の著者) * [[フェルナンド・ペソア]] - 詩人 * [[ヴェンセスラウ・デ・モラエス]] - [[海軍]][[軍人]]、[[外交官]]、[[知日家]] * [[ジョゼ・サラマーゴ]] - [[作家]]([[ノーベル文学賞]]受賞) * [[ルイス・デ・フレイタス・ブランコ]] - [[作曲家]] * [[アマリア・ロドリゲス]] - [[歌手]]、[[俳優|女優]] * [[マリア・ジョアン・ピレシュ]] - [[ピアニスト]] * [[ネリー・ファータド]] - 歌手(両親が[[アゾレス諸島]]出身) * [[ファティマ・ロペス]] - [[ファッションデザイナー]] * [[アルヴァロ・シザ]] - [[建築家]] * [[マノエル・デ・オリヴェイラ]] - [[映画監督]] * [[エウゼビオ]] - 元[[サッカー選手]]([[モザンビーク]]出身) * [[ルイス・フィーゴ]] - 元サッカー選手 * [[マヌエル・ルイ・コスタ]] - 元サッカー選手 * [[ペドロ・パウレタ]] - 元サッカー選手 * [[アンデルソン・ルイス・デ・ソウザ|デコ]] - 元サッカー選手([[ブラジル]]出身) * [[リカルド・カルヴァーリョ]] - 元サッカー選手 * [[クリスティアーノ・ロナウド]] - サッカー選手([[アル・ナスルFC]]所属) * [[ジョゼ・モウリーニョ]] - サッカー指導者([[ASローマ]]監督) * [[ジョルジュ・メンデス]] - [[国際サッカー連盟|FIFA]]公認の[[スポーツエージェント|代理人]](Gestifute[[代表取締役]]) * [[ミゲル・オリベイラ]] - [[オートバイ]]レーサー * [[ルイ・コスタ (自転車選手)|ルイ・コスタ]] - [[自転車]][[ロードレース (自転車競技)|ロードレース選手]] * [[セルジオ・パウリーニョ]] - 自転車ロードレース選手 * [[ペドロ・ラミー]] - 元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * [[ティアゴ・モンテイロ]] - F1ドライバー * [[ロザ・モタ]] - 元女子[[マラソン]]選手 * [[フェルナンダ・リベイロ]] - 元[[陸上競技]]選手 * [[フェルナンド・マメーデ]] - 元陸上競技選手 {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=市之瀬敦|authorlink=市之瀬敦|date=2000年12月|title=ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ|series=|publisher=[[社会評論社]]|location=[[東京]]|isbn=4-7845-0392-7|ref=市之瀬(2000)}} *{{Cite book|和書|editor=エドゥアルド・ガレアーノ|editor-link=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} *{{Cite book|和書|author=金七紀男|authorlink=金七紀男|edition=2003年4月増補版|title=ポルトガル史(増補版)|series=|publisher=[[彩流社]]|location=[[東京]]|isbn=4-88202-810-7|ref=金七(2003)}} *{{Cite book|和書|author=田所清克監修|authorlink=田所清克|date=1993年3月|title=郷愁ポルトガル──地果て海始まるところ|series=|publisher=[[泰流社]]|location=|isbn=|ref=田所(1993)}} *{{Cite book|和書|author1=村上義和|authorlink1=村上義和|author2=池俊介編著|authorlink2=池俊介|date=2001年2月|title=ポルトガルを知るための50章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-1387-4|ref=村上、池(2001)}} == 関連項目 == * [[ポルトガル関係記事の一覧]] * [[日本とポルトガルの関係]] * [[ポルトガル語諸国共同体]] * [[ポルトガル海上帝国]] * [[ポルトガルの都市]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Portugal|Portugal}} ; 政府 *[https://www.portugal.gov.pt/ ポルトガル共和国政府] {{pt icon}}{{en icon}} *[https://www.presidencia.pt/ ポルトガル大統領府] {{pt icon}}{{en icon}} *[https://www.portugal.gov.pt/pt/gc21/primeiro-ministro ポルトガル首相府] {{pt icon}}{{en icon}} *[https://toquio.embaixadaportugal.mne.gov.pt/ja/ 在日ポルトガル大使館] - 日本語版サイト ; 日本政府 *[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/portugal/ 日本外務省 - ポルトガル] {{ja icon}} *[https://www.pt.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ポルトガル日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 *[https://www.visitportugal.com/ja ポルトガル政府観光局] - 日本語版サイト ;その他 *[https://www.jetro.go.jp/world/europe/pt/ ジェトロ - ポルトガル]{{ja icon}} *{{CIA_World_Factbook link|po|Portugal}} {{en icon}} *{{Curlie|Regional/Europe/Portugal}} {{en icon}} *{{Wikiatlas|Portugal}} {{en icon}} *{{Osmrelation|295480}} * {{Kotobank}} {{ヨーロッパ}} {{アフリカ}} {{EU}} {{OECD}} {{CPLP}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほるとかる}} [[Category:ポルトガル|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:先進国]] [[Category:ポルトガル語圏]]
2003-03-20T07:16:28Z
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4,597
硬水
硬水(こうすい)とは、カルシウムやマグネシウムの金属イオン含有量が多い水のことである。逆のものは軟水という。 水の硬度は{カルシウム濃度 (mg/L)×2.5 + マグネシウム濃度 (mg/L)×4.1}で炭酸カルシウム(CaCO3)含有量に近似され、厚生労働省ではその量が60mg/L以下の水を軟水、60~120mg/Lを中硬水、120~180mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水と定義している。その他の単位では以下のようになる。 硬水は北欧の水に多い。アメリカ合衆国では東部・南部・太平洋岸では軟水が多く、南西部は硬水が多い。日本では関東地方の一部や南西諸島に見られるが、ほとんどの地域の水は軟水であり、水源が硬水である沖縄本島中・南部および本部半島・読谷では、水道水の硬度を下げる処理を施している。 また、硬水は含有するイオンのタイプによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。 前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水で、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる(反応式は後述)。 後者はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は蒸留しないと飲用に適さない水であったが、現在はイオン交換樹脂でイオンを除去し、軟化させることが容易となった。 水に含まれるミネラルが多くなるほど口当たりが重く癖の強い味になるため、ミネラルを多く含む硬水は軟水と比べて飲み辛く、飲用に適さないものが多い。特に、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを人間が摂取すると大腸に長時間留まり水分の吸収を阻害するため、腸内に水分が溜まり下痢をひき起こす。このような理由から、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなるとされるが、一方で硬水の中でも飲用に適するものも存在し、ミネラルの摂取を補う健康飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:硬度が1468のコントレックスなど) イギリスにおいては、中国から茶がもたらされた際は同じように緑茶で飲んでいたが、軟水を用いる中国と異なり、硬水を用いるイギリスにおいては紅茶との相性が良かったことから、紅茶を飲むようになった。 石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩であるから、硬水のマグネシウム・イオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じ、使用感が悪い。また、衣類にその塩が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸となり、さらに酸化して異臭を発したりする。染色ではカルシウム・イオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色むらが生じる。 硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって、洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと表面に白い斑点が生じる。一時硬水を自動車エンジンの冷却水として使用するとオーバーヒート、水漏れなどの問題が生じる場合がある。また、工業用ボイラーにおいては、加熱によってライムスケイル(Limescale、缶石、水垢。石灰の鱗の意。 )が生じるため、パイプ詰まりを起こしたり、熱効率を著しく低下させたりする。 料理に使う場合も軟水の方が適している場合が多いが、肉の煮込み料理の場合は余分なタンパク質などを灰汁として抜き出し、肉を軟らかくする効果があるため、肉料理や肉を使った洋風だしを作る上で軟水より適している。また、糊化が抑制されるため、スパゲッティでは塩を入れなくてもアルデンテができ、ジャガイモの煮崩れが抑制されたり、豆や米では堅く炊きあがったりする。米等の穀類では軟水の方が適しており、コーヒーでは浅煎りのアメリカンに軟水を用いることで豆本来のよい香りとさっぱりした味を楽しむことができ、深煎りのエスプレッソには硬水を用いることで渋味の成分がカルシウムなどに結びついて、苦みや渋みが除かれまろやかさが増しコクが加わる。また、緑茶は軟水で煎れたものが旨いと考えられていたが、近年では硬水で煎れたものが旨みが強いとする研究もある。一方、昆布のグルタミン酸や鰹節のイノシン酸のようなうま味成分の抽出を阻害するので、和食では軟水の使用が望ましい。 醸造酒である日本酒やビール、蒸留酒の焼酎など、酒造においては硬水であっても問題とならない。水中のミネラルは糖をアルコールに変える酵母を活性化させて発酵が進みやすくなるため、すっきりした口当たりの辛口の酒ができると言われる。日本の酒処でも灘の水は中硬水で、隆起珊瑚礁の島が多い沖縄県の泡盛や鹿児島県の奄美黒糖焼酎の仕込み水も硬水である例が多い。ただし、焼酎の割り水(希釈水)は軟化処理してから用いるのが普通である。 世界保健機関によると、水の硬さと健康の関係は現在のところ充分に研究されておらず不明である。他方、軟水は金属を腐食させる傾向が高く、重金属中毒を引き起こすおそれがあるとされる。日本では、水道水質基準によってpHを保つことにより、腐食を防止している。 また、一部では硬水に含まれるミネラルを摂りすぎることでお腹を壊してしまうケースも報告されている。 硬水を煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させることができる。 また、炭酸ナトリウムなどの軟水化剤の投入でもカルシウム塩を沈殿させることができる。 蒸気機関車が鉄道動力の主力であった時代は、軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。上述の式の右辺に生じる炭酸水素ナトリウムはボイラー中で炭酸ナトリウムになり、これは定期的に排水されて低濃度に保たれる。 石鹸や洗剤には、石鹸カス形成を防ぐためエチレンジアミン四酢酸やエチドロン酸などのキレート剤が添加される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "硬水(こうすい)とは、カルシウムやマグネシウムの金属イオン含有量が多い水のことである。逆のものは軟水という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水の硬度は{カルシウム濃度 (mg/L)×2.5 + マグネシウム濃度 (mg/L)×4.1}で炭酸カルシウム(CaCO3)含有量に近似され、厚生労働省ではその量が60mg/L以下の水を軟水、60~120mg/Lを中硬水、120~180mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水と定義している。その他の単位では以下のようになる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "硬水は北欧の水に多い。アメリカ合衆国では東部・南部・太平洋岸では軟水が多く、南西部は硬水が多い。日本では関東地方の一部や南西諸島に見られるが、ほとんどの地域の水は軟水であり、水源が硬水である沖縄本島中・南部および本部半島・読谷では、水道水の硬度を下げる処理を施している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、硬水は含有するイオンのタイプによって一時硬水と永久硬水の2種類に分けることができる。 前者は石灰岩地形を流れる河川水、地下水で、炭酸水素カルシウムを多く含み、煮沸することにより軟化することができる(反応式は後述)。 後者はカルシウムやマグネシウムの硫酸塩・塩化物が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は蒸留しないと飲用に適さない水であったが、現在はイオン交換樹脂でイオンを除去し、軟化させることが容易となった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "水に含まれるミネラルが多くなるほど口当たりが重く癖の強い味になるため、ミネラルを多く含む硬水は軟水と比べて飲み辛く、飲用に適さないものが多い。特に、水分子と強く結合(水和)するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを人間が摂取すると大腸に長時間留まり水分の吸収を阻害するため、腸内に水分が溜まり下痢をひき起こす。このような理由から、硫酸マグネシウムを多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなるとされるが、一方で硬水の中でも飲用に適するものも存在し、ミネラルの摂取を補う健康飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:硬度が1468のコントレックスなど)", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イギリスにおいては、中国から茶がもたらされた際は同じように緑茶で飲んでいたが、軟水を用いる中国と異なり、硬水を用いるイギリスにおいては紅茶との相性が良かったことから、紅茶を飲むようになった。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "石鹸は脂肪酸とナトリウムの塩であるから、硬水のマグネシウム・イオンと出会うと不溶性の塩(石鹸かす)を生じ、使用感が悪い。また、衣類にその塩が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸となり、さらに酸化して異臭を発したりする。染色ではカルシウム・イオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色むらが生じる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "硬水が蒸発すると、含まれていた塩類が析出する。したがって、洗浄に用いた場合などはすぐに拭き取らないと表面に白い斑点が生じる。一時硬水を自動車エンジンの冷却水として使用するとオーバーヒート、水漏れなどの問題が生じる場合がある。また、工業用ボイラーにおいては、加熱によってライムスケイル(Limescale、缶石、水垢。石灰の鱗の意。 )が生じるため、パイプ詰まりを起こしたり、熱効率を著しく低下させたりする。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "料理に使う場合も軟水の方が適している場合が多いが、肉の煮込み料理の場合は余分なタンパク質などを灰汁として抜き出し、肉を軟らかくする効果があるため、肉料理や肉を使った洋風だしを作る上で軟水より適している。また、糊化が抑制されるため、スパゲッティでは塩を入れなくてもアルデンテができ、ジャガイモの煮崩れが抑制されたり、豆や米では堅く炊きあがったりする。米等の穀類では軟水の方が適しており、コーヒーでは浅煎りのアメリカンに軟水を用いることで豆本来のよい香りとさっぱりした味を楽しむことができ、深煎りのエスプレッソには硬水を用いることで渋味の成分がカルシウムなどに結びついて、苦みや渋みが除かれまろやかさが増しコクが加わる。また、緑茶は軟水で煎れたものが旨いと考えられていたが、近年では硬水で煎れたものが旨みが強いとする研究もある。一方、昆布のグルタミン酸や鰹節のイノシン酸のようなうま味成分の抽出を阻害するので、和食では軟水の使用が望ましい。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "醸造酒である日本酒やビール、蒸留酒の焼酎など、酒造においては硬水であっても問題とならない。水中のミネラルは糖をアルコールに変える酵母を活性化させて発酵が進みやすくなるため、すっきりした口当たりの辛口の酒ができると言われる。日本の酒処でも灘の水は中硬水で、隆起珊瑚礁の島が多い沖縄県の泡盛や鹿児島県の奄美黒糖焼酎の仕込み水も硬水である例が多い。ただし、焼酎の割り水(希釈水)は軟化処理してから用いるのが普通である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "世界保健機関によると、水の硬さと健康の関係は現在のところ充分に研究されておらず不明である。他方、軟水は金属を腐食させる傾向が高く、重金属中毒を引き起こすおそれがあるとされる。日本では、水道水質基準によってpHを保つことにより、腐食を防止している。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、一部では硬水に含まれるミネラルを摂りすぎることでお腹を壊してしまうケースも報告されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "硬水を煮沸すると炭酸カルシウムを沈降させることができる。", "title": "化学" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、炭酸ナトリウムなどの軟水化剤の投入でもカルシウム塩を沈殿させることができる。", "title": "化学" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "蒸気機関車が鉄道動力の主力であった時代は、軟水の確保は深刻な問題であり、砂漠の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。上述の式の右辺に生じる炭酸水素ナトリウムはボイラー中で炭酸ナトリウムになり、これは定期的に排水されて低濃度に保たれる。", "title": "化学" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "石鹸や洗剤には、石鹸カス形成を防ぐためエチレンジアミン四酢酸やエチドロン酸などのキレート剤が添加される。", "title": "化学" } ]
硬水(こうすい)とは、カルシウムやマグネシウムの金属イオン含有量が多い水のことである。逆のものは軟水という。
{{独自研究|date=2015年10月}} '''硬水'''(こうすい)とは、[[カルシウム]]や[[マグネシウム]]の[[金属イオン]]含有量が多い[[水]]のことである。逆のものは'''[[軟水]]'''という。 ==分類== {{正確性|section=1|date=2016-02|ppmとmg/Lで値が違うとか、mmol/Lとmg/Lで数字が揃うとかどういうわけでしょうか。}} 水の[[硬度 (水)|硬度]]は{カルシウム濃度 (mg/L)×2.5 + マグネシウム濃度 (mg/L)×4.1}で[[炭酸カルシウム]](CaCO<sub>3</sub>)含有量に近似され、[[厚生労働省]]ではその量が60mg/L以下の水を軟水、60~120mg/Lを中硬水、120~180mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水と定義している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11121000-Iyakushokuhinkyoku-Soumuka/0000178391.pdf |title=清涼飲料水評価書 カルシウム・マグネシウム等(硬度) |page=10 |format=PDF |publisher=厚生労働省 食品安全委員会 |date=2017-04-25 |accessdate=2021-04-03}}</ref>。その他の単位では以下のようになる。 {| class="wikitable" |- ! 名称 || 硬度 (mg/L) || 硬度 (mmol/L) || 硬度 (dGH/°dH) || 硬度 (gpg) || 硬度 (ppm) |- |軟水|| 0–60 || 0–0.60 || 0-3.37 || 0-3.50 || < 60 |- |中軟水(中硬水)|| 61–120 || 0.61–1.20 || 3.38-6.74 || 3.56-7.01 || 60-120 |- |硬水|| 121–180 || 1.21–1.80 || 6.75–10.11 || 7.06-10.51 || 120-180 |- |超硬水|| ≧ 181 || ≧ 1.81 || ≧ 10.12 || ≧ 10.57 || > 180 |} 硬水は[[北欧]]の水に多い。[[アメリカ合衆国]]では[[アメリカ合衆国東部|東部]]・[[アメリカ合衆国南部|南部]]・[[アメリカ合衆国太平洋諸州|太平洋岸]]では軟水が多く、[[アメリカ合衆国南西部|南西部]]は硬水が多い<ref>{{cite web|url=http://water.usgs.gov/owq/hardness-alkalinity.html|title=Water Hardness and Alkalinity|publisher=USGS Water-Quality Information|accessdate=2014-09-30}}</ref>。日本では[[関東地方]]の一部や[[南西諸島]]に見られるが、ほとんどの地域の水は軟水であり、水源が硬水である[[沖縄本島]]中・南部および[[本部半島]]・読谷では、[[水道水]]の硬度を下げる処理を施している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.water.naha.okinawa.jp/pax/suishitsukanri/suishitsuqa.html|title=水質Q&A|accessdate=2017-01-26|author=配水管理課|publisher=那覇市上下水道局}}「水道水の硬度を下げて給水することはできませんか?」を参照。</ref>。 ===一時硬水と永久硬水=== また、硬水は含有する[[イオン]]のタイプによって'''一時硬水'''と'''永久硬水'''の2種類に分けることができる。 前者は[[石灰岩]]地形を流れる河川水、地下水で、[[炭酸水素カルシウム]]を多く含み、煮沸することにより軟化することができる(反応式は後述)。 後者はカルシウムやマグネシウムの[[硫酸塩]]・[[塩化物]]が溶け込んでいるもので、煮沸しても軟化されない。以前は[[蒸留]]しないと飲用に適さない水であったが、現在は[[イオン交換樹脂]]でイオンを除去し、軟化させることが容易となった。 == 利用 == {{出典の明記|section=2|date=2016-01}} 水に含まれる[[ミネラル]]が多くなるほど口当たりが重く癖の強い味になるため、ミネラルを多く含む硬水は軟水と比べて飲み辛く、飲用に適さないものが多い。特に、水[[分子]]と強く結合([[水和]])するマグネシウムイオンは体内に吸収されにくく、これを人間が摂取すると[[大腸]]に長時間留まり水分の吸収を阻害するため、腸内に水分が溜まり[[下痢]]をひき起こす。このような理由から、[[硫酸マグネシウム]]を多く含む硬水を飲むと下痢をしやすくなるとされるが、一方で硬水の中でも飲用に適するものも存在し、ミネラルの摂取を補う健康飲料として販売されているものもいくつか存在する。(例:硬度が1468の[[コントレックス]]など) イギリスにおいては、中国から[[茶]]がもたらされた際は同じように緑茶で飲んでいたが、軟水を用いる中国と異なり、硬水を用いるイギリスにおいては紅茶との相性が良かったことから、紅茶を飲むようになった。 [[石鹸]]は[[脂肪酸]]と[[ナトリウム]]の塩であるから、硬水のマグネシウム・イオンと出会うと不溶性の塩([[金属石鹸|石鹸かす]])を生じ、使用感が悪い。また、衣類にその塩が付着するので色のくすみが生じ、衣料の保存中にそれが分解して脂肪酸となり、さらに[[酸化]]して異臭を発したりする。染色ではカルシウム・イオンが染料と反応し、不溶性の色素が生じ、それが繊維と結びつくため、色むらが生じる。 硬水が[[蒸発]]すると、含まれていた塩類が[[析出]]する。したがって、[[洗浄]]に用いた場合などはすぐに拭き取らないと表面に白い斑点が生じる。一時硬水を自動車[[エンジン]]の冷却水として使用すると[[オーバーヒート]]、水漏れなどの問題が生じる場合がある。また、工業用[[ボイラー]]においては、加熱によって'''ライムスケイル'''([[:en:Limescale|Limescale]]、缶石、[[水垢]]。'''[[石灰]]'''の'''[[鱗]]'''の意。 )が生じるため、[[パイプ]]詰まりを起こしたり、[[熱効率]]を著しく低下させたりする。 === 料理 === 料理に使う場合も軟水の方が適している場合が多いが、肉の[[煮込み]]料理の場合は余分な[[タンパク質]]などを[[灰汁]]として抜き出し、肉を軟らかく<ref name="cookeryscience.46.161">[https://doi.org/10.11402/cookeryscience.46.161 鈴野弘子、石田裕:水の硬度が牛肉,鶏肉およびじゃがいもの水煮に及ぼす影響] 日本調理科学会誌 Vol.46 (2013) No.3 p.161-169</ref>する効果があるため、肉料理や肉を使った洋風だしを作る上で軟水より適している<ref name="column" />。また、[[糊化]]が抑制されるため、[[スパゲッティ]]では[[塩]]を入れなくても[[アルデンテ]]ができ、[[ジャガイモ]]の煮崩れが抑制され<ref name="cookeryscience.46.161"/>たり、[[豆]]や米では堅く炊きあがったりする。[[米]]等の[[穀類]]では軟水の方が適しており、[[コーヒー]]では浅煎りの[[アメリカンコーヒー|アメリカン]]に軟水を用いることで豆本来のよい香りとさっぱりした味を楽しむことができ、深煎りの[[エスプレッソ]]には硬水を用いることで渋味の成分が[[カルシウム]]などに結びついて、苦みや渋みが除かれまろやかさが増しコクが加わる<ref name="minekyo" />。また、[[緑茶]]は軟水で煎れたものが旨いと考えられていたが、近年では硬水で煎れたものが旨みが強いとする研究もある<ref>[https://doi.org/10.11402/cookeryscience.47.320 茶の呈味におよぼす水質(特にCa)の影響と味認識装置による評価] 日本調理科学会誌 Vol.47 (2014) No.6 p.320-325</ref>。一方、[[昆布]]の[[グルタミン酸]]や[[鰹節]]の[[イノシン酸]]のような[[うま味]]成分の抽出を阻害するので、[[和食]]では[[軟水]]の使用が望ましい<ref name="column">[http://www.cosmowater.com/fun/column/column_vol5.html 軟水と硬水について]</ref><ref>[http://aissy.co.jp/ajihakase/blog/archives/7866 硬水・軟水で料理の味が変わる]</ref><ref name="minekyo">[http://minekyo.net/publics/index/7/detail=1/c_id=20 軟水、硬水はどのように使い分けされているのでしょうか。]</ref>。 === 醸造 === [[醸造酒]]である[[日本酒]]や[[ビール]]、[[蒸留酒]]の[[焼酎]]など、[[酒造]]においては硬水であっても問題とならない。水中のミネラルは糖を[[アルコール]]に変える[[酵母]]を活性化させて発酵が進みやすくなるため、すっきりした口当たりの辛口の酒ができると言われる。日本の酒処でも[[灘]]の水は中硬水で、隆起[[珊瑚礁]]の島が多い[[沖縄県]]の[[泡盛]]や[[鹿児島県]]の[[奄美黒糖焼酎]]の仕込み水も硬水である例が多い。ただし、焼酎の割り水(希釈水)は軟化処理してから用いるのが普通である。 === 健康との関係 === [[世界保健機関]]によると、水の硬さと健康の関係は現在のところ充分に研究されておらず不明である。他方、軟水は金属を腐食させる傾向が高く、重金属[[中毒]]を引き起こすおそれがあるとされる<ref>{{cite web |url=http://www.who.int/water_sanitation_health/dwq/chemicals/hardness.pdf |title=Hardness in Drinking-water |format=pdf |publisher=World Health Organization |accessdate=2014-09-30}}</ref>。日本では、水道水質基準によって[[pH]]を保つことにより、腐食を防止している<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/water/w_info/s_kekka_topi05.html |title=pHとは |publisher=東京都水道局 |accessdate=2014-09-30}}</ref>。 また、一部では硬水に含まれるミネラルを摂りすぎることでお腹を壊してしまうケースも報告されている<ref>{{Cite web|和書|title=硬水を飲みすぎるとどうなる?身体への影響や負担などを詳しく紹介 – MizuCool|url=https://mizu-cool.jp/hardwater-drink-too-much/|website=mizu-cool.jp|accessdate=2021-07-28}}</ref>。 == 化学 == 硬水を煮沸すると[[炭酸カルシウム]]を沈降させることができる。 :<math>\rm Ca(HCO_3)_2 \longrightarrow CaCO_3 + H_2O+ CO_2</math> また、[[炭酸ナトリウム]]などの軟水化剤の投入でもカルシウム塩を沈殿させることができる。 :<math>\rm Ca(HCO_3)_2 + Na_2CO_3 \longrightarrow CaCO_3 + 2NaHCO_3</math> [[蒸気機関車]]が[[鉄道]]動力の主力であった時代は、軟水の確保は深刻な問題であり、[[砂漠]]の中の機関車給水設備には必ず軟水化のための施設が付属していた。上述の式の右辺に生じる[[炭酸水素ナトリウム]]はボイラー中で炭酸ナトリウムになり、これは定期的に排水されて低濃度に保たれる。 :<math>\rm 2NaHCO_3 \longrightarrow Na_2CO_3 + H_2O + CO_2 \uparrow </math> [[石鹸]]や[[洗剤]]には、石鹸カス形成を防ぐため[[エチレンジアミン四酢酸]]や[[エチドロン酸]]などの[[キレート剤]]が添加される。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[軟水]] * [[硬度 (水)]] * [[石灰]] * [[ミネラルウォーター]] * [[海洋深層水]] {{DEFAULTSORT:こうすい}} [[Category:水]] [[Category:醸造]] [[Category:液体水]] [[Category:水の形態]]
2003-03-20T08:43:37Z
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軟水
軟水(なんすい)とは、カルシウムやマグネシウムの金属イオン含有量が少ない水のことである。逆のものは硬水という。 水の硬度は{カルシウム濃度 (mg/L)×2.5 + マグネシウム濃度 (mg/L)×4.1}で炭酸カルシウム(CaCO3)含有量に近似され、厚生労働省ではその量が60mg/L以下の水を軟水、60~120mg/Lを中硬水、120~180mg/Lを硬水、180mg/L以上を超硬水と定義している。その他の単位では以下のようになる。 腐葉土や泥炭層の間を流れて出来たような水は軟水である。 日本の水は他国に比べて、硬度が低い。日本の水道水は、硬度80未満の軟水が多く、南西諸島や、関東地方の一部、福岡県の一部を除く地域の水は軟水に属する。河川の流域面積が少ない方が、ミネラルの溶解が少ないので、硬度が下がる。 軟水は金属石鹸(石けん滓)が出来にくく、硬度60の水と硬度1の水では、石鹸を溶かす能力に2倍の差がある。軟水は、硬水に比べて泡立ちがよく、体を洗う時にぬめりを感じる。 一般的に和食やコーヒー、喫茶などの用途には軟水がよいとされている。これは和食の出汁をとる時に昆布に含まれるグルタミン酸や鰹節のイノシン酸の抽出時に硬水に含まれるミネラルが悪影響を及ぼすからである。 コーヒーでは浅煎りのアメリカンでは軟水を用いることで、豆本来のよい香りとさっぱりした味を楽しむことができ、深煎りのエスプレッソでは、硬水を用いることで渋味の成分がカルシウムなどに結びついて、苦み、渋みが除かれまろやかさが増してコクが加わる。 酒造には水中のミネラルは糖をアルコールに変える麹菌を活性化させ、発酵が進みやすくなるため、すっきりした口当たりの、辛口の酒ができる硬水の方が適しており、軟水の方が甘口になる。 金属イオンが少ないことから、染色も均一に仕上がり、良いとされている。
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軟水(なんすい)とは、カルシウムやマグネシウムの金属イオン含有量が少ない水のことである。逆のものは硬水という。
{{otheruses||お笑いコンビ|軟水 (お笑いコンビ)}} {{出典の明記|date=2015年3月}} [[ファイル:Glass of Water.JPG|thumb|180px|right|グラスに注がれる水]] '''軟水'''(なんすい)とは、[[カルシウム]]や[[マグネシウム]]の[[金属イオン]]含有量が少ない[[水]]のことである。逆のものは[[硬水]]という。 ==分類== 水の[[硬度 (水)|硬度]]は{カルシウム濃度 (mg/L)×2.5 + マグネシウム濃度 (mg/L)×4.1}で[[炭酸カルシウム]](CaCO<sub>3</sub>)含有量に近似され、[[厚生労働省]]ではその量が60mg/L以下の水を軟水、60~120mg/Lを中硬水、120~180mg/Lを[[硬水]]、180mg/L以上を超硬水と定義している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-11121000-Iyakushokuhinkyoku-Soumuka/0000178391.pdf |title=清涼飲料水評価書 カルシウム・マグネシウム等(硬度) |page=10 |format=PDF |publisher=厚生労働省 食品安全委員会 |date=2017-04-25 |accessdate=2021-04-03}}</ref>。その他の単位では以下のようになる。 {| class="wikitable" |- ! 名称 || 硬度 (mg/L) || 硬度 ([[モル濃度|mmol/L]]) || 硬度 (dGH/°dH) || 硬度 (gpg) || 硬度 ([[ppm]]) |- |軟水|| 0–60 || 0–0.60 || 0-3.37 || 0-3.50 || < 60 |- |中軟水(中硬水)|| 61–120 || 0.61–1.20 || 3.38-6.74 || 3.56-7.01 || 60-120 |- |硬水|| 121–180 || 1.21–1.80 || 6.75–10.11 || 7.06-10.51 || 120-180 |- |超硬水|| ≧ 181 || ≧ 1.81 || ≧ 10.12 || ≧ 10.57 || > 180 |} [[腐葉土]]や[[泥炭]]層の間を流れて出来たような水は軟水である。 日本の水は他国に比べて、硬度が低い。日本の水道水は、硬度80未満の軟水が多く、[[南西諸島]]や、[[関東地方]]の一部、[[福岡県]]の一部を除く地域<ref group="注釈">関東地方や福岡県の大部分の地域の水は軟水の中では比較的硬度が高く、[[中硬水]]に分類されることもある。</ref>の水は軟水に属する。河川の流域面積が少ない方が、ミネラルの溶解が少ないので、[[硬度 (水)|硬度]]が下がる。 == 利用 == 軟水は[[金属石鹸]](石けん滓)が出来にくく、硬度60の水と硬度1の水では、[[石鹸]]を溶かす能力に2倍の差がある。軟水は、硬水に比べて泡立ちがよく、体を洗う時にぬめりを感じる。 一般的に[[和食]]や[[コーヒー]]、[[喫茶]]などの用途には軟水がよいとされている。これは和食の[[出汁]]をとる時に[[昆布]]に含まれる[[グルタミン酸]]や[[鰹節]]の[[イノシン酸]]の抽出時に硬水に含まれる[[ミネラル]]が悪影響を及ぼすからである<ref name="column">[http://www.cosmowater.com/fun/column/column_vol5.html 軟水と硬水について]</ref><ref>[http://aissy.co.jp/ajihakase/blog/archives/7866 硬水・軟水で料理の味が変わる]</ref><ref name="minekyo">[http://minekyo.net/publics/index/7/detail=1/c_id=20 軟水、硬水はどのように使い分けされているのでしょうか。]</ref>。 [[コーヒー]]では浅煎りの[[アメリカンコーヒー|アメリカン]]では軟水を用いることで、豆本来のよい香りとさっぱりした味を楽しむことができ、深煎りの[[エスプレッソ]]では、硬水を用いることで渋味の成分が[[カルシウム]]などに結びついて、苦み、渋みが除かれまろやかさが増してコクが加わる<ref name="minekyo" />。 酒造には水中のミネラルは糖を[[アルコール]]に変える[[麹菌]]を活性化させ、[[発酵]]が進みやすくなるため、すっきりした口当たりの、辛口の酒ができる硬水の方が適しており、軟水の方が甘口になる<ref>[http://www.yagishouyu.co.jp/html/page8.html 龍野の醤油について]</ref>。 金属イオンが少ないことから、[[染色]]も均一に仕上がり、良いとされている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Soft water}} --> * [[硬水]] *[[硬度 (水)]] * [[浄水器]] * [[ミネラルウォーター]] == 外部リンク == {{節スタブ}} {{Food-stub}} {{Sci-stub}} {{デフォルトソート:なんすい}} [[Category:水]] [[Category:茶道]]
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ビール
ビール(オランダ語: Bier)は、酒の一種。様々な作り方があるが、主に大麦を発芽させた麦芽(デンプンがアミラーゼという酵素で糖化している)を、ビール酵母によりアルコール発酵させて作る製法が一般的である。 現在は炭酸の清涼感とホップの苦味を特徴とするラガー、特にピルスナーが主流となっているが、ラガーはビールの歴史の中では比較的新参であり、ラガー以外にもエールなどの様々な種類のビールが世界各地で飲まれている。 日本語の漢字では麦酒(ばくしゅ)とも表記される。 各国語における名称や語源は以下の通り。 科学的方法で確認された最初の大麦ビールの痕跡は、現代のイランにあって紀元前5千年紀までさかのぼるとされる。そして紀元前3千五百年紀頃のものがゴディン・テペ (Godin Tepe) 遺跡で確認され、それが古代エジプトとメソポタミアの歴史書に記録され、世界中に広まったとされる。シュメール人は大麦やエンマーコムギから作っており、黒ビール、褐色ビール、強精ビールなどの種類があり、神々に捧げられるほか人々にも再配分された。シュメール王朝ではビールは「液体のパン」と呼ばれていた。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。古代エジプトにおいては、それより下った紀元前3千年紀の資料からビールの痕跡が確認されており、小麦の原産地が西アジアであることからメソポタミアからビールの製法が伝わったとする説となっている。エジプト南部のヒエラコンポリス遺跡で出土したビール工房は紀元前3600年頃と推測されている。アジア東部では、中国において、大麦・キビ・アワ・ジュズダマなどを原料に用いた、5000年前のビール醸造の痕跡が見つかっている。ビールが初めて作られたのは約1万3000年前、現在のイスラエルのハイファ付近とみられている。 当時のビールは、濾過されていないため、紀元前5~4世紀のイランやイラクでは、先端にフィルターを付けて固形物が入り込まないようにした「ビールストロー」が存在したとされる。 これらのメソポタミアや古代エジプトのビールの製法については2つ仮説がある。一つは麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたものであった。大麦はそのままでは小麦のように製粉することは難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすくなり、また消化もよくなる。つまり、ビールは元来、製粉が難しくて消化のよくない大麦を消化のよい麦芽パンにする技術から派生して誕生したものと考えられている。穀類を豊富に産したメソポタミアや古代エジプトでは、こうした背景を持つビールはパンから派生した、食物に非常に近い日常飲料であった。シュメールにはビールと醸造を司るニンカシという女神がおり、その讃歌にはビールパン、ナツメヤシ、蜂蜜を使ってビールを醸造する方法の記載がある。また、古代エジプトのパピルス文書には、王墓建設の職人たちへの配給食糧として、ビールが記録されている。焼いてから時間の経った固いパンを液体でふやかすという発想は、ヨーロッパのスープの原型となった、だし汁でふやかしたパンとも共通し、ふやかしたパンの料理という共通系譜上の食物ともいえる。現代でも、パン生地にビールを混ぜて作るビールパンが作られている。 もう一つの製法は、現在のビールに通じる製法であり、エンマー小麦を原料に、発芽させた麦(麦芽)と煮て柔らかくした麦をあわせて酵母を添加して発酵させ漉したものである。どちらも場合によっては糖分や風味を添加する目的でナツメヤシを加えることもあった。また、エジプトに伝来したビールは気候条件により腐敗しやすかったため、ルピナスを添加して保存加工されていた。これはバビロニアのビールでも同様に様々な薬草を加えることがあったと言う。その中にはホップも含まれたと考えられている。バビロニアの『ハンムラビ法典』にはビールに関する取り締まり規則や罰則の記載があり、一例として「ビールを水で薄めて販売した者は、水の中に投げ込まれる(溺死刑)」とある。 一方、麦芽の酵素によって大麦のデンプンを糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方のケルト人やゲルマン人にも伝播した。彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてからビールを醸造するという形をとらず、麦芽の粉末をそのまま湯に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。また日常の食物の派生形であった古代オリエントのビールと異なり、これらヨーロッパ北方種族のビールは、穀物の収穫祭に際してハレの行事の特別な飲料として醸造が行われる傾向が強かった。 古代ローマにはエジプトから伝えられたものがジトゥム(zythum)、北方のケルト人経由で伝わったものがケルウィーシア (cervisia) と呼ばれたが、ワインが盛んだったために蔑視され流布しなかった。ローマ人や古代ギリシア人の間では、大麦は砕いて粗挽きにしたものを粥にして常食していた。また現在はアルコール飲料であるワインも、当時は糖分があまりアルコールに転化されておらず、非常に甘い飲み物であった。固いパンを食べやすくするブドウのジュースを濃縮し長期保存できる形にした日常の食卓の飲料、硬水を飲みやすくするために水に加える飲料としての性格が強く、酔うためにそのまま飲むのは不作法とされ、水で割って飲むのが文明人の作法とされていた。それだけに、祝祭に際して醸造したビールを痛飲して酔う北方種族の習俗を、自らを文明人と自認する古代ローマ人、古代ギリシア人は軽蔑していた。古代ローマの時代には市民の主食は小麦であり、大麦は家畜の飼料用として栽培され、十分の一刑に処された者や剣闘士以外は口にすることは無く、大麦を口にすること自体が野蛮人とされていた。しかし、ゲルマン人主導のフランク王国が成立するとヨーロッパ全土でビールの醸造が盛んになり、ビール文化はヨーロッパに根付いた。一方で非常に甘い飲み物であったワインも、今日の製法と近くなり、ほとんど甘くないアルコール度数の高い飲料となった。そのためビールとの関係は逆転し、アルコール度数がより低いビールは、子供にもあった飲み物であると考えられていた。キリスト教が広まると修道院は自給と巡礼者にふるまうためのビールを醸造し、技術の発展にも大きな役割を果たした。その中で発酵を安定させるなどの目的で様々なハーブ類を調合したグルートを添加されるようになった。グルートは領主によって管理され、醸造業者は領主から購入しなければならなかった。このため中世ヨーロッパで用いられたグルートの原料、配合比率、製法は現在に伝わっていない。 11世紀頃、ドイツのルプレヒトベルク女子修道院のヒルデガルト・フォン・ビンゲン修道院長がグルートに代わってホップを用いたことを自著に記している。ホップには独特のさわやかな風味と雑菌抑制効果があり、15世紀頃にはドイツのビール醸造で主流となった。他の国でも次第にホップが主流となり、かつては使用を禁止していたイギリスでも17世紀頃にはホップによる醸造が一般的となった。 1516年、バイエルン公ヴィルヘルム4世は粗悪なビールの流通や、食用である小麦がビールの原料に転用される事による飢餓を防ぐため、『ビール純粋令』を発令し、原料として麦芽以外にはホップと水しか使わないよう命じた。小麦を使った白ビールは許可を得た一部の醸造所しか醸造できないようになり、希少価値が高まった。その後、ドイツ帝国の成立により『ビール純粋令』は1906年に全土に施行され、現在のドイツにおいても効力を持っている。15世紀中頃にはバイエルン地方のミュンヘンで、低温の洞窟で熟成させるラガービールの製造が始まった。 19世紀には酵母の研究も進み、上面発酵と下面発酵の技術が確立した。1842年にはチェコのプルゼニで世界最初のピルスナービール「ピルスナー・ウルケル」が製造され、このタイプの醸造はプルゼニのドイツ語名からピルスナーと呼ばれるようになった。黄金色のピルスナーはガラス製品の普及と冷蔵技術の確立によって爆発的に広まった。船に積み込む飲料としてはラム酒が主流であったがビールも積まれていた記録がある。 日本では、江戸時代初期には徳川幕府の幕臣達が、オランダから渡来したビールについてその存在を認知していたとされ、「ビール」という呼称もオランダ語に由来する。幕末の1860年(安政6年)、万延元年遣米使節の記録係だった玉虫左太夫は、ポーハタン号での航海中に何度かビールが提供されたと記述しており、「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と記している。明治維新以降、川本幸民がビール製造を試みたのを皮切りに、多くの醸造所が誕生し、全国的に普及していった。 現代のビールは、19世紀後半のデンマークのカールスバーグ社が開発した技術に多くを負っている。同社はビール酵母の純粋培養技術を開発し、さらに雑菌を徹底的に排除して衛生的に缶や瓶に詰める技術を確立した。それによりビールの保存性は飛躍的に高まり、安価で大量に安定供給される工業製品として、世界の津々浦々にまで流通するようになった。また、ビール生産が大企業に独占されることにもなった。それまではワインの方が食事に必須の日常の酒として飲まれていたが、安価となったビールが普及することにより、ワインとビールの位置が逆転した。 欧米では、この反動として工業化以前のビール生産を見直す動きが起こり、クラフトビール(地ビール)を作るマイクロブルワリーが多く設立されている。日本でも法規制が緩和されたことにより、地ビールの生産が少しずつ行われている。 ビールの主な原料は水、デンプン源(麦芽など)、ビール酵母、香味料(ホップなど)である。多くの場合、大麦の麦芽を主原料とし、副原料としてアサ科のホップやトウモロコシ、米、砂糖等が使われる。特にこれらの副原料は大麦麦芽の安価な代替物として使用されることがある。また小麦やライ麦の麦芽でも製造は可能である。アフリカでは粟、ソルガム、キャッサバの根が、ブラジルではジャガイモ、メキシコではリュウゼツランがデンプン源として使われる。 ビールの主成分は水である。地方によって水に含まれているミネラル組成は異なるため、各地方で製造するのに水に最も適したビールも異なり、地方ごとの特色が現れる。たとえばアイルランドのダブリンの水は硬水であり、ギネスなどのスタウトビールの醸造に適している。チェコのプルゼニで採れる水は軟水で、ピルスナーウルケルなどのペールラガーの醸造に適している。イングランドのブルトンの水はジプサム(石膏; 硫酸カルシウムの鉱物)が含まれているため、硫酸塩の添加(ブルトニゼーションと呼ばれる、ホップの風味を引き立たせる手法)が必要なペールエールビールの製造に適している。 ビールのデンプン源に何を使用するかで、その濃さや風味が左右される。最も一般的なデンプン源は麦芽であり、後述のように大部分のビールには大麦の麦芽が使われる。麦芽の製法は種子に水と空気を与えて発芽させ、発酵過程に入る前に麦芽の成長を止めるため窯内で乾燥焙煎させる。これを焙燥という。その後、幼根を取り除いたものが麦芽である。種子が麦芽になることによって、デンプンを発酵性の糖に変える酵素が生産される。同じ種類の穀物から作られた麦芽でも、焙燥時間と温度の違いによって、異なる色彩をもつようになる。暗色の麦芽からは暗色のビールが製造される。多くのビールには大麦の麦芽が使用されている。オオムギは発芽力が強く、皮が薄く、デンプン質が多く、窒素量の少ないものが原料として優れている。 現在、商業用に生産されているビールのほとんど全てには、風味付けとしてホップが使われている。ホップは和名をセイヨウカラハナソウというつる性植物で、その花はビール製造において風味付けと保存性を高める機能を持つ。 ホップは元々はドイツのヴェストファーレン地方にあるコルヴァイ修道院のようなビール醸造所で、西暦822年から使用されていた。だがビールに使用するための大量栽培が開始されたのは13世紀になってからである。13世紀から16世紀までの間、ホップは最も主要な香味料として使われるようになっていった。しかしそれ以前には、他の植物(例えばGlechoma hederacea)が香味料として使われることもあった。「歴史」の節で述べたが、グルート (gruit) と呼ばれるニガヨモギなどの様々なハーブ、ベリー類も、現在のホップと同じように、ビールの香りづけに使用されていたこともある。現在製造されているビールで、香りづけにホップ以外の植物も使用しているものは、Scottish Heather Ales companyのFraoch'やla Brasserie-LancelotのCervoise Lancelotなどである。ホップは、麦芽の甘みと調和のとれた苦味をビールに与え、また花や柑橘系、ハーブのような香りをビールに与える。ホップには抗生物効果があり、ビール醸造に寄与しない微生物を抑え、ビール酵母が有利に働く環境を整える効果がある。他にも泡持ち(ヘッドリテンション)の長さに寄与し、保存力を高める効果がある。 ビール酵母は穀類から引き出した糖を代謝し、エチルアルコールと炭酸ガスを生産する。酵母の働きによって麦芽汁がビールになる。また酵母はビールの個性、味わいにも影響を与える。ビール酵母には、発酵中に発生する炭酸ガスとともに液面に浮かび、褐色クリーム状の泡の層を形成する上面発酵酵母と、発酵末期に槽の底に沈殿する下面発酵酵母が存在する。製造に前者を用いるビールを上面発酵ビール(エール)、後者を用いるビールを下面発酵ビール(ラガー)という(詳しくは「分類」の節を参照)。最も主要な上面発酵酵母はSaccharomyces cerevisiaeで、最も主要な下面発酵酵母はSaccharomyces uvarumである。バイエルンの白ビールではTorulaspora delbrueckii(英語版)が働く。酵母の働きが解明される以前は、空中を漂う自然酵母によって発酵を行っていた。いわゆる自然発酵ビールである。大部分のビールは純粋培養の酵母を加えることで発酵を行うが、ランビックのようなごく一部は現在も自然発酵で製造されている。自然発酵ビールのランビックでは主にBrettanomyces属の酵母が働く。 清澄剤は濁り物質を凝集させて沈殿除去する働きのある物質である。製造直後のビールにタンパク質の濁りが見られるとき、醸造所によっては1種類あるいはそれ以上の清澄剤が添加されることがある。この操作によって澄んだビールを作ることができる。ビールに使用される清澄剤の例としてはアイシングラス(魚の浮袋に含まれるゼラチン質)、アイリッシュモス(紅藻の一種)、Kappaphycus cottoniiから採れるκ-カラギーナン、ポリクラール、ゼラチンなどである。もしラベルなどに「菜食主義者向け (suitable for vegetarians)」といったことが記されていたなら、そのビールには動物性のゼラチンが使われておらず、海藻由来や人工の添加物で澄ませている。 ビール醸造所のことをブリュワリー(ブルワリー)という。法律などで制限されていない限り家庭でもビールの醸造は可能であり、ビールの歴史の中ではそのようなビールも多く作られてきた。家庭内で消費するため非営利的にビールなどを醸造することを自家醸造(homebrewing)という。日本では、免許を持たない者がアルコール度数1%以上の酒類を醸造することは禁じられている。自家醸造用の道具を売り買いすることはできるが、きちんと法律の範囲内で醸造するかどうかは使用者に委ねられている。 醸造過程で果汁などを添加したフルーツビールや、香辛料を添加したスパイスビールなどもヨーロッパではポピュラーであるが、長らく日本の法律上はビールではなく発泡酒扱いとなっていた。しかし2018年4月1日の酒税法改正で果実及び香味料の使用が許されるようになった。 ビールの醸造の最初の工程は、デンプン源と温水を使った麦芽汁づくりである。普通デンプン源には大麦麦芽が使用される。麦芽はダスト・異物を除去した後、糖化・ろ過に適した大きさに粉砕される。胚乳部は糖化しやすいように細かく粉砕する。一方、殻皮部は麦汁濾過工程で濾膜を形成させるためになるべく形を残すようにしなければならない。ただし濾膜形成の必要ない加圧式の濾過方法を用いる場合は麦芽全部が細かく粉砕される。粉砕した麦芽のことをグリスト (grist) という。グリストはマッシュタン (mash tun) と呼ばれる容器の中で温水と混合される。グリストを浸す温水のことをリキュール (liquor) といい、グリストと温水の混合物のことをマッシュ (mash) という。 グリストと温水が混合されると、麦芽に含まれるデンプンなどの多糖類や可溶性タンパク質が溶け出す。多糖類は麦芽のもつ酵素により可溶化し、分解され低分子の麦芽糖が生み出される。この多糖類の分解のことを糖化(マッシング; mashing)という。糖化には1〜2時間ほどの時間が掛かる。麦芽の酵素の力のみで糖化する方法をインフージョン法といい、マッシュの一部を取り出して煮沸し、元の容器に戻してメインのマッシュの温度を引き上げる方法をデコクション法という。マッシュの煮沸によって酵素は失活デンプン質が溶解して糖化が進みやすくなる。 糖化が終了したマッシュからは穀物粒などの固形物が取り除かれ、発酵性の麦汁が回収される。麦汁濾過の伝統的な方法であるロータリング (lautering)では、濾過槽の底に溜まった穀物の粒そのものがフィルターとして働き、固形物と麦汁を分離する。現在行われている醸造ではより細かいグリストまで分離できるフィルターフレームが使用されることが多い。最初に絞られる麦汁を一番絞り麦汁という。穀物粒はスパージング (sparging) という操作で湯洗浄し、さらに多くの麦汁を回収する。麦汁とスパージングで加えられた湯の混合物から、穀物粒を濾過によって分離する。スパージングによって得られる麦汁を2番絞り麦汁という。 麦汁は湯沸し器やコッパー(copper; 銅で作られていたことに由来)と呼ばれる容器に集められ、1時間程度煮沸される。煮沸によって麦汁中の水分が蒸発し、糖類を初めとする溶質が濃縮されて残る。また同時に糖化段階から麦汁に残留した酵素を失活させる。煮沸にはその他にも殺菌、タンパク質の凝固、色度の上昇、pHの低下、不快な香気成分の分解・飛散、などが起こる。煮沸中にホップを添加する。ホップは数回に分けて添加する場合もある。ホップを煮沸することで、ホップ中のフムロンが異性化し、イソフムロンになることで苦味が強まる。煮沸時間が長いほど苦味が強くなるが、ホップそのものの風味や香気は弱くなる。 煮沸の終了した麦汁は、酵母による発酵の準備のため冷却される。このとき溶解度が下がってタンパク質やポリフェノールが凝固する。醸造所によってはホップで処理した麦汁をさらにホップバック (hopback) に通す。ホップバックはホップを満たした容器で、風味付けをしたりフィルターの機能を果たしたりする。しかし多くの醸造所ではホップバックを使わず、単純に発酵槽で麦汁を冷却する。その後、酵母の増殖に必要な酸素を供給するため、冷却された麦汁に無菌空気が通される。 空気を通された発酵槽中の麦汁には酵母が添加される。酵母が出芽を開始すると発酵が始まる。発酵熱の発生により液温が上昇するので、冷却により発酵温度をコントロールする必要がある。発酵に必要な時間は酵母の種類やビールの濃さによって変わる。発酵前の麦汁はpH 5.2 〜5.8だが、発酵後には4.0 〜4.6に低下する。発酵が終了した液を若ビールと呼ぶ。アルコール発酵に加え、麦汁内の微粒子が沈降するため一度発酵の終了した若ビールは清澄する。 発酵は一次発酵(主発酵)と二次発酵(熟成)の二段階で行われることがある。アルコール類はほとんど一次発酵で生成される。その発酵液は新しい容器に移され、熟成される。熟成はパッケージングまでに時間を置く必要がある場合、さらなる清澄化が必要な場合に行う。若ビールにはジアセチル前駆体、アセトアルデヒド、硫化水素などの未熟成物質が含まれる。熟成過程では残存物質のさらなる発酵が進み、これらの物質が分解され、発酵によって発生する炭酸ガスによって液外に運び出される。混濁の原因となるタンパク質は、温度を+1〜-1 °C程度に下げることにより析出し、一部の酵母とともに沈降する。熟成の終了したビールは濾過され、またシリカゲルによってタンパク質を吸着させて製品工程に送られる。 熟成後に酵母の活動を抑えるため、60度前後に加熱する低温殺菌が行われる。この熱処理を行わず、特殊な濾過装置で酵母を取り除くビールがいわゆる生ビールである。ただしこの呼称は日本の基準によるものであり、国によって基準は異なる。また酵母を完全に取り除かないビールもある。 ビールには様々なスタイルが存在するため、特徴によって細かく明確に分類することは非常に困難であり、様々な分類がなされている。有名な分類方法としてマイケル・ジャクソンによる分類がある。 醸造法と酵母の種類によって分類する場合は、「上面発酵」の「エール」と「下面発酵」の「ラガー」に大別する方法が一般的である。元々エールという言葉は、上面発酵のビールを指していた言葉ではなく時代によって変遷がある。現在、ビールにはホップが使用されることが多いが、ホップがビールに広く使用されるようになったのは、12〜15世紀の間であり、その当時英語圏では、ホップ入りのものをビール(Beer)、ホップなしのものをエール(Ale)と呼んで区別していたが、その後、ビールは総称となり、上面発酵のものがエールと呼ばれるようになった。 上面発酵のビールを、エールと呼ぶ。出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae(サッカロマイセス・セルビシエ)とその亜種)を用い、常温で短い時間で発酵を行う。盛んに炭酸ガスを出すために、最終的に酵母が浮かび上面で層を作るために上面発酵と呼ばれる。 一般に、上面発酵のほうが醸造は容易である。19世紀以降にラガーが爆発的に普及するまでは、ビールといえばエールであった。 複雑な香りと深いコクを特徴にしている。主なスタイルとしてペールエール、スタウト、アルトビール、ケルシュ、ヴァイツェンなどがある。 下面発酵のビールをラガーと呼ぶ。Saccharomyces carlsbergensis(サッカロマイセス・カールスベルゲンシス)という酵母を用い、低温(10°C以下)で長時間発酵を行う。役目を終えた酵母は沈殿するため、エールの上面発酵に対して下面発酵と呼ばれている。 比較的すっきりした味で、ピルスナー(ピス)、ボックなどのスタイルがあり、もともと中世ドイツのバイエルン地方のローカルなビールだった。この土地の醸造師たちは、低温でも活動する酵母を発見し、変わったビールを醸造していた。秋の終わりにビールの材料を洞窟の中に氷と共に貯蔵して翌年の春に取り出すと、発酵が終了してビールが完成する。ラガーとは「貯蔵されたビール」という意味である。 冷蔵庫が発明された19世紀以降、これが瞬く間に世界のビールの主流となった。一定の品質のビールを大量生産するのに最適だったためである。黄金色の美しい色と、ガラス製のグラスやジョッキが普及したことを人気の理由に挙げる人もいる。 酵母発見以前のビールは全て自然発酵であった。現在でもアフリカの伝統的なビールや、ベルギーのパヨッテンラントで製造されるランビックでは培養された酵母を使用しない自然発酵が採用されている。乳酸発酵も行われるため、特有の酸味を持つようになる。 20世紀以降の冷蔵技術の進歩により、ビールを冷やして飲む風習は加速度的に広まった。タイ王国では、冷やしたうえに氷を入れるのも一般的である。一方、エールビールは常温で飲まれることが多い。また、ドイツやベルギーなどでは温めて飲まれるホットビールもあり、グリュークリークのように温めて飲むことが主流のビールもある。 ビールをカクテルにして飲むビアカクテル(英語版)では、トマトジュースを入れたレッド・アイ、レモネードを入れたパナシェ(ドイツではラドラー、イギリスではシャンディ)、ジンジャーエールを入れたシャンディ・ガフなどが知られる。そのほか、ピルスナーとスタウトなど、異なる種類のビールを混ぜるハーフ&ハーフも広く知られる飲み方である。 ビールはそれ自体の品質や温度のほか、グラスやビールジョッキなどに注ぐ場合は注ぎ方で泡立ちや味わいが異なり、注ぎ方の巧みさや多彩さを売り物にする飲食店もある。泡はビールが空気に触れて酸化されることにより味が変化することを防ぐ役割もある。ビールの苦味成分は液体中に拡散しているが、これは泡によって吸着される。そのため、ビールの炭酸泡の形成過程をコントロールすることにより、ビールの苦味成分を液体上部に浮かぶ泡の層に閉じ込めることができる。 ビールは醸造酒故に酒としては賞味期限に左右されやすく、味が変化しやすい部類に入る。品質が劣化する主な原因に、保管温度、日光、衝撃、酸化が挙げられる。また出荷から日数が経過するに従い味が劣化する。このような日数経過や味の変化は鮮度と表現される。ただし、酵母が殺菌・濾過されておらず瓶・樽内で再発酵を行う種類のビールは長期保存や「寝かせる」ことが可能で、マイルドで熟成された味わいへの変化を楽しめる銘柄もある。 劣化の原因は大麦由来の酵素LOX(リポキシゲナーゼ)の働きが大きい。醸造過程でLOXが劣化因子を作りこれがビールの成分と反応し脂質を酸化させることで渋みや臭みになり泡もちの低下が起きる。 キリン食生活文化研究所が調査し、ビール酒造組合が公表する集計によると、2015年の世界のビール総生産量は1億7937万klに上る。生産量のベスト10は、中国、アメリカ、ブラジル、ドイツ、メキシコ、ロシア、日本(発泡酒等を含む)、ベトナム、イギリス、ポーランドの順。オランダは14位、チェコは21位、ベルギーは19位であった。2018年にはブラジルとメキシコが独露を抜いて3-4位となり、ベトナムがイギリスやポーランドなどを追い越して8位となった。同年まで中国の首位は17年連続である。市場規模は飽和気味の先進国で縮小し、新興国で拡大傾向にある。 主な生産国の状況と銘柄は以下の通り。 ラガービールが大多数だが、アルト、ケルシュ、ヴァイス (Weissbier) などのエールビールも多種造られている。(ピルスナービールはチェコの発明。ラガービールはオーストリアの発明である。ただし、いずれもドイツ系による発明。) ビールの新酒は秋初めに出回り、これに合わせて各地でビール祭りがある。最も有名かつ大規模なものはドイツ、ミュンヘンのオクトーバーフェストである。また、オクトーバーフェスト用に供されるメルツェンビール(3月に醸造される)、秋口に醸造され冬場に供されるウィンタービール等の季節ビールも多くのメーカーで作られている。なお、ドイツではビール法(ビール純粋令)によりビールを名乗る飲料には原材料の規制(水・麦芽・ホップのみを原料とする飲料物のみをビールとして取り扱う)があったが、非関税障壁として非難され、現在は輸入ビールについては廃止されている。ドイツのビールメーカーは各地にあり、全国ブランドのビールメーカーは少ない。価格も安く、地ビールの缶ビールの価格は、コーラより安い。缶ビールよりも、樽出しビールや瓶ビールに人気がある。 ドイツのビールは大きく分けて大麦を原料とするピルスナータイプと小麦を原料とするヴァイスタイプ・ビールがある。小麦を原料とするビールでもミュンヘン近辺では白っぽいヴァイスビールが有名。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州近郊ではヴァイスビールでも透明なクリスタル・ヴァイス、半透明なヘーフェ・ヴァイス、濁ったドゥンケル・ヴァイスがある。 ドイツのローカルビールだったラガーを世界的に広めたのは、隣国チェコで生まれたピルスナーのおかげである(日本で最も飲まれる黄金色のビールは、このピルスナー・タイプである)。ピルスナーは、プルゼニ市(プルゼニのドイツ語名がピルゼン)で醸造されたビールの呼称から由来する。この事実により、中央ヨーロッパでは、ビールの醸造法についてはチェコをその本場として一目置く。またキリンビールの調査では、国民一人当たりのビール消費量が1993年から2018年までの26年間連続世界1位であるなど、世界有数のビール好き国家である。 イングランド、スコットランドはエールビールの本場として知られる。しかしピルスナービールの普及以降はバドワイザー、ハイネケンなどの外国産ブランドのラガー、もしくは自国産のラガーが若者層を中心に多く飲まれ、エール類をはるかに超えるシェアを持っている。1970年代からは熱心なエールファンによるCAMRA(CAMpaign for Real Ale=真正エール(復活)運動)が起こった。 国内市場は事実上ほとんどDiageo社の寡占市場にあり、パブでの蛇口からサーブされるビールの選択肢は多くない。だが近年では都市部を中心にベルギービールやチェコビールなどを蛇口からサーブするパブも増えてきつつある。近年では地ビールなども出現してきているが、上記のような寡占状態のためパブなどで蛇口からサーブするビールとして発見することは非常に難しい。いわゆるマイクロブルワリーの中で最も成功しているのがPorterhouseである。同名のパブ内で醸造を行っており、市内に数店の支店を持っている。 世界で最も多様なビールを醸造するのは、おそらくベルギーである。マイケル・ジャクソンの精力的な活動によって、ベルギービールが世界に伝道されたといわれる。 ベルギービールの中で最も有名なのは、1966年にピエール・セリスが復活させた「ヒューガルデンホワイト (Hoegaarden White) 現地読み:フーハルデン・ヴィット」であろう。これは、俗に「ヴィット(フラマン語)ブランシュ(フランス語)」白ビールと呼ばれるビールである。なお、ドイツで白ビール(ヴァイスビア、ヴァイツェン)といえば、まったく別物の小麦を原料とするビールを指す。ドイツのヴァイスビア、ヴァイツェンと区別するために、ベルギーのブランシュをベルジャンスタイルホワイトと称することもある。また、トラピストビール(修道院ビール)、ブリュッセル近郊で製造される自然発酵を特徴とするランビックなど独特なビールが製造されている。 隣国ベルギーとドイツの影響もありビール作りが盛んである。ラガータイプだけではなく多様なエールも醸造している。 フランスはヨーロッパ第5位のビール生産国である(fr:Biereより)。ほとんどはドイツ国境に近いアルザス地方および隣接のロレーヌ地方で生産されているほか、ベルギー国境に近いノール地方でも生産されている。代表的なものは以下の3つの銘柄だが、実際は全てクローネンブルグ社が製造している。 ポーランド語ではビールはpiwo(ピヴォ)という。ビールは、ポーランドでは人々に大変親しまれている飲み物で、しかもこの20年間その人気は高まる一途である。2009年の Ernst & Young による報告によれば、ポーランドはビールの生産量ではヨーロッパでも第3位である。1位のドイツが103億リットル、2位の英国が49億5,000万リットル、そしてポーランドが36億9,000万リットルを生産している。 ポーランド国内市場の拡大が続き、ポーランド醸造産業雇用者連盟 (Zwiazek Pracodawcow Przemyslu Piwowarskiego) は醸造業界年次大会において、2008年のポーランドでのビール消費量が、一人当たり94リッターにまで増大したと発表した。国内市場での販売総量としては35億 6,240万リッターにのぼる。このポーランド醸造産業雇用者連盟に加盟している各社の市場シェアを合計すると、ポーランドのビール市場全体のおよそ90%を占める。 統計的にはポーランドの消費者は一人当たり平均で年間に92リットルのビールを飲んでおり、これはチェコ共和国ならびにドイツについで、第3位である。2009年、ビールの販売によるポーランド政府への消費税収入は、30億9,700万ポーランド ズロチに達した。またビールの製造と販売に携わる雇用人数は、およそ208,000人にのぼっている。 スロベニアには二つの大きな会社のビールとたくさんの小さな地ビールの店がある。一つ目の大きなビールの会社はズラトログといい、スロベニアの北東にあるラシュコにあるので、たくさんの人がこのビールをラシュコと呼んでいる。 ラシュコビールは1825年から作られていて、190年の伝統があり、スロベニアの一番古いビールである。ラシュコで、毎年夏に三日間「ビールと花祭り」という祭りがある。 二つ目のビール工場はウニオンと呼ばれ、リュブリャナで作られているビール。ウニオンビールは1864年から作られている。かつてこの二つの大きなビール工場は独立した二つの会社であったが、ハイネケンがウニオンとラシュコを買い取った。 アメリカ合衆国西海岸を中心にクラフトビール、マイクロブリューワリーという小醸造所によるビールが多種あり、生産されるビアスタイル数は世界でも有数である。ビールの種類も多い。ミラーは買収・合併されて、現在は南アフリカ籍の会社となっている。 カナダでもアメリカ同様、ビール消費は多く、モルソン、ラバットという二大全国ブランドが存在する。また、イギリスからの伝統も影響し、比較的小規模な地ビール醸造も多い。 メキシコはビールの特産地としても知られており、コロナやXX(ドス・エキス)など、著名ブランドが世界中に輸出されている。 中国での製造開始は欧米諸国に遅れるが、21世紀になって、生産量では世界一となっている。2004年の総生産量は2910万トンであり、対前年15.1%もの伸びを示している。 元々中国でのビール生産は20世紀初頭に、まず現在の黒龍江省ハルビンにロシア人がハルビン・ビールの工場を設立した。また山東省青島をドイツが租借地とし、租借地経営の一環として、産業振興策のビール生産の技術移転を行ったところから始まる。新中国になってからも早くから輸出に努めていたこともあり、現在でも世界的に最も有名な中国メーカーは青島ビール (Tsingtao Beer) であるが、現在最大のメーカーは香港資本も入った華潤雪花ビール(雪花ビール)になっている。その他の大手グループとして北京の燕京ビール、広州の珠江ビール、バドワイザー、サントリー、アサヒビールなどの中国国外のビールメーカーも多く進出している。流通と冷蔵が完備していないので、各地方都市に小規模なビール工場が多数あり、その地域用のビールを生産している。小規模工場の中には品質の悪いものを作っているところもあり、2004年の全国規模の抜き取り検査では13.8%もの銘柄が不合格となった。 冷たく冷やしたラガーが好まれる。ビールに氷を入れることがあるが、これはアルコール度数が高いため割っているというよりも、冷蔵設備が行き渡っていなかった時代の名残である。ただし、タイのビールは味がやや濃いこともあり薄める目的で氷を入れる人はいる(氷を入れることを前提に濃いめに作られている)。 アフリカでは部族ごとにビールを醸造しており、その種類は百種類以上に及ぶとされる。これらのビールは古代エジプトのビールと同様、ストローを使って飲む。また、使用する原料も麦に限らず雑穀やキャッサバ、トウモロコシ、バナナなどが用いられている。南アフリカではカフィア・ビールやコーリャン・ビールと呼ばれるビールが伝統的に飲まれてきた。 世界的な規模のビール製造会社は他国へ直接の資本進出を行ったり、各国の地場ビール会社を資本支配下に収めたり、あるいは資本提携したりする事で進出を行っている。また、世界的なブランドは直接ブランド所有会社との資本関係にはなくとも各国の企業によるライセンス製造が行われるケースもある。 単純に計算すると上位5グループで世界の生産量の50%近くを占めることになる。InBev社の主張によれば2005年には同社グループの生産量は世界のマーケットシェアの14パーセントの生産量を占めていると主張している。ただし、例えばカナダではInBev社系列のラバット社がバドワイザーを製造しているようにブランドと企業の入り繰りも存在している。また、オーストラリアや日本のように民族資本が強力な場合には進出の程度が輸出あるいはライセンス製造に留まっているケースもある。 世界的な大手ビール企業グループの上位5グループは以下の通り。 InBev(インベブ)は2004年にベルギーのInterBrew社とブラジルのAmBev社の合併により誕生。現在はアンハイザー・ブッシュ・インベブの子会社。アジア・ヨーロッパ・南北アメリカに多くの系列企業を持つ。 主な所有ブランド アンハイザー・ブッシュは世界第三位の生産量を誇る。現在はアンハイザー・ブッシュ・インベブの子会社。アメリカ国外の醸造所は他のグループと比較すると少ないが、バドワイザーブランドのビールは各国でライセンス生産が行われている。 主な所有ブランド 南アフリカビール社が2002年にミラー社を買収して誕生。アメリカ・アフリカに系列企業を持つ。 主な所有ブランド ヨーロッパ及び東南アジアのマーケットで強い。 主な所有ブランド ヨーロッパ、特に北欧・東欧諸国で強い。 主な所有ブランド 日本においてビールは、1613年(慶長18年)に平戸(現在の長崎県平戸市)に渡来し、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上された。今村市兵衛の記した『和蘭問答』(1724年)には自身が飲んだ「麦の酒」「ヒイル」という語が記されている。その感想は「殊外悪しき物」「何の味わいもない」と否定的である。文献上確認ができる日本最古のビールの記述である。 日本での外国人による醸造は、1812年に長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフの手によるものが最初である。開国後の1869年(明治2年)には、横浜の外国人居留地、山手46番にウィーガントらによって「ジャパン・ブルワリー」が設立され、翌年にはアメリカ人・コープランドが「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を設立。ビールの醸造製造を始め、主に居留地の外国人や上流階級の日本人向けに販売し、輸出もした(後にジャパン・ブルワリーは閉鎖、ウィーガントは別の工場ババリア・ブルワリーを興すが、最終的にはコープランドのスプリング・ヴァレー・ブルワリーと合併する)。 日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が、江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。川本が実際に醸造したかどうかの確証は無いが、著書のビール醸造法の記述などにより、実際に醸造した可能性が極めて高いと推測されている。産業としての醸造は、1869年(明治2年)に、当時の品川県知事であった古賀一平が土佐藩屋敷跡(現在の東京都品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされる。ただし、商業規模の製造は、1872年に、大阪市で渋谷庄三郎が「渋谷ビール」を販売したのが最初とする説もある。その後、1874年(同7年)には甲府で野口正章により「三ツ鱗ビール」が設立され、1876年(同9年)には北海道の札幌で官営ビール事業として、「開拓使麦酒醸造所」が村橋久成と中川清兵衛を中心に設立された(翌年「札幌ビール」を製造)。 1885(明治18年)、グラバーや三菱の岩崎弥之助らにより、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」は「ジャパン・ブルワリー・リミテッド」に引き継がれ、1888年(同21年)には「キリンビール」が発売された。1886年(同19年)には、北海道開拓使の官有物払下により、開拓使麦酒醸造所は北海道庁から大倉組に払い下げられ、1888年に「札幌麦酒会社」が設立された。1877年(同10年)には「日本麦酒株式会社」が設立され、1890年(同23年)に「ヱビスビール」を発売した。また、1889年(同22年)には「大阪麦酒株式会社」が設立され、1892年(同25年)に「アサヒビール」を発売した。 このように大資本から地方の中小醸造所まで、明治期には地ビールブームが起き、全国で100社近くの醸造所が設立された。しかし、1900年(明治33年)に北清事変(義和団の乱)が起き、軍備増強のため、翌年からビールに酒税が課せられることになると状況は一変する(それまで、酒税は清酒にのみ課されていた)。中小の醸造所は、酒税法に定められた最低製造数量基準を満たすことができず、相次いで倒産、または大資本へと吸収され、ビール業界は再編された。1906年(同39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して「大日本麦酒」が設立され、また、1907年(同40年)には、三菱財閥がジャパン・ブルワリー・リミテッドを引き継いで「麒麟麦酒」(キリンビール)が設立される。その後、1928年(昭和3年)に「壽屋」(サントリー)が「日英醸造」を買収し、ビール業界に一時参入したものの、1934年(昭和9年)には買収した鶴見工場を「麦酒共同販売」に売却して、ビール業界から撤退した。 第二次世界大戦後、GHQは産業界の独占・寡占の一掃を図って集中排除法を制定させる。ビール業界も集中排除の対象となり、大日本麦酒は「日本麦酒」(サッポロビール)と「朝日麦酒」(アサヒビール)に分割された。1945年9月2日に本土から分割され、米国民政府の統治下に置かれた奄美群島では、日本からの流通がなくなり物資が不足する中、1952年に巴麦酒株式会社(トモエビール)が奄美大島で設立され、直営ビアホールも作られたが、1953年の奄美群島本土復帰で商品の競争力がなくなり廃業となった。1957年(昭和32年)には、同じく米国民政府の統治下の沖縄県で「オリオンビール」が設立され、同年には宝酒造もビール業界に参入して「タカラビール」を発売した(宝酒造は1967年に撤退)。1963年(同38年)にはサントリー(壽屋から社名変更)がビール業界に再び参入した。こうして、いくつかの新規参入はあったものの、1967年の宝酒造撤退後は長らくビール業界はキリン・アサヒ・サッポロ・サントリー・オリオンによる5社(オリオンに対する各種優遇措置などの特殊事情のある沖縄以外では、事実上オリオンを除く4社)の寡占状態にある。 1967年(昭和42年)、新技術(精密濾過機を使用し熱処理を行わず酵母菌を除去)を用いた生ビール、サントリー「純生」が発売されたが、生ビールの解釈(酵母菌の有無)を巡ってサントリーと競合他社が意見を対立させ、「生ビール論争」が発生した。この論争は1979年、公正取引委員会が生ビール、ドラフトビールの定義を(酵母菌の有無には関係無く)「熱処理をしないビール」と公示したことにより、結果的にサントリーの主張が認められた形で決着を迎えた。 1987年(昭和62年)に販売したアサヒスーパードライが多く売れ、日本国外では、中国、タイ、イギリス、チェコ、カナダで生産、販売されている。 この頃から暖房機能付きエアコンや石油ファンヒーター等、一般家庭における冬場の暖房設備の充実により、それまでの「夏はビール、冬は日本酒や焼酎」といったスタイルから、冬場でもビールが売れていくように変化していった。この現象はアイスクリームでも見られた。 1994年(平成6年)、酒税法が改正されて最低製造数量基準が緩和された。これにより、一気に全国各地で地ビールが醸造され始め、地ビールブームが再現された。ただ、寡占5社が占めるシェアは依然大きく、2008年現在地ビール全体のビール業界におけるシェアは1%に満たない。 2005年、ザ・プレミアム・モルツがモンドセレクションを受賞し、これまでヱビスビールが圧倒的優位にあったプレミアムビール市場がにわかに活気づいた。 日本には、ドイツのビール純粋令のような製造法に関した法律は無く、「酒税法」と「公正競争規約」にて定義されている。 分類は「公正競争規約」が定義する。 日本では、ビール自体が高級品扱いの時代が長期間続いていたが、昭和30〜40年代に高度経済成長が進展するに連れて大衆化が進み、庶民が飲む一般的な酒へと変移した。 日本では、しっかり冷やしてコップやジョッキに注いでそのまま飲むのが一般的であり、夏場になると消費量が増大する。日本の多くの料理店・居酒屋では、5社(事実上はキリン、アサヒ、サッポロ、サントリー4社)のうち1社(沖縄県では通常はオリオン)のビールが供された。そのため、「三菱系企業の社員はキリンの出る店でしか飲まない」「サッポロ(あるいはサントリー)の出る店は少ないので、三井系企業の接待の店選びは困る」など、企業グループとビール銘柄に関する噂もまことしやかに語られた。ホテルなどでの企業関係者の会合といった、大人数の集まるイベントなどでは、企業グループによって提供するビールのメーカーを変える(三菱系=キリン、芙蓉系=サッポロ、住友系=アサヒ、三和系=サントリー。ちなみに三井系はサッポロかサントリーのどちらか)ことも多い。また一部の宿泊施設では、部屋付きの冷蔵庫のビールにも同様なことを行っているところもある(ただ、2000年頃から、旧財閥といった従来的な企業グループを超えた企業再編も行われているため、当てはめにくくなっている可能性はある)。 日本のプロ野球では、公式戦や日本選手権シリーズで優勝したチームの監督・選手・コーチたちが、祝勝会でビールをかけ合う風習がある(→ビールかけ)。 日本の酒税法では、麦芽又は麦を原料の一部とした発泡性の酒類(酒税法第3条第7号から第17号までに掲げる酒類及び麦芽又は麦を原料の一部としたアルコール含有物を蒸留したものを原料の一部としたものを除く)を「発泡酒」として定義している。このため、日本国外産の輸入ビールの中にはこの基準に合致しないために、本国ではビールに分類されていても日本では発泡酒扱いとされる商品も存在する。麦を使用しない発泡性の酒類には「その他の醸造酒(発泡性)(1)」(旧法では「その他の雑酒(2)」)があり「第三のビール」と称するものがある。ビール、又は発泡酒に蒸留酒を組み合わせたものは「リキュール(発泡性)(1)」に属する。 「ノンアルコールビール」と呼ばれた「ビールテイスト飲料」は、運転をする者や大人たちがビールを飲んで祝い事をする時の子どもたちの飲み物としても販売されている。これらの中にはホップを含まない甘いものもある。以前は「ノンアルコールビール」と呼ばれたが、キリンフリーなど発酵していない商品を除いては、アルコール含有量はゼロではない。酒類に分類されるアルコール1%という基準を下回ってはいるが、たいていの商品はアルコール分を含んでいる。そのため、未成年者やアルコールに敏感な人の飲用や飲用後の運転は控えるよう呼びかけている。また飲食店や販売店においてはドライバーや未成年者への販売を拒否するケースも見られる。「ノンアルコール」という表現は誤解を招くという指摘もあり、日本の業界では名称を「ビアテイスト飲料」又は「ビールテイスト飲料」に改める動きが進んでいる。ホッピーはそれ自体はアルコール1%未満であるが、焼酎などの割り材とするのが一般的である。ルートビアは、ジンジャービアとも呼ばれるジンジャーエール似の飲料で、こどもびいるという飲料も販売されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ビール(オランダ語: Bier)は、酒の一種。様々な作り方があるが、主に大麦を発芽させた麦芽(デンプンがアミラーゼという酵素で糖化している)を、ビール酵母によりアルコール発酵させて作る製法が一般的である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在は炭酸の清涼感とホップの苦味を特徴とするラガー、特にピルスナーが主流となっているが、ラガーはビールの歴史の中では比較的新参であり、ラガー以外にもエールなどの様々な種類のビールが世界各地で飲まれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語の漢字では麦酒(ばくしゅ)とも表記される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "各国語における名称や語源は以下の通り。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "科学的方法で確認された最初の大麦ビールの痕跡は、現代のイランにあって紀元前5千年紀までさかのぼるとされる。そして紀元前3千五百年紀頃のものがゴディン・テペ (Godin Tepe) 遺跡で確認され、それが古代エジプトとメソポタミアの歴史書に記録され、世界中に広まったとされる。シュメール人は大麦やエンマーコムギから作っており、黒ビール、褐色ビール、強精ビールなどの種類があり、神々に捧げられるほか人々にも再配分された。シュメール王朝ではビールは「液体のパン」と呼ばれていた。ちなみにシュメール人はワインの製法も開発している。古代エジプトにおいては、それより下った紀元前3千年紀の資料からビールの痕跡が確認されており、小麦の原産地が西アジアであることからメソポタミアからビールの製法が伝わったとする説となっている。エジプト南部のヒエラコンポリス遺跡で出土したビール工房は紀元前3600年頃と推測されている。アジア東部では、中国において、大麦・キビ・アワ・ジュズダマなどを原料に用いた、5000年前のビール醸造の痕跡が見つかっている。ビールが初めて作られたのは約1万3000年前、現在のイスラエルのハイファ付近とみられている。 当時のビールは、濾過されていないため、紀元前5~4世紀のイランやイラクでは、先端にフィルターを付けて固形物が入り込まないようにした「ビールストロー」が存在したとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これらのメソポタミアや古代エジプトのビールの製法については2つ仮説がある。一つは麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種のパンにしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたものであった。大麦はそのままでは小麦のように製粉することは難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすくなり、また消化もよくなる。つまり、ビールは元来、製粉が難しくて消化のよくない大麦を消化のよい麦芽パンにする技術から派生して誕生したものと考えられている。穀類を豊富に産したメソポタミアや古代エジプトでは、こうした背景を持つビールはパンから派生した、食物に非常に近い日常飲料であった。シュメールにはビールと醸造を司るニンカシという女神がおり、その讃歌にはビールパン、ナツメヤシ、蜂蜜を使ってビールを醸造する方法の記載がある。また、古代エジプトのパピルス文書には、王墓建設の職人たちへの配給食糧として、ビールが記録されている。焼いてから時間の経った固いパンを液体でふやかすという発想は、ヨーロッパのスープの原型となった、だし汁でふやかしたパンとも共通し、ふやかしたパンの料理という共通系譜上の食物ともいえる。現代でも、パン生地にビールを混ぜて作るビールパンが作られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "もう一つの製法は、現在のビールに通じる製法であり、エンマー小麦を原料に、発芽させた麦(麦芽)と煮て柔らかくした麦をあわせて酵母を添加して発酵させ漉したものである。どちらも場合によっては糖分や風味を添加する目的でナツメヤシを加えることもあった。また、エジプトに伝来したビールは気候条件により腐敗しやすかったため、ルピナスを添加して保存加工されていた。これはバビロニアのビールでも同様に様々な薬草を加えることがあったと言う。その中にはホップも含まれたと考えられている。バビロニアの『ハンムラビ法典』にはビールに関する取り締まり規則や罰則の記載があり、一例として「ビールを水で薄めて販売した者は、水の中に投げ込まれる(溺死刑)」とある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一方、麦芽の酵素によって大麦のデンプンを糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方のケルト人やゲルマン人にも伝播した。彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてからビールを醸造するという形をとらず、麦芽の粉末をそのまま湯に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。また日常の食物の派生形であった古代オリエントのビールと異なり、これらヨーロッパ北方種族のビールは、穀物の収穫祭に際してハレの行事の特別な飲料として醸造が行われる傾向が強かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "古代ローマにはエジプトから伝えられたものがジトゥム(zythum)、北方のケルト人経由で伝わったものがケルウィーシア (cervisia) と呼ばれたが、ワインが盛んだったために蔑視され流布しなかった。ローマ人や古代ギリシア人の間では、大麦は砕いて粗挽きにしたものを粥にして常食していた。また現在はアルコール飲料であるワインも、当時は糖分があまりアルコールに転化されておらず、非常に甘い飲み物であった。固いパンを食べやすくするブドウのジュースを濃縮し長期保存できる形にした日常の食卓の飲料、硬水を飲みやすくするために水に加える飲料としての性格が強く、酔うためにそのまま飲むのは不作法とされ、水で割って飲むのが文明人の作法とされていた。それだけに、祝祭に際して醸造したビールを痛飲して酔う北方種族の習俗を、自らを文明人と自認する古代ローマ人、古代ギリシア人は軽蔑していた。古代ローマの時代には市民の主食は小麦であり、大麦は家畜の飼料用として栽培され、十分の一刑に処された者や剣闘士以外は口にすることは無く、大麦を口にすること自体が野蛮人とされていた。しかし、ゲルマン人主導のフランク王国が成立するとヨーロッパ全土でビールの醸造が盛んになり、ビール文化はヨーロッパに根付いた。一方で非常に甘い飲み物であったワインも、今日の製法と近くなり、ほとんど甘くないアルコール度数の高い飲料となった。そのためビールとの関係は逆転し、アルコール度数がより低いビールは、子供にもあった飲み物であると考えられていた。キリスト教が広まると修道院は自給と巡礼者にふるまうためのビールを醸造し、技術の発展にも大きな役割を果たした。その中で発酵を安定させるなどの目的で様々なハーブ類を調合したグルートを添加されるようになった。グルートは領主によって管理され、醸造業者は領主から購入しなければならなかった。このため中世ヨーロッパで用いられたグルートの原料、配合比率、製法は現在に伝わっていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "11世紀頃、ドイツのルプレヒトベルク女子修道院のヒルデガルト・フォン・ビンゲン修道院長がグルートに代わってホップを用いたことを自著に記している。ホップには独特のさわやかな風味と雑菌抑制効果があり、15世紀頃にはドイツのビール醸造で主流となった。他の国でも次第にホップが主流となり、かつては使用を禁止していたイギリスでも17世紀頃にはホップによる醸造が一般的となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1516年、バイエルン公ヴィルヘルム4世は粗悪なビールの流通や、食用である小麦がビールの原料に転用される事による飢餓を防ぐため、『ビール純粋令』を発令し、原料として麦芽以外にはホップと水しか使わないよう命じた。小麦を使った白ビールは許可を得た一部の醸造所しか醸造できないようになり、希少価値が高まった。その後、ドイツ帝国の成立により『ビール純粋令』は1906年に全土に施行され、現在のドイツにおいても効力を持っている。15世紀中頃にはバイエルン地方のミュンヘンで、低温の洞窟で熟成させるラガービールの製造が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "19世紀には酵母の研究も進み、上面発酵と下面発酵の技術が確立した。1842年にはチェコのプルゼニで世界最初のピルスナービール「ピルスナー・ウルケル」が製造され、このタイプの醸造はプルゼニのドイツ語名からピルスナーと呼ばれるようになった。黄金色のピルスナーはガラス製品の普及と冷蔵技術の確立によって爆発的に広まった。船に積み込む飲料としてはラム酒が主流であったがビールも積まれていた記録がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本では、江戸時代初期には徳川幕府の幕臣達が、オランダから渡来したビールについてその存在を認知していたとされ、「ビール」という呼称もオランダ語に由来する。幕末の1860年(安政6年)、万延元年遣米使節の記録係だった玉虫左太夫は、ポーハタン号での航海中に何度かビールが提供されたと記述しており、「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と記している。明治維新以降、川本幸民がビール製造を試みたのを皮切りに、多くの醸造所が誕生し、全国的に普及していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現代のビールは、19世紀後半のデンマークのカールスバーグ社が開発した技術に多くを負っている。同社はビール酵母の純粋培養技術を開発し、さらに雑菌を徹底的に排除して衛生的に缶や瓶に詰める技術を確立した。それによりビールの保存性は飛躍的に高まり、安価で大量に安定供給される工業製品として、世界の津々浦々にまで流通するようになった。また、ビール生産が大企業に独占されることにもなった。それまではワインの方が食事に必須の日常の酒として飲まれていたが、安価となったビールが普及することにより、ワインとビールの位置が逆転した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "欧米では、この反動として工業化以前のビール生産を見直す動きが起こり、クラフトビール(地ビール)を作るマイクロブルワリーが多く設立されている。日本でも法規制が緩和されたことにより、地ビールの生産が少しずつ行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ビールの主な原料は水、デンプン源(麦芽など)、ビール酵母、香味料(ホップなど)である。多くの場合、大麦の麦芽を主原料とし、副原料としてアサ科のホップやトウモロコシ、米、砂糖等が使われる。特にこれらの副原料は大麦麦芽の安価な代替物として使用されることがある。また小麦やライ麦の麦芽でも製造は可能である。アフリカでは粟、ソルガム、キャッサバの根が、ブラジルではジャガイモ、メキシコではリュウゼツランがデンプン源として使われる。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ビールの主成分は水である。地方によって水に含まれているミネラル組成は異なるため、各地方で製造するのに水に最も適したビールも異なり、地方ごとの特色が現れる。たとえばアイルランドのダブリンの水は硬水であり、ギネスなどのスタウトビールの醸造に適している。チェコのプルゼニで採れる水は軟水で、ピルスナーウルケルなどのペールラガーの醸造に適している。イングランドのブルトンの水はジプサム(石膏; 硫酸カルシウムの鉱物)が含まれているため、硫酸塩の添加(ブルトニゼーションと呼ばれる、ホップの風味を引き立たせる手法)が必要なペールエールビールの製造に適している。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ビールのデンプン源に何を使用するかで、その濃さや風味が左右される。最も一般的なデンプン源は麦芽であり、後述のように大部分のビールには大麦の麦芽が使われる。麦芽の製法は種子に水と空気を与えて発芽させ、発酵過程に入る前に麦芽の成長を止めるため窯内で乾燥焙煎させる。これを焙燥という。その後、幼根を取り除いたものが麦芽である。種子が麦芽になることによって、デンプンを発酵性の糖に変える酵素が生産される。同じ種類の穀物から作られた麦芽でも、焙燥時間と温度の違いによって、異なる色彩をもつようになる。暗色の麦芽からは暗色のビールが製造される。多くのビールには大麦の麦芽が使用されている。オオムギは発芽力が強く、皮が薄く、デンプン質が多く、窒素量の少ないものが原料として優れている。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "現在、商業用に生産されているビールのほとんど全てには、風味付けとしてホップが使われている。ホップは和名をセイヨウカラハナソウというつる性植物で、その花はビール製造において風味付けと保存性を高める機能を持つ。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ホップは元々はドイツのヴェストファーレン地方にあるコルヴァイ修道院のようなビール醸造所で、西暦822年から使用されていた。だがビールに使用するための大量栽培が開始されたのは13世紀になってからである。13世紀から16世紀までの間、ホップは最も主要な香味料として使われるようになっていった。しかしそれ以前には、他の植物(例えばGlechoma hederacea)が香味料として使われることもあった。「歴史」の節で述べたが、グルート (gruit) と呼ばれるニガヨモギなどの様々なハーブ、ベリー類も、現在のホップと同じように、ビールの香りづけに使用されていたこともある。現在製造されているビールで、香りづけにホップ以外の植物も使用しているものは、Scottish Heather Ales companyのFraoch'やla Brasserie-LancelotのCervoise Lancelotなどである。ホップは、麦芽の甘みと調和のとれた苦味をビールに与え、また花や柑橘系、ハーブのような香りをビールに与える。ホップには抗生物効果があり、ビール醸造に寄与しない微生物を抑え、ビール酵母が有利に働く環境を整える効果がある。他にも泡持ち(ヘッドリテンション)の長さに寄与し、保存力を高める効果がある。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ビール酵母は穀類から引き出した糖を代謝し、エチルアルコールと炭酸ガスを生産する。酵母の働きによって麦芽汁がビールになる。また酵母はビールの個性、味わいにも影響を与える。ビール酵母には、発酵中に発生する炭酸ガスとともに液面に浮かび、褐色クリーム状の泡の層を形成する上面発酵酵母と、発酵末期に槽の底に沈殿する下面発酵酵母が存在する。製造に前者を用いるビールを上面発酵ビール(エール)、後者を用いるビールを下面発酵ビール(ラガー)という(詳しくは「分類」の節を参照)。最も主要な上面発酵酵母はSaccharomyces cerevisiaeで、最も主要な下面発酵酵母はSaccharomyces uvarumである。バイエルンの白ビールではTorulaspora delbrueckii(英語版)が働く。酵母の働きが解明される以前は、空中を漂う自然酵母によって発酵を行っていた。いわゆる自然発酵ビールである。大部分のビールは純粋培養の酵母を加えることで発酵を行うが、ランビックのようなごく一部は現在も自然発酵で製造されている。自然発酵ビールのランビックでは主にBrettanomyces属の酵母が働く。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "清澄剤は濁り物質を凝集させて沈殿除去する働きのある物質である。製造直後のビールにタンパク質の濁りが見られるとき、醸造所によっては1種類あるいはそれ以上の清澄剤が添加されることがある。この操作によって澄んだビールを作ることができる。ビールに使用される清澄剤の例としてはアイシングラス(魚の浮袋に含まれるゼラチン質)、アイリッシュモス(紅藻の一種)、Kappaphycus cottoniiから採れるκ-カラギーナン、ポリクラール、ゼラチンなどである。もしラベルなどに「菜食主義者向け (suitable for vegetarians)」といったことが記されていたなら、そのビールには動物性のゼラチンが使われておらず、海藻由来や人工の添加物で澄ませている。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ビール醸造所のことをブリュワリー(ブルワリー)という。法律などで制限されていない限り家庭でもビールの醸造は可能であり、ビールの歴史の中ではそのようなビールも多く作られてきた。家庭内で消費するため非営利的にビールなどを醸造することを自家醸造(homebrewing)という。日本では、免許を持たない者がアルコール度数1%以上の酒類を醸造することは禁じられている。自家醸造用の道具を売り買いすることはできるが、きちんと法律の範囲内で醸造するかどうかは使用者に委ねられている。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "醸造過程で果汁などを添加したフルーツビールや、香辛料を添加したスパイスビールなどもヨーロッパではポピュラーであるが、長らく日本の法律上はビールではなく発泡酒扱いとなっていた。しかし2018年4月1日の酒税法改正で果実及び香味料の使用が許されるようになった。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ビールの醸造の最初の工程は、デンプン源と温水を使った麦芽汁づくりである。普通デンプン源には大麦麦芽が使用される。麦芽はダスト・異物を除去した後、糖化・ろ過に適した大きさに粉砕される。胚乳部は糖化しやすいように細かく粉砕する。一方、殻皮部は麦汁濾過工程で濾膜を形成させるためになるべく形を残すようにしなければならない。ただし濾膜形成の必要ない加圧式の濾過方法を用いる場合は麦芽全部が細かく粉砕される。粉砕した麦芽のことをグリスト (grist) という。グリストはマッシュタン (mash tun) と呼ばれる容器の中で温水と混合される。グリストを浸す温水のことをリキュール (liquor) といい、グリストと温水の混合物のことをマッシュ (mash) という。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "グリストと温水が混合されると、麦芽に含まれるデンプンなどの多糖類や可溶性タンパク質が溶け出す。多糖類は麦芽のもつ酵素により可溶化し、分解され低分子の麦芽糖が生み出される。この多糖類の分解のことを糖化(マッシング; mashing)という。糖化には1〜2時間ほどの時間が掛かる。麦芽の酵素の力のみで糖化する方法をインフージョン法といい、マッシュの一部を取り出して煮沸し、元の容器に戻してメインのマッシュの温度を引き上げる方法をデコクション法という。マッシュの煮沸によって酵素は失活デンプン質が溶解して糖化が進みやすくなる。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "糖化が終了したマッシュからは穀物粒などの固形物が取り除かれ、発酵性の麦汁が回収される。麦汁濾過の伝統的な方法であるロータリング (lautering)では、濾過槽の底に溜まった穀物の粒そのものがフィルターとして働き、固形物と麦汁を分離する。現在行われている醸造ではより細かいグリストまで分離できるフィルターフレームが使用されることが多い。最初に絞られる麦汁を一番絞り麦汁という。穀物粒はスパージング (sparging) という操作で湯洗浄し、さらに多くの麦汁を回収する。麦汁とスパージングで加えられた湯の混合物から、穀物粒を濾過によって分離する。スパージングによって得られる麦汁を2番絞り麦汁という。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "麦汁は湯沸し器やコッパー(copper; 銅で作られていたことに由来)と呼ばれる容器に集められ、1時間程度煮沸される。煮沸によって麦汁中の水分が蒸発し、糖類を初めとする溶質が濃縮されて残る。また同時に糖化段階から麦汁に残留した酵素を失活させる。煮沸にはその他にも殺菌、タンパク質の凝固、色度の上昇、pHの低下、不快な香気成分の分解・飛散、などが起こる。煮沸中にホップを添加する。ホップは数回に分けて添加する場合もある。ホップを煮沸することで、ホップ中のフムロンが異性化し、イソフムロンになることで苦味が強まる。煮沸時間が長いほど苦味が強くなるが、ホップそのものの風味や香気は弱くなる。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "煮沸の終了した麦汁は、酵母による発酵の準備のため冷却される。このとき溶解度が下がってタンパク質やポリフェノールが凝固する。醸造所によってはホップで処理した麦汁をさらにホップバック (hopback) に通す。ホップバックはホップを満たした容器で、風味付けをしたりフィルターの機能を果たしたりする。しかし多くの醸造所ではホップバックを使わず、単純に発酵槽で麦汁を冷却する。その後、酵母の増殖に必要な酸素を供給するため、冷却された麦汁に無菌空気が通される。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "空気を通された発酵槽中の麦汁には酵母が添加される。酵母が出芽を開始すると発酵が始まる。発酵熱の発生により液温が上昇するので、冷却により発酵温度をコントロールする必要がある。発酵に必要な時間は酵母の種類やビールの濃さによって変わる。発酵前の麦汁はpH 5.2 〜5.8だが、発酵後には4.0 〜4.6に低下する。発酵が終了した液を若ビールと呼ぶ。アルコール発酵に加え、麦汁内の微粒子が沈降するため一度発酵の終了した若ビールは清澄する。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "発酵は一次発酵(主発酵)と二次発酵(熟成)の二段階で行われることがある。アルコール類はほとんど一次発酵で生成される。その発酵液は新しい容器に移され、熟成される。熟成はパッケージングまでに時間を置く必要がある場合、さらなる清澄化が必要な場合に行う。若ビールにはジアセチル前駆体、アセトアルデヒド、硫化水素などの未熟成物質が含まれる。熟成過程では残存物質のさらなる発酵が進み、これらの物質が分解され、発酵によって発生する炭酸ガスによって液外に運び出される。混濁の原因となるタンパク質は、温度を+1〜-1 °C程度に下げることにより析出し、一部の酵母とともに沈降する。熟成の終了したビールは濾過され、またシリカゲルによってタンパク質を吸着させて製品工程に送られる。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "熟成後に酵母の活動を抑えるため、60度前後に加熱する低温殺菌が行われる。この熱処理を行わず、特殊な濾過装置で酵母を取り除くビールがいわゆる生ビールである。ただしこの呼称は日本の基準によるものであり、国によって基準は異なる。また酵母を完全に取り除かないビールもある。", "title": "製法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ビールには様々なスタイルが存在するため、特徴によって細かく明確に分類することは非常に困難であり、様々な分類がなされている。有名な分類方法としてマイケル・ジャクソンによる分類がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "醸造法と酵母の種類によって分類する場合は、「上面発酵」の「エール」と「下面発酵」の「ラガー」に大別する方法が一般的である。元々エールという言葉は、上面発酵のビールを指していた言葉ではなく時代によって変遷がある。現在、ビールにはホップが使用されることが多いが、ホップがビールに広く使用されるようになったのは、12〜15世紀の間であり、その当時英語圏では、ホップ入りのものをビール(Beer)、ホップなしのものをエール(Ale)と呼んで区別していたが、その後、ビールは総称となり、上面発酵のものがエールと呼ばれるようになった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上面発酵のビールを、エールと呼ぶ。出芽酵母(Saccharomyces cerevisiae(サッカロマイセス・セルビシエ)とその亜種)を用い、常温で短い時間で発酵を行う。盛んに炭酸ガスを出すために、最終的に酵母が浮かび上面で層を作るために上面発酵と呼ばれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一般に、上面発酵のほうが醸造は容易である。19世紀以降にラガーが爆発的に普及するまでは、ビールといえばエールであった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "複雑な香りと深いコクを特徴にしている。主なスタイルとしてペールエール、スタウト、アルトビール、ケルシュ、ヴァイツェンなどがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "下面発酵のビールをラガーと呼ぶ。Saccharomyces carlsbergensis(サッカロマイセス・カールスベルゲンシス)という酵母を用い、低温(10°C以下)で長時間発酵を行う。役目を終えた酵母は沈殿するため、エールの上面発酵に対して下面発酵と呼ばれている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "比較的すっきりした味で、ピルスナー(ピス)、ボックなどのスタイルがあり、もともと中世ドイツのバイエルン地方のローカルなビールだった。この土地の醸造師たちは、低温でも活動する酵母を発見し、変わったビールを醸造していた。秋の終わりにビールの材料を洞窟の中に氷と共に貯蔵して翌年の春に取り出すと、発酵が終了してビールが完成する。ラガーとは「貯蔵されたビール」という意味である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "冷蔵庫が発明された19世紀以降、これが瞬く間に世界のビールの主流となった。一定の品質のビールを大量生産するのに最適だったためである。黄金色の美しい色と、ガラス製のグラスやジョッキが普及したことを人気の理由に挙げる人もいる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "酵母発見以前のビールは全て自然発酵であった。現在でもアフリカの伝統的なビールや、ベルギーのパヨッテンラントで製造されるランビックでは培養された酵母を使用しない自然発酵が採用されている。乳酸発酵も行われるため、特有の酸味を持つようになる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "20世紀以降の冷蔵技術の進歩により、ビールを冷やして飲む風習は加速度的に広まった。タイ王国では、冷やしたうえに氷を入れるのも一般的である。一方、エールビールは常温で飲まれることが多い。また、ドイツやベルギーなどでは温めて飲まれるホットビールもあり、グリュークリークのように温めて飲むことが主流のビールもある。", "title": "飲み方" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ビールをカクテルにして飲むビアカクテル(英語版)では、トマトジュースを入れたレッド・アイ、レモネードを入れたパナシェ(ドイツではラドラー、イギリスではシャンディ)、ジンジャーエールを入れたシャンディ・ガフなどが知られる。そのほか、ピルスナーとスタウトなど、異なる種類のビールを混ぜるハーフ&ハーフも広く知られる飲み方である。", "title": "飲み方" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ビールはそれ自体の品質や温度のほか、グラスやビールジョッキなどに注ぐ場合は注ぎ方で泡立ちや味わいが異なり、注ぎ方の巧みさや多彩さを売り物にする飲食店もある。泡はビールが空気に触れて酸化されることにより味が変化することを防ぐ役割もある。ビールの苦味成分は液体中に拡散しているが、これは泡によって吸着される。そのため、ビールの炭酸泡の形成過程をコントロールすることにより、ビールの苦味成分を液体上部に浮かぶ泡の層に閉じ込めることができる。", "title": "ビールの注ぎ方" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ビールは醸造酒故に酒としては賞味期限に左右されやすく、味が変化しやすい部類に入る。品質が劣化する主な原因に、保管温度、日光、衝撃、酸化が挙げられる。また出荷から日数が経過するに従い味が劣化する。このような日数経過や味の変化は鮮度と表現される。ただし、酵母が殺菌・濾過されておらず瓶・樽内で再発酵を行う種類のビールは長期保存や「寝かせる」ことが可能で、マイルドで熟成された味わいへの変化を楽しめる銘柄もある。", "title": "保存" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "劣化の原因は大麦由来の酵素LOX(リポキシゲナーゼ)の働きが大きい。醸造過程でLOXが劣化因子を作りこれがビールの成分と反応し脂質を酸化させることで渋みや臭みになり泡もちの低下が起きる。", "title": "保存" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "キリン食生活文化研究所が調査し、ビール酒造組合が公表する集計によると、2015年の世界のビール総生産量は1億7937万klに上る。生産量のベスト10は、中国、アメリカ、ブラジル、ドイツ、メキシコ、ロシア、日本(発泡酒等を含む)、ベトナム、イギリス、ポーランドの順。オランダは14位、チェコは21位、ベルギーは19位であった。2018年にはブラジルとメキシコが独露を抜いて3-4位となり、ベトナムがイギリスやポーランドなどを追い越して8位となった。同年まで中国の首位は17年連続である。市場規模は飽和気味の先進国で縮小し、新興国で拡大傾向にある。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主な生産国の状況と銘柄は以下の通り。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ラガービールが大多数だが、アルト、ケルシュ、ヴァイス (Weissbier) などのエールビールも多種造られている。(ピルスナービールはチェコの発明。ラガービールはオーストリアの発明である。ただし、いずれもドイツ系による発明。)", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ビールの新酒は秋初めに出回り、これに合わせて各地でビール祭りがある。最も有名かつ大規模なものはドイツ、ミュンヘンのオクトーバーフェストである。また、オクトーバーフェスト用に供されるメルツェンビール(3月に醸造される)、秋口に醸造され冬場に供されるウィンタービール等の季節ビールも多くのメーカーで作られている。なお、ドイツではビール法(ビール純粋令)によりビールを名乗る飲料には原材料の規制(水・麦芽・ホップのみを原料とする飲料物のみをビールとして取り扱う)があったが、非関税障壁として非難され、現在は輸入ビールについては廃止されている。ドイツのビールメーカーは各地にあり、全国ブランドのビールメーカーは少ない。価格も安く、地ビールの缶ビールの価格は、コーラより安い。缶ビールよりも、樽出しビールや瓶ビールに人気がある。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ドイツのビールは大きく分けて大麦を原料とするピルスナータイプと小麦を原料とするヴァイスタイプ・ビールがある。小麦を原料とするビールでもミュンヘン近辺では白っぽいヴァイスビールが有名。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州近郊ではヴァイスビールでも透明なクリスタル・ヴァイス、半透明なヘーフェ・ヴァイス、濁ったドゥンケル・ヴァイスがある。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ドイツのローカルビールだったラガーを世界的に広めたのは、隣国チェコで生まれたピルスナーのおかげである(日本で最も飲まれる黄金色のビールは、このピルスナー・タイプである)。ピルスナーは、プルゼニ市(プルゼニのドイツ語名がピルゼン)で醸造されたビールの呼称から由来する。この事実により、中央ヨーロッパでは、ビールの醸造法についてはチェコをその本場として一目置く。またキリンビールの調査では、国民一人当たりのビール消費量が1993年から2018年までの26年間連続世界1位であるなど、世界有数のビール好き国家である。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "イングランド、スコットランドはエールビールの本場として知られる。しかしピルスナービールの普及以降はバドワイザー、ハイネケンなどの外国産ブランドのラガー、もしくは自国産のラガーが若者層を中心に多く飲まれ、エール類をはるかに超えるシェアを持っている。1970年代からは熱心なエールファンによるCAMRA(CAMpaign for Real Ale=真正エール(復活)運動)が起こった。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "国内市場は事実上ほとんどDiageo社の寡占市場にあり、パブでの蛇口からサーブされるビールの選択肢は多くない。だが近年では都市部を中心にベルギービールやチェコビールなどを蛇口からサーブするパブも増えてきつつある。近年では地ビールなども出現してきているが、上記のような寡占状態のためパブなどで蛇口からサーブするビールとして発見することは非常に難しい。いわゆるマイクロブルワリーの中で最も成功しているのがPorterhouseである。同名のパブ内で醸造を行っており、市内に数店の支店を持っている。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "世界で最も多様なビールを醸造するのは、おそらくベルギーである。マイケル・ジャクソンの精力的な活動によって、ベルギービールが世界に伝道されたといわれる。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ベルギービールの中で最も有名なのは、1966年にピエール・セリスが復活させた「ヒューガルデンホワイト (Hoegaarden White) 現地読み:フーハルデン・ヴィット」であろう。これは、俗に「ヴィット(フラマン語)ブランシュ(フランス語)」白ビールと呼ばれるビールである。なお、ドイツで白ビール(ヴァイスビア、ヴァイツェン)といえば、まったく別物の小麦を原料とするビールを指す。ドイツのヴァイスビア、ヴァイツェンと区別するために、ベルギーのブランシュをベルジャンスタイルホワイトと称することもある。また、トラピストビール(修道院ビール)、ブリュッセル近郊で製造される自然発酵を特徴とするランビックなど独特なビールが製造されている。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "隣国ベルギーとドイツの影響もありビール作りが盛んである。ラガータイプだけではなく多様なエールも醸造している。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "フランスはヨーロッパ第5位のビール生産国である(fr:Biereより)。ほとんどはドイツ国境に近いアルザス地方および隣接のロレーヌ地方で生産されているほか、ベルギー国境に近いノール地方でも生産されている。代表的なものは以下の3つの銘柄だが、実際は全てクローネンブルグ社が製造している。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ポーランド語ではビールはpiwo(ピヴォ)という。ビールは、ポーランドでは人々に大変親しまれている飲み物で、しかもこの20年間その人気は高まる一途である。2009年の Ernst & Young による報告によれば、ポーランドはビールの生産量ではヨーロッパでも第3位である。1位のドイツが103億リットル、2位の英国が49億5,000万リットル、そしてポーランドが36億9,000万リットルを生産している。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ポーランド国内市場の拡大が続き、ポーランド醸造産業雇用者連盟 (Zwiazek Pracodawcow Przemyslu Piwowarskiego) は醸造業界年次大会において、2008年のポーランドでのビール消費量が、一人当たり94リッターにまで増大したと発表した。国内市場での販売総量としては35億 6,240万リッターにのぼる。このポーランド醸造産業雇用者連盟に加盟している各社の市場シェアを合計すると、ポーランドのビール市場全体のおよそ90%を占める。 統計的にはポーランドの消費者は一人当たり平均で年間に92リットルのビールを飲んでおり、これはチェコ共和国ならびにドイツについで、第3位である。2009年、ビールの販売によるポーランド政府への消費税収入は、30億9,700万ポーランド ズロチに達した。またビールの製造と販売に携わる雇用人数は、およそ208,000人にのぼっている。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "スロベニアには二つの大きな会社のビールとたくさんの小さな地ビールの店がある。一つ目の大きなビールの会社はズラトログといい、スロベニアの北東にあるラシュコにあるので、たくさんの人がこのビールをラシュコと呼んでいる。 ラシュコビールは1825年から作られていて、190年の伝統があり、スロベニアの一番古いビールである。ラシュコで、毎年夏に三日間「ビールと花祭り」という祭りがある。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "二つ目のビール工場はウニオンと呼ばれ、リュブリャナで作られているビール。ウニオンビールは1864年から作られている。かつてこの二つの大きなビール工場は独立した二つの会社であったが、ハイネケンがウニオンとラシュコを買い取った。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国西海岸を中心にクラフトビール、マイクロブリューワリーという小醸造所によるビールが多種あり、生産されるビアスタイル数は世界でも有数である。ビールの種類も多い。ミラーは買収・合併されて、現在は南アフリカ籍の会社となっている。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "カナダでもアメリカ同様、ビール消費は多く、モルソン、ラバットという二大全国ブランドが存在する。また、イギリスからの伝統も影響し、比較的小規模な地ビール醸造も多い。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "メキシコはビールの特産地としても知られており、コロナやXX(ドス・エキス)など、著名ブランドが世界中に輸出されている。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "中国での製造開始は欧米諸国に遅れるが、21世紀になって、生産量では世界一となっている。2004年の総生産量は2910万トンであり、対前年15.1%もの伸びを示している。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "元々中国でのビール生産は20世紀初頭に、まず現在の黒龍江省ハルビンにロシア人がハルビン・ビールの工場を設立した。また山東省青島をドイツが租借地とし、租借地経営の一環として、産業振興策のビール生産の技術移転を行ったところから始まる。新中国になってからも早くから輸出に努めていたこともあり、現在でも世界的に最も有名な中国メーカーは青島ビール (Tsingtao Beer) であるが、現在最大のメーカーは香港資本も入った華潤雪花ビール(雪花ビール)になっている。その他の大手グループとして北京の燕京ビール、広州の珠江ビール、バドワイザー、サントリー、アサヒビールなどの中国国外のビールメーカーも多く進出している。流通と冷蔵が完備していないので、各地方都市に小規模なビール工場が多数あり、その地域用のビールを生産している。小規模工場の中には品質の悪いものを作っているところもあり、2004年の全国規模の抜き取り検査では13.8%もの銘柄が不合格となった。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "冷たく冷やしたラガーが好まれる。ビールに氷を入れることがあるが、これはアルコール度数が高いため割っているというよりも、冷蔵設備が行き渡っていなかった時代の名残である。ただし、タイのビールは味がやや濃いこともあり薄める目的で氷を入れる人はいる(氷を入れることを前提に濃いめに作られている)。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "アフリカでは部族ごとにビールを醸造しており、その種類は百種類以上に及ぶとされる。これらのビールは古代エジプトのビールと同様、ストローを使って飲む。また、使用する原料も麦に限らず雑穀やキャッサバ、トウモロコシ、バナナなどが用いられている。南アフリカではカフィア・ビールやコーリャン・ビールと呼ばれるビールが伝統的に飲まれてきた。", "title": "主なビール生産国と銘柄" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "世界的な規模のビール製造会社は他国へ直接の資本進出を行ったり、各国の地場ビール会社を資本支配下に収めたり、あるいは資本提携したりする事で進出を行っている。また、世界的なブランドは直接ブランド所有会社との資本関係にはなくとも各国の企業によるライセンス製造が行われるケースもある。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "単純に計算すると上位5グループで世界の生産量の50%近くを占めることになる。InBev社の主張によれば2005年には同社グループの生産量は世界のマーケットシェアの14パーセントの生産量を占めていると主張している。ただし、例えばカナダではInBev社系列のラバット社がバドワイザーを製造しているようにブランドと企業の入り繰りも存在している。また、オーストラリアや日本のように民族資本が強力な場合には進出の程度が輸出あるいはライセンス製造に留まっているケースもある。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "世界的な大手ビール企業グループの上位5グループは以下の通り。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "InBev(インベブ)は2004年にベルギーのInterBrew社とブラジルのAmBev社の合併により誕生。現在はアンハイザー・ブッシュ・インベブの子会社。アジア・ヨーロッパ・南北アメリカに多くの系列企業を持つ。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "主な所有ブランド", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "アンハイザー・ブッシュは世界第三位の生産量を誇る。現在はアンハイザー・ブッシュ・インベブの子会社。アメリカ国外の醸造所は他のグループと比較すると少ないが、バドワイザーブランドのビールは各国でライセンス生産が行われている。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "主な所有ブランド", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "南アフリカビール社が2002年にミラー社を買収して誕生。アメリカ・アフリカに系列企業を持つ。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "主な所有ブランド", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ及び東南アジアのマーケットで強い。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "主な所有ブランド", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ、特に北欧・東欧諸国で強い。", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "主な所有ブランド", "title": "世界のビールメーカー" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "日本においてビールは、1613年(慶長18年)に平戸(現在の長崎県平戸市)に渡来し、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上された。今村市兵衛の記した『和蘭問答』(1724年)には自身が飲んだ「麦の酒」「ヒイル」という語が記されている。その感想は「殊外悪しき物」「何の味わいもない」と否定的である。文献上確認ができる日本最古のビールの記述である。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "日本での外国人による醸造は、1812年に長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフの手によるものが最初である。開国後の1869年(明治2年)には、横浜の外国人居留地、山手46番にウィーガントらによって「ジャパン・ブルワリー」が設立され、翌年にはアメリカ人・コープランドが「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を設立。ビールの醸造製造を始め、主に居留地の外国人や上流階級の日本人向けに販売し、輸出もした(後にジャパン・ブルワリーは閉鎖、ウィーガントは別の工場ババリア・ブルワリーを興すが、最終的にはコープランドのスプリング・ヴァレー・ブルワリーと合併する)。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が、江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。川本が実際に醸造したかどうかの確証は無いが、著書のビール醸造法の記述などにより、実際に醸造した可能性が極めて高いと推測されている。産業としての醸造は、1869年(明治2年)に、当時の品川県知事であった古賀一平が土佐藩屋敷跡(現在の東京都品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされる。ただし、商業規模の製造は、1872年に、大阪市で渋谷庄三郎が「渋谷ビール」を販売したのが最初とする説もある。その後、1874年(同7年)には甲府で野口正章により「三ツ鱗ビール」が設立され、1876年(同9年)には北海道の札幌で官営ビール事業として、「開拓使麦酒醸造所」が村橋久成と中川清兵衛を中心に設立された(翌年「札幌ビール」を製造)。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1885(明治18年)、グラバーや三菱の岩崎弥之助らにより、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」は「ジャパン・ブルワリー・リミテッド」に引き継がれ、1888年(同21年)には「キリンビール」が発売された。1886年(同19年)には、北海道開拓使の官有物払下により、開拓使麦酒醸造所は北海道庁から大倉組に払い下げられ、1888年に「札幌麦酒会社」が設立された。1877年(同10年)には「日本麦酒株式会社」が設立され、1890年(同23年)に「ヱビスビール」を発売した。また、1889年(同22年)には「大阪麦酒株式会社」が設立され、1892年(同25年)に「アサヒビール」を発売した。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "このように大資本から地方の中小醸造所まで、明治期には地ビールブームが起き、全国で100社近くの醸造所が設立された。しかし、1900年(明治33年)に北清事変(義和団の乱)が起き、軍備増強のため、翌年からビールに酒税が課せられることになると状況は一変する(それまで、酒税は清酒にのみ課されていた)。中小の醸造所は、酒税法に定められた最低製造数量基準を満たすことができず、相次いで倒産、または大資本へと吸収され、ビール業界は再編された。1906年(同39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して「大日本麦酒」が設立され、また、1907年(同40年)には、三菱財閥がジャパン・ブルワリー・リミテッドを引き継いで「麒麟麦酒」(キリンビール)が設立される。その後、1928年(昭和3年)に「壽屋」(サントリー)が「日英醸造」を買収し、ビール業界に一時参入したものの、1934年(昭和9年)には買収した鶴見工場を「麦酒共同販売」に売却して、ビール業界から撤退した。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、GHQは産業界の独占・寡占の一掃を図って集中排除法を制定させる。ビール業界も集中排除の対象となり、大日本麦酒は「日本麦酒」(サッポロビール)と「朝日麦酒」(アサヒビール)に分割された。1945年9月2日に本土から分割され、米国民政府の統治下に置かれた奄美群島では、日本からの流通がなくなり物資が不足する中、1952年に巴麦酒株式会社(トモエビール)が奄美大島で設立され、直営ビアホールも作られたが、1953年の奄美群島本土復帰で商品の競争力がなくなり廃業となった。1957年(昭和32年)には、同じく米国民政府の統治下の沖縄県で「オリオンビール」が設立され、同年には宝酒造もビール業界に参入して「タカラビール」を発売した(宝酒造は1967年に撤退)。1963年(同38年)にはサントリー(壽屋から社名変更)がビール業界に再び参入した。こうして、いくつかの新規参入はあったものの、1967年の宝酒造撤退後は長らくビール業界はキリン・アサヒ・サッポロ・サントリー・オリオンによる5社(オリオンに対する各種優遇措置などの特殊事情のある沖縄以外では、事実上オリオンを除く4社)の寡占状態にある。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)、新技術(精密濾過機を使用し熱処理を行わず酵母菌を除去)を用いた生ビール、サントリー「純生」が発売されたが、生ビールの解釈(酵母菌の有無)を巡ってサントリーと競合他社が意見を対立させ、「生ビール論争」が発生した。この論争は1979年、公正取引委員会が生ビール、ドラフトビールの定義を(酵母菌の有無には関係無く)「熱処理をしないビール」と公示したことにより、結果的にサントリーの主張が認められた形で決着を迎えた。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)に販売したアサヒスーパードライが多く売れ、日本国外では、中国、タイ、イギリス、チェコ、カナダで生産、販売されている。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "この頃から暖房機能付きエアコンや石油ファンヒーター等、一般家庭における冬場の暖房設備の充実により、それまでの「夏はビール、冬は日本酒や焼酎」といったスタイルから、冬場でもビールが売れていくように変化していった。この現象はアイスクリームでも見られた。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)、酒税法が改正されて最低製造数量基準が緩和された。これにより、一気に全国各地で地ビールが醸造され始め、地ビールブームが再現された。ただ、寡占5社が占めるシェアは依然大きく、2008年現在地ビール全体のビール業界におけるシェアは1%に満たない。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2005年、ザ・プレミアム・モルツがモンドセレクションを受賞し、これまでヱビスビールが圧倒的優位にあったプレミアムビール市場がにわかに活気づいた。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "日本には、ドイツのビール純粋令のような製造法に関した法律は無く、「酒税法」と「公正競争規約」にて定義されている。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "分類は「公正競争規約」が定義する。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "日本では、ビール自体が高級品扱いの時代が長期間続いていたが、昭和30〜40年代に高度経済成長が進展するに連れて大衆化が進み、庶民が飲む一般的な酒へと変移した。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "日本では、しっかり冷やしてコップやジョッキに注いでそのまま飲むのが一般的であり、夏場になると消費量が増大する。日本の多くの料理店・居酒屋では、5社(事実上はキリン、アサヒ、サッポロ、サントリー4社)のうち1社(沖縄県では通常はオリオン)のビールが供された。そのため、「三菱系企業の社員はキリンの出る店でしか飲まない」「サッポロ(あるいはサントリー)の出る店は少ないので、三井系企業の接待の店選びは困る」など、企業グループとビール銘柄に関する噂もまことしやかに語られた。ホテルなどでの企業関係者の会合といった、大人数の集まるイベントなどでは、企業グループによって提供するビールのメーカーを変える(三菱系=キリン、芙蓉系=サッポロ、住友系=アサヒ、三和系=サントリー。ちなみに三井系はサッポロかサントリーのどちらか)ことも多い。また一部の宿泊施設では、部屋付きの冷蔵庫のビールにも同様なことを行っているところもある(ただ、2000年頃から、旧財閥といった従来的な企業グループを超えた企業再編も行われているため、当てはめにくくなっている可能性はある)。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "日本のプロ野球では、公式戦や日本選手権シリーズで優勝したチームの監督・選手・コーチたちが、祝勝会でビールをかけ合う風習がある(→ビールかけ)。", "title": "日本のビール" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "日本の酒税法では、麦芽又は麦を原料の一部とした発泡性の酒類(酒税法第3条第7号から第17号までに掲げる酒類及び麦芽又は麦を原料の一部としたアルコール含有物を蒸留したものを原料の一部としたものを除く)を「発泡酒」として定義している。このため、日本国外産の輸入ビールの中にはこの基準に合致しないために、本国ではビールに分類されていても日本では発泡酒扱いとされる商品も存在する。麦を使用しない発泡性の酒類には「その他の醸造酒(発泡性)(1)」(旧法では「その他の雑酒(2)」)があり「第三のビール」と称するものがある。ビール、又は発泡酒に蒸留酒を組み合わせたものは「リキュール(発泡性)(1)」に属する。", "title": "類似の飲料" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "「ノンアルコールビール」と呼ばれた「ビールテイスト飲料」は、運転をする者や大人たちがビールを飲んで祝い事をする時の子どもたちの飲み物としても販売されている。これらの中にはホップを含まない甘いものもある。以前は「ノンアルコールビール」と呼ばれたが、キリンフリーなど発酵していない商品を除いては、アルコール含有量はゼロではない。酒類に分類されるアルコール1%という基準を下回ってはいるが、たいていの商品はアルコール分を含んでいる。そのため、未成年者やアルコールに敏感な人の飲用や飲用後の運転は控えるよう呼びかけている。また飲食店や販売店においてはドライバーや未成年者への販売を拒否するケースも見られる。「ノンアルコール」という表現は誤解を招くという指摘もあり、日本の業界では名称を「ビアテイスト飲料」又は「ビールテイスト飲料」に改める動きが進んでいる。ホッピーはそれ自体はアルコール1%未満であるが、焼酎などの割り材とするのが一般的である。ルートビアは、ジンジャービアとも呼ばれるジンジャーエール似の飲料で、こどもびいるという飲料も販売されている。", "title": "類似の飲料" } ]
ビールは、酒の一種。様々な作り方があるが、主に大麦を発芽させた麦芽(デンプンがアミラーゼという酵素で糖化している)を、ビール酵母によりアルコール発酵させて作る製法が一般的である。 現在は炭酸の清涼感とホップの苦味を特徴とするラガー、特にピルスナーが主流となっているが、ラガーはビールの歴史の中では比較的新参であり、ラガー以外にもエールなどの様々な種類のビールが世界各地で飲まれている。 日本語の漢字では麦酒(ばくしゅ)とも表記される。
{{otheruses}} [[ファイル:Weizenbier-ukko.jpg|thumb|280px|コップに注がれたビール]] [[ファイル:Cans of beer on Japanese discount store.jpg|thumb|280px|日本の[[缶#飲料缶|缶]]ビール]] [[ファイル:Bierflaschen aus Deutschland 2.jpg|thumb|280px|ドイツの[[瓶]]ビール]] {{栄養価 | name=ビール<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nal.usda.gov/fnic/foodcomp/cgi-bin/list_nut_edit.pl |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2011年11月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111107211648/http://www.nal.usda.gov/fnic/foodcomp/cgi-bin/list_nut_edit.pl |archivedate=2011年11月7日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>| water =91.96 g| kJ =181| protein =0.46 g| fat =0 g| carbs =3.55 g| fiber =0 g| sugars =0 g| calcium_mg =4| iron_mg =0.02| magnesium_mg =6| phosphorus_mg =14| potassium_mg =27| sodium_mg =4| zinc_mg =0.01| manganese_mg =0.008| selenium_μg =0.6| vitC_mg =0| thiamin_mg =0.005| riboflavin_mg =0.025| niacin_mg =0.513| pantothenic_mg =0.041| vitB6_mg=0.046| folate_ug =6| choline_mg =10.1| vitB12_ug =0.02| vitA_ug =0| betacarotene_ug =0| lutein_ug =0| vitE_mg =0| vitD_iu =0| vitK_ug =0| satfat =0 g| monofat =0 g| polyfat =0 g| tryptophan =0 g| threonine =0 g| isoleucine =0 g| leucine =0 g| lysine =0 g| methionine =0 g| cystine =0 g| phenylalanine =0 g| tyrosine =0 g| valine =0 g| arginine =0 g| histidine =0 g| alanine =0.012 g| aspartic acid =0.016 g| glutamic acid =0.047 g| glycine =0.013 g| proline =0.035 g| serine =0 g| alcohol =3.9 g| right=1 | source_usda=1 }} '''ビール'''({{lang-nl|Bier}})は、[[酒]]の一種。様々な作り方があるが、主に[[オオムギ|大麦]]を発芽させた[[麦芽]]([[デンプン]]が[[アミラーゼ]]という[[酵素]]で[[糖化]]している)を、ビール[[酵母]]により[[アルコール]][[発酵]]させて作る製法が一般的である。 現在は[[炭酸]]の清涼感と[[ホップ]]の[[苦味]]を特徴とする[[ラガー (ビール)|ラガー]]、特に[[ピルスナー]]が主流となっているが、ラガーはビールの歴史の中では比較的新参であり、ラガー以外にも[[エール (ビール)|エール]]などの様々な種類のビールが世界各地で飲まれている。 [[日本語]]の[[漢字]]では'''麦酒'''(ばくしゅ)とも表記される{{efn|キリンビール社名の漢字表記「[[麒麟麦酒]]」など。}}。 == 名称 == 各国語における名称や[[語源]]は以下の通り。 *{{lang-en|[[:en:beer|beer]]}}(ビア)と、[[:en:ale|ale]]([[エール (ビール)|エール]])の2種類の言葉があり、エールの方が古い **ale 系 **:[[インド・ヨーロッパ祖語]]の、alu-(「酔う」「[[魔術]]的な」など)から来ている。([https://web.archive.org/web/20090125161321/http://bartleby.com/61/roots/IE14.html]) ***[[ゲルマン祖語]]:[[wikt:en:Reconstruction:Proto-Germanic/alu|*alu]] ***{{lang-et|olu}} ***[[デンマーク語]]:{{lang-no|øl}} ***{{lang-sv|öl}} **beer 系 ***{{lang-la|bibere}}(飲む、[[動詞]])が起源 **:[[古英語]]ではビアとエールは違い、ビアは今の[[シードル]]([[リンゴ|林檎]]酒)だったとする説もある **:[[ノルマン・コンクエスト]]の後、一時 “beer” は無くなるが、[[麦芽]]飲料を指す呼称としてすぐに復活する。 *[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]では、{{lang-la|cervisia}}([[ケレース]]の力)から[[派生]]。 *他の[[西ヨーロッパ]]語(幾つかの[[東ヨーロッパ]]語)は英語の beer と似た言葉を使う:(日本語の「ビール」の語源の)[[オランダ語]]の bier や[[ドイツ語]]の Bier。 *[[スラヴ語派]]諸国では、[[スラヴ祖語]]: [[wikt:en:Reconstruction:Proto-Slavic/pivo|*pivo]] の派生系を使う。 **{{lang-ru|пи́во}} **{{lang-sr|пи̑во}} **{{lang-pl|piwo}} *[[語族]]の異なる言語での名称 **{{lang-ja|ビール}}(オランダ語の bier からの[[借用語]])、麦酒(ばくしゅ、中国語の漢字を使った意訳語) **{{lang-zh|啤酒}}({{lang|zh|píjiǔ}}。おそらくドイツ語の Bier からの借用と中国語「酒」の合成) **[[台湾語]]: 麥仔酒({{unicode|be̍h-á-chiú}}。おそらく英語の beer からの音の借用と中国語「麦」と接尾辞「仔」の[[当て字]]、名詞「酒」との合成)、Bih-luh([[日本語]]ビールからの借用語、オランダ語の bier からの再借用語 **{{lang-fi|olut}}([[ゲルマン祖語]]: *alu もしくは[[バルト語]]からの借用語) **{{lang-ko-kr|맥주}}(Maekju / メクチュ。麦酒を[[ハングル]]表記したもの) == 歴史 == {{Main|{{仮リンク|ビールの歴史|en|History of beer}}}} 科学的方法で確認された最初の大麦ビールの痕跡は、現代の[[イラン]]にあって[[紀元前5千年紀]]までさかのぼるとされる<ref>{{Cite web|和書|title=ビール史上最古をさがせ!Vol.1 イランで発見! |url=https://www.kirin.co.jp/alcohol/beer/daigaku/HST/hst/no159/?agechk=1 |website=www.kirin.co.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>。そして[[紀元前]]3千五百年紀頃のものがゴディン・テペ{{Enlink|Godin Tepe}}遺跡で確認され、それが[[古代エジプト]]と[[メソポタミア]]の歴史書に記録され、世界中に広まったとされる<ref>[https://jp.quora.com/%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%A6%E7%BE%8E%E5%91%B3%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%A7-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%9C%AC%E7%89%A9%E3%81%AE%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AF%E7%84%A1%E3%81%84%E3%81%A3 かつて美味しんぼで、日本には本物のビールは無いって、エビスビール以外否定されましたけど、現在の日本のビールの醸造技術は世界一と言われています。何を根拠に日本のビールを否定したのでしょうか?] quora</ref>。[[シュメール]]人は[[大麦]]や[[エンマーコムギ]]から作っており、黒ビール、褐色ビール、強精ビールなどの種類があり、神々に捧げられるほか人々にも[[再配分]]された<ref>[[小林登志子]]『シュメル 人類最古の文明』[[中央公論社]]、2005年</ref>。シュメール王朝ではビールは「液体のパン」と呼ばれていた<ref>{{Cite book|和書 |title=お酒の経済学 |date=2020年7月25日 |publisher=中央公論新社 |page=54}}</ref>。ちなみにシュメール人は[[ワイン]]の製法も開発している。古代エジプトにおいては、それより下った[[紀元前3千年紀]]の資料からビールの痕跡が確認されており、小麦の原産地が[[西アジア]]であることから[[メソポタミア]]からビールの製法が伝わったとする説となっている。エジプト南部のヒエラコンポリス遺跡で出土したビール工房は紀元前3600年頃と推測されている<ref>「世界最古ビール 初の化学分析/古代エジプトで醸造 証拠確認/早大・馬場客員主任研究員ら 防腐の工夫も明らかに」『[[読売新聞]]』朝刊2020年1月8日(文化面)</ref>。[[アジア]]東部では、[[中国]]において、大麦・[[キビ]]・[[アワ]]・[[ジュズダマ]]などを原料に用いた、5000年前のビール醸造の痕跡が見つかっている<ref>[http://www.pnas.org/content/early/2016/05/18/1601465113 ''Proc. Natl. Acad. Sci. USA''] {{doi|10.1073/pnas.1601465113}} (approved April 26, 2016).</ref>。ビールが初めて作られたのは約1万3000年前、現在のイスラエルのハイファ付近とみられている<ref name="nwj20230711-58">{{Cite magazine |title = [[ニューズウィーク]]日本版(2023年7月11日号) |first=アニスタシア |last=レナード・ミラー |chapter = ビールにとって最高の泡を求め続けた人類の歴史 |newspaper = |publisher = CCCメディアハウス |date = 2023-7-4 |page=58 }}</ref>。 当時のビールは、濾過されていないため、紀元前5~4世紀のイランやイラクでは、先端にフィルターを付けて固形物が入り込まないようにした「ビールストロー」が存在したとされる<ref name="nwj20230711-58"/>。 これらのメソポタミアや古代エジプトのビールの製法については2つ仮説がある。一つは麦芽を乾燥させて粉末にしたものを、水で練って焼き、一種の[[パン]]にしてからこれを水に浸してふやかし、麦芽の酵素で糖化を進行させてアルコール発酵させたものであった。大麦はそのままでは[[小麦]]のように製粉することは難しいが、いったん麦芽にしてから乾燥させると砕けやすくなり、また[[消化]]もよくなる。つまり、ビールは元来、製粉が難しくて消化のよくない大麦を消化のよい麦芽パンにする技術から派生して誕生したものと考えられている。[[穀類]]を豊富に産したメソポタミアや古代エジプトでは、こうした背景を持つビールはパンから派生した、食物に非常に近い日常飲料であった。シュメールにはビールと醸造を司るニンカシという女神がおり、その讃歌にはビールパン、[[ナツメヤシ]]、[[蜂蜜]]を使ってビールを醸造する方法の記載がある。また、古代エジプトの[[パピルス]]文書には、王墓建設の職人たちへの配給食糧として、ビールが記録されている。焼いてから時間の経った固いパンを液体でふやかすという発想は、[[ヨーロッパ]]の[[スープ]]の原型となった、[[出汁|だし]]汁でふやかしたパンとも共通し、ふやかしたパンの料理という共通系譜上の食物ともいえる。現代でも、パン生地にビールを混ぜて作る[[ビールパン]]が作られている。 もう一つの製法は、現在のビールに通じる製法であり、エンマー小麦を原料に、発芽させた麦(麦芽)と煮て柔らかくした麦をあわせて酵母を添加して発酵させ漉したものである。どちらも場合によっては糖分や風味を添加する目的でナツメヤシを加えることもあった。また、エジプトに伝来したビールは気候条件により腐敗しやすかったため、[[ルピナス]]を添加して保存加工されていた。これは[[バビロニア]]のビールでも同様に様々な[[薬草]]を加えることがあったと言う。その中には[[ホップ]]も含まれたと考えられている。バビロニアの『[[ハンムラビ法典]]』にはビールに関する取り締まり規則や罰則の記載があり、一例として「ビールを水で薄めて販売した者は、水の中に投げ込まれる(溺死刑)」とある<ref>{{cite book|和書|title=ビール入門|publisher=[[保育社]]|year=1990|isbn=9784586508006|pages=99-100}}</ref>。 一方、麦芽の酵素によって大麦の[[デンプン]]を糖化させ、その糖液をアルコール発酵させるというビール製造の核心技術は、北方の[[ケルト人]]や[[ゲルマン人]]にも伝播した。彼らの間では大麦麦芽をいったんパンにしてからビールを醸造するという形をとらず、麦芽の粉末をそのまま湯に浸して糖化、アルコール発酵させる醸造法が行われた。また日常の食物の派生形であった[[古代オリエント]]のビールと異なり、これらヨーロッパ北方種族のビールは、穀物の[[収穫祭]]に際して[[ハレとケ|ハレ]]の行事の特別な飲料として醸造が行われる傾向が強かった。 [[古代ローマ]]にはエジプトから伝えられたものがジトゥム(''zythum'')、北方のケルト人経由で伝わったものがケルウィーシア (''cervisia'') と呼ばれたが、ワインが盛んだったために蔑視され流布しなかった。ローマ人や[[古代ギリシア]]人の間では、大麦は砕いて粗挽きにしたものを[[粥]]にして常食していた。また現在はアルコール飲料であるワインも、当時は糖分があまりアルコールに転化されておらず、非常に甘い飲み物であった。固いパンを食べやすくする[[ブドウ]]のジュースを濃縮し長期保存できる形にした日常の食卓の飲料、[[硬水]]を飲みやすくするために水に加える飲料としての性格が強く、酔うためにそのまま飲むのは不作法とされ、水で割って飲むのが文明人の作法とされていた。それだけに、祝祭に際して醸造したビールを痛飲して酔う北方種族の習俗を、自らを文明人と自認する古代ローマ人、[[古代ギリシア]]人は軽蔑していた。古代ローマの時代には市民の[[主食]]は小麦であり、大麦は[[家畜]]の[[飼料]]用として栽培され、[[十分の一刑]]に処された者や[[剣闘士]]以外は口にすることは無く、大麦を口にすること自体が野蛮人とされていた。しかし、[[ゲルマン人]]主導の[[フランク王国]]が成立するとヨーロッパ全土でビールの醸造が盛んになり、ビール文化はヨーロッパに根付いた。一方で非常に甘い飲み物であったワインも、今日の製法と近くなり、ほとんど甘くない[[アルコール度数]]の高い飲料となった。そのためビールとの関係は逆転し、アルコール度数がより低いビールは、[[子供]]にもあった飲み物であると考えられていた。[[キリスト教]]が広まると[[修道院]]は自給と[[巡礼者]]にふるまうためのビールを醸造し、技術の発展にも大きな役割を果たした。その中で発酵を安定させるなどの目的で様々な[[ハーブ]]類を調合した[[グルート (ビール)|グルート]]を添加されるようになった。グルートは領主によって管理され、醸造業者は領主から購入しなければならなかった。このため[[中世ヨーロッパ]]で用いられたグルートの原料、配合比率、製法は現在に伝わっていない<ref>[http://www.kirin.co.jp/daigaku/o_europe/road/m_beer/m04.html KIRIN_キリンビール大学_古代ビールや中世ビール、日本初のビールまで。歴史的ビール復元プロジェクト グルートビール復元への道のり]</ref>。 [[11世紀]]頃、[[ドイツ]]のルプレヒトベルク女子修道院の[[ヒルデガルト・フォン・ビンゲン]][[女子修道院長|修道院長]]がグルートに代わって[[ホップ]]を用いたことを自著に記している。ホップには独特のさわやかな風味と[[雑菌]]抑制効果があり、15世紀頃にはドイツのビール醸造で主流となった。他の国でも次第にホップが主流となり、かつては使用を禁止していた[[イギリス]]でも17世紀頃にはホップによる醸造が一般的となった。 [[ファイル:The Brewer designed and engraved in the Sixteenth. Century by J Amman.png|right|thumb|220px|[[16世紀]]の醸造所]] 1516年、[[バイエルン公]][[ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム4世]]は粗悪なビールの流通や、食用である[[小麦]]がビールの原料に転用される事による飢餓を防ぐため、『[[ビール純粋令]]』を発令し、原料として麦芽以外にはホップと水しか使わないよう命じた<ref>{{Cite web|和書|title=ビールの歴史を教えてください。 |url=https://www.suntory.co.jp/customer/faq/001716.html |website=サントリーお客様センター |access-date=2022-08-31}}</ref>。小麦を使った[[白ビール]]は許可を得た一部の醸造所しか醸造できないようになり、希少価値が高まった。その後、[[ドイツ帝国]]の成立により『ビール純粋令』は1906年に全土に施行され、現在のドイツにおいても効力を持っている。15世紀中頃にはバイエルン地方の[[ミュンヘン]]で、低温の[[洞窟]]で熟成させるラガービールの製造が始まった<ref name="asahi19">{{Cite web|和書|url=http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/europe/german5.html |title=アサヒビール {{!}} 世界のビールの歴史 Beer Century {{!}} ドイツ 19世紀 |accessdate=2010年7月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080109181214/http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/europe/german5.html |archivedate=2008年1月9日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 19世紀には酵母の研究も進み、上面発酵と下面発酵の技術が確立した。1842年には[[チェコ]]の[[プルゼニ]]で世界最初のピルスナービール「[[ピルスナー・ウルケル]]」が製造され、このタイプの醸造はプルゼニのドイツ語名からピルスナーと呼ばれるようになった<ref name="asahi19"/>。黄金色のピルスナーはガラス製品の普及と冷蔵技術の確立によって爆発的に広まった。船に積み込む飲料としては[[ラム酒]]が主流であったがビールも積まれていた記録がある。 日本では、[[江戸時代]]初期には[[江戸幕府|徳川幕府]]の幕臣達が、[[オランダ]]から渡来したビールについてその存在を認知していたとされ<ref>[[野尾正昭]]『酒の科学』58項</ref>、「ビール」という呼称も[[オランダ語から日本語への借用|オランダ語に由来]]する。[[幕末]]の[[1860年]]([[安政]]6年)、[[万延元年遣米使節]]の記録係だった[[玉虫左太夫]]は、[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン号]]での航海中に何度かビールが提供されたと記述しており、「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と記している<ref>[https://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/person/kindai/04.html ビールを愛した近代日本の人々・玉虫左太夫] - 麒麟麦酒</ref>。[[明治維新]]以降、[[川本幸民]]がビール製造を試みたのを皮切りに、多くの醸造所が誕生し、全国的に普及していった。 現代のビールは、[[19世紀]]後半の[[デンマーク]]の[[カールスバーグ]]社が開発した技術に多くを負っている。同社はビール酵母の純粋培養技術を開発し、さらに雑菌を徹底的に排除して衛生的に[[缶]]や[[瓶]]に詰める技術を確立した。それによりビールの保存性は飛躍的に高まり、安価で大量に安定供給される工業製品として、世界の津々浦々にまで流通するようになった。また、ビール生産が大企業に独占されることにもなった。それまではワインの方が食事に必須の日常の酒として飲まれていたが、安価となったビールが普及することにより、ワインとビールの位置が逆転した。 欧米では、この反動として工業化以前のビール生産を見直す動きが起こり、[[クラフトビール]]([[地ビール]])を作る[[マイクロブルワリー]]が多く設立されている。日本でも法規制が緩和されたことにより、地ビールの生産が少しずつ行われている。 {{ビールの色}} ==原料== [[ファイル:140726 Farm Tomita Nakafurano Hokkaido Japan02n.jpg|thumb|原料のビール大麦]] [[ファイル:Sjb whiskey malt.jpg|thumb|焙煎前の大麦麦芽]] ビールの主な原料は水、デンプン源(麦芽など)、ビール酵母、香味料(ホップなど)である<ref>[http://www.alabev.com/ingredie.htm Alabev.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160123045417/http://www.alabev.com/ingredie.htm |date=2016年1月23日 }} ''The Ingredients of Beer''. Retrieved 29 September 2008.</ref>。多くの場合、大麦の麦芽を主原料とし、副原料としてアサ科のホップや[[トウモロコシ]]、[[米]]、[[砂糖]]等が使われる。特にこれらの副原料は大麦麦芽の安価な代替物として使用されることがある<ref>[http://www.beer-brewing.com/apex/beer_chapters/ch06_beer_adjuncts.htm beer-brewing.com Beer-brewing.com] Ted Goldammer, ''The Brewers Handbook'', Chapter 6 – Beer Adjuncts, Apex Pub (1 January 2000), ISBN 0-9675212-0-3. Retrieved 29 September 2008 {{Wayback|url=http://www.beer-brewing.com/apex/beer_chapters/ch06_beer_adjuncts.htm|date=20071027063059|bot=DASHBot}}</ref>。また小麦や[[ライ麦]]の麦芽でも製造は可能である。[[アフリカ]]では[[アワ|粟]]、[[ソルガム]]、[[キャッサバ]]の根が、[[ブラジル]]では[[ジャガイモ]]、[[メキシコ]]では[[リュウゼツラン]]がデンプン源として使われる<ref>[http://www.beerhunter.com/documents/19133-000120.html Beerhunter.com] Michael Jackson, ''A good beer is a thorny problem down Mexico way'', What's Brewing, 1 October 1997. Retrieved 29 September 2008.</ref>。 ===水=== ビールの主成分は[[水]]である。地方によって水に含まれている[[ミネラル]]組成は異なるため、各地方で製造するのに水に最も適したビールも異なり、地方ごとの特色が現れる<ref name="geot"/>。たとえば[[アイルランド]]の[[ダブリン]]の水は硬水であり、[[ギネス]]などの[[スタウト]]ビールの醸造に適している。[[チェコ]]の[[プルゼニ]]で採れる水は軟水で、ピルスナーウルケルなどのペールラガーの醸造に適している<ref name="geot">{{Cite news|url=http://www.agiweb.org/geotimes/aug04/resources.html|title=Geology and Beer|work=Geotimes|date=2004-08|accessdate=5 November 2007}}</ref>。[[イングランド]]の[[ブルトン]]の水はジプサム([[石膏]]; [[硫酸カルシウム]]の鉱物)が含まれているため、[[硫酸塩]]の添加(ブルトニゼーションと呼ばれる、ホップの風味を引き立たせる手法)が必要な[[ペールエール]]ビールの製造に適している<ref>[http://www.beerhunter.com/documents/19133-000098.html Beerhunder.com] Michael Jackson, BeerHunter, 19 October 1991, ''Brewing a good glass of water''. Retrieved 13 September 2008.</ref>。 ===糖質原料=== ビールの[[デンプン]]源に何を使用するかで、その濃さや風味が左右される。最も一般的なデンプン源は麦芽であり、後述のように大部分のビールには大麦の麦芽が使われる。麦芽の製法は種子に水と空気を与えて発芽させ、発酵過程に入る前に麦芽の成長を止めるため窯内で乾燥焙煎させる。これを[[焙燥]]という。その後、幼根を取り除いたものが麦芽である。種子が麦芽になることによって、デンプンを発酵性の糖に変える酵素が生産される<ref name="biseibutsu">{{Cite book|和書|author =村尾澤夫|coauthors =荒井基夫 |year =1993|title =応用微生物学 改訂版|publisher =[[培風館]] |page = 114-116|isbn =4-563-07707-0 }}</ref><ref>[[s:en:1911 Encyclopædia Britannica/Brewing/Chemistry|Wikisource]] 1911 Encyclopædia Britannica/Brewing/Chemistry. Retrieved 29 September 2008.</ref>。同じ種類の穀物から作られた麦芽でも、焙燥時間と温度の違いによって、異なる色彩をもつようになる。暗色の麦芽からは暗色のビールが製造される<ref>[http://www.farm-direct.co.uk/farming/stockcrop/barley/malt.html Farm-direct.co.uk] Oz, ''Barley Malt'', 6 February 2002. Retrieved 29 September 2008.</ref>。多くのビールには大麦の麦芽が使用されている。オオムギは発芽力が強く、皮が薄く、デンプン質が多く、[[窒素]]量の少ないものが原料として優れている<ref name="biseibutsu"/>。 ===ホップ=== [[File:Hopfendolde-mit-hopfengarten.jpg|thumb|right|ホップの毬花(ドイツ、[[Hallertau]]のホップヤードにて)]] 現在、商業用に生産されているビールのほとんど全てには、風味付けとして[[ホップ]]が使われている<ref>A. H. Burgess, ''Hops: Botany, Cultivation and Utilization'', Leonard Hill (1964), ISBN 0-471-12350-1</ref>。ホップは[[和名]]を[[セイヨウカラハナソウ]]という[[つる植物|つる性植物]]で、その花はビール製造において風味付けと保存性を高める機能を持つ。 ホップは元々はドイツの[[ヴェストファーレン]]地方にある[[コルヴァイ修道院]]のようなビール醸造所で、西暦822年から使用されていた<ref name="sotp">{{Cite book|first=Martyn|last=Cornell|title=Beer: The Story of the Pint|year= 2003|isbn=0-7553-1165-5|publisher=Headline}}</ref><!-- p62 --><ref name="bmar">{{Cite book|first=Richard W|last=Unger|title=Beer in the Middle Ages and the Renaissance|pages=54–55|isbn=0-8122-3795-1|year=2004|publisher=University of Pennsylvania Press|location=Philadelphia}}</ref>。だがビールに使用するための大量栽培が開始されたのは13世紀になってからである<ref name="sotp"/><!-- p63 --><ref name="bmar"/>。13世紀から16世紀までの間、ホップは最も主要な香味料として使われるようになっていった。しかしそれ以前には、他の植物(例えば''Glechoma hederacea'')が香味料として使われることもあった。「[[#歴史|歴史]]」の節で述べたが、グルート (gruit) と呼ばれる[[ニガヨモギ]]などの様々な[[ハーブ]]、[[ベリー]]類も、現在のホップと同じように、ビールの香りづけに使用されていたこともある<ref>[https://books.google.co.uk/books?id=rMNf-p1mu6AC&pg=PA30&lpg=PA30&dq=gruit+beer&source=web&ots=hquT_nFAXM&sig=6dIe2vRBBHt-6wKhNfNis4FuGgk&hl=en&sa=X&oi=book_result&ct=result Books.google.co.uk] Richard W. Unger, ''Beer in the Middle Ages and the Renaissance'', University of Pennsylvania Press (2004), ISBN 0-8122-3795-1. Retrieved 14 September 2008.</ref>。現在製造されているビールで、香りづけにホップ以外の植物も使用しているものは、Scottish Heather Ales companyのFraoch'<ref>{{cite web |url=http://www.fraoch.com/historicales.htm |title=Heatherale.co.uk |publisher=Fraoch.com |date= |accessdate=28 September 2008 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080629071231/http://www.fraoch.com/historicales.htm |archivedate=2008年6月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>やla Brasserie-LancelotのCervoise Lancelot<ref>{{cite web |url=http://www.brasserie-lancelot.com/brasserie-lancelot.php |title=La Brasserie Lancelot est située au coeur de la Bretagne, dans des bâtiments rénovés de l'ancienne mine d'Or du Roc St-André, construits au 19 ème siècle sur des vestiges néolithiques |publisher=Brasserie-lancelot.com |date= |accessdate=28 September 2008 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080819030220/http://www.brasserie-lancelot.com/brasserie-lancelot.php |archivedate=2008年8月19日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>などである。ホップは、麦芽の甘みと調和のとれた苦味をビールに与え、また花や[[柑橘類|柑橘系]]、ハーブのような香りをビールに与える。ホップには抗生物効果があり、ビール醸造に寄与しない[[微生物]]を抑え、ビール酵母が有利に働く環境を整える効果がある。他にも[[泡]]持ち(ヘッドリテンション)の長さに寄与し<ref>{{cite web|url=http://www.brewwiki.com/index.php/Head_Retention|title=Head Retention|publisher=BrewWiki|accessdate=5 November 2007}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.hopsteiner.com/isopg1.htm|title=Hop Products: Iso-Extract|publisher=Hopsteiner|accessdate=5 November 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071011212319/http://hopsteiner.com/isopg1.htm|archivedate=2007年10月11日|deadlinkdate=2020年2月}}</ref>、保存力を高める効果がある<ref>[http://beer.pdqguides.com/beer-ingredient-hops.html beer.pdqguides.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081016111537/http://beer.pdqguides.com/beer-ingredient-hops.html |date=2008年10月16日 }} PDQ Guides, ''Hops: Clever Use For a Useless Plan''. Retrieved 13 September 2008.</ref><ref>[http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=17772625 cat.inist.fr], ''A better control of beer properties by predicting acidity of hop iso-α-acids'', Blanco Carlos A.; Rojas Antonio; Caballero Pedro A.; Ronda Felicidad; Gomez Manuel; Caballero. Retrieved 13 September 2008.</ref>。 ===ビール酵母=== {{see also|ビール酵母}} ビール酵母は穀類から引き出した糖を[[代謝]]し、[[エチルアルコール]]と[[二酸化炭素|炭酸ガス]]を生産する。酵母の働きによって麦芽汁がビールになる。また酵母はビールの個性、味わいにも影響を与える<ref>Ostergaard, S., Olsson, L., Nielsen, J., [http://mmbr.asm.org/cgi/content/full/64/1/34 Metabolic Engineering of Saccharomyces cerevisiae], Microbiol. Mol. Biol. Rev. 2000 64: 34–50</ref>。ビール酵母には、発酵中に発生する炭酸ガスとともに液面に浮かび、褐色クリーム状の泡の層を形成する[[上面発酵]]酵母と、発酵末期に槽の底に沈殿する[[下面発酵]]酵母が存在する。製造に前者を用いるビールを上面発酵ビール([[エール (ビール)|エール]])、後者を用いるビールを下面発酵ビール([[ラガー (ビール)|ラガー]])という<ref name="biseibutsu"/>(詳しくは「[[#分類|分類]]」の節を参照)。最も主要な上面発酵酵母は''[[出芽酵母|Saccharomyces cerevisiae]]''で、最も主要な下面発酵酵母は''Saccharomyces uvarum''である<ref>[https://books.google.co.uk/books?id=0kefSj0_i9sC&pg=PA376&dq=types+of+yeast+used+to+make+beer&client=firefox-a&sig=ACfU3U3MoveTthnLMs94MsIoa2B8EU-lAQ&hl=en Google Books] Paul R. Dittmer, J. Desmond, ''Principles of Food, Beverage, and Labor Cost Controls'', John Wiley and Sons (2005), ISBN 0-471-42992-9</ref>。[[バイエルン]]の白ビールでは''{{仮リンク|Torulaspora delbrueckii|en|Torulaspora delbrueckii}}''が働く<ref>[http://web.mst.edu/~microbio/BIO221_2001/torulospora_delbrueckii.htm Web.mst.edu] {{Wayback|url=http://web.mst.edu/~microbio/BIO221_2001/torulospora_delbrueckii.htm |date=20110809212726 }} David Horwitz, ''Torulaspora delbrueckii''. Retrieved 30 September 2008.</ref>。酵母の働きが解明される以前は、空中を漂う自然酵母によって発酵を行っていた。いわゆる自然発酵ビールである。大部分のビールは純粋培養の酵母を加えることで発酵を行うが、[[ランビック]]のようなごく一部は現在も自然発酵で製造されている<ref>[http://books.google.co.uk/books?id=TxCQlmasQh8C&pg=PA847&dq=beer+yeast+history&client=firefox-a&sig=ACfU3U3I5rdHZa4dvHSF6rH3E5mt9ddqbg#PPA847,M1 Google Books] Y. H. Hui, George G. Khachatourians, ''Food Biotechnology'' pp847-848, Wiley-IEEE (1994), ISBN 0-471-18570-1</ref>。自然発酵ビールの[[ランビック]]では主に''Brettanomyces''属の酵母が働く<ref>[http://books.google.co.uk/books?id=DvNhR0xfHtMC&pg=PA221&dq=Brettanomyces+lambic&client=firefox-a&sig=ACfU3U3PmukrkBNIO7fkkHMIit43n9l7Bg Google Books] Ian Spencer Hornsey, ''Brewing'' pp221-222, Royal Society of Chemistry (1999), ISBN 0-85404-568-6</ref>。 ===清澄剤=== 清澄剤は濁り物質を[[凝集]]させて[[沈殿]]除去する働きのある物質である。製造直後のビールに[[タンパク質]]の濁りが見られるとき、醸造所によっては1種類あるいはそれ以上の清澄剤が添加されることがある。この操作によって澄んだビールを作ることができる<ref>{{cite web|url=http://www.beerhunter.com/documents/19133-000717.html |title=Michael Jackson's Beer Hunter&nbsp;— A pint of cloudy, please |publisher=Beerhunter.com |date= |accessdate=28 September 2008}}</ref>。ビールに使用される清澄剤の例としては[[アイシングラス (食材)|アイシングラス]](魚の[[鰾|浮袋]]に含まれる[[ゼラチン]]質)、[[アイリッシュモス]]([[紅藻]]の一種)、''Kappaphycus cottonii''から採れる[[カラギーナン|κ-カラギーナン]]、[[ポリクラール]]、ゼラチンなどである<ref>[http://www.efsa.europa.eu/EFSA/efsa_locale-1178620753812_1178630797698.htm EFSA.europa.eu] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070903235033/http://www.efsa.europa.eu/EFSA/efsa_locale-1178620753812_1178630797698.htm |date=2007年9月3日 }} ''Opinion of the Scientific Panel on Dietetic Products, Nutrition and Allergies'', 23 August 2007. Retrieved 29 September 2008.</ref>。もしラベルなどに「[[菜食主義者]]向け (suitable for vegetarians)」といったことが記されていたなら、そのビールには動物性のゼラチンが使われておらず、[[海藻]]由来や人工の添加物で澄ませている<ref>[http://www.food.gov.uk/multimedia/pdfs/consultationresponse/summrespvegi.pdf Food.gov.uk] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081002104412/http://www.food.gov.uk/multimedia/pdfs/consultationresponse/summrespvegi.pdf |date=2008年10月2日 }} ''Draft Guidance on the Use of the Terms ‘Vegetarian’ and ‘Vegan’ in Food Labelling: Consultation Responses'' pp71, 5 October 2005. Retrieved 29 September 2008.</ref>。 ==製法 == {{ビール醸造}} [[Image:The Brewer designed and engraved in the Sixteenth. Century by J Amman.png|thumb|upright|16世紀のビール醸造所]] ビール醸造所のことを[[ブリュワリー]](ブルワリー)という。法律などで制限されていない限り家庭でもビールの醸造は可能であり、ビールの歴史の中ではそのようなビールも多く作られてきた。家庭内で消費するため非営利的にビールなどを醸造することを自家醸造(homebrewing)という。日本では、免許を持たない者がアルコール度数1%以上の酒類を醸造することは禁じられている。自家醸造用の道具を売り買いすることはできるが、きちんと法律の範囲内で醸造するかどうかは使用者に委ねられている<ref>{{cite web |url=http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/fg19991111a2.html |title=Homebrewing for fun, taste and profit | The Japan Times Online |publisher=search.japantimes.co.jp |accessdate=2010-09-09 }}</ref>。 醸造過程で[[果汁]]などを添加した[[フルーツビール]]や、[[香辛料]]を添加した[[スパイスビール]]などもヨーロッパではポピュラーであるが、長らく日本の法律上はビールではなく[[発泡酒]]扱いとなっていた。しかし2018年4月1日の[[酒税法]]改正で果実及び香味料の使用が許されるようになった<ref name="kokuzei2018">{{Cite web|和書 |url=https://www.nta.go.jp/taxes/sake/kaisei/aramashi2017/index.pdf |format=PDF |title=酒税法等の改正のあらまし |publisher=[[国税庁]] |chapter=1 酒税法改正関係 、⑴酒類の品目等の定義の改正、 ロ 平成30年4月1日から改正されるもの、(イ) 改正の概要、A |page=1 |accessdate=2018-04-02 |quote=ビールの麦芽比率(ホップ及び水を除いた原料の重量中、麦芽が占める割合をいいます。)の下限が100分の50まで引き下げられるとともに、使用する麦芽の重量の 100分の5の範囲内で使用できる副原料として、果実(果実を乾燥させたもの、煮つめたもの又は濃縮させた果汁を含みます。)及び香味料(コリアンダーなど一定の香味料)が追加されます。 }}</ref>。 === 麦芽粉砕 === [[ファイル:Crushed hop.jpg|right|thumb|220px|砕かれたホップ]] ビールの醸造の最初の工程は、デンプン源と温水を使った麦芽汁づくりである。普通デンプン源には大麦麦芽が使用される。麦芽はダスト・異物を除去した後、糖化・[[ろ過]]に適した大きさに粉砕される。[[胚乳]]部は糖化しやすいように細かく粉砕する。一方、殻皮部は麦汁濾過工程で濾膜を形成させるためになるべく形を残すようにしなければならない。ただし濾膜形成の必要ない加圧式の濾過方法を用いる場合は麦芽全部が細かく粉砕される<ref>[[#jouzou|醸造・発酵食品の事典]] p.249</ref>。粉砕した麦芽のことをグリスト (grist) という。グリストはマッシュタン (mash tun) と呼ばれる容器の中で温水と混合される。グリストを浸す温水のことを[[リキュール]] (liquor) といい、グリストと温水の混合物のことをマッシュ (mash) という<ref>{{cite web|url=http://www.beer-pages.com/protz/features/protz-the-brewer.htm|title=Roger Protz tries his hand at brewing|publisher=Beer-pages.com|date=June 2007|accessdate=2010-09-21}}</ref>。 === 糖化 === グリストと温水が混合されると、麦芽に含まれるデンプンなどの多糖類や可溶性[[タンパク質]]が溶け出す<ref name="名前なし-1">[[#bakuchu|麦酒醸造学]] pp.303-304</ref>。多糖類は麦芽のもつ酵素により可溶化し、分解され低分子の[[マルトース|麦芽糖]]が生み出される。この多糖類の分解のことを[[糖化#麦芽による方法|糖化]](マッシング; mashing)という。糖化には1〜2時間ほどの時間が掛かる<ref>[http://www.abgbrew.com/brewerslog.htm ABGbrew.com] Steve Parkes, ''British Brewing'', American Brewers Guild.</ref>。麦芽の酵素の力のみで糖化する方法をインフージョン法といい、マッシュの一部を取り出して煮沸し、元の容器に戻してメインのマッシュの温度を引き上げる方法をデコクション法という<ref name="名前なし-2">[[#jouzou|醸造・発酵食品の事典]] p.250</ref>。マッシュの煮沸によって酵素は失活デンプン質が溶解して糖化が進みやすくなる<ref name="名前なし-1"/>。 糖化が終了したマッシュからは穀物粒などの固形物が取り除かれ、発酵性の麦汁が回収される。麦汁濾過の伝統的な方法であるロータリング (lautering)では、濾過槽の底に溜まった穀物の粒そのものがフィルターとして働き、固形物と麦汁を分離する。現在行われている醸造ではより細かいグリストまで分離できるフィルターフレームが使用されることが多い<ref>Goldhammer, Ted (2008), The Brewer's Handbook, 2nd ed., Apex, ISBN 978-0-9675212-3-7 pp. 181 ff.</ref>。最初に絞られる麦汁を一番絞り麦汁という<ref name="名前なし-2"/>。穀物粒はスパージング (sparging) という操作で湯洗浄し、さらに多くの麦汁を回収する。麦汁とスパージングで加えられた湯の混合物から、穀物粒を濾過によって分離する。スパージングによって得られる麦汁を2番絞り麦汁という。 === 煮沸 === 麦汁は湯沸し器やコッパー<!--カッパー?-->(copper; [[銅]]で作られていたことに由来<ref>{{cite web|url=http://www.msm.cam.ac.uk/phase-trans/2005/brewing.html |title=Copper Brewing Vessels |publisher=Msm.cam.ac.uk |date= |accessdate=28 September 2008}}</ref>)と呼ばれる容器に集められ、1時間程度煮沸される。煮沸によって麦汁中の水分が蒸発し、糖類を初めとする溶質が濃縮されて残る。また同時に糖化段階から麦汁に残留した酵素を失活させる<ref name="名前なし-3">[https://books.google.co.uk/books?id=cr9Pv0gefCQC&pg=PA274&dq=hops+boiled+brewing&client=firefox-a&sig=ACfU3U20D5Blv8GqmsNXncZ7twjbH50Zxg&hl=en#PPA275,M1 Books.google.co.uk], Michael Lewis, Tom W. Young, ''Brewing'', page 275, Springer (2002), ISBN 0-306-47274-0</ref>。煮沸にはその他にも殺菌、タンパク質の凝固、色度の上昇、pHの低下、不快な香気成分の分解・飛散、などが起こる。煮沸中にホップを添加する<ref name="名前なし-2"/>。ホップは数回に分けて添加する場合もある。ホップを煮沸することで、ホップ中の[[フムロン]]が異性化し、[[フムロン#イソフムロン|イソフムロン]]になることで苦味が強まる<ref name="名前なし-2"/>。煮沸時間が長いほど苦味が強くなるが、ホップそのものの風味や香気は弱くなる<ref name="名前なし-3"/>。 === 冷却 === 煮沸の終了した麦汁は、酵母による発酵の準備のため冷却される。このとき溶解度が下がってタンパク質や[[ポリフェノール]]が凝固する<ref name="名前なし-4">[[#jouzou|醸造・発酵食品の事典]] p.251</ref>。醸造所によってはホップで処理した麦汁をさらにホップバック (hopback) に通す。ホップバックはホップを満たした容器で、風味付けをしたりフィルターの機能を果たしたりする。しかし多くの醸造所ではホップバックを使わず、単純に発酵槽で麦汁を冷却する<ref>[http://www.beer-brewing.com/apex/beer_chapters/ch06_beer_adjuncts.htm beer-brewing.com Beer-brewing.com], Ted Goldammer, ''The Brewers Handbook'', Chapter 13 – Beer Fermentation, Apex Pub (1 January 2000), ISBN 0-9675212-0-3. Retrieved 29 September 2008 {{Wayback|url=http://www.beer-brewing.com/apex/beer_chapters/ch06_beer_adjuncts.htm|date=20071027063059|bot=DASHBot}}</ref>。その後、酵母の増殖に必要な酸素を供給するため、冷却された麦汁に無菌空気が通される<ref name="名前なし-4"/>。 === 発酵 === 空気を通された発酵槽中の麦汁には[[酵母]]が添加される。酵母が出芽を開始すると[[発酵]]が始まる。発酵熱の発生により液温が上昇するので、冷却により発酵温度をコントロールする必要がある<ref name="名前なし-4"/>。発酵に必要な時間は酵母の種類やビールの濃さによって変わる<ref name="handbook">[http://www.beer-brewing.com/apex/beer_chapters/ch06_beer_adjuncts.htm beer-brewing.com Beer-brewing.com], Ted Goldammer, ''The Brewers Handbook'', Chapter 13 – Beer Fermentation, Apex Pub (1 January 2000), ISBN 0-9675212-0-3. Retrieved 29 September 2008 {{Wayback|url=http://www.beer-brewing.com/apex/beer_chapters/ch06_beer_adjuncts.htm|date=20071027063059|bot=DASHBot}}</ref>。発酵前の麦汁は[[水素イオン指数|pH]] 5.2 〜5.8だが、発酵後には4.0 〜4.6に低下する。発酵が終了した液を若ビールと呼ぶ。アルコール発酵に加え、麦汁内の微粒子が沈降するため一度発酵の終了した若ビールは清澄する<ref name="handbook"/>。 発酵は一次発酵(主発酵)と二次発酵(熟成)の二段階で行われることがある。アルコール類はほとんど一次発酵で生成される。その発酵液は新しい容器に移され、熟成される。熟成はパッケージングまでに時間を置く必要がある場合、さらなる清澄化が必要な場合に行う<ref>[https://books.google.co.uk/books?id=cr9Pv0gefCQC&pg=PA306&dq=secondary+fermentation+brewing&client=firefox-a&sig=ACfU3U3T7G6RMyj_w9QtnLY9ZeANNuSshQ&hl=en Google Books] Michael Lewis, Tom W. Young, ''Brewing'' pp306, Springer (2002), ISBN 0-306-47274-0. Retrieved 29 September 2008.</ref>。若ビールには[[ジアセチル]][[前駆体]]、[[アセトアルデヒド]]、[[硫化水素]]などの未熟成物質が含まれる。熟成過程では残存物質のさらなる発酵が進み、これらの物質が分解され、発酵によって発生する炭酸ガスによって液外に運び出される。混濁の原因となるタンパク質は、温度を+1〜-1 [[セルシウス度|℃]]程度に下げることにより析出し、一部の酵母とともに沈降する<ref name="名前なし-4"/>。熟成の終了したビールは濾過され、また[[シリカゲル]]によってタンパク質を吸着させて製品工程に送られる<ref>[[#jouzou|醸造・発酵食品の事典]] p.252</ref>。 熟成後に酵母の活動を抑えるため、60度前後に加熱する[[パスチャライゼーション|低温殺菌]]が行われる。この熱処理を行わず、特殊な濾過装置で酵母を取り除くビールがいわゆる[[生ビール]]である。ただしこの呼称は日本の基準によるものであり、国によって基準は異なる。また酵母を完全に取り除かないビールもある。 == 分類 == {{main|スタイル (ビール)}} ビールには様々な[[スタイル (ビール)|スタイル]]が存在するため、特徴によって細かく明確に分類することは非常に困難であり、様々な分類がなされている。有名な分類方法として[[マイケル・ジャクソン (ライター)|マイケル・ジャクソン]]による分類がある。 === 醸造法による分類 === 醸造法と酵母の種類によって分類する場合は、「[[上面発酵]]」の「エール」と「[[下面発酵]]」の「ラガー」に大別する方法が一般的である。元々エールという言葉は、上面発酵のビールを指していた言葉ではなく時代によって変遷がある。現在、ビールにはホップが使用されることが多いが、ホップがビールに広く使用されるようになったのは、12〜15世紀の間であり、その当時英語圏では、ホップ入りのものをビール(Beer)、ホップなしのものをエール(Ale)と呼んで区別していたが、その後、ビールは総称となり、上面発酵のものがエールと呼ばれるようになった<ref>Tom Standsge 著、新井 崇嗣 訳『世界を変えた6つの飲み物』(インターシフト 2007年3月20日発行 ISBN 978-4-7726-9507-7)pp.294-295</ref>。 ==== エール ==== {{Main|エール (ビール)}} 上面発酵のビールを、[[エール (ビール)|エール]]と呼ぶ。[[出芽酵母]](''Saccharomyces cerevisiae''(サッカロマイセス・セルビシエ)とその亜種)を用い、[[常温]]で短い時間で発酵を行う。盛んに炭酸ガスを出すために、最終的に酵母が浮かび上面で層を作るために上面発酵と呼ばれる。 一般に、上面発酵のほうが醸造は容易である。[[19世紀]]以降にラガーが爆発的に普及するまでは、ビールといえばエールであった。 複雑な香りと深いコクを特徴にしている。主なスタイルとして[[ペールエール]]、[[スタウト]]、[[アルトビール]]、[[ケルシュ]]、[[白ビール#ヴァイツェン|ヴァイツェン]]などがある。 ==== ラガー ==== {{Main|ラガー (ビール)}} 下面発酵のビールを[[ラガー (ビール)|ラガー]]と呼ぶ。''Saccharomyces carlsbergensis''(サッカロマイセス・カールスベルゲンシス)という酵母を用い、低温(10℃以下)で長時間発酵を行う。役目を終えた酵母は沈殿するため、エールの上面発酵に対して下面発酵と呼ばれている。 比較的すっきりした味で、[[ピルスナー]](ピス)、[[ボック (ビール)|ボック]]などのスタイルがあり、もともと中世ドイツの[[バイエルン州|バイエルン]]地方のローカルなビールだった。この土地の醸造師たちは、低温でも活動する酵母を発見し、変わったビールを醸造していた。秋の終わりにビールの材料を洞窟の中に氷と共に貯蔵して翌年の春に取り出すと、発酵が終了してビールが完成する。ラガーとは「貯蔵されたビール」という意味である。 [[冷蔵庫]]が発明された[[19世紀]]以降、これが瞬く間に世界のビールの主流となった。一定の品質のビールを大量生産するのに最適だったためである。黄金色の美しい色と、ガラス製のグラスやジョッキが普及したことを人気の理由に挙げる人もいる。 ==== 自然発酵 ==== 酵母発見以前のビールは全て自然発酵であった。現在でもアフリカの伝統的なビールや、[[ベルギー]]のパヨッテンラントで製造される[[ランビック]]では培養された酵母を使用しない自然発酵が採用されている。[[乳酸発酵]]も行われるため、特有の酸味を持つようになる。 == 飲み方 == 20世紀以降の冷蔵技術の進歩により、ビールを冷やして飲む風習は加速度的に広まった。[[タイ王国]]では、冷やしたうえに氷を入れるのも一般的である。一方、[[エール (ビール)|エールビール]]は常温で飲まれることが多い。また、ドイツやベルギーなどでは温めて飲まれる[[ホットビール]]もあり、グリュークリークのように温めて飲むことが主流のビールもある。 ビールを[[カクテル]]にして飲む{{仮リンク|ビアカクテル|en|Beer cocktail}}では、[[トマト]]ジュースを入れた[[レッド・アイ]]、[[レモネード]]を入れた[[パナシェ]](ドイツではラドラー、イギリスではシャンディ)、[[ジンジャーエール]]を入れた[[シャンディ・ガフ]]などが知られる。そのほか、[[ピルスナー]]と[[スタウト]]など、異なる種類のビールを混ぜるハーフ&ハーフも広く知られる飲み方である。 == ビールの注ぎ方 == {{出典の明記|date=2020年4月|section=1}} [[File:One example of how to pour beer.theora.ogv|300px|thumb|ビールを注ぐ様子]] ビールはそれ自体の品質や温度のほか、[[グラス (食器)|グラス]]や[[ビールジョッキ]]などに注ぐ場合は注ぎ方で泡立ちや味わいが異なり、注ぎ方の巧みさや多彩さを売り物にする飲食店もある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD12AAO0S2A510C2000000/ 【オフ】ビールの味 決め手はつぎ方]『[[日本経済新聞]]』夕刊2022年5月21日くらしナビ面(2022年7月9日閲覧)</ref>。泡はビールが空気に触れて[[酸化]]されることにより味が変化することを防ぐ役割もある。ビールの苦味成分は液体中に拡散しているが、これは泡によって吸着される。そのため、ビールの炭酸泡の形成過程をコントロールすることにより、ビールの苦味成分を液体上部に浮かぶ泡の層に閉じ込めることができる。 === 注ぎ方の一例 === #最初はグラスの底にビールを叩きつけるようにして注ぎ、泡を形成する。これによりビールが空気に触れるのを防ぐことができる。 #グラスとビールの注ぎ口を近づけるなどして初めに形成した泡を壊さないように静かに注ぐ。これにより、均質な大きさの泡が液体中で均等に形成されるため壊れにくく、苦味成分も吸着させることができる。 == 保存 == {{出典の明記|date=2020年4月|section=1}} ビールは[[醸造酒]]故に酒としては[[賞味期限]]に左右されやすく、味が変化しやすい部類に入る。品質が劣化する主な原因に、保管温度、日光、衝撃、酸化が挙げられる。また[[賞味期限|出荷から日数が経過するに従い味が劣化]]する。このような日数経過や味の変化は'''鮮度'''と表現される。ただし、酵母が殺菌・濾過されておらず瓶・樽内で再発酵を行う種類のビールは長期保存や「[[エイジング#食品工業|寝かせる]]」ことが可能で、マイルドで熟成された味わいへの変化を楽しめる銘柄もある。 * 保管場所は暗所で低温、温度変化や振動のない環境が望ましい。 * 開封後はなるべく早く飲みきってしまうことが推奨される。 劣化の原因は大麦由来の酵素LOX(リポキシゲナーゼ)の働きが大きい。醸造過程でLOXが劣化因子を作りこれがビールの成分と反応し脂質を酸化させることで渋みや臭みになり泡もちの低下が起きる。 ;温度 :保管の適温は発酵時と近い温度とされ、これに従うとラガーは10℃以下、エールで15℃ - 25℃くらいが適温となるが、エールも10℃以下で保存しても問題ないとする意見もある。適温の範囲内でも、温度変化を繰り返す条件下では劣化が急激に進む。高温では劣化が早く進むが、低温にしすぎると成分の凝固や濁りが発生し泡もちが悪くなったりする。また容積増加で内圧が高まるため容器の破裂の恐れがある。 ;日光 :[[紫外線]]によりホップに含まれる苦み成分[[フムロン#イソフムロン|イソフムロン]]が分解、同様にタンパク質に含まれる[[硫黄]]分が分解されて発生する[[硫化水素]]と合体し、悪臭を発する物質になる。臭いは「ゴムの焦げたような臭い」「[[スカンク]]の悪臭」とも喩えられ、'''日光臭'''と呼ばれている。[[ビール瓶]]が茶色や緑に着色されているのは紫外線を防ぐためだが完全には防げない。また[[蛍光灯]]からは微量ながら紫外線が放射されているので、屋内でも陳列や保管条件によって劣化が起きる場合がある。 ;衝撃 :ビール容器の中は[[炭酸]]が過飽和の状態にあり([[炭酸飽和]])、衝撃が加えられるとバランスが崩れて分離や気泡を生じ味の劣化に繋がる。また開封時に激しく噴出する原因になる。 ;酸化 :ビールは空気に触れると急激に酸化し風味が損なわれる。炭酸が抜けるせいもあるが、同じ発泡性酒類の[[スパークリングワイン]]と比べると劣化は激しい。どうしても飲み残す場合は[[食品用ラップフィルム|ラップ]]での密封や、瓶ならばワインストッパーを使用すれば数日程度はもつ。ビールをグラスに注いだ際に生じる泡の層には、炭酸が抜けるのを抑え、ビールを空気から遮断して酸化を防ぐ効果があるとする説がある。 == 主なビール生産国と銘柄 == {{更新|date=2020年3月|section=1}} [[ファイル:Many-kind-of-beer.jpg|thumb|220px|世界のビール]] [[キリンビール|キリン食生活文化研究所]]が調査し、[[ビール酒造組合]]が公表する集計によると、[[2015年]]の世界のビール総生産量は1億7937万klに上る<ref>[http://www.kirinholdings.co.jp/news/2008/0808_01.html キリンホールディングス_ニュースリリース_2008.8.8_キリン食生活文化研究所 レポートVol.10 2007年世界主要国のビール生産量]2008年8月8日</ref>。生産量のベスト10は、[[中華人民共和国|中国]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ブラジル]]、[[ドイツ]]、[[メキシコ]]、[[ロシア]]、[[日本]](発泡酒等を含む)、[[ベトナム]]、[[イギリス]]、[[ポーランド]]の順。[[オランダ]]は14位、[[チェコ]]は21位、[[ベルギー]]は19位であった。2018年にはブラジルとメキシコが独露を抜いて3-4位となり、[[ベトナム]]がイギリスやポーランドなどを追い越して8位となった。同年まで中国の首位は17年連続である。市場規模は飽和気味の先進国で縮小し、新興国で拡大傾向にある<ref>世界のビール生産量(2018年)、『[[日経ヴェリタス]]』2019年8月18日50面「Econo Graphics」。キリンビールによる調査。</ref>。 主な[[生産国]]の状況と銘柄は以下の通り。 === ヨーロッパ === ==== ドイツ ==== [[ファイル:Hofbraeuhaus Munchen 20050402.jpg|thumb|220px|ドイツの歴史に残る[[ミュンヘン]]の[[ビアホール]]・ホフブロイハウス。]] [[ファイル:Cannstatter-volksfest-festzeltarcadia-innen EYB.jpg|thumb|220px|ビールとワインで祝う収穫祭[[シュトゥットガルト]]のカンシュタッター・フォルクスフェストの巨大仮設ビアホールの内部。<br/>生バンド演奏のもと椅子の上に立ち上がり盛り上がる。]] {{see|ドイツのビール}} ラガービールが大多数だが、[[アルトビール|アルト]]、[[ケルシュ]]、[[白ビール|ヴァイス]] (''Weissbier'') などのエールビールも多種造られている。(ピルスナービールはチェコの発明。ラガービールはオーストリアの発明である。ただし、いずれもドイツ系による発明。) ビールの新酒は秋初めに出回り、これに合わせて各地でビール祭りがある。最も有名かつ大規模なものは[[ドイツ]]、[[ミュンヘン]]の[[オクトーバーフェスト]]である。また、オクトーバーフェスト用に供されるメルツェンビール(3月に醸造される)、秋口に醸造され冬場に供されるウィンタービール等の季節ビールも多くのメーカーで作られている。なお、ドイツではビール法([[ビール純粋令]])によりビールを名乗る飲料には原材料の規制(水・麦芽・ホップのみを原料とする飲料物のみをビールとして取り扱う)があったが、[[非関税障壁]]として非難され、現在は輸入ビールについては廃止されている。ドイツのビールメーカーは各地にあり、全国ブランドのビールメーカーは少ない。価格も安く、地ビールの缶ビールの価格は、コーラより安い。缶ビールよりも、樽出しビールや瓶ビールに人気がある。 ドイツのビールは大きく分けて大麦を原料とするピルスナータイプと小麦を原料とするヴァイスタイプ・ビールがある。小麦を原料とするビールでもミュンヘン近辺では白っぽいヴァイスビールが有名。ドイツ南西部の[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]近郊ではヴァイスビールでも透明なクリスタル・ヴァイス、半透明なヘーフェ・ヴァイス、濁ったドゥンケル・ヴァイスがある。 *[[ビットブルガー プレミアム ピルス]] *[[リーゲレ]](バイエルン、アウクスブルク) *[[レーベンブロイ]](バイエルン、ミュンヘン) *[[シュナイダー ヴァイセ]](バイエルン、ミュンヘン) *[[ラーデベルガー]](ザクセン、ラーデベルク) *[[ヘニンガー]](ヘッセン、フランクフルト) *ベックス (''Beck's'') ({{Lang-de-short|[[:de:Beck & Co.|Beck & Co.]]}}) - (ブレーメン) *[[クロンバッハ]](ノルトライン・ヴェストファーレン) *[[イエファー]] *[[ホルステン]](ハンブルク) *[[ホーフブロイハウス]](バイエルン、ミュンヘン) *[[ハッカープショール]](バイエルン、ミュンヘン) *[[シェッファーホッファー]](ヘッセン) *[[エルディンガー]](バイエルン、エルティング) *[[アルピルスバッハ]](バーデン=ヴュルテンベルク、アルピルスバッハ) *[[ヴァイエンシュテファン]](バイエルン、フライジンク) *[[アイヒバウム]](バーデン=ヴュルテンベルク、マンハイム) *[[ドム ケルシュ]](ケルン) *[[ツム・ウーリゲ]](デュッセルドルフ) *[[アインベッカー]](アインベック) *[[ケーニヒ、ルートヴィヒ]] *[[ウーァ・クロスティッツァー]](ライプツィヒ) *フリュー[[ケルシュ]](ケルン) *シュレンケルラ[[ラオホビア]] ==== チェコ ==== ドイツのローカルビールだったラガーを世界的に広めたのは、隣国チェコで生まれたピルスナーのおかげである(日本で最も飲まれる黄金色のビールは、このピルスナー・タイプである)。ピルスナーは、[[プルゼニ|プルゼニ市]](プルゼニのドイツ語名が'''ピルゼン''')で醸造されたビールの呼称から由来する。この事実により、中央ヨーロッパでは、ビールの醸造法についてはチェコをその本場として一目置く。またキリンビールの調査では、国民一人当たりのビール消費量が1993年から2018年までの26年間連続世界1位であるなど、世界有数のビール好き国家である<ref>[https://www.kirinholdings.co.jp/news/2019/1224_01.html キリンビール大学 レポート 2018年世界主要国のビール消費量]</ref>。 *[[ピルスナー・ウルケル]] - プルゼニ市の地ビール。元祖ピルスナーの意味を持つビールである。 *[[ブドヴァル]] - チェスケー・ブデヨヴィツェ市の地ビールである。米[[バドワイザー]]との[[商標]]権訴訟でも有名である。 ==== イギリス ==== {{see|イギリスのビール}} [[File:William Hogarth - Beer Street.jpg|thumb|250px|[[ウィリアム・ホガース]]『{{仮リンク|ビール通りとジン横丁|en|Beer Street and Gin Lane}}』(1751年)で描かれたビール通り]] [[イングランド]]、[[スコットランド]]はエールビールの本場として知られる。しかしピルスナービールの普及以降は[[バドワイザー]]、[[ハイネケン]]などの外国産ブランドのラガー、もしくは自国産のラガーが若者層を中心に多く飲まれ、エール類をはるかに超えるシェアを持っている。[[1970年代]]からは熱心なエールファンによる[[CAMRA]](CAMpaign for Real Ale=真正エール(復活)運動)が起こった。 *[[バス・ペールエール]] - すっきりした味わいと、フルーツのようなほのかな甘みと香りをもつ。 - 日本では、[[アサヒビール]]社から販売されている。 *ニューカッスル・ブラウンエール ==== アイルランド ==== 国内市場は事実上ほとんどDiageo社の寡占市場にあり、[[パブ]]での蛇口からサーブされるビールの選択肢は多くない。だが近年では都市部を中心にベルギービールやチェコビールなどを蛇口からサーブするパブも増えてきつつある。近年では地ビールなども出現してきているが、上記のような寡占状態のためパブなどで蛇口からサーブするビールとして発見することは非常に難しい。いわゆる[[マイクロブルワリー]]の中で最も成功しているのがPorterhouseである。同名のパブ内で醸造を行っており、市内に数店の支店を持っている。 *[[ギネス]] (''Guinness'') - 最も有名なアイリッシュ[[スタウト]] * マーフィーズ (''Murphy's Irish Stout'') - 代表的なアイリッシュスタウトの一つ。数少ない大規模生産を行っている独立ブランドで、アイルランド南西部の[[コーク (アイルランド)|コーク]]地方を中心に飲まれている。 *ビーミッシュ (''Beamish'') - マーフィーズと並んでコークで飲まれているスタウト。 *[[キルケニー (ビール)|キルケニー]] (''Kilkenny'') - エールの一種([[レッド・エール#アイリッシュスタイル・レッドエール|アイリッシュレッドエール]])。 *[[スミディックス]] (''Smithwicks'') - アイルランドで年配層を中心に根強い人気があるエール。上記のキルケニーと似た製品。 ==== ベルギー ==== {{Main|ベルギービール}} 世界で最も多様なビールを醸造するのは、おそらく[[ベルギー]]である。[[マイケル・ジャクソン (ライター)|マイケル・ジャクソン]]の精力的な活動によって、[[ベルギービール]]が世界に伝道されたといわれる<ref name="tamura1">{{Cite book|和書 |author=田村功 |authorlink=田村功 |title=ベルギービールという芸術 |accessdate=2008-02-20 |edition=初版第1刷 |date=2002-09-21 |publisher=[[光文社]] |series=光文社新書 |language=日本語 |id=ISBN 4-334-03161-7 |pages=16から19ページ |chapter=1 ベルギービールを知る }}</ref>。 ベルギービールの中で最も有名なのは、1966年に[[ピエール・セリス]]が復活させた「[[ヒューガルデンホワイト]] (''Hoegaarden White'') 現地読み:フーハルデン・ヴィット」であろう。これは、俗に「ヴィット(フラマン語)ブランシュ(フランス語)」[[白ビール]]と呼ばれるビールである。なお、ドイツで白ビール([[ヴァイスビア]]、[[白ビール#ヴァイツェン|ヴァイツェン]])といえば、まったく別物の小麦を原料とするビールを指す。ドイツのヴァイスビア、ヴァイツェンと区別するために、ベルギーのブランシュを[[白ビール#ベルギー式白ビール|ベルジャンスタイルホワイト]]と称することもある。また、[[トラピストビール]](修道院ビール)、[[ブリュッセル]]近郊で製造される自然発酵を特徴とする[[ランビック]]など独特なビールが製造されている。 *レフ(レッフェ) (''Leffe'') - 日本では、アサヒビール社から販売されている。 ==== オランダ ==== 隣国ベルギーとドイツの影響もありビール作りが盛んである。ラガータイプだけではなく多様なエールも醸造している。 *グロールシュ (''Grolsch'') *[[ハイネケン]] (''Heineken'') *アムステル (''Amstel'') ==== フランス ==== {{see|フランスのビール}} フランスはヨーロッパ第5位のビール生産国である([[:fr:Biere]]より)。ほとんどはドイツ国境に近い[[アルザス]]地方および隣接の[[ロレーヌ]]地方で生産されているほか、ベルギー国境に近い[[ノール県|ノール]]地方でも生産されている。代表的なものは以下の3つの銘柄だが、実際は全て[[クローネンブルグ]]社が製造している。 *[[クローネンブルグ]] (''Kronenbourg'') *セーズ・ソワサンカトル (''1664'') *カンテールブロー (''Kanterbrau'') ==== スペイン ==== *マオウ (''Mahou'') *クルスカンポ (''Cruzcampo'') *[[エストレージャ・ダム]] (''Estrella Damm'') *サン・ミゲル (''San Miguel'') *ヴォル・ダム (''Voll Damm'') *アルハンブラ (''Alhambra'') *エストレージャ・ガリシア (''Estrella galicia'') *[[モリッツ]] (''Moritz'') ==== ポーランド ==== [[ポーランド語]]ではビールはpiwo(ピヴォ)という。ビールは、[[ポーランド]]では人々に大変親しまれている飲み物で、しかもこの20年間その人気は高まる一途である。2009年の Ernst & Young による報告によれば、ポーランドはビールの生産量ではヨーロッパでも第3位である。{{要出典範囲|1位のドイツが103億リットル、2位の英国が49億5,000万リットル、そしてポーランドが36億9,000万リットルを生産している|date=2016-10}}。 {{要出典範囲|ポーランド国内市場の拡大が続き、ポーランド醸造産業雇用者連盟 (Zwiazek Pracodawcow Przemyslu Piwowarskiego) は醸造業界年次大会において、2008年のポーランドでのビール消費量が、一人当たり94リッターにまで増大したと発表した。国内市場での販売総量としては35億 6,240万リッターにのぼる。このポーランド醸造産業雇用者連盟に加盟している各社の市場シェアを合計すると、ポーランドのビール市場全体のおよそ90%を占める。 統計的にはポーランドの消費者は一人当たり平均で年間に92リットルのビールを飲んでおり、これはチェコ共和国ならびにドイツについで、第3位である。2009年、ビールの販売によるポーランド政府への消費税収入は、30億9,700万[[ズウォティ|ポーランド ズロチ]]に達した。またビールの製造と販売に携わる雇用人数は、およそ208,000人にのぼっている|date=2016-10}}。 *ジヴィエツ (''Żywiec'') *オコチム (''Okocim'') - [[カールスバーグ]]系 *ティスケ (''Tyskie'') *レフ(レック) (''Lech'') *ザムコヴェ(''Zamkowe'') ==== イタリア ==== {{see|イタリアのビール}} *[[ビッラ・モレッティ|モレッティ]] (''Moretti'') *[[ペローニ]] (''Peroni'') ==== デンマーク ==== {{see|デンマークのビール}} *[[カールスバーグ]] (''Carlsberg'') [[デンマーク]] *[[ツボルグ]](ツボー) (''Tuborg'') [[デンマーク]] ==== スウェーデン ==== {{see|スウェーデンのビール}} *[[スペンドラップ]] *[[カールスバーグ]]・スウェーデン *[[コッパルベリ・ブリィヤリ]] ==== ノルウェー ==== {{see|ノルウェーのビール}} * {{仮リンク|リングネス|en|Ringnes}} ==== フィンランド ==== {{see|フィンランドのビール}} [[File:Karhu.jpg|thumb|right|200px|[[カルフ (ビール)|カルフ]] (Karhu)]] *[[シネブリチョフ]] - 現存する北欧諸国最古の商業醸造所 *{{仮リンク|ハートウォール|en|Hartwall}} *{{仮リンク|オルヴィ|en|Olvi}} ==== オーストリア ==== *[[ゲッサー]] (''Gösser'') [[オーストリア]] *[[シュロス・エッゲンベルク#サミクラウス|サミクラウス]] (''Samichlaus'') [[オーストリア]] ==== スロベニア ==== [[スロベニア]]には二つの大きな会社のビールとたくさんの小さな地ビールの店がある。一つ目の大きなビールの会社はズラトログといい、スロベニアの北東にある[[ラシュコ]]にあるので、たくさんの人がこのビールをラシュコと呼んでいる。 [[:en:Laško Brewery|ラシュコビール]]は1825年から作られていて、190年の伝統があり、スロベニアの一番古いビールである。ラシュコで、毎年夏に三日間「ビールと花祭り」という祭りがある。 二つ目のビール工場はウニオンと呼ばれ、[[リュブリャナ]]で作られているビール。[[:sl:Pivovarna Union|ウニオン]]ビールは1864年から作られている。かつてこの二つの大きなビール工場は独立した二つの会社であったが、[[ハイネケン]]がウニオンとラシュコを買い取った。 *ラシュコ (''Laško''[https://web.archive.org/web/20110604150939/http://www.pivo-lasko.si/]) *ウニオン (''Union''[http://www.pivo-union.si/si/union]) *テクトニクス (''Tektonik''[http://www.tektonik.beer/domov.html]) *フマヌフィシュ (''Human fish''[http://www.visitvrhnika.si/si/kaj-poceti/pivovarna-human-fish-vrhnika]) *ホップスブルウ (''Hopsbrew''[http://www.pivarna.si/slovenski-zvarki1/hopsbrew]) *べヴォグ (''Bevog''[https://bevog.at/]) *''Reservoir dogs''[https://www.facebook.com/Reservoir.Dogs.brewery/] ==== ヨーロッパのその他 ==== *[[バルティカ]] (''Baltika'') [[ロシア]] *[[サク]] (''Saku'') [[エストニア]] *[[ミソス]] (''Mythos'') [[ギリシャ]] *[[エフェス (ブルワリー)|エフェス]] (''Efes'') [[トルコ]] === 北米・南米 === ==== アメリカ合衆国 ==== [[アメリカ合衆国西海岸]]を中心にクラフトビール、マイクロブリューワリーという小醸造所によるビールが多種あり、生産されるビアスタイル数は世界でも有数である。ビールの種類も多い。ミラーは買収・合併されて、現在は[[南アフリカ]]籍の会社となっている。 *[[バドワイザー]] (''Budweiser'') *[[クアーズ]] (''Coors'') *[[ミラー (ビール)|ミラー]] (''Miller'') *[[シュリッツ (ビール)|シュリッツ]] (''Schlitz'') *パブスト (''[[:en:Pabst Brewing Company|Pabst]]'') *[[サミュエル・アダムズ (ビール)|サミュエル・アダムズ]] (''Samuel Adams'') *[[アビータ・ビール|アビータ]] (''Abita'') *[[イングリング (ビール)|イングリング(イエングリング)]] (''Yuengling'') *[[ブルックリン・ブルワリー|ブルックリン]] (''Brooklyn'') *[[アンカー・ブルーイング・カンパニー|アンカー スチーム]] (''Anchor Steam'') *[[シエラネヴァダ醸造会社|シエラネヴァダ]] (''Sierra Nevada'') *[[コナビール会社|コナ・ビール]] (''Kona Beer'') *[[メハナビール会社|メハナ・ビール]] (''Mehana Beer'') ==== カナダ ==== [[カナダ]]でもアメリカ同様、ビール消費は多く、モルソン、ラバットという二大全国ブランドが存在する。また、イギリスからの伝統も影響し、比較的小規模な地ビール醸造も多い。 *[[モルソン]] (Molson) *[[ラバット]] (Labatt) *[[スリーマン]] *[[アレクサンダー・キース]] *[[ムースヘッド]] ==== メキシコ ==== [[:en:Beer in Mexico|メキシコ]]はビールの特産地としても知られており、コロナやXX(ドス・エキス)など、著名ブランドが世界中に輸出されている。 *[[コロナビール|コロナ]] (''Corona'') *[[テカテ (ビール)|テカテ]] (''Tecate'') *[[ドス・エキス]] (''XX, Dos Equis'') *[[ボエミア (ビール)|ボエミア]] (''Bohemia'') *[[ソル (ビール)|ソル]] (''Sol'') *[[ネグラ・モデロ]] (''Negra Modelo'') *[[モデロ・エスペシアル]] (''Modelo Especial'') *[[インディオ (ビール)|インディオ]] (''Indio'') *[[ビクトリア (ビール)|ビクトリア]] (''Victoria'') *[[エストレージャ]] (''Estrella'') *[[モンテホ]] (''Montejo'') *[[パシフィコ]] (''Pacífico'') *[[レオン (ビール)|レオン]] (''León'') *[[ノチェ・ブエナ]] (''Noche Buena'') ==== 北米・南米のその他 ==== *[[ブラーマ]] (''Brahma'') [[ブラジル]] *[[スコール (ビール)|スコール]](Skol)[[ブラジル]] *[[キルメス・ビール|キルメス]] (''Quilmes'') [[アルゼンチン]] *[[クラブ・コロンビア]] (''club colombia'') [[コロンビア]] *[[バルビエル]] (''Barvier'') [[パラグアイ]] *[[プレシデンテ]] (''Presidente'') [[ドミニカ共和国]] *[[キスケージャ]] (''Quisqueya'') [[ドミニカ共和国]] === アジア === ==== 日本 ==== {{Main|日本のビール|日本のビールメーカー一覧}} ==== 北朝鮮 ==== {{Main|北朝鮮のビール}} *[[大同江ビール]]({{lang|ko|대동강맥주}}) *{{仮リンク|平壌ビール|wikidata|Q87227561}}({{lang|ko|평양맥주}}) ==== 韓国 ==== {{Main|韓国のビール}} *[[ハイトビール]]({{lang|ko|하이트맥주}}、''[[:en:Hite]]'') *[[OBビール]](OB麦酒、{{lang|ko|OB 맥주}}、''[[:en:Oriental Brewery|OB]]'') ==== 中国 ==== {{Main|中国のビール}} [[中華人民共和国|中国]]での製造開始は欧米諸国に遅れるが、21世紀になって、生産量では世界一となっている。[[2004年]]の総生産量は2910万トンであり、対前年15.1%もの伸びを示している。 元々中国でのビール生産は[[20世紀]]初頭に、まず現在の[[黒龍江省]][[ハルビン]]に[[ロシア人]]が[[ハルビンビール|ハルビン・ビール]]の工場を設立した。また[[山東省]][[青島市|青島]]をドイツが[[租借地]]とし、租借地経営の一環として、産業振興策のビール生産の技術移転を行ったところから始まる。新中国になってからも早くから輸出に努めていたこともあり、現在でも世界的に最も有名な中国メーカーは[[青島ビール]] (''Tsingtao Beer'') であるが、現在最大のメーカーは[[香港]]資本も入った華潤雪花ビール([[雪花ビール]])になっている。その他の大手グループとして[[北京市|北京]]の[[燕京ビール]]、[[広州市|広州]]の[[珠江ビール]]、[[バドワイザー]]、[[サントリー]]、[[アサヒビール]]などの中国国外のビールメーカーも多く進出している。流通と冷蔵が完備していないので、各地方都市に小規模なビール工場が多数あり、その地域用のビールを生産している。小規模工場の中には品質の悪いものを作っているところもあり、2004年の全国規模の抜き取り検査では13.8%もの銘柄が不合格となった。 *[[雪花ビール]] *[[青島ビール]] *[[ハルビンビール|哈爾浜ビール]] *[[燕京ビール]] *[[珠江ビール]] ==== 台湾 ==== {{Main|台湾のビール}} *[[台湾ビール]]({{lang-en|[[:en:Taiwan Tobacco and Liquor Corporation#Taiwan Beer|Taiwan Beer]]}}、中国語:[[:zh:台灣啤酒|台灣啤酒]]) * 台湾龍泉啤酒({{lang-en|Taiwan Long Chuan Beer}}) * [[金色三麦]](中国語表記:金色三麥、チンスーサンマイ、フランス語表記:Le Blé d'Or) ==== タイ ==== {{Main|タイのビール}} 冷たく冷やしたラガーが好まれる。ビールに氷を入れることがあるが、これはアルコール度数が高いため割っているというよりも、冷蔵設備が行き渡っていなかった時代の名残である。ただし、[[タイ王国|タイ]]のビールは味がやや濃いこともあり薄める目的で氷を入れる人はいる(氷を入れることを前提に濃いめに作られている)。 *[[ビア・シン|シンハー]] (''Singha'') *[[ビア・チャーン|チャーン]] (''Chang'') *[[リオ・ビア|リオ]] (''Leo'') *[[ビア・プーケット|プーケット]] (''Phuket'') ==== ベトナム ==== {{Main|ベトナムのビール}} *[[333 (ビール)|333]](バーバーバー) *[[ビア・サイゴン]] *[[ビア・ハノイ]] *[[フェスティバル・ビール]] *[[ビア・ラルー]] *[[ハリダ・ビール]] *[[フーダ・ビール]] *[[ビア・ホイ]] ==== アジアのその他 ==== {{Main|香港のビール|シンガポールのビール|マレーシアのビール}} *[[ビア・ラオ]] (''BeerLao'') [[ラオス]] *[[アンコール・ビール]] [[カンボジア]] *[[ビンタン (ビール)|ビンタン]] (''Bintang'') [[インドネシア]] *[[サン・ミゲル (ビール)|サン・ミゲル]] (''[[:en:San Miguel Corporation]]'') [[フィリピン]]および[[香港]] *[[ビール・ナ・ビール]] (''[[:en:Asia Brewery]]'') フィリピン *[[タイガービール|タイガー]] (''Tiger'') [[シンガポール]] *[[キングフィッシャー (ビール)|キングフィッシャー]] (''King Fisher'') [[インド]] *[[マハラジャビール]] (''Maharajah'') インド *ライオン (''Lion'') [[スリランカ]] *ゴルカ(''[[:en:Gorkha Beer|Gorkha]]'')、ネパール・アイス<ref>Brewed by Chaudhary Group's Sun Gold Brewery. このヒマラヤ山の絵があるビールは、日本のインド料理店(ほぼ全てネパール人経営)でよく見かける。</ref>(''Nepal Ice'') [[ネパール]] *[[タイベビール]] [[パレスチナ]] === オセアニア === *[[XXXX|フォー・エックス]] (''XXXX'') [[オーストラリア]] *[[フォスターズ]] (''Foster's'') オーストラリア *[[トゥーイーズ]] (''Tooheys'') オーストラリア *カスケード (''Cascade'') オーストラリア *クーパーズ (''Coopers'') オーストラリア *スワン (''Swan'') オーストラリア *スタインラガー (''Steinlager'') [[ニュージーランド]] === アフリカ === アフリカでは[[部族]]ごとにビールを醸造しており、その種類は百種類以上に及ぶとされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/asia/egypt03.html |title=アフリカ、部族ごとの伝承ビール〜そして現代 {{!}} 世界のビールの歴史 {{!}} アサヒビール |accessdate=2010年7月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120326133022/http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/asia/egypt03.html |archivedate=2012年3月26日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。これらのビールは古代エジプトのビールと同様、[[ストロー]]を使って飲む。また、使用する原料も麦に限らず雑穀や[[キャッサバ]]、[[トウモロコシ]]、[[バナナ・ビール|バナナ]]などが用いられている。南アフリカではカフィア・ビールや[[コーリャン]]・ビールと呼ばれるビールが伝統的に飲まれてきた。 *STELLA [[エジプト]] *STAR [[ナイジェリア]] *Star Lager [[シエラレオネ]] == 世界のビールメーカー == {{出典の明記|date=2019年12月|section=1}} {{更新|date=2020年3月|section=1}} === 世界シェア === *1位 [[アンハイザー・ブッシュ・インベブ]] *2位 [[SABミラー]] *3位 [[ハイネケン]] *4位 [[華潤創業]] *5位 [[カールスバーグ]] *6位 [[青島ビール]] *7位 モルソンクアーズ([[クアーズ]]) *8位 [[燕京ビール]] *9位 [[キリンビール]] *10位 [[アサヒビール]] === 世界的なビール製造企業・グループ === {{出典の明記|date=2020年3月|section=1}} {{更新|date=2020年3月|section=1}} 世界的な規模のビール製造会社は他国へ直接の資本進出を行ったり、各国の地場ビール会社を資本支配下に収めたり、あるいは資本提携したりする事で進出を行っている。また、世界的なブランドは直接ブランド所有会社との資本関係にはなくとも各国の企業によるライセンス製造が行われるケースもある。 単純に計算すると上位5グループで世界の生産量の50%近くを占めることになる。InBev社の主張によれば2005年には同社グループの生産量は世界のマーケットシェアの14パーセントの生産量を占めていると主張している。ただし、例えばカナダではInBev社系列のラバット社がバドワイザーを製造しているようにブランドと企業の入り繰りも存在している。また、[[オーストラリア]]や日本のように民族資本が強力な場合には進出の程度が輸出あるいはライセンス製造に留まっているケースもある。 世界的な大手ビール企業グループの上位5グループは以下の通り。 === InBev(ベルギー・ブラジル) === [[インベブ|InBev(インベブ)]]は[[2004年]]に[[ベルギー]]のInterBrew社と[[ブラジル]]のAmBev社の合併により誕生。現在は[[アンハイザー・ブッシュ・インベブ]]の子会社。アジア・ヨーロッパ・南北アメリカに多くの系列企業を持つ。 主な所有ブランド *ラバット (''Labatt'') [[カナダ]] *バス (''bass'') [[イギリス]] *フーハルデン (''Hoegaarden'') [[ベルギー]] *ベックス (''Beck's'') [[ドイツ]] *[[キルメス・ビール|キルメス]](''Quilmes'')[[アルゼンチン]] *OB [[大韓民国|韓国]] === Anheuser-Busch(アメリカ) === [[アンハイザー・ブッシュ]]は世界第三位の生産量を誇る。現在は[[アンハイザー・ブッシュ・インベブ]]の子会社。アメリカ国外の醸造所は他のグループと比較すると少ないが、[[バドワイザー]]ブランドのビールは各国でライセンス生産が行われている。 主な所有ブランド *[[バドワイザー]] (''Budweiser'') [[アメリカ合衆国]] *[[ブッシュビール|ブッシュ]] (''Busch'') [[アメリカ合衆国]] *[[ミケロブ]] (''Michelob'') [[アメリカ合衆国]] === SABMiller(南アフリカ・アメリカ) === 南アフリカビール社が2002年にミラー社を買収して誕生。アメリカ・アフリカに系列企業を持つ。 主な所有ブランド *[[ミラー (ビール)|ミラー]] (''[[:en:Miller Brewing|Miller]]'') [[アメリカ合衆国]] *[[ピルスナーウルケル]] (''Pilsner Urquell'') [[チェコ]] === Heineken(オランダ) === ヨーロッパ及び東南アジアのマーケットで強い。 主な所有ブランド *[[ハイネケン]] (''Heineken'') [[オランダ]] *[[タイガービール|タイガー]] (''Tiger'') [[シンガポール]] *[[ビンタン (ビール)|ビンタン]] (''Bintang'') [[インドネシア]] === Carlsberg(デンマーク) === ヨーロッパ、特に北欧・東欧諸国で強い。 主な所有ブランド *[[カールスバーグ]] (''Carlsberg'') [[デンマーク]] *バルティカ (''Baltika'') [[ロシア]] == 日本のビール == {{Main|日本のビール}} === 歴史 === [[日本]]においてビールは、[[1613年]]([[慶長]]18年)に平戸(現在の[[長崎県]][[平戸市]])に渡来し、1724年([[享保]]9年)にオランダの商船使節団が[[江戸]]に入府した際には、8代将軍・[[徳川吉宗]]に献上された。[[今村英生|今村市兵衛]]の記した『和蘭問答』(1724年)には自身が飲んだ「麦の酒」「ヒイル」という語が記されている。その感想は「殊外悪しき物」「何の味わいもない」と否定的である。文献上確認ができる日本最古のビールの記述である。 日本での外国人による醸造は、[[1812年]]に[[長崎市|長崎]]の[[出島]]において、[[オランダ商館]]長の[[ヘンドリック・ドゥーフ]]の手によるものが最初である。開国後の1869年([[明治]]2年)には、[[横浜市|横浜]]の[[外国人居留地]]、山手46番にウィーガントらによって「[[ジャパン・ブルワリー]]」が設立され、翌年にはアメリカ人・コープランドが「[[スプリング・ヴァレー・ブルワリー]]」を設立。ビールの醸造製造を始め、主に居留地の外国人や上流階級の日本人向けに販売し、輸出もした(後にジャパン・ブルワリーは閉鎖、ウィーガントは別の工場ババリア・ブルワリーを興すが、最終的にはコープランドのスプリング・ヴァレー・ブルワリーと合併する)。 日本人による醸造は、[[1853年]]に[[蘭学者]]の川本幸民が、江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる<ref name=sts.kahaku>藤沢英夫、{{PDFlink|[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/058.pdf 食品・医薬品・農林漁業関連 5.「ビール醸造設備発展の系統化調査」]}} かはく技術史大系(技術の系統化調査報告書)第14集 2009</ref>。川本が実際に醸造したかどうかの確証は無いが、著書のビール醸造法の記述などにより、実際に醸造した可能性が極めて高いと推測されている。産業としての醸造は、1869年(明治2年)に、当時の[[品川県]][[知事]]であった[[古賀一平]]が[[土佐藩]][[江戸藩邸|屋敷]]跡(現在の東京都[[品川区]]大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされる<ref>品川たんけん隊 [http://oimachi-showakaraima.com/wtnbhanashi.html 第15回品川たんけん隊の集い] {{Wayback|url=http://oimachi-showakaraima.com/wtnbhanashi.html |date=20140829115541 }}</ref>。ただし、商業規模の製造は、[[1872年]]に、[[大阪市]]で[[渋谷庄三郎]]が「渋谷ビール」を販売したのが最初とする説もある<ref name=sts.kahaku />。その後、1874年(同7年)には[[甲府]]で野口正章により「三ツ鱗ビール」が設立され<ref>野口正章は甲府商家の生まれで、『大日本洋酒缶詰沿革史』に拠れば野口は明治5年頃からイギリス人コブランドの指導を受け、[[県令]][[藤村紫朗]]からの支援も得てビール醸造事業に着手するが、原材料の調達など事業は困難を極め10年で破綻したという(斎藤康彦「ワインとビール醸造」『山梨県史』通史編5近現代1)。</ref>、1876年(同9年)には[[北海道]]の[[札幌市|札幌]]で官営ビール事業として、「[[開拓使]]麦酒醸造所」が[[村橋久成]]と[[中川清兵衛]]を中心に設立された(翌年「'''札幌ビール'''」を製造)。 1885(明治18年)、[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]や[[三菱財閥|三菱]]の[[岩崎弥之助]]らにより、「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」は「ジャパン・ブルワリー・リミテッド」に引き継がれ、1888年(同21年)には「[[キリンビール]]」が発売された。1886年(同19年)には、北海道開拓使の官有物払下により、開拓使麦酒醸造所は[[北海道庁]]から[[大倉財閥|大倉組]]に払い下げられ、1888年に「札幌麦酒会社」が設立された。1877年(同10年)には「日本麦酒株式会社」が設立され、1890年(同23年)に「[[ヱビスビール]]」を発売した。また、1889年(同22年)には「大阪麦酒株式会社」が設立され、1892年(同25年)に「[[アサヒビール]]」を発売した。 このように大資本から地方の中小醸造所まで、明治期には[[地ビール]]ブームが起き、全国で100社近くの醸造所が設立された。しかし、1900年(明治33年)に北清事変([[義和団の乱]])が起き、軍備増強のため、翌年からビールに[[酒税]]が課せられることになると状況は一変する(それまで、酒税は[[清酒]]にのみ課されていた)。中小の醸造所は、[[酒税法]]に定められた最低製造数量基準を満たすことができず、相次いで倒産、または大資本へと吸収され、ビール業界は再編された。1906年(同39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して「[[大日本麦酒]]」が設立され、また、1907年(同40年)には、[[三菱財閥]]がジャパン・ブルワリー・リミテッドを引き継いで「[[麒麟麦酒]]」(キリンビール)が設立される。その後、1928年(昭和3年)に「壽屋」([[サントリー]])が「日英醸造」を買収し、ビール業界に一時参入したものの、1934年(昭和9年)には買収した鶴見工場を「麦酒共同販売」に売却して、ビール業界から撤退した。 [[第二次世界大戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は産業界の独占・寡占の一掃を図って[[集中排除法]]を制定させる。ビール業界も集中排除の対象となり、大日本麦酒は「日本麦酒」([[サッポロビール]])と「朝日麦酒」([[アサヒビール]])に分割された。1945年9月2日に本土から分割され、米国民政府の統治下に置かれた[[奄美群島]]では、日本からの流通がなくなり物資が不足する中、1952年に[[西平酒造#その他|巴麦酒株式会社]](トモエビール)が[[奄美大島]]で設立され、直営ビアホールも作られたが、1953年の[[奄美群島]][[本土復帰]]で商品の競争力がなくなり廃業となった<ref>吉田元「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.101.935 軍政下奄美の酒(2)]」『日本醸造協会誌』 2006年 101巻 12号 p.935-940、公益財団法人日本醸造協会, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1988.101.935}}</ref>。1957年(昭和32年)には、同じく米国民政府の統治下の[[沖縄県]]で「[[オリオンビール]]」が設立され、同年には[[宝ホールディングス|宝酒造]]もビール業界に参入して「タカラビール」を発売した(宝酒造は1967年に撤退)<ref>[http://www.nipponstyle.jp/column/nttr/column_14.html ニッポンスタイル 第14回 黄金色に賭けた夢 〜「タカラビール」〜] {{Wayback|url=http://www.nipponstyle.jp/column/nttr/column_14.html |date=20080101102647 }}より</ref>。1963年(同38年)にはサントリー(壽屋から社名変更)がビール業界に再び参入した。こうして、いくつかの新規参入はあったものの、1967年の宝酒造撤退後は長らくビール業界は'''キリン・アサヒ・サッポロ・サントリー・オリオン'''による'''5'''社(オリオンに対する各種優遇措置などの特殊事情のある沖縄以外では、事実上オリオンを除く'''4'''社)の寡占状態にある。 1967年(昭和42年)、新技術(精密濾過機を使用し熱処理を行わず酵母菌を除去)を用いた[[生ビール]]、サントリー「純生」{{efn|現在の[[発泡酒]]「純生」とは別の製品。}}<ref name="syoku">『食品加工技術発達史』第5章 1961年〜1975年「包装と流通の革新」[http://trg.affrc.go.jp/v-museum/history_text/history02_t/h02t_05.html テキスト版]/[http://trg.affrc.go.jp/v-museum/history02/history02.html Flash版]より</ref>が発売されたが、生ビールの解釈(酵母菌の有無)を巡ってサントリーと競合他社が意見を対立させ、「生ビール論争」が発生した<ref name="livedoor">[https://web.archive.org/web/20070228112509/http://news.livedoor.com/article/detail/2336118/?rd 「ジョッキ、ビン、缶…中身はぜ〜んぶ同じ 生ビール=新鮮の嘘」] - [[livedoor]]ニュース 2006年8月18日掲載(2007年2月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。この論争は1979年、[[公正取引委員会]]が生ビール、ドラフトビールの定義を(酵母菌の有無には関係無く)「熱処理をしないビール」と公示したことにより、結果的にサントリーの主張が認められた形で決着を迎えた<ref name="livedoor"/>。 1987年(昭和62年)に販売した[[アサヒスーパードライ]]が多く売れ、日本国外では、中国、タイ、イギリス、チェコ、カナダで生産、販売されている。 この頃から暖房機能付き[[エアコン]]や[[石油ファンヒーター]]等、一般家庭における冬場の暖房設備の充実により、それまでの「夏はビール、冬は日本酒や[[焼酎]]」といったスタイルから、冬場でもビールが売れていくように変化していった。この現象は[[アイスクリーム]]でも見られた。 1994年(平成6年)、酒税法が改正されて最低製造数量基準が緩和された。これにより、一気に全国各地で地ビールが醸造され始め、地ビールブームが再現された。ただ、寡占5社が占めるシェアは依然大きく、2008年現在地ビール全体のビール業界におけるシェアは1%に満たない<ref>{{PDFlink|[https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010830712.pdf 地ビール業界の現況と展望 p14-15]}}日本醸造協会誌 107巻1号(2012年1月).2021年6月4日閲覧。</ref>。 2005年、[[ザ・プレミアム・モルツ]]が[[モンドセレクション]]を受賞し、これまで[[ヱビスビール]]が圧倒的優位にあった[[プレミアムビール]]市場がにわかに活気づいた。 === 主要銘柄 === {{see|Category:日本のビール}} <!--* 大手5社([http://www.brewers.or.jp/ ビール酒造組合]加盟) 五十音順。 **[[アサヒビール]] ***[[アサヒスーパードライ]] ***[[アサヒプライムタイム]] ***[[アサヒプレミアム生ビール熟撰]] ***[[アサヒ黒生]] **[[オリオンビール]] ***[[生ビール|ドラフト]] **[[麒麟麦酒|キリンビール]] ***[[キリンラガービール]] ***[[キリンクラシックラガー]] ***[[キリン一番搾り生ビール]] ***[[キリン・ザ・ゴールド]] ***[[キリンブラウマイスター]] ***[[キリンニッポンプレミアム]] **[[サッポロビール]] ***[[サッポロ生ビール黒ラベル]] ***[[ヱビスビール]] ***[[ヱビス・ザ・ブラック]] ***[[ヱビス・ザ・ホップ]] ***[[サッポロラガービール]] ***[[エーデルピルス]] **[[サントリー]] ***[[モルツ]] ***[[ザ・プレミアム・モルツ]] *[[地ビール]] --><!-- 網羅しても仕方ないのでCMを流したりしたこともある一般的に一番有名だと思われる銀河高原ビールとZAKZAKがコンペの結果を元に集計した番付の上位2つだけリスとしておく。これ以上リストするなら「地ビール」の方で。http://www.zakzak.co.jp/top/2008_07/t2008072240_all.html--><!-- **[[銀河高原ビール]] **[[常陸野ネストビール]] **[[スワンレイクビール]] **[[ヤッホー・ブルーイング]] **[[ベアレン醸造所]] **[[龍神酒造]] **[[箕面ビール]] **[[いわて蔵ビール]] **[[吉備土手下麦酒醸造所]] **[[ベアードビール]] **[[博石館ビール]] **[[志賀高原ビール]] **[[伊勢角屋麦酒]] **[[湘南ビール]] **[[サンクトガーレン]] **[[ナギサ・ビール]] **[[金しゃちビール]] **[[大山Gビール]] **[[ハーヴェストムーン・ブルーワリー]] **[[信濃ビール]] **[[ひでじビール]] **[[コエドビール]] --> === 日本におけるビールの定義 === 日本には、ドイツの[[ビール純粋令]]のような製造法に関した法律は無く、「[[酒税法]]」<ref name="hou">[https://web.archive.org/web/20010209101632/http://www.houko.com/00/01/S28/006.HTM 法庫『酒税法』] より</ref>と「[[公正競争規約]]」<ref name="kiyaku">{{PDFlink|[http://www.jfftc.org/cgi-bin/data/bunsyo/C-1.pdf ビールの表示に関する公正競争規約]}}より</ref>にて定義されている。 *酒税法3条12号<ref name="hou"/>『ビール』次に掲げる酒類でアルコール分が20度未満のものをいう。 **イ - 麦芽、ホップ及び水を原料として発酵させたもの **ロ - 麦芽、ホップ、水及び麦その他の政令で定める物品を原料として発酵させたもの(その原料中当該政令で定める物品の重量の合計が麦芽の重量の100分の50を超えないものに限る)。 *ビールの表示に関する公正競争規約2条<ref name="kiyaku"/>(内容は上記「酒税法」と同様) 分類は「公正競争規約」<ref name="kiyaku"/>が定義する。 *ビールの表示に関する公正競争規約4条<ref name="kiyaku"/> **[[ラガービール]] - 貯蔵工程で熟成させたビール **[[生ビール|生ビール・ドラフトビール]] - 熱による処理(パストリゼーション)をしないビール **黒ビール・ブラックビール - 濃色の麦芽を原料の一部に用いた色の濃いビール **[[スタウト]] - 濃色の麦芽を原料の一部に用い、色が濃く、香味の特に強いビール === 日本での飲まれ方 === 日本では、ビール自体が高級品扱いの時代が長期間続いていたが<ref name="mono">[http://www.hoppy-happy.com/products/hoppy_ichiran.html ホッピー物語] {{Wayback|url=http://www.hoppy-happy.com/products/hoppy_ichiran.html |date=20101123230653 }} - ホッピービバレッジ<br/>[http://www.asahibeer.co.jp/asahigold/ アサヒゴールド] {{Wayback|url=http://www.asahibeer.co.jp/asahigold/ |date=20101217042101 }} - アサヒビール</ref>、[[昭和]]30〜40年代に[[高度経済成長#日本の例|高度経済成長]]が進展するに連れて[[大衆化]]が進み、[[庶民]]が飲む一般的な酒へと変移した<ref>[http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20090302-90006392-r25 どうして最初の1杯目は「とりあえずビール」なの?] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140326032336/http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20090302-90006392-r25 |date=2014年3月26日 }} - Web [[R25 (雑誌)|R25]] 2009年3月2日</ref>。 日本では、しっかり冷やしてコップや[[ジョッキ]]に注いでそのまま飲むのが一般的であり、夏場になると消費量が増大する。日本の多くの料理店・[[居酒屋]]では、5社(事実上はキリン、アサヒ、サッポロ、サントリー4社)のうち1社(沖縄県では通常はオリオン)のビールが供された。そのため、「[[三菱グループ|三菱系企業]]の社員はキリンの出る店でしか飲まない」「サッポロ(あるいはサントリー)の出る店は少ないので、[[三井グループ|三井]]系企業の接待の店選びは困る」など、企業グループとビール銘柄に関する噂もまことしやかに語られた。ホテルなどでの企業関係者の会合といった、大人数の集まるイベントなどでは、企業グループによって提供するビールのメーカーを変える(三菱系=キリン、[[芙蓉グループ|芙蓉系]]=サッポロ、住友系=アサヒ、[[三和銀行|三和]]系=サントリー。ちなみに三井系はサッポロかサントリーのどちらか)ことも多い。また一部の宿泊施設では、部屋付きの冷蔵庫のビールにも同様なことを行っているところもある(ただ、2000年頃から、旧財閥といった従来的な企業グループを超えた企業再編も行われているため、当てはめにくくなっている可能性はある)。 日本の[[プロ野球]]では、公式戦や[[日本選手権シリーズ]]で優勝したチームの監督・選手・コーチたちが、祝勝会でビールをかけ合う風習がある(→[[ビールかけ]])。 == 類似の飲料 == 日本の酒税法では、麦芽又は麦を原料の一部とした発泡性の酒類(酒税法第3条第7号から第17号までに掲げる酒類及び麦芽又は麦を原料の一部としたアルコール含有物を蒸留したものを原料の一部としたものを除く)を「[[発泡酒]]」として定義している。このため、日本国外産の輸入ビールの中にはこの基準に合致しないために、本国ではビールに分類されていても日本では発泡酒扱いとされる商品も存在する。麦を使用しない発泡性の酒類には「[[その他の醸造酒]](発泡性)(1)」(旧法では「その他の雑酒(2)」)があり「[[第三のビール]]」と称するものがある。ビール、又は発泡酒に蒸留酒を組み合わせたものは「[[リキュール]](発泡性)(1)」に属する<ref name="hou"/>。 === ビアテイスト飲料 === 「[[ノンアルコールビール]]」と呼ばれた「[[ビールテイスト飲料]]」は、運転をする者や大人たちがビールを飲んで祝い事をする時の子どもたちの飲み物としても販売されている。これらの中にはホップを含まない甘いものもある。以前は「ノンアルコールビール」と呼ばれたが、[[キリンフリー]]など発酵していない商品を除いては、アルコール含有量はゼロではない。酒類に分類されるアルコール1%という基準を下回ってはいるが、たいていの商品はアルコール分を含んでいる。そのため、未成年者やアルコールに敏感な人の飲用や飲用後の運転は控えるよう呼びかけている。また飲食店や販売店においてはドライバーや未成年者への販売を拒否するケースも見られる。「ノンアルコール」という表現は誤解を招くという指摘もあり、日本の業界では名称を「ビアテイスト飲料」又は「[[ビールテイスト飲料]]」に改める動きが進んでいる。[[ホッピー]]はそれ自体はアルコール1%未満であるが、焼酎などの割り材とするのが一般的である。[[ルートビア]]は、ジンジャービアとも呼ばれる[[ジンジャーエール]]似の飲料で、[[こどもびいる]]という飲料も販売されている。<ref>{{Cite web|和書|title=商品シリーズ紹介 |url=https://www.tomomasu.co.jp/series |website=友桝飲料 |accessdate=2022-01-19 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{cite book|和書|author=吉澤淑・石川雄章・蓼沼誠|others=|title=醸造・発酵食品の事典|publisher=[[朝倉書店]]|year=2002|isbn=978-4-254-43109-4|ref=jouzou}} *{{cite book|和書|author=松山茂助|authorlink=松山茂助|others=|title=麦酒醸造学|publisher=[[東洋経済新報社]]|year=1970|ref=bakuchu}} == 関連項目 == {{wikiquote|ビール}} {{Commons|Beer}} [[File:Kegstand147.jpg|thumb|right|ケグ・スタンド{{enlink|Keg stand||en}}]] * [[国際苦味単位]] - ビールの苦味の単位 * [[スタイル (ビール)]] - ビールの分類法 * [[日本のビールの銘柄]] * [[ブルワリー]] - ビール工場 * [[ビアホール]]・[[ビアガーデン]] * [[ビール瓶]] * [[ビールジョッキ]] ** [[ビアグラス]] ** [[ビアマグ]] ** [[ビアタンブラー]] * [[地ビール]] * [[酒税]] * [[マイケル・ジャクソン (ライター)]] - ビールとウイスキーに関する著書を多数持つイギリス人ライター * [[ビール愛好者党]] - ロシア連邦の政党 * [[ビール券]] * [[ビアポン]] * [[ビールパン]] * [[ビールスープ]] * [[とりあえずビール]] - 宴席などで最初の一杯、または乾杯の酒として人数分のビールを注文する際の慣用句。 * [[日本ビアジャーナリスト協会]] * [[発泡酒]] * [[第三のビール]] *{{ill2|世界ビールデー|en|International Beer Day}} *[[ビール・ゴーグル効果]] *{{ill2|ビール売り子|en|Beer wench}} *{{ill2|ビールケース|en|Bottle crate}}、[[ケグ]](飲料用ケース) **{{ill2|ケグ・スタンド|en|Keg stand}} - [[アメリカ]]の学生の間で行なわれている、ビール樽の上に[[逆立ち]]したままノズルからビールを飲み、飲んだ量や時間の長さを競う[[ゲーム]]の一種。 == 外部リンク == {{外部リンクの注意|date=2014年12月|section=1}} * {{PDFlink|{{Wayback|url=https://www.jfftc.org/rule_kiyaku/pdf_kiyaku_hyouji/038.pdf |title=ビールの表示に関する公正競争規約 |date=20170217143014}}}} * [http://www.brewers.or.jp/ ビール酒造組合] * [https://yomu.beer/ 読むビール] * [https://www.kirin.co.jp/entertainment/daigaku/ キリンビール大学] - [[KIRIN]] * [http://www.beerhunter.com/beerstyles.html Michael Jackson's Beer Hunter - Beer Styles] * [https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kihon/sake/01.htm 酒税法] * [https://www.beerinjapan.com/bij/ Beer in Japan ビールイン日本]{{en icon}} * 『[http://www.kagakueizo.org/movie/education/48/ ビール誕生]』 - NPO法人・科学映像館Webサイトより *: [[1954年]]、[[サッポロビール]]の前身企業の一つである日本麦酒(戦後)の提供により東京シネマが制作した短編映画《現在、上記サイト内に於いて無料公開中》。 * {{Kotobank}} {{アルコール飲料}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひいる}} [[Category:ビール|*]] [[Category:古代メソポタミア]] [[Category:ドイツの酒]]
2003-03-20T08:48:03Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB
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1月15日
1月15日(いちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から15日目に当たり、年末まであと350日(閏年では351日)ある。
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1月15日(いちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から15日目に当たり、年末まであと350日(閏年では351日)ある。
{{カレンダー 1月}} '''1月15日'''(いちがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から15日目に当たり、年末まであと350日([[閏年]]では351日)ある。 == できごと == * [[69年]] - [[ローマ内戦 (68年-70年)|四皇帝の年]]: [[オト]]が[[ローマ帝国]]皇帝[[ガルバ]]と息子のピソを暗殺し、自ら皇帝に即位。 * [[1181年]]([[治承]]4年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[南都焼討]]。[[平重衡]]らが[[東大寺]]・[[興福寺]]などの仏教寺院を焼き払う<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20180105/mog/00m/040/009000c |title=涙越え実った輝ける文化 奈良市=「平家物語」奈良炎上の段 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=5 Jan 2018}}</ref>。 * [[1493年]] - [[クリストファー・コロンブス]]の最初の航海で、[[スペイン]]へ向け[[イスパニョーラ島]]を出航。 * [[1559年]] - イングランド女王[[エリザベス1世]]が[[ウェストミンスター寺院]]で{{仮リンク|エリザベス1世の戴冠式|en|Coronation of Elizabeth I|label=戴冠}}。 * [[1759年]] - [[大英博物館]]が一般向けに開館<ref>{{Cite web|和書 |url=https://gendai.media/articles/-/69712?page=1&imp=0 |title=1月15日 大英博物館が開館(1759年) |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[講談社]] |work=サイエンス 365days |date=15 Jan 2020}}</ref>。 * [[1777年]] - ニューコネチカット共和国([[バーモント共和国]])建国。 * [[1858年]]([[安政]]4年[[12月1日]]) - 南部藩士[[大島高任]]が盛岡藩大橋(現[[釜石市]])に日本初の西洋式高炉を建造。商用高炉として初めて製鉄に成功した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.conso.jp/pdf/techno/archives/a0300.pdf |title=わが国初期の洋式高炉 橋野高炉跡 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=財団法人 建材試験センター |website=建築研究開発コンソーシアム |format=[[PDF]]}}</ref>。 * [[1873年]] - [[学制]]に基づいた日本で最初の[[小学校]]、[[東京高等師範学校|東京師範学校]]附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校]])設立。 * [[1874年]] - 初代[[警視総監]](大警視)を任ぜられた[[薩摩藩]]出身の[[川路利良]]が[[警視庁 (内務省)|東京警視庁]]を創設。 * [[1890年]] - [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]のバレエ『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』が初演される。 * [[1919年]] - [[ドイツ革命]]後の[[ベルリン]]で[[ドイツ共産党]]の武装蜂起が失敗。 * [[1919年]] - [[ボストン糖蜜災害]]。 * [[1921年]] - [[三菱重工業|三菱造船]]の電機製作所が独立し、[[三菱電機]]が設立<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.mitsubishielectric.co.jp/100th/content/snapshots/0305_01.html |title=三菱電機誕生(1921年) |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[三菱電機]] |work=100 years of innovation. 三菱電機の伝記}}</ref>。 * [[1926年]] - [[京都学連事件]]で[[治安維持法]]が初適用。 * [[1927年]] - [[西濃鉄道]]が設立される。 * [[1936年]] - 日本が[[ロンドン海軍軍縮会議]]から脱退。 * [[1936年]] - [[中日ドラゴンズ]]の前身、[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]が誕生。 * [[1939年]] - [[東京高速鉄道]]・[[新橋駅]] - [[虎ノ門駅]]間が開通<ref>{{Cite web|和書 |url=https://metroarchive.jp/content/ginza.html/ |title=銀座線の歴史 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=公益財団法人 メトロ文化財団 |work=メトロ アーカイブ アルバム}}</ref>。 * 1939年 - 69連勝中の[[横綱]][[双葉山定次|双葉山]]が[[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]に敗れる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ozorabunko.jp/books/historypocket/read/p22.php |title=【相撲】双葉山 70連勝ならず〔昭和14年〕 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[大空出版]] |date=15 Jan 1939}}</ref>。 * [[1940年]] - [[静岡大火]]: [[静岡市]](現在の静岡市[[葵区]]、[[駿河区]])で火災が発生。焼失家屋5,000棟以上、2人が死亡、770人以上が負傷した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/3/ |title=静岡大火(1940年) |access-date=1 Aug 2023 |publisher=[[Yahoo! JAPAN|Yahoo!]]天気・災害}}</ref>。 * [[1943年]] - [[アメリカ国防総省]]庁舎[[ペンタゴン]]が完成。 * [[1947年]] - [[ブラック・ダリア事件]]: [[ロサンゼルス]]で「ブラック・ダリア」ことエリザベス・ショートの惨殺死体が発見される。 * [[1948年]] - 乳幼児虐待と配給物資の粉ミルクなどの横領容疑で寿産院の経営者夫妻を逮捕。([[寿産院事件]]) * 1948年 - 布哇(ハワイ)連合沖縄救済会、郷里へ豚を送る運動を始める<ref>https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/6229</ref> * [[1951年]] - この年から[[2000年]]まで、この日が[[お年玉付き年賀はがき]]お年玉くじの抽選日であった。 * [[1961年]] - [[横浜マリンタワー]]がオープン。世界一高い灯台としてギネスブックに掲載。 * [[1966年]] - [[スパリゾートハワイアンズ|常磐ハワイアンセンター]]がオープン。 * [[1967年]] - [[ロサンゼルス]]で[[第1回スーパーボウル]]が開催。 * [[1968年]] - [[飯田橋]]駅付近で[[学生運動]]の一隊と[[警視庁]]の[[機動隊]]が衝突、学生が多数検挙される[[飯田橋事件]]が発生。 * [[1969年]] - ソ連の有人宇宙船「[[ソユーズ5号]]」が打ち上げ。 * 1969年 - [[鹿児島夫婦殺し事件]]: 鹿児島県鹿屋市下高隈町で、農家の夫婦が殺害される。 * [[1974年]] - 南ベトナム海軍の哨戒艦リ・トン・キェトが哨戒中、甘泉島に[[中華人民共和国の国旗|中国国旗]]が掲揚されていることを発見。リ・トン・キェトは中国漁船に退去を命じ、陸上の中国国旗を狙って威嚇射撃を行った。[[西沙諸島の戦い]]の端緒。 * 1974年 - 長崎県・[[三菱石炭鉱業]]高島鉱業所の[[端島 (長崎県)|端島鉱]](軍艦島)が閉山<ref>{{Cite web|和書 |url=https://committees.jsce.or.jp/seibu_s01/system/files/37_0.pdf |title=世界遺産「軍艦島」の台風被害と桟橋復旧 |access-date=1 Aug 2023 |page=1(217) |publisher=土木学会}}</ref>。 * 1974年 - [[田中角栄]][[総理大臣]]の[[インドネシア]]訪問に合わせ、[[ジャカルタ]]で大規模な[[マラリ事件]]が発生。 * [[1985年]] - [[日本ラグビーフットボール選手権大会|ラグビー日本選手権]]で[[釜石シーウェイブス|新日鉄釜石]]が史上初の7連覇を達成。 * [[1992年]] - [[欧州経済共同体]]全加盟国と[[国際連合]]が[[クロアチア]]と[[スロベニア]]の[[ユーゴスラビア]]からの[[独立]]を承認。 * [[1993年]] - 北海道[[釧路沖地震]]: 釧路沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生し、釧路市で震度6を観測。この地震で2人が死亡、966人が負傷し、5,000棟以上の家屋が被災した。 * 1993年 - イタリア[[マフィア]]の大ボス・[[サルヴァトーレ・リイナ]]が24年の逃亡の末に逮捕される。 * [[2001年]] - [[ラリー・サンガー]]と[[ジミー・ウェールズ]]によって[[ウィキペディア]]が設立される。 * [[2002年]] - [[三和銀行]]と[[東海銀行]]が合併し、[[UFJ銀行]]が誕生<ref>{{Cite web|和書 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/040400287/040400001/ |title=みずほ銀行の失敗に学ぶ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=日経XTECH |date=13 Apr 2022}}</ref>。 * [[2007年]] - [[サッダーム・フセイン]]の異父弟で元[[イラク]]大統領顧問の[[バルザーン・イブラーヒーム・ハサン]]が処刑される。 * [[2009年]] - [[USエアウェイズ1549便不時着水事故]]。(ハドソン川の奇跡) * [[2016年]] - [[軽井沢スキーバス転落事故]]が発生し、15人が死亡<ref>{{Cite web|和書 |date=15 Feb 2016 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG15H2C_V10C16A2000000/ |title=軽井沢スキーバス転落事故から1カ月 運転ミスの見方強まる |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>。 * [[2019年]] - [[ケニア]]の首都、[[ナイロビ]]市内の複合施設が武装組織の襲撃を受け21人が死亡<ref>{{Cite web|和書 |date=17 Jan 2019 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3206761 |title=ケニアのホテル襲撃、死者21人に 9・11生き延びた米国人も犠牲 |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=16 Aug 2023 |work=AFP BB News}}</ref>。 * [[2020年]] - 日本で新型コロナウイルス([[SARSコロナウイルス2|COVID-19]])を初確認<ref>{{Cite web|和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20220115/ddm/010/040/015000c |title=新型コロナ国内初確認から2年 感染の「波」、収束見通せず 対策は不変 マスク・換気 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=15 Jan 2022}}</ref>。 * [[2021年]] - [[特別捜査部|東京地検特捜部]]は、[[吉川貴盛]]元農林水産大臣が、大臣在任中に大手鶏卵生産会社の秋田元代表から現金500万円の賄賂を受け取ったとして、収賄の罪で在宅起訴した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/51720.html |title=吉川貴盛元農相を 収賄罪で在宅起訴 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |format=15 Jan 2021}}</ref>。 * [[2022年]] - [[2022年のフンガ・トンガ噴火|フンガ・トンガ噴火]]: 南太平洋トンガ諸島の海底火山が大規模な噴火を起こす<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bosai.yomiuri.co.jp/feature/5685 |title=謎多いトンガ海底噴火詳報!大爆発や津波など専門家の解析まとめ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[読売新聞]] |website=防災ニッポン |date=8 Apr 2022}}</ref>。 * [[2023年]] - [[イエティ航空691便着陸失敗事故]]。 <!-- === 日本の自治体改編 === * [[1873年]] - [[八代県]]を[[白川県]]に併合。現在の[[熊本県]]の県域が確定する。 * [[1955年]] - 福井県[[鯖江市]]、大阪府[[河内市]](現在の[[東大阪市]]の一部)が市制施行。 * [[1959年]] - 大阪府[[羽曳野市]]が市制施行。 * [[1972年]] - 埼玉県[[八潮市]]が市制施行。 --> == 誕生日 == * [[1432年]] - [[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Afonso-V |title=Afonso V|king of Portugal |access-date=16 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[ポルトガル君主一覧|王]](+ [[1481年]]<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、335頁</ref>) * [[1481年]]([[文明 (日本)|文明]]12年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[足利義澄]]、[[室町幕府]]第11代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1511年]]) * [[1539年]]([[天文 (元号)|天文]]7年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[前田利家]]、[[武将]]、[[五大老]](+ [[1599年]]) * [[1622年]] - [[モリエール]]、[[劇作家]](+ [[1673年]]) * [[1694年]]([[元禄]]6年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[野呂元丈]]、[[本草学|本草学者]](+ [[1761年]]) * [[1737年]]([[元文]]元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[蜂須賀至央]]、[[徳島藩|徳島藩主]](+ [[1754年]]) * [[1744年]] - [[エベニーザー・ハザード]]、第3代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1817年]]) * [[1759年]]([[宝暦]]8年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[松平定信]]、[[江戸幕府]]の[[老中]]、[[白河藩|白河藩主]](+ [[1829年]]) * [[1782年]]([[天明]]元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[大久保忠真]]、[[小笠原藩|小笠原藩主]](+ [[1837年]]) * [[1790年]]([[寛政]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[毛利政明]]、[[清末藩|清末藩主]](+ [[1818年]]) * [[1794年]](寛政5年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[大岡忠固]]、[[岩槻藩|岩槻藩主]](+ [[1852年]]) * [[1791年]] - [[フランツ・グリルパルツァー]]、[[劇作家]](+ [[1872年]]) * [[1809年]] - [[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]、[[アナーキスト]](+ [[1865年]]) * [[1818年]]([[文化 (元号)|文化]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[毛利元運]]、[[長府藩|長府藩主]](+ 1852年) * [[1826年]]([[文政]]8年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[箕作秋坪]]、[[蘭学者]](+ [[1886年]]) * [[1848年]] - [[ラファエル・フォン・ケーベル]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1923年]]) * [[1850年]] - [[ソフィア・コワレフスカヤ]]、[[数学者]](+ [[1891年]]) * [[1858年]] - [[ジョヴァンニ・セガンティーニ]]、画家(+ [[1898年]]) * 1858年([[安政]]4年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[箕作佳吉]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1909年]]) * [[1859年]]([[安政]]5年[[12月12日]]) - [[坪井九馬三]]、歴史学者(+[[1936年]]) * [[1871年]](明治3年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[堺利彦]]、[[社会主義者]]、[[思想家]](+ [[1933年]]) * [[1881年]] - [[石原純]]、[[理論物理学者]]、[[歌人]](+ [[1947年]]) * [[1882年]] - [[長谷五郎]]、医者、柔術家(没年不詳) * [[1891年]] - [[レイ・チャップマン]]、プロ野球選手(+ [[1920年]]) * [[1892年]] - [[西條八十]]、[[詩人]]、仏文学者(+ [[1970年]]) * [[1893年]] - [[アイヴァー・ノヴェロ]]、作曲家、歌手、俳優(+ [[1951年]]) * [[1895年]] - [[重政庸徳]]、[[政治家]](+ [[1977年]]) * [[1897年]] - [[黒川利雄]]、[[医学者]](+ [[1988年]]) * [[1899年]] - [[赤尾敏]]、[[政治家]] (+ [[1990年]]) * [[1900年]] - [[加藤かけい]]、俳人(+[[1983年]]) * [[1905年]] - [[藤原釜足]]、[[俳優]](+ [[1985年]]) * [[1908年]] - [[エドワード・テラー]]、[[核物理学|核物理学者]](+ [[2003年]]) * [[1909年]] - [[中村武志 (小説家)|中村武志]]、[[小説家]](+ [[1992年]]) * [[1911年]] - [[森一生]]、[[映画監督]](+ [[1989年]]) * [[1913年]] - [[高橋磌一]]、歴史学者(+[[1985年]]) * [[1915年]] - [[高橋秀俊]]、[[物理学者]](+ [[1985年]]) * [[1917年]] - [[牧野潔]]、元[[プロ野球選手]] * [[1918年]] - [[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]、第2代[[近代エジプトの国家元首の一覧|エジプト大統領]](+ 1970年) * [[1921年]] - [[坂元義一]]、元プロ野球選手(+ [[1995年]]) * [[1922年]] - [[清田十一]]、元調教師、元騎手(+[[1994年]]) * [[1923年]] - [[李登輝]]、第8、9代[[中華民国総統]](+[[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62114120Q0A730C2000000/ |title=台湾元総統・李登輝氏が死去 「民主化の父」 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=30 Jul 2020}}</ref>) * 1923年 - [[橋元親]]、柔道家(+[[2000年]]) * 1923年 - [[鵜飼勉]]、元プロ野球選手 * 1923年 - [[杉江文二]]、元プロ野球選手 * [[1924年]] - [[後藤次男]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20160602-EY3WEJJ43RP4XLQVMNJ6ULTIQM/ |title=元阪神監督の後藤次男氏死去、92歳 「クマさん」で親しまれ |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=2 Jun 2016}}</ref>) * [[1926年]] - [[鬼頭梓]]、建築家(+[[2008年]]) * 1926年 - [[マリア・シェル]]、[[俳優|女優]](+ [[2005年]]) * [[1929年]] - [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]、公民権運動指導者(+ [[1968年]]) * 1929年 - [[久保亘]]、政治家(+ [[2003年]]) * [[1930年]] - [[新珠三千代]]、女優(+ [[2001年]]) * [[1931年]] - [[瀧島未香]]、[[フィットネス]][[インストラクター]] * [[1932年]] - [[今江祥智]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG20H8K_Q5A320C1CZ8000/ |title=今江祥智氏が死去 児童文学者「ぼんぼん」 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=20 Mar 2015}}</ref>) * 1932年 - [[脇村春夫]]、元[[日本高等学校野球連盟]]会長 * [[1933年]] - [[青山俊董]]、作家、尼僧 * [[1935年]] - [[山田利昭]]、元プロ野球選手(+ 2001年) * [[1936年]] - [[大野松茂]]、政治家 * [[1937年]] - [[河野洋平]]、政治家、第71、72代[[衆議院議長]] * 1937年 - [[本田忠彦]]、政治家、実業家 * 1937年 - [[伊藤則旦]]、元プロ野球選手 (+ [[2023年]]) * 1937年 - [[コシノヒロコ]]、[[ファッションデザイナー]] * 1937年 - [[マーガレット・オブライエン]]、女優 * [[1938年]] - [[冨士眞奈美]]、女優 * 1938年 - [[益田昭雄]]、元プロ野球選手 * 1938年 - [[神楽坂浮子]]、[[うぐいす芸者歌手|芸者歌手]](+ [[2013年]]) * [[1940年]] - [[西野陽]]、政治家 * 1940年 - [[鶴橋康夫]]、テレビディレクター、映画監督(+ [[2023年]]) * 1941年 - [[石山雄大]]、俳優 * 1940年 - [[大野しげひさ]]、俳優、[[司会|司会者]] * 1941年 - [[高橋元太郎]]、俳優 * 1941年 - [[伊東恒久]]、脚本家(+[[2021年]]) * 1941年 - [[木原征治]]、元フィールドホッケー選手・指導者(+[[2018年]]) * [[1942年]] - [[岡本おさみ]]、[[作詞家]](+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=作詞家・岡本おさみさんが死去 「旅の宿」「襟裳岬」など |url=https://www.oricon.co.jp/news/2064055/full/ |website=[[ORICON NEWS]] |access-date=16 Aug 2023 |date=17 Dec 2015}}</ref>) * [[1943年]] - [[高橋千劔破]]、作家 * 1943年 - [[富樫練三]]、政治家 * 1943年 - [[望月彦男]]、元プロ野球選手 * 1943年 - [[樹木希林]]、女優(+ [[2018年]]) * [[1945年]] - [[大崎昭一]]、[[競馬評論家]]、元[[騎手]] * 1945年 - [[落合恵子]]、[[作家]]、[[アナウンサー]] * [[1946年]] - [[新海丈夫]]、俳優 * 1946年 - [[仙谷由人]]、[[政治家]]、[[弁護士]](+ [[2018年]]) * [[1947年]] - [[トニー・ソレイタ]]、元プロ野球選手(+ [[1990年]]) * [[1948年]] - [[宮本悦朗]]、歌手 * 1948年 - [[岡和男]]、声優(+[[2021年]]) * [[1949年]] - [[須山成二]]、元プロ野球選手 * 1949年 - [[杏真理子]]、歌手(+ [[1974年]]) * 1949年 - [[ボビー・グリッチ]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[井口成人]]、俳優、[[声優]] * [[1952年]] - [[ジョージ・ブレー]]、[[心理学者]](+ [[2021年]]) * [[1953年]] - [[森田童子]]、[[シンガーソングライター]](+ [[2018年]]) * 1953年 - [[西久保瑞穂]]、[[アニメーション監督]] * [[1954年]] - [[大石友好]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[田中真弓]]、声優 * 1955年 - [[佐々木修 (指揮者)|佐々木修]]、指揮者、経営者 * 1955年 - [[仲間一]]、政治家 * [[1956年]] - [[佐々木晶三]]、調教師、元騎手 * 1956年 - [[藤村美樹]]、元歌手(元[[キャンディーズ]]) * [[1957年]] - [[石井岳龍]]、映画監督 * 1957年 - [[川三番地]]、[[漫画家]] * [[1958年]] - [[落合恵美子]]、社会学者 * 1958年 - [[宮崎緑]]、[[ジャーナリスト]] * 1958年 - [[高橋由佳利]]、漫画家 * 1958年 - [[桂三歩]]、落語家 * [[1959年]] - [[田原成貴]]、元[[調教師]]、元[[騎手]] * [[1960年]] - [[白石高司]]、政治家 * [[1961年]] - [[島英津夫]]、俳優 * [[1962年]] - [[石原良純]]、[[タレント]]、[[気象予報士]] * 1962年 - [[パスカル・ネミロフスキ]]、[[ピアニスト]] * 1962年 - [[町田康]]、[[小説家]]、[[詩人]] * [[1963年]] - [[松井章圭]]、元[[空手道]]選手、[[実業家]] * 1963年 - [[アーリング・カッゲ]]、[[探検家]] * [[1964年]] - [[源五郎丸洋]]、元プロ野球選手 * 1964年 - [[ジェフ・バニスター]]、元プロ野球選手、監督 * 1964年 - [[水橋文美江]]、[[脚本家]] * 1964年 - [[水本啓史]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[三柴理]]、[[ピアニスト]] * [[1966年]] - [[村上聖]]、ベーシスト * [[1967年]] - [[大江弘明]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[清水香織 (歌手)|清水香織]]、[[歌手]]、タレント * 1969年 - [[西村香織]]、ジャズ歌手、元アナウンサー * 1968年 - [[宮沢天]]、俳優 * 1969年 - [[影丸茂樹]]、俳優 * 1969年 - [[雨宮正武]]、声優、音響監督 * 1969年 - [[志岐幸子]]、感性工学研究者 * 1969年 - [[デライノ・デシールズ]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[シェイン・マクマホン]]、[[プロレスラー]] * [[1973年]] - [[オーレリー・デュポン]]、[[バレエ]]ダンサー * 1973年 - [[クリストファー・カンバーランド]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[小磯典子]]、[[バスケットボール選手]] * 1974年 - [[内舘秀樹]]、[[サッカー選手]] * [[1977年]] - [[石毛克幸]]、競輪選手 * 1975年 - [[水原大樹]]、サッカー選手 * 1975年 - [[マリー・ピエルス]]、プロ[[テニス]]選手 * 1975年 - [[吉田道]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[森岡克司]]、[[ベーシスト]] * 1977年 - [[ジョルジャ・メローニ]]、政治家、[[イタリア首相]] * [[1978年]] - [[山崎バニラ|山﨑バニラ]]、女優、声優、[[活動弁士]] * 1978年 - [[中村浩士 (競輪選手)|中村浩士]]、競輪選手 * 1978年 - [[小林ゆり子]]、元アナウンサー * [[1979年]] - [[朱孝天]]、歌手([[F4 (ユニット)|F4]]) * 1979年 - [[趙全勝]]、野球選手 * 1979年 - [[アレクセイ・ソコロフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1979年 - [[ドリュー・ブリーズ]]、アメリカンフットボール選手 * [[1980年]] - [[松岡理恵 (アナウンサー)|松岡理恵]]、ラジオパーソナリティ、画家、元アナウンサー * 1980年 - [[マット・ホリデイ]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[エル=ハッジ・ディウフ]]、サッカー選手 * 1981年 - [[ピットブル (ラッパー)|ピットブル]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]] * [[1982年]] - [[栗羽美来]]、タレント、[[モデル (職業)|モデル]] * 1982年 - [[ベンジャミン・アゴスト]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1982年 - [[アーマンド・ガララーガ]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[繁田美貴]]、[[アナウンサー]] * 1984年 - [[代永翼]]、[[声優]] * [[1985年]] - [[鈴木誠 (1985年生の投手)|鈴木誠]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[藤原紘通]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[クララ (女優)|クララ]]、女優 * [[1986年]] - [[中西沙綾]]、アナウンサー * 1986年 - [[稲葉智美]]、ラジオパーソナリティ * 1986年 - [[倉田悠貴]]、声優 * 1986年 - [[原裕美子 (モデル)|原裕美子]]、[[ファッションモデル]] * 1986年 - [[ユリア・カルボフスカヤ]]、フィギュアスケート選手 * [[1987年]] - [[龍輝]]、俳優 * 1987年 - [[マジシャンSIN]]、プロマジシャン * [[1988年]] - [[矢地健人]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[キャンディス・ディディエ]]、元フィギュアスケート選手 * 1988年 - [[Jun.K]]、アイドル([[2PM]]) * 1988年 - [[スクリレックス]]、歌手 DJ ミュージシャン * [[1989年]] - [[キーファー・ハベル]]、元フィギュアスケート選手 * [[1990年]] - [[三浦葵]]、[[ファッションモデル]]、女優 * 1990年 - [[石津大介]]、サッカー選手 * 1990年 - [[モハメド・カマル]]、[[キックボクサー]] * [[1991年]] - [[村上大介]]、元フィギュアスケート選手 * 1991年 - [[桐山瑠衣]]、グラビアアイドル * 1991年 - [[アリサ・アガフォノヴァ]]、アイスダンス選手 * 1991年 - [[ダリヤ・クリシナ]]、陸上選手 * [[1992年]] - [[花城黒和]]、漫画家 * 1992年 - [[高橋成美]]、元フィギュアスケート選手 * 1992年 - [[チチ・ゴンザレス]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[花城黒和]]、漫画家 * [[1993年]] - [[吉岡里帆]]、女優 * 1993年 - [[チョン・ヨンフン]]、歌手([[HALO (音楽グループ)|HALO]]、[[ORβIT]]) * [[1994年]] - [[篭島優輝]]、ラグビー選手 * 1994年 - [[小林大誠]]、元プロ野球選手 * 1994年 - [[伊東紗冶子]]、元グラビアアイドル、タレント、フリーアナウンサー * 1994年 - [[山下正揮]]、俳優 * 1994年 - ヒョンウォン、アイドル([[MONSTA X]]) * [[1995年]] - [[井上綾香]]、サッカー選手 * 1995年 - [[菊池勇成]]、声優 * [[1996年]] - [[菊池純礼]]、スピードスケート選手、ショートトラック選手 * 1996年 - [[ダヴ・キャメロン]]、女優、歌手 * [[1997年]] - [[佐藤龍世]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[五嶋京香]]、サッカー選手 * 1997年 - [[橘井友香]]、バレーボール選手 * 1997年 - [[稗田寧々]]、声優 * 1997年 - [[古川優香]]、[[YouTuber]] * 1997年 - [[上野純輝]]、元プロ野球選手 * [[1998年]] - [[児野楓香]]、サッカー選手 * 1998年 - [[大谷舞風]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * 1998年 - ジュヨン、アイドル([[THE BOYZ|THE BOYS]]) * [[1999年]] - [[加藤美南]]、YouTuber、元アイドル(元[[NGT48]]) * 1999年 - [[大江竜聖]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[長井良太]]、元プロ野球選手 * [[2001年]] - [[工藤菫]]、アイドル、女優 * [[2004年]] - 平松聖菜、アイドル([[HelloYouth]]) * [[2005年]] - 清水理央、アイドル([[日向坂46]]) * [[2011年]] - [[大野遥斗]]、子役 * 生年不明 - [[桐谷蝶々]]、声優 * 生年不明 - [[山岸功]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=11564 |title=山岸 功 |publisher=俳協 |accessdate=16 Aug 2023}}</ref>、声優 == 忌日 == * [[69年]] - [[ガルバ]]、[[ローマ皇帝]](* [[紀元前3年]]) * [[1455年]] - [[上杉憲忠]]、[[関東管領]](* [[1433年]]) * [[1595年]] - [[ムラト3世]]、[[オスマン帝国]]第12代[[スルタン]](* [[1546年]]) * [[1643年]] - [[立花宗茂]]、初代[[柳河藩|柳河藩主]](* [[1567年]]) * [[1684年]] - [[カスパル・ネッチェル]]、[[画家]](* [[1639年]]) * [[1701年]] ([[元禄]]13年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[丹羽長之]]、第6代[[二本松藩|二本松藩主]] (+ [[1656年]]) * [[1775年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ]]、[[作曲家]](* [[1698年]]頃) * [[1781年]] - [[マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーン]]、[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ポルトガル王ジョゼ1世]]の妃(* [[1714年]]) * [[1835年]] - [[テレーズ・カバリュス]]、[[フランス]]の[[貴族]](* [[1773年]]) * [[1855年]] - [[アンリ・ブラコノー]]、[[化学者]]、[[薬剤師]](* [[1780年]]) * [[1861年]] - [[ヘンリー・ヒュースケン]]、駐日アメリカ[[総領事館]]の[[通訳]](* [[1832年]]) * [[1869年]] - [[土井利忠]]、第7代[[大野藩|大野藩主]](* [[1811年]]) * [[1890年]] - [[宮地常磐]]、潮江天満宮神主(* [[1819年]]) * [[1895年]] - [[有栖川宮熾仁親王]]、[[皇族]](* [[1835年]]) * [[1904年]] - [[丹羽長国]]、第13代[[二本松藩|二本松藩主]] (* [[1834年]]) * [[1906年]] - [[楢崎龍]]、[[坂本龍馬]]の妻(* [[1841年]]) * [[1919年]] - [[ジェローム・E・コッジャ]]、[[天文学者]](* [[1849年]]) * 1919年 - [[カール・リープクネヒト]]、社会民主主義思想家(* [[1871年]]) * 1919年 - [[ローザ・ルクセンブルク]]、革命家(* 1871年) * [[1926年]] - [[小栗風葉]]、[[小説家]](* [[1875年]]) * [[1929年]] - [[イェールハルド・ムンテ]]、[[画家]](* [[1849年]]) * [[1934年]] - [[ヘルマン・バール]]、小説家、[[劇作家]]、[[評論家]](* [[1863年]]) * [[1943年]] - [[田渕豊吉]]、[[国会議員|衆議院議員]](* [[1882年]]) * [[1944年]] - [[野口遵]]、[[実業家]]、[[日窒コンツェルン]]創業者(* [[1873年]]) * [[1948年]] - [[アンリ・デランドル]]、天文学者(* [[1853年]]) * [[1949年]] - [[陸徴祥]]、[[中華民国]]の[[外交官]]、第2代[[中華民国の首相|内閣総理]](* [[1871年]]) * [[1950年]] - [[ヘンリー・アーノルド]]、[[アメリカ空軍]][[元帥]](* [[1886年]]) * [[1955年]] - [[イヴ・タンギー]]、[[画家]](* [[1900年]]) * [[1967年]] - [[ダヴィド・ブルリューク]]、[[画家]](* [[1882年]]) * [[1968年]] - [[レオポルト・インフェルト]]、[[物理学者]](* [[1898年]]) * 1968年 - [[奥野信太郎]]、[[中国文学|中国文学者]]、[[随筆家]](* [[1899年]]) * [[1970年]] - [[謝雪紅]]、[[台湾民主自治同盟]]初代主席(* [[1901年]]) * [[1972年]] - [[エアハルト・ミルヒ]]、[[軍人]](* [[1892年]]) * [[1976年]] - [[仮谷忠男]]、[[建設大臣]](* [[1913年]]) * [[1983年]] - [[マイヤー・ランスキー]]、[[ギャング]](* [[1902年]]) * [[1994年]] - [[ハリー・ニルソン]]、[[作曲家|ソングライター]]、[[歌手]](* [[1941年]]) * [[1995年]] - [[坂元義一]]、[[プロ野球選手]](* [[1921年]]) * [[1998年]] - [[ジュニア・ウェルズ]]、[[ブルース]][[歌手|シンガー]]、[[ハーモニカ]]奏者(* [[1934年]]) * [[2003年]] - [[ビビ=アンネ・フルテン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1911年]]) * [[2005年]] - [[ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス]]、[[ソプラノ]]歌手(* [[1923年]]) * [[2006年]] - [[舟橋和郎]]、[[脚本家]](* [[1919年]]) * 2006年 - [[ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ]]、[[クウェート]]の[[アミール]](* [[1926年]]) * 2006年 - [[小沢章一]]、高校野球指導者(* [[1964年]]) * [[2007年]] - [[薄一波]]、[[政治家]](* [[1908年]]) * 2007年 - [[アワド・ハマド・バンダル]]、元イラク革命裁判所長官(* [[1945年]]) * 2007年 - [[バルザーン・イブラーヒーム・ハサン]]、元国連ジュネーヴ本部大使(* [[1951年]]) * [[2008年]] - [[田口鋹雄]]、[[日本中央競馬会]]理事(* [[1926年]]) * 2008年 - [[青山五郎]]、[[実業家]]、[[青山商事]]創業者(* [[1930年]]) * 2008年 - [[ブラッド・レンフロ]]、[[俳優]](* [[1982年]]) * [[2009年]] - [[金益鉉]]、[[軍人]]、[[政治家]](* [[1922年]]) * [[2010年]] - [[武宮敏明]]、元プロ野球選手(* [[1921年]]) * [[2012年]] - [[坂井宏朱]]、オートレース選手(* [[1984年]]) * [[2013年]] - [[大島渚]]、[[映画監督]](* [[1932年]]) * 2013年 - [[チューチョ・カスティーヨ]]、プロボクサー(* [[1944年]]) * 2013年 - [[荒砂任司]]、元プロ野球選手(* [[1935年]]) * [[2015年]] - [[大塚周夫]]、俳優、声優(* [[1929年]]) * [[2017年]] - [[ジミー・スヌーカ]]、[[プロレスラー]](* [[1943年]]) * [[2018年]] - [[ドロレス・オリオーダン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3188739 |title=クランベリーズのボーカル、死因は入浴中の水死 |date=2018-09-07 |accessdate=16 Aug 2023 |work=[[フランス通信社|AFP]] BB News}}</ref>、シンガーソングライター([[クランベリーズ]])(* [[1971年]]) * [[2023年]] - [[三谷昇]]、俳優(* [[1932年]]) == 記念日・年中行事 == * [[小正月]]({{JPN}}) *: [[1月1日]]の大正月に対し、今日1月15日を中心にした数日を言う。[[豊作]]祈願などの[[農業]]に関連した行事をしたり、[[なまはげ]]などの[[年中行事|行事]]を行って[[病気]]や厄災を払う[[地方]]もある。 * [[盛岡八幡宮]]「裸参り」({{JPN}}) *: [[岩手県]][[盛岡市]]で行われる、無病息災、厄払いを祈願する行事。藩政時代からの伝統行事で、晒しに注連縄、わらじ姿の男たちが、団体毎に50m程度の隊列を組み、盛岡八幡宮に参詣する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.odette.or.jp/?p=1166 |title=裸参り |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[盛岡市]]・盛岡観光コンベンション協会}}</ref>。 * むこ投げすみ塗り({{JPN}}) *: [[新潟県]][[十日町市]]で行なわれる伝統行事。「むこ投げ」は、[[松之山温泉]]にある薬師堂の高さ5メートル程ある境内から、前年に結婚した初婿を雪の斜面へ投げ落とす。「すみ塗り」は「賽の神」という神事(別名[[左義長|どんど焼き]])で、灰と雪を混ぜ、お互いの顔に「おめでとう」と言いながら塗りあう、無病息災・家業繁栄を願う行事<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tokamachishikankou.jp/event/mukonagesuminuri/ |title=むこ投げ・すみ塗り |access-date=16 Aug 2023 |publisher=一般社団法人 十日町市観光協会}}</ref>。 * 青海の竹のからかい({{JPN}}) *: [[新潟県]][[糸魚川市]]大字青海の東町と西町に江戸時代から続く五穀豊穣や除災招福・家内安全を願う行事。隈取りをした若い衆などが、東町と西町に分かれて2本の竹を力強く引き合う。その後は、浜で「さいの神焼き」を行う<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jtco.or.jp/bunkakan/?act=detail&id=90&p=0&c=19 |title=青海の竹のからかい |access-date=16 Aug 2023 |publisher=日本伝統文化振興機構}}</ref>。 * 野沢温泉「道祖神まつり」({{JPN}}) *: [[長野県]][[野沢温泉村]]で江戸時代から行なわれている火祭り。この日までに築いた「社殿」をめぐり、厄年以外の村の男たちが火付け役、厄年の男たちが火消し役となって攻防戦を展開する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://nozawakanko.jp/record/dosojin/ |title=野沢温泉の道祖神祭り |access-date=16 Aug 2023 |publisher=野沢温泉観光協会}}</ref>。 * [[七百餘所神社]]「村上の神楽」({{JPN}}) *: [[千葉県]][[八千代市]]の七百余所神社の神楽殿で、神楽が奉納される。村上の神楽は、出雲系の神楽の流れで、神話をもとに、農耕村落の五穀豊穣と平安を祈念する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chibanippo.co.jp/siteseeing/20156/01/295419 |title=村上の神楽/七百余所神社(八千代市) |access-date=16 Aug 2023 |publisher=[[千葉日報]] |date=25 Dec 2015}}</ref>。 * [[砥鹿神社]]奥宮「粥占祭」({{JPN}}) *: [[愛知県]][[豊川市]]の砥鹿神社奥宮で行われる占いの神事。粥を神水で炊き、その中へ27種類の農作物・海産物の名前を彫った竹の管を入れてかき混ぜ、中につまった粥の量からその作物の出来不出来を占う<ref>{{Cite web|和書 |url=https://aichinavi.jp/spots/detail/1930/ |title=粥占祭(砥鹿神社奥宮) |access-date=16 Aug 2023 |publisher=一般社団法人愛知県観光協会 |website=あいち観光ナビ}}</ref>。 * [[成人の日]]({{JPN}}、[[1948年]] - [[1999年]]) *: [[国民の祝日]]の一つ。祝日法の改正([[ハッピーマンデー制度|ハッピーマンデー]])により、2000年からは1月の第2[[月曜日]](8日 - 14日)となり、現在の法律ではこの日が成人の日に該当しなくなった。 * 警視庁創立の日({{JPN}}) *: [[1874年]]1月15日に[[警視庁 (内務省)|東京警視庁]](現在の[[警視庁]])が創設されたことに由来。 * いちごの日({{JPN}}) *: 全国[[イチゴ|いちご]]消費拡大協議会が「いいいちご」の語呂合わせで記念日として定めている。 * 半襟の日({{JPN}}) *: 京都半衿風呂式和装卸協同組合が制定。襟を正す正月であり、この日がかつて「成人の日」であったことから、和装に縁のあるこの日を記念日とした。 * [[三元|上元]]({{PRC}}) *: 中国の道教の行事「三元」のひとつ。旧暦1月15日が上元で、福を与える「賜福」になる。上元の日の朝に小豆粥を食べて、その年の疫を避けるという習わしがあった。 * [[ジョン・チレンブウェ]]の日({{MWI}}) *: [[マラウイ]]の最初の独立活動家[[ジョン・チレンブウェ]]を記念する日。 * [[ハングルの日|チョソングルの日]]({{PRK}}) *: 世宗25年12月(ユリウス暦[[1444年]]1月)に[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が「[[訓民正音]]」を作成したことから、1月の中間の日を記念日とした。 * [[Wikipedia:ウィキペディアの日|ウィキペディアの日]] *: [[2001年]]の今日、百科事典[[ヌーペディア]]に関連し、wikipedia.comにおいて[[ウィキペディア]]が立ち上げられた。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0115|date=May 2023}} * [[1947年]](昭和22年)- 東京[[銀座]]の宝石店・天銀堂で強盗殺人事件が発生。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』) * [[2046年]] - グレイス=フィールドハウス・第3飼育場で火災発生、5歳以上の食用児15名が脱走。(漫画『[[約束のネバーランド]]』) * [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[一年戦争#ルウム戦役|ルウム戦役]]([[1月16日|16日]]まで)。[[レビル]]中将(当時)が[[ジオン公国|ジオン軍]]の[[捕虜]]になる。また、この戦役で[[シャア・アズナブル]]中尉(当時)は[[サラミス (ガンダムシリーズ)|サラミス]]級4隻、[[マゼラン (ガンダムシリーズ)|マゼラン]]級1隻を撃沈し、連邦将兵から「赤い彗星」とおそれられる。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』) * 年不明 - [[原子力潜水艦]]「[[やまと (沈黙の艦隊)|やまと]]」を争点にした[[衆議院議員総選挙]]の投票日。(漫画『[[沈黙の艦隊]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1917年]] - 鴨川源二、漫画『[[はじめの一歩]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ippo_fs|1323203196035084288}}</ref> * [[1992年]] - 秋山澪、漫画・アニメ『[[けいおん!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://gs.dengeki.com/news/18918/ |title=『けいおん!』秋山澪バースデー記念Tシャツ&つつまれストラップセットをご紹介! |access-date=1 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |date=17 Jan 2015 |website=電撃ジーズマガジン ドットコム}}</ref> * [[2034年]] - レイ、漫画・アニメ『[[約束のネバーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=白井カイウ|authorlink1=白井カイウ|author2=出水ぽすか|authorlink2=出水ぽすか|year=2020 |title=シークレットバイブル 約束のネバーランド 0 MYSTIC CODE |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|page=46|isbn=978-4-08-882462-8}}</ref> * 生年不明 - 松之山棚美、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/matsunoyama_tanami |title=松之山棚美 |access-date=16 Aug 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 美樹、漫画・アニメ『[[シティーハンター|シティハンター]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|cityhunter100t|1317767155199467521}}</ref> * 生年不明 - 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酒(さけ)は、エタノール(アルコールの一種)が含まれた飲料の総称。原料をアルコール発酵させて得る醸造酒、それから造られる蒸留酒などに大別され、原料や酵母、製法などの違いによる多様な酒が世界各地にある。 酒を飲むことを飲酒といい、アルコールは抑制作用を有するため、飲酒はヒトに酩酊(酒酔い)を引き起こす。 日本語では丁寧な呼び方として御酒(おさけ、ごしゅ、おささ、みき)もよく用いられ、酒類(しゅるい、さけるい) やアルコール飲料(アルコールいんりょう)、またソフトドリンクに対して「ハードドリンク」とも呼ばれることがある。西洋ではワインに相当する言葉が総称として用いられることがある。 酒は人類史において最古から存在する向精神薬の一つである。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった。 酒の歴史は古く、有史以前から作られていたと見られている(→#歴史)。 製造方法・原料・味わいなどは非常に多種多様であり、分類方法も同様である(→#種類)。 原料は多くの場合、ブドウやリンゴなどの果実、大麦や米などの穀物、イモなどの根菜のいずれかが使われる(→#原料)。 効用としてはストレスの解消、コミュニケーションの円滑化、疲労回復が挙げられる(→#効用)。そしてヒトの脳を萎縮させ、時に違法薬物を上回ると言われる最も有害な薬物であり、世界で毎年250万人の死亡につながり死因の4%を占める。作用量と致命的な量が近く急性アルコール中毒になりやすい薬物であり、アルコール乱用や、禁断症状が致命的な振戦せん妄となりうるアルコール依存症となることもあり、アルコール飲料はIARC発がん性でグループ1(発がん性あり)にも分類される(→#健康への影響)。 アメリカ合衆国では飲酒による死因の14%が運転事故、8%が他殺、7%が自殺、5.6%が転落死を占める(→#飲酒と社会)。またその効用も副作用も、(主に遺伝的な)個人差が大きいことで知られる。 このように及ぼす影響が大きいため、2010年に世界保健機関(WHO)の「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」が採択されており、また政府の税収確保のため、酒の製造および流通(販売)は、多くの国において法律により規制されている(→#法律)。宗教ごとに酒の扱いは異なっており、儀式に用いられたり、神への捧げ物とされていたり、また身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされていたりする。宗教によっては、飲酒を禁じているものもある(→#宗教と酒)。 酒の歴史は非常に古く、先史時代(文字で歴史が記録される以前)から作られた。 最古の酒とされている蜂蜜酒(ミード)は農耕が始まる以前から存在し、およそ1万4千年前に狩人がクマなどに荒らされて破損した蜂の巣に溜まっている雨水を飲んだことが始まりとされている。 南米、アジア、アフリカのごく一部で現在も行われている、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や甕に吐き出し集め発酵を待つという原始的な酒造法が低アルコールながら有史以前に広まっており、古代日本でも巫女がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説がある(「口噛み酒」参照)。 2004年12月、中国で紀元前7000年頃の賈湖(かこ)遺跡(en)から出土した陶器片を分析したところ、米・果実・蜂蜜などで作った醸造酒の成分が検出されたという報告があった。いまのところこれが考古学的には最古の酒である。 古代オリエント世界では、紀元前5400年頃のイラン北部ザグロス山脈のハッジ・フィルズ・テペ(英語版)遺跡から出土した壺の中に、ワインの残滓が確認された。また紀元前3000年代には、シュメールの粘土板にビールのことが記録されている。シュメールの後を継いだバビロニアで、最古の成文法であるハンムラビ法典の中にビール売りに関する規定が記されている(第108条 - 第110条)。 古代エジプトでは紀元前2700年頃までにはワインが飲まれていた。ツタンカーメン王の副葬品の壺からはワインが検出されている。またビールも広く飲まれていた。エジプトのピラミッド工事の労働者にはビールが支給されていた。オリエント世界ではブドウの育つ場所が限られるので、ワインは高級な飲み物であり、ビールはより庶民的な飲み物だった。 中国大陸において殷・周の時代、酒は国家の重要事である祝祭において重要な意味を持っていた。非常に手の込んだ器である殷代青銅器のうち、多くのものは酒器である。 『論語』には「郷人で酒を飲む(村の人たちで酒を飲む)」などの記述があり、紀元前5世紀頃には一般的な飲み物になっていた。 古代ギリシアや古代ローマは、ブドウの産地ということもあり、ワインが多く生産された。それらはアンフォラと呼ばれる壺に入れられて、地中海世界で広く交易されていた。酒の神ディオニューソス(ローマではバッカス)が信仰され、酒神を讃える祭りが行われた。 酒を蒸留する技術は、3世紀頃のアレクサンドリアの錬金術師たちには、既に知られていたと推測される。 ローマ帝国は、ブリタンニア属州(現代のイギリス南部)をはじめヨーロッパの各地を支配下に収め、その過程でワイン生産の技術を伝えた。フランスのボルドーやブルゴーニュでは、その頃からワインの製造が始まっている。なおイギリスは、気候の低温化によりブドウが栽培できなくなり、ワイン生産は廃れた。 10世紀以前には蒸留酒が発明されていた。それは錬金術師が偶然に作り出したものだといわれる。ラテン語で蒸留酒はアクア・ヴィテ(生命の水)と呼ばれた。それが変化してフランス語でオード・ヴィー、ゲール語でウシュクベーハーになり、今日の様々な蒸留酒の区分ができた。 1171年、ヘンリー2世の軍隊がアイルランドに侵攻した。その時の記録によると、住民は「アスキボー」という蒸留酒を飲んでいたという。これがウイスキーの語源となる。 日本の沖縄(当時は琉球)では、若い女性が口の中で噛み砕いた木の実を唾液とともに吐き出し、それを醗酵させた口噛み酒を中国の使節へ供したという記録がある。 糖分、もしくは糖分に転化されうるデンプン分があるものは、酒の原料になりうる。脂肪やタンパク質が多いもの(たとえば大豆などの豆類)は原料に向かない。 酒に含まれるアルコール分はほとんどの場合、酵母などの菌によって、糖のアルコール発酵が行われる。テキーラは酵母ではなくザイモモナスと呼ばれる細菌をアルコール発酵に使用している)。 しかし、麦・米・芋などの穀物類から造る酒の場合、原材料の中の炭水化物はデンプンの形で存在しているため、先にこれを糖に分解(糖化)する。糖化のためにはアミラーゼ等の酵素が必要である。酵素の供給源として、西洋では主に麦芽が、東洋では主に麹が使われる。 このほか、通常は飲料や食材として扱われていなくても、含有している糖分をアルコール発酵させれば酒は造れる。日本の森林総合研究所は、木材を細かく破砕してリグニンに保護されていたセルロースを露出させて酵素により糖に変え、樹種により味・香りが異なる酒を造る製法を開発した。 酒は大きく分けて醸造酒、蒸留酒、混成酒に分かれる。醸造酒は単発酵酒と複発酵酒に分けられ、複発酵酒は単行複発酵酒と並行複発酵酒に分けられる。 蒸留酒のうち、樽熟成を行わないものをホワイトスピリッツ、何年かの樽熟成で着色したものをブラウンスピリッツとする分類法がある。ただし、テキーラ、ラム、アクアビットなどではホワイトスピリッツとブラウンスピリッツの両方の製品があり、分類としては本質的なものではない。 なお、全ての酒が上記いずれかに含まれるわけではない。例えばアイスボックビール は、醸造後にアルコール分を高める手順があるため醸造酒とは言いがたいが、その手順が蒸留ではない(凍結濃縮)ため蒸留酒でもない。また、凍結濃縮を他の酒類に適用する研究も行われている。 原料によって酒の種類がある程度決まる。しかし、ジン、ウォッカ、焼酎、ビール、マッコリがあり、必ずしも原料によって酒の種類が決まるわけではない。また、原産地によって名称が制限される場合がある。たとえばテキーラは産地が限定されていて、他の地域で作ったものはテキーラと呼ぶことができずメスカルと呼ばれる。 アルコール飲料は多くの国で課税対象であり、また年齢によって飲用が制限されることも多いため、法律によって酒の定義や区分を明確に定めている。 日本ではアルコール度数1度以上が酒類と定義され20歳未満の飲用は禁じられているが、これらの閾値は当然国・地域によって異なる。 また、フランスのAOC法のように文化財としての酒を保護するための法律もある。 日本でのアルコール度数は、含まれるアルコールの容量パーセントで「度」と表す。正確には、温度15°Cのとき、その中に含まれるエチルアルコールの容量をパーセントで表した値。販売されている酒の多くは、3度(ビール等)から50度前後(蒸留酒類)の範囲であるが、中には90度を超す商品もある。日本の酒税法では、1度未満の飲料は酒に含まれない。そのため一般的な甘酒はソフトドリンクに分類される。なお、日本酒には「日本酒度」という尺度があるが、これは日本酒の比重に基づくもので、アルコール度数とエキス分(酒類中の糖、有機酸、アミノ酸など不揮発性成分の含有量)に依存する。 英語圏では、度数のほか、アルコールプルーフも使われる。USプルーフは度数の2倍、UKプルーフは度数の約1.75倍である。英語圏で degree や ° といえばプルーフのことなので、注意が必要である。 中年期の適度なアルコール摂取(女性で約325ml/日、男性で約600ml/日)が、老年期の認知能力の向上につながる可能性を示唆する研究がある。 個人差はあるものの、少量の飲酒に限れば、胃液の分泌が盛んになり消化を助け、食欲が増進する。 ほろ酔い程度の飲酒により、行動欲求を抑圧している精神的な緊張を緩和し、気分がリラックスし、ストレスの解消につながる(セルフメディケーション)。 適量のアルコールが体内に入ると、思考や知覚、運動、記憶などといった機能をつかさどっている大脳皮質の抑制が解放される作用がある。抑制が取れることにより緊張がほぐれ、コミュニケーションがより陽気で快活になり、会話が活発になる。酒により会話などの行動する勇気が出る効果を英語では、liquid courage(リキッド・カレージ)と言われる。魅力的に見えるビール・ゴーグル効果と呼ばれるものはあるが、研究では魅力の増減ではなく魅力的に見える相手にリキッド・カレージで近寄りやすくなる効果が確認された。 少量の飲酒は、血管を拡張させて血液の流れを良くして血行を改善する。その結果、体を温め、疲労回復の効果があがる。また、利尿作用もあるので、体内にたまった疲労のもとになる老廃物の排出を促進する。 アルコールに関しては健康への悪影響が懸念される中、ワインなどに含まれるポリフェノールについても注目されている。ポリフェノールは動脈硬化や脳梗塞を防ぐ抗酸化作用、ホルモン促進作用などがあり、特にウィスキーの樽ポリフェノールは従来のポリフェノールの約7倍の抗酸化力を持ち、細胞内ソルビトールの蓄積を抑制するため糖尿病なども抑制する効果を持つ。その他にウィスキーにはメラニンの生成を抑制するチロシナーゼが含まれているため美白効果をもたらす可能性も期待されている。 2000年に開始された日本の政策、健康日本21のまとめでは、日本人では全くアルコールを飲まないより、一日の純アルコール摂取量が男性で10から19g、女性9gまでの場合に、最も死亡率が低くなるとされている。これを超える場合、死亡率が高まるとしている。 しかし、別の研究では少量でも健康へ悪影響があるとしている。(#飲酒習慣と健康を参照) 特に酒とともに食べる料理を肴という。ソーセージとビールや、キャビアとウォッカなど料理と定番の組み合わせがある。フランス料理とワインや、日本料理と日本酒のように食事の際にも飲まれる。また食前酒や食後酒などもある。特に酒のための食事を宴会とよぶ。 料理に風味付けや肉や魚などの臭み消し等の用途でみりん、日本酒、ワイン、ブランデー、ウィスキーなどが使用され、煮切りやフランベなどの調理法がある。そのほか、パンの原材料としてや、漬物、饅頭やカステラなどの和菓子、チョコレートやケーキなどの洋菓子にも使われる。奈良漬けやブランデー・ケーキ、中のシロップにワインやブランデーが使われているチョコレートなどには風味のためアルコール分が残してある。 エチオピアにはパルショータと呼ばれる醸造酒を主食とする人々がいる。 摂取した酒に含まれるアルコール(エタノール)は、主に胃と小腸粘膜で吸収される。吸収されたアルコールは迅速に酸化されアセトアルデヒドとなる。酒に含まれるエチルアルコールは向精神性物質であり、人間の不安感や抑うつ感を抑える効果がある。しかし、一度に大量のアルコールを摂取すると代謝が間に合わず、血中アルコール濃度が上昇を始める。血中のアルコールは中枢神経系を麻痺させ、酩酊や急性アルコール中毒を引き起こす。嘔吐することもある。 アルコールの作用が強くなると、一時的に記憶がなくなることもある。このような作用を持つ薬物としては睡眠薬と同じであり、共にGABA受容体に作用するため、アルコールと睡眠薬の併用では呼吸を抑制して死亡するリスクは高まる。 判断力を低下させる。アメリカでは、アルコールによる死因の14%(毎年約1万4千人)を運転事故、8%を他殺、7%を自殺、5.6%を転落死で占め、暴力や事故に起因する死亡につながる。 週7回以上の飲酒は不妊治療を受けている女性の妊娠確率を低下させるという研究がある。 また、祝日などで大量の飲酒を行うとホリデーハート症候群(英語版)と呼ばれるアルコール性心筋症などを引き起こす。 アルコールは毎年250万人の死亡につながっており、世界死因の4%を占める。ロシアでは男性の37%が55歳以前に死亡しており、主な原因は強いアルコール飲料、特にウォッカが原因と考えられる。イギリスでは、このような早期死亡の比率は7%である。 2012年の研究は44件の研究から、男性5杯以上、女性4杯以上の過剰な飲酒がひと月に1度でもあると、これまで言われていた少量の飲酒での健康効果を損なうとした。しかし、ハーバード大学医学大学院によると適度なアルコール摂取は、健康な高密度リポタンパク質(HDL)コレステロールのレベルを上昇させる。アルコールはまた、インスリンに対する細胞の抵抗性を低下させ、血糖値をより効果的に低下させることができる。 従来、1日にビール1缶程度の飲酒であれば死亡率が低下するとされてきたが、禁酒の理由には死亡率に影響するような病気になっているということがあるため、2016年には疾患の有無を区別し87件の研究から解析したところ、そうした飲酒と飲酒しない人の間には、総死亡率には違いがなかった。月に一度の大量飲酒(男5杯・女4杯以上)によって、リスクが上回る。 また2016年の別の研究は、195か国の592研究のデータを分析し、飲酒しないことが最も健康を保つとした。 アルコール依存症とは、長期にわたり多量の飲酒した事から、アルコールに対し精神的依存や身体依存をきたす、精神疾患である。アルコールを繰り返し摂取し、アルコールに対する依存を形成し、精神的に身体的に続的に障害されている状態をいう。長期間多量に飲酒を続ければ、誰でもアルコール依存症になる可能性があり、世界保健機関(WHO)の策定した『国際疾病分類』第10版には"精神および行動の障害"の項に分類されており、個人の性格や意志の問題ではなく、精神障害と考えられている。 アルコール依存症の症状には精神依存と身体依存とがある。精神依存としては、飲酒への強烈な欲求をもつようになり、飲酒のコントロールがきかず節酒ができない状態となる。また精神的身体的問題が悪化しているにもかかわらず断酒できない、などが挙げられる。身体依存としては、アルコールが体から切れてくる事で、指のふるえが起きたり、発汗症状などの禁断症状が現れたり、以前と比べて酔うために必要な酒量が増大する、などが挙げられる。アルコール依存症になると他の娯楽や生活をおざなりに、飲酒をすることをすべてに優先的な行動となってしまう傾向にある。 飲用量が多い場合、急な飲酒は振戦せん妄を起こして致命的となりうる。 アルコール飲料は、IARC発がん性で発がん性があるというグループ1に分類される。WHOでは、飲酒は口腔癌、咽頭癌、喉頭癌、食道癌、肝癌、大腸癌と女性の乳癌の原因となるとして注意喚起を行っている。飲酒は喫煙と同じく深刻な健康被害をもたらすため、多くの人々に問題を知らせ、極めて有害であるアルコールの真実を効果的に伝える必要があるとし呼びかけを行っている。 アルコールそのものには発癌性があり、飲酒が少量でも顔が赤くなるようなALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)の働きが弱い体質の人では、アルコール代謝産物のアセトアルデヒドが食道癌の原因となり、ガンリスクを増大させると結論づけられている。ALDH2の働きが弱い人は日本人の約40%にみられ、アセトアルデヒドの分解が遅く飲酒で顔面が酷く赤くなったり、二日酔いを起こしやすい体質を作るなどの症状をもたらす。アセトアルデヒドやアルコールには発ガン性があり、口腔・咽頭・食道の発癌リスクが特に高くなる。口腔ガン、咽頭ガン、食道ガンは一人に複数発生する傾向があり、ALDH2の働きが弱い人に多発癌が多くみられる。少量の飲酒で顔が赤くなる体質の人の中で飲酒を始めて2年以内にあった人では、約9割の確率でALDH2の働きが弱いタイプと判定される。 また逆にALDH2の活性が高い人は、大量のアルコールを摂取できる反面、同時に肝臓ではアルコールの分解と共に中性脂肪の合成が進む事で結果、肝臓は脂肪まみれになり、いわゆる脂肪肝リスクが増大することになる。 2005年の厚生労働省多目的コホート研究では、男性に発生した癌全体の約13%が週300g以上の飲酒による原因と概算されている。口腔・咽頭と食道癌では禁酒によりリスクの低くなることが報告されており、禁煙と禁酒の両者に取り組めばさらにリスクは低下すると報告されている。 大腸癌は飲酒で約1.4倍程度のリスク増となり、日本人では欧米人よりも同じ飲酒量でも大腸癌のリスク増加は若干多い傾向にある。大腸癌は頻度が多いので飲酒量を減らすことによる予防効果は大きいと考えられている。 アルコールは少量であっても、脳を萎縮させる効果があるとする研究結果が報告されている。 研究によれば、以下の順で脳がより萎縮するとされている。 「適量」と呼ばれている少量の飲酒であっても、脳の萎縮が起こり、過去の飲酒の影響も残り続けるため、脳の萎縮という観点から見れば、アルコールに適量は存在しないと言える。 なお、日本において20歳未満の者の飲酒は法律により禁止されているが、アルコールを摂取する方法として飲酒の形態を取っていない場合であっても摂取したアルコール量に応じた化学反応が脳内物質に発生することで脳に対して相応の影響が生じる。ただし、アルコール分を飛ばした後の極微量の残存アルコールが摂取されることなどについては一般に許容されるものと考えられている。ただし、アルコールを含まない代替物質を使用するなどで同様の効果を得るといった選択はある。 慢性的に大量の飲酒を続けることは、65歳未満で発症する早期発症型の認知症をはじめとする様々な類型の認知症の主要な危険因子になりうるとする研究結果が出ている。 フランスにおいて早期発症型認知症の患者5万7000人以上の症例を調査した結果、半分を優に超える患者がアルコールに関する診断がなされていることが判明した。また、過去5年間に認知症と診断されたフランスの成人100万人以上の医療記録を精査し、アルコールとの関連が統計学的に明白であることも示されている。 このように、アルコールには死亡を含めた有害な影響が高く、その悪影響を低減させたアルコシンス(Alcosynth)が開発されている。2017年にイギリスのデビッド・ナットがアルカレラ(Alcarelle)を設立し、100の特許と共に商品化に向けて動いており、二日酔いがなく健康への害や暴力を低減させ、電子たばこのように害を低減させるという変化を社会にもたらしたいと考えている。 精神、心理状態を変化させることなどもあって、飲酒は様々な社会、文化と関わってきた。家庭における飲酒が日常化し、晩酌(夕食時に(しばしば日常的に)飲酒すること)する習慣や、酒を提供する飲食店であるバー、パブ、居酒屋、スナックのような飲食店も存在している。 日本では行事などで、なかば強制的に飲酒させる慣習が2000年代初頭頃まで見られたが、2010年代以降は急性アルコール中毒や飲酒運転による死亡事故報道の増加や、アルコール代謝酵素の欠落症の存在やアルコールハラスメントによる諸問題が広く知られる様になった事で、酒席でのノンアルコールやソフトドリンクも認められる様になりつつある。 アルコールは攻撃的な感情が起こることを促す。 児童や高齢者への虐待、家庭内暴力(DV)、駅や街中での暴力、傷害、犯罪など飲酒に関連した暴力は様々な場面で起こっており、社会的に重大な問題の一つとなっている。飲酒に関連した暴力を防止するためには、その原因となっている飲酒を減らすことが大切とされる。 飲酒により暴力が増加する背景には、飲酒・酩酊により攻撃性が増すなどのアルコールによる直接的な影響と、習慣的な飲酒によるアルコール乱用やアルコール依存症などの疾病からくる間接的な影響とがある。また、飲酒に関連した暴力には様々な種類があり、暴言や身体的暴力のみならず、精神的暴力、経済的暴力、性的暴力などが報告されている。 鉄道会社団体のまとめでは、駅や列車内で暴力行為をした乗客の約6割は飲酒をしていた。また酔客を降ろした駅員が突然傘で殴られたり、乗客同士のけんかの仲裁に入った駅員3人が逆上されてけがを負ったりするなど、駅員への暴行も多数報告されている。酔って地域警察官へ暴力をふるうなどして公務執行妨害容疑で逮捕されるなど、警察官へ暴力を振るうケースも珍しくない。 日本においては、飲酒による暴言・暴力やセクシャルハラスメントなどにおよぶといった迷惑行為である。この問題は、公共の場、職場や家庭内など、2000年代の日本での調査によると被害を受けた成人は推定約3,000万人である。 飲酒量が増すにつれて自殺のリスクが直線的に高い結果が示された。多変量解析の結果、多量飲酒者の自殺リスクは、非現在飲酒者(非飲酒者+過去飲酒者)と比べ3.3倍高くなり、さらに、1日1合未満の少量飲酒者においても自殺リスクが1.7倍と高いリスクが示された。 飲酒したまま屋外などで寝込んでしまい、そのまま低体温症により凍死することがある。特に、寒波が厳しい時期にはホームレスなどの屋外生活者が寒さを紛らわせるために飲酒し、そのまま凍死するケースもある。 飲酒運転による死亡事故は、平成14年(2002年)施行の改正道路交通法により罰則等が強化されたことで減少してきた。そして、平成18年(2006年)以降の取締りの強化及び飲酒運転根絶に対する社会的機運の高まり、さらには飲酒運転の厳罰化等により、大きく減少し、10年前の約3分の1となっている。飲酒運転事故は平成20年の6219件が平成30年には3355件に減少している。 飲酒と貧困には、世界の貧困問題と不可分である。世界的に、学歴が低く、低所得、失業中などの人において飲酒率が高いことが多数の統計的研究によって裏付けられている。複数の研究では、貧しい国の中には家計の約18%が飲酒に出費されていることもあると指摘されている。WHOによると、少ない所得から食費・健康管理費・教育費などがさらに削られ、栄養不良や医療費増大、早死、識字率低下をもたらし、社会階層の固定化に影響している。 イギリス政府は飲酒への財政負担の軽減のために規制強化に乗り出した。飲酒が原因となる犯罪、暴力事件や医療費が大きな財政負担となっており、日本円にして年間1兆2000億から1兆9000億円が飲酒に関わる財政負担となっていると推計されている。また、成人の100万人以上がアルコール依存症だとされ、NHS(国民保健サービス)への負担は年間27億ポンドにも達している。イギリスではアルコール飲料が安価であることが過剰飲酒の引き金になっているとして厳しく非難されている。10年間で約10万人が飲酒が直接の原因となる疾病による死亡者数となっている。またこの累計には飲酒運転やガンなど、アルコールが間接的な原因と考えられるものは除かれている。2010年10月から身分証明書の確認の義務化なども実施される。そのほか、パブなどでの飲酒促進サービスとなる10ポンド飲み放題サービスや女性無料の日サービスのほか、早飲み競争ゲームなどの禁止が実施される。 韓国政府は、飲酒による社会経済的な損失の費用が年間20兆ウォン(約2兆6000億円)を超えるという韓国内政府統計を示した。これを切っ掛けにテレビコマーシャルなどを用いた「節酒キャンペーン」が行われた。医療費の支出や早期死亡、生産性の減少など、社会経済的に損失を与えた費用が20兆990億ウォンに及ぶなど、飲酒の弊害が深刻な水準にあると明らかにした。その根拠として、18‐64歳のアルコール使用障害人口(アルコール乱用人口とアルコール依存症人口を合わせた数)が全人口の6.8%(221万人)に及ぶという2001年の保健福祉部精神疾患実態疫学調査の結果を挙げた。仁済大学の金光起(キム・クァンギ)教授チームの調査の結果、過度な飲酒による疾患で死亡した人は2001年2万2000人(死亡者全体の8.7%)だった。また、2001年の殺人・暴力・強盗・強姦などの凶悪犯罪や交通事故の加害者など、現行犯の43.5%が犯行時に飲酒状態であったことが分かった。 日本では政府による大規模統計は示されていないが、韓国人では1人あたり年間71.1L、日本人は1人あたり年間83.5Lの飲酒量から同様の問題が懸念されている。 以下はJMSコホート研究による。 日本人男性では、年齢が高いほど飲酒未経験者・禁酒者の割合が高く、若年層では飲酒量が多い傾向がみられた。結婚している人よりしていない人、および身体活動度が高い人より低い人で、飲酒未経験者・禁酒者・多量飲酒者が多かった。 日本人女性では、高齢層より若年層、教育年数の短い人より長い人、身体活動度の高い人より低い人で飲酒者の割合が高いという結果となった。そのほか、非飲酒者の収縮期血圧、拡張期血圧、総コレステロール、LDL-Cは飲酒者よりも高い結果がみられた。 若者の飲酒は、中高年と比較し急性アルコール中毒やアルコール依存症等のリスクが高くなり、事件・事故の関連性が高いという特徴がある。その対策としては、飲酒禁止年齢を用いた対策が効果的といわれている。アルコールは200種以上の疾患と関連があるといわれ、その中で急性アルコール中毒と、アルコール依存症は若者の飲酒と関連も深いともいわれている。その他、脳の萎縮や第二次性徴の遅れ等、多くの領域でアルコールによる若者の健康への悪影響が懸念されている。 大学コンパなどにおいて、20歳未満の者の飲酒が暗黙の了解となっている場面も少なくないのが実態である。20歳未満の者の飲酒の撲滅に盲目的に取り組むことはあまり有効ではなく、むしろ現状を認めたうえで、アルコールのモラルに関する教育・情報発信を行うほうが大学生や専門学校生の飲酒事故抑止には有効、という意見もみられる。 794年(延暦13年、奈良~平安時代)頃には、日本初の「飲酒禁止令」が出された。このことから、既に社会問題化していたことが分かる。 酒には古来より、公序良俗を守るため、あるいは租税を公課するためにアルコールに対して、さまざまな法律が制定されてきた。そして、2010年の第63回世界保健機関(WHO)の総会では、「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」が採択された。 飲酒が全面的に禁止されることは少ないが、厳格なイスラム国家では禁酒が徹底されている。日本でも江戸時代に徳川綱吉が「大酒禁止令」を出し、過剰な飲酒、他人への飲酒の強要を戒め、酒屋への規制を試みている。またアメリカ合衆国には、飲料用アルコールの製造・販売・輸送を禁止するアメリカ合衆国憲法の改正(俗に言う「禁酒法」)が行われていた時期があり、現在でも一部の郡では酒類の販売が禁じられている。 日曜日に酒類の販売を制限している自治体も多い。また、インディアン居留地ではアルコール依存症を防止するため、禁酒を実施しているところがある。また欧米では、屋外や公園など公共の場所での飲酒を禁止しているところが多く、日本の花見のような光景は見られないことが多い。 ほとんどの国家では、年少者の飲酒または酒の購入を禁じている。酒購入の際に身分証明書が必要な場合がある。法律で飲酒が認められる年齢を最低飲酒年齢 (minimum drinking age, MDA)、購入が認められる年齢を最低購入年齢 (minimum purchasing age, MPA) という。世界的には、16歳から18歳を最低飲酒年齢または最低購入年齢(またはその両方)とする国家が多い。酒類別に年齢を定めている国家もある。 全ての国家で、飲酒運転を禁じている。飲酒運転とみなされる血中アルコール濃度は国によって違い、下限は0.0%(少しでも検出されれば不可)から0.08%の範囲である。 多くの国家では、酒類の生産や販売について免許が必要である。専売制を敷き、それらを国営企業や公営企業が独占している国家もある。 アルコールそのものは可燃性液体であるため、航空保安上、度数の高い酒類の持ち込みが規制される。以下は日本においての規制内容である。 また、度数が70%超のアルコール飲料は宅配便での配送は不可である。 酒の扱いは宗教ごとに異なっている。酒を神聖な場面で扱い、特別視する宗教・宗派がある一方で、飲酒が人や社会に悪影響を及ぼすとし、酒を敬遠・禁止する宗教・宗派もある。酒のもたらす精神変容は宗教体験や呪術と結び付けられ、非日常の宗教儀式用に摂取されるものとされていたと考えられる。今日でも様々な文化の様々な伝統宗教や祭祀習慣において、酒類は欠かせないものとなっている。飲酒にまつわる儀礼にはそうした宗教・祭祀慣習とのかかわりが深い。今日においても、酒類の儀礼性、宗教性は濃密に残っており、日本の屠蘇のように特定の祝い事と結びついた酒がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "酒(さけ)は、エタノール(アルコールの一種)が含まれた飲料の総称。原料をアルコール発酵させて得る醸造酒、それから造られる蒸留酒などに大別され、原料や酵母、製法などの違いによる多様な酒が世界各地にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "酒を飲むことを飲酒といい、アルコールは抑制作用を有するため、飲酒はヒトに酩酊(酒酔い)を引き起こす。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語では丁寧な呼び方として御酒(おさけ、ごしゅ、おささ、みき)もよく用いられ、酒類(しゅるい、さけるい) やアルコール飲料(アルコールいんりょう)、またソフトドリンクに対して「ハードドリンク」とも呼ばれることがある。西洋ではワインに相当する言葉が総称として用いられることがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "酒は人類史において最古から存在する向精神薬の一つである。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "酒の歴史は古く、有史以前から作られていたと見られている(→#歴史)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "製造方法・原料・味わいなどは非常に多種多様であり、分類方法も同様である(→#種類)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "原料は多くの場合、ブドウやリンゴなどの果実、大麦や米などの穀物、イモなどの根菜のいずれかが使われる(→#原料)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "効用としてはストレスの解消、コミュニケーションの円滑化、疲労回復が挙げられる(→#効用)。そしてヒトの脳を萎縮させ、時に違法薬物を上回ると言われる最も有害な薬物であり、世界で毎年250万人の死亡につながり死因の4%を占める。作用量と致命的な量が近く急性アルコール中毒になりやすい薬物であり、アルコール乱用や、禁断症状が致命的な振戦せん妄となりうるアルコール依存症となることもあり、アルコール飲料はIARC発がん性でグループ1(発がん性あり)にも分類される(→#健康への影響)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では飲酒による死因の14%が運転事故、8%が他殺、7%が自殺、5.6%が転落死を占める(→#飲酒と社会)。またその効用も副作用も、(主に遺伝的な)個人差が大きいことで知られる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このように及ぼす影響が大きいため、2010年に世界保健機関(WHO)の「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」が採択されており、また政府の税収確保のため、酒の製造および流通(販売)は、多くの国において法律により規制されている(→#法律)。宗教ごとに酒の扱いは異なっており、儀式に用いられたり、神への捧げ物とされていたり、また身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされていたりする。宗教によっては、飲酒を禁じているものもある(→#宗教と酒)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "酒の歴史は非常に古く、先史時代(文字で歴史が記録される以前)から作られた。 最古の酒とされている蜂蜜酒(ミード)は農耕が始まる以前から存在し、およそ1万4千年前に狩人がクマなどに荒らされて破損した蜂の巣に溜まっている雨水を飲んだことが始まりとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "南米、アジア、アフリカのごく一部で現在も行われている、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や甕に吐き出し集め発酵を待つという原始的な酒造法が低アルコールながら有史以前に広まっており、古代日本でも巫女がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説がある(「口噛み酒」参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2004年12月、中国で紀元前7000年頃の賈湖(かこ)遺跡(en)から出土した陶器片を分析したところ、米・果実・蜂蜜などで作った醸造酒の成分が検出されたという報告があった。いまのところこれが考古学的には最古の酒である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古代オリエント世界では、紀元前5400年頃のイラン北部ザグロス山脈のハッジ・フィルズ・テペ(英語版)遺跡から出土した壺の中に、ワインの残滓が確認された。また紀元前3000年代には、シュメールの粘土板にビールのことが記録されている。シュメールの後を継いだバビロニアで、最古の成文法であるハンムラビ法典の中にビール売りに関する規定が記されている(第108条 - 第110条)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "古代エジプトでは紀元前2700年頃までにはワインが飲まれていた。ツタンカーメン王の副葬品の壺からはワインが検出されている。またビールも広く飲まれていた。エジプトのピラミッド工事の労働者にはビールが支給されていた。オリエント世界ではブドウの育つ場所が限られるので、ワインは高級な飲み物であり、ビールはより庶民的な飲み物だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中国大陸において殷・周の時代、酒は国家の重要事である祝祭において重要な意味を持っていた。非常に手の込んだ器である殷代青銅器のうち、多くのものは酒器である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "『論語』には「郷人で酒を飲む(村の人たちで酒を飲む)」などの記述があり、紀元前5世紀頃には一般的な飲み物になっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "古代ギリシアや古代ローマは、ブドウの産地ということもあり、ワインが多く生産された。それらはアンフォラと呼ばれる壺に入れられて、地中海世界で広く交易されていた。酒の神ディオニューソス(ローマではバッカス)が信仰され、酒神を讃える祭りが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "酒を蒸留する技術は、3世紀頃のアレクサンドリアの錬金術師たちには、既に知られていたと推測される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ローマ帝国は、ブリタンニア属州(現代のイギリス南部)をはじめヨーロッパの各地を支配下に収め、その過程でワイン生産の技術を伝えた。フランスのボルドーやブルゴーニュでは、その頃からワインの製造が始まっている。なおイギリスは、気候の低温化によりブドウが栽培できなくなり、ワイン生産は廃れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "10世紀以前には蒸留酒が発明されていた。それは錬金術師が偶然に作り出したものだといわれる。ラテン語で蒸留酒はアクア・ヴィテ(生命の水)と呼ばれた。それが変化してフランス語でオード・ヴィー、ゲール語でウシュクベーハーになり、今日の様々な蒸留酒の区分ができた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1171年、ヘンリー2世の軍隊がアイルランドに侵攻した。その時の記録によると、住民は「アスキボー」という蒸留酒を飲んでいたという。これがウイスキーの語源となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本の沖縄(当時は琉球)では、若い女性が口の中で噛み砕いた木の実を唾液とともに吐き出し、それを醗酵させた口噛み酒を中国の使節へ供したという記録がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "糖分、もしくは糖分に転化されうるデンプン分があるものは、酒の原料になりうる。脂肪やタンパク質が多いもの(たとえば大豆などの豆類)は原料に向かない。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "酒に含まれるアルコール分はほとんどの場合、酵母などの菌によって、糖のアルコール発酵が行われる。テキーラは酵母ではなくザイモモナスと呼ばれる細菌をアルコール発酵に使用している)。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、麦・米・芋などの穀物類から造る酒の場合、原材料の中の炭水化物はデンプンの形で存在しているため、先にこれを糖に分解(糖化)する。糖化のためにはアミラーゼ等の酵素が必要である。酵素の供給源として、西洋では主に麦芽が、東洋では主に麹が使われる。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このほか、通常は飲料や食材として扱われていなくても、含有している糖分をアルコール発酵させれば酒は造れる。日本の森林総合研究所は、木材を細かく破砕してリグニンに保護されていたセルロースを露出させて酵素により糖に変え、樹種により味・香りが異なる酒を造る製法を開発した。", "title": "原料" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "酒は大きく分けて醸造酒、蒸留酒、混成酒に分かれる。醸造酒は単発酵酒と複発酵酒に分けられ、複発酵酒は単行複発酵酒と並行複発酵酒に分けられる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "蒸留酒のうち、樽熟成を行わないものをホワイトスピリッツ、何年かの樽熟成で着色したものをブラウンスピリッツとする分類法がある。ただし、テキーラ、ラム、アクアビットなどではホワイトスピリッツとブラウンスピリッツの両方の製品があり、分類としては本質的なものではない。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、全ての酒が上記いずれかに含まれるわけではない。例えばアイスボックビール は、醸造後にアルコール分を高める手順があるため醸造酒とは言いがたいが、その手順が蒸留ではない(凍結濃縮)ため蒸留酒でもない。また、凍結濃縮を他の酒類に適用する研究も行われている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "原料によって酒の種類がある程度決まる。しかし、ジン、ウォッカ、焼酎、ビール、マッコリがあり、必ずしも原料によって酒の種類が決まるわけではない。また、原産地によって名称が制限される場合がある。たとえばテキーラは産地が限定されていて、他の地域で作ったものはテキーラと呼ぶことができずメスカルと呼ばれる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アルコール飲料は多くの国で課税対象であり、また年齢によって飲用が制限されることも多いため、法律によって酒の定義や区分を明確に定めている。 日本ではアルコール度数1度以上が酒類と定義され20歳未満の飲用は禁じられているが、これらの閾値は当然国・地域によって異なる。 また、フランスのAOC法のように文化財としての酒を保護するための法律もある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本でのアルコール度数は、含まれるアルコールの容量パーセントで「度」と表す。正確には、温度15°Cのとき、その中に含まれるエチルアルコールの容量をパーセントで表した値。販売されている酒の多くは、3度(ビール等)から50度前後(蒸留酒類)の範囲であるが、中には90度を超す商品もある。日本の酒税法では、1度未満の飲料は酒に含まれない。そのため一般的な甘酒はソフトドリンクに分類される。なお、日本酒には「日本酒度」という尺度があるが、これは日本酒の比重に基づくもので、アルコール度数とエキス分(酒類中の糖、有機酸、アミノ酸など不揮発性成分の含有量)に依存する。", "title": "度数" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "英語圏では、度数のほか、アルコールプルーフも使われる。USプルーフは度数の2倍、UKプルーフは度数の約1.75倍である。英語圏で degree や ° といえばプルーフのことなので、注意が必要である。", "title": "度数" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "中年期の適度なアルコール摂取(女性で約325ml/日、男性で約600ml/日)が、老年期の認知能力の向上につながる可能性を示唆する研究がある。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "個人差はあるものの、少量の飲酒に限れば、胃液の分泌が盛んになり消化を助け、食欲が増進する。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ほろ酔い程度の飲酒により、行動欲求を抑圧している精神的な緊張を緩和し、気分がリラックスし、ストレスの解消につながる(セルフメディケーション)。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "適量のアルコールが体内に入ると、思考や知覚、運動、記憶などといった機能をつかさどっている大脳皮質の抑制が解放される作用がある。抑制が取れることにより緊張がほぐれ、コミュニケーションがより陽気で快活になり、会話が活発になる。酒により会話などの行動する勇気が出る効果を英語では、liquid courage(リキッド・カレージ)と言われる。魅力的に見えるビール・ゴーグル効果と呼ばれるものはあるが、研究では魅力の増減ではなく魅力的に見える相手にリキッド・カレージで近寄りやすくなる効果が確認された。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "少量の飲酒は、血管を拡張させて血液の流れを良くして血行を改善する。その結果、体を温め、疲労回復の効果があがる。また、利尿作用もあるので、体内にたまった疲労のもとになる老廃物の排出を促進する。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アルコールに関しては健康への悪影響が懸念される中、ワインなどに含まれるポリフェノールについても注目されている。ポリフェノールは動脈硬化や脳梗塞を防ぐ抗酸化作用、ホルモン促進作用などがあり、特にウィスキーの樽ポリフェノールは従来のポリフェノールの約7倍の抗酸化力を持ち、細胞内ソルビトールの蓄積を抑制するため糖尿病なども抑制する効果を持つ。その他にウィスキーにはメラニンの生成を抑制するチロシナーゼが含まれているため美白効果をもたらす可能性も期待されている。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2000年に開始された日本の政策、健康日本21のまとめでは、日本人では全くアルコールを飲まないより、一日の純アルコール摂取量が男性で10から19g、女性9gまでの場合に、最も死亡率が低くなるとされている。これを超える場合、死亡率が高まるとしている。", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかし、別の研究では少量でも健康へ悪影響があるとしている。(#飲酒習慣と健康を参照)", "title": "効用" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "特に酒とともに食べる料理を肴という。ソーセージとビールや、キャビアとウォッカなど料理と定番の組み合わせがある。フランス料理とワインや、日本料理と日本酒のように食事の際にも飲まれる。また食前酒や食後酒などもある。特に酒のための食事を宴会とよぶ。", "title": "料理と酒" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "料理に風味付けや肉や魚などの臭み消し等の用途でみりん、日本酒、ワイン、ブランデー、ウィスキーなどが使用され、煮切りやフランベなどの調理法がある。そのほか、パンの原材料としてや、漬物、饅頭やカステラなどの和菓子、チョコレートやケーキなどの洋菓子にも使われる。奈良漬けやブランデー・ケーキ、中のシロップにワインやブランデーが使われているチョコレートなどには風味のためアルコール分が残してある。", "title": "料理と酒" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "エチオピアにはパルショータと呼ばれる醸造酒を主食とする人々がいる。", "title": "料理と酒" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "摂取した酒に含まれるアルコール(エタノール)は、主に胃と小腸粘膜で吸収される。吸収されたアルコールは迅速に酸化されアセトアルデヒドとなる。酒に含まれるエチルアルコールは向精神性物質であり、人間の不安感や抑うつ感を抑える効果がある。しかし、一度に大量のアルコールを摂取すると代謝が間に合わず、血中アルコール濃度が上昇を始める。血中のアルコールは中枢神経系を麻痺させ、酩酊や急性アルコール中毒を引き起こす。嘔吐することもある。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アルコールの作用が強くなると、一時的に記憶がなくなることもある。このような作用を持つ薬物としては睡眠薬と同じであり、共にGABA受容体に作用するため、アルコールと睡眠薬の併用では呼吸を抑制して死亡するリスクは高まる。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "判断力を低下させる。アメリカでは、アルコールによる死因の14%(毎年約1万4千人)を運転事故、8%を他殺、7%を自殺、5.6%を転落死で占め、暴力や事故に起因する死亡につながる。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "週7回以上の飲酒は不妊治療を受けている女性の妊娠確率を低下させるという研究がある。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、祝日などで大量の飲酒を行うとホリデーハート症候群(英語版)と呼ばれるアルコール性心筋症などを引き起こす。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アルコールは毎年250万人の死亡につながっており、世界死因の4%を占める。ロシアでは男性の37%が55歳以前に死亡しており、主な原因は強いアルコール飲料、特にウォッカが原因と考えられる。イギリスでは、このような早期死亡の比率は7%である。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2012年の研究は44件の研究から、男性5杯以上、女性4杯以上の過剰な飲酒がひと月に1度でもあると、これまで言われていた少量の飲酒での健康効果を損なうとした。しかし、ハーバード大学医学大学院によると適度なアルコール摂取は、健康な高密度リポタンパク質(HDL)コレステロールのレベルを上昇させる。アルコールはまた、インスリンに対する細胞の抵抗性を低下させ、血糖値をより効果的に低下させることができる。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "従来、1日にビール1缶程度の飲酒であれば死亡率が低下するとされてきたが、禁酒の理由には死亡率に影響するような病気になっているということがあるため、2016年には疾患の有無を区別し87件の研究から解析したところ、そうした飲酒と飲酒しない人の間には、総死亡率には違いがなかった。月に一度の大量飲酒(男5杯・女4杯以上)によって、リスクが上回る。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また2016年の別の研究は、195か国の592研究のデータを分析し、飲酒しないことが最も健康を保つとした。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "アルコール依存症とは、長期にわたり多量の飲酒した事から、アルコールに対し精神的依存や身体依存をきたす、精神疾患である。アルコールを繰り返し摂取し、アルコールに対する依存を形成し、精神的に身体的に続的に障害されている状態をいう。長期間多量に飲酒を続ければ、誰でもアルコール依存症になる可能性があり、世界保健機関(WHO)の策定した『国際疾病分類』第10版には\"精神および行動の障害\"の項に分類されており、個人の性格や意志の問題ではなく、精神障害と考えられている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アルコール依存症の症状には精神依存と身体依存とがある。精神依存としては、飲酒への強烈な欲求をもつようになり、飲酒のコントロールがきかず節酒ができない状態となる。また精神的身体的問題が悪化しているにもかかわらず断酒できない、などが挙げられる。身体依存としては、アルコールが体から切れてくる事で、指のふるえが起きたり、発汗症状などの禁断症状が現れたり、以前と比べて酔うために必要な酒量が増大する、などが挙げられる。アルコール依存症になると他の娯楽や生活をおざなりに、飲酒をすることをすべてに優先的な行動となってしまう傾向にある。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "飲用量が多い場合、急な飲酒は振戦せん妄を起こして致命的となりうる。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アルコール飲料は、IARC発がん性で発がん性があるというグループ1に分類される。WHOでは、飲酒は口腔癌、咽頭癌、喉頭癌、食道癌、肝癌、大腸癌と女性の乳癌の原因となるとして注意喚起を行っている。飲酒は喫煙と同じく深刻な健康被害をもたらすため、多くの人々に問題を知らせ、極めて有害であるアルコールの真実を効果的に伝える必要があるとし呼びかけを行っている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アルコールそのものには発癌性があり、飲酒が少量でも顔が赤くなるようなALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)の働きが弱い体質の人では、アルコール代謝産物のアセトアルデヒドが食道癌の原因となり、ガンリスクを増大させると結論づけられている。ALDH2の働きが弱い人は日本人の約40%にみられ、アセトアルデヒドの分解が遅く飲酒で顔面が酷く赤くなったり、二日酔いを起こしやすい体質を作るなどの症状をもたらす。アセトアルデヒドやアルコールには発ガン性があり、口腔・咽頭・食道の発癌リスクが特に高くなる。口腔ガン、咽頭ガン、食道ガンは一人に複数発生する傾向があり、ALDH2の働きが弱い人に多発癌が多くみられる。少量の飲酒で顔が赤くなる体質の人の中で飲酒を始めて2年以内にあった人では、約9割の確率でALDH2の働きが弱いタイプと判定される。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また逆にALDH2の活性が高い人は、大量のアルコールを摂取できる反面、同時に肝臓ではアルコールの分解と共に中性脂肪の合成が進む事で結果、肝臓は脂肪まみれになり、いわゆる脂肪肝リスクが増大することになる。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2005年の厚生労働省多目的コホート研究では、男性に発生した癌全体の約13%が週300g以上の飲酒による原因と概算されている。口腔・咽頭と食道癌では禁酒によりリスクの低くなることが報告されており、禁煙と禁酒の両者に取り組めばさらにリスクは低下すると報告されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "大腸癌は飲酒で約1.4倍程度のリスク増となり、日本人では欧米人よりも同じ飲酒量でも大腸癌のリスク増加は若干多い傾向にある。大腸癌は頻度が多いので飲酒量を減らすことによる予防効果は大きいと考えられている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アルコールは少量であっても、脳を萎縮させる効果があるとする研究結果が報告されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "研究によれば、以下の順で脳がより萎縮するとされている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「適量」と呼ばれている少量の飲酒であっても、脳の萎縮が起こり、過去の飲酒の影響も残り続けるため、脳の萎縮という観点から見れば、アルコールに適量は存在しないと言える。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、日本において20歳未満の者の飲酒は法律により禁止されているが、アルコールを摂取する方法として飲酒の形態を取っていない場合であっても摂取したアルコール量に応じた化学反応が脳内物質に発生することで脳に対して相応の影響が生じる。ただし、アルコール分を飛ばした後の極微量の残存アルコールが摂取されることなどについては一般に許容されるものと考えられている。ただし、アルコールを含まない代替物質を使用するなどで同様の効果を得るといった選択はある。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "慢性的に大量の飲酒を続けることは、65歳未満で発症する早期発症型の認知症をはじめとする様々な類型の認知症の主要な危険因子になりうるとする研究結果が出ている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "フランスにおいて早期発症型認知症の患者5万7000人以上の症例を調査した結果、半分を優に超える患者がアルコールに関する診断がなされていることが判明した。また、過去5年間に認知症と診断されたフランスの成人100万人以上の医療記録を精査し、アルコールとの関連が統計学的に明白であることも示されている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "このように、アルコールには死亡を含めた有害な影響が高く、その悪影響を低減させたアルコシンス(Alcosynth)が開発されている。2017年にイギリスのデビッド・ナットがアルカレラ(Alcarelle)を設立し、100の特許と共に商品化に向けて動いており、二日酔いがなく健康への害や暴力を低減させ、電子たばこのように害を低減させるという変化を社会にもたらしたいと考えている。", "title": "健康への影響" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "精神、心理状態を変化させることなどもあって、飲酒は様々な社会、文化と関わってきた。家庭における飲酒が日常化し、晩酌(夕食時に(しばしば日常的に)飲酒すること)する習慣や、酒を提供する飲食店であるバー、パブ、居酒屋、スナックのような飲食店も存在している。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本では行事などで、なかば強制的に飲酒させる慣習が2000年代初頭頃まで見られたが、2010年代以降は急性アルコール中毒や飲酒運転による死亡事故報道の増加や、アルコール代謝酵素の欠落症の存在やアルコールハラスメントによる諸問題が広く知られる様になった事で、酒席でのノンアルコールやソフトドリンクも認められる様になりつつある。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アルコールは攻撃的な感情が起こることを促す。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "児童や高齢者への虐待、家庭内暴力(DV)、駅や街中での暴力、傷害、犯罪など飲酒に関連した暴力は様々な場面で起こっており、社会的に重大な問題の一つとなっている。飲酒に関連した暴力を防止するためには、その原因となっている飲酒を減らすことが大切とされる。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "飲酒により暴力が増加する背景には、飲酒・酩酊により攻撃性が増すなどのアルコールによる直接的な影響と、習慣的な飲酒によるアルコール乱用やアルコール依存症などの疾病からくる間接的な影響とがある。また、飲酒に関連した暴力には様々な種類があり、暴言や身体的暴力のみならず、精神的暴力、経済的暴力、性的暴力などが報告されている。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "鉄道会社団体のまとめでは、駅や列車内で暴力行為をした乗客の約6割は飲酒をしていた。また酔客を降ろした駅員が突然傘で殴られたり、乗客同士のけんかの仲裁に入った駅員3人が逆上されてけがを負ったりするなど、駅員への暴行も多数報告されている。酔って地域警察官へ暴力をふるうなどして公務執行妨害容疑で逮捕されるなど、警察官へ暴力を振るうケースも珍しくない。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "日本においては、飲酒による暴言・暴力やセクシャルハラスメントなどにおよぶといった迷惑行為である。この問題は、公共の場、職場や家庭内など、2000年代の日本での調査によると被害を受けた成人は推定約3,000万人である。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "飲酒量が増すにつれて自殺のリスクが直線的に高い結果が示された。多変量解析の結果、多量飲酒者の自殺リスクは、非現在飲酒者(非飲酒者+過去飲酒者)と比べ3.3倍高くなり、さらに、1日1合未満の少量飲酒者においても自殺リスクが1.7倍と高いリスクが示された。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "飲酒したまま屋外などで寝込んでしまい、そのまま低体温症により凍死することがある。特に、寒波が厳しい時期にはホームレスなどの屋外生活者が寒さを紛らわせるために飲酒し、そのまま凍死するケースもある。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "飲酒運転による死亡事故は、平成14年(2002年)施行の改正道路交通法により罰則等が強化されたことで減少してきた。そして、平成18年(2006年)以降の取締りの強化及び飲酒運転根絶に対する社会的機運の高まり、さらには飲酒運転の厳罰化等により、大きく減少し、10年前の約3分の1となっている。飲酒運転事故は平成20年の6219件が平成30年には3355件に減少している。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "飲酒と貧困には、世界の貧困問題と不可分である。世界的に、学歴が低く、低所得、失業中などの人において飲酒率が高いことが多数の統計的研究によって裏付けられている。複数の研究では、貧しい国の中には家計の約18%が飲酒に出費されていることもあると指摘されている。WHOによると、少ない所得から食費・健康管理費・教育費などがさらに削られ、栄養不良や医療費増大、早死、識字率低下をもたらし、社会階層の固定化に影響している。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "イギリス政府は飲酒への財政負担の軽減のために規制強化に乗り出した。飲酒が原因となる犯罪、暴力事件や医療費が大きな財政負担となっており、日本円にして年間1兆2000億から1兆9000億円が飲酒に関わる財政負担となっていると推計されている。また、成人の100万人以上がアルコール依存症だとされ、NHS(国民保健サービス)への負担は年間27億ポンドにも達している。イギリスではアルコール飲料が安価であることが過剰飲酒の引き金になっているとして厳しく非難されている。10年間で約10万人が飲酒が直接の原因となる疾病による死亡者数となっている。またこの累計には飲酒運転やガンなど、アルコールが間接的な原因と考えられるものは除かれている。2010年10月から身分証明書の確認の義務化なども実施される。そのほか、パブなどでの飲酒促進サービスとなる10ポンド飲み放題サービスや女性無料の日サービスのほか、早飲み競争ゲームなどの禁止が実施される。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "韓国政府は、飲酒による社会経済的な損失の費用が年間20兆ウォン(約2兆6000億円)を超えるという韓国内政府統計を示した。これを切っ掛けにテレビコマーシャルなどを用いた「節酒キャンペーン」が行われた。医療費の支出や早期死亡、生産性の減少など、社会経済的に損失を与えた費用が20兆990億ウォンに及ぶなど、飲酒の弊害が深刻な水準にあると明らかにした。その根拠として、18‐64歳のアルコール使用障害人口(アルコール乱用人口とアルコール依存症人口を合わせた数)が全人口の6.8%(221万人)に及ぶという2001年の保健福祉部精神疾患実態疫学調査の結果を挙げた。仁済大学の金光起(キム・クァンギ)教授チームの調査の結果、過度な飲酒による疾患で死亡した人は2001年2万2000人(死亡者全体の8.7%)だった。また、2001年の殺人・暴力・強盗・強姦などの凶悪犯罪や交通事故の加害者など、現行犯の43.5%が犯行時に飲酒状態であったことが分かった。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "日本では政府による大規模統計は示されていないが、韓国人では1人あたり年間71.1L、日本人は1人あたり年間83.5Lの飲酒量から同様の問題が懸念されている。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "以下はJMSコホート研究による。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "日本人男性では、年齢が高いほど飲酒未経験者・禁酒者の割合が高く、若年層では飲酒量が多い傾向がみられた。結婚している人よりしていない人、および身体活動度が高い人より低い人で、飲酒未経験者・禁酒者・多量飲酒者が多かった。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "日本人女性では、高齢層より若年層、教育年数の短い人より長い人、身体活動度の高い人より低い人で飲酒者の割合が高いという結果となった。そのほか、非飲酒者の収縮期血圧、拡張期血圧、総コレステロール、LDL-Cは飲酒者よりも高い結果がみられた。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "若者の飲酒は、中高年と比較し急性アルコール中毒やアルコール依存症等のリスクが高くなり、事件・事故の関連性が高いという特徴がある。その対策としては、飲酒禁止年齢を用いた対策が効果的といわれている。アルコールは200種以上の疾患と関連があるといわれ、その中で急性アルコール中毒と、アルコール依存症は若者の飲酒と関連も深いともいわれている。その他、脳の萎縮や第二次性徴の遅れ等、多くの領域でアルコールによる若者の健康への悪影響が懸念されている。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "大学コンパなどにおいて、20歳未満の者の飲酒が暗黙の了解となっている場面も少なくないのが実態である。20歳未満の者の飲酒の撲滅に盲目的に取り組むことはあまり有効ではなく、むしろ現状を認めたうえで、アルコールのモラルに関する教育・情報発信を行うほうが大学生や専門学校生の飲酒事故抑止には有効、という意見もみられる。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "794年(延暦13年、奈良~平安時代)頃には、日本初の「飲酒禁止令」が出された。このことから、既に社会問題化していたことが分かる。", "title": "飲酒と社会" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "酒には古来より、公序良俗を守るため、あるいは租税を公課するためにアルコールに対して、さまざまな法律が制定されてきた。そして、2010年の第63回世界保健機関(WHO)の総会では、「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」が採択された。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "飲酒が全面的に禁止されることは少ないが、厳格なイスラム国家では禁酒が徹底されている。日本でも江戸時代に徳川綱吉が「大酒禁止令」を出し、過剰な飲酒、他人への飲酒の強要を戒め、酒屋への規制を試みている。またアメリカ合衆国には、飲料用アルコールの製造・販売・輸送を禁止するアメリカ合衆国憲法の改正(俗に言う「禁酒法」)が行われていた時期があり、現在でも一部の郡では酒類の販売が禁じられている。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "日曜日に酒類の販売を制限している自治体も多い。また、インディアン居留地ではアルコール依存症を防止するため、禁酒を実施しているところがある。また欧米では、屋外や公園など公共の場所での飲酒を禁止しているところが多く、日本の花見のような光景は見られないことが多い。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ほとんどの国家では、年少者の飲酒または酒の購入を禁じている。酒購入の際に身分証明書が必要な場合がある。法律で飲酒が認められる年齢を最低飲酒年齢 (minimum drinking age, MDA)、購入が認められる年齢を最低購入年齢 (minimum purchasing age, MPA) という。世界的には、16歳から18歳を最低飲酒年齢または最低購入年齢(またはその両方)とする国家が多い。酒類別に年齢を定めている国家もある。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "全ての国家で、飲酒運転を禁じている。飲酒運転とみなされる血中アルコール濃度は国によって違い、下限は0.0%(少しでも検出されれば不可)から0.08%の範囲である。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "多くの国家では、酒類の生産や販売について免許が必要である。専売制を敷き、それらを国営企業や公営企業が独占している国家もある。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "アルコールそのものは可燃性液体であるため、航空保安上、度数の高い酒類の持ち込みが規制される。以下は日本においての規制内容である。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "また、度数が70%超のアルコール飲料は宅配便での配送は不可である。", "title": "法律" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "酒の扱いは宗教ごとに異なっている。酒を神聖な場面で扱い、特別視する宗教・宗派がある一方で、飲酒が人や社会に悪影響を及ぼすとし、酒を敬遠・禁止する宗教・宗派もある。酒のもたらす精神変容は宗教体験や呪術と結び付けられ、非日常の宗教儀式用に摂取されるものとされていたと考えられる。今日でも様々な文化の様々な伝統宗教や祭祀習慣において、酒類は欠かせないものとなっている。飲酒にまつわる儀礼にはそうした宗教・祭祀慣習とのかかわりが深い。今日においても、酒類の儀礼性、宗教性は濃密に残っており、日本の屠蘇のように特定の祝い事と結びついた酒がある。", "title": "宗教と酒" } ]
酒(さけ)は、エタノール(アルコールの一種)が含まれた飲料の総称。原料をアルコール発酵させて得る醸造酒、それから造られる蒸留酒などに大別され、原料や酵母、製法などの違いによる多様な酒が世界各地にある。 酒を飲むことを飲酒といい、アルコールは抑制作用を有するため、飲酒はヒトに酩酊(酒酔い)を引き起こす。
{{Otheruses|アルコール飲料全般|単に「酒」とも表記される日本のアルコール飲料|日本酒}} {{Redirect|百薬の長|椎名林檎のアルバム|百薬の長 (椎名林檎のアルバム)}} {{脚注の不足|date=2018年5月}} [[ファイル:Interesting alcoholic beverages.jpg|thumb|250px|様々な種類の酒]] [[ファイル:Scotch Whisky (aka).jpg|thumb|150px|[[ウイスキー]]、[[スコットランド]]発祥の酒。]] '''酒'''(さけ)は、[[エタノール]]([[アルコール]]の一種)が含まれた[[飲料]]の総称。原料を[[アルコール発酵]]させて得る[[醸造酒]]、それから造られる[[蒸留酒]]などに大別され、原料や[[酵母]]、製法などの違いによる多様な酒が世界各地にある。 酒を飲むことを飲酒といい<ref>[https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol 飲酒] 厚生労働省 e-ヘルスネット(2021年12月26日閲覧)</ref>、アルコールは[[抑制剤|抑制作用]]を有するため、飲酒は[[ヒト]]に[[酩酊]]([[酔い#酒酔い|酒酔い]])を引き起こす。 == 概説 == [[日本語]]では丁寧な呼び方として'''御酒'''(おさけ、ごしゅ、おささ、みき)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E9%85%92-501352 御酒とは] [[コトバンク]]</ref>もよく用いられ、'''酒類'''(しゅるい、さけるい)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%85%92%E9%A1%9E-529548 酒類とは] コトバンク</ref> や'''アルコール飲料'''(アルコールいんりょう)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%A3%B2%E6%96%99-28273 アルコール飲料とは] コトバンク</ref>、また[[ソフトドリンク]]に対して「'''ハードドリンク'''」とも呼ばれることがある<ref group="注釈">日本語での用法。[https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF-672904 ハードドリンクとは] コトバンク</ref>。[[西洋]]では[[ワイン]]に相当する言葉が総称として用いられることがある。 酒は人類史において最古から存在する[[向精神薬]]{{要出典|date=2021年11月}}の一つである。しかし、酩酊は往々にして混乱や無秩序をもたらし、社会から忌避される。「百薬の長とはいへど、よろづの病は酒よりこそ起これ」などと言われ、古来より酒は社会にとって両価値的存在だった<ref>高田公理「禁酒文化・考」『論集 酒と飲酒の文化』(石毛直道 編、[[平凡社]]、1998年、isbn4582829201)pp.295-298</ref>。 酒の歴史は古く、有史以前から作られていたと見られている(→[[#歴史]])。 製造方法・[[原料]]・味わいなどは非常に多種多様であり、分類方法も同様である(→[[#種類]])。 原料は多くの場合、[[ブドウ]]や[[リンゴ]]などの[[果実]]、[[オオムギ|大麦]]や[[米]]などの[[穀物]]、[[イモ]]などの[[根菜]]のいずれかが使われる(→[[#原料]])。 効用としては[[ストレス (生体)|ストレス]]の解消、[[コミュニケーション]]の円滑化、[[疲労]]回復が挙げられる(→[[#効用]])。そして[[ヒトの脳]]を萎縮させ<ref name="萎縮"/>、時に違法薬物を上回ると言われる最も有害な薬物であり<ref name="pmid21036393"/>、世界で毎年250万人の死亡につながり死因の4%を占める<ref name="whoGS"/>。作用量と致命的な量が近く[[急性アルコール中毒]]になりやすい薬物であり、[[アルコール乱用]]や、禁断症状が致命的な[[振戦せん妄]]となりうる[[アルコール依存症]]となることもあり、アルコール飲料は[[IARC発がん性リスク一覧|IARC発がん性]]でグループ1(発がん性あり)にも分類される(→[[#健康への影響]])。 [[アメリカ合衆国]]では飲酒による死因の14%が運転事故、8%が他殺、7%が自殺、5.6%が転落死を占める<ref name="amcg"/>(→[[#飲酒と社会]])。またその効用も副作用も、(主に遺伝的な)個人差が大きいことで知られる。 このように及ぼす影響が大きいため、2010年に[[世界保健機関]](WHO)の「[[アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略]]」が採択されており、また政府の税収確保のため、酒の製造および[[流通]]([[販売]])は、多くの国において法律により規制されている(→[[#法律]])。宗教ごとに酒の扱いは異なっており、儀式に用いられたり、神への捧げ物とされていたり、また身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされていたりする。宗教によっては、飲酒を禁じているものもある(→[[#宗教と酒]])。 {{TOC limit|3}} == 歴史 == === 古代 === 酒の歴史は非常に古く、[[先史時代]]([[文字]]で[[歴史]]が記録される以前)から作られた。 最古の酒とされている[[蜂蜜酒]](ミード)は農耕が始まる以前から存在し、およそ1万4千年前に狩人が[[クマ]]などに荒らされて破損した蜂の巣に溜まっている雨水を飲んだことが始まりとされている。 [[南米]]、[[アジア]]、[[アフリカ]]のごく一部で現在も行われている、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や[[甕]]に吐き出し集め発酵を待つという原始的な酒造法が低アルコールながら有史以前に広まっており、古代日本でも[[巫女]]がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説がある(「[[口噛み酒]]」参照)。 2004年12月、中国で[[紀元前7千年紀|紀元前7000年]]頃の賈湖(かこ)遺跡([[:en:Jiahu|en]])から出土した陶器片を分析したところ、米・果実・[[蜂蜜]]などで作った醸造酒の成分が検出されたという報告があった。いまのところこれが[[考古学]]的には最古の酒である。 [[古代オリエント]]世界では、[[紀元前6千年紀|紀元前5400年]]頃の[[イラン]]北部[[ザグロス山脈]]の{{仮リンク|ハッジ・フィルズ・テペ|en|Hajji Firuz Tepe}}遺跡から出土した壺の中に、ワインの残滓が確認された。また[[紀元前3000年]]代には、[[シュメール]]の[[粘土板]]にビールのことが記録されている。シュメールの後を継いだ[[バビロニア]]で、最古の成文法である[[ハンムラビ法典]]の中にビール売りに関する規定が記されている(第108条 - 第110条)。 [[古代エジプト]]では紀元前2700年頃までにはワインが飲まれていた。[[ツタンカーメン|ツタンカーメン王]]の副葬品の壺からはワインが検出されている。またビールも広く飲まれていた。[[エジプトのピラミッド]]工事の労働者にはビールが支給されていた。オリエント世界ではブドウの育つ場所が限られるので、ワインは高級な飲み物であり、ビールはより庶民的な飲み物だった。 中国大陸において[[殷]]・[[周]]の時代、酒は国家の重要事である[[ハレとケ|祝祭]]において重要な意味を持っていた。非常に手の込んだ器である殷代[[青銅器]]のうち、多くのものは[[盃|酒器]]である。 『[[論語]]』には「郷人で酒を飲む(村の人たちで酒を飲む)」などの記述があり、[[紀元前5世紀]]頃には一般的な飲み物になっていた。 [[File:Michelangelo drunken Noah.jpg|thumb|right|350px|ノアの泥酔(ミケランジェロ画)]] [[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]は、ブドウの産地ということもあり、ワインが多く生産された。それらはアンフォラと呼ばれる壺に入れられて、[[地中海]]世界で広く交易されていた。酒の神[[ディオニューソス]](ローマでは[[バックス (ローマ神話)|バッカス]])が信仰され、酒神を讃える祭りが行われた。 酒を蒸留する技術は、[[3世紀]]頃の[[アレクサンドリア]]の[[錬金術師]]たちには、既に知られていたと推測される。 [[ローマ帝国]]は、[[ブリタンニア]][[属州]](現代の[[イギリス]]南部)をはじめ[[ヨーロッパ]]の各地を支配下に収め、その過程でワイン生産の技術を伝えた。[[フランス]]の[[ボルドー]]や[[ブルゴーニュ]]では、その頃からワインの製造が始まっている。なおイギリスは、気候の低温化によりブドウが栽培できなくなり、ワイン生産は廃れた。 === 中世 === [[10世紀]]以前には蒸留酒が発明されていた。それは錬金術師が偶然に作り出したものだといわれる。[[ラテン語]]で蒸留酒はアクア・ヴィテ(生命の水)と呼ばれた。それが変化して[[フランス語]]でオード・ヴィー、[[ゲール語]]でウシュクベーハーになり、今日の様々な蒸留酒の区分ができた。 [[1171年]]、[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の軍隊が[[アイルランド]]に侵攻した。その時の記録によると、住民は「アスキボー」という蒸留酒を飲んでいたという。これが[[ウイスキー]]の語源となる。 日本の[[沖縄]](当時は[[琉球]])では、若い女性が口の中で噛み砕いた木の実を唾液とともに吐き出し、それを醗酵させた口噛み酒を中国の使節へ供したという記録がある。 == 原料 == [[ファイル:Cabernet Sauvignon Gaillac.jpg|thumb|right|[[カベルネ・ソーヴィニヨン]](ブドウの品種)]] [[糖分]]、もしくは糖分に転化されうる[[デンプン]]分があるものは、酒の原料になりうる。[[脂肪]]や[[タンパク質]]が多いもの(たとえば[[大豆]]などの豆類)は原料に向かない。 === よく用いられる原料 === ;果実類:[[ブドウ]]、[[リンゴ]]、[[サクランボ]]、[[ヤシ]]や[[クリ]]の実など ;穀物類:[[米]]、[[ムギ|麦]]、[[トウモロコシ]]など ;根菜類:[[ジャガイモ]]、[[サツマイモ]]など === アルコール発酵に用いる菌 === 酒に含まれるアルコール分はほとんどの場合、[[酵母]]などの菌によって、糖の[[アルコール発酵]]が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2023-06-21 |title=ワイン酵母が自発的にブドウを発酵するための条件を解明―ワイン誕生の謎に迫る発見― |access-date=2023-09-03 |date=2023-06-21 |website=京都大学 |language=ja}}<br />【発表論文】{{Cite journal|author=渡辺大輔; 橋本渉 |year=2023 |month=06 |url=https://hdl.handle.net/2433/283428 |title=ワイン酵母が自発的にブドウを発酵するための条件を解明 --ワイン誕生の謎に迫る発見--. 京都大学プレスリリース. 2023-06-21 |trans-title=Adaptation of yeast Saccharomyces cerevisiae to grape-skin environment |journal=Scientific Reports |ISSN=2045-2322 |publisher=Springer Nature |volume=13 |hdl=2433/283428 |id={{CRID|1050015100311485696}} |language=en}}</ref>。テキーラは酵母ではなく[[ザイモモナス属|ザイモモナス]]と呼ばれる細菌をアルコール発酵に使用している)<ref>{{Cite journal|和書|author=坂口健二 |date=1983 |title=メキシコの酒と遺伝子工学 |url=https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.78.408 |journal=日本釀造協會雜誌 |volume=78 |issue=6 |pages=408–411 |language=ja |doi=10.6013/jbrewsocjapan1915.78.408 |issn=0369-416X}}</ref>。 しかし、麦・米・芋などの穀物類から造る酒の場合、原材料の中の[[炭水化物]]はデンプンの形で存在しているため、先にこれを糖に分解(糖化)する。糖化のためには[[アミラーゼ]]等の[[酵素]]が必要である。酵素の供給源として、西洋では主に[[麦芽]]が、東洋では主に[[麹]]が使われる。 === その他の原料 === ; 天然の素材 : [[サトウキビ]]、[[テンサイ]]、[[樹液]]、[[乳]]、[[蜂蜜]] ; 加工品 * [[酒造]]の副産物として得られる[[酒粕]]やブドウの絞りかすなど このほか、通常は飲料や食材として扱われていなくても、含有している糖分をアルコール発酵させれば酒は造れる。日本の[[森林総合研究所]]は、[[木材]]を細かく破砕して[[リグニン]]に保護されていた[[セルロース]]を露出させて[[酵素]]により糖に変え、樹種により味・香りが異なる酒を造る製法を開発した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO78542620X11C21A2MY1000/「木のお酒」香り豊かに登場]『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年12月19日サイエンス面(2021年12月26日閲覧)</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL4V5FXKL4VUJHB00G.html 世界初の「木のお酒」?香りと味わいは 森林総研が開発] [[朝日新聞デジタル]](2018年5月24日)2021年12月26日閲覧</ref>。 == 種類 == === 製造方法による分類 === 酒は大きく分けて[[醸造酒]]、[[蒸留酒]]、[[混成酒]]に分かれる。醸造酒は単発酵酒と複発酵酒に分けられ、複発酵酒は単行複発酵酒と並行複発酵酒に分けられる。 * 醸造酒:原料を発酵させた酒。蒸留や混成といった手順を踏まないもの(発酵後そのままとは限らない。飲みやすく調整するために水を加えるなど)。 ** 単発酵酒:原料中に糖類が含まれており、最初からアルコール発酵を行うもの。 ** 複発酵酒:アルコール発酵だけでなく、穀物のデンプンなどを[[糖化]]する過程を含むもの。 *** 単行複発酵酒:糖化の過程が終わってからアルコール発酵が行われるもの。ビールなど。 *** 並行複発酵酒:糖化とアルコール発酵が並行して行われるもの。清酒など。 * 蒸留酒:醸造酒を蒸留し、アルコール分を高めた酒。 * 混成酒:酒(蒸留酒が主に使われる)に他の原料を加え、香り・味・色などを整えた酒。 蒸留酒のうち、[[樽]]熟成を行わないものをホワイトスピリッツ、何年かの樽熟成で着色したものをブラウンスピリッツとする分類法がある。ただし、[[テキーラ]]、[[ラム酒|ラム]]、[[アクアビット]]などではホワイトスピリッツとブラウンスピリッツの両方の製品があり、分類としては本質的なものではない。 なお、全ての酒が上記いずれかに含まれるわけではない。例えばアイスボックビール<ref>{{Cite web|和書|url=https://otarubeer.com/jp/?page_id=375|title=Ice Bock/アイス・ボック|accessdate=2020年6月26日|publisher=小樽ビール}}</ref> は、醸造後にアルコール分を高める手順があるため醸造酒とは言いがたいが、その手順が蒸留ではない(凍結濃縮)ため蒸留酒でもない。また、凍結濃縮を他の酒類に適用する研究も行われている<ref>{{Cite journal|和書|title=日本酒の界面前進凍結濃縮 |url=https://doi.org/10.3136/nskkk.64.98 |author=宮脇長人, 表千晶, 小栁喬, 笹木哲也, 武春美, 松田章, 北野滋 |journal=日本食品科学工学会誌 |volume=64 |issue=2 |pages=98-101 |year=2017 |doi=10.3136/nskkk.64.98 |publisher=日本食品科学工学会}}</ref>。 === 原料による分類 === 原料によって酒の種類がある程度決まる。しかし、[[ジン (蒸留酒)|ジン]]、[[ウォッカ]]、[[焼酎]]、ビール、マッコリがあり、必ずしも原料によって酒の種類が決まるわけではない。また、原産地によって名称が制限される場合がある。たとえばテキーラは産地が限定されていて、他の地域で作ったものはテキーラと呼ぶことができずメスカルと呼ばれる。 {| class="wikitable" |+ ! ! !! 醸造酒 !! 蒸留酒 !! 混成酒 |- ! rowspan="8" |果実 ! [[ブドウ]] | [[ワイン]] |[[ブランデー]] [[ピスコ]] | |- !ブドウ(絞りかす) | |[[グラッパ]] [[ポマース・ブランデー#マール|マール]] | |- ! [[リンゴ]] |[[シードル]](アップル・ワイン) |[[カルヴァドス]] [[サボルチの林檎パーリンカ]] | |- ![[ナシ]] |[[ペリー (酒)|ペリー]](またはペルー) | | |- ![[レモン]] | | |[[リモンチェッロ]] |- ![[プルーン]] | |ツイカ [[スリヴォヴィッツ]] | |- ![[バナナ]] |[[バナナ・ビール]] | | |- !その他 |[[猿酒]] | | |- ! rowspan="11" |[[穀物]] ![[米]] |[[清酒]] [[どぶろく]] [[紹興酒]] [[マッコリ]] [[サト]] |米[[焼酎]] [[泡盛]] [[ソジュ]] |[[みりん]] |- !米([[酒粕]]) | |[[粕取焼酎]] | |- ![[コムギ|小麦]] |[[白ビール]] [[ボザ]] | | |- ![[オオムギ|大麦]] |[[ビール]] [[バーレーワイン]] |[[モルトウイスキー]] [[麦焼酎]] | |- ![[トウモロコシ]] |[[チチャ]] |[[バーボン・ウイスキー]] | |- !トウモロコシ ([[コーンスターチ]]) |ビール ※副材料として 用いられる。 |甲類および乙類焼酎 | |- ![[モロコシ]] | |[[白酒 (中国酒)|白酒]] | |- ![[ソバ]] | |[[蕎麦焼酎]] | |- ![[ライムギ]] |[[クワス]] | | |- ![[ヒエ]] |[[トノト]] | | |- ![[テフ (穀物)|テフ]] |[[テラ (飲料)|テラ]] | | |- ! rowspan="3" |[[根菜類]] ![[サツマイモ]] | |[[芋焼酎]] | |- ![[ジャガイモ]] | |[[アクアビット]] | |- ![[タピオカ]] | |[[甲類焼酎]] ※一部の商品 | |- ! rowspan="4" |その他 植物 ![[サトウキビ]] | |[[ラム酒|アグリラム]] [[カシャッサ]] [[黒糖焼酎]] | |- ![[リュウゼツラン]] |[[プルケ]] |[[メスカル]] [[テキーラ]] | |- ![[ヤシ]]の[[樹液]] |[[ヤシ酒]] | | |- ![[トマト]] | |[[トマト焼酎]] | |- ! rowspan="3" |その他 ![[乳]] |[[馬乳酒]] [[クミス]] |[[アルヒ]] | |- ![[蜂蜜]] |[[蜂蜜酒|ミード]] [[メドヴーハ]] | | |- ![[糖蜜#廃糖蜜|廃糖蜜]] | |[[甲類焼酎]] [[ラム酒|インダストリアルラム]] | |} === 酒類の分類に関連する法律 === アルコール飲料は多くの国で課税対象であり、また年齢によって飲用が制限されることも多いため、法律によって酒の定義や区分を明確に定めている。 日本ではアルコール度数1度以上が酒類と定義され20歳未満の飲用は禁じられているが、これらの閾値は当然国・地域によって異なる。 また、フランスの[[AOC法]]のように文化財としての酒を保護するための法律もある。 == 度数 == {|class="wikitable floatright" style="font-size:90%; margin-left:1em;" |+ 100g中の酒に含まれるアルコール質量<ref>『[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802.htm 五訂増補日本食品標準成分表]』</ref> |- !種類 !!100g中のアルコール質量 |- |日本酒(純米酒) || 12.3g |- |日本酒(本醸造酒) || 12.3g |- |日本酒(吟醸酒) || 12.5g |- |日本酒(純米吟醸酒) || 12.0g |- |ビール(淡色) || 3.7g |- |ビール(黒) || 4.2g |- |ビール(スタウト) || 5.9g |- |発泡酒 || 4.2 g |- |ぶどう酒(白) || 9.1g |- |ぶどう酒(赤) || 9.3g |- |ぶどう酒(ロゼ) || 8.5g |- |紹興酒(紹興酒) || 14.1g |- |しょうちゅう(甲類) || 29.0g |- |しょうちゅう(乙類) || 20.5g |- |ウイスキー || 33.4g |- |ブランデー || 33.4g |- |ウオッカ || 33.8g |- |ジン || 40.0g |} 日本での[[アルコール度数]]は、含まれるアルコールの容量[[パーセント]]で「度」と表す。正確には、温度15[[セルシウス度|℃]]のとき、その中に含まれる[[エチルアルコール]]の容量をパーセントで表した値。販売されている酒の多くは、3度(ビール等)から50度前後(蒸留酒類)の範囲であるが、中には90度を超す商品もある。日本の[[酒税法]]では、1度未満の飲料は酒に含まれない。そのため一般的な[[甘酒]]はソフトドリンクに分類される。なお、日本酒には「日本酒度」という尺度があるが、これは日本酒の[[比重]]に基づくもので、アルコール度数と[[エキス]]分(酒類中の糖、[[有機酸]]、[[アミノ酸]]など不揮発性成分の含有量)に依存する。 英語圏では、度数のほか、[[アルコールプルーフ]]も使われる。[[アメリカ合衆国|US]]プルーフは度数の2倍、[[イギリス|UK]]プルーフは度数の約1.75倍である。英語圏で {{lang|en|degree}} や {{lang|en|°}} といえばプルーフのことなので、注意が必要である。 == 効用 == === 高齢期の認知能力向上 === 中年期の適度なアルコール摂取(女性で約325ml/日、男性で約600ml/日)が、老年期の認知能力の向上につながる可能性を示唆する研究がある<ref>{{Cite web |title=Does alcohol help protect the brain? |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/does-alcohol-help-protect-the-brain |website=Harvard Health |date=2020-09-01 |access-date=2023-07-24 |language=en}}</ref>。 === 食欲の増進 === 個人差はあるものの、少量の飲酒に限れば、[[胃液]]の分泌が盛んになり消化を助け、食欲が増進する。 === ストレスの解消 === ほろ酔い程度の飲酒により、行動欲求を抑圧している精神的な緊張を緩和し、気分がリラックスし、[[ストレス (生体)|ストレス]]の解消につながる([[セルフメディケーション]])。 === コミュニケーションの円滑化 === 適量のアルコールが体内に入ると、思考や[[知覚]]、運動、記憶などといった機能をつかさどっている[[大脳皮質]]の抑制が解放される作用がある。抑制が取れることにより緊張がほぐれ、コミュニケーションがより陽気で快活になり、会話が活発になる。酒により会話などの行動する勇気が出る効果を英語では、liquid courage(リキッド・カレージ)と言われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/65679 |title=酒に酔っても「他人に感じる魅力は増さない」 実験で示唆 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン) |access-date=2023-09-03 |website=forbesjapan.com |language=ja}}</ref>。魅力的に見える[[ビール・ゴーグル効果]]と呼ばれるものはあるが、研究では魅力の増減ではなく魅力的に見える相手にリキッド・カレージで近寄りやすくなる効果が確認された<ref>{{Cite web |url=https://neurosciencenews.com/alcohol-attraction-psychology-23850/ |title=Beer Goggles or Liquid Courage? Alcohol's Real Effect on Attraction |access-date=2023-09-03 |last=News |first=Neuroscience |date=2023-08-30 |website=Neuroscience News |language=en-US}}</ref>。 === 疲労回復 === 少量の飲酒は、[[血管]]を拡張させて血液の流れを良くして[[血行]]を改善する。その結果、体を温め、疲労回復の効果があがる。また、[[利尿]]作用もあるので、体内にたまった疲労のもとになる[[老廃物]]の排出を促進する<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01071/111800006/ |title=ITエンジニアに多い「休日の飲酒」、リラックスのはずが逆に疲れる訳 |access-date=2023-09-03 |last=日経クロステック(xTECH) |date=2019-11-25 |website=日経クロステック(xTECH) |language=ja}}</ref>。 === 健康食品として === アルコールに関しては健康への悪影響が懸念される中、ワインなどに含まれる[[ポリフェノール]]についても注目されている。ポリフェノールは[[動脈硬化]]や[[脳梗塞]]を防ぐ抗酸化作用、[[ホルモン]]促進作用などがあり、特にウィスキーの樽ポリフェノールは従来のポリフェノールの約7倍の抗酸化力を持ち、細胞内[[ソルビトール]]の蓄積を抑制するため[[糖尿病]]なども抑制する効果を持つ。その他にウィスキーには[[メラニン]]の生成を抑制する[[チロシナーゼ]]が含まれているため[[美白]]効果をもたらす可能性も期待されている。 === 死亡率の低下 === {{See also|Jカーブ効果#飲酒量と死亡率}} 2000年に開始された日本の政策、[[健康日本21]]のまとめでは、日本人では全くアルコールを飲まないより、一日の純アルコール摂取量が男性で10から19g、女性9gまでの場合に、最も[[死亡率]]が低くなるとされている。これを超える場合、死亡率が高まるとしている<ref>[https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/pdf/all.pdf 21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)について 報告書] 平成12年2月、健康日本21 企画検討会、健康日本21 計画策定検討会</ref>。 しかし、別の研究では少量でも健康へ悪影響があるとしている。([[#飲酒習慣と健康]]を参照) == 料理と酒 == 特に酒とともに食べる料理を[[肴]]という<ref name="kojien">『[[広辞苑]]』第5版</ref>。[[ソーセージ]]とビールや、[[キャビア]]とウォッカなど料理と定番の組み合わせがある。[[フランス料理]]とワインや、[[日本料理]]と日本酒のように食事の際にも飲まれる。また[[食前酒]]や[[食後酒]]などもある。特に酒のための食事を[[宴会]]とよぶ。 料理に風味付けや肉や魚などの臭み消し等の用途でみりん、日本酒、ワイン、ブランデー、ウィスキーなどが使用され、[[煮切り]]や[[フランベ]]などの[[調理法]]がある。そのほか、パンの原材料としてや、漬物、饅頭やカステラなどの和菓子、チョコレートやケーキなどの洋菓子にも使われる。[[奈良漬け]]やブランデー・ケーキ、中のシロップにワインやブランデーが使われているチョコレートなどには風味のためアルコール分が残してある。 [[エチオピア]]には[[パルショータ]]と呼ばれる醸造酒を[[主食]]とする人々がいる。 == 健康への影響 == [[画像:HarmCausedByDrugsTable.svg|thumb|right|[[デビッド・ナット]]ら[[薬物に関する独立科学評議会]](ISCD)による2010年に『[[ランセット]]』に掲載された薬物の相対的な有害性に関する論文は、社会的な有害性も評価し暴力や事故を引き起こす傾向の強いアルコールを最も有害とした<ref name="pmid21036393">{{cite journal|last1=Phillips|first1=Lawrence D|authorlink1=デビッド・ナット|last2=Nutt|first2=David J|last3=King|first3=Leslie A|title=Drug harms in the UK: a multicriteria decision analysis|journal=The Lancet|volume=376|issue=9752|pages=1558-1565|year=2010|month=November|pmid=21036393|doi=10.1016/S0140-6736(10)61462-6|url=http://www.sg.unimaas.nl/_OLD/oudelezingen/dddsd.pdf|format=pdf}}</ref>。]] === 人体への作用 === {{See also|人体へのエタノールの作用}} 摂取した酒に含まれるアルコール(エタノール)は、主に[[胃]]と[[小腸]][[粘膜]]で吸収される。吸収されたアルコールは迅速に[[酸化]]され[[アセトアルデヒド]]となる。酒に含まれるエチルアルコールは向精神性物質であり、人間の不安感や抑うつ感を抑える効果がある。しかし、一度に大量のアルコールを摂取すると[[代謝]]が間に合わず、血中アルコール濃度が上昇を始める。血中のアルコールは[[中枢神経系]]を麻痺させ、酩酊や[[急性アルコール中毒]]を引き起こす。[[嘔吐]]することもある。 アルコールの作用が強くなると、一時的に記憶がなくなることもある。このような作用を持つ薬物としては睡眠薬と同じであり、共に[[γ-アミノ酪酸|GABA]][[受容体]]に作用するため、アルコールと睡眠薬の併用では呼吸を抑制して死亡するリスクは高まる。 判断力を低下させる。アメリカでは、アルコールによる死因の14%(毎年約1万4千人)を運転事故、8%を他殺、7%を自殺、5.6%を転落死で占め<ref name="amcg">{{Cite book|author=コロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター|title=Addiction Medicine: Closing the Gap between Science and Practice|publisher |url=http://www.casacolumbia.org/templates/NewsRoom.aspx?articleid=678&zoneid=51 |date=2012-06|page=59}}</ref>、暴力や事故に起因する死亡につながる。 週7回以上の飲酒は不妊治療を受けている女性の妊娠確率を低下させるという研究がある<ref>{{Cite web |title=Alcohol may lower pregnancy odds in women undergoing fertility treatment ― but caffeine is no problem |url=https://www.health.harvard.edu/womens-health/alcohol-may-lower-pregnancy-odds-in-women-undergoing-fertility-treatment-but-caffeine-is-no-problem |website=Harvard Health |date=2023-02-01 |access-date=2023-01-20 |language=en |first=Maureen |last=Salamon}}</ref>。 また、祝日などで大量の飲酒を行うと{{ill2|ホリデーハート症候群|en|Holiday heart syndrome}}と呼ばれるアルコール性心筋症などを引き起こす。 ===飲酒習慣と健康=== {{See also|急性アルコール中毒|向精神薬#死亡者数}} {{世界の疾病負荷}} アルコールは毎年250万人の死亡につながっており、世界死因の4%を占める<ref name="whoGS">[http://www.who.int/substance_abuse/activities/gsrhua/en/ Global strategy to reduce harmful use of alcohol](世界保健機関)</ref>。[[ロシア]]では男性の37%が55歳以前に死亡しており、主な原因は強いアルコール飲料、特にウォッカが原因と考えられる<ref name="pmid24486187">{{cite journal|last1=Zaridze|first1=David|last2=Lewington|first2=Sarah|last3=Boroda|first3=Alexander|coauthors=et al.|title=Alcohol and mortality in Russia: prospective observational study of 151000 adults|journal=The Lancet|volume=383|issue=9927|pages=1465-1473|year=2014|pmid=24486187|pmc=4007591|doi=10.1016/S0140-6736(13)62247-3|url=http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(13)62247-3/fulltext}}</ref>。イギリスでは、このような早期死亡の比率は7%である<ref name="pmid24486187"/>。 2012年の研究は44件の研究から、男性5杯以上、女性4杯以上の過剰な飲酒がひと月に1度でもあると、これまで言われていた少量の飲酒での健康効果を損なうとした<ref name="pmid30146330">{{cite journal|author=|title=Alcohol use and burden for 195 countries and territories, 1990-2016: a systematic analysis for the Global Burden of Disease Study 2016|journal=Lancet|date=August 2018|pmid=30146330|doi=10.1016/S0140-6736(18)31310-2|url=https://doi.org/10.1016/S0140-6736(18)31310-2}}</ref>。しかし、[[ハーバード大学医学大学院]]によると適度なアルコール摂取は、健康な高密度リポタンパク質([[コレステロール|HDL]])[[コレステロール]]のレベルを上昇させる。アルコールはまた、[[インスリン]]に対する細胞の抵抗性を低下させ、[[血糖値]]をより効果的に低下させることができる<ref>{{Cite web|title=Boost your memory by eating right|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/boost-your-memory-by-eating-right|website=Harvard Health|accessdate=2021-03-12|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref>。 従来、1日にビール1缶程度の飲酒であれば死亡率が低下するとされてきたが、[[禁酒]]の理由には死亡率に影響するような病気になっているということがあるため、2016年には疾患の有無を区別し87件の研究から解析したところ、そうした飲酒と飲酒しない人の間には、総死亡率には違いがなかった<ref name="pmid26997174">{{cite journal|last1=Stockwell|first1=Tim|last2=Zhao|first2=Jinhui|last3=Panwar|first3=Sapna|last4=Roemer|first4=Audra|last5=Naimi|first5=Timothy|last6=Chikritzhs|first6=Tanya|title=Do “Moderate” Drinkers Have Reduced Mortality Risk? A Systematic Review and Meta-Analysis of Alcohol Consumption and All-Cause Mortality|journal=Journal of Studies on Alcohol and Drugs|volume=77|issue=2|pages=185-198|year=2016|pmid=26997174|doi=10.15288/jsad.2016.77.185}}</ref>。月に一度の大量飲酒(男5杯・女4杯以上)によって、リスクが上回る<ref name="pmid26997174">{{cite journal|last1=Stockwell|first1=Tim|last2=Zhao|first2=Jinhui|last3=Panwar|first3=Sapna|last4=Roemer|first4=Audra|last5=Naimi|first5=Timothy|last6=Chikritzhs|first6=Tanya|title=Do “Moderate” Drinkers Have Reduced Mortality Risk? A Systematic Review and Meta-Analysis of Alcohol Consumption and All-Cause Mortality|journal=Journal of Studies on Alcohol and Drugs|volume=77|issue=2|pages=185-198|year=2016|pmid=26997174|doi=10.15288/jsad.2016.77.185}}</ref>。 また2016年の別の研究は、195か国の592研究のデータを分析し、飲酒しないことが最も健康を保つとした<ref name="pmid30146330">{{cite journal|author=|title=Alcohol use and burden for 195 countries and territories, 1990-2016: a systematic analysis for the Global Burden of Disease Study 2016|journal=Lancet|date=August 2018|pmid=30146330|doi=10.1016/S0140-6736(18)31310-2|url=https://doi.org/10.1016/S0140-6736(18)31310-2}}</ref>。 === アルコール依存症 === {{Main|アルコール依存症|精神依存|身体依存}} アルコール依存症とは、長期にわたり多量の飲酒した事から、アルコールに対し精神的依存や身体依存をきたす、精神疾患である。アルコールを繰り返し摂取し、アルコールに対する依存を形成し、精神的に身体的に続的に障害されている状態をいう。長期間多量に飲酒を続ければ、誰でもアルコール依存症になる可能性があり、世界保健機関(WHO)の策定した『国際疾病分類』第10版には"精神および行動の障害"の項に分類されており、個人の性格や意志の問題ではなく、[[精神障害]]と考えられている。 アルコール依存症の症状には精神依存と身体依存とがある。精神依存としては、飲酒への強烈な欲求をもつようになり、飲酒のコントロールがきかず節酒ができない状態となる。また精神的身体的問題が悪化しているにもかかわらず断酒できない、などが挙げられる。身体依存としては、アルコールが体から切れてくる事で、指のふるえが起きたり、発汗症状などの禁断症状が現れたり、以前と比べて酔うために必要な酒量が増大する、などが挙げられる。アルコール依存症になると他の娯楽や生活をおざなりに、飲酒をすることをすべてに優先的な行動となってしまう傾向にある。 飲用量が多い場合、急な飲酒は[[振戦せん妄]]を起こして致命的となりうる。 === がん === {{See also|アセトアルデヒド#発がん性}} アルコール飲料は、[[IARC発がん性リスク一覧|IARC発がん性]]で発がん性があるというグループ1に分類される。WHOでは、飲酒は[[口腔癌]]、[[咽頭癌]]、[[喉頭癌]]、[[食道癌]]、[[肝癌]]、[[大腸癌]]と女性の[[乳癌]]の原因となる<ref>{{cite journal |author=Baan R, Straif K, Grosse Y, ''et al.'' |title=Carcinogenicity of alcoholic beverages |journal=Lancet Oncol. |volume=8 |issue=4 |pages=292-3 |year=2007 |month=April |pmid=17431955}}</ref>として注意喚起を行っている。飲酒は[[喫煙]]と同じく深刻な健康被害をもたらすため、多くの人々に問題を知らせ、極めて有害であるアルコールの真実を効果的に伝える必要があるとし呼びかけを行っている。 アルコールそのものには発癌性があり、飲酒が少量でも顔が赤くなるような[[ALDH2]](2型[[アルデヒド脱水素酵素]])の働きが弱い体質の人では、アルコール代謝産物のアセトアルデヒドが食道癌の原因となり、[[悪性腫瘍|ガン]]リスクを増大させると結論づけられている。ALDH2の働きが弱い人は日本人の約40%にみられ、アセトアルデヒドの分解が遅く飲酒で顔面が酷く赤くなったり、[[二日酔い]]を起こしやすい体質を作るなどの症状をもたらす。アセトアルデヒドやアルコールには発ガン性があり、[[口腔]]・[[咽頭]]・[[食道]]の発癌リスクが特に高くなる。口腔ガン、咽頭ガン、食道ガンは一人に複数発生する傾向があり、ALDH2の働きが弱い人に多発癌が多くみられる。少量の飲酒で顔が赤くなる体質の人の中で飲酒を始めて2年以内にあった人では、約9割の確率でALDH2の働きが弱いタイプと判定される。 また逆にALDH2の活性が高い人は、大量のアルコールを摂取できる反面、同時に肝臓ではアルコールの分解と共に中性脂肪の合成が進む事で結果、肝臓は脂肪まみれになり、いわゆる脂肪肝リスクが増大することになる。 [[2005年]]の[[厚生労働省]]多目的[[コホート]]研究では、男性に発生した癌全体の約13%が週300g以上の飲酒による原因と概算されている。口腔・咽頭と食道癌では禁酒によりリスクの低くなることが報告されており、[[禁煙]]と禁酒の両者に取り組めばさらにリスクは低下すると報告されている。 大腸癌は飲酒で約1.4倍程度のリスク増となり、日本人では欧米人よりも同じ飲酒量でも大腸癌のリスク増加は若干多い傾向にある。大腸癌は頻度が多いので飲酒量を減らすことによる予防効果は大きいと考えられている。 ; 肝臓ガン {{main|肝臓ガン}} : 長期間飲酒を続けると肝臓に障害が生じ、アルコールの摂取量が肝障害に関連している。 : 大量のアルコールを摂取を続ける事で、肝臓ではアルコールの分解と共に中性脂肪の合成が進み、その結果、肝臓は脂肪まみれになり脂肪肝を発症する。 : さらに飲酒を続けると、アルコール性肝炎や肝硬変に進み、最後には肝癌を合併するケースも珍しくない。お酒に強い人ほど強いがゆえに、肝臓を著しく痛めつける傾向があることが報告されている。 : 積算飲酒量とは、今までに飲んだアルコールの量のことである。積算飲酒量が、純アルコール換算で男性で600kgを超えると上記のように肝臓に障害が出る危険が高まると言われている。女性の場合は男性よりも少ない量で危険が高まる<ref name=kanzo.25.1246>西村正信, 野内俊彦, 小山恒 ほか、「[https://doi.org/10.2957/kanzo.25.1246 女性大酒家肝障害の臨床病理学的研究]」『肝臓』1984年25巻10号 pp.1246-1252, {{doi|10.2957/kanzo.25.1246}}</ref>。ちなみに、この600kgは、週300g(ビール大瓶(633cc/本 x 4% = 25g/本)2本/日・6日分相当)、2000週(40年間)に相当する。上記表より換算すれば、日本酒週1.2升40年、ウイスキー週ボトル1.2本40年に相当する。 : もともとウイルス性肝炎がある場合は、飲酒は増悪因子となりうる。 : ただし、脂肪肝の段階で、節酒するか断酒に踏み切れば、肝臓は元の健康な状態に戻ることが確認されている。[[アルコール性肝疾患|アルコール性脂肪肝]]と指摘された場合には、速やかに断酒することが重要とされている<ref>[https://kompas.hosp.keio.ac.jp/sp/contents/000816.html アルコール性肝炎] 慶應義塾大学病院 KOMPAS</ref>。 ; 食道ガン {{main|食道ガン}} : 飲酒時に赤面する人が長期間飲酒を続けると食道ガンになる危険性が89倍にまで増加し、同体質の人が飲酒、喫煙を続けると最大190倍も高くなることが、[[東京大学]]の中村祐輔教授と松田浩一助教の研究により報告されている。 : ALDH2酵素の遺伝的不足により、飲酒により吐き気を催したり、心拍数が増加、ほてりなどの反応を示す人は、東アジア(日本・中国・韓国)の人たちの1/3以上にまで及ぶ。日本では約4割がこの体質を持つ。アセトアルデヒドと呼ばれる毒素の体内蓄積を引き起こし、たったビール1/2本でも症状がでる。 : 世界で食道がんを多い国をつなげると、ベルト状になることから「食道がんベルト」という名が付いている。中東アジア、中国、韓国、日本などがそれとなる。病理学的に食道がんは「食道扁平上皮癌」と「食道腺癌」に大別され、日本人の場合には95%以上が食道扁平上皮癌が多数を占めている。一方、欧米では「食道腺癌」が多数である。 ; 喉頭ガン {{main|喉頭ガン}} : 喉頭ガンの原因として飲酒やたばこの吸いすぎがあげられる。多く発症し特に50歳以上の患者の増加が目立ち咽頭部への継続的な悪質な刺激がガンを引き起こすと見られている。飲酒、喫煙の割合が男性に多い事から、男性に咽頭ガンの多い原因と考えられている。 : 咽頭ガンは上咽頭ガン、中咽頭ガン、下咽頭ガンにわかれておりそれぞれの部位で症状が違いがある。症状を例をあげると、一番多い中咽頭ガンで共通しているのは声がガサつきとなっている。いわゆるがらがら声と呼ばれる状態。咽頭ガンがさらに進行すると呼吸がうまくできなくなることがある。いわゆる[[呼吸困難]]の状態である。また、[[痰|タン]]が多く出たり、[[血痰|タンの中に血が混じったり]]する症状がでてくる。このような症状が出た場合には早期に診療を受けることが大切。 ; 喉頭がん : 喉(ノド)頭がんの原因に喫煙や飲酒があげられる。喉(のど)が焼けるような強い酒をあおるように飲む飲み方ではリスクはより高まることになる。毎日飲酒をする人は特に注意が必要である。また、喉頭がんの原因は飲酒以外にも[[タバコ]]や[[アスベスト]]などもあげられている。 ; 口腔ガン {{main|口腔ガン}} : 口腔ガンを引き起こす主要因子は喫煙や飲酒とされている。喫煙者は非喫煙者より口腔ガンでの死亡率が約4倍高いといわれている。また、アルコールはタバコよりも口腔癌を引き起こす可能性が著しく高いことが、近年の研究によって明らかになってきた。さらにビールやワインは同量のウイスキーを飲むよりもリスクが高まることも報告されている。 : 口腔ガンの予防法には主に次のようなことが挙げられている。 :* タバコやアルコールを控える :* 口の中を清潔にする :* 口の粘膜に慢性の刺激を与えない : などである。 === 脳の萎縮 === アルコールは少量であっても、脳を萎縮させる効果があるとする研究結果が報告されている<ref name="萎縮">[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-34284020081014 「アルコール、飲むほどに脳が縮小=米研究」][[ロイター]](2008年10月14日 12:12 JST)</ref>。 研究によれば、以下の順で脳がより萎縮するとされている。 # 大量の飲酒を継続的に行っている人 # 少量の飲酒を継続的に行っている人 # 過去に飲酒していたが、現在は飲酒を止めている人 # 飲酒をしない人 「適量」と呼ばれている少量の飲酒であっても、脳の萎縮が起こり、過去の飲酒の影響も残り続けるため、脳の萎縮という観点から見れば、アルコールに適量は存在しないと言える。 なお、日本において20歳未満の者の飲酒は法律により禁止されているが、アルコールを摂取する方法として飲酒の形態を取っていない場合であっても摂取したアルコール量に応じた化学反応が脳内物質に発生することで脳に対して相応の影響が生じる。ただし、アルコール分を飛ばした後の極微量の残存アルコールが摂取されることなどについては一般に許容されるものと考えられている。ただし、アルコールを含まない代替物質を使用するなどで同様の効果を得るといった選択はある。 === 認知症 === 慢性的に大量の飲酒を続けることは、65歳未満で発症する早期発症型の[[認知症]]をはじめとする様々な類型の認知症の主要な危険因子になりうるとする研究結果が出ている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3163384 「慢性的な大量飲酒、認知症との関連が明らかに」][[フランス通信社|AFP]](2018年2月21日 13:20 JST)</ref>。 フランスにおいて早期発症型認知症の患者5万7000人以上の症例を調査した結果、半分を優に超える患者がアルコールに関する診断がなされていることが判明した。また、過去5年間に認知症と診断されたフランスの成人100万人以上の医療記録を精査し、アルコールとの関連が統計学的に明白であることも示されている。 ===代替飲料の開発=== {{See also|パゴクロン}} このように、アルコールには死亡を含めた有害な影響が高く、その悪影響を低減させたアルコシンス(Alcosynth)が開発されている<ref name="Forbesアルコンシス">{{cite news |author=Thomas Pellechia、木内涼子・編集 |title=健康的な「合成アルコール」商品化へ、英教授が資金調達 |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/19050 |date=2017-12-21 |newspaper=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]] |accessdate=2018-02-01}}</ref>。2017年にイギリスの[[デビッド・ナット]]がアルカレラ(Alcarelle)を設立し、100の特許と共に商品化に向けて動いており、二日酔いがなく健康への害や暴力を低減させ、電子たばこのように害を低減させるという変化を社会にもたらしたいと考えている<ref name="Forbesアルコンシス"/>。 == 飲酒と社会 == [[File:PostcardAHappyNewYear1912.jpg|thumb|right|350px|痛飲(1912年の新年ポストカード、米国)]] [[ファイル:Tenji-osake.jpg|250px|thumb|日本の酒類には、目の不自由な人の誤飲防止のため点字で「おさけ」と記されているものがある。]] {{Seealso|アルコール乱用}} 精神、心理状態を変化させることなどもあって、[[飲酒]]は様々な社会、文化と関わってきた。家庭における飲酒が日常化し、[[晩酌]](夕食時に(しばしば日常的に)飲酒すること)する習慣や、酒を提供する飲食店である[[バー (酒場)|バー]]、[[パブ]]、[[居酒屋]]、[[スナックバー (飲食店)|スナック]]のような飲食店も存在している。 日本では行事などで、なかば強制的に飲酒させる慣習が2000年代初頭頃まで見られたが、2010年代以降は急性アルコール中毒や[[飲酒運転]]による死亡事故報道の増加や、アルコール代謝酵素の欠落症の存在やアルコールハラスメントによる諸問題が広く知られる様になった事で、酒席での[[ノンアルコール]]やソフトドリンクも認められる様になりつつある。 === 暴力 === {{See also|向精神薬#暴力との関連|アルコールハラスメント}} アルコールは攻撃的な感情が起こることを促す<ref name="pmid27422568">{{cite journal|last1=De Sousa Fernandes Perna|first1=E. B.|last2=Theunissen|first2=E. L.|last3=Kuypers|first3=K. P. C.|coauthors=et al.|title=Subjective aggression during alcohol and cannabis intoxication before and after aggression exposure|journal=Psychopharmacology|volume=233|issue=18|pages=3331-3340|year=2016|pmid=27422568|pmc=4988999|doi=10.1007/s00213-016-4371-1|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4988999/}}</ref>。 児童や高齢者への[[虐待]]、[[家庭内暴力]]([[ドメスティックバイオレンス|DV]])、駅や街中での暴力、傷害、犯罪など飲酒に関連した暴力は様々な場面で起こっており、社会的に重大な問題の一つとなっている。飲酒に関連した暴力を防止するためには、その原因となっている飲酒を減らすことが大切とされる。 飲酒により暴力が増加する背景には、飲酒・酩酊により攻撃性が増すなどのアルコールによる直接的な影響と、習慣的な飲酒によるアルコール乱用やアルコール依存症などの疾病からくる間接的な影響とがある。また、飲酒に関連した暴力には様々な種類があり、暴言や身体的暴力のみならず、精神的暴力、経済的暴力、性的暴力などが報告されている。 鉄道会社団体のまとめでは、駅や列車内で暴力行為をした乗客の約6割は飲酒をしていた<ref>{{Cite press release|和書|accessdate=2020年3月22日|date=2019年7月8日|title=鉄道係員に対する暴力行為の件数・発生状況について|url= https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190708_ho02.pdf|publisher=一般社団法人日本民営鉄道協会 ほか}}</ref>。また酔客を降ろした駅員が突然傘で殴られたり、乗客同士のけんかの仲裁に入った駅員3人が逆上されてけがを負ったりするなど、駅員への暴行も多数報告されている。酔って地域警察官へ暴力をふるうなどして公務執行妨害容疑で逮捕されるなど、警察官へ暴力を振るうケースも珍しくない。 日本においては、飲酒による暴言・暴力や[[セクシャルハラスメント]]などにおよぶといった迷惑行為である。この問題は、公共の場、職場や家庭内など、2000年代の日本での調査によると被害を受けた成人は推定約3,000万人である<ref>{{Cite web|和書|author=樋口進 |title=成人の飲酒実態と関連問題の予防について |url=https://www.mhlw.go.jp/topics/tobacco/houkoku/061122b.html |date=2006-11-22 |publisher=厚生労働省 |accessdate=2018-02-18}}</ref>。 === 自殺 === 飲酒量が増すにつれて[[自殺]]のリスクが直線的に高い結果が示された。多変量解析の結果、多量飲酒者の自殺リスクは、非現在飲酒者(非飲酒者+過去飲酒者)と比べ3.3倍高くなり、さらに、1日1合未満の少量飲酒者においても自殺リスクが1.7倍と高いリスクが示された<ref>[http://www.pbhealth.med.tohoku.ac.jp/outline/cohoto/0711alcohol.html 東北大学大学院医学系研究科(飲酒と自殺リスクとの関連)]</ref>。 === 凍死 === 飲酒したまま屋外などで寝込んでしまい、そのまま[[低体温症]]により凍死することがある<ref>{{cite news|quote=[[新潟県警]]によると、2009年1月から12年11月末までの間、泥酔により、道路に横たわり轢き逃げなどの被害者の人数は36人、うち死者は14人|title=酔って寝たら逮捕も 新潟県警、摘発強化へ|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2012-12-15|accessdate=2020-3-22|url= https://r.nikkei.com/article/DGXNASDG1404S_V11C12A2CC1000?s=1}}</ref>。特に、寒波が厳しい時期には[[ホームレス]]などの屋外生活者が寒さを紛らわせるために飲酒し、そのまま凍死するケースもある<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3114036 「ウクライナ、寒波による死者40人に」]AFP(2017年1月14日)2017年1月14日閲覧</ref>。 === 飲酒運転事故 === [[飲酒運転]]による死亡事故は、[[平成]]14年(2002年)施行の改正[[道路交通法]]により罰則等が強化されたことで減少してきた。そして、平成18年(2006年)以降の取締りの強化及び飲酒運転根絶に対する社会的機運の高まり、さらには飲酒運転の厳罰化等により、大きく減少し、10年前の約3分の1となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/insyu/img/insyujiko1.pdf|title=飲酒運転による死亡事故件数の推移|accessdate=2020年2月17日|publisher=[[警察庁]]}}</ref>。飲酒運転事故は平成20年の6219件が平成30年には3355件に減少している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/insyu/img/insyujiko2.pdf|title=飲酒運転による交通事故件数の推移|accessdate=2020年2月17日|publisher=警察庁}}</ref>。 === 貧困 === 飲酒と[[貧困]]には、世界の貧困問題と不可分である。世界的に、学歴が低く、低所得、[[失業]]中などの人において[[飲酒率]]が高いことが多数の統計的研究によって裏付けられている。複数の研究では、貧しい国の中には[[家計]]の約18%が飲酒に出費されていることもあると指摘されている。WHOによると、少ない[[所得]]から食費・[[健康]]管理費・教育費などがさらに削られ、[[栄養不良]]や[[医療費]]増大、早死、[[識字率]]低下をもたらし、社会階層の固定化に影響している。 === 社会的損失 === イギリス政府は飲酒への財政負担の軽減のために規制強化に乗り出した。飲酒が原因となる[[犯罪]]、暴力事件や医療費が大きな財政負担となっており、日本円にして年間1兆2000億から1兆9000億円が飲酒に関わる財政負担となっていると推計されている。また、成人の100万人以上がアルコール依存症だとされ、NHS([[国民保健サービス]])への負担は年間27億ポンドにも達している。イギリスではアルコール飲料が安価であることが過剰飲酒の引き金になっているとして厳しく非難されている。10年間で約10万人が飲酒が直接の原因となる疾病による死亡者数となっている。またこの累計には飲酒運転やガンなど、アルコールが間接的な原因と考えられるものは除かれている。2010年10月から[[身分証明書]]の確認の義務化なども実施される。そのほか、[[パブ]]などでの飲酒促進サービスとなる10[[スターリングポンド|ポンド]]飲み放題サービスや女性無料の日サービスのほか、早飲み競争ゲームなどの禁止が実施される。 韓国政府は、飲酒による社会経済的な損失の費用が年間20兆ウォン(約2兆6000億円)を超えるという韓国内政府統計を示した。これを切っ掛けに[[テレビコマーシャル]]などを用いた「節酒キャンペーン」が行われた。医療費の支出や早期死亡、生産性の減少など、社会経済的に損失を与えた費用が20兆990億ウォンに及ぶなど、飲酒の弊害が深刻な水準にあると明らかにした。その根拠として、18‐64歳のアルコール使用障害人口(アルコール乱用人口とアルコール依存症人口を合わせた数)が全人口の6.8%(221万人)に及ぶという2001年の[[保健福祉部]]精神疾患実態疫学調査の結果を挙げた。[[仁済大学]]の金光起(キム・クァンギ)教授チームの調査の結果、過度な飲酒による疾患で死亡した人は2001年2万2000人(死亡者全体の8.7%)だった。また、2001年の殺人・暴力・強盗・[[強姦]]などの凶悪犯罪や交通事故の加害者など、現行犯の43.5%が犯行時に飲酒状態であったことが分かった。 日本では政府による大規模統計は示されていないが、韓国人では1人あたり年間71.1L、日本人は1人あたり年間83.5Lの飲酒量から同様の問題が懸念されている。 === 日本での飲酒者の傾向 === 以下はJMSコホート研究による。 日本人男性では、年齢が高いほど飲酒未経験者・禁酒者の割合が高く、若年層では飲酒量が多い傾向がみられた。結婚している人よりしていない人、および身体活動度が高い人より低い人で、飲酒未経験者・禁酒者・多量飲酒者が多かった。 日本人女性では、高齢層より若年層、教育年数の短い人より長い人、身体活動度の高い人より低い人で飲酒者の割合が高いという結果となった。そのほか、非飲酒者の収縮期血圧、拡張期血圧、総コレステロール、LDL-Cは飲酒者よりも高い結果がみられた<ref>[http://www.epi-c.jp/entry/e015_0_0035.html 循環器疫学epi-c.jp] JMSコホート研究(2020年2月12日閲覧)</ref>。 ;酒癖 :飲酒した際に普段は見られない行動を取ることを言う。下記に一般的な例を上げる。 :*絡み酒 - 人に管を巻いて、他人や身内に因縁をかける。中には上機嫌になり、暴行、強姦、[[器物損壊]]等の犯罪を犯す者もいる。一般的な酒癖。 :*説教癖 - 酔うと、自分が上になった気分になり、立場を省みず相手に[[説教]]をする。同じ内容で繰り返す者もいる。主に泥酔者や絡み酒に多い。 :*怒り上戸 - 酔うと、突然奇声を上げたり、周りに怒りをわめき散らす。 :*笑い上戸 - 酔うと、些細なことでも大声で笑い声をあげる。転じて、ちょっとしたことでもすぐに笑い出す人のことも「笑い上戸」と呼ぶ。 :*泣き上戸 - 酔うと、気分がネガティブになり、卑屈になり泣き喚く。 === 若者の飲酒 === {{see also|アルコールハラスメント}} 若者の飲酒は、中高年と比較し急性アルコール中毒やアルコール依存症等のリスクが高くなり、事件・事故の関連性が高いという特徴がある。その対策としては、飲酒禁止年齢を用いた対策が効果的といわれている。アルコールは200種以上の疾患と関連があるといわれ、その中で[[急性アルコール中毒]]と、[[アルコール依存症]]は若者の飲酒と関連も深いともいわれている。その他、脳の萎縮や第二次性徴の遅れ等、多くの領域でアルコールによる若者の健康への悪影響が懸念されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol/a-04-002.html|title=若者の飲酒と健康、事件・事故|author=真栄里仁|publisher=厚生労働省|accessdate=2021-9-5}}</ref>。 ;大学生・専門学校生の飲酒 大学コンパなどにおいて、20歳未満の者の飲酒が暗黙の了解となっている場面も少なくないのが実態である。20歳未満の者の飲酒の撲滅に盲目的に取り組むことはあまり有効ではなく、むしろ現状を認めたうえで、アルコールのモラルに関する教育・情報発信を行うほうが大学生や専門学校生の飲酒事故抑止には有効、という意見もみられる<ref>[http://www.tnews.jp/entries/719  法律と実態に深い溝。未成年の飲酒について大学生が思うこと] T-news(2021年9月5日閲覧)</ref>。 === 飲酒禁止令 === [[794年]]([[延暦]]13年、[[奈良時代|奈良]]~[[平安時代]])頃には、日本初の「飲酒禁止令」が出された。このことから、既に社会問題化していたことが分かる。 == 法律 == [[File:Pint-Glas UK.jpg|thumb|目盛り付きの容器。ドイツなどでは、{{ill2|アイヒシュトリヒ|de|Füllstrich}}と呼ばれ法律で提供する量が義務付けされている。]] 酒には古来より、公序良俗を守るため、あるいは租税を公課するためにアルコールに対して、さまざまな法律が制定されてきた。そして、2010年の第63回世界保健機関(WHO)の総会では、「[[アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略]]」が採択された。 飲酒が全面的に禁止されることは少ないが、厳格な[[イスラム国家]]では禁酒が徹底されている。日本でも[[江戸時代]]に[[徳川綱吉]]が「大酒禁止令」を出し、過剰な飲酒、他人への飲酒の強要を戒め、酒屋への規制を試みている<ref>飯野亮一『居酒屋の誕生』([[ちくま学芸文庫]] 2014年、ISBN 9784480096371)pp.100-103.</ref>。また[[アメリカ合衆国]]には、飲料用アルコールの製造・販売・輸送を禁止する[[アメリカ合衆国憲法]]の改正(俗に言う「[[アメリカ合衆国憲法修正第18条|禁酒法]]」)が行われていた時期があり、現在でも一部の郡では酒類の販売が禁じられている。 [[日曜日]]に酒類の販売を制限している自治体も多い。また、[[インディアン居留地]]ではアルコール依存症を防止するため、禁酒を実施しているところがある。また欧米では、屋外や公園など公共の場所での飲酒を禁止しているところが多く、日本の[[花見]]のような光景は見られないことが多い。 ほとんどの国家では、年少者の飲酒または酒の購入を禁じている。酒購入の際に[[身分証明書]]が必要な場合がある。法律で飲酒が認められる年齢を最低飲酒年齢 ({{en|minimum drinking age, '''MDA'''}})、購入が認められる年齢を最低購入年齢 ({{en|minimum purchasing age, '''MPA'''}}) という。世界的には、16歳から18歳を最低飲酒年齢または最低購入年齢(またはその両方)とする国家が多い。酒類別に年齢を定めている国家もある。 全ての国家で、飲酒運転を禁じている。飲酒運転とみなされる血中アルコール濃度は国によって違い、下限は0.0%(少しでも検出されれば不可)から0.08%の範囲である。 多くの国家では、酒類の生産や販売について[[免許]]が必要である。[[専売制]]を敷き、それらを国営企業や公営企業が独占している国家もある。 ===各国の法律概要=== ;{{flag|日本}} :{{main|酒に関する日本の法律}} :[[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]](1922年)により、20歳未満の飲酒と購入、20歳未満への販売・提供が禁止されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=211AC1000000020|title=最終更新: 平成三十年六月二十日公布(平成三十年法律第五十九号)改正 法令ごとに表示される「最終更新」とは?|accessdate=2020年2月17日|publisher=}}</ref>。[[酒税法]]では、アルコール分を1[[パーセント記号|%]]以上含む飲料と定義され<ref>酒税法 第一章 第二条</ref>、[[酒税]]の課税対象となっている<ref>酒税法 第一章 第六条</ref>。アルコールを10%以上含み[[江戸時代]]には酒であったみりん(本みりん)は、[[調味料]]として使用される場合でも酒税の課税対象となっており、酒税法では「混成酒類」に分類されている<ref>酒税法 第一章 第三条</ref>。ただしアルコールを含んでいても、食塩や酢の添加により不可飲処置が施された[[料理酒]]は、酒税の課税対象から外れ、酒類販売免許を持たない商店でも販売できる。また、酒の主成分であるエタノールは引火性があるため、濃度の高い(アルコール度数60%以上の)酒は、[[消防法]]の規制を受ける。 :1951年には、[[酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律]]が公布された<!--施行日未確認-->。 :2013年には、[[アルコール健康障害対策基本法]]が制定された。 :飛行機の操縦士の飲酒問題により、[[国土交通省]]は2019年、既に義務化されていた[[バス (交通機関)|バス]]や[[タクシー]]に加え、[[航空機]][[操縦士]]や[[鉄道]][[運転士]]、船員に対しても飲酒検査を義務づける方針とした<ref>{{cite news |author= |title=(社説)操縦士の飲酒 背景も探って対策を |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13845567.html |date=2012-1-12 |newspaper=朝日新聞 |accessdate=2019-1-12}}</ref><ref>{{cite news |author=贄川俊、北見英城 |title=鉄道や船も飲酒検査義務づけ 問題相次ぎ、国交省が方針 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM1C3FXQM1CUTIL00G.html |date=2019-1-11 |newspaper=朝日新聞 |accessdate=2019-1-12}}</ref>。 :なお、[[医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律]]の適用を受ける[[一般用医薬品|医薬品]]に該当する健康酒([[薬用酒]])でも、アルコール分が含まれている分、[[飲酒運転|飲用後の運転]]は[[道路交通法]]違反にあたる恐れがある。[[車両|車]]([[オートバイ]]、[[自転車]]等の[[軽車両]]も含む)を運転する前には、飲用しないことが適当である<ref>[[養命酒製造]]の公式ホームページにある『[https://www.yomeishu.co.jp/inquiry/yomeishu/02.html#yomeishu_02_02 「薬用養命酒」に関するよくあるお問合せ]』の「飲んで運転すると飲酒運転になりますか?」によれば、『「[[養命酒|薬用養命酒]]」は医薬品ですが、アルコール分が14%も含まれています。飲酒運転は[[道路交通法|法律]]で禁じられていますので、運転前の服用はお控えください。』の旨が掲載されている。</ref>。また満20歳未満の者の飲用もできない<ref>養命酒製造の公式ホームページにある『[https://www.yomeishu.co.jp/inquiry/yomeishu/02.html#yomeishu_02_05 「薬用養命酒」に関するお問い合わせ]』の「未成年が飲んでも大丈夫?」によれば、『「薬用養命酒」にはアルコール分が14%含まれていますので、20歳未満の場合は服用できません。』の旨が記載されている。</ref>。 ;{{flag|アメリカ}} :かつては[[アメリカ合衆国の州]]により最低飲酒年齢は18歳から21歳とばらつきがあった。[[1984年]]、{{仮リンク|国家最低飲酒年齢法|en|National Minimum Drinking Age Act}}により21歳未満の飲酒を認める州には連邦政府予算を支出しないこととなり、最低飲酒年齢は21歳に統一された。ただし、一部の州は、例外として宗教的理由での21歳未満の飲酒を認めている。 ;{{flag|ドイツ}} :最低購入年齢はビール・ワインなどは16歳から。蒸留酒などは18歳から{{要出典|date=2014年11月}}。18歳未満の飲酒の可否は、[[保護者]]に一任される{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|イギリス}} :最低購入年齢は18歳。最低飲酒年齢は、家庭では5歳。16歳で、ビールと[[シードル|リンゴ酒]]を[[バー (酒場)|バー]]やレストランで飲むことが認められ、18歳で全面的に飲酒が認められる{{要出典|date=2014年11月}}。スポーツ施設での飲酒は禁止されている{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|フランス}} :最低購入年齢は16歳{{要出典|date=2014年11月}}。最低飲酒年齢は、アルコール度数の低い一部の酒類については16歳、残りの酒類は18歳{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|リトアニア}} :2018年、飲酒が認められる年齢が18歳から20歳に引き上げられた。また、同年より酒類の広告が全面禁止されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3158163 「酒類広告全面禁止のリトアニア、外国誌広告の目隠し作業開始」]AFP(2018年1月11日)2018年1月11日閲覧</ref>。 ;{{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]] :最低飲酒年齢は満19歳{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|サウジアラビア}} :飲酒・所持・国内持込は全面禁止{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|クウェート}}/{{flag|イラン}}/{{flag|イエメン}}/{{flag|イラク}}/{{flag|アフガニスタン}} :飲酒は全面禁止{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|アラブ首長国連邦}} :内務省の許可の下、非イスラム教徒の[[外国人]]のみが、飲酒を認められる{{要出典|date=2014年11月}}。 ;{{flag|パキスタン}}/{{flag|バングラデシュ}} :イスラム教徒の飲酒は禁止であるが、一部の飲食店などは飲酒が認められる{{要出典|date=2014年11月}}。 :<!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照 --> ;航空機への持ち込み制限、宅配便の引き受け制限 アルコールそのものは可燃性液体であるため、航空保安上、度数の高い酒類の持ち込みが規制される。以下は日本においての規制内容である。<ref>{{Cite web|和書 | language = ja | format = PDF | url = https://www.mlit.go.jp/common/001191459.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20190201133426/https://www.mlit.go.jp/common/001191459.pdf | title = 機内持込み・お預け手荷物における危険物の代表例 | publisher = 国土交通省 | date = 2019-1-1 | accessdate = 2019-5-1 | archivedate = 2019-2-1 }}</ref> :* 70%超 危険品となり、機内持ち込みも受託もできない。 :* 24%超70%以下 機内持ち込み分・受託分の合計が1人当たり5 Lまで。 :* 24%以下 制限なし。 また、度数が70%超のアルコール飲料は[[宅配便]]での配送は不可である<ref>{{Cite web|和書|url=https://faq.kuronekoyamato.co.jp/app/answers/detail/a_id/1585/p/370 お酒(アルコール飲料)は送れますか?|publisher=[[ヤマト運輸]] |title=よくあるご質問|accessdate=2020-7-4}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/question/6.html |title=ゆうパックで送ることができないものは何ですか?|publisher=[[日本郵便]]|accessdate=2020-7-4}}</ref>。 == 宗教と酒 == 酒の扱いは[[宗教]]ごとに異なっている。酒を神聖な場面で扱い、特別視する宗教・宗派がある一方で、飲酒が人や社会に悪影響を及ぼすとし、酒を敬遠・禁止する宗教・宗派もある。酒のもたらす精神変容は宗教体験や呪術と結び付けられ、非日常の宗教儀式用に摂取されるものとされていたと考えられる。今日でも様々な文化の様々な伝統宗教や祭祀習慣において、酒類は欠かせないものとなっている。飲酒にまつわる儀礼にはそうした宗教・祭祀慣習とのかかわりが深い。今日においても、酒類の儀礼性、宗教性は濃密に残っており、日本の[[屠蘇]]のように特定の祝い事と結びついた酒がある。 * [[ユダヤ教]]では、[[安息日]]や[[祝祭日]]を聖化して迎えるために、夕食前にワインを専用の杯に注いで[[キッドゥーシュ]]という祈りの言葉を唱える(ブドウ[[ジュース]]で代用する場合もある)。 *中世ドイツの[[キリスト教]]世界では泥酔は[[神に対する罪]]の一つとされ、檻に入れられたうえ街頭に吊るされる刑罰の対象とされた。 * [[カトリック教会|カトリック]]など大多数の[[キリスト教]]会派では、[[ミサ]]や礼拝の際に執り行われる[[聖餐式]]で、[[赤ワイン]](葡萄酒、特に混ぜ物のされていない純粋なもの)が[[イエス・キリスト|イエス]]の血の象徴とされている<ref>{{Cite web|和書|url= https://sotokoto-online.jp/844|title=ワインは酒にあらず!神の血がキリスト教徒を救った?|publisher=ソトコト|author=小倉ヒラク|date=2019-12-29|accessdate=2020-7-4}}</ref>。ただし、[[プロテスタント]]の教派の多くは、アルコール分を含まないブドウジュースを用いる。 *プロテスタントでは、宗派により容認度は異なり、保守的な宗派ほど厳しい。[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]は、禁酒を勧めており、[[救世軍]]は禁酒が絶対である。 * [[末日聖徒イエス・キリスト教会]](通称:モルモン教)は、戒律で飲酒を禁じている。 * [[イスラム教]]では、飲酒の効用は認めつつも、酒癖や健康上などの弊害が多いことを理由に、飲酒を禁じている。しかしその一方、適度な飲酒なら問題ないと考え、飲酒を行う[[ムスリム]]も存在する。[[イスラム世界]]でも[[キリスト教徒]]や[[ユダヤ人|ユダヤ教徒]]による醸造は許されたことが多く、飲酒文化が保持された。古来より飲酒をするムスリムは存在し、[[ルバイヤート]]などでは、飲酒の快楽が述べられている。現代でも[[世俗主義]]を標榜している[[トルコ]]、[[エジプト]]などでは飲酒が盛んである。詳しくは「[[イスラム教における飲酒]]」参照。 * [[ヒンドゥー教]]では、地域により異なる。一部の地域では飲酒は避けるべき悪徳であるとされ、中でも[[ヴィシュヌ]]神の敬虔な信者の多くは飲酒をしない。[[ネパール]]の祭事[[インドラ・ジャートラー]]では、セート・バイラブ神の像の口から時折[[チャン (酒)|チャン]]と呼ばれる[[ライスワイン|米酒]]が流れだし、その場に居合わせたものはそれを飲むことができる<ref>[http://www.ab-road.net/asia/nepal/kathmandu/guide/02043.html カトマンズ(ネパール)の海外現地ガイド記事「カトマンズ中が大いに盛り上がる!ネパールのお祭りインドラジャトラへようこそ!!」] 掲載日:2008/07/14, 海外旅行情報 エイビーロード</ref>。また、[[インドネシア]]の[[バリ島]]で信仰されている[[バリ・ヒンドゥー]]では、飲酒が許容されている。 * [[仏教]]では、[[五戒]]の中で「飲酒は避けるべき悪徳であり、苦しみを生み出す元」と[[説教]]し、禁じていた。しかし日本においては[[末法思想]]・[[末法無戒]]思想が流行し、[[法然]]が飲酒を「この世の習」として許可して以来、この戒を守る[[僧]]は実際には少数派である<ref>[http://www.horakuji.com/lecture/silavibhatti/alcohol/hounen.htm 不飲酒戒 -なぜ酒を飲んではいけないのか * 法然『百四十五箇条問答』][[真言宗]][[泉涌寺]]派大本山 [[法楽寺]]</ref>。このため「酒を飲んではならない」という戒を公式には掲げながらも、実際には酒を飲むことが当たり前となっており、「不飲酒戒」を堂々と破ることが常態化している。ただし、無戒思想を持つ教団([[法然]]・[[親鸞]]・[[日蓮]]系)においては教学上問題にならない。 * [[神道]]では、[[お神酒]](おみき)は[[神]]への捧げものであると同時に、身を清め神との一体感を高めるための飲み物とされる。 * [[ラスタファリ運動]]は飲酒を禁じている。 * [[カンドンブレ]]では、神への供物とされる。エシュには[[カシャッサ]]、イェマンジャには[[ワイン|白ワイン]]など、神によって酒類の好みがある。 == 主な酒 == [[ファイル:Whiskies of VariousStyles.jpg|thumb|様々なウィスキー]] [[ファイル:Red_Wine_Glass.jpg|thumb|130px|赤ワイン]] [[ファイル:01 Suntory beer.jpg|thumb|180px|ビール]] [[ファイル:Garrafa e taças de nigori.jpg|thumb|日本酒]] {{div col}} * [[蒸留酒]](スピリッツ) ** [[ウイスキー]] *** [[スコッチ・ウイスキー]] *** [[アイリッシュ・ウイスキー]] *** [[バーボン・ウイスキー]] *** [[テネシー・ウイスキー]] *** [[カナディアン・ウイスキー]] *** [[ジャパニーズ・ウイスキー]] ** [[ラム酒|ラム]] ** [[カシャッサ]] ** [[ウォッカ]] ** [[ジン (蒸留酒)|ジン]] ** [[テキーラ]] ** [[ブランデー]] *** [[コニャック]] *** [[カルヴァドス]] *** [[アルマニャック (ブランデー)|アルマニャック]] ** [[ラク]] ** [[アラック]] ** [[ウーゾ]] ** [[白酒 (中国酒)|白酒]] ** [[茅台酒]] ** [[焼酎]] *** [[泡盛]] **** [[泡盛#古酒|古酒]] * [[醸造酒]] ** [[ビール]] *** [[白ビール]] *** [[ランビック]] *** [[発泡酒]] *** [[第三のビール]] ** [[果実酒]] *** [[ワイン]] **** [[発泡ワイン]] ***** [[シャンパン]] **** [[ロゼワイン]] **** [[甘味果実酒]] ***** [[酒精強化ワイン]] **** [[デザートワイン]] **** [[フェーダーヴァイサー]] **** [[フレーバードワイン]] *** [[シードル]] *** [[ペリー (酒)|ペリー]] *** [[シンガニ]] ** [[黄酒]] ** [[日本酒]] *** [[灰持酒]] *** [[合成清酒]] ** [[どぶろく]] ** [[マッコリ]] ** [[馬乳酒]] ** [[蜂蜜酒]] * [[混成酒]] ** [[リキュール]] *** [[リモンチェッロ]] ** [[みりん]] *** [[本直し]] * [[カクテル]] {{div col end}} == 「酒」を含む慣用句など == {{wikiquote|酒}} {{div col|colwidth=30em}} * 金谷の酒数 * 紅灯緑酒 * 高陽の酒徒(出典:『[[史記]]』) * 酒が沈むと言葉が浮かぶ/酒口に入る者は舌出づ * 酒買って尻切らる/酒買うて臂切らるる/酒持って尻切らる(出典:『放屁論』) * 酒極まって乱となる * 酒沈めば話浮く/酒の終わりは色話 * 酒と朝寝は貧乏の近道 * 酒と産に懲りた者がない * 酒と煙草はのんで通る(出典:『[[譬喩尽]]』) * 酒なくて何の己が桜かな * 酒に呑まれる * 酒に別腸あり(出典:『[[五代史]]』) * 酒の中に真あり/酒は本心をあらわす(出典:『格言集』) * 酒飲み、本性違わず/酒の酔い本性違わず * 酒は憂いの玉箒/酒は憂いを払う玉箒(出典:『[[蘇軾]]』) * 酒は燗、肴は刺身、酌は髱 * 酒は気違い水 * 酒は気つけ薬 * 酒は古酒、女は年増 * 酒は三献に限る(出典:『[[醒睡笑]]』) * 酒は諸悪の基 * 酒は天の美禄(出典:『[[漢書]]』) * 酒は飲むとも飲まれるな * 酒は飲むべし飲むべからず * 酒は百薬の長 {{要出典|範囲=されど万病の元|date=2014年9月}}(出典:『漢書』巻二十四下「食貨志第四下」) **{{要出典|範囲=前半部分のみを引用して過ぎる飲酒を正当化するためによく使われる。|date=2014年9月}} * {{要出典|範囲=酒は百毒の長(出典:『[[徒然草]]』)|date=2014年9月}} * 百薬の長とはいえど、万の病は酒よりこそ起れ/酒は百薬の長、されど万病の元(出典:『徒然草』第175段) * 酒はやめても酔いざめの水はやめられぬ * 酒飯雪隠(出典:『譬喩尽』) * 酒を悪みて酒を強う(出典:『[[孟子 (書物)|孟子]]』) * 酒池肉林(出典:『史記』) * 酒嚢飯袋 * 粗酒粗餐/粗酒粗肴 * 飲まぬ酒には酔わぬ * 人酒を飲む、酒酒を飲む、酒人を飲む/酒が酒を飲む(出典:『鎌田兵衛名所盃』) * 林間に酒を煖めて紅葉を焼く * 醴酒設けず(出典:『漢書』) * 魯酒薄くして邯鄲囲まる(出典:『[[荘子 (書物)|荘子]]』) * 酒肴料(しゅこうりょう) ** 日本の企業において、年末年始手当などのことを、「酒肴料」と称することがある。 {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 文献情報 == * 米村泰明 「[http://id.nii.ac.jp/1354/00000614/ チューダー・インタールードに描かれる酩酊の戒め]」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』2009年9号 pp.15-28, {{naid|110008448307}}, [[埼玉学園大学]], {{issn|1347-0515}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|酒}} {{div col}} * 飲酒運転 ** [[飲酒運転]] ** [[アルコール検査]] ** [[運転代行]] * 病気関連 ** [[胎児性アルコール症候群]] ** [[肝硬変]] * 飲酒文化一般 ** [[マイナス (ギリシア神話)]] ** [[オオヤマツミ]](酒造の神という一面がある) ** [[ハッピーアワー]] ** [[低アルコール飲料]] ** [[酒合戦]]、[[酒を飲む時の歌]] ** [[戦艦三笠]](沈没した原因に、度の強い酒に引火したという説が一部で唱えられている) ** [[寝酒]] * [[酒造]]・[[酒税]]関係 ** [[酒類製造免許]] ** [[酒類販売業免許]] ** [[密造酒]] {{div col end}} == 外部リンク == {{Commonscat|Alcoholic beverages}} {{Wiktionary|さけ|酒}} * {{PaulingInstitute|jp/mic/food-beverages/alcoholic-beverages|アルコール飲料}} * [https://www.nrib.go.jp 独立行政法人酒類総合研究所] * [https://www.stop-underagedrinking.com STOP!&nbsp;20歳未満飲酒]([[ビール酒造組合]]) * [https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC226EP0S3A920C2000000/ お酒が女性をかつてないほど死なせている 縮む男女差(ナショナル ジオグラフィック、2023年10月2日)] {{アルコール飲料|state=uncollapsed}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さけ}} [[Category:酒|*]] [[Category:健康の社会的決定要因]] [[de:Getränk#Alkoholische Getränke]]
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ペット
ペット(英語: pet)とは、愛玩を目的として飼育される動物である。 ペットは、人の心を和ませたり楽しませてくれたりするといった理由で飼育される動物である。人はペットとの様々なやり取りを楽しんだり、その姿やしぐさ、鳴き声などを鑑賞したりする。ペットは生命をもった動物で、モノではない(ペットに似せたロボットを除く)。ゆえに飼い主は、ペットが健康で快適に暮らせるよう、栄養や環境など様々なことに配慮して、ペットのために餌や飼養施設を用意するなど世話をする必要がある。ペットの歴史は古く、ネコ(猫)は古代エジプトの時代から現在のペットのような位置づけや、鼠の駆除などの実用目的で飼われていたことが推測されている。また、イヌ(犬)に関しても太古から、実用と愛玩目的も兼ねて飼われていたことが推測されている。 ペットは、人の人生の質の向上に貢献する。ペットは人を癒やし、孤独感を解消する。さらに、思いやりの心などが育つなどの情操教育の効果もあるとされる。ペットを飼うことで、癒やし、孤独の解消、思いやりの心が育まれるといった実利が得られる。研究からも、ペットが子どもの健全な心を育てることが判明している。子供は、自分自身を動物たちとのコミュニティに属しているととらえている。ペット飼育者の多くは、フラストレーションの解消を目的に、話を聞いてくれる相手として人間と同じようにペットに話しかける。米国ペンシルバニア大学の調査では、ペット飼育者の98 %は動物に話しかけた経験があり、そのうちの80 %はペットに対して人間と同様に話しかけていたという。抑うつや引きこもり、精神の矯正に及ぼすペットの癒やしの効果は精神分析医やソーシャルワーカーに着目され、老人ホームや刑務所でペットが効果を上げた例もある。ペットのイヌが飼い主に運動を促すように、ペットとの交流は延命の一因となり得る。人間とペットが交流している時間中、双方の血圧と心拍数が低下するという実験結果がある。水槽の魚を眺めているだけでも医学的に有意な血圧低下が見られるという実験結果もある。 ペットの飼育には責任が伴う。それらを理解しないと、近隣や周囲の人々に迷惑を及ぼし、またペットそのものに害を及ぼすこともある。「#ペットにまつわる諸問題」参照。動物虐待の防止や公衆衛生の観点から、ペットの取り扱いを規定する法律がある。日本では、「動物の愛護及び管理に関する法律」や「狂犬病予防法」などの法令がある。「#各国におけるペット関連規制」参照。ペットの入手方法は、ペットショップで購入する以外にも、保護された動物を引き取るなどの方法がある。 なお、ペットは基本的に人間が愛玩の対象とし飼育する動物を指す語である。しかし、一部の霊長類などのある程度高度な知性・情動がその行動に感じられる動物では、異種の動物の特定の個体に対し、愛着を感じさせる行動を見せることがある。手話を理解したゴリラのココは、自身の欲求として子猫を飼いたいと表明し、愛着を持って世話をした。さらには、この猫が交通事故にあって死んだ際には、深い悲しみを訴え泣いたことが伝えられている。 愛玩動物(あいがんどうぶつ)とは、一般に「愛玩用に家庭などで飼育されている動物のうち、特に愛玩飼育を目的として改良・繁殖が行われてきた動物種」のことをいう。 愛玩動物は従来からの愛玩動物、学校飼育動物、エキゾチックペットなどに分類される。 人々の動物に対する接し方が、より細やかで密接になる傾向を反映して「ペット」という概念(モノや所有物のようにみなす概念)に替わって伴侶動物(はんりょどうぶつ)やコンパニオンアニマル(英語: companion animal、人生の伴侶としての動物)という概念も普及してきている。 太古のペットは、野生動物を捕獲したものである。人間が太古からペットを飼っていた証拠は、いずれの大陸からも発見される。最古の痕跡は、3万前の石器時代の遺跡にあるホラアナグマの飼育跡(洞窟の檻)である。ただし、狩猟で捕獲したものを一時的に生きたまま保管したのか、継続的に餌を与えて飼っていたのかは不明である。ペットとして手当たり次第に飼い始めた野生動物の中から、家畜として有用なものが見いだされたと考えられる。 以下では、一部に家畜の歴史も含めて解説する。オオカミ(イヌ)の家畜化が3万年 - 1万5000年前から行われ、狩猟の際の助けとして用いられた。以下、トナカイ、ヒツジ、イノシシ(ブタ)、ヤギ、ウシ、ニワトリ、ハト、ウマ、ラクダなどが家畜として飼育されるようになった。また農耕の始まりとともに、害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されるようになった。 上述の通りペットの歴史は家畜に先行していると考えられるが、明確に愛玩動物として飼育された最初の例として史料が残っているのは、5000年前の古代エジプトのピューマである。南米のインディオはインコやサル(猿)を飼っていた。 人間の飼育下で繁殖させたペットが普及するのは、家畜が定着するよりも後である。狩猟目的のイヌ、害獣駆除目的のネコなど、実用目的の家畜だったものが、その目的で飼われなくなって以降も人間に飼われるようになった。それらが、人間の飼育下で繁殖したペットの最初となる。ただし、どの段階で実用でなくなったのか明確な境界線を引くのは困難である。日本におけるニワトリのように、食のタブーでいったんはペットとされたものが、再び食用の家畜(家禽)へと変遷した例もある。 特にイヌの場合は、はっきりした主従関係を好む習性から、家族の一員として扱われた歴史が長いとされる。石器時代におけるイヌの墳墓(埋葬に際して添えられたと見られる花の花粉が見られたり、なんらかの食料の残骸が一緒に発見されたりするなどの特徴も見られる)も発見されている。その一方で、所有物という概念もあったようで、殉死によって飼い主とともに埋葬されたと思われるケースも見られる。欧米では、古来から現代まで王侯貴族や歴代大統領から一般市民の間で愛玩用、護衛用、狩猟用などとして飼われている。ジェームズ2世(イングランド王)やアメリカ合衆国大統領クーリッジなど多数の愛犬家がいる。 古代エジプトでは、ネコ科の動物は今日のペットに近い存在であったとされる。それらは神格化されたせいもあって(例:バステト)、高貴な身分にふさわしい愛玩動物として扱われた。丁寧に埋葬されたネコのミイラも発見されており、同時代に於ける同種動物の地位が如何に高かったかを感じさせる。 また農耕文化にも関連して、ネコやイタチ、キツネのような小型動物を捕食する肉食獣を、穀物を食害から守る益獣として珍重していた文化が世界各地に見出されている。今日のアメリカ合衆国でも、納屋に住み着くネコを「barn cat」と呼び珍重するなどの風習が見られる。 今日ペットは、心を癒やしたり、あるいは愛玩されたり、共生したりするなど、様々な面を持つ。ペットは、家族同様の存在やパートナー、仲間として人の暮らしに密接に関わる。 現代の日本の2人以上の世帯では、48%の世帯が、何かしらのペットを飼っているという調査結果がある。日本の2010年(平成22年)における飼育ペットの割合は、犬59%、猫31%、魚類19%、鳥類6%(複数回答)である。 動物を尊重する人々の中には、言葉の用法に人間との同一視が見られることがある。たとえば、ペットの性別を「オス」「メス」ではなく「男の子」「女の子」と呼んだり、「餌をやる」ではなく「食事をあげる」と表現したりする。 中にはペットに遺産を残したいと望み、負担付遺贈・負担付死因贈与や遺言信託の形式をとる場合もある。 2015年の「ペット飼育率調査」によると、世界でペットとして飼育されている動物は、犬が33%、猫が23%、魚が12%、鳥が6%だった。 ペットフード協会によれば、日本での推定飼育数は、1994年のイヌは906万7,000匹、ネコは717万8,000匹である。イヌのピークは2008年の1,310万匹で、その後、減少傾向にある。2017年にネコ(952万匹)が、イヌ(892万匹)を追い抜いた。2018年のイヌは890万3,000匹、ネコは964万9,000匹である。 ペットフード協会の「2015年犬と猫の飼育実態調査結果」によると、日本で飼育されている犬の平均寿命は14.85歳、猫の平均寿命は15.75歳で寿命は毎年延びる傾向にある。 2015年の「ペット飼育率調査」によると、世界で最もペットが飼育されている地域は中南米(75%~80%)で、最も飼育率の低かった地域はアジア(30%~40%)とされている。 ペットをその性質に即した飼い方が成されていない場合も少なくはない。たとえば肉食性の動物に、菜食主義者の飼い主が野菜を主体とした餌を与えて、適切な消化酵素を持たないこれら肉食のペットが健康被害を受ける場合も見られる。中には、偏食となるエサを与えてしまう飼い主がおり、結果として糖尿病など人間の生活習慣病的症状で動物病院に通院するペットがいる。よく懐いている犬の場合、飼い主が与えた餌を食べると飼い主が喜ぶことを犬が理解して、満腹であっても飼い主を喜ばせようと餌を食べる場合が見られる。これらの犬は肥満に陥ったり、肥満が引き起こす健康被害を受けたりすることもあるとされる。 また、過度に愛玩された結果として神経性の円形脱毛症や胃潰瘍に陥るペットもいる。また、飼い主が自分のストレス解消や鬱憤晴らしに行う動物虐待の被害を受ける場合もある。 断耳、断尾、声帯切除、牙の抜歯、爪除去(指ごと除去)などがある。ドイツでは脊椎動物について麻酔なしの手術、(医療目的以外で)肢体や臓器の摘出を原則禁止としている。 人間の都合による断耳、断尾、声帯切除、牙の抜歯、爪除去(指ごと除去)は、動物虐待にあたるとする考えもある。 老犬などを世話する老犬ホームなどのサービスが登場してきている。 ペット産業(英語版)とは、ペットに関わる様々な産業のことである。 ペットの入手方法は、ペットショップで購入する、譲渡会で入手する、友人・知人から譲り受ける、屋外で拾うなどの方法がある。日本では、公共の動物収容施設(動物愛護センターなど)や飼えなくなった飼い主などが、犬や猫の新しい飼い主を募集しているイベント譲渡会(英語版)をオンライン上や施設で開催する場合がある。 アメリカでは、25州で8週齢未満の子犬の販売に規制がある。日本では生後56日以内の販売が禁止される。一方、専門家の間では「生後49日」が妥当とされている。 ペットショップや繁殖業者に対しては、動物福祉の観点から、飼育環境や業態そのものに対して批判や規制が向けられることもある。日本の環境省は2021年6月、犬・猫についてケージの広さや従業員1人当たりの管理頭数、雌の交配上限年齢に数値基準を設けた飼養管理基準省令を施行した。環境省は、動物の命に配慮し、ペットを迎える際には譲渡という選択肢を考えて欲しいと広報している。フランスでは2021年11月18日に制定した動物愛護法で、ペットショップでの犬・猫の販売が2024年1月以降は禁止される。「ペット#各国におけるペット関連規制」も参照。 日本で最近、ペットショップがペットを販売せず、ペット関連商品の販売だけで利益を上げ、保護ペット譲渡に舵を切る動きもある。 ペットの扱いには国ごとに差異がある。ガス室を用いた殺処分は日本では禁止されないが、アメリカ合衆国の一部の州では禁止されている(後述)。 平成25年に改正された動物愛護管理法において、飼い主に「終生飼養」の責任があることが明記された。 外来生物であろうとなかろうと、最後まで飼い主は責任をもって飼育することが求められる。外来生物を野外に放って定着させてしまった場合は、人間の生命・身体、農林水産業、日本固有の生態系に対して大きな影響を与えるため、外来生物法で放流・販売・頒布・購入は禁止されている(責任をもって飼育できる人や団体への無償譲渡は可)。 また、以前から飼育していた特定外来生物は許可があれば飼育可能である。 日本では、保健所が野良犬や迷い犬を捕獲・収容したり、飼い主から直接持ち込まれた動物を収容したりする。収容された動物は、数日の保管期間をおいて殺処分される。殺処分数は、過去には毎年数十万頭に及ぶこともあったが、2015年度(平成27年度)以降は毎年10万頭以下に減少している。 保健所は、殺処分を減らすために飼い主を探す努力もしている。たとえば、当該犬を収容している旨を公示して飼い主を探す、譲渡会等で飼い主を募集する、譲渡希望者に気に入った個体を引き渡すなどが行われる。 実際に熊本市動物愛護センターでは、2002年度の段階では56.38%であった処分率を、2008年度には12.86%にまで引き下げることに成功した。こうした成功事例が知られるようになり、「熊本のようにやる気になりさえすればペットの命が救えるのに、なぜ他の自治体では同様のことをやろうともせず問題を放置するのか」という声が出るようになった。 環境省は、2009(平成21)年度より、犬や猫の殺処分の半減を目標に、新しい飼い主探しを促進するための施設を、都道府県(や政令指定都市に)、年間約10か所整備する計画を、また2017年(平成29年)までに90か所整備する計画を立て、それに着手した。9年間で殺処分の数の半減を目指すという。新しい飼い主探しを促進するための施設整備などを行うという。また、ペットの不妊手術の推進や、(ペットが迷子になってしまったときに飼い主のもとに戻ることができるように)マイクロチップ装着なども推進するという。 アメリカ合衆国では、アニマルシェルターにいる動物の中で、毎年約153万頭(犬67万頭、猫86万頭)が殺処分される。なお、あるアニマルシェルターでは95%以上の動物が殺処分された事例がある。 また、殺処分方法の規制は州によって異なる。ガス室を用いた犬猫の殺処分は、23州で禁止されている。 珍しい種類や人気がある種類の犬・猫では、ブリーダーが近親交配による繁殖を行うことがある。それらの中には近親交配によって発生した、畸形や遺伝的な異常を持つ個体が販売され、飼い主とペットショップの間で品質面の問題が係争されるなどの現象も起こっており、これを憂う向きもある。しかしながら、近親交配は品種改良や品種のスタンダード維持の重要な手段でもあり、一律禁止は大きな弊害を伴うとされる。また、商業的に利益をあげるために、劣悪な環境で工業的に大量繁殖させるブリーダー、ペット業者が動物福祉の観点から問題となっている。こうした行いはパピーミル(子犬工場)と呼ばれる。 珍しい動物を飼いたいという需要を満たすために、動物が違法に捕獲され売買されることもある。野生のオランウータンはワシントン条約で商取引が禁じられているが、これすら密猟された事例がある。 また、動物園などから珍しい動物が盗まれる事件も発生している。日本では、2003年(平成15年)に動植物園からレッサーパンダとワタボウシタマリンが盗まれる事件が起きた(4か月後に返還された)。 盗んだはいいが飼い方がわからず死なせてしまうといった事件も起きている。 ペットの飼い主は、周囲の人々への配慮も求められる。路上や公園に放置されたペットの糞尿は、人を不快にさせる。糞尿の始末は、飼い主の責任である。また、ペットが苦手な人もいる。特に、動物アレルギー(英語版)(ネコアレルギー(英語版)など)の人にとっては健康にもかかわる。したがって、「ペット禁止」との表示がある場所にペットを持ち込まないということは守るべき当然のマナーとされる。あるいは、特に表示がなくても、不特定多数の人々が出入りする場所ではケージなどに入れ、ペットを管理下に置くことはマナーとされる。また、ケージなどに入れた状態で鉄道等の公共交通機関に持ち込む際には手回り品切符が必要となる場合がある。ペットが人に被害を与えた場合、刑事・民事の責任を問われることがある。日本の刑法上では、ペットをけしかけるなどして他人に危害を与えた場合は、軽犯罪法や傷害罪で罰せられる。民事上では、ペットの管理者は、ペットが他人に加えた損害を賠償する責任を負う(民法第718条)。また、人に危害を加える恐れのある動物を逃がすことも同様の責任が生じる。 ペットとして供される動物が、病原体を媒介することがある。動物由来感染症または人獣共通感染症と呼ばれる伝染病や寄生虫による被害は、飼い主自身のみならず周囲の人々に及ぶ場合もあり、致死率の高い感染症も存在する。日本では気候や飼育下にある動物への衛生対策などにより、動物由来感染症の罹患は多くはない。 致死率の高い感染症として狂犬病がある。齧歯類は通常、狂犬病に罹患した捕食動物に噛まれた際に死亡してしまうため、きわめて稀な事例ではあるが、南米ボリビアでは、2003年にペルー産のペット用ハムスターが狂犬病を発症した。 日本では、飼い犬に年1回の狂犬病予防注射を受けさせることが法律で義務化されている。 ペットが噛みつくなどして人に危害を加えることがある。日本では、犬による咬傷事故は減少しているが、毎年約4,000件発生している。野犬が少ない日本ではほとんどが飼い犬による被害になっている。 屋外に犬を連れていくときは、犬による危害を防ぐためにリードをつけることが求められる。日本では、飼育責任者の指示を受けた活動中の使役犬などの一部の例外を除き、屋外における犬の放し飼いは条例で禁止される。 ペットが逃げ出し、人へ重大な危害を加えるなど緊急性がある場合は、警察官に射殺されることがある。隔離命令、保健所への届出、狂犬病の検診証明書提出など行政処分が下されることもある。 アメリカ合衆国では、老人がピットブル4頭に噛まれて死亡し、飼い主が殺人罪で起訴された事件がある。 管理能力がない飼育者が多数のペットを飼育し、その結果、衛生を維持できずにひたすらに繁殖してしまったりする事態が起きる。これは多頭飼育崩壊(アニマルホーディング)と呼ばれる。 管理できなくなったペットを放棄する行為が問題となっている。日本の警察庁によると「落とし物」として届けられた動物は、2019~2022年だけ10万匹を超える。 放棄されたペットは野生化しさらなる問題を発生させる(後述)。フランスではバカンスの間に面倒を見ることが出来ないという理由で捨てることが多いため、5月から8月にかけて捨てられるペットが増加することから、前述の販売規制に繋がった。 ペットが野に放たれ、外来種が生み出されるという問題も世界中で発生している。たとえば日本では、アライグマが野生化し、農作物を食い荒らす、住宅の天井裏に住み着き糞尿をするなどの被害が発生している。アライグマがペットとして人気となったのは、1977年(昭和52年)に放映された『あらいぐまラスカル』というテレビ番組の影響であるとされる。しかしアライグマの成獣は気性が荒く、飼育は難しい。世話に手を焼く飼い主が捨てたことで、野生のアライグマが全国に急速に増加した。そのような実情を経て日本ではアライグマは飼育禁止になっており、野生の個体を捕獲・保護した場合にも飼育は不可能である。 野生化したペットは狩猟対象となることがある。ドイツでは、同国の狩猟法において、野生の犬猫の駆除は野生生物の保護を名目に合法化されている。年間40万匹のノネコ、4 - 6万頭のノイヌ(野犬)が民間のハンターによって狩猟の対象とされているが、野生化した動物も単に戸外を歩き回るペットも見分けが付かないことにも絡んで、狩猟区域に入り込んだペットが捕獲されたり罠にかかったりするトラブルも報じられている。 日本でも、鳥獣保護法により野生化したノイヌ、ノネコ(野猫)は狩猟対象である。しかし、それらは非狩猟鳥獣の野良犬、野良猫との判別が困難なため、それらを主要な狩猟対象として活動する者はほとんどいないとされる。 ペットの健康のために金銭や労力等を費やしながら、畜産や動物実験を許容するのは、「道理に反する」「不誠実な振る舞い」といった批判がある。猫は肉食動物とされ、菜食仕様のキャットフードでも、タウリンなどが補充されタンパク質を多く含むものなら大丈夫であるという指摘もある。 一部の国と地域では、行政の免許がないと犬をペットとして迎え入れられないことがある。こうした免許はドッグライセンスと呼ばれる。 ペット販売における対面説明の義務 動物取扱業は免許制であり、動物の飼養や利用に関連する法令は70以上。6歳未満はペット購入不可能。 RSPCA(王立動物虐待防止協会)という動物保護団体がある。 動物取扱業は免許制。 2024年から規制が許可され、ペットショップでの店頭販売。ショーケースでの展示。一般人によるネット販売が禁止される。 入手は正規のペットショップからインターネットで購入、ブリーダーから直接購入、保護施設から引き取りなどに限られる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ペット(英語: pet)とは、愛玩を目的として飼育される動物である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ペットは、人の心を和ませたり楽しませてくれたりするといった理由で飼育される動物である。人はペットとの様々なやり取りを楽しんだり、その姿やしぐさ、鳴き声などを鑑賞したりする。ペットは生命をもった動物で、モノではない(ペットに似せたロボットを除く)。ゆえに飼い主は、ペットが健康で快適に暮らせるよう、栄養や環境など様々なことに配慮して、ペットのために餌や飼養施設を用意するなど世話をする必要がある。ペットの歴史は古く、ネコ(猫)は古代エジプトの時代から現在のペットのような位置づけや、鼠の駆除などの実用目的で飼われていたことが推測されている。また、イヌ(犬)に関しても太古から、実用と愛玩目的も兼ねて飼われていたことが推測されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ペットは、人の人生の質の向上に貢献する。ペットは人を癒やし、孤独感を解消する。さらに、思いやりの心などが育つなどの情操教育の効果もあるとされる。ペットを飼うことで、癒やし、孤独の解消、思いやりの心が育まれるといった実利が得られる。研究からも、ペットが子どもの健全な心を育てることが判明している。子供は、自分自身を動物たちとのコミュニティに属しているととらえている。ペット飼育者の多くは、フラストレーションの解消を目的に、話を聞いてくれる相手として人間と同じようにペットに話しかける。米国ペンシルバニア大学の調査では、ペット飼育者の98 %は動物に話しかけた経験があり、そのうちの80 %はペットに対して人間と同様に話しかけていたという。抑うつや引きこもり、精神の矯正に及ぼすペットの癒やしの効果は精神分析医やソーシャルワーカーに着目され、老人ホームや刑務所でペットが効果を上げた例もある。ペットのイヌが飼い主に運動を促すように、ペットとの交流は延命の一因となり得る。人間とペットが交流している時間中、双方の血圧と心拍数が低下するという実験結果がある。水槽の魚を眺めているだけでも医学的に有意な血圧低下が見られるという実験結果もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ペットの飼育には責任が伴う。それらを理解しないと、近隣や周囲の人々に迷惑を及ぼし、またペットそのものに害を及ぼすこともある。「#ペットにまつわる諸問題」参照。動物虐待の防止や公衆衛生の観点から、ペットの取り扱いを規定する法律がある。日本では、「動物の愛護及び管理に関する法律」や「狂犬病予防法」などの法令がある。「#各国におけるペット関連規制」参照。ペットの入手方法は、ペットショップで購入する以外にも、保護された動物を引き取るなどの方法がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、ペットは基本的に人間が愛玩の対象とし飼育する動物を指す語である。しかし、一部の霊長類などのある程度高度な知性・情動がその行動に感じられる動物では、異種の動物の特定の個体に対し、愛着を感じさせる行動を見せることがある。手話を理解したゴリラのココは、自身の欲求として子猫を飼いたいと表明し、愛着を持って世話をした。さらには、この猫が交通事故にあって死んだ際には、深い悲しみを訴え泣いたことが伝えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "愛玩動物(あいがんどうぶつ)とは、一般に「愛玩用に家庭などで飼育されている動物のうち、特に愛玩飼育を目的として改良・繁殖が行われてきた動物種」のことをいう。", "title": "諸概念の定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "愛玩動物は従来からの愛玩動物、学校飼育動物、エキゾチックペットなどに分類される。", "title": "諸概念の定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "人々の動物に対する接し方が、より細やかで密接になる傾向を反映して「ペット」という概念(モノや所有物のようにみなす概念)に替わって伴侶動物(はんりょどうぶつ)やコンパニオンアニマル(英語: companion animal、人生の伴侶としての動物)という概念も普及してきている。", "title": "諸概念の定義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "太古のペットは、野生動物を捕獲したものである。人間が太古からペットを飼っていた証拠は、いずれの大陸からも発見される。最古の痕跡は、3万前の石器時代の遺跡にあるホラアナグマの飼育跡(洞窟の檻)である。ただし、狩猟で捕獲したものを一時的に生きたまま保管したのか、継続的に餌を与えて飼っていたのかは不明である。ペットとして手当たり次第に飼い始めた野生動物の中から、家畜として有用なものが見いだされたと考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以下では、一部に家畜の歴史も含めて解説する。オオカミ(イヌ)の家畜化が3万年 - 1万5000年前から行われ、狩猟の際の助けとして用いられた。以下、トナカイ、ヒツジ、イノシシ(ブタ)、ヤギ、ウシ、ニワトリ、ハト、ウマ、ラクダなどが家畜として飼育されるようになった。また農耕の始まりとともに、害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "上述の通りペットの歴史は家畜に先行していると考えられるが、明確に愛玩動物として飼育された最初の例として史料が残っているのは、5000年前の古代エジプトのピューマである。南米のインディオはインコやサル(猿)を飼っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "人間の飼育下で繁殖させたペットが普及するのは、家畜が定着するよりも後である。狩猟目的のイヌ、害獣駆除目的のネコなど、実用目的の家畜だったものが、その目的で飼われなくなって以降も人間に飼われるようになった。それらが、人間の飼育下で繁殖したペットの最初となる。ただし、どの段階で実用でなくなったのか明確な境界線を引くのは困難である。日本におけるニワトリのように、食のタブーでいったんはペットとされたものが、再び食用の家畜(家禽)へと変遷した例もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "特にイヌの場合は、はっきりした主従関係を好む習性から、家族の一員として扱われた歴史が長いとされる。石器時代におけるイヌの墳墓(埋葬に際して添えられたと見られる花の花粉が見られたり、なんらかの食料の残骸が一緒に発見されたりするなどの特徴も見られる)も発見されている。その一方で、所有物という概念もあったようで、殉死によって飼い主とともに埋葬されたと思われるケースも見られる。欧米では、古来から現代まで王侯貴族や歴代大統領から一般市民の間で愛玩用、護衛用、狩猟用などとして飼われている。ジェームズ2世(イングランド王)やアメリカ合衆国大統領クーリッジなど多数の愛犬家がいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古代エジプトでは、ネコ科の動物は今日のペットに近い存在であったとされる。それらは神格化されたせいもあって(例:バステト)、高貴な身分にふさわしい愛玩動物として扱われた。丁寧に埋葬されたネコのミイラも発見されており、同時代に於ける同種動物の地位が如何に高かったかを感じさせる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "また農耕文化にも関連して、ネコやイタチ、キツネのような小型動物を捕食する肉食獣を、穀物を食害から守る益獣として珍重していた文化が世界各地に見出されている。今日のアメリカ合衆国でも、納屋に住み着くネコを「barn cat」と呼び珍重するなどの風習が見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "今日ペットは、心を癒やしたり、あるいは愛玩されたり、共生したりするなど、様々な面を持つ。ペットは、家族同様の存在やパートナー、仲間として人の暮らしに密接に関わる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現代の日本の2人以上の世帯では、48%の世帯が、何かしらのペットを飼っているという調査結果がある。日本の2010年(平成22年)における飼育ペットの割合は、犬59%、猫31%、魚類19%、鳥類6%(複数回答)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "動物を尊重する人々の中には、言葉の用法に人間との同一視が見られることがある。たとえば、ペットの性別を「オス」「メス」ではなく「男の子」「女の子」と呼んだり、「餌をやる」ではなく「食事をあげる」と表現したりする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中にはペットに遺産を残したいと望み、負担付遺贈・負担付死因贈与や遺言信託の形式をとる場合もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2015年の「ペット飼育率調査」によると、世界でペットとして飼育されている動物は、犬が33%、猫が23%、魚が12%、鳥が6%だった。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ペットフード協会によれば、日本での推定飼育数は、1994年のイヌは906万7,000匹、ネコは717万8,000匹である。イヌのピークは2008年の1,310万匹で、その後、減少傾向にある。2017年にネコ(952万匹)が、イヌ(892万匹)を追い抜いた。2018年のイヌは890万3,000匹、ネコは964万9,000匹である。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ペットフード協会の「2015年犬と猫の飼育実態調査結果」によると、日本で飼育されている犬の平均寿命は14.85歳、猫の平均寿命は15.75歳で寿命は毎年延びる傾向にある。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2015年の「ペット飼育率調査」によると、世界で最もペットが飼育されている地域は中南米(75%~80%)で、最も飼育率の低かった地域はアジア(30%~40%)とされている。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ペットをその性質に即した飼い方が成されていない場合も少なくはない。たとえば肉食性の動物に、菜食主義者の飼い主が野菜を主体とした餌を与えて、適切な消化酵素を持たないこれら肉食のペットが健康被害を受ける場合も見られる。中には、偏食となるエサを与えてしまう飼い主がおり、結果として糖尿病など人間の生活習慣病的症状で動物病院に通院するペットがいる。よく懐いている犬の場合、飼い主が与えた餌を食べると飼い主が喜ぶことを犬が理解して、満腹であっても飼い主を喜ばせようと餌を食べる場合が見られる。これらの犬は肥満に陥ったり、肥満が引き起こす健康被害を受けたりすることもあるとされる。", "title": "動物福祉" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、過度に愛玩された結果として神経性の円形脱毛症や胃潰瘍に陥るペットもいる。また、飼い主が自分のストレス解消や鬱憤晴らしに行う動物虐待の被害を受ける場合もある。", "title": "動物福祉" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "断耳、断尾、声帯切除、牙の抜歯、爪除去(指ごと除去)などがある。ドイツでは脊椎動物について麻酔なしの手術、(医療目的以外で)肢体や臓器の摘出を原則禁止としている。", "title": "動物福祉" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "人間の都合による断耳、断尾、声帯切除、牙の抜歯、爪除去(指ごと除去)は、動物虐待にあたるとする考えもある。", "title": "動物福祉" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "老犬などを世話する老犬ホームなどのサービスが登場してきている。", "title": "動物福祉" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ペット産業(英語版)とは、ペットに関わる様々な産業のことである。", "title": "ペット産業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ペットの入手方法は、ペットショップで購入する、譲渡会で入手する、友人・知人から譲り受ける、屋外で拾うなどの方法がある。日本では、公共の動物収容施設(動物愛護センターなど)や飼えなくなった飼い主などが、犬や猫の新しい飼い主を募集しているイベント譲渡会(英語版)をオンライン上や施設で開催する場合がある。", "title": "ペットの入手方法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アメリカでは、25州で8週齢未満の子犬の販売に規制がある。日本では生後56日以内の販売が禁止される。一方、専門家の間では「生後49日」が妥当とされている。", "title": "ペットの入手方法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ペットショップや繁殖業者に対しては、動物福祉の観点から、飼育環境や業態そのものに対して批判や規制が向けられることもある。日本の環境省は2021年6月、犬・猫についてケージの広さや従業員1人当たりの管理頭数、雌の交配上限年齢に数値基準を設けた飼養管理基準省令を施行した。環境省は、動物の命に配慮し、ペットを迎える際には譲渡という選択肢を考えて欲しいと広報している。フランスでは2021年11月18日に制定した動物愛護法で、ペットショップでの犬・猫の販売が2024年1月以降は禁止される。「ペット#各国におけるペット関連規制」も参照。", "title": "ペットの入手方法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "日本で最近、ペットショップがペットを販売せず、ペット関連商品の販売だけで利益を上げ、保護ペット譲渡に舵を切る動きもある。", "title": "ペットの入手方法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ペットの扱いには国ごとに差異がある。ガス室を用いた殺処分は日本では禁止されないが、アメリカ合衆国の一部の州では禁止されている(後述)。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平成25年に改正された動物愛護管理法において、飼い主に「終生飼養」の責任があることが明記された。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "外来生物であろうとなかろうと、最後まで飼い主は責任をもって飼育することが求められる。外来生物を野外に放って定着させてしまった場合は、人間の生命・身体、農林水産業、日本固有の生態系に対して大きな影響を与えるため、外来生物法で放流・販売・頒布・購入は禁止されている(責任をもって飼育できる人や団体への無償譲渡は可)。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、以前から飼育していた特定外来生物は許可があれば飼育可能である。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本では、保健所が野良犬や迷い犬を捕獲・収容したり、飼い主から直接持ち込まれた動物を収容したりする。収容された動物は、数日の保管期間をおいて殺処分される。殺処分数は、過去には毎年数十万頭に及ぶこともあったが、2015年度(平成27年度)以降は毎年10万頭以下に減少している。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "保健所は、殺処分を減らすために飼い主を探す努力もしている。たとえば、当該犬を収容している旨を公示して飼い主を探す、譲渡会等で飼い主を募集する、譲渡希望者に気に入った個体を引き渡すなどが行われる。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "実際に熊本市動物愛護センターでは、2002年度の段階では56.38%であった処分率を、2008年度には12.86%にまで引き下げることに成功した。こうした成功事例が知られるようになり、「熊本のようにやる気になりさえすればペットの命が救えるのに、なぜ他の自治体では同様のことをやろうともせず問題を放置するのか」という声が出るようになった。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "環境省は、2009(平成21)年度より、犬や猫の殺処分の半減を目標に、新しい飼い主探しを促進するための施設を、都道府県(や政令指定都市に)、年間約10か所整備する計画を、また2017年(平成29年)までに90か所整備する計画を立て、それに着手した。9年間で殺処分の数の半減を目指すという。新しい飼い主探しを促進するための施設整備などを行うという。また、ペットの不妊手術の推進や、(ペットが迷子になってしまったときに飼い主のもとに戻ることができるように)マイクロチップ装着なども推進するという。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、アニマルシェルターにいる動物の中で、毎年約153万頭(犬67万頭、猫86万頭)が殺処分される。なお、あるアニマルシェルターでは95%以上の動物が殺処分された事例がある。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、殺処分方法の規制は州によって異なる。ガス室を用いた犬猫の殺処分は、23州で禁止されている。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "珍しい種類や人気がある種類の犬・猫では、ブリーダーが近親交配による繁殖を行うことがある。それらの中には近親交配によって発生した、畸形や遺伝的な異常を持つ個体が販売され、飼い主とペットショップの間で品質面の問題が係争されるなどの現象も起こっており、これを憂う向きもある。しかしながら、近親交配は品種改良や品種のスタンダード維持の重要な手段でもあり、一律禁止は大きな弊害を伴うとされる。また、商業的に利益をあげるために、劣悪な環境で工業的に大量繁殖させるブリーダー、ペット業者が動物福祉の観点から問題となっている。こうした行いはパピーミル(子犬工場)と呼ばれる。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "珍しい動物を飼いたいという需要を満たすために、動物が違法に捕獲され売買されることもある。野生のオランウータンはワシントン条約で商取引が禁じられているが、これすら密猟された事例がある。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、動物園などから珍しい動物が盗まれる事件も発生している。日本では、2003年(平成15年)に動植物園からレッサーパンダとワタボウシタマリンが盗まれる事件が起きた(4か月後に返還された)。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "盗んだはいいが飼い方がわからず死なせてしまうといった事件も起きている。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ペットの飼い主は、周囲の人々への配慮も求められる。路上や公園に放置されたペットの糞尿は、人を不快にさせる。糞尿の始末は、飼い主の責任である。また、ペットが苦手な人もいる。特に、動物アレルギー(英語版)(ネコアレルギー(英語版)など)の人にとっては健康にもかかわる。したがって、「ペット禁止」との表示がある場所にペットを持ち込まないということは守るべき当然のマナーとされる。あるいは、特に表示がなくても、不特定多数の人々が出入りする場所ではケージなどに入れ、ペットを管理下に置くことはマナーとされる。また、ケージなどに入れた状態で鉄道等の公共交通機関に持ち込む際には手回り品切符が必要となる場合がある。ペットが人に被害を与えた場合、刑事・民事の責任を問われることがある。日本の刑法上では、ペットをけしかけるなどして他人に危害を与えた場合は、軽犯罪法や傷害罪で罰せられる。民事上では、ペットの管理者は、ペットが他人に加えた損害を賠償する責任を負う(民法第718条)。また、人に危害を加える恐れのある動物を逃がすことも同様の責任が生じる。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ペットとして供される動物が、病原体を媒介することがある。動物由来感染症または人獣共通感染症と呼ばれる伝染病や寄生虫による被害は、飼い主自身のみならず周囲の人々に及ぶ場合もあり、致死率の高い感染症も存在する。日本では気候や飼育下にある動物への衛生対策などにより、動物由来感染症の罹患は多くはない。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "致死率の高い感染症として狂犬病がある。齧歯類は通常、狂犬病に罹患した捕食動物に噛まれた際に死亡してしまうため、きわめて稀な事例ではあるが、南米ボリビアでは、2003年にペルー産のペット用ハムスターが狂犬病を発症した。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "日本では、飼い犬に年1回の狂犬病予防注射を受けさせることが法律で義務化されている。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ペットが噛みつくなどして人に危害を加えることがある。日本では、犬による咬傷事故は減少しているが、毎年約4,000件発生している。野犬が少ない日本ではほとんどが飼い犬による被害になっている。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "屋外に犬を連れていくときは、犬による危害を防ぐためにリードをつけることが求められる。日本では、飼育責任者の指示を受けた活動中の使役犬などの一部の例外を除き、屋外における犬の放し飼いは条例で禁止される。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ペットが逃げ出し、人へ重大な危害を加えるなど緊急性がある場合は、警察官に射殺されることがある。隔離命令、保健所への届出、狂犬病の検診証明書提出など行政処分が下されることもある。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では、老人がピットブル4頭に噛まれて死亡し、飼い主が殺人罪で起訴された事件がある。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "管理能力がない飼育者が多数のペットを飼育し、その結果、衛生を維持できずにひたすらに繁殖してしまったりする事態が起きる。これは多頭飼育崩壊(アニマルホーディング)と呼ばれる。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "管理できなくなったペットを放棄する行為が問題となっている。日本の警察庁によると「落とし物」として届けられた動物は、2019~2022年だけ10万匹を超える。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "放棄されたペットは野生化しさらなる問題を発生させる(後述)。フランスではバカンスの間に面倒を見ることが出来ないという理由で捨てることが多いため、5月から8月にかけて捨てられるペットが増加することから、前述の販売規制に繋がった。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ペットが野に放たれ、外来種が生み出されるという問題も世界中で発生している。たとえば日本では、アライグマが野生化し、農作物を食い荒らす、住宅の天井裏に住み着き糞尿をするなどの被害が発生している。アライグマがペットとして人気となったのは、1977年(昭和52年)に放映された『あらいぐまラスカル』というテレビ番組の影響であるとされる。しかしアライグマの成獣は気性が荒く、飼育は難しい。世話に手を焼く飼い主が捨てたことで、野生のアライグマが全国に急速に増加した。そのような実情を経て日本ではアライグマは飼育禁止になっており、野生の個体を捕獲・保護した場合にも飼育は不可能である。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "野生化したペットは狩猟対象となることがある。ドイツでは、同国の狩猟法において、野生の犬猫の駆除は野生生物の保護を名目に合法化されている。年間40万匹のノネコ、4 - 6万頭のノイヌ(野犬)が民間のハンターによって狩猟の対象とされているが、野生化した動物も単に戸外を歩き回るペットも見分けが付かないことにも絡んで、狩猟区域に入り込んだペットが捕獲されたり罠にかかったりするトラブルも報じられている。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本でも、鳥獣保護法により野生化したノイヌ、ノネコ(野猫)は狩猟対象である。しかし、それらは非狩猟鳥獣の野良犬、野良猫との判別が困難なため、それらを主要な狩猟対象として活動する者はほとんどいないとされる。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ペットの健康のために金銭や労力等を費やしながら、畜産や動物実験を許容するのは、「道理に反する」「不誠実な振る舞い」といった批判がある。猫は肉食動物とされ、菜食仕様のキャットフードでも、タウリンなどが補充されタンパク質を多く含むものなら大丈夫であるという指摘もある。", "title": "ペットにまつわる諸問題" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一部の国と地域では、行政の免許がないと犬をペットとして迎え入れられないことがある。こうした免許はドッグライセンスと呼ばれる。", "title": "各国におけるペット関連規制" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ペット販売における対面説明の義務", "title": "各国におけるペット関連規制" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "動物取扱業は免許制であり、動物の飼養や利用に関連する法令は70以上。6歳未満はペット購入不可能。", "title": "各国におけるペット関連規制" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "RSPCA(王立動物虐待防止協会)という動物保護団体がある。", "title": "各国におけるペット関連規制" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "動物取扱業は免許制。", "title": "各国におけるペット関連規制" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2024年から規制が許可され、ペットショップでの店頭販売。ショーケースでの展示。一般人によるネット販売が禁止される。", "title": "各国におけるペット関連規制" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "入手は正規のペットショップからインターネットで購入、ブリーダーから直接購入、保護施設から引き取りなどに限られる。", "title": "各国におけるペット関連規制" } ]
ペットとは、愛玩を目的として飼育される動物である。
{{otheruses|愛玩動物|その他|PET}} [[File:Woman with two dogs.jpg|thumb|ペットを抱きしめる人]] [[ファイル:Goldhamster 2.jpg|thumb|right|[[ハムスター]]]] '''ペット'''({{lang-en|pet}})とは、愛玩を目的として[[飼育]]される[[動物]]である<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/199256/m0u/%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88/ 大辞泉],[http://www.weblio.jp/content/%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88 大辞林]</ref>。 == 概要 == [[ファイル:Cilantro.jpg|thumb|ウサギ]] ペットは、人の心を和ませたり楽しませてくれたりするといった理由で[[飼育]]される動物である。人はペットとの様々なやり取りを楽しんだり、その姿やしぐさ、鳴き声などを鑑賞したりする。ペットは[[生命]]をもった動物で、モノではない(ペットに似せた[[ロボット]]<ref>[https://dime.jp/genre/1259795/ 「ロボット型ペットによって認知症患者のストレスや行動が改善する可能性、フロリダ・アトランティック大学研究報告」][[DIME (雑誌)|DIME]](2021年11月15日)2021年11月23日閲覧</ref>を除く)。ゆえに飼い主は、ペットが[[健康]]で快適に暮らせるよう、[[栄養]]や[[環境]]など様々なことに配慮して、ペットのために[[餌]]や飼養施設を用意するなど世話をする必要がある。[[#歴史|ペットの歴史]]は古く、[[ネコ]](猫)は[[古代エジプト]]の時代から現在のペットのような位置づけや、[[ネズミ|鼠]]の駆除などの[[実用]]目的で飼われていたことが推測されている。また、[[イヌ]](犬)に関しても[[太古]]から、実用と愛玩目的も兼ねて飼われていたことが推測されている。 ペットは、人の人生の質の向上に貢献する。ペットは人を癒やし、[[孤独]]感を解消する。さらに、[[共感|思いやり]]の心などが育つなどの[[情操教育]]の効果もあるとされる。ペットを飼うことで、[[癒やし]]、[[孤独]]の解消、思いやりの心が育まれるといった実利が得られる。研究からも、ペットが[[子ども]]の健全な[[心]]を育てることが判明している<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.livedoor.com/article/detail/3858650/|title=ペットが子どもの健全な心育てる、研究で明らかに―北京市|website=[[ライブドア]]ニュース|accessdate=2008-10-24}}</ref>。子供は、自分自身を動物たちとの[[コミュニティ]]に属しているととらえている<ref name=":0">{{Cite book|和書|author=スー・ドナルドソン、ウィルキムリッカ |title=人と動物の政治共同体 |date=2016 |publisher=尚学社 |page=205}}</ref>。ペット飼育者の多くは、[[フラストレーション]]の解消を目的に、話を聞いてくれる相手として人間と同じようにペットに話しかける<ref name="Harris">[[マーヴィン・ハリス]]『食と文化の謎:Good to eatの人類学』(岩波書店 1988年、ISBN 4000026550)第8章</ref>。米国[[ペンシルベニア大学]]の調査では、ペット飼育者の98 %は動物に話しかけた経験があり、そのうちの80 %はペットに対して人間と同様に話しかけていたという。[[抑うつ]]や[[引きこもり]]、精神の[[矯正]]に及ぼすペットの[[癒やし]]の効果は[[精神分析医]]や[[ソーシャルワーカー]]に着目され、[[老人ホーム]]や[[刑務所]]でペットが効果を上げた例もある<ref name="Harris"/>。ペットのイヌが飼い主に[[フィジカルトレーニング|運動]]を促すように、ペットとの交流は延命の一因となり得る<ref name="Harris"/>。人間とペットが交流している時間中、双方の[[血圧]]と[[心拍数]]が低下するという実験結果がある。水槽の魚を眺めているだけでも医学的に有意な血圧低下が見られるという実験結果もある<ref name="Harris"/>。 ペットの飼育には[[責任]]が伴う。それらを理解しないと、近隣や周囲の人々に迷惑を及ぼし、またペットそのものに害を及ぼすこともある。「[[#ペットにまつわる諸問題]]」参照。[[動物虐待]]の防止や[[公衆衛生]]の観点から、ペットの取り扱いを規定する法律がある。日本では、「[[動物の愛護及び管理に関する法律]]」や「[[狂犬病予防法]]」などの法令がある。「[[#各国におけるペット関連規制]]」参照。[[#ペットの入手方法|ペットの入手方法]]は、ペットショップで購入する以外にも、保護された動物を引き取るなどの方法がある。 なお、ペットは基本的に人間が愛玩の対象とし飼育する動物を指す語である。しかし、一部の[[霊長類]]などのある程度高度な[[知能|知性]]・情動がその[[行動]]に感じられる動物では、異種の動物の特定の[[個体]]に対し、愛着を感じさせる行動を見せることがある。[[手話]]を理解した[[ゴリラ]]の[[ココ (ゴリラ)|ココ]]は、自身の欲求として子猫を飼いたいと表明し、愛着を持って世話をした。さらには、この猫が[[交通事故]]にあって死んだ際には、深い悲しみを訴え泣いたことが伝えられている。 == 諸概念の定義 == [[ファイル:Melopsittacus undulatus.jpg|thumb|セキセイインコ]] [[File:Amaterske akvarium.jpg|thumb|熱帯魚]] === 愛玩動物 === '''愛玩動物'''(あいがんどうぶつ)とは、一般に「愛玩用に家庭などで飼育されている動物のうち、特に愛玩飼育を目的として改良・繁殖が行われてきた動物種」のことをいう<ref name="Seisakujouhou-10900000">{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000155023.pdf |title=愛玩動物の衛生管理の徹底に関するガイドライン2006 |publisher=厚生労働省 |accessdate=2019-12-26}}</ref>。 愛玩動物は従来からの愛玩動物、学校飼育動物、エキゾチックペットなどに分類される<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。 ; 従来からの愛玩動物 : 従来からの愛玩動物は、イヌ、ネコ、[[ウサギ]]、 小鳥([[ブンチョウ]]など)、[[キンギョ|金魚]]など、古くから愛玩動物として親しまれてきた動物をいう<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。イヌやネコは愛玩動物として[[ヒト]]に飼育されるようになってから数千年から1万年以上の時間が経過している代表的な愛玩動物で、その間にヒトにとって好適な愛玩動物として適応した<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。また、従来からの愛玩動物の一部には、[[盲導犬]]や[[聴導犬]]のように人間の生活を補助する補助動物もいる<ref name="Seisakujouhou-10900000" />(ほかに[[介助犬]]、[[身体障害者補助犬]]、[[介助猿]]など)。 ; 学校飼育動物 : 学校飼育動物とは、小学校や幼稚園などで教育的・社会心理的効果から教育・愛玩目的で飼育される動物をいう<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。代表種はウサギ、[[ニワトリ]]、[[カメ]]、金魚などである<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。児童は動物由来感染症に対する抵抗力の不十分な可能性もあるため衛生管理などに注意を要する<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。 ; エキゾチックペット : エキゾチックペットとは、カメ、[[イグアナ]]、[[ヘビ]]、[[リスザル]]、[[リス]]、鳥類([[オウム]]など)、野生由来の[[魚類]]など比較的新しく愛玩目的で飼育されるようになった動物をいう<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。エキゾチックペットは野生動物を捕獲した個体であることも多く、飼育・管理方法が確立されていない、感染症などの原因・症状・診断法・検査法・治療法の知見が少ないなどのリスクがある<ref name="Seisakujouhou-10900000" />。 === コンパニオンアニマル === 人々の動物に対する接し方が、より細やかで密接になる傾向を反映して「ペット」という概念(モノや所有物のようにみなす概念)に替わって'''伴侶動物'''(はんりょどうぶつ)や'''コンパニオンアニマル'''({{lang-en|companion animal}}、人生の伴侶としての動物)という概念も普及してきている。 == 歴史 == [[画像:Leonardo da Vinci - Lady with an Ermine.jpg|thumb|right|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が描いた『[[白貂を抱く貴婦人]]』]] 太古のペットは、野生動物を捕獲したものである。人間が太古からペットを飼っていた証拠は、いずれの大陸からも発見される。最古の痕跡は、3万前の[[石器時代]]の遺跡にある[[ホラアナグマ]]の飼育跡([[洞窟]]の[[檻]])である。ただし、狩猟で捕獲したものを一時的に生きたまま保管したのか、継続的に餌を与えて飼っていたのかは不明である。ペットとして手当たり次第に飼い始めた野生動物の中から、家畜として有用なものが見いだされたと考えられる<ref>ジャレド・ダイヤモンド著 倉骨彰訳『[[銃・病原菌・鉄]](上)』[[草思社]]文庫 ISBN 978-4794218780</ref>。 以下では、一部に家畜の歴史も含めて解説する。[[オオカミ]](イヌ)の家畜化が3万年 - 1万5000年前から行われ、[[狩猟]]の際の助けとして用いられた。以下、[[トナカイ]]、[[ヒツジ]]、[[イノシシ]]([[ブタ]])、[[ヤギ]]、[[ウシ]]、[[ニワトリ]]、[[ハト]]、[[ウマ]]、[[ラクダ]]などが家畜として飼育されるようになった。また[[農耕]]の始まりとともに、[[害獣]]となるネズミなどを駆除してくれるネコや[[イタチ]]のような小型[[肉食動物|肉食獣]]が珍重されるようになった。 上述の通りペットの歴史は家畜に先行していると考えられるが、明確に愛玩動物として飼育された最初の例として史料が残っているのは、5000年前の[[古代エジプト]]の[[ピューマ]]である。[[南アメリカ|南米]]の[[インディオ]]は[[インコ]]や[[サル]](猿)を飼っていた<ref>上野吉一著『キリンが笑う動物園 環境エンリッチメント入門』(岩波科学ライブラリー154 [[岩波書店]] 2009年1月27日発行 ISBN 9784000074940)16-19頁</ref>。 人間の飼育下で繁殖させたペットが普及するのは、[[家畜]]が定着するよりも後である。狩猟目的のイヌ、害獣駆除目的のネコなど、実用目的の家畜だったものが、その目的で飼われなくなって以降も人間に飼われるようになった。それらが、人間の飼育下で繁殖したペットの最初となる。ただし、どの段階で実用でなくなったのか明確な境界線を引くのは困難である。日本における[[ニワトリ]]のように、[[食のタブー]]でいったんはペットとされたものが、再び[[食肉|食用]]の家畜([[家禽]])へと変遷した例もある。 === 古代 - 近代 === 特にイヌの場合は、はっきりした主従関係を好む習性から、家族の一員として扱われた歴史が長いとされる。[[石器時代]]におけるイヌの墳墓(埋葬に際して添えられたと見られる花の[[花粉]]が見られたり、なんらかの食料の残骸が一緒に発見されたりするなどの特徴も見られる)も発見されている。その一方で、所有物という概念もあったようで、[[殉死]]によって飼い主とともに埋葬されたと思われるケースも見られる。欧米では、古来から現代まで王侯貴族や歴代大統領から一般市民の間で愛玩用、護衛用、狩猟用などとして飼われている。ジェームズ2世(イングランド王)や[[アメリカ合衆国大統領]][[カルビン・クーリッジ|クーリッジ]]など多数の愛犬家がいる。 古代エジプトでは、[[ネコ科]]の動物は今日のペットに近い存在であったとされる。それらは[[神格化]]されたせいもあって(例:[[バステト]])、高貴な身分にふさわしい愛玩動物として扱われた。丁寧に[[埋葬]]されたネコの[[ミイラ]]も発見されており、同時代に於ける同種動物の地位が如何に高かったかを感じさせる。 また[[農業|農耕文化]]にも関連して、ネコやイタチ、[[キツネ]]のような小型動物を捕食する肉食獣を、[[穀物]]を[[食害]]から守る[[益獣]]として珍重していた文化が世界各地に見出されている。今日の[[アメリカ合衆国]]でも、[[納屋]]に住み着くネコを「barn cat」と呼び珍重するなどの[[風習]]が見られる。 === 近代 - 現代 === 今日ペットは、心を癒やしたり、あるいは愛玩されたり、共生したりするなど、様々な面を持つ。ペットは、[[家族]]同様の存在や[[パートナー]]、仲間として人の暮らしに密接に関わる。 現代の[[日本]]の2人以上の世帯では、48%の世帯が、何かしらのペットを飼っているという調査結果がある<ref>[[ペットフード協会]]による2007年(平成19年)時点調査。</ref>。日本の[[2010年]]([[平成]]22年)における飼育ペットの割合は、犬59%、猫31%、[[魚類]]19%、[[鳥類]]6%(複数回答)である<ref>{{Cite web|和書|url=https://survey.gov-online.go.jp/h22/h22-doubutu/2-1.html |title=動物愛護に関する世論調査 |publisher =内閣府 |accessdate=2020-05-31}}</ref><ref group="注釈">ペットフード協会の調査でも飼育ペットの種類の順位について、[[内閣府]]調査と整合性のある結果が出ている。1位が犬、2位が猫、3位が金魚である。</ref>。 動物を尊重する人々の中には、言葉の用法に人間との同一視が見られることがある。たとえば、ペットの[[性別]]を「[[雄|オス]]」「[[雌|メス]]」ではなく「[[少年|男の子]]」「[[少女|女の子]]」と呼んだり「[[餌]]をやる」ではなく「[[食事|ごはん]]をあげる」と表現したりする。 中にはペットに[[遺産]]を残したいと望み、[[遺贈#負担付遺贈|負担付遺贈]]・[[贈与#死因贈与|負担付死因贈与]]や[[遺言信託]]の形式をとる場合もある{{refnest|group="注釈"|ペットの家族化が進むにつれ、「ペットに遺産を相続させたい」という要望が出るようになった。日本では法律上、ペットは物として扱われるため相続人にはできない。そこで、「負担付遺贈」でペットの世話を条件に、世話人に遺産を相続する」という手法で、飼い主の死後もペットの生活を守る遺言を作成できる<ref name="2008_02_09">[https://web.archive.org/web/20080212071150/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080209-OYT1T00376.htm 「愛するペット困らぬように…行政書士に遺言相談が続々」]『[[読売新聞]]』アーカイブ(2008年2月9日配信)</ref>。その際、世話人がペットの世話をきちんとするかを監視する[[遺言執行者]]を置き、世話をきちんとしない場合には遺産を取り消すようにすれば「遺産だけもらって世話をしない」といった事態への予防策になる<ref name="2008_02_09"/>。}}。 == 統計 == [[File:Trillium Poncho cat dog.jpg|thumb|right|180px|[[犬]]と[[猫]]。飼育されているペットの種類の1位と2位。]] === 動物別 === 2015年の「ペット飼育率調査」によると、世界でペットとして飼育されている動物は、犬が33%、猫が23%、魚が12%、鳥が6%だった<ref name="tokuh2811">[https://www.customs.go.jp/nagoya/boueki/tokuh2811.pdf 名古屋税関管内における“犬、猫用ペットフード”の輸出] 名古屋税関調査統計課(2020年4月18日閲覧)</ref>。 ペットフード協会によれば、日本での推定飼育数は、1994年のイヌは906万7,000匹、ネコは717万8,000匹である。イヌのピークは2008年の1,310万匹で、その後、減少傾向にある。2017年にネコ(952万匹)が、イヌ(892万匹)を追い抜いた。2018年のイヌは890万3,000匹、ネコは964万9,000匹である<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S13982180.html 「うちの子」になった犬猫たち 店で買う「家族」、悪質業者横行も ペットと平成] [[朝日新聞デジタル]](2019年4月18日)2021年11月23日閲覧</ref>。 ペットフード協会の「2015年犬と猫の飼育実態調査結果」によると、日本で飼育されている犬の平均寿命は14.85歳、猫の平均寿命は15.75歳で寿命は毎年延びる傾向にある<ref name="tokuh2811" />。 === 地域別 === 2015年の「ペット飼育率調査」によると、世界で最もペットが飼育されている地域は中南米(75%~80%)で、最も飼育率の低かった地域はアジア(30%~40%)とされている<ref name="tokuh2811" />。 == 種類 == [[File:Dynastes neptunus1.jpg|thumb|飼育されているカブトムシ]] * [[哺乳類]] ** [[イヌ]]、[[フェネック]] ** [[ネコ]] **[[フェレット]]、[[ミーアキャット]] ** [[ネズミ目|げっ歯類]] *** [[ファンシーラット]]、[[ハムスター]]、[[スナネズミ]]、[[トビネズミ]]、[[モルモット]]、[[チンチラ]]、[[デグー]]、[[シマリス]]、[[タイワンリス|リス]]、[[プレーリードッグ]]、[[モモンガ]]、[[ヤマネ]] ** [[ウサギ]] **[[ハリネズミ科|ハリネズミ]] **[[オオコウモリ|ルーセットオオコウモリ]](フルーツコウモリ) **[[フクロモモンガ]]、[[オポッサム|ピグミーオポッサム]] **[[ヤギ|ミニヤギ]]、[[ミニブタ]] **[[ウマ]]([[ポニー]]、[[ファラベラ]])、[[ロバ]] * [[鳥類]]([[家禽]]) ** [[キュウカンチョウ|九官鳥]]、[[ジュウシマツ]]、[[セキセイインコ]]、[[オカメインコ]]、[[ワカケホンセイインコ]]、[[ブンチョウ|文鳥]]、[[鳩]][[フクロウ]]、[[ミミズク]]、 * 爬虫類 ** [[ミズガメ]]、[[リクガメ科|リクガメ]]、[[ヤモリ]]、[[トカゲ]]、[[ヘビ]]、[[ワニ]] * [[両生類]] ** [[カエル]]、[[イモリ科|イモリ]]、[[メキシコサンショウウオ|ウーパールーパー]] * [[魚類]]([[観賞魚]]) ** [[キンギョ|金魚]]、[[コイ#観賞魚・錦鯉|錦鯉]]、[[熱帯魚]] * [[昆虫]] ** [[甲虫類]] *** [[カブトムシ]]、[[クワガタムシ]]、[[甲虫類#分類|その他甲虫]] ** [[スズムシ]]、[[水生昆虫]]、[[カマキリ]] * [[蛛形類]] ** [[クモ]]、[[サソリ]] * [[甲殻類]] ** [[エビ]]、[[カニ]]、[[ザリガニ]]、[[フナムシ]]、[[アルテミア#|シーモンキー]]  *[[貝|貝類]] *[[ロボット]] ** [[AIBO]]、[[バーチャルペット]] * [[石]]などの無機物・鉱物など、能動的でない無生物 **[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[1975年]]前後に流行した[[ペット・ロック]]が代表例。 * [[植物]] *: 植物は従来、[[園芸]]によって育まれるものだったが、近年では愛玩する対象としても扱われるため、広義のペットと見なされることがある。 * [[人間]] *: 人間が人間を「飼う」というのは[[人権]]や[[人道]]に絡んで倫理上問題視される要素を含むものの、風俗的な観点からはそのような現象も見られる。また、[[奴隷]]制度は人間の家畜化であるが、目的が「愛玩」であればペットと見なすことも可能である。ただし近年においてその大半は仮想上のものや、有償や無償のサービスであったり、または[[犯罪]]行為のいずれかである。 *: 親が溺愛のあまり子供をペット状態に置くケースもある。また、単に年下の恋人を示す語彙として「ペット」と称することもある(類似語:ツバメ)。 == 動物福祉 == {{節スタブ}} [[ファイル:Burmakatzen-haufen.JPG|thumb|right|ベッドで眠る[[猫]]]] === ペットの健康問題 === ペットをその性質に即した飼い方が成されていない場合も少なくはない。たとえば[[肉食性]]の動物に、[[菜食主義]]者の飼い主が[[野菜]]を主体とした餌を与えて、適切な消化[[酵素]]を持たないこれら肉食のペットが健康被害を受ける場合も見られる。中には、[[偏食]]となるエサを与えてしまう飼い主がおり、結果として[[糖尿病]]など人間の[[生活習慣病]]的症状で動物病院に通院するペットがいる。よく懐いている犬の場合、飼い主が与えた餌を食べると飼い主が喜ぶことを犬が理解して、満腹であっても飼い主を喜ばせようと餌を食べる場合が見られる。これらの犬は[[肥満]]に陥ったり、肥満が引き起こす健康被害を受けたりすることもあるとされる。 また、過度に愛玩された結果として神経性の[[円形脱毛症]]や[[胃潰瘍]]に陥るペットもいる。また、飼い主が自分の[[ストレス (生体)|ストレス]]解消や鬱憤晴らしに行う[[動物虐待]]の被害を受ける場合もある。 === 動物の手術 === 断[[耳]]、断[[尾]]、[[声帯]]切除、[[牙]]の抜歯、[[爪]]除去([[指]]ごと除去)などがある。[[ドイツ]]では[[脊椎動物]]について[[麻酔]]なしの[[手術]]、(医療目的以外で)肢体や[[臓器]]の摘出を原則禁止としている<ref>[http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/toshokan/images/kiyo54-31.pdf#search='%E5%A3%B0%E5%B8%AF%E5%88%87%E9%99%A4+%E7%A6%81%E6%AD%A2%E5%9B%BD' ドイツにおける動物保護の変遷と現状]</ref>。 人間の都合による断耳、断尾、声帯切除、牙の抜歯、爪除去(指ごと除去)は、動物虐待にあたるとする考えもある。 === 動物の老後 === 老犬などを世話する[[老犬ホーム]]などのサービスが登場してきている。 ==ペット産業== {{ill2|ペット産業|en|Pet industry}}とは、ペットに関わる様々な産業のことである<ref>{{Cite journal |last=義雄 |first=越村 |date=2014 |title=ペット産業の現状と将来展望 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpan/17/Suppl/17_9/_article/-char/ja/ |journal=ペット栄養学会誌 |volume=17 |issue=Suppl |pages=9–24 |doi=10.11266/jpan.17.9}}</ref>。 * [[ペットフード]] * {{ill2|犬用おもちゃ|en|Dog toy}}、[[ネコの遊びと玩具]] * [[ドッグラン]] * [[ペットシッター]] * [[ペット供養]] * [[ペット新聞社]] * [[ペットホテル]] * [[ペット・エアウェイズ]] * [[ペット保険]] ** [[ペット&ファミリー少額短期保険]] - 日本初のペット保険([[少額短期保険]])。現在は保険持株会社[[T&Dホールディングス]]の完全子会社。 ** [[アニコム損害保険]] - 日本初のペット保険専門の[[損害保険]]会社。現在は保険持株会社[[アニコム ホールディングス]]の完全子会社。 == ペットの入手方法 == [[画像:Crawford Market Pets.jpg|thumb|[[インド]]の[[ムンバイ]]にある[[:en:Crawford Market|Crawford Market]]のペット屋]] ペットの入手方法は、ペットショップで購入する、譲渡会で入手する、友人・知人から譲り受ける、屋外で拾うなどの方法がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11463441/www.env.go.jp/council/14animal/y140-45/ref03.pdf#page=7 |title=一般市民アンケート調査(平成25年度) |publisher =環境省|accessdate=2020-05-30}}</ref>。日本では、公共の動物収容施設(動物愛護センターなど)や飼えなくなった飼い主などが、犬や猫の新しい飼い主を募集しているイベント{{ill2|譲渡会|en|Pet adoption}}をオンライン上や施設で開催する場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/shuyo/info.html |title=譲渡会等のお知らせ |publisher =環境省 |accessdate=2020-05-30}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20231108/4040016463.html |title=犬や猫の新しい飼い主見つけようと初オンライン譲渡会 鳥取県|NHK 鳥取県のニュース |access-date=2023-12-04 |last=日本放送協会 |website=NHK NEWS WEB}}</ref>。 アメリカでは、25[[アメリカ合衆国の州|州]]で8週齢未満の子犬の販売に規制がある<ref>{{Cite web |url=https://www.animallaw.info/topic/table-state-laws-concerning-minimum-age-sale-puppies |title=Table of State Laws Concerning Minimum Age for Sale of Puppies |publisher =Michigan State University |accessdate=2020-06-01}}</ref>。日本では生後56日以内の販売が禁止される<ref name="mai20120823">[https://archive.is/20130501133431/mainichi.jp/feature/news/20120823ddm041040083000c.html 「ペット販売:生後56日以下は禁止 改正動物愛護法、猶予付きで成立へ」]『[[毎日新聞]]』東京朝刊2012年8月23日([[インターネットアーカイブ]]を2021年11月25日閲覧)</ref>。一方、専門家の間では「生後49日」が妥当とされている<ref name="mai20120823"/>。 ペットショップや繁殖業者に対しては、[[動物福祉#愛玩動物|動物福祉]]の観点から、飼育環境や業態そのものに対して批判や規制が向けられることもある。日本の[[環境省]]は2021年6月、犬・猫についてケージの広さや従業員1人当たりの管理頭数、[[雌]]の[[交配]]上限年齢に数値基準を設けた飼養管理基準[[省令]]を施行した<ref name="朝日20211120">[https://www.asahi.com/articles/DA3S15115230.html 【be report】犬猫の繁殖・販売業者への規制 悪質業者の排除が目的、実効性は][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2021年11月20日4面(2021年11月24日閲覧)</ref>。環境省は、動物の命に配慮し、ペットを迎える際には譲渡という選択肢を考えて欲しいと広報している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/pamph/h2809a/pdf/full.pdf |title=譲渡でつなごう!命のバトン |publisher =環境省 |accessdate=2020-06-02}}</ref>。[[フランス]]では2021年11月18日に制定した動物愛護法で、ペットショップでの犬・猫の販売が2024年1月以降は禁止される<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15121356.html パリ ペット店「やめるしか」フランス 犬・猫販売禁止に]『朝日新聞』朝刊2021年11月24日1面(同日閲覧)</ref>。「[[ペット#各国におけるペット関連規制]]」も参照。 日本で最近、ペットショップがペットを販売せず、ペット関連商品の販売だけで利益を上げ、保護ペット譲渡に舵を切る動きもある<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/226291 「犬を売らないペット店が岡山で人気の事情〜殺処分されてしまう元凶は命の売買にある?」][[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン</ref>。 == ペットにまつわる諸問題 == {{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}<!--名無しリンクなど出典が「明記」されていません--> === ペットの殺処分 === [[File:郡山市保健所.JPG|thumb|保健所]] ペットの扱いには国ごとに差異がある。ガス室を用いた[[殺処分]]は日本では禁止されないが、アメリカ合衆国の一部の州では禁止されている(後述)。 === 終生飼育 === 平成25年に改正された動物愛護管理法において、飼い主に「終生飼養」の責任があることが明記された<ref>[https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/pamph/h2508b/full.pdf 「動物の愛護及び管理に関する法律が改正されました <一般飼い主編>] サイト:環境省</ref>。 === 外来生物 === 外来生物であろうとなかろうと、最後まで飼い主は責任をもって飼育することが求められる。外来生物を野外に放って定着させてしまった場合は、人間の生命・身体、農林水産業、日本固有の生態系に対して大きな影響を与えるため、[[外来生物法]]で放流・販売・頒布・購入は禁止されている(責任をもって飼育できる人や団体への無償譲渡は可)<ref>{{Cite web |url=https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/regulation/jokentsuki.html |title=2023年6月1日よりアカミミガメ・アメリカザリガニの規制が始まりました! | 日本の外来種対策 | 外来生物法 |access-date=2023-12-05 |website=www.env.go.jp}}</ref>。 また、以前から飼育していた特定外来生物は許可があれば飼育可能である<ref>{{Cite web |url=https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/qa.html |title=外来生物法に関するQ&A | 日本の外来種対策 | 外来生物法 |access-date=2023-12-05 |website=www.env.go.jp}}</ref>。 ==== 日本 ==== 日本では、[[保健所]]が[[野犬|野良犬]]や迷い犬を捕獲・収容したり、飼い主から直接持ち込まれた動物を収容したりする。収容された動物は、数日の保管期間をおいて殺処分される。殺処分数は、過去には毎年数十万頭に及ぶこともあったが、2015年度([[平成]]27年度)以降は毎年10万頭以下に減少している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/statistics/dog-cat.html |title=犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況 |publisher =環境省 |accessdate=2020-05-31}}</ref>。 保健所は、殺処分を減らすために飼い主を探す努力もしている。たとえば、当該犬を収容している旨を公示して飼い主を探す、譲渡会等で飼い主を募集する、譲渡希望者に気に入った個体を引き渡すなどが行われる<ref>[https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/shuyo/info.html 譲渡会等のお知らせ] 環境省</ref>。 実際に[[熊本市]]動物愛護センターでは、2002年度の段階では56.38%であった処分率を、2008年度には12.86%にまで引き下げることに成功した<ref name="殺処分問題への取り組み">[http://www.frontlineplus.jp/spp/approach.php 殺処分問題への取り組み] セーブペットプロジェクト(メリアル・ジャパン株式会社と[[日本全薬工業]]株式会社が共同で運営)</ref>。こうした成功事例が知られるようになり、「熊本のようにやる気になりさえすればペットの命が救えるのに、なぜ他の自治体では同様のことをやろうともせず問題を放置するのか」という声が出るようになった。 [[環境省]]は、[[2009年|2009]](平成21)年度より、犬や猫の殺処分の半減を目標に、新しい飼い主探しを促進するための施設を、都道府県(や[[政令指定都市]]に)、年間約10か所整備する計画を、また[[2017年]](平成29年)までに90か所整備する計画を立て、それに着手した。9年間で殺処分の数の半減を目指すという。新しい飼い主探しを促進するための施設整備などを行うという。また、ペットの[[不妊手術]]の推進や、(ペットが[[迷子]]になってしまったときに飼い主のもとに戻ることができるように)[[マイクロチップ]]装着なども推進するという<ref name="殺処分問題への取り組み"/>。 ==== アメリカ合衆国 ==== アメリカ合衆国では、アニマルシェルターにいる動物の中で、毎年約153万頭(犬67万頭、猫86万頭)が殺処分される<ref>{{Cite web |url=https://www.aspca.org/animal-homelessness/shelter-intake-and-surrender/pet-statistics |title=Pet Statistics |publisher =ASPCA |accessdate=2020-06-01}}</ref>。なお、あるアニマルシェルターでは95%以上の動物が殺処分された事例がある<ref>{{Cite web |url=https://www.dailymail.co.uk/news/article-2106757/PETA-killed-95-adoptable-dogs-cats-care-year.html |title=PETA 'killed more than 95 per cent of adoptable dogs and cats in its care last year' shocking new report says |publisher =DAILY MAIL |accessdate=2020-06-01}}</ref>。 また、殺処分方法の規制は州によって異なる。ガス室を用いた犬猫の殺処分は、23州で禁止されている<ref>{{Cite web |url=https://www.wunc.org/post/north-carolina-end-use-gas-chambers-animal-shelters |title=North Carolina To End Use Of Gas Chambers In Animal Shelters |publisher =WUNC NEWS |accessdate=2020-05-31}}</ref>。 === 無理な繁殖や近親交配 === [[File:Puppy_mill_01.jpg|thumb|パピーミル]] 珍しい種類や人気がある種類の犬・猫では、[[ブリーダー]]が[[近親交配]]による繁殖を行うことがある。それらの中には近親交配によって発生した、[[畸形]]や[[遺伝病|遺伝的]]な異常を持つ個体が販売され、飼い主とペットショップの間で品質面の問題が係争されるなどの現象も起こっており、これを憂う向きもある。しかしながら、近親交配は[[品種改良]]や品種のスタンダード維持の重要な手段でもあり、一律禁止は大きな弊害を伴うとされる。また、商業的に利益をあげるために、劣悪な環境で工業的に大量繁殖させるブリーダー、ペット業者が[[動物福祉]]の観点から問題となっている。こうした行いは[[パピーミル]](子犬工場)と呼ばれる。 {{seealso|パピーミル}} === 闇取引 === 珍しい動物を飼いたいという需要を満たすために、動物が違法に捕獲され売買されることもある。野生の[[オランウータン]]は[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]で商取引が禁じられているが、これすら[[密猟]]された事例がある<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/world/35134747.html |title=スーツケースからオランウータンの赤ちゃん、密輸容疑で男を逮捕 インドネシア |publisher =[[CNN (アメリカの放送局)|cnn.co.jp]] |accessdate=2020-05-30}}</ref>。 また、[[動物園]]などから珍しい動物が盗まれる事件も発生している<ref>{{Cite web|和書|url=http://karapaia.com/archives/52270253.html |title=動物園から盗まれたペンギン。なんとネットで売られていたことが発覚!犯人逮捕へ(イギリス) |publisher =カラパイア |accessdate=2020-05-30}}</ref>。日本では、[[2003年]](平成15年)に動植物園から[[レッサーパンダ]]と[[ワタボウシタマリン]]が盗まれる事件が起きた(4か月後に返還された)<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11449302/www.city.ichikawa.chiba.jp/shisetsu/dobutsu/20ann/main.htm |title=市川市動植物園 20年の足跡 |accessdate=2020-05-30}}</ref>。 盗んだはいいが飼い方がわからず死なせてしまうといった事件も起きている{{要出典|date=2021年12月}}。 === 管理上の問題 === ==== 周囲の人々に対する配慮 ==== {{Vertical images list | 幅= 180px | 1=HK 麥當勞餐廳 McDonalds FEHD licensed general restaurant Senior Citizen Card n No Smoking stickers May-2012 No pet.JPG | 2=[[香港]]の[[マクドナルド|飲食店]]にて | 3=Public PuppyKitty Leg and Foot Shower in 2007 Japan.jpg | 4=日本の[[ダイヤモンドシティ|ショッピングセンター]]にて | 5=No Pets Allowed signs in the Japanese apartments.jpg | 6=日本の[[団地]]にて }} ペットの飼い主は、周囲の人々への配慮も求められる。路上や公園に放置されたペットの[[糞尿]]は、人を不快にさせる。糞尿の始末は、飼い主の責任である。また、ペットが苦手な人もいる。特に、{{ill2|動物アレルギー|en|Animal allergy}}({{ill2|ネコアレルギー|en|Allergy to cats}}など)の人にとっては健康にもかかわる。したがって、「ペット禁止」との表示がある場所にペットを持ち込まないということは守るべき当然の[[マナー]]とされる。あるいは、特に表示がなくても、不特定多数の人々が出入りする場所ではケージなどに入れ、ペットを管理下に置くことはマナーとされる。また、ケージなどに入れた状態で[[鉄道]]等の公共交通機関に持ち込む際には[[手回り品切符]]が必要となる場合がある。ペットが人に被害を与えた場合、[[刑法|刑事]]・[[民事]]の責任を問われることがある。日本の[[刑法 (日本)|刑法]]上では、ペットをけしかけるなどして他人に危害を与えた場合は、[[軽犯罪法]]や[[傷害罪]]で罰せられる。民事上では、ペットの管理者は、ペットが他人に加えた損害を賠償する責任を負う(民法第718条)。また、人に危害を加える恐れのある動物を逃がすことも同様の責任が生じる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/13060518/ |title=ペット可物件で「爬虫類」を飼うことはできるのか |publisher =オトナンサー編集部 |accessdate=2020-06-02}}</ref>。 ==== ペットによる健康被害 ==== ===== 病原体 ===== ペットとして供される動物が、[[病原体]]を媒介することがある。[[動物由来感染症]]または[[人獣共通感染症]]と呼ばれる[[伝染病]]や[[寄生虫]]による被害は、飼い主自身のみならず周囲の人々に及ぶ場合もあり、致死率の高い感染症も存在する。日本では気候や飼育下にある動物への衛生対策などにより、動物由来感染症の罹患は多くはない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000155663.html |title=動物由来感染症を知っていますか? |publisher =厚生労働省 |accessdate=2020-06-02}}</ref>。 致死率の高い感染症として[[狂犬病]]がある。[[齧歯類]]は通常、狂犬病に罹患した捕食動物に噛まれた際に死亡してしまうため、きわめて稀な事例ではあるが、南米[[ボリビア]]では、2003年に[[ペルー]]産のペット用ハムスターが狂犬病を発症した<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11426476/www2.pref.iwate.jp/~hp1353/kansen/zoonosis/rabies/information-update.pdf |title=狂犬病発生に関する海外情報の提供と「狂犬病対応ガイドライン 2001」の付属書の追補について |publisher =厚生労働省 |accessdate=2020-06-01}}</ref>。 日本では、飼い犬に年1回の狂犬病予防注射を受けさせることが法律で義務化されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/10.html |title=犬の鑑札、注射済票について |publisher =厚生労働省 |accessdate=2020-06-01}}</ref>。 ===== 咬傷等 ===== [[File:Ellsworth dog bite.JPG|thumb|足を噛んでいる犬]] ペットが噛みつくなどして人に危害を加えることがある。日本では、犬による咬傷事故は減少しているが、毎年約4,000件発生している<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/11486223/www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/statistics/files/h29_3_3_1.pdf |title=犬による咬傷事故件数(全国計:昭和49年度~平成28年度) |publisher =環境省 |accessdate=2020-06-02}}</ref>。野犬が少ない日本ではほとんどが飼い犬による被害になっている。 屋外に犬を連れていくときは、犬による危害を防ぐためにリードをつけることが求められる<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11335891/www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/pamph/h2708a/pdf/06.pdf |title=正しい飼い方のこと |publisher =環境省 |accessdate=2020-06-01}}</ref>。日本では、飼育責任者の指示を受けた活動中の[[使役犬]]などの一部の例外を除き、屋外における犬の放し飼いは条例で禁止される<ref>{{Cite web|和書|url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11069975/www.env.go.jp/council/14animal/y140-20/ref05.pdf |title=条例の制定・運用状況について(平成19年7月環境省調べ) |publisher =環境省 |accessdate=2020-06-01}}</ref>。 ペットが逃げ出し、人へ重大な危害を加えるなど緊急性がある場合は、警察官に射殺されることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150914-6JLUP3RVFVLAROF47JEL2DENG4/ |title=警察官が人襲った体長120センチ「紀州犬」に13発発砲し射殺 千葉県警「拳銃使用は適正」…住民「バンバンバンの銃声、テレビ番組かと…」千葉・松戸 |publisher =[[産経新聞]] |accessdate=2020-06-02}}</ref>。隔離命令、保健所への届出、狂犬病の検診証明書提出など行政処分が下されることもある<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/408411/ 犬が人を咬んでしまったら] [[All About]]</ref>。 アメリカ合衆国では、老人が[[アメリカン・ピット・ブル・テリア|ピットブル]]4頭に噛まれて死亡し、飼い主が[[殺人罪]]で起訴された事件がある<ref>{{cite news |title=米女性かみ殺した犬の飼い主を殺人罪で起訴、終身刑の可能性も |newspaper=[[トムソン・ロイター|Reuters]] |date=2014-09-01 |url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0GW1LZ20140901 | accessdate=2014-09-06}}</ref>。 ==== 無秩序な飼育 ==== [[File:12 Meerschweine im Käfig.JPG|thumb|過密飼育]] 管理能力がない飼育者が多数のペットを飼育し、その結果、衛生を維持できずにひたすらに繁殖してしまったりする事態が起きる。これは[[多頭飼育崩壊]](アニマルホーディング)と呼ばれる。 ==== 飼育放棄 ==== 管理できなくなったペットを放棄する行為が問題となっている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=犬と猫がペットショップから消える日 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220121/k10013442041000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-01-24 |last=日本放送協会}}</ref>。日本の[[警察庁]]によると「[[落とし物]]」として届けられた動物は、2019~2022年だけ10万匹を超える<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/253037 動物の「落とし物」10万匹 大半ペットか、警察で保管] [[東京新聞]] TOKYO Web 2023年5月28日配信の[[共同通信]]記事(2023年6月13日閲覧)</ref>。 放棄されたペットは野生化しさらなる問題を発生させる(後述)。[[フランス]]では[[バカンス]]の間に面倒を見ることが出来ないという理由で捨てることが多いため、5月から8月にかけて捨てられるペットが増加することから、前述の販売規制に繋がった<ref name=":1" />。 ==== 野生化 ==== ペットが野に放たれ、[[外来種]]が生み出されるという問題も世界中で発生している。たとえば日本では、[[アライグマ]]が野生化し、[[農作物]]を食い荒らす、住宅の天井裏に住み着き糞尿をするなどの被害が発生している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/list/L-ho-12.html |title=特定外来生物の解説 |publisher =環境省 |accessdate=2020-05-31}}</ref>。アライグマがペットとして人気となったのは、[[1977年]](昭和52年)に放映された『[[あらいぐまラスカル]]』というテレビ番組の影響であるとされる<ref name=raccoon>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180713-XCKE3RBETNKAPFND4GU6CN6U4A/ |title=【関西の議論】「ラスカル」どころか害獣 近畿でエスカレートするアライグマ被害 |publisher =産経新聞 |accessdate=2020-05-31}}</ref>。しかしアライグマの成獣は気性が荒く、飼育は難しい。世話に手を焼く飼い主が捨てたことで、野生のアライグマが全国に急速に増加した<ref name=raccoon/>。そのような実情を経て日本ではアライグマは飼育禁止になっており、野生の個体を捕獲・保護した場合にも飼育は不可能である。 野生化したペットは狩猟対象となることがある。ドイツでは、同国の狩猟法において、野生の犬猫の駆除は[[野生生物]]の保護を名目に合法化されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8748098_po_0830.pdf?contentNo=1#page=4 |title=諸外国における犬猫殺処分をめぐる状況 ―イギリス、ドイツ、アメリカ― |publisher =遠藤 真弘 |accessdate=2020-05-31}}</ref>。年間40万匹の[[野猫|ノネコ]]、4 - 6万頭の[[ノイヌ]](野犬)が民間の[[猟師|ハンター]]によって狩猟の対象とされているが、野生化した動物も単に戸外を歩き回るペットも見分けが付かないことにも絡んで、狩猟区域に入り込んだペットが捕獲されたり[[罠]]にかかったりするトラブルも報じられている<ref>[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/germany/1501312/German-hunters-under-fire-for-killing-domestic-cats.html German hunters under fire for killing domestic cats(The Daily Telegraph)]</ref><ref>[http://www.geliebte-katze.de/information/recht-rat/jagd.html Jagd/Was kann ich tun, wenn mein Haustier von einem Jäger verletzt oder getötet wurde? Dürfen streunende Katzen getötet werden? Wir haben für Sie alle wichtigen Urteile zum Thema Jagd und Katzen gesammelt.(Ein HerzfürTiere Media GmbH)]</ref><ref>[http://www.abschaffung-der-jagd.de/haustiere/index.html Haustiere「狩猟廃止への取り組み ペット」(Initiative zur Abschaffung der Jagd)]</ref>。 日本でも、[[鳥獣保護法]]により野生化したノイヌ、ノネコ([[野猫]])は狩猟対象である。しかし、それらは非狩猟鳥獣の[[野犬|野良犬]]、[[野良猫]]との判別が困難なため<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104305007X01719630312 |title=第43回国会 衆議院 農林水産委員会 第17号 |publisher =[[林野庁]]指導部長による発言 |accessdate=2020-05-31}}</ref>、それらを主要な狩猟対象として活動する者はほとんどいないとされる。 === その他 === ペットの健康のために金銭や労力等を費やしながら、[[畜産]]や[[動物実験]]を許容するのは、「道理に反する」「不誠実な振る舞い」といった批判がある<ref>{{Cite book|和書|author=スー・ドナルドソン、ウィル・キムリッカ |title=人と動物の政治共同体 |date=2016 |publisher=[[尚学社]] |page=197 }}</ref>。猫は肉食動物とされ、菜食仕様のキャットフードでも、[[タウリン]]などが補充され[[タンパク質]]を多く含むものなら大丈夫であるという指摘もある<ref name=":0" />。 == 各国におけるペット関連規制 == {{節スタブ}} 一部の国と地域では、行政の免許がないと犬をペットとして迎え入れられないことがある。こうした免許は[[ドッグライセンス]]と呼ばれる。 === 日本 === ペット販売における対面説明の義務 === イギリス === 動物取扱業は免許制であり、動物の飼養や利用に関連する法令は70以上<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi-kasei.co.jp/hebel/pet/kenkyu/report/report5.html|title= ペットをめぐる法律(2)海外編|accessdate=2009-12-26}}:</ref>。6歳未満はペット購入不可能<ref>{{Cite web |url=https://www.gov.uk/caring-for-pets |title=Caring for pets |publisher =GOV.UK |accessdate=2020-06-02}}</ref>。 [[RSPCA]](王立動物虐待防止協会)という動物保護団体がある。 === アメリカ === 動物取扱業は免許制。 === フランス === 2024年から規制が許可され、ペットショップでの店頭販売。ショーケースでの展示。一般人によるネット販売が禁止される<ref name=":1" />。 入手は正規のペットショップからインターネットで購入、ブリーダーから直接購入、保護施設から引き取りなどに限られる<ref name=":1" />。 == ペットを題材とする作品 == <!-- ガイドライン[[Wikipedia:関連作品]]に沿わない作品は除去されます。掲載する場合は、記事の対象に関する理解が深まる説明を出典付きで記述し、Wikipedia:関連作品に沿うことを説明すること --> === テレビドラマ === * 『[[向井荒太の動物日記 〜愛犬ロシナンテの災難〜]]』 - [[2001年]]。[[獣医]]志望の獣医学部の学生が、人間と動物の関係に苦悩しつつ獣医を目指すドラマ。[[ペットロス]]や捨てられる動物などの奇麗事ではない問題に向きあった内容である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * B.ガンター、安藤孝敏、金児恵、種市康太郎 訳『ペットと生きる ペットと人の心理学』北大路書房 ISBN 4762825034 == 関連文献 == * {{Cite book|和書|author=宇都宮直子|authorlink=宇都宮直子|title=ペットと日本人|publisher=文藝春秋|date=1999年11月20日|isbn=978-4-16-660075-5|series=文春新書075}} * {{Cite book|和書|author=エリザベス・オリバー|title=日本の犬猫は幸せか 動物保護施設アークの25年|publisher=集英社|date=2015年10月16日|isbn=978-4-08-720805-4|series=集英社新書0805}} * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジェフリー・M・マッソン|en|Jeffrey Moussaieff Masson}}|title=ペットが死について知っていること――伴侶動物との別れをめぐる心の科学|translator=青樹玲|publisher=草思社|date=2021年10月04日|isbn=978-4-7942-2540-5}} == 関連項目 == {{Commonscat|Pets}} * [[獣医師]]、[[獣医学]]、[[動物看護師]]、[[動物病院]] * [[家畜]]、[[家畜化]]、 * {{ill2|人馴れした動物|en|Tame animal}}(能動的従順性、受動的従順性)、{{ill2|動物への調教|en|Animal training}} * {{ill2|学校飼育動物|en|Classroom pet}}(クラスルームペット) * [[ペットロス症候群]] * [[虹の橋 (詩)|虹の橋]] * [[動物兵器]] * [[動物愛護団体]] * [[日本獣医師会]] * [[危険な動物]] - [[動物愛護管理法]]の指定リスト * [[動物の権利]] * [[犬の十戒]] - ペットとして人間に飼われる犬と飼い主との理想的な関係をうたった詩 * [[愛がん動物用飼料の安全性の確保に関する法律]] * [[野生児]]、[[養子縁組]] - 動物が他の人間などの動物を飼う例について。異種同士の養育関係は異種間養子縁組、同じ属の中での養育関係を属間養子縁組と呼ぶ。<!-- * [[共済]] - ペットの為の共済で運営・管理は[[日本ペット共済]]。--> {{動物の権利}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へつと}} [[Category:動物]] [[Category:ペット|*]]
2003-03-20T09:09:30Z
2023-12-29T16:20:42Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88
4,604
規制緩和
規制緩和(きせいかんわ、英: deregulation)は、経済学や公共政策などの文脈で、ある産業や事業に対する政府の規制を縮小することを指す。市場主導型の産業のあり方が望ましいと考えられる際にとられる基本的な政策手段のひとつで、市場競争を促進し経済活性化を果たすために採用されるが、導入による弊害の解決のため、セーフティーネットなどの構築が必要とされている。 もともとの英語 deregulation は本来、規制「緩和」ではなく規制撤廃の意味が強い言葉であるが、日本では規制撤廃に反対する官僚が意図的に意味をずらして翻訳した(ダブルスピーク)ため、そのまま国内に広まったという。 規制は安全基準・技術規格・所有・事業範囲など企業活動のさまざまな側面を扱うものであるため、規制緩和の形もさまざまである。一般に、どのような場面でどのように規制緩和が行われるべきであるかについての実践的な指針は、体系的な形では存在せず、政策は過去の事例研究を通して形成されるのが普通である。 世界的には、金融・航空・電話・電力・ガスなどのいわゆるネットワーク産業の自由化を促し、自由主義経済を広げる物として規制緩和は先進国でも途上国でも重要な検討課題になっている。世界貿易機関(WTO)や国際通貨基金(IMF)などの国際機関もそうした動きを積極的に支持している。 経済学者の飯田泰之は「政府による産業の規制は、基本的には潜在GDP成長率にマイナスにしか働かない」と指摘している。 経済学者の大竹文雄は「市場への参入規制が強いと、競争は少なくなり、市場参加者全員が高い利潤を得られる。一方で規制が緩和されると、競争が厳しくなり市場参加者間の格差が大きくなる。参入規制が強いと、市場参加者と参加できない者との格差が大きいが、その格差は実感されない」と指摘している。また大竹は「規制緩和が進んだ地域、競争が激しい産業の就労者ほど他人を信頼する傾向が高いという研究がある」と指摘している。 みずほ総合研究所は「規制改革は、既得権益を崩す作用を持つため、規制によって守られてきた既存の事業者にとっては不利益をもたらすこともある。しかし、新規参入の拡大・価格競争の促進などにより、消費者が得られる利益は大きい」と指摘している。 経済学者の野口悠紀雄は「規制緩和によって経済活動を活発化させる必要があるという点では、多くの人が賛成するだろう。しかし、個別のテーマになると、賛成と反対が対立する」と指摘している。みずほ総合研究所は「規制改革は総論で大方の支持が得られても、各論になると関連事業の消極姿勢から実施が進まないケースがしばしばみられる」と指摘している。 経済学者の田中秀臣は「貿易自由化や規制緩和の効果が実際に現れるのは、長いスパンが必要であり、5-10年で見ないと良し悪しは言えない」と指摘している。田中は「1980年代の日本はそれ以後よりも規制の多い経済であったが、1990年代から2000年代よりも高い成長を達成している。それは適切なマクロ経済政策の成果ゆえにあった」と指摘している。 経済学者のジョセフ・E・スティグリッツ(コロンビア大学教授)は、規制緩和の誤りについてこう述べている。「目指すべきは規制緩和などではない。議論すべきは、適切な規制とは何かということである。規制なしで、機能する社会はありえない。問うべきなのは、どんな規制が良い規制なのかということである。規制緩和が世界金融危機を引き起こした。規制緩和がバブルを生成させた。もちろん、そんなバブルのような好景気は持続可能なものではない。アメリカが率先して金融部門で規制緩和をして、その結果、世界全体が打撃を受け、この大不況に突入した。」 経済学者のラグラム・ラジャンは「規制を設けずにすべてを市場に任せるのは論外であるが、規制でがんじがらめにするのも間違いである。要するに、競争を阻害しないように注意を払いながら、適切な規制を導入すべきである。安全性確保という大義のために規制を強化するにしても、競争条件の公平性を歪めてはいけない」と指摘している。 日本ではいわゆる「親方日の丸」の官僚主義の非効率性が経済成長を阻害しているという議論がここ30年ほど盛んに行われており、グローバリズムの進展と合わせて規制緩和や自由化を唱える声は特に経済界に根強く、小泉政権以後の自民党政権や民主党政権も規制緩和に積極的である。また1999年から2012年まで東京都知事であった石原慎太郎や大阪府知事・大阪市長であった橋下徹、そして宮城県知事の村井嘉浩のように地方自治体の首長にも規制緩和に積極的な人物が増えた。 1980年代以降の規制緩和・民営化・自由化の例を以下に挙げる。 内閣府は電気通信分野での民営化・料金規制の緩和によって2000年度に4兆円を上回る消費者の利益が得られたという試算結果を示している。 内閣府の試算によると、2005年度における1990年代以降の規制改革の経済効果は、約18兆3452億円となっている。 経産省経済産業政策局長の飯田祐二は、2023年に過去30年の新自由主義規制緩和策を振り返って、結果的にただのコストカットと国内投資減を招く結果になってしまったと述べている。
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規制緩和は、経済学や公共政策などの文脈で、ある産業や事業に対する政府の規制を縮小することを指す。市場主導型の産業のあり方が望ましいと考えられる際にとられる基本的な政策手段のひとつで、市場競争を促進し経済活性化を果たすために採用されるが、導入による弊害の解決のため、セーフティーネットなどの構築が必要とされている。
<!--{{観点}}←テンプレ貼るだけでなく、ノートに記載をしてください。それまでコメントアウト--> '''規制緩和'''(きせいかんわ、{{lang-en-short|deregulation}})は、[[経済学]]や[[公共政策]]などの文脈で、ある産業や事業に対する政府の[[規制]]を縮小することを指す。[[市場]]主導型の産業のあり方が望ましいと考えられる際にとられる基本的な政策手段のひとつで、[[市場競争]]を促進し経済活性化を果たすために採用されるが、導入による弊害の解決のため、セーフティーネットなどの構築が必要とされている。 <!-- 同様の目的を達成するための政策に、公営の事業を私企業による事業に転換する[[民営化]]、貿易や市場参入にまつわる規制の緩和である[[自由化]]などがある。(規制緩和と自由化は重複部分の多い概念である。) 政府と私企業の共同事業である[[第三セクター]]方式は、[[民間活力]]の導入のための政策手段である点では規制緩和と共通しており、全国レベルの産業政策としてはあまり用いられないが、地方自治体では地元の特定産業を政府が独占せずに市場を確保したり民間企業を育成したりするための手段としてとられることがある。 --> == 概要 == もともとの英語 ''deregulation'' は本来、規制「緩和」ではなく'''規制撤廃'''の意味が強い言葉であるが、日本では規制撤廃に反対する[[官僚]]が意図的に意味をずらして翻訳した([[ダブルスピーク]])ため、そのまま国内に広まったという。 規制は安全基準・技術規格・所有・事業範囲など企業活動のさまざまな側面を扱うものであるため、規制緩和の形もさまざまである。一般に、どのような場面でどのように規制緩和が行われるべきであるかについての実践的な指針は、体系的な形では存在せず、政策は過去の事例研究を通して形成されるのが普通である。 == 誤解 == * [[カリフォルニア電力危機]]において、規制緩和が原因で住民の生活に支障を与えたとされているが2000年の夏の猛暑やITブームなどによる電力需要の増加や渇水による水力発電の不良が根本的な問題とされている。 == 議論 == {{See also|新自由主義|グローバリゼーション|反グローバリゼーション}} 世界的には、金融・航空・電話・電力・ガスなどのいわゆるネットワーク産業の自由化を促し、自由主義経済を広げる物として規制緩和は先進国でも途上国でも重要な検討課題になっている。[[世界貿易機関]](WTO)や[[国際通貨基金]](IMF)などの国際機関もそうした動きを積極的に支持している。 [[経済学者]]の[[飯田泰之]]は「政府による産業の規制は、基本的には潜在GDP成長率にマイナスにしか働かない」と指摘している<ref>飯田泰之 『世界一シンプルな経済入門 経済は損得で理解しろ! 日頃の疑問からデフレまで』 エンターブレイン、2010年、112-113頁。</ref>。 経済学者の[[大竹文雄]]は「市場への参入規制が強いと、競争は少なくなり、市場参加者全員が高い利潤を得られる。一方で規制が緩和されると、競争が厳しくなり市場参加者間の格差が大きくなる。参入規制が強いと、市場参加者と参加できない者との格差が大きいが、その格差は実感されない」と指摘している<ref>大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、68頁。</ref>。また大竹は「規制緩和が進んだ地域、競争が激しい産業の就労者ほど他人を信頼する傾向が高いという研究がある」と指摘している<ref>大竹文雄 『競争と公平感-市場経済の本当のメリット』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年、123頁。</ref>。 [[みずほ総合研究所]]は「[[規制改革]]は、既得権益を崩す作用を持つため、規制によって守られてきた既存の事業者にとっては不利益をもたらすこともある。しかし、新規参入の拡大・価格競争の促進などにより、消費者が得られる利益は大きい」と指摘している<ref name="3jikan146">みずほ総合研究所編 『3時間でわかる日本経済-ポイント解説』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、146頁。</ref>。 経済学者の[[野口悠紀雄]]は「規制緩和によって経済活動を活発化させる必要があるという点では、多くの人が賛成するだろう。しかし、個別のテーマになると、賛成と反対が対立する」と指摘している<ref>[http://diamond.jp/articles/-/35635 野口悠紀雄「日銀が引き金を引く日本崩壊」 古い産業を保護して成長はありえない--成長戦略を評価する視点] ダイヤモンド・オンライン 2013年5月9日</ref>。みずほ総合研究所は「規制改革は総論で大方の支持が得られても、各論になると関連事業の消極姿勢から実施が進まないケースがしばしばみられる」と指摘している<ref name="3jikan146" />。 経済学者の[[田中秀臣]]は「[[貿易自由化]]や規制緩和の効果が実際に現れるのは、長いスパンが必要であり、5-10年で見ないと良し悪しは言えない」と指摘している<ref>麻木久仁子・田村秀男・田中秀臣 『日本建替論 〔100兆円の余剰資金を動員せよ!〕』 藤原書店、2012年、137頁。</ref>。田中は「1980年代の日本はそれ以後よりも規制の多い経済であったが、1990年代から2000年代よりも高い成長を達成している。それは適切な[[マクロ経済学|マクロ経済政策]]の成果ゆえにあった」と指摘している<ref>田中秀臣 『デフレ不況 日本銀行の大罪』 朝日新聞出版、2010年、177頁。</ref>。 経済学者の[[ジョセフ・E・スティグリッツ]]([[コロンビア大学]]教授)は、規制緩和の誤りについてこう述べている。「目指すべきは規制緩和などではない。議論すべきは、適切な規制とは何かということである。規制なしで、機能する社会はありえない。問うべきなのは、どんな規制が良い規制なのかということである。規制緩和が世界金融危機を引き起こした。規制緩和がバブルを生成させた。もちろん、そんなバブルのような好景気は持続可能なものではない。アメリカが率先して金融部門で規制緩和をして、その結果、世界全体が打撃を受け、この大不況に突入した。」<ref>{{Cite journal |和書 |author =ジョセフ・E・スティグリッツ|title =TPPと規制緩和を問い直す|publisher =集英社|journal =kotoba|volume =2013年夏号|url =http://shinsho.shueisha.co.jp/kotoba/tachiyomi/130604.html#3}}</ref> 経済学者の[[ラグラム・ラジャン]]は「規制を設けずにすべてを市場に任せるのは論外であるが、規制でがんじがらめにするのも間違いである。要するに、競争を阻害しないように注意を払いながら、適切な規制を導入すべきである。安全性確保という大義のために規制を強化するにしても、競争条件の公平性を歪めてはいけない」と指摘している<ref>[http://www.fsight.jp/4799 【インタビュー】ラグラム・ラジャン(米シカゴ大学経営大学院教授) 市場任せも過剰介入も間違いだ「適切な規制」で自由な市場経済を守れ] Foresight(フォーサイト) 2009年4月1日</ref>。 ==各国の政策== {{出典の明記|section=1|date=2007年10月}} ===日本=== {{See also|日本の民営化の一覧}} 日本ではいわゆる「[[親方日の丸]]」の[[官僚制|官僚主義]]の非効率性が[[経済成長]]を阻害しているという議論がここ30年ほど盛んに行われており、[[グローバリズム]]の進展と合わせて規制緩和や自由化を唱える声は特に経済界に根強く、小泉政権以後の自民党政権や民主党政権も規制緩和に積極的である。また1999年から2012年まで東京都知事であった[[石原慎太郎]]や大阪府知事・大阪市長であった[[橋下徹]]、そして宮城県知事の[[村井嘉浩]]のように[[地方公共団体|地方自治体]]の首長にも規制緩和に積極的な人物が増えた。 1980年代以降の規制緩和・民営化・自由化の例を以下に挙げる。 *[[日本電信電話公社]][[民営化]] *[[国鉄分割民営化]] *[[金融ビッグバン]] *[[タクシー]]台数の制限撤廃 *貨物自動車運送業への新規参入の条件緩和 *[[バス (交通機関)|バス]]運送事業への新規参入の緩和 *[[電力自由化]] *[[都市ガスの自由化]] *[[酒類販売業免許]]の付与基準の撤廃 *[[ビール]]などの年間最低[[醸造|製造]]量の緩和 *[[港湾]]運送事業への新規参入 *[[電気通信事業]]の開放 *[[農業]]への[[株式会社]]参入 *[[郵政民営化]] *[[労働者派遣事業]] **[[労働者派遣法]]の緩和により、それまで[[日本の労働者派遣|派遣]]が禁止されていた分野(製造業や医療など)にも派遣社員の使用が認められるようになり、以後企業では[[非正規雇用]]が急増した。 *[[医薬品]]の部外品化による緩和 *[[建築]]基準検査機関の民間開放 **[[耐震偽装問題]]発生で、問題点が指摘された。 *[[指定管理者]]制度による[[行政|行政サービス]]の外国資本等への開放 *大都市圏での高層ビル建設に於ける高さ制限の緩和と、超高層ビルの建設促進 *地下空間の利用規制緩和による再開発利用拡大 [[内閣府]]は電気通信分野での民営化・料金規制の緩和によって2000年度に4兆円を上回る消費者の利益が得られたという試算結果を示している<ref name="3jikan146" />。 内閣府の試算によると、2005年度における1990年代以降の規制改革の経済効果は、約18兆3452億円となっている<ref>岡部直明 『ベーシック日本経済入門』 日本経済新聞社・第4版〈日経文庫〉、2009年、136頁。</ref>。 [[経産省]]経済産業政策局長の飯田祐二は、2023年に過去30年の新自由主義規制緩和策を振り返って、結果的にただのコストカットと国内投資減を招く結果になってしまったと述べている<ref>[https://president.jp/articles/-/69370?page=1 なぜ「失われた30年」を止められなかったのか…経産省が「結果を出せなかった」と反省するバブル崩壊後の誤算 "新機軸"で日本復活の「最大で最後のチャンス」を生かす | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} ==参考文献== * 川本明 『規制改革』中公新書、1998年1月。ISBN 4121013972 ==関連項目== * [[規制]] * [[規制改革]] * [[新自由主義]] * [[聖域なき構造改革]] - [[構造改革特区]] * [[小さな政府]] - [[混合経済]] * [[楽市・楽座]] - [[ネップ]] * [[航空規制緩和法]] * [[金融ビッグバン]] * [[ジョブ型雇用]] ==外部リンク== * {{CRD|1000289914|規制緩和について知りたい。|近畿大学中央図書館}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きせいかんわ}} [[Category:行政]] [[Category:市場構造と価格]] [[Category:マクロ経済学]] [[Category:通商政策]] [[Category:流行語]] [[Category:戦後日本の政治]] [[Category:戦後日本の経済]] [[Category:規制]]
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ウンシュウミカン
ウンシュウミカン(温州蜜柑、学名: Citrus unshiu)は、ミカン科の常緑低木またはその果実のこと。鹿児島県が原産とされる柑橘類の一種。さまざまな栽培品種があり、産地によりブランド名がある。果実が食用にされ、種がなくオレンジよりも淡泊な味わいがある。 現代において「みかん」は、通常ウンシュウミカンを指す。和名ウンシュウミカンの名称は、温州(三国志演義中などで蜜柑の産地とされる中国浙江省の温州市)から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説があることに由来するが、本種の原産地は日本の薩摩地方(現在の鹿児島県)の長島であると考えられており、温州から伝来したというわけではない。ウンシュウミカンの名は江戸時代の後半に名付けられたが、九州では古くは仲島ミカンと呼ばれていた。2010年代に行われた遺伝研究により、母系種は小ミカン、父系種はクネンボと明らかになっている。 「みかん」が専らウンシュウミカンを指すようになったのは明治以後である。江戸時代には種無しであることから不吉として広まらず、普及していたのは本種より小型の種がある小ミカン(紀州蜜柑)Citrus kinokuniであり、「みかん」を代表していたのは小ミカンであった。 「みかん」は蜜のように甘い柑橘の意で、漢字では「蜜柑」「蜜橘」「樒柑」などと表記された。 史料上「蜜柑」という言葉の初出は、室町時代の1418年(応永26年)に記された伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記『看聞日記』で、室町殿(足利義持)や仙洞(後小松上皇)へ「蜜柑」(小ミカンと考えられる)が贈られている。1540年ごろと年次が推定される、伊予国大三島の大山祇神社大祝三島氏が献上した果物に対する領主河野通直の礼状が2通が残されているが、一通には「みつかん」、もう一通には「みかん」と記されており、「みつかん」から「みかん」への発音の過渡期と考えられている。 江戸時代には甘い柑橘類の種類も増え、「橘」と書いて「みかん」を意味するケースや、柑子(コウジ)の甘いものを蜜柑(みつかん)と呼ぶケース、「柑類」で「みかん類」を意味するケースなど、名称に混乱が見られるようになった。 南宋の韓彦直が1178年に記した柑橘類の専門書『橘録』には、柑橘は各地で産出されるが「みな温州のものの上と為すに如かざるなり」と記している。日本でも『和漢三才図会』(1712年)に「温州橘は蜜柑である。温州とは浙江の南にあって柑橘の産地である」とあり、岡村尚謙『桂園橘譜』(1848年)も「温州橘」の美味は「蜜柑に優れる」と記す。温州は上質で甘い柑橘の産地と認識されていた。古典に通じた人物が、甘みに優れた本種に「温州」と名付けたという推測は成り立つが、確証といえるものはない。 『和漢三才図会』(1712年)には「蜜柑」の品種として「紅蜜柑」「夏蜜柑」「温州橘」「無核蜜柑」「唐蜜柑」の5品種を挙げている。「温州橘」「無核蜜柑」は今日のウンシュウミカンの可能性があるが、ここで触れられている「温州橘」は特徴として「皮厚実絶酸芳芬」と書かれており、同一種か断定は難しい。「雲州蜜柑」という表記も見られ、19世紀半ば以降成立の『増訂豆州志稿』には「雲州蜜柑ト称スル者、味殊ニ美ナリ」とあって、これは今日のウンシュウミカンとみられる。 1874年(明治7年)より全国規模の生産統計が取られるようになった(『明治7年府県物産表』)。当初は、地域ごとに様々であった柑橘類の名称を統一しないまま統計がとられたが、名称を統一する過程で、小蜜柑などと呼ばれていた種が「普通蜜柑」、李夫人などと呼ばれていた種が「温州蜜柑」となったという。明治中期以降、温州蜜柑が全国的に普及し、他の柑橘類に卓越するようになる。安部熊之輔『日本の蜜柑』(1904年)は、蜜柑の種類として「紀州蜜柑」「温州蜜柑」「柑子蜜柑」の3種類が挙げられている。 英語で本種は satsuma mandarin と呼ばれる。欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である。 "satsuma" という名称は、1876年(明治9年)、本種が鹿児島県薩摩地方からアメリカ合衆国フロリダに導入されたことによる。なお、その後愛知県尾張地方の種苗産地からアメリカに本種が渡り、それらは "Owari satsuma" という名称で呼ばれるようにもなった。 タンジェリン (Tangerine)・マンダリンオレンジ (Mandarin orange) (学名は共にCitrus reticulata)と近縁であり、そこから派生した栽培種である。 また、皮を剥くのにナイフを必要とせずテレビを観ながらでも食べられるため、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどでは「TV orange(テレビオレンジ)」とも呼ばれている。 日本の不知火海沿岸が原産と推定される。農学博士の田中長三郎は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現・鹿児島県出水郡長島町)がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は小ミカンの発祥地と考えられる八代にも近く、戦国時代以前は八代と同じく肥後国であったこと、1936年に当地で推定樹齢300年の古木(太平洋戦争中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。DNA鑑定により種子親が小ミカン、花粉親がクネンボであると推定された。 ウンシュウミカンは日本では主に、関東以南の暖地で栽培される。また、和歌山県、愛媛県、静岡県が代表的な産地である。温暖な気候を好むが、柑橘類の中では比較的寒さに強い。 常緑小高木で、高さは3 - 4メートルほどになる。日本で一般的に使われているカラタチ台では2 - 4メートルの高さに成長する。「台」については「接ぎ木」「挿し木」参照。 花期は5月ごろで、花径3センチメートルほどの白い5花弁の花を咲かせる。 秋になると果実が結実する。果実の成熟期は9月から12月と品種によって様々で、5 - 7.5 センチメートル程の扁球形の実は熟すに従って緑色から橙黄色に変色する。一般的に花粉は少ないが単為結果性のため受粉がなくても結実する。自家和合性であるが、受粉しても雌性不稔性が強いため種子を生じにくく、通常は種なし(無核)となる。ただし、晩生品種は雌性不稔性が弱いことから、近くに甘夏などの花粉源があると種子を生じることがある。生じた場合の種子は多胚性で、播種しても交雑胚が成長することはまれであり、ほとんどの場合は珠心細胞由来の珠心胚が成長する。そのため、種子繁殖により母親と同一形質のクローン(珠心胚実生)が得られる。ただし、種子繁殖は品種改良の際に行う。未結実期間の短縮、樹勢制御、果実品質向上などのため、日本では通常は接ぎ木によって増殖を行う。台木としては多くはカラタチが用いられるが、ユズなど他の柑橘を用いることもある。 病虫害として、ナシマルカイガラムシなどがある。 柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国などへ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。 日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」(生薑、橘、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。 日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない。 その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。 ミカンとして最初に日本に広まったのは小ミカンである。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現・熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが15 - 16世紀ごろに紀州有田(現・和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬して富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州から小ミカン(キシュウミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡県のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には富士市(旧富士川町)の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。 ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」などと呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)ころから生産を増やして徐々に小ミカンに取って代わるようになった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこのころである。 明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や愛媛県などでもウンシュウミカンの栽培が本格化する。産地の拡大により市場競争が始まり、栽培技術の改善や経営の合理化が図られるようになった。またアメリカ合衆国フロリダ州に苗木が送られたのを皮切りに北米や朝鮮半島にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。昭和初期にはナツミカンやアメリカから輸入されたネーブルオレンジなども広く栽培され、柑橘市場の成長は最初のピークを迎える。その後、太平洋戦争に突入すると、食糧増産の煽りを受けて栽培面積は減少し、資材の不足と徴兵による労働力の減少により果樹園は荒廃した。戦後の復興期もしばらくは食糧難の解消が最優先とされ、栽培面積の減少が続いたが、数年後には増加に転じ、1952年に戦前の水準まで回復した。 そのまま高度経済成長の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。復興ブームによる果実消費の増大によってウンシュウミカンは高値で取引されるようになり、一部では「黄色いダイヤ」とも呼ばれた。1960年以後は行政施策の後押しもあって全国的に過剰なまでに増産され、1968年の豊作時には計画生産量を上回った。このころには完全に生産過剰となっていたがなおも増産は続けられ、1972年には豊作とこの年から始まったグレープフルーツの輸入自由化の影響により価格が暴落。ピークの1975年には生産量は終戦直後の約8倍にあたる366.5万トンに達していた。 生産過剰に加えて1970年代よりアメリカからオレンジ輸入枠拡大の要請が強まり、政府はミカン栽培縮小へ方針を転換した。政府の政策は他種への改植を促すことにもなり、ウンシュウミカンの栽培面積が年々減り続ける一方で、他の柑橘の栽培は拡大した。 1980年代からの日米貿易摩擦の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まった。円高も相まってオレンジの輸入が増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。これに対して各産地では生産調整、品質の向上、価格が高い早生や極早生への切り替えなどで対応し、ウンシュウミカンの価格は傾向として一時的に上昇した。しかし農家の後継者不足や果樹消費の多角化など、日本のミカン栽培は今なお様々な問題を抱えている。農林水産省の2021年予想生産量は76万トンで2020年実績より6000トン少ない。農家の高齢化などにより供給量が需要を下回るようになっており、2020年産から緊急需給調整事業を廃止。過剰栽培を抑える意味で公表していた「適正生産量」を、増産を促す意味合いをもつ「予想生産量」へ切り替えた。 近年では新たな販路として日本国外への輸出拡大が試みられており、主な輸出先である北米の他にも香港や台湾といったアジア諸国への輸出も始まった。 9月から10月ごろに掛けて収穫される。1970年代に発生したオイルショックを受けて、ハウス栽培における石油消費量を減らす目的で研究が進められるようになった。近年は生産過剰気味である。 10月から12月に掛けて収穫される。比較的単価が高いことから、中生や普通温州からの切り替えを進める産地もある。 11 - 12月ごろに収穫される。 11月下旬 - 12月に収穫される。特に遅く出荷される品種(青島や十万など)は晩生温州として区別される。 日本で最も消費量の多い果実であったが、近年の総務省の家計調査では一世帯あたりの消費量においてバナナに抜かれて二位に転落し、2013年時点はバナナ、リンゴに次ぐ3位となっている。尤も、自家消費用に庭木にされていたり産地近辺では栽培農家からお裾分けをもらうなど、統計に載らない消費も多い。 ウンシュウミカンの生産量は、和歌山県、愛媛県、静岡県が年間10万トン以上、続いて、熊本県、長崎県が5万トン以上、佐賀県、愛知県、広島県、福岡県、神奈川県、が2万トン以上、三重県、大分県、大阪府、香川県、徳島県、鹿児島県、宮崎県が1万トン以上、山口県、高知県が5000トン以上(2016年度の生産量に準拠)となっており、これらの県で99%以上を占める。以下、千葉県、岐阜県、兵庫県、岡山県が1000トン以上、その他茨城県、埼玉県、東京都、新潟県、福井県、京都府、奈良県、島根県、沖縄県などでも作られている。このように、ウンシュウミカン栽培は、温暖、かつ日当たり、風当たり、水はけが良い斜面の地形が条件であり、主な産地のほとんどが太平洋や瀬戸内海に面した沿岸地である。 近年は保存技術の向上と共にビニールハウスや温室で栽培されたハウスみかんも多く流通し、ほぼ一年中目にすることが出来る。ハウスみかんでは佐賀県、愛知県、大分県などが主産地となっている。 日本以外では、世界最大の産地である中国浙江省の寧波市・奉化市・寧海市、他に米国アラバマ州、スペインやトルコ、クロアチア、韓国の済州島、ペルーなどでも栽培されている。 以上の19府県が主要産地となっており、それ以下の県と大きく収穫量を離しているが、千葉県、兵庫県も累年統計を取っている。 収穫量は最新の全国調査を行った作況調査(果樹)2014年版による。 以下、茨城県、埼玉県が年間100トン以上、福井県、東京都が年間80トン以上、島根県が年間50トン以上、群馬県と新潟県が年間20トン以上、また収穫実績があった県として栃木県、石川県、滋賀県が記されている(詳細については次項で解説)。 前述したように、年収穫量1000t以上の経済的産地形成としては岐阜県の養老山地山麓、あるいは千葉県の房総半島周辺となっている。だが、それ以外にも小規模な産地が点在し、それぞれが北限の産地と名乗っている。栽培技術の進歩と品種改良、また気候条件の変化などにより北限産地は年々北上している傾向がある。 果肉にはプロビタミンA化合物の一種であるβ-クリプトキサンチンが他の柑橘に比べて非常に多く含まれている。これには強力な発ガン抑制効果があるとの報告が果樹試験場(現・果樹研究所)・京都府医大などの共同研究グループによってなされ、近年注目されている。 オレンジ色の色素であるβ-クリプトキサンチンなどのカロテノイドは脂肪につくため、ミカンを大量に食べると皮膚が黄色くなる。これを柑皮症という。柑皮症の症状は一時的なもので、健康に悪影響はない。その他にもクエン酸、食物繊維などが多く含まれる。白い筋にはヘスペリジンが含まれ、動脈硬化やコレステロール血症に効果があるとされている。 ミカンのおいしさは、含まれている糖と酸の量・バランスやホロの薄さなどによって決まる。糖度が高いことは重要だが、酸の量も同様に味の決め手になる。夏場のウンシュウミカンの未熟な果実を収穫・出荷したものは青みかんとよばれ、果汁が少なく、ヘスペリジンが豊富に含まれている。 生食されることが多く、内皮(瓤嚢膜)を丸ごと食べる人と食べない人で個性も分かれている。また、むき方も「へそ」から剥く方法と、へたから剥く方法と、刃物で切る方法とさまざまある。 他に北陸地方、東北地方、九州地方など地域によっては焼きミカンといって焼いて食べる所もある。また凍らせて冷凍みかんにしたり、お風呂に入れて食べたり、下記のように用途に応じて様々な加工品も作られている。ミカンの全生産量の約2割はジュースや缶詰に加工されている。 食物繊維として含まれるペクチンには整腸作用の他、消化酵素の一つである膵リパーゼの働きを阻害する作用があるとされる。これを食前に摂取することにより食物中に含まれる脂肪の吸収を抑制することができる。またシネフリンにはβ3アドレナリン受容体に働きかけて脂肪分解と熱生産を促進する効果があり、体脂肪を減らす効果が高い。特に熟していない青い果実に多く含まれている。 しかし、こうしたウンシュウミカンの性質が優れたダイエット効果をもたらすというわけではない。ミカンからシネフリンを抽出しダイエット効果を謳ったサプリメントも市販されているが、シネフリンと刺激性物質(カフェインやカテキンなど)を同時摂取した際の危険性も指摘されている。 また、ミカンダイエットを大々的に報じたテレビ番組『発掘!あるある大事典II』2006年10月22日放送分においてミカンの血糖値抑制効果を示すグラフが提示されたが、後にこのグラフは改竄されたものであったことが報告された。 果皮には精油を含んでいて、精油成分は主にリモネン90%である。その他に、成分としてヘスペリジン、ルチン などフラボン配糖体が含まれている。ヘスペリジンは、毛細血管の透過性を増大させる作用があり、もろくなった毛細血管を回復させることが知られているほか、抗菌、利尿、抗ヒスタミンなどの作用もある。従って、高血圧の予防、腎炎、蕁麻疹の予防に役立つ漢方薬の一種でもある。 漢方では熟したものの果皮を陰干しにしたものを陳皮(ちんぴ)と称して利用する。陳皮とは、「1年以上経過したもの」を意味する陳久品(ちんきゅうひん)を使用しなさいという意味、すなわち「古い皮」の意で名付けられている。陳皮は漢方で健胃、利尿、鎮咳、鎮吐などの目的で処方に配剤されるほか、七味唐辛子の材料としても用いられる。また、製薬原料としても大量に用いられている。なお、中国における伝統医学「中医学」において、みかんは体を冷やす食べ物として分類されるため、風邪を引いた際には食べてはならない食品として認識されている。また、精油はアロマテラピーに用いることもある。 民間療法では、風邪の初期症状で多少熱がある時に、陳皮1日量10 - 15グラムを600 ccの水で半量になるまでとろ火で煮詰めた煮出し液(水性エキス)を、蜂蜜などで甘くしたり、おろし生姜を混ぜて食間3回に分けて飲む用法が知られる。食べ過ぎ、食欲不振、悪心、嘔吐に、1日量2 - 3グラムを水400 ccで煎じて服用しても良いとされる。手軽にできる胃腸薬として用いられるが、胃腸に熱があるときは服用禁忌とされる。肩こり、腰痛、神経痛、冷え症の改善に、陳皮を布袋などに入れて風呂に浮かべて、浴湯料に使用してもよい。 油胞と呼ばれる果皮の粒々にはリモネンという成分が含まれ、合成樹脂を溶かす溶剤として注目されている。また、オレンジオイルやリモネンは洗剤などにも利用されている。 ミカンの搾り汁はあぶりだしに用いることが出来る。特に冬には手軽に手に入れることができるため、年賀状に使うこともある。また、ロウソクの炎に向かってミカンの皮を折り曲げ、飛んだ油脂で炎の色が変わるのを楽しむ遊びもある。 ミカンの皮は剥きやすく、すぐに剥がれ、剥いた皮は様々な形になるので、意図的な形に切ることによって動物などの形を作ることができる。典型的なものとして「8本足のタコ」がある。
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500年前に発生したと推察される。DNA鑑定により種子親が小ミカン、花粉親がクネンボであると推定された。", "title": "植物学的な特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ウンシュウミカンは日本では主に、関東以南の暖地で栽培される。また、和歌山県、愛媛県、静岡県が代表的な産地である。温暖な気候を好むが、柑橘類の中では比較的寒さに強い。", "title": "植物学的な特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "常緑小高木で、高さは3 - 4メートルほどになる。日本で一般的に使われているカラタチ台では2 - 4メートルの高さに成長する。「台」については「接ぎ木」「挿し木」参照。", "title": "植物学的な特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "花期は5月ごろで、花径3センチメートルほどの白い5花弁の花を咲かせる。", "title": "植物学的な特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "秋になると果実が結実する。果実の成熟期は9月から12月と品種によって様々で、5 - 7.5 センチメートル程の扁球形の実は熟すに従って緑色から橙黄色に変色する。一般的に花粉は少ないが単為結果性のため受粉がなくても結実する。自家和合性であるが、受粉しても雌性不稔性が強いため種子を生じにくく、通常は種なし(無核)となる。ただし、晩生品種は雌性不稔性が弱いことから、近くに甘夏などの花粉源があると種子を生じることがある。生じた場合の種子は多胚性で、播種しても交雑胚が成長することはまれであり、ほとんどの場合は珠心細胞由来の珠心胚が成長する。そのため、種子繁殖により母親と同一形質のクローン(珠心胚実生)が得られる。ただし、種子繁殖は品種改良の際に行う。未結実期間の短縮、樹勢制御、果実品質向上などのため、日本では通常は接ぎ木によって増殖を行う。台木としては多くはカラタチが用いられるが、ユズなど他の柑橘を用いることもある。", "title": "植物学的な特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "病虫害として、ナシマルカイガラムシなどがある。", "title": "植物学的な特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国などへ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の日本の様子が書かれた『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」(生薑、橘、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『古事記』『日本書紀』であり、「垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされた田道間守が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるともダイダイであるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後も中国からキンカンやコウジ(ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ミカンとして最初に日本に広まったのは小ミカンである。中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現・熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが15 - 16世紀ごろに紀州有田(現・和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬して富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州から小ミカン(キシュウミカン)が献上され、家康が植えたこの木が静岡県のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には富士市(旧富士川町)の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」などと呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)ころから生産を増やして徐々に小ミカンに取って代わるようになった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこのころである。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や愛媛県などでもウンシュウミカンの栽培が本格化する。産地の拡大により市場競争が始まり、栽培技術の改善や経営の合理化が図られるようになった。またアメリカ合衆国フロリダ州に苗木が送られたのを皮切りに北米や朝鮮半島にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。昭和初期にはナツミカンやアメリカから輸入されたネーブルオレンジなども広く栽培され、柑橘市場の成長は最初のピークを迎える。その後、太平洋戦争に突入すると、食糧増産の煽りを受けて栽培面積は減少し、資材の不足と徴兵による労働力の減少により果樹園は荒廃した。戦後の復興期もしばらくは食糧難の解消が最優先とされ、栽培面積の減少が続いたが、数年後には増加に転じ、1952年に戦前の水準まで回復した。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そのまま高度経済成長の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。復興ブームによる果実消費の増大によってウンシュウミカンは高値で取引されるようになり、一部では「黄色いダイヤ」とも呼ばれた。1960年以後は行政施策の後押しもあって全国的に過剰なまでに増産され、1968年の豊作時には計画生産量を上回った。このころには完全に生産過剰となっていたがなおも増産は続けられ、1972年には豊作とこの年から始まったグレープフルーツの輸入自由化の影響により価格が暴落。ピークの1975年には生産量は終戦直後の約8倍にあたる366.5万トンに達していた。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "生産過剰に加えて1970年代よりアメリカからオレンジ輸入枠拡大の要請が強まり、政府はミカン栽培縮小へ方針を転換した。政府の政策は他種への改植を促すことにもなり、ウンシュウミカンの栽培面積が年々減り続ける一方で、他の柑橘の栽培は拡大した。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1980年代からの日米貿易摩擦の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まった。円高も相まってオレンジの輸入が増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。これに対して各産地では生産調整、品質の向上、価格が高い早生や極早生への切り替えなどで対応し、ウンシュウミカンの価格は傾向として一時的に上昇した。しかし農家の後継者不足や果樹消費の多角化など、日本のミカン栽培は今なお様々な問題を抱えている。農林水産省の2021年予想生産量は76万トンで2020年実績より6000トン少ない。農家の高齢化などにより供給量が需要を下回るようになっており、2020年産から緊急需給調整事業を廃止。過剰栽培を抑える意味で公表していた「適正生産量」を、増産を促す意味合いをもつ「予想生産量」へ切り替えた。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "近年では新たな販路として日本国外への輸出拡大が試みられており、主な輸出先である北米の他にも香港や台湾といったアジア諸国への輸出も始まった。", "title": "ミカンの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "9月から10月ごろに掛けて収穫される。1970年代に発生したオイルショックを受けて、ハウス栽培における石油消費量を減らす目的で研究が進められるようになった。近年は生産過剰気味である。", "title": "主な品種と出荷時期" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "10月から12月に掛けて収穫される。比較的単価が高いことから、中生や普通温州からの切り替えを進める産地もある。", "title": "主な品種と出荷時期" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "11 - 12月ごろに収穫される。", "title": "主な品種と出荷時期" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "11月下旬 - 12月に収穫される。特に遅く出荷される品種(青島や十万など)は晩生温州として区別される。", "title": "主な品種と出荷時期" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本で最も消費量の多い果実であったが、近年の総務省の家計調査では一世帯あたりの消費量においてバナナに抜かれて二位に転落し、2013年時点はバナナ、リンゴに次ぐ3位となっている。尤も、自家消費用に庭木にされていたり産地近辺では栽培農家からお裾分けをもらうなど、統計に載らない消費も多い。", "title": "農産" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウンシュウミカンの生産量は、和歌山県、愛媛県、静岡県が年間10万トン以上、続いて、熊本県、長崎県が5万トン以上、佐賀県、愛知県、広島県、福岡県、神奈川県、が2万トン以上、三重県、大分県、大阪府、香川県、徳島県、鹿児島県、宮崎県が1万トン以上、山口県、高知県が5000トン以上(2016年度の生産量に準拠)となっており、これらの県で99%以上を占める。以下、千葉県、岐阜県、兵庫県、岡山県が1000トン以上、その他茨城県、埼玉県、東京都、新潟県、福井県、京都府、奈良県、島根県、沖縄県などでも作られている。このように、ウンシュウミカン栽培は、温暖、かつ日当たり、風当たり、水はけが良い斜面の地形が条件であり、主な産地のほとんどが太平洋や瀬戸内海に面した沿岸地である。", "title": "農産" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "近年は保存技術の向上と共にビニールハウスや温室で栽培されたハウスみかんも多く流通し、ほぼ一年中目にすることが出来る。ハウスみかんでは佐賀県、愛知県、大分県などが主産地となっている。", "title": "農産" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本以外では、世界最大の産地である中国浙江省の寧波市・奉化市・寧海市、他に米国アラバマ州、スペインやトルコ、クロアチア、韓国の済州島、ペルーなどでも栽培されている。", "title": "農産" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以上の19府県が主要産地となっており、それ以下の県と大きく収穫量を離しているが、千葉県、兵庫県も累年統計を取っている。", "title": "日本の主要産地とブランド" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "収穫量は最新の全国調査を行った作況調査(果樹)2014年版による。", "title": "日本の主要産地とブランド" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以下、茨城県、埼玉県が年間100トン以上、福井県、東京都が年間80トン以上、島根県が年間50トン以上、群馬県と新潟県が年間20トン以上、また収穫実績があった県として栃木県、石川県、滋賀県が記されている(詳細については次項で解説)。", "title": "日本の主要産地とブランド" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "前述したように、年収穫量1000t以上の経済的産地形成としては岐阜県の養老山地山麓、あるいは千葉県の房総半島周辺となっている。だが、それ以外にも小規模な産地が点在し、それぞれが北限の産地と名乗っている。栽培技術の進歩と品種改良、また気候条件の変化などにより北限産地は年々北上している傾向がある。", "title": "日本の主要産地とブランド" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "果肉にはプロビタミンA化合物の一種であるβ-クリプトキサンチンが他の柑橘に比べて非常に多く含まれている。これには強力な発ガン抑制効果があるとの報告が果樹試験場(現・果樹研究所)・京都府医大などの共同研究グループによってなされ、近年注目されている。", "title": "栄養価" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "オレンジ色の色素であるβ-クリプトキサンチンなどのカロテノイドは脂肪につくため、ミカンを大量に食べると皮膚が黄色くなる。これを柑皮症という。柑皮症の症状は一時的なもので、健康に悪影響はない。その他にもクエン酸、食物繊維などが多く含まれる。白い筋にはヘスペリジンが含まれ、動脈硬化やコレステロール血症に効果があるとされている。", "title": "栄養価" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ミカンのおいしさは、含まれている糖と酸の量・バランスやホロの薄さなどによって決まる。糖度が高いことは重要だが、酸の量も同様に味の決め手になる。夏場のウンシュウミカンの未熟な果実を収穫・出荷したものは青みかんとよばれ、果汁が少なく、ヘスペリジンが豊富に含まれている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "生食されることが多く、内皮(瓤嚢膜)を丸ごと食べる人と食べない人で個性も分かれている。また、むき方も「へそ」から剥く方法と、へたから剥く方法と、刃物で切る方法とさまざまある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "他に北陸地方、東北地方、九州地方など地域によっては焼きミカンといって焼いて食べる所もある。また凍らせて冷凍みかんにしたり、お風呂に入れて食べたり、下記のように用途に応じて様々な加工品も作られている。ミカンの全生産量の約2割はジュースや缶詰に加工されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "食物繊維として含まれるペクチンには整腸作用の他、消化酵素の一つである膵リパーゼの働きを阻害する作用があるとされる。これを食前に摂取することにより食物中に含まれる脂肪の吸収を抑制することができる。またシネフリンにはβ3アドレナリン受容体に働きかけて脂肪分解と熱生産を促進する効果があり、体脂肪を減らす効果が高い。特に熟していない青い果実に多く含まれている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし、こうしたウンシュウミカンの性質が優れたダイエット効果をもたらすというわけではない。ミカンからシネフリンを抽出しダイエット効果を謳ったサプリメントも市販されているが、シネフリンと刺激性物質(カフェインやカテキンなど)を同時摂取した際の危険性も指摘されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、ミカンダイエットを大々的に報じたテレビ番組『発掘!あるある大事典II』2006年10月22日放送分においてミカンの血糖値抑制効果を示すグラフが提示されたが、後にこのグラフは改竄されたものであったことが報告された。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "果皮には精油を含んでいて、精油成分は主にリモネン90%である。その他に、成分としてヘスペリジン、ルチン などフラボン配糖体が含まれている。ヘスペリジンは、毛細血管の透過性を増大させる作用があり、もろくなった毛細血管を回復させることが知られているほか、抗菌、利尿、抗ヒスタミンなどの作用もある。従って、高血圧の予防、腎炎、蕁麻疹の予防に役立つ漢方薬の一種でもある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "漢方では熟したものの果皮を陰干しにしたものを陳皮(ちんぴ)と称して利用する。陳皮とは、「1年以上経過したもの」を意味する陳久品(ちんきゅうひん)を使用しなさいという意味、すなわち「古い皮」の意で名付けられている。陳皮は漢方で健胃、利尿、鎮咳、鎮吐などの目的で処方に配剤されるほか、七味唐辛子の材料としても用いられる。また、製薬原料としても大量に用いられている。なお、中国における伝統医学「中医学」において、みかんは体を冷やす食べ物として分類されるため、風邪を引いた際には食べてはならない食品として認識されている。また、精油はアロマテラピーに用いることもある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "民間療法では、風邪の初期症状で多少熱がある時に、陳皮1日量10 - 15グラムを600 ccの水で半量になるまでとろ火で煮詰めた煮出し液(水性エキス)を、蜂蜜などで甘くしたり、おろし生姜を混ぜて食間3回に分けて飲む用法が知られる。食べ過ぎ、食欲不振、悪心、嘔吐に、1日量2 - 3グラムを水400 ccで煎じて服用しても良いとされる。手軽にできる胃腸薬として用いられるが、胃腸に熱があるときは服用禁忌とされる。肩こり、腰痛、神経痛、冷え症の改善に、陳皮を布袋などに入れて風呂に浮かべて、浴湯料に使用してもよい。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "油胞と呼ばれる果皮の粒々にはリモネンという成分が含まれ、合成樹脂を溶かす溶剤として注目されている。また、オレンジオイルやリモネンは洗剤などにも利用されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ミカンの搾り汁はあぶりだしに用いることが出来る。特に冬には手軽に手に入れることができるため、年賀状に使うこともある。また、ロウソクの炎に向かってミカンの皮を折り曲げ、飛んだ油脂で炎の色が変わるのを楽しむ遊びもある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ミカンの皮は剥きやすく、すぐに剥がれ、剥いた皮は様々な形になるので、意図的な形に切ることによって動物などの形を作ることができる。典型的なものとして「8本足のタコ」がある。", "title": "用途" } ]
ウンシュウミカンは、ミカン科の常緑低木またはその果実のこと。鹿児島県が原産とされる柑橘類の一種。さまざまな栽培品種があり、産地によりブランド名がある。果実が食用にされ、種がなくオレンジよりも淡泊な味わいがある。
{{redirect|ミカン}} {{生物分類表 |名称 = ウンシュウミカン |色 = lightgreen |画像 = [[File:Citrus unshiu 20101127 c.jpg|250px]] |画像キャプション = |界 = [[植物界]] {{Sname||Plantae}} |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||angiosperms}} |綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||eudicots}} |目 = [[ムクロジ目]] {{Sname||Sapindales}} |科 = [[ミカン科]] {{Sname||Rutaceae}} |属 = [[ミカン属]] {{Snamei||Citrus}} |種 = '''ウンシュウミカン''' ''C. unshiu'' |学名 = {{Snamei|Citrus unshiu}}<br /> ({{AU|Swingle}}) {{AU|Marcow.}} {{small|([[1921年|1921]])}}<ref>{{YList|id=11619|taxon=Citrus unshiu (Swingle) Marcow. ウンシュウミカン(標準)|accessdate=2023-01-21}}</ref> |和名 = ウンシュウミカン<br />(温州蜜柑) |英名 = {{Sname||Citrus unshiu}} }} '''ウンシュウミカン'''(温州蜜柑、[[学名]]: ''Citrus unshiu'')は、[[ミカン科]]の[[常緑]][[低木]]またはその[[果実]]のこと。鹿児島県が原産とされる[[柑橘類]]の一種<ref name=":0">[https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1701/spe1_01.html 特集1 みかん(1)]『aff(あふ)』2017年1月号([[農林水産省]])2021年12月30日閲覧</ref>。さまざまな[[栽培品種]]があり、産地によりブランド名がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=190}}。果実が食用にされ、種がなく[[オレンジ]]よりも淡泊な味わいがある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=190}}。 == 名称 == 現代において「みかん」は、通常ウンシュウミカンを指す<ref name="ehime-kankiturekisi">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.ehime.jp/h35118/1707/siteas/11_chishiki/documents/kankiturekisi.pdf|format=pdf|title=蜜柑歴史散歩 小蜜柑と温州みかん|work=[https://www.pref.ehime.jp/h35118/1707/siteas/11_chishiki/chishiki.html 農林水産物の豆知識]|publisher=愛媛県農林水産研究所|accessdate=2020-2-2}}</ref><ref name="yoyota_et_al-2018">{{cite journal|和書|author=豊田紘子, 小口千明, 伊藤大生 ほか|title=明治期日本における温州蜜柑の普及と在来小蜜柑からの嗜好変化 |journal=歴史地理学野外研究|publisher=[[筑波大学]]人文社会科学研究科歴史・人類学専攻歴史地理学研究室 |volume=18 |year=2018 |pages=21-84|url=https://hdl.handle.net/2241/00151244 |issn=0915-2504 |accessdate=2020-04-17 }}</ref>{{rp|21}}。和名'''ウンシュウミカン'''の名称は、温州([[三国志演義]]中などで蜜柑の産地とされる[[中国]][[浙江省]]の[[温州市]])から入った種子を日本で蒔いてできた品種であるとの俗説があることに由来する{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}が、本種の原産地は日本の[[薩摩]]地方(現在の[[鹿児島県]])の[[長島 (鹿児島県)|長島]]であると考えられており、温州から伝来したというわけではない。ウンシュウミカンの名は江戸時代の後半に名付けられた<ref name = "jbp"/>が、九州では古くは仲島ミカンと呼ばれていた。[[2010年]]代に行われた遺伝研究により、母系種は[[キシュウミカン|小ミカン]]、父系種は[[クネンボ]]と明らかになっている<ref name = "jbp">{{Cite web|和書|title=こたつでミカン」の光景はなぜ生まれたのか 冬の風物詩の盛衰、かつては迷信で避けられていた時代も|page=3|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55347?page=3|work=佐藤成美|date=February 1, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190205134213/http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55347?page=3|access-date=June 30, 2021|archive-date=February 5, 2019}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=清水徳朗, 北島宣, 野中圭介, 吉岡照高, 太田智, 後藤新悟, 豊田敦, 藤山秋佐夫, 望月孝子, 長崎秀樹, 神沼英里, 中村保一 |title=Hybrid Origins of Citrus Varieties Inferred from DNA Marker Analysis of Nuclear and Organelle Genomes. |journal=PLOS ONE |issn=1932-6203 |publisher=Public Library of Science |year=2016 |month=nov |volume=11 |issue=11 |naid=120005947172 |url=https://hdl.handle.net/2433/217793}}</ref>。 「みかん」が専らウンシュウミカンを指すようになったのは[[明治]]以後である<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。[[江戸時代]]には種無しであることから不吉として広まらず、普及していたのは本種より小型の種がある[[キシュウミカン|小ミカン]]([[紀州]]蜜柑)''Citrus kinokuni''であり<ref name="yoyota_et_al-2018"/>{{rp|21}}、「みかん」を代表していたのは[[キシュウミカン|小ミカン]]であった<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。 ===「蜜柑」「みかん」について=== 「みかん」は蜜のように甘い[[柑橘類|柑橘]]の意で、漢字では「蜜柑」「蜜橘」「樒柑」などと表記された<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。 史料上「蜜柑」という言葉の初出は、[[室町時代]]の[[1418年]]([[応永]]26年)に記された[[伏見宮貞成親王]](後崇光院)の日記『[[看聞日記]]』で、室町殿([[足利義持]])や仙洞([[後小松天皇|後小松上皇]])へ「蜜柑」([[キシュウミカン|小ミカン]]と考えられる)が贈られている<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。1540年ごろと年次が推定される、[[伊予国]][[大三島]]の[[大山祇神社]][[祝 (神職)|大祝]]三島氏が献上した果物に対する領主[[河野通直 (弾正少弼)|河野通直]]の礼状が2通が残されているが、一通には「みつかん」、もう一通には「みかん」と記されており、「みつかん」から「みかん」への発音の過渡期と考えられている<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。 江戸時代には甘い柑橘類の種類も増え、「橘」と書いて「みかん」を意味するケースや、柑子([[コウジ (柑橘類)|コウジ]])の甘いものを蜜柑(みつかん)と呼ぶケース、「柑類」で「みかん類」を意味するケースなど、名称に混乱が見られるようになった<ref name="ehime-kankiturekisiowari">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.ehime.jp/h35118/1707/siteas/11_chishiki/documents/kankiturekisiowari.pdf|format=pdf|title=蜜柑歴史散歩 柑橘|work=[https://www.pref.ehime.jp/h35118/1707/siteas/11_chishiki/chishiki.html 農林水産物の豆知識]|publisher=愛媛県農林水産研究所|accessdate=2020-2-2}}</ref>。 === 「温州」について === [[南宋]]の[[韓彦直]]が1178年に記した柑橘類の専門書『[[橘録]]』には、柑橘は各地で産出されるが「みな温州のものの上と為すに如かざるなり」と記している<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。日本でも『[[和漢三才図会]]』(1712年)に「温州橘は蜜柑である。温州とは[[浙江省|浙江]]の南にあって柑橘の産地である」とあり、[[岡村尚謙]]『桂園橘譜』(1848年)も「温州橘」の美味は「蜜柑に優れる」と記す<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。温州は上質で甘い柑橘の産地と認識されていた<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。古典に通じた人物が、甘みに優れた本種に「温州」と名付けたという推測は成り立つ<ref name="ehime-kankiturekisi"/>が、確証といえるものはない。 『[[和漢三才図会]]』(1712年)には「蜜柑」の品種として「紅蜜柑」「夏蜜柑」「温州橘」「無核蜜柑」「唐蜜柑」の5品種を挙げている<ref name="yoyota_et_al-2018" />{{rp|25}}。「温州橘」「無核蜜柑」は今日のウンシュウミカンの可能性があるが、ここで触れられている「温州橘」は特徴として「皮厚実絶酸芳芬」と書かれており、同一種か断定は難しい<ref name="yoyota_et_al-2018" />{{rp|25}}。「雲州蜜柑」という表記も見られ<ref name="yoyota_et_al-2018" />{{rp|21}}、19世紀半ば以降成立の『増訂豆州志稿』には「雲州蜜柑ト称スル者、味殊ニ美ナリ」とあって、これは今日のウンシュウミカンとみられる<ref name="yoyota_et_al-2018" />{{rp|25}}。 1874年(明治7年)より全国規模の生産統計が取られるようになった(『明治7年府県物産表』)<ref name="yoyota_et_al-2018"/>{{rp|27}}。当初は、地域ごとに様々であった柑橘類の名称を統一しないまま統計がとられたが、名称を統一する過程で、小蜜柑などと呼ばれていた種が「普通蜜柑」、李夫人などと呼ばれていた種が「温州蜜柑」となったという<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。明治中期以降、温州蜜柑が全国的に普及し、他の柑橘類に卓越するようになる<ref name="yoyota_et_al-2018"/>{{rp|29}}。[[安部熊之輔]]『日本の蜜柑』(1904年)は、蜜柑の種類として「紀州蜜柑」「温州蜜柑」「柑子蜜柑」の3種類が挙げられている<ref name="yoyota_et_al-2018"/>{{rp|33}}。 === 英語表現 === 英語で本種は {{lang|en|satsuma mandarin}} と呼ばれる<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である。<!-- 「TV Orange」とは呼ばれない。ノート参照 --> "satsuma" という名称は、1876年(明治9年)、本種が[[鹿児島県]][[薩摩]]地方からアメリカ合衆国フロリダに導入されたことによる<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。なお、その後愛知県尾張地方の種苗産地からアメリカに本種が渡り、それらは "Owari satsuma" という名称で呼ばれるようにもなった<ref name="ehime-kankiturekisi"/>。 [[タンジェリン]] ([[:en:Tangerine|Tangerine]])・[[マンダリンオレンジ]] ([[:en:Mandarin orange|Mandarin orange]]) (学名は共に<i lang="la" xml:lang="la">Citrus reticulata</i>)と近縁であり、そこから派生した栽培種である。 また、皮を剥くのにナイフを必要とせずテレビを観ながらでも食べられるため、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどでは「TV orange(テレビオレンジ)」とも呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=ウンシュウミカン/温州みかん/温州蜜柑/うんしゅうみかん |url=https://gogen-yurai.jp/unsyuumikan/ |website=語源由来辞典 |date=2006-12-19 |access-date=2023-01-19 |language=ja |last=語源由来辞典 |publisher=株式会社ルックバイス}}</ref>。<!-- ウンシュウミカンを C. r. subsp. unshiu と分類する立場を取ると、同種の亜種ということになるが、Citrus unshiu と独立の種という立場を取った。--> == 植物学的な特徴 == === 原産・生育地 === [[File:Citrus unshiu 20101127 d.jpg|thumb|right|250px|ウンシュウミカンの果樹]] 日本の[[八代海|不知火海]]沿岸が原産と推定される。[[農学博士]]の[[田中長三郎]]は文献調査および現地調査から鹿児島県長島(現・鹿児島県[[出水郡]][[長島町]])がウンシュウミカンの原生地との説を唱えた。鹿児島県長島は[[キシュウミカン|小ミカン]]の発祥地と考えられる[[八代市|八代]]にも近く、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]以前は八代と同じく[[肥後国]]であったこと、1936年に当地で推定樹齢300年の古木([[太平洋戦争]]中に枯死)が発見されたことから、この説で疑いないとされるようになった。発見された木は接ぎ木されており、最初の原木は400 - 500年前に発生したと推察される。[[DNA鑑定]]により[[種子]]親が[[キシュウミカン|小ミカン]]、[[花粉]]親が[[クネンボ]]であると推定された<ref>[https://doi.org/10.1270/jsbbs.16060 Parental diagnosis of satsuma mandarin (Citrus unshiu Marc.) revealed by nuclear and cytoplasmic markers] Breeding Science (2016) doi:10.1270/jsbbs.16060</ref>。 ウンシュウミカンは[[日本]]では主に、[[関東地方|関東]]以南の暖地で栽培される<ref name=":0" />。また、[[和歌山県]]、[[愛媛県]]、[[静岡県]]が代表的な産地である<ref name=":0" />。温暖な気候を好むが、柑橘類の中では比較的寒さに強い。 === 形態・生態 === 常緑小高木で、高さは3 - 4[[メートル]]ほどになる{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。日本で一般的に使われている[[カラタチ]]台では2 - 4メートルの高さに成長する。「台」については「[[接ぎ木]]」「[[挿し木]]」参照。 花期は5月ごろで、花径3[[センチメートル]]ほどの白い5花弁の[[花]]を咲かせる{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。 秋になると果実が結実する{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。果実の成熟期は9月から12月と品種によって様々で、5 - 7.5 センチメートル程の[[扁球]]形の実は熟すに従って緑色から橙黄色に変色する。一般的に[[花粉]]は少ないが[[単為結果]]性のため[[受粉]]がなくても結実する。[[自家不和合性 (植物)|自家和合性]]であるが、受粉しても雌性[[不稔性]]が強いため種子を生じにくく、通常は種なし(無核)となる。ただし、晩生品種は雌性不稔性が弱いことから、近くに甘夏などの花粉源があると種子を生じることがある。生じた場合の種子は多胚性で、播種しても交雑胚が成長することはまれであり、ほとんどの場合は珠心細胞由来の珠心胚が成長する。そのため、種子繁殖により母親と同一形質の[[クローン]]([[珠心胚実生]])が得られる。ただし、種子繁殖は品種改良の際に行う<ref>稲熊隆博「[https://doi.org/10.3136/nskkk.60.601 日本の柑橘果実および果汁を考える]」『日本食品科学工学会誌』2013年 60巻 10号 pp.601-602, {{doi|10.3136/nskkk.60.601}}</ref>。未結実期間の短縮、樹勢制御、果実品質向上などのため、日本では通常は接ぎ木によって増殖を行う。台木としては多くはカラタチが用いられるが、[[ユズ]]など他の柑橘を用いることもある。 病虫害として、[[カイガラムシ|ナシマルカイガラムシ]]<ref>[https://www.agrinews.co.jp/farming/index/38820 「ナシマルカイガラムシ ミカン防除に新技術 熊本県 低温時も有効な方法」]『[[日本農業新聞]]』2021年11月17日14面、2021年12月30日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070100/070109/gaiyou/002/byougaichuzukan/nashimaru/nashimaru.html|accessdate=2021-12-30|title=ナシマルカイガラムシ|date=2021-09-08|work=カンキツ病害虫図鑑|publisher=和歌山県農林水産部 農林水産総務課 研究推進室}}</ref>などがある。 <gallery widths="200px" perrow="3" style="margin-top:1em; margin-bottom:1em;"> File:Citrus unshiu 20101118 a.jpg|成熟した果実 File:Citrus unshiu's green Fruit.JPG|若い果実 File:Citrus unshiu2.jpg|花と葉 File:Citrus unshiu 20101125 b.jpg|果実の水平断面 File:Citrus unshiu 20101118 c.jpg|果実の垂直断面 File:Citrus unshiu 20101125 c.jpg|果皮内にある房 </gallery> == ミカンの歴史 == {{出典の明記|date=2020-06|section=1}} === 柑橘の伝来 === 柑橘の原種は3000万年前の[[インド]]東北部の[[アッサム州|アッサム地方]]近辺を発祥とし、様々な種に分化しながら[[ミャンマー]]、[[タイ王国|タイ]]、中国などへ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に完成したとされる文献『<span lang="zh" xml:lang="zh">[[晏子春秋]]</span>』には「<span lang="zh" xml:lang="zh">橘化為枳</span>」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。 <!-- Web上で「橘誌」の記述が散見されるが誤りであると思われる。ノート参照 --> 日本には[[タチバナ]]と沖縄に[[シークヮーサー]]が原生していたが、[[3世紀]]の日本の様子が書かれた『<span lang="zh" xml:lang="zh">[[魏志倭人伝]]</span>』には「<span lang="zh" xml:lang="zh">有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味</span>」([[ショウガ|生薑]]、'''橘'''、[[サンショウ|山椒]]、[[ミョウガ|茗荷]]があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと考えられる。 日本の文献で最初に柑橘が登場するのは『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』であり、「[[垂仁天皇]]の命を受け[[常世|常世の国]]に遣わされた[[田道間守]]が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(日本書紀の訳)との記述がある。ここでの「橘」はタチバナであるとも[[ダイダイ]]であるとも小ミカン([[キシュウミカン]])であるとも言われており、定かではない。 その後も中国から[[キンカン]]や[[コウジ (柑橘類)|コウジ]](ウスカワミカン)といった様々な柑橘が伝来したが、当時の柑橘は食用としてよりもむしろ薬用として用いられていた。 === 日本の「ミカン」 === ミカンとして最初に日本に広まったのは[[キシュウミカン|小ミカン]]である。中国との[[貿易|交易]]港として古くから栄えていた肥後国八代(現・熊本県[[八代市]])に中国[[浙江省]]から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後[[国司]]より朝廷にも献上されていた、それが15 - 16世紀ごろに紀州有田(現・和歌山県[[有田郡]])に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。また[[江戸時代]]の豪商である[[紀伊國屋文左衛門|紀伊国屋文左衛門]]が、当時[[江戸]]で高騰していたミカンを紀州から運搬して富を得た伝説でも有名である(史実ではないとされる。詳細は紀伊国屋文左衛門の項目を参照)。また江戸時代初期、[[徳川家康]]が[[駿府城]]に隠居したとき、紀州から小ミカン(キシュウミカン)が献上され、家康が植えたこの木が[[静岡県]]のみかんの起源とされている。 静岡のみかんの起源には[[富士市]](旧[[富士川町]])の農夫が外国から移植した経緯もあり、家康が起源のみかんとは歴史も古く品種も異なる。 ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」などと呼ばれていたが、種子を生じない性質から武士の世にあっては「種が無い=子供ができない」の連想に繋がり縁起が悪いとされ、ほとんど栽培されることはなかった。しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から栽培が行われるようになり、明治27年(1894年)ころから生産を増やして徐々に小ミカンに取って代わるようになった。「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこのころである。 === 栽培の拡大 === 明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や[[愛媛県]]などでもウンシュウミカンの栽培が本格化する。産地の拡大により市場競争が始まり、栽培技術の改善や経営の合理化が図られるようになった。また[[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]に苗木が送られたのを皮切りに北米や[[朝鮮半島]]にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。昭和初期には[[ナツミカン]]やアメリカから輸入された[[ネーブルオレンジ]]なども広く栽培され、柑橘市場の成長は最初のピークを迎える。その後、[[太平洋戦争]]に突入すると、食糧増産の煽りを受けて栽培面積は減少し、資材の不足と[[徴兵制度|徴兵]]による労働力の減少により果樹園は荒廃した。戦後の復興期もしばらくは食糧難の解消が最優先とされ、栽培面積の減少が続いたが、数年後には増加に転じ、1952年に戦前の水準まで回復した。 そのまま[[高度経済成長]]の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。復興ブームによる果実消費の増大によってウンシュウミカンは高値で取引されるようになり、一部では「黄色いダイヤ」とも呼ばれた。1960年以後は行政施策の後押しもあって全国的に過剰なまでに増産され、1968年の豊作時には計画生産量を上回った。このころには完全に生産過剰となっていたがなおも増産は続けられ、1972年には豊作とこの年から始まった[[グレープフルーツ]]の輸入自由化の影響により価格が暴落。ピークの1975年には生産量は終戦直後の約8倍にあたる366.5万トンに達していた。 === 近年の動向 === 生産過剰に加えて1970年代よりアメリカから[[オレンジ]]輸入枠拡大の要請が強まり、政府はミカン栽培縮小へ方針を転換した。政府の政策は他種への改植を促すことにもなり、ウンシュウミカンの栽培面積が年々減り続ける一方で、他の柑橘の栽培は拡大した。 1980年代からの日米[[貿易摩擦]]の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まった。円高も相まってオレンジの輸入が増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。これに対して各産地では生産調整、品質の向上、価格が高い早生や極早生への切り替えなどで対応し、ウンシュウミカンの価格は傾向として一時的に上昇した。しかし農家の後継者不足や果樹消費の多角化など、日本のミカン栽培は今なお様々な問題を抱えている。[[農林水産省]]の2021年予想生産量は76万トンで2020年実績より6000トン少ない。農家の高齢化などにより供給量が需要を下回るようになっており、2020年産から緊急需給調整事業を廃止。過剰栽培を抑える意味で公表していた「適正生産量」を、増産を促す意味合いをもつ「予想生産量」へ切り替えた<ref>「ミカン生産76万トン 農水省21年産予想 高齢化で減産傾向」『[[日本農業新聞]]』2021年6月8日3面</ref>。 近年では新たな販路として日本国外への輸出拡大が試みられており、主な輸出先である北米の他にも[[香港]]や[[台湾]]といったアジア諸国への輸出も始まった。 == 主な品種と出荷時期 == === 極早生温州 === 9月から10月ごろに掛けて収穫される。1970年代に発生した[[オイルショック]]を受けて、ハウス栽培における石油消費量を減らす目的で研究が進められるようになった。近年は生産過剰気味である。 ; 宮本早生 : 宮川早生の枝変わりとして1967年に和歌山県[[下津町]](現[[海南市]])の宮本喜次によって発見され、1981年に品種登録された。果実は扁平で、収量性に優れる。宮川早生よりも2-3週間程早く成熟する。かつては極早生温州の中心品種であったが、後の品種改良で誕生した極早生品種に比べ糖度が低く食味が劣るため近年では栽培は激減している。 ; 日南1号 : 興津早生の枝変わりとして1978年に[[宮崎県]][[日南市]]の野田明夫によって発見され、1989年に品種登録された。比較的樹勢が強く、瓤嚢膜(じょうのう)膜が軟らかい。栽培容易で[[糖度]]、[[酸度]]ともに安定しているため栽培が広がり、現在では極早生温州の中心品種となっている。 ; 日南の姫(日南N1、ニュー日南) : 日南1号の枝変わりとして2008年3月18日に品種登録された。日南1号と比べ減酸や着色が早いため、8月下旬から収穫可能な超極早生品種として栽培が広がりつつある。日南の姫(ヒナノヒメ)は都城大同青果株式会社の[[登録商標]]である。 ; 岩崎早生 : 興津早生の枝変わりとして1968年に[[長崎県]][[西彼杵郡]][[西海町 (長崎県)|西海町]](現・[[西海市]])の岩崎伝一によって発見された。極早生の中でも最も早く出荷される品種のひとつである。 ; 崎久保早生 : 松山早生の枝変わりとして1965年に[[三重県]][[南牟婁郡]][[御浜町]]の崎久保春男によって発見された。三重県の主力品種。 ; 上野早生 : 宮川早生の枝変わりとして1970年に[[佐賀県]][[東松浦郡]][[浜玉町]](現・[[唐津市]])の上野壽彦によって発見され、1985年に品種登録された。減酸が緩やかなため、他の極早生品種に比べて収穫時期が遅れるが、その分食味は長く保たれる。また浮皮の発生が少ないのも特徴である。 ; ゆら早生 : 宮川早生の枝変わりとして1985年に和歌山県[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]][[由良町]]の山口寛二によって発見され、1995年に品種登録された。他の極早生品種に比べ糖度が高く、瓤嚢膜膜が極めて薄く、多果汁であるため食味が良い。樹勢が弱く、さらに小玉果が多いため栽培が難しい。 ; YN26(紀のゆらら) : 2001年に和歌山県果樹試験場によりゆら早生の珠心胚実生から育成され、2012年に品種登録された。ゆら早生よりも糖度が高く、減酸や着色も早く、樹勢も強い。ゆら早生同様にじょうのう膜が薄く多果汁であるため食味が良い。小玉果が多いという欠点はゆら早生から引き継いでいる。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。紀のゆららは和歌山県農業協同組合連合会の登録商標。 === 早生温州 === 10月から12月に掛けて収穫される。比較的単価が高いことから、中生や普通温州からの切り替えを進める産地もある。 ; 青江早生 : 1892年(明治25年)ごろに[[大分県]][[津久見市]]青江で発見された従来木の枝変わりの早生品種。日本初の早生温州とされる<ref>[http://www.mikan.gr.jp/report/ryutuu/page1-10.html 10)大分県のみかんの起源・津久見の柑橘史・小蜜柑の元祖木。青江早生の発生] 有田みかんデータベース</ref>。1903年(明治36年)に[[広島県]][[豊町#大字|大長]]に導入されたほか、日本全国に広まった。現在ではほとんど栽培されていない。 ; 宮川早生 : 1910年ごろに[[福岡県]][[山門郡]][[城内村 (福岡県)|城内村]](現[[柳川市]])の宮川謙吉邸にて発見された枝変わりを、1925年に[[田中長三郎]]が発表した。育てやすく収量性が良いなど優れた特徴をもつため、古くから全国的に広く栽培されるようになった。食味が良いため現在でも早生温州の代表的な品種で、ハウス栽培用としても広く用いられる。また、袋掛けを行い樹上で越冬完熟させたものなども出荷されている。 ; 興津早生 : 1940年に[[農業・食品産業技術総合研究機構|農研機構]](旧農林省園芸試験場)において宮川早生にカラタチを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1963年に品種登録された。宮川早生と比べて着色が1週間程早く、樹勢が強い。宮川早生と共に早生温州の代表的品種である。 ; 田口早生 : 興津早生の枝変わりとして1978年に和歌山県[[有田郡]][[吉備町 (和歌山県)|吉備町]](現[[有田川町]])の田口耕作によって発見され、1995年に品種登録された。興津早生と比べ糖度が高く、減酸が早い。幼木のうちは大玉果になりやすいという欠点がある。 ; 木村早生 : 宮川早生の枝変わりとして1976年に熊本県で発見された。宮川早生と比べ糖度が高く、じょうのう膜が薄いため食味が良い。大玉果になりやすく浮き皮が多く、さらに隔年結果になりやすいため栽培は難しい。 ; 紅みかん(紅早生) : 12月ごろに出回る早生種。皮の色が濃い鮮やかな朱色で、光沢があるのが特徴。果肉は張りがあり、酸味がなく、味が濃く甘味も強い{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=190}}。「山下紅早生」(和歌山県)、「小原紅早生」(香川県)などがあり、小原紅早生は宮川早生の枝変わりした品種で、国内のみかんの中で果皮の色が最も紅いといわれている。 === 中生温州 === 11 - 12月ごろに収穫される。 ; 藤中温州 : [[神奈川県]][[湯河原町]]吉浜在住の藤中氏の農園で昭和初期のころ発見された系統で、現在は湯河原町 - [[小田原市]]を中心に早生みかんから晩生みかんへの中継役として育成されている品種である。 ; 南柑20号 : 1926年に愛媛県[[宇和島市]]の今城辰男の果樹園にて発見された系統で、本種を優良系統として選抜した南予柑橘分場(現・愛媛県立果樹試験場南予分場)にちなんで名付けられた。中生温州の代表的な品種で、愛媛県、特に[[南予地方]]において主力品種とされている。浮皮が多いのが欠点。 ; 愛媛中生 : 1973年に愛媛県立果樹試験場において南柑20号にパーソンブラウンを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1994年に品種登録された。南柑20号に比べて1週間程着色が早く糖度が高い。 ;向山温州 : 1934年に和歌山県[[伊都郡]][[かつらぎ町]]の向山勝造によって発見された。樹勢が強く大果。果皮の紅色が濃いのが特徴。糖度が高く酸が低い。年により浮皮が多いのが欠点。 ;きゅうき : 1989年に和歌山県[[有田市]]宮原町の久喜護によって向山温州の1樹変異個体として発見された。2011年品種登録。向山温州に比べ浮皮の発生が極めて少なく、糖度が高く減酸も早い。さらにじょうのう膜が薄く早生温州と似た食味である。向山温州に比べ樹勢はやや弱いが、隔年結果しずらく豊産性。栽培および苗木の供給は和歌山県内に限られている。 ; 久能温州 : 農研機構(旧農林省園芸試験場)において長橋温州にジョッパオレンジを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1971年に品種登録された。樹勢が強く果実は大きく育つ。缶詰用としても利用される。 ; 瀬戸温州 : 農研機構(旧農林省園芸試験場)において杉山温州にトロビタオレンジを受粉させた珠心胚実生から選抜され、1971年に品種登録された。果実は浮皮が少なく、風味は糖度が高く酸が低い。瀬戸内などの雨量が少ない地域で特徴を表し、広島県を中心に栽培される。 ; 盛田温州 : 宮川早生の枝変わりとして佐賀県東松浦郡[[七山村]](現・唐津市)の盛田博文によって発見され、1980年に品種登録された。表面が非常に滑らかで[[トマト]]にたとえられることもある。 === 普通温州 === [[File:Aoshima-Unshu-statue.JPG|thumb|青島平十の像(静岡市、2012年9月)]] 11月下旬 - 12月に収穫される。特に遅く出荷される品種(青島や十万など)は'''晩生温州'''として区別される。 ; 青島温州 : [[静岡市]][[葵区]]福田ヶ谷の[[青島平十]]によって、枝変わりとして1935年ごろ発見された。果実は大きく育ち、浮皮になりにくい。高糖系品種の代表格で、長期間の貯蔵も可能である。特に静岡県において主力品種として多く栽培されている。じょうのう膜が硬く、さらに隔年結果しやすいのが欠点。 ; 十万温州 : [[高知県]][[香美郡]][[山南村 (高知県)|山南村]](現・[[香南市]])の十万可章の果樹園にて発見された。長く貯蔵が可能で3月いっぱいまで出荷される。徳島県で多く栽培されている。 ; 大津四号 : 1964年に神奈川県[[足柄下郡]][[湯河原町]]の[[大津祐男]]が十万温州の珠心胚実生から選抜した。1977年に品種登録。青島温州と並び高糖系品種の代表格として各地で栽培されている。隔年結果しやすいのが難点。 ; 今村温州 : 福岡県[[久留米市]]草野町吉木の今村芳太の果樹園にて発見された。濃厚な味わいで貯蔵性が良いが、樹勢が強く結実が不安定なため栽培が難しい品種とされる。栽培が難しく流通量が少ないため「幻のミカン」とも言われる。当時発見された原木は伐採されて現存しない。 ; 紀の国温州 : 和歌山県果樹園芸試験場(現・和歌山県農林水産総合技術センター果樹園芸試験場)において丹生系温州の[[珠心胚]]実生から選抜され、1986年に品種登録された。丹生系温州よりも2週間程早く成熟する。 ; 寿太郎温州 : 1975年の春、静岡県[[沼津市]][[西浦]]久連で山田寿太郎の青島温州の木より発見された青島系統品種。青島温州よりも小ぶりでM・Sサイズ中心の小玉みかん。果皮は温州みかんとしては厚めで日持ちが良い、糖度も12度以上と高く濃厚で今後期待される品種である。近年産地保護育成の期限が切れ栽培解禁となった。 == 農産 == 日本で最も消費量の多い果実であったが、近年の[[総務省]]の家計調査では一世帯あたりの消費量において[[バナナ]]に抜かれて二位に転落し、2013年時点はバナナ、[[リンゴ]]に次ぐ3位となっている。尤も、自家消費用に庭木にされていたり産地近辺では栽培農家からお裾分けをもらうなど、統計に載らない消費も多い。 === 産地 === [[ファイル:Harvest_of_MIKAN.jpg|thumb|200px|収穫されたウンシュウミカン]] ウンシュウミカンの生産量は、和歌山県、愛媛県、静岡県が年間10万トン以上、続いて、熊本県、長崎県が5万トン以上、佐賀県、愛知県、広島県、福岡県、神奈川県、が2万トン以上、三重県、大分県、大阪府、香川県、徳島県、鹿児島県、宮崎県が1万トン以上、山口県、高知県が5000トン以上(2016年度の生産量に準拠)となっており、これらの県で99%以上を占める。以下、千葉県、岐阜県、兵庫県、岡山県が1000トン以上、その他茨城県、埼玉県、東京都、新潟県、福井県、京都府、奈良県、島根県、沖縄県などでも作られている。このように、ウンシュウミカン栽培は、温暖、かつ日当たり、風当たり、水はけが良い斜面の地形が条件であり、主な産地のほとんどが[[太平洋]]や[[瀬戸内海]]に面した沿岸地である。 近年は保存技術の向上と共に[[ビニールハウス]]や[[温室]]で栽培されたハウスみかんも多く流通し<ref>{{cite journal|和書|title=ハウスみかん栽培の発展とその意義 |author=川久保篤志 |date=1999-4 |journal=人文地理 |url= https://doi.org/10.4200/jjhg1948.51.117 |doi=10.4200/jjhg1948.51.117 |volume=51 |issue=2 |pages=117-139 |publisher=人文地理学会 |accessdate=2020-4-16 }}</ref>、ほぼ一年中目にすることが出来る。ハウスみかんでは佐賀県、愛知県、大分県などが主産地となっている。 日本以外では、世界最大の産地である中国[[浙江省]]の[[寧波市]]・[[奉化市]]・[[寧海市]]、他に米国[[アラバマ州]]、[[スペイン]]や[[トルコ]]、[[クロアチア]]、[[大韓民国|韓国]]の[[済州島]]、[[ペルー]]などでも栽培されている。 ==== 収穫量 ==== * 収穫量(2016年度) ** 全国合計 80万5,100 トン(2015年比 2万7,300 トンの増加) **# '''和歌山県''' 16万1,100 トン(全国シェア約20%) **# '''愛媛県''' 12万7,800 トン(全国シェア約16%) **# '''静岡県''' 12万1,300 トン(全国シェア約15%) * 産出額(2017年度) *# '''和歌山県''' 335億円 *# '''静岡県''' 246億円 *# '''愛媛県''' 235億円 * 昭和初期まで和歌山県が首位を独走してきたが、1934年の風水害で大きく落ち込み、以降は静岡県が生産量1位の座についていた。 * 愛媛県は1970年より34年連続で収穫量1位を守ってきたが、2004年度から13年連続和歌山県が逆転し首位に。これを機に、愛媛県では新品種柑橘類の栽培を推奨したため、相対的にみかん産地(特に極早生)が減少。結果として全国シェアの差が年々広がっている。 * ウンシュウミカンは収穫が多い年(表年)と少ない年(裏年)が交互に発生する隔年結果の傾向が顕著なため、統計対比は2年前の統計を対象に行うのが通例となっている。実際は香川県、佐賀県、鹿児島県など裏年の方が収穫量が多い都道府県もある。 * 普通温州のみの生産量は静岡県が最も多い。早生、極早生などを含むウンシュウミカン全般(農水省のミカンがこれに当たる)および柑橘類全般では和歌山県が最も多い<ref>{{Cite web|和書|url=https://japancrops.com/crops/citrus-unshiu/prefectures/|title=みかん(温州みかん,ミカン)産地(都道府県)|website=ジャパンクロップス|publisher=アプロス|accessdate=2021-09-12}}</ref>。また、極早生、早生種のみは熊本県、ハウスみかんは佐賀県が一番多い。 * 上位三県以外の九州地方も全県が上位に含まれるなど、みかん栽培が盛んである。特に佐賀県や長崎県ではマルチシート被覆率が高い。 * 2006年度は1963年以来43年ぶりに収穫量が100万トンを下回った。その原因として、開花後の日照不足や、夏季の少雨で果実が十分に成長できなかったことなどがあげられる。 * 栽培北限は「最寒月の平均気温が5[[セルシウス度|℃]]以上」とされている(北限産地については後述)。 == 日本の主要産地とブランド == === 生産上位県 === ; 和歌山 : 年間収穫量は14万トン - 19万トンで、大産地の割に隔年結果の影響は少なく、また出荷調整を行っている。主産地に[[有田市]]、[[有田川町]](旧吉備町、旧金屋町)、[[湯浅町]]、[[広川町 (和歌山県)|広川町]]、[[海南市]](旧下津町、旧海南市)、[[紀の川市]](旧粉河町、旧那賀町、旧打田町、旧桃山町)、[[和歌山市]]、[[由良町]]、[[日高川町]](旧川辺町)、[[田辺市]]、[[かつらぎ町]]、紀美野町(旧野上町)、[[上富田町]]など。主な出荷先は近畿、北海道、新潟、関東(栃木、横浜など)などで、京阪神市場の7割以上を占め、また新潟、横浜、札幌市場などで高い評価を得ている。大都市圏に近いため、観光農園や直売所も多い。かつては京阪神中心で、東京の市場へはそこまで重視していなかったが、近年は出荷量ベースでは愛媛県産に肉薄してきている。 :;[[有田みかん]] :: [[有田川]]流域や有田郡の沿岸で栽培される和歌山県の代表的ブランドで、有田市と有田郡の3町(有田川町、[[湯浅町]]、[[広川町 (和歌山県)|広川町]])が指定産地。江戸時代からの名産地であり、県産みかんの40%以上を占めるが、ミカン樹木の老齢化も進んでおり、近年は内陸の産地が主力となっている。管内には10以上の選果場(古くは20以上あったが統廃合により集約された)があり、さらにJA直営と地域運営に分けられる。前者によるものはAQみかん(AQはArida Qualityから。内陸に位置する複数の選果場を統合し、有田川町に2箇所と広川町《マル南》に選果場を持つ。全国に先駆けて非破壊酸度測定装置《シトラスセンサー》を導入)というブランド名が付けられる。対して、地域運営による共同選果場のものとしては、宮原共選(有田市宮原町)、マルス共選(湯浅町栖原。昔は有田市須谷にも須谷マルス共選があったため、栖原マル栖共選といわれていた)、マル御共選(有田川町庄。御は御霊地区に因む)、マル有共選(有田川町西丹生図)、マル賢共選(有田川町賢。マル賢みかんと呼ばれ、宇都宮市と石巻市の市場にのみ出荷)、ありだ共選(有田市千田。アルファベットの「A」を象ったエースマークがシンボルで、ハウスみかん生産も多い)などがある。これらの選果場では、JAが指定する協会共通のブランドに「味一α」「味一みかん」があり、上記の選果場共通で糖度12.5%以上の優良品に付けられる。また、有田市にある選果場では、一定糖度以上の優品に対し「有田市認定みかん」という独自の選定ブランドも設けられている。それとは別に出荷組合による個撰ブランドがあり、「[[新堂みかん]]」(有田市新堂。新堂みかん出荷組合)、湯浅町の「[[有田みかん|田村みかん]]」(湯浅町'''田'''《旧田村》。田村出荷組合)、「田口共販みかん」(有田川町田口。田口共販組合。田口みかんともいい、同地区は田口早生発祥地)が知られる。これに農業法人や企業、または個人農家のブランドもあり、上質みかんをジュースにして販売し成功を収めた、早和果樹園(草創は早和共選)などが知られる。有田みかんは全国他の51箇所とともに[[地域団体商標]]の全国第一弾として認定された。 :; [[下津みかん]] :: 海南市[[下津町]]は有田郡に次ぐ和歌山県の主産地で、江戸時代から連綿とみかん栽培が行われており、[[紀伊國屋文左衛門]]がこの下津から船を出したと伝わっている。早生種が中心の有田に対し、普通温州が中心。経営的な戦略もあって有田みかんとは時期をずらし、みかんの出荷が減る1月 - 2月ごろに「蔵出しみかん」という貯蔵みかんを出荷する。収穫後に貯蔵を行うことで、酸を和らげ糖度を増し、旨味を高めることができる。このようなみかんを貯蔵みかん、蔵出しみかんといい、みかんの芸術品と言われている。貯蔵みかん産地として下津町は国内最大規模で、「下津蔵出しみかんシステム」が2019年に[[日本農業遺産]]に認定された。また、選果場を最新の糖度センサーを導入した蔵夢選果場1箇所に集約しており、ブランド品に糖度13%以上の「ひかえおろう」、12%以上の「雛みかん」などがある。[[京阪神]]のほか、[[北海道]]への出荷が多い。「しもつみかん」として[[地域団体商標]]登録。また、旧海南市域の藤白地区でも栽培が盛んで、「下津みかん」として出荷している。<ref>[http://www.ja-nagamine.or.jp/mikan.html JAながみね 蔵出しみかん]</ref>貯蔵みかんは、下津の他に徳島県[[勝浦町]]、静岡県[[浜松市]]北区(旧[[三ケ日町]])、岐阜県[[海津市]]、佐賀県[[小城市]]などでも実践されている。 :; [[紀南みかん]] :: [[紀南農業協同組合|JA紀南]]管内である和歌山県[[田辺市]]・[[上富田町]]・[[白浜町]]など西牟婁郡で栽培される、JA紀南管轄内におけるみかん産地の総称。紀南地方は気候が有田地方より温暖なため、内陸部の斜面に産地が多い。温暖な気候を活かした極早生みかんの早出し出荷および早生みかん・中晩柑類の樹上完熟出荷が特色である。ブランドとして田辺市大坊地区の「[[大坊みかん]]」、極早生みかんの「天」、早生みかんの「木熟みかん天」「紀州一番」、[[シラヌヒ|デコポン]]や[[ポンカン]]、[[ハッサク|八朔]]、[[清見]]、[[ネーブルオレンジ]]の「木熟」シリーズなどがあり、有田や下津と比較すると、首都圏への出荷比率が高い。 :; 日高郡 :: 日高郡はどちらかというとシラヌヒ、イヨカン、甘夏、セミノールなど中晩柑の生産が盛んであるが、みかんの栽培を行っている地域もある。太平洋に面した[[由良町]]はゆら早生の発祥地として知られ、ミカンの他にも[[レモン]]や清見などを栽培する複合産地となっている。「ゆらっ子」は日高郡由良町で生産されるブランドみかんで、マルチ栽培により高糖度を実現している。また日高川町(旧[[川辺町 (和歌山県)|川辺町]])でもみかん栽培が盛んで、総称して川辺みかんと呼ばれ、ブランド産地では若野地区の若野みかんなどがある。 :; 紀の川市、和歌山市 :: 紀の川市、和歌山市山東地区でもみかん栽培が盛ん。紀の川市はJA紀の里が管轄しており、紀ノ川南岸、龍門山脈北嶺にみかん産地が展開する。生産量は県内有数で、極早生種や紀州ミカン(紀州小ミカン)の栽培が中心だが、早生種、普通種も見られる。大阪という大都市に近いため、観光農園や直売所販売も多い。汎用的な名称である和歌山みかんが一般的だが、産地を差別化するため、管轄JAの名から紀の里ブランドみかん、紀の里みかんと名乗っているケースも散見され、近年は差別化とブランド向上のために、有田で主流の早生種、宮川早生のほか、愛媛県で生産が多い普通種の南柑20号を生産している農家も増えている。また、一帯は八朔の生産が盛んで、生産量、出荷量、栽培面積において日本一の産地となっている。和歌山市は[[和歌山電鐵|和歌山電鉄]][[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]]沿線の山東(さんどう)地区で栽培が盛ん。 : ; 愛媛県 : 年間収穫量は12万トン - 16万トンで、出荷額は高い。また、市場価値の高い中晩柑生産にシフトしてきている。主産地に[[八幡浜市]](旧八幡浜市、旧保内町)、[[宇和島市]](旧吉田町、旧宇和島市、旧津島町)、[[西予市]](旧三瓶町、旧明浜町)、[[伊方町]](旧伊方町、旧瀬戸町)、[[伊予市]](旧双海町、旧伊予市)、[[砥部町]]、[[松山市]](旧中島町、旧松山市、旧北条市)、[[今治市]](旧大三島町、旧大浦町、旧関前村、旧菊間町、旧今治市、旧大西町)、[[大洲市]](旧長浜町)など。主な出荷先は関東、甲信越、近畿などで、[[愛媛みかん]]という名称で県外に出荷するため、箱の色や選果部会の商標で産地を区別している。 :; 西宇和みかん :: [[西宇和農業協同組合|JAにしうわ]]が管轄する愛媛県[[八幡浜市]]、伊方町、西予市三瓶地区(旧三瓶町)で生産されるみかん産地の総称。明治時代から痩せ地を開墾し、戦後みかん産地として発展。海岸沿いの南向き、西向き急斜面という好条件により、品質に優れたみかんを生産、首都圏の築地や大田市場を中心に高い評価を受け、首都圏を中心に名の通ったブランド産地に成長した。中でも「日の丸みかん」(八幡浜市向灘地区で、名称は共同選果部会名から。ブランド品に「豪琉頭日の丸千両」「日の丸千両」「百年蜜柑」などがあり、高級品特化。また、もっぱら葉擦れ品を扱った家庭用一般用に「ガキ大将」があるが、この産地だけは茶箱を用いていない)、「真穴みかん」(八幡浜市真網代《まあじろ》地区および穴井地区。旧[[真穴村]]にあった真穴選果部会に因み、マルマの愛称をもつ。ブランド品に「ひなの里」がある。また、真網代青果による「真穴みかん貴賓」などがある)、「川上みかん」(八幡浜市川上地区。旧[[川上村 (愛媛県西宇和郡)|川上村]]にあった川上選果部会に因み、マルカと略される。ブランド品に「味ピカ」「味ピカ小太郎」「風」など)はウンシュウミカン専作の産地となっている。他には旧[[保内町]]喜須来、宮内と八幡浜市の日土町から成るみつる共選(以前の名称は保内共選。みつるはブランド品「蜜る」に因んだもの)、八幡浜共選(八幡浜市内にあり、川之石、舌田、粟野浦の市内沿岸3地区から成る中晩柑との複合産地で、収穫量最大の選果部会。ブランド品に「濱ノ姫」「濱美人」)、八協共選(八幡浜市内内陸に位置する矢野崎、千丈、双岩、神山の4地区から成る中晩柑との複合産地。ブランド品に「媛美月」)、三瓶共選([[西予市]]三瓶地区(旧[[三瓶町]])を包含。[[ヒュウガナツ|ニューサマーオレンジ]]の産地として知られる複合産地。ブランド品に「しずる」《雫流》)、伊方共選(伊方町。ウンシュウミカンを中心とする複合産地。ブランド品に「媛匠」)などの10箇所の共同選果部会が独自のブランドを築いている(伊方町(旧[[三崎町 (愛媛県)|三崎町]])に三崎共選があるが、ここは清見タンゴールなどの中晩柑専作であり、ウンシュウミカン栽培はほとんど行っていない。また、同じく中晩柑中心の磯津共選(同旧保内町内磯津地区)があるが、規模は小さい)。また、箱の色から高級品は俗に黒箱と呼ばれるが、家庭用一般品は茶色の箱。なお、JAにしうわでは西宇和みかんPRとキャンペーンのために、例年『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』の[[野原しんのすけ]]を採用している。 :; 宇和みかん :: [[えひめ南農業協同組合|JAえひめ南]]が管轄する[[宇和島市]][[吉田町 (愛媛県)|吉田町]](旧吉田町)、宇和島市を中心とした産地で作られるみかんの総称。特に宇和島市吉田町は八幡浜市に次ぐ県内2番目のミカン産地で、戦後しばらくは首都圏に盛んに出荷され、八幡浜を凌ぐ県内随一の産地であった。赤色の箱が特徴で、宇和青果農協時代からの銘柄である「うわの赤箱」という愛称で親しまれている。宇和島市吉田町内に味楽、玉津、喜佐方、宇和島市に宇和島共同の、計4箇所の選果場がある。ブランド品に「美柑王」「お袋さん」などがあり、またブランド力の高い玉津選果場では厳選品を「たまもの」という名称でブランド販売している。温州みかんのほか、[[甘平]]、甘夏、ポンカン、不知火の産地にもなっている。 :; 明浜みかん :: 八幡浜市と宇和島市吉田町の中間に位置する西予市の明浜地区(旧[[明浜町]])で生産されるみかん。みかん産地の中でこの明浜だけがJAひがしうわ管轄となっており、箱の色も他とは異なり、橙色である。一般品の「風のいたずら」、ブランド品に「はまかぜみかん」などがあり、契約農家が任意で搾汁し販売する[[ムテンカ]]というストレートジュースでも注目を浴びている産地でもある。有機栽培農法でみかんを栽培、販売する無茶々園も同地区内にある。 :; 興居島みかん(ごごしまみかん) :: 愛媛県松山市の西部に位置する[[興居島]](旧[[興居島村]])で生産されるみかんで、「島みかん」と呼ばれ親しまれている。県外出荷の他産地と異なり、市内流通が中心となっているため、愛媛みかんという名称を用いていない。また、共同選果場がなく、個人選果を行っている珍しい産地である。箱の色は濃紅色。 :; 中島みかん :: 愛媛県松山市の北西部に位置する[[中島 (愛媛県)|中島]](旧[[中島町 (愛媛県)|中島町]])で生産されるみかん。かつては選果場を持ち、マルナカブランドとして京阪神、首都圏などに出荷していたが松山市に吸収合併されると産地として衰退した。後にブランド再興の気運が高まり、松山市の内地産と差別化(内地ではハウスみかん中心)を図るため、「中島便り」として販売される。ブランド品に「中島便り 匠と極」。箱の色は黄緑色(管轄JAのJAえひめ中央に因む)。伊予柑、カラマンダリンやその他柑橘の複合産地にもなっている。 :; 今治、越智地方 :: 県北部の今治市(旧越智郡を含む)もみかん栽培が盛んな地である。JAおちいまばり管轄となっており、青色の箱から、青箱と呼ばれる。また、産地から瀬戸内みかんと呼んでいるケースもある。ブランド品に「サンエース」があるが、宇和地方の産地がブランド志向となるなか、一般向け中心であり、比較的京阪神方面への出荷も多い。中晩柑の栽培も盛んで、せとか、はれひめ、愛媛県果試28号(紅まどんな)などの生産も盛んになっている。 :; 松山市(島嶼以外)、伊予市、砥部町 :: JAえひめ中央が管轄し、県中心部、中予に位置する産地で、ハウスみかん生産が主流である。ブランド品に「道後物語」がある。また、一帯は伊予柑、せとか、甘平、愛媛県果試28号(紅まどんな)の主産地としても発展してきている。 : ; 静岡県 : 年間収穫量は10万トン - 13万トン(隔年結果の差が大きい)。主産地に[[浜松市]](旧三ヶ日町、旧浜松市、旧細江町、旧引佐町、旧浜北市)、[[湖西市]]、[[藤枝市]](旧藤枝市、旧岡部町)、[[静岡市]][[葵区]]、静岡市[[清水区]](旧清水市、旧由比町)、[[沼津市]]、[[熱海市]]、[[伊東市]]、島田市、牧之原市(旧榛原町)などで、県内の東西に産地が分布する。普通温州栽培国内1位。特に浜松市はみかん栽培が盛んな[[三ケ日町]]や[[細江町]]、[[引佐町]]などを合併したため、収穫量、出荷量ともに自治体として国内トップである。主な出荷先は中京圏、北陸、関東、東北など。 :; [[三ケ日みかん]] :: 静岡県浜松市[[北区 (浜松市)|北区]][[三ヶ日]](旧[[三ケ日町]])。静岡県内最大の産地で[[浜名湖]]北部の南向き斜面に産地が広がり、中京圏を中心に高いブランド力をもつ。ミカちゃんという少女がトレードマークとなっている。収穫後出荷を行うもののほか、貯蔵してからの出荷も多く、産地の出荷期間は長い。高級ブランドとして指定登録、樹上熟成などを徹底した「[[ミカエース]]」を初め、「心」、貯蔵みかんの「誉れ」などがあり、また浜松市の卸売会社マルマによる私撰の「マルマみかん」も知られる(同社はミカンが有名だが、[[カキノキ|柿]]、[[ジャガイモ|馬鈴薯]]などもブランド化している)。 :; [[丸浜みかん]] :: 浜松市。浜名湖の北東部に位置する丸浜選果場に因み、丸浜柑橘農業共同組合連合会によるブランドみかん産地。片山ミカンという品種(原産は徳島県。普通温州)を多く栽培することで知られる。 :; 浜名湖みかん :: 三ヶ日町の周囲の浜名湖畔はみかん産地が集中しており、細江町、引佐町、浜松市東区、湖西市知波田地区などで盛んとなっている。また、一帯のみかんを指して浜名湖みかんと名乗っていることが多い。浜松市細江町は白柳ネーブルの産地としても知られる。また、浜松市内にあるJAとぴあ浜松ではとぴあみかんという名称で販売もしており、マルチ栽培による高糖度みかんを「天下糖一」としてブランド販売している。 :; [[西浦みかん]] :: 沼津市に位置し、県東部を代表するブランドみかん産地。駿河湾に面する斜面に産地が展開し、古くからの産地となっている。寿太郎温州という糖度の高い品種の栽培が主流になってきており、貯蔵により糖度を上げた「寿太郎プレミアム」、ハウスみかんの「寿太郎プレミアムゴールド」というブランド品がある。 :; [[静岡青島みかん]] :: 静岡市葵区の山間部は青島温州の発祥地。マルチ栽培によるブランド化を進めており「夢頂」「いあんばい」などの銘柄がある。 :; 清水のミカン :: 静岡市清水区は県中部で盛んな場所の一つで、清水のミカンと呼んでPR活動(清水産柑橘類の統一ロゴマークの設定、応援ユニットの結成など)を行っている。温暖な気候を生かし、ミカンのほかに不知火、[[はるみ]]、[[スルガエレガント]](静岡県独自の中晩柑)、[[ポンカン]]にハウスみかんなどを栽培する複合産地となっている。また、全国でも珍しく平地面でみかん畑が広がる(一帯は降雨が少なく、日照時間が長いため実現した。日照時間の均一化、高齢者の負担を軽減する目的)。古くは地元のみかんを使った[[缶詰]](缶詰は清水を代表する産業である)も作っており、清水から海外に輸出し、外貨を獲得していた。 :; 藤枝市とその周辺 :: 藤枝市(旧[[岡部町 (静岡県)|岡部町]]含む)は県中部で最も盛んな場所の一つで、岡部は県内みかん栽培の発祥地とされている。まれに、地域名から[[志太郡|志太]]みかんとも言われる。管轄のJAおおいがわは、厳しい検疫をクリアした輸出ミカン管理組合を置いており、国内の対米、カナダ、ニュージーランドへのミカン輸出拠点となっている。また、[[島田市]]ではハウスみかん栽培が盛んなほか、神座みかんというブランド産地がある。 : ; 熊本県 : 年間収穫量は7万トン - 10万トン。2017年は不作の静岡県を上回り、収穫量全国3位となっている。主産地に[[熊本市]](旧熊本市、旧植木町)、[[玉名市]](旧天水町、旧玉名市)、[[宇城市]](旧三角町、旧不知火町)、[[宇土市]]、[[荒尾市]]、[[玉東町]]、和水町(旧三加和町)、山鹿市、天草市(旧牛深市)など。八代海に面した県北部に産地が集中する。主な出荷先は九州、岡山、中京圏など。極早生種の生産が多い。 :; [[河内みかん]] :: 熊本県[[河内町 (熊本県)|河内町]](1991年2月[[熊本市]]に編入)の[[金峰山 (熊本県)|金峰山]]山麓の西側で多く栽培されている産地の総称。江戸後期からみかん栽培が勧められ、1934年には県立果樹実験場が設置。石垣を組んだ段々畑となっており、温暖な気候と八代海の反射光、石垣からの反射熱から良質のみかんが作れ、県最大の産地となった。一帯には4箇所の選果場があったが品質向上のために統合され、[[夢未来みかん]]として出荷している。ブランドに「夢の恵」などがある。 :; [[天水みかん]](小天みかん) :: [[小岱山]]麓にある[[玉名市]][[天水町]]付近は熊本県内有数の産地。[[夏目漱石]]の『[[草枕]]』にもその記述があり、ブランド品「草枕」の由来にもなっている。また、玉名市などでは「小天みかん」と呼んでいる。 :; [[三角みかん]] :: 熊本県[[宇城市]][[三角町]](2005年1月[[宇城市]]に編入)で多く栽培されているブランド。早生種の「肥のあかり」「肥のあけぼの」の特産地にもなっている。温州みかんではないが、熊本県果実連合会が登録商標をもつ[[デコポン]]でも有名。 : ; 長崎県 : 年間収穫量は5万トン - 7万トン。主産地は[[佐世保市]]、[[諫早市]](旧多良見町、旧小長井町、旧諫早市、旧高来町)、[[西海市]](旧西海町、旧西彼町)、[[長崎市]]、[[大村市]]、[[南島原市]](旧北有馬町、旧有家町)、[[長与町]]、[[川棚町]]、長崎市(旧琴海町、旧長崎市)、時津町、東彼杵町など。主な出荷先は九州、関東など。200年以上の歴史がある長崎みかんは、長崎県を代表する特産品の一つとなっており、[[大村湾]]を中心とした海岸地域を中心に、県内広く生産されている。長崎県は三方を海に囲まれて[[対馬海流]]の影響を受け、年間を通じて温暖な気候であり、また海からの反射光があること、傾斜地を利用して非常に日当たりのいい[[棚田|段々畑]]を中心に栽培されていることなども併せて、みかん作りに適した環境が整っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.nagasaki.jp/megumi/item02/|title=「長崎みかん」|accessdate=2013-06-18|publisher=長崎県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130713080436/http://www.pref.nagasaki.jp/megumi/item02/|archivedate=2013-07-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meg-snow.com/nokyo/nippon-yasai/nagasaki_mikan.html|title=国産果実産地訪問記「長崎みかん」|accessdate=2013-06-18|publisher=雪印メグミルク|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140121065007/http://www.meg-snow.com/nokyo/nippon-yasai/nagasaki_mikan.html|archivedate=2014-01-21}}</ref>。また、マルチシート被覆率は50%を超え、愛媛県と並びブランド戦略が活発である。 :; [[西海みかん]] :: 針尾島などの佐世保市南部から西彼杵半島西岸に位置するみかんの愛称。西海みかんではさせぼ温州という早生種が栽培されており、ブランド品に「味っ子」「味まる」(JAながさき西海)や「ながさきの夢」「味ロマン」(JA長崎せいひ)などがある。その中で、「出島の華」は14度以上という糖度が保証されたブランド品で、させぼ温州の県共通ブランドであるが、西海地区での栽培が盛ん<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.n-nourin.jp/ah/sesaku/nousanengeika/kaju/santi-r.htm|title=長崎みかんのブランド「出島の華」|accessdate=2013-06-14|publisher=長崎県農林部|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921173257/http://www.n-nourin.jp/ah/sesaku/nousanengeika/kaju/santi-r.htm|archivedate=2013-09-21}}</ref>。 :; [[伊木力みかん]]・長与みかん :: 長崎県諫早市多良見町(旧[[多良見町]])を中心とするみかん産地で、旧市町村では多良見町が県内最大の産地であった。とりわけ伊木力(いきりき)地区のものが知られ、伊木力みかん、さらに佐瀬地区のものは皇室献上の歴史もなどもあり、佐瀬みかんとして高級ブランド化している。隣接する長与町でもみかん生産は盛んで、200年の歴史をもつ。町内にはかつて長与選果場があり長与みかんと呼ばれていたが、2011年にことのうみ伊木力選果場に統合されたため、県外向けには伊木力みかんとして出荷、販売される場合もある。また、この伊木力と長与は共にJA長崎せいひの管轄内であり、長崎中央卸売市場による「ながさき甘姫」という共通のブランド品もある。 :; [[南高みかん]] :: 長崎県南島原市の南高(なんこう)果樹農協を中心とするみかん産地で、周辺の産地を島原みかんと呼ぶこともある。堆肥にステビアの葉を利用しているのが特色(ステビア有機農法は桃やメロンなど他の果物でも実践している地区がある)で、糖度の高いみかんができる。ハウスみかん栽培が多く、県共通ブランド品「長崎恋みかん」の主産地にもなっている。また、管轄JAのブランドに「太鼓判」、「南高自信作」、「味錦」などがある。 :; 県央 :: 大村湾東岸に位置する県央部の大村市や川棚町もみかん栽培が盛んな地区であり、JAながさき県央の管轄となっている。大村湾の海面と多良岳西麓の斜面など地形条件に恵まれており、ブランド品に糖度13度以上の「味ホープ」、12度以上の「はなまる物語」などがある。 :; [[豆酘みかん]] :: 長崎県対馬市の豆酘(つつ)地区で栽培されるみかん。豆酘地区はみかん産地としては北限に近く、かなり高緯度となっているが、対馬海流の温暖な気候を利用して、ブランドみかんが栽培されている。 : ; 佐賀県 : 年間収穫量は5万トン前後。主産地に[[唐津市]](旧浜玉町、旧唐津市、旧七山村)、[[太良町]]、[[鹿島市]]、[[佐賀市]](旧大和町)、[[多久市]]、[[小城市]](旧小城町)、玄海町、伊万里市など。県の東西にオレンジベルトと呼ばれるみかん生産地が分布している。「さが美人」は県共通の高級ブランド。ハウスみかんの収穫量は国内1位。出荷先は北九州、京阪神などであり、大阪市場では和歌山産の次にシェアが高い。 :;[[からつハウスみかん]] :: 佐賀県唐津市浜崎、玉島地区(旧[[浜玉町]])は愛知県蒲郡市と並ぶハウスみかんの一大産地。古くからハウスみかんの生産が盛んで、4月 - 9月の間に京阪神圏などに出荷される。また、唐津市の上場地区(旧[[鎮西町]])では「うわばの夢」という高糖度のみかん(ハウス・露地)を生産する。 :; 太良みかん(たらみかん) :: [[多良岳]]の山麓、太良町で生産されるみかん。戦後は全国最大級の極早生産地として一世を風靡したが、その後の社会情勢に伴い生産量が激減。近年は選果場統合の危機に直面したことで、「たらみかん活性化プロジェクト」を立ち上げ、同町内のミカン農家が有志で立ち上げた「たらシトラス会」で情報発信や地元への奉仕活動を行ったり、たらみかん通販サイト「タラッタ」で太良みかんを販売したりしている。盛田温州(皮肌がツルツルしているため、トマトみかんという愛称をもつ)やクレメンティン(スペイン原産の柑橘)などが産地の特色である。<ref>[https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSMzOTMwNCMxNjc4MjIjMzkzMDRfSERmZlpRR3ZlUy5wZGY.pdf 「たらみかん」を取り巻く現状]</ref> :; 鹿島市 :: 鹿島市は太良町と並び、多良岳山麓の大規模みかん産地。鹿島市は[[祐徳稲荷神社]]の門前町であり、「さが美人」の中でも、特に糖度の高いみかんを選び「祐徳みかん」としてブランド化している。 :; 天山みかん :: 県北部にそびえる[[天山 (佐賀県)|天山]]の南麓に分布する産地の総称。佐賀市大和町、小城市、多久市が栽培の中心。貯蔵みかんやハウスみかんなどで個性化を出しており、大和町の貯蔵ブランドみかん「あんみつ姫」、小城市の高糖度高級ブランド「プレミアム天山」、多久市の「[[孔子]]の里」などがある。 === 主要産地(累年統計をとっている産地) === ; 広島県 : 年間収穫量は2万5000トンから4万2000トン。1960年半ばまでは<ref name="W読売650801">{{Cite journal |和書 |author = 田淵実夫 |title= ふるさとの味 ≪広島県≫ あり過ぎるうまいもの |journal = [[週刊読売]] |issue = 1965年8月1日号 |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 4849 }}</ref>、和歌山県、愛媛県と並んでミカンの三大名産地といわれたが<ref name="W読売650801"/>、以降は順位を落とした<ref name="W読売650801"/>。当時は広島の瀬戸内海の島々はミカンの島ばかりで、晩春初夏の交に瀬戸内海を船で行くと、潮風にのってくるミカンの花の香に旅情を慰められた<ref name="W読売650801"/>。1954年に[[都道府県のシンボルの一覧|県花]]を決める際も、ミカンが有力だったが、愛媛に譲り[[カエデ|モミジ]]を選んだ<ref name="W読売650801"/>。主産地は[[呉市]](旧豊町、旧豊浜町、旧倉橋町、旧蒲刈町)、[[大崎上島町]](旧大崎町、旧木江町、東野町)、[[尾道市]](旧瀬戸田町、旧向島町、旧因島市、旧尾道市)、[[三原市]]など。[[芸予諸島]]で生産が盛んだが、内地にも三原市、尾道市などにみかん産地がある。出荷先は広島、岡山、阪神地方など。 :; [[大長みかん]](おおちょうみかん) :: 広島県を代表するブランド産地。大長とは呉市豊町(旧豊町)に属した旧大長村に因む。[[大崎下島]]、[[豊島 (広島県)|豊島]](以上広島県[[呉市]])、[[大崎上島]](同[[大崎上島町]])のほか、[[岡村島]](愛媛県[[今治市]])で栽培されるみかんも歴史的経緯などから大長みかんとして出荷される。大崎上島では石垣を組んだ産地で育てた「大長石積みかん」がある。<ref>[http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=878 ひろしま文化大百科 大長のミカン]</ref> :; 瀬戸田みかん :: 尾道市瀬戸田町(旧瀬戸田町)は、国産レモン、あるいは国産ネーブルの産地として知られる一方で、みかん栽培でも名高い。瀬戸田みかんとして県内では大長みかんに並ぶほどの成長を遂げ、最高級品には「せとだの五つ星」というブランドが付けられる。 :; [[高根島みかん|高根みかん]](こうねみかん) :: 旧瀬戸田町のうち、高根島で栽培される[[高根島|高根みかん]]は高島屋百貨店のブランドロゴに類似したロゴを使い[[まるたかみかん]]と呼ばれ、古くは関西、関東方面へも出荷された。高根みかんとして地域団体商標に登録しているが、今日では瀬戸田のブランド知名度が上がったため、瀬戸田みかん(高根島産と付記することも)で販売されることもある。 :; 石地みかん(いしじみかん) :: 石地みかんとは倉橋島の農家、石地富司清の農地で発見された突然変異種。糖度が高く味が濃厚で、倉橋島の特産となって今日に至っている。ブランド品に「いしじの匠」がある。 :; 因島 :: 尾道市[[因島]](旧因島市)もみかんの産地として知られ、因島みかんと呼ばれる。また、一帯は八朔の発祥地としても知られ、八朔、紅八朔は特産品となっている。 : ; 愛知県 : 年間収穫量は2万3000トン - 3万トン。主産地に[[蒲郡市]]、[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]、[[東海市]]、[[南知多町]]、豊川市(旧御津町)、知多市、豊橋市など。ハウスみかん栽培国内2位。出荷先は中京圏、関東など。 :; [[蒲郡みかん|蒲郡温室みかん]] :: 愛知県蒲郡市は温泉資源が豊富であるため、温泉水を利用したハウス栽培が盛んになった。蒲郡温室みかんは栽培されるハウスみかんのブランド品で、主に中京圏、首都圏に出荷される。蒲郡みかんとして地域団体商標登録。 :; 知多みかん :: [[知多半島]]では[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]が中心となって栽培が盛んであり、あいち知多柑橘出荷組合が陣頭指揮を執る。ブランド品にマルチ栽培の露地みかんである「あまみっこ」、ハウス栽培の「[[みはまっこ]]」、「さわみっこ」がある。 :; 東海市 :: かつては斜面沿いにみかん畑が多く見られ、県内有数の産地であったが、後に宅地化が進行し、また畑作が主流となったため、産地としては大きく縮小した。一方で、名古屋都市圏への近接性から観光農園が散見される。 : ; 福岡県 : 年間収穫量は2万トン~3万トン。筑後地方が主産地で、[[みやま市]]と[[八女市]]で県内の6割以上を占める。主産地に[[みやま市]](旧山川町、旧高田町)、[[八女市]](旧立花町、旧黒木町)、[[大牟田市]]、豊前市、古賀市など。県統一のブランドに、「ハニーみかん」「マイルド130」「博多マイルド」などがある。 :; [[山川みかん]] :: みやま市(旧[[山川町 (福岡県)|山川町]])は県内随一の知名度を誇るブランド産地で、山川みかんは高級品として九州を中心に市場出荷される。マルチシート被覆率が高いほか、青年部での研修会など人材育成にも注力している。 :; 立花みかん :: 八女市[[立花町 (八女市)|立花町]]で作られるみかん。立花は山川と並ぶ大産地で、露地みかんの他に貯蔵みかん、ハウスみかん栽培も多く、また国内最大の[[キウイフルーツ|キウイ]]産地としても知られる。ブランド品に「姫たちばな」「華たちばな」がある。 : ; 神奈川県 : 年間収穫量は2万トンから3万トン。主産地は[[湯河原町]]、[[小田原市]]、[[南足柄市]]、中井町、大磯町、秦野市など。大規模産地としては日本で東端、北端に当たり、相模湾岸に果樹園が分布するほか、内陸にも見られる。観光農園、直売所販売も多い。 :; [[湯河原みかん]] :: 温暖で温泉地でもある[[湯河原町|湯河原]]は柑橘の産地でもあり消費地としても盛んなため、一年中小売できるように一つの畑で数十品種を栽培している農家も多い。藤中温州・[[大津四号]]・[[師恩の恵]]・なったんの原産地でもある。 :; [[小田原市]] :: 県内最大の産地で、富士山の火山灰土により、質の良いみかんができ、市南西部の片浦、市北西部の久野、市南東部の国府津、市北東部の曽我などに広がる。大津四号、青島温州、そして県が開発した湘南ゴールドなどを生産する。 :; [[片浦みかん]] :: 小田原市[[片浦]]地区のみかん。かつては「西の大長、東の片浦」と呼ばれたブランド産地だったが、生産量が最盛期の10%程になるなど宅地化や高齢化などで産地の存続が危ぶまれており、片浦みかんプロジェクトによって六次産業化が進んでいる。 :; [[早川みかん]] :: 小田原市[[早川 (小田原市)|早川]]地区のみかん。先進的な農道整備により第二回カンキツ全国大会の視察地になった。[[鎧塚俊彦]]の営業する[[一夜城]]店を中心とした[[農商工連携]]が盛ん。ドレッシングを初めとする様々な商品が開発され、早川みかんのブランドを確立している<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/206013 摘果みかん ドレッシング]</ref>。 : ; 三重県 : 年間収穫量は2万トン前後。主産地は[[御浜町]]、[[南伊勢町]](旧南勢町)、[[熊野市]]、[[多気町]]、紀宝町など。県単位でブランド化を図っており、全国に先駆けて7月に露地栽培による極早生種の出荷を行っている。市場出荷のほか、観光地での販売促進も盛ん。 :; [[三重ブランド#南紀みかん|南紀みかん]] :: 三重県中南部、[[南紀]]地方で栽培されるみかんの共通ブランド(和歌山県では同地方産のみかんを紀南みかんと名乗っているため名称の混同はないが、三重県産と強調するため三重南紀みかんと名乗っている)で、ブランド品に南伊勢町五ヶ所地区の「マルゴみかん」、極早生種の「みえの一番星」などがある。また、一帯は[[カラマンダリン]]の産地としても知られ、全国有数の生産量を誇る。 : ; 大分県 : 年間収穫量は1万3000トン - 1万7000トン。主産地に[[杵築市]]、[[国東市]](旧安岐町)、[[日出町]]、[[津久見市]]、[[宇佐市]]、大分市など。ハウスみかん栽培が盛んで佐賀、愛知に次ぐ大産地となっており、ハウスみかん市場で、4月の出荷量は一番多い。 :; 杵築市 :: 県内で最も生産が盛んな主産地。栽培が難しい品種「美娘」を特産し、ブランド化している。また、デコポン、アンコールの生産も盛ん。 :; 一尺屋みかん :: 大分市佐賀関町に位置する古くからの露地みかん産地。 : ; 宮崎県 : 年間収穫量は1万トン - 1万6000トン。主産地に[[宮崎市]](旧南郷町、旧宮崎市)、[[高岡町 (宮崎県)|高岡町]]、[[日南市]]、[[日向市]]など。極早生中心だが、土壌がみかん栽培に適し、温暖で降雨が少ないため、糖度の高い良質のみかんができ、国内で最も出荷時期が早い産地の一つ。早生の優良種、日南1号の発祥地としても知られる。ミカンの省力化大規模経営組織「シトラス21」も宮崎の一農家から始められた。また、柑橘類では日向夏の生産が全国トップである。 :; ひょっとこみかん :: 日向市で生産、販売されるブランドみかん。[[ひょっとこ]]は日向市に伝わる伝統芸能のひょっとこ踊りに因む。木の皮を剥いで陽光を多く取り込む独自の農法により、糖度の高いみかんができる。 : ; 鹿児島県 : 年間収穫量は1万2000トン - 1万6000トン。主産地に[[出水市]](旧出水市、旧高尾野町、旧野田町)、[[南さつま市]](旧加世田市)、[[大崎町 (代表的なトピック)|大崎町]]、阿久根市など。また、ペットボトルキャップ大の桜島小みかんで有名。[[奄美大島]]や[[徳之島]]などの[[奄美群島]]では、熱帯果樹であり本土では栽培が難しい[[ポンカン]]や[[タンカン]]の栽培が盛んである。奄美群島では重要病害虫である[[ミカンコミバエ]]の侵入が数年に一度あり、発生した年は島外への果実の持ち出しが禁止される<ref>[http://amamishimbun.co.jp/index.php?QBlog-20151104-3 奄美大島全域タンカン等移動禁止へ]</ref>。 :; [[サクラジマミカン|桜島小みかん]] :: 桜島や霧島市などで栽培されるペットボトルキャップ大のみかんで、ギネスブックに世界一小さなみかんとして登録されている。桜島大根と並ぶ桜島の主要作物であり、江戸時代初期から栽培が勧められた。 :; 米ノ津みかん・針原みかん :: [[出水市]]。平均17度という温暖な気候と赤土の土壌がみかん栽培に適していたため、県内最大のミカン産地となった(国内ウンシュウミカン発祥となった長島町からも近い)。地名から米ノ津みかん(針原地区では針原みかんとも)と呼ばれている。ミカンの他に「早香」という柑橘類や甘夏、ポンカンなども特産する。 : ; 香川県 : 年間収穫量は1万1000トン - 1万8000トン。主産地に[[坂出市]]、[[三豊市]](旧仁尾町、旧高瀬町)、高松市、[[観音寺市]](旧大野原町)、[[善通寺市]]など。小原紅早生という皮が紅いミカンがよく知られる。 :; 坂出市 :: 小原紅早生の特産地。糖度によって「さぬき紅」「金時みかん」としてブランド販売している。また、王越地区では古くからみかんの名産地として知られ、王越みかんというブランド品となっていたが、後に後継者不足や他産地との競争で衰退したため、近年は保存運動や有機栽培農法などが行われ、再興の試みが始まっている。 :; 曽保みかん(そおみかん) :: 荘内半島西岸に位置する三豊市[[仁尾町]]曽保(そお)地区は県を代表するブランド産地。高松市場を中心に高級品として出荷されている。 : ; 徳島県 : 年間収穫量は1万3500トン前後で、隔年結果の影響が少ない。主産地に[[勝浦町]]、[[徳島市]]、[[阿南市]]、[[小松島市]]、[[佐那河内村]]など。ハウスみかん栽培も盛んで、大阪市場では徳島県産が一番多く出荷されている。 :; 勝浦みかん :: 勝浦町で生産されるみかんで、同町は県内最大のみかん産地。収穫後に土蔵で貯蔵を行い、糖度を増してから出荷する貯蔵みかんで知られる。一帯では十万温州という、貯蔵に適した品種を栽培している。 : ; 大阪府 : 年間収穫量は1万3500トン前後。主産地に[[和泉市]]、[[岸和田市]]、[[千早赤阪村]]、堺市、[[貝塚市]]、富田林市など。大消費地に近いため、観光農園や直売所が多い。 :; 大阪みかん :: 大阪府は、戦前は和歌山県に次ぐ国内2位の大産地であった。戦後になって宅地化や都市化、他地区との競争で大きく栽培面積を減らすものの、生産量は依然1万トンを超える主産地である。<ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/nosei/naniwanonousanbutu/tokusanhin.html#mikan 大阪府/なにわ特産品 大阪みかん]</ref> 大消費地に近いため、直売所や観光農園が多い。また、マルチ栽培や有機栽培などにも注力しており、学校[[給食]]にも提供されるなど[[地産地消]]を勧めている。 : ; 山口県 : 年間収穫量は8000トン~1万3000トン。主産地に[[周防大島町]](旧橘町、旧久賀町、旧大島町、旧東和町)など。また、[[響灘]]沿岸の[[下関市]]や旧[[豊浦町 (山口県)|豊浦町]]、旧[[豊北町]]、[[周防灘]]沿岸の[[柳井市]]、[[防府市]]などにも産地がある。 :; 山口大島みかん :: [[屋代島]](周防大島)は県産みかんの8割以上を産出するみかんの島で、県内では大島みかんと呼ばれている。同県で開発された「なつみ」という品種も特産。また、同島には皮ごと焼いたみかんを鍋に入れて具材と一緒に煮込む「みかん鍋」でも有名である。 : ; 高知県 : 年間収穫量は6000トン - 9000トン。主産地に[[香南市]](旧香我美町、旧野市町)など。ハウスみかん栽培が盛んで、国内4位となっている。 :; 山北みかん :: 香南市(旧[[香我美町]])は県内最大の産地で、県収穫量の半数以上を占める。山北地区で栽培される山北みかんがブランド化しており、露地栽培、ハウス栽培の双方が行われるため、年中通してミカンが生産される。 以上の19府県が主要産地となっており、それ以下の県と大きく収穫量を離しているが、千葉県、兵庫県も累年統計を取っている。 ; 兵庫県 : 年間収穫量2,000トン以上。主産地に[[淡路市]](旧一宮町)、[[南あわじ市]](旧南淡町、旧緑町)、[[赤穂市]]など。淡路島ではみかん栽培が行われており、淡路みかんと呼ばれ、ブランド育成のための品評会が行われているほかに観光農園も多い。また、内地では赤穂市などでみかん栽培が行われているが、周辺府県と比較すると栽培面積、収穫量は少ない。 : ; 千葉県 : 年間収穫量1,000トン以上。主産地に[[南房総市]](特に旧[[三芳村 (千葉県)|三芳村]]・旧[[千倉町]])、鴨川市、館山市。中小規模の産地を除けばみかん産地としては東端に当たり、房州みかんと呼ばれ、市場出荷のほか観光農園が多い。とりわけ、旧三芳村は観光みかん園が集まる県内最大の産地。 === その他の産地 === 収穫量は最新の全国調査を行った作況調査(果樹)2014年版による。 ; 岐阜県 : 主産地に[[海津市]](旧[[南濃町]])。[[養老山地]]の山麓はみかんの一大産地で、県の9割以上を占め、内陸県では唯一年間収穫量1000トンを超える産地となっており、北限の産地の一つとして知られる。地名から「にしみのみかん」「南濃みかん」と呼ばれ、貯蔵して糖度を増してから出荷する。<ref>[http://www.nisimino.com/nisimino/tokusyu/1202-1/ 大垣地方ポータルサイト西美濃 南濃のみかん]</ref> なお、累年統計を取っている主産地を除くと最も収穫量が多い。 : ; 岡山県 : 年間収穫量1,000トン以上。主産地に[[瀬戸内市]](旧邑久町)、[[玉野市]]、[[備前市]]など。瀬戸内海に位置し、気候条件に恵まれるものの、沿岸は平野が広がり、傾斜地が少ないため産地としては小規模。瀬戸内市[[邑久町]]黒井山付近が県内の主な産地で、生産組合がある。 : ; 奈良県 : 年間収穫量500トン前後。主産地に[[桜井市]]、[[明日香村]]。内陸県だが、明治時代にみかんが植えられてから、現在も桜井市穴師地区では連綿とみかん栽培が続けられている。住宅地に近いため、観光農園が主体。 : ; 沖縄県 : 年間収穫量500トン前後。主産地に[[名護市]]、[[国頭村]]、[[本部町]]など。かつては固有種のオートゥーや[[カーブチー]]・[[シークヮーサー]]・[[クネンボ]]などが栽培され名産品となっていたが、1919年に[[ミカンコミバエ]]の本土侵入を防ぐために果実の移動規制が敷かれたため生産量は激減した。1982年、[[沖縄郡島]]で[[ミカンコミバエ]]の完全駆除に成功。以後は本土への果実の出荷が行えるようになったため、早生ミカンやタンカン産地となった。しかし、ミカンキイロアザミウマなどの害虫が発生しやすく、産地としては大きく収穫量を落としている。 : ; 京都府 : 年間収穫量400トン前後。主産地に舞鶴市、宮津市、井手町など。後述するが、丹後地方の舞鶴市大浦地区および宮津市由良地区は古くからの歴史をもつミカン産地となっており、国内北限の産地の一つ。一方、山城地方はそこまで栽培は盛んではなく、井手町多賀地区(多賀フルーツラインと呼ばれている)に観光農園が点在する程度である。 以下、茨城県、埼玉県が年間100トン以上、福井県、東京都が年間80トン以上、島根県が年間50トン以上、群馬県と新潟県が年間20トン以上、また収穫実績があった県として栃木県、石川県、滋賀県が記されている(詳細については次項で解説)。 === 北限の産地 === 前述したように、年収穫量1000t以上の経済的産地形成としては岐阜県の[[養老山地]]山麓、あるいは千葉県の[[房総半島]]周辺となっている。だが、それ以外にも小規模な産地が点在し、それぞれが北限の産地と名乗っている。栽培技術の進歩と品種改良、また気候条件の変化などにより北限産地は年々北上している傾向がある。 ; 東日本内陸のみかん産地 : 一般的には、[[筑波山]]麓が北限のみかん産地と呼ばれていた。産地としては茨城県[[桜川市]][[真壁町]]酒寄地区(酒寄みかん)や[[石岡市]][[八郷町]]などがあり、周辺の年収穫量は100t以上となっている。この周辺では名物の[[七味唐辛子]]の原料にもなる[[陳皮]]産地で知られる{{ルビ|福来|ふくれ}}みかん(厳密には[[タチバナ]]の品種)が栽培されてきた歴史がある<ref>[http://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000636.html 桜川市観光協会 福来みかん]</ref>。近世以降になると埼玉県の[[比企郡|比企]]地方にもみかん産地が展開し、盆地の気候を生かしたみかん作りが行われてきた。具体的な産地の例としては同地区内最大規模の産地である[[寄居町]]風布・小林地区<ref>[http://yorii-kanko.jp/mikanyama.html 寄居町観光協会 よりい風布・小林みかん山]</ref>(規模は年収穫量は数十トン程度だが、市場出荷といった農業生産を行っている産地としては北限に当たる)、[[ときがわ町]]の大附地区(福みかんという固有品種《福来みかんと同種》で知られる)、[[東秩父村]]の大内沢みかんなどがある。その他、東京都[[武蔵村山市]]も北限と言われた産地の一つで古くからみかん栽培が行われており、狭山みかんと呼ばれている。後に栽培技術の発達や品種の改良によって、北関東内陸県でも観光目的によるみかん栽培が行われるようになった。栃木県[[那須烏山市]]小木須地区では1980年代ぐらいから観光農園が出現し、北限のみかん産地として宣伝している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nosai-tochigi.or.jp/shinbun/180102/news.htm|title=景色も楽しみ 北限のミカン栽培|accessdate=2008-01-04|date=2006-01|publisher=NOSAIとちぎ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090123161725/http://www.nosai-tochigi.or.jp/shinbun/180102/news.htm|archivedate=2009-01-23}}</ref><ref>[https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/index.cfm/9,1304,42,105,html 観光みかん園] 那須烏山市 商工観光課</ref>。1995年には群馬県[[藤岡市]][[鬼石町|鬼石]]の桜山公園でも、観光農園中心のみかん産地が成立した(みかん産地としては、国内で最も内陸に位置する)。また、藤岡や烏山ほどではないが、茨城県[[日立市]][[十王町]]にも観光みかん園が存在する。さらに高緯度となると、1985年に福島県[[広野町]]が町民にみかんの苗木を配布し、みかん栽培が行われている(ただし、町民のレクリエーション目的で市場出荷は行っていないため、今まで収穫実績はない)。 : 一方で、関東以外の内陸部にはみかん産地は少なく、前述した岐阜県海津市南濃町、奈良県桜井市穴師地区や京都府[[井手町]][[多賀 (井手町)|多賀]]地区ぐらいである。 : ; 本州日本海側のみかん産地 : 本州[[日本海]]側にも古くからのみかん産地が点在している。山口県ではまだ下関、豊浦、萩などみかん産地が多く見られるが、島根県以北となると冬場は厳寒になるため、産地は一部に限られる。その中で、京都府[[舞鶴市]]の[[大浦半島]]に位置する瀬崎、大丹生地区、京都府[[宮津市]]の由良地区は本州日本海側最大の産地で、古くから寒暖の差が激しく、良質のみかんが生産されている。栽培面積はそれぞれ10ha以上、年収穫量はそれぞれ100t以上と、中規模産地としては国内最北端に位置し、それぞれ大浦みかん<ref>[http://maipress.co.jp/news/area/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A%E3%81%8C%E7%B4%84%EF%BC%92%EF%BC%90%E5%B9%B4%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%AB%E5%BE%A9%E6%B4%BB-%E3%80%8C%E3%81%B5.html 大浦みかんミカン狩りが約20年ぶりに復活 「ふるるファーム」企画、瀬崎の6農園が協力【舞鶴】]</ref>、由良みかんと呼ばれている。また、福井県の[[越前海岸]]にもみかん産地が展開する。福井県[[敦賀市]]東浦地区も北限産地の一つとして知られ、東浦みかんと呼ばれる。<ref>[http://tabi.chunichi.co.jp/odekake/141021fukui_tsuruga.html 中日新聞 【福井】東浦ミカンの観光農園オープン 敦賀]</ref> ここでは従来の早生や普通種なども栽培可能だけでなく、かつては阪神地方に出荷したり、[[ロシア]]に輸出も行っていたりしたほどの規模があった(現在は年収穫量30 - 50t程度で、市場に出回ることは少ない)。その北部に延長する福井県[[福井市]][[越廼村]]、[[越前町]]などにも観光農園が点在する。島根県[[松江市]][[美保関町]]の美保関みかんなども再興の気運があり、[[美保神社]]への奉納にちなんで、ゑびすみかんと呼んでPRを行っている。島嶼部では、長崎県対馬の豆酘地区における豆酘みかんや隠岐島の崎みかんなどがある。対馬の豆酘(つつ)地区は県内のシェアは低い(長崎県が全国有数の産地であるため)ものの、ブランド化の動きも進んでいる。島根県の[[隠岐諸島]]に位置する[[海士町]]には崎みかん(東浦より高緯度。年収穫量10t程度)と呼ばれる産地があり、Iターンの若者たちによる再生プロジェクトが進んでいる。そして[[佐渡島]]の[[羽茂町|羽茂]]地区でもみかんが明治時代から自家用に植えられていた。2007年12月には新潟県[[佐渡島]]の農家が[[早生種]]の「[[興津早生]]」など約1トンを出荷し話題となった。後に産地として成長し栽培農家数は約20人、栽培面積も3haの規模となっており、佐渡みかんと呼ばれジャムなどの加工品も作られている(これが暫定的な国内最北端の産地となっているが、佐渡の南部沿岸は降雪も少なく、丹後や北関東より気候条件としては温暖である)。 == 栄養価 == {{栄養価 | name=うんしゅうみかん じょうのう 普通 生<ref name="mext7">[[文部科学省]] 『[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]』</ref>| kJ =192| water=86.9 g| protein=0.7 g| fat=0.1 g| satfat=0.01 g| monofat = 0.02 g| polyfat =0.01 g| carbs=12.0 g| opt1n=[[食物繊維|水溶性食物繊維]]| opt1v=0.5 g| opt2n=[[食物繊維|不溶性食物繊維]]| opt2v=0.5 g| fiber=1.0 g| sodium_mg=1| potassium_mg=150| calcium_mg=21| magnesium_mg=11| phosphorus_mg=15| iron_mg=0.2| zinc_mg=0.1| copper_mg=0.03| Manganese_mg=0.07| betacarotene_ug=180| vitA_ug =84| vitE_mg =0.4| thiamin_mg=0.10| riboflavin_mg=0.03| niacin_mg=0.3| vitB6_mg=0.06| folate_ug=22| pantothenic_mg=0.23| opt3n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt3v=0.5 µg| vitC_mg=32| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]] 「[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]」</ref>。廃棄部位: 果皮| float = right }} 果肉には[[プロビタミンA]]化合物の一種である[[β-クリプトキサンチン]]が他の柑橘に比べて非常に多く含まれている。これには強力な発ガン抑制効果があるとの報告が果樹試験場(現・果樹研究所)・[[京都府立医科大学|京都府医大]]などの共同研究グループによってなされ、近年注目されている<ref>石見圭子「[http://www.nutritio.net/question/FMPro?-db=question-bbs.fp5&-lay=main&-Format=detail.htm&hatugenID=206&-Find 柑橘系フラボノイドの骨粗鬆症予防効果]」国立健康・栄養研究所、2004年</ref>。{{出典無効|date=2016年11月25日 (金) 12:30 (UTC)}} オレンジ色の色素である[[β-クリプトキサンチン]]などの[[カロテノイド]]は[[脂肪]]につくため、ミカンを大量に食べると皮膚が黄色くなる。これを[[柑皮症]]という。柑皮症の症状は一時的なもので、健康に悪影響はない。その他にも[[クエン酸]]、[[食物繊維]]などが多く含まれる。白い筋には[[ヘスペリジン]]が含まれ、動脈硬化やコレステロール血症に効果があるとされている<ref>果樹試験場「[http://www.affrc.go.jp/ja/press/1998/0513/0513.html がん予防食品としてのカンキツ果実]{{リンク切れ|date=2010年12月}}」農林水産省、1998年</ref>。 == 用途 == === 食用 === ミカンのおいしさは、含まれている糖と酸の量・バランスやホロの薄さなどによって決まる。[[ショ糖濃度|糖度]]が高いことは重要だが、酸の量も同様に味の決め手になる。夏場のウンシュウミカンの未熟な果実を収穫・出荷したものは'''青みかん'''とよばれ、果汁が少なく、[[ヘスペリジン]]が豊富に含まれている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=190}}。 生食されることが多く、内皮(瓤嚢膜)を丸ごと食べる人と食べない人で個性も分かれている。また、むき方も「へそ」から剥く方法と、へたから剥く方法と、刃物で切る方法とさまざまある。 他に[[北陸地方]]、[[東北地方]]、[[九州|九州地方]]など地域によっては焼きミカンといって焼いて食べる所もある。また凍らせて[[冷凍みかん]]にしたり、お風呂に入れて食べたり、下記のように用途に応じて様々な加工品も作られている。ミカンの全生産量の約2割はジュースや缶詰に加工されている。 ; 缶詰 : そのまま食べるか、ケーキなどのトッピングに使用する。 ; ジュース(特に安価な濃縮還元ジュースは中国産が多い) : 飲用のほか、クリームなどの材料になる。 ; 砂糖菓子 : 主に皮の部分を使用する。よく洗った外皮を細かく切り、炒めて水気を飛ばしたものに砂糖をまぶした[[菓子]]。 ==== ダイエット食として ==== 食物繊維として含まれる[[ペクチン]]には整腸作用の他、[[消化酵素]]の一つである[[膵液|膵]][[リパーゼ]]の働きを阻害する作用があるとされる。これを食前に摂取することにより食物中に含まれる脂肪の吸収を抑制することができる。またシネフリンには[[アドレナリン受容体|β3アドレナリン受容体]]に働きかけて脂肪分解と熱生産を促進する効果があり、体脂肪を減らす効果が高い。特に熟していない青い果実に多く含まれている。 しかし、こうしたウンシュウミカンの性質が優れた[[ダイエット]]効果をもたらすというわけではない。ミカンからシネフリンを抽出しダイエット効果を謳った[[サプリメント]]も市販されているが、シネフリンと刺激性物質([[カフェイン]]や[[カテキン]]など)を同時摂取した際の危険性も指摘されている<ref>久保和弘、齋藤衛郎「[http://www.nih.go.jp/eiken/chosa/IppannSyneph.html シトラスアウランチウムについて]」国立健康・栄養研究所、2002年</ref>。 また、ミカンダイエットを大々的に報じたテレビ番組『[[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典II]]』2006年10月22日放送分においてミカンの[[血糖値]]抑制効果を示すグラフが提示されたが、後にこのグラフは改竄されたものであったことが報告された<ref>「{{PDFlink|[http://www.ktv.jp/info/grow/pdf/070327/ktv_houkokusyo.pdf 報告書 外部有識者による調査委員会報告書を受けて]}}」([[関西テレビ放送]]、2007年)21-22頁</ref>。 === 薬用 === 果皮には[[精油]]を含んでいて、精油成分は主に[[リモネン]]90%である{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。その他に、成分として[[ヘスペリジン]]<ref>厚生労働省, ed (2011). “チンピ”. 日本薬局方 (第十六改正 ed.). pp. 1550-1551</ref>、[[ルチン]]<ref>{{PDFlink|[http://www.phar.kindai.ac.jp/shigen/citrus%20unshiu-p.pdf 最近の研究成果 東アジアで薬用利用される植物(漢方・生薬を含む)]}} - 近畿大学薬学部</ref> など[[フラボン]]配糖体が含まれている。ヘスペリジンは、[[毛細血管]]の透過性を増大させる作用があり、もろくなった毛細血管を回復させることが知られているほか、[[抗菌]]、[[利尿]]、[[抗ヒスタミン]]などの作用もある{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。従って、[[高血圧]]の予防、腎炎、[[蕁麻疹]]の予防に役立つ[[漢方薬]]の一種でもある{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。 [[漢方医学|漢方]]では熟したものの果皮を陰干しにしたものを'''[[陳皮]]'''(ちんぴ)と称して利用する{{efn|日本ではウンシュウミカンが使われるが、中国では[[オオベニミカン]](中国名:寛皮桔、学名:''Citrus tangerina'')などが薬用に使われる{{sfn|貝津好孝|1995|p=69}}。}}。陳皮とは、「1年以上経過したもの」を意味する陳久品(ちんきゅうひん)を使用しなさいという意味、すなわち「古い皮」の意で名付けられている{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。陳皮は漢方で[[健胃]]、[[利尿]]、[[鎮咳]]、鎮吐などの目的で処方に配剤されるほか{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}、[[七味唐辛子]]の材料としても用いられる。また、製薬原料としても大量に用いられている{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。なお、中国における伝統医学「中医学」において、みかんは体を冷やす食べ物として分類されるため、風邪を引いた際には食べてはならない食品として認識されている。また、[[精油]]は[[アロマテラピー]]に用いることもある。 [[民間療法]]では、風邪の初期症状で多少熱がある時に、陳皮1日量10 - 15[[グラム]]を600&nbsp;[[立方センチメートル|cc]]の水で半量になるまでとろ火で煮詰めた煮出し液(水性エキス)を、[[蜂蜜]]などで甘くしたり、おろし[[生姜]]を混ぜて食間3回に分けて飲む用法が知られる{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。食べ過ぎ、食欲不振、[[悪心]]、[[嘔吐]]に、1日量2 - 3グラムを水400&nbsp;ccで煎じて服用しても良いとされる{{sfn|貝津好孝|1995|p=69}}。手軽にできる胃腸薬として用いられるが、胃腸に熱があるときは服用[[タブー|禁忌]]とされる{{sfn|貝津好孝|1995|p=69}}。[[肩こり]]、[[腰痛]]、[[神経痛]]、[[冷え症]]の改善に、陳皮を布袋などに入れて風呂に浮かべて、[[入浴剤|浴湯料]]に使用してもよい{{sfn|田中孝治|1995|p=160}}。 === 工業 === 油胞と呼ばれる果皮の粒々には[[リモネン]]という成分が含まれ、[[合成樹脂]]を溶かす溶剤として注目されている。また、[[オレンジオイル]]やリモネンは洗剤などにも利用されている。 === ミカンを使った遊び === ミカンの搾り汁は[[あぶりだし]]に用いることが出来る。特に冬には手軽に手に入れることができるため、[[年賀状]]に使うこともある。また、[[ロウソク]]の炎に向かってミカンの皮を折り曲げ、飛んだ油脂で炎の色が変わるのを楽しむ遊びもある。 ミカンの皮は剥きやすく、すぐに剥がれ、剥いた皮は様々な形になるので、意図的な形に切ることによって動物などの形を作ることができる。典型的なものとして「8本足のタコ」がある。 == ミカンにまつわる話 == === 和歌山県とミカン === * 和歌山県は古くからミカンの栽培が盛んである(江戸時代の豪商である紀伊国屋文左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得た伝説は既述)。そのため、みかんをモチーフにした加工品やキャラクターなどが存在する。 * 和歌山県のみかんブランドでは[[有田みかん]]が全国的に有名だが、県内では「[[ジョインジュース]]」と呼ばれるものも名が知られている(近畿地方以外ではCMがないので、近畿圏外の人には分からない)。これはJA和歌山県連の商品で、[[農業協同組合|農協]]などで売られている。 * 和歌山県には、'''「正統和歌山剥き」'''(または'''「有田剥き」''')と呼ばれるみかんの剥き方が存在する。手順は以下の通り。 *# みかんを数回〜数十回ほど揉む *# ヘタがない方に指を入れ、2つないし3つに割る *# 2つに割った場合は、さらに4つに割る === 愛媛県とミカン === * 愛媛県はミカンの一大産地としての地位を長らく誇っており、ミカンやその加工品が色々な場面に登場する。県の花はミカン、県の旗はミカンの花をあしらっている。 * キャラクターとしても積極的に利用しており、県の公式イメージアップキャラクターの[[みきゃん]]、サッカーの[[愛媛FC]]のキャラクターはミカンをモチーフとしたデザインであり、ユニフォームのシンボルカラーもオレンジ色である。また、[[四国アイランドリーグplus]]の[[愛媛マンダリンパイレーツ]]や[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]]の[[愛媛オレンジバイキングス]]も同様である。 * 愛媛とミカンに関する[[ジョーク]]で最も有名なのが「愛媛では[[蛇口]]をひねると[[ポンジュース]]が出てくる」という話である。ポンジュースの製造元の[[えひめ飲料]]ではこれを逆手にとって「うわさのポンジュース蛇口プレゼントキャンペーン」を実施したり、今治市の直売所や[[松山空港]]に期間限定の「ポンジュースの出る蛇口」を設置したことがある。これらが好評であったことから、2008年6月から2009年3月まで毎月第三日曜日に[[松山空港]]ターミナルビル内に設置され、その後も断続的に設置されている<ref>{{PDFlink|[http://www.matsuyama-airport.co.jp/pdf/info/jaguchi.pdf 松山空港での「ポンジュース蛇口」試飲イベントの実施について]}} - 松山空港利用促進協議会</ref>。 * 愛媛県の一部の地域では、学校給食に「みかんごはん(あけぼのめし)」というものが出てくるという。作り方は普通の炊き込みご飯と変わらないが、ダシの代わりにポンジュースを入れて炊き込む。 * 愛媛のミカンジュースと言えば前述のポンジュースが有名であるが、他にも農家ごとに別々に瓶詰めされた[[ムテンカ]]が雑誌やテレビで紹介され、通販の人気商品になった。 * 愛媛県には「[[いよかん大使]]」を起用したミカン(かんきつ類全般を対象とする)PRキャンペーンを例年行なっている。毎年一般公募で選ばれ、全国各地をまわり愛媛みかんをPRする活動を行っているもので、このキャンペーンは1959年から続いている。 === 静岡県とミカン === [[File:The mikan tree planted by Ieyasu.JPG|thumb|家康公お手植えのみかんの木]] * ミカンの起源は奈良時代以前にまで遡るが、生食用としては江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州から'''紀州みかん'''が献上され、家康が植えたこの木が起源とされている。現在も駿府城公園に「家康公お手植えのみかんの木」として残っている。 * 静岡県内で最も広く栽培されている温州みかんの一品種である青島みかんは、静岡市の青島平十氏が昭和初期に自己のみかん畑で枝変わりを発見、育成したもので、普通の温州みかんに比べ一回り大きく形はやや平たく味にコクがあるのが特徴。浜松市[[三ケ日町]]のものは「[[三ケ日みかん]]」として有名である。 * オレンジ色をシンボルカラーにしている企業や団体などが多数存在する。 ; 代表例 :*[[国民体育大会]]の静岡県選手団のシンボルカラー :*: 1957年に行われた[[第12回国民体育大会|静岡国体]]ではそれまで東京都が独占してきた天皇杯を初めて獲得し「オレンジ旋風」と称された。 :* [[清水エスパルス]]のシンボルカラー :* [[静岡鉄道|静鉄]]オレンジツアー :* [[東海道本線]]のラインカラー :*: [[国鉄80系電車|80系]]およびその塗色を踏襲した[[湘南電車]]の[[黄かん色]]に由来。 :*: この塗色はアメリカの[[グレート・ノーザン鉄道]]の車両に着想を得て、視認性に優れる明るい色合いを採用したものであるが、後付けで静岡県あるいは神奈川県西部の特産のミカンとお茶、あるいはミカンの実と葉をイメージしたと説明されることがある。 === その他の地域のミカンにまつわる事柄 === * アメリカでは温州ミカンは「サツママンダリン」と呼ばれ、1878年に[[フロリダ州]]に移入された。温暖な南部では大規模な栽培が行われており、[[アラバマ州]]には「'''[[:en:Satsuma, Alabama|Satsuma]]'''」という名前の町がある。 * [[イギリス]]や[[カナダ]]では年末年始に皮が固く剥け難いオレンジに替わって、ミカンを食べて家族と一緒の時間を過ごすのが100年以上前から続く伝統的な家庭での風景。そのため、ミカンはクリスマスオレンジと呼ばれている<ref>[https://j-town.net/2014/10/09193163.html?p=all 愛媛からカナダから、世界に広げる「クリスマスオレンジ」]</ref>。 * [[大韓民国|韓国]]の[[済州島]]ではミカンの木一株で子どもの大学学費まで賄えるほどの収入を得られたことから「大学の木」と呼ばれる。 === キャラクター === * かつて放送されていた子供向け番組『[[ウゴウゴルーガ]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)に[[ミカンせいじん]]という[[コンピュータグラフィックス|CG]]キャラクターが登場した。そのシュールさから人気を得て、[[スクリーンセーバー]]等の関連グッズが発売。後に『[[ガチャガチャポン!]]』やフジテレビHPデジタルコミック『週刊少年タケシ』等で復活した。 * [[サンエックス]]のキャラクターである[[みかんぼうや]]が、2003年から2006年まで[[ハウス食品]]「フルーチェ」のイメージキャラクター「フルーチェメイツ」の一員に起用されていた。 === ミカンと歌 === * ミカンにまつわる歌として最も知られている『[[みかんの花咲く丘]]』は終戦直後の1946年に生み出された。急ごしらえで作られた曲であったが大反響を呼び、以後[[童謡]]として現在まで歌い継がれている。歌の舞台は静岡県[[伊東市]]である。 * 1996年に[[ヘヴィメタル]]バンドの[[SEX MACHINEGUNS]]が、愛媛みかんに対する感情を『[[みかんのうた]]』として歌い上げた。 * 2006年には[[GTP (音楽グループ)|GTP]]のシングル『[[冷凍みかん (曲)|冷凍みかん]]』が静岡県を中心にヒットし、連動して冷凍みかんの売上が急増した。 * 1970年代から活躍していたフォークデュオ、[[あのねのね]]の10枚目のシングルとして『みかんの心ぼし』(1980年9月25日)が発売されヒットした。後にPART2も発売された。 * 2001年にシンガーソングライターの[[福山雅治]]が『[[f (福山雅治のアルバム)|蜜柑色の夏休み]]』という楽曲を発表している。長崎みかんの産地である大村湾沿岸が楽曲の舞台である。 === その他 === * 日本の代表的な[[果物]]であり、冬になれば「[[炬燵]]の上にミカン」という光景が一般家庭に多く見られる。 * 落語には、真夏に季節外れのミカンを求める『[[千両蜜柑]]』という演目がある。 * 腐りやすい上に箱詰めされて出荷されるため、1つでも腐ったミカンがあるとすぐに他のミカンも腐ってしまう。この様子は比喩として使われることもある。ドラマ『[[3年B組金八先生]]』でそのたとえが使われた。[[腐ったリンゴ]]も参照。 * 『[[三国志演義]]』には柑子(こうじ)を巡る[[曹操]]と[[左慈]]の逸話が記されている。[[横山光輝]]の漫画『[[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]]』ではこれを「温州蜜柑」と表記しているが、正確には温州産の柑子であり、ウンシュウミカンではない。 * 花言葉は「純潔 花嫁の喜び 清純」 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|pages=190|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author =貝津好孝|title = 日本の薬草|date=1995-07-20|publisher = [[小学館]]|series = 小学館のフィールド・ガイドシリーズ|isbn=4-09-208016-6|page =69|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author =田中孝治|title =効きめと使い方がひと目でわかる 薬草健康法|date=1995-02-15|publisher =[[講談社]]|series=ベストライフ|isbn=4-06-195372-9|page =160|ref=harv}} == 関連項目 == {{commons&cat|Citrus Unshiu group}} {{ウィキポータルリンク|果物|[[画像:Illustration des fruits en pays Bassa.jpg|50px|Portal:果物]]}} * [[冷凍みかん]] * [[サクラジマミカン]] * [[キシュウミカン]] * [[えひめ飲料]]:愛媛県松山市に本社を置く飲料メーカー。ポンジュースが有名。 * [[ジョインジュース]]:JA和歌山県連のブランド。 == 外部リンク == * [https://www.pref.ehime.jp/h35500/kankitsu/ 愛媛かんきつ情報缶] - 愛媛県 * [http://www.ja-arida.or.jp/orange/mikan07.php JAありだ おいしいみかんの見分け方] - ありだ農業協同組合 * [https://www.shizuokamikan.jp/ 静岡県産みかん] - JA静岡経済連柑橘委員会 {{柑橘類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うんしゆうみかん}} [[Category:ウンシュウミカン|*]] [[Category:ミカン属]] [[Category:日本の食文化]] [[Category:温州市]] [[Category:愛媛県の象徴]] [[Category:蜜源植物]] [[Category:薬用植物]]
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バアス党
バアス党(バアスとう、アラビア語: حزب البعث, ラテン文字転写: Ḥizb al-Ba‘th, ヒズブ・アル=バアス)は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党(アラビア語: حزب البعث العربي الاشتراكي, ラテン文字転写: Ḥizb al-Baʻth al-ʻArabī al-Ishtirākī)。日本では慣用としてバース党 とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「バアス」と発音・表記する。 「バアス」(بعث)とはアラビア語で「復興」「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は中国から西はスペインに及ぶ広大な領土を勢力下に置き、化学や医学など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている。更に、アラブ社会主義・汎アラブ主義(アラブ民族主義)を併せ持つ政治的主張を有している。(かつてエジプトでガマール・アブドゥル=ナーセルらが目指した様に)アラブ近代化もイデオロギー上で大前提としている為、イスラム原理主義(イスラム主義)とは対立している。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」(أمة عربية واحد ذات رسالة خالدة)をスローガンとし、「統一」(وحدة)、「自由」(حرية)、「社会主義」(اشتراكية)の実現をめざす。一連の思想を「バアス主義」と言う。 バアス党の結党当初の目標は、西洋によって線引きされた既存の国家群を解体し、統一したアラブ民族による国家を建国することが目的であり(バアス党のシンボルにも表されている)、その領土は西は北アフリカのモーリタニアから、東はイランのフーゼスターン州、南は東アフリカのソマリアまで含まれる。 バアス党の創設者の一人であるミシェル・アフラクがフランス共産党の植民地政策容認に失望するまでは共産党の活動家だったようにマルクス主義の影響はあるものの(サラーフッディーン・アル=ビータールもマルクス主義者であった)、イラクのバアス党はアブドルカリーム・カーシム首相がアラブ連合共和国への参加を拒むとイラク支部長のフアード・リカービーは閣僚を辞任して1956年からのカーシムの属する国民民主党(英語版)やイラク共産党との同盟 を解消してカーシム暗殺未遂事件を起こし、ラマダーン革命の際はカーシムを支持した共産党を弾圧している(1963年11月イラククーデターでバアス党はナセル主義者に追放され、7月17日革命で樹立したアフマド・ハサン・アル=バクル政権は共産党とイラク国民進歩戦線を結成し、共産党員を2名入閣させるも後に弾圧し、小さなセクトのみ容認した)。シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており、現在のバッシャール・アル=アサド政権下でもシリア国民進歩戦線でシリア共産党と連立して入閣させ続けている など容共である。 バアス党の源流は20世紀の初頭にさかのぼることが出来、シリア人の思想家ミシェル・アフラク(1910年 - 1989年)らによって基本的な政治信条が形成されていった。第1回の公式の党大会は1947年4月7日にダマスカスで開催、最初は軍の少壮将校や知識人など限られた層で成り立っていたが、次第に影響力を強め1954年 - 1958年にシリアを本拠にイラク・レバノン・ヨルダン・イエメンに党地域指導部を置いた(カタールとチュニジアにも存在したが、両国政府により非合法化される)。しかし、アフラクの亡命を受け入れたイラク・バアス党はシリア・バアス党と主導権と正統性を争い、その他諸国のバアス党もレバノンを除いてダマスカスではなく、バグダードの路線に従った。 2011年のアラブの春の発端ともなるジャスミン革命以後チュニジアでバアス党が公認された。 正式名称はアラブ社会主義バアス党シリア地域指導部。現在のバアス党政権は、その他の社会主義、共産主義、民族主義政党と連立して、翼賛組織「国民進歩戦線」(PNF)を結成している。 1940年12月にニーチェ、マルクス、ヘーゲル、フィヒテ、ベルグソンの思想に影響 を受けたアラウィー派アラブ民族主義者ザキー・アル=アルスーズィーとその弟子たちがダマスカスで秘密結社「アラブ・バアス」として結成。 1947年、ダマスカスでアッ=タリーア(アラビア語: الطليعة、al-Tali`a、前衛)の編集者でアラブ復活運動(Harakat al-Ihya al-'Arabi)を率いたミシェル・アフラクとサラーフッディーン・アル=ビータールらが中心となり結党大会を開き、政党(アラブ・バアス党)として正式に発足。1953年、アクラム・アル=ホーラーニーが率いるアラブ社会党と合併し、アラブ社会主義バアス党に改称。1963年3月8日のクーデター(バアス革命)で政権党となった。しかし、1966年シリアクーデターでアフラクら党民族指導部はサラーフ・ジャディードら党シリア地域指導部に追放され、1967年の第三次中東戦争にてシリアが敗北すると、党穏健派のハーフィズ・アル=アサドが1970年のクーデター(矯正運動)で政権を握る。 シリアとイラクの同党は、同じバアス党を名乗り、同じ年に政権を握ったものの、両国の主導権争いや、アル=アルスーズィーを担いだジャディードとアサドたちに権力闘争で敗れたアフラクをイラクが保護したことのしこりなどもあり、対立関係にあった。 シリアに厳しい態度を取っていたブッシュ米政権下において、レバノン問題やパレスチナ紛争で対立するシリアを孤立化させるため、バアス党をテロ組織に指定すべきだとアメリカ議会の対シリア強硬派議員、保守派の評論家が提案したことがあるが、実現には至っていない。 正式名称はアラブ社会主義バアス党イラク地域指導部。イラク・バアス党は、シリアで創設されたバアス党のイラク支部として結成された。1951年4月7日に「党地域指導部」(RC)が設立され、その翌年の1952年に「党民族指導部」(NC)が設置された。党地域指導部初代書記長はフアード・リカービー。 1968年7月のクーデター(7月17日革命)から2003年3月のイラク戦争によってサッダーム・フセイン政権が倒れるまでイラクにおいて一党独裁政治を敷いていた。 1967年にアメリカと国交を断絶し、1972年にソ連と友好条約を締結、1970年代末にかけて一時ソ連との関係は好転する。 1979年にサッダーム・フセインが大統領となり、「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とするイラク・ナショナリズム(ワタニーヤ)とアラブ民族主義(カウミーヤ)を融合した独自のバアス主義をつくりあげ、4度の中東戦争を主導するもイスラエルとの和平を結んだエジプトを前年の1978年のバグダードのサミットでアラブ連盟から追放させたイラクをアラブの盟主にすることを目指した。 1980年にイラクはイラン・イラク戦争を起こして多くのアラブ諸国やソ連、フランス、中国など東西の大国から武器の援助を受け、アメリカとは国交を回復させ(1984年)、イランを支援したシリア・バアス党や北朝鮮 に対しては国交を断絶した。 世界第四の軍事大国となったことで領土的野心を強めたイラクは、湾岸戦争ではルマイラ油田をめぐる対立でクウェートに侵攻するもアメリカなどの多国籍軍に敗北した。 2003年4月にアメリカの侵攻によりフセイン政権が崩壊すると、大半の党幹部が隣国シリアに逃亡した。5月にはアメリカ軍によりバアス党の解党宣言、連合国暫定当局により「非バアス化指令」が出され、バアス党の元幹部党員に対する公職追放が行われた。これにより、旧政権下で働いてきた公務員や教師、大学教授、裁判官、警察官、医師らが一斉に失職した。 この「非バアス化」政策については、国務省やCPAの前身である復興人道支援室(ORHA)の関係者などから「戦後のイラク統治を困難にする」として反対する意見も出されていたが、国防総省やホワイトハウス内のいわゆる「ネオコン」に近いグループ、そのネオコンに接近していた反体制派組織「イラク国民会議」(INC)のアフマド・チャラビーが強硬にこの「非バアス化」政策を推進した。この措置は後に、イラク復興に必要な人材を一掃してしまったとして、イラク軍解体と共に、アメリカの占領政策の失敗として批判された。 このことから、元党員でもあったイヤード・アッラーウィー暫定政府首相によって一部に限って元党員の公職追放の緩和措置が行なわれた。しかし、バアス党に対して強硬なイブラーヒーム・アル=ジャアファリー移行政府首相の下では、より厳しい全ての元バアス党員に対する公職追放や罰則を設けた「非バアス化法」が議会によって可決され、これにより、議会内に元党員の公職復帰を阻止するための監視機関「非バアス化委員会」が設置された。 しかし、この措置には多くの元幹部党員を輩出したスンナ派アラブ人が猛反発し、その結果、ヌーリー・マーリキー政権下で、旧政権下で犯罪行為に手を染めなかった幹部党員・下級党員に限って公職追放全面解除、年金支給、社会復帰サポートが行なわれるという『責任と正義』法が議会で可決された。これにより、多くの元党員の公職復帰が認められることになった。また、イラク政府と国外で活動しているイラク・バアス党との間で、和解に向けた交渉も行われるようになった。 しかし、2009年下半期にイラク国内でテロが続発すると、シーア派主導のイラク政府からテロの背後にバアス党がいると非難され、元党員に対する対応が硬化した。2010年1月、「正義と責任追及委員会」(非バアス化委員会の後身組織)は3月に開かれる議会選挙に立候補している候補者に「サッダーム旧政権の支持者が紛れている」として、元バアス党員と旧政権情報機関出身の立候補者の選挙参加を禁止すると発表した。この措置については、スンナ派政党や世俗派政党が反発して裁判所に上訴し、イラク上級裁判所も「正義と責任追及委員会」の決定を無効と判断したが、この決定に今度はイラク政府とシーア派政党が反発を示し、判断を最高裁判所に委ねた。これにより最高裁は「正義と責任追及委員会」の決定を認め、元党員の立候補は禁止された。 現在のイラク共和国新憲法では、バアス党とそれに連なる組織は犯罪組織に指定されており、再結党や思想の普及、同党に対する支持や礼讃は禁じられている。また、イラク当局に起訴され、逮捕されている元バアス党幹部の資産没収などが決定されている。 現在のバアス党指導者(RC書記長)は、イッザト・イブラーヒーム元革命指導評議会副議長であり、イブラーヒームはサッダームの処刑を受け、この役職に就いた。しかし、サッダームの死によって党内の路線対立には歯止めが利かなくなり、一部の党幹部はイブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い、元党軍事局メンバーであった若手のバアス幹部党員ムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新たな指導者に任命した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行った。この結果、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。 当初、両派はシリアを拠点に活動しており、実質シリア政府の庇護を受けていると見られていたが、その支援は一様でなく、イラク・バアス党側においてもシリア政府に対する姿勢は派閥によって異なる。二つの派閥のうちイブラーヒームおよびその派閥は、イランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。またイブラーヒームは、ユーニス派との内訌による党分裂に際して声明を発しており、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難した。イブラーヒームはシリア政府を敵視して、同政府への懐疑的姿勢を崩さず、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別、シリア国内で活動するスンニ派の反体制勢力との連帯を表明するなど対立関係にある。対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。イラク政府は旧バアス党幹部の身柄引渡しを同国政府に求めている。 イラク・バアス党は、イラク国内やシリアだけでなく、ヨルダンやイエメンなどの近隣アラブ諸国、フランスなどの欧州にも在外指導部を置き、資金工作や地下刊行物の発行を通じてイラク国内の旧政権残党勢力を支援しているともされる。特にバアス党幹部が結成させた反帝国主義を掲げた統一戦線イラク愛国同盟(Iraqi Patriotic Alliance)は共産主義者からイスラーム主義者といった多くの反米テロ組織を集めており、サッダームの公認だったと言われる。 2008年12月18日、ニューヨーク・タイムズはイラク治安担当者の話として、内務省・対テロ部隊の隊員ら35人がバアス党政権復活のためにクーデターを企てたと報じた。一方、イラク内務省は逮捕されたのは同省の交通警察副部長などの幹部や下級職員で、バアス党系の武装組織「アル=アウダ」のメンバーであるという容疑で逮捕され、尋問を受けていると発表し、対テロ部隊とは関係が無いとした。彼らはクーデターでは無く、内務省ビルを放火しようとした容疑が掛けられているとした。 ただ、本当に彼らが容疑を企てたのかについては疑問も出ており、事件の発端が同省の腐敗告発にある、あるいは逮捕された職員は互いに面識も無いとの報道もある。その後、イラク政府自身がクーデター疑惑自体を否定する発表を行なった。 2009年8月26日、イラク軍は8月19日に財務省と外務省を狙った爆弾テロ事件の首謀者として、元バアス党員のウィサーム・アリー・カーズィム・イブラーヒーム(Wissam Ali Kadhem Ibrahim )という人物を逮捕したと発表し、供述の模様をビデオ映像で記者団に公開した。映像では、ウィサームと名乗る人物は、自分が1975年にバアス党に入党し、1995年までディヤーラー県の警察官をしており、2002年まで弁護士をしていたこと、旧政権崩壊まで同県のムクダーディーヤ市のバアス党指導者であり、2005年にイラクからシリアへと亡命し、そこでイラク・バアス党のユーニス派に加わり、2007年8月にイラクに戻ったことなどを語った。 ウィサームは、テロの一ヶ月前に彼の上司に当たり、シリア在住のイラク・バアス党ユーニス派幹部のサッターム・ファルハーンという人物が、「イラクを混乱させるよう」テロ計画の実行を命じられたことを明らかにした。 10月25日には、司法省とバグダード県庁を狙った同時テロが起き、イラク政府は前回と同様に、シリアに拠点を置くバアス党の残党勢力が、アル=カーイダと連携して今回のテロを実行したと発表。再度、テロに関与したとして逮捕された、元バアス党員と名乗る男の供述を公開している。 パリに拠点を置く「Intelligence Online」のウェブサイトは、中央情報局がダマスカスにおいてイラク・バアス党指導者と会合を開いたと報じた。会合でバアス党側は、武装闘争を停止する条件としてバアス党の政治参加を認めることや、バアス党系武装勢力のイラク軍への編入、非バアス化法の廃止を求めたという。会合はヨルダン総合情報部の斡旋により2009年夏から始まった。アメリカの目的は、シーア派主導のイラク政府とバアス党との和解を仲介することであるとされ、Intelligence Onlineは「CIAの戦略が失敗すれば、米軍は内戦下の最中にある国から撤収することになるだろう」と警告している。 2010年4月28日、サッダームの誕生日に合わせてシリアの首都ダマスカスで、フセイン政権崩壊後初のイラク・バアス党の集会が開かれた。集会で演説したバアス党幹部のガズワーン・アル=クバイスィー(Ghazwan al-Qubaisi)は、アメリカの「占領」を非難し、イラク国民の団結を呼びかけた。また、イラク現政府に対しても「全てのバアス党員とナショナリストの政治参加を妨害し、国民再融和から離れた」と批判した。バアス党内の分裂についても否定し、サッダームを「英雄であり殉教者」と認定し、イラクの国民的抵抗を支持し続けるとした。集会には約500人が参加し、シリア文化省が所管するホールで行われた。 2011年10月、イラク政府は国内でのテロを企てていたとして旧イラク軍将校を含む620人もの元バアス党員を拘束し、加えて350人の元党員に対して逮捕状を公布したと明らかにした。 内務省幹部のアドナーン・アル=アサディーによれば実際の逮捕者リストには800人以上の元バアス党員が含まれているとして、バアス党員が2011年末の米軍撤退後に暴動や暗殺、シーア派を狙った爆弾テロを等を計画していたという。アサディーによれば、バアス党はイラク・イスラム国を通じてイラクの聖戦アル=カーイダ組織と協力しており、資金提供、情報提供、兵站支援などがバアス党の役目であるという。 イブラーヒームと彼が率いる聖戦と解放の最高司令部およびナクシュバンディー軍などの武装集団はISILと協調しており、2014年にはモースル攻略などにも参加して、ISILのイラク北西部における勢力拡大を助けた。しかし、イブラーヒーム派の支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、同盟関係決裂の際、これらの元党関係者はISILによるイブラーヒーム派攻撃に加担した。またイブラーヒームの率いる武装組織はイラク政府との戦闘も継続しており苦境に陥った。そして、2015年4月18日、イラク軍が17日に行った掃討作戦によりイブラーヒームが死亡したと発表された。イラク軍当局は「遺体がイブラーヒームであることは95%確実」とし、遺体は検視のためバグダードに移送するとしている。シーア派民兵組織によって行われたDNA鑑定の結果、遺体がイブラーヒーム本人であることが確認され、20日に遺体がイラク政府に引き渡された。また、同年6月5日にはフセイン政権時代に副首相や外相を歴任したターリク・アズィーズが獄中で心臓発作を起こし、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。フセイン政権崩壊後のイブラーヒム及びアズィーズ両名のイラク情勢に対する実際の影響力は限定的であったと考えられているが、2003年のイラク戦争によるフセイン政権崩壊の直前まで最高幹部としてイラク国民に認知され、長年に渡り政権を支えていた二人の死は旧体制の完全な終焉を象徴し残党勢力の益々の弱体化に繋がると考えられる。 イブラーヒーム派がISILに対する協力を停止し、イブラーヒームが戦死するなか、イラク政府はイラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している。 レバノンでは同じバアス党がイラク派とシリア派に分裂した。イラク派は2003年のサッダーム体制崩壊と共に消滅したが、2006年6月、「アラブ社会主義レバノン前衛党(アラビア語版)」として再生した。 ヨルダンでは1954年にバアス党が結党されたが、その後非合法化された。1993年にイラク・バアス党との違いを明確にするために党名を「ヨルダン・アラブ社会主義バアス党」とした。 イエメンのバアス党は、「イエメン・アラブ社会主義バアス党地域指導部」として発足。現在は二派に分裂。分派は党名を「バアス民族党」として再編成したが、イエメン代議員が機能停止状態にあり主だった活動はしていない。 パレスチナではバアス主義を掲げる二つの組織、「アラブ解放戦線(アラビア語版)」(ALF)と「サーイカ(アラビア語版)」がイラク、シリア両バアス党の支援下に設立された。ALFがイラク・バアス党の、サーイカがシリア・バアス党の陣営に属した。 現在もイラク・バアス党を支持するのは、ヨルダンとイエメンのバアス党だけである。 また、弱小政党ながらスーダンやモーリタニア、バーレーンにもバアス党が存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "バアス党(バアスとう、アラビア語: حزب البعث, ラテン文字転写: Ḥizb al-Ba‘th, ヒズブ・アル=バアス)は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党(アラビア語: حزب البعث العربي الاشتراكي, ラテン文字転写: Ḥizb al-Baʻth al-ʻArabī al-Ishtirākī)。日本では慣用としてバース党 とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「バアス」と発音・表記する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「バアス」(بعث)とはアラビア語で「復興」「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は中国から西はスペインに及ぶ広大な領土を勢力下に置き、化学や医学など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている。更に、アラブ社会主義・汎アラブ主義(アラブ民族主義)を併せ持つ政治的主張を有している。(かつてエジプトでガマール・アブドゥル=ナーセルらが目指した様に)アラブ近代化もイデオロギー上で大前提としている為、イスラム原理主義(イスラム主義)とは対立している。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」(أمة عربية واحد ذات رسالة خالدة)をスローガンとし、「統一」(وحدة)、「自由」(حرية)、「社会主義」(اشتراكية)の実現をめざす。一連の思想を「バアス主義」と言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "バアス党の結党当初の目標は、西洋によって線引きされた既存の国家群を解体し、統一したアラブ民族による国家を建国することが目的であり(バアス党のシンボルにも表されている)、その領土は西は北アフリカのモーリタニアから、東はイランのフーゼスターン州、南は東アフリカのソマリアまで含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "バアス党の創設者の一人であるミシェル・アフラクがフランス共産党の植民地政策容認に失望するまでは共産党の活動家だったようにマルクス主義の影響はあるものの(サラーフッディーン・アル=ビータールもマルクス主義者であった)、イラクのバアス党はアブドルカリーム・カーシム首相がアラブ連合共和国への参加を拒むとイラク支部長のフアード・リカービーは閣僚を辞任して1956年からのカーシムの属する国民民主党(英語版)やイラク共産党との同盟 を解消してカーシム暗殺未遂事件を起こし、ラマダーン革命の際はカーシムを支持した共産党を弾圧している(1963年11月イラククーデターでバアス党はナセル主義者に追放され、7月17日革命で樹立したアフマド・ハサン・アル=バクル政権は共産党とイラク国民進歩戦線を結成し、共産党員を2名入閣させるも後に弾圧し、小さなセクトのみ容認した)。シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており、現在のバッシャール・アル=アサド政権下でもシリア国民進歩戦線でシリア共産党と連立して入閣させ続けている など容共である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "バアス党の源流は20世紀の初頭にさかのぼることが出来、シリア人の思想家ミシェル・アフラク(1910年 - 1989年)らによって基本的な政治信条が形成されていった。第1回の公式の党大会は1947年4月7日にダマスカスで開催、最初は軍の少壮将校や知識人など限られた層で成り立っていたが、次第に影響力を強め1954年 - 1958年にシリアを本拠にイラク・レバノン・ヨルダン・イエメンに党地域指導部を置いた(カタールとチュニジアにも存在したが、両国政府により非合法化される)。しかし、アフラクの亡命を受け入れたイラク・バアス党はシリア・バアス党と主導権と正統性を争い、その他諸国のバアス党もレバノンを除いてダマスカスではなく、バグダードの路線に従った。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2011年のアラブの春の発端ともなるジャスミン革命以後チュニジアでバアス党が公認された。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式名称はアラブ社会主義バアス党シリア地域指導部。現在のバアス党政権は、その他の社会主義、共産主義、民族主義政党と連立して、翼賛組織「国民進歩戦線」(PNF)を結成している。", "title": "シリア・バアス党" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1940年12月にニーチェ、マルクス、ヘーゲル、フィヒテ、ベルグソンの思想に影響 を受けたアラウィー派アラブ民族主義者ザキー・アル=アルスーズィーとその弟子たちがダマスカスで秘密結社「アラブ・バアス」として結成。", "title": "シリア・バアス党" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1947年、ダマスカスでアッ=タリーア(アラビア語: الطليعة、al-Tali`a、前衛)の編集者でアラブ復活運動(Harakat al-Ihya al-'Arabi)を率いたミシェル・アフラクとサラーフッディーン・アル=ビータールらが中心となり結党大会を開き、政党(アラブ・バアス党)として正式に発足。1953年、アクラム・アル=ホーラーニーが率いるアラブ社会党と合併し、アラブ社会主義バアス党に改称。1963年3月8日のクーデター(バアス革命)で政権党となった。しかし、1966年シリアクーデターでアフラクら党民族指導部はサラーフ・ジャディードら党シリア地域指導部に追放され、1967年の第三次中東戦争にてシリアが敗北すると、党穏健派のハーフィズ・アル=アサドが1970年のクーデター(矯正運動)で政権を握る。", "title": "シリア・バアス党" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "シリアとイラクの同党は、同じバアス党を名乗り、同じ年に政権を握ったものの、両国の主導権争いや、アル=アルスーズィーを担いだジャディードとアサドたちに権力闘争で敗れたアフラクをイラクが保護したことのしこりなどもあり、対立関係にあった。", "title": "シリア・バアス党" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "シリアに厳しい態度を取っていたブッシュ米政権下において、レバノン問題やパレスチナ紛争で対立するシリアを孤立化させるため、バアス党をテロ組織に指定すべきだとアメリカ議会の対シリア強硬派議員、保守派の評論家が提案したことがあるが、実現には至っていない。", "title": "シリア・バアス党" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "正式名称はアラブ社会主義バアス党イラク地域指導部。イラク・バアス党は、シリアで創設されたバアス党のイラク支部として結成された。1951年4月7日に「党地域指導部」(RC)が設立され、その翌年の1952年に「党民族指導部」(NC)が設置された。党地域指導部初代書記長はフアード・リカービー。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1968年7月のクーデター(7月17日革命)から2003年3月のイラク戦争によってサッダーム・フセイン政権が倒れるまでイラクにおいて一党独裁政治を敷いていた。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1967年にアメリカと国交を断絶し、1972年にソ連と友好条約を締結、1970年代末にかけて一時ソ連との関係は好転する。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1979年にサッダーム・フセインが大統領となり、「イラク人民とは文明発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とするイラク・ナショナリズム(ワタニーヤ)とアラブ民族主義(カウミーヤ)を融合した独自のバアス主義をつくりあげ、4度の中東戦争を主導するもイスラエルとの和平を結んだエジプトを前年の1978年のバグダードのサミットでアラブ連盟から追放させたイラクをアラブの盟主にすることを目指した。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1980年にイラクはイラン・イラク戦争を起こして多くのアラブ諸国やソ連、フランス、中国など東西の大国から武器の援助を受け、アメリカとは国交を回復させ(1984年)、イランを支援したシリア・バアス党や北朝鮮 に対しては国交を断絶した。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "世界第四の軍事大国となったことで領土的野心を強めたイラクは、湾岸戦争ではルマイラ油田をめぐる対立でクウェートに侵攻するもアメリカなどの多国籍軍に敗北した。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2003年4月にアメリカの侵攻によりフセイン政権が崩壊すると、大半の党幹部が隣国シリアに逃亡した。5月にはアメリカ軍によりバアス党の解党宣言、連合国暫定当局により「非バアス化指令」が出され、バアス党の元幹部党員に対する公職追放が行われた。これにより、旧政権下で働いてきた公務員や教師、大学教授、裁判官、警察官、医師らが一斉に失職した。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この「非バアス化」政策については、国務省やCPAの前身である復興人道支援室(ORHA)の関係者などから「戦後のイラク統治を困難にする」として反対する意見も出されていたが、国防総省やホワイトハウス内のいわゆる「ネオコン」に近いグループ、そのネオコンに接近していた反体制派組織「イラク国民会議」(INC)のアフマド・チャラビーが強硬にこの「非バアス化」政策を推進した。この措置は後に、イラク復興に必要な人材を一掃してしまったとして、イラク軍解体と共に、アメリカの占領政策の失敗として批判された。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このことから、元党員でもあったイヤード・アッラーウィー暫定政府首相によって一部に限って元党員の公職追放の緩和措置が行なわれた。しかし、バアス党に対して強硬なイブラーヒーム・アル=ジャアファリー移行政府首相の下では、より厳しい全ての元バアス党員に対する公職追放や罰則を設けた「非バアス化法」が議会によって可決され、これにより、議会内に元党員の公職復帰を阻止するための監視機関「非バアス化委員会」が設置された。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、この措置には多くの元幹部党員を輩出したスンナ派アラブ人が猛反発し、その結果、ヌーリー・マーリキー政権下で、旧政権下で犯罪行為に手を染めなかった幹部党員・下級党員に限って公職追放全面解除、年金支給、社会復帰サポートが行なわれるという『責任と正義』法が議会で可決された。これにより、多くの元党員の公職復帰が認められることになった。また、イラク政府と国外で活動しているイラク・バアス党との間で、和解に向けた交渉も行われるようになった。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、2009年下半期にイラク国内でテロが続発すると、シーア派主導のイラク政府からテロの背後にバアス党がいると非難され、元党員に対する対応が硬化した。2010年1月、「正義と責任追及委員会」(非バアス化委員会の後身組織)は3月に開かれる議会選挙に立候補している候補者に「サッダーム旧政権の支持者が紛れている」として、元バアス党員と旧政権情報機関出身の立候補者の選挙参加を禁止すると発表した。この措置については、スンナ派政党や世俗派政党が反発して裁判所に上訴し、イラク上級裁判所も「正義と責任追及委員会」の決定を無効と判断したが、この決定に今度はイラク政府とシーア派政党が反発を示し、判断を最高裁判所に委ねた。これにより最高裁は「正義と責任追及委員会」の決定を認め、元党員の立候補は禁止された。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現在のイラク共和国新憲法では、バアス党とそれに連なる組織は犯罪組織に指定されており、再結党や思想の普及、同党に対する支持や礼讃は禁じられている。また、イラク当局に起訴され、逮捕されている元バアス党幹部の資産没収などが決定されている。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現在のバアス党指導者(RC書記長)は、イッザト・イブラーヒーム元革命指導評議会副議長であり、イブラーヒームはサッダームの処刑を受け、この役職に就いた。しかし、サッダームの死によって党内の路線対立には歯止めが利かなくなり、一部の党幹部はイブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い、元党軍事局メンバーであった若手のバアス幹部党員ムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新たな指導者に任命した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行った。この結果、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当初、両派はシリアを拠点に活動しており、実質シリア政府の庇護を受けていると見られていたが、その支援は一様でなく、イラク・バアス党側においてもシリア政府に対する姿勢は派閥によって異なる。二つの派閥のうちイブラーヒームおよびその派閥は、イランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。またイブラーヒームは、ユーニス派との内訌による党分裂に際して声明を発しており、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難した。イブラーヒームはシリア政府を敵視して、同政府への懐疑的姿勢を崩さず、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別、シリア国内で活動するスンニ派の反体制勢力との連帯を表明するなど対立関係にある。対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。イラク政府は旧バアス党幹部の身柄引渡しを同国政府に求めている。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "イラク・バアス党は、イラク国内やシリアだけでなく、ヨルダンやイエメンなどの近隣アラブ諸国、フランスなどの欧州にも在外指導部を置き、資金工作や地下刊行物の発行を通じてイラク国内の旧政権残党勢力を支援しているともされる。特にバアス党幹部が結成させた反帝国主義を掲げた統一戦線イラク愛国同盟(Iraqi Patriotic Alliance)は共産主義者からイスラーム主義者といった多くの反米テロ組織を集めており、サッダームの公認だったと言われる。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2008年12月18日、ニューヨーク・タイムズはイラク治安担当者の話として、内務省・対テロ部隊の隊員ら35人がバアス党政権復活のためにクーデターを企てたと報じた。一方、イラク内務省は逮捕されたのは同省の交通警察副部長などの幹部や下級職員で、バアス党系の武装組織「アル=アウダ」のメンバーであるという容疑で逮捕され、尋問を受けていると発表し、対テロ部隊とは関係が無いとした。彼らはクーデターでは無く、内務省ビルを放火しようとした容疑が掛けられているとした。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ただ、本当に彼らが容疑を企てたのかについては疑問も出ており、事件の発端が同省の腐敗告発にある、あるいは逮捕された職員は互いに面識も無いとの報道もある。その後、イラク政府自身がクーデター疑惑自体を否定する発表を行なった。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2009年8月26日、イラク軍は8月19日に財務省と外務省を狙った爆弾テロ事件の首謀者として、元バアス党員のウィサーム・アリー・カーズィム・イブラーヒーム(Wissam Ali Kadhem Ibrahim )という人物を逮捕したと発表し、供述の模様をビデオ映像で記者団に公開した。映像では、ウィサームと名乗る人物は、自分が1975年にバアス党に入党し、1995年までディヤーラー県の警察官をしており、2002年まで弁護士をしていたこと、旧政権崩壊まで同県のムクダーディーヤ市のバアス党指導者であり、2005年にイラクからシリアへと亡命し、そこでイラク・バアス党のユーニス派に加わり、2007年8月にイラクに戻ったことなどを語った。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ウィサームは、テロの一ヶ月前に彼の上司に当たり、シリア在住のイラク・バアス党ユーニス派幹部のサッターム・ファルハーンという人物が、「イラクを混乱させるよう」テロ計画の実行を命じられたことを明らかにした。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "10月25日には、司法省とバグダード県庁を狙った同時テロが起き、イラク政府は前回と同様に、シリアに拠点を置くバアス党の残党勢力が、アル=カーイダと連携して今回のテロを実行したと発表。再度、テロに関与したとして逮捕された、元バアス党員と名乗る男の供述を公開している。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "パリに拠点を置く「Intelligence Online」のウェブサイトは、中央情報局がダマスカスにおいてイラク・バアス党指導者と会合を開いたと報じた。会合でバアス党側は、武装闘争を停止する条件としてバアス党の政治参加を認めることや、バアス党系武装勢力のイラク軍への編入、非バアス化法の廃止を求めたという。会合はヨルダン総合情報部の斡旋により2009年夏から始まった。アメリカの目的は、シーア派主導のイラク政府とバアス党との和解を仲介することであるとされ、Intelligence Onlineは「CIAの戦略が失敗すれば、米軍は内戦下の最中にある国から撤収することになるだろう」と警告している。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2010年4月28日、サッダームの誕生日に合わせてシリアの首都ダマスカスで、フセイン政権崩壊後初のイラク・バアス党の集会が開かれた。集会で演説したバアス党幹部のガズワーン・アル=クバイスィー(Ghazwan al-Qubaisi)は、アメリカの「占領」を非難し、イラク国民の団結を呼びかけた。また、イラク現政府に対しても「全てのバアス党員とナショナリストの政治参加を妨害し、国民再融和から離れた」と批判した。バアス党内の分裂についても否定し、サッダームを「英雄であり殉教者」と認定し、イラクの国民的抵抗を支持し続けるとした。集会には約500人が参加し、シリア文化省が所管するホールで行われた。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2011年10月、イラク政府は国内でのテロを企てていたとして旧イラク軍将校を含む620人もの元バアス党員を拘束し、加えて350人の元党員に対して逮捕状を公布したと明らかにした。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "内務省幹部のアドナーン・アル=アサディーによれば実際の逮捕者リストには800人以上の元バアス党員が含まれているとして、バアス党員が2011年末の米軍撤退後に暴動や暗殺、シーア派を狙った爆弾テロを等を計画していたという。アサディーによれば、バアス党はイラク・イスラム国を通じてイラクの聖戦アル=カーイダ組織と協力しており、資金提供、情報提供、兵站支援などがバアス党の役目であるという。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イブラーヒームと彼が率いる聖戦と解放の最高司令部およびナクシュバンディー軍などの武装集団はISILと協調しており、2014年にはモースル攻略などにも参加して、ISILのイラク北西部における勢力拡大を助けた。しかし、イブラーヒーム派の支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、同盟関係決裂の際、これらの元党関係者はISILによるイブラーヒーム派攻撃に加担した。またイブラーヒームの率いる武装組織はイラク政府との戦闘も継続しており苦境に陥った。そして、2015年4月18日、イラク軍が17日に行った掃討作戦によりイブラーヒームが死亡したと発表された。イラク軍当局は「遺体がイブラーヒームであることは95%確実」とし、遺体は検視のためバグダードに移送するとしている。シーア派民兵組織によって行われたDNA鑑定の結果、遺体がイブラーヒーム本人であることが確認され、20日に遺体がイラク政府に引き渡された。また、同年6月5日にはフセイン政権時代に副首相や外相を歴任したターリク・アズィーズが獄中で心臓発作を起こし、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。フセイン政権崩壊後のイブラーヒム及びアズィーズ両名のイラク情勢に対する実際の影響力は限定的であったと考えられているが、2003年のイラク戦争によるフセイン政権崩壊の直前まで最高幹部としてイラク国民に認知され、長年に渡り政権を支えていた二人の死は旧体制の完全な終焉を象徴し残党勢力の益々の弱体化に繋がると考えられる。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "イブラーヒーム派がISILに対する協力を停止し、イブラーヒームが戦死するなか、イラク政府はイラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している。", "title": "イラク・バアス党" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "レバノンでは同じバアス党がイラク派とシリア派に分裂した。イラク派は2003年のサッダーム体制崩壊と共に消滅したが、2006年6月、「アラブ社会主義レバノン前衛党(アラビア語版)」として再生した。", "title": "その他のバアス党" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ヨルダンでは1954年にバアス党が結党されたが、その後非合法化された。1993年にイラク・バアス党との違いを明確にするために党名を「ヨルダン・アラブ社会主義バアス党」とした。", "title": "その他のバアス党" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イエメンのバアス党は、「イエメン・アラブ社会主義バアス党地域指導部」として発足。現在は二派に分裂。分派は党名を「バアス民族党」として再編成したが、イエメン代議員が機能停止状態にあり主だった活動はしていない。", "title": "その他のバアス党" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "パレスチナではバアス主義を掲げる二つの組織、「アラブ解放戦線(アラビア語版)」(ALF)と「サーイカ(アラビア語版)」がイラク、シリア両バアス党の支援下に設立された。ALFがイラク・バアス党の、サーイカがシリア・バアス党の陣営に属した。", "title": "その他のバアス党" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現在もイラク・バアス党を支持するのは、ヨルダンとイエメンのバアス党だけである。", "title": "その他のバアス党" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、弱小政党ながらスーダンやモーリタニア、バーレーンにもバアス党が存在する。", "title": "その他のバアス党" } ]
バアス党は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党。日本では慣用としてバース党 とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「バアス」と発音・表記する。 「バアス」(بعث‎)とはアラビア語で「復興」「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は中国から西はスペインに及ぶ広大な領土を勢力下に置き、化学や医学など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている。更に、アラブ社会主義・汎アラブ主義(アラブ民族主義)を併せ持つ政治的主張を有している。(かつてエジプトでガマール・アブドゥル=ナーセルらが目指した様に)アラブ近代化もイデオロギー上で大前提としている為、イスラム原理主義(イスラム主義)とは対立している。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」をスローガンとし、「統一」(وحدة‎)、「自由」(حرية‎)、「社会主義」(اشتراكية‎)の実現をめざす。一連の思想を「バアス主義」と言う。 バアス党の結党当初の目標は、西洋によって線引きされた既存の国家群を解体し、統一したアラブ民族による国家を建国することが目的であり(バアス党のシンボルにも表されている)、その領土は西は北アフリカのモーリタニアから、東はイランのフーゼスターン州、南は東アフリカのソマリアまで含まれる。 バアス党の創設者の一人であるミシェル・アフラクがフランス共産党の植民地政策容認に失望するまでは共産党の活動家だったようにマルクス主義の影響はあるものの。シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており、現在のバッシャール・アル=アサド政権下でもシリア国民進歩戦線でシリア共産党と連立して入閣させ続けている など容共である。 バアス党の源流は20世紀の初頭にさかのぼることが出来、シリア人の思想家ミシェル・アフラクらによって基本的な政治信条が形成されていった。第1回の公式の党大会は1947年4月7日にダマスカスで開催、最初は軍の少壮将校や知識人など限られた層で成り立っていたが、次第に影響力を強め1954年 - 1958年にシリアを本拠にイラク・レバノン・ヨルダン・イエメンに党地域指導部を置いた(カタールとチュニジアにも存在したが、両国政府により非合法化される)。しかし、アフラクの亡命を受け入れたイラク・バアス党はシリア・バアス党と主導権と正統性を争い、その他諸国のバアス党もレバノンを除いてダマスカスではなく、バグダードの路線に従った。 2011年のアラブの春の発端ともなるジャスミン革命以後チュニジアでバアス党が公認された。
{{政党 |国名 = [[アラブ世界|アラブ諸国]] |党名 = バアス党 |公用語名 = {{Rtl-lang|ar|حزب البعث}} |色相 = {{Ba'ath Party/meta/color}} |画像 = Flag of the Ba'ath Party.svg |画像サイズ = 150px |画像説明 = 党旗 |成立年月日 = [[1947年]]{{small|(アラブ・バアス党としての成立年)}}<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%85%9A-114448#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2018年9月23日閲覧。</ref><ref name="Britannica">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%85%9A-114448#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2018年9月23日閲覧。</ref><ref name="chiezo">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%85%9A-114448#E7.9F.A5.E6.81.B5.E8.94.B5 知恵蔵] [[コトバンク]]. 2018年9月23日閲覧。</ref><br/>[[1953年]]{{small|(アラブ社会党との合併・党名改称)}}<ref name="nipponica"/><ref name="Britannica"/><ref name="chiezo"/><ref name="mype">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%85%9A-114448#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア] [[コトバンク]]. 2018年9月23日閲覧。</ref> |解散年月日 = |解散理由 = |後継政党 = |前身政党 = アラブ・バアス党<ref name="nipponica"/><ref name="Britannica"/><ref name="chiezo"/><ref name="mype"/><br/>[[アラブ社会党]]<ref name="nipponica"/><ref name="Britannica"/><ref name="chiezo"/><ref name="mype"/> |郵便番号 = |本部所在地 = {{SYR}} [[ダマスカス県]] [[ダマスカス]]<ref name="mype"/> |政治的思想・立場 = [[汎アラブ主義]]<ref name="nipponica"/><ref name="mype"/><br/>[[:en:Ba'athism|バアス主義]]<br/>[[左翼]]<br/>[[民族統一主義]]<ref name="nipponica"/><ref name="Britannica"/><ref name="chiezo"/><ref name="mype"/><br/>[[反帝国主義|反植民地主義]]<ref name="nipponica"/><br/>[[反シオニズム]]<ref name="nipponica"/><br/>[[社会主義]]<ref name="Britannica"/><ref name="chiezo"/><ref name="mype"/><br/>[[アラブ社会主義]]<ref name="chiezo"/> |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |その他 = }} '''バアス党'''(バアスとう、{{Rtl翻字併記|ar|'''حزب البعث'''|Ḥizb al-Ba‘th}}, ヒズブ・アル=バアス)は、[[シリア]]・[[イラク]]などの[[アラブ世界|アラブ諸国]]で活動する[[汎アラブ主義]][[政党]]<ref name="nipponica"/>。公式名称は'''アラブ社会主義復興党'''({{Rtl翻字併記|ar|حزب البعث العربي الاشتراكي|Ḥizb al-Baʻth al-ʻArabī al-Ishtirākī}}<ref>{{cite journal|last=Agwani|first=M. S.|year=1961|title=The Baʻth: A Study in Contemporary Arab Politics|journal=International Studies|doi=10.1177/002088176100300102|page=6}}</ref>)<ref name="nipponica"/><ref name="Britannica"/><ref name="mype"/>。[[日本]]では慣用として'''バース党'''<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180130/k00/00m/030/029000c シリア:「国民対話会議」開催へ 主要な反体制派参加拒否] [[毎日新聞]]. (2018年1月29日, 19時36分) 2018年9月23日閲覧。</ref> とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「'''バアス'''」と発音・表記する<ref name="nipponica"/>。 「バアス」({{Rtl-lang|ar|بعث}})とは[[アラビア語]]で「復興」「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は[[中国]]から西は[[スペイン]]に及ぶ広大な[[領土]]を勢力下に置き、[[化学]]や[[医学]]など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている<ref>授業番組「現代の国際政治」シリーズ 第8回「イラク(1)同盟者サダム・フセイン」([[放送大学]]、講義:[[高橋和夫 (国際政治学者)|高橋和夫]]放送大学教授)</ref>。更に、[[アラブ社会主義]]・[[汎アラブ主義]](アラブ[[民族主義]])を併せ持つ政治的主張を有している。(かつてエジプトで[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]らが目指した様に)アラブ[[近代化]]も[[イデオロギー]]上で大前提としている為、[[イスラム原理主義]]([[イスラム主義]])とは対立している。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」({{Rtl-lang|ar|أمة عربية واحد ذات رسالة خالدة}})をスローガンとし、「統一」({{Rtl-lang|ar|وحدة}})、「[[自由]]」({{Rtl-lang|ar|حرية}})、「[[社会主義]]」({{Rtl-lang|ar|اشتراكية}})の実現をめざす。一連の思想を「バアス主義」と言う。 バアス党の結党当初の目標は、西洋によって線引きされた既存の国家群を解体し、統一したアラブ民族による国家を建国することが目的であり(バアス党のシンボルにも表されている)、その領土は西は[[北アフリカ]]の[[モーリタニア]]から、東は[[イラン]]の[[フーゼスターン州]]、南は[[東アフリカ]]の[[ソマリア]]まで含まれる。 バアス党の創設者の一人である[[ミシェル・アフラク]]が[[フランス共産党]]の[[植民地]]政策容認に失望するまでは共産党の活動家<ref>Arab Socialism. [al-Ishtirakīyah Al-ʻArabīyah]: A Documentary Survey, Sami Ayad Hanna, p.297.</ref>{{sfn|Ali|2003|p=[https://books.google.co.jp/books?id=C8h_VjG4ucsC&pg=PA110&redir_esc=y&hl=ja 110]}}だったように[[マルクス主義]]の影響はあるものの{{sfn|Salem|1994|p=[https://books.google.co.jp/books?id=KZru-kaTZCcC&pg=PA68&redir_esc=y&hl=ja 68]}}([[サラーフッディーン・アル=ビータール]]もマルクス主義者であった<ref>The Old Social Classes and New Revolutionary Movements of Iraq, Hanna Batatu, pp. 724-725.</ref>)、イラクのバアス党は[[アブドルカリーム・カーシム]]首相が[[アラブ連合共和国]]への参加を拒むとイラク支部長の[[:en:Fuad al-Rikabi|フアード・リカービー]]は閣僚を辞任して[[1956年]]からのカーシムの属する{{仮リンク|国民民主党 (イラク)|label=国民民主党|en|National Democratic Party (Iraq)}}や[[イラク共産党]]との同盟<ref>Ghareeb, Edmund A.; Dougherty, Beth K. Historical Dictionary of Iraq. Lanham, Maryland and Oxford: The Scarecrow Press, Ltd., 2004. Pp. 104.</ref> を解消してカーシム[[暗殺]]未遂事件を起こし、[[ラマダーン革命]]の際はカーシムを支持した共産党を[[弾圧]]している([[1963年11月イラククーデター]]でバアス党はナセル主義者に追放され、[[7月17日革命]]で樹立した[[アフマド・ハサン・アル=バクル]]政権は共産党と[[:en:National Progressive Front (Iraq)|イラク国民進歩戦線]]を結成し、共産党員を2名入閣させるも後に弾圧し、小さな[[セクト]]のみ容認した<ref>{{cite book | author = [[Charles R. H. Tripp|Tripp, Charles]] | pages = 200–201 | title = A History of Iraq | location = | publisher = [[Cambridge University Press]] | year = 2010 | isbn = 052152900X}}</ref><ref>Ismael, Tareq Y. ''[https://books.google.co.jp/books?id=6uAvs4HqVLIC&redir_esc=y&hl=ja The Rise and Fall of the Communist Party of Iraq]''. [[Cambridge]]/[[ニューヨーク|New York]]: Cambridge University Press, 2008. pp. 185-186</ref><ref>Ilario Salucci. A People's History of Iraq: The Iraqi Communist Party, Workers' Movements and the Left, 1924-2004 .</ref>)。シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており<ref name="Commins">{{Harvnb|Commins|2004|p=183}}</ref><ref>Laqueur, Walter (1969). The Struggle for the Middle East: The Soviet Union and the Middle East, 1958-68. Routledge. p. 88.</ref><ref>Abdulghani 1984, p. 28.</ref>、現在の[[バッシャール・アル=アサド]]政権下でも[[:en:National Progressive Front (Syria)|シリア国民進歩戦線]]でシリア共産党と連立して入閣させ続けている<ref>[http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/aljabal/biladalsham/syria/ministers.htm 現代東アラブ地域情勢研究ネットワーク - シリア内閣]</ref> など[[容共]]である。 バアス党の源流は20世紀の初頭にさかのぼることが出来、シリア人の思想家ミシェル・アフラク([[1910年]] - [[1989年]])らによって基本的な政治信条が形成されていった。第1回の公式の党大会は[[1947年]][[4月7日]]に[[ダマスカス]]で開催、最初は軍の少壮将校や[[知識人]]など限られた層で成り立っていたが、次第に影響力を強め[[1954年]] - [[1958年]]にシリアを本拠にイラク・[[レバノン]]・[[ヨルダン]]・[[イエメン]]に党地域指導部を置いた([[カタール]]と[[チュニジア]]にも存在したが、両国政府により非合法化される)。しかし、アフラクの亡命を受け入れたイラク・バアス党はシリア・バアス党と主導権と正統性を争い、その他諸国のバアス党もレバノンを除いてダマスカスではなく、[[バグダード]]の路線に従った。 [[2011年]]の[[アラブの春]]の発端ともなる[[ジャスミン革命]]以後[[チュニジア]]でバアス党が公認された。 == シリア・バアス党 == {{Seealso|バアス党政権 (シリア)}} {| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;" |- | || [[ファイル:The philosopher Zaki al-Arsuzi.jpg|200px]] |- | colspan="2" style="text-align: left;" |ザキー・アル=アルスーズィー |} 正式名称は'''アラブ社会主義バアス党シリア地域指導部'''。現在のバアス党政権は、その他の[[社会主義]]、[[共産主義]]、[[民族主義]]政党と連立して、翼賛組織「国民進歩戦線」(PNF)を結成している。 1940年12月に[[ニーチェ]]、[[カール・マルクス|マルクス]]、[[ヘーゲル]]、[[フィヒテ]]、[[ベルグソン]]の思想に影響<ref>Arab Nationalism :A History Nation and State in the Arab World, Youssef M. Choueiri, p.144~145</ref> を受けた[[アラウィー派]]アラブ民族主義者[[ザキー・アル=アルスーズィー]]とその弟子たちがダマスカスで秘密結社「アラブ・バアス」として結成。 [[1947年]]、ダマスカスでアッ=タリーア({{lang-ar|الطليعة}}、al-Tali`a、前衛)の編集者でアラブ復活運動(Harakat al-Ihya al-'Arabi)を率いたミシェル・アフラクとサラーフッディーン・アル=ビータールらが中心となり結党大会を開き、政党(アラブ・バアス党)として正式に発足。1953年、[[アクラム・アル=ホーラーニー]]が率いる[[アラブ社会党]]と合併し、アラブ社会主義バアス党に改称。[[1963年]]3月8日のクーデター([[3月8日革命|バアス革命]])で政権党となった。しかし、[[1966年シリアクーデター]]でアフラクら党民族指導部は[[サラーフ・ジャディード]]ら党シリア地域指導部に追放され、[[1967年]]の第三次[[中東戦争]]にてシリアが敗北すると、党穏健派の[[ハーフィズ・アル=アサド]]が[[1970年]]の[[クーデター]]([[矯正運動 (シリア)|矯正運動]])で政権を握る。 シリアとイラクの同党は、同じバアス党を名乗り、同じ年に政権を握ったものの、両国の主導権争いや、アル=アルスーズィーを担いだジャディードとアサドたちに権力闘争で敗れたアフラクをイラクが保護したことのしこりなどもあり<ref>Historical Dictionary of Syria, David Dean Commins, p.47</ref><ref>Asad: The Struggle for the Middle East, Patrick Seale, p.89</ref>、対立関係にあった。 シリアに厳しい態度を取っていたブッシュ米政権下において、レバノン問題やパレスチナ紛争で対立するシリアを孤立化させるため、バアス党をテロ組織に指定すべきだとアメリカ議会の対シリア強硬派議員、保守派の評論家が提案したことがあるが、実現には至っていない。 == イラク・バアス党 == {{Seealso|バアス党政権 (イラク)}} {| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;" |- | || [[ファイル:Maflaq.jpg|200px]] |- | colspan="2" style="text-align: left;" |ミシェル・アフラク |} 正式名称は'''アラブ社会主義バアス党イラク地域指導部'''。イラク・バアス党は、シリアで創設されたバアス党の[[イラク]]支部として結成された。1951年4月7日に「党地域指導部」(RC)が設立され、その翌年の1952年に「党民族指導部」(NC)が設置された。党地域指導部初代書記長はフアード・リカービー。 [[1968年]][[7月]]の[[クーデター]]([[7月17日革命]])から[[2003年]]3月の[[イラク戦争]]によって[[サッダーム・フセイン]][[政権]]が倒れるまでイラクにおいて[[一党独裁制|一党独裁]]政治を敷いていた。 [[1967年]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[国交]]を断絶し、[[1972年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]と友好条約を締結、[[1970年代]]末にかけて一時ソ連との関係は好転する。 [[1979年]]にサッダーム・フセインが大統領となり、「イラク人民とは文明発祥の地、古代[[メソポタミア]]の民の子孫である」とするイラク・ナショナリズム(ワタニーヤ)とアラブ民族主義(カウミーヤ)を融合した独自のバアス主義をつくりあげ<ref>Orit Bashkin. The other Iraq: pluralism and culture in Hashemite Iraq. Stanford, California, USA: Stanford University Press, 2009. Pp. 174.</ref>、4度の[[中東戦争]]を主導するも[[イスラエル]]との和平を結んだエジプトを前年の[[1978年]]のバグダードのサミットで[[アラブ連盟]]から追放させたイラクをアラブの盟主にすることを目指した<ref>Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 (Winter 1979-80)</ref>。 [[1980年]]にイラクは[[イラン・イラク戦争]]を起こして多くのアラブ諸国やソ連、[[フランス]]、[[中華人民共和国|中国]]など東西の大国から武器の援助を受け<ref>[http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/values.php SIPRI Database] Indicates that of $29,079 million of arms exported to Iraq from 1980 to 1988 the Soviet Union accounted for $16,808 million, France $4,591 million, and China $5,004 million (Info must be entered)</ref>、アメリカとは[[国交]]を回復させ([[1984年]])、イランを支援したシリア・バアス党や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]<ref>{{Cite book|和書|author=小牧輝夫 |year=1981 |title=労働党第6回大会の年 : 1980年の朝鮮民主主義人民共和国 |url=https://doi.org/10.20561/00039211 |series=アジア動向年報 1981年版 |publisher=アジア経済研究所 |pages=67,77 |doi=10.20561/00039211 |NCID=BN02174620}}</ref> に対しては国交を断絶した<ref>{{cite web|url=http://www.ncnk.org/resources/briefing-papers/all-briefing-papers/dprk-diplomatic-relations|title=DPRK Diplomatic Relations|publisher=National Committee on North Korea|accessdate=2016-08-29}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ncnk.org/resources/briefing-papers/all-briefing-papers/dprk-diplomatic-relations|title=DPRK Diplomatic Relations|publisher=National Committee on North Korea|accessdate=2017-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.erina.or.jp/columns-opinion/5613/|title=イラン・イラク戦争における北朝鮮のイラン派兵|author=宮本悟|publisher=環日本経済研究所|date=2007-08-01|accessdate=2017-07-25}}</ref>。 世界第四の軍事大国となったことで領土的野心を強めたイラクは、[[湾岸戦争]]では[[ルマイラ油田]]をめぐる対立で[[クウェート]]に侵攻するもアメリカなどの[[多国籍軍]]に敗北した。 === フセイン政権崩壊後のイラク・バアス党 === 2003年4月にアメリカの侵攻によりフセイン政権が崩壊すると、大半の党幹部が隣国シリアに[[逃亡]]した。5月には[[アメリカ軍]]によりバアス党の解党宣言、[[連合国暫定当局]]により「非バアス化指令」が出され、バアス党の元幹部党員に対する[[公職追放]]が行われた。これにより、旧政権下で働いてきた[[公務員]]や教師、[[大学]][[教授]]、[[裁判官]]、[[警察官]]、[[医師]]らが一斉に失職した。 この「非バアス化」政策については、[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]やCPAの前身である復興人道支援室(ORHA)の関係者などから「[[戦後]]のイラク統治を困難にする」として反対する意見も出されていたが<ref>イラク戦争開戦2カ月前、[[日本国政府|日本政府]]と国務省はサッダーム体制崩壊後も全面的なバアス党員に対する公職追放は行わずに新生イラク軍や官僚機構に、犯罪行為に加担していない幹部を登用する方向で一致していた。しかし2003年1月20日に出された「国家安全保障大統領令」により、 戦後復興は国務省ではなく[[アメリカ国防総省|国防総省]]の管轄となり、この方針は放棄されたという([[共同通信]] [[2006年]][[3月19日]]配信記事より)。</ref>、国防総省や[[ホワイトハウス]]内のいわゆる「[[新保守主義 (アメリカ合衆国)|ネオコン]]」に近いグループ、そのネオコンに接近していた反体制派組織「[[イラク国民会議]]」(INC)の[[アフマド・チャラビー]]が強硬にこの「非バアス化」政策を推進した。この措置は後に、イラク復興に必要な人材を一掃してしまったとして、イラク軍解体と共に、アメリカの占領政策の失敗として批判された。 このことから、元党員でもあった[[イヤード・アッラーウィー]]暫定政府首相によって一部に限って元党員の公職追放の緩和措置が行なわれた。しかし、バアス党に対して強硬な[[イブラーヒーム・アル=ジャアファリー]]移行政府首相の下では、より厳しい全ての元バアス党員に対する公職追放や罰則を設けた「非バアス化法」が議会によって可決され、これにより、議会内に元党員の公職復帰を阻止するための監視機関「非バアス化委員会」が設置された。 しかし、この措置には多くの元幹部党員を輩出した[[スンナ派]][[アラブ人]]が猛反発し、その結果、[[ヌーリー・マーリキー]]政権下で、旧政権下で[[犯罪]]行為に手を染めなかった幹部党員・下級党員に限って公職追放全面解除、[[年金]]支給、社会復帰サポートが行なわれるという『責任と正義』法が[[国民議会 (イラク)|議会]]で可決された。これにより、多くの元党員の公職復帰が認められることになった。また、イラク政府と国外で活動しているイラク・バアス党との間で、和解に向けた交渉も行われるようになった。 しかし、2009年下半期にイラク国内でテロが続発すると、[[シーア派]]主導のイラク政府からテロの背後にバアス党がいると非難され、元党員に対する対応が硬化した。2010年1月、「正義と責任追及委員会」(非バアス化委員会の後身組織)は3月に開かれる議会選挙に立候補している候補者に「サッダーム旧政権の支持者が紛れている」として、元バアス党員と旧政権情報機関出身の立候補者の選挙参加を禁止すると発表した。この措置については、スンナ派政党や世俗派政党が反発して裁判所に上訴し、イラク上級裁判所も「正義と責任追及委員会」の決定を無効と判断したが、この決定に今度はイラク政府とシーア派政党が反発を示し、判断を最高裁判所に委ねた。これにより最高裁は「正義と責任追及委員会」の決定を認め、元党員の立候補は禁止された。 現在のイラク共和国新憲法では、バアス党とそれに連なる組織は'''犯罪組織'''に指定されており、再結党や思想の普及、同党に対する支持や礼讃は禁じられている。また、イラク当局に[[起訴]]され、[[逮捕]]されている元バアス党幹部の[[資産]]没収などが決定されている。 現在のバアス党指導者(RC書記長)は、[[イッザト・イブラーヒーム]]元[[革命指導評議会]]副議長であり、イブラーヒームはサッダームの処刑を受け、この役職に就いた。しかし、サッダームの死によって党内の路線対立には歯止めが利かなくなり、一部の党幹部はイブラーヒームの下を離脱。シリア東部の[[ハサカ]]にて会議を行い、元党軍事局メンバーであった若手のバアス幹部党員[[ムハンマド・ユーニス・アル=アフマド]]を新たな指導者に任命した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行った。この結果、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。 当初、両派はシリアを拠点に活動しており、実質シリア政府の庇護を受けていると見られていたが、その支援は一様でなく、イラク・バアス党側においてもシリア政府に対する姿勢は派閥によって異なる。二つの派閥のうちイブラーヒームおよびその派閥は、イランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。またイブラーヒームは、ユーニス派との内訌による党分裂に際して声明を発しており、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難した<ref>http://www.jamestown.org/fileadmin/JamestownContent/TM_007_3.pdf</ref>。イブラーヒームはシリア政府を敵視して、同政府への懐疑的姿勢を崩さず、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別、シリア国内で活動するスンニ派の反体制勢力との連帯を表明するなど対立関係にある。対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。イラク政府は旧バアス党幹部の身柄引渡しを同国政府に求めている。 イラク・バアス党は、イラク国内やシリアだけでなく、[[ヨルダン]]や[[イエメン]]などの近隣[[アラブ世界|アラブ諸国]]、[[フランス]]などの[[ヨーロッパ|欧州]]にも在外指導部を置き、資金工作や地下刊行物の発行を通じてイラク国内の旧政権残党勢力を支援しているともされる。特にバアス党幹部が結成させた反[[帝国主義]]を掲げた[[統一戦線]]イラク愛国同盟(Iraqi Patriotic Alliance)は[[共産主義]]者から[[イスラーム主義]]者といった多くの[[反米]]テロ組織を集めており、サッダームの公認だったと言われる。 [[2008年]][[12月18日]]、[[ニューヨーク・タイムズ]]はイラク治安担当者の話として、内務省・対テロ部隊の隊員ら35人がバアス党政権復活のためにクーデターを企てたと報じた。一方、イラク内務省は逮捕されたのは同省の交通警察副部長などの幹部や下級職員で、バアス党系の武装組織「[[アル=アウダ]]」のメンバーであるという容疑で逮捕され、尋問を受けていると発表し、対テロ部隊とは関係が無いとした。彼らはクーデターでは無く、内務省ビルを放火しようとした容疑が掛けられているとした。 ただ、本当に彼らが容疑を企てたのかについては疑問も出ており、事件の発端が同省の腐敗告発にある、あるいは逮捕された職員は互いに面識も無いとの報道もある。その後、イラク政府自身がクーデター疑惑自体を否定する発表を行なった。 [[2009年]][[8月26日]]、イラク軍は8月19日に財務省と外務省を狙った爆弾テロ事件の首謀者として、元バアス党員のウィサーム・アリー・カーズィム・イブラーヒーム(Wissam Ali Kadhem Ibrahim )という人物を逮捕したと発表し、供述の模様をビデオ映像で記者団に公開した。映像では、ウィサームと名乗る人物は、自分が1975年にバアス党に入党し、1995年まで[[ディヤーラー県]]の[[警察官]]をしており、2002年まで弁護士をしていたこと、旧政権崩壊まで同県のムクダーディーヤ市のバアス党指導者であり、2005年にイラクからシリアへと亡命し、そこでイラク・バアス党のユーニス派に加わり、2007年8月にイラクに戻ったことなどを語った。 ウィサームは、テロの一ヶ月前に彼の上司に当たり、シリア在住のイラク・バアス党ユーニス派幹部のサッターム・ファルハーンという人物が、「イラクを混乱させるよう」テロ計画の実行を命じられたことを明らかにした。 10月25日には、司法省とバグダード県庁を狙った同時テロが起き、イラク政府は前回と同様に、シリアに拠点を置くバアス党の残党勢力が、アル=カーイダと連携して今回のテロを実行したと発表。再度、テロに関与したとして逮捕された、元バアス党員と名乗る男の供述を公開している。 [[パリ]]に拠点を置く「Intelligence Online」のウェブサイトは、[[中央情報局]]がダマスカスにおいてイラク・バアス党指導者と会合を開いたと報じた<ref>[http://www.upi.com/Top_News/Special/2010/01/11/CIA-seeks-truce-with-Iraqi-Baathists/UPI-21111263231071/ CIA 'seeks truce with Iraqi Baathists']</ref>。会合でバアス党側は、武装闘争を停止する条件としてバアス党の政治参加を認めることや、バアス党系武装勢力のイラク軍への編入、非バアス化法の廃止を求めたという。会合は[[ヨルダン総合情報部]]の斡旋により2009年夏から始まった。アメリカの目的は、シーア派主導のイラク政府とバアス党との和解を仲介することであるとされ、Intelligence Onlineは「CIAの戦略が失敗すれば、米軍は内戦下の最中にある国から撤収することになるだろう」と警告している。 [[2010年]]4月28日、サッダームの誕生日に合わせてシリアの首都[[ダマスカス]]で、フセイン政権崩壊後初のイラク・バアス党の集会が開かれた。集会で演説したバアス党幹部のガズワーン・アル=クバイスィー(Ghazwan al-Qubaisi)は、アメリカの「占領」を非難し、イラク国民の団結を呼びかけた。また、イラク現政府に対しても「全てのバアス党員とナショナリストの政治参加を妨害し、国民再融和から離れた」と批判した<ref>[http://www.france24.com/en/20100429-iraqs-banned-baath-holds-first-public-meeting-syria Iraq's banned Baath holds first public meeting in Syria] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100501031839/http://www.france24.com/en/20100429-iraqs-banned-baath-holds-first-public-meeting-syria |date=2010年5月1日 }}</ref>。バアス党内の分裂についても否定し、サッダームを「英雄であり殉教者」と認定し、イラクの国民的抵抗を支持し続けるとした。集会には約500人が参加し、シリア文化省が所管するホールで行われた<ref>[http://seattletimes.nwsource.com/html/nationworld/2011734931_apmlsyriairaq.html Saddam's loyalists in Syria blast US]</ref>。 2011年10月、イラク政府は国内でのテロを企てていたとして旧イラク軍将校を含む620人もの元バアス党員を拘束し、加えて350人の元党員に対して逮捕状を公布したと明らかにした。 内務省幹部のアドナーン・アル=アサディーによれば実際の逮捕者リストには800人以上の元バアス党員が含まれているとして、バアス党員が2011年末の米軍撤退後に[[暴動]]や[[暗殺]]、シーア派を狙った爆弾テロを等を計画していたという。アサディーによれば、バアス党は[[イラク・イスラム国]]を通じて[[イラクの聖戦アル=カーイダ組織]]と協力しており、資金提供、情報提供、兵站支援などがバアス党の役目であるという<ref>{{cite news|url=http://uk.reuters.com/article/2011/11/18/uk-iraq-withdrawal-qaeda-idUKTRE7AH11U20111118 |title=U.S. pullout gives al Qaeda space in north, west Iraq|publisher=Reuters|date=2011-11-18|language=en}}</ref>。 イブラーヒームと彼が率いる[[:en:Supreme Command for Jihad and Liberation|聖戦と解放の最高司令部]]および[[:en:Army of the Men of the Naqshbandi Order|ナクシュバンディー軍]]などの武装集団は[[ISIL]]と協調しており、2014年には[[モースル]]攻略などにも参加して、ISILのイラク北西部における勢力拡大を助けた。しかし、イブラーヒーム派の支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、同盟関係決裂の際、これらの元党関係者はISILによるイブラーヒーム派攻撃に加担した。またイブラーヒームの率いる武装組織はイラク政府との戦闘も継続しており苦境に陥った。そして、2015年4月18日、イラク軍が17日に行った掃討作戦によりイブラーヒームが死亡したと発表された。イラク軍当局は「遺体がイブラーヒームであることは95%確実」とし、遺体は検視のためバグダードに移送するとしている。シーア派民兵組織によって行われた[[DNA鑑定]]の結果、遺体がイブラーヒーム本人であることが確認され、20日に遺体がイラク政府に引き渡された。また、同年6月5日にはフセイン政権時代に副首相や外相を歴任した[[ターリク・アズィーズ]]が獄中で心臓発作を起こし、病院に搬送されたが、間もなく死亡した。フセイン政権崩壊後のイブラーヒム及びアズィーズ両名のイラク情勢に対する実際の影響力は限定的であったと考えられているが、2003年の[[イラク戦争]]によるフセイン政権崩壊の直前まで最高幹部としてイラク国民に認知され、長年に渡り政権を支えていた二人の死は旧体制の完全な終焉を象徴し残党勢力の益々の弱体化に繋がると考えられる。 イブラーヒーム派がISILに対する協力を停止し、イブラーヒームが戦死するなか、イラク政府はイラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。しかし、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している<ref>{{cite news|url=http://www.al-monitor.com/pulse/politics/2015/11/baath-party-iraq-amendments-shiites.html|title=Could Iraq’s Baathists help in battle against Islamic State?|publisher=AL-MONITOR|author=Abdel Wahed Tohme|date=2015-11-13|language=en}}</ref>。 == その他のバアス党 == レバノンでは同じバアス党がイラク派とシリア派に分裂した。イラク派は2003年のサッダーム体制崩壊と共に消滅したが、2006年6月、「{{仮リンク|アラブ社会主義レバノン前衛党|ar|حزب طليعة لبنان العربي الاشتراكي}}」として再生した。 ヨルダンでは1954年にバアス党が結党されたが、その後非合法化された。1993年にイラク・バアス党との違いを明確にするために党名を「[[:en:Jordanian Arab Socialist Ba'ath Party|ヨルダン・アラブ社会主義バアス党]]」とした。 イエメンのバアス党は、「[[:en:Arab Socialist Ba'ath Party – Yemen Region|イエメン・アラブ社会主義バアス党地域指導部]]」として発足。現在は二派に分裂。分派は党名を「バアス民族党」として再編成したが、[[代議院 (イエメン)|イエメン代議員]]が機能停止状態にあり主だった活動はしていない。 パレスチナではバアス主義を掲げる二つの組織、「{{仮リンク|アラブ解放戦線|ar|جبهة التحرير العربية}}」(ALF)と「{{仮リンク|サーイカ|ar|منظمة الصاعقة}}」がイラク、シリア両バアス党の支援下に設立された。ALFがイラク・バアス党の、サーイカがシリア・バアス党の陣営に属した。 現在もイラク・バアス党を支持するのは、ヨルダンとイエメンのバアス党だけである。 また、弱小政党ながら[[スーダン]]や[[モーリタニア]]、[[バーレーン]]にもバアス党が存在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[バッシャール・アル=アサド]](シリアのバアス党シリア地域指導部書記長・同国の現大統領) * [[ハーフィズ・アル=アサド]](シリアのバアス党民族指導部前書記長・シリア地域指導部前書記長・同国の前大統領) * [[ワリード・アル=ムアッリム]](シリアの外相、党員) * [[シリアの政党]] * [[イラクのお尋ね者トランプカード]] == 外部リンク == * {{Kotobank|バース党}} {{イラクの政党}} {{シリアの政党}} {{イエメンの政党}} {{チュニジアの政党}} {{poli-stub}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:はあすとう}} [[Category:バアス党|*]] [[Category:イラクの政党]] [[Category:シリアの政党]] [[Category:レバノンの政党]] [[Category:ヨルダンの政党]] [[Category:イエメンの政党]] [[Category:チュニジアの政党]] [[Category:20世紀以降のイスラム世界史]] [[Category:汎アラブ主義]] [[Category:アラブ社会主義]] [[Category:中東史]] [[Category:トランスナショナル政党]] [[Category:1947年設立の政党・政治団体]] [[Category:ミシェル・アフラク]]
2003-03-20T12:40:44Z
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準結晶
準結晶(じゅんけっしょう、英: quasicrystal)とは結晶ともアモルファス(非晶質)とも異なる、第三の固体物質ともいうべき状態である。結晶を定義づける並進対称性は持たないが、原子配列に高い秩序性を有している。この研究に大きな貢献をしたダニエル・シェヒトマンに2011年のノーベル化学賞が授与された。 結晶は並進対称性を持つことから、その電子線回折等の回折像は1回、2回、3回、4回および6回のいずれかの回転対称性を示す。これに対して、準結晶の回折像は5回、8回、10回または12回対称を示す。また、準結晶の回折図形には鋭い回折スポットが現れており、アモルファスのようにランダムな構造ではなく、高い秩序度を有していることを示している。このように並進対称性(周期性)を持たないが、高い秩序性が存在する構造として、一次元におけるフィボナッチ数列や、二次元におけるペンローズ・パターン(ロジャー・ペンローズによって提唱された)が知られている。このような構造は、高次元空間の結晶構造を、その結晶構造の対称軸に平行でない低次元空間に射影することで得られる。 準結晶は1984年、ダニエル・シェヒトマンによって液体状態から急冷したAl-Mn合金から発見された。初期に発見された準結晶は熱力学的に不安定であり、熱を加えると、より安定な結晶相が析出してしまっていたが、東北大学金属材料研究所(当時)の蔡安邦らによって、Al-Cu-Fe(1987年)やAl-Ni-Co(1989年)といった安定な準結晶が次々と発見された。 シェヒトマンにより発見された準結晶の電子線回折図形は、結晶の回折図形のようにデルタ関数的な回折スポットの集合であるにもかかわらず、2回、3回回転対称性に加え、結晶には存在しない5回回転対称性を示し、正20面体(icosahedron)の対称性を有していた。このような対称性をもつ準結晶はIcosahedral相(I相)と呼ばれている。I相準結晶の構造は3次元ペンローズパターンに原子を修飾したものとして理解されている。また、I相の準結晶の構造中には系の対象性を反映した正20面体状の原子クラスターが存在する。このような局所原子クラスターは準結晶内における原子の種類や構成原子同士の結合の仕方により決定されている。現在までに、3種類の特徴的な局所原子クラスターを有するI相が発見されている。それぞれ、Mackay型、Bergmann型、Tsai型I相と呼ばれている。 Al-Ni-Coなど、正10角柱と同じ対称性をもつDecagonal相(D相)と呼ばれる準結晶相も存在する。D相の準格子は2次元ペンローズパターンであり、この面が積層した構造をもつ。すなわち平面方向には準周期構造、これと垂直な軸方向には周期構造を有している。 このほか、8角形相、12角形相の準結晶が見つかっている。 準結晶の金属に特有の物性として、金属としては異常に高い電気抵抗があげられる。例えば、アルミニウム、銅、鉄はいずれも良導体であるが、これらからなる準結晶Al-Cu-Feでは電気抵抗が10万倍にも達する。また、温度が低くなると抵抗が上昇する(通常の金属の示す性質と逆)、むしろ欠陥が存在する場合の方が抵抗が低い(これも通常の金属の性質と逆)などの特殊な性質を示す。準結晶のフェルミ面には「擬ギャップ」と呼ばれる状態密度の落ち込みがあり、これが特異な電気的性質の原因となっていると考えられている。擬ギャップが存在することで系全体のエネルギーを引き下げ、準結晶の構造を安定化していると考えられている。 バルクとしての準結晶(安定相)は、その非周期性のためへき開面を形成し難く、このため比較的硬くて強靭(脆くない)である。
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準結晶とは結晶ともアモルファス(非晶質)とも異なる、第三の固体物質ともいうべき状態である。結晶を定義づける並進対称性は持たないが、原子配列に高い秩序性を有している。この研究に大きな貢献をしたダニエル・シェヒトマンに2011年のノーベル化学賞が授与された。
[[File:Quasicrystal1.jpg|thumb|アルミニウム・パラジウム・マンガン(Al-Pd-Mn)合金の準結晶の原子配列]] [[File:Ho-Mg-ZnQuasicrystal.jpg|thumb|ホルミウム・マグネシウム・亜鉛(Ho-Mg-Zn)合金の準結晶により生成された[[正十二面体]]([[正二十面体]]の[[双対多面体]])]] '''準結晶'''(じゅんけっしょう、{{lang-en-short|quasicrystal}})とは'''[[結晶]]'''とも'''[[アモルファス]](非晶質)'''とも異なる、第三の固体物質ともいうべき状態である。結晶を定義づける並進対称性は持たないが、原子配列に高い秩序性を有している。この研究に大きな貢献をした[[ダニエル・シェヒトマン]]に2011年の[[ノーベル化学賞]]が授与された。 == 概要 == 結晶は並進対称性を持つことから、その[[電子線]]回折等の[[回折]]像は1回、2回、3回、4回および6回のいずれかの回転対称性を示す。これに対して、準結晶の回折像は5回、8回、10回または12回対称を示す。また、準結晶の回折図形には鋭い回折スポットが現れており、アモルファスのようにランダムな構造ではなく、高い秩序度を有していることを示している。このように並進対称性(周期性)を持たないが、高い秩序性が存在する構造として、一次元における[[フィボナッチ数列]]や、二次元における[[ペンローズ・タイル|ペンローズ・パターン]]([[ロジャー・ペンローズ]]によって提唱された)が知られている。このような構造は、高次元空間の結晶構造を、その結晶構造の対称軸に平行でない低次元空間に[[射影]]することで得られる。 準結晶は[[1984年]]、ダニエル・シェヒトマンによって液体状態から急冷した[[アルミニウム|Al]]-[[マンガン|Mn]]合金から発見された。初期に発見された準結晶は熱力学的に不安定であり、熱を加えると、より安定な結晶相が析出してしまっていたが、[[東北大学]]金属材料研究所(当時)の[[蔡安邦]]らによって、Al-[[銅|Cu]]-[[鉄|Fe]](1987年)やAl-[[ニッケル|Ni]]-[[コバルト|Co]](1989年)といった安定な準結晶が次々と発見された。 == 準結晶の構造 == シェヒトマンにより発見された準結晶の電子線回折図形は、結晶の回折図形のようにデルタ関数的な回折スポットの集合であるにもかかわらず、2回、3回回転対称性に加え、結晶には存在しない5回回転対称性を示し、正20面体(icosahedron)の対称性を有していた。このような対称性をもつ準結晶はIcosahedral相(I相)と呼ばれている。I相準結晶の構造は3次元ペンローズパターンに原子を修飾したものとして理解されている。また、I相の準結晶の構造中には系の対象性を反映した正20面体状の原子クラスターが存在する。このような局所原子クラスターは準結晶内における原子の種類や構成原子同士の結合の仕方により決定されている。現在までに、3種類の特徴的な局所原子クラスターを有するI相が発見されている。それぞれ、Mackay型、Bergmann型、Tsai型I相と呼ばれている。 Al-Ni-Coなど、正10角柱と同じ対称性をもつDecagonal相(D相)と呼ばれる準結晶相も存在する。D相の準格子は2次元ペンローズパターンであり、この面が積層した構造をもつ。すなわち平面方向には準周期構造、これと垂直な軸方向には周期構造を有している。 このほか、8角形相、12角形相の準結晶が見つかっている。 == 準結晶の特異な物性 == 準結晶の金属に特有の物性として、[[金属]]としては異常に高い[[電気抵抗]]があげられる。例えば、アルミニウム、銅、鉄はいずれも良導体であるが、これらからなる準結晶Al-Cu-Feでは電気抵抗が10万倍にも達する<!--日経サイエンス誌1996年9月号より-->。また、温度が低くなると抵抗が上昇する(通常の金属の示す性質と逆)、むしろ欠陥が存在する場合の方が抵抗が低い(これも通常の金属の性質と逆)などの特殊な性質を示す。準結晶の[[フェルミ面]]には「擬ギャップ」と呼ばれる[[状態密度]]の落ち込みがあり、これが特異な電気的性質の原因となっていると考えられている。擬ギャップが存在することで系全体のエネルギーを引き下げ、準結晶の構造を安定化していると考えられている。 バルクとしての準結晶(安定相)は、その非周期性のため[[へき開|へき開面]]を形成し難く、このため比較的硬くて強靭(脆くない)である。 == 関連項目 == * [[結晶学]] * [[物性物理学]] * [[アモルファス]] * [[アモルファス金属]] ==外部リンク== * {{Spedia|Quasicrystals:_unusual_molecular_structure|Quasicrystals}} {{物質の状態}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆんけつしよう}} [[Category:固体]] [[Category:平面充填]]
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暁のビザンティラ
『暁のビザンティラ』(あかつきのビザンティラ)は、菅浩江によるファンタジー風SF小説である。 『暁のビザンティラ』上下巻 二つの月が巡る世界で人々は、人間と心通わす能力を得た動物〈メブ〉と幸せな共生関係を築いていた。 兄が罪を犯したため、成人の証である〈メブ〉を得られないことが決まった少女カイチスは、〈メブ〉を育てる荘園を目指し、旅を始める。生まれた村から初めて出た少女は、女衒に騙され娼館へ売られそうになったところを、通りすがりの女武人に助けられる。彼女の名はビザンティラ。一目でビザンティラに惹かれたカイチスは、彼女と旅するうちに、〈メブ〉と世界に関する衝撃の事実を知ることになる......
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『暁のビザンティラ』(あかつきのビザンティラ)は、菅浩江によるファンタジー風SF小説である。 『暁のビザンティラ』上下巻 著者: 菅浩江 カバー&挿絵: 斉藤友子 発行日・出版社:(上巻)1993年10月22日 /(下巻)1993年11月2日 株式会社アスペクト 定価:(上巻)505円 + 税/(下巻)524円 + 税
{{Portal|文学}} 『'''暁のビザンティラ'''』(あかつきのビザンティラ)は、[[菅浩江]]による[[ファンタジー]]風[[SF小説]]である。 『暁のビザンティラ』上下巻 * 著者: [[菅浩江]] * カバー&挿絵: [[斉藤友子]] * 発行日・出版社:(上巻)[[1993年]][[10月22日]] /(下巻)1993年[[11月2日]] 株式会社[[アスペクト (企業)|アスペクト]] * 定価:(上巻)505[[円 (通貨)|円]] + [[消費税|税]]/(下巻)524円 + 税 == あらすじ == 二つの月が巡る世界で人々は、人間と心通わす能力を得た動物〈メブ〉と幸せな共生関係を築いていた。 兄が罪を犯したため、成人の証である〈メブ〉を得られないことが決まった少女カイチスは、〈メブ〉を育てる荘園を目指し、旅を始める。生まれた村から初めて出た少女は、女衒に騙され娼館へ売られそうになったところを、通りすがりの女武人に助けられる。彼女の名はビザンティラ。一目でビザンティラに惹かれたカイチスは、彼女と旅するうちに、〈メブ〉と世界に関する衝撃の事実を知ることになる…… == 主な登場人物 == ;ビザンティラ :主人公。強く美しい女武人。女性にしては大柄で男言葉を使い、〈メブ〉ではない黄金の鳥ディエルを連れている。荘園や〈メブ〉についての秘密を知っており、ルカス皇帝の手下に追われている。 ;カイチス :小鳥の村で生まれ育った平凡な少女。兄が〈メブ〉との共生に疑問を持つと言う「罪」を犯したため、〈メブ〉を得られず自分の居場所を失ってしまう。恩人であるビザンティラに対し、無自覚ながら恋愛感情を抱いている。 ;バルギアード :ルカス皇帝の部下で、ビザンティラを追う美青年。見た目は優美な貴公子だが冷酷な人物。 ;ベリア・サ・イルテ・コールマ :ルカス皇帝の手からビザンティラを救った女性で、〈地母神〉または〈天つ乙女〉と呼ばれる古き一族と人間の混血。優れた薬師でもある。 ;ムスタ、エオタ、ルクタ・ア・ダント・コールマ :純血の〈天つ乙女〉、最後の三姉妹。〈天つ乙女〉の存在を闇に葬った皇帝の迫害を逃れるために隠れ住んでいたが、長姉ムスタがルカス皇帝に囚われたため、ムスタを助けるべくビザンティラに助力を仰ぐ。 ;ルカス皇帝 :先代皇帝と共に〈メブ〉制度を生み出した現皇帝。 {{DEFAULTSORT:あかつきのひさんていら}} [[Category:日本のファンタジー小説]] [[Category:日本のSF小説]] [[Category:1993年の小説]] [[Category:ログアウト文庫]] {{lit-stub}}
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アテン
アテン、アトン(Aten)は、エジプトの太陽神の一つ。 アテンの神としての最初の言及は、第12王朝時代に書かれた「シヌへの物語」にあり、亡くなった王は天に上げられて神(日輪)と一体となった、と説明されている。 シヌへの物語にあるように、日輪を神格化した神でテーベで祀られていたが、地方神の一つにすぎず、これといった神話もなくどんな神なのかはっきりした性質ももたなかった。そのため、中王国時代においてアテンは太陽神ラーの1つの側面として考えられていた。それ故あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて天体としての太陽を表すようになっていった。 しかし、第18王朝の頃に太陽神に対する信仰が盛んになり、アメンホテプIII世の頃にはラーのように鷹の頭を持つ神として信仰された。 その後、アメンホテプIV世の時代にエジプトの国家神としての地位を一時的に確立した。 アメンホテプIV世が唱えたアテンの正式名は、アテン神の公式名は「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する地平線の支配者ラー」と、アマルナの境界線を示すために配置された多数の碑文に刻まれている。 この名前はしばしばラ・ホルス・アテン、あるいはアテンと略されている。しかし後に、アテンの神性から最初の部分のラー・ホルアクティの名が削除され、「地平線の支配者」という称号に代わった。 第11王朝のテーベの支配者たちは、彼らの地方神であるハヤブサの頭を持つ戦いの神、モンチュを国家神としたが、第12王朝時代になると、アメンが台頭し広く信仰されるようになった。アメン信仰はアメンホテプ4世の治世中に全盛期を迎え、アメンを讃えていたエジプトの神官たち(アメン神団)はファラオをも凌ぐ権勢を誇っていた。 アメンホテプIV世は、即位から5年までの間に、アテン信仰の導入を始めたが、まだ伝統的な神々への崇拝を禁止しなかった。この頃、アテンへ捧げる神殿の他に、従来の神々へ捧げる神殿も建築している。 しかし即位5年目にアメン神団を抑圧し王権を強化する目的で、自分の名前をアクエンアテンに改名し、アメンの文字を削った。 即位7年目に首都をテーベからアマルナへ遷都した。この新都には、「アテンの地平」を意味するアケト・アテンという名が与えられた。 即位9年目に、アメンホテプIV世は王家としてのアメン信仰を停止し、アテン信仰をもってこれに換えたのみならず、他の神々の祭祀を停止し、偶像を破壊するなどしたため、多神教ではなく一神教の様相を呈するに至った。これを「アマルナ宗教改革」または「アマルナ革命」という。この改革に関しては、アメン・ラーの力に対抗する王の試みのひとつであったと考えられる。マネトによるとアメンホテプ3世の時代にもオサルシフ、モーセと呼ばれる神官が同様の改革を行ったとされる。 他の信仰やアテン神以外の神々に仕える神官たちは解雇され、神殿は閉鎖され、その収益はアテンに寄進された。葬送信仰に関する神官の役割さえも変わり、アマルナの貴族の墓の壁面には、死者が神である王に全面的に依存する様子が強調されていた。 このアテン信仰は、アメンホテプIV世によって、新しい宗教としてエジプトに導入されたとは思われず、一般にこの宗教改革は、昔からあった神聖王権の考え方を復活させることに集中した。それによれば王だけが永遠の生命を楽しむことができ、人々は王の慈悲を通して初めて、永遠の生命を獲得することを可能にした。 実際、アテンを除く全ての神々が排斥された結果、かつて唯一神教であった、と考えられた時期もあったものの、アメンホテプIV世が他の神々の存在を積極的に否定しなかったため、現在では唯一神教ではなく、拝一神教と見なしている学者と、単一神教と見なしている学者がいる。 また、アテン信仰は神性をアテンだけに帰するのではなかったことが知られている。アメンホテプIV世は自分自身を「アテンの息子」と宣言し、エジプトの人々に彼を崇拝させようとした。 エジプト人はアメンホテプIV世を崇拝し、アメンホテプIV世とネフェルティティだけがアテンを直接崇拝することができた。 アテンは、動物や人間の形態である他のエジプトの神々と異なり、先端が手になった光線を何本も放ち、その一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現された。これは、全ての人に平等に手を差し出している様子であると言われる。しかしアマルナ改革によりアンクを持った手は、アクエンアテンに手渡されている。この様子は、ファラオの権威を強化する意図で描かれた。 またアテンは、平和と恵みの神とされた。 事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においてもリアリスティックな表現が行われ、アマルナ時代の美術様式は「アマルナ様式」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。 アテン信仰に関しての現存する考古学的遺物は、アマルナの都や墳墓に残る壁画や碑文によってその幾つかの側面をうかがい知ることができる。この中で、最も有名なアテン讃歌があり、アマルナにある幾つかの墓の壁面に刻されている。 この碑文は、アテンが、全人類、動物、鳥、植物などの創造主として発揮した力とこの神が持つ独特な性格とを強調している。 しばしばアテン賛歌と詩編104編の類似が指摘されていた。アテン信仰が世界最古の唯一神教である、という立場から、詩編104編はアテン賛歌を土台としているのではいか、と言われたこともあった。しかし時代も隔たり過ぎており、またアテン信仰も完全な一神教とは認め難く、現在では両者には直接的な関係はなく、共通する精神的基盤が類似の表現をうんだものとされている。 この宗教改革は、あまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、疫病などの蔓延もあり、最終的に失敗に終わった。アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、その息子であるツタンカーメン王の時代にエジプトはアメン信仰に戻った。アテンはアマルナ革命以前の「天体としての太陽」に戻され、アテン信仰は消滅した。 ジークムント・フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形とする説を唱えた。アテンがヘブライ語の主(アディン)と類似するなどの根拠をあげている。
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アテン、アトン(Aten)は、エジプトの太陽神の一つ。
[[ファイル:La salle dAkhenaton (1356-1340 av J.C.) (Musée du Caire) (2076972086).jpg|thumb|180px|アテンを崇拝するファラオ[[アメンホテプ4世]]と彼の家族。]] {{Egyptian mythology}} '''アテン'''、'''アトン'''(Aten)は、[[エジプト文明|エジプト]]の[[太陽神]]の一つ。 == 起源 == アテンの神としての最初の言及は、第12王朝時代に書かれた「[[シヌヘの物語|シヌへの物語]]」にあり<ref>{{Cite book|title=The Complete Gods and Goddesses of Ancient Egypt|date=2003|year=|publisher=Thames & Hudson}}</ref>、亡くなった王は天に上げられて神(日輪)と一体となった、と説明されている。 シヌへの物語にあるように、日輪を神格化した神で[[テーベ]]で祀られていた<ref>なお、テーベで祀られるようになる前には[[ヘリオポリス]]で祀られていたという説には学問的な根拠がない。</ref>が、地方神の一つにすぎず、これといった神話もなくどんな神なのかはっきりした性質ももたなかった。そのため、中王国時代においてアテンは太陽神[[ラー]]の1つの側面として考えられていた。<ref name=":0">{{Cite book|title=Kodai ejiputojin|url=https://www.worldcat.org/oclc/673002815|publisher=筑摩書房|date=1986|isbn=4-480-85307-3|oclc=673002815|others=David, Ann Rosalie., Kondō, Jirō, 1951-, 近藤, 二郎, 1951-}}</ref>それ故あまり信仰は盛り上がらず、後には神性が薄れて天体としての太陽を表すようになっていった。 しかし、第18王朝の頃に太陽神に対する信仰が盛んになり、[[アメンホテプ3世|アメンホテプⅢ世]]の頃にはラーのように鷹の頭を持つ神として信仰された。 その後、[[アメンホテプ4世|アメンホテプⅣ世]]の時代にエジプトの国家神としての地位を一時的に確立した。 アメンホテプⅣ世が唱えたアテンの正式名は、アテン神の公式名は「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する地平線の支配者ラー」と、アマルナの境界線を示すために配置された多数の碑文に刻まれている。 この名前はしばしばラ・ホルス・アテン、あるいはアテンと略されている。しかし後に、アテンの神性から最初の部分のラー・ホルアクティの名が削除され、「地平線の支配者」という称号に代わった。<ref name=":0" /> == アマルナ革命 == === 宗教改革の開始 === 第11王朝のテーベの支配者たちは、彼らの地方神であるハヤブサの頭を持つ戦いの神、[[モンチュ]]を国家神としたが、第12王朝時代になると、アメンが台頭し広く信仰されるようになった。<ref name=":0" />アメン信仰はアメンホテプ4世の治世中に全盛期を迎え、アメンを讃えていたエジプトの神官たち(アメン神団)はファラオをも凌ぐ権勢を誇っていた。 アメンホテプⅣ世は、即位から5年までの間に、アテン信仰の導入を始めたが、まだ伝統的な神々への崇拝を禁止しなかった。この頃、アテンへ捧げる神殿の他に、従来の神々へ捧げる神殿も建築している。<ref name=":0" /> しかし即位5年目にアメン神団を抑圧し王権を強化する目的で、自分の名前をアクエンアテンに改名し、アメンの文字を削った。 即位7年目に首都をテーベからアマルナへ遷都した。この新都には、「アテンの地平」を意味するアケト・アテンという名が与えられた。 即位9年目に、アメンホテプⅣ世は王家としてのアメン信仰を停止し、アテン信仰をもってこれに換えたのみならず、他の神々の祭祀を停止し、偶像を破壊するなどしたため、[[多神教]]ではなく[[一神教]]の様相を呈するに至った。これを「アマルナ宗教改革」または「[[ネフェルティティ#アマルナ革命|アマルナ革命]]」<ref>これが広義の一神教であったのは間違いがないが、現在では、人類史上最初の[[唯一神教]]であった可能性は低く、唯一神教ではなく[[単一神教]]または[[拝一神教]]の段階に留まるものであったと考えられるようになっている。</ref>という。この改革に関しては、アメン・ラーの力に対抗する王の試みのひとつであったと考えられる。マネトによるとアメンホテプ3世の時代にもオサルシフ、モーセと呼ばれる神官が同様の改革を行ったとされる。 他の信仰やアテン神以外の神々に仕える神官たちは解雇され、神殿は閉鎖され、その収益はアテンに寄進された。葬送信仰に関する神官の役割さえも変わり、アマルナの貴族の墓の壁面には、死者が神である王に全面的に依存する様子が強調されていた。 このアテン信仰は、アメンホテプⅣ世によって、新しい宗教としてエジプトに導入されたとは思われず、一般にこの宗教改革は、昔からあった神聖王権の考え方を復活させることに集中した。それによれば王だけが永遠の生命を楽しむことができ、人々は王の慈悲を通して初めて、永遠の生命を獲得することを可能にした。<ref name=":0" /> 実際、アテンを除く全ての神々が排斥された結果、かつて唯一神教であった、と考えられた時期もあったものの、アメンホテプⅣ世が他の神々の存在を積極的に否定しなかったため、現在では唯一神教ではなく、[[拝一神教]]<ref>{{Cite book|title=Akhenaten : history, fantasy, and ancient Egypt|url=https://www.worldcat.org/oclc/42923652|publisher=Routledge|date=2000|location=London|isbn=0-415-18549-1|oclc=42923652|last=Montserrat, Dominic, 1964-}}</ref>と見なしている学者と、[[単一神教]]<ref>{{Cite book|edition=2nd ed|title=Egypt and the Egyptians|url=https://www.worldcat.org/oclc/64313016|publisher=Cambridge University Press|date=2007|location=Cambridge, UK|isbn=0-521-85150-5|oclc=64313016|others=Teeter, Emily.|last=Brewer, Douglas J.}}</ref>と見なしている学者がいる。 また、アテン信仰は神性をアテンだけに帰するのではなかったことが知られている。アメンホテプⅣ世は自分自身を「アテンの息子」と宣言し、エジプトの人々に彼を崇拝させようとした<ref>{{Cite web|url=www.ancientegyptonline.co.uk.|title="Ancient Egypt Gods: The Aten"|accessdate=2018-03-19|publisher=}}</ref>。 エジプト人はアメンホテプⅣ世を崇拝し、アメンホテプⅣ世とネフェルティティだけがアテンを直接崇拝することができた。<ref>{{Cite book|edition=2nd ed|title=The Routledge dictionary of Egyptian gods and goddesses|url=https://www.worldcat.org/oclc/61241714|publisher=Routledge|date=2005|location=London|isbn=0-203-02362-5|oclc=61241714|last=Hart, George, 1945-}}</ref> <br /> === アテン神の変貌 === アテンは、動物や人間の形態である他のエジプトの神々と異なり、先端が手になった光線を何本も放ち、その一つに生命の象徴[[アンク]]を握った[[太陽]]円盤の形で表現された<ref>アテン神は、神話も神像も貧弱だったことから、これを最高神とする信仰が生じると、極めて抽象的で観念的な神となったと考えられる。</ref>。これは、全ての人に平等に手を差し出している様子であると言われる。しかしアマルナ改革によりアンクを持った手は、アクエンアテンに手渡されている。この様子は、ファラオの権威を強化する意図で描かれた。 またアテンは、平和と恵みの神とされた<ref>そのため、アメンホテプ4世は対外的には戦争を忌避し、外国に侵略されることもあった。対内的には、敵であるアメン神団を殲滅に追い込むこともなく存続を許していた。</ref>。 === アマルナ美術 === 事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においても[[写実主義|リアリスティックな表現]]が行われ、アマルナ時代の美術様式は「[[古代エジプト美術#アマルナ様式|アマルナ様式]]」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。 === アテン賛歌 === アテン信仰に関しての現存する考古学的遺物は、アマルナの都や墳墓に残る壁画や碑文によってその幾つかの側面をうかがい知ることができる。この中で、最も有名なアテン讃歌があり、アマルナにある幾つかの墓の壁面に刻されている。 この碑文は、アテンが、全人類、動物、鳥、植物などの創造主として発揮した力とこの神が持つ独特な性格とを強調している。<ref name=":0" /> ==== 詩編104編 ==== しばしばアテン賛歌と詩編104編の類似が指摘されていた。アテン信仰が世界最古の唯一神教である、という立場から、詩編104編はアテン賛歌を土台としているのではいか、と言われたこともあった。しかし時代も隔たり過ぎており、またアテン信仰も完全な一神教とは認め難く、現在では両者には直接的な関係はなく、共通する精神的基盤が類似の表現をうんだものとされている。<ref>{{Cite book|title=古代オリエント集|date=|year=1999|publisher=筑摩書房}}</ref> == 終焉 == === 宗教改革の失敗 === この宗教改革は、あまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、疫病などの蔓延もあり、最終的に失敗に終わった。アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、その息子である[[ツタンカーメン]]王の時代にエジプトはアメン信仰に戻った。アテンはアマルナ革命以前の「天体としての太陽」に戻され、アテン信仰は消滅した。 === 唯一神起源説 === [[ジークムント・フロイト]]は、アクエンアテンの治世年と[[出エジプト]]の年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ[[唯一神教]]である[[ユダヤ教]]の神[[ヤハウェ|ヤーウェ]]の原形とする説<ref>ジークムント・フロイト『モーセと一神教』ISBN 978-4480087935 「唯一神教アマルナ起源説」等という。[[吉村作治]]も学説としてではないが、著書の中で類似のアイディアを披露している。</ref>を唱えた。アテンがヘブライ語の主(アディン)と類似するなどの根拠をあげている。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Aten}} * [[アマルナ]] * [[小惑星]][[アテン (小惑星)|(2062) Aten]] {{エジプト神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あてん}} [[Category:唯一神]] [[Category:太陽神]] [[Category:エジプト神話の神]] [[Category:古代エジプト]] [[Category:アクエンアテン]] [[Category:アマルナ時代]]
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2023-04-03T09:22:41Z
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抵抗器
抵抗器(ていこうき、英: resistor)とは、一定の電気抵抗値を得る目的で使用される電子部品であり受動素子である。通常は「抵抗」と呼ばれることが多い。 電気回路用部品として、電流の制限や、電圧の分圧、時定数回路などの用途に用いられる。集積回路など半導体素子の内部にも抵抗素子が形成されているが、この項では独立した回路部品としての抵抗器について述べる。 抵抗器はオームの法則によく従う性質を持つ電気抵抗素子をパッケージ化した電子部品である。電気抵抗素子は簡潔に抵抗体と呼ばれることもある。 抵抗は抵抗体の何処かに少なくとも2つ以上の電極を設けている。ある電極間に電位差を加えると電極の電位差に比例した単位時間あたりの電荷の移動、すなわち電流が生じる(オームの法則)。比例定数は電気伝導率とよばれるが、通常は電気導電率の逆数である電気抵抗率を用い、ある抵抗器の電気抵抗率はその抵抗器の抵抗値と呼ばれる。抵抗器のもつ抵抗値はSI単位の1つであるオーム(Ω)で表す。1ボルト(V)の電位差を加えたとき、1アンペア(A)の電流が生じると、その抵抗器は1オーム(Ω)の抵抗値を持つとされる。 抵抗体では電極の電位差に応じた電荷の移動が起きているため、仕事をする。通常の抵抗体であれば、この仕事の殆ど全てが熱エネルギーに変換される。この発熱のことをジュール熱という。 ジュール熱Q(単位:ジュール J)の発生量は抵抗器の抵抗値R(単位:Ω)と電極間電位差E(単位:V)、及び時間t(単位:秒 sec)によって下記のように定まる(ジュール熱の項目も参照のこと)。 電位差および抵抗値に時間による変化が無い場合、仕事率W(単位:ワット W)は となる。この仕事率Wは抵抗器の損失という。損失、すなわち電力を消費する作用は抵抗器の最も基礎的な作用であり、抵抗器の用途として非常に重要である。通常、抵抗器は自己のジュール熱による発熱によって抵抗体の温度が上昇して自分自身が劣化してしまうのを避けるため、製品の許容損失が定められている。(メーカーのデータシート上では、定格電力という表記がされていることが多い) 抵抗器の抵抗値は一定であることが多くの場合要求されるが、抵抗器の周囲温度によって抵抗値が変動するように作られた抵抗器や、通常は抵抗値が低いが特定状況に限って極めて高い抵抗値を示すように作られた抵抗器もある。 抵抗器はその形状や機能、構造によって幾つかの種類が存在する。 現在、電子機器で使用される小型抵抗器の大部分は、リード線(金属製の脚)を持たない表面実装(表面実装技術)パッケージ(チップ抵抗と呼ぶ事が多い)となっている。これらは非常に小さい角板状の形状をしており、抵抗体の保護には樹脂又は低融点のガラスが用いられる。主に使用されている種類は次の通りである。 携帯電話機等の小型電子機器では0603のような微細なサイズのものが多く使用されている。さらに小さい0402も一部で使われ始めている。 一昔前までは、抵抗器本体からリード線を出した形状のものが主流であった。現在でも大電力品や特殊な用途の抵抗器では、このタイプのものが使われている。リード線タイプの抵抗には、抵抗器本体の両端からリード線を出したアキシャルリードパッケージという細長い形状のものと、抵抗器本体の片端から2本のリード線を平行に出したラジアルリードパッケージとがある。また、リード線の持つ抵抗による影響を避けるために四本のリード線を引き出した四端子抵抗器と呼ばれるタイプも存在する。 集合抵抗ではDIPやSIP形状のものがある。 非常に大電力の抵抗器では、ねじ止め式の端子やヒートシンクを備えたものもある。 また、抵抗体本体の保護の方法によっても幾つかに分類される。抵抗器本体を樹脂塗装で保護した簡易絶縁型、絶縁塗装をより入念に行った絶縁塗装型、絶縁にほうろうを用いたほうろう型、樹脂やガラスに封止したモールド型、セラミックや樹脂のケースに収め封止したケース型などがある。 従来より、小型抵抗器には色の帯により抵抗値と誤差を表現するカラーコードが使われてきた。帯は4本から6本で構成されており、抵抗器の端に近い位置にある帯から順に読む。なお固定抵抗器の色による表示は JIS C 60062 (IEC 60062(英語版)) で定義される。中学校の技術家庭科では必ず学ぶべき項目とされている。 例えば、青・灰・橙・金で並んでいる場合、 と変換し、68000Ω ±5% = 68kΩ±5% と読むことができる。 色帯の数が多い場合でも、指数と誤差についての扱いが同様である。残りの色帯は数字として読む。たとえば、青・灰・茶・赤・茶で並んでいる場合、6・8・1・10・±1%と変換し、上記の例と同じように68.1kΩ±1%となる。こういった表記は金属皮膜抵抗に多いが、上記の例(カーボン被膜抵抗に多い)と比較した時に、指数を表す色帯の色が違っている点に注意したい。指数の帯と誤差の帯を区別するために、誤差の帯が太くされているものがある。 カラーコードの塗装は、ベルトコンベア上を流れる抵抗の下からインクの付いた円盤を押し当てている。 現在、小型の抵抗器ではチップ型が主流になっており、カラーコードを見かける機会も少なくなってきている。 カラーコードの語呂合わせについて以下に例をあげる。太字は対応する色名と数字を表す。 チップ型などでは、3桁 (xxy) や4桁 (xxxy) の数字や文字で抵抗値を表示する場合があるが、1005サイズ以下のチップ抵抗では小さすぎて判読困難なため、表示自体が省略されている。文字の意味は xxx×10Ω、小数点は"R"で表現する。上記画像の「205」と記されたチップ抵抗の場合、20×10=2,000,000Ω=2MΩ である。 セメント抵抗やホーロー抵抗などのような表面積が広い抵抗器では、「2W 100ΩJ」のように定格電力、抵抗値と誤差を表す記号等を本体に直接印刷しているものが多い。抵抗値については、上記チップ型同様の数字記号を用いる場合もある。 日本では、抵抗器の図記号は、従来はJIS C 0301(1952年4月制定)に基づき、ギザギザの線状の図記号で図示されていたが、現在の、国際規格のIEC 60617を元に作成されたJIS C 0617(1997-1999年制定)ではギザギザ型の図記号は示されなくなり、長方形の箱状の図記号で図示することになっている。旧規格であるJIS C 0301は、新規格JIS C 0617の制定に伴って廃止されたため、旧記号で抵抗器を図示した図面は、現在ではJIS非準拠な図面になってしまう。ただし、JIS C 0301廃止前に作成された展開接続図等の文書に対して、描き直す必要性は必ずしもない。加えて、法的拘束力は無いため現在も旧図記号が使われる事が多いが、新図記号を使用する事が推奨されている。 新旧混在は混乱を招き事故にも繋がりかねず、輸出企業の場合旧図記号を使用していると図面が国際規格に準拠していないということで受注できない事もある。 抵抗器は環境変化で抵抗値が変化することが無いように配慮されているが、逆に温度によって抵抗値が大きく変化するように作られたサーミスタと呼ばれる電子部品があり、温度センサとして使用される。また、同じように環境変化によって抵抗値が変化する素子としては、「フォトレジスタ(光電導セル)」という電子部品があり、これは光の量によって抵抗値が増減する。 実際の電子回路では、受動素子の1つであるコンデンサとともに用いられることが多く、両者の頭文字を取って CR と表現されることが多い。 倍率器(ばいりつき、Multiplier)は、直流電圧計の測定範囲の拡大に使われる抵抗器である。直列抵抗器(ちょくれつていこうき、Series Resister)ともいう。 一般にアナログ式の電圧計は測定範囲が決まっており、それ以上大きい電圧をそのまま測定することは構造上できない。そこで、電圧計に直列に抵抗器を挿入し測定電圧を電圧計の内部抵抗と挿入した抵抗器で分圧することによって、相対的に電圧計にかかる電圧を減少させ測定範囲を広げることができる。 測定対象の電圧を V {\displaystyle V} 、電圧計に加わる電圧を V V {\displaystyle V_{V}} 、電圧計の内部抵抗を r V {\displaystyle r_{V}} 、倍率器の抵抗を R S {\displaystyle R_{S}} とすると、分圧の公式より次のようになる。 よって、最大目盛りの時の電圧が ( 1 + R S r V ) {\displaystyle \left(1+{\frac {R_{S}}{r_{V}}}\right)} 倍に拡大されたことになる。 多くの電圧計は内部に倍率器を備えており、端子を替えることで測定可能範囲を変化させることができる。これを多重範囲電圧計という。 分流器(ぶんりゅうき、Shunt)は、直流電流計の測定範囲の拡大に使われる抵抗器である。 一般にアナログ式の電流計は測定範囲が決まっており、それ以上大きい電流をそのまま測定することは構造上できない。そこで、電流計に並列に抵抗器を挿入し測定電流を電流計の内部抵抗と挿入した抵抗器で分流することによって、相対的に電流計に流れる電流を減少させ測定範囲を広げることができる。 測定対象の電流を I {\displaystyle I} 、電流計に流れる電流を I A {\displaystyle I_{A}} 、電流計の内部抵抗を r A {\displaystyle r_{A}} 、分流器の抵抗を R S {\displaystyle R_{S}} とすると、分流の公式より次のようになる。 よって、最大目盛りの時の電流が ( 1 + R A r S ) {\displaystyle \left(1+{\frac {R_{A}}{r_{S}}}\right)} 倍に拡大されたことになる。 多くの電流計は内部に分流器を備えており、端子を替えることで測定可能範囲を変化させることができる。これを多重範囲電流計という。 車両用抵抗器とも言う。 電気機関車や電車においては直流モーターの電流を調節するために、長らく抵抗器を使った制御方式(抵抗制御)が採用されてきた。また発電ブレーキで発生した電力を熱として捨てるためにも抵抗器が使われる。効率が良く軽量小型な電動機の制御方式が発展したこと、逆潮流送電技術の発展などにより、人目につくように搭載される事は少なくなってきている。 材質と冷却方式から、以下の様に分類される。 古くから使われてきた方式。重いことと、熱容量が少ないことから、新性能車では極初期に使われただけであった。 上記に変わって主流となった方式。軽量であることと、発電ブレーキの装備に伴い、容量を増やす必要から、高性能車や新性能車ではこれが主流となった。 古くから使われてきた方式。発熱量が少ない場合は、これで充分だった。国鉄新性能電車(発電ブレーキ付き)では採用例が少ない(151、301、103-1000 / 1200 / 1500、105、119、121系等)。私鉄では、ブロアーファンの騒音と故障リスクが無い事から発電ブレーキ付きの車両でもこの方式が主流で、床下は抵抗器で埋め尽くされた。特に近鉄、南海、神戸電鉄等では1両に積みきれずに2両に亘って搭載される場合もあった。 日本以外では屋根上に搭載される場合が多い。日本では名鉄のモ600形が屋根上に抵抗器を搭載されていたほか、抵抗制御の車両ではないが、国鉄781系、JR北海道の721、785系およびJR西日本・JR東海の285系も屋根上に発電ブレーキを作動させるためだけの抵抗器を搭載している。 発熱量が多い場合に有効な方式。国鉄新性能電車は大部分がこの方式。私鉄では採用例が少なく、相鉄、東急、小田急、京王、名鉄、阪神、名古屋市営地下鉄等に採用例があるくらいである。中でも、名鉄や阪神にはGE・東芝製MCM制御装置(制御装置と抵抗器が一体化)の採用例があり、これも強制通風式となる。ブロアーファンが故障した場合や、何らかの事情により送風を止めた場合は、発熱量の問題で力行は可能だが発電ブレーキが使用不能となる。
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抵抗器とは、一定の電気抵抗値を得る目的で使用される電子部品であり受動素子である。通常は「抵抗」と呼ばれることが多い。 電気回路用部品として、電流の制限や、電圧の分圧、時定数回路などの用途に用いられる。集積回路など半導体素子の内部にも抵抗素子が形成されているが、この項では独立した回路部品としての抵抗器について述べる。
{{otheruses|[[電気抵抗]]を得るための[[電子部品]]|電流の流れにくさそのもの|電気抵抗}} {{Infobox electronic component | component = 抵抗器 | photo = [[ファイル:3 Resistors.jpg|225px]] | photo_caption = 3本の抵抗器 | type = [[受動素子]] | symbol = [[ファイル:Resistor_symbol_IEC.svg|50px]]または、[[ファイル:Resistor_symbol_America.svg|50px]] }} '''抵抗器'''(ていこうき、{{lang-en-short|resistor}})とは、一定の[[電気抵抗]]値を得る目的で使用される[[電子部品]]であり[[受動素子]]である。通常は「'''抵抗'''」と呼ばれることが多い<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=カーボン抵抗と金属皮膜抵抗のちがいは? 使い分け方は?(誤差、温度ドリフト、カットオフ周波数) {{!}} マルツオンライン|url=https://www.marutsu.co.jp/pc/static/large_order/mame/164|website=www.marutsu.co.jp|accessdate=2021-06-12}}</ref>。 [[電気回路]]用部品として、[[電流]]の制限や、[[電圧]]の分圧、時定数回路などの用途に用いられる。[[集積回路]]など[[半導体素子]]の内部にも抵抗素子が形成されているが、この項では独立した回路部品としての抵抗器について述べる。 == 概要 == 抵抗器は[[オームの法則]]によく従う性質を持つ[[電気抵抗]][[素子]]を[[パッケージ]]化した電子部品である。電気抵抗素子は簡潔に'''抵抗体'''と呼ばれることもある。 抵抗は抵抗体の何処かに少なくとも2つ以上の[[電極]]を設けている。ある電極間に[[電位差]]を加えると電極の電位差に[[比例]]した[[単位時間]]あたりの[[電荷]]の移動、すなわち[[電流]]が生じる(オームの法則)。比例定数は[[電気伝導率]]とよばれるが、通常は電気導電率の逆数である[[電気抵抗率]]を用い、ある抵抗器の電気抵抗率はその抵抗器の'''抵抗値'''と呼ばれる。抵抗器のもつ抵抗値は[[SI単位]]の1つである[[オーム]](Ω)で表す。1[[ボルト_(単位)|ボルト(V)]]の電位差を加えたとき、1[[アンペア|アンペア(A)]]の電流が生じると、その抵抗器は1オーム(Ω)の抵抗値を持つとされる。 抵抗体では電極の電位差に応じた電荷の移動が起きているため、[[仕事_(物理学)|仕事]]をする。通常の抵抗体であれば、この仕事の殆ど全てが熱エネルギーに変換される。この発熱のことを[[ジュール熱]]という。 ジュール熱Q(単位:[[ジュール|ジュール J]])の発生量は抵抗器の抵抗値R(単位:Ω)と電極間電位差E(単位:V)、及び時間t(単位:[[秒|秒 sec]])によって下記のように定まる(ジュール熱の項目も参照のこと)。 :<math>Q=\frac{E^2t}{R}</math> 電位差および抵抗値に時間による変化が無い場合、[[仕事率]]W(単位:[[ワット (単位)|ワット W]])は :<math>W=\frac{E^2}{R}</math> となる。この仕事率Wは抵抗器の'''損失'''という。損失、すなわち'''電力を消費する作用'''は抵抗器の最も基礎的な作用であり、抵抗器の用途として非常に重要である。通常、抵抗器は自己のジュール熱による発熱によって抵抗体の温度が上昇して自分自身が劣化してしまうのを避けるため、製品の[[許容損失]]が定められている。(メーカーのデータシート上では、定格電力という表記がされていることが多い) 抵抗器の抵抗値は一定であることが多くの場合要求されるが、抵抗器の周囲温度によって抵抗値が変動するように作られた抵抗器や、通常は抵抗値が低いが特定状況に限って極めて高い抵抗値を示すように作られた抵抗器<ref group="注釈">温度保証用抵抗器、ヒューズ抵抗器、リセッタブルヒューズや過渡電圧緩和素子など。</ref>もある。 == 主な定格 == ; 抵抗値 : 電気抵抗の値。基本単位はΩ([[オーム]])であり、必要に応じてk([[キロ]])やM([[メガ]])といった[[国際単位系#SI接頭語|SI接頭辞]]が使われる。固定抵抗器の場合、[[標準数#JIS C 60063の標準数列|JISやISOで制定されたE系列]]と呼ばれる等比数列刻みの値で生産されている。実際の[[回路設計]]では、材料部品の品目数を少なくするため、E12(10・12・15・18・22・27・33・39・47・56・68・82を基数とする[[倍数]]値)で設計されることが多い。他にE24(E12に11・13・16・20・24・30・36・43・51・62・75・91が追加)も使われている。 ; 定格電力 : 抵抗器は、[[電力]]を消費することにより発熱するので、定格電力が規定されており、その範囲内で使用することが求められる。単位はW([[ワット (単位)|ワット]])である。小はチップ抵抗にみられる1/32Wから、大はセメント抵抗やホーロー抵抗など数百Wのものまである。 ; 定格電圧 : 抵抗器にかけられる電圧の上限。単位はV([[ボルト (単位)|ボルト]])である。通常の回路では、抵抗器に加わる電圧が定格電圧に達する前に定格電力オーバーとなって制限される場合が多いが、高い電圧を扱う回路において、高い抵抗値の素子を用いる場合や、定格電圧の低い小型のチップ抵抗器を用いる場合には注意が必要となる。 ; 抵抗許容差 : 定格抵抗値に対する偏差の許容値で単位は % である。一般的には[[誤差]]と称される。 ; 抵抗温度係数 : 抵抗器の温度変化に対する抵抗値変化の割合。単位は ppm/℃ である。 == 分類 == 抵抗器はその形状や機能、構造によって幾つかの種類が存在する。 === 形状による分類 === [[ファイル:Register3.jpg|thumb|180px|1mm方眼紙上のチップ抵抗(3216サイズ)]] [[ファイル:Metal_film_resistor.jpg|thumb|180px|[[アキシャル]]リード]] [[ファイル:Pot-pic.jpg|thumb|160px|可変抵抗]] [[ファイル:アキシャル部品 ラジアル部品.PNG|thumb|180px|[[アキシャル]]リードの抵抗器;リード線が一線の同じ軸(上)と[[ラジアル]]リードの[[コンデンサ]](下);リード線が放射状([[平行]]であっても放射状と呼ぶ)]] [[ファイル:Resistor Array model pic J.PNG|thumb|180px|集合抵抗器(SIP形状)<br />この例では8個の抵抗器がまとめられ、端子の1本は共通である。]] 現在、電子機器で使用される小型抵抗器の大部分は、[[リード線]](金属製の脚)を持たない[[表面実装]](表面実装技術)パッケージ('''チップ抵抗'''と呼ぶ事が多い)となっている。これらは非常に小さい角板状の形状をしており、抵抗体の保護には樹脂又は低融点の[[ガラス]]が用いられる。主に使用されている種類は次の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align: left;" |- !分類!!読み方!!サイズ!!備考 |- |3216||サンニーイチロク||3.2mm×1.6mm|| |- |2125||ニーイチニーゴ||2.0mm×1.25mm||2012と称されることも多い |- |1608||イチロクゼロハチ||1.6mm×0.8mm||イチロクマルハチとも |- |1005||イチゼロゼロゴ||1.0mm×0.5mm||イチマルマルゴとも |- |0603||ゼロロクゼロサン||0.6mm×0.3mm|| |- |0402||ゼロヨンゼロニー||0.4mm×0.2mm|| |} 携帯電話機等の小型電子機器では0603のような微細なサイズのものが多く使用されている。さらに小さい0402も一部で使われ始めている。 一昔前までは、抵抗器本体からリード線を出した形状のものが主流であった。現在でも大電力品や特殊な用途の抵抗器では、このタイプのものが使われている。リード線タイプの抵抗には、抵抗器本体の両端からリード線を出した'''[[アキシャル]]リードパッケージ'''という細長い形状のものと、抵抗器本体の片端から2本のリード線を平行に出した'''[[ラジアル]]リードパッケージ'''とがある。また、リード線の持つ抵抗による影響を避けるために四本のリード線を引き出した四端子抵抗器と呼ばれるタイプも存在する。 集合抵抗では[[パッケージ (電子部品)#DIP (Dual In-line Package)|DIP]]や[[パッケージ (電子部品)#SIP (Single In-line Package)|SIP]]形状のものがある。 非常に大電力の抵抗器では、ねじ止め式の端子や[[ヒートシンク]]を備えたものもある。 また、抵抗体本体の保護の方法によっても幾つかに分類される。抵抗器本体を樹脂塗装で保護した簡易絶縁型、絶縁塗装をより入念に行った絶縁塗装型、絶縁に[[琺瑯|ほうろう]]を用いた'''ほうろう型'''、樹脂やガラスに封止した'''モールド型'''、セラミックや樹脂のケースに収め封止した'''ケース型'''などがある。 === 機能による分類 === ==== 固定抵抗器 ==== : 抵抗値が一定の抵抗器 ==== [[可変抵抗器]] ==== : 抵抗値を変更することができる抵抗器。2端子型の可変抵抗器をレオスタット、3端子型の可変抵抗器を[[ポテンショメータ]]と言う。 : 英語では可変抵抗器全般を指して[[ポテンショメータ]]の語が使われるが、日本語で[[ポテンショメータ]]と言った場合、多回転型や、高精度な角度検出用のものを特に指しているのがふつうである。 : 狭義では、つまみなどが付き、簡単な操作で抵抗値が変えられるようになっているものを特に指して「可変抵抗器」と言う。バリオームあるいはボリュームとも言う。抵抗体を露出させた固定抵抗器の端子間に、スライダと呼ばれる可動端子を設けることによって実現する。スライダを直線的に移動させる形状のものと、円周上を移動させる形状のものがある。 ===== 半固定抵抗器 ===== :: 広義の可変抵抗器の一種で、ユーザーは通常操作せず基板上の実装された物を[[ドライバー (工具)|ドライバ]]等で操作し、回路定数の調整等抵抗値を一度変更したらそのままの値で使用するもの。固定式では目的の抵抗値が得られない場合などに微調整として用いられる。[[ポテンショメータ|トリマポテンショメータ]]またはトリマーボリュームとも言う。 ==== シャント抵抗器 ==== : 電流測定用に回路に挿入する抵抗器。抵抗値が小さい(0.2mΩ - 数Ω程度)。大電流測定用に数万Aを流せるものや、精密測定用に誤差±0.01%程の高精度なものがある。 === 構造・抵抗体による分類 === ;炭素皮膜抵抗(カーボン抵抗) : 誤差5%程度。金属皮膜抵抗に比べ雑音や周波数の特性はよくないが、価格が極めて安いため、幅広く使われている<ref name="matsusada" />。 ; 金属皮膜抵抗 :; 厚膜型 :: 汎用に使える高精度(誤差1%程度)抵抗器。キンピと略される<ref name="matsusada">{{Cite web|和書|url=http://www.matsusada.co.jp/column/image/benri01.pdf|title=部品の基礎知識|publisher=松定プレシジョン|format=PDF|accessdate=2014-12-10}}</ref>。一般的な炭素皮膜に比べ雑音などの特性は良いが、カーボン抵抗より価格は高い<ref name=":0" />。 :; 薄膜型 :: 厚膜型より高精度<ref name=":0" />(誤差0.05%のものもある)、低温度係数だが厚膜型より高価。 ; 酸化金属皮膜抵抗 : 中電力(1 - 5W程度)向け。耐熱性良好。サンキンと呼ばれる<ref name="matsusada" />。 ; メタルグレーズ抵抗 : 金属や酸化ルテニウム等の金属酸化物とガラスを混合し、アルミナ基板などに高温で焼結させた皮膜をメタルグレーズ皮膜(メタルグレーズ厚膜)と言い、これを抵抗体として用いた抵抗器。安定性、耐環境性に優れ、チップ抵抗器やプリント抵抗<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ogakimurata.co.jp/process/index.html|title=基板製造工程|publisher=大垣村田製作所( http://www.ogakimurata.co.jp/index.html )|accessdate=2016-05-12}}</ref>に多く使用されている。絶縁粒子を使用しているため、過電圧が印加されると一部絶縁粒子への負荷集中で局所的な絶縁破壊を起こし、抵抗値が中途半端に変化する場合がある。 ; 炭素体抵抗 : 一般にソリッド抵抗と謂われ、特性は炭素皮膜に似ているが、雑音がやや大きい。寄生インダクタンスが低く、高周波向け。断線が起こりにくいという意味では信頼性はよいが、温度係数が非常に大きく、また経年変化によっても抵抗値が大きく変化(増加)するため、精密な抵抗値を求められる用途には使われない。 ; 巻線抵抗 : 抵抗体に[[螺旋]]状の金属線を用いたもの<ref name="matsusada" />。高精度を目的としたものと、電力容量を重視したものがある、温度係数が少ない。無誘導巻きとしインダクタンスの低減を図ったものもある。 ==== メタルクラッド抵抗 ==== : 巻線抵抗の一種、絶縁した上で金属製の外装を取り付けてある。放熱板に取り付けて大電力用に使用する。 ; 琺瑯抵抗 : 巻線抵抗の一種、抵抗体を保護するために[[琺瑯|ホーロー]]を用いたもの。自己が発生する熱に対して非常に強いため、数十~数百Wの大電力用に使われる。 ; セメント抵抗 : 大電力(2 - 20W程度)用途に用いられる。抵抗器本体をセラミック製のケースに収め、[[セメント]]により封止したもの。 :; 酸化金属皮膜型 :: セメント抵抗のうち、抵抗体に酸化金属皮膜を用いたもの。比較的大きな抵抗値のものに多い。 :; 巻線型 :: セメント抵抗のうち、抵抗体に金属線を用いたもの。小さな抵抗値のものに多い。 ; 金属箔抵抗 : 金属のインゴットを圧延した薄い箔にした物<ref>{{Cite web|和書|title=金属箔抵抗器(Bulk Metal®Foil Resistors)│アルファ・エレクトロニクス株式会社|url=https://www.alpha-elec.co.jp/machine.html|website=www.alpha-elec.co.jp|accessdate=2021-06-12}}</ref>。極めて高精度。[[温度]]係数も極端に低い。非常に高価。 ; 金属板抵抗 : 極めて低い抵抗値が得られる。mΩオーダーまで。 ; ガラス抵抗 : 超高抵抗値 (100MΩ - 1TΩ) が得られる。 ; 集合抵抗 : 複数の抵抗器を1つのパッケージに封入した抵抗器。ネットワーク抵抗<ref name="matsusada" />、抵抗アレイとも言う。 :; 厚膜型 :: 同一抵抗値を手軽に多数並べるときに使う。 :; 薄膜型 :: [[アナログ回路]]等で、相対的な抵抗値のばらつきを低減したい場合に用いる。 ; [[液体抵抗器]] : 液体を抵抗体として利用したもの。電極間の距離を調整することで抵抗値を無段階に変化させることが出来る。 == 表示 == === カラーコード === {{色}} {| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1em; clear:right" |+有効桁数2桁の抵抗器の場合 |- | colspan="4"|[[ファイル:ResistorColorbar2.png]] |- ! !!1, 2!!3!!4 |- !色 !数値 !乗数 !許容差(記号) <!--!覚え方--> |- style="color:white; background-color:black;" |黒 |0 |1 | - <!--|黒い礼服--> |- style="color:white; background-color:brown;" |茶色 |1 |{{10^|1}} |±1% (F) <!--|茶を一杯--> |- style="color:white; background-color:red;" |赤 |2 |{{10^|2}} |±2% (G) <!--|赤いにんじん--> |- style="background-color:orange;" |だいだい(橙) |3 |{{10^|3}} |±0.05% (W) <!--|橙ミカン--> |- style="background-color:yellow;" |黄 |4 |{{10^|4}} | - <!--|黄色いシミ--> |- style="color:white; background-color:green;" |緑 |5 |{{10^|5}} |±0.5% (D) <!--|緑の五月--> |- style="color:white; background-color:blue;" |青 |6 |{{10^|6}} |±0.25% (C) <!--|青ムシ--> |- style="background-color:violet;" |紫 |7 |{{10^|7}} |±0.1% (B) <!--|紫なすび--> |- style="color:white; background-color:gray;" |灰色 |8 |{{10^|8}} | - <!--|ハイハイ--> |- style="background-color:white;" |白 |9 |{{10^|9}} | - <!--|白くなれ--> |- style="background-color:pink;" |桃色{{efn|2016年のIEC 60062:2016から追加<ref>[https://www.sis.se/api/document/preview/8021442/]</ref>。}} | - |{{10^|-3}} | - <!--| ---> |- style="background-color:silver;" |銀色 | - |{{10^|-2}} |±10% (K) <!--| ---> |- style="background-color:gold;" |金色 | - |{{10^|-1}} |±5% (J) <!--| ---> |- |なし | - | - |±20% (M) |- |(未割当) | - | - |±30% (N) |- |(未割当) | - | - |±0.02% (P) |- |(未割当) | - | - |±0.01% (L) |- |(未割当) | - | - |±0.005% (E) <!--| ---> |} 従来より、小型抵抗器には色の帯により抵抗値と誤差を表現する'''カラーコード'''が使われてきた。帯は4本から6本で構成されており、抵抗器の端に近い位置にある帯から順に読む。なお固定抵抗器の色による表示は [[JIS C 60062]] ({{仮リンク|IEC 60062|en|IEC 60062}}) で定義される。[[中学校]]の[[技術家庭科]]では{{要出典範囲|必ず学ぶべき項目とされている|date=2016年2月}}。 例えば、[http://www.weerstandcalculator.nl/japanese.php?ohm=68k&tol=5 {{colors|white|blue|青}}・{{colors|white|gray|灰}}・{{bgcolor|orange|橙}}・{{bgcolor|gold|金}}]で並んでいる場合、 : {{colors|white|blue|6}}{{colors|white|gray|8}}×{{bgcolor|orange|10{{sup|3}}}}・{{bgcolor|gold|±5%}} :: = 68 × 1000 (Ω) ・±5% と変換し、68000Ω ±5% = 68kΩ±5% と読むことができる。 色帯の数が多い場合でも、指数と誤差についての扱いが同様である。残りの色帯は数字として読む。たとえば、青・灰・茶・赤・茶で並んでいる場合、6・8・1・10{{sup|2}}・±1%と変換し、上記の例と同じように68.1kΩ±1%となる。こういった表記は金属皮膜抵抗に多いが、上記の例(カーボン被膜抵抗に多い)と比較した時に、指数を表す色帯の色が違っている点に注意したい。指数の帯と誤差の帯を区別するために、誤差の帯が太くされているものがある。 カラーコードの塗装は、ベルトコンベア上を流れる抵抗の下からインクの付いた円盤を押し当てている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=抵抗器のカラーコード・表示の読み方、覚え方 (工程動画も公開!) {{!}} 抵抗器の総合メーカー 株式会社赤羽電具製作所|url=https://www.akaneohm.com/column/marking/|accessdate=2021-06-12|language=ja}}</ref>。 現在、小型の抵抗器ではチップ型が主流になっており、カラーコードを見かける機会も少なくなってきている。 ==== カラーコードの覚え方 ==== {{節スタブ|カラーコードの[[語呂合わせ]]の[[初出]]}} カラーコードの語呂合わせについて以下に例をあげる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jarl.org/Japanese/7_Technical/lib1/teikou.htm|title=抵抗のカラーコード(抵抗値)の読み方|publisher=日本アマチュア無線連盟|accessdate=2014-12-12}}</ref><ref name=":1" />。'''太字'''は対応する色名と数字を表す。 *黒 = 0 (黒い[[礼服]]……'''黒'''い'''零'''服) *茶 = 1 ([[小林一茶|小林'''一茶''']])('''茶'''を'''一'''杯) *赤 = 2 ('''赤'''い'''二'''ンジン) *橙 = 3 (橙みかん……'''橙''' '''三'''かん)('''み'''かんは'''橙''')([[第三の男]]……'''橙''' '''三'''のおとこ) *黄 = 4 (四季の色……'''四''' '''黄''' の色)(黄色いヨット……'''黄'''色い'''四'''ット)(からし……から'''四 '''からしは黄色い)(岸惠子……'''黄 四'''けいこ<ref name=":1" />) *緑 = 5 ([[五月みどり|'''五'''月'''みどり''']])(みどりご<ref group="注釈">嬰児を指す</ref>……'''緑''' '''五''') *青 = 6 (青虫……'''青''' '''六'''し)([[徳川夢声]]……'''六''' '''青'''<ref group="注釈">[[徳川氏|徳川家]]の[[家紋]]は葵(青い)であることから。</ref>) *紫 = 7 ([[紫式部]]……'''紫''' '''七'''部) *灰 = 8 ([[ハイヤー]]……'''灰''' '''八'''ー) *白 = 9 ([[ホワイトクリスマス]]……'''ホワイト九'''リスマス) === 文字表示 === チップ型などでは、3桁 (xxy) や4桁 (xxxy) の数字や文字で抵抗値を表示する場合があるが、1005サイズ以下のチップ抵抗では小さすぎて判読困難なため、表示自体が省略されている。文字の意味は xxx×10{{sup|y}}Ω、小数点は"R"で表現する。上記画像の「205」と記されたチップ抵抗の場合、20×10{{sup|5}}=2,000,000Ω=2MΩ である。 セメント抵抗やホーロー抵抗などのような表面積が広い抵抗器では、「2W 100ΩJ」のように定格電力、抵抗値と誤差を表す記号等を本体に直接印刷しているものが多い。抵抗値については、上記チップ型同様の数字記号を用いる場合もある。 {{clear|right}} == 抵抗器の図記号 == 日本では、抵抗器の図記号は、従来はJIS C 0301(1952年4月制定)に基づき、ギザギザの線状の図記号で図示されていたが、現在の、国際規格のIEC 60617を元に作成されたJIS C 0617(1997-1999年制定)ではギザギザ型の図記号は示されなくなり、長方形の箱状の図記号で図示することになっている<ref>https://industrial.panasonic.com/jp/ss/technical/b1 「抵抗器の基礎知識 ~役割・単位と記号・規格~」パナソニック 2018-04-16 2023年9月30日閲覧</ref>。旧規格であるJIS C 0301は、新規格JIS C 0617の制定に伴って廃止されたため、旧記号で抵抗器を図示した図面は、現在ではJIS非準拠な図面になってしまう。ただし、JIS C 0301廃止前に作成された展開接続図等の文書に対して、描き直す必要性は必ずしもない。加えて、法的拘束力は無いため現在も旧図記号が使われる事が多いが、新図記号を使用する事が推奨されている。 新旧混在は混乱を招き事故にも繋がりかねず、輸出企業の場合旧図記号を使用していると図面が国際規格に準拠していないということで受注できない事もある。 {{gallery |ファイル:Resistor_symbol_America.svg|従来規格の図記号 |ファイル:Resistor_symbol_IEC.svg|新規格の図記号 }} == 関連する他の電子部品 == 抵抗器は環境変化で抵抗値が変化することが無いように配慮されているが、逆に温度によって抵抗値が大きく変化するように作られた[[サーミスタ]]と呼ばれる電子部品があり、温度センサとして使用される。また、同じように環境変化によって抵抗値が変化する素子としては、「[[フォトレジスタ]](光電導セル)」という電子部品があり、これは光の量によって抵抗値が増減する。 実際の[[電子回路]]では、受動素子の1つである[[コンデンサ]]とともに用いられることが多く、両者の頭文字を取って '''CR''' と表現されることが多い。 == 抵抗器の利用 == === 直列抵抗器(倍率器) === '''倍率器'''(ばいりつき、Multiplier)は、[[直流]][[電圧計]]の測定範囲の拡大に使われる抵抗器である{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=19}}。'''直列抵抗器'''(ちょくれつていこうき、Series Resister)ともいう{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=19}}。 一般にアナログ式の電圧計は測定範囲が決まっており、それ以上大きい電圧をそのまま測定することは構造上できない。そこで、電圧計に[[直列]]に抵抗器を挿入し測定電圧を電圧計の[[内部抵抗]]と挿入した抵抗器で[[分圧回路|分圧]]することによって、相対的に電圧計にかかる電圧を減少させ測定範囲を広げることができる。 測定対象の電圧を<math>V</math>、電圧計に加わる電圧を<math>V_V</math>、電圧計の内部抵抗を<math>r_V</math>、倍率器の抵抗を<math>R_S</math>とすると、分圧の公式より次のようになる。 :<math> V=\frac{R_S+r_V}{r_V}V_V=\left(1+\frac{R_S}{r_V}\right)V_V</math>{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=19}} よって、最大目盛りの時の電圧が<math>\left(1+\frac{R_S}{r_V}\right)</math>倍に拡大されたことになる。 多くの電圧計は内部に倍率器を備えており、端子を替えることで測定可能範囲を変化させることができる。これを多重範囲電圧計という{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=19}}。 === 分流器 === {{see also|{{仮リンク|エアトン分流器|en|Ayrton shunt}}}} '''分流器'''(ぶんりゅうき、Shunt)は、[[直流]][[電流計]]の測定範囲の拡大に使われる抵抗器である{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=20}}。 一般にアナログ式の電流計は測定範囲が決まっており、それ以上大きい電流をそのまま測定することは構造上できない。そこで、電流計に[[並列]]に抵抗器を挿入し測定電流を電流計の[[内部抵抗]]と挿入した抵抗器で[[分流]]することによって、相対的に電流計に流れる電流を減少させ測定範囲を広げることができる。 測定対象の電流を<math>I</math>、電流計に流れる電流を<math>I_A</math>、電流計の内部抵抗を<math>r_A</math>、分流器の抵抗を<math>R_S</math>とすると、分流の公式より次のようになる。 :<math> I=\frac{R_S+r_A}{R_S}I_A=\left(1+\frac{R_A}{r_S}\right)I_A</math>{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=20}} よって、最大目盛りの時の電流が<math>\left(1+\frac{R_A}{r_S}\right)</math>倍に拡大されたことになる。 多くの電流計は内部に分流器を備えており、端子を替えることで測定可能範囲を変化させることができる。これを多重範囲電流計という{{Sfn|日髙邦彦 ほか|2017|p=20}}。 === 鉄道車両における抵抗器 === <!-- ノートを必ず熟読してください。勝手に記述を削除したりしないようお願いします。--> 車両用抵抗器<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.suzuki-gokin.co.jp/rolling_stock_resistor/index.php | title=車両用抵抗器 | publisher=鈴木合金株式会社 | accessdate=2013-02-01}}</ref>とも言う。 [[電気機関車]]や[[電車]]においては直流モーターの電流を調節するために、長らく抵抗器を使った制御方式([[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]])が採用されてきた。また[[発電ブレーキ]]で発生した電力を熱として捨てるためにも抵抗器が使われる。効率が良く軽量小型な[[電気車の速度制御|電動機の制御]]方式が発展したこと、[[スマートグリッド#逆潮流|逆潮流]][[送電]]技術の発展<ref>{{Cite web|和書| url=http://biz.nikkan.co.jp/toku/smartglid/sg20120228-18n-308ps.html | title=JR東日本、回生電力を積極活用-“鉄道版スマートグリッド”の試作器開発 | publisher=[[日刊工業新聞社]]|accessdate=2013-02-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=https://www.meti.go.jp/policy/tsutatsutou/tuuti1/aa566.pdf | title=電気設備の技術基準の解釈 | publisher=[[原子力安全・保安院]] 電力安全課 | format=PDF | accessdate=2013-02-01}}</ref>などにより、人目につくように搭載される事は少なくなってきている。 材質と冷却方式から、以下の様に分類される。 ==== 抵抗体 ==== ===== 鋳鉄グリッド式 ===== 古くから使われてきた方式。重いことと、熱容量が少ないことから、新性能車では極初期に使われただけであった。 ===== ニクロムリボン式 ===== 上記に変わって主流となった方式。軽量であることと、[[発電ブレーキ]]の装備に伴い、容量を増やす必要から、高性能車や[[新性能電車|新性能車]]ではこれが主流となった。 ==== 冷却方式 ==== ===== 自然通風式 ===== [[ファイル:Keikyu 1000 Series EMU 005.JPG|thumb|[[京急1000形電車 (初代)|初代・京急1000形]]の主抵抗器<br />向かって右側の間隔が密なものが起動・[[力行]]用抵抗器、左側の大容量のものが[[発電ブレーキ|電制]]用抵抗器。]] 古くから使われてきた方式。発熱量が少ない場合は、これで充分だった。国鉄[[新性能電車]]([[発電ブレーキ]]付き)では採用例が少ない([[国鉄181系電車|151]]、[[国鉄301系電車|301]]、[[国鉄103系電車#地下鉄対応車両|103-1000 / 1200 / 1500]]、[[国鉄105系電車|105]]、[[国鉄119系電車|119]]、[[国鉄121系電車|121]]系等)。[[私鉄]]では、[[送風機|ブロアーファン]]の[[騒音]]と故障リスクが無い事から発電ブレーキ付きの車両でもこの方式が主流で、床下は抵抗器で埋め尽くされた。特に[[近畿日本鉄道|近鉄]]、[[南海電気鉄道|南海]]、[[神戸電鉄]]等では1両に積みきれずに2両に亘って搭載される場合もあった。 日本以外では屋根上に搭載される場合が多い。日本では[[名古屋鉄道|名鉄]]の[[名鉄モ600形電車 (2代)|モ600形]]が屋根上に抵抗器を搭載されていたほか、抵抗制御の車両ではないが、[[国鉄781系電車|国鉄781系]]、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]の[[JR北海道721系電車|721]]、[[JR北海道785系電車|785]]系および[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]]の[[JR西日本285系電車|285系]]も屋根上に発電ブレーキを作動させるためだけの抵抗器を搭載している。 {{-}} ===== 強制通風式 ===== [[ファイル:JNR_113_series_EMU_001_W.JPG|thumb|[[国鉄113系電車|国鉄モハ113形]]の主抵抗器<br />中央吸気口の奥に送風用両軸電動機があり、そこから前後に冷却扇、抵抗器、排気口の順に並ぶ。]] 発熱量が多い場合に有効な方式。国鉄[[新性能電車]]は大部分がこの方式。私鉄では採用例が少なく、[[相模鉄道|相鉄]]、[[東京急行電鉄|東急]]、[[小田急電鉄|小田急]]、[[京王電鉄|京王]]、[[名古屋鉄道|名鉄]]、[[阪神電気鉄道|阪神]]、[[名古屋市営地下鉄]]等に採用例があるくらいである。中でも、名鉄や阪神には[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]・[[東芝]]製MCM制御装置(制御装置と抵抗器が一体化)の採用例があり、これも強制通風式となる。ブロアーファンが故障した場合や、何らかの事情により送風を止めた場合は、発熱量の問題で[[力行]]は可能だが発電ブレーキが使用不能となる。 {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation |author=日髙邦彦 ほか |year=2017 |title=新訂版 精選電気基礎 |publisher=実教出版 |ISBN=978-4-407-20389-9}} == 関連項目 == {{Commonscat|Resistors}} * [[電気抵抗]] * [[電気伝導]] * [[オームの法則]] * [[直列回路と並列回路]] * [[ポテンショメータ]] * [[:en:List of electronic color code mnemonics]] - [[ラテン文字]]圏でのカラーコードの覚え方 == 外部リンク == * [http://www.azusa-st.com/resistor/ 抵抗器カラーコードの表記法] * [http://xn--jckte8a9a8fs389ao4bc84j.xbws.org/viewtopic.php?f=9&p=2722 抵抗のカラーコードのプログラムをオンラインで] * [http://www.weerstandcalculator.nl/japanese.php 抵抗のカラーコード] * {{Kotobank}} {{Electronic components|state=collapsed}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ていこうき}} [[Category:電子部品]] 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ウィザードリィ外伝女王アイラスの受難
『ウィザードリィ外伝女王アイラスの受難』(ウィザードリィがいでん じょおうアライアスのじゅなん)は高井信のライトノベル。
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『ウィザードリィ外伝女王アイラスの受難』は高井信のライトノベル。
{{告知|提案|[[高井信]]へのリダイレクト化提案|date=2023年10月}} 『'''ウィザードリィ外伝女王アイラスの受難'''』(ウィザードリィがいでん じょおうアライアスのじゅなん)は[[高井信]]の[[ライトノベル]]。 == 概要 == *著者:[[高井信]] *カバー&挿絵:[[末弥純]] *出版:1993.10.22 (株)アスペクト *定価:660円 + 税 ==関連項目== *[[ログアウト冒険文庫]] {{Wizardry}} {{デフォルトソート:ういさあとりいかいてん1しよおうあらいあすのしゆなん}} [[Category:ログアウト文庫]] [[Category:ウィザードリィ|しよおうあいらすのしゆなん]] {{Lit-stub}} {{Video-game-stub}}
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ジョージ・ハリスン
ジョージ・ハリスン (George Harrison、MBE、1943年2月25日 - 2001年11月29日) は、イギリスのミュージシャン、ギタリスト。ザ・ビートルズのメンバーであり、主にリード・ギターを担当した。ビートルズ解散後もソロ名義で長期間活躍した。 1960年代にビートルズのリード・ギタリストとして活動、解散後はソロとしての活動を行った。ソロでは、「マイ・スウィート・ロード」「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」「美しき人生」等がヒット。アルバムにおいては、『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)等々のヒットアルバムがある。また、スライドギターに定評があることでも知られている。 1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に単独でロックの殿堂入りを果たしている。Rolling Stone誌が行った「史上最高のギタリスト100人」のリストでハリスンは11位にランクインした。また、エリック・クラプトンとの親交も知られている。 1999年には自宅で暴漢に襲撃され重傷を負った。ハリスンは2001年、肺癌と脳腫瘍のため死去した。 リヴァプール郊外ウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴ12番地でハロルド・ハリスン(1909年 - 1978年)とルイーズ・フレンチ(1911年 - 1970年7月7日)との間に1943年2月25日木曜日にハリスン家の三男として出生。4人兄弟の末っ子だった。労働者階級出身。時の国王ジョージ6世にあやかって「ジョージ」と命名される。 父・ハロルドはウェールズ系のバス運転手。母・ルイーズはアイルランド系の敬虔なカトリック教徒であった。同時にドイツ人の血も入っている。ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リバプール・インスティテュート・ハイスクール・フォー・ボーイズ(英語版)に入学した。当時の同級生はジョージを「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評していた。 ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフル・バンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなくウォッシュボードだった。これは一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーター(1940年 - 2007年)がギターを持っていたことが理由であった。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まり、13歳の時に同じ学校の生徒から中古ギターを購入した。 そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージは、念願だったスキッフル・バンドを結成する。バンド名は「Rebels」(レベルズ=「反逆者たち」の意)とした。「レベルズ」が初めてコンサート・ステージに立つ日、ブッキングしている他のバンドが全てキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返し演奏し数十分間引きのばして乗り切ったという逸話がある。 1950年代の中頃にポール・マッカートニーに出会う。ポールに紹介されジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に加入。バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの「ローンチー(英語版)」というインストゥルメンタルをギターで完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われている。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんだ。そのため、時には8時間以上も、徹夜で演奏することもあったが、ジョージには苦にならなかった。 ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れたほか、後期には初期型シンセサイザーをいち早く導入している。また、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みている。1963年にジョージが作曲した「ドント・バザー・ミー」が初めてビートルズのアルバムに収録されたが、同曲はタイム・アウト・ロンドンによって、ビートルズの楽曲47位にランクされた。 ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる。これはインド楽器の導入と同様、「ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かった」とされる。ビートルズのメンバーとして、当初は優秀なメロディメーカーであるレノン=マッカートニーの陰に隠れた目立たない存在であったが、活動中期に至ってジョージ作の「恋をするなら」と「嘘つき女」がアルバム『ラバー・ソウル』に収録され、「タックスマン」がアルバム『リボルバー』のA面1曲目を飾るなど次第に頭角を現し、「アイ・ミー・マイン」「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などの楽曲を完成させる。 しかし、当時ビートルズ内でジョージは不遇であった。彼は次第に「アルバム1作につき2曲しか収録されない」「自由にリードギターを弾かせてもらえない」などの不満を募らせる。この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化した。メンバーの中でも彼は、早くからソロ活動を志向するようになり、これがバンド解散の原因の一つともなった。 ジョージはビートルズの中で、外部ミュージシャンとの交流が最も盛んであった。リンゴ・スターと最初に仲良くなったのも、他ならぬジョージである。これは彼の人柄によるものが大きく、ブライアン・エプスタインは「ジョージといると本当に心が休まる。ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、「尊大ではなく誠実で人懐っこい性格だった」と言われている。自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロにエリック・クラプトンを、キーボード・プレイヤーとしてビリー・プレストンを「ゲット・バック・セッション」に参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面でも貢献した。この他にもボブ・ディラン、ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドとの交流はよく知られる。無名時代にロリー・ストーム(英語版)と仲良くなったのもジョージである。その初期において、デッカ・レコードにローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。欧米では“静かなビートル(Quiet Beatle)”と呼ばれていた。 ビートルズが解散して元メンバーの4人は、活発にソロ音楽活動を展開した。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにもかかわらず、全米/全英のアルバムチャートで1位となる大ヒットとなった。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に収録した。プロデューサー、フィル・スペクターのプロデュースと相まって、優れたアルバムとして評価されている。 シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1を記録した。この曲はシフォンズの「いかした彼」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ、ジョージは1度敗訴。さらに版権を手に入れたアラン・クラインにも訴訟を起こされ、81年に賠償金を支払っている。 翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。ビートルズ解散後初めてリンゴ・スターと共演して話題になったほか、エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイベントは大成功を収めた。その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。 1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース・レコード」を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースした。それに伴い、同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。とりわけ喉の異常は、当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされ、最終的に敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動は、この頃様々な不運によって精彩を欠いていた。 1974年にはアルバム『ダーク・ホース』(全米4位)を発表した。「ディンドン」「ダーク・ホース」は日本でヒットした。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したジョージは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。日本ではシングル「ユー」がヒットした。 しかし、その矢先にジョージは肝炎を患って入院してしまう。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることになる。ここから1976年に『33 1/3』、1979年に『慈愛の輝き』という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11位、14位というまずまずのセールスを収めた。『慈愛の輝き』には「ブロウ・アウェイ」「ラヴ・カムズ・トゥ・エブリワン」という久々にジョージらしい曲が収められていた。 私生活では、自分の親友だったエリック・クラプトンと交際を始めた妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系アメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(現在はミュージシャン)を儲けている。1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。また、自伝『アイ・ミー・マイン』を1979年に発表した。 副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく〜母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない」「内容が暗い」という理由から、レコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけて、クイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。この曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムには、この曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。 翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはときおり楽曲を私的に書くことはあったものの、アーティストとしての活動から半引退状態となる。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky's Revenge』に収録の「青春の想い」をリリースした程度で、この曲はシングルでも発売された。 本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズ・フォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻すのだった。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。 1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ3世(当時皇太子)が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。 リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカを-はじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は、1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれている。 1991年12月、日本だけでエリック・クラプトンとのジョイント・ツアーが行われた。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの日本公演でもあった。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライブ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年4月26日、ほぼ同じ曲目と同じバンドで、自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行う。同年10月16日にはボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念コンサートにクラプトンらと参加するが、これがジョージにとっての生涯最後のライヴ・パフォーマンスとなった。その間にひそかに広島県に訪問して、原爆資料館を見学して、原爆による戦争の恐ろしさを痛感した。 1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われる。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。 1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることになる。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。1999年にはOBEを拒否した。理由は97年に授章したポール・マッカートニーが騎士団よりも下の階級だったことで、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道している。 1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、同年晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負わされた。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人々が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄した。しかしジョージは、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。 この間にビートルズの元メンバーであるピート・ベストに関して、ジョージは「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめてピートに会って当時のことを謝りたかったんだ」と述べていたが、ジョージの死で再会は実現しなかった。 しかし、そんな矢先に肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明した。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱した。2001年11月には、各国の大衆紙がジョージが危篤であると報道した。11月29日(日本時間11月30日早朝)、彼は滞在先であるロサンゼルスのポールが借りていた家にて家族・友人たちに看取られながら58歳で息を引き取った。ビートルズ・ファンが追悼の巡礼に殺到することを危惧したオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載し、死去した場所は公表されていない。 ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』というタイトルで発売された。2003年度グラミー賞には本アルバム、及び「Any Road」と「Marwa Blues」の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。 遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニー、スター、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加した。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされている。 リンゴ・スターはジョージへの追悼曲「Never Without You」を作り、2003年にシングルで発売した。アルバム『リンゴ・ラマ』にも収録されている。 2004年3月15日には、ソロ・アーティストとしてロックの殿堂入りを果たした。同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼んだ。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発された。2006年9月には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売された。 2009年4月14日、ハリウッドの殿堂入りを果たした。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となった。また、同年5月8日には、アビー・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23〜24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィス(英語版)によって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』が発売された。 没後10年である2011年、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が公開された。 現在ポール、リンゴに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっている。 60年代後半以降、ヒッピー・ムーブメントやサイケデリックなドラッグの影響もあり、ヒンズー教に傾倒した。1960年代半ばまでに、インドの宗教を他のビートルズに紹介し、インド文化と神秘主義の賛美者になる。映画『ヘルプ』の撮影中、ビートルズのメンバーはバハマで、スワミ・ビシュヌ・デバナンダ(シヴァナンダ・ヨガの創始者)の会合に出席。彼は本に署名した「ヨガの完全なイラストレーション・ブック」をハリスンに渡した。ヒンズー教のヨガの伝統に沿って、1966年の最後のビートルズツアーの頃から1960年代後半までに菜食主義者になった。インドへ、ビートルズのメンバーやドノヴァン、ジェーン・アッシャー、ミア・ファロー、マイク・ラヴらと旅行に行ったこともある。1966年にラヴィ・シャンカールによって様々な宗教的なテキストが与えられた後、彼はスワミ・ヴィヴェカナンダとパラマハンサ・ヨーガナンダのヨガと、ライターの教えの生涯にわたる支持者として残った。また、1969年中頃、ロンドンにあるラダ・クリシュナ・テンプル(寺院)のメンバーによるシングル「ハリ・クリシュナ(Hare Krishna Mantra)」を、1971年には同曲を含むアルバム『ラダ・クリシュナ・テンプル』をプロデュースした。「マイ・スウィート・ロード」の曲中にも、クリシュナという歌詞が出てくる。 少年時代から スティーヴ・マックイーンやポール・ニューマンと同様、モータースポーツのファンで、79年のインタヴューでも車好きを明らかにしている。また自身もレースにドライバーとして参戦した。彼は79年にF1ドライバーのジャッキー・スチュアートらに捧げた曲「Faster」をアルバム内で発表した。「Faster」の印税は、29歳で癌で亡くなったF1ドライバーのグンナー・ニルソンが創設した癌撲滅基金に寄付された。顔がジョージと似ているF1ドライバーのデイモン・ヒルとも親交があった。参戦資金が不足していたヒルがジョージに支援依頼の手紙を郵送した際、ジョージは資金を提供した。数年後、F1チャンピオンになったデイモンは返済を申し出るが、ジョージは辞退した。 ジョージ・ハリスン with エリック・クラプトン and his band アメリカ・日本のみで発売されたシングルも含む。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジョージ・ハリスン (George Harrison、MBE、1943年2月25日 - 2001年11月29日) は、イギリスのミュージシャン、ギタリスト。ザ・ビートルズのメンバーであり、主にリード・ギターを担当した。ビートルズ解散後もソロ名義で長期間活躍した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1960年代にビートルズのリード・ギタリストとして活動、解散後はソロとしての活動を行った。ソロでは、「マイ・スウィート・ロード」「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」「美しき人生」等がヒット。アルバムにおいては、『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)等々のヒットアルバムがある。また、スライドギターに定評があることでも知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に単独でロックの殿堂入りを果たしている。Rolling Stone誌が行った「史上最高のギタリスト100人」のリストでハリスンは11位にランクインした。また、エリック・クラプトンとの親交も知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1999年には自宅で暴漢に襲撃され重傷を負った。ハリスンは2001年、肺癌と脳腫瘍のため死去した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "リヴァプール郊外ウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴ12番地でハロルド・ハリスン(1909年 - 1978年)とルイーズ・フレンチ(1911年 - 1970年7月7日)との間に1943年2月25日木曜日にハリスン家の三男として出生。4人兄弟の末っ子だった。労働者階級出身。時の国王ジョージ6世にあやかって「ジョージ」と命名される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "父・ハロルドはウェールズ系のバス運転手。母・ルイーズはアイルランド系の敬虔なカトリック教徒であった。同時にドイツ人の血も入っている。ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、リバプール・インスティテュート・ハイスクール・フォー・ボーイズ(英語版)に入学した。当時の同級生はジョージを「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ロックンロールに熱中していたジョージが、スキッフル・バンドを結成しようと考えて、初めて手にした楽器はギターではなくウォッシュボードだった。これは一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーター(1940年 - 2007年)がギターを持っていたことが理由であった。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まり、13歳の時に同じ学校の生徒から中古ギターを購入した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージは、念願だったスキッフル・バンドを結成する。バンド名は「Rebels」(レベルズ=「反逆者たち」の意)とした。「レベルズ」が初めてコンサート・ステージに立つ日、ブッキングしている他のバンドが全てキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返し演奏し数十分間引きのばして乗り切ったという逸話がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1950年代の中頃にポール・マッカートニーに出会う。ポールに紹介されジョン・レノンらのバンド「クオリーメン」(ビートルズの前身)に加入。バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要したビル・ジャスティスの「ローンチー(英語版)」というインストゥルメンタルをギターで完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われている。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんだ。そのため、時には8時間以上も、徹夜で演奏することもあったが、ジョージには苦にならなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れたほか、後期には初期型シンセサイザーをいち早く導入している。また、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みている。1963年にジョージが作曲した「ドント・バザー・ミー」が初めてビートルズのアルバムに収録されたが、同曲はタイム・アウト・ロンドンによって、ビートルズの楽曲47位にランクされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる。これはインド楽器の導入と同様、「ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かった」とされる。ビートルズのメンバーとして、当初は優秀なメロディメーカーであるレノン=マッカートニーの陰に隠れた目立たない存在であったが、活動中期に至ってジョージ作の「恋をするなら」と「嘘つき女」がアルバム『ラバー・ソウル』に収録され、「タックスマン」がアルバム『リボルバー』のA面1曲目を飾るなど次第に頭角を現し、「アイ・ミー・マイン」「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などの楽曲を完成させる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、当時ビートルズ内でジョージは不遇であった。彼は次第に「アルバム1作につき2曲しか収録されない」「自由にリードギターを弾かせてもらえない」などの不満を募らせる。この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化した。メンバーの中でも彼は、早くからソロ活動を志向するようになり、これがバンド解散の原因の一つともなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ジョージはビートルズの中で、外部ミュージシャンとの交流が最も盛んであった。リンゴ・スターと最初に仲良くなったのも、他ならぬジョージである。これは彼の人柄によるものが大きく、ブライアン・エプスタインは「ジョージといると本当に心が休まる。ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、「尊大ではなく誠実で人懐っこい性格だった」と言われている。自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロにエリック・クラプトンを、キーボード・プレイヤーとしてビリー・プレストンを「ゲット・バック・セッション」に参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面でも貢献した。この他にもボブ・ディラン、ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドとの交流はよく知られる。無名時代にロリー・ストーム(英語版)と仲良くなったのもジョージである。その初期において、デッカ・レコードにローリング・ストーンズを紹介したとも言われる。欧米では“静かなビートル(Quiet Beatle)”と呼ばれていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ビートルズが解散して元メンバーの4人は、活発にソロ音楽活動を展開した。本格的な初のソロ・アルバムとなった『オール・シングス・マスト・パス』は、異例のLP3枚組として発売されたにもかかわらず、全米/全英のアルバムチャートで1位となる大ヒットとなった。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に収録した。プロデューサー、フィル・スペクターのプロデュースと相まって、優れたアルバムとして評価されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "シングル「マイ・スウィート・ロード」も米英それぞれ4、5週連続No.1を記録した。この曲はシフォンズの「いかした彼」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ、ジョージは1度敗訴。さらに版権を手に入れたアラン・クラインにも訴訟を起こされ、81年に賠償金を支払っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "翌年8月には、シタールの師であるラヴィ・シャンカールの要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート(バングラデシュ・コンサート)を開催。ビートルズ解散後初めてリンゴ・スターと共演して話題になったほか、エリック・クラプトンや、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなどが参加したイベントは大成功を収めた。その模様を収めたライヴ盤は、1972年度グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1973年に発売された2枚目の『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年にはA&Mレコード傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース・レコード」を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人やラヴィ・シャンカールのアルバムなどを次々リリースした。それに伴い、同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。とりわけ喉の異常は、当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「マイ・スウィート・ロード」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされ、最終的に敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動は、この頃様々な不運によって精彩を欠いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1974年にはアルバム『ダーク・ホース』(全米4位)を発表した。「ディンドン」「ダーク・ホース」は日本でヒットした。1975年発売の『ジョージ・ハリスン帝国』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したジョージは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。日本ではシングル「ユー」がヒットした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし、その矢先にジョージは肝炎を患って入院してしまう。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件にワーナー・ブラザース・レコードと新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることになる。ここから1976年に『33 1/3』、1979年に『慈愛の輝き』という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11位、14位というまずまずのセールスを収めた。『慈愛の輝き』には「ブロウ・アウェイ」「ラヴ・カムズ・トゥ・エブリワン」という久々にジョージらしい曲が収められていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "私生活では、自分の親友だったエリック・クラプトンと交際を始めた妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会ったメキシコ系アメリカ人女性オリヴィア・トリニアード・アリアス(後のオリヴィア・ハリスン)と1978年に再婚し、同年に一人息子のダーニ・ハリスン(現在はミュージシャン)を儲けている。1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。また、自伝『アイ・ミー・マイン』を1979年に発表した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。1980年に制作したアルバム『想いは果てなく〜母なるイングランド』は「キャッチーな曲が少ない」「内容が暗い」という理由から、レコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年12月8日のジョン・レノン射殺事件である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌81年から1982年にかけて、クイーンやエルトン・ジョンなどによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「過ぎ去りし日々」はその代表的な例であり、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。この曲は、スターがドラム、ウイングス(ポール・マッカートニー夫妻とデニー・レインの3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムには、この曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "翌1982年には次作『ゴーン・トロッポ』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはときおり楽曲を私的に書くことはあったものの、アーティストとしての活動から半引退状態となる。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky's Revenge』に収録の「青春の想い」をリリースした程度で、この曲はシングルでも発売された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、1986年公開のマドンナ、ショーン・ペン主演の映画『上海サプライズ』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズ・フォロワーとしても知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンである。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻すのだった。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌はゴールデンラズベリー賞にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、イギリスのチャールズ3世(当時皇太子)が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」にスター、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「ヒア・カムズ・ザ・サン」を演奏した。前年の同イヴェントにはマッカートニーが参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『クラウド・ナイン』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカを-はじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」は、1988年1月20日付のビルボードのシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンはブライアン・ウィルソンやランディ・ニューマンなどを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、ボブ・ディラン、ロイ・オービソン、トム・ペティらと覆面バンド「トラヴェリング・ウィルベリーズ」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、1989年度のグラミー賞を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』のエンディング曲として「チアー・ダウン」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1991年12月、日本だけでエリック・クラプトンとのジョイント・ツアーが行われた。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの日本公演でもあった。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。1989年のスター、1990年のマッカートニーに次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライブ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年4月26日、ほぼ同じ曲目と同じバンドで、自らが支持する政党の支援を目的としたコンサートを本国で行う。同年10月16日にはボブ・ディランのレコードデビュー30周年記念コンサートにクラプトンらと参加するが、これがジョージにとっての生涯最後のライヴ・パフォーマンスとなった。その間にひそかに広島県に訪問して、原爆資料館を見学して、原爆による戦争の恐ろしさを痛感した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1993年より、「ビートルズ・アンソロジー」のプロジェクトが正式に始まり、マッカートニー、スターとの共同作業が行われる。ジョン・レノンの生前に残されたデモ音源から「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることになる。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。1999年にはOBEを拒否した。理由は97年に授章したポール・マッカートニーが騎士団よりも下の階級だったことで、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムのリマスターの作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、同年晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負わされた。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人々が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄した。しかしジョージは、恐怖するファンを安心させるかのように、2001年ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この間にビートルズの元メンバーであるピート・ベストに関して、ジョージは「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめてピートに会って当時のことを謝りたかったんだ」と述べていたが、ジョージの死で再会は実現しなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、そんな矢先に肺癌が発見され、さらに脳腫瘍も併発していることが判明した。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱した。2001年11月には、各国の大衆紙がジョージが危篤であると報道した。11月29日(日本時間11月30日早朝)、彼は滞在先であるロサンゼルスのポールが借りていた家にて家族・友人たちに看取られながら58歳で息を引き取った。ビートルズ・ファンが追悼の巡礼に殺到することを危惧したオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載し、死去した場所は公表されていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『ブレインウォッシュド』というタイトルで発売された。2003年度グラミー賞には本アルバム、及び「Any Road」と「Marwa Blues」の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "遺作集のリリースとほぼ時期を同じくしてエリック・クラプトンの企画による追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』が行われ、リンとトム・ペティ、マッカートニー、スター、ビリー・プレストン、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加した。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "リンゴ・スターはジョージへの追悼曲「Never Without You」を作り、2003年にシングルで発売した。アルバム『リンゴ・ラマ』にも収録されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2004年3月15日には、ソロ・アーティストとしてロックの殿堂入りを果たした。同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼んだ。また、2005年には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発された。2006年9月には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2009年4月14日、ハリウッドの殿堂入りを果たした。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人ではレノンに次いで2人目となった。また、同年5月8日には、アビー・ロード・スタジオにて、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた1967年頃(当時23〜24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者であるハンター・デイヴィス(英語版)によって発見され、大英図書館にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン』が発売された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "没後10年である2011年、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が公開された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現在ポール、リンゴに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "60年代後半以降、ヒッピー・ムーブメントやサイケデリックなドラッグの影響もあり、ヒンズー教に傾倒した。1960年代半ばまでに、インドの宗教を他のビートルズに紹介し、インド文化と神秘主義の賛美者になる。映画『ヘルプ』の撮影中、ビートルズのメンバーはバハマで、スワミ・ビシュヌ・デバナンダ(シヴァナンダ・ヨガの創始者)の会合に出席。彼は本に署名した「ヨガの完全なイラストレーション・ブック」をハリスンに渡した。ヒンズー教のヨガの伝統に沿って、1966年の最後のビートルズツアーの頃から1960年代後半までに菜食主義者になった。インドへ、ビートルズのメンバーやドノヴァン、ジェーン・アッシャー、ミア・ファロー、マイク・ラヴらと旅行に行ったこともある。1966年にラヴィ・シャンカールによって様々な宗教的なテキストが与えられた後、彼はスワミ・ヴィヴェカナンダとパラマハンサ・ヨーガナンダのヨガと、ライターの教えの生涯にわたる支持者として残った。また、1969年中頃、ロンドンにあるラダ・クリシュナ・テンプル(寺院)のメンバーによるシングル「ハリ・クリシュナ(Hare Krishna Mantra)」を、1971年には同曲を含むアルバム『ラダ・クリシュナ・テンプル』をプロデュースした。「マイ・スウィート・ロード」の曲中にも、クリシュナという歌詞が出てくる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "少年時代から スティーヴ・マックイーンやポール・ニューマンと同様、モータースポーツのファンで、79年のインタヴューでも車好きを明らかにしている。また自身もレースにドライバーとして参戦した。彼は79年にF1ドライバーのジャッキー・スチュアートらに捧げた曲「Faster」をアルバム内で発表した。「Faster」の印税は、29歳で癌で亡くなったF1ドライバーのグンナー・ニルソンが創設した癌撲滅基金に寄付された。顔がジョージと似ているF1ドライバーのデイモン・ヒルとも親交があった。参戦資金が不足していたヒルがジョージに支援依頼の手紙を郵送した際、ジョージは資金を提供した。数年後、F1チャンピオンになったデイモンは返済を申し出るが、ジョージは辞退した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ジョージ・ハリスン with エリック・クラプトン and his band", "title": "日本公演" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカ・日本のみで発売されたシングルも含む。", "title": "ディスコグラフィ" } ]
ジョージ・ハリスン は、イギリスのミュージシャン、ギタリスト。ザ・ビートルズのメンバーであり、主にリード・ギターを担当した。ビートルズ解散後もソロ名義で長期間活躍した。 1960年代にビートルズのリード・ギタリストとして活動、解散後はソロとしての活動を行った。ソロでは、「マイ・スウィート・ロード」「ギヴ・ミー・ラヴ」「セット・オン・ユー」「美しき人生」等がヒット。アルバムにおいては、『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)等々のヒットアルバムがある。また、スライドギターに定評があることでも知られている。 1988年にビートルズのメンバーとして、2004年に単独でロックの殿堂入りを果たしている。Rolling Stone誌が行った「史上最高のギタリスト100人」のリストでハリスンは11位にランクインした。また、エリック・クラプトンとの親交も知られている。 1999年には自宅で暴漢に襲撃され重傷を負った。ハリスンは2001年、肺癌と脳腫瘍のため死去した。
{{別人|ジョージ・L・ハリソン|x1=[[ニューヨーク連邦準備銀行]]総裁}} {{表記揺れ案内 | 表記1 = ジョージ・ハリスン | 表記2 = ジョージ・ハリソン }} {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | 名前 = ジョージ・ハリスン | honorific_suffix = {{post-nominals|country=GBR|size=100%|MBE}} | 画像 = George Harrison 1974 (cropped).jpg | 画像説明 = 1974年12月撮影 | 画像サイズ = 220px<!-- サイズが220ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = | 背景色 = singer | 出生名 = <!--本名が公表されている場合にのみ記入--> | 別名 = カール・ハリスン<!-- 表記は「Carl Harrison」。シルヴァー・ビートルズ時代 --><ref name="Harrison">{{Cite news |title=Fim dos Beatles foi anunciado por Paul McCartney há 50 anos |url=https://www.correiodopovo.com.br/arteagenda/fim-dos-beatles-foi-anunciado-por-paul-mccartney-h%C3%A1-50-anos-1.411871 |newspaper=Correio do Povo |publisher=Grupo Record |date=2020-04-10 |accessdate=2020-12-17 }}</ref> | 学歴 = | 出生 = [[1943年]][[2月25日]]<ref name=guardianobituaries>{{Cite news |first=Laing |last=Dave |title=The Guardian |url=https://amp.theguardian.com/news/2001/dec/01/guardianobituaries.pennyvalentine |newspaper=The Guardian News 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Stone誌が行った「史上最高のギタリスト100人」のリストでハリスンは11位にランクインした。また、[[エリック・クラプトン]]との親交も知られている。 [[1999年]]には自宅で暴漢に襲撃され重傷を負った。ハリスンは[[2001年]]、[[肺癌]]と[[脳腫瘍]]のため死去した。 == 生涯 == === 生い立ち === [[リヴァプール]]郊外ウェイヴァートリー区アーノルド・グローヴ12番地でハロルド・ハリスン([[1909年]] - [[1978年]])とルイーズ・フレンチ([[1911年]] - [[1970年]][[7月7日]])との間に1943年2月25日木曜日にハリスン家の三男として出生<ref group="注釈">1992年2月25日のインタビューでジョージ本人が「2月24日午後11時42分に生まれて出生届を25日に出した」と公言している。</ref>。4人兄弟の末っ子だった。[[労働者階級]]出身。時の国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]にあやかって「ジョージ」と命名される。 父・ハロルドは[[ウェールズ人|ウェールズ系]]のバス運転手。母・ルイーズは[[アイルランド人#海外への移住|アイルランド系]]の敬虔な[[アイルランドのカトリック|カトリック]]教徒であった<ref>「Living in the Material World」 マーティン・スコシージ、オリヴィア・ハリスン著</ref>。同時に[[ドイツ人]]の血も入っている<ref name="Harrison"/>。ジョージが6歳になった時、一家はアプトン・グリーン25番地に引っ越した。ダヴディル・ロード幼児学校、ダヴディル小学校に通い、{{仮リンク|リバプール・インスティテュート・ハイスクール・フォー・ボーイズ|en|Liverpool Institute High School for Boys}}に入学した。当時の同級生はジョージを「独りぼっちで隅に座っているようなヤツ」と評していた。 [[ロックンロール]]に熱中していたジョージが、[[スキッフル]]・[[バンド (音楽)|バンド]]を結成しようと考えて<ref group="注釈">イギリスでヒットしたロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」などがスキッフルの有名曲である。</ref>、初めて手にした楽器は[[ギター]]ではなく[[ウォッシュボード]]だった。これは一緒にバンドを組もうとしていた2番目の兄ピーター([[1940年]] - [[2007年]])がギターを持っていたことが理由であった。しかし、しばらくするとギターを演奏したい気持ちが強まり、13歳の時に同じ学校の生徒から中古ギターを購入した。 そして毎日の練習のおかげでギターの腕前が上達したジョージは、念願だったスキッフル・バンドを結成する。バンド名は「Rebels」(レベルズ=「反逆者たち」の意)とした<ref group="注釈">当時の[[イギリス]]には同名のバンドが多数存在していた{{要出典|date=2023年6月}}。</ref>。「レベルズ」が初めてコンサート・ステージに立つ日、ブッキングしている他のバンドが全てキャンセルしたので、少ないレパートリーの中、一曲を繰り返し演奏し数十分間引きのばして乗り切ったという[[逸話]]がある。 1950年代の中頃に[[ポール・マッカートニー]]に出会う。ポールに紹介され[[ジョン・レノン]]らのバンド「[[クオリーメン]]」(ビートルズの前身)に加入<ref group="注釈">ジョージは、ポールに紹介される以前からジョン・レノンを知っていた。理由は以前ジョージが[[アルバイト]]をしていたクウォーク精肉店の得意先の1つがジョンの家だったからである。</ref>。バンドに加入できたのは、空のバスの2階を使って行われた即席オーディションにおいて、当時高等テクニックを要した[[ビル・ジャスティス (音楽家)|ビル・ジャスティス]]の「{{仮リンク|ローンチー|en|Raunchy (instrumental)}}」という[[器楽曲|インストゥルメンタル]]をギターで完璧に弾いたことが、ジョンに認められたからと言われている<ref group="注釈">彼の家をバンドに貸したからという説もある{{要出典|date=2023年6月}}。</ref>。しかし、「いつもギターに触っていたい」という情熱を満たすため、以前から在籍しているバンドも辞めずに活動に勤しんだ。そのため、時には8時間以上も、徹夜で演奏することもあったが、ジョージには苦にならなかった。 === ビートルズ時代 === [[File:George Harrison at the Ed Sullivan Show in 1964 (cropped).jpg|thumb|アメリカの[[バラエティ番組]]『[[エド・サリヴァン・ショー]]』出演時のジョージ・ハリスン(1964年)]] ビートルズのメンバーでは最も年下で、主に[[リードギター]]と[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]、[[ボーカル|ヴォーカル]]を担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においては[[エレクトリックギター|エレクトリック]][[12弦ギター]]を<ref group="注釈">後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のグループ、[[バーズ (アメリカのバンド)|バーズ]]のサウンドに影響を与えたといわれる。</ref>、中期にはインド楽器である[[シタール]]を取り入れたほか、後期には初期型[[シンセサイザー]]をいち早く導入している。また、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みている<ref group="注釈">後の[[ラーガ・ロック]]に大きな影響を与えた。</ref>。1963年にジョージが作曲した「ドント・バザー・ミー」が初めてビートルズのアルバムに収録されたが、同曲はタイム・アウト・ロンドンによって、ビートルズの楽曲47位にランクされた<ref>[https://www.timeout.com/london/music/the-best-beatles-songs The 50 Best Beatles songs] 2020年12月29日閲覧</ref>。 ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディラインに[[シンコペーション]]を多用した曲が多いことが挙げられる<ref group="注釈">「[[タックスマン]]」「[[アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー]]」「[[嘘つき女]]」「[[恋をするなら (ビートルズの曲)|恋をするなら]]」など。</ref>。これはインド楽器の導入と同様、「ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かった」とされる{{要出典|date=2023年6月}}。ビートルズのメンバーとして、当初は優秀なメロディメーカーである[[レノン=マッカートニー]]の陰に隠れた目立たない存在であったが、活動中期に至ってジョージ作の「[[恋をするなら (ビートルズの曲)|恋をするなら]]」と「[[嘘つき女]]」が[[アルバム]]『[[ラバー・ソウル]]』に収録され、「[[タックスマン]]」がアルバム『[[リボルバー (アルバム)|リボルバー]]』のA面1曲目を飾るなど次第に頭角を現し、「[[アイ・ミー・マイン]]」「[[ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス]]」「[[サムシング (ビートルズの曲)|サムシング]]」「[[ヒア・カムズ・ザ・サン (曲)|ヒア・カムズ・ザ・サン]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」などの楽曲を完成させる。 しかし、当時ビートルズ内でジョージは不遇であった。彼は次第に「アルバム1作につき2曲しか収録されない<ref group="注釈">例外的に『リボルバー』のみ3曲が収録されている。</ref>」「自由にリードギターを弾かせてもらえない<ref group="注釈">[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]『[[レット・イット・ビー (映画)|レット・イット・ビー]]』にギターソロをめぐってポールと口論するシーンが収録されている。</ref>」などの不満を募らせる。この確執は「[[レット・イット・ビー#トゥイッケナム映画撮影所でのリハーサル・セッション|ゲット・バック・セッション]]」で顕在化した<ref group="注釈">ジョージ本人も「最悪だったよ。[[地獄]]にいるみたいだった。世界一熱心なビートルズ・ファンでも、あの空気には耐えられないだろう」と語っている。</ref>。メンバーの中でも彼は、早くからソロ活動を志向するようになり、これがバンド解散の原因の一つともなった。 ジョージはビートルズの中で、外部ミュージシャンとの交流が最も盛んであった。[[リンゴ・スター]]と最初に仲良くなったのも、他ならぬジョージである。これは彼の人柄によるものが大きく、[[ブライアン・エプスタイン]]は「ジョージといると本当に心が休まる。ジョンやポールと一緒のときのように、何かしなくちゃいけないというプレッシャーが全くない」と語っており、「尊大ではなく誠実で人懐っこい性格だった」と言われている。自作曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギターソロに[[エリック・クラプトン]]を、[[キーボード_(楽器)|キーボード]]・プレイヤーとして[[ビリー・プレストン]]を「[[レット・イット・ビー#トゥイッケナム映画撮影所でのリハーサル・セッション|ゲット・バック・セッション]]」に参加させるなど、閉鎖的だったバンドのサウンドに、外部の血を入れるという面でも貢献した。この他にも[[ボブ・ディラン]]、[[ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド]]との交流はよく知られる。無名時代に{{仮リンク|ロリー・ストーム|en|Rory Storm}}と仲良くなったのもジョージである。その初期において、[[デッカ・レコード]]に[[ローリング・ストーンズ]]を紹介したとも言われる。欧米では“静かなビートル(Quiet Beatle)”と呼ばれていた{{要出典|date=2023年6月}}。 === ビートルズ解散後 === ==== 1970年代前半 ==== ビートルズが解散して元メンバーの4人は、活発にソロ音楽活動を展開した。本格的な初のソロ・アルバムとなった『[[オール・シングス・マスト・パス]]』は、異例のLP3枚組として発売されたにもかかわらず、全米/全英のアルバムチャートで1位となる大ヒットとなった<ref>[https://www.allmusic.com/album/all-things-must-pass-mw0000194979  オール・シングズ・マスト・パス] 2020年1月6日閲覧</ref>。自作の曲を正当に評価されず発表の機会を得ることができなかった彼が、書きためていた曲を一気に収録した。プロデューサー、[[フィル・スペクター]]のプロデュースと相まって、優れたアルバムとして評価されている。 シングル「[[マイ・スウィート・ロード]]」も米英それぞれ4、5週連続No.1を記録した。この曲は[[シフォンズ]]の「[[いかした彼]]」(1963年)の盗作であるとの訴訟を起こされ<ref>http://www.abbeyrd.net/mysweet.htm</ref>、ジョージは1度敗訴。さらに版権を手に入れた[[アラン・クレイン|アラン・クライン]]にも訴訟を起こされ<ref group="注釈">作詞作曲をした{{仮リンク|ロニー・マック|en|Ronnie Mack}}はすでに死亡しており、「著作権を手に入れた者が訴訟を起こす」という[[新自由主義]]的な訴訟であった。</ref>、81年に賠償金を支払っている。 翌年8月には、シタールの師である[[ラヴィ・シャンカール]]の要請でロック界初の大規模なチャリティー・コンサート([[バングラデシュ・コンサート]])を開催。ビートルズ解散後初めて[[リンゴ・スター]]と共演して話題になったほか<ref>ビートルズ よみがえる『[[朝日新聞]]』1979年(昭和54年)9月22日夕刊 3版 15面</ref>、[[エリック・クラプトン]]や、[[ボブ・ディラン]]、[[レオン・ラッセル]]などが参加したイベントは大成功を収めた。その模様を収めたライヴ盤は、[[1972年]]度[[グラミー賞]]のアルバム・オブ・ザ・イヤーに輝いた(全米・全英No.1)。 [[1973年]]に発売された2枚目の『[[リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド]]』も全英2位・全米で5週連続1位を記録。翌1974年には[[A&Mレコード]]傘下に自らのレーベル「ダーク・ホース・レコード」<ref group="注釈">『[[レノン=マッカートニー]]』の2人に比べて自身を「穴馬」に例えたネーミング。</ref>を立ち上げ、そこから彼自身が発掘しプロデュースを手がけた新人や[[ラヴィ・シャンカール]]のアルバムなどを次々リリースした<ref group="注釈">彼自身はまだアップルとの契約が残っていたため、このあともしばらくはEMIからレコードを発売し続けた。</ref>。それに伴い、同年秋にはビートルズ解散後初の大規模な北米ツアーをシャンカールとの連名で行うなど、積極的に活動を続けた。しかしツアー自体は、シャンカールのインド音楽のコーナーを中間に挟む構成や、多忙なスケジュールがもたらしたハリスンの声帯の不調などが原因で失敗に終わり、評論家の間では酷評されてしまった。とりわけ喉の異常は、当時のアルバムにも顕著に現れており、レコードセールスもこれ以降下降してゆくこととなる。同時期には「[[マイ・スウィート・ロード]]」にまつわる盗作問題で訴訟を起こされ、最終的に敗訴するなど、順風満帆に過ぎていたソロ活動は、この頃様々な不運によって精彩を欠いていた。 ==== 1970年代後半 ==== 1974年にはアルバム『[[ダーク・ホース (ジョージ・ハリスンのアルバム)|ダーク・ホース]]』(全米4位)を発表した。「ディンドン」「ダーク・ホース」は日本でヒットした。1975年発売の『[[ジョージ・ハリスン帝国]]』(全米8位)を最後にEMIとの契約が満了したジョージは、ようやくダーク・ホース・レーベルに移籍し、そこから発売される予定のアルバムの録音にとりかかる。日本ではシングル「ユー」がヒットした。 しかし、その矢先にジョージは[[肝炎]]を患って入院してしまう。そのため、レコード会社にはアルバムを提出する期限を守ることができず、鳴かず飛ばずのレコードばかり押し付けられて痺れをきらしていたA&Mから、違約金の支払いを求める訴訟を起こされてしまう。A&Mに支払う違約金を肩代わりしてもらうことを条件に[[ワーナー・レコード|ワーナー・ブラザース・レコード]]と新たに契約した彼は、「新たな関係が築けてうれしい」と話し、ここから新たなスタートを切ることになる。ここから1976年に『[[33 1/3]]』、1979年に『[[慈愛の輝き]]』という2枚のアルバムを発表し、それぞれ全米11位、14位というまずまずのセールスを収めた。『慈愛の輝き』には「ブロウ・アウェイ」「ラヴ・カムズ・トゥ・エブリワン」という久々にジョージらしい曲が収められていた。 私生活では、自分の親友だった[[エリック・クラプトン]]と交際を始めた妻のパティ・ボイドと離婚。仕事上で出会った[[チカーノ|メキシコ系アメリカ人]]女性[[オリヴィア・トリニアード・アリアス]](後の[[オリヴィア・ハリスン]])と[[1978年]]に再婚し、同年に一人息子の[[ダーニ・ハリスン]](現在はミュージシャン)を儲けている。1977年頃からは、音楽以外の活動にも興味を示すようになり、副業として始めた映画制作の仕事でも成功した。また、自伝『アイ・ミー・マイン』を[[1979年]]に発表した。 ==== 1980年代前半 ==== 副業の映画プロデューサーとして成功を収めた一方で、本業の音楽活動からは遠ざかるようになる。[[1980年]]に制作したアルバム『[[想いは果てなく〜母なるイングランド]]』は「キャッチーな曲が少ない」「内容が暗い」という理由から、レコード会社に発売延期と収録曲の差し替えを命じられてしまう<ref group="注釈">ジョージ自身が製作したジャケットも「気に入らない」と一喝された。</ref>。屈辱を味わいながらもレコーディングを再開した矢先に起こったのが、1980年[[12月8日]]の[[ジョン・レノンの殺害|ジョン・レノン射殺事件]]である。このあまりに衝撃的な訃報が音楽業界に与えた影響は大きく、翌[[1981年|81年]]から[[1982年]]にかけて、[[クイーン (バンド)|クイーン]]や[[エルトン・ジョン]]などによるレノンへの追悼歌が多数発表された。ハリスンの1981年のシングル「[[過ぎ去りし日々]]」はその代表的な例であり<ref group="注釈">この楽曲は元々[[リンゴ・スター]]に提供する予定のものだったが、件の射殺事件をうけて歌詞を書き換えて完成した。</ref>、この曲は全米チャートで最高2位を記録する大ヒットとなった。この曲は、[[リンゴ・スター|スター]]がドラム、[[ウイングス]]([[ポール・マッカートニー]]夫妻と[[デニー・レイン]]の3人)がコーラスで参加したことでも大きな話題を呼んだ。内容の差し替えを要求されたアルバムには、この曲を含む4曲が新たに代わりに収録され、同年にリリースされた。発売延期のせいもあってか全米10位、全英8位とシングルほどの大ヒットとはならなかったが、それでも復調の兆しは垣間見ることができた。 翌[[1982年]]には次作『[[ゴーン・トロッポ]]』を制作・発表するが、当時の彼は音楽業界に殆ど興味を失っていたようで、アルバムの宣伝には全く力を入れなかった。所属レコード会社のワーナーも宣伝活動には協力しなかったため、アルバムはアメリカのチャートで100位圏外という結果に終わり、その他の国ではチャートインさえできなかった。このアルバムの発表以降、ハリスンはときおり楽曲を私的に書くことはあったものの、アーティストとしての活動から半引退状態となる<ref group="注釈">後年本人は、特に[[1985年]]を「最も音楽から離れた年」と語っている。</ref>。新しいマテリアルとして映画のサウンドトラック盤『Porky's Revenge』<ref group="注釈">映画の邦題は「ポーキーズ 最後の反撃」</ref>に収録の「[[アイ・ドント・ウォント・トゥ・ドゥ・イット|青春の想い]]」をリリースした程度で、この曲はシングルでも発売された。 ==== 1980年代後半 ==== 本格的な音楽活動から遠ざかっていたハリスンに変化をもたらしたのが、[[1986年]]公開の[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]、[[ショーン・ペン]]主演の映画『[[上海サプライズ]]』だった。この作品のために、彼は数曲を提供し自らも出演。その中で共演したのが熱狂的なビートルズ・フォロワーとしても知られる[[エレクトリック・ライト・オーケストラ]]の[[ジェフ・リン]]である。リンとの出会いにより、彼は再び音楽活動への情熱を取り戻すのだった。映画自体は評論家から酷評され、ペン夫妻の演技やハリスンの書いた主題歌は[[ゴールデンラズベリー賞]]にノミネートされるなど、汚点ともいえるひどい代物であったものの、この作品の存在は後のハリスンの復活劇に大きな役割を果たした。 1987年に入ると、ハリスンはリンと共に久々のアルバム制作にとりかかる。同時期には、[[イギリス]]の[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)が主催するチャリティコンサート「プリンス・トラスト」に[[リンゴ・スター|スター]]、クラプトンらと共に参加。およそ18年ぶりにイギリスでパフォーマンスを行い、「[[ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス]]」「[[ヒア・カムズ・ザ・サン (曲)|ヒア・カムズ・ザ・サン]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」を演奏した。前年の同イヴェントには[[ポール・マッカートニー|マッカートニー]]が参加しており、2年連続でビートルズのメンバーが出演したことが話題となった。 リンを共同プロデューサーに迎えて制作されたアルバム『[[クラウド・ナイン (ジョージ・ハリスンのアルバム)|クラウド・ナイン]]』は、1987年11月に発売された。このアルバムの発表にあたってジョージは、久々に世界中のメディアで大々的にプロモーションを行い、その甲斐あってアルバムはアメリカを-はじめとする世界各国で大ヒットする。日本では、最も売れた彼のソロ作品となった。また、シングルカットされたカバー曲「セット・オン・ユー」<!--原題ではなく邦題での表記に書き換えました。-->は{{Efn|オリジナルはジェームス・レイの曲<ref>「20世紀ポップス名曲事典」かまち潤、平凡社。p.267</ref>。}}、1988年1月20日付の[[ビルボード]]のシングル・チャートでNo.1(1988年度の年間チャートで16位)を記録。ハリスンが全米のヒットチャートで1位を記録したのは、1973年以来であり<ref group="注釈">このヒットにより「最も長い間隔を開けてNO.1ヒットを飛ばした男」として、[[ギネス世界記録]]に認定されている。</ref>、この大ヒットは彼の復活を決定的に印象付けた。また、このアルバムの成功をきっかけに、リンは[[ブライアン・ウィルソン]]や[[ランディ・ニューマン]]などを手がける売れっ子プロデューサーとなり、後の「[[ビートルズ・アンソロジー]]・プロジェクト」でも重要な役割を担うこととなった。同年ジョージはリン、[[ボブ・ディラン]]、[[ロイ・オービソン]]、[[トム・ペティ]]らと覆面バンド「[[トラヴェリング・ウィルベリーズ]]」を結成。所属レコード会社が違ったため、実名を伏せ、プローモーションなどの宣伝活動を行わなかったのだが、2枚のアルバムを発表し、1stアルバム『ヴォリューム・ワン』は、[[1989年]]度の[[グラミー賞]]を受賞するなど、大きな成功を収めた。アルバムも6週連続No.3を記録した。また、1989年製作の映画『[[リーサル・ウェポン2/炎の約束]]』のエンディング曲として「[[チアー・ダウン]]」を提供し、現在でも映画ファンに親しまれている。 ==== 1990年代〜晩年 ==== [[ファイル:George Harrison Vrindavan.jpg|thumb|250px|ジョージ・ハリスン(1996年)]] [[1991年]]12月、日本だけでエリック・クラプトンとのジョイント・ツアーが行われた<ref group="注釈">日本を選んだのはクラプトンとそのマネージャーの提案で、ハリスンも勧められて快諾した。</ref>。17年ぶりのコンサートツアーであり、25年ぶりの日本公演でもあった。当時、息子を事故で亡くした直後だったクラプトンによるハリスン本人への申し入れによって実現したもので、コンサートはクラプトンと彼のバンドによる全面的なバックアップのもとで行われた。1989年の[[リンゴ・スター|スター]]、1990年の[[ポール・マッカートニー|マッカートニー]]に次いで、元ビートルズが3年連続で来日したことになる。結局これが、ビートルズ解散後のハリスンの2度目で最後のライヴツアーとなる。クラプトンのコーナー以外のほぼ全容は、翌年発売の2枚組のライブ盤『ライヴ・イン・ジャパン』に収められている。翌1992年4月26日、ほぼ同じ曲目と同じバンド<ref group="注釈">クラプトンは不参加だったが、[[ジョー・ウォルシュ]]、[[ゲイリー・ムーア]]、リンゴ・スターらと共演した。</ref>で、自らが支持する[[政党]]の支援を目的としたコンサートを本国で行う。同年10月16日には[[ボブ・ディラン]]のレコードデビュー30周年記念コンサートにクラプトンらと参加するが、これがジョージにとっての生涯最後のライヴ・パフォーマンスとなった。その間にひそかに[[広島県]]に訪問して、原爆資料館を見学して、[[原爆]]による戦争の恐ろしさを痛感した<ref>『[[東京新聞]]』2013年8月10日付</ref>。 [[1993年]]より、「[[ビートルズ・アンソロジー]]」のプロジェクトが正式に始まり、[[ポール・マッカートニー|マッカートニー]]、[[リンゴ・スター|スター]]との共同作業が行われる。[[ジョン・レノン]]の生前に残されたデモ音源から「[[フリー・アズ・ア・バード]]」「[[リアル・ラヴ (ビートルズの曲)|リアル・ラヴ]]」の2曲が正式なビートルズの新曲として1995年と1996年に相次いで発表され、各国のチャートに入るヒットとなった。 [[1997年]]には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行った。だが、同時期に喉頭癌が判明し、7月に手術を受けることになる。その後も放射線治療を続け、[[1998年]]に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。1999年にはOBEを拒否した。理由は97年に授章したポール・マッカートニーが騎士団よりも下の階級だったことで、勲章は自分を侮辱していると感じたためと、インディペンデントやBBCが報道している。 1999年頃からは、自らが過去に発表したソロ・アルバムの[[リマスター]]の作業にもとりかかりはじめ、マイペースで新曲の制作も開始。21世紀に向けてミュージシャンとして再始動しようとしていたが、同年晦日に自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、重傷を負わされた。幸い命に別状はなかったものの、世間に与えた衝撃は非常に大きかった。この話を聞いた多くの人々が、1980年のジョン・レノン射殺を思い出して戦慄した。しかしジョージは、恐怖するファンを安心させるかのように、[[2001年]]ジョージは自身の代表作である『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤を発表。そのプロモーション活動の中で、「新作についても完成が近い」ことを明かした。 この間にビートルズの元メンバーである[[ピート・ベスト]]に関して、ジョージは「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめてピートに会って当時のことを謝りたかったんだ」と述べていたが、ジョージの死で再会は実現しなかった。 しかし、そんな矢先に[[肺癌]]が発見され、さらに[[脳腫瘍]]も併発していることが判明した。[[フランス]]でコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道はさらに過熱した。[[2001年]]11月には、各国の大衆紙がジョージが危篤であると報道した。[[11月29日]](日本時間11月30日早朝)、彼は滞在先である[[ロサンゼルス]]のポールが借りていた家<ref>『東京新聞』2001年12月1日付</ref>にて家族・友人たちに看取られながら58歳で息を引き取った。ビートルズ・ファンが追悼の巡礼に殺到することを危惧したオリヴィア夫人が虚偽の場所を死亡証明書に記載し、死去した場所は公表されていない。 === 死後 === ハリスンが病に冒されなければ、生前に完成するはずだった新作は、彼の死から約1年後の2002年11月に『[[ブレインウォッシュド]]』というタイトルで発売された<ref group="注釈">プロデュースはハリスンと彼の息子ダーニ、[[ジェフ・リン]]の3人である。</ref>。2003年度グラミー賞には本アルバム、及び「Any Road」と「Marwa Blues」の2曲がノミネートされ、後者は最優秀ポップ・インストゥルメンタル部門を受賞した。 遺作集のリリースとほぼ時期を同じくして[[エリック・クラプトン]]の企画による追悼コンサート『[[コンサート・フォー・ジョージ]]』が行われ、リンとトム・ペティ、[[ポール・マッカートニー|マッカートニー]]、[[リンゴ・スター|スター]]、[[ビリー・プレストン]]、ジョー・ブラウンと娘サム、ジュールズ・ホランドなど、生前ハリスンと親交の深かったアーティストたちが多数参加した。このコンサートの模様は、翌年にCDとDVDでリリースされている。 リンゴ・スターはジョージへの追悼曲「Never Without You」を作り、2003年にシングルで発売した。アルバム『リンゴ・ラマ』にも収録されている。 [[2004年]][[3月15日]]には、ソロ・アーティストとして[[ロックの殿堂]]入りを果たした。同時期にはワーナー在籍時代のアルバムが、デジタル・リマスターを施されて再リリースされ、話題を呼んだ。また、[[2005年]]には彼のキャリア最大の功績のひとつである『バングラデシュ・コンサート』のCDとDVDが装いを新たに再発された。[[2006年]]9月には、アルバム未収録だった2曲を加えた、1973年発表の全米No.1アルバム『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』が、リマスターされて発売された。 [[2009年]][[4月14日]]、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム|ハリウッドの殿堂]]入りを果たした。ビートルズとしては既にグループで殿堂入りしており、個人では[[ジョン・レノン|レノン]]に次いで2人目となった。また、同年[[5月8日]]には、[[アビー・ロード・スタジオ]]にて、『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』を制作していた1967年頃(当時23〜24歳)に書かれたとみられる詞が、ビートルズの公式伝記の執筆者である{{仮リンク|ハンター・デイヴィス|en|Hunter Davies}}によって発見され、[[大英図書館]]にて展示された。同年6月16日には自身3枚目となるベスト盤『[[レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン]]』が発売された<ref group="注釈">日本盤は7月8日に発売された。</ref>。 没後10年である[[2011年]]、[[マーティン・スコセッシ]]監督によるドキュメンタリー映画『[[ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド]]』が公開された。 現在ポール、リンゴに続き、英国王室から「Sir」の称号が与えられる見通しとなっている。 == 人物 == === 宗教 === 60年代後半以降、ヒッピー・ムーブメントやサイケデリックなドラッグの影響もあり、[[ヒンズー教]]に傾倒した。1960年代半ばまでに、インドの宗教を他のビートルズに紹介し、インド文化と[[神秘主義]]の賛美者になる。映画『ヘルプ』の撮影中、ビートルズのメンバーはバハマで、スワミ・ビシュヌ・デバナンダ(シヴァナンダ・ヨガの創始者)の会合に出席。彼は本に署名した「ヨガの完全なイラストレーション・ブック」をハリスンに渡した。ヒンズー教のヨガの伝統に沿って、1966年の最後のビートルズツアーの頃から1960年代後半までに菜食主義者になった。インドへ、ビートルズのメンバーや[[ドノヴァン]]、[[ジェーン・アッシャー]]、[[ミア・ファロー]]、[[マイク・ラヴ]]らと旅行に行ったこともある。1966年に[[ラヴィ・シャンカール]]によって様々な宗教的なテキストが与えられた後、彼はスワミ・ヴィヴェカナンダとパラマハンサ・ヨーガナンダのヨガと、ライターの教えの生涯にわたる支持者として残った<ref group="注釈">ラジャ・ヨガとヨギの自叙伝による。</ref>。また、1969年中頃、ロンドンにあるラダ・クリシュナ・テンプル(寺院)のメンバーによるシングル「ハリ・クリシュナ(Hare Krishna Mantra)」を、1971年には同曲を含むアルバム『ラダ・クリシュナ・テンプル』をプロデュースした。「マイ・スウィート・ロード」の曲中にも、クリシュナという歌詞が出てくる。 === 趣味 === 少年時代から [[スティーヴ・マックイーン]]や[[ポール・ニューマン]]と同様、[[モータースポーツ]]のファンで、79年のインタヴューでも車好きを明らかにしている<ref>『F1 RACING 日本版』2006年3月号「秘蔵インタビュー:ジョージ・ハリスン」三栄書房</ref>。また自身もレースにドライバーとして参戦した。彼は79年に[[フォーミュラ1|F1]]ドライバーのジャッキー・スチュアートらに捧げた曲「Faster」をアルバム内で発表した。「Faster」の印税は、29歳で癌で亡くなったF1ドライバーの[[グンナー・ニルソン]]が創設した癌撲滅基金に寄付された。顔がジョージと似ているF1ドライバーの[[デイモン・ヒル]]とも親交があった。参戦資金が不足していたヒルがジョージに支援依頼の手紙を郵送した際、ジョージは資金を提供した。数年後、F1チャンピオンになったデイモンは返済を申し出るが、ジョージは辞退した<ref>『F1 RACING 日本版』2008年8月号 三栄書房、71項</ref>。 == ダークホース・レコード所属ミュージシャン == * ジョージ・ハリスン * ラヴィ・シャンカール * スプリンター * ケニ・バーク * ステアステップス * アティテュ-ズ * ヘンリー・マッカロウ * ジヴァ == 日本公演 == ジョージ・ハリスン with [[エリック・クラプトン]] and his band * 1991年 : 12月1日 [[横浜アリーナ]] : 12月2日 [[大阪城ホール]] : 12月3日 大阪城ホール : 12月5日 [[名古屋市国際展示場]] : 12月6日 [[広島サンプラザ]] : 12月9日 [[福岡国際センター]] : 12月10日・11日・12日 大阪城ホール : 12月14日・15日・17日 [[東京ドーム]] == ディスコグラフィ == {{Main|ジョージ・ハリスンの作品}} === オリジナル・アルバム === * 『[[不思議の壁 (アルバム)|不思議の壁]]』 - ''Wonderwall''(Film Soundtrack、1968年、Remastered 2014年) * 『[[電子音楽の世界]]』 - ''Electronic Sound''(1969年、Remastered 2014年) * 『[[オール・シングス・マスト・パス]]』 - ''All Things Must Pass''(1971年、Remastered 2001年&2014年) * 『[[リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド]]』 - ''Living in the Material World''(1973年、Remastered 2006年&2014年) * 『[[ダーク・ホース (ジョージ・ハリスンのアルバム)|ダーク・ホース]]』 - ''Dark Horse''(1974年、Remastered 2014年) * 『[[ジョージ・ハリスン帝国]]』 - ''Extra Texture (Read All About It)''(1975年、Remastered 2014年) * 『[[33 1/3]]』 - ''Thirty Three & 1/3''(1977年、Remastered 2004年) * 『[[慈愛の輝き]]』 - ''George Harrison''(1979年、Remastered 2004年) * 『[[想いは果てなく〜母なるイングランド]]』 - ''Somewhere in England''(1981年、Remastered 2004年) * 『[[ゴーン・トロッポ]]』 - ''Gone Troppo''(1982年、Remastered 2004年) * 『[[クラウド・ナイン (ジョージ・ハリスンのアルバム)|クラウド・ナイン]]』 - ''Cloud Nine''(1987年、Remastered 2004年) * 『[[ブレインウォッシュド]]』 - ''Brainwashed''(2002年) === ライブ・アルバム === * 『[[バングラデシュ・コンサート]]』 - ''Concert for Bangladesh''(1971年、Remastered 2005年) * 『[[ライヴ・イン・ジャパン (ジョージ・ハリスンのアルバム)|ライヴ・イン・ジャパン]]』 - ''Live In Japan''(1992年、Remastered 2004年) === コンピレーション・アルバム === * 『[[ザ・ベスト・オブ・ジョージ・ハリスン]]』 - ''The Best of George Harrison''(1976年 Compilation) * 『[[ダーク・ホース 1976-1989]]』 - ''Best of Dark Horse 1976-1989''(1989年 Compilation) * 『ダーク・ホース・イヤーズ 1976〜1992』 - ''Dark Horse Years 1976-1992''(2004年 Box-Set Compilation) * 『[[レット・イット・ロール ソングス・オブ・ジョージ・ハリスン]] - ''Let it Roll Songs of George Harrison''(2009年 Compilation) * 『[[EARLY TAKES Volume 1]]』 - ''[[:en:Early Takes: Volume 1|Early Takes: Volume 1]]''(2012年) === トラヴェリング・ウィルベリーズ === * 『[[トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1]]』 - ''Traveling Wilburys, Volume 1''(1988年) * 『[[トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3]]』 - ''Traveling Wilburys, Volume 3''(1990年) === シングル === * 「[[マイ・スウィート・ロード]]」 - ''My Sweet Lord''(1970年、Remastered 2000年) * 「[[美しき人生]]」 - ''What Is Life''(1971年) * 「[[バングラ・デッシュ]]」 - ''Bangla-Desh''(1971年) * 「[[ギヴ・ミー・ラヴ (ジョージ・ハリスンの曲)|ギヴ・ミー・ラヴ]]」 - ''Give Me Love (Give Me Peace On Earth)''(1973年) * 「[[ダーク・ホース (曲)|ダーク・ホース]]」 - ''Dark Horse'' (1974年) * 「[[ディン・ドン]]」 - ''Ding Dong, Ding Dong''(1974年) * 「[[二人はアイ・ラヴ・ユー]]」 - ''YOU''(1975年) * 「[[ギターは泣いている]]」 - ''This Guitar (Can't Keep From Crying)''(1975年) * 「[[ジス・ソング]]」 - ''This Song''(1976年) * 「[[人生の夜明け]]」 - ''Crackerbox Palace''(1977年) * 「[[トゥルー・ラヴ]]」 - ''True Love''(1977年) * 「[[イッツ・ホワット・ユー・ヴァリュー]]」 - ''It's What You Value''(1977年) * 「[[ブロー・アウェイ]]」 - ''Blow Away''(1979年) * 「[[愛はすべての人に]]」 - ''Love Comes To Everyone''(1979年) * 「[[ファースター]]」 - ''Faster''(1979年) * 「[[過ぎ去りし日々]]」 - ''All Those Years Ago''(1981年) * 「[[ティアードロップス]]」 - ''Teardrops''(1981年) * 「[[愛に気づいて]]」 - ''Wake Up My Love''(1982年) * 「[[アイ・リアリー・ラヴ・ユー]]」 - ''I Really Love You''(1983年) * 「[[オ・ラ・イ・ナ・エ]]」 - ''Dream Away''(1983年) * 「[[アイ・ドント・ウォント・トゥ・ドゥ・イット|青春の想い]]」 - ''I Don't Want To Do It''(1985年) * 「[[セット・オン・ユー]]」 - ''Got My Mind Set on You''(1987年) * 「[[FAB (曲)|FAB]]」 - ''When We Was Fab''(1988年) * 「[[ディス・イズ・ラヴ]]」 - ''This Is Love''(1988年) * 「[[チアー・ダウン]]」 - ''Cheer Down''(1989年) * 「[[プアー・リトル・ガール]]」 - ''Poor Little Girl''(1989年) * 「[[エニイ・ロード]]」 - ''Any Road''(2003年) * 「[[あの空の彼方へ]]」 - ''Stuck Inside a Cloud''(2003年) アメリカ・日本のみで発売されたシングルも含む。 === 楽曲提供 === * 「[[想い出のフォトグラフ]]」 - [[リンゴ・スター]](1973年)※リンゴとの共作 * 「ラック・マイ・ブレイン」 - [[リンゴ・スター]](1981年)※リンゴへの提供 === プロデュース === * 『ザ・プレイス・アイ・ラブ』(アルバム) - [[:en:Splinter (band)|スプリンター]] * 『アイ・アム・ミッシング・ユー』(EP) - [[ラヴィ・シャンカール]] === トリビュート・アルバム === * 『Gentle Guitar Dreams』 - (2002年) *# GOT MY MIND SET ON YOU/[[ホフディラン]] *# I NEED YOU/[[ムーンライダーズ]] *# WHEN WE WAS FAB/[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]バンド *# SOMETHING/[[沢田研二]] *# THE LIGHT THAT HAS LIGHTED THE WORLD/[[白鳥マイカ]]・[[田中和将]]・[[亀井亨]]・[[根岸孝旨]] *# IF I NEEDED SOMEONE/[[TIMESLIP-RENDEZVOUS]] *# WHAT IS LIFE/[[THE COLLECTORS]] *# TAX MAN/BOX([[杉真理]]・[[松尾清憲]]) *# I ME MINE/[[野宮真貴]] with [[花田裕之]] *# FAR EAST MAN/[[高野寛]] *# HERE COMES THE SUN/[[堂島孝平]] *# DING DONG, DING DONG/[[hi*limits]]&[[黒沢健一]] *# WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS/[[千住明]] === 主なセッション参加作品 === * [[ジョン・レノン]] - 『[[イマジン (アルバム)|イマジン]]』 * [[リンゴ・スター]] - 『[[リンゴ (アルバム)|リンゴ]]』『[[ヴァーティカル・マン〜リンゴズ・リターン]]』 * [[クリーム (バンド)|クリーム]] - 『[[グッバイ・クリーム]]』{{Small|(クレジットはL'Angelo Misterioso)}} * [[ジャック・ブルース]] - 『[[ソングス・フォー・ア・テイラー]]』{{Small|(クレジットはL'Angelo Misterioso)}} * [[バッドフィンガー]] - 『[[ストレート・アップ]]』 * [[ニッキー・ホプキンス]] - 『夢みる人』{{Small|(クレジットはGeorge O'Hara)}} * [[ゲイリー・ムーア]] - 『[[スティル・ゴット・ザ・ブルーズ]]』 * [[エレクトリック・ライト・オーケストラ]] - 『[[ズーム (アルバム)|ズーム]]』 * [[ディープ・パープル]] - [[オーストラリア]]の[[メルボルン]]でのディープ・パープルのコンサートに飛び入り参加し、[[リトル・リチャード]]の「Lucille」を演奏。ブートレッグで音源と映像が残っている。 * [[アルヴィン・リー]] - 『The Bluest Blues』 スライドギター == 主な使用楽器 == === アコースティック・ギター === * エグモンド・276(EGMOND 276) *: ジョージが初めて入手したギター。1956年、13歳の時に同じ学校の友人レイモンド・ヒューズの所有ギターを3ポンド10シリングで購入した。 * [[カール・ヘフナー|ヘフナー]]・プレジデント *: ジョージが2本目に購入したギター。クオリーメンに加入する際に所持していた。ジョージはピックアップを取り付けセミ・エレクトリックギターとして使用していた。後に別のバンド「スィンギング・ブルージーンズ」のメンバーが所有していたヘフナー・クラブ40と交換した。 * [[ギブソン・J-160E]] *: デビュー前にマネージャーのブライアン・エプスタインから買ってもらったもの。ジョン・レノンとお揃いだったが、ジョンがその後何回か壊したり、盗難にあって買い換えたのに対して、ジョージはこの1本のみを使い続けた。 * ハープトーン RS-6CN *: アメリカ、ニュージャージーのメーカー。 * [[ギブソン・J-200]] *: 1968年にアメリカで入手。「[[レット・イット・ビー#トゥイッケナム映画撮影所でのリハーサル・セッション|ゲット・バック・セッション]]」の際に使用されており、映画『[[レット・イット・ビー (映画)|レット・イット・ビー]]』でその姿を確認できる。アルバム『[[レット・イット・ビー (代表的なトピック)|レット・イット・ビー]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』に収録された「[[フォー・ユー・ブルー]]」や、アルバム『[[アビイ・ロード]]』に収録された「[[ヒア・カムズ・ザ・サン (曲)|ヒア・カムズ・ザ・サン]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」などの楽曲で使用されている。 * [[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]・J-2000 *: 1991〜1993年に少数製作されたモデル。1991年の日本公演にて使用。J-200同様、大型ボディでシングル・カッタウェイ。ピックアップを後付けしてエレクトリック・アコースティックとして使用。 * [[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]・D-28 * マーティン・D-35 * マーティン・D-12-35 - D-35の12弦モデル * [[ゼマティス]] *: モデル名は不明だが、ジャンボ・タイプの12弦や比較的シンプルなモデルまで7本以上所有しているといわれている。 * ホセ・ラミレス(Jose Ramirez) *: モデル名不明の[[クラシック・ギター]]。映画「A HARD DAY'S NIGHT」の中で使用しているが、ジョージが実際に所有していたかどうかは不明<ref group="注釈">映画の撮影の為に用意された備品の可能性がある。</ref>。もともと1963年春に友人であるビートルズの面々と[[カナリア諸島]][[テネリフェ島]]での休暇を過ごした[[クラウス・フォアマン]]が西ドイツ(当時)への帰国途中に立ち寄った[[マドリッド]]で購入したもの。1963年中頃に[[アンドレス・セゴビア]]のクラシック・ギター奏法に興味を抱いたジョージがデュオ・ジェットとの交換で入手したとされる。なお、本モデルは21世紀となってホセ・ラミレスからInstrumentos Para Rondalla "GH"として復刻されている。 === エレクトリック・ギター === [[ファイル:Harrison - guitare.jpg|thumb|レスポール([[ハードロックカフェ]]展示品)]] * ヘフナー・クラブ40 *: 1957年製。別のバンド「スィンギング・ブルージーンズ」のメンバーが所有していた物をヘフナー・プレジデントと交換して入手した、ジョージにとって初めての(後付けピックアップによらない)エレキギター。同時期にジョンも同じモデル(こちらは1959年製)を所有している。なお、1966年[[ハンブルク]]の[[スター・クラブ]]が開催したコンテストで「ベスト・バンド」賞を受賞した[[スモール・フェイセズ]]が賞品として獲得した、ビートルズ4人のサイン入り<ref group="注釈">ただし専門家による後の筆跡鑑定では、これらのサインは[[ニール・アスピノール]]による可能性が高いとされる{{要出典|date=2023年6月}}。</ref>クラブ40がこれと同一個体ではないかといわれている。 * ジョラーナ・グラジオッソⅡ・リゾネット *: デビュー前に使用していた安価なギター。[[チェコスロバキア]]のメーカーからセルマー社製が輸入したものである。一般に「フューチュラマ」と言う名前で知られるがこれはセルマーがイギリスの市場にむけて付けた名前。フーチュラマはハグスロトローム、ヘフナーからの輸入品にもその名がつけられている。若き日のジミー・ペイジ、エリック・クラプトンらも使用した。単純に見た目が当時の若いミュージシャン達が憧れていた[[フェンダー・ストラトキャスター]]に似ているため購入したといわれているが、見た目はかなりフェンダーのそれとは異なっていて、シングルコイルの[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]が3つあるのとヴォリュームのつまみが3つあり、白い大きなピックガードがあるくらいしか共通点はない。デビュー前の[[トニー・シェリダン]]との[[ビートルズのポリドール・セッション|ポリドール・セッション]]の際にも用いられており、『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー1]]』に収録された「[[マイ・ボニー]]」などでその音を聴くことができる。 * [[グレッチ]]・デュオ・ジェット(Gretsch G6128 Duo Jet) *: デビュー直前から1963年中頃までステージおよびレコーディングで使用。1957年にリヴァプールの商船船員アイヴァン・ヘイワードがニューヨークのサム・グッディーズにて300ドルで購入、1962年夏にリヴァプール・エコー紙の広告で売りに出していたものを75ポンドで購入した。ジョージが購入した時点でグレッチのロゴが入った[[ビブラート・ユニット|ビグスビー製のB3型トレモロ・アーム]]が搭載されていたが、エンド部分のストラップピンの位置が通常の位置から変わってしまっており、アームの搭載は前所有者のアマチュア・リペアによって行われたものであると考えられる。また、通常のデュオ・ジェット(G6128)はバックがメイプルであるが、ジョージの所有するモデルはバックが黒であり、製造の過程で偶発的にそのように仕上げられてしまったか、もしくは同社の色違いモデルであるボディが赤でバックが黒のジェット・ファイアー・バード(G6131 Jet Firebird)のボディーカラーをリフィニッシュしたモデルである可能性がある。なお、1963年1月にネックに生じたクラックをリペアした際に、ネックとボディバックを黒にリペイントしている。一度[[クラウス・フォアマン]]の手に渡っていた<ref group="注釈">前述のホセ・ラミレスとの交換で、という説あり。</ref>がその後買い戻しており、現在も遺族が所有している。アルバム『クラウド・ナイン』のジャケットでは、このギターを持ったジョージが写っている。ボディは黒だが、塗装ではなくセルロイドを貼り付けていて、これはドラムメーカーでもあった同社のギターの特長でもある。なお、1963年初頭に[[キャヴァーン・クラブ]]で撮影したと思われるボディー・カラーの異なる(赤色)ジェット・ファイアー・バードを弾く写真も残されているが、ジョージはこのファイアー・バードについて質問された際に「たまたま試しただけのなんかさ」と返答しており、他人が所有していたモデルを一時的に借りていただけのようである<ref>『ザ・ビートルズ・イクイップメント・ストーリーズ』([[シンコーミュージック・エンタテイメント]]、2010年6月30日)</ref>。 [[ファイル:Gretsch G6122-1958.jpg|thumb|グレッチ G6122-1962 チェット・アトキンス・カントリー・ジェントルマン]] * グレッチ・カントリー・ジェントルマン(Gretsch G6122-1962 Country Gentleman) *: 1963年4月に最初の1本目を購入し、「[[シー・ラヴズ・ユー]]」をはじめ[[エド・サリヴァン・ショー]]出演時にも使われるなど、1965年初頭までステージやレコーディングで頻繁に使用。ミュート・スイッチの数や形状等から、少なくとも3本所有していたものと思われる。ダブルカッタウェイのホロウボディで、サウンド・ホールは開いていない(fホールのペイントのみ)。ピックアップはハムバッカーであるフィルタートロン。インタヴューで黒にリフィニッシュしたと述べている。 * [[リッケンバッカー]]425(Rickenbacker 425) *: ジョージが1963年に、結婚してアメリカに移住した姉に会いに行った際に購入したもの。テレビ番組「レディ・ステディ・ゴー」出演時に使用している。色は購入当時は下記360/12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)だったが、ジョン・レノンの325と同じ色にしたいというジョージの希望で黒くリフィニッシュされた。ネックは325より長いミディアム・スケールである。 * [[リッケンバッカー・360/12]] *: [[ア・ハード・デイズ・ナイト (曲)|ア・ハード・デイズ・ナイト]]のイントロの1[[和音|コード]]を奏でた事で有名な[[12弦ギター]]で、12弦独特の分厚いコーラス感と明るいサウンドが特徴。[[1963年]]製と[[1964年]]製の2本所有していた。'63の方は初アメリカツアーの際に、リッケンバッカーから直接プレゼントされたもので、ボディのエッジがシャープで、[[テールピース]]は平たいコの字型のタイプであり、'63年12月の試作2本目のものであった。'64の方は日本公演でも使用されたもので、ボディのエッジは丸みを帯びていて''Rickenbacker'' の ''R'' の文字を象ったテールピースを使っている。1本目はソロ時代のプロモーションフィルムにも登場し(「ディン・ドン」「FAB」)、現在も遺族が大切に保管しているが、2本目は後に盗難に遭い紛失した。 * グレッチ・テネシアン(Gretsch Tennessean) *: 1964年からステージやレコーディングに使われるようになり、1965年のツアーではメインギターであった。映画「[[ヘルプ!4人はアイドル|ヘルプ!]]」での使用も知られている。シングルカッタウェイのホロウボディで、サウンド・ホールは開いていない(fホールのペイントのみ)。ピックアップはシングルコイルであるハイロートロンで強い高音が特徴。アルバムでは『[[ビートルズ・フォー・セール]]』以降でバンドサウンドに埋もれない個性的な音を聴くことができる。 * [[ギブソン・ES-335#様々なモデル|ギブソン・ES-345]] *: 1965年に撮影された一連のプロモーション・フィルムでその姿を確認できる<ref group="注釈">「[[アイ・フィール・ファイン]]」「[[涙の乗車券]]」「[[ヘルプ! (ビートルズの曲)|ヘルプ!]]」「[[デイ・トリッパー]]」「[[恋を抱きしめよう]]」など。</ref>。1965年のイギリス・ツアーで使用している写真が残されている。 * [[フェンダー・ストラトキャスター]] *: ジョージは[[ビートルズ]]のメジャー・デビュー前より、[[バディ・ホリー]]や[[ハンク・マーヴィン]]らの影響でストラトキャスターを欲しがっていたが、当時は高額な税金がかかっており手が出ず、ビートルズのデビュー後しばらくは、ドイツで購入したグレッチや譲渡されたリッケンバッカー、ギブソンを使用した。 *: 1965年の初頭、ジョージは『ヘルプ!』セッション時に、自分とジョン用に2本ストラトキャスターを入手するように[[マル・エヴァンズ]]に依頼した。その際もし外見上お揃いであれば支払いは自分が持つという[[ブライアン・エプスタイン]]の言葉を聞いたエヴァンズが[[ケント]]{{要曖昧さ回避|date=2021年5月}}まで出向いて入手したもの。色は当時レアカラーであったソニックブルー、61年製のスラブボードと呼ばれるローズ指板のものである。ジョン所有の個体に比べ若干ネックのフレイムが強く出ており、ヘッド裏に金色のデカールが認められる。その後ジョージ自身の手によりサイケデリック塗装がほどこされ、マジカル・ミステリー・ツアーにおける[[アイ・アム・ザ・ウォルラス]]の映像で確認できる。1969年のデラニー&ボニー&フレンズのコンサートでも使用。愛称はロッキー。 *: ジョージはこれ以外にも多数のストラトキャスターを所有し、ビートルズ解散後はメイン・ギターとして使用した。代表的なものとして、1971年のバングラデシュ難民救済コンサートでは、60年代製のボディに50年代製のメイプル・ネックが装着されたホワイトのモデルを、また1974年のアメリカ・ツアーでは、'50年代製のサンバーストのモデルを使用。1991年の日本公演では、トリノ・レッドのエリック・クラプトン・モデルをはじめ数本を使用した。また、フェンダーの下位ブランド、Squier製のストラトキャスターも所有、[[1987年]]のプリンス・トラスト・コンサート出演時に使用していた。もともと息子ダーニに買い与えた安価な日本製のモデルだが、意外な造りと音の良さをジョージが気に入り、自分で使ったという。[[2006年]]に限定リイシューされた同モデルの型番には、彼の愛称「ダークホース」の略であるDHが付けられている<ref group="注釈">偶然であるがダーニ・ハリスンの頭文字でもある。</ref>。 * [[ギブソン・SG]]・スタンダード *: 「ペイパーバック・ライター」「レイン」のプロモーション・フィルムでその姿を確認できる。ステージでは1966年5月のNMEポールウィナーズコンサートでのみ使用、また同年のツアー時にはスペアとして用意されており、[[ザ・ビートルズ日本公演|日本公演]]の際もエピフォン・カジノのスペアとして持ち込まれていた。後に[[バッドフィンガー]]のピート・ハムに譲渡された。 * [[エピフォン・カジノ]] *: [[1966年]]のコンサート・ツアーのメイン・ギターとして使用。ビグスビー製のトレモロ・アームが取り付けられており、型の違いにより全体的にやや細身なシェイプをしている点がジョン・レノンの同モデルと異なる。色はジョン・レノン所有のモデルと同じくサンバーストだったが、後にジョン同様に塗装を剥離した。現在はロンドン郊外のフライアー・パークにある自宅の壁に掛けられているという。 * [[ギブソン・レスポール]] *: 57年製ゴールドトップのものをSGと同じチェリーレッドにリフィニッシュしたもの。もともとはエリック・クラプトンの所有であったが、1968年8月初旬にクラプトンからジョージに譲られ、8月7日からレコーディングで使用し始める。愛称はルーシー。<ref name="beatlesgear224">アンディ・バビアック 『Beatles Gear 日本語翻訳版』 坂本信訳、リットーミュージック、2002年、224-225ページ</ref>1968年9月4日にレヴォリューションのPV撮影時にジョージが使用、同年9月6日の[[ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス]]においてクラプトンがソロをオーヴァー・ダビングしている。<ref>アンディ・バビアック 『Beatles Gear 日本語翻訳版』 坂本信訳、229ページ</ref>ジョージはこのギターを1968年から1969年にかけてメインギターとして使用している。<ref name="beatlesgear224"/>その後もジョン・レノンの「[[オー・マイ・ラヴ]]」のレコーディングや、1974年の全米ツアーでもこのギターを使用していた<ref group="注釈">DVD「ギミ・サム・トゥルース」でその模様が確認できる。</ref>。このギターは[[1970年]]に自宅から盗難の被害にあっているが、犯人は楽器店へ売却し、それを購入した人物から58年型のレス・ポールと交換で買い戻されている。これ以外にも、1969年12月,ロンドン・ライシウムにおけるプラスティック・オノバンド参加時にはクラプトンから借りた黒の59年製3ピックアップレスポール・カスタムを(クラプトンは“ロッキー”を使用。)、1991年の日本公演では60年製サンバーストのレスポール・スタンダードを使用している。 * [[フェンダー・テレキャスター]]・オールローズ *: [[1968年]]にフェンダー社が特注を受けて製作。エレキギターでは通常指板材として使用される[[ローズウッド (木材)|ローズウッド]]([[シタン|紫檀]])を用いて、ボディとネックが造られている。1969年『[[レット・イット・ビー (代表的なトピック)|レット・イット・ビー]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』のレコーディング・セッションで使用。映画『レット・イット・ビー』では全面的にフィーチャーされている。'69年12月、ジョージがデラニー&ボニーのツアーにサポート参加した際、デラニー・ブラムレットに譲渡された。この後、返却を要求したが、拒否された。2003年にデラニーはこのギターをオークションにかけたが、オリヴィア夫人の代理人が落札し、無事ジョージの家に戻った。この他には、「セット・オン・ユー」のプロモーションフィルムで使用した、メイプル指板で、ボディがバタースコッチ・フィニッシュの一般的なテレキャスターも所有していた。 * [[フェンダー・エレクトリックXII]] *: 1991年の日本公演時に「恋をするなら」で使用。 * フリッツ・ブラザーズ・ロイ・ブキャナン・ブルースマスター(Fritz Brothers Roy Buchanan Bluesmaster) *: 1991年の日本公演時に使用された。テレキャスターをベースにしたカスタムモデル。 * メイトン・マスターサウンド(Maton mastersound) *: メイトンはオーストラリアのギター・メーカー。[[1963年]]のステージ写真で使用が確認できる。 === エレクトリック・ベース === * [[フェンダー・ジャズベース]] *: 1967–68年製と思われる、カラーはサンバーストで、ポジション・マークがブロック(四角)のモデル。1968年の『[[ザ・ビートルズ (アルバム)|ザ・ビートルズ]]』セッションより使用。ポール・マッカートニーのアルバム『[[バンド・オン・ザ・ラン]]』中ジャケットにて、ポールが右利き用のジャズ・ベースを演奏している写真が掲載されており、これと同一品である可能性がある。 * [[フェンダー・ベースVI]] *: これも1967–68年製と思われる、カラーはサンバーストで、ポジション・マークがブロック(四角)のモデル。「[[ヘイ・ジュード]]」の[[ミュージック・ビデオ|PV]]で使用。[[ジョン・レノン]]も「[[バック・イン・ザ・U.S.S.R.]]」や映画「[[レット・イット・ビー (映画)|レット・イット・ビー]]」にて同モデルを演奏しているため、ジョージが所有していたものかどうかは不明である。1991年のジョージの日本公演では、エリック・クラプトン・バンドのアンディ・フェアウエザー・ロウ(元エーメン・コーナー)が「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」にて全く同仕様のモデルを演奏しており、同一品であった可能性がある。 === アンプ === * [[ヴォックス (楽器メーカー)|ヴォックス]]・AC30(VOX AC30) *: ビートルズ・デビュー前から初期までのレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ<ref group="注釈">中期では[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]の[[アンプ (楽器用)|アンプ]]と併用している。</ref>。[[真空管]]を使用していて独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。これこそ初期ビートルズサウンドの大きな要素である。ライヴでも使用される事はあったが、当時の[[PAシステム]]は貧弱でアンプ・スピーカーからの出音頼みだったが、出力が低いためライヴには向かなかった。 * ヴォックス・AC50(VOX AC50) * ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC200) *: ライヴにおいて観客から殆ど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライヴのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。 * フェンダー・ベースマン *: 1964年製。ホワイトトゥーレックスモデル。元々は『[[ラバー・ソウル]]』セッション時にポールがベース・アンプとして導入。 *: アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』あたりよりジョージがギター・アンプとして使い始める。 *: 『[[レット・イット・ビー#トゥイッケナム映画撮影所でのリハーサル・セッション|ゲット・バック・セッション]]』のトゥイッケナム・スタジオ期後半でも使用し、解散後のジョン・レノンのアルバム『[[イマジン (アルバム)|イマジン]]』セッションに参加した時もメインアンプとして使用した、使用歴の長いアンプである。 * [[フェンダー・ツインリヴァーブ]] === その他 === * [[シタール]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|3}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{commonscat|George Harrison}} * {{Official website}} * {{URL|https://www.universal-music.co.jp/george-harrison/|ジョージ・ハリスン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN}} * {{Discogs artist | artist = George Harrison}} * {{Twitter|georgeharrison|George Harrison}} * {{Instagram|georgeharrisonofficial|George Harrison}} {{ジョージ・ハリスン}} {{ビートルズ}} {{100名の最も偉大な英国人}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はりすん しよおし}} [[Category:ビートルズのメンバー]] [[Category:ジョージ・ハリスン|*]] [[Category:イングランドのシンガーソングライター]] [[Category:イギリスのロック・ギタリスト]] [[Category:リードギタリスト]] [[Category:ロックの殿堂入りの人物]] [[Category:グラミー賞受賞者]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:菜食主義者]] [[Category:在アメリカ合衆国イギリス人]] [[Category:ウェールズのミュージシャン]] [[Category:アイルランド系イギリス人]] [[Category:ドイツ系イギリス人]] [[Category:リヴァプール出身の人物]] [[Category:肺癌で亡くなった人物]] [[Category:脳腫瘍で亡くなった人物]] [[Category:1943年生]] [[Category:2001年没]]
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音楽プロデューサー
音楽プロデューサー(おんがくプロデューサー、英語: record producer, music producer)は、コンサートや舞台芸術、映画、ドラマなどの音楽全般を、企画から販売まで指揮し監督する者。なお、英語圏など海外では、音楽の作曲・編曲などを行う楽曲の制作者を指し、日本でいうトラックメイカーがこれにあたる。 広義では単なる制作責任者や予算管理者、原盤管理者を含め音楽制作にかかわるすべての人が音楽プロデューサーである。とりわけ日本ではアーティストの発掘・契約・育成を担当するA&Rや、企画・制作・宣伝などのマーケティング担当者まで音楽プロデューサーと呼称されている場合がある。 狭義での音楽プロデューサーは、録音物の制作の現場で音楽の"サウンド"に対する制作責任者のことを指し、現代ではこちらの意味で使われる国が多い。もともと米国でも音楽プロデューサーはA&Rマンを指す言葉だったが、時代を経てサウンドの責任者を指す言葉に変化した。この狭義の意味では、バンドなどの生演奏であれば編曲やレコーディングでどのような音を作るのかを最終的に決める者がプロデューサーである。またリズム・アンド・ブルース・ヒップホップ・ミュージック・ポピュラー音楽、ダンス・ミュージックなどのデジタル・オーディオ・ワークステーションを用いたデスクトップミュージックでは実際に曲を制作しているトラックメイカー・ビートメイカーがプロデューサーと呼ばれる。いずれもサウンド面での最高責任者がプロデューサーであり、大抵は音楽家かレコーディング・エンジニアがプロデューサーとクレジットされる。 音楽のジャンルやスタイルによって要求されるものがそれぞれ大きく異なるため、一般的にはプロデューサー毎に専門の分野や手法でプロデュース業を行っている。音楽によっては1人ではなく、2人、3人とチームを組んでプロデュースを行っていたり、1つのアルバムでも曲ごとにプロデューサーを変えて制作している場合もある。アルバムの中心的な役割を果たすプロデューサーは、特にエグゼクティブ・プロデューサー(executive producer)と呼ばれる。 1960年代の日本では、製作資金の提供者または調整者のみがプロデューサーとして記載されることもあった。その場合は、レコード会社のディレクターが、現在のプロデューサーに相当する仕事も担当していた。 プロデューサー自身が歌手または音楽家である必要はなく、日本ではレコード会社(CD レーベル)や音楽出版社(楽曲管理会社)、芸能プロダクションなどの原盤管理会社の人間がプロデューサーであるのが一般的である。また、音楽制作の場合には作品の音楽家自身がプロデューサーを兼ねる場合もあり、その際には共同プロデューサーとしてコ・プロデューサーとクレジットされる場合もある。 総合プロデューサーの場合、アーティストのイメージをA&Rと組みながら構築してサウンドを当て込んだり、逆にサウンドが先に出来て後からアーティストのイメージを構築したりするなど様々な手法がある。アーティストのイメージを優先して行く場合には、アーティストの音楽面とパブリック・イメージ全体を司る総合プロデューサーは一般的にエグゼクティブ・プロデューサーと呼称される。冒頭に書かれた制作予算の管理運営を含めての総制作責任者のプロデューサーを指す場合にもエグゼクティブ・プロデューサーと呼称される場合がある。音楽制作進行全体を総合的にプロデュースする場合はトータル・プロデューサーと呼称され、音楽制作における編曲などサウンド面を中心に担う場合は音楽プロデューサーと呼称される。マーケットとメディアの連動を見据えて創作プロデュースする場合には、アーティスト・プロデュースと音楽プロデュースを兼ねてプロデュース・○○○と表記する場合もあるが、これも基本的にはトータル・プロデューサーとして全体的な制作進行が出来るプロデューサーのことを言う。 小室哲哉やつんく♂など、自身のバンドの音楽活動と並行して作詞作曲および編曲を含めたプロデュース業を行う音楽家系プロデューサーの台頭以後、日本歌謡界における音楽プロデューサーの影響力は急激に増した。しかし、それは高名なプロデューサーを宣伝材料として利用したプロモーションの一環にする現象の側面と、特定の音楽プロデューサーの目に止まらなければまずヒットは望めないと言うことを前提としたメーカー側の販売戦略だったため、「チャートに同じようなアーティストと同じような曲調ばかりが並んでいてほとんど区別がつかない」という意見や批判が年配層等から起こった要因の一つになったとも言われている。 博報堂の雑誌『広告』1987年9、10月号で、真保みゆきは「音楽プロデューサーってなに?」というコラムを寄せ、「犬も歩けばのたとえではないが、今や音楽ジャンルで"プロデューサー"ないし"プロデュース"という表現に出会うのは、まったく珍しいことじゃない。いわく『山下達郎が、竹内まりや3年ぶりの新作をプロデュース』とか『おニャン子ブームのプロデューサー、秋元康31歳』という具合。でもちょっと待ってほしい。山下はミュージシャン、秋元は作詞家が本業、なのに2人を同じ項目でくくってしまう。プロデューサーってなんだろう?と、ごく当然の疑問が湧く。で、はっきり言ってしまうと、この2人、特に秋元は、英語で言うところのproducerが、本来意味したところからの役回りからはかなり遠い。もとはと言えばハリウッド、すなわちアメリカの映画産業で、製作全体のカネの動きを面倒見る、伝記も出てるザナックみたいな存在を指したわけで、それが音楽方面へと転用されたからって、そう安直に意味が変わったわけじゃない。『レコード制作を経済面からコントロールし、最終的には販売に至る全権及び全責任を負える人間』、これが本来のプロデューサーである。アメリカでその条件をまず第一に満たしていたのは、デトロイトの一レーベルを60年代音の夢工場までのし上げたモータウン社長・ベリー・ゴーディー・ジュニアである。ゴーディーはレコーディングは勿論、専用チャーム・スクールまで設けて、全タレントの教育・管理にいそしんだというから、日本でこれに当たるのは故・渡辺晋だろうか。またエキセントリックな性格とワンマンなレコーディングで周囲を辟易させたと伝えられるフィル・スペクターだって同じ自己レーベル"Philles"を持っていてこれは大瀧詠一が踏襲していた。勿論これら"独立組"以外に、ボブ・ディラン発見の功労者・ジョン・ハモンドのようにコロムビア・レコードに籍を置きながら、名プロデューサーと呼ばれた"社内組"もいる。山口百恵を育てたCBS・ソニーの酒井政利がこれに近いが、最近よく使われるサウンド面だけの面倒を見るプロデュースとは一線を画しているのは、もう言うまでもない。裏を返せば、今日本で言う"プロデューサー"は、レコーディング現場監督という、極端に分業的な意味合いがほとんどなわけで、本来の用法からは遠く離れた外来語なのである。作詞家である秋元康を"プロデューサー"と呼ぶことで、フジサンケイグループ・メディア総がかりの夢工場・おニャン子ブームの象徴的仕掛人とする変則技まで登場しつつある。定義するのではなく、定義しづらいことを通じて、音楽業界のあり方をシミュレートする用語なのかもしれない」などと論じている。 音楽制作者の集合組織には日本音楽制作者連盟(音制連)などがあり、啓蒙活動を含め音楽制作全般をバックアップしている。 セイコーインスツルの業務用ストップウオッチ「サウンドプロデューサー」は、こうした制作活動の現場(録音スタジオなど)で関係者達に活用されることを狙った同名製品。単なるストップウオッチではなく、カウントダウンタイマーや60進法の計算が出来る電卓が組み込まれている。 サウンドだけでなく総合的にプロデュースする際、プロデュース対象であるアーティスト、音楽家、タレントに対して、以下の項目にある部分などを主に担当する。
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音楽プロデューサーは、コンサートや舞台芸術、映画、ドラマなどの音楽全般を、企画から販売まで指揮し監督する者。なお、英語圏など海外では、音楽の作曲・編曲などを行う楽曲の制作者を指し、日本でいうトラックメイカーがこれにあたる。
{{複数の問題 |出典の明記=2015年12月 |内容過剰=2022年9月13日 (火) 13:05 (UTC)}} '''音楽プロデューサー'''(おんがくプロデューサー、{{lang-en|'''record producer''', '''music producer'''}})は、[[演奏会|コンサート]]や[[舞台芸術]]、[[映画音楽|映画]]、[[ドラマ]]などの[[サウンドトラック|音楽全般]]を、[[企画]]から[[販売]]まで[[指揮]]し[[音楽監督|監督]]する者<ref name="名前なし-1">{{Cite book|title=The Producer as Composer: Shaping the Sounds of Popular Music|url=https://books.google.com/books?id=L3dpT-V6m4kC&pg=PR13|publisher=MIT Press|date=2010-02-26|isbn=978-0-262-26101-2|language=en|first=Virgil|last=Moorefield}}</ref>。なお、[[英語圏]]など[[海外]]では、[[音楽]]の[[作曲]]・[[編曲]]などを行う[[楽曲]]の[[音楽家|制作者]]を指し、日本でいう[[トラックメイカー]]がこれにあたる。 == 定義 == 広義では単なる制作責任者や予算管理者、原盤管理者を含め音楽制作にかかわるすべての人が音楽プロデューサーである<ref>{{Cite web|title=A&R Pioneers|url=https://www.vanderbilt.edu/university-press/book/9780826521750|website=Vanderbilt University|accessdate=2020-11-24|language=en}}</ref>。とりわけ日本ではアーティストの発掘・契約・育成を担当する[[A&R]]や、企画・制作・宣伝などの[[マーケティング]]担当者まで音楽プロデューサーと呼称されている場合がある。 狭義での音楽プロデューサーは、録音物の制作の現場で音楽の"サウンド"に対する制作責任者のことを指し、現代ではこちらの意味で使われる国が多い<ref name="名前なし-1"/>。もともと米国でも音楽プロデューサーはA&Rマンを指す言葉だったが、時代を経てサウンドの責任者を指す言葉に変化した<ref>{{Cite web|title=A&R Pioneers|url=https://www.vanderbilt.edu/university-press/book/9780826521750|website=Vanderbilt University|accessdate=2020-11-23|language=en}}</ref>。この狭義の意味では、[[バンド (音楽)|バンド]]などの生演奏であれば[[編曲]]やレコーディングでどのような音を作るのかを最終的に決める者がプロデューサーである。また[[リズム・アンド・ブルース]]・[[ヒップホップ・ミュージック]]・[[ポピュラー音楽]]、[[ダンス・ミュージック]]などの[[デジタル・オーディオ・ワークステーション]]を用いた[[デスクトップミュージック]]では実際に曲を制作している[[トラックメイカー|トラックメイカー・ビートメイカー]]がプロデューサーと呼ばれる<ref>{{Cite web|title=What does a record producer do?|url=https://www.bbc.com/culture/article/20160310-what-does-a-record-producer-do|website=www.bbc.com|accessdate=2020-11-24|language=en|first=Greg|last=Kot}}</ref>。いずれもサウンド面での最高責任者がプロデューサーであり、大抵は[[音楽家]]か[[レコーディング・エンジニア]]がプロデューサーと[[クレジットタイトル|クレジット]]される。 [[音楽のジャンル]]やスタイルによって要求されるものがそれぞれ大きく異なるため、一般的にはプロデューサー毎に専門の分野や手法でプロデュース業を行っている。音楽によっては1人ではなく、2人、3人とチームを組んでプロデュースを行っていたり、1つのアルバムでも曲ごとにプロデューサーを変えて制作している場合もある。アルバムの中心的な役割を果たすプロデューサーは、特に[[エグゼクティブ・プロデューサー]](executive producer)と呼ばれる。 == 日本 == [[1960年代]]の日本では、[[製作]]資金の提供者または調整者のみがプロデューサーとして記載されることもあった{{Efn|URCの秦政明などもその一人であったといわれる}}。その場合は、[[レコード会社]]の[[ディレクター]]が、現在のプロデューサーに相当する仕事も担当していた。 プロデューサー自身が[[歌手]]または[[音楽家]]である必要はなく、日本ではレコード会社(CD レーベル)や[[音楽出版社]](楽曲管理会社)、芸能プロダクションなどの原盤管理会社の人間がプロデューサーであるのが一般的である。また、音楽制作の場合には作品の音楽家自身がプロデューサーを兼ねる場合もあり、その際には共同プロデューサーとしてコ・プロデューサーとクレジットされる場合もある。 総合プロデューサーの場合、アーティストのイメージをA&Rと組みながら構築してサウンドを当て込んだり、逆にサウンドが先に出来て後からアーティストのイメージを構築したりするなど様々な手法がある。アーティストのイメージを優先して行く場合には、アーティストの音楽面とパブリック・イメージ全体を司る総合プロデューサーは一般的にエグゼクティブ・プロデューサーと呼称される。冒頭に書かれた制作予算の管理運営を含めての総制作責任者のプロデューサーを指す場合にもエグゼクティブ・プロデューサーと呼称される場合がある。音楽制作進行全体を総合的にプロデュースする場合はトータル・プロデューサーと呼称され、音楽制作における編曲などサウンド面を中心に担う場合は音楽プロデューサーと呼称される。マーケットとメディアの連動を見据えて創作プロデュースする場合には、アーティスト・プロデュースと音楽プロデュースを兼ねてプロデュース・○○○と表記する場合もあるが、これも基本的にはトータル・プロデューサーとして全体的な制作進行が出来るプロデューサーのことを言う。 [[小室哲哉]]や[[つんく♂]]など、自身の[[バンド (音楽)|バンド]]の音楽活動と並行して[[作詞]][[作曲]]および編曲を含めたプロデュース業を行う音楽家系プロデューサーの台頭以後、日本歌謡界における音楽プロデューサーの影響力は急激に増した。しかし、それは高名なプロデューサーを宣伝材料として利用したプロモーションの一環にする現象の側面と、特定の音楽プロデューサーの目に止まらなければまずヒットは望めないと言うことを前提としたメーカー側の販売戦略だったため、「チャートに同じようなアーティストと同じような曲調ばかりが並んでいてほとんど区別がつかない」という意見や批判が年配層等から起こった要因の一つになったとも言われている。 [[博報堂]]の[[雑誌]]『[[博報堂#雑誌「広告」|広告]]』1987年9、10月号で、真保みゆきは「音楽プロデューサーってなに?」というコラムを寄せ、「犬も歩けばのたとえではないが、今や音楽ジャンルで"プロデューサー"ないし"プロデュース"という表現に出会うのは、まったく珍しいことじゃない。いわく『[[山下達郎]]が、[[竹内まりや]]3年ぶりの新作をプロデュース』とか『[[おニャン子クラブ|おニャン子ブーム]]のプロデューサー、[[秋元康]]31歳』という具合。でもちょっと待ってほしい。山下は[[ミュージシャン]]、秋元は[[作詞家]]が本業、なのに2人を同じ項目でくくってしまう。プロデューサーってなんだろう?と、ごく当然の疑問が湧く。で、はっきり言ってしまうと、この2人、特に秋元は、英語で言うところのproducerが、本来意味したところからの役回りからはかなり遠い。もとはと言えば[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド]]、すなわち[[アメリカ合衆国の映画|アメリカの映画産業]]で、製作全体のカネの動きを面倒見る、[[伝記]]も出てる[[ダリル・F・ザナック|ザナック]]みたいな存在を指したわけで、それが音楽方面へと転用されたからって、そう安直に意味が変わったわけじゃない。『レコード制作を経済面からコントロールし、最終的には販売に至る全権及び全責任を負える人間』、これが本来のプロデューサーである。アメリカでその条件をまず第一に満たしていたのは、[[デトロイト]]の一[[レコードレーベル|レーベル]]を60年代音の夢工場までのし上げた[[モータウン]]社長・[[ベリー・ゴーディー|ベリー・ゴーディー・ジュニア]]である。ゴーディーはレコーディングは勿論、専用チャーム・スクールまで設けて、全タレントの教育・管理にいそしんだというから、日本でこれに当たるのは故・[[渡辺晋]]だろうか。またエキセントリックな性格とワンマンなレコーディングで周囲を辟易させたと伝えられる[[フィル・スペクター]]だって同じ自己レーベル"[[:en:Philles Records|Philles]]"を持っていてこれは[[大瀧詠一]]が踏襲していた。勿論これら"独立組"以外に、[[ボブ・ディラン]]発見の功労者・[[ジョン・ハモンド]]のように[[コロムビア・レコード]]に籍を置きながら、名プロデューサーと呼ばれた"社内組"もいる。[[山口百恵]]を育てた[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]の[[酒井政利]]がこれに近いが、最近よく使われるサウンド面だけの面倒を見るプロデュースとは一線を画しているのは、もう言うまでもない。裏を返せば、今日本で言う"プロデューサー"は、レコーディング[[現場監督]]という、極端に[[分業]]的な意味合いがほとんどなわけで、本来の用法からは遠く離れた[[外来語]]なのである。作詞家である秋元康を"プロデューサー"と呼ぶことで、[[フジサンケイグループ]]・[[マスメディア|メディア]]総がかりの[[コミュニケーションカーニバル 夢工場'87|夢工場]]・[[おニャン子クラブ|おニャン子ブーム]]の象徴的仕掛人とする変則技まで登場しつつある。[[定義]]するのではなく、定義しづらいことを通じて、音楽業界のあり方を[[シミュレーション|シミュレート]]する用語なのかもしれない」などと論じている<ref>{{Cite journal |和書 |author = 真保みゆき |title = MUSIC 音楽プロデューサーってなに? |journal = [[博報堂#雑誌「広告」|広告]] |issue = 1987年9、10月号 |publisher = [[博報堂]] |page = 53頁 }}</ref>。 音楽制作者の集合組織には[[日本音楽制作者連盟]](音制連)などがあり、啓蒙活動を含め音楽制作全般をバックアップしている<ref>{{Cite web|和書|title=FMPJ 一般社団法人 日本音楽制作者連盟 - 音制連とは|url=http://www.fmp.or.jp/|website=FMPJ 一般社団法人 日本音楽制作者連盟|accessdate=2020-11-24|language=ja}}</ref>。 [[セイコーインスツル]]の業務用[[ストップウオッチ]]「サウンドプロデューサー」は、こうした制作活動の現場(録音スタジオなど)で関係者達に活用されることを狙った同名製品。単なるストップウオッチではなく、カウントダウンタイマーや60進法の計算が出来る[[電卓]]が組み込まれている。 == 業務内容 == サウンドだけでなく総合的にプロデュースする際、プロデュース対象であるアーティスト、音楽家、タレントに対して、以下の項目にある部分などを主に担当する。 # 総合的にどのようなイメージを世間に与え、アーティストの知名度を上げていくかの戦略と展開(A&Rと連携)。 # 音楽的にどのような傾向の作品を歌唱または演奏するか、それに伴い、[[作詞家]]および[[作曲家]]を外注する場合の選定。 # 制作に際して、現場へ起用する[[編曲家]]や[[スタジオ・ミュージシャン]]らを誰にするかの選定とスケジュール調整。 # レコーディング時の作業工程および制作スケジュール、スタジオの選定。 # CDやレコード発売に関連するプロモーション用ミュージック・ビデオやポスター等の展開(メーカーの宣伝部およびA&Rと連携)。 # 音楽関連雑誌などのメディアやテレビ/ラジオなどでのプロモーション戦略と展開(メーカーの宣伝部およびA&Rと連携)。 # コンサート活動、イベント開催、各種イベント出演などの展開(メーカーの宣伝部およびA&Rと連携)。 # 出演する音楽番組などの選定と出演交渉など(メーカーの宣伝部およびA&Rと連携)。 * 日本で音楽プロデューサーと分類呼称される場合には、上記のうち主として項目の#2と#3における音楽プロデュースで関わる場合が多く、自身が編曲家を兼ねることも多い。 * 上記項目の#5〜#8をアーティストが所属するレコード会社やプロダクションのA&R、ディレクター、マネージャー等が担当し、プロデューサーとしてクレジットされる場合もある。 * エグゼクティブ・プロデューサーの場合には、上記の制作項目全体を含めアーティスト像全体に対するプロデュース、メディアやマーケットの連動を兼ねた総合的な業務になるため、人脈や展開能力を含めた幅広い財産と知識を必要とする。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[音楽制作者連盟]] * [[ディレクター]] * [[A&R]] * [[レコーディング・エンジニア]] * [[トラックメイカー|トラックメイカー・ビートメイカー]] {{音楽}} {{DEFAULTSORT:おんかくふろてゆうさあ}} [[Category:音楽プロデューサー|*]] [[Category:音楽制作]] [[Category:音楽関連の職業]]
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物理定数
物理定数(ぶつりていすう、ぶつりじょうすう、英: physical constant)とは、値が変化しない物理量のことである。 プランク定数や万有引力定数、アボガドロ定数などは非常に有名なものである。例えば、光速はこの世で最も速いスカラー量としてのスピードで、ボーア半径は水素の電子の(第一)軌道半径である。また、大半の物理定数は固有の単位を持つが、光子と電子の相互作用を具体化する微細構造定数の様に単位を持たない無次元量も存在する。 以下の数値で特記のないものは科学技術データ委員会 (CODATA) が推奨する値であり、2019年5月20日に"2018 CODATA recommended values"として発表されたものである。 表の「値」の列における括弧内の数値は標準不確かさを示す。例えば 6.67430(15)×10 は、(6.67430±0.00015)×10 という意味である(不確かさを参照)。また、光速度などの定義値とされているものは、SI基本単位の定義定数やその値を元に定まるものなので不確かさは無い。
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物理定数とは、値が変化しない物理量のことである。 プランク定数や万有引力定数、アボガドロ定数などは非常に有名なものである。例えば、光速はこの世で最も速いスカラー量としてのスピードで、ボーア半径は水素の電子の(第一)軌道半径である。また、大半の物理定数は固有の単位を持つが、光子と電子の相互作用を具体化する微細構造定数の様に単位を持たない無次元量も存在する。 以下の数値で特記のないものは科学技術データ委員会 (CODATA) が推奨する値であり、2019年5月20日に"2018 CODATA recommended values"として発表されたものである。 表の「値」の列における括弧内の数値は標準不確かさを示す。例えば 6.67430(15)×10−11 は、(6.67430±0.00015)×10−11 という意味である(不確かさを参照)。また、光速度などの定義値とされているものは、SI基本単位の定義定数やその値を元に定まるものなので不確かさは無い。
'''物理定数'''(ぶつりていすう、ぶつりじょうすう、{{lang-en-short|physical constant}})とは、[[値]]が変化しない[[物理量]]のことである。 [[プランク定数]]や[[万有引力定数]]、[[アボガドロ定数]]などは非常に有名なものである。例えば、[[光速]]はこの世で最も速い[[スカラー (物理学)|スカラー量]]としての[[速さ|スピード]]<!-- vectorである"速度"ではない -->で、[[ボーア半径]]は[[水素]]の[[電子]]の(第一)軌道半径である。また、大半の物理定数は固有の[[単位]]を持つが、[[光子]]と電子の[[電磁相互作用|相互作用]]を具体化する[[微細構造定数]]の様に単位を持たない[[無次元量]]も存在する。 以下の数値で特記のないものは[[科学技術データ委員会]]{{enlink|Committee on Data for Science and Technology|CODATA}}が推奨する値であり、[[2019年]][[5月20日]]に"{{en|2018 CODATA recommended values}}"として発表されたものである<ref>{{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cuu/Constants/index.html|title=Fundamental Physical Constants|accessdate=2019-05-23|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]}}</ref>。 表の「値」の列における括弧内の数値は[[不確かさ (測定)|標準不確かさ]]を示す。例えば {{val|6.67430e-11|(15)}} は、{{val|6.67430e-11|0.00015}} という意味である([[不確かさ (測定)#表記|不確かさ]]を参照)。また、光速度などの'''定義値'''とされているものは、[[SI基本単位]]の定義定数やその値を元に定まるものなので'''不確かさは無い'''。 {{main|SI基本単位の再定義 (2019年)}} == 普遍定数 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !量!!記号!!値!!相対標準不確かさ |- |[[真空]]中の[[光速]]||<math>c</math> | {{val|299792458|ul=m/s}} | 定義値 |- | rowspan="2" |[[磁気定数|真空の透磁率]]||<math>\mu_0=\tfrac{4\pi\alpha\hbar}{e^2c}</math> | {{Val|1.25663706212e-6|(19)|u=N.A-2}} | rowspan="4" | {{val|1.5e-10}} |- |<math>\tfrac{\mu_0}{4\pi\times 10^{-7}}</math> | {{Val|1.00000000055|(15)|u=N.A-2}} |- |[[電気定数|真空の誘電率]]||<math>\varepsilon_0=\tfrac1{\mu_0c^2}</math> | {{Val|8.8541878128e-12|(13)|u=F m{{sup-|1}}}} |- |[[特性インピーダンス#電磁波の特性インピーダンス|真空のインピーダンス]]||<math>Z_0=\mu_0c</math> | {{Val|376.730313668|(57)|ul=&Omega;}} |- |[[万有引力定数]]||<math>G</math> | {{val|6.67430e-11|(15)|u=N m{{sup|2}} kg{{sup-|2}}}} | {{val|2.2e-5}} |- |[[プランク定数]]||<math>h</math> | {{val|6.62607015e-34|u=J.s}} | | 定義値 |- |[[ディラック定数]]||<math>\hbar=\tfrac{h}{2\pi}</math> | {{val|1.054571817e-34|end=...|u=J.s}} | | 定義値 |} == 電磁気学の定数 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !量!!記号!!値([[国際単位系|SI]]単位)!!相対標準不確かさ |- | rowspan="2" |[[電気素量]]||<math>e</math> | {{val|1.602176634e-19|ul=C}} | rowspan="7" | 定義値 |- |<math>\tfrac{e}{\hbar}</math> | {{val|1.519267447e24|u=A J{{sup-|1}}}} |- |[[磁束#磁束の量子化|磁束量子]]||<math>\Phi_0=\tfrac{h}{2e}</math> | {{val|{{#expr:6.62607015e-34/(2*1.602176634e-19)}}|ul=Wb}} |- |{{仮リンク|コンダクタンス量子|en|Conductance quantum}}||<math>G_0=\tfrac{2e^2}{h}</math> | {{val|{{#expr:2*1.602176634e-19^2/6.62607015e-34}}|ul=S}} |- |[[抵抗量子]]||<math>R_0=\tfrac{h}{2e^2}</math> | {{val|{{#expr:6.62607015e-34/(2*1.602176634e-19^2)}}|u=&Omega;}} |- |[[ジョセフソン効果#電圧標準としての利用|ジョセフソン定数]]||<math>K_\text{J}=\tfrac{2e}{h}</math> | {{val|483597.8484e9|u=Hz V{{sup-|1}}}} |- |[[量子ホール効果|フォン・クリッツィング定数]]||<math>R_\text{K}=\tfrac{h}{e^2}</math> | {{val|{{#expr:6.62607015e-34/1.602176634e-19^2}}|u=&Omega;}} |- |[[ボーア磁子]]||<math>\mu_\text{B}=\tfrac{e\hbar}{2m_\text{e}}</math> | {{val|9.2740100783e-24|(28)|u=J T{{sup-|1}}}} | {{val|3.0e-10}} |- |[[核磁子]]||<math>\mu_\text{N}=\tfrac{e\hbar}{2m_\text{p}}</math> | {{val|5.0507837461e-27|(15)|u=J T{{sup-|1}}}} | {{val|3.1e-10}} |} == 原子・核物理学の定数 == {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 量 !! 記号 !! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- | rowspan="2" |[[微細構造定数]] |<math>\alpha=\tfrac{e^2}{4\pi\varepsilon_0\hbar c}</math> | {{val|7.2973525693|(11)|e=-3}} | rowspan="2" | 1.5{{e-|10}} |- |<math>\alpha^{-1}</math> | {{val|137.035999084|(21)}} |- |[[リュードベリ定数]]||<math>R_\infty=\tfrac{\alpha^2m_\text{e}c}{2h}</math> | {{val|10973731.568160|(21)|ul=m-1}} | 1.9{{e-|12}} |- |[[ボーア半径]]||<math>a_0=\tfrac{\alpha}{4\pi R_\infty}</math> | {{val|5.29177210903|(80)|e=-11|ul=m}} | 1.5{{e-|10}} |- |[[ハートリー|ハートリーエネルギー]]||<math>E_\text{h}=2R_\infty hc</math> | {{val|4.3597447222071|(85)|e=-18|ul=J}} | 1.9{{e-|12}} |- | [[量子渦|循環量子]] ||<math>\tfrac{\pi\hbar}{m_\text{e}}</math> | {{val|3.6369475516|(11)|e=-4|u=m{{sup|2}} s{{sup-|1}}}} | 3.0{{e-|10}} |} === 電子及び核子 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ [[電子]]に関わる物理定数 ! 量 !! 記号 !! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- |[[質量]]||<math>m_\text{e}</math> | {{val|9.1093837015|(28)|e=-31|ul=kg}} || rowspan="2" | 3.0{{e-|10}} |- |[[コンプトン波長]]||<math>\lambda_\text{e}=\tfrac{h}{m_\text{e}c}</math> | {{val|2.42631023867|(73)|e=-12|u=m}} |- |[[古典電子半径]]||<math>r_\text{e}=\alpha^2a_0</math> | {{val|2.8179403262|(13)|e=-15|u=m}} || 4.5{{e-|10}} |- | [[トムソン散乱#トムソン断面積|トムソン断面積]] | <math>\sigma_\text{e}=\tfrac{8\pi}{3}r_\text{e}^2</math> | {{val|6.6524587321|(60)|e=-29|ul=m2}} || 9.1{{e-|10}} |- |[[磁気モーメント#粒子の磁気モーメント|磁気モーメント]]||<math>\mu_\text{e}</math> | &minus;{{val|9.2847647043|(28)|e=-24|u=J T{{sup-|1}}}} || 3.0{{e-|10}} |- |[[g因子#g因子の測定値|g因子]]||<math>g_\text{e}=\tfrac{2\mu_\text{e}}{\mu_\text{B}}</math> | &minus;{{Val|2.00231930436256|(35)}} || 1.7{{e-|13}} |- |[[異常磁気モーメント]]||<math>a_\text{e}=\tfrac{|g_\text{e}|}{2}-1</math> | {{val|1.15965218128|(18)|e=-3}} || 1.5{{e-|10}} |- |[[磁気回転比]]||<math>\gamma_\text{e}=\tfrac{2|\mu_\text{e}|}{\hbar}</math> | {{val|1.76085963023|(53)|e=11|u=s{{sup-|1}} T{{sup-|1}}}} || 3.0{{e-|10}} |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ [[陽子]]に関わる物理定数 ! 量 !! 記号 !! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- |質量||<math>m_\text{p}</math> | {{val|1.67262192369|(51)|e=-27|u=kg}} || rowspan="2" | 3.1{{e-|10}} |- |コンプトン波長||<math>\lambda_\text{p}=\tfrac{h}{m_\text{p}c}</math> | {{val|1.32140985539|(40)|e=-15|u=m}} |- |磁気モーメント||<math>\mu_\text{p}</math> | {{val|1.41060679736|(60)|e=-26|u=J T{{sup-|1}}}} || 4.2{{e-|10}} |- |g因子||<math>g_\text{p}=\tfrac{2\mu_\text{p}}{\mu_\text{N}}</math> | {{val|5.5856946893|(16)}} || 2.9{{e-|10}} |- |磁気回転比||<math>\gamma_\text{p}=\tfrac{2\mu_\text{p}}{\hbar}</math> | {{val|2.6752218744|(11)|e=8|u=s{{sup-|1}} T{{sup-|1}}}} || 4.2{{e-|10}} |- | rowspan="2" |遮蔽された磁気モーメント<ref group="*" name="h2o">[[水|H{{sub|2}}O]] 中, 球, {{Val|25|ul=degC}}</ref>||<math>\mu'_\text{p}</math> | {{val|1.410570560|(15)|e=-26|u=J T{{sup-|1}}}} || rowspan="4" | 1.1{{e-|8}} |- |<math>\tfrac{\mu'_\text{p}}{\mu_\text{B}}</math> | {{val|1.520993128|(17)|e=-3}} |- | rowspan="2" |遮蔽された磁気回転比{{R|group="*"|h2o}} |<math>\gamma'_\text{p}=\tfrac{2\mu'_\text{p}}{\hbar}</math> | {{val|2.675153151|(29)|e=8|u=s{{sup-|1}} T{{sup-|1}}}} |- |<math>\tfrac{\gamma'_\text{p}}{2\pi}</math> | {{val|42.57638474|(46)|u=MHz T{{sup-|1}}}} |} {{Reflist|group="*"}} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ [[中性子]]に関わる物理定数 ! 量 !! 記号 !! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- |質量||<math>m_\text{n}</math> | {{val|1.67492749804|(95)|e=-27|u=kg}} || rowspan="2" | 5.7{{e-|10}} |- |コンプトン波長||<math>\lambda_\text{n}=\tfrac{h}{m_\text{n}c}</math> | {{val|1.31959090581|(75)|e=-15|u=m}} |- |磁気モーメント||<math>\mu_\text{n}</math> | &minus;{{val|9.6623651|(23)|e=-27|u=J T{{sup-|1}}}} || rowspan="3" | 2.4{{e-|7}} |- |g因子||<math>g_\text{n}=\tfrac{2\mu_\text{n}}{\mu_\text{N}}</math> | &minus;{{val|3.82608545|(90)}} |- |磁気回転比||<math>\gamma_\text{n}=\tfrac{2|\mu_\text{n}|}{\hbar}</math> | {{val|1.83247171|(43)|e=8|u=s{{sup-|1}} T{{sup-|1}}}} |} === 電弱理論 === {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 量 !! 記号 !! 値 !! 相対標準不確かさ |- |[[フェルミ相互作用#フェルミ結合定数|フェルミ結合定数]]||<math>\tfrac{G_\text{F}}{(\hbar c)^3}</math> | {{val|1.1663787|(6)|e=-5|u=GeV{{sup-|2}}}} (Particle Data Group) <ref name="pdg">{{Cite web|url=http://pdg.lbl.gov/2019/reviews/rpp2018-rev-phys-constants.pdf|title=2014 Review of Particle Physics|accessdate=2019-05-23|publisher=[[パーティクルデータグループ|Particle Data Group]]|format=PDF}}</ref> || 5.1{{e-|7}} (Particle Data Group) |- |[[ワインバーグ=サラム理論|弱混合角]]||<math>\sin^2\theta_\text{W}</math> | {{val|0.22290|(30)}} (CODATA)<br>{{Val|0.23122|(4)}} (Particle Data Group) <ref name="pdg"></ref> || 1.3{{e-|3}} (CODATA)<br>1.7{{e-|4}} (Particle Data Group) |} {{Reflist|group="*"}} == 物理化学の定数 == {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 量 !! 記号 !! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- |[[ボルツマン定数]]||<math>k</math> | {{val|1.380649|e=-23|ul=J/K}} || rowspan="5" | 定義値 |- |[[アボガドロ定数]]||<math>N_\text{A}, L</math> | {{val|6.02214076|e=23|u=mol{{sup-|1}}}} |- |[[ファラデー定数]]||<math>F=N_\text{A}e</math> | {{val|{{#expr:6.02214076e23*1.602176634e-19}}|u=C mol{{sup-|1}}}} |- |[[モルプランク定数]]||<math>N_\text{A}h</math> | {{val|{{#expr:6.02214076e23*6.62607015e-34}}|u=J s mol{{sup-|1}}}} |- |[[気体定数|モル気体定数]]||<math>R=N_\text{A}k</math> | {{val|{{#expr:6.02214076e23*1.380649e-23}}|u=J K{{sup-|1}} mol{{sup-|1}}}} |- |原子質量定数<br>([[統一原子質量単位]]) |<math>m_\text{u}=\tfrac{2hcR_\infty}{\alpha^2c^2A_\text{r}(e)}</math> | {{val|1.66053906660|(50)|e=-27|u=kg}} || rowspan="3" | 3.0{{e-|10}} |- |[[モル質量定数]]||<math>M_\text{u}</math> | {{val|0.99999999965|(30)|e=-3|u=kg mol{{sup-|1}}}} |- |[[炭素12]]の[[モル質量]] |<math>M(^{12}\text{C})=A_\text{r}(^{12}\text{C})M_\text{u}</math> | {{val|11.9999999958|(36)|e=-3|u=kg mol{{sup-|1}}}} |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ [[理想気体]]に関わる物理定数 ! 量!! 記号!! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- | rowspan="2" |理想気体の[[モル体積]] | rowspan="2" |<math>V_\text{m}=\tfrac{RT}{p}</math> | {{val|22.71095464|e=-3|u=m{{sup|3}} mol{{sup-|1}}}} <ref group="†" name="0deg1bar">温度 {{Math|''T'' {{=}} {{Val|273.15|ul=K}}}}、圧力 {{Math|''p'' {{=}} {{Val|100|ul=kPa}}}} における値。</ref> | rowspan="4" | 定義値 |- | {{val|22.41396954|e=-3|u=m{{sup|3}} mol{{sup-|1}}}} <ref group="†" name="0deg1atm">温度 {{Math|''T'' {{=}} {{Val|273.15|u=K}}}}、圧力 {{Math|''p'' {{=}} {{Val|101.325|u=kPa}}}} における値。</ref> |- | rowspan="2" |[[ロシュミット数]] | rowspan="2" |<math>n_0=\tfrac{N_\text{A}}{V_\text{m}}</math> | {{val|2.651645804|e=25|ul=m-3}} {{R|group="†"|0deg1bar}} |- | {{val|2.686780111|e=25|u=m{{sup-|3}}}} {{R|group="†"|0deg1atm}} |- | rowspan="2" |[[ザックール・テトローデ方程式#ザックール・テトローデ定数|ザックール=テトローデ定数]] | rowspan="2" |<math>\tfrac{S_0}{R}=\tfrac{5}{2}+\ln\left[\left(\tfrac{2\pi m_\text{u}kT}{h^2}\right)^{\frac{3}{2}}\tfrac{kT}{p}\right]</math> | {{val|-1.15170753706|(45)}} <ref group="†">温度 {{Math|''T'' {{=}} {{Val|1|u=K}}}}、圧力 {{Math|''p'' {{=}} {{Val|100|u=kPa}}}} における値</ref> | rowspan="2" | 3.9{{e-|10}} |- | {{val|-1.16487052358|(45)}} <ref group="†">温度 {{Math|''T'' {{=}} {{Val|1|u=K}}}}、圧力 {{math|''p'' {{=}} {{Val|101.325|u=kPa}}}} における値</ref> |} {{Reflist|group="†"}} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ [[熱放射|熱輻射]]に関わる物理定数 ! 量!! 記号!! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- |[[シュテファン=ボルツマンの法則#シュテファン=ボルツマン定数|シュテファン=ボルツマン定数]]||<math>\sigma=\tfrac{\pi^2}{60}\tfrac{k^4}{\hbar^3c^2}</math> | {{val|{{#expr:2*pi^5*1.380649e-23^4/(15*6.62607015e-34^3*299792458^2)}}|u=W m{{sup-|2}} K{{sup-|4}}}} | rowspan="6" | 定義値 |- |[[ヴィーンの放射法則|第一放射定数]]||<math>c_1=2\pi hc^2</math> | {{val|{{#expr:2*pi*6.62607015e-34*299792458^2}}|u=W m{{sup|2}}}} |- |[[ヴィーンの放射法則|第一放射定数]]<br>([[放射輝度|分光放射輝度]])||<math>c_{1L}=2hc^2</math> | {{val|{{#expr:2*6.62607015e-34*299792458^2}}|u=W m{{sup|2}} sr{{sup-|1}}}} |- |[[ヴィーンの放射法則|第二放射定数]]||<math>c_2=\tfrac{hc}{k}</math> | {{val|1.438776877|e=-2|u=m K}} |- | rowspan="2" |[[ウィーンの変位則]]定数 |<math>\begin{align} b &=\lambda_\text{max} T \\ &=c_2/4.965~114~231\ldots\end{align}</math> | {{val|2.897771955|e=-3|u=m K}} |- |<math>\begin{align}b'&=\nu_\text{max}/T \\ &=2.821~439~372\ldots c/c_2\end{align}</math> | {{val|5.878925757|e=10|u=Hz K{{sup-|1}}}} |} == 協定値 == {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 量 !! 記号 !! 値 (SI) !! 相対標準不確かさ |- |[[発光効率]] |<math>K_\text{cd}</math> |{{Val|683|u=lm W{{sup-|1}}}} ||rowspan="6"|定義値 |- |[[炭素12]]の相対質量 |<math>A_\text{r}(^{12}\text{C})</math> |12 |- |[[標準重力|標準重力加速度]]||<math>g_n</math> | {{val|9.80665|u=m s{{sup-|2}}}} |- |[[標準状態]]圧力|| | {{val|100000|u=Pa}} |- |[[標準気圧|標準大気圧]]||<math>1~\text{atm}</math> | {{val|101325|u=Pa}} |- | [[セルシウス度|セルシウス]] 0度||<math>0^\circ\text{C}</math> | {{val|273.15|u=K}} |} == プランク単位 == {{see|プランク単位系}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[数量の比較]] * [[人名に由来する物理単位の一覧]] ** {{仮リンク|人名に由来する物理定数|en|List of scientific constants named after people}} * [[エポニム]] * [[物理法則]] * [[科学技術データ委員会]]{{enlink|Committee on Data for Science and Technology|CODATA}} * [[自然単位系]] * [[微調整された宇宙]] {{SI units navbox}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつりていすう}} [[Category:物理定数|*]] [[Category:物理量]] [[Category:物理学に関する一覧]]
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中共
中共(ちゅうきょう)は、中国共産党の略称。
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中共(ちゅうきょう)は、中国共産党の略称。 中国語においては一般にこの意味で用いられ、日本語においても新華社など中国共産党系のマスメディアによって常用される。ただ、かつて日共を日本共産党への侮蔑表現として使用した経緯があるため、日本のメディアではあまり頻繁に用いられる表現ではない。なお、中国語における中国共産党への侮蔑表現としては主に台湾で使われた「共匪」があるが、1990年代以降はほとんど用いられていない。 主に日中国交正常化以前の日本国内で、中華人民共和国を指す言葉として使われた。国共内戦のため中国が分裂し、日本政府が中華人民共和国を国家承認しなかったため、中国大陸のことを「中国共産党」の略称で呼んだ。この表現は、日本が国家承認する台湾の中華民国(当時多用された略称は「国府」)と大陸側を区別するためにマスコミでも一般に使用されていた。
[[画像:Chinese soviet flag.svg|thumb|{{FIAV|historical|}} 中国の地方政権([[中華ソビエト共和国]])が、一時期、使用していた[[中華ソビエト共和国の国旗|旗]]]] [[画像:中共新疆维吾尔自治区委员会组织部干部教育培训中心,中国新疆乌鲁木齐市 China Xinjiang Urumq - panoramio.jpg|サムネイル|[[新疆ウイグル自治区|新疆維吾爾自治区]]にある、[[中国共産党|共産党]]幹部を育成する[[中国共産党中央党校|中央党校]]の分校。学校名の先頭には「中共」が付けられている。]] '''中共'''(ちゅうきょう)は、[[中国共産党]]の略称。 *[[中国語]]においては一般にこの意味で用いられ、[[日本語]]においても[[新華社]]など中国共産党系の[[マスメディア]]によって常用される。一方、[[日本]]においては、かつて「[[日共]]」が[[日本共産党]]への侮蔑表現として使用された経緯があるため、日本のメディアではあまり頻繁に用いられる表現ではない。なお、中国語における中国共産党への侮蔑表現としては主に[[台湾]]で使われた「[[共匪]]」があるが、[[1990年代]]以降はほとんど用いられていない。 *主に[[日中国交正常化]]以前の日本国内で、[[中華人民共和国]]を指す言葉として使われた。国共内戦のため中国が分裂し、[[日本政府]]が[[中華人民共和国]]を[[国家承認]]しなかったため、[[中国大陸]]のことを「[[中国共産党]]」の略称で呼んだ。この表現は、日本が国家承認する[[台湾]]の[[中華民国]](当時多用された略称は「[[国民政府|国府]]」)と大陸側を区別するためにマスコミでも一般に使用されていた。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ちゆうきよう}} [[Category:中国の別名]]
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1770年代
1770年代(せんななひゃくななじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1770年から1779年までの10年間を指す十年紀。
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{{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 18 | 年代 = 1770 | 年 = 1770 }} '''1770年代'''(せんななひゃくななじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1770年から1779年までの10年間を指す[[十年紀]]。 == できごと == === 1770年 === {{main|1770年}} * [[ジェームズ・クック]]、[[オーストラリア]]東岸に到達し、[[イギリス]]領と宣言する。 * 5月23日(明和7年4月28日) - [[後桜町天皇]]が譲位し、第118代[[後桃園天皇]]が即位。 === 1771年 === {{main|1771年}} * [[スウェーデン]]で[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]即位。「[[自由の時代]]」が終わり、中興の時代始まる。 === 1772年 === {{main|1772年}} * [[2月29日]] - [[江戸]]で[[江戸の火事|明和の大火]]が発生。 * [[8月19日]] - スウェーデンで[[クーデター]]、グスタフ3世の[[王権]]確立。 * [[第一次ポーランド分割]]。 * [[12月10日]]([[明和]]9年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - 日本、[[改元]]して[[安永]]元年。 === 1773年 === {{main|1773年}} * [[7月21日]] - [[ローマ教皇]][[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]によって[[イエズス会]]の解散が命ぜられる。 * [[12月16日]] - [[ボストン茶会事件]]。 === 1774年 === {{main|1774年}} * [[杉田玄白]]・[[前野良沢]]ら、[[解体新書]]を出版。 === 1775年 === {{main|1775年}} * [[アメリカ独立戦争]]。 === 1776年 === {{main|1776年}} * [[1月10日]] - [[トマス・ペイン]]が『コモンセンス』を刊行。 * [[7月4日]] - [[アメリカ合衆国]]独立宣言。 === 1778年 === {{main|1778年}} * [[3月7日]] - ジェームズ・クック、[[ハワイ島]]を発見。 === 1779年 === {{main|1779年}} * [[12月16日]](安永8年11月9日)- [[後桃園天皇]]が没し、第119代[[光格天皇]]が即位。 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=2|世紀=11|年代=1000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:1770ねんたい}} [[Category:1770年代|*]]
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2千年紀
2千年紀(にせんねんき)は、西暦紀元による2番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦1001年から西暦2000年(11世紀から20世紀)に当たる。 2千年紀における各地域の主な政体(時代区分)を名称表記。斜線によって区切られている部分は同時代に併存した政体。 また、太字表記は3千年紀、2012年現在の国家・政体。
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2千年紀(にせんねんき)は、西暦紀元による2番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦1001年から西暦2000年(11世紀から20世紀)に当たる。
{{Millenniabox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 11 }} '''2千年紀'''(にせんねんき<!--、'''紀元2000年紀'''-->)は、[[西暦|西暦紀元]]による2番目の[[ミレニアム|千年紀]](ミレニアム)である。西暦[[1001年]]から西暦[[2000年]]([[11世紀]]から[[20世紀]])に当たる。 == 出来事 == [[ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 012.jpg|thumb|180px|「十字軍の[[コンスタンティノープル]]への入城」(''[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[1840年]]作'')]] [[ファイル:Mongol_Empire_map.gif|thumb|180px|モンゴル帝国の発展]] [[ファイル:Columbus_Taking_Possession.jpg|thumb|180px|'''大航海時代''' [[新世界]]を発見した[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]]] [[ファイル:Prise de la Bastille.jpg|thumb|180px|'''市民革命''' 「[[バスティーユ襲撃]]」(“''The storm of the Bastille''”) ''Jean-Pierre Louis Laurent Houel'']] [[ファイル:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|180px|'''産業革命''' [[ジェームズ・ワット]]の[[蒸気機関]]]] [[ファイル:Aldrin Apollo 11.jpg|thumb|180px|'''[[月面着陸]]''' [[月面]]でポーズをとる[[エドウィン・オルドリン]](''[[アメリカ航空宇宙局|NASA]])'']] ; [[11世紀]]〜[[14世紀]] : ''[[西洋史]]において主に[[中世]]に区分される'' * [[東西教会の分裂]] * [[キリスト教]]圏と[[イスラム教]]圏の衝突([[十字軍]]、[[レコンキスタ]]など) * [[宋 (王朝)|宋朝]]における経済・文化の発展、大衆文化の興隆 * [[ユーラシア大陸]]の大部分を征した連合国家[[モンゴル帝国]]の興亡 * テュルク系イスラム王朝として[[セルジューク朝]]に続き、[[オスマン帝国]]が西アジア・東ヨーロッパに台頭(''〜17世紀'') * [[ペスト]]の大流行 *: ''[[14世紀]]の[[ヨーロッパ]]を始めとするユーラシア大陸で猛威を振るい、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ[[人口]]の三分の一から三分の二にあたる約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。'' * 西アフリカにおける[[ガーナ王国]]、[[マリ王国]]、[[ソンガイ王国]]の繁栄 ; [[15世紀]]〜[[17世紀]] : ''西洋史において主に[[近世]]に区分される'' * [[東ローマ帝国]]の滅亡 * 欧州における[[ルネサンス]]と[[宗教改革]]、[[宗教戦争]]([[三十年戦争]]) * [[大航海時代]]以降、[[世界の一体化|文明の世界化]]がはじまる ** ヨーロッパ人による[[アメリカ大陸]]・[[オーストラリア]]の発見と[[植民地|植民地化]] ** 南北原アメリカ[[文明]]([[マヤ文明]]、[[アステカ文明]]、[[アンデス文明]])の滅亡 ** [[コロンブス交換]] ** ヨーロッパ人の[[アメリカ大陸]]への移動 * 欧州、[[西アフリカ]]、[[西インド諸島]]等を巡る[[三角貿易]]([[奴隷貿易]])の全盛 * [[東インド会社]]を尖兵とした[[重商主義]]帝国の興隆 * [[砂糖]]・[[茶]]・[[コーヒー]]・[[タバコ]]などの[[嗜好品]]が世界各地に広まる * アジア・西ヨーロッパの経済繁栄、人口の増大 * 欧州における[[科学革命]]による[[宇宙観]]の変化と[[古典力学]]の創始、[[科学的手法]]の始まり * 西ヨーロッパで[[絶対王制]]から[[民主政]]への移行、[[法の支配]]の確立 ; [[18世紀]]以降 : ''西洋史において主に[[近代]]以降に区分される'' * [[市民革命]]と[[産業革命]]、世界に広がる[[近代化]]と[[工業化]]の流れ * [[ナショナリズム]]の高まりと[[民族]]国家([[国民国家]])の形成 * [[農業技術]]の革新、[[物流]]の大規模化などによる[[人口爆発]] *: ''[[19世紀]]初頭に約10億人だった[[世界人口]]は[[20世紀]]初頭には約15億人、同世紀末には約60億人と爆発的に増加している。'' * [[農村]]から[[都市]]への人口移動、急速な[[都市化]]の進展 * [[大量生産]]・大量消費の生活様式が確立 * アジア・ヨーロッパから南北アメリカ大陸など世界各地への[[移民]]、[[漢民族]]の膨張 * イスラム教世界の[[復古主義]]による再生([[ワッハーブ派]]、[[イラン・イスラム革命]]) * ヨーロッパ人による[[アフリカ]]・[[アジア]]の植民地化とそれらの国々の[[独立]] * 二度に渡る[[世界大戦]]と[[核兵器]]の開発・量産 * [[資本主義]]陣営と[[共産主義]]陣営による、世界を二分する[[冷戦]]構造の成立と崩壊 ; 2千年紀を通じて形成された事柄(成果・課題など) * [[人権]]意識の確立 * [[科学]]の発達と[[自然哲学]]からの分離、[[技術]]との結合 * 政治と[[宗教]]、科学と宗教の分離([[政教分離]]) * [[複式簿記]]・[[株式会社]]制度などを通じた[[商工業]]の発展 * 18世紀[[農業革命]]から20世紀の[[緑の革命]]に至る農業技術の革新と農村の構造変化 * [[工学]]・[[医学]]の発達、[[公衆衛生]]思想の徹底による人類の長寿命化 * ペストや[[インフルエンザ]]など世界規模での[[伝染病]]の流行 * [[古代]]からの[[伝統]]的[[統治]][[権威]]体制の滅亡 *: ''[[東ローマ帝国]]、[[インド亜大陸]]の王朝、[[中華帝国]]の皇帝支配、[[エチオピア帝国]]など'' * 世界規模の[[戦争]]の勃発、[[ユーラシア]]を支配する大[[帝国]]の出現 *: ''[[モンゴル帝国]]、[[ロシア帝国]]によるユーラシア大陸の征服'' *: ''[[第一次世界大戦]]、[[第二次世界大戦]]'' * [[帝国主義]]による世界支配国家の出現 *: ''[[パックス・ブリタニカ]]、[[パックス・アメリカーナ]]'' * 世界規模の国際協力機関の成立 *: ''[[国際連盟]]・[[国際連合]]・[[赤十字社]]・[[国際オリンピック委員会]]'' * [[活版印刷]]から[[インターネット]]に至る[[情報]]・[[通信]]技術の発展 *: ''[[マスメディア]]、[[有線通信]]・[[無線通信]]の発明と発達、[[情報革命]]'' * [[気球]]から[[飛行機]]、[[宇宙探査機]]に至る[[航空]]・[[宇宙開発]]の進展 * [[乱獲]]と[[環境問題|環境破壊]]による[[種 (分類学)|種]]の[[大量絶滅]] == 重要な人物 == * [[紫式部]] ([[979年]]ごろ - [[1016年]]ごろ) -- 日本の小説家 * [[イブン・スィーナー]] ([[980年]] - [[1037年]]) -- ペルシャの[[哲学者]]・医学者 * [[平清盛]] ([[1118年]] - [[1181年]])-- 日本の武将・政治家 * [[朱子]] ([[1130年]] - [[1200年]]) -- 中国の哲学者・政治家 * [[サラーフッディーン]] ([[1137年]]/[[1138年]] - [[1193年]]) -- エジプトの将軍、王 * [[源頼朝]] ([[1147年]] - [[1199年]])-- 日本の武将・政治家 * [[チンギス・カン]] ([[1155年]]/[[1162年]]/[[1167年]] - [[1227年]]) -- モンゴルの征服者 * [[クビライ|クビライ・カアン]] ([[1215年]] - [[1294年]])-- モンゴル帝国の皇帝 * [[トマス・アクイナス]] ([[1225年]] - [[1274年]]) -- イタリアの神学者 * [[ダンテ・アリギエーリ]] ([[1265年]] - [[1321年]]) -- イタリアの詩人 * [[イブン・バットゥータ]] ([[1304年]] - [[1368年]]) -- モロッコの探検家 * [[足利尊氏]] ([[1305年]] - [[1358年]]) -- 日本の武将・政治家 * [[マンサ・ムーサ]] (在位 [[1312年]] - [[1327年]]) -- マリ帝国の王 * [[朱元璋]] ([[1328年]] - [[1398年]]) -- 明王朝の皇帝 * [[ティムール]] ([[1304年]] - [[1368年]]) -- 中央アジアの軍人・支配者 * [[永楽帝]] ([[1360年]] - [[1424年]]) -- 明王朝の皇帝 * [[鄭和]] ([[1371年]] - [[1434年]]) -- 明王朝の軍人・探検家 * [[ヨハネス・グーテンベルク]] ([[1398年]]ごろ - [[1468年]]) -- ドイツの技術者、金属活字の発明者 * [[クリストファー・コロンブス]] ([[1451年]] - [[1506年]]) -- スペインの探検家 * [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]] ([[1452年]] - [[1519年]]) -- イタリアの芸術家、哲学者、科学者 * [[ニコラス・コペルニクス]] ([[1473年]] - [[1543年]]) -- ポーランドの天文学者、数学者 * [[マルティン・ルター]] ([[1483年]] - [[1546年]]) -- ドイツの宗教改革者 * [[スレイマン1世]] ([[1494年]] - [[1566年]]) -- オスマン帝国の皇帝 * [[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]] ([[1527年]] - [[1598年]]) -- スペインの国王 * [[織田信長]] ([[1534年]] - [[1582年]]) -- 日本の武将・政治家 * [[豊臣秀吉]] ([[1537年]] - [[1598年]]) -- 日本の武将・政治家 * [[徳川家康]] ([[1543年]] - [[1616年]]) -- 日本の武将・政治家 * [[ミゲル・デ・セルバンテス]] ([[1547年]] - [[1616年]]) -- スペインの脚本家、小説家 * [[ガリレオ・ガリレイ]] ([[1564年]] - [[1642年]]) -- イタリアの科学者 * [[ウィリアム・シェークスピア]] ([[1564年]] - [[1616年]]) -- イギリスの脚本家、詩人 * [[ルネ・デカルト]] ([[1596年]] - [[1650年]]) -- フランスの哲学者、数学者 * [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]] ([[1638年]] - [[1715年]]) -- フランスの国王 * [[アイザック・ニュートン]] ([[1642年]] - [[1727年]]) -- イギリスの科学者 * [[康熙帝]] ([[1654年]] - [[1722年]]) -- 清王朝の皇帝 * [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]] ([[1672年]] - [[1725年]]) -- ロシアの皇帝 * [[ベンジャミン・フランクリン]] ([[1706年]] - [[1790年]]) -- アメリカ合衆国の政治家、科学者 * [[乾隆帝]] ([[1711年]] - [[1799年]]) -- 清王朝の皇帝 * [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]] ([[1712年]] -[[1786年]]) -- プロイセンの皇帝 * [[ジャン=ジャック・ルソー]] ([[1712年]] - [[1778年]]) -- フランスの思想家 * [[マリア・テレジア]] ([[1717年]] - [[1780年]]) -- オーストリアの皇帝 * [[ジョージ・ワシントン]] ([[1732年]] - [[1799年]]) -- アメリカ合衆国初代大統領 * [[モンゴルフィエ兄弟]] (兄ジョセフ: [[1740年]] - [[1810年]]、弟ジャック: [[1745年]] - [[1799年]]) -- フランスの技術者 * [[トーマス・ジェファーソン]] ([[1743年]] - [[1826年]]) -- アメリカ合衆国の創立者、大統領 * [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]] ([[1756年]] - [[1791年]]) -- オーストリアの作曲家 * [[マクシミリアン・ロベスピエール]] ([[1758年]] - [[1794年]])-- フランス革命の指導者 * [[葛飾北斎]] ([[1760年]] - [[1849年]]) -- 日本の画家 * [[ナポレオン・ボナパルト]] ([[1769年]] - [[1821年]]) -- フランスの軍人、皇帝 * [[ムハンマド・アリー]] ([[1769年]]? - [[1849年]]) -- エジプトの支配者 * [[マイケル・ファラデー]] ([[1791年]] - [[1867年]]) -- イギリスの科学者、発明家 * [[エイブラハム・リンカーン]] ([[1809年]] - [[1865年]]) -- アメリカ合衆国大統領 * [[チャールズ・ダーウィン]] ([[1809年]] - [[1882年]]) -- イギリスの科学者 * [[オットー・フォン・ビスマルク]] ([[1815年]] - [[1898年]]) -- ドイツの首相 * [[カール・マルクス]] ([[1818年]] - [[1883年]]) -- ドイツの政治哲学者 * [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] ([[1819年]] - [[1901年]]) -- イギリス女王 * [[西太后]] ([[1835年]] - [[1908年]]) -- 清末期の権力者 * [[フリードリヒ・ニーチェ]] ([[1844年]] - [[1900年]]) -- ドイツの哲学者 * [[トーマス・エジソン]] ([[1847年]] - [[1931年]]) -- アメリカの発明家 * [[東郷平八郎]] ([[1848年]] - [[1934年]]) -- 日本の海軍軍人 * [[明治天皇]] ([[1852年]] - [[1912年]]) -- 日本の天皇 * [[ジークムント・フロイト]] ([[1856年]] - [[1939年]]) -- オーストリアの精神分析医 * [[ニコラ・テスラ]] ([[1856年]] - [[1943年]]) -- ユーゴスラビアの発明家 * [[ヘンリー・フォード]] ([[1863年]] - [[1947年]]) -- アメリカの実業家 * [[孫文]] ([[1866年]] - [[1925年]]) -- 中国の政治家、革命家 * [[マハトマ・ガンディー]] ([[1869年]] - [[1948年]]) -- インドの独立運動家 * [[ウラジーミル・レーニン]] ([[1870年]] - [[1924年]]) -- ソビエト連邦の指導者 * [[ウィンストン・チャーチル]] ([[1874年]] - [[1965年]]) -- イギリスの首相 * [[アルベルト・アインシュタイン]] ([[1879年]] - [[1955年]]) -- ドイツの物理学者 * [[ヨシフ・スターリン]] ([[1879年]] - [[1953年]]) -- ソビエト連邦の指導者 * [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・D・ルーズヴェルト]] ([[1882年]] - [[1945年]]) -- アメリカ合衆国大統領 * [[アドルフ・ヒトラー]] ([[1889年]] - [[1945年]]) -- ドイツの独裁者 * [[チャールズ・チャップリン]] ([[1889年]] - [[1977年]]) -- イギリスの俳優 * [[毛沢東]] ([[1893年]] - [[1976年]]) -- 中国の政治家・革命家 * [[ニキータ・フルシチョフ]] ([[1894年]] - [[1971年]]) -- ソビエト連邦の指導者 * [[ルーホッラー・ホメイニー]] ([[1900年]] - [[1989年]]) -- イランの宗教家、政治家 * [[ウォルト・ディズニー]] ([[1901年]] - [[1966年]]) -- アメリカの映画製作者、アニメーター * [[昭和天皇]] ([[1901年]] - [[1989年]]) -- 日本の天皇 * [[鄧小平]] ([[1904年]] - [[1997年]]) -- 中国の政治家・革命家 * [[黒澤明]]([[1910年]] - [[1998年]]) -- 日本の映画製作者 * [[ジョン・F・ケネディ]] ([[1917年]] - [[1963年]]) -- アメリカ合衆国大統領 * [[ガマール・アブドゥン=ナーセル]] ([[1918年]] - [[1970年]]) -- エジプトの軍人・政治家 * [[ネルソン・マンデラ]] ([[1918年]] - [[2013年]]) -- 南アフリカの政治家 * [[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]] ([[1920年]] - [[2005年]]) -- ローマ教皇 * [[エリザベス2世]] ([[1926年]] - [[2022年]]) -- イギリス女王 * [[フィデル・カストロ]] ([[1926年]] - [[2016年]]) -- キューバの政治家、革命家 * [[チェ・ゲバラ]] ([[1928年]] - [[1967年]]) -- キューバの政治家、革命家 * [[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]] ([[1929年]] – [[1968年]]) -- アメリカの公民権運動指導者 * [[ミハイル・ゴルバチョフ]] ([[1931年]] - [[2022年]])-- ソビエト連邦最後の指導者 * [[エルヴィス・プレスリー]] ([[1935年]] - [[1977年]]) -- アメリカのロック歌手 * [[ジョン・レノン]] ([[1940年]] - [[1980年]]) -- イギリスのロック歌手 * [[マイケル・ジャクソン]] ([[1958年]] - [[2009年]]) -- アメリカ合衆国のミュージシャン * [[ヨハン・クライフ]]([[1947年]]- [[2016年]]) --オランダのサッカー選手 == 発明・発見 == * [[科学的方法]] * [[印刷]]、[[写真]] * [[火薬]]と[[銃]] * [[電気]]技術 * [[化学合成]] * [[蒸気機関]]、[[内燃機関]] * [[電磁誘導]]と[[電動機]]、[[電力機器]] * [[万有引力]]、[[電磁力]]、[[原子力]] * [[分子]]、[[原子]]、[[量子物理学]]、[[相対性理論]] * [[進化論]]、[[遺伝学]]・[[分子生物学]]と[[デオキシリボ核酸|DNA]]([[二重らせん構造]]) * [[数学記号]]、[[微積分]]、[[非ユークリッド幾何学]] * [[鉄道]]、[[自動車]]、[[航空機|人類の飛行]] * [[宇宙飛行]]と[[アポロ計画|人類の月への到達]]、[[宇宙探査]]・[[観測]]技術 * [[電子工学]]と[[電子機器]]、[[コンピュータ]] * [[有線通信]]、[[無線通信]]、[[インターネット]] * [[選挙|普通選挙]]、[[資本主義]]と[[社会主義]] * [[福祉国家論|福祉国家]]、[[社会保険]]制度、[[社会民主主義]] == 各地域の主な政体(時代区分) == 2千年紀における各地域の主な[[政体]](時代区分)を名称表記。[[斜線]]によって区切られている部分は同時代に併存した政体。 また、'''太字'''表記は3千年紀、2012年現在の国家・政体。 ; アジア * 日本: [[摂関政治]]/[[平氏政権]]/[[奥州藤原氏]]([[平安時代]])⇒[[鎌倉幕府]]([[鎌倉時代]])⇒[[建武の新政]]⇒[[室町幕府]]([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]⇒[[室町時代]]⇒[[戦国時代 (日本)|戦国時代]])⇒[[織豊政権]]([[安土桃山時代]])⇒[[江戸幕府]]([[江戸時代]])⇒[[明治維新]]⇒[[大日本帝国]]([[明治時代]]⇒[[大正時代]]⇒[[昭和時代]])⇒[[連合国軍占領下の日本|連合国占領下]]⇒'''[[日本国]]''' * 沖縄列島: [[琉球王国]]([[第一尚氏]]⇒[[第二尚氏]]/[[島津藩]])⇒大日本帝国([[琉球藩]]⇒[[沖縄県]])⇒[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ統治下]]([[琉球列島米国軍政府]]⇒[[琉球列島米国民政府]]/[[琉球臨時中央政府]]⇒[[琉球政府]])⇒[[沖縄返還]]⇒'''日本国(沖縄県)''' * 中国([[中国大陸]]・[[台湾]]): [[北宋]]⇒[[遼]]/[[金 (王朝)|金]]/[[南宋]]⇒[[元 (王朝)|元]]([[モンゴル帝国]])⇒[[明]]⇒[[清]]⇒大日本帝国([[日本統治時代の台湾]])⇒'''[[中華民国]]/[[中華人民共和国]]''' * 中国([[中国東北部]]・[[満州]]): 遼/金/[[大真国]]/[[東遼]]⇒元⇒明/[[海西女直]]/[[海西女直]]/[[後金]]⇒清/ロマノフ朝⇒中華民国/ソビエト連邦⇒[[満州国]]⇒中華人民共和国/ロシア連邦 * [[朝鮮半島]]: [[高麗]]⇒[[李氏朝鮮]]⇒[[朝鮮総督府]]([[大日本帝国]]による統治)⇒'''[[大韓民国]]/[[朝鮮民主主義人民共和国]]''' * [[ベトナム]]北部: [[前黎朝]]⇒[[李朝]]⇒[[陳朝]]⇒[[胡朝]]⇒[[後陳朝]]⇒北属期(明統治)⇒[[黎朝|後黎朝前期]]⇒[[莫朝]]/[[黎朝|後黎朝後期]]/[[鄭主|鄭氏政権]]/[[広南国|阮氏政権]]⇒[[西山朝]]⇒[[阮朝]]⇒[[フランス領インドシナ]]⇒[[ベトナム帝国]]⇒北ベトナム([[ベトナム民主共和国]])/南ベトナム([[コーチシナ共和国]]⇒[[ベトナム国]]⇒[[ベトナム共和国]]⇒[[南ベトナム共和国]])⇒'''[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]''' * ベトナム南部: [[チャンパ王国]]⇒阮朝(併合により滅亡) * インド亜大陸: [[ゴール朝]]⇒[[デリー・スルターン朝]]([[チョーラ朝]]⇒[[ヴィジャヤナガル王国]])⇒[[ムガル帝国]]⇒[[イギリス領インド帝国]]([[イギリス]]による統治)・'''[[インド共和国]]/[[パキスタン・イスラム共和国]]/[[バングラデシュ人民共和国]]''' ; ヨーロッパ * [[イギリス]]([[イングランド]]): [[北海帝国]]([[クヌート1世 (イングランド王)|デーン朝]])⇒[[ノルマン朝]]⇒[[アンジュー帝国]]([[プランタジネット朝]])⇒[[イングランド・フランス二重王国]]([[ランカスター朝]])⇒[[ヨーク朝]]⇒[[イングランド王国]]([[テューダー朝]])⇒[[グレートブリテン王国]]([[ステュアート朝]])⇒[[イングランド共和国]]⇒[[イングランド王政復古]]⇒[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]]([[ハノーヴァー朝]])⇒'''[[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]]([[ウィンザー朝]])''' * イギリス([[スコットランド]]): [[スコットランド王国]]⇒グレートブリテン王国⇒⇒グレートブリテン及びアイルランド連合王国⇒'''グレートブリテン及び北アイルランド連合王国''' * [[フランス]]: [[フランス王国]]([[カペー朝]]⇒[[ヴァロワ朝]]⇒[[ブルボン朝]])/イングランド勢力([[アンジュー帝国]]⇒[[イングランド・フランス二重王国]])⇒[[フランス共和国]]([[フランス第一共和政|第一共和政]])⇒[[フランス帝国]]([[フランス第一帝政|第一帝政]])⇒フランス王国([[フランス復古王政|ブルボン復古王政]]⇒[[七月王政]])⇒フランス共和国([[フランス第二共和政|第二共和政]])⇒フランス帝国([[フランス第二帝政|第二帝政]])⇒フランス共和国([[フランス第三共和政|第三共和政]])⇒[[ヴィシー政権]]([[ナチス]]の傀儡政権)/[[自由フランス]](ナチスの抵抗勢力)⇒[[フランス共和国臨時政府|臨時政府]]⇒'''フランス共和国'''([[フランス第四共和政|第四共和政]]⇒'''[[フランス第五共和政|第五共和政]]''') * [[ドイツ]]: 神聖ローマ帝国⇒プロイセン王国([[ドイツ統一]])⇒[[ライン同盟]]([[フランス帝国]]の[[従属国]])⇒[[ドイツ連邦]]⇒[[北ドイツ連邦]]⇒[[ドイツ帝国]]⇒[[ヴァイマル共和政]]⇒[[ナチス・ドイツ]]([[第三帝国]])⇒[[フレンスブルク政府]]⇒[[連合軍軍政期]]⇒[[西ドイツ]](西側諸国)/[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]](東側諸国)⇒'''[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]([[ドイツ再統一]])''' * [[オーストリア]]: [[バーベンベルク家]]([[オーストリア辺境伯領]])⇒[[ハプスブルク朝]](神聖ローマ帝国)⇒[[オーストリア帝国]]⇒ドイツ連邦⇒オーストリア帝国(復興)⇒[[オーストリア=ハンガリー帝国]]・オーストリア共和国([[第一共和国 (オーストリア)|第一共和政]])⇒ナチス占領下([[アンシュルス]])⇒[[連合軍軍政期 (オーストリア)|連合軍軍政期]]⇒'''[[オーストリア共和国]](第二共和政)''' * [[神聖ローマ帝国]](滅亡): [[神聖ローマ皇帝一覧#ザーリアー朝|ザーリアー朝]]⇒[[ロタール3世|ザクセン朝]]⇒[[ホーエンシュタウフェン朝]]⇒[[ヴェルフェン朝]]・ホーエンシュタウフェン朝(再興)⇒[[大空位時代]]⇒[[神聖ローマ皇帝一覧|諸王家]]⇒[[ハプスブルク朝]]⇒[[ヴィッテルスバッハ朝]]⇒[[ハプスブルク=ロートリンゲン朝]]⇒ライン同盟成立により崩壊。 * [[ポーランド]]: [[ピャスト朝]]/[[プシェミスル朝]]⇒[[ヤギェウォ朝]]⇒[[ポーランド・リトアニア共和国|第一共和制]]⇒[[ポーランド分割]]⇒[[ワルシャワ公国]]⇒[[ポーランド立憲王国]](ロシア領)/[[クラクフ共和国]](オーストリア領)/[[ポズナン大公国]](プロイセン領)⇒[[ポーランド摂政王国]]⇒[[ポーランド第二共和国|第二共和制]]⇒[[ポーランド亡命政府|亡命政府]]/[[ポーランド総督府]](ナチス)/[[ルブリン政権]](ソ連)⇒[[ポーランド人民共和国]](ソ連の衛星国)⇒'''[[ポーランド|第三共和制]]''' * イタリア: '''[[イタリアの歴史#中世|イタリアの歴史]]'''を参考にされたし。 * スペイン: [[後ウマイヤ朝]]([[イスラム帝国]])⇒[[タイファ|群小王朝]]⇒[[アラゴン連合王国]]⇒[[スペイン王国]]([[アブスブルゴ朝]]⇒[[ボルボーン朝]])⇒[[スペイン第一共和政|第一共和政]]⇒ボルボーン朝の王政復古⇒[[スペイン第二共和政|第二共和政]]⇒[[スペイン|フランコ独裁政権]]⇒'''スペイン王国(ボルボーン朝)''' * ポルトガル: 後ウマイヤ朝⇒群小王朝⇒[[カスティーリャ王国|カスティーリャ=レオン連合王国]]⇒ポルトガル王国([[ブルゴーニュ王朝|ボルゴーニャ朝]]⇒[[アヴィス朝]]⇒アブスブルゴ朝⇒[[ブラガンサ朝]])⇒'''ポルトガル共和国'''([[ポルトガル第一共和政|第一共和政]]⇒[[エスタド・ノヴォ|第二共和政]]⇒'''[[ポルトガル共和国|第三共和政]]''') * [[東ローマ帝国]](滅亡): [[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]⇒[[ドゥーカス王朝]]⇒[[コムネノス王朝]]⇒[[アンゲロス王朝]]⇒[[ラテン帝国]]([[第四次十字軍]]の簒奪王朝)/帝国の亡命政権([[ニカイア帝国]]/[[トレビゾンド帝国]]/[[エピロス専制侯国]])⇒[[パレオロゴス王朝]] * [[ロシア]]: [[キエフ大公国|ルーシ]]⇒[[ウラジーミル・スーズダリ大公国]]⇒[[キエフ公国]]⇒[[ノブゴロド公国]]⇒[[ジョチ・ウルス]]([[タタールのくびき]])⇒[[モスクワ大公国]]([[リューリク朝]])⇒[[ロシア・ツァーリ国]](リューリク朝⇒[[動乱時代]]⇒[[ロマノフ家]])⇒[[ロシア帝国]]([[ロマノフ朝]])⇒[[ロシア共和国]]([[ロシア臨時政府]])⇒[[ソビエト連邦]]([[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]])⇒'''[[ロシア連邦]]''' ; アメリカ大陸 * 北アメリカ(カナダ): [[ヌーベルフランス]](フランス植民)⇒[[カナダの歴史#英領カナダ|英領]]⇒[[カナダの歴史#自治領カナダ|カナダ]]⇒'''[[カナダ]]([[イギリス連邦]]、[[英連邦王国]])''' * 中央アメリカ: ([[アメリカ合衆国の植民地時代|植民地時代]])⇒[[13植民地]](イギリス植民地)⇒[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立]]⇒[[アメリカ合衆国]]/[[アメリカ連合国]]([[南北戦争]]により分裂。敗戦後、消滅)⇒'''アメリカ合衆国''' == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] * [[中世]] - [[近世]] - [[近代]] - [[現代 (時代区分)|現代]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀| 千年紀 = 2 | 世紀 = 11 | 年代 = 1000 }} {{世紀}} {{デフォルトソート:2せんねんき}} [[Category:2千年紀|*]]
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モノ
モノ、mono、者、Monod モノ mono、Mono MONO 者 Monod
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モノ、mono、者、Monod
'''モノ'''、'''mono'''、'''者'''、'''Monod''' {{wt|モノ|もの}} ==一覧== '''モノ''' * 「もの(物)」をカタカナで表記した語(その語が特殊な意味で用いられていることを示すとき)。 ** 経済用語での'''[[財]]'''(英:good(s))のこと。ただし、財のうち、非物理的財貨であるサービスを除いたものを指すことが多い(「モノやサービス」という表現のように)。 ** [[モノのインターネット]]のように、単なる物理的存在としての'''物'''(thing(s))と同じ意味で使われることもある。経済学の「モノ」との混同からか。 {{wt|mono}} '''mono'''、'''Mono''' * 「[[1|一つの]]」を意味するギリシア語系の[[接頭辞]]。'''mono-''' ** [[モノクローム]]('''monochrome''')、'''モノトーン'''([[wikt:monotone]])、[[モノレール]]('''monorail''')等。 ** 音声再生の一つでステレオの対義語「[[モノラル]]」の略。単一の信号音源を出力する方式。 ** 化学物質の名称において[[置換基]]が1つであることを意味する[[倍数接頭辞]](mono-)。{{Main|化学接頭辞・接尾辞一覧#倍数接頭辞}} ** [[伝染性単核球症]] ([[:en:Infectious mononucleosis]]) * [[mono (漫画)]] - あfろの漫画。 * [[mono (歌手)]] - 神聖かまってちゃんのリーダー。 * [[Mono (ソフトウェア)]] - .NET互換のオープンソースソフトウェア群およびそのプロジェクト。 * [[BAC・Mono]] - 英Briggs Automotive Company(BAC)が開発した一人乗りの自動車。 * [[モノ県]] - ベナン南西部の県。 * [[モノ・マガジン]]('''mono''' magazine) - ワールドフォトプレス社発行の雑誌。 * {{仮リンク|モノ (イギリスのバンド)|en|Mono (UK band)}} - [[イギリス]]の[[バンド (音楽)]]。 * {{仮リンク|Mono Inc.|de|Mono Inc.}} - [[ドイツ]]のバンド。 * {{仮リンク|mono (カラトリー)|de|Mono (Besteck)}}(ドイツ、1895年~)。[[カトラリー]]、テーブルアクセサリーのメーカー、ブランド。 '''MONO''' * 株式会社[[トンボ鉛筆]]が製造する文房具のブランド名「MONO」。[[鉛筆]]、[[消しゴム]]、[[修正テープ]]等に用いられている。{{main2|消しゴムについては[[MONO消しゴム]]を}} * [[MONO]] - 日本のポストロックインストゥメンタルバンド。 * [[MONO (劇団)]] - 京都を拠点とする日本の劇団。[http://www.c-mono.com/ MONO公式ホームページ] * [[NTTドコモ]]が発売した[[ZTE]]製スマートフォン、MONO MO-01K。docomo with対応。 {{wt|者}} '''者''' * [[者]] - 人 (法律)。 '''Monod''' * [[テオドール・モノ]] - フランスの博物学者、探検家。 == 関連項目 == * [[一 (曖昧さ回避)]] *[[物]] * [[モノー]] *{{prefix}} *{{intitle}} {{aimai}} {{デフォルトソート:もの}} [[Category:接辞]] [[Category:ギリシア語の語句]] [[Category:フランス語の姓]]
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箱根湯本駅
箱根湯本駅(はこねゆもとえき)は、神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある、箱根登山鉄道鉄道線(箱根登山電車)の駅である。駅番号はOH 51。 日本の観光地、箱根の玄関駅の一つである。特急ロマンスカーが小田急電鉄小田原線から当駅まで直通運転している。 箱根登山電車は当駅で運行系統が分割されており、当駅から小田原方面は小田急の車両による4両編成の電車が、強羅方面は箱根登山鉄道の車両による2 - 3両編成の電車が運行され、乗り換えを要する。以前は小田原方面にも箱根登山鉄道の車両が運転されていたが、2006年3月18日から営業列車がすべて当駅から強羅方面のみの運行になった。また、かつては小田急線新宿方面から当駅まで直通する急行(一般車両を用い別料金は不要)が多数運行されていたが、2008年3月15日のダイヤ改正で廃止された。 バリアフリーと駅周辺の渋滞緩和などを目的に、2009年頃から改良工事を始めて3月14日に橋上駅舎の供用を開始し、2012年4月にペデストリアンデッキなど周辺整備が完了した。 箱根登山鉄道の駅名標やパンフレットに各駅の標高が示されており、当駅はかつて108メートルと表記されていたが、2013年の再調査で96メートルに訂正されている。 島式ホーム・相対式ホームを組み合わせた2面4線の地上駅である。改札口は橋上駅舎部に位置し、トイレはホームと同一階の南西側の改札内にある。 終日社員配置駅で、箱根登山鉄道の自社単独駅では唯一自動改札機が設置されており、小田急ロマンスカー特急券うりば、出札窓口、自動券売機、小田急トラベル箱根湯本営業所がある。ホームには売店、ロマンスカー当日分券売機があり、小田原までの特急券(席に余裕のある場合のみ発売、座席指定なし)は発車前にホーム係員が発売する。一部時間帯の小田原方面行き列車を除き、駅員が出発指示合図を出してから列車が発車する。 箱根登山電車は当駅を境に、強羅方面は750ボルトで小田原方面は1500ボルトと架線電圧が異なるため、当駅構内の入生田駅寄りで三線軌が狭軌と標準軌に分岐した辺りにデッドセクションを設けている。ここを箱根登山鉄道の車両が通過すると一瞬車内が停電する現象が起こるが、2006年以降はデッドセクション区間を通過する営業列車は設定されていない。 箱根登山車両の散水タンク(車端部床下にあり、急曲線で線路に散水する)への給水設備が3・4番ホーム間に設けられている。 強羅方面へは、当駅を出発するとすぐに80パーミルの上り勾配となる。 小田急車両乗り入れ当初は、発着番線の数字が現在の配置と逆順序で、1980年当時の旧3番線と4番線のホームが箱根登山車両のホームで、5番線は箱根登山車両の留置線であった。1番線(1980年当時の5番線)=留置線、2番線(1980年当時の4番線)=小田原方面、3番線(1980年当時の3番線)=強羅方面、4番線(1980年当時の2番線)=小田急通勤車両、5番線(1980年当時の1番線)=小田急ロマンスカー車両が発着していた。 1992年までは箱根登山鉄道車両による小田原方面用ホーム(線路は標準軌)があったが、1993年の3両編成化の際に廃止となり、2・4番線ホームの延伸・拡幅に利用されている。以後、頭端式ホーム1面2線、相対式ホーム2面2線の計3面4線となり、3番線はしばらく欠番になった。5番線は強羅方面からの小田原方面行ホームであったが、前記したように2006年3月18日以降のダイヤでは小田原方面に向かう列車は当駅始発の小田急車両のみとなったことから、強羅方面から当駅止まりの一部列車が使用していた。 2番線はかつて小田急通勤車6両編成分の有効長であったが、2008年3月16日から2両分小田原方に車止めを移動した際に有効長は4両編成分となり、特急ロマンスカーは1番線からの発着に限定されるようになった。その後、同年中にホームを拡幅した際に4番線の延長線上に車止めも移設された。さらに4・5番線はそれぞれ3・4番線に改番された。2011年1月時点では、2番線と3番線は車止めを挟んで向かい合うようになっており、3番線の強羅方には留置線が設けられている。 4番線以外の全ホームで唱歌『箱根八里』の発車メロディを使用するが、4番線も臨時列車の発車時に用いる場合がある。 2020年度の1日平均乗降人員は5,996人で、近年の推移を下記する。 駅前は土産物店・飲食店・旅館が多く存在する。 国道1号上にバス停があり、伊豆箱根バスや箱根登山バスの路線バス、旅館送迎バスが発着する。路線バスの停留所には「OH51/112」のバス停ナンバリングが設定されている。
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箱根湯本駅(はこねゆもとえき)は、神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある、箱根登山鉄道鉄道線(箱根登山電車)の駅である。駅番号はOH 51。
{{駅情報 |社色 = #f04a00 |文字色 = #fff7c9 |駅名 = 箱根湯本駅 |画像 = Hakone-Yumoto Station 20180102.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅舎(2018年1月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = はこねゆもと |ローマ字 = Hakone-Yumoto |前の駅 = OH 50 [[入生田駅|入生田]] |駅間A = 1.9 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[塔ノ沢駅|塔ノ沢]] OH 52 |電報略号 = |所属事業者 = [[箱根登山鉄道]] |所属路線 = {{Color|#f04a00|■}}[[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]](箱根登山電車) |駅番号 = {{駅番号r|OH|51|#f04a00|4||#6a3906}} |キロ程 = 6.1&nbsp;km([[小田原駅|小田原]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から89.2 |起点駅 = |所在地 = [[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]][[湯本 (箱根町)|湯本]]白石下707-1 |座標 = {{coord|35|14|0.0|N|139|6|12.7|E|type:railwaystation_region:JP-14|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 2面4線 |開業年月日 = [[1919年]]([[大正]]8年)[[6月1日]] |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="#" name="hakone2021" />6,927 |統計年度 = 2021年<!--リンク先不要--> |備考 = 標高96&nbsp;m<ref name="hakone-tozan20131129"/> }} '''箱根湯本駅'''(はこねゆもとえき)は、[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]][[湯本 (箱根町)|湯本]]にある、[[箱根登山鉄道]][[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]](箱根登山電車)の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''OH 51'''。 == 概要 == 日本の観光地、[[箱根]]の玄関駅の一つである。[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]が[[小田急電鉄]][[小田急小田原線|小田原線]]から当駅まで[[直通運転]]している。 箱根登山電車は当駅で運行系統が分割されており、当駅から[[小田原駅|小田原]]方面は小田急の車両による4両編成の電車が、[[強羅駅|強羅]]方面は箱根登山鉄道の車両による2 - 3両編成の電車が運行され、乗り換えを要する。以前は小田原方面にも箱根登山鉄道の車両が運転されていたが、[[2006年]]3月18日から営業列車がすべて当駅から強羅方面のみの運行になった。また、かつては小田急線[[新宿駅|新宿]]方面から当駅まで直通する[[小田急小田原線#急行|急行]](一般車両を用い別料金は不要)が多数運行されていたが、[[2008年]]3月15日の[[ダイヤ改正]]で廃止された{{efn2|1980年代まで小田急の急行は[[小田原駅|小田原]]・箱根湯本方面行きの列車と[[藤沢駅|藤沢]]・[[片瀬江ノ島駅|片瀬江ノ島]]方面行きの列車を併結し、[[相模大野駅]]で分割併合を行っていた。1993年に江ノ島線全急行が6連化されたことで独立運転となったが、その後も途中駅での分割併合は残り、箱根湯本行き急行の場合は[[海老名駅]](後に[[新松田駅]])で10連の後4両を切り離して前6両が箱根湯本に直通する形態が続いていた。}}。 [[バリアフリー]]と駅周辺の[[渋滞]]緩和などを目的<ref>{{PDFlink|「[http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/07/1914/odo/ijika/pamphlet.pdf 箱根湯本ターミナル整備事業]」}}(神奈川県小田原土木事務所)</ref>に、[[2009年]]頃から改良工事を始めて3月14日に[[橋上駅|橋上駅舎]]の供用を開始し<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/2813_8365786_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090306044724/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/2813_8365786_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=箱根湯本駅周辺整備について -交通結節機能を強化し、利便性の向上を図ります-|publisher=箱根登山鉄道|date=2007-07-24|accessdate=2020-07-08|archivedate=2009-03-06}}</ref>、[[2012年]]4月に[[ペデストリアンデッキ]]など周辺整備が完了した<ref>[http://www.hakone-tozan.co.jp/company/history.html 箱根登山鉄道の歴史]</ref>。 箱根登山鉄道の駅名標やパンフレットに各駅の標高が示されており、当駅はかつて108メートルと表記されていたが、2013年の再調査で96メートルに訂正されている<ref name="hakone-tozan20131129">{{Cite press release|和書|url=http://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/%C9%B8%EF%BF%BD%EF%BF%BD%C9%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EA%A1%BC%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD20131129%EF%BF%BD%C7%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD%EF%BF%BD.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171208231527/http://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/%C9%B8%B9%E2%C9%BD%BC%A8%BD%A4%C0%B5%A5%EA%A5%EA%A1%BC%A5%B9%A1%CA20131129%BA%C7%BD%AA%A1%CB.pdf|format=PDF|language=日本語|title=各駅における標高表示の修正について|publisher=箱根登山鉄道|date=2013-11-29|accessdate=2020-07-08|archivedate=2017-12-08}}</ref>。 <gallery perrow="4" widths="190" style="font-size:90%;"> Hakone-Yumoto-Station-Front-entrance.jpg|正面出入口(商店街方面から)(2018年9月) HakoneYumotoStation.JPG|駅の外観(2014年9月) Hakoneyumoto Station01.jpg|旧駅舎(2005年3月) </gallery> == 歴史 == [[ファイル:Yumoto_onsen.jpg|thumb|明治期の湯本温泉]] * [[1888年]]([[明治]]11年)[[10月1日]]:軌道線(後の[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原市内線]])が湯本へ乗り入れ。 * [[1919年]]([[大正]]8年)[[6月1日]]:鉄道線湯本 - 強羅間開業に伴い箱根湯本駅が開業。軌道線の停留所名も箱根湯本に変更。 * [[1935年]]([[昭和]]10年)10月1日:鉄道線小田原駅乗り入れに伴い、用地転用のため軌道線停留所を廃止。 * [[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]:小田急車両の乗り入れ開始。 * [[1982年]](昭和57年)[[7月12日]]:小田急の大型(20メートル車)6両編成乗り入れ開始。 * [[2005年]]([[平成]]17年)10月1日:特急ロマンスカー座席券の販売が開始され、当駅 - 小田原間のみの乗車が可能になる。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:当駅 - 小田原間の営業運転が小田急の車両のみとなる。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:当駅 - 小田原間での小田急からの直通列車は特急と4両編成の各駅停車のみとなる。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:新駅舎の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/4293_8520228_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121207153926/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/4293_8520228_.pdf|format=PDF|language=日本語|title=箱根湯本駅新駅舎が3月14日(土)から使用開始 -エレベーター・エスカレーターの設置によりバリアフリー対応駅に-|publisher=小田急電鉄|date=2009-02-12|accessdate=2020-06-21|archivedate=2012-12-07}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月12日]]:[[令和元年東日本台風]](台風19号)の影響により営業休止。13日に小田原方面の運転が再開されたが、強羅方面は道床流出や橋梁流出などの被害が発生し復旧に長期間を要するため<ref name="milt001314113">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001314113.pdf#page=99 |title=令和元年台風第19号による被害状況等について(第25報)|format=PDF |publisher=国土交通省 |date=2019-10-25 7:30 |accessdate=2021-10-02}}</ref>、18日から代行バスの運転が開始された<ref>[https://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/23%E6%97%A5%EF%BD%9E%E4%BB%A3%E8%A1%8C%E3%83%90%E3%82%B9%E6%99%82%E5%88%BB%E8%A1%A8_1.pdf 箱根登山電車 代行バスの運行について(10/23~)] - 箱根登山鉄道、2019年10月21日</ref>。 * [[2020年]](令和2年)[[7月23日]]:当駅 - 強羅間の運転再開(代行バスは前日に運行終了)<ref name="pr20200624">{{Cite press release|和書|url=https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakone-tozan.co.jp/hakone_wp/wp-content/uploads/2020/06/8efd36756ee790977fb0fb4a0b643f14.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200624063044/https://cops.ssl-odakyu.jp/www.hakone-tozan.co.jp/hakone_wp/wp-content/uploads/2020/06/8efd36756ee790977fb0fb4a0b643f14.pdf|format=PDF|language=日本語|title=箱根登山電車 箱根湯本駅-強羅駅間の営業運転再開について|publisher=箱根登山鉄道|date=2020-06-24|accessdate=2021-10-02|archivedate=2020-06-24}}</ref><ref>{{Cite news|title=箱根登山鉄道、全線で運転再開 「お帰りなさい」沸く沿線|url=https://www.kanaloco.jp/article/entry-418721.html|newspaper=神奈川新聞|date=2020-07-23|accessdate=2021-10-02}}</ref>。 == 駅構造 == {{Vertical images list |幅 = 220px |1 = Hakone-yumoto Platform Image.gif |2 = 構内図。青線は狭軌、赤線は標準軌を示す。 |3 = Tozan ALLEGRA Hakone-yumoto 80permillage.jpg |4 = 駅のすぐ西側の勾配を通過する車両(2014年) }} [[プラットホーム#形状と配置|島式ホーム・相対式ホーム]]を組み合わせた2面4線の[[地上駅]]である。改札口は橋上駅舎部に位置し、トイレはホームと同一階の南西側の改札内にある。 終日[[鉄道駅#直営駅|社員配置駅]]で、箱根登山鉄道の自社単独駅では唯一[[自動改札機]]が設置されており、小田急ロマンスカー[[特別急行券|特急券]]うりば、出札窓口、自動券売機、[[小田急トラベル]]箱根湯本営業所がある。ホームには売店、ロマンスカー当日分券売機があり、小田原までの特急券(席に余裕のある場合のみ発売、座席指定なし)は発車前にホーム係員が発売する。一部時間帯の小田原方面行き列車を除き、駅員が出発指示合図を出してから列車が発車する。 箱根登山電車は当駅を境に、強羅方面は750[[ボルト (単位)|ボルト]]で小田原方面は1500ボルトと[[架線]][[電圧]]が異なるため、当駅構内の[[入生田駅]]寄りで三線軌が狭軌と標準軌に分岐した辺りに[[デッドセクション]]を設けている。ここを箱根登山鉄道の車両が通過すると一瞬車内が[[停電]]する現象が起こるが、2006年以降はデッドセクション区間を通過する営業列車は設定されていない。 箱根登山車両の散水タンク(車端部床下にあり、急曲線で線路に散水する)への給水設備が3・4番ホーム間に設けられている。 強羅方面へは、当駅を出発するとすぐに80[[パーミル]]の上り勾配となる。 === のりば === <!-- 各事業者公式サイトの「時刻表」「駅構内図」の表記に準拠 --> {|class="wikitable" !nowrap|ホーム<!--事業者側呼称に準拠(小田原 - 箱根湯本間は「ホーム」)-->!!路線!!nowrap|方向!!行先!!備考 |- ! 1 |rowspan="3"|[[File:Odakyu Hakone StaNo.svg|18px]] 箱根登山電車 |style="text-align:center" rowspan="2" |上り |rowspan="2" |[[小田原駅|小田原]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |[[File:Odakyu odawara.svg|18px]] [[小田急ロマンスカー]] |- ! 2 |各駅停車 |- ! 3 |style="text-align:center"|下り |nowrap|[[強羅駅|強羅]]方面 | |- ! 4 |colspan="3" style="text-align:center"|臨時ホーム |通常は上りの降車専用 |} * 4番ホームは塔ノ沢寄りの[[踏切|構内踏切]]を横断して行き来する構造で、到着後に入生田車両基地へ回送される列車が使用するほか、混雑時は4番ホームで乗客が下車したのちに強羅方へ引き上げ、3番ホームへ入換して客扱いを行う。使用しない時間帯は閉鎖されている。 * 2番ホームは小田急車4両編成の[[夜間滞泊]]がある。 <gallery> Hakone-Yumoto Gate.JPG|改札口(2009年6月) 161222 Hakone-Yumoto Station Hakone Japan02s3.jpg|ホーム全景。右が1番ホーム、奥が2番ホーム、左が3番ホーム。(2016年12月) Hakone-yumoto Platform 2 end.jpg|2番ホームと3番ホームの間の車止め(2009年3月) </gallery> === 駅構内の構造の変遷 === <gallery> Hakone-yumoto Platform Image 1950.gif|1950年頃の構内図 Hakone-yumoto Platform Image 1980.gif|1980年頃の構内図 Hakone-yumoto Platform Image 1993.gif|1993年頃の構内図 </gallery> 小田急車両乗り入れ当初は、発着番線の数字が現在の配置と逆順序で、[[1980年]]当時の旧3番線と4番線のホームが箱根登山車両のホームで、5番線は箱根登山車両の[[停車場#側線|留置線]]であった。1番線(1980年当時の5番線)=留置線、2番線(1980年当時の4番線)=小田原方面、3番線(1980年当時の3番線)=強羅方面、4番線(1980年当時の2番線)=小田急通勤車両、5番線(1980年当時の1番線)=小田急ロマンスカー車両が発着していた。 [[1992年]]までは箱根登山鉄道車両による小田原方面用ホーム(線路は[[標準軌]])があったが、[[1993年]]の3両編成化の際に廃止となり、2・4番線ホームの延伸・拡幅に利用されている。以後、[[頭端式ホーム]]1面2線、相対式ホーム2面2線の計3面4線となり、3番線はしばらく欠番になった。5番線は強羅方面からの小田原方面行ホームであったが、前記したように2006年3月18日以降のダイヤでは小田原方面に向かう列車は当駅始発の小田急車両のみとなったことから、強羅方面から当駅止まりの一部列車が使用していた。 2番線はかつて小田急通勤車6両編成分の[[有効長]]であったが、2008年3月16日から2両分小田原方に[[車止め]]を移動した際に有効長は4両編成分となり、特急ロマンスカーは1番線からの発着に限定されるようになった。その後、同年中にホームを拡幅した際に4番線の延長線上に車止めも移設された。さらに4・5番線はそれぞれ3・4番線に改番された。2011年1月時点では、2番線と3番線は車止めを挟んで向かい合うようになっており、3番線の強羅方には留置線が設けられている。 {|class="wikitable" style="font-size:80%" !時期 !第1ホーム(旧・第3ホーム) !第2ホーム(旧・第2ホーム) !第3ホーム(旧・第1ホーム) |- |1950年 - |5・4番線<br />{{Color|cyan|■}}鉄道線・小田急線 小田原・新宿方面(始発) |3番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 強羅方面 2番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 小田原方面 |1番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 留置線 |- |1980年 - |rowspan=4|1・2番線<br />{{Color|cyan|■}}鉄道線・小田急線 小田原・新宿方面(始発) |3番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 小田原方面(始発) 4番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 強羅方面 |5番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 小田原方面 |- |2002年 - |rowspan=2|4番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 強羅方面 |5番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 小田原方面 |- |2006年 - |5番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 降車専用ホーム |- |2009年 - |3番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 強羅方面 |4番線<br />{{Color|red|■}}鉄道線 臨時ホーム |} <gallery> Hakone-Yumoto-Sta-inside-12.jpg|2007年当時の1・2番線ホーム(2007年2月) Hakone-Yumoto-Sta-inside-34.jpg|2007年当時の4番線ホーム(2007年2月) Hakone-Yumoto-Sta-for-Odawara.jpg|2007年当時の4番線から小田原駅方向を見る(2007年2月) </gallery> === 発車メロディ === 4番線以外の全ホームで[[文部省唱歌|唱歌]]『[[箱根八里]]』の[[発車メロディ]]を使用するが、4番線も[[臨時列車]]の発車時に用いる場合がある。 === 駅舎のテナント === * 箱根の市 - 駅弁・名産品・土産物販売 * 箱根カフェ * 箱根カフェスイーツショップ * カフェ・サンモリッツ湯本店 * [[小田急トラベル]] - 小田原駅で提供していた外貨両替を、2015年2月から当駅でも開始した。 * えゔぁ屋 - アニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』のオフィシャルショップ。 == 利用状況 == 2020年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''5,996人'''<ref group="#" name="hakone2020" />で、近年の推移を下記する{{efn2|年度別乗降・乗車人員から365(閏日が含まれる年度は366)で除して一日平均数値を求めている。}}。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降・乗車人員 !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,0,54,201,html 統計はこね] - 箱根町</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f160349/ 神奈川県県勢要覧]</ref> !出典 |- |1995年(平成{{0}}7年) | |6,246 |<ref group="*">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移] - 27ページ</ref> |- |1998年(平成10年) | |5,899 |<ref group="*">神奈川県県勢要覧(平成12年度)226ページ</ref> |- |1999年(平成11年) |11,541<!--4,223,914÷366--> |5,742 |<ref group="*" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 神奈川県県勢要覧(平成13年度)]}} - 228ページ</ref> |- |2000年(平成12年) |11,306<!--4,126,540÷365--> |5,706 |<ref group="*" name="toukei2001" /> |- |2001年(平成13年) |11,426<!--4,170,537÷365--> |5,726 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 神奈川県県勢要覧(平成14年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2002年(平成14年) |11,362<!--4,147,164÷365--> |5,039 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 神奈川県県勢要覧(平成15年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2003年(平成15年) |11,561<!--4,231,438÷366--> |4,815 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 神奈川県県勢要覧(平成16年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2004年(平成16年) |11,272<!--4,114,336÷365--> |4,613 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 神奈川県県勢要覧(平成17年度)]}} - 228ページ</ref> |- |2005年(平成17年) |11,547<!--4,214,640÷365--> |4,710 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 神奈川県県勢要覧(平成18年度)]}} - 228ページ</ref> |- |2006年(平成18年) |11,713<!--4,275,215÷365--> |4,805 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 神奈川県県勢要覧(平成19年度)]}} - 230ページ</ref> |- |2007年(平成19年) |11,824<!--4,327,698÷366--> |4,846 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 神奈川県県勢要覧(平成20年度)]}} - 234ページ</ref> |- |2008年(平成20年) |11,338<!--4,138,498÷365--> |4,652 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 神奈川県県勢要覧(平成21年度)]}} - 244ページ</ref> |- |2009年(平成21年) |11,951<!--3,997,016÷365--> |4,533 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 神奈川県県勢要覧(平成22年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2010年(平成22年) |11,679<!--3,897,823÷365--> |4,417 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 神奈川県県勢要覧(平成23年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2011年(平成23年) |10,129<!--3,707,200÷366--> |4,317 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 神奈川県県勢要覧(平成24年度)]}} - 238ページ</ref> |- |2012年(平成24年) |10,940<!--3,993,221÷365--> |4,637 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 神奈川県県勢要覧(平成25年度)]}} - 240ページ</ref> |- |2013年(平成25年) |11,286<!--4,119,423÷365--> |4,771 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 神奈川県県勢要覧(平成26年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2014年(平成26年) |11,419<!--4,167,938÷365--> |4,859 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成27年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2015年(平成27年) |10,169<!--3,722,012÷366--> |4,357 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://megalodon.jp/ref/2018-0524-2239-06/www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 神奈川県県勢要覧(平成28年度)]}} - 250ページ</ref> |- |2016年(平成28年) |11,263<!--4,110,953÷365--> |4,789 |<ref group="*">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 神奈川県県勢要覧(平成29年度)]}} - 242ページ</ref> |- |2017年(平成29年) |11,507<!--4,200,105÷365--> |4,955 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 神奈川県県勢要覧(平成30年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2018年(平成30年) |11,179<!--4,080,516÷365--> |4,908 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/73942/15_2.pdf 神奈川県県勢要覧(令和元年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2019年(令和元年) |10,580<!--3,872,333÷366--> |4,746 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202015.pdf 神奈川県県勢要覧(令和2年度)]}} - 226ページ</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="#" name="hakone2020">{{Cite web|和書|url=http://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,28440,c,html/28440/20220804-092946.pdf|title=統計はこね(令和3年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2022-08-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220827131434/http://www.town.hakone.kanagawa.jp/index.cfm/11,28440,c,html/28440/20220804-092946.pdf|archivedate=2022-08-27}}</ref>5,996<!--2,188,843÷365--> |2,721 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 神奈川県県勢要覧2021(令和3年度版)]}} - 218ページ</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="#" name="hakone2021">{{Cite web|和書|url=https://www.town.hakone.kanagawa.jp/www/contents/1680137550284/simple/09.pdf|title=統計はこね(令和4年版)9 .交通・運輸・通信 2 .箱根登山鉄道各駅乗降客数|format=|publisher=箱根町|accessdate=2023-07-01|archiveurl=|archivedate=}}</ref>6,927<!--2,528,450÷365--> | | |} == 駅周辺 == 駅前は土産物店・飲食店・旅館が多く存在する。 * [[箱根温泉|箱根湯本温泉]] * [[国道1号]] * [[旧東海道]] * [[早川 (神奈川県)|早川]] * 箱根町役場 * 箱根湯本郵便局 * [[早雲寺]] * 箱根町立郷土資料館 == バス路線 == 国道1号上に[[バス停留所|バス停]]があり、[[伊豆箱根バス]]や[[箱根登山バス]]の[[路線バス]]、旅館送迎バスが発着する。路線バスの停留所には「'''OH51/112'''<!--順については路線図ではなく他駅の例やバス車内表示から判断した-->」のバス停ナンバリングが設定されている。 ; 1番のりば :* [[宮ノ下駅|宮ノ下]]・[[小涌谷駅]]・[[箱根小涌園|小涌園]]・[[元箱根]]経由 [[箱根関|箱根関所跡]]・[[箱根町港|箱根町]]行 - Z路線(伊豆箱根バス)<ref name="izuhakone">[http://www.izuhakone.co.jp/bus_odawara_hakone.pdf 伊豆箱根バス時刻表]</ref> :* 宮ノ下・小涌谷駅・小涌園・元箱根経由 [[箱根園]]行 - U路線(伊豆箱根バス)<ref name="izuhakone"/> :* 宮ノ下・小涌谷駅・小涌園・[[早雲山駅]]入口・[[大涌谷駅|大涌谷]](日中のみ)経由 [[湖尻港|湖尻]]・箱根園行 - J路線(伊豆箱根バス)<ref name="izuhakone"/> ; 2番のりば :* 宮ノ下・小涌谷駅・小涌園経由 [[元箱根港]]・[[箱根町港]]行 - H路線(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan">[https://www.hakone-tozanbus.co.jp/info/station/hakoneyumoto/ のりば案内 箱根湯本駅] - 箱根登山バス</ref> :* 宮ノ下・小涌谷駅経由 [[強羅駅]]行(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan"/> :* [[箱根新道]]・箱根町港経由 急行 元箱根港行 - R路線(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan"/> ; 3番のりば :* 宮ノ下・[[宮城野村|宮城野]]・[[仙石原|仙石]]経由 仙石案内所前・[[桃源台駅|桃源台]]・湖尻行 - T路線(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan"/> :* 宮ノ下・宮城野・仙石・仙石案内所前経由 [[ポーラ美術館]]行 - TP路線(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan"/> :* 宮ノ下・宮城野・仙石経由 [[乙女峠 (神奈川県・静岡県)|乙女峠]]・[[御殿場プレミアム・アウトレット]]・[[御殿場高原時之栖|時之栖 御殿場高原ビール]]行 - L路線(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan"/> ; 4番のりば :* 旧街道経由 上畑宿・元箱根港行 - K路線(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan"/> ; 5番のりば :* [[小田原駅]]行(伊豆箱根バス・箱根登山バス)<ref name="izuhakone"/><ref name="hakone-tozan"/> ; 送迎バスのりば :* ホテルおかだ・ホテル南風荘行 - 湯本旅館送迎バス(A 滝通り線)(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan_ryokan">[https://www.hakone-tozanbus.co.jp/kanko/yumoto/ 箱根湯本温泉旅館送迎シャトルバス] - 箱根登山バス</ref> :* [[伊東園ホテルズ|伊東園ホテル箱根湯本]]・箱根湯本ホテル・豊栄荘・[[小田急リゾーツ|ホテルはつはな]]行 - 湯本旅館送迎バス(B 早雲通り線)(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan_ryokan" /> :* 金乃竹 塔ノ澤経由 箱根湯本駅行 - 湯本旅館送迎バス(C 塔ノ沢線)(箱根登山バス)<ref name="hakone-tozan_ryokan" /> == 隣の駅 == ; 箱根登山鉄道 : [[File:Odakyu_Hakone_StaNo.svg|18px]] 鉄道線(箱根登山電車) :* {{Color|#f64f4f|'''□'''}}特急ロマンスカー[[はこね (列車)|「はこね」「スーパーはこね」「メトロはこね」]]発着駅、「[[モーニングウェイ・ホームウェイ|ホームウェイ]]」終着駅(いずれも入生田方のみ運転)<!--有料特急の停車駅は記載しない--> :: {{Color|#18469d|■}}各駅停車(全列車当駅で乗り換え) ::: [[入生田駅]] (OH 50) - '''箱根湯本駅 (OH 51)''' - [[塔ノ沢駅]] (OH 52) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 神奈川県県勢要覧 {{Reflist|group="*"|20em}} ; 統計はこね {{Reflist|group="#"|20em}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Hakone-Yumoto Station}} * [https://www.hakonenavi.jp/transportation/station/hakone-yumoto/ 箱根湯本] - 箱根ナビ Powered by [[小田急箱根ホールディングス|小田急箱根グループ]] * [https://www.odakyu.jp/station/hakone_yumoto/ 小田急電鉄 箱根湯本駅] {{箱根登山鉄道鉄道線}} {{DEFAULTSORT:はこねゆもと}} [[Category:箱根町の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 は|こねゆもと]] [[Category:箱根登山鉄道の鉄道駅]] [[Category:1919年開業の鉄道駅]]
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東京を舞台とした漫画・アニメ作品一覧
東京を舞台にした漫画・アニメ作品一覧(とうきょうをぶたいにしたまんが・アニメさくひんいちらん)は、東京都(東京、江戸など)を舞台にした漫画・アニメ作品の一覧である。 舞台に関する設定や言及が特に無い場合であっても、明らかな異世界ではない日本の町ならば、東京が基準となっていることも少なくない。 舞台と判断する指針は以下のとおり。 時代の振り分けの基準は、製作時の設定に基く。 過去に製作された未来設定の作品を実際の時間が追い越していても、それは未来作品に属する。同じく、現代設定の作品に登場する西暦などが数十年以上昔となった場合も現代作品のままである。 また、時代設定が現代でなおかつ具体的な年代表現の無い作品の場合、作品発表時に現存しない(一般的に普及していない)テクノロジーが登場する場合は未来作品に属する。 現代作品のみ、便宜上都区部と多摩地域を分けて表示している(どちらであるかについて根拠が見当たらない作品の場合、東京23区[特別区]部の欄に含める)。 アニメに関しての表示の順番は、TV・映画・OVAに限らず発表順としている。 逆に「アニメ化されたことのある漫画の一覧」とも解釈できる(単発放送やOVAを含む)。 アニメ単独作品、漫画があるがアニメの方が先に発表されている作品、漫画以外を原作とするアニメの一覧 以下はアニメ版を元にして制作された漫画 アニメ化されたものは除外
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東京を舞台にした漫画・アニメ作品一覧(とうきょうをぶたいにしたまんが・アニメさくひんいちらん)は、東京都(東京、江戸など)を舞台にした漫画・アニメ作品の一覧である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "舞台に関する設定や言及が特に無い場合であっても、明らかな異世界ではない日本の町ならば、東京が基準となっていることも少なくない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "舞台と判断する指針は以下のとおり。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "時代の振り分けの基準は、製作時の設定に基く。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "過去に製作された未来設定の作品を実際の時間が追い越していても、それは未来作品に属する。同じく、現代設定の作品に登場する西暦などが数十年以上昔となった場合も現代作品のままである。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、時代設定が現代でなおかつ具体的な年代表現の無い作品の場合、作品発表時に現存しない(一般的に普及していない)テクノロジーが登場する場合は未来作品に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現代作品のみ、便宜上都区部と多摩地域を分けて表示している(どちらであるかについて根拠が見当たらない作品の場合、東京23区[特別区]部の欄に含める)。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アニメに関しての表示の順番は、TV・映画・OVAに限らず発表順としている。", "title": null }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "逆に「アニメ化されたことのある漫画の一覧」とも解釈できる(単発放送やOVAを含む)。", "title": "漫画を原作とするアニメ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アニメ単独作品、漫画があるがアニメの方が先に発表されている作品、漫画以外を原作とするアニメの一覧", "title": "その他のアニメ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以下はアニメ版を元にして制作された漫画", "title": "その他のアニメ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アニメ化されたものは除外", "title": "漫画作品" } ]
東京を舞台にした漫画・アニメ作品一覧(とうきょうをぶたいにしたまんが・アニメさくひんいちらん)は、東京都(東京、江戸など)を舞台にした漫画・アニメ作品の一覧である。 舞台に関する設定や言及が特に無い場合であっても、明らかな異世界ではない日本の町ならば、東京が基準となっていることも少なくない。 舞台と判断する指針は以下のとおり。 東京については、東京・都立・都営などの文言、もしくは実在の地名・建造物などが登場することが望ましい。 メインの舞台とはならずとも、メイン・キャラクターが登場するか、ストーリー上、重要な場面での登場の場合。 東京23区[特別区]、多摩・島嶼部のどちらも登場する場合は、ストーリー上、より重要な方。 時代の振り分けの基準は、製作時の設定に基く。 過去に製作された未来設定の作品を実際の時間が追い越していても、それは未来作品に属する。同じく、現代設定の作品に登場する西暦などが数十年以上昔となった場合も現代作品のままである。 また、時代設定が現代でなおかつ具体的な年代表現の無い作品の場合、作品発表時に現存しない(一般的に普及していない)テクノロジーが登場する場合は未来作品に属する。 現代作品のみ、便宜上都区部と多摩地域を分けて表示している(どちらであるかについて根拠が見当たらない作品の場合、東京23区[特別区]部の欄に含める)。 アニメに関しての表示の順番は、TV・映画・OVAに限らず発表順としている。
'''東京を舞台にした漫画・アニメ作品一覧'''(とうきょうをぶたいにしたまんが・アニメさくひんいちらん)は、[[東京都]]([[東京]]、[[江戸]]など)を舞台にした[[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品の一覧である。 舞台に関する設定や言及が特に無い場合であっても、明らかな異世界ではない日本の町ならば、東京が基準となっていることも少なくない。 舞台と判断する指針は以下のとおり。 # 東京については、東京・都立・都営などの文言、もしくは実在の地名・建造物などが登場することが望ましい。 # メインの舞台とはならずとも、メイン・キャラクターが登場するか、ストーリー上、重要な場面での登場の場合。 # 東京23区[特別区]、多摩・島嶼部のどちらも登場する場合は、ストーリー上、より重要な方。 時代の振り分けの基準は、製作時の設定に基く。 過去に製作された未来設定の作品を実際の時間が追い越していても、それは未来作品に属する。同じく、現代設定の作品に登場する[[西暦]]などが数十年以上昔となった場合も現代作品のままである。 また、時代設定が現代でなおかつ具体的な年代表現の無い作品の場合、作品発表時に現存しない(一般的に普及していない)テクノロジーが登場する場合は未来作品に属する。 現代作品のみ、便宜上都区部と多摩地域を分けて表示している(どちらであるかについて根拠が見当たらない作品の場合、東京23区[特別区]部の欄に含める<ref>具体的な自治体名については、大半の作品においては設定が明らかとなっており、証明も容易である。ただし、第三者による考察や現地調査を掲載しているサイトを根拠に自治体名を表記しているケースもある。</ref>)。 アニメに関しての表示の順番は、TV・映画・[[OVA]]に限らず発表順としている<ref>メインタイトルを主軸とし、続編やリメイクは枝として表示する。また、最初に発表された作品にサブタイトルが付く場合は、メインタイトル+シリーズとして主軸に表示し、枝にリストアップする。</ref>。 == 漫画を原作とするアニメ == 逆に「アニメ化されたことのある漫画の一覧」とも解釈できる(単発放送やOVAを含む)。 === 過去 === <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[犬夜叉]] * [[いなかっぺ大将]] * [[うしろの正面だあれ]] - 墨田区 * [[エイトマン]] * [[黄金バット]] * [[おもひでぽろぽろ]] - 主人公・タエ子は、東京生まれの東京育ち。(メイン設定は80年代の山形県が主な舞台だが、主人公の勤務先と、小学5年生当時の回想場面では東京が舞台となる。1991年公開) * [[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]] - 主人公・二郎と菜穂子とが出会う切っ掛けとなる[[関東大震災]]当時、二郎の通う大学が[[本郷 (文京区)|本郷]]にあり、菜穂子の実家が[[上野広小路]]に在ったが、罹災後は[[代々木上原]]に移る。(2013年公開) * [[鬼滅の刃]] - 大正時代 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[銀魂]] - [[江戸末期|幕末]]の[[歌舞伎町|かぶき町]]・江戸(SF)</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> :時代劇調の街並みと、現代〜近未来風の街並みが混在し、奇怪なテクノロジーが浸透しているSFギャグ漫画としてのそれである。 * [[よりぬき銀魂さん]] * [[劇場版 銀魂 新訳紅桜篇]] * 銀魂’ - 第2期 * 金魂’ - 第2期[[延長戦]] * [[劇場版 銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ]] - メイン設定より少し未来の[[歌舞伎町|かぶき町]]が主な舞台。銀時が失踪して5年が経過している。未知の殺人ウイルス“白詛”が蔓延し、殆どの人類は地球外へと脱出して荒廃している。 * 銀魂゜ - 第3期(第1話より、婚姻届に記入した銀時の住所は大江戸新宿かぶき町5丁目11番4号) </div></div> *[[月光仮面]] * [[コクリコ坂から#アニメ映画|コクリコ坂から]] - [[新橋 (東京都港区)|新橋]](文化部部室棟[[カルチエ・ラタン]]存続の為の直談判に、港南学園理事長・徳丸の会社所在地へ、主人公3人が訪れる。メインの舞台は昭和38年の[[横浜市|横浜]]・[[桜木町]]界隈。2011年公開) * [[佐武と市捕物控]] - 江戸時代 * [[さらい屋 五葉]] - 江戸時代、主人公が上京して来る * [[百日紅 (漫画)|百日紅 〜Miss HOKUSAI〜]] - 江戸時代 * [[三丁目の夕日]] (夕焼けの詩)- 戦後の夕日町三丁目(架空の地名) * [[昭和元禄落語心中]] * [[はいからさんが通る]] - 大正時代 * [[墓場鬼太郎 (テレビアニメ)|墓場鬼太郎]] – 主に[[調布市]]。[[京王線]]沿線、都心も登場する。 * [[ムシブギョー#テレビアニメ|ムシブギョー]] - [[享保]]年間の[[江戸]]。(OAは2013年) * [[八百八町表裏 化粧師]] - 江戸時代後期 * [[陽だまりの樹]] - 幕末 *[[ぼくの動物園日記]] = 上野動物園 * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]] - [[明治]]初期 <!--アルファベット・数字--> * [[NINKU -忍空-]] * [[D.Gray-man]] - 19世紀末の江戸 * [[Dororonえん魔くん メ〜ラめら]] - 昭和の[[台東区]][[浅草]]、[[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]] === 現代 === ====東京23区[特別区](に相当する地域)==== <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[ああ播磨灘]] - [[大相撲]]、[[両国国技館]] * [[あしたのジョー]] - [[台東区]][[山谷 (東京都)|山谷]] * [[あずきちゃん]] - [[足立区]]、ほか東京各地 * [[荒川アンダー ザ ブリッジ]] - [[荒川区]]・足立区 ** 荒川アンダー ザ ブリッジ×2 * [[アリスと蔵六]] - [[渋谷区]][[原宿]]([[竹下通り]]) * [[いじわるばあさん]] * [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]] - [[練馬区]] * [[エンジェル・ハート]] - [[新宿区]] * [[炎炎ノ消防隊#テレビアニメ|炎炎ノ消防隊]] - 太陽暦佰九拾八年の東京皇国が舞台。現在と同様、東京23区[特別区]が存在する。本作より約200年前の大災害により大陸レベルで変動した世界。街並みや建造物はレトロな雰囲気だが、文化レベルは現代に近い。 * [[美味しんぼ]] - 銀座、築地その他 * [[桜蘭高校ホスト部]] - [[文京区]] * [[おじゃまんが山田くん]] - 東江戸川三丁目(架空地名)、ただし漫画版では[[大阪市]][[東住吉区]] * [[おぼっちゃまくん]] - [[大田区]][[田園調布]] * [[終わりのセラフ]] - 主人公の所属する組織の本拠地が[[渋谷]]の存在し、吸血鬼との大規模な戦闘が[[新宿]]で勃発する。 * [[カードキャプターさくら]] - 友枝町(架空の地名)。すぐ近くに[[東京タワー]]がある。 * [[会長はメイド様]] * [[がきデカ]] - 練馬区 * [[学園アリス]] - [[皇居]]を凌ぐ面積があるとみられる広大な学園機関を舞台とするが、東京特別区内。 * [[課長島耕作]] - 練馬区[[石神井公園]](原作漫画において東京都内。アニメ化されてはいるが原典との関わりはほとんど無い) * [[かなめも]] - [[千代田区]]、[[御茶ノ水]]地域中心 * [[神様ドォルズ]] - 主人公の通う大学 * [[君のいる町]] - [[成増]]が、主人公・桐島青大が枝葉柚希を追って上京し、姉と同居する街として登場する。また、青大が柚希の姿を求め通い詰める場所として、[[飯田橋]]が登場する。 * [[キャプテン (漫画)|キャプテン]] - 下町にある墨谷二中という設定 * [[究極超人あ〜る]] - 練馬区諌坂町(諌坂町自体は架空の地名だが、[[桜台 (練馬区)|桜台]]と[[羽沢 (練馬区)|羽沢]]の間にある町としている) * [[巨人の星]] - [[読売ジャイアンツ]] * [[金田一少年の事件簿]] * [[キン肉マン]] * [[クレヨンしんちゃん]] - 舞台は[[埼玉県]][[春日部市]]だが、東京の地名も登場する ** [[クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王]] - 新宿。制作当時完成して間もなかった[[東京都庁舎|東京都庁]]が登場 * [[黒子のバスケ]] * [[ユルアニ?#元気!!江古田ちゃん|元気!!江古田ちゃん]] - 練馬区[[江古田駅]]周辺(原作は『[[臨死!!江古田ちゃん]]』) * [[源氏 (漫画)|源氏]] - 主人公が目黒区出身 * [[幻魔大戦 (映画)]] - 新宿区、[[武蔵野市]][[吉祥寺]] * [[恋と嘘]] * [[こっちむいて!みい子]] - [[杉並区]] * [[こどものおもちゃ]] - 松並区(=[[杉並区]])、都庁([[新宿区]])など * [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]] - 主に[[葛飾区]][[亀有]](在住・勤務地として)、台東区[[浅草|浅草地域]](実家など) ** [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE]] ** [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE2 UFO襲来! トルネード大作戦!!]] * [[コボちゃん]] * [[こみっくがーるず#テレビアニメ|こみっくがーるず]] - 第7話で主人公が[[秋葉原]]を訪れた際のセリフ「〝上京〟した時からずっと憧れていたんですよねぇ。」より。 * [[殺し屋1]] - [[新宿区]][[歌舞伎町]] * [[冴えない彼女の育てかた (アニメ)|冴えない彼女の育てかた]] - 新宿区他 * [[魁!!クロマティ高校]] - 東京都立クロマティ高校、東京都シピン区にあるという(当該記事参照) * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]] - [[世田谷区]] * [[呪術廻戦]] * [[侍ジャイアンツ]] - 読売ジャイアンツ * [[さよなら絶望先生 (アニメ)|さよなら絶望先生]] - [[東京府]][[小石川区]](昭和の年号が続く現代日本という設定、文京区[[小石川|小石川地域]]) * [[しあわせソウのオコジョさん]] - 台東区 * [[四月は君の嘘]] - 練馬区 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]] - [[新宿区]]</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * シティーハンター2 * シティーハンター3 * シティーハンター'91 </div></div> * [[邪神ちゃんドロップキック#テレビアニメ|邪神ちゃんドロップキック]] - 千代田区(神田のカレー屋ボンディ、まんてん、喫茶店さぼうる、[[神田まつや]]等多数登場)、<!--登場人物・ぺこらが時給400円のバイト中のセリフ「〝[[東京都]]〟の最低賃金税抜き958円でしょう!」、ゆりねのセリフ「東京は人が多いから」等。-->台東区(秋葉原)、渋谷区 * [[柔道讃歌]] * [[将太の寿司]] - [[世田谷区]] * [[少年アシベ]] - [[目黒区]] * [[女子高生 (漫画)|女子高生 GIRL'S-HIGH]] - 練馬区 * [[じょしらく#テレビアニメ|じょしらく]] - [[上野動物園]](第九席『上野のクマ』で、5人揃って訪れている。) * [[新SOS大東京探検隊]] - 東京([[銀座]])の地下 * [[好きっていいなよ。]] - 主人公が通う学校が、都立東明高等学校。 * [[スカルマン]] - 主人公の勤務する出版社 * [[涼風 (漫画)|涼風]] - 練馬区 * [[すのはら荘の管理人さん#テレビアニメ|すのはら荘の管理人さん]] - 主人公が静岡より上京してすのはら荘へ。 * [[壮太君のアキハバラ奮闘記]] - 千代田区 * [[セキレイ_(漫画)|セキレイ]] * [[それでも町は廻っている]] - 大田区 * [[タイガーマスク]] * [[大東京トイボックス]] - 秋葉原 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[逮捕しちゃうぞ (アニメ)|逮捕しちゃうぞ]] - [[墨田区]]</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * 逮捕しちゃうぞ Special * 逮捕しちゃうぞ SECOND SEASON * 逮捕しちゃうぞ フルスロットル * 逮捕しちゃうぞ the MOVIE </div></div> * [[ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド]] - 東京湾品川沖の埋立地に設置されたヴァンパイアバンド(居住区)が舞台で、作中には居住区外である東京都内の様子も描かれる。 * [[GALS!|超GALS!寿蘭]] - 渋谷区 * [[ちょこッとSister]] - 練馬区[[江古田駅]]周辺 * [[チンプイ]] - [[杉並区]] * [[ツヨシしっかりしなさい]] - 練馬区[[大泉学園町|大泉学園]] * [[つるピカハゲ丸|つるピカハゲ丸くん]] - 練馬区 * [[釣りバカ日誌]] * [[徒然チルドレン]] * [[D・N・ANGEL]] * [[デ・ジ・キャラット]] - 秋葉原 * [[鉄人28号]] * [[テニスの王子様]] - [[有明コロシアム]] * [[電影少女]](恋編) - 下北沢、渋谷 * [[天才バカボン]] - 新宿区 * [[東京アンダーグラウンド]] - 東京の地下世界 * [[東京喰種]] * [[東京大学物語]](OVA) * [[東京トイボックス]] - 秋葉原 * [[東京ミュウミュウ]] * [[東京BABYLON]] - 池袋、東京タワー * [[東京卍リベンジャーズ]] * [[ど根性ガエル]] - 練馬区[[石神井]] * [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]] - 練馬区あるいは田無市 * [[内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎]] - 永田町 * [[ナイン (漫画)|ナイン]] - 練馬区 * [[謎の彼女X#テレビアニメ|謎の彼女X]] - 主人公の通う学校名が“都立風見台高等学校”(放送は2012年) * [[忍者ハットリくん]] ** [[忍者ハットリくん+パーマン 忍者怪獣ジッポウVSミラクル卵]] - 新宿区 * [[のだめカンタービレ]] - 練馬区 * [[のたり松太郎]] - 大相撲、蔵前、両国 * [[のんのんびより]] - 渋谷区、葛飾区・高橋商店(駄菓子屋) * [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!|爆走兄弟レッツ&ゴー!!]] * [[バクマン]] - [[集英社]] * [[バケツでごはん]] * [[はじめの一歩]] * [[花のあすか組!]] * [[パーツのぱ]] - 秋葉原 * [[バーテンダー (漫画)|バーテンダー]] - [[銀座]] * [[ハートカクテル]] * [[ぱにぽに#アニメ版「ぱにぽにだっしゅ!」|ぱにぽにだっしゅ!]] - 作中に[[大田区]]と表示あり * [[ハヤテのごとく! (アニメ)|ハヤテのごとく!]] - 練馬区・新宿区・中野区・杉並区 ** ハヤテのごとく!! - 第2期(第2期は末尾の"!"が二つ) * [[バンパイヤ]] - 練馬区[[富士見台 (練馬区)|富士見台]]・虫プロが舞台 * [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]シリーズ - 港区[[麻布|麻布地域]]、麻布十番商店街や[[一の橋公園]]など(アニメ版ではそれぞれ十番町商店街、十番公園)。 * [[風夏#テレビアニメ|風夏]] - [[板橋区]][[成増]] * [[ブラックジャック]] * [[真夜中のオカルト公務員#テレビアニメ|真夜中のオカルト公務員]] - [[新宿御苑]]を中心に、[[新宿区]]内全域。 * [[満月をさがして|満月(フルムーン)をさがして]] - [[新宿]]など * [[プレイボール (漫画)|プレイボール]] * [[ブレンド・S#テレビアニメ|ブレンド・S]] - 主人公・桜ノ宮 苺香の自宅から下り方面へ[[秋葉原駅|秋葉原]]が隣り駅。 * [[ぼっち・ざ・ろっく!]] - 世田谷区 * [[魔法騎士レイアース]] - [[東京タワー]]が物語起点となった。 * [[魔法遣いに大切なこと]] - 世田谷区[[下北沢]] ** [[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]] - 世田谷区[[下北沢]](ストーリー・キャラクター・キャストが一新されている。) * [[まほらば]] - [[港区 (東京都)|港区]] * [[まんがーる!#テレビアニメ|まんがーる!]] - [[秋葉原]](編集部全員で書店へ挨拶回りをした。) * [[ミラクルジャイアンツ童夢くん]](東京ドーム/文京区) * [[名探偵コナン]] - アニメ映画では米花市(架空の地名)が存在。市ではあるが、"東都"環状線や東都タワー、米花港などがあることから、地域柄としては都区部に相当か。原作では東京都米花区米花町。 * [[もーれつア太郎]] - 東京下町 * [[もやしもん]] - 世田谷区 * [[焼きたて!!ジャぱん]] * [[夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜]] - 世田谷区[[桜新町]] ** [[夜桜四重奏 〜ホシノウミ〜#OAD|夜桜四重奏 〜ホシノウミ〜]] - [[OVA|OAD]] ** [[夜桜四重奏 〜ツキニナク〜#OAD|夜桜四重奏 〜ツキニナク〜]] - OAD ** [[夜桜四重奏 〜ハナノウタ〜#テレビアニメ|夜桜四重奏 〜ハナノウタ〜]] - 舞台は変わらないが、『[[夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜]]』の続編では無くリメイク。 * [[ラブひな]] - [[東京大学]]周辺、他[[山形県]]など日本各地にモデルとなった場所がある * [[ラブライブ!シリーズ]] ** [[ラブライブ! (テレビアニメ)|ラブライブ!]] - 秋葉原・神田・神保町 ** [[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]] - お台場・有明 ** [[ラブライブ!スーパースター!!]] - 表参道・原宿・青山、ライバルユニットは[[神津島]]出身 * [[らんま1/2]] - 練馬区 * [[ラーメン大好き小泉さん#テレビアニメ|ラーメン大好き小泉さん]] - 都内各地の実在の[[ラーメン]]店 * [[リコリス・リコイル]] - [[墨田区]] [[錦糸町]] * [[ルパン三世]]シリーズ ** [[ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜]] - TVSPシリーズ第10作。お台場をモデルとした地域に、架空のテーマパーク「アクアポリス」がオープン ** [[ルパン三世 GREEN vs RED]] - [[東日本旅客鉄道|JR]][[中野駅 (東京都)|中野駅]]・[[中野サンプラザ]]・[[東京拘置所]](OVA第3作) ** [[ルパン三世 血の刻印 〜永遠のMermaid〜]] - TVSPシリーズ第22作。「炎の記憶」と同様に、お台場フジテレビなどが登場した * [[ろくでなしBLUES]] - 吉祥寺 * [[湾岸ミッドナイト]] - [[首都高速道路]] * [[BanG Dream! (アニメ)|BanG Dream!]] - 登場人物(特に主人公の戸山香澄)の生活圏が[[都電荒川線]]沿線。 <!--アルファベット・数字--> * [[ブラック・ラグーン#テレビアニメ|BLACK LAGOON The Second Barrage]] - [[六本木]]と[[歌舞伎町]]が、日本の[[ヤクザ]]とホテルモスクワの会合と抗争の場としてそれぞれ登場する。 * [[BLUE SEED]] - 舞台のひとつとして * [[Citrus (漫画)#テレビアニメ|citrus]] - 主人公・藍原柚子と芽衣の姉妹の自宅が[[豊洲]]。 * [[Compiler]] - 練馬区 **([[アセンブラ0X]] - 漫画における続編) * [[DEATH NOTE (アニメ)|DEATH NOTE]] * [[GANTZ]] * [[GetBackers-奪還屋-]] - [[新宿区]](裏新宿というスラム街として) *[[GS美神大作戦]] * [[H2 (漫画)|H2]] - 練馬区 * [[LOVELESS_(高河ゆんの漫画)|LOVELESS]] - 架空の夜野城南小学校だが、東京特別区内の郊外部である(キャラクターの発言より) * [[NEW GAME! (アニメ)|NEW GAME!]] - 主な舞台となる主人公の務めるゲーム制作会社の所在地が[[阿佐ヶ谷]]。 * [[SKET DANCE]] * [[TOKYO TRIBE2]] - 漫画「[[TOKYO TRIBE]]」の続編である「(同)2」を原作とするテレビアニメ。架空の町"トーキョー"を舞台とする。漫画はその後「[[TOKYO TRIBE3|(同)3]]」へと続いている。 * [[X (漫画)|X(エックス)]] * [[YAIBA]] * [[3月のライオン#テレビアニメ|3月のライオン]] - [[将棋会館]]([[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]) ** 3月のライオン - 第2期 * [[3×3 EYES]] - [[新宿]] ====多摩・島嶼部(に相当する地域)==== <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[あたしンち]] - [[西東京市]]、特に田無地域 * [[甘々と稲妻#テレビアニメ|甘々と稲妻]] - [[武蔵境]]。犬塚親子が料理を作る小料理屋(飯田小鳥の住居)が[[すきっぷ通り商店街]]に在る。 * [[一週間フレンズ。]] - [[多摩市]][[聖蹟桜ヶ丘]] * [[おちこぼれフルーツタルト]] - [[小金井市]] * [[かしまし 〜ガール・ミーツ・ガール〜]] - 鹿縞市(架空の地名だが東京都内) * [[課長王子]] - [[町田市]] * [[クロスゲーム]] * [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第6シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]] - 第6期。[[調布市]]が登場する。 * [[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]] - [[西東京市]]をモデルにした「奥東京市」という架空の市が舞台 * [[げんしけん]] - [[中央大学]]([[八王子市]]) * [[女子高生の無駄づかい]] - [[東村山市]]、[[西武多摩湖線]][[八坂駅 (東京都)|八坂駅]]周辺。[[東京都立東村山中央公園]]内各所や[[東京都立東村山西高等学校]]と思しき描写が多々登場する。 * [[シャーマンキング]] - 原作において、[[ひばりが丘 (東京都)|ひばりヶ丘]]をモデルとした「ふんばりヶ丘」という地名が登場 * [[GTO (漫画)|GTO]] - 吉祥寺 * [[たくのみ。#テレビアニメ|たくのみ。]] - 主人公・天月みちるが転職の為、[[岡山県]]より[[上京]]して来た。住居である[[シェアハウス]]は[[JR]][[中央線快速|中央線]]沿線の23区外と推定される。 * [[タッチ (漫画)|タッチ]] * [[電影少女]](あい編) - [[三鷹市]]、[[武蔵野市]]([[吉祥寺]])、渋谷区 * [[ちはやふる]] - [[府中市 (東京都)|府中市]]、[[分倍河原駅]]([[京王線]]沿線) * [[ヒカルの碁]] - 吉祥寺 * [[ひなこのーと]] - 主人公の下宿先の住所が〒180-3003東京都東武蔵野市〝古祥寺〟1-7-5。 * [[姫ちゃんのリボン]] - 風立市( = [[国立市]])、風立駅( = 高架化前の[[旧国立駅舎]])、風立中央公園( = [[国営昭和記念公園|昭和記念公園]]) * [[干物妹!うまるちゃん]] - [[八王子市]] * [[干物妹!うまるちゃんR]] - [[八王子市]] * [[フリージング (漫画)|フリージング]] - [[立川市]]、[[立川駅]]前近辺(ウェストゼネティックス)、学園の最寄り駅として[[多摩都市モノレール線]](駅名は架空のもの)が登場。[[東京湾|東京湾岸]]エリア(イーストゼネティックス)。 * [[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]] ** [[フルーツバスケット (漫画)#2019年版|フルーツバスケット]](2019年版) - 1st season。主人公・本田 透を始め、主要キャラクターが通う高校名が〝都立海原高校〟。 * [[魔人探偵脳噛ネウロ]] - 原作において「東西京市(ひがしさいきょうし)」という地名が登場 * [[まちカドまぞく]] - 聖蹟桜ヶ丘、唐木田(多摩市) * [[耳をすませば]] - [[多摩市]][[関戸 (多摩市)|聖蹟桜ヶ丘]] * [[めぞん一刻 (アニメ)|めぞん一刻]] - [[東久留米市]] * [[ヤマノススメ (アニメ)|ヤマノススメ]] - [[高尾山]] * [[私に天使が舞い降りた!]] - 聖蹟桜ヶ丘 <!--アルファベット・数字--> * [[Aチャンネル]] - 葵ヶ丘(主人公の住む街。架空の存在だが、第11話において、同名の高校を受験するユー子の台詞「東京怖いゎ〜!」より)モデルは[[国立市]]、府中市。さらに[[府中駅 (東京都)|府中駅]]も登場する。 * [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]] - 空座町(架空の地名)、東京のどこかにある町。アニメ版では[[神奈川県]][[藤沢市]]の位置に存在しているが、2006年の劇場版では[[八王子市]][[南大沢]]の町並みが登場する(複数のサイトに情報あり)。 * [[GIANT KILLING]] - 台東区浅草 * [[NANA]] - [[調布市]]、[[京王線]]沿線 * [[SHIROBAKO]] - [[武蔵野市]] <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[To LOVEる -とらぶる-]]</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * To LOVEる -とらぶる- OVA * もっとTo LOVEる -とらぶる- </div></div> === 未来 === <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[ウィッチブレイド (アニメ)|ウィッチブレイド]] * [[エア・ギア]] * [[江戸っ子ボーイ がってん太助]] - 「大江戸シティ」が舞台 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[機動警察パトレイバー]]シリーズ - 1988年を機転とした近未来、1998年 - 2002年</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * 初期OVAシリーズ * [[機動警察パトレイバー the Movie]] * TVシリーズ * 後期OVAシリーズ * [[機動警察パトレイバー 2 the Movie]] * [[WXIII 機動警察パトレイバー]] * [[ミニパト]] - 第1話『吼えろリボルバーカノン!』/第2話『あゝ栄光の98式AV!』/第3話『特車二課の秘密!』([[WXIII 機動警察パトレイバー]]と、週代わりで1話ずつ同時上映された[[スピンオフ]]短編作品) * [[機動警察パトレイバー#機動警察パトレイバーREBOOT|機動警察パトレイバーREBOOT]] - 登場人物・キャストを刷新した10分の完全新作。舞台に[[谷中ぎんざ]]や[[日暮里]]が登場する。([[日本アニメ(ーター)見本市#2016年|『劇場上映 ゴーゴー日本アニメ(ーター)見本市 EXTRA』]]内で上映。2016年公開。) </div></div> * [[ゴクウ]] * [[サイレントメビウス]] - 劇場版 ** [[サイレントメビウス#劇場アニメ|サイレントメビウス2]] - 劇場版第2弾 ** [[サイレントメビウス#テレビアニメ|サイレントメビウス]] - TVシリーズ * [[新竹取物語 1000年女王]] * [[素敵探偵☆ラビリンス]] - 東京は首都機能を失っている * [[鉄腕アトム]] - [[高田馬場]] * [[はいぱーぽりす]] <!--アルファベット・数字--> * [[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]] - 2019年のネオ東京([[東京湾]]上) * [[NieA_7]] - 荏の花地区(架空の地名) * [[21エモン]] * [[COPPELION]] - 原子力事故で死の街となった東京が舞台。多摩地区から都心へ舞台が移動する。 == その他のアニメ == アニメ単独作品、漫画があるがアニメの方が先に発表されている作品、漫画以外を原作とするアニメの一覧 === 過去 === <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[アキバ冥途戦争]] - 1985~2018年の[[秋葉原]]を舞台とするメイド抗争劇 * [[うみねこのなく頃に]] - 1986年、六軒島([[新島村]]の[[式根島]])なお、作中に登場する洋館の外観および内装は、[[駒場公園 (目黒区)|旧前田家本邸]]、[[旧岩崎邸庭園]]、[[旧古河庭園]]、[[山手イタリア山庭園]]など、多数のモデルが東京・横浜を中心に点在する。 : 前作である「[[ひぐらしのなく頃に]]」のメインの舞台は[[雛見沢村]](=[[白川郷]])であるが、作中に登場する[[鹿骨市]]内の興宮、谷河内といった地名は、東京都江戸川区内の実在の地名より引用されたものであり、また当地周辺の実在の施設が原作ゲームの背景に使用されている。 * [[大江戸ロケット]] - [[天保]]13年、ただし携帯電話などが登場する[[サイエンス・フィクション|SF]] *[[ガラスのうさぎ]] - 戦中 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[サクラ大戦シリーズ]]</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * [[サクラ大戦 桜華絢爛]] * [[サクラ大戦 轟華絢爛]] * [[サクラ大戦 (テレビアニメ)|サクラ大戦TV]] * [[サクラ大戦 活動写真]] * [[サクラ大戦 神崎すみれ 引退記念 す・み・れ]] </div></div> * さようならカバくん * [[思春期美少女合体ロボ ジーマイン|思春期美少女合体ロボ ジーマイン(OVA)]] - 1976年の浅草 * [[世紀末オカルト学院]] - 前学長・神代純一郎の、身の安全を確保する為、教頭・川島千尋の魔術により空間転送された先が[[墨田区]]。また、純一郎率いるレジスタンス組織が、2012年から内田文明を送り込んだアジトが[[台東区]][[浅草]]の[[伝法院]]通り沿い。<!--(主な舞台は1999年7月の[[長野県]][[長野市]][[松代町 (長野県)|松代]]及び、[[皆神山]][[山頂]]の学院だが、OAは2010年7月 - 9月)--> * [[天保異聞 妖奇士]] - 天保14年 * [[人狼 JIN-ROH]] - 戦後数十年 * [[大正野球娘。]] - 大正14年 * [[テレビまんが 昭和物語]] - 昭和39年の[[大田区]][[蒲田]] ** [[テレビまんが 昭和物語#劇場版|テレビまんが 昭和物語 劇場版]] * [[ねぎぼうずのあさたろう]] <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[まんが日本昔ばなし]]</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * アズバタの木 - 八丈島 * 石の下のちゃわん * いたずら狐 - 小石川 * 馬の毛をぬくカッパ - 今戸 * お石さま - 八王子 * おいてけ堀 * おかま風 - 小平市 * おけ屋とお地蔵さま - 杉並区 * かせぎめ - 八丈島 * キツネの恩返し - 中野区 * けちんぼ六さん - 下頭橋 * 乞食のくれた手ぬぐい * さかな売りときつね - 江戸川区 * 佐吉舟 - 八丈島 * サルと池 * しばられ地蔵 * せいずのたいら - 八丈島 * 大工とねこ - 神田 * テンジと山番 - 八丈島 * 出井の泉 - 板橋区 * とうふ地蔵 - 小石川 * 徳利亀屋 - 麹町、八王子 * なんじゃもんじゃの木 * 虹の渡し舟 - 多摩川 * ぼたもちとだいこん - 小平 </div></div> * [[明治東亰恋伽]] * [[落語天女おゆい]] - 江戸末期 <!--アルファベット・数字--> * [[BRIGADOON まりんとメラン]] - 1970年代の[[文京区]]根津近辺をモデルとする異世界 === 現在 === ====東京23区[特別区](に相当する地域)==== <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[アイドル事変#テレビアニメ|アイドル事変]] - [[国会議事堂]] * [[アイドル天使ようこそようこ]] - 渋谷区 * [[アイドルマスター シンデレラガールズ (アニメ)|アイドルマスター シンデレラガールズ]] - 主に[[渋谷区]]を舞台としている。 * [[アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者#テレビアニメ|アウトブレイク・カンパニー 萌える侵略者]] - 主人公・加納 慎一の住居の最寄り駅が[[JR]]中央・総武緩行線[[東中野駅]]で、学校での教材を自ら仕入れる為に神聖エルダント帝国から一時帰宅し、そこから密航したミュセルを伴い[[秋葉原]]へと赴く。 * [[あかね色に染まる坂]] - [[大田区]][[田園調布駅]]周辺 * [[アキハバラ電脳組]] - [[秋葉原]] * [[アニメガタリズ#テレビアニメ『アニメガタリズ』|アニメガタリズ]] - 主人公・阿佐ヶ谷 未乃愛が所属する〝アニメ研究部〟の取材に訪れた地元ケーブルテレビ局の住所が〒100-000東京都千代田区さかな内1-1-1 さかなタワーA(さかなケーブルテレビ株式会社)。 * [[犬とハサミは使いよう#テレビアニメ|犬とハサミは使いよう]] - 主人公・春海和人が殺され、且つ、夏野霧姫(秋山忍)と出合った喫茶店の所在地が東京都葛川区。 * [[えとたま]] - 秋葉原 * [[おジャ魔女どれみ]]シリーズ * [[おでんくん]] - [[東京タワー]]下(おそらく[[芝公園]]と思われる) * [[お伽草子 (アニメ)|お伽草子]]東京編 * [[お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ#テレビアニメ|お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ]] - [[主人公]]の住まう[[寮]]が、[[山手線]]内の駅と同名異字の[[地名]]。 * [[おねがいマイメロディ]] * [[俺の妹がこんなに可愛いわけがない (アニメ)|俺の妹がこんなに可愛いわけがない]] - [[秋葉原]]([[主人公]]が[[ゲーム]]等を購入したり、[[イベント]]に参加、また、友人と会う場所。UR[[秋葉原駅]]と表示されている) ** 俺の妹がこんなに可愛いわけがない。 - 第2期 * [[練馬大根ブラザーズ|おろしたてミュージカル 練馬大根ブラザーズ]] - 練馬区 * [[カーズ2]] - アメリカ映画であるがパリやロンドンと共に舞台の一つとして登場 * [[紙兎ロペ]] - 葛飾区 * [[カラフル (2010年の映画)|カラフル]] - [[世田谷区]][[等々力駅]]・[[二子玉川駅]] * [[君の名は。]] - 新宿区[[若葉 (新宿区)|若葉]](もうひとつのメインの舞台として、[[岐阜県]]糸守町=[[飛騨市]]) * [[ぐらP&ろで夫]] * [[ゴーゴー五つ子ら・ん・ど]] - [[戸越銀座]]([[品川区]]) * [[ゴールデンタイム (小説)#テレビアニメ|ゴールデンタイム]] - 主な舞台が主人公・多田万里の通う私立福来大学がある[[市谷]]近辺。加賀香子の住まいは[[白金 (東京都港区)|港区白金]] * [[悪霊シリーズ#テレビアニメ|ゴーストハント]](渋谷/主人公の事務所) * [[恋と選挙とチョコレート]] - ([[江東区]])登場人物の名字の多くが江東区の地名からとっている。 * [[コゼットの肖像]] - [[杉並区]][[阿佐谷|阿佐ヶ谷]]パールセンター * [[言の葉の庭]] - [[新宿御苑]] * [[この中に1人、妹がいる!]] - [[東京都]][[世田谷区|世田谷]]市深森台2-1-3 深森ハイツ201(主人公・帝野将悟の住むアパートの住所) * [[古墳GALのコフィー]] * [[コンビニカレシ]] - 最終話にて、ヒロイン・真四季みはるの母親のセリフ「みはる、[[東京]]を離れて転院するの。」で判明。 * [[天地無用!#天地無用!(テレビアニメ版)|新・天地無用!]] ** [[劇場版 天地無用! in LOVE2 遙かなる想い|天地無用! in LOVE2 遙かなる想い]] - [[台東区]][[根岸_(台東区)|根岸]]。 * [[ザ・ウルトラマン]] * [[さくら荘のペットな彼女#テレビアニメ|さくら荘のペットな彼女]] - 主人公の住む学生寮・水明芸術大学附属高等学校さくら荘の所在地([[東京都]]水明市さくら台3-10-11) * [[残響のテロル]] - [[新宿]]の[[都庁]]、[[桜田門]]の[[警視庁]]を始めとして、[[六本木]]、[[宮下公園]]、[[羽田空港]]、[[葛西臨海公園]]、[[東京タワー]]等、都内各所。 * [[すずめの戸締まり]] * [[正解するカド]] - カドが初めて出現したのが[[東京国際空港|羽田空港]]。 * [[戦国コレクション]] - それぞれの戦国武将が飛ばされ、生活や活動している場所に、[[高円寺]]や[[新宿]]が登場する。 * [[ぜんまいざむらい]] * [[閃乱カグラ -少女達の真影-#テレビアニメ|閃乱カグラ]] - 主人公が通う学校が[[浅草]]にある。 * [[それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ]] - [[足立区]]綾瀬 * [[多田くんは恋をしない]] * [[デジモンアドベンチャー]]シリーズ - [[お台場]]、[[光が丘 (練馬区)|光が丘]] * [[デジモンテイマーズ]] - 新宿区 * [[出ましたっ!パワパフガールズZ]] - 「東京CITY」が舞台 * [[デュラララ!!]] - [[豊島区]][[池袋]] * [[テレビ野郎 ナナーナ]] * [[天気の子]] * [[東京ゴッドファーザーズ]] - 新宿区 * [[東京マーブルチョコレート]] - 港区[[芝公園]]、[[墨田区]][[押上]] * [[東京マグニチュード8.0]] - 港区[[お台場|台場]]および[[麻布]]、[[目黒区]]、[[渋谷区]]、世田谷区[[三軒茶屋]]および[[成城学園]] * [[東京レイヴンズ]] - 都内各所 * [[電脳戦士土管君]] <!--* [[時季は巡る~TOKYO STATION~]] - [[東京駅]]--> * [[ドラゴンクライシス!]] - 新東京汎用電波塔(架空の電波塔)・[[東京国際空港|羽田空港]] * [[ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて]] * [[夏色キセキ]] - 第11・12話で4人がアイドルデビューのオーディションを受けに行く[[東京スカイツリー]](第9話では、紗季の引越し先の離島・[[八丈島]]が舞台となる) * [[野良スコ]] - 葛飾 * [[はたらく魔王さま! (アニメ)|はたらく魔王さま!]] - [[笹塚]]、[[幡ヶ谷]]([[異世界]]“エンテ・イスラ”より撤退して来た[[魔王]][[サタン]]が辿り着き、[[活動]]圏内としている)、[[永福町]]([[魔王]]を追って来た勇者が同様にして住む町) * [[緋弾のアリア]] - 新宿など * [[秘密結社鷹の爪]] * [[ひもてはうす]] - 中野 * [[秒速5センチメートル]] - [[新宿区]]、[[世田谷区]] * [[双恋|フタコイ オルタナティブ]] - 二子魂川市(世田谷区[[二子玉川駅]]周辺がモデル) * [[プリキュアシリーズ]] ** [[ふたりはプリキュア]] - 小泉学園(練馬区[[大泉学園町]]がモデル) ** [[ハピネスチャージプリキュア!]] - 練馬区(地名は光が丘がモデルの「ぴかりが丘」) ** [[映画 ヒーリングっど♥プリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!]] - 東京駅前、渋谷駅周辺、原宿、国立競技場、お台場ほか * [[魔法戦争]] - 現実世界と崩壊世界に二分された東京。 * [[魔法使いTai!]] - 都立北野橋高校(架空)。杉並区(作中に荻窪駅が登場し、制作当時の西荻窪駅周辺と似た景観も描かれている[http://moeba.chu.jp/kikaku/moetown/kitanohashi.html])。本作はOVAが先にあり、後に続編のテレビアニメが制作された。 * [[まよチキ!]] - [[杉並区]][[荻窪駅]][[上荻]] * [[鎧伝サムライトルーパー]] - [[新宿]] * [[リコリス・リコイル]] - 墨田区 * [[リルリルフェアリル]] - 浅草などが登場している。 * [[ワンワンセレプー それゆけ!徹之進]] - [[六本木ヒルズ]]をモデルにした八本木ヒルズが舞台。 <!--アルファベット・数字--> * [[AKIBA'S TRIP -THE ANIMATION-]] - 主人公・伝木凱 タモツの[[秋葉原]]での住所が〒01-00000東京都台東区秋葉原000-01となっている。 * [[BLOOD-C#劇場版|劇場版BLOOD-C The Last Dark]] * [[CHAOS;HEAD]] - [[渋谷]] * [[ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり#テレビアニメ|GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり]] - 突如[[銀座]]に[[異世界]]へと通ずる〝門〟(ゲート)が開き、物語の発端の地となる。 * [[Infini-T Force]] - [[渋谷スクランブル交差点]]が物語の始まりの場所。 * [[STEINS;GATE]] - [[秋葉原]] * [[DARKER THAN BLACK -黒の契約者-]] * [[DEVIL SURVIVOR 2 the ANIMATION#テレビアニメ|DEVIL SURVIVOR 2 the ANIMATION]] - [[渋谷]]、[[新橋 (東京都港区)|新橋]](主人公が謎の災害に遭遇する) * [[KEY THE METAL IDOL]] * [[RDG レッドデータガール#テレビアニメ|RDG レッドデータガール]] - [[新宿]]・[[都庁]]舎、[[中野 (中野区)|中野]](主人公が修学旅行で訪れ、母親と待ち合わせした場所と、その際に立ち寄った母親の住居。) * [[Re:CREATORS]] - [[サンシャイン60]]、[[大江戸温泉物語]]など。 * [[THE IDOLM@STER (アニメ)|THE IDOLM@STER (アイドルマスター)]] - [[大田区]]など。 * [[UG☆アルティメットガール]] - [[中野区]] * [[URAHARA]] - [[原宿]]近辺。 ====多摩・島嶼部(に相当する地域)==== <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[ウマ娘 プリティーダービー]] - 東京競馬場、大井競馬場 * [[おそ松さん]] - 赤塚区(架空)。東京競馬場、井の頭公園が登場する。 * [[俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる]] - [[八王子市]]、[[府中市 (東京都)|府中市]]、[[田無市]]、[[西東京市]]、[[杉並区]] * [[ビビッドレッド・オペレーション]] - [[伊豆大島]]をモデルとした島が登場する。 * [[ガッチャマン クラウズ]] - [[立川市]]の[[JR]][[立川駅]]や[[多摩都市モノレール]]の[[立川北駅]]、立川市役所等が登場する。(ガッチャマン達の生活圏であり、クライマックスの主戦場となる。) * [[河童のクゥと夏休み]] - 原作([[児童文学]])では「ヒガシタチバナ市」という架空の都市だが、アニメは[[東久留米市]]に設定された。 * [[聖☆おにいさん]] - [[立川市]] * [[そにアニ -SUPER SONICO THE ANIMATION-]] - 主人公[[すーぱーそに子]]が所属するバンドが定期演奏会を開く店・すーぱーのう゛ァは[[吉祥寺]]に在る。 * [[魔法の天使クリィミーマミ]] - 国立市くりみヶ丘(くりみヶ丘は架空の地名)。ほか、府中市、千代田区、新宿区など東京各地の施設をモデルとしたものが登場。 * [[とある魔術の禁書目録 (アニメ)|とある魔術の禁書目録]] - 東京都西部地域・立川市、多摩市など * [[とある科学の超電磁砲 (アニメ)|とある科学の超電磁砲]] -(同上) * [[とある科学の一方通行]] -(同上) * [[となりのトトロ]] * [[パパのいうことを聞きなさい!]] - 作中に[[多摩都市モノレール]]が登場、[[八王子市]] * [[南海奇皇]] - 武蔵野地域 * [[フルメタル・パニック!]] - [[調布市]] * [[平成狸合戦ぽんぽこ]] - [[多摩市]]、[[多摩ニュータウン]] * [[マリア様がみてる (アニメ)|マリア様がみてる]] - [[武蔵野]]・八王子(アニメ版) * [[世界征服〜謀略のズヴィズダー〜]] - [[立川市]]を通る[[多摩都市モノレール]]、[[ファーレ立川]]付近や[[昭和記念公園]]などが登場する。また、「うどまんじゅう」により[[立川市]]名産の[[うど]]を暗にアピールしている。 <!--アルファベット・数字--> * [[Canvas2|Canvas2 〜虹色のスケッチ〜]] - 作中に多摩都市モノレールが登場、[[立川市]] * [[Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-]]井の頭公園を中心とするエリア * [[SSSS.GRIDMAN]] - 主人公・響 裕太の住所が東京都ネリマ市ツツジ台5-33-7-402(テレビ放送のまま) * [[To Heart]]・[[ToHeart2]] - [[町田市]] *無印は第一期と第二期があり、2はTV放送版のほかOVAが複数タイトル発売されている === 未来 === <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[アクセル・ワールド]] - [[杉並区]] (2046年) * [[アクティヴレイド -機動強襲室第八係-]] - 主人公の勤務する[[警察]][[庁舎]]が[[JR]][[中央本線]][[吉祥寺駅]]と直結している。 (2035年) ** - 第2期。第1期で[[新宿]]の都庁舎が破壊された為、[[高尾]]へと移転している。 * [[ウィザード・バリスターズ 弁魔士セシル]] - 主な舞台は[[台東区]]。主人公・須藤 聖知の住所が[[東京都]][[台東区]][[花川戸]]221[[浅草]]ハイム401号で、勤める弁魔士事務所が[[アメヤ横丁]]の高架下。(OA第2話にて違反金納付の督促状が届き、その記載によると平成28年【2016年】4月8日【放送中の台詞では4月1日】に[[台東区]][[浅草]]2-3-6にて交通違反を犯している。) * [[宇宙戦艦ヤマト]]シリーズ - [[2199年]]を描いた第1作『宇宙戦艦ヤマト』及びリメイク作品『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』では、東京は[[遊星爆弾]]によって蒸発し、かつての東京の地下に地下都市が建造されている。また、[[2201年]]以降を描いた『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』以降の作品では、東京の跡地に「メガロポリス」が築かれ、地球連邦の首都となっている。 * [[ガサラキ]] * [[ガンスリンガーストラトス]] - 2大勢力が激突する主戦場が2015年の東京で、[[渋谷]]の[[109]]や[[東京スカイツリー]]が登場する。 * [[ガンパレード・オーケストラ (アニメ)|ガンパレード・オーケストラ]]青の章[[小笠原諸島]][[父島]]([[小笠原村|東京都小笠原村]]) * [[機神大戦ギガンティック・フォーミュラ]] * [[キスダム -ENGAGE planet-]] * [[ギルティクラウン]] - [[お台場]] [[六本木]](2039年、[[ウイルス]]の蔓延により、日本全体が[[GHQ]]の統治下に置かれている。) * [[キャッ党忍伝てやんでえ]] - 「エドロポリス」が舞台だが人類が住む地球とは別の地球 * [[プロジェクト・クオリディア#テレビアニメ|クオリディア・コード]] - [[東京]]・[[千葉市|千葉]]・[[神奈川県|神奈川]]の三都市が共同で、アンノウンと呼ばれる正体不明の敵と戦い[[南関東]]を守っている。主戦場は[[東京湾アクアライン]]や[[海ほたるパーキングエリア]]。 * [[コードギアス 反逆のルルーシュ]] - [[コードギアス 反逆のルルーシュ#キーワード|神聖ブリタニア帝国]]の侵略により、ブリタニア人の[[租界]]となっている。地名としては[[新宿区|シンジュク]][[ゲットー]]など ** コードギアス 反逆のルルーシュR2 - 第2期 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align:left;">[[新世紀エヴァンゲリオン]] - 正確には[[芦ノ湖]]周辺に存在する「[[第3新東京市]]」(東京都はほとんど水没)。</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * [[新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生]] * [[新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に]] * [[新世紀エヴァンゲリオン|REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に]] * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]] * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]] * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]] 以下はアニメ版を元にして制作された漫画 * [[新世紀エヴァンゲリオン (漫画)|新世紀エヴァンゲリオン]] * [[新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd]] * [[新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画 (漫画)|新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画]] * [[ぷちえゔぁ#ぷちえゔぁ〜EVANGELION@SCHOOL〜|ぷちえゔぁ〜EVANGELION@SCHOOL〜]] </div></div> * [[新世界より (小説)|新世界より]] - [[港区 (東京都)|港区]](悪鬼を倒す為の、[[炭疽菌]]を用いた細菌兵器「サイコ・バスター」を探しに、主人公達が訪れた。[[東京]]は、人間やバケネズミすら住まない不毛の地で、正体不明の[[捕食生物]]が蔓延っている。ほとんどの舞台は、1,000年後の[[茨城県]][[神栖市]])。 * [[人造昆虫カブトボーグ V×V]] - 2010年、[[武蔵野市|武蔵野地区]] * [[ストライク・ザ・ブラッド (アニメ)|ストライク・ザ・ブラッド]] - [[東京]]南方330km沖に浮かぶ[[人工島]]・絃神島が舞台で、全島が魔族特区に指定されている。主人公・暁 古城が通う高校が[[都立]]彩海学園。(年代不明だが人工島の建設技術や管理システム等を勘案して未来へ分類。) * [[すべてがFになる THE PERFECT INSIDER]] - [[名古屋鉄道]]の駅としてJR[[青梅駅]]とその周辺のにゃにゃまがりが登場する。 * [[戦姫絶唱シンフォギア]] - [[東京]]スカイタワー(ガラス張りのビルの様相)。 * [[ソードアート・オンライン]] - 2022年から2026年ごろ、現実世界パートは東京が舞台 * [[図書館戦争]] - 2019年。[[武蔵野市|武蔵野地区]]が主な舞台。 * [[トップをねらえ!]] - 2032年。[[地球帝国]]の帝都となっている。また、地球防衛庁も東京に所在。 * [[ドラゴノーツ -ザ・レゾナンス-]] * [[爆裂天使]] - [[新宿]]・[[池袋]]・[[秋葉原]]等が登場。 * [[ぱすてるメモリーズ#テレビアニメ|ぱすてるメモリーズ]] - 今から少し未来の20XX年のオタクの聖地と呼ばれた〝アキハバラ〟に主人公達が務める店が在り、基本的にはそこが主な舞台。 * [[バブルガムクライシス TOKYO 2040]] * [[ヒプノシスマイク]] - 池袋、新宿、渋谷が登場。 * [[ブラック・ブレット]] - 2031年、謎の寄生生物ガストレアが蔓延る日本。ガストレアを退ける金属バラニウム製のモノリスで囲われ分断された東京エリアが舞台。 * [[フレームアームズ|フレーム・アーム・ガールズ]] - [[多摩都市モノレール]][[立川駅]]・[[オニ公園]]・[[諏訪通り商店街]]など。([[フレームアームズ]]が未来のテクノロジー。) * [[ベクシル 2077日本鎖国]] * [[ベターマン]] - 近未来だが2006年が舞台 * [[輪るピングドラム]] - 杉並区[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]・[[新宿区]][[新宿御苑前駅]]・[[豊島区]][[池袋]]([[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]沿線、地下鉄車輌内の中吊り広告がディスプレイ) * [[未来警察ウラシマン]] - 2050年の「ネオトキオ」が舞台 * [[メガゾーン23]] PART I・II - [[1980年代]]の[[東京都区部|東京特別区]]+α(PART II冒頭では[[吉祥寺]]も登場)が再現されているが、実は[[世代宇宙船]]の中に作られた「東京」。実際の時代は未来であり、少なくとも500年以上先 * [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]](2008年) - ヤッターマンの基地の場所が[[国分寺市]]となっている * [[勇者王ガオガイガー]] - 近未来だが2005年が舞台となっている。[[東京湾]]上に存在する「Gアイランドシティ」が主な舞台 * [[勇者特急マイトガイン]] - 昭和124年の旧東京湾上に存在する「ヌーベルトキオシティ」が主な舞台。[[青戸 (葛飾区)|青戸]]にはロボット工場がある * [[ラーゼフォン]] * [[惑星大怪獣ネガドン]] - 昭和百年の東京が舞台。[[東京都区部]]が全26区に改編されている他、[[東京バベルタワー]]などが実際に建造されている。 <!--アルファベット・数字--> * [[BEATLESS#テレビアニメ|BEATLESS]] - 主人公・遠藤アラトが通う高校が都立桜橋高校。住所が江戸川区松島。(何れもテレビ放送より) * [[C (アニメ)|『C』 THE MONEY OF SOUL AND POSSIBILITY CONTROL]] - [[東京証券取引所]] 限りなく"現在"に近いが[[東京スカイツリー]]が開業している(アニメは2011年放送) * [[Classroom☆Crisis]] - 主人公が所属し主な舞台となる学園を運営する企業の本社所在地が第4[[東京都]]霧科市5番町4-3([[火星]]上の[[コロニー]])。 * [[Master of Torque]] - 2017年、[[国道246号]] * [[PSYCHO-PASS サイコパス]] - 2112年の東京特別区全域。 ** [[PSYCHO-PASS サイコパス|PSYCHO-PASS サイコパス 2]] - 第2期。 * [[RobiHachi]] - 主人公の一人ロビー・ヤージがNEOTOKYO在住で、そこでもう一人の主人公ハッチ・キタと出会い、イセカンダルへと旅立つ。 * [[ROBOTICS;NOTES]] - 2019年、ロボ部存続を賭けて出場した[[ROBO-ONE]]の開催地。(殆どの舞台は[[種子島]]) * [[revisions リヴィジョンズ]] - 2388年に飛ばされた[[渋谷]]が舞台。 * [[Re:ステージ!#テレビアニメ|Re:ステージ!ドリームデイズ♪]] - 主人公・式宮舞菜の通う学校で主な舞台が〝私立稀星学園[[高尾山|高尾]]校中等部〟。未知のテクノロジーのデジタル・ガジェットが登場するので未来が舞台とする。 * [[SPEED GRAPHER]] * [[UN-GO]] - とある[[戦争]]後の[[東京]]([[坂口安吾]]の[[小説]]『[[明治開化 安吾捕物帖]]』、『[[復員殺人事件]]』等を原案とし、設定をアレンジしている。) == 漫画作品 == アニメ化されたものは除外 === 過去 === * [[「坊っちゃん」の時代]] - 明治 * [[大いなる完]] 永田町、戦前、戦中、戦後 * [[ゴールデン・デイズ]] - 大正 *[[国が燃える]] 戦前 * [[首斬り朝]] * [[幻影博覧会]] - 大正 * [[子連れ狼]] * [[サクラ大戦漫画版]] - アニメから漫画化された * [[てとくち]] * Dr NOGUCHI新解釈の野口英世物語 * [[トンキー物語]] - 上野動物園、戦前 * [[日露戦争物語]] - 明治 * [[NY小町]] - 芝 明治 * [[兵馬の旗]] - 幕末 * [[まんが道]] - [[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国]]、[[豊島区]][[椎名町]]など * [[おきらく忍伝ハンゾー]] - 江戸のよ~なところ(江戸時代の東京がモチーフ) === 現在 === ==== 東京23区[特別区](に相当する地域) ==== <!--五十音順(漢字・ひらがな・カタカナ)--> * [[OUT PITCH]] - [[東京ヤクルトスワローズ]] * 赤ずきんチャチャN - 『[[赤ずきんチャチャ]]』の12年越しの新作で、東京が舞台となっている(旧作は異世界の地球) * [[赤ちゃんのホスト]] * [[アキバ署!]] - [[千代田区]] * [[アキハバラ@DEEP]] - 千代田区 * [[秋葉原いちまんちゃんねる]] - 千代田区 * [[アキハバラへようこそ!]] - 千代田区 * [[アイアムアヒーロー]] - [[練馬区]] * [[アクシデンツ]] * [[アクタージュ]] * [[味いちもんめ]] * [[あすなろ白書]] * [[あなたのことはそれほど]] * [[アフロ田中シリーズ]] - 足立区その他 * [[アホーマンス]] * [[アリスと太陽]] * [[いいひと。]] * [[怨み屋本舗]] * [[江戸前の旬]] - 銀座 * エレクトラ 罪深き聖女たち * おかしな二人 - 新宿 * [[主に泣いてます]] - [[墨田区]] * [[俺たちのフィールド]] - 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黄金の夜明け団
黄金の夜明け団(おうごんのよあけだん、英語: Hermetic Order of the Golden Dawn)は、19世紀末のイギリスで創設された西洋魔術結社である。黄金の暁会とも訳され、G.D.と略名される。現代西洋魔術の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋隠秘学組織である。 創設者のウィリアム・ロバート・ウッドマン(英語版)、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザースの三人はフリーメイソンであったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差での区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上、三つの団(オーダー)による階層構造をなしており、第一団の「黄金の夜明け」は一般団員用で基礎教義を学び、第二団の「紅薔薇黄金十字」は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三団は秘密の首領らが在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として黄金の夜明け団と呼ばれる。 黄金の夜明け団の創設は、フリーメイソン系の神秘主義サロンである英国薔薇十字協会(英語版)の会員ウィリアム・ウィン・ウェストコットが、1887年8月に隠秘学分野の知人を通して譲り受けた古書類の中から60枚の暗号文書を発見して興味を覚えたことから始まる。それは筆者不明の魔術結社設立に向けた原案メモであり『ポリグラフィア(英語版)』に由来する換字式暗号で綴られていた。 ウェストコットが主張するところによると、同年9月に全文の復号に成功した彼は、文書の中にドイツ在住のアンナ・シュプレンゲルという人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認したという。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の薔薇十字団の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、秘密の首領と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの薔薇十字系魔術結社 Die goldene Dämmerung (黄金の夜明け)が公認する支部設立の許可を受け取ることになり、同時にその教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人マグレガー・メイザースと年長のウィリアム・ロバート・ウッドマン(英語版)を共同創立者にして、1888年3月1日に神殿(テンプル)と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。 これが黄金の夜明け団の発足であり、ドイツ薔薇十字団の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時にアデプトとなり団体の首領 (ruling chief) となった。英国薔薇十字協会はキリスト教神学の一種であるキリスト教秘儀派(英語版)のサロンであり、在籍者はフリーメイソンに限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。 1888年3月1日に最初の運営施設となる「イシス・ウラニア神殿」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内にサマセット州のウェストン・スーパーメア区に「オシリス神殿」が、ウェストヨークシャー州のブラッドフォード市にも「ホルス神殿」が開設された。さらに主要団員のジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス(英語版)が英国エディンバラに「アメン・ラー神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて仏国パリに移住し、そこで「アハトル神殿」を立ち上げた。またアメリカからの参入者も増えたので1900年までに「トート・ヘルメス神殿」など複数の支部がアメリカに設置された。こちらでは物好きな米国人のための位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたという。 フリーメイソン限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差での区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦やメイソン系機関紙上の広告によって集められ、また大英博物館周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には薔薇十字団の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。 1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、ヴィクトリア朝社会の様々な階層から参加した100名以上のメンバーが在籍していた。並みいる団員の中には女優のフロレンス・ファー(英語版)、アイルランド革命家で女優のモード・ゴン(英語版)、ノーベル賞詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ、小説家のアーサー・マッケンとアルジャノン・ブラックウッド、詩人ウィリアム・シャープ、物理学者ウィリアム・クルックス、オスカー・ワイルド夫人のコンスタンス(英語版)といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。隠秘学方面の人物としては著述家のアーサー・エドワード・ウェイト、魔術師アレイスター・クロウリー、ウェイト版タロットを描いた画家パメラ・コールマン・スミスなどがいた。 1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻のモイナ(英語版)とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットは驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を避けてこれに同調し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが辻馬車内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。 1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の不評を買っていた若きアレイスター・クロウリーのアデプト昇格を拒否し、これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼ったことで新たな波乱が巻き起こった。1900年1月16日にメイザースは自身に反抗的なロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。対立が続く中でパリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、2月16日付けの返信内で秘密の首領シュプレンゲルの書簡はウェストコットの捏造であったと唐突に暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、3月23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。憤激したメイザースは翌4月に愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく警察に通報されて失敗した。 ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能になった。ファーたちはメイザースを支持するエドワード・ウィリアム・ベリッジ(英語版)一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂した。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス(英語版)運営のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。 その後のファー派では、ファーが自身の取り巻き派閥(スフィア・グループ)を作り始めたことを問題視したアニー・ホーニマン(英語版)との諍いが発生したので、その調停のためにウィリアム・バトラー・イェイツが代表に就いた。しかしこの貴婦人同士の深まるばかりの対立劇に手を焼いたイェイツは、匙を投げるようにして1901年に退団した。同年にホロス夫妻(英語版)の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、ファーを始めとする退団者が続出する事になった。社会的体面を重んじるファー派は「暁の星(英語版)」と改称し、ブロディ=イネスとロバート・ウィリアム・フェルキン(英語版)が代表になった。ブロディ=イネスはエディンバラのアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンはロンドンのイシス・ウラニア神殿を運営した。ホーニマンもこの頃に退団した。1903年になると儀式魔術の異教的様式を嫌悪していたアーサー・エドワード・ウェイトがイシス・ウラニア神殿内で派閥工作を始めた。自分たちを独立修正儀礼会と称したウェイトは同神殿の重鎮らの支持を得た上でフェルキンたちに活動内容の修正を求めた。この対立は結局、従来の儀式魔術を指向するフェルキンたち多数派の方が新しく用意された物件に移ることで折り合いが付き、その新施設はアマウン神殿と名付けられて「暁の星」の本部になった。こうしてイシス・ウラニア神殿を掌握したものの権威不足を自覚するウェイトは、パリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓い、その公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。メイザースは公認のみで教義上の関与はしなかった。1906年にメイザースは黄金の夜明け団そのものの幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「A∴O∴(英語版)」に組織再編した。同じ頃、フェルキンの活動方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。 以上の経緯により、黄金の夜明け団は「A∴O∴(英語版)」「暁の星(英語版)」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となったアレイスター・クロウリーは結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「銀の星」を結成した。 1903年からアマウン神殿を率いる立場になったフェルキンは、その活動方針を黄金の夜明け団の源流であるドイツの薔薇十字系魔術結社に求めるべきと考えて自分たちを導いてくれる「秘密の首領」探しに没頭した。しかしこれは完全な迷走につながり、星幽体投射で探し当てた霊的首領の教えは団内を却って混乱させ、また直接のドイツ探訪時にルドルフ・シュタイナーを秘密の首領と誤認して持ち込まれた人智学は団内を更に紛糾させた。1912年にフェルキンはニュージーランドへ移住し現地で「エメラルドの海」神殿を開設すると、混迷するアマウン神殿を残したままイギリスを離れた。1916年に第一次世界大戦下のロンドンに一時帰還してアマウン神殿の内紛状態を確認したフェルキンは、ブリストル市に「ヘルメス・ロッジ」を設立した。過去の反省からフェルキンはアマウン神殿と同じ轍を踏むのを避けるべく、ロンドンから離れた地に黄金の夜明け団の遺産を残すための組織(ロッジ)を置いた。フェルキンの願い通り、ヘルメス・ロッジのメンバーは1930年代半ばまで安定した運営を続け、かのイスラエル・リガルディーに参入の機会を与えた。エメラルドの海神殿は現地に永住したフェルキン家族らによって、こちらでも黄金の夜明け団の遺産を守りつつ1970年代まで存続していた。アマウン神殿は1919年に一時閉鎖状態に陥り、1939年の第二次世界大戦勃発前後に自然消滅した。第一次世界大戦後の社会混乱と世界恐慌に見舞われた大戦間期を通して黄金の夜明け魔術は廃れつつあり、1934年にリガルディーが参入したヘルメス・ロッジでもすでに熱心さは失われていた。ロッジ消滅と共に貴重な知識までもが失われるのを危惧したリガルディーは、黄金の夜明け団の遺産を後世に残すべく独断で持ち出した多数の団内文書を、1938年から書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切った。これは秘匿を旨とする魔術界には激震をもたらしたが、第二次世界大戦の暗雲が迫る社会情勢下ではさほど興味を惹かれる事もなく緩慢に取引される程度に留まっている。黄金の夜明け魔術が復興するにはそれから三十年の時を必要とし、リガルディーの決断はそのための種子になった。 A∴O∴はパリに在るメイザースの指導下で安定した運営が行われていた。英国薔薇十字協会員が構成していたホルスとオシリス両神殿は古巣の方に移行したので、1911年時にはパリ、ロンドン、エディンバラと在アメリカ三神殿を合わせた計六神殿を束ねていた。第一次世界大戦が始まった1914年からロンドンの活動が確認されなくなり、ベリッジに代わってブロディ=イネスがイギリス側代表になった。1918年にメイザースは逝去し、妻モイナが彼の遺産であるA∴O∴を受け継いだ。翌1919年にロンドンに移ったモイナはそこで本部神殿を改めて開設し、エディンバラのブロディ=イネスの協力を得てA∴O∴の運営に従事した。同年からアメリカで更に三神殿が設立された。1928年にモイナは逝去し、女性のアデプトに後事が託されている。A∴O∴では徹底した秘密主義が取られていたので、1900年春の分裂後も変わらずメイザースが編み出し続けていたはずの魔術教義はほとんど後世に伝えられていない。1919年頃に参入し短期間で独立したダイアン・フォーチュンとP・F・ケース(英語版)の双方を通してうかがえるものだけである。1939年の第二次世界大戦勃発後、A∴O∴はその役目を終えるようにして閉鎖され、無数の教義が記された団内文書も「秘密の首領」に捧げる形で全て焼却された。 ウェイトは知識の宝庫としての黄金の夜明け団は評価しながらも儀式魔術の異教的様式を嫌悪しており、英国淑女紳士に適したキリスト教神秘主義様式に修正するべきだと考えていた。しかし同団は元々英国薔薇十字協会の方でキリスト教神秘主義を手掛けていたメイソンたちが、異教的活動も嗜みたいと開いた魔術結社だったのでそれは本末転倒であった。1903年時のイシス・ウラニア神殿はフェルキンとM・W・ブラックデンの共同運営で、前者は教義面を担当し後者は神殿施設の所有権を含む事務面を担当していた。ウェイトの支持者は少数派だったが、肝心のブラックデンがウェイト側に回ったので形勢逆転し、同神殿はウェイトが望む常識的な神秘主義研鑽団体になった。同時に従来の儀式魔術支持者はアマウン神殿の方に移った。しかしウェイトが考案した神秘主義儀礼はやがて不評を買い始め、1914年になると元の儀式魔術を懐かしむ者たちとの間で団内は分裂した。ウェイトは自身の支持者を連れて「薔薇十字友愛会」という新たな団体を立ち上げた。残された者たちは「暁の星」に戻り、その事情を知ったフェルキンの計らいで1916年に設立された「マーリン・ロッジ」に所属して1920年代まで活動した。薔薇十字友愛会はウェイトの下で安定運営され数々の知識人文化人が参入している。第二次世界大戦下の1942年のウェイト逝去と共に解散した。 黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学であるカバラを中心にして、エノク語、エジプト神話学、グリモワール、古典元素、タロット、占星術、ジオマンシー、錬金術、薔薇十字伝説、近代神智学系の思想、タットワを含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。なお、彼ら英国人にとって最も身近な隠秘学であるはずのキリスト教神秘主義は、創設者たちがメイソン系団体の方で手掛けていた事情からあえて避けられており、これは同時に一つの方向性を示す事にもなった。カバラに内包される生命の樹が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。また「埋蔵金発掘や個人的な復讐など俗世の欲に基づく低俗な目的で魔術は使わない」「魔術師は常に知識や技術を習得する事での全能感、己の心と戦い続けながら清廉に生きるべし」という規律を掲げていた。 上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、団体の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。団内ではマグレガー・メイザース考案の教義が最も大きな影響力を持っており、極端に言えば黄金の夜明け魔術とはメイザース思想の体現物と言えた。中でもエノク語を土台にしたエノキアン魔術(英語版)は彼の奥義と言えるものであり、5枚のタブレットに記された合計644の区画からなるエノク文字図表は、前述の生命の樹をも包括した更に高度な万物照応による知識の体系化を実現していた。後にメイザースから離反した団体の者でさえ彼の考案物には一目置き、またある者は彼のブランドを積極的に利用した。 秘儀参入者たちは団内で得た知識を口外せぬよう誓約していたのでその教義内容が公にされることはなかった。しかし第一次世界大戦後の混乱と世界恐慌に見舞われた大戦間期の社会情勢の中で魔術結社の活動も下火になり、それらの解散に伴う知識そのものの喪失を危惧したイスラエル・リガルディーが団内文書を書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切ったことで、黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。この英断または独断は魔術関係者の間で大きな賛否を巻き起こしている。なお、リガルディーは1969年に自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれるという憂き目に合っている。魔術関係者の中にはこれを天罰と見る者もいた。 黄金の夜明け団は儀式魔術を眼目にした団体であり、上述の教義知識はそのセレモニー(魔術儀式)の中で最大活用された。儀式魔術とは、舞台となる密室の設置から室内に細かく配置する大道具小道具の取り揃えおよび参加者それぞれの衣装と台詞と動作の一つ一つに特定の知識を伴うという特別な演劇を媒体にした秘教哲学の体現化芸術であった。儀式魔術の実践は団員の連帯感を高めると同時に、参加者たちの感性と知覚能力に一定の影響を及ぼすと信じられており定期的に履行された。またゆっくり一つ一つ「段差」なく魔術を理解できるように、世界の統一された真理の解明を進めており、自らの手で必要だと感じた奇跡の起こし方を調達するために、精巧なボードゲームを参考にして、永遠に終わりの見えない「工作キット」の開発を目指していた。 また、アストラル投射と称される夢見技法も持てはやされていた。黄金の夜明け団はこの夢見技法をマニュアル化しており、かなりの個人差はあったがそれなりの確率で白昼夢の世界に入り込むことができたようである。アストラル投射の手順とは、特定の象徴物を凝視しながら意識を集中し自分自身がその象徴の中に入り込むように想像力を強く働かせるというものであった。熟達するにつれて始めはむりやり想像していたイメージの実感が徐々に明確になり、ついには立体化した想像空間が意識の集中を離れて自動的に脳内で織りなされるようになる。それがアストラル旅行の出発点となった。スクライング(水晶占い)との違いは、より能動的に幻視された世界を動き回れることである。凝視する象徴物の組み合わせを変えることで、アストラル旅行の内容も様々に変化するという奥深さが多くのアデプトを虜にした。前述の生命の樹を中心にした象徴照応教義はこの時に最大活用された。ただし情緒不安定を誘引するという副作用も指摘されており多用は戒められていた。 インペレーターからセンティネルまでの10人が役割を決めてそれに準じた装束や象徴武器で身を固め、特定の順序で呪文や動作をこなしていく。カバラを下地にして、エジプト神話、ギリシャ神話、タロット、エノクなどを組み合わせ、共通する神の記号や光の象徴を抽出して本質に迫る術式群を備えている。探索者がクリスチャン=ローゼンクロイツの墓所を発見するエピソードにちなんだ儀式が代表格である。蒸気機関などの自然科学が席巻する時代に生まれたこともあり、聖書の記述を鵜呑みにせず、聖書発生以前の古代宗教の変遷を紐解く試みも行い、母体のヘルメス学の影響から、地中海を挟んだ最も身近な異界であるアフリカ大陸に残るエジプト神話に特に着目し、儀式にはエジプト神話の神々の恰好をしていた。 黄金の夜明け団の儀式中に胸に装着されたデザインは、薔薇十字団、カバラ、メイザースによって教えられた色の象徴に基づいた紅い薔薇と黄金の十字架である。薔薇の22枚の花弁はそれぞれ異なる色で、ヘブライ文字の22文字の三母字、七複字、十二単字を表している。そして22本の小径にも対応している。薔薇の花弁の中央には死と霊的な復活を象徴する聖十字架がある。薔薇は十字架の上にあり、熟練者が心の中で金に変身しなければならない要素を象徴している。また五芒星は四元素に加えて本質を表している。 ウェストコットは黄金の夜明け団の位階を制定するに際し、英国薔薇十字協会の位階をほとんどそのまま持ち込んでいる。その最下位に「新参者(ニオファイト)」位階を新設し、最上位に「イプシシムス」を追加した。黄金の夜明け団の初位階である「新参者」とその上の4位階は暗号文書に依拠していたが、その4位階の名称は18世紀ドイツの黄金薔薇十字団(独: Gold- und Rosenkreuzer)のそれと一致していた。英国薔薇十字協会の位階制度も黄金薔薇十字団の模倣であった。魔術結社風のアレンジとして各位階を生命の樹の10のセフィラと22個の小径に対応させ、上昇=下降のペア階段値を付け加えた。「新参者」位階は生命の樹の枠外とした。入団者は「新参者」を出発点とし、それぞれの段階の昇格試験をクリアすることで上の位階へと進んだ。この黄金の夜明け団の位階制度は、後継魔術団体の手本とされて現代に到るまで踏襲され続けている。 11の位階は第一団(外陣)、第二団(内陣)、第三団の三層に分割されており、それぞれ別グループに扱われて個別の団名を持った。黄金の夜明け団は建前上この三層構成とされた。外陣は一般団員用で、火・空気・水・土の四元素を学ぶ。ポータルは外陣と内陣の橋渡し段階であり、アデプト(達人)になる前の準備期間とされた。内陣に進むと晴れてアデプトとして認められた。内陣は幹部団員専用であった。当初は肉体を持ったままの魔術師が到達できるのは「小達人(アデプタス・マイナー)」位階までとされていたが、後継団体を含む後期になると幹部団員の中から特に根拠もなく「大達人(アデプタス・メイジャー)」昇格を宣言する者も現れるようになった。「被免達人(アデプタス・イグゼンプタス)」は創立者専用の名誉位階として用いられることが多い。第三団はほとんど架空の存在であった。 在籍が取り沙汰される人物 鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』 石踏一榮『ハイスクールD×D』 田畠裕基『ブラッククローバー』
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "黄金の夜明け団(おうごんのよあけだん、英語: Hermetic Order of the Golden Dawn)は、19世紀末のイギリスで創設された西洋魔術結社である。黄金の暁会とも訳され、G.D.と略名される。現代西洋魔術の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋隠秘学組織である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "創設者のウィリアム・ロバート・ウッドマン(英語版)、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザースの三人はフリーメイソンであったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差での区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上、三つの団(オーダー)による階層構造をなしており、第一団の「黄金の夜明け」は一般団員用で基礎教義を学び、第二団の「紅薔薇黄金十字」は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三団は秘密の首領らが在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として黄金の夜明け団と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "黄金の夜明け団の創設は、フリーメイソン系の神秘主義サロンである英国薔薇十字協会(英語版)の会員ウィリアム・ウィン・ウェストコットが、1887年8月に隠秘学分野の知人を通して譲り受けた古書類の中から60枚の暗号文書を発見して興味を覚えたことから始まる。それは筆者不明の魔術結社設立に向けた原案メモであり『ポリグラフィア(英語版)』に由来する換字式暗号で綴られていた。", "title": "誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ウェストコットが主張するところによると、同年9月に全文の復号に成功した彼は、文書の中にドイツ在住のアンナ・シュプレンゲルという人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認したという。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の薔薇十字団の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、秘密の首領と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの薔薇十字系魔術結社 Die goldene Dämmerung (黄金の夜明け)が公認する支部設立の許可を受け取ることになり、同時にその教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人マグレガー・メイザースと年長のウィリアム・ロバート・ウッドマン(英語版)を共同創立者にして、1888年3月1日に神殿(テンプル)と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。", "title": "誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これが黄金の夜明け団の発足であり、ドイツ薔薇十字団の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時にアデプトとなり団体の首領 (ruling chief) となった。英国薔薇十字協会はキリスト教神学の一種であるキリスト教秘儀派(英語版)のサロンであり、在籍者はフリーメイソンに限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。", "title": "誕生までの経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1888年3月1日に最初の運営施設となる「イシス・ウラニア神殿」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内にサマセット州のウェストン・スーパーメア区に「オシリス神殿」が、ウェストヨークシャー州のブラッドフォード市にも「ホルス神殿」が開設された。さらに主要団員のジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス(英語版)が英国エディンバラに「アメン・ラー神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて仏国パリに移住し、そこで「アハトル神殿」を立ち上げた。またアメリカからの参入者も増えたので1900年までに「トート・ヘルメス神殿」など複数の支部がアメリカに設置された。こちらでは物好きな米国人のための位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたという。", "title": "神殿の開設" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フリーメイソン限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差での区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦やメイソン系機関紙上の広告によって集められ、また大英博物館周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には薔薇十字団の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。", "title": "神殿の開設" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、ヴィクトリア朝社会の様々な階層から参加した100名以上のメンバーが在籍していた。並みいる団員の中には女優のフロレンス・ファー(英語版)、アイルランド革命家で女優のモード・ゴン(英語版)、ノーベル賞詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ、小説家のアーサー・マッケンとアルジャノン・ブラックウッド、詩人ウィリアム・シャープ、物理学者ウィリアム・クルックス、オスカー・ワイルド夫人のコンスタンス(英語版)といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。隠秘学方面の人物としては著述家のアーサー・エドワード・ウェイト、魔術師アレイスター・クロウリー、ウェイト版タロットを描いた画家パメラ・コールマン・スミスなどがいた。", "title": "隆盛そして軋轢" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻のモイナ(英語版)とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットは驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を避けてこれに同調し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが辻馬車内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。", "title": "隆盛そして軋轢" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の不評を買っていた若きアレイスター・クロウリーのアデプト昇格を拒否し、これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼ったことで新たな波乱が巻き起こった。1900年1月16日にメイザースは自身に反抗的なロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。対立が続く中でパリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、2月16日付けの返信内で秘密の首領シュプレンゲルの書簡はウェストコットの捏造であったと唐突に暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、3月23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。憤激したメイザースは翌4月に愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく警察に通報されて失敗した。", "title": "隆盛そして軋轢" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能になった。ファーたちはメイザースを支持するエドワード・ウィリアム・ベリッジ(英語版)一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂した。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス(英語版)運営のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。", "title": "分裂" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後のファー派では、ファーが自身の取り巻き派閥(スフィア・グループ)を作り始めたことを問題視したアニー・ホーニマン(英語版)との諍いが発生したので、その調停のためにウィリアム・バトラー・イェイツが代表に就いた。しかしこの貴婦人同士の深まるばかりの対立劇に手を焼いたイェイツは、匙を投げるようにして1901年に退団した。同年にホロス夫妻(英語版)の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、ファーを始めとする退団者が続出する事になった。社会的体面を重んじるファー派は「暁の星(英語版)」と改称し、ブロディ=イネスとロバート・ウィリアム・フェルキン(英語版)が代表になった。ブロディ=イネスはエディンバラのアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンはロンドンのイシス・ウラニア神殿を運営した。ホーニマンもこの頃に退団した。1903年になると儀式魔術の異教的様式を嫌悪していたアーサー・エドワード・ウェイトがイシス・ウラニア神殿内で派閥工作を始めた。自分たちを独立修正儀礼会と称したウェイトは同神殿の重鎮らの支持を得た上でフェルキンたちに活動内容の修正を求めた。この対立は結局、従来の儀式魔術を指向するフェルキンたち多数派の方が新しく用意された物件に移ることで折り合いが付き、その新施設はアマウン神殿と名付けられて「暁の星」の本部になった。こうしてイシス・ウラニア神殿を掌握したものの権威不足を自覚するウェイトは、パリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓い、その公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。メイザースは公認のみで教義上の関与はしなかった。1906年にメイザースは黄金の夜明け団そのものの幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「A∴O∴(英語版)」に組織再編した。同じ頃、フェルキンの活動方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。", "title": "分裂" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "以上の経緯により、黄金の夜明け団は「A∴O∴(英語版)」「暁の星(英語版)」「聖黄金の夜明け」といった三つの団体に分裂して、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となったアレイスター・クロウリーは結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「銀の星」を結成した。", "title": "分裂" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1903年からアマウン神殿を率いる立場になったフェルキンは、その活動方針を黄金の夜明け団の源流であるドイツの薔薇十字系魔術結社に求めるべきと考えて自分たちを導いてくれる「秘密の首領」探しに没頭した。しかしこれは完全な迷走につながり、星幽体投射で探し当てた霊的首領の教えは団内を却って混乱させ、また直接のドイツ探訪時にルドルフ・シュタイナーを秘密の首領と誤認して持ち込まれた人智学は団内を更に紛糾させた。1912年にフェルキンはニュージーランドへ移住し現地で「エメラルドの海」神殿を開設すると、混迷するアマウン神殿を残したままイギリスを離れた。1916年に第一次世界大戦下のロンドンに一時帰還してアマウン神殿の内紛状態を確認したフェルキンは、ブリストル市に「ヘルメス・ロッジ」を設立した。過去の反省からフェルキンはアマウン神殿と同じ轍を踏むのを避けるべく、ロンドンから離れた地に黄金の夜明け団の遺産を残すための組織(ロッジ)を置いた。フェルキンの願い通り、ヘルメス・ロッジのメンバーは1930年代半ばまで安定した運営を続け、かのイスラエル・リガルディーに参入の機会を与えた。エメラルドの海神殿は現地に永住したフェルキン家族らによって、こちらでも黄金の夜明け団の遺産を守りつつ1970年代まで存続していた。アマウン神殿は1919年に一時閉鎖状態に陥り、1939年の第二次世界大戦勃発前後に自然消滅した。第一次世界大戦後の社会混乱と世界恐慌に見舞われた大戦間期を通して黄金の夜明け魔術は廃れつつあり、1934年にリガルディーが参入したヘルメス・ロッジでもすでに熱心さは失われていた。ロッジ消滅と共に貴重な知識までもが失われるのを危惧したリガルディーは、黄金の夜明け団の遺産を後世に残すべく独断で持ち出した多数の団内文書を、1938年から書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切った。これは秘匿を旨とする魔術界には激震をもたらしたが、第二次世界大戦の暗雲が迫る社会情勢下ではさほど興味を惹かれる事もなく緩慢に取引される程度に留まっている。黄金の夜明け魔術が復興するにはそれから三十年の時を必要とし、リガルディーの決断はそのための種子になった。", "title": "分派団体のその後" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "A∴O∴はパリに在るメイザースの指導下で安定した運営が行われていた。英国薔薇十字協会員が構成していたホルスとオシリス両神殿は古巣の方に移行したので、1911年時にはパリ、ロンドン、エディンバラと在アメリカ三神殿を合わせた計六神殿を束ねていた。第一次世界大戦が始まった1914年からロンドンの活動が確認されなくなり、ベリッジに代わってブロディ=イネスがイギリス側代表になった。1918年にメイザースは逝去し、妻モイナが彼の遺産であるA∴O∴を受け継いだ。翌1919年にロンドンに移ったモイナはそこで本部神殿を改めて開設し、エディンバラのブロディ=イネスの協力を得てA∴O∴の運営に従事した。同年からアメリカで更に三神殿が設立された。1928年にモイナは逝去し、女性のアデプトに後事が託されている。A∴O∴では徹底した秘密主義が取られていたので、1900年春の分裂後も変わらずメイザースが編み出し続けていたはずの魔術教義はほとんど後世に伝えられていない。1919年頃に参入し短期間で独立したダイアン・フォーチュンとP・F・ケース(英語版)の双方を通してうかがえるものだけである。1939年の第二次世界大戦勃発後、A∴O∴はその役目を終えるようにして閉鎖され、無数の教義が記された団内文書も「秘密の首領」に捧げる形で全て焼却された。", "title": "分派団体のその後" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ウェイトは知識の宝庫としての黄金の夜明け団は評価しながらも儀式魔術の異教的様式を嫌悪しており、英国淑女紳士に適したキリスト教神秘主義様式に修正するべきだと考えていた。しかし同団は元々英国薔薇十字協会の方でキリスト教神秘主義を手掛けていたメイソンたちが、異教的活動も嗜みたいと開いた魔術結社だったのでそれは本末転倒であった。1903年時のイシス・ウラニア神殿はフェルキンとM・W・ブラックデンの共同運営で、前者は教義面を担当し後者は神殿施設の所有権を含む事務面を担当していた。ウェイトの支持者は少数派だったが、肝心のブラックデンがウェイト側に回ったので形勢逆転し、同神殿はウェイトが望む常識的な神秘主義研鑽団体になった。同時に従来の儀式魔術支持者はアマウン神殿の方に移った。しかしウェイトが考案した神秘主義儀礼はやがて不評を買い始め、1914年になると元の儀式魔術を懐かしむ者たちとの間で団内は分裂した。ウェイトは自身の支持者を連れて「薔薇十字友愛会」という新たな団体を立ち上げた。残された者たちは「暁の星」に戻り、その事情を知ったフェルキンの計らいで1916年に設立された「マーリン・ロッジ」に所属して1920年代まで活動した。薔薇十字友愛会はウェイトの下で安定運営され数々の知識人文化人が参入している。第二次世界大戦下の1942年のウェイト逝去と共に解散した。", "title": "分派団体のその後" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学であるカバラを中心にして、エノク語、エジプト神話学、グリモワール、古典元素、タロット、占星術、ジオマンシー、錬金術、薔薇十字伝説、近代神智学系の思想、タットワを含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。なお、彼ら英国人にとって最も身近な隠秘学であるはずのキリスト教神秘主義は、創設者たちがメイソン系団体の方で手掛けていた事情からあえて避けられており、これは同時に一つの方向性を示す事にもなった。カバラに内包される生命の樹が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。また「埋蔵金発掘や個人的な復讐など俗世の欲に基づく低俗な目的で魔術は使わない」「魔術師は常に知識や技術を習得する事での全能感、己の心と戦い続けながら清廉に生きるべし」という規律を掲げていた。", "title": "教義概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、団体の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。団内ではマグレガー・メイザース考案の教義が最も大きな影響力を持っており、極端に言えば黄金の夜明け魔術とはメイザース思想の体現物と言えた。中でもエノク語を土台にしたエノキアン魔術(英語版)は彼の奥義と言えるものであり、5枚のタブレットに記された合計644の区画からなるエノク文字図表は、前述の生命の樹をも包括した更に高度な万物照応による知識の体系化を実現していた。後にメイザースから離反した団体の者でさえ彼の考案物には一目置き、またある者は彼のブランドを積極的に利用した。", "title": "教義概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "秘儀参入者たちは団内で得た知識を口外せぬよう誓約していたのでその教義内容が公にされることはなかった。しかし第一次世界大戦後の混乱と世界恐慌に見舞われた大戦間期の社会情勢の中で魔術結社の活動も下火になり、それらの解散に伴う知識そのものの喪失を危惧したイスラエル・リガルディーが団内文書を書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切ったことで、黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。この英断または独断は魔術関係者の間で大きな賛否を巻き起こしている。なお、リガルディーは1969年に自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれるという憂き目に合っている。魔術関係者の中にはこれを天罰と見る者もいた。", "title": "教義概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "黄金の夜明け団は儀式魔術を眼目にした団体であり、上述の教義知識はそのセレモニー(魔術儀式)の中で最大活用された。儀式魔術とは、舞台となる密室の設置から室内に細かく配置する大道具小道具の取り揃えおよび参加者それぞれの衣装と台詞と動作の一つ一つに特定の知識を伴うという特別な演劇を媒体にした秘教哲学の体現化芸術であった。儀式魔術の実践は団員の連帯感を高めると同時に、参加者たちの感性と知覚能力に一定の影響を及ぼすと信じられており定期的に履行された。またゆっくり一つ一つ「段差」なく魔術を理解できるように、世界の統一された真理の解明を進めており、自らの手で必要だと感じた奇跡の起こし方を調達するために、精巧なボードゲームを参考にして、永遠に終わりの見えない「工作キット」の開発を目指していた。", "title": "実践内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、アストラル投射と称される夢見技法も持てはやされていた。黄金の夜明け団はこの夢見技法をマニュアル化しており、かなりの個人差はあったがそれなりの確率で白昼夢の世界に入り込むことができたようである。アストラル投射の手順とは、特定の象徴物を凝視しながら意識を集中し自分自身がその象徴の中に入り込むように想像力を強く働かせるというものであった。熟達するにつれて始めはむりやり想像していたイメージの実感が徐々に明確になり、ついには立体化した想像空間が意識の集中を離れて自動的に脳内で織りなされるようになる。それがアストラル旅行の出発点となった。スクライング(水晶占い)との違いは、より能動的に幻視された世界を動き回れることである。凝視する象徴物の組み合わせを変えることで、アストラル旅行の内容も様々に変化するという奥深さが多くのアデプトを虜にした。前述の生命の樹を中心にした象徴照応教義はこの時に最大活用された。ただし情緒不安定を誘引するという副作用も指摘されており多用は戒められていた。", "title": "実践内容" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "インペレーターからセンティネルまでの10人が役割を決めてそれに準じた装束や象徴武器で身を固め、特定の順序で呪文や動作をこなしていく。カバラを下地にして、エジプト神話、ギリシャ神話、タロット、エノクなどを組み合わせ、共通する神の記号や光の象徴を抽出して本質に迫る術式群を備えている。探索者がクリスチャン=ローゼンクロイツの墓所を発見するエピソードにちなんだ儀式が代表格である。蒸気機関などの自然科学が席巻する時代に生まれたこともあり、聖書の記述を鵜呑みにせず、聖書発生以前の古代宗教の変遷を紐解く試みも行い、母体のヘルメス学の影響から、地中海を挟んだ最も身近な異界であるアフリカ大陸に残るエジプト神話に特に着目し、儀式にはエジプト神話の神々の恰好をしていた。", "title": "魔術儀式" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "黄金の夜明け団の儀式中に胸に装着されたデザインは、薔薇十字団、カバラ、メイザースによって教えられた色の象徴に基づいた紅い薔薇と黄金の十字架である。薔薇の22枚の花弁はそれぞれ異なる色で、ヘブライ文字の22文字の三母字、七複字、十二単字を表している。そして22本の小径にも対応している。薔薇の花弁の中央には死と霊的な復活を象徴する聖十字架がある。薔薇は十字架の上にあり、熟練者が心の中で金に変身しなければならない要素を象徴している。また五芒星は四元素に加えて本質を表している。", "title": "シンボル" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ウェストコットは黄金の夜明け団の位階を制定するに際し、英国薔薇十字協会の位階をほとんどそのまま持ち込んでいる。その最下位に「新参者(ニオファイト)」位階を新設し、最上位に「イプシシムス」を追加した。黄金の夜明け団の初位階である「新参者」とその上の4位階は暗号文書に依拠していたが、その4位階の名称は18世紀ドイツの黄金薔薇十字団(独: Gold- und Rosenkreuzer)のそれと一致していた。英国薔薇十字協会の位階制度も黄金薔薇十字団の模倣であった。魔術結社風のアレンジとして各位階を生命の樹の10のセフィラと22個の小径に対応させ、上昇=下降のペア階段値を付け加えた。「新参者」位階は生命の樹の枠外とした。入団者は「新参者」を出発点とし、それぞれの段階の昇格試験をクリアすることで上の位階へと進んだ。この黄金の夜明け団の位階制度は、後継魔術団体の手本とされて現代に到るまで踏襲され続けている。", "title": "団員の位階" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "11の位階は第一団(外陣)、第二団(内陣)、第三団の三層に分割されており、それぞれ別グループに扱われて個別の団名を持った。黄金の夜明け団は建前上この三層構成とされた。外陣は一般団員用で、火・空気・水・土の四元素を学ぶ。ポータルは外陣と内陣の橋渡し段階であり、アデプト(達人)になる前の準備期間とされた。内陣に進むと晴れてアデプトとして認められた。内陣は幹部団員専用であった。当初は肉体を持ったままの魔術師が到達できるのは「小達人(アデプタス・マイナー)」位階までとされていたが、後継団体を含む後期になると幹部団員の中から特に根拠もなく「大達人(アデプタス・メイジャー)」昇格を宣言する者も現れるようになった。「被免達人(アデプタス・イグゼンプタス)」は創立者専用の名誉位階として用いられることが多い。第三団はほとんど架空の存在であった。", "title": "団員の位階" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "在籍が取り沙汰される人物", "title": "在籍した人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』", "title": "登場する作品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "石踏一榮『ハイスクールD×D』", "title": "登場する作品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "田畠裕基『ブラッククローバー』", "title": "登場する作品" } ]
黄金の夜明け団は、19世紀末のイギリスで創設された西洋魔術結社である。黄金の暁会とも訳され、G.D.と略名される。現代西洋魔術の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋隠秘学組織である。 創設者のウィリアム・ロバート・ウッドマン、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザースの三人はフリーメイソンであったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差での区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上、三つの団(オーダー)による階層構造をなしており、第一団の「黄金の夜明け」は一般団員用で基礎教義を学び、第二団の「紅薔薇黄金十字」は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三団は秘密の首領らが在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として黄金の夜明け団と呼ばれる。
{{出典の明記|date=2014年5月}} {{Infobox 組織 |name = 黄金の夜明け団 |native_name = Hermetic Order of the Golden Dawn |logotype = |image = Rosy Cross of the Golden Dawn.png |image_border = |size = |alt = |caption = 黄金の夜明け団の薔薇十字徽章 |map = |msize = |malt = |mcaption = |map2 = |abbreviation = G.D. |motto = <!-- 標語 --> |predecessor = {{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}} |successor = * {{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}} * {{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}} * [[イシス=ウラニア・テンプル|聖黄金の夜明け]] |formation = 1887 |extinction = 1903 |type = [[秘密結社]] |status = <!-- 地位 --> |purpose = <!-- 目的 --> |headquarters = [[ロンドン]] |location = [[イギリス]] |coords = <!-- 座標 --> |region_served = <!-- 貢献地域・分野 --> |membership = <!-- メンバー --> |language = <!-- 公用語 --> |general = <!-- 事務総長 --> |leader_title = [[首領]] |leader_name = *ウィリアム・ウィン・ウェストコット<small>(1888-1897)</small> *[[マグレガー・メイザース]] <small>(1897-1903)</small> |leader_title2 = |leader_name2 = |leader_title3 = |leader_name3 = |leader_title4 = |leader_name4 = |key_people = |main_organ = <!-- 主要機関 --> |affiliations = <!-- 提携 --> |parent_organization = <!-- 関連組織 --> |num_staff = <!-- スタッフ --> |num_volunteers = <!-- ボランティア --> |budget = <!-- 予算 --> |website = <!-- ウェブサイト --> |former name = <!-- 過去名 --> |remarks = }} '''黄金の夜明け団'''(おうごんのよあけだん、''{{lang-en|Hermetic Order of the Golden Dawn}}'')は、[[19世紀]]末の[[イギリス]]で創設された[[近代魔術|西洋魔術]]結社である。'''黄金の暁会'''とも訳され、'''G.D.'''と略名される。現代[[近代魔術|西洋魔術]]の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋[[神秘学|隠秘学]]組織である。 創設者の{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}、[[ウィリアム・ウィン・ウェストコット]]、[[マグレガー・メイザース]]{{efn2|[[江口之隆]]は「マサース」、ヘイズ中村は「マザース」、[[吉村正和]]は「マザーズ」とカナ表記している。}}の三人は[[フリーメイソン]]であったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差での区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上、三つの団(オーダー)による階層構造をなしており、第一団の「黄金の夜明け」は一般団員用で基礎教義を学び、第二団の「紅薔薇黄金十字」{{efn2|原語はラテン語で「[[wiktionary:ja:ordo#ラテン語|Ordo]] [[wiktionary:ja:rosa#ラテン語|Rosae]] [[wiktionary:rubeus#Latin|Rubeae]] [[wiktionary:ja:et#ラテン語|et]] [[wiktionary:aureus#Latin|Aureae]] [[wiktionary:crucis|Crucis]] (R. R. et A. C.)」。「紅い薔薇と黄金の十字の教団」の意。[[澁澤龍彦]]は「紅薔薇黄金十字」{{sfn|キング|澁澤訳|1978|p=90}}、江口之隆は「ルビーの薔薇と金の十字架」団と翻訳{{sfn|江口|亀井|1983|p=50}}。}}は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三団は[[秘密の首領]]らが在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として'''黄金の夜明け団'''と呼ばれる。 ==誕生までの経緯== {{See also|暗号文書 (黄金の夜明け団)}} 黄金の夜明け団の創設は、[[フリーメイソン]]系の[[サロン|神秘主義サロン]]である{{仮リンク|英国薔薇十字協会|en|Societas Rosicruciana in Anglia}}{{efn2|英国薔薇十字協会は、[[秘教]]的な事柄に関心をもつ少数のフリーメイソン(フリーメイソンリーの会員)によって1866年に結成された{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=196}}。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく{{sfn|吉村|2013|pp=52}}、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった){{sfn|吉村|2013|pp=62-63}}。1870年代から1880年代にかけて、同協会ではいくつかの儀式や、カバラやフリーメイソンの象徴性についての講義などが行われていた{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}の会員[[ウィリアム・ウィン・ウェストコット]]が、1887年8月に[[隠秘学]]分野の知人を通して譲り受けた古書類の中から60枚の[[暗号文書 (黄金の夜明け団)|暗号文書]]を発見して興味を覚えたことから始まる。それは筆者不明の魔術結社設立に向けた原案メモであり『{{仮リンク|ポリグラフィア|en|Polygraphia (book)}}』に由来する[[換字式暗号]]で綴られていた{{sfn|吉村|2013|p=64}}。 <gallery mode="packed" heights="160"> ファイル:Cipher Manuscripts Folio 13.gif|暗号文書 ファイル:Polygraphiae by Johannes Trithemius, 1518, stated to be the first published book on cryptology - National Cryptologic Museum - DSC07742.JPG|ポリグラフィア ファイル:Golden Dawns charter.jpg|設立許可証 </gallery> ウェストコットが主張するところによると、同年9月に全文の復号に成功した彼は、文書の中にドイツ在住の[[アンナ・シュプレンゲル]]という人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認したという。シュプレンゲルと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の[[薔薇十字団]]の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、[[秘密の首領]]と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、シュプレンゲルとの手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女が所属するというドイツの[[薔薇十字団|薔薇十字]]系魔術結社 ''Die goldene Dämmerung'' (黄金の夜明け)が公認する支部設立の許可を受け取ることになり、同時にその教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人[[マグレガー・メイザース]]と年長の{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}}を共同創立者にして、1888年3月1日に[[神殿|神殿(テンプル)]]{{efn2|黄金の夜明け団の「神殿({{lang-en-short|temple}})」は一般に'''テンプル'''と和訳される。フリーメイソンリーなどでいう[[ロッジ]]の代替名である{{sfn|有澤|1998|p=37}}。ロッジはメイソンリーを構成する組織的ユニットであり、第1に「特定の集会所に属する会員で構成される組織」、第2に「その構成員が集会を催す会場(建物)」という2つの意味を併せもつ{{sfn|有澤|1998|pp=276-277}}。元来は建築に従事する石工の設営する仮小屋を指したが、メイソンリーにおいては組織や会合を指す抽象的概念となり、また、その集会所はメイソンリーにとって重要な[[ソロモン神殿]]の象徴ともみなされた{{sfn|有澤|1998|pp=277-278}}。}}と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。 これが黄金の夜明け団の発足であり{{efn2|この創立譚はあくまで神話である。前述の暗号文書がウェストコットの偽造でないことはほぼ確実であるが、その入手経路について現代の研究者はウェストコットの主張を必ずしも額面通りに受けとっていない{{sfn|吉村|2013|pp=63-64}}。そして、その後に行われたシュプレンゲルとの文通はウェストコットの捏造であろうと考えられている{{sfn|吉村|2013|p=65}}{{sfn|Goodrick-Clarke|2008|p=197}}。}}、ドイツ[[薔薇十字団]]の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時に[[アデプト]]となり団体の首領 (''ruling chief'')<!--(''three ruling Chiefs of the Order'')--> となった。英国薔薇十字協会は[[キリスト教神学]]の一種である{{仮リンク|キリスト教秘儀派|en|Esoteric Christianity}}のサロンであり、在籍者は[[フリーメイソン]]に限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。 <gallery mode="packed" heights="160"> ファイル:WilliamRobertWoodman.png|ウッドマン ファイル:William Wynn Westcott PNG.png|ウェストコット ファイル:Samuel Liddell MacGregor Mathers in Egyptian getup.jpg|メイザース </gallery> ==神殿の開設== [[ファイル:FlorenceFarrFace.jpg|thumb|201x201px|フロレンス・ファー|代替文=]] [[ファイル:Moina Mathers.jpg|代替文=ミナ・ベルクソン|サムネイル|227x227ピクセル|モイナ・メイザース]] [[ファイル:Annie Horniman.jpg|サムネイル|203x203ピクセル|アニー・ホーニマン]] [[ファイル:Maude Gonne McBride nd.jpg|サムネイル|234x234px|モード・ゴン|代替文=]] [[ファイル:Pamela Colman Smith circa 1912.jpg|サムネイル|252x252px|パメラ・コールマン・スミス|代替文=]] [[ファイル:Constance Lloyd 1882.jpg|代替文=|サムネイル|220x220ピクセル|コンスタンス・メアリー・ロイド]] 1888年3月1日に最初の運営施設となる「[[イシス・ウラニア神殿]]」が英国[[ロンドン]]に開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパーメア区]]に「[[オシリス]]神殿」が、[[ウェスト・ヨークシャー州|ウェストヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」が開設された。さらに主要団員の{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が英国[[エディンバラ]]に「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて仏国[[パリ]]に移住し、そこで「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。また{{要出典範囲|アメリカからの参入者も増えたので|title=支部設立の可否は参入者の多寡によるのでしょうか?出典にはそのようなことは書かれていません。別の出典が必要です。|date=2019-05-31}}1900年までに「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」など複数の支部がアメリカに設置された{{sfn|江口|亀井|1983|pp=65-66}}。こちらでは物好きな米国人のための{{sfn|江口|亀井|1983|p=65}}位階売買が行なわれてメイザースの収入源になっていたという{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=134-135}}。 [[フリーメイソン]]限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差での区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦やメイソン系機関紙上の広告によって集められ、また[[大英博物館]]周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には[[薔薇十字団]]の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。 ==隆盛そして軋轢== {{See also|秘密の首領}} 1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、[[ヴィクトリア朝]]社会の様々な階層から参加した100名以上のメンバーが在籍していた。並みいる団員の中には女優の{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}}、アイルランド革命家で女優の{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}、ノーベル賞詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、小説家の[[アーサー・マッケン]]と[[アルジャーノン・ブラックウッド|アルジャノン・ブラックウッド]]、詩人[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]]、物理学者[[ウィリアム・クルックス]]、[[オスカー・ワイルド]]夫人の{{仮リンク|コンスタンス・ロイド|label=コンスタンス|en|Constance Lloyd}}といった当時の著名な文化人、知識人が短期間の在籍を含めて名を連ねていた。隠秘学方面の人物としては著述家の[[アーサー・エドワード・ウェイト]]、魔術師[[アレイスター・クロウリー]]、[[ウェイト版タロット]]を描いた画家[[パメラ・コールマン・スミス]]などがいた。 1891年、ウェストコットは秘密の首領であるシュプレンゲルからの連絡が途絶えたと公表し、団体運営は新たな節目を迎えた。これはより自由なスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻の{{仮リンク|モイナ・メイザース|label=モイナ|en|Moina Mathers}}とともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットは驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を避けてこれに同調し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃にウェストコットは突然首領職を辞して団体運営から手を引いた。これには諸説あるが、ロンドン警察の検死官が本職であるウェストコットは、団員の誰かが[[ハンサムキャブ|辻馬車]]内に置き忘れた団内文書から勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、職業倫理上の規定に従わざるを得なかったためという話が有力視されている。こうしてパリ在住のメイザースが唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とする新体制を発足させたが、ファーをはじめとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。 1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の不評を買っていた若き[[アレイスター・クロウリー]]の[[アデプト]]昇格を拒否し、これに反発したクロウリーがパリにいる首領メイザースを頼ったことで新たな波乱が巻き起こった。1900年1月16日にメイザースは自身に反抗的なロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求したが、ファーは断固拒絶し問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。対立が続く中でパリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑心暗鬼に駆られるようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、2月16日付けの返信内で秘密の首領シュプレンゲルの書簡はウェストコットの捏造であったと唐突に暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、3月23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。憤激したメイザースは翌4月に愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく警察に通報されて失敗した。 ==分裂== ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能になった。ファーたちはメイザースを支持する{{仮リンク|エドワード・ウィリアム・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}}<!--なぜか英語版の記事名は Edmund William Berridge になっているが、Edward が正しい。-->一派の除名も決定し、追い出されたベリッジらはロンドンの別住所に同名の神殿を開設したのでイシス・ウラニア神殿は二つに分裂した。この内紛を傍観していたホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残ったが、双方ともメンバーは少数であった。{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}運営のアメン・ラー神殿はファーたちに合流した。アメリカにある複数の神殿はメイザースとのコネクションを維持した。こうして1900年4月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。 その後のファー派では、ファーが自身の取り巻き派閥(スフィア・グループ)を作り始めたことを問題視した{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}}との諍いが発生したので、その調停のために[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]が代表に就いた。しかしこの貴婦人同士の深まるばかりの対立劇に手を焼いたイェイツは、匙を投げるようにして1901年に退団した。同年に{{仮リンク|ホロス夫妻|en|Ann O'Delia Diss Debar}}の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、ファーを始めとする退団者が続出する事になった。社会的体面を重んじるファー派は「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」と改称し、ブロディ=イネスと{{仮リンク|ロバート・ウィリアム・フェルキン|en|Robert William Felkin}}が代表になった。ブロディ=イネスは[[エディンバラ]]のアメン・ラー神殿を運営し、フェルキンは[[ロンドン]]のイシス・ウラニア神殿を運営した。ホーニマンもこの頃に退団した。1903年になると儀式魔術の異教的様式を嫌悪していた[[アーサー・エドワード・ウェイト]]がイシス・ウラニア神殿内で派閥工作を始めた。自分たちを独立修正儀礼会と称したウェイトは同神殿の重鎮らの支持を得た上でフェルキンたちに活動内容の修正を求めた。この対立は結局、従来の儀式魔術を指向するフェルキンたち多数派の方が新しく用意された物件に移ることで折り合いが付き、その新施設はアマウン神殿と名付けられて「暁の星」の本部になった。こうしてイシス・ウラニア神殿を掌握したものの権威不足を自覚するウェイトは、パリのメイザースと連絡を取った上で表向き彼への忠誠を誓い、その公認団体とする同意を取り付けて「聖黄金の夜明け」と名乗るようになった。メイザースは公認のみで教義上の関与はしなかった。{{要出典範囲|1906年にメイザースは黄金の夜明け団そのものの幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」に組織再編した|date=2019-05-27}}。同じ頃、フェルキンの活動方針に不満を覚えるようになったブロディ=イネスは「暁の星」を離れてメイザースと和解し、1907年にアメン・ラー神殿とともに「A∴O∴」へ合流した。残された「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。 以上の経緯により、黄金の夜明け団は「{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}}」「{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}}」「[[聖黄金の夜明け団|聖黄金の夜明け]]」といった三つの団体に分裂して{{sfn|江口|亀井|1983|pp=93-94}}、その教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の原因となった[[アレイスター・クロウリー]]は結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「[[銀の星]]」を結成した。 <gallery mode="packed" heights="160"> ファイル:Mathers.jpg|メイザース(A∴O∴) ファイル:2989 Dr Felkin.jpg|フェルキン(暁の星) ファイル:ArthurEdwardWaite~1880.JPG|ウェイト(聖黄金の夜明け) </gallery> ==分派団体のその後== ;暁の星 1903年からアマウン神殿を率いる立場になったフェルキンは、その活動方針を黄金の夜明け団の源流であるドイツの薔薇十字系魔術結社に求めるべきと考えて自分たちを導いてくれる「[[秘密の首領]]」探しに没頭した。しかしこれは完全な迷走につながり、[[アストラル投射|星幽体投射]]で探し当てた霊的首領の教えは団内を却って混乱させ、また直接のドイツ探訪時に[[ルドルフ・シュタイナー]]を秘密の首領と誤認して持ち込まれた[[人智学]]は団内を更に紛糾させた。1912年にフェルキンはニュージーランドへ移住し現地で「エメラルドの海」神殿を開設すると、混迷するアマウン神殿を残したままイギリスを離れた。1916年に第一次世界大戦下のロンドンに一時帰還してアマウン神殿の内紛状態を確認したフェルキンは、[[ブリストル|ブリストル市]]に「ヘルメス・ロッジ」を設立した。過去の反省からフェルキンはアマウン神殿と同じ轍を踏むのを避けるべく、ロンドンから離れた地に黄金の夜明け団の遺産を残すための組織(ロッジ)を置いた。フェルキンの願い通り、ヘルメス・ロッジのメンバーは1930年代半ばまで安定した運営を続け、かの[[イスラエル・リガルディー]]に参入の機会を与えた。エメラルドの海神殿は現地に永住したフェルキン家族らによって、こちらでも黄金の夜明け団の遺産を守りつつ1970年代まで存続していた。アマウン神殿は1919年に一時閉鎖状態に陥り、1939年の[[第二次世界大戦]]勃発前後に自然消滅した。[[第一次世界大戦]]後の社会混乱と[[大恐慌|世界恐慌]]に見舞われた[[戦間期|大戦間期]]を通して黄金の夜明け魔術は廃れつつあり、1934年に[[イスラエル・リガルディー|リガルディー]]が参入したヘルメス・ロッジでもすでに熱心さは失われていた。ロッジ消滅と共に貴重な知識までもが失われるのを危惧したリガルディーは、黄金の夜明け団の遺産を後世に残すべく独断で持ち出した多数の団内文書を、1938年から書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切った。これは秘匿を旨とする魔術界には激震をもたらしたが、[[第二次世界大戦]]の暗雲が迫る社会情勢下ではさほど興味を惹かれる事もなく緩慢に取引される程度に留まっている。黄金の夜明け魔術が復興するにはそれから三十年の時を必要とし、リガルディーの決断はそのための種子になった。 <gallery mode="packed" heights="180"> ファイル:Sara Allgood - Project Gutenberg eText 19028.jpg|サラ・オールグッド ファイル:Nesbit.jpg|[[イーディス・ネズビット|イーディス・ネスビット]] ファイル:Elsa Barker novelist.png|エルザ・バーカー ファイル:Photoevelyn3.jpg|イヴリン・アンダーヒル </gallery> ;A∴O∴ A∴O∴はパリに在る[[マグレガー・メイザース|メイザース]]の指導下で安定した運営が行われていた。英国薔薇十字協会員が構成していたホルスとオシリス両神殿は古巣の方に移行したので、1911年時にはパリ、ロンドン、エディンバラと在アメリカ三神殿を合わせた計六神殿を束ねていた。[[第一次世界大戦]]が始まった1914年からロンドンの活動が確認されなくなり、ベリッジに代わってブロディ=イネスがイギリス側代表になった。1918年にメイザースは逝去し、妻モイナが彼の遺産であるA∴O∴を受け継いだ。翌1919年にロンドンに移ったモイナはそこで本部神殿を改めて開設し、エディンバラのブロディ=イネスの協力を得てA∴O∴の運営に従事した。同年からアメリカで更に三神殿が設立された。1928年にモイナは逝去し、女性の[[アデプト]]に後事が託されている。A∴O∴では徹底した秘密主義が取られていたので、1900年春の分裂後も変わらずメイザースが編み出し続けていたはずの魔術教義はほとんど後世に伝えられていない。1919年頃に参入し短期間で独立した[[ダイアン・フォーチュン]]と{{仮リンク|P・F・ケース|en|Paul Foster Case}}の双方を通してうかがえるものだけである。1939年の[[第二次世界大戦]]勃発後、A∴O∴はその役目を終えるようにして閉鎖され、無数の教義が記された団内文書も「[[秘密の首領]]」に捧げる形で全て焼却された。 ;聖黄金の夜明け [[アーサー・エドワード・ウェイト|ウェイト]]は知識の宝庫としての黄金の夜明け団は評価しながらも儀式魔術の異教的様式を嫌悪しており、英国淑女紳士に適したキリスト教神秘主義様式に修正するべきだと考えていた。しかし同団は元々英国薔薇十字協会の方でキリスト教神秘主義を手掛けていたメイソンたちが、異教的活動も嗜みたいと開いた魔術結社だったのでそれは本末転倒であった。1903年時のイシス・ウラニア神殿はフェルキンとM・W・ブラックデンの共同運営で、前者は教義面を担当し後者は神殿施設の所有権を含む事務面を担当していた。ウェイトの支持者は少数派だったが、肝心のブラックデンがウェイト側に回ったので形勢逆転し、同神殿はウェイトが望む常識的な神秘主義研鑽団体になった。同時に従来の儀式魔術支持者はアマウン神殿の方に移った。しかしウェイトが考案した神秘主義儀礼はやがて不評を買い始め、1914年になると元の儀式魔術を懐かしむ者たちとの間で団内は分裂した。ウェイトは自身の支持者を連れて「薔薇十字友愛会」という新たな団体を立ち上げた。残された者たちは「暁の星」に戻り、その事情を知ったフェルキンの計らいで1916年に設立された「マーリン・ロッジ」に所属して1920年代まで活動した。薔薇十字友愛会はウェイトの下で安定運営され数々の知識人文化人が参入している。[[第二次世界大戦]]下の1942年のウェイト逝去と共に解散した。 ==教義概要== {{See also|四元素#対応関係}} [[ファイル:RWS Tarot 03 Empress.jpg|左|サムネイル|277x277ピクセル|タロット]] 黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学である[[カバラ]]を中心にして、[[エノク語]]、[[エジプト神話|エジプト神話学]]、[[グリモワール]]、[[四元素|古典元素]]、[[タロット]]、[[占星術]]、[[ジオマンシー]]、[[錬金術]]、薔薇十字伝説、[[神智学|近代神智学]]系の思想、[[タットワ]]を含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。なお、彼ら英国人にとって最も身近な隠秘学であるはずの[[キリスト教神秘主義]]は、創設者たちがメイソン系団体の方で手掛けていた事情からあえて避けられており、これは同時に一つの方向性を示す事にもなった。カバラに内包される[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]]が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。また「埋蔵金発掘や個人的な復讐など俗世の欲に基づく低俗な目的で魔術は使わない」「魔術師は常に知識や技術を習得する事での全能感、己の心と戦い続けながら清廉に生きるべし」という規律を掲げていた。 上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、団体の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。団内ではマグレガー・メイザース考案の教義が最も大きな影響力を持っており、極端に言えば黄金の夜明け魔術とはメイザース思想の体現物と言えた。中でも[[エノク語]]を土台にした{{仮リンク|エノキアン魔術|en|Enochian magic}}は彼の奥義と言えるものであり、5枚のタブレットに記された合計644の区画からなるエノク文字図表は、前述の[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]]をも包括した更に高度な万物照応による知識の体系化を実現していた。後にメイザースから離反した団体の者でさえ彼の考案物には一目置き、またある者は彼のブランドを積極的に利用した。 秘儀参入者たちは団内で得た知識を口外せぬよう誓約していたのでその教義内容が公にされることはなかった。しかし[[第一次世界大戦]]後の混乱と[[世界恐慌]]に見舞われた[[戦間期|大戦間期]]の社会情勢の中で魔術結社の活動も下火になり、それらの解散に伴う知識そのものの喪失を危惧した[[イスラエル・リガルディー]]が団内文書を書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切ったことで、黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。この英断または独断は魔術関係者の間で大きな賛否を巻き起こしている。なお、リガルディーは1969年に自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれるという憂き目に合っている。魔術関係者の中にはこれを天罰と見る者{{誰|title=この記述およびその情報源(註参照)は、「これは天罰だろう」と述べた人物の名を明示していません。|date=2014年2月}}もいた{{sfn|リガルディー編|江口訳|1993b|loc=訳者解説}}。 {| class="wikitable" style="white-space:nowrap;font-size:80%; text-align:center" |- ![[錬金術#西ヨーロッパの錬金術|錬金術三原質]]||[[四元素]]||性質 !style="white-space:nowrap;" |[[占星術]] !style="white-space:nowrap;" |[[四大精霊]] ![[方位]] ![[大天使]] !style="white-space:nowrap;"|[[シンボル]] |- |rowspan="2"|'''硫黄'''<br>(形相・不揮発性原質)||'''火'''<br>(不可視・微細で精妙な状態)||熱+乾||[[白羊宮]]<br>[[獅子宮]]<br>[[人馬宮]]||[[サラマンダー (妖精)|サラマンダー]]||[[南]]||[[ミカエル]]||🜂 |- |'''土'''<br>(可視的・固体的状態)||冷+乾||[[金牛宮]]<br>[[処女宮]]<br>[[磨羯宮]]||[[ノーム (妖精)|ノーム]]||[[北]]||[[ウリエル]]||🜃 |- |rowspan="2"|'''水銀'''<br>(質料・揮発性原質)||'''気'''<br>(不可視・気体的状態)||熱+湿||[[双児宮]]<br>[[天秤宮]]<br>[[宝瓶宮]]||[[シルフ]]||[[東]]||[[ラファエル]]||🜁 |- |'''水'''<br>(可視的・液体的状態)||冷+湿||[[巨蟹宮]]<br>[[天蝎宮]]<br>[[双魚宮]]||[[ウンディーネ]]||[[西]]||[[ガブリエル]]||🜄 |- |'''塩'''<br>(運動・媒介)||'''第五元素'''<br>(エーテル) |colspan=6| |} == 実践内容 == [[ファイル:John William Waterhouse - The Crystal Ball.JPG|左|サムネイル|245x245ピクセル|スクライング]] 黄金の夜明け団は儀式魔術を眼目にした団体であり、上述の教義知識はそのセレモニー(魔術儀式)の中で最大活用された。儀式魔術とは、舞台となる密室の設置から室内に細かく配置する大道具小道具の取り揃えおよび参加者それぞれの衣装と台詞と動作の一つ一つに特定の知識を伴うという特別な演劇を媒体にした秘教哲学の体現化芸術であった。儀式魔術の実践は団員の連帯感を高めると同時に、参加者たちの感性と知覚能力に一定の影響を及ぼすと信じられており定期的に履行された。またゆっくり一つ一つ「段差」なく魔術を理解できるように、世界の統一された真理の解明を進めており、自らの手で必要だと感じた奇跡の起こし方を調達するために、精巧なボードゲームを参考にして、永遠に終わりの見えない「工作キット」の開発を目指していた。 また、[[アストラル投射]]と称される夢見技法も持てはやされていた。黄金の夜明け団はこの夢見技法をマニュアル化しており、かなりの個人差はあったがそれなりの確率で白昼夢の世界に入り込むことができたようである。アストラル投射の手順とは、特定の象徴物を凝視しながら意識を集中し自分自身がその象徴の中に入り込むように想像力を強く働かせるというものであった。熟達するにつれて始めはむりやり想像していたイメージの実感が徐々に明確になり、ついには立体化した想像空間が意識の集中を離れて自動的に脳内で織りなされるようになる。それが[[アストラル旅行]]の出発点となった。[[スクライング]](水晶占い)との違いは、より能動的に幻視された世界を動き回れることである。凝視する象徴物の組み合わせを変えることで、アストラル旅行の内容も様々に変化するという奥深さが多くのアデプトを虜にした。前述の[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]]を中心にした象徴照応教義はこの時に最大活用された。ただし情緒不安定を誘引するという副作用も指摘されており多用は戒められていた。 ==魔術儀式== [[インペラトル|インペレーター]]から[[番兵|センティネル]]までの10人が役割を決めてそれに準じた装束や象徴武器で身を固め、特定の順序で呪文や動作をこなしていく。[[#カバラ|カバラ]]を下地にして、[[エジプト神話]]、[[ギリシア神話|ギリシャ神話]]、タロット、[[ジョン・ディー#エノク魔術|エノク]]などを組み合わせ、共通する神の記号や光の象徴を抽出して本質に迫る術式群を備えている。探索者が[[クリスチャン=ローゼンクロイツ]]の墓所を発見するエピソードにちなんだ儀式が代表格である。蒸気機関などの自然科学が席巻する時代に生まれたこともあり、聖書の記述を鵜呑みにせず、聖書発生以前の古代宗教の変遷を紐解く試みも行い、母体のヘルメス学の影響から、地中海を挟んだ最も身近な異界であるアフリカ大陸に残るエジプト神話に特に着目し、儀式にはエジプト神話の神々の恰好をしていた。 {| class="wikitable" style="font-size:80%; " !クラス!!役職名!!原語!!意味!!対応神!!元素!!必要階級 |- |rowspan=3 align="center"|'''三首領''' |[[インペラトル|インペレーター]] |[[wiktionary:ja:imperator|Imperator]] |[[司令官]] |[[ネフティス]] |[[火]] |6°=5<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |プレモンストレーター |[[wiktionary:praemonstro|Praemonstrator]] |[[指導者]] |[[イシス]] |[[水]] |7°=4<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |カンセラリウス |[[wiktionary:cancellarius|cancellarius]] |[[書記]] |[[トート]] |[[気]] |5°=6<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |rowspan=3 align="center"|'''主要司官''' |ハイエロファント |[[wiktionary:hierophant|Hierophant]] |[[司教]] |[[オシリス]] | |5°=6<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |ハイエルース |[[wiktionary:ἱερεύς|Hiereus]] |[[司祭]] |[[ホルス]] | |4°=7<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |ヘゲモン |[[wiktionary:hegemon|hegemon]] |[[ガイド]] |[[マアト]] | |3°=8<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |rowspan=4 align="center"|'''準司官''' |ケルックス |[[:en:Kerux|Kerux]] |[[ヘラルド・オブ・アームズ|ヘラルド]] |[[東]][[アヌビス]] | |2°=9<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |ストリステス |[[wiktionary:fr:stoliste|Stolistes]] |[[準備]]者 |[[ムト]] | |1°=10<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |ダドゥコス |[[wiktionary:daduchus|Daduchos]] |[[たいまつ|松明]]者 |[[ネイト (エジプト神話)|ネイト]] | |1°=10<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |- |[[番兵|センティネル]] |[[wiktionary:ja:sentinel|sentinel]] |[[番兵]] |[[西]][[アヌビス]] | |0°=0<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |} ==シンボル== {{See also|:en:Rose_Cross#Golden_Dawn|錬金術記号}} 黄金の夜明け団の儀式中に胸に装着されたデザインは、[[薔薇十字団]]、[[カバラ]]、メイザースによって教えられた色の象徴に基づいた紅い薔薇と黄金の十字架である。薔薇の22枚の花弁はそれぞれ異なる色で、[[ヘブライ文字]]の22文字の三母字、七複字、十二単字を表している。そして[[生命の樹 (旧約聖書)#二十二本の小径(パス)|22本の小径]]にも対応している。薔薇の花弁の中央には[[死]]と霊的な[[復活 (キリスト教)|復活]]を象徴する[[聖十字架]]がある。薔薇は十字架の上にあり、熟練者が心の中で金に変身しなければならない要素を象徴している。また[[五芒星]]は[[四元素|四元素]]に加えて本質を表している。 ==団員の位階== [[File:Kabbalistic Tree of Life (Sephiroth) 2.svg|thumb|160px|[[生命の樹 (旧約聖書)#セフィロトの樹|セフィロトの樹]]|代替文=]] {{See also|[[銀の星#位階構造]]}} ウェストコットは黄金の夜明け団の位階を制定するに際し、英国薔薇十字協会の位階をほとんどそのまま持ち込んでいる。その最下位に「新参者(ニオファイト)」位階を新設し、最上位に「イプシシムス<!--{{efn2|ラテン語 [[Wiktionary:ipsissimus|ipsissimus]]。最上級形容強意代名詞男性単数主格。「まさしく他ならぬ…そのもの」。}}-->{{efn2|「真の自己」を指す造語{{sfn|吉村|2013|p=67}}。}}」を追加した。黄金の夜明け団の初位階である「新参者」とその上の4位階は暗号文書に依拠していたが、その4位階の名称は18世紀ドイツの黄金薔薇十字団({{lang-de-short|Gold- und Rosenkreuzer}})のそれと一致していた{{sfn|吉村|2013|p=67}}。英国薔薇十字協会の位階制度も黄金薔薇十字団の模倣であった{{sfn|吉村|2013|p=73}}。魔術結社風のアレンジとして各位階を[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]]の10の[[セフィロト|セフィラ]]と22個の[[生命の樹 (旧約聖書)#二十二本の小径(パス)|小径]]に対応させ、上昇=下降のペア階段値を付け加えた。「新参者」位階は生命の樹の枠外とした。入団者は「新参者」を出発点とし、それぞれの段階の昇格試験をクリアすることで上の位階へと進んだ。この黄金の夜明け団の位階制度は、後継魔術団体の手本とされて現代に到るまで踏襲され続けている。 11の位階は第一団(外陣)、第二団(内陣)、第三団の三層に分割されており、それぞれ別グループに扱われて個別の団名を持った。黄金の夜明け団は建前上この三層構成とされた。外陣は一般団員用で、火・空気・水・土の[[四元素]]を学ぶ。ポータルは外陣と内陣の橋渡し段階であり、アデプト(達人)になる前の準備期間とされた。内陣に進むと晴れてアデプトとして認められた。内陣は幹部団員専用であった。当初は肉体を持ったままの魔術師が到達できるのは「小達人(アデプタス・マイナー)」位階までとされていたが、後継団体を含む後期になると幹部団員の中から特に根拠もなく「大達人(アデプタス・メイジャー)」昇格を宣言する者も現れるようになった。「被免達人(アデプタス・イグゼンプタス)」は創立者専用の名誉位階として用いられることが多い。第三団はほとんど架空の存在であった。 <!--英語の表記揺れが冗長で表が見にくいだけです。どちらかに統一して下さい--> {| class="wikitable" style="font-size:80%; " !rowspan=2|団!!colspan=4|位階!!rowspan=2|[[生命の樹 (旧約聖書)#十個の球体(セフィラ)|セフィラ]]!!rowspan=2|意味!!rowspan=2|[[色]]!!rowspan=2|[[大天使]]!!rowspan=2| 四元素 |- !慣用!!和訳!!原語!!数字記号 |- |rowspan=5 align="center"|'''第一団<br>「黄金の夜明け」<br>(外陣)''' |ニオファイト |新参者 |[[wiktionary:neophyte|Neophyte]] |0°=0<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |colspan=5 | |- |ジェレーター |熱心者 |[[wiktionary:zelator#Latin|Zelator]] |1°=10<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |マルクト |[[王国]] |[[黒]] |[[サンダルフォン]] |[[四元素#土|地]] |- |セオリカス |理論者 |[[wiktionary:fr:theoricus|Theoricus]] |2°=9<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |イェソド |[[基礎]] |[[紫]] ||[[ガブリエル]] |[[四元素#空気(風)|風]] |- |プラクティカス |実践者 |[[wiktionary:practicus|Practicus]] |3°=8<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ホド |[[栄光]] |[[橙色|橙]] ||[[ラファエル]] |[[四元素#水|水]] |- |フィロソファス |哲学者 |[[wiktionary:philosophus|Philosophus]] ||4°=7<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ネツァク |[[勝利]] |[[緑]] ||[[ハニエル]] |[[四元素#火|火]] |- |colspan=2 align="center"|ポータル |予備門 |[[wiktionary:portal|Portal]] |colspan=6 | |- |rowspan=3 align="center"|'''第二団<br>「紅薔薇黄金十字」<br>(内陣)''' |アデプタス・マイナー |小達人 |[[wiktionary:adeptus|Adeptus]] [[wiktionary:ja:minor|Minor]] |5°=6<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ティファレト |[[美]] |[[黄色|黄]] ||[[ミカエル]] | |- |アデプタス・メイジャー |大達人 |Adeptus [[wiktionary:ja:major#ラテン語|Major]] |6°=5<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ゲブラー |[[峻厳]] |[[赤]] ||[[カマエル]] | |- |アデプタス・イグゼンプタス |被免達人 |Adeptus [[wiktionary:exemptus|Exemptus]] |7°=4<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ケセド |[[慈悲]] |[[青]] ||[[ザドキエル]] | |- |rowspan=3 align="center"|'''第三団<br>(秘密の首領たち)<br>''' |マジスター・テンプリ |神殿の首領 |[[wiktionary:Magister|Magister]] [[wiktionary:ja:templi#ラテン語|Templi]] |8°=3<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ビナー |[[理解]] |[[黒]] ||[[ザフキエル]] | |- |メイガス |魔術師 |[[wiktionary:magus|Magus]] |9°=2<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |コクマー |[[知恵]] |[[灰色|灰]] ||[[ラジエル]] | |- |イプシシマス |<!--定訳なし--> |[[wiktionary:ipsissimus|Ipsissimus]] |10°=1<sup>{{unicode|&#x25A1;}}</sup> |ケテル |[[王冠]] |[[白]] ||[[メタトロン]] | |} {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:80%" !colspan=3|[[ヘブライ文字]]!!rowspan=2|[[生命の樹 (旧約聖書)#二十二本の小径(パス)|小径]]!![[タロット]]!!rowspan=2|[[西洋占星術|西洋<br>占星術]]!!rowspan=2|[[色|色階]] |- !文字!!名称!!分類!![[大アルカナ]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[א]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|aleph アレフ |三母字||ケテル-コクマー||'''[[愚者]]'''||[[風]]||[[黄色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ב]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|bet ベート |七複字||ケテル-ビナー||'''[[魔術師 (タロット)|魔術師]]'''||[[水星]]||[[黄色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ג]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|gimel ギメル |七複字||ケテル-ティファレト||'''[[女教皇]]'''||[[月]]||[[青]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ד]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|dalet ダレット |七複字||コクマー-ビナー||'''[[女帝 (タロット)|女帝]]'''||[[金星]]||[[緑]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ה]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|he ヘー |十二単字||コクマー-ティファレト||'''[[皇帝 (タロット)|皇帝]]'''||[[白羊宮]]||[[赤]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ו]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|vav ヴァヴ |十二単字||コクマー-ケセド||'''[[教皇 (タロット)|教皇]]'''||[[金牛宮]]||[[朱色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ז]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|zain ザイン |十二単字||ビナー-ティファレト||'''[[恋人 (タロット)|恋人]]'''||[[双児宮]]||[[橙色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ח]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|chet ヘット |十二単字||ビナー-ゲブラー||'''[[戦車 (タロット)|戦車]]'''||[[巨蟹宮]]||[[マリーゴールド (色)|マリーゴールド]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ט]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|tet テット |十二単字||ケセド-ゲブラー||'''[[力 (タロット)|力]]'''||[[獅子宮]]||[[黄色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[י]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|yud ユッド |十二単字||ケセド-ティファレト||'''[[隠者 (タロット)|隠者]]'''||[[処女宮]]||[[黄緑]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[כ]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|chaph ハフ |七複字||ケセド-ネツァク||'''[[運命の輪]]'''||[[木星]]||[[紫]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ל]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|lamed ラメッド |十二単字||ゲブラー-ティファレト||'''[[正義 (タロット)|正義]]'''||[[天秤宮]]||[[緑]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[מ]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|mem メム |三母字||ゲブラー-ホド||'''[[吊された男|吊るされた男]]'''||[[水]]||[[青]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[נ]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|nun ヌン |十二単字||ティファレト-ネツァク||'''[[死神 (タロット)|死神]]'''||[[天蝎宮]]||[[シアン (色)|シアン]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ס]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|samekh サメフ |十二単字||ティファレト-イェソド||'''[[節制 (タロット)|節制]]'''||[[人馬宮]]||[[青]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ע]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|ain アイン |十二単字||ティファレト-ホド||'''[[悪魔 (タロット)|悪魔]]'''||[[磨羯宮]]||[[藍色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[פ]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|phe フェー |七複字||ネツァク-ホド||'''[[塔 (タロット)|塔]]'''||[[火星]]||[[赤]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[צ]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|tsadi ツァディ |十二単字||ネツァク-イェソド||'''[[星 (タロット)|星]]'''||[[宝瓶宮]]||[[紫]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ק]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|kuph クフ |十二単字||ネツァク-マルクト||'''[[月 (タロット)|月]]'''||[[双魚宮]]||[[マゼンタ]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ר]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|resh レーシュ |七複字||ホド-イェソド||'''[[太陽 (タロット)|太陽]]'''||[[太陽]]||[[オレンジ色]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ש]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|shin シン |三母字||ホド-マルクト||'''[[審判 (タロット)|審判]]'''||[[火]]||[[赤]] |- |style="font-size:150%;" lang="he"|[[ת]] |style="text-align:left;" dir="ltr"|tav タヴ |七複字||イェソド-マルクト||'''[[世界 (タロット)|世界]]'''||[[土星]]||[[藍色]] |} ==在籍した人物== <!--日本語版有無、50音順--> {| class="sortable wikitable" style="font-size:80%; " !名前!!生没年!!職業!!位階!!魔法名!!意味!!分裂後 |- |[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]] |1865-1939 |[[詩人]] |7°=4□ |Demon Est Deus Inversus |悪魔は裏返しの神 |{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}} |- |[[アーサー・エドワード・ウェイト]] |1857-1942 |[[著作家]] |5°=6□ |Sacramentum Regis |王の秘蹟 |{{仮リンク|聖黄金の夜明け団|en|Isis-Urania Temple#Independent and Rectified Rite of the Golden Dawn}} → 薔薇十字同志会 |- |rowspan=2|[[アレイスター・クロウリー]] |rowspan=2|1875-1947 |rowspan=2|[[魔術師]] |5°=6□ |Perdurabo |われ(最後まで)耐え抜かん |rowspan=2|[[銀の星]]〜<br>[[東方聖堂騎士団]] |- |9°=2□ |To Mega Therion |大いなる獣 |- |[[パメラ・コールマン・スミス]] |1878-1951 |[[画家]] |1°=10□ |Quod Tibi id aliis |The same for thyself as for another |{{仮リンク|聖黄金の夜明け団|en|Isis-Urania Temple#Independent and Rectified Rite of the Golden Dawn}} |- |[[アルジャーノン・ブラックウッド]] |1869-1951 |[[小説家]] | |Umbram Fugat Veritas | |{{仮リンク|聖黄金の夜明け団|en|Isis-Urania Temple#Independent and Rectified Rite of the Golden Dawn}} |- |[[アーサー・マッケン]] |1863-1947 |[[小説家]] | |Avallaunius | |{{仮リンク|聖黄金の夜明け団|en|Isis-Urania Temple#Independent and Rectified Rite of the Golden Dawn}} |- |rowspan=2|[[マグレガー・メイザース]] |rowspan=2|1854ー1918 |rowspan=2|[[魔術師]] |5°=6□ |[[:en:Clan_Gregor#Clan_profile|'S Rioghail Mo Dhream]] |王族こそわが種族 |rowspan=2|{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}} |- |7°=4□ |Deo Duce Comite Ferro |神を導きとして、剣を伴として |- |rowspan=2|{{仮リンク|ウィリアム・ロバート・ウッドマン|en|William Robert Woodman}} |rowspan=2|1828-1891 |rowspan=2|[[医者]] |5°=6□ |Magna est Veritas et Praevalebit |真理は偉大にして卓越し続けるであろう |rowspan=2| |- |7°=4□ |Vincit Omnia Veritas |真理はすべてのものに勝利する |- |{{仮リンク|ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}} |1848-1923 |[[弁護士]] |5°=6□ |Sub Spe |希望の下に |{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}} → {{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}} |- |rowspan=2|[[ウィリアム・ウィン・ウェストコット]] |rowspan=2|1848ー1925 |rowspan=2|[[検死官]] |5°=6□ |Sapere Aude |敢えて賢明たれ |rowspan=2| |- |7°=4□ |Non Omnis Moriar |悉く滅することあらじ |- |{{仮リンク|フレデリック・リー・ガードナー|en|Frederick Leigh Gardner}} |1857-1930 |株式仲買人 |5°=6□ |De Profundis Ad Lucem |奈落を出でて光へ | |- |{{仮リンク|モード・ゴン|en|Maud Gonne}}{{efn2|短期間で退団。}} |1865-1953 |[[俳優#性別での分類|女優]] | |Per Ignem Ad Lucem |火を経て光へ | |- |{{仮リンク|フロレンス・ファー|en|Florence Farr}} |1860ー1917 |女優 |5°=6□ |Sapientia Sapienti Dono Data |知恵は賢者に授けられた賜物 | |- |{{仮リンク|ロバート・ウィリアム・フェルキン|en|Robert William Felkin}} |1853-1926 |[[医師]] |5°=6□ |Finem Respice |終わりを慮れ |{{仮リンク|暁の星|en|Stella Matutina}} |- |{{仮リンク|エドワード・ウィリアム・ベリッジ|en|Edmund William Berridge}} |1843-1920 |[[ホメオパシー|ホメオパシスト]] |5°=6□ |Resurgam |再び立ち上がらん |{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}} |- |{{仮リンク|チャールズ・ヘンリー・アラン・ベネット|label=アラン・ベネット|en|Charles Henry Allan Bennett}} |1872-1923 |化学者 |5°=6□ |Iehi Aour |光あれ |[[上座部仏教|テーラワーダ]] → 英国仏教協会 |- |{{仮リンク|アニー・ホーニマン|en|Annie Horniman}} |1860-1937 |[[富裕層]] |5°=6□ |Fortiter et Recte |勇敢に、公正に | |- |{{仮リンク|モイナ・メイザース|en|Moina Mathers}} |1865ー1928 |[[学芸員#美術分野|美術学芸員]] |6°=5□ |Vestigia Nulla Retrorsum |不退転<!--日本語書籍では「後に痕跡を残さず」と誤訳しているものもある。--> |{{仮リンク|A∴O∴|en|Alpha et Omega}} |} '''在籍が取り沙汰される人物''' *[[ウィリアム・シャープ (作家)|ウィリアム・シャープ]] - 文芸ジャーナリスト *[[グスタフ・マイリンク]] - 小説家 *{{仮リンク|アンナ・ド・ブレモン|en|Anna de Brémont}} - ジャーナリスト == 登場する作品 == [[鎌池和馬]]『[[とある魔術の禁書目録]]』 :[[とある魔術の禁書目録の登場人物#アレイスター=クロウリー|アレイスター・クロウリー]] - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アニメ版の担当[[声優]]は[[関俊彦]]。 :[[とある魔術の禁書目録の登場人物#黄金夜明|黄金夜明]] - [[マグレガー・メイザース]]率いる勢力。「王室派」襲撃時は、プレモンストレーターをロバート・ウィリアム・フェルキン、[[インペラトル|インペレーター]]をウィリアム・ウィン・ウェストコット、カンセラリウスを[[アーサー・エドワード・ウェイト]]、ストリステスはフレデリック・リー・ガードナーの後でアニー・ホーニマンが務めた。他にミナ=メイザース、アラン・ベネット、エドワード・べリッジ、ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス、フローレンス・ファーが登場する。後継団体からも[[ダイアン・フォーチュン]]、[[イスラエル・リガルディー]]が登場する。 [[石踏一榮]]『[[ハイスクールD×D]]』 :[[ハイスクールD×D#黄金の夜明け団|黄金の夜明け団]] - マグレガー・メイザースとウェストコットの一族が登場する。 [[田畠裕基]]『[[ブラッククローバー]]』 :魔法騎士団の1つ「金色の夜明け団」 ==関連文献== *『ロンドンを旅する60章』 (42章「魔都」ロンドン 執筆担当太田直也) 2012年、明石書店、ISBN 978-4-7503-3603-9 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist2}} ===出典=== {{Reflist|2}} ==参考文献== *{{Cite book|和書|author=フランシス・キング |others=[[澁澤龍彦]]訳 |title=魔術 もう一つのヨーロッパ精神史 |year=1978 |publisher=平凡社 |ref={{SfnRef|キング|澁澤訳|1978}} }} *{{Cite book|和書|author1=江口之隆|authorlink1=江口之隆 |author2=亀井勝行 |title=黄金の夜明け |publisher=国書刊行会 |year=1983 |ref={{SfnRef|江口|亀井|1983}} }} *{{Cite book|和書|editor=イスラエル・リガルディー|editor-link=イスラエル・リガルディー |others=江口之隆訳 |title=黄金の夜明け魔術全書(上) |publisher=国書刊行会 |year=1993 |ref={{SfnRef|リガルディー編|江口訳|1993a}} }} *{{Cite book|和書|author=イスラエル・リガルディー編 |others=江口之隆訳 |title=黄金の夜明け魔術全書(下) |publisher=国書刊行会 |year=1993 |ref={{SfnRef|リガルディー編|江口訳|1993b}} }} *{{Cite book|和書|author=フランシス・キング |others=江口之隆訳 |title=英国魔術結社の興亡 |publisher=国書刊行会 |year=1994 |ref={{SfnRef|キング|江口訳|1994}} }} *{{Cite book|和書|author=吉村正和|authorlink=吉村正和 |title=図説 近代魔術 |publisher=河出書房新社 |year=2013 |ref={{SfnRef|吉村|2013}} }} *{{cite book|first=R. A. |last=Gilbert |year=1997 |title=The Golden Dawn Scrapbook |publisher=Samuel Weiser |ref={{SfnRef|Gilbert|1997}} }} *{{cite book|last=Goodrick-Clarke |first=Nicholas |year=2008 |title=The Wstern Esoteric Traditions |publisher=Oxford University Press |ref={{SfnRef|Goodrick-Clarke|2008}} }} *{{Cite book|和書|author=有澤玲 |year=1998 |title=秘密結社の事典 |publisher=柏書房 |ref={{SfnRef|有澤|1998}} }} ==関連項目== *[[タットワ]] *[[四拍呼吸]] *[[ルドルフ・シュタイナー]] *[[秘密の首領]] *[[銀の星]] *[[東方聖堂騎士団]] == 外部リンク == {{commonscat|Hermetic Order of the Golden Dawn}} * [https://web.archive.org/web/20170819103903/http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/magic/gdbakuro.htm リガルディと「黄金の夜明け」] * [http://anima-mystica.org/imn/gd/index.html 黄金の夜明け団]ANIMA MYSTICA * [http://www.kheper.net/topics/Hermeticism/index.html Hermeticism]Kheper * [http://www.hermetic.com/gdlibrary/gd-faq.html The Golden Dawn FAQ] (original from 1990s Usenet groups) * [http://www.llewellynencyclopedia.com/term/Golden+Dawn Golden Dawn entries in Llewellyn Encyclopedia] * [https://web.archive.org/web/20060208140522/http://altreligion.about.com/library/texts/bl_historygoldendawn.htm Golden Dawn Tradition, by co-founder Dr. W. Wynn Westcott] * [http://www.nli.ie/yeats/ Lots of GD material on display in Yeats exhibition including Ritual Notebooks.] * [http://www.angelfire.com/ab6/imuhtuk/rollcall.htm The Golden Dawn Roll Call] * {{Curlie|Society/Religion_and_Spirituality/Esoteric_and_Occult/Golden_Dawn|Golden Dawn}} * [https://doi.org/10.5281/zenodo.1101071 Hermetic Order of the Golden Dawn: Biographies of Members] * [http://www.themasonictrowel.com/Articles/General/other_files/the_seven_steps_of_wisdom_sria.htm The Masonic Trowel] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おうこんのよあけたん}} [[Category:神秘学]] [[Category:イギリスの歴史]] [[Category:秘密結社]] [[Category:西洋魔術の団体]] [[Category:ヘルメス主義]] [[Category:ヘルメス的カバラ]] [[Category:秘教]] [[Category:スピリチュアリティ関連団体]] [[Category:アレイスター・クロウリー]]
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書院
書院(しょいん)
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書院(しょいん) 書斎や、図書室として用いられる部屋、建物。 日本の建築様式のひとつ。書院造を参照。 書院 (ワープロ)。かつてシャープが販売していたワープロ専用機の名称。 出版社や書店などの名称に用いられる言葉。 東アジア近世の学校。書院 (東アジア)を参照。 韓国の書院。書院 (韓国)
'''書院'''(しょいん) *[[書斎]]や、図書室として用いられる部屋、建物。 *[[日本]]の建築様式のひとつ。[[書院造]]を参照。 *[[書院 (ワープロ)]]。かつて[[シャープ]]が販売していた[[ワープロ専用機]]の名称。 *[[出版社]]や[[書店]]などの名称に用いられる言葉。(例:[[医学書院]]・[[明治書院]]) *[[東アジア]][[近世]]の学校。[[書院 (東アジア)]]を参照。 **[[韓国]]の書院。{{仮リンク|書院 (韓国)|ko|서원}} {{aimai}} {{デフォルトソート:しよいん}}
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書院 (ワープロ)
書院 (しょいん) は、シャープ株式会社がかつて販売していたワープロ専用機のシリーズ。1979年から2003年まで生産されていた。名称は、商標登録(登録番号 日本第1534376号)されている。 「TOSWORD」「Rupo」(東芝)、「OASYS」(富士通)、「文豪」(NEC)と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。 ワープロ専用機の発売第一号は、1978年(昭和53年)発表、翌1979年(昭和54年)2月発売の東芝のJW-10である。シャープはそれに先立つ1977年(昭和52年)5月のビジネスシヨウにてワープロの試作品を参考出品していたが、商品化し発売したのは1979年9月であり、東芝の後塵を拝した。1979年9月に発売した商品化一号機の型番はWD-3000である。参考出品の試作機ではキーボードを用いたカナ漢字変換方式を実現していたとされるが、WD-3000ではペンタブレット入力方式を採用していた。キーボードの方が効率がよいと分かっていたが、「キーボードアレルギー」対策のため、としている文献がある。なお、当初から「書院」の愛称がつけられていた。 自社の液晶を重視する姿勢から、早期にCRTモデルを全廃し、液晶モデルへの切り替えが行われた。モノクロ時代には黒よりもグリーンやブルーの方が製造が簡単で安価なため一般的だったが、同社の液晶技術を活かした白黒LCDを採用した。液晶ディスプレイに透明のタッチパネルを重ね、タッチペンによって画面内の文字や罫線を直接編集したり、図を描いたりすることができる「ペン書院」もラインナップされていた。また画像を取り込むためのハンディタイプのイメージスキャナを搭載したモデルもある。 現在のパソコン等の日本語入力では一般的なAI辞書(学習機能と似ているが若干異なる)を書院においては比較的早期から導入していた。それ以外にも特徴的な機能として自動短縮変換(一回変換した単語は、次回から頭のかな一文字で変換される。例:1回目「たんご(変換)→単語」→2回目「た(変換)→単語」)や地名・人名などは変換時に変換文字の右側に米印(※)が表示され、一目で固有名詞と判別できる機能(変換を確定させると米印は消える)などが搭載され、多機能化を積極的に推進していた。 また、企業向けモデルにおいては、液晶ディスプレイならではのメリットを生かし、表示部が回転可能になっている(縦画面にするとA4文書相当の文字数が一画面に表示可能)、可動アームにより画面を任意の方向に向けられるなどのユニークな商品を提供していた。 家庭におけるパソコンの普及に押され、各メーカーともワープロ専用機の生産中止を決定していく中、シャープは最後まで生産を続けたが、ついに書院シリーズも2000年2月の「WD-CP2」を最後に新機種は出なくなり、2003年9月末に生産中止となった。最終機種は同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種だった。 なお生産終了後も電話による相談窓口が開設されていたが、2014年1月31日にワープロ専用機のサポートを完全に終了した。サポート末期には社員が保有している書院を提供して部品を確保していたという 書院シリーズのカタログは他の家電製品のように総合カタログというものはなく、各モデルごとに独立したものが発行されていた。 ワープロ専用機とはいえ、次第に表計算ソフトやはがき作成ソフト、文例作成ソフト(「直子の代筆」)、タイピング練習ソフト(「Missing Word ~失われた言葉を求めて~」)、そしてペン書院にはペン入力を利用したペイントソフトなど、徐々に様々なソフトが内蔵されるようになった。 またパソコン通信に接続するためのソフトやFAXモデムが用意されていたほか、インターネットが普及してからはウェブブラウザなども内蔵された。 電子メール作成機として販売された「アイプリメーラ」も書院ベースで開発されている。 他にもDOS/Vパソコンを同時搭載したPCシリーズ(書院パソコン)や、大学生協と共同で企画・開発したSRシリーズ(論文作成支援ディスクが付属、オプションとして化学構造式作成ソフト「ケミドロー」などの大学生協オリジナルソフトに対応)も書院ベースで製造されていた。 書院シリーズと同様の使用感で使えるワープロソフトが同社製パソコンMZ-2861(MZ書院)に標準搭載されていた。また同社のAXパソコンに同梱された「書院AX」は、MZ-2861のものをAX向けに改良したものである。Windows用にもワープロソフト「Power書院」が開発・販売されていたが、こちらも2003年12月末で開発・販売は完了し、ワープロソフト「書院」はその歴史に幕を下ろした。 その後もシャープの携帯電話およびPDAには富士ソフトのFSKARENのエンジンを用いた日本語入力システム「ケータイShoin」が搭載され名前自体は引き継がれていたが、2010年秋以降はiWnnが採用されたことにより一度は幕を下ろした。その後2015年夏モデルとして発売されたスマートフォンには日本語入力システム「S-Shoin(スーパーショイン)」が搭載され、ソフトに「書院」の名が5年ぶりに復活した。 (仕様別にわけた上で、年代順に列記した)
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書院 (しょいん) は、シャープ株式会社がかつて販売していたワープロ専用機のシリーズ。1979年から2003年まで生産されていた。名称は、商標登録(登録番号 日本第1534376号)されている。 「TOSWORD」「Rupo」(東芝)、「OASYS」(富士通)、「文豪」(NEC)と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。
{{出典の明記|date=2015年7月2日 (木) 09:02 (UTC)}} [[File:シャープ 書院 WD-J150.jpg|thumb|WD-J150]] '''書院''' (しょいん) は、[[シャープ]]株式会社がかつて販売していた[[ワードプロセッサ|ワープロ専用機]]のシリーズ。1979年から2003年まで生産されていた。名称は、[[商標]]登録(登録番号 日本第1534376号)されている。 「[[TOSWORD]]」「[[Rupo]]」([[東芝]])、「[[OASYS]]」([[富士通]])、「[[文豪]]」([[日本電気|NEC]])<!--時期の早い順に並べた-->と並んで日本語ワープロ専用機の4大ブランドの一角であった。 == 概要 == ワープロ専用機の発売第一号は、1978年(昭和53年)発表、翌1979年(昭和54年)2月発売の東芝の[[JW-10]]である。シャープはそれに先立つ1977年(昭和52年)5月の[[ビジネスシヨウ]]にてワープロの試作品を参考出品していたが、商品化し発売したのは1979年9月であり、東芝の後塵を拝した。1979年9月に発売した商品化一号機の型番はWD-3000である。参考出品の試作機では[[キーボード_(コンピュータ)|キーボード]]を用いたカナ漢字変換方式を実現していたとされるが、WD-3000では[[ペンタブレット]]入力方式を採用していた<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/info/history/only_one/jouhou_t/wp.html シャープの歩みオンリーワン・ヒストリー情報/通信関連製品<ワープロ>]</ref>。キーボードの方が効率がよいと分かっていたが、「キーボードアレルギー」対策のため、としている文献<ref>山根一眞『「メタルカラー」の時代』ISBN 4-09-379421-9 pp. 343-349</ref>がある。なお、当初から「書院」の愛称がつけられていた。 自社の液晶を重視する姿勢から、早期に[[ブラウン管|CRT]]モデルを全廃し、[[液晶ディスプレイ|液晶]]モデルへの切り替えが行われた。モノクロ時代には黒よりもグリーンやブルーの方が製造が簡単で安価なため一般的だったが、同社の液晶技術を活かした白黒LCDを採用した。液晶ディスプレイに透明の[[タッチパネル]]を重ね、タッチペンによって画面内の文字や罫線を直接編集したり、図を描いたりすることができる「ペン書院」もラインナップされていた。また画像を取り込むためのハンディタイプの[[イメージスキャナ]]を搭載したモデルもある。 現在のパソコン等の日本語入力では一般的なAI辞書(学習機能と似ているが若干異なる)を書院においては比較的早期から導入していた。それ以外にも特徴的な機能として自動短縮変換(一回変換した単語は、次回から頭のかな一文字で変換される。例:1回目「たんご(変換)→単語」→2回目「た(変換)→単語」)や地名・人名などは変換時に変換文字の右側に米印(※)が表示され、一目で[[固有名詞]]と判別できる機能(変換を確定させると米印は消える)などが搭載され、多機能化を積極的に推進していた。 また、企業向けモデルにおいては、液晶ディスプレイならではのメリットを生かし、表示部が回転可能になっている(縦画面にするとA4文書相当の文字数が一画面に表示可能)、可動アームにより画面を任意の方向に向けられるなどのユニークな商品を提供していた。 家庭における[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の普及に押され、各メーカーともワープロ専用機の生産中止を決定していく中、シャープは最後まで生産を続けたが、ついに書院シリーズも[[2000年]]2月の「WD-CP2」を最後に新機種は出なくなり、[[2003年]][[9月]]末に生産中止となった。最終機種は同機種と「WD-VP3」「WD-MF01」の3機種だった<ref>[http://www.sharp.co.jp/support/word/info050901-2.html 書院シリーズ、アイプリメーラ 補修用性能部品の保有期限]</ref>。 なお生産終了後も電話による相談窓口が開設されていたが、2014年1月31日にワープロ専用機のサポートを完全に終了した<ref>[https://www.sharp.co.jp/support/word/ ワープロ|サポート・お問い合わせ:シャープ]</ref>。サポート末期には社員が保有している書院を提供して部品を確保していたという<ref>[https://twitter.com/SharpGalapagos/status/429179417084973056 SHARP GALAPAGOS【公式】] - 公式ツイッター。</ref> 書院シリーズのカタログは他の家電製品のように総合カタログというものはなく、各モデルごとに独立したものが発行されていた。 == 内蔵ソフト == ワープロ専用機とはいえ、次第に[[表計算ソフト]]や[[はがき作成ソフト]]、文例作成ソフト(「[[直子の代筆]]」)、[[タイピング練習ソフト]](「[[Missing Word ~失われた言葉を求めて~]]」)、そしてペン書院にはペン入力を利用した[[ペイントソフト]]など、徐々に様々なソフトが内蔵されるようになった。 また[[パソコン通信]]に接続するためのソフトやFAXモデムが用意されていたほか、[[インターネット]]が普及してからは[[ウェブブラウザ]]なども内蔵された。 == 関連ソフト == [[電子メール]]作成機として販売された「アイプリメーラ」も書院ベースで開発されている。 他にもDOS/Vパソコンを同時搭載したPCシリーズ(書院パソコン)や、大学生協と共同で企画・開発したSRシリーズ(論文作成支援ディスクが付属、オプションとして化学構造式作成ソフト「ケミドロー」などの大学生協オリジナルソフトに対応)も書院ベースで製造されていた。 書院シリーズと同様の使用感で使える[[ワープロソフト]]が同社製パソコン[[MZ-2861]](MZ書院)に標準搭載されていた。また同社の[[AX]]パソコンに同梱された「書院AX」は、MZ-2861のものをAX向けに改良したものである。[[Microsoft Windows|Windows]]用にもワープロソフト「Power書院」が開発・販売されていたが、こちらも[[2003年]]12月末で開発・販売は完了し、ワープロソフト「書院」はその歴史に幕を下ろした。 その後もシャープの[[携帯電話]]および[[携帯情報端末|PDA]]には[[富士ソフト]]の[[FSKAREN]]のエンジンを用いた[[日本語入力システム]]「ケータイShoin」が搭載され名前自体は引き継がれていたが、2010年秋以降は[[Wnn|iWnn]]が採用されたことにより一度は幕を下ろした。その後2015年夏モデルとして発売された[[スマートフォン]]には日本語入力システム「S-Shoin(スーパーショイン)」が搭載され、ソフトに「書院」の名が5年ぶりに復活した。 == 主な機種 == (仕様別にわけた上で、年代順に列記した) * WD-500(1984年発売)- 「ミニ書院」。当時200万円以上の高級業務機用であった高品位文字パターンを用いる32ドット熱転写プリンタをパーソナル向けに業界初搭載。10文字1行表示液晶のポータブル機。カセットテープを記憶媒体に使用。価格33万円。1984年グッドデザイン賞受賞。 * WD-520/520H/521 - 9インチCRT、3.5インチFDD、32ドット熱転写プリンタを搭載した初のCRT一体型デスクトップ機。 * WD-540(1987年発売)- 9インチCRT、3.5インチFDD、32ドット熱転写プリンタ搭載のデスクトップ機。言葉の意味や文書の前後関係から自動的に解釈する業界初のAI辞書を搭載。 * WD-550(1988年発売)- 40字×20行表示の12インチCRT、3.5インチFDD搭載のデスクトップ機。12万語辞書を搭載。 * WV-500(1988年発売)- 640×400ドット液晶モニタ搭載の初のノートワープロ(A4サイズ、厚さ39.5mm、重さ1.6kg)。1989年には後継のWV-550を発売。 * WD-A610、WD-A710(1989年発売) - 10インチCRT、3.5インチFDD、56ドット熱転写プリンタ、アウトラインフォント搭載のデスクトップ機。A610はFDD1基、A710はFDD2基搭載モデル。1990年には後継のWD-A620/630、WD-A720/730を発売。 * WD-A800(1989年発売) - 10インチCRT、3.5インチFDD(2基)、64ドット熱転写プリンタ、アウトラインフォント搭載のハイエンドデスクトップ機。 * WD-A900(1989年発売) - 52ドットトリプルカセット方式カラー熱転写プリンタ搭載のカラー印刷対応デスクトップ機。10インチカラーCRT、3.5インチFDD(2基)、ハンディーカラースキャナを搭載。 === 白黒液晶 === * WD-A300(1989年発売) * WD-A330(1989年発売) * WD-HL30(1989年発売) * WD-A320(1990年発売) * WD-A340(1990年発売) * WD-A341(1990年発売) * WD-A540(1991年発売) * WD-A550(1991年発売) * WD-A551(1991年発売) * WD-A561(1991年発売) * WD-A570(1993年発売) * WD-Y330(1993年発売) * WD-Y340(1994年発売) * WD-Y380(1994年発売) * WD-Y390(1995年発売) * WD-Y550(1996年発売) * WD-J100(1996年発売) * WD-J150(1997年発売) * WD-J200(1998年発売) === 白黒液晶(Pen付)=== * WD-A760/A750 * WD-A761/A751 * WD-A780/A770 * WD-A950/A850 * WD-X300(1994年発売) * WD-X500(1994年発売) * WD-X600 * WD-X800(1995年発売) * WD-X870(1995年発売) === カラー画面(Pen無し) === * WD-C500(1995年発売) * WD-C700(1995年発売) * WD-C700VS(1995年発売) * WD-C10 (1997年発売) * WD-C20 (1998年発売) * WD-CP1 (1999年発売) * WD-CP2 (2000年発売) === カラー画面(Pen付)=== * WD-C900(1995年発売) * WD-M300(1995年発売) * WD-C530(1996年発売) * WD-M500(1996年発売) * WD-M600(1996年発売) * WD-M700(1997年発売) * WD-M710(1997年発売) * WD-M800(1997年発売) * WD-C50 (1997年発売) * WD-M900(1998年発売) * WD-EX1 (1998年発売) * WD-EX2 * WD-VP1 (1998年発売) * WD-VP2 (1999年発売) * WD-VP3 (1999年発売) === カラー画面(Pen付、HDD内蔵)=== * MR-1(1996年発売) * MR-2(1997年発売) * MR-3(1998年発売) === モバイル === * WV-500(1988年発売) A4サイズ * WV-550(1988年発売) A4サイズ * WV-700(1990年発売) * WV-S200(1992年発売) A5システム手帳サイズ、タッチペン * WV-S250(1992年発売) A5システム手帳サイズ、タッチペン * WM-C100(1998年発売) A5ファイルサイズ、カラー液晶 === 書院派生の大学生向けモデル === * WD-SRシリーズ === 書院派生のビジネスモデル === * WD-SBシリーズ === 書院派生のメール作成重視のモデル === * MA-10 アイプリメーラ === 書院機能とDOS/Vモードを併せ持つモデル === * PC-WDシリーズ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.sharp.co.jp/support/word/ ワープロ|サポート・お問い合わせ:シャープ] - 現在はサポート終了のお知らせのみが表示される。 * [http://www.sharp.co.jp/shoin/ SHOIN/SERIE PLAZA] - 書院でインターネットに接続したときの初期設定のオリジナルポータルサイト。 {{シャープ}} {{DEFAULTSORT:しよいん}} [[category:シャープの製品]] [[category:ワードプロセッサ]]
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ラーガ
ラーガ (राग / IAST: rāga) は、インド古典音楽の音楽理論に現れる旋法であると同時に、精神性の観点から説明すれば自然や宇宙の空気やリズムを表すものである。 北インドではラーグ (rāg) という。単数形ラーグあるいはラーガ、複数形ラーガム (रागं / rāgam)。サンスクリット語「色」「情熱」に由来する。 インド古典音楽の由来は古く、ヒンドゥー教におけるモクシャ(解脱)とカーマ (欲望)を目指す芸術として発展したものである。釈迦は娯楽目的の音楽を戒めたが、讃歌を詠唱することは奨励した。 例えば、仏教の正典である三蔵の多くには法の道を歩む者のためのダシャシラ(十戒)が記されているが、その中に「歌舞音曲、世俗的な見世物を禁ずる」という戒律がある。在俗の仏教徒は音楽や踊りを許されているが、仏教が重視してきたのはあくまでも讃歌であってラーガではない。 ラーガは踊りや音楽とともにヒンドゥー教に不可欠なものであり、ヒンドゥー教徒の中には音楽は霊魂修行であり、モクシャ(解脱)への過程であると考える者もいる。 ラーガは世界に元から存在していて、奏者はそれを発明するのではなく発見するだけであると、ヒンドゥーの伝統では信じられている。音楽が人間に訴えかける力を持つのは音楽にこそ世界の調和が現れるからだ、という思想もある。更には、ラーガは神の顕現とされ、その音符は複雑な人格を持つ神や女神として理解されていた。 ヒンドゥーの古典籍の中には、音楽をテーマとするものもあり 、例えばサーマ・ヴェーダ(紀元前1000年頃)はリグ・ヴェーダの一部を歌詞に旋律をつけた歌詠集である。 西暦1千年紀の半ば頃に起こったヒンドゥー教のバクティ運動においては、ラーガは精神性を追求する音楽の不可欠な要素となった。特にバジャンとキルタンが、南インドの初期バクティ派によって作曲・演奏された。バジャンは、旋律的ラーガを土台にした自由形式の礼拝用音楽である。キルタンは、より多面的な構成のある合奏音楽で、問答や論議に似た掛け合いの形式を持っている。後者は複数の楽器を使用し 、ヒンドゥー教の神々であるシヴァ(Bhairava)やクリシュナ(Hindola)に関連したものなど、様々なラーガを取り入れている。 13世紀初頭にマハーラーシュトラ州のヤーダヴァ王朝のシガナ王の庇護を受けたシャールンガデヴァが著したサンスクリット語の典籍『サンギータ・ラトゥナーカラ』には、253のラーガが解説されている。これは現存するラーガの構造、技法、理論に関する最も体系的な論考の一つである。 ラーガを宗教的音楽に取り入れる伝統は、ジャイナ教や、インド亜大陸北西部でナーナクが創始したインドの宗教であるシク教にも見られる。 シク教の経典では、聖句は個々のラーガに付随し、そのラーガの規則に従って歌われる 。シク教とパンジャビ教の研究者パシャウラ・シング教授によると、古代インドの伝統的なラーガとターラ(インド古典音楽の拍節法:英語版)は、シク教のグルたちによって宗教歌に組み込まれたという。更には、シク教のキルタンを演奏するのにヒンドゥー音楽の伝統的楽器が使われた。 インド亜大陸のイスラム統治時代、特に15世紀以降、イスラムの神秘主義であるスーフィズムは、カッワーリーと呼ばれる礼拝的な歌と音楽を発展させたが、それにはラーガやターラの要素が取り込まれた。 ラーガは、結果の音だけに着目すればインドで使用される非常にきめの細かい旋法と言えるが、正確には森羅万象を含む宇宙と一体化した精神状態を音として表現する行為全体を指す。ラーガの発音は割りきれない微妙なピッチの変化を含むため、正確な記号化は不可能で、口伝による習得が基本となる。従って、音階と同一視してはならない。音階はあくまでもラーガの構成要素の一部でしかない。 ラーガは基本的に旋律を構築するための規則で、音列と同時に、メロディーの上行・下降の動きを定めるものである。つまり、音列上の特定の音をより強調する、より控え目にする、装飾音をつける、ビブラート等の規則があり、さらに使用すべき旋律形および避けるべき旋律形等の規則が存在する。それらの規則の枠組みの中で作曲や即興演奏がなされることにより、そのメロディーがどのラーガであるかが判別することが可能となり、その規則のなかでの無限の変奏が可能となる。 各々のラーガには演奏するのにふさわしい時間帯が決められている。真夜中のラーガ(ミ♭、シ♭を使う)、夜明け前のラーガ(レ♭、ラ♭を主に使う)、日の出のラーガ(レ♭、ミ♭を使う)、という具合に、24時間を10の区分に分けている。また、ラーガには込めるべき感情(ラサ)が10種類規定されている。形式の古いラーガほど感情は抑制され、神への献身や祈りが中心となる。 ラーガを西洋の音階で正確に表すことはできないが、ほぼ対応する音があるので、ここでは便宜的に西洋の音階を援用して説明する。 この12の音はスヴァラと呼ばれる。基本のスヴァラSa Ri Ga Ma Pa Dha Niは、西洋のドレミファソラシとほぼ同じものである。 この12のスヴァラから、5–7音を取って音階とする。音階にはそれぞれ名前も付いており例えば である。音が上昇する時、下降する時には決まったスヴァラが用いられ、上昇途中、下降途中にはこれから外れる音は入らない。ただし、奏者が時々あえてこの規則を崩して芸術性を持たせることもある。 また、この12の音がスヴァラから外れた音を指定することができ、よりフラットな第2音、よりシャープな第7音に変更も可能である。更に、そのような変化がスタイル間に生じ、演奏者、あるいは単に演奏者のムードに続く。絶対音高は存在せず、各実行は単に基本音を取り、他の音階程度は基音に比べて続く。 インド文化はざっと北と南に分割することができ、北インドの音楽はほとんどが即興で演奏されるのに対し、南インドの音楽はあらかじめ作曲された音楽を演奏する場合が多い。 南インドでは、中世に72の基本となるラーガと各483種類の派生ラーガという大系に再編成された。全部で34,776種類のラーガが存在することになるが、全てのラーガを覚えた人間はいないという。 北インドのラーガは即興演奏をする上でテーマとなる基本旋法であり、そのラーガにない音は使ってはならないなどの決まり事を含むために、演奏家は必ず覚えなくてはならない。北インドのラーガはイスラム文化の流入によって西アジアや民謡などが取り入れられたために、基本や派生といった明確な大系がなかった。ラーガ・ラーキニ・プトラ法や音楽学者ヴィシュヌ・ナラヤン・バートカンデによる10のタート(thaats:音列)を基本とした分類法などで大系づけが試みられている。 ラーガはこれまでに成文化されたことがなく教師から生徒へ口頭で伝えられたために、中には地域、伝統および様式に応じて非常に異なる変種が存在し、極端な場合音楽家は即興で自分で作ってしまう。 インドの古典音楽は常にラーガで編曲されるが、すべてのラーガ音楽は必ずしも古典であるとは限らない。古代ヴェーダの朗唱から発展したインド音楽はスーフィズムの影響を受けながら発展し、15世紀にドゥルパッド形式の音楽が完成する。18世紀初頭にはカッワーリーの影響を受けたカヤール形式が流行した。カヤール形式はドゥルパッド形式よりも感情表現のしやすい音楽だった。19世紀にはさらに聴きやすく感情表現が容易なトゥムリ形式が登場する。この3種類の形式を古典音楽とし、古い形式の音楽ほど格式が上とされている。近年では、大衆的なイスラムの恋愛歌であるガザルが準古典音楽とされているが、これも常識の変化によるものである。 ラーガは単に音階理論というだけではなく、哲学的、精神的なバックグラウンドがあり、時刻や季節への制約は宇宙の運行と関連があると言われている。しかし、近年では録音技術の普及によって、音楽を聴いたり演奏したりする時期や時間制約の必然性が失われつつある。「朝のラーガ」、のようなラーガの約束事の一つである時間的制約の意味は薄れつつあるというものの、伝統的な修行過程では必ずいつどのラーガを演奏するのかがきめ細かく教えられ、現在でもこれを尊重する音楽家は多い。
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ラーガ は、インド古典音楽の音楽理論に現れる旋法であると同時に、精神性の観点から説明すれば自然や宇宙の空気やリズムを表すものである。 北インドではラーグ (rāg) という。単数形ラーグあるいはラーガ、複数形ラーガム。サンスクリット語「色」「情熱」に由来する。
{{Otheruses|音楽理論|煩悩|貪|その他|ラガ (曖昧さ回避)}} '''ラーガ''' (राग / [[IAST]]: rāga) は、[[インドの伝統音楽|インド古典音楽]]の[[音楽理論]]に現れる[[旋法]]であると同時に、精神性の観点から説明すれば[[自然]]や[[宇宙]]の空気やリズムを表すものである<ref name=":0" />。 [[北インド]]ではラーグ (rāg) という。単数形ラーグあるいはラーガ、複数形ラーガム (रागं / rāgam)。サンスクリット語「色」「情熱」に由来する<ref>{{cite web |url=https://www.britannica.com/art/raga|title="Raga." ''Encyclopedia Britannica''|last=Nettl|first=Bruno|date=September 13, 2013|website=www.britannica.com|publisher= |access-date=June 18 2021}}</ref>。<!-- 「心を彩るもの」の意味もあるとされるが、参照可能な文献が見つからない。ただし英語版には"coloring, tingeing, dying"(彩る、薄く染める、染める)とあるが、出典が手に入らないため保留する。--> == 歴史 == インド古典音楽の由来は古く、[[ヒンドゥー教]]におけるモクシャ([[解脱]])と[[カーマ (ヒンドゥー教)|カーマ ]](欲望)を目指す芸術として発展したものである。[[釈迦]]は娯楽目的の音楽を戒めたが、讃歌を詠唱することは奨励した<ref name="Tokita2008p38">{{cite book|author1=Alison Tokita|author2=Dr. David W. 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Carbine|title=The Life of Buddhism|url=https://books.google.com/books?id=OnjDUqgFvToC&pg=PA184|year=2000|publisher=University of California Press|isbn=978-0-520-21105-6|page=184}}</ref>。在俗の仏教徒は音楽や踊りを許されているが、仏教が重視してきたのはあくまでも讃歌であってラーガではない<ref name="Tokita2008p38"/>。 ラーガは踊りや音楽とともにヒンドゥー教に不可欠なものであり、ヒンドゥー教徒の中には音楽は霊魂修行であり、モクシャ([[解脱]])への過程であると考える者もいる<ref name= Thompson1694>{{cite book|author=William Forde Thompson|title =Music in the Social and Behavioral Sciences: An Encyclopedia|url =https://books.google.com/books?id=kpmlBQAAQBAJ&pg=PT1694| year=2014 |publisher=SAGE Publications|isbn=978-1-4833-6558-9|pages=1693–1694}}; Quote: "Some Hindus believe that music is one path to achieving moksha, or liberation from the cycle of rebirth", (...) "The principles underlying this music are found in the Samaveda, (...)".</ref><ref name=mog17>{{cite web|title=The Mirror of Gesture|author=Coormaraswamy and Duggirala|publisher=Harvard University Press|year=1917| page=4| url= https://archive.org/stream/cu31924012568535#page/n5/mode/2up|accessdate=2016-12-13}}; Also see chapter 36</ref>{{Sfn|Beck|2012|pp=138–139. Quote: "A summation of the signal importance of the Natyasastra for Hindu religion and culture has been provided by Susan {{harvtxt|Schwartz|2004|p=13}}, 'In short, the Natyasastra is an exhaustive encyclopedic dissertation of the arts, with an emphasis on performing arts as its central feature. It is also full of invocations to deities, acknowledging the divine origins of the arts and the central role of performance arts in achieving divine goals (...)'".}}。 ラーガは世界に元から存在していて{{Sfn|Dalal|2014|p=323}}、奏者はそれを発明するのではなく発見するだけであると、ヒンドゥーの伝統では信じられている。音楽が人間に訴えかける力を持つのは音楽にこそ世界の調和が現れるからだ、という思想もある{{Sfn|Dalal|2014|p=323}}。更には、ラーガは神の顕現とされ、その音符は複雑な人格を持つ神や女神として理解されていた{{Sfn|Te Nijenhuis|1974|p=2}}。 ヒンドゥーの古典籍の中には、音楽をテーマとするものもあり<ref name= Thompson1694/>{{Sfn|Beck|1993|pp=107–108}} 、例えば[[サーマ・ヴェーダ]](紀元前1000年頃)は[[リグ・ヴェーダ]]の一部を歌詞に旋律をつけた歌詠集である{{Sfn|Staal|2009|pp=4–5}}。<!-- 十世紀以前の歴史は? --> 西暦1千年紀の半ば頃に起こったヒンドゥー教の[[バクティ|バクティ運動]]においては、ラーガは精神性を追求する音楽の不可欠な要素となった。特に[[バジャン]]と[[キルタン]]が、南インドの初期バクティ派によって作曲・演奏された。バジャンは、旋律的ラーガを土台にした自由形式の礼拝用音楽である<ref name="CushRobinson2012p87">{{cite book|author1=Denise Cush|author2=Catherine Robinson|author3=Michael York|title=Encyclopedia of Hinduism|url=https://books.google.com/books?id=kzPgCgAAQBAJ&pg=PA87 |year=2012|publisher=Routledge|isbn=978-1-135-18979-2 |pages=87–88 }}</ref>{{sfn|Nettl et al.|1998|pp=247–253}}。キルタンは、より多面的な構成のある合奏音楽で、問答や論議に似た掛け合いの形式を持っている。後者は複数の楽器を使用し{{Sfn|Lavezzoli|2006|pp=371–72}}{{sfn|Brown|2014|p=455, Quote:"Kirtan, (...), is the congregational singing of sacred chants and mantras in call-and-response format."; Also see, pp. 457, 474–475}} 、ヒンドゥー教の神々である[[シヴァ]](Bhairava)や[[クリシュナ]](Hindola)に関連したものなど、様々なラーガを取り入れている<ref>{{cite book|author1=Gregory D. Booth|author2=Bradley Shope|title=More Than Bollywood: Studies in Indian Popular Music |url=https://books.google.com/books?id=kFwWDAAAQBAJ&pg=PA295 |year=2014|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-992883-5|pages=65, 295–298}}</ref>。 13世紀初頭に[[マハーラーシュトラ州]]のヤーダヴァ王朝のシガナ王の庇護を受けた[[シャールンガデヴァ]]が著したサンスクリット語の典籍『[[サンギータ・ラトゥナーカラ]]』には、253のラーガが解説されている。これは現存するラーガの構造、技法、理論に関する最も体系的な論考の一つである{{Sfn|Rowell|2015|pp=12–13}}{{Sfn|Sastri|1943|pp=v–vi, ix–x (English), for ''raga'' discussion see pp. 169–274 (Sanskrit)}}{{Sfn|Powers|1984|pp=352–353}}。 ラーガを宗教的音楽に取り入れる伝統は、[[ジャイナ教]]や{{Sfn|Kelting|2001|pp=28–29, 84}}、インド亜大陸北西部で[[ナーナク]]が創始したインドの宗教である[[シク教]]にも見られる<ref>{{cite book|author1=Kristen Haar|author2=Sewa Singh Kalsi|title=Sikhism|url=https://books.google.com/books?id=YOI1nB_zTyAC |year=2009|publisher=Infobase |isbn=978-1-4381-0647-2 |pages=60–61}}</ref>。 [[シク教]]の経典では、聖句は個々のラーガに付随し、そのラーガの規則に従って歌われる<ref>{{cite book|author=Stephen Breck Reid|title=Psalms and Practice: Worship, Virtue, and Authority|url=https://books.google.com/books?id=OyGqWnBY4KIC&pg=PA13|year=2001|publisher=Liturgical Press|isbn=978-0-8146-5080-6|pages=13–14}}</ref><ref name="Beck2006p156">{{cite book|author=Pashaura Singh|editor=Guy L. Beck|title=Sacred Sound: Experiencing Music in World Religions|url=https://books.google.com/books?id=t-IeHbqAfSsC&pg=PA156|year=2006|publisher=Wilfrid Laurier University Press|isbn=978-0-88920-421-8|pages=156–60}}</ref>  。シク教と[[パンジャビ教]]の研究者パシャウラ・シング教授によると、古代インドの伝統的なラーガと[[ターラ]](インド古典音楽の拍節法:[[:en:Tala (music)|<small>英語版</small>]])は、シク教のグルたちによって宗教歌に組み込まれたという。更には、シク教のキルタンを演奏するのにヒンドゥー音楽の伝統的楽器が使われた<ref name="Beck2006p156" />。 インド亜大陸のイスラム統治時代、特に15世紀以降、イスラムの神秘主義である[[スーフィズム]]は、[[カッワーリー]]と呼ばれる礼拝的な歌と音楽を発展させたが、それにはラーガやターラの要素が取り込まれた<ref>{{cite book|author=Paul Vernon|title=Ethnic and Vernacular Music, 1898–1960: A Resource and Guide to Recordings|url=https://books.google.com/books?id=gw--_c_LZMIC&pg=PA256 |year=1995|publisher=Greenwood Publishing|isbn=978-0-313-29553-9|page=256}}</ref><ref>{{cite book|author=Regula Qureshi|title=Sufi Music of India and Pakistan: Sound, Context and Meaning in Qawwali|url=https://books.google.com/books?id=c3o9AAAAIAAJ|year=1986|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-26767-0|pages=xiii, 22–24, 32, 47–53, 79–85}}</ref>。 == 理論 == ラーガは、結果の[[音]]だけに着目すれば[[インド]]で使用される非常にきめの細かい[[旋法]]と言えるが、正確には[[森羅万象]]を含む[[宇宙]]と一体化した精神状態を[[音]]として[[表現]]する[[行為]]全体を指す<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=上利博規 |date=2006-03 |url=https://doi.org/10.14945/00005076 |title=呼吸する身体から考えるインドの音楽 |journal=アジア研究 |publisher=静岡大学人文学部「アジア研究プロジェクト」 |volume=2 |pages=1-15 |doi=10.14945/00005076 |hdl=10297/5076 |CRID=1390572174756901888 |access-date=2023-11-06}}</ref>。ラーガの発音は割りきれない微妙なピッチの変化を含むため、正確な記号化は不可能で、口伝による習得が基本となる<ref name=":0" />。従って、[[音階]]と同一視してはならない。音階はあくまでもラーガの構成要素の一部でしかない。 ラーガは基本的に[[旋律]]を構築するための規則で、[[音列]]と同時に、メロディーの上行・下降の動きを定めるものである。つまり、音列上の特定の音をより強調する、より控え目にする、装飾音をつける、[[ビブラート]]等の規則があり、さらに使用すべき旋律形および避けるべき旋律形等の規則が存在する。それらの規則の枠組みの中で作曲や[[即興演奏]]がなされることにより、そのメロディーがどのラーガであるかが判別することが可能となり、その規則のなかでの無限の変奏が可能となる。 各々のラーガには演奏するのにふさわしい時間帯が決められている。真夜中のラーガ(ミ♭、シ♭を使う)、夜明け前のラーガ(レ♭、ラ♭を主に使う)、日の出のラーガ(レ♭、ミ♭を使う)、という具合に、24時間を10の区分に分けている<ref name="motto">[[若林忠宏]]『もっと知りたい 世界の民族音楽』東京堂出版、2003年、ISBN 449020504X pp.136-137.</ref>。また、ラーガには込めるべき感情(ラサ)が10種類規定されている。形式の古いラーガほど感情は抑制され、神への献身や祈りが中心となる<ref name="Tamori">田森雅一『インド音楽との対話』青弓社 1990年 pp.148-163.</ref>。 ラーガを西洋の音階で正確に表すことはできないが、ほぼ対応する音があるので、ここでは便宜的に西洋の音階を援用して説明する。 {| class="wikitable" border="1" |- ! インド音名<ref name=dav>{{Cite book|和書 |author = B.C.デーヴァ |year = 1994 |title = インド音楽序説 |publisher = [[東方出版]] |isbn = |ref = dav }}</ref> !! 略号 !! 西洋音名 |- | シャドジャ || Sa || ド |- | ヴィクリタ・リシャバ || ri || レ♭ |- | リシャバ|| Ri || レ |- | ヴィクリタ・ガーンダーラ || ga || ミ♭ |- | ガーンダーラ || Ga || ミ |- | マディヤマ || Ma || ファ |- | ヴィクリタ・マディヤマ || ma || ファ# |- | パンチャマ || Pa || ソ |- | ヴィクリタ・ダイヴァタ || dha || ラ♭ |- | ダイヴァタ || Dha || ラ |- | ヴィクリタ・ニシャーダ || ni || シ♭ |- | ニシャーダ || Ni || シ |} この12の音はスヴァラと呼ばれる。基本のスヴァラSa Ri Ga Ma Pa Dha Niは、西洋のドレミファソラシとほぼ同じものである。 この12のスヴァラから、5–7音を取って音階とする。音階にはそれぞれ名前も付いており例えば *ブーパーリー: ドレミソラ / ラソミレド (夜) *ドゥルガー・カリヤーン: ドレミファ#ソラシド<sup>-</sup> / ド<sup>-</sup>シラソファ#ミレ ファレラ<sub>-</sub>ド (夜) である。音が上昇する時、下降する時には決まったスヴァラが用いられ、上昇途中、下降途中にはこれから外れる音は入らない。ただし、奏者が時々あえてこの規則を崩して芸術性を持たせることもある<ref name=dav/>。 また、この12の音がスヴァラから外れた音を指定することができ、よりフラットな第2音、よりシャープな第7音に変更も可能である。更に、そのような変化がスタイル間に生じ、演奏者、あるいは単に演奏者のムードに続く。絶対音高は存在せず、各実行は単に基本音を取り、他の音階程度は基音に比べて続く。 == 地域差 == [[インド文化]]はざっと北と南に分割することができ、北インドの音楽はほとんどが即興で演奏されるのに対し、南インドの音楽はあらかじめ作曲された音楽を演奏する場合が多い。 南インドでは、中世に72の基本となるラーガと各483種類の派生ラーガという大系に再編成された。全部で34,776種類のラーガが存在することになるが、全てのラーガを覚えた人間はいないという<ref>[[若林忠宏]]監修『国際理解に役立つ 世界の民族音楽:<3> 南アジアと中央アジアの音楽』ポプラ社、2003年、ISBN 4591075281 p.37.</ref>。 北インドのラーガは即興演奏をする上でテーマとなる基本旋法であり、そのラーガにない音は使ってはならないなどの決まり事を含むために、演奏家は必ず覚えなくてはならない<ref name="motto"/>。北インドのラーガはイスラム文化の流入によって西アジアや民謡などが取り入れられたために、基本や派生といった明確な大系がなかった。ラーガ・ラーキニ・プトラ法や音楽学者ヴィシュヌ・ナラヤン・バートカンデによる10のタート(thaats:音列)を基本とした分類法などで大系づけが試みられている<ref name="motto"/>。 == 実態 == ラーガはこれまでに成文化されたことがなく教師から生徒へ口頭で伝えられたために、中には地域、伝統および様式に応じて非常に異なる変種が存在し、極端な場合音楽家は即興で自分で作ってしまう。 インドの古典音楽は常にラーガで編曲されるが、すべてのラーガ音楽は必ずしも古典であるとは限らない。古代[[ヴェーダ]]の朗唱から発展したインド音楽は[[スーフィズム]]の影響を受けながら発展し、15世紀にドゥルパッド形式の音楽が完成する。18世紀初頭には[[カッワーリー]]の影響を受けたカヤール形式が流行した。カヤール形式はドゥルパッド形式よりも感情表現のしやすい音楽だった。19世紀にはさらに聴きやすく感情表現が容易なトゥムリ形式が登場する。この3種類の形式を古典音楽とし、古い形式の音楽ほど格式が上とされている<ref name="Tamori"/>。近年では、大衆的なイスラムの恋愛歌である[[ガザル]]が準古典音楽とされているが、これも常識の変化によるものである。 ラーガは単に音階理論というだけではなく、哲学的、精神的なバックグラウンドがあり、時刻や季節への制約は宇宙の運行と関連があると言われている<ref name="Tamori"/>。しかし、近年では[[録音]]技術の普及によって、音楽を聴いたり演奏したりする時期や時間制約の必然性が失われつつある。「朝のラーガ」、のようなラーガの約束事の一つである時間的制約の意味は薄れつつあるというものの、伝統的な修行過程では必ずいつどのラーガを演奏するのかがきめ細かく教えられ、現在でもこれを尊重する音楽家は多い。 ==脚注== {{Reflist}} ==参考文献== *Bhatkhande, Vishnu Narayan (1968–73), Kramika Pustaka Malika, Hathras: Sangeet Karyalaya. *Bor, Joep (1999), The Rāga Guide, Charlottesville,Virginia: Nimbus Records *Daniélou, Alain (1949), Northern Indian Music, Calcutta: Visva Bharati *Jairazbhoy, N.A. (1995), The Rags of North Indian Music: Their Structure & Evolution, Bombay: Popular Prakashan *Kaufmann, Walter (1968), The Ragas of North India, Calcutta: Oxford & IBH Publishing Company *Moutal, Patrick (2012), Hindustani Raga Index. Major bibliographical references (descriptions, compositions, vistara-s) on North Indian Raga-s, ISBN 978-2-9541244-3-8 *Moutal, Patrick (2012), Comparative Study of Selected Hindustani Ragas, ISBN 978-2-9541244-2-1 *Bautze, J (1987), Indian Miniature Paintings c:1590 to c. 1850, Amsterdam: Galerie Saundarya Lahari, ISBN 90-72085-01-9 *Gangoly, O.C. (1934), Rāgas and Rāginis, Calcutta *Friedrich Glorian: Indische Ragas - Inhalt und Struktur. In: Harmonik & Glasperlenspiel. Beiträge '94. München 1995, S. 41–98 (PDF-Datei) *Josef Kuckertz: Form und Melodiebildung der karnatischen Musik Südindiens – im Umkreis der vorderorientalischen und der nordindischen Kunstmusik. (Schriftenreihe des Südasien-Instituts der Universität Heidelberg) Band 1, Harrassowitz, Wiesbaden 1970, S. 81–226, ISBN 3-447-00011-2 *Marius Schneider: „Raga - Maqam - Nomos“, in: Die Musik in Geschichte und Gegenwart. Band 10, Kassel 1962, S. 1864–1868. *Patrick Moutal, Hindustani Raga Sangita - Mécanismes de base de la musique classique du nord de l'Inde, 2012 (2e édition, 1re éd. 1987) ISBN 978-2-9541244-0-7 *Prithwindra Mukherjee, The Scales of Indian Music : A Cognitive Approach to Thât/Melakartâ, Foreword by Pandit Ravi Shankar. Indira Gandhi National Centre for the Arts & Aryan Books International, New Delhi, 2004, 438p *Prithwindra Mukherjee, Thât/Mélakartâ, Les échelles fondamentales de la musique indienne du Nord et du Sud, préface par Pandit Ravi Shankar, Publibook, Paris, 2010 ==関連項目== *[[マカーム]] *[[音階]] *[[旋法]] *[[ガンダルヴァ・ヴェーダ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らあか}} [[Category:民族音楽]] [[Category:インドの音楽]] [[Category:旋法]]
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ウィリアム・シェイクスピア
ウィリアム・シェイクスピア(英語: William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。 出生地はストラトフォード=アポン=エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1613年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、特に『ソネット集』は今日でも最高の詩編の一つとされている。 2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。 シェークスピア、シェークスペーヤ、シェークスピーヤとも。 「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国語での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。日本に作品が伝わってまもない明治時代などでは「沙翁」と表記されたこともある。 本節ではウィリアム・シェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については作品の節を参照。 ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランド王国のストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリー・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。 エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったため、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行うのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠に基づいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギオス(聖ジョージ)を記念するゲオルギオスの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。 シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である。 父はシェイクスピアの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。 シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校(英語版)に通ったであろうと推定されている。校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源に何ら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行われていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである。 シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』("The Two Menaechmuses")との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である。 1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイと結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されているため、結婚式がそこで行われた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このとき、アンはすでに妊娠3か月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。 結婚後、妻のアン・ハサウェイは悪妻と化した為、家庭生活は不幸だったと言われている。 1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行われた。 結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれる。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などいくつかの伝説が残っているが、いずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である。 シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンが1581年8月3日付で異母弟トーマス・ホートンに記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、弟が役者たちの面倒を見ない場合はこれらを親族サー・トマス・ヘスケスへ贈ることを書いた部分に加え、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト(William Shakeshaft)」の面倒を見てやってほしいというヘスケスへの要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。 ランカシャー説を取る研究者(ジョン・ジョゼフ・バグリー、結城雅秀、河合祥一郎など)は後にシェイクスピアと交流を深める役者たちが別の劇団に入っていたことに注目、シェイクスピアも彼等がいた劇団で役者として入ったと推測している。ホートンやヘスケスと親しい第4代ダービー伯爵ヘンリー・スタンリー(英語版)がヘスケスの隣人で、長男のストレンジ卿ファーディナンド・スタンリー(後の第5代ダービー伯爵)が抱える劇団『ストレンジ卿一座(英語版)』に前述の役者たちが所属、かつシェイクスピアの初期の作品が上演されているからであり、ホートン家を去ったシェイクスピアはヘスケスの紹介でストレンジ卿一座に入り、リチャード・バーベッジら役者たちと知り合い、戯曲を書きあげていったとされている。なお、1592年3月3日にシェイクスピアのデビュー作である『ヘンリー六世 第1部』はストレンジ卿一座がローズ座で上演している。 1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』("Greene's Groatsworth of Wit")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている。 1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座(英語版)として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣(英語版)の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは1593年に出版した物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯の友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーに献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃に作られたと言われ、オックスフォードで海軍大臣一座(英語版)のパトロンである海軍卿(英語版)のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワード、ペンブルック伯一座(英語版)のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)とサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる。 しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。1601年2月8日にサウサンプトン伯が友人の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世の側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が25日に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の2月7日にグローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった。 1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている。 高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころ、シェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年にふたたび申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は“Non sanz droict”(フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである。 1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色(英語版)』では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる。 シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる。 シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人を務めた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。 法的問題や商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。 シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている。時のイギリスは新興国のネーデルラント連邦共和国との熾烈な貿易競争のなかで形勢が不利になっていた。 シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。 1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐ったニシンから伝染した感染症であるとされる。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。 シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナントの実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント(1656年 - 1714年、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実であれば、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも18世紀の初めまで存続したことになる。 シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所にもっとも近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられるシェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアが自ら書いたものと考えられている。 シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。 没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。 シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中でもっとも優れた文学作品として評価されている。1623年にジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによって編纂されたファースト・フォリオにおいて、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、その全てが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている。 当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『ハムレット』(1601年ごろ)は現存していない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであることや、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている。また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、古代ローマや古代ギリシアを舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料としておもに用いたテキストは2つある。前者の材源はプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース(Thomas North)による1579年の英語訳)であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』("The Chronicles of England, Scotland, and Ireland"、1587年の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『マクベス』や『リア王』の素材ともなっている。またシェイクスピアは同時代の劇作家クリストファー・マーロウの文体を借用していると考えられることもある。シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみてもっとも独創的といえるのは『テンペスト』である。 シェイクスピアの戯曲のいくつかは四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。 シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる。こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる。 一つの作品について極端に異なる二つのバージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる。それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。たとえば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のバージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン(英語版)以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのバージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著"The Division of the Kingdom"において、『リア王』にみられるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。 シェイクスピアの劇作家としての活動は1592年ごろから始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年にはロバート・グリーンの著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。 最初期の史劇『ヘンリー六世』三部作(1590年 - 1592年)を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。 ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色づけがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。 1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、このころから次第に軽やかさが影を潜めていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の四大悲劇と言われる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さを持つため、19世紀以降は「問題劇」と呼ばれている。 『アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などのあと、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットのほかに、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。 シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある。 推定執筆年代は、リヴァサイド版全集による。 戯曲の執筆数は一般に37本とされるが、他の作家との合作をシェイクスピア作とみなすかどうかで研究者により違いがあり、「約40本」とされることもある。全37作を翻訳した文学者や、全作上演を目指している劇場(彩の国さいたま芸術劇場)もある。 Rはロマンス劇、Pは問題劇ともカテゴライズされる作品である。 シェイクスピア自身に関する資料は少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかという主張や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかという主張もある。真の作者として推定された人物には哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィルなどがいる。 英文学者でまともに別人説を取上げる人は見当たらないが、河合祥一郎は別人説を否定するための著書を出している。全戯曲を翻訳した小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と別人説を一蹴している。 2016年には、フロリダ州立大学のゲイリー・テイラーらが、ビッグデータにより社会方言や言語習慣を検証した結果、ヘンリー六世などの17作品がクリストファー・マーロウとの共作であるとの結論を得た。 シェイクスピア庭園はシェイクスピア作品に記載されている植物を栽培するテーマ庭園で、英語を話す国、特にアメリカ でこれらは公園、大学、シェイクスピア祭りに関連する公共の庭であり、シェイクスピア庭園は文化的、教育的、そしてロマンチックな趣味のスポット、屋外での結婚式にも最適な場所である。 植物の説明看板は通常、適切な引用を提供、シェイクスピアの庭には通常は草本が豊富、またツゲの仕切りがある幾何学的なレイアウトで数十種類の種が含まれている。典型的なアメニティには遊歩道やベンチ、そして耐候性に優れたシェイクスピアの胸像があり、エリザベス朝建築の複製を伴うこともある。いくつかはまたエリザベス朝時代の典型的な種を育てているが、シェイクスピアの劇や詩ではそこまでは言及されていない。 各作品の派生作品については、その作品の記事を参照のこと 日本で最初の完全な形で翻訳されたシェイクスピア劇は『ジュリアス・シーザー』で、1883年に河島敬蔵の訳で大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に連載された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウィリアム・シェイクスピア(英語: William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "出生地はストラトフォード=アポン=エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1613年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、特に『ソネット集』は今日でも最高の詩編の一つとされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シェークスピア、シェークスペーヤ、シェークスピーヤとも。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国語での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。日本に作品が伝わってまもない明治時代などでは「沙翁」と表記されたこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本節ではウィリアム・シェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については作品の節を参照。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランド王国のストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリー・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったため、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行うのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠に基づいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギオス(聖ジョージ)を記念するゲオルギオスの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "父はシェイクスピアの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校(英語版)に通ったであろうと推定されている。校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源に何ら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行われていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』(\"The Two Menaechmuses\")との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイと結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されているため、結婚式がそこで行われた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このとき、アンはすでに妊娠3か月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。 結婚後、妻のアン・ハサウェイは悪妻と化した為、家庭生活は不幸だったと言われている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれる。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などいくつかの伝説が残っているが、いずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンが1581年8月3日付で異母弟トーマス・ホートンに記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、弟が役者たちの面倒を見ない場合はこれらを親族サー・トマス・ヘスケスへ贈ることを書いた部分に加え、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト(William Shakeshaft)」の面倒を見てやってほしいというヘスケスへの要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ランカシャー説を取る研究者(ジョン・ジョゼフ・バグリー、結城雅秀、河合祥一郎など)は後にシェイクスピアと交流を深める役者たちが別の劇団に入っていたことに注目、シェイクスピアも彼等がいた劇団で役者として入ったと推測している。ホートンやヘスケスと親しい第4代ダービー伯爵ヘンリー・スタンリー(英語版)がヘスケスの隣人で、長男のストレンジ卿ファーディナンド・スタンリー(後の第5代ダービー伯爵)が抱える劇団『ストレンジ卿一座(英語版)』に前述の役者たちが所属、かつシェイクスピアの初期の作品が上演されているからであり、ホートン家を去ったシェイクスピアはヘスケスの紹介でストレンジ卿一座に入り、リチャード・バーベッジら役者たちと知り合い、戯曲を書きあげていったとされている。なお、1592年3月3日にシェイクスピアのデビュー作である『ヘンリー六世 第1部』はストレンジ卿一座がローズ座で上演している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』(\"Greene's Groatsworth of Wit\")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座(英語版)として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣(英語版)の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは1593年に出版した物語詩『ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯の友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーに献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃に作られたと言われ、オックスフォードで海軍大臣一座(英語版)のパトロンである海軍卿(英語版)のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワード、ペンブルック伯一座(英語版)のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)とサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。1601年2月8日にサウサンプトン伯が友人の第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世の側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が25日に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の2月7日にグローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころ、シェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年にふたたび申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は“Non sanz droict”(フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色(英語版)』では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人を務めた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "法的問題や商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている。時のイギリスは新興国のネーデルラント連邦共和国との熾烈な貿易競争のなかで形勢が不利になっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐ったニシンから伝染した感染症であるとされる。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナントの実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント(1656年 - 1714年、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実であれば、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも18世紀の初めまで存続したことになる。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所にもっとも近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられるシェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアが自ら書いたものと考えられている。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。", "title": "最初の全集の刊行" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中でもっとも優れた文学作品として評価されている。1623年にジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによって編纂されたファースト・フォリオにおいて、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、その全てが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『ハムレット』(1601年ごろ)は現存していない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであることや、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている。また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、古代ローマや古代ギリシアを舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料としておもに用いたテキストは2つある。前者の材源はプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース(Thomas North)による1579年の英語訳)であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』(\"The Chronicles of England, Scotland, and Ireland\"、1587年の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『マクベス』や『リア王』の素材ともなっている。またシェイクスピアは同時代の劇作家クリストファー・マーロウの文体を借用していると考えられることもある。シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみてもっとも独創的といえるのは『テンペスト』である。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの戯曲のいくつかは四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる。こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一つの作品について極端に異なる二つのバージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる。それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。たとえば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のバージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン(英語版)以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのバージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著\"The Division of the Kingdom\"において、『リア王』にみられるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "シェイクスピアの劇作家としての活動は1592年ごろから始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年にはロバート・グリーンの著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "最初期の史劇『ヘンリー六世』三部作(1590年 - 1592年)を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色づけがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、このころから次第に軽やかさが影を潜めていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の四大悲劇と言われる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さを持つため、19世紀以降は「問題劇」と呼ばれている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などのあと、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットのほかに、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "推定執筆年代は、リヴァサイド版全集による。", "title": "書誌" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "戯曲の執筆数は一般に37本とされるが、他の作家との合作をシェイクスピア作とみなすかどうかで研究者により違いがあり、「約40本」とされることもある。全37作を翻訳した文学者や、全作上演を目指している劇場(彩の国さいたま芸術劇場)もある。", "title": "書誌" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Rはロマンス劇、Pは問題劇ともカテゴライズされる作品である。", "title": "書誌" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "シェイクスピア自身に関する資料は少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかという主張や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかという主張もある。真の作者として推定された人物には哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィルなどがいる。", "title": "シェイクスピア別人説" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "英文学者でまともに別人説を取上げる人は見当たらないが、河合祥一郎は別人説を否定するための著書を出している。全戯曲を翻訳した小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と別人説を一蹴している。", "title": "シェイクスピア別人説" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2016年には、フロリダ州立大学のゲイリー・テイラーらが、ビッグデータにより社会方言や言語習慣を検証した結果、ヘンリー六世などの17作品がクリストファー・マーロウとの共作であるとの結論を得た。", "title": "シェイクスピア別人説" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "シェイクスピア庭園はシェイクスピア作品に記載されている植物を栽培するテーマ庭園で、英語を話す国、特にアメリカ でこれらは公園、大学、シェイクスピア祭りに関連する公共の庭であり、シェイクスピア庭園は文化的、教育的、そしてロマンチックな趣味のスポット、屋外での結婚式にも最適な場所である。 植物の説明看板は通常、適切な引用を提供、シェイクスピアの庭には通常は草本が豊富、またツゲの仕切りがある幾何学的なレイアウトで数十種類の種が含まれている。典型的なアメニティには遊歩道やベンチ、そして耐候性に優れたシェイクスピアの胸像があり、エリザベス朝建築の複製を伴うこともある。いくつかはまたエリザベス朝時代の典型的な種を育てているが、シェイクスピアの劇や詩ではそこまでは言及されていない。", "title": "シェイクスピアガーデン" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "各作品の派生作品については、その作品の記事を参照のこと", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本で最初の完全な形で翻訳されたシェイクスピア劇は『ジュリアス・シーザー』で、1883年に河島敬蔵の訳で大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に連載された。", "title": "日本の著名な訳者" } ]
ウィリアム・シェイクスピアは、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。 出生地はストラトフォード=アポン=エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1613年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、特に『ソネット集』は今日でも最高の詩編の一つとされている。 2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。 シェークスピア、シェークスペーヤ、シェークスピーヤとも。 「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国語での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。日本に作品が伝わってまもない明治時代などでは「沙翁」と表記されたこともある。
{{redirect|シェイクスピア}} {{Infobox 作家 | name = ウィリアム・シェイクスピア<br/>William Shakespeare | image = CHANDOS3.jpg | image_size = 200px | caption = <!--画像説明--> | pseudonym = <!--ペンネーム--> | birth_name = <!--出生名--> | birth_date = [[1564年]][[4月26日]]([[洗礼]]日) | birth_place = {{ENG927}}、[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1564|4|26|1616|4|23}} | death_place = {{ENG927}}、ストラトフォード=アポン=エイヴォン | resting_place = ストラトフォード=アポン=エイヴォン、{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}} | occupation = [[劇作家]]、[[詩人]] | language = [[英語]] | nationality = {{ENG927}} | alma_mater = <!--出身校、最終学歴--> | period = [[1589年]] - [[1613年]] | genre = <!--全執筆ジャンル--> | subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)--> | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = <!--信仰する宗教--> | notable_works = 『[[ロミオとジュリエット]]』(1596年)<br />『[[ハムレット]]』(1601年)<br />『[[オセロー]]』(1604年)<br />『[[リア王]]』(1605年)<br />『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』(1606年) | spouse = [[アン・ハサウェイ (シェイクスピアの妻)|アン・ハサウェイ]] | children = [[スザンナ・ホール]](長女)<br />ハムネット・シェイクスピア(長男)<br />ジュディス・クワイニー(次女)<br />ウィリアム・ダヴェナント(次男?、落胤?)<ref>[[1606年]][[3月3日]]生 - [[1668年]][[4月7日]]没。享年62。[[17世紀]]の詩人、劇作家。オックスフォードシャー州オックスフォード生まれ。シェイクスピアが名付け親となった。父親はクラウン亭という宿屋を経営していて,シェイクスピアはロンドンとストラトフォードを往復する途中でよく立ち寄っていた.そのため,彼はシェイクスピアの私生児だという噂が広まった。[[1628年]]に舞台用の戯曲を書く仕事を始め、「知恵者」([[1636年]])が代表作。[[1638年]]に桂冠詩人となり、後にドルリー・レーン劇場の支配人となった。[[1643年]]に[[清教徒革命]]で国王側について戦った功績により、ナイト爵を授けられている。[[1656年]]になると、[[オリバー・クロムウェル]]政権下で禁じられていた演劇を再上演するのに尽力し、イギリスで初めて大衆向けオペラを上演。『マクベス』の改作などを執筆した。</ref> | relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> | influences = <!--影響を受けた作家名--> | influenced = <!--影響を与えた作家名--> | debut_works = [[ヘンリー六世 第1部]] | signature = William Shakespeare Signature.svg }} '''ウィリアム・シェイクスピア'''({{lang-en|William Shakespeare}}, [[1564年]][[4月26日]]([[洗礼]]日) - [[1616年]][[4月23日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/William-Shakespeare William Shakespeare English author] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>([[グレゴリオ暦]][[5月3日]]))は、[[イングランド王国|イングランド]]の[[劇作家]]、[[詩人]]であり、[[イギリス・ルネサンス演劇]]を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる[[英文学]]の作家。また彼の残した膨大な著作は、[[初期近代英語]]の実態を知るうえでの貴重な[[言語学]]的資料ともなっている<ref>例えば、[[ファウスト・チェルチニャーニ| Fausto Cercignani]], ''Shakespeare's Works and Elizabethan Pronunciation'', Oxford, University Press (Clarendon Press), 1981. ISBN 978-0198119371.</ref>。 出生地は[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]]で、[[1585年]]前後に[[ロンドン]]に進出し、[[1592年]]には新進の劇作家として活躍した。[[1613年]]ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇『[[ハムレット]]』『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』『[[オセロー|オセロ]]』『[[リア王]]』をはじめ、『[[ロミオとジュリエット]]』『[[ヴェニスの商人]]』『[[夏の夜の夢]]』『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』など多くの傑作を残した。『[[ヴィーナスとアドーニス]]』のような[[物語詩]]もあり、特に『[[ソネット集]]』は今日でも最高の詩編の一つとされている。 [[2002年]]に[[英国放送協会|BBC]]が行った「[[100名の最も偉大な英国人]]」投票で第5位となった。 '''シェークスピア'''<ref>[https://current.ndl.go.jp/node/15333 シェークスピアの四つ折判のデジタルコレクションが公開]</ref>、'''シェークスペーヤ'''<ref>横山六輔『世界的現代訓』p.149</ref><ref>穂積陳重『法窓夜話』[https://www.aozora.gr.jp/cards/000301/files/1872.html]</ref>、'''シェークスピーヤ'''<ref>https://kotobank.jp/word/%E5%98%96%E5%98%96-509579</ref><ref>http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/854566.html</ref>とも。 「シェイクスピア」の[[日本]]における漢字表記([[当て字|借字]])は「沙吉比亜」だが、これは中国語での表記「莎士比亞」([[繁体字]]での表記で、[[簡体字]]では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。日本に作品が伝わってまもない[[明治]]時代などでは「'''沙翁'''」と表記されたこともある<ref>[https://www.waseda.jp/enpaku/ex/4653/2016年度 早稲田大学演劇博物館 シェイクスピア没後400年記念特別展 沙翁復興 ― 逍遙からNINAGAWAまで Shakespeare Renaissance – from Shoyo to NINAGAWA][[早稲田大学演劇博物館]](2019年4月15日閲覧)。</ref>。 == 生涯 == 本節ではウィリアム・シェイクスピアの個人史について記述する。執筆歴や作風の変遷については[[#作品|作品の節]]を参照。 === 生い立ち === [[ファイル:Stratford Birthplace2.jpg|thumb|250px|[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]]にある[[シェイクスピアの生家]]]] [[ファイル:pcs34560_IMG2079.JPG|thumb|200px|シェイクスピアの生家から車で10分ほどの距離にある、[[アン・ハサウェイのコテージ|妻アンの実家]]]] ウィリアム・シェイクスピアは[[1564年]]に[[イングランド王国]]の[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]]に生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母[[メアリー・アーデン]]は[[ジェントルマン]]の娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は[[1557年]]ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年[[4月26日]]に[[洗礼]]を受けたことが記録されている。 [[エリザベス朝]]時代には出生証明書が発行されていなかったため、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行うのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠に基づいているわけではない。この日は[[聖人暦]]においてイングランドの[[守護聖人]]である聖[[ゲオルギオス (聖人)|ゲオルギオス]](聖ジョージ)を記念する[[ゲオルギオスの日]]にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは[[1616年]]の4月23日([[グレゴリオ暦]]では[[5月3日]])に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。 シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 - 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 - 1612年)、ジョーン(1569年 - 1646年)、アン(1571年 - 1579年)、リチャード(1574年 - 1613年)、エドモンド(1580年 - 1607年)である<ref>[http://shakespeare.palomar.edu/timeline/genealogy.htm A Shakespeare Genealogy]</ref>。 父はシェイクスピアの生まれたころには裕福であったが、[[ウール|羊毛]]の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家とも[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の信者であった可能性が推測されている。 シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、{{仮リンク|エドワード6世校|en|King Edward VI School, Stratford-upon-Avon}}に通ったであろうと推定されている<ref name=Greenblatt>Stephen Greenblatt, ''"Will in the World"'' Quebecor World, Fairfield; United States, 2004, pp. 25 - 28</ref>。校名に冠されている[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]と学校の設立の起源に何ら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている<ref name=Greenblatt/>。エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校は[[ラテン語]]文法や文学について集中学習が行われていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである<ref name=Greenblatt/>。 シェイクスピアの最初期の戯曲『[[間違いの喜劇]]』に[[プラウトゥス]]の戯曲『[[メナエクムス兄弟]]』(''"[[:en:Menaechmi|The Two Menaechmuses]]"'')との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される<ref>Honan, Park. ''Shakespeare: A Life''. Oxford: Oxford University Press, 1999, p. 43.</ref>根拠の一つである。[[1482年]]にカトリックの[[司祭]]によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である<ref name=Greenblatt/>。 === 結婚後 === [[1582年]]11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性[[アン・ハサウェイ (シェイクスピアの妻)|アン・ハサウェイ]]と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている<ref group="注釈">実際には[[ショッタリー]]出身。</ref>ため、結婚式がそこで行われた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このとき、アンはすでに妊娠3か月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。 結婚後、妻のアン・ハサウェイは悪妻と化した為、家庭生活は不幸だったと言われている<ref>帝国書院 『図説 ユニバーサル新世界史資料 三訂版』p101⑤</ref>。 [[1583年]]5月26日、ストラトフォードで長女[[スザンナ・ホール|スザンナ]]の洗礼式が執り行なわれた。[[1585年]]には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生まれ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんでつけられた。ハムネットは[[1596年]]に夭折し、8月11日に葬儀が行われた。 結婚後、[[ロンドン]]の劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年から[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]による言及のある[[1592年]](後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years)と呼ばれる<ref>E. A. J. Honigmann, ''"Shakespeare: The Lost Years"'' Manchester University Press; 2nd edition, 1999, p. 1.</ref>。この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などいくつかの伝説が残っているが、いずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である<ref name="Timeline">[http://shakespeare.palomar.edu/timeline/lostyears.htm "The Lost Years"], Shakespeare Timeline.</ref>。 シェイクスピアが[[ランカシャー]]で教職についていたという説は、[[1985年]]にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンが[[1581年]][[8月3日]]付で異母弟トーマス・ホートンに記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、弟が役者たちの面倒を見ない場合はこれらを親族サー・トマス・ヘスケスへ贈ることを書いた部分に加え、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト(William Shakeshaft)」の面倒を見てやってほしいというヘスケスへの要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである<ref name=Timeline/>。ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれで、ホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している<ref name=Timeline/><ref>David Aaron Murray, [https://www.crisismagazine.com/april2005/book2.htm ''"In Search of Shakespeare"''], Crisis Magazine</ref><ref>バグリー、P147 - P148、結城、P36 - P37、河合、P21 - P23。</ref>。マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアの[[グローブ座]]株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている<ref>Michael Wood, ''"In Search of Shakespeare"'' BBC Books, 2003, ISBN 0-563-52141-4 p.80</ref>。 ランカシャー説を取る研究者([[ジョン・ジョゼフ・バグリー]]、[[西ヶ廣渉|結城雅秀]]、[[河合祥一郎]]など)は後にシェイクスピアと交流を深める役者たちが別の劇団に入っていたことに注目、シェイクスピアも彼等がいた劇団で役者として入ったと推測している。ホートンやヘスケスと親しい第4代[[ダービー伯爵]]{{仮リンク|ヘンリー・スタンリー (第4代ダービー伯爵)|label=ヘンリー・スタンリー|en|Henry Stanley, 4th Earl of Derby}}がヘスケスの隣人で、長男のストレンジ卿[[ファーディナンド・スタンリー (第5代ダービー伯爵)|ファーディナンド・スタンリー]](後の第5代ダービー伯爵)が抱える劇団『{{仮リンク|ストレンジ卿一座|en|Lord Strange's Men}}』に前述の役者たちが所属、かつシェイクスピアの初期の作品が上演されているからであり、ホートン家を去ったシェイクスピアはヘスケスの紹介でストレンジ卿一座に入り、[[リチャード・バーベッジ]]ら役者たちと知り合い、戯曲を書きあげていったとされている。なお、1592年[[3月3日]]にシェイクスピアのデビュー作である『[[ヘンリー六世 第1部]]』はストレンジ卿一座が[[ローズ座]]で上演している<ref>バグリー、P148 - P151、結城、P37 - P40、P57 - P58、P62 - P64、河合、P23、P31 - P34。</ref>。 === ロンドンの劇壇進出 === [[ファイル:Shakespeare Globe Theater 1 db.jpg|thumb|200px|ロンドンに復元された[[グローブ座]]|代替文=]] 1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、[[エリザベス朝演劇]]の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に[[脚本]]を書くようになる。1592年には[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]が著書『三文の知恵』(''"Greene's Groatsworth of Wit"'')において、「<ins>役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の</ins>、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れた[[ブランク・ヴァース]]を自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている<ref group="注釈">グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『[[ヘンリー六世 第3部]]』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger's heart wrapt in a woman's hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」("Shake-scene")がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはほぼ間違いないとされる。一方で「成り上がりのカラス」はシェイクスピアではないと解釈する研究者もある。河合祥一郎はその著書『シェイクスピアの正体』(新潮文庫、2016年)で一章を割いて、通説のシェイクスピアとする解釈を批判し、グリーンが批判した対象は同時代の俳優{{仮リンク|エドワード・アレン|en|Edward Alleyn}}だと結論づけている。 </ref>。 [[1594年]]の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、{{仮リンク|宮内大臣一座|en|Lord Chamberlain's Men}}として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場[[グローブ座]]の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には{{仮リンク|宮内長官 (イギリス)|en|Lord Chamberlain|label=宮内大臣}}の初代ハンズドン男爵[[ヘンリー・ケアリー (初代ハンズドン男爵)|ヘンリー・ケアリー]]がパトロンとなっていた。シェイクスピアの所属変更は同年の第5代ダービー伯(ストレンジ卿)急死でパトロンを失ったストレンジ卿一座がハンズドン男爵に引き取られ、宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピアは[[1593年]]に出版した物語詩『[[ヴィーナスとアドーニス]]』をダービー伯の友人だった[[サウサンプトン伯爵]][[ヘンリー・リズリー (第3代サウサンプトン伯)|ヘンリー・リズリー]]に献呈、翌[[1594年]]にも『[[ルークリース凌辱]]』を献呈しサウサンプトン伯の信頼を獲得、新たなパトロンを手に入れた。『[[恋の骨折り損]]』もこの頃に作られたと言われ、[[オックスフォード]]で{{仮リンク|海軍大臣一座|en|Admiral's Men}}のパトロンである{{仮リンク|海軍卿 (イギリス)|label=海軍卿|en|Lord High Admiral of the United Kingdom}}の[[エフィンガム伯爵|エフィンガムのハワード男爵]][[チャールズ・ハワード (初代ノッティンガム伯爵)|チャールズ・ハワード]]、{{仮リンク|ペンブルック伯一座|en|Pembroke's Men}}のパトロンである[[ペンブルック伯]]{{仮リンク|ヘンリー・ハーバート (第2代ペンブルック伯爵)|label=ヘンリー・ハーバート|en|Henry Herbert, 2nd Earl of Pembroke}}とサウサンプトン伯、ストレンジ卿が会った出来事を参考にした部分が多く見られる<ref>バグリー、P146 - P147、結城、P111 - P122、河合、P35 - P36。</ref>。 しかし、サウサンプトン伯との繋がりが災難をもたらしたこともある。[[1601年]][[2月8日]]にサウサンプトン伯が友人の第2代[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]と共に[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の側近[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]](後の初代[[ソールズベリー侯|ソールズベリー伯]])らを排除するクーデターを起こし、失敗して捕らえられたエセックス伯が[[2月25日|25日]]に処刑された(共に捕らえられたサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味はシェイクスピアら宮内大臣一座に働きかけて金を支払い、クーデター前日の[[2月7日]]にグローブ座で『[[リチャード二世 (シェイクスピア)|リチャード二世]]』を上演させた。エセックス伯の意図は国王が廃位される場面を上演させ民衆を扇動させようとした所にあったが、反乱が失敗するとシェイクスピアら宮内大臣一座はこの上演とサウサンプトン伯の関係で立場が危うくなり、政府の取り調べを受けたがお咎めは無かった<ref>結城、P194、P197 - P200、河合、P65 - P66。</ref>。 [[1603年]]にエリザベス1世が死去して[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため[[国王一座]]へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている<ref> William Allan Neilson and Ashley Horace Thorndike, ''"The Facts About Shakespeare"'', The Macmillan Company, 1913.</ref>。 [[ファイル:Shakespeare1COA.png|180px|thumb|シェイクスピア家の紋章]] 高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころ、シェイクスピアの父は[[紋章]]を取得するために[[紋章院]]へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。俳優のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが<ref group="注釈">当時、俳優はいかがわしい職業とされていた。</ref>、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。[[1596年]]にふたたび申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は“Non sanz droict”(フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである<ref>Stephen Greenblatt, ''"Will in the World"'', Quebecor World, Fairfield, United States, 2004.</ref>。 [[1596年]]にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。[[1598年]]にグローブ座で初演された[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]の『{{仮リンク|十人十色 (ベン・ジョンソン)|en|Every Man in His Humour|label=十人十色}}』では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの[[四折判]]のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる<ref>1598年刊の『[[恋の骨折り損]]』において、初めて著者名が明記された。それ以前の作品は著者名が記されていなかったか、もしくは[[1623年]]の[[ファースト・フォリオ]](作品集)に収録されるまで未刊のままだった。</ref>。 シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『[[ハムレット]]』の先王の幽霊や、『[[お気に召すまま]]』のアダム、『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』のコーラスなどを演じたといわれる<ref>[https://www.enotes.com/william-shakespeare/shakespeares-globe-theater e-notes.com on Shakespeare's Globe Theatre], Shakespeare at e-notes.</ref><ref>[http://www.zeenews.com/articles.asp?aid=367150&sid=ZNS Article on Shakespeare's Globe Theater] Zee News on Shakespeare, accessed Jan. 23, 2007.</ref>。 シェイクスピアは[[1599年]]内に[[テムズ川]]を渡ってサザックへ転居したと見られる。[[1604年]]には家主の娘の[[仲人]]を務めた。この娘の結婚が原因で[[1612年]]に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアは[[ユグノー]]の髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、[[持参金]]の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。 法的問題や商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンの[[ブラックフライヤーズ]]の不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅[[ニュー・プレイス]]を購入するまでになっていたことが分かる。 === 晩年 === [[ファイル:Nash_House_Stratford.jpg|thumb|250px|引退後のシェイクスピアの終の棲家となった[[ストラトフォード・アポン・エイヴォン]]にあるニュー・プレイス]] シェイクスピアは[[1613年]]に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている<ref>Jonnie Patricia Mobley, William Shakespeare, ''"Manual for Hamlet: Access to Shakespeare"'', Lorenz Educational Publishers, 1996, p. 5.</ref>。時のイギリスは新興国の[[ネーデルラント連邦共和国]]との熾烈な[[八十年戦争#独立|貿易競争]]のなかで形勢が不利になっていた。 シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「[[婚前交渉]]」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が[[私生児]]を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。 === 死 === [[1616年]]4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐った[[ニシン]]から伝染した感染症であるとされる。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。 == 死後 == シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは[[1596年]]に夭折している。スザンナは医師の[[ジョン・ホール (医師)|ジョン・ホール]]と結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日<!-- 新しく生まれることはないので、この場合は古くなる表現ではないと思う -->、シェイクスピア直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になった[[ウィリアム・ダヴェナント]]<ref group="注釈">17世紀の詩人、劇作家。『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』の改作などを執筆している。</ref>の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがある。ダヴェナント自身もシェイクスピアの[[庶子]]を自称している。ダヴェナントにはチャールズ・ダヴェナント([[1656年]] - [[1714年]]、妻の名はフランセス)とウィリアム・ダヴェナント([[1657年]] - [[1681年]])という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの落胤であることが事実であれば、2人の息子は非公式ではあるもののシェイクスピアの孫で、スザンナやハムネット、ジュディスと血縁関係が生じ、シェイクスピアの血筋は少なくとも[[18世紀]]の初めまで存続したことになる。 === 埋葬 === [[ファイル:Stratford Holy Trinity Church3.jpg|thumb|250px|ストラトフォードの{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}に建立されたシェイクスピアの墓碑|代替文=]] シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにある{{仮リンク|ホーリー・トリニティ教会 (ストラトフォード)|en|Church of the Holy Trinity, Stratford-upon-Avon|label=ホーリー・トリニティ教会}}の[[内陣#教会建築における内陣|内陣]]に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの[[十分の一税]]を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所にもっとも近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられる<ref>Graham Holderness, ''"Cultural Shakespeare: Essays in the Shakespeare Myth"'' University of Hertfordshire Press, 2001, pp. 152-54.</ref>シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアが自ら書いたものと考えられている。 {{cquote|Good friend, for Jesus' sake forbear,<br /> To dig the dust enclosed here.<br /> Blest be the man that spares these stones,<br /> And cursed be he that moves my bones.''}} シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。 == 家族 == * 父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日) * 母方の祖父:ロベルト・アーデン * 父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日) * 母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年) * 兄弟姉妹 ** ジョン・シェイクスピア(1558年)- 長兄 ** マーガレット・シェイクスピア(1562年 - 1563年) - 長姉 ** ギルバート・シェイクスピア(1566年10月13日 - 1612年2月3日) - 長弟 ** ジョーン・シェイクスピア(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - 長妹 ** アン・シェイクスピア(1571年 - 1579年) - 次妹 ** リチャード・シェイクスピア(1574年 - 1613年) - 次弟 ** エドモンド・シェイクスピア(1580年 - 1607年12月31日) - 三弟 * 甥、姪 - 長妹ジョーンがウィリアム・ハートと結婚して、3男1女がおり、シェイクスピアからみて甥、姪にあたる。 ** ウィリアム(1600年 - 1639年) ** メアリー(1603年 - 1607年) ** トマス(1605年 - 1661年) ** ミカエル(1608年 - 1618年) * 妻と子女 ** アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日) - 妻 *** スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日) - 長女。医師のジョン・ホールと結婚し、エリザベス・ホールを儲ける。 *** ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 長男。11歳で夭折。ジュディスとは双子。 *** ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - 次女。ハムネットは双子。居酒屋経営者のトマス・クワイニーと結婚し、3子(下記)を儲ける。 * 娘婿 ** ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - 長女スザンナの夫。スザンナとの間にエリザベス・ホールを儲ける。 ** トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - 次女ジュディスの夫。ジュディスとの間にシェイクスピア、リチャード、トマスの3子(下記)を儲ける。 * 孫 ** エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - 長女スザンナとその夫ジョンの娘。 ** シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 次女ジュディスとその夫トマスの長男。1歳になる前に夭折。 ** リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日) - 次女ジュディスとその夫トマスの次男。20歳で死去。 ** トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日) - 次女ジュディスとその夫トマスの三男。 19歳で死去。 * 孫婿 ** トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。 ** ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。 * 曾孫 ** 孫4人は子を成すことがなかったため、エリザベスの死でシェイクスピアの直系子孫は断絶している。また、前述の通り、ウィリアム・ダヴェナントを隠し子、ダヴェナントの2人の子(チャールズ、ウィリアム)を孫という噂を肯定したとしても、チャールズにはフランセスという妻がいたが子供は確認できず、ウィリアムは23〜24年の短い生涯の間に妻帯して子供を儲けた形跡が見られないことからそれ以降の系譜が続いたかは不明で曾孫以下の存在は確認できないことになる。 ; シェイクスピア姓 : 精神学者でシェイクスピアファンの[[ジークムント・フロイト]]は、イギリス人ではないような名前に疑念を抱き、{{仮リンク|チャンドス肖像画|en|Chandos portrait}}を見てより疑念を深めた。フロイトはシェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとみている<ref>Jones, Ernest (1961). The life and work of Sigmund Freud vol. 1. Basic Books. p16</ref><ref>Shapiro (2), James (26 March 2010). "Forgery on Forgery". Times Literary Supplement (5581). pp. 14–15.英語版 p185 </ref>。 == 最初の全集の刊行 == 没後7年を経た[[1623年]]、国王一座の同僚であった[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集[[ファースト・フォリオ]]が刊行された。 == 作品 == [[ファイル:First Folio.jpg|thumb|200px|最初の全集[[ファースト・フォリオ]]([[1623年]])に掲載された肖像画]] {{main|シェイクスピアの戯曲|en:Shakespeare's plays}} シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中でもっとも優れた文学作品として評価されている。[[1623年]]に[[ジョン・ヘミングス]]と[[ヘンリー・コンデル]]によって編纂された[[ファースト・フォリオ]]において、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、その全てが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている<ref>Leon Harold Craig, ''Of Philosophers and Kings: Political Philosophy in Shakespeare's "Macbeth" and "King Lear"'' University of Toronto Press, 2003, p. 3.</ref>。 当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『[[ハムレット]]』([[1601年]]ごろ)は現存していない先行作品(『[[原ハムレット]]』と呼ばれる)を改作したものであることや、『[[リア王]]』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている<ref>G. K. Hunter, ''"English Drama 1586-1642: The Age of Shakespeare"''. Oxford: Clarendon Press, 1997, 494-496.</ref>。また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、[[古代ローマ]]や[[古代ギリシア]]を舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料としておもに用いたテキストは2つある。前者の材源は[[プルタルコス]]の『英雄伝』(トマス・ノース([[:en:Thomas North|Thomas North]])による[[1579年]]の英語訳<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.03.0027&redirect=true Plutarch's Parallel Lives]</ref>)であり、後者が依拠しているのは[[ラファエル・ホリンズヘッド|ラファエル・ホリンシェッド]]の『年代記』(''"The Chronicles of England, Scotland, and Ireland"''、[[1587年]]の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』や『リア王』の素材ともなっている<ref>Richard Dutton, Jean Howard ed., ''"A Companion to Shakespeare's Works: The Histories"'', Blackwell Publishing, 2003, p. 147.)</ref>。またシェイクスピアは同時代の劇作家[[クリストファー・マーロウ]]<ref group="注釈">シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた。</ref>の文体を借用していると考えられることもある<ref>Brian Robert Morris, ''"Christopher Marlowe"''. 1968, pp. 65-94. ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、マーロウの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えたと述べている。しかしゲイリー・テイラーは''"William Shakespeare: A Textual Companion"'' p. 116.において、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論している。</ref>。シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみてもっとも独創的といえるのは『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』である<ref>Patrick Murphy, ''"The Tempest: Critical Essays"'', Routledge, 2001.</ref>。 シェイクスピアの戯曲のいくつかは[[四折判]]の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「[[問題劇]]」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。 シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する[[本文批評]]が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる<ref>Richard Dutton, "The Birth of the Author," in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, ''"Texts and Cultural Change in Early Modern England"'' (London: Macmillan, 1997): p. 161.</ref>。こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる<ref>Fredson Bowers, ''"On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists"''. Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, p.8-10.</ref>。 一つの作品について極端に異なる二つのバージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる<ref>Alfred W. Pollard, ''"Shakespeare Quartos and Folios"''. London: Metheun, 1909, xi.</ref>。それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。たとえば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のバージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、{{仮リンク|マドレーン・ドーラン|en|Madeleine Doran}}以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのバージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著''"The Division of the Kingdom"''において、『リア王』にみられるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している<ref>Gary Taylor and Michael Warren, ''"The Division of the Kingdoms"''. Oxford: Clarendon Press. 1983.</ref>。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版と[[オックスフォード版シェイクスピア全集|オックスフォード版]]の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。 === 作風・執筆歴 === シェイクスピアの劇作家としての活動は[[1592年]]ごろから始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『[[ヘンリー六世 第1部]]』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年には[[ロバート・グリーン (劇作家)|ロバート・グリーン]]の著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。 最初期の史劇『[[ヘンリー六世 (シェイクスピア)|ヘンリー六世]]』三部作(1590年 - 1592年)を皮切りに、『[[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]]』『[[間違いの喜劇]]』『[[じゃじゃ馬ならし]]』『[[タイタス・アンドロニカス]]』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。 [[ペスト]]の流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『[[ヴィーナスとアドーニス]]』([[1593年]])や『[[ルークリース陵辱]]』([[1594年]])などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『[[ソネット集]]』もこの時期に執筆されたと推定されている。[[1595年]]の悲劇『[[ロミオとジュリエット]]』以後、『[[夏の夜の夢]]』『[[ヴェニスの商人]]』『空騒ぎ』『[[お気に召すまま]]』『[[十二夜]]』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『[[ヘンリー四世 (シェイクスピア)|ヘンリー四世]]』二部作などの史劇には登場人物[[フォルスタッフ]]を中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色づけがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。 [[1599年]]に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、このころから次第に軽やかさが影を潜めていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の'''四大悲劇'''と言われる『[[ハムレット]]』『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』『[[オセロー|オセロ]]』『[[リア王]]』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『[[終わりよければ全てよし]]』『[[尺には尺を]]』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さを持つため、19世紀以降は「[[問題劇]]」と呼ばれている。 『[[アントニーとクレオパトラ]]』『[[アテネのタイモン]]』などのあと、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「[[ロマンス劇]]」と呼ばれる。『[[ペリクリーズ]]』『[[シンベリン]]』『[[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]]』『[[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]]』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットのほかに、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。 シェイクスピアは[[弱強五歩格]]という[[韻律 (韻文)|韻律]]を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように[[散文]]の比率が高い戯曲もある。 == 書誌 == 推定執筆年代は、[[リヴァーサイド版シェイクスピア|リヴァサイド版全集]]による。 === 戯曲 === 戯曲の執筆数は一般に37本とされるが、他の作家との合作をシェイクスピア作とみなすかどうかで研究者により違いがあり、「約40本」とされることもある。全37作を翻訳した文学者や、全作上演を目指している劇場([[彩の国さいたま芸術劇場]])もある<ref name="asahi20180115">【シェイクスピアをたどって】(7)全部訳す 全部やる『[[朝日新聞]]』夕刊2018年1月15日(2面)。</ref>。 ==== 史劇 ==== * [[ヘンリー六世 第1部]](''Henry VI, Part 1''、1589年 - 1590年) * [[ヘンリー六世 第2部]](''Henry VI, Part 2''、1590年 - 1591年) * [[ヘンリー六世 第3部]](''Henry VI, Part 3''、1590年 - 1591年) * [[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]](''Richard III''、1592年 - 1593年) * [[ジョン王 (シェイクスピア)|ジョン王]](''King John''、1594年 - 1596年) * [[リチャード二世 (シェイクスピア)|リチャード二世]](''Richard II''、1595年) * [[ヘンリー四世 第1部]](''Henry IV , Part 1''、1596年 - 1597年) * [[ヘンリー四世 第2部]](''Henry IV, Part 2''、1598年) * [[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]](''Henry V''、1599年) * [[ヘンリー八世 (シェイクスピア)|ヘンリー八世]](''Henry VIII''、1612 - 1613年) ==== 悲劇 ==== * [[タイタス・アンドロニカス]](''Titus Andronicus''、1593 - 94年) * [[ロミオとジュリエット]](''Romeo and Juliet''、1595 - 96年) * [[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]](''Julius Caesar''、1599年) * [[ハムレット]](''Hamlet''、1600 - 01年) * [[トロイラスとクレシダ]](''Troilus and Cressida''、1601 - 02年)<sup>P</sup> * [[オセロー]](''Othello''、1604年) * [[リア王]](''King Lear''、1605年) * [[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]](''Macbeth''、1606年) * [[アントニーとクレオパトラ]](''Antony and Cleopatra''、1606年 - 1607年) * [[コリオレイナス]](''Coriolanus''、1607年 - 1608年) * [[アテネのタイモン]](''Timon of Athens''、1607年 - 1608年) ==== 喜劇 ==== * [[間違いの喜劇]](''Comedy of Errors''、1592年 - 1594年) * [[じゃじゃ馬ならし]](''Taming of the Shrew''、1593年 - 1594年) * [[ヴェローナの二紳士]](''The Two Gentlemen of Verona''、1594年) * [[恋の骨折り損]]('' Love's Labour's Lost''、1594年 - 1595年) * [[夏の夜の夢]](''A Midsummer Night's Dream''、1595年 - 96年) * [[ヴェニスの商人]](''The Merchant of Venice''、1596年 - 1597年) * [[ウィンザーの陽気な女房たち]](''The Merry Wives of Windsor''、1597年) * [[空騒ぎ]](''Much Ado About Nothing''、1598年 - 1599年) * [[お気に召すまま]](''As You Like It''、1599年) * [[十二夜]](''Twelfth Night, or What You Will''、1601年 - 1602年) * [[終わりよければ全てよし]](''All's Well That Ends Well''、1602年 - 1603年)<sup>P</sup> * [[尺には尺を]](''Measure for Measure''、1604年)<sup>P</sup> * [[ペリクリーズ]](''Pericles, Prince of Tyre''、1607年 - 1608年)<sup>R</sup> * [[シンベリン]](''Cymbeline''、1609 - 10年)<sup>R</sup> * [[冬物語 (シェイクスピア)|冬物語]](''The Winter's Tale''、1610年 - 1611年)<sup>R</sup> * [[テンペスト (シェイクスピア)|テンペスト]](''The Tempest''、1611年)<sup>R</sup> * [[二人のいとこの貴公子]](''The Two Noble Kinsmen''、1613年)<sup>R</sup> Rは[[ロマンス劇]]、Pは[[問題劇]]ともカテゴライズされる作品である。 === 詩作品 === * [[ソネット集]](''The Sonnets'') * [[ヴィーナスとアドーニス]](''Venus and Adonis'') * [[ルークリース凌辱]](''The Rape of Lucrece'') * [[情熱の巡礼者]](''The Passionate Pilgrim'') * [[不死鳥と雉鳩]](''The Phoenix and the Turtle'') * [[恋人の嘆き]](''A Lover's Complaint'') === 外典と散逸した戯曲 === {{main|シェイクスピア外典}} * [[エドワード三世 (戯曲)|エドワード三世]](''Edward III''、1596年) * [[カルデーニオ]](''Cardenio'') * [[恋の骨折り甲斐]](''Love's Labour's Won'') * ほか == シェイクスピア別人説 == {{main|シェイクスピア別人説}} シェイクスピア自身に関する資料は少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかという主張や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた[[ペンネーム|筆名]]ではないかという主張もある。真の作者として推定された人物には哲学者[[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]や第17代オックスフォード伯[[エドワード・ド・ヴィアー (第17代オックスフォード伯)|エドワード・ド・ヴィアー]]、同年生れの劇作家[[クリストファー・マーロウ]]、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官[[w:Henry Neville (politician)|ヘンリー・ネヴィル]]などがいる。 英文学者でまともに別人説を取上げる人は見当たらないが、[[河合祥一郎]]は別人説を否定するための著書を出している<ref>『シェイクスピアの正体』(新潮文庫、2016年)p264-282。</ref>。全戯曲を翻訳した[[小田島雄志]]は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と別人説を一蹴している<ref>『小田島雄志のシェイクスピア遊学』(白水uブックス、1991年)p26-28、p35-36。</ref>。 <!----別人説とは違うが---->[[2016年]]には、[[フロリダ州立大学]]のゲイリー・テイラーらが、[[ビッグデータ]]により社会方言や言語習慣を検証した結果、ヘンリー六世などの17作品がクリストファー・マーロウとの共作であるとの結論を得た<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3105572 シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明] [[フランス通信社|AFPBB]] 2016-10-25</ref>。 == シェイクスピアガーデン == シェイクスピア庭園はシェイクスピア作品に記載されている植物を栽培するテーマ庭園で、[[英語]]を話す国、特に[[アメリカ合衆国|アメリカ]] でこれらは公園、大学、シェイクスピア祭りに関連する公共の庭であり、シェイクスピア庭園は文化的、教育的、そしてロマンチックな趣味のスポット、屋外での結婚式にも最適な場所である。 植物の説明看板は通常、適切な引用を提供、シェイクスピアの庭には通常は草本が豊富、また[[セイヨウツゲ|ツゲ]]の仕切りがある幾何学的なレイアウトで数十種類の種が含まれている。典型的なアメニティには遊歩道やベンチ、そして耐候性に優れたシェイクスピアの胸像があり、エリザベス朝建築の複製を伴うこともある。いくつかはまたエリザベス朝時代の典型的な種を育てているが、シェイクスピアの劇や詩ではそこまでは言及されていない。 == 備考 == * [[日本]]の[[千葉県]][[南房総市]]の[[道の駅ローズマリー公園]]内に、シェイクスピアの生家が忠実に再現された「シェイクスピア・カントリー・パーク」がある。 * ロンドン橋の近くに、[[グローブ座]]が再建されている。 * [[2005年]][[4月21日]]、[[イギリス国立肖像画美術館]]は、多くの本の表紙を飾るシェイクスピアの肖像画『フラワー・シェイクスピア』の描かれた時期が生存中の作ではなく、その死後約200年後の1814年 - 1840年ごろであると確認したと発表した。1814年ごろ以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。 * [[2009年]][[3月9日]]、生前の肖像画と考えられるものが発見された。 * [[2002年]][[英国放送協会|BBC]]が行った「偉大な英国人」投票で第5位となった。 * [[1970年]]から[[1993年]]にかけて用いられた20[[スターリング・ポンド|UKポンド]][[紙幣]]に肖像が描かれている。 == 関連作品 == 各作品の派生作品については、その作品の記事を参照のこと * 映画『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』([[1966年]]、監督:[[オーソン・ウェルズ]]、『リチャード三世』・『ヘンリー四世』・『ヘンリー五世』・『ウィンザーの陽気な女房たち』、およびラファエル・ホリンシェッドの『年代記』を再構成) * 映画『[[恋におちたシェイクスピア]]』([[1998年]]、監督:[[ジョン・マッデン (映画監督)|ジョン・マッデン]]) * 演劇『ソネットの黒婦人(The Dark Lady of the Sonnets)』:[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]作。『[[ソネット集]]』の黒婦人のモデルとされる女性と、シェイクスピア、エリザベス女王を主たる登場人物として書かれた喜劇。 * 演劇『[[天保十二年のシェイクスピア]]』:[[井上ひさし]]作。『[[リア王]]』『[[ハムレット]]』『[[ロミオとジュリエット]]』をはじめとしたシェイクスピア全作品の筋書き・台詞を組み合わせ、舞台を江戸期の日本に置き換えた戯曲。 * 戯曲の小説化『シェイクスピア物語』:[[チャールズ・ラム]]、[[メアリー・ラム]] * 舞台『ACT SHAKESPEARE』(1993年、演出:[[加藤直]]、主演:[[沢田研二]]) * テレビドラマ『[[未来世紀シェイクスピア]]』([[2008年]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、監督:[[二階健]]) * 漫画『[[7人のシェイクスピア]]』:[[ハロルド作石]]作、[[ビッグコミックスピリッツ]]連載 * 映画『[[もうひとりのシェイクスピア]]』([[2011年]]、監督:[[ローランド・エメリッヒ]]) [[シェイクスピア別人説]]をモチーフとしている。 * 小説『シェイクスピアの退魔劇』([[2014年]]、 永菜葉一作、[[椎名優]]イラスト、[[富士見L文庫]]) * 舞台『[[Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜]]』([[2016年]]、作・演出:[[生田大和]]、主演:[[朝夏まなと]]、[[実咲凜音]]) * コミック『[[サンドマン (ヴァーティゴ)|サンドマン]]』:[[ニール・ゲイマン]]作。シェイクスピアと作品を扱った短編 ''A Midsummer Night's Dream'' で[[世界幻想文学大賞]]を受賞した。 * 映画『[[シェイクスピアの庭]]』([[2018年]]、監督、主演:[[ケネス・ブラナー]])1613年6月[[グローブ座]]が火事で延焼、筆を折って故郷に帰ったシェイクスピアの人生最後の三年間を描く。 == 日本の著名な訳者 == {{div col||20em}} * [[坪内逍遥]](戯曲の全訳を達成)<ref name="asahi20180115"/> * [[三神勲]] * [[竹友藻風]] * [[本多顕彰]] * [[福原麟太郎]] * [[西脇順三郎]]  * [[小津次郎]] * [[中野好夫]] * [[木下順二]] * [[平井正穂]] * [[福田恆存]](著名な戯曲をほぼ全訳) * [[永川玲二]] * [[野島秀勝]] * [[小田島雄志]](戯曲の全訳を達成)<ref name="asahi20180115"/> * [[安西徹雄]]  * [[河合祥一郎]] * [[松岡和子]](戯曲の全訳を達成)<ref>東京新聞2021年4月8日</ref> * [[浅野和三郎]](若き日のみ) * [[石井美樹子]] (『シェイクスピア 四大悲劇』(河出書房新社、2021年5月20日) {{div col end}} 日本で最初の完全な形で翻訳されたシェイクスピア劇は『ジュリアス・シーザー』で、1883年に[[河島敬蔵]]の訳で大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に連載された<ref>[https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/asano37.pdf 日本における『ロミオとジュリエット』] 佐野昭子、『[[帝京大学]]文学部紀要― 米英言語文化』第37号、平成18年度</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * ジョン・ジョゼフ・バグリー著、[[海保眞夫]]訳『ダービー伯爵の英国史』[[平凡社]]、[[1993年]]。 * [[西ヶ廣渉|結城雅秀]]『シェイクスピアの生涯』[[勉誠出版]]、[[2009年]]。 * [[河合祥一郎]]『シェイクスピア <small>人生劇場の達人</small>』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、[[2016年]]。 == 関連項目 == * [[イギリス・ルネサンス演劇]] * [[復讐悲劇]] * [[問題劇]]  * [[ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー]] * [[サミュエル・ジョンソン]]   * [[オックスフォード版シェイクスピア全集]] * [[リヴァーサイド版シェイクスピア]] * [[シェイクスピアの性的指向論争]] * [[シェイクスピアの文句を題名にした作品一覧]] * [[:Category:天王星の衛星]] - ほとんどがシェイクスピア作品の登場人物から名付けられている。 * [[シェイクスピア準男爵]] * [[ウィリアム・シェイクスピアの綴り]] == 外部リンク == {{Wikisource author||ウィリアム・シェイクスピア}} {{Commons&cat|William Shakespeare }} * {{青空文庫著作者|264}} * [http://shakes.meisei-u.ac.jp/ 明星大学シェイクスピアコレクションデータベース] * [https://internetshakespeare.uvic.ca/ Internet Shakespeare Editions] * {{Internet Archive author|name=William Shakespeare}} * [https://www.s-sj.org/?cat=6 日本シェイクスピア協会] * {{Kotobank|シェークスピア}} *[https://dl.ndl.go.jp/pid/1193952/ 世界文学全集(3) 沙翁傑作集](国立国会図書館デジタルコレクション)[[横山有策]]訳、新潮社、含む「ハムレット」「ジューリヤス・シーザー」「ヴェニスの商人」「マクベス」「ヴェローナの二紳士」「ローミオとジュリエット」 {{シェイクスピア}} {{100名の最も偉大な英国人}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しえいくすひあ ういりあむ}} [[Category:シェイクスピア|*]] [[Category:17世紀イングランドの劇作家]] [[Category:16世紀イングランドの劇作家]] [[Category:17世紀イングランドの詩人]] [[Category:16世紀イングランドの詩人]] [[Category:エリザベス朝の人物]] [[Category:テューダー朝の人物]] [[Category:シェイクスピアの家族|*]] [[Category:イングランド史の人物]] [[Category:イギリス・ポンド紙幣の人物]] [[Category:ストラトフォード=アポン=エイヴォン出身の人物]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:1564年生]] [[Category:1616年没]]
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モノクローム
モノクローム (英: monochrome) は、単一の色で図画などを描くこと、またはその図画自体を指す。語源はフランス語で「単色」を意味する言葉で、元々は美術の分野で使われた言葉であった。これから転じて印刷・写真・映画・テレビの分野でも、主に白黒のみで表現するものをモノクローム(あるいは略して「モノクロ」)と呼ぶようになった。以下、本項目ではこの意味での「モノクローム」について説明する。 モノクローム(以下モノクロ)は前述のとおり単色のことであるが、こと映像の範疇では単色ないしその濃淡で映像を現す様式である。映像表現としては光の強弱を色のある無しもしくは濃淡に置き換えた形態で、黒を白の上に配して映像表現することが多い。英語のBlack and Whiteを訳す場合、英語での順に準じて「黒白」とする場合もある。 こういった映像表現の発生した背景には、初期の写真技術があげられる。カメラ・オブスクラ(カメラオブスキュラとも)と呼ばれる装置では、装置内部に投射される映像は色彩のあるカラー映像ではあったが、これを黒のインクないし鉛筆で写し描いた場合はモノクロの映像となった。後に画家の手は写真乾板に置き換えられたが、初期の写真乾板はアスファルトに光線を長時間当て、これによって光線の当たったところのアスファルトは硬化して洗浄した後も黒く残り、それ以外は基盤となったシロメ(錫・鉛合金)の白色が見えるようになっていた。ただ、この露光には8時間を要した(→写真史)。 後に写真乾板は改良され、より短い露出時間でガラス表面に塗布された化学物質が変化し、光の当たったところは黒く残り(影)、光の当たらなかった場所は白く(透明)なるようになっていた。ただこの方法では、「明るいところほど黒く映像として残る」というネガ(→モノクロフィルム)であったため、これに光を透過させもう一度反転させたポジを作ることで白黒映像として定着させた。 こうして光線から映像を自動的に写し取る写真技術は、写真乾板から写真フィルムの時代に入ってもモノクロ映像として長らく利用され続け、これは後に写真フィルムを高速かつ連続で撮影してこれを連続投射することで動いている映像としてみせる映画の発達以降も長く利用された。 カラー映像の発達初期においてもモノクロ映像はその描写性(精細さ)や光線の感受性の高さでカラーフィルムよりも勝っていたため、20世紀後半に入っても長らくは記録映像や芸術性を求めた映像作品のうちにモノクロ映像のものがしばしば撮影された。さらには、モノクロ映像の持つ独特の雰囲気はヒトの肉眼で捉えた色彩の世界とは違った印象を与えるため、敢えてモノクロ映像を採用した芸術作品があるほか、デジタルカメラなど最新の映像機器のうちにも「モノクロ撮影モード」(機能)を備える製品は多い。 また2000年代現在の時点においては、撮像素子で光線を電気信号に変換する過程で色彩を検出するためには、ある程度の光線量が依然として必要であるため、暗視カメラではモノクロ映像が依然として主流である。なお、モノクロ撮像素子はカラー撮像素子よりも製造技術面でより「低い技術程度」で作れるなど簡便であるため、撮像素子が普及する過渡期において安価な製品の中にはこのモノクロ映像を撮影する製品があったし、電子部品モジュールの中には廉価なモノクロ撮像素子も依然多く流通している。廉価版ないし薄暗い場所に対応した監視カメラのうちにも、このモノクロ撮像素子を利用した製品が見られる。 いささか旧式と見られるモノクロ映像ではあるが、立体映像のうちアナグリフ方式では、左右の目にそれぞれ色の違うフィルターを装着、これによって立体視を可能としているが、これは脳で認識する際にモノクロ映像として構成される。 技術開発当初から普及初期のテレビ受像機(テレビジョン)では、モノクロ(→白黒テレビ)が一般的であった。これは撮像素子の関係のほか、映像出力に使われたブラウン管の性質にその理由を求めることが出来る。ブラウン管は、内部で発生させた電子ビームを磁力で偏向、スクリーン面に塗布された蛍光体に衝突させ発光させる。ゆえに電子ビームの強弱で発光具合を調節させることが出来、光線の強弱を撮像素子によって電気信号に変換、これを搬送波に乗せ、遠隔地にあるテレビ受像機で電気信号から連続した点の各々の光の強弱から、映像に再変換して見せることが出来た。ただ、初期のブラウン管では蛍光体の性質から「暗い - 明るい」の強弱で表示は出来たが、色彩を再生させることは出来なかった。後にこのブラウン管を改良、光の三原色を微細なブロックに分けて塗布したブラウン管を利用したカラーテレビでは、電子ビームを更に精密に走査させながら、色彩の再現が可能となっている。 カラーテレビやカラーディスプレイでも、モノクロ表示にできる。 コンピュータディスプレイでは、コンピュータの発達過程でこのモノクロ表示が利用されていた。これは表示装置の制約として初期の液晶ディスプレイやプラズマディスプレイが連続する点の「点灯 - 消灯」状態でしか表示が出来なかったなどの理由があった機種もあるが、それ以前にコンピュータディスプレイでは、このディスプレイに表示させる内容を保持するビデオメモリの記憶容量的な問題もあり、カラー表示では各々の表示点(ピクセル)あたりのビット数(色深度)を増やさないと色彩情報を記憶できず、初期の、あるいは廉価で機能的に限定されたコンピュータでは余り多くのビデオメモリを利用することが出来ず、最も簡素な製品では各々の表示点のビット数を1とし、「ON(点灯) / OFF(消灯)」だけを保持するよう設計された。 後に潤沢なビデオメモリが搭載できるようになり、かつ、液晶ディスプレイやプラズマディスプレイにカラー表示が可能となると、次第にこういったモノクロ表示のコンピュータは表示情報が限定的であるため廃れていったが、携帯情報端末や電子辞書ないし電子ゲームなどのうち廉価な製品では、依然としてモノクロ表示のものがみられる。 モノクロマティックガーデン/単色の庭園とは、緑色の中に単一の色彩が強調された庭園である。 単色の庭は、植栽で見る人を圧倒するように工夫がなされている。一見地味だが、ガートルード・ジーキルやヴィタ・サックヴィル=ウェストといった著名なガーデンデザイナーの手によって、このような庭園は人気を博した。例えばサックヴィル=ウェストは、最も有名な単色庭園の1つであろうシシングハースト・カースル・ガーデンのホワイトガーデンで白い「部屋」を作った。 単色の庭の多くでは明るい黄色や深い金色など、明暗の異なる色合いの花を使用したり、赤い庭のために暗いワインレッドや明るいスカーレットにピンクを含むようにしているなどの手法を施す (同様のアイデアとして単色ではなく紫、赤、オレンジといった類似色が使用されるなどもある)。ほかにホワイトガーデンのためにシルバーリーフなど斑入りの葉を持つ植物、葉に緑以外の色のある植物も活用される手法もある。
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モノクローム は、単一の色で図画などを描くこと、またはその図画自体を指す。語源はフランス語で「単色」を意味する言葉で、元々は美術の分野で使われた言葉であった。これから転じて印刷・写真・映画・テレビの分野でも、主に白黒のみで表現するものをモノクローム(あるいは略して「モノクロ」)と呼ぶようになった。以下、本項目ではこの意味での「モノクローム」について説明する。
{{Otheruses}} {{Redirect|モノクロ|「モノクロ」のその他の用法|モノクローム (曖昧さ回避)}} {{Redirect|白黒|「白黒」のその他の用法|しろくろ}} {{出典の明記|date=2015年2月}} '''モノクローム''' ({{lang-en-short|monochrome}}) は、単一の[[色]]で図画などを描くこと、またはその図画自体を指す<ref name=コトバンク>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/モノクローム-142646 |title=モノクローム |website=[[コトバンク]] |accessdate=2021-07-20}}</ref>。語源は[[フランス語]]で「単色」を意味する言葉で、元々は[[美術]]の分野で使われた言葉であった<ref name=コトバンク />。これから転じて[[印刷]]・[[写真]]・[[映画]]・[[テレビ]]の分野でも、主に白黒のみで表現するものをモノクローム(あるいは略して「モノクロ」)と呼ぶようになった<ref name=コトバンク />。以下、本項目ではこの意味での「モノクローム」について説明する。 == 概要 == モノクローム(以下モノクロ)は前述のとおり単色のことであるが、こと映像の範疇では単色ないしその濃淡で映像を現す様式である。映像表現としては[[光線|光]]の強弱を色のある無しもしくは濃淡に置き換えた形態で、[[黒]]を[[白]]の上に配して映像表現することが多い。英語のBlack and Whiteを訳す場合、英語での順に準じて「黒白」とする場合もある。 === 写真技術とモノクロ === [[File:2016-06-15 Portrait of a Japanese woman in her fifties(monochrome).jpg|thumb|モノクロームで表現された女性のヌード写真。モノクロームはその描写性(精細さ)や光線の[[感受性]]の高さ、[[光]]と[[影]]だけで表現される[[グラデーション]]の美しさで芸術表現に用いられる。]] [[画像:View from the Window at Le Gras, Joseph Nicéphore Niépce.jpg|thumb|世界最初の[[ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス|ニエプス]]による写真(1827年)]] こういった映像表現の発生した背景には、初期の写真技術があげられる。[[カメラ・オブスクラ]](カメラオブスキュラとも)と呼ばれる装置では、装置内部に投射される映像は色彩のあるカラー映像ではあったが、これを黒の[[インク]]ないし[[鉛筆]]で写し描いた場合はモノクロの映像となった。後に画家の手は[[写真乾板]]に置き換えられたが、初期の写真乾板は[[アスファルト]]に光線を長時間当て、これによって光線の当たったところのアスファルトは硬化して洗浄した後も黒く残り、それ以外は基盤となったシロメ([[スズ|錫]]・[[鉛]]合金)の白色が見えるようになっていた。ただ、この露光には8時間を要した(→[[写真史]])。 後に写真乾板は改良され、より短い[[露出 (写真)|露出]]時間でガラス表面に塗布された化学物質が変化し、光の当たったところは黒く残り([[影]])、光の当たらなかった場所は白く([[透明]])なるようになっていた。ただこの方法では、「明るいところほど黒く映像として残る」という[[ネガフィルム|ネガ]](→[[モノクロフィルム]])であったため、これに光を透過させもう一度反転させた[[ポジフィルム|ポジ]]を作ることで白黒映像として定着させた。 こうして光線から映像を自動的に写し取る写真技術は、写真乾板から[[写真フィルム]]の時代に入ってもモノクロ映像として長らく利用され続け、これは後に写真フィルムを高速かつ連続で撮影してこれを連続投射することで動いている映像としてみせる映画の発達以降も長く利用された。 カラー映像の発達初期においてもモノクロ映像はその描写性(精細さ)や光線の感受性の高さでカラーフィルムよりも勝っていたため、20世紀後半に入っても長らくは記録映像や芸術性を求めた映像作品のうちにモノクロ映像のものがしばしば撮影された。さらには、モノクロ映像の持つ独特の雰囲気は[[ヒト]]の[[肉眼]]で捉えた色彩の世界とは違った印象を与えるため、敢えてモノクロ映像を採用した芸術作品があるほか、[[デジタルカメラ]]など最新の映像機器のうちにも「モノクロ撮影モード」([[機能]])を備える製品は多い。 === 撮像技術とモノクロ === [[画像:Night vision.jpg|thumb|軍用ナイトビジョンによる無色彩の映像(緑のモノクローム)]] また2000年代現在の時点においては、[[固体撮像素子|撮像素子]]で光線を電気信号に変換する過程で色彩を検出するためには、ある程度の光線量が依然として必要であるため、[[ナイトビジョン|暗視カメラ]]ではモノクロ映像が依然として主流である。なお、モノクロ撮像素子はカラー撮像素子よりも製造技術面でより「低い技術程度」で作れるなど簡便であるため、撮像素子が普及する過渡期において安価な製品の中にはこのモノクロ映像を撮影する製品があったし、電子部品[[モジュール]]の中には廉価なモノクロ撮像素子も依然多く流通している。[[廉価版]]ないし薄暗い場所に対応した[[監視カメラ]]のうちにも、このモノクロ撮像素子を利用した製品が見られる。 === 立体映像とモノクロ === <!--体裁が崩れるのでコメントアウト:[[画像:AbaglypMonochromeToy.jpg|thumb|アナグリフ方式の立体映像イメージ]]--> いささか旧式と見られるモノクロ映像ではあるが、[[3次元映像|立体映像]]のうちアナグリフ方式では、左右の目にそれぞれ色の違う[[レンズフィルター|フィルター]]を装着、これによって立体視を可能としているが、これは脳で[[認識]]する際にモノクロ映像として構成される。 == 表示におけるモノクロ == [[画像:1950's television.jpg|thumb|1950年代の白黒テレビ]] 技術開発当初から普及初期の[[テレビ受像機]](テレビジョン)では、モノクロ(→[[白黒テレビ]])が一般的であった。これは撮像素子の関係のほか、映像出力に使われた[[ブラウン管]]の性質にその理由を求めることが出来る。ブラウン管は、内部で発生させた[[陰極線|電子ビーム]]を磁力で偏向、スクリーン面に塗布された[[蛍光体]]に衝突させ発光させる。ゆえに電子ビームの強弱で発光具合を調節させることが出来、光線の強弱を撮像素子によって電気信号に変換、これを[[搬送波]]に乗せ、遠隔地にあるテレビ受像機で電気信号から連続した点の各々の光の強弱から、映像に再変換して見せることが出来た。ただ、初期のブラウン管では蛍光体の性質から「暗い - 明るい」の強弱で表示は出来たが、色彩を再生させることは出来なかった。後にこのブラウン管を改良、[[原色|光の三原色]]を微細なブロックに分けて塗布したブラウン管を利用した[[カラーテレビ]]では、電子ビームを更に精密に走査させながら、色彩の再現が可能となっている。 カラーテレビやカラーディスプレイでも、モノクロ表示にできる。 === モノクロディスプレイ === [[画像:Toshiba T1100 In Betrieb.jpg|thumb|世界初の[[ラップトップパソコン|ラップトップ]]。液晶マトリクスディスプレイが搭載されていた]] [[ディスプレイ (コンピュータ)|コンピュータディスプレイ]]では、コンピュータの発達過程でこのモノクロ表示が利用されていた。これは表示装置の制約として初期の[[液晶ディスプレイ]]や[[プラズマディスプレイ]]が連続する点の「点灯 - 消灯」状態でしか表示が出来なかったなどの理由があった機種もあるが、それ以前にコンピュータディスプレイでは、このディスプレイに表示させる内容を保持する[[VRAM|ビデオメモリ]]の記憶容量的な問題もあり、カラー表示では各々の表示点([[ピクセル]])あたりのビット数([[色深度]])を増やさないと色彩情報を記憶できず、初期の、あるいは廉価で機能的に限定されたコンピュータでは余り多くのビデオメモリを利用することが出来ず、最も簡素な製品では各々の表示点のビット数を1とし、「ON(点灯) / OFF(消灯)」だけを保持するよう設計された。 後に潤沢なビデオメモリが搭載できるようになり、かつ、液晶ディスプレイやプラズマディスプレイにカラー表示が可能となると、次第にこういったモノクロ表示のコンピュータは表示情報が限定的であるため廃れていったが、[[携帯情報端末]]や[[電子辞書]]ないし[[電子ゲーム]]などのうち廉価な製品では、依然としてモノクロ表示のものがみられる。 == monochromatic garden == [[File:Sissinghurst white garden.jpg|thumb|upright|[[シシングハースト・カースル・ガーデン]] 白色の庭園]] モノクロマティックガーデン/単色の庭園とは、緑色の中に単一の色彩が強調された[[庭園]]である。 {{main|:en:monochromatic garden}} 単色の庭は、植栽で見る人を圧倒するように工夫がなされている。一見地味だが、[[ガートルード・ジーキル]]や[[ヴィタ・サックヴィル=ウェスト]]といった著名な[[ガーデンデザイナー]]の手によって、このような庭園は人気を博した。例えばサックヴィル=ウェストは、最も有名な単色庭園の1つであろう[[シシングハースト・カースル・ガーデン]]のホワイトガーデンで白い「部屋」を作った<ref name=":2">{{Cite book |last=Phillips |first=Charles |url=https://books.google.com/books?id=WhYli0YTEvQC&q=+%22single+Color+garden%22+-wikipedia |title=Color for Life |date=2004 |publisher=Ryland Peters & Small |isbn=978-1-84172-691-5 |pages=29, 77 |language=en}}</ref><ref name=":0">{{Cite book |last=Taylor |first=Patricia A. |url=https://books.google.com/books?id=37BsJTbUHJMC&q=+%22single+Color+garden%22+-wikipedia |title=Perennials |date=1995 |publisher=Better Homes and Gardens Books |isbn=978-0-696-02554-9 |pages=24 |language=en |quote=Probably the most famous single-color garden is Vita Sackville-West's white garden at Sissinghurst in England.}}</ref>。 [[File:Lytes Cary 2009 Red Garden.JPG|left|thumb|ライツ・カリーの赤い庭園]] 単色の庭の多くでは明るい黄色や深い金色など、明暗の異なる色合いの花を使用したり、赤い庭のために暗いワインレッドや明るいスカーレットにピンクを含むようにしているなどの手法を施す<ref name=":1">{{Cite book |last=Halpin |first=Anne Moyer |url=https://books.google.com/books?id=AimYik-qj_oC&q=%22single+Color+gardens%22 |title=Seascape Gardening: date=2006-01-01 |publisher=Storey Publishing |isbn=978-1-58017-531-9 |pages=38 |language=ja |chapter=プランニングとデザイン}}</ref><ref name=":3">{{Cite book |last=Better Homes & Gardens |url=https://books.google.com/books? id=acUMC_sxufIC&dq=%22monochromatic+garden%22&pg=PA58 |title=Better Homes & Gardens Perennial Gardening |date=2010-12-28 |publisher=John Wiley & Sons |isbn=978-0-470-87844-6 |pages=58-59 |language=ja}}</ref> (同様のアイデアとして単色ではなく紫、赤、オレンジといった[[類似]]色が使用されるなどもある<ref>{{Cite book |last1=Hill |first1=Lewis |url=https://books.google.com/books?id=f_5KHXvqyOYC&dq=%22monochromatic+garden%22&pg=PA35 |title=The Flower Gardener's Bible: A Complete Guide to Colorful Blooms All Season Long: 400 Favorite Flowers, Time-Tested Techniques, Creative Garden Designs, and a Lifetime of Gardening Wisdom |last2=Hill |first2=Nancy |date=2012-05-04 |publisher=Storey Publishing, LLC |isbn=978-1-60342-807-1 |pages=35 |language=en}}</ref>)。ほかにホワイトガーデンのためにシルバーリーフなど斑入りの葉を持つ植物、葉に緑以外の色のある植物も活用される手法もある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[モノクロフィルム]] * [[セピア調]] * [[グリザイユ]] * [[単色画]] {{写真}} {{デフォルトソート:ものくろおむ}} [[category:色]] [[category:名数1|くろおむ]]
2003-03-21T05:17:43Z
2023-12-17T18:17:38Z
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数(かず、すう、英: number)とは、 ITなど特定の分野においては「数値(すうち)」ともいう。 数の概念は人類の歴史とともに、非常に長い年月をかけて、ゆっくりと、徐々に、拡張されてきた。 もっとも素朴な数は、ものの順番や個数としての自然数である。つまり「1, 2, 3, ....」などという数である。 その自然数に加えて、古代バビロニアや古代インドにおいて、現代で言う「ゼロ」に似たような概念を使おうとする人が現れた。なお、「1, 2, 3, 4, 5...」という概念しか知らなかったところに加えて、「ゼロ」という概念を発明し 数を拡張したことは、数学の長い歴史の中でも特に大きな跳躍だった、とされることがある。「無い」ということを「ひとつの概念」として扱おうとしたこと、つまり、(最初は引き算などの中で)自然数では表記できない事例に遭遇した時に、単に文章の中で「(何かが)無い」「...をすると、(ちょうど、それが)無くなる」などの表現をして終わらせるのでなく、その状態を「ひとつの概念」として意識を向けてそれを扱おうとしたことや、特定の記号でその概念を表現しようとしたことや、その状態まで含めて(大胆にも)「『数』の一種」だと位置付けようとしたこと、などが行われたことによってはじめて、(ゼロを発明した当時、発明した人も、そんな展開になるとは夢にも思っていなかったであろうが)現代の広大な数の体系へと続く長い道のりが始まった。そもそも先例も無く、思考の足掛かりらしい足掛かりも無いのに、「ゼロ」という概念の萌芽のようなものを最初に思いつく、ということ自体が人類にとって非常に大変なことであった。また、「無い」ことを概念として本当に扱ってよいのか?思考の対象として良いのか?良くないのか? ということすら良く判らず、非常に長い間、得体の知れない、不気味な概念だった。また、(現在の「ゼロ」に比べれば不完全な形ながらも)やっとなんとか「ゼロ」に近いものを思いつき、扱ってみようと試みる人が現れた後も、そのアイディアを口にしたり文章に書いたりすると、「そんな妙なアイディアは認めるべきでない」や「危険なアイディアだ」などと否定する人のほうがはるかに多く、結局、古代ギリシア文明のように「ゼロ」概念を(文明全体として)否定(や禁止)してしまったものもあったなど、古代のさまざまな文明で「ゼロ」という概念を巡り人々は迷い、争い、葛藤した。 長い時代を経て、自然数にゼロ(零)、およびひとつひとつの自然数と一対になっている「負の数」という概念(今で言う「負の整数」という概念)を加えることで、「整数」(英: integer)というまとまりが考えだされた。なお、この段階では「自然数」「ゼロ」および「負の数」で、「全ての数」と考えられていた(信じられていた)ので「integer」と呼ばれていたのである(もともとintegerとは「全体」や「欠けの無い」という意味を持つ)。 さらに整数の商を考えて有理数と拡張され、四則演算が自由に行える体系を得る。有理数から実数への拡張はこのような演算とは異なるギャップを埋めることで得られ、代数方程式の解法を通じて虚数を含む複素数へと拡張された。 フランスの数学者、アンリ・ポアンカレは「数」の定義は難しく、0、1などを厳密に定義するのは難しいと説明している。 これらを更に別の観点から拡張した体系が存在する。例えば、ものの個数の概念である自然数を拡張して基数が、ものの順番を表す意味での自然数の拡張として順序数が定義される。複素数を更に拡張したものとして、四元数・八元数・十六元数などの体系がある。あるいは、実数に加えて無限小や無限大を含む超実数などの体系もある。 数を如何にして数字に表すかという方法は記数法と呼ばれる。同じ数が、さまざまな記数法ごとに異なる表示をもつことは珍しいことではない。 以下の記事も参照のこと。 例えば十進法(表記)の「255」は、十六進法では「FF」と記述され、二進法では「1111 1111」と記述される。「255」と「FF」と「1111 1111」では、見た目(感覚的印象)はかなり異なるが、あくまで同じ数の概念を表している。 なお人類は、古代ではさかんに、十二進法や六十進法を用いてきた歴史がある。次第に用いられることが減ってきたが、現代でも時間や時刻の表示法(時・分・秒)や、緯度・経度の表示法、等々等々で用いられている。 十二進法は、はるか昔、古代バビロニアの時代から用いられていたわけだが、どうして十二進法が用いられるようになったのか?に関してはいくつかの説(仮説)があり、『(天球上で)太陽の軌道の位置が元の位置に戻ってくるまでの間に、つまり1年の間に(ざっくりと言うと)月が12まわり 変化する。古代では太陰暦のほうが標準的に用いられていたので、「12」という概念を用いて、ものごとを数えることがしばしば行われたのだ』という説や、『(バビロニアなどでは)数を数える時に(親指は用いず)、(類似の構造を持つ)人差し指・中指・薬指・小指の4本を用い、それぞれの指にある3つの関節(あるいは、関節と関節の間の平らな面)をひとつずつ指しながら数を数えたので、結果として、4(本) x 3(関節) = 12、が「ひとまとまり」や「ひと区切り」となったからだ。』といった説(また、それらが相互に助け合って、古代人の社会では十二進法使用が推進され、さかんに用いられた、などという説)が主流である。(ちなみに、ヘブライ人も12を「ひとまとまり」や「全部」と捉える発想を持っておりヘブライ語聖書に登場する「十二部族」は、単なる12個の部族というだけでなく、「全ての部族」という意味を持っている。こうした天体の動きや暦や人類の身体の構造などが、現代にまで使われつづける記数法を生んでおり、(文化的に)ひとつひとつの数に与えられている意味、意味付け、にも影響している。) 近・現代では、概して言えば、十進法表記が用いられていることが多い。理屈の上では、さまざまな記数法を採用しうるのに、(また、必ずしも十進法が他の進法と比較して優れているわけでもないのに)なぜ十進法が採用されることが多くなったのか? という疑問に関しては、おおむね(説明法の細部は異なっても)「人類の両手の指は合わせて10本あり、両手の指をつかって数を数えることが(必ずしも全ての民族ではないにしても)多くの民族で行われていたからだ」といった類の説明がされることが多い。いずれの方法でも、両手の指を全部使ったところである種の「ひとまとまり」や「ひと区切り」を迎えるので、自然と人類は十進法という発想法(記述法)を用いることが多くなった、といった説明である。 なお20世紀後半になってデジタルコンピュータの使用が急速に増えるにつれ、計算機科学の専門家やコンピュータ・エンジニアなどを中心として二進法や十六進法の活用が非常に活発になった。二進法はデジタルコンピュータのCPUでの数表現と直結していたからである。ただ二進法は、その表記量が増えると「1010 1111 0101 1100 ...」などといった調子で、あまりに桁数が多くなり、おまけに「0」「1」ばかりでは人間の頭脳の特性には向いておらず扱いにくくなるので、一旦それを十六進表記に変換して「AF5C...」などと表記したり、十六進表記でプログラム(の要素)を書いたり、十六進表記に対応したキーボードでそれを入力するしくみを作った。二進数表記と十六進数表記は、二進数の4桁(4文字)が十六進の1桁(1文字)に(ちょうど、まとめて、すっきりと)変換でき、一種の「相性」のようなものが良く便利なので、用いられた。例えば上記の「1010」→「A」と変換できる。また、コンピュータの仕組みとしては、「A」のキーが押されたら、内部的にはそれを「1010」と(デジタル回路のON/OFFで)表現すれば良く、2進で4桁分ずつデータを取り込んでゆけば良かった。(こうして1960年代~1980年代は、コンピュータを実際に操作する場面で、さかんに十六進表記のデータ群やプログラムが使われた。最近は、システム開発の焦点となる次元(アーキテクチャ内での階層)が変わり、コンピュータ・エンジニアが十六進表記の記述を扱うことはかなり減ったが)、デジタルコンピュータは今も、二進法を根本原理として、物理的に動いており、それに支配されている。これらのことから現在でも、コンピュータのエンジニアの資格試験では二進法・十六進法・十進法などの間の相互変換は(コンピュータの根本原理を理解するためにも、それを扱うために開発された技術的手法の歴史を理解する上でも)必修事項となっており、コンピュータ・エンジニアの資格取得者ならばそれらの相互変換ができる。 なお、ある数を記述するための記数法が指定されても、それでも表示がひとつに定まらないことがある。例えば、十進小数表示では 1 = 0.999... (右辺は、小数点以下の全ての桁が 9)という2通りの表示をもちうる。 デジタルコンピュータでは、全てのデータは内部的には、0/1 という数値の集まり(あるいはスイッチのOFF/ONという状態、さらに厳密に言えば Low/Highという2種類の電圧)という形で存在している。ひとつのスイッチのOFF/ONという状態が、数値の0/1と対応しており(同一視する方法で設計されており)、0/1があるので2進数が表現可能となっている。ひとつのスイッチ、0/1ひとつ、2進数の1桁相当を「1ビット」と言う。ひとつのスイッチが1桁の2進数に対応するので、スイッチの個数を増やして組み合わせてゆくことで(同タイプのスイッチを並べておいてひとまとまりとして扱うことで)、桁数の多い2進数も表現できる。2進数8桁を、しばしばひとかたまりとしてとらえて「1バイト」という。1バイト(=8ビット)で、2=256種類の値が表現できる。これの扱い方はいくつかあり、ひとつはこれを0〜255として扱う方法がある。あるいはこれを「-128〜0〜127」という整数などと見なして扱うこと(回路を設計すること)もできる。1バイトではわずかこの程度の範囲の整数しか表現できないが、桁数を増やす(ビット数、バイト数を増やす)ことで、もっと大きな整数を表現できることになる。たとえば2バイトならば、-32768〜+32767が表現できる。コンピュータの歴史では、CPUが一度に扱える桁数が 1バイト→2バイト→4バイト→8バイトと増すにつれ、大きな桁数の整数を表現し扱うことができるようになってきた。 (整数以上の数の表現方法まで説明するとあまりに長文になるので省略するが)ともかくこのようにして、さまざまな工夫をすることで、コンピュータの内部では、自然数・負の数・整数・実数などをLow/Highという電圧(あるいは0/1)の集まりで表現し、多数のスイッチの電位を超高速で連鎖的に変化させることで、数の演算を実現している。 なお、パソコンなどの回路では、文字も「文字コード」という数値で(さらに言えば、想定されている数値と対応する、スイッチ群のOn/Offという状態の形で)存在している。例えばラテン文字の1番目の大文字 A は標準的なASCIIコードやShift_JIS・UTF-8などでは十六進法表記で0x41(十進法表記で65)で、小文字の a は0x61=97である。同じように数字も文字として存在しており、文字 0 の数値は0x30=48である。
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数とは、 ものの順序を示す語。また、その記号・数字。 個々の物(もの)や事(こと)が、(全体または一定の範囲で)いくつあるか(あるいは何回おきるか)ということを表すもの。 ITなど特定の分野においては「数値(すうち)」ともいう。
{{Otheruses||文法用語|数 (文法)}} '''数'''(かず、すう、{{lang-en-short|number}})とは、 *ものの[[順序]]を示す語<ref name="daijisen_kazu">小学館、[https://dictionary.goo.ne.jp/jn/40928/meaning/m0u/%E6%95%B0/ 『デジタル大辞泉』「かず【数】」]</ref>。また、その[[記号]]<ref name="daijisen_kazu" />・[[数字]]<ref name="daijisen_kazu" />。 *個々の物(もの)や事(こと)が、(全体または一定の範囲で)いくつあるか(あるいは何回おきるか)ということを表すもの<ref name="daijisen_kazu" />。 [[情報技術|IT]]など特定の分野においては「'''数値'''(すうち)」ともいう。 == 数の概念 == === 数の体系 === ;数概念の拡張の歴史 数の概念は人類の歴史とともに、非常に長い年月をかけて、ゆっくりと、徐々に、拡張されてきた。 もっとも素朴な数は、ものの順番や個数としての[[自然数]]である。つまり「1, 2, 3, ....」などという数である。 その自然数に加えて、[[古代バビロニア]]や[[古代インド]]において、現代で言う「'''[[0|ゼロ]]'''」に似たような概念を使おうとする人が現れた。なお、「1, 2, 3, 4, 5...」という概念しか知らなかったところに加えて、「ゼロ」という概念を発明し 数を拡張したことは、[[数学史|数学の長い歴史]]の中でも特に大きな跳躍だった、とされることがある。「無い」ということを「ひとつの概念」として扱おうとしたこと、つまり、(最初は[[引き算]]などの中で)自然数では表記できない事例に遭遇した時に、単に文章の中で「(何かが)無い」「...をすると、(ちょうど、それが)無くなる」などの表現をして終わらせるのでなく、その状態を「ひとつの概念」として意識を向けてそれを扱おうとしたことや、特定の記号でその概念を表現しようとしたことや、その状態まで含めて(大胆にも)「『数』の一種」だと位置付けようとしたこと、などが行われたことによってはじめて、(ゼロを発明した当時、発明した人も、そんな展開になるとは夢にも思っていなかったであろうが)現代の広大な数の体系へと続く長い道のりが始まった。そもそも先例も無く、思考の足掛かりらしい足掛かりも無いのに、「ゼロ」という概念の萌芽のようなものを最初に思いつく、ということ自体が人類にとって非常に大変なことであった。また、「無い」ことを概念として本当に扱ってよいのか?思考の対象として良いのか?良くないのか? ということすら良く判らず、非常に長い間、得体の知れない、不気味な概念だった。また、(現在の「ゼロ」に比べれば不完全な形ながらも)やっとなんとか「ゼロ」に近いものを思いつき、扱ってみようと試みる人が現れた後も、そのアイディアを口にしたり文章に書いたりすると、「そんな妙なアイディアは認めるべきでない」や「危険なアイディアだ」などと否定する人のほうがはるかに多く、結局、[[古代ギリシア]]文明のように「ゼロ」概念を(文明全体として)否定(や禁止)してしまったものもあったなど、古代のさまざまな文明で「ゼロ」という概念を巡り人々は迷い、争い、葛藤した<ref name="seife">Charles SEIFE, "ZERO, THE BIOGRAPHY OF A DANGEROUS IDEA".  Souvenir Press, 2000.</ref>。 長い時代を経て、自然数に[[ゼロ]]([[零]])、およびひとつひとつの自然数と一対になっている「負の数」という概念(今で言う「[[負の整数]]」という概念)を加えることで、「[[整数]]」({{lang-en-short|integer}})というまとまりが考えだされた。なお、この段階では「自然数」「ゼロ」および「負の数」で、「全ての数」と考えられていた(信じられていた)ので「integer」と呼ばれていたのである(もともと''integer''とは「全体」や「欠けの無い」という意味を持つ)。 さらに整数の[[除法|商]]を考えて[[有理数]]と拡張され、[[四則演算]]が自由に行える体系を得る。有理数から[[実数]]への拡張はこのような演算とは異なるギャップを埋めることで得られ、[[代数方程式]]の解法を通じて[[虚数]]を含む[[複素数]]へと拡張された。 [[File:NumberSetinC.svg|thumb|right|300px|複素数を構成するさまざまな数どうしの関係を表す図。]] * 自然数 → 整数 → 有理数 → 実数 → 複素数 ** 複素数 - 虚数、実数 ** 複素数 - [[代数的数]]、[[超越数]] ** 実数 - [[無理数]]、有理数 ** 有理数 ** 整数 - 自然数、負の整数 ** 自然数 = 正の整数 フランスの数学者、[[アンリ・ポアンカレ]]は「数」の定義は難しく、0、1などを厳密に定義するのは難しいと説明している<ref>{{Cite book|和書|author=アンリ・ポアンカレ|authorlink=アンリ・ポアンカレ|translator=[[吉田洋一]]|year=1927|title=科学と方法|edition=再版|series=岩波文庫 85-87|publisher=岩波書店|id={{近代デジタルライブラリー|1195367}}||chapter=第二篇第二章}}</ref>。 {|style="font-size:100%;text-align:left;white-space:nowrap;" |{{数の分類}} |} === 様々な拡張法 === これらを更に別の観点から拡張した体系が存在する。例えば、ものの個数の概念である自然数を拡張して[[濃度 (数学)|基数]]が、ものの順番を表す意味での自然数の拡張として[[順序数]]が定義される。複素数を更に拡張したものとして、[[四元数]]・[[八元数]]・[[十六元数]]などの体系がある。あるいは、実数に加えて[[無限小]]や[[無限|無限大]]を含む[[超実数]]などの体系もある。 * 自然数 → 基数 ** 基数 - 有限基数(= 自然数)、無限基数 * 自然数 → 順序数 ** 順序数 - 有限順序数(= 自然数)、超限順序数 * 実数 → 複素数 → 四元数 → 八元数 → 十六元数 * 有理数 → ''p''-進数 (+ 実数 → [[アデール環|アデール]]) * 実数 → 超実数 == 記数法 == 数を如何にして数字に表すかという方法は[[記数法]]と呼ばれる。同じ数が、さまざまな記数法ごとに異なる表示をもつことは珍しいことではない。 以下の記事も参照のこと。 * [[分数|分数表記]] * [[小数|小数表記]] * [[指数表記]] * [[位取り記数法|N進表記]] 例えば[[十進法]](表記)の「255」は、[[十六進法]]では「FF」と記述され、[[二進法]]では「1111 1111」と記述される。「255」と「FF」と「1111 1111」では、見た目(感覚的印象)はかなり異なるが、あくまで同じ数の概念を表している。 なお人類は、古代ではさかんに、[[十二進法]]や[[六十進法]]を用いてきた歴史がある。次第に用いられることが減ってきたが、現代でも[[時間]]や時刻の表示法([[時]]・[[分]]・[[秒]])や、[[緯度]]・[[経度]]の表示法、等々等々で用いられている。 十二進法は、はるか昔、[[古代バビロニア]]の時代から用いられていたわけだが、どうして十二進法が用いられるようになったのか?に関してはいくつかの説(仮説)があり、『([[天球]]上で)[[太陽]]の軌道の位置が元の位置に戻ってくるまでの間に、つまり<u>1年の間に</u>(ざっくりと言うと)<u>[[月]]が12まわり 変化</u>する。古代では<u>[[太陰暦]]のほうが標準的に用いられていた</u>ので、「12」という概念を用いて、ものごとを数えることがしばしば行われたのだ』という説や、『(バビロニアなどでは)数を数える時に([[親指]]は用いず)、(類似の構造を持つ)<u>[[人差し指]]・[[中指]]・[[薬指]]・[[小指]]の4本を用い</u>、それぞれの指にある<u>3つの関節</u>(あるいは、関節と関節の間の平らな面)をひとつずつ指しながら数を数えたので、結果として、4(本) x 3(関節) = 12、が「ひとまとまり」や「ひと区切り」となったからだ。』といった説(また、それらが相互に助け合って、古代人の社会では十二進法使用が推進され、さかんに用いられた、などという説)が主流である。(ちなみに、[[ヘブライ人]]も12を「ひとまとまり」や「全部」と捉える発想を持っており[[ヘブライ語聖書]]に登場する「十二部族」は、単なる12個の部族というだけでなく、「全ての部族」という意味を持っている。こうした天体の動きや暦や人類の身体の構造などが、現代にまで使われつづける記数法を生んでおり、(文化的に)ひとつひとつの数に与えられている意味、意味付け、にも影響している。) 近・現代では、概して言えば、十進法表記が用いられていることが多い。理屈の上では、さまざまな記数法を採用しうるのに、(また、必ずしも十進法が他の進法と比較して優れているわけでもないのに)なぜ十進法が採用されることが多くなったのか? という疑問に関しては、おおむね(説明法の細部は異なっても)「人類の<u>両[[手]]の[[指]]は合わせて10本</u>あり、両手の指をつかって数を数えることが(必ずしも全ての民族ではないにしても)多くの民族で行われていたからだ」といった類の説明がされることが多い。いずれの方法<ref group="注">ヨーロッパでは多くの国で、一旦指を全部たたんだ状態を「0」と見なし、「1, 2, 3...」と数を声に出しつつ1本ずつ指を立ててゆき、数をかぞえてゆく。日本では反対に、全部の指を一旦立てた状態を「0」と見なし、「1, 2, 3...」と指を「折り」曲げつつ数を数えてゆく。日本語ではしばしば「指折り数える」と言う。</ref>でも、両手の指を全部使ったところである種の「ひとまとまり」や「ひと区切り」を迎えるので、自然と人類は十進法という発想法(記述法)を用いることが多くなった、といった説明である。 なお[[20世紀]]後半になって[[デジタルコンピュータ]]の使用が急速に増えるにつれ、[[計算機科学]]の専門家や[[コンピュータ技術者|コンピュータ・エンジニア]]などを中心として二進法や十六進法の活用が非常に活発になった。二進法はデジタルコンピュータの[[CPU]]での数表現と直結していたからである。ただ二進法は、その表記量が増えると「1010 1111 0101 1100 ...」などといった調子で、あまりに桁数が多くなり、おまけに「0」「1」ばかりでは人間の頭脳の特性には向いておらず扱いにくくなるので、一旦それを十六進表記に変換して「AF5C...」などと表記したり、十六進表記で[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]](の要素)を書いたり、十六進表記に対応した[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]でそれを入力するしくみを作った。二進数表記と十六進数表記は、二進数の4桁(4文字)が十六進の1桁(1文字)に(ちょうど、まとめて、すっきりと)変換でき、一種の「相性」のようなものが良く便利なので、用いられた。例えば上記の「1010」→「A」と変換できる。また、コンピュータの仕組みとしては、「A」のキーが押されたら、内部的にはそれを「1010」と(デジタル回路のON/OFFで)表現すれば良く、2進で4桁分ずつデータを取り込んでゆけば良かった。(こうして1960年代~1980年代は、コンピュータを実際に操作する場面で、さかんに十六進表記のデータ群やプログラムが使われた。最近は、システム開発の焦点となる次元(アーキテクチャ内での階層)が変わり、コンピュータ・エンジニアが十六進表記の記述を扱うことはかなり減ったが)、デジタルコンピュータは今も、二進法を根本原理として、物理的に動いており、それに支配されている。これらのことから現在でも、コンピュータのエンジニアの資格試験では二進法・十六進法・十進法などの間の相互変換は(コンピュータの根本原理を理解するためにも、それを扱うために開発された技術的手法の歴史を理解する上でも)必修事項となっており、コンピュータ・エンジニアの資格取得者ならばそれらの相互変換ができる。 なお、ある数を記述するための記数法が指定されても、それでも表示がひとつに定まらないことがある。例えば、十進小数表示では 1 = [[0.999...]] (右辺は、小数点以下の全ての桁が 9)という2通りの表示をもちうる。 == コンピュータにおける数値 == [[デジタルコンピュータ]]では、全てのデータは内部的には、0/1 という数値の集まり(あるいは[[開閉器|スイッチ]]のOFF/ONという状態、さらに厳密に言えば Low/Highという2種類の[[電圧]])という形で存在している。ひとつのスイッチのOFF/ONという状態が、数値の0/1と対応しており(同一視する方法で設計されており)、0/1があるので[[二進記数法|2進数]]が表現可能となっている。ひとつのスイッチ、0/1ひとつ、2進数の1桁相当を「1[[ビット]]」と言う。ひとつのスイッチが1桁の2進数に対応するので、スイッチの個数を増やして組み合わせてゆくことで(同タイプのスイッチを並べておいてひとまとまりとして扱うことで)、桁数の多い2進数も表現できる。2進数8桁を、しばしばひとかたまりとしてとらえて「1[[バイト (情報)|バイト]]」という。1バイト(=8ビット)で、2<sup>8</sup>=256種類の値が表現できる。これの扱い方はいくつかあり、ひとつはこれを0〜255として扱う方法がある。あるいはこれを「-128〜0〜127」という整数などと見なして扱うこと(回路を設計すること)もできる。1バイトではわずかこの程度の範囲の整数しか表現できないが、桁数を増やす(ビット数、バイト数を増やす)ことで、もっと大きな整数を表現できることになる。たとえば2バイトならば、-32768〜+32767が表現できる。コンピュータの歴史では、[[CPU]]が一度に扱える桁数が 1バイト→2バイト→4バイト→8バイトと増すにつれ、大きな桁数の整数を表現し扱うことができるようになってきた。 (整数以上の数の表現方法まで説明するとあまりに長文になるので省略するが)ともかくこのようにして、さまざまな工夫をすることで、コンピュータの内部では、自然数・負の数・整数・実数などをLow/Highという電圧(あるいは0/1)の集まりで表現し、多数のスイッチの電位を超高速で連鎖的に変化させることで、数の演算を実現している。 {{seealso|コンピュータの数値表現|浮動小数点数|固定小数点数}} なお、[[パソコン]]などの回路では、文字も「[[文字コード]]」という数値で(さらに言えば、想定されている数値と対応する、スイッチ群のOn/Offという状態の形で)存在している。例えば[[ラテン文字]]の1番目の大文字 '''[[A]]''' は標準的な[[American Standard Code for Information Interchange|ASCII]]コードや[[Shift_JIS]]・[[UTF-8]]などでは十六進法表記で0x41(十進法表記で65)で、小文字の '''a''' は0x61=97である。同じように数字も文字として存在しており、文字 '''0''' の数値は0x30=48である。 {{seealso|文字コード}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == [[ファイル:HK Central New World Centre Lift button numbers Oct-2011.jpg|thumb|right|160px|[[階]]を表す数が書かれた[[エレベーター]]の[[押しボタン]]。]] {{commonscat|Numbers}} {{Wiktionary|数}} * [[定数]] * [[変数 (数学)|変数]] * [[直線]](数直線) * [[数に関する記事の一覧]] * [[数詞]] * [[キープ (インカ)]] * [[命数法]] - [[倍数接頭辞]] * [[ぞろ目]] * [[数の比較]] == 外部リンク == * {{脳科学辞典|記事名=数・量の概念}} *{{Kotobank}} {{数の体系|state=1}}{{Normdaten}} {{デフォルトソート:すう}} [[Category:数|*]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学的対象]] [[Category:数学に関する記事]]
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1564年
1564年(1564 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1564年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1564}} {{year-definition|1564}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永禄]]7年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2224年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]43年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[明宗 (朝鮮王)|明宗]]19年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3897年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[淳福]]3年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]7年 * [[仏滅紀元]] : 2106年 - 2107年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 971年 - 972年 * [[ユダヤ暦]] : 5324年 - 5325年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1564|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[川中島の戦い]](5回目){{要出典|date=2021-03}} *[[竹中重治|竹中半兵衛重治]]が[[岐阜城|稲葉山城]]を乗っ取る *[[国府台合戦]]が終結 == 誕生 == {{see also|Category:1564年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月15日]] - [[ガリレオ・ガリレイ]]、[[物理学者]]、[[天文学者]]、[[哲学者]](+ [[1642年]]) * [[2月26日]]受洗 - [[クリストファー・マーロウ]]、[[イギリス]]の[[劇作家]]、[[詩人]]、[[翻訳]]家(+ [[1593年]]) * [[3月9日]] - [[ダーヴィト・ファブリツィウス]]、[[ドイツ]]の[[牧師]]、天文学者(+ [[1617年]]) * [[4月26日]]受洗 - [[ウィリアム・シェイクスピア]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/William-Shakespeare William Shakespeare English author] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、劇作家、詩人(+ [[1616年]]) * [[9月24日]] - [[ウィリアム・アダムス]](三浦按針)、イギリス人[[航海士]]、[[水先案内人]]、貿易家(+ [[1620年]]) * [[カルロ・スピノラ]]、[[イエズス会]]の[[イタリア]]人[[宣教師]](+ [[1622年]]) * [[クリシュトフ・ハラント]]、[[チェコ]]人の[[貴族]]、[[軍人]]、[[音楽家]]、[[プロテスタント]]教徒(+ [[1621年]]) * [[ロドリゴ・デ・ビベロ]]、[[スペイン]]人の貴族、[[植民地]][[政治家]](+ [[1636年]]) == 死去 == {{see also|Category:1564年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月4日]]([[永禄]]6年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[細川氏綱]]、[[室町幕府]]最後の[[管領]](* [[1514年]]) * [[2月18日]] - [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[イタリア]][[ルネサンス]]期の[[彫刻家]]、[[画家]]、[[建築家]]、[[詩人]](* [[1475年]]) * [[5月27日]] - [[ジャン・カルヴァン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/John-Calvin John Calvin French theologian] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[フランス]]の[[神学者]](* [[1509年]]) * [[7月27日]] - [[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]、[[神聖ローマ皇帝]]、[[オーストリア大公]]、[[ボヘミア]]王、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](* [[1503年]]) * [[8月30日]] - [[ザビーナ・フォン・バイエルン]]、[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク公]][[ウルリヒ (ヴュルテンベルク公)|ウルリヒ]]の妃(* [[1492年]]) * [[9月7日]] - [[ジャン・ド・トゥルヌ]]、フランスの[[印刷]]・[[出版]]業者(* [[1504年]]) * [[10月5日]] - [[ピエール・ド・マンシクール]]、[[フランドル楽派]]の[[作曲家]](* [[1510年]]?) * [[10月15日]] - [[アンドレアス・ヴェサリウス]]、[[オランダ]]の[[解剖学者]]、[[医師]](* [[1514年]]) * [[シャルル・エチエンヌ]]、フランスの[[医学]][[博士]]、[[作家]]、出版業者(* [[1504年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1564}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1564ねん}} [[Category:1564年|*]]
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町屋駅
町屋駅(まちやえき)は、東京都荒川区荒川七丁目および町屋一丁目にある、京成電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 本項では、両駅に近接する東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の町屋駅前停留場(まちやえきまえていりゅうじょう)についても記す。 京成電鉄の本線と東京メトロの千代田線の2路線が乗り入れ、両線の駅施設の間に都電荒川線の町屋駅前停留場が隣接する。各路線ごとに駅番号が付与されている。 最初に開業したのは、後に東京都電車(都電)となる王子電気軌道の停留場であり、その後京成電気軌道が当地に町屋駅を設置してからは、2つの軌道路線の乗り換え地点となった。その後1945年(昭和20年)に京成本線は軌道路線から鉄道路線となり(同年、京成電気軌道は京成電鉄に改称)、後年に千代田線の駅が開業し現在に至る。 島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホーム中程には待合室が設置されている。 2002年(平成14年)10月12日のダイヤ改正以前は急行停車駅であった。 単式ホーム1面1線上下2層構造の地下駅で、1番線ホーム(代々木上原方面)の下に2番線ホーム(綾瀬方面)がある。駅番号はC 17。 当駅から根津駅にかけては地上を通る都道313号(尾竹橋通り)・都道457号(道灌山通り)・都道437号(不忍通り)の幅が十分でないことから、途中の西日暮里駅、千駄木駅を含めて上下2層の駅間トンネル・駅構造となっている。駅中心部における地表からレール面までの深さは、1番線が10.4 m、2番線が16.3 mある。 ホーム中央にマークスタワーに直結する改札口があり、エレベーターも設置されている。 (出典:東京メトロ:構内図) 2018年10月27日よりスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「気分はスイング」(塩塚博作曲)、2番線が「夏木立」(福嶋尚哉作曲)である。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 再開発前はホームの位置が上下線で異なる千鳥式ホームであり、商店街や地下鉄出口と一体化していた早稲田方面ホームに対し、三ノ輪橋方面ホームは尾竹橋通りを挟んだ反対側に存在した。駅前再開発完成後に両方面のホームが地下鉄出口側に揃った。なお、商店街は駅前再開発と同時に再開発ビルに集約され、取り壊された。 早稲田方面から当停留場で折り返す運用があり、乗客を降ろした後、三ノ輪橋寄りに移動し、渡り線を通って早稲田方面のホームに入る。 近年の1日平均乗降人員は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員は下表の通りである。
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町屋駅(まちやえき)は、東京都荒川区荒川七丁目および町屋一丁目にある、京成電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 本項では、両駅に近接する東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の町屋駅前停留場(まちやえきまえていりゅうじょう)についても記す。
{{Otheruseslist|東京都にある駅および停留場|神奈川県にある駅|湘南町屋駅|福井県にある駅|まつもと町屋駅|かつて三重県に存在した駅|近鉄名古屋線#廃駅}} {{駅情報 |画像 = Keisei-Machiya-Sta.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 京成駅舎(2008年7月) |駅名 = 町屋駅 |よみがな = まちや |ローマ字 = Machiya |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-light |coord={{coord|35|44|32|N|139|46|53|E}}|marker-color=1155cc|title=京成 町屋駅 |coord2={{coord|35|44|31|N|139|46|48|E}}|marker-color2=00bb85|title2=東京メトロ 町屋駅 |coord3={{coord|35|44|34|N|139|46|51|E}}|marker-color3=ee86a7|title3=東京都交通局 町屋駅前停留場 |frame-latitude=35.742313|frame-longitude=139.780713 }} |電報略号 = |所属事業者 = [[京成電鉄]]([[#京成電鉄|駅詳細]])<br />[[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]])<br />[[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]]) |所在地 = [[東京都]][[荒川区]] |備考 = }} {{座標一覧}} '''町屋駅'''(まちやえき)は、[[東京都]][[荒川区]][[荒川 (荒川区)|荒川]]七丁目および[[町屋 (荒川区)|町屋]]一丁目にある、[[京成電鉄]]・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。 本項では、両駅に近接する[[東京都交通局]][[都電荒川線]](東京さくらトラム)の'''[[#東京都交通局|町屋駅前停留場]]'''(まちやえきまえていりゅうじょう)についても記す。 == 乗り入れ路線 == 京成電鉄の[[京成本線|本線]]と東京メトロの[[東京メトロ千代田線|千代田線]]の2路線が乗り入れ、両線の駅施設の間に都電荒川線の町屋駅前停留場が隣接する。各路線ごとに[[駅ナンバリング|駅番号]]が付与されている。 * 京成本線 - 駅番号は'''KS04'''。 * 東京メトロ千代田線 - 駅番号は'''C 17'''。 * 都電荒川線 - 駅番号は'''SA 06'''。 == 歴史 == 最初に開業したのは、後に[[東京都電車]](都電)となる[[王子電気軌道]]の停留場であり、その後京成電気軌道が当地に町屋駅を設置してからは、2つの軌道路線の乗り換え地点となった。その後1945年([[昭和]]20年)に京成本線は軌道路線から[[鉄道路線]]となり(同年、京成電気軌道は京成電鉄に改称)、後年に千代田線の駅が開業し現在に至る。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月1日]]:王子電気軌道三ノ輪(現・[[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]]) - 飛鳥山下(現・[[梶原停留場|梶原]])間開業時に'''稲荷前停留場'''として開業。 * [[1931年]](昭和6年)[[12月19日]]:京成電気軌道の駅が開業。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月1日]]:王子電気軌道が[[東京市]]に譲渡され東京市電(現・東京都電車)三河島線(現・荒川線)となる。 * [[1951年]](昭和26年):都電の停留場が'''町屋一丁目停留場'''に改称となる。 * [[1968年]](昭和43年):京成線ホームが千住大橋方へ、8両対応に延伸<ref>JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』(石本祐吉・著 2014年2月1日初版発行)45頁</ref>。 * [[1969年]](昭和44年)[[12月20日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)千代田線の'''町屋駅'''が開業。 * [[1977年]](昭和52年):都電の町屋一丁目停留場が'''町屋駅前停留場'''に改称となる。 * [[2004年]]([[平成]]16年)4月1日:営団地下鉄民営化に伴い、東京メトロに継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[10月27日]]:千代田線ホームに[[発車メロディ]]を導入。 == 駅構造 == === 京成電鉄 === {{駅情報 |社色 = #1155cc |文字色 = |駅名 = 京成 町屋駅 |よみがな = まちや |ローマ字 = Machiya |副駅名 = |前の駅 = KS03 [[新三河島駅|新三河島]] |駅間A = 0.9 |駅間B = 1.6 |次の駅 = [[千住大橋駅|千住大橋]] KS05 |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|KS|04|#005aaa|4||#005aaa}} |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[荒川 (荒川区)|荒川]]七丁目40-1 |座標 = {{coord|35|44|32|N|139|46|53|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=京成 町屋駅}} |所属事業者 = [[京成電鉄]] |所属路線 = {{color|#005aaa|●}}[[京成本線|本線]] |キロ程 = 4.3 |起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]] |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1931年]]([[昭和]]6年)[[12月19日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = 18,003 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} [[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]。ホーム中程には[[待合室]]が設置されている。 [[2002年]](平成14年)[[10月12日]]の[[ダイヤ改正]]以前は[[京成本線#急行|急行]]停車駅であった。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線 |style="text-align:center"| 上り |[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]方面 |- !2 | style="text-align:center"|下り |[[青砥駅|青砥]]・[[京成高砂駅|京成高砂]]・[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[京成千葉駅|京成千葉]]方面 |} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Machiya-Station-2005-6-12.jpg|改札口(2005年6月) Keisei-railway-KS04-Machiya-station-platform-20180419-120701.jpg|ホーム(2018年4月) </gallery> {{-}} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 町屋駅 |よみがな = まちや |ローマ字 = Machiya |副駅名 = |前の駅 = C 16 [[西日暮里駅|西日暮里]] |駅間A = 1.7 |駅間B = 2.6 |次の駅 = [[北千住駅|北千住]] C 18 |電報略号 = マチ |駅番号 = {{駅番号r|C|17|#00bb85|4}} |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[町屋 (荒川区)|町屋]]一丁目1-5 |座標 = {{coord|35|44|31|N|139|46|48|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ 町屋駅}} |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#00bb85|●}}[[東京メトロ千代田線|千代田線]] |キロ程 = 5.2 |起点駅 = [[綾瀬駅|綾瀬]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線(2層式) |開業年月日 = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[12月20日]] |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />55,740 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = }} [[単式ホーム]]1面1線上下2層構造の[[地下駅]]で、1番線ホーム(代々木上原方面)の下に2番線ホーム(綾瀬方面)がある。駅番号は'''C 17'''。 当駅から[[根津駅]]にかけては地上を通る[[東京都道313号上野尾竹橋線|都道313号]]([[尾竹橋通り]])・[[東京都道457号駒込宮地線|都道457号]](道灌山通り)・[[東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線|都道437号]](不忍通り)の幅が十分でないことから、途中の[[西日暮里駅]]、[[千駄木駅]]を含めて上下2層の駅間トンネル・駅構造となっている<ref name="Chiyoda-Const39-40">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.39 - 40・429 - 430。</ref>。駅中心部における地表からレール面までの深さは、1番線が10.4&nbsp;m、2番線が16.3&nbsp;mある<ref name="mook">{{Cite book|和書|title=トラベルMOOK 新しい東京メトロの世界|publisher=[[交通新聞社]]|pages=114 - 130|isbn=9784330021218|date=2021-05-17}}</ref>。 ホーム中央にマークスタワーに直結する改札口があり、エレベーターも設置されている。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 |[[代々木上原駅|代々木上原]]・[[本厚木駅|本厚木]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/machiya/timetable/chiyoda/a/index.html |title=町屋駅時刻表 代々木上原・伊勢原・唐木田方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[綾瀬駅|綾瀬]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[取手駅|取手]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/machiya/timetable/chiyoda/b/index.html |title=町屋駅時刻表 綾瀬・我孫子・取手方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/machiya/index.html 東京メトロ:構内図]) <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 駅舎(千代田線).jpg|1番出入口(2017年7月) Metro-Machiya-Sta-Gate.JPG|町屋方面改札口(2008年7月) Metro-Machiya-Sta-Platform2.JPG|2番ホーム(2008年7月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 2018年10月27日より[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「気分はスイング」([[塩塚博]]作曲)、2番線が「夏木立」([[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ千代田線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/370|date=2018-10-06|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2021-03-27|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 町屋駅前停留場 |画像 = <!-- 記事のバランスが乱れるので画像は入れないでください --> |pxl = |画像説明 = |よみがな = まちやえきまえ |ローマ字 = Machiya-ekimae |電報略号 = |所属事業者 = [[東京都交通局]] |開業年月日 = [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月1日]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面2線 |廃止年月日 = |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[荒川 (荒川区)|荒川]]七丁目 |座標 = {{coord|35|44|34|N|139|46|51|E|region:JP_type:railwaystation|name=都電 町屋駅前停留場}} |乗車人員 = |乗降人員 = 8,555 |統計年度 = 2020年 |所属路線 = [[都電荒川線]](東京さくらトラム) |前の駅 = SA 05 [[荒川七丁目停留場|荒川七丁目]] |駅間A = 0.4 |駅間B = 0.4 |次の駅 = [[町屋二丁目停留場|町屋二丁目]] SA 07 |駅番号 = {{駅番号r|SA|06|#ee86a7|4}} |キロ程 = 1.8 |起点駅 = [[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]] |備考 = }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。 [[都市再開発|再開発]]前はホームの位置が上下線で異なる[[千鳥式ホーム]]であり、[[商店街]]や地下鉄出口と一体化していた早稲田方面ホームに対し、三ノ輪橋方面ホームは[[尾竹橋通り]]を挟んだ反対側に存在した。駅前再開発完成後に両方面のホームが地下鉄出口側に揃った。なお、商店街は駅前再開発と同時に再開発ビルに集約され、取り壊された。 早稲田方面から当停留場で折り返す運用があり、乗客を降ろした後、三ノ輪橋寄りに移動し、[[分岐器#形状による分類|渡り線]]を通って早稲田方面のホームに入る。 {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable" !乗車ホーム!!路線!!方向!!行先 |- ! 北側 | rowspan=2|[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線<br />(東京さくらトラム) | style="text-align:center" | 上り | [[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]]方面 |- ! 南側 | style="text-align:center" | 下り | [[早稲田停留場|早稲田]]方面 |} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> 町屋停留場.jpg|全景(2017年5月) </gallery> == 利用状況 == * '''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''18,003人'''である<ref group="京成" name="keisei2022" />。 *: 京成線全69駅中24位。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''55,740人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅中60位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いています-->。千代田線内で他社線との接続の有る駅では利用者数が最少。 * '''東京都交通局''' - 2020年度の1日平均[[乗降人員]]は'''8,555人'''である<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/safety/pdf/facilitation_r02_03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210813181223/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/safety/pdf/facilitation_r02_03.pdf|title=移動等円滑化取組報告書(軌道停留場)(令和2年度)|page=3|archivedate=2021-08-13|accessdate=2021-08-13|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref><ref group="乗降データ">[https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kusei/gaiyo/suji.html 数字で表す荒川区(区勢概要)] - 荒川区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|京成電鉄 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2000年(平成12年) | || |50,580|| |- |2001年(平成13年) | || |51,213||1.3% |- |2002年(平成14年) |21,284|| |52,095||1.7% |- |2003年(平成15年) |20,597||&minus;3.2% |51,866||&minus;0.4% |- |2004年(平成16年) |19,625||&minus;4.7% |52,030|| 0.3% |- |2005年(平成17年) |19,829||1.0% |52,808||1.5% |- |2006年(平成18年) |20,001||0.9% |54,982||4.1% |- |2007年(平成19年) |20,019||0.1% |57,518||4.6% |- |2008年(平成20年) |19,723||&minus;1.5% |57,049||&minus;0.8% |- |2009年(平成21年) |19,609||&minus;0.6% |56,250||&minus;1.4% |- |2010年(平成22年) |19,260||&minus;1.8% |55,789||&minus;0.8% |- |2011年(平成23年) |18,515||&minus;3.9% |54,174||&minus;2.9% |- |2012年(平成24年) |18,914||2.2% |55,306||2.1% |- |2013年(平成25年) |19,390||2.5% |56,852||2.8% |- |2014年(平成26年) |19,609||1.1% |57,181||0.6% |- |2015年(平成27年) |20,197||3.0% |59,061||3.3% |- |2016年(平成28年) |20,305||0.5% |59,925||1.5% |- |2017年(平成29年) |20,655||1.7% |61,307||2.3% |- |2018年(平成30年) |20,964||1.5% |62,607||2.1% |- |2019年(令和元年) |20,915||&minus;0.2% |62,882||0.4% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="京成" name="keisei2020">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-01 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>15,720||&minus;24.8% |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>48,181||&minus;23.4% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京成" name="keisei2021">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2021年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-01 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>16,480||4.8% |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>50,919||5.7% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-07-01 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>18,003 |9.2% |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>55,740||9.5% |} === 年度別1日平均乗車人員(1956年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> 近年の1日平均[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]は下表の通りである。 {| class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗車人員 !年度!!京成電鉄!!営団!!出典 |- |1956年(昭和31年) |14,527 |rowspan=13 style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 18ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |15,539 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 18ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |16,514 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 18ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |17,379 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |18,465 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |19,919 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |21,258 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |22,441 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |23,845 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |24,349 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |23,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |24,113 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |23,804 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |22,588 |<ref group="備考">1969年12月20日。開業日から翌年3月31日までを集計したデータ。</ref>7,533 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |20,085 |9,962 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |17,232 |18,705 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |16,071 |21,827 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |15,515 |25,085 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |15,400 |24,901 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |15,191 |24,475 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |13,200 |24,849 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |12,849 |25,334 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |13,036 |25,290 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |12,637 |25,754 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |12,756 |26,529 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |12,625 |27,534 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |12,496 |27,688 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |12,456 |27,754 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |12,211 |27,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |12,214 |28,047 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |12,274 |28,534 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |12,178 |28,689 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |12,340 |29,098 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |12,337 |29,277 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |12,452 |29,712 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |12,626 |29,448 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |12,460 |29,203 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |12,230 |28,860 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |11,852 |28,329 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |11,634 |27,883 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |11,611 |27,816 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |11,290 |27,359 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |11,014 |27,101 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |10,798 |26,604 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |10,586 |26,337 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {| class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !京成電鉄 !営団 /<br />東京メトロ !出典 |- |2001年(平成13年) |10,512 |26,529 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |10,373 |26,770 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |9,948 |26,620 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |9,567 |26,597 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |9,666 |27,107 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |9,745 |28,249 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |9,754 |29,478 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |9,608 |29,219 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |9,556 |29,000 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |9,384 |28,718 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |9,022 |27,863 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |9,230 |28,405 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |9,403 |29,162 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |9,528 |29,178 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |9,833 |30,101 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |9,882 |30,521 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |10,063 |31,205 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |10,222 |31,858 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |10,212 |31,943 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |7,699 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |8,050 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |8,773 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|町屋 (荒川区)|荒川 (荒川区)}} * マークスタワー * [[荒川区役所]] 町屋区民事務所 * 荒川区町屋文化センター * [[荒川自然公園]] * [[町屋斎場]] * [[東京都下水道局]] [[三河島水再生センター]] * 荒川町屋郵便局 * はいから館 * センターまちや - 町屋駅前中央地区再開発事業として建設。[[超高層マンション|高層マンション]]・[[ショッピングセンター]]・多目的ホール「ムーブ町屋」で構成。 * 荒川区立第九峡田小学校 * [[都営バス千住営業所#草41系統|都営バス]]「町屋駅前」停留所 - [[尾竹橋通り]] * [[荒川区コミュニティバス]]「町屋駅」停留所 - 都電停留場付近 == 隣の駅 == ; 京成電鉄 : [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線 :: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速 :::; 通過 :: {{Color|#595757|■}}普通 ::: [[新三河島駅]] (KS03) - '''町屋駅 (KS04)''' - [[千住大橋駅]] (KS05) :::* [[1947年]]までは千住大橋駅との間に[[西千住駅]]が存在した。 ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 <!-- 千代田線内はロマンスカー除いて掲出種別に関係なく各駅に停車するため種別表記省略 --> ::: [[西日暮里駅]] (C 16) - '''町屋駅 (C 17)''' - [[北千住駅]] (C 18) ; 東京都交通局 : [[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線(東京さくらトラム) ::: [[荒川七丁目停留場]] (SA 05) - '''町屋駅前停留場 (SA 06)''' - [[町屋二丁目停留場]] (SA 07) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} === 利用状況 === ; 私鉄・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; 私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 京成電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京成"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/machiya.php 町屋駅|電車と駅の情報|京成電鉄] * [https://www.tokyometro.jp/station/machiya/ 町屋駅/C17 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/toden/stations/machiya-ekimae/ 町屋駅前停留場 | 都電 | 東京都交通局] {{京成本線}} {{東京メトロ千代田線}} {{都電荒川線}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=町屋駅前停留場|都電の鉄道駅|1913年開業の鉄道駅}} {{DEFAULTSORT:まちや}} [[Category:荒川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 ま|ちや]] [[Category:京成電鉄の鉄道駅]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1931年開業の鉄道駅]]
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浄土真宗
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、鎌倉仏教の一つである。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させた。 古くは「一向宗(いっこうしゅう)」「門徒宗」などと俗称され、宗名問題を経たのち戦後は真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とするが、本項では代表的事典類の表記に従って「浄土真宗」の名称で解説する。 英訳は、浄土真宗本願寺派ではJodo Shinshuとし、真宗大谷派、真宗佛光寺派ではShin Buddhismとしている。 と「真実の心」は虚仮不実の身である凡夫には無いと述べ、如来の本願力回向による名号の功徳によって慚愧する身となれるとする。 教義の詳細に関しては、宗派による教義の差異に留意の上、以下の項目を参照のこと。 本尊は、阿弥陀如来一仏である。ただし、高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀三尊形式である阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本尊とする。 他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、戒律がない点である(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。そもそも「一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や、世間内で生活する仏教徒(在家)としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である」と、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子をもうけたことに由来する。そのため、浄土真宗には血縁関係による血脈と、師弟関係による法脈の2つの系譜が存在する。与えられる名前も戒名ではなく、法名と言う。 浄土真宗は、ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、全ての人は往生することが出来るとする教えから、多くの宗教儀式や習俗にとらわれず、報恩謝徳の念仏と聞法を大事にする。加持祈祷を行わないのも大きな特徴である。 また合理性を重んじ、作法や教えも簡潔であったことから、近世には庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い、「門徒物知らず」(門徒とは真宗の信者のこと)などと揶揄される事もあった。 また真宗は、本尊(「南無阿弥陀仏」の名号、絵像、木像)の各戸への安置を奨励した。これを安置する仏壇の荘厳に関しての「決まり」が他の宗派に比して厳密である。荘厳は各宗派の本山を模していることから、宗派ごとに形状・仏具が異る。仏壇に本尊を安置し荘厳されたものを、真宗では「御内仏」と呼び、考え方としては「寺院のレプリカ」「ミニチュア寺院」を各家庭にお招きしたものであり、教義として先祖壇や祈祷壇として用いるものではない。 真宗の本山には、そのいずれにおいても基本的に、本尊阿弥陀如来を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞の真影を安置する御影堂がある。真宗の寺院建築には他にも内陣に比べて外陣が広いなど、他宗に見られない特徴がある。また各派ともに、宗祖親鸞聖人の祥月命日に「報恩講」と呼ばれる法会を厳修する。その旨は、求道、弘教の恩徳と、それを通じて信知せしめられた阿弥陀如来の恩徳とに報謝し、その教えを聞信する法会である。またこの法会を、年間最大の行事とする。ただし、真宗各派でその日は異なる。(詳しくは、宗派別の御正忌報恩講の日程を参照。) 正依の経典は「浄土三部経」である。七高僧の著作についても重んずる。中でも天親の『浄土論』は、師である法然が「三経一論」と呼び「浄土三部経」と並べて特に重んじた。親鸞は『仏説無量寿経』を『大無量寿経』『大経』と呼び特に重んじた。 開祖親鸞は、釈尊・七高僧へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらにその思想を展開することに力を注いだ。法然没後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、のちに浄土宗西山派などからの批判を受ける事につながる。 なお、親鸞は生前に著した『高僧和讃』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は越後流罪後(承元の法難)に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。 親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。ちなみに浄土宗や時宗でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖一向俊聖)を「一向宗」と称した例もある。 近世には浄土宗からの圧力により、江戸幕府から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが安永3年(1774年)から15年にわたって続けられた宗名論争である。 明治5年(1872年)太政官正院から各府県へ「一向宗名ヲ真宗ト称セシム」が発せられ、ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。 親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。 この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。 室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。 この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人、土豪が真宗に改宗することで加わり「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康、上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。 応仁の乱(1467年-1477年)の頃には、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。 一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。 永禄11年(1568年)に、畿内を制圧し征夷大将軍となった足利義昭と、織田信長が対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)では尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるものの、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続け、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。) このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であった。ただし、全ての真宗の門徒がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中には、これと対立するものもあった。 秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ本願寺(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする本願寺(西)と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東)とに分裂することになった。 明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。 また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。ベルギーでは、1997年に浄土真宗が禅や上座部仏教と共にセクトとの分類を受け、リストに加えられたようである。 特に浄土真宗の各宗派の本山寺院の寺紋として上流公家の家紋を授かった例は多く見られた。これは門主を公家摂家および清華家から猶子を招いたことによる、寺院と家との結びつきを表したものである。浄土真宗本願寺派の九条藤、真宗大谷派の近衛牡丹、真宗佛光寺派と真宗誠照寺派の二条藤、真宗出雲路派の花山院菖蒲菱、真宗興正派の鷹司牡丹そして真宗山元派の菊亭三つ紅葉が挙げられる。家紋をそのままの形で起用せずに、文様の一部を変更する配慮をした上で寺紋として取り入れた。 現在、真宗教団連合加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22000か寺)、信徒を擁する。 所属寺院数は、開山・廃寺により変動するため概数で表す。 真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。加盟団体は以下の10派であり「真宗十派」といわれる。 他に、浄土真宗遣迎院派があるが、元々天台宗の寺院が独立したものであり、教義的に浄土真宗との関連は薄い。
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"tag": "p", "text": "一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "永禄11年(1568年)に、畿内を制圧し征夷大将軍となった足利義昭と、織田信長が対立するようになると、本願寺十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)では尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるものの、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続け、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であった。ただし、全ての真宗の門徒がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中には、これと対立するものもあった。", "title": "歴史" 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"現在、真宗教団連合加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22000か寺)、信徒を擁する。", "title": "宗派" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "所属寺院数は、開山・廃寺により変動するため概数で表す。", "title": "宗派" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。加盟団体は以下の10派であり「真宗十派」といわれる。", "title": "宗派" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "他に、浄土真宗遣迎院派があるが、元々天台宗の寺院が独立したものであり、教義的に浄土真宗との関連は薄い。", "title": "宗派" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "宗派" } ]
浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、鎌倉仏教の一つである。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させた。 古くは「一向宗(いっこうしゅう)」「門徒宗」などと俗称され、宗名問題を経たのち戦後は真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とするが、本項では代表的事典類の表記に従って「浄土真宗」の名称で解説する。
{{出典の明記|date=2017-01}} {{大乗仏教}} '''浄土真宗'''(じょうどしんしゅう)は、[[大乗仏教]]の宗派のひとつで、[[浄土教|浄土信仰]]に基づく[[日本の仏教|日本仏教]]の宗旨で<ref>[https://enpark.net/words/7466]{{リンク切れ|date=2022年10月}}</ref>、[[鎌倉仏教]]の一つである。[[鎌倉時代]]初期の[[僧]]である'''[[親鸞]]'''が、その師である[[法然]]によって明らかにされた[[浄土]][[往生]]を説く真実の教え<ref name="iwanami541">『岩波仏教辞典』第二版、P.541「浄土真宗」より引用。</ref>を継承し展開させる。親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させた。 古くは「'''一向宗'''(いっこうしゅう)」「門徒宗」などと俗称され<ref name="日本大百科全書"/>、宗名問題を経たのち戦後は真宗10派のうち[[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とするが<ref name="日本大百科全書">「浄土真宗」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 講談社。</ref>、本項では代表的事典類<ref name="日本大百科全書"/><ref>「浄土真宗」『国史大辞典』 吉川弘文館。</ref><ref>「浄土真宗」『世界大百科事典』 平凡社。</ref>の表記に従って「浄土真宗」の名称で解説する。 == 名称 == ; [[親鸞]]における「浄土真宗」 : 親鸞の著書に記されている「浄土真宗」「真宗」(「浄土宗」)とは、宗旨名としての「浄土真宗」(「浄土宗」)のことではなく「浄土を顕かにする真実の教え」であり、端的に言うと「法然から伝えられた教え」のことである{{efn|親鸞における「法然から伝えられた教え」とは、法然を宗祖として伝えられた現在の「[[浄土宗]]」の教義とは異なる。そもそも[[法然]]の没後、門弟たちの間で[[法然]]の教義に対する解釈で微妙な違いが生じており、[[親鸞]]の主観としては自らが法然の教えの正当な後継者であった。}}。 : [[親鸞]]自身は独立開宗の意思は無く、法然に師事できたことを生涯の喜びとした。 ; 宗旨名としての「浄土真宗」 : 宗旨名として「浄土真宗」を用いるようになったのは親鸞の没後である。 : 宗旨名の成り立ちの歴史的経緯から、明治初期に定められた[[宗教団体法]]の規定(現在は、[[宗教法人法]]の規則による「宗教法人の名称」)により、同宗旨に属する宗派{{efn|[[浄土真宗本願寺派]]は、当時より宗派の正式名称に「浄土真宗」の文字を用いる。}}の多くが宗派の正式名称を「真宗○○派」とし、法律が関与しない「宗旨名」を「浄土真宗」とする。 : 過去には「'''一向宗'''」「'''門徒宗'''」とも俗称された。 英訳は、浄土真宗本願寺派では'''''Jodo Shinshu'''''<ref>[http://www.hongwanji.or.jp/english/teaching/ Jodo Shinshu hongwanji-ha (Nishihongwanji) > Teachings]</ref>とし、[[真宗大谷派]]、[[真宗佛光寺派]]では'''''Shin Buddhism'''''<ref>[http://www.higashihonganji.or.jp/english/buddhism/ Higashi Honganji(official website) > Shin Buddhism]</ref><ref>[http://www.bukkoji.or.jp/english/ Bukkoji Buddhist Temple > EnglishGuide]</ref>としている。 == 教義 == <!-- 教義については、論争の回避・検証可能性・中立的な観点から、出典の明記をお願いします。--> <!-- 百科事典ですので、宗派特有の専門的すぎる説明は避けてください。 --> * 親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『[[顕浄土真実教行証文類|教行信証]]』の冒頭に、[[釈迦|釈尊]]の出世本懐の[[経]]である『[[無量寿経|大無量寿経]]』{{efn|『大無量寿経』など浄土経典は、親鸞在世当時では釈尊自説と考えられていた。現代では[[浄土経典]]は、[[大乗仏典]]として後年制作されたものとされている<ref>[[#浄土三部経(下)|『浄土三部経』(下)]]、「文献」・「解説」を参照。</ref>。}}が「真実の教」であるとし、[[阿弥陀如来]](以降「如来」)の[[本願]]([[四十八願]])と、本願によって与えられる名号「[[南無阿弥陀仏|南無阿弥陀佛]]」を[[浄土教|浄土門]]の真実の教え「浄土真宗」であると示し、この教えが「本願を信じ念仏申さば仏になる」という[[歎異抄]]の一節で端的に示されている。 * 親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行、善行)としては捉えない。 * このことは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々[[凡夫]]のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する<ref>[[#岩波仏教辞典 第二版|『岩波仏教辞典』(第二版)]]P541「浄土真宗」の項、および[[#真宗小事典|『真宗小事典』]]P92「浄土真宗」の項を参考文献として用いる。</ref>。なお、親鸞の著作において『絶対他力』という用語は一度も用いられていない<ref>[http://j-soken.jp/category/ask/ask_6 『浄土真宗聖典』オンライン検索]にて検索</ref>。 * 『[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]』「愚禿悲歎述懐」に、 : 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」 : 「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」 : 「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなうまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」 と「真実の心」は虚仮不実の身である凡夫には無いと述べ、如来の本願力回向による名号の功徳によって慚愧する身となれるとする<ref>[[#親鸞和讃集|名畑應順『親鸞和讃集』]]P200 - 208を参考文献として用いる。</ref>。 教義の詳細に関しては、宗派による教義の差異に留意の上、以下の項目を参照のこと。 * 本願力回向([[往相回向]]・[[還相回向]]) * [[他力本願]] * [[称名念仏]] * [[現生正定聚]] * [[悪人正機]] 本尊は、[[阿弥陀如来]]一仏である。ただし、高田派及び一部門徒は[[善光寺式阿弥陀三尊]]形式である阿弥陀如来・[[観音菩薩]]・[[勢至菩薩]]を本尊とする。 == 習俗 == 他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、[[戒律]]がない点である(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった)。そもそも「一般の僧侶という概念(世間との縁を断って出家し修行する人々)や、世間内で生活する仏教徒([[在家]])としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済するのが本願念仏である」と、師法然から継承した親鸞が、それを実践し僧として初めて公式に妻帯し子をもうけたことに由来する。そのため、浄土真宗には血縁関係による血脈{{efn|狭義で、血縁関係による法脈継承を「血脈相承」と用いる場合もある。広義では、法脈を師僧から弟子へと次々に相続してゆくことをさす<ref>『[[大辞林]] 第二版』三省堂、1999年を参照。</ref>。}}と、師弟関係による法脈の2つの系譜が存在する。与えられる[[名前]]も[[戒名]]ではなく、[[法名 (浄土真宗)|法名]]と言う。 浄土真宗は、ただ阿弥陀如来の働きにまかせて、全ての人は往生することが出来るとする教えから、多くの宗教儀式や習俗にとらわれず、報恩謝徳の[[念仏]]と[[聞法]]を大事にする。[[加持祈祷]]を行わないのも大きな特徴である{{efn|ただし[[太平洋戦争]]中には[[真宗大谷派]]の僧侶である[[暁烏敏]]が、自坊に[[天照大神]]の祭壇を設けて戦勝祈願を行っていた。}}。 {{Quotation|かなしきかなや道俗の<br />良時・吉日えらばしめ<br />天神・地祇をあがめつつ<br />卜占祭祀つとめとす|[[正像末和讃]] 悲歎述懐}} また合理性を重んじ、作法や教えも簡潔であったことから、近世には庶民に広く受け入れられたが、他の宗派からはかえって反発を買い、「[[門徒物知らず]]」([[門徒]]とは真宗の信者のこと)などと揶揄される事もあった。 また真宗は、[[本尊]](「南無阿弥陀仏」の[[名号]]、絵像、木像)の各戸への安置を奨励した。これを安置する[[仏壇]]の[[荘厳]]に関しての「決まり」が他の宗派に比して厳密である。荘厳は各宗派の本山を模していることから、宗派ごとに形状・仏具が異る。<br/>仏壇に本尊を安置し荘厳されたものを、真宗では「御内仏」と呼び、考え方としては「寺院のレプリカ」「ミニチュア寺院」を各家庭にお招きしたものであり、教義として先祖壇や祈祷壇として用いるものではない。 真宗の本山には、そのいずれにおいても基本的に、本尊阿弥陀如来を安置する本堂(阿弥陀堂)とは別に、宗祖親鸞の真影を安置する御影堂がある。真宗の寺院建築には他にも内陣に比べて外陣が広いなど、他宗に見られない特徴がある。また各派ともに、宗祖親鸞聖人の祥月命日に「'''[[報恩講]]'''」と呼ばれる法会を厳修する。その旨は、求道、弘教の恩徳と、それを通じて信知せしめられた阿弥陀如来の恩徳とに報謝し、その教えを聞信する法会である。またこの法会を、年間最大の行事とする。ただし、真宗各派でその日は異なる。(詳しくは、[[報恩講#宗派別の御正忌報恩講の日程|宗派別の御正忌報恩講の日程]]を参照。) == 依拠聖典 == 正依の[[経典]]は「'''[[浄土三部経]]'''」である。[[七高僧]]の著作についても重んずる。中でも[[世親|天親]]の『[[無量寿経優婆提舎願生偈|浄土論]]』は、師である法然が「三経一論」と呼び「浄土三部経」と並べて特に重んじた。親鸞は『仏説無量寿経』を『大無量寿経』『大経』と呼び特に重んじた。 {{Wikisource|仏説無量寿経|『佛説無量寿経』}} {{Wikisource|仏説観無量寿経|『佛説観無量寿経』}} {{Wikisource|仏説阿弥陀経|『佛説阿弥陀経』}} {{Wikisource|易行品|『十住毘婆沙論』「易行品」}} {{Wikisource|十二礼|「十二礼」}} {{Wikisource|無量寿経優婆提舎願生偈|『無量寿経優婆提舎願生偈』}} {{Wikisource|讃阿弥陀仏偈|『讃阿弥陀仏偈』}} {{Wikisource|正信念仏偈|『正信念仏偈』}} ; 浄土三部経 : 『'''[[仏説無量寿経]]'''』 [[魏 (三国)|曹魏]][[康僧鎧]]訳 : 『'''[[観無量寿経|仏説観無量寿経]]'''』 [[宋 (南朝)|劉宋]][[畺良耶舎]]訳 : 『'''[[阿弥陀経#仏説阿弥陀経|仏説阿弥陀経]]'''』 [[後秦|姚秦]][[鳩摩羅什]]訳 ; 七高僧論釈章疏 : 親鸞の思想に影響を与えた[[七高僧]]の注釈書など。 ;; [[龍樹]]造 :: 『[[十住毘婆沙論]]』全十七巻の内、巻第五の「易行品第九」 姚秦鳩摩羅什訳 ;; [[天親]]造(婆藪般豆菩薩造) :: 『'''[[無量寿経優婆提舎願生偈]]'''』(『'''浄土論'''』・『'''往生論'''』) 後魏[[菩提流支|菩提留支]]訳 ;; [[曇鸞]]撰 :: 『'''[[無量寿経優婆提舎願生偈註]]'''』(『'''浄土論註'''』・『'''往生論註'''』) :: 『讃阿弥陀仏偈』 ;; [[道綽]]撰 :: 『安楽集』 ;; [[善導]]撰 :: 『[[観無量寿経疏]]』(『観経疏』、『観経四帖疏』、『観経義』){{efn|『観無量寿経疏』の各巻題は、『観経玄義分 巻第一』・『観経序分義 巻第二』・『観経正宗分定善義 巻第三』・『観経正宗分散善義 巻第四』である。}} :: 『往生礼讃偈』(『往生礼讃』) :: 『法事讃』{{efn|『法事讃』…上巻の首題は、『転経行道願往生浄土法事讃』、尾題は『西方浄土法事讃』で、下巻は首題・尾題ともに『安楽行道転経願生浄土法事讃』である。}} :: 『般舟讃』{{efn|『般舟讃』…首題は『依観経等明般舟三昧行道往生讃』、尾題は『般舟三昧行道往生讃』である。}} :: 『観念法門』{{efn|『観念法門』…首題は『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』、尾題は『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』である。}} ;; [[源信 (僧侶)|源信]]撰 :: 『[[往生要集]]』 ;; [[法然|源空]]撰 :: 『'''[[選択本願念仏集]]'''』(『'''選択集'''』){{efn|「選択」は、浄土真宗では「せんじゃく」と発音する。(浄土宗では、「せんちゃく」。)}} ; [[親鸞]]撰 : 『'''[[顕浄土真実教行証文類]]'''』(『'''教行信証'''』) : 『[[浄土文類聚鈔]]』 : 『[[愚禿鈔]]』 : 『[[入出二門偈頌]]』(『入出二門偈』) : 『浄土三経往生文類』(『三経往生文類』) : 『如来二種回向文』 : 『尊号真像銘文』 : 『一念多念文意』 : 『唯信鈔文意』 : 「[[三帖和讃]]」 :: 『[[三帖和讃#浄土和讃|浄土和讃]]』 :: 『[[三帖和讃#高僧和讃|高僧和讃]]』 :: 『[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]』 == 名称について == 開祖親鸞は、釈尊・[[七高僧]]へと継承される他力念仏の系譜をふまえ、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え<ref name="iwanami541"/>」を継承し、さらにその思想を展開することに力を注いだ。法然没後の弟子たちによる本願・念仏に対する解釈の違いから、のちに[[浄土宗西山派]]などからの批判を受ける事につながる。 なお、親鸞は生前に著した『[[高僧和讃]]』において、法然(源空)について「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と述べて、浄土真宗は法然が開いた教えと解した。親鸞は[[越後]][[流罪]]後([[承元の法難]])に関東を拠点に布教を行ったため、関東に親鸞の教えを受けた門徒が形成されていく。 親鸞の没後に、親鸞を師と仰ぐ者は自らの教義こそ浄土への往生の真の教えとの思いはあったが、浄土真宗と名乗ることは[[浄土宗]]の否定とも取られかねないため、当時はただ真宗と名乗った。ちなみに浄土宗や[[時宗]]でも自らを「浄土真宗」「真宗」と称した例があり、また時宗旧一向派(開祖[[一向俊聖]])を「[[一向宗]]」と称した例もある。 近世には浄土宗からの圧力により、[[江戸幕府]]から「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ、「一向宗」と公称した(逆に本来「一向宗」を公称していた一向俊聖の法統は、本来は無関係である時宗へと強制的に統合される事になる)。親鸞の法統が「浄土真宗」を名乗ることの是非について浄土真宗と浄土宗の間で争われたのが[[安永]]3年([[1774年]])から15年にわたって続けられた[[宗名論争]]である。 明治5年([[1872年]])[[太政官]][[正院]]から各府県へ「一向宗名ヲ真宗ト称セシム」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/279 『法令全書 明治5年』p.444]</ref>が発せられ、ここに近代になってようやく「(浄土)真宗」と表記することが認められたのである。 == 歴史 == ; 詳細は[[本願寺の歴史]]も参照。 === 親鸞時代 === ; 詳細は、[[親鸞#生涯|親鸞の生涯]]を参照。 === 蓮如の登場まで === 親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる[[覚如]]([[1270年]]-[[1351年]])は、[[三代伝持]]等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、[[本願寺]](別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ[[真宗佛光寺派|佛光寺]]七世の[[了源]]([[1295年]]-[[1336年]])など他の法脈は、佛光寺や[[専修寺]]などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。 この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。 === 蓮如の登場〜石山合戦 === [[室町時代]]の後期に登場した本願寺八世の[[蓮如]]([[1415年]]-[[1499年]])は、当時の民衆の成長を背景に[[講]]と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。 この講の信者の団結力は、蓮如の制止にもかかわらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に[[国人]]、土豪が真宗に改宗することで加わり「[[一向一揆]]」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、[[徳川家康]]、[[上杉謙信]]など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏]]は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った([[かくれ念仏]])。 [[応仁の乱]]([[1467年]]-[[1477年]])の頃には、当時[[越前国]]にあった本願寺の根拠[[吉崎御坊]]の北、[[加賀国]]で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した[[富樫幸千代]]に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名[[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]の仲介で、文明6年([[1474年]])、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の[[富樫政親]]に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、[[長享]]2年([[1488年]])、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし[[富樫氏]]一族の[[富樫正高]]は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は[[朝倉氏]]に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。 一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年([[1482年]])に建立した、京都[[山科本願寺]]が本拠地であったが、その勢威を恐れた[[細川晴元]]は日蓮宗徒と結び、[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「[[享禄・天文の乱#天文の錯乱|天文の錯乱]]」、[[日蓮宗]]では「[[天文法華の乱]]」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し([[明応]]5年、[[1496年]])居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した([[石山本願寺]])。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された[[寺内町]]を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。 [[永禄]]11年([[1568年]])に、畿内を制圧し[[征夷大将軍]]となった[[足利義昭]]と、[[織田信長]]が対立するようになると、本願寺十一世の[[顕如]]([[1543年]]-[[1592年]])は[[足利義昭]]に味方し、[[元亀]]元年([[1570年]])9月12日、突如として[[三好氏]]を攻めていた信長の陣営を攻撃した([[石山合戦]])。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、[[伊勢国|伊勢]][[長島町 (三重県)|長島]][[願証寺]]の一揆([[長島一向一揆]])では尾張の[[小木江城]]を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるものの、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続け、[[天正]]8年([[1580年]])、信長が[[正親町天皇]]による仲介という形で提案した和議を承諾して本願寺側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山本願寺の跡地を含め、[[豊臣秀吉]]が[[大坂城]]を築造している。) このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であった。ただし、全ての真宗の門徒がこの動きに同調していたわけではない。越前国における本願寺門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・[[真宗三門徒派|三門徒]])との交戦の例に見られるように、本願寺以外の真宗諸派の中には、これと対立するものもあった。 === 京都に再興 === 秀吉の時代になると、天正19年([[1591年]])に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、本願寺を再興した。[[1602年]]、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに[[徳川家康]]の宗教政策が作用して、顕如の長男である[[教如]]([[1558年]]-[[1614年]])が、家康から本願寺のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ[[東本願寺|本願寺(東)]]を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった本願寺教団は、顕如の三男[[准如]]([[1577年]]-[[1630年]])を十二世宗主とする本願寺(西){{efn|現在の[[浄土真宗本願寺派]]、[[真宗興正派]]など。}}と、長男教如を十二代宗主とする本願寺(東){{efn|現在の[[真宗大谷派]]、[[浄土真宗東本願寺派]]など。}}とに分裂することになった。 [[明治維新]]後の宗教再編時には、[[大教院]]に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗本願寺派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。 また、長い歴史の中で[[土俗信仰]]などと結びついた民間信仰、浄土真宗系の[[新宗教]]も存在している。 == 宗紋 == 特に浄土真宗の各宗派の本山寺院の寺紋として上流[[公家]]の家紋を授かった例は多く見られた。これは門主を公家[[摂家]]および[[清華家]]から猶子を招いたことによる、寺院と家との結びつきを表したものである。[[浄土真宗本願寺派]]の[[九条家|九条藤]]、[[真宗大谷派]]の[[近衛家|近衛牡丹]]、[[真宗佛光寺派]]と[[真宗誠照寺派]]の[[二条家|二条藤]]、[[真宗出雲路派]]の[[花山院家|花山院菖蒲菱]]、[[真宗興正派]]の[[鷹司家|鷹司牡丹]]そして[[真宗山元派]]の[[菊亭家|菊亭三つ紅葉]]が挙げられる。家紋をそのままの形で起用せずに、文様の一部を変更する配慮をした上で寺紋として取り入れた。 == 宗派 == 現在、[[#真宗十派(真宗教団連合)|真宗教団連合]]加盟の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22000か寺)、信徒を擁する。 所属寺院数は、開山・廃寺により変動するため概数で表す{{efn|50か寺以上、所属寺院を有する宗派。}}。 === 真宗十派(真宗教団連合) === 真宗教団連合は、親鸞聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる[[1923年]](大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。加盟団体は以下の10派であり「真宗十派」といわれる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ {{Large|'''真宗教団連合加盟宗派'''}} ! 宗派名 !! 本山 !! 通称<ref>ここでいう通称は本山の通称であり、宗派の通称ではない。</ref>!! 本山所在地 !! 所属寺院数 |- ! [[浄土真宗本願寺派]] | [[西本願寺|本願寺]] || 西本願寺 |style="text-align:left"| 京都市下京区 |style="text-align:right"| 約10,500{{Efn|平成14年現在、10,464か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗大谷派]] | [[東本願寺|真宗本廟]] || 東本願寺 |style="text-align:left"| 京都市下京区 |style="text-align:right"| 約8,900<ref>『[[中外日報]]』2007年9月1日付を参考。本山が2007年11月に実施した、門徒戸数調査の対象寺院数より。対象寺院数は、8,871か寺(別院、教会を含む)。開山・廃寺により変動するため寺院数は、約8,900か寺とした。</ref> |- ! [[真宗高田派]] | [[専修寺#本山専修寺|専修寺]] || 高田本山 |style="text-align:left"| 三重県津市 |style="text-align:right"| 約640{{Efn|平成14年現在、636か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗佛光寺派]] | [[佛光寺]] || |style="text-align:left"| 京都市下京区 |style="text-align:right"| 約390{{Efn|平成14年現在、390か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗興正派]] | [[興正寺]] || |style="text-align:left"| 京都市下京区 |style="text-align:right"| 約500{{Efn|平成14年現在、497か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗木辺派]] | [[錦織寺]] || |style="text-align:left"| 滋賀県野洲市 |style="text-align:right"| 約200{{Efn|平成14年現在、199か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗出雲路派]] | [[毫摂寺]] || 五分市本山 |style="text-align:left"| 福井県越前市 |style="text-align:right"| 約60{{Efn|平成14年現在、61か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗誠照寺派]] | [[誠照寺]] || 鯖江本山 |style="text-align:left"| 福井県鯖江市 |style="text-align:right"| 約70{{Efn|平成14年現在、71か寺{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗三門徒派|真宗讃門徒派]] | [[専照寺]] || 中野本山 |style="text-align:left"| 福井県福井市 |style="text-align:right"| 36{{Efn|name="heisei14"|平成14年現在の所属寺院数{{Sfn|千葉乗隆|2005|p=243}}。}} |- ! [[真宗山元派]] | [[證誠寺 (鯖江市)|證誠寺]] || 横越本山 |style="text-align:left"| 福井県鯖江市 |style="text-align:right"| 21{{Efn|name="heisei14"}} |} === [[お東騒動]]により分派した宗派・団体 === {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 宗派・団体名 !! 本山・本部 !! 宗派の通称 !! 本山・本部所在地 !! 所属寺院数 |- ! [[浄土真宗東本願寺派]] | [[浄土真宗東本願寺派本山東本願寺]] | |style="text-align:left"| 東京都台東区 |style="text-align:right"| |- ![[本願寺 (京都市山科区)|浄土真宗大谷本願寺派]]<br /> [[本願寺維持財団]] |[[本願寺 (京都市山科区)|本願寺]]<br />事実上の本山: [[東本願寺東山浄苑]] || |style="text-align:left"| 京都市山科区 |style="text-align:right"| |- ! 宗教法人本願寺 | [[本願寺 (京都市右京区)|本願寺(嵯峨本願寺)]] || 眞宗東派 |style="text-align:left"| 京都市右京区 |style="text-align:right"| |} === その他の宗派 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ {{Large|'''単立寺院・無寺院教団'''}} ! 宗派名 !! 本山 !! 通称 !! 所在地 !! 所属寺院数 |- ! (浄土真宗別格本山) | [[西念寺 (笠間市)|西念寺]] || 稲田の草庵 |style="text-align:left"| 茨城県笠間市 |style="text-align:right"| 単立 |- ! [[原始眞宗]] | [[願入寺|大本山願入寺]] || 大網門跡 |style="text-align:left"| 茨城県東茨城郡 |style="text-align:right"| 単立 |- ! [[カヤカベ教]] | (形式的に)[[霧島神宮]] || |style="text-align:left"| (鹿児島県霧島市) |style="text-align:right"| |- |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ {{Large|'''明治以降に分派した宗派・団体'''}} ! 宗派・団体名 !! 本山・本部 !! 本山・本部所在地 !! 所属寺院数 |- ! [[真宗浄興寺派]] | [[浄興寺]] |style="text-align:left"| 新潟県上越市 |style="text-align:right"| 14{{Efn|name="heisei14"}} |- ! [[真宗長生派]] | [[長生寺 (横浜市)|長生寺]] |style="text-align:left"| 横浜市鶴見区 |style="text-align:right"| 27{{Efn|name="heisei14"}} |- ! [[真宗北本願寺派]] | [[北本願寺]] |style="text-align:left"| 北海道小樽市 |style="text-align:right"| 1{{Efn|name="heisei14"}} |- ! [[浄土真宗同朋教団]] | 方今道平等院 |style="text-align:left"| 石川県鹿島郡 |style="text-align:right"| 6{{Efn|name="heisei14"}} |- ! [[淨土真信宗浄光寺派]](浄土真宗浄光寺派) | [[浄光寺 (福岡市)|浄光寺]] |style="text-align:left"| 福岡市東区 |style="text-align:right"| 2{{Efn|name="heisei14"}} |- ! [[門徒宗一味派]] | 本願寺(門徒の本願寺) |style="text-align:left"| 北海道北見市 |style="text-align:right"| |- ! [[弘願真宗]] | [[聖玄寺]] |style="text-align:left"| 福井県福井市 |style="text-align:right"| 34{{Efn|name="heisei14"}} |- ! [[仏眼宗|仏眼宗慧日会]] | [[霊鷲寺 (鎌倉市)|霊鷲寺]] |style="text-align:left"| 神奈川県鎌倉市 |style="text-align:right"| 単立 |- ! [[浄土真宗華光会]] | 華光会館 |style="text-align:left"| 京都市南区 |style="text-align:right"| |- ! [[浄土真宗親鸞会]] | 親鸞会館 |style="text-align:left"| 富山県射水市 |style="text-align:right"| |- ! [[浄土真宗一の会|真流一の会]] | |style="text-align:left"| |style="text-align:right"| |- ! [[仏教真宗]] | 大菩提寺 |style="text-align:left"| 熊本県荒尾市 |style="text-align:right"| |} 他に、[[浄土真宗遣迎院派]]があるが、元々[[天台宗]]の寺院が独立したものであり、教義的に浄土真宗との関連は薄い。 <!-- == 寺紋 == 本願寺派の寺紋の下り藤紋は、門主一族の[[大谷家]]と上流[[公家]]の[[摂家]][[九条家|九條家]]との婚姻関係により九條家の下り藤の使用を許されることによるものである。本願寺派の下り藤は九條家の下り藤紋と比べて、厚みのある葉の模様が特徴である。 一方、真宗大谷派の寺紋は抱き牡丹紋であるが、これは大谷家と上流公家の摂家[[近衛家|近衞家]]との婚姻関係により使用が認められた。本家近衞牡丹紋との違いは、中心部の[[芯|花芯]]の星形が5つ全て見えているものが近衞家の家紋で、芯の星形が上半分の3つだけ見えているものが真宗大谷派の寺紋である。 <gallery> Japanese Crest Nishirokujyoufuji.gif|本願寺派寺紋<br/>(本願寺下り藤) Japanese Crest ootaniha dakibotanmon.JPG|真宗大谷派寺紋<br/>(本願寺抱き牡丹) </gallery>--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <!-- 出典:追加した本文中の情報の後に脚注を導入し、実際に参考にした出典(文献参照ページ)を列挙してください。 --> {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 参考文献:実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) --> *{{Cite book|和書 |author=[[中村元 (哲学者)|中村元]]、他 |year=2002 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4-00-080205-4 |ref=岩波仏教辞典 第二版 }} *{{Cite book|和書 |author1=瓜生津隆真 |authorlink1=瓜生津隆真 |author2=細川行信 |authorlink2=細川行信 |year=2000 |title=真宗小事典 |edition=新装版 |publisher=[[法藏館]] |isbn=4-8318-7067-6 |ref=真宗小事典 }} *{{Cite book|和書 |author=名畑應順 |year=2001 |title=親鸞和讃集 |publisher=岩波書店 |series=ワイド版岩波文庫 |isbn=4-00007184-X |ref=親鸞和讃集 }} *{{Cite book|和書 |author=中村元・[[早島鏡正]]・[[紀野一義]] 訳注 |year=1990 |title=浄土三部経(下) |publisher=岩波書店 |series=[[岩波文庫]] 青306-2 |isbn=4-00-333062-5 |ref=浄土三部経(下) }} *{{Cite book|和書 |author=千葉乗隆 |authorlink=千葉乗隆 |year=2005 |title=図解雑学 浄土真宗 |publisher=[[ナツメ社]] |series=[[図解雑学シリーズ]] |isbn=4-81633822-5 |ref=harv }} == 関連項目 == <!-- 関連項目:本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク(姉妹プロジェクトリンク、言語間リンク)、ウィキリンク(ウィキペディア内部リンク)。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 --> {{Buddhism portal}} {{Commonscat|Jōdo Shinshū}} * [[日本の仏教]] * [[浄土教]] * [[龍谷大学]] - 浄土真宗本願寺派 * [[大谷大学]] - 真宗大谷派 * [[隠れ念仏]] * [[石泉学派]] - 浄土真宗本願寺派の学説の一つ。 == 外部リンク == * [http://www.shin.gr.jp/ 真宗教団連合] * {{Wayback|url=http://www.d1.dion.ne.jp/~mitinori/honganji/sosiki.html |title=真宗22派の一覧 |date=20031016005522}} - 新宗教系も含めて22宗派と数える場合がある。 * [http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/ インターネット持仏堂] - 文学者の[[内田樹]]と僧侶の[[釈徹宗]]によるリレー形式の真宗入門 {{Buddhism-stub}} {{浄土教2}} {{七高僧}} {{Buddhism2}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようとしんしゆう}} [[Category:浄土真宗|*]] [[Category:浄土教]] [[Category:日本の仏教史|+しようとしんしゆう]]
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エルネスト・アンセルメ
エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(Ernest Alexandre Ansermet, 1883年11月11日 - 1969年2月20日)は、スイスの指揮者、数学者。 アンセルメは、スイス西部のフランス語圏にあるレマン湖畔の町ヴヴェイに生まれた。父は幾何学者であったこともあり、彼もパリのソルボンヌ大学とパリ大学で数学を学んだ後、数学者としてローザンヌの大学の数学の教授になった。 しかし、音楽好きの母親の影響から、ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であったエルネスト・ブロッホについて音楽の勉強をはじめた。作曲家としてもいくつかの作品を残している他、ドビュッシーの『6つの古代碑銘』をオーケストラ編曲し、楽譜はデュラン社から出版されている。 数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、1909年にベルリンを訪れて、指揮者のニキシュとワインガルトナーに助言を求め、ようやくアンセルメは指揮者として立つ決心を固めた。 1910年、アンセルメはモントルーで指揮者としてデビューした。この時のプログラムは、ベートーヴェンの『運命』を中心としたものであった。このコンサートがきっかけとなり、アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。 指揮者となったアンセルメは、モントルーのカフェでストラヴィンスキーと運命的な出会いをして意気投合した。ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、第一次世界大戦のためスイスに疎開していたディアギレフに紹介した。モントゥーの後任を探していたディアギレフにとってはまさに渡りに舟で、彼は1915年のロシア・バレエ団(バレエ・リュス)によるジュネーヴ公演の指揮者としてアンセルメを指名した。ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、ついに専属指揮者とした。 彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品にはプロコフィエフの『道化師』、ファリャの『三角帽子』、サティの『パラード』などがある。 他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、マルタンやオネゲルなどスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。これらの活動の多くは、1918年にジュネーヴに創設したスイス・ロマンド管弦楽団によってなされた。 スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。しかし、1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、一気に活動も活発となり、多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。ブルーノ・ワルターやフルトヴェングラー、カール・シューリヒト(ヴヴェイに住んでいた)などが積極的に招かれている。フルトヴェングラーは、1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。カール・シューリヒトとは、第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼して、ドイツから亡命する手助けをした。終戦後数年にわたって、このオーケストラへの客演がシューリヒトの主な活動となった。 戦後、イギリスのレコード会社デッカと専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽や、親交のあったラヴェル、ルーセル、ストラヴィンスキーの作品などからベートーヴェンやブラームス、ヨーゼフ・ハイドンなどのドイツ・オーストリア音楽に至るまで、網羅的に録音をする機会を得た。それらは、アンセルメのホームグラウンドとなったジュネーヴのヴィクトリア・ホール(英語版)で行われた。このホールは録音のための部屋がなく、レストランの厨房がコントロール・ルームとして用いられた。 放送用のスタジオは別にスイス・ロマンド放送にあった。ここでは映像をはじめとするアンセルメの多くの演奏が収録されており、膨大なアーカイブが存在すると言われている。現在、当スタジオはアンセルメの名を冠している。 英デッカの録音によりアンセルメは世界的に名声を得た。サン=サーンスの『オルガン付』交響曲や、オネゲルの『ダヴィデ王』などは当時ベストセラーとなった。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、ファリャのバレエ音楽など、彼らが世に紹介し、広めてきた音楽とその演奏が多くの人々に支持されたことによって、アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。 また、アンセルメは数学者であったことから、デッカのステレオ録音開始においても多大な協力をし、1954年5月13日から録音されたリムスキー=コルサコフ作曲の『アンタール』は、同社初のステレオの実用化試験録音となった。また、その運用についても、前日のリハーサルの実験録音のプレイバックを聞いて、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」というアンセルメの鶴の一声で決定されたという。 アンセルメはザッハーなどとともに、同時代の作曲家たちと親交を深め、その音楽の普及に努めたが、その中にはシェーンベルクなどの十二音音楽や、ヴァレーズなどのような前衛的な音楽、無調音楽は含まれていない。作曲家でもあったアンセルメは著書『人間の知覚における音楽の原理』(Les Fondements de la Musique dans la Conscience Humaine, 1961年)の中で、シェーンベルクの音楽語法が誤っていて不合理であると証明しようと試みた。ただしこの著書の現代音楽に関する主要部分は、ストラヴィンスキー批判にあてられている。 ストラヴィンスキーとは長年の友人だったが、1937年の『カルタ遊び』のスイス上演でアンセルメがカットを要求したことから激しく対立し、10年ほど仲違いの状態が続いた。さらに、ストラヴィンスキーが十二音技法を使用して作曲するようになると、ついに絶交に至った。1966年、ニューヨーク・フィルハーモニック主催のストラヴィンスキー・フェスティバルに出演したアンセルメは「けんかをするには歳をとりすぎた」と語り、関係の修復を望んだが、その演奏会にストラヴィンスキーはついに姿を見せなかったという。 アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団に半世紀にわたって君臨した。1964年にはNHK交響楽団の指揮者として初来日し、1968年にはスイス・ロマンド管弦楽団とともに再来日している。もっとも、来日公演の評判はあまりよくなく、「アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の名盤はデッカ・レコードの録音の魔術によるものだ」と評する評論家も出るほどであった。1967年にスイス・ロマンド管弦楽団の常任指揮者を引退し、後任の指揮者として、スイスに帰化した作曲家でベルン交響楽団の音楽監督であったパウル・クレツキを指名した。その後1年あまり経った1969年2月20日、ジュネーヴにて亡くなった。 音楽之友社刊「世界のオーケストラ123」のスイス・ロマンド管弦楽団の項では、「長年にわたって強烈な個性をもった指揮者に率いられたオーケストラは、しばしば後任に反対の性格の指揮者を選ぶ傾向がある」と述べられている。 デッカ社から多くのレコードがリリースされ、その後CD化されているものも多く存在する。デッカの録音がキングレコードとポリドールから並行して発売されていた1990年代以前は、主にキングレコードから録音が発売された。
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エルネスト・アレクサンドル・アンセルメは、スイスの指揮者、数学者。
{{複数の問題|ソートキー=人1969年没 | 出典の明記 = 2011年12月30日 (金) 08:33 (UTC) | 独自研究 = 2011年12月30日 (金) 08:33 (UTC) }} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | Name = エルネスト・アンセルメ<br />Ernest Ansermet | Img = ErnestAnsermet.jpg | Img_capt = エルネスト・アンセルメ | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = classic | Birth_name = Ernest Alexandre Ansermet | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = [[パリ大学|ソルボンヌ大学<br />パリ大学]] | Born = [[1883年]][[11月11日]]<br />{{CHE}}、[[ヴォー州]]<br />[[リヴィエラ=ペイ=ダノー郡]][[ヴェヴェイ]] | Died = {{死亡年月日と没年齢|1883|11|11|1969|2|20}}<br />{{CHE}}、[[ジュネーヴ州]][[ジュネーヴ]] | Origin = | Instrument = <!-- 個人のみ --> | Genre = [[クラシック音楽]] | Occupation = [[指揮者]] | Years_active = [[1910年]] - [[1967年]] | Label = | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = | Notable_instruments = }} {{Portal クラシック音楽}} [[ファイル:Ernest Ansermet (1965) by Erling Mandelmann.jpg|thumb|right|300px|エルネスト・アンセルメ(1965年)]] [[ファイル:Ernest_Ansermet_and_Wilhelm_Kempff_(1965)_by_Erling_Mandelmann.jpg|thumb|300px|アンセルメ(左)と[[ヴィルヘルム・ケンプ]](右)(1965年)]] '''エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ'''(Ernest Alexandre Ansermet, [[1883年]][[11月11日]] - [[1969年]][[2月20日]])は、[[スイス]]の[[指揮者]]、[[数学者]]。 == 人物・来歴 == アンセルメは、[[スイス]]西部の[[フランス語圏]]にある[[レマン湖]]畔の町[[ヴヴェイ]]に生まれた。父は[[幾何学]]者であったこともあり、彼も[[パリ]]の[[ソルボンヌ大学]]と[[パリ大学]]で数学を学んだ後、数学者として[[ローザンヌ]]の大学の数学の教授になった。 しかし、音楽好きの母親の影響から、ローザンヌで3歳年上の新進作曲家であった[[エルネスト・ブロッホ]]について音楽の勉強をはじめた。作曲家としてもいくつかの作品を残している他、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の『[[ビリティスの歌#6つの古代碑銘|6つの古代碑銘]]』をオーケストラ編曲し、楽譜は[[デュラン (出版社)|デュラン]]社から出版されている。 数学者として生きるべきか音楽に進むべきか一時は迷い、[[1909年]]に[[ベルリン]]を訪れて、指揮者の[[アルトゥル・ニキシュ|ニキシュ]]と[[フェリックス・ワインガルトナー|ワインガルトナー]]に助言を求め、ようやくアンセルメは指揮者として立つ決心を固めた。 [[1910年]]、アンセルメは[[モントルー]]で指揮者としてデビューした。この時のプログラムは、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命]]』を中心としたものであった。<!--、アンセルメが後の評価とは異なり、当初から[[古典派音楽|ドイツ古典派音楽]]から[[ロマン派音楽|ロマン派]]の音楽に傾注していたことを物語っている。-->このコンサートがきっかけとなり、アンセルメはモントルーのクア・ザールの指揮者となる。 指揮者となったアンセルメは、モントルーのカフェで[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]と運命的な出会いをして意気投合した。ストラヴィンスキーは当時まだスイスのローカルな指揮者に過ぎないアンセルメを、[[第一次世界大戦]]のためスイスに疎開していた[[セルゲイ・ディアギレフ|ディアギレフ]]に紹介した。[[ピエール・モントゥー|モントゥー]]の後任を探していたディアギレフにとってはまさに渡りに舟で、彼は[[1915年]]のロシア・バレエ団([[バレエ・リュス]])による[[ジュネーヴ]]公演の指揮者としてアンセルメを指名した。<!--大成功の結果に喜んだ--><!--編集注:「大成功」とは演奏?人事?-->ディアギレフは、アンセルメをアメリカ公演の指揮者としても指名し、ついに専属指揮者とした。 彼がバレエ・リュスで初演を担当した作品には[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の『[[道化師 (バレエ)|道化師]]』、[[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]の『[[三角帽子 (ファリャ)|三角帽子]]』、[[エリック・サティ|サティ]]の『[[パラード (バレエ)|パラード]]』などがある。 他にストラヴィンスキーの数多くのスイス時代の作品を初演し、[[フランク・マルタン|マルタン]]や[[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]などスイスの作曲家たちの作品を頻繁に取り上げた。これらの活動の多くは、[[1918年]]にジュネーヴに創設した[[スイス・ロマンド管弦楽団]]によってなされた。 スイス・ロマンド管弦楽団は、設立当初は財政的に不安定であった。1930年代はじめには一時活動休止にまで追い込まれている。しかし、[[1938年]]にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、当時成長をはじめた放送局のオーケストラとして財政的にも安定すると、一気に活動も活発となり、多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。[[ブルーノ・ワルター]]や[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]、[[カール・シューリヒト]](ヴヴェイに住んでいた)などが積極的に招かれている。フルトヴェングラーは、1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演した(後にスイスに亡命)。<!--そのときの住まいはアンセルメが紹介した。ちなみにフルトヴェングラーが終の棲家として住んだ[[クララン]]はヴヴェイのすぐ近くの町で、かつて[[チャイコフスキー]]が長く滞在し、[[ヴァイオリン協奏曲]]などを書いた。-->[[カール・シューリヒト]]とは、第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼して、ドイツから亡命する手助けをした。終戦後数年にわたって、このオーケストラへの客演がシューリヒトの主な活動となった。 戦後、イギリスのレコード会社[[デッカ・レコード|デッカ]]と専属契約を結んだアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は、かつてディアギレフの元で演奏したバレエ音楽や、親交のあった[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]、[[アルベール・ルーセル|ルーセル]]、ストラヴィンスキーの作品などからベートーヴェンや[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ヨーゼフ・ハイドン]]などのドイツ・オーストリア音楽に至るまで、網羅的に録音をする機会を得た。それらは、アンセルメのホームグラウンドとなったジュネーヴの{{仮リンク|ヴィクトリア・ホール (ジュネーヴ)|en|Victoria Hall (Geneva)|label=ヴィクトリア・ホール}}で行われた。このホールは録音のための部屋がなく、レストランの厨房がコントロール・ルームとして用いられた。 放送用のスタジオは別にスイス・ロマンド放送にあった。ここでは映像をはじめとするアンセルメの多くの演奏が収録されており、膨大な[[アーカイブ]]が存在すると言われている。現在、当スタジオはアンセルメの名を冠している<ref group="注釈">しかし、ヴィクトリア・ホールは1980年代に火災に遭い、[[オルガン]]などを焼失した。</ref>。 英デッカの録音によりアンセルメは世界的に名声を得た。[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の[[交響曲第3番 (サン=サーンス)|『オルガン付』交響曲]]や、[[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]の『[[ダヴィデ王 (オネゲル)|ダヴィデ王]]』などは当時ベストセラーとなった。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、[[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]のバレエ音楽など、彼らが世に紹介し、広めてきた音楽とその演奏が多くの人々に支持されたことによって、アンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。 また、アンセルメは数学者であったことから、デッカのステレオ録音開始においても多大な協力をし、[[1954年]][[5月13日]]から録音された[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]作曲の『[[アンタール]]』は、同社初のステレオの実用化試験録音となった<ref group="注釈">同音源は現在[[ユニバーサルミュージック (日本)|日本のユニバーサルミュージック]]からCD番号:UCCD-6035にて発売されている。また、同CDのライナーノーツには、この時の実用化試験録音開始に際して、当時録音を担当をしていたロイ・ウォーレスによる文が掲載されている。なお、この曲を含む少なくともLP3枚分の録音セッションは、翌月初めまで続いたものの、それらの録音について各曲の詳細な録音日のデータは残っていないため、デッカではそれらを全て「1954年6月録音」と表示している。</ref>。また、その運用についても、前日のリハーサルの実験録音のプレイバックを聞いて、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」というアンセルメの鶴の一声で決定されたという<ref group="注釈">前記の録音を入れたCD(CD番号:UCCD-6035)の解説書中の、当時録音を担当をしていたロイ・ウォーレスによる文の中にその模様が記載されている。</ref>。 アンセルメは[[パウル・ザッハー|ザッハー]]などとともに、同時代の作曲家たちと親交を深め、その音楽の普及に努めたが、その中には[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]などの[[十二音技法|十二音音楽]]や、[[エドガー・ヴァレーズ|ヴァレーズ]]などのような前衛的な音楽、[[無調]]音楽は含まれていない。作曲家でもあったアンセルメは著書『人間の知覚における音楽の原理』(''Les Fondements de la Musique dans la Conscience Humaine'', 1961年)の中で、シェーンベルクの音楽語法が誤っていて不合理であると証明しようと試みた。ただしこの著書の現代音楽に関する主要部分は、ストラヴィンスキー批判にあてられている。 ストラヴィンスキーとは長年の友人だったが、1937年の『[[カルタ遊び]]』のスイス上演でアンセルメがカットを要求したことから激しく対立し、10年ほど仲違いの状態が続いた<ref>{{Cite book|和書|author=船山隆|authorlink=船山隆|chapter=ストラヴィンスキーの生涯と芸術|title=作曲家別 名曲解説ライブラリー25 ストラヴィンスキー|publisher=[[音楽之友社]]|year=1995|isbn=4276010659}}</ref><ref>{{cite book|author=Stephen Walsh|title=Stravinsky: The Second Exile: France and America, 1934-1971|year=2006|publisher=University of California Press|isbn=9780520256156|pages=70-71}}</ref>。さらに、ストラヴィンスキーが十二音技法を使用して作曲するようになると、ついに絶交に至った<ref>キーワード事典「指揮者の光芒」[[洋泉社]]、1992年、P96(執筆者は[[渡辺和彦]])</ref>。1966年、[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]主催のストラヴィンスキー・フェスティバルに出演したアンセルメは「けんかをするには歳をとりすぎた」と語り、関係の修復を望んだが、その演奏会にストラヴィンスキーはついに姿を見せなかったという<ref>[[音楽之友社]]刊「クラシック不滅の巨匠たち」1993年のアンセルメの項。</ref>。 アンセルメはスイス・ロマンド管弦楽団に半世紀にわたって君臨した。1964年には[[NHK交響楽団]]の指揮者として初来日し、1968年にはスイス・ロマンド管弦楽団とともに再来日している。[[1967年]]にスイス・ロマンド管弦楽団の常任指揮者を引退し、後任の指揮者として、スイスに[[帰化]]した作曲家で[[ベルン交響楽団]]の音楽監督であった[[パウル・クレツキ]]を指名した。その後1年あまり経った[[1969年]][[2月20日]]、ジュネーヴにて亡くなった。 [[音楽之友社]]刊「世界のオーケストラ123」のスイス・ロマンド管弦楽団の項では、「長年にわたって強烈な個性をもった指揮者に率いられたオーケストラは、しばしば後任に反対の性格の指揮者を選ぶ傾向がある」と述べられている。 <!--また、アンセルメが[[反ユダヤ主義]]であるという意見に対しては、彼が若い頃音楽を学んだのがユダヤ人のブロッホであったことを指摘しておこう。それがシェーンベルクなどへの嫌悪感になっていたというのは、事実に反すると考えられる。 --> == 演奏会 == * {{節スタブ}} == 録音 == [[デッカ・レコード|デッカ]]社から多くのレコードがリリースされ、その後CD化されているものも多く存在する。デッカの録音が[[キングレコード]]と[[ポリドール]]から並行して発売されていた1990年代以前は、主にキングレコードから録音が発売された。 {{節スタブ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{節スタブ}} {{スイス・ロマンド管弦楽団首席指揮者}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あんせるめ えるねすと}} [[Category:スイスの指揮者]] [[Category:ヴォー州出身の人物]] [[Category:1883年生]] [[Category:1969年没]] [[Category:デッカ・レコードのアーティスト]]
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1883年
1883年(1883 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。明治16年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1883年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。明治16年。
{{年代ナビ|1883}} {{year-definition|1883}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[癸未]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]16年 ** [[皇紀]]2543年 * [[清]]:[[光緒]]8年11月23日 - 光緒9年12月3日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]20年 ** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]492年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4216年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]35年11月23日 - 嗣徳36年12月3日 * [[仏滅紀元]]:2425年 - 2426年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1300年2月21日 - 1301年3月1日 * [[ユダヤ暦]]:5643年4月22日 - 5644年4月2日 * [[修正ユリウス日]] (MJD):8811 - 9175 * [[リリウス日]] (LD):109652 - 110016 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1883}} == できごと == === 1月 === * [[1月4日]] - [[叙勲条例]]制定 * [[1月13日]] - [[イプセン]]戯曲『[[民衆の敵 (戯曲)|民衆の敵]]』初演([[オスロ]]) * [[1月31日]] - [[アムステルダム国際植民地博覧会]]開催( - 10月31日) === 2月 === * [[2月8日]] - [[南岸低気圧]]の影響で、東京で積雪46cm(観測史上最多)を記録。 * [[2月15日]] - [[東京電燈]]会社設立 * [[2月16日]] - [[東京気象台]](後の[[中央気象台]])が日本で初めて[[天気図]]を作製([[天気図記念日]]) * 朝鮮で済物浦(後の[[仁川広域市|仁川]])開港([[日朝修好条規]]による) === 3月 === * [[3月1日]] - 東京気象台が天気図の発行を開始 * [[3月2日]] - [[香港天文台]]開設 * [[3月20日]] - [[高田事件]] * [[3月20日]] - [[工業所有権の保護に関するパリ条約]]締結 === 4月 === * [[4月12日]] - [[陸軍大学校]]開設 * [[4月16日]] ** [[新聞紙条例]]改正 ** [[浅野セメント]]創立 ** [[ポール・クリューガー]]が初代[[トランスバール共和国]]大統領に選出される * [[文部省]]が、[[東京大学|東大]]で[[英語]]による[[教授]]を廃止して[[日本語]]を用いる事、[[ドイツ]]学術を採用する旨を上申 === 5月 === * [[5月20日]] - [[工業所有権の保護に関するパリ条約]]締結 * [[5月24日]] - [[ニューヨーク]]で[[ブルックリン橋]]開通 * [[5月26日]] - 日本初の[[暴風警報]] * [[5月27日]] - 露[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]戴冠式 === 6月 === * [[6月16日]] - 英国[[サンダーランド (イングランド)|サンダーランド]]のコンサートホールで小児183名が窒息死 ([[:en:Victoria Hall disaster|Victoria Hall disaster]]) * [[6月29日]] - [[出版条例]]改正 === 7月 === * [[7月2日]] - [[官報]]第一号を発行 * [[7月3日]] - 英国[[グラスゴー]]で進水直後の汽船が沈没し195名の工員が死亡 ([[:en:SS Daphne|SS Daphne]]) * [[7月7日]] - [[鹿鳴館]]落成(開館式11月28日) * [[7月25日]] - [[岩倉具視]]国葬(初の[[国葬]]) * [[7月28日]] - [[日本鉄道]]開業([[上野駅|上野]]・[[熊谷駅|熊谷]]間) === 8月 === * [[8月1日]] - [[護国寺]]火災<!---本堂焼失---> * [[8月3日]] - [[伊藤博文]]が憲法調査より帰国 * [[8月12日]] - [[クアッガ]]絶滅 * [[8月25日]] - 第一次フエ条約(アルマン条約、越南がフランスの保護国に) * [[8月27日]] - [[インドネシア]]の[[クラカタウ]]が[[1883年のクラカタウの噴火|大噴火]]([[火砕流]]・[[津波]]による死者36,417名の惨事) * [[8月29日]] - クラカタウ大噴火による[[津波]]を[[英仏海峡]]でも観測 === 9月 === * [[9月15日]] - [[テキサス大学オースティン校]]開校 * [[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]・[[高島炭鉱]]で暴動 === 10月 === * [[10月4日]] ** [[オリエント急行]]開通 ** 英国で世界最初の青少年組織[[:en:Boys' Brigade|Boys' Brigade]]が結成([[ボーイスカウト]]の前駆) * [[10月15日]] - 米国最高裁が公民権法(1875年)を違憲と裁定 ([[:en:Civil Rights Cases|Civil Rights Cases]]) * [[10月20日]] - [[太平洋戦争_(1879年-1884年)|太平洋戦争]]:[[アンコン条約]]締結([[ペルー]]が[[チリ]]に降伏) === 11月 === * [[11月28日]] - [[鹿鳴館]]開館 === 12月 === * [[12月2日]] - [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]][[交響曲第3番 (ブラームス)|交響曲第3番]]初演([[ハンス・リヒター (指揮者)|ハンス・リヒター]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]) * [[12月28日]] - [[徴兵令]]改正 === 日付未詳 === * [[ホーリック]]兄弟が[[麦芽飲料]]の特許を取得 * [[フランシス・ゴルトン]]によりeugenics([[優生学]])の語が造られる。 == 誕生 == {{see also|Category:1883年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[鳩山一郎]]、第52 - 54代内閣総理大臣・[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]初代総裁(+ [[1959年]]) * [[1月3日]] - [[クレメント・アトリー]]、第62・63代[[イギリス首相]](+ [[1967年]]) * [[1月8日]] - [[パーヴェル・フィローノフ]]、[[画家]]・美術理論家(+ [[1941年]]) * 1月8日 - [[ペンティ・エーリス・エスコラ]]、[[地質学者]](+ [[1964年]]) * [[1月10日]] - [[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ]]、[[小説家]](+ [[1945年]]) * [[1月24日]] - [[松村謙三]]、[[政治家]](+ [[1971年]]) * 1月24日 - [[河本大作]]、[[陸軍]][[軍人]](+ [[1955年]]) * [[1月30日]] - [[秋田雨雀]]、[[劇作家]]・[[詩人]]・[[童話作家]](+ [[1962年]]) * 1月30日 - [[岡儀平]]、日本最高齢だった男性(+ [[1991年]]) * [[1月31日]] - [[緒方知三郎]]、[[病理学]]者(+ [[1973年]]) * [[2月3日]] - [[衛藤衛]]、宣教師、[[モンタナ・ジョー]]の父(+ [[1992年]]) * [[2月4日]] - [[冠松次郎]]、[[登山家]](+ [[1970年]]) * [[2月8日]] - [[ヨーゼフ・シュンペーター]]、[[経済学者]](+ [[1950年]]) * [[2月11日]] - [[小林古径]]、[[日本画家]](+ [[1957年]]) * [[2月13日]] - [[ハル・チェイス]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1947年]]) * [[2月20日]] - [[志賀直哉]]、小説家(+ [[1971年]]) * [[2月22日]] - [[ヤロスラフ・コチアン]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1950年]]) * [[2月26日]] - [[カール・ヤスパース]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1969年]]) * [[3月1日]] - [[朝倉文夫]]、[[彫刻家]](+ [[1964年]]) * [[3月3日]] - [[和田三造]]、[[洋画家]](+ [[1967年]]) * [[3月11日]] - [[加藤鐐五郎]]、[[政治家]]・第48代[[衆議院議長]](+ [[1970年]]) * [[3月13日]] - [[高村光太郎]]、彫刻家(+ [[1956年]]) * [[3月14日]] - [[フアン・マネン]]、ヴァイオリニスト・作曲家(+ [[1971年]]) * [[3月22日]] - [[大錦大五郎]]、[[大相撲]]第28代[[横綱]](+ [[1943年]]) * [[3月23日]] - [[北大路魯山人]]、[[美術家]](+ [[1959年]]) * [[3月26日]] - [[篠原陸朗]]、政治家(+ [[1966年]]) * [[4月3日]] - [[北一輝]]、[[思想家]](+ [[1937年]]) * [[4月7日]] - [[ジーノ・セヴェリーニ]]、[[画家]](+ [[1966年]]) * [[4月21日]] - [[三船久蔵]]、[[柔道家]](+ [[1965年]]) * [[4月28日]] - [[大賀一郎]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1965年]]) * [[5月4日]] - [[汪兆銘]]、軍人(+ [[1944年]]) * 5月4日 - [[川村多実二]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1964年]]) * [[5月9日]] - [[ホセ・オルテガ・イ・ガセット]]、スペインの哲学者(+ [[1955年]]) * [[5月29日]] - [[アラン・ロイ・ダフォー]]、カナダの産科医(+ [[1943年]]) * [[6月4日]] - [[諸橋轍次]]、[[漢学者]](+ [[1982年]]) * [[6月5日]] - [[ジョン・メイナード・ケインズ]]、経済学者(+ [[1946年]]) * [[6月24日]] - [[ジャン・メッツァンジェ]]、画家(+ [[1956年]]) * [[7月3日]] - [[フランツ・カフカ]]、小説家(+ [[1924年]]) * [[7月10日]] - [[相馬御風]]、[[詩人]]・[[評論家]](+ [[1950年]]) * 7月10日 - [[サム・ウッド]]、[[映画監督]](+ [[1949年]]) * [[7月16日]] - [[チャールズ・シーラー]]、画家・[[写真家]](+ [[1965年]]) * [[7月24日]] - [[クラウス・プリングスハイム]]、[[音楽家]](+ [[1972年]]) * [[7月25日]] - [[アルフレード・カゼッラ]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](+ [[1947年]]) * [[7月27日]] - [[前田夕暮]]、[[歌人]](+ [[1951年]]) * [[7月29日]] - [[ベニート・ムッソリーニ]]、政治家(+ [[1945年]]) * [[8月3日]] - [[ヴィレーム・マテジウス]]、[[言語学者]]・[[文学史]]家(+ 1945年) * [[8月8日]] - [[土肥原賢二]]、陸軍軍人(+ [[1948年]]) * [[8月14日]] - [[アーネスト・E・ジャスト]]、[[生物学者]](+ [[1941年]]) * [[8月19日]] - [[ココ・シャネル]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[1971年]]) * [[8月27日]] - [[阿部次郎]]、哲学者・[[美学者]](+ [[1959年]]) * [[8月30日]] - [[テオ・ファン・ドースブルフ]]、画家(+ [[1931年]]) * [[9月19日]] - [[中澤良夫]]、[[野球選手]](+ [[1966年]]) * [[10月11日]] - [[エドゥアール・シャットン]]、[[動物学者]]・[[海洋生物学]]者(+ [[1947年]]) * [[10月17日]] - [[A・S・ニイル]]、教育家(+ [[1973年]]) * [[10月20日]] - [[下位春吉]]、童話作家・教育者 (+ [[1954年]]) * [[10月26日]] - [[ナポレオン・ヒル]]、[[作家・成功哲学者]]、 * [[10月27日]] - [[呉建]]、[[内科学|内科学者]]・画家(+ [[1940年]]) * [[10月31日]] - [[マリー・ローランサン]]、画家・彫刻家(+ [[1956年]]) * [[11月6日]] - [[林平馬]]、政治家(+ [[1972年]]) * [[11月9日]] - [[チャールズ・デムス]]、画家(+ [[1935年]]) * [[11月10日]] - [[玉椿憲太郎]]、[[大相撲]]の[[力士]](+ [[1928年]]) * 11月10日 - [[橋本関雪]]、[[日本画家]](+ [[1945年]]) * [[11月11日]] - [[エルネスト・アンセルメ]]、[[指揮者]](+ [[1969年]]) * [[11月15日]] - [[オギュスタン・バリエ]]、作曲家・[[オルガニスト]](+ [[1915年]]) * [[12月2日]] - [[桜井弥一郎]]、野球選手(+ [[1958年]]) * [[12月22日]] - [[エドガー・ヴァレーズ]]、作曲家(+ [[1965年]]) * [[12月23日]] - [[安倍能成]]、哲学者・[[教育者]](+ [[1966年]]) * [[12月25日]] - [[モーリス・ユトリロ]]、[[画家]](+ [[1955年]]) * [[12月27日]] - [[高田保馬]]、経済学者、[[社会学|社会学者]]、[[社会経済学|社会経済学者]](+ [[1972年]]) == 死去 == {{see also|Category:1883年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月10日]] - [[マーシャル・ジュウェル]]、第29代および第31代[[オハイオ州知事]]、第28代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1825年]]) * [[2月13日]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]、作曲家(* [[1813年]]) * [[3月14日]] - [[カール・マルクス]]、[[哲学者]]・[[経済学者]](* [[1818年]]) * [[4月30日]] - [[エドゥアール・マネ]]、[[画家]](* [[1832年]]) * [[5月6日]] - [[エヴァ・ゴンザレス]]、画家(* [[1849年]]) * [[7月4日]] - [[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公ジョン・スペンサー=チャーチル]]、[[イギリス]]の政治家・貴族(* [[1822年]]) * [[7月20日]] - [[岩倉具視]]、政治家・[[明治維新]]の元勲(* [[1825年]]) * [[7月27日]] - [[フランツ・ドップラー]]、[[作曲家]](* [[1821年]]) * [[8月15日]] - [[アントン・ヨハネス・ゲールツ]]、[[オランダ]]の[[薬学者]](* [[1843年]]) * [[10月12日]] - [[ジョン・ローレンス・スミス]]、[[化学者]]・[[鉱物学者]](* [[1818年]]) * [[9月3日]] - [[イワン・ツルゲーネフ]]、[[小説家]] (* [[1818年]]) * [[10月5日]] - [[津向文吉]]、[[甲斐国]]([[山梨県]])の[[博徒]] * [[10月10日]] - [[ジム・デブリン]]、[[メジャーリーガー]](* [[1849年]]) * [[10月16日]] - [[エフィム・プチャーチン]]、[[ロシア帝国]][[軍人]](* [[1803年]]) * [[11月20日]] - [[天璋院]]、[[徳川家定]][[正室]](* [[1836年]]) == フィクションのできごと == * 8月 - 9代目ドクターがクラカタウ火山噴火の際に姿を現す。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * 不明 - ジョシミア・スミスが[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の暗殺を計画。(ドラマ『ドクター・フー』) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1883}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1883ねん}} [[Category:1883年|*]]
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4,653
1880年
1880年(1880 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。明治13年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1880年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。明治13年。
{{年代ナビ|1880}} {{year-definition|1880}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[庚辰]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]13年 ** [[皇紀]]2540年 * [[清]]:[[光緒]]5年11月19日 - 光緒6年12月1日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]17年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4213年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]) ** [[嗣徳]]32年11月19日 - 嗣徳33年12月1日 * [[仏滅紀元]]:2422年 - 2423年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1297年1月18日 - 1298年1月28日 * [[ユダヤ暦]]:5640年4月17日 - 5641年4月29日 * [[修正ユリウス日]](MJD):7715 - 8080 * [[リリウス日]](LD):108556 - 108921 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1880}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[パナマ運河]]着工([[1889年]]放棄){{要出典|date=2021-03}} * [[1月12日]] - 共済五百名社(後の[[安田生命]])設立(日本初の生命保険組織){{要出典|date=2021-03}} * [[1月17日]] - [[薬品取扱規則]]制定 * [[1月26日]] - [[交詢社]]結成 * [[1月27日]] - [[トーマス・エジソン]]が[[白熱電球]]の米国特許を取得 === 2月 === * [[2月6日]] - 前年11月29日に[[シドニー]]を出発したストラスリーベン(Strathleven)号が[[ロンドン]]に到着([[冷凍船]]による冷凍肉輸送が初めて成功) * [[2月14日]] - [[奈良公園]]開園 * [[2月16日]] - [[アメリカ機械工学会|米国機械学会]]設立 * [[2月17日]] - [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]暗殺未遂 * [[2月22日]] - [[横浜地震]] * [[2月28日]] - [[横浜正金銀行]](後の[[東京銀行]])開業 === 3月 === * [[3月17日]] - [[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]などを[[国会期成同盟]]と改称 * [[3月30日]] - [[村田銃]]制式化 * 丸善(現在の[[丸善雄松堂]])設立(丸屋商社より改組) === 4月 === * 2月に起きた横浜地震を契機に[[日本地震学会]]が発足 * [[4月5日]] - [[集会条例]]公布 * [[4月17日]] - [[日比谷大神宮]]落成 * [[4月18日]] - 英国で[[第2次ディズレーリ内閣]]([[保守党 (イギリス)|保守党]])が総辞職。 * [[4月24日]] - [[英国アマチュア陸上競技協会]]([[:en:Amateur Athletic Association|Amateur Athletic Association]])設立 * [[4月28日]] - 英国で[[第2次グラッドストン内閣]]([[自由党 (イギリス)|自由党]])が成立。 === 5月 === * [[新約聖書]]の[[明治元訳聖書|邦訳]]刊行 === 6月 === * [[6月7日]] - [[太平洋戦争_(1879年-1884年)|太平洋戦争(南米)]]: {{仮リンク|アリカの戦い|en|Battle of Arica}}([[:en:Battle of Arica|Battle of Arica]]) * [[6月29日]] ** [[タヒチ島]]が[[フランス]]の領土となる ** 東京代言人組合(後の[[東京弁護士会]])設立(会長[[星亨]]) === 7月 === * [[7月1日]] - 京都府画学校(後の[[京都市立芸術大学]])開校式 * [[7月15日]] - [[逢坂山トンネル]]開通(完成6月1日)(日本人だけの力で掘った初めてのトンネル) * [[7月17日]] - [[刑法 (日本)#旧・刑法|旧刑法]]と治罪法(後の[[刑事訴訟法]])制定 === 8月 === * [[8月14日]] - [[ケルン大聖堂]]が建設開始から600年以上たって完成(着工[[1248年]]) === 9月 === * [[9月12日]] - 東京法学社(後の[[法政大学]])開校 * [[9月16日]] - 専修学校(後の[[専修大学]])開校<!--(日本で初めて日本語による経済・法律の授業を行った高等教育機関)--> * [[9月23日]] - [[ジュール・フェリー]]が[[フランス第三共和政|仏]]首相に就任 * [[9月27日]] - [[吉田正春使節団]]が[[ペルシャ]]国王[[ナーセロッディーン・シャー]]に謁見。日本人として初の[[イラン]]正式訪問 * [[9月30日]] - [[ヘンリー・ドレイパー]]が[[オリオン大星雲]]の撮影に成功 === 10月 === * [[10月1日]] - [[ジョン・フィリップ・スーザ|スーザ]]が[[アメリカ海兵隊軍楽隊]]([[:en:United States Marine Band|United States Marine Band]])の指揮者に就任 * [[10月8日]] - [[小笠原諸島]]が[[東京府]]に編入 * [[10月15日]] - [[ケルン大聖堂]]献堂式典([[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]臨席) * [[10月20日]] - [[アムステルダム自由大学]]創立 === 11月 === * [[11月2日]] - [[1880年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選挙]]で[[ジェームズ・ガーフィールド]]が勝利 * [[11月3日]] - [[君が代]]曲譜制定 * [[11月5日]] - [[工場払下慨則]]制定([[官営工場]]払下げ開始) * [[11月6日]] - [[シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン]]が[[マラリア原虫]]を発見。 * [[11月10日]] - 国会期成同盟第二回大会開催(東京) * [[11月28日]] - [[札幌駅]]開業 === 12月 === * [[12月17日]] - [[臼井六郎]]による[[仇討ち]]事件(武士の仇討ちとして日本最後)。 * [[12月26日]] - [[第一次ボーア戦争]]( - 1881年) * [[12月28日]] - [[教育令]]改正公布 === 日付不詳 === * [[圧電効果]]公開実験([[ピエール・キュリー]]ら) * 雑誌「[[サイエンス]]」創刊 * [[ルイージ・デンツァ]]「[[フニクリ・フニクラ]]」(世界初の[[コマーシャルソング]]) == 誕生 == {{see also|Category:1880年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]] - [[杉山元]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]・[[政治家]](+ [[1945年]]) * [[1月12日]] - [[レンジェル・メニヘールト]]、[[劇作家]]・[[脚本家]](+ [[1974年]]) * [[1月26日]] - [[ダグラス・マッカーサー]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]総司令官・[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]の将軍(+ [[1964年]]) * [[1月29日]] - [[アレクサンダー・ゴールデンワイザー]]、[[人類学]]者・[[社会学者]](+ [[1940年]]) * [[2月6日]] - [[西ノ海嘉治郎 (2代)]]、[[大相撲]] 第25代横綱(+ [[1931年]]) * [[2月8日]] - [[フランツ・マルク]]、[[画家]](+ [[1916年]]) * [[2月21日]] - [[ワルデマル・ボンゼルス]]、[[児童文学作家]](+ [[1952年]]) * [[2月29日]] - [[建畠大夢]]、[[彫刻家]](+ [[1942年]]) * [[3月2日]] - [[米内光政]]、[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人・第37代[[内閣総理大臣]](+ [[1948年]]) * [[3月3日]] - [[三淵忠彦]]、初代[[最高裁判所長官]](+ [[1950年]]) * [[3月4日]] - [[松岡洋右]]、[[外交官]]・政治家(+ [[1946年]]) * [[3月21日]] - [[ハンス・ホフマン]]、[[画家]]・教育者(+ [[1966年]]) * [[3月22日]] - [[小磯國昭]]、陸軍軍人・第41代内閣総理大臣(+ [[1950年]]) * [[3月29日]] - [[ロジーナ・レヴィーン]]、[[ピアニスト]]・ピアノ教師(+ [[1976年]]) * [[4月2日]] - [[熊谷守一]]、画家(+ [[1977年]]) * [[4月12日]] - [[アディ・ジョス]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1911年]]) * [[4月18日]] - [[サム・クロフォード]]、メジャーリーガー(+ [[1968年]]) * [[4月27日]] - [[守山恒太郎]]、[[野球選手]](+ [[1912年]]) * [[5月4日]] - [[ブルーノ・タウト]]、[[建築家]]・[[都市計画家]](+ [[1938年]]) * [[5月6日]] - [[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]、画家(+ [[1938年]]) * [[5月29日]] - [[オスヴァルト・シュペングラー]]、ドイツの[[哲学者]]・[[歴史学者]](+ [[1936年]]) * [[6月10日]] - [[アンドレ・ドラン]]、画家(+ [[1954年]]) * [[6月15日]] - [[永野修身]]、海軍軍人・政治家(+ [[1947年]]) * [[6月19日]] - [[山崎達之輔]]、[[文部省|文部]][[官僚]]・政治家(+ [[1948年]]) * [[6月21日]] - [[アーノルド・ゲゼル]]、[[心理学者]](+ [[1961年]]) * [[6月27日]] - [[ヘレン・ケラー|ヘレン・アダムズ・ケラー]]、教育家・社会福祉事業家(+ [[1968年]]) * [[6月29日]] - [[ハリー・フレイジー]]、[[メジャーリーグ]]球団オーナー(+ [[1929年]]) * [[7月4日]] - [[ジョージ・マリン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1944年]]) * [[7月5日]] - [[ヤン・クベリーク]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1940年]]) * [[7月6日]] - [[村井多嘉子]]、[[料理研究家]](+ [[1960年]]) * [[7月12日]] - [[トッド・ブラウニング]]、[[映画監督]]、[[俳優]](+ [[1962年]]) * [[7月24日]] - [[エルネスト・ブロッホ]]、[[作曲家]]・音楽教師(+ [[1959年]]) * [[7月27日]] - [[ジョー・ティンカー]]、メジャーリーガー(+ [[1948年]]) * [[7月28日]] - [[大原孫三郎]]、実業家(+ [[1943年]]) * [[8月2日]] - [[アーサー・ダヴ]]、[[画家]](+ [[1946年]]) * [[8月10日]] - [[ピエール・ロワ]]、画家(+ [[1950年]]) * [[8月12日]] - [[クリスティー・マシューソン]]、メジャーリーガー(+ [[1925年]]) * [[8月26日]] - [[ギヨーム・アポリネール]]、[[詩人]]・[[小説家]](+ [[1918年]]) * [[9月20日]] - [[大山郁夫]]、[[政治家]]・[[政治学者]](+ [[1955年]]) * [[9月24日]] - [[サラ・ナウス]]、[[長寿世界一]]であったアメリカの女性(+ [[1999年]]) * [[9月27日]] - [[ジャック・ティボー]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1953年]]) * [[9月30日]] - [[森山汀川]]、[[歌人]](+ [[1946年]]) * [[10月19日]] - [[スコッティ・マットロー]]、コメディアン・俳優(+ [[1946年]]) * [[11月1日]] - [[アルフレート・ヴェーゲナー]]、[[気象学者の一覧|気象学者]]・[[地球物理学|地球物理学者]](+ [[1930年]]) * [[11月6日]] - [[鮎川義介]]、[[実業家]]・政治家、日産コンツェルン創始者(+ [[1967年]]) * [[11月13日]] - [[布施辰治]]、[[弁護士]]・社会運動家(+ [[1953年]]) * 11月13日 - [[野村芳亭]]、[[映画監督]]・[[脚本家]](+ [[1934年]]) * [[11月19日]] - [[厨川白村]]、[[英文学者]]・[[評論家]](+ [[1923年]]) * [[12月6日]] - [[内田信也]]、実業家・政治家(+ [[1971年]]) * [[12月20日]] - [[山川均]]、社会主義者(+ [[1958年]]) * [[12月27日]] - [[テオドール・リット]]、[[教育学者]]・[[哲学者]](+ [[1962年]]) == 死去 == {{see also|Category:1880年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月4日]] - [[アンゼルム・フォイエルバッハ (画家)|アンゼルム・フォイエルバッハ]]、[[画家]](* [[1829年]]) * [[1月12日]] - [[エレン・アーサー]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1837年]]) * [[3月20日]] - [[神戸の長吉]]、[[侠客]](* [[1814年]]) * [[3月31日]] - [[ヘンリク・ヴィエニャフスキ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1835年]]) * [[8月17日]] - [[オーレ・ブル]]、[[ヴァイオリニスト]]・作曲家(* [[1810年]]) * [[8月30日]] - [[ロバート・マクレランド (内務長官)|ロバート・マクレランド]]、第4代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1807年]]) * [[10月4日]] - [[ジャック・オッフェンバック]]、作曲家(* [[1819年]]) * [[10月5日]] - [[ウィリアム・ラッセル (天文学者)|ウィリアム・ラッセル]]、[[天文学者の一覧|天文学者]](* [[1799年]]) * [[12月22日]] - [[ジョージ・エリオット]]、[[女性|女流]]作家(* [[1819年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == フィクションのできごと == == 関連項目 == {{Commonscat|1880}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1880ねん}} [[Category:1880年|*]]
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4,654
1889年
1889年(1889 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。明治22年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1889年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。明治22年。
{{年代ナビ|1889}} {{year-definition|1889}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[己丑]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]22年 ** [[皇紀]]2549年 * [[清]]:[[光緒]]14年11月30日 - 光緒15年12月10日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]26年 ** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]498年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4222年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]) ** [[同慶 (阮朝)|同慶]]3年11月30日 - 12月29日 ** [[成泰]]元年1月1日 - 12月10日 * [[仏滅紀元]]:2431年 - 2432年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1306年4月28日 - 1307年5月8日 * [[ユダヤ暦]]:5649年4月28日 - 5650年4月8日 * [[修正ユリウス日]](MJD):11003 - 11367 * [[リリウス日]](LD):111844 - 112208 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1889}} == できごと == * [[黄熱病]]で[[パナマ運河]]の工事が中断。 === 1月 === * [[1月8日]] - 米国で[[ハーマン・ホレリス]]が[[タビュレーティングマシン]]の特許を取得。 * [[1月10日]] - [[象牙海岸]]が[[フランス第三共和政|フランス]]の[[保護国]]となる。 * [[1月16日]] - [[オーストラリア]]で[[最高気温]]記録(摂氏53度、[[クイーンズランド州]]{{仮リンク|クロンカリー|en|Cloncurry, Queensland}})。 * [[1月22日]] - [[徴兵令]]改正([[戸主]]の徴兵猶予を廃止) * [[1月23日]] - [[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]が[[三井組]]に払下げられる。 * [[1月30日]] - [[オーストリア=ハンガリー帝国]]で[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]皇太子が謎の情死({{仮リンク|マイヤーリンク事件|en|Mayerling incident}})。 === 2月 === * [[2月1日]] ** [[ファイル:床次正精 発布式之図.png|サムネイル|『発布式之図』[[床次正精]] ]][[東海道本線]]の国府津 - 静岡間開通(国府津 - 沼津間は後の[[御殿場線]])。 ** [[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]が[[上野恩賜公園|上野公園]]に移転。 * [[2月11日]] ** [[大日本帝国憲法]]・[[旧皇室典範]]・ [[衆議院]]議員選挙法公布。 ** [[万歳#日本における「万歳」|万歳三唱]]が始まる。 ** [[森有礼]]文相が、大日本帝国憲法発布式典への途上、[[西野文太郎]]によって刺殺される。 ** [[日本 (新聞)]]創刊([[陸羯南]])。 * [[2月12日]] - [[黒田清隆|黑田]]首相が[[超然主義|超然主義演説]]を行う。 * [[2月15日]] - [[秋田魁新報]]創刊(秋田新報改題)。 * [[2月17日]] - [[セザール・フランク]][[交響曲 (フランク)|交響曲]]初演([[パリ音楽院]])。 * [[2月20日]] - [[由良要塞]]起工。 === 3月 === [[File:Adachi Ginkō (1889) Tonchi kenpō happushiki no zu.jpg|120px|right|thumb|頓智研法発布式]] * [[3月4日]] ** [[宮武外骨]]の『頓智協会雑誌』に発禁処分。 ** 米国で[[ベンジャミン・ハリソン]]が第23代大統領に就任。 * [[3月23日]] ** 米ハリソン大統領が[[オクラホマ州の歴史|オクラホマ]]未割当地への白人入植を認可。 ** ロンドンで{{仮リンク|ウリッジ・フリー・フェリー|en|Woolwich Free Ferry}}開業。 * [[3月31日]] - [[エッフェル塔]]落成式(開場5月6日)。 === 4月 === * [[4月1日]] ** [[市制]]・[[町村制]]施行、[[弘前市]]、[[横浜市]]、[[大阪市]]、[[久留米市]]など31の市がこの日に誕生。 ** 最初の[[食器洗い機]]が[[シカゴ]]で販売。 * [[4月11日]] **[[甲武鉄道]]の新宿 - 立川間開通。 **[[東海道本線|東海道線]][[安倍川駅|安倍川]]付近で工事列車が正面衝突し、4人が死亡。([[日本の鉄道事故 (1949年以前)#東海道線工事列車正面衝突事故|東海道線工事列車正面衝突事故]]) * [[4月22日]] - 米[[オクラホマ州の歴史|オクラホマ]]で白人入植解禁([[ランドラッシュ]])。[[ファイル:Oklahoma Land Rush.jpg|サムネイル|ランドラッシュ。正午の号令とともに、一斉に[[オクラホマ州|オクラホマ]]の入植地へとのりこむ入植者たち。]] === 5月 === * [[5月1日]] - [[東京15区]]で[[市制]]を[[施行]]し、[[東京市]]が誕生。 * [[5月6日]] - [[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]開催( - 10月31日)。 * [[5月15日]] - [[大槻文彦]]「[[言海]] (第一冊)」発刊。 * [[5月16日]] - 博物館が帝国博物館(後の[[帝室博物館]])と改称(初代総長[[九鬼隆一]])。 * [[5月23日]] - [[讃岐鉄道]]の丸亀 - 琴平間開通 (この時の開通式で香川県議の[[大久保諶之丞]]が祝辞で[[瀬戸大橋]]の架橋を提唱する)。 * [[5月30日]] - {{仮リンク|エルミニー・カドル|en|Herminie Cadolle}}が[[ブラジャー]]の原型を発明する。 * [[5月31日]] - 米国[[ペンシルベニア州]]でダムが決壊し[[ジョンズタウン洪水]]が発生。2209人が死亡した。 === 6月 === * [[6月3日]] - [[カナダ太平洋鉄道]]が太平洋・大西洋間で全通。 * [[6月6日]] - 米国[[シアトル]]で大火(25街区壊滅、{{仮リンク|シアトルの大火|en|Great Seattle Fire}}参照)。 * [[6月16日]] - [[横須賀線]]の大船 - 横須賀間開通。 === 7月 === * [[7月1日]] - [[東海道本線]]全通(新橋 - 神戸間、直通列車毎日1往復)。 * [[7月4日]] - [[日本生命保険]]設立。 * [[7月8日]] - [[ウォールストリート・ジャーナル]]創刊。 * [[7月14日]] - [[第二インターナショナル]]結成([[パリ]])。 * [[7月28日]] - [[熊本地震 (1889年)|熊本地震]]。 === 8月 === * [[8月11日]] - [[甲武鉄道]]の立川 - 八王子間開通。 * [[8月26日]] ** 江戸開府三百年祭。 ** 英国で児童虐待防止法 ([[:en:The Prevention of Cruelty to, and Protection of, Children Act 1889|Children's Charter]]) 成立。 * [[十津川大水害]]など、[[紀伊半島]]南部で大雨被害。 === 9月 === * [[9月9日]] - 和仏法律学校(東京仏学校と東京法学校が合併)。 * [[9月20日]] - [[日本生命保険]]開業。 * [[9月23日]] - 任天堂骨牌(後の[[任天堂]])創立([[山内房治郎]])。 * [[9月24日]] - 第1回[[国際度量衡総会]](CGPM)開催( - 9月28日)([[メートル原器]]・[[キログラム原器]]制定)。 * [[9月28日]] - 関西学院(後の[[関西学院大学]])創立。 === 10月 === * [[10月4日]] - [[日本法律学校]]設立。 * [[10月6日]] - パリで[[ムーラン・ルージュ]]開業。 * [[10月7日]] - 海軍旗章条例([[旭日旗]]が[[軍艦旗]]となる)。 * [[10月18日]] - [[大隈重信]]外相が爆裂弾による襲撃を受け右脚を失う。 * [[10月21日]] - [[ヨハン・シュトラウス2世]]が『[[皇帝円舞曲]]』をベルリンで初演。 * [[10月25日]] - [[黒田内閣]]総辞職([[黒田内閣#三條暫定内閣|三條暫定内閣]])。 === 11月 === * [[11月2日]] - 米国で[[ノースダコタ州|ノースダコタ]]が39番目の、[[サウスダコタ州|サウスダコタ]]が40番目の州となる。 * [[11月3日]] - [[大正天皇|嘉仁親王]]が[[立太子礼]]を行う。 * [[11月8日]] - 米国で[[モンタナ州|モンタナ]]が41番目の州となる。 * [[11月11日]] - 米国で[[ワシントン州|ワシントン]]が42番目の州となる。 * [[11月14日]] - 婦人記者[[ネリー・ブライ]]が80日間世界一周に出発(翌年1月25日に72日間余で帰着)。 * [[11月15日]] - 東京湾汽船(後の[[東海汽船]])設立。 * [[11月20日]] - [[グスタフ・マーラー]][[交響曲第1番 (マーラー)|交響曲第1番]](初稿)初演([[ハンガリー国立歌劇場]])。 * [[11月21日]] - [[歌舞伎座]]開場。 * [[11月23日]] - 最初の[[ジュークボックス]]が登場([[サンフランシスコ]])。 === 12月 === * [[12月21日]] - [[九州鉄道]]の博多 - 千歳川間開通。 * [[12月24日]] - [[第1次山縣内閣]]成立。 *[[12月28日]] &#x2013; 世界初の[[インターアーバン]][[路面電車|トラム]]が、[[アメリカ合衆国]]、[[オハイオ州]]のニューアーク - グランビル・ストリート駅に開通<ref>{{cite book|page=9|title=The Electric Interurban Railways in America|first1=George W.|last1=Hilton|first2=John F.|last2=Due|publisher=Stanford University Press|year=2000}}</ref>。 * [[日本麦酒]]目黒工場(現[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]])完成。 == 誕生 == {{see also|Category:1889年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月2日]] - [[細井魚袋]]、歌人(+ 1962年) * [[1月3日]] - [[河上丈太郎]]、政治家(+ [[1965年]]) * [[1月4日]] - [[夢野久作]]、小説家(+ 1936年) * [[1月14日]] - [[棚橋小虎]]、労働運動家・[[政治家]](+ [[1973年]]) * [[1月18日]] - [[石原莞爾]]、陸軍軍人(+ [[1949年]]) * [[1月20日]] - [[トリグヴェ・グラン]]、[[パイロット (航空)|パイロット]]・[[探検家]]・[[作家]](+ [[1980年]]) * [[1月21日]] - [[ピティリム・ソローキン]]、[[社会学者]](+ [[1968年]]) * [[1月30日]] - [[賀屋興宣]]、[[大蔵省|大蔵]]官僚・政治家(+ [[1977年]]) === 2月 === * [[2月1日]] - [[石橋正二郎]]、[[実業家]]、ブリヂストンの創業者(+ [[1976年]]) * [[2月3日]] - [[リスト・リュティ]]、[[フィンランド]][[フィンランドの大統領|大統領]]・[[フィンランドの首相|首相]] *[[2月5日]] - 藤井真澄、劇作家(+[[1962年6月のアルカトラズ脱獄事件|1962年]]) * [[2月6日]] - [[三谷隆正]]、[[法学者]](+ [[1944年]]) * [[2月11日]] - [[清水金太郎]]、[[声楽家]](+ [[1932年]]) * [[2月18日]] - [[奥村土牛]]、[[日本画家]](+ [[1990年]]) * [[2月23日]] - [[ヴィクター・フレミング]]、[[映画監督]](+ [[1949年]]) * [[2月25日]] - [[ゴードン・ドブソン]]、[[物理学者]]・[[気象学者]](+ [[1976年]]) * [[2月26日]] - [[アディラ・ファキーリ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1962年]]) === 3月 === * [[3月1日]] - [[岡本かの子]]、小説家(+ [[1939年]]) * [[3月1日]] - [[和辻哲郎]]、思想家(+ [[1960年]]) * [[3月6日]] - [[鈴木雅次]]、土木工学者(+ [[1987年]]) * [[3月7日]] - [[堤康次郎]]、実業家・政治家・第44代[[衆議院議長]](+ [[1964年]]) * [[3月21日]] - [[柳宗悦]]、宗教哲学者・[[民芸]]運動家(+ [[1961年]]) * [[3月23日]] - [[中願寺雄吉]]、2002年12月29日以降長寿世界一(+ [[2003年]]) * [[3月24日]] - [[林譲治 (政治家)|林譲治]]、政治家・第41代衆議院議長(+ [[1960年]]) * 3月24日 - [[アレクシア・ブリン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1983年]]) === 4月 === * [[4月3日]] - [[グリゴラシュ・ディニク]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1949年]]) * [[4月9日]] - [[山下太郎 (アラビア石油)|山下太郎]]、実業家(+ [[1967年]]) * 4月9日 - [[エフレム・ジンバリスト]]、ヴァイオリニスト(+ [[1985年]]) * [[4月14日]] - [[アーノルド・J・トインビー]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1975年]]) * [[4月16日]] - [[チャーリー・チャップリン]]、[[喜劇]][[俳優]](+ [[1977年]]) * [[4月20日]] - [[アドルフ・ヒトラー]]<ref>[[村瀬興雄|興雄, 村瀬]]. [https://kotobank.jp/word/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC-120389#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2021年2月16日閲覧。</ref>、[[ナチス・ドイツ]][[総統]](+ [[1945年]]) * [[4月24日]] - [[リューボフ・ポポーワ]]、[[美術家]]・[[画家]](+ [[1924年]]) * [[4月26日]] - [[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]、哲学者(+ [[1951年]]) === 5月 === * [[5月2日]] - [[高野松山]]、[[漆芸家]](+ [[1976年]]) * [[5月8日]] - [[アーサー・カミング]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1914年]]) * [[5月11日]] - [[ポール・ナッシュ]]、[[画家]](+ [[1946年]]) * [[5月12日]] - [[オットー・フランク]]、[[アンネ・フランク]]の父・[[ホロコースト]]生還者(+ [[1980年]]) * [[5月14日]] - [[中村憲吉]]、[[歌人]](+ [[1934年]]) * [[5月17日]] - [[雨宮治郎]]、[[彫刻家]](+ [[1970年]]) * 5月17日 - [[マルセル・モイーズ]]、[[フルート奏者]](+ [[1984年]]) * [[5月25日]] - [[吉田三郎]]、彫刻家(+ [[1962年]]) * 5月25日 - [[イーゴリ・シコールスキイ]]、ロシアの航空機開発者(+ [[1972年]]) * [[5月27日]] - [[山本一清]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]](+ [[1959年]]) * [[5月28日]] - [[山本宣治]]、政治家(+ [[1929年]]) * [[5月29日]] - [[内田百閒]]、小説家・随筆家(+ [[1971年]]) === 6月 === * [[6月1日]] - [[チャールズ・ケイ・オグデン]]、[[ベーシック英語]]創案者(+ [[1957年]]) * [[6月9日]] - [[河竹繁俊]]、演劇学者(+ [[1967年]]) * [[6月23日]] - [[三木露風]]、詩人(+ [[1964年]]) === 7月 === * [[7月5日]] - [[ジャン・コクトー]]、作家・詩人(+ [[1963年]]) * [[7月13日]] - [[スタン・コベレスキ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1984年]]) * [[7月18日]] - [[木戸幸一]]、[[農商務省 (日本)|農商務]]官僚・政治家(+ [[1977年]]) * [[7月22日]] - [[青山杉作]]、俳優、[[演出家]]、映画監督(+ [[1956年]]) * [[7月29日]] - [[ウラジミール・ツヴォルキン]]、[[発明家]]・[[技術者]](+ [[1982年]]) === 8月 === * [[8月1日]] - [[室生犀星]]、詩人(+ [[1962年]]) * [[8月3日]] - [[織田信恒]](織田小星)、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員・[[子爵]]・[[漫画]]「[[正チャンの冒険]]」の作家(+ [[1967年]]) * [[8月4日]] - [[新関良三]]、[[ドイツ文学者]](+ [[1979年]]) * [[8月14日]] - [[三富朽葉]]、[[詩人]](+ [[1917年]]) * [[8月18日]] - [[石井光次郎]]、[[政治家]]、元衆議院議長(+ [[1981年]]) * [[8月19日]] - [[アーサー・ウェイリー]]、[[東洋学]]者(+ [[1966年]]) === 9月 === * [[9月1日]] - [[国吉康雄]]、画家(+ 1953年) * 9月1日 - [[白井喬二]]、時代小説[[作家]](+ [[1980年]]) * [[9月2日]] - [[土倉宗明]]、政治家(+ [[1972年]]) * [[9月5日]] - [[南原繁]]、[[政治学者]](+ [[1974年]]) * [[9月10日]] - [[吉阪俊蔵]]、農商務官僚・[[商工省|商工]]官僚・内務官僚(+ [[1958年]]) * [[9月14日]] - [[マリア・カポビージャ]]、1889年生まれの最後の生き残り(+ [[2006年]]) * [[9月21日]] - [[村松梢風]]、[[小説家]](+ [[1961年]]) * [[9月26日]] - [[マルティン・ハイデッガー]]、[[哲学者]](+ [[1976年]]) === 10月 === * [[10月10日]] - [[ハン・ファン・メーヘレン]]、[[画家]]・画商(+ [[1947年]]) * [[10月16日]] - [[斎藤素巌]]、[[彫刻家]](+ [[1974年]]) * [[10月25日]] - [[スモーキー・ジョー・ウッド]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1985年]]) === 11月 === * [[11月1日]] - [[ハンナ・ヘッヒ]]、[[画家]]・[[写真家]](+ [[1978年]]) * [[11月6日]] - [[三神吾朗]]、[[野球選手]](+ [[1958年]]) * [[11月7日]] - [[久保田万太郎]]、[[小説家]]・[[劇作家]]・[[俳人]](+ [[1963年]]) * [[11月11日]] - [[佐佐木茂索]]、小説家(+ [[1966年]]) * [[11月14日]] - [[ジャワハルラール・ネルー]]、初代[[インドの歴代首相|インド首相]](+ [[1964年]]) * [[11月20日]] - [[エドウィン・ハッブル]]、[[天文学者]](+ [[1953年]]) * 11月20日 - [[中井一夫]]、[[裁判官]]・[[弁護士]]・政治家(+ [[1991年]]) * 11月20日 - [[小野竹喬]]、[[日本画家]](+ [[1979年]]) * [[11月22日]] - [[ドロシー・ドレーパー]]、[[インテリアコーディネーター]](+ [[1969年]]) * [[11月28日]] - [[伊沢蘭奢]]、[[俳優|女優]](+ [[1928年]]) === 12月 === * [[12月3日]] - [[小汀利得]]、[[ジャーナリスト]]・時事評論家(+ [[1972年]]) * [[12月5日]] - [[吉本せい]]、[[実業家|芸能プロモーター]]、[[吉本興業]]の創業者(+ [[1950年]]) * 12月5日 - [[ダミア]]、[[シャンソン]]歌手・女優(+ [[1978年]]) * [[12月7日]] - [[ガブリエル・マルセル]]、[[劇作家]]・[[哲学者]](+ [[1973年]]) * [[12月9日]] - [[井上成美]]、海軍軍人(+ [[1975年]]) * [[12月17日]] - [[ハーバート・ハロルド・リード]]、[[地質学者]](+ [[1970年]]) * [[12月18日]] - [[熊沢寛道]]、日本の[[皇位]]請求者(+ [[1966年]]) * [[12月23日]] - [[エミール・ブルンナー]]、スイスのプロテスタント神学者(+ [[1966年]]) * [[12月30日]] - [[メーライ=ホルヴァート・ジョーフィア]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1977年]]) == 死去 == {{see also|Category:1889年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月22日]] - [[イグナシー・ドメイコ]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](* [[1802年]]) * [[1月23日]] - [[アレクサンドル・カバネル]]、[[画家]](* [[1823年]]) * [[1月30日]] -[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア皇太子]](* [[1858年]]) * 1月30日 - [[マリー・フォン・ヴェッツェラ]]、オーストリア皇太子ルドルフの愛人(* [[1871年]]) === 2月 === * [[2月6日]] - [[青木貞三]]、[[官吏]]、[[実業家]](* [[1858年]]) * [[2月11日]] - [[西野文太郎]]、森有礼の暗殺犯(* [[1865年]]) * [[2月12日]] - [[森有礼]]、[[文部大臣]](* [[1847年]]) * [[2月26日]] - [[カルル・ダヴィドフ]]、[[チェロ]]奏者(* [[1838年]]) === 3月 === * [[3月8日]] - [[ジョン・エリクソン]]、スウェーデン出身の発明家・技術者 (* [[1803年]]) * [[3月24日]] - {{仮リンク|レザーマン (放浪者)|label=レザーマン|en|Leatherman (vagabond)}} (* [[1833年]]) === 4月 === * [[4月4日]] - [[ギーゼラ・フォン・アルニム]]、[[児童文学]]作家(* [[1827年]]) * [[4月6日]] - [[板倉勝静]]、[[江戸幕府]][[老中]]・[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]主(* [[1823年]]) * [[4月9日]] - [[ジャン=バティスト・アルバン]]、[[コルネット]]奏者(* [[1825年]]) * [[4月13日]] - [[ジョン・パーマー・アッシャー]]、第7代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1816年]]) * [[4月15日]] - [[ダミアン神父]]、[[カトリック教会]]の[[司祭]](* [[1840年]]) * [[4月19日]] - [[ウォーレン・デラルー]]、天文学者(* [[1815年]]) * [[4月26日]] - [[河鍋暁斎]]、[[絵師]](* [[1831年]]) === 5月 === * [[5月10日]] - [[立川談志 (4代目)]]、[[落語家]] * [[5月20日]] - [[上杉斉憲]]、[[出羽国|出羽]][[米沢藩]]第12代藩主(* [[1820年]]) === 6月 === * [[6月8日]] - [[ジェラード・マンリ・ホプキンス]]、[[詩人]](* [[1844年]]) * [[6月15日]] - [[ミハイ・エミネスク]]、詩人(* [[1850年]]) * [[6月19日]] - [[カルル・ベッティッハー]]、[[建築家]](* [[1806年]]) * [[6月22日]] - [[蝶花楼馬楽 (2代目)]]、落語家(* [[1833年]]) * [[6月28日]] - [[マリア・ミッチェル]]、天文学者(* [[1818年]]) === 7月 === * [[7月20日]] - [[グスタフ・ランゲ]]、作曲家(* [[1830年]]) === 8月 === * [[8月19日]] - [[オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン]]、[[小説家]]・詩人(* [[1838年]]) === 9月 === * [[9月12日]] - [[フュステル・ド・クーランジュ]]、歴史学者(* [[1830年]]) * [[9月23日]] - [[ウィルキー・コリンズ]]、小説家(* [[1824年]]) === 10月 === * [[10月8日]] - [[入江長八]]、[[工芸家]](* [[1815年]]) * 10月8日 - [[中村宗十郎]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1835年]]) * [[10月10日]] - [[アドルフ・フォン・ヘンゼルト]]、[[作曲家]](* [[1814年]]) * [[10月11日]] - [[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]、[[物理学者]](* [[1818年]]) * [[10月18日]] - [[アントニオ・メウッチ]]、[[発明家]](* [[1808年]]) * [[10月19日]] - [[ルイス1世 (ポルトガル王)|ルイス1世]]、[[ポルトガル|ポルトガル王]](* [[1838年]]) === 11月 === * [[11月14日]] - [[古今亭志ん生 (2代目)]]、落語家(* [[1832年]]) * [[11月18日]] - [[藤堂高潔]]、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]第12代藩主(* [[1837年]]) * [[11月25日]] - [[伊達宗紀]]、[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]第7代藩主(* [[1792年]]) === 12月 === * [[12月6日]] - [[ジェファーソン・デイヴィス]]、[[アメリカ連合国大統領]](* [[1808年]]) * [[12月10日]] - [[ロレンツォ・レスピーギ]]、天文学者(* [[1824年]]) * [[12月12日]] - [[ヴィクトール・ブニャコフスキー]]、[[数学者]](* [[1804年]]) * 12月12日 - [[ロバート・ブラウニング]]、詩人(* [[1812年]]) * [[12月21日]] - [[フリードリッヒ・アウグスト・クヴェンシュテット]]、[[地質学者]]・[[古生物学者]](* [[1809年]]) == フィクションのできごと == *[[2月7日]] - [[ニューヨーク]]への[[新婚旅行]]に向けて、[[ジョナサン・ジョースター]]が妻のエリナ・ジョースターと旅立つ。航海中に[[ディオ・ブランドー]]に襲われ死亡する。([[荒木飛呂彦]]『[[ジョジョの奇妙な冒険]] [[ファントムブラッド|Part1 ファントムブラッド]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1889}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1889ねん}} [[Category:1889年|*]]
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鈴置洋孝
鈴置 洋孝(すずおき ひろたか、1950年3月6日 - 2006年8月6日)は、日本の声優、俳優、ナレーター、劇団プロデューサー。愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)出身。賢プロダクションに所属していた。 愛知県名古屋市中区栄町(現:愛知県名古屋市中区栄)に生まれ育ち、19年間暮らした。東京に父方の祖父母の家があり、生後間もない頃から年に1度東京に遊びに来ていた。東京に来た際は名古屋弁と標準語を使い分けていたという。自称「かなり性根のすわったグウタラ」であり、愛知県立熱田高等学校時代にて「だまっていても食える仕事はないか?」と教師に相談。教師から、税理士になることを薦められて決意、大学に進学するために東京に上京。高校時代までは内向的だったが、大学に入ってフォークソングを始めてからは社交的になったという。大学時代はフォーク部を結成し、部長を務めた。同時に舞台の仕事に興味を持ち始める。 昼間は働き、夜は東京経済大学夜間部に通っていた。当時は女子学生が少なく、後に妻となる当時の恋人が「演劇部はないですか」と来て、本来はあったが「夜間はない」と言って、「フォークソングも演劇に近い」など適当にごまかして入部してもらったという。その恋人に誘われて演劇を観るようになったという。 ホテルオークラのルームボーイ、ゴルフ場のキャディをしながら大学に通っていたが、大学3年生の時に昼間に編入。 東京経済大学経済学部経済科卒業。その頃、進路を決めかねているところもあり、小金井市役所を受けていたが、落選。受かっていたら市役所の職員と語る。 その恋人は高校時代から演劇をしていたが、鈴置は23歳まで演劇の経験がなかったことから「基礎訓練をしたほうがいいんじゃないか」ということで東京アナウンスアカデミーに2人で半年くらい通っていた。 1973年4月、野沢那智が代表を務めた「劇団薔薇座」にて役者デビューを果たす。薔薇座入団のきっかけは、大学在学中に通っていた同アナウンスアカデミーの講師に紹介されたこと、その恋人が入団オーディションを受ける際、「思い切って飛び込んでみよう」という気持ちでオーディションを受けたことによる。結果的に「おまけ」で合格になったという。 研究生2年の時に親に同棲が発覚して、結婚したという。妻は女優の秋野真理子で、劇団薔薇座に所属していた。その頃、喫茶店でアルバイトをしていた。公演がない時はレストランのウェイター、スナックで弾き語りのアルバイトをしていた。 初舞台は1976年、ジャン・コクトー作の『円卓の騎士』。 声優としての仕事を始めたのは、劇団時代にさまざまなアルバイトをこなしているときに「同じバイトなら声の仕事をしてみては?」と誘われたのがきっかけだという。同年、東北新社でアテレコの研修会に参加していたのがきっかけで声優としての活動を始めたという。声優デビューはテレビの洋画吹き替えの「男1」などのその他大勢。また番組レギュラー、ガヤや脇役として初めて出演したアニメは『超電磁マシーンボルテスV』のその他大勢である。1978年に『無敵鋼人ダイターン3』の主人公・破嵐万丈役で初主演を果たし、1979年に後番組の『機動戦士ガンダム』のブライト・ノア役をオーディションなしでもらう。その後1981年4月から東京俳優生活協同組合、1998年からは賢プロダクションに所属。その期間にも、海外のテレビアニメ、トランスフォーマーのスタースクリーム役やトム・クルーズ、ジョン・トラボルタらの吹き替えなどで幅広く活動した。 2006年7月初旬に体調を崩し検査を受けた結果、肺癌と診断され東京都内の病院に入院・療養に当たっていた。しかし同年8月6日の朝に容態が急変し、死去。56歳没。妻との間に子供はいなかった。 声種はローバリトンからハイバリトン。方言は名古屋弁。 低音質を生かした理知的な役を多く演じており、ニヒルな二枚目役が多かった。 声優活動のみならず、舞台活動も盛んに行なっていた。また、1984年からは声優バンド「スラップスティック」に、三ツ矢雄二の後釜として加入。解散するまで音楽活動も行なっていた。 1997年には演劇ユニットの「鈴置洋孝プロデュース」を旗揚げし、自身でも演劇のプロデュースを開始し、オリジナル作品を中心に発表している。いくつかの戯曲作品は書籍化されている。なかでも『煙が目にしみる』は斎場の待合室が舞台の、荼毘に付される直前の二人の霊魂が主人公という異色の人気作で、各地の数々のプロ+アマチュア劇団が取り上げ、演目としてスタンダードとなりつつあり公演されている。 薔薇座に入った頃は、指導の厳しさから「劇団なのか収容所なのかよくわからない凄いところだった」、「(野沢那智の名前にかけて)ナチ収容所」と語っており、当時は野沢本人に「あまりにも厳しすぎる」と直接発言していたという。しかし同時に「あそこを経験していたから自分は本当に精神的に鍛えられた。その後現場で辛いと思ったこともなかった」とも語っている。 23、4歳の頃に演劇のかたわら『ゴレンジャー』ショーのアルバイトをしており、当時は体重が50kgに満たないほど痩せていたのでモモレンジャー(女性)のスーツアクターを担当していた。また喫茶店でもアルバイトとして働いていたが、「同期の連中が就職する中、肩身が狭かった」と語っている。 アフレコのリハーサル中には、メモを取ったりマーカーでチェックすることもせず、台本はいつも真っ白だったという。これについて林原めぐみは、「手ぶらでディレクターの指示を聞いているのを見かねてペンを貸そうとしたところ、『一度聞けば覚えるだろう』と言って断られた。しかも、そのあとの本番ではまったくNGがなかった」と語っている。一方で不可解なNGを出すこともあり、古谷徹によるとOVA『聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編』では「白羊宮」と上手く言うことができず、「白洋舍なら言えるのに」と真剣に悩んでいたという。 生前、アニメや洋画の吹替えに多数出演した一方で特撮作品の出演は少なかったが、1997年には『電磁戦隊メガレンジャー』にユガンデ役でレギュラー出演していた。同作の共演者たちは「アフレコに不慣れで大変だった際、鈴置さんが親切に色々教えてくれた」と語っている。 『聖闘士星矢』の冥王ハーデス十二宮編OVAシリーズは、テレビアニメから長期間経過していたこともあってオリジナルキャストの面々は声質が変化しており、原作者の車田正美は星矢役の古谷徹以外のキャスト総入れ替えを要求した。鈴置はこれに憤慨していたが、劇場版・ゲームの新録に際して古谷が「もう一度みんなで星矢を」と呼びかけたところ、「正直、あの役はもう降りるつもりだったが、お前のためならプライドを捨ててやってやる」と潔く応じたという。古谷は「このときは感動した」と語っている。 トム・クルーズの吹き替えは1989年の『7月4日に生まれて』のVHS収録用の日本語吹き替え版におけるクルーズの吹替声優を決めるオーディションを受けた際に鈴置のデモテープを聴いたクルーズ本人の推薦で決まった事が始まりのきっかけとされている。 ブライト・ノア(『機動戦士ガンダム』)では、19歳の若さでリーダーシップを取らなくてはならなかったブライト・ノアと、劇団時代の自分の境遇を重ねて演じることがあったという。 ボーイズラブ(BL)CDの収録前には、相手役の声優に必ず「今日はたっぷり可愛がってやる」と話し、役作りをしてから演じたという。 インタビュー記事の中で『ダイターン3』の頃を振り返り、「スタジオでの収録が終わったらすぐに移動してキャバレーの呼び込みのアルバイトをしていたが、そっちの方が収入がよかった」と語ったことがある。 声優業だけで食べていけるようになったのは『機動戦士ガンダム』でブライト役を演じた頃からだったと語っている。しかしながら、その『ガンダム』出演時も、収録後に飲みに行く際、出演料の高い永井一郎や池田秀一がタクシーで移動する一方、鈴置だけが自転車で必死に追いかけていたという。 『ガンダム』のヒットによる劇場版製作に当たっては、永井らとともに声優陣の中心となって一致団結してギャランティの値上げを交渉、その結果当時としては破格の出演料が支払われた。「それだけの仕事をしたと思うし、それに値する作品だと自負もあったから」と鈴置は語っている。また同時に、鈴置を中心としたメインキャストが一丸となって、「主演の古谷徹を断固としてトップクレジットに掲載する」ようにも交渉したという。 仲の良い声優の中に古谷徹と池田秀一がいた。とくに池田とは呑み仲間で、共演する機会がなくとも酒の付き合いは長く続くほど、個人での付き合いが深く、池田からは「鈴置ちゃん」と呼ばれていた。麻生美代子とは仕事でもプライベートでも仲が良く、一緒に旅行に行くこともあったという。天津飯役として『ドラゴンボール』に出演が決まった際に、原作を読んでいた共演者の古谷に役柄についてレクチャーしてもらったと話している。 同じく二枚目を演じることの多かった塩沢兼人とも飲み友達で仲が良かった。ともに「フッ」と鼻で笑う役柄が多かったが、鈴置は「俺の『フッ』は正統派な二枚目だけど、あいつは怪しい変態チックな『フッ』」だと語っている。また日常生活では恥ずかしくて「フッ」とは笑えなかったという。 1990年には新幹線の中で急病で倒れ、『ドラゴンボールZ』の天津飯役および『ショウビズトゥデイ』のナレーションを山寺宏一、『らんま1/2 熱闘編』の九能帯刀役を辻谷耕史、『THE八犬伝』の網干左母二郎役を池田秀一、『アルスラーン戦記』カセットブック版のダリューン役を田中秀幸が一時的に代演となったこともある。入院した際、『ドラゴンボールZ』で共演していた堀川亮(現:堀川りょう)と古谷徹が心配してそれぞれ見舞いに来た。 「タイムボカンシリーズ」の音楽担当であり声優としての出演もしていた山本正之は、自身の役を振り返って「これで鈴置くんぐらいの二枚目にはなれただろう」と語っている。なお、山本は鈴置の死を悼み『逆転イッパツマン』の主題歌の三番を新たに作詞、『逆転イッパツマン!3C』を作曲している。間奏に鈴置と富山敬の当時の台詞が挿入されている。 艶福家であり、薔薇座時代のメンバーによる印象は、「とにかくもてる奴」で一致している。『らんま1/2』で帯刀の妹・九能小太刀役として共演した島津冴子も鈴置のことが好きだったと語っている。仕事に遅れると「ゴメンゴメン、彼女がしつこくてさ」が口癖だったという。野島昭生や古谷徹ら、スラップスティックのメンバーは「一度でいいから、言ってみたいよね」と口をそろえており、軟派なキャラクターで知られていたことがうかがえる。野沢那智は「あんな軟派でいい加減な男が絶対プロの役者になどなれるわけがないと思っていたのに、今や座長か...」と苦笑したという。野沢とは同じプロダクションに所属していたこともあり晩年まで親交も深かった。 声優業界でも酒好きとして知られていたが、酒の飲み過ぎに加え、恒例の夜通しカラオケで体調を崩すことも多かった。またタバコも大好きで、「酒かタバコ、どちらかを止めるとしたら酒を止める」と語っていた。自身がプロデュースした作品では、たいてい劇中に喫煙や飲酒のシーンがある。鈴置プロデュースの上演脚本は毎度毎度遅々として届かず、稽古ぎりぎりにFAXを受け取りながら進めていったという。その間、鈴置は酒を飲んで待ちながら稽古をしていたため、原稿が届く頃には泥酔状態で呂律が回らず、稽古が遅れることが度々あった。 野球は中日ドラゴンズの大ファンで、幼少期から優勝するのを楽しみにしており、亡くなった翌年の2007年に中日は優勝こそ叶わなかったものの、クライマックスシリーズで日本シリーズ進出を経て53年ぶりに日本一となった。 芸能人では小泉今日子のファンで、ファンクラブに入会していたことがある。 料理や洗濯などの家事は比較的得意で、とくに料理は三食自分で作っても苦にならないという。 免許は第一種普通免許。特技はテニス。中学時代は柔道部、高校時代はテニス部に所属していた。 大学に進学後、ギターを始めて、東京都千代田区神田のスナックで弾き語りのアルバイトをしていた。 死去する2か月前に、賢プロダクションにおけるスクールデュオのWEBラジオにゲスト出演していた他、ラジオドラマ『星界の断章 『原罪』』のドゥビュース役のパートを収録していた。 東京MXテレビによる調査では、訃報前後の一週間にインターネット上の掲示板やブログで上がった話題で「鈴置洋孝」が2位にランクインしている。また、死後一年ほど経過した『メガミマガジン』の2008年2月号では「メガマガ読者が選ぶ!2007年アニメ10大ニュース!」において「鈴置洋孝さん逝去」が第10位に選ばれた。 また富野由悠季、池田秀一、古谷徹ら『ガンダム』の制作関係者・共演者が、同作関連の雑誌に弔辞を寄せ、他にも古川登志夫、神谷明など複数の声優が自身のHPで哀悼の意を示した。師にあたる野沢那智は「芝居は教えたが、命を失ってまで芝居を守れとは教えたくなかった。本当にかわいい弟子だった」とのコメントを残したが、その野沢も鈴置の死から4年後に同じ病で逝去している。 遺影は生前鈴置が自ら選んだもので、「もし何かあったらこの写真を使って欲しい」と伝えていたという。 死後、追悼公演として『煙が目にしみる』が再演された。観客席の最前列中央は空席になっており、亡き鈴置も見に来ていたのではないかと思わせた。終わりの挨拶に内海賢二は、「鈴置もこのステージのどこかの場面にビールを飲みながら出ていたかも。皆さんの目撃情報を求む」とコメントした。見学に来ていた後輩声優の吉田小南美は、どこかから鈴置に「いい芝居だったろ。拍手してくれよ」との声をかけられた気がして、泣きながら拍手を贈ったと語っている。 2007年9月11日 - 16日には、鈴置の遺作をもとにした『この素晴らしき世界』を鈴置プロデュースの最終公演として上演した。舞台のチラシの裏では追悼公演の「お客さんからの目撃情報」に触れ、「しかも何故か見ず知らずの女性の肩を抱いて...納得です。案の定です。さすがです」と書かれている。この最終公演をもって「鈴置洋孝プロデュース」としての活動は終了したが、麻生美代子を始めとする劇団員の意向により、新しい劇団として再出発することが発表された。劇団の名前は最終公演の際に公募し「鈴舟」と決定。旗揚げ公演は2008年6月4日 - 8日に新宿シアターサンモールで上演された。その後も第二回の舞台を発表、活動している。 ガンダム関係の各種ゲームにおけるブライト・ノアの声は、生前の鈴置が録音したものが使用されることが多く、「スーパーロボット大戦シリーズ」におけるブライト、『無敵鋼人ダイターン3』の破嵐万丈、『戦国魔神ゴーショーグン』の北条真吾も同様の措置が取られている。ただし、2010年のOVA『機動戦士ガンダムUC』で鈴置に比較的近い声を持っていた成田剣がブライトの声を担当して以降は、『第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇』など一部のゲーム作品において、成田が新規に収録した台詞が使用される機会が増えている。 鈴置の病気療養および死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 太字はメインキャラクター。 2007年以降の出演作品は全て生前の収録音声を使用したライブラリ出演。 鈴置洋孝プロデュース 雷電
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"title": "人物像" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "免許は第一種普通免許。特技はテニス。中学時代は柔道部、高校時代はテニス部に所属していた。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "大学に進学後、ギターを始めて、東京都千代田区神田のスナックで弾き語りのアルバイトをしていた。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "死去する2か月前に、賢プロダクションにおけるスクールデュオのWEBラジオにゲスト出演していた他、ラジオドラマ『星界の断章 『原罪』』のドゥビュース役のパートを収録していた。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "東京MXテレビによる調査では、訃報前後の一週間にインターネット上の掲示板やブログで上がった話題で「鈴置洋孝」が2位にランクインしている。また、死後一年ほど経過した『メガミマガジン』の2008年2月号では「メガマガ読者が選ぶ!2007年アニメ10大ニュース!」において「鈴置洋孝さん逝去」が第10位に選ばれた。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また富野由悠季、池田秀一、古谷徹ら『ガンダム』の制作関係者・共演者が、同作関連の雑誌に弔辞を寄せ、他にも古川登志夫、神谷明など複数の声優が自身のHPで哀悼の意を示した。師にあたる野沢那智は「芝居は教えたが、命を失ってまで芝居を守れとは教えたくなかった。本当にかわいい弟子だった」とのコメントを残したが、その野沢も鈴置の死から4年後に同じ病で逝去している。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "遺影は生前鈴置が自ら選んだもので、「もし何かあったらこの写真を使って欲しい」と伝えていたという。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "死後、追悼公演として『煙が目にしみる』が再演された。観客席の最前列中央は空席になっており、亡き鈴置も見に来ていたのではないかと思わせた。終わりの挨拶に内海賢二は、「鈴置もこのステージのどこかの場面にビールを飲みながら出ていたかも。皆さんの目撃情報を求む」とコメントした。見学に来ていた後輩声優の吉田小南美は、どこかから鈴置に「いい芝居だったろ。拍手してくれよ」との声をかけられた気がして、泣きながら拍手を贈ったと語っている。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2007年9月11日 - 16日には、鈴置の遺作をもとにした『この素晴らしき世界』を鈴置プロデュースの最終公演として上演した。舞台のチラシの裏では追悼公演の「お客さんからの目撃情報」に触れ、「しかも何故か見ず知らずの女性の肩を抱いて...納得です。案の定です。さすがです」と書かれている。この最終公演をもって「鈴置洋孝プロデュース」としての活動は終了したが、麻生美代子を始めとする劇団員の意向により、新しい劇団として再出発することが発表された。劇団の名前は最終公演の際に公募し「鈴舟」と決定。旗揚げ公演は2008年6月4日 - 8日に新宿シアターサンモールで上演された。その後も第二回の舞台を発表、活動している。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ガンダム関係の各種ゲームにおけるブライト・ノアの声は、生前の鈴置が録音したものが使用されることが多く、「スーパーロボット大戦シリーズ」におけるブライト、『無敵鋼人ダイターン3』の破嵐万丈、『戦国魔神ゴーショーグン』の北条真吾も同様の措置が取られている。ただし、2010年のOVA『機動戦士ガンダムUC』で鈴置に比較的近い声を持っていた成田剣がブライトの声を担当して以降は、『第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇』など一部のゲーム作品において、成田が新規に収録した台詞が使用される機会が増えている。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "鈴置の病気療養および死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。", "title": "後任" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "太字はメインキャラクター。", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2007年以降の出演作品は全て生前の収録音声を使用したライブラリ出演。", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "鈴置洋孝プロデュース", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "雷電", "title": "出演" } ]
鈴置 洋孝は、日本の声優、俳優、ナレーター、劇団プロデューサー。愛知県名古屋市中区栄町出身。賢プロダクションに所属していた。
{{半保護}} {{出典の明記|date=2012年2月2日 (木) 14:37 (UTC)}} {{声優 | 名前 = 鈴置 洋孝 | ふりがな = すずおき ひろたか | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = 鈴置 洋孝<ref name="talent">{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(2006年版)|page=197|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=978-4-9901242-4-3|date=2006-04-01}}</ref><ref name="OUT">{{Cite journal|和書|date = 1979-09-01|title = 声優インタビュー 鈴置洋孝さんの巻|journal = [[月刊OUT]]|issue = 1979年9月号 |pages = 37-42|publisher = [[みのり書房]]}}</ref> | 愛称 = 鈴置ちゃん<ref name="toru">{{Cite web|和書|date=2006-08-12 |url=http://toru.luvnet.com/asd159rga84rsf5h/ds1zj6h.cgi?page=100&bl=0 |title=鈴置ちゃんのこと・・・|work=Toru's Home Guest book |author=古谷徹|publisher=Toru's Home |accessdate=2023-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061218022545/http://toru.luvnet.com/asd159rga84rsf5h/ds1zj6h.cgi?page=100&bl=0 |archivedate=2006-12-18}}</ref> | 性別 = [[男性]] | 出生地 = | 出身地 = {{JPN}}・[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄町]](現:愛知県名古屋市中区栄)<ref name="ジ・アニメ">{{Cite journal|和書|date = 1981-06|title =声優クローズUP|journal = ジ・アニメ|issue = 1981年7月号|page =152|publisher = [[近代映画社]]}}</ref> | 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]]{{R|47news20060810}} | 生年 = 1950 | 生月 = 3 | 生日 = 6 | 没年 = 2006 | 没月 = 8 | 没日 = 6 | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]<ref name="anime24">アニメージュ編集部編「鈴置洋孝 アニメでの人気を超えたニュータイプの新劇青年」『アニメ声優24時』[[徳間書店]]、1981年7月31日、165-170頁。</ref> | 身長 = | 職業 = [[声優]]、[[俳優]]、[[ナレーター]]、[[プロデューサー|劇団プロデューサー]] | 事務所 = [[賢プロダクション]](最終所属){{R|kenproduction}} | 配偶者 = 秋野真理子<ref name="アニメージュ">{{Cite journal|和書|date = 1980-06|title = 鈴置洋孝 アニメでの人気を超えたニュータイプの新劇青年|journal = アニメージュ|issue = 1980年7月号 |pages = 159-161|publisher = [[徳間書店]]}}</ref> | 著名な家族 = | 公式サイト = | 公称サイズ出典 = {{Cite web|和書|date=|url=http://www.kenproduction.co.jp:80/list/suzuoki_2.html|title=鈴置洋孝|publisher=[[賢プロダクション]]|accessdate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060701135440/http://www.kenproduction.co.jp/list/suzuoki_2.html|archivedate=2006-07-01}} | ref2name = kenproduction | 身長2 = 166 | 体重 = 58 | 活動 = {{声優/活動 | 職種 = 声優 | 活動名義 = | 活動期間 = [[1976年]]{{R|ジ・アニメ}} - [[2006年]] | ジャンル = [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[ゲーム]]、[[吹き替え]]、[[ナレーション]] | デビュー作 = }}{{声優/活動 | 職種 = 俳優 | 活動名義 = | 活動期間 = [[1973年]]{{R|ジ・アニメ}}<ref name="sunrise_age">{{Cite book |和書 |year = 2003 |title = サンライズエイジ |volume = Vol.1 |pages = 88-91 |publisher = [[芸文社]] |location= |isbn = 4-87465-634-X }}</ref><ref name="二番手英雄伝">吉田哲巨編「「フッ」と言わせたら日本一の声優 鈴置洋孝インタビュー」『好奇心ブック50 二番手英雄伝 No.2キャラクター伝説』[[双葉社]]〈双葉社MOOK〉、1999年10月14日、ISBN 4-575-46374-4、182-185頁。</ref> - [[2006年]] | ジャンル = [[演劇|舞台]] | デビュー作 = 『円卓の騎士』{{R|ジ・アニメ}} }}}} '''鈴置 洋孝'''(すずおき ひろたか、[[1950年]][[3月6日]]{{R|anime24|sunrise_age|kenproduction}}<ref name="小説JUNE">{{Cite journal|和書|date = 1989-02|title = カセットJUNE『鼓ヶ淵』インタビュー|journal = [[JUNE (雑誌)|小説JUNE]]|volume = No.35|issue = (1989年2月号) |pages = 113-120|publisher = [[マガジン・マガジン|サン出版]]}}</ref> - [[2006年]][[8月6日]]{{R|toru}}<ref name="47news20060810">{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/200608/CN2006081001005198.html | title = 鈴置洋孝氏死去 声優 | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2006-08-10 | accessdate = 2015-10-26|archiveurl=https://archive.ph/qpsLr|archivedate=2015-10-26}}</ref><ref name="inform">{{Cite web|和書|date=|url=http://www.kenproduction.co.jp/inform.htm|title=お知らせ|publisher=[[賢プロダクション]]|accessdate=2021-05-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061011120317/http://www.kenproduction.co.jp/inform.html|archivedate=2006-10-11}}</ref>)は、[[日本]]の[[声優]]、[[俳優]]、[[ナレーター]]、[[プロデューサー|劇団プロデューサー]]。[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄町]](現:愛知県名古屋市中区栄)出身{{R|ジ・アニメ}}。[[賢プロダクション]]に所属していた{{R|kenproduction}}。{{VOICE Notice Hidden|冒頭部分に記載する代表作は、編集合戦誘発の原因となりますので、多数の出典で確認できるものに限ってください。[[プロジェクト:芸能人#記事の書き方]]にてガイドラインが制定されていますので、そちらも参照して下さい。}} == 略歴 == === 生い立ち === [[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄町]](現:愛知県名古屋市中区栄)に生まれ育ち{{R|ジ・アニメ}}、19年間暮らした。東京に父方の祖父母の家があり、生後間もない頃から年に1度東京に遊びに来ていた。東京に来た際は[[名古屋弁]]{{R|kenproduction}}と[[標準語]]を使い分けていたという。小学校時代は、変な子供だったという{{R|小説JUNE}}。家から学校まで歩いて5分位のところで道草しており、いつも30分くらいかけて行って、必ず遅刻する少年だった{{R|小説JUNE}}。小学6年生の時の卒業文集のようなもので「将来何になりますか」に鈴置曰くわからず、なんでか無知だが、「灯台守」と書かれてあったという{{R|小説JUNE}}。担任の教師が家庭訪問に来て「あの、とってもユニークなお子さんですね」と言っていたという{{R|小説JUNE}}。自閉症だったが、既に伏線があり、自分のオリジナルの脚本でしていたわけあった{{R|小説JUNE}}。一方、「何かやれ」というと真っ先にしている子供だった{{R|小説JUNE}}。小学6年生の時、[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]が流行しており、茶話会のようなのはあった時、最初に誰もやりたがらないわけだった{{R|小説JUNE}}。それで教師が「鈴置何かやれ」と言うと鈴置が「[[スーダラ節|アソーレ、スイスイスーダラダッタ]]」としていたという{{R|小説JUNE}}。自称「かなり性根のすわったグウタラ」であり、[[愛知県立熱田高等学校]]{{R|ジ・アニメ}}時代にて「だまっていても食える仕事はないか?」と教師に相談{{R|anime24}}。教師から、[[税理士]]になることを薦められて決意、大学に進学するために東京に上京{{R|anime24}}。高校時代までは内向的だったが、大学に入って[[フォークソング]]を始めてからは社交的になったという<ref name="seiyu">山寺宏一「第20回 鈴置洋孝」『山寺宏一のだから声優やめられない! 声優・山寺宏一と30人の声の役者たち』、主婦の友社、2000年12月1日、ISBN 4-07-229270-2、204-213頁。</ref>。大学時代はフォーク部を結成し、部長を務めた{{R|sunrise_age|seiyu}}。同時に舞台の仕事に興味を持ち始める{{R|seiyu}}。 昼間は働き、夜は[[東京経済大学]]夜間部{{R|sunrise_age}}に通っていた{{R|ジ・アニメ}}。当時は女子学生が少なく、後に妻となる当時の恋人が「演劇部はないですか」と来て、本来はあったが「夜間はない」と言って、「フォークソングも演劇に近い」など適当にごまかして入部してもらったという{{R|sunrise_age}}。その恋人に誘われて演劇を観るようになったという{{R|sunrise_age}}。最初に観に行ったのが、[[佐藤オリエ]]が出演していた[[劇団俳優座]]の[[田中千禾夫]]作『マリアの首』{{R|seiyu}}。 [[ホテルオークラ]]のルームボーイ、ゴルフ場のキャディをしながら大学に通っていたが、大学3年生の時に昼間に編入{{R|ジ・アニメ}}。 東京経済大学経済学部経済科卒業{{R|talent|OUT}}。その頃、進路を決めかねているところもあり、[[三鷹市]]役所などの地方公務員の試験、[[小金井市]]役所を受けていたが、落選{{R|OUT|anime24}}。受かっていたら市役所の職員と語る{{R|OUT}}。 その恋人は高校時代から演劇をしていたが、鈴置は23歳まで演劇の経験がなかったことから「基礎訓練をしたほうがいいんじゃないか」ということで[[東京アナウンスアカデミー]]に2人で半年くらい通っていた{{R|sunrise_age|seiyu}}。 === 声優・俳優デビュー後 === [[1973年]][[4月]]、[[野沢那智]]が代表を務めた「[[劇団薔薇座]]」にて8期生として役者デビューを果たす{{R|OUT|ジ・アニメ|sunrise_age|二番手英雄伝}}。薔薇座入団のきっかけは、大学在学中に通っていた同アナウンスアカデミーの講師に紹介されたこと{{R|OUT}}、その恋人が入団オーディションを受ける際、「思い切って飛び込んでみよう」という気持ちで[[オーディション]]を受けたことによる{{R|seiyu}}。その時恋人と一緒に暮らしていたが、履歴書で恋人と住所が一緒だったことから分かり、「この鈴置って奴だけ落としたらかわいそうだ」ということで、結果的に「おまけ」で合格になったという{{R|sunrise_age|seiyu}}。 劇団薔薇座に入団した年が、ミュージカル路線に切り替わり、それまで所属していた劇団員達が大量に退団しており、正規の劇団員は4、5人くらい少なくなっており、あとは鈴置ら研究生だった{{R|sunrise_age|seiyu}}。 公演は打てないことから毎日朝10時から夕方6時まで演劇史、日本舞踊、発声、週3回ジャズダンス、2回はクラシックバレエ、週3回声楽と毎日レッスンに明け暮れていた{{R|sunrise_age|seiyu}}。それでけでは生活はできないため、夜終わってから2人でアルバイトして自宅に帰ったらバタンキュー!という生活が2年続いていた{{R|sunrise_age|seiyu}}。 研究生2年の時に親に同棲が発覚して、結婚したという{{R|seiyu}}。妻は女優の秋野真理子で、同じく劇団薔薇座に所属していた{{R|OUT|anime24|アニメージュ}}。公演がない時はレストランのウェイター、スナックで弾き語りのアルバイトをしていた{{R|ジ・アニメ}}。 初舞台は[[1976年]]、[[ジャン・コクトー]]作の『円卓の騎士』{{R|ジ・アニメ}}。 声優としての仕事を始めたのは、[[劇団]]時代にさまざまな[[アルバイト]]をこなしているときに「同じバイトなら声の仕事をしてみては?」と誘われたのがきっかけだという{{R|二番手英雄伝}}。その時、偶々研究生しており、[[東北新社]]から劇団に、「事務所から研究生がほしいから」ということで、「鈴置行け」ということで{{R|小説JUNE}}、同年、東北新社でアテレコの研修会に参加していたのがきっかけで声優としての活動を始めたという{{R|OUT|ジ・アニメ|sunrise_age}}。声優デビューはテレビの[[映画|洋画]]吹き替えの「男1」などのその他大勢{{R|seiyu|二番手英雄伝}}。また番組レギュラー、ガヤや脇役として初めて出演したアニメは『[[超電磁マシーン ボルテスV|超電磁マシーンボルテスV]]』のその他大勢である{{R|seiyu}}。[[1978年]]に『[[無敵鋼人ダイターン3]]』の主人公・破嵐万丈役で初主演を果たし、[[1979年]]に後番組の『[[機動戦士ガンダム]]』の[[ブライト・ノア]]役をオーディションなしでもらう{{R|seiyu|sunrise_age}}。その後[[1981年]]4月から[[東京俳優生活協同組合]]{{R|ジ・アニメ|kenproduction}}、[[1998年]]からは[[賢プロダクション]]{{R|kenproduction}}に所属{{R|二番手英雄伝}}。その期間にも、海外の[[テレビアニメ]]、[[トランスフォーマー]]の[[スタースクリーム]]役や[[トム・クルーズ]]、[[ジョン・トラボルタ]]らの[[吹き替え]]などで幅広く活動した。 === 死去 === [[2006年]]7月初旬に体調を崩し検査を受けた結果、[[肺癌]]と診断され[[東京都]]内の病院に入院・療養に当たっていた。しかし同年8月6日の朝に容態が急変し、死去{{R|47news20060810|inform}}。{{没年齢|1950|3|6|2006|8|6}}。妻との間に子供はいなかった。 == 活動内容 == [[音域#人声の音域|声種]]は[[バリトン|ローバリトン]]からハイバリトン<ref>{{Cite book |和書 |editor=塚田博男 |chapter=男性キャストの部 |date=2004-04-10 |title=日本音声製作者名鑑2004 Vol.1 |publisher=[[小学館]] |pages=60|isbn=4-09-526301-6}}</ref>。方言は[[名古屋市|名古屋弁]]{{R|kenproduction}}。 低音質を生かした理知的な役を多く演じており<ref name="コトバンク">{{Cite Kotobank|鈴置%20洋孝-1671975|title=鈴置 洋孝とは|accessdate=2022-01-10}}</ref>、ニヒルな二枚目役が多かった{{R|二番手英雄伝}}。 声優活動のみならず、舞台活動も盛んに行なっていた。また、[[1984年]]からは声優バンド「[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]」に、[[三ツ矢雄二]]の後釜として加入<ref name="mouvement">{{Cite web|和書|date=|url=https://mouvement.jp/works/%E3%80%8Cslapstick%E3%80%8D|title=「SLAPSTICK」 06.03.15発売|publisher=ムーブマン|accessdate=2023-06-10}}</ref><ref name="topio017-gabe-hiro-thuito">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.topio.jp/017-gabe-hiro-thuito.htm|title=「スラップスティック リメンバーコンサート」によせて ~今は亡き 曽我部和行・鈴置洋孝 両君に捧ぐ~ 古川登志夫 2013.8|publisher=TOSHIO's HOME |accessdate=2023-06-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210622073216/http://www.topio.jp/017-gabe-hiro-thuito.htm|archivedate=2021-06-22}}</ref><ref name="topio010-music">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.topio.jp/010-music.htm|title=音楽活動|publisher=TOSHIO's HOME |accessdate=2023-06-10}}</ref>。解散するまで音楽活動も行なっていた{{R|mouvement|topio017-gabe-hiro-thuito|topio010-music}}。 [[1997年]]には演劇ユニットの「鈴置洋孝プロデュース」を旗揚げし{{R|sunrise_age}}、自身でも演劇のプロデュースを開始し、オリジナル作品を中心に発表している。いくつかの戯曲作品は書籍化されている。なかでも『煙が目にしみる』<ref group="注" name=":0">鈴置洋孝原案、堤泰之作/2000年9月 論創社刊 1997年初演</ref>は[[火葬場|斎場]]の待合室が舞台の、荼毘に付される直前の二人の霊魂が主人公という異色の人気作で、各地の数々のプロ+アマチュア劇団が取り上げ、演目としてスタンダードとなりつつあり公演されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/280905|title=「煙が目にしみる」開幕、おばあちゃん役の加藤健一「きっと心に愛の灯を」|publisher=ステージナタリー|date=2018-05-04|accessdate=2018-05-23}}</ref>。 == 人物像 == {{複数の問題 |section = 1 |内容過剰 = 2008年3月 |未検証 = 2008年3月 }} === 声優・俳優として === ==== 薔薇座時代 ==== 薔薇座に入った頃は、指導の厳しさから「劇団なのか収容所なのかよくわからない凄いところだった」、「([[野沢那智]]の名前にかけて)[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]収容所」と語っており、当時は野沢本人に「あまりにも厳しすぎる」と直接発言していたという。しかし同時に「あそこを経験していたから自分は本当に精神的に鍛えられた。その後現場で辛いと思ったこともなかった」とも語っている{{R|seiyu}}。 23、4歳の頃に演劇のかたわら『[[秘密戦隊ゴレンジャー|ゴレンジャー]]』ショーの[[アルバイト]]をしており、当時は体重が50kgに満たないほど痩せていたのでモモレンジャー(女性)の[[スーツアクター]]を担当していた。また[[喫茶店]]でもアルバイトとして働いていたが、「同期の連中が就職する中、肩身が狭かった」と語っている{{R|seiyu}}。 ==== 演技・アフレコ ==== [[アフレコ]]のリハーサル中には、メモを取ったりマーカーでチェックすることもせず、[[台本]]はいつも真っ白だったという。これについて[[林原めぐみ]]は、「手ぶらでディレクターの指示を聞いているのを見かねてペンを貸そうとしたところ、『一度聞けば覚えるだろう』と言って断られた。しかも、そのあとの本番ではまったくNGがなかった」と語っている。一方で不可解なNGを出すこともあり、[[古谷徹]]によると[[OVA]]『[[聖闘士星矢 冥王ハーデス編|聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編]]』では「白羊宮」と上手く言うことができず、「[[白洋舍]]なら言えるのに」と真剣に悩んでいたという。 生前、アニメや洋画の吹替えに多数出演した一方で特撮作品の出演は少なかったが、1997年には『[[電磁戦隊メガレンジャー]]』にユガンデ役でレギュラー出演していた。同作の共演者たちは「アフレコに不慣れで大変だった<ref group="注">当時、特撮作品の殆どはフィルム撮影だったため撮影時に録音を行っておらず、台詞や効果音はすべてアフレコとなっていた。なお、現在はビデオ撮影への移行により顔を出す場面の台詞が撮影同時録音となったため、変身後の台詞のみアフレコとなっている。</ref>際、鈴置さんが親切に色々教えてくれた」と語っている。 『聖闘士星矢』の冥王ハーデス十二宮編OVAシリーズは、テレビアニメから長期間経過していたこともあってオリジナルキャストの面々は声質が変化しており、原作者の[[車田正美]]は星矢役の[[古谷徹]]以外のキャスト総入れ替えを要求した。鈴置はこれに憤慨していたが、劇場版・ゲームの新録に際して古谷が「もう一度みんなで星矢を」と呼びかけたところ、「正直、あの役はもう降りるつもりだったが、お前のためならプライドを捨ててやってやる」と潔く応じたという。古谷は「このときは感動した」と語っている。 [[トム・クルーズ]]の[[吹き替え]]<ref name=":0" group="注" />は1989年の『[[7月4日に生まれて]]』のVHS収録用の日本語吹き替え版におけるクルーズの吹替声優を決める[[オーディション]]を受けた際に鈴置のデモテープを聴いたクルーズ本人の推薦で決まった事が始まりのきっかけとされている<ref>{{Cite web|和書|title=あの役とあの役が同じ声!?海外映画の魅力的な吹き替え声優をピックアップ! |url=https://www.vip-times.co.jp/advanceinfo/%E3%81%82%E3%81%AE%E5%BD%B9%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%AE%E5%BD%B9%E3%81%8C%E5%90%8C%E3%81%98%E5%A3%B0%EF%BC%81%EF%BC%9F%E6%B5%B7%E5%A4%96%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AE%E9%AD%85%E5%8A%9B%E7%9A%84%E3%81%AA/ |website=日本タレント名鑑 |access-date=2023-01-23 |language=ja}}</ref><ref>『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』河出書房新社(2019/05発売、インタビュアー:藤津亮太)における[[平田広明]](このオーディションには当時新人であった平田も参加していた)へのインタビューより。</ref>。 [[ブライト・ノア]](『[[機動戦士ガンダム]]』)では、19歳の若さでリーダーシップを取らなくてはならなかったブライト・ノアと、劇団時代の自分の境遇を重ねて演じることがあったという{{R|seiyu}}。 [[ボーイズラブ]](BL)CDの収録前には、相手役の声優に必ず「今日はたっぷり可愛がってやる」と話し、役作りをしてから演じたという。 ==== 声優業の待遇 ==== インタビュー記事の中で『ダイターン3』の頃を振り返り、「スタジオでの収録が終わったらすぐに移動してキャバレーの呼び込みのアルバイトをしていたが、そっちの方が収入がよかった」と語ったことがある。 声優業だけで食べていけるようになったのは『機動戦士ガンダム』でブライト役を演じた頃からだったと語っている。しかしながら、その『ガンダム』出演時も、収録後に飲みに行く際、出演料の高い[[永井一郎]]や[[池田秀一]]がタクシーで移動する一方、鈴置だけが自転車で必死に追いかけていたという。 『ガンダム』のヒットによる劇場版製作に当たっては、永井らとともに声優陣の中心となって一致団結してギャランティの値上げを交渉、その結果当時としては破格の出演料が支払われた。「それだけの仕事をしたと思うし、それに値する作品だと自負もあったから」と鈴置は語っている。また同時に、鈴置を中心としたメインキャストが一丸となって、「主演の古谷徹を断固としてトップクレジットに掲載する」ようにも交渉したという{{R|seiyu}}<ref group="注">公開前の宣伝では、アムロの母役として[[倍賞千恵子]]が出演することが際立って紹介されており、もともとエンディングもトップクレジットは倍賞となる流れだったという。</ref>。 === 人柄 === ==== 交友関係 ==== 仲の良い声優の中に[[古谷徹]]と池田秀一がいた。とくに池田とは呑み仲間で、共演する機会がなくとも酒の付き合いは長く続くほど、個人での付き合いが深く、池田からは「鈴置ちゃん」と呼ばれていた。[[麻生美代子]]とは仕事でもプライベートでも仲が良く、一緒に旅行に行くこともあったという。[[天津飯 (ドラゴンボール)|天津飯]]役として『[[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]]』に出演が決まった際に、原作を読んでいた共演者の古谷に役柄についてレクチャーしてもらったと話している{{R|天下一伝説}}。 同じく二枚目を演じることの多かった[[塩沢兼人]]とも飲み友達で仲が良かった。ともに「フッ」と鼻で笑う役柄が多かったが、鈴置は「俺の『フッ』は正統派な二枚目だけど、あいつは怪しい変態チックな『フッ』」だと語っている。また日常生活では恥ずかしくて「フッ」とは笑えなかったという{{R|二番手英雄伝}}。 [[1990年]]には[[新幹線]]の中で急病で倒れ、『[[ドラゴンボールZ]]』の天津飯役および『[[ショウビズトゥデイ]]』のナレーションを[[山寺宏一]]、『[[らんま1/2 熱闘編]]』の[[九能帯刀]]役を[[辻谷耕史]]、『[[THE八犬伝]]』の網干左母二郎役を池田秀一、『[[アルスラーン戦記]]』カセットブック版のダリューン役を[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]が一時的に代演となったこともある。入院した際、『ドラゴンボールZ』で共演していた[[堀川りょう|堀川亮]](現:堀川りょう)と古谷徹が心配してそれぞれ見舞いに来た。 「[[タイムボカンシリーズ]]」の音楽担当であり声優としての出演もしていた[[山本正之]]は、自身の役を振り返って「これで鈴置くんぐらいの二枚目にはなれただろう」と語っている。なお、山本は鈴置の死を悼み『[[逆転イッパツマン]]』の主題歌の三番を新たに作詞、『逆転イッパツマン!3C』を作曲している。間奏に鈴置と[[富山敬]]の当時の台詞が挿入されている。 艶福家であり、薔薇座時代のメンバーによる印象は、「とにかくもてる奴」で一致している。『[[らんま1/2]]』で帯刀の妹・九能小太刀役として共演した[[島津冴子]]も鈴置のことが好きだったと語っている{{要出典|date=2023年1月}}。仕事に遅れると「ゴメンゴメン、彼女がしつこくてさ」が口癖だったという。[[野島昭生]]や古谷徹ら、スラップスティックのメンバーは「一度でいいから、言ってみたいよね」と口をそろえており、軟派なキャラクターで知られていたことがうかがえる。[[野沢那智]]は「あんな軟派でいい加減な男が絶対プロの役者になどなれるわけがないと思っていたのに、今や座長か…」と苦笑したという。野沢とは同じプロダクションに所属していたこともあり晩年まで親交も深かった。 ==== 嗜好・趣味 ==== 声優業界でも[[酒]]好きとして知られていたが、酒の飲み過ぎに加え、恒例の夜通し[[カラオケ]]で体調を崩すことも多かった。また[[タバコ]]も大好きで、「酒かタバコ、どちらかを止めるとしたら酒を止める」と語っていた。自身がプロデュースした作品では、たいてい劇中に喫煙や飲酒のシーンがある。鈴置プロデュースの上演脚本は毎度毎度遅々として届かず、稽古ぎりぎりにFAXを受け取りながら進めていったという。その間、鈴置は酒を飲んで待ちながら稽古をしていたため、原稿が届く頃には泥酔状態で呂律が回らず、稽古が遅れることが度々あった。 野球は[[中日ドラゴンズ]]の大ファンで、幼少期から優勝するのを楽しみにしており、亡くなった翌年の[[2007年]]に中日は優勝こそ叶わなかったものの、クライマックスシリーズで日本シリーズ進出を経て53年ぶりに日本一となった。 芸能人では[[小泉今日子]]のファンで、ファンクラブに入会していたことがある。 [[料理]]や[[洗濯]]などの家事は比較的得意で、とくに料理は三食自分で作っても苦にならないという。 免許は第一種普通免許{{R|kenproduction}}。特技はテニス{{R|kenproduction}}。中学時代は柔道部、高校時代はテニス部に所属していた{{R|OUT}}。 大学に進学後、ギターを始めて、[[東京都]][[千代田区]][[神田 (千代田区)|神田]]のスナックで弾き語りのアルバイトをしていた{{R|OUT}}。 === 没後 === 死去する2か月前に、賢プロダクションにおけるスクールデュオのWEBラジオにゲスト出演していた他、[[ラジオドラマ]]『[[星界の断章]] 『原罪』』のドゥビュース役のパートを収録していた<ref group="注">ドラマは没後の同年9月に放送された。</ref>。 [[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]]による調査では、訃報前後の一週間にインターネット上の掲示板やブログで上がった話題で「鈴置洋孝」が2位にランクインしている。また、死後一年ほど経過した『[[メガミマガジン]]』の[[2008年]]2月号では「メガマガ読者が選ぶ!2007年アニメ10大ニュース!」において「鈴置洋孝さん逝去」が第10位に選ばれた。 また[[富野由悠季]]、池田秀一、古谷徹ら『ガンダム』の制作関係者・共演者が、同作関連の雑誌に弔辞を寄せ、他にも[[古川登志夫]]、[[神谷明]]など複数の声優が自身のHPで哀悼の意を示した。師にあたる[[野沢那智]]は「芝居は教えたが、命を失ってまで芝居を守れとは教えたくなかった。本当にかわいい弟子だった」とのコメントを残したが、その野沢も鈴置の死から4年後に同じ病で逝去している。 遺影は生前鈴置が自ら選んだもので、「もし何かあったらこの写真を使って欲しい」と伝えていたという。 死後、追悼公演として『煙が目にしみる』が再演された。観客席の最前列中央は空席になっており、亡き鈴置も見に来ていたのではないかと思わせた。終わりの挨拶に[[内海賢二]]は、「鈴置もこのステージのどこかの場面にビールを飲みながら出ていたかも。皆さんの目撃情報を求む」とコメントした。見学に来ていた後輩声優の[[吉田小南美]]は、どこかから鈴置に「いい芝居だったろ。拍手してくれよ」との声をかけられた気がして、泣きながら拍手を贈ったと語っている。 2007年9月11日 - 16日には、鈴置の遺作をもとにした『この素晴らしき世界』を鈴置プロデュースの最終公演として上演した。舞台のチラシの裏では追悼公演の「お客さんからの目撃情報」に触れ、「しかも何故か見ず知らずの女性の肩を抱いて…納得です。案の定です。さすがです」と書かれている。この最終公演をもって「鈴置洋孝プロデュース」としての活動は終了したが、[[麻生美代子]]を始めとする劇団員の意向により、新しい劇団として再出発することが発表された。劇団の名前は最終公演の際に公募し「鈴舟」と決定。旗揚げ公演は2008年6月4日 - 8日に新宿シアターサンモールで上演された。その後も第二回の舞台を発表、活動している。 ガンダム関係の各種ゲームにおける[[ブライト・ノア]]の声は、生前の鈴置が録音したものが使用されることが多く、「[[スーパーロボット大戦シリーズ]]」におけるブライト、『[[無敵鋼人ダイターン3]]』の破嵐万丈、『[[戦国魔神ゴーショーグン]]』の北条真吾も同様の措置が取られている。ただし、2010年のOVA『[[機動戦士ガンダムUC]]』で鈴置に比較的近い声を持っていた[[成田剣]]がブライトの声を担当して以降は、『[[第3次スーパーロボット大戦Z|第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇]]』など一部のゲーム作品において、成田が新規に収録した台詞が使用される機会が増えている。 == 後任 == 鈴置の病気療養および死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1" |- !後任!!キャラクター名!!概要作品!!後任の初担当作品 |- | rowspan="5" | [[成田剣]] || [[ブライト・ノア]] || 『[[機動戦士ガンダム]]』 || 『[[機動戦士ガンダムUC]]』 |- | [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-の登場人物一覧#主要人物|斎藤一]] || 『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』 || 『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 新京都編』 |- | [[龍星座の紫龍]] || 『[[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]』 || 『[[聖闘士星矢Ω]]』 |- | 内海 || 『[[機動警察パトレイバー]]』 || 『CR機動警察パトレイバー』 |- | [[日向小次郎]] || 『[[キャプテン翼 (アニメ)|キャプテン翼]]』テレビアニメ第1作 || 『[[キャプテン翼 (ゲーム)|キャプテン翼 〜たたかえドリームチーム〜]]』 |- | rowspan="2" | [[三宅健太]] || [[ロケット団 (アニメポケットモンスター)#サカキ|サカキ]] || 「[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスターシリーズ]]」 || 『[[ポケットモンスター ダイヤモンド&パール]]』 |- | ジェイク || 『[[ビバリーヒルズ高校白書|ビバリーヒルズ青春白書]]』 || DVD追加収録分 |- | [[森川智之]] || イーサン・ハント || 「[[ミッション:インポッシブルシリーズ]]」 || 『[[ミッション:インポッシブル3]]』<ref group="注">鈴置の生前も[[テレビ朝日]]版の吹き替えで担当していた。また、森川は現在イーサンを演じる[[トム・クルーズ]]の専属吹き替え声優である。</ref> |- | [[田中完]] || 野々村浩介 || 『煙が目にしみる』 || 鈴置洋孝追悼公演 |- | [[江原正士]] || マーリン || 『[[エクスカリバー 聖剣伝説]]』 || 『[[エクスカリバーII 伝説の聖杯]]』 |- | [[大友龍三郎]] || [[天下一武道会#関連人物|天下一武道会アナウンサー]] || rowspan="3" |『[[ドラゴンボールZ]]』 || rowspan="2"|『[[ドラゴンボールZ Sparking! METEOR]]』 |- | [[中尾良平]] || [[あの世一武道会#関連人物|あの世一武道会アナウンサー]] |- | rowspan="2" |[[真殿光昭]] || [[天津飯 (ドラゴンボール)|天津飯]] || 『[[ドラゴンボールZ バーストリミット]]』 |- | [[神龍 (ドラゴンボール)|五星龍]] || 『[[ドラゴンボールGT]]』 || 『[[ドラゴンボールヒーローズ]]』 |- | [[藤原啓治]] || キャリン・フリック || 『[[宇宙戦士バルディオス]]』 || rowspan="2" |[[スーパーロボット大戦Z]] |- | rowspan="2" | [[堀内賢雄]] || オルソン・D・ヴェルヌ || 『[[超時空世紀オーガス]]』 |- | [[アンパンマンの舞台別の登場人物一覧 (国の住人)#おかしの国の住人|ソフトクリームマン]] || 『[[それいけ!アンパンマン]]』 || 1137話Aパート |- | [[辻谷耕史]] || [[九能帯刀]] || 『[[らんま1/2]]』 || 『[[らんま1/2 悪夢!春眠香]]』<ref group="注">鈴置の生前も[[らんま1/2 熱闘編|熱闘編]]の第65・66・68話で代役をしていた。</ref> |- | [[緑川光]] || 天津飯 || rowspan="3" |「ドラゴンボールシリーズ」 || rowspan="3" |『[[ドラゴンボール改]]』 |- | [[西脇保]] || 天下一武道会アナウンサー |- | [[田中一成]] || [[ドラゴンボールのアニメオリジナルの登場人物#カロニー|カロニー]] |- | [[四宮豪]] || 伊集院ナオト || 『[[六神合体ゴッドマーズ]]』 || 『[[第2次スーパーロボット大戦Z|第2次スーパーロボット大戦Z 破界篇]]』 |- | [[速水奨]] || 劉豪軍 || 『[[鬼哭街#ドラマCD|鬼哭街 反魂剣鬼]]』 || 『鬼哭街』全年齢対象版 |- | [[浜添伸也]] || つみきまん || 『それいけ!アンパンマン』 || 1148話Bパート |- | [[田尻浩章]] || 松木 || 『[[あしたのジョー]]』 || 『パチスロ あしたのジョー2』 |- | [[平田広明]] || [[関東豪学連#伊達 臣人(だて おみと)|伊達臣人]] || 『[[魁!!男塾]]』 || 『魁!!男塾 〜日本よ、これが男である!〜』 |- | [[藤本たかひろ]] || カロニー || 『ドラゴンボールZ』 || 『[[ドラゴンボール超]]』 |- | [[てらそままさき]] || デニース・ブライソン || 『[[ツイン・ピークス]]』 || 『ツイン・ピークス The Return』 |- | [[島﨑信長]] || ソフトクリームマン || 『それいけ!アンパンマン』 || 1412話Bパート |- | [[高橋孝治]] || [[うる星やつらの登場人物#終盤に登場する人物|因幡]] || 『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』 || 『Pうる星やつら〜ラムのLoveSong〜』 |- | [[喜山茂雄]] || [[東城会#日侠連|囚人番号1356]] || 『[[龍が如く]]』 || 『[[龍が如く ONLINE]]』 |- | [[羽多野渉]] || 耶雲 || 『[[幽☆遊☆白書 冥界死闘篇 炎の絆]]』 || 『幽☆遊☆白書 100%本気(マジ)バトル』 |} == 出演 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === {{dl2 | 1977年 | * [[超電磁マシーン ボルテスV]](係員 他) * [[野球狂の詩]]('''日下部了'''、岩田清司〈前期〉) | 1978年 | * [[エースをねらえ!|新・エースをねらえ!]] * [[はいからさんが通る]](ざんぎり頭、下士官) * [[ペリーヌ物語]](若い男) * [[無敵鋼人ダイターン3]]('''破嵐万丈'''{{R|ダイターン3}}) * [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]](ボンド) | 1979年 | * [[科学冒険隊タンサー5]](ゲル) * [[機動戦士ガンダム]]('''[[ブライト・ノア]]'''{{R|ガンダム}}、[[機動戦士ガンダムの登場人物 地球連邦軍#セキ|セキ]]、[[機動戦士ガンダムの登場人物 ジオン公国軍 (あ行-さ行)|ゼイガン、アコース〈2代目〉]]、[[機動戦士ガンダムの登場人物 ジオン公国軍 (た行-わ行)|ミサキ、ラムジ]]{{要出典|date=2020年12月}}) | 1980年 | * [[あしたのジョー2]](1980年 - 1981年) * [[宇宙戦艦ヤマトIII]](1980年 - 1981年、'''[[太田健二郎]]''') * [[宇宙戦士バルディオス]](フリック、ハイウード) * [[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]](キル、太) * [[タイムパトロール隊オタスケマン]](プレトマイオス) * [[鉄腕アトム (アニメ第2作)]](ノース2号、ルックス) * [[ムーの白鯨]]('''白風信''') | 1981年 | * [[最強ロボ ダイオージャ]](ホワイト、キャビン) * [[戦国魔神ゴーショーグン]]('''北条真吾'''<ref group="注">第4話まで鈴置洋'''考'''と誤表記。</ref>{{R|ゴーショーグン}}) * [[太陽の牙ダグラム]](ガボール・ザナ) * [[まいっちんぐマチコ先生]](白馬天狗、秋田太郎、ブルース) * [[まんが 水戸黄門]](1981年 - 1982年、'''[[佐々木助三郎|助三郎]]''') * [[六神合体ゴッドマーズ]](1981年 - 1982年、'''伊集院ナオト'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1980s/040101.html|title=六神合体ゴッドマーズ|publisher=[[トムス・エンタテインメント]]|accessdate=2023-01-16}}</ref>) | 1982年 | * [[おちゃめ神物語コロコロポロン]](オルペウス、イアン、アイギストス) * [[科学救助隊テクノボイジャー]](係員、ロイド) * [[逆転イッパツマン]]('''ナレーター'''{{R|逆転イッパツマン}}、スパイ000{{R|意味だす}}、ホマレ営業部員{{R|逆転イッパツマンCB}}、男性司会者{{R|逆転イッパツマンCB}}) * [[銀河烈風バクシンガー]](ジル・クロード〈初代〉、ジューロ南) * [[超時空要塞マクロス]]('''リン・カイフン'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20171117122801/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1462| title = 超時空要塞マクロス| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-08-07}}</ref>) * [[ダッシュ勝平]](本田) * [[ときめきトゥナイト]]('''アロン''') * [[Dr.スランプ アラレちゃん]](姿) * [[魔法のプリンセス ミンキーモモ]](ギブミー、ライアン、ジョニー) | 1983年 | * [[亜空大作戦スラングル]](スーパースター) * [[イタダキマン]](アラン、サム<!-- 〈第12話〉 -->) * [[機甲創世記モスピーダ]]('''イエロー・ベルモント'''{{R|機甲創世記モスピーダ}} / '''男声''') * [[キャプテン翼 (アニメ)|キャプテン翼]](昭和版)(1983年 - 1986年、'''[[日向小次郎]]'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8152|title=キャプテン翼|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-09-28}}</ref>) * [[銀河疾風サスライガー]](オルスロ) * [[サイコアーマー ゴーバリアン|サイコアーマー・ゴーバリアン]](ドムソン) * [[聖戦士ダンバイン]](ウグ) * [[超時空世紀オーガス]]('''オルソン・D・ヴェルヌ''') * [[特装機兵ドルバック]]('''スタンレー・ヒルトン'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20171117123118/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1612| title = 特装機兵ドルバック| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-09-27}}</ref>、プロト) * [[ななこSOS]](ジェームズ・ヨンド) * [[ピュア島の仲間たち]](チャップ) * [[プラレス3四郎]](石田勝利) * [[魔法の天使クリィミーマミ]](兵藤新ノ介) * [[未来警察ウラシマン]](運転手)<ref group="注">「鈴置洋'''校'''」名義。</ref> * [[レディジョージィ!]](ケニー) | 1984年 | * [[アタッカーYOU!]](浜崎〈サンライトバレー部監督〉) * [[OKAWARI-BOY スターザンS]](先生、船内アナウンス) * [[さすがの猿飛]](グリフィン) * [[星銃士ビスマルク]]('''ペリオス'''{{R|星銃士ビスマルク}}、ラッド、ゲヌロン) * [[小さな恋のものがたり|小さな恋のものがたり チッチとサリー初恋の四季]]('''山下''') * [[宗谷物語]](上野) * [[超攻速ガルビオン]]('''麻矢''') * [[超時空騎団サザンクロス]]('''デス・デラ・デミ'''、ナレーション) * [[超力ロボ ガラット]](1984年 - 1985年、'''カミル・カシミールJr.'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nagoyatv.com/F/anime-history/index_d.html?page=data/data9/data9.html| title = メ~テレ アニメ史| publisher = データファイル - 名古屋テレビ 【メ~テレ】| accessdate = 2021-04-23}}</ref>{{R|ガラット}}、'''カミーグ'''{{R|マイアニメ}}) * [[よろしくメカドック]](白鳥充) * [[らんぽう]](エリマキトカゲ、仏A) | 1985年 | * [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](ぴぐも) * [[機動戦士Ζガンダム]]('''ブライト・ノア'''{{R|Zガンダム}}) * [[昭和アホ草紙あかぬけ一番!]](パラ) * [[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]](ステファン、B・J) * [[超獣機神ダンクーガ]](ゴンザレス) * [[プロゴルファー猿]](1985年 - 1988年、大神、ブラック・エイプ) * [[アルペンローゼ (漫画)|アルペンローゼ (漫画)炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ]](ハインリヒ・グラーフ) * [[夢の星のボタンノーズ]](ロッソ) | 1986年 | * [[あんみつ姫]](ペッパー、ジェームス・ボンボン) * [[機動戦士ガンダムΖΖ]]('''ブライト・ノア'''{{R|ガンダムZZ}}) * [[銀河探査2100年 ボーダープラネット]]('''プロキオン''') * [[銀牙 -流れ星 銀-]](秀俊) * [[三国志 (日本テレビ)|三国志II 天翔ける英雄たち]]([[曹仁]]<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180730170753/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/2047| title = 三国志II 天翔ける英雄たち| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-10-09}}</ref>) * [[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]](1986年 - 1989年、'''[[龍星座の紫龍|紫龍]]'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/seiya/character/| title = 聖闘士星矢| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2020-12-30}}</ref>) * [[マシンロボ クロノスの大逆襲]](ザガム) * [[青春アニメ全集]]「[[屋根裏の散歩者]]」(郷田三郎) | 1987年 | * [[エスパー魔美]](1987年 - 1989年、有原成宏、沢田) * [[げらげらブース物語]]('''タット''') * [[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター]](ギャンブラーバンパイア・竜)<!-- 1987-04-27 --> * [[ドラゴンボール (アニメ)|ドラゴンボール]](1987年 - 1989年、'''[[天津飯 (ドラゴンボール)|天津飯]]'''{{R|ドラゴンボール}}) * [[陽あたり良好!]]('''関真人''') * [[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳2]](1987年 - 1988年、シャチ) * [[ミスター味っ子]](1987年 - 1989年、小西和也{{R|ミスター味っ子}}) | 1988年 | * [[F (漫画)|F-エフ]]('''聖一人''') * [[魁!!男塾]](伊達臣人<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/otokojuku/| title = 魁!!男塾| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-02}}</ref>) | 1989年 | * [[美味しんぼ]](三谷直吉、WESTCOASTの花板) * [[機動警察パトレイバー]](内海) * [[それいけ!アンパンマン]](1989年 - 1994年、ソフトクリームマン〈初代〉、つみきまん〈初代〉) * [[天空戦記シュラト]](雷帝インドラ<ref>{{Cite web|和書|url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/syurato.html|title=作品データベース 天空戦記シュラト|publisher=[[タツノコプロ]]|accessdate=2022-10-14}}</ref>) * [[ドラゴンボールZ]](1989年 - 1996年、'''天津飯'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/dragonz/| title = ドラゴンボールZ| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2022-05-08}}</ref>、カロニー、[[天下一武道会#関連人物|アナウンサー]]) * [[らんま1/2]](1989年 - 1992年、'''[[九能帯刀]]'''、龍神隼人) - 2シリーズ | 1990年 | * [[アイドル天使ようこそようこ]](山下秀樹) * [[NG騎士ラムネ&40]](ペーキング) * [[キャッ党忍伝てやんでえ]](黒い武将) * [[ジャングルブック・少年モーグリ]](ジョン) * [[たいむとらぶるトンデケマン!]](アーサー船長) * [[ドラゴンクエスト (アニメ)|ドラゴンクエスト]](バハラタ) | 1991年 | * [[まじかる☆タルるートくん]](座剣邪寧蔵) * [[横山光輝 三国志]]([[陳宮]]) | 1992年 | * [[宇宙の騎士テッカマンブレード]](1992年 - 1993年、'''ハインリッヒ・フォン・フリーマン'''<ref>{{Cite web|和書| accessdate=2022-11-08 | publisher=[[タツノコプロ]] | title=作品データベース 宇宙の騎士テッカマンブレード |url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/tekkaman_brade.html}}</ref>、ナレーション) * [[スーパービックリマン]](アスタラネモ) * [[ファンタジーアドベンチャー 長靴をはいた猫の冒険]](アブサン、ジュサック) * [[花の魔法使いマリーベル]](トートー) | 1993年 | * [[バトルファイターズ 餓狼伝説]]2('''[[ヴォルフガング・クラウザー]]''') | 1994年 | * [[ツヨシしっかりしなさい]](松良太郎) * [[覇王大系リューナイト]](デリアス) * [[ハックルベリー・フィン物語]](ビリー・サリバン) | 1995年 | * [[爆れつハンター]](クロウ・ワッサン卿) * [[ルパン三世 ハリマオの財宝を追え!!]]('''ラッセル'''<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20140826191822/http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=461| title = ルパン三世 ハリマオの財宝を追え!!| newspaper = | publisher = トムス・エンタテインメント| date = | accessdate = 2016-05-02}}</ref>) | 1996年 | * [[快傑ゾロ (アニメ)|快傑ゾロ]](フェデリコ) * [[ドラゴンボールGT]](1996年 - 1997年、ドルタッキー、五星龍) * [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン セーラースターズ]](加山) * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]([[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-の登場人物一覧#主要人物|'''斎藤一''']]) | 1997年 | * [[VIRUS|VIRUS ‐VIRUS BUSTER SERGE‐]](レイヴェン) * [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]](1997年 - 2002年、[[ロケット団 (アニメポケットモンスター)#サカキ|サカキ]]、[[ヤドン]]、[[ヤドラン]]) * [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](富沢太一) | 1998年 | * [[アキハバラ電脳組]]('''クリスチャン・ローゼンクロイツ''' / '''竜ヶ崎鷲羽''') * [[EAT-MAN'98]]('''ハード''') * [[Only・You ビバ!キャバクラ]]('''小金井武史''') * [[トライガン]](チャペル・ザ・エバーグリーン) * [[熱沙の覇王ガンダーラ]](タイロン{{R|熱沙の覇王 ガンダーラ}}) * [[Bビーダマン爆外伝]](シゴキボン) | 1999年 | * [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]](李波児) * [[鋼鉄天使くるみ]]('''綾小路博士''') * [[週刊ストーリーランド]](新谷悟、黒崎大輔 他) * [[星界の紋章]]('''ドゥビュース''') | 2000年 | * [[銀装騎攻オーディアン]](ベルチオ) * [[星界の戦旗]]('''ドゥビュース'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.jp/an/anime_series/7170| title = 星界の紋章| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-08-17}}</ref>) * [[ポケットモンスター ミュウツー! 我ハココニ在リ]](サカキ) | 2001年 | * [[ヴァンドレッド|ヴァンドレッド the second stage]](トドロキ艦長) * [[鋼鉄天使くるみ2式]]('''綾小路博士''') * [[星界の戦旗II]]('''ドゥビュース''') | 2002年 | * [[キディ・グレイド]]('''デクステラ'''<ref>{{Cite web|publisher=キディ・グレイド -WORKS ON WEB-|url=http://www.kiddygrade.com/1/staff_cast.html|title=STAFF&CAST|accessdate=2023-04-02}}</ref>) * [[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]](2002年 - 2005年、サカキ) | 2003年 | * [[京極夏彦 巷説百物語]](笹山玄蕃) * [[ポケットモンスター サイドストーリー]](サカキ) | 2004年 | * [[まじかるカナン]](フェンネル) * [[妖怪ワールド 恐山物語]](天邪鬼) | 2006年 | * [[こてんこてんこ]](ヤック) * [[ディノブレイカー]](カスパー) }} === 劇場アニメ === {{dl2 | 1980年 | * [[がんばれ!!タブチくん!!|がんばれ!! タブチくん!! 初笑い第3弾 あゝツッパリ人生!!]] | 1981年 | * [[あしたのジョー2]] * [[機動戦士ガンダム]]('''[[ブライト・ノア]]''') * [[機動戦士ガンダムII 哀・戦士編]]('''ブライト・ノア''') * [[フリテンくん]] | 1982年 | * 機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編('''ブライト・ノア''') * [[戦国魔神ゴーショーグン]]('''北条真吾'''{{R|劇場版ゴーショーグン}}) * [[太陽の牙ダグラム|ドキュメント 太陽の牙ダグラム]](ザナ) * [[六神合体ゴッドマーズ]](伊集院ナオト) | 1984年 | * [[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]]('''リン・カイフン''') | 1985年 | * [[戦国魔神ゴーショーグン 時の異邦人]]('''北条真吾'''{{R|時の異邦人}}) * [[キャプテン翼 ヨーロッパ大決戦]]('''日向小次郎'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C410009|title=キャプテン翼 ヨーロッパ大決戦|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-09-28}}</ref>) * [[キャプテン翼 危うし! 全日本Jr.]]('''日向小次郎'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C410017|title=キャプテン翼 危うし! 全日本Jr.|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-09-28}}</ref>) | 1986年 | * [[アリオン (漫画)|アリオン]]([[アポローン|'''アポロン''']]{{R|アリオン}}) * [[キャプテン翼 明日に向って走れ!]]('''日向小次郎'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C410042|title=キャプテン翼 明日に向って走れ!|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-09-29}}</ref>) * [[キャプテン翼 世界大決戦!! Jr.ワールドカップ]]('''日向小次郎'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C410072|title=キャプテン翼 世界大決戦!! Jr.ワールドカップ|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-09-29}}</ref>) * [[11人いる!]]('''アマゾン・カーナイス''') | 1987年 | * [[王立宇宙軍 オネアミスの翼]]('''ドムロット''') * [[聖闘士星矢 邪神エリス]]('''[[ドラゴン紫龍|紫龍]]''') | 1988年 | * [[うる星やつら 完結篇]]('''因幡''') * 機動戦士SDガンダム(ブライト) * [[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]('''ブライト・ノア'''{{R|逆襲のシャア}}) * [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説 わが征くは星の大海]](イワン・コーネフ<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/1988-1987/works_movie_ginei.html| title = 銀河英雄伝説 わが征くは星の大海| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-05-22}}</ref>) * [[県立海空高校野球部員山下たろーくん]](徳先) * [[聖闘士星矢 神々の熱き戦い]]('''紫龍''') * [[聖闘士星矢 真紅の少年伝説]]('''紫龍''') * [[ドラゴンボール 摩訶不思議大冒険]](天津飯{{R|摩訶不思議大冒険}}) | 1989年 | * [[聖闘士星矢 最終聖戦の戦士たち]]('''紫龍''') | 1990年 | * [[剣之介さま]](暴走族C) * [[ドラゴンボールZ 地球まるごと超決戦]](天津飯{{R|地球まるごと超決戦}}) | 1991年 | * [[らんま1/2 中国寝崑崙大決戦! 掟やぶりの激闘篇!!]]('''[[九能帯刀]]''') | 1992年 | * [[らんま1/2 決戦桃幻郷! 花嫁を奪りもどせ!!]]('''九能帯刀''') | 1993年 | * [[ドラゴンボールZ 銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴]]('''天津飯'''{{R|銀河ギリギリ!!ぶっちぎりの凄い奴}}) | 1994年 | * [[スラムダンク (1994年の映画)|スラムダンク]](小田竜政) * [[幽☆遊☆白書 冥界死闘篇 炎の絆]](耶雲{{R|幽☆遊☆白書 冥界死闘篇 炎の絆}}) * [[らんま1/2 超無差別決戦! 乱馬チームVS伝説の鳳凰]]('''九能帯刀''') | 1997年 | * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌]]('''斎藤一''') | 1998年 | * [[劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲]]([[ロケット団 (アニメポケットモンスター)#サカキ|サカキ]]) * [[名探偵コナン 14番目の標的]](仁科稔<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20140122065222/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20140207/index.html | title = 名探偵コナン 14番目の標的| publisher = 金曜ロードSHOW! | accessdate = 2016-06-09}}</ref>) | 2000年 | * 機動戦士ガンダム 特別版(ブライト・ノア) * 機動戦士ガンダムII 哀・戦士編 特別版(ブライト・ノア) * 機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編 特別版(ブライト・ノア) | 2002年 | * [[千年女優]](大滝諄一<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.madhouse.co.jp/works/2003-2002/works_movie_sennen.html| title = 千年女優| publisher = マッドハウス | accessdate = 2016-06-07}}</ref>) | 2003年 | * [[名探偵コナン 迷宮の十字路]](西条大河) | 2004年 | * [[劇場版 NARUTO -ナルト- 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!]](狼牙ナダレ) * [[聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜]]('''ドラゴン紫龍''') | 2005年 | * [[機動戦士Ζガンダム#劇場版|機動戦士Ζガンダム A New Translation -星を継ぐ者-]]('''ブライト・ノア''') * 機動戦士ΖガンダムII A New Translation -恋人たち-('''ブライト・ノア''') | 2006年 | * 機動戦士ΖガンダムIII A New Translation -星の鼓動は愛-('''ブライト・ノア''') }} === OVA === {{dl2 | 1984年 | * [[魔法の天使クリィミーマミ (OVA)|魔法の天使クリィミーマミ 永遠のワンスモア]](兵藤鈴ノ介) | 1985年 | * [[NORA]](オペレーター) * [[魔法のプリンセス ミンキーモモ 夢の中の輪舞]](ギブミー) * [[夢次元ハンターファンドラ]](PK) | 1986年 | * [[アイ・シティ]]('''ケイ'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C410068| title = アイ・シティ| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2022-05-10}}</ref>) * [[アーバンスクウェア 琥珀の追撃]](下原) * [[県立地球防衛軍]]('''カーミ・サンチン''') * [[装鬼兵MDガイスト]](マッシュ) * [[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー スクランブルシティ発動編]]('''スタースクリーム''') * [[超時空ロマネスク SAMY MISSING・99]](戦士デュース) * [[ドリームハンター麗夢|ドリームハンター麗夢II 聖美神学園の妖夢]](体育教師) | 1987年 | * [[うる星やつら 夢の仕掛人 因幡くん登場! ラムの未来はどうなるっちゃ!?]]('''[[うる星やつらの登場人物#終盤に登場する人物|因幡]]''') * サーキットエンジェル 決意のスターティング・グリッド(康介) * [[超神伝説うろつき童子]]シリーズ(南雲辰夫)18禁作品 * [[ヘル・ターゲット]](ハリー・ハワード) * [[レリックアーマーLEGACIAM]](ダーツ・アイラー) | 1988年 | * [[宇宙の戦士 (アニメ)|宇宙の戦士]]('''グレック・パタースン''') * うる星やつら 怒れシャーベット(因幡) * [[機動戦士SDガンダム]]MARK-I(ブライト) * [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]](イワン・コーネフ大尉、ルパート・ケッセルリンク) * [[沙羅曼蛇 (OVA)|沙羅曼蛇]]('''ロード・ブリティッシュ王子''') * [[冥王計画ゼオライマー (OVA)|冥王計画ゼオライマー]](耐爬) | 1989年 | * [[ARIEL]](ラグナス) * 機動戦士SDガンダムMARK-II(ブライト) * [[キャプテン翼 (アニメ)|新・キャプテン翼]](1989年 - 1990年、'''日向小次郎''') * [[強殖装甲ガイバー]]('''村上征樹''') * [[クレオパトラD.C.]](シンタクマ) * [[聖獣機サイガード -CYBERNETICS・GUARDIAN-]](アドラー・アインシュタイン) | 1990年 | * [[アーシアン]](宮城) * [[ガッデム]](六甲寺司) * 機動戦士SDガンダムMARK-III(ブライト、武者百士貴) * 機動戦士SDガンダムMARK-IV(ブライト) * 機動戦士SDガンダム MARK-V(リ・ガズィ、武者百士貴) * [[聖ミカエラ学園漂流記]](狩野大介) * [[THE八犬伝|THE 八犬伝]](網干左母二郎) * [[風魔の小次郎|風魔の小次郎 聖剣戦争篇]](華悪崇皇帝{{R|風魔の小次郎}}) * [[本気!|本気! 3 立志編]](染夜) * [[らんま1/2|らんま1/2 熱闘歌合戦]]('''九能帯刀''') | 1991年 | * [[銀河英雄伝説]](ルパート・ケッセルリンク) * [[JINGI 仁義]](黒川) * [[究極超人あ〜る]](鰯水等) | 1992年 | * [[永遠のフィレーナ]](ウト) * [[JINGI 仁義|JINGI 仁義 隅田川頂上作戦]](黒川) * [[電影少女#OVA|電影少女 -VIDEO GIRL AI-]](ローレック) | 1993年 | * [[スターダストクルセイダース|ジョジョの奇妙な冒険]]('''花京院典明''') * らんま1/2 TVタイトルズ('''九能帯刀''') * らんま1/2 とっておきトーク ベスト・オブ・メモリーズ('''九能帯刀''') * らんま1/2 シャンプー豹変! 反転宝珠の禍('''九能帯刀''') * らんま1/2 天道家 すくらんぶるクリスマス('''九能帯刀''') | 1994年 | * [[コズミック・ファンタジー|コズミック・ファンタジー 銀河女豹の罠]]('''ダンディー''') * らんま1/2 学園に吹く嵐! アダルトチェンジひな子先生('''九能帯刀''') * らんま1/2 道を継ぐ者 前篇('''九能帯刀''') | 1995年 | * アニメ少年日本史 スサノオ 今よみがえる建国神話のロマン * [[ウダウダやってるヒマはねェ!]]('''住崎玲央''') * らんま1/2 スペシャルビデオ バトルがいっぱい29人の懲りないやつら('''九能帯刀''') * らんま1/2 DoCoミュージックビデオ('''九能帯刀''') * らんま1/2 SUPER ああ呪いの破恋洞! 我が愛は永遠に('''九能帯刀''') * らんま1/2 SUPER 邪悪の鬼('''九能帯刀''') | 1998年 | * [[青の6号 (アニメ)|青の6号]]('''ユーリ・マヤコフスキー副艦長'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.gonzo.co.jp/works/aoroku/| title = 青の6号| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-05-16}}</ref>) * 銀河英雄伝説外伝 千億の星、千億の光(イワン・コーネフ) * [[クイーン・エメラルダス]](エルドメイン大佐) * [[紺碧の艦隊]](フリードリッヒ・フォン・ゴットシャルク大佐) | 1999年 | * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編]]('''斎藤一''') * [[超神姫ダンガイザー3]](1999年 - 2001年、ダンガイザー)<!-- 1999-09-24 --> | 2000年 | * [[AMON デビルマン黙示録]](ズーボォ) * [[ジョジョの奇妙な冒険 ADVENTURE]]('''花京院典明''') * [[南国少年パプワくん|南国少年パプワくん大百科2 ガンマ団丸秘調査ファイル]](ハーレム) | 2001年 | * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 星霜編]]('''斎藤一''') | 2002年 | * [[聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編]]('''ドラゴン紫龍''') | 2006年 | * [[フリテンくん]](高田) * [[水木しげる]]の妖怪ワールド 恐山物語(天邪鬼) }} === ゲーム === 2007年以降の出演作品は全て生前の収録音声を使用したライブラリ出演。 * Angel's Feather、Angel’s Feather追加ディスク(PC)(シオン) * [[ガンダムシリーズ]]ゲーム作品多数([[ブライト・ノア]]) * ジュリアン(ルシファー) {{dl2 | 1989年 | * [[夢幻戦士ヴァリスII|ヴァリスII]](幻夢皇帝メガス、赤戦竜ザルーガ) | 1990年 | * [[うる星やつら STAY WITH YOU]](因幡) * [[バスティール]](ベルトラン・カダル副官) | 1991年 | * [[コズミック・ファンタジー2 冒険少年バン]](ダンディー、ガラム) | 1992年 | * [[コズミック・ファンタジー|コズミック・ファンタジー3 冒険少年レイ]](ダイゴ) * [[マクロスシリーズ (ゲーム)#超時空要塞マクロス2036|超時空要塞マクロス2036]](ロット・シーン) | 1993年 | * [[イースIV The Dawn of Ys]](レファンス) * [[機動警察パトレイバー#グリフォン篇|機動警察パトレイバー 〜グリフォン篇]](内海) * [[コズミック・ファンタジー|コズミック・ファンタジー ビジュアル集]](ダンディー) | 1994年 | * [[うる星やつら 〜ディア マイ フレンズ〜]](因幡、汁夫) * [[コズミック・ファンタジー|コズミック・ファンタジー4 銀河少年伝説激闘編 光の宇宙の中で…]](ガラム) * [[ドラゴンボールZ 偉大なる孫悟空伝説]](天津飯) | 1995年 | * [[ドラゴンボールZ 真武闘伝]](天津飯、リングアナウンサー) * [[ドラゴンボールZ Ultimate Battle 22]](天津飯、リングアナウンサー) * [[幽☆遊☆白書|幽☆遊☆白書FINAL 〜魔界最強列伝〜]](耶雲) | 1996年 | * [[機動戦士ガンダム (PlayStation)|機動戦士ガンダム ver.2.0]](ブライト・ノア) * [[新スーパーロボット大戦]](ブライト・ノア) * [[第4次スーパーロボット大戦S]](破嵐万丈、ブライト・ノア、北条真吾) * [[ドラゴンボールZ 偉大なるドラゴンボール伝説]](天津飯) * [[らんま1/2 (ゲーム)|らんま1/2 バトルルネッサンス]](九能帯刀、ナレーション) * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新激闘編]](斎藤一、般若) | 1997年 | * [[攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL]]([[トグサ]]) * [[スーパーロボット大戦F]] / F完結編(1997年 - 1998年、破嵐万丈、ブライト・ノア、北条真吾) - 2作品 * [[魔法少女プリティサミー]] 恐るべし身体測定!核爆発5秒前!!(ディーキンス) * [[メルティランサー Re-inforce]](ヤン・シャオピン) * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 十勇士陰謀編]](斎藤一) | 1998年 | * [[SDガンダム GGENERATION]](1998年 - 2011年、ブライト・ノア、ナレーション〈第1作〉) - 10作品{{Ras|『GGENERATION』<!-- 1998-08-06 -->(1998年)、『ZERO』<!-- 1999-08-12 -->(1999年)、『F』<!-- 2000-08-03 -->(2000年)、『F.I.F』<!-- 2001-05-02 -->(2001年)、『NEO』<!-- 2002-11-28 -->(2002年)、『SEED』<!-- 2004-02-19 -->(2004年)、『PORTABLE』<!-- 2006-08-03 -->(2006年)、『SPIRITS』<!-- 2007-11-29 -->(2007年)、『WARS』<!-- 2009-08-06 -->(2009年)、『WORLD』<!-- 2011-02-24 -->(2011年)}} * [[スーパーロボットスピリッツ]](破嵐万丈) * [[戦国美少女絵巻 空を斬る!!]](石川五右衛門、風太) * [[ファーランドサーガ]](カイザー) * [[ファンタスティックフォーチュン]]('''レオニス・クレベール''') * [[炎の料理人クッキングファイター好]](レイ、味影) * [[ミサの魔法物語]](シクスト・グランディエ) | 1999年 | * [[スーパーロボット大戦コンプリートボックス]](破嵐万丈、ブライト・ノア、アコース、北条真吾) | 2000年 | *[[機動戦士ガンダム (PlayStation 2)|機動戦士ガンダム]](ブライト・ノア) * [[サンライズ英雄譚R]](ブライト・ノア) * [[スーパーロボット大戦α]](2000年 - 2001年、破嵐万丈、ブライト・ノア、アコース) - 2作品 * [[ファウスタス]](白の魔導士ノア) | 2001年 | * [[グローランサーIII]]('''ビクトル・ロイド''') * [[スーパーロボット大戦α外伝]](破嵐万丈、ブライト・ノア) * [[リアルロボットレジメント]](破嵐万丈) * [[ロックマンX6]](シグナス総監、{{要出典範囲|シールドナー・シェルダン|date=2023年7月}})<!-- 2001-11-29 --> | 2002年 | * [[スーパーロボット大戦IMPACT]](破嵐万丈、ブライト・ノア) | 2003年 | * [[Angel's Feather]](シオン)※[[PlayStation 2|PS2]]版 * [[機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙]](ブライト・ノア) * [[スーパーロボット大戦Scramble Commander]](ブライト・ノア) * [[第2次スーパーロボット大戦α]](破嵐万丈、ブライト・ノア、北条真吾) * [[ドラゴンボールZ (ゲーム)|ドラゴンボールZ]](天津飯、セルジュニア、リングアナウンサー) * [[ロックマンX7]](シグナス総監、スプラッシュ・ウオフライ)<!-- 2003-07-17 --> | 2004年 | * [[スーパーロボット大戦MX]](2004年 - 2005年、ブライト・ノア、耐爬) - 2作品 * [[スーパーロボット大戦GC]](ブライト・ノア、アコース) * [[ドラゴンボールZ2]](天津飯、セルジュニア、リングアナウンサー) * [[ドラゴンボール アドバンスアドベンチャー]](天津飯) * [[マグナカルタ (ゲーム)|マグナカルタ]](アスタル) | 2005年 | * [[Another Century's Episode]](ブライト・ノア) * [[機動戦士ガンダム 一年戦争]](ブライト・ノア) * [[魁!!男塾 (PlayStation 2)|魁!!男塾]](伊達臣人) * [[聖闘士星矢 聖域十二宮編]](ドラゴン紫龍) * [[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]](破嵐万丈、ブライト・ノア、北条真吾) * [[ドラゴンボールZ3]](天津飯、セルジュニア、リングアナウンサー) * [[ドラゴンボールZ Sparking!]](天津飯、アナウンサー、セルジュニア) * [[龍が如く]](囚人番号1356) | 2006年 | * [[キャプテン翼]](日向小次郎)※PS2版 * [[機動戦士ガンダム クライマックスU.C.]](ブライト・ノア) * [[スーパーロボット大戦XO]](ブライト・ノア、アコース) * [[ドラゴンボールZ Sparking!NEO]](天津飯、天下一武道会アナウンサー) * [[天下人 (ゲーム)|天下人]]([[明智光秀]]) * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 炎上!京都輪廻]](斎藤一) | 2007年 | * [[Another Century's Episode 3 THE FINAL]](ブライト・ノア) * [[ガンダム無双]](ブライト・ノア) * [[スーパーロボット大戦Scramble Commander the 2nd]](ブライト・ノア) * [[ドラゴンボールZ 真武道会2]](天津飯、天下一武道会アナウンサー) * [[ドラゴンボールZ Sparking!METEOR]](天津飯、セルジュニア、天下一武道会アナウンサー〈武道会モードのみ〉) * [[ドラゴンボールZ 遥かなる悟空伝説]](天津飯、セルジュニア) | 2008年 | * [[ガンダム無双2]](ブライト・ノア) * [[スーパーロボット大戦A PORTABLE]](破嵐万丈、ブライト・ノア) * [[スーパーロボット大戦Z]] / スペシャルディスク(2008年 - 2009年、破嵐万丈、ブライト・ノア) - 2作品 * [[ドラゴンボールZ インフィニットワールド]](リングアナウンサー) | 2009年 | * [[スーパーロボット大戦NEO]](北条真吾) * [[ドラゴンボール改 サイヤ人来襲]](天津飯) | 2010年 | * [[Another Century's Episode:R]](ブライト・ノア) | 2011年 | * [[スーパーロボット大戦シリーズ]](2011年 - 2023年、破嵐万丈) - 6作品{{Ras|『[[第2次スーパーロボット大戦Z|第2次Z 破界篇]]』(2011年)、『第2次Z 再世篇』(2012年)、『[[第3次スーパーロボット大戦Z|第3次Z 天獄篇]]』(2015年)、『[[スーパーロボット大戦V|V]]』(2017年)、『[[スーパーロボット大戦X|X]]』(2018年)、『[[スーパーロボット大戦DD|DD]]』(2019年 - 2023年)}}<!-- 万丈役のみで出演している作品を一纏めにして記載 --> * [[ドラゴンボールヒーローズ]](2011年 - 、セルジュニア) - 5作品{{Ras|『ドラゴンボールヒーローズ』、『ドラゴンボールヒーローズ アルティメットミッション』シリーズ(無印、2、X)、『[[スーパードラゴンボールヒーローズ]]』}} * るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 再閃 / 完醒(2011年 - 2012年、斎藤一) - 2作品<ref group="注">『完醒』(2012年)ではTVアニメ版と新京都編の2バージョンのデザインが用意されており、TVアニメ版は鈴置のライブラリ音声、新京都編は後任の成田剣による新録音声が使い分けされている。</ref> | 2013年 | * [[スーパーロボット大戦Operation Extend]](ブライト・ノア、アコース、北条真吾) | 2016年 | * [[龍が如く 極]](囚人番号1356) | 2019年 | * [[スーパードラゴンボールヒーローズ ワールドミッション]](セルジュニア)<!-- 2019-04-04 --> | 2020年 | * [[共闘ことばRPG コトダマン]](斎藤一)<!-- 2020-07-03 --> }} === 吹き替え === ==== 俳優 ==== {{dl2 | [[ゲイリー・シニーズ]] | * [[アポロ13]]([[ケン・マッティングリー]])※フジテレビ版 * [[フォレスト・ガンプ/一期一会]](ダン・テイラー中尉)※フジテレビ版 * [[ミッション・トゥ・マーズ]](ジム・マッコーネル) | [[ジョン・トラボルタ]] | * [[グリース (映画)|グリース]](ダニー)※テレビ朝日版 * ジャンクション(ルイス)※VHS版 * ハード・チェインズ 沈黙の潜入(スコット・バーンズ)※テレビ東京版 * [[パルプ・フィクション]](ヴィンセント・ベガ) * [[ブロークン・アロー]](ディーキンズ少佐)※ソフト版 | [[ディラン・マクダーモット]] | * [[ザ・シークレット・サービス]](アル・ダンドゥレア)※ソフト版 * [[34丁目の奇跡 (1994年の映画)|34丁目の奇跡]](ブライアン) * [[マグノリアの花たち]](ジャクソン) | [[トム・クルーズ]](本人公認) | * {{仮リンク|スペース・ステーション|label=IMAX SPACE STATION 3D|en|Space Station 3D}}(ナレーター<ref>{{Cite web2 |url= https://www.kinejun.com/cinema/view/33551 |title=IMAX SPACE STATION 3D | work=[[キネマ旬報|キネマ旬報WEB]] |accessdate=2023-10-22}}</ref>) * [[ア・フュー・グッドメン]](ダニエル・キャフィ中尉) * [[インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア]](レスタト)※ソフト版 * [[おはよう日本]] [[ラストサムライ]]特集(本人)※ボイスオーバー * [[ザ・ファーム 法律事務所]](ミッチ・マクディーア)※ソフト版 * [[7月4日に生まれて]](ロン・コーヴィック)※ビデオ版 * [[デイズ・オブ・サンダー]](コール・タックル)※ソフト版、TBS版 * [[バニラ・スカイ]](デヴィッド・エイムス) * [[遥かなる大地へ]](ジョセフ・ドネリー) * [[ミッション:インポッシブル]](イーサン・ハント)※ソフト版 * [[ミッション:インポッシブル2]](イーサン・ハント)※ソフト版 | [[メル・ギブソン]] | * [[マッドマックス2]](マックス・ロカタンスキー)※TBS版(スーパーチャージャー・エディションBD収録) * [[リーサル・ウェポン]](マーティン・リッグス)※TBS版 * [[リーサル・ウェポン2/炎の約束]](マーティン・リッグス)※TBS版 | [[リチャード・ギア]] | * [[オータム・イン・ニューヨーク]](ウィル・キーン) * [[ジャック・サマースビー]](ジャック・サマースビー)※テレビ朝日版 * [[ブレスレス (1983年の映画)|ブレスレス]](ジェシー) }} ==== 映画 ==== * [[アウトロー (1976年の映画)|アウトロー]](ジェイミー〈[[サム・ボトムズ]]〉)※TBS版 * [[悪夢の破片]](ブライアン〈[[ウィリアム・ボールドウィン]]〉) * アマゾンの秘宝〜幻のエメラルド都市を求めて〜(マーク・ブレイザー〈リック・ディーン〉) * [[アメリカン・グラフィティ]](ジョン・ミルナー〈[[ポール・ル・マット]]〉)※TBS版 * [[アライバル/侵略者]](ゴーディアン〈[[ロン・シルヴァー]]〉)※テレビ朝日版 * [[アラン・ドロンのゾロ]](ミゲル総督〈マリノ・マッセ〉)※テレビ朝日新録版 * アルティメット・バトル 忍者VS少林寺(中田) * [[イヴの総て]](ロイド・リチャーズ〈[[ヒュー・マーロウ]]〉)※テレビ東京版 * [[ウェインズ・ワールド]](ベンジャミン・オリヴァー〈[[ロブ・ロウ]]〉) * [[ウォール街 (映画)|ウォール街]](マーヴィン〈[[ジョン・C・マッギンリー]]〉)※機内上映版 * [[エイリアン2]](ダニエル・スパンクマイヤー二等兵〈[[ダニエル・カッシュ]]〉)※テレビ朝日1989年版 * [[SF/ボディ・スナッチャー]](ジェフリー) * [[オスカー (1991年の映画)|オスカー]](アンソニー・ロッサノ〈[[ヴィンセント・スパーノ]]〉) * [[ガールズ (1979年の映画)|ガールズ]](ジェローム)※テレビ東京版 * [[カジュアリティーズ]](アントニオ・ディアズ上等兵〈[[ジョン・レグイザモ]]〉)※ソフト版 * ガジュラ(ジャック・エルウェイ〈[[アダム・ボールドウィン]]〉) * 華麗なる殺人 死ぬには美しすぎて * [[ギャラクシー・クエスト]](タガート艦長〈[[ティム・アレン]]〉) * [[Q&A (映画)|Q&A]](ロジャー・モンタルヴォ)※ソフト版 * [[キラー・クロコダイル/怒りの逆襲]](ケヴィン)※フジテレビ版 * [[キンダガートン・コップ]](クリスプ〈[[リチャード・タイソン]]〉)※ソフト版 * [[9時から5時まで]](ディック・バーンリー〈[[ローレンス・プレスマン]]〉) * グッドガイの最期(ルーカス〈[[デニス・デューガン]]〉) * [[グリース2]](レオ・バーミュード) * [[グレートスタントマン]](スキー〈[[ジャン=マイケル・ヴィンセント]]〉)※ビデオ版 * クレイジーホース/酔馬拳(マー〈チー・クァン・チュン〉) * ゲート2/デモンボーイズ(モー) * [[激走!5000キロ]](ギブソン〈[[ゲイリー・ビジー]]〉)※テレビ朝日版 * [[ゴースト/ニューヨークの幻]](カール・ブルーナー〈[[トニー・ゴールドウィン]]〉)※フジテレビ版 * [[ゴーストバスターズ2]](ルイス〈[[リック・モラニス]]〉、ノーマン)※ソフト版、機内上映版<ref>{{Cite news|title=ゴーストバスターズ2[吹]機内上映版|date=2022-11-25|url=https://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=31757|accessdate=2022-11-25}}</ref> * [[ゴールデン・チャイルド]](メル・バックマン〈チャールズ・レヴィン〉)※フジテレビ版 * [[コップランド]](ゲリー・フィッグス〈[[レイ・リオッタ]]〉)※日本テレビ版 * [[コマンドー]](サリー〈[[デヴィッド・パトリック・ケリー]]〉、沿岸警備艇レーダー迎撃士官〈[[ビル・パクストン]]〉)※TBS版 * [[殺したい女]](ケン・ケスラー〈[[ジャッジ・ラインホルド]]〉) * [[ザ・デプス]](ホッジス)※テレビ朝日版(BD収録) * さまよえる魂 NIGHT WORLD(ヴィクター・ロビンソン〈[[ジョン・サヴェージ]]〉) * [[サムシング・ワイルド (映画)|サムシング・ワイルド]](レイ・シンクレア〈レイ・リオッタ〉)※テレビ東京版 * [[猿の惑星 (映画)|猿の惑星]](ルシアス〈ルー・ワグナー〉)※ソフト版 * [[シカゴ・コネクション/夢みて走れ]](スネーク〈[[ジョー・パントリアーノ]]〉) * [[シックス・デイ]](ドラッカー〈トニー・ゴールドウィン〉)※日本テレビ版 * [[じゃじゃ馬ならし (1967年の映画)|じゃじゃ馬ならし]](ルーセンショー〈[[マイケル・ヨーク]]〉) * [[シャドーチェイサー/地獄の殺戮アンドロイド]] * [[ジャングル・ブック (1994年の映画)|ジャングル・ブック]](ウィリアム・ブーン大尉〈[[ケイリー・エルウィス]]〉)※ビデオ版 * [[13日の金曜日シリーズ#13日の金曜日 完結編|13日の金曜日 完結編]](ジミー〈[[クリスピン・グローヴァー]]〉) * [[笑撃生放送! ラジオ殺人事件]](ビリー〈[[スコット・マイケル・キャンベル]]〉) * [[勝利への脱出]] * [[処刑ライダー]](パッカード〈[[ニック・カサヴェテス]]〉)※テレビ朝日版 * 新・桃太郎3/聖魔大戦(妖鬼魔王) * [[ステイン・アライブ]](バトラー) * [[スピード2]](アレックス〈[[ジェイソン・パトリック]]〉)※フジテレビ版 * [[世界崩壊の序曲]](ブライアン〈[[エドワード・アルバート]]〉) * [[卒業 (1967年の映画)|卒業]](カーター)※TBS版(思い出の復刻版ブルーレイに収録) * [[ダーティハリー3]](強盗犯) * [[ダーティハリー4]](ベネット巡査) * [[ターミネーター (映画)|ターミネーター]](チンピラ1〈ビル・パクストン〉)※テレビ朝日版 * [[タイムコップ2]](ブランドン・ミラー〈トーマス・イアン・グリフィス〉) * [[大列車強盗 (クライトン)|大列車強盗]](ウィリー) * [[007 サンダーボール作戦]](ディスコ・ヴォランテ号乗組員)※TBS版 * [[007 リビング・デイライツ]](ジェームズ・ボンド〈[[ティモシー・ダルトン]]〉)※テレビ朝日版 * [[007 消されたライセンス]](ダリオ〈[[ベニチオ・デル・トロ]]〉)※ビデオ版 * [[チャイルド・プレイ (1988年の映画)|チャイルド・プレイ]](チャッキー、チャールズ・リー・レイ〈[[ブラッド・ドゥーリフ]]〉) * [[チャイルド・プレイ3]](シェルトン〈トラヴィス・ファイン〉) * [[月の輝く夜に]](ロニー・カマレリ〈[[ニコラス・ケイジ]]〉)※ANA機内上映版<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.star-ch.jp/channel/detail.php?movie_id=32191 |title=月の輝く夜に[吹]機内上映(横尾まり/鈴置洋孝)版 |access-date=2023-07-08 |publisher=スターチャンネル}}</ref> * [[ティーン・エージェント]](オーガスタス・ステランコ〈[[ロジャー・リース]]〉) * [[ディア・ハンター]](バンドリーダー〈[[ジョー・グリファシ]]〉)※フジテレビ版 * [[テスタメント (映画)|テスタメント]](フィル・ピトキン〈[[ケビン・コスナー]]〉) * [[デビルスピーク]](ババ)※TBS版(DVD収録) * デモリショニスト 復讐の女捜査官(マッド・ドッグ〈[[リチャード・グリエコ]]〉) * [[デルタフォース3]](フセイン)※ビデオ版 * [[ドラゴンハート (映画)|ドラゴンハート]](アイノン〈[[デヴィッド・シューリス]]〉)※ソフト版 * [[泣かないで (映画)|泣かないで]] * [[バーニング (1981年の映画)|バーニング]](エディ〈ネッド・アイゼンバーグ〉)※フジテレビ版(ソフト収録) * [[初体験/リッジモント・ハイ]](ジェフ・スピコーリ〈[[ショーン・ペン]]〉) * [[バッドボーイズ2バッド]](ジョニー・タビア〈[[ジョルディ・モリャ]]〉)※ソフト版 * [[張り込み]](ビル〈[[エミリオ・エステベス]]〉)※フジテレビ版 * [[ハロウィン (1978年の映画)|ハロウィン]](ジュディスの恋人)※TBS版(ソフト収録) * [[靴をなくした天使|ヒーロー/靴をなくした天使]](チャッキー〈[[ケヴィン・J・オコナー]]〉)※ソフト版 * [[ピアノ・レッスン]](アリスディア・スチュアート〈[[サム・ニール]]〉) * [[秘密の花園 (1993年の映画)|秘密の花園]](アーチボルド・クレイヴン卿〈[[ジョン・リンチ (俳優)|ジョン・リンチ]]〉) * 飛龍カンフー(タイコー〈チー・クァン・チュン〉) * ブーメランのように * ファンタズムII(マイク〈[[ジェームズ・レグロス]]〉) * [[フィラデルフィア・エクスペリメント]](バーニー〈[[スティーヴン・トボロウスキー]]〉)※テレビ朝日版 * フェティッシュ(エドアルド) * [[ブラックホール (1979年の映画)|ブラックホール]](V.I.N.CENT.)※フジテレビ版 * [[フランケンシュタイン (1994年の映画)|フランケンシュタイン]](ヴィクター・フランケンシュタイン〈[[ケネス・ブラナー]]〉)※テレビ朝日版 * プリズン・エンジェル 女囚たちの夜(ヴィクター〈[[エリック・エストラーダ]]〉) * [[ブルースチール (1990年の映画)|ブルースチール]](ニック・マン〈[[クランシー・ブラウン]]〉)※ビデオ版 * [[プレシディオの男たち]](ゴードン大尉)※フジテレビ版 * ヘル・キャンプ(ボッツ) * [[ポーキーズ]](ミッキー・ジャービス〈ロジャー・ウィルソン〉) * [[ホーリーマン]](スコット・ホークス〈[[エリック・マコーマック]]〉) * [[ボールズ・ボールズ]] * [[北海ハイジャック]] * [[ホット・ショット (映画)|ホット・ショット]](ケント・グレゴリー〈ケイリー・エルウィス〉)※テレビ朝日版 * [[ボディ・ターゲット]](ロニー保安官)※テレビ朝日版 * [[炎のランナー]]([[エドワード8世 (イギリス王)|皇太子]]〈デイビッド・イェランド〉)※TBS版 * [[ポリスアカデミーシリーズ#ポリスアカデミー|ポリスアカデミー]](ダグラス・ファックラー〈[[ブルース・マーラー]]〉)※TBS版(ソフト収録) * 香港極道 警察(シュー主任) * 魔性弁護人 * 窓 ベッドルームの女(テリー〈[[スティーヴ・グッテンバーグ]]〉) * [[マドンナのスーザンを探して]](デズ〈[[エイダン・クイン]]〉) * [[真夜中の処刑ゲーム]](チェスター〈ダリル・ハネイ〉)※テレビ朝日版(ソフト収録) * [[マン・ハンティング/人間狩り]](ジョン〈[[ショーン・スティーブンス]]〉) * [[ミスター・グッドバーを探して]](カリー〈[[トム・ベレンジャー]]〉) * [[Mr.レディMr.マダム2]](モレル) * [[メッセンジャー・オブ・デス]](ジュニア) * [[メディカル・レッスン/青春解剖学]](ジョー・スローヴァク〈[[マシュー・モディーン]]〉) * [[もういちど殺して]](ジャック・アンドリュース〈[[ヴァル・キルマー]]〉)※TBS版 * [[ヤング・ゼネレーション]](マイク〈[[デニス・クエイド]]〉) * [[ヤングマスター 師弟出馬]](タイガー〈ウェイ・ペイ〉)※フジテレビ版 * [[リトル★ニッキー]](トッド〈アレン・コヴァート〉) * [[理由なき反抗]](グーン〈[[デニス・ホッパー]]〉)※TBS版 * ルート666(ジャック〈[[ルー・ダイアモンド・フィリップス]]〉) * [[レナードの朝]](アンソニー)※ソフト版 * [[ロジャー・ラビット]](ベニー・ザ・キャブ、ビッグ・バット・ウルフ) * [[ロボフォース 鉄甲無敵マリア]](ウイスキー〈[[ツイ・ハーク]]〉) * [[私の愛情の対象]](ロバート・ジョリー〈[[ティモシー・デイリー]]〉) * [[ワン・モア・タイム (映画)|ワン・モア・タイム]](アレックス・フィンチ〈[[ロバート・ダウニー・Jr]]〉)※[[JAL]]機内上映版 ==== ドラマ ==== * [[アメリカン・ヒーロー]](カイラー・ジョンソン) * アルケミスト 背徳の遺伝子操作の陰謀 * [[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険]](リー) * 浮気なおしゃれミディ(ケンドール〈トニー・ゴードン〉) * [[エクスカリバー 聖剣伝説]](マーリン〈サム・ニール〉) * [[X-ファイル]] ** シーズン7 第11話「存在と時間 Part2」(ハロルド・ピラー〈[[アンソニー・ヒールド]]〉) ** シーズン8 第6話「レッドラム」(マーティン・ウェールズ〈[[ジョー・モートン]]〉) * [[警察署長 (小説)|警察署長]](バディ・バートレット) * [[刑事スタスキー&ハッチ]] シーズン1 #12(テッド・バンクス) * [[こちらブルームーン探偵社]] シーズン2 #7(一夜の男) * [[事件記者ルー・グラント]](リンゼ) * 13日の金曜日ザ・シリーズ(アダム) * [[私立探偵マグナム]] シーズン2 #16(ドーシー) * [[新アウターリミッツ]](ヘンリー・マーシャル〈[[フランク・ホエーリー]]〉、ピート・バトラー大佐〈スコット・クラフト〉、ジグ・ファウラー/クリフ・アンガー〈フランク・ホエーリー〉) * 新・弁護士ペリー・メイスン(スキップ・ウインゲート) * スーパーキャリア2(シエラ〈ケン・オランド〉) * [[スタートレック]] * [[スタートレック:ヴォイジャー]](ランサム艦長) * [[スタートレック:エンタープライズ]](ギャロス) * [[ザ・スタンド (小説)#映像化|スティーヴン・キングのザ・スタンド]](レン) * [[青春の城 コビントン・クロス]](ジャスパー) * [[タイムマシーンにお願い]](クレイトン) * [[チャーリーズ・エンジェル|地上最強の美女たち!チャーリーズ・エンジェル]] シーズン2 #3(ジャック・ワード) * [[地上最強の美女バイオニック・ジェミー]]2 #4、#6 * [[ツイン・ピークス]](デニス〈[[デイヴィッド・ドゥカヴニー]]〉) * [[特捜刑事マイアミ・バイス]] シーズン1 #14(ハウィー・ウォン〈[[ジェームズ・サイトウ]]〉)、#19(アルブレヒト) * [[特攻野郎Aチーム]] ** シーズン2 #5(ダニエル・ランニングベア)、#6(シェリー)、#21(エリック〈[[サム・J・ジョーンズ]]〉) ** シーズン3 #14(トラヴィス・メイソン〈[[マーシャル・R・ティーグ]]〉) * [[ニキータ (テレビドラマ)|ニキータ]](マイケル・サミュエル) * [[ハリウッド・ナイトメア|ハリウッドの悪夢 怪奇と幻想の招待状]](ウルリック) * [[B.L.ストライカー]] [[復讐のシャドー・コップ]] * [[ビバリーヒルズ高校白書|ビバリーヒルズ青春白書]](ジェイク) * [[冒険野郎マクガイバー]](ソニー) * 炎のエマ(エドウィン〈[[ピーター・チェルソン]]〉) * [[名探偵ダウリング神父]](ジェシー〈トッド・アレン〉) * [[名探偵ポワロ]] ** 二重の手がかり(バーナード・パーカー) ** 雲をつかむ死(ジャン・デュポン) ** 黄色いアイリス(アンソニー・チャペル) * [[名探偵モンク]] season3 3話(アルビー・ドレーク〈ジャッジ・ラインホルド〉) * [[メルローズ・プレイス]](ジェイク) * [[モンスターズ (テレビ番組)|モンスターズ]] シーズン1 #21(スティーヴン・ローズ) * [[ヤングライダーズ]](ジミー〈[[ジョシュ・ブローリン]]〉) ==== アニメ ==== * [[トランスフォーマー]] ** [[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー]]('''[[スタースクリーム]]'''、パワーグライド、スリング、デフコン) ** [[トランスフォーマー ザ・ムービー]]('''スタースクリーム''') ** [[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー2010]](スタースクリーム、パワーグライド) * [[パパはグーフィー]](ノットフォクスたち) * [[不思議の国のアリス]](1951年)ディズニーアニメ:(イセエビのフレッド、ユニコーン) * 緑の森のキャプテン === 特撮 === {{dl2 |1985年| * [[地球防衛軍テラホークス]](ホークアイ中尉の声) |1997年| * [[電磁戦隊メガレンジャー]]('''ユガンデ''' / '''ユガンデ・リライブ''' / '''ユガンデ・ストロング''' / '''バーニングユガンデ'''の声) |1998年| * [[電磁戦隊メガレンジャーVSカーレンジャー]]('''ユガンデ・ストロング'''の声) |2002年| * [[鋼鉄天使くるみ#鋼鉄天使くるみpure|鋼鉄天使くるみpure]]('''綾小路英麿呂'''の声)}} === 人形劇 === * NHK教育 [[こどもにんぎょう劇場]] サーカスに入った王様(王様) * NHK教育 [[ひげよさらば]](ホイホイ) === ドラマ === * 東京シティメルヘン(虎夫ママ) === テレビ === * ショウビズトゥデイ(テレビ朝日系)1995年の番組終了時には、本人が登場した。 === レコード、CD === * ザ・ロンゲスト・ロード・イン・破嵐万丈 / 鈴置洋孝(プロデュース・作詞:[[富野由悠季]]。作詞は[[富野由悠季|井荻麟]]名義) * 涙のユ・ク・エ…(歌) * 花と風の時代(歌) * きみのため鐘は鳴る(歌) * 究極超人あ〜るBOX(歌) * 山本正之'88(歌) * 夢の星のボタンノーズ「ボンゴレ・ロック」(歌) * ミスター味っ子サウンドトラック・満腹定食「必食料理人」(歌) * キャプテン翼・ベストイレブン(歌) * お金じゃ買えないっ([[お金がないっ]]シリーズ)(許斐清貴) * 鬼哭街 反魂剣鬼(劉 豪軍) * トーキョーN◎VA The Revolution ナイフエッジ(和泉藤嵩) * [[南国少年パプワくん]](ハーレム) * [[CDシアター ドラゴンクエスト]]V Vol.1(ゲマ) * 未来放浪ガルディーン 未来放浪ガルディーン 大歌劇 - スリム[口先男]ブラウン * サウンドピクチャーボックス ミュウツーの誕生(サカキ) * [[トリガーマン!]]('''キース・バーニング''') * 機動戦士SDガンダム タイホしちゃうわ(ブライト・ノア) * 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(ブライト・ノア) * 機動戦士ガンダム オデッセイ(ブライト・ノア) * 時給戦士スマイルバン外伝(ドクター・モス) * アーシアンI・III(宮城) * マリオネットジェネレーション(ナレーション) * 未来放浪ガルディーン(スリム・ブラウン) * 冥王計画ゼオライマー 大冥界(耐爬) * 角川CDブック[[八つ墓村]]([[金田一耕助]]) * 長恨唄〜蛇性の婬〜(沙門小次郎) * オープン・セサミ(庚寿麿) * いじわるなパール(北条雅弥) * わがままなパール(北条雅弥) * よくばりなパール(北条雅弥) * きまぐれなパール(北条雅弥) * 旦那さま、お手をどうぞ(望月豪志) * こんな上司に騙されて(黒崎誠一) * こんな上司に騙されて2(黒崎誠一) * 永田町一丁目七番地(田山敏記) * 大きなバイブの舎の下(岡崎竜也) * 大きなコケシの故郷で(岡崎竜也) * 恋のリスクは犯せない(鷲崎勲) * 誘惑のターゲット・プライス(鷲崎勲) * 愛のレイティングAAA(鷲崎勲) * 愛と欲望の金融街(鷲崎勲) * 110番は甘い鼓動(氷室正純) * 春を抱いていた 2(菊地克哉) * BOYS LIFE 完全版(ロイ) * STAY(長田和己) * S-TRIPPER Episode 2(逢田真之介の父・神宮正義) * [[WILD ADAPTER]]02(長谷部) * エデンを遠く離れて / 神よ、いずこの楽園(高橋忍夫) * エデンを遠く離れて / 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[[機動戦士ガンダム (セガサターン)|機動戦士ガンダム]](1995年) * [[カプコン]] [[ロックマン8 メタルヒーローズ]](1996年) * [[トヨタ自動車]] ナディア復活篇(1998年) * [[バンダイビジュアル]] [[無敵鋼人ダイターン3]] LD-BOX PART1 & PART2(1998年) * [[日本衛星放送]] WOWOW年末年始200時間 ねない機械篇(1998年) * [[バンプレスト]] [[スーパーロボット大戦COMPACT]](1999年) * バンダイ SDガンダム GGENERATION GATHER BEAT(2000年) === その他 === * トランスフォーマー テレフォン(スタースクリーム) * ゆうきまさみ文化学院(1996年) * [[ゲーメスト]]ビデオ [[ストリートファイターIII]](1997年、ナレーター) * [[電撃大賞 (ラジオ番組)#特別番組・関連番組|電撃大作戦 もう一発!]](1998年8月23日) * [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-|るろうに剣心]]〜明治剣客浪漫譚〜 人気キャラクター名場面集〜斎藤一(1999年) * サンライズデジタルクロニクルvol.1 [[無敵鋼人ダイターン3]](CD-ROM 2003年) * 林原めぐみのTokyo Boogie Night ♯26(1992年10月10日) * TECH Win 付録CD(1996年) * 新・キャプテン翼 キャラクターカタログビデオ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} {{Ras}} === 出典 === {{Reflist|2 |refs= <ref name="ダイターン3">{{Cite web | accessdate = 2022-11-14 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = CHARACTER | url = http://daitarn3.net/character/ | website = アニメ 無敵鋼人ダイターン3 公式サイト}}</ref> <ref name="ガンダム">{{Cite web | accessdate = 2022-09-25 | publisher = サンライズ | title = STAFF & CAST| url = http://www.gundam.jp/tv/world/index.html | website = 機動戦士ガンダム公式Web}}</ref> <ref name="ゴーショーグン">{{Cite web|和書| accessdate = 2022-03-09 | publisher = [[葦プロダクション]] | title = 戦国魔神ゴーショーグン | url = http://ashipro.jp/works/tv_series/w008.html |website = 株式会社 葦プロダクション 公式サイト}}</ref> <ref name="逆転イッパツマン">{{Cite web|和書|url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/ippatsuman.html|title=作品データベース 逆転イッパツマン |publisher=[[タツノコプロ]]|accessdate=2022-05-23}}</ref> <ref name="マイアニメ">{{Cite journal|和書 |date=1985-02-01 |editor=鈴木博 |id=雑誌08635-2 |journal=[[マイアニメ]] |issue=1985年2月号 |page=51 |publisher=[[秋田書店]] |title=TELECAST NOW 超力ロボ ガラット}}</ref> <ref name="意味だす">{{Cite book|和書|chapter=一夜漬け用語辞典 |title=意味だすタイムボカン |page=67 |publisher=[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター エンタテインメント株式会社]] |year=1997}}</ref> <ref name="天下一伝説">{{Cite book|和書|chapter=天下一声優陣 其之二 天津飯役 鈴置洋孝|date=2004-07-02 |editor=鈴木晴彦 |isbn=4-08-873705-9 |page=150 |publisher=[[集英社]] |series = ジャンプ・コミックス |title=テレビアニメ完全ガイド『DRAGON BALL』天下一伝説}}</ref> <ref name="逆転イッパツマンCB">{{Cite book |和書 |chapter=全58話ストーリーCHECK |editor=鈴木秀明 |title=タイムボカンシリーズ 逆転イッパツマン COMPLETE BOOK |date=2018-02-05 |page=60・70 |publisher= [[ぴあ]] |isbn = 978-4-8356-3846-1}}</ref> <ref name="機甲創世記モスピーダ">{{Cite web|和書|url=https://tatsunoko.co.jp/works_animation/archive/mospida.html |title=作品データベース 機甲創世記モスピーダ | publisher=タツノコプロ|accessdate=2023-02-08}}</ref> <ref name="ガラット">{{Cite web|和書| accessdate = 2022-11-12 | publisher = サンライズ | title = 超力ロボ ガラット | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_114.php | website = サンライズワールド}}</ref> <ref name="星銃士ビスマルク">{{Cite web|和書| accessdate = 2022-09-25 | publisher = [[ぴえろ]] | title = 星銃士ビスマルク| url = https://pierrot.jp/archive/1980/tv80_09.html | website = スタジオぴえろ 公式サイト}}</ref> <ref name="Zガンダム">{{Cite web | url = http://www.z-gundam.net/staffcast/index.html | title = STAFF/CAST |website = 機動戦士Ζガンダム |work= |publisher = サンライズ | accessdate = 2022-03-28}}</ref> <ref name="ガンダムZZ">{{Cite web | url = http://www.gundam-zz.net/staffcast/index.html | title = STAFF&CAST |website = 機動戦士ガンダムZZ 公式サイト |publisher = サンライズ | accessdate = 2022-03-28}}</ref> <ref name="ドラゴンボール">{{Cite web|和書|accessdate=2023-04-08 | publisher=東映アニメーション | title = スタッフ&キャスト | url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/dragon/staff/index.html |work = ドラゴンボール}}</ref> <ref name="ミスター味っ子">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-01-07 | publisher = サンライズ | title = ミスター味っ子 | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_141.php | website = サンライズワールド}}</ref> <ref name="熱沙の覇王 ガンダーラ">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-05-28 | publisher = [[葦プロダクション]] | title = 熱沙の覇王 ガンダーラ | url = http://ashipro.jp/works/tv_series/w035.html |website = 株式会社 葦プロダクション 公式サイト}}</ref> <ref name="劇場版ゴーショーグン">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-01-08 | publisher = 葦プロダクション | title = 戦国魔神ゴーショーグン(TV総集編) | url = http://ashipro.jp/works/theatrical/w002.html |website = 株式会社 葦プロダクション 公式サイト}}</ref> <ref name="時の異邦人">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-01-08 | publisher = 葦プロダクション | title = Goshogun In 時の異邦人 | url = http://ashipro.jp/works/theatrical/w003.html |website = 株式会社 葦プロダクション 公式サイト}}</ref> <ref name="アリオン">{{Cite web|和書| accessdate = 2022-12-31 | publisher = サンライズ | title = ネオ・ヒロイック・ファンタジア アリオン | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_121.php | website = サンライズワールド}}</ref> <ref name="逆襲のシャア">{{Cite web | accessdate = 2022-09-25 | publisher = サンライズ | title = STAFF&CAST| url = http://www.gundam-cca.net/staffcast/index.html | website = 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』公式サイト}}</ref> <ref name="摩訶不思議大冒険">{{Cite web|和書|accessdate=2022-06-06 |publisher=東映アニメーション |title = キャラクター/キャスト |url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_dragonball_makahushigi/character/ |website = 東映アニメーション作品ラインナップ |work=ドラゴンボール 摩訶不思議大冒険}}</ref> <ref name="地球まるごと超決戦">{{Cite web|和書| accessdate=2022-06-06 |publisher=東映アニメーション |title = キャラクター/キャスト | url=https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/movie/movie_dragonball_tyoukessen/character/ | website = 東映アニメーション作品ラインナップ | 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公式サイト|date=20130827205915}} * [https://thetv.jp/person/0000013551/ 鈴置洋孝のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン] * [https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/鈴置洋孝/#person-110015160_ 鈴置洋孝の解説 - goo人名事典] * {{Kotobank|鈴置%20洋孝-1671975|3=鈴置 洋孝}} * {{Kinejun name|86401}} * {{Oricon name|254560}} * {{Movie Walker name|81527}} * {{映画.com name|42541}} * {{Allcinema name|124577}} * {{JMDb name|0374840}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すすおき ひろたか}} [[Category:日本の男性声優]] [[Category:日本の男優]] [[Category:日本の舞台俳優]] [[Category:過去の東京俳優生活協同組合所属者]] [[Category:過去の賢プロダクション所属者]] [[Category:東京経済大学出身の人物]] [[Category:名古屋市出身の人物]] [[Category:肺癌で亡くなった人物]] [[Category:1950年生]] [[Category:2006年没]]
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写メール
写メール(シャメール)は、ソフトバンク(開始当時はJ-PHONE、その後ソフトバンクに買収)の電子メールにおける画像送受信サービスの名称、および同社の登録商標(第4632735号)。一般に「写メ」と略され、やがてキャリアを問わず携帯電話で画像を送ることを指す言葉となった。 元々J-PHONEのメールサービス「ロングメール」では画像の添付が可能だった。これを利用して、カメラ付き携帯電話で撮影した画像を電子メールに添付出来るようにしたサービスが、写真付きメールである。 2000年11月に初の内蔵型カメラ付き携帯電話であるシャープ製「J-SH04」が発売された。翌年の2001年夏季キャンペーンより「写真付き写メール」という名称を付けたところ大ヒットとなった。正確には、もともとはサービス名として開発したものではなく、キャンペーンワードとして打ち出したものが、後にサービス名として定着した。その後も、三洋、ノキア、東芝、三菱等が相次いでカメラ付き機種を投入した。 業界に大きなインパクトを与え、これによりJ-フォンの市場占有率は大きく上昇し、2001年から2002年にかけてNTTドコモは「iショット」、KDDIのauは「フォトメール」として同様のサービスを追従展開している。現在では、携帯電話のカメラ機能は、国内で販売される携帯電話端末の標準的な機能となった(法人向け端末では、機密保持の観点からカメラ機能を搭載しない場合もある)。 また端末開発メーカーであるシャープは、これ以前よりJ-フォンやNTTドコモ向けに端末の供給を行っていたが、市場占有率は低迷し、携帯電話機に関しては弱小メーカーの1つに過ぎなかった。しかし同機能のヒットは、シャープの携帯電話機市場占有率を大きく伸ばす原動力となった。 ボーダフォン日本法人時代、ヨーロッパ各国のボーダフォン(Vodafone)でも、日本の写真付きメールキャンペーンの成功を受けて、"Picture Messaging"キャンペーンが展開されるなど、世界的に影響を及ぼしたビジネスコンセプトとなった。 俗語では「写メ(シャメ)」等と略され、他社が提供する電子メールにおける画像送受信サービスや、メール送受信に関係なく携帯電話で撮影した写真そのものや撮影行為自体も「写メ」と呼ばれることがあった(主に2000年代以前)。
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写メール(シャメール)は、ソフトバンク(開始当時はJ-PHONE、その後ソフトバンクに買収)の電子メールにおける画像送受信サービスの名称、および同社の登録商標(第4632735号)。一般に「写メ」と略され、やがてキャリアを問わず携帯電話で画像を送ることを指す言葉となった。
'''写メール'''(シャメール)は、[[ソフトバンク]](開始当時は[[J-PHONE]]、その後ソフトバンクに買収)の[[電子メール]]における画像送受信サービスの名称、および同社の[[登録商標]](第4632735号)。一般に「'''写メ'''」と略され、やがてキャリアを問わず携帯電話で画像を送ることを指す言葉となった<ref name="toyokeizai">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/194758?page=2 |title=写メ・ハナキン…、「おじさん言葉」受け流し術 |publisher=東洋経済オンライン |accessdate=2019-09-16}}</ref>。 == 概要 == 元々[[J-PHONE]]のメールサービス「ロングメール」では画像の添付が可能だった。これを利用して、カメラ付き携帯電話で撮影した画像を電子メールに添付出来るようにしたサービスが、写真付きメールである。 [[2000年]]11月に初の内蔵型[[カメラ付き携帯電話]]である[[シャープ]]製「[[J-SH04]]」が発売された{{Efn|name="VP-210"|PHSを含めれば1999年9月発売の[[京セラ]]「[[VP-210]]」がカメラ付き携帯として世界初<ref name="asahi20201028">{{Cite web|和書|title=世界を変えた日本発カメラ付き携帯 20年前の誕生秘話:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASNBW4R4RNBPPLFA00M.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-10-28|date=2020-10-28|author=森田岳穂}}</ref>}}{{R|asahi20201028}}。翌年の[[2001年]]夏季キャンペーンより「[[写真]]付き写メール」という名称を付けたところ大ヒットとなった。正確には、もともとはサービス名として開発したものではなく、キャンペーンワードとして打ち出したものが、後にサービス名として定着した{{R|asahi20201028}}。その後も、[[三洋電機|三洋]]、[[ノキア]]、[[東芝]]、[[三菱電機|三菱]]等が相次いでカメラ付き機種を投入した。 業界に大きなインパクトを与え、これによりJ-フォンの[[市場占有率]]は大きく上昇し、2001年から[[2002年]]にかけて[[NTTドコモ]]は「[[iショット]]」、[[KDDI]]の[[au (携帯電話)|au]]は「[[フォトメール]]」として同様のサービスを追従展開している。現在では、携帯電話のカメラ機能は、国内で販売される携帯電話端末の標準的な機能となった(法人向け端末では、機密保持の観点からカメラ機能を搭載しない場合もある)。 また端末開発メーカーであるシャープは、これ以前よりJ-フォンやNTTドコモ向けに端末の供給を行っていたが、市場占有率は低迷し、携帯電話機に関しては弱小メーカーの1つに過ぎなかった{{R|asahi20201028}}。しかし同機能のヒットは、シャープの携帯電話機市場占有率を大きく伸ばす原動力となった{{R|asahi20201028}}。 [[ボーダフォン]]日本法人時代、[[欧州連合|ヨーロッパ各国]]のボーダフォン(Vodafone)でも、日本の写真付きメールキャンペーンの成功を受けて、"Picture Messaging"キャンペーンが展開されるなど、世界的に影響を及ぼしたビジネスコンセプトとなった。 [[俗語]]では「'''写メ'''(シャメ)」等と略され、他社が提供する[[電子メール]]における画像送受信サービスや、メール送受信に関係なく携帯電話で撮影した写真そのものや撮影行為自体も「写メ」と呼ばれることがあった(主に2000年代以前)。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[ソフトバンク]] *[[商標の普通名称化]] {{Keitai-stub}} {{デフォルトソート:しやめいる}} [[Category:携帯電話 (ソフトバンク)]] [[Category:登録商標]]
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スーパーコンピュータ
スーパーコンピュータ(英: supercomputer)は、科学技術計算用途で大規模・高速な計算能力を有するコンピューターである。一般的な用語としてスーパーコンピュータが用いられ、コンピューター業界での分野名としてHigh Performance Computer / Computing (HPC)が用いられる。本記事と類似している高性能計算の項目についても参照されたい。 スーパーコンピュータとは、科学技術計算を主要目的とする大規模コンピュータである。大規模・高速の計算能力を達成することを目的としている。そのために最適化されたハードウェアやソフトウェアを備えている。 なお、スーパーコンピュータという場合はプログラミングにより汎用の計算処理能力を持つ装置を指す。高い計算能力を有する装置であっても、たとえば多体問題専用の「GRAPE」のように目的が専用に限られる計算機については専用計算機に分類される。 ハードウェアについては、演算処理装置の高速化・搭載量の拡大、演算時のメモリ搭載量の大容量化・高速化、演算処理装置間でのメモリ共有方式が特徴的である。他にベクトル計算に特有の演算処理装置を備えるなど、取り扱われる演算に特有のハードウエア方式が採用されることがある。また、高い計算能力は演算処理を担う電子回路の大規模・高速なスイッチング動作により実現されるため、大量の電力消費と発熱に対応した電源設備、排熱・冷却機構が必要である。 ソフトウェアとしては、演算処理装置の搭載量の拡大に応じた並列計算処理に適した方式が採用される。それは取り扱う問題解決手法自体の最適化、そのプログラム実装でのアプリケーションレベルでのアルゴリズム、プログラムのコンパイラ段階など複数の階層で行われる。 スーパーコンピュータの利用される例として、機械・土木・建築分野での構造物の力学を有限要素法や境界要素法などに基づいて検討する構造解析、電気工学分野での電磁界解析、流体力学分野、気象予測、大気・海洋シミュレーション、物性・化学・材料科学分野での分子動力学、その他交通流解析、シミュレーション天文学、最適化問題、金融の大規模数値解析に基づくシミュレーションなどに利用されている。→#主な用途 歴史的に科学技術計算の目的で浮動小数点演算の性能で処理能力が高いコンピュータが「スーパーコンピュータ」と分類されてきた。初期には主として軍事用に使われた。 1960年にUNIVACがアメリカ海軍研究開発センター向けに製造したLARC(Livermore Atomic Research Computer)が、現在では最初のスーパーコンピュータと考えられている。LARCは新たに登場したディスクドライブ技術ではなく、高速な磁気ドラムメモリをまだ使用していた。 また、1961年に完成したスーパーコンピュータのIBM 7030 (ストレッチ)は、1955年時点のすべてのコンピュータの合計より100倍の速度を要求されてIBMがロスアラモス国立研究所向けに製造した。IBM 7030はトランジスタ、磁気コアメモリ、命令セットのパイプライン処理、メモリコントローラ経由のデータのプリフェッチ、そして先進的なランダムアクセスできるディスクドライブを備えた。 1960年代にはCDC社、1970年代にはクレイ社が、ベクトル演算を中心としたスーパーコンピュータでコンピューター業界でのシェアを伸ばした。また、コンピューターの各種シミュレーションでの民間の利用が拡大したことで、スーパーコンピュータの需要も拡大した。 1980年代にはNECなどの日本のメーカーが海外にも進出し、日米スパコン貿易摩擦にも発展した。 1960年~1980年ころのスーパーコンピュータは、ベクトル型計算機で利用用途が特化され汎用性が低く、巨大で高価であったため、現在では揶揄の意を込めて「巨艦主義」と呼ばれることもある。この表現は海戦史を踏まえたものであり、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけては、海戦では戦艦の攻撃力が勝負の鍵を握り、各国は戦艦を巨大化・巨砲化させることを競ったものの、第二次世界大戦中に、いつのまにか勝利の鍵が巨大戦艦ではなく空母や戦闘機の性能のほうに移ってしまい、戦艦の存在の無意味化が起き、日本の戦艦大和や戦艦武蔵などもむなしく撃沈されてしまったことになぞらえたものである。 1990年代後半に入るとパソコンの普及とパソコン用CPUの処理能力の向上が背景となり、パソコン用で安価なx86やPOWERなどのプロセッサを数百~数千個搭載して計算能力を実現するスカラー型のスーパーコンピュータが台頭し、スーパーコンピュータのコンテストであるTOP500でも上位を占めるようになった。また、スカラー型はCPUの搭載数に応じてスケーラビリティがあるため、中規模の企業や研究所などでも小型のスーパーコンピュータを導入して、費用対効果を保ちながら科学技術計算を行うことができるようになった。 2010年代に入りスーパーコンピュータの開発において中国の台頭が著しく、ランキングに占める数でアメリカを超え、処理性能の世界最高をめぐり日米と争うようになり、米中貿易戦争の対象にもなった。 2010年代後半からは既に大量生産されているGPUで汎用計算を行うGPGPUの導入が進んでおり、従来のようにカスタムCPUを新規設計する場合と比べてコストパフォーマンスを向上させる事が可能になってきている。究極の例としては2022年に単一マシンとして世界初のエクサスケールコンピュータとなった米HPEの「フロンティア」が挙げられ、GPGPUは世界の最先端を競う分野でもかなり信頼されていると見ることができる。 初期段階では主に軍事用に用いられた。現在のスーパーコンピュータは、高速演算、大量演算を必要とする分野に広く利用されており、たとえば次のような分野である。 なお、「計算能力によるコンピューティング」と、「計算容量によるコンピューティング」は、関連はあるものの異なるものである。一方の「計算能力によるコンピューティング」は、典型的には「大きな問題を最大のコンピューティングパワーを使用して最短時間で解決する」考え方であり、あるシステムで解決できるサイズや複雑さの問題が、他のコンピュータでは解決できない。他方、「計算容量によるコンピューティング」はそれとは対照的に、大小の問題を解決したりシステムの稼動準備をするために、コンピューティングパワーを効率的な費用対効果で使用する考え方である。 スーパーコンピュータといえども、プロセッサ、メモリ、ストレージ、ネットワークなどのハードウェアと、その上で動くオペレーティングシステム(OS)やアプリケーションなどのソフトウェアから構成される点では一般的なコンピュータと同じである。ただし、スーパーコンピュータのユーザは、本体とは別に用意された端末で操作したり、あるいはSSH・telnet経由で(遠隔で)操作を行う。 スーパーコンピュータに搭載されるプロセッサの役割も、(普通のコンピュータ同様に)計算処理を行うことである。 一般的なコンピュータと(最近の)スーパーコンピュータの大きな違いは、処理を並列に実行する点にある。通常の単純なプロセッサは、一命令あたり一つの演算だけを行うスカラープロセッサで、一般的なパーソナルコンピュータ(PC)に搭載されるプロセッサ数も1つかごく少数である。スーパーコンピュータでは、1クロックで複数の演算を一度に行うベクトルプロセッサを採用し、システムの中に数十個から数十万のプロセッサを搭載し計算を同時に実行することで高いスループットを実現する構造となっている。 ベクトル演算が1970年代に実装されたあとも、1980年代には並列処理、パイプライン処理、投機的実行、対称型マルチプロセッシング、1990年代にはVLIW、SIMDなどがスーパーコンピュータに導入され、並列度の向上を実現した。 スーパーコンピュータで最初に採用された技術の多くは、その後にサーバやPCにフィードバックされて、それらの性能向上に寄与した。またその逆に、それまでPC向けであったx86プロセッサが21世紀に入ってから、価格性能比の向上と超並列技術の向上により、スーパーコンピュータの構成に広く採用されるようになった。 1980年代から90年代までは、高性能計算に特化した専用のベクトルプロセッサを各スーパーコンピュータメーカーが独自に開発し、システムに採用していた。 1990年代前半から、i860、Alpha、POWER、MIPS、SPARC、IA-64などのワークステーションやサーバ向けの汎用プロセッサが、組み合わされるメモリーが安価なこととあいまって徐々にスーパーコンピュータにも導入され始め、1990年代後半では一部のハイエンドなものを除いて汎用プロセッサベースのシステムが主流となった。そのようなシステムはコンピュータ・クラスターとも呼ばれ、プロセッサを多数搭載することで高いスループットを狙っている。 さらに、21世紀からのx86プロセッサの価格性能比の向上に合わせ、インテルやAMDのCPUを採用するメーカーが増加している。x86の流れをくむx86-64アーキテクチャを含めると2010年6月に発表された第35回TOP500ランキングでは500台中450台がx86プロセッサを採用しており、PowerPCを含むPOWERベースのシステムとともに市場を二分しつつある。 汎用プロセッサが主流となった90年代後半以降になっても、特に高性能なシステムではベクトルプロセッサによるものが多かったが、それも21世紀に入り変化した。2002年に運用が開始され以降2年半にわたってTOP500の首位を占めた地球シミュレータのような例外はあるものの、ハイエンドな分野でも置き換えが進行し、2010年6月のランキングにおけるベクトル計算機は500台のうち1台のみとなっている。 特定の計算を支援するコプロセッサや本来画像処理のために開発されたGraphics Processing Unit(GPU)を汎用的な計算に利用するGPGPU(英: general purpose computing on GPU)など、ある用途に特化したプロセッサをスーパーコンピュータに活用する動きがある。汎用プロセッサに比べ、価格性能比が非常に高くまた消費電力が小さいという利点によって、特に2005年以降動きが活発になってきている。 GRAPEプロジェクトでは、1989年から多体問題に特化したプロセッサを製作し、天文学や分子動力学シミュレーションにおいて非常に価格性能比の良い専用計算機を開発している。東京工業大学のTSUBAMEにはOpteronによる約1万個のCPUコアの他に、ClearSpeedによる高性能計算専用アクセラレータCSX600が搭載されている。2006年11月のランキングでCSX600を利用することで、2006年6月に発表されたCPUのみの結果に比べ約10TFLOPSも性能が向上した。また、高性能GPUを手がけるAMD、NVIDIAは両社とも2007年に汎用計算を念頭に置いたGPUベースのアクセラレータを発表している。 また、このGPGPU利用の流れを受け、経済指標予測・リスク計量などの膨大なシミュレートと計算が必要である経済予測分野において、多くの経済研究機関・シンクタンクに向け、アメリカ合衆国や台湾の複数のベンチャー企業がGPGPUベースの高速予測システムを提供しつつあり、経済分野での貢献も始まっている。 スーパーコンピュータはノードと呼ばれる計算機の集合によって構成され、その計算機はコンピュータネットワークによって接続される。そのノード間を結ぶコンピュータネットワークのことを特にインターコネクトと呼ぶ。超並列マシンでは、ユーザの実行させたい処理を各ノードに分割して実行し、MPI等のAPIを使ったノード間通信で同期や計算結果の集約などを行う。そのため、高い性能を得るには広帯域かつ低遅延なインターコネクトが必要とされる。 旧来のスーパーコンピュータの多くでは独自のインターコネクト方式を採用しており、2007年、CrayはRapidArrayと呼ばれる独自方式を自社のシステムに採用している。コンピュータ・クラスターでは、イーサネットやInfiniBand、Myrinetなど、最大数十Gbps程度の帯域を持つインターコネクトが利用されている。 研究レベルにおける通信速度は、2005年11月にIBMの研究所による14GB/chが最高速であったが、2006年3月、NECおよび理化学研究所による次世代HPC構想の研究にて25GB/chが記録されている。 スーパーコンピュータにおけるインターコネクトでは、そのトポロジも性能に大きい影響を与える。よく用いられるネットワークトポロジとしては、メッシュ、クロスバー、トーラスなどがある。構築にかかるコストやアプリケーションの性質によって、システムに適切なネットワークトポロジは大きく異なる。 1970年代前半のCrayによるスーパーコンピュータ黎明期から、オペレーティングシステムにはUNIXおよびLinuxなどのUnix系が広く使用されている。この理由には、当初はライセンスフリーなオープンソース的なOSであったこと、主にC言語で書かれており機種間の移植が容易なこと、大学や研究所で広く使われており科学技術計算用のライブラリやツールが充実していることなどが挙げられる。 2000年頃よりUnix系であるLinuxの比率が急増し、2009年では約9割である。 なお、x86プロセッサの急激な価格性能比の向上を踏まえ、マイクロソフト社はWindows Serverをベースとしたスーパーコンピュータ向けOSWindows Compute Cluster Server(WCCS)を2006年6月にリリースした。採用例には東京工業大学がある。2008年9月には後継製品としてWindows HPC Server 2008を発表し、これを採用した上海超級計算中心のスーパーコンピュータが2008年のTOP500で11位に躍り出るもこれがWindowsマシンでは最高の成績であり、2021年11月に30Pflopsで10位入りしたMicrosoft AzureのシステムはLinuxカーネルによるUbuntuである。 各Unixで通常使われているスケジューラだけでなく、優先度の高い計算処理にCPU資源を強制的に割り当てるギャング スケジューリング方式もサポートしたものが多い。 スーパーコンピュータの性能を引き出すためには、それが持つハードウェアの特性に合わせてアプリケーションを開発する必要がある。スーパーコンピュータ向けアプリケーションの開発で利用される技術・手法を以下に示す。 科学技術計算分野ではFortranが古くから使われ、コンパイラ最適化技術が成熟していることやアプリケーション・数値演算ライブラリなどのソフトウェア資産の蓄積が大きいことから2017年現在でも利用される。実行効率と開発効率の面から、C言語およびC++もよく用いられる。 開発効率の改善とハードウェアの並列度向上に対応するため、新たなプログラミング言語が提案されている。サン・マイクロシステムズは、2007年1月に科学技術計算向けプログラミング言語Fortressを発表し、オープンソースとして公開している。他にもIBM社のX10などさまざまな提案がある。 高い性能を求められるスーパーコンピュータ向けアプリケーションでは、ベクトルプロセッサのベクトル演算命令やSIMDなどの並列演算命令を活用し、並列度を高めることで性能向上を図っている。具体的な手法として、最適化コンパイラが並列実行可能な箇所を発見し自動並列化を行うベクトル化や、プロセッサの並列演算命令をプログラミング言語の拡張機能やアセンブラを使い、プログラム内で明示的に呼び出す方法などがある。 2013年現在主流であるコンピュータ・クラスター型のスーパーコンピュータでは、MPIを用いて、プログラマがプロセス間の通信や同期をプログラムに記述することで大規模な並列計算を行う方法が一般的である。スーパーコンピュータ向けベンチマークLINPACKの一実装であるHPLや、遺伝子の相同性検索を行うBLASTなど多くの科学技術計算アプリケーションでは、MPIを用いた並列化に対応している。 分散コンピューティングの発展系として、遠隔地のスーパーコンピュータを含めたネットワーク上の多数のコンピュータを統一的に利用する手段として、グリッドコンピューティングの技術開発が世界的に進められており、日本でもNAREGIが国家プロジェクトとして採択を受け、研究と構築が行われている。また、国内の学校を含む、研究・教育機関に教育用に導入されているPCにグリッド基盤パッケージを導入し、現時点では利用されていないCPU資産をグリッドコンピュータの一部として活用する計画への参加を呼びかけている。グリッドコンピューティングの走りとして世界中のPCが参加しているSETIやグリッドによる分散処理に向いた研究素材を集めて、共通のグリッド基盤で処理を進めるBOINC、World Community Gridといったプロジェクトが軌道に乗っており、世界各国のプロジェクトが相乗りして成果を挙げている。 グリッド・コンピューティングの特徴は、ノードとして参加している個々のクライアントが自由にリソースの稼働率を決められる点にあり、稼働中のクライアントはパフォーマンスを提供する。一方、クラウド・コンピューティングは、リソースの管理をサービスプロバイダに委ね、クライアントは単にサービスを受けるのみであり、この点ではスーパーコンピュータを補完する機能はない。しかし、増加する一途の演算量とそれを保管するストレージの管理も分散コンピューティングの重要な要素になっており、クラウドを構築しておくことで、たとえネットワークが分断されても各ノードが演算すべきデータを見失わないようすることが可能となる。 2022年時点でスーパーコンピュータを扱うメーカーは次のとおりである。 2019年6月時点でTOP500に入るスーパーコンピュータのランキング数トップ5は、レノボ、浪潮、曙光、HPE、クレイの順である。 日本のメーカーはスーパーコンピュータの出荷台数が少なく、海外への販売実績のあるNECのSXシリーズ以外は国内利用向けが主である。TOP500の上位50位内には、自社での検証機と国策のNLS用スーパーコンピュータがランクインしている。 世界各国でもスーパーコンピュータの導入は進んでおり、1990年代初頭のような日米を2極とした導入数の集中状況は解消しつつある。アメリカも日本もスーパーコンピュータによるシミュレーション能力が国際競争力の源泉であることに気が付き、次々と次世代スーパーコンピュータ構想の手を打っている(詳細は京 (スーパーコンピュータ)を参照)。さらに、日米両国はそれぞれの政府主導の下、各省単位でのHPC投資促進が続けられており、数十PFLOPSコンピュータを2010年までに構築する計画が複数進んでいる。 日本におけるスーパーコンピュータの流れは、官学主導による国策としての大型スーパーコンピュータ構想と、産業界および産学協同のより実生活や一般的な産業面に近いスーパーコンピュータの利用や設置の流れがある。この2つの流れの間で産官学での調整が行われており、トップダウン型にはWebクライアント技術、ASIC、マイクロプロセッサ)など、ボトムアップ型には通信インフラストラクチャー、プロトコル、規格化などがある。 文部科学省が推進する日本の科学技術政策では、国立大学や国立研究機関などへのスーパーコンピュータの導入に関して、以下のNLSとNISという位置づけがされている。 たとえば、数値風洞(1993年11月のTOP500で首位)やPACSのCP-PACS(1996年11月のTOP500で首位)はNLSとして使用が始まり、その後2年ほどでNISとして利用された。2004年まで2年半の長期にわたってTOP500の第1位を占めた地球シミュレータもNLSとして開発され、2007年頃からはNISとして供用された。 2009年11月、長崎大学の浜田剛助教らがゴードン・ベル賞(価格性能部門)を受賞した。市販のGPU 760個の並列処理により、単精度による多体計算において、国内最速の地球シミュレータ2(倍精度LINPACKベンチマークでの測定値122.4 Tflops)を上回る158 Tflopsを開発費用3,800万円で実現した。浜田助教は「高性能の計算機は重要」としながら「(巨費を投じた従来の開発方針は)素直にいいとは言えない。方向性が逆」と発言した。GPUを大量につなげるプログラムの開発が成功の鍵とされた。 2010年11月のTOP500では東京工業大学のTSUBAME 2.0が4位を獲得した。同時期1位中国NUDTの天河一号Aと同様GPUを大幅に採用しているのが特徴であり、開発費は約30億円である(天河一号Aは約80億円、2002年世界一の地球シミュレータが600億円)。 2009年11月、日本で唯一ベクトル型を続けているNECは、インテルとのXeonを使用したスカラー型スーパーコンピュータの共同開発計画を発表した。 日本はスーパーコンピュータの省エネ化にも取り組んでおり、2013年11月21日に公開された省エネ性能ランキングでは、東京工業大学のTSUBAME-KFCが、2位に2割以上の差をつけて1位を獲得した。 2006年より文部科学省は、地球シミュレータに代わる次期NLSとして、「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」を開始した。当初計画ではベクトル・スカラー複合機を開発して、「2012年に10ペタFLOPS」を達成し、実質的にTOP500の1位を目指す内容であった。 しかし2009年2月にアメリカで「2011年に20ペタFLOPS」を目標とするセコイアが発表され、予定通りとなれば「日本の1位奪還」にはならない見込みとなった。2009年5月にはNEC・日立が経営不振を理由に同プロジェクトから撤退し、3社によるベクトル・スカラー複合型から、富士通単独によるスカラー型へ設計変更された。 同年11月13日には行政刷新会議の「事業仕分け」で、当プロジェクトは「予算計上見送りに近い縮減」(事実上の凍結)と判定されたため多数の議論が行われたが、政府は判定を見直し、12月16日には2010年度予算に227億円の計上を決定した。 構築途上ながら2011年6月の時点において、LINPACKベンチマークの実行性能8.162ペタフロップス、実行効率93.0%を達成。2位と比べて3倍以上の実行性能を発揮し、TOP500の1位を獲得した。さらに2011年11月2日、最終構成を用いたLINPACKベンチマークの実行性能が10.51ペタフロップス(実行効率93.2%)となり、世界で初めて実行性能10ペタフロップスを超えるコンピュータとなったことを発表した。セコイアは計画より1年遅れて2012年になって稼働し、京の性能を上回った。 グラフ探査性能ベースのベンチマークに基づく性能ランキング「Graph500」では、2015年2期連続で世界1位を獲得した。 京の次期システムは、TSUBAMEシリーズの設計者で理化学研究所計算科学研究センター長の松岡聡教授が率いる開発プロジェクトにて、ARMv8アキーテクチャーのCPU A64FXを新開発し、京の100倍程度高速なシステム(1エクサプロップスのシステム)を2020年に構築する予定とした。 2020年より試行運用、2021年(令和3年)に富岳として本格稼働し、2021年11月のTOP500、HPCG、HPL-AI、およびGraph500において4期連続の4冠を達成した。 日本の国策巨大プロジェクト「富岳」には従来より多数の論争が存在するが、主な論点には以下がある。 特に、富岳によって計算時間短縮などのメリットを持つ研究も可能だが、それを商用利用する事は認められていない事がネックになっている。 これを使って何をすればいいのかがはっきり定まっておらず、持て余した計算リソースを使って新型コロナウイルスの飛沫シミュレーションなどのPRを行っているのが現状である。 地球シミュレータによるコンピュートニクショックの後、その潜在的に大きな科学技術と国力・軍事研究の粋を挙げてHPC技術の更改と続伸を続けており、2006年8月現在、TOP500のランキングの上位50%以上をアメリカのスーパーコンピュータが占めている。近年の米国の計算機開発は、核兵器維持管理のためのコンピュータシミュレーションや高信頼性代替核弾頭など各種兵器の開発設計、作戦シミュレーションなど軍事利用が多く、技術開発は国防総省国防高等研究計画局とエネルギー省国家核安全保障局核備蓄管理プログラム(先端シミュレーション・演算プログラム)の開発プロジェクトや研究費に担うところが大きく、そのフィードバックによって日本と異なり着実に国力拡大を行っている。国立科学財団(NSF)、国立衛生研究所(NIH)、航空宇宙局(NASA)などもスーパーコンピュータの設置や研究開発への資金提供を行っている。HPC技術は民間用スーパーコンピュータとしても生命科学、金融工学、VFX・コンピュータグラフィックスなど広範な分野で使用されている。2018年6月8日、オークリッジ国立研究所とIBMは、世界最高速のスーパーコンピューター「Summit」の完成を発表した。Summitは200PFLOPSの性能を有する。直近5年間では、最高速のスーパーコンピューターは中国が有していたが、5年ぶりにアメリカが返り咲いた。開発ベンダはIBMである。 欧州各国においては、もともと1980年代からスーパーコンピュータのハードウェア分野にはあえて手を出さず、シミュレーションソフトやコンパイラなどのソフトウェア開発に力を注いでいた。次世代スーパーコンピュータに関しても、アメリカや日本のよりよい部分を選択・取得し、得意のソフトウェアに注力した発展と一般化したスーパーコンピュータの普及を目指して動いている。また、近年の情報社会・メディア総局の方針では、ミドルウェア開発を念頭に置いたプロジェクトを中心とすることとなっている。 1990年代は非常に少なかったが、中華人民共和国・台湾・大韓民国・インド・マレーシアといった国々では、スーパーコンピュータ購入や自国での構築も行っており、TOP500クラスの新規案件が増えている。
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"歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1960年代にはCDC社、1970年代にはクレイ社が、ベクトル演算を中心としたスーパーコンピュータでコンピューター業界でのシェアを伸ばした。また、コンピューターの各種シミュレーションでの民間の利用が拡大したことで、スーパーコンピュータの需要も拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1980年代にはNECなどの日本のメーカーが海外にも進出し、日米スパコン貿易摩擦にも発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1960年~1980年ころのスーパーコンピュータは、ベクトル型計算機で利用用途が特化され汎用性が低く、巨大で高価であったため、現在では揶揄の意を込めて「巨艦主義」と呼ばれることもある。この表現は海戦史を踏まえたものであり、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけては、海戦では戦艦の攻撃力が勝負の鍵を握り、各国は戦艦を巨大化・巨砲化させることを競ったものの、第二次世界大戦中に、いつのまにか勝利の鍵が巨大戦艦ではなく空母や戦闘機の性能のほうに移ってしまい、戦艦の存在の無意味化が起き、日本の戦艦大和や戦艦武蔵などもむなしく撃沈されてしまったことになぞらえたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年代後半に入るとパソコンの普及とパソコン用CPUの処理能力の向上が背景となり、パソコン用で安価なx86やPOWERなどのプロセッサを数百~数千個搭載して計算能力を実現するスカラー型のスーパーコンピュータが台頭し、スーパーコンピュータのコンテストであるTOP500でも上位を占めるようになった。また、スカラー型はCPUの搭載数に応じてスケーラビリティがあるため、中規模の企業や研究所などでも小型のスーパーコンピュータを導入して、費用対効果を保ちながら科学技術計算を行うことができるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2010年代に入りスーパーコンピュータの開発において中国の台頭が著しく、ランキングに占める数でアメリカを超え、処理性能の世界最高をめぐり日米と争うようになり、米中貿易戦争の対象にもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2010年代後半からは既に大量生産されているGPUで汎用計算を行うGPGPUの導入が進んでおり、従来のようにカスタムCPUを新規設計する場合と比べてコストパフォーマンスを向上させる事が可能になってきている。究極の例としては2022年に単一マシンとして世界初のエクサスケールコンピュータとなった米HPEの「フロンティア」が挙げられ、GPGPUは世界の最先端を競う分野でもかなり信頼されていると見ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "初期段階では主に軍事用に用いられた。現在のスーパーコンピュータは、高速演算、大量演算を必要とする分野に広く利用されており、たとえば次のような分野である。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "なお、「計算能力によるコンピューティング」と、「計算容量によるコンピューティング」は、関連はあるものの異なるものである。一方の「計算能力によるコンピューティング」は、典型的には「大きな問題を最大のコンピューティングパワーを使用して最短時間で解決する」考え方であり、あるシステムで解決できるサイズや複雑さの問題が、他のコンピュータでは解決できない。他方、「計算容量によるコンピューティング」はそれとは対照的に、大小の問題を解決したりシステムの稼動準備をするために、コンピューティングパワーを効率的な費用対効果で使用する考え方である。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータといえども、プロセッサ、メモリ、ストレージ、ネットワークなどのハードウェアと、その上で動くオペレーティングシステム(OS)やアプリケーションなどのソフトウェアから構成される点では一般的なコンピュータと同じである。ただし、スーパーコンピュータのユーザは、本体とは別に用意された端末で操作したり、あるいはSSH・telnet経由で(遠隔で)操作を行う。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータに搭載されるプロセッサの役割も、(普通のコンピュータ同様に)計算処理を行うことである。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一般的なコンピュータと(最近の)スーパーコンピュータの大きな違いは、処理を並列に実行する点にある。通常の単純なプロセッサは、一命令あたり一つの演算だけを行うスカラープロセッサで、一般的なパーソナルコンピュータ(PC)に搭載されるプロセッサ数も1つかごく少数である。スーパーコンピュータでは、1クロックで複数の演算を一度に行うベクトルプロセッサを採用し、システムの中に数十個から数十万のプロセッサを搭載し計算を同時に実行することで高いスループットを実現する構造となっている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ベクトル演算が1970年代に実装されたあとも、1980年代には並列処理、パイプライン処理、投機的実行、対称型マルチプロセッシング、1990年代にはVLIW、SIMDなどがスーパーコンピュータに導入され、並列度の向上を実現した。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータで最初に採用された技術の多くは、その後にサーバやPCにフィードバックされて、それらの性能向上に寄与した。またその逆に、それまでPC向けであったx86プロセッサが21世紀に入ってから、価格性能比の向上と超並列技術の向上により、スーパーコンピュータの構成に広く採用されるようになった。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1980年代から90年代までは、高性能計算に特化した専用のベクトルプロセッサを各スーパーコンピュータメーカーが独自に開発し、システムに採用していた。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年代前半から、i860、Alpha、POWER、MIPS、SPARC、IA-64などのワークステーションやサーバ向けの汎用プロセッサが、組み合わされるメモリーが安価なこととあいまって徐々にスーパーコンピュータにも導入され始め、1990年代後半では一部のハイエンドなものを除いて汎用プロセッサベースのシステムが主流となった。そのようなシステムはコンピュータ・クラスターとも呼ばれ、プロセッサを多数搭載することで高いスループットを狙っている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "さらに、21世紀からのx86プロセッサの価格性能比の向上に合わせ、インテルやAMDのCPUを採用するメーカーが増加している。x86の流れをくむx86-64アーキテクチャを含めると2010年6月に発表された第35回TOP500ランキングでは500台中450台がx86プロセッサを採用しており、PowerPCを含むPOWERベースのシステムとともに市場を二分しつつある。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "汎用プロセッサが主流となった90年代後半以降になっても、特に高性能なシステムではベクトルプロセッサによるものが多かったが、それも21世紀に入り変化した。2002年に運用が開始され以降2年半にわたってTOP500の首位を占めた地球シミュレータのような例外はあるものの、ハイエンドな分野でも置き換えが進行し、2010年6月のランキングにおけるベクトル計算機は500台のうち1台のみとなっている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "特定の計算を支援するコプロセッサや本来画像処理のために開発されたGraphics Processing Unit(GPU)を汎用的な計算に利用するGPGPU(英: general purpose computing on GPU)など、ある用途に特化したプロセッサをスーパーコンピュータに活用する動きがある。汎用プロセッサに比べ、価格性能比が非常に高くまた消費電力が小さいという利点によって、特に2005年以降動きが活発になってきている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "GRAPEプロジェクトでは、1989年から多体問題に特化したプロセッサを製作し、天文学や分子動力学シミュレーションにおいて非常に価格性能比の良い専用計算機を開発している。東京工業大学のTSUBAMEにはOpteronによる約1万個のCPUコアの他に、ClearSpeedによる高性能計算専用アクセラレータCSX600が搭載されている。2006年11月のランキングでCSX600を利用することで、2006年6月に発表されたCPUのみの結果に比べ約10TFLOPSも性能が向上した。また、高性能GPUを手がけるAMD、NVIDIAは両社とも2007年に汎用計算を念頭に置いたGPUベースのアクセラレータを発表している。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、このGPGPU利用の流れを受け、経済指標予測・リスク計量などの膨大なシミュレートと計算が必要である経済予測分野において、多くの経済研究機関・シンクタンクに向け、アメリカ合衆国や台湾の複数のベンチャー企業がGPGPUベースの高速予測システムを提供しつつあり、経済分野での貢献も始まっている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータはノードと呼ばれる計算機の集合によって構成され、その計算機はコンピュータネットワークによって接続される。そのノード間を結ぶコンピュータネットワークのことを特にインターコネクトと呼ぶ。超並列マシンでは、ユーザの実行させたい処理を各ノードに分割して実行し、MPI等のAPIを使ったノード間通信で同期や計算結果の集約などを行う。そのため、高い性能を得るには広帯域かつ低遅延なインターコネクトが必要とされる。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "旧来のスーパーコンピュータの多くでは独自のインターコネクト方式を採用しており、2007年、CrayはRapidArrayと呼ばれる独自方式を自社のシステムに採用している。コンピュータ・クラスターでは、イーサネットやInfiniBand、Myrinetなど、最大数十Gbps程度の帯域を持つインターコネクトが利用されている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "研究レベルにおける通信速度は、2005年11月にIBMの研究所による14GB/chが最高速であったが、2006年3月、NECおよび理化学研究所による次世代HPC構想の研究にて25GB/chが記録されている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータにおけるインターコネクトでは、そのトポロジも性能に大きい影響を与える。よく用いられるネットワークトポロジとしては、メッシュ、クロスバー、トーラスなどがある。構築にかかるコストやアプリケーションの性質によって、システムに適切なネットワークトポロジは大きく異なる。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1970年代前半のCrayによるスーパーコンピュータ黎明期から、オペレーティングシステムにはUNIXおよびLinuxなどのUnix系が広く使用されている。この理由には、当初はライセンスフリーなオープンソース的なOSであったこと、主にC言語で書かれており機種間の移植が容易なこと、大学や研究所で広く使われており科学技術計算用のライブラリやツールが充実していることなどが挙げられる。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2000年頃よりUnix系であるLinuxの比率が急増し、2009年では約9割である。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、x86プロセッサの急激な価格性能比の向上を踏まえ、マイクロソフト社はWindows Serverをベースとしたスーパーコンピュータ向けOSWindows Compute Cluster Server(WCCS)を2006年6月にリリースした。採用例には東京工業大学がある。2008年9月には後継製品としてWindows HPC Server 2008を発表し、これを採用した上海超級計算中心のスーパーコンピュータが2008年のTOP500で11位に躍り出るもこれがWindowsマシンでは最高の成績であり、2021年11月に30Pflopsで10位入りしたMicrosoft AzureのシステムはLinuxカーネルによるUbuntuである。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "各Unixで通常使われているスケジューラだけでなく、優先度の高い計算処理にCPU資源を強制的に割り当てるギャング スケジューリング方式もサポートしたものが多い。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータの性能を引き出すためには、それが持つハードウェアの特性に合わせてアプリケーションを開発する必要がある。スーパーコンピュータ向けアプリケーションの開発で利用される技術・手法を以下に示す。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "科学技術計算分野ではFortranが古くから使われ、コンパイラ最適化技術が成熟していることやアプリケーション・数値演算ライブラリなどのソフトウェア資産の蓄積が大きいことから2017年現在でも利用される。実行効率と開発効率の面から、C言語およびC++もよく用いられる。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "開発効率の改善とハードウェアの並列度向上に対応するため、新たなプログラミング言語が提案されている。サン・マイクロシステムズは、2007年1月に科学技術計算向けプログラミング言語Fortressを発表し、オープンソースとして公開している。他にもIBM社のX10などさまざまな提案がある。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "高い性能を求められるスーパーコンピュータ向けアプリケーションでは、ベクトルプロセッサのベクトル演算命令やSIMDなどの並列演算命令を活用し、並列度を高めることで性能向上を図っている。具体的な手法として、最適化コンパイラが並列実行可能な箇所を発見し自動並列化を行うベクトル化や、プロセッサの並列演算命令をプログラミング言語の拡張機能やアセンブラを使い、プログラム内で明示的に呼び出す方法などがある。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2013年現在主流であるコンピュータ・クラスター型のスーパーコンピュータでは、MPIを用いて、プログラマがプロセス間の通信や同期をプログラムに記述することで大規模な並列計算を行う方法が一般的である。スーパーコンピュータ向けベンチマークLINPACKの一実装であるHPLや、遺伝子の相同性検索を行うBLASTなど多くの科学技術計算アプリケーションでは、MPIを用いた並列化に対応している。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "分散コンピューティングの発展系として、遠隔地のスーパーコンピュータを含めたネットワーク上の多数のコンピュータを統一的に利用する手段として、グリッドコンピューティングの技術開発が世界的に進められており、日本でもNAREGIが国家プロジェクトとして採択を受け、研究と構築が行われている。また、国内の学校を含む、研究・教育機関に教育用に導入されているPCにグリッド基盤パッケージを導入し、現時点では利用されていないCPU資産をグリッドコンピュータの一部として活用する計画への参加を呼びかけている。グリッドコンピューティングの走りとして世界中のPCが参加しているSETIやグリッドによる分散処理に向いた研究素材を集めて、共通のグリッド基盤で処理を進めるBOINC、World Community Gridといったプロジェクトが軌道に乗っており、世界各国のプロジェクトが相乗りして成果を挙げている。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "グリッド・コンピューティングの特徴は、ノードとして参加している個々のクライアントが自由にリソースの稼働率を決められる点にあり、稼働中のクライアントはパフォーマンスを提供する。一方、クラウド・コンピューティングは、リソースの管理をサービスプロバイダに委ね、クライアントは単にサービスを受けるのみであり、この点ではスーパーコンピュータを補完する機能はない。しかし、増加する一途の演算量とそれを保管するストレージの管理も分散コンピューティングの重要な要素になっており、クラウドを構築しておくことで、たとえネットワークが分断されても各ノードが演算すべきデータを見失わないようすることが可能となる。", "title": "構成要素" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2022年時点でスーパーコンピュータを扱うメーカーは次のとおりである。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2019年6月時点でTOP500に入るスーパーコンピュータのランキング数トップ5は、レノボ、浪潮、曙光、HPE、クレイの順である。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本のメーカーはスーパーコンピュータの出荷台数が少なく、海外への販売実績のあるNECのSXシリーズ以外は国内利用向けが主である。TOP500の上位50位内には、自社での検証機と国策のNLS用スーパーコンピュータがランクインしている。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "世界各国でもスーパーコンピュータの導入は進んでおり、1990年代初頭のような日米を2極とした導入数の集中状況は解消しつつある。アメリカも日本もスーパーコンピュータによるシミュレーション能力が国際競争力の源泉であることに気が付き、次々と次世代スーパーコンピュータ構想の手を打っている(詳細は京 (スーパーコンピュータ)を参照)。さらに、日米両国はそれぞれの政府主導の下、各省単位でのHPC投資促進が続けられており、数十PFLOPSコンピュータを2010年までに構築する計画が複数進んでいる。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本におけるスーパーコンピュータの流れは、官学主導による国策としての大型スーパーコンピュータ構想と、産業界および産学協同のより実生活や一般的な産業面に近いスーパーコンピュータの利用や設置の流れがある。この2つの流れの間で産官学での調整が行われており、トップダウン型にはWebクライアント技術、ASIC、マイクロプロセッサ)など、ボトムアップ型には通信インフラストラクチャー、プロトコル、規格化などがある。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "文部科学省が推進する日本の科学技術政策では、国立大学や国立研究機関などへのスーパーコンピュータの導入に関して、以下のNLSとNISという位置づけがされている。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "たとえば、数値風洞(1993年11月のTOP500で首位)やPACSのCP-PACS(1996年11月のTOP500で首位)はNLSとして使用が始まり、その後2年ほどでNISとして利用された。2004年まで2年半の長期にわたってTOP500の第1位を占めた地球シミュレータもNLSとして開発され、2007年頃からはNISとして供用された。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2009年11月、長崎大学の浜田剛助教らがゴードン・ベル賞(価格性能部門)を受賞した。市販のGPU 760個の並列処理により、単精度による多体計算において、国内最速の地球シミュレータ2(倍精度LINPACKベンチマークでの測定値122.4 Tflops)を上回る158 Tflopsを開発費用3,800万円で実現した。浜田助教は「高性能の計算機は重要」としながら「(巨費を投じた従来の開発方針は)素直にいいとは言えない。方向性が逆」と発言した。GPUを大量につなげるプログラムの開発が成功の鍵とされた。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2010年11月のTOP500では東京工業大学のTSUBAME 2.0が4位を獲得した。同時期1位中国NUDTの天河一号Aと同様GPUを大幅に採用しているのが特徴であり、開発費は約30億円である(天河一号Aは約80億円、2002年世界一の地球シミュレータが600億円)。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2009年11月、日本で唯一ベクトル型を続けているNECは、インテルとのXeonを使用したスカラー型スーパーコンピュータの共同開発計画を発表した。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "日本はスーパーコンピュータの省エネ化にも取り組んでおり、2013年11月21日に公開された省エネ性能ランキングでは、東京工業大学のTSUBAME-KFCが、2位に2割以上の差をつけて1位を獲得した。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2006年より文部科学省は、地球シミュレータに代わる次期NLSとして、「次世代スーパーコンピュータプロジェクト」を開始した。当初計画ではベクトル・スカラー複合機を開発して、「2012年に10ペタFLOPS」を達成し、実質的にTOP500の1位を目指す内容であった。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし2009年2月にアメリカで「2011年に20ペタFLOPS」を目標とするセコイアが発表され、予定通りとなれば「日本の1位奪還」にはならない見込みとなった。2009年5月にはNEC・日立が経営不振を理由に同プロジェクトから撤退し、3社によるベクトル・スカラー複合型から、富士通単独によるスカラー型へ設計変更された。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "同年11月13日には行政刷新会議の「事業仕分け」で、当プロジェクトは「予算計上見送りに近い縮減」(事実上の凍結)と判定されたため多数の議論が行われたが、政府は判定を見直し、12月16日には2010年度予算に227億円の計上を決定した。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "構築途上ながら2011年6月の時点において、LINPACKベンチマークの実行性能8.162ペタフロップス、実行効率93.0%を達成。2位と比べて3倍以上の実行性能を発揮し、TOP500の1位を獲得した。さらに2011年11月2日、最終構成を用いたLINPACKベンチマークの実行性能が10.51ペタフロップス(実行効率93.2%)となり、世界で初めて実行性能10ペタフロップスを超えるコンピュータとなったことを発表した。セコイアは計画より1年遅れて2012年になって稼働し、京の性能を上回った。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "グラフ探査性能ベースのベンチマークに基づく性能ランキング「Graph500」では、2015年2期連続で世界1位を獲得した。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "京の次期システムは、TSUBAMEシリーズの設計者で理化学研究所計算科学研究センター長の松岡聡教授が率いる開発プロジェクトにて、ARMv8アキーテクチャーのCPU A64FXを新開発し、京の100倍程度高速なシステム(1エクサプロップスのシステム)を2020年に構築する予定とした。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2020年より試行運用、2021年(令和3年)に富岳として本格稼働し、2021年11月のTOP500、HPCG、HPL-AI、およびGraph500において4期連続の4冠を達成した。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本の国策巨大プロジェクト「富岳」には従来より多数の論争が存在するが、主な論点には以下がある。 特に、富岳によって計算時間短縮などのメリットを持つ研究も可能だが、それを商用利用する事は認められていない事がネックになっている。 これを使って何をすればいいのかがはっきり定まっておらず、持て余した計算リソースを使って新型コロナウイルスの飛沫シミュレーションなどのPRを行っているのが現状である。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "地球シミュレータによるコンピュートニクショックの後、その潜在的に大きな科学技術と国力・軍事研究の粋を挙げてHPC技術の更改と続伸を続けており、2006年8月現在、TOP500のランキングの上位50%以上をアメリカのスーパーコンピュータが占めている。近年の米国の計算機開発は、核兵器維持管理のためのコンピュータシミュレーションや高信頼性代替核弾頭など各種兵器の開発設計、作戦シミュレーションなど軍事利用が多く、技術開発は国防総省国防高等研究計画局とエネルギー省国家核安全保障局核備蓄管理プログラム(先端シミュレーション・演算プログラム)の開発プロジェクトや研究費に担うところが大きく、そのフィードバックによって日本と異なり着実に国力拡大を行っている。国立科学財団(NSF)、国立衛生研究所(NIH)、航空宇宙局(NASA)などもスーパーコンピュータの設置や研究開発への資金提供を行っている。HPC技術は民間用スーパーコンピュータとしても生命科学、金融工学、VFX・コンピュータグラフィックスなど広範な分野で使用されている。2018年6月8日、オークリッジ国立研究所とIBMは、世界最高速のスーパーコンピューター「Summit」の完成を発表した。Summitは200PFLOPSの性能を有する。直近5年間では、最高速のスーパーコンピューターは中国が有していたが、5年ぶりにアメリカが返り咲いた。開発ベンダはIBMである。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "欧州各国においては、もともと1980年代からスーパーコンピュータのハードウェア分野にはあえて手を出さず、シミュレーションソフトやコンパイラなどのソフトウェア開発に力を注いでいた。次世代スーパーコンピュータに関しても、アメリカや日本のよりよい部分を選択・取得し、得意のソフトウェアに注力した発展と一般化したスーパーコンピュータの普及を目指して動いている。また、近年の情報社会・メディア総局の方針では、ミドルウェア開発を念頭に置いたプロジェクトを中心とすることとなっている。", "title": "主要国の動向" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1990年代は非常に少なかったが、中華人民共和国・台湾・大韓民国・インド・マレーシアといった国々では、スーパーコンピュータ購入や自国での構築も行っており、TOP500クラスの新規案件が増えている。", "title": "主要国の動向" } ]
スーパーコンピュータは、科学技術計算用途で大規模・高速な計算能力を有するコンピューターである。一般的な用語としてスーパーコンピュータが用いられ、コンピューター業界での分野名としてHigh Performance Computer / Computing (HPC)が用いられる。本記事と類似している高性能計算の項目についても参照されたい。
'''スーパーコンピュータ'''({{lang-en-short|supercomputer}})は、[[科学技術計算]]用途で大規模・高速な計算能力を有する[[コンピューター]]である。一般的な用語としてスーパーコンピュータが用いられ、コンピューター業界での分野名として[[高性能計算|High Performance Computer / Computing (HPC)]]が用いられる。本記事と類似している'''[[高性能計算]]'''の項目についても参照されたい。 == 概要 == スーパーコンピュータとは、科学技術計算を主要目的とする大規模[[コンピュータ]]である<ref>小柳義夫、中村宏 他著、岩波講座計算科学別巻『スーパーコンピュータ』、2012年。「はじめに」より。</ref>。大規模・高速の計算能力を達成することを目的としている。そのために最適化された[[ハードウェア]]や[[ソフトウェア]]を備えている。 なお、スーパーコンピュータという場合はプログラミングにより汎用の計算処理能力を持つ装置を指す。高い計算能力を有する装置であっても、たとえば多体問題専用の「[[GRAPE]]」のように目的が専用に限られる計算機については[[専用計算機]]に分類される。 ハードウェアについては、演算処理装置の高速化・搭載量の拡大、演算時のメモリ搭載量の大容量化・高速化、演算処理装置間でのメモリ共有方式が特徴的である。他にベクトル計算に特有の演算処理装置を備えるなど、取り扱われる演算に特有のハードウエア方式が採用されることがある。また、高い計算能力は演算処理を担う電子回路の大規模・高速なスイッチング動作により実現されるため、大量の電力消費と発熱に対応した電源設備、排熱・冷却機構が必要である。<!--ただし、(コスト度外視で)最先端の技術が積極的に採用されて作られることもあるが、例えばGa-As系トランジスタを採用してまともに実稼働したスーパコンピュータは[[NSシステム]]の第2世代の「数値風洞」だけであり、超伝導素子など極低温に冷却する類も(2010年代以降の量子アニーラ等を除けば)実稼働したスーパコンピュータは極めて少なく、「コスト度外視の最先端の技術」は、結局のところスーパコンピュータでもリスクが過大である。シーモア・クレイがそうしたように、十分に確立された電子技術を使い、既存の冷却技術で冷却が可能なぎりぎりの所まで空間集積度を上げ、といったように、工学的に確実な手法こそが多くの場合は成功例につながっている。--> ソフトウェアとしては、演算処理装置の搭載量の拡大に応じた[[並列計算]]処理に適した方式が採用される。それは取り扱う問題解決手法自体の最適化、そのプログラム実装でのアプリケーションレベルでのアルゴリズム、プログラムのコンパイラ段階など複数の階層で行われる。<!--非常にごく一部の研究者は、多数のCPUに対して、計算させるべき対象を 間断なく生成しては送り込めるような、効率のよい[[アルゴリズム]]を研究している。大多数の、計算機ではなく他の科学技術分野を専門とするユーザは、[[Basic Linear Algebra Subprograms|BLAS]]のDGEMMなどを利用しており、[[HPCチャレンジベンチマーク]]や[[TOP500]]などでのベンチマークも、[[LINPACK]]で行われている。LINPACKは1970年代から1980年代初期のスーパーコンピュータを対象として設計されたライブラリであり、一般に「最先端」の語で想像されるような時代からは設計が(わずかに数十年程度)古い。--> スーパーコンピュータの利用される例として、機械・土木・建築分野での構造物の力学を[[有限要素法]]や[[境界要素法]]などに基づいて検討する構造解析、電気工学分野での[[電磁界解析]]、[[流体力学]]分野、[[数値予報|気象予測]]、大気・海洋シミュレーション、[[物性]]・[[化学]]・[[材料科学]]分野での[[分子動力学]]、その他交通流解析、[[シミュレーション天文学]]、[[最適化問題]]、金融の大規模[[数値解析]]に基づく[[シミュレーション]]などに利用されている。→[[#主な用途]] ;「スーパーコンピュータ」の範囲とその変化 : コンピューターの歴史はスーパーコンピュータに限らず時代とともにその能力を拡大しており、スーパーコンピュータは性能により一律に規定されるものではない[[相対性|相対的]]な分類である。 : スーパーコンピュータの各事例はその登場時点において科学技術計算を主要目的に最適化して開発された製品である。 : コンピューターの性能指標は評価軸によってさまざまな方向性があるが、スーパーコンピュータは科学技術計算を主要目的とするため、浮動小数点演算の処理能力が高いことが特徴である。一例として[[Cray-1]]が登場したときには、事務的な用途で利用される当時の標準的な[[メインフレーム]]の30倍程度であった。また、スーパーコンピュータに関する定義の事例として、2014年時点での日本の政府調達に関する規程では、理論的最高性能値が50<ruby lang="en">[[テラ|T]][[FLOPS]]<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">テラ・フロップス</rt><rp>)</rp></ruby>以上の計算機をスーパーコンピューターとして、政府関係の一部機関に対して「政府調達手続に関する運用指針」<ref>平成26年3月31日関係省庁申合せ</ref>に従って調達することを求めた<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/kanbou/25tyoutatu/huzokusiryou/h1-b2.pdf スーパーコンピューター導入手続]</ref>。 == 歴史 == {{see also|スーパーコンピュータ技術史}} 歴史的に科学技術計算の目的で[[浮動小数点演算]]の性能で処理能力が高いコンピュータが「スーパーコンピュータ」と分類されてきた。初期には主として[[軍事]]用に使われた。 1960年に[[UNIVAC]]が[[アメリカ海軍]]研究開発センター向けに製造した[[LARC]](Livermore Atomic Research Computer)が、現在では最初のスーパーコンピュータと考えられている。LARCは新たに登場した[[ディスクドライブ]]技術ではなく、高速な[[磁気ドラムメモリ]]をまだ使用していた<ref>{{cite book |title=Computers: The Life Story of a Technology |author1=Eric G. Swedin |author2=David L. Ferro |publisher = JHU Press|isbn= 9780801887741 |year=2007| page=57}}</ref>。 また、1961年に完成したスーパーコンピュータの[[IBM 7030|IBM 7030 (ストレッチ)]]は、1955年時点のすべてのコンピュータの合計より100倍の速度を要求されて[[IBM]]が[[ロスアラモス国立研究所]]向けに製造した。IBM 7030はトランジスタ、磁気コアメモリ、命令セットのパイプライン処理、メモリコントローラ経由のデータのプリフェッチ、そして先進的なランダムアクセスできるディスクドライブを備えた<ref>{{cite book |title=Computers: The Life Story of a Technology |author1=Eric G. Swedin |author2=David L. Ferro |publisher = JHU Press|isbn= 9780801887741 |year=2007| page=56}}</ref>。 [[ファイル:Cray_1_IMG_9126.jpg|thumb|right|1970年代の[[Cray-1]]。展示用に特別に内部が見えるようにしたもの。高速化のため配線を全体として短くするために、おおむね環のような形状にしている。その外観から「世界一高価な椅子」などと呼ばれることもある。]] [[1960年代]]には[[コントロール・データ・コーポレーション|CDC社]]、[[1970年代]]には[[クレイ (コンピュータ企業)|クレイ社]]が、[[ベクトル演算]]を中心としたスーパーコンピュータでコンピューター業界でのシェアを伸ばした。また、コンピューターの各種[[シミュレーション]]での民間の利用が拡大したことで、スーパーコンピュータの需要も拡大した。 [[1980年代]]には[[日本電気|NEC]]などの日本のメーカーが海外にも進出し、[[日米スパコン貿易摩擦]]にも発展した。 1960年~1980年ころのスーパーコンピュータは、ベクトル型計算機で利用用途が特化され汎用性が低く、巨大で高価であったため、現在では揶揄の意を込めて「巨艦主義」と呼ばれることもある。この表現は海戦史を踏まえたものであり、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけては、海戦では戦艦の攻撃力が勝負の鍵を握り、各国は戦艦を巨大化・巨砲化させることを競ったものの、第二次世界大戦中に、いつのまにか勝利の鍵が巨大戦艦ではなく空母や戦闘機の性能のほうに移ってしまい、戦艦の存在の無意味化が起き、日本の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]や[[武蔵 (戦艦)|戦艦武蔵]]などもむなしく撃沈されてしまったことに[[比喩|なぞらえた]]ものである。 [[1990年代]]後半に入ると[[パソコン]]の普及とパソコン用[[CPU]]の処理能力の向上が背景となり、パソコン用で安価な[[x86]]や[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]などのプロセッサを数百~数千個搭載して計算能力を実現する[[スカラー計算機|スカラー]]型のスーパーコンピュータが台頭し、スーパーコンピュータのコンテストである[[TOP500]]でも上位を占めるようになった。また、スカラー型はCPUの搭載数に応じてスケーラビリティがあるため、中規模の企業や研究所などでも小型のスーパーコンピュータを導入して、費用対効果を保ちながら科学技術計算を行うことができるようになった。 [[2010年代]]に入りスーパーコンピュータの開発において中国の台頭が著しく、ランキングに占める数でアメリカを超え<ref>{{cite web|url= https://www.asiatimes.com/2019/06/article/china-dominates-top500-with-219-supercomputers/ |title= China dominates Top500 with 219 supercomputers |newspaper= [[アジア・タイムズ・オンライン|アジア・タイムズ]]|date=2019-06-17|accessdate=2019-06-23}}</ref>、処理性能の世界最高をめぐり日米と争うようになり、[[米中貿易戦争]]の対象にもなった<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sankei.com/article/20190622-ROFLV4EIRBLSPMPJEBARGY7SSY/ |title= 米、中国スパコンに禁輸 5団体指定 首脳会談前に締め付け |newspaper= [[産経ニュース]]|date=2019-06-22|accessdate=2019-06-23}}</ref>。 [[2010年代]]後半からは既に大量生産されている[[Graphics Processing Unit|GPU]]<ref group="注">但し、大抵の場合は市販品そのままではなく、スーパーコンピュータ向けに設計の一部修正は行われる。それでも既存の設計・製造手法が流用できるため、大きなコストダウンになる。</ref>で汎用計算を行う[[GPGPU]]の導入が進んでおり、従来のようにカスタムCPUを新規設計する場合と比べてコストパフォーマンスを向上させる事が可能になってきている。究極の例としては[[2022年]]に単一マシンとして世界初の[[エクサスケールコンピュータ]]となった米[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ|HPE]]の「[[Frontier (スーパーコンピュータ)|フロンティア]]」が挙げられ、[[GPGPU]]は世界の最先端を競う分野でもかなり信頼されていると見ることができる。 == 主な用途 == 初期段階では主に軍事用に用いられた。現在のスーパーコンピュータは、高速演算、大量演算を必要とする分野に広く利用されており、たとえば次のような分野である。 *機械・土木・建築分野での構造力学。機械の設計、橋梁の設計など。 *電気工学・物理学分野での電磁界解析。アンテナの設計、高周波回路の設計、無線通信の伝播設計など。 *機械、化学、地球物理学(大気・海洋)分野での[[流体力学]]。輸送機器の機体設計、エンジン、タービンなどの原動機の設計、気象予報、気候変動予測、農業など。 *化学、物性分野の化学反応、固体物理学。[[計算化学]]([[構造体]]、[[化合物]]、生物学上の[[高分子]]、[[ポリマー]])、結晶の物性、第一原理計算など。 *原子力利用分野の核反応。原子炉内の核分裂反応、[[核融合]]の研究、[[核兵器]]の研究など。 なお、「計算能力によるコンピューティング」<ref group="注">{{lang-en-short|capability computing}}</ref>と、「計算容量によるコンピューティング」<ref group="注">{{lang-en-short|capacity computing}}</ref>は、関連はあるものの異なるものである。一方の「計算能力によるコンピューティング」は、典型的には「大きな問題を最大のコンピューティングパワーを使用して最短時間で解決する」考え方であり、あるシステムで解決できるサイズや複雑さの問題が、他のコンピュータでは解決できない。他方、「計算容量によるコンピューティング」はそれとは対照的に、大小の問題を解決したりシステムの稼動準備をするために、コンピューティングパワーを効率的な[[コストパフォーマンス|費用対効果]]で使用する考え方である。 == 構成要素 == スーパーコンピュータといえども、[[プロセッサ]]、[[記憶装置|メモリ]]、[[ストレージ]]、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]などのハードウェアと、その上で動く[[オペレーティングシステム]](OS)や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]などのソフトウェアから構成される点では一般的なコンピュータと同じである。ただし、スーパーコンピュータのユーザは、本体とは別に用意された[[端末]]で操作したり、あるいは[[Secure Shell|SSH]]・[[telnet]]経由で(遠隔で)操作を行う。 === プロセッサ === スーパーコンピュータに搭載されるプロセッサの役割も、(普通のコンピュータ同様に)計算処理を行うことである。 一般的なコンピュータと(最近の)スーパーコンピュータの大きな違いは、処理を並列に実行する点にある。通常の単純なプロセッサは、一命令あたり一つの演算だけを行う[[スカラー計算機|スカラープロセッサ]]で、一般的な[[パーソナルコンピュータ]](PC)に搭載されるプロセッサ数も1つかごく少数である。スーパーコンピュータでは、1クロックで複数の演算を一度に行う[[ベクトル計算機|ベクトルプロセッサ]]を採用し、システムの中に数十個から数十万のプロセッサを搭載し計算を同時に実行することで高い[[スループット]]を実現する構造となっている。 ベクトル演算が[[1970年代]]に実装されたあとも、[[1980年代]]には[[並列コンピューティング|並列処理]]、[[パイプライン処理]]、[[投機的実行]]、[[対称型マルチプロセッシング]]、[[1990年代]]には[[VLIW]]、[[SIMD]]などがスーパーコンピュータに導入され、並列度の向上を実現した。 スーパーコンピュータで最初に採用された技術の多くは、その後にサーバやPCにフィードバックされて、それらの性能向上に寄与した。またその逆に、それまでPC向けであった[[x86]]プロセッサが21世紀に入ってから、価格性能比の向上と超並列技術の向上により、スーパーコンピュータの構成に広く採用されるようになった。 ==== 採用プロセッサの変化 ==== [[Image:Processor families in TOP500 supercomputers.svg|thumb|right|400px|[[TOP500]]ランキングにおける1993年から2015年までのCPUアーキテクチャのシェアの推移。2008年以降は[[x64|x86-64 (Intel, AMD)]]と[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]が大半を占める。]] [[1980年代]]から[[1990年代|90年代]]までは、高性能計算に特化した専用の[[ベクトル計算機|ベクトルプロセッサ]]を各スーパーコンピュータメーカーが独自に開発し、システムに採用していた。 1990年代前半から、[[Intel i860|i860]]、[[DEC Alpha|Alpha]]、[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]、[[MIPS]]、[[SPARC]]、[[IA-64]]などのワークステーションやサーバ向けの汎用プロセッサが、組み合わされるメモリーが安価なこととあいまって徐々にスーパーコンピュータにも導入され始め、1990年代後半では一部のハイエンドなものを除いて汎用プロセッサベースのシステムが主流となった。そのようなシステムは[[コンピュータ・クラスター]]とも呼ばれ、プロセッサを多数搭載することで高いスループットを狙っている。 さらに、[[21世紀]]からのx86プロセッサの価格性能比の向上に合わせ、[[インテル]]や[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]のCPUを採用するメーカーが増加している。x86の流れをくむ[[x64|x86-64]]アーキテクチャを含めると[[2010年]]6月に発表された第35回[[TOP500]]ランキングでは500台中450台がx86プロセッサを採用しており<ref name="top500-35th">{{Cite web|url=http://www.top500.org/stats/list/35/procfam|title=Processor Family share for 6/2010 TOP500 Supercomputing Sites|author=Top500.org |accessdate=2010年6月1日 }}</ref>、[[PowerPC]]を含むPOWERベースのシステムとともに市場を二分しつつある。 汎用プロセッサが主流となった90年代後半以降になっても、特に高性能なシステムではベクトルプロセッサによるものが多かったが、それも21世紀に入り変化した。[[2002年]]に運用が開始され以降2年半にわたって[[TOP500]]の首位を占めた[[地球シミュレータ]]のような例外はあるものの、ハイエンドな分野でも置き換えが進行し、[[2010年]]6月のランキングにおけるベクトル計算機は500台のうち1台のみ<ref>{{Cite web|url=http://www.top500.org/stats/list/35/procarch|title=Processor Architecture share for 6/2010 TOP500 Supercomputing Sites|author=Top500.org |accessdate=2010年6月1日 }}</ref>となっている。 ==== 特定用途向けプロセッサの活用 ==== 特定の計算を支援するコプロセッサや本来画像処理のために開発された<ruby lang="en">[[Graphics Processing Unit]]<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">グラフィックス プロセッシング ユニット</rt><rp>)</rp></ruby>(GPU)を汎用的な計算に利用する[[GPGPU]]({{lang-en-short|general purpose computing on GPU}})など、ある用途に特化したプロセッサをスーパーコンピュータに活用する動きがある。汎用プロセッサに比べ、価格性能比が非常に高くまた消費電力が小さいという利点によって、特に2005年以降動きが活発になってきている。 [[GRAPE]]プロジェクトでは、1989年から[[多体問題]]に特化したプロセッサを製作し、[[天文学]]や[[分子動力学]]シミュレーションにおいて非常に価格性能比の良い専用計算機を開発している。[[東京工業大学]]の[[TSUBAME]]には[[Opteron]]による約1万個のCPUコアの他に、[[クリアスピード・テクノロジー|ClearSpeed]]<ref>[http://www.clearspeed.com/ ClearSpeed - Home]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20010721105722/http://www.clearspeed.com/ |date=2001年7月21日 }}</ref>による高性能計算専用アクセラレータ'''CSX600'''が搭載されている。2006年11月のランキングでCSX600を利用することで、2006年6月に発表されたCPUのみの結果に比べ約10TFLOPSも性能が向上した<ref>{{Cite web|url=http://www.clearspeed.com/docs/pressreleases/ClearSpeed_Oct_09_06.pdf|title=47 TeraFLOP TSUBAME cluster sets new record as the first accelerated cluster in the Top500 |author=Clearspeed Technology |accessdate=2008年3月12日 }}</ref>。また、高性能GPUを手がけるAMD、[[NVIDIA]]は両社とも2007年に汎用計算を念頭に置いたGPUベースのアクセラレータを発表している<ref>{{Cite web|和書|title=AMD、倍精度浮動小数点テクノロジを備えた初のストリーム・プロセッサを発表|url=http://www.amd.com/jp-ja/Corporate/VirtualPressRoom/0,,51_104_543~121848,00.html|author=Advanced Micro Devices, Inc. |accessdate=2007年11月17日 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nvidia.co.jp/object/tesla_computing_solutions_jp.html|title=NVIDIA Tesla - HPCのためのGPU コンピューティング ソリューション|author=NVIDIA Corporation |accessdate=2007年11月17日 }}</ref>。 {{See also|ストリーム・プロセッシング}} また、このGPGPU利用の流れを受け、経済指標予測・リスク計量などの膨大なシミュレートと計算が必要である経済予測分野において、多くの経済研究機関・シンクタンクに向け、[[アメリカ合衆国]]や台湾の複数のベンチャー企業がGPGPUベースの高速予測システムを提供しつつあり、経済分野での貢献も始まっている。 === インターコネクト === スーパーコンピュータはノードと呼ばれる計算機の集合によって構成され、その計算機はコンピュータネットワークによって接続される。そのノード間を結ぶコンピュータネットワークのことを特に'''インターコネクト'''と呼ぶ。超並列マシンでは、ユーザの実行させたい処理を各ノードに分割して実行し、[[Message Passing Interface|MPI]]等のAPIを使ったノード間通信で[[同期]]や計算結果の集約などを行う。そのため、高い性能を得るには広帯域かつ低遅延なインターコネクトが必要とされる。 ==== インターフェース ==== 旧来のスーパーコンピュータの多くでは独自のインターコネクト方式を採用しており、2007年、CrayはRapidArray<ref>{{Cite web|和書|title=RapidArray高速インターコネクト |url=http://www.cray.com/global_pages/products/RA.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060316124311/http://www.cray.com/global_pages/products/RA.html |archiveservice=Internet Archives |archivedate=2006年3月16日 |deadlinkdate=2017-3-21 }}</ref>と呼ばれる独自方式を自社のシステムに採用している。コンピュータ・クラスターでは、[[イーサネット]]や[[InfiniBand]]、[[Myrinet]]など、最大数十Gbps程度の帯域を持つインターコネクトが利用されている。 研究レベルにおける通信速度は、2005年11月に[[IBM]]の研究所による14GB/chが最高速であったが、2006年3月、[[日本電気|NEC]]および[[理化学研究所]]による次世代HPC構想の研究にて25GB/chが記録されている<ref>{{Cite web|和書|title=高速インターコネクション向け1.1μm帯VCSELの25Gb/s動作|authors=Fukatsu Kimiyoshi, et al|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006214659/en/|publisher=電子情報通信学会|year=2006 |accessdate=2008年3月12日 }}</ref>。 ==== ネットワーク構成 ==== スーパーコンピュータにおけるインターコネクトでは、そのトポロジも性能に大きい影響を与える。よく用いられるネットワークトポロジとしては、メッシュ、クロスバー、[[トーラス]]などがある。構築にかかるコストやアプリケーションの性質によって、システムに適切なネットワークトポロジは大きく異なる。 === 基盤ソフトウェア === ==== オペレーティングシステム ==== [[Image:Operating systems used on top 500 supercomputers.svg|thumb|right|400px|[[TOP500]]ランキングにおけるオペレーティングシステムのシェア推移<ref>[http://www.top500.org/overtime/list/32/os Top500 OS chart] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120305234455/http://www.top500.org/overtime/list/32/os |date=2012年3月5日 }}</ref>]] 1970年代前半のCrayによるスーパーコンピュータ黎明期から、[[オペレーティングシステム]]には[[UNIX]]およびLinuxなどの[[Unix系]]が広く使用されている。この理由には、当初はライセンスフリーな[[オープンソース]]的なOSであったこと、主に[[C言語]]で書かれており機種間の[[移植 (ソフトウェア)|移植]]が容易なこと、大学や研究所で広く使われており科学技術計算用のライブラリやツールが充実していることなどが挙げられる。 2000年頃より[[Unix系]]である[[Linux]]の比率が急増し、2009年では約9割である。 なお、x86プロセッサの急激な価格性能比の向上を踏まえ、[[マイクロソフト]]社は[[Windows Server]]をベースとしたスーパーコンピュータ向けOS[[:en:Windows Server 2003#Windows Compute Cluster Server|Windows Compute Cluster Server]](WCCS)を[[2006年]]6月にリリースした。採用例には[[東京工業大学]]がある。2008年9月には後継製品として[[:en:Windows HPC Server 2008|Windows HPC Server 2008]]を発表し、これを採用した[[:en:Shanghai Supercomputer Center|上海超級計算中心]]のスーパーコンピュータが2008年の[[TOP500]]で11位に躍り出るもこれがWindowsマシンでは最高の成績であり<ref>[https://www.top500.org/system/176118 Magic Cube - Dawning 5000A, QC Opteron 1.9 Ghz, Infiniband, Windows HPC 2008 | TOP500 Supercomputer Sites]</ref>、2021年11月に30Pflopsで10位入りした[[Microsoft Azure]]のシステムは[[Linuxカーネル]]による[[Ubuntu]]である。<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35179718/ ZDNET]</ref><ref>[https://www.top500.org/system/180024/ Top500]</ref> ==== プロセス・スケジューリング ==== 各Unixで通常使われている<!--における[[ラウンドロビン・スケジューリング|ラウンドロビン方式]]--><!-- ← Unixを理解していないのか、ラウンドロビン方式を理解していないのか、その両方でしょうか? もしかしたら、坂村先生の本にそうあったような気もしますが、坂村先生にはUnixに関して正確に記述するインセンティブが無いので、結構不正確なことを書いています。特に「RTOSと比較して」という文脈では -->スケジューラだけでなく、優先度の高い計算処理にCPU資源を強制的に割り当てるギャング スケジューリング方式もサポートしたものが多い。 === ソフトウェア開発環境 === スーパーコンピュータの性能を引き出すためには、それが持つハードウェアの特性に合わせてアプリケーションを開発する必要がある。スーパーコンピュータ向けアプリケーションの開発で利用される技術・手法を以下に示す。 ==== プログラミング言語 ==== 科学技術計算分野では[[Fortran]]が古くから使われ、[[コンパイラ最適化]]技術が成熟していることやアプリケーション・数値演算ライブラリなどのソフトウェア資産の蓄積が大きいことから2017年現在でも利用される。実行効率と開発効率の面から、[[C言語]]および[[C++]]もよく用いられる。 開発効率の改善とハードウェアの並列度向上に対応するため、新たなプログラミング言語が提案されている。[[サン・マイクロシステムズ]]は、2007年1月に科学技術計算向けプログラミング言語[[Fortress]]を発表し、[[オープンソース]]として公開している<ref>[http://fortress.sunsource.net/ fortress]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。他にもIBM社のX10などさまざまな提案がある。 ==== 並列化API、フレームワーク ==== 高い性能を求められるスーパーコンピュータ向けアプリケーションでは、ベクトルプロセッサの[[ベクトル演算]]命令や[[SIMD]]などの並列演算命令を活用し、並列度を高めることで性能向上を図っている。具体的な手法として、最適化コンパイラが並列実行可能な箇所を発見し自動並列化を行う[[ベクトル化]]や、プロセッサの並列演算命令をプログラミング言語の拡張機能や[[アセンブラ]]を使い、プログラム内で明示的に呼び出す方法などがある。 2013年現在主流であるコンピュータ・クラスター型のスーパーコンピュータでは、[[Message Passing Interface|MPI]]を用いて、プログラマがプロセス間の通信や同期をプログラムに記述することで大規模な並列計算を行う方法が一般的である。スーパーコンピュータ向けベンチマーク[[LINPACK]]の一実装であるHPLや<ref>[http://www.netlib.org/benchmark/hpl/ HPL - A Portable Implementation of the High-Performance Linpack Benchmark for Distributed-Memory Computers]</ref>、[[遺伝子]]の[[相同|相同性]]検索を行う[[BLAST]]など多くの科学技術計算アプリケーションでは、MPIを用いた並列化に対応している。 === グリッド・コンピューティングとクラウド・コンピューティング === [[分散コンピューティング]]の発展系として、遠隔地のスーパーコンピュータを含めたネットワーク上の多数のコンピュータを統一的に利用する手段として、[[グリッドコンピューティング]]の技術開発が世界的に進められており、日本でも[[NAREGI]]が国家プロジェクトとして採択を受け、研究と構築が行われている。また、国内の学校を含む、研究・教育機関に教育用に導入されているPCにグリッド基盤パッケージを導入し、現時点では利用されていないCPU資産をグリッドコンピュータの一部として活用する計画への参加を呼びかけている。グリッドコンピューティングの走りとして世界中のPCが参加している[[SETI]]やグリッドによる分散処理に向いた研究素材を集めて、共通のグリッド基盤で処理を進める[[BOINC]]、[[World Community Grid]]といったプロジェクトが軌道に乗っており、世界各国のプロジェクトが相乗りして成果を挙げている。 グリッド・コンピューティングの特徴は、ノードとして参加している個々のクライアントが自由にリソースの稼働率を決められる点にあり、稼働中のクライアントはパフォーマンスを提供する。一方、[[クラウド・コンピューティング]]は、リソースの管理をサービス[[プロバイダ]]{{要曖昧さ回避|date=2021年4月}}に委ね、クライアントは単にサービスを受けるのみであり、この点ではスーパーコンピュータを補完する機能はない。しかし、増加する一途の演算量とそれを保管するストレージの管理も分散コンピューティングの重要な要素になっており、クラウドを構築しておくことで、たとえネットワークが分断されても各ノードが演算すべきデータを見失わないようすることが可能となる。 == メーカー == [[2022年]]時点でスーパーコンピュータを扱うメーカーは次のとおりである。 {| class="wikitable" |- ! 国名 !! メーカー名 |- | 日本 || [[日本電気|NEC]]、[[富士通]] |- | アメリカ || [[IBM]]、[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ|HPE]](元[[シリコングラフィックス|SGI]]<ref group="注">SGIは[[2006年]]5月に[[連邦倒産法第11章]]の適用を申請し受理されたが、2006年11月に第11章適用対象から外れ再生を果たした。その後2016年11月1日にHPEがSGIを買収した</ref>、元[[クレイ (コンピュータ企業)|クレイ]]<ref group="注">2019年にヒューレット・パッカード・エンタープライズ (HPE) に買収されHPEの子会社となった</ref>) |- | 中国 || [[レノボ]]、{{仮リンク|浪潮|en|Inspur}}、{{仮リンク|曙光 (企業)|en|Dawning Information Industry|label=曙光}} |} 2019年6月時点でTOP500に入るスーパーコンピュータのランキング数トップ5は、レノボ、浪潮、曙光、HPE、クレイの順である<ref>{{cite web|url= https://www.top500.org/news/top500-becomes-a-petaflop-club-for-supercomputers/ |title= TOP500 Becomes a Petaflop Club for Supercomputers |newspaper=TOP500|date=2019-06-17|accessdate=2019-06-23}}</ref>。 日本のメーカーはスーパーコンピュータの出荷台数が少なく、海外への販売実績のあるNECの[[SXシリーズ]]以外は国内利用向けが主である。TOP500の上位50位内には、自社での検証機と国策のNLS用スーパーコンピュータがランクインしている。 == 性能評価ランキング、表彰 == ;性能評価ランキング :スーパーコンピュータの性能比較や、スーパーコンピューティングの技術を表彰する賞として次のものがある。 :{| class="wikitable" |- ! ランキング名称 !! 説明 |- | [[TOP500]] || 評価基準を連立一次方程式の解を求める[[線形代数]][[ライブラリ]]の[[LINPACK]]<!--、その中でも特に[[LINPACK#HPL|HPL]]-->を用いた[[ベンチマーク #コンピュータにおけるベンチマーク|ベンチマーク]]として、上位500位を1993年から毎年6月と11月に発表している。スーパーコンピュータの計算能力の性能評価では広く知られている。LINPACKによるベンチマークは時代やアーキテクチャを超えて異機種・異事例間で比較する指標として利用しやすいが、対象とする問題における実際の処理性能の評価として適しているとは限らない。[[スカラー計算機|スカラー]]型のスーパーコンピュータが上位を占めやすいとされている。{{main|TOP500|LINPACK}} |- | [[Green500]] || TOP500の派生でエネルギー消費効率の観点で評価するランキングである。LINPACKベンチマーク結果を消費電力あたりで評価して上位500位をランキングしたものである。 |- | HPCG || 連立一次方程式の解を求める線形代数の処理能力を測定するが、LINPACKが[[行列 (数学)|行列]]一般に適用可能な密行列を対象とするのに対して、HPCGは有限要素法が適用されるような疎行列を対象とするものである。稼働時間が貴重なスーパーコンピューターで性能評価の測定時間と電力消費(電力費用)を節約する目的で誕生した性能評価である。<ref>[https://www.cc.u-tokyo.ac.jp/public/VOL18/No5/06.201609hpcg-1.pdf 中島研吾「HPCGについて」スーパーコンピューティングニュース(東京大学) Vol.18 No.5 (2016)]</ref> |- | [[HPCチャレンジベンチマーク|HPCC]] || [[HPCチャレンジベンチマーク|HPCC (HPCチャレンジベンチマーク)]]は、スーパーコンピューターの性能に影響を及ぼす浮動小数点演算、持続可能なメモリーの帯域幅、メモリーのランダム更新速度、ネットワークの総データ通信容量、ノード間通信の遅延と帯域を測定するよう考慮された7つの試験から構成される性能試験である。4部門の1位がHPCチャレンジ賞として発表されている。 |- | [[Graph500]] || [[離散数学]]の[[グラフ理論]]の問題で、1秒間に探索できる枝(辺)の数を性能の指標とするものである。 |} ;表彰 :スーパーコンピュータ、[[高性能計算|高性能計算 (HPC)]]分野の成果に対する賞として、研究成果を対象とするものとして[[Association for Computing Machinery|ACS]]が主催する[[ゴードン・ベル賞]]が、研究者を対象とするものとして[[IEEE Computer Society]]が主催する[[シーモア・クレイ賞]]や[[シドニー・ファーンバック賞]]などがある。 == 主要国の動向 == {{独自研究|section=1|date=2008年1月}} === 世界 === {{main|スーパーコンピュータ技術史}} 世界各国でもスーパーコンピュータの導入は進んでおり、1990年代初頭のような日米を2極とした導入数の集中状況は解消しつつある。アメリカも日本もスーパーコンピュータによる[[シミュレーション]]能力が国際競争力の源泉であることに気が付き、次々と次世代スーパーコンピュータ構想の手を打っている(詳細は[[京 (スーパーコンピュータ)]]を参照)。さらに、日米両国はそれぞれの政府主導の下、各省単位でのHPC投資促進が続けられており、数十[[ペタ|P]]FLOPSコンピュータを2010年までに構築する計画が複数進んでいる。 === 日本 === [[ファイル:EarthSimulator.jpg|thumb|[[地球シミュレータ]](ES、旧システム)。2002年から2004年まで世界最速だったスーパーコンピュータ。|right]] {{main|日本のスーパーコンピュータ}} ==== 概要 ==== {{see also|スーパーコンピュータ技術史}} 日本におけるスーパーコンピュータの流れは、官学主導による[[国策]]としての大型スーパーコンピュータ構想と、産業界および産学協同のより実生活や一般的な産業面に近いスーパーコンピュータの利用や設置の流れがある。この2つの流れの間で産官学での調整が行われており、トップダウン型にはWebクライアント技術、[[ASIC]]、[[マイクロプロセッサ]])など、ボトムアップ型には通信インフラストラクチャー、[[通信プロトコル|プロトコル]]、規格化などがある。 [[文部科学省]]が推進する日本の科学技術政策では、[[国立大学]]や国立研究機関などへのスーパーコンピュータの導入に関して、以下のNLSとNISという位置づけがされている<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/007/shiryo/05081501/s4_2.htm ナショナル・リーダーシップ・スパコン(NLS)とナショナル・インフラストラクチャ・スパコン(NIS)の変遷 - 科学技術省]</ref>。 * '''NLS'''(National Leadership Supercomputer) **日本国内のスーパーコンピュータリテラシーのリーダシップを取るスーパーコンピュータ **開発プロジェクトとして整備する * '''NIS'''(National Infrastructure Supercomputer) **一般的な研究面/産業面での利用を念頭にスーパーコンピュータリテラシーの下支えをするスーパーコンピュータ **原則として市販商品を調達する たとえば、[[NSシステム|数値風洞]](1993年11月のTOP500で首位)や[[PACS (並列計算機)|PACS]]のCP-PACS(1996年11月のTOP500で首位)はNLSとして使用が始まり、その後2年ほどでNISとして利用された。2004年まで2年半の長期にわたって[[TOP500]]の第1位を占めた'''[[地球シミュレータ]]'''もNLSとして開発され、2007年頃からはNISとして供用された。 [[2009年]]11月、[[長崎大学]]の浜田剛助教らが[[ゴードン・ベル賞]](価格性能部門)を受賞した。市販の[[Graphics Processing Unit|GPU]] 760個の並列処理により、単精度による多体計算において、国内最速の地球シミュレータ2(倍精度LINPACKベンチマークでの測定値122.4 Tflops)を上回る158 Tflopsを開発費用3,800万円で実現した。浜田助教は「高性能の計算機は重要」としながら「(巨費を投じた従来の開発方針は)素直にいいとは言えない。方向性が逆」と発言した。GPUを大量につなげるプログラムの開発が成功の鍵とされた<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/136999 スパコン開発で「ゴードン・ベル賞」 長崎大助教ら受賞 「国内最速」安価で実現] [[西日本新聞]]、2009年11月27日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 [[File:TSUBAME2.0.jpg|thumb|right|250px|東京工業大学のTSUBAME 2.0]] [[2010年]]11月のTOP500では[[東京工業大学]]の[[TSUBAME|TSUBAME 2.0]]が4位を獲得した。同時期1位中国[[中国人民解放軍国防科学技術大学|NUDT]]の天河一号Aと同様GPUを大幅に採用しているのが特徴であり、開発費は約30億円である(天河一号Aは約80億円、2002年世界一の地球シミュレータが600億円)<ref name="asahiGPU">「『GPU』で最速スパコン」朝日新聞、2010年11月19日、東京版朝刊、32面</ref>。 2009年11月、日本で唯一ベクトル型を続けている[[日本電気|NEC]]は、[[インテル]]との[[Xeon]]を使用したスカラー型スーパーコンピュータの共同開発計画を発表した<ref>[http://www.nec.co.jp/press/ja/0911/1701.html インテルとNEC、将来に向けたスーパーコンピューター技術の共同開発に合意 - NEC]</ref>。 日本はスーパーコンピュータの[[省エネルギー|省エネ化]]にも取り組んでおり、2013年11月21日に公開された省エネ性能ランキングでは、東京工業大学の[[TSUBAME|TSUBAME-KFC]]が、2位に2割以上の差をつけて1位を獲得した<ref>{{cite news |title=東工大のスパコン「TSUBAME-KFC」、スパコン省電力性能ランキングで首位獲得 |newspaper=[[ITpro|日経BP]] |date=2013-11-21|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20131121/519585/|accessdate=2013-11-21}}</ref>。 ==== 次世代スーパーコンピュータプロジェクト ==== {{main|京 (スーパーコンピュータ)|事業仕分け (行政刷新会議)#科学関連}} [[2006年]]より文部科学省は、地球シミュレータに代わる次期NLSとして、「[[次世代スーパーコンピュータ]]プロジェクト」を開始した<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/006/shiryo/attach/1279361.htm 次世代スーパーコンピュータプロジェクトの経緯 - 文部科学省]</ref>。当初計画ではベクトル・スカラー複合機を開発して、「2012年に10[[ペタ]][[FLOPS]]」を達成し、実質的にTOP500の1位を目指す内容であった<ref>[http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2007/070914/index.html 次世代スーパーコンピュータのシステム構成を決定 - 世界最高性能のスパコン開発に挑む - 理化学研究所、他]</ref>。 しかし2009年2月にアメリカで「2011年に20ペタFLOPS」を目標とする[[セコイア (スーパーコンピュータ)|セコイア]]が発表され、予定通りとなれば「日本の1位奪還」にはならない見込みとなった。2009年5月には[[日本電気|NEC]]・[[日立製作所|日立]]が経営不振を理由に同プロジェクトから撤退し<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090528/330846/ スパコン国家プロジェクト NEC脱落の真相 - ITPro]</ref>、3社によるベクトル・スカラー複合型から、[[富士通]]単独によるスカラー型へ設計変更された。 同年11月13日には[[行政刷新会議]]の「[[事業仕分け]]」で、当プロジェクトは「予算計上見送りに近い縮減」(事実上の凍結)と判定されたため多数の議論が行われたが、政府は判定を見直し、12月16日には2010年度予算に227億円の計上を決定した<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20091216/342289/ 国策スパコンは予算227億円で続行、目標は「世界一」から「世界最速レベル」へ - ITPro]</ref>。 構築途上ながら2011年6月の時点において、[[LINPACK]]ベンチマークの実行性能8.162ペタフロップス、実行効率93.0%を達成。2位と比べて3倍以上の実行性能を発揮し、TOP500の1位を獲得した。さらに2011年11月2日、最終構成を用いたLINPACKベンチマークの実行性能が10.51ペタフロップス(実行効率93.2%)となり、世界で初めて実行性能10ペタフロップスを超えるコンピュータとなったことを発表した<ref>[http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2011/111102/index.html 京速コンピュータ「京」が10ペタフロップスを達成]</ref>。セコイアは計画より1年遅れて2012年になって稼働し、京の性能を上回った。 グラフ探査性能ベースのベンチマークに基づく性能ランキング「[[Graph500]]」では、[[2015年]]2期連続で世界1位を獲得した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151118-00000013-kobenext-sctch]</ref>。 ===== 次々世代 ===== {{main|富岳 (スーパーコンピュータ)}} 京の次期システムは、[[TSUBAME]]シリーズの設計者で理化学研究所計算科学研究センター長の[[松岡聡 (計算機科学者)|松岡聡]]教授が率いる開発プロジェクトにて、[[ARMアーキテクチャ|ARMv8アキーテクチャー]]のCPU [http://pr.fujitsu.com/jp/news/2018/08/22-1.html A64FX]を新開発し、[[京 (スーパーコンピュータ)|京]]の100倍程度高速なシステム(1エクサプロップスのシステム)を2020年に構築する予定とした<ref>{{Cite news|title=見えたスパコン京の次世代像、理研の新センター長に東工大松岡氏|last=xTECH(クロステック)|first=日経|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/00278/|accessdate=2018-06-13|language=ja-JP|work=日経 xTECH(クロステック)}}</ref>。 2020年より試行運用、2021年(令和3年)に[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]として本格稼働し、[[2021年]]11月のTOP500、[[TOP500#HPL%E3%83%BBHPCG|HPCG]]、[[TOP500#HPL%E3%83%BBHPCG|HPL-AI]]、およびGraph500において4期連続の4冠を達成した。 ==== 国策巨大プロジェクトに関する議論 ==== {{出典の明記|date=2022年8月}} 日本の[[国策]]巨大プロジェクト「[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]」には従来より多数の論争が存在するが、主な論点には以下がある。 特に、富岳によって計算時間短縮などのメリットを持つ研究も可能だが、それを商用利用する事は認められていない事がネックになっている<ref>{{Cite news |和書|title=スパコン富岳、日本の産業強化に貢献できないジレンマ |newspaper=日本経済新聞 |date=2022-02-08| url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC231FO0T21C21A2000000/ |accessdate=2022-03-08}}</ref>。 {{要出典範囲|これを使って何をすればいいのかがはっきり定まっておらず、持て余した計算リソースを使って[[新型コロナウイルス]]の飛沫シミュレーションなどのPRを行っているのが現状である。|date=2022年3月}} *目的(技術立国として世界1位を目指すべきか、用途に応じ[[コストパフォーマンス]]を考慮すべきか) *調達方法(実績ある特定の国産メーカーとの[[随意契約]]か、透明性のある国際[[入札]]か) *採用技術(ベクトル方式や[[FORTRAN]]など過去の資産重視か、世界の動向と将来性重視か) *重点分野(高速なインフラ整備が重要なのか、箱物ではなくアプリケーション構築が重要なのか) *波及効果(国が開発した先端技術を民間に波及させるか、汎用的で低価格な市販品を国が採用するか) *役割分担(そもそも技術開発は今後も国が主導すべきか、基本は民間に任せるべきか) *応用分野の計算結果を出すためか、計算結果を出すためのプログラムやアルゴリズムを作るためか、プログラムやアルゴリズムを作れる人材の養成のためかの論点 === アメリカ合衆国 === [[地球シミュレータ]]による[[スーパーコンピュータ産業史#(3) 復興の兆し|コンピュートニク]]ショックの後、その潜在的に大きな科学技術と国力・軍事研究の粋を挙げてHPC技術の更改と続伸を続けており、[[2006年]]8月現在、TOP500のランキングの上位50%以上をアメリカのスーパーコンピュータが占めている。近年の米国の計算機開発は、[[:en:Stockpile stewardship|核兵器維持管理]]のためのコンピュータシミュレーションや[[高信頼性代替核弾頭]]など各種兵器の開発設計、作戦シミュレーションなど軍事利用が多く、技術開発は[[国防高等研究計画局|国防総省国防高等研究計画局]]と[[国家核安全保障局|エネルギー省国家核安全保障局]]核備蓄管理プログラム(先端シミュレーション・演算プログラム)の開発プロジェクトや研究費に担うところが大きく、そのフィードバックによって日本と異なり着実に国力拡大を行っている。[[アメリカ国立科学財団|国立科学財団]](NSF)、[[アメリカ国立衛生研究所|国立衛生研究所]](NIH)、[[アメリカ航空宇宙局|航空宇宙局]](NASA)などもスーパーコンピュータの設置や研究開発への資金提供を行っている。HPC技術は民間用スーパーコンピュータとしても[[生命科学]]、[[金融工学]]、[[VFX]]・[[コンピュータグラフィックス]]など広範な分野で使用されている。[[2018年]]6月8日、[[オークリッジ国立研究所]]と[[IBM]]は、世界最高速のスーパーコンピューター「[[Summit (スーパーコンピュータ)|Summit]]」の完成を発表した。Summitは200PFLOPSの性能を有する。直近5年間では、最高速のスーパーコンピューターは中国が有していたが、5年ぶりにアメリカが返り咲いた。開発ベンダはIBMである<ref>[https://www.nytimes.com/2018/06/08/technology/supercomputer-china-us.html Move Over, China: U.S. Is Again Home to World’s Speediest Supercomputer] New York Times 2018年6月8日</ref>。 === 欧州 === [[欧州]]各国においては、もともと[[1980年代]]からスーパーコンピュータのハードウェア分野にはあえて手を出さず、シミュレーションソフトやコンパイラなどのソフトウェア開発に力を注いでいた。次世代スーパーコンピュータに関しても、アメリカや日本のよりよい部分を選択・取得し、得意のソフトウェアに注力した発展と一般化したスーパーコンピュータの普及を目指して動いている。また、近年の[[情報社会・メディア総局]]の方針では、[[ミドルウェア]]開発を念頭に置いたプロジェクトを中心とすることとなっている<ref group="注">ただし、半導体開発競争を中止したのみであり、基礎的分野における研究開発の継続は行われるはずである。また、アメリカ・日本を見習い、近年ではマイクロコンピュータ用のアプリケーション開発などにも力を入れている。</ref>。 ;イギリス :富士通を中心としたスカラ型が軍に、NECが提供しているベクトル型が気象用に導入されている。自動車・航空機開発は、現在はフランス・ドイツの両国に頼っている現状があるため不明。 ;フランス :航空機産業においては、Crayのシステムを導入して、衝突解析用アプリケーションソフトを開発して稼動していたことなどもある。軍事産業では、独自システムの開発が行われていた。現在は、アメリカのIBMを中心としたスカラ型が軍事用に、NECが提供するベクトル型が気象用などに導入されている。 ;ドイツ :NECを中心としたベクトル型の大規模スーパーコンピュータの導入と、IBMを中心としたスカラ型のスーパーコンピュータの導入を並列して進めており、バランスを重視した対応を取っている。 ;スペイン :IBMの[[POWER9]]を中心としてマルチアーキテキクチャーCPU構成採用した[[MareNostrum|MareNostrum 4]]を科学教育省に導入し、産官学での利用と発展を図っている。 ;ヨーロッパ全体 :イタリアもほぼスペインと同様で、産学での利用面において一般化したレベルのスーパーコンピュータの導入を促し、産業面では[[自動車産業]]や[[航空工学|航空機産業]]での利用を進めている状況である。先鋭的なスーパーコンピュータより、汎用アプリケーションを中心とするスーパーコンピュータの導入に積極的であり、大きな予算を必要とする次世代スーパーコンピュータへの集中的な投資はあまり見えない。 === アジア諸国(日本以外) === 1990年代は非常に少なかったが、[[中華人民共和国]]・[[台湾]]・[[大韓民国]]・[[インド]]・[[マレーシア]]といった国々では、スーパーコンピュータ購入や自国での構築も行っており、TOP500クラスの新規案件が増えている。 ;東アジア :;中国 ::{{main|中国のスーパーコンピュータ}} ::中国では2000年代初頭から非[[インテル]]系の独自CPUの開発とそれにともなうスーパーコンピュータの開発を始めており、2005年には、中国初のCPU「[[龍芯]]」を発表した。この「龍芯」は2011年現在、1~3シリーズが発表されており、現在でも中国国内の独自次世代光メディア機器(東芝からライセンス・特許を購入した[[HD-DVD]]の中国版)の[[デコーダ]]としても使用されている。このCPUを使用し、2011年末までに燭光6000<ref>中国新聞 2009年11月12日 1千兆回スパコン「曙光6000」 来年デビューへ.[http://www.china-news.co.jp/node/3625]</ref>という1京[[フロップス]]超のスーパーコンピュータの発表も予定されている。 ::龍芯のコアは[[RISC]]系のコアであり、日本の[[京 (スーパーコンピュータ)]]や[[IBM]]の[[POWER (マイクロプロセッサ)|POWER]]系を使用するスーパーコンピュータと同じ方式のCPUを選択した結果となっている。 ::なお、この龍芯は、開発開始当初から[[MIPS]]命令セットおよびMIPS社の[[知的財産]]侵害が指摘されており、日本の[[JETRO]]北京センターの知的財産管理部の公式報告文書<ref>JETRO北京センター 報告書のpdf.[http://www.jetro-pkip.org/upload_file/2007040644761065.pdf]{{404|date=2020-04}}</ref>にも懸念が記載されていた。さらに龍芯2においては、MIPS社の互換CPUとの相似性が95%を超えるとの指摘<ref>中国国内記事の自動翻訳情報.[http://www.lindaliugroup.com/web/03/jp_news_read.asp?id=2008]</ref>(問題化した際のMIPS社の指摘によると、[[日本電気|NEC]]と[[東芝]]が製造していた[[R10000]]およびR12000のほぼ完全な[[デッドコピー]]であったとのこと)もあった。この指摘に基づき、国際的な[[不正競争防止法|不正競争を防止する]][[工業所有権の保護に関するパリ条約|パリ条約]](ヘーグ改正条約)違反を欧米・日本が主張し、公式の場での中国の知的財産権軽視への批判が高まったため、中国政府および龍芯の製造メーカは否定に躍起になっていたが、最終的に2009年6月にMIPS社にCPU周りのライセンシーの有償提供を求め、2010年6月に一部株式を取得することで決着している。 ::また、[[ストリーム・プロセッシング]]の分野では、2010年11月のTOP500では中国[[中国人民解放軍国防科学技術大学|NUDT]]の[[天河一号|天河一号A]]が日米以外で初めて1位を獲得した。GPUを大幅に採用しているのが特徴であり、7,168個のNVIDIA Tesla M2050 GPUと14,336個のインテル製CPUを使用している。[[NVIDIA]]によれば天河の計算速度の8割をGPUが担っているという<ref name="asahiGPU" /><ref>[http://www.nvidia.co.jp/object/tesla-gpus-world-fastest-supercomputer-press-20101027-jp.html NVIDIA社HP]</ref>。なお、NUDTは中国人民解放軍直属の機関で、開発の背景に軍事があるという見方は少なからずある。また、市民監視システムの[[グレート・ファイアウォール]]や[[天網]]などにもNUDTやTOP500上位ベンダーの曙光のスーパーコンピュータが使われていることから治安維持も背景にあるとされる<ref>{{cite web|title=天網中樞天河二號無虞信號外洩|url=http://www.chinatimes.com/newspapers/20170929000685-260301|website=[[中国時報|中時電子報]]|accessdate=2019-07-05|date=2017-09-29}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.computerworld.com/article/3136745/robotics/china-s-policing-robot-cattle-prod-meets-supercomputer.html|title=China’s policing robot: Cattle prod meets supercomputer|publisher=Computerworld|language=英語|date=2016-10-31|accessdate=2019-07-05}}</ref><ref>{{cite web|url=https://chinadigitaltimes.net/chinese/2012/06/翻墙-功夫网简介/|title=翻墙-功夫网简介|work=翻墙-功夫网简介|date=2012-06-16|accessdate=2019-07-05|publisher=中国数字時代}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.nytimes.com/2020/11/22/technology/china-intel-nvidia-xinjiang.html|title=Intel and Nvidia Chips Power a Chinese Surveillance System|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|language=英語|date=2020-11-22|accessdate=2020-12-03}}</ref>。中国首脳部はサイバー技術を制する者が世界を制する、との考えから積極的に投資を行っており2016年6月には中国はTOP500における各国の計算力総計で日米を超えた。 :;韓国 ::韓国では、[[ソウル大学校|ソウル大]]において汎用PCとLinuxおよび日米製のクラスタソフトを用いた研究用スーパーコンピュータを作成していたが、導入時に150位程度であり、現在はTOP500圏外となっている。 ::実務面で使用するスーパーコンピュータにおいては、すべてを日米ベンダ各社から購入して数を増やしつつあるが、あくまで利用者としての対応であり、もともとの国力からの判断で自国での開発は行っていない。 ::なお、利用も気象や自動車などの民需系の利用が急速に増えたものの、軍事的な開発・設計に注力しているとの指摘もあり、先がまったく見えない。また、肝心の[[数値予報|気象予測]]においても、強化された計算能力を十分に生かしきることができず、一般国民においては、隣国の日本の[[気象庁]]の[[天気予報|予測]]を確認する風潮が根付いている{{要出典|date=2022年12月}}。 ::さらに韓国の問題点として、スーパーコンピュータにおいて使用されるアプリケーションソフトの多くが、正式購入ではなく試用版やすでにライセンシーの切れたソフト、不正コピーによるソフトを使用していることがある{{要出典|date=2022年12月}}。この知的財産侵害について、近年、[[特許協力条約]]・[[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定|知財関連の条約]]に加盟したこともあり、自国内の複数の新聞([[天気予報]]:最新スパコンで17年前のプログラム運用:朝鮮日報 2007/10/01など複数{{要出典|date=2022年12月}})にて批判も高まっている{{要出典|date=2022年12月}}。 :;台湾 ::スーパーコンピュータの発展に寄与した[[スティーブ・チェン (スーパーコンピュータ設計者)|スティーブ・チェン]]の出身地でもあり、スーパーコンピュータと縁の深い台湾では、軍事的な側面でスーパーコンピュータを導入する動きはほとんどない。基本的に民需系や公共サービス系を中心に産業界や科学分野においての導入が進められている。特に汎用PCを使用したLinuxのクラスタ系コンピュータが多く、半導体産業における[[CAE]]系や中央気象局などのほか、台湾が生き残りをかけて投資している[[ゲノミクス|遺伝解析]]系においては、世界でも有数のレベルでスーパーコンピュータが取り入れられ、使用されている。 ::たとえば、日本産の[[メダカ]]を[[遺伝子工学|遺伝子改造]]して、[[深海魚]]などから取り出した[[発光]]する遺伝子を組み込み、発光魚として世界各地に輸出しているが、この遺伝改造もスーパーコンピュータを使用して検証され、実際に行われている。 ::このように台湾自体、韓国と同様にスーパーコンピュータの開発を行うことはないと思われるが、産業による貿易(ただし、輸出と輸入のバランスを取った)立国を続ける立場から、欧州と同様に一般的なスーパーコンピュータの利用と[[アプリケーション]]の提供という面で、日米欧と肩を並べる存在としての存在感を示しつつある。また、日本の[[GRAPE]]プロジェクト(GRAPE-DR)に対しても、複数企業が参加し、サポートを続けている。 : <!--: ;南アジア :;インド ::アメリカのIT産業の[[ITアウトソーシング|オフショア]]開発先として、IT業界における日の昇る勢いの感のある[[インド]]では、[[アメリカ]]の情報産業の根幹のサポートを続ける上で、新規スーパーコンピュータの導入が続いている。基本的に大きな構成を取るシステムは、現状少ないが、[[Cray]]/[[IBM]]の[[ブルージーン]]/創業者がインド出身である[[Sun]]などの最新設備が常に置かれ、ソフトウェアの基幹部分及び、それに近い部分の開発が恒常的に行われている。 ::今後、日本も含むIT業界の開発エンジンとして、その発展は確実視され、日米欧共に競争相手ではなく、協力国として期待されている。 : ;中央アジア/西アジア :[[イスラム]]教圏でもあり、現状ではほとんどスーパーコンピュータの導入が行われていない。ただし、[[地球温暖化]]などの問題により、日本の[[地球シミュレータ]]に[[産油国]]が大きな興味を示すなど、今後、何かしらの発展が予測される。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== *[[坂村健]],コンピュータアーキテクチャー -電脳構築学-,共立出版 *日本電気,富士通,日立製作所, スーパーコンピュータ全書, パーソナルメディア *「情報処理」(情報処理学会誌)特集「知られざる計算機」2002年2月号(Vol.43 No.2) *アンドリュー・S・タンネンバウム,ネットワークアーキテクチャー第4版,日経BP *ディビット・G・ストークス(編著),HAL伝説-2001年コンピュータの夢と現実,早川書房 * 岩下 武史, 片桐 孝洋, 高橋 大介:「スパコンを知る: その基礎から最新の動向まで」、東京大学出版会、ISBN 978-4130634557(2015年2月20日)。 == 関連項目 == *[[エクサスケールコンピュータ]] * [[計算科学]] * [[高性能数値演算]] * [[CAE]] * [[計算機工学]] * [[ベクトル化]] * [[並列化]] * [[並列処理]] * [[スーパーコンピュータ技術史]] * [[TOP500]] * [[グリッド・コンピューティング]] - [[SETI@home]]や[[Folding@home]]も広義のスーパーコンピュータと言える。 * [[量子コンピューター]] == 外部リンク == {{Commons|Supercomputer|スーパーコンピュータ}} * [https://www.top500.org/ TOP500 Supercomputing Sites] {{en icon}} * [https://www.fujitsu.com/jp/products/computing/servers/supercomputer/ FUJITSU Supercomputer PRIMEHPCシリーズ] - 富士通のスーパーコンピュータのページ * [https://www.hitachi.co.jp/Prod/comp/hpc/ 技術計算向けサーバ] - 日立のスーパーコンピュータのページ * [https://jpn.nec.com/hpc/index.html HPCソリューション] - NECのスーパーコンピュータのページ * [https://www.ibm.com/thought-leadership/summit-supercomputer/jp-ja/ 最も強力なスーパーコンピューター「Summit(サミット)」とは] - IBMのスーパーコンピュータのページ * [https://www.cray.com/ Supercomputers, HPC Company, Big Data Solutions] {{en icon}} - Cray社のページ * [https://www.paralogos.com/DeadSuper/Projects.html Index of Dead Supercomputer Projects {{en icon}}] 撤退・消滅したスーパーコンピュータ開発のリスト * {{Kotobank}} * {{Kotobank|スーパーコンピューター}} {{Computer sizes}} {{並列コンピューティング}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すうはあこんひゆうた}} [[Category:スーパーコンピュータ|*]] [[Category:コンピュータの形態]] [[Category:コンピュータアーキテクチャ]] [[Category:計算科学]] [[Category:並列コンピューティング]]
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Iショット
iショット(i-shot、アイショット)は、NTTドコモのiモードメールにおける画像送受信サービスの名称である。 カメラ付き携帯電話を用いて撮影した画像をメールで送受信できる。 2000年12月にサービスインしたカメラ付き携帯電話によるJ-PHONEの「写メール」および、外付け型の小型デジタルカメラを接続する形で撮影画像を添付メールで送信する事が可能なauやfeel H"の提供開始から1年半以上経過した2002年6月に、movaにおける初のカメラ付き携帯電話端末SH251iの発売と同時にサービスインした。 movaにおけるiモードメールには「ファイル添付」という概念が存在せず、1・2バイト文字のテキストしか送受信ができない。そのため、iショット開始以前は、movaでiモードを使って画像をやりとりするには、何らかのWebサーバに画像をアップロードし、そのURLを相手へiモードメールで通知し、そのURLでもって表示された画像を「保存」させる方法(簡易なオンラインストレージまたは個人利用のFTPサーバ等を介する方法)しか無かった。これは自作のメロディやiアプリ等のやりとりについても同様であった。例えば、NTTドコモが出資しているアイ・ビー・イー・ネット・タイム運営による「スナップメール」(後述)や、勝手サイトで運営されていたいわゆる「画像付きメール媒介サイト」(例:J-PHONEの写メールユーザが写真添付したメールをサイトへ送信し、iモードユーザがメールでURLを受け取り画像を閲覧・保存する)がそれで、一応はiモードを使っての画像のやりとりではあるが直接的ではなく、「写メール」のようにmovaで撮影した写真をそのまま添付してメールを送信することはできなかった。 但し、2001年にサービスインしたFOMAでは当初から、事実上ドコモ初のカメラ付き携帯電話であるP2101Vというビジュアル端末を発売しており、iモードメールでの添付ファイルの送受信を許容(初期は10キロバイト以下)していた事から、写真付きメールなどマルチメディアを求めるユーザをFOMAへ誘導する狙いがあったとみられる。iショット登場以前のFOMAでは「画像添付メール」などと表記されており、動画のやりとりを行うiモーションよりは簡単な仕組みとも思える「iショット」が後から提供された事になる。しかしながら、当時はFOMA契約者数の伸びは大きくなかったため、相当数の契約者を抱えており、また当分の間は全面移行(廃止)する予定のなかったmovaでも、他社との競合から早急に画像付きメールの必要に迫られ、iショットサービスの開始に踏み込んだとする見方もある。 添付できない画像をメールでURL通知させWebサイトで表示する仕組みはスナップメール等で既に実用化されていたが、後に登場した「iモーションメール」(iモーション添付メール)をはじめとする大容量添付ファイルをiモードセンターで一時保存したり、デコメール非対応端末向けのWeb表示機能などにも応用されている。 movaのiショットは、2000年にサービスインしていた「スナップメール」と手段が一部酷似しているが、メールの作成・送信手順は通常のiモードメールに画像ファイル添付の操作を加えただけであり、複雑な仕組みを意識せずとも使えるように工夫されている。 mova同士の場合、送信者はiショット対応mova機種で撮影したJPEG画像(「iショットS/L」と言う指定サイズ)を添えた「iショットメール」を受信者へ送信する。これは実際には「iショットセンター」(現在はiモードセンターへ統合)へ回線交換方式で送信されることになり、これを受信したiショットセンターは本来の送信先へ「iショットメール」としてメール本文とURLを通知する。このURLについてWebTo機能で接続すると、保存された画像が表示されるので閲覧、必要に応じて保存する。画像の保管期間は送信から10日間であり、この間に閲覧・保存する必要がある。 また、画像を添付して直接送信することが可能なFOMA、PC、他キャリアの携帯電話やPHSからmovaとのやりとりについては、これらから送信した場合も、画像自体はiショットセンターに保管され、メール本文と閲覧URLが「iショットメール」としてmova宛に送られる。ファイルサイズは500キロバイトまで送信可能であるが、iモードセンターで10キロバイト以下のJPEGファイルに変換されることになる。逆にこれらが受信者となる場合、movaから送信されたメールは、iショットセンターへiショットメールを送信する事になるがこれも表向きは意識されることなく、最初から画像ファイルを添付したメールが相手へ届く(ウェブ接続は必要ない)。なお、au・TU-KA宛へ送信した場合はPNG形式に変換される等の機能がある。 上述の通り、iショットメール送信時は、iモードメールのパケット通信方式(DoPa網)による接続ではなく、回線交換方式によるデータ通信となっており、FOMAとは異なり、通信時間に応じて従量課金される。 movaのiショットとは異なり、通常のメールと同じくパケット通信で送受信され、パケット量に応じて課金となる(iモーション等も同様)。 10キロバイトまでの画像ファイルは直接メールに添付された状態で受信される。但し送信先がmovaの場合は前述の通りである。10キロバイトを超えた画像ファイルは機種の世代によって上限が異なっている。903iシリーズ以降の大容量メール対応機種の場合は5メガバイトまで対応し、100キロバイト前後までなら添付された状態で届く。サイズによってはiモードセンターに保管となり、ファイル名を選択してダウンロードすることになる。 901iから902i/702iシリーズまでの機種では、500キロバイトまでの送受信に対応する。 2051・2751・2102V・900iシリーズ同士では、相手先のiモードアドレスのドメインを「@p.docomo.ne.jp」にすることで、10キロバイト以上100キロバイトまでの送信に対応する。この場合、iモードセンターで20キロバイト以下に変換され、iモーションメール同様にメール本文に閲覧URLが追記される。PC等へはそのまま100キロバイトまで送信が可能である。 2001年から2002年までに発売されたFOMAの所謂第1世代端末(N2001・D2101Vなど)では、10キロバイトまでのファイルしか送受信ができず、超過した場合はmovaのiモードと同じく「添付ファイル削除」が本文に追記される。 デコメールおよびHTMLメール対応機種間の場合は、本文内に画像を貼り付けて添付する事も可能である。 サービス開始当初(2003年ごろまで)は単に(FOMA)画像メールであり事実上のサービス名統一により改名となった。 運営はアイ・ビー・イー・ネット・タイム。2000年にドコモが発売した小型デジタルカメラを装備したメール端末「キャメッセ」(東芝製)「キャメッセボード」(セイコーエプソン製)における専用プロバイダ、「リトルアンジュ」のサービスである。iモードメール宛に画像付きメールが送れる準公式サービスであり、商標はドコモが保有していた。SMTP/POP方式とは異なる独自の通信プロトコルを用いて画像を送受信する。 キャメッセやPC宛へ送信する場合、画像は直に添付ファイルとして送受信させ、iモードのドメイン宛へは添付したメールの画像をスナップメールのサーバーで一時的に保管し、同サーバから相手先のiモードメールにメールの画像が保管されているURLが送信され、Web(勝手サイト)上で閲覧と保存が出来る。 iショットとFOMAの普及、キャメッセユーザの減少などから、2004年を以てリトルアンジュが事業終了・サービス中止しており、現在は利用できない。
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iショット(i-shot、アイショット)は、NTTドコモのiモードメールにおける画像送受信サービスの名称である。
{{小文字|title=iショット}} '''iショット'''(i-shot、アイショット)は、[[NTTドコモ]]の[[iモードメール]]における画像送受信サービスの名称である。 == 概要 == [[カメラ付き携帯電話]]を用いて撮影した[[画像]]を[[電子メール|メール]]で送受信できる。 [[2000年]]12月にサービスインしたカメラ付き携帯電話による[[J-PHONE]]の「[[写メール]]」および、外付け型の小型デジタルカメラを接続する形で撮影画像を添付メールで送信する事が可能な[[au (携帯電話)|au]]や[[ウィルコム|feel H"]]の提供開始から1年半以上経過した[[2002年]][[6月]]に、[[mova]]における初のカメラ付き携帯電話端末[[SH251i]]の発売と同時にサービスインした。 movaにおける[[iモードメール]]には「ファイル添付」という概念が存在せず、1・2バイト文字のテキストしか送受信ができない。そのため、iショット開始以前は、movaでiモードを使って画像をやりとりするには、何らかの[[Webサーバ]]に画像をアップロードし、そのURLを相手へiモードメールで通知し、そのURLでもって表示された画像を「保存」させる方法(簡易な[[オンラインストレージ]]または個人利用の[[FTPサーバ]]等を介する方法)しか無かった。これは自作の[[着信メロディ|メロディ]]や[[iアプリ]]等のやりとりについても同様であった。例えば、NTTドコモが出資している[[アイ・ビー・イー・ネット・タイム]]運営による「スナップメール」(後述)や、勝手サイトで運営されていたいわゆる「画像付きメール媒介サイト」(例:J-PHONEの写メールユーザが写真添付したメールをサイトへ送信し、iモードユーザがメールでURLを受け取り画像を閲覧・保存する)がそれで、一応はiモードを使っての画像のやりとりではあるが直接的ではなく、「写メール」のようにmovaで撮影した写真をそのまま添付してメールを送信することはできなかった。 但し、[[2001年]]にサービスインした[[FOMA]]では当初から、事実上ドコモ初のカメラ付き携帯電話である[[P2101V]]というビジュアル端末を発売しており、iモードメールでの添付ファイルの送受信を許容(初期は10キロバイト以下)していた事から、写真付きメールなどマルチメディアを求めるユーザをFOMAへ誘導する狙いがあったとみられる。iショット登場以前のFOMAでは「画像添付メール」などと表記されており、動画のやりとりを行う[[iモーション]]よりは簡単な仕組みとも思える「iショット」が後から提供された事になる。しかしながら、当時はFOMA契約者数の伸びは大きくなかったため、相当数の契約者を抱えており、また当分の間は全面移行(廃止)する予定のなかったmova<ref>[[2012年]][[3月31日]]をもってサービス終了</ref>でも、他社との競合から早急に画像付きメールの必要に迫られ、iショットサービスの開始に踏み込んだとする見方もある。 添付できない画像をメールでURL通知させWebサイトで表示する仕組みはスナップメール等で既に実用化されていたが、後に登場した「iモーションメール」(iモーション添付メール)をはじめとする大容量添付ファイルをiモードセンターで一時保存したり、[[デコメール]]非対応端末向けのWeb表示機能などにも応用されている。 == 仕組み == === mova === movaのiショットは、2000年にサービスインしていた「スナップメール」と手段が一部酷似しているが、メールの作成・送信手順は通常のiモードメールに画像ファイル添付の操作を加えただけであり、複雑な仕組みを意識せずとも使えるように工夫されている。 mova同士の場合、送信者はiショット対応mova機種で撮影した[[JPEG]]画像(「iショットS/L」と言う指定サイズ)を添えた「'''iショットメール'''」を受信者へ送信する。これは実際には「'''iショットセンター'''」(現在はiモードセンターへ統合)へ[[回線交換]]方式で送信されることになり、これを受信したiショットセンターは本来の送信先へ「iショットメール」としてメール本文とURLを通知する。このURLについてWebTo機能で接続すると、保存された画像が表示されるので閲覧、必要に応じて保存する。画像の保管期間は送信から10日間であり、この間に閲覧・保存する必要がある。 また、画像を添付して直接送信することが可能なFOMA、PC、他キャリアの携帯電話やPHSからmovaとのやりとりについては、これらから送信した場合も、画像自体はiショットセンターに保管され、メール本文と閲覧URLが「iショットメール」としてmova宛に送られる。ファイルサイズは500キロバイトまで送信可能であるが、iモードセンターで10キロバイト以下のJPEGファイルに変換されることになる。逆にこれらが受信者となる場合、movaから送信されたメールは、iショットセンターへiショットメールを送信する事になるがこれも表向きは意識されることなく、最初から画像ファイルを添付したメールが相手へ届く(ウェブ接続は必要ない)。なお、au・TU-KA宛へ送信した場合はPNG形式に変換される等の機能がある。 上述の通り、iショットメール送信時は、iモードメールのパケット通信方式([[DoPa|DoPa網]])による接続ではなく、回線交換方式によるデータ通信となっており、FOMAとは異なり、通信時間に応じて従量課金される。 === FOMA === movaのiショットとは異なり、通常のメールと同じくパケット通信で送受信され、パケット量に応じて課金となる([[iモーション]]等も同様)。 10キロバイトまでの画像ファイルは直接メールに添付された状態で受信される。但し送信先がmovaの場合は前述の通りである。10キロバイトを超えた画像ファイルは機種の世代によって上限が異なっている。[[903i]]シリーズ以降の大容量メール対応機種の場合は5メガバイトまで対応し、100キロバイト前後までなら添付された状態で届く。サイズによってはiモードセンターに保管となり、ファイル名を選択してダウンロードすることになる。 901iから902i/702iシリーズまでの機種では、500キロバイトまでの送受信に対応する。 2051・2751・2102V・900iシリーズ同士では、相手先のiモードアドレスのドメインを「@p.docomo.ne.jp」にすることで、10キロバイト以上100キロバイトまでの送信に対応する。この場合、iモードセンターで20キロバイト以下に変換され、[[iモーション]]メール同様にメール本文に閲覧URLが追記される。PC等へはそのまま100キロバイトまで送信が可能である。 2001年から2002年までに発売されたFOMAの所謂第1世代端末([[N2001]]・[[D2101V]]など)では、10キロバイトまでのファイルしか送受信ができず、超過した場合はmovaのiモードと同じく「添付ファイル削除」が本文に追記される。 デコメールおよび[[HTMLメール]]対応機種間の場合は、本文内に画像を貼り付けて添付する事も可能である。 サービス開始当初(2003年ごろまで)は単に(FOMA)画像メールであり事実上のサービス名統一により改名となった。 == スナップメール == 運営はアイ・ビー・イー・ネット・タイム。2000年にドコモが発売した小型デジタルカメラを装備したメール端末「[[キャメッセ]]」([[東芝]]製)「キャメッセボード」([[セイコーエプソン]]製)における専用[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]、「リトルアンジュ」のサービスである。iモードメール宛に画像付きメールが送れる準公式サービスであり、商標はドコモが保有していた。SMTP/POP方式とは異なる独自の通信プロトコルを用いて画像を送受信する。 キャメッセやPC宛へ送信する場合、画像は直に添付ファイルとして送受信させ、iモードのドメイン宛へは添付したメールの画像をスナップメールのサーバーで一時的に保管し、同サーバから相手先のiモードメールにメールの画像が保管されているURLが送信され、Web(勝手サイト)上で閲覧と保存が出来る。 iショットとFOMAの普及、キャメッセユーザの減少などから、[[2004年]]を以てリトルアンジュが事業終了・サービス中止しており、現在は利用できない。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == {{Docomoのサービス}} [[Category:Iモード|あいしよつと]]
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サンクトペテルブルク
サンクトペテルブルク(露: Санкт-Петербург,サンクトピチルブールク, IPA:[sankt pjɪtjɪrˈburk] 発音)は、ロシア西部のネヴァ川河口デルタに位置する都市で、レニングラード州の行政府がある(レニングラード州の州都は別の都市)。人口は約540万人で、首都モスクワに次ぎロシア第2の都市である。1711年から1917年まで、約206年にわたってロシア帝国の首都だった古都でもある。 都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これはサンクトペテルブルクの建設を命じたピョートル1世が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもので、隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクをペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。 当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになった。ドイツ語では Sankt Petersburg であり、古典的発音の場合はザンクト・ペーテルスブルク、現在の口語発音ではザンクト・ペータスブアクと呼ばれる。最初の音が濁らず、「ブルク」の前に「ス」の入らない Санкт-Петербург (Sankt-Peterburg) は、ドイツ語名がロシア語化したもの。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い。ロシア帝国の首都として長く定着していた。また、語末のgは、ドイツ語でも濁らないが、ロシア語でも語尾の有声子音は無声化されるため、ロシア人は「ペテルブルク」と発音する。このため日本のカタカナ表記でも「ペテルブルク」が「ペテルブルグ」よりも多く用いられる。なお、英語ではセント・ピーターズバーグ (Saint Petersburg) と呼ばれる。 1914年、第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国がドイツ帝国と交戦状態に入ると、ドイツ語風のサンクトペテルブルクが避けられ、ロシア語風のペトログラード (Петроград)と改められた。これはドイツ語風の「ブルク」を、ロシア語風(厳密には古代教会スラヴ語風)の「グラード」に差し替えたものであり、意味は同じである。 さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりソ連建国の父ウラジーミル・レーニンの死去により、彼にちなんで「レーニンの街」の意であるレニングラード (Ленинград, リニングラート)と改称され、この名称がソ連崩壊まで半世紀以上用いられた。 しかし、1991年のソ連崩壊の後、住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った(ただし、投票に拘束力はなく地名変更にはソビエト連邦最高会議の承認が必要とされた)。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる。対独感情の良い時期であったこともあり、短期間しか用いられなかったペトログラードの名は飛ばされて、その前のサンクトペテルブルクまで一挙に戻されている。州名は従来どおりレニングラード州となっている。 バルト海東部のフィンランド湾最奥部に位置し、隣国との国境線に近く、フィンランドの首都ヘルシンキ、エストニアの首都タリンとの距離は、それぞれ300km、350kmである。一方、首都のモスクワとは直線距離で600km以上離れている。(東京~函館、東京~広島間の距離に相当) 行政上はモスクワ、セヴァストーポリとともに単独で連邦市を形成しており、これら2都市と同じく都市単独で連邦構成主体となっている。世界の100万都市の中では最も北に位置する。 市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達しており、ネヴァ川は運河や河川などにより、白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季となる11月から4月に凍結するが、厳寒期を除き常に砕氷船がこれらの航路を維持している。 ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれた重要な交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ大公国分裂後の1136年、北方にノヴゴロド公国が建国された。首都ノヴゴロドはネヴァ川水路でバルト海と繋がっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。また、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間にネヴァ河畔の戦いが起こり、この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、その後アレクサンドルは自らの名に「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加え、アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。その後はモスクワ公国領となっていたが、1617年、ストルボヴァの和約によりスウェーデンがここを支配下に置いた。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占する大帝国となった(バルト帝国)。 1700年に始まった大北方戦争でスウェーデンの要塞を陥落させ、ネヴァ川河口を占領したピョートル1世は、1703年5月27日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始した。これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている。当時、この地域はイングリアと呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸のノヴゴロドに代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。建設費用と戦費は借款によって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。1713年、ポルタヴァの戦いに勝利後、この地が首都と定められた。1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となり、戦後のニスタット条約によりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。 1725年に皇帝エカチェリーナ1世がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた。翌年ロシアがウィーン同盟に加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年イスタンブールに印刷所が開設され、オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、ライン川へ送られた。1734年、英露通商条約。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)でブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ね、アゾフ海とクリミア半島の奪取に成功した。 歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続け、1754年には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として冬宮が完成し、ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。1757年には演劇アカデミーが創設された。エカチェリーナ2世の時代の1762年には冬宮の一角に後のエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるアシグナツィアを流通させた。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行した。このため市章はラバルムをモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した。1787年、仏露通商条約。 1800年、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する。フランス皇帝ナポレオン1世の侵攻による1812年の祖国戦争において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱が起きたもののすぐに鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、ベアリングス銀行とホープ商会が投資していた。1851年にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設立した。このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となった。1869年、人口は67万人になった。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている。 1894年、ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ。1897年、国立銀行が中央銀行となる。1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配に対抗した。19世紀末には聖イサアク大聖堂や血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物の多くはこの時期に建設された。また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上したため、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。 1905年10月、サンクトペテルブルクでソビエトがゼネストを起こす。1907年、英露協商。1910年には人口は190万人に達していた。同年、露亜銀行が誕生した。この頃、株式商業銀行を含めたサンクトペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増した。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行がパリ・ロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立した。1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。 ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉軍の派遣を恐れ、首都を国境地帯に近いペトログラード(サンクトペテルブルク)からモスクワに移転。1922年にモスクワが正式に首都と定められたことで、サンクトペテルブルクは首都の地位を失った。1924年にロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」の意であるレニングラードに改名された。 レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランド軍によって占領される危険性があった。そこでヨシフ・スターリンはフィンランドに対してレニングラード周辺のフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府がこの要求を断固拒否したため、1939年に冬戦争が勃発。当時のソ連軍とフィンランド軍の戦力差は絶望的であり、当初はソ連の圧勝かと思われたが、フィンランドは善戦し、ソ連軍は多大な犠牲を払うこととなった。しかし結局翌1940年にはレニングラード周辺地域の割譲をもって講和がなされ(モスクワ講和条約)、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営への参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ軍による約900日(872日)、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。 戦後もレニングラードはソ連第二の都市として大きな存在感を持っており、その歴史的経緯や地理的要因から首都であり最大都市のモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることはソビエトの政治体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力闘争でも大きな影響力を持つことになった。なお、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後の2000年にロシア大統領に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。 1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。2006年には第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナ(ロシア語版)のコンスタンチン宮殿(ロシア語版)。 2013年よりラフタ・センターという、高層ビルを含む5つの建物で構成される複合施設が市の郊外に建設されている。高層ビルは高さ462mに達しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。 2019年10月1日より、電子査証によるサンクトペテルブルクおよびレニングラード州への訪問が可能となった。 ケッペンの気候区分では亜寒帯の湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。その一方で、冬の日照時間は非常に短い。冬の寒さは暖流の影響でロシア内陸部やモスクワよりは温和であるが、-25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度に位置するため、可照時間が増えてくる2月が最寒月である。過去最低気温は1883年の−35.9度、過去最高気温は2010年8月の37.1度である。 サンクト・ペテルブルクには、18の行政区が設置されている。 サンクトペテルブルクはロシアを代表する大港湾都市、大工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革など多くの工業が発達している。大規模なコンテナ埠頭があり、クルーズ船用の旅客ターミナルも備えている。 サンクトペテルブルクは1703年に都市建設を開始して以来、外国資本を積極的に受け入れて街を発展させてきた歴史があり、帝政ロシア時代にはドイツやオランダの商人が拠点を置き、貿易を行っていた。ソビエト時代には停滞したが、近年は外資の進出が盛んであり、トヨタの自動車工場が建設された。ドイツの影響で、ロシア随一のビールの生産地となっている。 サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク市民はこの都市の高い文化水準に誇りを持っているとされている。 サンクトペテルブルクの新聞には、レニングラード州最大の新聞である「ヴェースチ」や、市内最大の新聞である「サンクトペテルブルクスキエ・ヴェードモスチ」をはじめ、他にも「ノーヴァヤ・ガゼータ」や「コムソモーリスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルク」、「セントピーターズバーグ・タイムズ」、テレビ・ラジオ番組専門の「テレヴィディェールニエ・ラジオ」などが存在する。また、テレビとラジオの番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、または「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月~日)のを掲載している。 サンクトペテルブルクのテレビは、ペールヴイ(第一)、ロシア1、5 カナール(5 チャンネル)、NTVなど、12チャンネル程度ある。ラジオは、ラジオ・ロシア・サンクトペテルブルク(66.3 MHz、)や、ラジオTRKペテルブルク(69.47 MHz)、ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ()、サンクトペテルブルクで生まれたステーションである「Peter FM 100.9」などが存在している。 サンクトペテルブルクに本拠地を置くプロサッカークラブとして、FCゼニト・サンクトペテルブルクが存在している。ホームスタジアムは、2018年ロシアW杯でも使用されたガスプロム・アリーナ。ロシア・プレミアリーグに属しており、「UEFAカップ 2007-08」や「2008 UEFAスーパーカップ」で優勝を果たすなど、ヨーロッパの舞台においても顕著な成績を収めている。また、あまり知られてはいないが、ゼニト以外にもロシア・セカンドディビジョン(3部)に属するFKディナモ・サンクトペテルブルクというクラブも存在する。 サッカー以外の他の競技では、アイスホッケーチームのSKAサンクトペテルブルク(KHL)の本拠地でもある。また、チェスでは1914年に「チェス大会」が開催された際、賞金の一部を寄付したニコライ2世が決勝進出者の5名(ラスカー、カパブランカ、アレヒン、タラッシュ、マーシャル)に与えた称号がグランドマスターの原型である。 運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「水の都」として名高いヴェネツィアにちなんで「北のヴェネツィア」の異名を持つ。 街の中心は、旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたる街の目抜き通りのネフスキー大通りで、サンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客が訪れる。 サンクトペテルブルクの観光名所の多くがユネスコの世界遺産に登録されている。 歴史ある、多数の高等教育機関がある。 市の中心部から17km南にプルコヴォ空港があり、国内線のみならず国際線も多く就航し、市の玄関口となっている。プルコヴォ空港は国内線用のプルコヴォ1ターミナルと国際線用のプルコヴォ2ターミナルに分かれている。両ターミナルともアクセス鉄道はなく、バスが地下鉄2号線モスコフスカヤ駅へと連絡している。 サンクトペテルブルクには5つのターミナル駅があり、列車の目的地が駅名となっている。 サンクトペテルブルク地下鉄が1955年から運行されており、2016年現在、5路線72駅が存在する。駅の内装はソビエトの地下鉄の伝統に従いデザイン性の高いものが多い。 サンクトペテルブルク市電は1863年に開業した馬車鉄道が起源。1907年に電化され、路面電車となった。ソビエト時代には市民の「足」として重宝され、最盛期には路線距離は320kmに達し世界最大となった。1991年のソビエト崩壊後、市当局は市内の高速道路の整備を重点的に進めたため、自家用車の普及率が上昇、路面電車の利用者数は急激に減少した。このため廃線と運行本数の削減が行われ、2010年現在の総延長は205.5kmとなっている。 サンクトペテルブルクは計画都市なので、道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。乗合バス、マルシュルートカ(小型乗合バス)、トロリーバス、路面電車の運行も行われている。タクシーは駅、空港以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。 自動車専用道路は「サンクトペテルブルク環状道路」が完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている。この環状道路を縦断するように有料の「西高速直径道路」が南北に走っている。 サンクトペテルブルクから他都市への道路は、ロシア連邦道路M10(モスクワへ、欧州自動車道路網のE105号線の一部)、ロシア連邦道路R21(ムルマンスクへ、同E105号線の一部)、ロシア連邦道路A181(フィンランド国境へ)、ロシア連邦道路A180(エストニア国境へ、同E20号線の一部)などがある。 以下は近郊の都市で少し遠くなるが、日帰り旅行地として頻繁に鉄道、バスが出ている。 英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。 この地域は、モスクワ時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。(2011年3月までは標準時がUTC+3で夏時間がUTC+4時間、同年3月から2014年10月までは通年UTC+4であった)
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"行政上はモスクワ、セヴァストーポリとともに単独で連邦市を形成しており、これら2都市と同じく都市単独で連邦構成主体となっている。世界の100万都市の中では最も北に位置する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達しており、ネヴァ川は運河や河川などにより、白海、ドニエプル川、ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季となる11月から4月に凍結するが、厳寒期を除き常に砕氷船がこれらの航路を維持している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれた重要な交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ大公国分裂後の1136年、北方にノヴゴロド公国が建国された。首都ノヴゴロドはネヴァ川水路でバルト海と繋がっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。また、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間にネヴァ河畔の戦いが起こり、この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、その後アレクサンドルは自らの名に「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加え、アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。その後はモスクワ公国領となっていたが、1617年、ストルボヴァの和約によりスウェーデンがここを支配下に置いた。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占する大帝国となった(バルト帝国)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1700年に始まった大北方戦争でスウェーデンの要塞を陥落させ、ネヴァ川河口を占領したピョートル1世は、1703年5月27日(当時ロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始した。これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている。当時、この地域はイングリアと呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸のノヴゴロドに代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。建設費用と戦費は借款によって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。1713年、ポルタヴァの戦いに勝利後、この地が首都と定められた。1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となり、戦後のニスタット条約によりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1725年に皇帝エカチェリーナ1世がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた。翌年ロシアがウィーン同盟に加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年イスタンブールに印刷所が開設され、オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、ライン川へ送られた。1734年、英露通商条約。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)でブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ね、アゾフ海とクリミア半島の奪取に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続け、1754年には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として冬宮が完成し、ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。1757年には演劇アカデミーが創設された。エカチェリーナ2世の時代の1762年には冬宮の一角に後のエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるアシグナツィアを流通させた。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行した。このため市章はラバルムをモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した。1787年、仏露通商条約。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1800年、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する。フランス皇帝ナポレオン1世の侵攻による1812年の祖国戦争において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱が起きたもののすぐに鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、ベアリングス銀行とホープ商会が投資していた。1851年にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設立した。このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となった。1869年、人口は67万人になった。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1894年、ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ。1897年、国立銀行が中央銀行となる。1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配に対抗した。19世紀末には聖イサアク大聖堂や血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物の多くはこの時期に建設された。また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上したため、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1905年10月、サンクトペテルブルクでソビエトがゼネストを起こす。1907年、英露協商。1910年には人口は190万人に達していた。同年、露亜銀行が誕生した。この頃、株式商業銀行を含めたサンクトペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増した。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行がパリ・ロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立した。1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉軍の派遣を恐れ、首都を国境地帯に近いペトログラード(サンクトペテルブルク)からモスクワに移転。1922年にモスクワが正式に首都と定められたことで、サンクトペテルブルクは首都の地位を失った。1924年にロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」の意であるレニングラードに改名された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランド軍によって占領される危険性があった。そこでヨシフ・スターリンはフィンランドに対してレニングラード周辺のフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府がこの要求を断固拒否したため、1939年に冬戦争が勃発。当時のソ連軍とフィンランド軍の戦力差は絶望的であり、当初はソ連の圧勝かと思われたが、フィンランドは善戦し、ソ連軍は多大な犠牲を払うこととなった。しかし結局翌1940年にはレニングラード周辺地域の割譲をもって講和がなされ(モスクワ講和条約)、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営への参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ軍による約900日(872日)、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "戦後もレニングラードはソ連第二の都市として大きな存在感を持っており、その歴史的経緯や地理的要因から首都であり最大都市のモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることはソビエトの政治体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力闘争でも大きな影響力を持つことになった。なお、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後の2000年にロシア大統領に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。2006年には第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナ(ロシア語版)のコンスタンチン宮殿(ロシア語版)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2013年よりラフタ・センターという、高層ビルを含む5つの建物で構成される複合施設が市の郊外に建設されている。高層ビルは高さ462mに達しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2019年10月1日より、電子査証によるサンクトペテルブルクおよびレニングラード州への訪問が可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分では亜寒帯の湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。その一方で、冬の日照時間は非常に短い。冬の寒さは暖流の影響でロシア内陸部やモスクワよりは温和であるが、-25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度に位置するため、可照時間が増えてくる2月が最寒月である。過去最低気温は1883年の−35.9度、過去最高気温は2010年8月の37.1度である。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "サンクト・ペテルブルクには、18の行政区が設置されている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクはロシアを代表する大港湾都市、大工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革など多くの工業が発達している。大規模なコンテナ埠頭があり、クルーズ船用の旅客ターミナルも備えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクは1703年に都市建設を開始して以来、外国資本を積極的に受け入れて街を発展させてきた歴史があり、帝政ロシア時代にはドイツやオランダの商人が拠点を置き、貿易を行っていた。ソビエト時代には停滞したが、近年は外資の進出が盛んであり、トヨタの自動車工場が建設された。ドイツの影響で、ロシア随一のビールの生産地となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク市民はこの都市の高い文化水準に誇りを持っているとされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクの新聞には、レニングラード州最大の新聞である「ヴェースチ」や、市内最大の新聞である「サンクトペテルブルクスキエ・ヴェードモスチ」をはじめ、他にも「ノーヴァヤ・ガゼータ」や「コムソモーリスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルク」、「セントピーターズバーグ・タイムズ」、テレビ・ラジオ番組専門の「テレヴィディェールニエ・ラジオ」などが存在する。また、テレビとラジオの番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、または「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月~日)のを掲載している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクのテレビは、ペールヴイ(第一)、ロシア1、5 カナール(5 チャンネル)、NTVなど、12チャンネル程度ある。ラジオは、ラジオ・ロシア・サンクトペテルブルク(66.3 MHz、)や、ラジオTRKペテルブルク(69.47 MHz)、ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ()、サンクトペテルブルクで生まれたステーションである「Peter FM 100.9」などが存在している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクに本拠地を置くプロサッカークラブとして、FCゼニト・サンクトペテルブルクが存在している。ホームスタジアムは、2018年ロシアW杯でも使用されたガスプロム・アリーナ。ロシア・プレミアリーグに属しており、「UEFAカップ 2007-08」や「2008 UEFAスーパーカップ」で優勝を果たすなど、ヨーロッパの舞台においても顕著な成績を収めている。また、あまり知られてはいないが、ゼニト以外にもロシア・セカンドディビジョン(3部)に属するFKディナモ・サンクトペテルブルクというクラブも存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "サッカー以外の他の競技では、アイスホッケーチームのSKAサンクトペテルブルク(KHL)の本拠地でもある。また、チェスでは1914年に「チェス大会」が開催された際、賞金の一部を寄付したニコライ2世が決勝進出者の5名(ラスカー、カパブランカ、アレヒン、タラッシュ、マーシャル)に与えた称号がグランドマスターの原型である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「水の都」として名高いヴェネツィアにちなんで「北のヴェネツィア」の異名を持つ。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "街の中心は、旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたる街の目抜き通りのネフスキー大通りで、サンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客が訪れる。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクの観光名所の多くがユネスコの世界遺産に登録されている。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "歴史ある、多数の高等教育機関がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "市の中心部から17km南にプルコヴォ空港があり、国内線のみならず国際線も多く就航し、市の玄関口となっている。プルコヴォ空港は国内線用のプルコヴォ1ターミナルと国際線用のプルコヴォ2ターミナルに分かれている。両ターミナルともアクセス鉄道はなく、バスが地下鉄2号線モスコフスカヤ駅へと連絡している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクには5つのターミナル駅があり、列車の目的地が駅名となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルク地下鉄が1955年から運行されており、2016年現在、5路線72駅が存在する。駅の内装はソビエトの地下鉄の伝統に従いデザイン性の高いものが多い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルク市電は1863年に開業した馬車鉄道が起源。1907年に電化され、路面電車となった。ソビエト時代には市民の「足」として重宝され、最盛期には路線距離は320kmに達し世界最大となった。1991年のソビエト崩壊後、市当局は市内の高速道路の整備を重点的に進めたため、自家用車の普及率が上昇、路面電車の利用者数は急激に減少した。このため廃線と運行本数の削減が行われ、2010年現在の総延長は205.5kmとなっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクは計画都市なので、道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。乗合バス、マルシュルートカ(小型乗合バス)、トロリーバス、路面電車の運行も行われている。タクシーは駅、空港以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "自動車専用道路は「サンクトペテルブルク環状道路」が完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている。この環状道路を縦断するように有料の「西高速直径道路」が南北に走っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "サンクトペテルブルクから他都市への道路は、ロシア連邦道路M10(モスクワへ、欧州自動車道路網のE105号線の一部)、ロシア連邦道路R21(ムルマンスクへ、同E105号線の一部)、ロシア連邦道路A181(フィンランド国境へ)、ロシア連邦道路A180(エストニア国境へ、同E20号線の一部)などがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以下は近郊の都市で少し遠くなるが、日帰り旅行地として頻繁に鉄道、バスが出ている。", "title": "郊外" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。", "title": "双子都市" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この地域は、モスクワ時間帯の標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。(2011年3月までは標準時がUTC+3で夏時間がUTC+4時間、同年3月から2014年10月までは通年UTC+4であった)", "title": "標準時" } ]
サンクトペテルブルクは、ロシア西部のネヴァ川河口デルタに位置する都市で、レニングラード州の行政府がある(レニングラード州の州都は別の都市)。人口は約540万人で、首都モスクワに次ぎロシア第2の都市である。1711年から1917年まで、約206年にわたってロシア帝国の首都だった古都でもある。
{{otheruses|都市|潜水艦|サンクトペテルブルク (潜水艦)}} {{Redirect2|レニングラード|ピーテル}} {{Redirect|ペテルブルグ|小説|:en:Petersburg (novel)}} {{世界の市 |正式名称 =サンクトペテルブルク |公用語名称 ={{lang|ru|Санкт-Петербург}} |愛称 =Piter |標語 = |画像 =St. Petersburg Montage 2016.png |画像サイズ指定 =300px |画像の見出し = [[旧海軍省 (サンクトペテルブルク)|旧海軍省]]、[[ペトロパヴロフスク要塞]]、[[聖イサアク大聖堂]]、[[フォンタンカ川]]、[[青銅の騎士]]、[[冬宮殿]] |市旗 =Flag of Saint Petersburg.svg |市章 =Coat of Arms of Saint Petersburg (2003).svg |位置図 = Saint Petersburg in Russia (special marker).svg |位置図サイズ指定 = |位置図の見出し = |位置図B = {{location map|Russia Leningrad Oblast#Russia Northwestern Federal District#European Russia|float=center}} |位置図2B = {{Maplink2|zoom=8|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=250|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=59.93|frame-longitude=30.09}} |緯度度=59|緯度分=56|緯度秒=|N(北緯)及びS(南緯)=N |経度度=30|経度分=20|経度秒=|E(東経)及びW(西経)=E |成立区分 =建設 |成立日 =[[1703年]][[5月27日]] |下位区分名 ={{RUS}} |下位区分種類1 =[[連邦管区]] |下位区分名1 =[[北西連邦管区]] |下位区分種類2 =[[ロシア連邦の地方区分|行政区画]] |下位区分名2 =[[ロシアの連邦市|サンクトペテルブルク連邦市]] |規模 =市 |最高行政執行者称号 =市長 |最高行政執行者名 =[[アレクサンドル・ベグロフ]] |最高行政執行者所属党派 = [[統一ロシア]] |総面積(平方キロ) =1,431 |総面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) =3 ~ 175 |標高(フィート) = |人口の時点 =2020年 |人口に関する備考 = |総人口 =5,398,064 |人口密度(平方キロ当たり)=3,772 |人口密度(平方マイル当たり)= |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ)= |都市圏人口密度(平方マイル)= |市街地人口 = |等時帯 =[[モスクワ時間]] |協定世界時との時差 =+3 |郵便番号の区分 =郵便番号 |郵便番号 =190000 - 199406 |市外局番 =+7 812 |ナンバープレート =78, 98 |公式ウェブサイト =https://www.gov.spb.ru/ |備考 = }} [[ファイル:Saint Petersburg 30.36553E 59.94613N.jpg|thumb|'''人工衛星写真'''<br />サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した]] '''サンクトペテルブルク'''({{lang-ru-short|Санкт-Петербург}},{{smaller|サンクトピチルブールク}}, [[国際音声記号|IPA]]:{{IPA|sankt pʲɪtʲɪrˈburk}} {{Audio|Ru-Sankt Peterburg Leningrad Petrograd Piter.ogg|発音}})は、[[ロシア]]西部の[[ネヴァ川]]河口デルタに位置する都市で、[[レニングラード州]]の行政府がある(レニングラード州の州都は別の都市)。人口は約540万人で、首都[[モスクワ]]に次ぎロシア[[第二都市|第2の都市]]である。[[1711年]]から[[1917年]]まで、約206年にわたって[[ロシア帝国]]の首都だった[[古都]]でもある。 == 名前の変遷 == [[ファイル:Bronze Horseman002.jpg|thumb|[[青銅の騎士]]像。市の建設者ピョートル1世を記念した像である]] 都市の名は「聖[[ペトロ|ペテロ]]の街」を意味する。これはサンクトペテルブルクの建設を命じた[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもので、隣国の[[フィンランド]]ではサンクトペテルブルクをペテロの[[フィンランド語]]名そのままにピエタリ ({{lang|fi|Pietari}}) の名で呼んでいる。 当初は[[オランダ語]]風に'''サンクト・ピーテルブールフ''' ({{lang|ru|Санкт-Питер-Бурх}}) と呼ばれていたが、後に[[ドイツ語]]風に'''サンクト・ペテルブルク''' ({{lang|ru|Санкт-Петербург}}) と呼ばれるようになった。ドイツ語では '''{{lang|de|Sankt Petersburg}}''' であり、古典的発音の場合は'''ザンクト・ペーテルスブルク'''、現在の口語発音では'''ザンクト・ペータスブアク'''と呼ばれる。最初の音が濁らず、「ブルク」の前に「ス」の入らない {{lang|ru|Санкт-Петербург}} ({{lang|ru-Latn|Sankt-Peterburg}}) は、ドイツ語名がロシア語化したもの。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い<ref>[[江上波夫]] ・山本達朗 ・ [[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]・ [[成瀬治]]。『詳説世界史 改訂版』([[高等学校]] 地理歴史科用文部省検定済[[教科書]]。1997年3月31日[[文部省]]検定済。[[1999年]]3月5日 発行。教科書番号 81 山川 世B575。 [[山川出版社]] ) p 173, p 285に「1703年、バルト海沿岸にペテルブルク(→p. 285注①)を建設し, ここに首都を移した」、「戦争開始後、ペテルブルクを改称してペトログラードとなった。<!--さらに第一次世界大戦後レニングラードとなったが, 1991年に旧名のサンクト=ペテルブルクにもどされた」と記載されている。--></ref>。ロシア帝国の首都として長く定着していた。また、語末のgは、ドイツ語でも濁らないが、ロシア語でも語尾の有声子音は無声化されるため、ロシア人は「ペテルブルク」と発音する。このため日本のカタカナ表記でも「ペテルブルク」が「ペテルブルグ」よりも多く用いられる。なお、英語では'''セント・ピーターズバーグ''' (Saint Petersburg) と呼ばれる。 [[1914年]]、第一次世界大戦が始まり、[[ロシア帝国]]が[[ドイツ帝国]]と交戦状態に入ると、ドイツ語風のサンクトペテルブルクが避けられ、ロシア語風の'''ペトログラード''' ({{lang|ru|Петроград}})と改められた{{Sfn |ニューズウィーク1991年6月27日|p=11}}。これはドイツ語風の「ブルク」を、ロシア語風(厳密には[[古代教会スラヴ語]]風)の「グラード」に差し替えたものであり、意味は同じである。 さらに[[ロシア革命]]により[[ソビエト連邦]]が成立すると、1924年よりソ連建国の父[[ウラジーミル・レーニン]]の死去により、彼にちなんで「レーニンの街」の意である'''レニングラード''' ({{lang|ru|'''Ленинград'''}}, {{smaller|リニングラート}})と改称され、この名称がソ連崩壊まで半世紀以上用いられた。 しかし、1991年の[[ソ連崩壊]]の後、住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った(ただし、投票に拘束力はなく地名変更には[[ソビエト連邦最高会議]]の承認が必要とされた{{Sfn |ニューズウィーク1991年6月27日|p=11}})。ロシア人の間では'''ピーテル''' ({{lang|ru|'''Питер'''}}, {{smaller|ピーチェル}}) の愛称で呼ばれる<ref>[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1037 不況の今、ソ連文化の良さに注目が集まる]([http://jbpress.ismedia.jp/ JBpress])</ref>。対独感情の良い時期であったこともあり、短期間しか用いられなかったペトログラードの名は飛ばされて、その前のサンクトペテルブルクまで一挙に戻されている。州名は従来どおりレニングラード州となっている。 == 地理 == [[バルト海]]東部の[[フィンランド湾]]最奥部に位置し、隣国との国境線に近く、フィンランドの首都[[ヘルシンキ]]、エストニアの首都[[タリン]]との距離は、それぞれ300km、350kmである<ref>[[ヘルシンキ]]および[http://www.estemb.or.jp/jp/estonia 駐日エストニア共和国大使館公式ホームページ]参照</ref>。一方、首都の[[モスクワ]]とは直線距離で600km以上離れている。([[東京]]~[[函館市|函館]]、東京~[[広島市|広島]]間の距離に相当) 行政上はモスクワ、[[セヴァストーポリ]]とともに単独で[[ロシアの連邦市|連邦市]]を形成しており、これら2都市と同じく都市単独で[[ロシア連邦の地方区分|連邦構成主体]]となっている。世界の[[100万都市]]の中では最も北に位置する。 市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達しており、ネヴァ川は運河や河川などにより、[[白海]]、[[ドニエプル川]]、[[ヴォルガ川]]と結ばれているため、この都市は[[カスピ海]]やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季となる11月から4月に凍結するが、厳寒期を除き常に砕氷船がこれらの航路を維持している。 == 歴史 == === 前史 === ネヴァ川河口域は、古くは[[バルト海]]からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「[[ヴァリャーグからギリシアへの道]]」と呼ばれた重要な交易ルートに位置し、[[ルーシ]]の北辺に位置していた。[[キエフ大公国]]分裂後の1136年、北方に[[ノヴゴロド公国]]が建国された。首都[[ノヴゴロド]]はネヴァ川水路でバルト海と繋がっており、[[ハンザ同盟]]の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。また、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置く[[スウェーデン]]との国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間に[[ネヴァ河畔の戦い]]が起こり、この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、その後アレクサンドルは自らの名に「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加え、[[アレクサンドル・ネフスキー]]を名乗るようになった。その後は[[モスクワ公国]]領となっていたが、[[1617年]]、[[ストルボヴァの和約]]によりスウェーデンがここを支配下に置いた。ほどなくスウェーデンは[[三十年戦争]]を通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占する大帝国となった([[バルト帝国]])。 === ロシア帝国時代 === 1700年に始まった[[大北方戦争]]でスウェーデンの要塞を陥落させ、[[ネヴァ川]]河口を占領した[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]は、1703年5月27日(当時ロシアで使われていた[[ユリウス暦]]では5月13日)に[[ペトロパヴロフスク要塞]]の建設を開始した。これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている<ref name="Holiday">{{Cite Russian law |ru_entity=Законодательное Собрание Санкт-Петербурга |ru_type=Закон |ru_number=555-75 |ru_date=26 октября 2005 г. |ru_title=О праздниках и памятных датах в Санкт-Петербурге |ru_amendment_type=Закона |ru_amendment_number=541-112 |ru_amendment_date=6 ноября 2008 г |en_entity=Legislative Assembly of Saint Petersburg |en_type=Law |en_number=555-75 |en_date=October 26, 2005 |en_title=On Holidays and Memorial Dates in Saint Petersburg }}</ref>。当時、この地域は[[イングリア]]と呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸の[[ノヴゴロド]]に代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。建設費用と戦費は[[借款]]によって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。1713年、[[ポルタヴァの戦い]]に勝利後、この地が首都と定められた。1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となり、戦後の[[ニスタット条約]]によりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。 [[1725年]]に[[ロシア皇帝|皇帝]][[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた<ref name=jiten />。翌年ロシアが[[ウィーン同盟]]に加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年[[イスタンブール]]に印刷所が開設され、[[オスマン帝国]]の情報が[[黒海]]経由で科学アカデミーに集積され、[[ライン川]]へ送られた。1734年、[[英露通商条約]]<ref name="genyu">[https://cir.nii.ac.jp/crid/1420001326231458944 武田元有]</ref>。ロシアは[[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)]]で[[ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ]]に軍政を委ね、[[アゾフ海]]と[[クリミア半島]]の奪取に成功した。 歴代[[ロシア皇帝]]は帝都サンクトペテルブルクの整備を続け、[[1754年]]には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として[[冬宮]]が完成し、[[ネフスキー大通り]]が整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。[[1757年]]には演劇アカデミーが創設された。[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の時代の[[1762年]]には冬宮の一角に後の[[エルミタージュ美術館]]の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結<ref name=genyu />。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣である[[アシグナツィア]]を流通させた<ref name="shioya">塩谷昌史 [https://web.archive.org/web/20160624175256/http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBb1140306.pdf サンクト・ペテルブルクとロシア系ユダヤ商人]經濟學雜誌 114(3), 76-93, 2013-12</ref>。この年アムステルダムでロシア初の[[外債]]も発行した<ref name=shioya />。このため市章は[[ラバルム]]をモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した<ref name=shioya />。1787年、[[仏露通商条約]]<ref name=genyu />。 [[1800年]]、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する<ref name=jiten />。[[フランス皇帝]][[ナポレオン1世]]の侵攻による[[1812年ロシア戦役|1812年の祖国戦争]]において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、[[1817年]]、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した<ref name=shioya />。[[1819年]]には[[サンクトペテルブルク大学]]が創設された。[[1825年]]には[[デカブリストの乱]]が起きたもののすぐに鎮圧された。[[1837年]]にはペテルブルクと[[ツァールスコエ・セロー]]との間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、[[ベアリングス銀行]]と[[ホープ商会]]が投資していた<ref name=shioya />。[[1851年]]にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した<ref>「図説 ロシアの歴史」p90 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行</ref>。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設立した。このとき[[ロスチャイルド]]のロシア投資を仲介する[[:en:Alexander von Stieglitz|アレクサンドル・スティグリッツ]]が初代総裁となった<ref name=shioya />。1869年、人口は67万人になった<ref name=jiten />。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の[[岩倉使節団]]の記録である『[[米欧回覧実記]]』に詳しく記されている<ref>久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、47~110頁</ref>。 [[ファイル:Karta över Sankt Petersburg på 1910-talet (ur Nordisk familjebok).jpg|thumb|[[1910年]]時点におけるサンクトペテルブルクの地図]] [[File:Desfile-uno-mayo-II--rusia--russianbolshevik00rossuoft.png|thumb|ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆]] 1894年、ロシアが[[ドイツ帝国]]と通商条約を結んだ。[[1897年]]、国立銀行が[[中央銀行]]となる。1898年6月、国立銀行が[[露清銀行]]の新株を全部引き受けて、[[パリバ]]の支配に対抗した。[[19世紀]]末には[[聖イサアク大聖堂]]や[[血の上の救世主教会]]など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物の多くはこの時期に建設された。また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上したため、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。 1905年10月、サンクトペテルブルクで[[ソビエト]]が[[ゼネスト]]を起こす。1907年、[[英露協商]]。[[1910年]]には人口は190万人に達していた<ref name=jiten>「新版 ロシアを知る事典」p311 平凡社 2004年1月21日発行</ref>。同年、[[露亜銀行]]が誕生した。この頃、株式商業銀行を含めたサンクトペテルブルクの[[銀行]]群がロシアの金融界で支配力を急速に増した<ref name=shioya />。これらは[[露仏同盟]]などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行が[[パリ]]・[[ロンドン]]などの[[国際金融市場]]へ支店・持株会社を設立した<ref name=shioya />。1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。 === ソビエト連邦時代 === [[ファイル:Вход в Смольный.jpg|thumb|スモーリヌイ修道院 ソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都が[[モスクワ]]に移されるまで[[ソビエト]]政府の中枢であった]] [[ロシア革命]]では[[2月革命_(1917年)|二月革命]]・[[10月革命_(1917年)|十月革命]]の2つの革命の中心地となり、武装蜂起による[[ボリシェヴィキ]]の政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉軍の派遣を恐れ、首都を国境地帯に近いペトログラード(サンクトペテルブルク)からモスクワに移転。[[1922年]]にモスクワが正式に首都と定められたことで、サンクトペテルブルクは首都の地位を失った。[[1924年]]にロシア革命の指導者[[ウラジーミル・レーニン]]が死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」の意である'''レニングラード'''に改名された。 レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランド軍によって占領される危険性があった。そこで[[ヨシフ・スターリン]]はフィンランドに対してレニングラード周辺のフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府がこの要求を断固拒否したため、[[1939年]]に[[冬戦争]]が勃発。当時のソ連軍とフィンランド軍の戦力差は絶望的であり、当初はソ連の圧勝かと思われたが、フィンランドは善戦し、ソ連軍は多大な犠牲を払うこととなった。しかし結局翌[[1940年]]にはレニングラード周辺地域の割譲をもって講和がなされ([[モスクワ講和条約]])、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営への参加を招いた。[[第二次世界大戦]]中は、フィンランドと[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]による約900日(872日{{Sfn |ニューズウィーク1991年6月27日|p=11}})、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた([[レニングラード包囲戦]])。枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。その功績により、レニングラードは[[英雄都市]]の称号を与えられた。 戦後もレニングラードは[[ソ連]]第二の都市として大きな存在感を持っており、その歴史的経緯や地理的要因から首都であり最大都市のモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることはソビエトの政治体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、[[クレムリン]]での権力闘争でも大きな影響力を持つことになった。なお、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後の[[2000年]]に[[ロシア大統領]]に選ばれた[[ウラジーミル・プーチン]]が初めてである。 === ロシア連邦成立後 === [[1998年]]に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市や[[クロンシュタット]]等)を[[編入]]し、市域が拡大した。[[2008年]]5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。2006年には[[第32回主要国首脳会議]](G8サミット)、2013年に[[G20]]が開かれている。会場は{{仮リンク|ストレルナ|ru|Стрельна}}の{{仮リンク|コンスタンチン宮殿|ru|Константиновский дворец}}<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E5%AE%AE%E6%AE%BF/ コンスタンチン宮殿]大辞泉 - goo辞書</ref>。 [[2013年]]より[[ラフタ・センター]]という、高層ビルを含む5つの建物で構成される複合施設が市の郊外に建設されている。高層ビルは高さ462mに達しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。 [[2019年]][[10月1日]]より、電子査証によるサンクトペテルブルクおよび[[レニングラード州]]への訪問が可能となった<ref>[https://rg.ru/2019/07/22/peterburg-dok.html {{lang|ru|Указ Президента Российской Федерации от 18 июля 2019 г. N 347 "О порядке въезда в Российскую Федерацию и выезда из Российской Федерации иностранных граждан через пункты пропуска через государственную границу Российской Федерации, расположенные на территориях г. Санкт-Петербурга и Ленинградской области"}}]</ref><ref>[https://timesofindia.indiatimes.com/business/india-business/from-october-1-enter-russia-on-free-e-visa-for-up-to-8-days-from-st-petersburg/articleshow/70305799.cms From October 1, enter Russia on free e-visa for up to 8 days from St Petersburg - Times of India]</ref>。 {{main|[[ロシアの査証政策]]}} == 気候 == [[ケッペンの気候区分]]では[[亜寒帯]]の[[亜寒帯湿潤気候]]または[[湿潤大陸性気候]] (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も[[薄明]]の時間が長い。その一方で、冬の日照時間は非常に短い。冬の寒さは暖流の影響でロシア内陸部やモスクワよりは温和であるが、-25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度に位置するため、可照時間が増えてくる2月が最寒月である。過去最低気温は1883年の−35.9度、過去最高気温は2010年8月の37.1度である。 {{Weather box |location=サンクトペテルブルク(1991~2020) |metric first=yes |single line=yes |Jan record high C= 8.7 |Feb record high C= 10.2 |Mar record high C= 15.3 |Apr record high C= 25.3 |May record high C= 33.0 |Jun record high C= 35.9 |Jul record high C= 35.3 |Aug record high C= 37.1 |Sep record high C= 30.4 |Oct record high C= 21.0 |Nov record 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クロンシュタット区(Кронштадтский){{see|クロンシュタット}} # クロールト区(Курортный) # モスクワ区(Московский) # ネヴァ区(Невский) # ペトログラード区(Петроградский) # ペトロドヴォレツ区(Петродворцовый) # プリモルスク区(沿海区)(Приморский) # {{仮リンク|プーシキン区|ru|Пушкинский район (Санкт-Петербург)}}(Пушкинский) # フルンゼ区(Фрунзенский) # 中央区(Центральный) == 経済 == [[Image:NavyMuseum.jpg|thumb|旧サンクトペテルブルク証券取引所(現在は中央海軍博物館)]] サンクトペテルブルクはロシアを代表する大港湾都市、大工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革など多くの工業が発達している。大規模なコンテナ埠頭があり、クルーズ船用の旅客ターミナルも備えている。 サンクトペテルブルクは1703年に都市建設を開始して以来、外国資本を積極的に受け入れて街を発展させてきた歴史があり、帝政ロシア時代にはドイツやオランダの商人が拠点を置き、貿易を行っていた。ソビエト時代には停滞したが、近年は外資の進出が盛んであり、[[トヨタ自動車|トヨタ]]の自動車工場が建設された。ドイツの影響で、ロシア随一の[[ビール]]の生産地となっている。 == 文化 == === 文学 === サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『[[青銅の騎士]]』を物した詩人で作家の[[アレクサンドル・プーシキン]]、いわゆる「ペテルブルクもの」を物した[[ウクライナ]]出身の作家[[ニコライ・ゴーゴリ]]、『[[罪と罰]]』を物した[[フョードル・ドストエフスキー]]などがその代表である。また、[[イワン・ツルゲーネフ]]の作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「[[移動派]]」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク市民はこの都市の高い文化水準に誇りを持っているとされている。 === 音楽 === [[ファイル:Spb 06-2012 MariinskyTheatre.jpg|thumb|マリインスキー劇場]] [[ファイル:Mariinsky Theatre in Saint Petersburg.jpg|thumb|マリインスキー劇場のメインホール]] *[[サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団]] **[[エフゲニー・ムラヴィンスキー]]が指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。旧称「レニングラード・フィルハーモニー交響楽団」。 *[[マリインスキー劇場]] **20年間に渡り音楽監督を務めている[[ヴァレリー・ゲルギエフ]]のもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。オペラ・バレエだけでなくコンサート([[マリインスキー劇場管弦楽団|同劇場管弦楽団]]として)においてもレベルの高い演奏を続けている。現在でも旧称の「キーロフ歌劇場管弦楽団」名義で販売されているCDが少なからずあることから、旧称で当該楽団を知る向きも多い。 *[[ウィンナワルツ]]の作曲家として知られる[[ヨハン・シュトラウス2世]]は、1856年から連続して1865年までと、1869年、それに晩年の1886年の夏にペテルブルクやその近郊の街である[[ツァールスコエ・セロー]](現在の[[プーシキン (町)|プーシキン]])や[[パヴロフスク]]を訪れ、特にバヴロフスクの駅舎コンサートではロシア人聴衆を前に多数のワルツやポルカの数々を相次いで発表し、当地で熱狂的な支持と歓迎を得た。シュトラウス2世自身も滞在先のロシアからウィーンの友人に宛てたある手紙の中で「生きるならロシアに限ります。ここには多くの金がある。金がある所にこそ生きがいがあるのです!」と述べている。ロシア滞在時代には多くのセンチメンタルな作品が書かれ、多くはロシアの民謡を直接に取り入れた作品や、ロシア的内容の濃い作品が多く目に留まる。なお、ヨハン2世の弟の[[ヨーゼフ・シュトラウス]]も1862年と1869年の夏に兄のヨハン2世夫妻に随行する形でロシアを訪問した。パヴロフスクの駅舎で自作自演し、公式にロシア・デビューを果たした。 **1857年には、当時のサンクト・ペテルブルクの上流社会に因んで流行のフランス語でタイトルが与えられた、印象的な内容のカドリーユ『[[ル・ボー・モンド]](=美しい世界)』op.199が誕生し、さらに翌1858年には、渋いチェロの独奏で開始される穏やかな内容のワルツ<[[サンクト・ペテルブルクとの別れ]]> op.210が作曲された。1859年にはコーダ部分で嵐の情景の様を効果的に描いた力作ワルツ<[[旅の冒険]]>op.227が作曲された。1860年には素朴ながらも感傷的なロシア情緒が交錯する幾分悲劇的な転調で変化を見せる内容の<[[宝石のポルカ]]> op.242や、「北のヴェネツィア」という異名の由来となった、ネヴァ川にちなんで1864年の夏に滞在先のロシアで偶然に書かれたとされる愛らしく無邪気な内容の<[[ネヴァ川ポルカ]]> op.288などの作品がロシアで作曲された。これらの他にもロシア風な特徴を持つ多数の作品群がヨハン・シュトラウス2世の作品表上にはある。どのロシア時代の作品も傑作と呼ぶべき密度の濃い作品が揃っており、それらの大半は今日、演奏される機会にほとんど恵まれず埋もれた状況となっている。 * [[サンクトペテルブルク国立アカデミーカペラ]] - 15世紀に皇帝[[イヴァン3世]]がモスクワに創設した合唱団をルーツとし、18世紀初頭にサンクトペテルブルクに創設<ref>ニューグローヴ世界音楽大辞典. 20. 講談社, 1994, p212</ref>。 === メディア === サンクトペテルブルクの[[新聞]]には、[[レニングラード州]]最大の新聞である「ヴェースチ」や、市内最大の新聞である「サンクトペテルブルクスキエ・ヴェードモスチ」をはじめ、他にも「[[ノーヴァヤ・ガゼータ]]」や「コムソモーリスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルク」、「[[セントピーターズバーグ・タイムズ_(ロシア)|セントピーターズバーグ・タイムズ]]」、テレビ・ラジオ番組専門の「テレヴィディェールニエ・ラジオ」などが存在する。また、[[テレビ]]と[[ラジオ]]の番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、または「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月~日)のを掲載している。 サンクトペテルブルクのテレビは、ペールヴイ(第一)、[[ロシア1]]、5 カナール(5 チャンネル)、[[NTV_(ロシア)|NTV]]など、12チャンネル程度ある。ラジオは、ラジオ・ロシア・サンクトペテルブルク(66.3 MHz、[http://www.rtr.spb.ru])や、ラジオTRKペテルブルク(69.47 MHz)、ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ([http://www.muzcentrum.ru])、サンクトペテルブルクで生まれたステーションである「[https://radiopiterfm.ru/ Peter FM 100.9]」などが存在している。 === スポーツ === {{Main|Category:サンクトペテルブルクのスポーツ|{{仮リンク|サンクトペテルブルクのスポーツ|en|Sport in Saint Petersburg}}}} サンクトペテルブルクに[[本拠地]]を置くプロ[[サッカー]]クラブとして、[[FCゼニト・サンクトペテルブルク]]が存在している。ホームスタジアムは、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアW杯]]でも使用された[[ガスプロム・アリーナ]]。[[ロシアサッカー・プレミアリーグ|ロシア・プレミアリーグ]]に属しており、「[[UEFAカップ 2007-08]]」や「[[2008 UEFAスーパーカップ]]」で優勝を果たすなど、[[ヨーロッパ]]の舞台においても顕著な成績を収めている。また、あまり知られてはいないが、ゼニト以外にも[[ロシア・セカンドディビジョン]](3部)に属する[[FKディナモ・サンクトペテルブルク]]というクラブも存在する。 サッカー以外の他の競技では、[[アイスホッケー]]チームの[[SKAサンクトペテルブルク]]([[KHL]])の本拠地でもある。また、[[チェス]]では[[1914年]]に「チェス大会」が開催された際、賞金の一部を寄付した[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が決勝進出者の5名([[エマーヌエール・ラスカー|ラスカー]]、[[ホセ・ラウル・カパブランカ|カパブランカ]]、[[アレクサンドル・アレヒン|アレヒン]]、[[ジークベルト・タラッシュ|タラッシュ]]、[[フランク・マーシャル (チェスプレーヤー)|マーシャル]])に与えた称号が[[グランドマスター]]の原型である。 == 観光 == [[運河]]が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「[[水の都]]」として名高い[[ヴェネツィア]]にちなんで「北のヴェネツィア」の異名を持つ。 街の中心は、[[旧海軍省 (サンクトペテルブルク)|旧海軍省]]から[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]にいたる街の目抜き通りの[[ネフスキー大通り]]で、サンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客が訪れる。 サンクトペテルブルクの観光名所の多くが[[ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。{{main|[[サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群]]}} {{右| [[ファイル:Sankt-Petersburg Eremitage by night.JPG|thumb|[[エルミタージュ美術館]]]] [[ファイル:Mikhailovsky.jpg|thumb|[[ロシア美術館]]]] [[ファイル:RUS-2016-Aerial-SPB-St Michael's Castle 02.jpg|thumb|[[ミハイロフスキー城]]]] [[ファイル:Петропавловка с высоты.jpg|サムネイル|[[ペトロパヴロフスク要塞]]]] }} === 美術館 === *[[エルミタージュ美術館]]([[冬宮殿]]) *[[ロシア美術館]] *[[ロシア民族誌博物館]] === 教会・寺院・修道院 === *[[聖イサアク大聖堂]](イサク聖堂) *[[血の上の救世主教会]] *[[カザン聖堂]] *[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]] *{{仮リンク|スモーリヌイ修道院|en|Smolny Convent}} *[[カトリック聖カタリナ教会]] *[[ルーテル聖ペテロ教会]] === その他の建造物 === *[[サンクトペテルブルクテレビタワー]] *[[タヴリーダ宮殿]] *[[タヴリーチェスキー庭園]] *[[ペトロパヴロフスク要塞]] *[[マリインスキー宮殿]] *[[マリインスキー劇場]] *[[クンストカメラ]] *[[エカテリーナ宮殿]](ツァールスコエ・セロー) *{{仮リンク|ピョートル大帝の夏の宮殿|en|Peterhof Palace}}([[ペテルゴフ]]) *[[青銅の騎士]] *[[ペトロフスキ・スタジアム]] *[[ニコラエフスキー宮殿]] *[[アヴローラ (防護巡洋艦)|巡洋艦アヴローラ]] *[[シュヴァロフスキー公園]] *[[ボリショイ・サンクトペテルブルク国立サーカス]] *[[ノーヴァヤ・ゴランディヤ]] *[[ワグネル・グループ]]本部 === 年中行事 === *[[赤い帆 (祭り)|赤い帆祭り]] {{wide image|PalaceSquareNight.jpg|700px|align-cap=center|宮殿広場}} == 教育 == === 大学 === [[ファイル:Spb Vasilievsky Island Twelve Collegiums asv2019-09.jpg|thumb|right|サンクトペテルブルク国立大学]] {{main|[[:en:List of higher education and academic institutions in Saint Petersburg]]}} 歴史ある、多数の[[高等教育機関]]がある。 *[[サンクトペテルブルク国立大学]](1724年創立) *[[アグリッピナ・ワガノワ|ワガノワ]]・ロシア・バレエ学院([[:en:Vaganova Academy of Russian Ballet]]、1738年) *[[サンクトペテルブルク美術大学]](1757年、[[レーピン]]記念) *[[サンクトペテルブルク国立鉱山大学]](1773年) *[[ロシア国立教育大学]](1797年) *{{仮リンク|サンクトペテルブルク国立工業大学|ru|Санкт-Петербургский государственный технологический институт|en|Saint Petersburg State Institute of Technology}}(1828年) *[[サンクトペテルブルク音楽院]](1862年、[[リムスキー=コルサコフ]]記念) *[[サンクトペテルブルク国立医科大学]](1897年) *[[サンクトペテルブルク工科大学]](1899年) *[[サンクトペテルブルク舞台芸術学院]](1899年) *[[サンクトペテルブルク国立医学院]](1907年) *{{仮リンク|ゲルツェン記念ロシア国立教育大学|ru|Росси́йский госуда́рственный педагоги́ческий университе́т и́мени А. И. Ге́рцена }} (1918) *[[サンクトペテルブルク国立経済大学]](1930年) ===研究所=== *[[クルィロフ国立研究所]] (1894年) *[[植物栽培研究所]] (1921年) *[[ヨッフェ物理学技術研究所]] (1918年) *[[ロシア科学アカデミー東洋学研究所|東洋学研究所]] (1818年) == 交通 == [[ファイル:Pulkovo airport.jpg|thumb|right|プルコヴォ空港]] [[ファイル:Saint-Pétersbourg - Gare de Moscou - 2015-12-11 - IMG 2694.jpg|サムネイル|モスコーフスキー駅]] [[ファイル:ST Petersburg Metro Kirovsky Zvod.jpg|thumb|地下鉄キーロフスキー・ザヴォート駅]] [[ファイル:Tram LM-2008 on Moskovskiy avenue.jpg|thumb|LM-2008形路面電車]] === 空港 === 市の中心部から17km南に[[プルコヴォ空港]]があり、国内線のみならず国際線も多く就航し、市の玄関口となっている。プルコヴォ空港は国内線用のプルコヴォ1ターミナルと国際線用のプルコヴォ2ターミナルに分かれている。両ターミナルともアクセス鉄道はなく、バスが[[サンクトペテルブルク地下鉄2号線|地下鉄2号線]][[モスコフスカヤ駅 (サンクトペテルブルク地下鉄)|モスコフスカヤ駅]]へと連絡している。 === 鉄道 === サンクトペテルブルクには5つのターミナル駅があり、列車の目的地が駅名となっている。 *[[モスコーフスキー駅]] (モスクワ、シベリア、[[クリミア]]地方)‐ 高速列車[[サプサン]]が発着する *[[ヴィチェプスク駅]] ([[ベラルーシ]]、東ヨーロッパ諸国)‐ ロシア最初の鉄道駅 *[[バルチースキー駅]] ([[バルト三国]])‐ [[エレクトリーチカ]](近郊電車)が主体の駅 *[[フィンリャンツキー駅]] (フィンランド)‐ フィンランド国鉄からロシアに譲渡された歴史がある *[[ラドジスキー駅]] ([[ラドガ湖]]、[[ムルマンスク]])‐ モスクワとフィンランド方面を結ぶ列車が経由する === 地下鉄 === [[サンクトペテルブルク地下鉄]]が1955年から運行されており、2016年現在、5路線72駅が存在する。駅の内装はソビエトの地下鉄の伝統に従いデザイン性の高いものが多い。 === 路面電車 === [[サンクトペテルブルク市電]]は1863年に開業した[[馬車鉄道]]が起源。1907年に電化され、[[サンクトペテルブルク市電|路面電車]]となった。ソビエト時代には市民の「足」として重宝され、最盛期には路線距離は320kmに達し世界最大となった<ref name="history_tram_1">[http://saint-petersburg.ru/m/old/old/221451/ Трамвайная столица - миф Санкт-Петербурга?]2020年12月31日閲覧</ref>。1991年のソビエト崩壊後、市当局は市内の高速道路の整備を重点的に進めたため、自家用車の普及率が上昇、路面電車の利用者数は急激に減少した。このため廃線と運行本数の削減が行われ、2010年現在の総延長は205.5km<ref>{{cite journal |url=https://issuu.com/alex.biris/docs/railwaypro_december/39 |title=Saint Petersbrug doubles investments for underground development |magazine=Railway Pro Magazine |volume=VIII |issue=4.12. (102) |page=39 |date=2013-12 |accessdate=2018-7-29}}</ref>となっている。 === 道路 === サンクトペテルブルクは計画都市なので、道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。[[バス (交通機関)|乗合バス]]、[[マルシュルートカ]](小型乗合バス)、[[トロリーバス]]、[[路面電車]]の運行も行われている。[[タクシー]]は駅、空港以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。 自動車専用道路は「[[サンクトペテルブルク環状道路]]」が完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている<ref>大前研一『ロシア・ショック』(講談社、2008)</ref>。この環状道路を縦断するように有料の「[[西高速直径道路]]」が南北に走っている。 サンクトペテルブルクから他都市への道路は、[[ロシア連邦道路M10]]([[モスクワ]]へ、[[欧州自動車道路]]網の[[E105号線]]の一部)、[[ロシア連邦道路R21]]([[ムルマンスク]]へ、同E105号線の一部)、ロシア連邦道路A181([[フィンランド]]国境へ)、[[ロシア連邦道路A180]]([[エストニア]]国境へ、同[[E20号線]]の一部)などがある。 {{-}} == 郊外 == [[ファイル:St. Petersburg Russia Hydrofoil boat.jpg|thumb|冬宮前からペテルゴフ宮殿へと向かう[[水中翼船]](2008年)]] *[[ペテルゴフ]](ペーターホーフ):都心から西に30km。{{仮リンク|ペテルゴフ宮殿|en|Peterhof Palace}}がある。 *[[ツァールスコエ・セロー]]:都心から南に25km。[[エカテリーナ宮殿]]がある。 *{{仮リンク|ラフタ|ru|Лахта (исторический район)|en|Lakhta, Saint Petersburg}}:[[ラフタ・センター]]という高さ463mの超高層ビルがある。 以下は近郊の都市で少し遠くなるが、日帰り旅行地として頻繁に鉄道、バスが出ている。 *[[ノヴゴロド]] *[[シュリッセリブルク]] *[[ヴィボルグ]](ヴィープリ) *[[プスコーフ]] == 姉妹都市 == {{Col-begin}} {{Col-2}} *{{flagicon|FIN}} [[トゥルク]](フィンランド) 1953年初めての姉妹都市 *{{flagicon|GER}} [[ハンブルク]](ドイツ)1953年 *{{flagicon|GER}} [[ドレスデン]](ドイツ)1961年 *{{flagicon|UK}} [[バーミンガム]]([[イギリス]])1962年 *{{flagicon|CRO}} [[ザグレブ]]([[クロアチア]])1968年 *{{flagicon|JPN}} [[大阪市]]<ref>[https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000017644.html 大阪市ホームページ 姉妹都市(サンクト・ペテルブルグ)]2020年8月12日閲覧</ref>([[日本]])1979年 *{{flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]]([[ブラジル]])1986年 *{{flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]([[中国]])1988年 *{{flagicon|AUS}} [[メルボルン]]([[オーストラリア]])1989年 *{{flagicon|USA}} [[ランシング (ミシガン州)|ランシング]]([[アメリカ合衆国]])1992年 *{{flagicon|IRN}} [[エスファハーン]]([[イラン]])1999年 *{{flagicon|USA}} [[ロサンゼルス]](アメリカ合衆国) *{{flagicon|RSA}} [[ケープタウン]]([[南アフリカ共和国]]) *{{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]([[セルビア]]) *{{flagicon|IND}} [[ムンバイ]]([[インド]]) *{{flagicon|ITA}} [[ミラノ]]([[イタリア]]) {{Col-2}} *{{flagicon|Italy}} ヴェネツィア、イタリア *{{flagicon|HUN}} [[デブレツェン]]([[ハンガリー]]) *{{flagicon|SVK}} [[コシツェ]]([[スロバキア]])1995年 *{{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]([[トルコ]]) *{{flagicon|NED}} [[ロッテルダム]]([[オランダ]]) *{{flagicon|KGZ}} [[オシ]]([[キルギスタン]]) *{{flagicon|KSA}} [[ジッダ]]([[サウジアラビア]]) *{{flagicon|CHN}} [[青島市|青島]](中国)2007年 * {{flagicon|Kazakhstan}} [[アルマトイ]], [[カザフスタン]] <small>''(1996年)''<ref name="saint_petersburg">{{cite web |url=https://web.archive.org/web/20041012051131/http://eng.gov.spb.ru/figures/ities |title=Saint Petersburg in figures – International and Interregional Ties |publisher=Saint Petersburg City Government |accessdate=March 23, 2008}}{{リンク切れ|date= 2019-05}}</ref></small> * {{flagicon|Azerbaijan}} [[バクー]], [[アゼルバイジャン]] <small>''(1998年)''<ref name="saint_petersburg" /></small> * {{flagicon|Tajikistan}} [[ドゥシャンベ]], [[タジキスタン]] <small>''(1999年)''<ref name="saint_petersburg" /></small> * {{flagicon|Armenia}} [[エレバン]], [[アルメニア]] <small>''(1997年)''<ref name="saint_petersburg" /><ref name="Yerevan Sister Cities">{{cite web|url=http://yerevan.am/main.php?lang=3&page_id=194|title=Yerevan Municipality – Sister Cities|publisher=2005–2009 [http://yerevan.am/?lang=3 www.yerevan.am]|accessdate=June 22, 2009}}{{リンク切れ|date= 2019-05}}</ref></small> * {{flagicon|Lithuania}} [[ヴィリニュス]], [[リトアニア]] <small>''(2002年)''<ref name="saint_petersburg" /><ref>{{cite web |url=http://www.vilniushostels.eu/index.php?option=com_content&task=view&id=1&Itemid=2 |title=Guide to Vilnuis |accessdate=December 1, 2008}}{{リンク切れ|date= 2019-05}}</ref></small> * {{flagicon|Latvia}} [[リガ]], [[ラトビア]] <small>''(1997年)''<ref name="saint_petersburg" /><ref>{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20081204021323/http://www.riga.lv/EN/Channels/Riga_Municipality/Twin_cities_of_Riga/default.htm |title=Twin cities of Riga |publisher=[[Riga City Council]] |accessdate=December 1, 2008}}{{リンク切れ|date= 2019-05}}</ref></small> * {{flagicon|Ukraine}} [[セヴァストポリ]], [[ウクライナ]] <small>''(2000年)''<ref name="saint_petersburg" /></small> * {{flagicon|Latvia}} [[ダウガフピルス]], [[ラトビア]] <small>''(2002年)''</small><ref>http://www.gorod.lv/o_gorode</ref> {{Col-end}} == 双子都市 == *{{flagicon|USA}} [[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]](アメリカ合衆国) 英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。 == 標準時 == [[ファイル:Map of Russia - Moscow time zone.svg|left|75px]] この地域は、[[モスクワ時間|モスクワ時間帯]]の[[標準時]]を使用している。時差は[[UTC+3]]時間で、[[夏時間]]はない。(2011年3月までは標準時がUTC+3で夏時間が[[UTC+4]]時間、同年3月から2014年10月までは通年UTC+4であった) == ギャラリー == <gallery> ファイル:Angliyskaya Enbankment SPb.jpg|ネヴァ川と聖イサアク大聖堂 ファイル:Menshikov palace.jpg|メンシコフ宮殿 ファイル:Mariinsky Palace Saint Petersburg.jpg|マリインスキー宮殿 ファイル:Catherine Palace.jpg|エカテリーナ宮殿 ファイル:Narva Triumphal Gate.jpg|ナルヴァ門 ファイル:Buberel StPetersburg StNicolas Cathedral.jpg|聖ニコライ聖堂 ファイル:Spb 06-2012 Nevsky various 02.jpg|カザン聖堂 ファイル:Church of the Savior on Blood.JPG|血の上の救世主教会 ファイル:Bronze Horseman and St'Isaac's cathedral 1890-1900.jpg|聖イサアク大聖堂と[[ピョートル大帝|ピョートル大帝像]] ファイル:Magic Sankt Petersburg - Kunstkammer at White Nights (Weisse Nächte).jpg|クンストカメラ File:Grand Cascade in Peterhof 01.jpg|ペテルゴフ宮殿 File:Gazprom tower (Lakhta Center) St Petersburg. Russia.jpg|[[ラフタ・センター]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite magazine|title = [[ニューズウィーク]]日本版(1991年6月27日号) |chapter = レーニンの名も風前のともしび |newspaper = |publisher = TBSブリタニカ |date = 1991-6-27 |ref = {{Sfnref |ニューズウィーク1991年6月27日}} }} == 関連項目 == *[[バルチック艦隊]] *[[サンクトペテルブルクのパラドックス]] (数学の問題) *[[ラケタ]] *[[おろしや国酔夢譚]](映画ロケ地) *: ロケの当時、レニングラード市ソビエト議長はサプチャークであり、国際関係担当顧問または同市対外関係委員会議長は[[ウラジーミル・プーチン]]であった。 *[[在サンクトペテルブルク日本国総領事館]] *[[レニングラード (小惑星)]] *[[ソローキンの見た桜]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Санкт-Петербург|Saint Petersburg}} * {{ウィキトラベル インライン|サンクトペテルブルク|サンクトペテルブルク}} * {{Kotobank|サンクト・ペテルブルグ}} ; 政府 : サンクトペテルブルク市 公式サイト:[https://www.gov.spb.ru Официальный сайт Администрации Санкт-Петербурга] {{ru icon}} ; 日本政府 : [https://www.st-petersburg.ru.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在サンクトペテルブルク日本国総領事館] {{ja icon}} {{ロシア連邦の地方区分}} {{英雄都市}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんくとへてるふるく}} [[Category:サンクトペテルブルク|*]] [[category:バルト地方]] [[Category:ヨーロッパの港町]] [[Category:ロシアの古都]] [[Category:ピョートル1世]] [[Category:フィンランド湾]] [[category:ロシアの計画都市]] [[Category:ロシアの連邦市]] [[Category:レーニン勲章受章都市]] [[Category:十月革命勲章受章都市]] [[Category:赤旗勲章受章都市]] [[Category:ソビエト連邦の英雄都市]] [[Category:北西連邦管区]] [[Category:ペトロ]]
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刑法
刑法()とは、犯罪とそれに対する刑罰の関係を規定する法である。 「刑法」という語は、前記のような意味(実質的意義)で用いられるほか、そのような内容を定めた法典(刑法典)の題名としても用いられる(形式的意義における刑法)。刑法典は、一般的な犯罪に関わるものとして「普通刑法」ないし「一般刑法」ともよばれる。実質的意義における刑法は、刑法典の内容に限らず、犯罪の成立要件とその犯罪に対して科せられる法律効果としての刑罰の内容を規定した国家的法規範の全てを指し、また、刑罰を補充する制度である保安処分に関する法をも含むこともある。 刑法は、犯罪と刑罰の内容を定め、国の刑罰権が発生する条件を明らかにするものとして、実体法に分類される。これに対し、刑法に規定された犯罪が行われたときに、実際にどのように捜査・裁判(公判)を遂行すべきかを規定するのは、主に刑事訴訟法である。さらに、実際に刑罰を執行する方法について定めるのは、犯罪者処遇法(行刑法)である。これらの法分野を総称して「刑事法」というが、刑法は刑事法の中心的な法として位置づけられる。 また、法体系を公法と私法に二分した場合、日本においては公法に属するものと解されている。 成文法主義のドイツやフランス等の大陸法の国、及びそれらの国から法を継受した国だけでなく、不文法主義の英米法の国においても、「刑法」(英: penal code、独: Strafgesetzbuch、仏: code pénal)あるいは「犯罪法」(英: criminal code)という名の法典(刑法典)が刑法の中心的な法源である。日本では、「刑法(明治40年4月24日法律第45号)」がそれにあたる。アメリカでは各州にそれぞれ独自の刑法典が存在する。 また、刑法典の他にも各種の単行法において犯罪となる行為とそれに対する罰則が定められていた場合、これらの法律も刑法の法源である。実質的意義における刑法のうち刑法典を除いた刑罰法規を「特別刑法」と呼ぶ。 刑法が法典化されていない数少ない国のひとつであるイギリスにおいても、殺人法(英: homicide act)や盗法(theft act)といった単行法が制定されており、これらが刑法の法源となる。 大陸法の国においては、刑法は必ず議会によって制定された法律によって定められなければならず、成文化されていない慣習は刑法の法源として認められない(慣習刑法排除の原則)。他方、英米法の国では、判例によって形成されるコモン・ローも刑法の法源として認められる。 当然に反社会的で処罰に値すると考えられる行為(自然犯)の処罰に関する刑罰法規を刑事刑法(ないし司法刑法)という。日本の法律では、刑法典のほか、爆発物取締罰則や暴力行為等処罰ニ関スル法律等が刑事刑法に属する。 行政上の目的を達するため、行政法規に反する行為(行政犯)の処罰に関する刑罰法規を行政刑法という。行政刑法は、刑事刑法と比べて倫理的要素が弱く、合目的要素が強い。租税刑法や経済刑法など行政的規制の全ての分野に及ぶため、その内容も広範囲にわたる。 行為に対する規範的評価を明らかにする機能を規制的機能という。ここには、一定の行為を犯罪と規定することで、これに対する否定的評価を明らかにする機能(評価的機能)と、犯罪行為に対する制裁(刑罰)を規定することにより、一般の人々を犯罪から遠ざける機能(意思決定機能)を含む。 一定の法益(法により保護されるべき利益)に対する侵害行為に対して制裁を加えることで、法益を保護し、社会生活における秩序を維持する機能を保護的機能という。秩序維持機能ともいう。 刑法は、一定の行為を犯罪と規定し、これに対する刑罰が予め明示しており、一般市民は犯罪を犯さない限り刑罰を科されることはなく、また、犯罪者はその範囲内でのみ処罰される。このように、国家の刑罰権の行使を制限することで、一般市民及び犯罪を犯した者の自由を保障する機能を保障的機能という。ここから、刑法は「善良な市民のマグナ・カルタ」であると同時に「犯罪人のマグナ・カルタ」であるといわれる。「マグナ・カルタ的機能」ともいう。
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刑法とは、犯罪とそれに対する刑罰の関係を規定する法である。 「刑法」という語は、前記のような意味(実質的意義)で用いられるほか、そのような内容を定めた法典(刑法典)の題名としても用いられる(形式的意義における刑法)。刑法典は、一般的な犯罪に関わるものとして「普通刑法」ないし「一般刑法」ともよばれる。実質的意義における刑法は、刑法典の内容に限らず、犯罪の成立要件とその犯罪に対して科せられる法律効果としての刑罰の内容を規定した国家的法規範の全てを指し、また、刑罰を補充する制度である保安処分に関する法をも含むこともある。
{{otheruses|実質的意義の刑法|日本の刑法|刑法 (日本)|各国・各地域の刑法典|刑法 (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2021年12月}} {{ウィキプロジェクトリンク|刑法 (犯罪)}} {{読み仮名|'''刑法'''|けいほう}}とは、[[犯罪]]とそれに対する[[刑罰]]の関係を規定する[[法 (法学)|法]]である。 「刑法」という語は、前記のような意味(実質的意義)で用いられるほか、そのような内容を定めた[[法典]](刑法典)の題名としても用いられる(形式的意義における刑法)。刑法典は、一般的な犯罪に関わるものとして「普通刑法」ないし「一般刑法」ともよばれる。実質的意義における刑法は、刑法典の内容に限らず、犯罪の成立要件とその犯罪に対して科せられる法律効果としての刑罰の内容を規定した国家的法規範の全てを指し、また、刑罰を補充する制度である[[保安処分]]に関する法をも含むこともある。 == 刑法の法的性質 == {{節スタブ}} 刑法は、[[犯罪]]と刑罰の内容を定め、国の刑罰権が発生する条件を明らかにするものとして、[[実体法]]に分類される。これに対し、刑法に規定された犯罪が行われたときに、実際にどのように[[捜査]]・[[裁判]]([[公判]])を遂行すべきかを規定するのは、主に[[刑事訴訟法]]である。さらに、実際に刑罰を執行する方法について定めるのは、犯罪者処遇法(行刑法)である。これらの法分野を総称して「刑事法」というが、刑法は刑事法の中心的な法として位置づけられる。 また、[[法体系]]を[[公法]]と[[私法]]に二分した場合、日本においては公法に属するものと解されている。<!-- ただし、フランス等においては、刑法は私法のひとつであると考えられている。([[フランス法]]の記述を参考にしましたが、出典が見つかりません) --> == 刑法の法源 == === 成文法 === [[成文法]]主義の[[ドイツ]]や[[フランス]]等の[[大陸法]]の国、及びそれらの国から法を継受した国だけでなく、[[不文法]]主義の[[英米法]]の国においても、「刑法」({{lang-en-short|penal code}}、{{lang-de-short|Strafgesetzbuch}}、{{lang-fr-short|code pénal}})あるいは「犯罪法」({{lang-en-short|criminal code}})という名の法典(刑法典)が刑法の中心的な[[法源]]である。日本では、「[[刑法 (日本)|刑法(明治40年4月24日法律第45号)]]」がそれにあたる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では各州にそれぞれ独自の刑法典が存在する。 また、刑法典の他にも各種の単行法において犯罪となる行為とそれに対する罰則が定められていた場合、これらの法律も刑法の法源である。実質的意義における刑法のうち刑法典を除いた刑罰法規を「[[特別刑法]]」と呼ぶ。 刑法が法典化されていない数少ない国のひとつである[[イギリス]]においても、殺人法({{lang-en-short|homicide act}})や盗法({{lang|en|theft act}})といった単行法が制定されており、これらが刑法の法源となる。 === 不文法 === [[大陸法]]の国においては、刑法は必ず議会によって制定された法律によって定められなければならず、成文化されていない慣習は刑法の法源として認められない([[罪刑法定主義|慣習刑法排除の原則]])。他方、英米法の国では、[[判例]]によって形成される[[コモン・ロー]]も刑法の法源として認められる。 == 刑法の種類 == === 刑事刑法 === 当然に反社会的で処罰に値すると考えられる行為([[自然犯]])の処罰に関する刑罰法規を刑事刑法(ないし司法刑法)という。日本の法律では、刑法典のほか、[[爆発物取締罰則]]や[[暴力行為等処罰ニ関スル法律]]等が刑事刑法に属する。 === 行政刑法 === 行政上の目的を達するため、行政法規に反する行為([[行政犯]])の処罰に関する刑罰法規を行政刑法という。行政刑法は、刑事刑法と比べて倫理的要素が弱く、合目的要素が強い。[[税法|租税刑法]]や[[経済法|経済刑法]]など行政的規制の全ての分野に及ぶため、その内容も広範囲にわたる。 == 刑法の機能 == ;規制的機能 行為に対する規範的評価を明らかにする機能を規制的機能という。ここには、一定の行為を犯罪と規定することで、これに対する否定的評価を明らかにする機能(評価的機能)と、犯罪行為に対する制裁(刑罰)を規定することにより、一般の人々を犯罪から遠ざける機能(意思決定機能)を含む。 ;保護的機能(法益保護機能) 一定の[[法益]](法により保護されるべき利益)に対する侵害行為に対して制裁を加えることで、法益を保護し、社会生活における秩序を維持する機能を保護的機能という。秩序維持機能ともいう。 ;保障的機能(人権保障機能) 刑法は、一定の行為を犯罪と規定し、これに対する刑罰が予め明示しており、一般市民は犯罪を犯さない限り刑罰を科されることはなく、また、犯罪者はその範囲内でのみ処罰される。このように、国家の刑罰権の行使を制限することで、一般市民及び犯罪を犯した者の自由を保障する機能を保障的機能という。ここから、刑法は「善良な市民の[[マグナ・カルタ]]」であると同時に「犯罪人のマグナ・カルタ」であるといわれる。「マグナ・カルタ的機能」ともいう。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{法 (法学)}} {{法学のテンプレート}} {{Law-stub}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:けいほう}} [[Category:刑法|*]]
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刑罰
刑罰(、英: penalty)とは、形式的には、犯罪に対する法的効果として、国家などによって罪を犯した者に科せられる一定の法益の剥奪をいう。その実質的意義は犯罪に対する国家的応報であるとともに、一般予防と特別予防をも目的とする。広い意味では犯罪行為に科される。刑または刑事罰ともいう。 刑罰については、絶対主義、相対主義、併合主義の3つの立場がある。 刑罰権とは、犯罪者を処罰できる権能であり、通常は犯罪者を処罰できる国家の権限をいう。刑罰権には、一般的刑罰権と個別的刑罰権がある。 刑罰はその剝奪する法益の種類によって、生命刑、身体刑、自由刑、財産刑、名誉刑に分類される。 かつては生命刑や身体刑が刑罰の中心であったが、文明の発展とともに制限される傾向にあり、他方、国によっては社会奉仕命令などの立法も出現しており全体的には緩和化の傾向にあるとされる。 日本における現行法における刑罰は主刑と付加刑とに分けられる(刑法9条)。付加刑とは主刑の言渡しに付加してのみ言い渡すことができる刑罰を言う。 主刑の軽重は上に掲げる順序による。ただし、無期禁錮と有期懲役とでは無期禁錮を重い刑罰とし、有期禁錮の長期(当該犯罪の刑期の最長期間をいう)が有期懲役の刑期の2倍を超えるときも、禁錮を重い刑罰とする(同法10条1項)。 これらの刑種は、死刑を別として、懲役・禁錮・拘留を自由刑、罰金・科料・没収を財産刑と大きく分類される。なお、罰金ないしは科料を完納することができない場合には、労役場に留置されることとなる。 なお、比較的軽度の刑罰に対しては、刑の執行を一定の期間猶予し、その間犯罪を犯さないなどの条件を満たす場合には刑の言い渡しの効力を失わせる執行猶予という制度が設けられている。執行猶予は3年以下の懲役・禁錮、50万円以下の罰金に対して付すことが可能であり、これによって、短期の自由刑については、刑事施設内での処遇の弊害を回避しつつ、社会内で一定の心理的強制力を対象者に及ぼしつつ更生を図らせることが期待されている。これに対して執行猶予が付されない場合は俗に実刑と呼ばれる。 2022年3月8日現在、懲役刑と禁固刑を一本化し新しい刑罰として拘禁刑の導入が検討されている。もし実現すれば1907年に現行刑法が定められて以来初めて刑罰の種類が変更されることになる。 韓国の刑法では9種の刑罰が定められている(韓国刑法41条)。 国際刑事裁判所(ICC)の刑事手続には死刑はなく最高刑は終身刑である。ヨーロッパ諸国は死刑を認めるべきでないとの立場に立っていたのに対し、主にアラブ諸国は最も重大な犯罪であるにもかかわらず死刑を科さないことに反対があったため、国際刑事裁判所に関するローマ規程第80条は各国の国内法に定める刑罰の適用を妨げるものではないことを特に規定している。 刑罰の種類は主刑としての自由刑と付加刑としての財産刑である。自由刑として「最長三十年を超えない特定の年数の拘禁刑」及び「犯罪の極度の重大さ及び当該有罪の判決を受けた者の個別の事情によって正当化されるときは終身の拘禁刑」が定められている(国際刑事裁判所に関するローマ規程第77条1)。また財産刑には「手続及び証拠に関する規則に定める基準に基づく罰金」及び「直接又は間接に生じた収益、財産及び資産の没収」(善意の第三者の権利を害することのないように行うことが条件)が定められている(国際刑事裁判所に関するローマ規程第77条2)。 国際刑事裁判所は独自の刑事施設を有していないため刑の執行について各国の協力を得る必要がある。 拘禁刑の執行については、刑を言い渡された者を受け入れる意思を裁判所に対して明らかにした国の一覧表の中から国際刑事裁判所が指定する国において執行されるが、指定がなされない場合には接受国(オランダ)が提供する刑務所において執行される(国際刑事裁判所に関するローマ規程第103条)。 罰金及び没収の執行については、国際刑事裁判所の命令に基づき、締約国の国内法の手続に従って執行される。 犯罪が増加した場合、または抑止効果を狙って、死刑の適用、懲役・禁錮の年数増加など刑を重くすること(厳罰化)が行われることがある。つまり、ルールを破った者、罪を犯した者への対応として、教育することと、制裁を加えることのバランスにおいて、後者により重きを置くのである。 厳罰化は立法による場合(法定刑の引き上げ)、行政による場合(求刑の引き上げ)、司法による場合(量刑の引き上げ)によってなされる。厳罰化には、犯罪に対するより厳格な報復を望む被害者・遺族および世論の要望に応える目的や、社会感情を鎮めること、社会秩序の維持、国家や警察・検察機関の体面の維持などが挙げられる、さまざまな社会的要因が関係する。 犯罪報道の過熱化と厳罰化とは密接な関係が指摘されている。日本では、1995年のオウム真理教事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件を発端にして、ワイドショー番組でも盛んに事件報道が行われるようになった。 ワイドショーで視聴率の取りやすい報道は、あからさまに恐怖を煽ったり、犯人の残虐性を強調したり、被害者の悲しみや怒りを情緒的に伝える報道であり、報道番組の事実解明重視型の報道とは大きく異なるものとなった。このことにより、データとはかけ離れた感覚での社会不安が高まった(モラル・パニック、体感治安の悪化)。 例としては、殺人罪の法定刑が、「死刑又は無期若しくは3年以上の懲役」から「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」に引き上げられた。 孔子は史記において、法令によって民を導き、刑罰によって民を統制しようとすると、民は法令や刑罰の裏を潜る事だけを考え、悪を恥じる心を持たなくなるといい、道徳によって民を導き、礼儀によって民を統制すれば民には悪を恥じる心が育ち、正しい道を踏み行うようになる。更に史記では老子によると、高い德を具えた人は自分を有徳者だとは意識しないため、德が身に付き、つまらない德しか具えていない人は自分の德を誇示しようとするため、德が身に付かないといい、法律や禁令は整備されるほど盗賊が増えるという。同様に史記において、太史公は前述の孔子と老子の言葉に賛同し、法令は世を治める道具であり、政治の好し悪しを決定する根源ではないという。
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刑罰(けいばつ、とは、形式的には、犯罪に対する法的効果として、国家などによって罪を犯した者に科せられる一定の法益の剥奪をいう。その実質的意義は犯罪に対する国家的応報であるとともに、一般予防と特別予防をも目的とする。広い意味では犯罪行為に科される。刑または刑事罰ともいう。
{{読み仮名|'''刑罰'''|けいばつ|{{Lang-en-short|penalty}}}}とは、形式的には、犯罪に対する法的効果として、[[国家]]などによって[[犯罪|罪]]を犯した者に科せられる一定の[[法益]]の剥奪をいう。その実質的意義は犯罪に対する国家的応報であるとともに、一般予防と特別予防をも目的とする{{sfn|川端博|2006|p=665}}。広い意味では犯罪行為に科される{{sfn|前田雅英|2007|p=2}}。'''刑'''または'''刑事罰'''ともいう。 == 刑罰の本質 == 刑罰については、絶対主義、相対主義、併合主義の3つの立場がある。 ; 絶対主義 : 刑罰は正義を回復するための道義的必要に基づく応報であり、犯罪を行ったから罰するものであるという立場を絶対主義という{{Sfn|大谷實|2009|p=105}}。絶対主義は絶対的応報刑論を内容としている{{Sfn|大谷實|2009|p=105}}([[応報刑論]]を参照)。絶対的応報刑論の論者として[[イマヌエル・カント|カント]]や[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]がいる{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。 ; 相対主義 : 刑罰の合目的性・有用性から刑罰は犯罪を行わせないために罰するものであるという立場を相対主義という{{Sfn|大谷實|2009|p=105}}。相対主義は目的刑論を内容としている{{Sfn|大谷實|2009|p=105}}([[目的刑論]]を参照)。 : 相対主義には一般予防論と特別予防論がある{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。 : 一般予防論とは、刑罰は犯罪者を処罰することにより社会の一般人を威嚇し犯罪が発生することを抑止する目的をもつものであるという立場をいう{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。一般予防論は中世における不合理で残虐な刑罰を批判し、相対主義によって刑罰の合理化や緩和化を図ろうとしたもので、一般予防論の論者として[[チェーザレ・ベッカリーア|ベッカリーア]]や[[アンゼルム・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]がいる{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。 : 特別予防論とは、刑罰は犯罪者を処罰することにより犯罪者自身を改善するもので、それによって将来の犯罪を抑止する目的をもつものであるという立場をいう{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。特別予防論の論者として[[フランツ・フォン・リスト|リスト]]やフェリーがいる{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。 ; 併合主義 : 絶対主義と相対主義の両者を統合し、刑罰には正義の回復と合目的性のいずれも存在し、犯罪を行ったがゆえにかつ犯罪を行わせないために刑罰は存するという立場を併合主義という{{Sfn|大谷實|2009|p=105}}。 : 20世紀のヨーロッパ各国での刑法改正作業では応報刑論と目的刑論が対立していたが、応報刑論者も刑罰による犯罪者の改善の必要性を承認するようになったため併合主義が通説化した{{Sfn|大谷實|2009|p=106}}。 ==刑罰権== 刑罰権とは、犯罪者を処罰できる権能であり、通常は犯罪者を処罰できる国家の権限をいう。刑罰権には、一般的刑罰権と個別的刑罰権がある。 *一般的刑罰権と個別的刑罰権 :一般的刑罰権とは犯罪が存在した場合に(通常は国家が)その犯罪を処罰する権能をいい、個別的刑罰権(刑罰請求権)とは具体的な犯罪に対して犯罪を行ったものを処罰できることをいう。 *観念的刑罰権と現実的刑罰権 :個別的刑罰権において、実際に刑罰を物理的に科すことができるためには、手続き(犯人をつかまえ、裁判を行い、それが確定すること)が必要である。そのため、個別的刑罰権を未確定な段階での観念的刑罰権(裁判における刑罰の適用)と、確定的な刑罰権たる現実的刑罰権(死刑、懲役など確定した刑罰の執行)に分けることができる。 == 刑罰の種類 == 刑罰はその剝奪する法益の種類によって、[[生命刑]]、[[身体刑]]、[[自由刑]]、[[財産刑]]、[[名誉刑]]に分類される{{Sfn|大谷實|2009|p=112}}。 ; 生命刑 : 人の生命を奪う刑罰で[[死刑]]がこれにあたる。苦痛を与える残虐な方法として[[凌遅刑]]がある。 ; 身体刑 : 人の身体に対して苦痛を与える刑罰。[[杖刑]]、[[笞刑]]、入れ墨をする[[黥刑]]、身体の一部を切り落とす[[肉刑]]・[[宮刑]]などがある。 ; 自由刑 : 人の身体の自由を奪う刑罰。[[追放]]・居住制限・拘禁([[懲役]]や[[禁錮]]など)を内容とする刑罰をいう{{Sfn|大谷實|2009|p=112}}。 : 追放刑は、一定区域への移動を禁じ、移動・居住の自由を奪う罰で、追放先で労役を科す場合もある。 ; 財産刑 : 財産(財物・金銭)を奪う刑罰。[[罰金]]と[[科料]]と[[没収]]がこれにあたる。 ; 名誉刑(資格制限刑) : 人の名誉を奪う刑罰で[[公民権|公権の停止]]などがこれにあたる{{Sfn|大谷實|2009|p=112}}。 かつては生命刑や身体刑が刑罰の中心であったが、文明の発展とともに制限される傾向にあり、他方、国によっては社会奉仕命令などの立法も出現しており全体的には緩和化の傾向にあるとされる{{Sfn|大谷實|2009|p=112}}。 ==刑事手続における刑罰== === 日本 === {{Law|section=1}} 日本における現行法における刑罰は主刑と付加刑とに分けられる(刑法9条)。付加刑とは主刑の言渡しに付加してのみ言い渡すことができる刑罰を言う。 {| class="wikitable" |+日本の現行法における刑種 ! ! 刑種 ! 内容 ! 分類 |- | rowspan="7" | 主刑 | [[日本における死刑|死刑]] | 刑事施設内において絞首([[b:刑法11条|刑法第11条]]) | [[生命刑]] |- |[[ 懲役]] | 刑事施設に拘置して所定の作業を行わせる([[b:刑法12条|刑法第12条]]) | rowspan="2" | 自由刑 |- | [[禁錮]] | 刑事施設に拘置する([[b:刑法13条|刑法第13条]]) |- | [[罰金]] | 原則一万円以上の財産刑([[b:刑法15条|刑法第15条]]) | 財産刑 |- | [[拘留]] | 一日以上三十日未満刑事施設に拘置する([[b:刑法16条|刑法第16条]]) | [[自由刑]] |- | [[科料]] | 千円以上一万円未満の財産刑([[b:刑法17条|刑法第17条]]) | 財産刑 |- | (労役場留置) | 罰金・科料を完納することができない者は一定期間[[労役場]]に留置する([[b:刑法18条|刑法第18条]]) | (換刑処分) |- | rowspan="2" | 付加刑 | [[没収]] | 一定の物件の没収([[b:刑法19条|刑法第19条]]) | [[財産刑]] |- | (追徴) | 没収物件の全部又は一部を没収することができない場合、<br/>その価額を追徴することができる([[b:刑法19条の2|刑法第19条の2]]) | |} 主刑の軽重は上に掲げる順序による。ただし、[[無期禁錮]]と[[有期懲役]]とでは無期禁錮を重い刑罰とし、[[有期禁錮]]の長期(当該犯罪の刑期の最長期間をいう)が有期懲役の刑期の2倍を超えるときも、禁錮を重い刑罰とする(同法10条1項)。 これらの刑種は、死刑を別として、懲役・禁錮・拘留を[[自由刑]]、罰金・科料・没収を[[財産刑]]と大きく分類される。なお、罰金ないしは科料を完納することができない場合には、[[労役場]]に留置されることとなる。 なお、比較的軽度の刑罰に対しては、刑の執行を一定の期間猶予し、その間犯罪を犯さないなどの条件を満たす場合には刑の言い渡しの効力を失わせる[[執行猶予]]という制度が設けられている。執行猶予は3年以下の懲役・禁錮、50万円以下の罰金に対して付すことが可能であり、これによって、短期の自由刑については、[[刑事施設]]内での処遇の弊害を回避しつつ、社会内で一定の心理的強制力を対象者に及ぼしつつ更生を図らせることが期待されている。これに対して執行猶予が付されない場合は俗に'''実刑'''と呼ばれる。 2022年3月8日現在、懲役刑と禁固刑を一本化し新しい刑罰として拘禁刑の導入が検討されている。もし実現すれば1907年に現行刑法が定められて以来初めて刑罰の種類が変更されることになる<ref>{{Cite web|和書|title=「拘禁刑」新設を閣議決定 懲役と禁錮を一本化、刑務作業なしも可に|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ3773DQQ37UTIL024.html?iref=ogimage_rek|website=朝日新聞デジタル|date=2022-03-08|accessdate=2022-05-13}}</ref>。 === 韓国 === 韓国の刑法では9種の刑罰が定められている(韓国刑法41条)。 # 死刑 # 懲役 # 禁錮 # 資格喪失 # 資格停止 # 罰金 # 拘留 # 科料 # 没収 === 国際刑事裁判所 === [[国際刑事裁判所]](ICC)の刑事手続には死刑はなく最高刑は終身刑である{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=242|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。ヨーロッパ諸国は死刑を認めるべきでないとの立場に立っていたのに対し、主にアラブ諸国は最も重大な犯罪であるにもかかわらず死刑を科さないことに反対があったため、国際刑事裁判所に関するローマ規程第80条は各国の国内法に定める刑罰の適用を妨げるものではないことを特に規定している{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=242|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 刑罰の種類は主刑としての自由刑と付加刑としての財産刑である{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=242|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。自由刑として「最長三十年を超えない特定の年数の拘禁刑」及び「犯罪の極度の重大さ及び当該有罪の判決を受けた者の個別の事情によって正当化されるときは終身の拘禁刑」が定められている(国際刑事裁判所に関するローマ規程第77条1){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=242|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。また財産刑には「手続及び証拠に関する規則に定める基準に基づく罰金」及び「直接又は間接に生じた収益、財産及び資産の没収」(善意の第三者の権利を害することのないように行うことが条件)が定められている(国際刑事裁判所に関するローマ規程第77条2){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=242|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 国際刑事裁判所は独自の刑事施設を有していないため刑の執行について各国の協力を得る必要がある{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=243|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 拘禁刑の執行については、刑を言い渡された者を受け入れる意思を裁判所に対して明らかにした国の一覧表の中から国際刑事裁判所が指定する国において執行されるが、指定がなされない場合には接受国([[オランダ]])が提供する刑務所において執行される(国際刑事裁判所に関するローマ規程第103条){{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=243|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 罰金及び没収の執行については、国際刑事裁判所の命令に基づき、締約国の国内法の手続に従って執行される{{Sfn|村瀬信也|洪恵子|2014|p=244|ps= 「ICCの刑事手続の特質」高山佳奈子執筆部分}}。 ==厳罰化問題== 犯罪が増加した場合、または抑止効果を狙って、[[死刑]]の適用、[[懲役]]・[[禁錮]]の年数増加など刑を重くすること(厳罰化)が行われることがある。つまり、ルールを破った者、罪を犯した者への対応として、教育することと、制裁を加えることのバランスにおいて、後者により重きを置くのである。 厳罰化は立法による場合(法定刑の引き上げ)、行政による場合(求刑の引き上げ)、司法による場合(量刑の引き上げ)によってなされる。厳罰化には、犯罪に対するより厳格な報復を望む被害者・遺族および世論の要望に応える目的や、社会感情を鎮めること、社会秩序の維持、国家や警察・検察機関の体面の維持などが挙げられる、さまざまな社会的要因が関係する。 [[犯罪報道]]の過熱化と厳罰化とは密接な関係が指摘されている。日本では、1995年の[[オウム真理教事件]]、1997年の[[神戸連続児童殺傷事件]]を発端にして、ワイドショー番組でも盛んに事件報道が行われるようになった。 ワイドショーで視聴率の取りやすい報道は、あからさまに恐怖を煽ったり、犯人の残虐性を強調したり、被害者の悲しみや怒りを情緒的に伝える報道であり、報道番組の事実解明重視型の報道とは大きく異なるものとなった。このことにより、データとはかけ離れた感覚での社会不安が高まった([[モラル・パニック]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www006.upp.so-net.ne.jp/kansi-no/news/documents/news_2004-006.htm |title=治安の悪化は本当か?――つくられたモラルパニック |work=「NO!監視」ニュース 【第6号】 |publisher=[http://www006.upp.so-net.ne.jp/kansi-no/ 監視社会を拒否する会] |accessdate=2018-04-23 |date=2004-01-30}}</ref>、[[体感治安]]の悪化)。 例としては、[[殺人罪]]の法定刑が、「死刑又は無期若しくは3年以上の懲役」から「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」に引き上げられた。 {{main|厳罰化}} === 歴史的観点による考察 === [[孔子]]は[[史記]]において、法令によって民を導き、刑罰によって民を統制しようとすると、民は法令や刑罰の裏を潜る事だけを考え、悪を恥じる心を持たなくなるといい、道徳によって民を導き、礼儀によって民を統制すれば民には悪を恥じる心が育ち、正しい道を踏み行うようになる<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=新釈漢文大系115 史記 十三(列伝 六) |date=2013-12-10 |publisher=明治書院 |page=2 |author=青木五郎、司馬遷 |isbn=978-4625673184}}</ref>。更に[[史記]]では[[老子]]によると、高い德を具えた人は自分を有徳者だとは意識しないため、德が身に付き、つまらない德しか具えていない人は自分の德を誇示しようとするため、德が身に付かないといい、法律や禁令は整備されるほど盗賊が増えるという<ref name=":0" />。同様に[[史記]]において、[[太史公]]は前述の孔子と老子の言葉に賛同し、法令は世を治める道具であり、政治の好し悪しを決定する根源ではないという<ref name=":0" />。 == 出典 == {{reflist}} ==参考文献== *{{citebook|和書|author=石井良助|authorlink=石井良助|title=江戸の刑罰|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公新書|year=1964|ISBN=4121000315|ref=harv}} *{{citebook|和書|author=大谷實|authorlink=大谷實|title=刑事政策講義|edition=新版|publisher=[[弘文堂]]|year=2009|ref=harv|isbn=978-4-335-35435-9}} *{{citebook|和書|author=冨谷至|authorlink=冨谷至|title=古代中国の刑罰――髑髏が語るもの|series=中公新書|year=1995|ISBN=4121012526|ref=harv}} * {{citebook|和書|author=村瀬信也|author2=洪恵子|title=国際刑事裁判所 - 最も重大な国際犯罪を裁く|edition=第二版|publisher=東信堂|year=2014|isbn=978-4-7989-1256-1|ref=harv}} * {{citebook|和書|title=刑法総論講義|edition=第二版|author=川端博|publisher=成文堂|ref=harv|isbn=9784792317072|year=2006}} *{{citebook|和書|title=刑法総論講義|edition=第4版|author=前田雅英|publisher=東京大学出版|ref=harv|isbn=978-4130323185|year=2007}} ==関連項目== *[[私刑]] *[[刑罰の一覧]](日本の現行法で規定されていない刑についてはこちらを参照) *[[行政罰]] *[[三振法]] *[[求刑]] *[[量刑]] *[[罪刑法定主義]] *[[刑務所]] *[[無期懲役]] *[[不定期刑]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいはつ}} [[Category:刑罰|*]] [[Category:法執行]]
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名古屋グランパスエイト
名古屋グランパスエイト(なごやグランパスエイト、英: Nagoya Grampus Eight)は、日本の名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は名古屋グランパス(なごやグランパス)。 トヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)を母体に発足。ホームスタジアムは豊田スタジアムおよびパロマ瑞穂スタジアム、練習場はトヨタスポーツセンター第1グラウンドである(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。 チーム名の「グランパス(Grampus)」は英語で鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は名古屋市の市章「丸に八」からきており、末広がりを表す。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は豊田章一郎(トヨタ自動車社長〈当時〉)が「トヨタ」のカタカナの総画数が「8」であることから命名したという。なお、2008年シーズンより呼称を「名古屋グランパス」へ変更したが、中日新聞は「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている。 チームロゴは発足より筆記体の「Grampus」に上下にそれぞれ「NAGOYA」「EIGHT」が組まれるスタイルが取られていたが、2017年より2段組の「NAGOYA」「GRAMPUS」となり、フォントはエンブレムに使われているものをベースとしている。 プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、トヨタ自動車は「先行きに見通しが立ちにくい」「トヨタ自動車のサッカー部は日本リーグの一部に昇格したばかりで、経済上のリスクもある」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に一度は不参加を決定した。 トヨタの不参加決定を受けて、初代Jリーグチェアマンを務めた川淵三郎はプロ化の構想がトップにまで上がっていないことを察知して「全国展開を目指す上で、大都市の名古屋にクラブがないのは致命的だ」と考え、トヨタカップなどで豊田章一郎と懇意にしていた日本サッカー協会の副会長であった長沼健に「名古屋、いや中部地区にひとつもクラブがないのはまずい。豊田章一郎さんに頼んでください」と訴えた。長沼は自ら豊田に参加を要請するとともに、長沼の関西学院大学体育会サッカー部の後輩でトヨタ東京本社総務部長であった西垣成美にも重ねて豊田の説得を依頼した。西垣は「東海3県(愛知、岐阜、三重)にひとつもプロのクラブがないとなれば、この地域でサッカーをやっている子供たちの夢はどうなるのでしょう」などとクビを覚悟で豊田に直訴すると、豊田は「オマエが作ればええ。東京にも大阪にもできて、名古屋にないわけにはいかんじゃろう」と当初の考えを翻して参加を決めた。以降、愛知県サッカー協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、1990年12月のことだった。 地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があり、長沼が豊田に「企業名を外して下さい」と強く要請し、豊田がこれを受け入れた。トヨタが真っ先に企業名を出さないと言ったことで、同じくJリーグ加入を予定していた住友金属(鹿島アントラーズ)、マツダ(サンフレッチェ広島F.C)もこれに追随した。なお、当初豊田が「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭されたというエピソードもある。こういった経緯から現在は胸に入れられているトヨタのスポンサー表記は、チーム発足から2000年までの9年間は袖に入れられており、その間は胸にチームロゴが入れられていた。 社会人チームのプロ化に際して、トヨタ自動車工業サッカー部に所属する選手のうちプロとして活動する選手をグランパスエイトに、グランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市に設けたトヨタ自動車東富士FC(当時東海社会人サッカーリーグ所属。1993年廃部)にそれぞれ移籍させた。 1991年にはJリーグ発足に向けた補強の目玉としてディエゴ・マラドーナの獲得がほぼ決まっており、あとはトヨタ自動車の決定を待つのみという状態であったが、マラドーナのコカイン使用疑惑を受けて白紙撤回された。その代わりとしてスキャンダルのないクリーンなイメージのゲーリー・リネカーに白羽の矢が立ち、1992年にリネカーの獲得を発表された。 海外合宿を経て迎えた初試合は、8月1日のコリンチャンスとの親善試合であった。 Jリーグのプレマッチとして行われたJリーグカップにはリネカーは出場しなかったものの、ジョルジーニョ、小倉隆史、森山泰行、中西哲生、岡山哲也らが活躍し、中でも小倉隆史は5得点を決めて、3位の成績をおさめた。なお、この年の天皇杯では、翌年のJリーグ参加が決定していた10チームの中で唯一1回戦で敗退した。 平野孝ら複数が新入団するが、ハンス・オフトの助言を受けた小倉隆史はオランダへ留学した(当初は半年の予定で、後に1年に延長している)。5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では、浅野哲也とリネカーのゴールによって2-1で勝利し日本のクラブチームとして初めてセリエAのチームに勝利した。 5月16日にJリーグ開幕戦を迎えるが、鹿島アントラーズにジーコのハットトリックを喫するなど0-5で敗れる。5月19日の第2節で浦和レッドダイヤモンズを相手に初勝利、チーム初得点は森山泰行であった。序盤は勝利数が先行するも、7月には敗戦数が勝利数を上回る借金生活となる。期待されたリネカーは怪我がちで7試合の出場にとどまり、司令塔のジョルジーニョとリネカーのプレーが噛み合わず、その他にリネカーを活かすことのできる選手が不在であったことも影響してわずか1得点でシーズンを終え、チーム成績も低迷した。 サントリーシリーズ9位(7勝11敗)、NICOSシリーズ8位(5勝13敗)、年間総合9位(12勝24敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は準々決勝敗退(ベスト8)。 リーグ創設1年目の成績を打破すべくミルンを監督に迎えるが、前年以上の低迷を強いられた。小倉隆史をボランチに、沢入重雄をセンターバックにコンバートすることを試みるが相次いで失敗。自陣ペナルティエリアに5 - 7人の守備を配する、通称「赤い団子」作戦も採られた。成績は奮わずシーズン終了を待たずにミルンの退任はほぼ決定的となり、11月にはミルンに休養を与え、残りの試合は三浦哲郎が監督代行として指揮した。次期監督にはフース・ヒディンクなどの名前も挙げられたが契約には至らず、12月9日にようやくアーセン・ベンゲルが新監督に決定する。 リネカーはサントリーシリーズをほぼ全休。7月にはストイコビッチとビニッチが加入するが、リネカーの1年半の成績からストイコビッチも当初は懐疑的な目で見られることも多かった。リネカーとストイコビッチのコンビに期待が寄せられるものの、ストイコビッチがコンディション不調に加えチームに馴染めず、リネカーも怪我の影響で出場が限られたこともあり、ともに出場した試合はわずか4試合であった。当初ストイコビッチは半年の予定で来日したが、後任監督にベンゲルが決定したことを受けて契約を更新した。一方でリネカーは11試合に出場して3得点という結果で、シーズン末での引退を決断した。 サントリーシリーズ8位(9勝13敗)、NICOSシリーズは最下位(6勝16敗)、年間総合11位(15勝29敗)。Jリーグ新加入の磐田・平塚より下位で、かつ前年と同じ顔ぶれであった名古屋・浦和・G大阪の3チームは「Jリーグのお荷物」と揶揄された。ヤマザキナビスコカップは1回戦敗退、天皇杯は2回戦敗退。 新監督に就任したベンゲルにはチーム構成の全権が与えられた。ヘッドコーチにはボロ・プリモラツを迎え、在籍する外国籍選手はストイコビッチ以外が入れ替えられた。 ベンゲルは中盤の4人がフラットに並ぶ4-4-2(あるいは4-3-1-2)を採用したゾーンディフェンスに加え、プレッシングと素早い攻守の切り替えといった組織的な戦術を徹底していった。この戦術はヨーロッパでは当時すでにスタンダードな戦術の1つとなっていたが、発足間もないJリーグでは斬新な戦術であった。約束事の多い組織的な守備面に対して、攻撃面ではベンゲルは細かな指示はせず、選手自らが選択するようなトレーニングメニューが組まれるに留まった。攻撃のキーマンにはストイコビッチが据えられ、少し引き気味のポジションから攻撃をコントロールした(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される)。元々代表クラスの選手を抱えながら最下位争いで自信を失っていたチームに対し、ベンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精神を植えつけていった。 初戦の3月18日・ガンバ大阪戦では飯島寿久とストイコビッチが退場するなど、1-3の完敗を喫する。序盤はベンゲルが選手の最適なポジションについて試行錯誤していたこともあり、第8節終了時点で4連敗を含む1勝7敗の最下位に沈む。開幕8試合のスタメンでセンターバックに7人が名を連ねた守備陣以上に、好不調の波が大きい不安定な攻撃陣が問題で、具体的な指示を求めた選手たちにベンゲルが「パスは未来に向かって出せ」などとアドバイスしたエピソードも残る。第9節の勝利で最下位を脱するも、その後は勝利と敗北を繰り返すなど安定しなかった。5月までの16試合すべての試合で異なるスタメンが試され、6勝10敗の12位で中断期間に入る。 中断期間にフランス合宿を行い戦術面の整理が行われ、リーグ戦が再開すると大岩剛がセンターバックにコンバートされスタメン定着、デュリックスが中央に移ることで攻守において安定する。リーグ再開初戦、6月17日の第17節でベルマーレ平塚に延長Vゴール戦の末競り勝つと、7月8日の第22節で鹿島アントラーズに勝利するまで7連勝。7月12日の第23節でヴェルディ川崎に1-2で敗れて連勝は止まるが、この試合では誤審をめぐって飯島寿久・ストイコビッチ・トーレスが警告、ベンチの中西哲生が退場処分、コーチのプリモラツが退席処分を受ける。累積による出場停止を含めて主力4人を欠いて翌24節に臨むが、若手の起用などで2-1で勝利し、残り3試合を連勝で終える。サントリーシリーズ4位(15勝11敗)。 8月12日のNICOSシリーズ開幕戦を前に、大怪我で長期離脱していた小倉隆史がスタメンに復帰する。開幕から4連勝するが、その後は夏の暑さに加えて過密日程による疲労、さらにチーム全体が連動する運動量の多い戦術による肉体的負担などから失速し、終始首位争いを続けるものの優勝は果たせなかった。NICOSシリーズ2位(17勝9敗)。年間総合3位(32勝20敗)。チームで初めてストイコビッチがリーグMVP、ベンゲルが最優秀監督の個人タイトルを獲得する。 天皇杯ではクラブ史上初めて決勝に進出。小倉隆史・平野孝のゴールによりサンフレッチェ広島を3-0で下して優勝、チーム初のタイトルを獲得した。 2月の代表合宿に参加していた小倉隆史が大怪我を負い長期離脱を余儀なくされる。3月9日には前年の天皇杯優勝チームとしてゼロックス・スーパーカップに出場し、リーグ戦優勝の横浜マリノスを2-0で破り1995年の年間王者となった。 この年のリーグ戦は、前後半の区分がない1シーズン制で開催された。グランパスは開幕から4連勝を挙げるが、その頃には小倉隆史の穴はルーキーの福田健二・望月重良が埋めつつあった。前半日程最後の第15節までを10勝5敗で終え、ヤマザキナビスコカップの集中開催期間を経て7月初旬から苫小牧でキャンプを行った。そのキャンプの最中にベンゲルはアーセナルFCからオファーが来ていることをグランパス側に伝え、8月に入るとロンドンでは監督就任が決定的との報道もあったが、ベンゲル自身はこの時点では去就に関して明言は避けていた。 8月に後半日程が始まると5連勝。その4戦目直後の9月15日に記者会見が行われ、9月28日の第21節を最後にベンゲルが退任し、後任にケイロスが就くことも発表された。第21節は柏レイソル戦は延長Vゴール戦の末競り負けるが、ベンゲルはその瞬間ベンチの前で呆然と立ち尽くしていた。こうしてベンゲルはグランパスを去ったが、優勝争いを演じる中での監督交代のダメージは承知しており、上手くいくように右腕のプリモラツが年内はグランパスに残るよう取り計らわれた。ケイロスが就任するまでの3試合はコーチのジョゼ・アルベルト・コスタが監督代行を務めた。最終成績は2位(21勝9敗)。 リーグ戦2位の成績によりサントリーカップ・チャンピオン・ファイナルに進出。1回戦で清水エスパルスを下し、決勝で鹿島アントラーズに勝利して優勝、翌年のサンワバンクカップへの出場権を獲得した。11月にはアジアカップウィナーズカップに出場し準優勝。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ7位で敗退、天皇杯は3回戦敗退。 前年のチャンピオンシップの代替大会であったサントリーカップ勝者としてサンワバンクカップへ出場。MLSカップ優勝のD.C. ユナイテッドに勝利した。3月には小倉隆史が再手術を受け、長期離脱を余儀なくされる。 リーグ戦では1stステージ12位(6勝10敗)、2ndステージ5位(10勝6敗)、年間総合9位(16勝16敗)と低迷。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)するが、天皇杯は初戦で東京ガスサッカー部に敗れるなど浮き沈みの大きい年であった。シーズン終了後の11月、ケイロスは解任される。 なお、ケイロス以後「優勝請負人」とされる監督を招いては結果が出ずに短期間で解任する期間が続くが、ベンゲル時代に優勝間際まで迫った結果からファンやスポンサーの意識が「優勝」に向いてしまい、短期的な対応に終始してしまったと後年にクラブ幹部が省みている。さらにサッカークラブというよりトヨタの子会社で、クラブとしてのビジョンも定まっていなかった、プロのクラブになりきれていなかったとしている。この体質はクラブ運営に精通した福島義広が副社長、久米一正がGMに就任する2008年ごろまで続くことになる。またそれまでの間、成績についても優勝争いにも降格争いにも関わらず「万年中位」と揶揄される。 前年までコーチを務めた田中孝司が、カルロス・ケイロスの後任として監督に昇格する。 4月16日の第6節でアビスパ福岡に2-1で勝利し、通算100勝目を達成。最大で負けが32も先行していた状況を巻き返し、通算200試合目でちょうど5分の成績となった。 1stステージ3位(12勝5敗)、2ndステージ6位(11勝6敗)、年間総合5位(23勝11敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ2位で敗退、天皇杯は準決勝進出(ベスト4)。 楢﨑正剛・山口素弘・呂比須ワグナーの加入により優勝候補と期待された。一部の選手と練習態度などを巡って衝突し、チームの輪を乱して成績も低迷したとして、リーグ戦開幕直後の4月に田中孝司が監督を解任される。後任にサンチェスが監督に就任するとやや上向くが、2ndステージが始まると再び低調となりサンチェスを監督から解任。監督代行のマザロッピを経て、9月にはジョアン・カルロスが監督に就任した。ジョアン・カルロス監督就任後は10連勝するなど持ち直す。 1stステージは8位(7勝1分7敗)、2ndステージ2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯では2度目の優勝を果たした。 1stステージは12位(7勝1分7敗)。2ndステージ開始直後の7月5日に大岩剛・望月重良・平野孝の解雇が発表される。これに関して当時副社長の小宮好雄は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した。これはカルロスの強い意向が働いたもので、戦力低下を危惧するストイコビッチなどの主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日に社長から3人の放出が正式に発表された。7月にウェズレイが加入するが、こうした動揺から成績も奮わず、2ndステージは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は4回戦で敗退した。 シーズン終了後、2年連続でチーム最多得点であった呂比須ワグナーに実質的な引退が打診され、呂比須が「サッカーを知らない人がフロントにいる」と怒りを露にする騒動も起きた。 中村直志らが新入団。1stステージは3位(10勝2分3敗)。7月21日の最終節・東京ヴェルディ1969戦を最後に、ストイコビッチが現役を引退。また、「主力選手との確執」を理由にカルロスが監督解任される。 2ndステージは6位(7勝1分7敗)。年間総合は5位(17勝3分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は3回戦で敗退した。 1993年のリーグ開幕から基本システムとして4-4-2を採用していたが、シーズン途中から3-5-2へと変更した。1stステージ3位(10勝5敗)。 7月にパナディッチ・ヴァスティッチが加入するが、2ndステージ13位(5勝1分9敗)、年間総合6位(15勝1分14敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ3位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。 2月には上田滋夢がテクニカルディレクター(TD)に就任した。パナディッチ・大森征之・古賀正紘による3バックと、中村直志・吉村圭司のダブルボランチが機能し高い守備力を誇るが、反面得点力は乏しかった。6月にマルケスが加入。ベルデニックとフロントとの間に強化方針を巡った確執が表面化し、1stステージ終了後に監督交代に至っている。 1stステージ7位(5勝8分2敗)、2ndステージ8位(6勝4分5敗)、年間総合7位(11勝12分7敗)。ウェズレイがチーム初のJ1得点王を獲得した。 ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は4回戦で敗退。 8月21日の2ndステージ第2節でジュビロ磐田に勝利し、通算200勝を達成。 1stステージ8位(5勝5分5敗)、2ndステージ5位(7勝3分5敗)、年間総合は7位(12勝8分10敗)。4年連続二桁得点のウェズレイが、当時アルシンドが持っていた外国籍選手の通算得点の記録を更新した。 ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は5回戦で敗退。 杉本恵太・本田圭佑らが新入団。新潟との間で、岡山哲也・海本慶治・海本幸治郎・安英学と4件の移籍が発生した。順位は第8節終了時点で2位であったが、ウェズレイがネルシーニョと自身の起用方法を巡って対立し4月に退団、次いで5月にマルケスが退団すると下降の一途であった。6月に藤田俊哉と中山悟志が加入し、次いで8月にルイゾンが加入すると6試合で4得点の活躍を見せるが、9月にネルシーニョが解任されるとルイゾンも移籍した。不振から降格争いを演じるが、最後の2試合を1勝1分で終えJ1残留を決めた。 最終成績14位(10勝9分15敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ3位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。 若手の育成を目指して、育成手腕に定評のあるフェルフォーセンを新監督に迎えるが、1月にフェルフォーセンを招いた上田滋夢がTDを解任される。 フェルフォーセンの戦術では、守備はゾーンディフェンスを基本として全体のポジショニングバランスを重視し、攻撃ではワイドに展開しつつ勝負どころで攻め込むまではリスクを避ける傾向があった。アンカー役の藤田俊哉の前に配されたのは本来は守備的ポジションの金正友と山口慶で、両サイドにはキープ力のある本田圭佑と中村直志が置かれ、特に左サイドの本田からのクロスは大きな武器であり、この中盤が戦術の肝となっていた。 一方でフォワードにはポストプレー役を担える選手を求めるが、その役割での成長が期待された若手は怪我で出遅れ、プレースタイルの異なる玉田圭司やディフェンダーの古賀正紘を代役に据えるが機能しなかった。5月の中断期間前までの12試合をリーグ最少の10得点・直近8試合勝ち星なしの13位で終えると、フェルフォーセンはポストプレーを得意とする選手の獲得を求める。7月にヨンセンが加入すると次第に成績も上向くが、最終成績は7位(13勝9分12敗)。 ヤマザキナビスコカップはグループリーグ5位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。 開幕前に秋田豊・古賀正紘・角田誠といったディフェンダー陣の主力が相次いで退団し、開幕戦でスピラールが全治6ヶ月の怪我で長期離脱する。序盤に増川隆洋・米山篤志も相次いで負傷して欠場し、層が薄くなったセンターバックには下部組織から昇格したばかりの吉田麻也が潜在能力を買われて起用された。フォーメーションを4バック(ダブルボランチ型の4-4-2)に切り替えて急場を凌ぎ、その後も3バックと4バックを併用し、サイドのポジションに阿部翔平・小川佳純が抜擢されるなど若手の起用も増えた。 開幕4連勝で好スタートを切ったシーズンだったが、2度の3連敗もあり前半日程終了時点で10位(7勝2分9敗)。後半日程が始まっても好不調の波は激しく成績は低迷していたものの、フェルフォーセンの育成手腕を高く評価したクラブは契約延長を打診するが、フェルフォーセンは母国への帰国を望んで固辞し、10月10日にはシーズン末で退任することが報じられる。後任としてストイコビッチに監督就任が打診され、10月18日にはストイコビッチ本人もグランパス復帰の意向を示すが、その後Jリーグの監督就任に必要なライセンスの未取得が発覚する。グランパスは一度は断念するが、11月中にライセンスを取得する目途がたったことから再要請、11月27日に仮契約を結び記者会見を行った。 フェルフォーセンは退任発表とともにサッカー界からの引退も表明したが、11月に入るとPSVアイントホーフェンから監督就任のオファーが届いた。シーズン途中の監督人事が難航していたPSVからの救援要請に対してフェルフォーセンは、半年間限定のオファーであったことを理由に翻意して受諾した。PSVは早期の合流を望んだが名古屋側は「天皇杯が控えている」等の理由で拒否したため、フェルフォーセンは天皇杯の日程が終了するまで名古屋の監督として指揮し、PSV監督にはシーズン途中の1月に就任して優勝へと導き、シーズン終了後に改めて引退した。 最終成績11位(13勝6分15敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。 この年から呼称を「名古屋グランパス」に変更。この年に新設されたGMには久米一正が就いた。 新監督に就任したストイコビッチはヘッドコーチにボスコ・ジュロヴスキーを据え、攻撃戦術はストイコビッチが、守備戦術はジュロヴスキーが担当した。アシスタントーチにはストイコビッチと同じクラブOBのハーフナー・ディドが就任。 ストイコビッチの戦術はサイドアタックとゾーンディフェンスの2つの柱を基本とした組織的なパスサッカーで、この年は特にサイドチェンジが大きな効力を発揮した。フラットに近い4-4-2が採用され、攻撃の核として期待が寄せられた玉田圭司は得意なプレーを求められたことで調子を取り戻していった。 2節から7節を6連勝するなど幸先良いスタート切りるなどして最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)。初めてACLの出場権を獲得した。また、8月にはリーグ開幕から10年以上負け続けていた茨城県立カシマサッカースタジアムでの初勝利を挙げた(詳細は「#鬼門の茨城県立カシマサッカースタジアム」を参照)。 ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。 新たにコーチにクラブOBの飯島寿久と伊藤裕二が就任。田口泰士が新入団、 田中隼磨やダヴィらが加入した。 3月22日の第3節で清水エスパルスに3-1で勝利し、ホームゲーム通算150勝を達成。中断期間前の5月24日までにダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランクトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点にとどまった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めたポストプレーの役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、サイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた。その時点では外国人枠は埋まっていたためAFC枠で獲得可能な選手を調査し、6月21日にオーストラリア国籍のケネディの獲得を発表した。7月にブルザノビッチ、8月に三都主アレサンドロが加入するとブルザノビッチをトップ下に置いた3-5-2が試され、終盤戦の第33節からは翌シーズンに繋がる4-3-3が採用されている。 守備面ではバヤリツァの長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田麻也と増川隆洋の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のG大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい竹内彬と佐藤将也の2人が起用された。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある巻佑樹の起用も検討されており、後半戦の10月25日のジュビロ磐田戦では実際にセンターバックで先発出場した。 最終成績は9位(14勝8分12敗)。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は準優勝。ACLはグループリーグ1位で通過したが、準決勝でアル・イテハドに敗退してベスト4。 金崎夢生・田中マルクス闘莉王・ダニルソンといった主戦力になりうる選手を補強。このシーズンから用いたのは当時の日本では珍しかった4-3-3で、より個人の速さやパワーを生かすことが狙いであった。3トップの中央に長身のケネディが鎮座し、両サイドの俊敏で運動量の多い金崎夢生と玉田圭司が流動的に動いてチャンスメイクし、勝負どころでは田中マルクス闘莉王がオーバーラップを試みる攻撃的な布陣であった。守備陣もゴール前に楢﨑正剛・田中マルクス闘莉王・増川隆洋が並び、中盤は超人的な身体能力のダニルソンが支えた。 3月6日の開幕戦でガンバ大阪に2-1で勝利すると、W杯による中断前までの12試合を7勝1分4敗で終える。序盤は苦戦したダニルソンだが5月に入ると調子を上げ、アンカーとして定着して存在感を強めていった。7月17日の第13節でリーグが再開すると、8月14日の第18節までを5勝1分の無敗で終えて単独首位に浮上する。そのまま一度も首位を明け渡すことなく、11月20日の第31節で湘南ベルマーレに1-0で勝利したことで、3試合を残してリーグ戦初優勝を決めた(詳細は「#リーグ初優勝(2010年)」を参照)。 ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。最優秀監督賞にストイコビッチ、MVPに楢﨑正剛が選出され、ケネディが得点王を獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞はギド・ブッフバルトに続く2人目で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初である。楢﨑はGKとして初めてMVPに選出された。このシーズンの得点はフォワードのレギュラー3人の合計は33点(ケネディ16点、玉田圭司13点、金崎夢生4点)に対して、フォワード以外で最も多い田中マルクス闘莉王が6点、攻撃的ミッドフィールダーで起用された4人は合計でも8点で、ここでも個の力に頼っていたことが分かる。 ヤマザキナビスコカップはグループリーグ6位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。 永井謙佑が新入団。リーグ戦開幕に先立って、2月26日のゼロックス・スーパーカップで鹿島アントラーズに勝利し年間王者となる。 3月5日の開幕戦は横浜F・マリノスと1-1に終わるが、3月11日に東日本大震災が発生した影響でその後の試合日程が大幅に組み替えられる。グランパスとしては主力に負傷者が多いチーム事情に加え、ACL出場に伴う移動の疲労などもあり不安定なシーズン序盤となった。ACLグループステージは2位で突破するが、5月25日にラウンド16で水原三星ブルーウィングスに0-2で敗れる。その時点でリーグ戦は6試合を1勝2分3敗と苦戦していたが、悲願であったACLの敗退で奮起したチームは5月29日の第13節(7試合目)でアビスパ福岡に5-2と快勝すると、8月17日の第9節(21試合目)までの14試合を7連勝を含む10勝4分の無敗で駆け抜ける。6月15日の第15節・アルビレックス新潟戦の勝利で、通算300勝を達成。 このシーズンも開幕から2010年と同じ4-3-3を基本として用いたが、シーズン中盤から中村直志をダニルソンと並べる4-2-3-1を併用している。これによって個の力より連続性のあるプレーが求められ、こういったプレーを得意とする小川佳純が輝きを取り戻す。当初は試合途中からの変更が多かったが、優勝争いを演じた終盤戦は試合開始から4-2-3-1が多かった。小川佳純の復調にチーム全体も連動するように調子を上げ、最終節直前5試合を全勝して2位で最終節を迎える。12月3日の最終節はアルビレックス新潟に引き分け以上で優勝の可能性があり、グランパスは1-0で勝利するが、首位・柏レイソルも勝利したため勝点差1の2位(21勝8分5敗)でシーズンを終える。 優勝を逃したシーズンだったが、この年のグランパスは「最強の2位」との声もある。また、ストイコビッチは後年のインタビューで「2011年こそ優勝すべきだった」と答え、楢﨑正剛は「ベストな戦いは2011年」、田中マルクス闘莉王は「あのシーズンこそ、勝ちたかった」と述べている。 ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。 ダニエルの加入により3バックが検討され、実際シーズン中に何度が使用された。 中村直志の怪我による長期離脱、玉田圭司のコンディション不良など終始主力選手を欠いた状態が続き、中でもケネディがフルシーズン働けなかったことが痛手となった。前年得点王のケネディはチームのポゼッションサッカーの大黒柱であり、永井謙佑や田口奏士などの若手の台頭で戦術変更も考えられたが、ストイコビッチは田中マルクス闘莉王をケネディの代役にすることを試みる。田中マルクス闘莉王の得点が増え一見成功したかのように見えたが、結果として前年までの良さを潰してしまう悪循環に陥り、総得点が減るばかりか守備の安定感も失われた。最終成績は7位(15勝7分12敗)。 ヤマザキナビスコカップ・天皇杯ともに準々決勝進出(ベスト8)。 矢野貴章やヤキモフスキーが加入。開幕戦には牟田雄祐が片山奨典以来7年ぶりの新人の開幕スタメン出場を果たした。リーグ戦は序盤からケネディの不調などの要因から、6月の中断期間前までの第9節から第13節を16年ぶりとなる5連敗で終えるなど不安定な展開が続いた。9月14日の第25節で清水エスパルスのラドンチッチのゴールにより、通算の1000失点目を喫する。また、8日の天皇杯でAC長野パルセイロに初戦で敗れた。 10月3日にストイコビッチがシーズン末に契約満了により退任することが発表された。また、慢性化した赤字改善のため、11月22日には阿部翔平と田中隼磨(本人希望で発表は後日となったが増川隆洋の退団も決定)、同24日にはダニエルと契約延長しない旨が発表された。 ストイコビッチ体制下の6年間は優秀な成績を残した一方で、若手の育成を妨げたとの指摘もある。トレーニングの方針は選手のコンディション管理に主眼が置かれており、就任した2008年から主力はほぼ固定されていた。優勝した2010年をピークに主力選手のスタミナ面の陰りとともに成績は下降していき、その間若手選手は練習の内容・負荷ともに不足した状態で能力格差が広がっていた。事実としてこの6年間は移籍組が多く出場し、ストイコビッチ体制下で新たに出場機会を得た(年間半分以上の試合に出場した)若手選手は永井謙佑・田口泰士・巻佑樹・磯村亮太の4人のみとごく少数であった。 最終成績は11位(13勝13敗8分)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は2回戦で敗退。 ディフェンス陣の主力の多くが退団し、ストイコビッチ体制下で練習の強度不足の若手を起用せざるを得ない新チームは、久米一正GMの盟友である西野朗に託される。攻撃的なパスサッカーの印象が強い西野であったが、グランパスではまず主力の抜けた守備の整備に取り掛かった。再構築されたディフェンスラインは残留した田中マルクス闘莉王を除いて、本多勇喜・田鍋陵太・大武峻(特別指定選手)といった20代前半の若い選手が並んだ。磯村亮太・矢田旭・田口泰士らもこの年に大きな成長を遂げ、シーズン終盤には堅守速攻のスタイルを確立した。 3月1日の開幕戦では清水エスパルスに2-3で敗れるが、大武峻がグランパスの特別指定選手としては初めて開幕スターティングメンバーに名を連ねた。第2節から3連勝するが、直後に4連敗するなど安定しなかった。6月にはレアンドロ・ドミンゲスを獲得、攻撃の起爆剤としての期待が寄せられるが、低下していたコンディションに加えて負傷により満足なプレーができなかった。8月には川又堅碁が加入。最終成績は10位(13勝9分12敗)。 ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。 4月、常勤社長不在で実質経営トップにあった副社長の福島義広が退任することに伴い、GMの久米一正がクラブで初めてトヨタ出身者以外から代表取締役社長に就任、GMとを兼任する。6月に小倉隆史がGM補佐に就任。 序盤は2分2敗と最悪のスタートを切ると、そのまま調子が上がらないまま1stステージを終える。楢﨑正剛を中心とした守備陣は安定感を示したが、攻撃陣は17試合で18得点と奮わず、これが不振の原因と考えられた。2ndステージ序盤は川又堅碁の活躍などで5試合で3勝と良好な出だしとなるが、8月以降は調子を落とし、守備陣も安定感を欠くようになる。終盤戦は4バックに変更して闘莉王を前線で起用する戦術も取るが、効果的とは言い難かった。守備が安定すれば得点に恵まれず、得点が増えると守備が崩壊する、終始噛み合わないシーズンであった。 10月4日にはシーズン末での西野の退任が発表された。西野は選手を過度に信頼しすぎる采配を貫いたとの指摘もあり、その結果として説明不足の監督、指示待ちになってしまう選手、という悪循環の構図が生まれていた。しかし、それ以上に就任時点での主力選手が大量流出した戦力不足が致命的で、チームを再構築しながらの上位進出という難しい要求もあった。若手の練度不足も足枷となり、西野が率いた2年間は常時5 - 10人の負傷者を抱える状態で、特に今シーズンは紅白戦すら満足にできない時期もあった。 1stステージ9位(6勝4分7敗)、2ndステージ10位(7勝3分7敗)、年間総合9位(13勝7分14敗)。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は2回戦で敗退。 「改革元年」と位置づけたシーズンは、小倉隆史が前例のない「GM兼監督」に就任して始まった。それに伴い、GMを兼任していた久米一正は社長専任となった。 チーム編成の全権を委ねられた小倉は明確な査定基準をもって既存選手との交渉に臨むが、その交渉姿勢は「ビジネスライクで情を欠いた交渉」とも受け取られ、田中マルクス闘莉王をはじめ一部の主力選手の流出を招く結果となる。戦力低下を補うはずの新加入選手もなかなか決まらず、小川佳純などの残留した主力選手も危機感を抱いていた。それでも1月15日には新陣容とともに明神智和や安田理大などの新加入選手が発表され、「5人目まで連動するサッカー」という方針も示された。 2月27日の開幕戦でジュビロ磐田に勝利すると勢いづき、シモビッチの高さと永井の速さを活かすカウンター戦術が機能し、結果こそ勝ち負けを繰り返すがチーム全体はネガティブな雰囲気ではなかった。しかし小倉自身がそのスタイルを否定したばかりか、「5人目まで連動するサッカー」を謳って続けられていたトレーニングは、開幕から2ヶ月が過ぎても成果が見られなかった。事実監督1年目の小倉は戦術の理論体系は確立していたものの、それを選手に伝えて浸透させる手法に欠けており、指導者としての経験不足だったと後に指摘されている。現実的なカウンターサッカーで勝点を稼ぐが、対策されるとそれも機能せず、5月4日の第10節で横浜F・マリノスに勝利した後は1勝もできずに1stステージを終える。 6月には減資および第三者割当増資を実施してトヨタ自動車の子会社(出資比率が50.12 %)となった。6月28日には、クラブOBの大森征之がチーム統括部強化・補強担当に就任、その後大森は2018年までに編成トップの「スポーツダイレクター」に就任している。 2ndステージに入っても勝てず、7月30日の第6節・横浜F・マリノス戦からは5バックを採用して守備の安定を図るが、これは思うような攻撃ができないがゆえの最終手段であった。いわば苦肉の守備的サッカーであったがまったく機能せず、8月23日に小倉は事実上解任される。後任にはストイコビッチ体制下でヘッドコーチを務めたジュロヴスキーがコーチを経て昇格し、田中マルクス闘莉王の復帰も発表された。小倉が指揮した26試合で勝利はわずか4つ。監督交代時点で8試合を残して16位、残留圏との勝点差は7であった。 ジュロヴスキーはまずチームを「正常な状態」に戻すことを試みた。フィジカル練習不足が指摘された欠点は長所のポゼッションを高めることで補い、長所を生かすことでネガティブに傾いていた選手たちの不安を取り除いていった。すると田中マルクス闘莉王が復帰した9月10日の第11節でアルビレックス新潟に勝利し、連続未勝利はクラブワースト記録となる18試合でようやく止まる。続く第12節は敗れるが、第13節・第14節は今季初の連勝で一時は残留圏に浮上した。しかし国際Aマッチデーなどによる3週間の中断により勢いは削がれ、第15節・第16節は1分1敗となり、降格圏の16位で11月3日の最終節・湘南ベルマーレ戦に臨む。他試合を含めた結果から言えば引き分けで残留が可能な状況ではあったが、危機感から冷静さを欠いて攻め急いだ挙句3失点を喫して敗れ、クラブ史上初のJ2降格が決定する。 1stステージ14位(4勝5分8敗)、2ndステージ15位(3勝4分10敗)、年間総合16位(7勝9分18敗)。15位のアルビレックス新潟と勝点差はなく得失点差での降格で、監督交代後の3勝2分3敗という五分の成績をみるに、監督交代が遅きに失した形であった。最終節翌日の11月4日には、降格の責任を取って久米一正が社長を辞任することを発表、6日には久米が続投を希望したジュロヴスキーの退任が発表、闘莉王の退団も報じられた。 ヤマザキナビスコカップはグループステージ6位で敗退、天皇杯は2回戦で敗退。 クラブ創設25周年をJ2で迎えることになる。J2降格により小川佳純など多くの主力選手が退団したが、移籍の噂があった田口泰士が残留を発表した。その一方で佐藤寿人や玉田圭司が加入した。 1年でのJ1復帰が掲げられ、新監督には風間八宏が就任した。風間は「楽しく勝つサッカー」というコンセプトを掲げ、それまで風間が率いたチームと同じく「圧倒的に高いボール保持率で相手守備を崩す攻撃」と「ボールを奪われたときに素早く奪い返す攻撃的な守備」の2つを軸とした極端に攻撃偏重なポゼッション戦術を採用した。フォーメーションは3バックと4バックが併用され、複数のポジションをこなせる和泉竜司や宮原和也が重用された。メンバーは固定されず、多くの選手を様々なポジションで試した。 クラブ初となるJ2開幕戦は、2月26日のファジアーノ岡山戦。初戦を2-0で勝利すると、4月8日の第7節でカマタマーレ讃岐に2-1で勝利し4連勝で首位に立つ。第8節で徳島ヴォルティスに引き分けて5連勝はならなかったが首位を守った。その後湘南ベルマーレやアビスパ福岡と首位争いを演じるが、6月3日の第17節でツエーゲン金沢に敗れて以降は6試合で1勝のみで、一時は7位まで後退する。なお、第16節終了時点では首位で、結局首位に立ったのはシーズンを通じてこの3回だけであった。折り返しとなる第21節終了時点で10勝4分7敗、勝点34の6位で、自動昇格圏である2位の湘南ベルマーレには勝点差9であった。 6月1日には、クラブOBの中谷勇介がチーム統括部強化・補強担当に就任。前年に就任した大森とともに、クラブの補強を担当することになる。 7月18日にガブリエル・シャビエルが加入すると、初出場した第22節から5試合で3得点7アシストを記録し、8月の月間MVPに選ばれるなど攻撃の軸となる。7月30日の第25節から5連勝し昇格争いに復帰するが、第30節から1分3敗と6位に転落した間にV・ファーレン長崎に追い越される。名岐ダービーでFC岐阜に大勝するなど第34節から4連勝で巻き返すが、一歩及ばず3位となりJ1昇格プレーオフに回ることになる。 プレーオフ準決勝ではジェフユナイテッド千葉に4-2で勝利。決勝の相手はアビスパ福岡。リーグ最多85得点のグランパス、リーグ最少36失点のアビスパ福岡、いわば矛と盾のような決勝戦であった。試合は互いにゴールネットを揺らしたもののファウルやオフサイドで認められず、0-0のままで試合が終了し、プレーオフ規定によりグランパスの昇格が決定した。 前述のとおりこの年のグランパスの総得点「85」は、2位の徳島ヴォルティスの71に大きく差をつけてリーグトップであった。一方で総失点の「65」はこの年のJ2ワースト6位で、J2からJ1に昇格するクラブとしては史上最多失点で、無失点試合は42試合中7試合に留まった。 この年からルヴァンカップと名前を変えたJリーグカップには出場権なし、天皇杯は4回戦で敗退した。 なお、一般的に「J2に降格すると来場者数が1 - 3割減る」と言われるが、この年のグランパスはJリーグ史上初めて逆に来場者数を2万人以上増やしている。低成績が続いた2013年前後は観客動員数の低迷しており、当時の観戦者アンケートでは「クラブへの愛着度」が最下位であった。それを受けてファンサービス関係部署を再編してマーケティング部に統合され、様々な取り組みを行った成果が結実した形である。 J1復帰に際してジョーとランゲラックといった現役代表クラスの外国籍選手を獲得し話題をさらう。期限付き加入中のガブリエル・シャビエルの移籍期間が延長され、風間は「基礎工事」は終わったとしてさらに「点を取るチーム」を目指していく。また、クラブOBの山口素弘が育成部門トップの「アカデミーディレクター」に就任した。 開幕2連勝で好スタートを切るが、第3節からは勝利から遠ざかり、第4節から第11節までは8連敗を喫した。ロシアワールドカップによる中断前最後の5月20日の第15節までで、結局勝利は開幕の2つだけであった。6月6日に天皇杯初戦の2回戦でJFLの奈良クラブと対戦しPK戦の末に敗退するが、「担当審判員による明らかな競技規則の適用ミス」があったとして、PK戦のみを6月28日にやり直すという異例の事態の末に勝利した。7月18日にリーグ戦が再開しても勢いは戻らず最終的に15試合未勝利で、2勝3分12敗の最下位で前半日程を終える。 夏季中断期間に中谷進之介・丸山祐市・前田直輝など大型補強を行う。8月1日の第19節・ベガルタ仙台戦で後半日程が始まると、新戦力が機能して7連勝して11位まで浮上。しかしその後9試合を3勝1分6敗で終え、J1参入プレーオフの対象である16位で最終節を迎える。同じく降格の可能性の残る湘南ベルマーレとの最終節に引き分け、12位から16位までが勝点41で並ぶ大接戦となり、得失点差でジュビロ磐田を上回り残留を決めた。 この年24得点のジョーは得点王を獲得し、シャビエルの9アシストはリーグ4位になるなど、J1残留争いをしながらも総得点52はリーグ4位であった。一方で59失点は最下位のV・ファーレン長崎と並んで最下位で、前年からの問題が改めて露見した。 最終成績は15位(12勝5分17敗)。ルヴァンカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は前述の2回戦の騒動の後、3回戦で敗退した。 攻撃重視のスタイルの変化はなく適材適所の補強を行うことで全体のレベルを高めたが、中でもシミッチ・米本拓司のダブルボランチは新チームの肝として期待された。一方で楢﨑正剛・玉田圭司・佐藤寿人といったリーダーとなり得る選手の退団も多く、若手の台頭が期待される船出となった。 開幕3連勝で首位に立つ。その後は勝ち負けを繰り返すが、ホームに限れば第11節まで5連勝を達成しクラブ新記録を達成し、その間ホームでは無失点を続けた。第11節終了時点では首位に勝点差4の2位であった。第12節で川崎フロンターレと引き分けると、8月10日の第22節で川崎フロンターレと再度対戦して勝利するまで10試合の間未勝利が続き、その間に順位は10位まで後退した。その後は第23節の引き分けを挟んで3連敗して11位となり、9月23日に風間との契約を解除する。 2年半の風間体制で、風間の目指す攻撃偏重スタイルは確立しつつあった。課題とされた守備面も攻撃がうまくまわっていれば機能するもので、今シーズン序盤は優勝候補とされるほどの評価を得ていた。対して理想的な展開ができないときの守備の脆さは否定できず、前年までも組織で攻める相手に数多くの失点を重ねていた。今シーズン序盤はシミッチと米本拓司の加入で好調な出だしであったが、第13節以降は引いて守る相手に屈する展開が増えていった。それでも従来のスタイルを貫こうとする風間の姿勢は、結果を求める選手の意識と乖離していき、クラブ側が見かねて解雇したという見方もできた。 風間の解任と同日、後任には攻撃的戦術の風間とは正反対の「堅守速攻」で知られるマッシモ・フィッカデンティの就任が発表された。比較的戦術に自由が与えられていた風間体制下と異なり、フィッカデンティは規律を与えチームを立て直そうとした。しかし風間体制の戦術に慣れた選手たちが堅守速攻に馴染むには時間がかかり、第32節鳥栖戦に引き分け同節終了時点で16位以上こそ確定しJ2への自動降格はなくなったものの、J2のプレーオフ勝者との入替戦の対象となる16位となる可能性は最終節まで残っていた。第33・34節と連敗し、他チームの結果次第で16位となる可能性もあったが、最終節で残留を争う他チームが清水以外勝利しなかったことにより辛うじて残留を決めた。監督交代後の8試合は1勝3分4敗であった。 最終順位は勝点37の13位(9勝10分15敗)で、16位湘南との勝点差は僅か1。ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は2回戦で敗退した。12月8日にはアカデミーダイレクターを務める山口素弘が執行役員フットボール統括に就任、アカデミーダイレクターとを兼任することが発表される。 フィッカデンティが引き続き監督を務めた。途中から指揮した2019年シーズンの8試合は「残留のための仕事をしただけ」とし、2020年シーズン開幕に向けて新たなチーム作りを進めていった。フィッカデンティが用いるのは前線からのハイプレスと緻密なブロックで相手の良さを消す守備と、スピードと突破力のあるアタッカーの能力を生かした縦に速いショートカウンターを軸とした堅実な戦術で、理想としてリヴァプールFCを例に挙げた。マテウス・相馬勇紀といったサイドで勝負できる選手が多い特徴からフォーメーションは4-2-3-1が採用され、肝となるボランチには米本拓司・稲垣祥の守備特化のコンビが多く用いられ、高い運動量で攻守両面に貢献した。 2月22日の開幕戦でベガルタ仙台に引き分けると、その後は新型コロナウイルス感染症の感染拡大によりリーグ戦は長期中断となる。グランパスの選手及び関係者では、6月2日に金崎夢生、6月6日にランゲラック、7月24日に宮原和也、7月25日に渡邉柊斗とチームスタッフ1名、7月27日に選手寮の調理スタッフ1名の陽性判定が発表された。7月にリーグ戦は再開されるが、この中断によりリーグ戦やルヴァンカップの日程は大幅に再編され異常な過密日程となり、天皇杯が出場チームを含めたレギュレーションが大幅に変更された。 中断期間中の6月21日にはジョーとの契約を解除する。ジョーは怪我の治療を理由に1月のキャンプに参加せず、中断期間にはいると無断でブラジルに帰国しており、6月17日には古巣のコリンチャンスがジョーの復帰を発表した。グランパスはジョーとは契約期間中であり、そもそもチームを離れることを許可していないと主張して契約不履行を理由として契約を解除し、主張が対立したことからFIFAの紛争解決室に判断を委ねる。11月に紛争解決室はジョー・コリンチャンス側が賠償金を支払うことを命じるが、ジョー・コリンチャンス側は納得せずスポーツ仲裁裁判所の判断を求め、2022年6月19日に賠償金を減額するものの支払期日が設定された判決が下される(詳細はジョーの項目を参照)。 7月4日にリーグ戦が再開すると第2節で清水エスパルスに勝利して通算400勝を達成し、引き分けを挟んで第4節から第6節を3連勝するなど良好な再スタートを切る。8月19日の第12節では無敗で10連勝継続中の川崎フロンターレに1-0で勝利するなど、堅守を武器に第4節以降は常に6位以上をキープし、最終成績は3位(19勝6分9敗)。リーグ戦3位の結果により、9年ぶりのACL出場を決める。この時点ではプレーオフからの出場の予定であったが、リーグ戦優勝の川崎フロンターレが天皇杯でも優勝したため、繰り上がってグランパスのグループステージからの出場が確定した。 このシーズンの総失点はリーグ最少の28で、これは34試合制となった2005年以降で4番目に少ない成績であった(詳細は「#年間無失点試合数のリーグ記録(2020年)」を参照)。ゴールキーパーとセンターバックのランゲラック・丸山祐市・中谷進之介に3人は全試合フル出場で、稲垣祥とマテウスもほぼフル出場するなどレギュラー陣はほぼ固定されており、起用された延べ人数488はリーグ最少と選手交代も少なかった。守備の中心的な選手がシーズンを通して出続けたことが「堅守」の要因として挙げられ、シュートストップが得意なランゲラックにいかに簡単なシュートを止めさせるかという守備のテーマが出来上がっていた。マテウスをはじめとする前線の選手も献身的に守備に参加していたが、一方で総得点45はリーグ12位で攻撃面に課題を残した。 ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は新型コロナウイルス感染症によるレギュレーション変更によりリーグ戦3位のグランパスは不出場であった。 ACL出場による選手の負担増加を見据えて柿谷曜一朗・木本恭生・長澤和輝・森下龍矢・齋藤学といった大型補強を敢行し、各ポジションを複数のレギュラークラス選手で争う陣容となった。課題であった得点力不足はボールをより高い位置で奪うイメージの共有や、カウンターの精度やアイデアの向上、元日本代表アタッカーの加入で改善が期待された。なお、この年からパロマ瑞穂スタジアムは2026年アジア競技大会を見据えた全面改築工事が実施され、当面の間のグランパス主催試合は全て豊田スタジアムで行われることになる。 1月28日、3年ぶりに復活したゼネラルマネージャー職に山口素弘が就任し、強化担当に新たに黒部光昭が就任することが発表される。 2月28日のアビスパ福岡との開幕戦では、オウンゴールによる失点もありながら2-1で勝利。3月6日の第2節で北海道コンサドーレ札幌に1-0で勝利すると、4月18日に第10節(ACLの日程変更により11試合目)でサガン鳥栖に1-2で敗れるまで無失点・無敗が続き、開幕6連勝のクラブ記録を更新するとともに、無失点に関する複数のリーグ記録を更新した(詳細は「#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)」を参照)。 4月29日(第22節・13試合目)と5月4日(第12節・14試合目)は、ACLの日程変更により川崎フロンターレとの連戦となった。同一カードの連戦は前年に続いて2度目、1位・2位の対戦に限ると史上初で、攻撃力の川崎フロンターレと守備力のグランパスの首位決戦は『矛盾対決』として注目されたが、新型コロナウィルス感染症への感染によりフィッカデンティが2試合とも欠場を余儀なくされる。試合の指揮はブルーノ・コンカが執るが、消極的な立ち上がりとなったホームの1試合目は開始3分に先制点を許すと前半だけで3失点を喫して最終的に0-4で惨敗、守備を修正して挑んだアウェイの2試合目は後半序盤までに3失点を喫するも反撃に転ずるが一歩及ばず2-3での惜敗となった。 フィッカデンティの復帰は5月15日の第14節(17試合目)で、監督不在の4試合は1勝3敗と停滞した。復帰戦の第14節は清水エスパルスに3-0で勝利するが、主将で守備の要であった丸山祐市が後半8分に負傷交代し、精密検査の結果全治6 - 8か月の診断を受ける。その後はACLの日程により過密となった試合日程の影響もありリーグ戦は6試合にわたって未勝利が続き、7月17日の第20節(21試合目、サガン鳥栖)での今季初の逆転負けを皮切りに、8月12日の第18節(23試合目、横浜F・マリノス)までの3試合でフィッカデンティ体制下で初の3連敗を喫するなど一時暫定6位まで後退する。その間は6試合で1得点8失点の内容であった。 得点力不足解消と守備再建が急がれ、夏の移籍期間にはシュヴィルツォクとキム・ミンテを獲得する。シュヴィルツォクは新型コロナウィルス感染症に伴う隔離措置を経て8月12日、キム・ミンテは8月13日にチームに合流。両選手とも合流後すぐ試合に出場し、求められた役割を果たし結果を残していった。第26節の無失点で前年記録した(34試合制になった2005年以降の)リーグ記録タイの無失点試合数「17」に26試合目で並び、さらに9月10日の第28節(28試合目)で54試合制の1995年に横浜マリノスが記録した18試合にも並んだ。 無失点試合数の記録を最終的に21試合まで伸ばしたが、最終成績は5位(19勝9分10敗)。この年の総失点数30はリーグ2位の成績であったが、総得点44はリーグ9位タイと奮わなかった。J2降格が決定した下位4チームとの戦績は4勝2分2敗、失点した17試合の結果は3勝4分10敗であり、引いて守る相手を崩したり守りきれない状況を覆す攻撃力不足に課題を残すシーズンであった。その一方で途中加入したシュヴィルツォクは21試合で12得点を挙げ攻撃の基点としても機能しており、翌シーズンに向けてはシュヴィルツォクの存在を念頭に置いた得点力改善が期待されたが、後述するACL準決勝後のドーピング検査でシュヴィルツォクの検体から禁止物質が検出されたことにより、一時はアジアサッカー連盟からシュヴィルツォクに4年間の活動停止処分が科された。後に服用していたサプリメントに陽性の原因であったことが認められて活動再開が可能となるものの、シュヴィルツォクは2022年シーズンは全休する形となった(詳細はシュヴィルツォクの項目を参照)。 ACLは決勝トーナメントに進出するが、10月17日の準々決勝で浦項スティーラースに敗退。天皇杯は10月27日の準々決勝でセレッソ大阪に敗れるが、3日後の10月30日に行われたルヴァンカップ決勝では同じセレッソ大阪に勝利して初優勝。稲垣祥が大会得点王と大会MVPを獲得した。このルヴァンカップ優勝で9クラブ目の3大タイトル(J1・天皇杯・ルヴァンカップ)制覇となったが、最初の天皇杯制覇(1995年)から26年が経過しており、3大タイトル制覇に20年以上を要したのは9クラブの中でグランパスだけである。なお、シーズン終了後にシーズンの活躍を収めたドキュメンタリー映画が製作された。 フィッカデンディの監督続投は濃厚と目されていたが、ルヴァンカップ優勝時に約束した2023年までの契約延長をクラブ側が白紙撤回したことが原因となり、12月8日までに解任されることが決定的と報じられた。同時に後任には長谷川健太が就任することが報じられた。 クラブ創設30周年の節目。1月16日の新体制発表会で、新監督に就任した長谷川健太は獲得タイトルを増やすべく「50得点」という目標を掲げた。レオ・シルバ、酒井宣福、仙頭啓矢ら攻撃を特徴とする新戦力が加わり、ガブリエル・シャビエルの移籍で空いた背番号10はマテウスに引き継がれた。 1月24日からの春季キャンプで積極的な攻撃意識でのチーム再編を本格化させるが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大の影響によりランゲラックやマテウスといった主力の合流が遅れたばかりか、チーム内でも感染者が続出したために全体練習の一時休止を余儀なくされた。この休止により基礎的なチーム作りを行う時間が大幅に削られ、W杯開催に伴う過密日程のシーズン中でのチーム構築を求められることとなる。 調整不足を懸念されて迎えた2月19日の開幕であったが、新戦力4人をスタメンに加えた初陣はヴィッセル神戸に2-0で勝利する。前年の戦術を基礎としながらも敵陣からのアグレッシブな守備や、積極的なチャンスメイクによって得点チャンスは増加するが、4月6日の第7節までの開幕6試合を2勝2分2敗の12位と苦しい立ち上がりとなった。続く4月10日の第8節(7試合目)はコンサドーレ札幌に0-2で敗れるが、試合中にシステムを3バック(3-5-2)に変更するなど改善が図られた。 4月20日に負傷退場した長澤和輝がシーズン中の復帰が絶望視されるなど序盤から離脱者が相次ぎ、加えて7月に入ると新型コロナウィルス感染者が続出してチーム状態は万全とは程遠い状態となる。グランパスは7月15日に「保健所の指導を受けて14日から16日までのチーム活動を停止する」ことを発表したが、後にこの「指導」は誤認であったことが発覚し、7月26日にグランパスは経緯を説明して謝罪した。なお、7月2日から16日までにカップ戦を含めて5試合が予定されていたが、この誤報告によりJリーグは16日のリーグ戦第22節・川崎フロンターレ戦の中止を決定していた。この騒動によりグランパスは、Jリーグから譴責と罰金200万円の懲罰を受けた。 第21節までの前半戦の成績は6勝7分8敗の13位。3バックへの変更前後を比較すると、1試合あたりの失点は1.29点から0.93点と大幅に改善したが、同時に得点も1点から0.64点へと大幅に減った。激しい守備でボールを奪い、素早い攻守切り替えでサイドからゴールを狙う戦術は確立しつつあったが、なかなかゴールが奪えず結果に繋がらなかった。その直接的な要因として、攻撃の核として期待されていたシュビルツォク不在の影響が大きいと考えられ、攻撃面を補うために夏の移籍ではレオナルドや永井謙佑などを獲得した。永井らの加入によって1試合あたりの得点は1.08点へと改善され、失点も1点へとやや悪化したものの、劣勢でも引き分けに持ち込む試合が増えたことで着実に勝点を積み重ねた。 リーグ戦の最終成績は11勝13分10敗で8位。失点数35は優勝した横浜F・マリノスと並んでリーグ最少タイであったが、得点数30はアビスパ福岡に次ぐワースト2位で、これは2016年の38得点を下回るクラブワースト記録となった。得点力不足の原因と考えられたのは本職のセンターフォワード不足で、3バックへの変更に伴うマテウスのコンバートには成功したものの、前田直輝の移籍やシュビルツォク不在といったシーズン当初からの影響は大きく、連携を求められる中盤も前年の主力が稲垣祥を除いて移籍や怪我により不在であり、シーズンを通して攻撃の組み立てに苦戦することとなった。 ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は4回戦で敗退。 1月8日の新体制発表会とともにチームは始動。新体制では楢崎正剛がアシスタントGKコーチに加わり、得点力不足解消や昨シーズン途中から導入した3バック前提のチーム作りのためにユンカー・野上結貴・和泉竜司などが加わった。長谷川健太はシーズンのテーマとして「勝利」を掲げ、新加入選手や若手の成長によるチーム内競争の活性化によるチームや戦術の進化に期待を寄せた。 2月18日の横浜FCとの開幕戦を1-0で勝利すると、開幕から1ヶ月間の5試合を3勝1分1敗の2位と好調の出だしとなった。5試合の得失点は5得点1失点で堅守を前提としたスピードのある速攻でゴールを狙うという形が確立しつつあり、開幕前のキャンプから繰り返し練習されたユンカー・マテウス・永井の縦に早い攻撃に加えて、ポストプレーが得意な酒井宣福の出場やウイングバックの人選によっても戦術が変化しており、河治良幸は「シンプルに見えて明確な対策を立てにくい」と分析している。前シーズンの課題であった本職のセンターフォワードとしてユンカーが機能したこともあり、前半戦の21試合を11勝6分4敗の3位で夏季中断期間を迎える。 夏の移籍では長澤和輝に加え、監督の長谷川が「大黒柱」と評したマテウスが移籍したことで攻撃面の再構築を余儀なくされる。前田直輝が期限付き移籍から復帰し、グランパスの下部組織出身の久保藤次郎・森島司らを獲得したもののマテウス移籍の影響は大きかった。リーグ戦再開後の第22節・第23節は勝利したものの、攻め手を欠く展開から速攻の形が崩れてパス回数が増加するとともに前のめりになった守備の隙を突かれる形の失点も増え、第24節以降の11試合は6戦連続無勝利を含む1勝4分6敗の成績で、夏季中断期間前まで1試合平均「2」だった勝点は「1」へと大幅に減少し優勝戦線から一気に後退した。 リーグ戦の最終成績は6位(14勝10分10敗)。リーグ戦のホームゲームでの無敗はクラブ史上初で、浦和(2006年)と川崎(2021年)に次ぐ史上3チーム目の記録となった。総得点41は前シーズンから大幅に改善されたものの、夏季のマテウス移籍がチームに与えた影響は隠しきれず、離脱後はシーズン終盤まで試行錯誤を繰り返すこととなった。 ルヴァンカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝(ベスト8)で敗退。夏季中断期間までは全てのタイトルの可能性もあったが、結果的には2年連続の無冠であった。 シーズン単位の記録は、明記がない限り2005年の34試合制移行後に限る。 鹿島アントラーズの本拠地である茨城県立カシマサッカースタジアムでは、1993年のリーグ開幕戦でジーコのハットトリックを含む5失点完封負けを喫し、その後は2008年までリーグ戦だけで15試合、カップ戦を含めると20試合で1勝も挙げることができなかった。1997年にはクラブ最多7失点もカシマで記録しており、2019年までは無失点の試合が1度もなかった。2020年の第25節でようやく無失点で試合を終えるが、2020年までのカシマでのリーグ戦の対戦成績は5勝1分21敗と大きく負け越している。 グランパスは2010年に、Jリーグ創設18年目にしてリーグ戦で初優勝した。優勝が決定したのは11月20日の第31節で、1シーズン・34試合制に移行した2005年以後では最終節を待たずに優勝が決定したのは初めてであった。最終成績の「23勝」「2位との勝点差10」はいずれも当時のリーグ記録で、「勝点72」もリーグ記録タイであった。 この年のグランパスは勝点差では大差をつけて優勝したが、内訳を見ると「総得点54」「総失点37」はいずれも上位チームには劣っていた 。それでも優勝できた要因として「勝負強さ」が挙げられ、それを示すように1点差での勝利は23勝のうち16試合もあった。シーズン通算のグランパスのシュート数「426本」に対して被シュート数は「483本」で、グランパスの方がシュート数が多かったのはわずか11試合であった。先制点を奪った24試合は21勝2分1敗であり、先制点を取って守りきるという展開が多かったことを物語っている。こうした「勝負強さ」に重要だったのが闘莉王の存在感で、数値に見える攻守の貢献のみならず、チーム全体で勝ちに拘る精神的な影響を与えたと考えられた。なお、このシーズンは連敗が一度もなく、また敗戦の次の試合は必ず勝っていた。 2020年の無失点試合「17試合」は、2008年の大分トリニータと並ぶリーグ記録タイであった。守備の中心を担ったランゲラック・丸山祐市・中谷進之介は全試合でフル出場を続け、個人としての無失点試合も歴代最多となった。 総失点「28点」はこのシーズンのリーグ最少。2位に勝点差18で圧勝した川崎フロンターレの「31点」を上回っており、総得点数がほぼ同じ2位ガンバ大阪の「42点」、4位セレッソ大阪の「37点」と比較すると守備の固さは歴然であった。総失点「28点」は34試合制となった2005年以降に限ると、大分トリニータ(2008年)の「24点」、ベガルタ仙台(2011年)とセレッソ大阪(2019年)の「25点」、川崎フロンターレ(2018年)の「27点」に次いで、浦和レッズ(2006年・2007年・2016年)と並ぶ歴代5位の記録である。 2021年は開幕戦でオウンゴールによる失点があったが、その後は第10節で敗れるまで無失点が続いた。第2節から第19節(10試合目)までの連続無失点「9試合」は、2014年に浦和レッズが記録した「7試合」のリーグ記録を更新し、グランパスとしては2009年の「4試合」を大幅に更新する成績であった。また、第1節の失点から第10節の失点までの無失点継続時間「823分」は、2006年に横浜FCが記録した「770分」のJリーグ記録、1993年に清水エスパルスが記録した「731分」のJ1記録をともに塗り替えた。 無敗は前年の第27節から継続しており、今シーズン第19節までの連続無敗「16試合」はクラブ記録と並んでいる。また、開幕連勝「6試合」も1996年と2007年の「4試合」を更新するクラブ記録で、2003年のリーグ戦の延長戦廃止以後に限るとリーグ記録にも並んでいる。 なお、このシーズンは38試合制の開催であったが無失点試合「21試合」の記録を達成し、54試合制の1995年に横浜マリノスが記録した「18試合」のリーグ記録を更新している。 ホームスタジアムは、豊田スタジアムおよびパロマ瑞穂スタジアムである。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。 当初はホームタウンが名古屋市のみのため、パロマ瑞穂スタジアムのみの登録だったが、2012年に豊田市がホームタウンに加わったのを機に、それまで準本拠扱いだった豊田スタジアムを本拠に追加。週末開催のリーグ戦はほぼ半数ずつを開催。カップ戦など平日開催の多くはパロマ瑞穂スタジアムで行う。但し、2017年はJ2に降格し、リーグカップ出場が出来なかったため、パロマ瑞穂スタジアムの試合がその分多かった。 なおグランパスは名古屋市と共同で、2019年11月にパロマ瑞穂スタジアムの全面改築工事を2021年から実施(改築完了・使用再開時期未定)するのに伴い、2020年のJ1リーグ終了をもって一旦パロマ瑞穂スタジアムでの開催を中断することを発表している。 練習場は愛知県豊田市のトヨタスポーツセンター第1グラウンドである。 2010年12月にスペインのリーガ・エスパニョーラ所属のレアル・ソシエダと選手育成に関する協力協定を締結しており、若手選手がレアル・ソシエダの練習に参加している。 かつては明治乳業もトレーニングウェア胸スポンサーであった。 マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス (Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。 グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。 名古屋グランパスエイトの決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "名古屋グランパスエイト(なごやグランパスエイト、英: Nagoya Grampus Eight)は、日本の名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は名古屋グランパス(なごやグランパス)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "トヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)を母体に発足。ホームスタジアムは豊田スタジアムおよびパロマ瑞穂スタジアム、練習場はトヨタスポーツセンター第1グラウンドである(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チーム名の「グランパス(Grampus)」は英語で鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は名古屋市の市章「丸に八」からきており、末広がりを表す。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は豊田章一郎(トヨタ自動車社長〈当時〉)が「トヨタ」のカタカナの総画数が「8」であることから命名したという。なお、2008年シーズンより呼称を「名古屋グランパス」へ変更したが、中日新聞は「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "チームロゴは発足より筆記体の「Grampus」に上下にそれぞれ「NAGOYA」「EIGHT」が組まれるスタイルが取られていたが、2017年より2段組の「NAGOYA」「GRAMPUS」となり、フォントはエンブレムに使われているものをベースとしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、トヨタ自動車は「先行きに見通しが立ちにくい」「トヨタ自動車のサッカー部は日本リーグの一部に昇格したばかりで、経済上のリスクもある」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に一度は不参加を決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "トヨタの不参加決定を受けて、初代Jリーグチェアマンを務めた川淵三郎はプロ化の構想がトップにまで上がっていないことを察知して「全国展開を目指す上で、大都市の名古屋にクラブがないのは致命的だ」と考え、トヨタカップなどで豊田章一郎と懇意にしていた日本サッカー協会の副会長であった長沼健に「名古屋、いや中部地区にひとつもクラブがないのはまずい。豊田章一郎さんに頼んでください」と訴えた。長沼は自ら豊田に参加を要請するとともに、長沼の関西学院大学体育会サッカー部の後輩でトヨタ東京本社総務部長であった西垣成美にも重ねて豊田の説得を依頼した。西垣は「東海3県(愛知、岐阜、三重)にひとつもプロのクラブがないとなれば、この地域でサッカーをやっている子供たちの夢はどうなるのでしょう」などとクビを覚悟で豊田に直訴すると、豊田は「オマエが作ればええ。東京にも大阪にもできて、名古屋にないわけにはいかんじゃろう」と当初の考えを翻して参加を決めた。以降、愛知県サッカー協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、1990年12月のことだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があり、長沼が豊田に「企業名を外して下さい」と強く要請し、豊田がこれを受け入れた。トヨタが真っ先に企業名を出さないと言ったことで、同じくJリーグ加入を予定していた住友金属(鹿島アントラーズ)、マツダ(サンフレッチェ広島F.C)もこれに追随した。なお、当初豊田が「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭されたというエピソードもある。こういった経緯から現在は胸に入れられているトヨタのスポンサー表記は、チーム発足から2000年までの9年間は袖に入れられており、その間は胸にチームロゴが入れられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "社会人チームのプロ化に際して、トヨタ自動車工業サッカー部に所属する選手のうちプロとして活動する選手をグランパスエイトに、グランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市に設けたトヨタ自動車東富士FC(当時東海社会人サッカーリーグ所属。1993年廃部)にそれぞれ移籍させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1991年にはJリーグ発足に向けた補強の目玉としてディエゴ・マラドーナの獲得がほぼ決まっており、あとはトヨタ自動車の決定を待つのみという状態であったが、マラドーナのコカイン使用疑惑を受けて白紙撤回された。その代わりとしてスキャンダルのないクリーンなイメージのゲーリー・リネカーに白羽の矢が立ち、1992年にリネカーの獲得を発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "海外合宿を経て迎えた初試合は、8月1日のコリンチャンスとの親善試合であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Jリーグのプレマッチとして行われたJリーグカップにはリネカーは出場しなかったものの、ジョルジーニョ、小倉隆史、森山泰行、中西哲生、岡山哲也らが活躍し、中でも小倉隆史は5得点を決めて、3位の成績をおさめた。なお、この年の天皇杯では、翌年のJリーグ参加が決定していた10チームの中で唯一1回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "平野孝ら複数が新入団するが、ハンス・オフトの助言を受けた小倉隆史はオランダへ留学した(当初は半年の予定で、後に1年に延長している)。5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では、浅野哲也とリネカーのゴールによって2-1で勝利し日本のクラブチームとして初めてセリエAのチームに勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "5月16日にJリーグ開幕戦を迎えるが、鹿島アントラーズにジーコのハットトリックを喫するなど0-5で敗れる。5月19日の第2節で浦和レッドダイヤモンズを相手に初勝利、チーム初得点は森山泰行であった。序盤は勝利数が先行するも、7月には敗戦数が勝利数を上回る借金生活となる。期待されたリネカーは怪我がちで7試合の出場にとどまり、司令塔のジョルジーニョとリネカーのプレーが噛み合わず、その他にリネカーを活かすことのできる選手が不在であったことも影響してわずか1得点でシーズンを終え、チーム成績も低迷した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "サントリーシリーズ9位(7勝11敗)、NICOSシリーズ8位(5勝13敗)、年間総合9位(12勝24敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は準々決勝敗退(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "リーグ創設1年目の成績を打破すべくミルンを監督に迎えるが、前年以上の低迷を強いられた。小倉隆史をボランチに、沢入重雄をセンターバックにコンバートすることを試みるが相次いで失敗。自陣ペナルティエリアに5 - 7人の守備を配する、通称「赤い団子」作戦も採られた。成績は奮わずシーズン終了を待たずにミルンの退任はほぼ決定的となり、11月にはミルンに休養を与え、残りの試合は三浦哲郎が監督代行として指揮した。次期監督にはフース・ヒディンクなどの名前も挙げられたが契約には至らず、12月9日にようやくアーセン・ベンゲルが新監督に決定する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "リネカーはサントリーシリーズをほぼ全休。7月にはストイコビッチとビニッチが加入するが、リネカーの1年半の成績からストイコビッチも当初は懐疑的な目で見られることも多かった。リネカーとストイコビッチのコンビに期待が寄せられるものの、ストイコビッチがコンディション不調に加えチームに馴染めず、リネカーも怪我の影響で出場が限られたこともあり、ともに出場した試合はわずか4試合であった。当初ストイコビッチは半年の予定で来日したが、後任監督にベンゲルが決定したことを受けて契約を更新した。一方でリネカーは11試合に出場して3得点という結果で、シーズン末での引退を決断した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "サントリーシリーズ8位(9勝13敗)、NICOSシリーズは最下位(6勝16敗)、年間総合11位(15勝29敗)。Jリーグ新加入の磐田・平塚より下位で、かつ前年と同じ顔ぶれであった名古屋・浦和・G大阪の3チームは「Jリーグのお荷物」と揶揄された。ヤマザキナビスコカップは1回戦敗退、天皇杯は2回戦敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新監督に就任したベンゲルにはチーム構成の全権が与えられた。ヘッドコーチにはボロ・プリモラツを迎え、在籍する外国籍選手はストイコビッチ以外が入れ替えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ベンゲルは中盤の4人がフラットに並ぶ4-4-2(あるいは4-3-1-2)を採用したゾーンディフェンスに加え、プレッシングと素早い攻守の切り替えといった組織的な戦術を徹底していった。この戦術はヨーロッパでは当時すでにスタンダードな戦術の1つとなっていたが、発足間もないJリーグでは斬新な戦術であった。約束事の多い組織的な守備面に対して、攻撃面ではベンゲルは細かな指示はせず、選手自らが選択するようなトレーニングメニューが組まれるに留まった。攻撃のキーマンにはストイコビッチが据えられ、少し引き気味のポジションから攻撃をコントロールした(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される)。元々代表クラスの選手を抱えながら最下位争いで自信を失っていたチームに対し、ベンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精神を植えつけていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "初戦の3月18日・ガンバ大阪戦では飯島寿久とストイコビッチが退場するなど、1-3の完敗を喫する。序盤はベンゲルが選手の最適なポジションについて試行錯誤していたこともあり、第8節終了時点で4連敗を含む1勝7敗の最下位に沈む。開幕8試合のスタメンでセンターバックに7人が名を連ねた守備陣以上に、好不調の波が大きい不安定な攻撃陣が問題で、具体的な指示を求めた選手たちにベンゲルが「パスは未来に向かって出せ」などとアドバイスしたエピソードも残る。第9節の勝利で最下位を脱するも、その後は勝利と敗北を繰り返すなど安定しなかった。5月までの16試合すべての試合で異なるスタメンが試され、6勝10敗の12位で中断期間に入る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中断期間にフランス合宿を行い戦術面の整理が行われ、リーグ戦が再開すると大岩剛がセンターバックにコンバートされスタメン定着、デュリックスが中央に移ることで攻守において安定する。リーグ再開初戦、6月17日の第17節でベルマーレ平塚に延長Vゴール戦の末競り勝つと、7月8日の第22節で鹿島アントラーズに勝利するまで7連勝。7月12日の第23節でヴェルディ川崎に1-2で敗れて連勝は止まるが、この試合では誤審をめぐって飯島寿久・ストイコビッチ・トーレスが警告、ベンチの中西哲生が退場処分、コーチのプリモラツが退席処分を受ける。累積による出場停止を含めて主力4人を欠いて翌24節に臨むが、若手の起用などで2-1で勝利し、残り3試合を連勝で終える。サントリーシリーズ4位(15勝11敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "8月12日のNICOSシリーズ開幕戦を前に、大怪我で長期離脱していた小倉隆史がスタメンに復帰する。開幕から4連勝するが、その後は夏の暑さに加えて過密日程による疲労、さらにチーム全体が連動する運動量の多い戦術による肉体的負担などから失速し、終始首位争いを続けるものの優勝は果たせなかった。NICOSシリーズ2位(17勝9敗)。年間総合3位(32勝20敗)。チームで初めてストイコビッチがリーグMVP、ベンゲルが最優秀監督の個人タイトルを獲得する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "天皇杯ではクラブ史上初めて決勝に進出。小倉隆史・平野孝のゴールによりサンフレッチェ広島を3-0で下して優勝、チーム初のタイトルを獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2月の代表合宿に参加していた小倉隆史が大怪我を負い長期離脱を余儀なくされる。3月9日には前年の天皇杯優勝チームとしてゼロックス・スーパーカップに出場し、リーグ戦優勝の横浜マリノスを2-0で破り1995年の年間王者となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この年のリーグ戦は、前後半の区分がない1シーズン制で開催された。グランパスは開幕から4連勝を挙げるが、その頃には小倉隆史の穴はルーキーの福田健二・望月重良が埋めつつあった。前半日程最後の第15節までを10勝5敗で終え、ヤマザキナビスコカップの集中開催期間を経て7月初旬から苫小牧でキャンプを行った。そのキャンプの最中にベンゲルはアーセナルFCからオファーが来ていることをグランパス側に伝え、8月に入るとロンドンでは監督就任が決定的との報道もあったが、ベンゲル自身はこの時点では去就に関して明言は避けていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "8月に後半日程が始まると5連勝。その4戦目直後の9月15日に記者会見が行われ、9月28日の第21節を最後にベンゲルが退任し、後任にケイロスが就くことも発表された。第21節は柏レイソル戦は延長Vゴール戦の末競り負けるが、ベンゲルはその瞬間ベンチの前で呆然と立ち尽くしていた。こうしてベンゲルはグランパスを去ったが、優勝争いを演じる中での監督交代のダメージは承知しており、上手くいくように右腕のプリモラツが年内はグランパスに残るよう取り計らわれた。ケイロスが就任するまでの3試合はコーチのジョゼ・アルベルト・コスタが監督代行を務めた。最終成績は2位(21勝9敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "リーグ戦2位の成績によりサントリーカップ・チャンピオン・ファイナルに進出。1回戦で清水エスパルスを下し、決勝で鹿島アントラーズに勝利して優勝、翌年のサンワバンクカップへの出場権を獲得した。11月にはアジアカップウィナーズカップに出場し準優勝。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ7位で敗退、天皇杯は3回戦敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "前年のチャンピオンシップの代替大会であったサントリーカップ勝者としてサンワバンクカップへ出場。MLSカップ優勝のD.C. ユナイテッドに勝利した。3月には小倉隆史が再手術を受け、長期離脱を余儀なくされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "リーグ戦では1stステージ12位(6勝10敗)、2ndステージ5位(10勝6敗)、年間総合9位(16勝16敗)と低迷。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)するが、天皇杯は初戦で東京ガスサッカー部に敗れるなど浮き沈みの大きい年であった。シーズン終了後の11月、ケイロスは解任される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、ケイロス以後「優勝請負人」とされる監督を招いては結果が出ずに短期間で解任する期間が続くが、ベンゲル時代に優勝間際まで迫った結果からファンやスポンサーの意識が「優勝」に向いてしまい、短期的な対応に終始してしまったと後年にクラブ幹部が省みている。さらにサッカークラブというよりトヨタの子会社で、クラブとしてのビジョンも定まっていなかった、プロのクラブになりきれていなかったとしている。この体質はクラブ運営に精通した福島義広が副社長、久米一正がGMに就任する2008年ごろまで続くことになる。またそれまでの間、成績についても優勝争いにも降格争いにも関わらず「万年中位」と揶揄される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "前年までコーチを務めた田中孝司が、カルロス・ケイロスの後任として監督に昇格する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "4月16日の第6節でアビスパ福岡に2-1で勝利し、通算100勝目を達成。最大で負けが32も先行していた状況を巻き返し、通算200試合目でちょうど5分の成績となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1stステージ3位(12勝5敗)、2ndステージ6位(11勝6敗)、年間総合5位(23勝11敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ2位で敗退、天皇杯は準決勝進出(ベスト4)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "楢﨑正剛・山口素弘・呂比須ワグナーの加入により優勝候補と期待された。一部の選手と練習態度などを巡って衝突し、チームの輪を乱して成績も低迷したとして、リーグ戦開幕直後の4月に田中孝司が監督を解任される。後任にサンチェスが監督に就任するとやや上向くが、2ndステージが始まると再び低調となりサンチェスを監督から解任。監督代行のマザロッピを経て、9月にはジョアン・カルロスが監督に就任した。ジョアン・カルロス監督就任後は10連勝するなど持ち直す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1stステージは8位(7勝1分7敗)、2ndステージ2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯では2度目の優勝を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1stステージは12位(7勝1分7敗)。2ndステージ開始直後の7月5日に大岩剛・望月重良・平野孝の解雇が発表される。これに関して当時副社長の小宮好雄は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した。これはカルロスの強い意向が働いたもので、戦力低下を危惧するストイコビッチなどの主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日に社長から3人の放出が正式に発表された。7月にウェズレイが加入するが、こうした動揺から成績も奮わず、2ndステージは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は4回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "シーズン終了後、2年連続でチーム最多得点であった呂比須ワグナーに実質的な引退が打診され、呂比須が「サッカーを知らない人がフロントにいる」と怒りを露にする騒動も起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "中村直志らが新入団。1stステージは3位(10勝2分3敗)。7月21日の最終節・東京ヴェルディ1969戦を最後に、ストイコビッチが現役を引退。また、「主力選手との確執」を理由にカルロスが監督解任される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2ndステージは6位(7勝1分7敗)。年間総合は5位(17勝3分10敗)。ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は3回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1993年のリーグ開幕から基本システムとして4-4-2を採用していたが、シーズン途中から3-5-2へと変更した。1stステージ3位(10勝5敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "7月にパナディッチ・ヴァスティッチが加入するが、2ndステージ13位(5勝1分9敗)、年間総合6位(15勝1分14敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ3位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2月には上田滋夢がテクニカルディレクター(TD)に就任した。パナディッチ・大森征之・古賀正紘による3バックと、中村直志・吉村圭司のダブルボランチが機能し高い守備力を誇るが、反面得点力は乏しかった。6月にマルケスが加入。ベルデニックとフロントとの間に強化方針を巡った確執が表面化し、1stステージ終了後に監督交代に至っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1stステージ7位(5勝8分2敗)、2ndステージ8位(6勝4分5敗)、年間総合7位(11勝12分7敗)。ウェズレイがチーム初のJ1得点王を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は4回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "8月21日の2ndステージ第2節でジュビロ磐田に勝利し、通算200勝を達成。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1stステージ8位(5勝5分5敗)、2ndステージ5位(7勝3分5敗)、年間総合は7位(12勝8分10敗)。4年連続二桁得点のウェズレイが、当時アルシンドが持っていた外国籍選手の通算得点の記録を更新した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は5回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "杉本恵太・本田圭佑らが新入団。新潟との間で、岡山哲也・海本慶治・海本幸治郎・安英学と4件の移籍が発生した。順位は第8節終了時点で2位であったが、ウェズレイがネルシーニョと自身の起用方法を巡って対立し4月に退団、次いで5月にマルケスが退団すると下降の一途であった。6月に藤田俊哉と中山悟志が加入し、次いで8月にルイゾンが加入すると6試合で4得点の活躍を見せるが、9月にネルシーニョが解任されるとルイゾンも移籍した。不振から降格争いを演じるが、最後の2試合を1勝1分で終えJ1残留を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "最終成績14位(10勝9分15敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ3位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "若手の育成を目指して、育成手腕に定評のあるフェルフォーセンを新監督に迎えるが、1月にフェルフォーセンを招いた上田滋夢がTDを解任される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "フェルフォーセンの戦術では、守備はゾーンディフェンスを基本として全体のポジショニングバランスを重視し、攻撃ではワイドに展開しつつ勝負どころで攻め込むまではリスクを避ける傾向があった。アンカー役の藤田俊哉の前に配されたのは本来は守備的ポジションの金正友と山口慶で、両サイドにはキープ力のある本田圭佑と中村直志が置かれ、特に左サイドの本田からのクロスは大きな武器であり、この中盤が戦術の肝となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一方でフォワードにはポストプレー役を担える選手を求めるが、その役割での成長が期待された若手は怪我で出遅れ、プレースタイルの異なる玉田圭司やディフェンダーの古賀正紘を代役に据えるが機能しなかった。5月の中断期間前までの12試合をリーグ最少の10得点・直近8試合勝ち星なしの13位で終えると、フェルフォーセンはポストプレーを得意とする選手の獲得を求める。7月にヨンセンが加入すると次第に成績も上向くが、最終成績は7位(13勝9分12敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップはグループリーグ5位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "開幕前に秋田豊・古賀正紘・角田誠といったディフェンダー陣の主力が相次いで退団し、開幕戦でスピラールが全治6ヶ月の怪我で長期離脱する。序盤に増川隆洋・米山篤志も相次いで負傷して欠場し、層が薄くなったセンターバックには下部組織から昇格したばかりの吉田麻也が潜在能力を買われて起用された。フォーメーションを4バック(ダブルボランチ型の4-4-2)に切り替えて急場を凌ぎ、その後も3バックと4バックを併用し、サイドのポジションに阿部翔平・小川佳純が抜擢されるなど若手の起用も増えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "開幕4連勝で好スタートを切ったシーズンだったが、2度の3連敗もあり前半日程終了時点で10位(7勝2分9敗)。後半日程が始まっても好不調の波は激しく成績は低迷していたものの、フェルフォーセンの育成手腕を高く評価したクラブは契約延長を打診するが、フェルフォーセンは母国への帰国を望んで固辞し、10月10日にはシーズン末で退任することが報じられる。後任としてストイコビッチに監督就任が打診され、10月18日にはストイコビッチ本人もグランパス復帰の意向を示すが、その後Jリーグの監督就任に必要なライセンスの未取得が発覚する。グランパスは一度は断念するが、11月中にライセンスを取得する目途がたったことから再要請、11月27日に仮契約を結び記者会見を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "フェルフォーセンは退任発表とともにサッカー界からの引退も表明したが、11月に入るとPSVアイントホーフェンから監督就任のオファーが届いた。シーズン途中の監督人事が難航していたPSVからの救援要請に対してフェルフォーセンは、半年間限定のオファーであったことを理由に翻意して受諾した。PSVは早期の合流を望んだが名古屋側は「天皇杯が控えている」等の理由で拒否したため、フェルフォーセンは天皇杯の日程が終了するまで名古屋の監督として指揮し、PSV監督にはシーズン途中の1月に就任して優勝へと導き、シーズン終了後に改めて引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "最終成績11位(13勝6分15敗)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は5回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "この年から呼称を「名古屋グランパス」に変更。この年に新設されたGMには久米一正が就いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "新監督に就任したストイコビッチはヘッドコーチにボスコ・ジュロヴスキーを据え、攻撃戦術はストイコビッチが、守備戦術はジュロヴスキーが担当した。アシスタントーチにはストイコビッチと同じクラブOBのハーフナー・ディドが就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ストイコビッチの戦術はサイドアタックとゾーンディフェンスの2つの柱を基本とした組織的なパスサッカーで、この年は特にサイドチェンジが大きな効力を発揮した。フラットに近い4-4-2が採用され、攻撃の核として期待が寄せられた玉田圭司は得意なプレーを求められたことで調子を取り戻していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2節から7節を6連勝するなど幸先良いスタート切りるなどして最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)。初めてACLの出場権を獲得した。また、8月にはリーグ開幕から10年以上負け続けていた茨城県立カシマサッカースタジアムでの初勝利を挙げた(詳細は「#鬼門の茨城県立カシマサッカースタジアム」を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "新たにコーチにクラブOBの飯島寿久と伊藤裕二が就任。田口泰士が新入団、 田中隼磨やダヴィらが加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "3月22日の第3節で清水エスパルスに3-1で勝利し、ホームゲーム通算150勝を達成。中断期間前の5月24日までにダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランクトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点にとどまった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めたポストプレーの役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、サイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた。その時点では外国人枠は埋まっていたためAFC枠で獲得可能な選手を調査し、6月21日にオーストラリア国籍のケネディの獲得を発表した。7月にブルザノビッチ、8月に三都主アレサンドロが加入するとブルザノビッチをトップ下に置いた3-5-2が試され、終盤戦の第33節からは翌シーズンに繋がる4-3-3が採用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "守備面ではバヤリツァの長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田麻也と増川隆洋の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のG大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい竹内彬と佐藤将也の2人が起用された。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある巻佑樹の起用も検討されており、後半戦の10月25日のジュビロ磐田戦では実際にセンターバックで先発出場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "最終成績は9位(14勝8分12敗)。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は準優勝。ACLはグループリーグ1位で通過したが、準決勝でアル・イテハドに敗退してベスト4。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "金崎夢生・田中マルクス闘莉王・ダニルソンといった主戦力になりうる選手を補強。このシーズンから用いたのは当時の日本では珍しかった4-3-3で、より個人の速さやパワーを生かすことが狙いであった。3トップの中央に長身のケネディが鎮座し、両サイドの俊敏で運動量の多い金崎夢生と玉田圭司が流動的に動いてチャンスメイクし、勝負どころでは田中マルクス闘莉王がオーバーラップを試みる攻撃的な布陣であった。守備陣もゴール前に楢﨑正剛・田中マルクス闘莉王・増川隆洋が並び、中盤は超人的な身体能力のダニルソンが支えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "3月6日の開幕戦でガンバ大阪に2-1で勝利すると、W杯による中断前までの12試合を7勝1分4敗で終える。序盤は苦戦したダニルソンだが5月に入ると調子を上げ、アンカーとして定着して存在感を強めていった。7月17日の第13節でリーグが再開すると、8月14日の第18節までを5勝1分の無敗で終えて単独首位に浮上する。そのまま一度も首位を明け渡すことなく、11月20日の第31節で湘南ベルマーレに1-0で勝利したことで、3試合を残してリーグ戦初優勝を決めた(詳細は「#リーグ初優勝(2010年)」を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。最優秀監督賞にストイコビッチ、MVPに楢﨑正剛が選出され、ケネディが得点王を獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞はギド・ブッフバルトに続く2人目で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初である。楢﨑はGKとして初めてMVPに選出された。このシーズンの得点はフォワードのレギュラー3人の合計は33点(ケネディ16点、玉田圭司13点、金崎夢生4点)に対して、フォワード以外で最も多い田中マルクス闘莉王が6点、攻撃的ミッドフィールダーで起用された4人は合計でも8点で、ここでも個の力に頼っていたことが分かる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップはグループリーグ6位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "永井謙佑が新入団。リーグ戦開幕に先立って、2月26日のゼロックス・スーパーカップで鹿島アントラーズに勝利し年間王者となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "3月5日の開幕戦は横浜F・マリノスと1-1に終わるが、3月11日に東日本大震災が発生した影響でその後の試合日程が大幅に組み替えられる。グランパスとしては主力に負傷者が多いチーム事情に加え、ACL出場に伴う移動の疲労などもあり不安定なシーズン序盤となった。ACLグループステージは2位で突破するが、5月25日にラウンド16で水原三星ブルーウィングスに0-2で敗れる。その時点でリーグ戦は6試合を1勝2分3敗と苦戦していたが、悲願であったACLの敗退で奮起したチームは5月29日の第13節(7試合目)でアビスパ福岡に5-2と快勝すると、8月17日の第9節(21試合目)までの14試合を7連勝を含む10勝4分の無敗で駆け抜ける。6月15日の第15節・アルビレックス新潟戦の勝利で、通算300勝を達成。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "このシーズンも開幕から2010年と同じ4-3-3を基本として用いたが、シーズン中盤から中村直志をダニルソンと並べる4-2-3-1を併用している。これによって個の力より連続性のあるプレーが求められ、こういったプレーを得意とする小川佳純が輝きを取り戻す。当初は試合途中からの変更が多かったが、優勝争いを演じた終盤戦は試合開始から4-2-3-1が多かった。小川佳純の復調にチーム全体も連動するように調子を上げ、最終節直前5試合を全勝して2位で最終節を迎える。12月3日の最終節はアルビレックス新潟に引き分け以上で優勝の可能性があり、グランパスは1-0で勝利するが、首位・柏レイソルも勝利したため勝点差1の2位(21勝8分5敗)でシーズンを終える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "優勝を逃したシーズンだったが、この年のグランパスは「最強の2位」との声もある。また、ストイコビッチは後年のインタビューで「2011年こそ優勝すべきだった」と答え、楢﨑正剛は「ベストな戦いは2011年」、田中マルクス闘莉王は「あのシーズンこそ、勝ちたかった」と述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ダニエルの加入により3バックが検討され、実際シーズン中に何度が使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "中村直志の怪我による長期離脱、玉田圭司のコンディション不良など終始主力選手を欠いた状態が続き、中でもケネディがフルシーズン働けなかったことが痛手となった。前年得点王のケネディはチームのポゼッションサッカーの大黒柱であり、永井謙佑や田口奏士などの若手の台頭で戦術変更も考えられたが、ストイコビッチは田中マルクス闘莉王をケネディの代役にすることを試みる。田中マルクス闘莉王の得点が増え一見成功したかのように見えたが、結果として前年までの良さを潰してしまう悪循環に陥り、総得点が減るばかりか守備の安定感も失われた。最終成績は7位(15勝7分12敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップ・天皇杯ともに準々決勝進出(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "矢野貴章やヤキモフスキーが加入。開幕戦には牟田雄祐が片山奨典以来7年ぶりの新人の開幕スタメン出場を果たした。リーグ戦は序盤からケネディの不調などの要因から、6月の中断期間前までの第9節から第13節を16年ぶりとなる5連敗で終えるなど不安定な展開が続いた。9月14日の第25節で清水エスパルスのラドンチッチのゴールにより、通算の1000失点目を喫する。また、8日の天皇杯でAC長野パルセイロに初戦で敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "10月3日にストイコビッチがシーズン末に契約満了により退任することが発表された。また、慢性化した赤字改善のため、11月22日には阿部翔平と田中隼磨(本人希望で発表は後日となったが増川隆洋の退団も決定)、同24日にはダニエルと契約延長しない旨が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ストイコビッチ体制下の6年間は優秀な成績を残した一方で、若手の育成を妨げたとの指摘もある。トレーニングの方針は選手のコンディション管理に主眼が置かれており、就任した2008年から主力はほぼ固定されていた。優勝した2010年をピークに主力選手のスタミナ面の陰りとともに成績は下降していき、その間若手選手は練習の内容・負荷ともに不足した状態で能力格差が広がっていた。事実としてこの6年間は移籍組が多く出場し、ストイコビッチ体制下で新たに出場機会を得た(年間半分以上の試合に出場した)若手選手は永井謙佑・田口泰士・巻佑樹・磯村亮太の4人のみとごく少数であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "最終成績は11位(13勝13敗8分)。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は2回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ディフェンス陣の主力の多くが退団し、ストイコビッチ体制下で練習の強度不足の若手を起用せざるを得ない新チームは、久米一正GMの盟友である西野朗に託される。攻撃的なパスサッカーの印象が強い西野であったが、グランパスではまず主力の抜けた守備の整備に取り掛かった。再構築されたディフェンスラインは残留した田中マルクス闘莉王を除いて、本多勇喜・田鍋陵太・大武峻(特別指定選手)といった20代前半の若い選手が並んだ。磯村亮太・矢田旭・田口泰士らもこの年に大きな成長を遂げ、シーズン終盤には堅守速攻のスタイルを確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "3月1日の開幕戦では清水エスパルスに2-3で敗れるが、大武峻がグランパスの特別指定選手としては初めて開幕スターティングメンバーに名を連ねた。第2節から3連勝するが、直後に4連敗するなど安定しなかった。6月にはレアンドロ・ドミンゲスを獲得、攻撃の起爆剤としての期待が寄せられるが、低下していたコンディションに加えて負傷により満足なプレーができなかった。8月には川又堅碁が加入。最終成績は10位(13勝9分12敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は準々決勝進出(ベスト8)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "4月、常勤社長不在で実質経営トップにあった副社長の福島義広が退任することに伴い、GMの久米一正がクラブで初めてトヨタ出身者以外から代表取締役社長に就任、GMとを兼任する。6月に小倉隆史がGM補佐に就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "序盤は2分2敗と最悪のスタートを切ると、そのまま調子が上がらないまま1stステージを終える。楢﨑正剛を中心とした守備陣は安定感を示したが、攻撃陣は17試合で18得点と奮わず、これが不振の原因と考えられた。2ndステージ序盤は川又堅碁の活躍などで5試合で3勝と良好な出だしとなるが、8月以降は調子を落とし、守備陣も安定感を欠くようになる。終盤戦は4バックに変更して闘莉王を前線で起用する戦術も取るが、効果的とは言い難かった。守備が安定すれば得点に恵まれず、得点が増えると守備が崩壊する、終始噛み合わないシーズンであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "10月4日にはシーズン末での西野の退任が発表された。西野は選手を過度に信頼しすぎる采配を貫いたとの指摘もあり、その結果として説明不足の監督、指示待ちになってしまう選手、という悪循環の構図が生まれていた。しかし、それ以上に就任時点での主力選手が大量流出した戦力不足が致命的で、チームを再構築しながらの上位進出という難しい要求もあった。若手の練度不足も足枷となり、西野が率いた2年間は常時5 - 10人の負傷者を抱える状態で、特に今シーズンは紅白戦すら満足にできない時期もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1stステージ9位(6勝4分7敗)、2ndステージ10位(7勝3分7敗)、年間総合9位(13勝7分14敗)。ヤマザキナビスコカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は2回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "「改革元年」と位置づけたシーズンは、小倉隆史が前例のない「GM兼監督」に就任して始まった。それに伴い、GMを兼任していた久米一正は社長専任となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "チーム編成の全権を委ねられた小倉は明確な査定基準をもって既存選手との交渉に臨むが、その交渉姿勢は「ビジネスライクで情を欠いた交渉」とも受け取られ、田中マルクス闘莉王をはじめ一部の主力選手の流出を招く結果となる。戦力低下を補うはずの新加入選手もなかなか決まらず、小川佳純などの残留した主力選手も危機感を抱いていた。それでも1月15日には新陣容とともに明神智和や安田理大などの新加入選手が発表され、「5人目まで連動するサッカー」という方針も示された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2月27日の開幕戦でジュビロ磐田に勝利すると勢いづき、シモビッチの高さと永井の速さを活かすカウンター戦術が機能し、結果こそ勝ち負けを繰り返すがチーム全体はネガティブな雰囲気ではなかった。しかし小倉自身がそのスタイルを否定したばかりか、「5人目まで連動するサッカー」を謳って続けられていたトレーニングは、開幕から2ヶ月が過ぎても成果が見られなかった。事実監督1年目の小倉は戦術の理論体系は確立していたものの、それを選手に伝えて浸透させる手法に欠けており、指導者としての経験不足だったと後に指摘されている。現実的なカウンターサッカーで勝点を稼ぐが、対策されるとそれも機能せず、5月4日の第10節で横浜F・マリノスに勝利した後は1勝もできずに1stステージを終える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "6月には減資および第三者割当増資を実施してトヨタ自動車の子会社(出資比率が50.12 %)となった。6月28日には、クラブOBの大森征之がチーム統括部強化・補強担当に就任、その後大森は2018年までに編成トップの「スポーツダイレクター」に就任している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2ndステージに入っても勝てず、7月30日の第6節・横浜F・マリノス戦からは5バックを採用して守備の安定を図るが、これは思うような攻撃ができないがゆえの最終手段であった。いわば苦肉の守備的サッカーであったがまったく機能せず、8月23日に小倉は事実上解任される。後任にはストイコビッチ体制下でヘッドコーチを務めたジュロヴスキーがコーチを経て昇格し、田中マルクス闘莉王の復帰も発表された。小倉が指揮した26試合で勝利はわずか4つ。監督交代時点で8試合を残して16位、残留圏との勝点差は7であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ジュロヴスキーはまずチームを「正常な状態」に戻すことを試みた。フィジカル練習不足が指摘された欠点は長所のポゼッションを高めることで補い、長所を生かすことでネガティブに傾いていた選手たちの不安を取り除いていった。すると田中マルクス闘莉王が復帰した9月10日の第11節でアルビレックス新潟に勝利し、連続未勝利はクラブワースト記録となる18試合でようやく止まる。続く第12節は敗れるが、第13節・第14節は今季初の連勝で一時は残留圏に浮上した。しかし国際Aマッチデーなどによる3週間の中断により勢いは削がれ、第15節・第16節は1分1敗となり、降格圏の16位で11月3日の最終節・湘南ベルマーレ戦に臨む。他試合を含めた結果から言えば引き分けで残留が可能な状況ではあったが、危機感から冷静さを欠いて攻め急いだ挙句3失点を喫して敗れ、クラブ史上初のJ2降格が決定する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1stステージ14位(4勝5分8敗)、2ndステージ15位(3勝4分10敗)、年間総合16位(7勝9分18敗)。15位のアルビレックス新潟と勝点差はなく得失点差での降格で、監督交代後の3勝2分3敗という五分の成績をみるに、監督交代が遅きに失した形であった。最終節翌日の11月4日には、降格の責任を取って久米一正が社長を辞任することを発表、6日には久米が続投を希望したジュロヴスキーの退任が発表、闘莉王の退団も報じられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップはグループステージ6位で敗退、天皇杯は2回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "クラブ創設25周年をJ2で迎えることになる。J2降格により小川佳純など多くの主力選手が退団したが、移籍の噂があった田口泰士が残留を発表した。その一方で佐藤寿人や玉田圭司が加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "1年でのJ1復帰が掲げられ、新監督には風間八宏が就任した。風間は「楽しく勝つサッカー」というコンセプトを掲げ、それまで風間が率いたチームと同じく「圧倒的に高いボール保持率で相手守備を崩す攻撃」と「ボールを奪われたときに素早く奪い返す攻撃的な守備」の2つを軸とした極端に攻撃偏重なポゼッション戦術を採用した。フォーメーションは3バックと4バックが併用され、複数のポジションをこなせる和泉竜司や宮原和也が重用された。メンバーは固定されず、多くの選手を様々なポジションで試した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "クラブ初となるJ2開幕戦は、2月26日のファジアーノ岡山戦。初戦を2-0で勝利すると、4月8日の第7節でカマタマーレ讃岐に2-1で勝利し4連勝で首位に立つ。第8節で徳島ヴォルティスに引き分けて5連勝はならなかったが首位を守った。その後湘南ベルマーレやアビスパ福岡と首位争いを演じるが、6月3日の第17節でツエーゲン金沢に敗れて以降は6試合で1勝のみで、一時は7位まで後退する。なお、第16節終了時点では首位で、結局首位に立ったのはシーズンを通じてこの3回だけであった。折り返しとなる第21節終了時点で10勝4分7敗、勝点34の6位で、自動昇格圏である2位の湘南ベルマーレには勝点差9であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "6月1日には、クラブOBの中谷勇介がチーム統括部強化・補強担当に就任。前年に就任した大森とともに、クラブの補強を担当することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "7月18日にガブリエル・シャビエルが加入すると、初出場した第22節から5試合で3得点7アシストを記録し、8月の月間MVPに選ばれるなど攻撃の軸となる。7月30日の第25節から5連勝し昇格争いに復帰するが、第30節から1分3敗と6位に転落した間にV・ファーレン長崎に追い越される。名岐ダービーでFC岐阜に大勝するなど第34節から4連勝で巻き返すが、一歩及ばず3位となりJ1昇格プレーオフに回ることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "プレーオフ準決勝ではジェフユナイテッド千葉に4-2で勝利。決勝の相手はアビスパ福岡。リーグ最多85得点のグランパス、リーグ最少36失点のアビスパ福岡、いわば矛と盾のような決勝戦であった。試合は互いにゴールネットを揺らしたもののファウルやオフサイドで認められず、0-0のままで試合が終了し、プレーオフ規定によりグランパスの昇格が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "前述のとおりこの年のグランパスの総得点「85」は、2位の徳島ヴォルティスの71に大きく差をつけてリーグトップであった。一方で総失点の「65」はこの年のJ2ワースト6位で、J2からJ1に昇格するクラブとしては史上最多失点で、無失点試合は42試合中7試合に留まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "この年からルヴァンカップと名前を変えたJリーグカップには出場権なし、天皇杯は4回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "なお、一般的に「J2に降格すると来場者数が1 - 3割減る」と言われるが、この年のグランパスはJリーグ史上初めて逆に来場者数を2万人以上増やしている。低成績が続いた2013年前後は観客動員数の低迷しており、当時の観戦者アンケートでは「クラブへの愛着度」が最下位であった。それを受けてファンサービス関係部署を再編してマーケティング部に統合され、様々な取り組みを行った成果が結実した形である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "J1復帰に際してジョーとランゲラックといった現役代表クラスの外国籍選手を獲得し話題をさらう。期限付き加入中のガブリエル・シャビエルの移籍期間が延長され、風間は「基礎工事」は終わったとしてさらに「点を取るチーム」を目指していく。また、クラブOBの山口素弘が育成部門トップの「アカデミーディレクター」に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "開幕2連勝で好スタートを切るが、第3節からは勝利から遠ざかり、第4節から第11節までは8連敗を喫した。ロシアワールドカップによる中断前最後の5月20日の第15節までで、結局勝利は開幕の2つだけであった。6月6日に天皇杯初戦の2回戦でJFLの奈良クラブと対戦しPK戦の末に敗退するが、「担当審判員による明らかな競技規則の適用ミス」があったとして、PK戦のみを6月28日にやり直すという異例の事態の末に勝利した。7月18日にリーグ戦が再開しても勢いは戻らず最終的に15試合未勝利で、2勝3分12敗の最下位で前半日程を終える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "夏季中断期間に中谷進之介・丸山祐市・前田直輝など大型補強を行う。8月1日の第19節・ベガルタ仙台戦で後半日程が始まると、新戦力が機能して7連勝して11位まで浮上。しかしその後9試合を3勝1分6敗で終え、J1参入プレーオフの対象である16位で最終節を迎える。同じく降格の可能性の残る湘南ベルマーレとの最終節に引き分け、12位から16位までが勝点41で並ぶ大接戦となり、得失点差でジュビロ磐田を上回り残留を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "この年24得点のジョーは得点王を獲得し、シャビエルの9アシストはリーグ4位になるなど、J1残留争いをしながらも総得点52はリーグ4位であった。一方で59失点は最下位のV・ファーレン長崎と並んで最下位で、前年からの問題が改めて露見した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "最終成績は15位(12勝5分17敗)。ルヴァンカップはグループリーグ4位で敗退、天皇杯は前述の2回戦の騒動の後、3回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "攻撃重視のスタイルの変化はなく適材適所の補強を行うことで全体のレベルを高めたが、中でもシミッチ・米本拓司のダブルボランチは新チームの肝として期待された。一方で楢﨑正剛・玉田圭司・佐藤寿人といったリーダーとなり得る選手の退団も多く、若手の台頭が期待される船出となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "開幕3連勝で首位に立つ。その後は勝ち負けを繰り返すが、ホームに限れば第11節まで5連勝を達成しクラブ新記録を達成し、その間ホームでは無失点を続けた。第11節終了時点では首位に勝点差4の2位であった。第12節で川崎フロンターレと引き分けると、8月10日の第22節で川崎フロンターレと再度対戦して勝利するまで10試合の間未勝利が続き、その間に順位は10位まで後退した。その後は第23節の引き分けを挟んで3連敗して11位となり、9月23日に風間との契約を解除する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2年半の風間体制で、風間の目指す攻撃偏重スタイルは確立しつつあった。課題とされた守備面も攻撃がうまくまわっていれば機能するもので、今シーズン序盤は優勝候補とされるほどの評価を得ていた。対して理想的な展開ができないときの守備の脆さは否定できず、前年までも組織で攻める相手に数多くの失点を重ねていた。今シーズン序盤はシミッチと米本拓司の加入で好調な出だしであったが、第13節以降は引いて守る相手に屈する展開が増えていった。それでも従来のスタイルを貫こうとする風間の姿勢は、結果を求める選手の意識と乖離していき、クラブ側が見かねて解雇したという見方もできた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "風間の解任と同日、後任には攻撃的戦術の風間とは正反対の「堅守速攻」で知られるマッシモ・フィッカデンティの就任が発表された。比較的戦術に自由が与えられていた風間体制下と異なり、フィッカデンティは規律を与えチームを立て直そうとした。しかし風間体制の戦術に慣れた選手たちが堅守速攻に馴染むには時間がかかり、第32節鳥栖戦に引き分け同節終了時点で16位以上こそ確定しJ2への自動降格はなくなったものの、J2のプレーオフ勝者との入替戦の対象となる16位となる可能性は最終節まで残っていた。第33・34節と連敗し、他チームの結果次第で16位となる可能性もあったが、最終節で残留を争う他チームが清水以外勝利しなかったことにより辛うじて残留を決めた。監督交代後の8試合は1勝3分4敗であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "最終順位は勝点37の13位(9勝10分15敗)で、16位湘南との勝点差は僅か1。ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は2回戦で敗退した。12月8日にはアカデミーダイレクターを務める山口素弘が執行役員フットボール統括に就任、アカデミーダイレクターとを兼任することが発表される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "フィッカデンティが引き続き監督を務めた。途中から指揮した2019年シーズンの8試合は「残留のための仕事をしただけ」とし、2020年シーズン開幕に向けて新たなチーム作りを進めていった。フィッカデンティが用いるのは前線からのハイプレスと緻密なブロックで相手の良さを消す守備と、スピードと突破力のあるアタッカーの能力を生かした縦に速いショートカウンターを軸とした堅実な戦術で、理想としてリヴァプールFCを例に挙げた。マテウス・相馬勇紀といったサイドで勝負できる選手が多い特徴からフォーメーションは4-2-3-1が採用され、肝となるボランチには米本拓司・稲垣祥の守備特化のコンビが多く用いられ、高い運動量で攻守両面に貢献した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2月22日の開幕戦でベガルタ仙台に引き分けると、その後は新型コロナウイルス感染症の感染拡大によりリーグ戦は長期中断となる。グランパスの選手及び関係者では、6月2日に金崎夢生、6月6日にランゲラック、7月24日に宮原和也、7月25日に渡邉柊斗とチームスタッフ1名、7月27日に選手寮の調理スタッフ1名の陽性判定が発表された。7月にリーグ戦は再開されるが、この中断によりリーグ戦やルヴァンカップの日程は大幅に再編され異常な過密日程となり、天皇杯が出場チームを含めたレギュレーションが大幅に変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "中断期間中の6月21日にはジョーとの契約を解除する。ジョーは怪我の治療を理由に1月のキャンプに参加せず、中断期間にはいると無断でブラジルに帰国しており、6月17日には古巣のコリンチャンスがジョーの復帰を発表した。グランパスはジョーとは契約期間中であり、そもそもチームを離れることを許可していないと主張して契約不履行を理由として契約を解除し、主張が対立したことからFIFAの紛争解決室に判断を委ねる。11月に紛争解決室はジョー・コリンチャンス側が賠償金を支払うことを命じるが、ジョー・コリンチャンス側は納得せずスポーツ仲裁裁判所の判断を求め、2022年6月19日に賠償金を減額するものの支払期日が設定された判決が下される(詳細はジョーの項目を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "7月4日にリーグ戦が再開すると第2節で清水エスパルスに勝利して通算400勝を達成し、引き分けを挟んで第4節から第6節を3連勝するなど良好な再スタートを切る。8月19日の第12節では無敗で10連勝継続中の川崎フロンターレに1-0で勝利するなど、堅守を武器に第4節以降は常に6位以上をキープし、最終成績は3位(19勝6分9敗)。リーグ戦3位の結果により、9年ぶりのACL出場を決める。この時点ではプレーオフからの出場の予定であったが、リーグ戦優勝の川崎フロンターレが天皇杯でも優勝したため、繰り上がってグランパスのグループステージからの出場が確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "このシーズンの総失点はリーグ最少の28で、これは34試合制となった2005年以降で4番目に少ない成績であった(詳細は「#年間無失点試合数のリーグ記録(2020年)」を参照)。ゴールキーパーとセンターバックのランゲラック・丸山祐市・中谷進之介に3人は全試合フル出場で、稲垣祥とマテウスもほぼフル出場するなどレギュラー陣はほぼ固定されており、起用された延べ人数488はリーグ最少と選手交代も少なかった。守備の中心的な選手がシーズンを通して出続けたことが「堅守」の要因として挙げられ、シュートストップが得意なランゲラックにいかに簡単なシュートを止めさせるかという守備のテーマが出来上がっていた。マテウスをはじめとする前線の選手も献身的に守備に参加していたが、一方で総得点45はリーグ12位で攻撃面に課題を残した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は新型コロナウイルス感染症によるレギュレーション変更によりリーグ戦3位のグランパスは不出場であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "ACL出場による選手の負担増加を見据えて柿谷曜一朗・木本恭生・長澤和輝・森下龍矢・齋藤学といった大型補強を敢行し、各ポジションを複数のレギュラークラス選手で争う陣容となった。課題であった得点力不足はボールをより高い位置で奪うイメージの共有や、カウンターの精度やアイデアの向上、元日本代表アタッカーの加入で改善が期待された。なお、この年からパロマ瑞穂スタジアムは2026年アジア競技大会を見据えた全面改築工事が実施され、当面の間のグランパス主催試合は全て豊田スタジアムで行われることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1月28日、3年ぶりに復活したゼネラルマネージャー職に山口素弘が就任し、強化担当に新たに黒部光昭が就任することが発表される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2月28日のアビスパ福岡との開幕戦では、オウンゴールによる失点もありながら2-1で勝利。3月6日の第2節で北海道コンサドーレ札幌に1-0で勝利すると、4月18日に第10節(ACLの日程変更により11試合目)でサガン鳥栖に1-2で敗れるまで無失点・無敗が続き、開幕6連勝のクラブ記録を更新するとともに、無失点に関する複数のリーグ記録を更新した(詳細は「#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)」を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "4月29日(第22節・13試合目)と5月4日(第12節・14試合目)は、ACLの日程変更により川崎フロンターレとの連戦となった。同一カードの連戦は前年に続いて2度目、1位・2位の対戦に限ると史上初で、攻撃力の川崎フロンターレと守備力のグランパスの首位決戦は『矛盾対決』として注目されたが、新型コロナウィルス感染症への感染によりフィッカデンティが2試合とも欠場を余儀なくされる。試合の指揮はブルーノ・コンカが執るが、消極的な立ち上がりとなったホームの1試合目は開始3分に先制点を許すと前半だけで3失点を喫して最終的に0-4で惨敗、守備を修正して挑んだアウェイの2試合目は後半序盤までに3失点を喫するも反撃に転ずるが一歩及ばず2-3での惜敗となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "フィッカデンティの復帰は5月15日の第14節(17試合目)で、監督不在の4試合は1勝3敗と停滞した。復帰戦の第14節は清水エスパルスに3-0で勝利するが、主将で守備の要であった丸山祐市が後半8分に負傷交代し、精密検査の結果全治6 - 8か月の診断を受ける。その後はACLの日程により過密となった試合日程の影響もありリーグ戦は6試合にわたって未勝利が続き、7月17日の第20節(21試合目、サガン鳥栖)での今季初の逆転負けを皮切りに、8月12日の第18節(23試合目、横浜F・マリノス)までの3試合でフィッカデンティ体制下で初の3連敗を喫するなど一時暫定6位まで後退する。その間は6試合で1得点8失点の内容であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "得点力不足解消と守備再建が急がれ、夏の移籍期間にはシュヴィルツォクとキム・ミンテを獲得する。シュヴィルツォクは新型コロナウィルス感染症に伴う隔離措置を経て8月12日、キム・ミンテは8月13日にチームに合流。両選手とも合流後すぐ試合に出場し、求められた役割を果たし結果を残していった。第26節の無失点で前年記録した(34試合制になった2005年以降の)リーグ記録タイの無失点試合数「17」に26試合目で並び、さらに9月10日の第28節(28試合目)で54試合制の1995年に横浜マリノスが記録した18試合にも並んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "無失点試合数の記録を最終的に21試合まで伸ばしたが、最終成績は5位(19勝9分10敗)。この年の総失点数30はリーグ2位の成績であったが、総得点44はリーグ9位タイと奮わなかった。J2降格が決定した下位4チームとの戦績は4勝2分2敗、失点した17試合の結果は3勝4分10敗であり、引いて守る相手を崩したり守りきれない状況を覆す攻撃力不足に課題を残すシーズンであった。その一方で途中加入したシュヴィルツォクは21試合で12得点を挙げ攻撃の基点としても機能しており、翌シーズンに向けてはシュヴィルツォクの存在を念頭に置いた得点力改善が期待されたが、後述するACL準決勝後のドーピング検査でシュヴィルツォクの検体から禁止物質が検出されたことにより、一時はアジアサッカー連盟からシュヴィルツォクに4年間の活動停止処分が科された。後に服用していたサプリメントに陽性の原因であったことが認められて活動再開が可能となるものの、シュヴィルツォクは2022年シーズンは全休する形となった(詳細はシュヴィルツォクの項目を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ACLは決勝トーナメントに進出するが、10月17日の準々決勝で浦項スティーラースに敗退。天皇杯は10月27日の準々決勝でセレッソ大阪に敗れるが、3日後の10月30日に行われたルヴァンカップ決勝では同じセレッソ大阪に勝利して初優勝。稲垣祥が大会得点王と大会MVPを獲得した。このルヴァンカップ優勝で9クラブ目の3大タイトル(J1・天皇杯・ルヴァンカップ)制覇となったが、最初の天皇杯制覇(1995年)から26年が経過しており、3大タイトル制覇に20年以上を要したのは9クラブの中でグランパスだけである。なお、シーズン終了後にシーズンの活躍を収めたドキュメンタリー映画が製作された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "フィッカデンディの監督続投は濃厚と目されていたが、ルヴァンカップ優勝時に約束した2023年までの契約延長をクラブ側が白紙撤回したことが原因となり、12月8日までに解任されることが決定的と報じられた。同時に後任には長谷川健太が就任することが報じられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "クラブ創設30周年の節目。1月16日の新体制発表会で、新監督に就任した長谷川健太は獲得タイトルを増やすべく「50得点」という目標を掲げた。レオ・シルバ、酒井宣福、仙頭啓矢ら攻撃を特徴とする新戦力が加わり、ガブリエル・シャビエルの移籍で空いた背番号10はマテウスに引き継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "1月24日からの春季キャンプで積極的な攻撃意識でのチーム再編を本格化させるが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大の影響によりランゲラックやマテウスといった主力の合流が遅れたばかりか、チーム内でも感染者が続出したために全体練習の一時休止を余儀なくされた。この休止により基礎的なチーム作りを行う時間が大幅に削られ、W杯開催に伴う過密日程のシーズン中でのチーム構築を求められることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "調整不足を懸念されて迎えた2月19日の開幕であったが、新戦力4人をスタメンに加えた初陣はヴィッセル神戸に2-0で勝利する。前年の戦術を基礎としながらも敵陣からのアグレッシブな守備や、積極的なチャンスメイクによって得点チャンスは増加するが、4月6日の第7節までの開幕6試合を2勝2分2敗の12位と苦しい立ち上がりとなった。続く4月10日の第8節(7試合目)はコンサドーレ札幌に0-2で敗れるが、試合中にシステムを3バック(3-5-2)に変更するなど改善が図られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "4月20日に負傷退場した長澤和輝がシーズン中の復帰が絶望視されるなど序盤から離脱者が相次ぎ、加えて7月に入ると新型コロナウィルス感染者が続出してチーム状態は万全とは程遠い状態となる。グランパスは7月15日に「保健所の指導を受けて14日から16日までのチーム活動を停止する」ことを発表したが、後にこの「指導」は誤認であったことが発覚し、7月26日にグランパスは経緯を説明して謝罪した。なお、7月2日から16日までにカップ戦を含めて5試合が予定されていたが、この誤報告によりJリーグは16日のリーグ戦第22節・川崎フロンターレ戦の中止を決定していた。この騒動によりグランパスは、Jリーグから譴責と罰金200万円の懲罰を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "第21節までの前半戦の成績は6勝7分8敗の13位。3バックへの変更前後を比較すると、1試合あたりの失点は1.29点から0.93点と大幅に改善したが、同時に得点も1点から0.64点へと大幅に減った。激しい守備でボールを奪い、素早い攻守切り替えでサイドからゴールを狙う戦術は確立しつつあったが、なかなかゴールが奪えず結果に繋がらなかった。その直接的な要因として、攻撃の核として期待されていたシュビルツォク不在の影響が大きいと考えられ、攻撃面を補うために夏の移籍ではレオナルドや永井謙佑などを獲得した。永井らの加入によって1試合あたりの得点は1.08点へと改善され、失点も1点へとやや悪化したものの、劣勢でも引き分けに持ち込む試合が増えたことで着実に勝点を積み重ねた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "リーグ戦の最終成績は11勝13分10敗で8位。失点数35は優勝した横浜F・マリノスと並んでリーグ最少タイであったが、得点数30はアビスパ福岡に次ぐワースト2位で、これは2016年の38得点を下回るクラブワースト記録となった。得点力不足の原因と考えられたのは本職のセンターフォワード不足で、3バックへの変更に伴うマテウスのコンバートには成功したものの、前田直輝の移籍やシュビルツォク不在といったシーズン当初からの影響は大きく、連携を求められる中盤も前年の主力が稲垣祥を除いて移籍や怪我により不在であり、シーズンを通して攻撃の組み立てに苦戦することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は4回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "1月8日の新体制発表会とともにチームは始動。新体制では楢崎正剛がアシスタントGKコーチに加わり、得点力不足解消や昨シーズン途中から導入した3バック前提のチーム作りのためにユンカー・野上結貴・和泉竜司などが加わった。長谷川健太はシーズンのテーマとして「勝利」を掲げ、新加入選手や若手の成長によるチーム内競争の活性化によるチームや戦術の進化に期待を寄せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2月18日の横浜FCとの開幕戦を1-0で勝利すると、開幕から1ヶ月間の5試合を3勝1分1敗の2位と好調の出だしとなった。5試合の得失点は5得点1失点で堅守を前提としたスピードのある速攻でゴールを狙うという形が確立しつつあり、開幕前のキャンプから繰り返し練習されたユンカー・マテウス・永井の縦に早い攻撃に加えて、ポストプレーが得意な酒井宣福の出場やウイングバックの人選によっても戦術が変化しており、河治良幸は「シンプルに見えて明確な対策を立てにくい」と分析している。前シーズンの課題であった本職のセンターフォワードとしてユンカーが機能したこともあり、前半戦の21試合を11勝6分4敗の3位で夏季中断期間を迎える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "夏の移籍では長澤和輝に加え、監督の長谷川が「大黒柱」と評したマテウスが移籍したことで攻撃面の再構築を余儀なくされる。前田直輝が期限付き移籍から復帰し、グランパスの下部組織出身の久保藤次郎・森島司らを獲得したもののマテウス移籍の影響は大きかった。リーグ戦再開後の第22節・第23節は勝利したものの、攻め手を欠く展開から速攻の形が崩れてパス回数が増加するとともに前のめりになった守備の隙を突かれる形の失点も増え、第24節以降の11試合は6戦連続無勝利を含む1勝4分6敗の成績で、夏季中断期間前まで1試合平均「2」だった勝点は「1」へと大幅に減少し優勝戦線から一気に後退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "リーグ戦の最終成績は6位(14勝10分10敗)。リーグ戦のホームゲームでの無敗はクラブ史上初で、浦和(2006年)と川崎(2021年)に次ぐ史上3チーム目の記録となった。総得点41は前シーズンから大幅に改善されたものの、夏季のマテウス移籍がチームに与えた影響は隠しきれず、離脱後はシーズン終盤まで試行錯誤を繰り返すこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝(ベスト8)で敗退。夏季中断期間までは全てのタイトルの可能性もあったが、結果的には2年連続の無冠であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "シーズン単位の記録は、明記がない限り2005年の34試合制移行後に限る。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "鹿島アントラーズの本拠地である茨城県立カシマサッカースタジアムでは、1993年のリーグ開幕戦でジーコのハットトリックを含む5失点完封負けを喫し、その後は2008年までリーグ戦だけで15試合、カップ戦を含めると20試合で1勝も挙げることができなかった。1997年にはクラブ最多7失点もカシマで記録しており、2019年までは無失点の試合が1度もなかった。2020年の第25節でようやく無失点で試合を終えるが、2020年までのカシマでのリーグ戦の対戦成績は5勝1分21敗と大きく負け越している。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "グランパスは2010年に、Jリーグ創設18年目にしてリーグ戦で初優勝した。優勝が決定したのは11月20日の第31節で、1シーズン・34試合制に移行した2005年以後では最終節を待たずに優勝が決定したのは初めてであった。最終成績の「23勝」「2位との勝点差10」はいずれも当時のリーグ記録で、「勝点72」もリーグ記録タイであった。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "この年のグランパスは勝点差では大差をつけて優勝したが、内訳を見ると「総得点54」「総失点37」はいずれも上位チームには劣っていた 。それでも優勝できた要因として「勝負強さ」が挙げられ、それを示すように1点差での勝利は23勝のうち16試合もあった。シーズン通算のグランパスのシュート数「426本」に対して被シュート数は「483本」で、グランパスの方がシュート数が多かったのはわずか11試合であった。先制点を奪った24試合は21勝2分1敗であり、先制点を取って守りきるという展開が多かったことを物語っている。こうした「勝負強さ」に重要だったのが闘莉王の存在感で、数値に見える攻守の貢献のみならず、チーム全体で勝ちに拘る精神的な影響を与えたと考えられた。なお、このシーズンは連敗が一度もなく、また敗戦の次の試合は必ず勝っていた。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "2020年の無失点試合「17試合」は、2008年の大分トリニータと並ぶリーグ記録タイであった。守備の中心を担ったランゲラック・丸山祐市・中谷進之介は全試合でフル出場を続け、個人としての無失点試合も歴代最多となった。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "総失点「28点」はこのシーズンのリーグ最少。2位に勝点差18で圧勝した川崎フロンターレの「31点」を上回っており、総得点数がほぼ同じ2位ガンバ大阪の「42点」、4位セレッソ大阪の「37点」と比較すると守備の固さは歴然であった。総失点「28点」は34試合制となった2005年以降に限ると、大分トリニータ(2008年)の「24点」、ベガルタ仙台(2011年)とセレッソ大阪(2019年)の「25点」、川崎フロンターレ(2018年)の「27点」に次いで、浦和レッズ(2006年・2007年・2016年)と並ぶ歴代5位の記録である。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2021年は開幕戦でオウンゴールによる失点があったが、その後は第10節で敗れるまで無失点が続いた。第2節から第19節(10試合目)までの連続無失点「9試合」は、2014年に浦和レッズが記録した「7試合」のリーグ記録を更新し、グランパスとしては2009年の「4試合」を大幅に更新する成績であった。また、第1節の失点から第10節の失点までの無失点継続時間「823分」は、2006年に横浜FCが記録した「770分」のJリーグ記録、1993年に清水エスパルスが記録した「731分」のJ1記録をともに塗り替えた。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "無敗は前年の第27節から継続しており、今シーズン第19節までの連続無敗「16試合」はクラブ記録と並んでいる。また、開幕連勝「6試合」も1996年と2007年の「4試合」を更新するクラブ記録で、2003年のリーグ戦の延長戦廃止以後に限るとリーグ記録にも並んでいる。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "なお、このシーズンは38試合制の開催であったが無失点試合「21試合」の記録を達成し、54試合制の1995年に横浜マリノスが記録した「18試合」のリーグ記録を更新している。", "title": "各記録等" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "ホームスタジアムは、豊田スタジアムおよびパロマ瑞穂スタジアムである。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "当初はホームタウンが名古屋市のみのため、パロマ瑞穂スタジアムのみの登録だったが、2012年に豊田市がホームタウンに加わったのを機に、それまで準本拠扱いだった豊田スタジアムを本拠に追加。週末開催のリーグ戦はほぼ半数ずつを開催。カップ戦など平日開催の多くはパロマ瑞穂スタジアムで行う。但し、2017年はJ2に降格し、リーグカップ出場が出来なかったため、パロマ瑞穂スタジアムの試合がその分多かった。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "なおグランパスは名古屋市と共同で、2019年11月にパロマ瑞穂スタジアムの全面改築工事を2021年から実施(改築完了・使用再開時期未定)するのに伴い、2020年のJ1リーグ終了をもって一旦パロマ瑞穂スタジアムでの開催を中断することを発表している。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "練習場は愛知県豊田市のトヨタスポーツセンター第1グラウンドである。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "2010年12月にスペインのリーガ・エスパニョーラ所属のレアル・ソシエダと選手育成に関する協力協定を締結しており、若手選手がレアル・ソシエダの練習に参加している。", "title": "アカデミー・育成" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "かつては明治乳業もトレーニングウェア胸スポンサーであった。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス (Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。", "title": "クラブ情報" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。", "title": "クラブ情報" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "名古屋グランパスエイトの決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016", "title": "決算" } ]
名古屋グランパスエイトは、日本の名古屋市、豊田市、みよし市を中心とする愛知県全県をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は名古屋グランパス(なごやグランパス)。
{{サッカークラブ | font-color = #FFF | background-color = #d80c18 | border-color = #f8b500 | 原語表記 = 名古屋グランパスエイト | 呼称 = 名古屋グランパス | 愛称 = グランパス | カラー = {{Color box|#d80c18}} グランパスレッド<br> {{Color box|#f8b500}} グランパスイエロー<br> {{Color box|#baa85b}} グランパスゴールド<ref name="emblem">{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2023/1210post-2232.php|title=名古屋グランパス 新エンブレム決定|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2023-12-10}}</ref><br> | 創設 = 1991 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス = J1 | ホームタウン = [[名古屋市]]、[[豊田市]]、[[みよし市]]を中心とする[[愛知県]]全県<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/club/nagoya/#profile|title=【公式】名古屋グランパスの速報・チケット情報|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2023-12-12}}</ref> | スタジアム = [[ファイル:Toyota sta 0313 1.JPG|216px|center]][[豊田スタジアム]]{{R|jleague}}[[ファイル:Mizuho Stadium 2.JPG|center|216px]][[名古屋市瑞穂公園陸上競技場|パロマ瑞穂スタジアム]]{{R|jleague}} | キャパ = 豊田:43,739<br />瑞穂:20,223 | 法人名 = {{small|株式会社名古屋グランパスエイト}}{{R|jleague}} | 代表 = {{Flagicon|JPN}} [[小西工己]] | 監督 = {{Flagicon|JPN}} [[長谷川健太]] | HP = http://nagoya-grampus.jp | pattern_la1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | leftarm1 = | body1 = FF0000 | rightarm1 = FF0000 | shorts1 = 000000 | socks1 = 000000 | pattern_la2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_so2= _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | leftarm2 = FFFFFF | body2 = FFFFFF | rightarm2 = FFFFFF | shorts2 = 000000 | socks2 = 000000 |current=2024年の名古屋グランパスエイト }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社名古屋グランパスエイト{{R|jleague}} | 英文社名 = Nagoya Grampus Eight Inc. | ロゴ = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 未上場 | 略称 = | 本社所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]]東区泉1-23-22 {{R|jleague}} | 国籍 = | 本社郵便番号 = 461-0001 | 設立 = [[1991年]][[7月17日]] | 業種 = 9050 | 事業内容 = サッカークラブの運営 | 代表者 = [[小西工己]] | 資本金 = 1億0,500万円<ref name="jl2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf|title=2017年度(平成29年度)Jクラブ個別情報開示資料|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2018-08-07}}</ref> | 発行済株式総数 = | 売上高 = 45億9,400万円<br>(2018年1月期){{R|jl2017}} | 営業利益 = 5億円<br>(2018年1月期){{R|jl2017}} | 経常利益 = 4億8,800万円<br>(2018年1月期){{R|jl2017}} |純利益 = ▲3億2200万円<br>(2023年1月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/4f5d9/298105 株式会社名古屋グランパスエイト 第32期決算公告]</ref> |純資産 = |総資産 = 15億1500万円<br>(2023年1月期)<ref name="fy" /> | 従業員数 = | 決算期 = 1月期 | 主要株主 = [[トヨタ自動車]] 50.12 [[パーセント記号|%]]<br />[[中日新聞社]] 8.04 %<br />[[中部電力]] 3.21 %<br />[[三菱UFJ銀行]] 3.21 %<br />[[東海旅客鉄道]] 3.21 %<br />[[東邦ガス]] 3.21 %<br />[[名古屋銀行]] 3.21 %<br />[[名古屋鉄道]] 3.21 %<br />[[ノリタケカンパニーリミテド]] 3.21 %<br />[[大丸松坂屋百貨店]] 3.21 %<br />他10社<br />(2016年6月15日現在{{R|capital}}) | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[豊田章一郎]](初代社長)<br />[[豊田章男]](元会長)<br />[[岩崎正視]](元社長)<br />[[佐々木眞一]](元社長)<br />[[久米一正]](元社長) | 外部リンク = {{URL|nagoya-grampus.jp}} | 特記事項 = }} '''名古屋グランパスエイト'''(なごやグランパスエイト、{{Lang-en-short|Nagoya Grampus Eight}})は、[[日本]]の[[名古屋市]]、[[豊田市]]、[[みよし市]]を中心とする[[愛知県]]全県を[[ホームタウン]]とする{{R|jleague}}、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つ。呼称は'''名古屋グランパス'''(なごやグランパス)。 == 概要 == {{Main|トヨタ自動車工業サッカー部}} '''[[トヨタ自動車工業サッカー部]]'''([[1939年]]に創部)を母体に発足。ホームスタジアムは[[豊田スタジアム]]および[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場|パロマ瑞穂スタジアム]]、練習場は[[トヨタスポーツセンター]]第1グラウンドである{{R|jleague}}(詳細は[[#スタジアム・練習場]]を参照)。 チーム名の「グランパス(Grampus)」は英語で[[鯱]]([[名古屋城]]の[[金鯱]])、「エイト」は名古屋市の市章「丸に八」[[ファイル:Emblem of Nagoya, Aichi.svg|20px]]からきており、末広がりを表す{{R|jleague}}。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は[[豊田章一郎]]([[トヨタ自動車]]社長〈当時〉)が「トヨタ」のカタカナの総画数が「8」であることから命名したという<ref>2007年5月15日付[[中日新聞]]</ref>。なお、[[2008年]]シーズンより呼称を「名古屋グランパス」へ変更したが、[[中日新聞]]は「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている<ref>{{cite news|title=お大尽トヨタ!世界制覇計画 名古屋Vで10億円の大型補強|newspaper=[[中日新聞]]|date=2007-12-19|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2007/200712/CK2007121902073254.html|accessdate=2014-5-17 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20081013143716/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2007/200712/CK2007121902073254.html |archivedate=2008-10-13}}</ref>。 チームロゴは発足より筆記体の「Grampus」に上下にそれぞれ「NAGOYA」「EIGHT」が組まれるスタイルが取られていたが、2017年より2段組の「NAGOYA」「GRAMPUS」となり、フォントはエンブレムに使われているものをベースとしている<ref>[http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2017/0115post-736.php 名古屋グランパス クラブロゴ変更のお知らせ]</ref>。 == 歴史 == === Jリーグ加盟まで === プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、[[トヨタ自動車]]は「先行きに見通しが立ちにくい」「トヨタ自動車のサッカー部は[[日本サッカーリーグ|日本リーグ]]の一部に昇格したばかりで、経済上のリスクもある」<ref name="東海総研">{{Cite journal|和書|author=鈴木明子|title=人間模様(62) 西垣成美さん(名古屋グランパスエイト常務取締役・球団代表)インタビュー|journal=東海総研マネジメント MANAGEMENT|issue=1993年11月号|publisher=[[三菱UFJリサーチ&コンサルティング|東海総合研究所]]|pages=28–29}}</ref>とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に一度は不参加を決定した<ref name="東海総研"/><ref name="chuspo">木本邦彦「グラ球団草創期を西垣成美さん語る」[[中日スポーツ]]、2010年11月26日付、5面</ref><ref name="ninomiya">{{Cite web|和書|author=二宮清純|authorlink=二宮清純|url=https://www.ninomiyasports.com/archives/104409|title=第1094回 Jリーグ“2度目の創業”に問う豊田章一郎氏の言葉|work=二宮清純「唯我独論」|publisher=スポーツコミュニケーションズ|date=2023-02-22|accessdate=2023年2月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230224102353/https://www.ninomiyasports.com/archives/104409|archivedate=2023年2月24日}}</ref><ref name="chunichi220618">{{cite news|url=https://www.chunichi.co.jp/article/491674|title=(9)元クラブ代表・西垣成美さん 「子どもたちのため」チーム設立に尽力|newspaper=中日スポーツ|publisher=中日新聞社|date=2022-06-18|accessdate=2O23年2月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220618093552/https://www.chunichi.co.jp/article/491674|archivedate=2O22年6月18日}}</ref><ref name="川淵">{{Citation|和書|author=川淵三郎|authorlink=川淵三郎|year=2006|title=川淵三郎 虹を掴む|publisher=[[講談社]]|series=FOOTBALL NIPPON BOOKS|isbn=4-06-212676-1|pages=101–103}}</ref>。 トヨタの不参加決定を受けて、初代[[Jリーグチェアマン]]を務めた[[川淵三郎]]はプロ化の構想がトップにまで上がっていないことを察知して「全国展開を目指す上で、大都市の名古屋にクラブがないのは致命的だ」と考え<ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/>、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]などで豊田章一郎と懇意にしていた<ref name="東海総研"/><ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/>[[日本サッカー協会]]の副会長であった[[長沼健]]に「名古屋、いや中部地区にひとつもクラブがないのはまずい。豊田章一郎さんに頼んでください」と訴えた<ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/>。長沼は自ら豊田に参加を要請するとともに<ref name="東海総研"/><ref name="川淵"/>、長沼の[[関西学院大学体育会サッカー部]]の後輩でトヨタ東京本社総務部長であった西垣成美にも重ねて豊田の説得を依頼した<ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/>。西垣は「[[東海3県]](愛知、[[岐阜県|岐阜]]、[[三重県|三重]])にひとつもプロのクラブがないとなれば、この地域でサッカーをやっている子供たちの夢はどうなるのでしょう」などとクビを覚悟で豊田に直訴すると<ref name="東海総研"/><ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/><ref name="chunichi220618"/>、豊田は「オマエが作ればええ。東京にも大阪にもできて、名古屋にないわけにはいかんじゃろう」と当初の考えを翻して参加を決めた<ref name="東海総研"/><ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/>。以降、愛知県サッカー協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し<ref name="東海総研"/><ref name="川淵"/>、Jリーグ加盟を取り付けたという<ref name="東海総研"/>。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、1990年12月のことだった{{R|chuspo}}。 地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があり、長沼が豊田に「企業名を外して下さい」と強く要請し<ref name="サッカー批評40">{{Cite journal|和書|author=加部究|authorlink=加部究|title=〔特別追悼企画〕偉大なる功労者 長沼健|journal=[[サッカー批評]]|issue=40 2008年9月10日発行|publisher=[[双葉社]]|page=39}}</ref><ref name="東スポ20070425">{{Cite news|title=〔日本代表を作った男たち〕 長沼健|date=2007年4月25日|newspaper=[[東京スポーツ]]|publisher=東京スポーツ新聞社|page=5}}</ref>、豊田がこれを受け入れた<ref name="サッカー批評40"/><ref name="東スポ20070425"/>。トヨタが真っ先に企業名を出さないと言ったことで<ref name="川淵"/>、同じくJリーグ加入を予定していた[[住友金属工業蹴球団|住友金属]]([[鹿島アントラーズ]])、[[東洋工業サッカー部|マツダ]]([[サンフレッチェ広島F.C]])もこれに追随した<ref name="ninomiya"/><ref name="川淵"/><ref>{{cite news|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20230216-YGD2IWMB4NM5FPOKKPZRR5XPNE/|title=J1名古屋グランパス、ホーム開幕戦で喪章着用&黙祷 トヨタ自動車名誉会長・豊田章一郎氏の逝去受け 川淵三郎氏『Jリーグ設立の際一番支援して頂いた』(1/2ページ)|newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2023-02-16|accessdate=2O23年2月27日}}</ref>。なお、当初豊田が「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな」とチームに企業色を全く出さなかったために<ref name="川淵"/>、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭されたというエピソードもある。こういった経緯から現在は胸に入れられているトヨタのスポンサー表記は、チーム発足から2000年までの9年間は袖に入れられており、その間は胸にチームロゴが入れられていた。 === チームの発足 === 社会人チームのプロ化に際して、[[トヨタ自動車工業サッカー部]]に所属する選手のうちプロとして活動する選手をグランパスエイトに、グランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を[[静岡県]][[裾野市]]に設けた[[トヨタ自動車東富士FC]](当時[[東海社会人サッカーリーグ]]所属。[[1993年]]廃部)にそれぞれ移籍させた。 [[1991年]]にはJリーグ発足に向けた補強の目玉として[[ディエゴ・マラドーナ]]の獲得がほぼ決まっており、あとはトヨタ自動車の決定を待つのみという状態であったが、マラドーナのコカイン使用疑惑を受けて白紙撤回された{{R|chuspo}}。その代わりとしてスキャンダルのないクリーンなイメージの[[ゲーリー・リネカー]]に白羽の矢が立ち、[[1992年]]にリネカーの獲得を発表された{{R|chuspo}}。 ==== 1992年 ==== '''{{small|{{main|1992年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : [[平木隆三]](新任) 海外合宿を経て迎えた初試合は、8月1日の[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]との親善試合であった。 Jリーグのプレマッチとして行われた[[1992年のJリーグカップ|Jリーグカップ]]にはリネカーは出場しなかったものの、[[ジョルジ・アントニオ・プチナッチ|ジョルジーニョ]]、[[小倉隆史]]、[[森山泰行]]、[[中西哲生]]、[[岡山哲也]]らが活躍し、中でも小倉隆史は5得点を決めて、3位の成績をおさめた<ref name="ogura">富森揚介「ザ・フェース東海 小倉隆史」[[朝日新聞]]、1993年12月31日</ref>。なお、この年の[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では、翌年のJリーグ参加が決定していた10チームの中で唯一1回戦で敗退した。{{-}} === 1990年代 === ==== 1993年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''Jリーグ開幕戦'''</span>}} {{Image label|x=0.27|y=0.40|scale=220|text=[[ゲーリー・リネカー|<span style="font-size:small;color:white">'''リネカー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.40|scale=220|text=[[沢入重雄|<span style="font-size:small;color:white">'''沢入'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=[[ピッタ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ピッタ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.50|y=0.65|scale=220|text=[[ジョルジ・アントニオ・プチナッチ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ジョルジーニョ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.85|scale=220|text=[[浅野哲也|<span style="font-size:small;color:navy">'''浅野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[米倉誠|<span style="font-size:small;color:navy">'''米倉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[小川誠一|<span style="font-size:small;color:maroon">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[藤川久孝|<span style="font-size:small;color:maroon">'''藤川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[高本詞史|<span style="font-size:small;color:maroon">'''高本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[江川重光|<span style="font-size:small;color:maroon">'''江川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[伊藤裕二|<span style="font-size:small;color:black">'''伊藤'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|1993年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : 平木隆三(2年目) [[平野孝]]ら複数が新入団するが、[[ハンス・オフト]]の助言を受けた小倉隆史はオランダへ留学した{{R|ogura}}(当初は半年の予定で、後に1年に延長している)。5月2日のプレシーズンマッチ・[[SSラツィオ]]戦では、[[浅野哲也]]とリネカーのゴールによって2-1で勝利し日本のクラブチームとして初めてセリエAのチームに勝利した<ref>「リネカー国内初ゴール」『中日新聞』1993年5月3日付朝刊12版、16面。</ref>。 5月16日にJリーグ開幕戦を迎えるが、[[鹿島アントラーズ]]に[[ジーコ]]の[[ハットトリック]]を喫するなど0-5で敗れる<ref name="東洋経済">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/10802 |title=J1名古屋グランパスの長すぎる低迷、Jでは「トヨタ流」の効力なし? |website=東洋経済ONLINE |author=今井康一 |editor=[[東洋経済新聞社]] |date=2009-08-06 |accessdate=2021-04-15}}</ref>。5月19日の第2節で[[浦和レッドダイヤモンズ]]を相手に初勝利、チーム初得点は[[森山泰行]]であった<ref name="chuspo200627">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/79461 |title=7月4日J1再開で名古屋グランパス通算400勝を決める!節目の勝利を振り返る |newspaper=中日スポーツ |date=2020-06-27 |accessdate=2021-05-19}}</ref>。序盤は勝利数が先行するも、7月には敗戦数が勝利数を上回る借金生活となる{{R|chuspo200627}}。期待されたリネカーは怪我がちで7試合の出場にとどまり、司令塔のジョルジーニョとリネカーのプレーが噛み合わず、その他にリネカーを活かすことのできる選手が不在であったことも影響してわずか1得点でシーズンを終え、チーム成績も低迷した<ref> Sports Graphic Number 332 1994年2月3日号 p.42-43 </ref><ref name="FC200515">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2020/05/15/post373875/ |title=名古屋グランパス、歴代ガッカリ外国籍選手5人。リネカーだけじゃない…歴史に埋もれたW杯優勝メンバーも |website=FOOTBALL CHANNNEL |date=2020-05-15 |accessdate=2021-04-26}}</ref>。 サントリーシリーズ9位(7勝11敗)、NICOSシリーズ8位(5勝13敗)、年間総合9位(12勝24敗)。[[1993年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ4位で敗退、[[第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝敗退(ベスト8)。{{-}} ==== 1994年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''1994年 2ndステージ第22節'''</span>{{R|FC200515}}}} {{Image label|x=0.27|y=0.40|scale=220|text=[[ゲーリー・リネカー|<span style="font-size:small;color:white">'''リネカー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.40|scale=220|text=[[森山泰行|<span style="font-size:small;color:white">'''森山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.30|y=0.60|scale=220|text=[[ジョルジ・アントニオ・プチナッチ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ジョルジーニョ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.75|scale=220|text=[[平野孝|<span style="font-size:small;color:navy">'''平野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.75|scale=220|text=[[岡山哲也|<span style="font-size:small;color:navy">'''岡山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.90|scale=220|text=[[小杉敏之|<span style="font-size:small;color:navy">'''小杉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[小川誠一|<span style="font-size:small;color:maroon">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.30|y=1.10|scale=220|text=[[エドソン・ロドリゲス|<span style="font-size:small;color:maroon">'''ガルサ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.61|y=1.10|scale=220|text=[[森直樹 (1972年生のサッカー選手)|<span style="font-size:small;color:maroon">'''森'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[飯島寿久|<span style="font-size:small;color:maroon">'''飯島'''</span>]]}} {{Image label|x=0.43|y=1.30|scale=220|text=[[ハーフナー・ディド|<span style="font-size:small;color:black">'''ディド'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|1994年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : [[ゴードン・ミルン]](新任) リーグ創設1年目の成績を打破すべくミルンを監督に迎えるが、前年以上の低迷を強いられた<ref name="飯尾1">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/01/31/___split_9/ |title=証言でたどる「ベンゲルがいた名古屋グランパス」がもたらしたもの |author=[[飯尾篤史]] |website=web Sportiva |date=2018-01-31 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。小倉隆史をボランチに、沢入重雄をセンターバックにコンバートすることを試みるが相次いで失敗。自陣[[ペナルティエリア]]に5 - 7人の守備を配する、通称「赤い団子」作戦も採られた。成績は奮わずシーズン終了を待たずにミルンの退任はほぼ決定的となり<ref>「誤算の背景1 守備未整備で自滅」[[中日新聞]]、1994年11月20日付朝刊12版、22面。</ref>、11月にはミルンに休養を与え、残りの試合は[[三浦哲郎 (サッカー指導者)|三浦哲郎]]が監督代行として指揮した{{R|飯尾1}}。次期監督には[[フース・ヒディンク]]などの名前も挙げられたが契約には至らず、12月9日にようやく[[アーセン・ベンゲル]]が新監督に決定する{{R|飯尾1}}。 リネカーはサントリーシリーズをほぼ全休{{R|FC200515}}。7月には[[ドラガン・ストイコビッチ|ストイコビッチ]]と[[ドラギシャ・ビニッチ|ビニッチ]]が加入するが、リネカーの1年半の成績からストイコビッチも当初は懐疑的な目で見られることも多かった<ref name="FC200424">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2020/04/24/post371722/ |title=名古屋グランパス、歴代最強外国籍選手5人。ストイコビッチの偉業、タイトルをもたらした男たち |website=FOOTBALL CHANNEL |date=2020-04-24 |accessdate=2021-04-27}}</ref><ref name="kimura2001">{{Cite book|和書|author=木村元彦|authorlink=木村元彦|date=2001-6|title=Finale Dragan Stojkovic -ドラガン・ストイコビッチ完全読本|publisher=[[集英社]]|isbn=4087803260}}</ref>。リネカーとストイコビッチのコンビに期待が寄せられるものの、ストイコビッチがコンディション不調に加えチームに馴染めず、リネカーも怪我の影響で出場が限られたこともあり、ともに出場した試合はわずか4試合であった<ref name="飯尾6">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/02/19/___split_23/ |title=ピクシーのイライラが消えた。ベンゲルがタクトを振り、選手が応える |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-02-19 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。当初ストイコビッチは半年の予定で来日したが、後任監督にベンゲルが決定したことを受けて契約を更新した<ref name="飯尾2">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/02/02/___split_10/ |title=あのストイコビッチがベンゲル就任に興奮。「素晴らしい監督だよ!」 |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-02-02 |accessdate=2021-04-06}}</ref><ref name="kimura1998">{{Cite book|和書|author=木村元彦|authorlink=木村元彦|date=1998-5|title=誇り-ドラガン・ストイコビッチの軌跡|publisher=[[東京新聞]]出版局|isbn=9784808306335}}</ref>。一方でリネカーは11試合に出場して3得点という結果で、シーズン末での引退を決断した{{R|FC200515}}。 サントリーシリーズ8位(9勝13敗)、NICOSシリーズは最下位(6勝16敗)、年間総合11位(15勝29敗)。Jリーグ新加入の[[ジュビロ磐田|磐田]]・[[湘南ベルマーレ|平塚]]より下位で、かつ前年と同じ顔ぶれであった名古屋・[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]・[[ガンバ大阪|G大阪]]の3チームは'''「Jリーグのお荷物」'''と揶揄された<ref>サッカーマガジンJリーグ名古屋グランパス優勝号 2011年 1/1号、p.64。</ref>。[[1994年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は1回戦敗退、[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦敗退。{{-}} ==== 1995年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''1995年の基本システム'''</span>{{R|FC200424}}<ref name="4-2-3-1">杉山茂樹『4-2-3-1 サッカーを戦術から理解する』 ([[光文社新書]])</ref>}} {{Image label|x=0.58|y=0.35|scale=220|text=[[小倉隆史|<span style="font-size:small;color:white">'''小倉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.45|scale=220|text=[[ドラガン・ストイコビッチ|<span style="font-size:small;color:white">'''ストイコビッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.70|scale=220|text=[[平野孝|<span style="font-size:small;color:navy">'''平野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.80|scale=220|text=[[浅野哲也|<span style="font-size:small;color:navy">'''浅野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.46|y=0.80|scale=220|text=[[フランク・デュリックス|<span style="font-size:small;color:navy">'''デュリックス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.70|scale=220|text=[[岡山哲也|<span style="font-size:small;color:navy">'''岡山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[小川誠一|<span style="font-size:small;color:maroon">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[大岩剛|<span style="font-size:small;color:maroon">'''大岩'''</span>]]}} {{Image label|x=0.52|y=1.10|scale=220|text=[[カルロス・アレクシャンドレ・トーレス|<span style="font-size:small;color:maroon">'''トーレス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[飯島寿久|<span style="font-size:small;color:maroon">'''飯島'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[伊藤裕二|<span style="font-size:small;color:black">'''伊藤'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|1995年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : [[アーセン・ベンゲル]](新任) 新監督に就任したベンゲルにはチーム構成の全権が与えられた。ヘッドコーチには[[ボロ・プリモラツ]]を迎え、在籍する外国籍選手はストイコビッチ以外が入れ替えられた{{R|飯尾1}}。 ベンゲルは中盤の4人がフラットに並ぶ4-4-2(あるいは4-3-1-2)を採用した[[ゾーンディフェンス#サッカーのゾーンディフェンス|ゾーンディフェンス]]に加え、[[プレスディフェンス|プレッシング]]と素早い攻守の切り替えといった組織的な戦術を徹底していった{{R|飯尾2|4-2-3-1}}。この戦術はヨーロッパでは当時すでにスタンダードな戦術の1つとなっていたが、発足間もないJリーグでは斬新な戦術であった{{R|4-2-3-1}}。約束事の多い組織的な守備面に対して、攻撃面ではベンゲルは細かな指示はせず、選手自らが選択するようなトレーニングメニューが組まれるに留まった<ref name="飯尾3">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/02/05/___split_11/ |title=「パスは未来へ出せ」。ベンゲルは低迷するグランパスの選手に言った |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-02-05 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。攻撃のキーマンにはストイコビッチが据えられ、少し引き気味のポジションから攻撃をコントロールした(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される){{R|4-2-3-1|飯尾6}}。元々代表クラスの選手を抱えながら最下位争いで自信を失っていたチームに対し、ベンゲルは「常に長所だけを生かすようにする」という勝者の精神を植えつけていった<ref>『勝者のエスプリ』日本放送出版協会(1997年)</ref>。 初戦の3月18日・[[ガンバ大阪]]戦では飯島寿久とストイコビッチが退場するなど、1-3の完敗を喫する{{R|飯尾3}}。序盤はベンゲルが選手の最適なポジションについて試行錯誤していたこともあり、第8節終了時点で4連敗を含む1勝7敗の最下位に沈む{{R|飯尾3}}。開幕8試合のスタメンでセンターバックに7人が名を連ねた守備陣以上に、好不調の波が大きい不安定な攻撃陣が問題で、具体的な指示を求めた選手たちにベンゲルが「パスは未来に向かって出せ」などとアドバイスしたエピソードも残る{{R|飯尾3}}。第9節の勝利で最下位を脱するも、その後は勝利と敗北を繰り返すなど安定しなかった<ref name="飯尾4">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/02/09/___split_13/ |title=ベンゲルに挨拶に来たジョージ・ウェア。グランパスの選手は仰天した |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-02-09 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。5月までの16試合すべての試合で異なるスタメンが試され<ref>中西哲生、戸塚啓『ベンゲル・ノート』幻冬舎(2002年)</ref>、6勝10敗の12位で中断期間に入る{{R|飯尾1}}。 中断期間にフランス合宿を行い戦術面の整理が行われ{{R|飯尾4}}、リーグ戦が再開すると[[大岩剛]]がセンターバックにコンバートされスタメン定着<ref name="飯尾5">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/02/14/___split_20/ |title=大岩剛をコンバート。ベンゲルが魔法をかけて、グランパスは変貌した |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-02-14 |accessdate=2021-04-06}}</ref>、[[フランク・デュリックス|デュリックス]]が中央に移ることで攻守において安定する{{R|飯尾6}}。リーグ再開初戦、6月17日の第17節で[[ベルマーレ平塚]]に[[ゴールデンゴール|延長Vゴール]]戦の末競り勝つと{{R|飯尾5}}、7月8日の第22節で[[鹿島アントラーズ]]に勝利するまで7連勝{{R|飯尾6}}。7月12日の第23節で[[ヴェルディ川崎]]に1-2で敗れて連勝は止まるが、この試合では誤審をめぐって飯島寿久・ストイコビッチ・[[カルロス・アレクシャンドレ・トーレス|トーレス]]が警告、ベンチの中西哲生が退場処分、コーチのプリモラツが退席処分を受ける{{R|飯尾6}}。累積による出場停止を含めて主力4人を欠いて翌24節に臨むが、若手の起用などで2-1で勝利し、残り3試合を連勝で終える{{R|飯尾6}}。サントリーシリーズ4位(15勝11敗)。 8月12日のNICOSシリーズ開幕戦を前に、大怪我で長期離脱していた小倉隆史がスタメンに復帰する{{R|飯尾6}}。開幕から4連勝するが<ref name="飯尾7">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/02/28/___split_32/ |title=居残り練習もキュウリも禁止。ベンゲルがグランパスで見せたこだわり |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-02-28 |accessdate=2021-04-06}}</ref>、その後は夏の暑さに加えて過密日程による疲労、さらにチーム全体が連動する運動量の多い戦術による肉体的負担などから失速し、終始首位争いを続けるものの優勝は果たせなかった<ref name="飯尾8">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/03/06/___split_35/ |title=お荷物クラブ、グランパスが初タイトル。ベンゲルのサッカーで勝てた |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-03-06 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。NICOSシリーズ2位(17勝9敗)。年間総合3位(32勝20敗)。チームで初めてストイコビッチがリーグMVP、ベンゲルが最優秀監督の個人タイトルを獲得する。 [[第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]ではクラブ史上初めて決勝に進出。小倉隆史・平野孝のゴールにより[[サンフレッチェ広島]]を3-0で下して優勝、チーム初のタイトルを獲得した{{R|飯尾8}}。{{-}} ==== 1996年 ==== '''{{small|{{main|1996年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : アーセン・ベンゲル(2年目、9月退任)→[[カルロス・ケイロス]](新任) 2月の代表合宿に参加していた小倉隆史が大怪我を負い長期離脱を余儀なくされる<ref>「小倉重傷 右ひざ裏じん帯断裂」 [[中日新聞]]、1996年2月6日付朝刊12版、16面。</ref>。3月9日には前年の天皇杯優勝チームとして[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス・スーパーカップ]]に出場し、リーグ戦優勝の[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]を2-0で破り1995年の年間王者となった。 この年のリーグ戦は、前後半の区分がない1シーズン制で開催された。グランパスは開幕から4連勝を挙げるが、その頃には小倉隆史の穴はルーキーの[[福田健二]]・[[望月重良]]が埋めつつあった<ref name="飯尾9">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2018/03/09/___split_36/ |title=ベンゲルに届いた巨大なオファー。名将がグランパスを去る日がきた |author=飯尾篤史 |website=web Sportiva |date=2018-03-09 |accessdate=2021-04-06}}</ref>。前半日程最後の第15節までを10勝5敗で終え、[[1996年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]の集中開催期間を経て7月初旬から[[苫小牧]]でキャンプを行った{{R|飯尾9}}。そのキャンプの最中にベンゲルは[[アーセナルFC]]からオファーが来ていることをグランパス側に伝え{{R|飯尾9}}、8月に入ると[[ロンドン]]では監督就任が決定的との報道もあったが、ベンゲル自身はこの時点では去就に関して明言は避けていた{{R|飯尾9}}。 8月に後半日程が始まると5連勝。その4戦目直後の9月15日に記者会見が行われ、9月28日の第21節を最後にベンゲルが退任し、後任にケイロスが就くことも発表された{{R|飯尾9}}。第21節は[[柏レイソル]]戦は延長Vゴール戦の末競り負けるが、ベンゲルはその瞬間ベンチの前で呆然と立ち尽くしていた{{R|飯尾9}}。こうしてベンゲルはグランパスを去ったが、優勝争いを演じる中での監督交代のダメージは承知しており、上手くいくように右腕のプリモラツが年内はグランパスに残るよう取り計らわれた{{R|飯尾9}}。ケイロスが就任するまでの3試合はコーチの[[ジョゼ・アルベルト・コスタ]]が監督代行を務めた。最終成績は2位(21勝9敗)。 リーグ戦2位の成績により[[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ(1996年)|サントリーカップ・チャンピオン・ファイナル]]に進出。1回戦で[[清水エスパルス]]を下し、決勝で[[鹿島アントラーズ]]に勝利して優勝、翌年の[[サンワバンクカップ]]への出場権を獲得した。11月には[[アジアカップウィナーズカップ]]に出場し準優勝。ヤマザキナビスコカップはグループリーグ7位で敗退、[[第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は3回戦敗退。 ==== 1997年 ==== '''{{small|{{main|1997年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : カルロス・ケイロス(2年目、11月退任) 前年のチャンピオンシップの代替大会であった[[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ(1996年)|サントリーカップ]]勝者として[[サンワバンクカップ]]へ出場。[[MLSカップ]]優勝の[[D.C. ユナイテッド]]に勝利した<ref>「グランパス逆転勝ち ワシントンに3-1」 [[中日新聞]]、1997年3月3日付朝刊12版、24面。</ref>。3月には小倉隆史が再手術を受け、長期離脱を余儀なくされる。 リーグ戦では1stステージ12位(6勝10敗)、2ndステージ5位(10勝6敗)、年間総合9位(16勝16敗)と低迷。[[1997年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)するが、[[第77回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は初戦で[[東京ガスサッカー部]]に敗れる{{R|kimura2001}}など浮き沈みの大きい年であった。シーズン終了後の11月、ケイロスは解任される。 なお、ケイロス以後「優勝請負人」とされる監督を招いては結果が出ずに短期間で解任する期間が続くが、ベンゲル時代に優勝間際まで迫った結果からファンやスポンサーの意識が「優勝」に向いてしまい、短期的な対応に終始してしまったと後年にクラブ幹部が省みている{{R|東洋経済}}。さらにサッカークラブというよりトヨタの子会社で、クラブとしてのビジョンも定まっていなかった、プロのクラブになりきれていなかったとしている{{R|東洋経済}}。この体質はクラブ運営に精通した[[福島義広]]が副社長、久米一正がGMに就任する2008年ごろまで続くことになる{{R|東洋経済}}。またそれまでの間、成績についても優勝争いにも降格争いにも関わらず「万年中位」と揶揄される<ref name="藤江FC161107">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2016/11/07/post183566/ |title=名古屋、J2降格という悪夢。GM兼任監督のもとで迷走。クラブが抱えてきた構造的欠陥 |website=FOOTBALL CHANNNEL |author=藤江直人 |date=2016-11-07 |accessdate=2021-04-15}}</ref>。 ==== 1998年 ==== '''{{small|{{main|1998年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : [[田中孝司 (サッカー選手)|田中孝司]](新任) 前年までコーチを務めた田中孝司が、カルロス・ケイロスの後任として監督に昇格する。 4月16日の第6節で[[アビスパ福岡]]に2-1で勝利し、通算100勝目を達成{{R|chuspo200627}}。最大で負けが32も先行していた状況を巻き返し、通算200試合目でちょうど5分の成績となった{{R|chuspo200627}}。 1stステージ3位(12勝5敗)、2ndステージ6位(11勝6敗)、年間総合5位(23勝11敗)。[[1998年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ2位で敗退、[[第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準決勝進出(ベスト4)。 ==== 1999年 ==== '''{{small|{{main|1999年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : 田中孝司(2年目、4月退任)→[[ダニエル・サンチェス]](新任)→[[ジョアン・カルロス・ダ・シウバ・コスタ|ジョアン・カルロス]](新任) [[楢﨑正剛]]・[[山口素弘]]・[[呂比須ワグナー]]の加入により優勝候補と期待された<ref name="kisha">{{Cite book|和書|author=ピクシー担当記者グループ|date=2001-7|title=ありがとうストイコビッチ|publisher=[[ラインブックス]]|isbn=4898090818}}</ref>。一部の選手と練習態度などを巡って衝突し<ref name="大住">{{Cite web|和書|url=http://www.soccertalk.jp/content/2000/07/no322.html |title=No.322 名古屋グランパス チームを守る「戦力外通告」 |website=サッカーの話をしよう |author=[[大住良之]] |date=-2000-07-12 |accessdate=2021-04-06}}</ref>、チームの輪を乱して成績も低迷したとして、リーグ戦開幕直後の4月に田中孝司が監督を解任される。後任にサンチェスが監督に就任するとやや上向くが、2ndステージが始まると再び低調となりサンチェスを監督から解任。監督代行の[[ジェラルド・ペレイラ・デ・マットス・フィーリョ|マザロッピ]]を経て、9月にはジョアン・カルロスが監督に就任した。ジョアン・カルロス監督就任後は10連勝するなど持ち直す{{R|kisha}}。 1stステージは8位(7勝1分7敗)、2ndステージ2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)。[[1999年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)、[[第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では2度目の優勝を果たした。 === 2000年代 === ==== 2000年 ==== '''{{small|{{main|2000年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : ジョアン・カルロス(2年目) 1stステージは12位(7勝1分7敗)。2ndステージ開始直後の7月5日に大岩剛・望月重良・平野孝の解雇が発表される。これに関して当時副社長の小宮好雄は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した<ref>「不振グランパス激震 カルロス体制維持へ大ナタ」 [[中日新聞]]、2000年7月5日付朝刊12版、25面。</ref>。これはカルロスの強い意向が働いたもので{{R|大住}}、戦力低下を危惧するストイコビッチなどの主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日に社長から3人の放出が正式に発表された<ref>「3選手を放出通告」 [[中日新聞]]、2000年7月8日付朝刊12版、29面。</ref>。7月に[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]が加入するが、こうした動揺から成績も奮わず{{R|kisha}}、2ndステージは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)。[[2000年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)、[[第80回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で敗退した。 シーズン終了後、2年連続でチーム最多得点であった呂比須ワグナーに実質的な引退が打診され、呂比須が「サッカーを知らない人がフロントにいる」と怒りを露にする騒動も起きた{{R|藤江FC161107}}。 ==== 2001年 ==== '''{{small|{{main|2001年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : ジョアン・カルロス(3年目、8月退任)→[[三浦哲郎 (サッカー指導者)|三浦哲郎]](新任) [[中村直志]]らが新入団。1stステージは3位(10勝2分3敗)。7月21日の最終節・[[東京ヴェルディ1969]]戦を最後に、ストイコビッチが現役を引退。また、「主力選手との確執」を理由にカルロスが監督解任される<ref>{{Cite web|和書|url=http://awx.fcu.jp/player/joaocarlos.html |title=ジョアン・カルロス |website=Antlers World |accessdate=2021-04-02}}</ref>。 2ndステージは6位(7勝1分7敗)。年間総合は5位(17勝3分10敗)。[[2001年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)、[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は3回戦で敗退した。 ==== 2002年 ==== '''{{small|{{main|2002年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''監督''' : [[ズデンコ・ベルデニック]](新任) 1993年のリーグ開幕から基本システムとして4-4-2を採用していたが、シーズン途中から3-5-2へと変更した。1stステージ3位(10勝5敗)。 7月に[[アンドレイ・パナディッチ|パナディッチ]]・[[イヴィツァ・ヴァスティッチ|ヴァスティッチ]]が加入するが、2ndステージ13位(5勝1分9敗)、年間総合6位(15勝1分14敗)。[[2002年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ3位で敗退、[[第82回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝進出(ベスト8)。 ==== 2003年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2003年の基本システム'''</span>{{R|FC200424}}}} {{Image label|x=0.19|y=0.40|scale=220|text=[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|<span style="font-size:small;color:white">'''ウェズレイ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.57|y=0.40|scale=220|text=[[マルケス・バチスタ・デ・アブレウ|<span style="font-size:small;color:white">'''マルケス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.60|scale=220|text=[[中谷勇介|<span style="font-size:small;color:navy">'''中谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.75|scale=220|text=[[滝澤邦彦|<span style="font-size:small;color:navy">'''滝澤'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.85|scale=220|text=[[中村直志|<span style="font-size:small;color:navy">'''中村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[吉村圭司|<span style="font-size:small;color:navy">'''吉村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.75|scale=220|text=[[海本幸治郎|<span style="font-size:small;color:navy">'''海本(幸)'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=1.10|scale=220|text=[[古賀正紘|<span style="font-size:small;color:maroon">'''古賀'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[アンドレイ・パナディッチ|<span style="font-size:small;color:maroon">'''パナディッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.75|y=1.10|scale=220|text=[[大森征之|<span style="font-size:small;color:maroon">'''大森'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2003年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : ハード・魂(ハート)。 * '''監督''' : ズデンコ・ベルデニック(2年目、8月退任)→[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]](新任) 2月には[[上田滋夢]]がテクニカルディレクター(TD)に就任した。パナディッチ・[[大森征之]]・[[古賀正紘]]による3バックと、中村直志・[[吉村圭司]]のダブルボランチが機能し高い守備力を誇るが、反面得点力は乏しかった。6月に[[マルケス・バチスタ・デ・アブレウ|マルケス]]が加入。ベルデニックとフロントとの間に強化方針を巡った確執が表面化し、1stステージ終了後に監督交代に至っている。 1stステージ7位(5勝8分2敗)、2ndステージ8位(6勝4分5敗)、年間総合7位(11勝12分7敗)。ウェズレイがチーム初のJ1得点王を獲得した。 [[2003年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準々決勝進出(ベスト8)、[[第83回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で敗退。 ==== 2004年 ==== '''{{small|{{main|2004年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : ハード・魂(ハート)。 - 2004年、超える。- * '''監督''' : ネルシーニョ(2年目) 8月21日の2ndステージ第2節で[[ジュビロ磐田]]に勝利し、通算200勝を達成{{R|chuspo200627}}。 1stステージ8位(5勝5分5敗)、2ndステージ5位(7勝3分5敗)、年間総合は7位(12勝8分10敗)。4年連続二桁得点のウェズレイが、当時[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]が持っていた外国籍選手の通算得点の記録を更新した{{R|FC200424}}。 [[2004年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)、[[第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は5回戦で敗退。{{-}} ==== 2005年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2005年 第23節'''</span>{{R|FC200515}}}} {{Image label|x=0.33|y=0.40|scale=220|text=[[杉本恵太|<span style="font-size:small;color:white">'''杉本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.52|y=0.40|scale=220|text=[[ルイス・カルロス・ボンボナート・グラール|<span style="font-size:small;color:white">'''ルイゾン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=[[藤田俊哉|<span style="font-size:small;color:navy">'''藤田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.65|scale=220|text=[[山口慶|<span style="font-size:small;color:navy">'''山口'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.85|scale=220|text=[[安英学|<span style="font-size:small;color:navy">'''安'''</span>]]}} {{Image label|x=0.46|y=0.85|scale=220|text=[[クライトン・アルベルト・フォントーラ・ドス・サントス|<span style="font-size:small;color:navy">'''クライトン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[中谷勇介|<span style="font-size:small;color:maroon">'''中谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[秋田豊|<span style="font-size:small;color:maroon">'''秋田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[増川隆洋|<span style="font-size:small;color:maroon">'''増川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[角田誠|<span style="font-size:small;color:maroon">'''角田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2005年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 赤鯱魂 - Grampus-Spirits - * '''監督''' : ネルシーニョ(3年目、9月退任)→[[中田仁司]](新任) [[杉本恵太]]・[[本田圭佑]]らが新入団。[[アルビレックス新潟|新潟]]との間で、岡山哲也・[[海本慶治]]・[[海本幸治郎]]・[[安英学]]と4件の移籍が発生した。順位は第8節終了時点で2位であったが、ウェズレイがネルシーニョと自身の起用方法を巡って対立し4月に退団{{R|FC200424}}、次いで5月にマルケスが退団すると下降の一途であった。6月に[[藤田俊哉]]と[[中山悟志]]が加入し、次いで8月に[[ルイス・カルロス・ボンボナート・グラール|ルイゾン]]が加入すると6試合で4得点の活躍を見せるが、9月にネルシーニョが解任されるとルイゾンも移籍した{{R|FC200515}}。不振から降格争いを演じるが、最後の2試合を1勝1分で終えJ1残留を決めた。 最終成績14位(10勝9分15敗)。[[2005年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ3位で敗退、[[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は5回戦で敗退。{{-}} ==== 2006年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2006年の基本システム'''</span><ref name="サッカー様">{{Cite web|和書|url=http://soccer.takagix.net/club/gra/ |title=名古屋グランパス (クラブ情報) |website=サッカー様 |accessdate=2021-04-20}}</ref>}} {{Image label|x=0.27|y=0.40|scale=220|text=[[フローデ・ヨンセン|<span style="font-size:small;color:white">'''ヨンセン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.40|scale=220|text=[[杉本恵太|<span style="font-size:small;color:white">'''杉本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.65|scale=220|text=[[金正友|<span style="font-size:small;color:navy">'''金'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.65|scale=220|text=[[山口慶|<span style="font-size:small;color:navy">'''山口'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.80|scale=220|text=[[本田圭佑|<span style="font-size:small;color:navy">'''本田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.80|scale=220|text=[[中村直志|<span style="font-size:small;color:navy">'''中村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.90|scale=220|text=[[藤田俊哉|<span style="font-size:small;color:navy">'''藤田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=1.10|scale=220|text=[[増川隆洋|<span style="font-size:small;color:maroon">'''増川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=1.10|scale=220|text=[[マレク・スピラール|<span style="font-size:small;color:maroon">'''スピラール'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=1.10|scale=220|text=[[大森征之|<span style="font-size:small;color:maroon">'''大森'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2006年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 前線へ。その先へ。- Grampus Challenge 2006 - * '''監督''' : [[セフ・フェルフォーセン]](新任) 若手の育成を目指して、育成手腕に定評のあるフェルフォーセンを新監督に迎えるが<ref name="ゲキサカ071010">{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?28952-9518-fl |title=名古屋・フェルフォーセン監督、今季限りで退任か |website=ゲキサカ |date=2007-10-10 |accessdate=2021-04-07}}</ref><ref name="FZ211213">{{Cite web|和書|url=https://www.football-zone.net/archives/355854 |title=玉田圭司、グランパス時代にぶち当たった壁 W杯戦士がベンチで90分…天才肌のアタッカーはいかにして這い上がったか |website=FOOTBALL ZONE |date=2021-12-13 |accessdate=2022-05-24}}</ref>、1月にフェルフォーセンを招いた上田滋夢がTDを解任される。 フェルフォーセンの戦術では、守備は[[ゾーンディフェンス]]を基本として全体のポジショニングバランスを重視し、攻撃ではワイドに展開しつつ勝負どころで攻め込むまではリスクを避ける傾向があった{{R|サッカー様}}。[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|アンカー]]役の藤田俊哉の前に配されたのは本来は守備的ポジションの[[金正友]]と山口慶で、両サイドにはキープ力のある本田圭佑と中村直志が置かれ、特に左サイドの本田からのクロスは大きな武器であり、この中盤が戦術の肝となっていた{{R|サッカー様}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://blogola.jp/p/40601 |title=[総力特集]本田圭佑、孤高のエースの“10年戦争” 前編:名古屋グランパス時代 |website=エル・ゴラッソweb版 |date=2014-06-01 |accessdate=2022-05-23}}</ref>。 一方でフォワードには[[ポストプレー]]役を担える選手を求めるが、その役割での成長が期待された若手は怪我で出遅れ、プレースタイルの異なる[[玉田圭司]]やディフェンダーの古賀正紘を代役に据えるが機能しなかった{{R|サッカー様|FZ211213}}<ref name="朝日新聞060526">{{cite news |url=https://www.asahi.com/sports/column/TKY200605260197.html |title=「ベンゲルの再現」なるか 名古屋、起死回生の夏合宿 |newspaper=朝日新聞 |date=2006-05-26 |accessdate=2022-06-10}}</ref>。5月の中断期間前までの12試合をリーグ最少の10得点・直近8試合勝ち星なしの13位で終えると、フェルフォーセンはポストプレーを得意とする選手の獲得を求める{{R|朝日新聞060526}}。7月に[[フローデ・ヨンセン|ヨンセン]]が加入すると次第に成績も上向くが、最終成績は7位(13勝9分12敗)。 [[2006年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ5位で敗退、[[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は5回戦で敗退。 ==== 2007年 ==== '''{{small|{{main|2007年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 前線へ。その先へ。 * '''監督''' : セフ・フェルフォーセン(2年目) 開幕前に秋田豊・古賀正紘・角田誠といったディフェンダー陣の主力が相次いで退団し、開幕戦で[[マレク・スピラール|スピラール]]が全治6ヶ月の怪我で長期離脱する{{R|サッカー様}}。序盤に[[増川隆洋]]・[[米山篤志]]も相次いで負傷して欠場し{{R|サッカー様}}、層が薄くなったセンターバックには下部組織から昇格したばかりの[[吉田麻也]]が潜在能力を買われて起用された<ref name="chu-spo070209">{{Cite web|和書| url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2007/200702/CK2007032202103071.html | title=グラ新人紹介 七人の侍が歴史を作る | author=中日スポーツ | date=2007年2月9日 | accessdate=2009年6月26日 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304105123/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2007/200702/CK2007032202103071.html | archivedate=2016-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/sk_column/article/84825.html |title=吉田麻也「成功するまで帰れない」、未来を誓った12歳の夜 |website=サッカーキング |date=2012-12-11 |accessdate=2022-05-24}}</ref>。フォーメーションを4バック(ダブルボランチ型の[[サッカーのフォーメーション#4-4-2|4-4-2]])に切り替えて急場を凌ぎ、その後も3バックと4バックを併用し、サイドのポジションに[[阿部翔平]]・[[小川佳純]]が抜擢されるなど若手の起用も増えた{{R|サッカー様|FZ211213}}。 開幕4連勝で好スタートを切ったシーズンだったが、2度の3連敗もあり前半日程終了時点で10位(7勝2分9敗){{R|サッカー様}}。後半日程が始まっても好不調の波は激しく成績は低迷していたものの、フェルフォーセンの育成手腕を高く評価したクラブは契約延長を打診するが、フェルフォーセンは母国への帰国を望んで固辞し、10月10日にはシーズン末で退任することが報じられる{{R|FZ211213|朝日新聞060526|ゲキサカ071010}}。後任としてストイコビッチに監督就任が打診され、10月18日にはストイコビッチ本人もグランパス復帰の意向を示すが<ref>{{cite news |url=https://www.asahi.com/sports/fb/AMZ200710200076.html |title=ストイコビッチ氏 「近く名古屋に戻る」 |newspaper=朝日新聞 |date=2007-10-19 |accessdate=2021-04-07}}</ref>、その後Jリーグの監督就任に必要なライセンスの未取得が発覚する<ref name="朝日新聞071105">{{cite news |url=https://www.asahi.com/sports/fb/AMZ200711060076.html |title=ストイコビッチ氏に監督就任を再要請へ J1名古屋 |newspaper=朝日新聞 |date=2007-11-05 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。グランパスは一度は断念するが、11月中にライセンスを取得する目途がたったことから再要請{{R|朝日新聞071105}}、11月27日に仮契約を結び記者会見を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/backnumber/event/2007/1127pixy/index.html |title=オフィシャルレポート ドラガン・ストイコビッチ氏、記者会見の模様 |website=名古屋グランパス |accessdate=2021-04-07}}</ref>。 フェルフォーセンは退任発表とともにサッカー界からの引退も表明したが、11月に入ると[[PSVアイントホーフェン]]から監督就任のオファーが届いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?30109-10739-fl |title=PSVが名古屋フェルフォーセン監督にオファー |website=ゲキサカ |date=2007-11-16 |accessdate=2022-05-23}}</ref>。シーズン途中の監督人事が難航していたPSVからの救援要請に対してフェルフォーセンは、半年間限定のオファーであったことを理由に翻意して受諾した<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/830227 |title=本田圭佑をVVVに推薦した“先生”。吉田と川島に通じる名古屋での秘話。 |website=Number Web |date=2018-03-20 |accessdate=2022-05-23}}</ref><ref>{{cite news |url=http://nagoya.nikkansports.com/soccer/jleague/grampus/p-ng-tp0-20071122-286138.html |title=PSVの監督就任するセフ監督が会見 |newspaper=日刊スポーツ |date=2007-11-22 |accessdate=2022-05-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080125141415/http://nagoya.nikkansports.com/soccer/jleague/grampus/p-ng-tp0-20071122-286138.html |archivedate=2008-01-25}}</ref>。PSVは早期の合流を望んだが名古屋側は「天皇杯が控えている」等の理由で拒否したため、フェルフォーセンは天皇杯の日程が終了するまで名古屋の監督として指揮し<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?30329-10963-fl |title=名古屋フェルフォールセン監督がPSV就任へ |website=ゲキサカ |date=2007-11-22 |accessdate=2022-05-23}}</ref><ref>{{cite news |url=http://nagoya.nikkansports.com/soccer/jleague/grampus/p-ng-tp0-20071122-286138.html |title=PSVの監督就任するセフ監督が会見 |newspaper=日刊スポーツ |date=2007-11-22 |accessdate=2022-05-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080125141415/http://nagoya.nikkansports.com/soccer/jleague/grampus/p-ng-tp0-20071122-286138.html |archivedate=2008-01-25}}</ref>、PSV監督にはシーズン途中の1月に就任して優勝へと導き、シーズン終了後に改めて引退した。 最終成績11位(13勝6分15敗)。[[2007年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ4位で敗退、[[第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は5回戦で敗退。{{-}} ==== 2008年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2008年の基本システム'''</span>{{R|サッカー様}}}} {{Image label|x=0.27|y=0.40|scale=220|text=[[フローデ・ヨンセン|<span style="font-size:small;color:white">'''ヨンセン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.40|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:white">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.70|scale=220|text=[[マギヌン・ラファエル・ファリアス・タバレス|<span style="font-size:small;color:navy">'''マギヌン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.80|scale=220|text=[[吉村圭司|<span style="font-size:small;color:navy">'''吉村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.80|scale=220|text=[[中村直志|<span style="font-size:small;color:navy">'''中村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.70|scale=220|text=[[小川佳純|<span style="font-size:small;color:navy">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[阿部翔平|<span style="font-size:small;color:maroon">'''阿部'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[吉田麻也|<span style="font-size:small;color:maroon">'''吉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.46|y=1.10|scale=220|text=[[ミロシュ・バヤリツァ|<span style="font-size:small;color:maroon">'''バヤリツァ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[竹内彬|<span style="font-size:small;color:maroon">'''竹内'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2008年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 前線へ。その先へ。 - Never give up for the win. - * '''監督''' : ドラガン・ストイコビッチ(新任) この年から呼称を「'''名古屋グランパス'''」に変更。この年に新設された[[ゼネラルマネージャー|GM]]には[[久米一正]]が就いた{{R|東洋経済|FZ211213}}。 新監督に就任したストイコビッチはヘッドコーチに[[ボスコ・ジュロヴスキー]]を据え、攻撃戦術はストイコビッチが、守備戦術はジュロヴスキーが担当した<ref name="西部">{{Cite web|和書|url=https://www.footballista.jp/special/75318 |title=“ピクシー”ストイコビッチ=シンプル・イズ・ベストの極致 |website=footballsite |author=西部謙司 |date=2019-10-16 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。アシスタントーチにはストイコビッチと同じクラブOBの[[ハーフナー・ディド]]が就任。 ストイコビッチの戦術は[[サイドアタック]]と[[ゾーンディフェンス]]の2つの柱を基本とした組織的なパスサッカーで、この年は特にサイドチェンジが大きな効力を発揮した{{R|サッカー様}}<ref name="今井">{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201312130001-spnavi |title=ストイコビッチ名古屋の軌跡と功罪 幸せだった“妖精”との6年間 |website=Yahoo!スポーツ |author=[[今井雄一朗]] |date=2013-12-13 |accessdate=2021-04-07}}</ref><ref name="sportiva20130220">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2013/02/20/2012_1/|title=【Jリーグ】2012年、グランパスのサッカーは崩壊していた|accessdate=2013年6月7日|author=スポルティーバ|date=2013年3月20日}}</ref><ref name="西川number">{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/843529 |title=私のJ最強クラブ。ピクシーも言う。「11年名古屋こそ優勝すべきだった」 |website=Number Web |author=西川結城 |date=2020-05-18 |accessdate=2021-04-15}}</ref>。フラットに近い[[サッカーのフォーメーション#4-4-2|4-4-2]]が採用され{{R|サッカー様|西川number}}、攻撃の核として期待が寄せられた玉田圭司は得意なプレーを求められたことで調子を取り戻していった{{R|FZ211213}}<ref name="chu-spo080312">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2008/200803/CK2008031202094621.html | title=玉田、輝きを再び ピクシー監督助言「攻撃の核に」 | author=中日スポーツ | date=2008年3月12日 | accessdate=2009年7月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304101641/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2008/200803/CK2008031202094621.html |archivedate=2016-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2008/200803/CK2008030702093268.html | title=玉田、ゴール&アシスト“10” 移籍3年目、不退転の決意 | author=中日スポーツ | date=2008年3月7日 | accessdate=2009年7月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304102312/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/hold/grampus/news/2008/200803/CK2008030702093268.html |archivedate=2016-03-04}}</ref>。 2節から7節を6連勝するなど幸先良いスタート切りるなどして最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)。初めて[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]の出場権を獲得した。また、8月にはリーグ開幕から10年以上負け続けていた[[茨城県立カシマサッカースタジアム]]での初勝利を挙げた(詳細は「[[#鬼門の茨城県立カシマサッカースタジアム]]」を参照)。 [[2008年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)、[[第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝進出(ベスト8)。{{-}} ==== 2009年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2009年中盤の基本システム'''</span>{{R|サッカー様}}}} {{Image label|x=0.27|y=0.35|scale=220|text=[[ジョシュア・ケネディ|<span style="font-size:small;color:white">'''ケネディ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.45|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:white">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.30|y=0.60|scale=220|text=[[イゴル・ブルザノビッチ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ブルザノビッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.75|scale=220|text=[[三都主アレサンドロ|<span style="font-size:small;color:navy">'''三都主'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.75|scale=220|text=[[小川佳純|<span style="font-size:small;color:navy">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.85|scale=220|text=[[吉村圭司|<span style="font-size:small;color:navy">'''吉村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[中村直志|<span style="font-size:small;color:navy">'''中村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=1.10|scale=220|text=[[増川隆洋|<span style="font-size:small;color:maroon">'''増川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=1.10|scale=220|text=[[ミロシュ・バヤリツァ|<span style="font-size:small;color:maroon">'''バヤリツァ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=1.10|scale=220|text=[[吉田麻也|<span style="font-size:small;color:maroon">'''吉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2009年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : Never give up for the win. - その先の感動へ- * '''監督''' : ドラガン・ストイコビッチ(2年目) 新たにコーチにクラブOBの[[飯島寿久]]と[[伊藤裕二]]が就任。[[田口泰士]]が新入団、[[ 田中隼磨]]や[[ダヴィ・ジョゼ・シルバ・ド・ナシメント|ダヴィ]]らが加入した。 3月22日の第3節で[[清水エスパルス]]に3-1で勝利し、ホームゲーム通算150勝を達成。中断期間前の5月24日までにダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランクトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点にとどまった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めた[[ポストプレー]]の役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、サイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/200906/CK2009061602000035.html|title=ケネディ獲得へ 豪州代表194センチFW|accessdate=2009年6月22日|author=中日スポーツ|date=2009年6月16日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090618010536/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/200906/CK2009061602000035.html|archivedate=2009年6月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。その時点では外国人枠は埋まっていたため[[アジアサッカー連盟|AFC]]枠で獲得可能な選手を調査し、6月21日にオーストラリア国籍の[[ジョシュア・ケネディ|ケネディ]]の獲得を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2009/0621post-60.php|title=ジョシュア・ケネディ選手、新加入のお知らせ|accessdate=2009年6月22日|author=名古屋グランパス 公式サイト|date=2009年6月21日|archiveurl= https://web.archive.org/web/20090624005411/http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2009/0621post-60.php |archivedate=2009-6-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20090704-OHT1T00011.htm|title=ダヴィにオファー…名古屋GM認めた|accessdate=2009年7月13日|author=スポーチ報知|date=2009年7月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090705131358/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20090704-OHT1T00011.htm|archivedate=2009年7月5日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。7月に[[イゴル・ブルザノビッチ|ブルザノビッチ]]、8月に[[三都主アレサンドロ]]が加入するとブルザノビッチをトップ下に置いた3-5-2が試され、終盤戦の第33節からは翌シーズンに繋がる[[サッカーのフォーメーション#4-3-3|4-3-3]]が採用されている{{R|サッカー様}}。 守備面では[[ミロシュ・バヤリツァ|バヤリツァ]]の長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田麻也と増川隆洋の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のG大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい[[竹内彬]]と[[佐藤将也]]の2人が起用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00085423.html|title=【J1:第16節 名古屋 vs G大阪】ストイコビッチ監督(名古屋)記者会見コメント|accessdate=2009年8月4日|author=J's GOAL|date=2009年7月5日|archiveurl= https://web.archive.org/web/20090708050139/http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00085423.html |archivedate=2009-7-8}}</ref>。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある[[巻佑樹]]の起用も検討されており、後半戦の10月25日の[[ジュビロ磐田]]戦では実際にセンターバックで先発出場した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20091026-559596.html|title=名古屋19分間で3発同点/J1|accessdate=2009年11月5日|author=nikkannsports.com|date=2009年10月26日}}</ref>。 最終成績は9位(14勝8分12敗)。[[2009年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準々決勝進出(ベスト8)、[[第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準優勝。[[AFCチャンピオンズリーグ2009|ACL]]はグループリーグ1位で通過したが、準決勝で[[アル・イテハド]]に敗退してベスト4。{{-}} === 2010年代 === ==== 2010年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2010年の基本システム'''</span>{{R|FC200424|サッカー様}}}} {{Image label|x=0.42|y=0.35|scale=220|text=[[ジョシュア・ケネディ|<span style="font-size:small;color:white">'''ケネディ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.45|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:white">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.45|scale=220|text=[[金崎夢生|<span style="font-size:small;color:white">'''金崎'''</span>]]}} {{Image label|x=0.22|y=0.70|scale=220|text=[[マギヌン・ラファエル・ファリアス・タバレス|<span style="font-size:small;color:navy">'''マギヌン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.63|y=0.70|scale=220|text=[[中村直志|<span style="font-size:small;color:navy">'''中村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.90|scale=220|text=[[ダニルソン・コルドバ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ダニルソン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[阿部翔平|<span style="font-size:small;color:maroon">'''阿部'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[増川隆洋|<span style="font-size:small;color:maroon">'''増川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=1.10|scale=220|text=[[田中マルクス闘莉王|<span style="font-size:small;color:maroon">'''闘莉王'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[田中隼磨|<span style="font-size:small;color:maroon">'''田中'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2010年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : Never give up for the win. - さらなる高みへ - * '''監督''' : ドラガン・ストイコビッチ(3年目) [[金崎夢生]]・[[田中マルクス闘莉王]]・[[ダニルソン・コルドバ|ダニルソン]]といった主戦力になりうる選手を補強<ref name="大住nikkei">{{cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZZO19235210S0A201C1000000/ |title=悲願のJ1初優勝…名古屋の「勝負強さ」を生んだもの |newspaper=日本経済新聞 |author=大住良之 |date=2010-12-04 |accessdate=2021-04-15}}</ref>。このシーズンから用いたのは当時の日本では珍しかった[[サッカーのフォーメーション#4-3-3|4-3-3]]で<ref name="西部200613">{{Cite web|和書|url=https://www.targma.jp/footballlab/2020/06/13/post695/ |title=Jリーグ史上最大の勝ち点差での優勝―2010年の名古屋グランパスはなぜ欧州で主流も日本ではマイナーなシステムで王者になれたのか?【Jリーグタイムトラベル】 |website=タグマ! |author=西部謙司 |date=2020-06-13 |accessdate=2021-04-15}}</ref>、より個人の速さやパワーを生かすことが狙いであった{{R|西川number}}。3トップの中央に長身のケネディが鎮座し、両サイドの俊敏で運動量の多い金崎夢生と玉田圭司{{R|西部200613}}が流動的に動いてチャンスメイクし、勝負どころでは田中マルクス闘莉王がオーバーラップを試みる攻撃的な布陣であった<ref>{{cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/11/20/kiji/K20101120Z00000770.html |title=ぶれないストイコビッチ監督 3年目で戦術浸透 新戦力も融合 |newspaper=スポーツニッポン |date=2010-11-20 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。守備陣もゴール前に楢﨑正剛・田中マルクス闘莉王・増川隆洋が並び、中盤は超人的な身体能力のダニルソンが支えた{{R|西部200613|西川number}}。 3月6日の開幕戦で[[ガンバ大阪]]に2-1で勝利すると、[[2010 FIFAワールドカップ|W杯]]による中断前までの12試合を7勝1分4敗で終える。序盤は苦戦したダニルソンだが5月に入ると調子を上げ、[[ミッドフィールダー#守備型|アンカー]]として定着して存在感を強めていった{{R|大住nikkei}}。7月17日の第13節でリーグが再開すると、8月14日の第18節までを5勝1分の無敗で終えて単独首位に浮上する{{R|今井}}。そのまま一度も首位を明け渡すことなく{{R|今井}}、11月20日の第31節で[[湘南ベルマーレ]]に1-0で勝利したことで、3試合を残してリーグ戦初優勝を決めた<ref name="FC190504">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2019/05/04/post320058/ |title=2010年Jリーグ。名古屋が初戴冠、日本代表はW杯16強進出。香川・内田・長友が欧州へ【Jリーグ平成全史(18)】 |website=FOOTBALL CHANNNEL |date=2019-05-04 |accessdate=2021-04-15}}</ref>(詳細は「[[#リーグ初優勝(2010年)]]」を参照)。 ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。最優秀監督賞にストイコビッチ、MVPに楢﨑正剛が選出され、ケネディが得点王を獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞は[[ギド・ブッフバルト]]に続く2人目<ref name="mainichi20101206">{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/news/20101207k0000m050059000c.html|title=<Jリーグ>MVPは名古屋の楢﨑に GKで初受賞|accessdate=2010年12月6日|author=毎日jp|date=2010年12月6日|archiveurl= https://web.archive.org/web/20101207175243/http://mainichi.jp/enta/sports/soccer/news/20101207k0000m050059000c.html |archivedate=2010年12月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初である。楢﨑はGKとして初めてMVPに選出された{{R|mainichi20101206}}。このシーズンの得点はフォワードのレギュラー3人の合計は33点(ケネディ16点、玉田圭司13点、金崎夢生4点)に対して、フォワード以外で最も多い田中マルクス闘莉王が6点、攻撃的ミッドフィールダーで起用された4人は合計でも8点で、ここでも個の力に頼っていたことが分かる{{R|大住nikkei}}。 [[2010年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ6位で敗退、[[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝進出(ベスト8)。{{-}} ==== 2011年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2011年終盤の基本システム'''</span>{{R|サッカー様}}}} {{Image label|x=0.39|y=0.40|scale=220|text=[[ジョシュア・ケネディ|<span style="font-size:small;color:white">'''ケネディ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.60|scale=220|text=[[小川佳純|<span style="font-size:small;color:navy">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.60|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:navy">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.75|y=0.60|scale=220|text=[[藤本淳吾|<span style="font-size:small;color:navy">'''藤本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.24|y=0.85|scale=220|text=[[ダニルソン・コルドバ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ダニルソン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[中村直志|<span style="font-size:small;color:navy">'''中村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[阿部翔平|<span style="font-size:small;color:maroon">'''阿部'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[増川隆洋|<span style="font-size:small;color:maroon">'''増川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=1.10|scale=220|text=[[田中マルクス闘莉王|<span style="font-size:small;color:maroon">'''闘莉王'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[田中隼磨|<span style="font-size:small;color:maroon">'''田中'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2011年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : Strong Believin' - 誇りを胸に - * '''監督''' : ドラガン・ストイコビッチ(4年目) [[永井謙佑]]が新入団。リーグ戦開幕に先立って、2月26日の[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス・スーパーカップ]]で[[鹿島アントラーズ]]に勝利し年間王者となる。 3月5日の開幕戦は[[横浜F・マリノス]]と1-1に終わるが、3月11日に[[東日本大震災]]が発生した影響でその後の試合日程が大幅に組み替えられる。グランパスとしては主力に負傷者が多いチーム事情に加え、[[AFCチャンピオンズリーグ2011|ACL]]出場に伴う移動の疲労などもあり不安定なシーズン序盤となった{{R|西川number}}。ACLグループステージは2位で突破するが、5月25日にラウンド16で[[水原三星ブルーウィングス]]に0-2で敗れる{{R|西川number}}。その時点でリーグ戦は6試合を1勝2分3敗と苦戦していたが、悲願であったACLの敗退で奮起したチームは5月29日の第13節(7試合目)で[[アビスパ福岡]]に5-2と快勝すると、8月17日の第9節(21試合目)までの14試合を7連勝を含む10勝4分の無敗で駆け抜ける{{R|西川number|chuspo200627}}。6月15日の第15節・[[アルビレックス新潟]]戦の勝利で、通算300勝を達成{{R|chuspo200627}}。 このシーズンも開幕から2010年と同じ4-3-3を基本として用いたが、シーズン中盤から中村直志をダニルソンと並べる[[サッカーのフォーメーション#4-2-3-1|4-2-3-1]]を併用している{{R|西川number}}。これによって個の力より連続性のあるプレーが求められ、こういったプレーを得意とする小川佳純が輝きを取り戻す{{R|西川number}}。当初は試合途中からの変更が多かったが、優勝争いを演じた終盤戦は試合開始から4-2-3-1が多かった{{R|西川number}}。小川佳純の復調にチーム全体も連動するように調子を上げ、最終節直前5試合を全勝して2位で最終節を迎える。[[2011年J1最終節|12月3日の最終節]]は[[アルビレックス新潟]]に引き分け以上で優勝の可能性があり、グランパスは1-0で勝利するが、首位・[[柏レイソル]]も勝利したため勝点差1の2位(21勝8分5敗)でシーズンを終える。 優勝を逃したシーズンだったが、この年のグランパスは「最強の2位」との声もある{{R|今井}}。また、ストイコビッチは後年のインタビューで「2011年こそ優勝すべきだった」と答え、楢﨑正剛は「ベストな戦いは2011年」、田中マルクス闘莉王は「あのシーズンこそ、勝ちたかった」と述べている{{R|西川number}}。 [[2011年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準決勝進出(ベスト4)、[[第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝進出(ベスト8)。 ==== 2012年 ==== '''{{small|{{main|2012年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : Strong Believin' - 誓いを胸に、再び。 - * '''監督''' : ドラガン・ストイコビッチ(5年目) [[ダニエル・シルバ・ドス・サントス|ダニエル]]の加入により3バックが検討され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201202/CK2012020802000011.html|title=ピクシー挑戦、攻撃的3バック|accessdate=2013年6月7日|author=中日スポーツ|date=2012年2月8日 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120210221639/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201202/CK2012020802000011.html |archivedate=2012-2-10}}</ref>、実際シーズン中に何度が使用された。 中村直志の怪我による長期離脱、玉田圭司のコンディション不良など終始主力選手を欠いた状態が続き、中でもケネディがフルシーズン働けなかったことが痛手となった{{R|sportiva20130220}}。前年得点王のケネディはチームのポゼッションサッカーの大黒柱であり、永井謙佑や田口奏士などの若手の台頭で戦術変更も考えられたが、ストイコビッチは田中マルクス闘莉王をケネディの代役にすることを試みる{{R|sportiva20130220}}。田中マルクス闘莉王の得点が増え一見成功したかのように見えたが、結果として前年までの良さを潰してしまう悪循環に陥り、総得点が減るばかりか守備の安定感も失われた{{R|sportiva20130220}}。最終成績は7位(15勝7分12敗)。 [[2012年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]・[[第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]ともに準々決勝進出(ベスト8)。{{-}} ==== 2013年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2013年 開幕戦'''</span>{{R|FC200515}}}} {{Image label|x=0.45|y=0.40|scale=220|text=[[矢野貴章|<span style="font-size:small;color:white">'''矢野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.60|scale=220|text=[[藤本淳吾|<span style="font-size:small;color:navy">'''藤本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.60|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:navy">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.05|y=0.75|scale=220|text=[[ニコラ・ヤキモフスキー|<span style="font-size:small;color:navy">'''ヤキモフスキー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.75|scale=220|text=[[田中隼磨|<span style="font-size:small;color:navy">'''田中'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.90|scale=220|text=[[田口泰士|<span style="font-size:small;color:navy">'''田口'''</span>]]}} {{Image label|x=0.50|y=0.90|scale=220|text=[[ダニルソン・コルドバ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ダニルソン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=1.10|scale=220|text=[[牟田雄祐|<span style="font-size:small;color:maroon">'''牟田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.39|y=1.10|scale=220|text=[[ダニエル・シルバ・ドス・サントス|<span style="font-size:small;color:maroon">'''ダニエル'''</span>]]}} {{Image label|x=0.67|y=1.10|scale=220|text=[[田中マルクス闘莉王|<span style="font-size:small;color:maroon">'''闘莉王'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2013年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : Unlimited - 不屈の挑戦 * '''監督''' : ドラガン・ストイコビッチ(6年目) [[矢野貴章]]や[[ニコラ・ヤキモフスキー|ヤキモフスキー]]が加入。開幕戦には[[牟田雄祐]]が[[片山奨典]]以来7年ぶりの新人の開幕スタメン出場を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201303/CK2013030202000096.html|title=牟田、7年ぶり新人開幕スタメン|accessdate=2013年6月7日|author=中日スポーツ|date=2013年3月2日 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20130302184728/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201303/CK2013030202000096.html |archivedate=2013-3-2}}</ref>。リーグ戦は序盤からケネディの不調などの要因から、6月の中断期間前までの第9節から第13節を16年ぶりとなる5連敗で終えるなど不安定な展開が続いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201305/CK2013052602000102.html|title=グラ泥沼 16年ぶり5連敗|accessdate=2013年6月7日|author=中日スポーツ|date=2013年5月26日 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20130608052021/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201305/CK2013052602000102.html |archivedate=2013-6-8}}</ref>。9月14日の第25節で[[清水エスパルス]]の[[ジェナン・ラドンチッチ|ラドンチッチ]]のゴールにより、通算の1000失点目を喫する。また、8日の天皇杯で[[AC長野パルセイロ]]に初戦で敗れた。 10月3日にストイコビッチがシーズン末に契約満了により退任することが発表された<ref>{{Cite press release|和書|title=ストイコビッチ監督、契約満了のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2013-10-03|url=http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2013/1003post-94.php |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131004230711/http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2013/1003post-94.php |archivedate=2013-10-4}}</ref>。また、慢性化した赤字改善{{R|藤江FC161107}}<ref name="chuspo20131121">{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201311/CK2013112102000102.html|title=隼磨、増川、阿部退団 赤字改善へ苦渋の決断|accessdate=2013年11月29日|author=中日スポーツ|date=2013年11月21日| archiveurl= https://web.archive.org/web/20131125025951/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201311/CK2013112102000102.html |archivedate=2013-11-25}}</ref>のため、11月22日には阿部翔平と田中隼磨<ref>{{Cite press release|和書|title=契約満了選手のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2013年11月22日|url=http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2013/1122post-117.php |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131125010109/http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2013/1122post-117.php |archivedate=2013-11-25}}</ref>(本人希望で発表は後日となったが増川隆洋の退団も決定{{R|chuspo20131121}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201311/CK2013112302000114.html|title=増川「がんばります…」|accessdate=2013年11月29日|author=中日スポーツ|date=2013年11月23日|archiveurl= https://web.archive.org/web/20131128071659/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201311/CK2013112302000114.html |archivedate=2013-11-28}}</ref>)、同24日にはダニエル<ref>{{Cite press release|和書|title=契約満了選手のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2013年11月24日|url=http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2013/1124post-118.php |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131203064053/http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2013/1124post-118.php |archivedate=2013-12-3}}</ref>と契約延長しない旨が発表された。 ストイコビッチ体制下の6年間は優秀な成績を残した一方で、若手の育成を妨げたとの指摘もある{{R|今井}}。トレーニングの方針は選手のコンディション管理に主眼が置かれており、就任した2008年から主力はほぼ固定されていた{{R|今井|sportiva20130220}}。優勝した2010年をピークに主力選手のスタミナ面の陰りとともに成績は下降していき、その間若手選手は練習の内容・負荷ともに不足した状態で能力格差が広がっていた{{R|今井|sportiva20130220}}。事実としてこの6年間は移籍組が多く出場し、ストイコビッチ体制下で新たに出場機会を得た(年間半分以上の試合に出場した)若手選手は永井謙佑・田口泰士・巻佑樹・[[磯村亮太]]の4人のみとごく少数であった。 最終成績は11位(13勝13敗8分)。[[2013年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ4位で敗退、[[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦で敗退。{{-}} ==== 2014年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2014年 開幕戦'''</span>}} {{Image label|x=0.33|y=0.40|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:white">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.52|y=0.40|scale=220|text=[[ジョシュア・ケネディ|<span style="font-size:small;color:white">'''ケネディ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=[[小川佳純|<span style="font-size:small;color:navy">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.65|scale=220|text=[[枝村匠馬|<span style="font-size:small;color:navy">'''枝村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.24|y=0.85|scale=220|text=[[ダニルソン・コルドバ|<span style="font-size:small;color:navy">'''ダニルソン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[磯村亮太|<span style="font-size:small;color:navy">'''磯村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[本多勇喜|<span style="font-size:small;color:maroon">'''本多'''</span>]]}} {{Image label|x=0.30|y=1.10|scale=220|text=[[田中マルクス闘莉王|<span style="font-size:small;color:maroon">'''闘莉王'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[大武峻|<span style="font-size:small;color:maroon">'''大武'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[田鍋陵太|<span style="font-size:small;color:maroon">'''田鍋'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2014年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 改・Re:Vision * '''監督''' : [[西野朗]](新任){{R|jleague}} ディフェンス陣の主力の多くが退団し、ストイコビッチ体制下で練習の強度不足の若手を起用せざるを得ない新チームは、久米一正GMの盟友である西野朗に託される<ref name="今井J論151014">{{Cite web|和書|url=http://j-ron.jp/n/20151014_1.php |title=西野監督はなぜ今季で契約満了となったのか。名古屋での2年間を振り返る(尾張名古屋の健筆家・今井雄一朗による一言解説) |website=J論 |author=今井雄一朗 |date=2015-10-14 |accessdate=2021-04-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?125418-129848-fl |title=G大阪の黄金期を築いた西野朗監督が名古屋の新監督に内定 |wesite=ゲキサカ |date=2013-12-14 |accessdate=2021-04-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/spo/news/181206/spo1812060009-n1.html |title=西野朗氏、悲痛 盟友死去で今後の動向は… |website=zakzak |date=2018-12-06 |accessdate=2021-04-13}}</ref>。攻撃的なパスサッカーの印象が強い西野であったが、グランパスではまず主力の抜けた守備の整備に取り掛かった<ref name="松岡ex180414">{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Shueishapn_20180414_103187/ |title=攻撃的か守備的か――目指すサッカーが曖昧な西野新監督の追求するスタイルは? |website=exciteニュース |author=中山淳 |date=2018-04-14 |accessdate=2021-04-13}}</ref><ref name="山添SP140317">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2014/03/17/post_592/ |title=グランパス、復権へ。西野新監督が仕掛けた攻守の「新味」 |website=Sportiva |author=山添敏央 |date=2014-03-17 |accessdate=2021-04-13}}</ref>。再構築されたディフェンスラインは残留した田中マルクス闘莉王を除いて、[[本多勇喜]]・[[田鍋陵太]]・[[大武峻]](特別指定選手<ref>{{Cite press release|和書|title=大武峻選手 Jリーグ・JFA特別指定選手決定のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2014年2月26日|url=http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2014/0226jjfa.php |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140814215046/http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2014/0226jjfa.php |archivedate=2014-8-14}}</ref>)といった20代前半の若い選手が並んだ{{R|山添SP140317}}。[[磯村亮太]]・[[矢田旭]]・田口泰士らもこの年に大きな成長を遂げ、シーズン終盤には堅守速攻のスタイルを確立した{{R|今井J論151014}}。 3月1日の開幕戦では[[清水エスパルス]]に2-3で敗れるが<ref name="spohouchi140302">{{cite news|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20140301-OHT1T00232.htm|title=【名古屋】12年ぶり屈辱!西野監督、逆転負け発進|accessdate=2014-03-03|newspaper=スポーツ報知|date=2014-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140303050146/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20140301-OHT1T00232.htm|archivedate=2014-03-03}}</ref>、大武峻がグランパスの特別指定選手としては初めて開幕スターティングメンバーに名を連ねた<ref>{{Cite web|和書|title=清水が逆転で7年ぶり開幕戦勝利!西野グランパスは黒星発進 |url= https://web.gekisaka.jp/news/detail/?133829-133829-fl |publisher=講談社 | website = ゲキサカ |date=2014-03-01|accessdate=2018-12-03}}</ref>。第2節から3連勝するが、直後に4連敗するなど安定しなかった。6月には[[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|レアンドロ・ドミンゲス]]を獲得、攻撃の起爆剤としての期待が寄せられるが、低下していたコンディションに加えて負傷により満足なプレーができなかった{{R|FC200515}}。8月には[[川又堅碁]]が加入。最終成績は10位(13勝9分12敗)。 [[2014年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ4位で敗退、[[第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝進出(ベスト8)。{{-}} ==== 2015年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2015年の基本システム'''</span><ref name="FC">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2020/03/25/post368161/ |title=名古屋グランパス、5年間の歴代フォーメーション。西野朗、小倉隆史、風間八宏、三者三様の苦戦の爪痕 |website=FOOTBALL CHANNEL |date=2020-03-25 |accessdate=2021-04-09}}</ref>}} {{Image label|x=0.45|y=0.40|scale=220|text=[[川又堅碁|<span style="font-size:small;color:white">'''川又'''</span>]]}} {{Image label|x=0.30|y=0.60|scale=220|text=[[小屋松知哉|<span style="font-size:small;color:navy">'''小屋松'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.60|scale=220|text=[[小川佳純|<span style="font-size:small;color:navy">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.75|scale=220|text=[[永井謙佑|<span style="font-size:small;color:navy">'''永井'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.75|scale=220|text=[[矢野貴章|<span style="font-size:small;color:navy">'''矢野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.90|scale=220|text=[[磯村亮太|<span style="font-size:small;color:navy">'''磯村'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=220|text=[[矢田旭|<span style="font-size:small;color:navy">'''矢田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=1.10|scale=220|text=[[本多勇喜|<span style="font-size:small;color:maroon">'''本多'''</span>]]}} {{Image label|x=0.42|y=1.10|scale=220|text=[[田中マルクス闘莉王|<span style="font-size:small;color:maroon">'''闘莉王'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=1.10|scale=220|text=[[竹内彬|<span style="font-size:small;color:maroon">'''竹内'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2015年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 捷 moving * '''監督''' : 西野朗(2年目、シーズン終了後退任<ref>{{Cite press release|和書|title=西野 朗監督、契約満了のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2015-10-04|url=http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2015/1004post-493.php}}</ref>) 4月、常勤社長不在で実質経営トップにあった副社長の福島義広が退任<ref>{{Cite web|和書|url=https://grapo.net/2015/03/20/417/ |title=[中日新聞] 福島義広代表取締役副社長、定年退職/久米一正次期社長技術委員退任 |website=グラぽ |author=中日新聞 |date=2015-03-20 |accessdate=2021-04-15}}</ref>することに伴い、GMの久米一正がクラブで初めてトヨタ出身者以外から代表取締役社長に就任、GMとを兼任する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDH19H34_Z10C15A3000000/ |title=J1名古屋、新社長に久米GM トヨタ以外から初 |newspaper=日本経済新聞 |date=2015-03-19 |accessdate=2021-04-15}}</ref>。6月に小倉隆史がGM補佐に就任<ref name="栗原">{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201912270003-spnavi |title=名古屋での失敗を糧に…新たなチャレンジへ 小倉隆史は理事長としてJリーグを目指す |website=スポーツナビ |author=[[栗原正夫]] |date=2020-01-01 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。 序盤は2分2敗と最悪のスタートを切ると、そのまま調子が上がらないまま1stステージを終える{{R|FC}}。楢﨑正剛を中心とした守備陣は安定感を示したが、攻撃陣は17試合で18得点と奮わず、これが不振の原因と考えられた{{R|FC}}。2ndステージ序盤は川又堅碁の活躍などで5試合で3勝と良好な出だしとなるが、8月以降は調子を落とし、守備陣も安定感を欠くようになる{{R|FC}}。終盤戦は4バックに変更して闘莉王を前線で起用する戦術も取るが、効果的とは言い難かった{{R|FC}}。守備が安定すれば得点に恵まれず、得点が増えると守備が崩壊する、終始噛み合わないシーズンであった{{R|FC}}。 10月4日にはシーズン末での西野の退任が発表された{{R|今井J論151014}}。西野は選手を過度に信頼しすぎる采配を貫いたとの指摘もあり、その結果として説明不足の監督、指示待ちになってしまう選手、という悪循環の構図が生まれていた{{R|今井J論151014}}。しかし、それ以上に就任時点での主力選手が大量流出した戦力不足が致命的で、チームを再構築しながらの上位進出という難しい要求もあった{{R|今井J論151014}}。若手の練度不足も足枷となり、西野が率いた2年間は常時5 - 10人の負傷者を抱える状態で、特に今シーズンは紅白戦すら満足にできない時期もあった{{R|今井J論151014}}。 1stステージ9位(6勝4分7敗)、2ndステージ10位(7勝3分7敗)、年間総合9位(13勝7分14敗)。[[2015年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準々決勝進出(ベスト8)、[[第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦で敗退。{{-}} ==== 2016年 ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2016年の基本システム'''</span>{{R|FC}}}} {{Image label|x=0.36|y=0.40|scale=220|text=[[ロビン・シモヴィッチ|<span style="font-size:small;color:white">'''シモビッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.60|scale=220|text=[[永井謙佑|<span style="font-size:small;color:navy">'''永井'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.60|scale=220|text=[[小川佳純|<span style="font-size:small;color:navy">'''小川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.75|y=0.60|scale=220|text=[[古林将太|<span style="font-size:small;color:navy">'''古林'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.85|scale=220|text=[[田口泰士|<span style="font-size:small;color:navy">'''田口'''</span>]]}} {{Image label|x=0.49|y=0.85|scale=220|text=[[李承煕|<span style="font-size:small;color:navy">'''イ・スンヒ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[安田理大|<span style="font-size:small;color:maroon">'''安田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[大武峻|<span style="font-size:small;color:maroon">'''大武'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[竹内彬|<span style="font-size:small;color:maroon">'''竹内'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[矢野貴章|<span style="font-size:small;color:maroon">'''矢野'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2016年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 信頼 * '''監督''' : 小倉隆史(新任、8月休養<ref>{{Cite press release|和書|title=小倉隆史GM兼監督 休養のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2016-08-23|url=http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2016/0823gm-4.php}}</ref>)→[[ボスコ・ジュロヴスキー]](新任<ref>{{Cite press release|和書|title=ボスコ・ジュロヴスキー氏、アシスタントコーチ就任のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2016-08-01|url=http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2016/0801post-637.php}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=ファン・サポーターの皆さまへ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2016-08-23|url=http://nagoya-grampus.jp/news/clubteam/2016/0823post-648.php}}</ref>、シーズン終了後退任<ref>{{Cite press release|和書|title=ボスコ・ジュロヴスキー監督、契約満了のお知らせ|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|date=2016-11-06|url=http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2016/1106post-677.php}}</ref>) 「改革元年」と位置づけたシーズンは、小倉隆史が前例のない「GM兼監督」に就任して始まった{{R|藤江FC161107|栗原}}。それに伴い、GMを兼任していた久米一正は社長専任となった。 チーム編成の全権を委ねられた小倉{{R|栗原}}は明確な査定基準をもって既存選手との交渉に臨むが、その交渉姿勢は「ビジネスライクで情を欠いた交渉」とも受け取られ、田中マルクス闘莉王をはじめ一部の主力選手の流出を招く結果となる{{R|藤江FC161107}}<ref name="今井Goal">{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/news/127/jリーグ/2016/11/05/29203872/なぜ名古屋グランパスは降格したのか?人災が招いた悲劇コラム |title=なぜ名古屋グランパスは降格したのか?人災が招いた悲劇/コラム |website=Goal |author=今井雄一朗 |date=2016-11-05 |accessdate=2021-04-07 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210920102316/http://www.goal.com:80/jp/news/127/j%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0/2016/11/05/29203872/%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9%E3%81%AF%E9%99%8D%E6%A0%BC%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E4%BA%BA%E7%81%BD%E3%81%8C%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0 |archivedate=2021-9-20}}</ref>。戦力低下を補うはずの新加入選手もなかなか決まらず、小川佳純などの残留した主力選手も危機感を抱いていた{{R|今井Goal}}。それでも1月15日には新陣容とともに[[明神智和]]や[[安田理大]]などの新加入選手が発表され、「5人目まで連動するサッカー」という方針も示された<ref name="今井SD160116">{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=13643 |title=「スタイルだけではうわべ。勝ちにこだわり、そのためにゴールを奪い、ボールを奪い返す」(小倉GM兼監督)。 |website=サッカーダイジェスト |author=今井雄一朗 |date=2016-01-16 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。 2月27日の開幕戦で[[ジュビロ磐田]]に勝利すると勢いづき、[[ロビン・シモヴィッチ|シモビッチ]]の高さと永井の速さを活かすカウンター戦術が機能し、結果こそ勝ち負けを繰り返すがチーム全体はネガティブな雰囲気ではなかった{{R|藤江FC161107|今井Goal}}。しかし小倉自身がそのスタイルを否定したばかりか{{R|藤江FC161107}}、「5人目まで連動するサッカー」を謳って続けられていたトレーニングは、開幕から2ヶ月が過ぎても成果が見られなかった{{R|今井Goal}}。事実監督1年目の小倉は戦術の理論体系は確立していたものの、それを選手に伝えて浸透させる手法に欠けており、指導者としての経験不足だったと後に指摘されている<ref name="今井SD161105">{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=20317 |title=名古屋はなぜ降格したのか。迷走を招いた小倉体制の真実 |website=サッカーダイジェスト |author=今井雄一朗 |date=2016-11-05 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。現実的なカウンターサッカーで勝点を稼ぐが、対策されるとそれも機能せず、5月4日の第10節で[[横浜F・マリノス]]に勝利した後は1勝もできずに1stステージを終える{{R|藤江FC161107}}。 6月には減資および第三者割当増資を実施して[[トヨタ自動車]]の子会社(出資比率が50.12 [[パーセント記号|%]])となった<ref name="capital">{{Cite press release|和書|title=減資及び第三者割当増資完了のお知らせ|publisher=名古屋グランパスエイト|date=2016-6-15|url=http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2016/0615post-613.php|accessdate=2016-11-9}}</ref>。6月28日には、クラブOBの大森征之がチーム統括部強化・補強担当に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2016/0628post-620.php |title=大森征之氏、チーム統括部強化・補強担当に就任のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2016-06-28 |accessdate=2021-05-27}}</ref>、その後大森は2018年までに編成トップの「スポーツダイレクター」に就任している。 2ndステージに入っても勝てず、7月30日の第6節・[[横浜F・マリノス]]戦からは5バックを採用して守備の安定を図るが、これは思うような攻撃ができないがゆえの最終手段であった{{R|今井Goal|今井SD161105|number}}。いわば苦肉の守備的サッカーであったがまったく機能せず{{R|藤江FC161107|今井SD161105|number}}、8月23日に小倉は事実上解任される{{R|栗原}}<ref name="number">{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/826363 |title=小倉監督休養は“手遅れ”なのか。楢﨑正剛が吐露した名古屋の現状。 |website=Number Web |date=2016-08-26 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。後任にはストイコビッチ体制下でヘッドコーチを務めたジュロヴスキーがコーチを経て昇格し、田中マルクス闘莉王の復帰も発表された{{R|藤江FC161107|今井SD161105|number}}。小倉が指揮した26試合で勝利はわずか4つ{{R|今井Goal}}。監督交代時点で8試合を残して16位、残留圏との勝点差は7であった{{R|栗原}}。 ジュロヴスキーはまずチームを「正常な状態」に戻すことを試みた{{R|藤江FC161107|今井Goal|今井SD161105}}。フィジカル練習不足が指摘された欠点は長所のポゼッションを高めることで補い、長所を生かすことでネガティブに傾いていた選手たちの不安を取り除いていった{{R|今井Goal}}。すると田中マルクス闘莉王が復帰した9月10日の第11節で[[アルビレックス新潟]]に勝利し、連続未勝利はクラブワースト記録となる18試合でようやく止まる{{R|藤江FC161107|今井SD161105}}<ref>{{Cite web|和書|title=名古屋降格確率100%、18戦未勝利過去全て転落 |url= https://www.nikkansports.com/soccer/news/1701393.html |publisher=日刊スポーツ |date=2016-08-28|accessdate=2018-12-03}}</ref>。続く第12節は敗れるが、第13節・第14節は今季初の連勝で一時は残留圏に浮上した{{R|今井SD161105}}。しかし国際Aマッチデーなどによる3週間の中断により勢いは削がれ{{R|藤江FC161107}}、第15節・第16節は1分1敗となり、降格圏の16位で11月3日の最終節・[[湘南ベルマーレ]]戦に臨む{{R|今井SD161105}}。他試合を含めた結果から言えば引き分けで残留が可能な状況ではあったが、危機感から冷静さを欠いて攻め急いだ挙句3失点を喫して敗れ、クラブ史上初のJ2降格が決定する{{R|今井Goal|今井SD161105|number}}<ref>{{Cite press release|和書|title=名古屋グランパスを支えていただいてる皆さまへ(来シーズンのJ2降格を受けて)|publisher=名古屋グランパスエイト|date=2016-11-4|url=http://nagoya-grampus.jp/news/clubteam/2016/1104post-675.php|accessdate=2016-11-9}}</ref>。 1stステージ14位(4勝5分8敗)、2ndステージ15位(3勝4分10敗)、年間総合16位(7勝9分18敗)。15位の[[アルビレックス新潟]]と勝点差はなく得失点差での降格で、監督交代後の3勝2分3敗という五分の成績をみるに、監督交代が遅きに失した形であった{{R|藤江FC161107|今井Goal|今井SD161105}}。最終節翌日の11月4日には、降格の責任を取って久米一正が社長を辞任することを発表{{R|今井Goal|今井SD161105}}、6日には久米が続投を希望したジュロヴスキーの退任が発表、闘莉王の退団も報じられた{{R|藤江FC161107}}。 [[2016年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループステージ6位で敗退、[[第96回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦で敗退。{{-}} ==== 2017年(J2) ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2017年の基本システム'''</span>{{R|FC}}}} {{Image label|x=0.19|y=0.40|scale=220|text=[[ロビン・シモヴィッチ|<span style="font-size:small;color:white">'''シモビッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.40|scale=220|text=[[ガブリエル・アウグスト・シャビエル|<span style="font-size:small;color:white">'''シャビエル'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=[[佐藤寿人|<span style="font-size:small;color:navy">'''佐藤'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.65|scale=220|text=[[青木亮太|<span style="font-size:small;color:navy">'''青木'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.85|scale=220|text=[[田口泰士|<span style="font-size:small;color:navy">'''田口'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[小林裕紀|<span style="font-size:small;color:navy">'''小林'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[和泉竜司|<span style="font-size:small;color:maroon">'''和泉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.24|y=1.10|scale=220|text=[[セザル・ワシントン・アウヴェス・ポルテラ|<span style="font-size:small;color:maroon">'''ワシントン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[櫛引一紀|<span style="font-size:small;color:maroon">'''櫛引'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[宮原和也|<span style="font-size:small;color:maroon">'''宮原'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.30|scale=220|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:black">'''楢﨑'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2017年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 前へ ~Go Forward~ * '''監督''' : [[風間八宏]](新任) クラブ創設25周年をJ2で迎えることになる。J2降格により小川佳純など多くの主力選手が退団したが、移籍の噂があった田口泰士が残留を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=J2降格の悔しさを晴らすため…田口泰士が名古屋残留を決断 |url= https://web.gekisaka.jp/news/detail/?207519-207519-fl |publisher=講談社 | website = ゲキサカ |date=2017-01-09|accessdate=2018-12-03}}</ref>。その一方で[[佐藤寿人]]や玉田圭司が加入した。 1年でのJ1復帰が掲げられ、新監督には風間八宏が就任した<ref name="今井Jリーグ">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/fxsc/2017/analysis/nagoya.html |title=風間色満載に生まれ変わったチームが目指すは、「楽しく勝つサッカー」での昇格 |website=Jリーグ.com |author=今井雄一朗 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。風間は「楽しく勝つサッカー」というコンセプトを掲げ、それまで風間が率いたチームと同じく「圧倒的に高いボール保持率で相手守備を崩す攻撃」と「ボールを奪われたときに素早く奪い返す攻撃的な守備」の2つを軸とした極端に攻撃偏重なポゼッション戦術を採用した<ref name="Aoi190329">{{Cite web|和書|url=https://www.footballista.jp/special/62860 |title=名古屋グランパス好調の要因は守備戦術にあった~風間八宏の挑戦 |author=Kohei Aoi |website=footballista |date=2019-03-29 |accessdate=2021-04-27}}</ref>{{R|今井Jリーグ}}<ref name="今井SD190923">{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=64447 |title=風間グランパスの終焉…独特すぎる攻撃偏重スタイルはなぜ大成しなかったのか? |website=サッカーダイジェスト |author=今井雄一朗 |date=2019-09-23 |accessdate=2021-04-09}}</ref><ref name="二宮">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/54589 |title=風間監督が明かす「名古屋グランパス・わずか1年でJ1復帰の秘密」 |website=現代ビジネス |author=二宮寿朗 |date=2018-02-24 |accessdate=2021-04-09}}</ref><ref name="斎藤">{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/リスト/風間グランパス3年目質実剛健の補強で優勝争いに名乗りj1戦力分析名古屋編/1wey41ogv0a7r15wdwrs21l7cb#1j3007urbqhn71c2ofvre5uvcx |title=風間グランパス3年目。“質実剛健”の補強で優勝争いに名乗り【J1戦力分析/名古屋編】 |website=GOAL |author=斎藤孝一 |date=2019-02-12 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。フォーメーションは3バックと4バックが併用され、複数のポジションをこなせる[[和泉竜司]]や[[宮原和也]]が重用された{{R|FC}}。メンバーは固定されず、多くの選手を様々なポジションで試した{{R|二宮}}。 クラブ初となるJ2開幕戦は、2月26日の[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]戦。初戦を2-0で勝利すると、4月8日の第7節で[[カマタマーレ讃岐]]に2-1で勝利し4連勝で首位に立つ{{R|FC}}。第8節で[[徳島ヴォルティス]]に引き分けて5連勝はならなかったが首位を守った。その後[[湘南ベルマーレ]]や[[アビスパ福岡]]と首位争いを演じるが、6月3日の第17節で[[ツエーゲン金沢]]に敗れて以降は6試合で1勝のみで、一時は7位まで後退する{{R|FC}}。なお、第16節終了時点では首位で、結局首位に立ったのはシーズンを通じてこの3回だけであった。折り返しとなる第21節終了時点で10勝4分7敗、勝点34の6位で、自動昇格圏である2位の湘南ベルマーレには勝点差9であった。 6月1日には、クラブOBの[[中谷勇介]]がチーム統括部強化・補強担当に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2017/0601post-791.php |title=中谷勇介氏、チーム統括部 トップチームグループ 強化担当就任のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2017-06-01 |accessdate=2021-05-27}}</ref>。前年に就任した大森とともに、クラブの補強を担当することになる。 7月18日に[[ガブリエル・アウグスト・シャビエル|ガブリエル・シャビエル]]が加入すると、初出場した第22節から5試合で3得点7アシストを記録し、8月の月間MVPに選ばれるなど攻撃の軸となる{{R|FC}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/stats/2017/mvp/j2_2017_08.html |title=2017年8月の月間MVP(J2) |publisher=J.LEAGUE.jp |date=2017-09-11 |accessdate=2018-12-01}}</ref>。7月30日の第25節から5連勝し昇格争いに復帰するが、第30節から1分3敗と6位に転落した間に[[V・ファーレン長崎]]に追い越される。[[名岐ダービー]]で[[FC岐阜]]に大勝するなど第34節から4連勝で巻き返すが、一歩及ばず3位となり[[J1昇格プレーオフ]]に回ることになる{{R|FC}}。 プレーオフ準決勝では[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド千葉]]に4-2で勝利<ref name="PO-semi">{{Cite web|和書|title=名古屋がJ1復帰王手!“ミラクル千葉”をシモビッチハットなど4発逆転!!福岡とのPO決勝へ |url= https://web.gekisaka.jp/news/detail/?231866-231866-fl |publisher=講談社 | website = ゲキサカ |date=2017-11-26|accessdate=2018-12-03}}</ref><ref name="浅田sportiva">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2017/11/30/___split_119/ |title=我々がいるべき場所はJ1。変幻グランパスは堅守アビスパを崩せるか |website=サッカーダイジェスト |author=浅田真樹 |date=2017-11-30 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。決勝の相手は[[アビスパ福岡]]。リーグ最多85得点のグランパス{{R|FC}}、リーグ最少36失点のアビスパ福岡{{R|浅田sportiva}}、いわば矛と盾のような決勝戦であった<ref name="PO-final">{{Cite news|url=https://www.goal.com/jp/%E8%A9%A6%E5%90%88/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9-%E5%AF%BE-%E3%82%A2%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%91%E7%A6%8F%E5%B2%A1/%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88/bfdzam9kbvtu3sxemem7bvbe2|title=J1昇格最後の椅子は名古屋グランパスに!スコアレスドローも年間順位で/J1昇格プレーオフ|newspaper=GOAL.com|date=2017-12-03|accessdate=2018-12-04}}</ref>。試合は互いにゴールネットを揺らしたもののファウルやオフサイドで認められず、0-0のままで試合が終了し、プレーオフ規定によりグランパスの昇格が決定した{{R|PO-final}}。 前述のとおりこの年のグランパスの総得点「85」は、2位の[[徳島ヴォルティス]]の71に大きく差をつけてリーグトップであった{{R|FC}}。一方で総失点の「65」はこの年のJ2ワースト6位で{{R|FC}}、J2からJ1に昇格するクラブとしては史上最多失点で、無失点試合は42試合中7試合に留まった。 この年から[[2017年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]と名前を変えたJリーグカップには出場権なし、[[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で敗退した。 なお、一般的に「J2に降格すると来場者数が1 - 3割減る」と言われるが、この年のグランパスはJリーグ史上初めて逆に来場者数を2万人以上増やしている<ref name="XD">{{Cite web|和書|url=https://exp-d.com/interview/5457/ |title=ファンはターゲットではなく“ファミリー”。 4万人の家族と名古屋グランパスが目指すゴールとは |website=XD |author=なかがわあすか |date=2019-10-03 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。低成績が続いた2013年前後は観客動員数の低迷しており、当時の観戦者アンケートでは「クラブへの愛着度」が最下位であった{{R|XD}}。それを受けてファンサービス関係部署を再編してマーケティング部に統合され、様々な取り組みを行った成果が結実した形である{{R|XD}}。{{-}} ==== 2018年(J1) ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2018年の基本システム'''</span>{{R|FC}}}} {{Image label|x=0.25|y=0.40|scale=220|text=[[ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァ|<span style="font-size:small;color:white">'''ジョー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.40|scale=220|text=[[ガブリエル・アウグスト・シャビエル|<span style="font-size:small;color:white">'''シャビエル'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=[[玉田圭司|<span style="font-size:small;color:navy">'''玉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.65|scale=220|text=[[前田直輝|<span style="font-size:small;color:navy">'''前田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.30|y=0.85|scale=220|text=[[エドゥアルド・ネット|<span style="font-size:small;color:navy">'''ネット'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[小林裕紀|<span style="font-size:small;color:navy">'''小林'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[秋山陽介|<span style="font-size:small;color:maroon">'''秋山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[丸山祐市|<span style="font-size:small;color:maroon">'''丸山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[中谷進之介|<span style="font-size:small;color:maroon">'''中谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[宮原和也|<span style="font-size:small;color:maroon">'''宮原'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.30|scale=220|text=[[ミッチェル・ランゲラック|<span style="font-size:small;color:black">'''ランゲラック'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2018年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 攻める ~Go into Action~<ref>{{Cite press release|和書|title=2018シーズン チームスローガン決定のお知らせ|url= http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2018/01142018-22.php|publisher=名古屋グランパス|date=2018-01-14|accessdate=2018-12-01}}</ref> * '''監督''' : 風間八宏(2年目) J1復帰に際して[[ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァ|ジョー]]と[[ミッチェル・ランゲラック|ランゲラック]]といった現役代表クラスの外国籍選手を獲得し話題をさらう{{R|FC}}。期限付き加入中のガブリエル・シャビエルの移籍期間が延長され<ref>{{Cite press release|和書|title=ガブリエル シャビエル選手、期限付き移籍延長のお知らせ|url= http://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2017/1226post-891.php|publisher=名古屋グランパス|date=2017-12-26|accessdate=2018-12-01}}</ref>、風間は「基礎工事」は終わったとしてさらに「点を取るチーム」を目指していく{{R|二宮}}。また、クラブOBの山口素弘が育成部門トップの「アカデミーディレクター」に就任した。 開幕2連勝で好スタートを切るが、第3節からは勝利から遠ざかり、第4節から第11節までは8連敗を喫した{{R|FC}}。[[2018 FIFAワールドカップ|ロシアワールドカップ]]による中断前最後の5月20日の第15節までで、結局勝利は開幕の2つだけであった。6月6日に[[天皇杯 JFA 第98回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]初戦の2回戦で[[日本フットボールリーグ|JFL]]の[[奈良クラブ]]と対戦しPK戦の末に敗退するが、「担当審判員による明らかな競技規則の適用ミス」があったとして、PK戦のみを6月28日にやり直すという異例の事態の末に勝利した{{R|FC}}<ref>{{Cite web|和書|title=PK戦やり直し、名古屋が制して天皇杯3回戦へ…奈良クラブは無念の敗退 |url= https://www.soccer-king.jp/news/japan/emperorcup/20180628/785691.html |publisher=Soccer King|date=2018-06-28|accessdate=2018-12-03}}</ref>。7月18日にリーグ戦が再開しても勢いは戻らず最終的に15試合未勝利で、2勝3分12敗の最下位で前半日程を終える{{R|FC}}<ref name="2018result">{{Cite web|和書|title=2018シーズン 試合日程・結果|publisher=名古屋グランパスオフィシャルウェブサイト|accessdate=2018年12月1日|url=http://nagoya-grampus.jp/game/fixtures-results/}}</ref>。 夏季中断期間に[[中谷進之介]]・[[丸山祐市]]・[[前田直輝]]など大型補強を行う{{R|FC}}。8月1日の第19節・[[ベガルタ仙台]]戦で後半日程が始まると、新戦力が機能して7連勝して11位まで浮上{{R|FC|2018result}}<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/201809020000162.html|title=名古屋ジョー7戦12発、7連勝で降格圏から11位|newspaper=日刊スポーツ|date=2018-09-02|accessdate=2018-12-03}}</ref>。しかしその後9試合を3勝1分6敗で終え、[[2018年のJリーグ#J1参入プレーオフ|J1参入プレーオフ]]の対象である16位で最終節を迎える<ref name="2018-34節">{{Cite web|和書|title=熾烈なJ1残留争いが決着 磐田が参入プレーオフ決定戦行きの16位、名古屋は“奇跡の15位”|url= https://www.football-zone.net/archives/151320|publisher=Football Zone|date=2018-12-01|accessdate=2018-12-02}}</ref>。同じく降格の可能性の残る[[湘南ベルマーレ]]との最終節に引き分け、12位から16位までが勝点41で並ぶ大接戦となり、得失点差で[[ジュビロ磐田]]を上回り残留を決めた{{R|FC|2018-34節}}。 この年24得点のジョーは得点王を獲得し、シャビエルの9アシストはリーグ4位になるなど、J1残留争いをしながらも総得点52はリーグ4位であった{{R|FC}}。一方で59失点は最下位の[[V・ファーレン長崎]]と並んで最下位で、前年からの問題が改めて露見した{{R|FC}}。 最終成績は15位(12勝5分17敗)。[[2018年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]はグループリーグ4位で敗退、天皇杯は前述の2回戦の騒動の後、3回戦で敗退した。{{-}} ==== 2019年(J1) ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2019年の基本システム'''</span> {{R|FC|FC200424}}}} {{Image label|x=0.25|y=0.40|scale=220|text=[[ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァ|<span style="font-size:small;color:white">'''ジョー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.40|scale=220|text=[[ガブリエル・アウグスト・シャビエル|<span style="font-size:small;color:white">'''シャビエル'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=[[和泉竜司|<span style="font-size:small;color:navy">'''和泉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.65|scale=220|text=[[前田直輝|<span style="font-size:small;color:navy">'''前田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.27|y=0.85|scale=220|text=[[ジョアン・フェリピ・シミッチ・ウルバノ|<span style="font-size:small;color:navy">'''シミッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[米本拓司|<span style="font-size:small;color:navy">'''米本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[吉田豊 (サッカー選手)|<span style="font-size:small;color:maroon">'''吉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[丸山祐市|<span style="font-size:small;color:maroon">'''丸山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[中谷進之介|<span style="font-size:small;color:maroon">'''中谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[宮原和也|<span style="font-size:small;color:maroon">'''宮原'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.30|scale=220|text=[[ミッチェル・ランゲラック|<span style="font-size:small;color:black">'''ランゲラック'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2019年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 貫く ~Go Upward~ * '''監督''' : 風間八宏(3年目、9月退任<ref>{{Cite web|和書|title=風間 八宏監督 契約解除のお知らせ|ニュース|名古屋グランパス公式サイト|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2019/0923post-1290.php|website=名古屋グランパス公式サイト|accessdate=2019-12-08}}</ref>)→[[マッシモ・フィッカデンティ]](新任<ref>{{Cite web|和書|title=マッシモ フィッカデンティ氏 監督就任のお知らせ|ニュース|名古屋グランパス公式サイト|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2019/0923post-1291.php|website=名古屋グランパス公式サイト|accessdate=2019-12-08}}</ref>) 攻撃重視のスタイルの変化はなく適材適所の補強を行うことで全体のレベルを高めたが{{R|斎藤}}、中でも[[ジョアン・フェリピ・シミッチ・ウルバノ|シミッチ]]・[[米本拓司]]のダブルボランチは新チームの肝として期待された{{R|Aoi190329}}。一方で楢﨑正剛・玉田圭司・佐藤寿人といったリーダーとなり得る選手の退団も多く、若手の台頭が期待される船出となった{{R|斎藤}}。 開幕3連勝で首位に立つ{{R|FC}}<ref name="FC2019">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2019/12/31/post355408/ |title=名古屋グランパスが断念した風間八宏スタイル。機能した新戦力と不調に陥ったダブルエース【2019年Jリーグ通信簿】 |website=FOOTBALL CHANNEL |date=2019-12-31 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。その後は勝ち負けを繰り返すが、ホームに限れば第11節まで5連勝を達成しクラブ新記録を達成し、その間ホームでは無失点を続けた<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/21384 |title=米本、新記録樹立宣言 ホーム5連続完封&ホーム開幕5連勝 |newspaper=中日スポーツ |date=2019-05-11 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。第11節終了時点では首位に勝点差4の2位であった{{R|FC|FC2019}}。第12節で[[川崎フロンターレ]]と引き分けると、8月10日の第22節で川崎フロンターレと再度対戦して勝利するまで10試合の間未勝利が続き、その間に順位は10位まで後退した{{R|FC}}。その後は第23節の引き分けを挟んで3連敗して11位となり、9月23日に風間との契約を解除する{{R|今井SD190923|FC2019}}。 2年半の風間体制で、風間の目指す攻撃偏重スタイルは確立しつつあった{{R|今井SD190923}}。課題とされた守備面も攻撃がうまくまわっていれば機能するもので、今シーズン序盤は優勝候補とされるほどの評価を得ていた{{R|Aoi190329|今井SD190923}}。対して理想的な展開ができないときの守備の脆さは否定できず、前年までも組織で攻める相手に数多くの失点を重ねていた{{R|Aoi190329}}。今シーズン序盤はシミッチと米本拓司の加入で好調な出だしであったが{{R|Aoi190329}}、第13節以降は引いて守る相手に屈する展開が増えていった{{R|今井SD190923}}。それでも従来のスタイルを貫こうとする風間の姿勢は、結果を求める選手の意識と乖離していき、クラブ側が見かねて解雇したという見方もできた{{R|今井SD190923}}。 風間の解任と同日、後任には攻撃的戦術の風間とは正反対の「堅守速攻」で知られるマッシモ・フィッカデンティの就任が発表された{{R|FC|今井SD190923|FC2019}}。比較的戦術に自由が与えられていた風間体制下と異なり、フィッカデンティは規律を与えチームを立て直そうとした<ref name="今井SD190924">{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=64500 |title=監督交代に揺れる名古屋はどう変わるのか?フィッカデンティ新監督が初練習で示したスタイル |website=サッカーダイジェスト |author=今井雄一朗 |date=2019-09-24 |accessdate=2021-04-09}}</ref>。しかし風間体制の戦術に慣れた選手たちが堅守速攻に馴染むには時間がかかり、第32節鳥栖戦に引き分け同節終了時点で16位以上こそ確定しJ2への自動降格はなくなったものの、J2のプレーオフ勝者との入替戦の対象となる16位となる可能性は最終節まで残っていた。第33・34節と連敗し、他チームの結果次第で16位となる可能性もあったが、最終節で残留を争う他チームが清水以外勝利しなかったことにより辛うじて残留を決めた。監督交代後の8試合は1勝3分4敗であった{{R|FC2019}}。 最終順位は勝点37の13位(9勝10分15敗)で、16位湘南との勝点差は僅か1。[[2019年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]は準々決勝進出(ベスト8)、[[天皇杯 JFA 第99回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦で敗退した。12月8日にはアカデミーダイレクターを務める山口素弘が執行役員フットボール統括に就任、アカデミーダイレクターとを兼任することが発表される<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2019/1208post-1333.php |title=山口 素弘アカデミーダイレクター、執行役員フットボール統括 就任のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2019-12-08 |accessdate=2021-05-27}}</ref>。 === 2020年代 === ==== 2020年(J1) ==== '''{{small|{{main|2020年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : All for NAGOYA ~進化~ * '''監督''' : マッシモ・フィッカデンティ(2年目) フィッカデンティが引き続き監督を務めた。途中から指揮した2019年シーズンの8試合は「残留のための仕事をしただけ」とし、2020年シーズン開幕に向けて新たなチーム作りを進めていった<ref>{{Cite web|和書|url=https://soccermagazine.jp/j1/17340757 |title=【名古屋】指揮官の所信表明8◎フィッカデンティ監督「皆さんを楽しませる」 |website=サッカーマガジンweb |date=2020-02-14 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。フィッカデンティが用いるのは前線からのハイ[[プレッシング|プレス]]と緻密なブロックで相手の良さを消す守備と、スピードと突破力のあるアタッカーの能力を生かした縦に速いショートカウンターを軸とした堅実な戦術で、理想として[[リヴァプールFC]]を例に挙げた<ref name="中スポ2020連載中">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/174778 |title=理想はリバプール…縦に速い攻撃は「形」見せるも、生かせなかった「5人交代制」【名古屋グランパス連載(中)】 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-12-23 |accessdate=2021-04-19}}</ref><ref name="今井SK200217">{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20200217/1035839.html |title=堅実さに裏打ちされた“凄み”…マッシモ仕込みの「力技」で挑む【J1クラブ展望/名古屋】 |website=サッカーキング |author=今井雄一朗 |date=2020-02-17 |accessdate=2021-04-12}}</ref><ref name="飯尾SD200127">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/01/27/___split_22/ |title=名古屋のフィッカデンティ監督がテストする「驚き」の新布陣とは |website=サッカーダイジェスト |author=飯尾篤史 |date=2020-01-27 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。マテウス・[[相馬勇紀]]といったサイドで勝負できる選手が多い特徴からフォーメーションは[[サッカーのフォーメーション#4-2-3-1|4-2-3-1]]が採用され、肝となるボランチには米本拓司・[[稲垣祥]]の守備特化のコンビが多く用いられ、高い運動量で攻守両面に貢献した{{R|中スポ2020連載中|飯尾SD200127}}<ref name="原山SD201207">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/12/07/post_82/ |title=グランパスを飛躍させた2人のハンター。「オルンガ封じ」も完璧に遂行 |website=サッカーダイジェスト |author=原山裕平 |date=2020-12-07 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。 2月22日の開幕戦で[[ベガルタ仙台]]に引き分けると、その後は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の感染拡大によりリーグ戦は長期中断となる。グランパスの選手及び関係者では、6月2日に金崎夢生<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0602post-1486.php |title=金崎 夢生選手 新型コロナウイルス感染症の陽性判定について |author=名古屋グランパス |date=2020-06-02 |accessdate=2021-03-24}}</ref>、6月6日にランゲラック<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0607post-1491.php |title=ランゲラック選手 新型コロナウイルス感染症の陽性判定について |author=名古屋グランパス |date=2020-06-07 |accessdate=2021-03-24}}</ref>、7月24日に宮原和也<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0725post-1529.php |title=宮原 和也選手 新型コロナウイルス感染症の陽性判定について |author=名古屋グランパス |date=2020-07-25 |accessdate=2021-03-24}}</ref>、7月25日に[[渡邉柊斗]]とチームスタッフ1名<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0726post-1530.php |title=渡邉 柊斗選手、トップチームスタッフ 新型コロナウイルス感染症の陽性判定について |author=名古屋グランパス |date=2020-07-26 |accessdate=2021-03-24}}</ref>、7月27日に選手寮の調理スタッフ1名<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0728727pcr.php |title=7/27(月)PCR検査の結果について |author=名古屋グランパス |date=2020-07-28 |accessdate=2021-03-24}}</ref>の陽性判定が発表された。7月にリーグ戦は再開されるが、この中断によりリーグ戦や[[2020年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]の日程は大幅に再編され異常な過密日程となり{{R|原山SD201207}}<ref name="批評2021">{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83336?page=1 |title=「名古屋グランパス」2021年の予想布陣&最新情勢「絶対的固定メンバー4人」はACL両立でどうなる!? |website=サッカー批評web date=2021-02-01 |accessdate=2021-04-12}}</ref>、[[天皇杯 JFA 第100回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]が出場チームを含めたレギュレーションが大幅に変更された。 中断期間中の6月21日にはジョーとの契約を解除する<ref name="FOOTBOOL-CH">{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2020/11/25/post399342/ |title=名古屋グランパスが“勝訴”。FIFAがジョーとコリンチャンスに賠償金命令とブラジル報道 |author=フットボールチャンネル |date=2020-11-25 |accessdate=2021-03-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title= ジョー選手との契約解除について|url= https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0621post-1500.php |website=名古屋グランパス公式サイト|accessdate=2021-3-8|date=2020-6-21}}</ref>。ジョーは怪我の治療を理由に1月のキャンプに参加せず、中断期間にはいると無断でブラジルに帰国しており、6月17日には古巣の[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]がジョーの復帰を発表した<ref name="sakanowa">{{Cite web|和書|url=https://sakanowa.jp/topics/37408 |title=ジョー金銭問題決着か!FIFAが名古屋の主張を認め、3億5000万円補償へ |author=サカノワ |date=2020-11-25 |accessdate=2021-03-24}}</ref>{{R|FOOTBOOL-CH}}。グランパスはジョーとは契約期間中であり、そもそもチームを離れることを許可していないと主張して契約不履行を理由として契約を解除し、主張が対立したことから[[FIFA]]の紛争解決室に判断を委ねる{{R|sakanowa|FOOTBOOL-CH}}<ref name="SD220622">{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=111803 |title=ジョーの獲得を巡り名古屋へ約3.5億円の賠償金を科された名門コリンチャンスが危機!当の選手は電撃退団、クラブは借金まみれで迫る支払い期限に…【現地発】 |website=サッカーダイジェストWeb |date=2022-06-22 |accessdate=2022-06-22}}</ref>。11月に紛争解決室はジョー・コリンチャンス側が賠償金を支払うことを命じるが、ジョー・コリンチャンス側は納得せず[[スポーツ仲裁裁判所]]の判断を求め、2022年6月19日に賠償金を減額するものの支払期日が設定された判決が下される{{R|SD220622}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2020/11/29/post400008/ |title=名古屋グランパス、ジョーに関するFIFAからの裁定受け入れを発表。「肯定的に受け入れます」 |website=FOOTBALL CHANNNEL |date=2020-11-29 |accessdate=2021-04-27}}</ref>(詳細は[[ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァ|ジョー]]の項目を参照)。 7月4日にリーグ戦が再開すると第2節で[[清水エスパルス]]に勝利して通算400勝を達成し<ref name="chuspo200704">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/83408 |title=名古屋グランパスが史上5チーム目のJ1通算400勝を達成…J1再開初戦の清水戦に逆転勝ち |newspaper=中日スポーツ |date=2020-07-04 |accessdate=2021-05-20}}</ref>、引き分けを挟んで第4節から第6節を3連勝するなど良好な再スタートを切る<ref name="超WORLDサッカー210111">{{Cite web|和書|url=https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=389341 |title=【J1クラブ通信簿/名古屋グランパス】堅守を武器に過去2シーズンの悪夢を払拭し躍進 |website=Yahoo!ニュース |author=超WORLDサッカー |date=2021-01-11 |accessdate=2021-04-12}}</ref><ref name="浅田SD200817">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/08/17/___split_87/ |title=昨季の二の舞か、それとも…。今季の名古屋グランパスは本当に強いのか |website=サッカーダイジェスト |author=浅田真樹 |date=2020-08-17 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。8月19日の第12節では無敗で10連勝継続中の[[川崎フロンターレ]]に1-0で勝利するなど、堅守を武器に第4節以降は常に6位以上をキープし、最終成績は3位(19勝6分9敗){{R|超WORLDサッカー210111}}<ref name="chuspo201218">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/172081 |title=J1名古屋・フィッカデンティ監督、ACL出場権確保へあくまで勝って3位決める!引き分け狙い否定 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-12-18 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。リーグ戦3位の結果により、9年ぶりの[[AFCチャンピオンズリーグ2021|ACL]]出場を決める{{R|chuspo201218}}。この時点ではプレーオフからの出場の予定であったが{{R|chuspo201218}}、リーグ戦優勝の川崎フロンターレが天皇杯でも優勝したため、繰り上がってグランパスの[[AFCチャンピオンズリーグ2021#グループステージ|グループステージ]]からの出場が確定した。 このシーズンの総失点はリーグ最少の28で{{R|批評2021}}、これは34試合制となった2005年以降で4番目に少ない成績であった{{R|超WORLDサッカー210111}}(詳細は「[[#年間無失点試合数のリーグ記録(2020年)]]」を参照)。ゴールキーパーとセンターバックのランゲラック・丸山祐市・中谷進之介に3人は全試合フル出場で{{R|nikkann201226|批評2021}}、稲垣祥とマテウスもほぼフル出場するなどレギュラー陣はほぼ固定されており{{R|批評2021}}<ref name="中スポ2020連載下">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/175284 |title=コロナ売上減14~19億円…競争力向上&経営安定化の両立ミッションが待つ【名古屋グランパス連載(下)】 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-12-24 |accessdate=2021-04-19}}</ref>、起用された延べ人数488はリーグ最少と選手交代も少なかった{{R|nikkann201226}}。守備の中心的な選手がシーズンを通して出続けたことが「堅守」の要因として挙げられ{{R|批評2021|nikkann201226|中スポ2020連載上}}、シュートストップが得意なランゲラックにいかに簡単なシュートを止めさせるかという守備のテーマが出来上がっていた<ref name="中スポ2020連載上">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/174108 |title=“11人の共同作業”J1最少の失点28 チーム全体に浸透した守備の意識【名古屋グランパス連載(上)】 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-12-21 |accessdate=2021-04-19}}</ref><ref name="nikkann201226">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202012260000066.html |title=カテナゴヤ!不動守備陣で最多17完封/最少失点王 |newspaper=日刊スポーツ |date=2020-12-26 |accessdate=2021-04-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2021/04/06/post417565/ |title=J1全20クラブGKタイプ別分析(9)名古屋グランパス。ランゲラックは何タイプ? 戦術と相性◎、充実のラインナップ |author=FOOTBALL CHANNEL |date=2021-04-06 |accessdate=2021-04-12}}</ref><ref name="藤井ANSWER">{{Cite web|和書|url=https://the-ans.jp/column/156544/ |title=【月間表彰】823分無失点の立役者 元日本代表が見た名古屋GKランゲラックの存在感 |website=THE ANSWER |author=藤井雅彦 |date=2021-04-22 |accessdate=2021-04-22}}</ref>。マテウスをはじめとする前線の選手も献身的に守備に参加していたが{{R|中スポ2020連載上}}、一方で総得点45はリーグ12位で攻撃面に課題を残した<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/175762 |title=柿谷曜一朗を名古屋グランパスが獲得 C大阪から完全移籍「子供達の憧れに」【Jリーグ】 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-12-24 |accessdate=2021-04-12}}</ref><ref name="超WORLDサッカー210226">{{Cite web|和書|url=https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=392333 |title=【J1開幕直前ガイド|名古屋グランパス】マッシモ3年目の名古屋、積み上げ+補強で2010年以来のタイトルへ |wesite=超WORLDサッカー |date=2021-02-26 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。 ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、天皇杯は新型コロナウイルス感染症によるレギュレーション変更によりリーグ戦3位のグランパスは不出場であった。{{-}} ==== 2021年(J1) ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2021年 開幕戦'''</span>}} {{Image label|x=0.45|y=0.40|scale=220|text=[[山﨑凌吾|<span style="font-size:small;color:white">'''山﨑'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.60|scale=220|text=[[相馬勇紀|<span style="font-size:small;color:navy">'''相馬'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.60|scale=220|text=[[柿谷曜一朗|<span style="font-size:small;color:navy">'''柿谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.60|scale=220|text=[[マテウス・ドス・サントス・カストロ|<span style="font-size:small;color:navy">'''マテウス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.85|scale=220|text=[[米本拓司|<span style="font-size:small;color:navy">'''米本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.85|scale=220|text=[[稲垣祥|<span style="font-size:small;color:navy">'''稲垣'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=1.10|scale=220|text=[[吉田豊 (サッカー選手)|<span style="font-size:small;color:maroon">'''吉田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.10|scale=220|text=[[丸山祐市|<span style="font-size:small;color:maroon">'''丸山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1.10|scale=220|text=[[中谷進之介|<span style="font-size:small;color:maroon">'''中谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=1.10|scale=220|text=[[成瀬竣平|<span style="font-size:small;color:maroon">'''成瀬'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.30|scale=220|text=[[ミッチェル・ランゲラック|<span style="font-size:small;color:black">'''ランゲラック'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2021年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : All for NAGOYA ~超える~ * '''監督''' : マッシモ・フィッカデンティ(3年目) ACL出場による選手の負担増加を見据えて[[柿谷曜一朗]]・[[木本恭生]]・[[長澤和輝]]・[[森下龍矢]]・[[齋藤学]]といった大型補強を敢行し{{R|批評2021}}、各ポジションを複数のレギュラークラス選手で争う陣容となった<ref name="dazn2021">{{Cite web|和書|url=https://www.dazn.com/ja-JP/news/j1-league/名古屋グランパス注目選手選手一覧試合日程-jリーグ選手名鑑/bp92cp3x5mzb1rwqd0h8egj3k |title=【名古屋グランパス】注目選手・選手一覧・試合日程 | 2021Jリーグ選手名鑑 |website=DAZN |date=2021-04-12 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。課題であった得点力不足はボールをより高い位置で奪うイメージの共有や、カウンターの精度やアイデアの向上、元日本代表アタッカーの加入で改善が期待された<ref name="今井SK210223">{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20210223/1194645.html |title=【J1展望】リーグ制覇を達成した2010年の再来なるか…大型補強敢行で、タイトル獲得の“機は熟した”|名古屋 |website=サッカーキング |author=今井雄一朗 |date=2021-02-23 |accessdate=2021-04-12}}</ref>。なお、この年から[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場|パロマ瑞穂スタジアム]]は[[2026年アジア競技大会]]を見据えた全面改築工事が実施され、当面の間のグランパス主催試合は全て[[豊田スタジアム]]で行われることになる。 1月28日、3年ぶりに復活したゼネラルマネージャー職に山口素弘が就任し<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2021/0128post-1655.php |title=山口 素弘執行役員フットボール統括 執行役員ゼネラルマネジャー就任のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2021-01-28 |accessdate=2021-05-27}}</ref>、強化担当に新たに[[黒部光昭]]が就任することが発表される<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2021/0128post-1656.php |title=黒部 光昭氏 強化担当就任のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2021-01-28 |accessdate=2021-05-27}}</ref>。 2月28日の[[アビスパ福岡]]との開幕戦では、オウンゴールによる失点もありながら2-1で勝利。3月6日の第2節で[[北海道コンサドーレ札幌]]に1-0で勝利すると、4月18日に第10節(ACLの日程変更により11試合目)で[[サガン鳥栖]]に1-2で敗れるまで無失点・無敗が続き、開幕6連勝のクラブ記録を更新するとともに、無失点に関する複数のリーグ記録を更新した<ref name="ゲキサカ210418">{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?329350-329350-fl |title=“823分無失点”破った豪快ヘッド弾! 鳥栖FW林大地が「勢いを持って飛び込めた」理由 |website=ゲキサカ |date=2021-04-18 |accessdate=2021-04-19}}</ref>(詳細は「[[#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)]]」を参照)。 4月29日(第22節・13試合目)と5月4日(第12節・14試合目)は、ACLの日程変更により[[川崎フロンターレ]]との連戦となった<ref name="nikkann210427">{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202104260001006.html |title=J1最強「矛盾対決」川崎F対名古屋GW異例の2連戦 指揮官修正力がカギ |newspaper=日刊スポーツ |date=2021-04-27 |accessdate=2021-04-30}}</ref>。同一カードの連戦は前年に続いて2度目、1位・2位の対戦に限ると史上初で、攻撃力の川崎フロンターレと守備力のグランパスの首位決戦は『矛盾対決』として注目されたが{{R|nikkann210427}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83892 |title=「最強の矛盾対決」川崎vs名古屋(1)1試合平均「2.5得点」と「0.25失点」のスペシャル・ワン |website=サッカー批評Web |date=2021-04-27 |accessdate=2021-04-30}}</ref><ref name="nhk200429">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20210429/3000016441.html |title=J1名古屋 フィッカデンティ監督指揮執れず のどの痛み訴え |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2021-04-29 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20210430005220/https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20210429/3000016441.html |archivedate=2021-4-30}}</ref><ref name="批評210430B">{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83890 |title=川崎が最強の盾を粉砕!(1)“名古屋のプラン”を破壊した「鬼木監督の勝負采配」 |website=サッカー批評Web |date=2021-04-30 |accessdate=2021-04-30}}{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83891 |title=川崎が最強の盾を粉砕!(2)家長昭博が大一番で見せた「異例のウォーミングアップ」 |website=サッカー批評Web |date=2021-04-30 |accessdate=2021-04-30}}</ref>、新型コロナウィルス感染症への感染によりフィッカデンティが2試合とも欠場を余儀なくされる{{R|nhk200429}}<ref name="chuspo210429-1">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/245496 |title=【J1名古屋】川崎との天王山直前にフィッカ監督がのどの痛みを訴え不在に 試合はベンチと電話をつないで指示 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-04-29 |accessdate=2021-04-30}}</ref><ref name="chuspo210430">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/246033 |title=【J1名古屋】フィッカデンティ監督PCR陽性 選手、スタッフ全員陰性も濃厚接触者を調査…川崎戦では不在 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-04-30 |accessdate=2021-05-06}}</ref>。試合の指揮は[[ブルーノ・コンカ]]が執るが{{R|chuspo210429-1|批評210430B}}、消極的な立ち上がりとなったホームの1試合目は開始3分に先制点を許すと前半だけで3失点を喫して最終的に0-4で惨敗{{R|批評210430A|批評210430B}}<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/245499 |title=【J1川碕】天王山第1ラウンド4発圧倒…名古屋の「最強盾」をあっけなく打ち砕いた |newspaper=中日スポーツ |date=2021-04-29 |accessdate=2021-04-30}}</ref><ref name="批評210430A">{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83930 |title=“最強の盾”名古屋が崩壊!(1)川崎はどのように赤鯱の堅守を崩したのか |website=サッカー批評Web |date=2021-04-30 |accessdate=2021-04-30}}{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83933 |title=“最強の盾”名古屋が崩壊!(2)むなしく響いた「下げるな!」の掛け声 |website=サッカー批評Web |date=2021-04-30 |accessdate=2021-04-30}}</ref><ref name="chuspo210504">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/248211 |title=【J1名古屋】「川崎相手には通用しなかった…」自慢の堅守も“崩壊” 直接対決2連敗に「何をするべきかを見つめ直す」 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-05-04 |accessdate=2021-05-06}}</ref><ref name="批評210505A">{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83974 |title=川崎vs名古屋「決戦の勝敗を分けたもの」(1)セカンドレグ「名古屋の変貌」 |website=サッカー批評Web |author=後藤健生 |date=2021-05-05 |accessdate=2021-05-06}}{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83975 |title=川崎vs名古屋「決戦の勝敗を分けたもの」(2)2戦目に「レフェリーの笛」が増えた理由 |website=サッカー批評Web |author=後藤健生 |date=2021-05-05 |accessdate=2021-05-06}}{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83976 |title=川崎vs名古屋「決戦の勝敗を分けたもの」(3)最終盤のマテウスに見た「名古屋の底力」 |website=サッカー批評Web |author=後藤健生 |date=2021-05-05 |accessdate=2021-05-06}}</ref>、守備を修正して挑んだアウェイの2試合目は後半序盤までに3失点を喫するも反撃に転ずるが一歩及ばず2-3での惜敗となった{{R|chuspo210504|批評210505A}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dazn.com/ja-JP/news/j1-league/天王山の首位攻防戦は川崎フロンターレが2連勝。終盤に名古屋が猛追するも届かず-Jリーグ/9szsycvgwgjg1bp4iucwptd29 |title=天王山の首位攻防戦は川崎フロンターレが2連勝。終盤に名古屋が猛追するも届かず | Jリーグ |website=DAZN |date=2021-05-04 |accessdate=2021-05-06}}</ref><ref name="批評210505B">{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83964 |title=川崎、名古屋に連勝!(1)事前に想定していた「もらったファールの生かし方」 |website=サッカー批評Web |date=2021-05-05 |accessdate=2021-05-06}}{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83965 |title=川崎、名古屋に連勝!(2)サイド攻略を呼び込んだ「試合中の対峙分析力」 |website=サッカー批評Web |date=2021-05-05 |accessdate=2021-05-06}}{{Cite web|和書|url=https://futabanet.jp/soccerhihyo/articles/-/83969 |title=川崎、名古屋に連勝!(3)川崎がここ数試合で見せる「後半のペースダウン」 |website=サッカー批評Web |date=2021-05-05 |accessdate=2021-05-06}}</ref>。 フィッカデンティの復帰は5月15日の第14節(17試合目)で、監督不在の4試合は1勝3敗と停滞した<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/253780?rct=grampusnews |title=【J1名古屋】不在中1勝3敗 フィッカ監督が新型コロナ復帰勝利誓う「戦う集団に戻すことは困難ではない」 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-05-14 |accessdate=2021-05-17}}</ref>。復帰戦の第14節は清水エスパルスに3-0で勝利するが<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/254308?rct=grampusnews |title=J1名古屋は3ゴールで清水に快勝 柿谷が先制ボレー、フィッカデンティ監督のコロナからの復帰戦を完封で飾る |newspaper=中日スポーツ |date=2021-05-15 |accessdate=2021-05-17}}</ref>、主将で守備の要であった丸山祐市が後半8分に負傷交代し、精密検査の結果全治6 - 8か月の診断を受ける<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/258149 |title=【J1名古屋】前節負傷のDF丸山は”患部”の状態精査中…徳島戦は欠場濃厚で中谷&木本の初コンビの可能性が浮上 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-05-22 |accessdate=2021-08-23}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/259520 |title=J1名古屋に激震…清水戦で負傷のDF丸山祐市は右膝前十字靭帯部分損傷で全治6~8カ月 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-05-24 |accessdate=2021-08-23}}</ref>。その後は[[AFCチャンピオンズリーグ2021|ACL]]の日程により過密となった試合日程の影響もありリーグ戦は6試合にわたって未勝利が続き<ref name="chuspo210828">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/319974?rct=grampusnews |title=【J1名古屋】守備復調 フィッカデンティ監督さらに上積み意欲「勝ちきれる感覚、自信が戻ってきた」 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-08-28 |accessdate=2021-09-10}}</ref>、7月17日の第20節(21試合目、[[サガン鳥栖]])での今季初の逆転負けを皮切りに<ref>{{cite news |url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?336841-336841-fl |title=鳥栖が名古屋をシーズンダブル!順位逆転、4位浮上!!名古屋は今季初の逆転負け |newspaper=ゲキサカ |date=2021-07-17 |accessdate=2021-07-20}}</ref>、8月12日の第18節(23試合目、[[横浜F・マリノス]])までの3試合でフィッカデンティ体制下で初の3連敗を喫するなど{{R|chuspo210828}}<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/310048?rct=grampusnews |title=【J1名古屋】悪夢の“三ツ沢連敗”…一筋の光明は新加入シュビルツォク「いい特徴持っている」指揮官も評価 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-08-13 |accessdate=2021-08-23}}</ref>一時暫定6位まで後退する。その間は6試合で1得点8失点の内容であった。 得点力不足解消と守備再建が急がれ、夏の移籍期間には[[ヤクブ・シュヴィルツォク|シュヴィルツォク]]と[[金眠泰|キム・ミンテ]]を獲得する<ref>{{cite news |url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?337058-337058-fl |title=現役ポーランド代表FW獲得の名古屋、大森SDは更なる補強に意欲「CBの補強が非常に重要になってくる」 |newspaper=ゲキサカ |date=2021-07-20 |accessdate=2021-08-24}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/294908 |title=J1名古屋、ポーランド代表獲得 欧州選手権出場のFWシュビルツォク |newspaper=中日スポーツ |date=2021-07-21 |accessdate=2021-08-24}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/309315 |title=J1名古屋が札幌の金眠泰を獲得へ 直近のリーグ2戦で5失点…堅守再建へセンターバック補強 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-08-12 |accessdate=2021-08-24}}</ref>。シュヴィルツォクは新型コロナウィルス感染症に伴う隔離措置を経て8月12日<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/302528 |title=【J1名古屋】7月加入発表のFWシュビルツォクは来日済み フィッカデンティ監督「非常に大きな戦力」 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-08-01 |accessdate=2021-08-26}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/310588 |title=【J1名古屋】シュビルツォク、得点力不足のチーム救う!! 本拠地デビュー弾でおなじみパフォーマンスお披露目だ |newspaper=中日スポーツ |date=2021-08-13 |accessdate=2021-08-26}}</ref>、キム・ミンテは8月13日にチームに合流<ref>{{cite news |url=https://inside.nagoya-grampus.jp/inside/detail/index.php?sid=2176&cid=105 |title=キム ミンテ選手 トレーニング後コメント |newspaper=INSIDE GRAMPUS |date=2021-08-13 |accessdate=2021-08-26}}</ref>。両選手とも合流後すぐ試合に出場し、求められた役割を果たし結果を残していった<ref name="chuspo2021総括1">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/379791 |title=ゴール前にそびえ続けた”赤の鉄壁”「面白みには欠けてもそれが僕たち」守備戦術の浸透で勝ち取った11年ぶりタイトル【J1名古屋2021総括】 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-12-08 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。第26節の無失点で前年記録した(34試合制になった2005年以降の)リーグ記録タイの無失点試合数「17」に26試合目で並び{{R|chuspo210828}}、さらに9月10日の第28節(28試合目)で54試合制の1995年に[[横浜マリノス]]が記録した18試合にも並んだ<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/327979 |title=【J1名古屋】徳島に3-0快勝!クラブ新記録「18」試合無失点 95年横浜Mのリーグ記録に並ぶ |newspaper=中日スポーツ |date=2021-09-10 |accessdate=2021-10-11}}</ref>。 無失点試合数の記録を最終的に21試合まで伸ばしたが、最終成績は5位(19勝9分10敗){{R|chuspo2021総括1}}。この年の総失点数30はリーグ2位の成績であったが、総得点44はリーグ9位タイと奮わなかった<ref name="chuspo2021総括2">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/380404 |title=『失点しない強さ』の裏に潜む危うさ 下位に取りこぼしをしないためには【J1名古屋2021総括】 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-12-09 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。J2降格が決定した下位4チームとの戦績は4勝2分2敗、失点した17試合の結果は3勝4分10敗であり、引いて守る相手を崩したり守りきれない状況を覆す攻撃力不足に課題を残すシーズンであった{{R|chuspo2021総括2}}。その一方で途中加入したシュヴィルツォクは21試合で12得点を挙げ攻撃の基点としても機能しており、翌シーズンに向けてはシュヴィルツォクの存在を念頭に置いた得点力改善が期待されたが{{R|chuspo2021総括1|chuspo2021総括2}}、後述するACL準決勝後のドーピング検査でシュヴィルツォクの検体から禁止物質が検出されたことにより、一時は[[アジアサッカー連盟]]からシュヴィルツォクに4年間の活動停止処分が科された<ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2021/1210post-1832.php |title=シュヴィルツォク選手について |author=名古屋グランパス |date=2021-12-10 |accessdate=2022-05-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=102221 |title=シュヴィルツォクのドーピング疑惑に名古屋が公式コメント。「別の検体での再分析を要請している」 |author=サッカーダイジェストWeb |date=2021-12-10 |accessdate=2022-05-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2022/1028post-2009.php |title=シュヴィルツォク選手について |author=名古屋グランパス |date=2022-10-28 |accessdate=2023-01-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20221028/1702133.html |title=名古屋FWシュヴィルツォク、B検体からも禁止物質検出…4年間の活動禁止処分が決定 |author=サッカーキング |date=2022-10-28 |accessdate=2023-01-26}}</ref>。後に服用していたサプリメントに陽性の原因であったことが認められて活動再開が可能となるものの、シュヴィルツォクは2022年シーズンは全休する形となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20230211/1737099.html |title=FWシュヴィルツォク、母国クラブに完全移籍…出場停止処分解除で延長OP付き半年契約 |author=サッカーキング |date=2023-02-11 |accessdate=2023-02-14}}</ref>(詳細は[[ヤクブ・シュヴィルツォク|シュヴィルツォク]]の項目を参照)。 ACLは決勝トーナメントに進出するが、10月17日の準々決勝で[[浦項スティーラース]]に敗退。天皇杯は10月27日の準々決勝で[[セレッソ大阪]]に敗れるが、3日後の10月30日に行われたルヴァンカップ決勝では同じセレッソ大阪に勝利して初優勝<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/357137 |title=【名古屋】「おまえたちはこんなものじゃない」C大阪に完敗した天皇杯から中2日…ルヴァンで雪辱!初制覇 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-10-30 |accessdate=2021-11-01}}</ref>。稲垣祥が大会得点王と大会MVPを獲得した<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202110300000711.html |title=名古屋稲垣祥 カズ、ビスマルクに次いで27年ぶり快記録!得点王&MVP |newspaper=日刊スポーツ |date=2021-10-30 |accessdate=2021-11-01}}</ref>。このルヴァンカップ優勝で9クラブ目の3大タイトル(J1・天皇杯・ルヴァンカップ)制覇となったが、最初の天皇杯制覇(1995年)から26年が経過しており、3大タイトル制覇に20年以上を要したのは9クラブの中でグランパスだけである<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2021/10/31/post_155/ |title=「本当にドキドキの戦い」を制した名古屋グランパス。3大タイトルコンプリートで真のビッグクラブとなれるか |website=web sportiva |date=2021-10-31 |accessdate=2021-11-01}}</ref>。なお、シーズン終了後にシーズンの活躍を収めたドキュメンタリー映画が製作された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/400588 |title=【グランパス】ドキュメンタリー映画が公開 稲垣がシーズン序盤のアクシデントを告白「寝るときがきつかった」 |website=中日スポーツ |date=2022-01-14 |accessdate=2022-01-17}}</ref>。 フィッカデンディの監督続投は濃厚と目されていたが、ルヴァンカップ優勝時に約束した2023年までの契約延長をクラブ側が白紙撤回したことが原因となり、12月8日までに解任されることが決定的と報じられた<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/377065 |title=【J1名古屋】続投濃厚のフィッカデンティ監督「トヨタからも信頼をいただいた」常勝クラブへ三位一体 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-12-03 |accessdate=2021-12-09}}</ref><ref name="スポニチ211209">{{cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2021/12/09/kiji/20211208s00002179616000c.html |title=名古屋・フィッカデンティ監督を電撃解任 後任に長谷川健太氏決定的 |newspaper=スポニチアネックス |date=2021-12-09 |accessdate=2021-12-09}}</ref>。同時に後任には[[長谷川健太]]が就任することが報じられた{{R|スポニチ211209}}。 ==== 2022年(J1) ==== '''{{small|{{main|2022年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : 未来へ * '''監督''' : [[長谷川健太]](1年目) クラブ創設30周年の節目。1月16日の新体制発表会で、新監督に就任した長谷川健太は獲得タイトルを増やすべく「50得点」という目標を掲げた<ref name="chuspo220115">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/401026 |title=【グランパス】30周年のスローガンは「未来へ」長谷川監督はあらためて「50得点」に言及 |website=中日スポーツ |date=2022-01-15 |accessdate=2022-01-17}}</ref>。[[ウーゴ・レオナルド・シルバ・セレージョ|レオ・シルバ]]、[[酒井宣福]]、[[仙頭啓矢]]ら攻撃を特徴とする新戦力が加わり{{R|chuspo220115}}、ガブリエル・シャビエルの移籍で空いた背番号10はマテウスに引き継がれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/400910 |title=名古屋グランパス、背番号10はマテウスに 「攻撃にも守備にもパワーがある」 |website=中日スポーツ |date=2022-01-15 |accessdate=2022-01-17}}</ref>。 1月24日からの春季キャンプで積極的な攻撃意識でのチーム再編を本格化させるが、新型コロナウィルス感染症の感染拡大の影響によりランゲラックやマテウスといった主力の合流が遅れたばかりか、チーム内でも感染者が続出したために全体練習の一時休止を余儀なくされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/406140 |title=【J1名古屋】ランゲラック&マテウス不在でキャンプイン 長谷川監督「現状の底上げで刺激入れる」 |website=中日スポーツ |date=2022-01-25 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/407952 |title=【J1名古屋】稲垣祥、代表再挑戦への道「グランパスの活動がすべて」攻守の要が〝長谷川流〟理解へ |website=中日スポーツ |date=2022-01-27 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/412305 |title=選手らコロナ陽性で休止のJ1名古屋が練習再開 2、3組に分け時間帯ずらしメディアにも非公開 |website=中日スポーツ |date=2022-02-01 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/415504 |title=【名古屋グランパス】長谷川監督、開幕まで一週間余りも「急ピッチで仕上げるので楽しみに」 |website=中日スポーツ |date=2022-02-09 |accessdate=2022-02-24}}</ref>。この休止により基礎的なチーム作りを行う時間が大幅に削られ、[[2022 FIFAワールドカップ|W杯]]開催に伴う過密日程のシーズン中でのチーム構築を求められることとなる<ref name="chuspo221110">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/579617 |title=【J1名古屋】シーズン総括(上) 本職CFがいない…マテウスのコンバートは奏功したが… |website=中日スポーツ |date=2022-11-10 |accessdate=2022-11-22}}</ref>。 調整不足を懸念されて迎えた2月19日の開幕であったが、新戦力4人をスタメンに加えた初陣は[[ヴィッセル神戸]]に2-0で勝利する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/415632 |title=12日に磐田戦 実戦不足の懸念に指揮官「何とかかやれるというのは、1つ救い」【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2022-02-09 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://soccermagazine.jp/j1/17520683 |title=【グランパス】開幕戦快勝発進!主将・稲垣が先制ゴール 長谷川監督も満足「よくやった」 |website=中日スポーツ |date=2022-02-19 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/421563 |title=【名古屋】中谷進之介がJ1開幕戦で感じた大いなる可能性「トライを続ければ新しいグランパスが見せられる」 |website=サッカーマガジンweb |date=2022-02-22 |accessdate=2022-03-02}}</ref>。前年の戦術を基礎としながらも敵陣からのアグレッシブな守備や、積極的なチャンスメイクによって得点チャンスは増加するが、4月6日の第7節までの開幕6試合を2勝2分2敗の12位と苦しい立ち上がりとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/450716 |title=【グランパス】長谷川健太監督に「秋口から本領を発揮するのでは」小西社長は期待 夏の補強は…「企業秘密」 |website=中日スポーツ |date=2022-04-10 |accessdate=2022-09-15}}</ref><ref name="chuspo220410-2">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/450867 |title=【グランパス】策は打てどもゴールは遠く…札幌に無得点敗戦 稲垣「目指していることは見失わずに」 |website=中日スポーツ |date=2022-04-10 |accessdate=2022-09-15}}</ref>。続く4月10日の第8節(7試合目)は[[コンサドーレ札幌]]に0-2で敗れるが、試合中にシステムを3バック([[サッカーのフォーメーション#3-5-2|3-5-2]])に変更するなど改善が図られた{{R|chuspo220410-2}}<ref name="chuspo221111">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/580375 |title=3バック完全変更で安定した守備…永井、重広ら途中加入選手が得点力を底上げ【J1名古屋】シーズン総括(中) |website=中日スポーツ |date=2022-11-10 |accessdate=2022-11-22}}</ref>。 4月20日に負傷退場した長澤和輝がシーズン中の復帰が絶望視されるなど序盤から離脱者が相次ぎ、加えて7月に入ると新型コロナウィルス感染者が続出してチーム状態は万全とは程遠い状態となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/506778 |title=【天皇杯】コロナで主力離脱 “カツカツ”の名古屋「割り切るしかない」長谷川監督2種登録選手起用も |website=中日スポーツ |date=2022-07-12 |accessdate=2022-09-15}}</ref><ref name="chuspo220714">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/508316 |title=【グランパス】離脱者続出の中、さらに…トップチーム選手1人にコロナ陽性判定 16日川崎戦は開催未定 |website=中日スポーツ |date=2022-07-14 |accessdate=2022-09-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/525490 |title=【J1名古屋】右膝けがで離脱のMF長沢和輝、登録抹消 |website=中日スポーツ |date=2022-08-12 |accessdate=2022-09-15}}</ref>。グランパスは7月15日に「保健所の指導を受けて14日から16日までのチーム活動を停止する」ことを発表したが、後にこの「指導」は誤認であったことが発覚し、7月26日にグランパスは経緯を説明して謝罪した<ref name="chuspo220716">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/508968 |title=【名古屋グランパス】新型コロナ影響で川崎戦中止 「本当にカツカツ」チーム事情に不運ながら前向き |website=中日スポーツ |date=2022-07-16 |accessdate=2022-09-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/515111 |title=“保健所指導により川崎戦延期”は誤認…名古屋グランパスが謝罪「多大なご迷惑をおかけしました」 |website=中日スポーツ |date=2022-07-26 |accessdate=2022-09-15}}</ref>。なお、7月2日から16日までにカップ戦を含めて5試合が予定されていたが、この誤報告によりJリーグは16日のリーグ戦第22節・川崎フロンターレ戦の中止を決定していた{{R|chuspo220716}}。この騒動によりグランパスは、Jリーグから譴責と罰金200万円の懲罰を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/535786 |title=名古屋グランパスに罰金200万円 新型コロナめぐるJ1川崎戦中止で |website=中日スポーツ |date=2022-08-30 |accessdate=2022-09-15}}</ref>。 第21節までの前半戦の成績は6勝7分8敗の13位<ref name="chuspo220725">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/514691 |title=【グランパス】「チャンスを確実に仕留めるストライカー」加入 FWの組み合わせは長谷川監督の腕の見せどころ |website=中日スポーツ |date=2022-07-25 |accessdate=2022-09-15}}</ref>。3バックへの変更前後を比較すると、1試合あたりの失点は1.29点から0.93点と大幅に改善したが、同時に得点も1点から0.64点へと大幅に減った{{R|chuspo221111}}。激しい守備でボールを奪い、素早い攻守切り替えでサイドからゴールを狙う戦術は確立しつつあったが、なかなかゴールが奪えず結果に繋がらなかった{{R|chuspo220725}}。その直接的な要因として、攻撃の核として期待されていたシュビルツォク不在の影響が大きいと考えられ、攻撃面を補うために夏の移籍では[[レオナルド・ベネジート・ダ・シウヴァ|レオナルド]]や[[永井謙佑]]などを獲得した{{R|chuspo220725}}。永井らの加入によって1試合あたりの得点は1.08点へと改善され、失点も1点へとやや悪化したものの、劣勢でも引き分けに持ち込む試合が増えたことで着実に勝点を積み重ねた{{R|chuspo221111}}。 リーグ戦の最終成績は11勝13分10敗で8位。失点数35は優勝した[[横浜F・マリノス]]と並んでリーグ最少タイであったが、得点数30は[[アビスパ福岡]]に次ぐワースト2位で<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/577043 |title=【名古屋グランパス】主将の稲垣「後半戦に入ってからの方が締まりがでた」試合運びが安定 |website=中日スポーツ |date=2022-11-05 |accessdate=2022-11-22}}</ref>、これは[[2016年の名古屋グランパスエイト|2016年]]の38得点を下回るクラブワースト記録となった{{R|chuspo221110}}。得点力不足の原因と考えられたのは本職のセンターフォワード不足で、3バックへの変更に伴うマテウスのコンバートには成功したものの、[[前田直輝]]の移籍やシュビルツォク不在といったシーズン当初からの影響は大きく、連携を求められる中盤も前年の主力が稲垣祥を除いて移籍や怪我により不在であり、シーズンを通して攻撃の組み立てに苦戦することとなった{{R|chuspo221110}}。 ルヴァンカップは準々決勝進出(ベスト8)、[[天皇杯 JFA 第102回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で敗退。{{-}} ==== 2023年(J1) ==== {| class="wikitable floatright" | style="position: relative;" | [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:small;color:Black">'''2023年 序盤の基本システム'''</span><ref name="sportiva230527">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2023/05/27/post_79/ |title=名古屋グランパス好調の要因は「速い攻撃」 相手の一瞬の隙を見逃さなかったゴールの形とは |website=sportiva |author=[[篠幸彦]] |date=2023-05-27 |accessdate=2023-05-30}}</ref>}} {{Image label|x=0.42|y=0.35|scale=220|text=[[キャスパー・ユンカー|<span style="font-size:small;color:white">'''ユンカー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.45|scale=220|text=[[永井謙佑|<span style="font-size:small;color:white">'''永井'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.45|scale=220|text=[[マテウス・ドス・サントス・カストロ|<span style="font-size:small;color:white">'''マテウス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.70|scale=220|text=[[和泉竜司|<span style="font-size:small;color:navy">'''和泉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=0.80|scale=220|text=[[稲垣祥|<span style="font-size:small;color:navy">'''稲垣'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.80|scale=220|text=[[米本拓司|<span style="font-size:small;color:navy">'''米本'''</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.70|scale=220|text=[[森下龍矢|<span style="font-size:small;color:navy">'''森下'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=1.10|scale=220|text=[[丸山祐市|<span style="font-size:small;color:maroon">'''丸山'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=1.10|scale=220|text=[[中谷進之介|<span style="font-size:small;color:maroon">'''中谷'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=1.10|scale=220|text=[[藤井陽也|<span style="font-size:small;color:maroon">'''藤井'''</span>]]}} {{Image label|x=0.33|y=1.30|scale=220|text=[[ミッチェル・ランゲラック|<span style="font-size:small;color:black">'''ランゲラック'''</span>]]}} |} '''{{small|{{main|2023年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : つむぐ -To the Next- * '''監督''' : 長谷川健太(2年目) 1月8日の新体制発表会とともにチームは始動。新体制では楢崎正剛がアシスタントGKコーチに加わり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/614253 |title=名古屋グランパス、楢崎正剛AGKコーチも始動 「あれだけ経験値のある選手だったので」長谷川監督は期待 |website=中日スポーツ |date=2023-01-08 |accessdate=2023-01-23}}</ref>、得点力不足解消や昨シーズン途中から導入した3バック前提のチーム作りのために[[キャスパー・ユンカー|ユンカー]]・[[野上結貴]]・和泉竜司などが加わった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/614430 |title=就任2季目の長谷川健太監督「勝利」をテーマに上積み意識 10日から沖縄キャンプ【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-01-08 |accessdate=2023-01-23}}</ref><ref name="chuspo230108">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/614430 |title=就任2季目の長谷川健太監督「勝利」をテーマに上積み意識 10日から沖縄キャンプ【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-01-08 |accessdate=2023-01-23}}</ref>。長谷川健太はシーズンのテーマとして「勝利」を掲げ、新加入選手や若手の成長によるチーム内競争の活性化によるチームや戦術の進化に期待を寄せた<ref name="chuspo230108" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/621291 |title=【J1名古屋】長谷川健太監督、紅白戦で2得点の甲田英将に「積極的なアピールしてくれた」と称賛 |website=中日スポーツ |date=2023-01-20 |accessdate=2023-01-23}}</ref>。 2月18日の[[横浜FC]]との開幕戦を1-0で勝利すると<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/638543 |title=【J1名古屋】FWユンカー“一発回答”の先制ゴール 長谷川健太監督も「決めきる力がある」と信頼 |website=中日スポーツ |date=2023-02-18 |accessdate=2023-02-24}}</ref>、開幕から1ヶ月間の5試合を3勝1分1敗の2位と好調の出だしとなった<ref name="FZ230331">{{Cite web|和書|url=https://www.football-zone.net/archives/442348 |title=J1リーグ開幕「1か月」診断、 期待以上の3チームは? 上位戦線でV候補クラブと対抗の可能性も |editor=河治良幸 |website=FOOTBALL ZONE |date=2023-03-31 |accessdate=2023-03-31}}</ref>。5試合の得失点は5得点1失点で堅守を前提としたスピードのある速攻でゴールを狙うという形が確立しつつあり<ref name="FZ230331"/>、開幕前のキャンプから繰り返し練習されたユンカー・マテウス・永井の縦に早い攻撃に加えて<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/631867 |title=DF中谷進之介「整備はできている」3バックが成熟『堅守』へ自信【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-02-07 |accessdate=2023-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2023/03/14/post_41/index.php |title=名古屋グランパスが確立した勝利の方程式 ユンカー加入で自慢の「トリデンテ」がかなりいい |editor=浅田真樹 |website=Web Sportiva |date=2023-03-14 |accessdate=2023-03-31}}</ref>、[[ポストプレー]]が得意な酒井宣福の出場や[[ミッドフィールダー#ウイングバック|ウイングバック]]の人選によっても戦術が変化しており、[[河治良幸]]は「シンプルに見えて明確な対策を立てにくい」と分析している<ref name="FZ230331"/>。前シーズンの課題であった本職のセンターフォワードとしてユンカーが機能したこともあり、前半戦の21試合を11勝6分4敗の3位で夏季中断期間を迎える<ref name="chuspo231205">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/817107 |title=『ユンカー』という「決定力」を得て機能した3トップ 3冠も夢見た前半戦からの暗転…【J1名古屋2023年総括】 |website=中日スポーツ |date=2023-12-05 |accessdate=2023-12-13}}</ref>。 夏の移籍では長澤和輝<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/741499 |title=MF長沢和輝がJ2仙台へ完全移籍 「どんな時も共に戦ってきたグランパスファミリーに感謝」【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-08-03 |accessdate=2023-08-04}}</ref>に加え、監督の長谷川が「大黒柱」と評したマテウスが移籍したことで攻撃面の再構築を余儀なくされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/740172 |title=マテウス、サウジ移籍で基本合意、3日にチームを離れる予定「感謝…皆さんのことを愛しています」【J1名古屋】 |website=中日スポーツ |date=2023-08-01 |accessdate=2023-08-04}}</ref><ref name="chuspo230912">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/767796 |title=FWマテウスの移籍…森島ら獲得し攻撃戦術再構築…J1名古屋は2つのタイトルかかるシーズン終盤に挑む |website=中日スポーツ |date=2023-09-12 |accessdate=2023-09-25}}</ref>。[[前田直輝]]が期限付き移籍から復帰し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/733939 |title=FW前田直輝、チーム内の競争勝ち抜き『もう1個高いところの自分』見せる【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-07-22 |accessdate=2023-08-04}}</ref>、グランパスの下部組織出身の[[久保藤次郎]]・[[森島司]]らを獲得した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/736436 |title=【J1名古屋】J2藤枝の24歳MFを完全移籍で獲得 スクール出身の久保藤次郎「憧れ続けたクラブ、本当に嬉しい」 |website=中日スポーツ |date=2023-07-26 |accessdate=2023-08-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/741795 |title=広島のMF森島司を完全移籍で獲得 背番号は「14」【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-08-03 |accessdate=2023-08-04}}</ref><ref name="chuspo230912"/>もののマテウス移籍の影響は大きかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/774358 |title=逆転優勝へ…長谷川監督「新しい名古屋をしっかりとつくれるかどうか」ユンカーらFW陣の爆発も期待【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-09-22 |accessdate=2023-09-25}}</ref>。リーグ戦再開後の第22節・第23節は勝利したものの、攻め手を欠く展開から速攻の形が崩れてパス回数が増加するとともに前のめりになった守備の隙を突かれる形の失点も増え、第24節以降の11試合は6戦連続無勝利を含む1勝4分6敗の成績で、夏季中断期間前まで1試合平均「2」だった勝点は「1」へと大幅に減少し優勝戦線から一気に後退した<ref name="chuspo231205"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/779678 |title=6戦連続勝ちなし…9月リーグ戦勝ちなし…ユンカーの華麗なループ弾で先制も3失点【名古屋グランパス】 |website=中日スポーツ |date=2023-09-30 |accessdate=2023-12-04}}</ref><ref name="chuspo231206">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/817658 |title=マテウス移籍が失速原因…だけとも言い切れない 『名古屋対策』に間に合わなかった新戦術【J1名古屋2023年総括】 |website=中日スポーツ |date=2023-12-06 |accessdate=2023-12-13}}</ref>。 リーグ戦の最終成績は6位(14勝10分10敗)。リーグ戦のホームゲームでの無敗はクラブ史上初で<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/816451 |title=異例の45分遅れで試合開始の名古屋グランパス、終了間際にユンカーがPKを決めドロー、クラブ史上初のリーグ戦ホーム無敗でシーズンを終える |website=中日スポーツ |date=2023-12-03 |accessdate=2023-12-04}}</ref>、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]](2006年)と[[川崎フロンターレ|川崎]](2021年)に次ぐ史上3チーム目の記録となった。総得点41は前シーズンから大幅に改善されたものの<ref name="chuspo231205"/>、夏季のマテウス移籍がチームに与えた影響は隠しきれず、離脱後はシーズン終盤まで試行錯誤を繰り返すこととなった<ref name="chuspo231206"/>。 ルヴァンカップは準決勝進出(ベスト4)、天皇杯は準々決勝(ベスト8)で敗退。夏季中断期間までは全てのタイトルの可能性もあったが<ref name="chuspo231205"/>、結果的には2年連続の無冠であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/jleague/detail/?394777-394777-fl |title=24年ぶり長良川でリーグ戦開催の名古屋、痛恨ドローでV逸決定…10人鳥栖が89分同点劇 |website=ゲキサカ |date=2023-10-27 |accessdate=2023-11-17}}</ref>。 ==== 2024年(J1) ==== '''{{small|{{main|2024年の名古屋グランパスエイト}}}}''' * '''スローガン''' : * '''監督''' : 長谷川健太(3年目) == 成績 == {{Main|名古屋グランパスエイトの年度別成績一覧}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" !colspan="3"|[[J1リーグ]]!!rowspan="2"| !colspan="3"|[[Jリーグカップ]]!!rowspan="2"| !colspan="3"|[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]] |- !順位!!回数!!年度!!成績!!回数!!年度!!成績!!回数!!年度 |- |bgcolor=gold|'''優勝'''||1||align=left|2010|| rowspan="15" | |bgcolor=gold|'''優勝'''||1||align=left|2021|| rowspan="15" | |bgcolor=gold|'''優勝'''||2||align=left|1995, 1999 |- |bgcolor=silver|'''2位'''||2||align=left|1996, 2011 |bgcolor=silver|'''準優勝'''||0|| |bgcolor=silver|'''準優勝'''||1||align=left|2009 |- |bgcolor=#deb678|'''3位'''||3||align=left|1995, 2008, 2020 !ベスト4 |9||align=left|1992, 1997, 1999, 2000, 2001, <br />2004, 2008, 2011, 2023 !ベスト4 |1||align=left|1998 |- !4位 |1||align=left|1999 !ベスト8 |7||align=left|2003, 2009, 2012, 2015, 2019, <br />2020, 2022 !ベスト8 |9||align="left"|1993, 2002, 2008, 2010, 2011, <br />2012, 2014, 2021, 2023 |- !5位 |3||align=left|1998, 2001, 2021 !PO敗退 |0|| !5回戦敗退 |4||align="left"|2004, 2005, 2006, 2007 |- !6位 |1||align=left|2002, 2023 !GL敗退<br />(1回戦敗退) |13||align=left|1993, 1994, 1996, 1998, 2002, <br />2005, 2006, 2007, 2010, 2013, <br />2014, 2016, 2018 !4回戦敗退 |4||align=left|2000, 2003, 2017, 2022 |- !7位 |4||align=left|2003, 2004, 2006, 2012 | colspan="3" rowspan="9" | !3回戦敗退 |4||align=left|1996, 1997, 2001, 2018 |- !8位 |1||align=left|2022 !2回戦敗退 |5||align=left|1994, 2013, 2015, 2016, 2019 |- !9位 |5||align=left|1993, 1997, 2000, 2009, 2015 !1回戦敗退 |1||align=left|1992 |- !10位 |1||align=left|2014 | colspan="3" rowspan="6" | |- !11位 |3||align=left|1994, 2007, 2013 |- !13位 |1||align=left|2019 |- !14位 |1||align=left|2005 |- !15位 |1||align=left|2018 |- !16位 |1||align=left|2016 |} == 選手・監督・コーチ == {{Main|名古屋グランパスエイトの選手一覧}} == 各記録等 == シーズン単位の記録は、明記がない限り2005年の34試合制移行後に限る。 === シーズンの記録 === {| class="wikitable" style="text-align:left; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" ! 項目 !! 記録 !! シーズン !! 備考 !! 出典 |- | rowspan=2 | 最多勝利 || 23勝(J1) || 2010年 || 単純な勝利数では1995年(52試合)の32勝。 || |- | 23勝(J2) || 2017年 || || |- | 最多敗戦 || 18敗 || 2016年 || || |- | 最少勝利 || 7勝 || 2016年 || || |- | 最少敗戦 || 5敗 || 2011年 || || |- | rowspan=2 | 最多得点 || 67得点(J1) || 2011年 || 単純な得点数では1995年(52試合)の99得点。 || |- | 85得点(J2) || 2017年 || この年のリーグ最多得点。 || {{R|FC}} |- | 最多失点 || 59失点 || 2018年 || この年のリーグ最多失点。<br />単純な失点数では1995年(52試合)の82得点。 || {{R|FC}} |- | 最少得点 || 30得点 || 2022年 || || |- | 最少失点 || 28失点 || 2020年 || この年のリーグ最少失点。[[#年間無失点試合数のリーグ記録(2020年)|後述]]。 || {{R|nikkann201226}} |- | rowspan=2 | 無失点試合 || 17試合 || 2020年 || リーグ記録タイ。[[#年間無失点試合数のリーグ記録(2020年)|後述]]。 || {{R|nikkann201226}} |- | 21試合 || 2021年 || 38試合。1993年のリーグ開幕からの最多記録。[[#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)|後述]]。 || {{R|chuspo2021総括1}} |} === 試合の記録 === {| class="wikitable" style="text-align:left; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" |+チームの記録 ! 項目 !! 記録 !! 期間 !! 備考 !! 出典 |- | 連続勝利 || 10試合 || 1999年2nd第6節 - 第15節 || || |- | 連続敗戦 || 9試合 || 1994年2nd第13節 - 第21節 || || |- | 連続引分 || 4試合 || 2008年第27節 - 第30節 || || |- | 開幕からの連続勝利 || 6試合 || 2021年第1節 - 第6節 || 延長戦廃止以後に限るとリーグ記録タイ。[[#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)|後述]]。 || <ref name="chuspo210416">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/237887 |title=「川崎戦まで負けないように」 米本は重圧を力に変える クラブ新17試合不敗へ闘志 【J1名古屋】 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-04-16 |accessdate=2021-04-19}}</ref> |- | rowspan=2 | 連続無敗 || rowspan=2 | 16試合 || 2011年第12節 - 第9節{{Efn|[[東日本大震災]]や[[AFCチャンピオンズリーグ2011]]の影響で日程が大幅に変更され、第2節から第6節が第18節と第19節の間に、第9節は第21節と第22節の間に開催された。}} || 同一シーズンに限ると最長。 || |- | 2020年第27節 - 2021年第10節 || || {{R|chuspo210416}} |- | 連続未勝利 || 18試合 || 2016年1st第11節 - 2nd第10節 || || |- | 連続得点試合 || 20試合 || 2003年2nd第14節 - 2004年2nd第3節 || || |- | 連続無得点試合 || 4試合 || || || |- | 連続失点試合 || 24試合 || 1999年1st第5節 - 2nd第13節 || || |- | 連続無失点試合 || 9試合 || 2021年第2節 - 第19節 || リーグ記録。[[#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)|後述]]。 || {{R|ゲキサカ210418}} |- | 無失点継続時間 || 823分 || 2021年第1節 - 第10節 || リーグ記録。[[#連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年)|後述]]。 || {{R|ゲキサカ210418}} |- | 1試合の最多得点 || 8得点 || 1999年1st第15節 || 対[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]] || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20819 |title=J1名古屋1試合の最多得点は1999年5月浦和戦の8得点!呂比須ワグナーが大爆発で5得点! |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-21 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |- | 1試合の最多失点 || 7失点 || 1997年2nd第4節 || 対[[鹿島アントラーズ]] || <ref name="chuspo200523">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20817 |title=J1名古屋1試合の最多失点は1997年8月9日アウェー鹿島戦の7失点…シュート数も2-24の大差 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-23 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |} {| class="wikitable" style="text-align:left; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" |+個人の記録 ! 項目 !! 選手 !! 記録 !! 日付 !! 出典 |- | rowspan=2 | 最年長出場 || rowspan=2 | [[楢﨑正剛]] || 40歳{{0}}6か月{{0}}19日(J1) || 2016年11月{{0}}3日 || <ref name="chuspo200525">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20808 |title=グランパスのJ1での最年長出場者は40歳6カ月19日の楢﨑 最年長ゴールは玉田の38歳6カ月23日 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-25 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |- | 41歳{{0}}5か月{{00}}2日(J2) || 2017年{{0}}9月17日 || {{R|chuspo200525}} |- | 最年長ゴール || [[玉田圭司]] || 38歳{{0}}6か月{{0}}23日 || 2018年11月{{0}}3日 || {{R|chuspo200525}} |- | 最年少出場 || [[成瀬竣平]] || 17歳{{0}}2か月{{00}}1日 || 2018年{{0}}3月18日 || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20806 |title=グランパスのリーグ戦最年少出場者は成瀬竣平の17歳2カ月1日…現在オランダ所属のあの選手も17歳で活躍 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-24 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |} === 通算の記録 === {| class="wikitable" style="text-align:left; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" |+勝敗の記録 ! 項目 !! 日付 !! 対戦相手 !! 備考 !! 出典 |- | align=right | 1勝目 || 1993年{{0}}5月19日 || [[浦和レッドダイヤモンズ]] || || {{R|chuspo200627}} |- | align=right | 100勝目 || 1998年{{0}}4月15日 || [[アビスパ福岡]] || 通算200試合目。 || {{R|chuspo200627}} |- | align=right | 200勝目 || 2004年{{0}}8月21日 || [[ジュビロ磐田]] || 通算395試合目。史上6クラブ目。 || {{R|chuspo200627}} |- | align=right | 300勝目 || 2011年{{0}}6月15日 || [[アルビレックス新潟]] || 通算621試合目。史上5クラブ目。 || {{R|chuspo200627}} |- | align=right | 400勝目 || 2020年{{0}}7月{{0}}4日 || [[清水エスパルス]] || 通算886試合目。史上5クラブ目。 || {{R|chuspo200627|chuspo200704}} |- | align=right | 1敗目 || 1993年{{0}}5月16日 || [[鹿島アントラーズ]] || Jリーグ開幕戦。 || |- | align=right | 100敗目 || 1998年{{0}}4月{{0}}4日 || [[セレッソ大阪]] || 通算198試合目。 || |- | align=right | 200敗目 || 2006年10月{{0}}7日 || [[FC東京]] || 通算468試合目。 || |- | align=right | 300敗目 || 2015年10月{{0}}3日 || [[柏レイソル]] || 通算778試合目。 || |- | align=right | ホーム1勝目 || 1993年{{0}}5月22日 || [[横浜F・マリノス|横浜マリノス]] || || |- | align=right | ホーム100勝目 || 2002年{{0}}7月24日 || [[ヴィッセル神戸]] || || |- | align=right | ホーム200勝目 || 2015年{{0}}5月{{0}}2日 || [[湘南ベルマーレ]] || 史上4クラブ目。 || <ref>{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2015/0701-200.php |title=名古屋グランパス ホームゲーム通算200勝達成記念グッズ発売のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2015-07-01 |accessdate=2021-05-21}}</ref> |- | align=right | 1000試合目 || 2023年{{0}}4月29日 || 横浜F・マリノス || 史上4クラブ目。 || |} {| class="wikitable" style="text-align:left; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" |+得失点の記録 ! 項目 !! 日付 !! 対戦相手 !! 得点者 !! 備考 !! 出典 |- | align=right | 1得点目 || 1993年{{0}}5月19日 || 浦和レッドダイヤモンズ || [[森山泰行]] || || {{R|chuspo200627}} |- | align=right | 500得点目 || 2001年{{0}}7月{{0}}7日 || アビスパ福岡 || [[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]] || || |- | align=right | 1000得点目 || 2011年{{0}}7月23日 || [[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]] || [[増川隆洋]] || || <ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?87814-82893-fl |title=名古屋が広島に競り勝ち、4連勝!!増川がクラブ通算1000ゴール目のメモリアル弾 |website=ゲキサカ |date=2011-07-23 |accessdate=2021-05-19}}</ref> |- | align=right | 1失点目 || 1993年{{0}}5月16日 || 鹿島アントラーズ || [[ジーコ]] || Jリーグ開幕戦。 || |- | align=right | 500失点目 || 2001年11月24日 || 浦和レッズ || [[福田正博]] || || |- | align=right | 1000失点目 || 2013年{{0}}9月14日 || 清水エスパルス || [[ジェナン・ラドンチッチ|ラドンチッチ]] ||[[ガンバ大阪]]に次ぐ2クラブ目。 || |- | align=right | ホーム1得点目 || 1993年{{0}}5月22日 || 横浜マリノス || [[沢入重雄]] || || <ref name="official200926">{{Cite web|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/0926-758-1.php |title=名古屋グランパス J1リーグホーム通算758ゴール達成のお知らせ |website=名古屋グランパス公式サイト |date=2020-09-26 |accessdate=2021-05-21}}</ref> |- | align=right | ホーム500得点目 || 2010年{{0}}3月13日 || [[川崎フロンターレ]] || [[マギヌン・ラファエル・ファリアス・タバレス|マギヌン]] || || {{R|official200926}} |- | align=right | ホーム758得点目 || 2020年{{0}}9月26日 || 清水エスパルス || [[丸山祐市]] || 758は「[[名古屋]]」に因む。 || {{R|official200926}} |} {| class="wikitable" style="text-align:left; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" |+個人の通算記録(2022年シーズン終了時点、赤色着色は継続中) ! 項目 !! 1位 !! 2位 !! 3位 !!出典 |- | 出場試合数 || [[楢﨑正剛]](527試合) || [[中村直志]](342試合) || [[小川佳純]](286試合) || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20827 |title=J1名古屋、出場試合数ぶっちぎりの1位は楢﨑、2位はグランパス一筋14年の万能プレーヤー |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-18 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |- | 連続出場試合数 || [[稲垣祥]](139試合) || 楢﨑正剛(123試合) || [[ミッチェル・ランゲラック|ランゲラック]](114試合) || <ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/soccer/column/data/news/202209050000493.html |title=【データが語る】名古屋の「鉄人」稲垣祥、100試合連続出場あと1 フィールド選手18人目へ |newspaper=日刊スポーツ |date=2022-09-06 |accessdate=2023-02-27}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/812427 |title=稲垣祥、神戸との差を語る「常にぶれなかった」 次節出場停止で連続出場もストップ【名古屋グランパス】 |newspaper=中日スポーツ |date=2023-11-25 |accessdate=2023-12-03}}</ref> |- | 得点数 || ウェズレイ(81点) || [[玉田圭司]](69点) || [[ジョシュア・ケネディ|ケネディ]](64点) || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20828 |title=グランパス最強ストライカーは「猛犬」ウェズレイ 日本人1位は…今も現役で頑張るテクニシャン |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-19 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |- | 直接FKでの得点数 || ウェズレイ(10点) || colspan="2" | ストイコビッチ・玉田圭司(6点) || <ref name="chuspo200527">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/62921 |title=J1名古屋の直接FK得点ランク “無回転”が代名詞のあの人が在籍3年ながら5位に |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-27 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |- | PKでの得点数 || ケネディ(17点) || ストイコビッチ(16点) || 玉田圭司(8点) || {{R|chuspo200527}} |- | 途中出場からの得点数 || 森山泰行(22点) || [[岡山哲也]](13点) || [[福田健二]](10点) || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20815 |title=J1名古屋最強のスーパーサブは森山泰行!63得点中22得点が途中出場でのゴール! |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-26 |accessdate=2021-04-26}}</ref> |- | 警告{{Efn|記録にはナビスコ杯・天皇杯などを含む。}} || 中村直志(88回) || [[ドラガン・ストイコビッチ|ストイコビッチ]](82回) || [[古賀正紘]](57回) || <ref>{{Cite web|和書|url=https://soccer-db.net/team/total_player.php?te=1025 |title=名古屋グランパス 選手通算記録 |website=Soccor D.B. |accessdate=2021-05-25}}</ref> |- | 退場 || ストイコビッチ(13回) || [[飯島寿久]](6回) || [[カルロス・アレクシャンドレ・トーレス|トーレス]]・古賀正紘(5回) || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/20821 |title=8季で退場13回、カード奪ったことも…“ピクシー“ストイコビッチ氏が今も保持するJリーグ記録 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-20 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |- | 監督勝利数 || ストイコビッチ(103勝) || [[アーセン・ベンゲル|ベンゲル]](47勝) || [[ジョアン・カルロス]](32勝) || <ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/64797 |title=J1名古屋の監督勝利数ナンバー1はピクシーことストイコビッチ監督!在籍6年で103勝 |newspaper=中日スポーツ |date=2020-05-30 |accessdate=2021-05-27}}</ref> |} === 鬼門の茨城県立カシマサッカースタジアム === [[鹿島アントラーズ]]の本拠地である[[茨城県立カシマサッカースタジアム]]では、1993年のリーグ開幕戦で[[ジーコ]]の[[ハットトリック]]を含む5失点完封負けを喫し{{R|東洋経済}}、その後は2008年までリーグ戦だけで15試合、カップ戦を含めると20試合で1勝も挙げることができなかった<ref name="sponichi080823">{{cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2008/08/23/kiji/K20080823Z00000850.html |title=浦和3発単独首位!名古屋はカシマ初勝利 |newspaper=スポニチ アネックス |date=2008-08-23 |accessdate=2021-05-20}}</ref>。1997年にはクラブ最多7失点もカシマで記録しており{{R|chuspo200523}}、2019年までは無失点の試合が1度もなかった<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/146485 |title=J1名古屋、31日に鹿島と鬼門・カシマで激突 無失点試合ない“負の歴史”はDF丸山祐市が断つ!! |newspaper=中日スポーツ |date=2020-10-31 |accessdate=2021-05-20}}</ref>。2020年の第25節でようやく無失点で試合を終えるが、2020年までのカシマでのリーグ戦の対戦成績は5勝1分21敗と大きく負け越している<ref>{{Cite web|和書|url=https://soccerhihyo.futabanet.jp/articles/-/83649 |title=【J1プレビュー】無傷の名古屋が狙うもうひとつの連勝 立ちはだかるのは「鬼門」鹿島 |website=サッカー批評Web |date=2021-03-19 |accessdate=2021-05-20}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 2008年までのカシマスタジアムでの戦跡 ! 年 !! 節など !! 開催日 !! スコア !! !! 年 !! 節など !! 開催日 !! スコア |- | rowspan=2 | 1993 || 1st 1 || {{0}}5月16日 || 0-5 ● || rowspan=11 | || 2002 || 2nd 7 || 10月{{0}}6日 || 1-4 ● |- | 2nd 2 || {{0}}7月31日 || 1-1 (PK3-5) ● || rowspan="2" | 2003 || YNC準々決勝 || {{0}}8月13日 || 1-5 ● |- | rowspan=2 | 1994 || 1st 17 || {{0}}5月18日 || 1-2 ● || 2nd 1 || {{0}}8月16日 || 0-1 ● |- | 2nd 17 || 11月{{0}}2日 || 3-3 (PK4-5) ● || 2004 || 1st 3 || {{0}}4月{{0}}4日 || 2-3 ● |- | 1995 || 1st 10 || {{0}}4月22日 || 0-4 ● || rowspan=2 | 2005 || YNC予選 || {{0}}3月26日 || 1-2 ● |- | rowspan=2 | 1996 || [[Jリーグカップ|YNC]]予選 || {{0}}6月22日 || 0-2 ● || 28 || 10月22日 || 0-1 ● |- | 29 || 11月{{0}}6日 || 2-4 ● || 2006 || 21 || {{0}}8月30日 || 1-2 ● |- | rowspan=2 | 1997 || 2nd 4 || {{0}}8月{{0}}9日 || 0-7 ● || rowspan=2 | 2007 || YNC予選 || {{0}}4月11日 || 1-2 ● |- | YNC準決勝 || 11月{{0}}1日 || 0-1 ● || 17 || {{0}}6月24日 || 1-2 ● |- | 1998 || 2nd 13 || 10月24日 || 0-1 ● || 2008 || 22 || {{0}}8月23日 || 2-1 ○ |- | 2001 || 2nd 7 || {{0}}9月29日 || 2-4 ● |} === リーグ初優勝(2010年) === グランパスは[[2010年のJリーグ|2010年]]に、Jリーグ創設18年目にしてリーグ戦で初優勝した{{R|今井|FC190504|大住nikkei}}。優勝が決定したのは11月20日の第31節で、1シーズン・34試合制に移行した2005年以後では最終節を待たずに優勝が決定したのは初めてであった{{R|今井|FC190504|大住nikkei}}。最終成績の「23勝」「2位との勝点差10」はいずれも当時のリーグ記録で、「勝点72」もリーグ記録タイであった{{R|今井|FC190504}}。 この年のグランパスは勝点差では大差をつけて優勝したが、内訳を見ると「総得点54」「総失点37」はいずれも上位チームには劣っていた{{R|大住nikkei}} <!--出典は第33節終了時点ですが、最終節の公式記録(https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=12847)から加算して表記。以下同。-->。それでも優勝できた要因として「勝負強さ」が挙げられ、それを示すように1点差での勝利は23勝のうち16試合もあった{{R|大住nikkei}}。シーズン通算のグランパスのシュート数「426本」に対して被シュート数は「483本」で、グランパスの方がシュート数が多かったのはわずか11試合であった{{R|大住nikkei}}。先制点を奪った24試合は21勝2分1敗であり、先制点を取って守りきるという展開が多かったことを物語っている{{R|大住nikkei}}。こうした「勝負強さ」に重要だったのが闘莉王の存在感で、数値に見える攻守の貢献のみならず、チーム全体で勝ちに拘る精神的な影響を与えたと考えられた{{R|大住nikkei}}。なお、このシーズンは連敗が一度もなく{{R|今井}}、また敗戦の次の試合は必ず勝っていた。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 2010年 上位5チームの最終成績 ! 順位 !! チーム !! 勝点 !! 勝数 !! 分数 !! 敗数 !! 得点 !! 失点 !! 得失点差 |- | 1 || 名古屋グランパス || 72 || 23 || 3 || 8 || 54 || 37 || +17 |- | 2 || [[ガンバ大阪]] || 62 || 18 || 8 || 8 || 65 || 44 || +21 |- | 3 || [[セレッソ大阪]] || 61 || 17 || 10 || 7 || 58 || 32 || +26 |- | 4 || [[鹿島アントラーズ]] || 60 || 16 || 12 || 6 || 51 || 31 || +20 |- | 5 || [[川崎フロンターレ]] || 54 || 15 || 9 || 10 || 61 || 47 || +14 |} === 年間無失点試合数のリーグ記録(2020年) === [[2020年のJ1リーグ|2020年]]の'''無失点試合「17試合」'''は、2008年の[[大分トリニータ]]と並ぶリーグ記録タイであった{{R|nikkann201226}}。守備の中心を担った[[ミッチェル・ランゲラック|ランゲラック]]・[[丸山祐市]]・[[中谷進之介]]は全試合でフル出場を続け、個人としての無失点試合も歴代最多となった{{R|nikkann201226|批評2021}}。 '''総失点「28点」'''はこのシーズンのリーグ最少{{R|批評2021|nikkann201226}}。2位に勝点差18で圧勝した[[川崎フロンターレ]]の「31点」を上回っており{{R|nikkann201226}}、総得点数がほぼ同じ2位ガンバ大阪の「42点」、4位セレッソ大阪の「37点」と比較すると守備の固さは歴然であった{{R|批評2021}}。総失点「28点」は34試合制となった2005年以降に限ると、大分トリニータ(2008年)の「24点」、[[ベガルタ仙台]](2011年)と[[セレッソ大阪]](2019年)の「25点」、川崎フロンターレ(2018年)の「27点」に次いで、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]](2006年・2007年・2016年)と並ぶ歴代5位の記録である{{R|nikkann201226}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 2020年 無失点試合の一覧 ! 節 !! 開催日 !! 対戦相手 !! 開催地 !! スコア !! !! 節 !! 開催日 !! 対戦相手 !! 開催地 !! スコア |- | 4 || {{0}}7月12日 || [[セレッソ大阪]] || [[大阪市|大阪]] || 2-0 ○ || rowspan="9" | || 24 || 10月24日 || [[ベガルタ仙台]] || 名古屋 || 1-0 ○ |- | 5 || {{0}}7月18日 || [[サガン鳥栖]] || 豊田 || 1-0 ○ || 25 || 10月31日 || [[鹿島アントラーズ]] || [[鹿嶋市|鹿嶋]] || 2-0 ○ |- | 6 || {{0}}7月22日 || [[大分トリニータ]] || [[大分市|大分]] || 3-0 ○ || 26 || 11月{{0}}3日 || サガン鳥栖 || [[鳥栖市|鳥栖]] || 0-0 △ |- | 11 || {{0}}8月19日 || [[湘南ベルマーレ]] || [[平塚市|平塚]] || 1-0 ○ || 27 || 11月15日 || [[FC東京]] || 豊田 || 1-0 ○ |- | 12 || {{0}}8月23日 || [[川崎フロンターレ]] || 豊田 || 1-0 ○ || 30 || 11月28日 || 大分トリニータ || 名古屋 || 0-0 △ |- | 13 || {{0}}8月29日 || [[北海道コンサドーレ札幌]] || [[札幌市|札幌]] || 0-0 △ || 31 || 12月{{0}}5日 || [[柏レイソル]] || [[柏市|柏]] || 1-0 ○ |- | 20 || 10月{{0}}4日 || [[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]] || [[さいたま市|さいたま]] || 1-0 ○ || 32 || 12月12日 || [[横浜FC]] || 名古屋 || 0-0 △ |- | 21 || 10月10日 || セレッソ大阪 || 名古屋 || 1-0 ○ || 34 || 12月19日 || [[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]] || 豊田 || 1-0 ○ |- | 22 || 10月14日 || 北海道コンサドーレ札幌 || 名古屋 || 3-0 ○ |} === 連続無失点試合・無失点継続時間のリーグ記録(2021年) === [[2021年のJ1リーグ|2021年]]は開幕戦でオウンゴールによる失点があったが、その後は第10節で敗れるまで無失点が続いた{{R|ゲキサカ210418}}。第2節から第19節(10試合目)までの'''連続無失点「9試合」'''は{{R|ゲキサカ210418}}、2014年に[[浦和レッズ]]が記録した「7試合」のリーグ記録を更新し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20210411/1255144.html |title=名古屋、8試合連続無失点でJ1記録更新! 柿谷の移籍後初ゴールなどで大分に3得点勝利 |website=サッカーキング |date=2021-04-11 |accessdate=2021-04-16}}</ref>、グランパスとしては2009年の「4試合」を大幅に更新する成績であった。また、第1節の失点から第10節の失点までの'''無失点継続時間「823分」'''は{{R|ゲキサカ210418}}、2006年に[[横浜FC]]が記録した「770分」のJリーグ記録{{R|ゲキサカ210418}}、1993年に[[清水エスパルス]]が記録した「731分」のJ1記録をともに塗り替えた<ref>{{cite news |url=https://hochi.news/articles/20210414-OHT1T50297.html |title=【名古屋】「クレイジー。本当に誇り」GKランゲラック、9戦連続&無失点時間J記録更新に笑顔 |newspaper=スポーツ報知 |date=2021-04-14 |accessdate=2021-04-15}}</ref>。 無敗は[[2020年のJ1リーグ|前年]]の第27節から継続しており、今シーズン第19節までの'''連続無敗「16試合」'''はクラブ記録と並んでいる{{R|chuspo210416}}。また、'''開幕連勝「6試合」'''も1996年と2007年の「4試合」を更新するクラブ記録で<ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/221963 |title=【J1名古屋】連続無失点試合「5」達成 同一シーズンでのクラブ新 |newspaper=中日スポーツ |date=2021-03-21 |accessdate=2021-03-22}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/230106 |title=J1名古屋はFC東京と0-0ドロー 開幕連勝は「6」でストップもクラブ新の連続無失点試合は「6」に |newspaper=中日スポーツ |date=2021-04-03 |accessdate=2021-04-05}}</ref><ref name="中スポ210318">{{cite news |url=https://www.chunichi.co.jp/article/219790 |title=【J1名古屋】3発快勝!開幕5連勝、グランパスの新たな歴史だ 途中出場の山崎今季初ゴール 采配もさえた |newspaper=[[中日スポーツ]] |date=2021-03-18 |accessdate=2021-03-18}}</ref>、2003年のリーグ戦の延長戦廃止以後に限るとリーグ記録にも並んでいる{{R|中スポ210318}}。 なお、このシーズンは38試合制の開催であったが'''無失点試合「21試合」'''の記録を達成し、54試合制の1995年に[[横浜マリノス]]が記録した「18試合」のリーグ記録を更新している{{R|chuspo2021総括1}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 2021年 第1節から第10節の戦績 ! 節 !! 開催日 !! 対戦相手 !! 開催地 !! スコア |- | 1 || 2月28日 || [[アビスパ福岡]] || [[福岡市|福岡]] || 2-1 ○ |- | 2 || 3月{{0}}6日 || [[北海道コンサドーレ札幌]] || 豊田 || 1-0 ○ |- | 3 || 3月10日 || [[柏レイソル]] || [[柏市|柏]] || 1-0 ○ |- | 4 || 3月13日 || [[ヴィッセル神戸]] || [[神戸市|神戸]] || 1-0 ○ |- | 5 || 3月17日 || [[横浜FC]] || 豊田 || 3-0 ○ |- | 6 || 3月21日 || [[鹿島アントラーズ]] || [[鹿嶋市|鹿嶋]] || 1-0 ○ |- | 7 || 4月{{0}}3日 || [[FC東京]] || 豊田 || 0-0 △ |- | 8 || 4月{{0}}7日 || [[湘南ベルマーレ]] || [[平塚市|平塚]] || 0-0 △ |- | 9 || 4月11日 || [[大分トリニータ]] || [[大分市|大分]] || 3-0 ○ |- | 19 || 4月14日 || [[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]] || 豊田 || 1-0 ○ |- | 10 || 4月18日 || [[サガン鳥栖]] || 豊田 || 1-2 ● |} == タイトル・表彰 == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]:1回''' ** [[2010年のJリーグ|2010]] *** '''[[Jリーグチャンピオンシップ|サントリーカップ・チャンピオン・ファイナル]]:1回''' **** [[Jリーグチャンピオンシップ|1996]] * '''[[Jリーグカップ]]:1回''' ** [[2021年のJリーグカップ|2021]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:2回''' ** [[第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1995]], [[第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1999]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:2回''' ** 1996, 2011 === その他タイトル === * '''[[サンワバンクカップ]]''':1回 ** 1997 * '''[[トヨタプレミアカップ]]''':1回 ** 2013 === 表彰 === {| class="wikitable" style="text-align:center; box-shadow: 4px 4px 4px #D70C18" ! 年度 !! [[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞・得点王|最優秀選手(MVP)]] !! [[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] !! [[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞・得点王|得点王]] !! [[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|新人王]] !! [[Jリーグアウォーズ#優秀監督賞・優勝監督賞|最優秀監督]] !! [[Jリーグアウォーズ#最優秀ゴール賞|最優秀ゴール賞]] |- |colspan="7"|''[[1993年のJリーグ|1993年]]から[[1994年のJリーグ|1994年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[1995年のJリーグ|1995年]] || [[ドラガン・ストイコビッチ|ストイコビッチ]] || ストイコビッチ || - || - || [[アーセン・ベンゲル|ベンゲル]] || - |- ! [[1996年のJリーグ|1996年]] || - || ストイコビッチ || - || - || - || - |- |colspan="7"|''[[1997年のJリーグ|1997年]]から[[1998年のJリーグ|1998年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[1999年のJリーグ|1999年]] || - || ストイコビッチ || - || - || - || - |- |colspan="7"|''[[2000年のJリーグ|2000年]]から[[2002年のJリーグ|2002年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[2003年のJリーグ|2003年]] || - || [[楢﨑正剛]]<br />[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]] || ウェズレイ || - || - || - |- ! [[2004年のJリーグ|2004年]] || - || [[マルケス・バチスタ・デ・アブレウ|マルケス]] || - || - || - || - |- |colspan="7"|''[[2005年のJリーグ|2005年]]から[[2007年のJリーグ|2007年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[2008年のJリーグ|2008年]] || - || 楢﨑正剛<br />[[小川佳純]] || - || 小川佳純 || - || - |- |colspan="7"|''[[2009年のJリーグ|2009年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[2010年のJリーグ|2010年]] || 楢﨑正剛 || 楢﨑正剛<br />[[田中マルクス闘莉王|闘莉王]]<br />[[増川隆洋]]<br />[[ダニルソン・コルドバ|ダニルソン]]<br />[[ジョシュア・ケネディ|ケネディ]] || ケネディ || - || ストイコビッチ || - |- ! [[2011年のJリーグ|2011年]] || - || 楢﨑正剛<br />闘莉王<br />[[藤本淳吾]]<br />ケネディ || ケネディ || - || - || - |- ! [[2012年のJリーグ|2012年]] || - || 闘莉王 || - || - || - || - |- |colspan="7"|''[[2013年のJリーグ|2013年]]から[[2015年のJリーグ|2015年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[2016年のJリーグ|2016年]] || - || - || - || - || - || [[田口泰士]] |- |colspan="7"|''[[2017年のJリーグ|2017年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[2018年のJリーグ|2018年]] || - || [[ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァ|ジョー]] || ジョー || - || - || - |- |colspan="7"|''[[2019年のJリーグ|2019年]]から[[2020年のJリーグ|2020年]]は、受賞者無し。'' |- ! [[2021年のJリーグ|2021年]] || - || [[ミッチェル・ランゲラック|ランゲラック]]<br />[[稲垣祥]] || - || - || - || [[柿谷曜一朗]] |- |colspan="7"|''[[2022年のJリーグ|2022年]]から[[2023年のJリーグ|2023年]]は、受賞者無し。'' |} == スタジアム・練習場 == ホームスタジアムは、[[豊田スタジアム]]および[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場|パロマ瑞穂スタジアム]]{{R|jleague}}である。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「[[名古屋グランパスエイトの年度別成績一覧#年度別入場者数|当項目]]」を参照のこと。 当初はホームタウンが名古屋市のみのため、パロマ瑞穂スタジアムのみの登録だったが、2012年に豊田市がホームタウンに加わったのを機に、それまで準本拠扱いだった豊田スタジアムを本拠に追加。週末開催のリーグ戦はほぼ半数ずつを開催。カップ戦など平日開催の多くはパロマ瑞穂スタジアムで行う。但し、2017年はJ2に降格し、リーグカップ出場が出来なかった{{Efn|当時のJリーグカップは当該年のJ1クラブのみしか出場資格がなかった(2018年以後、原則として前年の成績によりJ2に降格した1-2クラブ([[AFCチャンピオンズリーグ]]プレーオフの成績による)に対してに対して出場権を与えるルールがある)}}ため、パロマ瑞穂スタジアムの試合がその分多かった。 なおグランパスは名古屋市と共同で、[[2019年]][[11月]]にパロマ瑞穂スタジアムの全面改築工事を[[2021年]]から実施(改築完了・使用再開時期未定)するのに伴い、[[2020年のJ1リーグ]]終了をもって一旦パロマ瑞穂スタジアムでの開催を中断することを発表している<ref>{{Cite press release|和書|date=2019-11-19|url=http://www.nespa.or.jp/system/news_data/03/201911151522125431.pdf|title=瑞穂公園陸上競技場(パロマ瑞穂スタジアム) 建て替えに伴う休場予定のお知らせ |publisher=名古屋市教育委員会生涯学習部スポーツ振興課 |accessdate=2020-01-10}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|date=2019-11-22|url=https://nagoya-grampus.jp/news/game/2019/1122post-1326.php|title=瑞穂公園陸上競技場(パロマ瑞穂スタジアム)建て替えに伴う休場について|publisher=名古屋グランパスエイト |accessdate=2020-01-10}}</ref>。 練習場は[[愛知県]][[豊田市]]の[[トヨタスポーツセンター]]第1グラウンドである{{R|jleague}}。 <gallery> File:Nagoya Grampus game in Toyota Stadium 100814.JPG|[[豊田スタジアム]]([[2010年]]) File:Mizuho Stadium 1.JPG|[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場]]([[2011年]]) File:Toyota-Sports-Center-1.jpg|[[トヨタスポーツセンター]]([[2020年]]) </gallery> == アカデミー・育成 == 2010年12月に[[スペイン]]の[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]所属の[[レアル・ソシエダ]]と選手育成に関する協力協定を締結<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201012/CK2010121602000014.html|title=スペイン1部の古豪レアル・ソシエダードと提携|accessdate=2013-3-14|date=2010-12-16|work=中日スポーツ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101218163834/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus/news/201012/CK2010121602000014.html|archivedate=2010年12月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>しており、若手選手がレアル・ソシエダの練習に参加している<ref>{{Cite press release|和書|title=スペイン短期留学のお知らせ|publisher=名古屋グランパス|date=2011-12-18|url=http://nagoya-grampus.jp/information/pressrelease/2011/1228post-532.php|format=|language=|accessdate=2013-3-14|archiveurl=|archivedate=|quote=}}</ref>。 === 名古屋グランパスU-18 === {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!!colspan="6" |リーグ戦!!rowspan="2"| ||colspan="3"|カップ戦!!rowspan="2" |監督 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース<br />選手権]]!![[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|高円宮杯]]!![[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]] |- |[[2008年のJFAプリンスリーグU-18#プリンスリーグ東海|2008]]||rowspan="3"|プリンスリーグ<br />東海1部||9||'''21'''||6||3||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''||rowspan="3"| ||[[第32回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#準々決勝|ベスト8]]||bgcolor="silver"|[[高円宮杯第19回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会#決勝|準優勝]]||[[2008Jユースカップ#2回戦|ベスト16]]|| |- |[[2009年のJFAプリンスリーグU-18#東海|2009]]||9||'''13'''||4||1||4||4位||[[第33回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#グループA|GL敗退]]|| - ||[[2009Jユースカップ#準々決勝|ベスト8]]|| |- |[[2010年のJFAプリンスリーグU-18#プリンスリーグ東海|2010]]||9||'''21'''||6||3||0||bgcolor="silver"|2位||[[第34回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#準決勝|ベスト4]]||[[高円宮杯第21回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会#ラウンド16|ベスト16]]||[[2010Jユースカップ#Gグループ|GL敗退]]|| |- !rowspan="2"|年度!!rowspan="2"|所属!!colspan="6"|リーグ戦!!rowspan="2"| !!colspan="3"|カップ戦!!rowspan="2"|監督 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース<br />選手権]]!!colspan="2"|[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2011 プレミアリーグ#ウエスト|2011]]||rowspan="6"|[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ|プレミアリーグWEST]]||18||'''28'''||8||4||6||4位||rowspan="12"| ||[[第35回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#準決勝|ベスト4]]||colspan="2" bgcolor="gold"|[[2011Jユースカップ#決勝|'''優勝''']]||rowspan="7"|{{Flagicon|JPN}} [[高田哲也]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2012 プレミアリーグ#ウエスト|2012]]||18||'''32'''||10||2||6||bgcolor=#deb678|3位||[[第36回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#グループE|GL敗退]]||colspan="2"|[[2012Jユースカップ#Fグループ|GL敗退]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2013 プレミアリーグ#ウエスト|2013]]||18||'''24'''||7||3||8||6位|| - ||colspan="2"|[[2013Jユースカップ#Eグループ|GL敗退]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2014 プレミアリーグ#ウエスト|2014]]||18||'''37'''||12||1||5||4位|| - ||colspan="2"|[[2014Jユースカップ#2回戦|ベスト16]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2015 プレミアリーグ#ウエスト|2015]]||18||'''21'''||6||3||9||8位||[[第39回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#準々決勝|ベスト8]]||colspan="2" bgcolor="silver"|[[2015Jユースカップ#決勝|準優勝]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2016 プレミアリーグ#プレミアリーグウエスト|2016]]||18||'''11'''||2||5||11||9位||[[第40回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#グループF|GL敗退]]||colspan="2"|[[2016Jユースカップ#3回戦|ベスト16]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2017#プリンスリーグ|2017]]||プリンスリーグ東海||18||'''45'''||14||3||1||bgcolor="gold"|'''優勝'''||[[第41回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#ラウンド16|ベスト16]]||colspan="2"|[[2017Jユースカップ#3回戦|ベスト16]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2018 プレミアリーグ#ウエスト|2018]]||rowspan="5"|プレミアリーグWEST||18||'''34'''||10||4||4||bgcolor=#deb678|3位||[[第42回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#準々決勝|ベスト8]]||colspan="2"|[[2018Jユースカップ#3回戦|ベスト16]]||rowspan="5"|{{Flagicon|JPN}} [[古賀聡]] |- |[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ 2019#ウエスト|2019]]||18||'''41'''||13||2||3||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="gold"|[[第43回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#決勝|'''優勝''']]||colspan="2" bgcolor="gold"|[[2019Jユースカップ#決勝|'''優勝''']] |- |[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ 2020#ウエスト|2020]]||colspan="6"|開催中止||[[第44回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#1回戦|1回戦敗退]]||colspan="2"|開催中止 |- |[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ 2021#プレミアリーグ|2021]]||15||'''29'''||9||2||4||bgcolor="silver"|2位||bgcolor="gold"|[[第45回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#決勝|'''優勝''']]||colspan="2"|[[2021Jユースリーグ#グループG|GL2位]] |- |[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ 2022#プレミアリーグ|2022]]||22||'''34'''||10||4||8||5位||[[第46回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#ラウンド16|ベスト16]]||colspan="2"|[[2022Jユースリーグ#グループG|GL4位]] |} === 出身選手 === {{main|名古屋グランパスエイトの選手一覧#アカデミー出身者}} === 主なタイトル === ==== U-18 ==== * [[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース選手権大会]] ** 2回:[[第43回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#決勝|2019年]]、[[第45回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会#決勝|2021年]] * [[Jリーグユース選手権大会]] ** 2回:[[2011Jユースカップ#決勝|2011年]]、[[2019Jユースカップ#決勝|2019年]] * [[高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ|JFAプリンスリーグU-18]] ** 2回:[[2008年のJFAプリンスリーグU-18#プリンスリーグ東海|2008年]]、[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ 2019#プレミアリーグ|2019年]] ==== U-15 ==== * [[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会]] ** 1回:[[第23回日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会#決勝|2008年]] * [[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会]] ** 2回:1999年、[[高円宮杯第22回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会#決勝|2010年]] ==== U-12 ==== * [[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会]] ** 1回:2009年 == ユニフォーム == {{ユニフォームの色 | F正シャツ=赤|F正パンツ=赤|F正ストッキング=赤 | F副シャツ=白|F副パンツ=白|F副ストッキング=白 | G正シャツ=黄|G正パンツ=黄|G正ストッキング=黄 | G副シャツ=紫|G副パンツ=紫|G副ストッキング=紫 | pattern_la1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Nagoya Grampus Eight 2023 HOME FP | leftarm1 = | body1 = FF0000 | rightarm1 = FF0000 | shorts1 = 000000 | socks1 = 000000 | pattern_la2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Nagoya Grampus Eight 2023 AWAY FP | leftarm2 = FFFFFF | body2 = FFFFFF | rightarm2 = FFFFFF | shorts2 = 000000 | socks2 = 000000 | pattern_la3= | pattern_b3= | pattern_ra3= | pattern_sh3= | pattern_so3= | leftarm3=f2ff00 | body3=f2ff00 | rightarm3=f2ff00 | shorts3=f2ff00 | socks3=f2ff00 | pattern_la4= | pattern_b4= | pattern_ra4= | pattern_sh4= | pattern_so4= | leftarm4= 7800C8 | body4= 7800C8 | rightarm4= 7800C8 | shorts4= 7800C8 | socks4= 7800C8 }} === チームカラー === * {{Color box|#D70C18}} 赤 === エンブレム === * 1992年 - 1993年:グランパスくんをそのままエンブレムとして採用(リーグ戦用ユニホーム。カップ戦ユニホームは1994年も使用)。 * 1994年 - 1997年:リーグ戦用ユニホームはチームフラッグをモチーフにした円形のエンブレムを採用。カップ戦用ユニホーム(1995年 - )にはエンブレムはなく、胸の「Grampus」ロゴがエンブレム代わり。 * 1998年:リーグ戦・カップ戦でユニホームが統一。エンブレムはなし * 1999年 - 2010年:楯と王冠をモチーフに「NGE (Nagoya Grampus Eight)」とグランパスくんを盛り込んだものを採用。 * 2011年 - 2016年:エンブレム上部に[[第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会]](1995年)、[[第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会]](1999年)および[[2010年のJリーグ|2010年のJ1リーグ]]の優勝を表す3つのチャンピオン・スターマーク(★)を付けている。それぞれの星には、タイトルと年号を表す「EC 96」「EC 00」「J1 10」が刻印されている。 * 2017年 - 2023年:基本デザインは変わらないが星に刻印されていたタイトルと年号はなくなっている。 * 2024年 - 現在:前年の GRAMPUS SOCIO PROJECT を通じて、エンブレムが完全に一新された。「Grampus Family Statement」を表現するデザインが細部に施されており、従来のものにあった「NGE」の文字と鯱の絵柄を合わせ、『上昇気流』を表現したシンボルに再構築された{{R|emblem}}。 === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double" !掲出箇所!!スポンサー名!!表記!!掲出年!!備考 |- !胸 |[[トヨタ自動車]]||[[トヨタ・86|GR 86]]||2001年 - ||1992年 - 2000年は袖{{Efn|ロゴは使用せず、シンボルマークのみを採用。また1992年 - 2001年は「TOYOTA」のロゴを入れるまで、胸部分にはグランパスのチームロゴを入れていた。}}<br />1992年 - 2020年(一部期間除く)は「TOYOTA」表記<br />2020年の一部期間{{Efn|name="GRyaris"|[[TOYOTA GAZOO Racing]]とのコラボ企画の一環として、2020年10月24日 - 同年11月21日の期間の試合において掲出<ref>{{Cite press release|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2020/1015-toyota-gazoo-racing-gr.php|title=名古屋グランパス × TOYOTA GAZOO Racing「GRヤリス」車名ロゴ入りユニフォーム」着用のお知らせ|publisher=名古屋グランパス|date=2020-10-15|accessdate=2020-11-18}}</ref>。}}、2021年は「[[トヨタ・GRヤリス|GR YARiS]]」表記 |- !rowspan="2"|鎖骨 |[[プロトコーポレーション]]||[[グーネット]]||2020年 - ||左側に掲出 |- |[[ワークスタッフ]]||ワークスタッフ||2023年 - ||右側に掲出 |- !背中上部 |[[アイシン]]||AISIN||2011年 - 2012年<br />2017年 - 2018年<br />2023年 - || |- !背中下部 |[[豊田通商]]||豊田通商||2016年 - ||2012年 - 2015年は袖 |- !袖 |[[トヨタファイナンス]]||[[TS CUBIC CARD|TS<sup>3</sup>]]||2016年 - ||2004年 - 2015年はパンツ |- !パンツ前面 |[[興和]]||Vバンテリン||2023年 - ||2022年はパンツ背面<ref>{{Cite press release|和書|url=https://nagoya-grampus.jp/news/pressrelease/2022/0115post-1862.php|title=興和株式会社様とのパートナー契約締結のお知らせ|publisher=名古屋グランパス|date=2022-01-15|accessdate=2022-01-15}}</ref> |- !パンツ背面 |なし||-||- |} === トレーニングウェアスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double" !掲出箇所!!スポンサー名!!表記!!掲出年!!備考 |- !胸 |[[トヨタホーム]]||トヨタホーム||2012年 - || |- !背中 |[[UCC上島珈琲]]||UCC COFFEE||2018年 - || |- !左袖 |学校法人東邦学園||[[愛知東邦大学]]<br />[[東邦高等学校]]||2016年 - ||「東邦高等学校」は2016年 - |- !右袖 |レイフィールド||RAY Field||2016年 - || |} かつては[[明治 (企業)|明治乳業]]もトレーニングウェア胸スポンサーであった。 === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年:[[ルコックスポルティフ]] * 1993年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]]、カップ戦は[[ルコックスポルティフ]] * 1997年:リーグ戦は[[アンブロ]]、カップ戦はルコックスポルティフ * 1998年 - 2010年:ルコックスポルティフ * 2011年 - 2016年:[[デサント]](ルコックスポルティフ) * 2017年 - 現在:ミズノ === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #F39700; font-size:smaller" |- style="color:#D70C18; font-weight:bold;" !colspan="5"|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 1992 HOME FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 1992 HOME FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 1992 HOME FP|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 1992 HOME FP|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 1992 HOME FP |leftarm=f00|body=|rightarm=f00|shorts=000|socks=f00|title={{Center|1992}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _nagoya17t|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 1993 HOME FP|pattern_ra= _nagoya17t|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 1993 HOME FP|pattern_so= _nagoya17t |leftarm=f00|body=|rightarm=f00|shorts=000|socks=f00|title={{Center|1993}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 1994 HOME FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 1994 HOME FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 1994 HOME FP|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 1994 HOME FP|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 1994 HOME FP |leftarm=f00|body=|rightarm=f00|shorts=000|socks=f00|title={{Center|1994 - 1996}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 1997 HOME FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 1997 HOME FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 1997 HOME FP|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 1997 HOME FP|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 1997 HOME FP 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_Nagoya Grampus Eight 2001 HOME FP |leftarm=f00|body=|rightarm=f00|shorts=000|socks=f00|title={{Center|2001 - 2002}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 2003 Home FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 2003 Home FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 2003 Home FP|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 2003 HOME FP|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 2003 HOME FP |leftarm=f00|body=|rightarm=f00|shorts=000|socks=f00|title={{Center|2003 - 2004}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 2005 HOME FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 2005 Home FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 2005 HOME FP|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 2005 HOME FP|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 2005 HOME FP |leftarm=f00|body=|rightarm=f00|shorts=000|socks=f00|title={{Center|2005 - 2006}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 2007 HOME FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 2007 HOME FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 2007 HOME FP|pattern_sh= 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|{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_nagoya17t|pattern_b=_nagoya17t|pattern_ra=_nagoya17t|pattern_sh=_nagoya17t|pattern_so=_nagoya17t |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=f00|title={{Center|2017<br />25周年記念}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 2018 SUMMER FP|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 2018 SUMMER FP|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 2018 SUMMER FP|pattern_sh= _Nagoya Grampus Eight 2018 SUMMER FP|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 2018 SUMMER FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=f00|title={{Center|2018<br />Jリーグ<br />25周年記念}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus Eight 2019 Big festival Fp|pattern_b= _Nagoya Grampus Eight 2019 Big festival Fp|pattern_ra= _Nagoya Grampus Eight 2019 Big festival Fp|pattern_sh= _nagoyagrampus_19h|pattern_so= _Nagoya Grampus Eight 2019 Big festival Fp |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=f00|title={{Center|2019<br />鯱の大祭典}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Nagoya Grampus 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class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #F39700; font-size:smaller" |- style="background-color:#D70C18; color:#FFF; font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー |- style="background-color:#D70C18; color:#FFF; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面 |- |1992||rowspan="9"| - ||colspan="2" rowspan="26"|解禁前||rowspan="10"|-||rowspan="24"|解禁前||rowspan="9"|[[トヨタ自動車|TOYOTA]]||rowspan="12"|-||rowspan="28"|解禁前||[[ルコックスポルティフ|Le Coq Sportif]] |- |1993||rowspan="4"|[[ミズノ|Mizuno]] /<br />[[ルコックスポルティフ|Le Coq Sportif]] |- |1994 |- |1995 |- |1996 |- |1997||[[アンブロ|UMBRO]] /<br />[[ルコックスポルティフ|Le Coq Sportif]] |- |1998||rowspan="13"|[[ルコックスポルティフ|Le Coq Sportif]] |- |1999 |- |2000 |- |2001||rowspan="19"|[[トヨタ自動車|TOYOTA]]{{Efn|2009年のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示、2011年以降のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示し、ユニホームデザインや背番号のフォントなど、Jリーグ用と異なるデザインを使用した。}}||rowspan="7"|[[ヒサゴ|HISAGO]] |- |2002||[[トヨタL&F|TOYOTA L&F]] |- |2003||rowspan="2"|[[デンソー|DENSO]] |- |2004||rowspan="12"|[[TS CUBIC CARD|TS<sup>3</sup>]] |- |2005||[[トヨタL&F|TOYOTA L&F]] |- |2006||[[豊田自動織機|豊田織機]] |- |2007||rowspan="2"|[[デンソー|DENSO]] |- |2008||rowspan="4"|[[中部電力]] |- |2009||rowspan="2"|[[豊田自動織機|豊田織機]] |- |2010 |- |2011||rowspan="2"|[[アイシン|AISIN]]||rowspan="6"|[[デサント|DESCENTE]]<br />([[ルコックスポルティフ|Le Coq Sportif]]) |- |2012||rowspan="4"|[[豊田通商]] |- |2013||rowspan="2"|[[デンソー|DENSO]] |- |2014 |- |2015||rowspan="2"|[[豊田自動織機]] |- |2016||rowspan="8"|[[豊田通商]]||rowspan="8"|[[TS CUBIC CARD|TS<sup>3</sup>]]||rowspan="7"|[[トヨタメディアサービス|TOYOTA<br />GAZOO Racing]] |- |2017||rowspan="2"|[[アイシン|AISIN]]||rowspan="7"|[[ミズノ|Mizuno]] |- |2018||[[スペシャルオリンピックス日本|Special<br />Olympics<br />Nippon]]||rowspan="2"|[[東海東京証券]] |- |2019||[[セノン]]||rowspan="2"|[[デンソー|DENSO]] |- |2020||[[トヨタ自動車|TOYOTA]] /<br />[[トヨタ・GRヤリス|GR YARiS]]{{Efn|name="GRyaris"}}||rowspan="4"|[[グーネット]]||rowspan="3"|[[Au (携帯電話)|au 5G<br />(1st)<br />au<br />(2nd)]]||rowspan="2"|- |- |2021||[[トヨタ・GRヤリス|GR YARiS]]||rowspan="2"|[[豊田自動織機]] |- |2022||rowspan="2"|[[トヨタ・86|GR 86]]||[[興和|Vバンテリン]] |- |2023||[[ワークスタッフ]]||[[アイシン|AISIN]]||[[興和|Vバンテリン]]||- |} == クラブ情報 == [[ファイル:名古屋グランパスエイト用具車.jpg|サムネイル|名古屋グランパス専用用具車]] === マスコットキャラクター === [[マスコット|マスコットキャラクター]]はチーム名の「グランパス (Grampus)」にちなみ[[シャチ]]をモチーフにしている。 グランパスファミリーとして、[[グランパスくん]]をはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。 {{See|Category:サッカーのマスコットキャラクター}} === スポンサー === {{Main2|スポンサーについては、[http://nagoya-grampus.jp/clubteam/sponsor.html 当項目] を}} === 名古屋グランパス後援会 === * [[東海3県]]の[[都道府県知事|知事]]・サッカー協会、名古屋市長・サッカー協会、出資会社を核とし、後援会事務局、法人会員631社(2009年11月時点)からなるチームの支援組織。法人会員にはトヨタ自動車の下請け企業・全国各地の販売店・主要在名民放局([[愛知国際放送]]を除く。愛知県外では[[三重テレビ放送]]も法人会員)といった企業・団体等も入会している。 * 毎年シーズン前に名古屋市内のホテルで、スポンサー・後援会法人会員・監督・選手が出席するパーティー形式のイベントが行われている。 === 歴代スタジアムDJ === * 1994年 - 1998年 [[堀田和則]] * 1998年 - 2006年 [[ケン・マスイ]] * 2007年 - {{0|0000年}} [[YO!YO!YOSUKE|ヨースケ (YO!YO!YOSUKE)]] == 決算 == 名古屋グランパスエイトの決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収入|営業収入}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!事業費 !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|管理費|一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |3,720 ||2,244 ||621 ||262 ||593 ||style="background-color:wheat" |3,596 ||3,115 ||N.A. ||481 ||style="background-color:wheat" |124 ||style="background-color:wheat" |278 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |3,801 ||2,255 ||605 ||258 ||683 ||style="background-color:wheat" |4,093 ||3,615 ||2,313 ||478 ||style="background-color:wheat" |-292 ||style="background-color:wheat" |-271 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |3,635 ||2,247 ||626 ||272 ||490 ||style="background-color:wheat" |3,592 ||3,061 ||1,770 ||531 ||style="background-color:wheat" |43 ||style="background-color:wheat" |70 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |4,071 ||2,283 ||767 ||376 ||644 ||style="background-color:wheat" |3,971 ||3,432 ||2,005 ||539 ||style="background-color:wheat" |100 ||style="background-color:wheat" |101 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |4,506 ||2,068 ||771 ||251 ||1,416 ||style="background-color:wheat" |4,485 ||3,947 ||2,350 ||538 ||style="background-color:wheat" |21 ||style="background-color:wheat" |4 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |4,103 ||1,998 ||880 ||468 ||757 ||style="background-color:wheat" |4,198 ||3,677 ||2,133 ||521 ||style="background-color:wheat" |-96 ||style="background-color:wheat" |-162 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 * 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |4,196 ||2,136 ||814 ||239 ||250 ||757 ||style="background-color:wheat" |4,231 ||2,167 ||316 ||491 ||174 ||0 ||1,083 ||style="background-color:wheat" |-35 ||style="background-color:wheat" |-65 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |3,993 ||2,145 ||799 ||226 ||275 ||548 ||style="background-color:wheat" |4,287 ||2,009 ||319 ||488 ||208 ||0 ||1,263 ||style="background-color:wheat" |-295 ||style="background-color:wheat" |-257 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |4,226 ||2,457 ||736 ||221 ||258 ||555 ||style="background-color:wheat" |4,304 ||2,348 ||283 ||448 ||191 ||0 ||1,034 ||style="background-color:wheat" |-78 ||style="background-color:wheat" |-78 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |4,042 ||2,471 ||756 ||204 ||228 ||383 ||style="background-color:wheat" |4,041 ||2,053 ||286 ||434 ||186 ||0 ||1,082 ||style="background-color:wheat" |1 ||style="background-color:wheat" |23 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |4,446 ||2,775 ||727 ||200 ||237 ||507 ||style="background-color:wheat" |4,349 ||2,086 ||275 ||458 ||205 ||0 ||1,325 ||style="background-color:wheat" |97 ||style="background-color:wheat" |30 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!物販 !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!物販 !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |4,713 ||3,088 ||761 ||208 ||203 ||187 ||266 ||style="background-color:wheat" |4,565 ||1,984 ||275 ||550 ||191 ||0 ||120 ||1,445 ||style="background-color:wheat" |148 ||style="background-color:wheat" |149 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 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|style="font-weight:bold;" |2015 ||956 ||888 ||68 ||400 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||764 ||510 ||254 ||105 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 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[https://web.archive.org/web/20170609063501/http://www.grampus-direct.jp/ グランパス・ダイレクト] * [http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/grampus 名古屋グランパス] - 中日スポーツ {{Navboxes|title =名古屋グランパスエイト 関連テンプレート|titlestyle=background-color:#D70C18; color:#FFF; border:solid 3px #F39700; line-height:120%; |list1= {{名古屋グランパスエイトのメンバー}} {{名古屋グランパスエイト及びその前身チーム歴代監督}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Jリーグオリジナル10}} {{Navboxes|title=獲得タイトル・記録 |list1= {{Jリーグ優勝チーム}} {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} }} {{高円宮杯U-18サッカーリーグ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なこやくらんはすえいと}} [[Category:名古屋グランパスエイト|*]] [[Category:1991年設立の企業]] [[Category:愛知県のスポーツチーム]] [[Category:名古屋市中区の企業]] [[Category:名古屋市のサッカークラブ]] [[Category:トヨタ自動車のスポーツ活動]] [[Category:中日新聞社の関連企業]] [[Category:Jリーグクラブ]]
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鹿島アントラーズ
鹿島アントラーズ(かしまアントラーズ、英: Kashima Antlers)は、日本の茨城県鹿嶋市、神栖市、潮来市、行方市、鉾田市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。 1947年に創設された住友金属工業蹴球団が前身。Jリーグ加盟時の1991年10月に、地元5町村(茨城県鹿島郡鹿島町・神栖町・波崎町・大野村、行方郡潮来町)と43企業の出資により運営法人「株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー」が設立され、現クラブ名に改称。ホームタウンは設立当時の5町が合併して設立した鹿嶋市(旧・鹿島町および大野村)、神栖市(旧・神栖町および波崎町)、潮来市(旧・潮来町および牛堀町)に加え、2006年からは行方市、鉾田市が追加され、鹿行地域全域がホームタウンとなった。なお、Jリーグ発足当時、ホームタウンは原則として1チーム1市区町村だったが、鹿島に限り特例で周辺市町村との広域ホームタウンが認められた(現在は広域ホームタウンに関する制限はなく、複数の市町村ないし都道府県全域としたチームが複数ある)。 ホームスタジアムは県立カシマサッカースタジアム、練習場は鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドである。 チーム名の「アントラー(antler)」は英語で「鹿の枝角」を意味し、鹿島神宮の神鹿にちなみ、枝角は茨城県の茨をイメージしている。その鋭い枝角で勇猛果敢に立ち向かい勝利を目指すという意味も込められている。チーム発足時からクラブのアイデンティティとして「FOOTBALL DREAM」を常に掲げている。クラブマスコットは鹿をモチーフにした「しかお」と、1997年3月2日に「しかお」と結婚したという設定の「しかこ」、1999年8月1日にしかおとしかこの間に誕生したという設定の「アントン」である。 国内三大タイトルであるJ1リーグ(優勝8回)、Jリーグカップ(優勝6回)、天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会(優勝5回)の優勝回数はいずれもJリーグ発足以後、Jクラブの中で最多で、三大タイトルの累計で19冠を誇る。また、国内三冠(同年度内に国内三大タイトルを全て優勝)した初のクラブであり、J1リーグ三連覇を果たした唯一のクラブでもある。さらに、2018年のAFCチャンピオンズリーグ優勝も合わせて主要タイトル20冠、その他タイトルと合わせて合計35冠とカウントすることもある。 2016年のFIFAクラブワールドカップにおいて、準優勝を果たした。決勝に進出した初のアジアのクラブチームで、日本のクラブチームでは唯一である。1993年のJリーグ発足から一度も降格経験がないクラブは、鹿島アントラーズと横浜F・マリノスだけである。また、リーグ戦の最終順位においても、二桁順位になったのは2012年の11位のみであり、他の年は全て一桁順位で終えている。 1947年創部の住友金属蹴球同好会(1956年に住友金属工業蹴球団へ改称)が前身となり、1973年に日本サッカーリーグ(JSL)2部、1985年にJSL1部へ昇格した。なお、1975年に大阪市から鹿島製鉄所のある茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)に本拠地を移転した。 1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化したのを受けて、1990年に住友金属工業(現・日本製鉄)の「2000年ビジョン」の指針が発端となって、鹿島町長を含めた7名が当時JSL2部に所属していた住友金属工業蹴球団のプロリーグ参加を協会に要望した。これを受けて住友金属はプロリーグへの参加を申請するが、当時の住金蹴球団は日本サッカーリーグ (JSL) 2部所属であり、設立準備メンバーの一人であった川淵三郎が「住友金属さんが加盟できる確率はほとんどゼロなのです。99.9999%無理ですよ」と述べるほど参入の可能性は低かった。しかし、川淵の(住金の参加を諦めさせる最後の手段であった)「観客席に屋根の付いた1万5000人収容のサッカー専用競技場を建設できるなら考えましょう」の発言 を受けて茨城県が県立カシマサッカースタジアムの建設を決定。これが逆転打となって初年度からのJリーグ加盟が承認された。 1991年、ブラジル代表で主将を務めたジーコが加入(川淵三郎によると、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。 Jリーグ発足に伴い、クラブ名を「鹿島アントラーズ」に変更。 チームスローガン:Football Dream-いどむ- ジーコが所属していたこともあり、ブラジルのサッカー界とも強いパイプを持つ。Jリーグが開幕した1993年以降、所属した外国籍選手は「アジア人枠」を利用して獲得した韓国人選手以外はブラジル人と、2022年8月に初めてブラジル人選手以外になるナイジェリア人選手である。ジョルジーニョやレオナルド、ベベットなど、サッカー王国ブラジルでも代表として活躍するなど一線級に値する選手たちが過去に鹿島でプレーした。また、クラブでは初めてブラジル人選手以外の外国籍選手となるナイジェリア出身のブレッシング・エレケを獲得した。 これまで数多くの日本代表選手を輩出している。 クラブの発展に貢献した人物を顕彰するために設けられた賞である。カシマサッカーミュージアムの中にある「THE HALL OF LEGEND」にて記念される。現役選手および鹿島で在任中のスタッフは選考から外される。 前述の外国籍選手と同様、外国籍監督も多くがブラジル人であり、ジーコの兄であるエドゥーや、ジーコと共にブラジル代表の「黄金の中盤(黄金のカルテット)」として活躍した一人であるトニーニョ・セレーゾなどがこのチームを指揮を執っている。なお、2022年現在までの日本人正監督は初代の監督である宮本征勝と2015年途中に就任した石井正忠、2017年途中に就任した大岩剛、2021年途中に就任した相馬直樹、2022年途中に就任した岩政大樹の五人で、外国籍監督の正監督は1994年から2021年まで全員ブラジル人だったが、2022年は初めての欧州国籍監督で、スイス人監督のレネ・ヴァイラーを招聘した。 出典: “通算データ 年度別入場者数推移”. J.LEAGUE Data Site. 2021年1月17日閲覧。 ユニフォームデザインは基本的に2年に1回変更していたが、2010年シーズン以降はビジネス上の理由から毎年デザインを変更している。ユニフォームの右袖には、ホームタウン5市をあしらったホームタウンマークをつけ、背番号の下に名前が入る。2007シーズンに10冠(国内3大大会のタイトル数)を達成し、2008年シーズンから、左胸のエンブレム上に大きな星1つ(10タイトル分)がついた。11冠目以降の星は、従来の左袖につく。胸のスポンサーロゴの上部には、クラブスローガンである「FOOTBALL DREAM」が入れられている(1998年 - 、1997年のみ裾部分に入れられた)。 2018年アジアチャンピオンズリーグ(ACL)の優勝により20冠を達成したため、2019のユニホームからエンブレムの上に星が1つ増え2つになった。 鹿島アントラーズが創設された1992年から、トップチームでの活躍を目指す選手たちの年代別選抜チームとして、第2種(U-18、高校生年代)の「ユース」、第3種(U-15、中学生年代)の「ジュニアユース」、第4種(U-12、小学生年代)の「ジュニア」が活動している。鹿島アントラーズのアカデミー出身の選手には、曽ヶ端準、野沢拓也、土居聖真、鈴木優磨らがいる。また、育成とサッカーの普及を目的に、幼稚園生以上を対象にした「スクールコース」が茨城県内を中心に17ヶ所で開催されている。 運営会社である株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーは、2006年からカシマサッカースタジアムの指定管理者になり、健康事業を目的としたスポーツプラザ「カシマウェルネスプラザ」の運営や茨城大学との提携によるスタジアムの利活用推進にも取り組んでいる。 ホームタウンの5市(鹿嶋、神栖、潮来、鉾田、行方)のほかに、クラブ独自でフレンドリータウンとしてホームタウン周辺の12市町村と協定を結んでいる。サッカーを通じた地域連携を目的とし、ホームタウン周辺の市町村を対象に年1回ホームゲームへの市民招待やスタジアムでの観光PRイベントの開催、アカデミーのスクール校を開校するなど活動を展開している。 2011年、住友金属蹴球団のJリーグ参加を念頭に設立された法人・「株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー」が設立されて満20周年になるにあたり、当時の代表取締役社長の井畑滋は、2041年に予定される法人化50周年に向けた経営ビジョンとして「VISION KA41」を策定した。 「KA」とは、「鹿島アントラーズ」「鹿嶋市・鹿島郡」のイニシャルであるとともに、「経営」という意味も込められている。井畑は「2041年にどのような姿で(法人化)50周年を迎えるべきかを考えたものがこのビジョンです」として、次の5つのビジョンを策定した。 それを実現させるため、収益性と効率性の高いクラブ構造を着手するために、次に示す3点を重点的な項目として位置付けて強化を図っていくとした。 そして、メインスポンサーがメルカリに譲渡された2021年に、これの改訂版である「VISION KA41 Update」が策定された。クラブは5つのテーマの基本的な方向性を踏襲しつつ、より具体的な定義をアップデートした内容にバージョンアップさせている。 さらに、その一つとして法人化35周年に当たる2026年ごろをめどとして、新スタジアムの建設構想の具体的な方針をまとめることも明らかにした。現在のカシマスタジアムは2011年の東日本大震災や、(鹿島灘の)塩害などにより、安全を維持するための管理・修繕費が膨らんでおり、数年前から新スタジアムの建設構想が上がっていた。 新スタジアムは別の場所に建設するか、現在のスタジアムの改修・建て替えかなどについてはこの構想発表の段階では、移設の場合の建設予定地も含め未定であるが、新スタジアムは防災・福祉・観光の機能、また周辺地域のまちづくりなどの開発なども視野に入れていくとしているほか、現在鹿嶋市粟生にあるクラブハウスを新スタジアムに移設し、現クラブハウスもアカデミーの活動拠点にする計画を持っている。2022年8月には潮来市も新スタジアムを誘致することを表明した。 2020年1月15日、eスポーツチーム設立を発表。併せて、2018-19シーズン時点で世界ランキング24位にランクしたウェブ・ナスリの加入も発表した。eスポーツが国内・海外共に年々成長・発展を続ける中で世界一のクラブを目指すため、新たな事業として取り組むとしている。 春季キャンプは1998年より宮崎県宮崎市の宮崎県総合運動公園陸上競技場で行われている。また、1993年はイタリア、1994年は沖縄県、1995年から1997年まではブラジルで行われた。 「SOCIOメンバー」、「MEGAメンバー」、「フリークスメンバー」、「ファミリーメンバー」の4種類がある。その中でも「フリークスメンバー」が一般的な会員カテゴリで、会員数が最も多い。特典として月刊アントラーズフリークスの送付やホームゲームチケットの先行割引販売、グッズの割引販売、グッズ・チケットの購入時やホームゲーム来場時などに付与されるポイントシステムなどがある。 サポーター集団「IN.FIGHT」が、1991年の鹿島アントラーズ創設時から鹿島サポーターの中心として活動を続けている。 鹿島サポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも一部存在している。 2008年9月20日、柏レイソル戦にて鹿島ゴール裏サポーターが、ピッチにいる柏の選手に向けてフラッグを振り回し、柏の選手を攻撃した。このことにより当該サポーターは無期限観戦禁止処分が課せられた。 2021年10月2日、違反行為をした鹿島サポーターの処分を発表した。違反行為は、2日に行われたJ1リーグ第31節の横浜FC戦で発生。試合終了後に、南側ゴール裏のサポーターが選手が挨拶に向かった際に、サポーターがスタンド最前のセキュリティフェンスを乗り越えて横断幕の掲出や、運営スタッフに対して威嚇行為、会場運営の妨げになる行為を行った。 2023年4月4日、同月1日にカシマスタジアムで行われたJ1リーグ第6節サンフレッチェ広島戦で違反行為をしていた鹿島サポーター1人にホームゲーム2試合の入場禁止(ホームゲーム入場禁止期間に開催されるアウェイゲームも含む)処分を下したと発表した。鹿島の発表によると、当該サポーターは鹿島が1-2で敗れた試合後、広島サポーターが陣取るアウェー専用シートのセキュリティエリアへ侵入し、会場運営の妨げになる行為をした。同年9月12日、鹿島サポーター1名による違反行為が報告された。カシマスタジアムにて行われたJリーグYBCルヴァンカップ準々決勝セカンドレグ名古屋戦において、鹿島サポーター1名による運営スタッフに対する威嚇および暴行行為、会場運営の妨げになる行為を確認した。当該者には、ホームゲームおよびアウェイゲームへの無期限入場禁止処分を科したことも報告している。更に4日後の9月16日、カシマスタジアムで開催されたJ1第27節C大阪戦において、試合の前半、メインスタンド内からピッチに向かってペットボトルを投げ込んだ鹿島サポーターが処分された。 鹿島アントラーズの決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016、 2017、 2018、 2019 鹿島アントラーズは2002年に累積損失を一掃するため増資をした。それ以来、資本金は15億7千万円となっている。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016、 2017、 2018、 2019
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"そして、メインスポンサーがメルカリに譲渡された2021年に、これの改訂版である「VISION KA41 Update」が策定された。クラブは5つのテーマの基本的な方向性を踏襲しつつ、より具体的な定義をアップデートした内容にバージョンアップさせている。", "title": "地域貢献活動" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "さらに、その一つとして法人化35周年に当たる2026年ごろをめどとして、新スタジアムの建設構想の具体的な方針をまとめることも明らかにした。現在のカシマスタジアムは2011年の東日本大震災や、(鹿島灘の)塩害などにより、安全を維持するための管理・修繕費が膨らんでおり、数年前から新スタジアムの建設構想が上がっていた。", "title": "地域貢献活動" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新スタジアムは別の場所に建設するか、現在のスタジアムの改修・建て替えかなどについてはこの構想発表の段階では、移設の場合の建設予定地も含め未定であるが、新スタジアムは防災・福祉・観光の機能、また周辺地域のまちづくりなどの開発なども視野に入れていくとしているほか、現在鹿嶋市粟生にあるクラブハウスを新スタジアムに移設し、現クラブハウスもアカデミーの活動拠点にする計画を持っている。2022年8月には潮来市も新スタジアムを誘致することを表明した。", "title": "地域貢献活動" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2020年1月15日、eスポーツチーム設立を発表。併せて、2018-19シーズン時点で世界ランキング24位にランクしたウェブ・ナスリの加入も発表した。eスポーツが国内・海外共に年々成長・発展を続ける中で世界一のクラブを目指すため、新たな事業として取り組むとしている。", "title": "eスポーツ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "春季キャンプは1998年より宮崎県宮崎市の宮崎県総合運動公園陸上競技場で行われている。また、1993年はイタリア、1994年は沖縄県、1995年から1997年まではブラジルで行われた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「SOCIOメンバー」、「MEGAメンバー」、「フリークスメンバー」、「ファミリーメンバー」の4種類がある。その中でも「フリークスメンバー」が一般的な会員カテゴリで、会員数が最も多い。特典として月刊アントラーズフリークスの送付やホームゲームチケットの先行割引販売、グッズの割引販売、グッズ・チケットの購入時やホームゲーム来場時などに付与されるポイントシステムなどがある。", "title": "サポーター・ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "サポーター集団「IN.FIGHT」が、1991年の鹿島アントラーズ創設時から鹿島サポーターの中心として活動を続けている。", "title": "サポーター・ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鹿島サポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも一部存在している。", "title": "サポーター・ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年9月20日、柏レイソル戦にて鹿島ゴール裏サポーターが、ピッチにいる柏の選手に向けてフラッグを振り回し、柏の選手を攻撃した。このことにより当該サポーターは無期限観戦禁止処分が課せられた。", "title": "サポーター・ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2021年10月2日、違反行為をした鹿島サポーターの処分を発表した。違反行為は、2日に行われたJ1リーグ第31節の横浜FC戦で発生。試合終了後に、南側ゴール裏のサポーターが選手が挨拶に向かった際に、サポーターがスタンド最前のセキュリティフェンスを乗り越えて横断幕の掲出や、運営スタッフに対して威嚇行為、会場運営の妨げになる行為を行った。", "title": "サポーター・ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2023年4月4日、同月1日にカシマスタジアムで行われたJ1リーグ第6節サンフレッチェ広島戦で違反行為をしていた鹿島サポーター1人にホームゲーム2試合の入場禁止(ホームゲーム入場禁止期間に開催されるアウェイゲームも含む)処分を下したと発表した。鹿島の発表によると、当該サポーターは鹿島が1-2で敗れた試合後、広島サポーターが陣取るアウェー専用シートのセキュリティエリアへ侵入し、会場運営の妨げになる行為をした。同年9月12日、鹿島サポーター1名による違反行為が報告された。カシマスタジアムにて行われたJリーグYBCルヴァンカップ準々決勝セカンドレグ名古屋戦において、鹿島サポーター1名による運営スタッフに対する威嚇および暴行行為、会場運営の妨げになる行為を確認した。当該者には、ホームゲームおよびアウェイゲームへの無期限入場禁止処分を科したことも報告している。更に4日後の9月16日、カシマスタジアムで開催されたJ1第27節C大阪戦において、試合の前半、メインスタンド内からピッチに向かってペットボトルを投げ込んだ鹿島サポーターが処分された。", "title": "サポーター・ファンクラブ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "鹿島アントラーズの決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016、 2017、 2018、 2019", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "鹿島アントラーズは2002年に累積損失を一掃するため増資をした。それ以来、資本金は15億7千万円となっている。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016、 2017、 2018、 2019", "title": "決算" } ]
鹿島アントラーズは、日本の茨城県鹿嶋市、神栖市、潮来市、行方市、鉾田市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。
{{サッカークラブ | font-color = #BEB1AA | background-color = #B8193F | border-color = #000000 | 原語表記 = 鹿島アントラーズ | 呼称 = 鹿島アントラーズ | 愛称 = 鹿島、アントラーズ | カラー = {{color box|#B8193F}} ディープレッド<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/club/kashima/day/#profile|title=クラブガイド|publisher=[[日本プロサッカーリーグ]]|accessdate=2020-09-06}}</ref> | 創設 = 1947 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス = J1 | ホームタウン = [[茨城県]][[鹿嶋市]]、[[神栖市]]、[[潮来市]]、[[行方市]]、[[鉾田市]]<ref name="jleague" /> | スタジアム = [[ファイル:Kashima Stadium 3.JPG|center|250px]][[茨城県立カシマサッカースタジアム]]<ref name="jleague" /> | キャパ = 38,669<ref name="jleague" /> | 法人名 = 株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー<ref name="jleague" /> | 代表 = [[小泉文明]]<ref name=kashima20190830>{{Cite press release |和書 |title=小泉 文明 代表取締役社長就任のお知らせ |publisher=鹿島アントラーズ |date=2019-08-30 |url=https://www.antlers.co.jp/sp/news/release/73346 |accessdate=2019-08-30}}</ref> | 監督 = [[ランコ・ポポヴィッチ]] | HP = https://www.antlers.co.jp/ | current = 2023年の鹿島アントラーズ | pattern_la1 = _Kashima Antlers 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Kashima Antlers 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Kashima Antlers 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Kashima Antlers 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Kashima Antlers 2023 HOME FP | leftarm1 = e20018 | body1 = e20018 | rightarm1 = e20018 | shorts1 = 00003e | socks1 = e20018 | pattern_la2 = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP | leftarm2 = ffffff | body2 = ffffff | rightarm2 = ffffff | shorts2 = e20018 | socks2 = ffffff }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー | 英文社名 = Kashima Antlers F.C. Co., Ltd. | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 本社所在地 = [[茨城県]][[鹿嶋市]]粟生東山2887<ref name="jleague" /><ref name="mercari20190730">{{Cite press release|和書|url=https://pdf.irpocket.com/C4385/GDpy/CbZp/obyf.pdf|title=株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーの株式の取得(子会社化)に関するお知らせ|format=PDF|publisher=株式会社[[メルカリ]]|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-31}}</ref> | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 314-0021 | 設立 = [[1991年]][[10月1日]] | 業種 = 9050 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = サッカークラブの運営、スタジアムの管理運営 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 小泉文明<ref name=kashima20190830/> | 資本金 = 15億7000万円 | 発行済株式総数 = |売上高 = 61億1600万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/9367f/298647 株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー 第32期決算公告]</ref> |営業利益 = ▲8億1600万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy"/> |経常利益 = ▲6億7700万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy"/> |純利益 = ▲6億7700万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy"/> |純資産 = 18億7400万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy"/> |総資産 = 52億6900万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy"/> | 従業員数 = | 決算期 = 1月期 | 主要株主 = [[メルカリ]] 71.2%<br/>[[LIXIL]] 10.0%<br/>[[日本製鉄]] 7.1%<br/>鹿嶋市など自治体5市 5.0%<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/club_info/87785|title=株式会社メルカリおよび株式会社LIXILによる第三者割当増資引受けについて|publisher=鹿島アントラーズ|date=2022-05-13|accessdate=2022-12-22}}</ref> | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[鈴木昌 (経営者)|鈴木昌]]<br/>[[大東和美]]<br/>[[下妻博]] | 外部リンク = https://www.antlers.co.jp/ | 特記事項 = 特記なき財務諸数値は2020年1月期決算による<ref name="fy"/>。 }} '''鹿島アントラーズ'''(かしまアントラーズ、{{Lang-en-short|Kashima Antlers}})は、[[日本]]の[[茨城県]][[鹿嶋市]]、[[神栖市]]、[[潮来市]]、[[行方市]]、[[鉾田市]]を[[ホームタウン]]とする<ref name="jleague" />、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロ[[サッカー]]クラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つ。 == 概要 == 1947年に創設された'''[[住友金属工業蹴球団]]'''が前身。Jリーグ加盟時の1991年10月に、地元5町村([[茨城県]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]][[鹿嶋市|鹿島町]]・[[神栖市|神栖町]]・[[波崎町]]・[[大野村 (茨城県鹿島郡)|大野村]]、[[行方郡 (茨城県)|行方郡]][[潮来市|潮来町]])と43企業の出資により運営法人「'''株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー'''」が設立され、現クラブ名に改称。ホームタウンは設立当時の5町が合併して設立した[[鹿嶋市]](旧・鹿島町および大野村)、[[神栖市]](旧・神栖町および波崎町)、[[潮来市]](旧・潮来町および[[牛堀町]])に加え、2006年からは[[行方市]]、[[鉾田市]]が追加され、[[鹿行|鹿行地域]]全域がホームタウンとなった。なお、Jリーグ発足当時、ホームタウンは原則として1チーム1[[市区町村]]だったが、鹿島に限り特例で周辺市町村との広域ホームタウンが認められた(現在は広域ホームタウンに関する制限はなく、複数の市町村ないし都道府県全域としたチームが複数ある)。 ホームスタジアムは[[茨城県立カシマサッカースタジアム|県立カシマサッカースタジアム]]、練習場は[[鹿島アントラーズクラブハウスグラウンド]]である。 チーム名の「アントラー(antler)」は[[英語]]で「[[シカ|鹿]]の枝角」を意味し、[[鹿島神宮]]の神鹿にちなみ、枝角は茨城県の[[イバラ|茨]]をイメージしている。その鋭い枝角で勇猛果敢に立ち向かい勝利を目指すという意味も込められている。チーム発足時からクラブのアイデンティティとして「FOOTBALL DREAM」を常に掲げている。クラブマスコットは鹿をモチーフにした「[[しかお]]」と、1997年3月2日に「しかお」と結婚したという設定の「しかこ」、1999年8月1日にしかおとしかこの間に誕生したという設定の「アントン」である。 [[トレブル (サッカー)|国内三大タイトル]]である[[J1リーグ]](優勝8回)、[[Jリーグカップ]](優勝6回)、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]](優勝5回)の優勝回数はいずれもJリーグ発足以後、Jクラブの中で最多で、三大タイトルの累計で19冠を誇る。また、国内三冠(同年度内に国内三大タイトルを全て優勝)した初のクラブであり、J1リーグ三連覇を果たした唯一のクラブでもある。さらに、2018年の[[AFCチャンピオンズリーグ]]優勝も合わせて主要タイトル20冠、その他タイトルと合わせて合計35冠とカウントすることもある。 [[FIFAクラブワールドカップ2016|2016年]]の[[FIFAクラブワールドカップ]]において、準優勝を果たした。決勝に進出した初のアジアのクラブチームで、日本のクラブチームでは唯一である。1993年のJリーグ発足から一度も降格経験がないクラブは、鹿島アントラーズと[[横浜F・マリノス]]だけである。また、リーグ戦の最終順位においても、二桁順位になったのは2012年の11位のみであり、他の年は全て一桁順位で終えている。 == 歴史 == === 住友金属時代 === {{main|住友金属工業蹴球団#鹿島アントラーズ設立の経緯|オリジナル10#選定の経緯}} 1947年創部の住友金属蹴球同好会(1956年に[[住友金属工業蹴球団]]へ改称)が前身となり、1973年に[[日本サッカーリーグ]](JSL)2部、1985年にJSL1部へ昇格した。なお、1975年に[[大阪市]]から[[日本製鉄東日本製鉄所#鹿島地区|鹿島製鉄所]]のある茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)に本拠地を移転した。 1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化したのを受けて、1990年に[[住友金属工業]](現・[[日本製鉄]])の「2000年ビジョン」の指針が発端となって、鹿島町長を含めた7名が当時JSL2部に所属していた住友金属工業蹴球団のプロリーグ参加を協会に要望した。これを受けて住友金属はプロリーグへの参加を申請するが、当時の住金蹴球団は[[日本サッカーリーグ]] (JSL) 2部所属であり、設立準備メンバーの一人であった[[川淵三郎]]が「住友金属さんが加盟できる確率はほとんどゼロなのです。99.9999%無理ですよ」と述べるほど参入の可能性は低かった<ref name="ITmedia20100202">{{Cite web|和書|url=https://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/1002/02/news014_2.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100206220230/https://mag.executive.itmedia.co.jp/executive/articles/1002/02/news014_2.html|title=「走りながら考えて、幾多の障壁を乗り越えていく」――川淵三郎氏が語る、日本サッカー変革の軌跡|author=河原潤|publisher=[[ITmedia]]エグゼクティブ|date=2010-02-02|accessdate=2015-05-24|archivedate=2010-02-06}}</ref>。しかし、川淵の(住金の参加を諦めさせる最後の手段であった)「観客席に屋根の付いた1万5000人収容のサッカー専用競技場を建設できるなら考えましょう」の発言<ref name="ITmedia20100202"/> を受けて茨城県が[[茨城県立カシマサッカースタジアム|県立カシマサッカースタジアム]]の建設を決定。これが逆転打となって[[オリジナル10|初年度からのJリーグ加盟]]が承認された。 [[ファイル:Zico6.jpg|thumb|200px|[[ジーコ]]]] 1991年、[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]で[[主将]]を務めた[[ジーコ]]が加入([[川淵三郎]]によると、「当初、紹介した[[古河電気工業サッカー部|古河電工]](現:[[ジェフユナイテッド市原・千葉]])にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。 Jリーグ発足に伴い、クラブ名を「鹿島アントラーズ」に変更。 ; 1992年 :Jリーグ最初の公式戦、[[1992年のJリーグカップ]]ではカシマスタジアム建設中であったため、鹿島主管試合を[[笠松運動公園陸上競技場]]を主として[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]、[[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場]](西京極での試合は[[ガンバ大阪|G大阪]]が相手であった)で行った。[[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]らを獲得し、Jリーグカップでは準決勝に進出した。 === 1990年代 === ; 1993年 : 初代監督に[[本田技研工業フットボールクラブ|本田技研工業]]前監督の[[宮本征勝]]が就任。[[長谷川祥之]]や[[本田泰人]]など本田技研工業の選手、ジーコ、[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]など[[ブラジル人]]選手を中心に補強。旧本田勢に加えて大卒新人の[[秋田豊]]がレギュラーを獲得した。 : 5月16日の[[1993年Jリーグ開幕節|開幕戦]]はカシマサッカースタジアムに[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]を迎えたホームゲームで「ジーコと[[ゲーリー・リネカー]]の対決」が注目されたが、ジーコのハットトリックとアルシンドの2得点で5-0で圧勝<ref>「鹿島爆勝・ジーコ ハットトリック」J.LEAGUE『[[茨城新聞]]』1993年5月17日付日刊6面スポーツ</ref>。開幕シリーズである1993年1stステージを制覇したが、1994年1月に[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]で行われた[[Jリーグチャンピオンシップ]]で[[東京ヴェルディ1969|V川崎]]に1分1敗と通算成績で敗れ、初代年間王者は獲得できなかった。第2戦ではジーコが[[三浦知良]]のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為でこの日2枚目の警告で退場となった。それでも、JSL2部のチームを母体に参戦した唯一のJリーグクラブながら、開幕戦の圧勝から1stステージ優勝に至る快進撃によって、鹿島町は「サッカーの町」として全国的に認知され、周辺人口の少なさから低調な観客動員が危惧されていたカシマサッカースタジアムは毎試合超満員となり、チケット入手が非常に困難なスタジアムとして知られるようになった。 ; 1994年 [[ファイル:Leonardo Nascimento de Araujo 2011.jpg|thumb|200px|[[レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ|レオナルド]]]] : 宮本体制2年目。[[1994年のJリーグ|リーグ戦]]のサントリーシリーズ(1stステージ)終了後にジーコが現役を引退したが、その後もテクニカル・アドバイザーとしてチームに関わり、また実兄の[[エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ|エドゥー]]がヘッドコーチとして加入し、2ndステージからゼネラルマネージャーに転出した宮本の後任監督として指揮を執った。また、[[1994 FIFAワールドカップ]]に[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]として出場した[[レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ|レオナルド]]が加入。この年のリーグ戦でアルシンドが、鹿島でシーズン最多の28得点を記録。[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は1回戦で[[日本フットボールリーグ|JFL]]の[[東京ガスサッカー部|東京ガス]]に敗れ、初戦敗退を喫している。 ; 1995年 : エドゥー体制2年目。[[ジョルジ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]]が加入。前年加入のレオナルドなど彼らの活躍で鹿島は強豪としての地位を築いていった。これ以後も鹿島にはジーコの人脈を生かしブラジル代表経験のある[[ジョゼ・カルロス・ネポムセーノ・モーゼル|モーゼル]]、[[バルデマール・アウレリアーノ・デ・オリベイラ・フィリョ|マジーニョ]]が加入、[[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]が1stステージ終了後に退団した。[[1995年のJリーグ|リーグ戦]]は年間順位が7位、[[第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]はベスト4で終え、監督のエドゥーが退任した。 ; 1996年 : [[ジョアン・カルロス・ダ・シウバ・コスタ|ジョアン・カルロス]]が監督に就任。1シーズン制で行われた[[1996年のJリーグ|リーグ戦]]で初優勝するが、[[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ・96Jリーグチャンピオン・ファイナル|サントリーカップ]]決勝では名古屋に敗れた。 ; 1997年 : ジョアン・カルロス体制2年目。V川崎から[[ビスマルク・バレット・ファリア|ビスマルク]]、[[湘南ベルマーレ|平塚]]から[[名良橋晃]]を獲得。[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス・スーパーカップ]]で初優勝を果たした。[[1997年のJリーグ|リーグ戦]]は1stステージで優勝し、年間勝点一位。サントリー・チャンピオンシップは2ndステージ優勝の[[ジュビロ磐田|磐田]]に2連敗でタイトルはならなかった。しかし、[[1997年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]と[[第77回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]をいずれも初制覇した。[[J1リーグ|J1]]の年間勝点一位、リーグカップ優勝、天皇杯優勝をリーグ史上初めて同年達成した。 ; 1998年 : チームスローガン:'''CHALLENGE''' : ジョアン・カルロス体制3年目。スーパーカップで2年連続優勝果たす。1stステージ中断中にジョアン・カルロスとジョルジーニョが意見の食い違いで衝突、ジョアン・カルロスが監督を辞任し、残り試合を[[関塚隆]]が監督代行を務めた。 : 2ndステージ開始前に[[ジョゼ・マリオ・ジ・アウメイダ・バロス|ゼ・マリオ]]が監督に就任。9月23日に長谷川が清水戦で、クラブ初の在籍通算100得点目を達成。チャンピオンシップは磐田を下して、2度目のリーグ年間優勝を果たした。この年のリーグ戦で[[柳沢敦]]が、クラブでの日本人シーズン最多の22得点を記録。2ndステージ第5節の[[アビスパ福岡|福岡]]戦から翌1999年第3節[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦まで16連勝した。また、同年の[[1998 FIFAワールドカップ|フランスW杯]][[1998 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]]に鹿島から秋田豊、名良橋晃、[[相馬直樹]]の3人が選出された。 ; 1999年 : チームスローガン:'''NEXT''' : ゼ・マリオ体制2年目。[[2002 FIFAワールドカップ]]開催へ向けたカシマサッカースタジアムの改修工事が始まり、[[1999年のJリーグ|リーグ戦]]1stステージの主催試合は[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]で開催。1998–99年シーズンの[[アジアカップウィナーズカップ]]で3位に入賞。ただし、この年はゼロックス・スーパーカップで3連覇を達成したに留まった。シーズン途中で監督のゼ・マリオを解任し、2ndステージ途中からジーコが総監督として指揮を執った。なお、9月23日の[[ジェフユナイテッド市原・千葉|市原]]戦で、Jリーグクラブ最速のリーグ戦通算500得点を達成した。 === 2000年代 === ; 2000年 : チームスローガン:'''Glory Again - 原点からの挑戦 -''' : ジーコと共に「[[黄金のカルテット]]」をブラジル代表で構成した[[トニーニョ・セレーゾ]]が監督に就任。この年はプロ3年目の小笠原に中田、本山らが成長したのに加え、平瀬や柳沢、本山が[[U-23サッカー日本代表|アンダー]]や[[サッカー日本代表|A]]の代表招集で不在になるのを見越してシーズン前にレンタルで[[川崎フロンターレ|川崎]]に放出した[[鈴木隆行]]を急遽呼び戻すと鈴木はナビスコカップのニューヒーロー賞も受賞。1stステージは8位に甘んじたものの、2ndステージでは第7節のC大阪戦でVゴール負けにとどめて2ndステージを制し、[[2000年のJリーグ|Jリーグ]]、[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]、[[第80回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]を制覇し、Jリーグ発足以来初の三冠を達成した。 ; 2001年 : チームスローガン:'''- 勝利主義 Antlersism - FOR NEXT 10 YEARS''' : セレーゾ体制2年目。2000年シーズンの三冠達成を称えて茨城県から県民栄誉賞を受賞。[[2001年のJリーグ|リーグ戦]]の1stステージは長期離脱した相馬の穴を埋められず11位と低迷したが、2ndステージはその弱点を埋めるために加入した[[アウグスト・ペドロ・デ・ソウザ|アウグスト]]などの活躍で優勝。チャンピオンシップで磐田を破り、リーグ連覇を果たす。 ; 2002年 :チームスローガン:'''- 進化 Antlersism - STAIRWAY TO THE WORLD''' : セレーゾ体制3年目。[[2002年のJリーグ|リーグ戦]]は絶好調の磐田を止められず3連覇を逃したが、[[2002年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は決勝で[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]を下し優勝。なお、[[2002 FIFAワールドカップ]]で[[2002 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]]に[[秋田豊]]、鈴木隆行、[[柳沢敦]]、[[中田浩二 (サッカー選手)|中田浩二]]、[[小笠原満男]]、[[曽ヶ端準]]の6人(クラブ別では最多)が選出された。鈴木は初戦のベルギー戦でゴールを決め、鹿島所属として初のW杯得点者となった。大会終了後にはジーコが[[サッカー日本代表|日本代表]]監督に就任し、テクニカルディレクターを辞任した。また、鈴木は[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]]・[[KRCヘンク]]へ移籍した。 : 5月7日、初代監督を務めていた宮本が逝去。 ; 2003年 : チームスローガン:'''OVER'03 - カシマからアジア、そして世界へ -''' : セレーゾ体制4年目。[[A3チャンピオンズカップ]]初代王者となった。柳沢が[[セリエA (サッカー)|イタリア1部]]・[[UCサンプドリア]]へ期限付きで移籍(2005年に[[ACRメッシーナ|FCメッシーナ]]へ完全移籍)した。[[2003年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は2年連続で決勝に進出するも浦和に敗れ、連覇はならなかった。 ; 2004年 : チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM 2004 - 奪冠10 -''' : セレーゾ体制5年目。[[2004年のJリーグ|リーグ戦]]は1stステージ5位、2ndステージ4位に終わった。[[2004年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]と[[第83回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]ともにベスト8で敗退し、タイトルを獲得出来ずにシーズンを終える。 ; 2005年 :チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM 2005 - 反撃宣言 -''' : セレーゾ体制6年目。J1が9年ぶりに1ステージ制に移行した[[2005年のJリーグ|リーグ戦]]は開幕ダッシュに成功。一時は2位に勝点差10以上をつけたが、中盤に入ると[[ガンバ大阪|G大阪]]や浦和、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]、[[セレッソ大阪|C大阪]]に追いつかれ、優勝の可能性が残っていた[[2005年J1最終節|最終節]]では勝利したものの、結局3位でシーズンを終えた。中田が[[リーグ・アン|フランス1部]]・[[オリンピック・マルセイユ]]に移籍。シーズンの終了後、6年に渡り監督を務めたトニーニョが勇退した。 ; 2006年 : チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM 2006 - 一新制覇 -''' : [[サンパウロFC]]元監督の[[パウロ・アウトゥオリ]]が監督に就任。[[2006年のJリーグ|リーグ戦]]は[[柳沢敦]]の復帰、高卒新人のサイドバック[[内田篤人]]の活躍などがあったが、シーズン途中に大黒柱だった[[小笠原満男]]が[[ACRメッシーナ|FCメッシーナ]]([[セリエA (サッカー)|イタリア]])へ翌年6月までの期限付きで移籍などにより成績は6位。一方で[[2006年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]では3年ぶりに決勝に進出したが、千葉に敗れた。[[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準決勝で浦和に敗れた。結局、パウロ・アウトゥオリは1年で監督を退任した。なお、[[2006 FIFAワールドカップ]]の[[2006 FIFAワールドカップ参加チーム#日本|日本代表]]には小笠原満男と柳沢敦が選出された。 ; 2007年 : チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM'07 - 魂 Spirits -''' : [[SCコリンチャンス・パウリスタ]]やサンパウロFCなどで監督を歴任した[[オズワルド・オリヴェイラ]]が監督に就任。[[清水エスパルス|清水]]から[[マルコス・ゴメス・デ・アラウージョ|マルキーニョス]]、[[塩釜FCヴィーゼ|塩釜FC]]ユースから[[遠藤康]]を獲得。[[2007年のJリーグ|リーグ戦]]では、小笠原に代わり司令塔に指名された[[野沢拓也]]が開幕直前のプレシーズンマッチで負傷。開幕から5試合勝ち星がなかったが、野沢が復帰後は徐々に成績が上昇。リーグ中断からの後半戦はレンタル移籍から小笠原が復帰し、終盤に延長戦が廃止された2003年以降では新記録となる9連勝など14勝2敗の快進撃で6年ぶり5回目のリーグ優勝を果たし、同時にクラブの悲願だった「10冠」を達成した。最終節まで1度も首位に立たなかったチームが最終節で逆転優勝したのも、その年のA代表の試合に、1人も出場していないチームが優勝するのはいずれもJリーグ史上初めてである。また、アウェイの[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦でリーグ史上最速となるリーグ通算300勝を達成。 : なお、[[FIFAクラブワールドカップ2007]]に本来であれば「開催国枠」として出場する予定だったが、[[AFCチャンピオンズリーグ2007]]で浦和が優勝し、大会規定「1カ国2チーム以上出場出来ない」規定によりこの大会への出場は出来なかった。 : [[2007年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は、準決勝でG大阪に1勝1敗ながら[[アウェーゴール]]数の差で敗退。 : [[第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、J2降格が決まっている[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]との決勝で勝利し、2度目となるリーグ戦との2冠を達成した<ref name="2冠" group="注"/>。 : 1月9日、鹿嶋市から11冠達成を称え特別功労賞が贈られ、2月1日には茨城県から県民栄誉賞(2000年度以来2度目)を授与された。 : 7月29日には前年に引退した[[本田泰人]]の引退試合が、1993年の[[Jリーグチャンピオンシップ]]の出場メンバーを中心にした「鹿島アントラーズ1993対[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ1993]]」としてカシマサッカースタジアムで開催された。 ; 2008年 : チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM 2008 - DESAFIO 挑戦 -''' : オリヴェイラ体制2年目。[[スーパーカップ (日本サッカー)|富士ゼロックス・スーパーカップ]]は広島と対戦し、2点をリードするも終了間際に追いつかれ、PK戦の末に敗れた。[[2008年のJリーグ|リーグ戦]]は、1シーズン制導入後初めてとなるJリーグ2連覇を達成。この年のリーグ戦でマルキーニョスが、21得点でクラブ史上初のJリーグ得点王を獲得。 : [[AFCチャンピオンズリーグ2008]]では、日本のクラブチームでACLグループリーグ最多得点となる6戦合計28得点をあげてクラブ初の決勝トーナメント進出を決めたが、9月20日の柏戦で小笠原が左膝の半月板と前十字靭帯を共に損傷する全治半年の大怪我を負いその後全休。主将を失ったチームはベスト8で敗退した。 : なおリーグ戦で2連覇を果たすが、ACLにおいてG大阪が優勝した為、不運にも2007年と同様に大会規定の関係で[[FIFAクラブワールドカップ2008]]出場は出来なかった。 ; 2009年 :チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM 2009 - PROGRESSO 飛躍 -''' : オリヴェイラ体制3年目。[[鹿児島城西高等学校|鹿児島城西高校]]から[[大迫勇也]]、外国籍選手枠のほかに導入されたアジア枠で、韓国人の[[朴柱昊|パク・チュホ]]を[[水戸ホーリーホック|水戸]]から獲得した。 : 2月1日には、クラブへ貢献した選手などに対する殿堂として第1回アントラーズ功労賞が発表され、功労賞受賞者の1人でもある[[秋田豊]]の引退試合が行われた。同月28日に富士ゼロックス・スーパーカップでG大阪に勝利し、10年ぶり4回目の優勝を果たした。 : [[2009年のJリーグ|リーグ戦]]では3連覇への好スタートを切り、4月29日に行われた第8節の神戸戦から延期分となった10節の名古屋戦まで8連勝を達成。夏場から秋口にかけて5連敗を喫するも、Jリーグ史上初の3連覇を達成した。なおチームは51得点だった為、2013年の広島と共に2005年にJリーグが1シーズン制になってから最少ゴール数での優勝チームとなった<ref group="注">2ステージ制時代を含めても47得点で優勝した2004年の横浜FM、48得点で年間王者を含む国内3大タイトル完全制覇を達成した2000年に続いて史上3番目に少ない数字である。</ref>。 : [[AFCチャンピオンズリーグ2009]]は2年連続決勝トーナメント進出を決めたが、ラウンド16で韓国の[[FCソウル]]にPK戦の末敗れ、ベスト16で敗退。 : [[ファイル:Kashima Soccer Stadium 5.jpg|thumb|220px|2010年5月1日 J1第9節 G大阪戦]] === 2010年代 === ; 2010年 : チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM 2010 - Evolucao 新化 -''' : オリヴェイラ体制4年目。[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[佐藤昭大]]、元[[アルビレックス新潟|新潟]]の[[ジウトン・ヒベイロ|ジウトン]]を[[ポルト・アレグレFC]]からレンタル移籍で、[[京都サンガF.C.|京都]]から[[李正秀|イ・ジョンス]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ|ブラジル2部]]・[[アソシアソン・ポルトゥゲーザ・ジ・デスポルトス|ポルトゥゲーザ]]から[[フェリペ・ガブリエル・デ・メロ・エ・シウバ|フェリペ・ガブリエル]]を完全移籍で獲得。ユースから[[八木直生]]が昇格、レンタル移籍で移籍していた[[鈴木修人]]([[湘南ベルマーレ|湘南]])、[[船山祐二]]([[セレッソ大阪|C大阪]])が復帰した。 : 2月27日、富士ゼロックス・スーパーカップは2年連続で[[ガンバ大阪|G大阪]]と対戦し、PK戦による勝利で5度目の優勝と、同大会史上初の同一クラブ2度目の連覇を果たした。 : [[2010年のJリーグ|リーグ戦]]は、失点数や敗戦はリーグで最少、51得点30失点は3連覇を果たした昨年とほぼ同じで敗戦は昨年の8から6に減らしたものの、降格したFC東京と共にリーグ2位タイの引き分けが12で内田が移籍してからは9分けと後半戦は勝ち切れない試合の多さが響き8月7日に行われた第17節[[清水エスパルス|清水]]戦で敗れて以降は1度も首位に返り咲く事はなくリーグ4連覇を逃しただけではなく、ACLの出場権に当たる3位以内にも入れず4位転落で終了した。 : 6月に行われた[[2010 FIFAワールドカップ]]の[[サッカー日本代表|日本代表]]に内田と[[岩政大樹]]、[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]にイ・ジョンスが選出され、イ・ジョンスは本大会で2得点を記録。7月には、内田が[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ1部]]・[[シャルケ04]]、イ・ジョンスが[[カタール・スターズリーグ|カタール1部]]・[[アル・サッド]]に移籍した。 : [[AFCチャンピオンズリーグ2010]]は3年連続の決勝トーナメント進出を日本サッカー界史上初の全勝でのグループステージ突破を果たすも、ラウンド16で前回王者の[[浦項スティーラース]]に敗れ、2年連続ベスト16での敗退となった<ref group="注">因みに引退した内田は、この試合がドイツに移籍する前最後の公式戦となった。</ref>。 : [[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は決勝で清水を破り、3大会ぶり4度目の優勝。これによりACL出場権を獲得した。 : またこのシーズンをもって[[大岩剛]]が現役を引退した。さらに、[[笠井健太]]、ジウトンと契約を結ばず、マルキーニョスが[[ベガルタ仙台|仙台]]、[[船山祐二]]が[[モンテディオ山形|山形]]、[[大道広幸]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]へ完全移籍、[[川俣慎一郎]]が仙台、[[川島大地]]が山形、[[宮崎智彦]]が[[横浜FC]]、[[鈴木修人]]が[[栃木SC|栃木]]、[[佐々木竜太]]が湘南へレンタル移籍となった。 ; 2011年 : チームスローガン:'''FOOTBALL DREAM NEXT''' : クラブは創立20周年を迎えた。オリヴェイラ体制5年目。[[青森山田中学高等学校|青森山田高校]]から[[柴崎岳]]、[[米子北高等学校|米子北高校]]から[[昌子源]]、[[関西大学第一高等学校|関西大学第一高校]]から[[梅鉢貴秀]]を獲得。鹿島ユースから[[土居聖真]]が昇格。[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[西大伍]]、[[プリメイラ・リーガ|ポルトガル1部]]・[[UDレイリア]]から[[カルロス・アレシャンドレ・デ・ソウザ・シウヴァ|カルロン]]、千葉から[[アレックス・アントニオ・デ・メロ・サントス|アレックス]]、清水から[[本田拓也]]を完全移籍で、山形にレンタル移籍していた[[田代有三]]、[[増田誓志]]が復帰、レンタル移籍だった佐藤昭大が完全移籍、クラブ初となるアマチュアからの選手でブラジルの[[CFZ|CFZ・ド・リオ]]から[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]の息子・[[イゴール・トーレス・サルトーリ|イゴール]]をC契約で獲得した。 : 2月26日の[[スーパーカップ (日本サッカー)|富士ゼロックス・スーパーカップ]]で[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]と対戦。PK戦の末敗れ、同大会2度目の3連覇とはならなかった。 : [[2011年のJリーグ|リーグ戦]]は序盤で苦戦し、その後は8月を無敗で乗り切るなど5位へ浮上したが、6位に終わる。 : また3月11日に発生した[[東日本大震災]]により被災し、スタジアムやクラブハウスなどの施設が大きく損壊したため<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/03/16/kiji/K20110316000437520.html|title=3カ月程度かかる鹿島 メド立たないスタジアム修復|newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|date=2011-03-16|accessdate=2011-03-16}}</ref>、3月15日から27日までチームの活動を休止していた<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/10120|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110423170555/http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/10120|title=トップチームの活動休止に関して|publisher=鹿島アントラーズ|date=2011-03-15|archivedate=2011-04-23|accessdate=2023-11-29}}</ref>。その後、東日本大震災復興支援として[[水戸ホーリーホック]]や茨城県サッカー協会と共同で「WITH HOPEプロジェクト」を立ち上げ、茨城県の復興支援活動を開始。6月4日にはカシマサッカースタジアムで「[[震災復興チャリティーイベント SMILE AGAIN〜YELL FROM KASHIMA〜]]」が開催された。 : 7月には[[伊野波雅彦]]が[[プルヴァHNL|クロアチア1部]]・[[HNKハイドゥク・スプリト]]に完全移籍、カルロンが[[スーパーリーグ (スイス)|スイス1部]]・[[ヌーシャテル・ザマックス]]にレンタル移籍(その後ポルトガル1部・[[SCブラガ]]へレンタル移籍)したが、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[フルミネンセFC]]から[[ヴィニシウス・シルバ・ソアレス|タルタ]]をレンタル移籍で獲得した。 : 4年連続で出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2011]]は、グループリーグ無敗で3年連続ラウンド16進出をするも、またも[[FCソウル]]に敗れ、3年連続ベスト16での敗退となった。 : [[2011年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]では7度目の決勝進出。浦和に延長で勝利し、9年ぶり4度目の優勝。 : [[第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦でJ2の[[京都サンガF.C.|京都]]に敗れ、ベスト16での敗退となった。 : オズワルド・オリヴェイラが監督を退任、コーチの[[奥野僚右]]も退団した(後に山形の監督に就任)。[[杉山哲]]が札幌、[[當間建文]]、[[鈴木修人]]が栃木SC、[[小谷野顕治]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]、[[田代有三]]、[[野沢拓也]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]、[[フェリペ・ガブリエル・デ・メロ・エ・シウバ|フェリペ・ガブリエル]]がブラジル1部・[[ボタフォゴFR]]へ完全移籍、レンタル移籍で加入していたタルタが[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエB|ブラジル2部]]・[[ECヴィトーリア]]、[[横浜FC]]にレンタル移籍していた[[宮崎智彦]]が[[ジュビロ磐田|磐田]]へレンタル移籍、イゴールが退団した。 ; 2012年 : [[ファイル:Kashima Stadium 3.JPG|thumb|220px|2012年4月7日 J1第5節 浦和戦]] :チームスローガン:'''SMILE AGAIN with PRIDE''' : 新監督に[[ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]]が就任。補強として[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[カルロス・アルベルト・カルヴァリョ・ドス・アンジョス・ジュニオル|ジュニーニョ]]、[[アビスパ福岡|福岡]]から[[岡本英也]]を完全移籍で、さらに[[流通経済大学サッカー部|流通経済大学]]から[[山村和也]]、[[静岡学園高等学校|静岡学園高校]]から[[伊東幸敏]]を獲得。レンタル移籍していた[[川俣慎一郎]](仙台)、[[佐々木竜太]](湘南)が復帰し、鹿島ユースからは[[鈴木隆雅]]、[[中川義貴]]、[[宮内龍汰]]が昇格した。シーズン途中には京都から[[セルジオ・ドゥトラ・ジュニオール|ドゥトラ]]が完全移籍で、[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国1部]]の[[広州足球倶楽部|広州恒大足球倶楽部]]から[[レナト・アドリアーノ・ジャコ・モラエス|レナト]]がレンタル移籍で加入。7月にはアレックスが[[徳島ヴォルティス|徳島]]、佐々木竜太が栃木へレンタル移籍した。 : [[曽ヶ端準]]が3月31日のJ1第4節・[[横浜F・マリノス|横浜FM]]戦で、クラブ通算最多出場となる475試合、クラブ史上初の同通算500試合を8月25日のリーグ・[[アルビレックス新潟|新潟]]戦で達成。 : [[スルガ銀行チャンピオンシップ2012|スルガ銀行チャンピオンシップ]]では、[[プリメーラ・ディビシオン (チリ)|チリ1部]]の[[クルブ・ウニベルシダ・デ・チレ]]をPK戦で下し、初優勝を飾った。 : [[2012年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]では、8度目の決勝で清水を延長戦で下し、クラブ史上初の同大会連覇を達成。 : [[2012年のJリーグ|リーグ戦]]は、開幕から5試合で1分4敗と未勝利のままで、第2節から第5節までは最下位となるなどスタートダッシュに失敗。この時開幕3試合連続完封負けを喫し第4節まで無得点であった。その後も第13節終了後に10位となったのが最高順位と、一度も一桁順位に浮上しないままJリーグ発足後史上初の二桁順位となる最終順位11位でシーズンを終える(J1が18クラブ制となった2005年以降ではクラブ史上ワースト順位)。 : [[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準決勝でJ2降格が決まっているG大阪に敗れ、ベスト4で敗退となった。 : ジョルジーニョが監督を退任し<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/33796|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130126212208/http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/33796|title=ジョルジーニョ監督の退任について|publisher=鹿島アントラーズ|date=2012-11-29|archivedate=2013-01-26|accessdate=2012-11-30}}</ref>、[[新井場徹]]がC大阪、[[興梠慎三]]が浦和、岡本英也が新潟、増田誓志が[[Kリーグ1|韓国1部]]の[[蔚山現代FC]]、ドゥトラが[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]]の[[スポルティング・ロケレン]]へ完全移籍し、磐田にレンタル移籍していた宮崎智彦、徳島にレンタル移籍していたアレックスもそれぞれ完全移籍した。さらに広州恒大足球倶楽部からレンタル移籍で加入したレナト、栃木へレンタル移籍していた佐々木竜太とは契約を更新しなかった。 ; 2013年 :チームスローガン:'''RENASCIMENTO - 誇りを胸に -''' : 監督には2000年から2005年まで指揮を執ったトニーニョ・セレーゾが再び就任。補強として[[愛媛FC|愛媛]]から[[前野貴徳]]、京都から[[中村充孝]]、[[カタール・スターズリーグ|カタール]]の[[ウム・サラルSC|ウム・サラル]]から[[ダヴィ・ジョゼ・シルバ・ド・ナシメント|ダヴィ]]を完全移籍で、さらに[[熊本県立大津高等学校|大津高校]]から[[植田直通]]、[[豊川雄太]]を獲得。山形にレンタル移籍していた川島大地、神戸に完全移籍していた野沢拓也が復帰した。また、4月には[[筑波大学蹴球部|筑波大学]]の[[赤崎秀平|赤﨑秀平]]をクラブ初となる[[特別指定選手]]で登録した。なお、7月には[[鈴木隆雅]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ期限付き移籍、本田拓也が[[清水エスパルス|清水]]へ完全移籍、8月末で八木直生が現役引退した。 : [[2013年のJリーグ|リーグ戦]]は、シーズンでの連敗はなかったものの、序盤から夏場にかけてアウェイ戦7連敗を喫し、DF陣のテコ入れを行ったが、失点が続き、5位で終える。なお、4月6日の第5節・[[セレッソ大阪|C大阪]]戦で、セレーゾがJリーグ発足後1クラブのみでの達成は史上初のリーグ戦通算100勝を達成。また、5月6日の第10節湘南戦で、歴代監督体制初の公式戦通算150勝を達成した。 : [[2013年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は準々決勝で[[横浜F・マリノス|横浜FM]]に敗れ、3連覇を逃した。 : [[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]に敗れ、ベスト16で敗退した。また、9月7日の2回戦での[[ソニー仙台FC|ソニー仙台]]戦で、歴代監督体制初の公式戦通算500得点を達成。 : [[スルガ銀行チャンピオンシップ2013|スルガ銀行チャンピオンシップ]]では、2006年に鹿島の監督を務めた[[パウロ・アウトゥオリ]]率いる[[カンピオナート・ブラジレイロ|ブラジル]]の[[サンパウロFC]]を下し、同大会と日本クラブチーム史上初の国際大会での連覇を達成した。 : この年を以て、ジュニーニョが契約満了、岩政大樹が[[タイ・プレミアリーグ|タイ1部]]・[[BECテロ・サーサナFC]]、大迫勇也が[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ2部]]・[[TSV1860ミュンヘン]]、川島大地が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]へ完全移籍、千葉にレンタル移籍していた鈴木隆雅が栃木へレンタル移籍した。 ; 2014年 : チームスローガン:'''SPECTACLE - 戦 -''' : セレーゾ体制2年目。[[ジュビロ磐田|磐田]]から[[山本脩斗]]、ポルトガル1部・[[SCブラガ]]から[[ルイス・アルベルト・サントス・ドス・サントス|ルイス・アルベルト]]が完全移籍で、筑波大学から赤崎秀平、[[帝京大学可児高等学校中学校|帝京大学可児高校]]から[[杉本太郎]]、[[千葉国際中学校・高等学校|千葉国際高校]]からC契約で[[カイオ・ルーカス・フェルナンデス|カイオ]]が加入した。鹿島ユースからは小泉勇人が昇格した。また、千葉から[[ジャイール・エドワルド・ブリト・ダ・シルバ|ジャイール]]を3月から7月までの期限付き移籍<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/44000|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140724023313/http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/44000|title=ジャイール選手との契約が満了|publisher=鹿島アントラーズ|date=2014-07-02|archivedate=2014-07-24|accessdate=2023-11-29}}</ref>で獲得し、8月にはブラジル1部・ボタフォゴFRから元[[柏レイソル|柏]]の[[ジョルジ・ワグネル]]を完全移籍で獲得した。なお、1月末に中川義貴<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/release/41583|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220628051707/https://www.antlers.co.jp/news/release/41583|title=中川選手の現役引退について|publisher=鹿島アントラーズ|archivedate=2022-06-28|accessdate=2014-01-31}}</ref>が現役引退、8月に野沢拓也が[[ベガルタ仙台|仙台]]へ完全移籍した。 : 4月15日、カシマスタジアムの開場以来スタジアムDJを務めてきた[[フォー・セインツ|ダニー石尾]]が逝去<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/release/42801|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220628070851/https://www.antlers.co.jp/news/release/42801|title=ダニー石尾さんのご逝去と神戸戦での追悼セレモニーについて |publisher=鹿島アントラーズ|date=2014-04-17|archivedate=2022-06-28|accessdate=2014-04-26}}</ref>。4月19日に追悼セレモニー<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/04/19/kiji/K20140419008004160.html|title=鹿島、ダニー石尾さん追悼セレモニー 井畑社長V誓う|newspaper=Sponichi Annex|date=2014-04-19|accessdate=2023-11-29}}</ref>を、さらに6月1日にはお別れの会<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2014/05/16/kiji/K20140516008173260.html|title=鹿島 スタジアムDJダニー石尾さん「お別れの会」は6月1日|newspaper=Sponichi Annex|date=2014-05-16|accessdate=2023-11-29}}[[リンク切れ]]</ref>が両日とも同スタジアムで行われた。また、6月1日に、アントラーズ功労賞の贈呈<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.so-net.ne.jp/antlers/fanzone/reports/club/43588|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140606205246/https://www.so-net.ne.jp/antlers/fanzone/reports/club/43588|title=ダニー石尾さんお別れ会|publisher=鹿島アントラーズ|date=2014-06-03|archivedate=2014-06-06|accessdate=2014-06-05}}</ref>も行った。 : [[2014年のJリーグ|リーグ戦]]は、スタートダッシュに成功したものの、序盤のホーム3連敗以降は調子を落としたが、それでも3位で終え、4年ぶり6回目のACL出場を決めた。なお、本山雅志が7月27日の第17節[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦で、クラブ通算500試合を在籍最長の17シーズン目で達成。また、8月9日の第19節[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦での山本脩斗の得点で、クラブ公式戦通算100人目を達成。さらに、9月27日の第26節[[徳島ヴォルティス|徳島]]戦でカイオが、クラブの高卒初年度リーグ戦最多得点となる6得点、赤崎秀平が11月29日の第33節C大阪戦で、クラブの大卒初年度リーグ戦最多得点となる5得点を更新した。 : [[2014年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は9年ぶりに予選リーグで敗退、[[第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]はソニー仙台にPK戦で敗れ、1994年大会以来の初戦敗退となった。 : なお、このシーズンをもって[[中田浩二 (サッカー選手)|中田浩二]]が現役引退、ルイス・アルベルト、[[宮内龍汰]]が契約満了、ジョルジ・ワグネルが[[ECヴィトーリア]]、前野貴徳が[[アルビレックス新潟|新潟]]に完全移籍となった。なお1998年のフランス大会以降毎回チームからは日本代表がワールドカップメンバーに選出されたが、大迫が2013年のオフに1860ミュンヘンに移籍した為、チーム史上初めてワールドカップメンバーが誰一人選ばれなかった。 ; 2015年 : チームスローガン:'''RISE TO THE CHALLENGE - 覚悟 -''' : セレーゾ体制3年目。補強として徳島から[[高崎寛之]]、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[黄錫鎬|ファン・ソッコ]]を完全移籍で、[[セグンダ・リーガ|ポルトガル2部]]・[[ポルティモネンセSC]]から[[金崎夢生]]を期限付き移籍で、[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]から[[久保田和音]]を獲得。また、鹿島ユースから[[大橋尚志]]、[[鈴木優磨]]が昇格。栃木に育成型期限付き移籍していた鈴木隆雅が復帰した。5月には1月にメディカルチェックで半月板損傷が発見され契約を見送っていた[[テルマリオ・デ・アラウージョ・サクラメント|ジネイ]]と正式契約。 : 4年ぶりの出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2015]]では、[[AFCチャンピオンズリーグ2013|2013年]]王者の[[広州足球倶楽部|広州恒大足球倶楽部]]([[中国サッカー・スーパーリーグ|中国]])と準優勝の[[FCソウル]] ([[Kリーグ1|韓国]])、そして、[[AFCチャンピオンズリーグ2014|2014年]]王者の[[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC]]([[Aリーグ・メン|オーストラリア]])とグループリーグで同組に入ったが、開幕後はホームでのウェスタン・シドニー、敵地でのFCソウル、広州恒大に何れも敗れ3連敗。広州恒大、敵地でのウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC戦は勝ち最後まで決勝トーナメント進出の可能性を残したもののFCソウルに競り負けてしまい、16チーム制だった初年度大会以来2度目、唯一出場した2008年までの29チーム制や翌年からの32チーム制に変わり、東部と西部に分けて戦うグループステージでホームアンドアウェー制度になってからは初めてとなる最下位での1次リーグ敗退となった。 : 11年ぶりに2ステージ制が復活した[[2015年のJリーグ|リーグ戦]]では、1stステージを負け越して8位、2ndステージは開幕後下位チーム<ref group="注">1stステージ17位の新潟(勝利)、18位の清水(引き分け)、15位の松本(敗戦)</ref>相手に1勝1敗1分けとなり、セレーゾを解任、後任にトップチームコーチを務めていた[[石井正忠]]が就任。鹿島にとっては、監督代行を2度務めた[[関塚隆]]を除くと、1992年から1994年6月まで務めた初代監督の宮本以来21年ぶり2人目の日本人監督となった。監督交代後、広島と優勝を争い2ndステージ2位で終えたが、年間順位は5位に終わった。[[第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]も3回戦でPK戦の末敗退した。 : [[2015年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]では、[[FC東京]]と[[ヴィッセル神戸|神戸]]を下して3年ぶりに決勝に進出。決勝では、2連覇を目指した[[ガンバ大阪|G大阪]]を3-0で下し、3年ぶりの優勝と、国内3大タイトル17個目を獲得した。 : なお、このシーズンをもって[[ダヴィ・ジョゼ・シルバ・ド・ナシメント|ダヴィ]]が契約満了、18年間在籍していた[[本山雅志]]が北九州、鈴木隆雅が愛媛、[[佐藤昭大]]が[[ロアッソ熊本|熊本]]に完全移籍、[[梅鉢貴秀]]が山形、豊川雄太が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]に期限付き移籍した。 ; 2016年 {{small|{{main|2016年の鹿島アントラーズ}}}} :チームスローガン:'''Football Dream - ともに -''' : 石井体制2期目。東京Vから[[三竿健斗]]、湘南から[[永木亮太]]、清水から[[ウェリントン・ダニエル・ブエノ|ブエノ]]を完全移籍で、清水から[[櫛引政敏]]をレンタル移籍で獲得した。ユースからは[[町田浩樹]]、[[田中稔也]]、[[平戸太貴]]、[[垣田裕暉]]が昇格した。前年期限付き移籍で加入していた金崎は一旦ポルティモネンセSCに復帰したが、開幕前に完全移籍で獲得した。また、山形から高崎寛之が復帰(4月から[[松本山雅FC]]へ期限付き移籍)。 : シーズン中には、4月から7月まで[[流通経済大学サッカー部|流通経済大学]]から[[小池裕太]]が[[特別指定選手]]としてチームに加入、ポルトガル2部・ポルティモネンセSCから[[ファブリシオ・ドス・サントス・メシアス|ファブリシオ]]を期限付き移籍で獲得した。一方でジネイが6月末で契約満了(その後、湘南へ完全移籍)、7月には15年半在籍した青木が[[サガン鳥栖|鳥栖]]、カイオが[[UAEプロリーグ|UAE 1部]]の[[アル・アインFC]]へ完全移籍した。 : [[2016年のJリーグ|リーグ戦]]1stステージではリーグ最少失点の10失点に抑え、19年ぶり通36回目のステージ優勝を飾ったが、2ndステージでは守備が崩壊し、カイオの移籍や石井と金崎の衝突<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1698009.html|title=鹿島金崎、途中交代に激高 石井監督と握手拒否|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2016-08-20|accessdate=2022-02-20}}</ref>主力に故障者が続出するなど終盤は4連敗を喫してしまい、最後まで歯車がかみ合わぬまま11位に沈んだ。しかし、1st王者と年間勝点3位で挑んだ[[2016年のJリーグチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]の準決勝では年間勝点2位の川崎に勝利し、年間勝点1位の浦和との決勝も2戦合計勝利により7年ぶり8回目のJ1リーグ優勝を飾った。これにより、ACL出場権を獲得した。 : [[2016年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]では昨年王者として2連覇に挑戦したが、1勝しかあげられずに予選敗退して、その後は積極的に若手を起用し、ユース出身の町田、田中、平戸、垣田ら若いメンバーで挑んだ。 : 3年ぶり3回目の出場となった[[スルガ銀行チャンピオンシップ2016|スルガ銀行チャンピオンシップ]]は、[[コロンビア・プロサッカーリーグ|コロンビア]]の[[インデペンディエンテ・サンタフェ]]に敗れ、3度目の優勝はならなかった。 : J1優勝に伴い、開催国枠で[[FIFAクラブワールドカップ2016|FIFAクラブワールドカップ]]に初出場した。初戦の[[オークランド・シティFC]]([[ニュージーランド・フットボールチャンピオンシップ|ニュージーランド]])戦では2-1の逆転勝利、準々決勝の[[マメロディ・サンダウンズFC]]([[プレミアサッカーリーグ|南アフリカ]])には、2-0の勝利を決めた。準決勝では[[アトレティコ・ナシオナル]](コロンビア)を3-0で撃破し、アジア勢初となる決勝進出を決めた。決勝では[[レアル・マドリード]]([[プリメーラ・ディビシオン|スペイン]])を相手に一時は逆転し、2-2で延長戦までもつれる接戦を演じたが最後は[[クリスティアーノ・ロナウド]]にハットトリックを許し2-4で敗れはしたものの、準優勝となった。 : [[第96回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は決勝で川崎を破り、6大会ぶり5度目の優勝を飾った。また9年ぶり3回目<ref group=注>2000年の三冠を含めると4回目</ref>の二冠を果たした。 : なお、このシーズンをもって大橋尚志が完全移籍で、垣田裕暉が期限付き移籍で共に[[ツエーゲン金沢|金沢]]へ、平戸太貴が[[FC町田ゼルビア|町田]]へ、杉本太郎が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ期限付き移籍、高崎寛之は期限付き移籍先の松本に完全移籍、清水から期限付き移籍の櫛引政敏、ポルティモネンセから期限付き移籍のファブリシオが契約満了、ファン・ソッコが契約満了で退団。柴崎岳が[[セグンダ・ディビシオン|スペイン2部]]の[[CDテネリフェ]]へ完全移籍した。 ; 2017年 {{small|{{main|2017年の鹿島アントラーズ}}}} : チームスローガン:'''Football Dream - つなぐ -''' : 石井体制3年目。新潟から[[ウーゴ・レオナルド・シルバ・セレージョ|レオ・シルバ]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[ペドロ・ビスポ・モレイラ・ジュニオール|ペドロ・ジュニオール]]、[[アビスパ福岡|福岡]]から[[金森健志]]、湘南から三竿健斗の実兄[[三竿雄斗]]<ref group = "注">鹿島では[[手倉森誠]]・[[手倉森浩]]以来の兄弟選手となった。</ref>、[[全北現代モータース|全北現代]]から[[權純泰|クォン・スンテ]]が完全移籍で、[[SEパルメイラス]]から[[ウェベルソン・レアンドロ・オリベイラ・モウラ|レアンドロ]]が期限付き移籍で加入し、山形に期限付き移籍していた梅鉢貴秀が復帰した。3月11日に赤﨑がG大阪<ref group=注>鹿島戦には出場しない条件付き</ref>、5月29日に小泉が水戸へ期限付き移籍した。 : 2月18日に行われた[[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]は前年ルヴァンカップ王者の浦和と対戦し、3-2で勝利し7年ぶり6回目の優勝を飾った。 : 2年ぶり7回目の出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2017]]、グループステージでは韓国の[[蔚山現代FC]]、タイの[[ムアントン・ユナイテッドFC]]、オーストラリアの[[ブリスベン・ロアーFC]]と対戦し、首位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦で前年の[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国1部]]王者・[[広州足球倶楽部|広州恒大足球倶楽部]]との対戦となったが、5月14日の神戸戦で遠藤とレオ・シルバが、5月19日の川崎戦では負傷離脱していた植田の代役である町田もこの試合で右膝前十字靭帯損傷の為それぞれ離脱。これらの選手を欠いて挑まなければならない第1戦は本来はボランチの三竿健斗をセンターバックで起用して0-1で落とす。植田が復帰したホームでの第2戦はジュニオールのゴールで2戦合計スコアを1-1とするが後半10分に第1戦でゴールを挙げた[[ジョゼ・パウロ・ベセーラ・マシエル・ジュニオール|パウリーニョ]]に2試合連続ゴールとなるアウェーゴールを奪われ、アディショナルタイムの金崎 (鹿島のACL通算100得点目)のゴールで勝ち越し弾も実らず第2戦は2-1で勝利。しかし、2戦合計スコアこそ2-2だったものの、アウェイゴール差1で上回られた上、苦手としていたアウェイゲームを克服出来ず、また怪我人の対応に後手を踏んだ事もあり<ref>{{Cite news|url=http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14963270436418|title=鹿島、ACL振り返る 敵地戦、克服できず|newspaper=[[茨城新聞]]クロスアイ|date=2014-06-02|accessdate=2017-06-02}}{{リンク切れ|date=2017年6月}}</ref>ベスト16で敗退。5月の時点で[[FIFAクラブワールドカップ]]への2年連続出場の可能性が早くも消滅。この結果を受けて5月31日、ACL決勝トーナメント1回戦敗退とホーム5敗でリーグ戦7位を理由に石井を解任し、後任にトップチームコーチを務めていた[[大岩剛]]が昇格した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1832655.html|title=鹿島の石井監督が解任 後任は大岩コーチが昇格|newspaper=日刊スポーツ|date=2017-05-31|accessdate=2023-11-29}}</ref>。 : 2015年以来2年ぶりの王座奪還を目指した[[2017年のJリーグカップ|YBCルヴァンカップ]]は、ACL出場のためノックアウトステージから出場<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-47361/|title=2017JリーグYBCルヴァンカップ 大会方式および試合方式について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2017-12-13|accessdate=2017-12-13}}</ref>、準々決勝は仙台と対戦した<ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20170731-NIPTFOASUNIXJGZ4OEWG7HPIPA/|title=ルヴァン杯決勝トーナメント組み合わせ決定!浦和-C大阪、多摩川クラシコも|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|date=2017-07-31|accessdate=2017-12-13}}</ref>。準々決勝第1戦は、昌子と植田の両センターバックを代表招集で欠いた。試合は元鹿島の[[野沢拓也]]に[[コーナーキック]]でアシストされ先制を許し、さらに[[奥埜博亮]]に2ゴールを奪われ3失点。その後土居が1点返すも、1-3で敗れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.antlers.co.jp/games/52153|title=2017JリーグYBCルヴァンカップ 準々決勝 第1戦|publisher=鹿島アントラーズ|accessdate=2023-11-29}}</ref>。第2戦は、初戦で退場したブエノと代表招集の昌子・植田に加え、川崎戦で負傷した町田も欠き、センターバックを本職とする4人が全員離脱する状態になった。これが響き、後半3分までに[[フリーキック (サッカー)|直接フリーキック]]と[[ペナルティーキック|PK]]で2失点を喫してしまう。アウェイゴール数の関係上準決勝進出には5得点が必要となる中、後半13分から鈴木と安部の2人が反撃のゴールラッシュ、鈴木の2ゴールを挙げ鹿島の下部組織出身選手最多のシーズン公式戦通算14得点としたのに加え安部がプロ初ゴール。後半だけで3得点を挙げて90分間では3-2と逆転したものの、2戦合計では4-5と仙台を上回る事が出来ず、4年ぶりの準々決勝敗退となった<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/soccer/2017/09/04/0010522340.shtml|title=鹿島 4強逃す “本職”不在で自慢の堅守にほころび…J1、天皇杯で借り返す|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2017-09-04|accessdate=2017-12-14}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1882451.html|title=仙台が初4強、鹿島に敗戦も2戦合計で上回る|newspaper=日刊スポーツ|date=2017-09-03 |accessdate=2017-12-14}}</ref>。 : [[2017年のJリーグ|リーグ戦]]では前述した大岩に監督交代以後、6月4日の広島戦から7月8日のFC東京戦の引き分けを挟んで5連勝と3連勝で勝点25を稼ぎ、一時は7位に沈んだチームを首位に導き優勝争いにもつれ込む。8月13日の川崎戦に敗れるもその後は2度目の5連勝、2位に8の勝点差を付けた。しかし9月30日に行われた鳥栖戦で敗れると、次の広島戦以降は2得点以内に抑えられ、徐々に3点差以上の勝利回数の多い川崎の猛追を受ける。川崎にホーム・アウェー共に連敗したのも祟り勝点差4で迎えた残り2節、1勝でもすれば川崎の結果に関係なく優勝が決まる状況ではあったが、ホーム最終戦となる33節の柏戦、最終節の磐田戦共にスコアレスドローで終えた。一方川崎が残り2戦を共に勝利した為、勝点では並んだものの得失点差で川崎を下回り、史上初めて得失点差での決着の末リーグ連覇を逆転で川崎に攫われた。 : [[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、準々決勝で神戸にPK戦の末敗退した。 :なお、7月2日のJ1第17節の柏戦で得点した永木が鹿島のリーグ戦通算100人目の得点者となった。 ; 2018年 {{small|{{main|2018年の鹿島アントラーズ}}}} : チームスローガン:'''Football Dream - こえる -''' : 大岩体制2年目。[[梅鉢貴秀]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]に、前年[[ガンバ大阪|G大阪]]に期限付き移籍していた[[赤﨑秀平]]が川崎に完全移籍、ブエノが[[徳島ヴォルティス|徳島]]に期限付き移籍したほか、[[水戸ホーリーホック|水戸]]に期限付き移籍していた[[小泉勇人]]が水戸に完全移籍、徳島に期限付き移籍していた[[杉本太郎]]、[[FC町田ゼルビア|町田]]に期限付き移籍していた[[平戸太貴]]、金沢に期限付き移籍していた[[垣田裕暉]]の移籍期間をそれぞれ延長した。 : 一方、ブラジル1部・[[SEパルメイラス]]から期限付き移籍加入していたレアンドロが完全移籍加入。[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ2部]]・[[1.FCウニオン・ベルリン]]から[[内田篤人]]が8年ぶりに復帰したほか、[[清水エスパルス|清水]]から[[犬飼智也]]、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]から[[安西幸輝]]を完全移籍で獲得。[[阪南大学]]から[[山口一真]]が新加入。ユースから[[沖悠哉]]が昇格した。また、この年から、柴崎や本山といった生え抜きの選手がつけていた背番号10を移籍組の金崎が背負うことになった<ref group=注>移籍組の日本人選手がつけるのは史上初</ref>。 : 夏には植田が[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]]・[[サークル・ブルッヘ]]に、金崎が鳥栖へ完全移籍、ペドロ・ジュニオールが[[中国サッカー・甲級リーグ|中国2部]]へとレンタル移籍するが、ブラジル1部・[[サントスFC]]から[[セルジオ・アントニオ・ソレール・デ・オリヴェイラ・ジュニオール|セルジーニョ]]を獲得。サガン鳥栖からは[[鄭昇炫|チョン・スンヒョン]]を完全移籍で獲得。また、[[ジーコ]]がテクニカルディレクターに就任した。 : 2年連続での出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2018]]はグループステージで[[シドニーFC]](オーストラリア)、[[上海申花足球倶楽部]](中国)、[[水原三星ブルーウィングス]](韓国)と同組になり、2位で決勝トーナメントに進出。ラウンド16では[[上海海港足球倶楽部|上海上港足球倶楽部]](中国)を2試合合計4-3で下し、クラブ史上初めて決勝トーナメント初戦を突破した。準々決勝では[[天津天海足球倶楽部|天津権健足球倶楽部]](中国)を2試合合計5-0で、準決勝ではグループステージに続いての対戦となった水原三星を2試合合計6-5の激戦で制して決勝に進出。決勝では[[ペルセポリスFC|ペルセポリス]](イラン)と対戦し、ホームでの第1戦を[[ウーゴ・レオナルド・シルバ・セレージョ|レオ・シルバ]]、決勝トーナメントで傑出した活躍を見せたセルジーニョのゴールで2-0と制すると、アウェイの第2戦では10万人もの相手サポーターからのプレッシャーを跳ね除けて<ref>{{Cite news|url=https://www.football-zone.net/archives/147034|title=鹿島が悲願のACL初制覇! 観衆10万の敵地でペルセポリス完封、2戦合計2-0で20冠達成|publisher=FOOTBALL ZONE|date=2018-11-11|accessdate=2019-01-21}}</ref>0-0と第1戦のリードを守り切り、出場回数8回目<ref group=注>前身のアジアクラブ選手権を含めると出場回数11回目</ref>にして初優勝を果たし、悲願のアジア王者となった。同時に[[FIFAクラブワールドカップ2018]]出場権を獲得した。 : 2年ぶりの出場となった[[FIFAクラブワールドカップ]]では初戦となる準々決勝で[[CDグアダラハラ]]([[リーガMX|メキシコ]])に3-2で逆転勝ちするも、準決勝では[[ガレス・ベイル]]にハットトリックを許し、レアル・マドリード(スペイン)に1-3で敗戦。3位決定戦でも[[CAリーベル・プレート]]([[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン]])に0-4で敗れ、4位に終わった。 : AFCチャンピオンズリーグでの勝ち上がりを受けてクラブ史上最多の公式戦60試合を戦い、シーズンを通じてコンディション不良や怪我人で苦しんだ。[[2018年のJリーグ|リーグ戦]]は第11節終了時に早くも5敗目を喫し順位を15位まで下げた。ワールドカップによるJ1中断前は暫定11位となり、再開後は第26節と第31節からそれぞれ3連勝するなどして順位を上げ最終順位としては3位となった。これにより来季のACLのプレーオフからの出場権を獲得。[[2018年のJリーグカップ|YBCルヴァンカップ]]は準々決勝で川崎に2試合合計4-2で勝ち上がったものの準決勝で横浜に競り負けベスト4。天皇杯では準決勝で昨年ACLを制した浦和に敗れベスト4となり、国内タイトルは全て4位以上の成績ながら2年連続の無冠でシーズンを終了した。 : このシーズンを以て[[小笠原満男]]が現役引退、[[三竿雄斗]]が[[大分トリニータ|大分]]へ、[[西大伍]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ、田中稔也が[[ザスパクサツ群馬|群馬]]へそれぞれ完全移籍、杉本太郎は期限付き移籍先の徳島から[[松本山雅FC]]へ完全移籍、中国2部・[[武漢足球倶楽部|武漢卓爾足球倶楽部]]に期限付き移籍していたペドロ・ジュニオールはブラジル1部・[[フォルタレーザEC]]へ完全移籍、久保田和音は[[ファジアーノ岡山|岡山]]へ期限付き移籍、昌子源は[[リーグ・アン|フランス1部]]・[[トゥールーズFC]]へ完全移籍した。 ; 2019年 {{small|{{main|2019年の鹿島アントラーズ}}}} : チームスローガン:'''Football Dream - かわる -''' : 大岩体制3年目。3年連続での出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2019]]はグループステージで[[山東泰山足球倶楽部|山東魯能泰山足球倶楽部]](中国)、[[ジョホール・ダルル・タクジムFC]](マレーシア)、[[慶南FC]](韓国)と同組になり、3戦目の敵地で行われた慶南FC相手には昨年のACL準決勝第1戦同様2点差からの逆転勝利と3試合を終えて勝点7と早々と突破を決めかけていたが、リベンジマッチの第4戦は0-1で敗れ、マレーシアでの第5戦で湿度90%超えという過酷な環境の中でジョホール・ダルル・タクジムFCに不覚を取ってしまい結局決勝トーナメントには進出したものの、山東魯能の後塵を拝して2位通過。決勝トーナメントではACLでチーム史上初の日本決戦。5年ぶり2回目の決勝トーナメントとなった広島と対戦しカシマサッカースタジアムで行われた第1戦は昨年の決勝トーナメントで5試合連続ゴールを挙げたセルジーニョが相変わらずの勝負強さを見せて守りきり、広島市のエディオンスタジアム広島で行われた第2戦は名古のクロスのこぼれ球に土居が押し込んで2戦合計2-0とするが、昨年20ゴールのパトリック、佐々木と続け様にゴールを奪われ2戦合計2-2とされる。しかし土居を倒した[[中林洋次]]を退場に追い込むと後半44分に訪れた広島のコーナーキックのピンチを凌ぎカウンターを仕掛けると、得点を取る為に上がっていたキーパーの[[林卓人]]が戻り切れない隙をついて土居が2得点目となる事実上の決勝ゴール。最後にパトリックにPKを決められるが、3-3でアウェーゴールを2点奪い2年連続の準々決勝進出を決めた。準々決勝は2年前のラウンドオブ16と同じく敗退に追い込まれた広州恒大。第1戦は広州恒大の猛攻をスコアレスドローで凌ぎ切ったが、その合間に行われ2-0で勝利し首位FC東京との勝点差を1に縮めたホームゲームで三竿と白崎が負傷で、相手の攻撃を犬飼と共に封殺したブエノがACL登録外の為使えず、前半にコーナーキックからアンデルソン・タリスカに強烈なヘディングシュートを決められ、後半7分に2年前の広州恒大戦は怪我で出場出来なかったシルバのシュートをセルジーニョがコースを変えて2戦合計で1-1の同点に追いつくのがやっと。監督が石井から大岩に代わっても広州恒大戦を前に怪我人を出してしまい、第1戦の天河体育中心体育場でゴールを奪えずにアウェーゴールの差で敗れ、2年前を彷彿とさせる展開でACL2連覇が潰え、2年連続のクラブワールドカップ出場権獲得の可能性も露と消えた。 : クラブ発足時から[[住友金属工業]]が主たる株主で、合併により会社組織を引き継いだ新日鐵住金→[[日本製鉄]]が大株主として運営してきたが、2019年7月30日、日本製鉄とその子会社が持つクラブ運営会社(鹿島アントラーズ・エフ・シー)の発行済み株式72.5%のうち61.6%を、クラブスポンサーでスマートフォン向け[[フリマアプリ]]の企画・開発・運営を行う[[メルカリ]]に譲渡することを発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/club_info/72792|title=株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーの株式譲渡に関するお知らせ|publisher=株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー|date=2019-07-30|accessdate=2023-11-29}}</ref>。[[公正取引委員会]]の承認が得られ、同年8月30日をもって筆頭株主がメルカリに異動した。社長には、[[メルカリ]]の[[社長|取締役社長]]兼[[最高執行責任者|COO]]を務める小泉文明が就任した。鹿嶋市長の[[錦織孝一]]はメルカリによる買収に当初懐疑的で、経営がうまくいかなくなった場合は日本製鉄に買い戻しを検討する旨の[[念書]]を出してもらったが、その後はクラブ運営や地元貢献を評価している<ref>【眼光紙背】メルカリと鹿嶋市との幸福な関係『[[日経産業新聞]]』2020年12月7日2面</ref>(メルカリと鹿島アントラーズ、鹿嶋市は2020年に包括連携協定を結んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://merpoli.mercari.com/entry/2020/02/19/070000|title=鹿嶋市とメルカリ、鹿島アントラーズが包括連携協定を締結|publisher=メルカリ・メルペイの政策企画ブログ|date=2020-02-19|accessdate=2021-08-11}}</ref>)。 : その後、8月末からの強行スケジュールのツケがコンビを組む三竿とシルバ、得点源のセルジーニョが次々と離脱する形で回り、リーグ戦では28節にて[[長居陸上競技場|ヤンマースタジアム長居]]でのアウェー・C大阪戦に1-0で勝利し首位になりながらも29節にて降格の危機に瀕していた松本に[[長野県松本平広域公園総合球技場|サンプロ アルウィン]]で引き分けてしまい勝点で神戸に3-1で勝利した当時2位のFC東京に並ばれたばかりか、最後に敗れた8月17日のC大阪戦から5試合無敗で追い上げてきた横浜FMに勝点差1で迫られると、31節でルヴァンカップ準決勝で敗れたリーグ2連覇中の川崎に0-2で落とし、首位から陥落したのに加え、磐田に勝ったFC東京だけでなく札幌に勝った横浜FMにも躱されて3位に転落する。その後は横浜FMが3連勝しFC東京が湘南、浦和と残留争いを強いられたチーム相手に引き分ける中、エディオンスタジアム広島で広島にスコアレスで引き分け、ホームで神戸に1-3で敗れリーグ優勝の可能性が消滅。4シーズン連続でACL出場権獲得するのが関の山だった。天皇杯では2016年以来3大会ぶり新国立競技場での決勝に進出したが、元日に行われた神戸との決勝では前半18分に永木がペナルティーエリア付近で[[酒井高徳]]に奪われると[[ルーカス・ポドルスキ]]のシュート性のボールをクォン・スンテの弾いたボールが犬飼に当たってしまいオウンゴールで追う展開になると、38分に移籍した西の折り返しがまたしても犬飼がクリアしきれなかったボールをシーズン開幕戦で大分の一員としてカシマスタジアムで2ゴールを奪った[[藤本憲明]]に押し込まれて移籍元である大分時代から合わせてシーズン4発目を喰らい勝負あり。0-2で敗れ2002年以来17年ぶりの準優勝、国内3大タイトル3年連続無冠となった。シーズン終了後、大岩の監督退任が発表された。 === 2020年代 === ; 2020年 : チームスローガン:'''Football Dream -みせる- ''' : 新監督に[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエB|ブラジル2部]]・[[レッドブル・ブラガンチーノ|CAブラガンチーノ]]前監督の[[アントニオ・カルロス・ザーゴ]]が就任。[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[奈良竜樹]]、[[湘南ベルマーレ|湘南]]から[[杉岡大暉]]、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[永戸勝也]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[広瀬陸斗]]、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から[[和泉竜司]]、新外国人として[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[SCインテルナシオナル]]の[[ファン・マテウス・アラーノ・ナシメント|ファン・アラーノ]]、[[ケレタロFC]]から[[エヴェラウド・ストゥン|エヴェラウド]]を獲得。[[松村優太]]や[[荒木遼太郎]]、[[染野唯月]]といった高卒新加入選手も合わせて11人の選手が加入した。一方でチーム得点王のセルジーニョが[[長春亜泰足球倶楽部]]、[[鄭昇炫|チョン・スンヒョン]]が[[蔚山現代FC]]、[[ウェベルソン・レアンドロ・オリベイラ・モウラ|レアンドロ]]が[[FC東京]]、[[中村充孝]]が[[モンテディオ山形|山形]]へと移籍。シーズン途中に[[内田篤人]]が現役を引退。 : 前述の通り多くの新加入選手を迎え、ザーゴ新監督の元で伝統のカウンターサッカーからボールを支配して押し込むサッカーへの転換を図るが、天皇杯で決勝まで勝ち残ったことに加えACLプレーオフへ参加しなければならなかったため、オフ期間が3週間と短く戦術の浸透が遅れた。これが影響したか、開幕から4戦で得点がオウンゴールの1点にとどまり、クラブワーストの開幕4連敗を喫する。5節で前年王者横浜FMを4-2で下して初勝利を挙げるものの、7節FC東京戦を引き分けで終えた段階で再び最下位に沈むなど最悪の船出となった。12節から11年ぶりの7連勝を記録するなどようやく9月ごろから調子が上がっていき、名古屋・C大阪とのACL出場権争いに食い込んでいく。しかし差は詰めるものの29節の名古屋との直接対決で敗れるなどして追い越すことができず、ACL出場権を得ることができる3,4位の可能性を残した5位のまま最終節を迎えた。最終節は勝点1差の4位・[[セレッソ大阪|C大阪]]との直接対決となり、勝てば4位以上<ref group=注>名古屋が負け、あるいは引き分けの場合も5点差以上で勝利すれば3位</ref>・引き分け以下で5位が確定するところだったが、拮抗した試合展開の中で83分に松田陸に被弾し先に失点。7分で2点が必要となった中90分にエヴェラウドの得点で追いつき、なお猛攻を仕掛けてラストプレーではエヴェラウドと上田綺世の2人で3本シュートを放つも、相手GK[[金鎮鉉|キム・ジンヒョン]]の2度の好セーブと右ポストに阻まれ、クリアされたところで試合終了。1-1の引き分けに終わって5位となり、5年ぶりにACL出場権を失うこととなった。 : ACLはプレーオフからの出場となったが、前述の通り短いオフで戦術が浸透しないまま[[メルボルン・ビクトリーFC]]との勝負に挑むこととなり、昨年まで浦和に在籍していた[[アンドリュー・ナバウト]]の得点に屈して0-1で敗戦、日本のクラブで初となるプレーオフ敗退となった。 : ルヴァンカップはACLプレーオフ敗退によりグループステージからの参加となる。新型コロナウイルス感染拡大により4チームの1回総当たり制に変更となったグループステージで、名古屋と川崎に連敗して敗退が決まった<ref group=注>前述のリーグ開幕4試合とACLプレーオフに加え、名古屋とのルヴァンカップグループステージ第1節も完封負けに終わっており、チーム始動からの公式戦6試合で挙げた得点がオウンゴールの1点にとどまっていた</ref>。 ; 2021年 : チームスローガン:'''Football Dream-しんか-''' : ザーゴ体制2年目。ブラジル1部・[[サントスFC]]から[[ディエゴ・クリスティアーノ・エヴァリスト|ディエゴ・ピトゥカ]]、[[サウジ・プロフェッショナルリーグ|サウジアラビア1部]]・[[アル・シャバブ・リヤド]]から[[アルトゥール・カイキ・ド・ナシメント・クルス|アルトゥール・カイキ]]を獲得。また例年通り[[常本佳吾]]、[[須藤直輝]]、[[舩橋佑]]らの高卒・大卒の新加入選手も数多く入団した。一方[[伊藤翔]]が[[横浜FC]]、[[山本脩斗]]が湘南へ完全移籍。[[奈良竜樹]]が[[アビスパ福岡|福岡]]、[[名古新太郎]]が湘南へそれぞれ期限付き移籍。 : 開幕節[[清水エスパルス|清水]]戦では、[[荒木遼太郎]]のゴールで先制するも終盤に立て続けに失点し1-3で敗れ2シーズン連続の黒星スタートとなる。新加入外国人の入国が遅れたこともあり、その後も不振が続き第8節[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦では開始20分で2点を取るもその後追いつかれこの時点で2勝2分4敗、順位を14位まで落とす。この試合後ザーゴの監督解任が発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/team_info/82157|title=ザーゴ監督の解任について|date=2021-04-14|accessdate=2023-11-29}}</ref>、トップチームコーチの[[相馬直樹]]が監督に就任した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/team_info/82158|title=相馬コーチの新監督就任について|date=2021-4-14|accessdate=2023-11-29}}</ref>。 : 相馬の監督就任後は最終ラインが安定し、就任から5月22日に行われた[[サガン鳥栖|鳥栖]]戦に敗れるまでの間リーグ戦6試合・公式戦10戦負けなしを記録する。 : リーグ戦終盤まで名古屋、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]と熾烈な4位争いを繰り広げ、最終節仙台戦をディエゴ・ピトゥカの一発で辛勝し勝点69で4位を確定させた<ref>{{Cite news|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?346863-346863-fl|title=最後は耐えた鹿島が4位フィニッシュ!! 天皇杯で川崎F優勝なら来季ACL出場へ|newspaper=[[ゲキサカ]]|date=2021-12-04|accessdate=2023-11-29}}</ref>。この時点で天皇杯では川崎に敗れ敗退が決定しており、同大会での川崎の成績次第ではACL出場権獲得があり得る状況となった。だが、川崎は準決勝[[大分トリニータ|大分]]戦にPK戦の末敗退しACL出場権獲得とはならなかった。 : シーズン終了後相馬の監督退任が発表された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/team_info/85533|title=相馬監督 退任のお知らせ|date=2021-12-05|accessdate=2023-11-29}}</ref>。同監督のリーグ戦績は18勝4分7敗であった。 ; 2022年 チームスローガン:'''Football Dream-いどむ-''' : [[ジーコ]]のTD退任に伴いチーム発足以来の南米路線からの転換を目指し、新たに監督として[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]]・[[RSCアンデルレヒト]]などを指揮したスイス人の[[レネ・ヴァイラー]]が招聘された。コーチには[[上武大学]]サッカー部監督でクラブOBの[[岩政大樹]]と、現役時大宮や湘南でプレしたセルビア人の[[ドラガン・ムルジャ]]、フィジカルコーチにはドイツ人の[[マヌエル・クラクラー]]が就任。移籍市場では功労者が多く退団することとなった。[[ウーゴ・レオナルド・シルバ・セレージョ|レオ・シルバ]]が名古屋、[[永木亮太]]が湘南、[[遠藤康]]が仙台、[[犬飼智也]]が浦和、[[白崎凌兵]]が清水、[[永戸勝也]]が横浜FMへそれぞれ完全移籍、期限付き移籍中の[[奈良竜樹]]、[[有馬幸太郎]]、[[佐々木翔悟]]はそれぞれ[[アビスパ福岡|福岡]]、[[いわきFC|いわき]]、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ完全移籍、[[須藤直輝]]は[[ツエーゲン金沢|金沢]]へと期限付き移籍した。 : 一方で新戦力として[[柏レイソル|柏]]から[[仲間隼斗]]、[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[金眠泰|キム・ミンテ]]、鳥栖から[[樋口雄太]]、[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]から[[中村亮太朗]]をそれぞれ獲得、そして2シーズンぶりに[[鈴木優磨]]が[[シント=トロイデンVV]]から復帰した。また期限付き移籍に出されていた[[小田逸稀]]、[[名古新太郎]]が復帰となった。 : その中、開幕戦では、[[新型コロナウイルス]]の[[規制緩和|入国制限]]で来日できていないヴァイラーに代わり、今季からコーチに就任したクラブOBの岩政大樹が監督代行で指揮し、[[ガンバ大阪|G大阪]]に数的有利の状況も作って、[[上田綺世]]の2得点と鈴木優磨の得点で、3-1で勝利し、2016年以来の開幕戦勝利となった<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202202190000625.html|title=鹿島2トップ上田綺世、鈴木優磨揃い踏み弾で勝ち点3「やっと寝られる」岩政大樹監督代行|newspaper=日刊スポーツ|date=2022-02-19|accessdate=2022-02-20}}</ref>。続く川崎戦には敗れたものの岩政体制のリーグ戦4試合を3勝1敗で乗り切ると、3月19日に行われた湘南戦からは入国したヴァイラーが指揮を執る。その後はエースの上田綺世と鈴木優磨の強力2トップを生かしたロングボール主体のサッカーが機能し好調を維持。一時はリーグ単独首位に浮上するも、5月に入ると失速。首位を争っていた横浜FMとの2度の攻防戦でいずれも完敗を喫し、6月末には前半戦だけで10得点を決め上田綺世がベルギー1部・[[サークル・ブルッヘ]]へ移籍。また守備組織の不安定さによる失点の増加なども重なり勝点を落とすと、クラブは8月6日の[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦での0-2での敗戦後にレネ・ヴァイラーの監督退任を発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/team_info/89092|title=レネ ヴァイラー監督の退任について|publisher=鹿島アントラーズ|date=2022-08-07}}</ref>。後任にはコーチの岩政大樹が就任<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/team_info/89103|title=岩政コーチの新監督就任について|publisher=鹿島アントラーズ|date=2022-08-08}}</ref>。シーズン途中での監督交代は2年連続である。その後も調子が上がらず2年連続4位で終えた。 : ルヴァンカップではグループAでC大阪と激しい1位争いを繰り広げた末、首位通過を果たす。プレーオフでは因縁の福岡と対戦。アウェーでの第1戦は0-1で敗北。ホームでの第2戦は2点を先行し、一時は決勝トーナメントの権利を得るも、前半終了間際に山岸祐也に決められた1点を取り返せず試合終了。試合は2-1で勝利したものの、アウェーゴールの差で福岡の勝利が決定。プレーオフで敗退となった。 : 天皇杯では[[新潟医療福祉大学サッカー部|新潟医療福祉大学]]、[[大宮アルディージャ|大宮]]、G大阪を破り、準々決勝では2019年の決勝相手だった[[ヴィッセル神戸|神戸]]に1-0で勝利し雪辱を果たした。準決勝の相手はJ2リーグ18位で当時リーグ6連敗中の[[ヴァンフォーレ甲府]]であったが、前半37分に失点するとその後も点が取れずに0-1で敗退した。 ;2023年 :岩政体制2年目 :[[ウェリントン・ダニエル・ブエノ|ブエノ]]が契約満了で退団、[[杉岡大暉]]が湘南、[[和泉竜司]]が名古屋、[[三竿健斗]]が[[プリメイラ・リーガ|ポルトガル1部]]・[[CDサンタ・クララ]]、[[エヴェラウド・ストゥン|エヴェラウド]]が[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[ECバイーア]]へ完全移籍。[[山田大樹 (サッカー選手)|山田大樹]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]、トップ昇格した[[下田栄祐]]がいわきへ育成型[[期限付き移籍]]。[[林尚輝]]が東京Vへ期限付き移籍。[[ジュビロ磐田|磐田]]に加入予定だった(チーム事情で仮契約解除)[[師岡柊生]]([[東京国際大学体育会サッカー部|東京国際大学]]){{ill|漢陽工業高等学校|ko|한양공업고등학교}}(韓国)より[[朴義正|パク・ウィジョン]]、[[昌平中学・高等学校|昌平高校]]より[[津久井佳祐]]を獲得。川崎より[[知念慶]]、広島より[[藤井智也]]、[[リーグ・ドゥ|フランス2部]]・[[ニーム・オリンピック]]より[[植田直通]]、G大阪より[[昌子源]]、[[FC町田ゼルビア|町田]]より[[佐野海舟]]が完全移籍にて加入。鳥栖より[[垣田裕暉]]、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]より[[染野唯月]]、金沢より[[須藤直輝]]が復帰。 :プレシーズンマッチで[[水戸ホーリーホック|水戸]]に敗れるなど下馬評は高くなかったが、シーズン開幕戦で[[京都サンガF.C.|京都]]に勝利。5節から8節まで4連敗し順位を落とすが、その後無失点で5連勝し復調。引き分けを挟みつつ勝ち点を拾い、終盤は6試合未勝利の後最終節で勝利。14勝10分10敗の5位でシーズンを終える。7年連続国内無冠となり、岩政監督も退任となった。 :苦手とする[[川崎フロンターレ]]には今年もシーズンダブルを食らい、3年連続となる。天皇杯含む公式戦8連敗、2018年のルヴァンカップを最後に勝ちがない状況が続く。 == 所属選手 == <div style="position:relative; float:right;"> {{Center| '''[[2022年のJ1リーグ|2022 明治安田生命J1リーグ]] 第1節<br />スターティングメンバー'''}} [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|300px]] {{Image label|x=0.48|y=0.28|scale=300|text=[[クォン・スンテ|<span style="font-size: smaller; color: black;">'''スンテ'''<br /># 1</span>]]}} {{Image label|x=0.16|y=0.54|scale=300|text=[[常本佳吾|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''常本'''<br /># 32</span>]]}} {{Image label|x=0.32|y=0.45|scale=300|text=[[キム・ミンテ|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''ミンテ'''<br /># 20</span>]]}} {{Image label|x=0.62|y=0.45|scale=300|text=[[関川郁万|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''関川'''<br /># 5</span>]]}} {{Image label|x=0.80|y=0.54|scale=300|text=[[安西幸輝|<span style="font-size: smaller; color: maroon;">'''安西'''<br /># 2</span>]]}} {{Image label|x=0.32|y=0.72|scale=300|text=[[樋口雄太|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''樋口'''<br /># 14</span>]]}} {{Image label|x=0.62|y=0.72|scale=300|text=[[ディエゴ・ピトゥカ|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''ピトゥカ'''<br /># 21</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.95|scale=300|text=[[土居聖真|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''土居'''<br /># 8</span>]]}} {{Image label|x=0.82|y=0.95|scale=300|text=[[荒木遼太郎|<span style="font-size: smaller; color: navy;">'''荒木'''<br /># 10</span>]]}} {{Image label|x=0.28|y=1.16|scale=300|text=[[上田綺世|<span style="font-size: smaller; color: white;">'''上田'''<br /># 18</span>]]}} {{Image label|x=0.62|y=1.16|scale=300|text=[[鈴木優磨|<span style="font-size: smaller; color: white;">'''鈴木'''<br /># 40</span>]]}} </div> {{Main|鹿島アントラーズの選手一覧}} [[ジーコ]]が所属していたこともあり、[[ブラジル]]のサッカー界とも強いパイプを持つ。Jリーグが開幕した[[1993年]]以降、所属した外国籍選手は「[[外国人枠 (サッカー)|アジア人枠]]」を利用して獲得した[[大韓民国|韓国]]人選手以外はブラジル人と、2022年8月に初めてブラジル人選手以外になる[[ナイジェリア]]人選手である。[[ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]]や[[レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ|レオナルド]]、[[ジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリベイラ|ベベット]]など、サッカー王国ブラジルでも代表として活躍するなど一線級に値する選手たちが過去に鹿島でプレーした。また、クラブでは初めてブラジル人選手以外の外国籍選手となるナイジェリア出身の[[ブレッシング・エレケ]]を獲得した。 === 代表選手 === これまで数多くの[[サッカー日本代表|日本代表]]選手を輩出している。 <!-- トップチームおよびアカデミーチーム在籍時、主な国際大会に出場した選手のみを記述しています。 --> {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:40%; font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|主な国際大会に出場した代表選手 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[FIFAワールドカップ|{{font|FIFAワールドカップ|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|FRA}} [[1998 FIFAワールドカップ|1998]] |{{Flagicon|JPN}} [[1998 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]] |[[秋田豊]]、[[相馬直樹]]、[[名良橋晃]] |- |align=center|{{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|KOR}} [[2002 FIFAワールドカップ|2002]] |{{Flagicon|JPN}} [[2002 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]] |秋田豊、[[小笠原満男]]、[[鈴木隆行]]、[[曽ヶ端準]]、[[中田浩二 (サッカー選手)|中田浩二]]、[[柳沢敦]] |- |align=center|{{Flagicon|GER}} [[2006 FIFAワールドカップ|2006]] |{{Flagicon|JPN}} [[2006 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]] |小笠原満男、柳沢敦 |- |align=center rowspan="2"|{{Flagicon|ZAF}} [[2010 FIFAワールドカップ|2010]] |{{Flagicon|JPN}} [[2010 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]] |[[岩政大樹]]、[[内田篤人]] |- |{{Flagicon|KOR}} [[サッカー韓国代表|韓国代表]] |[[李正秀]] |- |align=center|{{Flagicon|RUS}} [[2018 FIFAワールドカップ|2018]] |{{Flagicon|JPN}} [[2018 FIFAワールドカップ日本代表|日本代表]] |[[昌子源]]、[[植田直通]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[FIFAコンフェデレーションズカップ|{{font|FIFAコンフェデレーションズカップ|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|JPN}}{{Flagicon|KOR}} [[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|2001]] |rowspan="3"|{{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] |鈴木隆行、中田浩二 |- |align=center|{{Flagicon|FRA}} [[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|2003]] |秋田豊、小笠原満男、中田浩二、名良橋晃 |- |align=center|{{Flagicon|GER}} [[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005]] |小笠原満男、鈴木隆行、中田浩二、[[本山雅志]]、柳沢敦 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[FIFA U-20ワールドカップ|{{font|FIFA U-20ワールドカップ|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|QAT}} [[1995 FIFAワールドユース選手権|1995]] |rowspan="5"|{{Flagicon|JPN}} [[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]] |[[熊谷浩二]]、[[森岡隆三]] |- |align=center|{{Flagicon|MAS}} [[1997 FIFAワールドユース選手権|1997]] |柳沢敦 |- |align=center|{{Flagicon|NGA}} [[1999 FIFAワールドユース選手権|1999]] |小笠原満男、中田浩二、本山雅志 |- |align=center|{{Flagicon|ARG}} [[2001 FIFAワールドユース選手権|2001]] |青木剛、[[羽田憲司]] |- |align=center|{{Flagicon|CAN}} [[2007 FIFA U-20ワールドカップ|2007]] |内田篤人 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[FIFA U-17ワールドカップ|{{font|FIFA U-17ワールドカップ|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|NGA}} [[2009 FIFA U-17ワールドカップ|2009]] |rowspan="2"|{{Flagicon|JPN}} [[U-17サッカー日本代表|U-17日本代表]] |神田圭介(ユース) |- |align=center|{{Flagicon|MEX}} [[2011 FIFA U-17ワールドカップ|2011]] |[[鈴木隆雅]](ユース) |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[オリンピックのサッカー競技|{{font|オリンピック|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|AUS}} [[2000年シドニーオリンピックのサッカー競技|2000]] |rowspan="6"|{{Flagicon|JPN}} [[U-23サッカー日本代表|U-23日本代表]] |中田浩二、[[平瀬智行]]、本山雅志、柳沢敦 |- |align=center|{{Flagicon|GRE}} [[2004年アテネオリンピックのサッカー競技|2004]] |曽ヶ端準([[オーバーエイジ#概要|OA]]) |- |align=center|{{Flagicon|CHN}} [[2008年北京オリンピックのサッカー競技|2008]] |内田篤人 |- |align=center|{{Flagicon|GBR}} [[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技|2012]] |[[山村和也]] |- |align=center|{{Flagicon|BRA}} [[2016年リオデジャネイロオリンピックのサッカー競技|2016]] |植田直通、[[櫛引政敏]] |- |align=center|{{Flagicon|JPN}} [[2020年東京オリンピックのサッカー競技|2020]] |[[上田綺世]]、[[町田浩樹]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[AFCアジアカップ|{{font|AFCアジアカップ|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|UAE}} [[AFCアジアカップ1996|1996]] |rowspan="5"|{{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] |秋田豊、相馬直樹、[[本田泰人]] |- |align=center|{{Flagicon|LBN}} [[AFCアジアカップ2000|2000]] |[[高桑大二朗]]、柳沢敦 |- |align=center|{{Flagicon|CHN}} [[AFCアジアカップ2004|2004]] |小笠原満男、鈴木隆行、中田浩二、本山雅志 |- |align=center|{{Flagicon|QAT}} [[AFCアジアカップ2011|2011]] |[[伊野波雅彦]]、岩政大樹 |- |align=center|{{Flagicon|AUS}} [[AFCアジアカップ2015|2015]] |植田直通、[[柴崎岳]]、昌子源 |- |align=center|{{Flagicon|UAE}} [[AFCアジアカップ2019|2019]] |{{Flagicon|KOR}} [[サッカー韓国代表|韓国代表]] |[[鄭昇炫|チョン・スンヒョン]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="4"|[[コパ・アメリカ|{{font|コパ・アメリカ|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|URU}} [[コパ・アメリカ1995|1995]] |{{Flagicon|BRA}} [[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]] |[[ジョルジ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]]、[[レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ|レオナルド]] |- |align=center|{{Flagicon|PAR}} [[コパ・アメリカ1999|1999]] |{{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] |秋田豊、相馬直樹 |- |align=center|{{Flagicon|BRA}} [[コパ・アメリカ2019|2019]] |{{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] |[[安部裕葵]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[アジア競技大会サッカー競技|{{font|アジア競技大会|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|JPN}} [[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|1994]] |{{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] |秋田豊 |- |align=center|{{Flagicon|KOR}} [[2002年アジア競技大会におけるサッカー競技|2002]] |rowspan="4"|{{Flagicon|JPN}} [[U-23サッカー日本代表|U-23日本代表]] |[[青木剛]]、[[野沢拓也]] |- |align=center|{{Flagicon|QAT}} [[2006年アジア競技大会におけるサッカー競技|2006]] |[[増田誓志]] |- |align=center|{{Flagicon|CHN}} [[2010年アジア競技大会におけるサッカー競技|2010]] |[[當間建文]] |- |align=center|{{Flagicon|KOR}} [[2014年アジア競技大会におけるサッカー競技|2014]] |植田直通 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|[[EAFF E-1サッカー選手権|{{font|EAFF E-1サッカー選手権|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||代表チーム||選手 |- |align=center|{{Flagicon|JPN}} [[東アジアサッカー選手権2003|2003]] |rowspan="8"|{{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] |小笠原満男、本山雅志 |- |align=center|{{Flagicon|KOR}} [[東アジアサッカー選手権2005|2005]] |小笠原満男、本山雅志 |- |align=center|{{Flagicon|CHN}} [[東アジアサッカー選手権2008|2008]] |岩政大樹、内田篤人、[[田代有三]] |- |align=center|{{Flagicon|JPN}} [[東アジアサッカー選手権2010|2010]] |岩政大樹、内田篤人、小笠原満男 |- |align=center|{{Flagicon|KOR}} [[東アジアカップ2013|2013]] |[[大迫勇也]] |- |align=center|{{Flagicon|CHN}} [[東アジアカップ2015|2015]] |柴崎岳 |- |align=center|{{Flagicon|JPN}} [[EAFF E-1サッカー選手権2017|2017]] |[[山本脩斗]]、昌子源、植田直通、[[三竿健斗]]、[[金崎夢生]]、[[土居聖真]] |- |align=center|{{Flagicon|KOR}} [[EAFF E-1サッカー選手権2019|2019]] |上田綺世、[[相馬勇紀]] |} === アントラーズ功労賞 === クラブの発展に貢献した人物を顕彰するために設けられた賞である。[[カシマサッカーミュージアム]]の中にある「THE HALL OF LEGEND」にて記念される。現役選手および鹿島で在任中のスタッフは選考から外される。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |受賞年||受賞者 |- !2009年 |[[秋田豊]]、[[黒崎久志]]、[[ジーコ]]、[[ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]]、[[相馬直樹]]、[[トニーニョ・セレーゾ]]、<br/>[[名良橋晃]]、[[長谷川祥之]]、[[ビスマルク・バレット・ファリア|ビスマルク]]、[[本田泰人]]、[[宮本征勝]] |- !2011年 |[[オズワルド・オリヴェイラ]] |- !2013年 |[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]] |- !2014年 |[[フォー・セインツ|ダニー石尾]] |- !2015年 |[[新井場徹]]、[[中田浩二 (サッカー選手)|中田浩二]]、[[柳沢敦]] |- !2019年 |[[小笠原満男]] |- !2022年 |[[内田篤人]]、[[曽ヶ端準]]、[[野沢拓也]] |} == 成績 == === 国内試合 === {{main|鹿島アントラーズの年度別成績一覧}} === 国際試合 === {{main|鹿島アントラーズの年度別成績一覧#国際試合}} == 歴代監督 == 前述の外国籍選手と同様、外国籍監督も多くがブラジル人であり、ジーコの兄である[[エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ|エドゥー]]や、ジーコと共に[[ブラジル代表]]の「黄金の中盤([[黄金のカルテット]])」として活躍した一人である[[トニーニョ・セレーゾ]]などがこのチームを指揮を執っている。なお、2022年現在までの日本人正監督は初代の監督である[[宮本征勝]]と2015年途中に就任した[[石井正忠]]、2017年途中に就任した[[大岩剛]]、2021年途中に就任した[[相馬直樹]]、2022年途中に就任した[[岩政大樹]]の五人で、外国籍監督の正監督は1994年から2021年まで全員ブラジル人だったが、2022年は初めての欧州国籍監督で、[[スイス]]人監督の[[レネ・ヴァイラー]]を招聘した。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |+ 鹿島アントラーズ歴代監督 !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;" class="unsortable"|監督 !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;" class="unsortable"|期間 !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[J1リーグ|{{font|J/J1|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[Jリーグカップ|{{font|ルヴァン杯|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|{{font|天皇杯|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[スーパーカップ (日本サッカー)|{{font|FXSC|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|国内 !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[FIFAクラブワールドカップ|{{font|CWC|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[AFCチャンピオンズリーグ|{{font|ACL|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦|{{font|SBCS|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|[[A3チャンピオンズカップ|{{font|A3C|color=#BEB1AA}}]] !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|国際 !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;"|合計 !style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA;" class="unsortable"|備考 |- |{{Flagicon|JPN}} [[宮本征勝]]||1992年 - 1994年6月||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ|エドゥー]]||1994年6月 - 1995年||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[ジョアン・カルロス・ダ・シウバ・コスタ|ジョアン・カルロス]]||1996年 - 1998年7月||1||1||1||'''2'''||5||0||0||0||0||0||5|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[関塚隆]]||1998年7月、1999年8月||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||監督代行 |- |{{Flagicon|BRA}} [[ジョゼ・マリオ・ジ・アウメイダ・バロス|ゼ・マリオ]]||1998年8月 - 1999年8月||1||0||0||1||2||0||0||0||0||0||2|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[ジーコ]]||1999年8月 - 12月||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||監督代行 |- |{{Flagicon|BRA}} [[トニーニョ・セレーゾ]]||2000年 - 2005年<br/>2013年 - 2015年7月||2||'''2'''||1||0||5||0||0||'''1'''||'''1'''||'''2'''||7|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[パウロ・アウトゥオリ]]||2006年||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[オズワルド・オリヴェイラ]]||2007年 - 2011年||'''3'''||1||'''2'''||'''2'''||'''8'''||0||0||0||0||0||'''8'''|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]]||2012年||0||1||0||0||1||0||0||'''1'''||0||1||2|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[石井正忠]]||2015年7月 - 2017年5月||1||1||1||1||4||0||0||0||0||0||4|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[大岩剛]]||2017年5月 - 2019年||0||0||0||0||0||0||'''1'''||0||0||1||1|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[アントニオ・カルロス・ザーゴ|ザーゴ]]||2020年 - 2021年4月||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[相馬直樹]]||2021年4月 - 12月||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |{{Flagicon|SUI}} [[レネ・ヴァイラー]]||2022年 - 同年8月||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[岩政大樹]]||2022年8月 - 2023年||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0|| |- |} == ダービーマッチ == * '''[[茨城ダービー]]''' ** vs[[水戸ホーリーホック]] *** [[茨城県]]の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]クラブ同士の対戦。初の公式戦は2004年11月13日(茨城県民の日)の天皇杯4回戦で、水戸のホームである[[笠松運動公園陸上競技場]]で対戦し、13,393人が来場した。また、2005年に提携を結び、[[いばらきサッカーフェスティバル]]([[プレシーズンマッチ]])としてシーズン開幕前に対戦している。なおスタジアムは毎年交互となっている。 == タイトル・表彰 == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]:8回''' ** [[1996年のJリーグ|1996]], [[1998年のJリーグ|1998]], [[2000年のJリーグ ディビジョン1|2000]], [[2001年のJリーグ ディビジョン1|2001]], [[2007年のJリーグ ディビジョン1|2007]], [[2008年のJリーグ ディビジョン1|2008]], [[2009年のJリーグ ディビジョン1|2009]], [[2016年のJ1リーグ|2016]] ::* '''[[J1リーグ#開催方式|1stステージ]]:3回''' :::* [[1993年のJリーグ|1993]], [[1997年のJリーグ|1997]], [[2016年のJ1リーグ|2016]] ::* '''[[J1リーグ#開催方式|2ndステージ]]:3回''' :::* [[1998年のJリーグ|1998]], [[2000年のJリーグ ディビジョン1|2000]], [[2001年のJリーグ ディビジョン1|2001]] *'''[[Jリーグカップ]]:6回''' ** [[1997年のJリーグカップ|1997]], [[2000年のJリーグカップ|2000]], [[2002年のJリーグカップ|2002]], [[2011年のJリーグカップ|2011]], [[2012年のJリーグカップ|2012]], [[2015年のJリーグカップ|2015]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:5回''' ** [[第77回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1997]], [[第80回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2000]], [[第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2007]], [[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2010]], [[第96回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2016]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:6回''' ** 1997, 1998, 1999, 2009, 2010, [[2017年のスーパーカップ (日本サッカー)|2017]] === 国際タイトル === {{multiple image | align = right | direction = vertical | width = 260 | header = | image1 = Kashima_Antlers_lifted_2018_ACL_trophy.jpg | alt1 = | caption1 = | image2 = ACL_Final_by_Tasnim_3.jpg | alt2 = | caption2 = [[AFCチャンピオンズリーグ]]を制覇した鹿島アントラーズ(2018年) }} * '''[[AFCチャンピオンズリーグ]]:1回''' [[ファイル:AFC Champions League Trophy.png|25px]] ** [[AFCチャンピオンズリーグ2018|2018]] * '''[[A3チャンピオンズカップ]]:1回''' ** [[A3チャンピオンズカップ2003|2003]] * '''[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦]]:2回''' ** [[スルガ銀行チャンピオンシップ2012|2012]], [[スルガ銀行チャンピオンシップ2013|2013]] === 表彰 === ; [[Jリーグアウォーズ|Jリーグ]] * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞|最優秀選手賞]]''' ** 1996年 {{Flagicon|BRA}} [[ジョルジェ・デ・アモリン・カンポス|ジョルジーニョ]] ** 2008年 {{Flagicon|BRA}} [[マルコス・ゴメス・デ・アラウージョ|マルキーニョス]] ** 2009年 {{Flagicon|JPN}} [[小笠原満男]] * '''[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]]''' ** 1993年 {{Flagicon|JPN}} [[大野俊三 (サッカー選手)|大野俊三]]、{{Flagicon|BRA}} [[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]、{{Flagicon|JPN}} [[本田泰人]] ** 1995年 {{Flagicon|JPN}} [[相馬直樹]] ** 1996年 {{Flagicon|JPN}} 相馬直樹、{{Flagicon|BRA}} ジョルジーニョ ** 1997年 {{Flagicon|JPN}} 相馬直樹、{{Flagicon|JPN}} [[秋田豊]]、{{Flagicon|BRA}} [[ビスマルク・バレット・ファリア|ビスマルク]] ** 1998年 {{Flagicon|JPN}} 相馬直樹、{{Flagicon|JPN}} 秋田豊、{{Flagicon|JPN}} [[柳沢敦]] ** 2000年 {{Flagicon|JPN}} [[高桑大二朗]]、{{Flagicon|JPN}} 秋田豊 ** 2001年 {{Flagicon|JPN}} 秋田豊、{{Flagicon|JPN}} [[名良橋晃]]、{{Flagicon|JPN}} 小笠原満男、{{Flagicon|JPN}} [[中田浩二 (サッカー選手)|中田浩二]]、{{Flagicon|JPN}} 柳沢敦 ** 2002年 {{Flagicon|JPN}} [[曽ヶ端準]]、{{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2003年 {{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2004年 {{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2005年 {{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2007年 {{Flagicon|JPN}} [[岩政大樹]] ** 2008年 {{Flagicon|JPN}} [[内田篤人]]、{{Flagicon|JPN}} 岩政大樹、{{Flagicon|BRA}} マルキーニョス ** 2009年 {{Flagicon|JPN}} 岩政大樹、{{Flagicon|JPN}} 内田篤人、{{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2013年 {{Flagicon|JPN}} [[大迫勇也]] ** 2014年 {{Flagicon|JPN}} [[柴崎岳]] ** 2015年 {{Flagicon|JPN}} [[金崎夢生]] ** 2016年 {{Flagicon|JPN}} [[昌子源]] ** 2017年 {{Flagicon|JPN}} 昌子源、[[西大伍]] ** 2018年 {{Flagicon|JPN}} 西大伍 ** 2020年 {{Flagicon|BRA}} [[エヴェラウド・ストゥン|エヴェラウド]] * '''[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]''' ** 2008年 {{Flagicon|BRA}} マルキーニョス * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀ゴール賞|最優秀ゴール賞]]''' ** 2014年 {{Flagicon|JPN}} [[西大伍]] * '''[[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|ベストヤングプレーヤー賞]]''' ** 1997年 {{Flagicon|JPN}} 柳沢敦 ** 2012年 {{Flagicon|JPN}} 柴崎岳 ** 2014年 {{Flagicon|BRA}} [[カイオ・ルーカス・フェルナンデス|カイオ]] ** 2018年 {{Flagicon|JPN}} [[安部裕葵]] ** 2021年 {{Flagicon|JPN}} [[荒木遼太郎]] ** * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀監督賞|最優秀監督賞]]''' ** 1997年 {{Flagicon|BRA}} [[ジョアン・カルロス・ダ・シウバ・コスタ|ジョアン・カルロス]] ** 2007年 {{Flagicon|BRA}} [[オズワルド・オリヴェイラ]] ** 2008年 {{Flagicon|BRA}} オズワルド・オリヴェイラ ** 2009年 {{Flagicon|BRA}} オズワルド・オリヴェイラ ** 2016年 {{Flagicon|JPN}} [[石井正忠]] * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞 (J1)|フェアプレー賞 (J1)]]''' ** 2016年、2018年 * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー個人賞|フェアプレー個人賞]]''' ** 1998年 {{Flagicon|JPN}} 相馬直樹 ** 2003年 {{Flagicon|JPN}} 曽ヶ端準 * '''[[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|功労選手賞]]''' ** 2002年 {{Flagicon|BRA}} サントス ** 2005年 {{Flagicon|BRA}} ビスマルク ** 2006年 {{Flagicon|JPN}} 相馬直樹 ** 2007年 {{Flagicon|JPN}} 本田泰人 ** 2008年 {{Flagicon|JPN}} 秋田豊、{{Flagicon|JPN}} 名良橋晃、{{Flagicon|JPN}} 黒崎久志 ** 2009年 {{Flagicon|JPN}} [[森岡隆三]] ** 2014年 {{Flagicon|BRA}} [[カルロス・アルベルト・カルヴァリョ・ドス・アンジョス・ジュニオル|ジュニーニョ]] ** 2015年 {{Flagicon|JPN}} 柳沢敦、{{Flagicon|JPN}} 中田浩二、{{Flagicon|JPN}} [[新井場徹]] ** 2019年 {{Flagicon|BRA}} [[アレックス・アントニオ・デ・メロ・サントス|アレックス]]、{{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2021年 {{Flagicon|JPN}} 曽ヶ端準 ** 2022年 {{Flagicon|JPN}} [[青木剛]] * '''[[Jリーグアウォーズ#ベストピッチ賞|ベストピッチ賞]]''' ** 2003年 カシマサッカースタジアム * '''優勝監督賞(1995–2003)''' ** 1996年 {{Flagicon|BRA}} [[ジョアン・カルロス・ダ・シウバ・コスタ|ジョアン・カルロス]] ** 1998年 {{Flagicon|BRA}} [[ジョゼ・マリオ・ジ・アウメイダ・バロス|ゼ・マリオ]] ** 2000年 {{Flagicon|BRA}} [[トニーニョ・セレーゾ]] ** 2001年 {{Flagicon|BRA}} [[トニーニョ・セレーゾ]] * '''チェアマン感謝状(1994–1995)''' ** 1994年 {{Flagicon|BRA}} [[ジーコ]] ; [[Jリーグカップ]] * '''[[Jリーグカップ#最優秀選手賞|最優秀選手賞]]''' ** 1997年 {{Flagicon|BRA}} ジョルジーニョ ** 2000年 {{Flagicon|JPN}} 中田浩二 ** 2002年 {{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 ** 2011年 {{Flagicon|JPN}} 大迫勇也 ** 2012年 {{Flagicon|JPN}} 柴崎岳 ** 2015年 {{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 * '''[[Jリーグカップ#ニューヒーロー賞|ニューヒーロー賞]]''' ** 2000年 {{Flagicon|JPN}} [[鈴木隆行]] ** 2001年 {{Flagicon|JPN}} 曽ヶ端準 ** 2015年 {{Flagicon|JPN}} [[赤崎秀平]] === その他受賞 === * '''[[内閣総理大臣顕彰]]''' ** 1994年 {{Flagicon|BRA}} ジーコ * '''[[日本年間最優秀選手賞]]''' ** 2001年 {{Flagicon|JPN}} 柳沢敦 ** 2009年 {{Flagicon|JPN}} 小笠原満男 * '''茨城県県民栄誉賞''' ** 2001年 ** 2008年 ** 2019年 ** 2023年 {{Flagicon|BRA}} ジーコ * '''茨城県特別功労賞''' ** 1994年 ** 1997年 {{Flagicon|JPN}} [[鈴木昌 (経営者)|鈴木昌]] ** 2002年 {{Flagicon|JPN}} 曽ケ端準、{{Flagicon|JPN}} 秋田豊、{{Flagicon|JPN}} 中田浩二、{{Flagicon|JPN}} 小笠原満男、{{Flagicon|JPN}} 鈴木隆行、{{Flagicon|JPN}} 柳沢敦 ** 2010年 {{Flagicon|JPN}} [[大東和美]] * '''[[いばらきイメージアップ大賞]]''' ** 2009年 ** 2017年 * '''鹿嶋市特別功労賞''' ** 2008年 ** 2017年 * '''[[クールビズ]]・オブ・ザ・イヤー''' ** 2009年 * '''[[日本プロスポーツ大賞]]特別賞''' ** 2009年 * '''[[FIFAクラブワールドカップ]]フェアプレー賞''' ** 2016年 * '''[[AFCチャンピオンズリーグ]]MVP''' ** 2018年 {{Flagicon|JPN}} [[鈴木優磨]] * '''[[アジア年間最優秀選手賞|AFC年間最優秀監督賞]]''' ** 2018年 {{Flagicon|JPN}} [[大岩剛]] * '''[[報知プロスポーツ大賞]]''' ** 1999年 {{Flagicon|JPN}} [[平瀬智行]] ** 2001年 {{Flagicon|JPN}} 柳沢敦 == クラブ記録 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="2"|記録名||記録||試合||備考 |- !連続無敗記録!!J1 |align=center|17試合|||2009年 第3節 広島戦(カシマ) - 2009年 第19節 柏戦(カシマ)|| |- !連勝記録!!J1 |align=center|16連勝||1998年 2nd第5節 福岡戦(博多球) - 1999年 1st第3節 広島戦(国立)|| |- !連敗記録!!J1 |align=center|8連敗||1999年 1st第13節 浦和戦(国立) - 1999年 2nd第4節 C大阪戦(カシマ)|| |- !rowspan="8"|最多得点試合!!rowspan="3"|J1 |align=center|7 - 0||1997年8月9日 2nd第4節 名古屋戦(カシマ)|| |- |align=center|7 - 2||2005年8月24日 第20節 新潟戦(カシマ)|| |- |align=center|7 - 0||2012年5月19日 第12節 札幌戦(カシマ)|| |- !rowspan="2"|Jリーグ杯 |align=center|7 - 1||1992年10月3日 GL第7節 名古屋戦(瑞穂球)|| |- |align=center|7 - 0||1997年10月18日 準々決勝第2戦 札幌戦(カシマ)|| |- !rowspan="2"|天皇杯 |align=center|8 - 1||1992年12月5日 1回戦 新日鐵八幡戦(愛媛)|| |- |align=center|8 - 1||2021年6月16日 2回戦 YS横浜戦(水戸)|| |- !国際大会 |align=center|16 - 0||1999年10月23日 ACC 2回戦 バレンシア戦(ひたちなか)||クラブ最多得点記録 |- !rowspan="14"|最多失点試合!!J1 |align=center|0 - 7||1995年5月3日 1st第13節 平塚戦(平塚)||クラブ最多失点記録 |- !rowspan="6"|Jリーグ杯 |align=center|3 - 4||1992年9月23日 GL第5節 横浜M戦(国立)|| |- |align=center|1 - 4||1992年9月26日 GL第6節 清水戦(笠松)|| |- |align=center|2 - 4||1997年3月8日 GL第1節 C大阪戦(カシマ)|| |- |align=center|0 - 4||2003年11月3日 決勝 浦和戦(国立)|| |- |align=center|2 - 4||2013年3月23日 GL第2節 対F東京戦(カシマ)|| |- |align=center|1 - 4||2016年3月27日 GS第2節 対神戸戦 (ノエスタ) || |- !天皇杯 |align=center|2 - 6||1994年1月1日 決勝 横浜F戦(国立)|| |- !rowspan="6"|国際大会 |align=center|1 - 4||1999年4月16日 ACWC 準決勝 全南戦(国立)|| |- |align=center|3 - 4||2003年3月12日 ACL GL第2節 上海申花戦(スパチャラサイ)|| |- |align=center|1 - 4||2009年3月11日 ACL GL第1節 水原三星戦(水原)|| |- |align=center|3 - 4||2015年3月18日 ACL GL第3節 広州恒大戦(天河)|| |- |align=center|2 - 4||2016年12月18日 FCWC 決勝 レアル・マドリード(横浜国際)|| |- |align=center|0 - 4||2018年12月22日 FCWC 3位決定戦 リーベル・プレート(ザイード・スポーツシティ)|| |- !rowspan="3"|最少被シュート数!!rowspan="2"|J1 |rowspan="3"|0本||2009年11月8日 第31節 山形戦(カシマ)|| リーグ初記録 |- |2021年5月12日 第21節 名古屋戦(豊田ス)|| |- !国際大会 |1999年10月23日 ACC 2回戦 バレンシア戦(ひたちなか)|| クラブ初記録 |} === 通算勝利数 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="3"|J1リーグ戦通算勝利数 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |通算勝利||試合||備考 |- !初勝利 |1993年5月16日 サントリー第1節 名古屋戦(カシマ)|| |- !100勝 |1997年4月12日 1st第1節 神戸戦(カシマ)|| |- !200勝 |2001年11月17日 1st第14節 東京V戦(カシマ)||リーグ最速記録 |- !300勝 |2007年11月24日 第33節 浦和戦(埼玉)||リーグ最速記録 |- !400勝 |2014年3月8日 第2節 仙台戦(カシマ)||リーグ最速記録 |- !500勝 |2019年7月6日 第18節 磐田戦(カシマ)||リーグ最速記録 |- |} === 通算得点 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="5"|公式戦通算得点 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |通算得点||試合||選手名||備考 |- !初得点 |1992年9月5日 ナビスコ杯 GL第1節 横浜F戦(笠松)||{{Flagicon|JPN}} [[入井和久]]|| |- !500得点 |1997年9月27日 J 2nd第15節 横浜M戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[室井市衛]]|| |- !1000得点 |2002年12月15日 天皇杯 3回戦 東京学芸大戦(カシマ)||{{Flagicon|BRA}} [[アウグスト・ペドロ・デ・ソウザ|アウグスト]]|| |- !1500得点 |2009年4月22日 ACL GL第4戦 SAFFC戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[野沢拓也]]|| |- !2000得点 |2015年7月25日 J1 2nd第4節 F東京戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[昌子源]]|| |- !colspan="4"|J1リーグ戦通算得点 |- !通算得点!!試合!!選手名!!備考 |- !初得点 |1993年5月16日 サントリー第1節 名古屋戦(カシマ)||{{Flagicon|BRA}} [[ジーコ]]|| |- !100得点 |1994年5月18日 サントリー第17節 名古屋戦(カシマ)||{{Flagicon|BRA}} [[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]|| |- !200得点 |1995年8月16日 ニコス第2節 磐田戦(磐田)||{{Flagicon|JPN}} [[黒崎久志|黒崎比差支]]|| |- !300得点 |1996年10月30日 第27節 磐田戦(カシマ)||{{Flagicon|BRA}} [[バルデマール・アウレリアーノ・デ・オリベイラ・フィリョ|マジーニョ]]|| |- !400得点 |1998年4月11日 1st第5節 柏戦(国立)||{{Flagicon|JPN}} [[眞中靖夫]]|| |- !500得点 |1999年9月23日 2nd第10節 市原戦(国立)||{{Flagicon|JPN}} [[長谷川祥之]]||リーグ最速記録 |- !600得点 |2001年9月29日 2nd第7節 名古屋戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[中田浩二 (サッカー選手)|中田浩二]]||リーグ最速記録 |- !700得点 |2003年10月18日 2nd第10節 清水戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[相馬直樹]]||リーグ最速記録 |- !800得点 |2005年10月1日 第26節 千葉戦(カシマ)||{{Flagicon|BRA}} [[アレシャンデル・ペレイラ・カルドーゾ|アレックス・ミネイロ]]||リーグ最速記録 |- !900得点 |2007年8月12日 第19節 甲府戦(小瀬)||{{Flagicon|JPN}} 野沢拓也||リーグ最速記録 |- !1000得点 |2009年4月29日 第8節 神戸戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[岩政大樹]]||リーグ最速記録 |- !1100得点 |2011年5月21日 第12節 浦和戦(埼玉)||{{Flagicon|JPN}} [[増田誓志]]||リーグ最速記録 |- !1200得点 |2013年4月6日 第5節 C大阪戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[遠藤康]]|| |- !1300得点 |2014年9月23日 第25節 仙台戦(ユアスタ)||{{Flagicon|JPN}} [[土居聖真]]||リーグ最速記録 |- !1400得点 |2016年6月11日 1st第15節 浦和戦(埼玉)||{{Flagicon|JPN}} [[鈴木優磨]]||リーグ最速記録 |- !1500得点 |2018年7月22日 第17節 柏戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} 土居聖真||リーグ最速記録 |- !1600得点 |2020年8月16日 第10節 神戸戦 (カシマ) ||{{Flagicon|JPN}} [[荒木遼太郎]]||リーグ最速記録 |- !1700得点 |2021年11月7日 第35節 浦和戦 (カシマ) ||{{Flagicon|JPN}} 土居聖真||リーグ最速記録 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="5"|Jリーグ杯通算得点 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |通算得点||試合||選手名||備考 |- !初得点 |1992年9月5日 GL第1節 横浜F戦(笠松)||{{Flagicon|JPN}} 入井和久|| |- !100得点 |1999年6月19日 2回戦第2戦 G大阪戦(秋田陸)||{{Flagicon|JPN}} 長谷川祥之|| |- !200得点 |2007年10月13日 準決勝第2戦 G大阪戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[本山雅志]]|| |- !300得点 |2021年3月3日 GS第1節 鳥栖戦 (カシマ) ||{{Flagicon|JPN}} [[和泉竜司]]|| |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="4"|天皇杯通算得点 |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |通算得点||試合||選手名||備考 |- !初得点 |1992年12月5日 1回戦 新日鐵八幡(愛媛陸)||{{Flagicon|JPN}} 長谷川祥之|| |- !100得点 |2002年12月28日 準決勝 市原戦(長居)||{{Flagicon|BRA}} [[エウレル・エリアス・デ・カルバーリョ|エウレル]]|| |- !200得点 |2015年9月9日 2回戦 琉球戦(カシマ)||{{Flagicon|JPN}} [[杉本太郎]]|| |} == 個人記録 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="2"|記録名||選手名||記録||試合||備考 |- !最年少出場!!J1 |{{Flagicon|JPN}} [[野沢拓也]]||align=center|17歳7ヶ月29日||1999年4月10日 1st第6節 京都戦|| |- !最年長出場!!J1 |{{Flagicon|BRA}} [[ジーコ]]||align=center|41歳3ヶ月12日||1994年6月15日 サントリー第22節 磐田戦|| |- !最年少得点!!J1 |{{Flagicon|JPN}} [[内田篤人]]||align=center|17歳11ヶ月22日||2006年3月21日 第4節 甲府戦|| |- !最年長得点!!J1 |{{Flagicon|BRA}} ジーコ||align=center|41歳3ヶ月12日||1994年6月15日 サントリー第22節 磐田戦|| |- !連続試合得点!!J1 |{{Flagicon|BRA}} [[マルコス・ゴメス・デ・アラウージョ|マルキーニョス]]||align=center|7試合||2008年8月16日 第21節 東京V戦 - 10月1日 第26節 大宮戦|| |- !シーズン連続得点!!J1 |{{Flagicon|JPN}} [[小笠原満男]]||align=center|17シーズン||1999年 - 2015年|| |- !シーズン最多得点!!J1 |{{Flagicon|BRA}} [[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]]||align=center|28得点||1994年|| |- !リーグ得点王!!J1 |{{Flagicon|BRA}} マルキーニョス||align=center|21得点||2008年|| |} === ハットトリック === {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="2"|記録名||選手名||試合||備考 |- !rowspan="17"|J1!!4得点 |{{Flagicon|JPN}} [[柳沢敦]]||1998年4月4日 1st第4節 京都戦|| |- !rowspan="16"|3得点 |{{Flagicon|BRA}} ジーコ||1993年5月16日 サントリー第1節 名古屋戦(Jリーグ開幕戦)||リーグ初記録 |- |{{Flagicon|BRA}} アルシンド||1993年6月19日 サントリー第11節 名古屋戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[長谷川祥之]]||1995年8月26日 NICOS第5節 G大阪戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[バルデマール・アウレリアーノ・デ・オリベイラ・フィリョ|マジーニョ]]||1997年4月12日 1st第1節 神戸戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} 長谷川祥之||1997年9月20日 2nd第13節 平塚戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} 柳沢敦||1998年5月5日 1st第11節 磐田戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[平瀬智行]]||2000年4月29日 1st第9節 神戸戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[鈴木隆行]]||2004年9月18日 2nd第5節 磐田戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} 柳沢敦||2006年3月5日 第1節 広島戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[フェルナンド・アルメイダ・デ・オリベイラ|フェルナンド]]||2006年9月24日 第24節 FC東京戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} 野沢拓也||2006年12月2日 第34節 磐田戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} マルキーニョス||2010年9月18日 第23節 大宮戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[セルジオ・ドゥトラ・ジュニオール|ドゥトラ]]||2012年10月6日 第28節 F東京戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[ウェベルソン・レアンドロ・オリベイラ・モウラ|レアンドロ]]||2017年9月16日 第26節 新潟戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} [[エヴェラウド・ストゥン|エヴェラウド]]||2020年8月1日 第8節 大分戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[土居聖真]]||2021年5月15日 第14節 横浜FM戦|| |- !rowspan="3"|Jリーグ杯!!rowspan="3"|3得点 |{{Flagicon|JPN}} 長谷川祥之||1992年10月3日 第7節 名古屋戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} ジーコ||1992年10月11日 第9節 広島戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[黒崎久志|黒崎比差支]]||1997年10月18日 準々決勝第2戦 札幌戦|| |- !rowspan="5"|天皇杯!!rowspan="5"|3得点 |{{Flagicon|JPN}} 黒崎比差支||1992年12月5日 1回戦 新日鐵八幡戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[増田誓志]]||2005年11月3日 4回戦 ホンダロック戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[遠藤康]]||2012年9月8日 2回戦 筑波大戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[中村充孝]]||2019年9月25日 ラウンド16 横浜FM戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} [[上田綺世]]||2021年6月16日 2回戦 YS横浜戦|| |- !rowspan="6"|国際大会!!4得点 |{{Flagicon|JPN}} 平瀬智行||1999年3月3日 [[アジアカップウィナーズカップ|ACWC]] 3回戦第2戦 サラワク戦|| |- !rowspan="5"|3得点 |{{Flagicon|JPN}} 長谷川祥之||1999年3月3日 ACWC 3回戦第2戦 サラワク戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} 柳沢敦||1999年10月23日 [[AFCチャンピオンズリーグ|ACC]] 2回戦第1戦 バレンシア戦|| |- |{{Flagicon|JPN}} 鈴木隆行||1999年10月23日 ACC 2回戦第1戦 バレンシア戦|| |- |{{Flagicon|BRA}} マルキーニョス||2008年3月12日 [[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]] GL第1戦 クルン・タイ・バンク戦|| |- |{{Flagicon|JPN|}} [[大迫勇也]]||2013年8月7日 [[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦|SBCS]] サンパウロ戦|| |} == 観客 == === リーグ戦年度別観客数 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |年度||試合||総観客||平均観客 |- |style="font-weight:bold;" |1993 ||18 ||252,291 ||14,016 |- |style="font-weight:bold;" |1994 ||22 ||369,862 ||16,812 |- |style="font-weight:bold;" |1995 ||26 ||497,665 ||19,141 |- |style="font-weight:bold;" |1996 ||15 ||230,789 ||15,386 |- |style="font-weight:bold;" |1997 ||16 ||271,765 ||16,985 |- |style="font-weight:bold;" |1998 ||17 ||260,866 ||15,345 |- |style="font-weight:bold;" |1999 ||15 ||255,741 ||17,049 |- |style="font-weight:bold;" |2000 ||15 ||262,603 ||17,507 |- |style="font-weight:bold;" |2001 ||15 ||336,377 ||22,425 |- |style="font-weight:bold;" |2002 ||15 ||323,855 ||21,590 |- |style="font-weight:bold;" |2003 ||15 ||318,064 ||21,204 |- |style="font-weight:bold;" |2004 ||15 ||263,777 ||17,585 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||17 ||316,897 ||18,641 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||17 ||262,365 ||15,433 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||17 ||276,058 ||16,239 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||17 ||335,140 ||19,714 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||17 ||367,486 ||21,617 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||17 ||356,430 ||20,966 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||17 ||274,655 ||16,156 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||17 ||261,484 ||15,381 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||17 ||279,115 ||16,419 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||17 ||300,310 ||17,665 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||17 ||279,185 ||16,423 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||17 ||324,759 ||19,103 |- |style="font-weight:bold;" |2017 ||17 ||347,942 ||20,467 |- |style="font-weight:bold;" |2018 ||17 ||330,376 ||19,434 |- |style="font-weight:bold;" |2019 ||17 ||349,678 ||20,569 |- |style="font-weight:bold;" |2020 ||17 ||104,402 ||{{0}}6,141 |} <div style="font-size:small"> * 観客の単位: 人 出典: {{Cite web|和書|url=https://data.j-league.or.jp/SFTD12/ |title=通算データ 年度別入場者数推移 |publisher=J.LEAGUE Data Site |accessdate=2021-01-17}} </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |type=line |colors=#0000aa,#ff8000 |showSymbols=yes |legend=凡例 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=人 |yAxisMin=0 |y1Title=平均観客 |x=1993, 1994, 1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019, 2020 |y1=14016, 16812, 19141, 15386, 16985, 15345, 17049, 17507, 22425, 21590, 21204, 17585, 18641, 15433, 16239, 19714, 21617, 20966, 16156, 15381, 16419, 17665, 16423, 19103, 20467, 19434, 20569, 6141 }} === 観客動員記録 === ; ホームゲーム最多観客動員試合 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="5"|[[茨城県立カシマサッカースタジアム|{{font|茨城県立カシマサッカースタジアム|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||入場者数||colspan="3"|試合 |- !J1 |39,684人||2003年7月5日||1st第11節||磐田 |- !Jリーグ杯 |19,127人||2019年10月13日||準決勝第2戦||川崎 |- ![[Jリーグチャンピオンシップ|CS]] |40,115人||2001年12月8日||第2戦||磐田 |- !ACL |35,022人||2018年11月3日||決勝第1戦||ペルセポリス |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan="5"|[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|{{font|国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|color=#BEB1AA}}]] |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |大会||入場者数||colspan="3"|試合 |- !J1 |56,020人||2023年5月14日||第13節||名古屋 |- !Jリーグ杯 |18,009人||1992年9月9日||GL第2節||V川崎 |- !CS |53,553人||1994年1月16日||第1戦||V川崎 |- !ACL |11,951人||2011年5月3日||GL第5戦||上海申花 |} * ホーム扱いの決勝戦は除く。なお年度別の観客動員・試合会場内訳については「[[鹿島アントラーズの年度別成績一覧]]」にまとめて記述する。 == ユニフォーム == {| style="margin-left:16px; float:right;" |- | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ style="font-size:120%; font-weight:bold;"|ユニフォームの色 |- ! style="background-color:#efefef;" |カラー ! style="background-color:#efefef;" |シャツ ! style="background-color:#efefef;" |パンツ ! style="background-color:#efefef;" |ストッキング |- |FP(1st) |ディープレッド |ダークネイビー |ダークネイビー |- |FP(2nd) |白 |白 |白 |- |GK(1st) |緑 |緑 |緑 |- |GK(2nd) |黄色 |黄色 |黄色 |} |- | class="toccolours" style="padding:0; text-align:center;" colspan="2"| {| style="width:100%; text-align:center;" |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Kashima Antlers 2023 HOME FP| pattern_b = _Kashima Antlers 2023 HOME FP| pattern_ra = _Kashima Antlers 2023 HOME FP| pattern_sh = _Kashima Antlers 2023 HOME FP| pattern_so = _Kashima Antlers 2023 HOME FP| | 左袖 = E20018 | 胴 = | 右袖 = E20018 | パンツ = 00003E | ストキング = e20018 | 種別 = FP 1st }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP| pattern_b = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP| pattern_ra = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP| pattern_sh = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP| pattern_so = _Kashima Antlers 2023 AWAY FP| | 左袖 = FFFFFF | 胴 = | 右袖 = FFFFFF | パンツ = FFFFFF | ストキング = FFFFFF | 種別 = FP 2nd }} |} |- | class="toccolours" style="padding:0; text-align:center;" colspan="2"| {| style="width:100%; text-align:center;" |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _nikegk2223green1| pattern_b = _nikegk2223Green| pattern_ra = _nikegk2223green1| pattern_sh = _nikegk2223Green| pattern_so = | 左袖 = 00FA00 | 胴 = | 右袖 = 00FA00 | パンツ = 00FA00 | ストキング = 00FA00 | 種別 = GK 1st }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _nikegk2223Yellow| pattern_b = _nikegk2223Yellow| pattern_ra = _nikegk2223Yellow| pattern_sh = _nikegk2223Yellow| pattern_so = | 左袖 = ffff00 | 胴 = ffff00 | 右袖 = ffff00 | パンツ = ffff00 | ストキング = ffff00 | 種別 = GK 2nd }} |} |} === ユニフォームカラー === * {{color box|#B8193F}} ディープレッド(アントラーズレッド) : フットボールに対する情熱と茨城県花である[[バラ]]の色をイメージしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.antlers.co.jp/club/club.html|title=クラブ概要|publisher=鹿島アントラーズ|accessdate=2023-11-29}}</ref>。 === ユニフォームデザイン === <!-- 歴代ユニフォームのデザイン詳細ではなく、これまでの大きな変更点(使用例)を記述しています --> ユニフォームデザインは基本的に2年に1回変更していたが、2010年シーズン以降はビジネス上の理由から毎年デザインを変更している。ユニフォームの右袖には、ホームタウン5市をあしらったホームタウンマークをつけ、背番号の下に名前が入る。2007シーズンに10冠(国内3大大会のタイトル数)を達成し、2008年シーズンから、左胸のエンブレム上に大きな星1つ(10タイトル分)がついた。11冠目以降の星は、従来の左袖につく。胸のスポンサーロゴの上部には、クラブスローガンである「FOOTBALL DREAM」が入れられている(1998年 - 、1997年のみ裾部分に入れられた)。 [[AFCチャンピオンズリーグ2018|2018年アジアチャンピオンズリーグ]](ACL)の優勝により20冠を達成したため、2019のユニホームからエンブレムの上に星が1つ増え2つになった。 * 1995年のリーグ戦用2ndモデルには、シャツ・シルバー色、パンツ・紺色、ストッキング・シルバー色を採用したが、数戦使用しただけで、シャツ・パンツ・ストッキングをすべて白色に変更している(変更後しばらくは、1993年・1994年に使用した2ndモデルを使用していた)。 * 2006年から2007年までは、2ndモデルはグレーを使用していた。 * 2008年から2009年までは、リーグ初となった横縞(ディープレッド色と紺色)を使用した。 * 2009年はゴールド色の3rdモデルを採用、一部の試合で使用した。 * 2012年はベースカラーを紺色にした2ndモデルを使用した。 * 2013年の2ndモデルのベースカラーを白色に戻した。 * 2017年の1stモデルは、胸はダークネイビー色とディープレッド色の横縞に、ディープレッド色の細い線、袖と背中はダークネイビー色。2ndモデルはピンク色、脇はダークネイビー色。3rdモデルは2016年に2ndとして使用した白色を使用。 === チャンピオンエンブレム === ; リーグチャンピオンエンブレム * 前年度のリーグチャンピオンチームには、日本サッカー協会のシンボルである[[ヤタガラス]]にJのマークがついたエンブレムを右袖につける。 * 2009シーズンからヤタガラスのエンブレムに代わり、金色のJマークをつけている(初着用は鹿島)。 ; 天皇杯チャンピオンエンブレム * 天皇杯を制したチームにはEのマークがついたエンブレムをつける。 * 2009年大会からリーグチャンピオン同様ヤタガラスのエンブレムをやめ、天皇杯エンブレムをつけている。 ; 2冠チャンピオンエンブレム * リーグと天皇杯の2冠を制したチーム<ref name="2冠" group="注">現在、リーグと天皇杯の2冠を達成したのは鹿島(2000年、2007年、2016年)と浦和(2006年)、G大阪(2014年)のみ。</ref>には、☆マークがついたエンブレムをつける(Jリーグ発足後初は2000年度に達成した鹿島)。 * 2015年からは☆マークをやめ、リーグチャンピオンエンブレムのみをつけている。 === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |掲出箇所||スポンサー名||表記||掲出年||備考 |- !胸 |[[LIXIL]]||LIXIL||2011年 - ||1996年 - 2010年は「[[トステム|TOSTEM]]」表記<br/>2012年 - 2015年は本来の企業ロゴとは異なるデザインのものを掲出。 |- !鎖骨 |[[メルカリ]]||mercari||2018年 - ||左右とも掲出 |- !背中上部 |[[イエローハット]]||(帽子マーク)||1999年 - ||1995年 - 1998年は袖<br/>1999年 - 2011年は「Yellow Hat」表記 |- !背中下部 |[[理想科学工業]]||RISO||2016年 - || |- !袖 |[[日本製鉄]]||NIPPON<br/>STEEL||2012年10月 - ||1992年 - 1994年、2000年 - 2012年9月は「[[住友金属工業|SUMITOMO METALS]]」表記)<br/>2012年10月 - 2019年3月は「NIPPON STEEL & SUMITOMO METAL」表記 |- !パンツ前面 |[[カネカ]]||kaneka||2021年10月 - || |- !パンツ背面 |[[高砂熱学工業]]||高砂熱学||2023年3月 - || |} === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年:[https://ennerre.com/ エネーレ] * 1993年 - 1996年:[[ミズノ]](リーグ戦)、[https://ennerre.com/ エネーレ](カップ戦) * 1997年:[[アンブロ]](リーグ戦)、エネーレ(カップ戦) * 1998年 - 2001年:エネーレ * 2002年 - 現在:[[ナイキ]] ** 2016年にはナイキと新たにサプライヤー契約を更新。2017年から推定10年の大型契約となる<ref>{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20161225-OHT1T50061.html|title=鹿島がバルサ化?来季新ユニホームは「挑戦」のピンク!|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2016-12-25|accessdate=2017-12-16}}{{リンク切れ|date=2022年12月}}</ref>。 === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Kashima Antlers 1992 HOME FP|pattern_b= _Kashima Antlers 1992 HOME FP|pattern_ra= _Kashima Antlers 1992 HOME FP|pattern_sh= _Kashima Antlers 1992 HOME FP|pattern_so= _Kashima Antlers 1992 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1992}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Kashima Antlers 1993 HOME FP|pattern_b= _Kashima Antlers 1993 HOME FP|pattern_ra= _Kashima Antlers 1993 HOME FP|pattern_sh= _Kashima Antlers 1993 HOME FP|pattern_so= _Kashima Antlers 1993 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1993 - 1994}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Kashima Antlers 1995 HOME FP|pattern_b= _Kashima Antlers 1995 HOME FP|pattern_ra= _Kashima Antlers 1995 HOME FP|pattern_sh= _Kashima Antlers 1995 HOME FP|pattern_so= _Kashima Antlers 1995 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1995 - 1996}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Kashima Antlers 1997 HOME FP|pattern_b= _Kashima Antlers 1997 HOME FP2|pattern_ra= _Kashima Antlers 1997 HOME FP|pattern_sh= _Kashima Antlers 1997 HOME FP|pattern_so= _Kashima Antlers 1997 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1997}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Kashima Antlers 1998 HOME FP|pattern_b= _Kashima Antlers 1998 HOME FP|pattern_ra= _Kashima Antlers 1998 HOME FP|pattern_sh= _Kashima Antlers 1998 HOME FP|pattern_so= _Kashima Antlers 1998 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1998 - 1999}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Kashima Antlers 2000 - 2001 HOME FP|pattern_b=_Kashima Antlers 2000 - 2001 HOME FP|pattern_ra=_Kashima Antlers 2000 - 2001 HOME FP|pattern_sh=_Kashima Antlers 2000 - 2001 HOME FP|pattern_so=_Kashima Antlers 2000 - 2001 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2000 - 2001}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Kashima Antlers 2002 - 2003 HOME FP|pattern_b=_Kashima Antlers 2002 - 2003 HOME FP2|pattern_ra=_Kashima Antlers 2002 - 2003 HOME FP|pattern_sh=_Kashima Antlers 2002 - 2003 HOME FP2|pattern_so=_Kashima Antlers 2002 - 2003 HOME FP2 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|1993||rowspan="4"|[[ミズノ|Mizuno]] / <br/>[https://ennerre.com/ ennerre] |- |1994||rowspan="2"|[[トステム|TOSTEM]] |- |1995||rowspan="4"|[[イエローハット|Yellow Hat]] |- |1996||rowspan="15"|[[トステム|TOSTEM]]||rowspan="3"|- |- |1997||[[アンブロ|UMBRO]] / <br/>[https://ennerre.com/ ennerre] |- |1998||rowspan="4"|[https://ennerre.com/ ennerre] |- |1999||rowspan="13"|[[イエローハット|Yellow Hat]]||- |- |2000||rowspan="13"|[[住友金属工業|SUMITOMO<br />METALS]] |- |2001 |- |2002||rowspan="22"|[[ナイキ|NIKE]] |- |2003 |- |2004 |- |2005||rowspan="3"|[[SMBCコンシューマーファイナンス|プロミス]] |- |2006 |- |2007 |- |2008||- |- |2009||rowspan="4"|[[商船三井]] |- |2010 |- |2011||rowspan="13"|[[LIXIL]] |- |2012||rowspan="12"|[[イエローハット|(帽子マーク)]] |- |2013||rowspan="6"|[[日本製鉄|NIPPON STEEL &<br />SUMITOMO METAL]]||rowspan="8"|[[LIXIL住宅研究所|アイフルホーム]] |- |2014 |- |2015 |- |2016||rowspan="8"|[[理想科学工業|RISO]] |- |2017 |- |2018||colspan="2" rowspan="6"|[[メルカリ|mercari]] |- |2019||rowspan="5"|[[日本製鉄|NIPPON<br />STEEL]] |- |2020||- |- |2021||[[メルペイ|merpay]] /<br />[[カネカ|kaneka]]||rowspan="2"|[[大和証券グループ|CONNECT]] |- |2022||rowspan="2"|[[カネカ|kaneka]] |- |2023||[[高砂熱学工業|高砂熱学]] |} * [[AFCチャンピオンズリーグ]]及び[[FIFAクラブワールドカップ]]ではスポンサーが1社のみという規定により、2010年までは胸スポンサーの「TOSTEM」、2011年以降は「LIXIL」のみになる。 * 1992年 - 1995年は胸にはスポンサーの代わりに「Antlers」のロゴが入る。 == スタジアム == [[ファイル:Kashima Soccer Stadium 3.jpg|thumb|250px|カシマサッカースタジアム]] {{Main|茨城県立カシマサッカースタジアム}} === スタジアムDJ・選手入場曲 === * [[スタジアムDJ]] ** 松本浩之 * 選手入場曲 ** SUCESSEO -OBRIGADO!! ZICO-(作曲:BHB [[米米CLUB]]) :: SUCESSO(スセッソ)はポルトガル語で「成功」。米米CLUBのシングル「[[俺色にそまれ]]」のカップリング曲。 === 広告看板 === * ホームゲームにおける広告看板(ゴール裏)は[[1995年]]以後、部分的に回転ロール盤を使用している。当初はゴール裏の内側部分だけだったが、[[1999年]]以後は外側(スタンドとピッチの中間。カシマサッカースタジアム開催分は客席の最前列)の部分にも使用している。試合時間帯に応じてアントラーズのスポンサーの広告を切り替えて表示している。 === LED帯状映像装置 === * 日本のサッカースタジアムでは初となる、アジアでは最長(全長500m)の[[発光ダイオード|LED]]帯状映像装置が2階スタンド最前部の壁面にほぼ1周設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.so-net.ne.jp/antlers/clubs/stadium.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100716181713/https://www.so-net.ne.jp/antlers/clubs/stadium.html|title=スタジアム概要 LED帯状映像装置|publisher=鹿島アントラーズ|archivedate=2010-07-16|accessdate=2008-10-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-league.or.jp/100year/report/_/?c=&n=kashima&code=00000473|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090213032247/http://www.j-league.or.jp/100year/report/_/?c=&n=kashima&code=00000473|title=アジア初の約500メートル帯状映像装置お披露目|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2008-09-13|archivedate=2009-02-13|accessdate=2008-10-18}}</ref>。 * カラー広告の表示や選手紹介、他会場の途中経過、緊急時の避難誘導などに使用される。 == アカデミー == 鹿島アントラーズが創設された1992年から、トップチームでの活躍を目指す選手たちの年代別選抜チームとして、第2種(U-18、高校生年代)の「ユース」、第3種(U-15、中学生年代)の「ジュニアユース」、第4種(U-12、小学生年代)の「ジュニア」が活動している。鹿島アントラーズのアカデミー出身の選手には、曽ヶ端準、野沢拓也、土居聖真、鈴木優磨らがいる。また、育成とサッカーの普及を目的に、幼稚園生以上を対象にした「スクールコース」が茨城県内を中心に17ヶ所で開催されている。 {{Main2|[[鹿島アントラーズのアカデミー]]を}} == 地域貢献活動 == === ノンフットボールビジネス === 運営会社である株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーは、[[2006年]]からカシマサッカースタジアムの[[指定管理者]]になり、健康事業を目的としたスポーツプラザ「[[茨城県立カシマサッカースタジアム#スタジアム内に併設されている施設|カシマウェルネスプラザ]]」の運営や[[茨城大学]]との提携によるスタジアムの利活用推進にも取り組んでいる。 === フレンドリータウン === [[ホームタウン]]の5市([[鹿嶋市|鹿嶋]]、[[神栖市|神栖]]、[[潮来市|潮来]]、[[鉾田市|鉾田]]、[[行方市|行方]])のほかに、クラブ独自でフレンドリータウンとしてホームタウン周辺の12市町村と協定を結んでいる。サッカーを通じた地域連携を目的とし、ホームタウン周辺の市町村を対象に年1回ホームゲームへの市民招待やスタジアムでの観光PRイベントの開催、アカデミーのスクール校を開校するなど活動を展開している。 * '''茨城県''':[[日立市]]、[[かすみがうら市]]、[[つくば市]]、[[稲敷市]]、[[阿見町]]、[[美浦村]]、 [[土浦市]]、 [[牛久市]] * '''千葉県''':[[成田市]]、[[香取市]]、[[銚子市]]、[[東庄町]] === 地域交流 === * ホームタウンの5市(鹿嶋、神栖、潮来、鉾田、行方)にある小学校全校を選手が訪問している。 * 毎年10月に鹿嶋市で開催される「鹿嶋まつり」や[[鹿島神宮]]での節分祭など、地域イベントに選手やチームスタッフらが参加している。 === 環境活動 === * 2006年12月2日の[[ジュビロ磐田]]戦では、カシマサッカースタジアムで使用する電力にグリーン電力([[風力発電]]、[[太陽光発電]])を利用して開催された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.so-net.ne.jp/antlers/news/detail/20061130_19_443.html|title=日本初グリーン電力100%で開催されるJ1マッチのお知らせ|publisher=鹿島アントラーズ|date=2006-11-30|accessdate=2010-10-16}}{{リンク切れ|date=2010年10月}}</ref>。 * 2009年5月10日の[[清水エスパルス]]戦で、来場客から回収した食用油を精製し、チームトラックの燃料に活用する取り組みが行われた。また、この取り組みが第3回クールビズ・オブ・ザ・イヤーで「クールビズ・アース2009」を受賞した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20091125-569499.html|title=アントラーズ・エコプログラムがクールビズ・アース2009を受賞|publisher=日刊スポーツ|date=2009-11-25|accessdate=2023-11-29}}</ref>。 === VISION KA41 === [[2011年]]、住友金属蹴球団のJリーグ参加を念頭に設立された法人・「株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー」が設立されて満20周年になるにあたり、当時の代表取締役社長の井畑滋は、[[2041年]]に予定される法人化50周年に向けた経営ビジョンとして「'''VISION KA41'''」を策定した。 「KA」とは、「鹿島アントラーズ」「[[鹿嶋市]]・[[鹿島郡]]」のイニシャルであるとともに、「経営」という意味も込められている。井畑は「2041年にどのような姿で(法人化)50周年を迎えるべきかを考えたものがこのビジョンです」として、次の5つのビジョンを策定した。 # 徹底した地域戦略により、地域に支持されるブランドであること # 地域を基盤とした育成型クラブであること # 世界水準のスタジアムを拠点とすること # 世界に挑む強いクラブであり続けること # アントラーズファミリーと夢を共有し続けていくこと それを実現させるため、収益性と効率性の高いクラブ構造を着手するために、次に示す3点を重点的な項目として位置付けて強化を図っていくとした。 # スタジアムの多様化 # 選手育成システムの強化 # 新しいパートナーシップの構築<ref>{{Cite web|url=https://www.antlers.co.jp/spl/20th/ka41.html|title=VISION KA41|publisher=鹿島アントラーズ|accessdate=2023-11-29}}</ref> そして、メインスポンサーがメルカリに譲渡された[[2021年]]に、これの改訂版である「'''VISION KA41 Update'''」が策定された。クラブは5つのテーマの基本的な方向性を踏襲しつつ、より具体的な定義をアップデートした内容にバージョンアップさせている。 # Football - 「世界に挑む強いクラブであり続ける」とした10年前の定義から、「アジアの盟主となり世界を舞台に戦うクラブへ」という目標に引き上げ、育成面の強化を図り、世界基準でプレーできる選手を育てていく # Community - 「地域を基盤とした育成型クラブ」の定義を継承しながら、地域と広域の両軸でクラブを中心にした新しいコミュニティーの在り方を作る # Brand - 「徹底した地域戦略により、地域に指示される」とした定義から、「ステークホールダーに支持され、ともに成長する」という目標に引き上げ、ステークホールダーとクラブが互いに与し、成長していく関係をさらに追及する # Stadium - 2006年策定の「THE DREAM BOX」をさらに磨いていくために、「世界水準のスタジアムであること」にとどまらず、地域とともに進化し、世界に誇れる「THE DREAM BOX」の形を追求していく # Dream - 創設時からの原点「チャレンジし続けていくこと」をクラブ全体としてさらに追及し、「Football Dream」を通じて、アントラーズファミリーのそれぞれの夢を共に実現するため、どんな状況においてもチャレンジする姿勢を目指していく<ref>{{Cite web|url=https://www.antlers.co.jp/lp/30th/ka41_update/|title=VISION KA41 Update|publisher=鹿島アントラーズ|accessdate=2023-11-29}}</ref> さらに、その一つとして法人化35周年に当たる[[2026年]]ごろをめどとして、新スタジアムの建設構想の具体的な方針をまとめることも明らかにした。現在のカシマスタジアムは[[2011年]]の[[東日本大震災]]や、([[鹿島灘]]の)[[塩害]]などにより、安全を維持するための管理・修繕費が膨らんでおり、数年前から新スタジアムの建設構想が上がっていた。 新スタジアムは別の場所に建設するか、現在のスタジアムの改修・建て替えかなどについてはこの構想発表の段階では、移設の場合の建設予定地も含め未定であるが、新スタジアムは防災・福祉・観光の機能、また周辺地域のまちづくりなどの開発なども視野に入れていくとしているほか、現在鹿嶋市粟生にあるクラブハウスを新スタジアムに移設し、現クラブハウスもアカデミーの活動拠点にする計画を持っている<ref>{{Cite news|url=https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16330950076334|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211002033855/https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16330950076334|title=J1鹿島創設30年 新スタジアム構想発表 26年めど方針決定|newspaper=茨城新聞クロスアイ|date=2021-10-02|archivedate=2021-10-02|accessdate=2021-10-02}}</ref>。2022年8月には[[潮来市]]も新スタジアムを誘致することを表明した<ref name="news">{{Cite web|和書|url=https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16613378883762|title=J1鹿島新スタジアム 茨城・潮来市、誘致に名乗り|work=茨城新聞|date=2022-08-25|accessdate=2022-08-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220825113018/https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16613378883762|archivedate=2022-8-25}}</ref>。 == メディア == === 試合中継 === ; テレビ中継 * '''[[NHK水戸放送局]]''' ** [[茨城Jリーグアワー]] * '''[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!]]'''(-2016)→'''[[DAZN]]'''(2017-、ネットテレビ) ** [[2009年]]までは[[NHKグローバルメディアサービス]]に委託していたが、2010年からリーグ戦のホームゲームを鹿島が自主制作で配信(協力:[[ソニービジネスソリューション]])。また2013年より新中継設備をカシマスタジアムに導入し、[[中継車]]なしでの中継やスタジアムのビジョンを含めた映像の一括管理が可能となっている<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/34731|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402150234/http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/34731|title=スタジアムへの中継設備の導入について|publisher=鹿島アントラーズ|date=2013-02-15|archivedate=2015-04-02|accessdate=2023-11-29}}</ref>。 * '''[[エフエムかしま市民放送|エフエムかしま]]''' ** FM KASHIMA EXCITING SPORTS(試合開始30分前 - 試合終了後) * '''[[茨城放送]]''' ** [[IBSスーパーサッカー]] * '''鹿島アントラーズオフィシャルサイト''' ** LIVEアントラーズ - カシマサッカースタジアムで開催されるホームゲームの音声実況中継をインターネット配信 === 公式番組 === * '''[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]''' ** [[LIXIL presents ANTLERS REPORT]] * '''[[いばキラTV]]''' ** ANTLERS REPORT Plus === 応援番組 === ; テレビ * '''[[NHK水戸放送局]]''' ** いばっチャオ!、茨城ニュース いば6、[[茨城ニュース845]]などの番組内で随時放送される。 ; ラジオ * '''エフエムかしま''' ** アントラーズスピリッツ ** アントラーズラウンジ ** アントラーズ便り === その他 === ; 新聞・情報誌 * [[茨城新聞]] * [[月刊アントラーズフリークス]](オフィシャルショップ、オンラインショップにて販売) * [[ヴァモス Antlers]]([[マッチデープログラム]]。試合日にスタジアムで配布) == eスポーツ == 2020年1月15日、[[eスポーツ]]チーム設立を発表。併せて、2018-19シーズン時点で世界ランキング24位にランクしたウェブ・ナスリの加入も発表した。eスポーツが国内・海外共に年々成長・発展を続ける中で世界一のクラブを目指すため、新たな事業として取り組むとしている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.antlers.co.jp/news/club_info/75471|title=eスポーツチーム設立およびナスリ選手加入のお知らせ|publisher=鹿島アントラーズ|date=2020-01-15|accessdate=2023-11-29}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20200116/1023939.html|title=「世界一のクラブを目指すため」鹿島がeスポーツチームを設立! ナスリと契約し世界大会に臨む|newspaper=[[フロムワン|サッカーキング]]|date=2020-01-16|accessdate=2020-02-11}}</ref>。 == その他 == === キャンプ地 === 春季キャンプは[[1998年]]より[[宮崎県]][[宮崎市]]の[[宮崎県総合運動公園陸上競技場]]で行われている。また、1993年は[[イタリア]]、1994年は[[沖縄県]]、[[1995年]]から[[1997年]]までは[[ブラジル]]で行われた。 === クラブショップ === * クラブハウス店([[茨城県]][[鹿嶋市]]・[[鹿島アントラーズクラブハウスグラウンド|アントラーズクラブハウス]]1階) * スタジアム店(茨城県鹿嶋市・[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマサッカースタジアム]]コンコース売店 試合開催日のみ営業) === クラブマスコット === * [[しかお]] * しかこ * アントン == サポーター・ファンクラブ == === ファンクラブ === 「SOCIOメンバー」、「MEGAメンバー」、「フリークスメンバー」、「ファミリーメンバー」の4種類がある。その中でも「フリークスメンバー」が一般的な会員カテゴリで、会員数が最も多い。特典として[[月刊アントラーズフリークス]]の送付やホームゲームチケットの先行割引販売、グッズの割引販売、グッズ・チケットの購入時やホームゲーム来場時などに付与されるポイントシステムなどがある。 === サポーター === サポーター集団「IN.FIGHT」が、[[1991年]]の鹿島アントラーズ創設時から鹿島サポーターの中心として活動を続けている。 {{main|IN.FIGHT}} 鹿島サポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも一部存在している。 2008年9月20日、[[柏レイソル]]戦にて鹿島ゴール裏サポーターが、ピッチにいる柏の選手に向けてフラッグを振り回し、柏の選手を攻撃した。このことにより当該サポーターは無期限観戦禁止処分が課せられた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2519835?cx_amp=all&act=all 鹿島アントラーズ サポーターに無期限の観戦禁止処分 2008年09月21日付 公表]</ref>。 2021年10月2日、違反行為をした鹿島サポーターの処分を発表した。違反行為は、2日に行われた[[J1リーグ]]第31節の[[横浜FC]]戦で発生。試合終了後に、南側ゴール裏のサポーターが選手が挨拶に向かった際に、サポーターがスタンド最前のセキュリティフェンスを乗り越えて横断幕の掲出や、運営スタッフに対して威嚇行為、会場運営の妨げになる行為を行った<ref>[https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=404828 横浜FC戦で違反行為の鹿島サポーター6名、今季入場禁止処分 2021年10月8日付 公表]</ref>。 2023年4月4日、同月1日にカシマスタジアムで行われたJ1リーグ第6節[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]戦で違反行為をしていた鹿島サポーター1人にホームゲーム2試合の入場禁止(ホームゲーム入場禁止期間に開催されるアウェイゲームも含む)処分を下したと発表した。鹿島の発表によると、当該サポーターは鹿島が1-2で敗れた試合後、広島サポーターが陣取るアウェー専用シートのセキュリティエリアへ侵入し、会場運営の妨げになる行為をした<ref>[https://web.gekisaka.jp/news/jleague/amp/?381511-381511-fl 敗戦後に相手アウェイ席へ侵入…鹿島、違反行為のサポーターに2試合入場禁止処分 2023年4月4日付 公表]</ref>。同年9月12日、鹿島サポーター1名による違反行為が報告された。カシマスタジアムにて行われた[[Jリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]]準々決勝セカンドレグ[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦において、鹿島サポーター1名による運営スタッフに対する威嚇および暴行行為、会場運営の妨げになる行為を確認した。当該者には、ホームゲームおよびアウェイゲームへの無期限入場禁止処分を科したことも報告している<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20230912/1808796.html 鹿島、サポーター1名に無期限入場禁止処分…10日のルヴァン杯・名古屋戦で威嚇および暴行行為など 2023年9月12日付 公表]</ref>。更に4日後の9月16日、カシマスタジアムで開催されたJ1第27節[[セレッソ大阪|C大阪]]戦において、試合の前半、メインスタンド内からピッチに向かってペットボトルを投げ込んだ鹿島サポーターが処分された<ref>[https://www.antlers.co.jp/news/game_info/95910 C大阪戦(9/16)での観戦客の違反行為に関する処分について 2023年9月17日付 公表]</ref>。 == 決算 == 鹿島アントラーズの決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収入|営業収入}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||事業費||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|管理費|一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |3,156 ||1,045 ||690 ||401 ||1,020 ||style="background-color:wheat" |3,155 ||2,342 ||1,368 ||723 ||style="background-color:wheat" |1 ||style="background-color:wheat" |-17 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |3,381 ||1,262 ||597 ||346 ||1,176 ||style="background-color:wheat" |3,536 ||2,585 ||1,564 ||951 ||style="background-color:wheat" |-155 ||style="background-color:wheat" |-251 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |3,983 ||1,667 ||636 ||503 ||1,177 ||style="background-color:wheat" |3,805 ||2,850 ||1,736 ||955 ||style="background-color:wheat" |178 ||style="background-color:wheat" |162 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |4,180 ||1,664 ||675 ||509 ||1,332 ||style="background-color:wheat" |4,063 ||3,118 ||1,850 ||945 ||style="background-color:wheat" |117 ||style="background-color:wheat" |52 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |4,408 ||1,655 ||774 ||507 ||1,472 ||style="background-color:wheat" |4,303 ||3,253 ||1,913 ||1,050 ||style="background-color:wheat" |105 ||style="background-color:wheat" |32 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |4,466 ||1,561 ||747 ||480 ||1,678 ||style="background-color:wheat" |4,449 ||3,816 ||2,004 ||633 ||style="background-color:wheat" |17 ||style="background-color:wheat" |14 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 * 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] </div> {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |4,165 ||1,839 ||754 ||252 ||233 ||1,087 ||style="background-color:wheat" |4,378 ||2,066 ||360 ||351 ||144 ||0 ||1,457 ||style="background-color:wheat" |-213 ||style="background-color:wheat" |-220 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |4,160 ||1,935 ||720 ||247 ||270 ||988 ||style="background-color:wheat" |4,238 ||1,888 ||358 ||302 ||173 ||0 ||1,517 ||style="background-color:wheat" |-78 ||style="background-color:wheat" |-68 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |4,122 ||1,864 ||748 ||235 ||269 ||1,006 ||style="background-color:wheat" |4,081 ||1,701 ||384 ||310 ||166 ||0 ||1,520 ||style="background-color:wheat" |41 ||style="background-color:wheat" |78 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |4,003 ||1,831 ||788 ||222 ||266 ||896 ||style="background-color:wheat" |3,975 ||1,562 ||314 ||295 ||159 ||0 ||1,645 ||style="background-color:wheat" |28 ||style="background-color:wheat" |21 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |4,311 ||1,861 ||788 ||222 ||285 ||1,155 ||style="background-color:wheat" |4,652 ||2,023 ||338 ||300 ||166 ||0 ||1,825 ||style="background-color:wheat" |-341 ||style="background-color:wheat" |-344 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] </div> {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||物販||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||物販||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |5,582 ||1,958 ||869 ||232 ||283 ||540 ||1,700 ||style="background-color:wheat" |4,825 ||1,929 ||372 ||444 ||149 ||0 ||428 ||1,503 ||style="background-color:wheat" |757 ||style="background-color:wheat" |610 |- |style="font-weight:bold;" |2017 ||style="background-color:wheat" |5,228 ||1,917 ||894 ||537 ||276 ||699 ||905 ||style="background-color:wheat" |5,367 ||2,382 ||400 ||336 ||165 ||0 ||483 ||1,601 ||style="background-color:wheat" |-139 ||style="background-color:wheat" |-138 |- |style="font-weight:bold;" |2018 ||style="background-color:wheat" |7,330 ||2,156 ||978 ||806 ||290 ||839 ||2,261 ||style="background-color:wheat" |6,746 ||3,157 ||524 ||599 ||169 ||0 ||600 ||1,697 ||style="background-color:wheat" |584 ||style="background-color:wheat" |426 |- |style="font-weight:bold;" |2019 ||style="background-color:wheat" |6,768 ||2,303 ||996 ||775 ||257 ||842 ||1,595 ||style="background-color:wheat" |6,673 ||2,936 ||518 ||377 ||178 ||0 ||620 ||2,044 ||style="background-color:wheat" |95 ||style="background-color:wheat" |3 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf 2017]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h30kaiji_1.pdf 2018]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h31kaiji-1.pdf 2019] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |type=line |showSymbols=yes |legend=凡例 |yAxisMin=0 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |colors=#0000aa,#00aa00,#ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019 |y1=3156, 3381, 3983, 4180, 4408, 4466, 4165, 4160, 4122, 4003, 4311, 5582, 5228, 7330, 6768 |y2=3155, 3536, 3805, 4063, 4303, 4449, 4378, 4238, 4081, 3875, 4652, 4825, 5367, 6746, 6673 |y3=1368, 1564, 1736, 1850, 1913, 2004, 2066, 1888, 1701, 1562, 2023, 1929, 2382, 3157, 2936 }} === 資産 === 鹿島アントラーズは2002年に累積損失を一掃するため増資をした。それ以来、資本金は15億7千万円となっている<ref>{{Cite journal|和書|title=マネジメント優等生の次なる一手、「中期経営計画」の正体|publisher=データスタジアム|journal=Sports Management Review|author=福井盛太|year=2009|volume=12|pages=24-26}}</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #000000; box-shadow:4px 4px 4px #BEB1AA;" |- style="text-align:center; background-color:#B8193F; color:#BEB1AA; font-weight:bold;" |年度||総資産||総負債||純資産||資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||2,113 ||320 ||1,792 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||1,885 ||344 ||1,540 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||2,337 ||635 ||1,702 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||2,387 ||632 ||1,754 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||2,471 ||684 ||1,787 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||2,561 ||760 ||1,801 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||2,142 ||562 ||1,580 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||2,085 ||573 ||1,512 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||2,139 ||549 ||1,590 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||2,186 ||575 ||1,611 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||1,921 ||654 ||1,267 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||3,021 ||1,143 ||1,878 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2017 ||2,667 ||927 ||1,740 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2018 ||3,371 ||1,205 ||2,166 ||1,570 |- |style="font-weight:bold;" |2019 ||3,984 ||1,815 ||2,169 ||1,570 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf 2017]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h30kaiji_1.pdf 2018]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h31kaiji-1.pdf 2019] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |showSymbols=yes |legend=凡例 |yAxisMin=0 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019 |y1=2113, 1885, 2337, 2387, 2471, 2561, 2142, 2085, 2139, 2186, 1921, 3021, 2667, 3371, 3984 |y2=1792, 1540, 1702, 1754, 1787, 1801, 1580, 1512, 1590, 1611, 1267, 1878, 1740, 2166, 2169 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == * [[鹿島アントラーズの選手一覧]] * [[鹿島アントラーズの年度別成績一覧]] * [[鹿島アントラーズのアカデミー]] * [[鹿島アントラーズクラブハウスグラウンド]] * [[鹿島アントラーズつくばアカデミーセンター]] * [[カシマサッカーミュージアム]] * [[茨城ダービー]] * [[いばらきサッカーフェスティバル]] ; [[日本製鉄]](旧[[新日本製鐵]]<[[八幡製鉄]]、[[富士製鉄]]>、[[住友金属工業]]を含む)が母体となっている他のサッカークラブ * [[日本製鉄室蘭サッカー部]] * [[日本製鉄釜石サッカー部]] * [[日本製鉄大分サッカー部]] * [[八幡製鉄サッカー部]](廃部) * [[メルカリ]] == 外部リンク == * {{Official website|https://www.antlers.co.jp/}} * {{Facebook|official.KashimaAntlersFC|鹿島アントラーズ}} * {{Facebook|official.KashimaAntlersFC.global|Kashima Antlers}}{{en icon}} * {{Twitter|atlrs_official|鹿島アントラーズ}} * {{Twitter|atlrs_english|Kashima Antlers}}{{en icon}} * {{Twitter|antlers_academy|鹿島アントラーズアカデミー}} * {{Instagram|kashima.antlers}} * {{TikTok|kashima.antlers}} * {{YouTube channel|kashimaantlers12fd}} * {{note.com|antlers_official}} {{Navboxes|title =鹿島アントラーズ 関連テンプレート|titlestyle=background:#B8193F; color:#BEB1AA; border:3px solid #000000; line-height:120%; |list1= {{鹿島アントラーズのメンバー}} {{鹿島アントラーズ及びその前身チーム歴代監督}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Jリーグオリジナル10}} {{Navboxes|title=獲得タイトル|titlestyle=background-color:gold; |list1= {{Jリーグ優勝チーム}} {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} {{AFCチャンピオンズリーグ優勝クラブ}} }} {{新日鐵住金}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=鹿島アントラーズ・エフ・シー |1-1=鹿嶋市の企業 |1-2=1991年設立の企業 |1-3=鹿島アントラーズ |}} {{デフォルトソート:かしまあんとらあす}} [[Category:鹿島アントラーズ|*]] [[Category:1947年設立のスポーツチーム]] [[Category:Jリーグクラブ]]
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自然数
自然数(しぜんすう、英: natural number)とは、個数もしくは順番を表す一群の数のことである。集合論においては、自然数は物の個数を数える基数のうちで有限のものであると考えることもできるし、物の並べ方を示す順序数のうちで有限のものであると考えることもできる。 自然数を 1, 2, 3, ... とする流儀と、0, 1, 2, 3, ... とする流儀があり、前者は数論などでよく使われ、後者は集合論、論理学などでよく使われる(詳しくは#自然数の歴史と零の地位の節を参照)。日本では高校教育課程においては0を入れないが、大学以降では0を含めることも多い(より正確には、代数学では0を含め、解析学では除外することが多い)。いずれにしても、0 を自然数に含めるかどうかが問題になるときは、その旨を明記する必要がある。自然数の代わりに前者を正整数、後者を非負整数と言い換えることによりこの問題を避けることもある。 数学の基礎付けにおいては、自然数の間の加法についての形式的な逆元を考えることによって整数を定義する。正の整数ないしは負でない整数を自然数と同一視し、自然数を整数の一部として取扱うことができる。自然数と同様に整数の全体も可算無限集合である。 なお、文脈によっては、その一群に属する個々の数(例えば 3 や 18)を指して自然数ということもある。 自然数全体の成す集合は普通 Natural number の頭文字をとって N または N {\displaystyle \mathbb {N} } と表される。 0 を含むかどうかの曖昧さを避けるために、正の整数(0 を含まない)を次のように表すこともある: また、非負整数(0 を含む)を表すのに、次の記法が使われることもある: 自然数は「ものを数える言葉」を起源とし、1 から始まる正の数であったと推定されている。文明が起こり、数字が考え出されたとき、ローマ数字、ギリシア数字、エジプト数字、バビロニア数字、マヤ数字、漢数字、等のどれもが1から始まる正の数字であった。つまり、「物がある」という概念を量的に表そうとしたのが数であり、「物がない」という概念は「無い」という言葉で充分だった。 最初の大きな進歩は、数を表すための記数法の発明であり、これで大きな数を記録することが出来るようになった。古代エジプト人は 1 から百万までの 10 の累乗それぞれに異なるヒエログリフを割り当てる記数法を用いていた。バビロニアでは、数字を離して表記することでその桁が 0 であることを示す六十進法の位取り記数法に似た方法が開発された。しかし、0 を表す文字がなかったため、例えば 10203 は 0 を空白にして "1 2 3" と正しく表記できるが、10200 は "1 2" となって 102 と区別できない欠点があった。オルメカとマヤの文明では紀元前1世紀までには、数字を離して 0 の桁を表す方法が独立に用いられていた。 抽象的な概念としての数の体系的な最初の研究は、古代ギリシアにおいてなされ、数論が高度にまで発達した。古代ギリシアの数学者エウクレイデスが編纂した『原論』の第7巻の冒頭で数の定義がなされている。 これは定規とコンパスによる作図で数を定義したものと解釈できる。すなわち、任意に与えた線分の長さを単位として 1 を定義する。そして、その線分を延長した直線上で単位を半径とする長さをコンパスで測り、その直線上でその単位を半径とする円との交点を作図し、その円の直径を 2 と定義する。同様にその直線上で円の直径に半径を繋いだ線分を作図し、その線分の長さを 3 と定義する。したがって、1 は数ではなく単位であり、2, 3, 4, ...が数になるため、古代ギリシア人は 1 を数として認識しなかったと言える。 1世紀頃、無名のインド人によって、初めて 0 を使った完全な位取り記数法が発明された。彼はソロバンとよく似たビーズ玉計算機で計算していたとき、数のない桁を 0 で書いて、ビーズ玉計算機上の各桁の数をそのまま並べて書き表すと、計算結果を素早く書き残せることに気づいた。この 0 は、インド人の言葉で空(から)の意味を表す「スーニャ」と呼ばれた。こうしてできた記数法は、数の記録と計算に一大革命をもたらす大発明となった。しかし、ここでの 0 は数としての 0 ではなく、空の桁を表す目印に過ぎないものであった。 数としての 0 の概念は628年のインド人数学者ブラーマグプタによって見出され、現代の 0 の概念と近い計算法が考え出された。 19世紀、自然数の集合論的な定義がなされた。この定義によれば零を自然数に含める方がより便利である。集合論、論理学などの分野ではこの流儀に従うことが多い一方、数論などの分野では 0 を自然数には含めない流儀が好まれることが多い。どちらの流儀をとるにしろ、通常は著作あるいは論文毎に定義や注釈で明示される。とくに混乱を避けたい場合には、0 から始まる自然数を指すために非負整数、1 から始まる自然数を指すために正整数という用語を用いることもよくある。 計算機科学、特にプログラミングではよく 0, 1, 2, ... が使われるが、これは記憶装置(メモリー)の住所(アドレス)の相対位置を表すことが多く、相対位置としては 0, -1, -2, ... も処理の中で使われることから、自然数というよりは整数の範疇である。 19世紀のドイツの数学者レオポルト・クロネッカーが「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」という言葉を残し、正の整数が自然な数と考えた頃から、自然数という用語が定着したとされる。 自然数がどんなものかは子供でも簡単に理解できるが、その定義は簡単ではない。自然数を初めに厳密に定義可能な公理として提示されたものにペアノの公理があり(1891年、ジュゼッペ・ペアノ)、以下のように自然数を定義することができる。 最後の公理は、数学的帰納法を正当化するものである。また、上の公理に現れる数字は 1 だけであり、自然数 1 からすべての自然数が作り出されることを意味している。一方、この公理の "1" を "0" に置き換えれば、自然数 0, 1, 2, 3, ... を作り出せる。 ただし、ペアノの原典においては上とは少し違った形式で公理系が述べられており、ペアノ自身は自然数そのものを定義しようとしたわけではなかった。 集合論において標準的となっている自然数の構成は以下の通りである。 無限集合の公理により集合 M が存在することが分かり、このように定義された集合がペアノの公理を満たすことが示される。 このとき、それぞれの自然数は、その数より小さい自然数全てを要素とする数の集合、となる。 等々である。 このように定義された集合 n は丁度(通常の意味で)n 個の元を含むことになる。また、これは有限順序数の構成であり、(通常の意味で)n ≤ m が成り立つことと n が m の部分集合であることは同値である。 以上の構成は、自然数を表すのに有用で便利そうな定義を選んだひとつの結果であり、他にも自然数の定義は無限にできる。これはペアノの公理を満たす後者関数 suc(a) と最小値の定義が無限に選べるからである。 例えば、0 := {}, suc(a) := {a} と定義したならば、 と非常に単純な自然数になる。また、0 := {{}}, suc(a) := a ∪ {a} と定義したならば、 のような多少複雑な自然数になる。 自然数の加法は再帰的に、以下のように定義できる。 1 := suc(0) と定義するならば、suc(b) = suc(b + 0) = b + suc(0) = b + 1 となり、b の後者とは単に b + 1 のことである。 加法が定義されたならば、自然数の乗法は再帰的に、以下のように定義できる。 加法、乗法とも (i) 0 に対する演算結果を定義し、(ii) ある自然数 b に対する演算結果を用いてその次の自然数 suc(b) に対する演算結果を定義する、と言う形式になっている。(i), (ii) をあわせることで、あらゆる自然数に対する演算結果が一意に得られることになる(数学的帰納法)。自然数は加法について、0 を単位元とする可換モノイドになっている。また、乗法についても、1 を単位元とする可換モノイドになっている。 加法と乗法は以下の法則を満たす。 以上の法則は加法、乗法の定義から数学的帰納法を用いて証明できる。 慣例として、a × b は ab と略記され、乗法は加法より先に計算される。例えば、 a + bc という式は a + (b × c) を意味する。 a+c=b となる自然数 c が存在するとき、またそのときに限って、 a ≤ b と書いて自然数に対する全順序を定義する。この順序は自然数の演算に対して次の性質を満たす。 順序に関して自然数が持つ重要な性質の一つは、それが整列集合であるということ、つまり自然数を要素とする空でない任意の集合は必ず最小元を持つということである。 ある自然数を他の自然数で割った結果を自然数として得ることは一般には可能でないが、余りつきの除法は可能である。任意の二つの自然数 a と b(ただし、b ≠ 0)に対して次の性質を持つ二つの非負整数 q と r が求められる。 q と r はそれぞれ、a を b で割った商と余りといい、 a と b の任意の組み合わせに対して、一意に決まる。この除法は他のいくつかの性質(整除性)、アルゴリズム(ユークリッドの互除法など)、数論におけるアイデアにおいて鍵となる。 自分自身と 1 以外の約数を持たない 1 より大きな (= 1 以外の)自然数を素数という。素数が無限に存在することの証明はエウクレイデスの『原論』に載っている。小さい方から列挙すると次の通りである。 メルセンヌ数、フェルマー数も参照。 差が 2 であるような素数の組のこと。例えば 3 と 5、41 と 43 などは双子素数である。双子素数は無限にあるか、という「双子素数の予想」は未解決である。類似の概念に、三つ子素数、いとこ素数、セクシー素数などがある。 完全数は自分自身を除く約数の和が自分自身と等しい自然数である。小さい方から列挙すると次の通りである。 偶数の完全数はメルセンヌ数と深い関係がある。知られている完全数は全て偶数であり、奇数の完全数はないと予想されている。また、無限に存在するとも予想しているが、両者とも未解決である。類似の概念に、友愛数、社交数などがある。 友愛数(親和数とも言う)とは、異なる2つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が互いに他方と等しくなるような数のことである。220と284、1184と1210などが例として挙げられる。
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自然数とは、個数もしくは順番を表す一群の数のことである。集合論においては、自然数は物の個数を数える基数のうちで有限のものであると考えることもできるし、物の並べ方を示す順序数のうちで有限のものであると考えることもできる。 自然数を 1, 2, 3, … とする流儀と、0, 1, 2, 3, … とする流儀があり、前者は数論などでよく使われ、後者は集合論、論理学などでよく使われる(詳しくは#自然数の歴史と零の地位の節を参照)。日本では高校教育課程においては0を入れないが、大学以降では0を含めることも多い(より正確には、代数学では0を含め、解析学では除外することが多い)。いずれにしても、0 を自然数に含めるかどうかが問題になるときは、その旨を明記する必要がある。自然数の代わりに前者を正整数、後者を非負整数と言い換えることによりこの問題を避けることもある。 数学の基礎付けにおいては、自然数の間の加法についての形式的な逆元を考えることによって整数を定義する。正の整数ないしは負でない整数を自然数と同一視し、自然数を整数の一部として取扱うことができる。自然数と同様に整数の全体も可算無限集合である。 なお、文脈によっては、その一群に属する個々の数を指して自然数ということもある。
[[File:Numbers_grid_in_NY.jpg|thumb|right|]] '''自然数'''(しぜんすう、{{lang-en-short|''natural number''}})とは、個数もしくは順番を表す一群の[[数]]のことである。集合論においては、自然数は物の個数を数える[[基数]]のうちで有限のものであると考えることもできるし、物の並べ方を示す[[順序数]]のうちで有限のものであると考えることもできる。 [[File:Three_apples(1).svg|thumb|right|]] 自然数を [[1]], [[2]], [[3]], … とする流儀と、[[0]], [[1]], [[2]], [[3]], … とする流儀があり、前者は[[数論]]などでよく使われ、後者は[[集合論]]、[[論理学]]などでよく使われる(詳しくは[[#自然数の歴史と零の地位]]の節を参照)。日本では高校教育課程においては0を入れないが、大学以降では0を含めることも多い(より正確には、[[代数学]]では0を含め、[[解析学]]では除外することが多い)。いずれにしても、0 を自然数に含めるかどうかが問題になるときは、その旨を明記する必要がある。自然数の代わりに前者を'''正整数'''、後者を'''非負整数'''と言い換えることによりこの問題を避けることもある。 [[数学基礎論|数学の基礎付け]]においては、自然数の間の[[加法]]についての形式的な[[逆元]]を考えることによって整数を定義する。正の[[整数]]ないしは負でない整数を自然数と同一視し、自然数を整数の一部として取扱うことができる。自然数と同様に整数の全体も[[可算無限集合]]である。 なお、文脈によっては、その一群に属する個々の数(例えば 3 や 18)を指して自然数ということもある。 [[File:Number-systems.svg|thumb|right|<math>\N</math>は'''自然数'''、<math>\Z</math>は[[整数]]、<math>\Q</math>は[[有理数]]、<math>\R</math>は[[実数]]。実数は[[複素数]](<math>\Complex</math>)に含まれる。]] == 記法 == {{特殊文字|ℕ}} {{記号文字|ℕ}} 自然数全体の成す集合は普通 Natural number の頭文字をとって '''N''' または <math>\mathbb{N}</math> と表される。 0 を含むかどうかの曖昧さを避けるために、正の整数(0 を含まない)を次のように表すこともある: * '''N'''<sup>+</sup> (<math>\mathbb{N}^+</math>) または '''N'''<sub>+</sub> (<math>\mathbb{N}_+</math>) * '''Z'''<sup>+</sup> (<math>\mathbb{Z}^+</math>) または '''Z'''<sub>+</sub> (<math>\mathbb{Z}_+</math>) または '''Z'''<sub>&gt; 0</sub> (<math>\mathbb{Z}_{>0}</math>) また、非負整数(0 を含む)を表すのに、次の記法が使われることもある: * '''N'''<sup>0</sup> (<math>\mathbb{N}^0</math>) または '''N'''<sub>0</sub> (<math>\mathbb{N}_0</math>) * '''Z'''<sup>+</sup><sub>0</sub> (<math>\mathbb{Z}^+_0</math>) または '''Z'''<sub>≥ 0</sub> (<math>\mathbb{Z}_{\geq0}</math>) * '''Z'''<sup>+</sup> (<math>\mathbb{Z}^+</math>) または '''Z'''<sub>+</sub> (<math>\mathbb{Z}_+</math>) はこちらの意味でも使われる == 自然数の歴史と零の地位 == 自然数は「ものを数える言葉」を起源とし、1 から始まる正の数であったと推定されている。文明が起こり、数字が考え出されたとき、[[ローマ数字]]、[[ギリシア数字]]、[[エジプト数字]]、[[バビロニア数字]]、[[マヤ数字]]、[[漢数字]]、等のどれもが1から始まる正の数字であった。つまり、「物がある」という概念を量的に表そうとしたのが数であり、「物がない」という概念は「無い」という言葉で充分だった。 最初の大きな進歩は、数を表すための[[記数法]]の発明であり、これで大きな数を記録することが出来るようになった。[[古代エジプト]]人は 1 から百万までの 10 の累乗それぞれに異なる[[ヒエログリフ]]を割り当てる記数法を用いていた。[[バビロニア]]では、数字を離して表記することでその桁が 0 であることを示す[[六十進法]]の[[位取り記数法]]に似た方法が開発された。しかし、0 を表す文字がなかったため、例えば 10203 は 0 を空白にして "1 2 3" と正しく表記できるが、10200 は "1 2" となって 102 と区別できない欠点があった。[[オルメカ]]と[[マヤ]]の文明では[[紀元前1世紀]]までには、数字を離して 0 の桁を表す方法が独立に用いられていた。 [[抽象]]的な概念としての数の体系的な最初の研究は、[[古代ギリシア]]においてなされ、[[数論]]が高度にまで発達した。古代ギリシアの数学者[[エウクレイデス]]が編纂した『[[原論]]』の第7巻の冒頭で数の定義がなされている<ref>{{Harv|ユークリッド|1971|p=149}}</ref>。 #単位とは存在するもののおのおのがそれによって 1 とよばれるものである。 #数とは単位から成る多である。 これは定規とコンパスによる作図で数を定義したものと解釈できる。すなわち、任意に与えた線分の長さを単位として 1 を定義する。そして、その線分を延長した直線上で単位を半径とする長さをコンパスで測り、その直線上でその単位を半径とする円との交点を作図し、その円の直径を 2 と定義する。同様にその直線上で円の直径に半径を繋いだ線分を作図し、その線分の長さを 3 と定義する。したがって、1 は数ではなく単位であり、2, 3, 4, …が数になるため、古代ギリシア人は 1 を数として認識しなかったと言える。 1世紀頃、無名の[[インド]]人によって、初めて 0 を使った完全な位取り記数法が発明された。彼は[[ソロバン]]とよく似た[[ビーズ玉計算機]]で計算していたとき、数のない桁を 0 で書いて、ビーズ玉計算機上の各桁の数をそのまま並べて書き表すと、計算結果を素早く書き残せることに気づいた。この 0 は、インド人の言葉で空(から)の意味を表す「スーニャ」と呼ばれた。こうしてできた記数法は、数の記録と計算に一大革命をもたらす大発明となった。しかし、ここでの 0 は数としての 0 ではなく、空の桁を表す目印に過ぎないものであった。 数としての 0 の概念は[[628年]]のインド人数学者[[ブラーマグプタ]]によって見出され、現代の 0 の概念と近い計算法が考え出された。 [[19世紀]]、自然数の[[集合論]]的な[[定義]]がなされた。この定義によれば零を自然数に含める方がより便利である。集合論、[[論理学]]などの分野ではこの流儀に従うことが多い一方、[[数論]]などの分野では 0 を自然数には含めない流儀が好まれることが多い。どちらの流儀をとるにしろ、通常は著作あるいは論文毎に定義や注釈で明示される。とくに混乱を避けたい場合には、0 から始まる自然数を指すために'''非負整数'''、1 から始まる自然数を指すために'''正整数'''という用語を用いることもよくある。 [[計算機科学]]、特に[[プログラミング]]ではよく 0, 1, 2, … が使われるが、これは[[記憶装置]](メモリー)の住所(アドレス)の相対位置を表すことが多く、相対位置としては 0, -1, -2, … も処理の中で使われることから、自然数というよりは整数の範疇である。 19世紀のドイツの数学者[[レオポルト・クロネッカー]]が「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」という言葉を残し、正の整数が自然な数と考えた頃から、'''自然数'''という用語が定着したとされる<ref>{{Harv|ベル|田中|銀林|1997}}</ref>。 == 形式的な定義 == === 自然数の公理 === {{see also|ペアノの公理}} 自然数がどんなものかは子供でも簡単に理解できるが、その定義は簡単ではない。自然数を初めに厳密に定義可能な公理として提示されたものに[[ペアノの公理]]があり([[1891年]]、[[ジュゼッペ・ペアノ]])、以下のように自然数を定義することができる。 * 自然数 ''1'' が存在する。 * 任意の自然数 ''a'' にはその'''後者''' (''successor'') の自然数 suc(''a'') が存在する(suc(''a'') は ''a'' + ''1'' の "意味")。 * 異なる自然数は異なる後者を持つ。つまり ''a'' ≠ ''b'' のとき suc(''a'') ≠ suc(''b'') となる。(ある種の[[単射]]性) * ''1'' はいかなる自然数の後者でもない(''1'' より前の自然数は存在しない)。 * ''1'' がある性質を満たし、''a'' がある性質を満たせばその後者 suc(''a'') もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。 最後の公理は、[[数学的帰納法]]を正当化するものである。また、上の公理に現れる数字は ''1'' だけであり、自然数 ''1'' からすべての自然数が作り出されることを意味している。一方、この公理の "''1''" を "''0''" に置き換えれば、自然数 ''0, 1, 2, 3,'' … を作り出せる。 ただし、ペアノの原典においては上とは少し違った形式で公理系が述べられており、ペアノ自身は自然数そのものを定義しようとしたわけではなかった。 [[集合論]]において標準的となっている自然数の構成は以下の通りである。 * [[空集合]]を ''0'' と定義する。 *:<math>0 := \emptyset = \{\}.</math> * 任意の集合 ''a'' の後者は ''a'' と {''a''} の合併集合として定義される。 *:<math>\mathrm{suc}(a) := a \cup \{a\}.</math> * ''0'' を含み後者関数について閉じている集合のひとつを ''M'' とする。 * 自然数は「後者関数について閉じていて、''0'' を含む ''M'' の部分集合の共通部分」として定義される。 [[公理的集合論|無限集合の公理]]により集合 ''M'' が存在することが分かり、このように定義された集合がペアノの公理を満たすことが示される。 このとき、それぞれの自然数は、その数より小さい自然数全てを要素とする数の集合、となる。 * <code>0 := {}</code> * <code>1 := suc(0) = {0} = {{}}</code> * <code>2 := suc(1) = {0, 1} = {0, {0}} = { {}, {{}} }</code> * <code>3 := suc(2) = {0, 1, 2} = {0, {0}, {0, {0}}} = { {}, {{}}, { {}, {{}} } }</code> 等々である<ref>{{Harv|von Neumann|1923}}</ref>。 このように定義された集合 ''n'' は丁度(通常の意味で)''n'' 個の元を含むことになる。また、これは[[順序数|有限順序数]]の構成であり、(通常の意味で)''n'' ≤ ''m'' が成り立つことと ''n'' が ''m'' の部分集合であることは同値である。 以上の構成は、自然数を表すのに有用で便利そうな定義を選んだひとつの結果であり、他にも自然数の定義は無限にできる。これはペアノの公理を満たす後者関数 suc(''a'') と最小値の定義が無限に選べるからである。 例えば、''0'' := {}, suc(''a'') := {''a''} と定義したならば、 * <code>0 := {}</code> * <code>1 := {0} = {{}}</code> * <code>2 := {1} = {{{}}}</code> * <code>3 := {2} = {{{{}}}}</code> と非常に単純な自然数になる。また、''0'' := {{}}, suc(''a'') := ''a'' ∪ {''a''} と定義したならば、 * <code>0 := {{}}</code> * <code>1 := {{}, 0} = {{}, {{}}}</code> * <code>2 := {{}, 0, 1} = {{}, {{}}, {{},{{}}} }</code> * <code>3 := {{}, 0, 1, 2} = {{}, {{}}, {{},{{}}}, {{},{{}},{{},{{}}}} }</code> のような多少複雑な自然数になる。 === 加法と乗法 === 自然数の[[加法]]は再帰的に、以下のように定義できる。 * すべての自然数 ''a'' に対して、''a'' + 0 = ''a'' * すべての自然数 ''a'', ''b'' に対して、''a'' + suc(''b'') = suc(''a'' + ''b'') 1 := suc(0) と定義するならば、suc(''b'') = suc(''b'' + 0) = ''b'' + suc(0) = ''b'' + 1 となり、''b'' の後者とは単に ''b'' + 1 のことである。 加法が定義されたならば、自然数の[[乗法]]は再帰的に、以下のように定義できる。 * すべての自然数 ''a'' に対して ''a'' × 0 = 0 * すべての自然数 ''a'', ''b'' に対して ''a'' × suc(''b'') = (''a'' × ''b'') + ''a'' 加法、乗法とも (i) 0 に対する演算結果を定義し、(ii) ある自然数 ''b'' に対する演算結果を用いてその次の自然数 suc(''b'') に対する演算結果を定義する、と言う形式になっている。(i), (ii) をあわせることで、あらゆる自然数に対する演算結果が一意に得られることになる(数学的帰納法)。自然数は加法について、0 を単位元とする可換[[モノイド]]になっている。また、乗法についても、1 を単位元とする可換[[モノイド]]になっている。 加法と乗法は以下の法則を満たす。 * [[結合法則]] ** (''a'' + ''b'') + ''c'' = ''a'' + (''b'' + ''c'') ** (''a'' × ''b'') × ''c'' = ''a'' × (''b'' × ''c'') * [[交換法則]] ** ''a'' + ''b'' = ''b'' + ''a'' ** ''a'' × ''b'' = ''b'' × ''a'' * [[分配法則]] ** ''a'' × (''b'' + ''c'') = (''a'' × ''b'') + (''a'' × ''c'') 以上の法則は加法、乗法の定義から数学的帰納法を用いて証明できる。 慣例として、''a'' × ''b'' は ''ab'' と略記され、乗法は加法より先に計算される。例えば、 ''a'' + ''bc'' という式は ''a'' + (''b'' × ''c'') を意味する。 === 順序 === ''a''+''c''=''b'' となる自然数 ''c'' が存在するとき、またそのときに限って、 ''a'' ≤ ''b'' と書いて自然数に対する[[全順序]]を定義する。この順序は自然数の演算に対して次の性質を満たす。 * 任意の自然数 ''a'', ''b'', ''c'' に対して a ≤ b ならば ** ''a'' + ''c'' ≤ ''b'' + ''c'' ** ''ac'' ≤ ''bc'' 順序に関して自然数が持つ重要な性質の一つは、それが[[整列集合]]であるということ、つまり自然数を要素とする空でない任意の集合は必ず最小元を持つということである。 === 除法 === ある自然数を他の自然数で割った結果を自然数として得ることは一般には可能でないが、[[ユークリッド除法|余りつきの除法]]は可能である。任意の二つの自然数 ''a'' と ''b''(ただし、''b'' ≠ 0)に対して次の性質を持つ二つの非負整数 ''q'' と ''r'' が求められる。 :''a'' = ''bq'' + ''r''(ただし ''r'' &lt; ''b'') ''q'' と ''r'' はそれぞれ、''a'' を ''b'' で割った'''商'''と'''余り'''といい、 ''a'' と ''b'' の任意の組み合わせに対して、一意に決まる。この除法は他のいくつかの性質(整除性)、アルゴリズム([[ユークリッドの互除法]]など)、数論におけるアイデアにおいて鍵となる。 == 特殊な自然数 == {{See also|Category:整数の類}} === 素数 === {{Main|素数}} 自分自身と 1 以外の[[約数]]を持たない 1 より大きな (= 1 以外の)自然数を[[素数]]という。[[素数が無数に存在することの証明|素数が無限に存在することの証明]]は[[エウクレイデス]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』に載っている。小さい方から列挙すると次の通りである。 : [[2]], [[3]], [[5]], [[7]], [[11]], [[13]], … [[メルセンヌ数]]、[[フェルマー数]]も参照。 === 双子素数 === {{Main|双子素数}} 差が 2 であるような素数の組のこと。例えば 3 と 5、41 と 43 などは[[双子素数]]である。双子素数は無限にあるか、という「双子素数の予想」は未解決である。類似の概念に、[[三つ子素数]]、[[いとこ素数]]、[[セクシー素数]]などがある。 === 完全数 === {{Main|完全数}} [[完全数]]は自分自身を除く[[約数]]の和が自分自身と等しい自然数である。小さい方から列挙すると次の通りである。 : [[6]], [[28]], [[496]], [[8128]], [[33550336]], [[8589869056]], [[137438691328]], [[2305843008139952128]], … [[偶数]]の完全数は[[メルセンヌ数]]と深い関係がある。知られている完全数は全て偶数であり、[[奇数]]の完全数はないと予想されている。また、無限に存在するとも予想しているが、両者とも未解決である。類似の概念に、[[友愛数]]、[[社交数]]などがある。 === 友愛数 === {{Main|友愛数}} [[友愛数]](親和数とも言う)とは、異なる2つの自然数の組で、自分自身を除いた[[約数]]の和が互いに他方と等しくなるような数のことである。[[220]]と[[284]]、[[1184]]と[[1210]]などが例として挙げられる。 == いくつかの自然数へのリンク == {{自然数}} * [[100]] [[101]] [[102]] [[103]] [[104]] [[105]] [[106]] [[107]] [[108]] [[109]] * [[100]] [[110]] [[120]] [[130]] [[140]] [[150]] [[160]] [[170]] [[180]] [[190]] * [[100]] [[200]] [[300]] [[400]] [[500]] [[600]] [[700]] [[800]] [[900]] * [[10]] [[100]] [[1000]] [[10000]] [[100000]] [[1000000]] [[10000000]] [[100000000]] * {{index|p=title=Category:整数&from=3|3桁の自然数}} * 1000から[[4294967296]]{{index|p=title=Category:整数&from=4|までの自然数}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=E・T・ベル|others=田中勇・[[銀林浩]] 訳|origyear=1962-1963|date=1997-10|volume=上・下|title=数学をつくった人びと|publisher=[[東京図書]]|id=ISBN 4-489-00528-8 ISBN 4-489-00529-6|ref={{Harvid|ベル|田中|銀林|1997}}}} **{{Cite book|和書|author=E・T・ベル|others=田中勇・[[銀林浩]] 訳、[[森毅]] 解説|date=2003-09-26|title=数学をつくった人びと|volume=1|series=ハヤカワ文庫 NF 283 〈数理を愉しむ〉シリーズ|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4-15-050283-6|ref={{Harvid|ベル|田中|銀林|2003a}}}} **{{Cite book|和書|author=E・T・ベル|others=田中勇・[[銀林浩]] 訳、[[吉田武 (サイエンスライター)|吉田武]] 解説|date=2003-10-17|title=数学をつくった人びと|volume=2|series=ハヤカワ文庫 NF 284 〈数理を愉しむ〉シリーズ|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4-15-050284-3|ref={{Harvid|ベル|田中|銀林|2003b}}}} **{{Cite book|和書|author=E・T・ベル|others=田中勇・[[銀林浩]] 訳、[[秋山仁]] 解説|date=2003-11-19|title=数学をつくった人びと|volume=3|series=ハヤカワ文庫 NF 285 〈数理を愉しむ〉シリーズ|publisher=[[早川書房]]|isbn=978-4-15-050285-0|ref={{Harvid|ベル|田中|銀林|2003c}}}} *{{Cite book|和書|editor=ハイベア・メンゲ|others=[[中村幸四郎]]・[[寺阪英孝]]・[[伊東俊太郎]]・[[池田美恵]] 訳・解説|title=ユークリッド原論|publisher=[[共立出版]]|ref={{Harvid|ユークリッド|1971}}}} - 全13巻の最初の邦訳。 ** (ハードカバー)1971年7月。ISBN 4-320-01072-8 ** (縮刷版)1996年6月。ISBN 4-320-01513-4 ** (追補版)2011年5月。ISBN 978-4-320-01965-2 *{{Citation|last=von Neumann|first=Johann|author-link=ジョン・フォン・ノイマン|year=1923|title=Zur Einführung der trasfiniten Zahlen|journal=Acta litterarum ac scientiarum Ragiae Universitatis Hungaricae Francisco-Josephinae, Sectio scientiarum mathematicarum|publisher=|pages=199-208|volume=1|url=http://acta.bibl.u-szeged.hu/38552/1/math_001.pdf}} **{{Citation|last=von Neumann|first=John|author-link=ジョン・フォン・ノイマン|editor=Jean van Heijenoort|origyear=1923|date=January 2002|title=From Frege to Gödel: A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931|chapter=On the introduction of transfinite numbers|edition=3rd|publisher=Harvard University Press|pages=346-354|isbn=0-674-32449-8|von Neumann|1923}} - {{Harv|von Neumann|1923}}の英訳。 == 関連文献 == *{{Cite book|和書|author=足立恒雄|authorlink=足立恒雄|date=2002-01-20|title=数 体系と歴史|publisher=[[朝倉書店]]|isbn=4-254-11088-X|ref={{Harvid|足立|2013}}}} *{{Cite book|和書|author=足立恒雄|date=2011-6|title=数とは何か そしてまた何であったか|publisher=[[共立出版]]|isbn=978-4-320-01971-3|ref={{Harvid|足立|2011}}}} *{{Cite book|和書|author=足立恒雄|year=2013-04-08|title=フレーゲ・デデキント・ペアノを読む 現代における自然数論の成立|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-78697-4|ref={{Harvid|足立|2013}}}} *{{Cite book|和書|author=足立恒雄|title=数の発明|date=2013-12-20|series=岩波科学ライブラリー 219|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-029619-9|ref={{Harvid|足立|2013b}}}} *{{Cite book|和書|author=彌永昌吉|authorlink=彌永昌吉|date=1972-03-25|title=数の体系|series=岩波新書(青版)815|volume=(上)|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4-00-416001-4|ref={{Harvid|彌永|1972}}}} *{{Cite book|和書|author=彌永昌吉|date=1978-04-20|title=数の体系|series=岩波新書(黄版)43|volume=(下)|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-420043-7|ref={{Harvid|彌永|1978}}}} *{{Cite book|和書|author=チャールズ・サイフェ|others=[[林大]] 訳|date=2003-10|title=異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念|publisher=早川書房|isbn=978-4-15-208524-5|ref={{Harvid|サイフェ|林|2003}}}} **{{Cite book|和書|author=チャールズ・サイフェ|others=[[林大]] 訳|date=2009-05-08|title=異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念|series=ハヤカワ文庫 NF 349 〈数理を愉しむ〉シリーズ|publisher=早川書房|isbn=978-4-15-050349-9|ref={{Harvid|サイフェ|林|2009}}}} *{{Cite book|和書|author=島内剛一|authorlink=島内剛一|origdate=1971-03-30|date=2008-12|title=数学の基礎|series=日評数学選書|publisher=[[日本評論社]]|isbn=978-4-535-60106-2|ref={{Harvid|島内|2008}}}} - [[2008年]]に復刊された。 *{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|year=1996-12-10|title=近世数学史談・数学雑談|chapter=6. 自然数論|edition=復刻版|publisher=[[共立出版]]|pages=234-274|isbn=4-320-01551-7|ref={{Harvid|高木|1970}}}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|origdate=1949-08-20|date=1970-09-19|title=数の概念|edition=改版|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-005153-9|ref={{Harvid|高木|1970}}}} **{{Cite book|和書 |author=高木貞治 |others=[[秋山仁]] 解説 |date=2019-10-17 |title=数の概念 |series=[[ブルーバックス]] B-2114 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4-065-17067-0 |ref={{Harvid|高木|2019}} }} *{{Citation |last=Dedekind |first=Richard |author-link=リヒャルト・デーデキント |origyear=1901 |date=1963-06-01 |title=Essays on the Theory of Numbers |publisher=Dover Publications |edition=Paparback |series=Dover Books on Mathematics |isbn=978-0-486-21010-0 }} **{{Cite book|和書|author=デーデキント|authorlink=リヒャルト・デーデキント|translator=[[河野伊三郎]]|date=1961-11-16|title=数について――連続性と数の本質――|series=岩波文庫 青924-1|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-339241-6|ref={{Harvid|デーデキント|1961}}}} **{{Cite book|和書|author=リヒャルト・デデキント|others=渕野昌 訳・解説|date=2013-07-10|title=数とは何かそして何であるべきか|series=ちくま学芸文庫 テ9-1 Math & Science|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-09547-3|ref={{Harvid|デデキント|2013}}}} - 「数とは何かそして何であるべきか?」・「連続性と無理数」を収録。 *{{Cite book|和書|author=フレーゲ|authorlink=ゴットロープ・フレーゲ|editor=野本和幸|editor-link=野本和幸|date=2000-09-20|title=算術の基本法則|series=フレーゲ著作集3|publisher=[[勁草書房]]|isbn=4-326-14822-5|ref={{Harvid|フレーゲ|野本|2000}}}} - 歴史的著作。抄訳。 *{{Cite book|和書|author=ジュゼッペ・ペアノ|authorlink=ジュゼッペ・ペアノ|others=小野勝次・梅沢敏郎 訳・解説|date=1969-08-30|title=数の概念について|series=現代数学の系譜 2|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-01155-7|ref={{Harvid|ペアノ|1969}}}} *{{Cite book|和書|author=保江邦夫|authorlink=保江邦夫|date=2002-12-20|title=数の論理 マイナスかけるマイナスはなぜプラスか?|series=ブルーバックス B-1397|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-257397-0|ref={{Harvid|保江|2002}}}} *{{Citation|last=Landau|first=Edmund|authorlink=エトムント・ランダウ|year=2001|title=Foundations of Analysis|edition=Reprint|publisher=Chelsea Pub Co.|isbn=0-8218-2693-X}} **{{Cite book|和書 |author=エトムント・ランダウ |translator=蟹江幸博 |date=2014-01 |title=数の体系 解析の基礎 |series=数学クラシックス 第28巻 |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-621-08713-8 |ref={{Harvid|ランダウ|2014}} }} == 関連項目 ==<!--項目の50音順--> {{Div col}} *{{仮リンク|完全数の一覧|en|List of perfect numbers}} *[[奇数]] *[[偶数]] *[[ゴットロープ・フレーゲ]] *[[ジュゼッペ・ペアノ]] *[[ジョン・フォン・ノイマン]] *[[数論]] *[[整数]] *[[リヒャルト・デデキント]] {{Div col end}} == 外部リンク == * [[小学館]] 日本大百科全書[https://archive.today/lA1fw#selection-217.0-223.1 『自然数』]- [[Yahoo!百科事典]] ([[archive.today]] へのリンク) *{{Kotobank|自然数|2=世界大百科事典 第2版}} *{{MathWorld|title=Natural Number|urlname=NaturalNumber}} *{{OEIS|A000027}} {{数の体系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しせんすう}} [[Category:初等数学]] [[Category:数]] [[Category:数論]] [[Category:整数|*]] [[Category:整数の類]] [[Category:数学に関する記事]]
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少年ドラマシリーズ
少年ドラマシリーズ(しょうねんドラマシリーズ)は、1972年から1983年にかけてNHK総合テレビジョンで放送された、主に小中学生向けのテレビドラマシリーズ。1972年の『タイム・トラベラー』から1983年の『だから青春 泣き虫甲子園』まで99作品が放送された。 1972年1月の放送開始から1973年3月までは毎週土曜18時枠、1973年度から1975年度は月曜から水曜日、1976年度と1977年度は月曜から木曜日の18時枠の帯番組として放送され、1978年度から1983年度までは特番として断続的に放送された。 SF、ミステリー、コメディ、海外作品などバラエティ豊かな作品群を提供している。 帯番組時代は大半が東京のNHK放送センター制作だが、1973年から1977年にかけて名古屋放送局も一部の作品を制作した。名古屋市とその近郊でロケが行われたものも多く、伊賀上野を舞台にしたものもあった。また、出演者が『中学生日記』と重複することもあった。東京制作分はSFものを重視していたのに対し名古屋制作分は原作ものを重視していた。 1973年度から1977年度まで18時台の海外ドラマは独立番組として放送されず、“少年ドラマシリーズ”の作品として放送された。 また、池上季実子や古手川祐子、紺野美沙子といった女優が少年ドラマシリーズで実質上のデビューを飾っている。 1970年代の作品は2インチVTRが高価であり、加えて著作権法の絡みなどから、作品の大半は放送後に上書き消去され、数作を除いてNHKには残っていないとされていた。しかし、フィルム撮影の『つぶやき岩の秘密』『ユタとふしぎな仲間たち』や当時の視聴者の録画テープを基にした『なぞの転校生』などとともに、現存していた作品は1989年前後にNHKソフトウェア(NHKエンタープライズ)のVISUAL VOOKレーベルなどからセルビデオで発売された。 その後1998年に「ドラマ愛の詩」の放送開始で少年ドラマシリーズが再認識されるようになり、1999年にインターネットコミュニティ上で有志が資料提供などを募る「少年ドラマシリーズ復刻キャンペーン」を展開。そして当時の視聴者・出演者・制作関係者から『悦ちゃん』、『蜃気楼博士』などVHS・ベータマックス・Uマチック等で録画されたビデオテープがNHKに寄贈された。NHKで歪みなどの映像修繕を経て、2001年に断片的でありつつも数編の作品がDVDビデオ化(販売元:アミューズ)され、またNHKアーカイブス (施設)等でも一部の作品を視聴することが可能になっている(所蔵はされているが状態などの関係も有り、『蜃気楼博士』など現在一般には公開されていない作品もある)。NHKアーカイブス所蔵の作品に関しては、ごく一部ではあるがNHKオンデマンドで公開されインターネットで閲覧できる物も有る。ただし、松本清張原作の『赤い月』は、NHKソフトウェアから発売の「懐かしのこども番組グラフィティー・夕方六時セレクション (2)」にダイジェスト収録。また、『長くつ下のピッピ』は、アスミック・エースエンタテインメントより発売されているが(全4作)、こちらは短縮再編集された劇場公開版のため、内容は若干テレビ版とは異なり、注意が必要(吹き替えも違い、ピッピ役の吹き替えは岸田今日子。ただし、DVD版で第3作に当たる「ピッピの宝島」のみテレビ版と同じキャロライン洋子の吹き替えとなっており、この作品のみテレビ版の音声を流用した物と考えられる)。 また、映像以外の資料も公式にはあまり残されておらず、熱心な視聴者が記録を採っていたもの程度に留まるが、2001年にアスキー(現:KADOKAWA・アスキー・メディアワークスブランド)からDVDビデオとの連動企画で少年ドラマシリーズのムック本、『NHK少年ドラマシリーズのすべて』が刊行されている。前述のNHKアーカイブスにも台本等の資料がわずかに所蔵されているが一般には公開されていない。
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少年ドラマシリーズ(しょうねんドラマシリーズ)は、1972年から1983年にかけてNHK総合テレビジョンで放送された、主に小中学生向けのテレビドラマシリーズ。1972年の『タイム・トラベラー』から1983年の『だから青春 泣き虫甲子園』まで99作品が放送された。
'''少年ドラマシリーズ'''(しょうねんドラマシリーズ)は、[[1972年]]から[[1983年]]にかけて[[NHK総合テレビジョン]]で放送された、主に小中学生向けの[[テレビドラマ]]シリーズ<ref name="NHK">[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010350 少年ドラマシリーズ | NHK放送史(動画・記事)]. 2021年10月23日閲覧</ref>。1972年の『[[タイム・トラベラー]]』から1983年の『[[だから青春 泣き虫甲子園]]』まで99作品が放送された<ref name="NHK" />。 == 解説 == [[1972年]]1月の放送開始から1973年3月までは毎週土曜18時枠、1973年度から1975年度は月曜から水曜日、1976年度と1977年度は月曜から木曜日の18時枠の[[帯番組]]として放送され、1978年度から1983年度までは特番として断続的に放送された。 [[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ミステリー]]、[[コメディ]]、海外作品などバラエティ豊かな作品群を提供している。 帯番組時代は大半が東京の[[NHK放送センター]]制作だが、[[1973年]]から[[1977年]]にかけて[[NHK名古屋放送局|名古屋放送局]]も一部の作品を制作した<ref name="NHK-Nagoya80th">{{Cite|和書|author=NHK名古屋放送局、中部旧友会NHK名古屋放送局80年史編集委員会 企画・編集|title=NHK名古屋放送局80年のあゆみ|date=2006|publisher=NHK名古屋放送局|pages=132}}</ref>。名古屋市とその近郊でロケが行われたものも多く、[[伊賀上野]]を舞台にしたものもあった。また、出演者が『[[中学生日記]]』と重複することもあった。東京制作分はSFものを重視していたのに対し名古屋制作分は原作ものを重視していた<ref name="NHK-Nagoya80th" />。 1973年度から1977年度まで18時台の海外ドラマは独立番組として放送されず、“少年ドラマシリーズ”の作品として放送された。 また、[[池上季実子]]や[[古手川祐子]]、[[紺野美沙子]]といった[[俳優|女優]]が少年ドラマシリーズで実質上のデビューを飾っている。 == 再評価 == 1970年代の作品は[[2インチVTR]]が高価であり、加えて著作権法の絡みなどから、作品の大半は放送後に上書き消去され、数作を除いてNHKには残っていないとされていた。しかし、フィルム撮影の『つぶやき岩の秘密』『ユタとふしぎな仲間たち』や当時の視聴者の録画テープを基にした『なぞの転校生』などとともに、現存していた作品は1989年前後にNHKソフトウェア([[NHKエンタープライズ]])のVISUAL VOOKレーベルなどからセルビデオで発売された。 その後1998年に「[[ドラマ愛の詩]]」の放送開始で少年ドラマシリーズが再認識されるようになり、1999年に[[インターネットコミュニティ]]上で有志が資料提供などを募る「少年ドラマシリーズ復刻キャンペーン」を展開。そして当時の視聴者・出演者・制作関係者から『悦ちゃん』、『蜃気楼博士』など[[VHS]]・[[ベータマックス]]・[[Uマチック]]等で録画されたビデオテープがNHKに寄贈された。NHKで歪みなどの映像修繕を経て、2001年に断片的でありつつも数編の作品が[[DVDビデオ]]化(販売元:[[アミューズ]])され<ref>[https://www.amuse-s-e.co.jp/syonen/ アミューズソフトDVD紹介][https://web.archive.org/web/20011202074530/http://www.amuse-pictures.com/syonen/]</ref>、また[[NHKアーカイブス (施設)]]等でも一部の作品を視聴することが可能になっている(所蔵はされているが状態などの関係も有り、『蜃気楼博士』など現在一般には公開されていない作品もある)。NHKアーカイブス所蔵の作品に関しては、ごく一部ではあるが[[NHKオンデマンド]]で公開されインターネットで閲覧できる物も有る。ただし、松本清張原作の『[[高校殺人事件|赤い月]]』は、NHKソフトウェアから発売の「懐かしのこども番組グラフィティー・夕方六時セレクション (2)」にダイジェスト収録。また、『[[長くつ下のピッピ]]』は、[[アスミック・エース|アスミック・エースエンタテインメント]]より発売されているが(全4作)、こちらは短縮再編集された劇場公開版のため、内容は若干テレビ版とは異なり、注意が必要(吹き替えも違い、ピッピ役の吹き替えは[[岸田今日子]]。ただし、DVD版で第3作に当たる「ピッピの宝島」のみテレビ版と同じ[[キャロライン洋子]]の吹き替えとなっており、この作品のみテレビ版の音声を流用した物と考えられる)。 また、映像以外の資料も公式にはあまり残されておらず、熱心な視聴者が記録を採っていたもの程度に留まるが、2001年に[[アスキー (企業)|アスキー]](現:[[KADOKAWA]]・[[アスキー・メディアワークス]]ブランド)からDVDビデオとの連動企画で少年ドラマシリーズのムック本、『NHK少年ドラマシリーズのすべて』が刊行されている。前述のNHKアーカイブスにも台本等の資料がわずかに所蔵されているが一般には公開されていない。 == 放送時間 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !期間!!放送時間 |- |1972年度||土曜日 18:05 - 18:35 |- |1973年度 - 1975年度||月曜日 - 水曜日 18:05 - 18:30 |- |1976年度||月曜日 - 木曜日 18:05 - 18:30 |- |1977年度||月曜日 - 木曜日 18:20 - 18:40 |- |1978年度||月曜日 - 木曜日 18:25 - 18:40(『ポンコツロボット太平記』のみ) |- |1979年度||月曜日 - 日曜日 18:00 - 18:29(『七瀬ふたたび』のみ) |- |1980年度||18:00 - 18:30(夏・冬) |- |1981年度||18:00 - 18:40(夏・秋・冬) |- |1982年度||18:00 - 18:30(春・夏) |- |1983年度||火曜日 19:30 - 19:59(『だから青春 泣き虫甲子園』のみ) |} == 作品一覧 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller; width:100%" ! width="3%"| ! width="20%"|タイトル ! width="20%"|放送期間 ! width="25%"|原作 ! width="7%"|制作局 ! width="25%"|DVD及び現存状況 |- |1||[[タイム・トラベラー]]<ref>{{NHK放送史|D0009010174_00000|少年ドラマシリーズ タイム・トラベラー}}</ref>||1972年1月1日 - 2月5日||[[筒井康隆]]「時をかける少女」||東京||アンソロジーⅠ(映像は最終話のみ、音声は全話現存) |- |2||[[寺町三丁目十一番地|満員御礼]]||1972年2月12日 - 3月25日||[[渡辺茂男]]「[[寺町三丁目十一番地]]」||東京|| |- |3||[[ミルナの座敷]]||1972年4月1日 - 4月29日||[[須知徳平]]||東京|| |- |4||[[とべたら本こ]]||1972年5月6日 - 5月27日||[[山中恒]]||東京|| |- |5||[[悲しみは海の色]]||1972年6月3日 - 6月24日||山下喬子||東京|| |- |6||[[怪人オヨヨ]]||1972年7月1日 - 7月29日<ref>{{Cite|和書|author=日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室|title=NHK年鑑'73|date=1973|publisher=日本放送出版協会|pages=148}}</ref>||[[小林信彦]]「オヨヨ島の冒険」「怪人オヨヨ大統領」||東京|| |- |7||[[少年オルフェ]]||1972年9月2日 - 9月23日||[[米沢幸男]]||東京|| |- |8||[[どっちがどっち]]||1972年9月30日 - 10月28日||[[大木圭]]||東京|| |- |9||[[続 タイムトラベラー]]||1972年11月4日 - 12月2日||[[石山透]](原案:筒井康隆)||東京||アンソロジーⅠ音声のみ |- |10||[[はつさんハーイ!]]||1973年1月6日 - 1月27日||[[由起しげ子]]「女中ッ子」||東京|| |- |11||[[コロッケ町のぼく]]||1973年2月3日 - 3月31日||[[筒井敬介]]||東京|| |- |12||[[暁はただ銀色]]||1973年4月2日 - 4月11日||[[光瀬龍]]||東京|| |- |13||[[気まぐれ指数]]||1973年4月16日 - 4月25日||[[星新一]]||名古屋|| |- |14||{{仮リンク|空飛べ!キャットウィーズル|en|Catweazle}}||1973年5月7日 - 5月23日||脚本:リチャード・カーペンター||海外|| |- |15||[[けんかえれじい#ドラマ|けんかえれじい]]||1973年5月28日 - 6月6日||[[鈴木隆 (作家)|鈴木隆]]||東京|| |- |16||[[あなたの町]]||1973年6月11日 - 6月20日||[[宮原昭夫]]||名古屋|| |- |17||{{仮リンク|ロンドン大追跡|en|The_Tyrant_King}}||1973年6月25日 - 7月4日||アイルマー・ハル||海外|| |- |18||[[つぶやき岩の秘密]]||1973年7月9日 - 7月19日||[[新田次郎]]||東京||全話 |- |19||[[それ行け名探偵]]||1973年9月3日 - 9月12日||[[城戸禮]]「探偵令嬢」||名古屋|| |- |20||[[ぼくがぼくであること]]||1973年9月17日 - 9月26日||山中恒||東京|| |- |21||{{仮リンク|海のセバスチャン|fr|Sébastien et la Mary-Morgane}}||1973年10月1日 - 10月24日||脚本:[[セシル・オーブリー]]||海外|| |- |22||[[しろばんば]]||1973年11月5日 - 11月21日||[[井上靖]]||東京|| |- |23||[[マッティと大ちゃん]]||1973年11月26日 - 12月12日||[[佐藤愛子 (作家)|佐藤愛子]]||名古屋|| |- |24||[[姉弟 (少年ドラマシリーズ)|姉弟]]||1974年1月1日||郷志津子「成就」||東京|| |- |25||[[夕ばえ作戦]]||1974年1月14日 - 1月23日||光瀬龍||東京|| |- |26||[[マリコ]]||1974年1月28日 - 2月6日||[[高谷玲子]]「静かに自習せよ」||東京|| |- |27||{{仮リンク|荒野の王子|en|Pretenders (TV series)}}||1974年2月11日 - 3月6日||||海外|| |- |28||[[ぼくのおじさん]]||1974年3月18日 - 4月12日||[[北杜夫]]||名古屋|| |- |29||[[まぼろしのペンフレンド]]||1974年4月15日 - 5月1日||[[眉村卓]]||東京|| |- |30||[[ユタとふしぎな仲間たち]]<ref>{{NHK放送史|D0009044288_00000|少年ドラマシリーズ ユタとふしぎな仲間たち}}</ref>||1974年5月6日 - 5月8日||[[三浦哲郎]]||東京||総集編 |- |31||[[おんぼろ車のドナおばさん]]||1974年5月13日 - 5月22日||{{仮リンク|ノエル・ストリートフィールド|en|Noel Streatfeild}}||海外|| |- |32||[[悦ちゃん#NHK版(1974年)|悦ちゃん]]<ref>{{NHK放送史|D0009040589_00000|少年ドラマシリーズ 悦ちゃん}}</ref>||1974年5月27日 - 6月19日||[[獅子文六]]||名古屋||全話(第2話冒頭のみ欠落)、[[番組公開ライブラリー]]で公開 |- |33||{{仮リンク|秘密の白い石|en|Den vita stenen}}||1974年6月24日 - 7月17日||{{仮リンク|グンネル・リンデ|en|Gunnel Linde}}||海外|| |- |34||[[風の中の子供]]||1974年8月27日 - 9月4日||[[坪田譲治 (作家)|坪田譲治]]||東京|| |- |35||[[霧の湖]]<ref>{{NHK放送史|D0009044289_00000|少年ドラマシリーズ 霧の湖}}</ref>||1974年9月9日 - 9月18日||[[久生十蘭]]「肌色の月」||東京||全話 |- |36||[[空中アトリエ]]||1974年9月23日 - 10月9日||[[武川みづえ]]||名古屋|| |- |37||{{仮リンク|少年カウボーイ|en|The_Cowboys_(TV_series)}}||1974年10月14日 - 11月6日||||海外|| |- |38||[[二十四の瞳]]||1974年11月11日 - 11月20日||[[壺井栄]]||東京|| |- |39||{{仮リンク|アルプスのスキーボーイ|en|Skiboy}}||1974年11月25日 - 12月18日||||海外|| |- |40||[[春の太鼓]]||1975年1月3日||[[井原西鶴]]「本朝桜陰比事」||東京|| |- |41||[[末っ子物語]]||1975年1月6日 - 1月15日||[[尾崎一雄]]||東京|| |- |42||[[太郎 (少年ドラマシリーズ)|太郎]]||1975年1月20日 - 1月29日||[[曽野綾子]]「太郎物語・高校編」||東京|| |- |43||[[マッティと愉快な仲間たち]]||1975年2月3日 - 2月26日||佐藤愛子「まんなか娘」「愉快なやつ」||名古屋|| |- |44||[[六年二組の春は…]]||1975年3月3日 - 3月12日||山中恒||東京|| |- |45||[[キヨ子は泣くもんか]]||1975年3月17日 - 3月26日||[[川北亮司]]「街かどの風」||名古屋|| |- |46||[[赤外音楽]]||1975年4月7日 - 4月16日||[[佐野洋]]||東京|| |- |47||[[ふたりの追跡]](The Long Chase)||1975年4月21日 - 5月14日||||海外|| |- |48||[[珍太郎日記]]||1975年5月19日 - 6月11日||[[佐々木邦]]「珍太郎日記」「いたずら小僧日記」||名古屋|| |- |49||[[ジュンのあした]]||1975年6月16日 - 7月9日||井上明子「涙よさようなら」||東京|| |- |50||{{仮リンク|リバーハウスの虹|en|Seven Little Australians (TV series)}}||1975年7月14日 - 7月30日||[[エセル・ターナー]]「Australian Seven Children」||海外|| |- |51||[[野菊の墓]]||1975年9月1日 - 9月17日||[[伊藤左千夫]]||東京|| |- |52||[[長くつ下のピッピ]]||1975年9月22日 - 10月15日||[[アストリッド・リンドグレーン]]||海外||劇場編集版 |- |53||[[すばらしき友人]]||1975年10月20日 - 11月12日||[[中村八朗]]||名古屋|| |- |54||[[なぞの転校生#NHK『少年ドラマシリーズ』版|なぞの転校生]]<ref>{{NHK放送史|D0009010200_00000|少年ドラマシリーズ なぞの転校生}}</ref>||1975年11月17日 - 12月3日||眉村卓||東京||全話 |- |55||[[ぼくのテムズ川]]||1975年12月8日 - 12月17日||ペギー・ミラー||海外|| |- |56||[[あおげばとうとし (1976年のテレビドラマ)|あおげばとうとし]]||1976年1月3日||山中恒「われら受験特攻隊」||東京|| |- |67||二十四の瞳 第2部||1976年1月5日 - 1月14日||壷井栄||東京|| |- |58||[[幼年時代 (室生犀星)|幼年時代]]||1976年1月19日 - 1月29日||[[室生犀星]]||東京|| |- |59||[[アルプスの少女ハイジ]]||1976年2月2日 - 2月11日||[[ヨハンナ・スピリ]]||海外|| |- |60||[[アケミの門出]]||1976年2月16日 - 2月25日||[[早船ちよ]]||名古屋|| |- |61||[[ママの卒業式]]||1976年3月2日 - 3月17日||[[手島悠介]]「二十八年目の卒業式」||名古屋|| |- |62||[[いつわりの微笑]]||1976年4月5日 - 5月6日||[[津村節子]]||東京|| |- |63||[[明日への追跡]]<ref>{{NHK放送史|D0009044293_00000|少年ドラマシリーズ 明日への追跡}}</ref>||1976年5月10日 - 5月27日||光瀬龍||東京||アンソロジーⅠ不完全 |- |64||長くつ下のピッピ-冒険旅行-・-海賊退治-||1976年5月31日 - 6月10日||アストリッド・リンドグレーン||海外|| |- |65||{{仮リンク|地球防衛団|en|The Tomorrow People}}||1976年6月14日 - 7月1日||||海外|| |- |66||[[エーミル|いたずらっ子エミール]]||1976年7月5日 - 7月22日||アストリッド・リンドグレーン||海外|| |- |67||[[巣立つ日まで]]||1976年9月6日 - 10月1日||[[菅生浩]]||東京|| |- |68||[[森の秘密]]||1976年10月4日 - 10月21日||[[ハリー・ヘイレン]]||海外|| |- |69||[[兎の眼]]||1976年10月25日 - 11月18日||[[灰谷健次郎]]||名古屋|| |- |70||[[快傑黒頭巾 (1976年のテレビドラマ)|快傑黒頭巾]]<ref>{{NHK放送史|D0009044294_00000|少年ドラマシリーズ 快傑黒頭巾}}</ref>||1976年11月22日 - 12月2日||[[高垣眸]]||東京||全話 |- |71||[[風の又三郎]]<ref>{{NHK放送史|D0009044295_00000|少年ドラマシリーズ 風の又三郎}}</ref>||1976年12月6日 - 12月9日||[[宮沢賢治]]||東京||アンソロジーⅢ不完全 |- |72||[[姉妹 (少年ドラマシリーズ)|姉妹]](きょうだい)||1976年12月13日 - 12月16日||[[畔柳二美]]||東京||全話、未公開 |- |73||[[安寿と厨子王]]||1976年12月20日 - 12月23日||「山椒太夫」([[説経節]])||東京|| |- |74||[[11人いる!]]<ref>{{NHK放送史|D0009044297_00000|少年ドラマシリーズ 11人いる!}}</ref>||1977年1月2日||[[萩尾望都]]||東京||全話 |- |75||[[未来からの挑戦]]<ref>{{NHK放送史|D0009040151_00000|少年ドラマシリーズ 未来からの挑戦}}</ref>||1977年1月10日 - 2月11日||眉村卓「ねらわれた学園」「地獄の才能」||東京||アンソロジーⅡ編集版(その後2014年までに一話35分の番組に再編集された再放送分の映像全10回版が新たに発掘され映像修復済み) |- |76||[[きみはサヨナラ族か]]||1977年2月14日 - 3月3日||森忠明||名古屋|| |- |77||[[困ったなア]]||1977年3月7日 - 3月24日||佐藤愛子||名古屋|| |- |78||[[高校殺人事件|赤い月]]<ref>{{NHK放送史|D0009044298_00000|少年ドラマシリーズ 赤い月}}</ref>||1977年4月4日 - 5月5日||[[松本清張]]「[[高校殺人事件]]」||東京||こども番組グラフィティ2ダイジェスト |- |79||{{仮リンク|アン通り47番地|en|The Kids from 47A}}||1977年5月9日 - 5月26日||||海外|| |- |80||[[叱られ人生]]||1977年5月30日 - 6月23日||[[サトウハチロー]]「詩集」||東京|| |- |81||{{仮リンク|孤島の秘密|en|The Lost Islands}}||1977年6月27日 - 7月21日||||海外|| |- |82||[[幕末未来人]]<ref>{{NHK放送史|D0009010218_00000|少年ドラマシリーズ 幕末未来人}}</ref>||1977年9月5日 - 9月29日||眉村卓「思いあがりの夏」「名残の雪」||東京||全話 |- |83||[[十三歳の夏]]||1977年10月3日 - 10月27日||[[乙骨淑子]]||名古屋|| |- |84||[[白い峠]]||1977年10月31日 - 12月1日||オリジナル||名古屋||全話、未公開 |- |85||[[スカイパトロール チョッパー・ワン]]||1977年12月5日 - 12月22日||||海外|| |- |86||[[蜃気楼博士]]<ref>{{NHK放送史|D0009040592_00000|少年ドラマシリーズ 蜃気楼博士}}</ref>||1978年1月9日 - 1月26日||[[都筑道夫]]||名古屋||2022年6月20日から同月22日にかけて[[NHK BSプレミアム]]の番組[[プレミアムカフェ|『プレミアムカフェ』]]で再放送<ref>{{Cite episode|title=少年ドラマ 蜃気楼博士 第1回~第4回(1978年)|series=[[プレミアムカフェ]]|network=[[NHK BSプレミアム]]|airdate=2022-06-20|time=|url=|df=ja}}</ref><ref>{{Cite episode|title=少年ドラマ 蜃気楼博士 第5回~第8回(1978年)|series=プレミアムカフェ|network=NHK BSプレミアム|airdate=2022-06-21|time=|url=|df=ja}}</ref><ref>{{Cite episode|title=少年ドラマ 蜃気楼博士 第9回~最終回(1978年)|series=プレミアムカフェ|network=NHK BSプレミアム|airdate=2022-06-22|time=|url=|df=ja}}</ref>{{efn|本ドラマに出演した俳優(「草間昭一」役)の[[吉川淨]]が個人的に放送録画し保管していた[[ベータマックス|ベータ方式]]ビデオテープをNHKへ提供したことにより再放送が実現したもの<ref>{{Cite news|url=https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail311.html|title=少年ドラマ完全再放送!『蜃気楼博士』全12回|date=2022-06-10|work=NHKアーカイブス|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220620081845/https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail311.html|archivedate=2022年6月20日|url-status=live}}</ref>。}}。 |- |87||[[その町を消せ!]]<ref>{{NHK放送史|D0009044299_00000|少年ドラマシリーズ その町を消せ!}}</ref>||1978年1月30日 - 2月23日||光瀬龍「消えた町」「その花を見るな!」||東京||不完全(第2話欠落、音声のみ) |- |88||[[寒い朝 (小説)#NHK版|寒い朝]]||1978年2月27日 - 3月16日||[[石坂洋次郎]]||名古屋|| |- |89||[[ポンコツロボット太平記]]<ref>{{NHK放送史|D0009044300_00000|少年ドラマシリーズ ポンコツロボット太平記}}</ref>||1978年12月25日 - 12月28日||[[石川英輔]]||東京||アンソロジーⅡ不完全 |- |90||[[七瀬ふたたび]]<ref>{{NHK放送史|D0009010241_00000|少年ドラマシリーズ 七瀬ふたたび}}</ref>||1979年8月6日 - 8月18日||筒井康隆||東京||全話 |- |91||[[オハヨウ先生こんにちは]]||1980年8月4日 - 8月11日||オリジナル(脚本:田波靖男)||東京||アンソロジーⅢ不完全 |- |92||[[ぼくとマリの時間旅行]]||1980年8月12日 - 8月15日||[[小松左京]]「時間エージェント」||東京||アンソロジーⅡ全話 |- |93||[[家族天気図]]<ref>{{NHK放送史|D0009043595_00000|少年ドラマシリーズ 家族天気図}}</ref>||1980年12月22日 - 12月27日||オリジナル(脚本:関功)||東京||全話 |- |94||[[おとうと (少年ドラマシリーズ)|おとうと]]<ref>{{NHK放送史|D0009043895_00000|ドラマ おとうと}}</ref>||1981年8月27日 - 8月28日||[[幸田文]]||東京|| |- |95||[[星の牧場]]<ref>{{NHK放送史|D0009044307_00000|少年ドラマシリーズ 星の牧場}}</ref>||1981年11月2日 - 11月3日||[[庄野英二]]||東京||全話 |- |96||[[あんずよ燃えよ]]<ref>{{NHK放送史|D0009044308_00000|少年ドラマシリーズ あんずよ燃えよ}}</ref>||1981年12月21日 - 12月22日||室生犀星「性に目覚める頃」||東京||全話 |- |97||[[芙蓉の人]]<ref>{{NHK放送史|D0009044310_00000|少年ドラマシリーズ 芙蓉の人}}</ref>||1982年4月1日 - 4月2日||新田次郎||東京||全話 |- |98||[[おれたち夏希と甲子園]]<ref>{{NHK放送史|D0009044311_00000|少年ドラマシリーズ おれたち夏希と甲子園}}</ref>||1982年8月2日 - 8月6日||高星由美子「野球狂の詩を唄う娘」||東京||全話 |- |99||[[だから青春 泣き虫甲子園]]<ref>{{NHK放送史|D0009043596_00000|少年ドラマシリーズ だから青春泣き虫甲子園}}</ref>||1983年6月14日 - 10月11日||[[あだち充]]、[[やまさき十三]]「ああ!青春の甲子園」||東京||全話 |} == 参考文献 == * [[増山久明]]編著 『NHK少年ドラマシリーズのすべて』アスキー、2001年 ISBN 978-4-7561-3800-2 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連番組 == *[[子供の時間 (NHKテレビ番組)|子供の時間]] *[[少年映画劇場]] - 73年春以前の海外ドラマ放映枠でもある。 *[[ファミリードラマ (NHK)|ファミリードラマ]] *[[NHK子どもパビリオン]] *[[ドラマ愛の詩]] *[[T.T.K. DRAMA SPECIAL]] *[[クラインの壺 (小説)#テレビドラマ|クラインの壷]] - ドラマがNHKで「ジュニアドラマシリーズ」として放送された。ただし、シリーズ化はされなかった。 *[[ドラマ8]] *[[青春アドベンチャー]] ==外部リンク== * {{NHK放送史|D0009040877_00000|少年ドラマシリーズ}} * {{NHK放送史|D0009040878_00000|少年ドラマシリーズ(外国映画)}} * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010349 若者・少年ドラマ|番組|NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010350 少年ドラマシリーズ|番組|NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010473 空想・仮想・理想・妄想!【もしもドラマ】|番組|NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010471 未来の技術や空想世界を描く【SFドラマ特集】|番組|NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010415 少年ドラマシリーズ 『幕末未来人』|番組|NHKアーカイブス] {{前後番組 |放送局=[[NHK総合テレビジョン]] |放送枠=土曜18:05 - 18:35枠 |番組名=少年ドラマシリーズ<br />(1972年1月 - 1973年3月) |前番組=[[不知火の小太郎]] |次番組=[[歌はともだち]]<br />(18:05 - 18:45)<br />【月曜18:05より移動】 |2放送局=NHK総合テレビジョン |2放送枠=月-水曜18:05 - 18:30枠 |2番組名=少年ドラマシリーズ<br />(1973年4月 - 1976年3月) |2前番組=[[ネコジャラ市の11人]]<br />(月-金曜18:05 - 18:20)<hr />月曜:歌はともだち<br />【土曜18:05に移動】<br />火曜:[[わんぱく天使 (NHKのテレビドラマ)|わんぱく天使]]<br />水曜:[[あなたに挑戦!]]<br />【木曜18:05に移動】<br />(全て18:20 - 18:45) |2次番組='''少年ドラマシリーズ'''<br />(月-木曜) |3放送局=NHK総合テレビジョン |3放送枠=月-木曜18:05 - 18:30枠 |3番組名=少年ドラマシリーズ<br />(1976年4月 - 1978年3月) |3前番組=月-水曜:'''少年ドラマシリーズ'''<br />木曜:[[ぼくらチャレンジャー]] |3次番組=[[600 こちら情報部]]<br />(月-金曜18:00 - 18:25)<hr />[[紅孔雀]]<br />(月-金曜18:25 - 18:40) }} {{NHKのテレビドラマ}} {{DEFAULTSORT:しようねんとらましりいす}} [[Category:少年ドラマシリーズ|*]] {{tv-stub}}
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浦和レッドダイヤモンズ
浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ、英: Urawa Red Diamonds)は、日本の埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)。 三菱自動車工業サッカー部(1950年創部)を前身とする。ホームタウンは埼玉県さいたま市(旧:浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002と浦和駒場スタジアム、練習グラウンドは大原サッカー場。チーム名は「ダイヤモンド」(最高の輝き、固い結束力)に由来し、それをクラブカラーである「レッド」と組み合わせたもの。 国内三大タイトル(J1リーグ、Jリーグカップ、天皇杯)を全て獲得しているクラブの一つで、Jリーグクラブで初めてAFCチャンピオンズリーグで優勝を成し遂げたクラブでもある。観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている(当項目を参照のこと)。 運営会社は「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。 三菱自動車工業(三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」)。1996年の増資時に埼玉県と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。 しかし2016年、三菱自工が燃費試験の不正問題に起因する経営難から再建を図る際に日産自動車(日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する横浜F・マリノスとの間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定に抵触する可能性が生じた。これについて、Jリーグチェアマンの村井満が2016年6月の臨時理事会後に「クラブライセンス交付第1審機関 が(レッズが日産及び三菱自の子会社・関連会社に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した。 三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が三菱重工業と共同出資して持株会社「ダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した。 2017年1月に1億1280万円の第三者割当増資を実施し、新たに15社が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。 Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。 浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研工業サッカー部を誘致し、本田技研工業狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研工業本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工の森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた。 三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘競技場陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。 こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の一つに選出された。 チームスローガン:発表されず クラブ 監督・選手 J1 J2 J1 J2 ホーム無敗記録 アウェイ無敗記録 ホーム連勝記録 アウェイ連勝記録 ホーム連敗記録 アウェイ連敗記録 ホームスタジアムは埼玉スタジアムと、Jリーグ加盟当初からのホームスタジアムであった浦和駒場スタジアムの2か所である。駒場はJリーグ公式サイト上ではホームスタジアムとして記述が残されている ものの、レッズ主管試合の開催は2010年を最後に行われていない(天皇杯で使用した実績はあるが、天皇杯はレッズ主催ではない)。なお、Jリーグ発行のファンズガイドでは2011年より駒場はホームスタジアムの紹介から外れている。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。 なお、2020年のJ1リーグでは、埼玉スタジアムが2020年東京オリンピックの男子サッカーの会場となっていることから、7月5日に北海道コンサドーレ札幌戦をリーグ戦としては2009年以来となる駒場での開催が本来は予定されていたが、全世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響によりJリーグ主催大会の日程が長期中断したことや、東京五輪自体も2021年に1年順延されたことから、日程の空きが生じたことを受け、駒場での開催はなくなり、改めて再編された日程で組み込まれたその前日・7月4日の横浜F・マリノス戦は駒場ではなく埼玉スタジアムでリモートマッチ(無観客試合)として行われた。 2021年は、同様の理由で8月14日にサガン鳥栖戦と8月25日にサンフレッチェ広島戦とリーグ戦2試合が駒場スタジアムで行われた。 2023年は埼玉スタジアムの芝生の張替え・養生工事のため、ホーム開幕戦の3月4日のセレッソ大阪、3月18日のアルビレックス新潟とのリーグ戦2試合と、3月26日のルヴァンカップ主管開幕戦・清水エスパルス戦の3試合に使用された。同年10月、イギリスの月刊フットボール誌FourFourTwoにて掲載された「世界最高のフットボールスタジアムランキング」にて、埼玉スタジアムが32位にランクインした 。 2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、アカデミーの充実に力を注ぐことになる。 2016年、矢島慎也がアカデミー出身選手として初めてオリンピック日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。 2018年、原口元気がアカデミー出身選手として初めてFIFAワールドカップ日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。 2023年現在、アカデミー出身選手として以下の選手が各国A代表に選出されている。 2008年の高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会で優勝するなど、ユース世代のチームとしても頭角を表してきている。 タイトル ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。 タイトル 2013年よりジュニアが新設され活動を開始している。 4種(小学生年代)で実績を残している埼玉県下の小学生を対象にセレクションを実施している。 セレクション応募者数はトップチームの人気とあいまって全国でも有数である。 タイトル また、ハートフルクラブの一環として小学生向けのサッカースクール(「ハートフルスクール」)を浦和駒場スタジアム、レッズランド、東松山、くまがやドーム、埼玉スタジアム、与野八王子で開催している。 エンブレムはクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校(現在の埼玉大学教育学部の前身校の一つ)の校舎「鳳翔閣」や埼玉県の県花であるサクラソウが描かれている。 初代ロゴは、クラブ創立から2代目ロゴ発表まで使用された。 2018年2月1日、クラブ設立25周年を機に、クラブの価値観や行動規範を具現化した2代目ロゴが発表された。デザインは日本デザインセンターが手掛けた。デザインはエンブレムとの親和性を考えたシンプルなものとし、一文字ずつのエッジに配した、フラッグを想起させる三角形のフォルムには、浦和レッズの熱く前向きな姿勢と「人・街・サッカー」の意味を込め、未来に向かって加速する姿を表現している。 1993年のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られている。初期の応援を担った「クレイジー・コールズ」のリーダーはロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて今に続くサポーターの応援の原型を作り上げ、1997年から2014年にかけて活動していた「URAWA BOYS」や「URAWA BOYS」を中心とした連合体「クルバ・エスト」にも受け継がれた。また、「日本一のサポーター」と形容されることもあるが、経済産業省関東経済産業局は「Jリーグ開幕当初はチームが弱く、『俺たちが支えよう』という気持ちの醸成が一助となった」、2006年12月4日付けの『読売新聞』は「応援の原型を作り上げたサポーターがメディアに取り上げられ、盛り上がり次々に若者が集まった」ことを理由の一つとしている。 また海外からも熱狂的なサポーターとして知られており、フランス誌『So Foot』は世界のサポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出された。この企画で紹介されたチームの中でアジアから選ばれたのは浦和のみで、ヨーロッパが7チーム、南米とアフリカからそれぞれ1チームとなっている。 レッズのサポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも一部存在しており、2000年以降、サポーター起因によるクラブへの懲罰事案は11件発生している。 2013年の清水戦(アウェイ)では試合前に相手チーム選手が乗ったバスに対して爆竹や発煙筒を投げつけた後、入場を制止した警備員に対し暴行を加えた容疑で4人が逮捕された。 2014年3月8日の鳥栖戦(ホーム)で起きた浦和レッズ差別横断幕事件によりクラブは史上初の無観客試合開催という重い制裁を受けた。この事件をきっかけとして、レッズレディースを含むすべての直系育成チーム の試合における横断幕(ビッグフラッグ、ゲートフラッグ、人文字、プラカードも含む)、大旗の使用をアウェイ・ホーム開催を含め一切禁止する自主規制が一時期実施され、「URAWA BOYS」を含むサポータークラブ連合体『クルバ・エスト』を構成する11組のサポーターズクラブが解散した。また、「URAWA BOYS」は2018年より活動を再開している。 2014年フランス『ラ・グリンタ』の「2013-14シーズンのコレオグラフィー・トップ10」で世界7位に選ばれた。 2017年、スルガ銀行チャンピオンシップ2017でシャペコエンセ(ブラジル)と対戦した際、同クラブの復興を願いトップチームやレディースチームのホームゲーム会場等で、義援金募金活動(募金合計:4,246,634円)を行った。さらに浦和レッズサポーターは募金活動への参加に加え、「サッカーを愛する仲間として、何か力になりたい」という思いから試合終了直後、ポルトガル語で「世界の舞台でもう一度会おう、友よ!」と書かれた横断幕と共に、緑色のビジュアルシートでゴール裏のスタンドを埋めた。その際に使用したビジュアルシートを、企画主旨に賛同したDHLジャパンの輸送支援を受けシャペコエンセへ贈呈した。また、AFCチャンピオンズリーグ2017で浦和が優勝した際、公式Twitterで祝福のメッセージが送られた。同年、アメリカ『フォックス・スポーツ』による「最も筋金入りのファンを持つ5クラブ」に、CAリーベル・プレート(アルゼンチン)、ガラタサライSK(トルコ)、リヴァプールFC(イングランド)、FCバルセロナ(スペイン)と並び選出された。 2022年には5月21日の鹿島戦(ホーム)でサポーターが試合前および試合中に「Jリーグ新型コロナウイルス対策ガイドライン」に違反する秩序を乱す行為(声出しによる応援など)を行った事、また同年7月22日のG大阪戦(アウェイ)でも同様の行為が行われ、過去にも同様の行為を繰り返されたことを重視し、クラブに対し過去最高額となる罰金2,000万円と譴責処分が科せられた。 2023年8月2日の天皇杯4回戦・名古屋戦(アウェイ)で浦和サポーター70人以上がスタジアムで暴徒化し、相手サポーターへの威嚇行為や警備員などへの暴行、横断幕などへの破壊行為を行い、愛知県警察が出動する暴動が発生した。当該サポーターに関しては日本サッカー協会(JFA)が同月31日に国内各カテゴリの試合について17人を無期限の入場禁止、1人を5試合の入場禁止とする処分を行ったが、クラブに関しては同年9月19日のJFA規律委員会で、2024年の天皇杯参加資格の剥奪と譴責処分が科された。このように不祥事が依然として続いている事から、クラブ・サポーターの自浄作用のなさについて各方面から問題提起されている。今回の天皇杯での暴動行為を受け、浦和レッズでは10月26日、日本サッカー協会やJリーグなどに定めのない、「永久入場禁止処分」や「損害賠償請求権」などの行使を含む、クラブ独自の処分基準を設け、大会規定の許す限りはクラブ主体で処分をすることを発表した。 旧浦和市域(浦和地区)には、2023年時点で約60万人が居住し、桜区、浦和区、南区、緑区に分かれている。サッカーが盛んな地域という他、県立浦和高校や浦和画家などに象徴される文教都市や、高級住宅街としても知られている。 緑区の埼玉スタジアム2002を筆頭に、各区に浦和レッズに関連した施設が所在する。桜区にはレッズランド、埼玉大学が所在している。浦和区には浦和駒場スタジアムや大原サッカー場、レッドボルテージなどの施設があり、伊勢丹浦和店ルイ・ヴィトン前には主要選手の手形や足形のレリーフが毎年設置されている(伊勢丹浦和店#浦和レッズレリーフを参照)。また浦和駅1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。そして南区には漫画・アニメ『赤き血のイレブン』の舞台のモデルである浦和南高校が所在する。サッカーの街浦和としてさいたま市役所や埼玉県庁などにおいてもポスターや旗の掲示を行っている。 埼玉スタジアムには浦和駅からの直行バスが運行されており、浦和駒場スタジアムがホームスタジアムだった頃と変わらず、週末には浦和駅周辺でもサポーターをみることができる。 また、各区とも駅周辺や商店街などを中心に浦和レッズの赤い幟や旗が掲げられており、中央区(本町通りや北与野駅)や岩槻区、越谷市(主要スポンサーのポラス本社が所在)などの旧浦和市域以外でも旗や幟をみることができる。 浦和レッズの決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016 2017年1月に第三者割当増資が実施され、資本金が増加した。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016 金額の単位: 百万円
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ、英: Urawa Red Diamonds)は、日本の埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "三菱自動車工業サッカー部(1950年創部)を前身とする。ホームタウンは埼玉県さいたま市(旧:浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002と浦和駒場スタジアム、練習グラウンドは大原サッカー場。チーム名は「ダイヤモンド」(最高の輝き、固い結束力)に由来し、それをクラブカラーである「レッド」と組み合わせたもの。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国内三大タイトル(J1リーグ、Jリーグカップ、天皇杯)を全て獲得しているクラブの一つで、Jリーグクラブで初めてAFCチャンピオンズリーグで優勝を成し遂げたクラブでもある。観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている(当項目を参照のこと)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "運営会社は「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "三菱自動車工業(三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」)。1996年の増資時に埼玉県と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし2016年、三菱自工が燃費試験の不正問題に起因する経営難から再建を図る際に日産自動車(日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する横浜F・マリノスとの間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定に抵触する可能性が生じた。これについて、Jリーグチェアマンの村井満が2016年6月の臨時理事会後に「クラブライセンス交付第1審機関 が(レッズが日産及び三菱自の子会社・関連会社に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が三菱重工業と共同出資して持株会社「ダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2017年1月に1億1280万円の第三者割当増資を実施し、新たに15社が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研工業サッカー部を誘致し、本田技研工業狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研工業本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工の森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘競技場陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の一つに選出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "チームスローガン:発表されず", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "クラブ", "title": "タイトル・表彰" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "監督・選手", "title": "タイトル・表彰" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "J1", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "J2", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "J1", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "J2", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ホーム無敗記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アウェイ無敗記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ホーム連勝記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アウェイ連勝記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ホーム連敗記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アウェイ連敗記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ホームスタジアムは埼玉スタジアムと、Jリーグ加盟当初からのホームスタジアムであった浦和駒場スタジアムの2か所である。駒場はJリーグ公式サイト上ではホームスタジアムとして記述が残されている ものの、レッズ主管試合の開催は2010年を最後に行われていない(天皇杯で使用した実績はあるが、天皇杯はレッズ主催ではない)。なお、Jリーグ発行のファンズガイドでは2011年より駒場はホームスタジアムの紹介から外れている。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、2020年のJ1リーグでは、埼玉スタジアムが2020年東京オリンピックの男子サッカーの会場となっていることから、7月5日に北海道コンサドーレ札幌戦をリーグ戦としては2009年以来となる駒場での開催が本来は予定されていたが、全世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響によりJリーグ主催大会の日程が長期中断したことや、東京五輪自体も2021年に1年順延されたことから、日程の空きが生じたことを受け、駒場での開催はなくなり、改めて再編された日程で組み込まれたその前日・7月4日の横浜F・マリノス戦は駒場ではなく埼玉スタジアムでリモートマッチ(無観客試合)として行われた。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2021年は、同様の理由で8月14日にサガン鳥栖戦と8月25日にサンフレッチェ広島戦とリーグ戦2試合が駒場スタジアムで行われた。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2023年は埼玉スタジアムの芝生の張替え・養生工事のため、ホーム開幕戦の3月4日のセレッソ大阪、3月18日のアルビレックス新潟とのリーグ戦2試合と、3月26日のルヴァンカップ主管開幕戦・清水エスパルス戦の3試合に使用された。同年10月、イギリスの月刊フットボール誌FourFourTwoにて掲載された「世界最高のフットボールスタジアムランキング」にて、埼玉スタジアムが32位にランクインした 。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、アカデミーの充実に力を注ぐことになる。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2016年、矢島慎也がアカデミー出身選手として初めてオリンピック日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2018年、原口元気がアカデミー出身選手として初めてFIFAワールドカップ日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2023年現在、アカデミー出身選手として以下の選手が各国A代表に選出されている。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年の高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会で優勝するなど、ユース世代のチームとしても頭角を表してきている。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "タイトル", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "タイトル", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年よりジュニアが新設され活動を開始している。 4種(小学生年代)で実績を残している埼玉県下の小学生を対象にセレクションを実施している。 セレクション応募者数はトップチームの人気とあいまって全国でも有数である。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "タイトル", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、ハートフルクラブの一環として小学生向けのサッカースクール(「ハートフルスクール」)を浦和駒場スタジアム、レッズランド、東松山、くまがやドーム、埼玉スタジアム、与野八王子で開催している。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "エンブレムはクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と\"MITSUBISHI URAWA FC\"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校(現在の埼玉大学教育学部の前身校の一つ)の校舎「鳳翔閣」や埼玉県の県花であるサクラソウが描かれている。", "title": "エンブレム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "初代ロゴは、クラブ創立から2代目ロゴ発表まで使用された。", "title": "ロゴ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2018年2月1日、クラブ設立25周年を機に、クラブの価値観や行動規範を具現化した2代目ロゴが発表された。デザインは日本デザインセンターが手掛けた。デザインはエンブレムとの親和性を考えたシンプルなものとし、一文字ずつのエッジに配した、フラッグを想起させる三角形のフォルムには、浦和レッズの熱く前向きな姿勢と「人・街・サッカー」の意味を込め、未来に向かって加速する姿を表現している。", "title": "ロゴ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1993年のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られている。初期の応援を担った「クレイジー・コールズ」のリーダーはロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて今に続くサポーターの応援の原型を作り上げ、1997年から2014年にかけて活動していた「URAWA BOYS」や「URAWA BOYS」を中心とした連合体「クルバ・エスト」にも受け継がれた。また、「日本一のサポーター」と形容されることもあるが、経済産業省関東経済産業局は「Jリーグ開幕当初はチームが弱く、『俺たちが支えよう』という気持ちの醸成が一助となった」、2006年12月4日付けの『読売新聞』は「応援の原型を作り上げたサポーターがメディアに取り上げられ、盛り上がり次々に若者が集まった」ことを理由の一つとしている。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また海外からも熱狂的なサポーターとして知られており、フランス誌『So Foot』は世界のサポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出された。この企画で紹介されたチームの中でアジアから選ばれたのは浦和のみで、ヨーロッパが7チーム、南米とアフリカからそれぞれ1チームとなっている。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "レッズのサポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも一部存在しており、2000年以降、サポーター起因によるクラブへの懲罰事案は11件発生している。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2013年の清水戦(アウェイ)では試合前に相手チーム選手が乗ったバスに対して爆竹や発煙筒を投げつけた後、入場を制止した警備員に対し暴行を加えた容疑で4人が逮捕された。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2014年3月8日の鳥栖戦(ホーム)で起きた浦和レッズ差別横断幕事件によりクラブは史上初の無観客試合開催という重い制裁を受けた。この事件をきっかけとして、レッズレディースを含むすべての直系育成チーム の試合における横断幕(ビッグフラッグ、ゲートフラッグ、人文字、プラカードも含む)、大旗の使用をアウェイ・ホーム開催を含め一切禁止する自主規制が一時期実施され、「URAWA BOYS」を含むサポータークラブ連合体『クルバ・エスト』を構成する11組のサポーターズクラブが解散した。また、「URAWA BOYS」は2018年より活動を再開している。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2014年フランス『ラ・グリンタ』の「2013-14シーズンのコレオグラフィー・トップ10」で世界7位に選ばれた。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2017年、スルガ銀行チャンピオンシップ2017でシャペコエンセ(ブラジル)と対戦した際、同クラブの復興を願いトップチームやレディースチームのホームゲーム会場等で、義援金募金活動(募金合計:4,246,634円)を行った。さらに浦和レッズサポーターは募金活動への参加に加え、「サッカーを愛する仲間として、何か力になりたい」という思いから試合終了直後、ポルトガル語で「世界の舞台でもう一度会おう、友よ!」と書かれた横断幕と共に、緑色のビジュアルシートでゴール裏のスタンドを埋めた。その際に使用したビジュアルシートを、企画主旨に賛同したDHLジャパンの輸送支援を受けシャペコエンセへ贈呈した。また、AFCチャンピオンズリーグ2017で浦和が優勝した際、公式Twitterで祝福のメッセージが送られた。同年、アメリカ『フォックス・スポーツ』による「最も筋金入りのファンを持つ5クラブ」に、CAリーベル・プレート(アルゼンチン)、ガラタサライSK(トルコ)、リヴァプールFC(イングランド)、FCバルセロナ(スペイン)と並び選出された。", "title": "サポーター" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2022年には5月21日の鹿島戦(ホーム)でサポーターが試合前および試合中に「Jリーグ新型コロナウイルス対策ガイドライン」に違反する秩序を乱す行為(声出しによる応援など)を行った事、また同年7月22日のG大阪戦(アウェイ)でも同様の行為が行われ、過去にも同様の行為を繰り返されたことを重視し、クラブに対し過去最高額となる罰金2,000万円と譴責処分が科せられた。", "title": 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浦和レッドダイヤモンズは、日本の埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)。
{{サッカークラブ | クラブ名 = 浦和レッズ | font-color = #FFF | background-color = #e6002d | border-color = #000 | 原語表記 = 浦和レッドダイヤモンズ | 呼称 = 浦和レッズ | 愛称 = レッズ<br/>[[赤い悪魔]] | カラー = {{color box|#E6002D}} 赤<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/club/urawa/day/#profile|title=クラブ・選手名鑑:浦和レッズ プロフィール|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2019-01-03}}</ref> | 創設 = 1950 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス= J1 | ホームタウン = [[埼玉県]][[さいたま市]]<ref name="jleague" /> | スタジアム = [[ファイル:Saitama Stadium Panorama.jpg|200px|center]][[埼玉スタジアム2002]]<ref name="jleague" />[[ファイル:Komabastadium1.JPG|200px|center]][[さいたま市駒場スタジアム|浦和駒場スタジアム]]<ref name="jleague" /> | キャパ = 埼玉:62,010<ref name="jleague" /><br> 駒場:21,500<ref name="jleague" /> | 法人名 = 浦和レッドダイヤモンズ株式会社<ref name="jleague" /> | 代表 = {{Flagicon|JPN}} [[田口誠 (経営者)|田口誠]]<ref name="jleague" /> | 監督 = {{Flagicon|NOR}} [[ペア=マティアス・ヘグモ]] | HP = https://www.urawa-reds.co.jp/ | pattern_la1 = _Urawa Red Diamonds 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Urawa Red Diamonds 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Urawa Red Diamonds 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Urawa Red Diamonds 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Urawa Red Diamonds 2023 HOME FP | leftarm1 = FF0000 | body1 = FFFFFF | rightarm1 = FF0000 | shorts1 = FFFFFF | socks1 = 000000 | pattern_la2 = _Urawa Red Diamonds 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Urawa Red Diamonds 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Urawa Red Diamonds 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Urawa Red Diamonds 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Urawa Red Diamonds 2023 AWAY FP | leftarm2 = ffffff | body2 = ffffff | rightarm2 = ffffff | shorts2 = 000000 | socks2 = ffffff | pattern_la3= | pattern_b3= | pattern_ra3= | pattern_sh3= | pattern_so3= | leftarm3= | body3= | rightarm3= | shorts3= | socks3= |current=2024年の浦和レッドダイヤモンズ }} '''浦和レッドダイヤモンズ'''(うらわレッドダイヤモンズ、{{Lang-en-short|Urawa Red Diamonds}})は、[[日本]]の[[埼玉県]][[さいたま市]]をホームタウンとする、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つ。呼称は'''浦和レッズ'''(うらわレッズ)。 == 概要 == '''[[三菱重工業サッカー部|三菱自動車工業サッカー部]]'''([[1950年]]創部)を前身とする。[[ホームタウン]]は[[埼玉県]][[さいたま市]](旧:[[浦和市]])。ホームスタジアムは[[埼玉スタジアム2002]]と[[さいたま市駒場スタジアム|浦和駒場スタジアム]]<ref name="jleague" />、練習グラウンドは[[大原サッカー場]]<ref name="jleague" />。チーム名は「[[ダイヤモンド]]」(最高の輝き、固い結束力)に由来し<ref name="jleague" />、それをクラブカラーである「レッド」と組み合わせたもの<ref name="jleague" />。 [[トレブル (サッカー)|国内三大タイトル]]([[J1リーグ]]、[[Jリーグカップ]]、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]])を全て獲得しているクラブの一つで、Jリーグクラブで初めて[[AFCチャンピオンズリーグ]]で優勝を成し遂げたクラブでもある。観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている([[日本プロサッカーリーグ#試合入場者数|当項目]]を参照のこと)。 === 運営会社 === {{基礎情報 会社 | 社名 = 浦和レッドダイヤモンズ株式会社 | 英文社名 = URAWA Red Diamonds Co., Ltd. | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 本社所在地 = [[埼玉県]][[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]][[美園 (さいたま市)|美園]]2-1<ref name="jleague" /> | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 336-8505 | 設立 = [[1992年]][[7月17日]] | 業種 = 9050 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = サッカークラブの運営他 | 代表者 = 立花洋一 | 資本金 = 2億7,300万円(2018年1月現在<ref name="jl2017">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf|title=2017年度(平成29年度)Jクラブ個別情報開示資料|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2018-08-07}}</ref> | 発行済株式総数 = 4,000株<ref name="clubinfo">{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/club/outline.html|title=会社概況|publisher=浦和レッドダイヤモンズ株式会社|accessdate=2017-01-28}}</ref> | 売上高 = 79億7,100万円 <br>(2018年1月期)<ref name="jl2017" /> | 営業利益 = 5億5,600万円 <br>(2018年1月期)<ref name="jl2017" /> | 経常利益 = 5億3,600万円<br> (2018年1月期)<ref name="jl2017" /> |純利益 = 4億1200万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/6ccb5/297003 浦和レッドダイヤモンズ株式会社 第32期決算公告]</ref> |純資産 = 13億0500万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> |総資産 = 30億7600万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> | 従業員数 = | 決算期 = 1月期 | 主要株主 = [[ダイヤモンドF.C.パートナーズ]] 50.75%<br />[[さいたま市]] 4.00%<br />[[埼玉県]] 4.00%他<ref name="clubinfo"/> | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = http://www.urawa-reds.co.jp | 特記事項 = 1992年から2012年5月までの社名は、「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」。 }} 運営会社は「'''浦和レッドダイヤモンズ株式会社'''」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。 [[三菱自動車工業]](三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「'''株式会社三菱自動車フットボールクラブ'''」)。[[1996年]]の増資時に[[埼玉県庁|埼玉県]]と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社{{Refnest|group="注"|2008年12月1日時点の資本比率は以下の通り<ref>{{Wayback|url=http://www.urawa-reds.co.jp/club/outline.html|title=会社状況|date=20161119210206}}</ref>。 * 三菱自動車工業 - 8100万円(50.75%) * 埼玉県、さいたま市 - 各800万円(5.00%) * [[エコ計画]]、[[埼玉縣信用金庫]]、[[トーシンパートナーズ]]、[[コカ・コーラボトラーズジャパン|コカ・コーライーストジャパン]] - 各400万円(2.50%) * 郷前 - 300万円(1.875%) * [[ADKホールディングス|アサツーディ・ケイ]]、[[ジェイコムさいたま]]、[[エフエムナックファイブ|FM NACK 5]]、[[埼玉工業]]、[[埼玉交通]]、[[埼玉新聞社]]、[[埼玉りそな銀行]]、[[東京正直屋]]、ジャスト、[[セガ]]、[[大日本印刷]]、[[テレビ埼玉]]、[[三菱UFJニコス]]、[[東京海上日動火災保険]]、[[ピーエス三菱]]、[[藤島建設]]、[[藤島住宅]]、[[三菱商事]]、[[三菱地所]]、[[三菱重工業]]、[[三菱電機]]、[[りそなカード]] - 各200万円(1.25%) }}から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。 しかし[[2016年]]、三菱自工が[[三菱自動車工業#燃費試験の不正事件|燃費試験の不正問題]]に起因する経営難から再建を図る際に[[日産自動車]](日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する[[横浜F・マリノス]]との間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定{{Refnest|group="注"|「Jクラブは、直接たると間接たるとを問わず、他のJクラブまたは当該他のJクラブの重大な影響下にある法人の経営を支配しうるだけの株式([[公益社団法人]]または[[特定非営利活動法人]]にあっては社員たる地位)を保有している者に対し、自クラブまたは自クラブの重大な影響下にあると判断される法人の経営を支配できるだけの株式(公益社団法人または特定非営利活動法人にあっては社員たる地位)を保有させてはならない。」というもの<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/docs/aboutj/regulation/2016/02.pdf|format=PDF|page=10|title=Jリーグ規約|accessdate=2023-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160606062547/https://www.jleague.jp/docs/aboutj/regulation/2016/02.pdf|archivedate=2016-06-06}}</ref>。}}に抵触する可能性が生じた<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20160512/k00/00e/050/249000c|title=どうなる浦和と横浜マ 三菱自と日産が資本提携|newspaper=毎日新聞|date=2016-05-12|accessdate=2017-01-13}}</ref>。これについて、[[Jリーグチェアマン]]の[[村井満]]が2016年6月の臨時理事会後に「[[Jリーグクラブライセンス制度|クラブライセンス交付第1審機関]] が(レッズが日産及び三菱自の子会社・[[関連会社]]に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した<ref>{{Cite news|url=http://www.hochi.co.jp/soccer/national/20160609-OHT1T50204.html|title=【浦和】「レッズ」守る!三菱グループ内で持ち株移譲へ|newspaper=スポーツ報知|date=2016-06-10|accessdate=2017-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160612074949/http://www.hochi.co.jp/soccer/national/20160609-OHT1T50204.html|archivedate=2016-06-12}}</ref>。 三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が[[三菱重工業]]と共同出資して[[持株会社]]「'''[[ダイヤモンドF.C.パートナーズ]]株式会社'''」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mitsubishi-motors.com/publish/pressrelease_jp/corporate/2016/news/detail5021.html|title=三菱自動車の浦和レッドダイヤモンズへの出資比率を変更|publisher=三菱自動車工業|date=2016-10-31|accessdate=2017-01-14}}</ref>。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/economy/news/161031/ecn1610310023-n1.html|title=三菱重工が浦和レッズの保有主体に 新しい運営子会社設立、三菱自も出資継続|newspaper=産経新聞|date=2016-10-31|accessdate=2016-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161101112813/http://www.sankei.com/economy/news/161031/ecn1610310023-n1.html|archivedate=2016-11-01}}</ref>。 2017年1月に1億1280万円の[[第三者割当増資]]を実施し、新たに15社{{Refnest|group="注"|株主に加わったのは以下の15社<ref name="release20170126">{{Cite press release|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/第三者割当増資に伴う、発行済株式数並びに株主/|title=第三者割当増資に伴う、発行済株式数並びに株主数変更のお知らせ|publisher=浦和レッドダイヤモンズ|date=2017-01-26|accessdate=2017-01-28}}</ref>。括弧内は割り当て株式数。 * [[セレモニー (企業)|セレモニー]]、[[ポラス]]、[[三光ソフランホールディングス|メディカル・ケア・サービス]](以上40株) * [[麒麟麦酒]]、[[ファミリー引越センター]]、[[丸和運輸機関]](以上30株) * [[アイル・コーポレーション]]、[[auカブコム証券|カブドットコム証券]]、[[サイデン化学]]、[[セキチュー]]、[[でんきち]]、[[文化シヤッター]]、[[明治安田生命保険]]、[[与野フードセンター]]、[[リズム時計工業]](以上20株) }}が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった<ref name="clubinfo"/>。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。 === クラブの経営状況 === {{更新|date=2013年3月|section=1}} Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。 * 1996年-1999年、2001年-2002年、2006年以降と過去に18シーズンでJリーグ観客動員1位を記録。2007年はナビスコ杯4試合、ACL6試合とカップ戦を含めた年間観客動員数がJリーグクラブでは初めて100万人を突破し、2008年はリーグ戦でJリーグ史上最高となる809,353人を動員した。2012年8月4日[[FC東京]]との試合で1000万人を動員した。 * 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-league.or.jp/aboutj/katsudo/2005kansensha.pdf|format=PDF|title=2005 J リーグ スタジアム観戦者 調査報告書|publisher=社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2006-02|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060314064316/http://www.j-league.or.jp/aboutj/katsudo/2005kansensha.pdf|archivedate=2006-03-14}}</ref>)、割引率10%未満にもかかわらずシーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。 * [[ユニフォーム]]サプライヤーは、[[1993年]]から[[1996年]]のリーグ戦<ref group="注">当時はリーグ一括契約</ref> での[[ミズノ]]、並びに[[1997年]]のリーグ戦での[[UMBRO]]を除き、過去は一貫して[[プーマ]]であったが、[[2004年]]から[[ナイキ]]が独占供給契約を結んでおり、[[2007年]]からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。 === 地域への貢献 === [[ファイル:レッドボルテージ2.JPG|thumb|right|220px|浦和区にあったオフィシャルショップ(現在は同区内で移転)「[[レッドボルテージ|RED VOLTAGE]]」(2015年)]] {{更新|date=2013年3月|section=1}} * 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5000万をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・[[特別支援学校]]に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、[[日本女子サッカーリーグ]]の[[さいたまレイナスFC]]を統合し、[[浦和レッドダイヤモンズ・レディース|浦和レッズ・レディース]]を設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。 * [[埼玉県]]内における浦和レッズがもたらす'''経済波及効果 [http://www.pref.saitama.lg.jp/site/a152/hakyuimg.html] は、年間127億円'''(2006年度ベース)<ref>[http://www.sarfic.or.jp/report/pdf/reds071122.pdf 浦和レッズがもたらす経済波及効果は年間127億円(平成19年11月)]</ref>。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円と[[サポーター (サッカー)|サポーター]]の交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている [https://www.pref.saitama.lg.jp/site/a152/hakyuj.html]。これには[[スカパー!]]([[スカパー!プレミアムサービス]]含む)や、[[ケーブルテレビ]]等の[[Jリーグ]]有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。 * 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「[[ハートフルクラブ]]」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の[[落合弘]]がキャプテンを務め、コーチはOBの[[杉山弘一]]、[[土橋正樹]]、[[宮沢克行]]ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園(レッズキッズサッカー)、小学校授業サポート、中学校サッカー部活動サポートなどを巡回実施し、また障害者にサッカーの場の提供を行うなど地域貢献にも力を入れている。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。 * [[Jリーグ百年構想]]の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元[[東京農業大学]]グラウンド)にサッカー場([[天然芝]]2面・[[人工芝]]1面)、[[フットサル]]場([[人工芝]]8面)、[[テニス]]場(全天候型など9面)、[[野球]]場([[天然芝]]1面)、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]場([[天然芝]]1面)、[[サイクリング]]コース、[[キャンプ]]場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設を'''[[レッズランド]]'''として一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、[[クルム伊達公子|伊達公子]]がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する[[浦和西体育館]]の[[指定管理者]]となった。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。 *そのほか、2011年3月11日の東日本大震災の復興を支援するために「東日本大震災等支援プロジェクト」に取り組み、サッカーを通じて子どもたちの心のケアに努めている。 === 国際交流 === {{更新|date=2018年1月|section=1}} * アジアサッカー連盟が主催する2007年の[[AFCチャンピオンズリーグ2007]](ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催<ref>「ACLに挑むJクラブ」[[Jリーグオフィシャル書籍|Jリーグファンズガイド2007年版]](Jリーグ発行・[[コナミデジタルエンタテインメント]]発売)。同書で藤口は「ホーム不敗の埼玉スタジアムでの開催をすることによって、多くのファン・サポーターの方に来てもらって、絶対に勝つという姿勢でACLを戦う」と話している。</ref>。予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。 * 定期的に[[さいたまシティカップ]]を開催し、海外のクラブチームと対戦している。 * 2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他に[[レアル・マドリード]]([[スペイン]])、[[チェルシーFC]]([[イングランド]])、[[ACミラン]]([[イタリア]])、[[ボカ・ジュニアーズ]]([[アルゼンチン]])など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。 * 2023年、第14回グローブ・サッカー・アワード2023における『最優秀男子クラブ』の受賞候補20クラブが発表され、浦和レッズがノミネートされた。アジアからは浦和の他、[[アル・ヒラル]]([[サウジアラビア]])、[[アル・イテハド]](サウジアラビア)らがノミネートされ、その他地域では[[マンチェスター・シティFC]](イングランド)、[[FCバルセロナ]](スペイン)や[[FCバイエルン・ミュンヘン]]([[ドイツ]])などもノミネートされた。 == 歴史 == {{複数の問題|section=1 | 出典の明記 = 2017年1月 | 大言壮語 = 2017年1月 | 独自研究 = 2017年1月 | 雑多な内容の箇条書き = 2017年1月 }} === 浦和レッドダイヤモンズ発足まで === {{main|三菱重工業サッカー部}} [[浦和市]](当時)は当初、[[日本サッカーリーグ]](JSL)1部所属の[[Honda FC|本田技研工業サッカー部]]を誘致し<ref>{{Cite book|和書|author=宇都宮徹壱|authorlink=宇都宮徹壱|title=サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ|page=14|year=2016|publisher=[[カンゼン]]}}</ref>、[[ホンダルミノッソ狭山FC|本田技研工業狭山サッカー部]]と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研工業本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属の[[NTT関東サッカー部]](現[[大宮アルディージャ]])の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。[[埼玉県]]にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった[[川淵三郎]]に相談したところ、[[三菱重工業サッカー部|三菱自工]]の[[森孝慈]]を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた<ref>『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ・[[ベースボール・マガジン社]]編集 2002年、86-88頁<br />山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行 [[論創社]] 1998年、68-92、101-104、236-238頁<br />[[サンケイスポーツ]]、2005年12月30日3面<br />[http://uragi.com/news/uraginews001054.html 【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話]</ref><ref name="resonacard" >[https://web.archive.org/web/20130628031120/http://www.resonacard.co.jp:80/reds/column.html#B そうだったんですか!?レッズ](Internet Archive)</ref><ref name="ARCHIVE4">[http://www.urawa-football.com/post/5061/ ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[最終回]]</ref>。 三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と[[三菱養和|三菱養和SC]]が所在する[[東京都]]を本拠とする予定であったが、Jリーグが[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、[[江戸川区陸上競技場]]の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。[[藤和不動産サッカー部|フジタ]](現[[湘南ベルマーレ]])が大神練習場を使用し活動していた[[神奈川県]][[平塚市]]や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった[[兵庫県]][[神戸市]]とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。 こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した<ref name="resonacard" /><ref name="ARCHIVE4"/>。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体([[オリジナル10]])の一つに選出された。 === 1990年代 === ==== 1992年 - 1994年 ==== [[ファイル:Komabastadium6.JPG|thumb|right|250px|浦和駒場スタジアム(メインスタンド)]] * [[1992年]] - Jリーグ開幕前に開催された[[1992年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]に参加し、予選リーグを5勝4敗と勝ち越したが、予選5位で上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]はベスト4へ進出した。 * [[1993年]]の両ステージ、[[1994年]]の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:[[鹿島アントラーズ]]、ニコスシリーズ:[[東京ヴェルディ1969|V川崎]])の優勝を目の前で決められた。なお、1993年シーズン終了後に当時監督の[[森孝慈]]は「3年間分負けた」と発言したほか、1993年・1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったが、このユニフォームを使用した試合では2年間で1勝もすることができなかった。 * 当時の補強方針にも疑問符がついた。センターフォワードの[[ヴィクトール・ウーゴ・フェレイラ]]が出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待された[[ウーベ・ラーン]]が結果を残せずセンターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKの[[ミロスラフ・メンテル|ミロ]]を獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの肝心のDFは補強されなかったため、出場3試合目の[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]戦に大敗し3連敗を喫した後に報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」「もう帰りたい」とコメントするほどで、結果的にこの時期に外国人選手で活躍したのは[[ミヒャエル・ルンメニゲ]]だけであった。しかし、1994年のセカンドステージから[[ギド・ブッフバルト]]や[[ウーベ・バイン]]が加入すると徐々に改善の兆しを見せていった。 *1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受けるかたちで増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後は大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)でホームゲームを開催。 *1994年11月19日第2ステージ・NICOSシリーズ最終節の[[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]戦は、駒場陸上競技場が改修工事中だったことや、収容15,000人以上の関東のスタジアムに全て断られたことにより[[富山県総合運動公園陸上競技場]]で開催。 ==== 1995年 - 1998年 ==== [[ファイル:Guido Buchwald cropped.jpg|thumb|250px|[[ギド・ブッフバルト]]。レッズOBで後にレッズの監督も務めた。]] * [[1995年]]に就任した[[ドイツ人]]監督[[ホルガー・オジェック]]の下で躍進を遂げる。前年に加入した元[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ[[福田正博]]が日本人初のJリーグ得点王となった。 **同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。 * その後は中位にとどまることが多くなる。背景には、三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。 *通年シーズンであった[[1996年]]は第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず最終的に6位で終了。 *[[1997年]]、攻撃的サッカーへの転換を図り新監督に[[ホルスト・ケッペル]]を招聘するも、全く内容が伴わずわずか1年で退団。シーズン終了後にはブッフバルトが退団、移籍。 *[[1998年]]は三菱OBの[[原博実]]監督の下、新加入の[[小野伸二]]や[[ゼリコ・ペトロヴィッチ]]を擁して2ndステージで3位となった。 ==== 1999年 ==== * 小野や福田、外国人選手の故障、前年に好成績を残したことにより補強はいらないというフロントの判断で成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原を更迭、後任に[[ア・デモス]]を迎えるが、最終戦で福田が[[Vゴール]]を決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で年間順位15位で[[J2リーグ|Jリーグ ディビジョン2]](J2)へ降格し、「[[1999年J1最終節|世界で一番悲しいVゴール]]」と呼ばれた。シーズン途中に[[中村忠 (サッカー選手)|中村忠]]、[[路木龍次]]、[[フェルナンド・ピクン]]、[[中谷勇介]]を獲得、また留学していた[[カールスルーエSC]]から[[永井雄一郎]]を、練習生として[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]に参加していた[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]を呼び戻すも結果には結びつかなかった。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事はテレビや新聞、雑誌などでも特集された。 === 2000年代 === ==== 2000年 ==== * J2で迎えた2000年シーズンは[[鹿島アントラーズ]]から[[阿部敏之]]、[[室井市衛]]を獲得するなど序盤は圧倒的な攻撃力で勝点を伸ばし首位を独走するも、中盤から終盤にかけ苦戦が続き、一時は3位に順位を落とした。この危機的状況に、急遽[[横山謙三]]を[[ゼネラルマネージャー]]から総監督に昇格させて指揮をとらせた。また[[アジエル・デ・オリベイラ・アモリム]]を獲得し終盤に勢いをつけ、最終節の[[サガン鳥栖]]戦に[[土橋正樹]]の延長Vゴールで勝利して、3位[[大分トリニータ]]との勝点差わずか1ながらも2位でJ1への復帰を決めた([[2000年J2最終節]]を参照)。 ==== 2001年 ==== [[ファイル:s-stadium2002-200808.jpg|thumb|360px|レッズのメインホームスタジアム・埼玉スタジアム2002]] * それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更を図ったが、ブラジルに強力なコネクションはなく、監督の[[ミウトン・ケイロス・ダ・パイション|チッタ]]の意向で獲得した[[アドリアーノ・ジェルリン・ダ・シルバ|アドリアーノ]]は全く機能しなかった。1stステージ終了後に小野伸二が[[オランダ]]の[[フェイエノールト]]へ移籍、9月には[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ期限付き移籍。[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[マルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ|エメルソン]]を獲得した。2ndステージも成績は振るわず、終盤2勝3分と5試合連続無敗により何とかJ1残留を果たした。 * [[10月13日]]に[[埼玉スタジアム2002]]での[[こけら落し|杮落し]]の[[横浜F・マリノス|横浜FM]]戦が行なわれ、観客動員は当時のJリーグ記録となる60,553人とリーグ戦初の6万人試合となった。なお、埼玉スタジアムは[[2002年]]までは[[2002 FIFAワールドカップ|W杯]]開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、[[2003年]]から駒場スタジアムと共にホームスタジアムとして登録された。 ==== 2002年 ==== * 森孝慈が[[ゼネラルマネージャー|GM]]として復帰し積極的な補強を行う<ref>[http://www.urawa-football.com/melma090/ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号]</ref><ref>[http://www.urawa-football.com/column/interview/mori_1/ [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー]</ref><ref>山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁</ref>。元日本代表監督の[[ハンス・オフト]]が監督、元[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]監督の[[ビム・ヤンセン]]がコーチに就任し再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで8勝1分と無敗で首位に立っていたが、その後6連敗で8位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で[[鹿島アントラーズ|鹿島]]に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた[[福田正博]]と、元日本代表主将の[[井原正巳]]が引退。 * 森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。 ==== 2003年 ==== :チームスローガン:'''GO ON SAILING''' * 11月に再びナビスコカップ決勝で鹿島と対戦。試合は大雨の中で行われたが、4-0の快勝で前年の雪辱を果たすと同時に初タイトルを獲得した。 * J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年をもってオフトが監督を退任した。 * 前年に社長就任した[[犬飼基昭]]が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。 * 3年かけてチームを強くしようとしたオフトの方針と早期にチームを結果を求める犬飼の要求に関して大きく揉めた。その結果、オフトは、シーズン終了後に解任された。 ==== 2004年 ==== :チームスローガン:'''速く、激しく、外連味(けれんみ)なく REDS GO MARCHING ON''' {{右| [[ファイル:Yamazaki-nabisco-Cup final 2004.jpg|thumb|none|250px|[[2004年のJリーグカップ]]決勝(浦和vs[[FC東京]])]] }} * [[清水エスパルス|清水]]から[[三都主アレサンドロ]]を獲得、[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]より復帰。 * 浦和OBの[[ギド・ブッフバルト]]が監督に就任し、ヘッドコーチに[[ゲルト・エンゲルス]]を迎える。ナビスコ杯は決勝で[[FC東京]]に敗れたが、第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、G大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となる[[サントリーチャンピオンシップ]]出場権を獲得した。ステージ勝点37は15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝点記録であった。 * 駒場で行なわれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。 * 12月5日・12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第1戦は横浜に0-1で敗れるも第2戦に[[三都主アレサンドロ|アレックス]]のFKにより1-0で勝利し延長戦に突入。延長でも決着がつかずPK戦までもつれた末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦年間総合成績では初めて1位となった。 * 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。 ==== 2005年 ==== :チームスローガン:'''速く、激しく、外連味なく 〜TAKE OFF TOGETHER NOW !〜''' [[ファイル:Manchester united vs urawa red diamonds.jpg|thumb|right|250px|Vodafone CUP 対[[マンチェスター・ユナイテッド]]<br />2005年7月30日]] * 開幕直前に[[山瀬功治]]が横浜FMへ移籍、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグの[[アル・サッド]]へ完全移籍し、リーグ戦は最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しかできず最下位も味わい、スタートダッシュに失敗。それでも途中からMF[[ロブソン・ポンテ]]や元[[サッカークロアチア代表|クロアチア代表]]FW[[トミスラフ・マリッチ|マリッチ]]を補強して[[2005年J1最終節|最終節]]まで優勝争いに加わり、優勝したG大阪と勝点差1の勝点59で2年連続の年間2位となった。得点は82得点のG大阪に次ぐ65得点。更にリハビリから復帰した[[坪井慶介]]や2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた[[田中マルクス闘莉王|闘莉王]]とシーズン絶好調だった[[内舘秀樹]]、急成長した[[堀之内聖]]らの活躍でリーグ最少失点の37失点と、前半戦の苦しい戦いから見れば上々といえる内容であった。天皇杯はマリッチが5試合6得点と全試合で得点をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾り、[[2007年]]の[[AFCチャンピオンズリーグ]]出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝した。 * 2005年2月にさいたまレイナスFCを母体として女子チーム「[[浦和レッドダイヤモンズ・レディース]]」が発足。7月、[[レッズランド]]が仮オープンした。 * 2005年度より損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消。地域との結びつきを強めるための増資計画が公表されたが、2009年4月の時点で増資の予定は無いとリリースした<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E5%B0%B1%E4%BB%BB%E8%A8%98%E8%80%85%E4%BC%9A%E8%A6%8B/|title=橋本代表就任記者会見|publisher=浦和レッドダイヤモンズ|date=2009年4月24日|accessdate=2013年3月17日}}</ref>。 ==== 2006年 ==== {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #aeff35 solid 1px" |<div style="position: relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size: 90%; color: #003999;">'''2006年Jリーグ基本フォーメーション'''</span>}} {{Image label|x=0.43|y=1.12|scale=220|text=[[山岸範宏|<span style="font-size: 90%; color: white">'''山岸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.97|scale=220|text=[[内舘秀樹|<span style="font-size: 90%; color: white">'''内舘'''</span>]]}} {{Image label|x=0.43|y=0.97|scale=220|text=[[田中マルクス闘莉王|<span style="font-size: 90%; color: white">'''闘莉王'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.97|scale=220|text=[[ファビオ・カミーリョ・デ・ブリト|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ネネ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.69|y=0.60|scale=220|text=[[平川忠亮|<span style="font-size: 90%; color: white">'''平川'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=0.80|scale=220|text=[[長谷部誠|<span style="font-size: 90%; color: white">'''長谷部'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.80|scale=220|text=[[鈴木啓太|<span style="font-size: 90%; color: white">'''鈴木'''</span>]]}} {{Image label|x=0.13|y=0.60|scale=220|text=[[三都主アレサンドロ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''三都主'''</span>]]}} {{Image label|x=0.43|y=0.43|scale=220|text=[[山田暢久|<span style="font-size: 90%; color: white">'''山田'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.25|scale=220|text=[[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ワシントン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.56|y=0.25|scale=220|text=[[ロブソン・ポンテ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ポンテ'''</span>]]}} </div> |} :チームスローガン:'''RAISE YOUR SPIRITS! 〜速く、激しく、外連味なく〜''' * [[東京ヴェルディ1969|東京V]]を契約満了となったFW[[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ|ワシントン]]とMF[[相馬崇人]]を完全移籍で、[[セレッソ大阪|C大阪]]からFW[[黒部光昭]]を[[2007年]][[1月1日]]までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、更にフェイエノールトから小野伸二が2001年以来約5年ぶりに復帰した。 * [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]は[[ガンバ大阪|G大阪]]に3-1で勝利し、初めて同タイトルを獲得(前身の三菱重工時代にスーパーカップで3度優勝)。また、ホーム開幕戦の[[ジュビロ磐田|磐田]]戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月にはフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。 * ホーム開幕戦で初期のJリーグを含めJ1主催試合観客動員数が500万人を突破した。これは[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]加盟クラブ初。 * 前年はスタートダッシュの失敗が結果的にリーグ優勝を逃す要因となったが、この年は開幕から好調を維持して着実に勝点を積み上げ、第3節以降は常に3位以内をキープすると、更に第22節から6連勝して第25節に首位に立ってからは1度も明け渡す事はなかった。最終節は2位の[[ガンバ大阪|G大阪]]とリーグ優勝をかけた直接対決で、3点差以上で敗北しない限り優勝という絶対的優位な条件の中で、先制されながらも[[ロブソン・ポンテ|ポンテ]]の同点ゴールと[[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ|ワシントン]]の2ゴールの活躍で3-2で制し初の[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]優勝を果たす<ref group="注">前身の三菱時代には4度[[日本サッカーリーグ]]で優勝しており、トップリーグ制覇は24年ぶり5度目であった。</ref>。J2降格経験チームのJリーグ年間王者は史上初である。 * リーグ戦でのホームゲームでは15勝2分とJリーグ史上初のシーズンホームゲーム無敗を達成。また、優勝を決めた最終節の観客動員は62,241人と当時のJ1リーグ戦最多記録となった<ref group="注">2013年に[[横浜F・マリノス]]が第33節対[[アルビレックス新潟]]戦で62,632人を集め記録更新するまで約7年間Jリーグ記録だった。</ref><ref>{{Cite web|和書|title= 浦和初V!サポーターに感謝|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2006/12/03/01.html|website=スポニチ Sponichi Annex|publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社|accessdate=2023-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070218055135/http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2006/12/03/01.html|archivedate=2006-12-03|deadlinkdate=2023年4月}}</ref>。 * 天皇杯では決勝で[[ガンバ大阪|G大阪]]を1-0で下してJリーグ開幕後初の天皇杯連覇を達成。同時に[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]優勝と天皇杯優勝の2冠を達成し、2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なお、選手・監督としてチームの発展に貢献した[[ギド・ブッフバルト|ブッフバルト]]がこの試合を最後に監督を退任した。 * クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が10月にスタート。社長は[[藤口光紀]]に交代した。 * シーズン終了後、[[三都主アレサンドロ]]が[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]]の[[レッドブル・ザルツブルク]]へ期限付き移籍。 ==== 2007年 ==== :チームスローガン:'''Sing out Together Heartily''' [[ファイル:Washington Libertadores.jpg|thumb|280px|2006年にJ1リーグ得点王を獲得した[[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ|ワシントン]]。]] * [[国際サッカー連盟]]の技術部長となっていた[[ホルガー・オジェック|オジェック]]が11シーズンぶりに監督に復帰した。 * [[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[阿部勇樹]]を完全移籍で獲得。 * 開幕前に[[オーストリア]]の[[ザルツブルク]]で行われた[[Bulls Cup]]に出場。これは現地の[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]]に属する[[レッドブル・ザルツブルク]]主催によるイベント色が濃い国際大会であり、[[ドイツ]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]も出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、レッズは[[レッドブル・ザルツブルク|ザルツブルク]]に1-3、[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン]]に0-3と敗戦した。 * [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]はG大阪に敗退。[[3月3日]]の開幕戦で前年J2優勝の[[横浜FC]]に2-1で勝利して2001年のJ1復帰以降初めて開幕戦で勝利した。 * 3連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退した。 * 初出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ]]はグループ1位で決勝トーナメントに進出。準々決勝で前回王者の[[全北現代モータース|全北現代]]([[大韓民国|韓国]])、準決勝で[[城南一和天馬|城南一和]]([[大韓民国|韓国]])に勝利し、現行の大会となって以降ではJクラブ初の決勝進出を果たす。決勝では[[フーラッド・モバラケ・セパハンFC|セパハン]]([[イラン]])に1勝1分で日本のクラブとして初めて[[AFCチャンピオンズリーグ]]を制覇した<ref group="注">欧州に倣って[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]の前身[[AFCチャンピオンズリーグ|アジアクラブ選手権]]を含めて換算すると1999年の[[ジュビロ磐田|磐田]]以来8年ぶりとなる。</ref>。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝した事は大会史上初。なお、優勝によって[[FIFAクラブワールドカップ2007]]にアジア代表として参戦することが決定した。 * Jリーグでは2位以下に最大勝点差10をつけて首位にいたが、[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]優勝後に過密日程にも苛まれて失速。33節には2人も退場者を出したにも関わらず2位鹿島との直接対決にも敗れ、勝点差1の首位で最終節を迎えた。闘莉王を出場停止で臨まなければならなくなった最終節では最下位で既に降格の決まっていた[[横浜FC]]と対戦し阿部が左サイドで[[三浦知良]]に振り切られた挙句、試合前まで2ゴールしか挙げられなかった[[根占真伍]]にゴールを奪われてこれが決勝点。0-1と敗戦し勝点差1の鹿島が勝利した為連覇を逃し2位で終了した<ref group="注">2位の鹿島は残り5節は全勝した(勝点15を稼いだ)のに対し、ACL準決勝終了後からの残り5節で僅か勝点3しか稼げなかった</ref>。 * [[第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は初戦で[[愛媛FC]]に敗れ、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]3連覇とはならなかった。 * [[FIFAクラブワールドカップ2007|クラブワールドカップ]]では準々決勝(初戦)で[[フーラッド・モバラケ・セパハンFC|セパハン]]に勝利。準決勝は[[ACミラン]]([[イタリア]])に敗北したが、3位決定戦で[[エトワール・サヘル]]([[チュニジア]])にPK戦で勝利し3位の成績<ref group="注">3位は[[FIFAクラブワールドカップ]]におけるアジア代表の最高成績タイとなる。</ref>。 * 12月22日に[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]優勝パレードが予定されていたが、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]連覇を逃した事もあり中止になった。しかし、[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]や[[FIFAクラブワールドカップ2007|クラブワールドカップ]]での躍進が評価され、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]クラブで初となる[[日本プロスポーツ大賞]]を受賞した。 ==== 2008年 ==== :チームスローガン:'''GO FORWARD HAND IN HAND''' * 2008年シーズンに向けて、オフには[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]・[[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]から[[高原直泰]]、[[大分トリニータ|大分]]から[[梅崎司]]、[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[エジミウソン・ドス・サントス・シルバ|エジミウソン]]、[[レッドブル・ザルツブルク]]から[[三都主アレサンドロ]]が復帰と大型補強を敢行し、さらに[[福田正博]]がコーチとしてチームに復帰することになった。 * 万全を期して臨んだシーズンであったが、開幕早々に連敗したことを受けてオジェックを解任し、コーチだった[[ゲルト・エンゲルス]]が監督に昇格することとなった。監督交代後はセンターバックが本職の闘莉王をトップ下に起用するという奇策などで上位へと駆け上がり前半戦を首位で折り返すも徐々に失速、J1第33節のG大阪戦で黒星を喫してリーグ優勝の可能性が消滅。翌日には[[名古屋グランパス|名古屋]]が[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]に勝利したためシーズン4位以下が確定して3年連続のACLの出場権も逃し、最終節で横浜に1-6と大敗して最終順位は7位となった。 * ACLは準々決勝から登場し<ref group="注">当時優勝チームはシードとして準々決勝から登場することになっていた。</ref>、[[アル・カーディシーヤ・クウェート|アル・カーディシーヤ]]([[クウェート]])には2試合合計4-3で競り勝ち準決勝進出するも、準決勝でG大阪に2試合合計2-4で敗れACL連覇はならなかった。また、ナビスコカップや天皇杯でも上位進出できずに5年ぶりに無冠でシーズンを終えることが確定し、エンゲルスはシーズン終了後に監督を退任した。 ==== 2009年 ==== :チームスローガン:'''Devotion to URAWA''' [[ファイル:Volker Finke.JPG|thumb|230px|[[フォルカー・フィンケ]]。]] * 監督に[[フォルカー・フィンケ]]が就任。ディフェンスラインを3バックから4バックへと移行し、リアクションサッカーからポゼッションサッカーへの移行を図った。また、新しいチーム統括責任者として元[[横浜FC]]監督の[[信藤健仁]]のチームダイレクター(TD)就任が発表された。 * [[内舘秀樹]]が引退、[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]や[[相馬崇人]]が退団(その後、岡野は[[太陽ペガサス|TSWペガサス]]へ、相馬は[[CSマリティモ]]へ加入)、[[永井雄一郎]]が清水に完全移籍した一方、レンタル移籍から復帰した[[赤星貴文]]、大卒新人の[[野田紘史]]、ユースから昇格の[[原口元気]](飛び級昇格)、[[山田直輝]]、[[高橋峻希]]、[[濱田水輝]]、[[永田拓也]]と若手選手を獲得した(赤星は[[モンテディオ山形|山形]]に、野田は[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]にシーズン途中でレンタル移籍)。 * 4月に行われた定例取締役会において、2006年シーズン途中から社長を務めていた[[藤口光紀]]が2008年の[[ホルガー・オジェック]]の監督解任に端を発したクラブの成績不振の責任を取り、任期を残しながらも社長を退任した。後任に[[三菱自動車工業]]元常務取締役の[[橋本光夫 (経営者)|橋本光夫]]が就任した。 * ユースから昇格した若手選手を積極的に起用し、序盤は一時首位に躍り出るなど好調を維持し前半戦を鹿島に次ぐ2位で折り返した。しかし、7月にリーグ戦14連敗を喫していた大分に0-1で敗戦したのをきっかけに、9月の山形戦に勝利するまで公式戦8連敗を喫するなど大失速し、その後は持ち直したものの最終的にリーグ戦は6位に終わった。 * 天皇杯は2回戦で、長野県代表の[[松本山雅FC]]に敗戦した。 === 2010年代 === ==== 2010年 ==== :チームスローガン:'''KEEP REDS ON!''' * [[三都主アレサンドロ]]及び[[田中マルクス闘莉王]]が名古屋へ完全移籍<ref>[https://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=5336 闘莉王との契約について]</ref>、[[近藤徹志]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]へ完全移籍、[[橋本真人]]が[[栃木SC]]へ期限付き移籍、2009年シーズンから[[ザスパクサツ群馬|草津]]へ期限付き移籍していた[[小池純輝]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ完全移籍、山形へ期限付き移籍中の[[赤星貴文]]が契約満了に伴い退団、[[野田紘史]]の岡山への期限付き移籍が延長された。 * 2009年シーズン途中から[[特別指定選手]]としてトップチームに登録していた[[流通経済大学サッカー部|流通経済大学]]の[[宇賀神友弥]]が新卒選手として正式に加入し、2009年シーズンから水戸へ期限付き移籍していた[[高崎寛之]]が復帰した。また、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[柏木陽介]]を完全移籍で、ドイツ・[[1.FCニュルンベルク]]から[[マシュー・スピラノビッチ]]を、ドイツ・[[1.FCケルン]]から[[ウィルフリード・サヌ]]を期限付き移籍で獲得した。 * 2008年12月からチームダイレクターを務めていた信藤健仁が体調不良を訴え、その後の検査で甲状腺の機能に障害があることが判明し、治療が必要と診断されたことにより、2009年限りで同職を退任。後任に、初代浦和キャプテンの[[柱谷幸一]]が2010年1月1日付で[[ゼネラルマネージャー]](GM)に就任した。 * リーグ戦は序盤こそ上位に食い込んだが、前年同様夏場に失速し10位に終わった。また、ナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯はベスト8で敗退とこの年もタイトル獲得はならなかったため、シーズン終了後にフィンケ監督を始め6人中5人のコーチが退任した。 ==== 2011年 ==== :チームスローガン:'''TOGETHER FOR THE GOAL''' * 監督に浦和OBの[[ゼリコ・ペトロビッチ]]が<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_6464.html |title=新監督にゼリコ・ペトロヴィッチ氏 |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2010年12月7日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>、コーチに[[アドリエ・ボヘルス]]がそれぞれ就任した。ボヘルスの就任はペトロビッチ監督が希望した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=6560 |title=2011シーズン、コーチングスタッフ |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年1月19日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>。 * [[ロブソン・ポンテ]]が退団、[[永田拓也]]がレンタル移籍で、[[林勇介]]が完全移籍で[[ザスパクサツ群馬|草津]]に移籍、前年草津にレンタル移籍していた[[西澤代志也]]が[[栃木SC]]に、栃木SCへ期限付き移籍していた[[橋本真人]]が[[V・ファーレン長崎]]へ完全移籍、[[細貝萌]]が[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ1部]]の[[バイエル・レヴァークーゼン]]に完全移籍(その後[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ブンデスリーガ2部]]の[[FCアウクスブルク]]にレンタル移籍)、[[ウィルフリード・サヌ|サヌ]]はレンタル移籍期間満了に伴い[[1.FCケルン]]に復帰した。湘南に期限付き移籍していた[[都築龍太]]は契約を更新せず<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=6548 |title=都築龍太選手、契約満了のお知らせ |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年1月19日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>、都築は1月27日に引退を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_6588.html |title=都築龍太が引退を決意 |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年1月28日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>。引退セレモニーは[[8月6日]]の予定であったが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7197.html |title=都築龍太さん引退セレモニー延期のお知らせ |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年8月4日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>、[[8月24日]]に延期された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=7253 |title=都築龍太さん、引退セレモニー24日に実施 |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年8月22日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>。 * 補強は新潟から[[マルシオ・リシャルデス・デ・アンドラージ|マルシオ・リシャルデス]]、[[永田充]]を、[[徳島ヴォルティス|徳島]]から[[青山隼]]を獲得、[[サンパウロFC]]から[[マルセリーニョ・ジュニオール・ロペス・アルーダ|マゾーラ]]を期限付きで獲得、[[堤俊輔]]、[[野田紘史]]がレンタル移籍より復帰、レンタル移籍だった[[マシュー・スピラノビッチ|スピラノビッチ]]は完全移籍となった。 * [[6月29日]]にエジミウソンが[[アル・ガラファ]]へ完全移籍<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7059.html |title=エジミウソン、アルガラファに完全移籍、 |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年6月29日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>、[[7月14日]]に堤が栃木SCへ期限付き移籍<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7105.html |title=堤 俊輔、栃木SCに期限付き移籍 |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年7月14日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tochigisc.jp/news/article/00002582.html |title=堤俊輔選手期限付き移籍加入のお知らせ |publisher=栃木SC公式サイト |date=2011年7月14日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref> したが、[[7月2日]]に[[ランコ・デスポトビッチ|デスポトビッチ]]が加入した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=7074| title=ランコ デスポトビッチ選手、加入決定 |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年7月2日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>。 * タイトル獲得を目指して大型補強を敢行したものの、この年は序盤から一時降格圏内に転落するほど低迷し、[[9月12日]]にクラブは柱谷GMの契約解除と山道守彦の強化部長就任を発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/page_store/news_7321.html |title=山道守彦の強化部長就任について| publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年9月12日|accessdate=2011年10月23日}}</ref>。さらに第29節で大宮に敗れ降格圏に順位を落としたことで、[[10月20日]]にペトロビッチ監督とボヘルスコーチを解任<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=7457 |title= ペトロヴィッチ監督、ボヘルスコーチとの契約解除について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年10月20日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>、後任の監督にユース監督の[[堀孝史]]が、コーチにはユースコーチの[[天野賢一]]がそれぞれ就任した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=7458 |title= 堀 孝史ユース監督、トップチーム監督就任について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2011年10月20日 |accessdate=2011年10月23日}}</ref>。[[ヴァンフォーレ甲府]]との残留争いの末、最終節で15位が確定して残留を決めた。なお、リーグ戦で10得点以上を記録した選手が現れなかったのは2005年シーズン以来6年ぶりである。 * その一方でナビスコカップは1回戦から順調に勝ち上がって7年ぶりに決勝へ進出したが<ref group="注">東日本大震災の影響で当初予定されていたグループリーグは行なわれず完全トーナメント制となった。</ref>、決勝で延長戦の末鹿島に敗れ準優勝。なお、4得点を挙げたデスポトビッチが大会得点王となった。 * 従来どおり埼玉スタジアムと駒場スタジアムの2箇所を登録上の本拠地としているが、駒場はトラック改修工事のため使用せず、ホームゲームは全試合(リーグ戦・ナビスコ杯とも)埼玉で開催した。駒場で1年を通して試合が組まれないのは[[1992年のJリーグカップ]]を除けばJリーグ発足後初である。 ==== 2012年 ==== :チームスローガン:'''REDS 020th We stand beside you forever always''' * 監督に[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]元監督の[[ミハイロ・ペトロヴィッチ]]が就任。堀はトップチームのコーチに就任。広島時代にペトロヴィッチの通訳を務めた[[杉浦大輔]]がコーチに就任<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/2012%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ |title=2012シーズンのトップチーム体制について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2012年01月17日 |accessdate=2012年01月17日}}</ref>。昨シーズンにコーチを務めた[[広瀬治]]がトップチームのコーチを退任し、ユースチームのコーチに就任。 * [[マルセリーニョ・ジュニオール・ロペス・アルーダ|マゾーラ]]がレンタル移籍期間満了、栃木SCにレンタル移籍していた[[堤俊輔]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ、[[高崎寛之]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]へ、[[堀之内聖]]が[[横浜FC]]へ完全移籍し、[[原一樹]]が[[京都サンガF.C.|京都]]へ、[[青山隼]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へレンタル移籍。[[ザスパクサツ群馬|草津]]にレンタル移籍している[[永田拓也]]の移籍期間も延長された。さらにシーズン途中に[[マシュー・スピラノビッチ|スピラノビッチ]]が[[カタール・スターズリーグ|カタール]]の[[アル・アラビ・ドーハ]]へ完全移籍し、[[高橋峻希]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]、[[エスクデロ競飛王|エスクデロ・セルヒオ]]<ref group="注" name="Escudero">日本国籍取得後の2007年に登録名を「セルヒオ・エスクデロ」から「エスクデロ・セルヒオ」に、さらに浦和退団後の2014年に「[[エスクデロ競飛王]]」に変更。</ref> が[[Kリーグ]]の[[FCソウル]]へそれぞれレンタル移籍した。 * 新加入選手として[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]・[[1.FCケルン]]から広島時代にペトロヴィッチ監督のもとでプレーしていた[[槙野智章]]をレンタル移籍で、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[アジウソン・ペレイラ・デ・ソウザ|ポポ]]を、[[レスター・シティFC]]から元浦和の[[阿部勇樹]]を完全移籍で獲得。 * 5月15日、運営会社の名称を「'''株式会社三菱自動車フットボールクラブ'''」から「'''浦和レッドダイヤモンズ株式会社'''」へ改称<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%E6%B3%95%E4%BA%BA%E5%90%8D%E5%A4%89%E6%9B%B4%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/ |title=法人名変更のお知らせ |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2012年04月12日 |accessdate=2017年02月05日}}</ref>。 * 6月1日、[[さいたま市駒場スタジアム]]の[[命名権]]を取得(スタジアム名称は「浦和駒場スタジアム」に。ただし[[さいたま市駒場運動公園補助競技場|補助競技場<球技専用>]]については「浦和レッズハートフルフィールド駒場」に改める)。なお、Jリーグクラブがスタジアムの命名権を取得したのは初めて。 * 開幕戦こそ広島に敗れるも、前半戦は前年とは対照的に順調に勝点を積み上げて8勝6分3敗で勝点30の3位で折り返した。その後はJ2降格が決まった直後の札幌や、下位に低迷していたG大阪に敗れるなど取りこぼしも目立ったが、最終戦で名古屋に勝利して3位でシーズンを終え、2008年シーズン以来5年ぶりにACL出場権を獲得した。なお、最終節での勝利はリーグ優勝を決めた2006年シーズンのG大阪戦以来6年ぶりとなった。 * 8月4日に開催された[[FC東京]]戦で、Jリーグ史上初となるリーグ戦におけるホームゲーム累計観客動員数が1000万人を突破。また、最終戦での勝利によって7チーム目となるJ1リーグ戦通算300勝を達成した。 ==== 2013年 ==== :チームスローガン:'''REDS TAKE A STEP FORWARD''' * ペトロヴィッチ体制2年目。 * [[田中達也 (1982年生のサッカー選手)|田中達也]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]へ、[[アジウソン・ペレイラ・デ・ソウザ|ポポ]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ完全移籍。また、期限付き移籍中の[[原一樹]]、[[エスクデロ競飛王|エスクデロ・セルヒオ]]<ref group="注" name="Escudero"/>、[[青山隼]]がそのまま完全移籍。また、[[濱田水輝]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]へ期限付き移籍(2014年1月31日まで)し、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]に期限付き移籍している[[高橋峻希]]の移籍期間が2014年1月31日まで延長された。 * 前年に[[1.FCケルン]]からレンタルで加入した[[槙野智章]]が完全移籍となり、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[森脇良太]]、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[関口訓充]]、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]から[[興梠慎三]]、[[柏レイソル|柏]]から[[那須大亮]]をそれぞれ完全移籍で獲得。[[明治大学]]から[[阪野豊史]]が加入した。また、[[ザスパクサツ群馬|草津]]へ期限付き移籍していた[[永田拓也]]が復帰した。 * 開幕戦で前年王者の広島に勝利し、2008年から続いていた開幕戦の連敗を止めてクラブ史上初の'''アウェイゲームでの開幕戦勝利'''を達成。その後は開幕6試合負けなしと序盤から好調を維持し、[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|コンフェデレーションズカップ]]によるリーグ戦中断までの時点では、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]と勝点27で並び得失点差で上回る2位で、首位を独走していた[[大宮アルディージャ|大宮]]と勝点差5の状態だった。前半戦最終2戦でリーグ戦2度目の連敗を喫し9勝4分4敗で勝点31の4位で折り返す。第19節終了時に3位に再浮上して以降、終盤まで3位と2位を行き来するかたちで、第22節広島、第24、31各節[[横浜F・マリノス|横浜FM]]首位に3度までも勝点差1まで迫り優勝争いに絡んだものの、いずれもその次の試合で敗れ再び差を広げられるなど勝負弱さを露呈。33節で[[サガン鳥栖|鳥栖]]に敗れた時点で優勝の可能性が消滅し、最終節でも[[セレッソ大阪|C大阪]]に2-5で大敗し同シーズンリーグ戦初の3連敗、かつ最終4節未勝利で6位に後退、[[AFCチャンピオンズリーグ2014|ACL]]出場権を逃した。[[興梠慎三]]、[[柏木陽介]]、[[原口元気]]の1トップ2シャドーを中心とした攻撃陣は、リーグ1位の66得点をマークする等力を発揮した一方、可変フォーメーションの3バックのうちサイドバックに位置する森脇と槙野が積極的に攻撃参加する為、カウンターの対策が脆弱だった事もあり守備陣は終盤5試合で16失点を喫する等でリーグ12位タイの56失点と脆さを露見させ、この攻守のバランスの悪さが勝ちきれない試合を多く生み出し失速した要因になった。 * リーグ戦同様カップ戦でも勝負弱さを露呈し、5年ぶりの出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2013|ACL2013]]では3勝1分2敗の勝点10という成績であったが、同勝点の[[全北現代モータース|全北現代(韓国)]]との直接対決の成績で1分1敗と下回ったためグループリーグ敗退。[[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では主力を温存した結果3回戦で[[モンテディオ山形|山形]]に敗退し、[[2013年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は2年ぶり5回目の決勝進出を果たしながら[[柏レイソル|柏]]に0-1で敗れ準優勝と、国内三冠も射程圏内でありながら結局無冠でシーズンを終えることとなった。 * 5月11日に開催されたホームの[[鹿島アントラーズ|鹿島]]戦は、目前に控えていたJリーグ開幕20周年を記念して「'''Jリーグ20thアニバーサリーマッチ'''」として開催された<ref group="注">当日のセレモニーではそれぞれのチームで記憶に残る活躍をした選手(レッズからは[[ロブソン・ポンテ|ポンテ]]、アントラーズからは[[アルシンド・サルトーリ|アルシンド]])と、Jリーグ開幕日(1993年5月15日)生まれの[[尾崎千瑛]]がスピーチを行なった。なお、試合結果は3-1でレッズの勝利となった。</ref>。 * 3月30日のアルビレックス新潟戦で、[[マルシオ・リシャルデス・デ・アンドラージ|マルシオ・リシャルデス]]がチームのJ1通算1000ゴールを決めた。また、10月27日の[[柏レイソル|柏]]戦で[[山田暢久]]が[[Jリーグ]]通算500試合出場を達成した。 ==== 2014年 ==== :チームスローガン:'''REDS-FULL of LIFE!''' * ペトロヴィッチ体制3年目。 *[[山田暢久]]が契約満了(現役を引退)。[[永田拓也]]が[[横浜FC]]へ、[[野田紘史]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]に期限付き移籍中の[[高橋峻希]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ完全移籍。また、[[野崎雅也]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ、[[大谷幸輝]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]へ、[[小島秀仁]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ期限付き移籍し、[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ期限付き移籍している[[岡本拓也]]の移籍期間が延長された。 *[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[青木拓矢]]、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[西川周作]]、[[イングランド]]・[[プレミアリーグ]]の[[サウサンプトンFC]]から[[李忠成]]を完全移籍で獲得し、ユースから[[関根貴大]]が昇格した。また、[[アルビレックス新潟|新潟]]に期限付き移籍していた[[濱田水輝]]が復帰した。 *ホーム開幕戦となった第2節鳥栖戦で、ホームゴール裏出入り口に「{{en|JAPANESE ONLY}}」([[日本人]]に限る)という、[[人種差別]]の横断幕が掲げられ、チーム運営会社も、その試合終了後まで当該横断幕を撤去できなかった。これに対し、Jリーグから第4節清水戦を、Jリーグ開幕以後史上初のホームゲーム[[無観客試合]]で行うという制裁処分が下された。 {{Main|浦和レッズ差別横断幕事件}} *序盤は前述のトラブルによる混乱もあり、5試合を消化した時点で2敗を喫する等やや躓いたものの、その後はクラブ新記録となる4試合連続完封を記録するなど強固な守備を武器に一気に調子を上げ、ペトロヴィッチ体制となって初めて首位で[[2014 FIFAワールドカップ]]による中断期間を迎えた。中断期間明け後も記録は続き、7月23日にはJ1新記録となる7試合連続完封を達成した。 *5月25日、[[原口元気]]がドイツ・ブンデスリーガの[[ヘルタ・ベルリン]]へ完全移籍。6月16日には[[山岸範宏]]の[[モンテディオ山形|山形]]への期限付き移籍と、[[岩舘直]]の[[水戸ホーリーホック|水戸]]から期限付き移籍での加入が発表された。 *10月6日、ペトロヴィッチ監督との契約を更新した。浦和レッズの監督としては、クラブ史上最長となる4シーズン目を迎える事になる。 *10月22日、第29節[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]戦でJリーグ初となる公式戦通算1000試合を達成するも、観客動員数は1万9977人で、埼玉スタジアム2002が2001年に開業して以来初めて、1試合の観客動員数が2万人を下回った。 *リーグ戦は、中断後も好調を維持し、一時は2位と勝点差7をつけて首位に立つものの、前年同様終盤に失速。当時12ゴールと得点源だった興梠が第30節の鹿島戦で負傷し、第32節の勝てば優勝決定という大一番となった、勝点差5の2位[[ガンバ大阪|G大阪]]との直接対決は引き分けても優勝に大きく近づく状況だったにも関わらず勝って優勝を決めようとして終盤の2失点で敗れた。そればかりか、ペトロヴィッチが鹿島戦で負傷したにも関わらず興梠を3枚目の交代に使用した事で右腓骨骨折を更に悪化させてしまう。続く第33節鳥栖戦では後半[[アディショナルタイム]]のラストプレーで途中出場の[[小林久晃 (1979年生のサッカー選手)|小林久晃]]に同点ゴールを決められて痛恨の引き分け、G大阪に首位を明け渡す。最終節[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦では、試合開始早々に槙野のゴールで先制するも、後半にセットプレーで[[牟田雄祐]]に押し込まれ同点に追いつかれる。そして3枚目の交代枠に不整脈から復帰したばかりの鈴木を投入すると、自陣でその鈴木のパスミスによるカウンターから[[永井謙佑]]に決勝弾を決められて逆転負け。G大阪が既に最下位でのJ2降格が決まっている[[徳島ヴォルティス|徳島]]に引き分けたにも関わらず西川がGKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新した(それまでの記録は93年[[東京ヴェルディ1969|V川崎]]の[[菊池新吉]]、09年[[FC東京]]の[[権田修一]]が記録した15)甲斐も空しくACLを制した2007年に続き逆転で優勝を攫われた。 *[[2014年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は、グループリーグを首位通過したものの、準々決勝で広島と2引き分け、[[アウェーゴール|アウェイゴール]]ルールにより敗れた。[[第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、3回戦で[[ザスパクサツ群馬|群馬]]に1-2で敗れ、前年の山形に続きJ2相手に敗戦を喫した。 *12月13日、天皇杯でG大阪が優勝したことにより、[[2015年のスーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP2015]]へ繰り上げで出場が決定。 ==== 2015年 ==== :チームスローガン:'''WE BELIEVE in REDS''' *ペトロヴィッチ体制4年目。 *[[坪井慶介]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]に、[[加藤順大]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]にそれぞれ完全移籍、[[山田直輝]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]に、[[阪野豊史]]が[[栃木SC|栃木]]にそれぞれ[[期限付き移籍]]、[[モンテディオ山形|山形]]に期限付き移籍していた[[山岸範宏]]は完全移籍した。また、[[関口訓充]](その後[[セレッソ大阪|C大阪]]へ移籍)、[[マルシオ・リシャルデス・デ・アンドラージ|マルシオ・リシャルデス]]、福岡に期限付き移籍していた[[野崎雅也]]がそれぞれ契約満了により退団した。 *[[柏レイソル|柏]]から[[橋本和]]、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[武藤雄樹]]、[[清水エスパルス|清水]]から[[高木俊幸]]、大宮から[[ズラタン・リュビヤンキッチ|ズラタン]]、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[石原直樹]]、[[FC東京]]から[[加賀健一]]が完全移籍で加入、[[小島秀仁]]は[[徳島ヴォルティス|徳島]]から[[岡本拓也]]は[[V・ファーレン長崎|長崎]]から復帰[[水戸ホーリーホック|水戸]]から期限付き移籍中の[[岩舘直]]は移籍期間を延長した。 *[[指宿市|指宿]]キャンプ中、この年から新設されたJリーグ・スカパー! ニューイヤーカップ鹿児島ラウンドに出場し初優勝を飾った。 *リーグ戦1stステージでは、開幕戦で湘南に3-1で勝利し、その後も一度も負けることなく順調に勝点を伸ばすと、6月3日の柏戦でJ1新記録となる開幕14試合連続無敗を達成。そして、第16節で神戸に引き分け史上初の無敗優勝を決めた。無敗記録は最終的に、7月19日に2ndステージ第3節の広島とのホーム戦で敗れるまで続き、開幕19試合連続無敗となった。 *その一方で、4度目の出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2015]]では、初戦で[[水原三星ブルーウィングス|水原三星]]に1-2で逆転負けを喫すると、その後3連敗と全く結果を残せず、5戦目も敗れて最下位でのグループリーグ敗退となった。 *2ndステージは最終的に9勝4敗4引き分けとなり、年間成績ではサンフレッチェ広島に勝点2及ばず勝点2位となったため、[[2015年のJリーグチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]には準決勝から挑むこととなった。準決勝のガンバ大阪戦は1-1の同点で延長に突入したが、延長後半に2点を奪われ3-1で敗戦、年間順位3位でシーズンを終えることとなった。 *ナビスコカップでは、準々決勝で、[[アルビレックス新潟|新潟]]と対戦し、1回戦は0-5と大敗し、2回戦は3-0で勝利したものの、トータルスコアでは3-5で敗れ、2年連続ベスト8で敗退となった。 *その一方で、天皇杯は順調に相手を撃破し、9年ぶりの決勝進出を果たすものの、決勝のガンバ大阪との対戦では先制を許した後、興梠のゴールで追いつき1-1で前半を折り返す。しかし、後半に勝ち越しを許し1-2で敗れ、9年ぶりの優勝を果たせなかった。 ==== 2016年 ==== :チームスローガン:'''Beating Heart Together!''' * ペトロヴィッチ体制5年目。 * [[鈴木啓太]]が引退、阪野豊史、茂木力也が[[愛媛FC|愛媛]]、斎藤翔太が[[水戸ホーリーホック|水戸]]、岡本拓也が[[湘南ベルマーレ|湘南]]に期限付き移籍、山田直輝、矢島慎也の期限付き移籍期間が延長した。 * [[湘南ベルマーレ|湘南]]から[[遠藤航]]、[[FCアスタナ]]から[[ブランコ・イリッチ]]、京都から[[駒井善成]]、高卒の[[伊藤涼太郎]]を獲得。また[[1.FCケルン]]から[[長澤和輝]]を完全移籍で獲得すると同時に[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]への期限付き移籍が発表された。期限付き移籍だった岩舘直が完全移籍に移行した。 * 6月27日[[福島春樹]]の[[ガイナーレ鳥取|鳥取]]、7月6日[[橋本和]]の[[ヴィッセル神戸|神戸]]への期限付き移籍が発表された。 * [[AFCチャンピオンズリーグ2016]]ではグループHに入り、前年の王者[[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]と1勝1分けとするなど2勝3分け1敗のグループ2位で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではペトロヴィッチの広島時代に所属した高萩が所属していた[[FCソウル]]と対戦し、さいたま市での1stレグでは[[宇賀神友弥]]のゴールで1-0で先勝、[[ソウルワールドカップ競技場]]での2ndレグではキャプテンとして[[AFC U-23選手権2016]]優勝に貢献した遠藤が自陣ペナルティーエリア付近で[[カルロス・アドリアーノ・デ・ソウザ・クルス|アドリアーノ]]に奪われるミスを犯し[[デヤン・ダミヤノヴィッチ]]にゴールを奪われ90分終了時0-1となり延長戦に突入。延長戦では李の2ゴールで一旦は勝ち越すもアディショナルタイム突入後に高余韓のゴールで追いつかれて2試合合計3-3となりPK戦に突入する。PK戦では4人目までに4-3としていたが、決めれば9年ぶりのベスト8進出が決まる5番手の西川が失敗してサドンデスに突入、8番手の駒井も止められて6-7で敗戦した。 * Jリーグの1stステージでは序盤戦から首位を走っていたが6月11日の[[鹿島アントラーズ|鹿島]]戦で敗れ、6月15日のG大阪戦で連敗し首位から転落した。また、第17節の広島戦で3連敗をしてしまい1stステージ優勝を逃した。 * [[8月6日]]Jリーグ2ndステージ第7節湘南戦でホーム通算試合500試合を達成した。 * [[9月25日]]のJ1 2ndステージ第13節[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦で年間順位3位以内が確定、2年連続チャンピオンシップへの出場が決まった。 * ACL組としてシードされた[[Jリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]]ではここ2年鬼門だった準々決勝で4日前のリーグ戦では1-2で敗れている神戸に敵地で1-2で競り勝つと第2戦は4-0の圧勝。準決勝でも第1戦で得意の[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味スタ]]で12年間公式戦では負けておらずお得意様の[[FC東京]]に2-1で逆転勝ちを収めると[[10月9日]]に行われた第2戦は3-1で勝利し、3年ぶりの決勝を[[ガンバ大阪]]と迎える事になった。決勝戦では前半17分に槙野が敵陣で引っ掛けられると[[アデミウソン・ブラガ・ビスポ・ジュニオール|アデミウソン]]にドリブルで切り裂かれた末に先制点を奪われるが、後半30分に高木との交代で入った李忠成が入ったばかりのコーナーキックに合わせて1-1の同点に追いついた。その後、延長戦でも決着がつかずにPK戦に突入、3人目までは全員決めてG大阪の4番手で当時ルーキーだった呉屋が真ん中目掛けて蹴ったシュートを西川が足で止めて、5番手の遠藤航まで全員決めて勝負あり。5-4で13年ぶりとなる[[Jリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]]優勝。ペトロヴィッチにとっては2006年6月から日本で指揮を執って以来初の国内三大タイトル優勝を果たした。なおこれが2023年現在ペトロヴィッチが獲得した唯一の国内三大タイトルである。 * [[11月3日]]のJ1 2ndステージ第17節[[横浜F・マリノス|横浜FM]]戦で引き分けて年間勝点順位1位(勝点74)とし、[[2016年のJリーグチャンピオンシップ#決勝|Jリーグチャンピオンシップ決勝]]からの出場を決めた。チャンピオンシップでは鹿島と対戦、アウェイでの1stレグは興梠がPKを誘い阿部が沈めた1点を守り切って1-0で先勝、ホームの2ndレグでは興梠のゴールで先制し2戦合計2-0とリードするものの、ロングボールへの宇賀神の稚拙な対応<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?204593-204593-fl |title= 「軽率だった」ミスで失点に絡んだ浦和MF宇賀神「何回同じことをやっているのか」 |publisher=ゲキサカ[講談社] |date=2016年12月4日 |accessdate=2016年12月4日}}</ref> もあって[[金崎夢生]]にダイビングヘッドで1点を返され、後半35分にはカウンターで攻める[[鈴木優磨]]を槙野がペナルティエリア内で倒してPKを献上、またも金崎に決められて1-2とされ、アウェイゴールの数により年間王者を逃した。 '''{{small|{{main|2016年の浦和レッドダイヤモンズ}}}}''' ==== 2017年 ==== :チームスローガン:'''すべてにおいてバージョンアップ''' * ペトロヴィッチ体制6年目。 * [[大谷幸輝]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]、[[永田充]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]、[[加賀健一]]が[[モンテディオ山形|山形]]へ完全移籍、[[石原直樹]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]に期限付き移籍、[[茂木力也]]は期限付き移籍先が[[愛媛FC|愛媛]]から山形へ変更、期限付き移籍していた[[橋本和]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]、[[阪野豊史]]が山形に完全移籍、[[斎藤翔太]]の期限付き移籍期間が延長、9月には[[伊藤涼太郎]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ期限付き移籍した。 * [[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[オナイウ阿道]]、[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[ラファエル・ダ・シルバ|ラファエル・シルバ]]、[[湘南ベルマーレ|湘南]]から[[菊池大介]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[榎本哲也]]を完全移籍で、[[アビスパ福岡|福岡]]から[[田村友]]を期限付き移籍で獲得。さらに[[福島春樹]]、[[長澤和輝]]、[[矢島慎也]]が期限付き移籍から復帰した。8月には守備立て直しのため[[CSマリティモ]]から[[マウリシオ・デ・カルヴァーリョ・アントニオ|マウリシオ]]を獲得した。 * [[J1リーグ]]戦第6節仙台戦ではクラブ最多得点記録タイとなる7得点を挙げ7-0で勝利した。 * チームは第8節終了時点で6勝1分1敗と首位を走っていたが、第9節の当時リーグ最下位の[[大宮アルディージャ|大宮]]とのさいたまダービーで敗戦したところから低迷、さらに第13節[[川崎フロンターレ|川崎]]戦<ref group="注">本来第13節は5月27・28日開催だが、[[AFCチャンピオンズリーグ2017]]への出場に伴い日程を繰り下げて7月5日に開催している。</ref> での敗戦後ペトロヴィッチ監督が次に行われる第18節新潟戦から連勝出来なければチームを去るとサポーターに告げる事態にまで発展した。新潟、天皇杯3回戦の熊本には勝利したが、続く第22節[[セレッソ大阪|C大阪]]戦<ref group="注">本来第22節は8月13日開催だが、[[スルガ銀行チャンピオンシップ2017]]への出場に伴い日程を繰り上げて7月22日に開催している。</ref> で敗戦、そして第19節の[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦も敗れ第9節以降の成績が3勝1分8敗となり順位も8位まで低迷、そして7月30日、ペトロヴィッチとコーチ兼通訳の[[杉浦大輔]]を解任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%e3%83%9f%e3%83%8f%e3%82%a4%e3%83%ad-%e3%83%9a%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%83%e3%83%81%e7%9b%a3%e7%9d%a3%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%a5%91%e7%b4%84%e8%a7%a3%e9%99%a4%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84/ |title= ミハイロ ペトロヴィッチ監督との契約解除について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2017年7月30日 |accessdate=2017年7月31日}}</ref>、後任にコーチの[[堀孝史]]が2011年10月以来約5年半ぶりに監督に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%e5%a0%80-%e5%ad%9d%e5%8f%b2%e3%83%88%e3%83%83%e3%83%97%e3%83%81%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%81%e3%81%ae%e7%9b%a3%e7%9d%a3%e5%b0%b1%e4%bb%bb%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ |title= 堀 孝史トップチームコーチの監督就任について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2017年7月30日 |accessdate=2017年7月31日}}</ref>。 * [[AFCチャンピオンズリーグ2017]]ではグループリーグ[[上海上港集団足球倶楽部|上海上港]]、[[FCソウル]]と同組になるも4勝2敗の成績で首位通過。ラウンド16では[[済州ユナイテッドFC|済州ユナイテッド]]と対戦。アウェイの第1戦を0-2で落とし第2戦で勝ち抜けに最低でも3点が必要な状況<ref group="注">2-0でもPK戦で勝利すれば勝ち抜けられる。</ref> に追い込まれたが、延長戦の末3-0で勝利し勝ち抜けた。堀が就任した準々決勝は[[川崎フロンターレ|川崎]]と対戦。第1戦を1-3で落とし、迎えた第2戦では先制点を献上するも、興梠の得点後に[[車屋紳太郎]]が退場しバランスを取る為[[中村憲剛]]を下げた後、防戦一方になった川崎を攻め立てズラタン、ラファエルシルバ、高木俊幸のゴールで4-1で試合終了。2戦合計5-4となり、歴史的大逆転勝利を飾った。準決勝ではグループリーグでも対戦した[[上海上港集団足球倶楽部|上海上港]]を2戦合計2-1で破り、10年ぶりの決勝進出を決めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://japan.football-tribe.com/2017/10/18/16588/|title=浦和レッズ、ACL決勝進出決定。サポーターと共に10年ぶりのアジア制覇へ|accessdate=2017/10/18|date=2017/10/18|publisher=FootballTribe}}</ref>。決勝はサウジアラビアの[[アル・ヒラル]]と対戦。2戦合計2-1で勝利し、日本勢では2008年の[[ガンバ大阪|G大阪]] 以来9年振り、クラブとしては2007年以来10年振りとなる優勝を飾った。また、ホーム7戦全勝という大会史上初の快挙も達成した。また、堀はこのシーズンの[[アジア年間最優秀選手賞#最優秀監督賞|AFC年間最優秀監督賞]]に選ばれた。なおクラブは国内外で7つ目のタイトルを獲得したが、日本人監督の下で獲得したのはクラブ史上初である<ref>過去にタイトルを獲得した時の監督は、[[2003年のJリーグカップ|2003年のヤマザキナビスコカップ]]が[[ハンス・オフト]]。[[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2005年の天皇杯]]、2006年の[[2006年のJリーグ ディビジョン1|Jリーグ]]と[[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]が[[ギド・ブッフバルト]]。[[AFCチャンピオンズリーグ2007|2007年のAFCチャンピオンズリーグ]]が[[ホルガー・オジェック]]、[[2016年のJリーグカップ|2016年のJリーグYBCルヴァンカップ]]はこの年に任を解かれたペトロヴィッチである。</ref>。 * だが、2007年の優勝とは違い、2年連続で出場する為には最低でも4位に入らなければならないJリーグでは、監督交代後は守備に重きを置き競争力を取り戻したものの、8月は3連勝を含む勝ち点10を稼いだが、その後はACLでの闘いもあって連勝が叶わず、ラスト3試合も全て0-1と黒星を重ね、結局リーグ戦は7位で終了した。沖縄での2次キャンプで「相手のコートで戦う」(ペトロヴィッチ)<ref>[[浦和レッズマガジン]] 2017浦和名鑑 完全保存版80頁</ref> というコンセプトの下で、前年以上にチーム全体が前掛かりになったこともあり、昨年は28だった失点が54とほぼ倍増し、スコアレスドローも含めた完封数は降格した3チームよりも少ない4<ref group="注">降格したチームの中でスコアレスドローも含めた無失点試合は、大宮は5試合、新潟は7試合、甲府に至っては10試合である。</ref>(リーグ最少)と、足を引っ張った守備が上位進出を阻む結果となった。 * [[FIFAクラブワールドカップ2017]]では準々決勝で[[アル・ジャジーラ・クラブ|アル・ジャジーラ]]と対戦、後半に失点をしてしまい0-1で敗れ5位決定戦へ回った。5位決定戦では[[ウィダード・カサブランカ]]と対戦、マウリシオの2ゴール、[[柏木陽介]]の1ゴールを守りきり3-2で勝利し5位となった。 * 前年王者として迎えた、[[Jリーグカップ|ルヴァンカップ]]は、[[2017年のJリーグカップ#ノックアウトステージ|準々決勝]]で、[[セレッソ大阪|C大阪]]に、アウェイでの第1戦は0-0、第2戦は[[埼玉スタジアム2002|ホームで]]、2-2アウェイゴールの差で、敗退。 '''{{small|{{main|2017年の浦和レッドダイヤモンズ}}}}''' ==== 2018年 ==== :チームスローガン:''' ステップアップのための足元固め''' * 堀体制2年目。 * [[矢島慎也]]が[[ガンバ大阪|G大阪]]、[[梅崎司]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]、[[高木俊幸]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]、[[那須大亮]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]、[[ラファエル・ダ・シルバ|ラファエル・シルバ]]が[[武漢卓爾足球倶楽部|武漢卓爾]]、7月に[[遠藤航]]が[[シント=トロイデンVV|シント=トロイデン]]へ完全移籍、[[駒井善成]]が[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]、[[オナイウ阿道]]が[[レノファ山口FC|山口]]、ユースから昇格した[[井澤春輝]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ期限付き移籍、[[田村友]]が期限付き移籍期間満了、[[石原直樹]]が期限付き移籍先の[[ベガルタ仙台|仙台]]へ完全移籍。[[伊藤涼太郎]]の期限付き移籍が延長、[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ期限付き移籍していた[[斎藤翔太]]が契約満了で退団した。 * 戦力補強として、神戸から[[岩波拓也]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[クエンテン・マルティノス|マルティノス]]、[[柏レイソル|柏]]から[[武富孝介]]、[[ニューカッスル・ユナイテッド・ジェッツFC|ニューカッスル・ジェッツ]]から[[アンドリュー・ナバウト]]、5月に[[ポルティモネンセSC|ポルティモネンセ]]から[[ファブリシオ・ドス・サントス・メシアス|ファブリシオ]]を完全移籍で獲得。[[湘南ベルマーレ]]から[[山田直輝]]、7月に[[モンテディオ山形|山形]]から[[茂木力也]]が期限付き移籍から復帰した。 * 開幕5試合で2分3敗と1勝もできず下位に低迷。4月2日付で監督の堀とヘッドコーチの天野賢一との契約を解除し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%e5%a0%80%e7%9b%a3%e7%9d%a3%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%a5%91%e7%b4%84%e8%a7%a3%e9%99%a4%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ |title= 堀監督との契約解除について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2018年4月2日 |accessdate=2018年4月2日}}</ref>、育成ダイレクター兼ユース監督の[[大槻毅]]が監督、ユースコーチの[[上野優作]]がトップチームコーチに就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%e5%a4%a7%e6%a7%bb-%e6%af%85-%e8%82%b2%e6%88%90%e3%83%80%e3%82%a4%e3%83%ac%e3%82%af%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%81%ae%e3%83%88%e3%83%83%e3%83%97%e3%83%81%e3%83%bc%e3%83%a0%e7%9b%a3%e7%9d%a3%e5%b0%b1%e4%bb%bb/ |title= 大槻 毅 育成ダイレクターのトップチーム監督就任について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2018年4月2日 |accessdate=2018年4月2日}}</ref>。 * 大槻毅監督の初陣となった[[2018年のJリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]]グループステージ第3節[[サンフレッチェ広島|広島]]戦はスコアレスドローに終わるも、その後の公式戦は連勝を飾り、通算4勝2分と無敗で乗り切り次期監督へバトンを渡した。また、[[オールバック]]の髪型とその魂はファンサポーターから絶大な人気を誇った。映画俳優といっても良い位の風貌から「大槻組長」と呼ぶサポーターも多い。 * 4月19日、浦和は次期監督として、2007年から2009年にかけて[[鹿島アントラーズ|鹿島]]を3連覇に導いた[[オズワルド・オリヴェイラ]]氏と契約した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/144349/|title=オズワルド オリヴェイラ監督就任について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2018年4月19日 |accessdate=2018年4月19日}} </ref>。 * 8月1日、第19節の[[川崎フロンターレ|川崎]]戦に勝利しJ1通算400勝を達成した。 * 8月3日、[[平成30年7月豪雨]]の義援金としてファン・サポーター、クラブスタッフ有志、選手会合わせた4,309,232円を[[日本赤十字社]]へ贈呈した。 * ワールドカップによる中断開けからオリヴェイラ監督の戦術が浸透し、最初の10試合を4勝3分け3敗とまずまずの成績で順位を上げ始めたが、加入後9試合で6得点を記録していたファブリシオが第25節[[セレッソ大阪|C大阪]]戦で左膝前十字靭帯・内側半月板損傷の重傷を負い離脱。そこで[[長澤和輝]]を起用しフォーメーションを「3-4-2-1」から「3-5-2」に変更すると、これが功を奏し第26節から3連勝を含めて6戦5勝1分と大いに巻き返し、ACL出場権獲得圏内の3位に勝ち点差3まで近づいた。しかし、第31節で[[ガンバ大阪|G大阪]]、33節で[[湘南ベルマーレ|湘南]]に敗れて最終順位は5位となり、リーグ戦でのACL出場権獲得はならなかった。 * 天皇杯は2回戦から出場。3回戦の[[松本山雅FC]]戦で1失点した以外は全て完封勝利という堅守を見せて3大会振りに決勝に進出すると、決勝も[[宇賀神友弥]]のゴールを守り切って[[ベガルタ仙台|仙台]]を1-0で下し、12大会ぶりの優勝を果たした。同時に、[[AFCチャンピオンズリーグ2019]]の本戦出場権を獲得した。またオリヴェイラはブラジル人監督なので、南米出身の監督がタイトルを獲得したのはクラブ史上初で、<ref>過去にタイトルを獲得した時の監督は、2003年のヤマザキナビスコカップがオランダ人のオフト。2005年の天皇杯、2006年のJリーグと天皇杯がブッフバルト。2007年のAFCチャンピオンズリーグがオジェック(いずれもドイツ人)、2016年のJリーグYBCルヴァンカップはペトロヴィッチ(オーストリア人)、2017年のAFCチャンピオンズリーグは堀である。</ref>オリヴェイラは日本の三大タイトル通算獲得で7個目(鹿島時代は6個である)となった。 '''{{small|{{main|2018年の浦和レッドダイヤモンズ}}}}''' ==== 2019年 ==== :チームスローガン:'''浦和のために 最後まで走り、闘い、貫く''' * [[平川忠亮]]が前年限りで引退、[[ズラタン・リュビヤンキッチ|ズラタン]]が契約満了で退団、、[[菊池大介]]が柏、[[李忠成]]が横浜FM、[[榎本哲也]]が富山へ完全移籍。[[駒井善成]]、[[岡本拓也]]もそれぞれレンタル先への完全移籍に切り替わった。また[[伊藤涼太郎]]、[[オナイウ阿道]]は大分、[[武富孝介]]が湘南へ期限付き移籍。 * C大阪から[[杉本健勇]]、柏から[[鈴木大輔 (サッカー選手)|鈴木大輔]]、横浜FMから[[山中亮輔]]、山形から[[汰木康也]]を完全移籍で獲得。[[FCポルト]]から[[エヴェルトン・ダ・シウヴァ・ペレイラ|エヴェルトン]]を期限付き移籍で獲得した。夏には関根貴大が2年ぶりに復帰、武富孝介は[[曺貴裁|湘南のパワハラ問題]]もあり期限を早めて復帰した一方、[[アンドリュー・ナバウト]]が退団。武富は復帰後、疲労骨折を負った。 * 各ポジションに実力者を獲得し、目標とする「リーグとACLの2冠」も達成しうる陣容を揃えた<ref>{{Cite web|和書|title=浦和、補強・総合力共にA評価。昨季の主力と期待の新戦力、複数タイトルを狙うシーズンに【2019年Jリーグ補強診断】|url=http://www.footballchannel.jp/2019/02/08/post308599/|website=フットボールチャンネル|accessdate=2019-12-08}}</ref>。プレシーズンに練習試合を1試合も行わなかったからかリーグは開幕から低調。10節から10年ぶりとなる4連敗を喫するとオズワルド・オリヴェイラ監督を解任。後任に昨季暫定監督を務めた[[大槻毅]]が正式監督として就任した<ref>{{Cite web|和書|title=監督交替について、立花代表、中村GM|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E4%BA%A4%E6%9B%BF%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%81%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E3%80%81%E4%B8%AD%E6%9D%91gm/|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2019-12-08}}</ref>。しかしその後も過密日程の中、21節から4ヶ月14試合で1勝(6分け7敗)で最終節になって1部残留が決まった。結果は9勝10分15敗の勝ち点37で14位、2部との入れ替え戦に回る16位との勝ち点差は1であった。 * 前年王者として迎えた天皇杯は4回戦でJFLの[[本田技研工業フットボールクラブ|Honda FC]]に0-2で完敗。試合後には不満を募らせたサポーターが選手バスを取り囲んで抗議する事態に至った<ref>{{Cite web|和書|title=完敗浦和バスをサポ取り囲む、大槻監督が降車し対応 |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/201909260000004.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2019-12-08}}</ref>。ルヴァンカップは準々決勝で鹿島と対戦し、2戦1分1敗、合計4-5で敗退した。なお、チームは8月14日の天皇杯3回戦・水戸ホーリーホック戦を最後に全コンペティションで10戦連続未勝利(5分け5敗)に陥っており、上記の3試合は全てこの時期に行われたものである。 * ACLは、グループリーグでブリーラム・ユナイテッド、北京国安、全北現代と同居。勝利した方が決勝トーナメント進出となる最終節・北京国安戦に3-0で完勝し、ベスト16進出。ラウンド16は蔚山現代にホームで1-2と敗れるもアウェイで3-0と勝利し逆転でベスト8進出。準々決勝は上海上港に2分けながらアウェイゴール差で勝ち上がり、準決勝は広州恒大に連勝し、2年ぶり3度目の決勝進出を決めた。決勝は2年前と同じくアル・ヒラルと対戦したが、[[アンドレ・カリージョ]]、[[セバスティアン・ジョヴィンコ]]、[[バフェティンビ・ゴミス|バフェティンミ・ゴミス]]といった強力な助っ人を擁したチームに2戦合計0-3で完敗。リーグ戦で3点を奪った試合が2試合しかない程の得点力不足がACLの決勝で出てしまい3度目の優勝はならなかった。 '''{{small|{{main|2019年の浦和レッドダイヤモンズ}}}}''' === 2020年代 === ==== 2020年 ==== * 強化体制が一新され、中村修三GM・北野大助GM補佐が退任。新たにスポーツダイレクター(SD)、テクニカルダイレクター(TD)が置かれるようになった。初代SDに[[土田尚史]]、TDに[[西野努]]が就任した。また、大槻毅監督の続投が発表された。土田SDは11月に病気療養に入った。 * [[森脇良太]]が退団、[[オナイウ阿道]]は期限付き移籍から復帰したがすぐ[[横浜F・マリノス|横浜FM]]に移籍。[[茂木力也]]、[[山田直輝]]はそれぞれレンタル先への完全移籍に切り替わった。[[井澤春輝]]が[[鹿児島ユナイテッドFC|鹿児島]]、[[大城蛍]]が[[ガイナーレ鳥取|鳥取]]、[[池高暢希]]が[[カターレ富山|富山]]へ期限付き移籍。シーズン途中にマウリシオ・ファブリシオが揃ってポルティモネンセへレンタル移籍となった。 * [[アルビレックス新潟|新潟]]から昨季J2得点王の[[レオナルド・ナスシメント・ロペス・デ・ソウザ|レオナルド]]を獲得。[[伊藤涼太郎]]が期限付き移籍から復帰。また[[青森山田中学高等学校|青森山田高校]]から[[武田英寿]]が加入。チーム始動後に[[メルボルン・ビクトリーFC|メルボルン・ビクトリー]]からU-23豪州代表主将の[[トーマス・デン]]を獲得した。 * 目先の勝利に囚われることなくチームを変革させるため2022年度のリーグ優勝を目標とする『3年計画』を掲げ、2020年はその1年目という位置付けでチームコンセプトの浸透を図りつつ、「ACL出場権獲得・得失点差プラス2桁以上」を目標に掲げた<ref>{{Cite web|和書|title=2020シーズン 浦和レッズ 新強化体制記者会見|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/2020%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3-%E6%B5%A6%E5%92%8C%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BA-%E6%96%B0%E5%BC%B7%E5%8C%96%E4%BD%93%E5%88%B6%E8%A8%98%E8%80%85%E4%BC%9A%E8%A6%8B/|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2020-12-22}}</ref>。その1つとして、基本フォーメーションを慣れ親しんだ3バックから4バックに変更し、4-4-2の布陣を採用。公式戦5戦無敗(4勝1分)と好スタートを切ったかに見えたが、過密日程の中で中々戦術が浸透せず、徐々に順位を下げ、13勝7分け14敗と負け越して10位に終わった。試合内容も悪いことが多く、勝利時はなんとか逃げ切り辛勝、敗戦時は徹底的に攻め込まれ大敗という状況が続き、得失点差は-13とマイナス2桁に乗ってしまった<ref group="注">これは下位4クラブ(15位横浜FC、16位清水の-22、17位仙台の-25、18位湘南の-19)に次いで低い。</ref>。9月にホーム3連戦で3連続完封負け、2008年以降なかった1試合6失点を1年で2度喫するなど、攻守両面で内容の伴わないシーズンとなった。 * ルヴァンカップは2年ぶりにグループステージからの出場。開幕節で[[ベガルタ仙台|仙台]]に5-2で勝ったが、[[セレッソ大阪|C大阪]]に0-1で敗戦。新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う中断&レギュレーション変更の結果、1回戦総当たり・同グループの[[松本山雅FC]]が不参加となったためこれでグループ2位となったが、プレーオフステージが取りやめとなったためグループ2位内での成績最上位クラブしかプライムステージに進出できず、結果[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]に及ばずグループステージ敗退となった。天皇杯もレギュレーション変更の結果リーグ戦上位2位までしか出場権がなく、リーグ10位のため不参加となった。 ==== 2021年 ==== チームスローガン:発表されず * 大槻監督が契約満了により退任し、新監督に前シーズン[[徳島ヴォルティス]]をJ2優勝&J1昇格へと導いた[[リカルド・ロドリゲス (サッカー指導者)|リカルド・ロドリゲス]]が就任した。また分析担当コーチに[[奈良クラブ]]GM・前監督(当時)の[[林舞輝]]、テクニカルスタッフに[[守谷優馬]]が就任<ref>[https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/2021%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%AE%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/ 2021シーズンのトップチームの体制のお知らせ]</ref>。 * [[クエンテン・マルティノス|マルティノス]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]、[[エヴェルトン・ダ・シウヴァ・ペレイラ|エヴェルトン]]がレンタル期間満了で[[FCポルト]]へ復帰、[[長澤和輝]]が[[名古屋グランパス|名古屋]]、[[青木拓矢]]が[[FC東京]]と、複数の主力が流出した。他にも[[鈴木大輔 (サッカー選手)|鈴木大輔]]が[[ジェフユナイテッド千葉|千葉]]、[[岩武克弥]]が[[横浜FC]]、[[福島春樹]]・[[荻原拓也]]・[[武富孝介]]が[[京都サンガF.C.|京都]]、[[井澤春輝]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]、[[大城蛍]]が[[Y.S.C.C.横浜]]、[[石井僚]]が[[レノファ山口|山口]]、[[池高暢希]]が[[福島ユナイテッドFC|福島]]へと移籍と大幅な人員整理が図られた。さらに、チーム始動後に[[橋岡大樹]]の[[シント=トロイデンVV|シント=トロイデン]]へのレンタル移籍が決定、キャンプ終了後には[[レオナルド・ナスシメント・ロペス・デ・ソウザ|レオナルド]]が[[山東魯能泰山]]へ完全移籍<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2021/02/22/post411534/|title=浦和レッズ、FWレオナルドが中国の山東魯能へ移籍決定。「いつかこのチームに戻って…」|accessdate=2021/3/7}}</ref>、[[柏木陽介]]がキャンプ中の規律違反行為で退団させる方針であること<ref>{{Cite web|和書|title=戸苅淳フットボール本部長オンライン会見コメント|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/171827/ |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |accessdate=2021-02-20}}</ref> をクラブが明らかにした。柏木はその後、[[FC岐阜]]へ移籍した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E9%99%BD%E4%BB%8B%E9%81%B8%E6%89%8B-fc%E5%B2%90%E9%98%9C%E3%81%B8%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/|title=柏木陽介選手 FC岐阜へ完全移籍のお知らせ|accessdate=2021/8/15}}</ref>。 * [[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[西大伍]]、[[湘南ベルマーレ|湘南]]から[[金子大毅]]、[[大分トリニータ|大分]]から[[田中達也 (1992年生のサッカー選手)|田中達也]]、[[FC琉球|琉球]]から[[小泉佳穂]]、[[栃木SC|栃木]]から[[明本考浩]]・[[塩田仁史]]を獲得。[[中央大学]]から前シーズン特別指定選手だった[[大久保智明]]、[[青森山田中学高等学校|青森山田高校]]から[[藤原優大]]が加入。さらにアカデミーから昨季2種登録だった[[鈴木彩艶]]、[[福島竜弥]]が昇格するなど、大幅な選手の入れ替えが行われる形となった。さらにシーズン開始後の4月に[[FKボデ/グリムト]]から昨季ノルウェーリーグ得点王&MVPの[[キャスパー・ユンカー]]を獲得。 * 夏の移籍市場でも[[柏レイソル|柏]]から[[江坂任]]、[[オリンピック・マルセイユ]]から[[酒井宏樹]]、[[FCミッティラン]]から昨季デンマークリーグMVPの[[アレクサンダー・ショルツ]]、[[水戸ホーリーホック]]から[[平野佑一]]、[[スターベクIF]]から[[木下康介]]を獲得した一方、[[武藤雄樹]]が柏へ完全移籍、[[杉本健勇]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]、[[武田英寿]]が[[FC琉球|琉球]]、藤原優大が[[SC相模原|相模原]]、[[伊藤涼太郎]]が水戸に期限付き移籍し、大幅な選手の入れ替えが発生した。 * 序盤は流れの中から得点を生み出すことができず、最初の2ヶ月を1勝2分3敗の13位で終える。しかし徐々に新加入の選手が馴染み始め、4月に入って武藤雄樹を最前線に置く4-1-4-1システムが機能し令和初の3連勝、5月には[[キャスパー・ユンカー]]がデビューから5試合連続6得点と活躍し3年ぶりの公式戦10戦無敗と好調を維持。8位で東京五輪による中断期間を迎えた。中断明けからは[[江坂任]]、[[酒井宏樹]]、[[アレクサンダー・ショルツ]]、[[平野佑一]]ら夏の新戦力組がすぐにフィットし、リーグ7戦無敗(6勝1分)で5位まで浮上しACL出場権争いに割り込む。10月まで3位争いを展開していたが、11月から1勝2分2敗と失速してしまい脱落。最終順位は6位に終わった。通常より4試合多いレギュレーションではあるがクラブ新記録のリーグ17試合無失点を達成するなど、守備面の改善が光った。 * ルヴァンカップはグループステージから参加。柏・湘南・横浜FCとのグループリーグを1位で通過し、プレーオフで神戸を破ってベスト8に進出。準々決勝ではリーグ王者の川崎を相手に2引き分けの末アウェイゴール差で突破するも、準決勝でC大阪に1分1敗、2戦合計1-2で敗れた。ユンカーが得点王、鈴木彩艶がニューヒーロー賞を受賞した。天皇杯では、準決勝まで5試合を無失点のまま勝ち上がると、決勝大分戦では前半6分に江坂のゴールで先制。90分に今大会初失点を喫し同点に追い付かれたものの、90分+3分に槙野のゴールで勝ち越し、3年ぶり8回目の優勝を成し遂げた。 * シーズン途中、14年在籍した阿部勇樹の引退、12年(下部組織を含めると18年)在籍した宇賀神友弥・10年在籍した槙野智章の退団が発表された。宇賀神は準決勝・槙野は決勝でそれぞれ決勝点を挙げ、チームの天皇杯優勝に貢献した。 ==== 2022年 ==== * リカルド・ロドリゲス体制2年目かつ「3年計画」の最終年。コーチに昨年まで[[徳島ヴォルティス|徳島]]コーチの前迫雅人、GKコーチに[[ジョアン・ミレッ]]、通訳に元[[ヴィッセル神戸|神戸]]通訳の在原正明が就任。 * [[鹿島アントラーズ|鹿島]]から[[犬飼智也]]、[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[大畑歩夢]]、[[FC琉球|琉球]]から[[知念哲矢]]、[[横浜FC]]から[[松尾佑介]]、[[水戸ホーリーホック|水戸]]から[[牲川歩見]]・[[松崎快]]、[[ACスパルタ・プラハ]]からスウェーデン代表MF[[ダヴィド・モーベルグ]]、[[セルヴェットFC|セルヴェット]]からオランダ人FW[[アレックス・シャルク]]を獲得。[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[馬渡和彰]]、徳島から主将[[岩尾憲]]と、リカルド・ロドリゲス監督の教え子も獲得した。[[流通経済大学]]から[[安居海渡]]・[[宮本優太]]、[[京都橘高校]]から[[木原励]]が加入、[[工藤孝太]]も正式にトップチームに昇格し、トップチーム27名中ほぼ半分の13名が新加入選手となった。 * 夏の移籍で、[[フェイエノールト]]からオランダ人FW[[ブライアン・リンセン]]を獲得。 * 昨シーズン中に発表されていた[[阿部勇樹]](引退→ユースチームコーチ)・[[槙野智章]](→神戸)・[[宇賀神友弥]](→[[FC岐阜|岐阜]])の退団に加えて、[[塩田仁史]]が引退(アシスタントGKコーチ就任)、[[山中亮輔]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]、[[汰木康也]]が神戸、[[トーマス・デン]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]へ完全移籍。[[金子大毅]](→[[京都サンガF.C.|京都]]へ期限付き移籍)・[[田中達也 (1992年生のサッカー選手)|田中達也]](→[[アビスパ福岡|福岡]])・[[西大伍]](→[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]])・[[木下康介]](→水戸)は1年でチームを離れた。9年在籍しクラブ歴代最多得点記録を持つ[[興梠慎三]]も札幌へ期限付き移籍。さらに[[福島竜弥]]も相模原へ期限付き移籍し、昨年のトップチームから13名が移籍と、昨年以上の大幅な入れ替えが発生した。期限付き移籍していた選手も[[荻原拓也]](京都へレンタル延長)・[[藤原優大]]([[SC相模原|相模原]]へレンタル延長)・[[杉本健勇]]([[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[ジュビロ磐田|磐田]])・[[武田英寿]](琉球から大宮)・[[石井僚]]([[横浜スポーツ&カルチャークラブ|Y.S.C.C横浜]]へレンタル延長)は引き続き期限付き移籍、[[橋岡大樹]]([[シント=トロイデンVV|シント=トロイデン]])・[[伊藤涼太郎]](水戸から新潟)・[[大城蛍]]([[ガイナーレ鳥取|鳥取]]からY.S.C.C横浜)・[[池高暢希]]([[カターレ富山|富山]]から[[ギラヴァンツ北九州|北九州]])は完全移籍で退団。実に20名がチームを離れた。 * 1月12日に、新ユニフォームが発表され、10年ぶりに襟付きのユニフォームになった。 * 2月12日に行われた[[2022年のスーパーカップ (日本サッカー)|FUJIFILM SUPER CUP]]は[[江坂任]]がスーパーカップ史上7人目の2ゴールで[[川崎フロンターレ|川崎]]に2-0で勝利し、16年ぶり2回目の優勝を果たした。 * 3年計画3年目でリーグ優勝を狙う年であったこと、前年に天皇杯を獲得したこと、スーパーカップで昨年王者の川崎を圧倒したことなどから前評判は高かったが、開幕節で昇格組の京都に敗れると、次の神戸戦・[[ガンバ大阪]]戦で連続して退場者を出して勝ち点を落とし、スタートダッシュに失敗。4月からはJ1記録となる7試合連続引き分けを含む9戦勝ちなし(8分1敗)となるなど低迷が続き、前半戦を13位で折り返す。その後7試合負けなし(5勝2分)として7位に上がったものの、9月から2ヶ月で2勝と再び失速。最終的に34試合で10勝15分9敗の勝ち点45と、3年計画の1年目(2020年)を下回る勝ち点で9位に終わった。10月31日、ロドリゲス監督と小幡コーチ兼通訳の退任が発表された<ref>{{Cite news2|title= 浦和、リカルド監督の退任を発表 就任2年目、国内主要タイトル無冠…小幡コーチも退任|url= https://hochi.news/articles/20221031-OHT1T51155.html|newspaper= スポーツ報知|date= 2022-10-31|accessdate= 2022-10-31|publisher= 報知新聞社}}</ref>。 * ACLは、グループリーグで山東泰山、ライオン・シティ、大邱FCと同居。大邱に競り負けグループ2位となるも、1試合を残して決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメントは日本での集中開催となり、全試合が埼玉スタジアムないしは浦和駒場スタジアムで開催された。ラウンド16で[[ジョホール・ダルル・タクジム]]に5-0、準々決勝で[[BGパトゥム・ユナイテッドFC|パトゥム・ユナイテッド]]に4-0で圧勝すると、準決勝では[[全北現代モータース|全北現代]]をPK戦の末に撃破し、3年ぶり4度目の決勝進出を決めた。 ==== 2023年 ==== * 2月1日付で立花洋三社長が退任し、新社長に田口誠が就任した<ref>{{Cite web|和書|title=役員人事について|url= https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/194776 |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|date= 2023-01-27|accessdate= 2023-02-04}}</ref>。 * 新監督に[[エクストラクラサ|ポーランド1部リーグ]]を4度制覇している[[マチェイ・スコルジャ]]が就任。[[池田伸康]]が4年ぶりにコーチに復帰。 * [[大分トリニータ|大分]]から[[吉田舜]]、[[ロアッソ熊本|熊本]]から[[髙橋利樹]]、[[FKボデ/グリムト]]から[[マリウス・ホイブラーテン]]を獲得。[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[興梠慎三]]、[[京都サンガF.C.|京都]]から[[荻原拓也]]がそれぞれ期限付き移籍から復帰し、ユースから[[堀内陽太]]が昇格。シーズン開幕後、[[石家荘永昌足球倶楽部|滄州雄獅足球倶楽部]]を退団した[[ホセ・カンテ・マルチネス|ホセ・カンテ]]を獲得。 * [[江坂任]]が[[蔚山現代FC]]へ完全移籍。[[松尾佑介]]が[[KVCウェステルロー]]、宮本優太がKMSKデインズ、[[キャスパー・ユンカー]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]、[[工藤孝太]]が[[藤枝MYFC|藤枝]]、[[木原励]]が[[AC長野パルセイロ|長野]]へ期限付き移籍。 * 期限付き移籍していた選手では[[藤原優大]](→[[FC町田ゼルビア|町田]])、[[武田英寿]](→[[水戸ホーリーホック|水戸]])、[[福島竜弥]](→[[高知ユナイテッドSC|高知]])は引き続き育成型期限付き移籍、[[金子大毅]](→京都)・[[杉本健勇]](→[[ジュビロ磐田|磐田]])・[[石井僚]](→[[ザスパクサツ群馬|群馬]])は完全移籍でチームを離れた。 * 4月30日に行われたACL2022決勝は[[アル・ヒラル]]と対戦。第1戦は先制されるも[[興梠慎三]]の同点ゴールで1-1の引き分け。5月6日に埼玉スタジアムで行われた第2戦は後半にオウンゴールで先制。そのまま1-0(2戦合計2-1)で勝利し、2017年以来となる3度目の優勝を果たした。この優勝で[[鹿島アントラーズ]]に次いで史上2チーム目の国内外主要タイトル10冠を達成。 * 夏の移籍で[[鈴木彩艶]](→[[シント=トロイデンVV]])、[[犬飼智也]](→[[柏レイソル|柏]])、[[ダヴィド・モーベルグ]](→[[アリス・テッサロニキ]])がそれぞれ期限付き移籍。また、補強では[[FCバルセロナB]]を退団した[[安部裕葵]]、[[アンタルヤスポル]]を退団した[[中島翔哉]]を完全移籍で、[[ムアントン・ユナイテッド]]から[[エカニット・パンヤ]]を期限付き移籍で獲得したほか、{{仮リンク|KMSKデインズ|en|K.M.S.K. Deinze}}に期限付き移籍していた宮本が復帰し、[[早川隼平]]がトップチームに昇格。 * 11月4日、JリーグYBCルヴァンカップ決勝が[[国立競技場]]にて行われた。対戦相手は[[アビスパ福岡]]。試合は開始早々の5分に、紺野がエリア右から仕掛けて低い弾道のクロスを送られると、エリア内で反応した前がダイレクトで押し込み先制される。さらに前半アディショナルタイムに、左サイド敵陣深くで紺野が駆け引きからグラウンダーのクロスを送り、中にいた宮が合わせ、追加点を奪われ前半終了。後半22分、DF[[酒井宏樹]]が右サイドからロングボールを送ると、MF[[明本考浩]]がこれを[[ペナルティエリア]]内で胸トラップし、左足でシュート。これがGKの股を抜いてゴールに吸い込まれ浦和が1点差に詰め寄るが、浦和レッズはアビスパ福岡に1-2で敗れ、7年ぶり3度目の優勝とはならなかった。また同大会でニューヒーロー賞を早川隼平が獲得した。 * ACL2023は2勝1分3敗でグループリーグ敗退。前シーズンのACL王者がグループステージで敗退するのは、ラウンド16から参戦できるシード権が撤廃されて以降で史上3度目となる<ref>{{Cite web |title=昨季王者の浦和、ACLグループ敗退が決定…リンセンが同点弾も、終盤のPKでハノイFCに敗北 |url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/acl/20231206/1838113.html |website=サッカーキング |date=2023-12-06 |access-date=2023-12-07 |language=ja |first=SEESAW GAME |last=Inc}}</ref>。 * リーグ戦は開幕節のFC東京戦、第2節の横浜FM戦を共に0−2で落とし、2節終了時点で単独最下位になるなど非常に苦しいスタートとなった。だが第3節のセレッソ大阪戦の逆転勝利を皮切りに第10節のサガン鳥栖戦まで公式戦13戦負けなしと立て直しに成功。その後はショルツとホイブラーテンを中心に強固な守備を形成し、前半戦を4位で折り返す。その後も上位に食い込んだが、過密日程による疲労や得点力不足から要所で勝ち切れない試合も多く、32節神戸戦に敗れて優勝争いから脱落。最終成績は15勝12分7敗、勝ち点57の4位で終了した<ref>{{Cite web |title=今季浦和レッズが上位に食い込めている理由とは? 堅守確立も決めきれない攻撃陣に中島翔哉は何をもたらすのか(REAL SPORTS) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/d5ef68440d2b54658ecde92d7229abaa79232a6c |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-12-17 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=【浦和レッズ総括コラム】2023のタラレバと嬉しい誤算。スコルジャ監督が変えられなかった“運命”(フットボールチャンネル) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/1f855cecd69150cd28317219e44f4ecd2939de46 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-12-17 |language=ja}}</ref>。リーグ戦34試合27失点はJ1最少かつクラブ史上最少であり、堅守が光った<ref>{{Cite web |url=https://twitter.com/OptaJiro/status/1731209874586177690 |title=Opta Jiroによるツイート |access-date=2023-12-17 |publisher=X.com}}</ref>。Jリーグアウォーズでは西川、ショルツ、ホイブラーテン、伊藤の4名がベストイレブンに選出された。 * 11月27日、ホセ・カンテの今シーズン限りでの現役引退、そしてアレックス・シャルクが契約満了により今シーズン限りでの退団が発表された。 * クラブワールドカップ2023はアジア王者として6年ぶりの出場となった。初戦は[[CONCACAFチャンピオンズリーグ2023]]を初制覇した[[CONCACAFチャンピオンズリーグ2023|クラブ・レオン]]との準々決勝となり、[[アレックス・シャルク]]のゴールで1−0の勝利となった。準決勝・[[マンチェスター・シティFC]]戦は、0-3で完敗となり<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/search?q=%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3&client=firefox-b-d&sca_esv=592403406&biw=1280&bih=595&ei=aWKCZdvqGoWRvr0P1sWl0AE&oq=manntye&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAaAhgDIgdtYW5udHllKgIIADISEAAYgAQYBBixAxiDARhGGP0BMgoQABiABBiKBRhDMg0QABiABBgEGLEDGIMBMg0QABiABBgEGLEDGIMBMg0QABiABBgEGLEDGIMBMg0QABiABBgEGLEDGIMBMg0QABiABBgEGLEDGIMBMgcQABiABBgEMhAQABiABBgEGLEDGIMBGIsDMhAQABiABBgEGLEDGIMBGIsDMh4QABiABBgEGLEDGIMBGEYY_QEYlwUYjAUY3QTYAQNImBdQugVY1BBwAngBkAEAmAGAAaAB1wWqAQM0LjO4AQPIAQD4AQGoAhTCAgoQABhHGNYEGLADwgIgEAAYgAQYigUY5QIY5QIY6gIYtAIYigMYtwMY1APYAQHCAhYQABgDGI8BGOUCGOoCGLQCGIwD2AECwgILEAAYgAQYsQMYgwHCAgsQABiABBixAxiLA8ICDRAAGIAEGAQYsQMYiwPCAgoQABiABBgEGIsDwgIGEAAYAxgEwgIJEAAYAxgEGIsDwgIPEAAYgAQYigUYQxhGGP0BwgIbEAAYgAQYigUYQxhGGP0BGJcFGIwFGN0E2AED4gMEGAAgQYgGAZAGCroGBAgBGAe6BgYIAhABGAq6BgYIAxABGBM&sclient=gws-wiz-serp#sie=m;/g/11l6j2tcfn;2;/m/04l_8w;dt;fp;1;;; |title=クラブワールドカップ |publisher = |accessdate=2023-12-20}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/urawa-manc-machej/bltc79df899f1e0b9dd |title=浦和指揮官スコルジャ、マン・Cとの差の大きさを痛感「多くの選手が知ることになった」 |publisher = |accessdate=2023-12-20}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.jleague.jp/news/article/26804/ |title=浦和、欧州王者マンチェスター・シティに3失点完敗 アル・アハリとの3位決定戦へ【サマリー:FIFAクラブワールドカップ サウジアラビア2023 準決勝 |publisher = |accessdate=2023-12-20}}</ref>、3位決定戦でも[[アル・アハリ]]に敗れ4位となった。 ==== 2024年 ==== * 新監督に[[ペア=マティアス・ヘグモ]]が就任。 == ダービーマッチ == * '''[[さいたまダービー]]''' ** vs [[大宮アルディージャ]] *** [[埼玉県]][[さいたま市]]をホームタウンとするJリーグクラブ同士の対戦。 == 成績 == {{main|浦和レッドダイヤモンズの年度別成績一覧}} == タイトル・表彰 == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]:1回''' ** [[2006年のJリーグ|2006]] *** '''[[J1リーグ#開催方式|1stステージ]]:1回''' **** [[2015年のJリーグ|2015]] *** '''[[J1リーグ#開催方式|2ndステージ]]:2回''' **** [[2004年のJリーグ|2004]], [[2016年のJリーグ|2016]] * '''[[Jリーグカップ]]:2回''' ** [[2003年のJリーグカップ|2003]], [[2016年のJリーグカップ|2016]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:4回''' ** [[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2005]], [[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2006]], [[天皇杯 JFA 第98回全日本サッカー選手権大会|2018]], [[天皇杯 JFA 第101回全日本サッカー選手権大会|2021]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:2回''' ** 2006, [[2022年のスーパーカップ (日本サッカー)|2022]] === 国際タイトル === * '''[[AFCチャンピオンズリーグ]]:3回''' [[ファイル:AFC Champions League Trophy.png|25px]][[ファイル:AFC Champions League Trophy.png|25px]][[ファイル:AFC Champions League Trophy.png|25px]] ** [[AFCチャンピオンズリーグ2007|2007]], [[AFCチャンピオンズリーグ2017|2017]], [[AFCチャンピオンズリーグ2022|2022]] * '''[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦]]:1回''' ** [[スルガ銀行チャンピオンシップ2017|2017]] === その他タイトル === * '''[[JリーグDAZNニューイヤーカップ]]''' ** 鹿児島ラウンド:1回 ::* 2015 * '''[[さいたまシティカップ]]''':3回 ** 2004, 2006, 2022 * '''Jリーグマネジメントカップ''':4回 ** 2014, 2016, 2017, 2019 * '''[http://www.jleague.jp/sp/ejleague/ eJ.LEAGUE]''':1回 ** 2018 * '''[http://www.hksoccersevens.com/ フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会]''':2回 ** 2005, 2006 === 表彰 === ; [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]/[[J1リーグ]] * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞|最優秀選手賞]]''' ** 2003 - {{Flagicon|BRA}} [[マルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ|エメルソン]] ** 2006 - {{Flagicon|JPN}} [[田中マルクス闘莉王]] ** 2007 - {{Flagicon|BRA}} [[ロブソン・ポンテ]] * '''[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]]''' ** 1995 - {{Flagicon|JPN}} [[福田正博]], {{Flagicon|GER}} [[ギド・ブッフバルト]] ** 1996 - {{Flagicon|JPN}} [[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]], {{Flagicon|GER}} ギド・ブッフバルト ** 1998 - {{Flagicon|JPN}} [[小野伸二]] ** 2002 - {{Flagicon|BRA}} エメルソン ** 2003 - {{Flagicon|BRA}} エメルソン, {{Flagicon|JPN}} [[坪井慶介]] ** 2004 - {{Flagicon|BRA}} エメルソン, {{Flagicon|JPN}} [[長谷部誠]], {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 ** 2005 - {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 ** 2006 - {{Flagicon|BRA}} [[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ|ワシントン]], {{Flagicon|JPN}} [[鈴木啓太]], {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 ** 2007 - {{Flagicon|BRA}} ロブソン・ポンテ, {{Flagicon|JPN}} 鈴木啓太, {{Flagicon|JPN}} [[阿部勇樹]], {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王, {{Flagicon|JPN}} [[都築龍太]] ** 2008 - {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 ** 2009 - {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 ** 2013 - {{Flagicon|JPN}} [[那須大亮]] ** 2014 - {{Flagicon|JPN}} [[西川周作]] ** 2015 - {{Flagicon|JPN}} [[槙野智章]], {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2016 - {{Flagicon|JPN}} [[柏木陽介]], {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹, {{Flagicon|JPN}} 槙野智章, {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2017 - {{Flagicon|JPN}} [[興梠慎三]] ** 2023 - {{Flagicon|JPN}} [[伊藤敦樹]], {{Flagicon|NOR}} [[マリウス・ホイブラーテン]], {{Flagicon|DEN}} [[アレクサンダー・ショルツ]], {{Flagicon|JPN}} 西川周作 * '''[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]''' ** 1995 - {{Flagicon|JPN}} 福田正博 ** 2004 - {{Flagicon|BRA}} エメルソン ** 2006 - {{Flagicon|BRA}} ワシントン * '''[[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|ベストヤングプレーヤー賞]]''' ** 1998 - {{Flagicon|JPN}} 小野伸二 ** 2002 - {{Flagicon|JPN}} 坪井慶介 * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞 高円宮杯|フェアプレー賞 高円宮杯]]''' ** 2022 * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞|フェアプレー賞]]''' ** 2014, 2016, 2018, 2019, 2021, 2022 * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー個人賞|フェアプレー個人賞]]''' ** 1996 - {{Flagicon|JPN}} 岡野雅行 ** 2002 - {{Flagicon|JPN}} 坪井慶介 ** 2014 - {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2018 - {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2023 - {{Flagicon|JPN}} 西川周作 * '''[[Jリーグアウォーズ#優秀監督賞・優勝監督賞|最優秀監督賞]]''' ** 2006 - {{Flagicon|GER}} ギド・ブッフバルト * '''[[Jリーグアウォーズ#優秀監督賞・優勝監督賞|優秀監督賞]]''' ** 2021 - {{Flagicon|ESP}} [[リカルド・ロドリゲス (サッカー指導者)|リカルド・ロドリゲス]] * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀育成クラブ賞|最優秀育成クラブ賞]]''' ** 2009 * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀ゴール賞|最優秀ゴール賞]]''' ** 2017 - {{Flagicon|JPN}} [[関根貴大]] * '''[[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|功労選手賞]]''' ** 2003 - {{Flagicon|JPN}} 福田正博, {{Flagicon|JPN}} [[井原正巳]] ** 2014 - {{Flagicon|JPN}} [[山田暢久]] ** 2016 - {{Flagicon|JPN}} 鈴木啓太 ** 2020 - {{Flagicon|JPN}} 那須大亮 ** 2022 - {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹, {{Flagicon|JPN}} [[石原直樹]], {{Flagicon|JPN}} [[田中達也 (1982年生のサッカー選手)|田中達也]], {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 ** 2023 - {{Flagicon|JPN}} 槙野智章 * '''[[Jリーグアウォーズ#Join賞|Join賞]]''' ** 1999 - 浦和レッズ, [[浦和市]], レッズファン・サポーター ** 2002 - 浦和レッズ ** 2004 - 浦和レッズ * '''[[Jリーグアウォーズ#Jリーグベストピッチ賞|ベストピッチ賞]]''' ** 2005 - [[埼玉スタジアム2002]] ** 2009 - 埼玉スタジアム2002 ** 2013 - 埼玉スタジアム2002 ** 2016 - 埼玉スタジアム2002 * '''[[Jリーグアウォーズ#過去に存在した表彰|特別賞]]''' ** 2007 * '''[[Jリーグアウォーズ#MYアウォーズ|MYアウォーズ]]''' ** 2016 - MVP {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2016 - ベストイレブン {{Flagicon|JPN}} 興梠慎三, {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹, {{Flagicon|JPN}} 西川周作 * '''[[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|月間MVP]]''' ** 2014 - 7月 {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2015 - 5月 {{Flagicon|JPN}} 関根貴大, 6月 {{Flagicon|JPN}} [[武藤雄樹]], 9月 {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ** 2016 - 4月 {{Flagicon|JPN}} [[李忠成]] ** 2017 - 2月・3月 {{Flagicon|BRA}} [[ラファエル・ダ・シルバ|ラファエル・シルバ]], 4月 {{Flagicon|JPN}} 興梠慎三 ** 2021 - 5月 {{Flagicon|DEN}} [[キャスパー・ユンカー]] * '''月間ベストゴール''' ** 2014 - 4月 {{Flagicon|JPN}} 李忠成, 9月 {{Flagicon|JPN}} 柏木陽介 ** 2016 - 3月 {{Flagicon|JPN}} 興梠慎三 ** 2017 - 7月 {{Flagicon|JPN}} 関根貴大 ** 2020 - 8月 {{Flagicon|AUS}} [[トーマス・デン]] ** 2021 - 6月 {{Flagicon|DEN}} キャスパー・ユンカー ** 2023 - 7月 {{Flagicon|JPN}} [[岩尾憲]] ; [[Jリーグカップ]] * '''[[Jリーグカップ#最優秀選手賞|最優秀選手賞]]''' ** 2003 - {{Flagicon|JPN}} 田中達也 ** 2016 - {{Flagicon|JPN}} 李忠成 * '''[[Jリーグカップ#ニューヒーロー賞|ニューヒーロー賞]]''' ** 2002 - {{Flagicon|JPN}} 坪井慶介 ** 2003 - {{Flagicon|JPN}} 田中達也 ** 2004 - {{Flagicon|JPN}} 長谷部誠 ** 2011 - {{Flagicon|JPN}} [[原口元気]] ** 2021 - {{Flagicon|JPN}} [[鈴木彩艶]] ** 2023 - {{Flagicon|JPN}} [[早川隼平]] ; [[FIFAクラブワールドカップ]] * '''[[FIFAクラブワールドカップ#得点王|得点王]]''' ** 2007 - {{Flagicon|BRA}} ワシントン ** 2017 - {{Flagicon|BRA}} [[マウリシオ・デ・カルヴァーリョ・アントニオ|マウリシオ]] * '''[[FIFAクラブワールドカップ#フェアプレー賞|フェアプレー賞]]''' ** 2007 ; [[AFCチャンピオンズリーグ]] * '''[[AFCチャンピオンズリーグ#大会最優秀選手|大会最優秀選手]]''' ** 2007 - {{Flagicon|JPN}} [[永井雄一郎]] ** 2017 - {{Flagicon|JPN}} 柏木陽介 ** 2022 - {{Flagicon|JPN}} [[酒井宏樹]] * '''[[AFCチャンピオンズリーグ#フェアプレー賞|フェアプレー賞]]''' ** 2007, 2017, 2019, 2022 ; [[A3チャンピオンズカップ]] * '''得点王''' ** 2007 - {{Flagicon|BRA}} ワシントン ; [[さいたまシティカップ]] * '''MVP''' ** 2017 - {{Flagicon|JPN}} [[長澤和輝]] ; [http://www.hksoccersevens.com/ フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会] * '''Player of the Tournament''' ** 2005 - {{Flagicon|ARG}} [[エスクデロ競飛王|セルヒオ・エスクデロ]]<ref group="注" name="Escudero"/> === その他表彰 === ''' クラブ ''' ; [[日本プロスポーツ大賞]] * 2007 ; [[彩の国功労賞]] * 2023 ; 彩の国スポーツ功労賞 * 2006 ; 彩の国特別功労賞 * 2017 ; 埼玉県民栄誉賞 * 2007 ; さいたま市長特別賞 * 2017, 2023 ; 公益財団法人埼玉県サッカー協会 功労賞 * 2018, 2019 ; HEROs AWARD * 2018 ; [[アジアサッカー連盟|AFC]]年間最優秀クラブ賞 * 2007 ''' 監督・選手 ''' ; [[日本年間最優秀選手賞]] * 2006 - {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 * 2007 - {{Flagicon|JPN}} 鈴木啓太 ; [[報知プロスポーツ大賞]] * 2004 - {{Flagicon|BRA}} エメルソン * 2006 - {{Flagicon|BRA}} ワシントン * 2007 - {{Flagicon|JPN}} 田中マルクス闘莉王 * 2016 - {{Flagicon|JPN}} 西川周作 ; 彩の国功労賞 * 2019 - {{Flagicon|JPN}} 槙野智章 * 2023 - {{Flagicon|JPN}} 酒井宏樹 ; 彩の国スポーツ功労賞 * 2006 - {{Flagicon|GER}} ギド・ブッフバルト * 2010 - {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹 ; 彩の国特別功労賞 * 1997 - {{Flagicon|JPN}} 岡野雅行 ; さいたま市スポーツ特別功労賞 * 2018 - {{Flagicon|JPN}} 槙野智章, {{Flagicon|JPN}} [[遠藤航]] * 2021 - {{Flagicon|JPN}} 酒井宏樹, {{Flagicon|JPN}} 鈴木彩艶 * 2022 - {{Flagicon|JPN}} 酒井宏樹 ; [[アジア年間最優秀選手賞#最優秀監督賞|AFC年間最優秀監督賞]] * 2017 - {{Flagicon|JPN}} [[堀孝史]] ; [[アジア年間最優秀ユース選手賞|AFC年間最優秀ユース選手賞]] * 1998 - {{Flagicon|JPN}} 小野伸二 == クラブ記録 == === 最多得点試合 === J1 * ホーム ** 7-2 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V、埼玉スタジアム2002) ** 7-0 (2005年第27節(10月15日)・対柏、駒場スタジアム) ** 7-0 (2017年第6節(4月7日)・対仙台、埼玉スタジアム2002) * アウェイ ** 7-0 (1996年J第20節(9月21日)・対柏、[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]) ** 7-0 (2005年第14節(7月6日)・対東京V、国立霞ヶ丘陸上競技場) J2 * 7-0 (2000年第4節(3月30日)・対鳥栖、[[鳥栖スタジアム]]) :(参考:リーグ戦以外の記録) * 9-0 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対[[ミネベアミツミFC|ホンダロックSC]]、駒場スタジアム) === 最多失点試合 === J1 * ホーム ** 0-6 (1993年2nd第9節(9月3日)・対V川崎、駒場競技場) ** 3-6 (1994年2nd第22節(11月19日)・対横浜M、[[富山県総合運動公園陸上競技場]]) ** 1-6 (2008年J1第34節(12月6日)・対横浜FM、埼玉スタジアム2002) * アウェイ ** 1-8 (1999年1st第15節(5月29日)・対名古屋、[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場]]) J2 * 1-6 (2000年J2第18節(6月10日)・対新潟、[[新潟市陸上競技場]]) === 最多失点勝利試合 === * 4-3 (1994年2nd第3節(8月17日)・対市原、[[市原緑地運動公園臨海競技場]]) * 4-3 (2005年J1第24節(9月18日)・対広島、[[広島広域公園陸上競技場|広島ビッグアーチ]]) * 4-3 (2012年J1第17節(7月7日) ・対鳥栖、埼玉スタジアム2002) * 4-3 (2013年J1第21節(8月17日)・対大分、埼玉スタジアム2002) * 4-3 (2015年2nd第15節(10月24日)・対FC東京、[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]) * 4-3 (2017年J1第17節(7月1日) ・対広島、埼玉スタジアム2002)  * 4-3 (2020年J1第16節(9月13日)・対札幌、札幌ドーム) === 最多得点敗戦試合 === * 4-5 (1994年2nd第12節(9月21日)・対清水、[[静岡県草薙総合運動場陸上競技場]]) * 4-6 (2003年1st第5節(4月26日)・対C大阪、[[長居陸上競技場|長居スタジアム]]) === 最多得点(失点)引分試合 === * 4-4 (2003年1st第9節(5月17日)・対G大阪、駒場スタジアム) * 4-4 (2014年第21節(8月23日)・対FC東京、味の素スタジアム) * 4-4 (2015年1st第11節(5月10日)・対仙台、[[仙台スタジアム|ユアテックスタジアム仙台]]) === 最多連続無敗試合 === * 19試合 (2015年1st第1節(3月7日)から2nd第2節(7月15日) - 13勝6分) :(参考:他の公式戦込み) * 17試合 (リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分) ホーム無敗記録 * 25試合 (2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)<br />'''※J1史上最多記録タイ''' :(参考:他の公式戦込み) '''※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合''' * 37試合 (リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、[[大宮アルディージャ]]のホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分) アウェイ無敗記録 * 17試合 (2006年第33節(11月26日)から2007年第31節(11月11日) - 12勝5分) === 最多連勝 === * 8連勝 (1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む ** 7連勝 (1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ ホーム連勝記録 * 10連勝 (2006年第8節(4月15日)から第27節(10月15日)) アウェイ連勝記録 * 10連勝 (2007年第12節(5月19日)から第29節(10月20日)) === 最多連敗 === * 9連敗 (1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む ** 7連敗 (2009年第18節(7月18日)から第24節(8月29日)) - 90分負けのみ ホーム連敗記録 * 6連敗 (1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日)) アウェイ連敗記録 * 10連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む * 10連敗 (1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む * 10連敗 (1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む ** 8連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ === 同一カード最多連勝 === * 8連勝 (2004年2nd第15節(11月28日)から2009年第17節(7月11日)-対広島) * 8連勝 (2007年第15節(6月17日)から2010年第22節(9月12日)-対FC東京) ** 9連勝 (1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対平塚) -J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。 2003年に天皇杯で敗れた。 === 同一カード最多連敗 === * 7連敗 (1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋) - 90分負けのみ ** 7連敗 (1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対V川崎) - Vゴール負け1試合含む ** 7連敗 (1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対広島) - PK負け1試合含む == 個人記録 == === 最多試合出場 === * 501試合 - {{Flagicon|JPN}} [[山田暢久]] (初出場1994年1st第12節(4月27日)・清水戦) === 最多連続試合出場 === * 152試合 - {{Flagicon|JPN}} [[阿部勇樹]] (2013年J1第11節(5月11日)から2017年J1第25節(9月9日)) === 最年少試合出場 === * 16歳10ヶ月22日 - {{Flagicon|ARG}} [[エスクデロ競飛王|セルヒオ・エスクデロ]]<ref group="注" name="Escudero"/> (2005年J1第18節(7月23日)・清水戦) :(参考:リーグ戦以外の記録) * 16歳8日 - {{Flagicon|JPN}} [[邦本宜裕]] (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦) === 最年長試合出場 === * 40歳2カ月19日 - {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹 (2021年第38節(12月4日)・名古屋戦) === シーズンフルタイム出場 === * {{Flagicon|JPN}} [[田北雄気]] (1996年 - 30試合、1999年 - 30試合) * {{Flagicon|JPN}} 山田暢久 (1998年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[石井俊也]] (2001年 - 30試合) * {{Flagicon|JPN}} [[内舘秀樹]] (2002年 - 30試合) * {{Flagicon|JPN}} [[坪井慶介]] (2002年 - 30試合、2003年 - 30試合) * {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹 (2009年 - 34試合、2012年 - 34試合、2014年 - 34試合、2015年 - 34試合、2016年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[山岸範宏]] (2010年 - 34試合) * {{Flagicon|BRA}} [[エジミウソン・ドス・サントス・シルバ|エジミウソン]] (2010年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[柏木陽介]] (2010年 - 34試合、2013年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[永田充]] (2011年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[加藤順大]] (2012年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[槙野智章]] (2013年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[西川周作]] (2014年 - 34試合、2015年 - 34試合、2016年 - 34試合、2017年 - 34試合、2018年 - 34試合、2020年 - 34試合、2023年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[李忠成]] (2014年 - 34試合) * {{Flagicon|JPN}} [[武藤雄樹]] (2016年 - 34試合) * {{Flagicon|DEN}} [[アレクサンダー・ショルツ]] (2023年 - 34試合) === 最多得点 === * {{Flagicon|JPN}} 113得点 - [[興梠慎三]] ※2023年7月1日現在 === 最多連続得点試合 === * 7試合 - {{Flagicon|BRA}} [[マルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ|エメルソン]] (2002年1st第3節(3月16日)から第9節(7月20日)) === シーズン最多得点 === * 32得点 - {{Flagicon|JPN}} [[福田正博]] (1995年) === 1試合最多得点 === * 4得点 - {{Flagicon|JPN}} 福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦) :(参考:リーグ戦以外の記録) * 4得点 - {{Flagicon|BRA}} [[ワシントン・ステカネロ・セルケイラ|ワシントン]] (2006年ヤマザキナビスコカップ準々決勝(6月3日)・川崎戦) * 4得点 - {{Flagicon|JPN}} [[盛田剛平]] (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・[[ミネベアミツミFC|ホンダロックSC]]戦) === GK通算最多得点 === * 1得点 - {{Flagicon|JPN}} 田北雄気 (1996年第30節(11月9日)・横浜F戦で得点) '''※J1記録''' === 最年少得点 === * 17歳11か月3日 - {{Flagicon|JPN}} [[原口元気]] (2009年第5節(4月12日)・名古屋戦) :(参考:リーグ戦以外の記録) * 16歳8日 - {{Flagicon|JPN}} 邦本宜裕 (2013年天皇杯3回戦(10月16日)・山形戦) === 最年長得点 === * 39歳8カ月3日 - {{Flagicon|JPN}} 阿部勇樹 (2021年第13節(5月9日)・仙台戦) === ハットトリック === ; J1 * 4得点 ** {{Flagicon|JPN}} 福田正博 (1994年1st第9節(4月13日)・平塚戦) * 3得点 ** {{Flagicon|SVK}} [[ルボミール・ルホビー|ルル]] (1994年2nd第12節(9月21日)・清水戦) ** {{Flagicon|JPN}} [[大柴健二]] (1998年1st第9節(4月29日)・柏戦) ** {{Flagicon|JPN}} [[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]] (1998年1st第17節(8月8日)・神戸戦) ** {{Flagicon|BRA}} エメルソン (2002年1st第5節(4月20日)・広島戦、2004年1st第6節(4月18日)・大分戦、2004年1st第9節(5月9日)・新潟戦、2004年2nd第14節(11月23日)・柏戦) ** {{Flagicon|JPN}} [[永井雄一郎]] (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦) ** {{Flagicon|JPN}} [[山瀬功治]] (2004年2nd第2節(8月21日)・東京V戦) ** {{Flagicon|CRO}} [[トミスラフ・マリッチ|マリッチ]] (2005年J1第27節(10月15日)・柏戦) ** {{Flagicon|BRA}} ワシントン (2006年第19節(8月23日)・新潟戦) ** {{Flagicon|JPN}} [[田中マルクス闘莉王]] (2008年第17節(7月17日)・東京V戦) ** {{Flagicon|BRA}} エジミウソン (2009年第32節(11月21日)・磐田戦) ** {{Flagicon|JPN}} 興梠慎三 (2017年第6節(4月7日)・仙台戦、2017年第12節(5月20日)・清水戦) ** {{Flagicon|BRA}} [[ファブリシオ・ドス・サントス・メシアス|ファブリシオ]] (2018年第22節(8月15日)・磐田戦) ** {{Flagicon|DEN}} [[キャスパー・ユンカー]] (2022年第11節(5月18日)・横浜FM戦) ; J2 * 3得点 ** {{Flagicon|JPN}} [[阿部敏之]](2000年2nd第15節(5月27日)・鳥栖戦) :(参考:リーグ戦以外の記録) ; Jリーグカップ * 4得点 ** {{Flagicon|BRA}} ワシントン (2006年準々決勝第1戦(6月3日)・川崎戦) * 3得点 ** {{Flagicon|BRA}} [[リボニール・ルッシェル|トゥット]] (2002年予選リーグ第5戦(5月9日)・鹿島戦) ** {{Flagicon|BRA}} エメルソン (2002年準決勝(10月2日)・G大阪戦、2003年準決勝第2戦(10月8日)・清水戦) ** {{Flagicon|JPN}} [[田中達也 (1982年生のサッカー選手)|田中達也]] (2004年準決勝(10月11日)・名古屋戦) ** {{Flagicon|BRA}} ワシントン (2006年予選リーグ第6戦(5月21日)・横浜FM戦) ** {{Flagicon|BRA}} エジミウソン (2008年予選リーグ第2戦(3月23日)・京都戦) ** {{Flagicon|JPN}} 興梠慎三 (2016年準決勝第2戦(10月9日)・FC東京戦) ; 天皇杯 * 4得点 ** {{Flagicon|JPN}} 盛田剛平 (2000年2回戦(12月3日)・[[ホンダロックサッカー部|ホンダロック]]戦) * 3得点 ** {{Flagicon|JPN}} [[柱谷幸一]] (1992年2回戦(12月6日)・[[富士通サッカー部]]戦) === その他記録 === ; [[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]初の得点 : [[1996年のJリーグ]]第30節(11月9日)の横浜F戦で、79分に[[ペナルティーキック]]を田北雄気が決め、ゴールキーパーによる初の得点を記録した(<ref group="注">他には[[1999年のJリーグカップ]]で京都の[[松永成立]]、2004年のJ2で横浜FCの[[菅野孝憲]]、2006年のJ2で東京Vの[[高木義成]]が記録している。</ref>)。 ; 1試合2名の[[ハットトリック]] : 2004年8月21日の東京V戦で永井雄一郎と[[山瀬功治]]の2名がハットトリックを達成。これは1998年9月26日に磐田の[[奥大介]]と[[高原直泰]]が達成して以来2例目。 == スタジアム == === ホームスタジアム === ホームスタジアムは[[埼玉スタジアム2002|埼玉スタジアム]]と、Jリーグ加盟当初からのホームスタジアムであった[[さいたま市駒場スタジアム|浦和駒場スタジアム]]の2か所である。駒場はJリーグ公式サイト上ではホームスタジアムとして記述が残されている<ref name="jleague" /> ものの、レッズ主管試合の開催は[[2010年]]を最後に行われていない(天皇杯で使用した実績はあるが、天皇杯はレッズ主催ではない)。なお、Jリーグ発行の[[Jリーグオフィシャル書籍|ファンズガイド]]では[[2011年]]より駒場はホームスタジアムの紹介から外れている。過去のホームゲーム開催スタジアムは「[[#年度別観客動員記録|当項目]]」を参照のこと。 なお、[[2020年のJ1リーグ]]では、埼玉スタジアムが[[2020年東京オリンピック]]の男子サッカーの会場となっていることから、[[7月5日]]に[[北海道コンサドーレ札幌]]戦をリーグ戦としては2009年以来となる駒場での開催が本来は予定されていたが、全世界的な[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響によりJリーグ主催大会の日程が長期中断したことや、東京五輪自体も2021年に1年順延されたことから、日程の空きが生じたことを受け、駒場での開催はなくなり、改めて再編された日程で組み込まれたその前日・[[7月4日]]の[[横浜F・マリノス]]戦は駒場ではなく埼玉スタジアムで[[無観客試合|リモートマッチ(無観客試合)]]として行われた。 [[2021年]]は、同様の理由で[[8月14日]]に[[サガン鳥栖]]戦と[[8月25日]]に[[サンフレッチェ広島]]戦とリーグ戦2試合が駒場スタジアムで行われた。 [[2023年]]は埼玉スタジアムの芝生の張替え・養生工事のため、ホーム開幕戦の[[3月4日]]の[[セレッソ大阪]]、[[3月18日]]の[[アルビレックス新潟]]とのリーグ戦2試合と、[[3月26日]]のルヴァンカップ主管開幕戦・[[清水エスパルス]]戦の3試合に使用された<ref>{{Cite web|和書|title=試合日程 {{!}} 試合・練習 |url=http://www.urawa-reds.co.jp/game/ |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref>。同年10月、イギリスの月刊フットボール誌[[フォーフォーツー|FourFourTwo]]にて掲載された「世界最高のフットボールスタジアムランキング」にて、埼玉スタジアムが32位にランクインした<ref>{{Cite web|和書|title=FourFourTwo |url=http://www.fourfourtwo.com/features/the-best-football-stadiums-in-the-world#lnhfpo233y6dola7bj4 |website=The best football stadiums in the world |date=2023-10-06 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref> 。 === 年度別観客動員記録 === *「埼玉」:[[埼玉スタジアム2002]]、「駒場」:[[さいたま市駒場スタジアム|浦和駒場スタジアム]]、「国立」:[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]] * 太字は歴代最多および最少 * 試合数および観客動員データはリーグ戦のみ(関連:[[日本プロサッカーリーグ#試合入場者数]])。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:small" |- !rowspan="2"|年度!!rowspan="2"|所属!!rowspan="2"|合計<br />動員数!!rowspan="2"| !!colspan="3"|最多動員数!!rowspan="2"| !!colspan="3"|最少動員数!!rowspan="2"| !!rowspan="2"|平均<br />動員数!!rowspan="2"|試合数!!rowspan="2"|ホームゲーム開催スタジアム<br />(太字は本拠地登録されたスタジアム)!!rowspan="2"|備考 |- !動員数!!相手!!会場!!動員数!!相手!!会場 |- |1993||rowspan="6"|J||206,265||rowspan="28"| ||50,348||清水||rowspan="7"|国立||rowspan="28"| ||8,258||rowspan="3"|広島||rowspan="2"|駒場||rowspan="28"| ||11,459||18||align="left"|'''駒場'''17、国立1|| |- |1994||406,457||55,125||rowspan="2"|V川崎||7,854||18,475||22||align="left"|'''駒場'''8、[[さいたま市大宮公園サッカー場|大宮]]7<br/>国立4、[[東平尾公園博多の森陸上競技場|博多陸]]1<br/>[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユ]]1、[[富山県総合運動公園陸上競技場|富山]]1||<ref group="注" name="大宮">1994年第2ステージと1995年代1ステージは駒場のスタンド増築工事のため、暫定として大宮を本拠地とする</ref> |- |1995||508,554||56,652||9,168||大宮||19,560||26||align="left"|'''駒場'''12、大宮10<br/>国立3、[[新潟市陸上競技場|新潟陸]]1||<ref group="注" name="大宮"/><ref group="注">第2ステージより駒場の本拠地再開</ref> |- |1996||364,936||50,974||京都||'''5,611'''||福岡||札幌厚別||24,329||15||align="left"|'''駒場'''11、国立3<br/>[[札幌厚別公園競技場|札幌厚別]]1||rowspan="3"| |- |1997||328,060||38,707||広島||14,937||横浜F||rowspan="13"|駒場||20,504||16||align="left"|'''駒場'''14、国立2 |- |1998||385,994||46,547||柏||16,971||V川崎||22,706||17||align="left"|'''駒場'''14、国立3 |- |1999||J1||319,146||46,401||鹿島||13,329||柏||21,276||15||align="left"|'''駒場'''12、国立3||<ref group="注">[[J2リーグ]]降格</ref> |- |2000||J2||338,457||'''20,207'''||鳥栖||駒場||'''13,408'''||新潟||16,923||20||align="left"|'''駒場'''20||<ref group="注">[[J1リーグ]]復帰</ref> |- |2001||rowspan="20"|J1||400,799||60,553||横浜FM||rowspan="20"|埼玉||16,808||清水||26,720||rowspan="4"|15||align="left"|'''駒場'''11、埼玉2<br/>国立2||<ref group="注">埼玉スタジアム完成。但し[[2002 FIFAワールドカップ]]開催に伴う芝生保護のため、本拠地は引き続き駒場のみ</ref> |- |2002||394,445||57,902||磐田||14,499||柏||26,296||align="left"|'''駒場'''9、埼玉5<br/>国立1|| |- |2003||432,825||51,195||鹿島||18,335||京都||28,855||align="left"|'''駒場'''8、'''埼玉'''7||<ref group="注">この年、正式に埼玉スタジアムも本拠地登録され、駒場・埼玉併用に</ref><ref group="注">[[2003年のJリーグカップ|ナビスコ杯優勝]]</ref> |- |2004||549,903||58,334||横浜FM||18,029||柏||36,660||align="left"|'''埼玉'''9、'''駒場'''6||<ref group="注">他、CS:埼玉1</ref><ref group="注" name="J1リーグ第2ステージ優勝">J1リーグ第2ステージ優勝</ref> |- |2005||669,066||55,476||名古屋||15,760||清水||39,357||rowspan="16"|17||align="left"|'''埼玉'''13、'''駒場'''4|| |- |2006||774,749||'''62,241'''||G大阪||16,040||大分||45,573||align="left" rowspan="2"|'''埼玉'''15、'''駒場'''2||<ref group="注">J1リーグ優勝</ref> |- |2007||793,347||62,123||鹿島||16,709||神戸||46,667||<ref group="注">[[AFCチャンピオンズリーグ2007|ACL]]優勝</ref> |- |2008||809,353||57,050||G大阪||16,225||京都||47,609||align="left" rowspan="2"|'''埼玉'''16、'''駒場'''1||rowspan="2"| |- |2009||751,565||53,783||鹿島||18,777||神戸||44,210 |- |2010||678,994||55,410||名古屋||21,625||山形||rowspan="11"|埼玉||39,941||align="left" rowspan="11"|'''埼玉'''17||<ref group="注">登録上は駒場と本拠地並列も、リーグ戦は埼玉のみに統合(カップ戦は駒場も使用)</ref> |- |2011||576,477||54,441||柏||20,240||福岡||33,910||<ref group="注">登録上は駒場と本拠並列も、カップ戦(天皇杯除く)を含め、Jリーグ公式戦全試合を埼玉のみに会場を一本化</ref> |- |2012||622,772||51,879||名古屋||25,743||川崎||36,634|| |- |2013||630,701||54,905||C大阪||23,295||磐田||37,100||<ref group="注">駒場の本拠登録抹消</ref> |- |2014||603,770||56,758||rowspan="2"|G大阪||19,777||rowspan="3"|甲府||37,736||<ref group="注">観客動員数は[[無観客試合]]となった第3節・清水戦は除いてある</ref><ref group="注">駒場の本拠登録復帰(但し公式戦には使用せず)</ref> |- |2015||658,668||53,148||22,363||38,746||<ref group="注">他、CS準決勝:埼玉1</ref><ref group="注">J1リーグ第1ステージ優勝</ref> |- |2016||627,898||56,841||横浜FM||22,766||36,935||<ref group="注" name="J1リーグ第2ステージ優勝"/><ref group="注">他、CS決勝:埼玉1</ref> |- |2017||570,215||57,447||鹿島||21,603||G大阪||33,542|| |- |2018||603,534||55,689||rowspan="2"|神戸||21,250||名古屋||35,502|| |- |2019||581,135||54,599||19,698||G大阪||34,184|| |- |2020|| || || || || || ||<ref group="注">当初予定は埼玉16、駒場1</ref> |} ===カップ戦(Jリーグ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム<ref>[http://footballgeist.com/ フットボールガイスト]</ref>=== :GS=グループステージ(予選リーグ)、PO=プレーオフステージ、PS=プライムステージ(決勝T=決勝トーナメントと同義) {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:small" |- !年度!!Jリーグ杯!!ACL!!備考 |- |1992||大宮3<br />川越1||rowspan=15|不参加|| |- |1993||大宮3|| |- |1994||(主催なし)||Jリーグ杯=完全トーナメント制 |- |1995||(非開催)|| |- |1996||駒場7|| |- |1997||駒場4||Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む |- |1998||rowspan="2"|駒場2|| |- |1999||rowspan="3"|Jリーグ杯=完全トーナメント制 |- |2000||駒場1 |- |2001||駒場3 |- |2002||駒場4||Jリーグ杯=駒場・決勝T1を含む |- |2003||駒場5||Jリーグ杯=駒場・決勝T2を含む |- |2004||埼玉1<br />駒場2||Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ |- |2005||埼玉3<br />駒場3||Jリーグ杯=埼玉・駒場とも決勝T1ずつ含む |- |2006||埼玉1<br />駒場3||Jリーグ杯=駒場・決勝T1含む |- |2007||埼玉1||埼玉6||ACL=埼玉・決勝T3を含む |- |2008||埼玉2<br />駒場1||埼玉2||ACL=埼玉・決勝T2のみ<br />(前回優勝につき準々決勝からシード) |- |2009||埼玉3<br />駒場1||rowspan="4"|不参加||Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む |- |2010||埼玉2<br />駒場1|| |- |2011||rowspan="2"|埼玉3||Jリーグ杯=完全トーナメント制<ref group="注">当初は予選リーグ+決勝トーナメントを予定していたが、[[東日本大震災]]による開催日程変更によりリーグ戦中止となった。</ref> |- |2012|| |- |2013||埼玉2||埼玉3||Jリーグ杯=埼玉・決勝T2のみ<br />(ACL出場につき準々決勝からシード) |- |2014||埼玉4||不参加||Jリーグ杯=埼玉・決勝T1含む |- |2015||埼玉1||rowspan="2"|埼玉3|| |- |2016||埼玉3||Jリーグ杯=埼玉・決勝T3のみ<br/>(ACL出場につき準々決勝からシード) |- |2017||埼玉1||埼玉7||Jリーグ杯=埼玉・決勝T1のみ<br />(ACL出場につき準々決勝からシード) |- |2018||埼玉4||不参加||Jリーグ杯=埼玉・PO1含む |- |2019||rowspan="2"|埼玉1||埼玉7||Jリーグ杯=埼玉・PS1のみ<br />(ACL出場につき準々決勝からシード)<br />ACL=埼玉・決勝T4含む |- |2020||不参加||Jリーグ杯=当初のGSは埼玉3の予定だったが、<br />新型コロナウィルスによる日程変更で1試合のみとなった |- |} === 最多観客動員試合 === ==== J1 ==== ; ホーム * 62,241人(2006年第34節・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)<br />'''※J1リーグ戦観客動員史上2位''' ** 9,822人(1994年1st第22節・横浜M戦、駒場競技場 - 改修前) ** 22,150人(1995年2nd第8節・磐田戦、駒場スタジアム - 改修後) ** 10,354人(1995年1st第26節・横浜F戦、大宮公園サッカー場) ** 56,652人(1995年1st第13節・V川崎戦、国立競技場) ; アウェイ * 61,246人(2008年第1節・横浜FM戦、日産スタジアム) ; 参考(リーグ戦以外の最高) * 64,899人([[2004年のJリーグ#チャンピオンシップ|2004サントリーチャンピオンシップ]]第1戦・横浜FM戦、[[横浜国際総合競技場]])<br />'''※Jリーグ主催公式戦史上最高観客動員''' * 67,005人([[FIFAクラブワールドカップ2007]]準決勝・[[ACミラン]]戦、横浜国際総合競技場)<br />'''※レッズ出場公式戦史上最高観客動員''' ==== J2 ==== ; ホーム * 20,207人(2000年第44節・鳥栖戦、駒場スタジアム) ; アウェイ * 19,825人(2000年第25節・札幌戦、[[札幌厚別公園競技場]]) === 最少観客動員試合 === ==== J1 ==== ; ホーム * 5,611人(1996年第21節・福岡戦、札幌厚別公園競技場) ** 7,854人(1994年1st第4節・広島戦、駒場競技場 - 改修前) ** 13,329人(1999年2nd第2節・柏戦、駒場スタジアム - 改修後) ** 9,168人(1995年1st第22節・広島戦、大宮公園サッカー場) ** 28,054人(2002年1st第9節・札幌戦、国立霞ヶ丘競技場) ** 19,977人(2014年第29節・甲府戦、埼玉スタジアム2002) * ※2014年の無観客試合を除く ; アウェイ * 3,610人(1997年2nd第1節・市原戦、市原臨海競技場) ==== J2 ==== ; ホーム * 13,408人(2000年第26節・新潟戦、駒場スタジアム) ; アウェイ * 4,891人(2000年第34節・甲府戦、[[山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場]]) == ユニフォーム == === チームカラー === * {{color box|#FF0000}} 赤<ref name="jleague" /> === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;" !掲出箇所!!スポンサー名!!表記!!掲出年!!備考 |- !rowspan="2"|胸 |[[ポラス]]||POLUS||2013年 - 2019年<br/>2021年 - ||リーグ戦、カップ戦に掲載<br/>2020年は背中 |- |[[三菱重工業]]||MITSUBISHI<br/>HEAVY INDUSTRIES||2017年<br/>2019年<br/>2022年 - ||ACLに掲載 |- !鎖骨 |[https://www.horikawasangyo.co.jp/ 堀川産業]||EneCle||2019年 - ||両側に掲出 |- !背中上部 |三菱重工業||align="center"|MITSUBISHI<br/>HEAVY INDUSTRIES||2017年 - 2019年<br/>2021年 - ||2020年は胸 |- !背中下部 |[[凸版印刷]]||TOPPAN||2022年 - ||<ref>{{Cite web|和書|title=凸版印刷株式会社様とのトップパートナー契約締結のお知らせ|url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%e5%87%b8%e7%89%88%e5%8d%b0%e5%88%b7%e6%a0%aa%e5%bc%8f%e4%bc%9a%e7%a4%be%e6%a7%98%e3%81%a8%e3%81%ae%e3%83%88%e3%83%83%e3%83%97%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%8a%e3%83%bc%e5%a5%91%e7%b4%84%e7%b7%a0/|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2022-01-12|language=ja}}</ref> |- !袖 |[[三菱自動車工業]]||MITSUBISHI<br/>MOTORS||2017年 - ||創設 - 2004年は胸<br/>2006年はパンツ<br/>2005年、2007年 - 2016年は背中上部<br/>2013年、2015年 - 2016年はACL用の胸 |- !パンツ前面 |[[DHL|ディー・エイチ・エル・ジャパン]]||DHL||2009年 - ||2007年 - 2008年は国際試合用の胸 |- !パンツ背面 |[https://www.tandsco.jp/ T&S]||NEXT<br/>PROTEIN||2021年 - ||<ref>{{Cite tweet |title=2021シーズンから株式会社 T&Sとオフィシャルパートナー契約を締結いたしました。浦和レッズ初のパンツ背面に同社の製品名「NEXT PROTEIN」が広告掲載されます。…|user=redsofficial |number=1364102945575329792 |date=2021-02-23 |accessdate=2021-04-03}}</ref> |} *スポンサーではないが、背中最下部に[[国際連合]]承認の[[NGO]]「[http://founap.org/ 国連の友アジアパシフィック](FOUNAP)」との連携による「SPORTS FOR PEACE!」のロゴが入っている(2013年 - )。同様にスポンサーではないが、クラブの誇り「We are REDS!」が同じ部分に入れられている(2006年 - )。 *左胸のエンブレム上に星(★)が横並びで3つ付けられているが、2017年までは両端が[[2004年のJリーグ|2004年のJ1・2ndステージ]]および[[2006年のJリーグ|2006年のJ1リーグ]]、真ん中の大きな星が[[AFCチャンピオンズリーグ2007]]の各優勝を表していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsgoal.jp/official/urawa/00059511.html|title=浦和レッズトップパートナー・新ユニホームについて|work=[[J's GOAL]]|date=2008-1-11|accessdate=2013-3-17}}</ref>。2018年からは、前年に[[AFCチャンピオンズリーグ2017]]にて優勝したことに伴い、左右2つの大きな星が2つのACL優勝を、その間の小さな星が2006年のJリーグ優勝を表すようにデザインが変更された<ref>[http://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/2018%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3-%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC%E5%8F%8A%E3%81%B3%E6%96%B0%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%95/ 2018シーズン ユニフォームパートナー及び新ユニフォームについて] 浦和レッドダイヤモンズ 2018年1月11日配信</ref>。[[AFCチャンピオンズリーグ2023/24]]以降は、J1リーグおよびACLのタイトルを同一の★のサイズで表現する<ref>{{Cite web|和書|title=クラブエンブレム上部の☆について |url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/202564/ |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2023-08-17 |accessdate=2023-09-09 |language=ja}}</ref>。 *2007年シーズンは、2006年のJ1リーグ年間優勝クラブであるため、日本サッカー協会のシンボルである[[八咫烏]]の付いた[[チャンピオン・エンブレム]]が右袖についていた。 === 練習着(プラクティスウェア)スポンサー === * DHL、三菱自動車工業、[[auカブコム証券|カブドットコム証券]]、トーシンパートナーズ<ref>{{Cite web|和書|title=電話番号0422671297の詳細情報「株式会社トーシンパートナーズ(不動産業)」 - 電話番号検索|url=https://www.jpnumber.com/numberinfo_0422_67_1297.html|website=www.jpnumber.com|accessdate=2020-12-04}}</ref>、[[三菱UFJニコス]]、[[メディカル・ケア・サービス]]、三菱重工業、[[三菱パワー]](2021年 -)<ref>{{Cite web|和書|title=2021シーズンから『三菱パワー株式会社』が トップパートナーに|url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/2021%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8E%E4%B8%89%E8%8F%B1%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%80%8F%E3%81%8C-%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97/|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2020-12-27|language=ja}}</ref> === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年:[[プーマ]] * 1993年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]](93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦は[[プーマ]] * 1997年:リーグ戦は[[アンブロ]]、カップ戦はプーマ * 1998年 - 2003年:プーマ * 2004年 - 現在:[[ナイキ]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #000; font-size:smaller" !colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Urawa Red Diamonds 1992 HOME FP|pattern_b= 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MOTORS]]||rowspan="16"|[[トーシンパートナーズ|トーシン]] |- |2000 |- |2001||rowspan="2"|[[三菱・パジェロ|PAJERO]] / <br />[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]] |- |2002||rowspan="2"|[[スマイルビット|Smilebit]] |- |2003||[[三菱・コルト|COLT]] / <br />[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]]||[[ヒューレットパッカード|hp]] |- |2004||[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]]||[[三菱ふそうトラック・バス|FUSO]]||rowspan="2"|[[セガゲームス|SEGA]]||rowspan="20"|[[ナイキ|NIKE]] |- |2005||rowspan="2"|[[SoftBank (携帯電話)#ボーダフォン|vodafone]]||[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]] |- |2006||[[三菱ふそうトラック・バス|FUSO]]||[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]] |- |2007||rowspan="2"|[[ザバス|ƧAVAS]]<ref name="ƧAVAS">スポンサーは2007年 - 2008年は[[明治製菓]]、2009年 - 2012年は[[明治 (企業)|明治]]。</ref> / <br />[[DHL]]||rowspan="10"|[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]]||rowspan="2"|[[三菱ふそうトラック・バス|FUSO]] |- |2008 |- |2009||rowspan="4"|[[ザバス|ƧAVAS]]<ref name="ƧAVAS" />||rowspan="15"|[[DHL]] |- |2010 |- |2011 |- |2012 |- |2013||[[ポラス|POLUS]] / <br />[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]] |- |2014||[[ポラス|POLUS]] |- |2015||rowspan="2"|[[ポラス|POLUS]] / <br />[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]]||rowspan="2"|[[トーシンパートナーズ|TOSHIN<br />PARTNERS]] |- |2016||- |- |2017||[[ポラス|POLUS]] / <br />[[三菱重工業|MITSUBISHI<br />HEAVY INDUSTRIES]]||rowspan="3"|[[三菱重工業|MITSUBISHI<br />HEAVY INDUSTRIES]]||rowspan="2"|[[日本ケンタッキー・フライド・チキン|KFC]]||rowspan="7"|[[三菱自動車工業|MITSUBISHI MOTORS]] |- |2018||[[ポラス|POLUS]]||colspan="2"|- |- |2019||[[ポラス|POLUS]] / <br />[[三菱重工業|MITSUBISHI<br />HEAVY INDUSTRIES]]||colspan="2" rowspan="5"|[https://www.horikawasangyo.co.jp/ EneCle]||rowspan="3"|[[島忠|Shimachu<br/>HOME’S]] |- |2020||[[三菱重工業|MITSUBISHI<br />HEAVY INDUSTRIES]]<ref>{{Cite web|和書|title=2020シーズンユニフォーム(胸)パートナーのお知らせ|url=http://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/2020%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E8%83%B8%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2019-12-24|language=ja}}</ref>||[[ポラス|POLUS]]<ref>{{Cite web|和書|title=2020シーズン ユニフォーム及びプラクティスウェアパートナーについて {{!}} クラブインフォメーション|url=http://www.urawa-reds.co.jp/static/info/162850.html|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2019-12-24|language=ja}}</ref>||- |- |2021||[[ポラス|POLUS]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=2021シーズン ユニフォームおよびプラクティスウェアパートナーについて|url=https://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/2021%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%B3-%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7/|website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2020-12-27|language=ja}}</ref>||rowspan="3"|[[三菱重工業|MITSUBISHI<br />HEAVY INDUSTRIES]]<ref name=":0" />||rowspan="3"|[https://www.tandsco.jp/ NEXT<br/>PROTEIN] |- |2022||rowspan="2"|[[ポラス|POLUS]] / <br />[[三菱重工業|MITSUBISHI<br />HEAVY INDUSTRIES]]||rowspan="2"|[[凸版印刷|TOPPAN]] |- |2023 |} *国際大会(ACLなど)の試合時は規定により胸広告のみ掲出。 *2007年および2008年はリーグ戦、カップ戦は「ƧAVAS」・ACLは「DHL」、2013年・2015年 - 2016年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI MOTORS」、2017年・2019年・2022年はリーグ戦、カップ戦は「POLUS」・ACLは「MITSUBISHI HEAVY INDUSTRIES」。 == パートナー(スポンサー) == {{Main2|スポンサーについては、[https://www.urawa-reds.co.jp/business/partner.php パートナー紹介] を}} <!-->微妙に違っているみたいなので、コメントアウトに。また、「メイン」「サブ」etc.ではなく、「トップ」「オフィシャル」「プレミアム」「ファミリー」 === メイン === * [[ポラス]] * [[ナイキ]] * [[三菱自動車工業]]★ * [[トーシンパートナーズ]] * [[DHL|ディー・エイチ・エル・ジャパン]] * [[カブドットコム証券]] * [[ぴあ]] === サブ === {{表2列| * [[明治 (企業)]] * [[曙ブレーキ工業]] * [[朝日新聞社]] * [[エコ計画]] * [[麒麟麦酒]]埼玉支社★ * [[三国コカ・コーラボトリング]] * [[埼玉縣信用金庫]] * [[農業協同組合|JAグループさいたま]] * [[ジャスト (埼玉県)|Just]] * [[スポーツオーソリティ]] * [[So-net]] * [[でんきち]] * [[トルコ航空]] * [[日本郵船]]★ | * [[ファミリー引越センター]] * [[藤島住宅]] * [[ファミリーマート]] * [[富士住建]] * [[メルボメンズウェアー]] :2011年7月よりオフィシャルスーツを採用。これに伴い[[ヒューゴ・ボス]]との契約は終了。 * [[丸和運輸機関]] * [[明治安田生命保険]]★ * [[与野フード]] * [[りそなカード]] :2010年7月よりクラブとの[[提携カード]]である[http://www.resonacard.co.jp/makescard/urawareds.html 浦和レッズカード]を発行。 * [[ルフトハンザドイツ航空]] }} * [[東京海上日動火災保険]]★ === ブロンズ級 === {{表2列| * [[アイル・コーポレーション]] * [[日刊スポーツ]] * [[日本一]] * [[日通航空]] * [[阪急交通社]] * [[ピーエス三菱]]★ | * [[三菱地所]]★ * [[三菱電機]]★ * [[三菱重工業]]★ * [[三菱商事]]★ * [[三菱マテリアル]]★ * [[横浜ゴム]] }} ★は[[三菱グループ]] --> == アカデミー == 2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、アカデミーの充実に力を注ぐことになる。 2016年、[[矢島慎也]]がアカデミー出身選手として初めて[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。 2018年、[[原口元気]]がアカデミー出身選手として初めて[[FIFAワールドカップ]]日本代表に選出され、本大会出場を果たし得点も決めた。 2023年現在、アカデミー出身選手として以下の選手が各国[[ナショナルチーム|A代表]]に選出されている。 * {{fb|JPN|name=日本代表}} ** [[伊藤敦樹]], [[宇賀神友弥]], [[鈴木彩艶]], [[角田涼太朗]], [[橋岡大樹]], 原口元気, [[山田直輝]] * {{fb|PHL|name=フィリピン代表}} ** [[佐藤大介 (サッカー選手)|佐藤大介]] * {{fb|HKG|name=香港代表}} ** [[中村祐人]] === ユース === 2008年の[[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会]]で優勝するなど、ユース世代のチームとしても頭角を表してきている。 '''タイトル''' * '''[[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会]]:1回''' ** [[高円宮杯第19回全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|2008]] * '''[[高円宮杯 JFA U-18サッカープリンスリーグ関東]]1部:1回''' ** [[高円宮杯U-18サッカーリーグ2016|2016]] * '''[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会]]:1回''' ** 1997 * '''[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]]:1回''' ** [[2015Jユースカップ|2015]] * '''[[イギョラカップ]]''':1回 ** 2017 * '''[[Jリーグインターナショナルユースカップ]]''':1回 ** 2015 * '''[http://jssl-singapore7s.com The JSSL Professional Academy 7s]''':1回 ** 2018 === ジュニアユース === ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。 '''タイトル''' * '''[[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会]]:2回''' ** [[高円宮杯第17回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会|2005]], 2013 * '''[[関東ユース (U-15)サッカーリーグ|関東ユース(U-15)サッカーリーグ(1部)]]:3回''' ** 2009, 2013, 2015 * '''[[日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会]]:2回''' ** [[第16回日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|2001]], 2005 * '''三菱重工カップ''':1回 ** 2022 === ジュニア === 2013年よりジュニアが新設され活動を開始している。 4種(小学生年代)で実績を残している埼玉県下の小学生を対象にセレクションを実施している。 セレクション応募者数はトップチームの人気とあいまって全国でも有数である。 ''' タイトル ''' * '''磐田U-12国際サッカー大会''':1回 ** 2022 === 出身選手 === * [[浦和レッドダイヤモンズの選手一覧#育成組織出身者]] === ハートフルスクール === また、ハートフルクラブの一環として小学生向けのサッカースクール(「ハートフルスクール」)を[[さいたま市駒場スタジアム|浦和駒場スタジアム]]、[[レッズランド]]、[[東松山市|東松山]]、[[熊谷スポーツ文化公園#彩の国くまがやドーム|くまがやドーム]]、[[埼玉スタジアム2002|埼玉スタジアム]]、与野八王子で開催している。 == マスコット == * レディア(Redia) (1992年3月31日誕生) :浦和市(当時)生まれ。この日行われたクラブ発足記者会見で発表され、同年6月10日に命名された。[[伊勢丹浦和店]]前の歩道には、選手の足型とともにレディアの足型が埋め込まれている他、北浦和駅周辺にはレディアの像がある。 * フレンディア(Friendia) (1997年1月26日にレディアと結婚) * シャーレくん(Schalekun) (2006年12月2日誕生) * ディアラちゃん(Diarachan) (2006年12月2日誕生) {{Main|レディア (浦和レッドダイヤモンズ)}} == エンブレム == [[エンブレム]]はクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である[[埼玉県師範学校]](現在の[[埼玉大学]][[教育学部]]の前身校の一つ)の校舎「[[鳳翔閣]]」や埼玉県の県花である[[サクラソウ]]が描かれている。 == ロゴ == 初代[[ロゴ]]は、クラブ創立から2代目ロゴ発表まで使用された<ref name="release20180201">{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/クラブロゴデザインの刷新について/ |title=クラブロゴデザインの刷新について |publisher=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2018-02-01 |accessdate=2023-09-06 |language=ja}}</ref><ref name="soccerking20180201">{{Cite news|title=なぜ浦和レッズはロゴを変えたのか?|url=http://www.excite.co.jp/news/article/Soccerking_709820/|newspaper=[[サッカーキング]] |date=2018-02-01 |accessdate=2023-09-06 |publisher=[[サッカーキング]]}}</ref>{{Refnest|group="注"|2018シーズンは2代目ロゴと併用。 <ref name="release20180201" />}}。 [[2018年]][[2月1日]]、クラブ設立25周年を機に、クラブの価値観や行動規範を具現化した2代目ロゴが発表された<ref name="release20180201" /><ref name="soccerking20180201" />。デザインは[[日本デザインセンター]]が手掛けた<ref name="ndctwitter20180216">{{Cite tweet |title=創設25周年を期に刷新した浦和レッズのクラブロゴを、日本デザインセンターが制作しました。……|user=ndccojp |number=964324623734079488 |date=2018-02-16 |accessdate=2023-09-09}}</ref><ref name="ndcfb20180214">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/story.php/?id=100064517177153&story_fbid=1792366150775025 |title=創設25周年を期に刷新した浦和レッズのクラブロゴを、日本デザインセンターが制作しました。 |publisher=日本デザインセンター |date=2018-02-14 |accessdate=2023-09-06}}</ref>。デザインはエンブレムとの親和性を考えたシンプルなものとし、一文字ずつのエッジに配した、フラッグを想起させる三角形のフォルムには、浦和レッズの熱く前向きな姿勢と「人・街・サッカー」の意味を込め、未来に向かって加速する姿を表現している<ref name="ndcfb20180214" />。 == 入場曲・ 公式ソング == * ファースト・インプレッション - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]開幕当初、佐藤仁司広報グループ・チーフマネジャーを中心とした数名のスタッフが、市販されていない[[著作権]]なしのフリーユースのサウンド・ライブラリーを試聴し、7曲目辺りで流れたこの曲に皆の関心が集まったことから選ばれた。 *[[We are Diamonds]] - レッズのオフィシャルソング。原曲は[[ロッド・スチュワート]]の「[[セイリング (ロッド・スチュワートの曲)|セイリング]]」。埼玉スタジアムでのホームゲームでバックスタンドのアッパースタンドの最上部にその歌詞が掲げられている。ホーム・アウェイにかかわらず勝利後に歌われるので、サポーターの間では通称「勝利の歌」として親しまれているが、必ずしも歌われるわけではなく、カップ戦第1戦がホームの場合や連敗中などの理由で自粛する事がある。この曲を契機として、2009年にはスチュワートと[[加藤順大]]との対談が行われている<ref>[http://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8/ ロッド・スチュワートからのメッセージ] URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEB SITE 2009年3月17日配信</ref>。元々はサポーターだけが歌っていたが、2012年から[[槙野智章]]の発案により、ホームゲームに限って選手とともに歌うようになった<ref>[http://www.urawa-football.com/post/7355/ 吉沢康一×椛沢佑一緊急対談『We are Diamonds』その意味、重さを知ることが重要だ。] 浦和フットボール通信 2012年8月2日</ref>。 * GO! REDS GO! - 「We are Diamonds」の[[カップリング曲]]。スタジアムで選手紹介時にかかっていたが、リニューアルに伴い2012年シーズンで終了<ref>2013年からは[[Two Steps from Hell]]の"Strength of a Thousand Men"のアレンジバージョンを使用している</ref>。 * KEEP ON RISING! - レッズのオフィシャルサポーターズソング。2007年10月からJR[[浦和駅]]の[[京浜東北線]]南行(東京・横浜方面)ホームで、発車メロディーに採用されている。また、同じく埼玉スタジアムでレッズ戦がある場合に限り[[埼玉高速鉄道]][[浦和美園駅]]でも発車メロディーに採用されている。 == サポーター == [[ファイル:Reds Choreography01.JPG|thumb|220px|2013年、引退する[[山田暢久]]に向けてサポーターが描いたビジュアルサポート(人文字)]] [[1993年]]のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られている<ref name="読売20061204">{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/kikaku/051/2.htm|archiveurl=http://web.archive.org/web/20140313153025/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/kikaku/051/2.htm|title=《中》圧巻 熱烈サポーター|publisher=[[読売新聞|YOMIURI ONLINE]]|archivedate=2006年12月4日|accessdate=2014年11月30日}}</ref>。初期の応援を担った「[[クレイジー・コールズ]]」の[[吉沢康一|リーダー]]はロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて今に続くサポーターの応援の原型を作り上げ<ref name="読売20061204"/><ref name="MDP">[[清尾淳]][http://www.saishin.co.jp/column/seio/248.html #248 歴史+追伸] - MDPはみだし話{{リンク切れ|date=2023-10}}</ref>、[[1997年]]から[[2014年]]にかけて活動していた「[[URAWA BOYS]]」や「URAWA BOYS」を中心とした連合体「[[クルバ・エスト]]」にも受け継がれた<ref name="MDP"/>。また、「日本一のサポーター」と形容されることもあるが<ref name="読売20061204"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.saitama-np.co.jp/pdf/071114/pdf.html |title=浦和 ACL 日本勢初V |publisher=[[埼玉新聞]] |date=2007年11月14日 |accessdate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2023-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00149465.html |title=【2013シーズン始動!】浦和:新加入選手・新ユニフォーム発表記者会見での出席者コメント(13.01.15) |publisher=J's GOAL |date=2013年1月15日 |accessdate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2023-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.urawa-reds.co.jp/archive/R_voice/Vol43/page2.htm.html|title=2001浦和レッズ新加入選手記者発表会|publisher=REDS VOICE|date=2001年2月9日|accessdate=2014年11月30日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=松本博之 |url=http://www.bugin-eri.co.jp/doc/r0504.pdf |title=特別調査レポート 浦和レッズはなぜ成功しているのか? “11(イレブン)”のその秘密を探る〜プロスポーツと地域社会の在り方を通して〜 |publisher=ぶぎん地域経済研究所 |format=PDF |date=2005年3月31日 |accessdate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2023-10}}</ref><ref name="関東経済産業局">{{Cite web|和書|author=松本博之 |url=http://www.kanto.meti.go.jp/tokei/hokoku/data/20fy_sports/6_dai3syou.pdf |title=第3章 ベストプラクティス21選 |publisher=[[経済産業省]] 関東経済産業局 |format=PDF |date=2005年3月31日 |accessdate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2023-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[清尾淳]] |url=http://www.saishin.co.jp/column/weps/005.html |title=「もう」と「まだ」の間の針を動かすのは |publisher=Weps うち明け話 |format=PDF |date=2005年3月31日 |accessdate=2014年11月30日 |deadlinkdate=2023-10}}</ref>、[[経済産業省]]関東経済産業局は「Jリーグ開幕当初はチームが弱く、『俺たちが支えよう』という気持ちの醸成が一助となった<ref name="関東経済産業局"/>」、[[2006年]]12月4日付けの『[[読売新聞]]』は「応援の原型を作り上げたサポーターがメディアに取り上げられ、盛り上がり次々に若者が集まった」ことを理由の一つとしている<ref name="読売20061204"/>。 また海外からも熱狂的なサポーターとして知られており、フランス誌『So Foot』は世界のサポーター10選を紹介し、その中に日本の浦和レッズが世界9位に選出された。この企画で紹介されたチームの中でアジアから選ばれたのは浦和のみで、ヨーロッパが7チーム、南米とアフリカからそれぞれ1チームとなっている<ref>2013/10/28・フランス誌『So Foot』より</ref>。 レッズのサポーターは熱狂的であるが、それが故にトラブルを引き起こすサポーターも{{要出典|範囲=一部|date=2023年8月}}存在しており、2000年以降、サポーター起因によるクラブへの懲罰事案は11件発生している<ref name="nikkan230919">{{Cite web|和書|title=【浦和】参加資格はく奪にまで至った理由は自浄作用のなさ「懲罰事案は00年以降だけでも11件」 - J1 : 日刊スポーツ |url=http://www.nikkansports.com/soccer/news/202309190001232.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-10-06 |language=ja |last=八反誠}}</ref>。 [[2013年]]の[[清水エスパルス|清水]]戦(アウェイ)では試合前に相手チーム選手が乗ったバスに対して爆竹や発煙筒を投げつけた後、入場を制止した警備員に対し暴行を加えた容疑で4人が逮捕された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY201308240401.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130904021514/http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY201308240401.html|title=浦和サポーター、警備員に暴行の疑い 4人を現行犯逮捕|publisher=[[朝日新聞|朝日新聞デジタル]]|archivedate=2013年8月25日|accessdate=2014年11月30日}}</ref>。 [[2014年]]3月8日の[[サガン鳥栖|鳥栖]]戦(ホーム)で起きた[[浦和レッズ差別横断幕事件]]によりクラブは史上初の無観客試合開催という重い制裁を受けた。この事件をきっかけとして、[[浦和レッドダイヤモンズ・レディース|レッズレディース]]を含むすべての直系育成チーム<ref>{{Cite web|和書|title=浦和レッドダイヤモンズ公式サイト |url=http://www.urawa-reds.co.jp/ |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2023-10-05 |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref> の試合における横断幕(ビッグフラッグ、ゲートフラッグ、[[人文字]]、[[プラカード]]も含む)、大旗の使用をアウェイ・ホーム開催を含め一切禁止する自主規制が一時期実施され<ref>{{Cite web|和書|title=広島戦以降の横断幕、ゲートフラッグ、旗類、装飾幕等の掲出について |url=http://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E6%88%A6%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E6%A8%AA%E6%96%AD%E5%B9%95%E3%80%81%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0%E3%80%81%E6%97%97%E9%A1%9E%E3%80%81%E8%A3%85/ |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2014-03-13 |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref>、「URAWA BOYS」を含むサポータークラブ連合体『クルバ・エスト』を構成する11組のサポーターズクラブが解散した。また、「URAWA BOYS」は[[2018年]]より活動を再開している。 2014年フランス『ラ・グリンタ』の「2013-14シーズンのコレオグラフィー・トップ10」で世界7位に選ばれた<ref name="ReferenceA">{{Cite web|和書|title=浦和サポがバルサやリバプールと肩を並べる…米メディア選定“世界トップ5”にランクイン |url=http://web.gekisaka.jp/news/jleague/detail/?228279-228279-fl |website=ゲキサカ |date=2017-10-12 |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref>。 [[2017年]]、[[スルガ銀行チャンピオンシップ2017]]で[[アソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウ|シャペコエンセ]]([[ブラジル]])と対戦した際、同クラブの復興を願いトップチームやレディースチームのホームゲーム会場等で、義援金募金活動(募金合計:4,246,634円)を行った。さらに浦和レッズサポーターは募金活動への参加に加え、「サッカーを愛する仲間として、何か力になりたい」という思いから試合終了直後、ポルトガル語で「世界の舞台でもう一度会おう、友よ!」と書かれた横断幕と共に、緑色のビジュアルシートでゴール裏のスタンドを埋めた。その際に使用したビジュアルシートを、企画主旨に賛同した[[DHL#DHLジャパン|DHLジャパン]]の輸送支援を受けシャペコエンセへ贈呈した<ref>{{Cite web|和書|title=シャペコエンセ(ブラジル)へのビジュアルシート贈呈のお知らせ |url=http://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9A%E3%82%B3%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%88%E8%B4%88/ |website=URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE |date=2017-10-11 |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref>。また、[[AFCチャンピオンズリーグ2017]]で浦和が優勝した際、公式[[Twitter]]で祝福のメッセージが送られた<ref>{{Cite web|和書|title=浦和のACL制覇にブラジルからも祝福。飛行機墜落事故のシャペコエンセが「おめでとう」 |url=http://www.footballchannel.jp/2017/11/27/post243197/ |website=フットボールチャンネル |date=2017-11-26 |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref>。同年、アメリカ『フォックス・スポーツ』による「最も筋金入りのファンを持つ5クラブ」に、[[CAリーベル・プレート]](アルゼンチン)、[[ガラタサライSK]]([[トルコ]])、[[リヴァプールFC]](イングランド)、[[FCバルセロナ]](スペイン)と並び選出された<ref name="ReferenceA"/>。 [[2022年]]には5月21日の[[鹿島アントラーズ|鹿島]]戦(ホーム)でサポーターが試合前および試合中に「Jリーグ新型コロナウイルス対策ガイドライン」に違反する秩序を乱す行為(声出しによる応援など)を行った事、また同年7月22日の[[ガンバ大阪|G大阪]]戦(アウェイ)でも同様の行為が行われ、過去にも同様の行為を繰り返されたことを重視し、クラブに対し過去最高額となる罰金2,000万円と譴責処分が科せられた<ref>{{Cite web|和書|title=懲罰決定について:Jリーグ公式サイト(J.LEAGUE.jp) |url=http://www.jleague.jp/news/article/22898/ |website=Jリーグ.jp(日本プロサッカーリーグ) |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Jリーグ、浦和に罰金2000万円 声出し応援で |url=http://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC26C250W2A720C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-07-26 |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref>。 [[2023年]]8月2日の天皇杯4回戦・[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦(アウェイ)で浦和サポーター70人以上がスタジアムで暴徒化し、相手サポーターへの威嚇行為や警備員などへの暴行、横断幕などへの破壊行為を行い、[[愛知県警察]]が出動する暴動が発生した。当該サポーターに関しては[[日本サッカー協会]](JFA)が同月31日に国内各カテゴリの試合について17人を無期限の入場禁止、1人を5試合の入場禁止とする処分を行ったが、クラブに関しては同年9月19日のJFA規律委員会で、2024年の天皇杯参加資格の剥奪と譴責処分が科された<ref>{{Cite web|和書|title=【規律委員会】 2023年9月19日付 公表 |url=http://www.jfa.jp/about_jfa/sanction/news/00032849/ |website=www.jfa.jp |access-date=2023-10-06 |language=ja}}</ref>。このように不祥事が依然として続いている事から、クラブ・サポーターの自浄作用のなさについて各方面から問題提起されている<ref name="nikkan230919"/>。今回の天皇杯での暴動行為を受け、浦和レッズでは10月26日、日本サッカー協会やJリーグなどに定めのない、「永久入場禁止処分」や「損害賠償請求権」などの行使を含む、クラブ独自の処分基準を設け、大会規定の許す限りはクラブ主体で処分をすることを発表した<ref>[http://www.urawa-reds.co.jp/clubinfo/205349/ 浦和レッズサポーターによる違反行為について(第七報)]</ref>。 == メディア == * [[テレビ]] ** [[REDS TV GGR]]([[テレビ埼玉]])毎週金曜 23:30-24:00(再放送)翌日土曜 7:30-8:00 ** REDS NAVI(テレ玉)2010年を持って放送終了。 ** [[REDS! GET GOAL!]]([[J:COM さいたま]]、[[ジェイコム東上|J:COM 東上]]、[[J:COM 所沢]]、[[ジェイコム川口戸田|J:COM 川口戸田]]、[[ジェイコム北関東|J:COM 北関東]]:[[ケーブルテレビ]]・制作 [[ジェイコム埼玉・東日本|ジェイコムさいたま]])インタビュアー 河合貴子 ** [[スーパーJリーグマッチ]]([[テレビ埼玉|テレ玉]])ホームゲームの大半を中継 ** [[REDS REVIEW]](スカパー!・スカチャン1(CS801、Ch.581、Ch.181)、BSスカパー!、スカパー!オンデマンド) * [[ラジオ]] ** [[WARMING UP MUSIC]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]]) *** 「ALL THE REDS」 毎週月〜金曜 6:53- *** 「SPORTS SHOT」 毎週月〜金曜 7:26- *** 「HEART BEAT REDS」 毎週月〜金曜 8:26- ** FUN FUN SOCCER(NACK5) 毎週土曜 6:00-7:00 2016年9月をもって終了 ** [[CityFMさいたま|REDS WAVE]](87.3&nbsp;MHz) '''「24時間いつ聴いてもレッズ」'''をコンセプトにした[[コミュニティFM]]。浦和レッズと浦和をメインとするさいたま市の街の情報が中心で2005年12月に開局した。 ** [[週刊☆サッカー王国]] ([[NHKさいたま放送局|NHK-FM さいたま放送局]]) 毎週金曜 18:00-18:50 * [[新聞]]・[[雑誌]] ** [[埼玉新聞]] ([[地方紙]]) ** [[浦和レッズマガジン]]([[フロムワン]]発行、[[朝日新聞出版]]発売)浦和レッズ[[専門雑誌]] ** [[浦和フットボール通信]]([[フリーペーパー]])浦和レッズ・浦和の街の情報を集めた[[季刊誌]] ** [[浦和レッドダイヤモンズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム|マッチデープログラム]] [[1992年のJリーグカップ]]以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。定価は税込み300円(2005年、2006年は200円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集は埼玉新聞に勤務していた[[清尾淳]]が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。 ** [[朝日新聞タブロイド紙レッズトゥモロー]] 2007年からパートナーの朝日新聞が埼玉県内限定でホームゲーム前日に発行する4ページタブロイド紙を始めた。浦和レッズが編集しており、浦和レッズに関する情報が掲載されている。1回当たりの発行部数は60万部で、年間約25回発行される。サッカー専門の紙媒体としては、日本で最大部数となっている。 ** [[Little Diamonds]] ユース、ジュニアユースの活動を紹介するリポートで毎月1回発行。[[レッドボルテージ]]および[[大原サッカー場|大原]]のクラブハウスのサポーターズカフェで閲覧できるほか、クラブの公式サイトから[[Portable Document Format|PDF]]で閲覧できる([[2010年]][[4月4日]]配布のNo.48が最終号となった)。 ***[https://www.urawa-reds.co.jp/archive/littlediamonds/ Little Diamonds] * [[インターネット]] ** 浦和レッズ・オフィシャル・ウェブサイト 浦和レッズが発信する公式ホームページ。通常のニュースや情報のほか、動画による配信もある。 ** 浦和レッズモバイル 浦和レッズが運営する有料の携帯サイト。 ** レッズプレス 外部メディアが運営する有料の非公式携帯サイト。 == ホームタウン浦和 == [[ファイル:埼玉県庁標識.JPG|270px|thumb|浦和区内のレッズの旗]] 旧[[浦和市]]域([[浦和地区]])には、2023年時点で約60万人が居住し、[[桜区]]、[[浦和区]]、[[南区 (さいたま市)|南区]]、[[緑区 (さいたま市)|緑区]]に分かれている。サッカーが盛んな地域という他、[[埼玉県立浦和高等学校|県立浦和高校]]や[[浦和画家]]などに象徴される[[文教都市]]や、[[高級住宅街]]としても知られている。 緑区の埼玉スタジアム2002を筆頭に、各区に浦和レッズに関連した施設が所在する。桜区には[[レッズランド]]、埼玉大学が所在している。浦和区には浦和駒場スタジアムや[[大原サッカー場]]、[[レッドボルテージ]]などの施設があり、[[伊勢丹浦和店]][[ルイ・ヴィトン]]前には主要選手の手形や足形の[[レリーフ]]が毎年設置されている([[伊勢丹浦和店#浦和レッズレリーフ]]を参照)。また[[浦和駅]]1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。そして南区には漫画・アニメ『[[赤き血のイレブン]]』の舞台のモデルである[[さいたま市立浦和南高等学校|浦和南高校]]が所在する。サッカーの街浦和として[[さいたま市役所]]や[[埼玉県庁]]などにおいてもポスターや旗の掲示を行っている。 埼玉スタジアムには浦和駅からの直行バスが運行されており、浦和駒場スタジアムがホームスタジアムだった頃と変わらず、週末には浦和駅周辺でもサポーターをみることができる。 また、各区とも駅周辺や商店街などを中心に浦和レッズの赤い幟や旗が掲げられており、[[中央区 (さいたま市)|中央区]](本町通りや[[北与野駅]])や[[岩槻区]]、[[越谷市]](主要スポンサーの[[ポラス]]本社が所在)などの旧浦和市域以外でも旗や幟をみることができる。 == 決算 == 浦和レッズの決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収入|営業収入}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!事業費 !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|管理費|一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |5,805 ||1,660 ||1,949 ||549 ||1,647 ||style="background-color:wheat" |5,448 ||4,986 ||2,342 ||462 ||style="background-color:wheat" |357 ||style="background-color:wheat" |167 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |7,078 ||2,288 ||2,531 ||688 ||1,571 ||style="background-color:wheat" |6,855 ||5,934 ||2,499 ||921 ||style="background-color:wheat" |223 ||style="background-color:wheat" |156 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |7,964 ||2,384 ||3,008 ||835 ||1,737 ||style="background-color:wheat" |7,744 ||6,958 ||2,841 ||786 ||style="background-color:wheat" |220 ||style="background-color:wheat" |62 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |7,091 ||2,374 ||2,866 ||350 ||1,501 ||style="background-color:wheat" |7,057 ||6,149 ||2,406 ||908 ||style="background-color:wheat" |34 ||style="background-color:wheat" |24 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |6,432 ||2,735 ||2,461 ||336 ||900 ||style="background-color:wheat" |6,358 ||5,595 ||2,464 ||763 ||style="background-color:wheat" |74 ||style="background-color:wheat" |6 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |5,625 ||2,256 ||2,249 ||279 ||841 ||style="background-color:wheat" |5,898 ||5,217 ||2,282 ||681 ||style="background-color:wheat" |-273 ||style="background-color:wheat" |-260 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 * 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |5,382 ||1,821 ||1,918 ||268 ||21 ||1,353 ||style="background-color:wheat" |5,290 ||1,866 ||615 ||364 ||67 ||55 ||2,302 ||style="background-color:wheat" |92 ||style="background-color:wheat" |61 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |5,353 ||2,121 ||1,988 ||267 ||18 ||959 ||style="background-color:wheat" |5,202 ||1,910 ||449 ||412 ||101 ||65 ||2,265 ||style="background-color:wheat" |150 ||style="background-color:wheat" |151 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |5,786 ||2,319 ||2,132 ||258 ||15 ||1,062 ||style="background-color:wheat" |5,633 ||2,016 ||497 ||434 ||102 ||62 ||2,522 ||style="background-color:wheat" |153 ||style="background-color:wheat" |92 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |5,854 ||2,380 ||1,982 ||263 ||16 ||1,213 ||style="background-color:wheat" |5,642 ||2,054 ||488 ||404 ||107 ||84 ||2,505 ||style="background-color:wheat" |212 ||style="background-color:wheat" |118 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |6,088 ||2,549 ||2,174 ||270 ||16 ||1,079 ||style="background-color:wheat" |5,961 ||2,099 ||539 ||420 ||105 ||73 ||2,725 ||style="background-color:wheat" |127 ||style="background-color:wheat" |51 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!物販 !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!物販 !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |6,606 ||2,593 ||2,375 ||319 ||14 ||778 ||527 ||style="background-color:wheat" |6,426 ||2,381 ||594 ||450 ||113 ||71 ||502 ||2,315 ||style="background-color:wheat" |180 ||style="background-color:wheat" |173 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=5805, 7078, 7964, 7091, 6432, 5625, 5382, 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||1,450 ||1,135 ||315 ||160 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||1,297 ||921 ||376 ||160 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||1,129 ||602 ||527 ||160 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||1,279 ||659 ||620 ||160 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||1,309 ||571 ||738 ||160 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||1,549 ||760 ||789 ||160 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||2,015 ||828 ||1,187 ||273 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 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{{Commonscat|Urawa Red Diamonds}} * [[浦和レッドダイヤモンズの選手一覧]] * [[浦和レッドダイヤモンズの年度別成績一覧]] * [[浦和レッドダイヤモンズレディース]] * [[レッズランド]] * [[さいたまシティカップ]] * [[さいたまダービー]] * [[REDS TV GGR]] - テレビ埼玉で放送されている応援番組 * [[浦和レッドダイヤモンズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム]] * [[レッドボルテージ]] - オフィシャルショップ * [[ウニクス浦和美園]] - サテライトグッズショップが入居 * [[赤菱のイレブン]] * [[彩の国功労賞]] * [[三菱重工]] * [[三菱自動車]] '''レッズと同じく、[[三菱グループ]]内のサッカー部を前身とする(或いは現在も同グループ内のサッカー部として活動する)クラブ''' * [[三菱化成黒崎サッカー部]](現:[[ギラヴァンツ北九州]]) * [[三菱自動車水島FC]] (←三菱自動車工業水島FC) * [[三菱重工長崎サッカー部]] * [[九州三菱自動車サッカー部]] == 外部リンク == * {{Official website}} * {{Twitter|REDSOFFICIAL|浦和レッズオフィシャル}} * {{Facebook|urawareddiamonds}} * {{Instagram|urawaredsofficial|URAWA RED DIAMONDS}} * {{ツイキャス|REDSOFFICIAL|浦和レッズオフィシャル}} * [http://www.redsland.jp レッズランド] * {{Twitter|RedsLand|レッズランドオフィシャル}} * [https://reds-ss.com/ 浦和レッズ後援会] * {{Twitter|urawareds_ss|浦和レッズ後援会}} * {{LINE公式アカウント|urawareds}} {{Navboxes|title =浦和レッドダイヤモンズ 関連テンプレート|titlestyle=background-color:#ee1b3c; color:#fff; |list1= {{浦和レッドダイヤモンズのメンバー}} 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元秀蓮
元 秀蓮(ウォン・スヨン、1961年1月12日 - )は、韓国の漫画家。 代表作に「美しき狩人」、「エリオとイヴェット」、「ba-na-na」、「フルハウス」、「Let DIE」などがあり、日本語版をネットではYAHOO!コミックなどで掲載。
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元 秀蓮は、韓国の漫画家。 代表作に「美しき狩人」、「エリオとイヴェット」、「ba-na-na」、「フルハウス」、「Let DIE」などがあり、日本語版をネットではYAHOO!コミックなどで掲載。
{{出典の明記|date=2022年11月7日 (月) 11:07 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 元 秀蓮 | ふりがな = ウォン スヨン | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 別名義 = <!-- 別名義または同一人物という出典に基づき記載。愛称の欄ではありません --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1961|01|12}} | 生地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = 1987年<ref name=naver>[https://search.naver.com/search.naver?where=nexearch&sm=tab_etc&mra=bjky&x_csa=%7B%22fromUi%22%3A%22kb%22%7D&pkid=1&os=98238&qvt=0&query=%EC%9B%90%EC%88%98%EC%97%B0%20%ED%94%84%EB%A1%9C%ED%95%84 원수연] [[NAVER]]. 2023年5月26日閲覧。</ref> - | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など。新人賞については基本的に記載しません --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} {{韓国の人物| hangeul=원수연| hanja=元秀蓮| katakana=ウォンスヨン| }} '''元 秀蓮'''<ref>"[https://www.ykbook.com/shop/item.php?it_id=9998961075 풀하우스 TAKE 2]" 榮光圖書。2023年5月26日閲覧。</ref>(ウォン・スヨン、1961年1月12日 - )は、[[大韓民国|韓国]]の[[漫画家]]<ref name="朝鮮日報">"[https://cdb.chosun.com/search/db-people/i_common/detailProfile_s.jsp?uci=G010+1-02141999110500031929 원수연]" [[朝鮮日報]]。2023年5月26日閲覧。</ref>。 代表作に「美しき狩人」、「エリオとイヴェット」、「ba-na-na」、「フルハウス」、「Let DIE」などがあり、日本語版をネットではYAHOO!コミックなどで掲載。 == 作品一覧 == === 日本語訳 === ==== 漫画 ==== * 元秀蓮(ウォン・スヨン)『フルハウス 1』タイガーブックス〈タイガーコミックス〉、[[総和社]]、2001年、ISBN 4901337203 * 元秀蓮(ウォン・スヨン)『フルハウス 2』タイガーブックス〈タイガーコミックス〉、総和社、2001年、ISBN 4901337319 * 元秀蓮(ウォン・スヨン)『フルハウス 3』タイガーブックス〈タイガーコミックス〉、総和社、2001年、ISBN 4901337440 * 元秀蓮(ウォン・スヨン)『フルハウス 4』タイガーブックス〈タイガーコミックス〉、総和社、2002年、ISBN 4901337556 * ウォン・スヨン『メリは外泊中 1』李ソラ訳、[[ソフトバンククリエイティブ]]〈アルカナコミックス〉、2011年、ISBN 9784797366525 * ウォン・スヨン『メリは外泊中 2』李ソラ訳、ソフトバンククリエイティブ〈アルカナコミックス〉、2011年、ISBN 9784797366532 * ウォン・スヨン『メリは外泊中 3』李ソラ訳、ソフトバンククリエイティブ〈アルカナコミックス〉、2011年、ISBN 9784797366549 ==== ノベライゼーション ==== * ソ・ユミ:ノベライゼーション『フルハウス 前編』 李明華 訳、ウォン・スヨン原作、Tokimekiパブリッシング、[[角川グループパブリッシング]]、2007年、ISBN 9784048946285 * ソ・ユミ:ノベライゼーション『フルハウス 後編』 李明華 訳、ウォン・スヨン原作、Tokimekiパブリッシング、角川グループパブリッシング、2007年、ISBN 9784048946292 === テレビドラマ化作品 === * [[フルハウス (2004年のテレビドラマ)|フルハウス]](2004年、[[韓国放送公社|KBS]]) * [[メリは外泊中]](2010年、KBS) * [[フルハウスTAKE2]](2012年、[[TBS]]、SBS Plus) == 脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:うおん すよん}} [[Category:韓国の漫画家]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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ジェネシス
ジェネシス、ゲネシス (Genesis, Genesys)
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ジェネシス、ゲネシス
'''ジェネシス'''、'''ゲネシス''' (Genesis, Genesys) == 書物 == * [[創世記]] - ユダヤ教・キリスト教の最初の聖典(下記のその他の「ジェネシス」の語源) == 賞 == * ジェネシス賞([[:en:Genesis Awards]]) - 米国動物愛護協会主催の賞 * ジェネシス賞([[:en:Genesis Prize]]) - [[ユダヤ]]文化の普及に貢献した人物対象の賞 == 音楽 == * [[ジェネシス (バンド)]] - イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド **[[ジェネシス (ジェネシスのアルバム)]] - ジェネシスの1983年アルバム * [[ジェネシス (タリスマンのアルバム)]] - タリスマンの1993年アルバム * [[ジェネシス (バスタ・ライムスのアルバム)]] - バスタ・ライムスの2001年アルバム * [[ザ・ジェネシス]] - イングヴェイ・マルムスティーンの2002年ミニアルバム * [[GENESIS (DIAURAのアルバム)]] - DIAURAの2012年アルバム * [[GENESIS (曲)]] - [[藍井エイル]]の2015年シングル * 日本のロックバンド[[THE ALFEE]]の2014年におこなわれた一連のコンサートツアーと関連するパッケージ名称 * [[GENESIS (EXITのアルバム)]] - お笑いコンビの[[EXIT (お笑いコンビ)|EXIT]]の2021年アルバム == 映画・テレビ放送 == * [[ジェネシス (テレビドラマ)]] - フィピンの[[GMAネットワーク]]で放送されたドラマ。 * [[猿の惑星: 創世記]] - 2011年公開のアメリカのSF映画 * [[ジェネシス計画 (スタートレック)]] - アメリカのSF映画『スタートレックII カーンの逆襲』の科学実験計画 * [[ゾイドジェネシス]] - 日本のTVアニメ、[[ゾイド]]シリーズ * [[仮面ライダー×仮面ライダー ゴースト&ドライブ 超MOVIE大戦ジェネシス]] - 2015年公開の特撮映画。 * ターミネーター:ジェネシス - 映画「[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]」旧題 * ザ・ジェネシス - アニメ「[[イナズマイレブン]]」に登場するサッカーチーム * ジェネシス - アニメ「[[パタパタ飛行船の冒険]]」に登場する破壊兵器 * ゲネシスドライバー - 「[[仮面ライダー鎧武]]」に登場する変身ベルト * レガリアジェネシス、ビッグバンジェネシス ‐ アニメ『[[ベイブレードバースト]]』に登場するベイブレード * 「[[機動戦士ガンダムSEED]]」に登場する兵器→[[ザフトの艦船及びその他の兵器#ジェネシス]]を参照 == 書籍 == * [[電撃大王ジェネシス]] - アスキー・メディアワークスの漫画雑誌 * ジェネシス - 漫画「[[SKET DANCE]]」に登場する球技 * [[Genesis 創元日本SFアンソロジー]] - [[東京創元社]]が2018年から刊行している書下ろしSF小説のアンソロジー == ゲーム == * セガの家庭用ゲーム機『[[メガドライブ]]』の北米販売名 * Session1 -Genesis- 『[[beatmaniaIIDX]]17』 SIRIUSの楽曲 * ジェネシス - ゲーム『[[イナズマイレブン]]』に登場するサッカーチーム * ジェネシス・ラプソードス - コンピュータゲーム『[[クライシス コア ファイナルファンタジーVII]]』の登場人物 * [[ジェネシス (ゲーム)]] - 1987年にスクウェア社から発売されたパソコン用ロールプレイングゲーム * [[任天堂]]のゲーム『[[新・光神話 パルテナの鏡]]』に登場する武器 == 企業 == * [[ジェネシス (企業)]] - コンタクトセンター向けソフトウェアベンダー == カメラ == * [[チノン]]の一眼レフカメラ * [[ジェネシス (デジタルシネマカメラ)]] - パナビジョン社のデジタル式映画カメラ == 航空・宇宙 == * [[ジェネシス (探査機)]] - 太陽風に含まれる粒子を採取したNASAの宇宙探査機 * [[ジェネシスI]], [[ジェネシスII]] - ビゲロー・エアロスペース社が開発した膨張式の宇宙与圧モジュールの実験機 == 鉄道 == * [[GE ジェネシス]] - アメリカ・GEトランスポーテーション・システム社製の旅客用ディーゼル機関車 == 自動車 == * [[東名パワード]]・[GENESIS] - 四輪車(チューニングカー)用コンプリートエンジンシリーズ * [[ヤマハ発動機]]のエンジンを搭載したオートバイに付けられたコンセプト名 * [[現代自動車]](ヒョンデ)の高級車ブランド「[[ジェネシス (ヒョンデ)]]」 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:しえねしす}} [[Category:同名の作品]]
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ティワワット・パッタラクンワニット
ティワワット・パッタラクンワニット(タイ語:ทิววัฒน์ ภัทรกุลวณิชย์、英語:Thiwawat Pattaragulwanit 1968年6月9日-)はタイ王国の政治風刺漫画の漫画家、イラストレーター、挿絵画家。 シラパコーン大学デコラティブ・アーツ学部卒業。タイ語日刊紙『サヤーム・ポスト(สยามโพสต์) 』などの政治漫画家を経て、現在、タイ語日刊経済紙『クルンテープ・トゥラギット』、英字紙『バンコック・ポスト』の政治漫画を描いている。タイの王室関連書籍の挿絵も手がけている。シラパコーン大学で特別講師を務める。
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ティワワット・パッタラクンワニットはタイ王国の政治風刺漫画の漫画家、イラストレーター、挿絵画家。
'''ティワワット・パッタラクンワニット'''([[タイ語]]:ทิววัฒน์ ภัทรกุลวณิชย์、[[英語]]:Thiwawat Pattaragulwanit [[1968年]][[6月9日]]-)は[[タイ王国]]の政治[[風刺漫画]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、[[挿絵]][[画家]]。 ==略歴== [[シラパコーン大学]]デコラティブ・アーツ学部卒業。タイ語日刊紙『サヤーム・ポスト(สยามโพสต์) 』などの政治漫画家を経て、現在、タイ語日刊経済紙『[[クルンテープ・トゥラギット]]』、英字紙『[[バンコック・ポスト]]』の政治漫画を描いている。[[タイの国王|タイの王室]]関連書籍の挿絵も手がけている。シラパコーン大学で特別講師を務める。 ==業績== ===漫画=== *『職探し』 ===挿絵=== *[[ラーマ9世]] 「トーンデーン物語」 (พระราชนิพนธ์เรื่องทองแดง)(2004)ISBN 9742729174(邦訳『奇跡の名犬物語』[[赤木攻]]訳 世界文化社 2006年 ISBN-13 978-4418068425) *[[シリントーン]]王女翻訳『ピアン・ワン・ポップ・ワンニー・ティ・サムカン』(เพียงวันพบวันนี้ที่สำคัญ)(2005) ==受賞== *国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)設立50周年記念アジア太平洋漫画コンテスト3等賞受賞(1997) ==外部リンク== *[http://www.jpf.go.jp/j/culture/civil/cross/comic/exhi7_b.html 国際交流基金・カンボジア日本人材開発センター共催『第10回アジア漫画展』] == 関連項目 == *タイの漫画家 **[[ウィーラチャイ・ドゥアンプラー]] **[[ヂャッカラパン・フワイペット]] **[[アルン・ワチャラサワット]] **[[ウィスット・ポンニミット]] {{DEFAULTSORT:はつたらくんわにつと ていわわつと}} [[Category:タイの人物]] [[Category:タイの漫画家]] [[category:タイの画家]] [[category:タイのイラストレーター]] [[Category:1968年生]] [[Category:存命人物]] {{Manga-artist-stub}}
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清水エスパルス
清水エスパルス(しみずエスパルス、英: Shimizu S-Pulse)は、日本の静岡県静岡市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。 1993年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市)。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平、練習場はエスパルス三保グラウンド(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する。1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス。 クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)、パルちゃんの妹的な存在に当たる こパルちゃん である。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている。 1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた。選抜チームのオール清水(清水FC)はJFA全日本U-12サッカー選手権大会にて優勝8回を数え、高校選手権では市内の学校(清水東・清水商・東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。 また、1991年には静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。 Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。 5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社、フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧、大榎克己、長谷川健太の“清水東三羽烏”をはじめ、澤登正朗を獲得。読売クラブから前述の堀池、トニーニョ、三浦泰年(初代キャプテン)を引き抜きに成功、更に三浦知良の加入も内定していたが、加入は実現しなかった。 6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている。1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。 この年から清水日本平運動公園球技場(現在のIAIスタジアム日本平)をホームスタジアムとして使用し始める。 5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージからDFの加藤久、第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。 1stステージは第5節から9連勝を達成、一時首位を走ったものの、国立での鹿島戦を境に失速、2位に終わった。FIFAワールドカップアメリカ大会にロナウド選手がブラジル代表として出場。クラブ所属選手では初のW杯出場となった。1stステージ終了後、エメルソン・レオンが選手と賄賂を行っていたことが発覚し、解任。後任の監督にロベルト・リベリーノが就任したものの、2ndステージは6位で終了。 元鹿島アントラーズ監督、宮本征勝が監督に就任。チーム初の日本人監督となった。1stステージはリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。2ndステージから、元イタリア代表FWダニエレ・マッサーロが加入。また鹿島から吉田康弘, サントス, 森岡隆三が加入、中盤まで優勝争いを演じた。また、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会でジュニアユースチームが初優勝を果たし、クラブ初のタイトルを獲得した。天皇杯では、ヴィッセル神戸に敗北した。シーズン終了後、宮本が監督を退任。 監督にオズワルド・アルディレス、ヘッドコーチにスティーブ・ペリマンが就任。9月25日、1996JリーグヤマザキナビスコカップにてPK戦の末に優勝。トップチームが悲願の初タイトルを獲得した。また、この年開催されたアトランタ五輪では伊東輝悦、白井博幸、松原良香がメンバー入り、伊東はブラジル戦で決勝のゴールを決めている。 アルディレス体制2年目。固定背番号制が導入され、前年のレギュラーが一番つけていた背番号を優先的に与えた結果、森岡隆三の背番号がDFとしては珍しい11番をつけることとなった。1stステージは7位、2ndステージは6位となった。この年Jユースカップ初優勝、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会3連覇など、下部組織の活躍が目立った。 11月、運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズの経営危機が表面化。20億円を超える負債を抱え、実質的な親会社のテレビ静岡が運営からの撤退を表明した。31万人を超える署名と1500万円の募金を集め、地元清水に本拠を置く物流大手鈴与の子会社で出版業を手掛けていた「サッカーコミュニケーションズ株式会社」(1995年11月設立)が第三者割当増資を行い、これに静岡鉄道・静岡ガス・静岡新聞社・小糸製作所が応じて株式会社エスパルスに改組、同社が営業権を譲り受けることになった。 2月1日より新会社による運営がスタート。1998年W杯フランス大会の登録メンバーに、伊東輝悦、斉藤俊秀の2選手が選出される。チームは1stステージは13勝4敗で得失点差で2位。7月25日から8月22日にかけては6連勝1失点の成績を収め、8月のAFC月間最優秀チームに選ばれている。2ndステージ終了後、アルディレス監督を解任。天皇杯から、ペリマン監督体制となる。天皇杯は初の決勝進出を決めている。なお、ユースチームからGK野澤洋輔がトップチームに上がり、昇格第1号選手となった。 1月1日、天皇杯決勝は横浜フリューゲルスに敗れ準優勝。横浜フリューゲルスと横浜マリノスのチーム合併に伴い、この年のゼロックススーパーカップとアジアカップウィナーズカップ1999-2000の出場権を得ることとなった。また横浜マリノスから安永聡太郎、横浜フリューゲルスから久保山由清、ベルマーレ平塚から田坂和昭が加入し戦力を補強。 リーグ戦では1stステージは勝ち点4差で3位。2ndステージは中盤で8連勝しトップの座を譲らず、11月23日、横浜国際総合競技場に開催された横浜F・マリノス戦に勝利し、念願のステージ優勝を決めた。チャンピオンシップでは、最大のライバルジュビロ磐田にPK戦の末敗れた。アレックスがMVP、ベストイレブンに6選手、ペリマンが最優秀監督賞。 AFC主催大会への初めての参加となったアジアカップウィナーズカップ1999-2000では準々決勝で安養LGチタスを破り決勝トーナメントへ進出。チェンマイでの準決勝ではバンコクバンクをPK戦の末に制すると、決勝のアル・ザウラー戦では池田昇平のゴールにより1-0で勝利。初めてアジアのタイトルを獲得した。アジアスーパーカップはアジアクラブ選手権1999-2000優勝のアル・ヒラルとの間でのホーム&アウェイで行われ、1分け1敗でアジアチャンピオンには一歩届かなかった。J1リーグ戦は1stステージ3位、2ndステージは13位で終えた。J1リーグ戦終了後、ペリマン監督を解任し、ユース総監督だったゼムノヴィッチがトップチームの監督に昇格。ゼムノヴィッチ体制初の大会となった天皇杯は2大会ぶりに決勝に進出した。 天皇杯決勝は鹿島に敗れたものの、ゼロックススーパーカップでは鹿島に3-0で勝利。前年度優勝チームとして出場したアジアカップウィナーズカップ2000-01は準々決勝でBECテロ・サーサナを制し準決勝に進出したが、大連實徳に敗れ3位に終わった。2002年のFIFAワールドカップ開催に伴い、国際試合対応の大規模なスタジアムが全国に建設される中、5月12日には静岡県内でのワールドカップ会場となるエコパスタジアムのこけら落としが行われ、延長の末に平松康平のゴールで勝利を飾った。J1リーグ戦は1stステージ、2ndステージともに4位。天皇杯は前年度に続き決勝進出した。 1月1日、3度目の決勝進出となった天皇杯決勝にてセレッソ大阪を延長で破り優勝。2月にはゼロックススーパーカップを連覇した。6月のFIFAワールドカップには森岡隆三、三都主アレサンドロ、戸田和幸、市川大祐の4選手が出場している。アジアクラブ選手権に出場する鹿島に代わり、第80回天皇杯準優勝チームとしてアジアカップウィナーズカップ2001-02に3大会連続で出場、全北現代との準々決勝でアウェイゴールの差で準決勝進出を逃した。また、この年からアジアクラブ選手権とアジアカップウィナーズカップが統合されて初めての開催となったAFCチャンピオンズリーグ2002-2003に第81回天皇杯優勝チームとして出場。予選ラウンドからの出場となり、ニュー・ラディアント、サウスチャイナに勝利し、グループステージ(準々決勝に相当)進出を決めた。J1リーグ戦では1stステージ7位、2ndステージ12位と振るわず、ゼムノヴィッチ監督が退任。 大木武新体制でスタート。Jリーグ開幕に先立って大連で開催されたAFCチャンピオンズリーグ2002-2003のグループステージ(準々決勝に相当)は、大連實徳、城南一和、オーソットサパーとひとつの椅子を争うも勝ち残ることはできなかった。ヤマザキナビスコカップはベスト4まで進出。J1リーグ戦は年間11位に終わった。11月29日、大木監督を解任し行徳浩二が監督に就任。天皇杯は準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出できなかった。 アントニーニョ監督体制でスタート。手腕が期待されたが、家族の看病などを理由に、1stステージ最終戦となった市原臨海競技場での市原戦後に辞意を表明。石崎信弘ヘッドコーチが監督昇格となった。アラウージョ、チョ・ジェジンが攻撃面で奮起するものの、リーグワースト5位の53失点を喫し、J1リーグ戦は年間14位となった。シーズン終了後、翌年も石崎監督を続投することが決まっていたが、サポーターから不満が噴出し、その年限りで石崎は監督を退任した。 この年開催されたアテネ五輪には黒河貴矢がメンバー入りを果たした。長年ゴールマウスを守ってきた真田雅則が現役引退。 長谷川健太が初めて監督に就任。初年度となった2005年シーズンは15位で残留を決めるなど低迷が続いた。その間にスカウトの充実をはかり、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図った。2005年度にデビューした枝村匠馬、兵働昭弘、青山直晃ら若手選手が主力として定着、同年の天皇杯で準優勝の成績を収める。 長谷川体制2年目。2006年は新人の藤本淳吾が主力として定着、青山直晃が日本代表に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。日本A代表経験者の市川、森岡隆三、伊東輝悦、斉藤俊秀らも復調して開幕から上位につけ、4位でシーズンを終えた。この年、藤本が新人王を獲得。 長谷川体制3年目。中断明け以降の20節から25節まで6連勝をマークしたが、その後のアウエイで連敗し優勝争いから後退。年間4位となった。この年、伊東輝悦が同一クラブ所属としてJリーグ初となるJ1通算400試合を達成。 長谷川体制4年目。リーグ戦は序盤の3連敗が響き、一時は降格圏の順位となったものの、若手の成長もあって終盤追い上げ、年間順位は5位となった。ヤマザキナビスコカップは決勝に進出。大分トリニータと対戦、0-2で敗戦。 長谷川体制5年目。横浜FCから太田宏介を、浦和から永井雄一郎を、名古屋からフローデ・ヨンセンを獲得し大型補強に成功。札幌に期限付き移籍していた平岡康裕も復帰。その一方で、森岡隆三、高木和道、矢島卓郎、西澤明訓などが移籍。 開幕戦の大宮戦、スコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。夏場までは引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間にナビスコカップのホームゲームで山形に敗れている)。9月29日に長谷川健太の監督続投決定。10月3日第28節広島戦で1対1で引き分けるも得失点差で鹿島を上回り首位に立ったが、第29節の負ければJ2降格となる大分にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節にはFC東京戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1-2での黒星になるなど、優勝はおろかACL出場権も得られず最終順位は7位。天皇杯は準決勝で名古屋に敗れた。 長谷川体制6年目。新戦力として千葉からボスナーを、VfLボーフムから小野伸二を獲得。柏に期限付き移籍していた杉山浩太、東京Vに期限付き移籍していた廣井友信が復帰、ユースチームから鍋田亜人夢が加入。第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝の快挙を達成。チームは開幕から独走体制に入り、開幕10戦負けなし。南アフリカw杯中断前の前半戦終了時点では首位での折り返しとなった。しかし、リーグ再開後は調子を落とし、9月に名古屋グランパス戦で優勝争い直接対決に敗れたことで優勝争いから脱落した。最終順位は6位、シーズン終了後長谷川監督退任。天皇杯で準優勝。2度のリーグ優勝争い、3度のカップ戦決勝進出がありながら長谷川健太体制は無冠に終わった。 長谷川健太の後任監督にはイラン代表監督(当時)のアフシン・ゴトビが就任。東京Vから高木俊幸、湘南から村松大輔、韓国Kリーグ水原から元日本代表高原直泰、ギリシャ・スーパーリーグイラクリスから元日本代表小林大悟、滝川第二高校から樋口寛規、AリーグシドニーFCからオーストラリア代表アレックス・ブロスケをそれぞれ完全移籍で獲得した。 その一方で、伊東輝悦、市川大祐が甲府、青山直晃が横浜FM、西部洋平が湘南へ、フローデ・ヨンセンがオッド・グレンランドへ、それぞれ契約満了後に移籍した。主力であった藤本淳吾が名古屋へ、本田拓也が鹿島へ、岡崎慎司がVfBシュトゥットガルトへ、兵働昭弘が柏へ移籍。スーパーサブであった原一樹が浦和へ移籍、前年のチームは大刷新された。クラブ生え抜きの伊東・市川、前シーズンリーグ戦32試合に出場した西部を含む主力の相次ぐ放出劇は2010年度の赤字転落に伴う人件費圧縮の必要性が背景にあったものだが、このことが結果的にフロントと選手の間に不信感を生じさせ、後年の主力の相次ぐ退団劇や低迷の要因の一つとなったと伝えられている。 開幕戦の柏戦で0-3で大敗したが、小野、高原などの活躍もあり、その後は6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたが、第6節C大阪、第19節広島、第20節新潟と夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。8月に北京五輪オランダ代表のDFカルフィン・ヨン・ア・ピンと元スウェーデン代表のフレドリック・ユングベリを獲得。ユングベリはホーム名古屋戦で裏街道からアレックスのゴールをアシストしたシーンが話題となった。しかし終盤3連敗、守備に課題を残し、10位でシーズンを終了。 9月、GKコーチの真田雅則が死去。 開幕直後に発生した東日本大震災によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行い、アヤックス・アムステルダムと対戦。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)をオランダ赤十字を通して義援金として寄付。 ゴトビ体制2年目。 補強は、大分から姜成浩、甲府から吉田豊、ROCシャルルロワ=マルシェンヌ(ベルギー)から林彰洋、FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)からジミー・フランサが完全移籍で加入、犬飼智也、河井陽介、八反田康平、柏瀬暁、白崎凌兵、李記帝が加入。ユース登録の石毛秀樹が2種登録。一方で太田宏介がFC東京、ボスナーが水原三星ブルーウィングスへそれぞれ完全移籍、永井雄一郎が横浜FC、木島悠が大分、山本真希が札幌、児玉新がC大阪、岡根直哉が山形、竹内涼が北九州へ期限付き移籍、熊本へ期限付き移籍していた長沢駿は京都、新潟へ期限付き移籍していた武田洋平はG大阪へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍の廣井友信の期限付き移籍期間が延長。 1月、2012アジアスーパーチャレンジカップに出場して準優勝。3月15日、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による21世紀のアジアクラブ・ランクで21位となった。Jクラブの中では、G大阪、鹿島、浦和に次いで4位。 リーグ戦、第10節終了時点2位、第11節セレッソ大阪戦から第19節横浜F戦まで9戦勝利なし(4分5敗)と失速する。シーズン途中に小野伸二がウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC、アレックスがアル・アインFC、辻尾真二が広島、岩下敬輔がG大阪、枝村匠馬がC大阪、橘章斗が松本へ移籍、ジミー・フランサが東京Vへ期限付き移籍した一方、三吉聖王や金賢聖、強化指定選手として筑波大学の瀬沼優司が加入。第30節終了時点で4位につけていたが、その後、1分け3敗と4戦未勝利となり最終順位は9位。 ヤマザキナビスコカップは決勝で鹿島に1-2で敗れて準優勝。石毛秀樹がニューヒーロー賞選出。 ゴトビ体制3年目。愛媛FCから内田健太、札幌から髙原寿康、高木純平、カタール1部のアル・アラビからバレーを完全移籍で獲得。イ・ミンス(湘南)、樋口寛規(FC岐阜)、橘章斗(松本山雅)、岡根直哉(山形)、竹内涼(北九州)、廣井友信(熊本)が期限付き移籍先から復帰、三浦弦太、六平光成、藤田息吹、加賀美翔が新加入。 大前元紀がドイツ・ブンデスリーガのフォルトゥナ・デュッセルドルフへ、高原直泰が東京V、山本海人が神戸、碓井健平が千葉、小林大悟がMLSのバンクーバー・ホワイトキャップスへ移籍。広島へ期限付き移籍していた辻尾真二が大分、G大阪へ期限付き移籍していた武田洋平がC大阪、岩下敬輔が期限付き移籍先のG大阪へ完全移籍、姜成浩が京都へ期限付き移籍、三吉聖王、東京Vへ期限付き移籍していたジミー・フランサ、金賢聖が退団、京都へ期限付き移籍していた長沢駿が松本へ期限付き移籍、C大阪へ期限付き移籍している枝村匠馬の期限付き移籍期間が延長。 シーズン中、バレーが中国スーパーリーグの天津泰達足球倶楽部へ完全移籍、林彰洋が鳥栖へ、犬飼智也が松本、柴原誠、樋口寛規が岐阜、白崎凌兵が富山、柏瀬暁がNASLのニューヨーク・コスモスへ夫々期限付き移籍した一方、柏を退団した三浦雄也、C大阪を退団した村田和哉、鹿島から本田拓也を完全移籍で、Kリーグの水原三星からラドンチッチ、デュッセルドルフへ移籍していた大前元紀を期限付き移籍で獲得。 第1節大宮戦は2-2で引き分け、ゴトビ体制初の開幕戦での得点と勝ち点を得る。しかしその後、横浜FM戦では0-5、広島戦では0-4と大敗する。4月は初勝利となった第5節鳥栖戦を含め無敗で乗り切るものの、5月はリーグ戦2勝3敗、カップ戦2敗と苦戦。 7月、リーグ戦再開後復調。鹿島、甲府、名古屋、鳥栖戦と、ホームでは4試合連続逆転勝利。 最終的にはリーグ戦は9位、ヤマザキナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦敗退。 ゴトビ体制4年目。FCユトレヒトから高木善朗、町田から相澤貴志、MLSのD.C. ユナイテッドからカナダ代表のヤコヴィッチ、1.FCケルンからスロベニア代表ノヴァコヴィッチを完全移籍で獲得。長沢駿、樋口寛規、柏瀬暁が期限付き移籍から復帰。 一方で、橘章斗が退団、髙原寿康が町田へ、伊藤翔が横浜FMへ、柴原誠が福島へ完全移籍、内田健太が富山へ、瀬沼優司、岡根直哉、イ・ミンスが栃木SCへ、八反田康平が仙台へ、姜成浩が東京Vへ期限付き移籍(途中で期限付き移籍先が金沢へ変更)、林彰洋が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、犬飼智也、白崎凌兵の期限付き移籍期間が延長、C大阪へ期限付き移籍していた枝村匠馬は名古屋へ期限付き移籍、ラドンチッチが期限付き移籍期間満了で大宮へ移籍。 シーズン途中、村松大輔が徳島、樋口寛規が湘南、鍋田亜人夢が福岡へ期限付き移籍したが、ブエノが新加入、栃木SCへ期限付き移籍していた瀬沼優司が復帰。 シーズン序盤から中位から下位を低迷。7月23日のG大阪戦に敗れリーグ戦7戦勝ちなしとなった試合後の緊急ミーティングで、ゴトビ監督が選手に対して「君たちは私を辞めさせるために、わざと無気力な試合をしているのか」と発言したことで、それまで選手起用を巡ってくすぶっていた指揮官と選手の間の亀裂が決定的なものとなり、7月29日付けでアフシン・ゴトビ監督を解任。後任には清水生え抜きでユース監督の大榎克己が就任した。8月9日にホーム通算200勝を達成。大榎の就任後の後半戦はわずか4勝で17位まで順位を落とすが、最終節に甲府に引き分けてJ1残留を確定させた。最終成績10勝6分18敗の勝ち点36、順位は15位。 ナビスコ杯グループリーグ敗退、天皇杯ベスト4。 大榎体制2年目。GK杉山力裕が川崎から、GK碓井健平が千葉から、DF鎌田翔雅が湘南から、FW澤田崇が熊本からいずれも完全移籍(碓井は3年ぶりの復帰)。期限付き移籍していたDF内田健太が富山から、DF村松大輔が徳島から、DF犬飼智也が松本から、MF枝村匠馬が神戸から、MF八反田康平が仙台から、MF白崎凌兵が富山から、それぞれ復帰。DF水谷拓磨、MF宮本航汰、FW北川航也が清水ユースから昇格、DF松原后が浜松開成館高校から新加入。一方、GK相澤貴志が徳島へ、GK三浦雄也が長崎へ、DF廣井友信が金沢、DF吉田豊が鳥栖へ、DFイ・キジェがニューカッスル・ジェッツへ、FW高木俊幸が浦和、FWノヴァコヴィッチが名古屋へいずれも完全移籍。MF藤田息吹とFW瀬沼優司が愛媛へ、DFブエノは神戸へレンタル移籍、柏瀬暁が契約満了で退団。 2004年以来11年ぶりの2ステージ制となった本年では、1stステージ3勝4分10敗の勝ち点13の最下位とクラブ史上最低の成績となり、2ndステージ第5戦目後に成績不振を理由に大榎克己が監督を辞任。後任に大分監督退任後にヘッドコーチに就任していた田坂和昭が就任。8月に鄭大世が完全移籍で、角田誠が期限付き移籍で加入したが、10月17日のセカンドステージ第14節仙台戦に敗れ、15位新潟がその日の夜の試合に勝利したことから年間順位16位以下が確定、クラブ史上初のJ2降格が決定した。2ndステージ第13節から、シーズン4度目の年間通算最下位となっていたが、同16節、同じくJ2降格が決定していた山形に勝利、2ndステージ2勝目を挙げると同時に年間通算勝点で山形に並び、最終節甲府戦で引き分け、同節で山形が敗れたことにより、年間最終順位で山形を抜き17位に終わった。シーズン終了をもって田坂が監督を辞任。 前徳島の小林伸二が監督就任。J2降格に伴い、2020年まで5年強化計画を設定。1年目をプレーオフ進出でJ1復帰することに加え、主力多くの残留、出場機会減少の選手を期限付き移籍させ、選手の背番号を多く変更、選手育成などを目標に挙げた。 ピーター・ウタカが広島へ、櫛引政敏が鹿島へ、平岡康裕が仙台へ、村松大輔が神戸へ、宮本航汰が長崎へ期限付き移籍したほか、ブエノが鹿島へ、高木純平が東京Vへ、カルフィン・ヨン・ア・ピンが町田へ完全移籍。藤田息吹と内田健太が期限付き移籍先の愛媛へ、相模原へ期限付き移籍していた樋口寛規が福島へ完全移籍。瀬沼優司と高木善朗の期限付き移籍期間が延長した。 一方で、期限付き移籍していた角田誠と福村貴幸が完全移籍、川崎から6年ぶりに西部洋平が完全移籍で復帰、新潟から川口尚紀、広島からビョン・ジュンボンを期限付き移籍で獲得し、さらには東海学園高校から光崎伸が入団した。シーズン中には、徳島から長谷川悠、長崎から植草裕樹、仙台から二見宏志を完全移籍、広島からキム・ボムヨンを期限付き移籍で獲得。専修大学から飯田貴敬を特別指定選手で獲得。その一方で、水谷拓磨がFC今治へ、加賀美翔が藤枝へ期限付き移籍。 序盤戦はJリーグ参入後初めて戦うJ2での戦いに不慣れなことに加え、大前が負傷により長期離脱を強いられ、第2、3、6、9-11節終了時以外はプレーオフ圏外の7位以下になるなど低迷したものの、第20節終了時以降は第24節終了時を除き6位以上をキープ、特に第25節以降の18試合では15勝1分2敗で、年間勝点84の半分以上となる勝点46を挙げ上位を猛追、第33節ではJ1自動昇格圏の2位松本との直接対決に敗れ5位に後退、勝点差も7に広がったが、第34節からは連勝を重ね、第35節終了時に4位、第37節終了時に3位と徐々に順位を上げ、41節に松本と勝点で並び、得失点差で大幅に上回るため松本と入れ替わり遂にJ1自動昇格圏内の2位に浮上、最終節にも勝利し最終的には9連勝で札幌に次ぐ2位となり1年でのJ1復帰を決めた。第15節群馬戦、当時のJ2最多得点差となる8-0で大勝している。 小林体制2年目。大前元紀が大宮へ完全移籍したのをはじめ、澤田崇が長崎、八反田康平が名古屋、本田拓也が山形、三浦弦太がG大阪、杉山力裕が福岡へ、平岡康裕(仙台)、高木善朗(東京V)が期限付き移籍先へ完全移籍、ピーター・ウタカはサンフレッチェ広島へ完全移籍の後FC東京へ期限付き移籍、福村貴幸が岐阜、石毛秀樹がファジアーノ岡山、鹿島へ期限付き移籍していた櫛引政敏が岡山、碓井健平が町田、愛媛へ期限付き移籍していた瀬沼優司が山形へ期限付き移籍、宮本航汰は期限付き移籍していた長崎との期限付き移籍期間延長。川口尚紀は期限付き移籍期間満了、藤枝へ期限付き移籍していた加賀美翔は契約満了で退団した。 一方で、仙台から六反勇治を完全移籍で、広島から新潟で昨年プレーした野津田岳人を期限付き移籍で獲得。立田悠悟がユースから昇格、専修大学から飯田貴敬が加入。タイのチョンブリーFCからカヌを、 ポルトガルのGDシャヴェスからフレイレを獲得。また、神戸に期限付き移籍していた村松大輔が期間満了で復帰した。 さらに、シーズン途中にサウジアラビアのアル・ヒラルからチアゴ・アウベスを期限付き移籍で獲得。それに伴い、外国人枠を空けるため広島から期限付き移籍で加入していたキム・ボムヨンを完全移籍で獲得したうえで千葉へ期限付き移籍した。また、シーズン途中野津田岳人は広島からのレンタル終了、仙台へレンタル移籍、広島から清水航平をレンタルで、またアルシャルージャから増田誓志を完全移籍で獲得した。 2年ぶりのJ1の戦いは、前半17試合を3勝6分け8敗で13位でターン、後半は8戦勝ちなし(3分5敗)などで15位まで順位を落とし、最終節敗れればJ2降格の可能性もあった中、最終節の神戸戦に勝利し、14位でJ1残留を決めた。シーズン終了後チームの成績低迷を理由に小林監督を解任した。さらに柏への期限付き移籍の2年を除く13年在籍していた杉山浩太が現役引退した。 前広島監督のヤン・ヨンソンが監督に就任。犬飼智也が鹿島、カヌがタイ・スパンブリーFC、岡山へ期限付き移籍していた櫛引政敏が山形、町田へ期限付き移籍していた碓井健平が九州1部・沖縄SV、金沢へ期限付き移籍していたビョン・ジュンボンが甲府、千葉へ期限付き移籍していたキム・ボムヨンが兵役のため韓国・水原FC、瀬沼優司(山形)、福村貴幸(岐阜)が期限付き移籍先へ完全移籍、枝村匠馬が福岡、長崎へ期限付き移籍していた宮本航汰が岐阜へ期限付き移籍、チアゴ・アウベスは期限付き移籍期間満了、村松大輔、光崎伸が契約満了で退団した。なお、チアゴアウベスはアル・ヒラルから全北現代へ移籍、村松太輔はギラヴァンツ北九州へ加入した。 一方で、甲府から8年ぶりに復帰の兵働昭弘、オーストラリア・ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCから楠神順平、中国・天津泰達足球倶楽部からファン・ソッコを完全移籍で、ポルトガル・SCブラガから昨年仙台に在籍していたクリスランを期限付き移籍で獲得。JFL・今治へ期限付き移籍していた水谷拓磨、岡山へ期限付き移籍していた石毛秀樹が期限付き移籍期間終了で復帰、伊藤研太、滝裕太、平墳迅がユースから昇格、呉少聰、新井栄聡、髙橋大悟が新加入した。 シーズン途中に、トルコのアランヤスポルからドウグラスを完全移籍で獲得。呉少聰が京都、清水航平が甲府、楠神順平が山形へそれぞれ期限付き移籍。 開幕戦〜第4節まで2勝2分得失点差+4で、4節終了時点で暫定3位。第5節・横浜FM戦で今シーズンJ1リーグ初黒星を記録。第6節の磐田とのダービーに引き分け、第7節〜第9節まで3連敗し、暫定13位に順位を落とした。第10、11節で連勝し暫定順位を7位に押し上げる。第12、13節で連敗、第14節で白星を挙げるが、第15節で川崎に敗れ、暫定10位・5勝3分7敗 得失点差-2でリーグ中断を迎えた。中断明けの第16節〜19節まで3連勝し、1試合少ないながらも暫定8位へ順位を上げた。第20〜27節 まで2勝1分6敗と低迷。暫定順位を12位へ落とした。第28〜30節まで3連勝し、第29節の磐田戦では5-1と大勝した。第31〜34節は1勝3分だったものの、第33、34節ではそれぞれ3-3、4-4での引き分けで、2018シーズンのチーム別得点数では首位川崎と1差、横浜FMと同じく2位タイ・56得点と昨年の36得点から大きく上昇した。最終成績は14勝7分13敗 得失点差+8で8位。 兵働昭弘、植草裕樹が今シーズン限りで現役を引退し、クラブスタッフに就任。 ヨンソン体制2年目。角田誠と長谷川悠が長崎、フレイレが湘南、白崎凌兵が鹿島、村田和哉が柏、ミッチェル・デュークがウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC、呉少聰が広州恒大へ完全移籍。新井栄聡が金沢、増田誓志がソウルイーランドFC、清水航平が甲府から広島へ期限付き移籍。宮本航汰が岐阜との期限付き移籍期間を延長。福岡へ期限付き移籍していた枝村匠馬が契約満了で退団。 一方で、長崎から中村慶太、川崎からエウシーニョ、ブラジルのSEパルメイラスからヘナト・アウグストを完全移籍、ブラジルのアトレチコ・パラナエンセからヴァンデルソンを期限付き移籍で獲得。高木和徹がジェフ千葉、楠神順平が山形との期限付き移籍期間を満了して復帰。梅田透吾がユースから昇格。西澤健太が筑波大学から新加入。 クラブ史上初めて背番号「10」が欠番となる。 開幕からけが人が続出。J1第11節終了時点でリーグワーストの26失点を記録し、自動降格圏内である17位と低迷。5月12日、ヨンソンを解任。5月14日、コーチを務めていた篠田善之が監督に就任。 シーズン途中の7月、アル・ナスルからジュニオール・ドゥトラ、大分から福森直也、福岡から吉本一謙、8月には鳥栖から大久保択生をいずれも完全移籍で獲得する一方、7月7日には西村恭史がJ2岡山へ、8月15日には髙橋大悟がJ3北九州へ、いずれも育成型期限付き移籍で移籍。 8月17日、ホームで行われた対札幌戦で0-8で敗戦し、クラブ最多失点記録を樹立。 第33節終了時で16位湘南と勝点差1で最終節まで残留争いに巻き込まれたものの、最終節鳥栖戦に勝利したことにより、12位でシーズンを終えたが、失点69および得失点差-24はいずれも同年のJ1全チーム中最悪となった。 チームスローガン:RE-FRAME クラブの改革の年となり、新社長として千葉ロッテマリーンズから山室晋也、新GMとしてセレッソ大阪から大熊清、新監督として横浜F・マリノスからピーター・クラモフスキー、コーチ陣複数名が就任。 松原后がシント=トロイデンVV、鎌田翔雅がブラウブリッツ秋田、飯田貴敬が京都サンガF.C.、二見宏志がV・ファーレン長崎、清水航平がサンフレッチェ広島F.C、水谷拓磨がAC長野パルセイロ、ドウグラスがヴィッセル神戸へ完全移籍。楠神順平、増田誓志が契約満了で退団。高木和徹がV・ファーレン長崎、六反勇治が横浜FC、髙橋大悟がギラヴァンツ北九州へレンタル移籍。 一方で、アメリカ・デ・カリからネト・ヴォルピ、セアラーSCからヴァウド、名古屋グランパスエイトから金井貢史、大宮アルディージャから奥井諒、ムアントン・ユナイテッドFCからティーラシン・デーンダー、大分トリニータから後藤優介を完全移籍、FC東京から岡崎慎をレンタル移籍、ユースからノリエガ・エリック、川本利誉、市立船橋高校から鈴木唯人、三菱養和SCユースから栗原イブラヒム・ジュニアを獲得。 クラモフスキー監督就任後2試合でリーグは中断。中断前の二試合こそ、敗れはしたものの今後の希望が見える試合だったが、リーグ再開後は低迷。25節までで連勝はなく、3勝5分け17敗、クラブワーストタイとなる7連敗も記録した。 シーズン途中の11月にクラモフスキー、今矢コーチ、安野フィジカルコーチと契約解除。コーチである平岡宏章が監督就任。平岡は初陣からチームを勝利に導き、9試合で4勝2分け3敗を記録。33節終了時点では最下位だったが最終節で2位のガンバ大阪に勝利し、同日に行われた勝ち点1・2差で16位・17位に着けるベガルタ仙台と湘南ベルマーレの直接対決が引き分けとなったため本来ならJ2プレーオフ勝者との入れ替え戦を行う16位でシーズンを終了、失点数は前シーズンを上回りJ1チーム最悪の70失点となった。 チームスローガン:PENETRATE 突き破れ。 新監督に前C大阪監督のミゲル・アンヘル・ロティーナが就任。平岡監督はコーチへ復帰した。 吉本一謙が引退。ティーラシンがBGパトゥム・ユナイテッドFC、ファン・ソッコが鳥栖、金井貢史が甲府、六平光成・西村恭史が北九州、川本梨誉・梅田透吾が岡山、西部洋平が富山、平墳迅がJFLの鈴鹿ポイントゲッターズ、伊藤研太が沖縄SVへ移籍。ネト・ヴォルピ・ジュニオール・ドゥトラは退団した。 その一方で積極的な立ち回りを見せ、CDサンタ・クララからチアゴ・サンタナ、コリチーバFCからウィリアム・マテウス、ポルティモネンセSCから日本代表GK権田修一、C大阪から片山瑛一、大分から主将鈴木義宜、鳥栖からU-23日本代表MF原輝綺、北九州から昨季J2得点ランキング2位のディサロ燦シルヴァーノ、横浜FCから中山克広、湘南から指宿洋史、松本から永井堅梧を獲得。 大型補強を展開したシーズンであったがチームは低迷。6月に広島から井林章、7月にFCチューリッヒからベンジャミン・コロリ、CRフラメンゴからホナウド、8月に鳥栖から松岡大起、神戸から藤本憲明を獲得。 第34節FC東京戦で0-4と大敗し、3連敗を喫した翌日の11月4日、ロティーナ監督、イヴァン・パランコヘッドコーチ、トニ・ヒル・プエルトフィジカルコーチ、小寺真人分析兼通訳との契約を解除し、再び平岡宏章監督が就任する事を発表した。最終節のセレッソ大阪戦で勝利を収め最終順位は14位。シーズン終了後、平岡監督が2022シーズンも続投すると発表された。 チームスローガン:HERE GOES! 平岡体制2年目。 高木和徹が東京ヴェルディ、中村慶太が柏レイソル、金子翔太がジュビロ磐田、石毛秀樹がガンバ大阪、指宿洋史がアデレード・ユナイテッド、奥井諒がVファーレン長崎、河井陽介がファジアーノ岡山にそれぞれ完全移籍した。 その一方で柏レイソルから神谷優太、徳島ヴォルティスから岸本武流、鹿島アントラーズから白崎凌兵が完全移籍で加入した。SC相模原から成岡輝瑠、ギラヴァンツ北九州から髙橋大悟、鈴鹿ポイントゲッターズから栗原イブラヒム・ジュニアがそれぞれ復帰した。 5月には千葉寛汰がFC今治、加藤拓己がSC相模原、栗原イブラヒム・ジュニアが福島ユナイテッド FC、菊地脩太がVファーレン長崎へそれぞれ育成型期限付き移籍した。 チームは第2節アウェー磐田戦でシーズン初勝利で同節終了時に3位となった。5月29日のアウェー柏戦で敗戦し3連敗となった翌日に平岡監督を解任。後任にはブラジル2部のヴァスコ・ダ・ガマで指揮を執っていたブラジル人のゼ・リカルドが就任。 6月にファジアーノ岡山から梅田透吾が復帰し、SKラピード・ウィーンから北川航也が3年ぶりに復帰。7月には新外国人選手としてフォルタレーザECからヤゴ・ピカチュウを獲得し、さらに6月にC大阪を退団した元日本代表の乾貴士を獲得した。 第23節からシーズン初の2連勝を含む5試合負けなしで、第27節ホーム京都戦に勝利し、同節終了時には11位まで浮上、降格圏の17位神戸に勝点差7をつけていたものの、第32節終了時点で17位に転落、台風15号の影響で延期された第31節ホーム磐田戦を引き分け一旦16位までは浮上したものの、最終2戦を連敗、結局9月以降の7試合で1勝も出来ず2分5敗で17位に終わり、2016年以来7年ぶりのJ2降格となった。先に降格が決まっていた最下位磐田と同時の降格となり、Jリーグ史上初、JSL時代を含めても1980年のJSL以降初めてトップディビジョンに静岡県のチームが不在となる事態となった。一方で、J3リーグでは同じく静岡県の藤枝MYFC(藤枝市、焼津市など)が自動昇格圏内である2位でシーズンを終えたため、2023年のJ2リーグは静岡県勢のJリーグクラブの4チーム中、アスルクラロ沼津を除いた3チーム(清水・磐田・藤枝)が所属することになった。 総得点は44で10位ながら、失点は54でワースト3位だった。チアゴ・サンタナがクラブ史上初の得点王に輝いた。J2降格のクラブから得点王が出たのは史上初の出来事で、また14ゴールでの得点王は歴代最少となった。 12月には、スペインのRCDマジョルカと業務提携を行った。 チームスローガン:STRONG WILL ゼ・リカルド監督体制2年目。 石野智顕GKコーチ(長崎GKコーチに就任)、篠田善之コーチ(甲府監督に就任)などが退団し、昨年まで水戸の監督だった秋葉忠宏、市川大佑らがコーチに就任した。 栗原イブラヒム・ジュニア(SC相模原へ移籍)、後藤優介(モンテディオ山形へ移籍)が契約満了で退団。立田悠悟、片山瑛一が柏レイソルに、髙橋大悟がFC町田ゼルビアにいずれも完全移籍、永田堅梧が横浜FCに、ヤゴ・ピカチュウがフォルタレーザECに期限付き移籍した。一方で北爪健吾、高橋祐治が柏レイソルから、また9年振りに吉田豊が名古屋グランパスから完全移籍で加入、前年シーズン途中にモンテディオ山形に期限付き移籍していたディサロ燦シルヴァーノが復帰、日大藤沢高校から森重陽介、法政大学から落合穀人、早稲田大学から監物拓歩、中央学院大学から阿部諒弥が加入した。ユースからは安藤阿雄依が昇格した。 3月29日、松岡大起がグレミオ・ノヴォリゾンチーノ(ブラジル)へ期限付き移籍した。 開幕からクラブワースト記録を更新する7戦未勝利と低迷し、4月3日に成績不振のためゼ・リカルド監督の契約を解除する事を発表。後任には秋葉忠宏コーチが監督に昇格。監督の途中交代は5年連続となる。監督交代後は成績が好転し、14試合負けなしのクラブ記録を樹立したが、最終節で水戸と引き分けたため自動昇格を逃した。昇格プレーオフでは準決勝で6位山形と対戦し、スコアレスドローで、規定により決勝進出を果たしたが、決勝では東京Vに1-1の引き分けで終え、規定によりリーグ戦の上位の東京Vが昇格したため、1年でのJ1復帰は果たせなかった。また、J2残留及び2年連続J2はクラブ史上初となる。 1997年からホームスタジアムにてスタジアムDJを務めてきた鈴木克馬が今季を持って退任することが発表された。後任は後日公式サイトにて発表される。 チームスローガン: 秋葉体制2年目。 コーチに前福島監督の依田光正が就任。 大久保択生、井林章、神谷優太(江原FC/韓国に移籍)、 ベンジャミンコロリ、ヘナトアウグストが契約満了で退団。竹内涼がファジアーノ岡山、滝裕太が松本山雅FC、中山克広が名古屋グランパス、西村恭史が期限付き移籍先のAC長野パルセイロ、鈴木義宜が京都サンガF.C.に完全移籍。ファジアーノ岡山から川谷凪が復帰した。サンフレッチェ広島から住吉ジェラニレショーン、鹿島アントラーズから中村亮太朗、FC東京から蓮川壮大が期限付き移籍加入。鹿島アントラーズから沖悠哉が完全移籍で加入した。 ※2020年2月現在。J2リーグの出場も含む。 ※試合数は清水エスパルス在籍時のみを記載。 ※各国代表選手の記録は、清水エスパルス在籍時のみを記載。 クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。 ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(正式名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)でも試合を開催していたが、2015年を最後に使用実績がない。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照。 練習場はエスパルス三保グラウンド、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。 IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない。 スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。 現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。 エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を2014年7月、同市長の田辺信宏に対し要望書を提出した。田辺のこのスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指していた。 有力な候補地として、葵区にあるJR東海東静岡駅北の約2.5haの市所有地が挙げられていた。当初この箇所は1990年に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの市有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案のコンペティションを実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。 周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に静岡県草薙総合運動場陸上競技場、同球技場もあることからなお難航が懸念されており、実際、田辺市長は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時もこの8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から静岡県の川勝平太知事もサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている。 ところが2016年3月になって、川勝知事が新たな移転先の候補地として清水駅周辺を選択肢の一つとして示したと静岡放送が報じた。田辺市長は上記の東静岡駅北口をローラースポーツの施設として一時的に作るための予算を計上したことに3月3日、川勝知事が抗議した。川勝知事はJリーグの舞台で戦うエスパルスと静岡市が中心となってサッカー専用スタジアムを建設すべきとしたうえで、県としてもスタジアムの建設には全面的に協力し、それをするために担当部局に検討するよう指示したという。 2022年3月、ENEOSの清水製油所跡地に収容人員2万5千人超のサッカースタジアムを建設する構想が明らかになった。総事業費は200億円で静岡市や静岡県、地元企業などが共同で拠出する見通しで、2026年ごろの完成を想定している。 2022年10月24日に行われた静岡市の新スタジアムの検討会で、上記のENEOS製油所跡に加え、日本平の改修も検討に入れていることが分かった。 静岡市は検討委員会に対し、候補地の要件として面積3.5ha以上の運動公園や遊休地を求め、それを満たす箇所として、上記2か所に加え、貝島スポーツ広場(中部電力所有)、清水ナショナルトレーニングセンター敷地、草薙総合運動場、西ヶ谷総合運動場も候補に挙げていた。 会合ではまず、草薙、西ヶ谷、ナショナルトレセンの3か所は整備のための協議や調整に多大な時間が必要とする理由から除外し、交通アクセス面などを踏まえて3か所(ENEOS製油所跡、貝島、日本平の改修)を選んだが、貝島は騒音問題は工場群にあるため問題はないとしても、交通の便が悪く、自動車来場による、道路の混雑を招くとしてこれも候補から外れ、2か所に絞った。 また静岡市民に対するアンケート(同8月)の結果もまとめており、「新スタジアムに期待すること」のテーマに対して、市民の約8割が「日常使い」と答えたという。また「交通アクセス」「周辺地域活性化」についても75%を超えたという。 日本航空(JAL)によるユニフォームの胸部分への広告掲出(ゼッケンスポンサー)は他のクラブの先駆けとなるものであったが次のような逸話がある。 Jリーグ初年度参加の10クラブが発表された頃、日本航空宣伝部にいた欧州サッカー通の社員が次のようなことを考えた。 「欧州サッカーでは80年代からゼッケンスポンサーが始まった。日本で始まるプロサッカーの中に清水FCというクラブがある。他の9クラブは企業クラブだから胸に親企業の社名・商品名を入れるだろう。清水はどうするのか。ひょっとしたら空いているのかもしれない。空いているんだったら買いに行けば面白いんじゃないか...」 1991年5月、清水FC代表に了解を取り付け、クラブ側営業担当と面会した。クラブ側営業担当は当初は「売りもしないのに勝手に日本航空が買いに来た」と面食らったが、「こういう商売もあったのか」と興味を持ち、水面下で話は進んでいった。 しかし1991年9月19日、日刊スポーツ紙に「JAL 清水エスパルスを援助」と大見出しですっぱ抜かれてしまう。直属の上司からは「どこから漏れたのかはわからないが、漏れるような話じゃダメだな。あきらめろ」と撤退を勧告された。またこのスクープによって「ゼッケンスポンサー」という広告の魅力に気付いた大企業は各クラブとの交渉を開始。 「日本初のゼッケンスポンサー」を考えた日航の宣伝部員は「このままではアイディアを他企業に横取りされてしまう」とノイローゼになり、退社をも考えたが、清水側の営業担当の笑顔に励まされた。 実は日刊スポーツ紙のスクープ以来、清水エスパルスには日本航空以外の企業からの売り込みがあった。しかし清水側は最初にゼッケンスポンサーの話を持ちかけた日本航空とその担当者に敬意を表し、他企業からのゼッケンスポンサーの申し出を断り続けていた。 1992年2月、日航の宣伝部員は再度上司にB4判5枚にも上る企画書を提出。企画書には協賛主旨として企業利益の社会還元、継続的な露出などの他に「ライバル企業である全日空対策(初年度参加チームのAS横浜フリューゲルスの親会社)としてJリーグにおける全日空のイメージ独占を阻止できる」「JAL対ANAとして注目を集める中、清水FCは全日空FCに勝てる可能性は非常に高いクラブ」「プロクラブ所有と比較して十分の一以下の費用」、更には移籍可能性のある選手としてスーパースター・カズや北澤の名前を勝手に盛り込んだ。 数々の障害をはねのけ、1992年5月16日、清水エスパルスは日本航空とのスポンサー契約を結んだ。 日本航空の機内ではエスパルスの勇姿がビデオに映し出され、機内誌には毎号選手紹介の特集ページが組まれ、空港には「頑張れ!エスパルス」のポスターが貼られ、各都市の繁華街にある「JALプラザ」ではJAL・エスパルスグッズが販売されるようになった。 2010年1月19日にJALが会社更生法を申請し、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続してスポンサードが行われてきた事に敬意を表し、それ以降はクラブ側がJALに対し無償で広告スペースを提供。 清水エスパルスの決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016 2018年8月3日、2011年からクラブの経理業務を一人で担当していた30代の男性経理担当社員が、チケット代金の売り上げの一部やスポンサーからの協賛金の一部を着服、また経費の架空請求も行い、2012年からの6年間で件数にして約500件、約6,700万円を不正に着服し高級車や高級腕時計、ブランド衣料の購入などにあてていたことが発覚したことを明らかにし、同社員は7月31日付で懲戒解雇、左伴社長は減俸30%3か月の処分とすることを発表、併せて当該元社員が反省し全額弁済を申し出ていることから刑事告訴は見送る方針であることも公表した。 2007年、統一教会の創始者である文鮮明が設立した財団法人「鮮文平和サッカー財団」(郭錠煥理事長)の主催していたピースカップに日本のチームとして初めて参加。これについては全国霊感商法対策弁護士連絡会(対策弁連)が抗議書を送付している。なおピースカップは2012年まで行われたが、日本のチームで参加したのは清水のみである。 2019年7月14日・15日に東京ビッグサイトで開催された「eJリーグ ウイニングイレブン 2019シーズン」において、決勝でFC東京を下し、初代王者となった。優勝した清水にはeJリーグ杯と優勝賞金500万円が贈呈された。清水は、優勝賞金の使用用途について「アカデミー活動の充実」と明かした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "清水エスパルス(しみずエスパルス、英: Shimizu S-Pulse)は、日本の静岡県静岡市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1993年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市)。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平、練習場はエスパルス三保グラウンド(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する。1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)、パルちゃんの妹的な存在に当たる こパルちゃん である。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた。選抜チームのオール清水(清水FC)はJFA全日本U-12サッカー選手権大会にて優勝8回を数え、高校選手権では市内の学校(清水東・清水商・東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、1991年には静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社、フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧、大榎克己、長谷川健太の“清水東三羽烏”をはじめ、澤登正朗を獲得。読売クラブから前述の堀池、トニーニョ、三浦泰年(初代キャプテン)を引き抜きに成功、更に三浦知良の加入も内定していたが、加入は実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている。1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この年から清水日本平運動公園球技場(現在のIAIスタジアム日本平)をホームスタジアムとして使用し始める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージからDFの加藤久、第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1stステージは第5節から9連勝を達成、一時首位を走ったものの、国立での鹿島戦を境に失速、2位に終わった。FIFAワールドカップアメリカ大会にロナウド選手がブラジル代表として出場。クラブ所属選手では初のW杯出場となった。1stステージ終了後、エメルソン・レオンが選手と賄賂を行っていたことが発覚し、解任。後任の監督にロベルト・リベリーノが就任したものの、2ndステージは6位で終了。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元鹿島アントラーズ監督、宮本征勝が監督に就任。チーム初の日本人監督となった。1stステージはリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。2ndステージから、元イタリア代表FWダニエレ・マッサーロが加入。また鹿島から吉田康弘, サントス, 森岡隆三が加入、中盤まで優勝争いを演じた。また、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会でジュニアユースチームが初優勝を果たし、クラブ初のタイトルを獲得した。天皇杯では、ヴィッセル神戸に敗北した。シーズン終了後、宮本が監督を退任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "監督にオズワルド・アルディレス、ヘッドコーチにスティーブ・ペリマンが就任。9月25日、1996JリーグヤマザキナビスコカップにてPK戦の末に優勝。トップチームが悲願の初タイトルを獲得した。また、この年開催されたアトランタ五輪では伊東輝悦、白井博幸、松原良香がメンバー入り、伊東はブラジル戦で決勝のゴールを決めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アルディレス体制2年目。固定背番号制が導入され、前年のレギュラーが一番つけていた背番号を優先的に与えた結果、森岡隆三の背番号がDFとしては珍しい11番をつけることとなった。1stステージは7位、2ndステージは6位となった。この年Jユースカップ初優勝、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会3連覇など、下部組織の活躍が目立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "11月、運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズの経営危機が表面化。20億円を超える負債を抱え、実質的な親会社のテレビ静岡が運営からの撤退を表明した。31万人を超える署名と1500万円の募金を集め、地元清水に本拠を置く物流大手鈴与の子会社で出版業を手掛けていた「サッカーコミュニケーションズ株式会社」(1995年11月設立)が第三者割当増資を行い、これに静岡鉄道・静岡ガス・静岡新聞社・小糸製作所が応じて株式会社エスパルスに改組、同社が営業権を譲り受けることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2月1日より新会社による運営がスタート。1998年W杯フランス大会の登録メンバーに、伊東輝悦、斉藤俊秀の2選手が選出される。チームは1stステージは13勝4敗で得失点差で2位。7月25日から8月22日にかけては6連勝1失点の成績を収め、8月のAFC月間最優秀チームに選ばれている。2ndステージ終了後、アルディレス監督を解任。天皇杯から、ペリマン監督体制となる。天皇杯は初の決勝進出を決めている。なお、ユースチームからGK野澤洋輔がトップチームに上がり、昇格第1号選手となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1月1日、天皇杯決勝は横浜フリューゲルスに敗れ準優勝。横浜フリューゲルスと横浜マリノスのチーム合併に伴い、この年のゼロックススーパーカップとアジアカップウィナーズカップ1999-2000の出場権を得ることとなった。また横浜マリノスから安永聡太郎、横浜フリューゲルスから久保山由清、ベルマーレ平塚から田坂和昭が加入し戦力を補強。 リーグ戦では1stステージは勝ち点4差で3位。2ndステージは中盤で8連勝しトップの座を譲らず、11月23日、横浜国際総合競技場に開催された横浜F・マリノス戦に勝利し、念願のステージ優勝を決めた。チャンピオンシップでは、最大のライバルジュビロ磐田にPK戦の末敗れた。アレックスがMVP、ベストイレブンに6選手、ペリマンが最優秀監督賞。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "AFC主催大会への初めての参加となったアジアカップウィナーズカップ1999-2000では準々決勝で安養LGチタスを破り決勝トーナメントへ進出。チェンマイでの準決勝ではバンコクバンクをPK戦の末に制すると、決勝のアル・ザウラー戦では池田昇平のゴールにより1-0で勝利。初めてアジアのタイトルを獲得した。アジアスーパーカップはアジアクラブ選手権1999-2000優勝のアル・ヒラルとの間でのホーム&アウェイで行われ、1分け1敗でアジアチャンピオンには一歩届かなかった。J1リーグ戦は1stステージ3位、2ndステージは13位で終えた。J1リーグ戦終了後、ペリマン監督を解任し、ユース総監督だったゼムノヴィッチがトップチームの監督に昇格。ゼムノヴィッチ体制初の大会となった天皇杯は2大会ぶりに決勝に進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "天皇杯決勝は鹿島に敗れたものの、ゼロックススーパーカップでは鹿島に3-0で勝利。前年度優勝チームとして出場したアジアカップウィナーズカップ2000-01は準々決勝でBECテロ・サーサナを制し準決勝に進出したが、大連實徳に敗れ3位に終わった。2002年のFIFAワールドカップ開催に伴い、国際試合対応の大規模なスタジアムが全国に建設される中、5月12日には静岡県内でのワールドカップ会場となるエコパスタジアムのこけら落としが行われ、延長の末に平松康平のゴールで勝利を飾った。J1リーグ戦は1stステージ、2ndステージともに4位。天皇杯は前年度に続き決勝進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1月1日、3度目の決勝進出となった天皇杯決勝にてセレッソ大阪を延長で破り優勝。2月にはゼロックススーパーカップを連覇した。6月のFIFAワールドカップには森岡隆三、三都主アレサンドロ、戸田和幸、市川大祐の4選手が出場している。アジアクラブ選手権に出場する鹿島に代わり、第80回天皇杯準優勝チームとしてアジアカップウィナーズカップ2001-02に3大会連続で出場、全北現代との準々決勝でアウェイゴールの差で準決勝進出を逃した。また、この年からアジアクラブ選手権とアジアカップウィナーズカップが統合されて初めての開催となったAFCチャンピオンズリーグ2002-2003に第81回天皇杯優勝チームとして出場。予選ラウンドからの出場となり、ニュー・ラディアント、サウスチャイナに勝利し、グループステージ(準々決勝に相当)進出を決めた。J1リーグ戦では1stステージ7位、2ndステージ12位と振るわず、ゼムノヴィッチ監督が退任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大木武新体制でスタート。Jリーグ開幕に先立って大連で開催されたAFCチャンピオンズリーグ2002-2003のグループステージ(準々決勝に相当)は、大連實徳、城南一和、オーソットサパーとひとつの椅子を争うも勝ち残ることはできなかった。ヤマザキナビスコカップはベスト4まで進出。J1リーグ戦は年間11位に終わった。11月29日、大木監督を解任し行徳浩二が監督に就任。天皇杯は準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出できなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アントニーニョ監督体制でスタート。手腕が期待されたが、家族の看病などを理由に、1stステージ最終戦となった市原臨海競技場での市原戦後に辞意を表明。石崎信弘ヘッドコーチが監督昇格となった。アラウージョ、チョ・ジェジンが攻撃面で奮起するものの、リーグワースト5位の53失点を喫し、J1リーグ戦は年間14位となった。シーズン終了後、翌年も石崎監督を続投することが決まっていたが、サポーターから不満が噴出し、その年限りで石崎は監督を退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この年開催されたアテネ五輪には黒河貴矢がメンバー入りを果たした。長年ゴールマウスを守ってきた真田雅則が現役引退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "長谷川健太が初めて監督に就任。初年度となった2005年シーズンは15位で残留を決めるなど低迷が続いた。その間にスカウトの充実をはかり、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図った。2005年度にデビューした枝村匠馬、兵働昭弘、青山直晃ら若手選手が主力として定着、同年の天皇杯で準優勝の成績を収める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "長谷川体制2年目。2006年は新人の藤本淳吾が主力として定着、青山直晃が日本代表に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。日本A代表経験者の市川、森岡隆三、伊東輝悦、斉藤俊秀らも復調して開幕から上位につけ、4位でシーズンを終えた。この年、藤本が新人王を獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "長谷川体制3年目。中断明け以降の20節から25節まで6連勝をマークしたが、その後のアウエイで連敗し優勝争いから後退。年間4位となった。この年、伊東輝悦が同一クラブ所属としてJリーグ初となるJ1通算400試合を達成。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "長谷川体制4年目。リーグ戦は序盤の3連敗が響き、一時は降格圏の順位となったものの、若手の成長もあって終盤追い上げ、年間順位は5位となった。ヤマザキナビスコカップは決勝に進出。大分トリニータと対戦、0-2で敗戦。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "長谷川体制5年目。横浜FCから太田宏介を、浦和から永井雄一郎を、名古屋からフローデ・ヨンセンを獲得し大型補強に成功。札幌に期限付き移籍していた平岡康裕も復帰。その一方で、森岡隆三、高木和道、矢島卓郎、西澤明訓などが移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "開幕戦の大宮戦、スコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。夏場までは引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間にナビスコカップのホームゲームで山形に敗れている)。9月29日に長谷川健太の監督続投決定。10月3日第28節広島戦で1対1で引き分けるも得失点差で鹿島を上回り首位に立ったが、第29節の負ければJ2降格となる大分にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節にはFC東京戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1-2での黒星になるなど、優勝はおろかACL出場権も得られず最終順位は7位。天皇杯は準決勝で名古屋に敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "長谷川体制6年目。新戦力として千葉からボスナーを、VfLボーフムから小野伸二を獲得。柏に期限付き移籍していた杉山浩太、東京Vに期限付き移籍していた廣井友信が復帰、ユースチームから鍋田亜人夢が加入。第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝の快挙を達成。チームは開幕から独走体制に入り、開幕10戦負けなし。南アフリカw杯中断前の前半戦終了時点では首位での折り返しとなった。しかし、リーグ再開後は調子を落とし、9月に名古屋グランパス戦で優勝争い直接対決に敗れたことで優勝争いから脱落した。最終順位は6位、シーズン終了後長谷川監督退任。天皇杯で準優勝。2度のリーグ優勝争い、3度のカップ戦決勝進出がありながら長谷川健太体制は無冠に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "長谷川健太の後任監督にはイラン代表監督(当時)のアフシン・ゴトビが就任。東京Vから高木俊幸、湘南から村松大輔、韓国Kリーグ水原から元日本代表高原直泰、ギリシャ・スーパーリーグイラクリスから元日本代表小林大悟、滝川第二高校から樋口寛規、AリーグシドニーFCからオーストラリア代表アレックス・ブロスケをそれぞれ完全移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その一方で、伊東輝悦、市川大祐が甲府、青山直晃が横浜FM、西部洋平が湘南へ、フローデ・ヨンセンがオッド・グレンランドへ、それぞれ契約満了後に移籍した。主力であった藤本淳吾が名古屋へ、本田拓也が鹿島へ、岡崎慎司がVfBシュトゥットガルトへ、兵働昭弘が柏へ移籍。スーパーサブであった原一樹が浦和へ移籍、前年のチームは大刷新された。クラブ生え抜きの伊東・市川、前シーズンリーグ戦32試合に出場した西部を含む主力の相次ぐ放出劇は2010年度の赤字転落に伴う人件費圧縮の必要性が背景にあったものだが、このことが結果的にフロントと選手の間に不信感を生じさせ、後年の主力の相次ぐ退団劇や低迷の要因の一つとなったと伝えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "開幕戦の柏戦で0-3で大敗したが、小野、高原などの活躍もあり、その後は6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたが、第6節C大阪、第19節広島、第20節新潟と夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。8月に北京五輪オランダ代表のDFカルフィン・ヨン・ア・ピンと元スウェーデン代表のフレドリック・ユングベリを獲得。ユングベリはホーム名古屋戦で裏街道からアレックスのゴールをアシストしたシーンが話題となった。しかし終盤3連敗、守備に課題を残し、10位でシーズンを終了。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "9月、GKコーチの真田雅則が死去。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "開幕直後に発生した東日本大震災によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行い、アヤックス・アムステルダムと対戦。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)をオランダ赤十字を通して義援金として寄付。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ゴトビ体制2年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "補強は、大分から姜成浩、甲府から吉田豊、ROCシャルルロワ=マルシェンヌ(ベルギー)から林彰洋、FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)からジミー・フランサが完全移籍で加入、犬飼智也、河井陽介、八反田康平、柏瀬暁、白崎凌兵、李記帝が加入。ユース登録の石毛秀樹が2種登録。一方で太田宏介がFC東京、ボスナーが水原三星ブルーウィングスへそれぞれ完全移籍、永井雄一郎が横浜FC、木島悠が大分、山本真希が札幌、児玉新がC大阪、岡根直哉が山形、竹内涼が北九州へ期限付き移籍、熊本へ期限付き移籍していた長沢駿は京都、新潟へ期限付き移籍していた武田洋平はG大阪へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍の廣井友信の期限付き移籍期間が延長。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1月、2012アジアスーパーチャレンジカップに出場して準優勝。3月15日、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による21世紀のアジアクラブ・ランクで21位となった。Jクラブの中では、G大阪、鹿島、浦和に次いで4位。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "リーグ戦、第10節終了時点2位、第11節セレッソ大阪戦から第19節横浜F戦まで9戦勝利なし(4分5敗)と失速する。シーズン途中に小野伸二がウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC、アレックスがアル・アインFC、辻尾真二が広島、岩下敬輔がG大阪、枝村匠馬がC大阪、橘章斗が松本へ移籍、ジミー・フランサが東京Vへ期限付き移籍した一方、三吉聖王や金賢聖、強化指定選手として筑波大学の瀬沼優司が加入。第30節終了時点で4位につけていたが、その後、1分け3敗と4戦未勝利となり最終順位は9位。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ヤマザキナビスコカップは決勝で鹿島に1-2で敗れて準優勝。石毛秀樹がニューヒーロー賞選出。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ゴトビ体制3年目。愛媛FCから内田健太、札幌から髙原寿康、高木純平、カタール1部のアル・アラビからバレーを完全移籍で獲得。イ・ミンス(湘南)、樋口寛規(FC岐阜)、橘章斗(松本山雅)、岡根直哉(山形)、竹内涼(北九州)、廣井友信(熊本)が期限付き移籍先から復帰、三浦弦太、六平光成、藤田息吹、加賀美翔が新加入。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大前元紀がドイツ・ブンデスリーガのフォルトゥナ・デュッセルドルフへ、高原直泰が東京V、山本海人が神戸、碓井健平が千葉、小林大悟がMLSのバンクーバー・ホワイトキャップスへ移籍。広島へ期限付き移籍していた辻尾真二が大分、G大阪へ期限付き移籍していた武田洋平がC大阪、岩下敬輔が期限付き移籍先のG大阪へ完全移籍、姜成浩が京都へ期限付き移籍、三吉聖王、東京Vへ期限付き移籍していたジミー・フランサ、金賢聖が退団、京都へ期限付き移籍していた長沢駿が松本へ期限付き移籍、C大阪へ期限付き移籍している枝村匠馬の期限付き移籍期間が延長。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "シーズン中、バレーが中国スーパーリーグの天津泰達足球倶楽部へ完全移籍、林彰洋が鳥栖へ、犬飼智也が松本、柴原誠、樋口寛規が岐阜、白崎凌兵が富山、柏瀬暁がNASLのニューヨーク・コスモスへ夫々期限付き移籍した一方、柏を退団した三浦雄也、C大阪を退団した村田和哉、鹿島から本田拓也を完全移籍で、Kリーグの水原三星からラドンチッチ、デュッセルドルフへ移籍していた大前元紀を期限付き移籍で獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "第1節大宮戦は2-2で引き分け、ゴトビ体制初の開幕戦での得点と勝ち点を得る。しかしその後、横浜FM戦では0-5、広島戦では0-4と大敗する。4月は初勝利となった第5節鳥栖戦を含め無敗で乗り切るものの、5月はリーグ戦2勝3敗、カップ戦2敗と苦戦。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "7月、リーグ戦再開後復調。鹿島、甲府、名古屋、鳥栖戦と、ホームでは4試合連続逆転勝利。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "最終的にはリーグ戦は9位、ヤマザキナビスコカップはグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ゴトビ体制4年目。FCユトレヒトから高木善朗、町田から相澤貴志、MLSのD.C. ユナイテッドからカナダ代表のヤコヴィッチ、1.FCケルンからスロベニア代表ノヴァコヴィッチを完全移籍で獲得。長沢駿、樋口寛規、柏瀬暁が期限付き移籍から復帰。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方で、橘章斗が退団、髙原寿康が町田へ、伊藤翔が横浜FMへ、柴原誠が福島へ完全移籍、内田健太が富山へ、瀬沼優司、岡根直哉、イ・ミンスが栃木SCへ、八反田康平が仙台へ、姜成浩が東京Vへ期限付き移籍(途中で期限付き移籍先が金沢へ変更)、林彰洋が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、犬飼智也、白崎凌兵の期限付き移籍期間が延長、C大阪へ期限付き移籍していた枝村匠馬は名古屋へ期限付き移籍、ラドンチッチが期限付き移籍期間満了で大宮へ移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "シーズン途中、村松大輔が徳島、樋口寛規が湘南、鍋田亜人夢が福岡へ期限付き移籍したが、ブエノが新加入、栃木SCへ期限付き移籍していた瀬沼優司が復帰。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "シーズン序盤から中位から下位を低迷。7月23日のG大阪戦に敗れリーグ戦7戦勝ちなしとなった試合後の緊急ミーティングで、ゴトビ監督が選手に対して「君たちは私を辞めさせるために、わざと無気力な試合をしているのか」と発言したことで、それまで選手起用を巡ってくすぶっていた指揮官と選手の間の亀裂が決定的なものとなり、7月29日付けでアフシン・ゴトビ監督を解任。後任には清水生え抜きでユース監督の大榎克己が就任した。8月9日にホーム通算200勝を達成。大榎の就任後の後半戦はわずか4勝で17位まで順位を落とすが、最終節に甲府に引き分けてJ1残留を確定させた。最終成績10勝6分18敗の勝ち点36、順位は15位。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ナビスコ杯グループリーグ敗退、天皇杯ベスト4。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大榎体制2年目。GK杉山力裕が川崎から、GK碓井健平が千葉から、DF鎌田翔雅が湘南から、FW澤田崇が熊本からいずれも完全移籍(碓井は3年ぶりの復帰)。期限付き移籍していたDF内田健太が富山から、DF村松大輔が徳島から、DF犬飼智也が松本から、MF枝村匠馬が神戸から、MF八反田康平が仙台から、MF白崎凌兵が富山から、それぞれ復帰。DF水谷拓磨、MF宮本航汰、FW北川航也が清水ユースから昇格、DF松原后が浜松開成館高校から新加入。一方、GK相澤貴志が徳島へ、GK三浦雄也が長崎へ、DF廣井友信が金沢、DF吉田豊が鳥栖へ、DFイ・キジェがニューカッスル・ジェッツへ、FW高木俊幸が浦和、FWノヴァコヴィッチが名古屋へいずれも完全移籍。MF藤田息吹とFW瀬沼優司が愛媛へ、DFブエノは神戸へレンタル移籍、柏瀬暁が契約満了で退団。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2004年以来11年ぶりの2ステージ制となった本年では、1stステージ3勝4分10敗の勝ち点13の最下位とクラブ史上最低の成績となり、2ndステージ第5戦目後に成績不振を理由に大榎克己が監督を辞任。後任に大分監督退任後にヘッドコーチに就任していた田坂和昭が就任。8月に鄭大世が完全移籍で、角田誠が期限付き移籍で加入したが、10月17日のセカンドステージ第14節仙台戦に敗れ、15位新潟がその日の夜の試合に勝利したことから年間順位16位以下が確定、クラブ史上初のJ2降格が決定した。2ndステージ第13節から、シーズン4度目の年間通算最下位となっていたが、同16節、同じくJ2降格が決定していた山形に勝利、2ndステージ2勝目を挙げると同時に年間通算勝点で山形に並び、最終節甲府戦で引き分け、同節で山形が敗れたことにより、年間最終順位で山形を抜き17位に終わった。シーズン終了をもって田坂が監督を辞任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "前徳島の小林伸二が監督就任。J2降格に伴い、2020年まで5年強化計画を設定。1年目をプレーオフ進出でJ1復帰することに加え、主力多くの残留、出場機会減少の選手を期限付き移籍させ、選手の背番号を多く変更、選手育成などを目標に挙げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ピーター・ウタカが広島へ、櫛引政敏が鹿島へ、平岡康裕が仙台へ、村松大輔が神戸へ、宮本航汰が長崎へ期限付き移籍したほか、ブエノが鹿島へ、高木純平が東京Vへ、カルフィン・ヨン・ア・ピンが町田へ完全移籍。藤田息吹と内田健太が期限付き移籍先の愛媛へ、相模原へ期限付き移籍していた樋口寛規が福島へ完全移籍。瀬沼優司と高木善朗の期限付き移籍期間が延長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一方で、期限付き移籍していた角田誠と福村貴幸が完全移籍、川崎から6年ぶりに西部洋平が完全移籍で復帰、新潟から川口尚紀、広島からビョン・ジュンボンを期限付き移籍で獲得し、さらには東海学園高校から光崎伸が入団した。シーズン中には、徳島から長谷川悠、長崎から植草裕樹、仙台から二見宏志を完全移籍、広島からキム・ボムヨンを期限付き移籍で獲得。専修大学から飯田貴敬を特別指定選手で獲得。その一方で、水谷拓磨がFC今治へ、加賀美翔が藤枝へ期限付き移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "序盤戦はJリーグ参入後初めて戦うJ2での戦いに不慣れなことに加え、大前が負傷により長期離脱を強いられ、第2、3、6、9-11節終了時以外はプレーオフ圏外の7位以下になるなど低迷したものの、第20節終了時以降は第24節終了時を除き6位以上をキープ、特に第25節以降の18試合では15勝1分2敗で、年間勝点84の半分以上となる勝点46を挙げ上位を猛追、第33節ではJ1自動昇格圏の2位松本との直接対決に敗れ5位に後退、勝点差も7に広がったが、第34節からは連勝を重ね、第35節終了時に4位、第37節終了時に3位と徐々に順位を上げ、41節に松本と勝点で並び、得失点差で大幅に上回るため松本と入れ替わり遂にJ1自動昇格圏内の2位に浮上、最終節にも勝利し最終的には9連勝で札幌に次ぐ2位となり1年でのJ1復帰を決めた。第15節群馬戦、当時のJ2最多得点差となる8-0で大勝している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "小林体制2年目。大前元紀が大宮へ完全移籍したのをはじめ、澤田崇が長崎、八反田康平が名古屋、本田拓也が山形、三浦弦太がG大阪、杉山力裕が福岡へ、平岡康裕(仙台)、高木善朗(東京V)が期限付き移籍先へ完全移籍、ピーター・ウタカはサンフレッチェ広島へ完全移籍の後FC東京へ期限付き移籍、福村貴幸が岐阜、石毛秀樹がファジアーノ岡山、鹿島へ期限付き移籍していた櫛引政敏が岡山、碓井健平が町田、愛媛へ期限付き移籍していた瀬沼優司が山形へ期限付き移籍、宮本航汰は期限付き移籍していた長崎との期限付き移籍期間延長。川口尚紀は期限付き移籍期間満了、藤枝へ期限付き移籍していた加賀美翔は契約満了で退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "一方で、仙台から六反勇治を完全移籍で、広島から新潟で昨年プレーした野津田岳人を期限付き移籍で獲得。立田悠悟がユースから昇格、専修大学から飯田貴敬が加入。タイのチョンブリーFCからカヌを、 ポルトガルのGDシャヴェスからフレイレを獲得。また、神戸に期限付き移籍していた村松大輔が期間満了で復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "さらに、シーズン途中にサウジアラビアのアル・ヒラルからチアゴ・アウベスを期限付き移籍で獲得。それに伴い、外国人枠を空けるため広島から期限付き移籍で加入していたキム・ボムヨンを完全移籍で獲得したうえで千葉へ期限付き移籍した。また、シーズン途中野津田岳人は広島からのレンタル終了、仙台へレンタル移籍、広島から清水航平をレンタルで、またアルシャルージャから増田誓志を完全移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2年ぶりのJ1の戦いは、前半17試合を3勝6分け8敗で13位でターン、後半は8戦勝ちなし(3分5敗)などで15位まで順位を落とし、最終節敗れればJ2降格の可能性もあった中、最終節の神戸戦に勝利し、14位でJ1残留を決めた。シーズン終了後チームの成績低迷を理由に小林監督を解任した。さらに柏への期限付き移籍の2年を除く13年在籍していた杉山浩太が現役引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "前広島監督のヤン・ヨンソンが監督に就任。犬飼智也が鹿島、カヌがタイ・スパンブリーFC、岡山へ期限付き移籍していた櫛引政敏が山形、町田へ期限付き移籍していた碓井健平が九州1部・沖縄SV、金沢へ期限付き移籍していたビョン・ジュンボンが甲府、千葉へ期限付き移籍していたキム・ボムヨンが兵役のため韓国・水原FC、瀬沼優司(山形)、福村貴幸(岐阜)が期限付き移籍先へ完全移籍、枝村匠馬が福岡、長崎へ期限付き移籍していた宮本航汰が岐阜へ期限付き移籍、チアゴ・アウベスは期限付き移籍期間満了、村松大輔、光崎伸が契約満了で退団した。なお、チアゴアウベスはアル・ヒラルから全北現代へ移籍、村松太輔はギラヴァンツ北九州へ加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一方で、甲府から8年ぶりに復帰の兵働昭弘、オーストラリア・ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCから楠神順平、中国・天津泰達足球倶楽部からファン・ソッコを完全移籍で、ポルトガル・SCブラガから昨年仙台に在籍していたクリスランを期限付き移籍で獲得。JFL・今治へ期限付き移籍していた水谷拓磨、岡山へ期限付き移籍していた石毛秀樹が期限付き移籍期間終了で復帰、伊藤研太、滝裕太、平墳迅がユースから昇格、呉少聰、新井栄聡、髙橋大悟が新加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "シーズン途中に、トルコのアランヤスポルからドウグラスを完全移籍で獲得。呉少聰が京都、清水航平が甲府、楠神順平が山形へそれぞれ期限付き移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "開幕戦〜第4節まで2勝2分得失点差+4で、4節終了時点で暫定3位。第5節・横浜FM戦で今シーズンJ1リーグ初黒星を記録。第6節の磐田とのダービーに引き分け、第7節〜第9節まで3連敗し、暫定13位に順位を落とした。第10、11節で連勝し暫定順位を7位に押し上げる。第12、13節で連敗、第14節で白星を挙げるが、第15節で川崎に敗れ、暫定10位・5勝3分7敗 得失点差-2でリーグ中断を迎えた。中断明けの第16節〜19節まで3連勝し、1試合少ないながらも暫定8位へ順位を上げた。第20〜27節 まで2勝1分6敗と低迷。暫定順位を12位へ落とした。第28〜30節まで3連勝し、第29節の磐田戦では5-1と大勝した。第31〜34節は1勝3分だったものの、第33、34節ではそれぞれ3-3、4-4での引き分けで、2018シーズンのチーム別得点数では首位川崎と1差、横浜FMと同じく2位タイ・56得点と昨年の36得点から大きく上昇した。最終成績は14勝7分13敗 得失点差+8で8位。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "兵働昭弘、植草裕樹が今シーズン限りで現役を引退し、クラブスタッフに就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ヨンソン体制2年目。角田誠と長谷川悠が長崎、フレイレが湘南、白崎凌兵が鹿島、村田和哉が柏、ミッチェル・デュークがウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC、呉少聰が広州恒大へ完全移籍。新井栄聡が金沢、増田誓志がソウルイーランドFC、清水航平が甲府から広島へ期限付き移籍。宮本航汰が岐阜との期限付き移籍期間を延長。福岡へ期限付き移籍していた枝村匠馬が契約満了で退団。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一方で、長崎から中村慶太、川崎からエウシーニョ、ブラジルのSEパルメイラスからヘナト・アウグストを完全移籍、ブラジルのアトレチコ・パラナエンセからヴァンデルソンを期限付き移籍で獲得。高木和徹がジェフ千葉、楠神順平が山形との期限付き移籍期間を満了して復帰。梅田透吾がユースから昇格。西澤健太が筑波大学から新加入。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "クラブ史上初めて背番号「10」が欠番となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "開幕からけが人が続出。J1第11節終了時点でリーグワーストの26失点を記録し、自動降格圏内である17位と低迷。5月12日、ヨンソンを解任。5月14日、コーチを務めていた篠田善之が監督に就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "シーズン途中の7月、アル・ナスルからジュニオール・ドゥトラ、大分から福森直也、福岡から吉本一謙、8月には鳥栖から大久保択生をいずれも完全移籍で獲得する一方、7月7日には西村恭史がJ2岡山へ、8月15日には髙橋大悟がJ3北九州へ、いずれも育成型期限付き移籍で移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "8月17日、ホームで行われた対札幌戦で0-8で敗戦し、クラブ最多失点記録を樹立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "第33節終了時で16位湘南と勝点差1で最終節まで残留争いに巻き込まれたものの、最終節鳥栖戦に勝利したことにより、12位でシーズンを終えたが、失点69および得失点差-24はいずれも同年のJ1全チーム中最悪となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "チームスローガン:RE-FRAME", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "クラブの改革の年となり、新社長として千葉ロッテマリーンズから山室晋也、新GMとしてセレッソ大阪から大熊清、新監督として横浜F・マリノスからピーター・クラモフスキー、コーチ陣複数名が就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "松原后がシント=トロイデンVV、鎌田翔雅がブラウブリッツ秋田、飯田貴敬が京都サンガF.C.、二見宏志がV・ファーレン長崎、清水航平がサンフレッチェ広島F.C、水谷拓磨がAC長野パルセイロ、ドウグラスがヴィッセル神戸へ完全移籍。楠神順平、増田誓志が契約満了で退団。高木和徹がV・ファーレン長崎、六反勇治が横浜FC、髙橋大悟がギラヴァンツ北九州へレンタル移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一方で、アメリカ・デ・カリからネト・ヴォルピ、セアラーSCからヴァウド、名古屋グランパスエイトから金井貢史、大宮アルディージャから奥井諒、ムアントン・ユナイテッドFCからティーラシン・デーンダー、大分トリニータから後藤優介を完全移籍、FC東京から岡崎慎をレンタル移籍、ユースからノリエガ・エリック、川本利誉、市立船橋高校から鈴木唯人、三菱養和SCユースから栗原イブラヒム・ジュニアを獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "クラモフスキー監督就任後2試合でリーグは中断。中断前の二試合こそ、敗れはしたものの今後の希望が見える試合だったが、リーグ再開後は低迷。25節までで連勝はなく、3勝5分け17敗、クラブワーストタイとなる7連敗も記録した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "シーズン途中の11月にクラモフスキー、今矢コーチ、安野フィジカルコーチと契約解除。コーチである平岡宏章が監督就任。平岡は初陣からチームを勝利に導き、9試合で4勝2分け3敗を記録。33節終了時点では最下位だったが最終節で2位のガンバ大阪に勝利し、同日に行われた勝ち点1・2差で16位・17位に着けるベガルタ仙台と湘南ベルマーレの直接対決が引き分けとなったため本来ならJ2プレーオフ勝者との入れ替え戦を行う16位でシーズンを終了、失点数は前シーズンを上回りJ1チーム最悪の70失点となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "チームスローガン:PENETRATE 突き破れ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "新監督に前C大阪監督のミゲル・アンヘル・ロティーナが就任。平岡監督はコーチへ復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "吉本一謙が引退。ティーラシンがBGパトゥム・ユナイテッドFC、ファン・ソッコが鳥栖、金井貢史が甲府、六平光成・西村恭史が北九州、川本梨誉・梅田透吾が岡山、西部洋平が富山、平墳迅がJFLの鈴鹿ポイントゲッターズ、伊藤研太が沖縄SVへ移籍。ネト・ヴォルピ・ジュニオール・ドゥトラは退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "その一方で積極的な立ち回りを見せ、CDサンタ・クララからチアゴ・サンタナ、コリチーバFCからウィリアム・マテウス、ポルティモネンセSCから日本代表GK権田修一、C大阪から片山瑛一、大分から主将鈴木義宜、鳥栖からU-23日本代表MF原輝綺、北九州から昨季J2得点ランキング2位のディサロ燦シルヴァーノ、横浜FCから中山克広、湘南から指宿洋史、松本から永井堅梧を獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "大型補強を展開したシーズンであったがチームは低迷。6月に広島から井林章、7月にFCチューリッヒからベンジャミン・コロリ、CRフラメンゴからホナウド、8月に鳥栖から松岡大起、神戸から藤本憲明を獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "第34節FC東京戦で0-4と大敗し、3連敗を喫した翌日の11月4日、ロティーナ監督、イヴァン・パランコヘッドコーチ、トニ・ヒル・プエルトフィジカルコーチ、小寺真人分析兼通訳との契約を解除し、再び平岡宏章監督が就任する事を発表した。最終節のセレッソ大阪戦で勝利を収め最終順位は14位。シーズン終了後、平岡監督が2022シーズンも続投すると発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "チームスローガン:HERE GOES!", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "平岡体制2年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "高木和徹が東京ヴェルディ、中村慶太が柏レイソル、金子翔太がジュビロ磐田、石毛秀樹がガンバ大阪、指宿洋史がアデレード・ユナイテッド、奥井諒がVファーレン長崎、河井陽介がファジアーノ岡山にそれぞれ完全移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "その一方で柏レイソルから神谷優太、徳島ヴォルティスから岸本武流、鹿島アントラーズから白崎凌兵が完全移籍で加入した。SC相模原から成岡輝瑠、ギラヴァンツ北九州から髙橋大悟、鈴鹿ポイントゲッターズから栗原イブラヒム・ジュニアがそれぞれ復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "5月には千葉寛汰がFC今治、加藤拓己がSC相模原、栗原イブラヒム・ジュニアが福島ユナイテッド FC、菊地脩太がVファーレン長崎へそれぞれ育成型期限付き移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "チームは第2節アウェー磐田戦でシーズン初勝利で同節終了時に3位となった。5月29日のアウェー柏戦で敗戦し3連敗となった翌日に平岡監督を解任。後任にはブラジル2部のヴァスコ・ダ・ガマで指揮を執っていたブラジル人のゼ・リカルドが就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "6月にファジアーノ岡山から梅田透吾が復帰し、SKラピード・ウィーンから北川航也が3年ぶりに復帰。7月には新外国人選手としてフォルタレーザECからヤゴ・ピカチュウを獲得し、さらに6月にC大阪を退団した元日本代表の乾貴士を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "第23節からシーズン初の2連勝を含む5試合負けなしで、第27節ホーム京都戦に勝利し、同節終了時には11位まで浮上、降格圏の17位神戸に勝点差7をつけていたものの、第32節終了時点で17位に転落、台風15号の影響で延期された第31節ホーム磐田戦を引き分け一旦16位までは浮上したものの、最終2戦を連敗、結局9月以降の7試合で1勝も出来ず2分5敗で17位に終わり、2016年以来7年ぶりのJ2降格となった。先に降格が決まっていた最下位磐田と同時の降格となり、Jリーグ史上初、JSL時代を含めても1980年のJSL以降初めてトップディビジョンに静岡県のチームが不在となる事態となった。一方で、J3リーグでは同じく静岡県の藤枝MYFC(藤枝市、焼津市など)が自動昇格圏内である2位でシーズンを終えたため、2023年のJ2リーグは静岡県勢のJリーグクラブの4チーム中、アスルクラロ沼津を除いた3チーム(清水・磐田・藤枝)が所属することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "総得点は44で10位ながら、失点は54でワースト3位だった。チアゴ・サンタナがクラブ史上初の得点王に輝いた。J2降格のクラブから得点王が出たのは史上初の出来事で、また14ゴールでの得点王は歴代最少となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "12月には、スペインのRCDマジョルカと業務提携を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "チームスローガン:STRONG WILL", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ゼ・リカルド監督体制2年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "石野智顕GKコーチ(長崎GKコーチに就任)、篠田善之コーチ(甲府監督に就任)などが退団し、昨年まで水戸の監督だった秋葉忠宏、市川大佑らがコーチに就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "栗原イブラヒム・ジュニア(SC相模原へ移籍)、後藤優介(モンテディオ山形へ移籍)が契約満了で退団。立田悠悟、片山瑛一が柏レイソルに、髙橋大悟がFC町田ゼルビアにいずれも完全移籍、永田堅梧が横浜FCに、ヤゴ・ピカチュウがフォルタレーザECに期限付き移籍した。一方で北爪健吾、高橋祐治が柏レイソルから、また9年振りに吉田豊が名古屋グランパスから完全移籍で加入、前年シーズン途中にモンテディオ山形に期限付き移籍していたディサロ燦シルヴァーノが復帰、日大藤沢高校から森重陽介、法政大学から落合穀人、早稲田大学から監物拓歩、中央学院大学から阿部諒弥が加入した。ユースからは安藤阿雄依が昇格した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "3月29日、松岡大起がグレミオ・ノヴォリゾンチーノ(ブラジル)へ期限付き移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "開幕からクラブワースト記録を更新する7戦未勝利と低迷し、4月3日に成績不振のためゼ・リカルド監督の契約を解除する事を発表。後任には秋葉忠宏コーチが監督に昇格。監督の途中交代は5年連続となる。監督交代後は成績が好転し、14試合負けなしのクラブ記録を樹立したが、最終節で水戸と引き分けたため自動昇格を逃した。昇格プレーオフでは準決勝で6位山形と対戦し、スコアレスドローで、規定により決勝進出を果たしたが、決勝では東京Vに1-1の引き分けで終え、規定によりリーグ戦の上位の東京Vが昇格したため、1年でのJ1復帰は果たせなかった。また、J2残留及び2年連続J2はクラブ史上初となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1997年からホームスタジアムにてスタジアムDJを務めてきた鈴木克馬が今季を持って退任することが発表された。後任は後日公式サイトにて発表される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "チームスローガン:", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "秋葉体制2年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "コーチに前福島監督の依田光正が就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "大久保択生、井林章、神谷優太(江原FC/韓国に移籍)、 ベンジャミンコロリ、ヘナトアウグストが契約満了で退団。竹内涼がファジアーノ岡山、滝裕太が松本山雅FC、中山克広が名古屋グランパス、西村恭史が期限付き移籍先のAC長野パルセイロ、鈴木義宜が京都サンガF.C.に完全移籍。ファジアーノ岡山から川谷凪が復帰した。サンフレッチェ広島から住吉ジェラニレショーン、鹿島アントラーズから中村亮太朗、FC東京から蓮川壮大が期限付き移籍加入。鹿島アントラーズから沖悠哉が完全移籍で加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "※2020年2月現在。J2リーグの出場も含む。 ※試合数は清水エスパルス在籍時のみを記載。", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "※各国代表選手の記録は、清水エスパルス在籍時のみを記載。", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。", "title": "エスパルス栄誉賞" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(正式名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)でも試合を開催していたが、2015年を最後に使用実績がない。過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "練習場はエスパルス三保グラウンド、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。 現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を2014年7月、同市長の田辺信宏に対し要望書を提出した。田辺のこのスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指していた。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "有力な候補地として、葵区にあるJR東海東静岡駅北の約2.5haの市所有地が挙げられていた。当初この箇所は1990年に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの市有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案のコンペティションを実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に静岡県草薙総合運動場陸上競技場、同球技場もあることからなお難航が懸念されており、実際、田辺市長は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時もこの8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から静岡県の川勝平太知事もサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ところが2016年3月になって、川勝知事が新たな移転先の候補地として清水駅周辺を選択肢の一つとして示したと静岡放送が報じた。田辺市長は上記の東静岡駅北口をローラースポーツの施設として一時的に作るための予算を計上したことに3月3日、川勝知事が抗議した。川勝知事はJリーグの舞台で戦うエスパルスと静岡市が中心となってサッカー専用スタジアムを建設すべきとしたうえで、県としてもスタジアムの建設には全面的に協力し、それをするために担当部局に検討するよう指示したという。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2022年3月、ENEOSの清水製油所跡地に収容人員2万5千人超のサッカースタジアムを建設する構想が明らかになった。総事業費は200億円で静岡市や静岡県、地元企業などが共同で拠出する見通しで、2026年ごろの完成を想定している。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2022年10月24日に行われた静岡市の新スタジアムの検討会で、上記のENEOS製油所跡に加え、日本平の改修も検討に入れていることが分かった。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "静岡市は検討委員会に対し、候補地の要件として面積3.5ha以上の運動公園や遊休地を求め、それを満たす箇所として、上記2か所に加え、貝島スポーツ広場(中部電力所有)、清水ナショナルトレーニングセンター敷地、草薙総合運動場、西ヶ谷総合運動場も候補に挙げていた。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "会合ではまず、草薙、西ヶ谷、ナショナルトレセンの3か所は整備のための協議や調整に多大な時間が必要とする理由から除外し、交通アクセス面などを踏まえて3か所(ENEOS製油所跡、貝島、日本平の改修)を選んだが、貝島は騒音問題は工場群にあるため問題はないとしても、交通の便が悪く、自動車来場による、道路の混雑を招くとしてこれも候補から外れ、2か所に絞った。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "また静岡市民に対するアンケート(同8月)の結果もまとめており、「新スタジアムに期待すること」のテーマに対して、市民の約8割が「日常使い」と答えたという。また「交通アクセス」「周辺地域活性化」についても75%を超えたという。", "title": "スタジアム・練習場" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "日本航空(JAL)によるユニフォームの胸部分への広告掲出(ゼッケンスポンサー)は他のクラブの先駆けとなるものであったが次のような逸話がある。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "Jリーグ初年度参加の10クラブが発表された頃、日本航空宣伝部にいた欧州サッカー通の社員が次のようなことを考えた。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "「欧州サッカーでは80年代からゼッケンスポンサーが始まった。日本で始まるプロサッカーの中に清水FCというクラブがある。他の9クラブは企業クラブだから胸に親企業の社名・商品名を入れるだろう。清水はどうするのか。ひょっとしたら空いているのかもしれない。空いているんだったら買いに行けば面白いんじゃないか...」", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "1991年5月、清水FC代表に了解を取り付け、クラブ側営業担当と面会した。クラブ側営業担当は当初は「売りもしないのに勝手に日本航空が買いに来た」と面食らったが、「こういう商売もあったのか」と興味を持ち、水面下で話は進んでいった。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "しかし1991年9月19日、日刊スポーツ紙に「JAL 清水エスパルスを援助」と大見出しですっぱ抜かれてしまう。直属の上司からは「どこから漏れたのかはわからないが、漏れるような話じゃダメだな。あきらめろ」と撤退を勧告された。またこのスクープによって「ゼッケンスポンサー」という広告の魅力に気付いた大企業は各クラブとの交渉を開始。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "「日本初のゼッケンスポンサー」を考えた日航の宣伝部員は「このままではアイディアを他企業に横取りされてしまう」とノイローゼになり、退社をも考えたが、清水側の営業担当の笑顔に励まされた。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "実は日刊スポーツ紙のスクープ以来、清水エスパルスには日本航空以外の企業からの売り込みがあった。しかし清水側は最初にゼッケンスポンサーの話を持ちかけた日本航空とその担当者に敬意を表し、他企業からのゼッケンスポンサーの申し出を断り続けていた。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "1992年2月、日航の宣伝部員は再度上司にB4判5枚にも上る企画書を提出。企画書には協賛主旨として企業利益の社会還元、継続的な露出などの他に「ライバル企業である全日空対策(初年度参加チームのAS横浜フリューゲルスの親会社)としてJリーグにおける全日空のイメージ独占を阻止できる」「JAL対ANAとして注目を集める中、清水FCは全日空FCに勝てる可能性は非常に高いクラブ」「プロクラブ所有と比較して十分の一以下の費用」、更には移籍可能性のある選手としてスーパースター・カズや北澤の名前を勝手に盛り込んだ。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "数々の障害をはねのけ、1992年5月16日、清水エスパルスは日本航空とのスポンサー契約を結んだ。 日本航空の機内ではエスパルスの勇姿がビデオに映し出され、機内誌には毎号選手紹介の特集ページが組まれ、空港には「頑張れ!エスパルス」のポスターが貼られ、各都市の繁華街にある「JALプラザ」ではJAL・エスパルスグッズが販売されるようになった。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2010年1月19日にJALが会社更生法を申請し、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続してスポンサードが行われてきた事に敬意を表し、それ以降はクラブ側がJALに対し無償で広告スペースを提供。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "清水エスパルスの決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "2018年8月3日、2011年からクラブの経理業務を一人で担当していた30代の男性経理担当社員が、チケット代金の売り上げの一部やスポンサーからの協賛金の一部を着服、また経費の架空請求も行い、2012年からの6年間で件数にして約500件、約6,700万円を不正に着服し高級車や高級腕時計、ブランド衣料の購入などにあてていたことが発覚したことを明らかにし、同社員は7月31日付で懲戒解雇、左伴社長は減俸30%3か月の処分とすることを発表、併せて当該元社員が反省し全額弁済を申し出ていることから刑事告訴は見送る方針であることも公表した。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2007年、統一教会の創始者である文鮮明が設立した財団法人「鮮文平和サッカー財団」(郭錠煥理事長)の主催していたピースカップに日本のチームとして初めて参加。これについては全国霊感商法対策弁護士連絡会(対策弁連)が抗議書を送付している。なおピースカップは2012年まで行われたが、日本のチームで参加したのは清水のみである。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2019年7月14日・15日に東京ビッグサイトで開催された「eJリーグ ウイニングイレブン 2019シーズン」において、決勝でFC東京を下し、初代王者となった。優勝した清水にはeJリーグ杯と優勝賞金500万円が贈呈された。清水は、優勝賞金の使用用途について「アカデミー活動の充実」と明かした。", "title": "その他" } ]
清水エスパルスは、日本の静岡県静岡市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。
{{サッカークラブ |font-color = #fff |background-color = #fa8e36 |border-color = #003f68 | 原語表記 =清水エスパルス | 愛称 = エスパ | カラー= {{colorbox|#FF8709}} エスパルスオレンジ<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/club/shimizu|title=プロフィール:静岡エスパルス|work=[[日本プロサッカーリーグ]]|accessdate=2020-09-06}}</ref> {{colorbox|#003f68}} ディープシーブルー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s-pulse.co.jp/rebranding/03_index/|title=S-PULSE REBRANDING PROJECT LAUNCH|work=[[清水エスパルス]]|accessdate=2023-12-30}}</ref> | 創設 = 1991 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J2リーグ]] | クラブライセンス = J1 | ホームタウン = [[静岡県]][[静岡市]]<ref name="jleague" /> | スタジアム = [[ファイル:Nihondaira stadium20090412.jpg|center|216px]][[静岡市清水日本平運動公園球技場|IAIスタジアム日本平]]<ref name="jleague" /> | キャパ =19,496<ref name="jleague" /> | 法人名 = 株式会社エスパルス<ref name="jleague" /> | 代表 = {{Flagicon|JPN}} [[山室晋也]]<ref name="jleague" /> | 監督 = {{Flagicon|JPN}} [[秋葉忠宏]] | HP = https://www.s-pulse.co.jp/ | pattern_la1= _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP | pattern_b1= _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP | pattern_ra1= _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP | pattern_sh1= _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP | pattern_so1= _Shimizu S-Pulse 2022 HOME FP | leftarm1=ff8800|body1=ff8800|rightarm1=ff8800|shorts1=ff8800|socks1=FF6000 | pattern_la2= _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP | pattern_b2= _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP | pattern_ra2= _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP | pattern_sh2= _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP | pattern_so2= _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP | leftarm2=|body2=|rightarm2=|shorts2=|socks2=FFFFFF | pattern_la3=  _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | pattern_b3= _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | pattern_ra3= _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | pattern_sh3= _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | pattern_so3= _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | leftarm3=|body3=|rightarm3=|shorts3=|socks3=FFFFFF }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社エスパルス | 英文社名 = S-PULSE CO., LTD.<ref name="club"/> | ロゴ = | 画像 = [[ファイル:S-pluse clubhouse20080217.jpg|220px]] | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 本社所在地 = [[静岡県]][[静岡市]][[清水区]]三保2695-1<ref name="jleague" /> | 国籍 = {{JPN}} | 設立 = 1998年2月 | 業種 = 9050 | 事業内容 = サッカークラブの運営 | 代表者 = 山室晋也 | 資本金 = 5億5,500万円 (2018年1月期)<ref name="club"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf|title=2017年度(平成29年度)Jクラブ個別情報開示資料|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2018-08-07}}</ref> | 発行済株式総数 = |売上高 = 45億4500万円<br>(2021年04月27日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/1bded/149976 株式会社エスパルス 第25期決算公告]</ref> |営業利益 = 100万円<br>(2020年01月31日時点)<ref name="fy" /> |経常利益 = 1600万円<br>(2020年01月31日時点)<ref name="fy" /> |純利益 = 1200万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy2">[https://catr.jp/settlements/23215/298786 株式会社エスパルス 第28期決算公告]</ref> |純資産 = 8700万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy2" /> |総資産 = 12億4900万円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy2" /> | 従業員数 = | 決算期 = 1月期 | 主要株主 = {{small|[[鈴与]]、[[静岡鉄道]]、[[静岡ガス]]、[[静岡新聞社]]、<br />[[小糸製作所]]、[[中部電力]]、[[静岡ビルサービス]]、<br />[[J-オイルミルズ]]、[[静岡朝日テレビ]]、[[ヤマシタコーポレーション|ヤマシタ<br />コーポレーション]]、[[鈴与建設]]、[[清水銀行]]、<br />[[清水綜合リース]]、[[清水信用保証]]、[[清水地域経済研究センター|清水地域<br />経済研究センター]]}}<ref name="club"/> | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.s-pulse.co.jp/ | 特記事項 = 1998年1月7日にサッカーコミュニケーションズ株式会社から商号変更。1998年2月1日、株式会社エスラップ・コミュニケーションズより営業権を譲受<ref name="club">{{Cite web|和書|url=http://www.s-pulse.co.jp/club/index/|title=クラブ概要|work=清水エスパルス|accessdate=2014-4-5}}</ref>。 | 郵便番号 = 424-0901<ref name="jleague" /> }} {{色}} '''清水エスパルス'''(しみずエスパルス、{{Lang-en-short|Shimizu S-Pulse}})は、[[日本]]の[[静岡県]][[静岡市]]をホームタウンとする<ref name="jleague" />、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つ。 == 概要 == [[1993年]]にJリーグへ加盟。[[ホームタウン]]は静岡県静岡市(合併前は[[清水市]])<ref name="jleague" />。ホームスタジアムは[[静岡市清水日本平運動公園球技場|IAIスタジアム日本平]]<ref name="jleague" />、練習場はエスパルス三保グラウンド<ref name="jleague" />(詳細は[[#スタジアム・練習場]]を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で[[心臓]]の鼓動を意味する<ref name="jleague" />。[[1993年Jリーグ開幕節|1993年のJリーグ開幕]]を戦った10クラブの中では唯一母体となるクラブが[[実業団]]ではなく、かつ[[日本サッカーリーグ]] (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は'''株式会社エスラップ・コミュニケーションズ'''、1998年2月1日以降は'''株式会社エスパルス'''。 クラブマスコットは、[[パルちゃん]](名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)<ref name="jleague" />、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した<ref name="event"/> ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)<ref name="jleague" />、パルちゃんの妹的な存在に当たる<ref name="mascot"/> こパルちゃん<ref name="jleague" /> である。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ<ref name="mascot">{{Cite web|和書|url=http://www.s-pulse.co.jp/special/newmascot1208/profile/|title=マスコット紹介|work=清水エスパルス公式サイト|accessdate=2013-4-12}}</ref>、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている<ref name="event">{{Cite web|和書|url=http://www.s-pulse.co.jp/guides/stadium_event/|title=スタジアムイベント|work=清水エスパルス|accessdate=2013-4-12}}</ref>。 == 歴史 == === クラブ発足の経緯 === 1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した[[堀田哲爾]]によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20160104/ddl/k22/050/033000c|title=静岡蹴球物語/3 清水の礎築いた堀田さんの指導 選手育成の制度確立|accessdate=(2016年1月4日). 2016年1月9日|publisher=毎日新聞静岡地域版|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171223215846/https://mainichi.jp/articles/20160104/ddl/k22/050/033000c|archivedate=2017年12月23日}}</ref>。選抜チームのオール清水([[清水FC]])は[[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会|JFA全日本U-12サッカー選手権大会]]にて優勝8回を数え<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sakaiku.jp/series/09/2011/000679.html |title=全日本少年サッカー大会出身Jリーガーは!? 歴史を学ぼう |publisher=サカイク公式サイト |date=2011年8月11日 |accessdate=2015年12月26日}}</ref>、高校選手権では市内の学校([[静岡県立清水東高等学校|清水東]]・[[静岡市立清水商業高等学校|清水商]]・[[東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部|東海大一]])が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/highschool/championship/winners/ |title=全国高校サッカー選手権歴代優勝校 |publisher=日刊スポーツ公式サイト |accessdate=2015年12月26日}}</ref>、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。 また、1991年には静岡県で行われた[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体サッカー競技]]のメイン会場として、[[静岡市清水日本平運動公園球技場|日本平運動公園球技場]]が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。<ref>{{Cite web|和書|url=http://homepage2.nifty.com/stadium/n_guide.htm |title=IAIスタジアムの生い立ち |publisher=IAIスタジアム日本平ガイド |accessdate=2015年12月26日}}</ref> Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか<ref>{{cite news|author=常松鉄雄 |url=http://www.asahi.com/articles/ASHDV73FXHDVUTPB00Q.html|title=かなわなかった、カズの清水入団 J発足時の関係者語る|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|date=2016-01-06|accessdate=2016-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160210010848/http://www.asahi.com/articles/ASHDV73FXHDVUTPB00Q.html|archivedate=2016-02-10}}</ref>、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く[[静岡県社会人サッカーリーグ]]所属の「'''[[清水FC]]'''」が初年度の参加チームとして選抜された<ref>{{Cite web|和書|author=大住良之|url=http://sports.yahoo.co.jp/sports/soccer/jleague/2012/columndtl/201206260009-spnavi |title=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第2回|publisher=Sportsnavi|date=2012-06-27|accessdate=2015-12-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150524080713/http://sports.yahoo.co.jp/sports/soccer/jleague/2012/columndtl/201206260009-spnavi|archivedate=2015-05-24}}</ref>。チームカラーは清水FC伝統のマリンブルーが有力視されたが、10クラブ中6クラブが青を希望したため、静岡の特産物である「みかん」などをイメージしたオレンジに決定<ref>{{Cite web |title=クラブ {{!}} クラブ概要 |url=https://www.s-pulse.co.jp/clubs/about |website=清水エスパルス公式WEBサイト |access-date=2023-12-30 |language=ja}}</ref>。 === 1991年〜1992年(静岡県リーグ) === ==== 1991年 ==== 5月、清水FCの運営企業として、[[テレビ静岡]]をはじめとして[[中日新聞東海本社]]、[[フジテレビジョン]]などが出資、市民からも1割の持株を募り、'''株式会社エスラップ・コミュニケーションズ'''を設立。チーム名を'''清水FCエスパルス'''と定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、[[堀池巧]]、[[大榎克己]]、[[長谷川健太]]の'''“[[清水東三羽烏]]”'''をはじめ、[[澤登正朗]]を獲得<ref>{{Cite web|和書|url=http://japantopleague.jp/column/sportstory/sportstory_0038.html|title=次世代に伝えるスポーツ物語 サッカー・「清水三羽烏」|publisher=日本トップリーグ連携機構|accessdate=2016-01-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120323053048/http://japantopleague.jp/column/sportstory/sportstory_0038.html|archivedate=2012-03-23}}</ref>。読売クラブから前述の堀池、[[アントニオ・ベネディット・ダ・シルバ|トニーニョ]]、[[三浦泰年]](初代キャプテン)を引き抜きに成功、更に[[三浦知良]]の加入も内定していたが、加入は実現しなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2023/05/26/119538/|title=川淵三郎が明かす「Jリーグ史上最大の危機」。99年フリューゲルス消滅の前後、多くのクラブが資金難に。初代チェアマンはどう乗り越えたのか?|website=週プレニュース|date=2023-5-26|accessdate=2023-6-3}}</ref>。 ==== 1992年 ==== 6月、エスピノーザに代わり[[エメルソン・レオン]]が監督に就任。[[7月4日]]には[[長居陸上競技場]]にて[[ガンバ大阪]]との[[プレシーズンマッチ]]が開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.s-pulse.co.jp/club/history/1992/|title=クラブ沿革 1992 初の檜舞台で眩い輝き放つ|publisher=清水エスパルス|accessdate=2014-11-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110611072423/http://www.s-pulse.co.jp/club/history/1992/|archivedate=2011-06-11}}</ref>。[[1992年のJリーグカップ|1992Jリーグヤマザキナビスコカップ]]では準優勝を果たしている。 この年から[[静岡市清水日本平運動公園球技場|清水日本平運動公園球技場]](現在のIAIスタジアム日本平)をホームスタジアムとして使用し始める。 === 1993年〜1998年(Jリーグ) === 5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の[[三ツ沢球技場]]で開催された[[横浜フリューゲルス]]との試合が[[1993年Jリーグ開幕節|開幕戦]]となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージからDFの[[加藤久]]、第2節からGK[[シジマール]]が加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、[[1993年のJリーグカップ|1993Jリーグヤマザキナビスコカップ]]の準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。 ==== 1994年 ==== 1stステージは第5節から9連勝を達成、一時首位を走ったものの、国立での鹿島戦を境に失速、2位に終わった。FIFAワールドカップアメリカ大会にロナウド選手がブラジル代表として出場。クラブ所属選手では初のW杯出場となった。1stステージ終了後、エメルソン・レオンが選手と賄賂を行っていたことが発覚し、解任。後任の監督に[[ロベルト・リベリーノ]]が就任したものの、2ndステージは6位で終了。 ==== 1995年 ==== 元鹿島アントラーズ監督、[[宮本征勝]]が監督に就任。チーム初の日本人監督となった。1stステージはリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。2ndステージから、元イタリア代表FW[[ダニエレ・マッサーロ]]が加入。また鹿島か[[カルロス・サントス|ら]][[吉田康弘 (サッカー選手)|吉田康弘]], [[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]], [[森岡隆三]]が加入、中盤まで優勝争いを演じた。また、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会でジュニアユースチームが初優勝を果たし、クラブ初のタイトルを獲得した。天皇杯では、ヴィッセル神戸に敗北した。シーズン終了後、宮本が監督を退任。 ==== 1996年 ==== 監督に[[オズワルド・アルディレス]]、ヘッドコーチに[[スティーブ・ペリマン]]が就任。9月25日、[[1996年のJリーグカップ|1996Jリーグヤマザキナビスコカップ]]にてPK戦の末に優勝。トップチームが悲願の初タイトルを獲得した。また、この年開催されたアトランタ五輪では[[伊東輝悦]]、[[白井博幸]]、[[松原良香]]がメンバー入り、伊東はブラジル戦で決勝のゴールを決めている。 ==== 1997年 ==== アルディレス体制2年目。固定背番号制が導入され、前年のレギュラーが一番つけていた背番号を優先的に与えた結果、森岡隆三の背番号がDFとしては珍しい11番をつけることとなった。1stステージは7位、2ndステージは6位となった。この年Jユースカップ初優勝、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会3連覇など、下部組織の活躍が目立った。 11月、運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズの経営危機が表面化。20億円を超える負債を抱え、実質的な親会社のテレビ静岡が運営からの撤退を表明した。31万人を超える署名と1500万円の募金を集め、地元清水に本拠を置く物流大手[[鈴与]]の子会社で出版業を手掛けていた「サッカーコミュニケーションズ株式会社」(1995年11月設立)が[[第三者割当増資]]を行い、これに[[静岡鉄道]]・[[静岡ガス]]・[[静岡新聞社]]・[[小糸製作所]]が応じて'''株式会社エスパルス'''に改組、同社が営業権を譲り受けることになった<ref>新会社「エスパルス」スタート 営業権譲渡を契約 [[朝日新聞]]、1998年1月15日、2014年4月8日閲覧</ref>。 ==== 1998年 ==== :チームスローガン:'''Break Through''' 2月1日より新会社による運営がスタート。1998年W杯フランス大会の登録メンバーに、伊東輝悦、[[斉藤俊秀]]の2選手が選出される。チームは1stステージは13勝4敗で得失点差で2位。7月25日から8月22日にかけては6連勝1失点の成績を収め、8月のAFC月間最優秀チームに選ばれている。2ndステージ終了後、アルディレス監督を解任。天皇杯から、ペリマン監督体制となる。[[第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は初の決勝進出を決めている。なお、ユースチームからGK[[野澤洋輔]]がトップチームに上がり、昇格第1号選手となった。 ===1999年〜2015年(J1)=== ==== 1999年 ==== :チームスローガン:'''dream stadium 1999''' 1月1日、天皇杯決勝は[[横浜フリューゲルス]]に敗れ準優勝。[[横浜フリューゲルス]]と[[横浜マリノス]]のチーム合併に伴い、この年の[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックススーパーカップ]]と[[アジアカップウィナーズカップ1999-2000]]の出場権を得ることとなった。また[[横浜マリノス]]から[[安永聡太郎]]、横浜フリューゲルスから[[久保山由清]]、[[湘南ベルマーレ|ベルマーレ平塚]]から[[田坂和昭]]が加入し戦力を補強。 [[1999年のJリーグ|リーグ戦]]では1stステージは勝ち点4差で3位。2ndステージは中盤で8連勝しトップの座を譲らず、11月23日、[[横浜国際総合競技場]]に開催された[[横浜F・マリノス]]戦に勝利し、念願のステージ優勝を決めた。チャンピオンシップでは、最大のライバル[[ジュビロ磐田]]にPK戦の末敗れた。[[三都主アレサンドロ|アレックス]]がMVP、ベストイレブンに6選手、ペリマンが最優秀監督賞。 ==== 2000年 ==== :チームスローガン:'''big mission 2000''' AFC主催大会への初めての参加となった[[アジアカップウィナーズカップ1999-2000]]では準々決勝で[[安養LGチータース|安養LGチタス]]を破り決勝トーナメントへ進出。[[チェンマイ]]での準決勝では[[バンコク・バンクFC|バンコクバンク]]をPK戦の末に制すると、決勝の[[アル・ザウラー]]戦では[[池田昇平]]のゴールにより1-0で勝利。初めてアジアのタイトルを獲得した。[[アジアスーパーカップ]]は[[アジアクラブ選手権1999-2000]]優勝の[[アル・ヒラル]]との間でのホーム&アウェイで行われ、1分け1敗でアジアチャンピオンには一歩届かなかった。[[2000年のJリーグ ディビジョン1|J1リーグ戦]]は1stステージ3位、2ndステージは13位で終えた。J1リーグ戦終了後、ペリマン監督を解任し、ユース総監督だったゼムノヴィッチがトップチームの監督に昇格。ゼムノヴィッチ体制初の大会となった[[第80回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2大会ぶりに決勝に進出した。 ==== 2001年 ==== :チームスローガン:'''Dynamic Soccer 2001''' 天皇杯決勝は鹿島に敗れたものの、[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックススーパーカップ]]では鹿島に3-0で勝利。前年度優勝チームとして出場した[[アジアカップウィナーズカップ2000-01]]は準々決勝で[[BECテロ・サーサナFC|BECテロ・サーサナ]]を制し準決勝に進出したが、[[大連実徳足球倶楽部|大連實徳]]に敗れ3位に終わった。[[2002 FIFAワールドカップ|2002年のFIFAワールドカップ]]開催に伴い、国際試合対応の大規模なスタジアムが全国に建設される中、5月12日には静岡県内でのワールドカップ会場となる[[静岡県小笠山総合運動公園スタジアム|エコパスタジアム]]のこけら落としが行われ、延長の末に[[平松康平]]のゴールで勝利を飾った。[[2001年のJリーグ ディビジョン1|J1リーグ戦]]は1stステージ、2ndステージともに4位。[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は前年度に続き決勝進出した。 ==== 2002年 ==== :チームスローガン:'''Orange Fantasia 2002''' 1月1日、3度目の決勝進出となった[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]決勝にて[[セレッソ大阪]]を延長で破り優勝。2月には[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックススーパーカップ]]を連覇した。6月の[[FIFAワールドカップ]]には森岡隆三、三都主アレサンドロ、[[戸田和幸]]、[[市川大祐]]の4選手が出場している。アジアクラブ選手権に出場する鹿島に代わり、第80回天皇杯準優勝チームとして[[アジアカップウィナーズカップ2001-02]]に3大会連続で出場、[[全北現代モータース|全北現代]]との準々決勝でアウェイゴールの差で準決勝進出を逃した。また、この年からアジアクラブ選手権とアジアカップウィナーズカップが統合されて初めての開催となった[[AFCチャンピオンズリーグ2002-2003]]に第81回天皇杯優勝チームとして出場。予選ラウンドからの出場となり、[[ニュー・ラディアントSC|ニュー・ラディアント]]、[[南華足球隊|サウスチャイナ]]に勝利し、グループステージ(準々決勝に相当)進出を決めた。[[2002年のJリーグ ディビジョン1|J1リーグ戦]]では1stステージ7位、2ndステージ12位と振るわず、ゼムノヴィッチ監督が退任。 ==== 2003年 ==== :チームスローガン:'''EXCITING FIELD 2003''' [[大木武]]新体制でスタート。Jリーグ開幕に先立って[[大連]]で開催された[[AFCチャンピオンズリーグ2002-2003]]のグループステージ(準々決勝に相当)は、[[大連実徳足球倶楽部|大連實徳]]、[[城南FC|城南一和]]、[[オーソットサパー・サラブリーFC|オーソットサパー]]とひとつの椅子を争うも勝ち残ることはできなかった。[[2003年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はベスト4まで進出。[[2003年のJリーグ ディビジョン1|J1リーグ戦]]は年間11位に終わった。11月29日、大木監督を解任し[[行徳浩二]]が監督に就任。[[第83回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準決勝まで勝ち進んだが、決勝進出できなかった。 ==== 2004年 ==== :チームスローガン:'''HARD & ATTACK 2004''' [[ベネディクト・アントニオ・アンジェリ|アントニーニョ]]監督体制でスタート。手腕が期待されたが、家族の看病などを理由に、1stステージ最終戦となった[[市原臨海競技場]]での[[ジェフユナイテッド千葉|市原]]戦後に辞意を表明。石崎信弘ヘッドコーチが監督昇格となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20040626000320 |title=アントニーニョ監督辞任/後任に石崎コーチ昇格 | work=四国新聞社 |accessdate=2016-1-11}}</ref>。[[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]、[[曺宰溱|チョ・ジェジン]]が攻撃面で奮起するものの、リーグワースト5位の53失点を喫し、[[2004年のJリーグ ディビジョン1|J1リーグ戦]]は年間14位となった。シーズン終了後、翌年も石崎監督を続投することが決まっていたが、サポーターから不満が噴出し、その年限りで石崎は監督を退任した。 この年開催されたアテネ五輪には黒河貴矢がメンバー入りを果たした。長年ゴールマウスを守ってきた[[真田雅則]]が現役引退。 ==== 2005年 ==== :チームスローガン:'''2005 かける想い''' 長谷川健太が初めて監督に就任。初年度となった[[2005年のJリーグ ディビジョン1|2005年]]シーズンは15位で残留を決めるなど低迷が続いた。その間にスカウトの充実をはかり、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図った。[[2005年]]度にデビューした[[枝村匠馬]]、[[兵働昭弘]]、[[青山直晃]]ら若手選手が主力として定着、[[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|同年の天皇杯]]で準優勝の成績を収める。 ==== 2006年 ==== :チームスローガン:'''かける想い S-PULSE 2006''' 長谷川体制2年目。[[2006年のJリーグ|2006年]]は新人の[[藤本淳吾]]が主力として定着、青山直晃が[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。日本A代表経験者の市川、[[森岡隆三]]、[[伊東輝悦]]、[[斉藤俊秀]]らも復調して開幕から上位につけ、4位でシーズンを終えた。この年、藤本が新人王を獲得。 ==== 2007年 ==== :チームスローガン:'''かける想い S-PULSE 2007''' 長谷川体制3年目。中断明け以降の20節から25節まで6連勝をマークしたが、その後のアウエイで連敗し優勝争いから後退。年間4位となった。この年、伊東輝悦が同一クラブ所属としてJリーグ初となるJ1通算400試合を達成。 ==== 2008年 ==== :チームスローガン:'''WE BELIEVE 2008''' [[File:Nabiscocup.final 2008-Shimizu.JPG|thumb|250px|2008年ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー]] 長谷川体制4年目。リーグ戦は序盤の3連敗が響き、一時は降格圏の順位となったものの、若手の成長もあって終盤追い上げ、年間順位は5位となった。[[2008年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]は決勝に進出。大分トリニータと対戦、0-2で敗戦。 ==== 2009年 ==== :チームスローガン:'''WE BELIEVE 2009''' 長谷川体制5年目。[[横浜FC]]から[[太田宏介]]を、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から[[永井雄一郎]]を、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から[[フローデ・ヨンセン]]を獲得し大型補強に成功。[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]に[[レンタル移籍|期限付き移籍]]していた[[平岡康裕]]も復帰。その一方で、[[森岡隆三]]、[[高木和道]]、[[矢島卓郎]]、[[西澤明訓]]などが移籍。 開幕戦の[[大宮アルディージャ|大宮]]戦、スコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。夏場までは引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間に[[2009年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]のホームゲームで[[モンテディオ山形|山形]]に敗れている)。[[9月29日]]に[[長谷川健太]]の監督続投決定。[[10月3日]]第28節[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦で1対1で引き分けるも得失点差で[[鹿島アントラーズ|鹿島]]を上回り首位に立ったが、第29節の負ければJ2降格となる[[大分トリニータ|大分]]にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節には[[FC東京]]戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1-2での黒星になるなど、優勝はおろかACL出場権も得られず最終順位は7位。天皇杯は準決勝で名古屋に敗れた。 ==== 2010年 ==== {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border:darkorange solid 1px" |- |<div style="position: relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size: 10pt; color: #000;">'''2010年基本布陣 &lt;4-3-3&gt;'''</span>}} {{Image label|x=0.36|y=0.18|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color:fff;">'''[[フローデ・ヨンセン|ヨンセン]]'''</span>}} {{Image label|x=0.07|y=0.33|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[岡崎慎司]]'''</span>}} {{Image label|x=0.64|y=0.33|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[藤本淳吾]]'''</span>}} {{Image label|x=0.19|y=0.50|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[兵働昭弘]]'''</span>}} {{Image label|x=0.52|y=0.50|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[小野伸二]]'''</span>}} {{Image label|x=0.36|y=0.70|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[本田拓也]]'''</span>}} {{Image label|x=0.07|y=0.83|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[児玉新]]'''</span>}} {{Image label|x=0.64|y=0.83|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[市川大祐]]'''</span>}} {{Image label|x=0.19|y=0.95|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[エディ・ボスナー|ボスナー]]'''</span>}} {{Image label|x=0.52|y=0.95|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[岩下敬輔]]'''</span>}} {{Image label|x=0.36|y=1.09|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">'''[[西部洋平]]'''</span>}} {{Image label|x=0.43|y=1.20|scale=220|text=<span style="font-size: 10pt; color: #fff;">[[長谷川健太|監督 '''長谷川健太''']]</span>}} </div> |} [[File:Emperor's Cup Final Shimizu S-Pulse 2011-01-01.JPG|thumb|left|250px|2010年度天皇杯決勝時のコレオグラフィー]] :チームスローガン:'''THE CONFIDENCE''' 長谷川体制6年目。新戦力として[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[エディ・ボスナー|ボスナー]]を、[[VfLボーフム]]から[[小野伸二]]を獲得。[[柏レイソル|柏]]に期限付き移籍していた[[杉山浩太]]、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]に期限付き移籍していた[[廣井友信]]が復帰、ユースチームから[[鍋田亜人夢]]が加入。第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝の快挙を達成。チームは開幕から独走体制に入り、開幕10戦負けなし。南アフリカw杯中断前の前半戦終了時点では首位での折り返しとなった。しかし、リーグ再開後は調子を落とし、9月に名古屋グランパス戦で優勝争い直接対決に敗れたことで優勝争いから脱落した。最終順位は6位、シーズン終了後長谷川監督退任。天皇杯で準優勝。2度のリーグ優勝争い、3度のカップ戦決勝進出がありながら長谷川健太体制は無冠に終わった。 ==== 2011年 ==== :チームスローガン:'''Spirit Up!''' 長谷川健太の後任監督には[[サッカーイラン代表|イラン代表]]監督(当時)の[[アフシン・ゴトビ]]が就任。東京Vから[[高木俊幸]]、湘南から[[村松大輔]]、韓国[[Kリーグ]][[水原三星ブルーウィングス|水原]]から元日本代表[[高原直泰]]、[[ギリシャ・スーパーリーグ]][[イラクリス・テッサロニキFC|イラクリス]]から元日本代表[[小林大悟]]、[[滝川第二中学校・高等学校|滝川第二高校]]から[[樋口寛規]]、[[Aリーグ]][[シドニーFC]]から[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア代表]][[アレックス・ブロスケ]]をそれぞれ完全移籍で獲得した。 その一方で、[[伊東輝悦]]、[[市川大祐]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、[[青山直晃]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]、[[西部洋平]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]へ、[[フローデ・ヨンセン]]が[[オッド・グレンランド]]へ、それぞれ契約満了後に移籍した。主力であった[[藤本淳吾]]が名古屋へ、[[本田拓也]]が鹿島へ、[[岡崎慎司]]が[[VfBシュトゥットガルト]]へ、[[兵働昭弘]]が[[柏レイソル|柏]]へ移籍。スーパーサブであった[[原一樹]]が浦和へ移籍、前年のチームは大刷新された。クラブ生え抜きの伊東・市川、前シーズンリーグ戦32試合に出場した西部を含む主力の相次ぐ放出劇は2010年度の赤字転落に伴う人件費圧縮の必要性が背景にあったものだが、このことが結果的にフロントと選手の間に不信感を生じさせ、後年の主力の相次ぐ退団劇や低迷の要因の一つとなったと伝えられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soccermagazine-zone.com/archives/17930|title=落日の王国 清水初のJ2降格という悲劇を招いた歪んだチームマネジメント|work=[[SOCCER MAGAZINE ZONE]]|date=2015-10-17|accessdate=2015-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151109114704/http://www.soccermagazine-zone.com/archives/17930|archivedate=2015-11-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.at-s.com/sports/article/shizuoka/spulse/topics/162907.html|title=<清水陥落>(2)赤字出せず選手放出 新制度、編成に足かせ|newspaper=[[静岡新聞]]|date=2015-10-20|accessdate=2015-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151020035622/http://www.at-s.com/sports/article/shizuoka/spulse/topics/162907.html|archivedate=2015-10-20}}</ref>。 開幕戦の[[柏レイソル|柏]]戦で0-3で大敗したが、小野、高原などの活躍もあり、その後は6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたが、第6節[[セレッソ大阪|C大阪]]、第19節[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]、第20節[[アルビレックス新潟|新潟]]と夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。8月に[[2008年北京オリンピック|北京五輪オランダ代表]]のDF[[カルフィン・ヨン・ア・ピン]]と元[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン代表]]の[[フレドリック・ユングベリ]]を獲得。ユングベリはホーム名古屋戦で裏街道からアレックスのゴールをアシストしたシーンが話題となった。しかし終盤3連敗、守備に課題を残し、10位でシーズンを終了。 9月、GKコーチの[[真田雅則]]が死去。 開幕直後に発生した[[東日本大震災]]によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行い、[[アヤックス・アムステルダム]]と対戦。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)をオランダ赤十字を通して義援金として寄付<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/headlines/20110414-00000007-kyodo_sp-spo.html 清水がオランダで慈善試合 義援金は約7億円] スポーツナビ 2011.4.14</ref>。 ==== 2012年 ==== :チームスローガン:'''「一」 One Team, One Mission.''' ゴトビ体制2年目。 [[File:Nihondaira Stadium 20120707.jpg|thumb|right|250px|クラブ創設20周年のコレオグラフィー {{small|~第17節 川崎戦にて~}}]] 補強は、大分から[[姜成浩]]、甲府から[[吉田豊 (サッカー選手)|吉田豊]]、ROCシャルルロワ=マルシェンヌ(ベルギー)から[[林彰洋]]、FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)から[[ジミー・フランサ]]が完全移籍で加入、[[犬飼智也]]、[[河井陽介]]、[[八反田康平]]、[[柏瀬暁]]、[[白崎凌兵]]、[[李記帝]]が加入。ユース登録の[[石毛秀樹]]が2種登録。一方で[[太田宏介]]がFC東京、[[エディ・ボスナー|ボスナー]]が[[水原三星ブルーウィングス]]へそれぞれ完全移籍、[[永井雄一郎]]が横浜FC、[[木島悠]]が[[大分トリニータ|大分]]、[[山本真希]]が札幌、[[児玉新]]がC大阪、[[岡根直哉]]が[[モンテディオ山形|山形]]、[[竹内涼]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]へ期限付き移籍、[[ロアッソ熊本|熊本]]へ期限付き移籍していた[[長沢駿]]は[[京都サンガF.C.|京都]]、新潟へ期限付き移籍していた[[武田洋平]]は[[ガンバ大阪|G大阪]]へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍の[[廣井友信]]の期限付き移籍期間が延長。 1月、[[ルナー・ニューイヤー・カップ|2012アジアスーパーチャレンジカップ]]に出場して準優勝。3月15日、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による21世紀のアジアクラブ・ランクで21位となった。Jクラブの中では、G大阪、鹿島、浦和に次いで4位。 リーグ戦、第10節終了時点2位、第11節[[セレッソ大阪]]戦から第19節横浜F戦まで9戦勝利なし(4分5敗)と失速する。シーズン途中に[[小野伸二]]が[[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC]]、[[アレックス・ブロスケ|アレックス]]が[[アル・アインFC]]、[[辻尾真二]]が広島、[[岩下敬輔]]がG大阪、[[枝村匠馬]]がC大阪、[[橘章斗]]が[[松本山雅FC|松本]]へ移籍、[[ジミー・フランサ]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ期限付き移籍した一方、[[三吉聖王]]や[[金賢聖]]、強化指定選手として[[筑波大学]]の[[瀬沼優司]]が加入。第30節終了時点で4位につけていたが、その後、1分け3敗と4戦未勝利となり最終順位は9位。 ヤマザキナビスコカップは決勝で鹿島に1-2で敗れて準優勝。[[石毛秀樹]]がニューヒーロー賞選出。 ==== 2013年 ==== :チームスローガン:'''One team, One mission. FORWARD!''' ゴトビ体制3年目。[[愛媛FC]]から[[内田健太]]、札幌から[[高原寿康|髙原寿康]]、[[高木純平]]、[[カタール・スターズリーグ|カタール1部]]の[[アル・アラビ・ドーハ|アル・アラビ]]から[[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]を完全移籍で獲得。[[李珉洙|イ・ミンス]]([[湘南ベルマーレ|湘南]])、[[樋口寛規]](FC岐阜)、[[橘章斗]](松本山雅)、[[岡根直哉]](山形)、[[竹内涼]]([[ギラヴァンツ北九州|北九州]])、[[廣井友信]](熊本)が期限付き移籍先から復帰、[[三浦弦太]]、[[六平光成]]、[[藤田息吹]]、[[加賀美翔]]が新加入。 [[大前元紀]]が[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]の[[フォルトゥナ・デュッセルドルフ]]へ、[[高原直泰]]が東京V、[[山本海人]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]、[[碓井健平]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]、[[小林大悟]]が[[メジャーリーグサッカー|MLS]]の[[バンクーバー・ホワイトキャップス]]へ移籍。広島へ期限付き移籍していた[[辻尾真二]]が大分、G大阪へ期限付き移籍していた[[武田洋平]]がC大阪、[[岩下敬輔]]が期限付き移籍先のG大阪へ完全移籍、[[姜成浩]]が京都へ期限付き移籍、[[三吉聖王]]、東京Vへ期限付き移籍していた[[ジミー・フランサ]]、[[金賢聖]]が退団、京都へ期限付き移籍していた[[長沢駿]]が松本へ期限付き移籍、C大阪へ期限付き移籍している[[枝村匠馬]]の期限付き移籍期間が延長。 シーズン中、バレーが[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国スーパーリーグ]]の[[天津泰達足球倶楽部]]へ完全移籍、[[林彰洋]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ、[[犬飼智也]]が松本、[[柴原誠]]、樋口寛規が岐阜、[[白崎凌兵]]が[[カターレ富山|富山]]、[[柏瀬暁]]が[[北米サッカーリーグ (2011-)|NASL]]の[[ニューヨーク・コスモス]]へ夫々期限付き移籍した一方、[[柏レイソル|柏]]を退団した[[三浦雄也]]、C大阪を退団した[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]、鹿島から[[本田拓也]]を完全移籍で、[[Kリーグ]]の[[水原三星ブルーウィングス|水原三星]]から[[ジェナン・ラドンチッチ|ラドンチッチ]]、デュッセルドルフへ移籍していた大前元紀を期限付き移籍で獲得。 第1節[[大宮アルディージャ|大宮]]戦は2-2で引き分け、ゴトビ体制初の開幕戦での得点と勝ち点を得る。しかしその後、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]戦では0-5、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦では0-4と大敗する。4月は初勝利となった第5節鳥栖戦を含め無敗で乗り切るものの、5月はリーグ戦2勝3敗、カップ戦2敗と苦戦。 7月、リーグ戦再開後復調。[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、[[名古屋グランパス|名古屋]]、鳥栖戦と、ホームでは4試合連続逆転勝利。 最終的にはリーグ戦は9位、[[2013年のJリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]はグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦敗退。 ==== 2014年 ==== :チームスローガン:'''One team, One mission. RISING!''' ゴトビ体制4年目。[[FCユトレヒト]]から[[高木善朗]]、町田から[[相澤貴志]]、[[メジャーリーグサッカー|MLS]]の[[D.C. ユナイテッド]]から[[サッカーカナダ代表|カナダ代表]]の[[デヤン・ヤコヴィッチ|ヤコヴィッチ]]、[[1.FCケルン]]から[[サッカースロベニア代表|スロベニア代表]][[ミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチ|ノヴァコヴィッチ]]を完全移籍で獲得。[[長沢駿]]、[[樋口寛規]]、[[柏瀬暁]]が期限付き移籍から復帰。 一方で、[[橘章斗]]が退団、[[高原寿康|髙原寿康]]が[[FC町田ゼルビア|町田]]へ、[[伊藤翔]]が横浜FMへ、[[柴原誠]]が[[福島ユナイテッドFC|福島]]へ完全移籍、[[内田健太]]が富山へ、[[瀬沼優司]]、[[岡根直哉]]、[[李珉洙|イ・ミンス]]が[[栃木SC]]へ、[[八反田康平]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]へ、[[姜成浩]]が東京Vへ期限付き移籍(途中で期限付き移籍先が金沢へ変更)、[[林彰洋]]が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、[[犬飼智也]]、[[白崎凌兵]]の期限付き移籍期間が延長、C大阪へ期限付き移籍していた[[枝村匠馬]]は名古屋へ期限付き移籍、[[ジェナン・ラドンチッチ|ラドンチッチ]]が期限付き移籍期間満了で[[大宮アルディージャ|大宮]]へ移籍。 シーズン途中、[[村松大輔]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]、樋口寛規が[[湘南ベルマーレ|湘南]]、[[鍋田亜人夢]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ期限付き移籍したが、[[ウェリントン・ダニエル・ブエノ|ブエノ]]が新加入、栃木SCへ期限付き移籍していた瀬沼優司が復帰。 シーズン序盤から中位から下位を低迷。7月23日の[[ガンバ大阪|G大阪]]戦に敗れリーグ戦7戦勝ちなしとなった試合後の緊急ミーティングで、ゴトビ監督が選手に対して「君たちは私を辞めさせるために、わざと無気力な試合をしているのか」と発言したことで、それまで選手起用を巡ってくすぶっていた指揮官と選手の間の亀裂が決定的なものとなり<ref>{{Cite news|url=http://www.at-s.com/sports/article/shizuoka/spulse/topics/84353.html|title=<残留への軌跡>(上) ゴトビ体制の崩壊|newspaper=静岡新聞|date=2014-12-08|accessdate=2015-10-24}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20151018/360637.html|title=清水、ピッチ内外で迷走した末のJ2降格…左伴社長「重みを受け止めている」|newspaper=[[Jリーグサッカーキング|サッカーキング]]|date=2015-10-18|accessdate=2015-10-24}}</ref>、7月29日付けでアフシン・ゴトビ監督を解任<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.s-pulse.co.jp/news/detail/26232/|title=アフシン・ゴトビ監督 解任のお知らせ|publisher=清水エスパルス|date=2014-07-30|accessdate=2015-10-24}}</ref>。後任には清水生え抜きでユース監督の[[大榎克己]]が就任した。[[8月9日]]にホーム通算200勝を達成。大榎の就任後の後半戦はわずか4勝で17位まで順位を落とすが、最終節に[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に引き分けてJ1残留を確定させた。最終成績10勝6分18敗の勝ち点36、順位は15位。 [[Jリーグカップ|ナビスコ杯]]グループリーグ敗退、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]ベスト4。 ==== 2015年 ==== :チームスローガン:'''Heat Attack Express Beyond the Limit!''' 大榎体制2年目。GK[[杉山力裕]]が川崎から、GK碓井健平が千葉から、DF[[鎌田翔雅]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]から、FW[[澤田崇]]が[[ロアッソ熊本|熊本]]からいずれも完全移籍(碓井は3年ぶりの復帰)。期限付き移籍していたDF[[内田健太]]が[[カターレ富山|富山]]から、DF[[村松大輔]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]から、DF[[犬飼智也]]が[[松本山雅FC|松本]]から、MF[[枝村匠馬]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]から、MF[[八反田康平]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]から、MF[[白崎凌兵]]が富山から、それぞれ復帰。DF[[水谷拓磨]]、MF宮本航汰、FW北川航也が清水ユースから昇格、DF[[松原后]]が[[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開成館高校]]から新加入。一方、GK[[相澤貴志]]が徳島へ、GK[[三浦雄也]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ、DF[[廣井友信]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]、DF[[吉田豊 (サッカー選手)|吉田豊]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ、DF[[李記帝|イ・キジェ]]が[[ニューカッスル・ジェッツ]]へ、FW[[高木俊幸]]が[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]、FW[[ミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチ|ノヴァコヴィッチ]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]へいずれも完全移籍。MF[[藤田息吹]]とFW[[瀬沼優司]]が[[愛媛FC|愛媛]]へ、DFブエノは[[ヴィッセル神戸|神戸]]へレンタル移籍、[[柏瀬暁]]が契約満了で退団。 2004年以来11年ぶりの2ステージ制となった本年では、1stステージ3勝4分10敗の勝ち点13の最下位とクラブ史上最低の成績となり、2ndステージ第5戦目後に成績不振を理由に[[大榎克己]]が監督を辞任<ref>{{Cite web|和書|date=2015-08-01|url=http://www.s-pulse.co.jp/news/detail/30231/|title=大榎克己監督 辞任のお知らせ|publisher=清水エスパルス |accessdate=2015-08-01}}</ref>。後任に[[大分トリニータ|大分]]監督退任後にヘッドコーチに就任していた[[田坂和昭]]が就任。8月に[[鄭大世]]が完全移籍で、[[角田誠]]が期限付き移籍で加入したが、10月17日のセカンドステージ第14節仙台戦に敗れ、15位新潟がその日の夜の試合に勝利したことから年間順位16位以下が確定、クラブ史上初のJ2降格が決定した。2ndステージ第13節から、シーズン4度目の年間通算最下位となっていたが、同16節、同じくJ2降格が決定していた山形に勝利、2ndステージ2勝目を挙げると同時に年間通算勝点で山形に並び、最終節甲府戦で引き分け、同節で山形が敗れたことにより、年間最終順位で山形を抜き17位に終わった。シーズン終了をもって田坂が監督を辞任<ref>{{Cite web|和書|date=2015-11-19|url=http://www.s-pulse.co.jp/news/detail/31547/|title=田坂和昭 監督辞任のお知らせ|publisher=清水エスパルス |accessdate=2015-12-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-11-19|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1568265.html|title=J2降格の清水、田坂監督の辞任発表 後任は未定|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2015-12-12}}</ref>。 === 2016年(J2) === :チームスローガン:'''RESTART NO GUTS, NO WIN.''' 前[[徳島ヴォルティス|徳島]]の[[小林伸二]]が監督就任。J2降格に伴い、2020年まで'''5年強化計画'''を設定。1年目をプレーオフ進出でJ1復帰することに加え、主力多くの残留、出場機会減少の選手を期限付き移籍させ、選手の背番号を多く変更、選手育成などを目標に挙げた。 [[ピーター・ウタカ]]が[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]へ、[[櫛引政敏]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]へ、[[平岡康裕]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]へ、[[村松大輔]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ、[[宮本航汰]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ期限付き移籍したほか、[[ウェリントン・ダニエル・ブエノ|ブエノ]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]へ、[[高木純平]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ、[[カルフィン・ヨン・ア・ピン]]が[[FC町田ゼルビア|町田]]へ完全移籍。[[藤田息吹]]と[[内田健太]]が期限付き移籍先の[[愛媛FC|愛媛]]へ、相模原へ期限付き移籍していた[[樋口寛規]]が[[福島ユナイテッドFC|福島]]へ完全移籍。[[瀬沼優司]]と[[高木善朗]]の期限付き移籍期間が延長した。 一方で、期限付き移籍していた[[角田誠]]と[[福村貴幸]]が完全移籍、[[川崎フロンターレ|川崎]]から6年ぶりに[[西部洋平]]が完全移籍で復帰、[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[川口尚紀]]、広島から[[邊峻範|ビョン・ジュンボン]]を期限付き移籍で獲得し、さらには[[東海学園高等学校|東海学園高校]]から[[光崎伸]]が入団した。シーズン中には、徳島から[[長谷川悠]]、長崎から[[植草裕樹]]、仙台から[[二見宏志]]を完全移籍、広島から[[金範容|キム・ボムヨン]]を期限付き移籍で獲得。[[専修大学]]から[[飯田貴敬]]を特別指定選手で獲得。その一方で、[[水谷拓磨]]が[[FC今治]]へ、[[加賀美翔]]が[[藤枝MYFC|藤枝]]へ期限付き移籍。 序盤戦はJリーグ参入後初めて戦うJ2での戦いに不慣れなことに加え、大前が負傷により長期離脱を強いられ、第2、3、6、9-11節終了時以外はプレーオフ圏外の7位以下になるなど低迷したものの、第20節終了時以降は第24節終了時を除き6位以上をキープ、特に第25節以降の18試合では15勝1分2敗で、年間勝点84の半分以上となる勝点46を挙げ上位を猛追、第33節ではJ1自動昇格圏の2位松本との直接対決に敗れ5位に後退、勝点差も7に広がったが、第34節からは連勝を重ね、第35節終了時に4位、第37節終了時に3位と徐々に順位を上げ、41節に[[松本山雅FC|松本]]と勝点で並び、得失点差で大幅に上回るため松本と入れ替わり遂にJ1自動昇格圏内の2位に浮上、最終節にも勝利し最終的には9連勝で札幌に次ぐ2位となり1年でのJ1復帰を決めた。第15節[[ザスパクサツ群馬|群馬]]戦、当時のJ2最多得点差となる8-0で大勝している。 === 2017年〜2022年(J1) === ==== 2017年 ==== :チームスローガン:'''FROM NOW ON!! WE ARE THE ONE.''' 小林体制2年目。[[大前元紀]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]へ完全移籍したのをはじめ、[[澤田崇]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]、[[八反田康平]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]、[[本田拓也]]が[[モンテディオ山形|山形]]、[[三浦弦太]]が[[ガンバ大阪|G大阪]]、[[杉山力裕]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ、[[平岡康裕]]([[ベガルタ仙台|仙台]])、[[高木善朗]]([[東京ヴェルディ1969|東京V]])が期限付き移籍先へ完全移籍、[[ピーター・ウタカ]]は[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]へ完全移籍の後[[FC東京]]へ期限付き移籍、[[福村貴幸]]が[[FC岐阜|岐阜]]、[[石毛秀樹]]が[[ファジアーノ岡山]]、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]へ期限付き移籍していた[[櫛引政敏]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]、[[碓井健平]]が[[FC町田ゼルビア|町田]]、[[愛媛FC|愛媛]]へ期限付き移籍していた[[瀬沼優司]]が山形へ期限付き移籍、[[宮本航汰]]は期限付き移籍していた[[V・ファーレン長崎|長崎]]との期限付き移籍期間延長。[[川口尚紀]]は期限付き移籍期間満了、[[藤枝MYFC|藤枝]]へ期限付き移籍していた[[加賀美翔]]は契約満了で退団した。 一方で、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[六反勇治]]を完全移籍で、広島から[[アルビレックス新潟|新潟]]で昨年プレーした[[野津田岳人]]を期限付き移籍で獲得。[[立田悠悟]]がユースから昇格、[[専修大学]]から[[飯田貴敬]]が加入。タイの[[チョンブリーFC]]から[[アンデルソン・ドス・サントス|カヌ]]を、 ポルトガルの[[GDシャヴェス]]から[[レアンドロ・フレイレ・デ・アラウージョ|フレイレ]]を獲得。また、[[ヴィッセル神戸|神戸]]に期限付き移籍していた[[村松大輔]]が期間満了で復帰した。 さらに、シーズン途中にサウジアラビアの[[アル・ヒラル]]から[[チアゴ・アウベス・サレス・デ・リマ|チアゴ・アウベス]]を期限付き移籍で獲得。それに伴い、外国人枠を空けるため[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から期限付き移籍で加入していた[[金範容|キム・ボムヨン]]を完全移籍で獲得したうえで[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ期限付き移籍した。また、シーズン途中[[野津田岳人]]は[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]からのレンタル終了、[[ベガルタ仙台|仙台]]へレンタル移籍、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[清水航平]]をレンタルで、また[[アル・アインFC|アルシャルージャ]]から[[増田誓志]]を完全移籍で獲得した。 2年ぶりのJ1の戦いは、前半17試合を3勝6分け8敗で13位でターン、後半は8戦勝ちなし(3分5敗)などで15位まで順位を落とし、最終節敗れればJ2降格の可能性もあった中、最終節の神戸戦に勝利し、14位でJ1残留を決めた。シーズン終了後チームの成績低迷を理由に小林監督を解任した。さらに[[柏レイソル|柏]]への期限付き移籍の2年を除く13年在籍していた[[杉山浩太]]が現役引退した。 ==== 2018年 ==== :チームスローガン:'''BACK TO THE BASIC 徹底''' 前広島監督の[[ヤン・ヨンソン]]が監督に就任。[[犬飼智也]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[アンデルソン・ドス・サントス|カヌ]]がタイ・[[スパンブリーFC]]、岡山へ期限付き移籍していた[[櫛引政敏]]が[[モンテディオ山形|山形]]、町田へ期限付き移籍していた[[碓井健平]]が[[九州サッカーリーグ|九州1部]]・[[沖縄SV]]、[[ツエーゲン金沢|金沢]]へ期限付き移籍していた[[邊峻範|ビョン・ジュンボン]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、千葉へ期限付き移籍していた[[金範容|キム・ボムヨン]]が兵役のため韓国・[[水原FC]]、[[瀬沼優司]](山形)、[[福村貴幸]](岐阜)が期限付き移籍先へ完全移籍、[[枝村匠馬]]が福岡、長崎へ期限付き移籍していた[[宮本航汰]]が岐阜へ期限付き移籍、[[チアゴ・アウベス・サレス・デ・リマ|チアゴ・アウベス]]は期限付き移籍期間満了、[[村松大輔]]、[[光崎伸]]が契約満了で退団した。なお、[[チアゴ・アウベス・サレス・デ・リマ|チアゴアウベス]]は[[アル・ヒラル]]から[[全北現代モータース|全北現代]]へ移籍、村松太輔は[[ギラヴァンツ北九州]]へ加入した。 一方で、甲府から8年ぶりに復帰の[[兵働昭弘]]、オーストラリア・[[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC]]から[[楠神順平]]、中国・[[天津泰達足球倶楽部]]から[[黄錫鎬|ファン・ソッコ]]を完全移籍で、ポルトガル・[[SCブラガ]]から昨年仙台に在籍していた[[クリスラン・エンリケ・ダ・シルバ・デ・ソウザ|クリスラン]]を期限付き移籍で獲得。[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[FC今治|今治]]へ期限付き移籍していた[[水谷拓磨]]、岡山へ期限付き移籍していた[[石毛秀樹]]が期限付き移籍期間終了で復帰、[[伊藤研太]]、[[滝裕太]]、[[平墳迅]]がユースから昇格、[[呉少聰]]、[[新井栄聡]]、[[髙橋大悟]]が新加入した。 シーズン途中に、トルコの[[アランヤスポル]]から[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]]を完全移籍で獲得。[[呉少聰]]が[[京都サンガF.C.|京都]]、[[清水航平]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、[[楠神順平]]が[[モンテディオ山形|山形]]へそれぞれ期限付き移籍。 開幕戦〜第4節まで2勝2分得失点差+4で、4節終了時点で暫定3位。第5節・横浜FM戦で今シーズンJ1リーグ初黒星を記録。第6節の磐田とのダービーに引き分け、第7節〜第9節まで3連敗し、暫定13位に順位を落とした。第10、11節で連勝し暫定順位を7位に押し上げる。第12、13節で連敗、第14節で白星を挙げるが、第15節で川崎に敗れ、暫定10位・5勝3分7敗 得失点差-2でリーグ中断を迎えた。中断明けの第16節〜19節まで3連勝{{Refnest|group="注"|第18節は台風12号の影響で8月29日へ延期となった<ref>{{Cite press release|和書|title=2018明治安田生命J1リーグ 第18節 横浜F・マリノス vs 清水エスパルス 代替開催日決定のお知らせ|url=https://www.jleague.jp/release/post-54893/|publisher=J.LEAGUE.jp|date=2018-07-29|accessdate=2019-02-06}}</ref>。}}し、1試合少ないながらも暫定8位へ順位を上げた。第20〜27節<ref group="注">延期された第18節を含む。</ref> まで2勝1分6敗と低迷。暫定順位を12位へ落とした。第28〜30節まで3連勝し、第29節の磐田戦では5-1と大勝した。第31〜34節は1勝3分だったものの、第33、34節ではそれぞれ3-3、4-4での引き分けで、2018シーズンのチーム別得点数では首位川崎と1差、横浜FMと同じく2位タイ・56得点と昨年の36得点から大きく上昇した。最終成績は14勝7分13敗 得失点差+8で8位。 [[兵働昭弘]]、[[植草裕樹]]が今シーズン限りで現役を引退し、クラブスタッフに就任。 ==== 2019年 ==== :チームスローガン:'''BACK TO THE BASIC 徹底''' ヨンソン体制2年目。[[角田誠]]と[[長谷川悠]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]、[[レアンドロ・フレイレ・デ・アラウージョ|フレイレ]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]、[[白崎凌兵]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]が[[柏レイソル|柏]]、[[ミッチェル・デューク]]が[[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC]]、[[呉少聰]]が[[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]へ完全移籍。[[新井栄聡]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]、[[増田誓志]]が[[ソウルイーランドFC]]、[[清水航平]]が甲府から[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]へ期限付き移籍。[[宮本航汰]]が[[FC岐阜|岐阜]]との期限付き移籍期間を延長。[[アビスパ福岡|福岡]]へ期限付き移籍していた[[枝村匠馬]]が契約満了で退団。 一方で、長崎から[[中村慶太]]、[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[エルソン・フェレイラ・デ・ソウザ|エウシーニョ]]、ブラジルの[[SEパルメイラス]]から[[ヘナト・アウグスト・サントス・ジュニオール|ヘナト・アウグスト]]を完全移籍、ブラジルの[[アトレチコ・パラナエンセ]]から[[ヴァンデルソン・サントス・ペレイラ|ヴァンデルソン]]を期限付き移籍で獲得。[[高木和徹]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ千葉]]、[[楠神順平]]が[[モンテディオ山形|山形]]との期限付き移籍期間を満了して復帰。[[梅田透吾]]がユースから昇格。[[西澤健太]]が[[筑波大学蹴球部|筑波大学]]から新加入。 クラブ史上初めて背番号「10」が欠番となる<ref>{{Cite web|和書|title=クラブ史上初の「10」欠番、清水が新体制発表会見|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/201901110000397.html|publisher=日刊スポーツ|date=2019-01-11|accessdate=2019-05-30}}</ref>。 開幕からけが人が続出。J1第11節終了時点でリーグワーストの26失点を記録し、自動降格圏内である17位と低迷。5月12日、ヨンソンを解任。5月14日、コーチを務めていた[[篠田善之]]が監督に就任。 シーズン途中の7月、[[アル・ナスル]]から[[セルジオ・ドゥトラ・ジュニオール|ジュニオール・ドゥトラ]]、[[大分トリニータ|大分]]から[[福森直也]]、[[アビスパ福岡|福岡]]から[[吉本一謙]]、8月には[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[大久保択生]]をいずれも完全移籍で獲得する一方、7月7日には[[西村恭史]]がJ2[[ファジアーノ岡山|岡山]]へ、8月15日には[[髙橋大悟]]がJ3[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]へ、いずれも育成型期限付き移籍で移籍。 8月17日、ホームで行われた対[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦で0-8で敗戦し、クラブ最多失点記録を樹立。 第33節終了時で16位湘南と勝点差1で最終節まで残留争いに巻き込まれたものの、最終節鳥栖戦に勝利したことにより、12位でシーズンを終えたが、失点69および得失点差-24はいずれも同年のJ1全チーム中最悪となった。 ==== 2020年 ==== チームスローガン:'''RE-FRAME''' クラブの改革の年となり、新社長として[[千葉ロッテマリーンズ]]から山室晋也、新GMとして[[セレッソ大阪]]から[[大熊清]]、新監督として[[横浜F・マリノス]]から[[ピーター・クラモフスキー]]、コーチ陣複数名が就任。 [[松原后]]が[[シント=トロイデンVV]]、[[鎌田翔雅]]が[[ブラウブリッツ秋田]]、[[飯田貴敬]]が[[京都サンガF.C.]]、[[二見宏志]]が[[V・ファーレン長崎]]、[[清水航平]]が[[サンフレッチェ広島F.C]]、[[水谷拓磨]]が[[AC長野パルセイロ]]、[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]]が[[ヴィッセル神戸]]へ完全移籍。[[楠神順平]]、[[増田誓志]]が契約満了で退団。[[高木和徹]]が[[V・ファーレン長崎]]、[[六反勇治]]が[[横浜FC]]、[[髙橋大悟]]が[[ギラヴァンツ北九州]]へレンタル移籍。 一方で、[[アメリカ・デ・カリ]]から[[アウヴィーノ・ヴォルピ・ネト|ネト・ヴォルピ]]、[[セアラーSC]]から[[アンドレヴァウド・デ・ジェズス・サントス|ヴァウド]]、[[名古屋グランパスエイト]]から[[金井貢史]]、[[大宮アルディージャ]]から[[奥井諒]]、[[ムアントン・ユナイテッドFC]]から[[ティーラシン・デーンダー]]、[[大分トリニータ]]から[[後藤優介]]を完全移籍、[[FC東京]]から[[岡崎慎]]をレンタル移籍、ユースからノリエガ・エリック、川本利誉、市立船橋高校から[[鈴木唯人]]、[[三菱養和SCユース]]から[[栗原イブラヒム・ジュニア]]を獲得。 クラモフスキー監督就任後2試合でリーグは中断。中断前の二試合こそ、敗れはしたものの今後の希望が見える試合だったが、リーグ再開後は低迷。25節までで連勝はなく、3勝5分け17敗、クラブワーストタイとなる7連敗も記録した。 シーズン途中の11月にクラモフスキー、今矢コーチ、安野フィジカルコーチと契約解除。コーチである[[平岡宏章]]が監督就任。平岡は初陣からチームを勝利に導き、9試合で4勝2分け3敗を記録。33節終了時点では最下位だったが最終節で2位の[[ガンバ大阪]]に勝利し、同日に行われた勝ち点1・2差で16位・17位に着ける[[ベガルタ仙台]]と[[湘南ベルマーレ]]の直接対決が引き分けとなったため本来ならJ2プレーオフ勝者との入れ替え戦を行う16位でシーズンを終了、失点数は前シーズンを上回りJ1チーム最悪の70失点となった。 ==== 2021年 ==== チームスローガン:'''PENETRATE 突き破れ。''' 新監督に前C大阪監督の[[ミゲル・アンヘル・ロティーナ]]が就任。平岡監督はコーチへ復帰した。 [[吉本一謙]]が引退。[[ティーラシン・デーンダー|ティーラシン]]が[[BGパトゥム・ユナイテッドFC]]、[[黄錫鎬|ファン・ソッコ]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]、[[金井貢史]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、[[六平光成]]・[[西村恭史]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]、[[川本梨誉]]・[[梅田透吾]]が[[ファジアーノ岡山|岡山]]、[[西部洋平]]が[[カターレ富山|富山]]、[[平墳迅]]がJFLの[[鈴鹿ポイントゲッターズ]]、[[伊藤研太]]が[[沖縄SV]]へ移籍。[[アウヴィーノ・ヴォルピ・ネト|ネト・ヴォルピ]]・[[セルジオ・ドゥトラ・ジュニオール|ジュニオール・ドゥトラ]]は退団した。 その一方で積極的な立ち回りを見せ、[[CDサンタ・クララ]]から[[チアゴ・サントス・サンタナ|チアゴ・サンタナ]]、[[コリチーバFC]]から[[ウィリアム・マテウス・ダ・シウヴァ|ウィリアム・マテウス]]、[[ポルティモネンセSC]]から日本代表GK[[権田修一]]、C大阪から[[片山瑛一]]、[[大分トリニータ|大分]]から主将[[鈴木義宜]]、鳥栖からU-23日本代表MF[[原輝綺]]、北九州から昨季J2得点ランキング2位の[[ディサロ燦シルヴァーノ]]、[[横浜FC]]から[[中山克広]]、[[湘南ベルマーレ|湘南]]から[[指宿洋史]]、[[松本山雅FC|松本]]から[[永井堅梧]]を獲得。 大型補強を展開したシーズンであったがチームは低迷。6月に広島から[[井林章]]、7月に[[FCチューリッヒ]]から[[ベンジャミン・コロリ]]、[[CRフラメンゴ]]から[[ホナウド・ダ・シウヴァ・ソウザ|ホナウド]]、8月に鳥栖から[[松岡大起]]、神戸から[[藤本憲明]]を獲得。 第34節[[FC東京]]戦で0-4と大敗し、3連敗を喫した翌日の11月4日、ロティーナ監督、イヴァン・パランコヘッドコーチ、トニ・ヒル・プエルトフィジカルコーチ、小寺真人分析兼通訳との契約を解除し、再び[[平岡宏章]]監督が就任する事を発表した。最終節の[[セレッソ大阪]]戦で勝利を収め最終順位は14位。シーズン終了後、平岡監督が2022シーズンも続投すると発表された。 ==== 2022年 ==== チームスローガン:'''HERE GOES!''' 平岡体制2年目。 [[高木和徹]]が[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]、[[中村慶太]]が[[柏レイソル]]、[[金子翔太]]が[[ジュビロ磐田]]、[[石毛秀樹]]が[[ガンバ大阪]]、[[指宿洋史]]が[[アデレード・ユナイテッドFC|アデレード・ユナイテッド]]、[[奥井諒]]が[[V・ファーレン長崎|Vファーレン長崎]]、[[河井陽介]]が[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]にそれぞれ完全移籍した。 その一方で柏レイソルから[[神谷優太]]、[[徳島ヴォルティス]]から[[岸本武流]]、[[鹿島アントラーズ]]から[[白崎凌兵]]が完全移籍で加入した。[[SC相模原]]から[[成岡輝瑠]]、[[ギラヴァンツ北九州]]から[[髙橋大悟]]、[[鈴鹿ポイントゲッターズ]]から[[栗原イブラヒム・ジュニア]]がそれぞれ復帰した。 5月には[[千葉寛汰]]が[[FC今治]]、[[加藤拓己]]が[[SC相模原]]、[[栗原イブラヒム・ジュニア]]が[[福島ユナイテッドFC|福島ユナイテッド FC]]、[[菊地脩太]]がVファーレン長崎へそれぞれ育成型期限付き移籍した。 チームは第2節アウェー磐田戦でシーズン初勝利で同節終了時に3位となった。5月29日のアウェー柏戦で敗戦し3連敗となった翌日に平岡監督を解任。後任にはブラジル2部の[[CRヴァスコ・ダ・ガマ|ヴァスコ・ダ・ガマ]]で指揮を執っていたブラジル人の[[ジョゼ・リカルド・マナリーノ|ゼ・リカルド]]が就任。 6月にファジアーノ岡山から[[梅田透吾]]が復帰し、[[SKラピード・ウィーン]]から[[北川航也]]が3年ぶりに復帰。7月には新外国人選手として[[フォルタレーザEC]]から[[グライビソン・ヤゴ・ソウザ・リスボア|ヤゴ・ピカチュウ]]を獲得し、さらに6月に[[セレッソ大阪|C大阪]]を退団した元日本代表の[[乾貴士]]を獲得した。 第23節からシーズン初の2連勝を含む5試合負けなしで、第27節ホーム京都戦に勝利し、同節終了時には11位まで浮上、降格圏の17位神戸に勝点差7をつけていたものの、第32節終了時点で17位に転落、[[令和4年台風第15号|台風15号]]の影響で延期された第31節ホーム磐田戦を引き分け一旦16位までは浮上したものの、最終2戦を連敗、結局9月以降の7試合で1勝も出来ず2分5敗で17位に終わり、2016年以来7年ぶりのJ2降格となった。先に降格が決まっていた最下位磐田と同時の降格となり、Jリーグ史上初、[[日本サッカーリーグ|JSL]]時代を含めても[[1980年のJSL]]以降初めてトップディビジョンに静岡県のチームが不在となる事態となった<ref>同じ県のチームでトップディビジョン「J1からJ2」が同時に降格した事例は、2009年の千葉県勢の[[柏レイソル]]と[[ジェフユナイテッド市原・千葉]]以来となる。</ref>。一方で、[[2022年のJ3リーグ|J3リーグ]]では同じく静岡県の[[藤枝MYFC]]([[藤枝市]]、[[焼津市]]など)が自動昇格圏内である2位でシーズンを終えたため、[[2023年のJ2リーグ]]は静岡県勢のJリーグクラブの4チーム中、[[アスルクラロ沼津]]を除いた3チーム(清水・磐田・藤枝)が所属することになった。 総得点は44で10位ながら、失点は54でワースト3位だった。[[チアゴ・サントス・サンタナ|チアゴ・サンタナ]]がクラブ史上初の得点王に輝いた。J2降格のクラブから得点王が出たのは史上初の出来事で、また14ゴールでの得点王は歴代最少となった<ref>{{Cite web|和書|title=チアゴ・サンタナが清水史上初のJ1得点王獲得も…。得点数は史上最少の「14」 |url=https://www.footballchannel.jp/2022/11/05/post481672/ |publisher=フットボールチャンネル |date=2022-11-05 |accessdate=2023-02-26}}</ref>{{Refnest|group="注"|それまでの最少記録は、[[2019年のJ1リーグ|2019年]]に[[仲川輝人]]と[[マルコス・ジュニオール・リマ・ドス・サントス|マルコス・ジュニオール]](いずれも[[横浜F・マリノス]])がそれぞれ記録した15ゴール。}}。 12月には、スペインの[[RCDマジョルカ]]と業務提携を行った<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/202212110000318.html 【清水】スペイン1部マジョルカと業務提携調印式 人的交流、組織運営ノウハウを相互提供]. 日刊スポーツ(2021年12月11日). 2022年12月14日閲覧</ref>。 === 2023年~(J2) === ==== 2023年 ==== チームスローガン:'''STRONG WILL''' ゼ・リカルド監督体制2年目。 石野智顕GKコーチ([[V・ファーレン長崎|長崎]]GKコーチに就任)、[[篠田善之]]コーチ([[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]監督に就任)などが退団し、昨年まで[[水戸ホーリーホック|水戸]]の監督だった[[秋葉忠宏]]、[[市川大祐|市川大佑]]らがコーチに就任した。 [[栗原イブラヒム・ジュニア]]([[SC相模原]]へ移籍)、[[後藤優介]]([[モンテディオ山形]]へ移籍)が契約満了で退団。[[立田悠悟]]、[[片山瑛一]]が[[柏レイソル]]に、[[髙橋大悟]]が[[FC町田ゼルビア]]にいずれも完全移籍、[[永井堅梧|永田堅梧]]が[[横浜FC]]に、[[グライビソン・ヤゴ・ソウザ・リスボア|ヤゴ・ピカチュウ]]がフォルタレーザECに期限付き移籍した。一方で[[北爪健吾]]、[[高橋祐治]]が柏レイソルから、また9年振りに吉田豊が名古屋グランパスから完全移籍で加入、前年シーズン途中に[[モンテディオ山形]]に期限付き移籍していた[[ディサロ燦シルヴァーノ]]が復帰、日大藤沢高校から森重陽介、[[法政大学]]から落合穀人、[[早稲田大学]]から[[監物拓歩]]、[[中央学院大学]]から阿部諒弥が加入した。ユースからは安藤阿雄依が昇格した。 3月29日、[[松岡大起]]が[[グレミオ・ノヴォリゾンチーノ]]([[カンピオナート・パウリスタ|ブラジル]])へ[[期限付き移籍]]した<ref>{{Cite web|和書|title=清水エスパルスMF松岡大起、ブラジル2部グレミオ・ノヴォリゾンチーノへ移籍(MEGABRASIL) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/3e678eea401147235c4e556b89fe02b57365d196 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-04-03 |language=ja}}</ref>。 開幕からクラブワースト記録を更新する7戦未勝利と低迷し、4月3日に成績不振のためゼ・リカルド監督の契約を解除する事を発表<ref name="at-s230403">{{Cite news |date=2023-04-03|title=⚽リカルド監督を解任へ J2清水エスパルス、7戦未勝利と低迷 |url=https://www.at-s.com/sp/news/article/shizuoka/1218576.html|newspaper=あなたの静岡新聞 |accessdate=2023-04-05}}</ref><ref>{{Cite press release |date=2023-04-03|title=ゼ リカルド監督 契約解除のお知らせ|url=https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/51235 |publisher=清水エスパルス |accessdate=2023-04-03| language=ja}}</ref>。後任には[[秋葉忠宏]]コーチが監督に昇格<ref>{{Cite press release |title=秋葉 忠宏 監督就任のお知らせ|date=2023-04-03|url=https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/51237 |publisher=清水エスパルス |accessdate=2023-04-03 |language=ja}}</ref>。監督の途中交代は5年連続となる<ref name="at-s230403"/>。監督交代後は成績が好転し、14試合負けなしのクラブ記録を樹立した<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20231001-OHT1T51044.html?page=1 |title=清水、昇格圏2位から転落危機…藤枝の「付け焼き刃」守備ブロックを崩せなかった理由 |publisher = |accessdate=2023-10-02}}</ref>が、最終節で水戸と引き分けたため自動昇格を逃した。昇格プレーオフでは準決勝で6位[[モンテディオ山形|山形]]と対戦し、スコアレスドローで、規定により決勝進出を果たしたが、決勝では[[東京ヴェルディ1969|東京V]]に1-1の引き分けで終え、規定によりリーグ戦の上位の東京Vが昇格したため、1年でのJ1復帰は果たせなかった。また、J2残留及び2年連続J2はクラブ史上初となる。 1997年からホームスタジアムにて[[スタジアムDJ]]を務めてきた[[鈴木克馬]]が今季を持って退任することが発表された<ref>{{Cite web |title=鈴木克馬氏 スタジアムDJ退任のお知らせ |url=https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/52569 |website=清水エスパルス公式WEBサイト |access-date=2023-12-14 |language=ja}}</ref>。後任は後日公式サイトにて発表される。 ==== 2024年 ==== チームスローガン: 秋葉体制2年目。 コーチに前[[福島ユナイテッドFC|福島]]監督の[[依田光正]]が就任<ref>{{Cite web |title=依田 光正 コーチ就任のお知らせ |url=https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/52626 |website=清水エスパルス公式WEBサイト |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 [[大久保択生]]、[[井林章]]、[[神谷優太]]([[江原FC]]/[[Kリーグ1|韓国]]に移籍)、 [[ベンジャミン・コロリ|ベンジャミンコロリ]]、[[ヘナト・アウグスト・サントス・ジュニオール|ヘナトアウグスト]]が契約満了で退団。[[竹内涼]]が[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]、[[滝裕太]]が[[松本山雅FC]]、[[中山克広]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]、[[西村恭史]]が[[期限付き移籍]]先の[[AC長野パルセイロ]]、[[鈴木義宜]]が[[京都サンガF.C.]]に完全移籍。[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]から[[川谷凪]]が復帰した。[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]から[[住吉ジェラニレショーン]]、[[鹿島アントラーズ]]から[[中村亮太朗]]、[[FC東京]]から[[蓮川壮大]]が[[期限付き移籍]]加入。[[鹿島アントラーズ]]から[[沖悠哉]]が完全移籍で加入した。 == 成績 == {{main|清水エスパルスの年度別成績一覧}} == タイトル == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]''' ** '''[[J1リーグ#開催方式|2ndステージ]]:1回''' *** [[1999年のJリーグ|1999]] * '''[[Jリーグカップ]]:1回''' **[[1996年のJリーグカップ|1996]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:1回''' **[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2001]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:2回''' ** 2001, 2002 === 国際タイトル === * '''[[アジアカップウィナーズカップ]]:1回''' **[[アジアカップウィナーズカップ1999-2000|2000]] === 表彰 === ; [[J1リーグ]] *;[[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞(MVP)|最優秀選手賞 (MVP)]] ** 1999年 {{Flagicon|BRA}} [[三都主アレサンドロ|アレックス]] *;[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] ** 1993年 {{Flagicon|JPN}} [[堀池巧]] ** 1999年 {{Flagicon|JPN}} [[真田雅則]]、{{Flagicon|JPN}} [[斉藤俊秀]]、{{Flagicon|JPN}} [[森岡隆三]]、 {{Flagicon|BRA}} [[三都主アレサンドロ|アレックス]]、{{Flagicon|JPN}} [[伊東輝悦]]、{{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] ** 2009年 {{Flagicon|JPN}} [[岡崎慎司]] ** 2010年 {{Flagicon|JPN}} [[藤本淳吾]] ** 2022年 {{Flagicon|BRA}} [[チアゴ・サントス・サンタナ|チアゴ・サンタナ]] *;[[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|新人王/ベストヤングプレーヤー賞]] ** 1993年 {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] ** 1996年 {{Flagicon|JPN}} [[斉藤俊秀]] ** 2006年 {{Flagicon|JPN}} [[藤本淳吾]] *;[[Jリーグアウォーズ#最優秀監督賞|最優秀監督賞]] ** 1998年 {{Flagicon|ARG}} [[オズワルド・アルディレス]] ** 1999年 {{Flagicon|ENG}} [[スティーブ・ペリマン]] *;[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞(高円宮杯)|フェアプレー賞]] ** 1998年 フェアプレー特別賞 ** 2008年 フェアプレー賞 高円宮杯 *;[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー個人賞|フェアプレー個人賞]] ** 2003年 {{Flagicon|JPN}} [[池田昇平]] ** 2007年 {{Flagicon|JPN}} [[伊東輝悦]] ** 2011年 {{Flagicon|JPN}} [[太田宏介]] ** 2014年 {{Flagicon|JPN}} [[平岡康裕]] ; [[J2リーグ]] *;[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] ** 2023年 {{Flagicon|JPN}} [[権田修一]]、{{Flagicon|JPN}} [[鈴木義宜]]、{{Flagicon|JPN}} [[乾貴士]] *;[[Jリーグアウォーズ#最優秀ゴール賞|最優秀ゴール賞]] ** 2016年 {{Flagicon|JPN}} [[白崎凌兵]] ** 2023年 {{Flagicon|JPN}} 乾貴士 *;[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー個人賞|フェアプレー個人賞]] ** 2023年 {{Flagicon|JPN}} 権田修一 ; [[Jリーグアウォーズ#MYアウォーズ|MYアウォーズ]] *;[[Jリーグアウォーズ#MYアウォーズ|ベストゴール]] ** 2016年 {{Flagicon|JPN}} [[白崎凌兵]] (J2・34節 C大阪戦) *;[[Jリーグアウォーズ#MYアウォーズ|ベストアシスト]] ** 2016年 {{Flagicon|北朝鮮}} [[鄭大世]] (J2・42節 徳島戦) *;[[Jリーグアウォーズ#MYアウォーズ|J2 MVP]] ** 2016年 {{Flagicon|北朝鮮}} 鄭大世 * '''[[Jリーグアウォーズ#MYアウォーズ|J2 ベストイレブン]]''' ** 2016年 {{Flagicon|JPN}} [[角田誠]]、{{Flagicon|JPN}} [[松原后]]、{{Flagicon|JPN}} [[犬飼智也]]、{{Flagicon|JPN}} 白崎凌兵、{{Flagicon|北朝鮮}} 鄭大世 ; [[Jリーグカップ]] *;[[Jリーグカップ#最優秀選手賞|最優秀選手 (MVP)]] ** 1996年 {{Flagicon|BRA}} カルロス・サントス *;[[Jリーグカップ#ニューヒーロー賞|ニューヒーロー賞]] ** 1996年 {{Flagicon|JPN}} 斉藤俊秀 ** 2012年 {{Flagicon|JPN}} [[石毛秀樹]] ; [[アジアサッカー連盟|アジアサッカー連盟(AFC)]] *;[[アジアサッカー連盟|アジアサッカー連盟(AFC)]]月間最優秀チーム賞 ** 1998年8月 *;[[アジアサッカー連盟|アジアサッカー連盟(AFC)]]月間最優秀ゴール賞 ** 1999年12月 {{Flagicon|JPN}} 澤登正朗 ([[1999年のJリーグ ディビジョン1#チャンピオンシップ|Jリーグチャンピオンシップ]] 第1戦) *;[[アジアカップウィナーズカップ|アジアカップウィナーズカップ最優秀選手賞 (MVP)]] ** 2000年 {{Flagicon|BRA}} アレックス *;[[アジア年間最優秀ユース選手賞]] ** 2011年 {{Flagicon|JPN}} 石毛秀樹(清水エスパルスユース) ; その他表彰 *;[[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|功労選手賞]] ** 2002年 {{Flagicon|BRA}} [[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|カルロス・サントス]] ** 2006年 {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] *;[[Jリーグアウォーズ#Jリーグベストピッチ賞|ベストピッチ賞]] ** 2004年 [[静岡市清水日本平運動公園球技場]] ** 2008年 [[静岡市清水日本平運動公園球技場]] ** 2009年 [[静岡市清水日本平運動公園球技場|アウトソーシングスタジアム日本平]] ** 2010年 アウトソーシングスタジアム日本平 ** 2011年 アウトソーシングスタジアム日本平 ** 2012年 アウトソーシングスタジアム日本平 ** 2013年 [[静岡市清水日本平運動公園球技場|IAIスタジアム日本平]] ** 2014年 IAIスタジアム日本平 ** 2015年 IAIスタジアム日本平 *;[[Jリーグアウォーズ#最優秀育成クラブ賞|最優秀育成クラブ賞]] ** 2015年 === その他受賞 === *;[[日本年間最優秀選手賞|日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)]] ** 1999年 {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] * '''[[日本プロスポーツ大賞]]''' ** 1996年 {{Flagicon|JPN}} [[斉藤俊秀]](新人賞) ** 2006年 {{Flagicon|JPN}} [[藤本淳吾]](新人賞) == クラブ記録 == === 連勝記録 === * J1リーグ戦 ** 9試合 【1993年7月31日 NICOS第2節 対広島 - 1993年11月6日 NICOS第10節 対広島】 ** 9試合 【1994年3月26日 サントリー第5節 対V川崎 - 1994年4月30日 サントリー第13節 対平塚】 * J2リーグ戦 ** 9試合 【2016年10月2日 第34節 対C大阪 - 2016年11月20日 第42節 対徳島】 ===連敗記録=== * J1リーグ戦 ** 7試合 【1996年5月4日 第12節 対浦和 - 1996年9月7日 第18節 対V川崎】 === 連続無敗記録 === * J1リーグ戦 ** 13試合 【2009年7月4日 第16節 対京都 - 2009年10月3日 第28節 対広島】 * J1リーグ戦ホーム ** 22試合 【2008年7月20日 第18節 対新潟 - 2009年10月3日 第28節 対広島】 * J2リーグ戦 ** 14試合 【2023年7月1日 第23節 対長崎 - 2023年9月24日 第36節 対甲府】(2023年9月25日) === 連続未勝利記録 === * J1リーグ戦 ** 10試合 【2015年8月12日 2nd第8節 対湘南 - 2015年10月24日 2nd第15節 対柏】 === 最多得点記録 === * J1リーグ戦 ** 6-0 【1998年9月12日 2nd第4節 対福岡】 ** 6-3 【2001年10月13日 2nd第8節 対神戸】 ** 6-3 【2010年8月1日 第16節 対湘南】 ** 6-4 【2013年10月19日 第29節 対鳥栖】 ** 6-0 【2019年9月29日 第27節 対湘南】 * J2リーグ戦 ** 9-1 【2023年5月7日 第14節 対いわき】 === 最多失点記録 === * J1リーグ戦 ** 0-8 【2019年8月17日 第23節 対札幌】 === 連続得点記録 === * J1リーグ戦 ** 21試合 【2009年5月5日 第10節 対千葉 - 2009年10月25日 第30節 対FC東京】 === 連続失点記録 === * J1リーグ戦 ** 16試合 【2005年7月13日 第16節 対FC東京 - 2005年11月20日 第31節 対柏】 === 連続無失点記録 === * J1リーグ戦 ** 6試合 【1993年8月4日 NICOS第3節 対横浜M - 1993年8月28日 NICOS第8節 対V川崎】 == 個人記録 == === リーグ戦通算出場記録 === * 450試合出場 ** {{Flagicon|JPN}} [[伊東輝悦]] - 483試合 * 350試合出場 ** {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] - 381試合 (引退) * 300試合出場 ** {{Flagicon|JPN}} [[市川大祐]] - 325試合 (引退) * 250試合出場 ** {{Flagicon|JPN}} [[森岡隆三]] - 277試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[枝村匠馬]] - 254試合(引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[大榎克己]] - 252試合 (引退) * 200試合出場 ** {{Flagicon|JPN}} [[斉藤俊秀]] - 244試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[真田雅則]] - 243試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[西部洋平]] - 210試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[長谷川健太]] - 207試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[河井陽介]] - 205試合 * 150試合出場 ** {{Flagicon|JPN}} [[三都主アレサンドロ]] - 198試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[大前元紀]] - 192試合 ** {{Flagicon|JPN}} [[久保山由清]] - 184試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[堀池巧]] - 180試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[戸田和幸]] - 175試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[竹内涼]] - 172試合 ** {{Flagicon|BRA}} [[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|カルロス・サントス]] - 160試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[兵働昭弘]] - 157試合 (引退) ** {{Flagicon|JPN}} [[高木和道]] - 156試合 (引退) ※2020年2月現在。[[J2リーグ]]の出場も含む。<br> {{要出典|※試合数は清水エスパルス在籍時のみを記載。|date=2019年10月}} === リーグ戦通算最多得点 === * 85得点 - {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] 【1993-2005】 === リーグ戦シーズン最多得点 === *[[J1リーグ]] ** 22得点 - {{Flagicon|BRA}} [[アントニオ・ベネディット・ダ・シルバ|トニーニョ]] 【1994年】 *[[J2リーグ]] ** 26得点 - {{Flagicon|北朝鮮}} [[鄭大世]] 【2016年】(J2得点王) === リーグ戦シーズン連続得点 === * 13シーズン - {{Flagicon|JPN}} 澤登正朗 【1993-2005】 === リーグ戦連続試合得点 === *[[J1リーグ]] ** 7試合 - {{Flagicon|BRA}} [[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]] 【2019年】 *[[J2リーグ]] ** 7試合 - {{Flagicon|北朝鮮}} 鄭大世 【2016年】 === リーグ戦連続試合出場 === * 145試合 - {{Flagicon|JPN}} [[真田雅則]] 【1995年-2000年】 === リーグ戦連続無失点 === * 731分 - {{Flagicon|BRA}} [[シジマール・アントニオ・マルチンス|シジマール]] 【1993年】 === リーグ戦最年少出場 === * 17歳7ヶ月 - {{Flagicon|JPN}} [[石毛秀樹]] 【2012年】 === リーグ戦最年少得点 === * 18歳5ヶ月 - {{Flagicon|JPN}} 石毛秀樹 【2013年】 === リーグ戦最年長出場 === * 39歳11ヶ月 - {{Flagicon|BRA}} [[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|カルロス・サントス]] 【2000年】 === リーグ戦最年長得点 === * 39歳7ヶ月 - {{Flagicon|BRA}} カルロス・サントス 【2000年】 === 記念ゴール === * '''[[Jリーグ歴代記念ゴール達成者一覧|J1リーグ記録]]''' ** 7,500得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[久保山由清]] 【2001年11月3日 2nd第12節 対市原】 ** 15,000得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[辻尾真二]] 【2011年5月22日 第12節 対大宮】 ** 20,000得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[金子翔太]]【2017年4月21日 第8節 対川崎】 * '''[[Jリーグ歴代記念ゴール達成者一覧|J2リーグ記録]]''' ** 15,000得点目 - {{Flagicon|北朝鮮}} [[鄭大世]]【2016年7月24日 J2第25節 対千葉】 * '''クラブ記録''' ** 1得点目 - {{Flagicon|BRA}} [[エドゥアルド・アントニオ・ドス・サントス|エドゥ]] 【1993年5月16日 サントリー第1節対横浜フリューゲルス】 ** 50得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] 【1993年11月27日 NICOS第15節 対浦和レッズ】 ** 100得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[岩下潤]] 【1994年8月31日 NICOS第6節 対横浜マリノス】 ** 150得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[三浦泰年]] 【1995年6月28日 サントリー第20節 対ガンバ大阪】 ** 200得点目 - {{Flagicon|JPN}} 澤登正朗 【1995年11月25日 NICOS第26節 対サンフレッチェ広島】 ** 250得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[伊東輝悦]] 【1996年11月30日 第30節 対ジュビロ磐田】 ** 300得点目 - {{Flagicon|JPN}} 伊東輝悦 【1997年11月27日 2nd第15節 対ヴィッセル神戸】 ** 350得点目 - {{Flagicon|JPN}} 澤登正朗 【1998年9月19日 2nd第6節 対京都パープルサンガ】 ** 400得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[安永聡太郎]] 【1999年5月15日 1st第13節 対ジェフ市原】 ** 450得点目 - {{Flagicon|ブラジル}} [[三都主アレサンドロ|アレックス]] 【2000年5月27日 1st第15節 対ジュビロ磐田】 ** 500得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[吉田康弘 (サッカー選手)|吉田康弘]] 【2001年9月15日 2nd第5節 対コンサドーレ札幌】 ** 600得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[久保山由清]] 【2004年4月14日 1st第5節 対浦和レッズ】 ** 700得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[枝村匠馬]] 【2006年7月29日 第16節 対ジュビロ磐田】 ** 800得点目 - {{Flagicon|ブラジル}} [[シジクレイ・デ・ソウザ|オウンゴール]] 【2008年6月28日 第14節 対京都サンガ】 ** 900得点目 - {{Flagicon|ノルウェー}} [[フローデ・ヨンセン|ヨンセン]] 【2010年5月5日 第10節 対京都サンガ】 ** 1,000得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[大前元紀]] 【2012年7月14日 第18節 対柏レイソル】 ** 1,100得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[本田拓也]] 【2014年9月27日 第26節 対大宮アルディージャ】 ** 1,200得点目 - {{Flagicon|北朝鮮}} [[鄭大世]] 【2016年8月7日 J2第27節 対コンサドーレ札幌】 ** 1,300得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[金子翔太]] 【2018年8月19日 J1第23節 対浦和レッズ】 ** 1,400得点目 - {{Flagicon|JPN}} [[後藤優介]] 【2020年10月10日 J1第21節 対サンフレッチェ広島】 ** 1,500得点目 - {{Flagicon|ブラジル}} [[ホナウド・ダ・シウヴァ・ソウザ]] 【2022年11月5日 J1第34節 対コンサドーレ札幌】 === ハットトリック === *[[J1リーグ]] ** {{Flagicon|BRA}} [[アントニオ・ベネディット・ダ・シルバ|トニーニョ]] 【1994年6月11日 サントリー第21節 対G大阪】 ** {{Flagicon|ITA}} [[ダニエレ・マッサーロ]] 【1996年4月13日 第7節 対平塚】 ** {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] 【1998年5月9日 1st第12節 対神戸】 ** {{Flagicon|BRA}} [[三都主アレサンドロ|アレックス]] 【1998年11月14日 2nd第17節 対市原】 ** {{Flagicon|BRA}} [[マルセロ・バロン・ポランクジック|バロン]] 【2001年10月13日 2nd第8節 対神戸】 ** {{Flagicon|JPN}} [[藤本淳吾]] 【2006年11月23日 第32節 対川崎】 ** {{Flagicon|韓国}} [[チョ・ジェジン]] 【2007年10月6日 第28節 対名古屋】 ** {{Flagicon|NOR}} [[フローデ・ヨンセン]] 【2010年8月1日 第16節 対湘南】 ** {{Flagicon|JPN}} [[大前元紀]] 【2012年10月13日 ヤマザキナビスコカップ準決勝第2戦 対FC東京】 ** {{Flagicon|JPN}} [[高木俊幸]] 【2013年8月28日 第23節 対鹿島】 ** {{Flagicon|JPN}} [[伊藤翔]] 【2013年10月19日 第29節 対鳥栖】 *[[J2リーグ]] ** {{Flagicon|JPN}} [[中山克広]] 【2023年5月7日 第14節 対いわき】 ** {{Flagicon|BRA}} [[チアゴ・サントス・サンタナ|チアゴ・サンタナ]] 【2023年5月7日 第14節 対いわき】 === 国際Aマッチ・個人記録 === * [[国際Aマッチ]]最多出場記録 '''38試合''' - {{Flagicon|JPN}} [[森岡隆三]] * 国際Aマッチ最多得点記録 '''21得点''' - {{Flagicon|JPN}} [[岡崎慎司]](2009年[[Template:国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)世界得点王|国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)世界得点王]]) * 国際Aマッチ最年少出場記録 '''17歳10ヶ月''' - {{Flagicon|JPN}} [[市川大祐]] ([[サッカー日本代表#主な公式記録|日本代表最年少出場記録]]) 【1998年】 * 国際Aマッチ最年少得点記録 '''22歳9ヶ月''' - {{Flagicon|JPN}} 岡崎慎司 【2009年】 * 国際Aマッチ最年長出場記録 '''31歳1ヶ月''' - {{Flagicon|カナダ}} [[デヤン・ヤコヴィッチ|ヤコヴィッチ]] 【2016年】 * 国際Aマッチ最年長得点記録 '''30歳1ヶ月''' - {{Flagicon|JPN}} [[澤登正朗]] 【2000年】 ※各国代表選手の記録は、清水エスパルス在籍時のみを記載。 *;国際大会・優勝メンバー **[[FIFAワールドカップ]] 優勝 '''1人''' ***[[1994 FIFAワールドカップ|1994年]] {{Flagicon|BRA}} [[ロナウド・ロドリゲス・デ・ジェズス|ロナウド]] **[[AFCアジアカップ]] 優勝 '''5人''' ***[[AFCアジアカップ1992|1992年]] {{Flagicon|JPN}} [[堀池巧]] ***[[AFCアジアカップ2000|2000年]] {{Flagicon|JPN}} [[森岡隆三]] ([[AFCアジアカップ2000#個人表彰|最優秀DF]]) ***[[AFCアジアカップ2011|2011年]] {{Flagicon|JPN}} [[藤本淳吾]] {{Flagicon|JPN}} [[本田拓也]] {{Flagicon|JPN}} [[岡崎慎司]] == 国際大会出場選手 == === FIFAワールドカップ === * [[1994 FIFAワールドカップ]] ** {{Flagicon|BRA}} [[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]] (優勝) *** DF:[[ロナウド・ロドリゲス・デ・ジェズス|ロナウド]] * [[1998 FIFAワールドカップ]] ** {{Flagicon|JPN}} [[サッカー日本代表|日本代表]] (グループリーグ敗退) *** DF:[[斉藤俊秀]] *** MF:[[伊東輝悦]] * [[2002 FIFAワールドカップ]] ** {{Flagicon|JPN}} 日本代表 (ベスト16) *** DF:[[森岡隆三]] *** MF:[[戸田和幸]] *** MF:[[市川大祐]] *** MF:[[三都主アレサンドロ]] * [[2006 FIFAワールドカップ]] ** {{Flagicon|韓国}} [[サッカー大韓民国代表|大韓民国代表]] (グループリーグ敗退) *** FW:[[曺宰溱|チョ・ジェジン]] * [[2010 FIFAワールドカップ]] ** {{Flagicon|JPN}} 日本代表 (ベスト16) *** FW:[[岡崎慎司]] * [[2022 FIFAワールドカップ]] ** {{Flagicon|JPN}} 日本代表 (ベスト16) *** GK:[[権田修一]] === オリンピック代表 === ;[[オリンピックサッカー日本代表選手|オリンピック日本代表]] * [[アトランタオリンピック|1996年アトランタオリンピック]] ** DF:[[白井博幸]] ** MF:[[伊東輝悦]] ** FW:[[松原良香]] * [[シドニーオリンピック|2000年シドニーオリンピック]] ** DF:[[森岡隆三]] (オーバーエイジ枠) * [[アテネオリンピック (2004年)|2004年アテネオリンピック]] ** GK:[[黒河貴矢]] * [[2008年北京オリンピック]] ** GK:[[山本海人]] ** MF:[[本田拓也]] ** FW:[[岡崎慎司]] * [[ロンドンオリンピック (2012年)|2012年ロンドンオリンピック]] ** MF:[[村松大輔]] === 年代別代表 === ;[[U-20サッカー日本代表|U-20W杯日本代表]] * [[1997 FIFAワールドユース選手権]] ** DF:[[戸田和幸]] * [[2001 FIFAワールドユース選手権]] ** GK:[[黒河貴矢]] ** DF:[[池田昇平]] * [[2005 FIFAワールドユース選手権]] ** GK:[[山本海人]] * [[2007 FIFA U-20ワールドカップ]] ** GK:[[武田洋平]] ;[[U-17サッカー日本代表|U-17W杯日本代表]] * [[2001 FIFA U-17世界選手権]] ** DF:[[高山純一]] (清水エスパルスユース) ** MF:[[杉山浩太]] (清水エスパルスユース、第3戦で追加登録) * [[2011 FIFA U-17ワールドカップ]] ** MF: [[石毛秀樹]] (清水エスパルスユース) * [[2013 FIFA U-17ワールドカップ]] ** MF: [[水谷拓磨]] (清水エスパルスユース) == エスパルス栄誉賞 == クラブ在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対し「エスパルス栄誉賞」を授与、その功績を称える。 原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。 * 1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧 * 2000年 カルロス・サントス * 2002年 大榎克己 * 2005年 真田雅則 * 2006年 澤登正朗 * 2010年 伊東輝悦、市川大祐 * 2014年 齊藤俊秀 == 引退試合 == === [[引退試合#Jリーグ|Jリーグ引退試合]] === ; S-PULSE ALL STARS vs JAPAN ALL STARS *2007年1月21日 『鈴与グループPRESENTS [[澤登正朗]][[澤登正朗#引退試合|引退試合]]』 *2018年1月8日 『鈴与グループPRESENTS [[市川大祐]]引退試合~THANK YOU FOR FOOTBALL~』 == スタジアム・練習場 == === ホームスタジアム === [[ファイル:Nihondaira stadium20090412.jpg|293px]] ホームスタジアムは[[静岡市清水日本平運動公園球技場|IAIスタジアム日本平]](正式名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)<ref name="jleague" />。1994年に客席増設工事を実施した期間を除き、ほぼ全ての試合を開催している。2001年に開場された[[静岡県小笠山総合運動公園スタジアム]](エコパスタジアム)でも試合を開催していたが、2015年を最後に使用実績がない。過去のホームゲーム開催スタジアムは「[[清水エスパルスの年度別成績一覧#年度別入場者数|当項目]]」を参照。 === 練習場 === 練習場はエスパルス三保グラウンド<ref name="jleague" />、三保移転前は蛇塚グラウンドを使用<ref>{{Cite web|和書|url=http://m-shimizu.co.jp/case/清水蛇塚グラウンド維持管理.html |title=清水蛇塚グラウンド維持管理 | work=グリーンマスターズ清水公式サイト |accessdate=2016-1-11}}</ref>。過去には静岡市清水総合運動場も使用していた。 === 新スタジアム構想 === IAIスタジアム日本平は[[2013年]]から発効している「[[Jリーグクラブライセンス制度]]」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない<ref>[https://web.archive.org/web/20130501035433/http://www.at-s.com/sports/detail/618044868.html 新スタジアムを検討 委員会発足へ](静岡新聞2013年4月26日付け 2014年7月11日閲覧)</ref>。 スタジアム規定では「A等級基準」である収容人員15000人以上(J1基準)は満たしているものの、「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」や「[[トイレ]](洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。<ref group="注">上記は「B等級基準」であり、これらを満たしていない場合でもライセンスの剥奪はないが、制裁を科すとしており「事実上の条件付き交付」となっている。</ref> 現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。 エスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿った新スタジアムの建設を[[2014年]]7月、同[[市区町村長|市長]]の[[田辺信宏]]に対し要望書を提出した。田辺のこのスタジアム計画については[[2015年]]度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指していた<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20140703-1327949.html 清水新スタジアム建設へ市長に要望書提出](日刊スポーツ2014年7月3日 同7月11日閲覧)</ref>。 有力な候補地として、[[葵区]]にある[[東海旅客鉄道|JR東海]][[東静岡駅]]北の約2.5haの市所有地が挙げられていた。当初この箇所は[[1990年]]に「東静岡地区新都市拠点整備事業構想」で、体育館の建設が予定されていた他、新市庁舎の建設計画も予定されていた。しかしいずれも計画がとん挫しており、現状も空き地になっている。そこで静岡市は2013年にこの市有地の活用を市民や専門家から意見を聞くための都市デザイン案の[[コンペティション]]を実施し、その意見には、スポーツ施設や文化施設(総合博物館)などの誘致を期待する声が寄せられていた。 周辺の病院や高層マンションなどの騒音対策や、防災機能を兼ね備えた公園整備などの選択肢も考えられていること、更に東静岡駅の南側に[[静岡県草薙総合運動場陸上競技場]]、[[静岡県草薙総合運動場球技場|同球技場]]もあることからなお難航が懸念されており<ref>[http://www.spulse.info/archives/36203998.html 東静岡駅地区にサッカー場構想 エスパルス本拠地に](エスパルス遅報に転載された中日新聞の記事 2014年11月7日閲覧)</ref>、実際、田辺市長は2014年9月の静岡市第3次総合計画の骨子案を発表した時もこの8年間で予定している計画案に何を建設するかを盛り込まず、事実上結論を出すことを凍結した影響から静岡県の[[川勝平太]]知事もサッカー場を建設すべきであるとする私見を述べている<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=duPHCXn-BM4 知事「サッカースタジアム造るべき」東静岡地区の再開発に一石](YouTube・静岡放送公式)</ref>。 ところが[[2016年]][[3月]]になって、川勝知事が新たな移転先の候補地として[[清水駅 (静岡県)|清水駅]]周辺を選択肢の一つとして示したと静岡放送が報じた。田辺市長は上記の東静岡駅北口を[[ローラースポーツ]]の施設として一時的に作るための予算を計上したことに[[3月3日]]、川勝知事が抗議した。川勝知事はJリーグの舞台で戦うエスパルスと静岡市が中心となってサッカー専用スタジアムを建設すべきとしたうえで、県としてもスタジアムの建設には全面的に協力し、それをするために担当部局に検討するよう指示したという。<ref>[http://www.spulse.info/news/7221.html 進まない新スタジアム建設問題 県と市のコミュニケーションが絶望的で進まず](エスパルスインフォ2016年3月5日 5月28日閲覧)</ref> 2022年3月、ENEOSの清水製油所跡地に収容人員2万5千人超のサッカースタジアムを建設する構想が明らかになった。総事業費は200億円で静岡市や静岡県、地元企業などが共同で拠出する見通しで、2026年ごろの完成を想定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC037OK0T00C22A3000000/|title=清水エスパルスに新スタジアム 駅に隣接、26年めど完成|accessdate=2022-03-15|date=2022-03-04|publisher=日本経済新聞}}</ref>。 2022年10月24日に行われた静岡市の新スタジアムの検討会で、上記のENEOS製油所跡に加え、日本平の改修も検討に入れていることが分かった<ref name=nikkei>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC189VZ0Y2A011C2000000/?unlock=1 静岡市サッカースタジアム、ENEOS製油所跡地など2案に](日本経済新聞)</ref>。 静岡市は検討委員会に対し、候補地の要件として面積3.5㏊以上の運動公園や遊休地を求め、それを満たす箇所として、上記2か所に加え、貝島スポーツ広場([[中部電力]]所有)、[[清水ナショナルトレーニングセンター]]敷地、草薙総合運動場、西ヶ谷総合運動場も候補に挙げていた<ref name=shizuokanp>[https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1141116.html 静岡市のサッカースタジアム新設 有力候補地にエネオス遊休地 有識者ら検討委、既存施設改修案も残す 政治部 池谷遥子](静岡新聞)</ref>。 会合ではまず、草薙、西ヶ谷、ナショナルトレセンの3か所は整備のための協議や調整に多大な時間が必要とする理由から除外<ref name=shizuokanp/>し、交通アクセス面などを踏まえて3か所(ENEOS製油所跡、貝島、日本平の改修)を選んだが、貝島は騒音問題は工場群にあるため問題はないとしても、交通の便が悪く、自動車来場による、道路の混雑を招くとしてこれも候補から外れ、2か所に絞った。 また静岡市民に対するアンケート(同8月)の結果もまとめており、「新スタジアムに期待すること」のテーマに対して、市民の約8割が「日常使い」と答えたという。また「交通アクセス」「周辺地域活性化」についても75%を超えたという。<ref>[https://www.tv-sdt.co.jp/nnn/news112u03cgz8yc6qd216i.html 静岡市 新サッカースタジアム構想 候補地2つに絞られる “清水駅東口案”と“アイスタ改修案”に(静岡県)(静岡だいいちテレビ・ニュースエブリーしずおか)]</ref> ;候補2か所の利点と課題のまとめ(静岡市出自<ref name=nikkei/>・<ref name=shizuokanp/>) {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double 4px 4px 4px #FF8709;" !候補地!!現状!!面積!!メリット!!デメリット!!災害時のリスク!!周辺の活性化!!周辺への影響!!交通アクセス(鉄道駅からの最寄) |- !ENEOS製油所跡地 |民有地(未利用のガスタンクあり) |20㏊の一部 | *駅のすぐ近くであり、交通アクセスが良い *中心市街地に近いため、まちの活性化につながる | *騒音対策への配慮が必要 *災害リスクへの費用がかかる可能性がある | *[[津波]]発生時の浸水深2-3m *液状化現象が発生する可能性が大 | *清水駅前銀座商店街へ300m *エスパルスドリームプラザへ1.5㎞ | *最寄りの住宅地へ800m *清水さくら(桜ケ丘)病院へ100m |JR清水駅から徒歩3分 |- !アイスタの改修・改築 |静岡市 |16㏊(このうち現スタジアムの敷地2.3㏊) | *改修であれば低コストの費用で抑えられる可能性がある | *駅や市街地の交通アクセスが悪い | *土砂災害や津波被害がないため液状化現象の発生については不明 | *次郎長通り商店街へ3.3㎞ *ベイドリーム清水へ2.1㎞ | *最寄りの住宅地へ150m *市立清水病院へ700m |いづれもJR清水駅から *徒歩:1時間11分 *路線バス:27分 *タクシー:13分 |- !(参考)貝島スポーツ広場 |民有地(現在は[[野球場]]) |6.1㏊ | | | *津波発生時の浸水深2-3m *液状化現象の発生は不明 | *次郎長通り商店街へ6.2㎞ *ベイドリーム清水へ4㎞ | *最寄りの住宅地へ750m |いづれもJR清水駅から *徒歩:1時間36分 *路線バス:39分 *タクシー:18分 |- |} == ユニフォーム == {| style="margin-left:16px; float:right;" |- | {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+ style="font-size:120%; font-weight:bold;"|ユニフォームの色 |- ! style="background-color:#efefef;" |カラー ! style="background-color:#efefef;" |シャツ ! style="background-color:#efefef;" |パンツ ! style="background-color:#efefef;" |ストッキング |- |FP(1st) |オレンジ |オレンジ |オレンジ |- |FP(2nd) |白 |白 |白 |- |FP(3rd) |ブルー |ブルー |ブルー |- |GK(1st) |緑 |緑 |緑 |- |GK(2nd) |ブルー |ブルー |ブルー |} |- | class="toccolours" style="padding:0; text-align:center;" colspan="2"| {| style="width:100%; text-align:center;" |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP| pattern_b = _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP| pattern_ra = _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP| pattern_sh = _Shimizu S-Pulse 2023 HOME FP| pattern_so = _Shimizu S-Pulse 2022 HOME FP | 左袖 = ff8800 | 胴 = ff8800 | 右袖 = ff8800 | パンツ = ff8800 | ストキング = ff8800 | 種別 = FP 1st }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP| pattern_b = _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP| pattern_ra = _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP| pattern_sh = _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP| pattern_so = _Shimizu S-Pulse 2023 AWAY FP | 左袖 = 0f2350 | 胴 = 0f2350 | 右袖 = 0f2350 | パンツ = 0f2350 | ストキング = 0f2350 | 種別 = FP 2nd }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_b = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_ra = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_sh = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_so = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | 左袖 = 000000 | 胴 = 000000 | 右袖 = 000000 | パンツ = 000000 | ストキング = 000000 | 種別 = FP 3rd }} |} |- | class="toccolours" style="padding:0; text-align:center;" colspan="2"| {| style="width:100%; text-align:center;" |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = | pattern_b = | pattern_ra =| pattern_sh = | pattern_so = | 左袖 = 006400 | 胴 = 006400 | 右袖 = 006400 | パンツ = 006400 | ストキング = 006400 | 種別 = GK 1st }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_b = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_ra = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_sh = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP| pattern_so = _Shimizu S-Pulse 2023 3rd FP | 左袖 = 0f2350 | 胴 = 0f2350 | 右袖 = 0f2350 | パンツ = 0f2350 | ストキング = 0f2350 | 種別 = GK 2nd }} |} |} === クラブカラー === * {{colorbox|#FF8709}} [[オレンジ色|エスパルスオレンジ]] ** クラブカラーのオレンジは、静岡県の名産であるミカンの色であることに加え、喜び・希望・若さ・前進・元気などをイメージさせることに由来<ref name="club"/>。 ** 当初[[清水市]](現:静岡市)が港を中心として発展してきた街であること、市内のサッカー強豪高校が青系統のユニフォームを使用していることなど、市民には青が馴染みのある色であったため青系が検討された。しかし、[[オリジナル10|Jリーグ創設時の10クラブ]]に青系統のクラブが既に多数([[横浜F・マリノス|横浜マリノス]]、[[横浜フリューゲルス]]、[[ガンバ大阪]])あったことから差別化を図ることや各クラブ間の色のバランスをとるために別の色を検討した結果、オレンジがメインとなった。なお、2013年の2ndユニフォームにクラブとして初めて青を採用している。 ** Jリーグ開幕以降、[[アルビレックス新潟|新潟]]および[[大宮アルディージャ|大宮]]が1999年にJ2リーグに加入するまで、Jリーグでオレンジをメインとするクラブは無かった。現在は[[レノファ山口FC|山口]]、[[愛媛FC|愛媛]]、[[AC長野パルセイロ|長野]]など、オレンジをチームカラーとするクラブは複数ある。 === デザイン === * 1992年クラブ発足時、既存のユニフォームとの差別化を図り[[安部兼章]]にデザインを依頼。「世界へはばたくクラブ」の思いから、世界地図を取り入れたユニフォームを採用し2006年まで継続された。2007年の[[プーマ]]の世界戦略モデルユニフォーム導入にともない一旦消滅したが、2012年から2016年シーズンの間採用された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/11/18/kiji/K20111118002056260.html 清水6年ぶり「地図柄」復活 クラブW杯出場見据え] - スポーツニッポン、2011.11.18</ref>。(2014年シーズンは背面にプリント) * 2013年シーズンの2ndユニフォームには、静岡の象徴でもあり、エスパルスのクラブハウスにほど近い「[[三保の松原]]」を含む「[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]」が[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産登録]]に登録された事を記念し、「富士山柄」を採用。 * タイトル獲得クラブだが、タイトル獲得を表す星をユニフォームに入れていない<ref group="注">他クラブでは[[FC東京]]が挙げられる。[[湘南ベルマーレ]]は2012年まで星を入れていなかった</ref>。 === スポンサー === {{Main2|スポンサーについては、[http://www.s-pulse.co.jp/other/sponsor/index スポンサー一覧] を}} === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double 4px 4px 4px #FF8709;" !掲出箇所!!スポンサー名!!表記!!掲出年!!備考 |- !胸 |[[鈴与]]||Suzuyo||2006年 - ||2003年途中 - 2004年は袖 |- !rowspan="2"|鎖骨 |[[タイカ]]||Taica||2018年8月 - <ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/40724/|title=株式会社タイカ オフィシャルクラブパートナー契約締結(増額)のお知らせ|publisher=公式サイト|date=2018-8-17|accessdate=2018-9-18}}</ref>||左側に表記<br/>2017年7月 - 2018年はパンツ |- |[[アイ・テック]]||ITEC||2018年4月 - <ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.s-pulse.co.jp/news/detail/39798/ |title=株式会社アイ・テック オフィシャルクラブパートナー契約締結(新規)のお知らせ|publisher=公式サイト|date=2018-4-20|accessdate=2018-5-14}}</ref>||右側に表記<br/>2018年4月 - 2021年は「ITEC <small>ITEC CORPORATION</small>」表記 |- !背中上部 |[[アイエイアイ]]||IAI||2016年 - || |- !背中下部 |[http://strust-inc.co.jp/ エス・トラスト]||S-TRUST||2018年 - || |- !袖 |[[日本航空]]||JAL||2006年 - 2010年<br/>2013年 - ||1992年 - 2005年は胸<br/>2011年 - 2012年はパンツ |- !パンツ前面 |タイカ||70<br/>{{small|Aniversary}}<br/>Cambodia-Japan||2021年 - ||2021年 - 2022年は「Cambodia {{small|Kingdom of Wonder}}」表記 |- !パンツ背面 |なし||-||-|| |} === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]]、カップ戦は[[プーマ]] * 1997年 - 現在:プーマ === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #004067; font-size:smaller; 4px 4px 4px #FF8709;" !colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_shimizu1992h|pattern_b=_shimizu1992h|pattern_ra=_shimizu1992h|pattern_sh=_shimizu1992h|pattern_so=_shimizu1992h |leftarm=ff8c00|body=ff8c00|rightarm=ff8c00|shorts=ff8c00|socks=ff8c00|title={{Center|1992}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_shimizu1993h|pattern_b=_shimizu1993h|pattern_ra=_shimizu1993h|pattern_sh=_shimizu1993h|pattern_so=_shimizu1993h |leftarm=ff8c00|body=ff8c00|rightarm=ff8c00|shorts=ff8c00|socks=ff8c00|title={{Center|1993 - 1996}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_shimizu1997h|pattern_b=_shimizu1997h|pattern_ra=_shimizu1997h|pattern_sh=_shimizu1997h|pattern_so=_shimizu1997h |leftarm=ff8c00|body=ff8c00|rightarm=ff8c00|shorts=ff8c00|socks=ff8c00|title={{Center|1997 - 1998}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_shimizu1999h|pattern_b=_shimizu1999h|pattern_ra=_shimizu1999h|pattern_sh=_shimizu1999h|pattern_so=_shimizu1999h 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font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー |- style="background-color:#FF8709; color:#004067; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面 |- |1992||rowspan="14"|[[日本航空|JAL]]||colspan="2" rowspan="26"|解禁前||rowspan="24"|[[江崎グリコ|glico]]||rowspan="24"|解禁前||rowspan="10"|[[豊年製油|HONEN]]||rowspan="13"|-||rowspan="28"|解禁前||[[プーマ|PUMA]] |- |1993||rowspan="4"|[[ミズノ|Mizuno]] / <br>[[プーマ|PUMA]] |- |1994 |- |1995 |- |1996 |- |1997||rowspan="27"|[[プーマ|PUMA]] |- |1998 |- |1999 |- |2000 |- |2001 |- |2002||[[豊年製油|豊年]] |- |2003||[[豊年製油|豊年]] / <br/>[[鈴与|Suzuyo]] |- |2004||[[鈴与|Suzuyo]] |- |2005||[[スター精密|star☆]]||rowspan="2"|[[サードプラネット|THE 3RD<br>PLANET]] |- |2006||rowspan="18"|[[鈴与|Suzuyo]]||rowspan="5"|[[日本航空|JAL]] |- |2007||[http://www.ooedoonsen.jp/sunpu/index.html CRS] |- |2008||rowspan="3"|[[山愛|SAN-AI]] |- |2009 |- |2010 |- |2011||rowspan="2"|[[アウトソーシング (企業)|アウト<br>ソーシング!]]||rowspan="2"|[[日本航空|JAL]] |- |2012 |- |2013||rowspan="11"|[[日本航空|JAL]]||- |- |2014||[[矢崎総業|YAZAKI]] |- |2015||- / <br/>[http://www.spdigital.net/ 星光社印刷] |- |2016||rowspan="8"|[[アイエイアイ|IAI]]||-||- |- |2017||- / <br/>[[R&Oリハビリ病院グループ|<small>生きる元気、リハビリで。</small><br>R&Oリハビリ病院グループ]]||- / <br/>[[タイカ|Taica]] |- |2018||- / <br/>[[タイカ|Taica]]||- / <br/>[[アイ・テック|ITEC<br><small>ITEC CORPORATION</small>]]||rowspan="6"|[http://strust-inc.co.jp/ S-TRUST]||[[タイカ|Taica]] |- |2019||rowspan="5"|[[タイカ|Taica]]||rowspan="3"|[[アイ・テック|ITEC<br><small>ITEC CORPORATION</small>]]||- |- |2020||colspan="2"|- |- |2021||rowspan="2"|[[タイカ|Cambodia<br/>{{smaller|Kingdom of Wonder}}]]||- |- |2022||rowspan="2"|[[アイ・テック|ITEC]]||[https://www.surugagiken.co.jp/ 駿河技建] |- |2023||[[タイカ|70<br/>{{small|Aniversary}}<br/>Cambodia-Japan]]||- |} ===JALによる広告掲出=== {{ページ番号|date=2013年4月|section=1}} 日本航空(JAL)による[[ユニフォーム広告|ユニフォームの胸部分への広告]]掲出(ゼッケンスポンサー)は他のクラブの先駆けとなるものであったが次のような逸話がある。 Jリーグ初年度参加の10クラブが発表された頃、日本航空宣伝部にいた欧州サッカー通の社員が次のようなことを考えた。 「欧州サッカーでは80年代からゼッケンスポンサーが始まった。日本で始まるプロサッカーの中に清水FCというクラブがある。他の9クラブは企業クラブだから胸に親企業の社名・商品名を入れるだろう。清水はどうするのか。ひょっとしたら空いているのかもしれない。空いているんだったら買いに行けば面白いんじゃないか…」 1991年5月、清水FC代表に了解を取り付け、クラブ側営業担当と面会した。クラブ側営業担当は当初は「売りもしないのに勝手に日本航空が買いに来た」と面食らったが、「こういう商売もあったのか」と興味を持ち、水面下で話は進んでいった。 しかし1991年9月19日、日刊スポーツ紙に「JAL 清水エスパルスを援助」と大見出しですっぱ抜かれてしまう。直属の上司からは「どこから漏れたのかはわからないが、漏れるような話じゃダメだな。あきらめろ」と撤退を勧告された。またこのスクープによって「ゼッケンスポンサー」という広告の魅力に気付いた大企業は各クラブとの交渉を開始。 「日本初のゼッケンスポンサー」を考えた日航の宣伝部員は「このままではアイディアを他企業に横取りされてしまう」とノイローゼになり、退社をも考えたが、清水側の営業担当の笑顔に励まされた。 実は日刊スポーツ紙のスクープ以来、清水エスパルスには日本航空以外の企業からの売り込みがあった。しかし清水側は最初にゼッケンスポンサーの話を持ちかけた日本航空とその担当者に敬意を表し、他企業からのゼッケンスポンサーの申し出を断り続けていた。 1992年2月、日航の宣伝部員は再度上司にB4判5枚にも上る企画書を提出。企画書には協賛主旨として企業利益の社会還元、継続的な露出などの他に「ライバル企業である全日空対策(初年度参加チームの[[横浜フリューゲルス|AS横浜フリューゲルス]]の親会社)としてJリーグにおける全日空のイメージ独占を阻止できる」「JAL対ANAとして注目を集める中、清水FCは全日空FCに勝てる可能性は非常に高いクラブ」「プロクラブ所有と比較して十分の一以下の費用」、更には移籍可能性のある選手としてスーパースター・カズや北澤の名前を勝手に盛り込んだ。 数々の障害をはねのけ、1992年5月16日、清水エスパルスは日本航空とのスポンサー契約を結んだ。 [[日本航空]]の機内ではエスパルスの勇姿がビデオに映し出され、[[機内誌]]には毎号選手紹介の特集ページが組まれ、空港には「頑張れ!エスパルス」のポスターが貼られ、各都市の繁華街にある「JALプラザ」ではJAL・エスパルスグッズが販売されるようになった<ref>田中孝一著 清水エスパルス Jリーグへの挑戦 第5章 情熱のゼッケンスポンサー「日本航空です。胸のスポンサードに興味があります」</ref>。 [[2010年]][[1月19日]]にJALが[[会社更生法]]を申請し、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続してスポンサードが行われてきた事に敬意を表し、それ以降はクラブ側がJALに対し無償で広告スペースを提供。 == アカデミー == === 清水エスパルスユース === {| class="wikitable" |- ! 年 !! [[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ|高円宮杯U-18リーグ]] !! [[Jリーグユース選手権大会]] !! [[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース選手権]] |- | 1993 || - || 予選敗退 || - |- | 1994 || - || 予選敗退|| - |- | 1995 || - || 予選敗退 || - |- | 1996 || - || ベスト8 || ベスト8 |- | 1997 || - || '''優勝''' || グループリーグ敗退 |- | 1998 || - || 3位 || グループリーグ敗退 |- | 1999 || 3位 || ベスト8 || 3位 |- | 2000 || - || 準優勝 || グループリーグ敗退 |- | 2001 || ベスト8 || 1回戦敗退 || 5位 |- | 2002 || 1回戦敗退 || ベスト8 || '''優勝''' |- | 2003 || ベスト8 || 3位 || 3位 |- | 2004 || 1ラウンド敗退 || 1回戦敗退 || - |- | 2005 || 6位 || '''優勝''' || グループリーグ敗退 |- | 2006 || 4位(東海) || 予選リーグ敗退 || グループリーグ敗退 |- | 2007 || - || 予選リーグ敗退 || - |- | 2008 || 準優勝(東海) || 決勝T 1回戦 || グループリーグ敗退 |- | 2009 || 6位(東海) || 予選敗退 || グループリーグ敗退 |- | 2010 || ベスト8位 || 決勝T 2回戦 || グループリーグ敗退 |- | 2011 || 3位(イースト) || 3位 || - |- | 2012 || 5位(イースト) || 決勝T 1回戦敗退 || - |- | 2013 || 2位(イースト) || 決勝T 2回戦敗退 || 3位 |- | 2014 || 2位(イースト) || 3位 || ラウンド16敗退 |- | 2015 || 6位(イースト) || 決勝T 2回戦敗退 || ラウンド16敗退 |- | 2016 || 6位(イースト) || || 準優勝 |- | 2017 || 2位(イースト) || || |- | 2018 || || || '''優勝''' |} === 清水エスパルスジュニアユース === {| class="wikitable" |- ! 年 !! [[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会|高円宮杯U-15リーグ]] !! [[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|クラブユース選手権]] !! [[JFAプレミアカップ]] |- | 1995 || 3位 || '''優勝''' || |- | 1996 || - || '''優勝''' || |- | 1997 || ベスト8 || '''優勝''' || |- | 1998 || '''優勝''' || 準優勝 || '''優勝''' |- | 1999 || || 準優勝 || 準優勝 |- | 2000 || '''優勝'''|| ベスト16 || 準優勝 |- | 2001 || - || ベスト16 || |- | 2002 || - || ベスト16 || 準優勝 |- | 2003 || 3位 || 3位 || |- | 2004 || - || - || |- | 2005 || 1ラウンド敗退 || 予選リーグ敗退 || |- | 2006 || ベスト8 || 準優勝 || 3位 |- | 2007 || 準々決勝敗退 || ベスト8 || |- | 2008 || 1ラウンド敗退 || グループリーグ敗退 || |- | 2009 || 1ラウンド敗退 || グループリーグ敗退 || 3位 |- | 2010 || 準々決勝敗退 || '''優勝''' || |- | 2011 || 準々決勝敗退 || '''優勝''' || 3位 |- | 2012 || ベスト16位 || 3位 || |- | 2013 || 1回戦敗退 || ベスト8 || |- | 2014 || 1回戦敗退 || 準優勝 || |- | 2015 || 2回戦敗退 || ラウンド16敗退 || |- | 2016 || '''優勝''' || '''優勝''' || '''優勝''' |- | 2017 || 準決勝敗退||3位 || '''優勝''' |- | 2018 |||||| '''優勝''' |} == 出資会社 == {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[鈴与|鈴与ホールディングス株式会社]] * [[静岡鉄道|静岡鉄道株式会社]] * [[静岡瓦斯|静岡瓦斯株式会社]] * [[静岡新聞|株式会社静岡新聞社]] * [[小糸製作所|株式会社小糸製作所]] {{Col-break}} * [[中部電力|中部電力株式会社]] * [[静岡ビルサービス|静岡ビルサービス株式会社]] * [[J-オイルミルズ|株式会社J-オイルミルズ]] * [[静岡朝日テレビ|株式会社静岡朝日テレビ]] * [[ヤマシタコーポレーション|株式会社ヤマシタコーポレーション]] {{Col-break}} * [[鈴与建設|鈴与建設株式会社]] * [[清水銀行|株式会社清水銀行]] * [[清水綜合リース|清水綜合リース株式会社]] * [[清水信用保証|清水信用保証株式会社]] {{Col-break}} * [[清水地域経済研究センター|株式会社清水地域経済研究センター]] {{Col-end}} == 関連施設 == === フットサル施設 === *[[エスパルスドリームフィールド]] (フットサル施設) **エスパルスドリームフィールド清水 **エスパルスドリームフィールド静岡 **エスパルスドリームフィールド富士 **エスパルスドリームフィールド藤枝 **エスパルスドリームフィールド駿東 === 店舗 === *S-PULSE STORE(旧 エスパルスドリームハウス清水) *S-PULSE STOREスタジアム店(ホームゲーム開催日のみ開店) == 決算 == 清水エスパルスの決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" |- !年度 !!リーグ !!{{abbr|収入|営業収入}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!事業費 !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|管理費|一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,077 ||1,150 ||469 ||270 ||1,188 ||style="background-color:wheat" |3,170 ||2,682 ||N.A. ||542 ||style="background-color:wheat" |-93 ||style="background-color:wheat" |-87 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||J1 ||style="background-color:wheat" |2,986 ||1,213 ||582 ||318 ||873 ||style="background-color:wheat" |2,978 ||2,443 ||1,139 ||535 ||style="background-color:wheat" |8 ||style="background-color:wheat" |11 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,180 ||1,317 ||577 ||338 ||948 ||style="background-color:wheat" |3,166 ||2,586 ||1,263 ||580 ||style="background-color:wheat" |14 ||style="background-color:wheat" |17 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,457 ||1,354 ||634 ||373 ||1,096 ||style="background-color:wheat" |3,451 ||2,907 ||1,484 ||544 ||style="background-color:wheat" |6 ||style="background-color:wheat" |2 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,514 ||1,226 ||665 ||299 ||1,324 ||style="background-color:wheat" |3,378 ||2,797 ||1,378 ||581 ||style="background-color:wheat" |136 ||style="background-color:wheat" |71 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,486 ||1,274 ||744 ||304 ||1,164 ||style="background-color:wheat" |3,567 ||2,984 ||1,498 ||583 ||style="background-color:wheat" |-81 ||style="background-color:wheat" |-80 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 * 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!リーグ !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,118 ||1,228 ||522 ||237 ||295 ||836 ||style="background-color:wheat" |3,191 ||1,376 ||192 ||195 ||127 ||0 ||1,301 ||style="background-color:wheat" |-73 ||style="background-color:wheat" |-77 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,449 ||1,223 ||623 ||237 ||315 ||1,051 ||style="background-color:wheat" |3,324 ||1,281 ||248 ||215 ||136 ||0 ||1,444 ||style="background-color:wheat" |124 ||style="background-color:wheat" |129 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,084 ||1,219 ||523 ||225 ||319 ||798 ||style="background-color:wheat" |3,140 ||1,251 ||208 ||228 ||197 ||0 ||1,256 ||style="background-color:wheat" |-56 ||style="background-color:wheat" |-40 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,248 ||1,534 ||539 ||222 ||316 ||637 ||style="background-color:wheat" |3,201 ||1,354 ||198 ||220 ||195 ||0 ||1,234 ||style="background-color:wheat" |47 ||style="background-color:wheat" |2 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||J1 ||style="background-color:wheat" |3,142 ||1,417 ||551 ||220 ||309 ||645 ||style="background-color:wheat" |3,460 ||1,526 ||213 ||250 ||225 ||0 ||1,246 ||style="background-color:wheat" |-318 ||style="background-color:wheat" |-310 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!リーグ !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!物販 !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!物販 !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||J2 ||style="background-color:wheat" |3,341 ||1,767 ||494 ||109 ||303 ||318 ||350 ||style="background-color:wheat" |3,332 ||1,473 ||177 ||210 ||227 ||0 ||226 ||1,019 ||style="background-color:wheat" |9 ||style="background-color:wheat" |37 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=3077, 2986, 3180, 3457, 3514, 3486, 3118, 3449, 3084, 3248, 3142, 3341 |y2=3170, 2978, 3166, 3451, 3378, 3567, 3191, 3324, 3140, 3201, 3460, 3332 |y3=, 1139, 1263, 1484, 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[https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=1167, 912, 1105, 1241, 1062, 962, 1093, 1098, 1041, 1015, 970, 905 |y2=463, 474, 491, 493, 564, 485, 407, 537, 496, 499, 189, 225 |showSymbols=yes }} === 不祥事 === 2018年8月3日、2011年からクラブの経理業務を一人で担当していた30代の男性経理担当社員が、チケット代金の売り上げの一部やスポンサーからの協賛金の一部を着服、また経費の架空請求も行い、2012年からの6年間で件数にして約500件、約6,700万円を不正に着服し高級車や高級腕時計、ブランド衣料の購入などにあてていたことが発覚したことを明らかにし、同社員は7月31日付で懲戒解雇、左伴社長は減俸30%3か月の処分とすることを発表、併せて当該元社員が反省し全額弁済を申し出ていることから刑事告訴は見送る方針であることも公表した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-08-03|url=https://hochi.news/amp/soccer/national/20180803-OHT1T50230.html|title=【清水】元社員、6700万円着服で懲戒解雇|work=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|accessdate=2018-08-03}}</ref>。 == その他 == 2007年、[[世界基督教統一神霊協会|統一教会]]の創始者である[[文鮮明]]が設立した財団法人「鮮文平和サッカー財団」([[郭錠煥]]理事長)の主催していた[[ピースカップ (サッカー)|ピースカップ]]に日本のチームとして初めて参加。これについては全国霊感商法対策弁護士連絡会(対策弁連)が抗議書を送付している<ref>{{Cite web|和書|title=統一協会主催「2007ピースカップ」に清水エスパルス出場 |url=http://www.christiantoday.co.jp/articles/1083/20070622/news.htm |website=クリスチャントゥデイ |access-date=2022-08-19 |language=ja}}</ref>。なおピースカップは2012年まで行われたが、日本のチームで参加したのは清水のみである。 2019年7月14日・15日に[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]で開催された「eJリーグ [[ウイニングイレブン 2019]]シーズン」において、決勝で[[FC東京]]を下し、初代王者となった。優勝した清水にはeJリーグ杯と優勝賞金500万円が贈呈された<ref>[https://www.jleague.jp/sp/news/article/14999/ Jリーグ公式サイト] 2019年7月15日 2019年7月21日閲覧。</ref>。清水は、優勝賞金の使用用途について「アカデミー活動の充実」と明かした<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-43469432-gekisaka-socc 「eJリーグ」賞金500万円獲得の清水、20日のFC東京戦に報告会を実施] 『ゲキサカ』2019年7月19日 2019年7月21日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} * 以下 清水エスパルス公式情報([http://www.s-pulse.co.jp S-PULSE OFFICIAL WEB SITE])より {{Reflist|group="公式"}} == 関連項目 == {{表2列| * [[清水エスパルスの選手一覧]] * [[静岡ダービー]] * [[富士山ダービー]] * [[ORANGE WAVE]] * [[エスパルスドリームフェリー]] * [[エスパルスドリームプラザ]] | * [[ISSO!S-PULSE]] ([[静岡エフエム放送|K-MIX]]で、エスパルスを応援するラジオ番組) * [[SBSビッグナイター]] ([[静岡放送|SBSラジオ]]で、ホームゲームの一部をラジオ中継) * [[LOCO!エスパルス]] ([[テレビ静岡]]で、エスパルスを応援するテレビ番組) * [[鈴木克馬]] (オフィシャルスタジアムDJ) * [[〈ハルチカ〉シリーズ|ハルチカ〜ハルタとチカは青春する〜]] (「パルチカ〜ハルタとチカはエスパルスを応援する〜」と題したコラボイベントを実施) }} == 外部リンク == {{Commonscat|Shimizu S-Pulse}} {{ウィキポータルリンク|サッカー|[[ファイル:Soccer.svg|34px|ウィキポータル サッカー]]}} * {{Official website}} * {{Facebook|ShimizuSpulseOfficial|清水エスパルス/SHIMIZU S-PULSE}} * {{Twitter|spulse_official|清水エスパルス公式}} * {{YouTube|user = OrangetvSPULSE|SHIMIZU S-PULSE CHANNEL}} * [https://www.at-s.com/sports/shizuoka/spulse/index.html 静岡新聞・清水エスパルス] * [https://ameblo.jp/s-pulse-officialblog/ 清水エスパルスオフィシャルブログ] * [https://www.s-pulse.co.jp/rebranding/03_index/ S-PULSEのリブランディングプロジェクト(ブランド、エンブレム再構築)] {{Navboxes|title =清水エスパルス 関連テンプレート|titlestyle=background-color:#FF8709; color:#004067; |list1= {{清水エスパルスのメンバー}} {{清水エスパルス歴代監督}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Jリーグオリジナル10}} {{Navboxes|title=獲得タイトル |list1= {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} }} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=エスパルス |1-1=清水区の企業 |1-2=1995年設立の企業 |1-3=清水エスパルス |}} {{デフォルトソート:しみすえすはるす}} [[Category:清水エスパルス|*]] [[Category:1991年設立のスポーツチーム]] [[Category:高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会出場チーム]] [[Category:Jリーグクラブ]]
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アメリカ同時多発テロ事件
アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん、英: September 11 attacks)は、2001年9月11日にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃。9.11事件(きゅういちいちじけん)と呼称される場合もある。 一連の攻撃で、日本人24人を含む2,977人が死亡、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドル(日本円換算114兆6595億円)のインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した。アメリカの歴史上、最も多くの消防士と法執行官が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった。また、この事件を契機としてアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が勃発し、世界規模での対テロ戦争が始まった。 2001年9月11日(火曜日)の朝、アメリカ合衆国北東部の空港から西海岸に向けて出発した旅客機計4機が、イスラム原理主義過激派アルカイダのメンバー計19人にハイジャックされた。 ワールドトレードセンターおよび周辺のインフラへの破壊は、ニューヨーク市の経済に深刻な打撃を与え、世界市場にも大きな影響を与えた。米国とカナダの民間空域は9月13日まで閉鎖され、ウォール街は9月17日まで閉鎖された。新たな攻撃への恐怖と警戒心から、多くの閉鎖、避難、キャンセルが続いた。 捜査の結果、アルカイダの指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンに疑いが向けられ、米国はテロから約1ヵ月後の2001年10月、有志連合諸国とともに軍事作戦を開始しアフガニスタンを攻略し、同国からのアルカイダの放逐と、テロの首謀者とみられるビン・ラーディンの身柄引き渡しに応じなかったタリバン政権を同年11月に事実上崩壊させた。ビン・ラーディンは当初、事件への自身の関与を否定していたが、2004年にテロ攻撃の責任が自らにあることを認めた。 アルカイダとビン・ラーディンは、アメリカのイスラエル支援、サウジアラビアへのアメリカ軍の駐留、幼児50万人が犠牲になったと言われるイラクに対する制裁などをテロの理由に挙げた。ビン・ラーディンはテロから10年近く捕捉を逃れ、パキスタン国境付近に潜伏していたが、テロから約10年後の2011年5月、アメリカ軍の急襲により殺害された。 ワールドトレードセンター跡地の清掃は2002年5月に完了し、ペンタゴンは1年以内に修復された。1 ワールドトレードセンターの建設は2006年11月に始まり、2014年11月にオープンした。ニューヨーク市の911メモリアル&ミュージアム、バージニア州アーリントン郡のペンタゴンメモリアル、ペンシルバニア州の墜落現場にある93便ナショナルメモリアルなど、多数の慰霊碑が建立された。 2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系の集団によってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室に侵入し、操縦士を殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨーク・マンハッタンへ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)をワシントンD.C.へ向かわせた。 なお、乗っ取られた4機のうち2機が米ボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。この2種類の機体は、運行する航空会社の操縦士に互換性を持たせるために、操縦室の操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。 また、実行犯のリーダー、モハメド・アタをはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国内にある民間の航空学校(ホフマン飛行機学校)で小型機の自家用操縦免許を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。 これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者もいる。なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。 ボストン発ロサンゼルス行きアメリカン航空11便(AA011; ボーイング767-200ER型機・機体記号N334AA)は、乗客81人(日本人1人を含む)・乗員11人を乗せ、午前8時00分頃にローガン国際空港を離陸し、ロサンゼルス国際空港に向かった。その後、11便は午前8時14分頃に始められたハイジャックにより、コックピットを乗っ取られた。11便は午前8時27分に進路を南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク・ロウアー・マンハッタンのワールドトレードセンター・ツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上した。角度、速度ともに浅い離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。 11便がWTC北棟に衝突する瞬間は、ニューヨーク市消防局Ladder Companyの取材をしていたフランスの映像作家、ノーデ兄弟(英語版)によって撮影されていた。また、ホームビデオや定点カメラに写り込んだ映像も存在する。 ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空175便(UA175; ボーイング767-200ER型機・機体記号N612UA)は、乗客56人・乗員9人を乗せ、午前8時14分にローガン国際空港を離陸し(アメリカン航空11便でのハイジャック発生とほぼ同時)、ロサンゼルス国際空港に向かった。午前8時42分頃、UA175便のパイロットは離陸直後に耳にした不審な内容の無線(ハイジャックされたアメリカン航空11便からの無線だった)について管制官に報告したが、それから午前8時46分までの間にUA175便もハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。その後、UA175便は午前8時58分にニューヨークへ進路を変え、午前9時03分にWTC・ツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上した。南棟では北棟の爆発を受けて多くの人が避難を開始していたため、人的被害は北棟よりも少ないが、先に突入を受けた北棟より早く南棟が崩壊している。 11便とは異なり、175便の突入時には、既に多くの人に事態が認識されていたことから、突入の瞬間の映像や写真が多数記録されている。なお、105階に居たエーオン副社長のケビン・コスグローブ(南棟の崩壊時に死亡)が、南棟が崩壊する瞬間まで911番へ電話で状況を伝えていた音声が録音されており、この録音はザカリアス・ムサウイの裁判において証拠として用いられた。 ワシントンD.C.(ダレス国際空港)発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757-200:機体記号N644AA)は、乗客58人・乗員6人を乗せて、午前8時20分に出発した。午前8時50分頃までにハイジャックされコックピットを乗っ取られた。直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、その後通信不能となった。 そして午前9時38分、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録されており、また付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって降下し激突する瞬間が目撃された。 防犯カメラなどの映像によると、機体は水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突していたが、高速で建築物に激突・炎上したため機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。 ニューアーク(ニューアーク空港)発サンフランシスコ(サンフランシスコ国際空港)行きユナイテッド航空93便(UA093; ボーイング757-200、機体記号N591UA)は、午前8時42分、乗客37人(日本人1人を含む)(乗客37人中4人はテロリスト)・乗員7人を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。 乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。オハイオ州クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂かホワイトハウスであったと推測されている。 午前9時57分、機内電話や携帯電話による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。午前10時03分、93便は490ノット (563マイル毎時 (906 km/h)) の速度でペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィル(ワシントンD.C. 北西240キロの場所)に墜落した。離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。なお、地震計のデータから墜落の時刻を午前10時06分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。 乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ・よし、皆かかれ)」を合図にしたと言われている。この「Let's Roll」は、9・11事件以降のアフガニスタンでの「報復戦争」において一種のスローガンとして用いられた。9・11事件の調査委員会は乗客は操縦室内に進入できなかったと結論づけているが、一部の遺族はCVR音声に乗客が操縦室に進入した証拠が記録されていると主張している。なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93』が2006年に公開された。 午前8時46分40秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便がワールドトレードセンター北棟 (1 WTC)の北面、93 – 99階の部分に衝突した。衝突によってハイジャック機のジェット燃料が引火したことで北棟の高層階では爆発的な火災が発生し、また燃料がエレベーターシャフトを通じて落下したことで地上ロビー等の低層のフロアでも爆発が起こった。 衝突から間もなく火災と黒煙は周辺階に広がり始め、8時52分には、過酷な状況に耐えかねて高層階から飛び降りる人々も現れた。この時点では、北棟への航空機の突入は(テロ攻撃ではなく)事故であるとの見方が大勢を占めていた。当時の大統領ジョージ・W・ブッシュも第一報を受けて「これはパイロットエラーによる事故だ」と発言した。 午前9時02分59秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟 (2 WTC) に突入し、南棟は爆発炎上した。ハイジャック機は機体を傾けながら南棟の南面、77 – 85階の部分に衝突しており、これによって南棟が負った構造的ダメージは北棟と比較してより深刻だった。2機目のジェット機が南棟に衝突した瞬間は既に多数の報道カメラが記録を始めており、一般者も含めた数多のカメラによって様々な角度から捉えられた。この時点で、一連の出来事が事故ではなく故意に起こされた攻撃であることが広く認識された。 午前9時37分、ハイジャックされた旅客機(アメリカン航空77便)がペンタゴンに突入した。9時42分、連邦航空局 (FAA) はアメリカ合衆国大陸部内のすべての民間航空機を離陸禁止とし、すでに飛行中の民間機にはただちに着陸するよう指示した。 午前9時59分、ユナイテッド航空175便の南棟突入から56分後、ワールドトレードセンター南棟が崩壊した。その直後の10時03分11秒、ハイジャックされたユナイテッド航空93便がペンシルベニア州で墜落した。10時28分、アメリカン航空11便の北棟突入から1時間42分後、南棟に続きワールドトレードセンター北棟が崩壊した。 ワールドトレードセンターのツインタワーは、航空機の衝突による大規模な構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱で構造部材(鉄骨柱・床トラス部材等)の強度が著しく低下したことで崩壊したと考えられている。アメリカ国立標準技術研究所の報告書によれば、火災によるダメージは(ジェット燃料ではなく)主にオフィス内の可燃物によるものであり、それらの可燃物が火災を増長しなければ、ツインタワーは崩壊を免れていた可能性がある。ツインタワーは、建設当時に世界最大のジェット旅客機であったボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、漏れ出したジェット燃料とそれによる大規模火災の影響は設計上考慮されていなかった。日本の鹿島建設は事件の翌年にWTC建物内部の損傷について独自のシミュレーションを実施し、崩壊が火災によるものであることを裏付けた。 北棟の崩壊時の瓦礫が隣接する7 ワールドトレードセンタービル (7 WTC) に降り注ぎ、7 ワールドトレードセンターは損傷、さらに火災が数時間にわたって発生し、ビルの構造的健全性は失われた。午後5時21分、7 ワールドトレードセンターは倒壊した。 7 WTC以外にも、ワールドトレードセンター・コンプレックスと周辺の多くのビルが壊滅的な被害を受けた。全壊した施設には聖ニコラス聖堂も含まれていた。1 WTC(北棟)、2 WTC(南棟)と同様に、3 WTC(マリオット・ワールドトレードセンター(英語版))と7 WTCは跡形もなく破壊された。4 WTC(英語版)、5 WTC、6 WTC(英語版)(合衆国税関ビル)、ウエスト・ストリートを渡る2つの横断歩道橋は激しく損壊した。リバティ・ストリートを隔てたドイツ銀行ビル(英語版)は部分的に損壊し、2007年に始まった解体作業で取り壊された。ウエスト・ストリートを隔てたワールドフィナンシャルセンターの2棟のビルもダメージを被った。ワールドトレードセンター・コンプレックスの地下にはPATHトレインのワールド・トレード・センター駅が位置していた。ツインタワーの崩壊時、この駅は完全に破壊され、この駅からハドソン川の下を通ってニュージャージー州ジャージーシティのエクスチェンジ・プレイス駅へ向かうトンネルも水没した。 北棟の崩壊により、北棟の屋上に設置されていた通信アンテナも破壊された。一時的に多くのTV局・ラジオ局の放送が断絶したが(WCBS-TVのみがエンパイアステートビルにバックアップ用の通信装置を持っていた)、それらの放送局はすぐに別ルートでの通信を確立し、放送を再開することができた。ワールドトレードセンターの敷地における火災は、テロ事件から100日後の12月20日にようやく鎮火した。この事件以降、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地は「グラウンド・ゼロ」や「ワールドトレードセンター・サイト(跡地)」とも呼ばれている。 ワールドトレードセンター (WTC) へのテロ攻撃による死者は合計で2,763人だった。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2,192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人となっていた。 WTCのツインタワーにおける民間人死者の90%以上は、ハイジャック機による衝突を受けた階以上のフロアで発生した。北棟ではハイジャック機の衝突時に数百人が即死したほか、直撃を受けた階以上のフロアに1,355人が閉じ込められ、煙の吸引・タワーからの落下・最終的なタワーの崩壊などの理由によってその全員が最終的に死亡した。北棟の3つの非常階段すべてがアメリカン航空11便の衝突の際に破壊されており、上層階から人々が脱出することは不可能だった。一方で、(北棟において)直撃を受けた階より下のフロアで死亡した民間人は107人とされている。 南棟で死亡した民間人は計630人であり、北棟の半分以下の数字だった。南棟では、北棟へのジェット機突入の直後から多くの人々が自主的に避難を開始していたため、死者の数は大幅に抑えられた。一方で、南棟へのハイジャック機の突入時には78階のスカイロビー(英語版)でエレベーターを待っていた数百人に及ぶ避難者の多くが死傷した。『USAトゥデイ』は、最初のジェット機突入後に南棟に居た全員を避難させることができなかったことを「事件当日に起きた大きな悲劇のひとつ」と評している。南棟では、ユナイテッド航空175便の衝突の後も非常階段のひとつ(A階段)が崩壊を免れており、このA階段を利用することで18人(直撃を受けた階から14人、それより上の階から4人)が生還した。 ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベータが停止し、多くの人が閉じ込められた。『USAトゥデイ』の推定では、最小で200人、最大で400人がツインタワーのエレベータに閉じ込められた状態で死亡したとされている。エレベータに閉じ込められたものの、そこから自力で脱出した生還者は21人のみだった。エレベータにおける死者は、ケーブルの破断によるエレベータ籠の急落下や、エレベータへの火炎の侵入によって死亡しており、それらを免れた者もタワーの崩落時に死亡した。 ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は最低でも200人と推定されている。そのほとんどが北棟で発生したものであり、南棟からの転落・飛び降りによる死者は12人に満たなかった。北棟から落下した人々の多くは、タワーに隣接する道路や広場(トービン・プラザ)および3 WTCビルの屋上にたたきつけられて死亡した。消防士の1人は落下してきた人の巻き添えとなり死亡した。 北棟の101 – 105階を占めていた投資銀行のキャンター・フィッツジェラルド(英語版)では、他の雇用主を大きく上回る658人もの従業員が犠牲となった。キャンター・フィッツジェラルドの直下、北棟の93 – 100階を占めていたマーシュ・アンド・マクレナンでは358人の従業員が犠牲となった。南棟のエーオンでは175人の従業員が犠牲となった。 アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) は、事件発生当時のワールドトレードセンター・コンプレックスには約1万7400人の民間人が存在したと推定している。港湾公社のターンスタイルによる記録では、午前8時45分には(通常は)1万4154人がツインタワー内に存在したことが示唆されている。ジェット機が直撃した階よりも下のフロアに居た人々は、その大半が安全にタワーから避難することができた。ツインタワー南棟の崩壊時、当時南棟に居た民間人、消防士ならびに警察官は全員死亡し、タワー周辺の道路やビルでも多数の死者が生じた。北棟の崩壊時には、12人の消防士、1人の警察官、および3人の民間人が崩壊を免れた非常階段に守られる形で生き残ったが、それ以外に生存者はいなかった。 炎上するワールドトレードセンター北棟・南棟から市民を救助するため、ニューヨーク市消防局は過去に例のない大規模な動員を行い、200以上(全体の約半数)の消防部隊がの現場に派遣された。また、多くの非番の消防士も自主的に救助活動に参加した。 ニューヨーク市警察は緊急出動部隊(ESU)を含む多数の警察官を救助のために動員したほか、航空隊のヘリコプター3機を現場に派遣したが、北棟・南棟からのヘリコプター救助は炎と煙による極端な悪条件により不可能と判断された。その他、港湾公社警察所属の警察官も多くが救助活動に参加した。 消防隊やヘリコプターは9時00分までに現場に到着し、救助を試みていた。 午前9時37分45秒、ハイジャックされたアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757)が、バージニア州アーリントン郡のアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に突入した。アメリカン77便はビルの西壁に衝突して爆発炎上し、AA077便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡、106人が重傷を負った。 AA077便の衝突と続いて発生した火災によってペンタゴンは激しく損傷し、ビルは部分的に倒壊した。ペンタゴンに突入する直前、旅客機の翼は地上の街灯をなぎ倒し、さらに発電機に接触した。77便はペンタゴン西側外壁の1階部分に激突したが、衝突の瞬間にボーイング757の胴体前部はバラバラになり、その後一瞬のうちに機体中央部と尾翼部が勢いを保ったまま外壁を突き抜けた。最も深くまで到達したのは尾翼部の破片であり、5層ある外壁のうち3層を突き破り、94 m内側まで貫通していた。その後10時10分には、衝突で損傷したビルの一部分が倒壊した。ビルの倒壊部分は最大で幅29 m、奥行き15 mにわたった。77便の衝突からビルの崩壊まで時間的猶予があったため、4 - 5階に居た職員は全員が安全に避難することができた。旅客機の突入時、ペンタゴンでは約1万8000人が働いていたが、この数字は1998年に始まった改修工事によって通常より4,000人ほど少なかった。 この直前に起きたワールドトレードセンター・ツインタワーへの他の飛行機の突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単にペンタゴンが爆発炎上したというだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言され報じられた。さらに激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIによって回収、捜査された。 テロ当日は北アメリカ航空宇宙防衛司令部(ノーラッド)の年に一度行われる訓練の日であり、東海岸から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっていたはずだった。しかし連邦航空保安局からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分ごろで、マサチューセッツ州のケープコッド南西部にあるオーティス空軍州兵基地 からF-15戦闘機2機がスクランブル発進したのは8時52分だった。 スクランブル発進したF-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時AA011便はすでにツインタワー北棟に突入した後だった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているという認識だったが、状況の把握が不十分で、パイロットも何を追跡しているか認識できていなかった。同機は一旦ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのはUA175便がツインタワー南棟に突入した後だった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能だったとされる(進路妨害は可能だったという指摘もある)。 ワシントンD.C.には、ノースカロライナ州上空で訓練していたF-16戦闘機3機が呼ばれたが、飛来したところで基地への着陸待機を命じられた。3機はアメリカン航空77便の追跡を命じられ再度離陸したが、もともと訓練中だったために燃料が不足し始め、うちの2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くに飛来したが、これらには攻撃用のサイドワインダーAAMが装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局AA077便(アメリカン航空77便)に合流することは無く、9時38分にペンタゴンへの攻撃の阻止には至らなかった。 オハイオ州上空を飛行していたユナイテッド航空93便の付近で、積荷の搬送を行っていたC-130輸送機が、管制官からUA093便を捕捉するように命じられた。C-130はUA093便墜落の際、17マイル (27 km)離れたところに位置していた。 ノーラッドから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分だった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もあるが、公式な発表にはない。さらに事故から約10分後に現場のはるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。ノーラッドは連邦航空局から93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近く93便の追跡を続けさせていた。 連邦航空局がアメリカ合衆国中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはワールドトレードセンターへの2度目の突入の直後からで、9時45分に全米の空港からの民間機の離陸が停止され、飛行中のすべての民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。民間機の飛行禁止は3日間にわたり、常に5,000機以上が飛んでいた航空機がアメリカ上空、そしてアメリカが管制を担当する空域から姿を消した。 本事件の発生当時、ジョージ・W・ブッシュ大統領はフロリダ州に滞在していた。当日は教育政策の成功をアピールする為に同州サラソータにあるエマ・E・ブッカー小学校の授業を視察し、午後にはワシントンD.C.に戻って共和党議員とのバーベキューが行われる予定だった。1機目のツインタワー攻撃の際には小学校へ向かう専用車の車中にいたが、このときは(多くのメディアが速報した様に)単なる航空事故だと考えていたとされる。ただし、一時的にホワイトハウスとの間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った。 授業視察中に2機目のツインタワー突入があり、数分後、ブッシュ大統領がアンドリュー・カード首席補佐官から2機目の突入と「合衆国が攻撃されている可能性がある」との報告を受けたが、ブッシュは「無駄な動揺を与えないために」との理由ですぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞き続けていた。朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を褒め、ただちに隣室で補佐官と話し、電話でコンドリーザ・ライス国家安全保障担当補佐官と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで「アメリカが攻撃を受けた」と小学生の前で国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から車列とともに出発、3マイル (5 km) のところにある空港へ向かった。 9時55分に、大統領専用機「VC-25」が目的地を決めないまま離陸、地上からの攻撃を避けるため直後に急上昇した。この時点では護衛の戦闘機は無かった。国内上空には未だに連絡の取れない旅客機が11機あったが、管制の指示で地上に降ろし、国内空域は大統領専用機と哨戒機だけになった。航空管制からは自由に飛行してもよいとの許可があり、機長が行き先を尋ねた際に大統領はワシントンを指示した。アンドリュー・カードは国民に声を伝えるべきと進言したが、当時専用機からは生の声明発表ができなかったため、一度ルイジアナ州バークスデール空軍基地に立ち寄り、国民に向けた声明発表を行った。ここでは有事の際に大統領が軍を指揮するために搭乗するE-4B ナイトウォッチも随行していたが、乗り換えはしなかった。その後、ネブラスカ州オファット空軍基地(英語版)(E-4B ナイトウォッチが所属する基地)で事態の沈静化を待ち、夕刻にメリーランド州アンドルーズ空軍基地(大統領専用機が所属する基地)経由でワシントンD.C.へ帰還した。専用機は通常、国内でのフライトでは戦闘機の護衛を受けないが、この日のオファット基地からアンドルーズ基地へのフライトでは、国内では初めてゼネラル・ダイナミクスF-16戦闘機の護衛を受けて飛行している。戦闘機は大統領専用機からパイロットの顔が判別できるほどの至近距離を飛行していた。 ホワイトハウスではリチャード・チェイニー副大統領らが執務を行っていたが、ツインタワーへの2度目の攻撃の直後、シークレットサービスにつれられて、地下6階の地下壕へ避難した。 ドナルド・ラムズフェルド国防長官は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。ラムズフェルド国防長官にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がペンタゴンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備がない。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていたため、彼女を抱えて避難し、担架に乗せ救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。 コリン・パウエル国務長官は、事件当時南米ペルーを実務訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いて、すぐに政府専用機でアメリカ合衆国に帰国した。 なおロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちにロシア連邦軍に迎撃体制を取らせることはない」とホットラインでブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはアメリカが大規模な動員をかけるとそれに反応するように指揮系統が準備されている為であった。 アメリカ同時多発テロ事件の首謀者は、イスラーム過激派テロ組織「アルカーイダ」の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンとされている。当初、ビン・ラーディンは事件への関与を否定していたが、2004年には一転して同時多発テロ事件への関与を公に認めた。 2001年9月16日、アルジャジーラ上でビン・ラーディンによるビデオ声明が放送された。声明の中でビン・ラーディンは、「私は攻撃を実行していないと強調する。攻撃は別の個人によって、彼自身の動機に基づいて実行されたように見える」と述べた。2001年11月、アメリカ軍はアフガニスタン東部のジャラーラーバードで1本のビデオテープを回収した。このテープにはビン・ラーディンと他のアルカイダ構成員との会話が記録されており、その中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを認めていた。 2004年のアメリカ大統領選挙の直前、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明を発表し、アルカイダが同時多発テロ事件に関与したことを公式に認め、自らが実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた。 2006年9月にアルジャジーラが入手したビデオテープには、ビン・ラーディンとラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)が、2人のハイジャック犯(ハムザ・アル=ガームディー(英語版)およびワイル・アル=シェフリ(英語版))と共に同時多発テロの準備をしている模様が記録されていた。ビン・ラーディンは、同時多発テロ事件に関してアメリカ政府当局から正式に起訴されたことはなかったが、ケニアの首都ナイロビとタンザニアの首都ダルエスサラームにおけるアメリカ大使館爆破事件に関する容疑でFBI10大最重要指名手配者に指定されていた。 2011年5月2日、10年間の追跡の末に、アメリカ軍特殊部隊はパキスタンのアボッターバードに潜伏していたビン・ラーディンを急襲の上で殺害した。なお、この時の映像は当時のオバマ大統領ら閣僚に生中継された。 ウサーマ・ビン・ラーディンが1996年に発表した対アメリカ宣戦布告と、1998年に発表したアメリカ国民の無差別な殺害を呼びかける布告は、ビン・ラーディンの動機を示す証拠として扱われている。ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、湾岸戦争が勃発した1990年8月以降アメリカ軍がサウジアラビアに駐留していることに強い怒りを抱いていた。 1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対するジハード(聖戦)を宣言すると共に、異教徒であるアメリカ人をアラビア半島から駆逐するよう全世界のムスリムに呼びかけた。1998年2月、ビン・ラーディンは第2の「ファトワー」を発し、アメリカ軍によるサウジアラビア駐留へ再度抗議すると共に、アメリカの親イスラエル的な外交政策を批判した。1998年の「ファトワー」はさらに、世界各地でアメリカおよびその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスクとメッカの聖なるモスクを解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言していた。 ビン・ラーディンは自らの直接的関与を認めた2004年の声明の中で、テロ攻撃を行った動機について以下のように述べた。 アルジャジーラ記者ヨスリ・フォウダ(英語版)の報告によれば、アルカイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドは2002年4月に、自らが同時多発テロを計画したことを認めた。モハメドは逮捕された後の2007年にも犯行を自供した。 アメリカ議会調査委員会による同時多発テロ事件の最終報告書は、モハメドを911テロの主たる企画者として紹介しており、彼のアメリカに対する敵意は「イスラエルに好意的なアメリカの外交政策との著しい意見の不一致」に起因すると結論づけた。モハメドは1993年の世界貿易センター爆破事件にも関与しており、主犯ラムジ・ユセフの叔父でもあった。モハメドは2003年3月1日にパキスタンのラーワルピンディーで逮捕された。 逮捕後、モハメドは複数のCIA秘密軍事施設とグアンタナモ湾収容キャンプに拘留され、尋問中にウォーターボーディングを含む拷問を受けた。2007年3月にグアンタナモ湾で行われた聴聞会において、モハメドは自らには「9月11日の作戦について初めから終わりまで全ての責任があった」と証言した上で、この証言は強要の下でなされたものではないと述べた。 バージニア州東部地区連邦地方裁判所(英語版)がザカリアス・ムサウイの裁判中に使用した資料であるSubstitution for the Testimony of Khalid Sheikh Mohammedは、同時多発テロ計画の全貌を事前に把握していたアルカイダ構成員として、ビン・ラーディン、モハメド、ビン・アル=シブ、ムハンマド・アーティフ、アブ・トゥラ・アル=ウルドゥニ(英語版)の5名を挙げている。 同時多発テロ事件において重要な役割を担ったテロリストの多くは、ドイツのハンブルクに拠点を置くイスラーム過激派集団(通称ハンブルク・セル(英語版))に所属していた。事件当日にハイジャック機のパイロット役を務めたモハメド・アタとマルワン・アル=シェヒ(英語版)およびズィアド・ジャッラーフ(英語版)に、調整役のラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)を加えた4人が「ハンブルク・セル」の中心的メンバーであり、彼らはアフガニスタン訪問時にアルカイダ指導部によってテロの実行者に任命されていた。 同時多発テロ計画の考案者はハリド・シェイク・モハメドであり、モハメドは1996年に初めて計画をウサーマ・ビン・ラーディンに提示した。当時、ビン・ラーディンとアルカイダはスーダンからアフガニスタンに拠点を移したばかりであり、一種の過渡期にあった。1998年にビン・ラーディンが発した、「アメリカ人の殺害はムスリムの義務である」とする自称「ファトワー」とされたものと、同じく1998年に発生したアメリカ大使館爆破事件は、ビン・ラーディンが攻撃の焦点をアメリカに定めたことを示す1つの転換点となった。 1998年末もしくは1999年の初め頃、ビン・ラーディンはモハメドが同時多発テロ計画の準備に着手することを承認した。1999年春には、モハメドとビン・ラーディン、およびビン・ラーディンの代理人ムハンマド・アーティフが参加する会合が立て続けに開かれた。アーティフは、ターゲットの選定やハイジャック犯のための渡航の手配など、テロ計画の作戦面での支援を提供した。モハメドの提案は一部ビン・ラーディンによって却下され、ロサンゼルスのライブラリータワーのようないくつかのターゲット候補は、「攻撃の準備をするのに必要な時間が不足している」ことを理由に拒否された。 ビン・ラーディンはテロ計画の統率と資金援助を担当し、計画を実行するテロリストの選抜にも関与した。当初、ビン・ラーディンはナワフ・アル=ハズミ(英語版)とハリド・アル=ミフダール(英語版)というボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った2人の熟練戦闘員をハイジャック機のパイロット役に任命していた。2000年1月中旬、アル=ハズミとアル=ミフダールはアメリカに到着し、2000年春にはサンディエゴで飛行訓練を受けたが、2人はほとんど英語を話せず、また訓練の成績も悪かったため、最終的にはパイロット役以外のハイジャック犯(武力による制圧要員)としてテロに参加することとなった。 1999年後半、モハメド・アタ、マルワン・アル=シェヒ(英語版)、ズィアド・ジャッラーフ(英語版)、ラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)らドイツ・ハンブルク在住のイスラーム過激派の一団が、アフガニスタンのアルカーイダ訓練キャンプを訪問した。ビン・ラーディンは、彼らが高い教育を受けており、また英語が堪能で欧米での生活に慣れていることを評価し、テロ計画の中核となる実行メンバーに抜擢した。その後、2000年にはアガニスタンの訓練キャンプにハニ・ハンジュール(英語版)という新兵が加入した。ハンジュールは1999年にアメリカで職業操縦士免許を取得しており、その事実を知ったアルカーイダは彼をテロ計画に参加させた。 ハンブルク在住のテロリストの内、アル=シェヒは2000年5月末に、アタは2000年6月3日に、ジャッラーフは2000年6月27日に、それぞれアメリカに到着した。ビン・アル=シブは渡米のためアメリカのビザを何度も申請したが、イエメン国籍であったため、有効期限を過ぎて不法滞在することへの懸念からビザが発給されなかった。ビン・アル=シブは渡米を諦めざるを得ず、ハンブルクに留まってアタとハリド・シェイク・モハメドの間の調整役を務めることとなった。アメリカに渡った3人の「ハンブルク・セル」メンバーはフロリダ州南部の航空学校で飛行訓練を受けた。一方、ハニ・ハンジュールは2000年12月8日にサンディエゴに到着し、アル=ハズミと合流した。2人はその後すぐにアリゾナ州に向かい、ハンジュールはそこで操縦の再訓練を受けた。 2001年春には、パイロット役以外のハイジャック犯もアメリカに到着し始めた。2001年7月、アタはスペインでビン・アル=シブと会い、攻撃目標の最終的な選択等、テロ計画の調整を行った。その際、ビン・アル=シブはアタに、ビン・ラーディンができるだけ早いテロ攻撃の実行を望んでいることを伝えた。9月7日には在日アメリカ大使館が「日本国内に滞在するアメリカ人に対してテロ攻撃の可能性がある」ことを発表していたが、アメリカ国内のテロ攻撃の警報は出されないままであった。 出典: ニューヨークやワシントンには世界中の報道機関が本社・支社・事務局を置いているため、一連の事件は、テレビ・ラジオ・インターネットなどを通じて全世界にリアルタイムで伝えられた。連日、新聞や週刊誌なども最大級の扱いで事件を伝えた。 当日およびその後のテレビ報道はインターネットアーカイブで保存公開されている 。1機目の激突は、数カ月前から地元消防署の日常を密着取材していたフランスのテレビ局から派遣されていたビデオジャーナリストのノーデ兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。2機目の旅客機が激突する瞬間は、上記のようにプロやアマチュアを含む多くのカメラマンに撮影されている。 1機目が突入したニューヨーク時間(アメリカ東部夏時間)8時46分はテレビ各局が朝のニュースショーなどの最中で、CNNは8時49分から、ABC・CBSなど他のテレビ局も8時50分前後から特別報道番組を開始、ロウアー・マンハッタン(WTC所在地)方面を向く情報カメラや報道ヘリコプターが建物の様子を伝え始めた。この時点では「小型機がビルに誤って衝突した事故」と報じるものが多かったが、中継の最中の9時3分、ツインタワー南棟にユナイテッド航空175便が突入した。2機目の突入以降、各テレビ局はテロの可能性が高いと論調を変えることになった。その後、9時30分にブッシュ大統領の演説が各局で中継される。 その後もツインタワーの炎上と崩壊、アメリカン航空77便のペンタゴン攻撃、93便の墜落(報道されたのは墜落してから30分以上たってからだった)など事態が続き、報道は週末の16日(日曜日)深夜まで休むことなく続いた。特にネットワーク3局の夕方ニュースのアンカーは最長で1日17時間にわたって伝え続けた。この週は新番組が始まる時期だったので、軒並み放送が順延され、内容変更を強いられた番組もあった。 また、国外向けの放送局であるCNBC(ヨーロッパ/アジア向け、本部はアメリカ国内)やCNNインターナショナルでも、本来あまり放送されない国内向けの放送を全編放送し続けた。 イギリスは昼過ぎであった。BBCにおいてはテレビ国際放送・BBCワールド(現・BBCワールドニュース)内で速報として13時前に炎上するワールドトレードセンターを映し出したのが第一報であった。午後1時からのニュース番組を始めた直後、2機目の突入の瞬間を生中継した。トニー・ブレア首相は14時30分ごろ、出席していたブライトンでの労働組合会議の場で「深い哀悼」の意を伝えた。 以下、日本における報道については日本時間を使用する。なお、日本時間は現地の時間(アメリカ東部夏時間 (UTC-4))より13時間進んでいる。当時の状況の主軸である世界貿易センタービルへの航空機衝突と崩壊の時刻を太字で示す。なお、日本ではワールドトレードセンター・ツインタワーの名称を「世界貿易センタービル」と報道した。 2001年9月11日は台風15号と台風16号が前日から関東地方と沖縄を襲って多くの被害をもたらしたほか、9月1日に発生した歌舞伎町ビル火災の原因究明、9月10日に国内で初めて狂牛病疑いのある牛が千葉県で発見されるなど、この日のニュース番組では重大ニュースが多数報道されていた。 22時前後、「ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が激突(1機目のアメリカン航空11便)」という情報が各局のニュース番組またはニュース速報 で一斉に伝達された。この時点では殆ど情報が集まっておらず、詳細な状況は不明であった。 テレビ朝日 (ANN) では、定時の21時54分より「ニュースステーション」の放送を開始した。冒頭からCNNの映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、1機目の激突により炎上する北棟の映像をしばらく流した後、台風関連のニュースを伝えていた。なお、この時メインキャスターの久米宏は夏季休養中であり、久米の進行はサブキャスターである渡辺真理が務めた。 22時開始の「NHKニュース10」(NHK総合テレビ)も、オープニング直後のヘッドラインは台風のニュースなどを流していた。しかし、ヘッドライン終了後キャスターの堀尾正明が「台風のニュースをまずお伝えしようと思ってたんですが、たった今こういうニュースが入ってきました」と切り出し、1機目激突の第一報を伝え、間もなくABCニュースの中継映像で炎上する世界貿易センタービルの姿が映し出された。 この時点ではまだ「事故」か「事件」かは明言されていなかった。報道機関は1機目衝突の瞬間を捉えておらず、消防士の取材をしていたカメラマンが撮影した1機目の映像も翌日まで放送されていなかった。ただ「ニュース10」に出演していたコメンテーターは、晴天時での不可思議な衝突という状況を理由として、2機目衝突前からテロの可能性を指摘していた。CNNでも同じような理由からテロの可能性が指摘されていたが、同時に、1945年7月28日にエンパイア・ステート・ビルディングにアメリカ陸軍のB-25爆撃機が衝突した事故を例に挙げ、操縦ミスによる突発的な事故である可能性も指摘していた(なお、この事故当時は深い霧が出ていた)。また、CNNなどでは「ボーイング737などの小型の双発ジェット機」が衝突したと伝えていたものの、英語の翻訳ミスからか、日本ではこの時点で「激突した航空機は小型の双発機」であるとの情報が報道されていた。しかし「小型」の根拠や「双発機」という語の解説がなされないなど情報が錯綜していた。 ABCニュースの中継映像をそのまま放送していた「NHKニュース10」では、2機目の突入の瞬間が生中継された。映像では画面右側から飛行機が現れ、炎上する北棟(第1ビル)の真後ろに隠れるように見えた。そこには南棟(第2ビル)があり、数秒の後、南棟を襲った巨大な爆発によって炎と黒煙が上がる様子が映し出された。画面を通して見れば、1機目の激突で炎上する北棟が2度目の大爆発を起こしたように見え、NHKニューヨーク支局の記者は単に「今、また爆発がありました」と伝えた。これに対して堀尾が「今、2機目の飛行機が突入したように見えましたが」と聞き返した。 「ニュースステーション」では台風関連のニュースを伝えていた間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生放映されなかったものの、すぐに再びテロ関連のニュースに切り替えられた。この時、コメンテーターの萩谷順が「先週末からアメリカの情報機関により『中東のテログループがアメリカの利益を代表する建物ないし組織に対してテロを行おうとしている』との警告が流されていました」と述べている。 22時20分頃、NHKは「旅客機がビルに激突したとみられる」と伝えた。22時30分、フロリダ州の小学校を訪れていたブッシュ大統領が演説で「明らかなテロ」と発言した。22時45分頃、「ペンタゴン(国防総省)が炎上」というニュースが各局で伝えられ、一連の事件が「同時多発テロ」であるとの見方が固まった。間もなく炎上するペンタゴンの映像が映し出され、爆発・火災の原因が3機目の旅客機の可能性があると伝えられた。旅客機がハイジャックされていたという内容の現地メディアの報道も日本国内に伝えられ始めた。 これらの各ニュース番組では放送予定だった他のニュースより優先して、ニューヨーク・ワシントンとの中継映像が放送され続けた。時間(事件の拡大)とともに民放各社も次々に通常番組を打ち切り、臨時ニュースの放送を開始した。TBS系列では22時37分、放送中の毎日放送制作「ジャングルTV ~タモリの法則~」を途中で打ち切り、「筑紫哲也 NEWS23」を前倒しで開始。フジテレビ系列では、関西テレビ制作のテレビドラマ「ウソコイ」最終回を放送していたが、番組の途中で「ニュースJAPAN」キャスターの田代尚子アナウンサーによるニュースを何度か流した後、ドラマ終了直前の22時45分から報道特番を開始した。独立UHF局においても、通常時はテレビ東京のニュースをネット受けしない三重テレビは、この日は「ワールドビジネスサテライト」を臨時ネットした。21時から「火曜サスペンス劇場」を放送中の日本テレビはCMと本編の間に「NNNきょうの出来事」キャスターの井田由美アナウンサーによる短いニュースを挟んだが、番組自体は休止しなかった(同局は次番組のきょうの出来事以降、本格的な特番体制に入る)。 NHKではワシントン支局と中継を結んでいる間にそれが起こり、途中で当時の支局長手嶋龍一の発言を遮るようにニューヨークに画面が切り替えられた。片方のビルが姿を消し、大量の煙に覆われたニューヨークと、 NHKのカメラが路上から撮影した南棟崩壊時の映像(この映像はNHKが世界で唯一デジタルハイビジョンカメラで撮影した映像である)が映し出された。これらの映像は二棟が重なるアングルであったため崩壊の程度が分かりにくく、当初は「ビルの一部が崩壊した」とも伝えられていた。また、ワシントンの各所で爆発が相次いだという誤報が流れ、画面に「アメリカで同時テロ」の字幕が映し出された。 この時もNHKはスタジオを映していて2つのビルの崩壊の瞬間はいずれも中継されなかった。しかし間もなく、巨大な超高層ビルが上部から完全に崩壊し、膨大な瓦礫と化してマンハッタン南部が煙で覆いつくされる衝撃的な映像が放送された。さらに23時40分頃には、4機目(ユナイテッド航空93便)がペンシルベニア州西部に墜落したというニュースが伝えられた。NHKアナウンサーの堀尾は次々と起こる惨劇を報道する中で「大変ショッキングな映像ですが、現実の映像です」と発言した。 日本のほぼ全てのメディアは、翌日の明け方までテロに関する情報を伝え続けた。 日本の放送メディアにおける海外の非常事態の終夜放送は、1991年1月17日に勃発した湾岸戦争(多国籍軍による空爆開始)以来であった。また駐日アメリカ軍向けに英語でラジオ放送を行うAFNも通常放送を中断してニュースを伝え続けると同時に、アメリカ軍の警戒態勢や行動上の注意を喚起する内容の放送を、ニュースの合間に繰り返し行っていた。 2001年9月12日6時25分、世界貿易センターの第7ビルが崩壊 8時30分ごろ、日本人大学生1人がユナイテッド航空93便に搭乗していたと報道された。9時30分からブッシュ大統領がホワイトハウスで行った演説が中継され、10時20分から小泉純一郎首相、福田康夫官房長官が首相官邸で記者会見を開始した。午後1時50分ごろ、1機目激突の瞬間を撮影したカメラマンの映像が放送された。こうしてこの日もほとんどテロ事件関連ニュース一色となった。夜のゴールデンタイム枠ではお笑い・バラエティ番組が休止され、特別番組が放送された(テレビ朝日では「ニュースステーション」を1時間前倒しして放送、TBSではナイター中継を通常時間より1時間短縮し、特別番組を放送)。 テレビでは、事件から1週間程度の期間は、通常番組を休止あるいは放送延期等を行い特別報道番組を放送する局もあった。また、ビルが破壊される描写や航空機が撃墜される描写のある映像の放映自粛を行うなど放送内容に影響が出た。新聞各紙も一面に大見出しで事件を伝えたほか、号外も発行された。事件が朝刊各版の締め切り間際に立て続けに起こったため、各新聞は配達先によって記事内容が一部異なっている。多くの週刊誌も特集を組むなどして大きく事件を伝えた。 当時、CNNインターナショナルを日本国内の衛星放送・ケーブルテレビ局向けに配信していたJCTVでは、この事件を受け、急遽通常は行っていない深夜帯の同時通訳を行った。後に当時の同時通訳陣の心境をまとめた短い記事を、同社CNN紹介ウェブサイト内に期間限定で掲載している。 「同時多発テロ」と呼ばれるように複数のテロが短時間に連続して発生した。当時の社会において、従来型の「テロ」や「犯罪」の概念を超越した規模だったため、時事刻々と変化する状況に対して報道機関の対応が追いつかず、情報が錯綜した状況が続いた。 当時はインターネットの回線速度が遅い上に、情報共有が可能なWebサイトが電子掲示板しか存在せず、カメラ付き携帯電話やSNSもまだアメリカでは普及していなかったため、一般人からのリアルタイムな情報共有にも期待できなかった。 事件当日から事件翌日の日本もしくはアメリカの各新聞・テレビ報道において確認された誤報の一部として、下表のようなものがあげられる。日本の新聞における誤報については訂正が締切時間に間に合わず、結果的に翌12日の朝刊のいくつかの掲載が誤報になった例も含まれている。 これらの状況はアメリカ合衆国などにおいても同様で、事件発生当初は激突した航空機も中型のジェット旅客機ではなく小型民間機(小型の単発もしくは双発プロペラ機など)と報道されていた。またユナイテッド航空93便がクリーブランド・ホプキンス国際空港に着陸したという内容の速報記事も報道されたが、後にデルタ航空1989便をUA093便と混同していたことが判明し、誤報として訂正された。この他にもBBCはテロ攻撃の直後にハイジャック犯とされる人物の情報を発表したが、その後その内の数人が存命中の別人であったことが判明すると情報を修正した。BBCは後に当時報告された氏名がアラブ人やイスラム教徒に多く見られるものであったため。初期での混乱が起きたのだろうと釈明している。また、これらの情報の混乱が根拠のない陰謀説や都市伝説が起きるきっかけになった。 テレビでは事件発生直後から、さまざまな場所・方向から記録された映像が放送された。特に旅客機がワールドトレードセンターなどの被害を受けた建物に突入する瞬間や、ツインタワーの上層階から飛び降りる人、ツインタワーが崩れ落ちる衝撃的瞬間をとらえた映像は1週間近くにわたり何十回、何百回となく繰り返された。しかしこれは数千人が殺害された瞬間にほかならず、遺族や関係者、さらには子供にショックやトラウマを与える可能性が懸念され、次第に自粛を要請する声が上がった。やがてニュースでこの事件の映像が放送されるときも、こうした「衝撃映像」は少なくなった。 事件後の新聞各紙や週刊誌などには、ビルが炎上・崩壊する写真のみならず、血まみれでうずくまる市民や炎上しているツインタワーの上層階から飛び降りる人の写真などが大きく掲載された。アメリカ合衆国では後者の写真をめぐって論争が起こった。アメリカ国民の大多数が信仰するキリスト教は自殺を禁じているからである。2006年にイギリスで製作されたドキュメンタリー「The Falling Man」は、この論争を取り扱ったものである。 一連の事件を記録した写真や映像は、各マスコミのみならずマグナム・フォトのようなプロフォトグラファー、あるいは事件を目撃し撮影した市民によって大量に残された。マグナムは「NEW YORK SEPTEMBER 11」と題して写真集を発売した(日本版あり)。ニューヨークでは事件後に写真展覧会が行われ、それらの写真はインターネットで公開されたほか、「HERE IS NEW YORK」と題した写真集として発売されている。 2006年に公開されたユナイテッド航空93便を描いた映画「ユナイテッド93」や、「ワールド・トレード・センター (映画)」でも、事件を伝える当時のテレビ局の映像が使われている。なお「ユナイテッド93」では当時の様子を極力再現するため、情報伝達の混乱や誤りなどがそのまま伝えられている。 この無差別テロ事件における死者は合計2,996人、負傷者は6,000人以上とされている。テロリストを除いた犠牲者は2,977人であり、ワールドトレードセンターへの攻撃による犠牲者は2,753人、アメリカ国防省(ペンタゴン)への衝突による犠牲者は184人、ユナイテッド航空93便の墜落による犠牲者は40人だった。 ワールドトレードセンターの現場での犠牲者2,753人には、ニューヨーク市消防局の消防士343人と、71人の警察官(ニューヨーク市警察本部の警察官23人、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社警察の警察官37人を含む)が含まれている。 2,996人の死者の内訳は、ハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が265人(テロリストを含む)、ワールドトレードセンターでの死亡者が2,606人、アメリカ国防省での死亡者が125人とされている。 このテロ攻撃では270人から400人のユダヤ人が犠牲になったと推定されている。またこれに関連してアメリカ合衆国国務省は76人分のユダヤ人犠牲者のリストの一部を公開した。 2017年8月の時点でも、犠牲者全体の40%にあたる1,112人の遺体がいまだ未確認の状態だった。多くの遺体がばらばらになって散乱しており、2006年には南棟に隣接するドイツ銀行ビル(英語版)の屋上で無数の遺骨の破片が発見された。 なお、日本人の犠牲者は24人に及んだ。 現場はワールドトレードセンターの鉄骨に吹き付けられていた石綿(アスベスト)やツインタワー内にあったコンピュータや蛍光灯からの水銀、ベンゼンをはじめとする火災により発生した多環芳香族炭化水素化合物等の危険な粉塵も含まれており、救難活動を行った犬が次々に死に、肺に障害を訴える人が続出していた。しかし、アメリカ政府はそれを否定し、十分なデータの裏付けもないのにEPAも「空気は安全」と報知したことから、安全よりもニューヨークの復旧作業といち早いウォールストリートの営業の再開を優先したのではないかという疑惑も挙がっている。これに対して、EPA監査局はホワイトハウスの環境諮問委員会からの圧力で安全宣言の発表に至ったという報告書を2008年8月に発表している。これによると、EPAの安全宣言はアスベストの含有量の数値など実際のサンプルがあったにもかかわらず、曖昧な表現に書き換えられた形跡もあるという。 現場で救助作業などにあたった人では、安全宣言により防塵マスクを付けなかったため、健康被害が拡大された可能性も指摘されている。このような作業員や消防士、住人を含めテロ発生時またはその直後に現場近辺にいた人では、肺疾患や白血病、癌などの発生が報告されており、医療機関などにより粉塵被害との因果関係が追跡調査されている。特に消防士では、精巣癌や非ホジキンリンパ腫、前立腺癌、多発性骨髄腫になるリスクが有意に高いとする論文も発表されている。約3000人の作業員に対する追跡調査では、28%の人で肺機能に何らかの異常が認められている。 ニューヨーク市警察(NYPD)など法執行機関においても、多数の警察官がテロ事件に関連した疾病(9/11 related illness)で死亡している。2016年8月までの警察官及び法執行官の死者数は110人。内訳以下の通り。 2011年1月、健康被害を受けた消防士や警察官らに医療費補償など約42億ドルを支給する法案が成立した。 ブッシュ大統領は速やかに非常事態を宣言した。冷戦時代につくられた政府存続計画が初めて実行された。ワールドトレードセンター・ツインタワーやペンタゴンへの攻撃がなされた後しばらくの間は、さらなるテロに備えて、州兵、予備役が動員された。空港などには厳戒態勢が敷かれ、全ての国境が封鎖された。また、連邦航空局の命令によりアメリカ国内の民間航空路の封鎖、アメリカ領空内への民間機の入域・通過が禁止され、領空内を飛行中の民間機は全て最寄の空港に強制的に着陸させられた。 これらの措置は数日間続いた上、この措置が行われた地域はアメリカ本土のみならず、アメリカが航空管制を担当しているサイパンやパラオなどの太平洋諸国の一部地域や、北大西洋の一部地域など広範囲に及んだ。これにより多くの外国人がアメリカ国内に足止めされた上に、多くの旅客機と乗客、運航乗務員と客室乗務員が地上待機させられたため、世界各国の航空会社の運行が大混乱に陥った。 この事件においては、ハイジャック犯の機器操作ミス(犯人側は乗客に向けて、機内放送をするつもりだったと見られるが、機内放送用のスイッチではなく、管制塔とのやり取り用の無線スイッチを押していた)によって操縦室内の会話が管制室に入るようになり、アラビア語を話していることから、おそらくはアラブ人が犯人であることが早期に推測できた。 また、客室乗務員は機内電話を使用して会社へハイジャックを報告し、犯人の特徴、人数と座席番号を伝えた。このため、航空会社は犯人の氏名、住所、電話番号からクレジットカードの使用履歴までを把握することが可能となった。また、数名の乗客も手持ちの携帯電話や機内電話で家族や友人にハイジャックの事実を伝えた。これらの電話の会話はほとんどが機体の破壊の時まで続いた。この内いくつかの会話は録音されており、事件捜査に使用された。 アメリカ合衆国政府はこれらの捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人のウサーマ・ビン・ラーディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」によって計画・実行されたと断定し、彼らが潜伏するアフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。 しかしターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。しかし、今の段階ではアルカーイダのやったこととは断定できない」と主張し、引き渡しを拒否したが、アルカーイダの司令官のビン=ラーディンは、後にアメリカ同時多発テロ事件を実行したことを認め逃亡し、2011年5月1日に殺害された。 なお、サウジアラビアなど湾岸協力会議を構成するアラブ諸国もテロ攻撃を批判し、アメリカによるアフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。 喪失感が充溢する中でアメリカ国民は、求心力を愛国的な意識を共有することに求め、速やかな報復を肯定する世論が形成されていった。具体的な物的証拠が挙げられないうちから、CNNなどのアメリカ合衆国の大手マスコミなどにおいても、イスラム原理主義を信奉するアラブ系人種によるテロ説が唱えられ(同じような事は、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の際にも発生した)、流言に乗った市民によるアラブ系住民への暴行事件が多発、アラブ系男性が射殺される惨事にまで発展した。また、ヨルダン系アメリカ人アメリカ兵がテロ後に受けた差別がきっかけにより、8年後の2009年11月5日に陸軍少佐がフォートフッド陸軍基地で銃乱射事件を起こしている。 これに対し、アラブ系アメリカ人には「Arabic Americans support U.S.(アラブ系アメリカ人は合衆国を支持する)」などと書いた横断幕を自家用車に掲げ、アメリカ合衆国の味方であることを示した者もいた。事件発生直後のテレビ報道の中で、中東系の人々が勝ち誇ったように興奮する映像が流されるなど(本テロ攻撃との関係は全く不明)、いわゆる国家的陰謀論に結びつくような偏った報道が事件直後から行われていたとする説もある。 (大統領時代にはビン・ラーディンを脅威と考えていた)前大統領であるビル・クリントンは、「同時多発テロ事件を見て、それが直ちにビン・ラーディンによるものだろうと考えた」と後に述べており、方法はともかくとしても、アメリカ合衆国に対するイスラム原理主義勢力によるテロ攻撃の可能性は以前から意識されていたものである。 炎上するワールドトレードセンター・ツインタワーに取り残された人々を救出すべく命がけでビルに突入し、ツインタワー両棟の崩壊で殉職した消防隊員や警察官に対してその勇気と献身的態度を賞賛する声がアメリカ合衆国のみならず世界中から寄せられ、その遺族に対する募金や手紙も世界各国から寄せられた。同じような賞賛は有毒物質が散乱する事件現場で遺体や遺留品の捜索を行った作業員たちにも同様に寄せられた。 テロ直後、ニューヨークの消防隊員から日本の公安職員で構成するNGO日本警察消防スポーツ連盟宛てにSOSが発信され、同連盟から消防救助隊員11人を現地入りさせて救助活動を実施した。世界中から多数の救助隊がテロ現場に向かいアメリカ入りしたが、アメリカ国籍以外の外国人で実際に救助活動したのは、唯一日本の救助隊のみであった。 事件直前、ジョージ・W・ブッシュ大統領の支持率は50%を切っていた。そもそも、前年の大統領選挙は僅差での勝利であるために、また大統領選における大規模な混乱は選挙の正当性への議論を招いたことから、選挙直後から政権支持率は高くなかった。大統領就任後の初めての大きな事件としてその指導力が国民の注目を浴びることとなり、それがテロとの戦争として位置づけられたことから、事件直後には国民の支持率は史上最高の9割に到達、いみじくも政権最初の年から国民の支持を得た形となった。 テロ以降、ニューヨークでは数々のイベントが、市民感情およびセキュリティ上から中止となり、また週末に予定されていたNFLのレギュラーシーズンも中止が決定された。 しかし、2日後にWWEがヒューストンにて興行を決行すると、ブロードウェイのミュージカルやメジャーリーグをはじめとする多くのイベントは、再度のテロを警戒する警察官の警護の元に程なくして再開し、「テロにひるまず通常の生活を続ける」という意思表示を行うとともに、打ちひしがれたアメリカ合衆国国民の心を慰めた。 これを受け、全米1200もの系列局を傘下に持つラジオ放送大手のクリアチャンネル (Clear Channel Communications) は、事件直後に放送自粛曲リストを作成した。リストには以下のような著名なアーティストの楽曲が多数含まれ物議を醸した。 映画関連ではアメリカ国内や同盟国では、ニューヨークを舞台にしたりテロをモチーフにした映画は「被害者に不謹慎」として公開を延長、または自粛する作品が相次いだ。日本でも2001年9月14日の「金曜ロードショー」(日本テレビ)で、ニューヨークにおける爆破シーンがある『ダイ・ハード3』が放送予定だったが自粛され、その他の映画も自粛された。9月23日の「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)にて「Xファイル ザ・ムービー」を放送する際には、ビル爆破シーンを全てカットしている。2002年2月に「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)でテレビ放送されたホーム・アローン2ではニューヨーク市内観光を楽しむシーンが全てカットされた(詳細はホーム・アローン2を参照)。 テロ攻撃の後、アメリカ人の多くがテロを警戒して民間航空機による移動を避けて自家用車による移動を選択したために、同年の10月から12月までのアメリカ合衆国における自動車事故による死者の数は前年比で約1,000人増加した。 また、アムトラックやグレイハウンドなどの民間航空機以外の公共中長距離交通機関や、レンタカーの利用者も急増した。これによりグレイハウンドなどは臨時増便を行うなどして収益が改善したものの、空席が増えた航空会社の収益は悪化する結果となった。 同時多発テロの後、アメリカではイスラム教への敵意が広まり、ムスリム(男性なら頭にターバンを巻き髭を生やした人、女性ならばヒジャブを被り顔だけ出している人)に対するヘイトクライムの数が急増した。 イスラム寺院やイスラム教の学校、中東系のコミュニティセンターには電話や手紙による脅迫が相次ぎ、落書き、石や火炎瓶の投擲、銃撃、豚の血を入れた箱をモスクの入り口に置いておくという悪質な嫌がらせが起きた。道を歩いていても罵声を浴びたり、アラブ系経営者の店舗、特にガソリンスタンドは危険なため、閉鎖せざるをえない状況になった。ムスリムは1日5回の祈りをするが、その祈りの中心であるモスクも暴動を恐れて閉鎖された。大学キャンパスでは中東系の学生が卵を投げつけられたり、職場では突然解雇されたり、数々の嫌がらせが広がった。アラブ系には全員身分証明書携帯を義務づける案に対して賛成者が49%、アラブ系の強制送還を求めようという案には58%ものアメリカ人が賛成する結果が出た。 アメリカ人が持つイスラム教への敵意は長らく続いた。8年前の1993年にアメリカ・イスラム評議会が行なった世論調査によるとアメリカ国内で最も嫌われている宗教はイスラム教徒というデータが出ており、2010年9月11日には、牧師テリー・ジョーンズの主催により、「国際コーラン焼却日」と称するコーランを燃やすイベントが開かれようとした。しかし、世界中のイスラム教徒から抗議が殺到して中止に追い込まれた。 このテロに対する国際的な反発は大きかった。国際連合は安全保障理事会で9月12日にテロの脅威に対して「あらゆる手段を用いて闘う」とした国際連合安全保障理事会決議1368、この日に行われた第56回国際連合総会でもアメリカ政府と市民に哀悼と連帯を表してワシントン及びペンシルベニア、そして国連本部を置くニューヨークへのテロ攻撃を非難する決議A/RES/56/1を当時の全加盟国189カ国が満場一致で採択し、9月28日には史上初の国際立法 とされる国際連合安全保障理事会決議1373(英語版)で「全ての国」にテロ対策とその報告を義務付けた。11月10日にはルドルフ・ジュリアーニがニューヨーク市長としては初の国連演説を行ってテロとの戦いを呼びかけ、ブッシュ大統領も国連総会での初めての演説でこれらの世界の支持に感謝してテロとの戦いを宣言、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377(英語版)ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とされ、世界各国でテロ対策が進んだ。 11日にブッシュ大統領は、イギリスのブレア首相、フランスのシラク大統領、ロシアのプーチン大統領、中華人民共和国の江沢民国家主席ら4人の常任理事国首脳と電話会談し、テロ対策で共闘を合意した。同年4月に南シナ海でおきた海南島事件で米中は緊張関係にあったが、テロ後の初外遊 で同年10月に訪中したブッシュと協調する中華人民共和国は上海APECの議長国としてロシアや日本など各国首脳とテロとの戦いを呼びかける共同声明をまとめた。また、北大西洋条約機構 (NATO)・欧州連合 (EU)・東南アジア諸国連合 (ASEAN)・アフリカ統一機構・アラブ連盟、イスラム諸国会議機構 などのような機関もブッシュ大統領のテロとの戦いの呼びかけに応じた。米州機構は米州相互援助条約に基づいてテロは米州全体への攻撃とし、NATOとオーストラリアはテロは北大西洋条約第5条と太平洋安全保障条約第4条に当たるとして自衛権を発動した。 また、アメリカの同盟国や先進国と大国だけではなく、インドなどアジアの非同盟諸国もアメリカ合衆国を支持し、さらに1980年代にパンアメリカン航空機に対するテロを支援した過去のあるリビアや、ターリバーンの公然たる後援者であったサウジアラビアとパキスタン、イランアメリカ大使館人質事件以来アメリカとは犬猿の仲であるイラン、北朝鮮のような反米とされる国々でさえ犯人グループを非難し、アメリカ合衆国に対する支援に同意した(但し、アメリカ合衆国はこの後、後述するようにアフガニスタン、イラクに侵攻するが、これが中東の反米感情を刺激したことを原因として2007年にはイランがイラク国内の過激派に武器を供与している疑いがあると報道された)。 2006年11月14日に、反米的なウゴ・チャベス大統領率いるベネズエラの国会は、アメリカ合衆国大統領に呼びかける決議案を満場一致で採択した。メキシコ国境における壁の建設を激しく攻撃し、第4章で、「イスラム・テロとの戦争」の根拠となった2001年9月11日の事件について「ブッシュ政権が、ワールドトレードセンター・ツインタワーとその犠牲者に対する自爆テロに関し、またペンタゴンに激突したとされる航空機についての明確な釈明、およびビンラディンとブッシュ家との関係を提示するよう強く」 要求している。 オバマ政権は2016年7月、米捜査官のダナ・レゼマンとマイケル・ジェイコブソンがまとめた「ファイル17」と呼ばれる文書を公開したが、その中には、サウジアラビアとハイジャック犯を結びつける ワシントンD.C.のサウジアラビア大使館付属のサウジアラビア諜報員の疑いがある人物 を含む、3ダースの人物を名指しで挙げたリストが含まれていた。 ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻を行い、さらに2002年に国際テロ組織とならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これを元に、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。 この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、日本・イギリス・フィリピン・スペイン・イタリアなどのアメリカ合衆国同調国と、フランス・ドイツ・ロシア・中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。 その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。 なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、民主党議員のバーバラ・リーただ1人だけだった。 またブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁政治が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。 さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監、自白を取る為の拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、警察国家化傾向が国内の一部市民団体から批判されている。 ワールドトレードセンター・コンプレックスの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たなオフィスビル・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた建築設計競技の結果、アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンドの案が採用された。 2004年7月、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。敷地内にはツインタワー北棟・南棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に1 ワールドトレードセンターに名称変更)と名づけられ、アメリカの独立した1776年にちなんで、1,776フィート (541 m)の高さとなる。2014年11月3日開業。周囲にはタワー4・タワー7が建設済み、タワー2・タワー3・タワー5が建つ予定。 一方、崩落したワールドトレードセンター・コンプレックスの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。遺体はDNAすら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。しかし、2005年3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。鉄骨類は屑鉄として再利用のためインドへと輸出された。 2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2022年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。 しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。それは2009年12月25日のノースウェスト機テロ、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。 ブラウン大学が2021年6月に発表した調査によると、9・11以降、アメリカはアフガニスタンやイラクへの軍事作戦を展開し、この一連の軍事行動(2001年から2021年の20年間)で、戦死した米兵は7,057人であるのに対し、戦地から帰国した後にPTSDなどを発症して自殺した元米兵は、4倍以上の3万177人にのぼることが分かった。 アメリカ同時多発テロは、アメリカ合衆国の政治、そして冷戦後の国際社会の大きな転換点となった。アメリカ同時多発テロ事件が勃発する前には、20世紀の「アメリカ合衆国国民の記憶に残る日」は、1963年11月22日のジョン・F・ケネディ暗殺事件、あるいは1941年12月7日の大日本帝国海軍による真珠湾攻撃であった。これらに代わってアメリカ国民は、この2001年9月11日をテロの脅威と共に永遠に記憶にとどめることになった。 アメリカ同時多発テロは、「外国がアメリカ本土を襲撃した事件」として、「真珠湾攻撃」と度々対比されている。真珠湾攻撃は日本の正規軍が軍事行動としてアメリカ本土ではなくハワイのアメリカ軍基地を攻撃したケースであったが、アメリカ同時多発テロはアメリカ本土が襲撃された事件という意味でも衝撃的な大事件ともなった(なお1942年には日本海軍機がアメリカ本土を数回爆撃している)。しかも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件は干支が同じ辛巳であり、「60年後の真珠湾攻撃」とも呼ばれた。2001年12月に開かれた真珠湾攻撃60周年のイベントでも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件が一緒に言及された。 アメリカ合衆国国内の世論は急速に先鋭化・超国家主義化したと言われ、ネオコン(新保守主義)勢力が政治の世界で隆盛し、影響力を増大させた引き金ともなった。その後、アメリカ合衆国によるテロ支援国家への攻撃には国民の大半が賛同した。議会でも野党民主党が共和党のタカ派路線を容認する動きが目立った。事件直後、ブッシュ政権がアメリカ同時多発テロ事件へのイラクの関与をほのめかし、過剰なマスコミ報道によりそれが増幅された為に国民の間にイラクとサッダーム・フセインに対する敵意が増大し、2年後のイラク戦争の呼び水となったと言われる。その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与が否定され、ブッシュ大統領自身もそれを認めたにもかかわらず、2005年3月の世論調査では、米国民の約60%が「イラクはアルカーイダを支援していたと思う」と答えている。 一方、他の国ではアメリカ合衆国の方針に対して世論が二つに割れた。親米的な意見(アメリカ合衆国の主張)としては、これを基に世界中の独裁国家の自由民主化を進めるべきだという意見などがある。特にブッシュ大統領が悪の枢軸としたイラク・イラン・北朝鮮などで非自由民主的体制が猛威を振るっているとされる状況で、これを解決するべきだとの声もある。その後のアメリカ合衆国の対応を見ると、イラクやイランに対しては攻撃的な姿勢であるものの、表向き寧辺核施設無力化を受け入れた北朝鮮、大量破壊兵器を放棄したリビア、同盟国のサウジアラビアに対しては穏和な姿勢を持つなど、二重基準と批判する対応が目立つ。 反米反戦的な意見としては、「自由の国アメリカ」のシステムを国外に普及させることを使命とするネオコン勢力の拡大は、政府の好戦的姿勢に反対する意見を言えない雰囲気を作り出しているとする声もあり、リバタリアニズムなど反ネオコン陣営からの反発も高まっている上に、アメリカ合衆国国内でさえ破綻しかけているアメリカ合衆国的価値観・システムの押し売りであるという反発が多い。 このテロ事件を動機にして、アメリカ合衆国は国連協調を投げ棄てて一国独走主義の時代になったり、冷戦時代の米ソ対立の構図の残滓も消え、世界の軸は無類の超大国一国によって動かされる(ジョン・ボルトンの国連軽視発言)時代になったとする意見もあり、これを「アメリカ帝国」と表現するアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートのような思想家などもいる。 軍事面では、戦争をこれまでの「国家vs国家」から、「民間軍事組織vs国家」の構図として描く傾向が濃厚になった。 事件後のアフガニスタン攻撃に伴う対アフガニスタン人道援助・資金援助は、アフガニスタンとの国交を唯一保ったパキスタンが窓口となった。アフガニスタン向け援助は、その10-80%がアフガニスタンに届く前にパキスタンにおいて横流しされ、イスラム原理主義者を勢いづかせたのではないか、という意見もある。 なお、事件後にアメリカ合衆国を中心に行われたイラクへの侵攻に同調し派兵を行ったイギリスやスペインでは、この派兵に反対するイスラム過激派と見られる集団による一般市民を狙ったテロ事件が発生し、多くの人命が失われた。また、アメリカ合衆国主導で行われたイラク侵攻に同調し派兵することに対して、上記のようにこれらの国の内部で国民の意見が二分した。 その結果スペインでは、2004年3月のマドリードにおける列車爆破テロ事件後に行われた選挙で、アメリカ合衆国への支持と派兵を決定したホセ・マリア・アスナール首相率いる国民党が敗退し、ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ率いるスペイン社会労働党に政権が交代した。 同じくアメリカ合衆国への支持と派兵を打ち出して以降人気が急落していたイギリスのトニー・ブレア首相が任期途中で退陣することを発表するなど、アメリカ合衆国への支持と派兵はこれらの国における政権交代のきっかけを作ることとなった。 アメリカ同時多発テロ事件が起きた時刻はアメリカ合衆国での取引が始まる前で、多くの金融機関が入居するワールドトレードセンターで起きた事件ということもあり、その日のアメリカ合衆国国内の取引は中止。翌週の17日(月曜日)に再開するまで、取引所や金融機関は修復作業に追われた。9月10日の終値が9,605.51ドルだったNYダウは、取引が再開された17日には取引時間中に8,883.4ドルまで下落することになり、9月10日に121円を付けていた円ドルのレートも、翌日には118.5円まで値を落とした。なお、1機目の衝突直後から南側ビルの崩壊までの間だけでNYダウは100ドル以上下落していた。 一方、取引中だったヨーロッパではCNNやCNBCを通じて事態が明らかになるとすべての取引所で株価の全面安が起きる。明くる12日の東京市場の日経平均株価は680円以上の下落となった。これは一部で「9・11ショック」とも報道されていた。その後多くの国においては株価の低迷がしばらくの間続くこととなる。 又、9月18日のタイムズ紙によると、事件の数日から数週間前にかけて、アメリカ・日本・イギリス・ドイツ・イタリアの株式市場で航空会社や保険会社、軍事関連企業などの株式が大量に信用売りされ、テロ攻撃の結果、株価が暴落した直後に安値で大量に買い戻された不審な売買形跡が認められたという。 このテロが航空機を用いたものであったことや、シティグループやオムニコム・グループ、マイクロソフトなど、アメリカを中心とした大企業が緊急なものを除く外国出張の禁止を命じたことなどから、事件後は航空需要が一時的に激減し、世界中の航空会社が大きな打撃を受けることとなった。 テロの標的となったユナイテッド航空だけでなく、標的にならなかったノースウエスト航空・デルタ航空も、連邦倒産法第11章の適用を申請し経営破綻した。また、サベナ航空やスイス航空、アンセット航空など、アメリカ以外の航空会社も多くが赤字に転落したうえ経営破綻し、そのうちのいくつかは姿を消した。 また、以前より空港や機内での保安体制が強化され、搭乗客への身体検査や手荷物の検査が厳重化されたほか、操縦室のドアなども強化するよう法律が改められた。 アメリカは全世界にバイオメトリック・パスポートの導入を要求し、従わない国及び市民はビザ免除プログラムの対象外とした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん、英: September 11 attacks)は、2001年9月11日にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃。9.11事件(きゅういちいちじけん)と呼称される場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一連の攻撃で、日本人24人を含む2,977人が死亡、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドル(日本円換算114兆6595億円)のインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した。アメリカの歴史上、最も多くの消防士と法執行官が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった。また、この事件を契機としてアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が勃発し、世界規模での対テロ戦争が始まった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2001年9月11日(火曜日)の朝、アメリカ合衆国北東部の空港から西海岸に向けて出発した旅客機計4機が、イスラム原理主義過激派アルカイダのメンバー計19人にハイジャックされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターおよび周辺のインフラへの破壊は、ニューヨーク市の経済に深刻な打撃を与え、世界市場にも大きな影響を与えた。米国とカナダの民間空域は9月13日まで閉鎖され、ウォール街は9月17日まで閉鎖された。新たな攻撃への恐怖と警戒心から、多くの閉鎖、避難、キャンセルが続いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "捜査の結果、アルカイダの指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンに疑いが向けられ、米国はテロから約1ヵ月後の2001年10月、有志連合諸国とともに軍事作戦を開始しアフガニスタンを攻略し、同国からのアルカイダの放逐と、テロの首謀者とみられるビン・ラーディンの身柄引き渡しに応じなかったタリバン政権を同年11月に事実上崩壊させた。ビン・ラーディンは当初、事件への自身の関与を否定していたが、2004年にテロ攻撃の責任が自らにあることを認めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アルカイダとビン・ラーディンは、アメリカのイスラエル支援、サウジアラビアへのアメリカ軍の駐留、幼児50万人が犠牲になったと言われるイラクに対する制裁などをテロの理由に挙げた。ビン・ラーディンはテロから10年近く捕捉を逃れ、パキスタン国境付近に潜伏していたが、テロから約10年後の2011年5月、アメリカ軍の急襲により殺害された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンター跡地の清掃は2002年5月に完了し、ペンタゴンは1年以内に修復された。1 ワールドトレードセンターの建設は2006年11月に始まり、2014年11月にオープンした。ニューヨーク市の911メモリアル&ミュージアム、バージニア州アーリントン郡のペンタゴンメモリアル、ペンシルバニア州の墜落現場にある93便ナショナルメモリアルなど、多数の慰霊碑が建立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系の集団によってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室に侵入し、操縦士を殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨーク・マンハッタンへ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)をワシントンD.C.へ向かわせた。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、乗っ取られた4機のうち2機が米ボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。この2種類の機体は、運行する航空会社の操縦士に互換性を持たせるために、操縦室の操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、実行犯のリーダー、モハメド・アタをはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国内にある民間の航空学校(ホフマン飛行機学校)で小型機の自家用操縦免許を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者もいる。なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ボストン発ロサンゼルス行きアメリカン航空11便(AA011; ボーイング767-200ER型機・機体記号N334AA)は、乗客81人(日本人1人を含む)・乗員11人を乗せ、午前8時00分頃にローガン国際空港を離陸し、ロサンゼルス国際空港に向かった。その後、11便は午前8時14分頃に始められたハイジャックにより、コックピットを乗っ取られた。11便は午前8時27分に進路を南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク・ロウアー・マンハッタンのワールドトレードセンター・ツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上した。角度、速度ともに浅い離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "11便がWTC北棟に衝突する瞬間は、ニューヨーク市消防局Ladder Companyの取材をしていたフランスの映像作家、ノーデ兄弟(英語版)によって撮影されていた。また、ホームビデオや定点カメラに写り込んだ映像も存在する。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空175便(UA175; ボーイング767-200ER型機・機体記号N612UA)は、乗客56人・乗員9人を乗せ、午前8時14分にローガン国際空港を離陸し(アメリカン航空11便でのハイジャック発生とほぼ同時)、ロサンゼルス国際空港に向かった。午前8時42分頃、UA175便のパイロットは離陸直後に耳にした不審な内容の無線(ハイジャックされたアメリカン航空11便からの無線だった)について管制官に報告したが、それから午前8時46分までの間にUA175便もハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。その後、UA175便は午前8時58分にニューヨークへ進路を変え、午前9時03分にWTC・ツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上した。南棟では北棟の爆発を受けて多くの人が避難を開始していたため、人的被害は北棟よりも少ないが、先に突入を受けた北棟より早く南棟が崩壊している。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "11便とは異なり、175便の突入時には、既に多くの人に事態が認識されていたことから、突入の瞬間の映像や写真が多数記録されている。なお、105階に居たエーオン副社長のケビン・コスグローブ(南棟の崩壊時に死亡)が、南棟が崩壊する瞬間まで911番へ電話で状況を伝えていた音声が録音されており、この録音はザカリアス・ムサウイの裁判において証拠として用いられた。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.(ダレス国際空港)発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757-200:機体記号N644AA)は、乗客58人・乗員6人を乗せて、午前8時20分に出発した。午前8時50分頃までにハイジャックされコックピットを乗っ取られた。直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、その後通信不能となった。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "そして午前9時38分、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録されており、また付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって降下し激突する瞬間が目撃された。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "防犯カメラなどの映像によると、機体は水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突していたが、高速で建築物に激突・炎上したため機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ニューアーク(ニューアーク空港)発サンフランシスコ(サンフランシスコ国際空港)行きユナイテッド航空93便(UA093; ボーイング757-200、機体記号N591UA)は、午前8時42分、乗客37人(日本人1人を含む)(乗客37人中4人はテロリスト)・乗員7人を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。オハイオ州クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂かホワイトハウスであったと推測されている。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "午前9時57分、機内電話や携帯電話による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。午前10時03分、93便は490ノット (563マイル毎時 (906 km/h)) の速度でペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィル(ワシントンD.C. 北西240キロの場所)に墜落した。離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。なお、地震計のデータから墜落の時刻を午前10時06分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ・よし、皆かかれ)」を合図にしたと言われている。この「Let's Roll」は、9・11事件以降のアフガニスタンでの「報復戦争」において一種のスローガンとして用いられた。9・11事件の調査委員会は乗客は操縦室内に進入できなかったと結論づけているが、一部の遺族はCVR音声に乗客が操縦室に進入した証拠が記録されていると主張している。なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93』が2006年に公開された。", "title": "ハイジャックされた旅客機" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "午前8時46分40秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便がワールドトレードセンター北棟 (1 WTC)の北面、93 – 99階の部分に衝突した。衝突によってハイジャック機のジェット燃料が引火したことで北棟の高層階では爆発的な火災が発生し、また燃料がエレベーターシャフトを通じて落下したことで地上ロビー等の低層のフロアでも爆発が起こった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "衝突から間もなく火災と黒煙は周辺階に広がり始め、8時52分には、過酷な状況に耐えかねて高層階から飛び降りる人々も現れた。この時点では、北棟への航空機の突入は(テロ攻撃ではなく)事故であるとの見方が大勢を占めていた。当時の大統領ジョージ・W・ブッシュも第一報を受けて「これはパイロットエラーによる事故だ」と発言した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "午前9時02分59秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟 (2 WTC) に突入し、南棟は爆発炎上した。ハイジャック機は機体を傾けながら南棟の南面、77 – 85階の部分に衝突しており、これによって南棟が負った構造的ダメージは北棟と比較してより深刻だった。2機目のジェット機が南棟に衝突した瞬間は既に多数の報道カメラが記録を始めており、一般者も含めた数多のカメラによって様々な角度から捉えられた。この時点で、一連の出来事が事故ではなく故意に起こされた攻撃であることが広く認識された。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "午前9時37分、ハイジャックされた旅客機(アメリカン航空77便)がペンタゴンに突入した。9時42分、連邦航空局 (FAA) はアメリカ合衆国大陸部内のすべての民間航空機を離陸禁止とし、すでに飛行中の民間機にはただちに着陸するよう指示した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "午前9時59分、ユナイテッド航空175便の南棟突入から56分後、ワールドトレードセンター南棟が崩壊した。その直後の10時03分11秒、ハイジャックされたユナイテッド航空93便がペンシルベニア州で墜落した。10時28分、アメリカン航空11便の北棟突入から1時間42分後、南棟に続きワールドトレードセンター北棟が崩壊した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターのツインタワーは、航空機の衝突による大規模な構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱で構造部材(鉄骨柱・床トラス部材等)の強度が著しく低下したことで崩壊したと考えられている。アメリカ国立標準技術研究所の報告書によれば、火災によるダメージは(ジェット燃料ではなく)主にオフィス内の可燃物によるものであり、それらの可燃物が火災を増長しなければ、ツインタワーは崩壊を免れていた可能性がある。ツインタワーは、建設当時に世界最大のジェット旅客機であったボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、漏れ出したジェット燃料とそれによる大規模火災の影響は設計上考慮されていなかった。日本の鹿島建設は事件の翌年にWTC建物内部の損傷について独自のシミュレーションを実施し、崩壊が火災によるものであることを裏付けた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "北棟の崩壊時の瓦礫が隣接する7 ワールドトレードセンタービル (7 WTC) に降り注ぎ、7 ワールドトレードセンターは損傷、さらに火災が数時間にわたって発生し、ビルの構造的健全性は失われた。午後5時21分、7 ワールドトレードセンターは倒壊した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "7 WTC以外にも、ワールドトレードセンター・コンプレックスと周辺の多くのビルが壊滅的な被害を受けた。全壊した施設には聖ニコラス聖堂も含まれていた。1 WTC(北棟)、2 WTC(南棟)と同様に、3 WTC(マリオット・ワールドトレードセンター(英語版))と7 WTCは跡形もなく破壊された。4 WTC(英語版)、5 WTC、6 WTC(英語版)(合衆国税関ビル)、ウエスト・ストリートを渡る2つの横断歩道橋は激しく損壊した。リバティ・ストリートを隔てたドイツ銀行ビル(英語版)は部分的に損壊し、2007年に始まった解体作業で取り壊された。ウエスト・ストリートを隔てたワールドフィナンシャルセンターの2棟のビルもダメージを被った。ワールドトレードセンター・コンプレックスの地下にはPATHトレインのワールド・トレード・センター駅が位置していた。ツインタワーの崩壊時、この駅は完全に破壊され、この駅からハドソン川の下を通ってニュージャージー州ジャージーシティのエクスチェンジ・プレイス駅へ向かうトンネルも水没した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北棟の崩壊により、北棟の屋上に設置されていた通信アンテナも破壊された。一時的に多くのTV局・ラジオ局の放送が断絶したが(WCBS-TVのみがエンパイアステートビルにバックアップ用の通信装置を持っていた)、それらの放送局はすぐに別ルートでの通信を確立し、放送を再開することができた。ワールドトレードセンターの敷地における火災は、テロ事件から100日後の12月20日にようやく鎮火した。この事件以降、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地は「グラウンド・ゼロ」や「ワールドトレードセンター・サイト(跡地)」とも呼ばれている。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンター (WTC) へのテロ攻撃による死者は合計で2,763人だった。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2,192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人となっていた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "WTCのツインタワーにおける民間人死者の90%以上は、ハイジャック機による衝突を受けた階以上のフロアで発生した。北棟ではハイジャック機の衝突時に数百人が即死したほか、直撃を受けた階以上のフロアに1,355人が閉じ込められ、煙の吸引・タワーからの落下・最終的なタワーの崩壊などの理由によってその全員が最終的に死亡した。北棟の3つの非常階段すべてがアメリカン航空11便の衝突の際に破壊されており、上層階から人々が脱出することは不可能だった。一方で、(北棟において)直撃を受けた階より下のフロアで死亡した民間人は107人とされている。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "南棟で死亡した民間人は計630人であり、北棟の半分以下の数字だった。南棟では、北棟へのジェット機突入の直後から多くの人々が自主的に避難を開始していたため、死者の数は大幅に抑えられた。一方で、南棟へのハイジャック機の突入時には78階のスカイロビー(英語版)でエレベーターを待っていた数百人に及ぶ避難者の多くが死傷した。『USAトゥデイ』は、最初のジェット機突入後に南棟に居た全員を避難させることができなかったことを「事件当日に起きた大きな悲劇のひとつ」と評している。南棟では、ユナイテッド航空175便の衝突の後も非常階段のひとつ(A階段)が崩壊を免れており、このA階段を利用することで18人(直撃を受けた階から14人、それより上の階から4人)が生還した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベータが停止し、多くの人が閉じ込められた。『USAトゥデイ』の推定では、最小で200人、最大で400人がツインタワーのエレベータに閉じ込められた状態で死亡したとされている。エレベータに閉じ込められたものの、そこから自力で脱出した生還者は21人のみだった。エレベータにおける死者は、ケーブルの破断によるエレベータ籠の急落下や、エレベータへの火炎の侵入によって死亡しており、それらを免れた者もタワーの崩落時に死亡した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は最低でも200人と推定されている。そのほとんどが北棟で発生したものであり、南棟からの転落・飛び降りによる死者は12人に満たなかった。北棟から落下した人々の多くは、タワーに隣接する道路や広場(トービン・プラザ)および3 WTCビルの屋上にたたきつけられて死亡した。消防士の1人は落下してきた人の巻き添えとなり死亡した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "北棟の101 – 105階を占めていた投資銀行のキャンター・フィッツジェラルド(英語版)では、他の雇用主を大きく上回る658人もの従業員が犠牲となった。キャンター・フィッツジェラルドの直下、北棟の93 – 100階を占めていたマーシュ・アンド・マクレナンでは358人の従業員が犠牲となった。南棟のエーオンでは175人の従業員が犠牲となった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) は、事件発生当時のワールドトレードセンター・コンプレックスには約1万7400人の民間人が存在したと推定している。港湾公社のターンスタイルによる記録では、午前8時45分には(通常は)1万4154人がツインタワー内に存在したことが示唆されている。ジェット機が直撃した階よりも下のフロアに居た人々は、その大半が安全にタワーから避難することができた。ツインタワー南棟の崩壊時、当時南棟に居た民間人、消防士ならびに警察官は全員死亡し、タワー周辺の道路やビルでも多数の死者が生じた。北棟の崩壊時には、12人の消防士、1人の警察官、および3人の民間人が崩壊を免れた非常階段に守られる形で生き残ったが、それ以外に生存者はいなかった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "炎上するワールドトレードセンター北棟・南棟から市民を救助するため、ニューヨーク市消防局は過去に例のない大規模な動員を行い、200以上(全体の約半数)の消防部隊がの現場に派遣された。また、多くの非番の消防士も自主的に救助活動に参加した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ニューヨーク市警察は緊急出動部隊(ESU)を含む多数の警察官を救助のために動員したほか、航空隊のヘリコプター3機を現場に派遣したが、北棟・南棟からのヘリコプター救助は炎と煙による極端な悪条件により不可能と判断された。その他、港湾公社警察所属の警察官も多くが救助活動に参加した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "消防隊やヘリコプターは9時00分までに現場に到着し、救助を試みていた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "午前9時37分45秒、ハイジャックされたアメリカン航空77便(AA077; ボーイング757)が、バージニア州アーリントン郡のアメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)に突入した。アメリカン77便はビルの西壁に衝突して爆発炎上し、AA077便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡、106人が重傷を負った。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "AA077便の衝突と続いて発生した火災によってペンタゴンは激しく損傷し、ビルは部分的に倒壊した。ペンタゴンに突入する直前、旅客機の翼は地上の街灯をなぎ倒し、さらに発電機に接触した。77便はペンタゴン西側外壁の1階部分に激突したが、衝突の瞬間にボーイング757の胴体前部はバラバラになり、その後一瞬のうちに機体中央部と尾翼部が勢いを保ったまま外壁を突き抜けた。最も深くまで到達したのは尾翼部の破片であり、5層ある外壁のうち3層を突き破り、94 m内側まで貫通していた。その後10時10分には、衝突で損傷したビルの一部分が倒壊した。ビルの倒壊部分は最大で幅29 m、奥行き15 mにわたった。77便の衝突からビルの崩壊まで時間的猶予があったため、4 - 5階に居た職員は全員が安全に避難することができた。旅客機の突入時、ペンタゴンでは約1万8000人が働いていたが、この数字は1998年に始まった改修工事によって通常より4,000人ほど少なかった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この直前に起きたワールドトレードセンター・ツインタワーへの他の飛行機の突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単にペンタゴンが爆発炎上したというだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言され報じられた。さらに激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIによって回収、捜査された。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "テロ当日は北アメリカ航空宇宙防衛司令部(ノーラッド)の年に一度行われる訓練の日であり、東海岸から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっていたはずだった。しかし連邦航空保安局からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分ごろで、マサチューセッツ州のケープコッド南西部にあるオーティス空軍州兵基地 からF-15戦闘機2機がスクランブル発進したのは8時52分だった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "スクランブル発進したF-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時AA011便はすでにツインタワー北棟に突入した後だった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているという認識だったが、状況の把握が不十分で、パイロットも何を追跡しているか認識できていなかった。同機は一旦ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのはUA175便がツインタワー南棟に突入した後だった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能だったとされる(進路妨害は可能だったという指摘もある)。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ワシントンD.C.には、ノースカロライナ州上空で訓練していたF-16戦闘機3機が呼ばれたが、飛来したところで基地への着陸待機を命じられた。3機はアメリカン航空77便の追跡を命じられ再度離陸したが、もともと訓練中だったために燃料が不足し始め、うちの2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くに飛来したが、これらには攻撃用のサイドワインダーAAMが装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局AA077便(アメリカン航空77便)に合流することは無く、9時38分にペンタゴンへの攻撃の阻止には至らなかった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "オハイオ州上空を飛行していたユナイテッド航空93便の付近で、積荷の搬送を行っていたC-130輸送機が、管制官からUA093便を捕捉するように命じられた。C-130はUA093便墜落の際、17マイル (27 km)離れたところに位置していた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ノーラッドから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分だった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もあるが、公式な発表にはない。さらに事故から約10分後に現場のはるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。ノーラッドは連邦航空局から93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近く93便の追跡を続けさせていた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "連邦航空局がアメリカ合衆国中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはワールドトレードセンターへの2度目の突入の直後からで、9時45分に全米の空港からの民間機の離陸が停止され、飛行中のすべての民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。民間機の飛行禁止は3日間にわたり、常に5,000機以上が飛んでいた航空機がアメリカ上空、そしてアメリカが管制を担当する空域から姿を消した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "本事件の発生当時、ジョージ・W・ブッシュ大統領はフロリダ州に滞在していた。当日は教育政策の成功をアピールする為に同州サラソータにあるエマ・E・ブッカー小学校の授業を視察し、午後にはワシントンD.C.に戻って共和党議員とのバーベキューが行われる予定だった。1機目のツインタワー攻撃の際には小学校へ向かう専用車の車中にいたが、このときは(多くのメディアが速報した様に)単なる航空事故だと考えていたとされる。ただし、一時的にホワイトハウスとの間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "授業視察中に2機目のツインタワー突入があり、数分後、ブッシュ大統領がアンドリュー・カード首席補佐官から2機目の突入と「合衆国が攻撃されている可能性がある」との報告を受けたが、ブッシュは「無駄な動揺を与えないために」との理由ですぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞き続けていた。朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を褒め、ただちに隣室で補佐官と話し、電話でコンドリーザ・ライス国家安全保障担当補佐官と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで「アメリカが攻撃を受けた」と小学生の前で国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から車列とともに出発、3マイル (5 km) のところにある空港へ向かった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "9時55分に、大統領専用機「VC-25」が目的地を決めないまま離陸、地上からの攻撃を避けるため直後に急上昇した。この時点では護衛の戦闘機は無かった。国内上空には未だに連絡の取れない旅客機が11機あったが、管制の指示で地上に降ろし、国内空域は大統領専用機と哨戒機だけになった。航空管制からは自由に飛行してもよいとの許可があり、機長が行き先を尋ねた際に大統領はワシントンを指示した。アンドリュー・カードは国民に声を伝えるべきと進言したが、当時専用機からは生の声明発表ができなかったため、一度ルイジアナ州バークスデール空軍基地に立ち寄り、国民に向けた声明発表を行った。ここでは有事の際に大統領が軍を指揮するために搭乗するE-4B ナイトウォッチも随行していたが、乗り換えはしなかった。その後、ネブラスカ州オファット空軍基地(英語版)(E-4B ナイトウォッチが所属する基地)で事態の沈静化を待ち、夕刻にメリーランド州アンドルーズ空軍基地(大統領専用機が所属する基地)経由でワシントンD.C.へ帰還した。専用機は通常、国内でのフライトでは戦闘機の護衛を受けないが、この日のオファット基地からアンドルーズ基地へのフライトでは、国内では初めてゼネラル・ダイナミクスF-16戦闘機の護衛を受けて飛行している。戦闘機は大統領専用機からパイロットの顔が判別できるほどの至近距離を飛行していた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ホワイトハウスではリチャード・チェイニー副大統領らが執務を行っていたが、ツインタワーへの2度目の攻撃の直後、シークレットサービスにつれられて、地下6階の地下壕へ避難した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ドナルド・ラムズフェルド国防長官は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。ラムズフェルド国防長官にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がペンタゴンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備がない。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていたため、彼女を抱えて避難し、担架に乗せ救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "コリン・パウエル国務長官は、事件当時南米ペルーを実務訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いて、すぐに政府専用機でアメリカ合衆国に帰国した。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なおロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちにロシア連邦軍に迎撃体制を取らせることはない」とホットラインでブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはアメリカが大規模な動員をかけるとそれに反応するように指揮系統が準備されている為であった。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アメリカ同時多発テロ事件の首謀者は、イスラーム過激派テロ組織「アルカーイダ」の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンとされている。当初、ビン・ラーディンは事件への関与を否定していたが、2004年には一転して同時多発テロ事件への関与を公に認めた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2001年9月16日、アルジャジーラ上でビン・ラーディンによるビデオ声明が放送された。声明の中でビン・ラーディンは、「私は攻撃を実行していないと強調する。攻撃は別の個人によって、彼自身の動機に基づいて実行されたように見える」と述べた。2001年11月、アメリカ軍はアフガニスタン東部のジャラーラーバードで1本のビデオテープを回収した。このテープにはビン・ラーディンと他のアルカイダ構成員との会話が記録されており、その中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを認めていた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2004年のアメリカ大統領選挙の直前、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明を発表し、アルカイダが同時多発テロ事件に関与したことを公式に認め、自らが実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた。 2006年9月にアルジャジーラが入手したビデオテープには、ビン・ラーディンとラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)が、2人のハイジャック犯(ハムザ・アル=ガームディー(英語版)およびワイル・アル=シェフリ(英語版))と共に同時多発テロの準備をしている模様が記録されていた。ビン・ラーディンは、同時多発テロ事件に関してアメリカ政府当局から正式に起訴されたことはなかったが、ケニアの首都ナイロビとタンザニアの首都ダルエスサラームにおけるアメリカ大使館爆破事件に関する容疑でFBI10大最重要指名手配者に指定されていた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2011年5月2日、10年間の追跡の末に、アメリカ軍特殊部隊はパキスタンのアボッターバードに潜伏していたビン・ラーディンを急襲の上で殺害した。なお、この時の映像は当時のオバマ大統領ら閣僚に生中継された。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ウサーマ・ビン・ラーディンが1996年に発表した対アメリカ宣戦布告と、1998年に発表したアメリカ国民の無差別な殺害を呼びかける布告は、ビン・ラーディンの動機を示す証拠として扱われている。ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており、湾岸戦争が勃発した1990年8月以降アメリカ軍がサウジアラビアに駐留していることに強い怒りを抱いていた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「ファトワー(布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対するジハード(聖戦)を宣言すると共に、異教徒であるアメリカ人をアラビア半島から駆逐するよう全世界のムスリムに呼びかけた。1998年2月、ビン・ラーディンは第2の「ファトワー」を発し、アメリカ軍によるサウジアラビア駐留へ再度抗議すると共に、アメリカの親イスラエル的な外交政策を批判した。1998年の「ファトワー」はさらに、世界各地でアメリカおよびその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されているアル=アクサー・モスクとメッカの聖なるモスクを解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言していた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ビン・ラーディンは自らの直接的関与を認めた2004年の声明の中で、テロ攻撃を行った動機について以下のように述べた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アルジャジーラ記者ヨスリ・フォウダ(英語版)の報告によれば、アルカイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドは2002年4月に、自らが同時多発テロを計画したことを認めた。モハメドは逮捕された後の2007年にも犯行を自供した。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "アメリカ議会調査委員会による同時多発テロ事件の最終報告書は、モハメドを911テロの主たる企画者として紹介しており、彼のアメリカに対する敵意は「イスラエルに好意的なアメリカの外交政策との著しい意見の不一致」に起因すると結論づけた。モハメドは1993年の世界貿易センター爆破事件にも関与しており、主犯ラムジ・ユセフの叔父でもあった。モハメドは2003年3月1日にパキスタンのラーワルピンディーで逮捕された。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "逮捕後、モハメドは複数のCIA秘密軍事施設とグアンタナモ湾収容キャンプに拘留され、尋問中にウォーターボーディングを含む拷問を受けた。2007年3月にグアンタナモ湾で行われた聴聞会において、モハメドは自らには「9月11日の作戦について初めから終わりまで全ての責任があった」と証言した上で、この証言は強要の下でなされたものではないと述べた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "バージニア州東部地区連邦地方裁判所(英語版)がザカリアス・ムサウイの裁判中に使用した資料であるSubstitution for the Testimony of Khalid Sheikh Mohammedは、同時多発テロ計画の全貌を事前に把握していたアルカイダ構成員として、ビン・ラーディン、モハメド、ビン・アル=シブ、ムハンマド・アーティフ、アブ・トゥラ・アル=ウルドゥニ(英語版)の5名を挙げている。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "同時多発テロ事件において重要な役割を担ったテロリストの多くは、ドイツのハンブルクに拠点を置くイスラーム過激派集団(通称ハンブルク・セル(英語版))に所属していた。事件当日にハイジャック機のパイロット役を務めたモハメド・アタとマルワン・アル=シェヒ(英語版)およびズィアド・ジャッラーフ(英語版)に、調整役のラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)を加えた4人が「ハンブルク・セル」の中心的メンバーであり、彼らはアフガニスタン訪問時にアルカイダ指導部によってテロの実行者に任命されていた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "同時多発テロ計画の考案者はハリド・シェイク・モハメドであり、モハメドは1996年に初めて計画をウサーマ・ビン・ラーディンに提示した。当時、ビン・ラーディンとアルカイダはスーダンからアフガニスタンに拠点を移したばかりであり、一種の過渡期にあった。1998年にビン・ラーディンが発した、「アメリカ人の殺害はムスリムの義務である」とする自称「ファトワー」とされたものと、同じく1998年に発生したアメリカ大使館爆破事件は、ビン・ラーディンが攻撃の焦点をアメリカに定めたことを示す1つの転換点となった。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1998年末もしくは1999年の初め頃、ビン・ラーディンはモハメドが同時多発テロ計画の準備に着手することを承認した。1999年春には、モハメドとビン・ラーディン、およびビン・ラーディンの代理人ムハンマド・アーティフが参加する会合が立て続けに開かれた。アーティフは、ターゲットの選定やハイジャック犯のための渡航の手配など、テロ計画の作戦面での支援を提供した。モハメドの提案は一部ビン・ラーディンによって却下され、ロサンゼルスのライブラリータワーのようないくつかのターゲット候補は、「攻撃の準備をするのに必要な時間が不足している」ことを理由に拒否された。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ビン・ラーディンはテロ計画の統率と資金援助を担当し、計画を実行するテロリストの選抜にも関与した。当初、ビン・ラーディンはナワフ・アル=ハズミ(英語版)とハリド・アル=ミフダール(英語版)というボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った2人の熟練戦闘員をハイジャック機のパイロット役に任命していた。2000年1月中旬、アル=ハズミとアル=ミフダールはアメリカに到着し、2000年春にはサンディエゴで飛行訓練を受けたが、2人はほとんど英語を話せず、また訓練の成績も悪かったため、最終的にはパイロット役以外のハイジャック犯(武力による制圧要員)としてテロに参加することとなった。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1999年後半、モハメド・アタ、マルワン・アル=シェヒ(英語版)、ズィアド・ジャッラーフ(英語版)、ラムジ・ビン・アル=シブ(英語版)らドイツ・ハンブルク在住のイスラーム過激派の一団が、アフガニスタンのアルカーイダ訓練キャンプを訪問した。ビン・ラーディンは、彼らが高い教育を受けており、また英語が堪能で欧米での生活に慣れていることを評価し、テロ計画の中核となる実行メンバーに抜擢した。その後、2000年にはアガニスタンの訓練キャンプにハニ・ハンジュール(英語版)という新兵が加入した。ハンジュールは1999年にアメリカで職業操縦士免許を取得しており、その事実を知ったアルカーイダは彼をテロ計画に参加させた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ハンブルク在住のテロリストの内、アル=シェヒは2000年5月末に、アタは2000年6月3日に、ジャッラーフは2000年6月27日に、それぞれアメリカに到着した。ビン・アル=シブは渡米のためアメリカのビザを何度も申請したが、イエメン国籍であったため、有効期限を過ぎて不法滞在することへの懸念からビザが発給されなかった。ビン・アル=シブは渡米を諦めざるを得ず、ハンブルクに留まってアタとハリド・シェイク・モハメドの間の調整役を務めることとなった。アメリカに渡った3人の「ハンブルク・セル」メンバーはフロリダ州南部の航空学校で飛行訓練を受けた。一方、ハニ・ハンジュールは2000年12月8日にサンディエゴに到着し、アル=ハズミと合流した。2人はその後すぐにアリゾナ州に向かい、ハンジュールはそこで操縦の再訓練を受けた。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2001年春には、パイロット役以外のハイジャック犯もアメリカに到着し始めた。2001年7月、アタはスペインでビン・アル=シブと会い、攻撃目標の最終的な選択等、テロ計画の調整を行った。その際、ビン・アル=シブはアタに、ビン・ラーディンができるだけ早いテロ攻撃の実行を望んでいることを伝えた。9月7日には在日アメリカ大使館が「日本国内に滞在するアメリカ人に対してテロ攻撃の可能性がある」ことを発表していたが、アメリカ国内のテロ攻撃の警報は出されないままであった。", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "出典:", "title": "テロの実行者" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ニューヨークやワシントンには世界中の報道機関が本社・支社・事務局を置いているため、一連の事件は、テレビ・ラジオ・インターネットなどを通じて全世界にリアルタイムで伝えられた。連日、新聞や週刊誌なども最大級の扱いで事件を伝えた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "当日およびその後のテレビ報道はインターネットアーカイブで保存公開されている 。1機目の激突は、数カ月前から地元消防署の日常を密着取材していたフランスのテレビ局から派遣されていたビデオジャーナリストのノーデ兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。2機目の旅客機が激突する瞬間は、上記のようにプロやアマチュアを含む多くのカメラマンに撮影されている。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1機目が突入したニューヨーク時間(アメリカ東部夏時間)8時46分はテレビ各局が朝のニュースショーなどの最中で、CNNは8時49分から、ABC・CBSなど他のテレビ局も8時50分前後から特別報道番組を開始、ロウアー・マンハッタン(WTC所在地)方面を向く情報カメラや報道ヘリコプターが建物の様子を伝え始めた。この時点では「小型機がビルに誤って衝突した事故」と報じるものが多かったが、中継の最中の9時3分、ツインタワー南棟にユナイテッド航空175便が突入した。2機目の突入以降、各テレビ局はテロの可能性が高いと論調を変えることになった。その後、9時30分にブッシュ大統領の演説が各局で中継される。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "その後もツインタワーの炎上と崩壊、アメリカン航空77便のペンタゴン攻撃、93便の墜落(報道されたのは墜落してから30分以上たってからだった)など事態が続き、報道は週末の16日(日曜日)深夜まで休むことなく続いた。特にネットワーク3局の夕方ニュースのアンカーは最長で1日17時間にわたって伝え続けた。この週は新番組が始まる時期だったので、軒並み放送が順延され、内容変更を強いられた番組もあった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "また、国外向けの放送局であるCNBC(ヨーロッパ/アジア向け、本部はアメリカ国内)やCNNインターナショナルでも、本来あまり放送されない国内向けの放送を全編放送し続けた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "イギリスは昼過ぎであった。BBCにおいてはテレビ国際放送・BBCワールド(現・BBCワールドニュース)内で速報として13時前に炎上するワールドトレードセンターを映し出したのが第一報であった。午後1時からのニュース番組を始めた直後、2機目の突入の瞬間を生中継した。トニー・ブレア首相は14時30分ごろ、出席していたブライトンでの労働組合会議の場で「深い哀悼」の意を伝えた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "以下、日本における報道については日本時間を使用する。なお、日本時間は現地の時間(アメリカ東部夏時間 (UTC-4))より13時間進んでいる。当時の状況の主軸である世界貿易センタービルへの航空機衝突と崩壊の時刻を太字で示す。なお、日本ではワールドトレードセンター・ツインタワーの名称を「世界貿易センタービル」と報道した。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2001年9月11日は台風15号と台風16号が前日から関東地方と沖縄を襲って多くの被害をもたらしたほか、9月1日に発生した歌舞伎町ビル火災の原因究明、9月10日に国内で初めて狂牛病疑いのある牛が千葉県で発見されるなど、この日のニュース番組では重大ニュースが多数報道されていた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "22時前後、「ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が激突(1機目のアメリカン航空11便)」という情報が各局のニュース番組またはニュース速報 で一斉に伝達された。この時点では殆ど情報が集まっておらず、詳細な状況は不明であった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "テレビ朝日 (ANN) では、定時の21時54分より「ニュースステーション」の放送を開始した。冒頭からCNNの映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、1機目の激突により炎上する北棟の映像をしばらく流した後、台風関連のニュースを伝えていた。なお、この時メインキャスターの久米宏は夏季休養中であり、久米の進行はサブキャスターである渡辺真理が務めた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "22時開始の「NHKニュース10」(NHK総合テレビ)も、オープニング直後のヘッドラインは台風のニュースなどを流していた。しかし、ヘッドライン終了後キャスターの堀尾正明が「台風のニュースをまずお伝えしようと思ってたんですが、たった今こういうニュースが入ってきました」と切り出し、1機目激突の第一報を伝え、間もなくABCニュースの中継映像で炎上する世界貿易センタービルの姿が映し出された。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この時点ではまだ「事故」か「事件」かは明言されていなかった。報道機関は1機目衝突の瞬間を捉えておらず、消防士の取材をしていたカメラマンが撮影した1機目の映像も翌日まで放送されていなかった。ただ「ニュース10」に出演していたコメンテーターは、晴天時での不可思議な衝突という状況を理由として、2機目衝突前からテロの可能性を指摘していた。CNNでも同じような理由からテロの可能性が指摘されていたが、同時に、1945年7月28日にエンパイア・ステート・ビルディングにアメリカ陸軍のB-25爆撃機が衝突した事故を例に挙げ、操縦ミスによる突発的な事故である可能性も指摘していた(なお、この事故当時は深い霧が出ていた)。また、CNNなどでは「ボーイング737などの小型の双発ジェット機」が衝突したと伝えていたものの、英語の翻訳ミスからか、日本ではこの時点で「激突した航空機は小型の双発機」であるとの情報が報道されていた。しかし「小型」の根拠や「双発機」という語の解説がなされないなど情報が錯綜していた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ABCニュースの中継映像をそのまま放送していた「NHKニュース10」では、2機目の突入の瞬間が生中継された。映像では画面右側から飛行機が現れ、炎上する北棟(第1ビル)の真後ろに隠れるように見えた。そこには南棟(第2ビル)があり、数秒の後、南棟を襲った巨大な爆発によって炎と黒煙が上がる様子が映し出された。画面を通して見れば、1機目の激突で炎上する北棟が2度目の大爆発を起こしたように見え、NHKニューヨーク支局の記者は単に「今、また爆発がありました」と伝えた。これに対して堀尾が「今、2機目の飛行機が突入したように見えましたが」と聞き返した。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "「ニュースステーション」では台風関連のニュースを伝えていた間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生放映されなかったものの、すぐに再びテロ関連のニュースに切り替えられた。この時、コメンテーターの萩谷順が「先週末からアメリカの情報機関により『中東のテログループがアメリカの利益を代表する建物ないし組織に対してテロを行おうとしている』との警告が流されていました」と述べている。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "22時20分頃、NHKは「旅客機がビルに激突したとみられる」と伝えた。22時30分、フロリダ州の小学校を訪れていたブッシュ大統領が演説で「明らかなテロ」と発言した。22時45分頃、「ペンタゴン(国防総省)が炎上」というニュースが各局で伝えられ、一連の事件が「同時多発テロ」であるとの見方が固まった。間もなく炎上するペンタゴンの映像が映し出され、爆発・火災の原因が3機目の旅客機の可能性があると伝えられた。旅客機がハイジャックされていたという内容の現地メディアの報道も日本国内に伝えられ始めた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "これらの各ニュース番組では放送予定だった他のニュースより優先して、ニューヨーク・ワシントンとの中継映像が放送され続けた。時間(事件の拡大)とともに民放各社も次々に通常番組を打ち切り、臨時ニュースの放送を開始した。TBS系列では22時37分、放送中の毎日放送制作「ジャングルTV ~タモリの法則~」を途中で打ち切り、「筑紫哲也 NEWS23」を前倒しで開始。フジテレビ系列では、関西テレビ制作のテレビドラマ「ウソコイ」最終回を放送していたが、番組の途中で「ニュースJAPAN」キャスターの田代尚子アナウンサーによるニュースを何度か流した後、ドラマ終了直前の22時45分から報道特番を開始した。独立UHF局においても、通常時はテレビ東京のニュースをネット受けしない三重テレビは、この日は「ワールドビジネスサテライト」を臨時ネットした。21時から「火曜サスペンス劇場」を放送中の日本テレビはCMと本編の間に「NNNきょうの出来事」キャスターの井田由美アナウンサーによる短いニュースを挟んだが、番組自体は休止しなかった(同局は次番組のきょうの出来事以降、本格的な特番体制に入る)。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "NHKではワシントン支局と中継を結んでいる間にそれが起こり、途中で当時の支局長手嶋龍一の発言を遮るようにニューヨークに画面が切り替えられた。片方のビルが姿を消し、大量の煙に覆われたニューヨークと、 NHKのカメラが路上から撮影した南棟崩壊時の映像(この映像はNHKが世界で唯一デジタルハイビジョンカメラで撮影した映像である)が映し出された。これらの映像は二棟が重なるアングルであったため崩壊の程度が分かりにくく、当初は「ビルの一部が崩壊した」とも伝えられていた。また、ワシントンの各所で爆発が相次いだという誤報が流れ、画面に「アメリカで同時テロ」の字幕が映し出された。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "この時もNHKはスタジオを映していて2つのビルの崩壊の瞬間はいずれも中継されなかった。しかし間もなく、巨大な超高層ビルが上部から完全に崩壊し、膨大な瓦礫と化してマンハッタン南部が煙で覆いつくされる衝撃的な映像が放送された。さらに23時40分頃には、4機目(ユナイテッド航空93便)がペンシルベニア州西部に墜落したというニュースが伝えられた。NHKアナウンサーの堀尾は次々と起こる惨劇を報道する中で「大変ショッキングな映像ですが、現実の映像です」と発言した。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "日本のほぼ全てのメディアは、翌日の明け方までテロに関する情報を伝え続けた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "日本の放送メディアにおける海外の非常事態の終夜放送は、1991年1月17日に勃発した湾岸戦争(多国籍軍による空爆開始)以来であった。また駐日アメリカ軍向けに英語でラジオ放送を行うAFNも通常放送を中断してニュースを伝え続けると同時に、アメリカ軍の警戒態勢や行動上の注意を喚起する内容の放送を、ニュースの合間に繰り返し行っていた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2001年9月12日6時25分、世界貿易センターの第7ビルが崩壊", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "8時30分ごろ、日本人大学生1人がユナイテッド航空93便に搭乗していたと報道された。9時30分からブッシュ大統領がホワイトハウスで行った演説が中継され、10時20分から小泉純一郎首相、福田康夫官房長官が首相官邸で記者会見を開始した。午後1時50分ごろ、1機目激突の瞬間を撮影したカメラマンの映像が放送された。こうしてこの日もほとんどテロ事件関連ニュース一色となった。夜のゴールデンタイム枠ではお笑い・バラエティ番組が休止され、特別番組が放送された(テレビ朝日では「ニュースステーション」を1時間前倒しして放送、TBSではナイター中継を通常時間より1時間短縮し、特別番組を放送)。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "テレビでは、事件から1週間程度の期間は、通常番組を休止あるいは放送延期等を行い特別報道番組を放送する局もあった。また、ビルが破壊される描写や航空機が撃墜される描写のある映像の放映自粛を行うなど放送内容に影響が出た。新聞各紙も一面に大見出しで事件を伝えたほか、号外も発行された。事件が朝刊各版の締め切り間際に立て続けに起こったため、各新聞は配達先によって記事内容が一部異なっている。多くの週刊誌も特集を組むなどして大きく事件を伝えた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "当時、CNNインターナショナルを日本国内の衛星放送・ケーブルテレビ局向けに配信していたJCTVでは、この事件を受け、急遽通常は行っていない深夜帯の同時通訳を行った。後に当時の同時通訳陣の心境をまとめた短い記事を、同社CNN紹介ウェブサイト内に期間限定で掲載している。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "「同時多発テロ」と呼ばれるように複数のテロが短時間に連続して発生した。当時の社会において、従来型の「テロ」や「犯罪」の概念を超越した規模だったため、時事刻々と変化する状況に対して報道機関の対応が追いつかず、情報が錯綜した状況が続いた。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "当時はインターネットの回線速度が遅い上に、情報共有が可能なWebサイトが電子掲示板しか存在せず、カメラ付き携帯電話やSNSもまだアメリカでは普及していなかったため、一般人からのリアルタイムな情報共有にも期待できなかった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "事件当日から事件翌日の日本もしくはアメリカの各新聞・テレビ報道において確認された誤報の一部として、下表のようなものがあげられる。日本の新聞における誤報については訂正が締切時間に間に合わず、結果的に翌12日の朝刊のいくつかの掲載が誤報になった例も含まれている。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "これらの状況はアメリカ合衆国などにおいても同様で、事件発生当初は激突した航空機も中型のジェット旅客機ではなく小型民間機(小型の単発もしくは双発プロペラ機など)と報道されていた。またユナイテッド航空93便がクリーブランド・ホプキンス国際空港に着陸したという内容の速報記事も報道されたが、後にデルタ航空1989便をUA093便と混同していたことが判明し、誤報として訂正された。この他にもBBCはテロ攻撃の直後にハイジャック犯とされる人物の情報を発表したが、その後その内の数人が存命中の別人であったことが判明すると情報を修正した。BBCは後に当時報告された氏名がアラブ人やイスラム教徒に多く見られるものであったため。初期での混乱が起きたのだろうと釈明している。また、これらの情報の混乱が根拠のない陰謀説や都市伝説が起きるきっかけになった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "テレビでは事件発生直後から、さまざまな場所・方向から記録された映像が放送された。特に旅客機がワールドトレードセンターなどの被害を受けた建物に突入する瞬間や、ツインタワーの上層階から飛び降りる人、ツインタワーが崩れ落ちる衝撃的瞬間をとらえた映像は1週間近くにわたり何十回、何百回となく繰り返された。しかしこれは数千人が殺害された瞬間にほかならず、遺族や関係者、さらには子供にショックやトラウマを与える可能性が懸念され、次第に自粛を要請する声が上がった。やがてニュースでこの事件の映像が放送されるときも、こうした「衝撃映像」は少なくなった。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "事件後の新聞各紙や週刊誌などには、ビルが炎上・崩壊する写真のみならず、血まみれでうずくまる市民や炎上しているツインタワーの上層階から飛び降りる人の写真などが大きく掲載された。アメリカ合衆国では後者の写真をめぐって論争が起こった。アメリカ国民の大多数が信仰するキリスト教は自殺を禁じているからである。2006年にイギリスで製作されたドキュメンタリー「The Falling Man」は、この論争を取り扱ったものである。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "一連の事件を記録した写真や映像は、各マスコミのみならずマグナム・フォトのようなプロフォトグラファー、あるいは事件を目撃し撮影した市民によって大量に残された。マグナムは「NEW YORK SEPTEMBER 11」と題して写真集を発売した(日本版あり)。ニューヨークでは事件後に写真展覧会が行われ、それらの写真はインターネットで公開されたほか、「HERE IS NEW YORK」と題した写真集として発売されている。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "2006年に公開されたユナイテッド航空93便を描いた映画「ユナイテッド93」や、「ワールド・トレード・センター (映画)」でも、事件を伝える当時のテレビ局の映像が使われている。なお「ユナイテッド93」では当時の様子を極力再現するため、情報伝達の混乱や誤りなどがそのまま伝えられている。", "title": "報道" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "この無差別テロ事件における死者は合計2,996人、負傷者は6,000人以上とされている。テロリストを除いた犠牲者は2,977人であり、ワールドトレードセンターへの攻撃による犠牲者は2,753人、アメリカ国防省(ペンタゴン)への衝突による犠牲者は184人、ユナイテッド航空93便の墜落による犠牲者は40人だった。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターの現場での犠牲者2,753人には、ニューヨーク市消防局の消防士343人と、71人の警察官(ニューヨーク市警察本部の警察官23人、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社警察の警察官37人を含む)が含まれている。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "2,996人の死者の内訳は、ハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が265人(テロリストを含む)、ワールドトレードセンターでの死亡者が2,606人、アメリカ国防省での死亡者が125人とされている。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "このテロ攻撃では270人から400人のユダヤ人が犠牲になったと推定されている。またこれに関連してアメリカ合衆国国務省は76人分のユダヤ人犠牲者のリストの一部を公開した。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2017年8月の時点でも、犠牲者全体の40%にあたる1,112人の遺体がいまだ未確認の状態だった。多くの遺体がばらばらになって散乱しており、2006年には南棟に隣接するドイツ銀行ビル(英語版)の屋上で無数の遺骨の破片が発見された。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "なお、日本人の犠牲者は24人に及んだ。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "現場はワールドトレードセンターの鉄骨に吹き付けられていた石綿(アスベスト)やツインタワー内にあったコンピュータや蛍光灯からの水銀、ベンゼンをはじめとする火災により発生した多環芳香族炭化水素化合物等の危険な粉塵も含まれており、救難活動を行った犬が次々に死に、肺に障害を訴える人が続出していた。しかし、アメリカ政府はそれを否定し、十分なデータの裏付けもないのにEPAも「空気は安全」と報知したことから、安全よりもニューヨークの復旧作業といち早いウォールストリートの営業の再開を優先したのではないかという疑惑も挙がっている。これに対して、EPA監査局はホワイトハウスの環境諮問委員会からの圧力で安全宣言の発表に至ったという報告書を2008年8月に発表している。これによると、EPAの安全宣言はアスベストの含有量の数値など実際のサンプルがあったにもかかわらず、曖昧な表現に書き換えられた形跡もあるという。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "現場で救助作業などにあたった人では、安全宣言により防塵マスクを付けなかったため、健康被害が拡大された可能性も指摘されている。このような作業員や消防士、住人を含めテロ発生時またはその直後に現場近辺にいた人では、肺疾患や白血病、癌などの発生が報告されており、医療機関などにより粉塵被害との因果関係が追跡調査されている。特に消防士では、精巣癌や非ホジキンリンパ腫、前立腺癌、多発性骨髄腫になるリスクが有意に高いとする論文も発表されている。約3000人の作業員に対する追跡調査では、28%の人で肺機能に何らかの異常が認められている。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ニューヨーク市警察(NYPD)など法執行機関においても、多数の警察官がテロ事件に関連した疾病(9/11 related illness)で死亡している。2016年8月までの警察官及び法執行官の死者数は110人。内訳以下の通り。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2011年1月、健康被害を受けた消防士や警察官らに医療費補償など約42億ドルを支給する法案が成立した。", "title": "被害者に関する情報" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "ブッシュ大統領は速やかに非常事態を宣言した。冷戦時代につくられた政府存続計画が初めて実行された。ワールドトレードセンター・ツインタワーやペンタゴンへの攻撃がなされた後しばらくの間は、さらなるテロに備えて、州兵、予備役が動員された。空港などには厳戒態勢が敷かれ、全ての国境が封鎖された。また、連邦航空局の命令によりアメリカ国内の民間航空路の封鎖、アメリカ領空内への民間機の入域・通過が禁止され、領空内を飛行中の民間機は全て最寄の空港に強制的に着陸させられた。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "これらの措置は数日間続いた上、この措置が行われた地域はアメリカ本土のみならず、アメリカが航空管制を担当しているサイパンやパラオなどの太平洋諸国の一部地域や、北大西洋の一部地域など広範囲に及んだ。これにより多くの外国人がアメリカ国内に足止めされた上に、多くの旅客機と乗客、運航乗務員と客室乗務員が地上待機させられたため、世界各国の航空会社の運行が大混乱に陥った。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "この事件においては、ハイジャック犯の機器操作ミス(犯人側は乗客に向けて、機内放送をするつもりだったと見られるが、機内放送用のスイッチではなく、管制塔とのやり取り用の無線スイッチを押していた)によって操縦室内の会話が管制室に入るようになり、アラビア語を話していることから、おそらくはアラブ人が犯人であることが早期に推測できた。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "また、客室乗務員は機内電話を使用して会社へハイジャックを報告し、犯人の特徴、人数と座席番号を伝えた。このため、航空会社は犯人の氏名、住所、電話番号からクレジットカードの使用履歴までを把握することが可能となった。また、数名の乗客も手持ちの携帯電話や機内電話で家族や友人にハイジャックの事実を伝えた。これらの電話の会話はほとんどが機体の破壊の時まで続いた。この内いくつかの会話は録音されており、事件捜査に使用された。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国政府はこれらの捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人のウサーマ・ビン・ラーディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」によって計画・実行されたと断定し、彼らが潜伏するアフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "しかしターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。しかし、今の段階ではアルカーイダのやったこととは断定できない」と主張し、引き渡しを拒否したが、アルカーイダの司令官のビン=ラーディンは、後にアメリカ同時多発テロ事件を実行したことを認め逃亡し、2011年5月1日に殺害された。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "なお、サウジアラビアなど湾岸協力会議を構成するアラブ諸国もテロ攻撃を批判し、アメリカによるアフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。", "title": "アメリカ合衆国政府の対応" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "喪失感が充溢する中でアメリカ国民は、求心力を愛国的な意識を共有することに求め、速やかな報復を肯定する世論が形成されていった。具体的な物的証拠が挙げられないうちから、CNNなどのアメリカ合衆国の大手マスコミなどにおいても、イスラム原理主義を信奉するアラブ系人種によるテロ説が唱えられ(同じような事は、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の際にも発生した)、流言に乗った市民によるアラブ系住民への暴行事件が多発、アラブ系男性が射殺される惨事にまで発展した。また、ヨルダン系アメリカ人アメリカ兵がテロ後に受けた差別がきっかけにより、8年後の2009年11月5日に陸軍少佐がフォートフッド陸軍基地で銃乱射事件を起こしている。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "これに対し、アラブ系アメリカ人には「Arabic Americans support U.S.(アラブ系アメリカ人は合衆国を支持する)」などと書いた横断幕を自家用車に掲げ、アメリカ合衆国の味方であることを示した者もいた。事件発生直後のテレビ報道の中で、中東系の人々が勝ち誇ったように興奮する映像が流されるなど(本テロ攻撃との関係は全く不明)、いわゆる国家的陰謀論に結びつくような偏った報道が事件直後から行われていたとする説もある。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "(大統領時代にはビン・ラーディンを脅威と考えていた)前大統領であるビル・クリントンは、「同時多発テロ事件を見て、それが直ちにビン・ラーディンによるものだろうと考えた」と後に述べており、方法はともかくとしても、アメリカ合衆国に対するイスラム原理主義勢力によるテロ攻撃の可能性は以前から意識されていたものである。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "炎上するワールドトレードセンター・ツインタワーに取り残された人々を救出すべく命がけでビルに突入し、ツインタワー両棟の崩壊で殉職した消防隊員や警察官に対してその勇気と献身的態度を賞賛する声がアメリカ合衆国のみならず世界中から寄せられ、その遺族に対する募金や手紙も世界各国から寄せられた。同じような賞賛は有毒物質が散乱する事件現場で遺体や遺留品の捜索を行った作業員たちにも同様に寄せられた。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "テロ直後、ニューヨークの消防隊員から日本の公安職員で構成するNGO日本警察消防スポーツ連盟宛てにSOSが発信され、同連盟から消防救助隊員11人を現地入りさせて救助活動を実施した。世界中から多数の救助隊がテロ現場に向かいアメリカ入りしたが、アメリカ国籍以外の外国人で実際に救助活動したのは、唯一日本の救助隊のみであった。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "事件直前、ジョージ・W・ブッシュ大統領の支持率は50%を切っていた。そもそも、前年の大統領選挙は僅差での勝利であるために、また大統領選における大規模な混乱は選挙の正当性への議論を招いたことから、選挙直後から政権支持率は高くなかった。大統領就任後の初めての大きな事件としてその指導力が国民の注目を浴びることとなり、それがテロとの戦争として位置づけられたことから、事件直後には国民の支持率は史上最高の9割に到達、いみじくも政権最初の年から国民の支持を得た形となった。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "テロ以降、ニューヨークでは数々のイベントが、市民感情およびセキュリティ上から中止となり、また週末に予定されていたNFLのレギュラーシーズンも中止が決定された。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "しかし、2日後にWWEがヒューストンにて興行を決行すると、ブロードウェイのミュージカルやメジャーリーグをはじめとする多くのイベントは、再度のテロを警戒する警察官の警護の元に程なくして再開し、「テロにひるまず通常の生活を続ける」という意思表示を行うとともに、打ちひしがれたアメリカ合衆国国民の心を慰めた。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "これを受け、全米1200もの系列局を傘下に持つラジオ放送大手のクリアチャンネル (Clear Channel Communications) は、事件直後に放送自粛曲リストを作成した。リストには以下のような著名なアーティストの楽曲が多数含まれ物議を醸した。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "映画関連ではアメリカ国内や同盟国では、ニューヨークを舞台にしたりテロをモチーフにした映画は「被害者に不謹慎」として公開を延長、または自粛する作品が相次いだ。日本でも2001年9月14日の「金曜ロードショー」(日本テレビ)で、ニューヨークにおける爆破シーンがある『ダイ・ハード3』が放送予定だったが自粛され、その他の映画も自粛された。9月23日の「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)にて「Xファイル ザ・ムービー」を放送する際には、ビル爆破シーンを全てカットしている。2002年2月に「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)でテレビ放送されたホーム・アローン2ではニューヨーク市内観光を楽しむシーンが全てカットされた(詳細はホーム・アローン2を参照)。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "テロ攻撃の後、アメリカ人の多くがテロを警戒して民間航空機による移動を避けて自家用車による移動を選択したために、同年の10月から12月までのアメリカ合衆国における自動車事故による死者の数は前年比で約1,000人増加した。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "また、アムトラックやグレイハウンドなどの民間航空機以外の公共中長距離交通機関や、レンタカーの利用者も急増した。これによりグレイハウンドなどは臨時増便を行うなどして収益が改善したものの、空席が増えた航空会社の収益は悪化する結果となった。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "同時多発テロの後、アメリカではイスラム教への敵意が広まり、ムスリム(男性なら頭にターバンを巻き髭を生やした人、女性ならばヒジャブを被り顔だけ出している人)に対するヘイトクライムの数が急増した。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "イスラム寺院やイスラム教の学校、中東系のコミュニティセンターには電話や手紙による脅迫が相次ぎ、落書き、石や火炎瓶の投擲、銃撃、豚の血を入れた箱をモスクの入り口に置いておくという悪質な嫌がらせが起きた。道を歩いていても罵声を浴びたり、アラブ系経営者の店舗、特にガソリンスタンドは危険なため、閉鎖せざるをえない状況になった。ムスリムは1日5回の祈りをするが、その祈りの中心であるモスクも暴動を恐れて閉鎖された。大学キャンパスでは中東系の学生が卵を投げつけられたり、職場では突然解雇されたり、数々の嫌がらせが広がった。アラブ系には全員身分証明書携帯を義務づける案に対して賛成者が49%、アラブ系の強制送還を求めようという案には58%ものアメリカ人が賛成する結果が出た。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "アメリカ人が持つイスラム教への敵意は長らく続いた。8年前の1993年にアメリカ・イスラム評議会が行なった世論調査によるとアメリカ国内で最も嫌われている宗教はイスラム教徒というデータが出ており、2010年9月11日には、牧師テリー・ジョーンズの主催により、「国際コーラン焼却日」と称するコーランを燃やすイベントが開かれようとした。しかし、世界中のイスラム教徒から抗議が殺到して中止に追い込まれた。", "title": "アメリカ市民の様々な反応" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "このテロに対する国際的な反発は大きかった。国際連合は安全保障理事会で9月12日にテロの脅威に対して「あらゆる手段を用いて闘う」とした国際連合安全保障理事会決議1368、この日に行われた第56回国際連合総会でもアメリカ政府と市民に哀悼と連帯を表してワシントン及びペンシルベニア、そして国連本部を置くニューヨークへのテロ攻撃を非難する決議A/RES/56/1を当時の全加盟国189カ国が満場一致で採択し、9月28日には史上初の国際立法 とされる国際連合安全保障理事会決議1373(英語版)で「全ての国」にテロ対策とその報告を義務付けた。11月10日にはルドルフ・ジュリアーニがニューヨーク市長としては初の国連演説を行ってテロとの戦いを呼びかけ、ブッシュ大統領も国連総会での初めての演説でこれらの世界の支持に感謝してテロとの戦いを宣言、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377(英語版)ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とされ、世界各国でテロ対策が進んだ。", "title": "国際社会の対応" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "11日にブッシュ大統領は、イギリスのブレア首相、フランスのシラク大統領、ロシアのプーチン大統領、中華人民共和国の江沢民国家主席ら4人の常任理事国首脳と電話会談し、テロ対策で共闘を合意した。同年4月に南シナ海でおきた海南島事件で米中は緊張関係にあったが、テロ後の初外遊 で同年10月に訪中したブッシュと協調する中華人民共和国は上海APECの議長国としてロシアや日本など各国首脳とテロとの戦いを呼びかける共同声明をまとめた。また、北大西洋条約機構 (NATO)・欧州連合 (EU)・東南アジア諸国連合 (ASEAN)・アフリカ統一機構・アラブ連盟、イスラム諸国会議機構 などのような機関もブッシュ大統領のテロとの戦いの呼びかけに応じた。米州機構は米州相互援助条約に基づいてテロは米州全体への攻撃とし、NATOとオーストラリアはテロは北大西洋条約第5条と太平洋安全保障条約第4条に当たるとして自衛権を発動した。", "title": "国際社会の対応" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "また、アメリカの同盟国や先進国と大国だけではなく、インドなどアジアの非同盟諸国もアメリカ合衆国を支持し、さらに1980年代にパンアメリカン航空機に対するテロを支援した過去のあるリビアや、ターリバーンの公然たる後援者であったサウジアラビアとパキスタン、イランアメリカ大使館人質事件以来アメリカとは犬猿の仲であるイラン、北朝鮮のような反米とされる国々でさえ犯人グループを非難し、アメリカ合衆国に対する支援に同意した(但し、アメリカ合衆国はこの後、後述するようにアフガニスタン、イラクに侵攻するが、これが中東の反米感情を刺激したことを原因として2007年にはイランがイラク国内の過激派に武器を供与している疑いがあると報道された)。", "title": "国際社会の対応" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "2006年11月14日に、反米的なウゴ・チャベス大統領率いるベネズエラの国会は、アメリカ合衆国大統領に呼びかける決議案を満場一致で採択した。メキシコ国境における壁の建設を激しく攻撃し、第4章で、「イスラム・テロとの戦争」の根拠となった2001年9月11日の事件について「ブッシュ政権が、ワールドトレードセンター・ツインタワーとその犠牲者に対する自爆テロに関し、またペンタゴンに激突したとされる航空機についての明確な釈明、およびビンラディンとブッシュ家との関係を提示するよう強く」 要求している。", "title": "国際社会の対応" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "オバマ政権は2016年7月、米捜査官のダナ・レゼマンとマイケル・ジェイコブソンがまとめた「ファイル17」と呼ばれる文書を公開したが、その中には、サウジアラビアとハイジャック犯を結びつける ワシントンD.C.のサウジアラビア大使館付属のサウジアラビア諜報員の疑いがある人物 を含む、3ダースの人物を名指しで挙げたリストが含まれていた。", "title": "調査" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "ブッシュ政権は、このテロ事件を契機にアフガニスタン侵攻を行い、さらに2002年に国際テロ組織とならず者国家と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これを元に、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、日本・イギリス・フィリピン・スペイン・イタリアなどのアメリカ合衆国同調国と、フランス・ドイツ・ロシア・中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、民主党議員のバーバラ・リーただ1人だけだった。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "またブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁政治が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監、自白を取る為の拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、警察国家化傾向が国内の一部市民団体から批判されている。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンター・コンプレックスの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たなオフィスビル・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた建築設計競技の結果、アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンドの案が採用された。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "2004年7月、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。敷地内にはツインタワー北棟・南棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に1 ワールドトレードセンターに名称変更)と名づけられ、アメリカの独立した1776年にちなんで、1,776フィート (541 m)の高さとなる。2014年11月3日開業。周囲にはタワー4・タワー7が建設済み、タワー2・タワー3・タワー5が建つ予定。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "一方、崩落したワールドトレードセンター・コンプレックスの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。遺体はDNAすら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。しかし、2005年3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。鉄骨類は屑鉄として再利用のためインドへと輸出された。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2022年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。それは2009年12月25日のノースウェスト機テロ、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "ブラウン大学が2021年6月に発表した調査によると、9・11以降、アメリカはアフガニスタンやイラクへの軍事作戦を展開し、この一連の軍事行動(2001年から2021年の20年間)で、戦死した米兵は7,057人であるのに対し、戦地から帰国した後にPTSDなどを発症して自殺した元米兵は、4倍以上の3万177人にのぼることが分かった。", "title": "その後" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "アメリカ同時多発テロは、アメリカ合衆国の政治、そして冷戦後の国際社会の大きな転換点となった。アメリカ同時多発テロ事件が勃発する前には、20世紀の「アメリカ合衆国国民の記憶に残る日」は、1963年11月22日のジョン・F・ケネディ暗殺事件、あるいは1941年12月7日の大日本帝国海軍による真珠湾攻撃であった。これらに代わってアメリカ国民は、この2001年9月11日をテロの脅威と共に永遠に記憶にとどめることになった。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "アメリカ同時多発テロは、「外国がアメリカ本土を襲撃した事件」として、「真珠湾攻撃」と度々対比されている。真珠湾攻撃は日本の正規軍が軍事行動としてアメリカ本土ではなくハワイのアメリカ軍基地を攻撃したケースであったが、アメリカ同時多発テロはアメリカ本土が襲撃された事件という意味でも衝撃的な大事件ともなった(なお1942年には日本海軍機がアメリカ本土を数回爆撃している)。しかも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件は干支が同じ辛巳であり、「60年後の真珠湾攻撃」とも呼ばれた。2001年12月に開かれた真珠湾攻撃60周年のイベントでも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件が一緒に言及された。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国国内の世論は急速に先鋭化・超国家主義化したと言われ、ネオコン(新保守主義)勢力が政治の世界で隆盛し、影響力を増大させた引き金ともなった。その後、アメリカ合衆国によるテロ支援国家への攻撃には国民の大半が賛同した。議会でも野党民主党が共和党のタカ派路線を容認する動きが目立った。事件直後、ブッシュ政権がアメリカ同時多発テロ事件へのイラクの関与をほのめかし、過剰なマスコミ報道によりそれが増幅された為に国民の間にイラクとサッダーム・フセインに対する敵意が増大し、2年後のイラク戦争の呼び水となったと言われる。その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与が否定され、ブッシュ大統領自身もそれを認めたにもかかわらず、2005年3月の世論調査では、米国民の約60%が「イラクはアルカーイダを支援していたと思う」と答えている。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "一方、他の国ではアメリカ合衆国の方針に対して世論が二つに割れた。親米的な意見(アメリカ合衆国の主張)としては、これを基に世界中の独裁国家の自由民主化を進めるべきだという意見などがある。特にブッシュ大統領が悪の枢軸としたイラク・イラン・北朝鮮などで非自由民主的体制が猛威を振るっているとされる状況で、これを解決するべきだとの声もある。その後のアメリカ合衆国の対応を見ると、イラクやイランに対しては攻撃的な姿勢であるものの、表向き寧辺核施設無力化を受け入れた北朝鮮、大量破壊兵器を放棄したリビア、同盟国のサウジアラビアに対しては穏和な姿勢を持つなど、二重基準と批判する対応が目立つ。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "反米反戦的な意見としては、「自由の国アメリカ」のシステムを国外に普及させることを使命とするネオコン勢力の拡大は、政府の好戦的姿勢に反対する意見を言えない雰囲気を作り出しているとする声もあり、リバタリアニズムなど反ネオコン陣営からの反発も高まっている上に、アメリカ合衆国国内でさえ破綻しかけているアメリカ合衆国的価値観・システムの押し売りであるという反発が多い。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "このテロ事件を動機にして、アメリカ合衆国は国連協調を投げ棄てて一国独走主義の時代になったり、冷戦時代の米ソ対立の構図の残滓も消え、世界の軸は無類の超大国一国によって動かされる(ジョン・ボルトンの国連軽視発言)時代になったとする意見もあり、これを「アメリカ帝国」と表現するアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートのような思想家などもいる。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "軍事面では、戦争をこれまでの「国家vs国家」から、「民間軍事組織vs国家」の構図として描く傾向が濃厚になった。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "事件後のアフガニスタン攻撃に伴う対アフガニスタン人道援助・資金援助は、アフガニスタンとの国交を唯一保ったパキスタンが窓口となった。アフガニスタン向け援助は、その10-80%がアフガニスタンに届く前にパキスタンにおいて横流しされ、イスラム原理主義者を勢いづかせたのではないか、という意見もある。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "なお、事件後にアメリカ合衆国を中心に行われたイラクへの侵攻に同調し派兵を行ったイギリスやスペインでは、この派兵に反対するイスラム過激派と見られる集団による一般市民を狙ったテロ事件が発生し、多くの人命が失われた。また、アメリカ合衆国主導で行われたイラク侵攻に同調し派兵することに対して、上記のようにこれらの国の内部で国民の意見が二分した。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "その結果スペインでは、2004年3月のマドリードにおける列車爆破テロ事件後に行われた選挙で、アメリカ合衆国への支持と派兵を決定したホセ・マリア・アスナール首相率いる国民党が敗退し、ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ率いるスペイン社会労働党に政権が交代した。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "同じくアメリカ合衆国への支持と派兵を打ち出して以降人気が急落していたイギリスのトニー・ブレア首相が任期途中で退陣することを発表するなど、アメリカ合衆国への支持と派兵はこれらの国における政権交代のきっかけを作ることとなった。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "アメリカ同時多発テロ事件が起きた時刻はアメリカ合衆国での取引が始まる前で、多くの金融機関が入居するワールドトレードセンターで起きた事件ということもあり、その日のアメリカ合衆国国内の取引は中止。翌週の17日(月曜日)に再開するまで、取引所や金融機関は修復作業に追われた。9月10日の終値が9,605.51ドルだったNYダウは、取引が再開された17日には取引時間中に8,883.4ドルまで下落することになり、9月10日に121円を付けていた円ドルのレートも、翌日には118.5円まで値を落とした。なお、1機目の衝突直後から南側ビルの崩壊までの間だけでNYダウは100ドル以上下落していた。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "一方、取引中だったヨーロッパではCNNやCNBCを通じて事態が明らかになるとすべての取引所で株価の全面安が起きる。明くる12日の東京市場の日経平均株価は680円以上の下落となった。これは一部で「9・11ショック」とも報道されていた。その後多くの国においては株価の低迷がしばらくの間続くこととなる。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "又、9月18日のタイムズ紙によると、事件の数日から数週間前にかけて、アメリカ・日本・イギリス・ドイツ・イタリアの株式市場で航空会社や保険会社、軍事関連企業などの株式が大量に信用売りされ、テロ攻撃の結果、株価が暴落した直後に安値で大量に買い戻された不審な売買形跡が認められたという。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "このテロが航空機を用いたものであったことや、シティグループやオムニコム・グループ、マイクロソフトなど、アメリカを中心とした大企業が緊急なものを除く外国出張の禁止を命じたことなどから、事件後は航空需要が一時的に激減し、世界中の航空会社が大きな打撃を受けることとなった。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "テロの標的となったユナイテッド航空だけでなく、標的にならなかったノースウエスト航空・デルタ航空も、連邦倒産法第11章の適用を申請し経営破綻した。また、サベナ航空やスイス航空、アンセット航空など、アメリカ以外の航空会社も多くが赤字に転落したうえ経営破綻し、そのうちのいくつかは姿を消した。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "また、以前より空港や機内での保安体制が強化され、搭乗客への身体検査や手荷物の検査が厳重化されたほか、操縦室のドアなども強化するよう法律が改められた。", "title": "事件の影響" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "アメリカは全世界にバイオメトリック・パスポートの導入を要求し、従わない国及び市民はビザ免除プログラムの対象外とした。", "title": "事件の影響" } ]
アメリカ同時多発テロ事件は、2001年9月11日にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃。9.11事件(きゅういちいちじけん)と呼称される場合もある。 一連の攻撃で、日本人24人を含む2,977人が死亡、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドル(日本円換算114兆6595億円)のインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した。アメリカの歴史上、最も多くの消防士と法執行官が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった。また、この事件を契機としてアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が勃発し、世界規模での対テロ戦争が始まった。
{{Infobox 民間人の攻撃 |名称=アメリカ同時多発テロ事件 |画像=September_11_Photo_Montage.jpg |脚注=最上段:旅客機の衝突で炎上するワールドトレードセンター<br />2段目左:ペンタゴンに突入した痕跡<br />2段目右:2機目の旅客機が激突し爆発炎上するワールドトレードセンター<br />3段目左:崩壊後のワールドトレードセンターと生存者の救出活動を行う消防士<br />3段目右:ユナイテッド航空93便の残骸<br />最下段:ペンタゴンに突入する瞬間を捉えた映像の[[コマ (映画・漫画)|コマ]] |場所={{USA}} <br />[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]](1度目と2度目)<br />[[バージニア州]][[アーリントン郡 (バージニア州)|アーリントン]](3度目)<br />[[ペンシルベニア州]][[シャンクスヴィル]](4度目) |標的=[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]の北棟と南棟(第1・2)<br />[[アメリカ国防総省]][[ペンタゴン|本部庁舎]](第3)<br />第4の標的は不明([[アメリカ合衆国議会議事堂|合衆国議事堂]]か[[ホワイトハウス]]と推測されている)。 |日付=[[2001年]][[9月11日]]([[火曜日]]) |時間=午前8時46分 - 午前10時28分<br />[[東部夏時間]] (EDT) |手段=[[ハイジャック]]、[[自爆テロ]] |死亡=2,996人(被害者2,977人 + 実行犯19人)<ref>{{Cite news |url=http://www.cbc.ca/news/canada/manitoba/winnipegger-heads-to-ny-for-9-11-memorial-1.991431|title=Winnipegger heads to NY for 9/11 memorial |publisher= CBC News |date=2011-09-09 |accessdate=2018-07-24}}</ref><ref name="auto"/><ref name="WashingtonPost"/> |負傷=25,000人以上 |容疑=[[アルカーイダ]]([[アメリカ同時多発テロ事件#テロの実行者|#実行者]]も参照) |動機=アメリカ軍のサウジアラビア駐留、アメリカの親イスラエル政策等([[アメリカ同時多発テロ事件#動機|#動機]]も参照)}} '''アメリカ同時多発テロ事件'''(アメリカどうじたはつテロじけん、{{Lang-en-short|September 11 attacks}})は、[[2001年]][[9月11日]]に[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]テロ組織[[アルカーイダ|アルカイダ]]によって行われた[[アメリカ合衆国]]に対する4つの協調的な[[テロリズム|テロ攻撃]]<ref name="Moghadam2">{{cite book|title=The Globalization of Martyrdom: Al Qaeda, Salafi Jihad, and the Diffusion of Suicide Attacks|last=Moghadam|first=Assaf|publisher=Johns Hopkins University|year=2008|isbn=978-0-8018-9055-0|page=48}}</ref><ref name="SalafistJidadism2">{{cite web|url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/front/special/sala.html|title=Special Reports&nbsp;– The Salafist Movement: Al Qaeda's New Front|last=Livesey|first=Bruce|date=January 25, 2005|website=PBS Frontline|publisher=WGBH educational foundation|accessdate=October 18, 2011}}{{cite book|title=US Counter-Terrorism Strategy and al-Qaeda: Signalling and the Terrorist World-View|last1=Geltzer|first1=Joshua A.|date=2011|publisher=Routledge|isbn=978-0415664523|edition=Reprint|page=83}}</ref>{{sfnp|Wright|2006|p=79}}。'''9.11事件'''(きゅういちいちじけん)と呼称される場合もある<ref>{{Cite Kotobank|word=9.11事件|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2022年10月14日|url=https://kotobank.jp/word/9.11%E4%BA%8B%E4%BB%B6-181243}}</ref>。 一連の攻撃で、[[日本人]]24人を含む2,977人が死亡<ref>{{Cite news|title=米同時多発テロ事件とは その後の20年で世界は|publisher=NHK|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210910/k10013252951000.html|date=2021-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210910095452/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210910/k10013252951000.html|archivedate=2021-09-10}}</ref>、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドル(日本円換算114兆6595億円)のインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した<ref name="cost2">{{Cite web|title=How much did the September 11 terrorist attack cost America?|url=http://www.iags.org/costof911.html|publisher=Institute for the Analysis of Global Security|accessdate=April 30, 2014}}</ref><ref name="PEARL9/112">{{Cite book|title=The Impact of 9/11 on Politics and War: The Day that Changed Everything?|last=Matthew J. Morgan|page=222|date=August 4, 2009|publisher=Palgrave Macmillan|isbn=978-0-230-60763-7|url=https://books.google.com/?id=JDEfUCll7DcC}}</ref>。[[アメリカ合衆国の歴史|アメリカの歴史]]上、最も多くの[[消防士]]と[[アメリカ合衆国の警察#法執行官|法執行官]]が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった<ref name="Congress">{{Cite book|last=Congress|title=Congressional Record, Vol. 148, Pt. 7, May 23, 2002 to June 12, 2002|url=https://books.google.com/?id=eCO7Q10SGBUC&pg=PA9909|accessdate=April 9, 2014|publisher=Government Printing Office|page=9909|isbn=978-0-16-076125-6|date=May 2006}}</ref>。また、この事件を契機として[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]]が勃発し、世界規模での[[対テロ戦争]]が始まった。 == 概要 == 2001年9月11日(火曜日)の朝、[[アメリカ合衆国北東部]]の[[空港]]から[[カリフォルニア州|西海岸]]に向けて出発した[[旅客機]]計4機が、[[イスラム原理主義]][[過激派]][[アルカイダ]]のメンバー計19人に[[ハイジャック]]された。 ; ワールドトレードセンターへのテロ攻撃 : [[アメリカン航空11便テロ事件|アメリカン航空11便]]と[[ユナイテッド航空175便テロ事件|ユナイテッド航空175便]]の2機は[[ロウアー・マンハッタン]]の[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]](世界貿易センタービル)に向かい、午前8時46分(日本時間11日午後9時46分)にアメリカン航空11便がノースタワー(北棟)に、午前9時3分(日本時間午後10時3分)にユナイテッド航空175便がサウスタワー(南棟)に激突した。 : 南棟はハイジャック機の突入から56分後、北棟は1時間42分後に倒壊し、それに伴う衝撃と[[火災]]は[[7 ワールドトレードセンター]]タワー(47階建て)を含むワールドトレードセンター内のすべての建物への一部または全体への破壊を引き起こしただけでなく、周囲10ヵ所の大型構造物に甚大な損傷を与えた。 ; ペンタゴンへのテロ攻撃 : 3機目の[[アメリカン航空77便テロ事件|アメリカン航空77便]]は、午前9時37分(日本時間午後11時37分)に[[アーリントン郡 (バージニア州)|バージニア州アーリントン郡]]の[[ペンタゴン]]([[アメリカ国防総省]]本庁舎)に激突し、建物の西側が部分的に倒壊した。 ; テロ攻撃の失敗 : 4機目の[[ユナイテッド航空93便テロ事件|ユナイテッド航空93便]]は[[コロンビア特別区]]に向けて飛行していたが、乗員乗客がハイジャック犯の制圧を試みた結果、[[ペンシルバニア州]]ストーニークリーク郡区の野原に墜落した。 ワールドトレードセンターおよび周辺の[[インフラ]]への破壊は、[[ニューヨーク市]]の経済に深刻な打撃を与え、世界市場にも大きな影響を与えた。米国とカナダの民間空域は9月13日まで閉鎖され、[[ウォール街]]は9月17日まで閉鎖された。新たな攻撃への恐怖と警戒心から、多くの閉鎖、避難、キャンセルが続いた。 捜査の結果、アルカイダの指導者である[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]に疑いが向けられ、米国はテロから約1ヵ月後の2001年10月、[[有志連合]]諸国とともに軍事作戦を開始し[[アフガニスタン]]を攻略し、同国からのアルカイダの放逐と、テロの首謀者とみられるビン・ラーディンの身柄引き渡しに応じなかった[[ターリバーン|タリバン]]政権を同年11月に事実上崩壊させた。ビン・ラーディンは当初、事件への自身の関与を否定していたが、2004年にテロ攻撃の責任が自らにあることを認めた<ref name="cbc-20042">{{Cite news|title=Bin Laden claims responsibility for 9/11|publisher=CBC News|date=October 29, 2004|url=https://www.cbc.ca/news/world/bin-laden-claims-responsibility-for-9-11-1.513654|accessdate=September 1, 2011|quote=Al-Qaeda leader Osama bin Laden appeared in a new message aired on an Arabic TV station Friday night, for the first time claiming direct responsibility for the 2001 attacks against the United States.}}</ref>。 アルカイダとビン・ラーディンは、[[米以関係|アメリカのイスラエル支援]]、[[サザン・ウォッチ作戦|サウジアラビアへのアメリカ軍の駐留]]、幼児50万人が犠牲になったと言われる[[イラク]]に対する[[対イラク経済制裁|制裁]]<ref>{{Cite web |title=Iraq surveys show 'humanitarian emergency' - Iraq {{!}} ReliefWeb |url=https://reliefweb.int/report/iraq/iraq-surveys-show-humanitarian-emergency |website=reliefweb.int |date=1999-08-12 |access-date=2023-10-27 |language=en |author=OCHA(国際連合人道問題調整事務所)}}</ref>などをテロの理由に挙げた。ビン・ラーディンはテロから10年近く捕捉を逃れ、[[パキスタン]]国境付近に潜伏していたが、テロから約10年後の2011年5月、[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|アメリカ軍の急襲により殺害]]された。 ワールドトレードセンター跡地の清掃は2002年5月に完了し、ペンタゴンは1年以内に修復された。[[1 ワールドトレードセンター]]の建設は2006年11月に始まり、2014年11月にオープンした<ref name="MooreOneWTC">{{Cite web|author=Moore|first=Jack|title=World Trade Center Re-opens as Tallest Building in America|url=http://onewtc.com/news/world-trade-center-re-opens-as-tallest-building-in-america|website=onewtc.com|date=November 3, 2014|accessdate=September 11, 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150904120549/http://onewtc.com/news/world-trade-center-re-opens-as-tallest-building-in-america|archivedate=September 4, 2015}}</ref><ref>{{Cite news|last=Smith|first=Aaron|title=One World Trade Center opens today|url=https://money.cnn.com/2014/11/03/news/companies/one-world-trade-center/index.html|publisher=CNN|date=November 3, 2014|accessdate=November 4, 2014}}</ref>。ニューヨーク市の[[ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム|911メモリアル&ミュージアム]]、バージニア州アーリントン郡のペンタゴンメモリアル、ペンシルバニア州の墜落現場にある93便ナショナルメモリアルなど、多数の慰霊碑が建立された。 == ハイジャックされた旅客機 == [[File:Flight_paths_of_hijacked_planes-September_11_attacks.jpg|thumb|300px|ハイジャックされた各旅客機の飛行ルート]] 2001年9月11日朝(現地時間)、[[マサチューセッツ州]][[ボストン (マサチューセッツ州)|ボストン]]、[[バージニア州]]ダレス([[ワシントンD.C.]]近郊)、[[ニュージャージー州]][[ニューアーク (ニュージャージー州)|ニューアーク]]を発った4機の旅客機が、[[モハメド・アタ]]を中心とするアラブ系の集団によってほぼ同時に[[ハイジャック]]された。彼らは[[操縦室]]に侵入し、[[パイロット (航空)|操縦士]]を殺害した後、自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)を[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン]]へ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)を[[ワシントンD.C.]]へ向かわせた<ref>[http://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB196/doc02.pdf アメリカン航空77便飛行経路考察(NTSB報告書)]</ref><ref>[http://911research.wtc7.net/planes/evidence/ntsb.html#flight93 ユナイテッド航空93便飛行経路考察(NTSB報告書)]</ref>。 なお、乗っ取られた4機のうち2機が米[[ボーイング]]社製の[[ボーイング767]]型機で、残りの2機が[[ボーイング757]]型機である。この2種類の機体は、運行する[[航空会社]]の操縦士に互換性を持たせるために、[[旅客機のコックピット|操縦室]]の操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。 また、実行犯のリーダー、[[モハメド・アタ]]をはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国内にある民間の航空学校(ホフマン飛行機学校<ref>[[NHKスペシャル]]『一年目の真実~ビンラディン対アメリカ~』による。</ref>)で小型機の自家用操縦免許を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前に[[フライトシミュレーション|フライトシミュレータ]]で訓練していたことが明らかになっている<ref>『華氏911』の映画監督であるマイケル・ムーアは、これら大型機を操縦して体当たりする技術が一朝一夕で身に付くわけがなく、犯人は飛行機のフライト経験が豊富な元軍人(仮説としてサウジアラビア空軍のパイロット)ではないかと主張している{{要出典|date=2011年5月}}。</ref>。 これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者{{要出典|date=2011年5月}}もいる。なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している<ref>[http://911research.wtc7.net/cache/sept11/victims/victims_list.htm 911犠牲者一覧](911research.wtc7.net)</ref>。 === アメリカン航空11便 === {{main|アメリカン航空11便テロ事件}} {{Double image aside|right|N334AA B767-223ER American MAN 08APR01 (6839074488).jpg|213|AA11 path.svg|180|アメリカン航空のボーイング767-200ER(N334AA)|アメリカン航空11便の飛行経路}} [[ボストン]]発[[ロサンゼルス]]行き[[アメリカン航空]]11便(AA011; [[ボーイング767#767-200ER|ボーイング767-200ER型]]機・[[機体記号]]N334AA)は、乗客81人(日本人1人を含む)・乗員11人を乗せ、午前8時00分頃に[[ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港|ローガン国際空港]]を離陸し、[[ロサンゼルス国際空港]]に向かった<ref>{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB196/doc01.pdf |title=Flight Path Study – American Airlines Flight 11 |publisher=National Transportation Safety Board |date=February 19, 2002 |accessdate=July 22, 2018|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web |title=ASN Aircraft accident Boeing 767-223ER N334AA New York, NY |work=Aviation Safety network |url=https://aviation-safety.net/database/record.php?id=20010911-0 |accessdate=2018-08-23}}</ref>。その後、11便は午前8時14分頃に始められたハイジャックにより、コックピットを乗っ取られた<ref name=CP1>{{cite news | title = Chapter 1: "We have some planes" | url = http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch1.pdf |work=9/11 Commission Report. National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States | date = July 22, 2004 }}</ref>。11便は午前8時27分に進路を南向きに変え、午前8時46分に[[ニューヨーク]]・[[ロウアー・マンハッタン]]のワールドトレードセンター・ツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上した<ref name=CP1/><ref name=110stories>{{cite book |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1) |publisher=The National Institute of Standards and Technology|url=https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|page=2|accessdate=August 23, 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170222215059/https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|archivedate=2017-02-22}}</ref>。角度、速度ともに浅い離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。 11便がWTC北棟に衝突する瞬間は、[[ニューヨーク市消防局]]Ladder Companyの取材をしていた[[フランス]]の映像作家、{{ill2|ノーデ兄弟|en|Jules and Gédéon Naudet}}によって撮影されていた<ref>{{cite news |last=Carter |first=Bill |url=https://www.nytimes.com/2002/02/06/nyregion/cbs-to-broadcast-videotape-shot-inside-towers-during-trade-center-attack.html |title= CBS to Broadcast Videotape Shot Inside Towers During Trade Center Attack |date=February 6, 2002 |work=The New York Times |accessdate=2018-08-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131225000202/http://www.nytimes.com/2002/02/06/nyregion/cbs-to-broadcast-videotape-shot-inside-towers-during-trade-center-attack.html |archivedate=December 25, 2013 }}</ref>。また、ホームビデオや定点カメラに写り込んだ映像も存在する<ref>[https://www.blesk.cz/clanek/regiony-brno-brnane/689819/pavel-z-brna-jediny-clovek-na-svete-ktery-natocil-pred-20-lety-oba-utoky-v-new-yorku.html Pavel z Brna: Jediný člověk na světě, který natočil před 20 lety oba útoky v New Yorku] - Blesk</ref>。 === ユナイテッド航空175便 === {{main|ユナイテッド航空175便テロ事件}} {{Double image aside|right|Boeing 767-222, United Airlines AN0188143.jpg|178|UA175_path.svg|180|ユナイテッド航空のボーイング767-200(N612UA)|ユナイテッド航空175便の飛行経路}} ボストン発ロサンゼルス行き[[ユナイテッド航空]]175便(UA175; [[ボーイング767#767-200ER|ボーイング767-200ER型]]機・[[機体記号]]N612UA)は、乗客56人・乗員9人を乗せ、午前8時14分にローガン国際空港を離陸し(アメリカン航空11便でのハイジャック発生とほぼ同時)、ロサンゼルス国際空港に向かった<ref>{{cite web|url=https://www.ntsb.gov/about/Documents/Flight_Path_Study_UA175.pdf |title=Flight Path Study – United Airlines Flight 175 |publisher=National Transportation Safety Board |accessdate=July 22, 2018|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web |title=ASN Aircraft accident Boeing 767-222 N612UA New York, NY |work=Aviation Safety network |url=https://aviation-safety.net/database/record.php?id=20010911-1 |accessdate=2018-08-23}}</ref>。午前8時42分頃、UA175便のパイロットは離陸直後に耳にした不審な内容の無線(ハイジャックされたアメリカン航空11便からの無線だった)について管制官に報告したが、それから午前8時46分までの間にUA175便もハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた<ref name=CP1/>。その後、UA175便は午前8時58分にニューヨークへ進路を変え、午前9時03分にWTC・ツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上した<ref name=CP1/><ref name=110stories/>。南棟では北棟の爆発を受けて多くの人が避難を開始していたため、人的被害は北棟よりも少ないが、先に突入を受けた北棟より早く南棟が崩壊している<ref name=impact175>{{cite book |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1) |publisher=The National Institute of Standards and Technology|url=https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|pages=45-46|accessdate=July 22, 2018}}</ref>。 11便とは異なり、175便の突入時には、既に多くの人に事態が認識されていたことから、突入の瞬間の映像や写真が多数記録されている<ref name=1Camera>{{cite news |last=Boxer |first=Sarah |title=EYEWITNESSES; One Camera, Then Thousands, Indelibly Etching a Day of Loss |date=2002-09-11 |work=The New York Times |url=https://www.nytimes.com/2002/09/11/us/eyewitnesses-one-camera-then-thousands-indelibly-etching-a-day-of-loss.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180119041138/www.nytimes.com/2002/09/11/us/eyewitnesses-one-camera-then-thousands-indelibly-etching-a-day-of-loss.html |archivedate=2018-01-19}}</ref>。なお、105階に居た[[エーオン]]副社長の[[:en:Kevin Cosgrove|ケビン・コスグローブ]](南棟の崩壊時に死亡)が、南棟が崩壊する瞬間まで[[緊急通報用電話番号|911番]]へ電話で状況を伝えていた音声が録音されており<ref>{{cite news |last=Kiehl |first=Stephen |date=September 10, 2006 |work=The Baltimore Sun |url=http://www.baltimoresun.com/features/bal-911story091006,0,7382393.story |title='I think we're getting hijacked' |accessdate=2018-08-20|archive-url=https://archive.is/20170726233436/http://www.baltimoresun.com/features/bal-911story091006-story.html |archive-date=July 26, 2017 |dead-url=no |df= }}</ref>、この録音は[[ザカリアス・ムサウイ]]の裁判において証拠として用いられた<ref>{{Cite news |url=http://edition.cnn.com/2006/LAW/04/10/moussaoui.victims/|title=Father recalls son's last words on 9/11 |date=2006-04-11|work=Cable News Network |accessdate=2018-08-20}}</ref>。 === アメリカン航空77便 === {{main|アメリカン航空77便テロ事件}} {{Double image aside|right|American Airlines Boeing 757; N619AA@LAX;21.04.2007 466iv (4289275278).jpg|193|Flightpath-AA77.gif|180|アメリカン航空のボーイング757-200|アメリカン航空77便の飛行経路}} [[ワシントンD.C.]]([[ワシントン・ダレス国際空港|ダレス国際空港]])発、ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空77便(AA077; [[ボーイング757]]-200:[[機体記号]]N644AA)は、乗客58人・乗員6人を乗せて、午前8時20分に出発した。午前8時50分頃までにハイジャックされコックピットを乗っ取られた。直後に進路を北向きに変えた後、南へ転回、その後東へ進路を変えた。最初の進路離脱から3分間は管制塔と機長が交信していたが、その後通信不能となった。 そして午前9時38分、[[バージニア州]][[アーリントン (バージニア州)|アーリントン]]にある[[アメリカ国防総省]]本庁舎(ペンタゴン)に激突し、爆発炎上した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録されており、また付近を通行中の多くのドライバーや歩行者によって降下し激突する瞬間が目撃された。 防犯カメラなどの映像によると、機体は水平の状態で地面を滑走しながらペンタゴンに衝突していたが、高速で建築物に激突・炎上したため機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。 === ユナイテッド航空93便 === {{main|ユナイテッド航空93便テロ事件}} {{Double image aside|right|N591UA.jpg|205|UA93 path.svg|180|ユナイテッド航空のボーイング757-200(N591UA)|ユナイテッド航空93便の飛行経路}} [[File:Flight 93 Crater.jpg|thumb|220px|right|ユナイテッド航空93便の墜落跡地にできた穴]] [[ニューアーク (ニュージャージー州)|ニューアーク]]([[ニューアーク・リバティー国際空港|ニューアーク空港]])発[[サンフランシスコ]]([[サンフランシスコ国際空港]])行き[[ユナイテッド航空]]93便(UA093; [[ボーイング757]]-200、[[機体記号]]N591UA)は、午前8時42分、乗客37人(日本人1人を含む)(乗客37人中4人はテロリスト)・乗員7人を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。 乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分に[[ハイジャック]]され、コックピットを乗っ取られた。[[オハイオ州]]クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的は[[アメリカ合衆国議会議事堂]]か[[ホワイトハウス]]であったと推測されている。 午前9時57分、機内電話や[[携帯電話]]による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。午前10時03分、93便は490[[ノット]] ({{convert2|563|mph|km/h|lk=on}}) の速度で[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]郊外[[シャンクスヴィル]](ワシントンD.C. 北西240[[キロメートル|キロ]]の場所)に墜落した<ref>{{cite web |url=https://www.hsdl.org/?view&did=478665 |format=PDF |title=National Transportation Safety Board: Flight Path Study – United Airlines Flight 93 |date=February 19, 2002 |publisher=Homeland Security Digital Library |accessdate=September 12, 2011}}</ref>。離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。なお、[[地震計]]のデータから墜落の時刻を午前10時06分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。 乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「{{lang|en|Let's Roll.}}(さあやろうぜ・よし、皆かかれ)」を合図にしたと言われている。この「{{lang|en|Let's Roll}}」は、9・11事件以降の[[アフガニスタン]]での「報復戦争」において一種のスローガンとして用いられた<ref name="Age1">{{cite web |title='Let's roll': A catchphrase that became a battlecry |url=http://www.theage.com.au/articles/2002/09/09/1031115990625.html |work=The Age |location=Australia |date=September 9, 2002 |accessdate=2018-08-20}}</ref>。9・11事件の調査委員会は乗客は操縦室内に進入できなかったと結論づけているが<ref name=CP1/>、一部の遺族は[[ブラックボックス (航空)#コックピットボイスレコーダー|CVR音声]]に乗客が操縦室に進入した証拠が記録されていると主張している<ref>{{cite news |agency=Associated Press |title=Families of Passengers Question Theory That Hijackers Crashed Flight 93 |url=http://www.foxnews.com/story/0,2933,94213,00.html |date=August 8, 2003 |publisher=Foxnews.com |accessdate=2018-08-20 |authorlink=Associated Press}}</ref>。なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『[[ユナイテッド93]]』が[[2006年]]に公開された<ref>{{cite news |last=Timmons |first=Heather |title=Four Years On, a Cabin's-Eye View of 9/11 |url=https://www.nytimes.com/2006/01/01/movies/01timm.html?ex=1293771600&en=f5a28a31bbbc6611&ei=5090&partner=rssuserland&emc=rss |date=January 1, 2006 |work=The New York Times |accessdate=2018-08-20}}</ref>。 == 被害 == === ワールドトレードセンター(WTC) === [[File:UA Flight 175 hits WTC south tower 9-11 edit.jpeg|thumb|200px|ユナイテッド航空175便がツインタワー南棟に突入した瞬間]] [[File:September 11 attack seen from space by nasa.jpg|thumb|200px|[[NASA]]が宇宙から撮影したテロ攻撃の様子<ref>{{cite news|last=Jones|first=Jonathan|title=The 9/11 attack seen from space – an image of impotence|url=https://www.theguardian.com/commentisfree/2014/mar/10/911-attack-seen-from-space-image-impotence|newspaper=[[The Guardian]]|archiveurl=https://webcitation.org/6O0cC7vk0?url=http://www.theguardian.com/commentisfree/2014/mar/10/911-attack-seen-from-space-image-impotence|archivedate=March 12, 2014|deadurl=no}}</ref>]] [[File:National Park Service 9-11 Statue of Liberty and WTC fire.jpg|thumb|200px|[[自由の女神]]の背景で炎上しているツインタワー]] 午前8時46分40秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便が[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]北棟 (1&nbsp;WTC)の北面、93 – 99階の部分に衝突した<ref>{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB196/doc01.pdf |title=Flight Path Study – American Airlines Flight 11 |publisher=National Transportation Safety Board |date=February 19, 2002 |accessdate=July 22, 2018|format=PDF}}</ref><ref name="ncp285"/><ref>{{cite book |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1) |publisher=The National Institute of Standards and Technology|url=https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|page=19|accessdate=September 11, 2021}}</ref>。衝突によってハイジャック機の[[ジェット燃料]]が引火したことで北棟の高層階では爆発的な火災が発生し、また燃料がエレベーターシャフトを通じて落下したことで地上ロビー等の低層のフロアでも爆発が起こった<ref name="ncp285">{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=285 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=September 11, 2021}}</ref><ref>{{cite web|title=Visual Evidence, Damage Estimates, and Timeline Analysis (Chapters 1-8)|url=https://www.nist.gov/manuscript-publication-search.cfm?pub_id=101356|publisher=The National Institute of Standards and Technology|page=80 |accessdate=July 22, 2018}}</ref>。 衝突から間もなく火災と黒煙は周辺階に広がり始め、8時52分には、過酷な状況に耐えかねて高層階から[[飛び降り#火事場からの「飛び降り」|飛び降り]]る人々も現れた<ref>{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=287 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=July 22, 2018}}</ref><ref>{{cite book |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1) |publisher=The National Institute of Standards and Technology|url=https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|page=26|accessdate=August 15, 2018}}</ref>。この時点では、北棟への航空機の突入は(テロ攻撃ではなく)事故であるとの見方が大勢を占めていた<ref name=britannica>{{Citation |contributor=Peter L. Bergen |title=September 11 attacks |work=Encyclopædia Britannica |publisher=Encyclopædia Britannica, inc. |date=2018-05-23 |url=https://www.britannica.com/event/September-11-attacks |accessdate=2018-08-20}}</ref>。当時の大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]も第一報を受けて「これは[[パイロットエラー]]による事故だ」と発言した<ref name=ACRW>{{cite news |author1=Dan Balz |author2=Bob Woodward |date=2002-01-27 |title=America's Chaotic Road to War |work=The Washington Post |url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A42754-2002Jan26_2.html |accessdate=2018-08-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070809122457/www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A42754-2002Jan26_2.html |archivedate=2007-08-09}}</ref>。 午前9時02分59秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟 (2&nbsp;WTC) に突入し、南棟は爆発炎上した<ref>{{cite book |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1) |publisher=The National Institute of Standards and Technology|url=https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|page=27|accessdate=August 25, 2018}}</ref>。ハイジャック機は機体を傾けながら南棟の南面、77 – 85階の部分に衝突しており<ref name="911cr291"/>、これによって南棟が負った構造的ダメージは北棟と比較してより深刻だった<ref name=impact175/>。2機目のジェット機が南棟に衝突した瞬間は既に多数の報道カメラが記録を始めており、一般者も含めた数多のカメラによって様々な角度から捉えられた<ref name="1Camera"/>。この時点で、一連の出来事が事故ではなく[[故意]]に起こされた攻撃であることが広く認識された<ref name=britannica/><ref name=ACRW/>。 午前9時37分、ハイジャックされた旅客機(アメリカン航空77便)が[[ペンタゴン]]に突入した<ref name=American77>{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB196/doc02.pdf |title=Flight Path Study – American Airlines Flight 77 |publisher=National Transportation Safety Board |date=February 19, 2002 |accessdate=September 10, 2018|format=PDF}}</ref>。9時42分、[[連邦航空局]] (FAA) は[[アメリカ合衆国本土#概要|アメリカ合衆国大陸部]]内のすべての民間航空機を離陸禁止とし、すでに飛行中の民間機にはただちに着陸するよう指示した<ref name=CP1/>。 午前9時59分、ユナイテッド航空175便の南棟[[突入]]から56分後、ワールドトレードセンター南棟が崩壊した<ref name=NCSTAR>{{cite book |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1) |publisher=The National Institute of Standards and Technology |url=https://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017|page=148|accessdate=July 22, 2018}}</ref><ref name=huffpost>{{cite web|title=A Minute-By-Minute Breakdown Of What Happened On 9/11|url=https://www.huffingtonpost.com/entry/9-11-timeline_us_57d300d8e4b06a74c9f48c09|publisher=The Huffington Post|date=September 9 2016|accessdate=July 22, 2018}}</ref>。その直後の10時03分11秒、ハイジャックされたユナイテッド航空93便がペンシルベニア州で墜落した<ref>{{cite news |last=Slevin |first=Peter |title=Outside the Cockpit Door, a Fight to Save the Plane |url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A10206-2004Jul23.html |date=July 24, 2004 |work=The Washington Post |accessdate=July 22, 2018}}</ref>。10時28分、アメリカン航空11便の北棟突入から1時間42分後、南棟に続きワールドトレードセンター北棟が崩壊した<ref name=NCSTAR/><ref name=huffpost/>。 ワールドトレードセンターのツインタワーは、航空機の衝突による大規模な構造的ダメージに加え、[[ケロシン|ジェット燃料]]が引き起こした火災の熱で構造部材(鉄骨柱・床[[トラス]]部材等)の強度が著しく低下したことで崩壊したと考えられている<ref name=Miller>{{cite news|first=Bill |last=Miller |title=Skyscraper Protection Might Not Be Feasible, Federal Engineers Say |url=http://articles.orlandosentinel.com/2002-05-01/news/0205010358_1_engineers-jet-fuel |work=Orlando Sentinel |date=May 1, 2002 |accessdate=July 22, 2018}}</ref><ref>{{cite web|title=FAQs - NIST WTC Towers Investigation|url=https://www.nist.gov/topics/disaster-failure-studies/faqs-nist-wtc-towers-investigation|publisher=The National Institute of Standards and Technology|accessdate=July 22, 2018}}</ref>。[[アメリカ国立標準技術研究所]]の報告書によれば、火災によるダメージは(ジェット燃料ではなく)主にオフィス内の可燃物によるものであり、それらの可燃物が火災を増長しなければ、ツインタワーは崩壊を免れていた可能性がある<ref>{{cite news|last=Williams |first=Timothy |title=Report on Trade Center Collapses Emphasizes Damage to Fireproofing |url=https://www.nytimes.com/2005/04/05/nyregion/05cnd-wtc.html |date=April 5, 2005 |work=The New York Times |accessdate=July 22, 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120107205236/http://www.nytimes.com/2005/04/05/nyregion/05cnd-wtc.html |archivedate=January 7, 2012 |deadurl=yes |df= }}</ref>。ツインタワーは、建設当時に世界最大のジェット旅客機であった[[ボーイング707]]が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、漏れ出したジェット燃料とそれによる大規模火災の影響は設計上考慮されていなかった<ref name=Miller/>。日本の[[鹿島建設]]は事件の翌年にWTC建物内部の損傷について独自のシミュレーションを実施し、崩壊が火災によるものであることを裏付けた<ref>https://www.kajima.co.jp/news/digest/nov_2003/forefront/index-j.htm</ref>。 北棟の崩壊時の瓦礫が隣接する[[7 ワールドトレードセンター]]ビル (7&nbsp;WTC) に降り注ぎ、7 ワールドトレードセンターは損傷、さらに火災が数時間にわたって発生し、ビルの構造的健全性は失われた。午後5時21分、7 ワールドトレードセンターは倒壊した<ref>''World Trade Center Building Performance Study'', Ch. 5 WTC 7&nbsp;– section 5.5.4</ref><ref>''Final Report on the Collapse of World Trade Center Building 7'', p. xxxvii.</ref>。 [[ファイル:911 - FEMA - WTC impacts (graphic).svg|thumb|left|240px|各旅客機のツインタワー両棟への突入の様子]] 7 WTC以外にも、ワールドトレードセンター・コンプレックスと周辺の多くのビルが壊滅的な被害を受けた。全壊した施設には[[聖ニコラス聖堂 (マンハッタン)|聖ニコラス聖堂]]も含まれていた<ref name="wtcstudy">{{cite web|url=http://www.fema.gov/rebuild/mat/wtcstudy.shtm |title=World Trade Center Building Performance Study |date=May 2002 |publisher=FEMA |accessdate=September 3, 2011 |archiveurl=https://webcitation.org/5spvzRCDS?url=http://www.fema.gov/rebuild/mat/wtcstudy.shtm |archivedate=September 18, 2010 |deadurl=yes |df= }}</ref>。1 WTC(北棟)、2 WTC(南棟)と同様に、3&nbsp;WTC({{ill2|マリオット・ワールドトレードセンター|en|Marriott World Trade Center}})と7&nbsp;WTCは跡形もなく破壊された。{{ill2|4 ワールドトレードセンター (1975–2001)|en|4 World Trade Center (1975–2001)|label=4 WTC}}、[[5 ワールドトレードセンター|5 WTC]]、{{ill2|6 ワールドトレードセンター|en|6 World Trade Center|label=6 WTC}}([[合衆国税関 (ニューヨーク市)|合衆国税関]]ビル)、[[ウェストサイド・ハイウェイ|ウエスト・ストリート]]を渡る2つの横断歩道橋は激しく損壊した。リバティ・ストリートを隔てた{{ill2|ドイツ銀行ビル|en|Deutsche Bank Building}}は部分的に損壊し、2007年に始まった解体作業で取り壊された<ref name="The Eleventh Day pp 75">Summers and Swan (2011), p. 75.</ref><ref name="130 Liberty Finally Gone from Ground Zero">{{cite news | first = Matt | last = Chaban | title = 130 Liberty Finally Gone from Ground Zero |date=February 9, 2011 | url = http://www.commercialobserver.com/2011/02/130-liberty-finally-gone-from-ground-zero/ | work = The New York Observer |accessdate=April 10, 2012}}</ref>。ウエスト・ストリートを隔てた[[ワールドフィナンシャルセンター]]の2棟のビルもダメージを被った<ref name="The Eleventh Day pp 75" />。ワールドトレードセンター・コンプレックスの地下には[[パストレイン|PATHトレイン]]の[[ワールド・トレード・センター駅 (パストレイン)|ワールド・トレード・センター駅]]が位置していた。ツインタワーの崩壊時、この駅は完全に破壊され、この駅からハドソン川の下を通って[[ニュージャージー州]][[ジャージーシティ]]の[[エクスチェンジ・プレイス駅 (パストレイン)|エクスチェンジ・プレイス駅]]へ向かうトンネルも水没した<ref>{{Cite web|url=http://www.panynj.gov/drp/wtcpath/pathinfo.php|title=Downtown Restoration Program – THE PORT AUTHORITY OF NY&NJ|date=January 11, 2009|access-date=7 February 2018|deadurl=bot: unknown|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090111002148/http://www.panynj.gov/drp/wtcpath/pathinfo.php|archivedate=January 11, 2009|df=mdy-all}}</ref>。 北棟の崩壊により、北棟の屋上に設置されていた通信アンテナも破壊された。一時的に多くのTV局・ラジオ局の放送が断絶したが([[WCBS-TV]]のみが[[エンパイアステートビル]]にバックアップ用の通信装置を持っていた)、それらの放送局はすぐに別ルートでの通信を確立し、放送を再開することができた<ref name="wtcstudy" /><ref>{{cite web| last=Bloomfield| first=Larry| url=http://sysdesignshowcase.broadcastengineering.com/ar/broadcasting_new_york_broadcasters| title=New York broadcasters rebuild| publisher=Broadcast Engineering| date=October 1, 2001| accessdate=September 3, 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080604040210/http://sysdesignshowcase.broadcastengineering.com/ar/broadcasting_new_york_broadcasters |archivedate=June 4, 2008}}</ref>。ワールドトレードセンターの敷地における火災は、テロ事件から100日後の12月20日にようやく鎮火した<ref>{{cite web |url=https://www.theguardian.com/world/2001/dec/20/september11.usa |title=Ground Zero stops burning, after 100 days |publisher=The Guardian |date=December 20, 2001 |access-date=May 5, 2018}}</ref>。この事件以降、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地は「[[グラウンド・ゼロ]]」や「ワールドトレードセンター・サイト(跡地)」とも呼ばれている。 ==== 人的被害 ==== [[File:WTC_collapse_before_and_after.jpg|thumb|200px|[[ブルックリン区|ブルックリン]]側から見たツインタワー南棟 (2 WTC) の崩壊]] [[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]] (WTC) へのテロ攻撃による死者は合計で2,763人だった。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2,192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人となっていた<ref>{{cite news |url=https://www.nytimes.com/2009/09/12/nyregion/12groundzero.html |title=9/11's Litany of Loss, Joined by Another Name |date=September 11, 2009 |work=The New York Times |accessdate=August 29, 2010 |first=Lisa W. |last=Foderaro}}</ref>。 WTCのツインタワーにおける民間人死者の90%以上は、ハイジャック機による衝突を受けた階以上のフロアで発生した<ref name="NISTcasualties">Sunder (2005), p. 48.</ref>。北棟ではハイジャック機の衝突時に数百人が[[即死]]したほか、直撃を受けた階以上のフロアに1,355人が閉じ込められ、煙の吸引・タワーからの落下・最終的なタワーの崩壊などの理由によってその全員が最終的に死亡した<ref name="ncp285"/><ref name="NISTcasualties" />。北棟の3つの非常階段すべてがアメリカン航空11便の衝突の際に破壊されており、上層階から人々が脱出することは不可能だった。一方で、(北棟において)直撃を受けた階より下のフロアで死亡した民間人は107人とされている<ref name="NISTcasualties" />。 南棟で死亡した民間人は計630人であり、北棟の半分以下の数字だった<ref name="NISTcasualties" />。南棟では、北棟へのジェット機突入の直後から多くの人々が自主的に避難を開始していたため、死者の数は大幅に抑えられた<ref name="NISTp46">Sunder (2005), p. 46.</ref>。一方で、南棟へのハイジャック機の突入時には78階の{{ill2|スカイロビー|en|Sky lobby}}でエレベーターを待っていた数百人に及ぶ避難者の多くが死傷した<ref name="911cr291"/>。『[[USAトゥデイ]]』は、最初のジェット機突入後に南棟に居た全員を避難させることができなかったことを「事件当日に起きた大きな悲劇のひとつ」と評している<ref name=Purpura>{{Cite book |last=Purpura |first=Philip |title=Security and Loss Prevention: An Introduction |url=https://books.google.com/books?id=ir4gbdZLlOEC&pg=PA300|accessdate=September 16, 2017 |edition=5th |year=2007 |publisher=Elsevier |isbn=978-0080554006 |pages=300 |chapter=Life safety, fire protection, and emergencies |quote=Almost all the 600 people in the top floors of the south tower died after a second hijacked airliner crashed in the 80th floor shortly after 9&nbsp;am. The failure to evacuate the building was one of the day's great tragedies.}}</ref>。南棟では、ユナイテッド航空175便の衝突の後も非常階段のひとつ(A階段)が崩壊を免れており、このA階段を利用することで18人(直撃を受けた階から14人、それより上の階から4人)が生還した<ref>{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=294 |isbn=978-0-393-32671-0 |accessdate=January 24, 2014}}</ref>。 ジェット機の衝突によって北棟・南棟ではエレベータが停止し、多くの人が閉じ込められた。『[[USAトゥデイ]]』の推定では、最小で200人、最大で400人がツインタワーのエレベータに閉じ込められた状態で死亡したとされている<ref name=Elevators/>。エレベータに閉じ込められたものの、そこから自力で脱出した生還者は21人のみだった<ref name=Elevators/>。エレベータにおける死者は、ケーブルの破断によるエレベータ籠の急落下や、エレベータへの火炎の侵入によって死亡しており、それらを免れた者もタワーの崩落時に死亡した<ref name=Elevators>{{cite web|last1=Cauchon,|first1=Dennis|last2=Moore|first2=Martha T.|title=Elevators were disaster within disaster|url=http://usatoday30.usatoday.com/news/sept11/2002-09-04-elevator-usat_x.htm|website=USA Today|date=September 4 2002|accessdate=23 July 2018}}</ref>。 [[File:World_Trade_Center_3_After_9-11_Attacks_With_Original_Building_Locations.jpg|thumb|240px|上空から見たWTC跡地(2001年9月17日撮影)]] ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は最低でも200人と推定されている<ref name="horrificdecision"/>。そのほとんどが北棟で発生したものであり、南棟からの転落・飛び降りによる死者は12人に満たなかった<ref name="horrificdecision"/>。北棟から落下した人々の多くは、タワーに隣接する道路や広場(トービン・プラザ)および3 WTCビルの屋上にたたきつけられて死亡した<ref name="horrificdecision"/>。消防士の1人は落下してきた人の巻き添えとなり死亡した<ref name="horrificdecision">{{cite news|url=https://www.usatoday.com/news/sept11/2002-09-02-jumper_x.htm |title=Desperation forced a horrific decision |work=USA Today|date=September 2, 2002 |last1=Cauchon |first1=Dennis |author2=Moore, Martha|accessdate=September 2, 2011}}</ref>。 北棟の101 – 105階を占めていた投資銀行の{{ill2|キャンター・フィッツジェラルド|en|Cantor Fitzgerald}}では、他の雇用主を大きく上回る658人もの従業員が犠牲となった<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5282060.stm?lsf |title=Cantor rebuilds after 9/11 losses |publisher=BBC |date=September 4, 2006 |accessdate=September 2, 2011}}</ref>。キャンター・フィッツジェラルドの直下、北棟の93 – 100階を占めていた[[マーシュ・アンド・マクレナン]]では358人の従業員が犠牲となった<ref>{{cite web |url=http://memorial.mmc.com/ |title=Marsh & McLennan Companies 9/11 Memorial|accessdate=September 7, 2011}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.mmc.com/about/history.php |title=Milestones of Marsh & McLennan Companies |accessdate=September 7, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110925125645/http://www.mmc.com/about/history.php|archivedate=2011-09-25}}</ref>。南棟の[[エーオン]]では175人の従業員が犠牲となった<ref>{{cite news|url=http://www.investmentnews.com/article/20070911/REG/70911011 |title=Industry honors fallen on 9/11 anniversary |publisher=InvestmentNews |last=Siegel|first=Aaron |date=September 11, 2007 |accessdate=September 2, 2011}}</ref>。 [[アメリカ国立標準技術研究所]] (NIST) は、事件発生当時のワールドトレードセンター・コンプレックスには約1万7400人の民間人が存在したと推定している。港湾公社の[[ターンスタイル]]による記録では、午前8時45分には(通常は)1万4154人がツインタワー内に存在したことが示唆されている<ref>Averill (2005), chapter "Occupant Behavior, Egress, and Emergency Communications", pp ??</ref><ref>Dwyer and Flynn (2005), p. 266.</ref>。ジェット機が直撃した階よりも下のフロアに居た人々は、その大半が安全にタワーから避難することができた<ref>{{cite news|url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F00E6DC153BF935A15756C0A9649C8B63 |title=Last Words at the Trade Center; Fighting to Live as the Towers Die |last1=Dwyer |first1=Jim |work=The New York Times |date=May 26, 2002 |accessdate=September 2, 2011|display-authors=etal}}</ref>。ツインタワー南棟の崩壊時、当時南棟に居た民間人、消防士ならびに警察官は全員死亡し、タワー周辺の道路やビルでも多数の死者が生じた<ref>{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=305 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=August 25, 2018}}</ref>。北棟の崩壊時には、12人の消防士、1人の警察官、および3人の民間人が崩壊を免れた非常階段に守られる形で生き残ったが、それ以外に生存者はいなかった<ref>{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=311 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=August 25, 2018}}</ref><ref>{{cite news|url=http://nymag.com/nymetro/news/sept11/2003/n_9189/|title=The Miracle Survivors |last1=Fishman |first1=Steve |work=New York Magazine |date=15 September, 2003 |accessdate=August 25, 2018}}</ref>。 ==== 救助活動 ==== 炎上するワールドトレードセンター北棟・南棟から市民を救助するため、[[ニューヨーク市消防局]]は過去に例のない大規模な動員を行い、200以上(全体の約半数)の消防部隊がの現場に派遣された<ref name="McKinsey"/>。また、多くの非番の消防士も自主的に救助活動に参加した<ref name="McKinsey">{{cite web |url=https://www.nyc.gov/assets/fdny/downloads/pdf/about/mckinsey_report.pdf| title=McKinsey Report |author=[[McKinsey & Company]] |pages=5–22|publisher=NYC.gov | |accessdate=2023-09-11 }}</ref>。 [[ニューヨーク市警察]]は緊急出動部隊(ESU)を含む多数の警察官を救助のために動員したほか、航空隊の[[ヘリコプター]]3機を現場に派遣したが、北棟・南棟からのヘリコプター救助は炎と煙による極端な悪条件により不可能と判断された<ref name="ncp286to293"/>。その他、港湾公社警察所属の警察官も多くが救助活動に参加した<ref name="ncp286to293">{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |pages=286, 291–293 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=September 11, 2023}}</ref>。 消防隊やヘリコプターは9時00分までに現場に到着し、救助を試みていた<ref name="911cr291">{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |pages=291-294 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=January 20 2023}}</ref>。 === 国防総省本庁舎(ペンタゴン) === [[File:Pentagon security video4.jpg|right|220px|thumb|アメリカン航空77便が国防総省本庁舎に突入した瞬間の映像]] [[ファイル:Flight 77 wreckage at Pentagon.jpg|right|220px|thumb|炎上する国防総省本庁舎と突入したアメリカン航空77便の破片]] 午前9時37分45秒、ハイジャックされたアメリカン航空77便(AA077; [[ボーイング757]])が、[[バージニア州]][[アーリントン郡]]の[[アメリカ国防総省]]本庁舎(ペンタゴン)に突入した<ref name=American77/>。アメリカン77便はビルの西壁に衝突して爆発炎上し、AA077便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡、106人が重傷を負った<ref>{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=July 22, 2004 |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=314 |isbn=0-393-32671-3 |accessdate=July 22, 2018}}</ref>。 AA077便の衝突と続いて発生した火災によってペンタゴンは激しく損傷し、ビルは部分的に倒壊した<ref>''The Pentagon Building Performance Report'', pp. ??</ref>。ペンタゴンに突入する直前、旅客機の[[翼]]は地上の[[街灯]]をなぎ倒し、さらに[[発電機]]に接触した<ref>{{cite web |url=http://www.nbc4.com/news/8988021/detail.html |title=9/11 Survivor Wants Life For Moussaoui |date=April 25, 2006 |publisher=WRC-TV |accessdate=September 10, 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081009125250/http://www.nbc4.com/news/8988021/detail.html |archivedate=October 9, 2008 }}</ref><ref>{{cite news|last=Curiel |first=Jonathan |url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2006/09/03/INGR0KRCBA1.DTL |title=The Conspiracy to Rewrite 9/11 |work=[[San Francisco Chronicle]] |date=September 3, 2006 |accessdate=September 10, 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080519053919/http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=%2Fc%2Fa%2F2006%2F09%2F03%2FINGR0KRCBA1.DTL |archivedate=May 19, 2008 |deadurl=no |df= }}</ref>。77便はペンタゴン西側外壁の1階部分に激突したが、衝突の瞬間にボーイング757の胴体前部はバラバラになり、その後一瞬のうちに機体中央部と尾翼部が勢いを保ったまま外壁を突き抜けた<ref name="Pent17">{{cite book |last=Goldberg |first=Alfred |title=Pentagon 9/11 |year=2007 |publisher=[[合衆国政府印刷局|United States Government Printing Office]] |location=Washington, D.C. |page=17 |isbn=978-0-16-078328-9|display-authors=etal}}</ref>。最も深くまで到達したのは尾翼部の破片であり、5層ある外壁のうち3層を突き破り、94 m内側まで貫通していた<ref name="Pent17" /><ref>{{cite news |last=Maclean |first=John N |title=America Under Attack: A chronicle of chaos and heroism at the Pentagon |url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/05/29/AR2008052903149.html |date=June 1, 2008 |work=The Washington Post|accessdate=September 3, 2011}}</ref>。その後10時10分には、衝突で損傷したビルの一部分が倒壊した<ref>{{cite book |last=Goldberg |first=Alfred |title=Pentagon 9/11 |year=2007 |publisher=[[合衆国政府印刷局|United States Government Printing Office]] |location=Washington, D.C. |page=80 |isbn=978-0-16-078328-9|display-authors=etal}}</ref>。ビルの倒壊部分は最大で幅29 m、奥行き15 mにわたった<ref>{{cite book |last=Goldberg |first=Alfred |title=Pentagon 9/11 |year=2007 |publisher=[[合衆国政府印刷局|United States Government Printing Office]] |location=Washington, D.C. |pages=80-82 |isbn=978-0-16-078328-9|display-authors=etal}}</ref>。77便の衝突からビルの崩壊まで時間的猶予があったため、4 - 5階に居た職員は全員が安全に避難することができた<ref>{{cite book |last=Goldberg |first=Alfred |title=Pentagon 9/11 |year=2007 |publisher=[[合衆国政府印刷局|United States Government Printing Office]] |location=Washington, D.C. |page=20 |isbn=978-0-16-078328-9|display-authors=etal}}</ref>。旅客機の突入時、ペンタゴンでは約1万8000人が働いていたが、この数字は1998年に始まった改修工事によって通常より4,000人ほど少なかった<ref>{{cite book |last=Goldberg |first=Alfred |title=Pentagon 9/11 |year=2007 |publisher=[[合衆国政府印刷局|United States Government Printing Office]] |location=Washington, D.C. |page=3 |isbn=978-0-16-078328-9|display-authors=etal}}</ref>。 この直前に起きたワールドトレードセンター・ツインタワーへの他の飛行機の突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単にペンタゴンが爆発炎上したというだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言され報じられた。さらに激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐに[[連邦捜査局|FBI]]によって回収、捜査された。 === 防空状況 === テロ当日は[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部]](ノーラッド)の年に一度行われる訓練の日であり、[[東海岸]]から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっていたはずだった。しかし[[連邦航空保安局]]からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分ごろで、マサチューセッツ州の[[ケープコッド]]南西部にあるオーティス空軍州兵基地<ref>{{lang-en-short|Otis Air National Guard Base}}</ref> から[[F-15 (戦闘機)|F-15戦闘機]]2機がスクランブル発進したのは8時52分だった。 スクランブル発進したF-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時AA011便はすでにツインタワー北棟に突入した後だった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているという認識だったが、状況の把握が不十分で、パイロットも何を追跡しているか認識できていなかった。同機は一旦ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのはUA175便がツインタワー南棟に突入した後だった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能だったとされる(進路妨害は可能だったという指摘もある)。 ワシントンD.C.には、[[ノースカロライナ州]]上空で訓練していた[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]3機が呼ばれたが、飛来したところで基地への着陸待機を命じられた。3機はアメリカン航空77便の追跡を命じられ再度離陸したが、もともと訓練中だったために燃料が不足し始め、うちの2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くに飛来したが、これらには攻撃用の[[サイドワインダー (ミサイル)|サイドワインダーAAM]]が装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局AA077便(アメリカン航空77便)に合流することは無く、9時38分にペンタゴンへの攻撃の阻止には至らなかった。 [[オハイオ州]]上空を飛行していたユナイテッド航空93便の付近で、積荷の搬送を行っていた[[C-130 (航空機)|C-130輸送機]]が、管制官からUA093便を捕捉するように命じられた。C-130はUA093便墜落の際、{{convert2|17|mi|km|lk=on}}離れたところに位置していた。 ノーラッドから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分だった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もある{{要出典|date=2017年12月}}が、公式な発表にはない。さらに事故から約10分後に現場のはるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。ノーラッドは連邦航空局から93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近く93便の追跡を続けさせていた。 連邦航空局がアメリカ合衆国中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはワールドトレードセンターへの2度目の突入の直後からで、9時45分に全米の空港からの民間機の離陸が停止され、飛行中のすべての民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。民間機の飛行禁止は3日間にわたり、常に5,000機以上が飛んでいた航空機がアメリカ上空、そしてアメリカが管制を担当する空域から姿を消した。 === アメリカ政府首脳の動き === 本事件の発生当時、[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は[[フロリダ州]]に滞在していた。当日は教育政策の成功をアピールする為に同州[[サラソータ (フロリダ州)|サラソータ]]にある[[エマ・E・ブッカー小学校]]の授業を視察し、午後にはワシントンD.C.に戻って[[共和党 (アメリカ)|共和党]]議員とのバーベキューが行われる予定だった<ref>現地時間11日午前6時放送の[[AP通信]]グループ制作のニュースにてアナウンスされた。尚、アナウンスの際の映像は生中継のニューヨークの空撮であり、ツインタワーにズームした箇所もあった。</ref>。1機目のツインタワー攻撃の際には[[小学校]]へ向かう専用車の車中にいたが、このときは(多くのメディアが速報した様に)単なる航空事故だと考えていたとされる。ただし、一時的に[[ホワイトハウス]]との間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った{{要出典|date=2008年10月}}。 [[File:Bush 9-11 on phone P7058-20A.jpg|right|220px|thumb|エマ・E・ブッカー小学校で連絡を行うブッシュ大統領]] [[File:President George W. Bush talks on the phone with Vice President Dick Cheney from Air Force One.jpg|right|220px|thumb|大統領専用機内でチェイニー副大統領との連絡を行うブッシュ大統領]] 授業視察中に2機目のツインタワー突入があり、数分後、ブッシュ大統領が[[アンドリュー・カード]]首席補佐官から2機目の突入と「合衆国が攻撃されている可能性がある」との報告を受けたが、ブッシュは「無駄な動揺を与えないために」との理由ですぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞き続けていた。朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を褒め、ただちに隣室で補佐官と話し、電話で[[コンドリーザ・ライス]][[国家安全保障担当大統領補佐官|国家安全保障担当補佐官]]と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで「アメリカが攻撃を受けた」と小学生の前で国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から車列とともに出発、3マイル (5 km) のところにある空港へ向かった。 9時55分に、[[エアフォースワン|大統領専用機]]「[[VC-25]]」が目的地を決めないまま離陸、地上からの攻撃を避けるため直後に急上昇した<ref name=Inside>『Inside Air Force One Secrets Of The Presidential Plane』[[チャンネル5]]が[[2019年]]に制作した[[大統領専用機]]の特集番組、当時の機長やアンドリュー・カードへのインタビューが含まれる。</ref>。この時点では護衛の[[戦闘機]]は無かった。国内上空には未だに連絡の取れない旅客機が11機あったが、管制の指示で地上に降ろし、国内空域は大統領専用機と[[哨戒機]]だけになった。航空管制からは自由に飛行してもよいとの許可があり、機長が行き先を尋ねた際に大統領はワシントンを指示した<ref name=Inside />。アンドリュー・カードは国民に声を伝えるべきと進言したが<ref name=Inside />、当時専用機からは生の声明発表ができなかったため、一度[[ルイジアナ州]][[バークスデール空軍基地]]に立ち寄り、国民に向けた声明発表を行った。ここでは有事の際に大統領が軍を指揮するために搭乗する[[E-4 (航空機)|E-4B ナイトウォッチ]]も随行していたが、乗り換えはしなかった<ref name=Inside />。その後、[[ネブラスカ州]]{{仮リンク|オファット空軍基地|en|Offutt Air Force Base}}(E-4B ナイトウォッチが所属する基地)で事態の沈静化を待ち、夕刻に[[メリーランド州]][[アンドルーズ空軍基地]](大統領専用機が所属する基地)経由で[[ワシントンD.C.]]へ帰還した。専用機は通常、国内でのフライトでは戦闘機の護衛を受けないが、この日のオファット基地からアンドルーズ基地へのフライトでは、国内では初めてゼネラル・ダイナミクス[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]の護衛を受けて飛行している。戦闘機は大統領専用機からパイロットの顔が判別できるほどの至近距離を飛行していた<ref name=Inside />。 ホワイトハウスでは[[リチャード・チェイニー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]らが執務を行っていたが、ツインタワーへの2度目の攻撃の直後、[[アメリカ合衆国シークレットサービス|シークレットサービス]]につれられて、地下6階の[[シェルター|地下壕]]へ避難した。 [[ドナルド・ラムズフェルド]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。ラムズフェルド国防長官にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がペンタゴンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備がない。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていたため、彼女を抱えて避難し、担架に乗せ救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。 [[コリン・パウエル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]は、事件当時[[南アメリカ|南米]][[ペルー]]を実務訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いて、すぐに政府専用機でアメリカ合衆国に帰国した。 なお[[ロシア|ロシア連邦]]の[[ウラジーミル・プーチン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちに[[ロシア連邦軍]]に迎撃体制を取らせることはない」と[[ホットライン]]でブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはアメリカが大規模な動員をかけるとそれに反応するように指揮系統が準備されている為であった。 == テロの実行者 == === ウサーマ・ビン・ラーディン === {{Further|ウサーマ・ビン・ラーディン}} [[File:Osama bin Laden portrait.jpg|thumb|right|upright|オサマ・ビン・ラーディン(1997年撮影)]] アメリカ同時多発テロ事件の首謀者は、[[イスラーム過激派]]テロ組織「[[アルカーイダ]]」の指導者ウサーマ・ビン・ラーディンとされている<ref>{{Cite web |date=2017-11-01 |url=https://www.washingtonpost.com/news/checkpoint/wp/2017/11/01/osama-bin-ladens-video-collection-included-where-in-the-world-is-osama-bin-laden/?noredirect=on&utm_term=.c18f9902c098 |title=Osama bin Laden’s video collection included ‘Where in the World Is Osama bin Laden?’ |publisher=[[The Washington Post]] |accessdate=2019-04-15}}</ref><ref>{{Cite web |date=2011-05-03 |url=http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.dead/index.html |title=Bin Laden killing caps decade-long manhunt |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |accessdate=2019-04-15}}</ref><ref name="BBC6Jul2011">{{cite news |title=Pakistan inquiry orders Bin Laden family to remain|url=https://www.bbc.co.uk/news/world-south-asia-14041604 |publisher=BBC |date=July 6, 2011 |accessdate=September 3, 2011}}</ref>。当初、ビン・ラーディンは事件への関与を否定していたが<ref name=statement/>、2004年には一転して同時多発テロ事件への関与を公に認めた<ref name="cbc-2004">{{cite news|title = Bin Laden claims responsibility for 9/11|publisher = CBC News|date=October 29, 2004|url = http://www.cbc.ca/world/story/2004/10/29/binladen_message041029.html|accessdate=September 1, 2011 |quote=Al-Qaeda leader Osama bin Laden appeared in a new message aired on an Arabic TV station Friday night, for the first time claiming direct responsibility for the 2001 attacks against the United States.}}</ref><ref name="ajNov2004">{{cite news|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070613014620/http://english.aljazeera.net/English/archive/archive?ArchiveId=7403 |archivedate=June 13, 2007 |url=http://english.aljazeera.net/English/archive/archive?ArchiveId=7403 |title=Full transcript of bin Laden's speech |publisher=Al Jazeera |date=November 2, 2004 |accessdate=September 3, 2011}}</ref>。 2001年9月16日、[[アルジャジーラ]]上でビン・ラーディンによるビデオ声明が放送された<ref name=statement>{{cite news|title=Pakistan to Demand Taliban Give Up Bin Laden as Iran Seals Afghan Border |url=https://www.foxnews.com/story/pakistan-to-demand-taliban-give-up-bin-laden-as-iran-seals-afghan-border |publisher=Fox News Channel |date=2001-09-16 |accessdate=2019-04-15}}</ref>。声明の中でビン・ラーディンは、「私は攻撃を実行していないと強調する。攻撃は別の個人によって、彼自身の動機に基づいて実行されたように見える」と述べた<ref name=statement/>。2001年11月、アメリカ軍はアフガニスタン東部の[[ジャラーラーバード]]で1本のビデオテープを回収した。このテープにはビン・ラーディンと他のアルカイダ構成員との会話が記録されており、その中でビン・ラーディンは同時多発テロを事前に知っていたことを認めていた<ref>{{cite news|title=Bin Laden on tape: Attacks 'benefited Islam greatly' |publisher=CNN |date=December 14, 2001 |url=http://archives.cnn.com/2001/US/12/13/ret.bin.laden.videotape/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071227125232/http://archives.cnn.com/2001/US/12/13/ret.bin.laden.videotape/ |archivedate=December 27, 2007 |deadurl=yes |accessdate=November 24, 2013 |quote=Reveling in the details of the fatal attacks, bin Laden brags in Arabic that he knew about them beforehand and says the destruction went beyond his hopes. He says the attacks "benefited Islam greatly".}}</ref>。 [[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年のアメリカ大統領選挙]]の直前、ビン・ラーディンは新たなビデオ声明を発表し、アルカイダが同時多発テロ事件に関与したことを公式に認め、自らが実行犯にテロ攻撃を指示したことを認めた<ref>{{cite web|first1=A. B. C.|last1=News|accessdate=2019-02-02|title=Bin Laden Dead -- Where Are Other 9/11 Planners?|url=https://abcnews.go.com/Blotter/osama-bin-laden-dead-911-perpetrators-now/story?id=13511484|date=May 2, 2011|publisher=[[ABCニュース (アメリカ)|ABC News]]|quote=While initially denying responsibility for the 9/11 attacks, Bin Laden took responsibility for them in a 2004 taped statement, saying that he had personally directed the hijackers.}}</ref><ref>{{cite web|accessdate=2019-02-02|date=October 29, 2004|title=Bin Laden claims responsibility for 9/11|publisher=[[CBC News]]|url=https://www.cbc.ca/news/world/bin-laden-claims-responsibility-for-9-11-1.513654}}</ref>。 2006年9月にアルジャジーラが入手したビデオテープには、ビン・ラーディンと{{ill2|ラムジ・ビン・アル=シブ|en|Ramzi bin al-Shibh}}が、2人のハイジャック犯({{ill2|ハムザ・アル=ガームディー|en|Hamza al-Ghamdi}}および{{ill2|ワイル・アル=シェフリ|en|Wail al-Shehri}})と共に同時多発テロの準備をしている模様が記録されていた<ref>{{cite news|url=http://www.cbc.ca/world/story/2006/09/07/al-qaeda-tape.html |title=Bin Laden 9/11 planning video aired |publisher=[[CBC News]] |date=September 7, 2006 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013183902/http://www.cbc.ca/world/story/2006/09/07/al-qaeda-tape.html |archivedate=October 13, 2007 |accessdate=September 3, 2011}}</ref>。ビン・ラーディンは、同時多発テロ事件に関してアメリカ政府当局から正式に起訴されたことはなかったが、[[ケニア]]の首都[[ナイロビ]]と[[タンザニア]]の首都[[ダルエスサラーム]]における[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]に関する容疑で[[FBI10大最重要指名手配]]者に指定されていた<ref>{{cite news |last=Clewley |first=Robin|title=How Osama Cracked FBI's Top 10 |work=[[Wired (magazine)|Wired]] |date=September 27, 2001 |url=https://www.wired.com/politics/law/news/2001/09/47109 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080526032503/http://www.wired.com/politics/law/news/2001/09/47109 |archivedate=May 26, 2008 |accessdate=May 29, 2014}}</ref><ref>{{cite web|title=USAMA BIN LADEN |url=https://www.fbi.gov/wanted/topten/usama-bin-laden|website=FBI Ten Most Wanted Fugitive|publisher=Federal Bureau of Investigation|accessdate=September 10, 2011}}</ref>。 2011年5月2日、10年間の追跡の末に、アメリカ軍特殊部隊はパキスタンの[[アボッターバード]]に潜伏していた[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|ビン・ラーディンを急襲の上で殺害]]した<ref>{{cite news |url=https://www.nytimes.com/2011/05/02/world/asia/osama-bin-laden-is-killed.html|title=Bin Laden Is Dead, President Obama Says |last1=Baker |first1=Peter |author2=Cooper, Helene |date=May 1, 2011 |work=The New York Times |accessdate=September 3, 2011}}</ref><ref>{{cite news |url=http://thelede.blogs.nytimes.com/2011/05/01/bin-laden-dead-u-s-official-says/ |title=Obama Announces Killing of Osama bin Laden |last=Cooper|first=Helene|date=May 1, 2011 |work=The New York Times |accessdate=September 3, 2011}}</ref>。なお、この時の映像は当時のオバマ大統領ら閣僚に生中継された。 ==== 動機 ==== ウサーマ・ビン・ラーディンが[[1996年]]に発表した対アメリカ宣戦布告と、[[1998年]]に発表したアメリカ国民の無差別な殺害を呼びかける布告は、ビン・ラーディンの動機を示す証拠として扱われている<ref name="1998FatwaPBS" /><ref>{{cite book |last=Gunaratna|first=Ronan |title=Inside Al Qaeda: global network of terror|year=2002|publisher=Columbia University Press|isbn=978-0-231-12692-2|pages=61–62}}</ref>。ビン・ラーディンは、非イスラム教徒が[[アラビア半島]]に常駐することは[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]によって禁じられていると解釈しており<ref>{{cite book |last=Bergen|first=Peter L.|title=Holy War, Inc.: Inside the Secret World of Osama Bin Laden |year=2001|publisher=Simon and Schuster|isbn=978-0-7432-3467-2 |page=3}}</ref>、[[湾岸戦争]]が勃発した1990年8月以降アメリカ軍がサウジアラビアに駐留していることに強い怒りを抱いていた<ref name="cnn201107"/>。 1996年8月、ビン・ラーディンは最初の「[[ファトワー]](布告)」を発し、「2つの聖なるモスクの地(サウジアラビア)の占領者」であるアメリカに対する[[ジハード]](聖戦)を宣言すると共に、異教徒であるアメリカ人を[[アラビア半島]]から駆逐するよう全世界のムスリムに呼びかけた<ref name="cnn201107">{{cite web |year=2011 |title=Timeline: Osama bin Laden, over the years |url=http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.timeline/index.html |work=CNN |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110717222154/http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/05/02/bin.laden.timeline/index.html |archivedate=July 17, 2011|accessdate=October 17, 2019}}</ref>。1998年2月、ビン・ラーディンは第2の「ファトワー」を発し、アメリカ軍によるサウジアラビア駐留へ再度抗議すると共に、アメリカの親イスラエル的な外交政策を批判した<ref name="1998FatwaPBS">{{cite web |url=https://www.pbs.org/newshour/updates/military-jan-june98-fatwa_1998/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131128194258/http://www.pbs.org/newshour/updates/military/jan-june98/fatwa_1998.html|archivedate=November 28, 2013 |title=Al Qaeda's Second Fatwa |website=[[PBS NewsHour]] |publisher=[[Public Broadcasting Service]] |url-status=live |accessdate=May 29, 2014}}</ref>。1998年の「ファトワー」はさらに、世界各地でアメリカおよびその同盟国の国民を軍人・民間人の区別なく殺害することが、「占領されている[[アル=アクサー・モスク]]と[[メッカ]]の[[マスジド・ハラーム|聖なるモスク]]を解放」するために、「全ムスリムに課せられた義務である」と宣言していた<ref name="1998FatwaPBS" /><ref>"The ruling to kill the Americans and their allies&nbsp;– civilians and military&nbsp;– is an individual duty for every Muslim who can do it in any country in which it is possible to do it, in order to liberate the al-Aqsa Mosque and the holy mosque [Mecca] from their grip, and in order for their armies to move out of all the lands of Islam, defeated and unable to threaten any Muslim." Quoted from {{cite web |url=https://www.pbs.org/newshour/updates/military-jan-june98-fatwa_1998/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131128194258/http://www.pbs.org/newshour/updates/military/jan-june98/fatwa_1998.html|archivedate=November 28, 2013 |title=Al Qaeda's Second Fatwa |website=[[PBS NewsHour]] |publisher=[[Public Broadcasting Service]] |url-status=dead |accessdate=May 29, 2014}}</ref>。 ビン・ラーディンは自らの直接的関与を認めた2004年の声明の中で、テロ攻撃を行った動機について以下のように述べた<ref>{{cite news|last=Michael |first=Maggie |url=http://legacy.signonsandiego.com/news/nation/terror/20041029-1423-binladentape.html |title=Bin Laden, in statement to U.S. people, says he ordered Sept. 11 attacks |agency=Associated Press |publisher=SignOnSanDiego.com |date=October 29, 2004 |accessdate=September 3, 2011}}</ref>。 {{quote|[[1982年]]、アメリカは[[イスラエル]]が[[レバノン内戦#イスラエル侵攻|レバノンを侵略]]することを許可し、侵略を助けるため[[第6艦隊 (アメリカ軍)|アメリカ第6艦隊]]を派遣した……[[レバノン]]の破壊された[[塔|タワー]]を目にした私の心に、我々も迫害者たちを同じやり方で罰するべきだという考えが浮かんだ。我々はアメリカのタワーを破壊して、我々が体験したものの一端を迫害者たちにも体験させるべきであり、そうすることで彼らが我々の女や子供を殺すのを思いとどまるようにすべきだと考えた<ref name="ajNov2004" />。}} === ハリド・シェイク・モハメド === {{Main|ハリド・シェイク・モハメド}} [[File:Khalid Shaikh Mohammed after capture.jpg|thumb|right|テロの発案者とされるハリド・シェイク・モハメド(画像)は、2003年に逮捕された]] [[アルジャジーラ]]記者{{ill2|ヨスリ・フォウダ|en|Yosri Fouda}}の報告によれば、アルカイダ幹部のハリド・シェイク・モハメドは2002年4月に、自らが同時多発テロを計画したことを認めた<ref>{{cite news|url=https://www.theguardian.com/international/story/0,3604,906911,00.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080123195032/http://www.guardian.co.uk/international/story/0%2C3604%2C906911%2C00.html |archivedate=January 23, 2008 |title=We left out nuclear targets, for now |work=The Guardian |date=March 4, 2003 |accessdate=September 3, 2011 |quote=Yosri Fouda of the Arabic television channel al-Jazeera is the only journalist to have interviewed Khalid Sheikh Mohammed, the al-Qaeda military commander arrested at the weekend. Here he describes the two-day encounter with him and his fellow organiser of September 11, Ramzi bin al- Shibh: ... Summoning every thread of experience and courage, I looked Khalid in the eye and asked: 'Did you do it?' The reference to September 11 was implicit. Khalid responded with little fanfare: 'I am the head of the al-Qaeda military committee,' he began, 'and Ramzi is the coordinator of the Holy Tuesday operation. And yes, we did it.' |location=London |deadurl=yes |df= }}</ref>。モハメドは逮捕された後の2007年にも犯行を自供した<ref>{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/3685099/Alleged-911-mastermind-wants-to-confess-to-plot.html|title= Alleged 9/11 mastermind wants to confess to plot |work=The Daily Telegraph |date=October 10, 2008 |accessdate=September 3, 2011 |location=London|first1=Tom|last1=Leonard|first2=Alex|last2=Spillius}}</ref><ref name=aljazeera2007 />。 アメリカ議会調査委員会による[[:en:The 9/11 Commission Report|同時多発テロ事件の最終報告書]]は、モハメドを911テロの主たる企画者として紹介しており、彼のアメリカに対する敵意は「イスラエルに好意的なアメリカの外交政策との著しい意見の不一致」に起因すると結論づけた<ref name=autogenerated1>9/11 Commission Report (2004), p.&nbsp;147.</ref>。モハメドは1993年の[[世界貿易センター爆破事件]]にも関与しており、主犯[[ラムジ・ユセフ]]の叔父でもあった<ref>{{cite news |url=http://www.washingtontimes.com/news/2009/aug/26/white-house-power-grabs/|title=White House power grabs |date=August 26, 2009|work=The Washington Times|accessdate=September 3, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.businessweek.com/news/2011-04-04/khalid-sheikh-mohammed-terror-indictment-unsealed-dismissed.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110417023034/http://www.businessweek.com/news/2011-04-04/khalid-sheikh-mohammed-terror-indictment-unsealed-dismissed.html|archivedate=April 17, 2011|title=Khalid Sheikh Mohammed Terror Indictment Unsealed, Dismissed |last1=Van Voris |first1=Bob |author2=Hurtado, Patricia|date=April 4, 2011|work=Bloomberg BusinessWeek|accessdate=September 3, 2011}}</ref>。モハメドは2003年3月1日に[[パキスタン]]の[[ラーワルピンディー]]で逮捕された。 逮捕後、モハメドは複数の[[ブラック・サイト|CIA秘密軍事施設]]と[[グアンタナモ湾収容キャンプ]]に拘留され、尋問中に[[ウォーターボーディング]]を含む拷問を受けた<ref>{{cite news|url=http://content.time.com/time/nation/article/0,8599,436061,00.html|title=Khalid Sheikh Mohammed Names Names |work=[[Time (magazine)|Time]] |date=March 24, 2003 |accessdate=September 3, 2011 |first1=Elaine|last1=Shannon|first2=Michael|last2=Weisskopf}}</ref><ref>{{cite news|date=May 8, 2008|url=https://www.reuters.com/article/2008/05/08/idUSN08420997|title=US judge orders CIA to turn over 'torture' memo-ACLU|agency=Reuters|accessdate=September 3, 2011 |first=Michelle|last=Nichols}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/world-us-canada-23269437|title=Khalid Sheikh Mohammed 'asked to design' vacuum cleaner|date=July 11, 2013|publisher=BBC News|access-date=September 10, 2017}}</ref>。2007年3月に[[グアンタナモ湾]]で行われた聴聞会において、モハメドは自らには「9月11日の作戦について初めから終わりまで全ての責任があった」と証言した上で、この証言は強要の下でなされたものではないと述べた<ref name="aljazeera2007">{{cite news |url=http://www.aljazeera.com/news/americas/2007/03/200852512026300115.html |title=September 11 suspect 'confesses' |publisher=Al Jazeera |date=March 15, 2007 |accessdate=September 3, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/6452573.stm |title= Key 9/11 suspect 'admits guilt' |publisher=BBC News|date=March 15, 2007 |accessdate=April 10, 2012}}</ref>。 === その他のアルカイダ構成員 === {{ill2|バージニア州東部地区連邦地方裁判所|en|United States District Court for the Eastern District of Virginia}}が[[ザカリアス・ムサウイ]]の裁判中に使用した資料である''Substitution for the Testimony of Khalid Sheikh Mohammed''は、同時多発テロ計画の全貌を事前に把握していたアルカイダ構成員として、ビン・ラーディン、モハメド、ビン・アル=シブ、[[ムハンマド・アーティフ]]、{{ill2|アブ・トゥラ・アル=ウルドゥニ|en|Abu Turab al-Urduni}}の5名を挙げている<ref>{{cite web |title=Substitution for Testimony of Khalid Sheikh Mohammed|page=24 |url=http://www.vaed.uscourts.gov/notablecases/moussaoui/exhibits/defense/941.pdf |year=2006 |publisher=[[United States District Court for the Eastern District of Virginia]] |accessdate=September 3, 2011 |format=PDF}}</ref>。 同時多発テロ事件において重要な役割を担ったテロリストの多くは、[[ドイツ]]の[[ハンブルク]]に拠点を置くイスラーム過激派集団(通称{{ill2|ハンブルク・セル|en|Hamburg cell}})に所属していた<ref>{{cite news|work=BBC News|title=The Hamburg connection|date=August 19, 2005|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/2349195.stm}}</ref>。事件当日にハイジャック機のパイロット役を務めた[[モハメド・アタ]]と{{仮リンク|マルワン・アル=シェヒ|en|Marwan al-Shehhi}}および{{ill2|ズィアド・ジャッラーフ|en|Ziad Jarrah}}に、調整役の{{ill2|ラムジ・ビン・アル=シブ|en|Ramzi bin al-Shibh}}を加えた4人が「ハンブルク・セル」の中心的メンバーであり、彼らはアフガニスタン訪問時にアルカイダ指導部によってテロの実行者に任命されていた<ref name="Ch5">"[http://www.9-11commission.gov/report/911Report_Ch5.htm Chapter of the 9/11 Commission Report detailing the history of the Hamburg Cell] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090816215318/http://www.9-11commission.gov/report/911Report_Ch5.htm|date=August 16, 2009}}". [[9/11 Commission]].</ref>。 === 同時多発テロの計画と実行犯の準備 === [[File:Marienstraße_54.JPG|thumb|180px|[[モハメド・アタ]]ら「ハンブルク・セル」が1998年から2001年まで使用していた[[ハンブルク]]のアパート]] 同時多発テロ計画の考案者は[[ハリド・シェイク・モハメド]]であり、モハメドは[[1996年]]に初めて計画を[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]に提示した<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3128802.stm|title=Suspect 'reveals 9/11 planning'|publisher=BBC News|date=September 22, 2003|accessdate=September 3, 2011}}</ref>。当時、ビン・ラーディンとアルカイダは[[スーダン]]からアフガニスタンに拠点を移したばかりであり、一種の過渡期にあった<ref name="911-ch5">9/11 Commission Report, Chapter 5, pp ??</ref>。[[1998年]]にビン・ラーディンが発した、「アメリカ人の殺害はムスリムの義務である」とする自称「[[ファトワー]]」とされたものと、同じく[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|1998年に発生したアメリカ大使館爆破事件]]は、ビン・ラーディンが攻撃の焦点をアメリカに定めたことを示す1つの転換点となった<ref>9/11 Commission Report (2004), p.&nbsp;47.</ref>。 1998年末もしくは[[1999年]]の初め頃、ビン・ラーディンはモハメドが同時多発テロ計画の準備に着手することを承認した<ref>9/11 Commission Report (2004), p.&nbsp;149.</ref>。1999年春には、モハメドとビン・ラーディン、およびビン・ラーディンの代理人[[ムハンマド・アーティフ]]が参加する会合が立て続けに開かれた<ref>9/11 Commission Report (2004), p.&nbsp;155.</ref>。アーティフは、ターゲットの選定やハイジャック犯のための渡航の手配など、テロ計画の作戦面での支援を提供した<ref name="911-ch5" />。モハメドの提案は一部ビン・ラーディンによって却下され、[[ロサンゼルス]]の[[ライブラリータワー]]のようないくつかのターゲット候補は、「攻撃の準備をするのに必要な時間が不足している」ことを理由に拒否された<ref>{{cite news|url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9404E7DF1031F933A15750C0A9659C8B63|title=Bin Laden Chose 9/11 Targets, Al Qaeda Leader Says|work=The New York Times|last=Lichtblau|first=Eric|date=March 20, 2003|accessdate=September 3, 2011}}</ref><ref>Wright (2006), p. 308.</ref>。 ビン・ラーディンはテロ計画の統率と資金援助を担当し、計画を実行するテロリストの選抜にも関与した<ref>Bergen (2006), p. 283.</ref>。当初、ビン・ラーディンは{{ill2|ナワフ・アル=ハズミ|en|Nawaf al-Hazmi}}と{{ill2|ハリド・アル=ミフダール|en|Khalid al-Mihdhar}}という[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]で戦った2人の熟練戦闘員をハイジャック機のパイロット役に任命していた。[[2000年]]1月中旬、アル=ハズミとアル=ミフダールはアメリカに到着し、2000年春には[[サンディエゴ]]で飛行訓練を受けたが、2人はほとんど英語を話せず、また訓練の成績も悪かったため、最終的にはパイロット役以外のハイジャック犯(武力による制圧要員)としてテロに参加することとなった<ref>Wright (2006), pp. 309–15.</ref><ref>McDermott (2005), pp. 191–92.</ref>。 1999年後半、[[モハメド・アタ]]、{{仮リンク|マルワン・アル=シェヒ|en|Marwan al-Shehhi}}、{{ill2|ズィアド・ジャッラーフ|en|Ziad Jarrah}}、{{ill2|ラムジ・ビン・アル=シブ|en|Ramzi bin al-Shibh}}らドイツ・ハンブルク在住のイスラーム過激派の一団が、アフガニスタンのアルカーイダ訓練キャンプを訪問した<ref>{{cite news|first=Richard|last=Bernstein|title=THREATS AND RESPONSES: PIECES OF A PUZZLE; On Plotters' Path to U.S., A Stop at bin Laden Camp|url=https://www.nytimes.com/2002/09/10/national/10PLOT.html|work=The New York Times|date=2002-09-10|accessdate=2019-04-15}}</ref>。ビン・ラーディンは、彼らが高い教育を受けており、また英語が堪能で欧米での生活に慣れていることを評価し<ref>Wright (2006), pp. 304–07.</ref>、テロ計画の中核となる実行メンバーに抜擢した<ref name=Ch5/>。その後、2000年にはアガニスタンの訓練キャンプに{{ill2|ハニ・ハンジュール|en|Hani Hanjour}}という新兵が加入した<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>。ハンジュールは1999年にアメリカで職業操縦士免許を取得しており、その事実を知ったアルカーイダは彼をテロ計画に参加させた<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>。 ハンブルク在住のテロリストの内、アル=シェヒは2000年5月末に、アタは2000年6月3日に、ジャッラーフは2000年6月27日に、それぞれアメリカに到着した<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>{{rp|6}}。ビン・アル=シブは渡米のためアメリカの[[査証|ビザ]]を何度も申請したが、[[イエメン]]国籍であったため、有効期限を過ぎて不法滞在することへの懸念からビザが発給されなかった<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>{{rp|4, 14}}。ビン・アル=シブは渡米を諦めざるを得ず、ハンブルクに留まってアタとハリド・シェイク・モハメドの間の調整役を務めることとなった<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>。アメリカに渡った3人の「ハンブルク・セル」メンバーは[[フロリダ州]]南部の航空学校で飛行訓練を受けた<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>{{rp|6}}。一方、ハニ・ハンジュールは2000年12月8日にサンディエゴに到着し、アル=ハズミと合流した<ref name="9/11 commission staff statement No. 16">{{cite news|title=9/11 commission staff statement No. 16|date=June 16, 2004|url=http://www.9-11commission.gov/staff_statements/staff_statement_16.pdf|work=9/11 Commission|accessdate=September 11, 2012}}</ref>{{Rp|6–7}}。2人はその後すぐに[[アリゾナ州]]に向かい、ハンジュールはそこで操縦の再訓練を受けた<ref name="9/11 commission staff statement No. 16"/>{{rp|7}}。 2001年春には、パイロット役以外のハイジャック犯もアメリカに到着し始めた<ref>{{cite web|url=http://www.9-11commission.gov/staff_statements/911_TerrTrav_Monograph.pdf|format=PDF|title=Staff Monograph on 9/11 and Terrorist Travel|publisher=9/11 Commission|year=2004|accessdate=September 3, 2011}}</ref>。2001年7月、アタは[[スペイン]]でビン・アル=シブと会い、攻撃目標の最終的な選択等、テロ計画の調整を行った。その際、ビン・アル=シブはアタに、ビン・ラーディンができるだけ早いテロ攻撃の実行を望んでいることを伝えた<ref name="irujo">{{cite news|url=http://elpais.com/diario/2004/03/21/espana/1079823611_850215.html|title=Atta recibió en Tarragona joyas para que los miembros del 'comando' del 11-S se hiciesen pasar por ricos saudíes|work=El País|date=March 21, 2004|last=Irujo|first=Jose María|accessdate=April 10, 2012|language=Spanish}}</ref>。[[9月7日]]には[[駐日アメリカ合衆国大使館|在日アメリカ大使館]]が「日本国内に滞在するアメリカ人に対してテロ攻撃の可能性がある」ことを発表していた<ref>{{Cite web|url=https://abcnews.go.com/International/us-warns-terrorist-attack-japan/story?id=80556|title=U.S. Warns of Possible Terrorist Attack in Japan|accessdate=2018-05-05|date=2001-9-7|website=ABC News|language=en}}</ref>が、アメリカ国内のテロ攻撃の警報は出されないままであった。 ===実行犯の一覧=== {| class="wikitable sortable" style="font-size:100%;" |- ! 便 ! 氏名 ! 年齢 ! 国籍 |- | rowspan="5" |[[アメリカン航空11便テロ事件]] | '''[[モハメド・アタ]]''' |33 |{{flagu|Egypt}} |- | {{仮リンク|アブドゥルアズィーズ・アル=オマリー|en|Abdulaziz al-Omari}} | 22 | rowspan="4" style="text-align: center" |{{flagu|Saudi Arabia}} |- | {{仮リンク|ワイル・アル=シェフリ|en|Wail al-Shehri}} | 28 |- | {{仮リンク|ワリード・アル=シェフリ|en|Waleed al-Shehri}} | 22 |- | {{仮リンク|サタム・アル=スカミ|en|Satam al-Suqami}} | 25 |- | rowspan="5" |[[ユナイテッド航空175便テロ事件]] | '''[[マルワーン・アル=シェッヒー]]''' | 23 | rowspan="2" |{{flagu|UAE}} |- | {{仮リンク|ファイヤーズ・バニーハンマード|en|Fayez Banihammad}} | 24 |- | {{仮リンク|ムハンド・アル=シャフリー|en|Mohand al-Shehri}} | 22 | rowspan="8" style="text-align: center" |{{flagu|Saudi Arabia}} |- | {{仮リンク|ハムザ・アル=ガームディー|en|Hamza al-Ghamdi}} | 20 |- | {{仮リンク|アフマド・アル=ガームディー|en|Ahmed al-Ghamdi}} | 22 |- | rowspan="5" |[[アメリカン航空77便テロ事件]] | '''[[ハーニー・ハンジュール]]''' | 29 |- | {{仮リンク|ハリード・アル=ミンザール|en|Khalid al-Mihdhar}} | 26 |- | {{仮リンク|マージアド・ムーカド|en|Majed Moqed}} | 24 |- | {{仮リンク|ナワーフ・アル=ハーズミー|en|Nawaf al-Hazmi}} | 25 |- | {{仮リンク|サリーム・アル=ハーズミー|en|Salem al-Hazmi}} | 20 |- | rowspan="4" |[[ユナイテッド航空93便テロ事件]] | '''[[ズィアド・ジャッラーフ]]''' | 26 |{{flagu|Lebanon}} |- | {{仮リンク|アフマド・アル=ハズナーウィー|en|Ahmed al-Haznawi}} | 20 | rowspan="3" style="text-align: center" |{{flagu|Saudi Arabia}} |- | {{仮リンク|アフマド・アル=ナーミー|en|Ahmed al-Nami}} | 24 |- | {{仮リンク|サイード・アル=ガームディー|en|Saeed al-Ghamdi}} | 21 |} 出典:<ref name="cia.gov">[https://www.cia.gov/news-information/speeches-testimony/2002/DCI_18_June_testimony_new.pdf "DCI Testimony Before the Joint Inquiry into Terrorist Attacks Against the United States"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100324195110/https://www.cia.gov/news-information/speeches-testimony/2002/DCI_18_June_testimony_new.pdf |date=2010-03-24 }}, June 18, 2002.</ref> == 報道 == ニューヨークやワシントンには世界中の[[報道機関]]が本社・支社・事務局を置いているため、一連の事件は、テレビ・ラジオ・インターネットなどを通じて全世界にリアルタイムで伝えられた。連日、新聞や週刊誌なども最大級の扱いで事件を伝えた。 当日およびその後のテレビ報道は[[インターネットアーカイブ]]で保存公開されている<ref>[https://archive.org/details/sept_11_tv_archive Internet Archive September 11 Television Archive]</ref><ref>[https://current.ndl.go.jp/en/node/18966 Internet Archive、9.11テロに関する20チャンネル・3000時間分のニュース映像アーカイブ“Understanding 9/11”を公開 | カレントアウェアネス・ポータル]</ref> 。1機目の激突は、数カ月前から地元消防署の日常を密着取材していたフランスのテレビ局から派遣されていたビデオジャーナリストのノーデ兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。2機目の旅客機が激突する瞬間は、上記のようにプロやアマチュアを含む多くのカメラマンに撮影されている。 === アメリカ国内 === [[File:September 11 2001 Prauge Audience Watches the News.jpg|thumb|right|220px|事件の放送を行うアメリカのテレビニュースを見つめる[[プラハ]]市民]] 1機目が突入した[[ニューヨーク]]時間(アメリカ[[東部夏時間]])8時46分は[[テレビジョン|テレビ]]各局が朝のニュースショーなどの最中で、[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]は8時49分から、[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]・[[CBS]]など他のテレビ局も8時50分前後から特別報道番組を開始、[[ロウアー・マンハッタン]](WTC所在地)方面を向く情報カメラや報道[[ヘリコプター]]が建物の様子を伝え始めた。この時点では「小型機がビルに誤って衝突した事故」と報じるものが多かったが、中継の最中の9時3分、ツインタワー南棟にユナイテッド航空175便が突入した。2機目の突入以降、各テレビ局はテロの可能性が高いと論調を変えることになった。その後、9時30分にブッシュ大統領の演説が各局で中継される。 その後もツインタワーの炎上と崩壊、アメリカン航空77便のペンタゴン攻撃、93便の墜落(報道されたのは墜落してから30分以上たってからだった)など事態が続き、報道は週末の16日(日曜日)深夜まで休むことなく続いた。特にネットワーク3局の夕方ニュースのアンカーは最長で1日17時間にわたって伝え続けた。この週は新番組が始まる時期だったので、軒並み放送が順延され、内容変更を強いられた番組もあった。 また、国外向けの放送局である[[CNBC]](ヨーロッパ/アジア向け、本部はアメリカ国内)や[[CNNインターナショナル]]でも、本来あまり放送されない国内向けの放送を全編放送し続けた。 === イギリス === [[イギリス]]は昼過ぎであった。[[BBC]]においてはテレビ国際放送・[[BBCワールドニュース|BBCワールド(現・BBCワールドニュース)]]内で速報として13時前に炎上するワールドトレードセンターを映し出したのが第一報であった。午後1時からのニュース番組を始めた直後、2機目の突入の瞬間を生中継した。[[トニー・ブレア]][[イギリスの首相|首相]]は14時30分ごろ、出席していた[[ブライトン]]での労働組合会議の場で「深い哀悼」の意を伝えた。 === 日本 === 以下、[[日本]]における報道については[[日本時間]]を使用する。なお、日本時間は現地の時間([[アメリカ東部夏時間]] ([[UTC-4]]))より13時間進んでいる。当時の状況の主軸である'''世界貿易センタービルへの航空機衝突と崩壊の時刻'''を'''太字'''で示す。なお、日本ではワールドトレードセンター・ツインタワーの名称を「世界貿易センタービル」と報道した。 ;'''テロ発生直前の報道内容''' 2001年9月11日は[[平成13年台風第15号|台風15号]]と[[平成13年台風第16号|台風16号]]が前日から[[関東地方]]と[[沖縄諸島|沖縄]]を襲って多くの被害をもたらしたほか、[[9月1日]]に発生した[[歌舞伎町ビル火災]]の原因究明、[[9月10日]]に国内で初めて[[狂牛病]]疑いのある牛が[[千葉県]]で発見されるなど、この日の[[報道番組|ニュース番組]]では重大ニュースが多数報道されていた。 ;2001年9月11日'''21時46分、1機目のアメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟へ衝突''' 22時前後、「ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が激突(1機目のアメリカン航空11便)」という情報が各局のニュース番組またはニュース速報<ref group="注釈">民放のうち、日本テレビ[[日本ニュースネットワーク|系列]]は『[[火曜サスペンス劇場]]』、テレビ朝日系列では『[[ニュースステーション]]』がそれぞれ放送中だった。TBS系列は『[[ジャングルTV ~タモリの法則~]]』([[MBSテレビ|毎日放送]]制作)、フジテレビ系列ではドラマ・『[[ウソコイ]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作)がそれぞれ開始した直後だった。この中でニュース速報が出された。</ref> で一斉に伝達された。この時点では殆ど情報が集まっておらず、詳細な状況は不明であった。 [[テレビ朝日]] ([[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]) では、定時の21時54分より「[[ニュースステーション]]」の放送を開始した。冒頭から[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]の映像をそのまま放送しており、1機目激突後の時点ではまだ事故と考えられていたため、1機目の激突により炎上する北棟の映像をしばらく流した後、台風関連のニュースを伝えていた。なお、この時メインキャスターの[[久米宏]]は夏季休養中であり、久米の進行はサブキャスターである[[渡辺真理]]が務めた。 22時開始の「[[NHKニュース10]]」([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])<ref>{{NHKアーカイブス|A200109112200001300100|NHKニュース10}}</ref>も、オープニング直後のヘッドラインは[[台風]]のニュースなどを流していた。しかし、ヘッドライン終了後キャスターの[[堀尾正明]]が「台風のニュースをまずお伝えしようと思ってたんですが、たった今こういうニュースが入ってきました」と切り出し、1機目激突の第一報を伝え、間もなく[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]の中継映像で炎上する世界貿易センタービルの姿が映し出された。 この時点ではまだ「事故」か「事件」かは明言されていなかった。報道機関は1機目衝突の瞬間を捉えておらず、消防士の取材をしていたカメラマンが撮影した1機目の映像も翌日まで放送されていなかった。ただ「ニュース10」に出演していたコメンテーターは、晴天時での不可思議な衝突という状況を理由として、2機目衝突前からテロの可能性を指摘していた。CNNでも同じような理由からテロの可能性が指摘されていたが、同時に、[[1945年]][[7月28日]]に[[エンパイア・ステート・ビルディング]]に[[アメリカ陸軍]]の[[B-25 (航空機)|B-25]][[1945年エンパイア・ステート・ビルディングB-25爆撃機衝突事故|爆撃機が衝突した事故]]を例に挙げ、操縦ミスによる突発的な事故である可能性も指摘していた(なお、この事故当時は深い霧が出ていた)。また、CNNなどでは「[[ボーイング737]]などの小型の双発ジェット機」が衝突したと伝えていたものの、英語の翻訳ミスからか、日本ではこの時点で「激突した航空機は小型の[[双発機]]」であるとの情報が報道されていた。しかし「小型」の根拠や「双発機」という語の解説がなされないなど情報が錯綜していた。 ;2001年9月11日'''22時3分、2機目のユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟へ衝突''' [[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース]]の中継映像をそのまま放送していた「NHKニュース10」では、2機目の突入の瞬間が生中継された<ref>[https://web.archive.org/web/20120114143623/http://www.nhk.or.jp/archives/nhk50years/history/p24/ NHKテレビの50年 21st] - 当時のその模様を伝えた画像が3枚掲載されている</ref>。映像では画面右側から飛行機が現れ、炎上する北棟(第1ビル)の真後ろに隠れるように見えた。そこには南棟(第2ビル)があり、数秒の後、南棟を襲った巨大な爆発によって炎と黒煙が上がる様子が映し出された。画面を通して見れば、1機目の激突で炎上する北棟が2度目の大爆発を起こしたように見え、NHKニューヨーク支局の記者は単に「今、また爆発がありました」と伝えた。これに対して堀尾が「今、2機目の飛行機が突入したように見えましたが」と聞き返した。 「ニュースステーション」では台風関連のニュースを伝えていた間に2機目の突入が起こったため、突入の瞬間は生放映されなかったものの、すぐに再びテロ関連のニュースに切り替えられた。この時、コメンテーターの[[萩谷順]]が「先週末からアメリカの情報機関により『中東のテログループがアメリカの利益を代表する建物ないし組織に対してテロを行おうとしている』との警告が流されていました」と述べている。 22時20分頃、NHKは「旅客機がビルに激突したとみられる」と伝えた。22時30分、[[フロリダ州]]の小学校を訪れていたブッシュ大統領が演説で「明らかなテロ」と発言した。22時45分頃、「[[ペンタゴン]](国防総省)が炎上」というニュースが各局で伝えられ、一連の事件が「同時多発テロ」であるとの見方が固まった。間もなく炎上するペンタゴンの映像が映し出され、爆発・火災の原因が3機目の旅客機の可能性があると伝えられた。旅客機がハイジャックされていたという内容の現地メディアの報道も日本国内に伝えられ始めた。 これらの各ニュース番組では放送予定だった他のニュースより優先して、ニューヨーク・ワシントンとの中継映像が放送され続けた。時間(事件の拡大)とともに民放各社も次々に通常番組を打ち切り、臨時ニュースの放送を開始した。[[TBSテレビ|TBS]]系列では22時37分、放送中の[[MBSテレビ|毎日放送]]制作「[[ジャングルTV ~タモリの法則~]]」を途中で打ち切り<ref>{{Oricon TV|100858|タモリ}}</ref>、「[[筑紫哲也 NEWS23]]」を前倒しで開始<ref>{{Oricon TV|551043|筑紫哲也}}</ref><ref group="注釈">この時間帯は毎日放送の責任枠であったため、22時53分まではTBSから毎日放送経由で全国へ流された。</ref>。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列では、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作のテレビドラマ「[[ウソコイ]]」最終回を放送していたが、番組の途中で「[[ニュースJAPAN]]」キャスターの[[田代尚子]]アナウンサーによるニュースを何度か流した後、ドラマ終了直前の22時45分から報道特番を開始した<ref>{{Oricon TV|235027|中井貴一}}</ref>。独立UHF局においても、通常時は[[テレビ東京]]のニュースをネット受けしない[[三重テレビ]]は、この日は「[[ワールドビジネスサテライト]]」を臨時ネットした。21時から「[[火曜サスペンス劇場]]」を放送中の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]はCMと本編の間に「[[NNNきょうの出来事]]」キャスターの[[井田由美]]アナウンサーによる短いニュースを挟んだ<ref group="注釈">ニュース挿入時間中はドラマの送出VTRを一時停止し、ニュース終了のタイミングで送出VTRを再び再生した(放送枠の「こじ開け」措置。これにより、後続番組は5分程度の繰り下げとなった)。</ref>が、番組自体は休止しなかった(同局は次番組のきょうの出来事以降、本格的な特番体制に入る)。 ;2001年9月11日'''22時59分、世界貿易センタービル南棟が崩壊''' [[ファイル:September 11th WTC View From Jersey City 9-2001.jpg|thumb|220px|ワールドトレードセンターの崩壊直後の煙の様子]] NHKではワシントン支局と中継を結んでいる間にそれが起こり、途中で当時の支局長[[手嶋龍一]]の発言を遮るようにニューヨークに画面が切り替えられた。片方のビルが姿を消し、大量の煙に覆われたニューヨークと、 NHKのカメラが路上から撮影した南棟崩壊時の映像(この映像はNHKが世界で唯一[[デジタルハイビジョンカメラ]]で撮影した映像である)が映し出された。これらの映像は二棟が重なるアングルであったため崩壊の程度が分かりにくく、当初は「ビルの一部が崩壊した」とも伝えられていた。また、ワシントンの各所で爆発が相次いだという誤報が流れ、画面に「アメリカで同時テロ」の字幕が映し出された。 ;2001年9月11日'''23時28分、世界貿易センタービル北棟が崩壊''' この時もNHKはスタジオを映していて2つのビルの崩壊の瞬間はいずれも中継されなかった。しかし間もなく、巨大な超高層ビルが上部から完全に崩壊し、膨大な瓦礫と化してマンハッタン南部が煙で覆いつくされる衝撃的な映像が放送された。さらに23時40分頃には、4機目(ユナイテッド航空93便)がペンシルベニア州西部に墜落したというニュースが伝えられた。NHKアナウンサーの堀尾は次々と起こる惨劇を報道する中で「大変ショッキングな映像ですが、現実の映像です」と発言した。 日本のほぼ全てのメディアは、翌日の明け方までテロに関する情報を伝え続けた。 :民放テレビ局は深夜の[[コマーシャルメッセージ|CM]]が全面休止され終夜放送を行った。 :深夜から早朝にかけての民放テレビではTBS、フジテレビなどCMの全面カットを行った局があったものの、日本時間翌朝以降は民放テレビ局のCM枠こそ再開されたが、一部企業のCMが順次自粛され、その穴埋めとして公共広告機構(現・[[ACジャパン]])のCMに差し替えられた<ref group="注釈">この時に放映がされていた2001年度の「チャイルドマザー」「チャイルドファザー」は、上記の事件の影響で多量に放映されたため、槍玉に挙がり放送中止に至ったとされる。なお、公共広告機構以外にも上記の事件の影響で差し替えとなったCMもある。</ref>。 :NHKはテロ発生直後から、総合テレビと[[NHK BS1|BS1]]を中心に[[9月12日]]夜まで断続的にテロ報道を実施(総合テレビの[[連続テレビ小説]]「[[ちゅらさん]]」は通常通り放送、[[大相撲]]秋場所については幕内の取り組みに限定して放送時間を短縮して放送した)。それ以後も深夜1-5時に予定していた「[[ミッドナイトチャンネル]]」で放送する予定の番組を休止して、毎時00分からの臨時ニュースに充てた。 :[[ラジオ]]も、[[NHKラジオ第1放送]](23:20から)、[[NHK-FM放送]](1:00から飛び乗り)の「[[ラジオ深夜便]]」を急遽全編休止し、断続的に翌朝までテロ報道に充てたほか<ref group="注釈">前日の9月10日付けも台風情報を行うために休止となっており、レギュラー放送としては初めて2日間連続休止となった(この時は「深夜便」のスタジオにはつながず、ニュースセンターのラジオスタジオから断続的に放送した。9月12日付けから再開するが、その週は「[[NHKジャーナル]]」を臨時に0:45まで拡大延長したため、一部のコーナーは休止となった)</ref> 民放の[[AM放送]]はローカル局まで含めてほぼ全局が特番体制となり、[[超短波放送|FM放送]]民放局は番組編成自体は通常体制としながらもMCによる状況アナウンスが小刻みに入れられた。 日本の放送メディアにおける海外の非常事態の終夜放送は、[[1991年]][[1月17日]]に勃発した[[湾岸戦争]]([[多国籍軍]]による空爆開始)以来であった。また駐日[[アメリカ軍]]向けに[[英語]]でラジオ放送を行う[[AFN]]も通常放送を中断してニュースを伝え続けると同時に、アメリカ軍の警戒態勢や行動上の注意を喚起する内容の放送を、ニュースの合間に繰り返し行っていた。 '''2001年9月12日6時25分、世界貿易センターの第7ビルが崩壊''' 8時30分ごろ、日本人大学生1人がユナイテッド航空93便に搭乗していたと報道された。9時30分からブッシュ大統領がホワイトハウスで行った演説が中継され、10時20分から[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]]、[[福田康夫]][[内閣官房長官|官房長官]]が首相官邸で記者会見を開始した。午後1時50分ごろ、1機目激突の瞬間を撮影したカメラマンの映像が放送された。こうしてこの日もほとんどテロ事件関連ニュース一色となった。夜の[[ゴールデンタイム]]枠ではお笑い・バラエティ番組が休止され、特別番組が放送された(テレビ朝日では「ニュースステーション」を1時間前倒しして放送、TBSでは[[ナイター]]中継を通常時間より1時間短縮し、特別番組を放送)。 テレビでは、事件から1週間程度の期間は、通常番組を休止あるいは放送延期等を行い特別報道番組を放送する局もあった。 新聞各紙も一面に大見出しで事件を伝えたほか、号外も発行された。事件が朝刊各版の締め切り間際に立て続けに起こったため、各新聞は配達先によって記事内容が一部異なっている。多くの[[週刊誌]]も特集を組むなどして大きく事件を伝えた。 当時、[[CNNインターナショナル]]を日本国内の衛星放送・ケーブルテレビ局向けに配信していた[[日本ケーブルテレビジョン|JCTV]]では、この事件を受け、急遽通常は行っていない深夜帯の同時通訳を行った。後に当時の同時通訳陣の心境をまとめた短い記事を、同社CNN紹介ウェブサイト内に期間限定で掲載している。 === 情報の錯綜 === 「同時多発テロ」と呼ばれるように複数のテロが短時間に連続して発生した<ref group="注釈">国際政治学・安全保障政策の研究者である宮坂直史は著書(『日本はテロを防げるか』ちくま新書)の中で、テロは複数箇所で同時に行われることが多いことから「アメリカ同時多発テロ」を固有名詞として用いることには違和感を覚える、と指摘している。</ref>。当時の社会において、従来型の「テロ」や「犯罪」の概念を超越した規模だったため、時事刻々と変化する状況に対して報道機関の対応が追いつかず、情報が錯綜した状況が続いた。 当時はインターネットの回線速度が遅い上に、情報共有が可能なWebサイトが[[電子掲示板]]しか存在せず、[[カメラ付き携帯電話]]や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]もまだアメリカでは普及していなかったため、一般人からのリアルタイムな情報共有にも期待できなかった。 事件当日から事件翌日の日本もしくはアメリカの各新聞・テレビ報道において確認された誤報の一部として、下表のようなものがあげられる。日本の新聞における誤報については訂正が締切時間に間に合わず、結果的に翌12日の朝刊のいくつかの掲載が誤報になった例も含まれている。 {|class="wikitable" |- ! 報道内容 || 実際の状況・備考 |- | 小型の双発機が衝突した「事故」 || 2機目衝突によりテロと判明。小型機ではなく中型のジェット旅客機 |- | ハイジャックされた飛行機の便名・航空会社の取り違え || 12日未明に確定 |- | 被害者は6人死亡・約1000人負傷 || 左記の情報は[[世界貿易センター爆破事件|1993年の爆破事件]]の数字。ビルの崩壊後「数千人の可能性」に |- | [[パレスチナ解放民主戦線]] (DFLP) が犯行声明 || 数十分後、[[ダマスカス]]の本部でスポークスマンが否定と報道 |- | [[アメリカ国務省|国務省]]で自動車爆弾爆発 || rowspan="2" | 発生していない |- | [[ホワイトハウス]]、[[アメリカ合衆国議会議事堂|連邦議会]]付近で爆発 |- | ペンシルベニア州で墜落した飛行機は[[ボーイング747]] || [[ボーイング757]] |- | 11機の旅客機がハイジャックされ、数機が行方不明 || 4機以外にハイジャック機は存在しない<ref group="注釈">全米に飛行禁止令が出された後も連絡が行き届かず、飛行を続けていた航空機が11機存在したことによる。[[ユナイテッド93]]でも描写されている。</ref>。 |- | ハイジャック機が[[キャンプ・デービッド]]へ墜落 || 発生していない |- | 大韓航空85便がハイジャックされた ||同便パイロットの操作ミス([[大韓航空85便ハイジャック誤報事件]]) |} これらの状況はアメリカ合衆国などにおいても同様で、事件発生当初は激突した航空機も中型の[[ジェット旅客機]]ではなく小型民間機(小型の単発もしくは双発[[プロペラ]]機など)と報道されていた。またユナイテッド航空93便が[[クリーブランド・ホプキンス国際空港]]に着陸したという内容の速報記事も報道されたが、後に[[デルタ航空1989便ハイジャック誤認事件|デルタ航空1989便]]をUA093便と混同していたことが判明し、誤報として訂正された<ref>{{cite web|url=http://www.skeptic.com/eskeptic/06-09-11|title=9/11 Conspiracy Theories: The 9/11 Truth Movement in Perspective|access-date=2021-05-02}}</ref>。この他にもBBCはテロ攻撃の直後にハイジャック犯とされる人物の情報を発表したが、その後その内の数人が存命中の別人であったことが判明すると情報を修正した。BBCは後に当時報告された氏名がアラブ人やイスラム教徒に多く見られるものであったため。初期での混乱が起きたのだろうと釈明している<ref name="911Ct_SteveHerrmann">{{cite news|author=Steve Herrmann |url=https://www.bbc.co.uk/blogs/theeditors/2006/10/911_conspiracy_theory_1.html |title=9/11 Conspiracy Theory, by Steve Hermann, BBC Editor |publisher=BBC |date=October 27, 2006 |access-date=January 28, 2010| archive-url= https://web.archive.org/web/20100108134031/http://www.bbc.co.uk/blogs/theeditors/2006/10/911_conspiracy_theory_1.html| archive-date=January 8, 2010 | url-status= live}}</ref>。また、これらの情報の混乱が根拠のない陰謀説や都市伝説が起きるきっかけになった。 === 映像・写真など === テレビでは事件発生直後から、さまざまな場所・方向から記録された映像が放送された。特に旅客機がワールドトレードセンターなどの被害を受けた建物に突入する瞬間や、ツインタワーの上層階から飛び降りる人、ツインタワーが崩れ落ちる衝撃的瞬間をとらえた映像は1週間近くにわたり何十回、何百回となく繰り返された。しかしこれは数千人が殺害された瞬間にほかならず、遺族や関係者、さらには子供に[[ショック]]や[[トラウマ]]を与える可能性が懸念され、次第に自粛を要請する声が上がった。やがてニュースでこの事件の映像が放送されるときも、こうした「衝撃映像」は少なくなった。 [[ファイル:UA93_fuselage_debris.jpg|thumb|220px|ユナイテッド航空93便の残骸]] 事件後の新聞各紙や週刊誌などには、ビルが炎上・崩壊する写真のみならず、血まみれでうずくまる市民や炎上しているツインタワーの上層階から飛び降りる人の写真などが大きく掲載された。アメリカ合衆国では後者の写真をめぐって論争が起こった。アメリカ国民の大多数が信仰する[[キリスト教]]は[[自殺]]を禁じているからである。2006年に[[イギリス]]で製作されたドキュメンタリー「[[The Falling Man]]」は、この論争を取り扱ったものである。 一連の事件を記録した写真や映像は、各[[報道機関|マスコミ]]のみならず[[マグナム・フォト]]のようなプロフォトグラファー、あるいは事件を目撃し撮影した市民によって大量に残された。マグナムは「NEW YORK SEPTEMBER 11」と題して写真集を発売した(日本版あり)。ニューヨークでは事件後に写真展覧会が行われ、それらの写真はインターネットで公開されたほか、「HERE IS NEW YORK」と題した写真集として発売されている。 [[2006年]]に公開されたユナイテッド航空93便を描いた映画「[[ユナイテッド93]]」や、「[[ワールド・トレード・センター (映画)]]」でも、事件を伝える当時のテレビ局の映像が使われている。なお「ユナイテッド93」では当時の様子を極力再現するため、情報伝達の混乱や誤りなどがそのまま伝えられている。 ==被害者に関する情報== === テロによる犠牲者 === {| class="wikitable" style="width:280px; font-size:90%; float:right; margin-left:10px" |- |+死者(被害者 + ハイジャック犯) |- !rowspan="3"| ニューヨーク市 | {{nobr|[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]}} | {{nobr|2,606<ref name="edition.cnn.com"/><ref>{{cite news|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120325210832/http://www.wibw.com/nationalnews/headlines/70082322.html| url=http://www.wibw.com/nationalnews/headlines/70082322.html|archivedate=March 25, 2012| deadurl=yes| title=Alleged 9/11 Plotters Face Trial Blocks From WTC Site |date=November 13, 2009|publisher=[[WIBW-TV|WIBW]] |accessdate=November 24, 2013}}</ref>}} |- | [[アメリカン航空11便テロ事件|アメリカン11便]] | 87 + 5<ref>{{cite news|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/2001/memorial/lists/by-location/page93.html |title=American Airlines Flight 11 |publisher=CNN |accessdate=September 2, 2011}}</ref> |- | [[ユナイテッド航空175便テロ事件|ユナイテッド175便]] | 60 + 5<ref>{{cite news|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/2001/memorial/lists/by-location/page100.html |title=United Airlines Flight 175 |publisher=CNN |accessdate=September 2, 2011}}</ref> |- !rowspan="2"| アーリントン | [[ペンタゴン]] | 125<ref>{{cite news|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/2001/memorial/lists/by-location/page88.html |title=Pentagon |publisher=CNN |accessdate=September 2, 2011}}</ref> |- | [[アメリカン航空77便テロ事件|アメリカン77便]] || 59 + 5<ref>{{cite news|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/2001/memorial/lists/by-location/page96.html |title=American Airlines Flight 77 |publisher=CNN |accessdate=September 2, 2011}}</ref> |- ! {{nobr|シャンクスヴィル近郊}} | [[ユナイテッド航空93便テロ事件|ユナイテッド93便]] | 40 + 4<ref>{{cite news|url=http://www.post-gazette.com/headlines/20011028flt93mainstoryp7.asp |title=Flight 93: Forty lives, one destiny |work=Pittsburgh Post-Gazette |date=October 2001|last=Roddy |first=Dennis B.|authorlink=Dennis Roddy|accessdate=September 2, 2011 |archiveurl = https://webcitation.org/5KmMRkIhh?url=http://www.post-gazette.com/headlines/20011028flt93mainstoryp7.asp | archivedate=November 30, 2006| deadurl=no}}</ref> |- !colspan="2"| 合計 | {{nobr|2,977 + 19}} |} [[ファイル:Missing persons - by Keith Tyler.jpg|thumb|220px|事件現場に張られた行方不明者の安否を尋ねる張り紙]] この無差別[[テロリズム|テロ]]事件における死者は合計2,996人、負傷者は6,000人以上とされている<ref name="WashingtonPost">{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/news/wonk/wp/2013/09/11/nine-facts-about-terrorism-in-the-united-states-since-911/ |title=Nine facts about terrorism in the United States since 9/11 |publisher=The Washington Post |date=2013-09-11 |accessdate=2018-05-30}}</ref>。テロリストを除いた犠牲者は2,977人であり、ワールドトレードセンターへの攻撃による犠牲者は2,753人<ref name="auto">{{Cite news |url=https://edition.cnn.com/2013/07/27/us/september-11-anniversary-fast-facts/|title=September 11th Terror Attacks Fast Facts |date=August 24, 2017 |publisher=CNN |accessdate=2018-05-30}}</ref>、アメリカ国防省(ペンタゴン)への衝突による犠牲者は184人<ref name="auto"/><ref name="cnn.com">{{Cite news |url=https://edition.cnn.com/2006/US/05/16/pentagon.video/index.html |title=First video of Pentagon 9/11 attack released |date=May 17, 2006 |work=Cable News Network |accessdate=2018-05-30}}</ref>、ユナイテッド航空93便の墜落による犠牲者は40人だった<ref name="WashingtonPost" />。 ワールドトレードセンターの現場での犠牲者2,753人には、[[ニューヨーク市消防局]]の[[消防士]]343人と<ref name="auto"/><ref>{{Cite Web |url=http://www.orgsites.com/va/asis151/Sep11Memorial.pdf |format=PDF |title=September 11 Memorial |publisher=New York State Intelligence Center |date=September 11, 2001 |accessdate=2018-05-30}}</ref>、71人の警察官([[ニューヨーク市警察]]本部の[[警察官]]23人、[[アメリカ合衆国の警察#特定施設の法執行機関|ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社警察]]の警察官37人を含む)が含まれている<ref name="auto"/><ref>{{Cite web |url=http://www.nleomf.org/facts/enforcement/deadliest.html |title=Deadliest Days in Law Enforcement History |publisher=National Law Enforcement Memorial Fund |date=July 7, 2016 |accessdate=2018-05-30}}</ref><ref name="ODMP"/>。 2,996人の死者の内訳は、ハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が265人(テロリストを含む)、ワールドトレードセンターでの死亡者が2,606人<ref name="edition.cnn.com">{{Cite news |url=https://edition.cnn.com/2009/CRIME/11/13/khalid.sheikh.mohammed/index.html |title=Accused 9/11 plotter Khalid Sheikh Mohammed faces New York trial |date=November 13, 2009 |work=Cable News Network |accessdate=2018-05-30}}</ref>、アメリカ国防省での死亡者が125人とされている<ref name="auto"/><ref name="cnn.com"/>。 このテロ攻撃では270人から400人の[[ユダヤ人]]が犠牲になったと推定されている<ref name=jews>{{cite web|url=http://usinfo.state.gov/media/Archive/2005/Jan/14-260933.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050408072925/http://usinfo.state.gov/media/Archive/2005/Jan/14-260933.html |archivedate=April 8, 2005 |title=The 4,000 Jews Rumor: Rumor surrounding Sept. 11th proved untrue. Internet Archive – which appeared in the September 12 Internet edition of the "Jerusalem Post". It stated, "The Foreign Ministry in Jerusalem has so far received the names of 4,000 Israelis believed to have been in the areas of the World Trade Center and the Pentagon at the time of the attacks." |accessdate=October 15, 2010}}</ref><ref group="注釈">犠牲者1700人の宗教についての調査で、全体の内の約10%がユダヤ教徒であったことが示されている。また犠牲者の姓を調査した結果、約400人 (およそ15%) がユダヤ人である可能性があることが判明した。犠牲となった{{ill2|キャンター・フィッツジェラルド|en|Cantor Fitzgerald}}社の従業員658人のうち、公共の慰霊碑に名前があった390人を調査した結果、その中の49人 (およそ13%) がユダヤ人であったことが判明した。2002 American Jewish Year Bookによると、ニューヨーク州の人口のうち9%がユダヤ人であった。またWTCの犠牲者のうち64%がニューヨーク州在住の人物であった。</ref><ref>{{cite web |author=Gary Rosenblatt |date=September 5, 2002 |url=http://www.thejewishweek.com/bottom/specialcontent.php3?artid=362 |title=The Mitzvah To Remember |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021010020906/http://www.thejewishweek.com/bottom/specialcontent.php3?artid=362 |archivedate=October 10, 2002 |accessdate=May 29, 2014}}</ref><ref name="phas-13">{{cite web|url=http://www.jcpa.org/phas/phas-13.htm |title=The Resuscitation of Anti-Semitism: An American Perspective: An Interview with Abraham Foxman |publisher=Jcpa.org |accessdate=May 30, 2011| archiveurl= https://web.archive.org/web/20110608060311/http://www.jcpa.org/phas/phas-13.htm| archivedate=June 8, 2011 | url-status= live}}</ref>。またこれに関連して[[アメリカ合衆国国務省]]は76人分のユダヤ人犠牲者のリストの一部を公開した<ref name="usgov4000JewsRumor">{{cite web |url=http://www.america.gov/st/pubs-english/2007/November/20050114145729atlahtnevel0.1679041.html |title=The 4,000 Jews Rumor |publisher=Bureau of International Information Programs, [[U.S. Department of State]] |date=November 16, 2007 |accessdate=September 6, 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130810083338/http://www.america.gov/st/pubs-english/2007/November/20050114145729atlahtnevel0.1679041.html |archivedate=August 10, 2013 }}</ref>。 2017年8月の時点でも、犠牲者全体の40%にあたる1,112人の遺体がいまだ未確認の状態だった<ref>{{Cite news |url=https://www.theguardian.com/us-news/2017/aug/08/remains-911-victim-identified-16-years-terror-attack|title=Remains of 9/11 victim identified 16 years after terror attack |date=August 8, 2017 |publisher=The Guardian |accessdate=2018-07-23}}</ref>。多くの遺体がばらばらになって散乱しており<ref>{{Cite Web |url=https://www.nytimes.com/2011/11/13/nyregion/as-remains-from-9-11-are-identified-no-end-to-grieving.html?_r=2&scp=1&sq=Susan%20Ainbinder&st=cse|title=As 9/11 Remains Are Identified, Grief Is Renewed |publisher=The New York Times |date=November 12, 2011 |accessdate=2018-07-23}}</ref>、2006年には南棟に隣接する{{ill2|ドイツ銀行ビル|en|Deutsche Bank Building}}の屋上で無数の遺骨の破片が発見された<ref>{{Cite Web |url=https://www.nytimes.com/2006/04/06/nyregion/pieces-of-bone-are-found-on-building-at-911-site.html|title=Pieces of Bone Are Found on Building at 9/11 Site |publisher=The New York Times |date=April 6, 2006 |accessdate=2018-07-23}}</ref>。 なお、日本人の犠牲者は24人に及んだ。 === WTCツインタワー両棟崩壊による健康被害 === [[File:Rescue worker reaching into a New York Police car covered with debris (28802606564).jpg|thumb|220px|ツインタワー崩壊後に破片に覆われたパトカー]] 現場はワールドトレードセンターの鉄骨に吹き付けられていた[[石綿]](アスベスト)やツインタワー内にあったコンピュータや蛍光灯からの[[水銀]]、[[ベンゼン]]をはじめとする火災により発生した[[多環芳香族炭化水素]]化合物等の危険な[[粉塵]]も含まれており<ref>[http://www.nytimes.com/imagepages/2006/09/05/nyregion/20060905_HEALTH_GRAPHIC.htm What Was Found in the Dust]{{リンク切れ|date=June 2014}} (''[[New York Times]]'')</ref>、救難活動を行った[[イヌ|犬]]が次々に死に、[[肺]]に障害を訴える人が続出していた。しかし、アメリカ政府はそれを否定し、十分なデータの裏付けもないのに[[アメリカ合衆国環境保護庁|EPA]]も「空気は安全」と報知したことから、安全よりもニューヨークの復旧作業といち早い[[ウォール街|ウォールストリート]]の営業の再開を優先したのではないかという疑惑も挙がっている。これに対して、EPA監査局は'''[[ホワイトハウス]]の環境諮問委員会'''からの圧力で安全宣言の発表に至ったという報告書を2008年8月に発表している<ref>[http://www.epa.gov/oig/reports/2003/WTC_report_20030821.pdf EPA’s Response to the World Trade Center Collapse]([[PDF]]ファイル)</ref>。これによると、EPAの安全宣言はアスベストの含有量の数値など実際のサンプルがあったにもかかわらず、曖昧な表現に書き換えられた形跡もあるという。 現場で救助作業などにあたった人では、安全宣言により[[防塵マスク]]を付けなかったため、健康被害が拡大された可能性も指摘されている<ref>[[:en:United States Environmental Protection Agency September 11 attacks pollution controversy|United States Environmental Protection Agency September 11 attacks pollution controversy(en:wiki)]]</ref>。このような作業員や消防士、住人を含めテロ発生時またはその直後に現場近辺にいた人では、肺疾患や[[白血病]]、[[悪性腫瘍|癌]]などの発生が報告されており、医療機関などにより粉塵被害との因果関係が追跡調査されている<ref>[http://nyc.gov/html/doh/wtc/html/home/home.shtml 9-11 Health]</ref>。特に消防士では、[[精巣癌]]や[[非ホジキンリンパ腫]]、[[前立腺癌]]、[[多発性骨髄腫]]になるリスクが有意に高いとする論文も発表されている<ref>[http://healthnews.uc.edu/news/?/3750 Firefighters Face Increased Risk for Certain Cancers](''HealthNEWS,2006/11/10'')</ref><ref>[http://journals.lww.com/joem/pages/articleviewer.aspx?year=2006&issue=11000&article=00014&type=abstract Cancer Risk Among Firefighters: A Review and Meta-analysis of 32 Studies]</ref>。約3000人の作業員に対する追跡調査では、28%の人で肺機能に何らかの異常が認められている<ref>[https://web.archive.org/web/20091019034441/http://chestjournal.chestpubs.org/content/135/2/492.abstract Longitudinal Assessment of Spirometry in the World Trade Center Medical Monitoring Program]</ref>。 [[ニューヨーク市警察]](NYPD)など法執行機関においても、多数の警察官がテロ事件に関連した疾病(9/11 related illness)で死亡している<ref>[http://nypd.police-memorial.com/list-of-nypd-fallen-heroes/ NYPD Fallen Heroes | NYPD Police Memorial]</ref>。2016年8月までの警察官及び法執行官の死者数は110人。内訳以下の通り<ref name="ODMP">[http://www.odmp.org/search?name=&agency=&state=&from=&to=&cause=9%2F11+related+illness&filter=all Officer Down Memorial Page(ODMP)での検索結果]</ref>。 *ニューヨーク市警察:99人 *港湾公団警察:1人 *ナッソー郡警察:1人 *[[アメリカ動物虐待防止協会|アメリカ動物虐待防止協会警察部]]:1人 *[[ニューヨーク市立大学|ニューヨーク市立大学警察部]]:1人 *ヨンカーズ市警察:1人 *[[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局]] (ATF):1人 *[[連邦保安官]]:1人 *ピークスキル市警察:1人 *ニューヨーク州警察:1人 *ニューヨーク郡地方検事付捜査官:1人 *ヴァージニア州・アーリントン郡警察:1人 [[2011年]]1月、健康被害を受けた消防士や警察官らに医療費補償など約42億ドルを支給する法案が成立した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/america/110103/amr1101031206005-n1.htm 同時テロの健康被害を補償 米で“英雄”救済法成立]</ref>。 == アメリカ合衆国政府の対応 == === 非常事態宣言 === ブッシュ大統領は速やかに[[非常事態宣言|非常事態を宣言]]した。[[冷戦]]時代につくられた[[政府存続計画]]が初めて実行された<ref>"Wartime". National Commission on Terrorists Attacks upon the United States. U.S. Congress. Retrieved 2011-09-03.</ref><ref>'Shadow Government' News To Congress". CBS News. March 2, 2002. Retrieved 2011-09-04.</ref>。ワールドトレードセンター・ツインタワーやペンタゴンへの攻撃がなされた後しばらくの間は、さらなるテロに備えて、[[州兵]]、[[予備役]]が動員された。空港などには厳戒態勢が敷かれ、全ての国境が封鎖された。また、連邦航空局の命令によりアメリカ国内の民間航空路の封鎖、アメリカ領空内への民間機の入域・通過が禁止され、領空内を飛行中の民間機は全て最寄の空港に強制的に着陸させられた。 これらの措置は数日間続いた上、この措置が行われた地域はアメリカ本土のみならず、アメリカが航空管制を担当している[[サイパン]]や[[パラオ]]などの[[太平洋]]諸国の一部地域や、[[大西洋|北大西洋]]の一部地域など広範囲に及んだ。これにより多くの外国人がアメリカ国内に足止めされた上に、多くの旅客機と乗客、[[運航乗務員]]と[[客室乗務員]]が地上待機させられたため、世界各国の航空会社の運行が大混乱に陥った。 === 捜査 === この事件においては、[[ハイジャック]]犯の機器操作ミス(犯人側は乗客に向けて、機内放送をするつもりだったと見られるが、機内放送用のスイッチではなく、管制塔とのやり取り用の無線スイッチを押していた)によって操縦室内の会話が管制室に入るようになり、[[アラビア語]]を話していることから、おそらくは[[アラブ人]]が[[犯人]]であることが早期に推測できた。 また、[[客室乗務員]]は機内電話を使用して会社へハイジャックを報告し、犯人の特徴、人数と座席番号を伝えた。このため、航空会社は犯人の氏名、住所、[[電話番号]]から[[クレジットカード]]の使用履歴までを把握することが可能となった。また、数名の乗客も手持ちの携帯電話や機内電話で家族や友人にハイジャックの事実を伝えた。これらの[[電話]]の会話はほとんどが機体の破壊の時まで続いた。この内いくつかの会話は録音されており、[[捜査|事件捜査]]に使用された。 === 犯人引渡し要求 === [[File:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden and Ayman al-Zawahiri 2001.jpg|thumb|220px|ウサーマ・ビン・ラーディン(左/2001年11月撮影)]] アメリカ合衆国政府はこれらの捜査の結果から、このテロ攻撃がサウジアラビア人の[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]をリーダーとするテロ組織「[[アルカーイダ]]」によって計画・実行されたと断定し、彼らが潜伏する[[アフガニスタン]]の[[ターリバーン]]政権に引き渡しを要求した。 しかしターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。しかし、今の段階ではアルカーイダのやったこととは断定できない」と主張し、引き渡しを拒否したが、アルカーイダの司令官のビン=ラーディンは、後にアメリカ同時多発テロ事件を実行したことを認め逃亡し、2011年5月1日に殺害された。 なお、サウジアラビアなど[[湾岸協力会議]]を構成する[[アラブ世界|アラブ諸国]]もテロ攻撃を批判し、アメリカによるアフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。 : ''以降の推移は[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]]を参照'' == アメリカ市民の様々な反応 == === 愛国心 === 喪失感が充溢する中でアメリカ国民は、求心力を愛国的な意識を共有することに求め、速やかな報復を肯定する世論が形成されていった。具体的な物的証拠が挙げられないうちから、CNNなどのアメリカ合衆国の大手マスコミなどにおいても、イスラム原理主義を信奉するアラブ系人種によるテロ説が唱えられ(同じような事は、[[オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件]]の際にも発生した)、流言に乗った市民によるアラブ系住民への暴行事件が多発、アラブ系男性が射殺される惨事にまで発展した。また、[[ヨルダン]]系アメリカ人アメリカ兵がテロ後に受けた差別がきっかけにより、8年後の2009年11月5日に陸軍少佐がフォートフッド陸軍基地で銃乱射事件を起こしている<ref>[https://web.archive.org/web/20091108075627/http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200911060026.html CNN.co.jp:除隊希望もかなわず、同時テロ後に差別か 陸軍基地の銃乱射]</ref>。 これに対し、アラブ系アメリカ人には「Arabic Americans support U.S.(アラブ系アメリカ人は合衆国を支持する)」などと書いた横断幕を自家用車に掲げ、アメリカ合衆国の味方であることを示した者もいた。事件発生直後のテレビ報道の中で、[[中東]]系の人々が勝ち誇ったように興奮する映像が流されるなど(本テロ攻撃との関係は全く不明)、いわゆる国家的[[陰謀論]]に結びつくような偏った報道が事件直後から行われていたとする説もある。 (大統領時代にはビン・ラーディンを脅威と考えていた)前大統領である[[ビル・クリントン]]は、「同時多発テロ事件を見て、それが直ちにビン・ラーディンによるものだろうと考えた」と後に述べており、方法はともかくとしても、アメリカ合衆国に対するイスラム原理主義勢力によるテロ攻撃の可能性は以前から意識されていたものである。 === 消防隊員、警察官 === 炎上するワールドトレードセンター・ツインタワーに取り残された人々を救出すべく命がけでビルに突入し、ツインタワー両棟の崩壊で[[殉職]]した[[消防隊員]]や[[警察官]]に対してその勇気と献身的態度を賞賛する声がアメリカ合衆国のみならず世界中から寄せられ、その遺族に対する[[募金]]や手紙も世界各国から寄せられた。同じような賞賛は有毒物質が散乱する事件現場で遺体や遺留品の捜索を行った作業員たちにも同様に寄せられた。 テロ直後、ニューヨークの消防隊員から日本の公安職員で構成するNGO[[日本警察消防スポーツ連盟]]宛てにSOSが発信され、同連盟から消防救助隊員11人を現地入りさせて[[救助活動]]を実施した。世界中から多数の救助隊がテロ現場に向かいアメリカ入りしたが、アメリカ国籍以外の外国人で実際に救助活動したのは、唯一日本の救助隊のみであった。 <gallery> File:September 14 2001 Ground Zero 01.jpg|活動する消防隊員ら File:September 14 2001 Ground Zero 04.jpg|活動する消防隊員ら </gallery> === ブッシュ大統領の支持率 === 事件直前、[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領の支持率は50%を切っていた。そもそも、前年の大統領選挙は僅差での勝利であるために、また大統領選における大規模な混乱は選挙の正当性への議論を招いたことから、選挙直後から政権支持率は高くなかった。大統領就任後の初めての大きな事件としてその指導力が国民の注目を浴びることとなり、それがテロとの戦争として位置づけられたことから、事件直後には国民の支持率は史上最高の9割に到達、いみじくも政権最初の年から国民の支持を得た形となった。 === 娯楽・文化活動の自粛 === [[ファイル:May 28 2002 Ground Zero Cleanup 09.jpg|thumb|220px|right|崩壊したワールドトレードセンター・ツインタワーにおける捜索作業の終了に際する式典([[2002年]][[5月28日]])]]テロ以降、ニューヨークでは数々のイベントが、市民感情およびセキュリティ上から中止となり、また週末に予定されていた[[NFL]]のレギュラーシーズンも中止が決定された<ref>{{Wayback|url=http://www.ii-web.net/test/nfl_cheer/mania/season_7.html|title=NFL JAPAN top page>NFLマニア>シーズン関連トピックス NFL、第2週の見送りを決定|date=20050506190051}}</ref>。 しかし、2日後に[[WWE]]が[[ヒューストン]]にて興行を決行すると<ref>{{Cite web |title=The oral history of the first SmackDown after 9/11 |url=https://www.wwe.com/inside/first-smackdown-after-9-11-oral-history |website=WWE |access-date=2023-09-11 |language=en}}</ref>、[[ブロードウェイ]]の[[ミュージカル]]や[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]をはじめとする多くのイベントは、再度のテロを警戒する警察官の警護の元に程なくして再開し、「テロにひるまず通常の生活を続ける」という意思表示を行うとともに、打ちひしがれたアメリカ合衆国国民の心を慰めた。 === 放送自粛 === これを受け、全米1200もの系列局を傘下に持つラジオ放送大手のクリアチャンネル ([[:en:Clear Channel Communications|Clear Channel Communications]]) は、事件直後に[[クリア・チャンネル社のメモ|放送自粛曲リスト]]を作成した。リストには以下のような著名なアーティストの楽曲が多数含まれ物議を醸した。 * [[ルイ・アームストロング]]「[[この素晴らしき世界]]」 * [[クイーン (バンド)|クイーン]]「[[地獄へ道づれ]]」・「[[キラー・クイーン]]」 * [[ジョン・レノン]]「[[イマジン (ジョン・レノンの曲)|イマジン]]」 * [[ビートルズ]]「[[涙の乗車券]]」・「[[ア・デイ・イン・ザ・ライフ (代表的なトピック)|ア・デイ・イン・ザ・ライフ]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」・「[[ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ]]」・「[[オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ]]」 * [[サイモンとガーファンクル]]「[[明日に架ける橋]]」 * [[レッド・ツェッペリン]]「[[天国への階段 (レッド・ツェッペリンの曲)|天国への階段]]」 * [[ドアーズ]]「[[ジ・エンド (ドアーズの曲)|ジ・エンド]]」 * [[レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン]] 全曲 === 移動手段の変化 === [[File:Flight Attendants with President George W. Bush at Chicago's O'Hare International Airport.jpg|thumb|220px|right|[[オヘア国際空港]]を訪問し、航空会社社員から歓迎を受けるブッシュ大統領(2001年9月27日)]] テロ攻撃の後、アメリカ人の多くがテロを警戒して民間航空機による移動を避けて自家用車による移動を選択したために、同年の10月から12月までのアメリカ合衆国における自動車事故による死者の数は前年比で約1,000人増加した。 また、[[アムトラック]]や[[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド]]などの民間航空機以外の公共中長距離交通機関や、[[レンタカー]]の利用者も急増した。これによりグレイハウンドなどは臨時増便を行うなどして収益が改善したものの、空席が増えた航空会社の収益は悪化する結果となった。 === イスラム教へのヘイトクライム === {{出典の明記|date=2014年9月|section=1}} 同時多発テロの後、アメリカでは[[イスラム教]]への敵意が広まり、[[ムスリム]](男性なら頭にターバンを巻き髭を生やした人、女性ならば[[ヒジャブ]]を被り顔だけ出している人)に対するヘイトクライムの数が急増した。 イスラム寺院やイスラム教の学校、中東系のコミュニティセンターには電話や手紙による脅迫が相次ぎ、落書き、石や[[火炎瓶]]の投擲、銃撃、豚の血を入れた箱を[[モスク]]の入り口に置いておくという悪質な嫌がらせが起きた。道を歩いていても罵声を浴びたり、アラブ系経営者の店舗、特にガソリンスタンドは危険なため、閉鎖せざるをえない状況になった。ムスリムは1日5回の祈りをするが、その祈りの中心であるモスクも暴動を恐れて閉鎖された。大学キャンパスでは中東系の学生が卵を投げつけられたり、職場では突然解雇されたり、数々の嫌がらせが広がった。アラブ系には全員[[身分証明書]]携帯を義務づける案に対して賛成者が49%、アラブ系の強制送還を求めようという案には58%ものアメリカ人が賛成する結果が出た。 アメリカ人が持つイスラム教への敵意は長らく続いた。8年前の1993年にアメリカ・イスラム評議会が行なった世論調査によるとアメリカ国内で最も嫌われている宗教はイスラム教徒というデータが出ており、[[2010年]]9月11日には、牧師[[テリー・ジョーンズ (牧師)|テリー・ジョーンズ]]の主催により、「[[国際クルアーン焼却日|国際コーラン焼却日]]」と称するコーランを燃やすイベントが開かれようとした。しかし、世界中のイスラム教徒から抗議が殺到して中止に追い込まれた。 == 国際社会の対応 == このテロに対する国際的な反発は大きかった。[[国際連合]]は[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]で9月12日にテロの脅威に対して「あらゆる手段を用いて闘う」とした[[国際連合安全保障理事会決議1368]]、この日に行われた第56回[[国際連合総会]]でもアメリカ政府と市民に哀悼と連帯を表してワシントン及びペンシルベニア、そして国連本部を置くニューヨークへのテロ攻撃を非難する決議A/RES/56/1を当時の全加盟国189カ国が満場一致で採択し<ref>[http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0047.html 国連安全保障理事会決議1373号第6項に基づくテロ対策委員会への報告 - Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府]</ref>、9月28日には史上初の国際立法<ref>Stefan Talmond, 'The Security Council as World Legislator' (2005) 99 American Journal of International Law p.175.</ref><ref>Alexander Reilly, Gabrielle Appleby and Laura Grenfell. Australian Public Law (Oxford University Press, 2011) p.</ref> とされる{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1373|en|United Nations Security Council Resolution 1373}}で「全ての国」にテロ対策とその報告を義務付けた。11月10日には[[ルドルフ・ジュリアーニ]]が[[ニューヨーク市長]]としては初の国連演説を行ってテロとの戦いを呼びかけ、ブッシュ大統領も国連総会での初めての演説でこれらの世界の支持に感謝してテロとの戦いを宣言、11月12日には{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1377|en|United Nations Security Council Resolution 1377}}ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とされ、世界各国でテロ対策が進んだ<ref>{{cite journal | title = Terrorism in the Asia-Pacific: Threat and Response | journal = [[:en:The Journal of Asian Studies|The Journal of Asian Studies]] | year = 2004 | first = Andrew | last = Scobell | volume = 63 | issue = 4 | pages = 1078–9 | url = http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=788144 | accessdate = 2014-01-20| doi = 10.1017/S0021911804002463}}</ref><ref>広瀬佳一・宮坂直史著『対テロ国際協力の構図』ミネルヴァ書房</ref>。 11日に[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、[[イギリス]]の[[トニー・ブレア|ブレア]][[イギリスの首相|首相]]、[[フランス]]の[[ジャック・シラク|シラク]][[共和国大統領 (フランス)|大統領]]、[[ロシア]]の[[プーチン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]、[[中華人民共和国]]の[[江沢民]][[中華人民共和国主席|国家主席]]ら4人の[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]首脳と電話会談し、テロ対策で共闘を合意した。同年4月に[[南シナ海]]でおきた[[海南島事件]]で米中は緊張関係にあったが、テロ後の初外遊<ref>{{cite news| url=https://edition.cnn.com/2001/US/10/17/ret.china.bush.apec/index.html | work=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] | title=Bush arrives in Shanghai for APEC | date=2001-10-17|accessdate=2019-05-01}}</ref> で同年10月に訪中したブッシュと協調する中華人民共和国は[[上海市|上海]][[アジア太平洋経済協力|APEC]]の議長国としてロシアや[[日本]]など各国首脳とテロとの戦いを呼びかける共同声明をまとめた<ref>{{harvp|CIIC|2001|loc="[http://www.china.org.cn/e-apec/aaa.htm The Thirteenth APEC Ministerial Meeting... Joint Statement]"}}.</ref>。また、[[北大西洋条約機構]] (NATO)・[[欧州連合]] (EU)・[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN)・[[アフリカ統一機構]]・[[アラブ連盟]]<ref>[http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0027.html 長く厳しい戦い - Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府]</ref>、[[イスラム諸国会議機構]]<ref>[http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0164.html 中東概観 - Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府]</ref> などのような機関もブッシュ大統領のテロとの戦いの呼びかけに応じた。米州機構は[[米州相互援助条約]]に基づいてテロは米州全体への攻撃とし、NATOと[[オーストラリア]]はテロは北大西洋条約第5条と[[太平洋安全保障条約]]第4条に当たるとして[[自衛権]]を発動した<ref>[https://web.archive.org/web/20130721032533/http://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2013/pc/2013/pdf/25nenpyo.pdf 平成25年防衛白書防衛年表 - 防衛省]</ref>。 また、アメリカの[[同盟国]]や[[先進国]]と[[大国]]だけではなく、[[インド]]などアジアの[[非同盟運動|非同盟諸国]]もアメリカ合衆国を支持し、さらに[[1980年代]]に[[パンアメリカン航空]]機に対するテロを支援した過去のある[[リビア]]や、ターリバーンの公然たる後援者であった[[サウジアラビア]]と[[パキスタン]]、[[イランアメリカ大使館人質事件]]以来アメリカとは犬猿の仲である[[イラン]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のような[[反米]]とされる国々でさえ犯人グループを非難し、アメリカ合衆国に対する支援に同意した(但し、アメリカ合衆国はこの後、後述するようにアフガニスタン、[[イラク]]に侵攻するが、これが中東の反米感情を刺激したことを原因として[[2007年]]にはイランがイラク国内の過激派に武器を供与している疑いがあると報道された)。 2006年11月14日に、反米的な[[ウゴ・チャベス]]大統領率いる[[ベネズエラ]]の国会は、アメリカ合衆国大統領に呼びかける決議案を満場一致で採択した。[[メキシコ]]国境における壁の建設を激しく攻撃し、第4章で、「イスラム・テロとの戦争」の根拠となった2001年9月11日の事件について「ブッシュ政権が、ワールドトレードセンター・ツインタワーとその犠牲者に対する自爆テロに関し、またペンタゴンに激突したとされる航空機についての明確な釈明、およびビンラディンとブッシュ家との関係を提示するよう強く」<ref>[http://www.voltairenet.org/article143994.html Le Parlement du Venezuela dénonce les mensonges du 11 septembre<!-- Bot generated title -->]</ref> 要求している。 == 調査 == === サウジ政府の関与疑惑 === {{Main|アメリカ同時多発テロ事件へのサウジアラビア関与疑惑|en:Saudi Arabia–United States relations|テロ支援国家}}オバマ政権は2016年7月、米捜査官のダナ・レゼマンとマイケル・ジェイコブソンがまとめた「ファイル17<ref>{{Cite news|title=Saudi diplomats 'links to 9/11 attackers'|url=https://www.thetimes.co.uk/article/saudi-diplomats-linked-to-9-11-plot-9hgrfjhbm|newspaper=The Week|date=April 20, 2016}}</ref>」と呼ばれる文書を公開したが、その中には、サウジアラビアとハイジャック犯を結びつける<ref>{{Cite news|last=Riechmann|first=Deb|title=File 17 Is Glimpse Into Still-Secret 28 Pages About 9/11|url=https://apnews.com/fe56c5d224a8463aa7cfc6ccf4689122|newspaper=Associated Press|date=July 2, 2016}}</ref><ref>{{Cite news|title=CIA and Saudi Arabia Conspired to Keep 9/11 Details Secret, New Book Says|url=https://www.newsweek.com/cia-and-saudi-arabia-conspired-keep-911-details-secret-new-book-says-1091935|newspaper=Newsweek|date=August 28, 2018}}</ref> ワシントンD.C.のサウジアラビア大使館付属の[[サウジアラビア総合情報庁|サウジアラビア諜報員]]の疑いがある人物<ref>{{Cite news|title=US to reveal Saudi official allegedly tied to 9/11 attackers|url=https://www.aljazeera.com/news/2019/09/reveal-saudi-official-allegedly-tied-911-attackers-190913011926350.html|newspaper=Al-Jazeera|date=13 September 2019}}</ref> を含む、3ダースの人物を名指しで挙げたリストが含まれていた。 == その後 == [[ファイル:NOAA photo of WTC Lower Manhattan.jpg|thumb|220px|テロ事件発生以前の[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター・ツインタワー]]]] [[ファイル:Wtc-2004-memorial.jpg|thumb|220px|2004年9月11日、ツインタワーが光線によって再現された]] [[ファイル:Ground zero.jpg|thumb|220px|2005年時点のワールドトレードセンター・ツインタワー跡地([[グラウンド・ゼロ]])]] ===対テロ戦争=== {{seealso|対テロ戦争}} ブッシュ政権は、このテロ事件を契機に[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタン侵攻]]を行い、さらに2002年に[[国際テロ組織]]と[[ならず者国家]]と断じた[[悪の枢軸]]([[バアス党政権 (イラク)|イラク]]、[[イラン]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]])との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これを元に、アメリカ合衆国はイラクに対して[[大量破壊兵器]]を隠し持っているという疑惑を理由に、[[イラク戦争]]に踏み切った。 この行動に対しては、アフガニスタン(当時はターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、[[日本]]・[[イギリス]]・[[フィリピン]]・[[スペイン]]・[[イタリア]]などのアメリカ合衆国同調国と、[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[ロシア]]・[[中華人民共和国]]などのアメリカ非同調の立場に分かれた。 その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。 なお、テロ直後のアメリカ連邦議会で、対テロ戦争への反対を表明した者は、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]議員の[[バーバラ・リー]]ただ1人だけだった。 {{main|[[イラク武装解除問題]]|[[イラク戦争]]}} またブッシュ大統領は、[[イラク戦争]]後の[[2004年]]に[[中東]]首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアや[[シリア]]の様に[[王制]]や[[独裁政治]]が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を[[民主主義|民主化]]すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。 さらに、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「[[米国愛国者法|愛国者法]](反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、[[アメリカ国家安全保障局|国家安全保障局]]の行なう不法な[[盗聴]]を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監、自白を取る為の拷問が[[中央情報局|CIA]]と[[連邦捜査局|FBI]]によって行なわれていた事が明らかになるなど、[[警察国家]]化傾向が国内の一部市民団体から批判されている。 === WTCコンプレックス跡地の再開発 === ワールドトレードセンター・コンプレックスの跡地については、遺族から慰霊の場としてほしいという意見もあった。しかし多くのオフィススペースを失ったためにニューヨークから企業が流出することを恐れた市当局や、跡地を所有してきたニューヨーク・ニュージャージー港湾局らは、金融街に近くビジネス街の一等地であるこの場所に新たな[[オフィスビル]]・商業施設と交通ターミナルの再建を希望した。当初の再建案はあまりにも経済復興の色が強く遺族の反対で撤回され、改めて世界の建築家を集めて行われた[[建築設計競技]]の結果、アメリカ人建築家[[ダニエル・リベスキンド]]の案が採用された。 [[2004年]]7月、ワールドトレードセンター・コンプレックス跡地に再びビルを建設するための起工式が行われた。敷地内にはツインタワー北棟・南棟跡の祈念スペースを囲むように数本の超高層ビルが建ち、最も高いビルは「フリーダム・タワー(自由の塔)」(2009年に[[1 ワールドトレードセンター]]に名称変更<ref>[http://www.wtc.com/news/freedom-tower-has-a-new-preferred-name "Freedom Tower has a new preferred name"]. Associated Press. 2009-03-26.</ref>)と名づけられ、アメリカの独立した[[1776年]]にちなんで、{{convert2|1776|ft|m|lk=on}}の高さとなる。[[2014年]][[11月3日]]開業。周囲には[[4 ワールドトレードセンター|タワー4]]・[[7 ワールドトレードセンター|タワー7]]が建設済み、[[2 ワールドトレードセンター|タワー2]]・[[3 ワールドトレードセンター|タワー3]]・[[5 ワールドトレードセンター|タワー5]]が建つ予定。 一方、崩落したワールドトレードセンター・コンプレックスの残骸には、発見されない相当数の遺体が含まれると思われた。遺体は[[デオキシリボ核酸|DNA]]すら判別できないほどに傷んでいると思われるが、遺族は取り扱いに非常に神経を尖らせていたため、残骸は廃棄することができず、ごみ処分場に大量に放置されている状態であった。しかし、[[2005年]]3月初め、当局はおよそ1100人分の身元が判明できないまま確認作業を中止すると発表した。鉄骨類は屑鉄として再利用のため[[インド]]へと輸出された。 === アメリカ同時多発テロ以降のアメリカ国内でのテロ状況 === 2001年のアメリカ同時多発テロ後から現在(2022年)に至るまでの間、アメリカ国内ではアルカイダなどの国際的テロ組織によるテロは一度も起きていない。この間にテロ計画やテロ警報は何度もあったが、そのほとんどをFBIがテロの実行前に犯人を逮捕しているか、計画だけで実際には実行されずに終わったテロがほとんどである。 しかしFBIが察知できずに実行されたテロが3件だけ起きている。それは[[デルタ航空機爆破テロ未遂事件|2009年12月25日のノースウェスト機テロ]]、2010年5月1日のタイムズスクエアテロ、2010年10月29日のアメリカ行き航空便テロの3件がある。しかしこれら3件とも爆弾が爆発せずに未遂に終っている。したがって、アメリカ国内においてアルカイダなどの国際的なテロ組織によるテロはこの事件以降一度も成功していない。 ===戦死兵と自殺兵=== ブラウン大学が2021年6月に発表した調査によると、9・11以降、アメリカはアフガニスタンやイラクへの軍事作戦を展開し、この一連の軍事行動(2001年から2021年の20年間)で、戦死した米兵は7,057人であるのに対し、戦地から帰国した後にPTSDなどを発症して自殺した元米兵は、4倍以上の3万177人にのぼることが分かった。 == 事件の影響 == アメリカ同時多発テロは、[[アメリカ合衆国の政治]]、そして冷戦後の国際社会の大きな転換点となった。アメリカ同時多発テロ事件が勃発する前には、[[20世紀]]の「アメリカ合衆国国民の記憶に残る日」は、[[1963年]][[11月22日]]の[[ジョン・F・ケネディ暗殺事件]]、あるいは[[1941年]][[12月7日]]の[[大日本帝国海軍]]による[[真珠湾攻撃]]であった。これらに代わってアメリカ国民は、この[[2001年]][[9月11日]]をテロの脅威と共に永遠に記憶にとどめることになった。 [[ファイル:BushWolfowitz-050316.jpg|thumb|right|220px|「ネオコンの代表的人物」とされる大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]と国防副長官[[ポール・ウォルフォウィッツ]]]] [[ファイル:Saudi Crown Prince Abdullah and George W. Bush.jpg|thumb|right|220px|ブッシュとサウジアラビアのアブドラ皇太子(当時)]] アメリカ同時多発テロは、「外国がアメリカ本土を襲撃した事件」として、「真珠湾攻撃」と度々対比されている。真珠湾攻撃は日本の正規軍が軍事行動としてアメリカ本土ではなく[[ハワイ州|ハワイ]]のアメリカ軍基地を攻撃したケースであったが、アメリカ同時多発テロはアメリカ'''本土'''が襲撃された事件という意味でも衝撃的な大事件ともなった(なお[[1942年]]には[[アメリカ本土空襲|日本海軍機がアメリカ本土を数回爆撃]]している)。しかも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件は[[干支]]が同じ[[辛巳]]であり、「60年後の真珠湾攻撃」とも呼ばれた。2001年12月に開かれた真珠湾攻撃60周年のイベントでも、真珠湾攻撃とアメリカ同時多発テロ事件が一緒に言及された。 アメリカ合衆国国内の世論は急速に先鋭化・[[超国家主義]]化したと言われ、[[新保守主義|ネオコン]](新保守主義)勢力が政治の世界で隆盛し、影響力を増大させた引き金ともなった。その後、アメリカ合衆国によるテロ支援国家への攻撃には国民の大半が賛同した。議会でも[[野党]][[民主党 (アメリカ)|民主党]]が[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[タカ派]]路線を容認する動きが目立った。事件直後、ブッシュ政権がアメリカ同時多発テロ事件へのイラクの関与をほのめかし、過剰なマスコミ報道によりそれが増幅された為に国民の間にイラクと[[サッダーム・フセイン]]に対する敵意が増大し、2年後の[[イラク戦争]]の呼び水となったと言われる。その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与が否定され、ブッシュ大統領自身もそれを認めたにもかかわらず、2005年3月の世論調査では、米国民の約60%が「イラクはアルカーイダを支援していたと思う」と答えている。 一方、他の国ではアメリカ合衆国の方針に対して世論が二つに割れた。[[親米]]的な意見(アメリカ合衆国の主張)としては、これを基に世界中の独裁国家の自由民主化を進めるべきだという意見などがある。特にブッシュ大統領が悪の枢軸とした[[イラク]]・[[イラン]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]などで非自由民主的体制が猛威を振るっているとされる状況で、これを解決するべきだとの声もある。その後のアメリカ合衆国の対応を見ると、イラクやイランに対しては攻撃的な姿勢であるものの、表向き[[寧辺核施設]]無力化を受け入れた北朝鮮、大量破壊兵器を放棄した[[リビア]]、同盟国の[[サウジアラビア]]に対しては穏和な姿勢を持つなど、二重基準と批判する対応が目立つ。 [[反米]][[反戦運動|反戦]]的な意見としては、「自由の国アメリカ」のシステムを国外に普及させることを使命とするネオコン勢力の拡大は、政府の好戦的姿勢に反対する意見を言えない雰囲気を作り出しているとする声もあり、[[リバタリアニズム]]など反ネオコン陣営からの反発も高まっている上に、アメリカ合衆国国内でさえ破綻しかけているアメリカ合衆国的価値観・システムの押し売りであるという反発が多い。 このテロ事件を動機にして、アメリカ合衆国は国連協調を投げ棄てて一国独走主義の時代になったり、[[冷戦]]時代の米ソ対立の構図の残滓も消え、世界の軸は無類の超大国一国によって動かされる([[ジョン・ボルトン]]の国連軽視発言)時代になったとする意見もあり、これを「[[アメリカ帝国]]」と表現する[[アントニオ・ネグリ]]、[[マイケル・ハート]]のような[[思想家]]などもいる。 軍事面では、戦争をこれまでの「国家vs国家」から、「民間軍事組織vs国家」の構図として描く傾向が濃厚になった。 === 対アフガニスタン人道援助 === 事件後の[[アフガニスタン]]攻撃に伴う対アフガニスタン人道援助・資金援助は、アフガニスタンとの国交を唯一保ったパキスタンが窓口となった。アフガニスタン向け援助は、その10-80%がアフガニスタンに届く前にパキスタンにおいて横流しされ、イスラム原理主義者を勢いづかせたのではないか、という意見もある。 === 政権交代 === なお、事件後にアメリカ合衆国を中心に行われたイラクへの侵攻に同調し派兵を行ったイギリスやスペインでは、この派兵に反対するイスラム過激派と見られる集団による一般市民を狙ったテロ事件が発生し、多くの人命が失われた。また、アメリカ合衆国主導で行われたイラク侵攻に同調し派兵することに対して、上記のようにこれらの国の内部で国民の意見が二分した。 その結果スペインでは、[[2004年]]3月の[[マドリード]]における[[マドリード列車爆破テロ事件|列車爆破テロ事件]]後に行われた選挙で、アメリカ合衆国への支持と派兵を決定した[[ホセ・マリア・アスナール]]首相率いる国民党が敗退し、[[ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ]]率いる[[スペイン社会労働党]]に政権が交代した。 同じくアメリカ合衆国への支持と派兵を打ち出して以降人気が急落していたイギリスの[[トニー・ブレア]]首相が任期途中で退陣することを発表するなど、アメリカ合衆国への支持と派兵はこれらの国における[[政権交代]]のきっかけを作ることとなった。 === 金融市場 === アメリカ同時多発テロ事件が起きた時刻はアメリカ合衆国での取引が始まる前で、多くの金融機関が入居するワールドトレードセンターで起きた事件ということもあり、その日のアメリカ合衆国国内の取引は中止。翌週の17日(月曜日)に再開するまで、取引所や金融機関は修復作業に追われた。9月10日の終値が9,605.51ドルだった[[NYダウ]]は、取引が再開された17日には取引時間中に8,883.4ドルまで下落することになり、9月10日に121円を付けていた円ドルの[[為替レート|レート]]も、翌日には118.5円まで値を落とした。なお、1機目の衝突直後から南側ビルの崩壊までの間だけでNYダウは100ドル以上下落していた。 一方、取引中だったヨーロッパではCNNやCNBCを通じて事態が明らかになるとすべての取引所で株価の全面安が起きる。明くる12日の[[東京証券取引所|東京市場]]の[[日経平均株価]]は680円以上の下落となった。これは一部で「9・11ショック」とも報道されていた。その後多くの国においては株価の低迷がしばらくの間続くこととなる。 又、9月18日のタイムズ紙によると、事件の数日から数週間前にかけて、アメリカ・日本・イギリス・[[ドイツ]]・[[イタリア]]の株式市場で航空会社や保険会社、軍事関連企業などの株式が大量に信用売りされ、テロ攻撃の結果、株価が暴落した直後に安値で大量に買い戻された不審な売買形跡が認められたという。 === 航空業界 === [[File:Portland International Airport security check.jpg|thumb|right|220px|ポートランド国際空港の身体検査場]] このテロが航空機を用いたものであったことや、[[シティグループ]]や[[パブリシス|オムニコム・グループ]]、[[マイクロソフト]]など、アメリカを中心とした大企業が緊急なものを除く外国出張の禁止を命じたことなどから、事件後は航空需要が一時的に激減し、世界中の[[航空会社]]が大きな打撃を受けることとなった。 テロの標的となった[[ユナイテッド航空]]だけでなく、標的にならなかった[[ノースウエスト航空]]・[[デルタ航空]]も、[[連邦倒産法第11章]]の適用を申請し経営破綻した。また、[[サベナ航空]]や[[スイス航空]]、[[アンセット航空]]など、アメリカ以外の航空会社も多くが赤字に転落したうえ[[倒産|経営破綻]]し、そのうちのいくつかは姿を消した。 また、以前より空港や機内での保安体制が強化され、搭乗客への身体検査や手荷物の検査が厳重化されたほか、[[操縦室]]のドアなども強化するよう法律が改められた。 アメリカは全世界に[[バイオメトリック・パスポート]]の導入を要求し、従わない国及び市民は[[ビザ免除プログラム]]の対象外とした。 == 陰謀説 == {{main|アメリカ同時多発テロ事件陰謀説}} == 博物館 == ; 国立9・11記念館・博物館(9・11メモリアル・ミュージアム) : 跡地には事件を後世に残す為の[[ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム|9.11記念碑・博物館]] ([[:en:National September 11 Memorial & Museum|en]])が[[2011年]][[9月]]にオープンした。 : {{See|ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム}} ; 9・11トリビュート・ミュージアム(9/11追悼博物館) : 事件の遺族や現場に駆けつけた消防隊員などによって設立され、2006年にニューヨーク市のロウアー・マンハッタン地区にオープンした(国立9・11記念館・博物館とは別の施設)<ref name="cnn20220818">{{Cite web|和書|date= |url= https://www.cnn.co.jp/travel/35192027.html|title= NY市の「9・11トリビュート・ミュージアム」が恒久的に閉鎖 コロナ禍の財政難で|publisher= CNN|accessdate=2022-08-19}}</ref><ref name="NHK20220818">{{Cite web|和書|date= |url= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220818/k10013776661000.html|title= 米同時多発テロ事件 遺族ら設立の博物館の1つ閉館 来館者減で|publisher= NHK|accessdate=2022-08-19}}</ref>。140を超える国や地域から500万人以上が訪れたが、新型コロナウイルスの世界的大流行で来館者が減少して財政難となり、2022年8月17日に閉鎖され、展示品や記録映像の大半はニューヨーク州博物館に移された<ref name="cnn20220818" /><ref name="NHK20220818" /><ref>{{Cite web|和書|date= |url= https://jp.reuters.com/article/usa-sept11-museum-idJPKBN2PP02Z|title= NYの9/11追悼博物館が閉館、生存者らが事件伝承もコロナ響く|publisher= ロイター|accessdate=2022-08-19}}</ref>。 == 参考文献 == * {{citation|last=McDermott|first=Terry|title=Perfect Soldiers: The 9/11 Hijackers|year=2005 |publisher=HarperCollins|pages=191–192|url=https://books.google.com/books?id=4Oufo58esZAC&pg=PP1#v=onepage|isbn=978-0-06-058470-2}} * {{citation|title=The Looming Tower: Al-Qaeda and the Road to 9/11 |last=Wright|first=Lawrence |year=2006 |publisher=Knopf |url=https://books.google.com/books?id=RNkj-mO-Nt8C&pg=PP1|isbn=978-0-375-41486-2 }} * {{citation|last=Bergen |first=Peter |title=The Osama Bin Laden I Know: An Oral History of Al Qaeda's Leader|url=https://books.google.com/books?id=_XkM92XMlQ4C&pg=PP1|year=2006|publisher=Simon and Schuster|isbn=978-0-7432-9592-5|accessdate=March 18, 2016}} == 関連資料 == === 報告書 === * National Commission on Terrorist Attacks (2004). ''The 9/11 Commission Report: Final Report of the National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States ''; W. W. Norton & Company. ISBN 0-393-32671-3. * 同時多発テロに関する独立調査委員会 『9/11委員会レポート ダイジェスト 同時多発テロに関する独立調査委員会報告書、その衝撃の事実』 WAVE出版、2008年。ISBN 4-87290-326-9. * American Society of Civil Engineers (2003). ''The Pentagon Building Performance Report, January 2003''; American Society of Civil Engineers. ISBN 0-7844-0638-3. * Therese McAllister (Editor), Federal Emergency Management Agency (U.S.) (Producer), Federal Insurance and Mitigation Administration (U.S.) (Producer) (2002). ''World Trade Center Building Performance Study: Data Collection, Preliminary Observations, and Recommendations''; Federal Emergency Management Agency(United States Government Printing). ISBN 0-16-067389-5. *[https://www.nhk.or.jp/special/detail/20100912.html 「“テロリスト”と呼ばれて」](Nスペ) == 関連書籍 == * [[青木冨貴子]]「目撃 アメリカ崩壊」[[文春新書]] ISBN 978-4166602254 * [[堤未果]]「グラウンド・ゼロがくれた希望」[[ポプラ社]] ISBN 4591081419 * [[岡崎玲子]]「9・11ジェネレーション ―米国留学中の女子高生が学んだ『戦争』」[[集英社新書]] ISBN 408720233X == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|25em}} == 関連項目 == {{commons|Category:September 11 attacks}} * [[世界貿易センター爆破事件|ワールドトレードセンター爆破事件]] * [[外国情報監視法]] * [[アメリカ炭疽菌事件]] * [[テロリズム]] * [[大量殺人]] * [[アフマド・シャー・マスード]] * [[アイマン・ザワヒリ]] * [[アメリカ新世紀プロジェクト]] (PNAC) * [[ボジンカ計画]] * [[マーシャル・ロー]] * [[グアンタナモ米軍基地]] * [[チリ・クーデター]](1973年の「9・11」) * [[1945年エンパイア・ステート・ビルディングB-25爆撃機衝突事故]] - 同じニューヨークで起きた航空機のビルへの衝突事故 * [[対イラク経済制裁]]:UNICEFから多大な犠牲者が出たとの調査結果が出た。反対意見もある == 題材とした作品 == {{main|Category:アメリカ同時多発テロ事件を題材とした作品}} == 外部リンク == * {{NHK放送史|D0009030302_00000|9・11米国同時多発テロ}} * [https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/feature-movie/feature-movie_08.html 平成13年(2001)アメリカ同時多発テロ|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB] * [https://archive.org/details/911 Understanding 9/11 A Television News Archive] - インターネットアーカイブ * [https://imagelink.kyodonews.jp/pick?id=300 アメリカ同時多発テロ事件から20年|共同通信イメージズ] * [https://www.npa.go.jp/hakusyo/h14/h140201.pdf 第2章国際テロ情勢と警察の対応|警視庁] {{アメリカ同時多発テロ事件}} {{アメリカ同時多発テロ事件のハイジャッカー}} {{対テロ戦争}} {{航空事故}} {{ワールドトレードセンター}} {{Normdaten}} {{Portal bar|テロリズム|アメリカ合衆国|ニューヨーク市|航空}} {{DEFAULTSORT:あめりかとうしたはつてろしけん}} [[Category:アメリカ同時多発テロ事件|*]] [[Category:2001年のアメリカ合衆国|とうしたはつてろしけん]] [[Category:日本人の国外犯罪被害]] [[Category:外国人犯罪]] [[Category:報道特別番組]] [[Category:反米感情]] [[Category:警察官が殉職した事件・事故]] [[Category:ジョージ・W・ブッシュ]] [[Category:アルカーイダ]] [[Category:2001年の虐殺]]
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アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)
アフガニスタン紛争とは、2001年から2021年にかけてアフガニスタンで勃発した紛争である。 この紛争、または戦争ではアメリカ軍やそれに支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争った。 結果として、一時的には米英軍と北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏し、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者で行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された。 また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興、民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した。 しかしその後、同国の治安は極端に悪化し、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され、米軍は撤退。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブルを陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した事で終結した。 この紛争は、ベトナム戦争(1955年 - 1975年)を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった。 反米テロを繰り返すアルカーイダの活動拠点の破壊と、アルカーイダの庇護者とみなされたターリバーン政権の転覆を試みる米国と同盟国がアフガニスタンに侵攻したことで始まった。当初の目的が達成された後、NATO加盟国を含む40カ国以上の連合国は、国際治安支援部隊(ISAF)と呼ばれる安全保障ミッションを同国に編成し、そのうちの一部はアフガニスタン政府と同盟して戦闘に参加した。紛争は主に多国籍軍と共和国軍が旧支配勢力となったターリバーンと戦うもので、ISAF/RSの兵士や人員の大半はアメリカ人である。この紛争のコードネームは、米国では「不朽の自由作戦」(2001年〜14年)、「自由の番人作戦」(2015年〜2021年)と呼ばれている。傀儡政権樹立後もタリバンの反乱は続き、多国籍軍は一般市民にも危害を加えたことで協力を得られなかった。20年と数百兆円を費やした後、最終的に米軍を筆頭に多国籍軍が撤退を開始すると、ターリバーンは急速に勢力を回復して再び政権を奪還した。 2001年の9.11同時多発テロ発生後、米国大統領のジョージ・W・ブッシュは、当時アフガニスタンの支配勢力であったターリバーンに、オサマ・ビンラディンの引き渡しを要求した。ターリバーン政権の副首相アブドゥル・カビールはこれに対し、9.11同時多発テロがオサマ・ビンラディンによるものであるという証拠を求め、事実であれば第三国に出国させるとの返答をした。ブッシュはカビール副首相の提案を拒否し「不朽の自由作戦」の開始を指示した。 2001年末までにターリバーンとアルカーイダは、米軍と北部同盟軍によって国内でほぼ壊滅したとみられ、ボン合意では新たなアフガン暫定当局(主に北部同盟)がハミド・カルザイをアフガン暫定行政長官に選出した。国連安全保障理事会は、新政権がカーブルを確保することを支援するために国際治安支援部隊(ISAF)を設立した。また、ターリバーン政権の崩壊に伴い、全国的な復興が図られた(国連アフガニスタン支援ミッション)。 一方で政権の座から追い出されたターリバーンはオマル師によって再編成され、2003年から多国籍軍とその傀儡とみなすアフガニスタン政府に対する反乱を開始した。ターリバーン等の反政府勢力は、地方でのゲリラ的な襲撃や待ち伏せ、都市部での標的に対する自爆攻撃、連合軍に対する裏切り者の殺害など、非対称戦争を繰り広げた。ターリバーンは次第にアフガニスタン南部と東部の農村地域で影響力を取り戻し、ISAFは村を「クリア&ホールド」するための対反乱作戦に兵力を増強して対応した。2007年から2009年にかけて、暴力行為は拡大した。2009年には兵力が急増し、2011年まで増加し続け、ISAFと米国の指揮下で約14万人の外国軍がアフガニスタンで活動した。2012年にNATO首脳は軍の撤退戦略を開始し、その後、米国は主要な戦闘活動を2014年12月に終了し、国内に残存兵力を残すことを発表した。2014年12月28日、NATOはアフガニスタンにおけるISAFの戦闘活動を正式に終了し、安全保障上の全責任をアフガニスタン政府に正式に移管した。同日、ISAFの後継組織としてNATO主導のレゾリュート・サポート作戦が発足した。 ターリバーンに掌握される地域が徐々に増加する中、2020年2月29日、米国とターリバーン(アフガニスタン・イスラム首長国)はドーハで条件付和平協定に署名した。ターリバーンが協定の条件に協力する限り、米軍は14カ月以内にアフガニスタンから撤退することが求められた。この合意は、アフガニスタン政府抜きで米国政府とタリバン間で直接行われた。また、インド亜大陸のアルカーイダやISIL-Kに属する反政府勢力が、国内の一部で活動を続けていた。2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンが、同年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表。すると、2021年5月からターリバーンは大攻勢を開始し、共和国軍は3か月ほどで各州都に点となって散らばるまで弱体化した。8月に入ると続々と各州の州都にターリバーンが入城し、15日までにパンジシール州を除くすべての州が陥落した。2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下においたと宣言し、内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。30日に米軍は撤退を完了し、31日にバイデンも戦争終結を宣言した。これをもって、米国史上最長の戦争は幕を閉じた。 全体として、この戦争では 46,319 人の民間人を含む約176,000 人が死亡した。2001年のアメリカの侵攻とタリバン政権打倒の後、570万人以上の難民がアフガニスタンに帰還したが、タリバンが2021年に権力の座に戻ったとき、260万人のアフガニスタン人がまだ難民であり、さらに400 万人が国内避難民であった。 1978年の共産政権の成立にともない、全土でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起した。これを受けて1979年にはソビエト連邦が軍事介入を行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年にソ連軍は撤退した。 しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプを設置していた。 このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の三国に留まり、アフガニスタンの国際連合における代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持していた。ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。 1998年、タンザニアとケニアの米国大使館がアル・カーイダにより爆破される事件が発生し、米国は報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプをトマホークで攻撃した。このため12月8日には国際連合安全保障理事会で国際連合安全保障理事会決議1214が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には国際連合安全保障理事会決議1267で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づく経済制裁が行われた(米国同時多発テロ事件後はこの狙い撃ち制裁が拡大され、カディ事件やサヤディ事件で人権侵害が問題化する)。 アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月には米艦コール襲撃事件が発生した。このため12月に国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった。 2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目にバーミヤンの大仏を破壊した。大仏は6世紀頃に造立された、非常に文化的価値の高いものであった。この破壊は、当然のことながら諸外国(非イスラム諸国)から強い批判を受けたが、イスラム諸国からの批判も受けることになり、ターリバーン政権は孤立状態にあった。 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。12日、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はウサーマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回国連総会でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し、国際連合安全保障理事会でも国際連合安全保障理事会決議1368が採択された。 この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にNATOが創設以来初めての北大西洋条約第5条の集団防衛条項による集団的自衛権の発動を決定する根拠となった。(#開戦の正当性に対する論議)。 この後米国はターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーン政権はビン=ラーディン及びアルカーイダが犯人である証拠を提示するよう求め、引き渡しに応じなかった。 9月14日、オーストラリアも太平洋安全保障条約第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した。9月15日、米国のコリン・パウエル国務長官はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。ターリバーンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、イランのモハンマド・ハータミー大統領はテロを非難したが、アラブ連盟やイスラム諸国会議機構と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。 9月18日、アメリカ合衆国議会でテロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。 9月28日、国際組織法で初の「立法行為」とされる国際連合安全保障理事会決議1373が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として厳罰化や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。 米国はこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有志連合諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした。有志連合諸国は不朽の自由作戦という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。 米国はイギリス・フランス・カナダ・ドイツ等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。これは国際連合憲章に定められた国連軍ではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動によるという論理であった。この論理は米州機構、EU、そして日本を含む同盟国と法学者に広く認められた。 しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり、議論が発生している。また、これらは後のテロ対策特別措置法や自衛隊インド洋派遣をめぐる国会論議でも取り上げられている。 以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』に沿った争点の整理を行う。 「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。 テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。この場合、ターリバーン政権に攻撃を行うのは正当かという問題がある。 同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。 2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件は不意打ちだった為、米軍はアフガニスタンで戦争を行うプランを持っていなかった。急きょ作戦が立てられ、アフガニスタンのムジャーヒディーン軍閥にアルカーイダやターリバーンを攻撃させること、レーザー目標指示装置を装備した特殊部隊を派遣して空爆を支援させることなどが決まった。アメリカ合衆国政府はこの作戦を対テロ戦争の一環と位置づけ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦であると主張し、作戦名を不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と名付けた。なお英国では「ヘリック作戦」 (Operation Herrick)と呼んでいる。米国は同時多発テロの前からウズベキスタンの空軍基地で無人偵察機を運用していたので、無人偵察機にミサイルを積んで攻撃機としても使えるようにした。10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、アメリカ合衆国とイギリスを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。米軍は米国本土やクウェート、インド洋のディエゴガルシア島、航空母艦から発着する航空機やミサイル巡洋艦を動員して、アフガニスタンに1万2000発の爆弾を投下した。米国は軍事目標だけを攻撃していると発表していたが、実際には投下した爆弾の4割は非誘導型爆弾であり民間人に多くの犠牲が出たと言われている。11月13日には北部同盟軍が首都カーブルを制圧した。 開戦当初、ターリバーンの指導者のムハンマド・オマルはカンダハールの自宅に居たので、空爆によって殺害する機会はあった。しかし米国は民間人の被害を恐れてオマルの逃亡を許した。オマルはハーミド・カルザイを通じて降伏に同意したが、米国は降伏を認めなかった。米国は数千人のターリバーンを殺害したので、ターリバーンは自然消滅すると考えていた。 アルカイーダのアラブ人やチェチェン人、ウズベク人やアフリカ人などの外国人兵士はカーブルが陥落すると都市部を放棄して、対ソ戦時代に建設されたパキスタン国境の地下要塞トラボラに立てこもった(トラボラの戦い)。対ソ戦時代、ソ連軍は爆撃で地下要塞を破壊しようとしたが上手くいかなかった。米軍も同様に爆撃を行ったが地下要塞を破壊することは出来なかった。トラボラ周辺の国境地帯は広大だったが、2000~3000人の米軍が包囲すればビンラディンを捕らえることが出来たと考えられている。しかし米軍は派遣できる部隊が存在していたにもかかわらずリスクを恐れてトラボラ周辺に部隊を派遣しなかった。代わりに派遣されたアフガニスタン軍閥の戦意は低く、パキスタン軍はヘリコプターが揃わないため十分に兵力を展開することが出来なかった。ビンラディンは死を覚悟していたが、国境を越えてパキスタンに脱出することが出来た。米国のブッシュ政権は最小限の被害でターリバーン政権を崩壊させたことに満足し、戦後の国家建設や平和維持には興味を示さなかった。アフガニスタンの国家建設や平和維持は国連に託された。 2001年11月、ドイツのボン近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった。これにより暫定政府の成立、ロヤ・ジルガの招集、国際治安支援部隊 (ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション (UNAMA)の設立が合意され、翌日国連安全保障理事会において承認された(国際連合安全保障理事会決議1383)。これをボン合意といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。 同月、国際連合安全保障理事会決議1378が採択され、国際連合安全保障理事会はターリバーンを非難し、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒を支持した。また、その後の国内外の軍事行動は1510、1386、1746等複数の決議によって承認されており、国連アフガニスタン支援ミッション等と連携して行われている。 12月、ISAFは国際連合安全保障理事会決議1386、UNAMAは国際連合安全保障理事会決議1401によって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府にタジク人が多かったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった。 2001年12月22日にはハーミド・カルザイを議長とする暫定政府、アフガニスタン暫定行政機構が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。同月、テロ対策特別措置法に基づいて日本の海上自衛隊が海上阻止行動に参加し、2010年までインド洋で給油活動を行った(自衛隊インド洋派遣)。 2002年1月、アルカーイダには数百人から2000人ほどの兵力があり、パクティーカー州の都市ガルデーズ付近のシャーヒーコート渓谷に潜伏していた。シャーヒーコート渓谷にはハッカーニ・ネットワークの基地があり、主にウズベキスタン・イスラム運動の兵士が立てこもっていた。3月、米軍は「アナコンダ作戦」を行い、シャーヒーコート渓谷を掃討した。この作戦で米軍は150人~800人ほどのアルカーイダを殺害したと考えられているが、米軍の損害も比較的多かった。生き残ったアルカーイダの兵士はパキスタンの連邦直轄部族地域に撤退した。 米国のブッシュ政権はアフガニスタンに深入りすることを恐れて、少数の部隊(5200人)しか派遣していなかった。ブッシュ政権はアフガニスタンの国家建設も各国の分担で行うことを主張し、アフガニスタン軍の再建は米国、警察の再建はドイツ、司法の再建はイタリア、麻薬取り締まりはイギリスに任せて、国連に統括させた。6月11日から8日間、カーブルにおいて緊急ロヤ・ジルガが開催された。会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とするアフガニスタン・イスラム移行政府が成立した。ブッシュ政権はターリバーンは打倒されたと考えており、今後は敗残兵の掃討を行えばよいと考えていた。米国のアフガニスタンに対する予算は極めて少なく、援助を期待していた地方住民は失望した。また少ない予算の中から学校の建設が行われたが、アフガニスタンの特に田舎では女学校の建設は社会の急進的な変化や欧米の価値観の押し付けとみなされ、一部の住民が反発した。 パキスタンではムッラー・ダードゥッラーなどのターリバーンの幹部がクエッタ郊外で公然と暮らしており、結婚式に州の幹部や軍人を招くほどだった。米国はいずれ撤退するとターリバーンや周辺諸国は考えており足元を見ていた。ターリバーンはパキスタンから近隣のカンダハールに出撃して迫撃砲で攻撃し、「夜の手紙」(シャブナーマ)を使って住民を脅迫し支配下に組み入れた。 2003年、アフガニスタンで戦闘は続いていたが、ブッシュ政権はアフガニスタンについてほとんど何も考えていなかった。特にラムズフェルド国防長官は戦争は終結したと公言しており、コソボ紛争を教訓に外国軍の長期的な駐留を避けようとしていた。米軍もイラクで次の戦争を始めようとしていた(イラク戦争)。8月11日、国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権がNATOに委譲された。10月13日の国際連合安全保障理事会決議1510においてISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大され、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。また武装解除・動員解除・社会復帰が行われ、アフガニスタン北部では伊勢崎賢治などが中心となり軍閥から武器を取り上げた。 パキスタンは米国同時多発テロ事件の後、米国政府から「空爆して石器時代に戻す」と脅迫され、米国に協力していた。しかしパキスタンは19世紀のグレート・ゲームや20世紀のインド・パキスタン分離独立などの結果、パンジャーブ人やパシュトゥーン人などの複数の民族が相互不干渉の微妙なバランスの下で1つの国家を形成しているだけで、パンジャーブ人が主体となる中央政府がパシュトゥーン人の領域(連邦直轄部族地域)を支配している訳ではなかった。大英帝国の時代から連邦直轄部族地域(FATA)はパシュトゥーン部族の自治が認められており、中央政府の法律は現在でも及んでいない。また中央政府の軍隊が連邦直轄部族地域に入ったことも無かった。パキスタンは建国後も苦難の歴史が続き、印パ戦争で3回インドに敗北し、東パキスタン(バングラデシュ)を失い、現在もカシミール地方をいつ失うか分からない状態が続いている。インド軍はパキスタン軍の2倍の戦力を誇りパキスタンは通常戦力では歯が立たない為、軍統合情報局(ISI)がターリバーンやカシミール過激派を養成して、インド軍に対してゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けることを黙認している。またパキスタンは国家統一を図り、インドのヒンドゥー・ナショナリズムに対抗するためにイスラム化を進めたので、パキスタン国民の大半はオサマ・ビン・ラディンを英雄だと思っていた。パキスタンが国内でターリバーンやアルカーイダを取り締まることは困難であり、また将来の印パ戦争やカシミール紛争に向けてターリバーンを取り締まりすぎることは国益に合致しない。米国に対する協力は国内の反発を生み、2003年12月にカシミール過激派がムシャラフ大統領の暗殺未遂事件を起こした。パキスタン政府は重い腰を上げ、建国以来初めて南ワジリスタンに軍を派遣した(ワジリスタン紛争)。しかしパキスタンは国内のターリバーンの存在は否認しており、米軍の無人攻撃機や特殊部隊もクエッタなどの大都市には手を出せないでいた。連邦直轄部族地域の国境警備は現地採用の辺境部隊が担当しているが、辺境部隊の兵士はターリバーンと同じ民族であり思想的にも近いため、取り締まりには非協力的でありターリバーンの越境時に援護射撃を行う場合すらあった。 2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて憲法制定ロヤ・ジルガが開催された。これによりアフガニスタン憲法が成立し、2004年1月26日から施行された。10月9日にはアフガニスタン全土およびイラン・パキスタンを投票地域とする大統領選挙が行われ、カルザイが55.4%の票を獲得。アフガニスタン・イスラム共和国初代大統領に選出された。カルザイは12月に大統領に就任し、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。しかし地方の政治は軍閥に委ねられており、住民サービスを行うどころか住民に対して州知事がゆすり集りを行い、敵対部族をターリバーンとみなして米軍に攻撃させていた。カルザイ大統領の異母弟のアフマド・ワリー・カルザイもカンダハール州の実力者として権勢をふるい、麻薬取引にも関わっていたと言われている。 同年、ターリバーンの最高評議会(クエッタ・シューラ)が軍事作戦の再開に向けた文書を作成したと言う。アルカーイダはパキスタンの南ワジリスタンのワナやシカイ渓谷に拠点を持っていた。ワナはワズィール族の武装組織指導者のネーク・ムハンマドが支配していたが、米国は無人攻撃機を使って爆殺した。 同年、米国で大統領選挙が行われ、ブッシュ大統領が再選した。ブッシュ政権はパキスタンに協力を求める一方で、パキスタンの主敵であるインドと米印原子力協力について協議を行うなど政策が首尾一貫していなかった。米国はアフガニスタンの国家建設が順調に進んでいるため、ターリバーンの復活の可能性は低いと考えており、アフガニスタンの治安維持をNATO軍に任せて、イラク戦争に専念した。 医師の中村哲と漫画家の小林よしのりによれば、アフガニスタン戦争は以下のような様子だという。米英軍の攻撃によってタリバン政権は崩壊し、民主国家とされるカルザイ政権が成立したが、中村が同国で20年間医療活動を行ってきた中では治安はタリバン政権時代よりも悪化しており現在が最悪の状態である。そもそもタリバンと一言で言っても決して特別な組織ではなく身近な街中で見かける人もタリバンの一員である場合があり、アフガニスタン人を見ただけでは見分けがつかない。とは言え表向きには「タリバン」と「反タリバン」があるのだが地下では皆繋がっており、アフガニスタン人として生活していくという共通した認識があるのだ。そのためアメリカ軍の兵士も誰が味方でだれが敵かの見分けがつかず、かつてのベトナム戦争でのゲリラ戦と同様かそれ以上に悲惨な状況になっている。ベトナム戦争の場合は米軍は少なくとも前線で戦闘を行っていたがアフガニスタンでは戦闘機やヘリコプターに乗って空中戦をしているか、基地に留まっているかのどちらかである。地上を移動すると事件が起こる危険があるため動くことができないのだ。そのため地上での任務をアフガニスタン人の請負に頼むとその請負が反乱を起こす場合があるため米軍にとっては憂鬱である。例えば以前には米軍の傭兵が日当とライフル銃を受け取り、その仕事の帰りに米兵を狙撃したことまであったという。 2005年9月18日、下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。 2005年後半からターリバーンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起した。このターリバーンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。当時、ISAF側はターリバーンの攻撃増加はターリバーンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた。しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアル・カーイダの影響を指摘する声もある。 同年、パキスタン軍は南ワジリスタンで和平を結び、北ワジリスタンに進軍した。一方、軍統合情報局(ISI)はサウジアラビアの支援を受けて、ターリバーンに対する支援を積極化させたと言う意見がある。軍統合情報局は2万5千人の職員を擁し、秘密工作を行うS局など様々な部門があり統制が取れていなかった。米国はビンラディンの探索を続けていたが難航していた。米国は連邦直轄部族地域にターリバーンやアルカーイダが潜伏してアフガニスタンを攻撃していることを理解していたが、核兵器保有国のパキスタンに対する遠慮があり越境攻撃をためらっていた。また住民の協力も得られないため攻撃を強行しても成果が出なかった。 ターリバーンやアルカーイダは「アッ=サハーブ」や「トラボラ」などのウェブサイトやネットマガジンを使って宣伝戦を積極的に行っており、イギリス在住のパキスタン人などがテロを行っていた(ロンドン同時爆破事件)。 2006年、アフガニスタン南部に国際治安支援部隊(ISAF)が展開し、「マウント・スラスト作戦」を実施した。イギリス軍は手付かずだったヘルマンド州に展開したが、ターリバーンに包囲されて苦戦した。カンダハール州ではターリバーンが攻勢に転じてカナダ軍に塹壕戦を挑んだが、カナダ軍に撃退された(マウント・スラスト作戦、メデューサ作戦)。ウルーズガーン州ではオーストラリア国防軍がパース作戦を実行した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・アフタル・ウスマーニを殺害するなどの戦果を挙げたものの、アフガニスタンの治安は大幅に悪化し、アフガニスタンにおける治安事件の数は2003年の10倍に達した。またアヘンの収穫量が急増し、国連薬物犯罪事務所 (UNODC) が警告を発した。アヘンの大半はヘルマンド州で生産されており、ターリバーンの資金源となっていると言う。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという意見もある。 同年、パキスタンではパキスタンの特殊部隊がハッカーニ・ネットワークの複数の拠点を攻撃したことに地元武装勢力が反発したことなどにより、パキスタン軍の被害が増大した。ハッカーニ・ネットワークは北ワジリスタンのミランシャー郊外のダンデ・ダルパヘイルにある大規模な神学校を拠点にしている。パキスタン軍は北西辺境州のオークラザイ知事の提案で、ワジリスタンの部族長やターリバーン、外国人戦闘員と和平協定を結んだ(ワジリスタン和平合意)。パキスタン軍は連邦直轄部族地域から撤退したので、ターリバーンはアフガニスタンに自由に越境できるようになった。パキスタン政府は数千人の戦闘員を擁し政府に対して好戦的なマスード族に対抗するために、ワズィール族と手を結ぼうとしていた。一方、パキスタンの軍統合情報局(ISI)はISAFの展開は米軍撤退の兆しであると考え、米国撤退後のターリバーン政権の樹立について真剣に考えていたという意見がある。米国では中間選挙で民主党が勝利し、アフガニスタンに対する予算がようやく増加した。 2007年、アフガニスタンでは自爆テロや無差別爆撃によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出ていた。ターリバーンはカーブルで自爆テロを開始した。歩兵戦も続き、国際治安支援部隊(ISAF)はアフガニスタン南部でクリプトナイト作戦(ヘルマンド州)やフーバー作戦(カンダハール州)などを行った。またウルーズガーン州ではターリバーンが攻勢に出てオランダ軍と戦闘を行った(チョーラの戦い)。アフガニスタン北部ではドイツ軍などがハレカテ・ヨロ作戦を実施した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・オバイドゥラー・アクンドを拘束し、ムラー・ダードゥラーを殺害するなどの戦果を挙げたがターリバーンの勢いは衰えなかった。ガズニー州ではターリバーンの力が州都のすぐそばの幹線道路にまで及んでおり、州内の3分の2の郡では職場放棄が起き、郡裁判所などが業務を停止していた。アフガニスタン大統領のハーミド・カルザイはターリバーンに和平を提案したが、ターリバーンは外国軍の存在を理由に拒絶した。ターリバーンは外国人を敵視しており2007年ターリバーン韓国人拉致事件が起きた。 パキスタンではラール・マスジッド籠城事件が起き、ワジリスタン和平合意が破れ戦闘が再開した。米国は権力を失いつつあるムシャラフ大統領に代わってブット元首相を再登板させようと考えたが選挙中に爆殺された。 9月、ISAFの活動期限延長を主題とし、不朽の自由作戦 (OEF)に対する謝意が前文に盛り込まれた国際連合安全保障理事会決議1776が採択されたが、ロシアが棄権にまわった。 2008年、アフガニスタン北部では雨不足による穀物の不作により出稼ぎや難民が発生した。アフガニスタン南部ではGarmsirの戦い(カンダハール州)、Eagle's Summit作戦(ヘルマンド州)などが行われた。ウルズガーン州ではヘルト・ウィルダースの製作した反イスラム的な短編映画に対する報復と称してターリバーンがオランダ軍にIED攻撃や自爆攻撃、待ち伏せ攻撃を行った(Khaz Oruzganの戦い)。アフガニスタン東部のワナトの戦いなどの結果、米軍の戦死者は155人に及び(3割増)、NATO軍の戦死者も増加した。アフガニスタンにはNATO軍を主力とする39か国5万5千人の部隊が展開していたが、統一した指揮がなく各部隊がバラバラに戦っていた。ターリバーンは効果の薄い自爆攻撃や空爆を招く大規模な歩兵戦を避けて、即席爆発装置(IED)による攻撃を増加させた。ターリバーンはアルカーイダやパキスタン軍の訓練によって練度を上げ、迫撃砲の命中精度を向上させた。またアフガニスタン政府の支配が地方まで及ばないため、ターリバーンがもめごとの仲裁などの住民サービスを行って住民の心をつかんだ。ターリバーンと同じようにNPOやNGOがアフガニスタン政府に代わって住民サービスを担ったが、ターリバーンはNPOを攻撃しアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べた。 パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から240キロのスワート地区を占領した。軍統合情報局(ISI)が後援するカシミール過激派はインドとの戦いを続けていた(ムンバイ同時多発テロ)。アルカーイダは連邦直轄部族地域でパキスタン・ターリバーンとも連携を取り、両国のターリバーンと行動を共にするようになった。米軍は無人攻撃機や特殊部隊を使って連邦直轄部族地域のアルカーイダを攻撃したが、アルカーイダもイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件などで反撃した。また無人攻撃機の活用により民間人の被害が急増した。事態は緊迫し、もはや単なるテロ対策ではなく反乱鎮圧を真剣に行う必要があると米国も認めざるを得なかった。一方、イラクでは戦争がようやく落ち着きつつあった。アメリカ大統領選挙ではオバマ候補がアフガニスタンへの関与を拡大する考えを示し、米軍も新大統領の下で増派を行う決意を固めた。 2008年9月20日、OEF参加諸国、海上阻止行動への謝意を前文に盛り込んだ国際連合安全保障理事会決議1833が採択され、全会一致で採択された。 1月、アメリカ合衆国ではバラク・オバマが大統領に就任し、アフガニスタンでは二回目の大統領選挙が迫っていた。アフガニスタンでは2008年からデービッド・マキャナン将軍が正規戦によって敵兵を殺害するテロ対策を行っていた。しかし米軍はアフガニスタン東部では勝利していたものの、アフガニスタン南部で劣勢だった。米国はイラクに15万人を派兵していたが、アフガニスタンには3万8千人しか派兵していなかった。アフガニスタンにはその他にNATO軍2万9千人や現地人で構成された3千人の対テロ追撃チーム(CTPT)などが居た。2月、オバマ大統領はアフガニスタンの大統領選挙を支援するために戦闘部隊1万7000人と訓練要員4000人を派兵した。増派した海兵遠征旅団(8000人)は手薄だったヘルマンド州に配置され、ナウザドの戦いやストライク・ソード作戦が行われた。しかし、そこはケシの大生産地ではあるものの過疎地帯の「死の砂漠」であり、カンダハールのような大都市は手薄なままだった。5月、オバマ大統領はマキャナン将軍を事実上更迭して、スタンリー・マクリスタル将軍を後任に任命した。アメリカの軍部はイラクで成功した反政府活動鎮圧をアフガニスタンでも行おうとしていた。反政府活動鎮圧とはイラク駐留米軍司令官のデヴィッド・ペトレイアス将軍が考案した作戦で、「敵を殺しても戦争を終わらせることは出来ない」「住民を守り、人心を収攬し、ともに生活し、安定した有能な政府が栄えるように治安を維持しなければならない」と言う考えに基づく作戦である(対反乱作戦)。8月、マクリスタル将軍は反政府活動鎮圧を行うためにオバマ大統領に4万人の増派を要求した。 しかしオバマ大統領は大統領選挙ではアフガニスタンに増派すべきと主張したものの、際限のない駐留や出費には反対だった。反政府活動鎮圧を行うには40~50人の住民を守るために軍人や警察官が1人必要で、理論上は米軍が10万人必要だった。また10年以上の長期的な国家建設を行い、アフガニスタンの警察や軍を40万人養成する必要があり、その場合の経費は8890億ドルに及ぶと予想された。しかしソビエト連邦はかつてアフガニスタンに10万人を派兵し、100万人のアフガニスタン人を殺害したが戦争に勝利することは出来なかった。米国政府は反政府活動鎮圧や国家建設に深入りして、アフガニスタンから撤退出来なくなることを恐れていた。 米国の軍部はアフガニスタンに4万人を増派して、時間をかけて反政府活動鎮圧を行いターリバーンを撃滅したいと考えており、共和党もそれを支持していた。しかしオバマ大統領は短期間で迅速に軍事行動を行って撤退することが出来る出口戦略を求めていた。軍部や政権内で議論が行われ、結局オバマ大統領は本格的な反政府活動鎮圧やアフガニスタン軍の長期的な養成は行わず、一時的に3万人の増派を行ってアフガニスタンの軍や警察が治安を管理できる程度にターリバーンの戦闘能力を弱体化させ、2011年7月から撤退を始める「掃討・堅守・建設・転移」を行うと決断した。12月1日、オバマ大統領はニューヨーク州の陸軍士官学校で新戦略を発表し、残りの1万3000人を派兵した。 米国の軍部はオバマ大統領の決断に従ったが本心では納得しておらず、不足した兵力をNATO軍の増派で補って反政府活動鎮圧を行おうとした。一方、NATO加盟国には様々な国情があり、例えばドイツでは戦争継続について国論が分裂していた。ターリバーンやイスラム聖戦連合(IJU)はドイツ軍を撤退に追い込むため、クンドゥーズ州駐留のNATO軍に数か月間攻撃を加えた。その結果、巻き添えで民間人に死傷者が出て(クンドゥーズ空爆事件)、ドイツの閣僚が辞任した。イギリスはアフガニスタンに9000人を派兵していたが、更に500人の増派を発表した。マクリスタル将軍は兵力不足に対応するために、アフガニスタン全土での反政府活動鎮圧は諦めて400郡中80郡を重点地域に指定し、ヘルマンド州やカンダハール州、カーブル周辺やパキスタン国境などで反政府活動鎮圧を行って支配地域を広げることにした。戦争は激しさを増し、2008年と比べて米兵の死者が急増した。 アフガニスタンの大統領選挙はカルザイが再選したものの、選挙不正や汚職が酷く米国の言う事を聞かなくなっていた。パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から100~160キロにまで迫り、核兵器備蓄基地のタルベラを脅かした。パキスタン政府は連邦直轄部族地域(FATA)に14万人の軍を派遣してパキスタン・ターリバーンと戦った。パキスタン軍の戦死者は2006年以降の5年間で2300人に及んだ。この戦いの中で注目されたのがマララ・ユスフザイである。一方、パキスタンはアフガニスタン・ターリバーンに対しては複雑な態度をとっていた。パキスタン政府はアフガニスタン・ターリバーンと戦う米軍やNATO軍に対する軍需物資の通過を認め、連邦直轄部族地域に対する無人機攻撃も認めていた。一方、軍統合情報局(ISI)はハッカーニ・ネットワークやターリバーン指導部との関係を継続しており、連邦直轄部族地域は米軍やNATO軍や諜報機関が侵入できない安全地帯と化していた。アフガニスタン・ターリバーンはアフガニスタン東部や南部に2万5千人の兵力を展開し、パキスタンの連邦直轄部族地域で十分な休息を取って戦争を続けていた。 米軍やオバマ政権はターリバーン発祥の地であるカンダハール州や麻薬取引の中心地であるヘルマンド州を戦争の重心とみなしていた。2010年2月、国際治安支援部隊(ISAF)はヘルマンド州のマルージャ郡でモシュタラク作戦を行った。マクリスタル将軍はマルージャ郡にアフガニスタン政府の公務員を派遣して住民にサービスを行う移動政府を試みたがうまく行かなかった。同月、米軍はカンダハール州に精鋭部隊である第101空挺師団の第二旅団(4800人)を投入した。ターリバーンはアルガンダーブ川沿いの灌漑地帯に潜み、米軍を即席爆発装置(IED)で攻撃し、地下水路から奇襲攻撃を行ったので、米軍の損害が増大した。6月、マクリスタル将軍が兵力不足を嘆き、マクリスタル将軍の部下がバイデン副大統領などを批判したことをローリング・ストーン誌が面白おかしく報道し、マクリスタル将軍が辞任した。9月、国際治安支援部隊(ISAF)はドラゴン・ストライク作戦を実施して、ターリバーンを灌漑地帯から一掃した。 辞任したマクリスタル将軍の後任には、反政府活動鎮圧理論の考案者であるペトレイアス将軍が就任した。ペトレイアス将軍は統合特殊作戦コマンドによる夜間襲撃を前年の5倍に増やし、365人のターリバーン指揮官を殺害し、1400人のターリバーンを捕虜にした。また国際治安支援部隊(ISAF)は重点地域を96郡に増やしてターリバーンを攻撃した。しかし戦況に劇的な変化は生じなかった。 10月、北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議がリスボンで開かれ、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への段階的な治安維持権限の移譲(撤退)が決まった。 パキスタンでは連邦直轄部族地域(FATA)がタイムズスクエア爆破未遂事件(5月)のような米国本土に対するテロ攻撃の温床になっていた。CIAは連邦直轄部族地域に対して無人攻撃機で122回の攻撃を行い、アフガニスタン人で構成された対テロ追撃チーム(CTPT)を越境させた。9月、米軍の攻撃ヘリコプターがパキスタンに領空侵犯し、パキスタン軍の検問所と交戦した。パキスタンは抗議のためトールハムを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した。ハッカーニ・ネットワークもクエッタなどでNATOの燃料輸送車を攻撃した。 アメリカ合衆国のオバマ大統領は2009年の増派の際、2011年7月から撤退を始めると決めていた。撤退開始が間近に迫った5月、米軍の特殊部隊がパキスタンの首都イスラマバード郊外のアボタバードにあった邸宅を急襲し、 ウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。一方、「掃討・堅守・建設・転移」戦略の進展は思わしくなかった。ターリバーンは米軍と互角の戦いを行い、カルザイ政権の汚職は改善せず、アフガニスタン軍の規模拡大も計画通りには進まなかった。 7月、カンダハールから米軍とカナダ軍が撤退を開始した。同月、カンダハールの実力者アフマド・ワリー・カルザイが暗殺された。 パキスタンでは米軍が前線基地を設置するために米軍の関係者285人を非公式に活動させていたが臨時職員のモラルは低く、1月にレイモンド・デイビス事件が起きた。11月、NATO軍が再びパキスタン軍と交戦・誤爆したので、パキスタンはトールハムを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した。 2012年7月、「アフガニスタンに関する東京会合」が開催された。アフガニスタン治安軍の年間予算(41億ドル)の負担割合(米国24億ドル、欧州12億ドル、アフガニスタン政府5億ドル)などが決まった。 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了した。 同年11月、米軍はパキスタン・ターリバーンの指導者ハキームッラー・マフスードを空爆し殺害した。 2014年12月、国際治安支援部隊(ISAF)及び「不朽の自由作戦」が終了し、最盛期には約13万人にも及んだ外国軍の多くが国外に撤退した。多国籍軍は「確固たる支援任務」及び「自由の番人作戦」に移行し、治安はアフガニスタン軍や警察が独力で維持することになった。 同年5月、トルクメニスタン軍がバードギース州ゴールマーチ郡から越境してきた武装集団に襲撃された。ウズベキスタン人やトルクメニスタン人などで構成された武装集団はISAF撤退を機に永世中立国であるトルクメニスタンからアフガニスタンを攻撃しようとしていた。 同年4月、ジンナー国際空港に対する攻撃の報復として、パキスタン軍が北ワジリスタンを攻撃した(Zarb-e-Azb作戦)。12月、パキスタン・ターリバーンは軍が運営する学校を襲撃し、140人以上の生徒を殺害した(2014年ペシャーワル学校襲撃事件)。 2015年、イスラム国はパリ同時多発テロ事件などを起こし、世界に活動の輪を広げていた。1月、ターリバーンの一部がイスラム国に寝返って「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言した。5月、アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意した。7月、パキスタンの仲介でアフガニスタン政府とターリバーンとの間で公式の和平協議が行われ、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルが声明を発表した。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は中断した。ターリバーンの内部で抗争が勃発し、武力衝突が起きた。その後、ターリバーンの最高指導者にアフタル・ムハンマド・マンスールが就任した。一方、ウズベキスタン・イスラム運動の指導者であるウスマン・ガーズィ(英語版)はイスラム国に寝返ったが、ターリバーンに攻められて死亡した。9月、ターリバーンはアフガニスタン第六の都市クンドゥーズを短期的に占領した(クンドゥーズの戦い)。10月、衝撃を受けたアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は米軍の完全撤退を断念した。同年、多くのアフガン難民が欧州に避難しようとして、2015年欧州難民危機の一因になった。 2016年3月、ターリバーンの内部抗争が勃発し、ヘラート州で150人が死亡する大規模な戦闘が行われた。5月、アメリカ合衆国はターリバーンの最高指導者アフタル・ムハンマド・マンスールを殺害した。一説によるとアフタルは和平協議には否定的だったと言う。後任の最高指導者にはハイバトゥラー・アクンザダが就任した。 2017年10月、イスラム国の首都ラッカが陥落した。アフガニスタンでもイスラム国の最高指導者が米軍による空爆で死亡し、後継者争いにより組織が2つに割れ、ムアウィア・ウズベキスタ派がアフガニスタン北部に移動した。同月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍に増加した。特にウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)は大半をターリバーンに支配されていた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は状況の悪化を防ぐために増派を決定した。一説によると2017年以降、空爆による民間人の死者が急増し、2019年には2016年の3倍(700人)に達したと言う。 12月、約200人のイスラム国の部隊がジョウズジャーン州ダルザーブ郡(Darzab)を支配下に置き、基地を建設していた。部隊にはシリアから逃げてきたアルジェリア人やフランス人なども居た。 2018年2月、米軍はジョウズジャーン州のイスラム国部隊をB52で爆撃し、特殊部隊で急襲して現地司令官を殺害した。ターリバーンもイスラム国と交戦し、大打撃を受けたイスラム国の部隊は8月にアフガニスタン政府に投降した。投降したイスラム国の部隊は約250人でフランス人の他にインドネシア人やウズベキスタン人やタジキスタン人、パキスタン人なども加わっており、女性や子供の戦闘員も居た。一方、イスラム国は戦闘員にアフガニスタンへの入国を呼び掛けており、アフガニスタン北部に潜伏中の戦闘員は5000人に達するという説があった。 8月、バードギース州ゴールマーチ郡のチャイニーズ・キャンプ基地が1000人のターリバーンに包囲され、孤立無援で陥落した。基地には106人の守備隊が居たが、アフガニスタン軍はガズニ州の攻防戦やジョウズジャーン州のイスラム国部隊の降伏などに忙殺されてヘリコプターが足りず、ゴールマーチ郡まで支援の手が回らなかった。 同年5月、パキスタンは連邦直轄部族地域を廃止し、カイバル・パクトゥンクワ州に併合した。国連によると連邦直轄部族地域に対する軍事作戦により、アルカーイダ系の武装集団がアフガニスタンに退避した。2018年現在アフガニスタンには1万人~1万5000人の外国人戦闘員が居り、そのうちアルカーイダは265人~400人だった。アルカーイダはターリバーンの保護の下でザーブル州に訓練基地を設けており、ウサマ・ビン・ラディンの息子ハムザ・ビン・ラーディンに統率されている部隊もあった。同年6月、米軍はパキスタン・ターリバーンの指導者マウラナ・ファズルッラーをアフガニスタン領内で空爆し殺害した。 国連によるとターリバーンの戦闘員は5万5000人〜8万5000人であり、非戦闘員を含めると総兵力は10万人に達する。2019年3月、ファーリヤーブ州では州都マイーマナをはじめ州内の大半の郡がターリバーンに包囲され、アフガニスタン軍に多数の戦死者が出た。ガニー大統領によると2014年から5年間で4万5000人以上のアフガニスタン治安部隊員が殺害された。8月、ハムザ・ビン・ラーディンの死亡が発表された。9月、四回目の大統領選挙が行われた。同月、米軍とアフガニスタン軍はヘルマンド州でインド亜大陸のアルカーイダ(AQIS)の指導者のアシム・ウマルを殺害した。国連によるとアフガニスタン国内のアルカーイダは400人〜600人であり、ターリバーンの保護下でヘルマンド州など12州で活動していた。アルカーイダはターリバーンと頻繁に会合を持ち、作戦計画や訓練について話し合っている。またアルカーイダはハッカーニ・ネットワークに資金や訓練を提供して共同で2000人の部隊を編成し前線に送り出した。ウマルの死後、アルカーイダはターリバーンの最高指導者の指示でアフガニスタン東部に移動したと言う。12月、ナンガルハル州でNPO活動を行っていた中村哲 (医師)が殺害された。 同年2月、インドは2019年プルワマ襲撃事件の報復のために、パキスタン領内のカシミール過激派の拠点を爆撃した(バーラーコート空爆)。8月、インドはパキスタンのテロを防ぐためにジャンムー・カシミール州の自治権を廃止・はく奪し直轄領化した(ジャンムー・カシミール連邦直轄領)。 2月29日、アメリカ合衆国とターリバーンの間で和平合意が成立した(ドーハ合意)。アメリカ合衆国は135日以内に駐留軍を縮小し、14ヶ月後の2021年4月末までにNATO軍と共に完全撤退すること、ターリバーンがアルカーイダなどを取り締まりアフガニスタンをテロの拠点にしないことが決まった。また合意にはアフガニスタン政府が5000人、ターリバーンが1000人の捕虜を解放することも盛り込まれた。しかし和平合意に参加していないアフガニスタン政府は5000人の解放に同意せず、1500人の解放しか認めなかった。アフガニスタン政府の関与なしに結んだこの合意は、専門家に「史上最も不名誉な外交交渉の一つ 」と呼ばれた。 3月、ガニー大統領が再選し大統領就任を宣言したが、対立候補のアブドラ行政長官は納得せず、混乱が続いた。 4月、アフガニスタン政府は合計300人の捕虜を解放したが、ターリバーンは納得せずアフガニスタン政府との交渉を打ち切った。また交渉中も戦闘は継続しており、ターリバーンは3月から4月中旬までに2804回の攻撃を行い、789人の民間人が死傷した。 5月、ガニー大統領とアブドラ行政長官の交渉が成立し、再び両者で権力を分け合うことになった。またガニー大統領はターリバーンに対してもラマダン明けのイード・アル=フィトルの停戦が実現したことを評価し、2000人の捕虜釈放を発表した。 6月、アメリカ合衆国は駐留軍縮小の約束を果たして駐留軍を1万2000人から8600人に削減し、11月までに4500人にすると発表した。ターリバーンは米軍や都市部に対する攻撃は控えているが、地方で戦闘を続けている。 9月、アフガニスタン政府とターリバーンの初の和平交渉がカタールで開催された。アフガニスタン政府は民主主義の維持を主張したが、ターリバーンはイスラム政体樹立を要求した。一方、ターリバーンは和平協議中にもかかわらず34州中28州で攻撃をしかけた。 10月、ヘルマンド州では州都周辺の複数の検問所やカンダハール州に向かう基幹道路の一部がターリバーンに占領され、変電所の破壊により大規模な停電が発生した。州都陥落の危機に対して、米軍はターリバーンの攻撃をドーハ合意違反と断定して空爆を行い、ターリバーンを撃退した。攻撃を首謀したターリバーンの影の副知事は捕虜交換によりアフガニスタン政府から解放されたばかりだった。国連はこの攻撃をどの程度和平合意を破れば米軍が出てくるかを試すための攻撃だったと見做している。 同月、アフガニスタン政府は即時停戦を要求したが、ターリバーンは応じずに戦闘が続いた。カーブルではイスラム国がシーア派地区の病院や学校を襲撃して子供や妊婦を殺害し、ナンガハール州の刑務所を襲撃して囚人を解放した。一説によると刑務所の襲撃者は多国籍であり、イスラム国はアフガニスタンだけでなくインドからタジキスタンまで広域に活動していると言う。 同月、FBIが最重要指名手配していたアルカーイダのアブ・ムシン・アル・マスリーをアフガニスタン治安軍がガズニー州で殺害した。 11月、ターリバーンの攻撃が続く中でトランプ大統領は撤退を急いだ。アメリカ合衆国は駐留軍を2021年1月までに2500人にすると発表し、一方的に1年間で約1万人の兵力を削減した。なおアフガン治安軍はアフガニスタン軍が約18万7000人、警察が約11万8000人である。一方、ターリバーンの兵力は約5万8千人から10万人である。 12月、カンダハール州ではアフガニスタン軍の一部が193もの検問所を放棄して勝手に撤退したことが問題になった。ターリバーンは過去数年に渡って検問所を重点的に攻撃し、アフガニスタン軍や警察に被害を与えてきた。そのためアフガニスタン軍や警察は防備が手薄な検問所を廃止して、防備の硬い基地に部隊を移動させる政策を取っているが、地元の反対も根強い。一方、ターリバーンは道路を占領して補給線を寸断することで、アフガニスタン軍や警察を検問所や基地から撤退させている。 和平交渉再開後の9月以降、ターリバーンは攻撃を激化させており、例年戦闘が小康状態になる冬季も異例のペースで攻撃を続けた。また暗殺を強化しており、政府や軍・警察関係者だけでなく、NPOや医療従事者、ジャーナリスト、裁判官や検察官、知識人や著名な女性なども殺害した。またターリバーンに対して批判的な宗教学者の暗殺も行っており、国連はアフガニスタンで起きた暗殺事件の8割以上はターリバーンによるものと見做していた。結局、和平合意が成立した2020年も戦闘は続き、ターリバーンとアフガニスタン治安軍の双方に多数の死傷者が出た。 1月、アメリカ合衆国大統領にジョー・バイデンが就任した。アフガニスタンではターリバーンの攻撃が続き、民間人に多数の死傷者が出ていた。またターリバーンとアルカーイダの協力関係も続いていた。バイデン政権やアメリカ合衆国の議員団はターリバーンが和平合意を順守していないとみなし、トランプ政権による性急な撤退政策を見直すことにした。 2月、アメリカ合衆国や北大西洋条約機構(NATO)は4月末の完全撤退を断念し、撤退期限を延長した。 3月、アメリカ合衆国は駐留軍撤退後のターリバーンの勢力拡大やカーブル陥落の可能性に危機感を表し、アフガニスタン政府やターリバーンに国連やロシア、中国、インドなどの地域大国を交えた多国間による和平交渉の実施やトルコ軍などによる新たな国際平和維持活動の設立、アフガニスタン政府とターリバンによる連立政権の樹立などを勧めた。しかし一説によると連立政権についてアフガニスタン政府は難色を示していたと言う。 同月、ターリバーンはアフガニスタン各地で攻撃を継続し、ファーリヤーブ州アルマール郡やローガル州のシャルフ郡などを占領した。またバードギース州ムルガーブ郡はアフガニスタン軍の撤退により、ターリバーンの手に落ちた。 4月、アメリカ合衆国は9月11日までに駐留軍を完全撤退すると発表した。しかし米国の軍部は撤退後の情勢について不安を表明している。同月、トルコで和平会議が予定されていたが、ターリバーンの参加拒絶により5月以降に延期になった。一説によるとターリバーンは民主主義に反対しており、女性の人権についてもシャリーアで十分と考えている。ターリバーンはイスラム教に基づく中央集権国家を望んでおり、民主政府との連合政権には否定的であり、細部は無視するように求めている。 6月、国連によると5割〜7割の州都で周辺部の郡を巡ってターリバーンとアフガニスタン政府軍が戦闘を行っており、州都周辺の一部の郡はターリバーンが占領している。また郡庁所在地の約6割(57%)はターリバーンに占領されている。 ターリバーンは幹線道路や国境検問所・税関を手中に収めるためにバダフシャーン州やバグラーン州、クンドゥーズ州やタハール州、ジョズジャーン州などアフガニスタン北部に兵力を移動させた。ターリバーンによる北部道路網の支配は2001年以降最大レベルに達しており、ターリバーンは高速道路に検問所を設置して、アフガニスタン治安軍や政府関係者の移動を妨害し、通行税の徴収や麻薬や鉱物資源の輸出を行っている。また一説によると2020年の戦闘により予め州都周辺に対する軍事的なプレッシャーを強めてあるため、外国軍が撤退して対応できなくなる頃を見計らって軍事作戦を行うつもりだと言う。 6月1日から6月11日の間に、327人のアフガニスタン治安部隊が戦死し、民間人82人が戦闘に巻き込まれ死亡した。また、同じ期間に少なくとも11の郡がターリバーンに陥った。 6月16日、ファーリヤーブ州ダウラターバード郡に進出したアフガニスタン軍コマンド部隊がターリバーンに包囲され壊滅、隊員のうち少なくとも24人が戦死した。 6月18日、ターリバーンはクンドゥーズ州の州都近郊に部隊を集結させたが、結局攻撃は行わなかった。6月22日、クンドゥーズ州の他にバグラーン州やサーレポル州、ファーリヤーブ州は州都近郊までターリバーンが迫っていた。米軍は人口が10万人を超えるバグラーン州の州都プレフムリーやクンドゥーズ州の州都クンドゥーズに対しては支援を行っているようである。6月25日、バイデン大統領とガニ大統領の会談に合わせて、米軍はバグラーン州やクンドゥーズ州でドローンによる空爆を行った。また一説によると、ターリバーンは米軍を刺激しないように州都など都市部への攻撃を自粛していると言う。 6月19日、ガーニ大統領は国防大臣代行にビスミッラー・ハーン・モハンマディを任命した。前任者のアサデュッーラ・カリード大臣は長期間不在だった。同月、陸軍の参謀総長にワリー・アフマドザイ将軍(Wali Ahmadzai)が任命されたが、下院の国内治安委員会によるとターリバーンと戦うより報復人事に夢中になっていると言う。 6月23日、ターリバーンはジョウズジャーン州アンドホイ郡を占領した。25日にアフガニスタン軍は同郡に進出し奪還を宣言したものの、翌26日には1000人以上のターリバーン戦闘員が現れ、激しい戦闘や空爆でバザールや家屋が破壊されたのち、再びターリバーン側に陥落した。一説によるとアフガニスタン軍は農村部に対する増派が遅れていると言う。またターリバーンは兵力や他の地域への進軍を誇張して宣伝するため、ターリバーンに包囲された部隊が動揺して撤退してしまうと言う。ターリバーンは動画ニュースを作成し、アフガニスタン軍が逃げたと言う主張を広めている。またターリバーンは6月1日から23日までに戦車8台、迫撃砲や重砲56機を鹵獲したと主張しており、米軍のドローンが鹵獲された重火器を破壊して回っている。 7月3日、バグラム空軍基地から米軍とNATO軍の全ての部隊が撤退した。7月8日、アメリカ合衆国のバイデン大統領は撤退期限を前倒しして8月末までに米軍の撤退が完了すると発表した。またドイツ軍やイタリア軍、ポーランド軍は6月末までにアフガニスタンから撤退している。一方、トルコ軍は撤退せず、カーブルのハーミド・カルザイ国際空港を警備している為、ターリバーンは反発している。 ターリバーンの攻勢は続いており、「中東かわら版」によると5月から7月の約2ヶ月間に407郡中114郡を陥落させたと言う。アフガニスタン軍が奪還した郡もあるため、全てがターリバーンの支配地になったとは言えないが、バダフシャーン州(28郡中26郡)やタハール州のように州都以外は全てターリバーンに占領されている州も存在する。ターリバーンは国境の通関を重点的に占領しており、6月から7月の間にタジキスタン国境のシルハンバンダル、イラン国境のイスラム・カラ、トルクメニスタン国境のトルグンディ、パキスタン国境のスピンボルダックがターリバーンの手に落ちた。 アフガニスタン軍はバダフシャーン州やタハール州で大敗を喫しており、タジキスタン政府によると、アフガニスタンからタジキスタンに敗走したアフガニスタン兵は2週間で1600人に及んでいると言う。タジキスタンは国境防衛のために2万人の予備役兵を動員すると共に、集団安全保障条約を通じてロシアに援助を求めた。ロシアは要請に応じてタジキスタン内のロシア軍基地の使用準備を開始した。7月9日、上海協力機構と欧州安全保障協力機構の合同会議はアフガニスタン北部で様々なテロリストや過激派グループの存在感が急激に増しており、アフガニスタン政府と連携して国境地帯の脅威の封じ込めや麻薬の製造・通過に対する実質的な対策を行うとした。またアタ・モハマド・ヌールやラシッド・ドスタムなどの北部軍閥がアフガニスタン政府の要請に応じて数千人の民兵を動員した。 7月上旬、ターリバーンはガズニー州やカンダハール州の州都を激しく攻撃した。7月7日、ターリバーンはバードギース州の州都を攻撃した。しかしアフガニスタン軍や民兵が反撃し、7月16日に停戦した。 7月17日、ターリバーンとパキスタン当局はスピンボルダックの国境封鎖を解除した。アフガニスタンのアムルッラー・サレー第一副首相は、パキスタン空軍がスピンボルダックのターリバーンを警護しているとしてパキスタンを非難した。またガーニ大統領は推定によると先月パキスタンなどから1万人以上のジハード戦士がアフガニスタンに侵入したとしてパキスタンを非難した。7月21日、アフガニスタンの駐パキスタン大使の娘が拉致される事件が発生し、アフガニスタンとパキスタンの関係がさらに悪化した。 7月17日と7月18日、イード・アル=アドハー(犠牲祭)を前にアフガニスタン政府とターリバーンの和平協議がドーハで行われた。アフガニスタン政府は従来にない高位の要人を交渉団に参加させて、ターリバーンを説得しようとした。7月18日、ターリバーンの指導者のハイバトゥラー・アクンザダは真剣に和平交渉を行っていると述べ、イスラム体制の確立・平和・治安の構築、世界との良好かつ強固な外交的・経済的・政治的な関係の構築、他国の治安を脅かす者に対する領土の使用禁止、内政不干渉による独立、大使館・外国組織・投資家の保護、イスラム教と国益の範囲内でのジャーナリズムの自由を約束した。しかし結局、2021年はイード・アル=アドハーの停戦が実現しなかった。ガーニ大統領によるとアフガニスタン政府はターリバーンの要求に応じて5000人の捕虜を解放して来たが、ターリバーンには有意義な交渉を行う準備が無かった。ガーニ大統領は最後通牒として高位の和平交渉団を送り出したが、和平交渉団を率いるアブドラ・アブドラ議長からターリバーンには和平の意思がないという報告を受けた。今後は優先順位をつけて防衛を行い、国民の団結と断固たる態度を示して3〜6ヶ月で状況を打開すると述べた。 7月22日、米軍のミリー統合参謀本部議長は420地区中210地区余りを反政府軍が支配しており、ターリバーンが優勢であることを認めた。しかし州都はどこも陥落しておらず、アフガニスタン軍は人口の多いカーブルや州都の防衛のために兵力調整をしており、このままターリバーンが勝利できるとは限らない。和平か敗戦か色々な可能性があり、状況を注視して対応したいと述べた。また米軍の撤退は95%完了しており、撤退後は近隣国に地域の治安評価拠点を設置し、地平線の向こう側から空爆などの軍事的・財政的な支援を行うと述べた。 実はアメリカ国防情報局は2020年末の報告書で、ターリバーンは米軍を確実に完全撤退させるために形だけ立派な交渉団を送って和平交渉に参加しているが、譲歩や妥協をする気が無い可能性が高く、軍事的な勝利を狙っており、2021年中の停戦は無く、撤退が停滞した場合は米軍への攻撃を再開すると報告していた。バイデン大統領はアフガニスタンの将来を自己決定に委ね、アフガニスタン政府を応援することにした。一説によると今後の展開としては1) アフガニスタン政府が州都などの支配を維持する、2) アフガニスタン政府が崩壊し、ターリバーンが支配する領域とそれ以外に分裂する、3) アフガニスタン政府が長期間持ちこたえることでターリバーンが諦めて政治的に妥協するという3つの可能性があると言う。 7月25日、ターリバーンの報道官はガーニ大統領の解任を要求した。同日、アフガニスタン政府はカーブル州、パンジシール州、ナンガハール州を除く34州中31州に夜間外出禁止令を発令した。 8月3日、ターリバーンはヘラート州やヘルマンド州の州都を激しく攻撃している。 8月6日、政府メディア情報センターの責任者がターリバーンによって殺害された。ターリバーンは空爆の報復として今後も政府高官のを標的にすると警告した。ターリバーンはニームルーズ州の州都を占領した。首都カーブルから直線距離で800km離れた辺境の州であるが、ターリバーンはついに州都の占領に成功した。SNSでは戦闘員が鹵獲したSUVや軍用ハンビーを運転し、地元の住民が歓迎する様子が伝えられた。国連特使は「致命的な段階」に入ったと警告し、英国及び米政府はアフガニスタンからの自国民の「退去」を勧告した。 8月7日、ターリバーンはジョウズジャーン州の州都シェベルガーン市を占領した。シェベルガーンは人口が多く戦略上重要な都市だった。またドスタム派の中心地であり政府側民兵の働きが大いに期待されていたが、期待はずれに終わった。地元の有力者であり元将軍のラシッド・ドスタムが政府唯一の支配地区 Du Koh Districtに退避した。ターリバーンはクンドゥーズ州やタハール州、バダフシャーン州の州都も攻撃している。同日夜、米軍のB52がジョウズジャーン州やヘルマンド州の州都を爆撃した。 8月8日、ターリバーンはクンドゥーズ州の州都を制圧した。同グループは警察本部、知事の敷地、市内の刑務所を占拠し、アフガニスタン軍が実効支配する領域は基地と空港に限られている。同日、クンドゥーズ州の東隣りにあるタハール州の州都もターリバーンに占領された。更に同日、ターリバーンはシェベルガーン市を流れるサフィード川の上流にあるサーレポル州の州都も制圧した。同日、ターリバーンはクンドゥーズ州の西隣にあり北部最大の都市であるバルフ州の州都にも迫った。ターリバーンの急速な前進はアフガニスタン軍の士気の低下と脱走を招いた。 8月9日、アフガニスタン軍が撤退した為、ターリバーンはサマーンガン州の州都を占領した。一方、タハール州やクンドゥーズ州のアフガニスタン軍は州都やその周辺でターリバーンと戦っている。同日、ガーニ大統領はラシッド・ドスタムの提案を受け入れて民兵を統括する公衆蜂起軍統合指令センターを設立し、民兵の動員や武器の供給を行うことを発表した。内務大臣によると政府軍の敗走により道路の支配を失ったため、補給や負傷者の後送はヘリコプター頼みになっている。その上、米軍の突然の撤退により全国400箇所で戦闘が始まってしまった。アフガニスタン政府は地元の指導者に民兵の動員や戦闘の権限を移譲して、政府軍の敗走を止め、都市を取り囲む防衛線に再集結し、攻勢に転じるという三段階の作戦を考えていると言う。一方、これは2003年に日本が主導して行った武装解除・動員解除・社会復帰の終焉でもあった。 8月10日、アメリカ合衆国がパキスタンに対して国境沿いのターリバーンの安全地帯を閉鎖するように依頼したので、パキスタンは通関するアフガニスタン人にパスポートやビザを要求して、スピンボルダックを閉鎖に追い込んだ。同日、ターリバーンはクンドゥーズ州の南にあるバグラーン州の州都を占領した。バグラーン州はサラン峠の北側に位置する戦略的に重要な州であり、クンドゥーズ州への増援や首都カーブルの防衛にとって大きなマイナスとなった。同日、ターリバーンはニームルーズ州の北にあるファラー州の州都も占領した。同日、アフガニスタン政府の財務大臣が辞任して出国した。 8月11日、ターリバーンはバダフシャーン州の州都を占領した。この都市は北部同盟の本拠地だった。 8月12日、ターリバーンはクンドゥーズ空港を占領した。同日、ガズニー州やカンダハール州やヘルマンド州やヘラート州の州都でも激しい戦闘が続いた。またバードギース州の停戦も破れた。同日、州知事が勝手に交渉して退却したため、ターリバーンはガズニー州の州都を占領した。ガズニーはカーブルの南の入口のような場所にあり、首都カーブルの防衛にとって大きなマイナスとなった。同日、アメリカ合衆国のバイデン大統領は団結して戦うように呼びかけた。しかし一説によるとアフガニスタン軍の士気は低下していると言う。8月12日、アメリカ合衆国はカーブルの大使館の縮小と撤退支援の為に3000人の増派を発表した。英国は600人の軍をカーブル空港に配備することを発表した。当局者は、展開は24〜48時間で行われ、月末までに完了すると述べた。計画はチャーター機を使用し、カーブル空港を利用して避難する。ただし、それが不可能になった場合は軍用機を使用する。英国政府によると避難は長い間計画されていたが、治安状況が急速に悪化したためタイミングが早められたと述べた。3000人の米軍に加えて、武力紛争がエスカレートした場合に備えて、さらに3500人がクウェートで待機する。カナダは、過去にカナダのスタッフと一緒に働いたアフガニスタンの家族の収容、カーブルの大使館職員を避難させるために、カナダの特殊部隊が配備されると発表した。デンマーク政府とノルウェー政府は、カーブルにある大使館が安全上の理由で閉鎖されることを発表し、彼らの外交スタッフと彼らと一緒に働いていたアフガニスタン人を避難させる計画を立てている。 8月12日から13日にかけて、ターリバーンはヘラート州とカンダハール州の州都を占領した。ヘラートとカンダハールは人口40万人以上の大都市であり、アフガニスタンで二番目と三番目に人口が多い大都市である。大都市には軍団の司令部や空港があり、周辺の州に対する航空支援を行っている。そのため大都市が陥落すると周辺州の戦況も悪化し、ヘラート州に隣接するバードギース州、カンダハール州に隣接するヘルマンド州やザーブル州が陥落した。一説によると地元の長老が住民の被害や公共施設の破壊を避けるように政府軍やターリバーンに陳情し、それに応じて政府軍が撤退していると言う。 8日13日、カーブル州の南に隣接するロガール州が陥落した。ターリバーンは8月6日以降の約8日間で第2位・第3位の大都市を含む34州中18州を占領し、首都カーブルの近郊まで到達した。地方の軍や国民はターリバーンに対して徹底抗戦する気がない事が分かった。 8月14日、ターリバーンは国内第四位の大都市であるバルフ州の州都マザーリシャリーフ市を占領した。一説によるとアフガニスタン軍があっさり降伏した為、民兵も戦意を失い、アタ・モハマド・ヌールやラシッド・ドスタムは州外に逃亡した。同日、ターリバーンはナンガハール州の州都ジャララバード市を占領した。一説によると地元の長老の依頼により州政府や軍は無抵抗で市を引き渡した。ジャララバードは国内第五位の大都市であり、カイバル峠を擁する戦略上重要な都市である。ターリバーンは西部(ヘラート)・南部(カンダハール)・北部(マザーリシャリーフ)・北東部(クンドゥーズ)・東部(ジャララバード)を占領し、首都カーブルは完全に孤立した。 8月15日、ターリバーンは首都カーブルを包囲し、アフガニスタン政府は政権移譲の意思を示した。同じ日、「武力で首都を取る計画はない」との声明を出したにもかかわらずカーブルの郊外に入り、Kalakan地区、Qarabagh地区、およびPaghman地区。プル・エ・チャルキ刑務所での都市全体の停電と暴行および囚人の暴行の可能性が報告された。ボーイングCH-47チヌークとシコルスキーUH-60ブラックホークヘリコプターが避難を実行するためにカーブルのアメリカ大使館に着陸し始め、外交官が機密文書を慌ただしく処分していると報告された。 アフガン内務省はガニー大統領が国外に脱出したこと、ターリバーンが率いる暫定政府が樹立されることを発表した。カルザイ前大統領は交渉チームの一員となることになっていた。ターリバーンは、政権交代を待ち、無理矢理カーブルに入らないように戦闘員に命じた。治安部隊はバグラム空軍基地をターリバーンに降伏させた。空軍基地には、約5000人のターリバーンとイラクのISILの囚人が収容されている。後に、ガニー大統領がタジキスタンに去ったことが報告された。 事実上、政権は崩壊したものの、アフマド・マスード、アムルッラー・サーレハ(英語版)第一副大統領(英語版)を中心にパンジシール渓谷で抵抗運動が展開されている。 8月30日、米軍はアフガニスタンからの撤退を完了。8月31日、ジョー・バイデン大統領は国民向けの演説で戦争終結を正式に宣言。一方、ターリバーンは米国に対する勝利を宣言。20年間続いたアフガニスタン紛争はターリバーンの勝利に終わった。その後、ターリバーンに対する抗議が8月17日に始まった。抗議グループはタリバーン政府による女性の扱いに懸念を表明しており、それを差別的であると見なしている。アフガニスタンの民族レジスタンス戦線に支えられて、抗議者たちは地方分権化、多文化主義、社会正義、仕事、教育、そして食糧も要求している。 タリバーンは時が経つにつれて暴力の増加とともに抗議を抑制し、活動家を誘拐し始めた。この政策は最終的に抗議行動を徐々に終わらせ、カブールでの最後の抗議行動は2022年1月16日に起こった。 米国は撤退後も敵対姿勢は崩さず、経済制裁を行った。しかし、これはアフガン市民の生活困窮を招き、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした。薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国は人道支援を例外とした。 ブラウン大学の「コスト・オブ・ウォー」プロジェクトによると、2021年4月時点で、アフガニスタンでの死者は17万1,000〜17万4,000人、アフガン民間人が4万7,245人、アフガン軍・警察が6万6,000〜6万9,000人、反対派の戦闘員が少なくとも5万1,000人となっている。しかし、"病気、食料・水・インフラへのアクセスの喪失、その他の間接的な影響 "による死者数が不明であるため、死者数はもっと多い可能性がある。国連によると、2001年の侵攻以降、570万人以上の元難民がアフガニスタンに帰還したが、2021年現在、260万人のアフガニスタン人が難民として残っているか、主にパキスタンやイランに逃れており、さらに400万人のアフガニスタン人が国内での避難民として残っている。一方、2001年以降、アフガニスタンでは、健康、教育、女性の権利などが改善された面もある。 アフガニスタン紛争において、数多くの重大な人権侵害が発生していることが人権団体により報告されている。戦争犯罪及び人道に対する罪を取り扱う国際刑事裁判所(ICC)も2007年から予備調査を始め、2013年に「アフガニスタンで、戦争犯罪及び人道に対する罪が過去そして今も犯されている」と結論づけている。しかし、主な対象となる米国が猛反発し、ICCに圧力をかけたことで、本調査は後回しにされている。欧米の傀儡政権であったカルザイ政権は、戦争犯罪恩赦法を施行したり、人権団体による報告書公表を阻止したりした。復権したタリバンもまた、米国と戦争犯罪を追及しない密約を結んだという報道がある。 連合軍支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「夜襲作戦(英語版)」と呼ばれる"ターリバーン狩り"が行われた。深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという。当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。作戦はタリバン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した。あまりの不評にカルザイ大統領が「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領は復活を認めた。その後も、CIAから直接支援を受けていた国家保安局の01ユニットにより、マドラサで寝泊まりしていた子供らが虐殺される、医療施設が襲撃に遭い医療従事者と民間人が殺害される等の事件が発生した。 連合軍はカピサ州の民間人の居住地域で化学兵器「白リン弾」を使用し、1発が民家に命中。その家の住民である8歳の少女が顔に大火傷を負った。 2001年、北部同盟の軍閥であるドスタム派は降伏したターリバーン旧政権軍の兵士8,000人をコンテナに閉じ込め収容所へ輸送し、結果5,000人が「行方不明」になった。行方不明者の大半は窒息死した者で、生き残った者は射殺されたと証言する者もいる。コンテナ1つに200人の捕虜が詰め込まれていた。北部同盟の将軍はアメリカ兵が捕虜に対して刺突・身体を切断する等、危害を加えていたと証言した。米国国防省並びに国務省は1,500人から2,000人がダシュテ・レイリで殺害されたことを示す文書を公開した。 連合軍に対し軍事力で劣っていたターリバーンは、対抗手段として住民を脅迫し、連合軍に協力的な者は暗殺した。連合軍側に利するとみなした民間施設等のインフラストラクチャーに対して自爆攻撃を行うなど、ソフトターゲットを標的にテロを繰り返した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アフガニスタン紛争とは、2001年から2021年にかけてアフガニスタンで勃発した紛争である。 この紛争、または戦争ではアメリカ軍やそれに支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争った。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "結果として、一時的には米英軍と北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏し、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者で行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された。 また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興、民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかしその後、同国の治安は極端に悪化し、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され、米軍は撤退。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブルを陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した事で終結した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この紛争は、ベトナム戦争(1955年 - 1975年)を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "反米テロを繰り返すアルカーイダの活動拠点の破壊と、アルカーイダの庇護者とみなされたターリバーン政権の転覆を試みる米国と同盟国がアフガニスタンに侵攻したことで始まった。当初の目的が達成された後、NATO加盟国を含む40カ国以上の連合国は、国際治安支援部隊(ISAF)と呼ばれる安全保障ミッションを同国に編成し、そのうちの一部はアフガニスタン政府と同盟して戦闘に参加した。紛争は主に多国籍軍と共和国軍が旧支配勢力となったターリバーンと戦うもので、ISAF/RSの兵士や人員の大半はアメリカ人である。この紛争のコードネームは、米国では「不朽の自由作戦」(2001年〜14年)、「自由の番人作戦」(2015年〜2021年)と呼ばれている。傀儡政権樹立後もタリバンの反乱は続き、多国籍軍は一般市民にも危害を加えたことで協力を得られなかった。20年と数百兆円を費やした後、最終的に米軍を筆頭に多国籍軍が撤退を開始すると、ターリバーンは急速に勢力を回復して再び政権を奪還した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2001年の9.11同時多発テロ発生後、米国大統領のジョージ・W・ブッシュは、当時アフガニスタンの支配勢力であったターリバーンに、オサマ・ビンラディンの引き渡しを要求した。ターリバーン政権の副首相アブドゥル・カビールはこれに対し、9.11同時多発テロがオサマ・ビンラディンによるものであるという証拠を求め、事実であれば第三国に出国させるとの返答をした。ブッシュはカビール副首相の提案を拒否し「不朽の自由作戦」の開始を指示した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2001年末までにターリバーンとアルカーイダは、米軍と北部同盟軍によって国内でほぼ壊滅したとみられ、ボン合意では新たなアフガン暫定当局(主に北部同盟)がハミド・カルザイをアフガン暫定行政長官に選出した。国連安全保障理事会は、新政権がカーブルを確保することを支援するために国際治安支援部隊(ISAF)を設立した。また、ターリバーン政権の崩壊に伴い、全国的な復興が図られた(国連アフガニスタン支援ミッション)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一方で政権の座から追い出されたターリバーンはオマル師によって再編成され、2003年から多国籍軍とその傀儡とみなすアフガニスタン政府に対する反乱を開始した。ターリバーン等の反政府勢力は、地方でのゲリラ的な襲撃や待ち伏せ、都市部での標的に対する自爆攻撃、連合軍に対する裏切り者の殺害など、非対称戦争を繰り広げた。ターリバーンは次第にアフガニスタン南部と東部の農村地域で影響力を取り戻し、ISAFは村を「クリア&ホールド」するための対反乱作戦に兵力を増強して対応した。2007年から2009年にかけて、暴力行為は拡大した。2009年には兵力が急増し、2011年まで増加し続け、ISAFと米国の指揮下で約14万人の外国軍がアフガニスタンで活動した。2012年にNATO首脳は軍の撤退戦略を開始し、その後、米国は主要な戦闘活動を2014年12月に終了し、国内に残存兵力を残すことを発表した。2014年12月28日、NATOはアフガニスタンにおけるISAFの戦闘活動を正式に終了し、安全保障上の全責任をアフガニスタン政府に正式に移管した。同日、ISAFの後継組織としてNATO主導のレゾリュート・サポート作戦が発足した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ターリバーンに掌握される地域が徐々に増加する中、2020年2月29日、米国とターリバーン(アフガニスタン・イスラム首長国)はドーハで条件付和平協定に署名した。ターリバーンが協定の条件に協力する限り、米軍は14カ月以内にアフガニスタンから撤退することが求められた。この合意は、アフガニスタン政府抜きで米国政府とタリバン間で直接行われた。また、インド亜大陸のアルカーイダやISIL-Kに属する反政府勢力が、国内の一部で活動を続けていた。2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンが、同年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表。すると、2021年5月からターリバーンは大攻勢を開始し、共和国軍は3か月ほどで各州都に点となって散らばるまで弱体化した。8月に入ると続々と各州の州都にターリバーンが入城し、15日までにパンジシール州を除くすべての州が陥落した。2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下においたと宣言し、内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。30日に米軍は撤退を完了し、31日にバイデンも戦争終結を宣言した。これをもって、米国史上最長の戦争は幕を閉じた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "全体として、この戦争では 46,319 人の民間人を含む約176,000 人が死亡した。2001年のアメリカの侵攻とタリバン政権打倒の後、570万人以上の難民がアフガニスタンに帰還したが、タリバンが2021年に権力の座に戻ったとき、260万人のアフガニスタン人がまだ難民であり、さらに400 万人が国内避難民であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1978年の共産政権の成立にともない、全土でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起した。これを受けて1979年にはソビエト連邦が軍事介入を行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年にソ連軍は撤退した。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンとアル・カーイダを国内に保護し、テロリストの訓練キャンプを設置していた。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の三国に留まり、アフガニスタンの国際連合における代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持していた。ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1998年、タンザニアとケニアの米国大使館がアル・カーイダにより爆破される事件が発生し、米国は報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプをトマホークで攻撃した。このため12月8日には国際連合安全保障理事会で国際連合安全保障理事会決議1214が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には国際連合安全保障理事会決議1267で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づく経済制裁が行われた(米国同時多発テロ事件後はこの狙い撃ち制裁が拡大され、カディ事件やサヤディ事件で人権侵害が問題化する)。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月には米艦コール襲撃事件が発生した。このため12月に国際連合安全保障理事会決議1333が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目にバーミヤンの大仏を破壊した。大仏は6世紀頃に造立された、非常に文化的価値の高いものであった。この破壊は、当然のことながら諸外国(非イスラム諸国)から強い批判を受けたが、イスラム諸国からの批判も受けることになり、ターリバーン政権は孤立状態にあった。", "title": "前史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。12日、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、ドナルド・ラムズフェルド国防長官はウサーマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回国連総会でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し、国際連合安全保障理事会でも国際連合安全保障理事会決議1368が採択された。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日にNATOが創設以来初めての北大西洋条約第5条の集団防衛条項による集団的自衛権の発動を決定する根拠となった。(#開戦の正当性に対する論議)。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この後米国はターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーン政権はビン=ラーディン及びアルカーイダが犯人である証拠を提示するよう求め、引き渡しに応じなかった。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "9月14日、オーストラリアも太平洋安全保障条約第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した。9月15日、米国のコリン・パウエル国務長官はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、湾岸協力会議を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。ターリバーンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、イランのモハンマド・ハータミー大統領はテロを非難したが、アラブ連盟やイスラム諸国会議機構と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "9月18日、アメリカ合衆国議会でテロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "9月28日、国際組織法で初の「立法行為」とされる国際連合安全保障理事会決議1373が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として厳罰化や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には国際連合安全保障理事会決議1377ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "米国はこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有志連合諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした。有志連合諸国は不朽の自由作戦という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "米国はイギリス・フランス・カナダ・ドイツ等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。これは国際連合憲章に定められた国連軍ではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛権の発動によるという論理であった。この論理は米州機構、EU、そして日本を含む同盟国と法学者に広く認められた。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり、議論が発生している。また、これらは後のテロ対策特別措置法や自衛隊インド洋派遣をめぐる国会論議でも取り上げられている。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』に沿った争点の整理を行う。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。この場合、ターリバーン政権に攻撃を行うのは正当かという問題がある。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。", "title": "開戦までの経緯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件は不意打ちだった為、米軍はアフガニスタンで戦争を行うプランを持っていなかった。急きょ作戦が立てられ、アフガニスタンのムジャーヒディーン軍閥にアルカーイダやターリバーンを攻撃させること、レーザー目標指示装置を装備した特殊部隊を派遣して空爆を支援させることなどが決まった。アメリカ合衆国政府はこの作戦を対テロ戦争の一環と位置づけ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦であると主張し、作戦名を不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と名付けた。なお英国では「ヘリック作戦」 (Operation Herrick)と呼んでいる。米国は同時多発テロの前からウズベキスタンの空軍基地で無人偵察機を運用していたので、無人偵察機にミサイルを積んで攻撃機としても使えるようにした。10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、アメリカ合衆国とイギリスを始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。米軍は米国本土やクウェート、インド洋のディエゴガルシア島、航空母艦から発着する航空機やミサイル巡洋艦を動員して、アフガニスタンに1万2000発の爆弾を投下した。米国は軍事目標だけを攻撃していると発表していたが、実際には投下した爆弾の4割は非誘導型爆弾であり民間人に多くの犠牲が出たと言われている。11月13日には北部同盟軍が首都カーブルを制圧した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "開戦当初、ターリバーンの指導者のムハンマド・オマルはカンダハールの自宅に居たので、空爆によって殺害する機会はあった。しかし米国は民間人の被害を恐れてオマルの逃亡を許した。オマルはハーミド・カルザイを通じて降伏に同意したが、米国は降伏を認めなかった。米国は数千人のターリバーンを殺害したので、ターリバーンは自然消滅すると考えていた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アルカイーダのアラブ人やチェチェン人、ウズベク人やアフリカ人などの外国人兵士はカーブルが陥落すると都市部を放棄して、対ソ戦時代に建設されたパキスタン国境の地下要塞トラボラに立てこもった(トラボラの戦い)。対ソ戦時代、ソ連軍は爆撃で地下要塞を破壊しようとしたが上手くいかなかった。米軍も同様に爆撃を行ったが地下要塞を破壊することは出来なかった。トラボラ周辺の国境地帯は広大だったが、2000~3000人の米軍が包囲すればビンラディンを捕らえることが出来たと考えられている。しかし米軍は派遣できる部隊が存在していたにもかかわらずリスクを恐れてトラボラ周辺に部隊を派遣しなかった。代わりに派遣されたアフガニスタン軍閥の戦意は低く、パキスタン軍はヘリコプターが揃わないため十分に兵力を展開することが出来なかった。ビンラディンは死を覚悟していたが、国境を越えてパキスタンに脱出することが出来た。米国のブッシュ政権は最小限の被害でターリバーン政権を崩壊させたことに満足し、戦後の国家建設や平和維持には興味を示さなかった。アフガニスタンの国家建設や平和維持は国連に託された。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2001年11月、ドイツのボン近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった。これにより暫定政府の成立、ロヤ・ジルガの招集、国際治安支援部隊 (ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション (UNAMA)の設立が合意され、翌日国連安全保障理事会において承認された(国際連合安全保障理事会決議1383)。これをボン合意といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "同月、国際連合安全保障理事会決議1378が採択され、国際連合安全保障理事会はターリバーンを非難し、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒を支持した。また、その後の国内外の軍事行動は1510、1386、1746等複数の決議によって承認されており、国連アフガニスタン支援ミッション等と連携して行われている。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "12月、ISAFは国際連合安全保障理事会決議1386、UNAMAは国際連合安全保障理事会決議1401によって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府にタジク人が多かったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2001年12月22日にはハーミド・カルザイを議長とする暫定政府、アフガニスタン暫定行政機構が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。同月、テロ対策特別措置法に基づいて日本の海上自衛隊が海上阻止行動に参加し、2010年までインド洋で給油活動を行った(自衛隊インド洋派遣)。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2002年1月、アルカーイダには数百人から2000人ほどの兵力があり、パクティーカー州の都市ガルデーズ付近のシャーヒーコート渓谷に潜伏していた。シャーヒーコート渓谷にはハッカーニ・ネットワークの基地があり、主にウズベキスタン・イスラム運動の兵士が立てこもっていた。3月、米軍は「アナコンダ作戦」を行い、シャーヒーコート渓谷を掃討した。この作戦で米軍は150人~800人ほどのアルカーイダを殺害したと考えられているが、米軍の損害も比較的多かった。生き残ったアルカーイダの兵士はパキスタンの連邦直轄部族地域に撤退した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "米国のブッシュ政権はアフガニスタンに深入りすることを恐れて、少数の部隊(5200人)しか派遣していなかった。ブッシュ政権はアフガニスタンの国家建設も各国の分担で行うことを主張し、アフガニスタン軍の再建は米国、警察の再建はドイツ、司法の再建はイタリア、麻薬取り締まりはイギリスに任せて、国連に統括させた。6月11日から8日間、カーブルにおいて緊急ロヤ・ジルガが開催された。会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とするアフガニスタン・イスラム移行政府が成立した。ブッシュ政権はターリバーンは打倒されたと考えており、今後は敗残兵の掃討を行えばよいと考えていた。米国のアフガニスタンに対する予算は極めて少なく、援助を期待していた地方住民は失望した。また少ない予算の中から学校の建設が行われたが、アフガニスタンの特に田舎では女学校の建設は社会の急進的な変化や欧米の価値観の押し付けとみなされ、一部の住民が反発した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "パキスタンではムッラー・ダードゥッラーなどのターリバーンの幹部がクエッタ郊外で公然と暮らしており、結婚式に州の幹部や軍人を招くほどだった。米国はいずれ撤退するとターリバーンや周辺諸国は考えており足元を見ていた。ターリバーンはパキスタンから近隣のカンダハールに出撃して迫撃砲で攻撃し、「夜の手紙」(シャブナーマ)を使って住民を脅迫し支配下に組み入れた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2003年、アフガニスタンで戦闘は続いていたが、ブッシュ政権はアフガニスタンについてほとんど何も考えていなかった。特にラムズフェルド国防長官は戦争は終結したと公言しており、コソボ紛争を教訓に外国軍の長期的な駐留を避けようとしていた。米軍もイラクで次の戦争を始めようとしていた(イラク戦争)。8月11日、国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権がNATOに委譲された。10月13日の国際連合安全保障理事会決議1510においてISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大され、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。また武装解除・動員解除・社会復帰が行われ、アフガニスタン北部では伊勢崎賢治などが中心となり軍閥から武器を取り上げた。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "パキスタンは米国同時多発テロ事件の後、米国政府から「空爆して石器時代に戻す」と脅迫され、米国に協力していた。しかしパキスタンは19世紀のグレート・ゲームや20世紀のインド・パキスタン分離独立などの結果、パンジャーブ人やパシュトゥーン人などの複数の民族が相互不干渉の微妙なバランスの下で1つの国家を形成しているだけで、パンジャーブ人が主体となる中央政府がパシュトゥーン人の領域(連邦直轄部族地域)を支配している訳ではなかった。大英帝国の時代から連邦直轄部族地域(FATA)はパシュトゥーン部族の自治が認められており、中央政府の法律は現在でも及んでいない。また中央政府の軍隊が連邦直轄部族地域に入ったことも無かった。パキスタンは建国後も苦難の歴史が続き、印パ戦争で3回インドに敗北し、東パキスタン(バングラデシュ)を失い、現在もカシミール地方をいつ失うか分からない状態が続いている。インド軍はパキスタン軍の2倍の戦力を誇りパキスタンは通常戦力では歯が立たない為、軍統合情報局(ISI)がターリバーンやカシミール過激派を養成して、インド軍に対してゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けることを黙認している。またパキスタンは国家統一を図り、インドのヒンドゥー・ナショナリズムに対抗するためにイスラム化を進めたので、パキスタン国民の大半はオサマ・ビン・ラディンを英雄だと思っていた。パキスタンが国内でターリバーンやアルカーイダを取り締まることは困難であり、また将来の印パ戦争やカシミール紛争に向けてターリバーンを取り締まりすぎることは国益に合致しない。米国に対する協力は国内の反発を生み、2003年12月にカシミール過激派がムシャラフ大統領の暗殺未遂事件を起こした。パキスタン政府は重い腰を上げ、建国以来初めて南ワジリスタンに軍を派遣した(ワジリスタン紛争)。しかしパキスタンは国内のターリバーンの存在は否認しており、米軍の無人攻撃機や特殊部隊もクエッタなどの大都市には手を出せないでいた。連邦直轄部族地域の国境警備は現地採用の辺境部隊が担当しているが、辺境部隊の兵士はターリバーンと同じ民族であり思想的にも近いため、取り締まりには非協力的でありターリバーンの越境時に援護射撃を行う場合すらあった。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて憲法制定ロヤ・ジルガが開催された。これによりアフガニスタン憲法が成立し、2004年1月26日から施行された。10月9日にはアフガニスタン全土およびイラン・パキスタンを投票地域とする大統領選挙が行われ、カルザイが55.4%の票を獲得。アフガニスタン・イスラム共和国初代大統領に選出された。カルザイは12月に大統領に就任し、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。しかし地方の政治は軍閥に委ねられており、住民サービスを行うどころか住民に対して州知事がゆすり集りを行い、敵対部族をターリバーンとみなして米軍に攻撃させていた。カルザイ大統領の異母弟のアフマド・ワリー・カルザイもカンダハール州の実力者として権勢をふるい、麻薬取引にも関わっていたと言われている。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "同年、ターリバーンの最高評議会(クエッタ・シューラ)が軍事作戦の再開に向けた文書を作成したと言う。アルカーイダはパキスタンの南ワジリスタンのワナやシカイ渓谷に拠点を持っていた。ワナはワズィール族の武装組織指導者のネーク・ムハンマドが支配していたが、米国は無人攻撃機を使って爆殺した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "同年、米国で大統領選挙が行われ、ブッシュ大統領が再選した。ブッシュ政権はパキスタンに協力を求める一方で、パキスタンの主敵であるインドと米印原子力協力について協議を行うなど政策が首尾一貫していなかった。米国はアフガニスタンの国家建設が順調に進んでいるため、ターリバーンの復活の可能性は低いと考えており、アフガニスタンの治安維持をNATO軍に任せて、イラク戦争に専念した。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "医師の中村哲と漫画家の小林よしのりによれば、アフガニスタン戦争は以下のような様子だという。米英軍の攻撃によってタリバン政権は崩壊し、民主国家とされるカルザイ政権が成立したが、中村が同国で20年間医療活動を行ってきた中では治安はタリバン政権時代よりも悪化しており現在が最悪の状態である。そもそもタリバンと一言で言っても決して特別な組織ではなく身近な街中で見かける人もタリバンの一員である場合があり、アフガニスタン人を見ただけでは見分けがつかない。とは言え表向きには「タリバン」と「反タリバン」があるのだが地下では皆繋がっており、アフガニスタン人として生活していくという共通した認識があるのだ。そのためアメリカ軍の兵士も誰が味方でだれが敵かの見分けがつかず、かつてのベトナム戦争でのゲリラ戦と同様かそれ以上に悲惨な状況になっている。ベトナム戦争の場合は米軍は少なくとも前線で戦闘を行っていたがアフガニスタンでは戦闘機やヘリコプターに乗って空中戦をしているか、基地に留まっているかのどちらかである。地上を移動すると事件が起こる危険があるため動くことができないのだ。そのため地上での任務をアフガニスタン人の請負に頼むとその請負が反乱を起こす場合があるため米軍にとっては憂鬱である。例えば以前には米軍の傭兵が日当とライフル銃を受け取り、その仕事の帰りに米兵を狙撃したことまであったという。", "title": "開戦" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2005年9月18日、下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2005年後半からターリバーンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起した。このターリバーンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。当時、ISAF側はターリバーンの攻撃増加はターリバーンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた。しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの自爆テロを行なってきたアル・カーイダの影響を指摘する声もある。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "同年、パキスタン軍は南ワジリスタンで和平を結び、北ワジリスタンに進軍した。一方、軍統合情報局(ISI)はサウジアラビアの支援を受けて、ターリバーンに対する支援を積極化させたと言う意見がある。軍統合情報局は2万5千人の職員を擁し、秘密工作を行うS局など様々な部門があり統制が取れていなかった。米国はビンラディンの探索を続けていたが難航していた。米国は連邦直轄部族地域にターリバーンやアルカーイダが潜伏してアフガニスタンを攻撃していることを理解していたが、核兵器保有国のパキスタンに対する遠慮があり越境攻撃をためらっていた。また住民の協力も得られないため攻撃を強行しても成果が出なかった。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ターリバーンやアルカーイダは「アッ=サハーブ」や「トラボラ」などのウェブサイトやネットマガジンを使って宣伝戦を積極的に行っており、イギリス在住のパキスタン人などがテロを行っていた(ロンドン同時爆破事件)。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2006年、アフガニスタン南部に国際治安支援部隊(ISAF)が展開し、「マウント・スラスト作戦」を実施した。イギリス軍は手付かずだったヘルマンド州に展開したが、ターリバーンに包囲されて苦戦した。カンダハール州ではターリバーンが攻勢に転じてカナダ軍に塹壕戦を挑んだが、カナダ軍に撃退された(マウント・スラスト作戦、メデューサ作戦)。ウルーズガーン州ではオーストラリア国防軍がパース作戦を実行した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・アフタル・ウスマーニを殺害するなどの戦果を挙げたものの、アフガニスタンの治安は大幅に悪化し、アフガニスタンにおける治安事件の数は2003年の10倍に達した。またアヘンの収穫量が急増し、国連薬物犯罪事務所 (UNODC) が警告を発した。アヘンの大半はヘルマンド州で生産されており、ターリバーンの資金源となっていると言う。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという意見もある。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "同年、パキスタンではパキスタンの特殊部隊がハッカーニ・ネットワークの複数の拠点を攻撃したことに地元武装勢力が反発したことなどにより、パキスタン軍の被害が増大した。ハッカーニ・ネットワークは北ワジリスタンのミランシャー郊外のダンデ・ダルパヘイルにある大規模な神学校を拠点にしている。パキスタン軍は北西辺境州のオークラザイ知事の提案で、ワジリスタンの部族長やターリバーン、外国人戦闘員と和平協定を結んだ(ワジリスタン和平合意)。パキスタン軍は連邦直轄部族地域から撤退したので、ターリバーンはアフガニスタンに自由に越境できるようになった。パキスタン政府は数千人の戦闘員を擁し政府に対して好戦的なマスード族に対抗するために、ワズィール族と手を結ぼうとしていた。一方、パキスタンの軍統合情報局(ISI)はISAFの展開は米軍撤退の兆しであると考え、米国撤退後のターリバーン政権の樹立について真剣に考えていたという意見がある。米国では中間選挙で民主党が勝利し、アフガニスタンに対する予算がようやく増加した。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2007年、アフガニスタンでは自爆テロや無差別爆撃によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出ていた。ターリバーンはカーブルで自爆テロを開始した。歩兵戦も続き、国際治安支援部隊(ISAF)はアフガニスタン南部でクリプトナイト作戦(ヘルマンド州)やフーバー作戦(カンダハール州)などを行った。またウルーズガーン州ではターリバーンが攻勢に出てオランダ軍と戦闘を行った(チョーラの戦い)。アフガニスタン北部ではドイツ軍などがハレカテ・ヨロ作戦を実施した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・オバイドゥラー・アクンドを拘束し、ムラー・ダードゥラーを殺害するなどの戦果を挙げたがターリバーンの勢いは衰えなかった。ガズニー州ではターリバーンの力が州都のすぐそばの幹線道路にまで及んでおり、州内の3分の2の郡では職場放棄が起き、郡裁判所などが業務を停止していた。アフガニスタン大統領のハーミド・カルザイはターリバーンに和平を提案したが、ターリバーンは外国軍の存在を理由に拒絶した。ターリバーンは外国人を敵視しており2007年ターリバーン韓国人拉致事件が起きた。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "パキスタンではラール・マスジッド籠城事件が起き、ワジリスタン和平合意が破れ戦闘が再開した。米国は権力を失いつつあるムシャラフ大統領に代わってブット元首相を再登板させようと考えたが選挙中に爆殺された。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "9月、ISAFの活動期限延長を主題とし、不朽の自由作戦 (OEF)に対する謝意が前文に盛り込まれた国際連合安全保障理事会決議1776が採択されたが、ロシアが棄権にまわった。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2008年、アフガニスタン北部では雨不足による穀物の不作により出稼ぎや難民が発生した。アフガニスタン南部ではGarmsirの戦い(カンダハール州)、Eagle's Summit作戦(ヘルマンド州)などが行われた。ウルズガーン州ではヘルト・ウィルダースの製作した反イスラム的な短編映画に対する報復と称してターリバーンがオランダ軍にIED攻撃や自爆攻撃、待ち伏せ攻撃を行った(Khaz Oruzganの戦い)。アフガニスタン東部のワナトの戦いなどの結果、米軍の戦死者は155人に及び(3割増)、NATO軍の戦死者も増加した。アフガニスタンにはNATO軍を主力とする39か国5万5千人の部隊が展開していたが、統一した指揮がなく各部隊がバラバラに戦っていた。ターリバーンは効果の薄い自爆攻撃や空爆を招く大規模な歩兵戦を避けて、即席爆発装置(IED)による攻撃を増加させた。ターリバーンはアルカーイダやパキスタン軍の訓練によって練度を上げ、迫撃砲の命中精度を向上させた。またアフガニスタン政府の支配が地方まで及ばないため、ターリバーンがもめごとの仲裁などの住民サービスを行って住民の心をつかんだ。ターリバーンと同じようにNPOやNGOがアフガニスタン政府に代わって住民サービスを担ったが、ターリバーンはNPOを攻撃しアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べた。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から240キロのスワート地区を占領した。軍統合情報局(ISI)が後援するカシミール過激派はインドとの戦いを続けていた(ムンバイ同時多発テロ)。アルカーイダは連邦直轄部族地域でパキスタン・ターリバーンとも連携を取り、両国のターリバーンと行動を共にするようになった。米軍は無人攻撃機や特殊部隊を使って連邦直轄部族地域のアルカーイダを攻撃したが、アルカーイダもイスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件などで反撃した。また無人攻撃機の活用により民間人の被害が急増した。事態は緊迫し、もはや単なるテロ対策ではなく反乱鎮圧を真剣に行う必要があると米国も認めざるを得なかった。一方、イラクでは戦争がようやく落ち着きつつあった。アメリカ大統領選挙ではオバマ候補がアフガニスタンへの関与を拡大する考えを示し、米軍も新大統領の下で増派を行う決意を固めた。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2008年9月20日、OEF参加諸国、海上阻止行動への謝意を前文に盛り込んだ国際連合安全保障理事会決議1833が採択され、全会一致で採択された。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1月、アメリカ合衆国ではバラク・オバマが大統領に就任し、アフガニスタンでは二回目の大統領選挙が迫っていた。アフガニスタンでは2008年からデービッド・マキャナン将軍が正規戦によって敵兵を殺害するテロ対策を行っていた。しかし米軍はアフガニスタン東部では勝利していたものの、アフガニスタン南部で劣勢だった。米国はイラクに15万人を派兵していたが、アフガニスタンには3万8千人しか派兵していなかった。アフガニスタンにはその他にNATO軍2万9千人や現地人で構成された3千人の対テロ追撃チーム(CTPT)などが居た。2月、オバマ大統領はアフガニスタンの大統領選挙を支援するために戦闘部隊1万7000人と訓練要員4000人を派兵した。増派した海兵遠征旅団(8000人)は手薄だったヘルマンド州に配置され、ナウザドの戦いやストライク・ソード作戦が行われた。しかし、そこはケシの大生産地ではあるものの過疎地帯の「死の砂漠」であり、カンダハールのような大都市は手薄なままだった。5月、オバマ大統領はマキャナン将軍を事実上更迭して、スタンリー・マクリスタル将軍を後任に任命した。アメリカの軍部はイラクで成功した反政府活動鎮圧をアフガニスタンでも行おうとしていた。反政府活動鎮圧とはイラク駐留米軍司令官のデヴィッド・ペトレイアス将軍が考案した作戦で、「敵を殺しても戦争を終わらせることは出来ない」「住民を守り、人心を収攬し、ともに生活し、安定した有能な政府が栄えるように治安を維持しなければならない」と言う考えに基づく作戦である(対反乱作戦)。8月、マクリスタル将軍は反政府活動鎮圧を行うためにオバマ大統領に4万人の増派を要求した。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "しかしオバマ大統領は大統領選挙ではアフガニスタンに増派すべきと主張したものの、際限のない駐留や出費には反対だった。反政府活動鎮圧を行うには40~50人の住民を守るために軍人や警察官が1人必要で、理論上は米軍が10万人必要だった。また10年以上の長期的な国家建設を行い、アフガニスタンの警察や軍を40万人養成する必要があり、その場合の経費は8890億ドルに及ぶと予想された。しかしソビエト連邦はかつてアフガニスタンに10万人を派兵し、100万人のアフガニスタン人を殺害したが戦争に勝利することは出来なかった。米国政府は反政府活動鎮圧や国家建設に深入りして、アフガニスタンから撤退出来なくなることを恐れていた。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "米国の軍部はアフガニスタンに4万人を増派して、時間をかけて反政府活動鎮圧を行いターリバーンを撃滅したいと考えており、共和党もそれを支持していた。しかしオバマ大統領は短期間で迅速に軍事行動を行って撤退することが出来る出口戦略を求めていた。軍部や政権内で議論が行われ、結局オバマ大統領は本格的な反政府活動鎮圧やアフガニスタン軍の長期的な養成は行わず、一時的に3万人の増派を行ってアフガニスタンの軍や警察が治安を管理できる程度にターリバーンの戦闘能力を弱体化させ、2011年7月から撤退を始める「掃討・堅守・建設・転移」を行うと決断した。12月1日、オバマ大統領はニューヨーク州の陸軍士官学校で新戦略を発表し、残りの1万3000人を派兵した。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "米国の軍部はオバマ大統領の決断に従ったが本心では納得しておらず、不足した兵力をNATO軍の増派で補って反政府活動鎮圧を行おうとした。一方、NATO加盟国には様々な国情があり、例えばドイツでは戦争継続について国論が分裂していた。ターリバーンやイスラム聖戦連合(IJU)はドイツ軍を撤退に追い込むため、クンドゥーズ州駐留のNATO軍に数か月間攻撃を加えた。その結果、巻き添えで民間人に死傷者が出て(クンドゥーズ空爆事件)、ドイツの閣僚が辞任した。イギリスはアフガニスタンに9000人を派兵していたが、更に500人の増派を発表した。マクリスタル将軍は兵力不足に対応するために、アフガニスタン全土での反政府活動鎮圧は諦めて400郡中80郡を重点地域に指定し、ヘルマンド州やカンダハール州、カーブル周辺やパキスタン国境などで反政府活動鎮圧を行って支配地域を広げることにした。戦争は激しさを増し、2008年と比べて米兵の死者が急増した。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの大統領選挙はカルザイが再選したものの、選挙不正や汚職が酷く米国の言う事を聞かなくなっていた。パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から100~160キロにまで迫り、核兵器備蓄基地のタルベラを脅かした。パキスタン政府は連邦直轄部族地域(FATA)に14万人の軍を派遣してパキスタン・ターリバーンと戦った。パキスタン軍の戦死者は2006年以降の5年間で2300人に及んだ。この戦いの中で注目されたのがマララ・ユスフザイである。一方、パキスタンはアフガニスタン・ターリバーンに対しては複雑な態度をとっていた。パキスタン政府はアフガニスタン・ターリバーンと戦う米軍やNATO軍に対する軍需物資の通過を認め、連邦直轄部族地域に対する無人機攻撃も認めていた。一方、軍統合情報局(ISI)はハッカーニ・ネットワークやターリバーン指導部との関係を継続しており、連邦直轄部族地域は米軍やNATO軍や諜報機関が侵入できない安全地帯と化していた。アフガニスタン・ターリバーンはアフガニスタン東部や南部に2万5千人の兵力を展開し、パキスタンの連邦直轄部族地域で十分な休息を取って戦争を続けていた。", "title": "第一回大統領選挙とターリバーン復活" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "米軍やオバマ政権はターリバーン発祥の地であるカンダハール州や麻薬取引の中心地であるヘルマンド州を戦争の重心とみなしていた。2010年2月、国際治安支援部隊(ISAF)はヘルマンド州のマルージャ郡でモシュタラク作戦を行った。マクリスタル将軍はマルージャ郡にアフガニスタン政府の公務員を派遣して住民にサービスを行う移動政府を試みたがうまく行かなかった。同月、米軍はカンダハール州に精鋭部隊である第101空挺師団の第二旅団(4800人)を投入した。ターリバーンはアルガンダーブ川沿いの灌漑地帯に潜み、米軍を即席爆発装置(IED)で攻撃し、地下水路から奇襲攻撃を行ったので、米軍の損害が増大した。6月、マクリスタル将軍が兵力不足を嘆き、マクリスタル将軍の部下がバイデン副大統領などを批判したことをローリング・ストーン誌が面白おかしく報道し、マクリスタル将軍が辞任した。9月、国際治安支援部隊(ISAF)はドラゴン・ストライク作戦を実施して、ターリバーンを灌漑地帯から一掃した。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "辞任したマクリスタル将軍の後任には、反政府活動鎮圧理論の考案者であるペトレイアス将軍が就任した。ペトレイアス将軍は統合特殊作戦コマンドによる夜間襲撃を前年の5倍に増やし、365人のターリバーン指揮官を殺害し、1400人のターリバーンを捕虜にした。また国際治安支援部隊(ISAF)は重点地域を96郡に増やしてターリバーンを攻撃した。しかし戦況に劇的な変化は生じなかった。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "10月、北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議がリスボンで開かれ、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への段階的な治安維持権限の移譲(撤退)が決まった。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "パキスタンでは連邦直轄部族地域(FATA)がタイムズスクエア爆破未遂事件(5月)のような米国本土に対するテロ攻撃の温床になっていた。CIAは連邦直轄部族地域に対して無人攻撃機で122回の攻撃を行い、アフガニスタン人で構成された対テロ追撃チーム(CTPT)を越境させた。9月、米軍の攻撃ヘリコプターがパキスタンに領空侵犯し、パキスタン軍の検問所と交戦した。パキスタンは抗議のためトールハムを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した。ハッカーニ・ネットワークもクエッタなどでNATOの燃料輸送車を攻撃した。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国のオバマ大統領は2009年の増派の際、2011年7月から撤退を始めると決めていた。撤退開始が間近に迫った5月、米軍の特殊部隊がパキスタンの首都イスラマバード郊外のアボタバードにあった邸宅を急襲し、 ウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。一方、「掃討・堅守・建設・転移」戦略の進展は思わしくなかった。ターリバーンは米軍と互角の戦いを行い、カルザイ政権の汚職は改善せず、アフガニスタン軍の規模拡大も計画通りには進まなかった。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "7月、カンダハールから米軍とカナダ軍が撤退を開始した。同月、カンダハールの実力者アフマド・ワリー・カルザイが暗殺された。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "パキスタンでは米軍が前線基地を設置するために米軍の関係者285人を非公式に活動させていたが臨時職員のモラルは低く、1月にレイモンド・デイビス事件が起きた。11月、NATO軍が再びパキスタン軍と交戦・誤爆したので、パキスタンはトールハムを一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2012年7月、「アフガニスタンに関する東京会合」が開催された。アフガニスタン治安軍の年間予算(41億ドル)の負担割合(米国24億ドル、欧州12億ドル、アフガニスタン政府5億ドル)などが決まった。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了した。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同年11月、米軍はパキスタン・ターリバーンの指導者ハキームッラー・マフスードを空爆し殺害した。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2014年12月、国際治安支援部隊(ISAF)及び「不朽の自由作戦」が終了し、最盛期には約13万人にも及んだ外国軍の多くが国外に撤退した。多国籍軍は「確固たる支援任務」及び「自由の番人作戦」に移行し、治安はアフガニスタン軍や警察が独力で維持することになった。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "同年5月、トルクメニスタン軍がバードギース州ゴールマーチ郡から越境してきた武装集団に襲撃された。ウズベキスタン人やトルクメニスタン人などで構成された武装集団はISAF撤退を機に永世中立国であるトルクメニスタンからアフガニスタンを攻撃しようとしていた。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "同年4月、ジンナー国際空港に対する攻撃の報復として、パキスタン軍が北ワジリスタンを攻撃した(Zarb-e-Azb作戦)。12月、パキスタン・ターリバーンは軍が運営する学校を襲撃し、140人以上の生徒を殺害した(2014年ペシャーワル学校襲撃事件)。", "title": "第二回大統領選挙後" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2015年、イスラム国はパリ同時多発テロ事件などを起こし、世界に活動の輪を広げていた。1月、ターリバーンの一部がイスラム国に寝返って「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言した。5月、アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意した。7月、パキスタンの仲介でアフガニスタン政府とターリバーンとの間で公式の和平協議が行われ、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルが声明を発表した。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は中断した。ターリバーンの内部で抗争が勃発し、武力衝突が起きた。その後、ターリバーンの最高指導者にアフタル・ムハンマド・マンスールが就任した。一方、ウズベキスタン・イスラム運動の指導者であるウスマン・ガーズィ(英語版)はイスラム国に寝返ったが、ターリバーンに攻められて死亡した。9月、ターリバーンはアフガニスタン第六の都市クンドゥーズを短期的に占領した(クンドゥーズの戦い)。10月、衝撃を受けたアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は米軍の完全撤退を断念した。同年、多くのアフガン難民が欧州に避難しようとして、2015年欧州難民危機の一因になった。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2016年3月、ターリバーンの内部抗争が勃発し、ヘラート州で150人が死亡する大規模な戦闘が行われた。5月、アメリカ合衆国はターリバーンの最高指導者アフタル・ムハンマド・マンスールを殺害した。一説によるとアフタルは和平協議には否定的だったと言う。後任の最高指導者にはハイバトゥラー・アクンザダが就任した。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2017年10月、イスラム国の首都ラッカが陥落した。アフガニスタンでもイスラム国の最高指導者が米軍による空爆で死亡し、後継者争いにより組織が2つに割れ、ムアウィア・ウズベキスタ派がアフガニスタン北部に移動した。同月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍に増加した。特にウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)は大半をターリバーンに支配されていた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は状況の悪化を防ぐために増派を決定した。一説によると2017年以降、空爆による民間人の死者が急増し、2019年には2016年の3倍(700人)に達したと言う。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "12月、約200人のイスラム国の部隊がジョウズジャーン州ダルザーブ郡(Darzab)を支配下に置き、基地を建設していた。部隊にはシリアから逃げてきたアルジェリア人やフランス人なども居た。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2018年2月、米軍はジョウズジャーン州のイスラム国部隊をB52で爆撃し、特殊部隊で急襲して現地司令官を殺害した。ターリバーンもイスラム国と交戦し、大打撃を受けたイスラム国の部隊は8月にアフガニスタン政府に投降した。投降したイスラム国の部隊は約250人でフランス人の他にインドネシア人やウズベキスタン人やタジキスタン人、パキスタン人なども加わっており、女性や子供の戦闘員も居た。一方、イスラム国は戦闘員にアフガニスタンへの入国を呼び掛けており、アフガニスタン北部に潜伏中の戦闘員は5000人に達するという説があった。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "8月、バードギース州ゴールマーチ郡のチャイニーズ・キャンプ基地が1000人のターリバーンに包囲され、孤立無援で陥落した。基地には106人の守備隊が居たが、アフガニスタン軍はガズニ州の攻防戦やジョウズジャーン州のイスラム国部隊の降伏などに忙殺されてヘリコプターが足りず、ゴールマーチ郡まで支援の手が回らなかった。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "同年5月、パキスタンは連邦直轄部族地域を廃止し、カイバル・パクトゥンクワ州に併合した。国連によると連邦直轄部族地域に対する軍事作戦により、アルカーイダ系の武装集団がアフガニスタンに退避した。2018年現在アフガニスタンには1万人~1万5000人の外国人戦闘員が居り、そのうちアルカーイダは265人~400人だった。アルカーイダはターリバーンの保護の下でザーブル州に訓練基地を設けており、ウサマ・ビン・ラディンの息子ハムザ・ビン・ラーディンに統率されている部隊もあった。同年6月、米軍はパキスタン・ターリバーンの指導者マウラナ・ファズルッラーをアフガニスタン領内で空爆し殺害した。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "国連によるとターリバーンの戦闘員は5万5000人〜8万5000人であり、非戦闘員を含めると総兵力は10万人に達する。2019年3月、ファーリヤーブ州では州都マイーマナをはじめ州内の大半の郡がターリバーンに包囲され、アフガニスタン軍に多数の戦死者が出た。ガニー大統領によると2014年から5年間で4万5000人以上のアフガニスタン治安部隊員が殺害された。8月、ハムザ・ビン・ラーディンの死亡が発表された。9月、四回目の大統領選挙が行われた。同月、米軍とアフガニスタン軍はヘルマンド州でインド亜大陸のアルカーイダ(AQIS)の指導者のアシム・ウマルを殺害した。国連によるとアフガニスタン国内のアルカーイダは400人〜600人であり、ターリバーンの保護下でヘルマンド州など12州で活動していた。アルカーイダはターリバーンと頻繁に会合を持ち、作戦計画や訓練について話し合っている。またアルカーイダはハッカーニ・ネットワークに資金や訓練を提供して共同で2000人の部隊を編成し前線に送り出した。ウマルの死後、アルカーイダはターリバーンの最高指導者の指示でアフガニスタン東部に移動したと言う。12月、ナンガルハル州でNPO活動を行っていた中村哲 (医師)が殺害された。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "同年2月、インドは2019年プルワマ襲撃事件の報復のために、パキスタン領内のカシミール過激派の拠点を爆撃した(バーラーコート空爆)。8月、インドはパキスタンのテロを防ぐためにジャンムー・カシミール州の自治権を廃止・はく奪し直轄領化した(ジャンムー・カシミール連邦直轄領)。", "title": "第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2月29日、アメリカ合衆国とターリバーンの間で和平合意が成立した(ドーハ合意)。アメリカ合衆国は135日以内に駐留軍を縮小し、14ヶ月後の2021年4月末までにNATO軍と共に完全撤退すること、ターリバーンがアルカーイダなどを取り締まりアフガニスタンをテロの拠点にしないことが決まった。また合意にはアフガニスタン政府が5000人、ターリバーンが1000人の捕虜を解放することも盛り込まれた。しかし和平合意に参加していないアフガニスタン政府は5000人の解放に同意せず、1500人の解放しか認めなかった。アフガニスタン政府の関与なしに結んだこの合意は、専門家に「史上最も不名誉な外交交渉の一つ 」と呼ばれた。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "3月、ガニー大統領が再選し大統領就任を宣言したが、対立候補のアブドラ行政長官は納得せず、混乱が続いた。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "4月、アフガニスタン政府は合計300人の捕虜を解放したが、ターリバーンは納得せずアフガニスタン政府との交渉を打ち切った。また交渉中も戦闘は継続しており、ターリバーンは3月から4月中旬までに2804回の攻撃を行い、789人の民間人が死傷した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "5月、ガニー大統領とアブドラ行政長官の交渉が成立し、再び両者で権力を分け合うことになった。またガニー大統領はターリバーンに対してもラマダン明けのイード・アル=フィトルの停戦が実現したことを評価し、2000人の捕虜釈放を発表した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "6月、アメリカ合衆国は駐留軍縮小の約束を果たして駐留軍を1万2000人から8600人に削減し、11月までに4500人にすると発表した。ターリバーンは米軍や都市部に対する攻撃は控えているが、地方で戦闘を続けている。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "9月、アフガニスタン政府とターリバーンの初の和平交渉がカタールで開催された。アフガニスタン政府は民主主義の維持を主張したが、ターリバーンはイスラム政体樹立を要求した。一方、ターリバーンは和平協議中にもかかわらず34州中28州で攻撃をしかけた。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "10月、ヘルマンド州では州都周辺の複数の検問所やカンダハール州に向かう基幹道路の一部がターリバーンに占領され、変電所の破壊により大規模な停電が発生した。州都陥落の危機に対して、米軍はターリバーンの攻撃をドーハ合意違反と断定して空爆を行い、ターリバーンを撃退した。攻撃を首謀したターリバーンの影の副知事は捕虜交換によりアフガニスタン政府から解放されたばかりだった。国連はこの攻撃をどの程度和平合意を破れば米軍が出てくるかを試すための攻撃だったと見做している。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "同月、アフガニスタン政府は即時停戦を要求したが、ターリバーンは応じずに戦闘が続いた。カーブルではイスラム国がシーア派地区の病院や学校を襲撃して子供や妊婦を殺害し、ナンガハール州の刑務所を襲撃して囚人を解放した。一説によると刑務所の襲撃者は多国籍であり、イスラム国はアフガニスタンだけでなくインドからタジキスタンまで広域に活動していると言う。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "同月、FBIが最重要指名手配していたアルカーイダのアブ・ムシン・アル・マスリーをアフガニスタン治安軍がガズニー州で殺害した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "11月、ターリバーンの攻撃が続く中でトランプ大統領は撤退を急いだ。アメリカ合衆国は駐留軍を2021年1月までに2500人にすると発表し、一方的に1年間で約1万人の兵力を削減した。なおアフガン治安軍はアフガニスタン軍が約18万7000人、警察が約11万8000人である。一方、ターリバーンの兵力は約5万8千人から10万人である。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "12月、カンダハール州ではアフガニスタン軍の一部が193もの検問所を放棄して勝手に撤退したことが問題になった。ターリバーンは過去数年に渡って検問所を重点的に攻撃し、アフガニスタン軍や警察に被害を与えてきた。そのためアフガニスタン軍や警察は防備が手薄な検問所を廃止して、防備の硬い基地に部隊を移動させる政策を取っているが、地元の反対も根強い。一方、ターリバーンは道路を占領して補給線を寸断することで、アフガニスタン軍や警察を検問所や基地から撤退させている。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "和平交渉再開後の9月以降、ターリバーンは攻撃を激化させており、例年戦闘が小康状態になる冬季も異例のペースで攻撃を続けた。また暗殺を強化しており、政府や軍・警察関係者だけでなく、NPOや医療従事者、ジャーナリスト、裁判官や検察官、知識人や著名な女性なども殺害した。またターリバーンに対して批判的な宗教学者の暗殺も行っており、国連はアフガニスタンで起きた暗殺事件の8割以上はターリバーンによるものと見做していた。結局、和平合意が成立した2020年も戦闘は続き、ターリバーンとアフガニスタン治安軍の双方に多数の死傷者が出た。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1月、アメリカ合衆国大統領にジョー・バイデンが就任した。アフガニスタンではターリバーンの攻撃が続き、民間人に多数の死傷者が出ていた。またターリバーンとアルカーイダの協力関係も続いていた。バイデン政権やアメリカ合衆国の議員団はターリバーンが和平合意を順守していないとみなし、トランプ政権による性急な撤退政策を見直すことにした。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2月、アメリカ合衆国や北大西洋条約機構(NATO)は4月末の完全撤退を断念し、撤退期限を延長した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "3月、アメリカ合衆国は駐留軍撤退後のターリバーンの勢力拡大やカーブル陥落の可能性に危機感を表し、アフガニスタン政府やターリバーンに国連やロシア、中国、インドなどの地域大国を交えた多国間による和平交渉の実施やトルコ軍などによる新たな国際平和維持活動の設立、アフガニスタン政府とターリバンによる連立政権の樹立などを勧めた。しかし一説によると連立政権についてアフガニスタン政府は難色を示していたと言う。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "同月、ターリバーンはアフガニスタン各地で攻撃を継続し、ファーリヤーブ州アルマール郡やローガル州のシャルフ郡などを占領した。またバードギース州ムルガーブ郡はアフガニスタン軍の撤退により、ターリバーンの手に落ちた。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "4月、アメリカ合衆国は9月11日までに駐留軍を完全撤退すると発表した。しかし米国の軍部は撤退後の情勢について不安を表明している。同月、トルコで和平会議が予定されていたが、ターリバーンの参加拒絶により5月以降に延期になった。一説によるとターリバーンは民主主義に反対しており、女性の人権についてもシャリーアで十分と考えている。ターリバーンはイスラム教に基づく中央集権国家を望んでおり、民主政府との連合政権には否定的であり、細部は無視するように求めている。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "6月、国連によると5割〜7割の州都で周辺部の郡を巡ってターリバーンとアフガニスタン政府軍が戦闘を行っており、州都周辺の一部の郡はターリバーンが占領している。また郡庁所在地の約6割(57%)はターリバーンに占領されている。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ターリバーンは幹線道路や国境検問所・税関を手中に収めるためにバダフシャーン州やバグラーン州、クンドゥーズ州やタハール州、ジョズジャーン州などアフガニスタン北部に兵力を移動させた。ターリバーンによる北部道路網の支配は2001年以降最大レベルに達しており、ターリバーンは高速道路に検問所を設置して、アフガニスタン治安軍や政府関係者の移動を妨害し、通行税の徴収や麻薬や鉱物資源の輸出を行っている。また一説によると2020年の戦闘により予め州都周辺に対する軍事的なプレッシャーを強めてあるため、外国軍が撤退して対応できなくなる頃を見計らって軍事作戦を行うつもりだと言う。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "6月1日から6月11日の間に、327人のアフガニスタン治安部隊が戦死し、民間人82人が戦闘に巻き込まれ死亡した。また、同じ期間に少なくとも11の郡がターリバーンに陥った。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "6月16日、ファーリヤーブ州ダウラターバード郡に進出したアフガニスタン軍コマンド部隊がターリバーンに包囲され壊滅、隊員のうち少なくとも24人が戦死した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "6月18日、ターリバーンはクンドゥーズ州の州都近郊に部隊を集結させたが、結局攻撃は行わなかった。6月22日、クンドゥーズ州の他にバグラーン州やサーレポル州、ファーリヤーブ州は州都近郊までターリバーンが迫っていた。米軍は人口が10万人を超えるバグラーン州の州都プレフムリーやクンドゥーズ州の州都クンドゥーズに対しては支援を行っているようである。6月25日、バイデン大統領とガニ大統領の会談に合わせて、米軍はバグラーン州やクンドゥーズ州でドローンによる空爆を行った。また一説によると、ターリバーンは米軍を刺激しないように州都など都市部への攻撃を自粛していると言う。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "6月19日、ガーニ大統領は国防大臣代行にビスミッラー・ハーン・モハンマディを任命した。前任者のアサデュッーラ・カリード大臣は長期間不在だった。同月、陸軍の参謀総長にワリー・アフマドザイ将軍(Wali Ahmadzai)が任命されたが、下院の国内治安委員会によるとターリバーンと戦うより報復人事に夢中になっていると言う。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "6月23日、ターリバーンはジョウズジャーン州アンドホイ郡を占領した。25日にアフガニスタン軍は同郡に進出し奪還を宣言したものの、翌26日には1000人以上のターリバーン戦闘員が現れ、激しい戦闘や空爆でバザールや家屋が破壊されたのち、再びターリバーン側に陥落した。一説によるとアフガニスタン軍は農村部に対する増派が遅れていると言う。またターリバーンは兵力や他の地域への進軍を誇張して宣伝するため、ターリバーンに包囲された部隊が動揺して撤退してしまうと言う。ターリバーンは動画ニュースを作成し、アフガニスタン軍が逃げたと言う主張を広めている。またターリバーンは6月1日から23日までに戦車8台、迫撃砲や重砲56機を鹵獲したと主張しており、米軍のドローンが鹵獲された重火器を破壊して回っている。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "7月3日、バグラム空軍基地から米軍とNATO軍の全ての部隊が撤退した。7月8日、アメリカ合衆国のバイデン大統領は撤退期限を前倒しして8月末までに米軍の撤退が完了すると発表した。またドイツ軍やイタリア軍、ポーランド軍は6月末までにアフガニスタンから撤退している。一方、トルコ軍は撤退せず、カーブルのハーミド・カルザイ国際空港を警備している為、ターリバーンは反発している。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ターリバーンの攻勢は続いており、「中東かわら版」によると5月から7月の約2ヶ月間に407郡中114郡を陥落させたと言う。アフガニスタン軍が奪還した郡もあるため、全てがターリバーンの支配地になったとは言えないが、バダフシャーン州(28郡中26郡)やタハール州のように州都以外は全てターリバーンに占領されている州も存在する。ターリバーンは国境の通関を重点的に占領しており、6月から7月の間にタジキスタン国境のシルハンバンダル、イラン国境のイスラム・カラ、トルクメニスタン国境のトルグンディ、パキスタン国境のスピンボルダックがターリバーンの手に落ちた。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "アフガニスタン軍はバダフシャーン州やタハール州で大敗を喫しており、タジキスタン政府によると、アフガニスタンからタジキスタンに敗走したアフガニスタン兵は2週間で1600人に及んでいると言う。タジキスタンは国境防衛のために2万人の予備役兵を動員すると共に、集団安全保障条約を通じてロシアに援助を求めた。ロシアは要請に応じてタジキスタン内のロシア軍基地の使用準備を開始した。7月9日、上海協力機構と欧州安全保障協力機構の合同会議はアフガニスタン北部で様々なテロリストや過激派グループの存在感が急激に増しており、アフガニスタン政府と連携して国境地帯の脅威の封じ込めや麻薬の製造・通過に対する実質的な対策を行うとした。またアタ・モハマド・ヌールやラシッド・ドスタムなどの北部軍閥がアフガニスタン政府の要請に応じて数千人の民兵を動員した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "7月上旬、ターリバーンはガズニー州やカンダハール州の州都を激しく攻撃した。7月7日、ターリバーンはバードギース州の州都を攻撃した。しかしアフガニスタン軍や民兵が反撃し、7月16日に停戦した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "7月17日、ターリバーンとパキスタン当局はスピンボルダックの国境封鎖を解除した。アフガニスタンのアムルッラー・サレー第一副首相は、パキスタン空軍がスピンボルダックのターリバーンを警護しているとしてパキスタンを非難した。またガーニ大統領は推定によると先月パキスタンなどから1万人以上のジハード戦士がアフガニスタンに侵入したとしてパキスタンを非難した。7月21日、アフガニスタンの駐パキスタン大使の娘が拉致される事件が発生し、アフガニスタンとパキスタンの関係がさらに悪化した。", "title": "和平合意成立と戦闘の激化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "7月17日と7月18日、イード・アル=アドハー(犠牲祭)を前にアフガニスタン政府とターリバーンの和平協議がドーハで行われた。アフガニスタン政府は従来にない高位の要人を交渉団に参加させて、ターリバーンを説得しようとした。7月18日、ターリバーンの指導者のハイバトゥラー・アクンザダは真剣に和平交渉を行っていると述べ、イスラム体制の確立・平和・治安の構築、世界との良好かつ強固な外交的・経済的・政治的な関係の構築、他国の治安を脅かす者に対する領土の使用禁止、内政不干渉による独立、大使館・外国組織・投資家の保護、イスラム教と国益の範囲内でのジャーナリズムの自由を約束した。しかし結局、2021年はイード・アル=アドハーの停戦が実現しなかった。ガーニ大統領によるとアフガニスタン政府はターリバーンの要求に応じて5000人の捕虜を解放して来たが、ターリバーンには有意義な交渉を行う準備が無かった。ガーニ大統領は最後通牒として高位の和平交渉団を送り出したが、和平交渉団を率いるアブドラ・アブドラ議長からターリバーンには和平の意思がないという報告を受けた。今後は優先順位をつけて防衛を行い、国民の団結と断固たる態度を示して3〜6ヶ月で状況を打開すると述べた。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "7月22日、米軍のミリー統合参謀本部議長は420地区中210地区余りを反政府軍が支配しており、ターリバーンが優勢であることを認めた。しかし州都はどこも陥落しておらず、アフガニスタン軍は人口の多いカーブルや州都の防衛のために兵力調整をしており、このままターリバーンが勝利できるとは限らない。和平か敗戦か色々な可能性があり、状況を注視して対応したいと述べた。また米軍の撤退は95%完了しており、撤退後は近隣国に地域の治安評価拠点を設置し、地平線の向こう側から空爆などの軍事的・財政的な支援を行うと述べた。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "実はアメリカ国防情報局は2020年末の報告書で、ターリバーンは米軍を確実に完全撤退させるために形だけ立派な交渉団を送って和平交渉に参加しているが、譲歩や妥協をする気が無い可能性が高く、軍事的な勝利を狙っており、2021年中の停戦は無く、撤退が停滞した場合は米軍への攻撃を再開すると報告していた。バイデン大統領はアフガニスタンの将来を自己決定に委ね、アフガニスタン政府を応援することにした。一説によると今後の展開としては1) アフガニスタン政府が州都などの支配を維持する、2) アフガニスタン政府が崩壊し、ターリバーンが支配する領域とそれ以外に分裂する、3) アフガニスタン政府が長期間持ちこたえることでターリバーンが諦めて政治的に妥協するという3つの可能性があると言う。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "7月25日、ターリバーンの報道官はガーニ大統領の解任を要求した。同日、アフガニスタン政府はカーブル州、パンジシール州、ナンガハール州を除く34州中31州に夜間外出禁止令を発令した。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "8月3日、ターリバーンはヘラート州やヘルマンド州の州都を激しく攻撃している。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "8月6日、政府メディア情報センターの責任者がターリバーンによって殺害された。ターリバーンは空爆の報復として今後も政府高官のを標的にすると警告した。ターリバーンはニームルーズ州の州都を占領した。首都カーブルから直線距離で800km離れた辺境の州であるが、ターリバーンはついに州都の占領に成功した。SNSでは戦闘員が鹵獲したSUVや軍用ハンビーを運転し、地元の住民が歓迎する様子が伝えられた。国連特使は「致命的な段階」に入ったと警告し、英国及び米政府はアフガニスタンからの自国民の「退去」を勧告した。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "8月7日、ターリバーンはジョウズジャーン州の州都シェベルガーン市を占領した。シェベルガーンは人口が多く戦略上重要な都市だった。またドスタム派の中心地であり政府側民兵の働きが大いに期待されていたが、期待はずれに終わった。地元の有力者であり元将軍のラシッド・ドスタムが政府唯一の支配地区 Du Koh Districtに退避した。ターリバーンはクンドゥーズ州やタハール州、バダフシャーン州の州都も攻撃している。同日夜、米軍のB52がジョウズジャーン州やヘルマンド州の州都を爆撃した。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "8月8日、ターリバーンはクンドゥーズ州の州都を制圧した。同グループは警察本部、知事の敷地、市内の刑務所を占拠し、アフガニスタン軍が実効支配する領域は基地と空港に限られている。同日、クンドゥーズ州の東隣りにあるタハール州の州都もターリバーンに占領された。更に同日、ターリバーンはシェベルガーン市を流れるサフィード川の上流にあるサーレポル州の州都も制圧した。同日、ターリバーンはクンドゥーズ州の西隣にあり北部最大の都市であるバルフ州の州都にも迫った。ターリバーンの急速な前進はアフガニスタン軍の士気の低下と脱走を招いた。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "8月9日、アフガニスタン軍が撤退した為、ターリバーンはサマーンガン州の州都を占領した。一方、タハール州やクンドゥーズ州のアフガニスタン軍は州都やその周辺でターリバーンと戦っている。同日、ガーニ大統領はラシッド・ドスタムの提案を受け入れて民兵を統括する公衆蜂起軍統合指令センターを設立し、民兵の動員や武器の供給を行うことを発表した。内務大臣によると政府軍の敗走により道路の支配を失ったため、補給や負傷者の後送はヘリコプター頼みになっている。その上、米軍の突然の撤退により全国400箇所で戦闘が始まってしまった。アフガニスタン政府は地元の指導者に民兵の動員や戦闘の権限を移譲して、政府軍の敗走を止め、都市を取り囲む防衛線に再集結し、攻勢に転じるという三段階の作戦を考えていると言う。一方、これは2003年に日本が主導して行った武装解除・動員解除・社会復帰の終焉でもあった。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "8月10日、アメリカ合衆国がパキスタンに対して国境沿いのターリバーンの安全地帯を閉鎖するように依頼したので、パキスタンは通関するアフガニスタン人にパスポートやビザを要求して、スピンボルダックを閉鎖に追い込んだ。同日、ターリバーンはクンドゥーズ州の南にあるバグラーン州の州都を占領した。バグラーン州はサラン峠の北側に位置する戦略的に重要な州であり、クンドゥーズ州への増援や首都カーブルの防衛にとって大きなマイナスとなった。同日、ターリバーンはニームルーズ州の北にあるファラー州の州都も占領した。同日、アフガニスタン政府の財務大臣が辞任して出国した。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "8月11日、ターリバーンはバダフシャーン州の州都を占領した。この都市は北部同盟の本拠地だった。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "8月12日、ターリバーンはクンドゥーズ空港を占領した。同日、ガズニー州やカンダハール州やヘルマンド州やヘラート州の州都でも激しい戦闘が続いた。またバードギース州の停戦も破れた。同日、州知事が勝手に交渉して退却したため、ターリバーンはガズニー州の州都を占領した。ガズニーはカーブルの南の入口のような場所にあり、首都カーブルの防衛にとって大きなマイナスとなった。同日、アメリカ合衆国のバイデン大統領は団結して戦うように呼びかけた。しかし一説によるとアフガニスタン軍の士気は低下していると言う。8月12日、アメリカ合衆国はカーブルの大使館の縮小と撤退支援の為に3000人の増派を発表した。英国は600人の軍をカーブル空港に配備することを発表した。当局者は、展開は24〜48時間で行われ、月末までに完了すると述べた。計画はチャーター機を使用し、カーブル空港を利用して避難する。ただし、それが不可能になった場合は軍用機を使用する。英国政府によると避難は長い間計画されていたが、治安状況が急速に悪化したためタイミングが早められたと述べた。3000人の米軍に加えて、武力紛争がエスカレートした場合に備えて、さらに3500人がクウェートで待機する。カナダは、過去にカナダのスタッフと一緒に働いたアフガニスタンの家族の収容、カーブルの大使館職員を避難させるために、カナダの特殊部隊が配備されると発表した。デンマーク政府とノルウェー政府は、カーブルにある大使館が安全上の理由で閉鎖されることを発表し、彼らの外交スタッフと彼らと一緒に働いていたアフガニスタン人を避難させる計画を立てている。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "8月12日から13日にかけて、ターリバーンはヘラート州とカンダハール州の州都を占領した。ヘラートとカンダハールは人口40万人以上の大都市であり、アフガニスタンで二番目と三番目に人口が多い大都市である。大都市には軍団の司令部や空港があり、周辺の州に対する航空支援を行っている。そのため大都市が陥落すると周辺州の戦況も悪化し、ヘラート州に隣接するバードギース州、カンダハール州に隣接するヘルマンド州やザーブル州が陥落した。一説によると地元の長老が住民の被害や公共施設の破壊を避けるように政府軍やターリバーンに陳情し、それに応じて政府軍が撤退していると言う。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "8日13日、カーブル州の南に隣接するロガール州が陥落した。ターリバーンは8月6日以降の約8日間で第2位・第3位の大都市を含む34州中18州を占領し、首都カーブルの近郊まで到達した。地方の軍や国民はターリバーンに対して徹底抗戦する気がない事が分かった。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "8月14日、ターリバーンは国内第四位の大都市であるバルフ州の州都マザーリシャリーフ市を占領した。一説によるとアフガニスタン軍があっさり降伏した為、民兵も戦意を失い、アタ・モハマド・ヌールやラシッド・ドスタムは州外に逃亡した。同日、ターリバーンはナンガハール州の州都ジャララバード市を占領した。一説によると地元の長老の依頼により州政府や軍は無抵抗で市を引き渡した。ジャララバードは国内第五位の大都市であり、カイバル峠を擁する戦略上重要な都市である。ターリバーンは西部(ヘラート)・南部(カンダハール)・北部(マザーリシャリーフ)・北東部(クンドゥーズ)・東部(ジャララバード)を占領し、首都カーブルは完全に孤立した。", "title": "ターリバーンの全土攻勢" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "8月15日、ターリバーンは首都カーブルを包囲し、アフガニスタン政府は政権移譲の意思を示した。同じ日、「武力で首都を取る計画はない」との声明を出したにもかかわらずカーブルの郊外に入り、Kalakan地区、Qarabagh地区、およびPaghman地区。プル・エ・チャルキ刑務所での都市全体の停電と暴行および囚人の暴行の可能性が報告された。ボーイングCH-47チヌークとシコルスキーUH-60ブラックホークヘリコプターが避難を実行するためにカーブルのアメリカ大使館に着陸し始め、外交官が機密文書を慌ただしく処分していると報告された。", "title": "カーブル陥落" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "アフガン内務省はガニー大統領が国外に脱出したこと、ターリバーンが率いる暫定政府が樹立されることを発表した。カルザイ前大統領は交渉チームの一員となることになっていた。ターリバーンは、政権交代を待ち、無理矢理カーブルに入らないように戦闘員に命じた。治安部隊はバグラム空軍基地をターリバーンに降伏させた。空軍基地には、約5000人のターリバーンとイラクのISILの囚人が収容されている。後に、ガニー大統領がタジキスタンに去ったことが報告された。", "title": "カーブル陥落" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "事実上、政権は崩壊したものの、アフマド・マスード、アムルッラー・サーレハ(英語版)第一副大統領(英語版)を中心にパンジシール渓谷で抵抗運動が展開されている。", "title": "カーブル陥落" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "8月30日、米軍はアフガニスタンからの撤退を完了。8月31日、ジョー・バイデン大統領は国民向けの演説で戦争終結を正式に宣言。一方、ターリバーンは米国に対する勝利を宣言。20年間続いたアフガニスタン紛争はターリバーンの勝利に終わった。その後、ターリバーンに対する抗議が8月17日に始まった。抗議グループはタリバーン政府による女性の扱いに懸念を表明しており、それを差別的であると見なしている。アフガニスタンの民族レジスタンス戦線に支えられて、抗議者たちは地方分権化、多文化主義、社会正義、仕事、教育、そして食糧も要求している。", "title": "カーブル陥落" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "タリバーンは時が経つにつれて暴力の増加とともに抗議を抑制し、活動家を誘拐し始めた。この政策は最終的に抗議行動を徐々に終わらせ、カブールでの最後の抗議行動は2022年1月16日に起こった。", "title": "カーブル陥落" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "米国は撤退後も敵対姿勢は崩さず、経済制裁を行った。しかし、これはアフガン市民の生活困窮を招き、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした。薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国は人道支援を例外とした。", "title": "カーブル陥落" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "ブラウン大学の「コスト・オブ・ウォー」プロジェクトによると、2021年4月時点で、アフガニスタンでの死者は17万1,000〜17万4,000人、アフガン民間人が4万7,245人、アフガン軍・警察が6万6,000〜6万9,000人、反対派の戦闘員が少なくとも5万1,000人となっている。しかし、\"病気、食料・水・インフラへのアクセスの喪失、その他の間接的な影響 \"による死者数が不明であるため、死者数はもっと多い可能性がある。国連によると、2001年の侵攻以降、570万人以上の元難民がアフガニスタンに帰還したが、2021年現在、260万人のアフガニスタン人が難民として残っているか、主にパキスタンやイランに逃れており、さらに400万人のアフガニスタン人が国内での避難民として残っている。一方、2001年以降、アフガニスタンでは、健康、教育、女性の権利などが改善された面もある。", "title": "被害" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "アフガニスタン紛争において、数多くの重大な人権侵害が発生していることが人権団体により報告されている。戦争犯罪及び人道に対する罪を取り扱う国際刑事裁判所(ICC)も2007年から予備調査を始め、2013年に「アフガニスタンで、戦争犯罪及び人道に対する罪が過去そして今も犯されている」と結論づけている。しかし、主な対象となる米国が猛反発し、ICCに圧力をかけたことで、本調査は後回しにされている。欧米の傀儡政権であったカルザイ政権は、戦争犯罪恩赦法を施行したり、人権団体による報告書公表を阻止したりした。復権したタリバンもまた、米国と戦争犯罪を追及しない密約を結んだという報道がある。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "連合軍支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「夜襲作戦(英語版)」と呼ばれる\"ターリバーン狩り\"が行われた。深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという。当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。作戦はタリバン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した。あまりの不評にカルザイ大統領が「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領は復活を認めた。その後も、CIAから直接支援を受けていた国家保安局の01ユニットにより、マドラサで寝泊まりしていた子供らが虐殺される、医療施設が襲撃に遭い医療従事者と民間人が殺害される等の事件が発生した。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "連合軍はカピサ州の民間人の居住地域で化学兵器「白リン弾」を使用し、1発が民家に命中。その家の住民である8歳の少女が顔に大火傷を負った。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2001年、北部同盟の軍閥であるドスタム派は降伏したターリバーン旧政権軍の兵士8,000人をコンテナに閉じ込め収容所へ輸送し、結果5,000人が「行方不明」になった。行方不明者の大半は窒息死した者で、生き残った者は射殺されたと証言する者もいる。コンテナ1つに200人の捕虜が詰め込まれていた。北部同盟の将軍はアメリカ兵が捕虜に対して刺突・身体を切断する等、危害を加えていたと証言した。米国国防省並びに国務省は1,500人から2,000人がダシュテ・レイリで殺害されたことを示す文書を公開した。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "連合軍に対し軍事力で劣っていたターリバーンは、対抗手段として住民を脅迫し、連合軍に協力的な者は暗殺した。連合軍側に利するとみなした民間施設等のインフラストラクチャーに対して自爆攻撃を行うなど、ソフトターゲットを標的にテロを繰り返した。", "title": "戦争犯罪" } ]
アフガニスタン紛争とは、2001年から2021年にかけてアフガニスタンで勃発した紛争である。 この紛争、または戦争ではアメリカ軍やそれに支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争った。 結果として、一時的には米英軍と北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏し、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者で行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された。 また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興、民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した。 しかしその後、同国の治安は極端に悪化し、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され、米軍は撤退。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブルを陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した事で終結した。 この紛争は、ベトナム戦争を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった。
{{Pathnav|対テロ戦争|frame=1}} {{Battlebox | battle_name = アフガニスタン紛争 | campaign = アフガニスタン紛争 (2001年-2021年) |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:Collage of the War in Afghanistan (2001-2021).png|300 px]] | caption = 左上から右下に、ターリバーンが潜伏していると考えられるアフガニスタン東部の[[洞窟]]に[[空襲|空爆]]を行う[[アメリカ空軍]]の[[F-15E (航空機)|F-15E]][[戦闘爆撃機]]、同国東部の[[クナル州]]でターリバーンと[[銃撃戦]]を展開する[[アメリカ陸軍]]の部隊、同国東部の[[パルヴァーン州]][[:en:Ghorband District|ゴルバンド地区]]の山間部の[[谷|渓谷]]を[[偵察]]する[[アフガニスタン国陸軍|アフガニスタン新政府陸軍]]の[[兵士]]、[[:en:Operation Tor Shezada|トル・シェザダ作戦]]中に[[CH-47 (航空機)|CH-47]]ヘリコプターに乗り込む[[イギリス陸軍]]の兵士たち、[[訓練]]任務の一環として[[ハンヴィー]]に乗って[[測量]]を行うアフガニスタン新政府軍の兵士、カーブル陥落で同国の首都カーブルを陥落させ制圧するハンヴィーに乗ったターリバーンの[[戦士]]たち。 | conflict = [[アフガニスタン紛争]]<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%B4%9B%E4%BA%89-156247 |title=アフガニスタン紛争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-10-17}}</ref>/[[対テロ戦争]]<ref>{{Cite web |url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/topics/focus.html |title=対テロ戦争の20年~米国同時多発テロ事件から「タリバン」復権に至るまでの国際テロ情勢と今後の注目動向~ |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-10-17}}</ref> | date = [[2001年]][[10月7日]]<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20020202202343/http://www2.asahi.com/international/kougeki/K2001100800081.html |title=米、アフガン攻撃開始 タリバーン軍事拠点など空爆 |publisher=[[朝日新聞]] |date=2001-10-08 |accessdate=2023-10-17}}</ref> - [[2021年]][[8月31日]]<ref>{{Cite web |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/09/c8759fbcea8797c9.html |title=バイデン米大統領、アフガニスタンでの戦争終結を宣言 |publisher=[[日本貿易振興機構]] |date=2021-09-01 |accessdate=2023-10-17}}</ref> | place = [[アフガニスタン]]全土、同国南部・東部の[[パキスタン]]との[[国境]]地帯周辺等。また、[[インド洋]]上では[[海上阻止行動]]を実施<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20070930041458/http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/terro/katsudou05_1.html |title=「テロとの闘い」等に対する各国の部隊派遣状況 |publisher=[[外務省]] |date=2007-04 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。 | result = ターリバーン側の勝利。開戦当初は米英軍や北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊し全面[[降伏]]・組織壊滅に追い込まれた<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20020221134624/http://miiref00.asahi.com/international/kougeki/K2001120702592.html |title=タリバーン全面投降、組織壊滅へ |publisher=[[朝日新聞]] |date=2001-12-12 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。またアルカーイダの指導者[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]も米軍によって発見され[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|殺害]]された<ref>{{Cite web |url=https://imidas.jp/genre/detail/D-123-0061.html |title=ビンラディン殺害 |publisher=[[イミダス]] |date=2012-03 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。そしてアフガニスタンでは[[国際連合|国連]]等の支援を受けて[[民主化]]が行われ、[[暫定政府]]が成立し新政府に移行したが、その一方で米英軍は[[国際治安支援部隊]]と名を変えて駐留・[[占領]]を続けた<ref>{{Cite web |url=https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/afghanistan/ |title=アフガニスタン |publisher=[[国際連合広報センター]] |accessdate=2023-10-17}}</ref>。しかしその後同国の治安は極端に悪化し、[[戦闘]]も終結せず泥沼化した<ref>{{Cite web |url=https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4370074/SS04-1_115.pdf |title=中村哲vs.小林よしのり |publisher=[[九州大学]] |date=2003 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。その後も一向に戦闘が収まらなかったためアメリカとターリバーンは[[ドーハ合意]]を締結し[[停戦]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56243340Z20C20A2MM8000/ |title=米とタリバン、アフガン和平合意に署名 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2020-02-29 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。米軍や[[多国籍軍]]はアフガニスタンから完全[[撤退]]した<ref>{{Cite web |url=https://www.sankei.com/article/20210831-NEA4YZQSEZNN3CNIM75DLIR5ZI/ |title=米軍、アフガン撤収を完了 20年のアフガン戦争終結 |publisher=[[産経新聞]] |date=2021-08-31 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。しかしその後も戦闘は続き、ターリバーンはアフガニスタン軍に対して[[2021年ターリバーン攻勢|大攻勢]]をかけ、最終的に同国の[[首都]][[カーブル]]を制圧し[[カーブル陥落 (2021年)|陥落]]させ、アフガニスタンは政権崩壊。ターリバーンが政権を掌握し、勝利宣言を行った<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/453271.html |title=タリバン"政権掌握" どうなるアフガニスタン |publisher=[[日本放送協会]] |date=2021-08-17 |accessdate=2023-10-17}}</ref>。 | combatant1 = {{USA}}<br/>{{GBR}}<br/>{{CAN}}<br/>{{AUS}}<br/>{{DEU}}<br/>{{FRA1976}}<br/>{{NAA}}<br/>{{AFG2004}}<br/>{{OTAN}}<br/>{{ISAF}}<br/>{{RSM}} | combatant2 = {{AFG1997}}<br/>{{Taliban}}<br/>{{Al-Qaeda}} | commander1 = {{Flagicon|USA}} [[ジョージ・W・ブッシュ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[バラク・オバマ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ドナルド・トランプ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ジョー・バイデン]]<br/>{{Flagicon|AFG2004}} [[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]<br/>{{Flagicon|AFG2004}} [[ハーミド・カルザイ]]<br/>{{Flagicon|AFG2004}} [[アシュラフ・ガニー]]<br/>{{Flagicon|AFG2004}} [[:en:Amrullah Saleh|アムルッラー・サーレハ]] | commander2 = {{Flagicon|AFG1997}} [[ムハンマド・オマル]]<br/>{{Flagicon|AFG1997}} [[アブドゥル・ガニ・バラダル]]<br/>{{Flagicon|AFG1997}} [[アフタル・ムハンマド・マンスール]]<br/>{{Flagicon|AFG1997}} [[ハイバトゥラー・アクンザダ]]<br/>{{Flagicon|Al-Qaeda}} [[ウサーマ・ビン・ラーディン]]<br/>{{Flagicon|Al-Qaeda}} [[アイマン・ザワーヒリー]] | strength1 = 開戦時<br/>[[アメリカ軍]]3,000人<ref>{{Cite web |url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2002/chu/main/ac141050.htm |title=アフガニスタンにおける軍事作戦 |publisher=[[防衛省]] |date=2002 |accessdate=2023-10-17}}</ref><br/>占領時<br/>ISAF総兵員102,052人<br/>うち米軍68,000人<br/>後に米軍30,000人増派<br/>NATO軍7,000人増派<ref>{{Cite web |url=https://imidas.jp/genre/detail/D-120-0016.html |title=国際治安支援部隊(ISAF) |publisher=[[イミダス]] |date=2013-03 |accessdate=2023-10-17}}</ref><br/>[[アフガニスタン軍]]<br/>総兵力181,000人<br/>[[アフガニスタン国陸軍|陸軍]]174,000人<br/>[[アフガニスタン国空軍|空軍]]7,000人<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html |title=アフガニスタン・イスラム共和国 |publisher=[[外務省]] |date=2021-05-14 |accessdate=2023-10-17}}</ref> | strength2 = 開戦時<br/>ターリバーン約30,000人<br/>別説50,000人-60,000人<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20011123101202/http://miiref00.asahi.com/international/kougeki/keyword/1008b.html |title=タリバーン |publisher=[[朝日新聞]] |date=2001 |accessdate=2023-10-17}}</ref><br/>アルカーイダ3,000人-5,000人前後<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20011123100439/http://miiref00.asahi.com/international/kougeki/keyword/1008a.html |title=アルカイダ |publisher=[[朝日新聞]] |date=2001 |accessdate=2023-10-17}}</ref><br/>占領時<br/>ターリバーン戦闘員58,000人-100,000人<ref>{{Cite web |url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/taliban.html |title=タリバン |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-10-17}}</ref><br/>アルカーイダ戦闘員数十-500人<ref>{{Cite web |url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/al-qaida.html |title=アルカイダ |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-10-17}}</ref> | casualties1 = アメリカ軍2,448人[[戦死]]<br/>アフガニスタン軍66,000人戦死<br/>[[民間人]]47,245人犠牲<ref name="akahata">{{Cite web |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-08-17/2021081703_03_0.html |title=アフガン政権崩壊 対テロ報復戦争の誤り鮮明に 厳しい歴史の教訓 |publisher=[[しんぶん赤旗]] |date=2021-08-17 |accessdate=2023-10-17}}</ref> | casualties2 = ターリバーン51,191人戦死{{R|"akahata"}} }} '''アフガニスタン紛争'''とは、[[2001年]]から[[2021年]]にかけて[[アフガニスタン]]で勃発した[[紛争]]である。 この紛争、または[[戦争]]では[[アメリカ軍]]やそれに支援された[[アフガニスタン・イスラム共和国]]新政府と、[[ターリバーン]]や[[アルカーイダ]]などの[[武装勢力]]が争った。 結果として、一時的には米[[イギリス軍|英軍]]と[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して[[降伏]]し<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20020221134624/http://miiref00.asahi.com/international/kougeki/K2001120702592.html |title=タリバーン全面投降、組織壊滅へ |publisher=[[朝日新聞]] |date=2001-12-12 |accessdate=2023-02-23}}</ref>、また、[[アメリカ同時多発テロ事件]]を起こした[[被疑者]]で[[行方不明]]となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|殺害]]された<ref>{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/genre/detail/D-123-0061.html |title=ビンラディン殺害 |publisher=[[イミダス]] |date=2012-03 |accessdate=2023-02-23}}</ref>。<br /> また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、[[ボン合意]]に基づき[[国際連合|国連]]主導での国づくりや[[復興]]、[[民主化]]が行われ、[[臨時政府|暫定政権]]から新政府が成立した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/afghanistan/ |title=アフガニスタン |publisher=[[国際連合広報センター]] |accessdate=2023-02-23}}</ref>。 しかしその後、同国の[[治安]]は極端に悪化し<ref>{{Cite web|和書|url=https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4370074/SS04-1_115.pdf |title=中村哲 vs.小林よしのり |publisher=[[九州大学]] |date=2003 |accessdate=2023-02-23}}</ref>、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意である[[ドーハ合意]]が締結され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2020_046.html |title=№46 アフガニスタン:ドーハ合意後の治安・軍事情勢 |publisher=[[中東調査会]] |date=2020-07-21 |accessdate=2023-02-23}}</ref>、米軍は[[撤退]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2021_056.html |title=№56 アフガニスタン:アフガニスタンからの米軍撤退が完了 |publisher=[[中東調査会]] |date=2021-08-31 |accessdate=2023-02-23}}</ref>。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都[[カーブル]]を[[カーブル陥落 (2021年)|陥落]]させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2021_050.html |title=№50 アフガニスタン:アフガニスタン政府が崩壊 |publisher=[[中東調査会]] |date=2021-08-16 |accessdate=2023-02-23}}</ref>事で終結した。 この紛争は、[[ベトナム戦争]](1955年 - 1975年)を約5か月上回り、[[アメリカの軍需経済と軍事政策|米国軍事史]]上最長の戦争となった<ref>[https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/453624.html アフガニスタン撤退 アメリカの失敗]</ref>。 == 概要 == === 要約 === 反米テロを繰り返す[[アルカーイダ]]の活動拠点の破壊と、アルカーイダの庇護者とみなされた[[アフガニスタン・イスラム首長国|ターリバーン政権]]の転覆を試みる[[アメリカ合衆国|米国]]と同盟国が[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタンに侵攻]]したことで始まった。当初の目的が達成された後、[[北大西洋条約機構|NATO]]加盟国を含む40カ国以上の連合国は、[[国際治安支援部隊]](ISAF)と呼ばれる安全保障ミッションを同国に編成し、そのうちの一部はアフガニスタン政府と同盟して戦闘に参加した<ref name="books.google.com">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=0nTbDQAAQBAJ&pg=PA75|title=Alliance Persistence within the Anglo-American Special Relationship: The Post-Cold War Era|isbn=9783319496191|last=Xu|first=Ruike|date=5 January 2017}}</ref>。紛争は主に多国籍軍と共和国軍が旧支配勢力となったターリバーンと戦うもので<ref>{{Cite web|url=https://www.cfr.org/timeline/us-war-afghanistan|title=A Timeline of the U.S. War in Afghanistan|accessdate=5 March 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190227122228/https://www.cfr.org/timeline/us-war-afghanistan|archivedate=27 February 2019}}</ref>、ISAF/RSの兵士や人員の大半はアメリカ人である<ref name="books.google.com" />。この紛争のコードネームは、米国では「[[不朽の自由作戦]]」(2001年〜14年)、「[[自由の番人作戦]]」(2015年〜2021年)と呼ばれている<ref>{{Cite web|url=http://www.cfr.org/afghanistan/us-war-afghanistan/p20018|title=US War in Afghanistan: 1999–Present|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|date=2014|publisher=Council on Foreign Relations|accessdate=21 February 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150302014738/http://www.cfr.org/afghanistan/us-war-afghanistan/p20018|archivedate=2 March 2015}}<cite class="citation web cs1"><span class="cx-segment" data-segmentid="1996">Council on Foreign Relations. 2014. </span><span class="cx-segment" data-segmentid="1997">Archived from [http://www.cfr.org/afghanistan/us-war-afghanistan/p20018 the original] on 2 March 2015<span class="reference-accessdate">. </span></span><span class="cx-segment" data-segmentid="1998"><span class="reference-accessdate">Retrieved <span class="nowrap">21 February</span> 2015</span>.</span></cite></ref><ref name="Auer & Said2">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=XXtAAQAAQBAJ&pg=PA87|title=NATO in Afghanistan: Fighting Together, Fighting Alone|last=David P. Auerswald|last2=Stephen M. Saideman|date=5 January 2014|publisher=Princeton University Press|isbn=978-1-4008-4867-6|pages=87–88|accessdate=31 October 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160125144442/https://books.google.com/books?id=XXtAAQAAQBAJ&pg=PA87|archivedate=25 January 2016}}</ref>。[[傀儡政権]]樹立後もタリバンの反乱は続き<ref>{{Cite web|和書|title=アメリカの傀儡政権をアフガン住民は支持していない |url=https://media.mk-group.co.jp/entry/mknews-kazenoyukue-20020901/ |website=MKメディア |access-date=2022-08-12}}</ref>、多国籍軍は一般市民にも危害を加えたことで協力を得られなかった<ref name=":113">{{Cite web|和書|title=タリバンのアフガニスタン速攻制圧なぜ? 7年前から「寸止め」、農村支配で都市包囲 |url=https://globe.asahi.com/article/14426582 |website=朝日新聞GLOBE+ |access-date=2022-08-06}}</ref>。20年と数百兆円を費やした後<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン戦争のコストは20年間で「250兆円」、米大学が試算 |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/42876 |website=Forbes JAPAN |access-date=2022-08-12}}</ref>、最終的に米軍を筆頭に多国籍軍が撤退を開始すると、ターリバーンは急速に勢力を回復して再び政権を奪還した。 === 経緯 === 2001年の[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11同時多発テロ]]発生後、米国大統領の[[ジョージ・W・ブッシュ]]は、当時アフガニスタンの支配勢力であったターリバーンに、[[ウサーマ・ビン・ラーディン|オサマ・ビンラディン]]の引き渡しを要求した<ref>[http://fl1.findlaw.com/news.findlaw.com/hdocs/docs/binladen/usbinladen1.pdf "Indictment #S(9) 98 Cr. 1023"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120324205702/http://fl1.findlaw.com/news.findlaw.com/hdocs/docs/binladen/usbinladen1.pdf|date=24 March 2012}} (PDF).</ref>。ターリバーン政権の副首相アブドゥル・カビールはこれに対し、9.11同時多発テロが[[ウサーマ・ビン・ラーディン|オサマ・ビンラディン]]によるものであるという証拠を求め、事実であれば第三国に出国させるとの返答をした<ref name="theguardian.com">{{Cite news|title=Bush rejects Taliban offer to hand Bin Laden over|url=https://www.theguardian.com/world/2001/oct/14/afghanistan.terrorism5|accessdate=24 January 2015|newspaper=The Guardian|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130825195435/http://www.theguardian.com/world/2001/oct/14/afghanistan.terrorism5|archivedate=25 August 2013}}</ref>。ブッシュはカビール副首相の提案を拒否し「不朽の自由作戦」の開始を指示した<ref>{{Cite web|url=https://www.history.navy.mil/browse-by-topic/wars-conflicts-and-operations/terrorism/operation-enduring-freedom.html|title=Operation Enduring Freedom|website=history.navy.mil|language=en-US|accessdate=13 September 2018|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181115230322/https://www.history.navy.mil/browse-by-topic/wars-conflicts-and-operations/terrorism/operation-enduring-freedom.html|archivedate=15 November 2018}}</ref>。 2001年末までにターリバーンとアルカーイダは、米軍と[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]軍によって国内でほぼ壊滅したとみられ、[[ボン合意]]では新たなアフガン暫定当局(主に北部同盟)が[[ハーミド・カルザイ|ハミド・カルザイ]]をアフガン暫定行政長官に選出した。[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]は、新政権が[[カーブル]]を確保することを支援するために[[国際治安支援部隊]](ISAF)を設立した。また、ターリバーン政権の崩壊に伴い、全国的な復興が図られた([[国連アフガニスタン支援ミッション]])<ref>{{Cite web|url=http://edition.cnn.com/2001/WORLD/asiapcf/central/12/21/gen.afghan.gov/index.html|title=Archived copy|accessdate=12 March 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190427155940/http://edition.cnn.com/2001/WORLD/asiapcf/central/12/21/gen.afghan.gov/index.html|archivedate=27 April 2019}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Karon|first=Tony|date=12 November 2001|title=Can the Northern Alliance Control Kabul?|url=http://content.time.com/time/nation/article/0,8599,184221,00.html|journal=Time|accessdate=12 March 2019}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.documentary.org/feature/saira-shah-pursuing-truth-behind-enemy-lines|title=Saira Shah: Pursuing Truth Behind Enemy Lines|accessdate=12 March 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190327091739/https://www.documentary.org/feature/saira-shah-pursuing-truth-behind-enemy-lines|archivedate=27 March 2019|date=2 February 2002}}</ref>。 一方で政権の座から追い出されたターリバーンは[[ムハンマド・オマル|オマル師]]によって再編成され、2003年から[[多国籍軍]]とその傀儡とみなすアフガニスタン政府に対する反乱を開始した<ref name="cfr.org">{{Cite web|url=http://www.cfr.org/publication/10551/|title=The Taliban Resurgence in Afghanistan|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060927101915/http://www.cfr.org/publication/10551/|archivedate=27 September 2006|accessdate=2021-08-14}}</ref><ref name="rothstein">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=w7fmg1cCjskC&q=Al+Qaeda|title=Afghanistan: and the troubled future of unconventional warfare By Hy S. Rothstein|isbn=978-81-7049-306-8|last=Rothstein, Hy S|date=15 August 2006}}</ref>。ターリバーン等の反政府勢力は、地方でのゲリラ的な襲撃や待ち伏せ、都市部での標的に対する[[自爆攻撃]]、連合軍に対する裏切り者の殺害など、[[非対称戦争]]を繰り広げた。ターリバーンは次第にアフガニスタン南部と東部の農村地域で影響力を取り戻し、ISAFは村を「クリア&ホールド」するための対反乱作戦に兵力を増強して対応した<ref name="Tolonews">{{Cite news|url=http://www.tolonews.com/en/afghanistan/1591-aihrc-calls-civilian-deaths-war-crime|newspaper=Tolonews|title=AIHRC Calls Civilian Deaths War Crime|date=13 January 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110624161358/http://www.tolonews.com/en/afghanistan/1591-aihrc-calls-civilian-deaths-war-crime|archivedate=24 June 2011}}</ref><ref name="The Scotsman">{{Cite news|url=http://news.scotsman.com/world/Karzai39s-Taleban-talks-raise-spectre.6557817.jp|newspaper=The Scotsman|location=Edinburgh|title=Karzai's Taliban talks raise spectre of civil war warns former spy chief|first=Jerome|last=Starkey|date=30 September 2010|accessdate=3 February 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101203030945/http://news.scotsman.com/world/Karzai39s-Taleban-talks-raise-spectre.6557817.jp|archivedate=3 December 2010}}</ref>。2007年から2009年にかけて、暴力行為は拡大した<ref>{{Cite web|url=https://www.un.org/events/tenstories/07/afghanistan.shtml|title=Ten Stories the world should know more about, 2007|website=un.org|accessdate=28 June 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170118165405/http://www.un.org/events/tenstories/07/afghanistan.shtml|archivedate=18 January 2017}}</ref>。2009年には兵力が急増し、2011年まで増加し続け、ISAFと米国の指揮下で約14万人の外国軍がアフガニスタンで活動した<ref>{{Cite web|url=http://www.nato.int/isaf/placemats_archive/2011-03-04-ISAF-Placemat.pdf|title=International Security Assistance Force (ISAF): Key Facts and Figures|date=4 March 2011|website=nato.int|accessdate=19 July 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171012043359/http://www.nato.int/isaf/placemats_archive/2011-03-04-ISAF-Placemat.pdf|archivedate=12 October 2017}}</ref>。2012年にNATO首脳は軍の撤退戦略を開始し、その後、米国は主要な戦闘活動を2014年12月に終了し、国内に残存兵力を残すことを発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.reuters.com/article/us-nato-summit1/nato-to-endorse-afghan-exit-plan-seeks-routes-out-idUSBRE84K05V20120521|title=NATO to endorse Afghan exit plan, seeks routes out|accessdate=12 March 2019|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190327092142/https://www.reuters.com/article/us-nato-summit1/nato-to-endorse-afghan-exit-plan-seeks-routes-out-idUSBRE84K05V20120521|archivedate=27 March 2019|newspaper=Reuters|date=21 May 2012}}</ref>。2014年12月28日、NATOはアフガニスタンにおけるISAFの戦闘活動を正式に終了し、安全保障上の全責任をアフガニスタン政府に正式に移管した。同日、ISAFの後継組織としてNATO主導のレゾリュート・サポート作戦が発足した。 ターリバーンに掌握される地域が徐々に増加する中、2020年2月29日、米国とターリバーン(アフガニスタン・イスラム首長国)は[[ドーハ]]で条件付和平協定に署名した<ref name="peace-deal-Feb29">{{Cite web|title=Afghanistan's Taliban, US sign peace deal|accessdate=29 February 2020|url=https://www.aljazeera.com/news/2020/02/afghanistan-taliban-sign-deal-america-longest-war-200213063412531.html|publisher=Al-Jazeera}}</ref>。ターリバーンが協定の条件に協力する限り、米軍は14カ月以内にアフガニスタンから撤退することが求められた<ref name="proposedwithdrawal">{{Cite news|last=Dadouch|first=Sarah|author2=George|first2=Susannah|author3=Lamothe|first3=Dan|title=U.S. signs peace deal with Taliban agreeing to full withdrawal of American troops from Afghanistan|url=https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/afghanistan-us-taliban-peace-deal-signing/2020/02/29/b952fb04-5a67-11ea-8efd-0f904bdd8057_story.html|accessdate=1 March 2020|newspaper=[[The Washington Post]]|date=29 February 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200301051555/https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/afghanistan-us-taliban-peace-deal-signing/2020/02/29/b952fb04-5a67-11ea-8efd-0f904bdd8057_story.html|archivedate=1 March 2020}}</ref>。この合意は、アフガニスタン政府抜きで米国政府とタリバン間で直接行われた<ref name=":47">{{Cite web|和書|title=トランプ・タリバン合意から始まった「アフガン崩壊」 |url=https://newsphere.jp/world-report/20210825-2/ |website=NewSphere |access-date=2022-08-12}}</ref>。また、インド亜大陸のアルカーイダやISIL-Kに属する反政府勢力が、国内の一部で活動を続けていた<ref>https://economictimes.indiatimes.com/news/defence/isil-k-leaders-hope-to-attract-intransigent-taliban-other-militants-who-reject-us-taliban-peace-deal-un-report/articleshow/84701544.cms</ref>。2021年4月、アメリカ合衆国大統領[[ジョー・バイデン]]が、同年[[9月11日]]までに駐留米軍を完全撤退させると発表<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン駐留米軍、9月11日までに完全撤退へ |url=https://www.bbc.com/japanese/56741631 |website=BBC NEWS Japan |accessdate=2021-8-15 |date=2021-4-14}}</ref>。すると、[[2021年ターリバーン攻勢|2021年5月からターリバーンは大攻勢]]を開始し、共和国軍は3か月ほどで各州都に点となって散らばるまで弱体化した。8月に入ると続々と各州の州都にターリバーンが入城し、15日までに[[パンジシール州]]を除くすべての州が陥落した。2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下においたと宣言し、内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210815091720/https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html|title=タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。30日に米軍は撤退を完了し、31日にバイデンも戦争終結を宣言した<ref name="jiji20210901">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210831220817/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090100140&g=int|title=アフガン戦争終結を正式宣言 駐留軍撤収「類いまれな成功」―米大統領|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2021-09-01|accessdate=2021-09-01}}</ref>。これをもって、米国史上最長の戦争は幕を閉じた。 全体として、この戦争では 46,319 人の民間人を含む約176,000 人が死亡した<ref name="watson"/>。2001年のアメリカの侵攻とタリバン政権打倒の後、570万人以上の難民がアフガニスタンに帰還したが<ref>{{cite web |url=http://www.unhcr.org/cgi-bin/texis/vtx/page?page=49e486eb6 |title=2012 UNHCR country operations profile - Afghanistan |publisher=UNHCR |date= 4 June 2012 |access-date=28 March 2023 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120604063834/http://www.unhcr.org/cgi-bin/texis/vtx/page?page=49e486eb6 |archive-date=4 June 2012 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://costsofwar.org/article/afghan-refugees |title=Afghan Refugees |publisher=Costs of War |date=November 2012 |access-date=28 March 2023 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20130310001659/http://costsofwar.org/article/afghan-refugees |archive-date=10 March 2013 }}</ref>、タリバンが2021年に権力の座に戻ったとき、260万人のアフガニスタン人がまだ難民であり、さらに400 万人が国内避難民であった<ref name="bbc2021"/>。 [[ファイル:2021 Taliban Offensive.png|サムネイル|黒:ターリバーンの支配地域<br/>赤:反ターリバーン派の支配地域<br/>黄:紛争地帯または帰属不明の地域]] == 前史 == [[ファイル:Afghanistan map civilwar01.png|thumb|200px|2001年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が北部同盟の支配下。]] [[File:Taller Buddha of Bamiyan before and after destruction.jpg|thumb|right|220px|ターリバーンに破壊され消滅したバーミヤン大仏]] {{See also|アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|ターリバーン}} [[1978年]]の[[アフガニスタン人民民主党|共産政権]]の成立にともない、全土で[[ムジャーヒディーン]]と呼ばれる[[武装勢力]]が蜂起した。これを受けて[[1979年]]には[[ソビエト連邦]]が[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|軍事介入]]を行ったが、[[東側諸国|東側社会]]以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、[[1989年]]に[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は撤退した。 しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が[[内戦]]を起こし、[[軍閥]]を形成して戦闘が続いた。[[1994年]]頃から[[パキスタン]]軍の支援を受けた[[パシュトゥーン人]]の武装勢力である[[ターリバーン]]が勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権は[[イスラム原理主義]]的政権であり、同様に原理主義的思想を持つ[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサーマ・ビン=ラーディン]]と[[アル・カーイダ]]を国内に保護し、[[テロリズム|テロリスト]]の[[軍事訓練|訓練]]キャンプを設置していた。 このためターリバーン政権を承認したのはパキスタン、[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]の三国に留まり、アフガニスタンの[[国際連合]]における代表権は[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]を大統領とする[[アフガニスタン・イスラム国]]が保持していた。ラッバーニーをはじめとする旧ムジャーヒディーン勢力はターリバーンに対して同盟を組み、通称「[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]」として北部で抵抗を続けたが、ターリバーンに押されつつあった。 1998年、[[タンザニア]]と[[ケニア]]の[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|米国大使館がアル・カーイダにより爆破される事件]]が発生し、米国は報復としてアフガニスタン国内の訓練キャンプを[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]]で攻撃した。このため12月8日には[[国際連合安全保障理事会]]で[[国際連合安全保障理事会決議1214]]<ref>[http://www.undemocracy.com/S-RES-1214 (1998) UNdemocracy - S-RES-1214 (1998) Security Council Resolution 1214 (1998)]</ref>が採択され、テロリストの国際司法機関への引き渡しが要求され、1999年には[[国際連合安全保障理事会決議1267]]<ref>[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/terro/anpo_1267.html 安保理決議1267(訳文) 外務省]</ref>で、アル・カーイダとビン=ラーディンらを名指ししての引き渡しが要求された。しかしターリバーン政権は従わず、決議に基づく[[経済制裁]]が行われた(米国同時多発テロ事件後はこの[[狙い撃ち制裁]]が拡大され、[[カディ事件]]や[[サヤディ事件]]で人権侵害が問題化する<ref>小畑郁「個人に対する国連安保理の強制措置と人権法によるその統制―アルカイダ・タリバン制裁をめぐる最近の動向」国際問題592号11頁(2010年6月)</ref>)。 アル・カーイダの攻撃は引き続き起こり、2000年10月には[[米艦コール襲撃事件]]が発生した。このため12月に[[国際連合安全保障理事会決議1333]]<ref name="ketsugi1333">[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/terro/anpo_1333.html 安保理決議1333(訳文) 外務省]</ref>が採択され、再度アル・カーイダの引き渡しが求められたがターリバーン政権はこれにも従わなかった。ターリバーンとしては、アフガニスタンの客人歓待の伝統、ウサマ・ビン・ラーディンからの資金援助等の事情から、犯罪の証拠が示されることなく、ウサマ・ビン・ラーディンを引き渡すことはできなかった<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、45-46頁、ISBN 9784763405302</ref>。 2001年2月26日にターリバーン政権は偶像破壊を名目に[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤンの大仏]]を破壊した。大仏は6世紀頃に造立された、非常に文化的価値の高いものであった。この破壊は、当然のことながら諸外国(非イスラム諸国)から強い批判を受けたが、イスラム諸国からの批判も受けることになり、ターリバーン政権は孤立状態にあった。 ==開戦までの経緯== [[ファイル:National Park Service 9-11 Statue of Liberty and WTC fire.jpg|thumb|right|250px|炎上する世界貿易センタービル]] 2001年9月11日、[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生した。12日、米国の[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領は[[テロとの戦い]]を宣言した。またこの中で、ターリバーン政権の関与が示唆され、[[ドナルド・ラムズフェルド]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]はウサーマ・ビン=ラーディンが容疑者であり、また単独の容疑者ではないと発言した。また同日、第56回[[国連総会]]でも米国政府と市民に哀悼と連帯を表して国連も本部を置くニューヨークなどへのテロ攻撃に対して速やかに国際協力すべきとする決議56/1を当時の全加盟国189カ国が全会一致で採択し<ref>[http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0047.html 国連安全保障理事会決議1373号第6項に基づくテロ対策委員会への報告 - Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府]</ref>、国際連合安全保障理事会でも[[国際連合安全保障理事会決議1368]]<ref>[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/terro/anpo_1368.html 安保理決議1368(訳文) 外務省]</ref>が採択された。 この決議1368は9月11日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、「テロリズムに対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日に[[北大西洋条約機構|NATO]]が創設以来初めての[[北大西洋条約]]第5条の[[集団防衛]]条項による[[集団的自衛権]]の発動を決定する根拠となった。([[#開戦の正当性に対する論議]])。 この後米国はターリバーン政権にビン=ラーディンらの引き渡しを要求した。しかしターリバーン政権はビン=ラーディン及びアルカーイダが犯人である証拠を提示するよう求め、引き渡しに応じなかった。 9月14日、[[オーストラリア]]も[[太平洋安全保障条約]]第4条に当たるとして集団的自衛権の発動を表明した<ref>[https://web.archive.org/web/20130721032533/http://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2013/pc/2013/pdf/25nenpyo.pdf 平成25年防衛白書防衛年表 - 防衛省]</ref>。9月15日、米国の[[コリン・パウエル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]はパキスタンがアフガニスタン攻撃に協力すると声明した。16日、[[湾岸協力会議]]を構成するアラブ諸国はテロ攻撃を批判し、アフガニスタン攻撃を支持する声明を出した。ターリバーンを承認してきたアラブ首長国連邦、パキスタン、サウジアラビアも国交を解消した。しかし16日にターリバーンの情報相は重要拠点を要塞化したと声明し、徹底抗戦の姿勢を示した。17日、[[イラン]]の[[モハンマド・ハータミー]]大統領はテロを非難したが、[[アラブ連盟]]や[[イスラム諸国会議機構]]と同じようにアフガニスタン攻撃の際は民間人の被害を最小限にするよう要請した。 9月18日、[[アメリカ合衆国議会]]で[[:en:Authorization for Use of Military Force Against Terrorists|テロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与える]]とする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る。9月21日、ラムズフェルド国防長官は北部同盟と共同して作戦に当たることを発表した。また[[欧州連合]]外相会議も全会一致で攻撃を支持した。 9月28日、[[国際組織法]]で初の「立法行為」<ref>Stefan Talmond, 'The Security Council as World Legislator' (2005) 99 American Journal of International Law p.175.</ref><ref>Alexander Reilly, Gabrielle Appleby and Laura Grenfell. Australian Public Law (Oxford University Press, 2011) p.</ref>とされる[[国際連合安全保障理事会決議1373]]<ref>[https://press.un.org/en/2001/sc7158.doc.htm SECURITY COUNCIL UNANIMOUSLY ADOPTS WIDE-RANGING ANTI-TERRORISM RESOLUTION 安全保障理事会決議1373(英文)]</ref>が採択され、「全ての国」に国連憲章第7章に基づく強制措置として[[厳罰化]]や情報交換および資金援助禁止などのテロ対策とその報告が義務化され、11月12日には[[国際連合安全保障理事会決議1377]]ではテロは「全国家と全人類への挑戦」とまで非難された。 米国はこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は[[有志連合]]諸国と呼ばれ、ラムズフェルド国防長官は「人類史上最大の連合」であるとした<ref>平成15年版防衛白書第1章国際軍事情勢第1節国際社会の課題</ref>。有志連合諸国は[[不朽の自由作戦]]という統一作戦名で、アフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行した。 === 開戦の正当性に対する論議 === 米国は[[イギリス]]・[[フランス]]・[[カナダ]]・[[ドイツ]]等と共同でアフガニスタンに攻撃を行った。これは[[国際連合憲章]]に定められた[[国連軍]]ではなく、国連憲章第51条によって定められ、事前に国連決議を必要としない[[集団的自衛権]]の発動によるという論理であった。この論理は[[米州機構]]、[[欧州連合|EU]]、そして[[日本]]を含む同盟国と法学者に広く認められた<ref name="ronten">[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0594.pdf テロ特措法の期限延長をめぐる論点][[国立国会図書館]]外交防衛課</ref>。 しかし、テロ攻撃に対して自衛権は発動出来ないという法学者も少なからずおり<ref name="ronten"/>、議論が発生している。また、これらは後の[[テロ対策特別措置法]]や[[自衛隊インド洋派遣]]をめぐる国会論議でも取り上げられている。 以下、『テロ特措法の期限延長をめぐる論点』<ref name="ronten"/>に沿った争点の整理を行う。 ====自衛権==== 「テロ攻撃」は自衛権の対象となる「武力攻撃」にあたるかという問題である。また、自衛権は急迫不正の侵害に対して自国を防衛するための権利であり、テロ攻撃が今後も続く「除去しなければならない脅威」にあたるかという議論があった。 *肯定派 **安保理決議1373は[[国連憲章第7章]]のもとに行動することを定めている。これは個別的又は集団的自衛権を確認するものであり、テロ攻撃に自衛権が発動出来るということを示している。 **派遣される武装集団の規模や影響が武力攻撃に匹敵するほどであれば武力攻撃を構成しうるという[[国際司法裁判所]]の判例がある([[ニカラグア事件]]判決)。 **アル・カーイダの以前からの活動を見ると今後の攻撃も予想され、除去しなければならない脅威にあたる。 *否定派 **安保理決議1373にあげられた「すべての国がとるべき行動」には武力行使自体は書かれていない。 **テログループは「私人」であり、国際法上の主体ではなく、その行動は「武力攻撃」 (armed attack)ではなく「武力行使」 (use of force)であり、自衛権の対象にならない。 **有志連合諸国による攻撃は一ヶ月以上後であり、自衛権の要件の一つである「時間的要件」(差し迫った脅威を取り除くため)に該当しない。 **安保理決議1378にあげられた必要な措置に、武力行使は含められない。 ====ターリバーンへの攻撃==== テロ攻撃を行ったのは、ターリバーン政権自体ではなく、その庇護下にあるアル・カーイダである。この場合、ターリバーン政権に攻撃を行うのは正当かという問題がある。 *肯定派 **安保理決議1368および1373はテロ組織援助禁止を規定しており、ターリバーン政権のアル・カーイダへの援助は問題がある。 **ターリバーン政権は1996年以来、安保理決議1267および1333によるアル・カーイダ引き渡しの要求を再三拒否しており、アル・カーイダの擁護者である。 **[[友好関係原則宣言]]では、テロ組織の育成を禁じており、ターリバーン政権の行為はこれにあたる。 **11月14日に定められた[[国際連合安全保障理事会決議1378]]<ref>[https://press.un.org/en/2001/sc7212.doc.htm SECURITY COUNCIL SETS UNITED NATIONS COURSE FOR SUPPORTING 安全保障理事会決議1378(英文)]</ref>は「ターリバーン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を支援」するとあり、ターリバーン政権の打倒を明確に支持している。 *否定派 **ターリバーン政権はアル・カーイダに対する兵站支援や武器供与を行ったにすぎず、直接攻撃を行っていない。 **一テロ組織の行動をターリバーン政権の責任とするのは問題がある。 **政権崩壊に至るというターリバーン政権が受けた結果は、自衛権の要件である均衡性要件を欠く。 ====アルカーイダ問題==== 同時多発テロ当時、アルカーイダによる犯行声明などは行われておらず、アルカーイダを犯人と推定したのはアメリカ当局によるものであった。明確な関与が判明していない以上、攻撃を行うのは正当かという点も問題となった。 == 開戦 == === 2001年 === [[ファイル:Fleet_5_nations.jpg|thumb|right|220px|オマーン海で「不朽の自由」作戦を行う5カ国空母艦隊(2002年4月18日)]]2001年9月の[[アメリカ同時多発テロ事件]]は不意打ちだった為、米軍はアフガニスタンで戦争を行うプランを持っていなかった<ref name=":0">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|author=スティーブ・コール|pages=121, 109-114, 150}}</ref>。急きょ作戦が立てられ、アフガニスタンの[[ムジャーヒディーン]]軍閥にアルカーイダやターリバーンを攻撃させること、[[レーザー目標指示装置]]を装備した特殊部隊を派遣して空爆を支援させることなどが決まった<ref name=":0" />。アメリカ合衆国政府はこの作戦を[[対テロ戦争]]の一環と位置づけ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦であると主張し、作戦名を'''[[不朽の自由作戦]]''' (OEF: Operation Enduring Freedom)」と名付けた。なお[[イギリス|英国]]では「ヘリック作戦」 (Operation Herrick)と呼んでいる<ref name="軍事とロジスティックス">江畑謙介著 『軍事とロジスティックス』 2008年3月31日第一刷発行 ISBN 9784822246464</ref>。米国は同時多発テロの前から[[ウズベキスタン]]の空軍基地で[[無人航空機|無人偵察機]]を運用していたので、無人偵察機にミサイルを積んで攻撃機としても使えるようにした<ref name=":0" />。10月2日、NATOは集団自衛権を発動し、[[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]を始めとした有志連合諸国は10月7日から空爆を開始した。米軍は米国本土や[[クウェート]]、[[インド洋]]の[[ディエゴガルシア島]]、[[航空母艦]]から発着する航空機や[[ミサイル巡洋艦]]を動員して、アフガニスタンに1万2000発<ref name=":1" />の爆弾を投下した。米国は軍事目標だけを攻撃していると発表していたが、実際には投下した爆弾の4割<ref name=":1" />は非誘導型爆弾であり民間人に多くの犠牲が出たと言われている。11月13日には[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]軍が首都[[カーブル]]を制圧した。 開戦当初、ターリバーンの指導者の[[ムハンマド・オマル]]は[[カンダハール]]の自宅に居たので、空爆によって殺害する機会はあった<ref name=":0" />。しかし米国は民間人の被害を恐れてオマルの逃亡を許した<ref name=":0" />。オマルは[[ハーミド・カルザイ]]を通じて降伏に同意したが、米国は降伏を認めなかった<ref name=":0" />。米国は数千人のターリバーンを殺害したので、ターリバーンは自然消滅すると考えていた<ref name=":0" />。 アルカイーダの[[アラブ人]]や[[チェチェン共和国|チェチェン]]人、[[ウズベク人]]やアフリカ人などの外国人兵士はカーブルが陥落すると都市部を放棄して、対ソ戦時代に建設されたパキスタン国境の地下要塞[[:en:Tora Bora|トラボラ]]に立てこもった([[:en:Battle of Tora Bora|トラボラの戦い]])<ref name=":1">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=151-162}}</ref>。対ソ戦時代、ソ連軍は爆撃で地下要塞を破壊しようとしたが上手くいかなかった<ref name=":1" />。米軍も同様に爆撃を行ったが地下要塞を破壊することは出来なかった<ref name=":1" />。トラボラ周辺の国境地帯は広大だったが、2000~3000人の米軍が包囲すればビンラディンを捕らえることが出来たと考えられている<ref name=":1" />。しかし米軍は派遣できる部隊が存在していたにもかかわらずリスクを恐れてトラボラ周辺に部隊を派遣しなかった<ref name=":1" />。代わりに派遣されたアフガニスタン軍閥の戦意は低く、パキスタン軍はヘリコプターが揃わないため十分に兵力を展開することが出来なかった<ref name=":1" />。ビンラディンは死を覚悟していたが、国境を越えてパキスタンに脱出することが出来た<ref name=":1" />。米国のブッシュ政権は最小限の被害でターリバーン政権を崩壊させたことに満足し、戦後の国家建設や平和維持には興味を示さなかった<ref name=":1" />。アフガニスタンの国家建設や平和維持は国連に託された。[[ファイル:Karzai-usaid.PNG|thumb|right|200px|ハーミド・カルザイ大統領]] 2001年11月、[[ドイツ]]の[[ボン]]近郊のケーニヒスヴィンターにおいて北部同盟を含むアフガニスタンの4つのグループの代表を国際連合が招集して会議が開かれた。ボン会合当時、ターリバーンとの戦闘は継続していたが、すでに北部同盟軍がカーブルを占領しており、早急に暫定政府の設立、国際的な部隊による治安維持を決める必要が生じたので、急遽、ボン会合が招集されることとなった<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』朱鳥社、2004年、80-84頁、ISBN 4-434-05210-1</ref>。これにより[[アフガニスタン・イスラム移行政府|暫定政府]]の成立、[[ロヤ・ジルガ]]の招集、[[国際治安支援部隊]] (ISAF)の成立と[[国連アフガニスタン支援ミッション]] (UNAMA)の設立が合意され、翌日[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]において承認された([[国際連合安全保障理事会決議1383]])。これを[[ボン合意]]といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。 同月、[[国際連合安全保障理事会決議1378]]が採択され、[[国際連合安全保障理事会]]はターリバーンを非難し、有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政権の打倒を支持した。また、その後の国内外の軍事行動は[[国際連合安全保障理事会決議1510|1510]]、[[国際連合安全保障理事会決議1386|1386]]、[[国際連合安全保障理事会決議決議1746|1746]]等複数の決議によって承認されており、[[国連アフガニスタン支援ミッション]]等と連携して行われている。 12月、ISAFは[[国際連合安全保障理事会決議1386]]、UNAMAは[[国際連合安全保障理事会決議1401]]によって正式に承認され、以降のカーブル周辺の治安維持活動はISAFが担うこととなった。しかし、ターリバーンはボン合意に参加しておらず、また、ボン合意に基づき成立した暫定政府に[[タジク人]]が多かったため、パシュトゥン人の不満が高まり、ターリバーンが復活する一因となった<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、158-160頁、ISBN 9784763405302</ref>。 2001年12月22日には[[ハーミド・カルザイ]]を議長とする[[暫定政府]]、[[アフガニスタン暫定行政機構]]が成立し、正式な政府成立までの行政を行った。同月、[[テロ対策特別措置法]]に基づいて[[日本]]の[[海上自衛隊]]が[[海上阻止行動]]に参加し、2010年まで[[インド洋]]で給油活動を行った([[自衛隊インド洋派遣]])。 === 2002年 === 2002年1月、アルカーイダには数百人から2000人ほどの兵力があり、[[パクティーカー州]]の都市[[:en:Gardez|ガルデーズ]]付近のシャーヒーコート渓谷に潜伏していた<ref name=":2">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=181,184}}</ref>。シャーヒーコート渓谷には[[ハッカーニ・ネットワーク]]の基地があり、主に[[ウズベキスタン・イスラム運動]]の兵士が立てこもっていた。3月、米軍は「[[:en:Operation Anaconda|アナコンダ作戦]]」を行い、シャーヒーコート渓谷を掃討した<ref name=":2" />。この作戦で米軍は150人~800人ほどのアルカーイダを殺害したと考えられているが、米軍の損害も比較的多かった。生き残ったアルカーイダの兵士はパキスタンの[[連邦直轄部族地域]]に撤退した<ref name=":2" />。 米国のブッシュ政権はアフガニスタンに深入りすることを恐れて、少数の部隊(5200人)しか派遣していなかった<ref name=":3">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=182,186,205}}</ref>。ブッシュ政権はアフガニスタンの国家建設も各国の分担で行うことを主張し、[[アフガニスタン軍]]の再建は米国、警察の再建は[[ドイツ]]、司法の再建は[[イタリア]]、麻薬取り締まりは[[イギリス]]に任せて、国連に統括させた<ref name=":3" />。6月11日から8日間、カーブルにおいて緊急[[ロヤ・ジルガ]]が開催された。会議の結果、暫定行政機構に代わり、カルザーイを大統領とする[[アフガニスタン・イスラム移行政府]]が成立した。ブッシュ政権はターリバーンは打倒されたと考えており、今後は敗残兵の掃討を行えばよいと考えていた<ref name=":3" />。米国のアフガニスタンに対する予算は極めて少なく、援助を期待していた地方住民は失望した<ref name=":3" />。また少ない予算の中から学校の建設が行われたが、アフガニスタンの特に田舎では女学校の建設は社会の急進的な変化や欧米の価値観の押し付けとみなされ、一部の住民が反発した<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、72-74頁、ISBN 9784763405302</ref>。 パキスタンでは[[:en:Dadullah|ムッラー・ダードゥッラー]]などのターリバーンの幹部が[[クエッタ]]郊外で公然と暮らしており、結婚式に州の幹部や軍人を招くほどだった<ref name=":4">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=207}}</ref>。米国はいずれ撤退するとターリバーンや周辺諸国は考えており足元を見ていた<ref name=":4" />。ターリバーンはパキスタンから近隣の[[カンダハール]]に出撃して迫撃砲で攻撃し、「夜の手紙」(シャブナーマ)を使って住民を脅迫し支配下に組み入れた<ref name=":4" />。 === 2003年 === 2003年、アフガニスタンで戦闘は続いていたが、ブッシュ政権はアフガニスタンについてほとんど何も考えていなかった<ref name=":11" />。特に[[ドナルド・ラムズフェルド|ラムズフェルド]]国防長官は戦争は終結したと公言しており、[[コソボ紛争]]を教訓に外国軍の長期的な駐留を避けようとしていた<ref name=":11" />。米軍もイラクで次の戦争を始めようとしていた([[イラク戦争]])<ref name=":11">{{Cite book|title=シークレットウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=208}}</ref>。8月11日、国連とアフガニスタン政府の要請により、ISAFの指揮権が[[北大西洋条約機構|NATO]]に委譲された。10月13日の[[国際連合安全保障理事会決議1510]]においてISAFの活動範囲がアフガニスタン全土に拡大され、OEF-A参加部隊の指揮権はISAFに移譲されることとなった。また[[武装解除・動員解除・社会復帰]]が行われ、アフガニスタン北部では[[伊勢崎賢治]]などが中心となり軍閥から武器を取り上げた。 パキスタンは米国同時多発テロ事件の後、米国政府から「空爆して石器時代に戻す」と脅迫され、米国に協力していた<ref name=":5">{{Cite book|title=タリバンの復活|date=2008-10-22|year=2008|publisher=花伝社|author=進藤雄介|pages=197-202, 210-212, 207-208, 245-246, 208-214}}</ref>。しかしパキスタンは19世紀の[[グレート・ゲーム]]や20世紀の[[インド・パキスタン分離独立]]などの結果、[[パンジャーブ人]]や[[パシュトゥーン人]]などの複数の民族が相互不干渉の微妙なバランスの下で1つの国家を形成しているだけで、パンジャーブ人が主体となる中央政府がパシュトゥーン人の領域([[連邦直轄部族地域]])を支配している訳ではなかった<ref name=":5" />。大英帝国の時代から連邦直轄部族地域(FATA)はパシュトゥーン部族の自治が認められており、中央政府の法律は現在でも及んでいない<ref name=":5" />。また中央政府の軍隊が連邦直轄部族地域に入ったことも無かった<ref name=":5" />。パキスタンは建国後も苦難の歴史が続き、[[印パ戦争]]で3回インドに敗北し、東パキスタン([[バングラデシュ]])を失い、現在も[[カシミール]]地方をいつ失うか分からない状態が続いている<ref name=":5" />。インド軍はパキスタン軍の2倍の戦力を誇りパキスタンは通常戦力では歯が立たない為、[[軍統合情報局]](ISI)がターリバーンやカシミール過激派を養成して、インド軍に対してゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けることを黙認している<ref name=":5" />。またパキスタンは国家統一を図り、インドの[[ヒンドゥー・ナショナリズム]]に対抗するためにイスラム化を進めたので、パキスタン国民の大半はオサマ・ビン・ラディンを英雄だと思っていた<ref name=":5" />。パキスタンが国内でターリバーンやアルカーイダを取り締まることは困難であり、また将来の印パ戦争や[[カシミール紛争]]に向けてターリバーンを取り締まりすぎることは国益に合致しない。米国に対する協力は国内の反発を生み、2003年12月にカシミール過激派が[[パルヴェーズ・ムシャラフ|ムシャラフ]]大統領の暗殺未遂事件を起こした<ref name=":6" />。パキスタン政府は重い腰を上げ、建国以来初めて南[[ワズィーリスターン|ワジリスタン]]に軍を派遣した([[ワジリスタン紛争]])<ref name=":6">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=280, 282, 278}}</ref>。しかしパキスタンは国内のターリバーンの存在は否認しており<ref name=":6" />、米軍の無人攻撃機や特殊部隊もクエッタなどの大都市には手を出せないでいた<ref name=":6" />。連邦直轄部族地域の国境警備は現地採用の辺境部隊が担当しているが、辺境部隊の兵士はターリバーンと同じ民族であり思想的にも近いため、取り締まりには非協力的でありターリバーンの越境時に援護射撃を行う場合すらあった<ref name=":6" />。 === 2004年 === [[ファイル:Aerial view of a section of Kandahar in 2013.jpg|サムネイル|カンダハール]] 2003年12月14日から2004年1月4日にかけて、カーブルにおいて[[憲法]]制定ロヤ・ジルガが開催された。これにより[[アフガニスタン憲法]]が成立し、2004年1月26日から施行された。10月9日にはアフガニスタン全土および[[イラン]]・[[パキスタン]]を投票地域とする[[大統領]]選挙が行われ、カルザイが55.4%の票を獲得。[[アフガニスタン・イスラム共和国]]初代大統領に選出された。カルザイは12月に大統領に就任し、[[アフガニスタン・イスラム共和国]]が正式に成立した。しかし地方の政治は軍閥に委ねられており、住民サービスを行うどころか住民に対して州知事がゆすり集りを行い、敵対部族をターリバーンとみなして米軍に攻撃させていた<ref name=":7" />。カルザイ大統領の異母弟の[[:en:Ahmed Wali Karzai|アフマド・ワリー・カルザイ]]も[[カンダハール州]]の実力者として権勢をふるい、麻薬取引にも関わっていたと言われている<ref name=":7" />。 同年、ターリバーンの最高評議会([[:en:Quetta Shura|クエッタ・シューラ]])が軍事作戦の再開に向けた文書を作成したと言う<ref name=":7">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=204,277,290,294,296,308,379}}</ref>。アルカーイダはパキスタンの南ワジリスタンの[[:en:Wanna, Pakistan|ワナ]]やシカイ渓谷に拠点を持っていた<ref name=":7" />。ワナは[[:en:Wazir (Pashtun tribe)|ワズィール族]]の武装組織指導者の[[:en:Nek Muhammad Wazir|ネーク・ムハンマド]]が支配していたが、米国は無人攻撃機を使って爆殺した<ref name=":7" />。 同年、米国で[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]が行われ、ブッシュ大統領が再選した。ブッシュ政権はパキスタンに協力を求める一方で、パキスタンの主敵であるインドと[[米印原子力協力]]について協議を行うなど政策が首尾一貫していなかった<ref name=":7" />。米国はアフガニスタンの国家建設が順調に進んでいるため、ターリバーンの復活の可能性は低いと考えており<ref name=":7" />、アフガニスタンの治安維持をNATO軍に任せて、イラク戦争に専念した<ref name=":7" />。 [[医師]]の[[中村哲 (医師)|中村哲]]と[[漫画家]]の[[小林よしのり]]によれば、アフガニスタン戦争は以下のような様子だという。米英軍の攻撃によってタリバン政権は崩壊し、民主国家とされるカルザイ政権が成立したが、中村が同国で20年間医療活動を行ってきた中では[[治安]]はタリバン政権時代よりも悪化しており現在が最悪の状態である。そもそもタリバンと一言で言っても決して特別な組織ではなく身近な街中で見かける人もタリバンの一員である場合があり、アフガニスタン人を見ただけでは見分けがつかない。とは言え表向きには「タリバン」と「反タリバン」があるのだが地下では皆繋がっており、アフガニスタン人として生活していくという共通した認識があるのだ。そのためアメリカ軍の兵士も誰が味方でだれが敵かの見分けがつかず、かつての[[ベトナム戦争]]での[[ゲリラ]]戦と同様かそれ以上に悲惨な状況になっている。ベトナム戦争の場合は米軍は少なくとも前線で[[戦闘]]を行っていたがアフガニスタンでは[[戦闘機]]や[[ヘリコプター]]に乗って[[航空戦|空中戦]]をしているか、[[軍事基地|基地]]に留まっているかのどちらかである。地上を移動すると[[事件]]が起こる危険があるため動くことができないのだ。そのため地上での任務をアフガニスタン人の[[請負]]に頼むとその請負が[[反乱]]を起こす場合があるため米軍にとっては憂鬱である。例えば以前には米軍の[[傭兵]]が[[日当]]と[[小銃|ライフル銃]]を受け取り、その仕事の帰りに米兵を[[狙撃]]したことまであったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4370074/SS04-1_115.pdf |title=中村哲 vs.小林よしのり |publisher=[[九州大学]] |date=2003 |accessdate=2022-12-29}}</ref>。 == 第一回大統領選挙とターリバーン復活 == === 2005年 === [[ファイル:Neotaliban insurgency 2002-2006 en.png|サムネイル|ターリバーンの勢力拡大(2002年~2006年)]] 2005年9月18日、下院議員選挙と県会議員選挙が行われた。 2005年後半からターリバーンを中心とした武装勢力が南部各地で蜂起した。このターリバーンの蜂起は国際治安支援部隊(ISAF)が南部や東部に展開し始めた時期と重なっている。当時、ISAF側はターリバーンの攻撃増加はターリバーンがISAFに追い込まれた結果として抵抗するためのものである、という強気の見方を示していた<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、78-80頁、ISBN 9784763405302</ref>。しかし、ISAFの説明とは異なりアフガニスタンの治安は急速に悪化していった。対ソ連戦争や軍閥内戦時代にもなかった自爆攻撃(2005年27件、2006年139件)が行なわれるようになったことから、イラク戦争で伸張し数多くの[[自爆テロ]]を行なってきた[[アル・カーイダ]]の影響を指摘する声もある。 同年、パキスタン軍は南ワジリスタンで和平を結び、北ワジリスタンに進軍した<ref name=":12">{{Cite book|title=タリバンの復活|date=2008-10-22|year=2008|publisher=花伝社|pages=219-220}}</ref>。一方、[[軍統合情報局]](ISI)はサウジアラビアの支援を受けて、ターリバーンに対する支援を積極化させたと言う意見がある<ref name=":8">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=301, 332, 337}}</ref>。軍統合情報局は2万5千人の職員を擁し、秘密工作を行うS局など様々な部門があり統制が取れていなかった<ref>{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=78, 206,276-283}}</ref>。米国はビンラディンの探索を続けていたが難航していた<ref name=":8" />。米国は連邦直轄部族地域にターリバーンやアルカーイダが潜伏してアフガニスタンを攻撃していることを理解していたが、核兵器保有国のパキスタンに対する遠慮があり越境攻撃をためらっていた<ref name=":8" />。また住民の協力も得られないため攻撃を強行しても成果が出なかった<ref name=":8" />。 ターリバーンやアルカーイダは「アッ=サハーブ」や「トラボラ」などのウェブサイトやネットマガジンを使って宣伝戦を積極的に行っており<ref name=":8" />、イギリス在住のパキスタン人などがテロを行っていた([[ロンドン同時爆破事件]])。 === 2006年 === [[ファイル:Coalition military casualties in afghanistan by month.svg|サムネイル|有志連合の月別の損害(2002年~2015年)]] 2006年、アフガニスタン南部に[[国際治安支援部隊]](ISAF)が展開し、「[[:en:Operation Mount Thrust|マウント・スラスト作戦]]」を実施した。イギリス軍は手付かずだった[[ヘルマンド州]]に展開したが、ターリバーンに包囲されて苦戦した<ref name=":9">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=311, 314, 300}}</ref>。[[カンダハール州]]ではターリバーンが攻勢に転じてカナダ軍に塹壕戦を挑んだが、カナダ軍に撃退された(マウント・スラスト作戦、[[:en:Operation Medusa|メデューサ作戦]])<ref name=":9" />。[[ウルーズガーン州]]では[[オーストラリア国防軍]]が[[パース作戦]]を実行した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人[[:en:Akhtar Mohammad Osmani|ムラー・アフタル・ウスマーニ]]を殺害するなどの戦果を挙げたものの<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、87頁、ISBN 9784763405302</ref>、アフガニスタンの治安は大幅に悪化し、アフガニスタンにおける治安事件の数は2003年の10倍に達した<ref name=":9" />。またアヘンの収穫量が急増し、[[国連薬物犯罪事務所]] (UNODC) が警告を発した<ref>{{Cite web|title=UN drugs chief calls for extra resources to NATO in Afghanistan.|url=https://www.unodc.org/unodc/en/press/releases/press_release_2006_09_12.html|website=www.unodc.org|accessdate=2020-01-25|publisher=|date=2016-09-12}}</ref>。アヘンの大半はヘルマンド州で生産されており、ターリバーンの資金源となっていると言う<ref>{{cite news|title=アフガンのアヘン生産、3年ぶり減少=干ばつも一因に-国連調査|newspaper=時事通信|date=2008-08-27|url=http://www.jiji.co.jp/jc/a/reference/policy/a?g=afp_int&k=20080827019107a|accessdate=2011-02-19}}</ref>。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという意見もある<ref>{{cite news|title=アフガニスタンのアヘン生産者、社会混乱存続のためタリバンに多額の資金|newspaper=[[フランス通信社|AFP]]|date=2008-08-27|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2512014?pid=3268956|accessdate=2011-02-19}}</ref>。 [[ファイル:Afghanistan opium poppy cultivation 1994-2007b.PNG|サムネイル|アフガニスタンのアヘンの生産量(1994年~2016年)]] 同年、パキスタンではパキスタンの特殊部隊がハッカーニ・ネットワークの複数の拠点を攻撃したことに地元武装勢力が反発したことなどにより<ref name=":10" />、パキスタン軍の被害が増大した<ref name=":12" />。ハッカーニ・ネットワークは北ワジリスタンの[[:en:Miramshah|ミランシャー]]郊外のダンデ・ダルパヘイルにある大規模な神学校を拠点にしている<ref name=":10" />。パキスタン軍は[[カイバル・パクトゥンクワ州|北西辺境州]]のオークラザイ知事の提案で、ワジリスタンの部族長やターリバーン、外国人戦闘員と和平協定を結んだ(ワジリスタン和平合意)<ref name=":10">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=219-221,306,318,388,310,351}}</ref>。パキスタン軍は連邦直轄部族地域から撤退したので、ターリバーンはアフガニスタンに自由に越境できるようになった<ref name=":10" />。パキスタン政府は数千人の戦闘員を擁し政府に対して好戦的な[[:en:Mahsud|マスード族]]に対抗するために、ワズィール族と手を結ぼうとしていた<ref name=":10" />。一方、パキスタンの[[軍統合情報局]](ISI)はISAFの展開は米軍撤退の兆しであると考え、米国撤退後のターリバーン政権の樹立について真剣に考えていたという意見がある<ref name=":10" />。米国では[[中間選挙]]で[[民主党 (アメリカ)|民主党]]が勝利し、アフガニスタンに対する予算がようやく増加した<ref name=":10" />。 === 2007年 === 2007年、アフガニスタンでは[[自爆テロ]]や[[無差別爆撃]]によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出ていた<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン大統領、NATO・米軍の「無差別」作戦を非難|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2243976?pid=1717685|publisher=AFP BBNews|date=2007-06-24|accessdate=2014-02-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン、2007年は自爆攻撃が多発、タリバン掃討作戦で犠牲者増大|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2327291?pid=2464019|publisher=AFP BBNews|date=2007-12-18|accessdate=2014-02-22}}</ref>。ターリバーンはカーブルで自爆テロを開始した<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、83頁、ISBN 9784763405302</ref>。歩兵戦も続き、[[国際治安支援部隊]](ISAF)はアフガニスタン南部で[[:en:Operation Kryptonite|クリプトナイト作戦]](ヘルマンド州)や[[:en:Operation Hoover|フーバー作戦]](カンダハール州)などを行った。またウルーズガーン州ではターリバーンが攻勢に出てオランダ軍と戦闘を行った([[チョーラの戦い]])。アフガニスタン北部ではドイツ軍などが[[:en:Operation Harekate Yolo|ハレカテ・ヨロ作戦]]を実施した。連合軍はターリバーンの最高指導評議委員の1人ムラー・オバイドゥラー・アクンドを拘束し、[[:en:Dadullah|ムラー・ダードゥラー]]を殺害するなどの戦果を挙げたがターリバーンの勢いは衰えなかった<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、86頁、ISBN 9784763405302</ref>。[[ガズニー州]]ではターリバーンの力が州都のすぐそばの幹線道路にまで及んでおり、州内の3分の2の郡では職場放棄が起き、郡裁判所などが業務を停止していた<ref>{{cite web|title=Absenteeism closes district offices in Ghazni|url=http://www.pajhwok.com/en/2011/10/05/absenteeism-closes-district-offices-ghazni|publisher=Pajhwok Afghan News|date=2011-10-05|accessdate=2014-03-10}}</ref>。アフガニスタン大統領の[[ハーミド・カルザイ]]はターリバーンに和平を提案したが、ターリバーンは外国軍の存在を理由に拒絶した<ref>{{Cite news|url=https://www.reuters.com/article/us-afghan-talks-idUSISL26606720070930|title=Taliban reject Afghan president's peace talk offer|date=September 30, 2007|via=www.reuters.com|newspaper=Reuters}}</ref>。ターリバーンは外国人を敵視しており[[2007年ターリバーン韓国人拉致事件]]が起きた。 パキスタンでは[[パキスタン・モスク立てこもり事件|ラール・マスジッド籠城事件]]が起き、ワジリスタン和平合意が破れ戦闘が再開した<ref>{{Cite book|title=タリバンの復活|date=2008-10-22|year=2008|publisher=花伝社|pages=256}}</ref>。米国は権力を失いつつあるムシャラフ大統領に代わって[[ベーナズィール・ブットー|ブット]]元首相を再登板させようと考えたが選挙中に爆殺された<ref>{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=417}}</ref>。 9月、ISAFの活動期限延長を主題とし、[[不朽の自由作戦]] (OEF)に対する謝意が前文に盛り込まれた[[国際連合安全保障理事会決議1776]]が採択されたが、[[ロシア]]が棄権にまわった。 === 2008年 === 2008年、アフガニスタン北部では雨不足による穀物の不作により出稼ぎや難民が発生した<ref>{{cite web|title=Afghanistan at the crossroads: Drought, food crisis drive Afghans out of villages|url=http://www.unhcr.org/print/4918482e4.html|publisher=UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)|date=2008-11-10|accessdate=2014-02-24}}</ref>。アフガニスタン南部では[[:en:Battle of Garmsir|Garmsirの戦い]](カンダハール州)、[[:en:Operation Eagle's Summit|Eagle's Summit作戦]](ヘルマンド州)などが行われた。ウルズガーン州では[[ヘルト・ウィルダース]]の製作した反イスラム的な短編映画に対する報復と称してターリバーンがオランダ軍にIED攻撃や自爆攻撃<ref name="oranda">{{Cite web|和書|title=路肩爆弾でオランダ兵4人死傷、アフガニスタン|url=https://www.afpbb.com/articles/modepress/2379990|publisher=AFP BBNews|date=2008-04-19|accessdate=2015-03-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタンで自爆攻撃、死者多数|url=https://www.afpbb.com/articles/modepress/2417359|publisher=AFP BBNews|date=2008-07-13|accessdate=2015-03-05}}</ref>、待ち伏せ攻撃を行った([[:en:Battle of Khaz Oruzgan|Khaz Oruzganの戦い]])。アフガニスタン東部の[[ワナトの戦い]]などの結果、米軍の戦死者は155人に及び(3割増)、NATO軍の戦死者も増加した<ref name=":13">{{Cite book|title=シークレット・ウォーズ(上)|date=2019-12-10|year=2019|publisher=白水社|pages=414, 452, 425, 431, 434, 457, 459}}</ref>。アフガニスタンにはNATO軍を主力とする39か国5万5千人の部隊が展開していたが、統一した指揮がなく各部隊がバラバラに戦っていた<ref name=":13" />。ターリバーンは効果の薄い自爆攻撃や空爆を招く大規模な歩兵戦を避けて、[[即席爆発装置]](IED)による攻撃を増加させた。ターリバーンはアルカーイダやパキスタン軍の訓練によって練度を上げ、迫撃砲の命中精度を向上させた<ref name=":13" />。またアフガニスタン政府の支配が地方まで及ばないため、ターリバーンがもめごとの仲裁などの住民サービスを行って住民の心をつかんだ<ref name=":13" />。ターリバーンと同じように[[NPO]]や[[非政府組織|NGO]]がアフガニスタン政府に代わって住民サービスを担ったが、ターリバーンはNPOを攻撃し[[アフガニスタン日本人拉致事件]]が起きた。米国のマコネル国家情報長官は「ターリバーンはアフガニスタンの約10~11%を支配している」と述べた<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、84頁、ISBN 9784763405302</ref>。 パキスタンではパキスタン・ターリバーンが首都から240キロの[[:en:Swat District|スワート地区]]を占領した<ref name=":13" />。[[軍統合情報局]](ISI)が後援するカシミール過激派はインドとの戦いを続けていた([[ムンバイ同時多発テロ]])。アルカーイダは連邦直轄部族地域でパキスタン・ターリバーンとも連携を取り、両国のターリバーンと行動を共にするようになった<ref name=":13" />。米軍は無人攻撃機や特殊部隊を使って連邦直轄部族地域のアルカーイダを攻撃したが、アルカーイダも[[イスラマバード・マリオット・ホテル爆破テロ事件]]などで反撃した<ref name=":13" />。また無人攻撃機の活用により民間人の被害が急増した。事態は緊迫し、もはや単なるテロ対策ではなく反乱鎮圧を真剣に行う必要があると米国も認めざるを得なかった。一方、イラクでは戦争がようやく落ち着きつつあった。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]ではオバマ候補がアフガニスタンへの関与を拡大する考えを示し、米軍も新大統領の下で増派を行う決意を固めた<ref name=":13" />。 2008年9月20日、OEF参加諸国、[[海上阻止行動]]への謝意を前文に盛り込んだ[[国際連合安全保障理事会決議1833]]が採択され、全会一致で採択された。 === 2009年 === [[ファイル:Flyover (8204957195).jpg|サムネイル|ヘルマンド州サンギン郡のジャックソン前線基地]] 1月、アメリカ合衆国では[[バラク・オバマ]]が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任し、アフガニスタンでは二回目の大統領選挙が迫っていた。アフガニスタンでは2008年から[[:en:David D. McKiernan|デービッド・マキャナン]]将軍が正規戦によって敵兵を殺害するテロ対策を行っていた。しかし米軍はアフガニスタン東部では勝利していたものの、アフガニスタン南部で劣勢だった<ref name=":14">{{Cite book|title=オバマの戦争|date=2011年6月17日|year=2011|publisher=日本経済新聞出版社|author=ボブ・ウッドワード|pages=110,25,71,170,149,180,191,127,178,34,229}}</ref>。米国はイラクに15万人を派兵していたが、アフガニスタンには3万8千人しか派兵していなかった。アフガニスタンにはその他にNATO軍2万9千人<ref name=":14" />や現地人で構成された3千人の対テロ追撃チーム(CTPT)<ref name=":14" />などが居た。2月、オバマ大統領はアフガニスタンの大統領選挙を支援するために戦闘部隊1万7000人と訓練要員4000人を派兵した<ref name=":14" />。増派した[[海兵遠征旅団]](8000人)は手薄だったヘルマンド州に配置され、[[:en:Battle of Nawzad|ナウザドの戦い]]や[[:en:Operation Strike of the Sword|ストライク・ソード作戦]]が行われた。しかし、そこはケシの大生産地ではあるものの過疎地帯の「死の砂漠」であり、カンダハールのような大都市は手薄なままだった<ref name=":14" />。5月、オバマ大統領はマキャナン将軍を事実上更迭して<ref>{{cite news|title=アフガン米軍司令官、異例の更迭 米国防長官発表|newspaper=産経新聞|date=2009-05-12|url=http://sankei.jp.msn.com/world/asia/090512/asi0905120828003-n1.htm}}</ref>、[[スタンリー・マクリスタル]]将軍を後任に任命した<ref name=":14" /><ref>{{cite news|title=駐アフガン米司令官が就任「国民を暴力から守る」|newspaper=産経新聞|date=2009-06-15|url=http://sankei.jp.msn.com/world/america/090615/amr0906151718002-n1.htm}}</ref>。アメリカの軍部はイラクで成功した反政府活動鎮圧をアフガニスタンでも行おうとしていた<ref name=":14" />。反政府活動鎮圧とはイラク駐留米軍司令官の[[デヴィッド・ペトレイアス]]将軍が考案した作戦で、「敵を殺しても戦争を終わらせることは出来ない」「住民を守り、人心を収攬し、ともに生活し、安定した有能な政府が栄えるように治安を維持しなければならない」と言う考えに基づく作戦である([[対反乱作戦]])<ref name=":14" />。8月、マクリスタル将軍は反政府活動鎮圧を行うためにオバマ大統領に4万人の増派を要求した<ref name=":14" />。 しかしオバマ大統領は大統領選挙ではアフガニスタンに増派すべきと主張したものの、際限のない駐留や出費には反対だった<ref name=":15">{{Cite book|title=オバマの戦争|date=2011年6月17日|year=2011|publisher=日本経済新聞出版社|pages=122、527、155、360、362、230、373}}</ref>。反政府活動鎮圧を行うには40~50人の住民を守るために軍人や警察官が1人必要で、理論上は米軍が10万人必要だった<ref name=":15" />。また10年以上の長期的な国家建設を行い、アフガニスタンの警察や軍を40万人養成する必要があり、その場合の経費は8890億ドルに及ぶと予想された<ref name=":15" />。しかしソビエト連邦はかつてアフガニスタンに10万人を派兵し、100万人のアフガニスタン人を殺害したが戦争に勝利することは出来なかった<ref name=":15" />。米国政府は反政府活動鎮圧や国家建設に深入りして、アフガニスタンから撤退出来なくなることを恐れていた<ref name=":15" />。 米国の軍部はアフガニスタンに4万人を増派して、時間をかけて反政府活動鎮圧を行いターリバーンを撃滅したいと考えており、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]もそれを支持していた<ref name=":16">{{Cite book|title=オバマの戦争|date=2011年6月17日|year=2011|publisher=日本経済新聞出版社|pages=433、428、491、469、471}}</ref>。しかしオバマ大統領は短期間で迅速に軍事行動を行って撤退することが出来る[[出口戦略]]を求めていた。軍部や政権内で議論が行われ、結局オバマ大統領は本格的な反政府活動鎮圧やアフガニスタン軍の長期的な養成は行わず、一時的に3万人の増派を行ってアフガニスタンの軍や警察が治安を管理できる程度にターリバーンの戦闘能力を弱体化させ、2011年7月から撤退を始める「掃討・堅守・建設・転移」を行うと決断した<ref name=":16" />。12月1日、オバマ大統領はニューヨーク州の陸軍士官学校で新戦略を発表し<ref name=":16" />、残りの1万3000人を派兵した<ref name=":93">{{Cite web|和書|title=オバマ米大統領、アフガニスタンへ支援部隊1万3000人追加増派|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2652300|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja|publisher=|date=2009-10-13}}</ref>。 米国の軍部はオバマ大統領の決断に従ったが本心では納得しておらず、不足した兵力をNATO軍の増派で補って反政府活動鎮圧を行おうとした<ref name=":16" />。一方、NATO加盟国には様々な国情があり、例えばドイツでは戦争継続について国論が分裂していた。ターリバーンや[[:en:Islamic Jihad Union|イスラム聖戦連合]](IJU)はドイツ軍を撤退に追い込むため、[[クンドゥーズ州]]駐留のNATO軍に[[:en:Counterinsurgency in Northern Afghanistan|数か月間攻撃]]を加えた。その結果、巻き添えで民間人に死傷者が出て([[:en:Kunduz airstrike|クンドゥーズ空爆事件]])、ドイツの閣僚が辞任した<ref>{{cite web|title=Many die in Afghan tanker blasts|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/8237287.stm|publisher=BBC NEWS|date=2009-09-04|accessdate=2014-02-17}}</ref><ref>{{cite web|title=German minister Franz Josef Jung resigns over raid|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/8382829.stm|publisher=BBC NEWS|date=2009-11-27|accessdate=2014-02-17}}</ref>。イギリスはアフガニスタンに9000人を派兵していたが、更に500人の増派を発表した。マクリスタル将軍は兵力不足に対応するために、アフガニスタン全土での反政府活動鎮圧は諦めて400郡中80郡を重点地域に指定し、ヘルマンド州やカンダハール州、カーブル周辺やパキスタン国境などで反政府活動鎮圧を行って支配地域を広げることにした<ref name=":18">{{Cite book|title=シークレットウォーズ(下)|date=2019年12月10日|year=2019年|publisher=白水社|author=スティーブ・コール|pages=82, 142, 145}}</ref>。戦争は激しさを増し、2008年と比べて米兵の死者が急増した。 アフガニスタンの大統領選挙は[[ハーミド・カルザイ|カルザイ]]が再選したものの、選挙不正や汚職が酷く米国の言う事を聞かなくなっていた<ref name=":17">{{Cite book|title=オバマの戦争|date=2011年6月17日|year=2011|publisher=日本経済新聞出版社|pages=187、489、490、518、532、512、517}}</ref>。パキスタンでは[[パキスタン・ターリバーン運動|パキスタン・ターリバーン]]が首都から100~160キロにまで迫り、核兵器備蓄基地のタルベラを脅かした<ref>{{Cite book|title=オバマの戦争|date=2011-06-17|year=2011|publisher=日本経済新聞出版社|author=ボブ・ウッドワード|pages=173}}</ref>。パキスタン政府は連邦直轄部族地域(FATA)に14万人の軍を派遣してパキスタン・ターリバーンと戦った<ref name=":18" />。パキスタン軍の戦死者は2006年以降の5年間で2300人に及んだ<ref name=":18" />。この戦いの中で注目されたのが[[マララ・ユスフザイ]]である。一方、パキスタンはアフガニスタン・ターリバーンに対しては複雑な態度をとっていた。パキスタン政府はアフガニスタン・ターリバーンと戦う米軍やNATO軍に対する軍需物資の通過を認め、連邦直轄部族地域に対する無人機攻撃も認めていた<ref name=":17" />。一方、[[軍統合情報局]](ISI)は[[ハッカーニ・ネットワーク]]や[[:en:Quetta Shura|ターリバーン指導部]]との関係を継続しており、連邦直轄部族地域は米軍やNATO軍や諜報機関が侵入できない安全地帯と化していた<ref name=":17" />。アフガニスタン・ターリバーンはアフガニスタン東部や南部に2万5千人の兵力を展開し<ref name=":18" />、パキスタンの連邦直轄部族地域で十分な休息を取って戦争を続けていた<ref name=":17" />。 [[ファイル:Hires 100221-M-6770H-008b.jpg|サムネイル|ヘルマンド州マルージャ郡]] == 第二回大統領選挙後 == === 2010年 === [[ファイル:Arghandab River Valley between Kandahar and Lashkar Gah.jpg|サムネイル|アルガンダーブ川]] 米軍やオバマ政権はターリバーン発祥の地であるカンダハール州や麻薬取引の中心地であるヘルマンド州を戦争の重心とみなしていた。2010年2月、国際治安支援部隊(ISAF)はヘルマンド州のマルージャ郡で[[:en:Operation Moshtarak|モシュタラク作戦]]を行った。マクリスタル将軍はマルージャ郡にアフガニスタン政府の公務員を派遣して住民にサービスを行う移動政府を試みたがうまく行かなかった<ref name=":19">{{Cite book|title=シークレットウォーズ(下)|date=2019年12月10日|year=2019年|publisher=白水社|pages=175,177,178,184,187,192,195,212,211,239,266}}</ref>。同月、米軍はカンダハール州に精鋭部隊である[[第101空挺師団 (アメリカ軍)|第101空挺師団]]の第二旅団(4800人)を投入した<ref name=":19" />。ターリバーンはアルガンダーブ川沿いの灌漑地帯に潜み、米軍を[[即席爆発装置]](IED)で攻撃し、[[カナート|地下水路]]から奇襲攻撃を行ったので<ref name=":19" />、米軍の損害が増大した<ref name=":19" />。6月、マクリスタル将軍が兵力不足を嘆き、マクリスタル将軍の部下がバイデン副大統領などを批判したことを[[ローリング・ストーン]]誌が面白おかしく報道し、マクリスタル将軍が辞任した<ref name=":17" />。9月、国際治安支援部隊(ISAF)は[[:en:Operation Dragon Strike|ドラゴン・ストライク作戦]]を実施して、ターリバーンを灌漑地帯から一掃した<ref name=":19" />。 辞任したマクリスタル将軍の後任には、反政府活動鎮圧理論の考案者である[[デヴィッド・ペトレイアス|ペトレイアス]]将軍が就任した。ペトレイアス将軍は[[統合特殊作戦コマンド]]による夜間襲撃を前年の5倍に増やし、365人のターリバーン指揮官を殺害し、1400人のターリバーンを捕虜にした<ref name=":19" />。また国際治安支援部隊(ISAF)は重点地域を96郡に増やしてターリバーンを攻撃した。しかし戦況に劇的な変化は生じなかった<ref name=":19" />。 10月、北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議が[[リスボン]]で開かれ、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への段階的な治安維持権限の移譲(撤退)が決まった<ref>{{Cite web|和書|title=14年末までのアフガン治安権限移譲で合意、NATO首脳会議|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2776218|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-03-14|language=ja}}</ref>。 パキスタンでは連邦直轄部族地域(FATA)が[[:en:2010 Times Square car bombing attempt|タイムズスクエア爆破未遂事件]](5月)のような米国本土に対するテロ攻撃の温床になっていた<ref name=":17" />。CIAは連邦直轄部族地域に対して無人攻撃機で122回の攻撃を行い<ref name=":19" />、アフガニスタン人で構成された対テロ追撃チーム(CTPT)を越境させた<ref name=":17" />。9月、米軍の攻撃ヘリコプターがパキスタンに領空侵犯し、パキスタン軍の検問所と交戦した。パキスタンは抗議のため[[トールハム]]を一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した<ref>{{Cite web|和書|title=無人機空爆にパキスタンがキレた|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/10/post-1669.php|website=Newsweek日本版|date=2010-10-01|accessdate=2020-03-09|language=ja}}</ref>。ハッカーニ・ネットワークもクエッタなどでNATOの燃料輸送車を攻撃した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバンがパキスタンでNATOの燃料輸送車を襲撃、1週間で4度目|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2764216|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-03-09|language=ja|publisher=|date=2010-10-7}}</ref>。 === 2011年 === アメリカ合衆国のオバマ大統領は2009年の増派の際、2011年7月から撤退を始めると決めていた。撤退開始が間近に迫った5月、米軍の[[特殊部隊]]がパキスタンの首都[[イスラマバード]]郊外の[[カイバル・パクトゥンクワ州|アボタバード]]にあった邸宅を急襲し、 [[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害|ウサーマ・ビン・ラーディンを殺害]]した。一方、「掃討・堅守・建設・転移」戦略の進展は思わしくなかった。ターリバーンは米軍と互角の戦いを行い、カルザイ政権の汚職は改善せず、アフガニスタン軍の規模拡大も計画通りには進まなかった<ref name=":20">{{Cite book|title=シークレットウォーズ(下)|date=2019年12月10日|year=2019年|publisher=白水社|pages=317,246}}</ref>。 7月、カンダハールから米軍とカナダ軍が撤退を開始した。同月、カンダハールの実力者[[:en:Ahmed Wali Karzai|アフマド・ワリー・カルザイ]]が暗殺された<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン-撤退が始まって(宮原信孝 研究員)|url=https://blogos.com/outline/5288/|website=BLOGOS|accessdate=2020-03-14|language=ja}}</ref>。 パキスタンでは米軍が前線基地を設置するために米軍の関係者285人を非公式に活動させていたが臨時職員のモラルは低く、1月に[[:en:Raymond Allen Davis incident|レイモンド・デイビス事件]]が起きた<ref name=":20" />。11月、NATO軍が再びパキスタン軍と交戦・誤爆したので、パキスタンは[[トールハム]]を一時的に封鎖し、NATOの補給路を妨害した<ref>{{Cite web|和書|title=NATO軍誤爆問題、パキスタン側が先に攻撃か 同軍は否定|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2842951|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-03-09|language=ja|publisher=|date=2011-11-28}}</ref>。 === 2012年 === 2012年7月、「アフガニスタンに関する東京会合」が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=外務省: アフガニスタンに関する東京会合(概要と評価)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/tokyo_conference_2012/gaiyo.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2020-03-14}}</ref>。アフガニスタン治安軍の年間予算(41億ドル)の負担割合(米国24億ドル、欧州12億ドル、アフガニスタン政府5億ドル)などが決まった<ref>{{Cite web|和書|title=「アフガニスタンに関する東京会合」を考える|url=https://blogos.com/outline/42535/|website=BLOGOS|accessdate=2020-03-14|language=ja}}</ref>。 === 2013年 === 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン治安軍への治安権限の委譲が完了した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン部隊に治安権限移譲、NATO軍から|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2951188|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-03-14|language=ja}}</ref>。 同年11月、米軍はパキスタン・ターリバーンの指導者[[ハキームッラー・マフスード]]を空爆し殺害した<ref>[https://www.sankei.com/article/20131102-WJMQCM2M4VNHRPLAWKGLK6KEJA/ タリバン運動最高指導者死亡-パキスタン 米無人機攻撃] 産経ニュース 2013年11月2日</ref>。 === 2014年 === 2014年12月、[[国際治安支援部隊]](ISAF)及び「[[不朽の自由作戦]]」が終了し<ref name=":52">{{Cite web|和書|title=外交青書 2015 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2015/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>、最盛期には約13万人にも及んだ外国軍の多くが国外に撤退した。多国籍軍は「[[確固たる支援任務]]」及び「[[自由の番人作戦]]」に移行し、治安はアフガニスタン軍や警察が独力で維持することになった。 同年5月、[[トルクメニスタン軍]]がバードギース州ゴールマーチ郡から越境してきた武装集団に襲撃された<ref name=":21">{{Cite web|title=More Turkmen Troops Killed Along Afghan Border|url=https://www.rferl.org/a/qishloq-ovozi-turkmen-troops-killed-afghan-border/25400833.html|website=RadioFreeEurope/RadioLiberty|accessdate=2019-10-25|language=en|publisher=|date=2014-05-27}}</ref>。ウズベキスタン人やトルクメニスタン人などで構成された武装集団はISAF撤退を機に永世中立国である[[トルクメニスタン]]からアフガニスタンを攻撃しようとしていた<ref name=":21" />。 同年4月、[[:en:2014 Jinnah International Airport attack|ジンナー国際空港に対する攻撃]]の報復として、パキスタン軍が北ワジリスタンを攻撃した([[:en:Operation Zarb-e-Azb|Zarb-e-Azb]]作戦)。12月、パキスタン・ターリバーンは軍が運営する学校を襲撃し、140人以上の生徒を殺害した([[2014年ペシャーワル学校襲撃事件]])<ref>{{Cite web|和書|title=イスラム武装勢力が学校を襲撃、生徒ら141人死亡 パキスタン|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3034458|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-03-14|language=ja}}</ref>。 == 第三回大統領選挙とターリバーンの分裂危機 == [[ファイル:Map of the European Migrant Crisis 2015.png|サムネイル|2015年欧州難民危機]] === 2015年 === 2015年、[[ISIL|イスラム国]]は[[パリ同時多発テロ事件]]などを起こし、世界に活動の輪を広げていた。1月、ターリバーンの一部が[[ISIL|イスラム国]]に寝返って「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言した<ref name="kouan20192">{{Cite web|和書|title=イラク・レバントのイスラム国(ISIL)の「ホラサン州」 {{!}} 国際テロリズム要覧(Web版) {{!}} 公安調査庁|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/ISIL-Khorasan.html|website=www.moj.go.jp|accessdate=2019-10-06|publisher=|year=2019}}</ref>。5月、アフガニスタン政府とターリバーンとの間で非公式協議が行われ、ターリバーンの政治事務所をカタールのドーハに開設することで合意した<ref name=":43">{{Cite journal|和書|author=登利谷正人 |year=2016 |url=https://doi.org/10.24765/asiadoukou.2016.0_599 |title=2015年のアフガニスタン ターリバーンとISの攻勢拡大により治安が急速に悪化 |journal=アジア動向年報 |ISSN=09151109 |publisher=独立行政法人 日本貿易振興機構アジア経済研究所 |volume=2016 |pages=599-620 |doi=10.24765/asiadoukou.2016.0_599 |naid=40020872572 |CRID=1390576535082610944}}</ref>。7月、パキスタンの仲介でアフガニスタン政府とターリバーンとの間で公式の和平協議が行われ、ターリバーンの最高指導者[[ムハンマド・オマル]]が声明を発表した<ref name=":43" />。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は中断した<ref name=":43" /><ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタンのタリバン、最高指導者オマル師の死亡認める|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3056031|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-12-14|language=ja}}</ref>。ターリバーンの内部で抗争が勃発し、武力衝突が起きた<ref name=":43" />。その後、ターリバーンの最高指導者に[[アフタル・ムハンマド・マンスール]]が就任した<ref>{{Cite web|和書|title=オマル師死亡 タリバンも認める 世界欺き死後2年も「偽声明」 後継は序列2位|url=https://www.sankei.com/article/20150730-FTT5YKAGGBMWXNRX2KPKSDLVUE/|publisher=産経ニュース|date=2015-07-30|accessdate=2015-10-14}}</ref>。一方、ウズベキスタン・イスラム運動の指導者である{{仮リンク|ウスマン・ガーズィ|en|Usman Ghazi}}は[[ISIL|イスラム国]]に寝返ったが、ターリバーンに攻められて死亡した<ref>{{cite news |language english = | author = | url =https://news.siteintelgroup.com/blog/index.php/categories/jihad/entry/408-2015-retrospective-how-the-fall-of-the-imu-reveals-the-limits-of-is%E2%80%99-expansion| title =How the Fall of the IMU Reveals the Limits of IS’ Expansion | publisher =| date= 2015-1-04| accessdate =2021-6-13}}</ref>。9月、ターリバーンはアフガニスタン第六の都市[[クンドゥーズ]]を短期的に占領した([[クンドゥーズの戦い]])。10月、衝撃を受けたアメリカ合衆国の[[バラク・オバマ]]大統領は米軍の完全撤退を断念した<ref>{{Cite web|和書|title=米軍、アフガン駐留を延長へ オバマ政権方針転換|url=https://www.bbc.com/japanese/34546742|publisher=BBC|date=2015-10-16|accessdate=2019-10-05}}</ref>。同年、多くの[[アフガン難民]]が欧州に避難しようとして、[[2015年欧州難民危機]]の一因になった。 === 2016年 === 2016年3月、ターリバーンの内部抗争が勃発し、[[ヘラート州]]で150人が死亡する大規模な戦闘が行われた<ref name=":32">{{Cite journal|和書|author=登利谷正人 |date=2017-05 |url=https://doi.org/10.24765/asiadoukou.2017.0_597 |title=2016年のアフガニスタン ターリバーン指導者殺害と先行きの見えない和平の行方 |journal=アジア動向年報 |ISSN=09151109 |publisher=独立行政法人 日本貿易振興機構アジア経済研究所 |volume=2017 |pages=597-618 |doi=10.24765/asiadoukou.2017.0_597 |naid=40021240167 |CRID=1390296829542485504}}</ref>。5月、アメリカ合衆国はターリバーンの最高指導者[[アフタル・ムハンマド・マンスール]]を殺害した<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=マンスール師殺害、アフガン和平に対する米国の期待薄を反映か|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3088441|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-12-14|language=ja}}</ref>。一説によるとアフタルは和平協議には否定的だったと言う<ref name=":02" />。後任の最高指導者には[[ハイバトゥラー・アクンザダ]]が就任した<ref>{{Cite news|title=タリバン、新指導者を発表 アフガニスタン|url=https://www.bbc.com/japanese/36376130|date=2016-05-25|accessdate=2019-12-14|language=en-GB}}</ref>。 === 2017年 === 2017年10月、イスラム国の首都[[ラッカ]]が陥落した。アフガニスタンでもイスラム国の最高指導者が米軍による空爆で死亡し、後継者争いにより組織が2つに割れ、ムアウィア・ウズベキスタ派がアフガニスタン北部に移動した<ref name="kouan20192"/>。同月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍に増加した。特に[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)は大半をターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。アメリカ合衆国の[[ドナルド・トランプ]]大統領は状況の悪化を防ぐために増派を決定した<ref>{{Cite web|和書|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|publisher=reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-10-05}}</ref>。一説によると2017年以降、空爆による民間人の死者が急増し、2019年には2016年の3倍(700人)に達したと言う<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン空爆の民間人死者、3年で4倍以上に=米研究|url=https://www.bbc.com/japanese/55225915|website=BBCニュース|date=2020-12-08|accessdate=2021-04-29|language=ja}}</ref>。 12月、約200人のイスラム国の部隊が[[ジョウズジャーン州]]ダルザーブ郡(Darzab)を支配下に置き、基地を建設していた。部隊には[[シリア]]から逃げてきた[[アルジェリア]]人や[[フランス]]人なども居た<ref>{{Cite web|url=https://www.tolonews.com/afghanistan/french-algerian-fighters-join-deash-afghanistan-report|title=French, Algerian Fighters Join Deash In Afghanistan: Report|publisher=TOLO NEWS|date=2017-12-10|accessdate=2019-10-06}}</ref>。 === 2018年 === 2018年2月、米軍はジョウズジャーン州のイスラム国部隊を[[B-52 (航空機)|B52]]で爆撃し、特殊部隊で急襲して現地司令官を殺害した<ref>{{Cite web|title=Afghan Forces Inflict Heavy Losses To Taliban: Nicholson|url=https://www.tolonews.com/afghanistan/afghan-forces-inflict-heavy-losses-taliban-nicholson|website=TOLOnews|accessdate=2019-10-07|language=en|publisher=|date=2018-02-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米国防総省、対ISIS特殊作戦の映像公開 アフガンで急襲|url=https://www.cnn.co.jp/world/35116899.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2019-10-07|language=ja|publisher=|date=2018-03-29}}</ref>。ターリバーンも[[:en:Battle of Darzab (2018)|イスラム国と交戦]]し、大打撃を受けたイスラム国の部隊は8月にアフガニスタン政府に投降した。投降したイスラム国の部隊は約250人でフランス人の他に[[インドネシア]]人やウズベキスタン人やタジキスタン人、パキスタン人なども加わっており、女性や子供の戦闘員も居た<ref>{{Cite web|url=https://www.tolonews.com/afghanistan/jawzjan-governor-says-province-%E2%80%98-clear-daesh%E2%80%99|title=Jawzjan Governor Says Province ‘Is Clear Of Daesh’|publisher=TOLO NEWS|date=2018-08-02|accessdate=2019-10-06}}</ref>。一方、イスラム国は戦闘員にアフガニスタンへの入国を呼び掛けており<ref>{{Cite web|和書|title=IS、イスラム教徒に「アフガン入国」呼び掛け 活動地域拡大を狙う|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3166556|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-10-06|language=ja|publisher=|date=2018-03-08}}</ref>、アフガニスタン北部に潜伏中の戦闘員は5000人に達するという説があった<ref>{{Cite web|和書|title=ISIS敗残兵の拠点と化すアフガニスタン|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/isis-163.php|website=Newsweek日本版|date=2019-05-28|accessdate=2019-10-06|language=ja}}</ref>。 8月、バードギース州ゴールマーチ郡のチャイニーズ・キャンプ基地が1000人のターリバーンに包囲され、孤立無援で陥落した<ref>{{Cite web|title=17 Soldiers Killed in Faryab Army Base Attack|url=https://www.tolonews.com/afghanistan/17-soldiers-killed-faryab%C2%A0army-base-attack|website=TOLOnews|accessdate=2019-10-07|language=en|publisher=|date=2018-08-12}}</ref>。基地には106人の守備隊が居たが<ref name=":22">{{Cite news|title=The Afghan Army’s Last Stand at Chinese Camp|url=https://www.nytimes.com/2018/08/14/world/asia/the-afghan-armys-last-stand-at-chinese-camp.html|work=The New York Times|date=2018-08-14|accessdate=2019-10-08|issn=0362-4331|language=en-US|first=Najim|last=Rahim|first2=Rod|last2=Nordland}}</ref>、アフガニスタン軍は[[:en:Ghazni offensive|ガズニ州の攻防戦]]やジョウズジャーン州のイスラム国部隊の降伏などに忙殺されてヘリコプターが足りず、ゴールマーチ郡まで支援の手が回らなかった<ref name=":22" />。 同年5月、パキスタンは[[連邦直轄部族地域]]を廃止し、[[カイバル・パクトゥンクワ州]]に併合した。国連によると[[連邦直轄部族地域]]に対する軍事作戦により、アルカーイダ系の武装集団がアフガニスタンに退避した。2018年現在アフガニスタンには1万人~1万5000人の外国人戦闘員が居り、そのうちアルカーイダは265人~400人だった。アルカーイダはターリバーンの保護の下で[[ザーブル州]]に訓練基地を設けており、ウサマ・ビン・ラディンの息子[[ハムザ・ビン・ラーディン]]に統率されている部隊もあった<ref>{{Cite journal|date=2018-05-30|title=Letter dated 16 May 2018 from the Chair of the Security Council Committee Established pursuant to Resolution 1988 (2011) addressed to the President of the Security Council|url=https://digitallibrary.un.org/record/1628256?ln=en|journal=United Nations Digital Library System|language=en}}</ref>。同年6月、米軍はパキスタン・ターリバーンの指導者[[マウラナ・ファズルッラー]]をアフガニスタン領内で空爆し殺害した<ref name="afpbb20180616">{{Cite news|title=マララさん襲撃首謀のタリバン指導者死亡、米軍攻撃で|newspaper=AFPBB News|date=2018年6月16日8時6分|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3178726|accessdate=2018-06-16}}</ref>。 === 2019年 === 国連によるとターリバーンの戦闘員は5万5000人〜8万5000人であり、非戦闘員を含めると総兵力は10万人に達する<ref name=":28" />。2019年3月、ファーリヤーブ州では州都マイーマナをはじめ州内の大半の郡がターリバーンに包囲され、アフガニスタン軍に多数の戦死者が出た<ref>{{Cite web|title=150 Security Force Members Killed In Two Weeks|url=https://www.tolonews.com/afghanistan/150-security-force-members-killed-two-weeks|website=TOLOnews|accessdate=2019-10-08|language=en|publisher=|date=2019-03-25}}</ref>。ガニー大統領によると2014年から5年間で4万5000人以上のアフガニスタン治安部隊員が殺害された<ref>{{Cite web|title=Afghanistan's Ghani says 45,000 security personnel killed since 2014|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-47005558|website=BBC|accessdate=2021-06-24|language=en|publisher=|date=2019-01-25}}</ref>。8月、[[ハムザ・ビン・ラーディン]]の死亡が発表された<ref>{{Cite web|和書|title=ビンラディン息子のハムザ容疑者、死亡か 米メディアが報道|url=https://www.bbc.com/japanese/49188105|website=BBCニュース|date=2019-08-01|accessdate=2021-04-29|language=ja}}</ref>。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|四回目の大統領選挙]]が行われた。同月、米軍とアフガニスタン軍はヘルマンド州で[[:en:al-Qaeda in the Indian Subcontinent|インド亜大陸のアルカーイダ]](AQIS)の指導者のアシム・ウマルを殺害した<ref>{{Cite news|title=アルカイダ重要人物、軍事作戦で死亡か=アフガニスタン当局|url=https://www.bbc.com/japanese/49982429|work=BBCニュース|accessdate=2021-04-29|language=ja}}</ref>。国連によるとアフガニスタン国内のアルカーイダは400人〜600人であり、ターリバーンの保護下でヘルマンド州など12州で活動していた<ref name=":28">{{Cite journal|last=Chair|first=UN Security Council Committee Established pursuant to Resolution 1988 (2011)|last2=Resolution 1988 (2011)|first2=UN Security Council Committee Established pursuant to|date=2020-07-13|title=Letter dated 10 July 2020 from the Chair of the Security Council Committee Established pursuant to Resolution 1988 (2011) addressed to the President of the Security Council|url=https://digitallibrary.un.org/record/3871736|language=en}}</ref>。アルカーイダはターリバーンと頻繁に会合を持ち、作戦計画や訓練について話し合っている<ref name=":28" />。またアルカーイダはハッカーニ・ネットワークに資金や訓練を提供して共同で2000人の部隊を編成し前線に送り出した<ref name=":28" />。ウマルの死後、アルカーイダはターリバーンの最高指導者の指示でアフガニスタン東部に移動したと言う<ref name=":28" />。12月、[[ナンガルハル州]]でNPO活動を行っていた[[中村哲 (医師)]]が殺害された。 同年2月、インドは[[2019年プルワマ襲撃事件]]の報復のために、パキスタン領内のカシミール過激派の拠点を爆撃した([[バーラーコート空爆]])。8月、インドはパキスタンのテロを防ぐために[[ジャンムー・カシミール州]]の自治権を廃止・はく奪し直轄領化した([[ジャンムー・カシミール連邦直轄領]])<ref>{{Cite web|和書|title=カシミールを「テロ」から解放 インド首相が演説|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3239175|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-03-14|language=ja|publisher=|date=2019-8-9}}</ref>。 ==和平合意成立と戦闘の激化== === 2020年 === {{Main|[[アフガニスタン和平プロセス]]|{{仮リンク|アフガニスタンからのアメリカ軍の撤退 (2020年-2021年)|en|Withdrawal of United States troops from Afghanistan (2020–2021)}}}} [[ファイル:Secretary Pompeo Participates in a Signing Ceremony in Doha (49601220548).jpg|サムネイル|カタールのドーハで和平合意に署名するターリバーンの代表[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]、米国の特使[[ザルメイ・ハリルザド]](2020年2月29日)]] [[2月29日]]、アメリカ合衆国とターリバーンの間で和平合意が成立した([[ドーハ合意]])。アメリカ合衆国は135日以内に駐留軍を縮小し、14ヶ月後の2021年4月末までにNATO軍と共に完全撤退すること、ターリバーンがアルカーイダなどを取り締まりアフガニスタンをテロの拠点にしないことが決まった<ref name="jiji202002">{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20200301160840/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020022900488&g=int|publisher=[[時事通信社]]|accessdate=2020-03-01|title=米とタリバンが和平合意 駐留米軍、14カ月以内完全撤収―アフガン戦争終結へ前進|date=2020-02-29}}</ref>。また合意にはアフガニスタン政府が5000人、ターリバーンが1000人の捕虜を解放することも盛り込まれた。しかし和平合意に参加していないアフガニスタン政府は5000人の解放に同意せず、1500人の解放しか認めなかった<ref name=":23">{{Cite news|title=タリバン、アフガン政府との交渉打ち切り 捕虜交換めぐり決裂|url=https://www.bbc.com/japanese/52210256|work=BBCニュース|date=2020-04-08|accessdate=2020-04-26|language=ja}}</ref>。アフガニスタン政府の関与なしに結んだこの合意は、専門家に「史上最も不名誉な外交交渉の一つ 」と呼ばれた<ref name=":47" />。 3月、ガニー大統領が再選し大統領就任を宣言したが、対立候補のアブドラ行政長官は納得せず、混乱が続いた<ref>{{Cite web|和書|title=アフガンのガニ大統領と対立候補が同時に就任宣誓、最中に爆発音|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3272442|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-04-26|language=ja}}</ref>。 4月、アフガニスタン政府は合計300人の捕虜を解放したが<ref>{{Cite web|title=100 More Taliban Prisoners Released, Total 300|url=https://tolonews.com/afghanistan/100-more-taliban-prisoners-released-total-300|website=TOLOnews|accessdate=2020-04-26|language=en}}</ref>、ターリバーンは納得せずアフガニスタン政府との交渉を打ち切った<ref name=":23" />。また交渉中も戦闘は継続しており、ターリバーンは3月から4月中旬までに2804回の攻撃を行い、789人の民間人が死傷した<ref>{{Cite web|title=Taliban Initiated 2,804 Attacks Post-Peace Deal: Official|url=https://tolonews.com/afghanistan/taliban-initiated-2804-attacks-post-peace-deal-official|website=TOLOnews|accessdate=2020-04-26|language=en}}</ref>。 5月、ガニー大統領とアブドラ行政長官の交渉が成立し、再び両者で権力を分け合うことになった<ref>{{Cite web|和書|title=アフガンのガニ大統領、政敵と再び連携 「並立」解消:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20200523004321/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020051700237&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2020-10-11|language=ja}}</ref>。またガニー大統領はターリバーンに対してもラマダン明けの[[イード・アル=フィトル]]の停戦が実現したことを評価し、2000人の捕虜釈放を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン捕虜2千人解放へ アフガニスタン政府、祝祭の停戦で|url=https://www.bbc.com/japanese/52794670|website=BBCニュース|date=2020-05-25|accessdate=2020-10-11|language=ja}}</ref>。 6月、アメリカ合衆国は駐留軍縮小の約束を果たして駐留軍を1万2000人から8600人に削減し、11月までに4500人にすると発表した<ref name=":24">{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:駐留米軍の撤退が一段と加速|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2020_075.html|website=公益財団法人 中東調査会|accessdate=2020-10-11|language=ja}}</ref>。ターリバーンは米軍や都市部に対する攻撃は控えているが、地方で戦闘を続けている<ref name=":24" />。 9月、アフガニスタン政府とターリバーンの初の和平交渉がカタールで開催された<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン和平協議が開幕、ポンペオ氏も出席 政府・タリバンの歩み寄りなるか|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3304277|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-10-11|language=ja}}</ref>。アフガニスタン政府は民主主義の維持を主張したが、ターリバーンはイスラム政体樹立を要求した<ref>{{Cite web|和書|title=停戦めぐり認識に大差 和平交渉開幕、早くも暗雲―アフガニスタン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20200915104559/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020091400572&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2020-10-11|language=ja}}</ref>。一方、ターリバーンは和平協議中にもかかわらず34州中28州で攻撃をしかけた<ref>{{Cite web|title=Violence Expands to 28 Provinces as Talks Face Delay|url=https://tolonews.com/afghanistan-167420|website=TOLOnews|accessdate=2021-04-29|language=en}}</ref>。 10月、ヘルマンド州では州都周辺の複数の検問所やカンダハール州に向かう基幹道路の一部がターリバーンに占領され、変電所の破壊により大規模な停電が発生した。州都陥落の危機に対して、米軍はターリバーンの攻撃をドーハ合意違反と断定して空爆を行い、ターリバーンを撃退した。攻撃を首謀したターリバーンの影の副知事は捕虜交換によりアフガニスタン政府から解放されたばかりだった<ref>{{Cite web|title=Highway Closed, Power Cut Off in Helmand Fighting|url=https://tolonews.com/afghanistan-166984|website=TOLOnews|accessdate=2021-04-29|language=en}}</ref>。国連はこの攻撃をどの程度和平合意を破れば米軍が出てくるかを試すための攻撃だったと見做している<ref name=":29">{{Cite journal|date=2021-6-1|title=Letter dated 20 May 2021 from the Chair of the Security Council Committee Established pursuant to Resolution 1988 (2011) addressed to the President of the Security Council|url=https://digitallibrary.un.org/record/3927909?ln=en|journal=United Nations Digital Library System}}</ref>。 同月、アフガニスタン政府は即時停戦を要求したが、ターリバーンは応じずに戦闘が続いた<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン高官 タリバンに「攻撃の即時停止」求める|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201002/k10012644601000.html|website=NHKニュース|accessdate=2020-10-28|last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.trt.net.tr/japanese/shi-jie/2020/10/21/ahuganisutan-taribantozhi-an-bu-dui-gafu-shu-zhou-dechong-tu-1513401|website=www.trt.net.tr|accessdate=2020-10-28|title=【アフガニスタン】 タリバンと治安部隊が複数州で衝突|publisher=}}</ref>。カーブルではイスラム国がシーア派地区の病院や学校を襲撃して子供や妊婦を殺害し<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタンの病院襲撃、死者24人に 新生児や母親ら|url=https://www.bbc.com/japanese/52643045|website=BBCニュース|date=2020-05-13|accessdate=2020-10-28|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=カブールの教育施設で自爆攻撃、少なくとも18人死亡|url=https://www.bbc.com/japanese/54679463|work=BBCニュース|accessdate=2020-10-28|language=ja}}</ref>、[[ナンガルハール州|ナンガハール州]]の刑務所を襲撃して囚人を解放した<ref>{{Cite web|和書|title=IS戦闘員ら270人逃亡中 アフガン刑務所襲撃で脱走|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3297471|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-10-28|language=ja}}</ref>。一説によると刑務所の襲撃者は多国籍であり、イスラム国はアフガニスタンだけでなくインドからタジキスタンまで広域に活動していると言う<ref>{{Cite web|和書|title=インドと中央アジアがISの新しい拠点に|url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21137|website=WEDGE Infinity(ウェッジ)|date=2020-10-27|accessdate=2020-10-28}}</ref>。 同月、FBIが最重要指名手配していたアルカーイダの[[:en:Abu Muhsin al-Masri|アブ・ムシン・アル・マスリー]]をアフガニスタン治安軍がガズニー州で殺害した<ref>{{Cite web|title=Afghanistan claims killing an al-Qaeda leader wanted by FBI|url=https://www.politico.com/news/2020/10/25/afghanistan-al-qaeda-killed-432188|website=POLITICO|accessdate=2021-04-29|language=en|first=Associated|last=Press}}</ref><ref>{{Cite journal|author=アフガニスタン復興担当特別監察官(SIGAR)|year=2021|title=January 30, 2021 Quarterly Report to Congress|journal=SIGAR Quarterly Reports to Congress|page=52}}</ref>。 11月、ターリバーンの攻撃が続く中でトランプ大統領は撤退を急いだ<ref>{{Cite web|和書|title=トランプ氏、アフガン駐留米軍「クリスマスまで」の撤退目指す|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3308918|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-04-15|language=ja}}</ref>。アメリカ合衆国は駐留軍を2021年1月までに2500人にすると発表し<ref>{{Cite news|title=トランプ氏、アフガン駐留米軍一部削減へ 完全撤退せず|url=https://jp.reuters.com/article/usa-afghanistan-trump-idJPKBN27X358|work=Reuters|date=2020-11-17|accessdate=2020-11-21|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>、一方的に1年間で約1万人の兵力を削減した。なおアフガン治安軍は[[アフガニスタン軍]]が約18万7000人、警察が約11万8000人である<ref>{{Cite journal|author=アフガニスタン復興担当特別監察官(SIGAR)|year=2021|title=January 30, 2021 Quarterly Report to Congress|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2021-01-30qr.pdf|journal=SIGAR Quarterly Reports to Congress|page=59}}</ref>。一方、ターリバーンの兵力は約5万8千人から10万人である<ref name=":29" />。 12月、カンダハール州ではアフガニスタン軍の一部が193もの検問所を放棄して勝手に撤退したことが問題になった<ref>{{Cite web|url=https://english.alarabiya.net/News/middle-east/2020/12/30/Afghan-troops-and-police-abandon-nearly-200-checkpoints-to-the-Taliban|title=Afghan troops and police abandon nearly 200 checkpoints to the Taliban|accessdate=2021年6月24日|publisher=AFP}}</ref>。ターリバーンは過去数年に渡って検問所を重点的に攻撃し、アフガニスタン軍や警察に被害を与えてきた。そのためアフガニスタン軍や警察は防備が手薄な検問所を廃止して、防備の硬い基地に部隊を移動させる政策を取っているが、地元の反対も根強い<ref>{{Cite journal|author=国防総省監察総監室|year=2020|journal=Operation Freedom's Sentinel Lead Inspector General Quarterly Report to Congress|volume=OCTOBER 1, 2020–DECEMBER 31, 2020|page=24}}</ref>。一方、ターリバーンは道路を占領して補給線を寸断することで、アフガニスタン軍や警察を検問所や基地から撤退させている<ref>{{Cite journal|author=国防総省監察総監室|year=2021|journal=Operation Freedom's Sentinel Lead Inspector General Quarterly Report to Congress|volume=JANUARY 1, 2021–MARCH 31, 2021|page=29}}</ref>。 和平交渉再開後の9月以降、ターリバーンは攻撃を激化させており、例年戦闘が小康状態になる冬季も異例のペースで攻撃を続けた<ref name=":29" />。また暗殺を強化しており、政府や軍・警察関係者だけでなく、NPOや医療従事者、ジャーナリスト、裁判官や検察官、知識人や著名な女性なども殺害した<ref name=":29" />。またターリバーンに対して批判的な宗教学者の暗殺も行っており、国連はアフガニスタンで起きた暗殺事件の8割以上はターリバーンによるものと見做していた<ref name=":29" />。結局、和平合意が成立した2020年も戦闘は続き、ターリバーンとアフガニスタン治安軍の双方に多数の死傷者が出た<ref name=":29" />。 === 2021年 === {| class="wikitable" style="float:right" |+アフガニスタンの大都市(2015年)<ref name=":04">{{Cite web|title=Afghanistan: Population Estimate for 2015 {{!}} HumanitarianResponse|url=https://www.humanitarianresponse.info/en/operations/afghanistan/infographic/afghanistanpopulation-estimate-2015|website=www.humanitarianresponse.info|accessdate=2019-10-16}}</ref> !順位 !都市名 !人口 |- |1 |[[カーブル]] |約367.8万人 |- |2 |[[ヘラート]] |約47.7万人 |- |3 |[[カンダハール]] |約43.5万人 |- |4 |[[マザーリシャリーフ]] |約40.2万人 |- |5 |[[ジャララバード]] |約22.6万人 |- |6 |[[クンドゥーズ]] |約15.7万人 |- |7 |[[プレ・フムリー]] |約10.8万人 |- |8 |[[:en:Maymana|マイーマナ]] |約8.4万人 |- |9 |[[:en:Sheberghan|シェベルガーン]] |約8.2万人 |- |10 |[[タールカーン]] |約7.4万人 |} 1月、[[アメリカ合衆国大統領]]に[[ジョー・バイデン]]が就任した。アフガニスタンではターリバーンの攻撃が続き、民間人に多数の死傷者が出ていた<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン 3か月間の民間死傷者1700人超 前年比30%増加|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210415/k10012975301000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-04-15|last=日本放送協会}}</ref>。またターリバーンとアルカーイダの協力関係も続いていた<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン情勢 国連「タリバンとアルカイダ 密接な関係」|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210228/k10012889601000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-04-15|last=日本放送協会}}</ref>。バイデン政権やアメリカ合衆国の議員団はターリバーンが和平合意を順守していないとみなし、トランプ政権による性急な撤退政策を見直すことにした<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:バイデン米政権による対アフガニスタン政策の見直し|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2020_131.html|website=公益財団法人 中東調査会|accessdate=2021-04-15|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=米、アフガン撤収期限延長すべき 超党派グループが議会に報告書|url=https://jp.reuters.com/article/usa-afghanistan-idJPKBN2A33B8|work=Reuters|date=2021-02-03|accessdate=2021-04-15|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。 2月、アメリカ合衆国や北大西洋条約機構(NATO)は4月末の完全撤退を断念し、撤退期限を延長した<ref name=":26">{{Cite news|title=外国軍のアフガン駐留延長へ、4月末の撤退期限以降も=NATO筋|url=https://jp.reuters.com/article/usa-afghanistan-nato-idJPKBN2A118I|work=Reuters|date=2021-02-01|accessdate=2021-04-15|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。 3月、アメリカ合衆国は駐留軍撤退後のターリバーンの勢力拡大や[[カーブル陥落 (2021年)|カーブル陥落]]の可能性に危機感を表し<ref name=":25">{{Cite news|title=タリバンの「春の攻勢」を警告 米国務長官がアフガン大統領に|url=https://www.bbc.com/japanese/56317466|work=BBCニュース|accessdate=2021-04-15|language=ja}}</ref>、アフガニスタン政府やターリバーンに国連やロシア、中国、インドなどの地域大国を交えた多国間による和平交渉の実施やトルコ軍など<ref>{{Cite web|title=Troops Withdrawal Will Plunge Afghanistan into Civil War: Mohaqiq|url=https://tolonews.com/afghanistan-171499|website=TOLOnews|accessdate=2021-04-26|language=en}}</ref>による新たな国際平和維持活動の設立<ref name=":25" />、アフガニスタン政府とターリバンによる連立政権の樹立などを勧めた<ref>{{Cite web|和書|title=多国間連携で和平構築へ 各国の思惑交錯―アフガン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210316221754/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031600745&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-04-15|language=ja}}</ref>。しかし一説によると連立政権についてアフガニスタン政府は難色を示していたと言う<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:米軍撤退期限を目前にバイデン政権による政治的動きが活発化|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2020_141.html|website=公益財団法人 中東調査会|accessdate=2021-04-15|language=ja}}</ref>。 同月、ターリバーンはアフガニスタン各地で攻撃を継続し、ファーリヤーブ州アルマール郡やローガル州のシャルフ郡などを占領した。またバードギース州ムルガーブ郡はアフガニスタン軍の撤退により、ターリバーンの手に落ちた<ref name=":29" /><ref name=":30">{{Cite web|title=Afghan security forces withdrawing from checkpoints, bases {{!}} FDD's Long War Journal|url=https://www.longwarjournal.org/archives/2021/03/afghan-security-forces-withdrawing-from-checkpoints-bases.php|website=www.longwarjournal.org|date=2021-03-03|accessdate=2021-06-24|language=en-US}}</ref>。 4月、アメリカ合衆国は9月11日までに駐留軍を完全撤退すると発表した<ref name=":27">{{Cite web|和書|title=バイデン氏「米最長の戦争終結」宣言 同時多発テロ20年の節目までにアフガン撤退へ|url=https://www.bbc.com/japanese/56754955|website=BBCニュース|date=2021-04-15|accessdate=2021-04-15|language=ja}}</ref>。しかし米国の軍部は撤退後の情勢について不安を表明している<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン撤退が米国に突き付ける新たな難題|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3342814|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-04-26|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン 米軍司令官“完全撤退でテロ組織増強か”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210423/k10012992391000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-04-26|last=日本放送協会}}</ref>。同月、トルコで和平会議が予定されていたが、ターリバーンの参加拒絶により5月以降に延期になった<ref name=":82">{{Cite web|title=Pakistanis Assure Afghan Govt of Taliban’s Return to Talks|url=https://tolonews.com/afghanistan-171731|website=TOLOnews|accessdate=2021-04-28|language=en}}</ref><ref>{{Cite news|title=アフガン和平会議、ラマダン明けの5月中旬以降に延期 トルコ発表|url=https://jp.reuters.com/article/usa-afghanistan-taliban-idJPKBN2C800C|work=Reuters|date=2021-04-21|accessdate=2021-04-26|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。一説によるとターリバーンは民主主義に反対しており<ref name=":103">{{Cite web|title=Taliban Explains Their Perception of an Islamic System|url=https://tolonews.com/afghanistan-171680|website=TOLOnews|accessdate=2021-04-29|language=en}}</ref>、女性の人権についても[[シャリーア]]で十分と考えている<ref name=":103"/>。ターリバーンはイスラム教に基づく中央集権国家を望んでおり、民主政府との連合政権には否定的であり<ref>{{Cite web|title=Taliban Has No Intention for A Military Takeover: Top Negotiator|url=https://tolonews.com/afghanistan-172019|website=TOLOnews|accessdate=2021-05-09|language=en}}</ref>、細部は無視するように求めている<ref>{{Cite web|title=Taliban Leader Says Group Wants 'Political Solution'|url=https://tolonews.com/afghanistan-173593|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-18|language=en}}</ref>。 6月、国連によると5割〜7割の州都で周辺部の郡を巡ってターリバーンとアフガニスタン政府軍が戦闘を行っており、州都周辺の一部の郡はターリバーンが占領している。また郡庁所在地の約6割(57%)はターリバーンに占領されている<ref name=":29" />。 ターリバーンは幹線道路や国境検問所・税関を手中に収めるために[[バダフシャーン州]]や[[バグラーン州]]、[[クンドゥーズ州]]や[[タハール州]]、[[ジョウズジャーン州|ジョズジャーン州]]などアフガニスタン北部に兵力を移動させた<ref name=":29" />。ターリバーンによる北部道路網の支配は2001年以降最大レベルに達しており、ターリバーンは高速道路に検問所を設置して<ref name=":30" />、アフガニスタン治安軍や政府関係者の移動を妨害し、通行税の徴収や麻薬や鉱物資源の輸出を行っている<ref name=":29" />。また一説によると2020年の戦闘により予め州都周辺に対する軍事的なプレッシャーを強めてあるため、外国軍が撤退して対応できなくなる頃を見計らって軍事作戦を行うつもりだと言う<ref name=":29" />。 6月1日から6月11日の間に、327人のアフガニスタン治安部隊が戦死し、民間人82人が戦闘に巻き込まれ死亡した。また、同じ期間に少なくとも11の郡がターリバーンに陥った<ref>{{Cite web|title=Taliban seizes another district in Afghanistan|url=https://www.freepressjournal.in/world/taliban-seizes-another-district-in-afghanistan|website=Free Press Journal|accessdate=2021-06-24|language=en}}</ref>。 6月16日、[[ファーリヤーブ州]]ダウラターバード郡に進出したアフガニスタン軍コマンド部隊がターリバーンに包囲され壊滅、隊員のうち少なくとも24人が戦死した<ref>{{Cite news|title=Elite Afghan Forces Suffer Horrific Casualties as Taliban Advance|url=https://www.nytimes.com/2021/06/17/world/asia/afghanistan-military-casualties.html|work=The New York Times|date=2021-06-17|accessdate=2021-06-24|issn=0362-4331|language=en-US|first=Thomas|last=Gibbons-Neff|first2=Najim|last2=Rahim}}</ref>。 6月18日、ターリバーンはクンドゥーズ州の州都近郊に部隊を集結させたが<ref>{{Cite web|title=Kunduz province in danger of falling to the Taliban {{!}} FDD's Long War Journal|url=https://www.longwarjournal.org/archives/2021/06/kunduz-province-in-danger-of-falling-to-the-taliban.php|website=www.longwarjournal.org|date=2021-06-22|accessdate=2021-06-24|language=en-US}}</ref>、結局攻撃は行わなかった<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン北部要衝を攻撃 タリバン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210621181648/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021062101236&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-06-24|language=ja}}</ref>。6月22日、クンドゥーズ州の他にバグラーン州やサーレポル州、ファーリヤーブ州は州都近郊までターリバーンが迫っていた<ref>{{Cite web|title=ANDSF Recaptures Three Districts in North as War Intensifies|url=https://tolonews.com/afghanistan-173011|website=TOLOnews|accessdate=2021-06-24|language=en}}</ref>。米軍は人口が10万人を超えるバグラーン州の州都プレフムリーやクンドゥーズ州の州都クンドゥーズに対しては支援を行っているようである。6月25日、バイデン大統領とガニ大統領の会談に合わせて、米軍はバグラーン州やクンドゥーズ州で[[無人航空機|ドローン]]による空爆を行った<ref>{{Cite web|title=US launches drone strikes in Afghanistan ahead of Biden's meeting with Ghani, defense official says|url=https://www.foxnews.com/world/us-launches-drone-strikes-afghanistan-biden-ghani|website=Fox News|date=2021-06-25|accessdate=2021-06-27|language=en-US|first=Lucas|last=Tomlinson}}</ref>。また一説によると、ターリバーンは米軍を刺激しないように州都など都市部への攻撃を自粛していると言う<ref>{{Cite web|title=Taliban forces rapidly gaining ground in Afghanistan as U.S. leaves|url=https://www.nbcnews.com/politics/national-security/even-taliban-are-surprised-how-fast-they-re-advancing-afghanistan-n1272236|website=NBC News|accessdate=2021-06-27|language=en}}</ref>。 6月19日、ガーニ大統領は国防大臣代行に[[ビスミッラー・ハーン・モハンマディ]]を任命した<ref>{{Cite web|title=Lawmakers: Unity, Not Reshuffling Posts, Will Overcome Crisis|url=https://tolonews.com/afghanistan-172970|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-09|language=en}}</ref>。前任者の[[:en:Asadullah Khalid|アサデュッーラ・カリード]]大臣は長期間不在だった<ref>{{Cite web|title=Current Situation Due to MoD’s Poor Management: Lawmakers|url=https://tolonews.com/afghanistan-173854|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-09|language=en}}</ref>。同月、陸軍の参謀総長にワリー・アフマドザイ将軍(Wali Ahmadzai)が任命されたが<ref name=":42">{{Cite web|title=MPs: Army Chief Focused on Rivalries, Not War|url=https://tolonews.com/afghanistan-173870|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-13|language=en}}</ref>、下院の国内治安委員会によるとターリバーンと戦うより報復人事に夢中になっていると言う<ref name=":42" />。 6月23日、ターリバーンはジョウズジャーン州[[アンドホイ郡]]を占領した。25日にアフガニスタン軍は同郡に進出し奪還を宣言したものの、翌26日には1000人以上のターリバーン戦闘員が現れ、激しい戦闘や空爆でバザールや家屋が破壊されたのち、再びターリバーン側に陥落した<ref>{{Cite web|title=سرچینې: د چارواکو د نه پاملرنې له امله د فاریاب اندخوی ولسوالۍ بیا سقوط شوه|url=https://pajhwok.com/ps/2021/06/26/source-charwako-de-pamlerna-in-amaleh-faryab-andkhoy-district-falling-down/|accessdate=2021-06-27|language=ps}}</ref>。一説によるとアフガニスタン軍は農村部に対する増派が遅れていると言う。またターリバーンは兵力や他の地域への進軍を誇張して宣伝するため、ターリバーンに包囲された部隊が動揺して撤退してしまうと言う<ref>{{Cite web|title=‘Delay in Reinforcements Major Reason Behind Fall of Districts’|url=https://tolonews.com/afghanistan-172991|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-22|language=en}}</ref>。ターリバーンは動画ニュースを作成し、アフガニスタン軍が逃げたと言う主張を広めている<ref>{{Cite web|和書|title=タリバーンとの和平協議、「ほぼ進展なし」 アフガン政府担当者がCNNに明かす|url=https://www.cnn.co.jp/world/35173311.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-07-23|language=ja}}</ref>。またターリバーンは6月1日から23日までに戦車8台、迫撃砲や重砲56機を鹵獲したと主張しており<ref>{{Cite web|title=Disaster At Hand: Documenting Afghan Military Equipment Losses Since June 2021|url=https://www.oryxspioenkop.com/2021/06/disaster-at-hand-documenting-afghan.html|website=Oryx Blog|accessdate=2021-06-24|last=Oryx}}</ref>、米軍のドローンが鹵獲された重火器を破壊して回っている<ref>{{Cite web|title=US Airstrikes Target Taliban, Military Equipment in Afghanistan {{!}} Voice of America - English|url=https://www.voanews.com/us-afghanistan-troop-withdrawal/us-airstrikes-target-taliban-military-equipment-afghanistan|website=www.voanews.com|accessdate=2021-07-23|language=en}}</ref>。 7月3日、[[バグラム空軍基地]]から米軍とNATO軍の全ての部隊が撤退した<ref>{{Cite news|title=アフガニスタンのバグラム空軍基地、最後の外国部隊が撤収|url=https://www.bbc.com/japanese/57704167|work=BBCニュース|accessdate=2021-07-18|language=ja}}</ref>。7月8日、アメリカ合衆国のバイデン大統領は撤退期限を前倒しして8月末までに米軍の撤退が完了すると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=米バイデン大統領 米軍アフガニスタン撤退 “8月末で完了”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210709/k10013128801000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-07-18|last=日本放送協会}}</ref>。またドイツ軍やイタリア軍、ポーランド軍は6月末までにアフガニスタンから撤退している<ref>{{Cite news|title=ドイツ軍、アフガンから撤退完了 約20年で15万人派兵|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-germany-military-withdrawal-idJPKCN2E605Z|work=Reuters|date=2021-06-30|accessdate=2021-07-14|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref><ref>{{Cite web|title=Germany, Italy Complete Troop Exit From Afghanistan {{!}} Voice of America - English|url=https://www.voanews.com/south-central-asia/germany-italy-complete-troop-exit-afghanistan|website=www.voanews.com|accessdate=2021-07-14|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Most European troops exit Afghanistan quietly after 20 years|url=https://apnews.com/article/europe-afghanistan-health-coronavirus-pandemic-9c1c4f5732c032ba85865aab0338a7a3|website=AP NEWS|date=2021-06-30|accessdate=2021-07-14|language=en}}</ref>。一方、トルコ軍は撤退せず、カーブルの[[カーブル国際空港|ハーミド・カルザイ国際空港]]を警備している為<ref name=":112">{{Cite web|title=Negotiators in Doha Held Talks on Five Key Issues: Sources|url=https://tolonews.com/afghanistan-173414|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-11|language=en}}</ref>、ターリバーンは反発している<ref>{{Cite news|title=タリバン、トルコによるカーブル空港警備の提案を拒否|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-turkey-idJPKCN2DN06R|work=Reuters|date=2021-06-11|accessdate=2021-07-11|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。 ターリバーンの攻勢は続いており、「中東かわら版」によると5月から7月の約2ヶ月間に407郡中114郡を陥落させたと言う<ref name=":33">{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:米軍撤退開始後の軍事情勢・和平プロセスにおける新たな展開|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2021_038.html|website=公益財団法人 中東調査会|accessdate=2021-07-22|language=ja}}</ref>。アフガニスタン軍が奪還した郡もあるため、全てがターリバーンの支配地になったとは言えないが、バダフシャーン州(28郡中26郡<ref>{{Cite web|title=Afghanistan at risk of collapse as Taliban storms the north {{!}} FDD's Long War Journal|url=https://www.longwarjournal.org/archives/2021/07/afghanistan-at-risk-of-collapse-as-taliban-storms-the-north.php|website=www.longwarjournal.org|date=2021-07-05|accessdate=2021-07-14|language=en-US}}</ref>)やタハール州のように州都以外は全てターリバーンに占領されている州も存在する<ref name=":33" />。ターリバーンは国境の通関を重点的に占領しており、6月から7月の間にタジキスタン国境のシルハンバンダル<ref name=":31">{{Cite web|title=Taliban capture Afghanistan's main Tajikistan border crossing|url=https://www.france24.com/en/live-news/20210622-taliban-capture-afghanistan-s-main-tajikistan-border-crossing|website=France 24|date=2021-06-22|accessdate=2021-06-24|language=en}}</ref>、イラン国境のイスラム・カラ<ref name=":34">{{Cite news|title=タリバン、国境の要所複数を制圧と アフガニスタン|url=https://www.bbc.com/japanese/57787137|work=BBCニュース|accessdate=2021-07-12|language=ja}}</ref>、トルクメニスタン国境のトルグンディ<ref name=":34" />、パキスタン国境の[[スピンボルダック]]<ref>{{Cite web|title=Afghan Taliban seize border crossing with Pakistan in major advance|url=https://www.reuters.com/world/asia-pacific/taliban-claims-control-key-afghan-border-crossing-with-pakistan-2021-07-14/|website=Reuters|date=2021-07-14|accessdate=2021-07-19}}</ref>がターリバーンの手に落ちた。 アフガニスタン軍はバダフシャーン州やタハール州で大敗を喫しており、タジキスタン政府によると、アフガニスタンからタジキスタンに敗走したアフガニスタン兵は2週間で1600人に及んでいると言う<ref>{{Cite news|title=アフガン兵1000人超が逃走 タリバンとの戦闘避け隣国タジキスタンへ|url=https://www.bbc.com/japanese/57717363|work=BBCニュース|accessdate=2021-07-18|language=ja}}</ref>。タジキスタンは国境防衛のために2万人の予備役兵を動員すると共に、[[集団安全保障条約]]を通じてロシアに援助を求めた。ロシアは要請に応じてタジキスタン内のロシア軍基地の使用準備を開始した<ref>{{Cite web|title=Tajikistan Asks Russia to Help on Afghan Border|url=https://tolonews.com/afghanistan-173375|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-18|language=en}}</ref>。7月9日、上海協力機構と欧州安全保障協力機構の合同会議はアフガニスタン北部で様々なテロリストや過激派グループの存在感が急激に増しており、アフガニスタン政府と連携して国境地帯の脅威の封じ込めや麻薬の製造・通過に対する実質的な対策を行うとした<ref>{{Cite web|title=Shanghai Cooperation Organisation {{!}} SCO|url=http://eng.sectsco.org/news/20210709/767748.html|website=eng.sectsco.org|accessdate=2021-07-22}}</ref>。また[[アタ・モハマド・ヌール]]<ref>{{Cite web|title=1,500 Public Force Members in Place to Defend Balkh|url=https://tolonews.com/afghanistan-173378|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-11|language=en}}</ref>や[[ラシッド・ドスタム]]<ref name=":242">{{Cite web|title=Dostum Urges Govt to Support Local Forces Under His Command|url=https://tolonews.com/afghanistan-173561|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-18|language=en}}</ref>などの北部軍閥がアフガニスタン政府の要請に応じて数千人の民兵を動員した。 7月上旬、ターリバーンは[[ガズニー州]]や[[カンダハール州]]の州都を激しく攻撃した<ref>{{Cite web|title=Taliban Intensifies Attacks on Ghazni City, Kandahar City|url=https://tolonews.com/afghanistan-173468|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-07|language=en}}</ref>。7月7日、ターリバーンは[[バードギース州]]の州都を攻撃した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、西部バドギス州都に攻撃開始 アフガニスタン|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3355499|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-07-23|language=ja}}</ref>。しかしアフガニスタン軍や民兵が反撃し、7月16日に停戦した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、アフガン西部州で停戦合意|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3356907|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-07-23|language=ja}}</ref>。 7月17日、ターリバーンとパキスタン当局はスピンボルダックの国境封鎖を解除した<ref>{{Cite web|title=Border crossing between Pakistan and Afghanistan reopens after Taliban seizure|url=https://www.france24.com/en/live-news/20210717-border-crossing-between-pakistan-and-afghanistan-reopens-after-taliban-seizure|website=France 24|date=2021-07-17|accessdate=2021-07-19|language=en}}</ref>。アフガニスタンのアムルッラー・サレー第一副首相は、パキスタン空軍がスピンボルダックのターリバーンを警護しているとしてパキスタンを非難した<ref>{{Cite web|title=Saleh: Pakistan Warning Against Attempts to Retake Spin Boldak|url=https://tolonews.com/afghanistan-173545|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-22|language=en}}</ref>。またガーニ大統領は推定によると先月パキスタンなどから1万人以上のジハード戦士がアフガニスタンに侵入したとしてパキスタンを非難した<ref>{{Cite web|title=President Ghani’s Bold Stance on Pakistan Sparks Reactions|url=https://tolonews.com/afghanistan-173578|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-22|language=en}}</ref>。7月21日、アフガニスタンの駐パキスタン大使の娘が拉致される事件が発生し、アフガニスタンとパキスタンの関係がさらに悪化した<ref>{{Cite web|和書|title=大使の娘拉致?深まる対立 アフガンとパキスタン、和平に影響も:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210720223329/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021072000674&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-07-23|language=ja}}</ref>。 == ターリバーンの全土攻勢 == {{Main|2021年ターリバーン攻勢}} {| class="wikitable sortable mw-collapsible mw-collapsed floatright" |+陥落した州都 !日付 !州 !都市名 |- |8月6日 |[[ニームルーズ州]] |[[ザランジュ陥落|ザランジュ]] |- |8月7日 |[[ジョウズジャーン州]] |[[シェベルガーン]] |- |8月8日 |[[クンドゥーズ州]] |[[クンドゥーズ]] |- |8月8日 |[[サーレポル州]] |サレプル |- |8月8日 |[[タハール州]] |[[タールカーン]] |- |8月9日 |[[サマンガーン州]] |アイーバク |- |8月10日 |[[ファラー州]] |ファラー |- |8月10日 |[[バグラーン州]] |[[プリ・フムリー]] |- |8月11日 |[[バダフシャーン州]] |[[ファイザーバード (バダフシャーン州)|ファイザーバード]] |- |8月12日 |[[ガズニー州]] |[[ガズニー]] |- |8月12日 |[[ヘラート州]] |[[ヘラート]] |- |8月12日 |[[バードギース州]] |[[カラエナウ]] |- |8月12日 |[[カンダハール州]] |[[カンダハール]] |- |8月13日 |[[ヘルマンド州]] |[[ラシュカルガー]] |- |8月13日 |[[ゴール州]] |[[チャグチャラーン]] |- |8月13日 |[[ローガル州]] |プリアラム |- |8月13日 |[[ザーブル州]] |カラート |- |8月13日 |[[ウルーズガーン州]] |タリーン・コート |- |8月14日 |[[パクティヤー州]] |ガルデーズ |- |8月14日 |[[パクティーカー州]] |シャラナ |- |8月14日 |[[クナル州]] |アサダーバード |- |8月14日 |[[ファーリヤーブ州]] |マイーマナ |- |8月14日 |[[ラグマーン州]] |メフタルラーム |- |8月14日 |[[ダーイクンディー州]] |ニリ |- |8月14日 |[[バルフ州]] |[[マザーリシャリーフ]] |- |8月15日 |[[ナンガルハール州]] |[[ジャラーラーバード]] |- |8月15日 |[[ヴァルダク州]] |マイダーンシャー |- |8月15日 |[[ホースト州]] |ホースト |- |8月15日 |[[バーミヤーン州]] |バーミヤーン |- |8月15日 |[[カーピーサー州]] |マフムーディラーキー |- |8月15日 |[[パルヴァーン州]] |チャーリーカール |- |8月15日 |[[ヌーリスターン州]] |パールーン |- |8月15日 |[[カーブル州]] |[[カーブル]] |} 7月17日と7月18日、[[イード・アル=アドハー]](犠牲祭)を前にアフガニスタン政府とターリバーンの和平協議がドーハで行われた。アフガニスタン政府は従来にない高位の要人を交渉団に参加させて、ターリバーンを説得しようとした<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:政府高官がターリバーンと直接交渉|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2021_041.html|website=公益財団法人 中東調査会|accessdate=2021-07-31|language=ja}}</ref>。7月18日、ターリバーンの指導者の[[ハイバトゥラー・アクンザダ]]は真剣に和平交渉を行っていると述べ、イスラム体制の確立・平和・治安の構築、世界との良好かつ強固な外交的・経済的・政治的な関係の構築、他国の治安を脅かす者に対する領土の使用禁止、内政不干渉による独立、大使館・外国組織・投資家の保護、イスラム教と国益の範囲内でのジャーナリズムの自由を約束した<ref>{{Cite web|title=Taliban Leader Says Group Wants 'Political Solution'|url=https://tolonews.com/afghanistan-173593|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-25|language=en}}</ref>。しかし結局、2021年は[[イード・アル=アドハー]]の停戦が実現しなかった。ガーニ大統領によるとアフガニスタン政府はターリバーンの要求に応じて5000人の捕虜を解放して来たが、ターリバーンには有意義な交渉を行う準備が無かった。ガーニ大統領は最後通牒として高位の和平交渉団を送り出したが、和平交渉団を率いるアブドラ・アブドラ議長からターリバーンには和平の意思がないという報告を受けた。今後は優先順位をつけて防衛を行い、国民の団結と断固たる態度を示して3〜6ヶ月で状況を打開すると述べた<ref>{{Cite web|title=President Ghani Blasts Taliban for Having ‘No Will’ for Peace|url=https://tolonews.com/afghanistan-173636|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-23|language=en}}</ref>。 7月22日、米軍のミリー統合参謀本部議長は420地区中210地区余りを反政府軍が支配しており<ref>{{Cite web|和書|title=米軍制服組トップ “アフガニスタン タリバンが半数地区支配”|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210722/k10013153741000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-07-22|last=日本放送協会}}</ref>、ターリバーンが優勢であることを認めた。しかし州都はどこも陥落しておらず、アフガニスタン軍は人口の多いカーブルや州都の防衛のために兵力調整をしており、このままターリバーンが勝利できるとは限らない。和平か敗戦か色々な可能性があり、状況を注視して対応したいと述べた<ref name=":36">{{Cite web|title=Milley says Taliban’s takeover in Afghanistan is ‘not a foregone conclusion’ as group gains ground while U.S. withdraws|url=https://www.stripes.com/theaters/middle_east/2021-07-21/afghanistan-taliban-us-withdrawal-austin-milley-2220021.html|website=Stars and Stripes|accessdate=2021-07-22|language=en}}</ref>。また米軍の撤退は95%完了しており<ref name=":36" />、撤退後は近隣国に地域の治安評価拠点を設置し、地平線の向こう側から空爆などの軍事的・財政的な支援を行うと述べた<ref name=":36" />。 実は[[アメリカ国防情報局]]は2020年末の報告書で、ターリバーンは米軍を確実に完全撤退させるために形だけ立派な交渉団を送って和平交渉に参加しているが、譲歩や妥協をする気が無い可能性が高く、軍事的な勝利を狙っており、2021年中の停戦は無く、撤退が停滞した場合は米軍への攻撃を再開すると報告していた<ref>{{Cite journal|author=国防総省監察総監室|year=2020|journal=Operation Freedom's Sentinel Lead Inspector General Quarterly Report to Congress|volume=OCTOBER 1, 2020–DECEMBER 31, 2020|page=12}}</ref>。バイデン大統領はアフガニスタンの将来を自己決定に委ね、アフガニスタン政府を応援することにした<ref>{{Cite news|title=Afghanistan: Biden says Afghans must decide their own future|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-57619932|work=BBC News|date=2021-06-26|accessdate=2021-07-25|language=en-GB}}</ref>。一説によると今後の展開としては1) アフガニスタン政府が州都などの支配を維持する、2) アフガニスタン政府が崩壊し、ターリバーンが支配する領域とそれ以外に分裂する、3) アフガニスタン政府が長期間持ちこたえることでターリバーンが諦めて政治的に妥協するという3つの可能性があると言う<ref>{{Cite news|title=UK military not defeated in Afghanistan, says head of British armed forces|url=https://www.bbc.com/news/uk-57774012|work=BBC News|date=2021-07-09|accessdate=2021-07-25|language=en-GB}}</ref>。 7月25日、ターリバーンの報道官はガーニ大統領の解任を要求した<ref>{{Cite web|title=To reach a peace deal, Taliban say Afghan president must go|url=https://apnews.com/article/middle-east-only-on-ap-taliban-ffbce635cf19ce4874700fd2d81a0f39|website=AP NEWS|date=2021-07-23|accessdate=2021-07-24|language=en}}</ref>。同日、アフガニスタン政府は[[カーブル州]]、[[パンジシール州]]、[[ナンガルハール州|ナンガハール州]]を除く34州中31州に[[夜間外出禁止令]]を発令した<ref>{{Cite web|title=Afghan Govt Imposes Nighttime Curfew in 31 Provinces|url=https://tolonews.com/afghanistan-173709|website=TOLOnews|accessdate=2021-07-24|language=en}}</ref>。 8月3日、ターリバーンは[[ヘラート州]]や[[ヘルマンド州]]の州都を激しく攻撃している<ref>{{Cite news|title=アフガニスタンで市街戦が激化、タリバンの進攻続く|url=https://www.bbc.com/japanese/58066339|work=BBCニュース|accessdate=2021-08-04|language=ja}}</ref>。 8月6日、政府メディア情報センターの責任者がターリバーンによって殺害された。ターリバーンは空爆の報復として今後も政府高官のを標的にすると警告した<ref>{{cite news |title=Taliban kills head of Afghanistan gov't's media department |url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/6/afghanistan-taliban-provincial-capitals |access-date=6 August 2021 |agency=Al Jazeera |date=6 August 2021 |archive-date=6 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210806110244/https://www.aljazeera.com/news/2021/8/6/afghanistan-taliban-provincial-capitals |url-status=live }}</ref>。ターリバーンはニームルーズ州の州都を占領した<ref>{{Cite web|title=Taliban Captures Capital of Nimroz Province|url=https://tolonews.com/afghanistan-174026|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-06|language=en}}</ref>。首都カーブルから直線距離で800km離れた辺境の州であるが、ターリバーンはついに州都の占領に成功した。SNSでは戦闘員が鹵獲したSUVや軍用ハンビーを運転し、地元の住民が歓迎する様子が伝えられた<ref>{{cite web |last1=Mojaddidi |first1=Mushtaq |title=Second Afghan city falls as Taliban tighten noose over countryside |url=https://www.timesofisrael.com/second-afghan-city-falls-as-taliban-tighten-noose-over-countryside/ |website=www.timesofisrael.com |access-date=9 August 2021 |date=7 August 2021 |archive-date=9 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210809064534/https://www.timesofisrael.com/second-afghan-city-falls-as-taliban-tighten-noose-over-countryside/ |url-status=live }}</ref>。国連特使は「致命的な段階」に入ったと警告し<ref>{{cite web|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/6/war-in-afghanistan-entered-deadlier-phase-un-envoy-warns|title=War in Afghanistan enters 'deadlier' phase, UN envoy warns|publisher=Al Jazeera|access-date=7 August 2021|archive-date=7 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210807041644/https://www.aljazeera.com/news/2021/8/6/war-in-afghanistan-entered-deadlier-phase-un-envoy-warns|url-status=live}}</ref>、英国及び米政府はアフガニスタンからの自国民の「退去」を勧告した<ref>{{Cite web|last=Welle (www.dw.com)|first=Deutsche|title=UK tells its nationals to leave Afghanistan immediately {{!}} DW {{!}} 7 August 2021|url=https://www.dw.com/en/uk-tells-its-nationals-to-leave-afghanistan-immediately/a-58789804|access-date=7 August 2021|website=DW.COM|language=en-GB|archive-date=7 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210807131821/https://www.dw.com/en/uk-tells-its-nationals-to-leave-afghanistan-immediately/a-58789804|url-status=live}}</ref><ref>{{cite news |title=US and Britain Ask Citizens to Leave Afghanistan |url=https://www.voanews.com/south-central-asia/us-and-britain-ask-citizens-leave-afghanistan |access-date=8 August 2021 |work=Voice of America |date=7 August 2021 |language=en |archive-date=8 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210808024838/https://www.voanews.com/south-central-asia/us-and-britain-ask-citizens-leave-afghanistan |url-status=live }}</ref>。 8月7日、ターリバーンは[[ジョウズジャーン州]]の州都シェベルガーン市を占領した<ref>{{Cite news|title=Taliban Take Second Afghan City in Two Days|url=https://www.nytimes.com/2021/08/07/world/asia/taliban-afghanistan.html|work=The New York Times|date=2021-08-07|accessdate=2021-08-07|issn=0362-4331|language=en-US|first=Thomas|last=Gibbons-Neff|first2=Fahim|last2=Abed|first3=Sharif|last3=Hassan}}</ref>。シェベルガーンは人口が多く戦略上重要な都市だった。またドスタム派の中心地であり政府側民兵の働きが大いに期待されていたが、期待はずれに終わった<ref>{{Cite web|title=Afghans Question Govt’s Security Strategy amid Taliban Advances|url=https://tolonews.com/afghanistan-174054|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-08|language=en}}</ref>。地元の有力者であり元将軍の[[ラシッド・ドスタム]]が政府唯一の支配地区 ''Du Koh District''に退避した。ターリバーンは[[クンドゥーズ州]]や[[タハール州]]、[[バダフシャーン州]]の州都も攻撃している<ref>{{Cite web|title=Fierce Fighting Grips Capitals of Northern Provinces|url=https://tolonews.com/afghanistan-174050|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-07|language=en}}</ref>。同日夜、米軍の[[B-52 (航空機)|B52]]がジョウズジャーン州やヘルマンド州の州都を爆撃した<ref>{{Cite web|title=20 Civilians Killed in Helmand, Health Clinic, School Destroyed|url=https://tolonews.com/afghanistan-174088|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-08|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米B52爆撃機がアフガン北部を空爆、タリバン兵200人をせん滅|url=https://sputniknews.jp/20210808/8608661.html|website=jp.sputniknews.com|accessdate=2021-08-08|language=ja}}</ref>。 8月8日、ターリバーンは[[クンドゥーズ州]]の州都を制圧した。同グループは警察本部、知事の敷地、市内の刑務所を占拠し、アフガニスタン軍が実効支配する領域は基地と空港に限られている<ref>{{Cite web|title=Taliban captures Kunduz, third provincial capital in three days|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/8/taliban-captures-third-provincial-capital-in-three-days|website=www.aljazeera.com|accessdate=2021-08-08|language=en}}</ref>。同日、クンドゥーズ州の東隣りにある[[タハール州]]の州都もターリバーンに占領された<ref>{{Cite news|title=北部3州の州都を占領、タリバンの進攻続く アフガニスタン|url=https://www.bbc.com/japanese/58141486|work=BBCニュース|accessdate=2021-08-09|language=ja}}</ref>。更に同日、ターリバーンはシェベルガーン市を流れるサフィード川の上流にある[[サーレポル州]]の州都も制圧した<ref>{{Cite web|title=Taliban seize government buildings in Afghan cities Kunduz, Sar-e Pul|url=https://www.reuters.com/world/asia-pacific/taliban-capture-government-buildings-afghan-city-kunduz-2021-08-08/|website=Reuters|date=2021-08-08|accessdate=2021-08-08}}</ref>。同日、ターリバーンはクンドゥーズ州の西隣にあり北部最大の都市である[[バルフ州]]の州都にも迫った<ref>{{Cite web|title=Fighting Underway in Balkh, Takhar Provinces|url=https://tolonews.com/afghanistan-174094|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-09|language=en}}</ref>。ターリバーンの急速な前進はアフガニスタン軍の士気の低下と脱走を招いた<ref>{{cite web |last1=Latifi |first1=Ali |title=Taliban captures Kunduz, third provincial capital in three days |url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/8/taliban-captures-third-provincial-capital-in-three-days |website=Al Jazeera |publisher=Al Jazeera |access-date=8 August 2021 |archive-date=8 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210808073412/https://www.aljazeera.com/news/2021/8/8/taliban-captures-third-provincial-capital-in-three-days |url-status=live }}</ref><ref>{{cite news |last1=Gibbons-Neff |first1=Thomas |title=The Taliban seize Kunduz, a major city in northern Afghanistan. |url=https://www.nytimes.com/2021/08/08/world/asia/afghanistan-taliban-kunduz.html |work=The New York Times |date=8 August 2021 |access-date=8 August 2021 |archive-date=8 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210808075024/https://www.nytimes.com/2021/08/08/world/asia/afghanistan-taliban-kunduz.html |url-status=live }}</ref>。 8月9日、アフガニスタン軍が撤退した為、ターリバーンは[[サマンガーン州|サマーンガン州]]の州都を占領した<ref name=":37">{{Cite web|title=Samangan’s Center Aybak Falls to Taliban|url=https://tolonews.com/afghanistan-174107|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-09|language=en}}</ref>。一方、タハール州やクンドゥーズ州のアフガニスタン軍は州都やその周辺でターリバーンと戦っている<ref name=":37" />。同日、ガーニ大統領はラシッド・ドスタムの提案を受け入れて民兵を統括する公衆蜂起軍統合指令センターを設立し、民兵の動員や武器の供給を行うことを発表した<ref>{{Cite web|title=Ghani, Political Leaders Agree on Public Forces Command Center|url=https://tolonews.com/afghanistan-174108|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-09|language=en}}</ref>。内務大臣によると政府軍の敗走により道路の支配を失ったため、補給や負傷者の後送はヘリコプター頼みになっている。その上、米軍の突然の撤退により全国400箇所で戦闘が始まってしまった。アフガニスタン政府は地元の指導者に民兵の動員や戦闘の権限を移譲して、政府軍の敗走を止め、都市を取り囲む防衛線に再集結し、攻勢に転じるという三段階の作戦を考えていると言う<ref>{{Cite web|title=Afghanistan’s interior minister reveals plan to push back Taliban|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/11/afghanistans-interior-minister-reveals-plan-to-push-back-taliban|website=www.aljazeera.com|accessdate=2021-08-13|language=en|first=Al Jazeera|last=Staff}}</ref>。一方、これは2003年に日本が主導して行った[[武装解除・動員解除・社会復帰]]の終焉でもあった。 8月10日、アメリカ合衆国がパキスタンに対して国境沿いのターリバーンの安全地帯を閉鎖するように依頼したので<ref>{{Cite web|title=US in Talks With Pakistan on Insurgent Safe Havens: Pentagon|url=https://tolonews.com/afghanistan-174129|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-10|language=en}}</ref>、パキスタンは通関するアフガニスタン人にパスポートやビザを要求して、[[スピンボルダック]]を閉鎖に追い込んだ<ref>{{Cite web|title=Pakistan FM Criticizes ANDSF, Denies Helping Taliban|url=https://tolonews.com/afghanistan-174126|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-10|language=en}}</ref>。同日、ターリバーンはクンドゥーズ州の南にある[[バグラーン州]]の州都を占領した<ref name=":38">{{Cite news|title=タリバン、7州都制圧 バイデン氏「アフガン指導者は団結を」|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-conflict-kabul-idJPKBN2FB1WI|work=Reuters|date=2021-08-11|accessdate=2021-08-11|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。バグラーン州は[[サラン峠]]の北側に位置する戦略的に重要な州であり、クンドゥーズ州への増援や首都カーブルの防衛にとって大きなマイナスとなった。同日、ターリバーンはニームルーズ州の北にある[[ファラー州]]の州都も占領した<ref name=":38" />。同日、アフガニスタン政府の財務大臣が辞任して出国した<ref>{{Cite web|title=Acting Finance Minister Leaves Country: Sources|url=https://tolonews.com/afghanistan-174137|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-13|language=en}}</ref>。 8月11日、ターリバーンは[[バダフシャーン州]]の州都を占領した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、9カ所目の州都制圧 アフガン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210810225832/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081100229&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-08-11|language=ja}}</ref>。この都市は北部同盟の本拠地だった<ref name="pc9">{{cite news |last1=Roggio |first1=Bill |title=Former headquarters of Northern Alliance falls under Taliban control |url=https://www.longwarjournal.org/archives/2021/08/former-headquarters-of-northern-alliance-falls-under-taliban-control.php |access-date=11 August 2021 |publisher=FDD's Long War Journal |date=10 August 2021 |archive-date=10 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210810213946/https://www.longwarjournal.org/archives/2021/08/former-headquarters-of-northern-alliance-falls-under-taliban-control.php |url-status=live }}</ref>。 === 米軍主導の首都撤退 === {{Main|{{仮リンク|Operation Allies Refuge|en|Operation Allies Refuge}}|{{仮リンク|Operation Pitting|en|Operation Pitting}}}} 8月12日、ターリバーンはクンドゥーズ空港を占領した<ref name=":39">{{Cite news|title=アフガン陸軍トップ解任 タリバン進撃続ける|url=https://www.bbc.com/japanese/58183682|work=BBCニュース|accessdate=2021-08-12|language=ja}}</ref>。同日、ガズニー州やカンダハール州やヘルマンド州やヘラート州の州都でも激しい戦闘が続いた<ref name=":39" /><ref name=":40">{{Cite web|title=Taliban Attacks in Herat and Badghis Pushed Back: Officials|url=https://tolonews.com/afghanistan-174169|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-12|language=en}}</ref>。またバードギース州の停戦も破れた<ref name=":40" />。同日、州知事が勝手に交渉して退却したため<ref>{{Cite web|title=Taliban Take Over Ghazni City, Governor Arrested|url=https://tolonews.com/afghanistan-174179|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-13|language=en}}</ref>、ターリバーンは[[ガズニー州]]の州都を占領した<ref>{{Cite web|和書|title=10カ所目の州都陥落 政府、停戦と権力分担提案―アフガン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210812090518/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081200893&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-08-12|language=ja}}</ref>。ガズニーはカーブルの南の入口のような場所にあり、首都カーブルの防衛にとって大きなマイナスとなった。同日、アメリカ合衆国のバイデン大統領は団結して戦うように呼びかけた<ref>{{Cite news|title=バイデン米大統領、アフガニスタン撤退は「後悔していない」|url=https://www.bbc.com/japanese/58168335|work=BBCニュース|accessdate=2021-08-13|language=ja}}</ref>。しかし一説によるとアフガニスタン軍の士気は低下していると言う<ref>{{Cite web|和書|title=タリバンがアフガニスタンを奪い返す勢い──バイデンは何を読み違えたのか|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/08/post-96900.php|website=Newsweek日本版|date=2021-08-13|accessdate=2021-08-13|language=ja}}</ref>。8月12日、アメリカ合衆国はカーブルの大使館の縮小と撤退支援の為に3000人の増派を発表した<ref>{{Cite news|title=米、在アフガン大使館の職員縮小へ 約3000人の部隊を一時派遣|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-conflict-usa-citizens-idJPKBN2FD1Q6|work=Reuters|date=2021-08-12|accessdate=2021-08-15|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。英国は600人の軍をカーブル空港に配備することを発表した。当局者は、展開は24〜48時間で行われ、月末までに完了すると述べた。計画はチャーター機を使用し、カーブル空港を利用して避難する。ただし、それが不可能になった場合は軍用機を使用する。英国政府によると避難は長い間計画されていたが、治安状況が急速に悪化したためタイミングが早められたと述べた。3000人の米軍に加えて、武力紛争がエスカレートした場合に備えて、さらに3500人がクウェートで待機する<ref>{{cite news |last1=Ali |first1=Idrees |last2=Landay |first2=Jonathan |title=U.S. to reduce Kabul embassy to core staff, add 3,000 troops to help |url=https://www.reuters.com/world/asia-pacific/exclusive-us-evacuate-significant-number-employees-embassy-kabul-officials-2021-08-12/ |access-date=12 August 2021 |publisher=Reuters |date=12 August 2021 |archive-date=12 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210812172621/https://www.reuters.com/world/asia-pacific/exclusive-us-evacuate-significant-number-employees-embassy-kabul-officials-2021-08-12/ |url-status=live }}</ref><ref>{{cite news |last1=Sengupta |first1=Kim |title=UK to send up to 600 troops to Afghanistan to help evacuate Britons as Taliban closes in on Kabul |url=https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/uk-troops-afghanistan-evacuate-taliban-b1901714.html |access-date=12 August 2021 |work=The Independent |date=12 August 2021 |archive-date=12 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210812190311/https://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/uk-troops-afghanistan-evacuate-taliban-b1901714.html |url-status=live }}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.devdiscourse.com/article/international/1691130-us-to-send-three-battalions-two-marines-one-army-to-help-evacuate-embassy-staff-in-kabul|title=US to send three battalions, two Marines, one Army to help evacuate embassy staff in Kabul &#124; International|access-date=12 August 2021|archive-date=13 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210813112440/https://www.devdiscourse.com/article/international/1691130-us-to-send-three-battalions-two-marines-one-army-to-help-evacuate-embassy-staff-in-kabul|url-status=live}}</ref>。カナダは、過去にカナダのスタッフと一緒に働いたアフガニスタンの家族の収容、カーブルの大使館職員を避難させるために、カナダの特殊部隊が配備されると発表した<ref>{{Cite web |url=https://globalnews.ca/news/8108721/canada-military-afghanistan-embassy/ |title=Canadian military preparing to evacuate Canadians from Afghanistan: Sources - National &#124; Globalnews.ca |access-date=13 August 2021 |archive-date=13 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210813060754/https://globalnews.ca/news/8108721/canada-military-afghanistan-embassy/ |url-status=live }}</ref>。デンマーク政府とノルウェー政府は、カーブルにある大使館が安全上の理由で閉鎖されることを発表し、彼らの外交スタッフと彼らと一緒に働いていたアフガニスタン人を避難させる計画を立てている<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonpost.com/national/the-latest-nato-envoys-meet-on-taliban-blitz-in-afghanistan/2021/08/13/24ff4df8-fc42-11eb-911c-524bc8b68f17_story.html |title=The Latest: UN statement would urge end to Taliban offensive - The Washington Post<!-- Bot generated title --> |access-date=13 August 2021 |archive-date=13 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210813153119/https://www.washingtonpost.com/national/the-latest-nato-envoys-meet-on-taliban-blitz-in-afghanistan/2021/08/13/24ff4df8-fc42-11eb-911c-524bc8b68f17_story.html |url-status=live }}</ref>。 8月12日から13日にかけて、ターリバーンはヘラート州と[[カンダハールの戦い (2021年)|カンダハール州の州都を占領]]した<ref name=":41">{{Cite web|和書|title=タリバンが第2、3の都市制圧 14州都陥落、政府大打撃―アフガン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210812232816/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081300221&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-08-13|language=ja}}</ref>。ヘラートとカンダハールは人口40万人以上の大都市であり、アフガニスタンで二番目と三番目に人口が多い大都市である。大都市には軍団の司令部や空港があり、周辺の州に対する航空支援を行っている。そのため大都市が陥落すると周辺州の戦況も悪化し、ヘラート州に隣接するバードギース州、カンダハール州に隣接するヘルマンド州や[[ザーブル州]]が陥落した<ref name=":35">{{Cite web|title=Kandahar, Helmand and Zabul Also Fall to Taliban|url=https://tolonews.com/afghanistan-174207|website=TOLOnews|accessdate=2021-08-14|language=en}}</ref>。一説によると地元の長老が住民の被害や公共施設の破壊を避けるように政府軍やターリバーンに陳情し、それに応じて政府軍が撤退していると言う<ref name=":35" />。 8日13日、カーブル州の南に隣接する[[ローガル州|ロガール州]]が陥落した<ref name=":44">{{Cite web|和書|title=タリバン、首都に迫る 第2、3の都市も制圧―政府、防衛に打つ手なし・アフガン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210813113229/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081301117&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-08-14|language=ja}}</ref>。ターリバーンは8月6日以降の約8日間で第2位・第3位の大都市を含む34州中18州を占領し、首都カーブルの近郊まで到達した<ref name=":44" />。地方の軍や国民はターリバーンに対して徹底抗戦する気がない事が分かった。 8月14日、ターリバーンは国内第四位の大都市である[[バルフ州]]の州都マザーリシャリーフ市を占領した<ref name=":45">{{Cite web|title=Huge blow for Afghan gov’t as Taliban seizes northern stronghold|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/14/major-northern-afghan-city-mazar-i-sharif-falls-to-the-taliban|website=www.aljazeera.com|accessdate=2021-08-15|language=en}}</ref>。一説によるとアフガニスタン軍があっさり降伏した為、民兵も戦意を失い、[[アタ・モハマド・ヌール]]や[[ラシッド・ドスタム]]は州外に逃亡した<ref name=":45" />。同日、ターリバーンは[[ナンガルハール州|ナンガハール州]]の州都ジャララバード市を占領した<ref name=":46">{{Cite web|title=Taliban seizes Jalalabad, cuts off Kabul from east|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/15/taliban-capture-afghanistans-jalalabad-cut-off-kabul-from-east|website=www.aljazeera.com|accessdate=2021-08-15|language=en}}</ref>。一説によると地元の長老の依頼により州政府や軍は無抵抗で市を引き渡した<ref name=":46" />。ジャララバードは国内第五位の大都市であり、[[カイバル峠]]を擁する戦略上重要な都市である。ターリバーンは西部(ヘラート)・南部(カンダハール)・北部(マザーリシャリーフ)・北東部(クンドゥーズ)・東部(ジャララバード)を占領し、首都カーブルは完全に孤立した。 == カーブル陥落 == {{Main|[[カーブル陥落 (2021年)]]}} [[ファイル:Emirate Islami (Taliban) Flag.jpg|サムネイル|アメリカ大使館の壁に描かれたターリバーンのシャハーダ]] 8月15日、ターリバーンは首都カーブルを包囲し、アフガニスタン政府は政権移譲の意思を示した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、首都郊外に進軍 政府「権力移譲」に言及―アフガン:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210815084521/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081500333&g=int|website=時事ドットコム|accessdate=2021-08-15|language=ja}}</ref>。同じ日、「武力で首都を取る計画はない」との声明を出したにもかかわらずカーブルの郊外に入り、Kalakan地区、Qarabagh地区、およびPaghman地区<ref>{{cite news |title=Taliban enter Kabul from all sides |url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/15/taliban-enter-kabul-from-all-sides |access-date=15 August 2021 |work=www.aljazeera.com |language=en |archive-date=15 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210815081408/https://www.aljazeera.com/news/2021/8/15/taliban-enter-kabul-from-all-sides |url-status=live }}</ref>。プル・エ・チャルキ刑務所での都市全体の停電と暴行および囚人の暴行の可能性が報告された<ref>{{Cite web|url=https://www.garda.com/crisis24/news-alerts/513486/afghanistan-heavy-fighting-ongoing-on-the-outskirts-of-kabul-as-of-early-aug-15-a-total-blackout-reported-in-the-city|title=Afghanistan: Heavy fighting ongoing on the outskirts of Kabul as of early Aug. 15; a total blackout reported in the city|access-date=15 August 2021|archive-date=15 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210815010510/https://www.garda.com/crisis24/news-alerts/513486/afghanistan-heavy-fighting-ongoing-on-the-outskirts-of-kabul-as-of-early-aug-15-a-total-blackout-reported-in-the-city|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web|date=2021-08-15|title=Kabul: US starts evacuating embassy as Taliban reach outskirts of Afghanistan capital|url=http://www.theguardian.com/world/2021/aug/15/taliban-afghanistan-kabul-evacuations-jalalabad|access-date=2021-08-15|website=the Guardian|language=en|archive-date=15 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210815081821/https://www.theguardian.com/world/2021/aug/15/taliban-afghanistan-kabul-evacuations-jalalabad|url-status=live}}</ref>。ボーイングCH-47チヌークとシコルスキーUH-60ブラックホークヘリコプターが避難を実行するためにカーブルのアメリカ大使館に着陸し始め、外交官が機密文書を慌ただしく処分していると報告された<ref>{{Cite web|title=Taliban Fighters Enter Kabul As Helicopters Land At U.S. Embassy|url=https://www.npr.org/2021/08/15/1027806863/the-taliban-seize-jalalabad-cutting-off-kabul-to-the-east|access-date=2021-08-15|website=NPR.org|language=en|archive-date=15 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210815113718/https://www.npr.org/2021/08/15/1027806863/the-taliban-seize-jalalabad-cutting-off-kabul-to-the-east|url-status=live}}</ref>。 アフガン内務省はガニー大統領が国外に脱出したこと、ターリバーンが率いる暫定政府が樹立されることを発表した<ref>{{cite news |title=Afghan president to abdicate after Taliban entered Kabul: Sources |url=https://english.alarabiya.net/News/world/2021/08/15/Taliban-begin-offensive-on-Kabul-Interior-Ministry |access-date=15 August 2021 |work=Al Arabiya English |date=15 August 2021 |language=en |archive-date=15 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210815074007/https://english.alarabiya.net/News/world/2021/08/15/Taliban-begin-offensive-on-Kabul-Interior-Ministry |url-status=live }}</ref>。カルザイ前大統領は交渉チームの一員となることになっていた<ref>{{cite news |title=Ghani, Political Leaders Agree to Form Team for Negotiations |url=https://tolonews.com/afghanistan-174232 |access-date=15 August 2021 |agency=[[TOLO News]] |date=15 August 2021 |archive-date=14 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210814163643/https://tolonews.com/afghanistan-174232 |url-status=live }}</ref>。ターリバーンは、政権交代を待ち、無理矢理カーブルに入らないように戦闘員に命じた<ref>{{cite news |title=Taliban Says It Will Not Enter Kabul by Force |url=https://tolonews.com/afghanistan-174245 |access-date=15 August 2021 |agency=[[TOLO News]] |date=15 August 2021 |archive-date=15 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210815095821/https://tolonews.com/afghanistan-174245 |url-status=live }}</ref>。治安部隊は[[バグラム空軍基地]]をターリバーンに降伏させた。空軍基地には、約5000人のターリバーンとイラクのISILの囚人が収容されている<ref>{{Cite news|last=Mistlin (now)|first=Alex|last2=Sullivan (earlier)|first2=Helen|last3=Harding|first3=Luke|last4=Harding|first4=Luke|last5=Borger|first5=Julian|last6=Mason|first6=Rowena|date=2021-08-15|title=Afghanistan: Kabul to shift power to ‘transitional administration’ after Taliban enter city – live updates|language=en-GB|work=The Guardian|url=https://www.theguardian.com/world/live/2021/aug/15/afghanistan-taliban-close-in-on-kabul-as-last-government-stronghold-in-north-falls|access-date=2021-08-15|issn=0261-3077|archive-date=15 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210815103044/https://www.theguardian.com/world/live/2021/aug/15/afghanistan-taliban-close-in-on-kabul-as-last-government-stronghold-in-north-falls|url-status=live}}</ref>。後に、ガニー大統領がタジキスタンに去ったことが報告された<ref>{{cite news |last1=Batchelor |first1=Tom |title=Afghan president Ashraf Ghani flees capital Kabul for Tajikistan as Taliban enter city |url=https://www.independent.co.uk/asia/central-asia/afghanistan-taliban-ashraf-ghani-flee-b1902917.html |access-date=15 August 2021 |work=[[The Independent]] |date=15 August 2021 |archive-date=15 August 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210815164417/https://www.independent.co.uk/asia/central-asia/afghanistan-taliban-ashraf-ghani-flee-b1902917.html |url-status=live }}</ref>。 === カーブル陥落後 === {{Main|{{仮リンク|2021年アフガニスタンからの避難|en|2021 evacuation from Afghanistan}}}} 事実上、政権は崩壊したものの、[[アフマド・マスード]]{{efn2|[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻の際]]、「パンジシールの獅子」と称された[[アフマド・シャー・マスード]]の息子}}、{{仮リンク|アムルッラー・サーレハ|en|Amrullah Saleh}}{{仮リンク|アフガニスタンの副大統領|en|Vice President of Afghanistan|label=第一副大統領}}を中心に[[パンジシール渓谷]]で[[パンジシール・レジスタンス|抵抗運動]]が展開されている<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20210818-LBCKSBTG2RMRHLYNLT2FFKV4YY/|title=アフガン暫定大統領を宣言 ガニ氏逃亡でサレー第1副大統領|publisher=[[産経新聞]]|date=2021-8-18|accessdate=2021-8-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガン暫定大統領を宣言 ガニ氏逃亡でサレー第1副大統領|url=https://www.sankei.com/article/20210818-LBCKSBTG2RMRHLYNLT2FFKV4YY/|website=産経ニュース|date=2021-08-18|accessdate=2021-08-20|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。 {{Main|[[パンジシール紛争]]}} 8月30日、米軍はアフガニスタンからの撤退を完了<ref>{{Cite web|和書|title=【随時更新】アフガニスタン 米軍撤退完了 現地は? 各国は?|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210825/k10013222081000.html?utm_int=news_contents_news-main_003|website=NHK WEB NEWS|accessdate=2021-8-31|language=en}}</ref>。8月31日、ジョー・バイデン大統領は国民向けの演説で戦争終結を正式に宣言<ref name=jiji20210901 />。一方、ターリバーンは米国に対する勝利を宣言<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/video/20633.html |title=タリバンが勝利宣言、空に向かって「祝砲」 アフガニスタン |website=CNN |date=2021-09-01 |accessdate=2021-09-01}}</ref>。20年間続いたアフガニスタン紛争はターリバーンの勝利に終わった。その後、ターリバーンに対する抗議が8月17日に始まった。抗議グループはタリバーン政府による女性の扱いに懸念を表明しており、それを差別的であると見なしている<ref name="edition.cnn.com">{{Cite web|title=The leader of the anti-Taliban resistance speaks out|url=https://edition.cnn.com/2021/09/01/opinions/leader-anti-taliban-resistance-speaks-bergen/index.html|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20210901160819/https://edition.cnn.com/2021/09/01/opinions/leader-anti-taliban-resistance-speaks-bergen/index.html |accessdate=2021-09-01 |archivedate=2021-09-01}}</ref>。アフガニスタンの民族レジスタンス戦線に支えられて、抗議者たちは地方分権化、多文化主義、社会正義<ref name="edition.cnn.com"/>、仕事、教育、そして食糧も要求している<ref name="December protests">{{cite news |title=Witnesses: Taliban Fire Warning Shots on Afghan Female Protesters |url=https://www.voanews.com/a/afghan-women-call-for-rights-to-education-work-/6372511.html |work=VOA |date=28 December 2021 |access-date=28 December 2021}}</ref>。 タリバーンは時が経つにつれて暴力の増加とともに抗議を抑制し、活動家を誘拐し始めた。この政策は最終的に抗議行動を徐々に終わらせ、カブールでの最後の抗議行動は2022年1月16日に起こった<ref name="quiet">{{cite news |title=Faced with disappearances, beatings and intimidation, Afghanistan's women's rights activists go quiet on the streets |url=https://www.washingtonpost.com/world/2022/02/08/afghanistan-taliban-women-protests/ |work=Washington Post |date=8 February 2022 |access-date=12 February 2022}}</ref>。 {{Main|{{仮リンク|2021-2022年アフガニスタンの抗議|en|2021–2022 Afghan protests}}}}米国は撤退後も敵対姿勢は崩さず、経済制裁を行った。しかし、これはアフガン市民の生活困窮を招き、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした<ref>{{Cite web|和書|title=アフガンの再建 人道危機を悪化させるな |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/973391/ |website=西日本新聞me |access-date=2022-09-22 |language=}}</ref>。薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国は人道支援を例外とした<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン制裁、人道支援は例外 国連やNGOの活動を米財務省が認可 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP9T3VKHP9TUHBI008.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-09-25 |access-date=2022-09-22 |language=}}</ref>。 == 被害 == [[ブラウン大学]]の「コスト・オブ・ウォー」プロジェクトによると、2021年4月時点で、アフガニスタンでの死者は17万1,000〜17万4,000人、アフガン民間人が4万7,245人、アフガン軍・警察が6万6,000〜6万9,000人、反対派の戦闘員が少なくとも5万1,000人となっている。しかし、"病気、食料・水・インフラへのアクセスの喪失、その他の間接的な影響 "による死者数が不明であるため、死者数はもっと多い可能性がある<ref>{{Cite web|title=Human and Budgetary Costs to Date of the U.S. War in Afghanistan, 2001-2021 {{!}} Figures {{!}} Costs of War|url=https://watson.brown.edu/costsofwar/figures/2021/human-and-budgetary-costs-date-us-war-afghanistan-2001-2021|accessdate=2021-05-15|website=The Costs of War|language=en}}</ref>。国連によると、2001年の侵攻以降、570万人以上の元難民がアフガニスタンに帰還した<ref>Afghan Refugees, Costs of War, {{Cite web|url=http://costsofwar.org/article/afghan-refugees|title=Archived copy|accessdate=30 May 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130310001659/http://costsofwar.org/article/afghan-refugees|archivedate=10 March 2013}}</ref>が、2021年現在、260万人のアフガニスタン人が難民として残っているか、主に[[パキスタン]]や[[イラン]]に逃れており、さらに400万人のアフガニスタン人が国内での避難民として残っている<ref name="bbc2021">{{Cite web|title=In numbers: Life in Afghanistan after America leaves|url=https://www.bbc.co.uk/news/world-asia-57767067|accessdate=2021-07-15|website=BBC News|date=13 July 2021}}</ref>。一方、2001年以降、アフガニスタンでは、健康、教育、女性の権利などが改善された面もある<ref name="auto">{{Cite web|title=Counting the costs of America's 20-year war in Afghanistan|url=https://apnews.com/article/asia-pacific-afghanistan-middle-east-business-5e850e5149ea0a3907cac2f282878dd5|accessdate=2021-05-06|website=AP NEWS|date=30 April 2021}}</ref><ref>{{Cite web|author=Jazeera|first=Al|title=Afghanistan: Visualising the impact of 20 years of war|url=https://interactive.aljazeera.com/aje/2021/afghanistan-visualising-impact-of-war/index.html|accessdate=2021-05-15|website=interactive.aljazeera.com|language=en}}</ref>。 == 戦争犯罪 == [[ファイル:Gul Mudin.jpg|サムネイル|米軍兵士によって殺害されたアフガニスタン人の少年]] アフガニスタン紛争において、数多くの重大な人権侵害が発生していることが人権団体により報告されている。[[戦争犯罪]]及び人道に対する罪を取り扱う[[国際刑事裁判所]](ICC)も2007年から予備調査を始め、2013年に「アフガニスタンで、戦争犯罪及び人道に対する罪が過去そして今も犯されている」と結論づけている<ref>{{Cite web |title=Afghanistan |url=http://www.icc-cpi.int/afghanistan |website=International Criminal Court |access-date=2022-10-15}}</ref>。しかし、主な対象となる米国が猛反発し、ICCに圧力をかけたことで、本調査は後回しにされている<ref>{{Cite web|和書|title=ICC、アフガン戦争犯罪めぐる捜査開始を却下 米兵など対象 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3220619 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-10-15}}</ref>。欧米の傀儡政権であった[[カルザイ]]政権は、戦争犯罪恩赦法を施行したり、人権団体による報告書公表を阻止したりした<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:戦争犯罪人に対する恩赦法 撤廃を |url=https://www.hrw.org/ja/news/2010/03/10/239110 |website=Human Rights Watch |date=2010-03-10 |access-date=2022-10-15}}</ref>。復権したタリバンもまた、米国と戦争犯罪を追及しない密約を結んだという報道がある<ref>{{Cite web|和書|title=米とタリバンが、アフガンでの戦争犯罪を追及しない密約結ぶ |url=https://parstoday.com/ja/news/asia-i82628 |website=Pars Today |date=2021-08-12 |access-date=2022-10-16}}</ref>。 === 夜襲作戦 === 連合軍支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「{{仮リンク|夜襲作戦|en|Night raids in Afghanistan}}」と呼ばれる"ターリバーン狩り"が行われた。深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという<ref name=":114">{{Cite web|和書|title=タリバンのアフガニスタン速攻制圧なぜ? 7年前から「寸止め」、農村支配で都市包囲 |url=https://globe.asahi.com/article/14426582 |website=朝日新聞GLOBE+ |access-date=2022-08-06}}</ref>。当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。作戦はタリバン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した<ref>{{Cite web |title=What is the Secretive U.S. "Kill/Capture" Campaign? |url=https://www.pbs.org/wgbh/frontline/article/what-is-the-secretive-us-killca/ |website=FRONTLINE |access-date=2022-08-06}}</ref><ref name=":122">{{Cite news|title=英特殊部隊、アフガニスタンで拘束者らを違法殺害の疑い|url=https://www.bbc.com/japanese/62145298|work=BBCニュース|date=2022-08-07}}</ref>。あまりの不評にカルザイ大統領が「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領は復活を認めた<ref>{{Cite news|title=Afghanistan Quietly Lifts Ban on Nighttime Raids|url=https://www.nytimes.com/2014/11/24/world/asia/afghanistan-quietly-lifts-ban-on-night-raids.html|work=The New York Times|date=2014-11-23|issn=0362-4331}}</ref>。その後も、CIAから直接支援を受けていた[[国家保安局 (アフガニスタン)|国家保安局]]の01ユニットにより、[[マドラサ]]で寝泊まりしていた子供らが[[虐殺]]される、医療施設が襲撃に遭い医療従事者と民間人が殺害される等の事件が発生した<ref>{{Cite web |title=A U.S.-Backed Militia That Kills Children May Be America’s Exit Strategy From Its Longest War |url=https://theintercept.com/2020/12/18/afghanistan-cia-militia-01-strike-force/ |website=The Intercept |access-date=2022-12-16 |language=en |first=rew |last=Quilty}}</ref><ref>{{Cite web |title=A CIA-Backed Militia Targeted Clinics in Afghanistan, Killing Medical Workers and Civilians |url=https://theintercept.com/2019/10/30/afghanistan-health-clinics-airstrikes-taliban/ |website=The Intercept |access-date=2022-12-16 |language=en |first=rew |last=Quilty}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.afghanistantimes.af/the-cias-afghan-death-squads/ |title=The CIA’s Afghan Death Squads |access-date=2022-12-16 |publisher=AfghanistanTimes}}</ref>。 === 白リン弾 === 連合軍はカピサ州の民間人の居住地域で化学兵器「[[白リン弾]]」を使用し、1発が民家に命中。その家の住民である8歳の少女が顔に大火傷を負った<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:NATOは白リン弾に関して真実を明らかにすべき |url=https://www.hrw.org/ja/news/2009/05/08/236493 |website=Human Rights Watch |date=2009-05-08 |access-date=2022-12-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=Probe sought after chemical strike burns Afghan girl |url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-phosphorus-idINSP39403620090509 |work=Reuters |date=2009-05-09 |access-date=2022-12-16 |language=ja}}</ref>。 === 捕虜の大量処刑 === 2001年、北部同盟の軍閥であるドスタム派は降伏したターリバーン旧政権軍の兵士8,000''人を''[[輸送コンテナ|コンテナ]]に閉じ込め収容所へ輸送し、結果5,000人が「行方不明」になった<ref name=":03">{{Cite web |title=Ces charniers afghans si discrets..., par Jamie Doran (Le Monde diplomatique) |url=https://archive.wikiwix.com/cache/index2.php?url=http://www.monde-diplomatique.fr/2002/09/DORAN/16918#federation=archive.wikiwix.com&tab=url |website=archive.wikiwix.com |access-date=2022-12-16}}</ref><ref>{{Cite web |title=Nobody Killed Anybody: America’s Denial of the Deadliest Prisoner Massacre in its History |url=https://www.cage.ngo/nobody-killed-anybody-americas-denial-of-the-deadliest-prisoner-massacre-in-its-history |website=CAGE |date=2021-11-16 |access-date=2022-12-16 |language=en-US |last=Azfar}}</ref>。行方不明者の大半は窒息死した者で、生き残った者は射殺されたと証言する者もいる。コンテナ1つに200人の捕虜が詰め込まれていた<ref name=":03" />。北部同盟の将軍はアメリカ兵が捕虜に対して刺突・身体を切断する等、危害を加えていたと証言した<ref name=":03" />。米国国防省並びに国務省は1,500人から2,000人がダシュテ・レイリで殺害されたことを示す文書を公開した<ref>{{Cite web |title=NPR.org » A Mass Grave In Afghanistan Raises Questions |url=https://web.archive.org/web/20131029192646/http://m.npr.org/story/106890883 |website=web.archive.org |date=2013-10-29 |access-date=2022-12-16}}</ref>。 === 各種テロ行為 === 連合軍に対し軍事力で劣っていたターリバーンは、対抗手段として住民を脅迫し、連合軍に協力的な者は暗殺した。連合軍側に利するとみなした民間施設等のインフラストラクチャーに対して自爆攻撃を行うなど、ソフトターゲットを標的に[[テロリズム|テロ]]を繰り返した。 == 年表 == * 2001年9月11日 - [[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生。 * 2001年10月2日 - [[北大西洋条約機構]]が[[集団的自衛権]]を発動。 * 2001年10月7日 - 有志連合諸国によるアフガニスタン領内への攻撃開始。 * 2001年10月6日 - [[クレセント・ウィンド作戦]]開始、連合国軍の制空権を確立。 * 2001年11月14日 - [[カーブル陥落 (2001年)]]。 * 2001年12月6日- [[ボン合意]]、[[国際治安支援部隊]](ISAF)の設立、[[アフガニスタン暫定行政機構]]が発足。[[トラボラの戦い]]。 *2002年1月 - [[アフガニスタン復興支援国際会議]](東京)<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン復興支援国際会議|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/k_kaigo.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2021-04-29}}</ref>。 * 2002年3月 - [[国連アフガニスタン支援ミッション]](UNAMA)が発足。 * 2002年6月 - [[アフガニスタン・イスラム移行政府]]が成立。 * 2003年2月 - アフガニスタン「平和の定着」会議(東京)。日本政府主導の[[武装解除・動員解除・社会復帰|軍閥兵士の武装解除・社会復帰計画]] (DDR)を開始。 * 2004年1月 - 新{{仮リンク|アフガニスタンの憲法|en|Constitution of Afghanistan|label=憲法}}公布。 * 2004年3月16日 - パキスタン軍によるアル・カーイダへの攻撃が開始([[ワジリスタン紛争]]の始まり)。 * 2004年10月 - {{仮リンク|2004年アフガニスタン大統領選挙|en|2004_Afghan_presidential_election|label=第一回大統領選挙}}。 * 2004年12月 - [[ハーミド・カルザイ]]が初代大統領に就任し、正式に新政府が発足。 *2005年6月 - DDRが完了。 *2006年6月18日 - サルポサ刑務所攻撃によりターリバーン達約1000〜1200人を解放。 *2006年10月 - アフガニスタン東部の指揮権を米軍から国際治安支援部隊に移管。 *2006年12月 - 治安が大幅に悪化。 *2009年1月 - アメリカ合衆国において[[バラク・オバマ]]政権発足。 *2009年2月 - 米軍増派。 *2009年8月 - {{仮リンク|2009年アフガニスタン大統領選挙|en|2009_Afghan_presidential_election|label=第二回大統領選挙}}。 *2009年12月 - 米軍増派。テロ対策から反政府活動鎮圧に方針を転換。 *2011年5月 - [[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]]。 *2014年4月 - [[2014年アフガニスタン大統領選挙|第三回大統領選挙]]。 *2014年9月 - [[アシュラフ・ガニー]]が大統領に就任。 *2014年12月 - 国際治安支援部隊が終了。 *2015年1月 - [[ISIL|イスラム国]]がホラサン州の設置を宣言。 *2015年7月 - ターリバーンの最高指導者[[ムハンマド・オマル]]の死亡が発表される。 *2015年9月 - [[クンドゥーズの戦い]]。 *2017年1月 - アメリカ合衆国において[[ドナルド・トランプ]]政権発足。 *2017年8月 - 米軍増派。 *2019年9月 - [[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回大統領選挙]]。 *2020年2月29日 - アメリカ合衆国とターリバーンの和平合意<ref name="jiji202002" />、米軍の翌年4月末撤退を発表。 *2021年1月 - アメリカ合衆国において[[ジョー・バイデン]]政権発足。 *2021年2月 - 米軍の4月末の撤退を延期<ref name=":26" />。 *2021年4月 - 米軍の9月撤退を発表<ref name=":27" />。 *2021年6月13日 - ターリバーン政権の崩壊以降、初めてターリバーン勢力が支配する郡の数が政府軍のそれを上回った<ref>{{Cite web|url=https://www.longwarjournal.org/mapping-taliban-control-in-afghanistan|title=Mapping Taliban Control in Afghanistan|accessdate=2021-6-13|publisher=FDD's Long War Journal}}</ref>。 *2021年7月8日 - 米軍の8月末の撤退を発表<ref>https://apnews.com/article/joe-biden-afghanistan-government-and-politics-86f939c746c7bc56bb9f11f095a95366</ref>。 *2021年7月24日 - アフガニスタン政府が全国に夜間外出禁止令を発令。 *2021年8月6日 - ターリバーンが初の州都占領に成功。 *2021年8月12日 - ターリバーンが[[カンダハール]]を占領。 *2021年8月15日 - ターリバーンが[[カーブル]]に到達、ガニー政権崩壊。 *2021年8月30日 - 米軍がアフガニスタンからの撤退を完了、米軍によるアフガニスタン駐留は終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN014VT0R00C21A7000000/ |title=米軍、アフガン撤収完了 米最長の20年戦争が終結 |website=日本経済新聞 |date=2021-08-31 |accessdate=2021-08-31}}</ref>。 *2021年8月31日 - バイデン米大統領が戦争終結を宣言<ref name=jiji20210901 />。 *2021年9月8日 - [[ハッサン・アフンド]]を首相とするアフガニスタン・ターリバーン暫定政権が発足した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="watson">{{cite web|title=Human and Budgetary Costs to Date of the U.S. War in Afghanistan, 2001–2022 Costs of War|url=https://watson.brown.edu/costsofwar/figures/2021/human-and-budgetary-costs-date-us-war-afghanistan-2001-2022|accessdate=2023-03-07|publisher=[[ブラウン大学]]/{{ill2|ワトソン研究所 (ブラウン大学)|en|Watson Institute for International and Public Affairs}}}}</ref> }} == 関連項目 == {{commonscat|2001-present war in Afghanistan}} * [[国際連合安全保障理事会決議1378]] * [[国際連合安全保障理事会決議1776]] * [[アフガニスタン紛争]] ** [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]] ** [[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]] *[[対テロ戦争]] **[[イラク戦争]] * [[グァンタナモ米軍基地]] * [[ブッシュ・ドクトリン]] * [[第十次十字軍]] * [[:Category:アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)を題材とした作品]] == 外部リンク == * [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/shiryo/teroiraq_200709_terotaisaku.pdf/$File/teroiraq_200709_terotaisaku.pdf テロ対策特別措置法に関する資料] [[衆議院調査局]]・国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別調査室編纂資料。アフガニスタン関連の安保理決議の邦訳、関連年表が記載されている。 *「[https://www.businessinsider.jp/post-102901 同時多発テロから16年、米史上最長の戦争「アフガニスタン紛争」を振り返る]」(2017年) *国際連合広報センター「[https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/afghanistan/ アフガニスタン]」 {{対テロ戦争}} {{アメリカの戦争}} {{ポスト冷戦時代のアジアの紛争|state=collapsed}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あふかにすたんふんそう2001}} [[Category:第二次アフガニスタン紛争]] [[Category:アメリカ合衆国の戦争]] [[Category:イスラム国家の戦争]] [[Category:21世紀の戦争]] [[Category:対テロ戦争]] [[Category:アフガニスタンの政治]] [[Category:アフガニスタンの戦争]] [[Category:アフガニスタン・アメリカ合衆国関係]] [[Category:20世紀以降のイスラム世界史]] [[Category:アルカーイダ]] [[Category:アメリカ同時多発テロ事件]] [[Category:2000年代]] [[Category:2010年代]] [[Category:2020年代]] [[Category:戦争を巡る論争]] [[Category:ジョージ・W・ブッシュ]] [[Category:ウサーマ・ビン・ラーディン]] [[Category:ムハンマド・ヤクーブ]] [[Category:ラシッド・ドスタム]] [[Category:ターリバーン]]
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ガンバ大阪
ガンバ大阪(ガンバおおさか、英: Gamba Osaka)は、日本の大阪府吹田市、豊中市、茨木市、高槻市、池田市、摂津市、箕面市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。 ヤンマーディーゼルサッカー部のサブチームであったヤンマークラブの監督・選手で結成した松下電器産業サッカー部(1980年・昭和55年)を前身とする。 2005年に初タイトルとなるJ1リーグ優勝を果たし、2008年にはAFCチャンピオンズリーグ制覇、2012年シーズンは17位で初のJ2リーグ降格となった。2014年にはJ1復帰1シーズン目での国内三冠(J1リーグ・Jリーグカップ・天皇杯)を達成。主要タイトル獲得数はJリーグ全加盟クラブ中、鹿島アントラーズ、浦和レッズに次いで3位。 ホームスタジアムはパナソニックスタジアム吹田。Jリーグ加盟の1993年から2015年までは万博記念競技場をホームスタジアムとしていた。練習グラウンドは万博記念公園スポーツ広場内のガンバ大阪練習場。当初は神戸ユニバー記念競技場や西京極競技場を準本拠地、淀川区(新大阪駅近く)にクラブ事務所と京田辺市に練習場と「近畿代表」「オール関西」的な意味合いが強かった。 2011年までのホームタウンは大阪府吹田市の1市。1997年に練習場とクラブ事務所をスタジアムがある万博記念公園に移転。2004年より吹田市、茨木市および高槻市、2006年より前述3市および豊中市を重点4市と定めた。2010年、それまで各市でG大阪の支援活動を行っていた4市の後援会が一丸となり、G大阪とともに各自治体、企業などと協力し、青少年の健全育成や街の活性化をはじめとする地域貢献活動を目的とした「ガンバ大阪後援会」が発足した。なお、大阪府大阪市と堺市をホームタウンとしているセレッソ大阪に対し、G大阪は北摂・北河内地域14市3町を重点地域にしている。ホームタウンはその後、2012年2月に茨木市、高槻市、豊中市の3市、2015年5月に池田市、摂津市、箕面市の3市 をそれぞれ追加し、北摂地域の全ての市となった。 クラブ名の「ガンバ(GAMBA)」は、イタリア語で「脚」を意味し「脚」によってシンプルで強いチームを目指す。また、日本語の「頑張る」にも通じ、 という意味が込められている。 発足から1995年までのクラブ名は「パナソニックガンバ大阪」。略称表記はJリーグ発足当初は「大阪」であったが、1995年に大阪市・堺市をホームタウンとするセレッソ大阪や、2023年に東大阪市をホームタウンとするFC大阪がJリーグに昇格してからは、それら2クラブと区別するため「G大阪」(Gは「Gamba」の頭文字)や「ガ大阪」と略記される。 運営会社は株式会社ガンバ大阪で、設立当初は松下電器産業(現・パナソニック)が全株式を保有していたが、1997年に関西電力、大阪ガス、西日本旅客鉄道が株主となっている。なお、資本金はJリーグクラブの中でも最少。 マスコットは松下進デザインの「ガンバボーイ」で、ゼウスの生まれ変わりという設定。ガンバって勝利を勝ち取る元気なサッカーボーイで、雷の形の闘志あふれるエネルギーをその手につかんでいる。人間をモチーフにした数少ないマスコットの1つ(オリジナル10では唯一の人間をモチーフにしたマスコット)。Jリーグ開幕当初は、デザインイラストどおりギリシャ風の衣装を着用するデザインだったが、1990年代後半頃からはユニフォームを着用したイラストに変更された。ただし、ユニフォーム以外を着用しているものも少数ではあるが存在した。 エンブレムは1995年までは、クラブマスコットのガンバボーイそのものがエンブレムの代わりで、正式なエンブレムができた1996年以降は、クラブカラーと同じブルーとブラックで大阪府の府鳥「百舌鳥」を伝統の象徴である盾型にアレンジし、その中央にはサッカーボールが描かれ、勝利の証である月桂樹のかわりに、大阪府の木「銀杏」の葉が周囲を飾るものになっている。 2021年10月2日、オフィシャルホームページにて、2022年シーズンよりエンブレムとロゴを変更する事が発表された。 エンブレムは、炎、ハート、ゴールの3つの要素によってガンバ大阪の頭文字「G」を造形。エンブレム下部より上昇する炎の形状は、熱狂を生み出す青い炎となる、ガンバ大阪の姿を象徴し、エンブレムの中心からハートの形状を描くブルーのラインは、心の中で燃え続ける熱い情熱によって、ファン・サポーター、地域、日本のスポーツ文化の中心となる意志を表す。 エンブレム上部に描かれたゴールの形状は、栄光(ゴール)に向けて真摯に挑み続ける、決意を表している。 ロゴは、エンブレムのエッセンスを取り入れた、シンプルでありながら意志の強さのあるユニークで現代的なデザインに変更された。 2022年4月1日付で、メインスポンサーであるパナソニックの事業再編(持株会社・パナソニックホールディングスへの移行)に伴い、これまでパナソニック本社直轄で運営していた企業スポーツクラブの運営を委託する新母体としてパナソニックスポーツ株式会社が設立され、ガンバ大阪はそのパナソニックスポーツの子会社(パナソニックホールディングスが所有していた株式をパナソニックスポーツに移譲)として機能することになった。 1980年に創部された松下電器産業サッカー部が前身。1984年に日本サッカーリーグ(JSL)2部、1986年にJSL1部へ昇格。第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1990年)優勝 などの成績を残した。 1991年10月1日、運営会社である株式会社松下サッカークラブを設立。 1992年にクラブ名を「パナソニックガンバ大阪」と命名。Jリーグ創設時からの加盟クラブ「オリジナル10」の一つであり、当初は近畿地方で唯一のJリーグクラブだった。Jリーグ加盟時は松下がユニバーサル映画を買収した時期と重なり、強そうなのでスティーヴン・スピルバーグの映画『ジョーズ』から大阪城にも引っ掛け「大阪ジョーズ」という名前が有力候補だった。しかし、ジョーズエピネと言う有名脱毛剤を販売していた居藤高久がジョーズという商標を持っており、貸してもらうことができなかったため、ガンバ大阪と言う名前になった。 松下初代監督水口洋次の同い年の親友で松下監督をJSL閉幕時点でも務めた釜本邦茂が引き続きJ参戦に向けて指揮を執った。永島昭浩、礒貝洋光、本並健治、エジバウドなどが所属していた。1992年のJリーグカップは8位に終わったが、第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会はベスト8の成績。しかし、1993年1月にエジバウドがシーズン開幕を待たずして交通事故で他界した。 1993年Jリーグ開幕節(5月16日)、万博記念競技場で浦和と対戦し、和田昌裕の得点で1 - 0で勝利したが、1st・2ndステージとも8勝10敗の成績で、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。Jリーグ開幕初年は年間成績7位に終わる。ナビスコ杯ではベスト4へ進出。帝京高等学校時代の2年生次で出場した第70回全国高校サッカー選手権では7得点を挙げ大会得点王に輝き、同校を優勝に導いた大型ストライカーとして注目を集めた松波正信は卒業の93年開幕したばかりのJリーグの4クラブ(名古屋グランパスエイト、鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原)から正式オファーがあり、ガンバに加入。同年5月16日の開幕節ではベンチ入りも逃したが6月9日、サントリー第11節サンフレッチェ広島戦で決めたJ初ゴールがJリーグ通算100ゴールとなった。以後、初年度から出場機会を掴みリーグ戦29試合出場7得点を記録、7得点のうち10代最後の誕生日の前日11月20日、NICOSシリーズ第14節市原緑地運動公園臨海競技場で当時高卒ルーキーだった松波はキックオフから延長までフルタイム出場しハットトリックを達成、3点目は延長前半のサドンデス(Vゴール)。 1994年、釜本体制2年目。永島が清水エスパルスに移籍した一方、前年からのアレイニコフに加え、ツベイバやプロタソフといった元ソ連代表勢が加入した。しかし、守備の要となる筈だったツベイバがケガで離脱し、1stステージは7勝15敗で12チーム中10位。2ndステージはツベイバが復帰したが、7連敗を喫すなど最下位争いの常連となり、名古屋グランパスエイト・浦和と共にJリーグのお荷物と扱われるようになった。最終的に8勝14敗で1stステージ同様の10位の成績。カップ戦はナビスコ杯・天皇杯共にベスト4で敗退。シーズン終了後、成績不振により釜本が監督を解任された。 1995年、ジークフリート・ヘルトが監督に就任。ヒルハウス、スクリーニャらが加入。また、ユースから宮本恒靖らがクラブで初めて昇格した。1stステージ序盤は6勝2敗と好スタートを切り、首位争いに加わったが、その後は8連敗を喫し、最終的なステージ成績は10勝16敗で14チーム中11位。2ndステージは8勝18敗の13位。年間総合順位は初めて最下位に終わり、シーズン終了後にヘルトが監督を退任した。天皇杯は2年連続でベスト4に入った。 1996年、クラブ名を「ガンバ大阪」、法人名を「(株)ガンバ大阪」にそれぞれ改称。前アシスタントコーチのヨジップ・クゼが監督に就任。初の1シーズン制で行われ、リーグ開幕から15連敗していたV川崎に第9節に勝利するなど、前半戦は8勝7敗。しかし後半戦で失速し、最終的な年間成績は11勝19敗で16チーム中12位。年間成績は初年度から参加した10チーム中唯一4年連続の負け越しとなった。天皇杯は3年連続でベスト4に進出した一方で、ナビスコ杯では予選で敗退した。 チームスローガン:GAMBA REVOLUTION 1997年、クゼ体制2年目。礒貝が浦和、本並がV川崎に移籍。一方でカメルーン代表のパトリック・エムボマが加入し、新井場徹がユースから昇格した。また、ユースから飛び級でトップチームに昇格した稲本潤一が当時のJリーグ最年少出場記録となる17歳171日でJリーグ公式戦に初出場した。1stステージを8勝8敗(17チーム中8位)と初めて勝敗を五分に持ち込むと、2ndステージは当時のJリーグ記録となる9連勝を飾り、首位争いに加わり、2位の成績を残した。また、年間成績も初めて勝ち越し4位となった。なお、エムボマは25得点を挙げて、クラブ初のJリーグ得点王とベストイレブンを獲得。シーズン終了後、クゼが監督が母国クロアチア代表のスタッフ就任により退団、天皇杯はアシスタントコーチのフリードリッヒ・コンシリアが率い、4年連続でベスト4に入った。 チームスローガン:Run Together ともに勝利を! 1998年、フレデリック・アントネッティの監督就任が決まっていたが、ヨーロッパのシーズンが終了してからの来日という形になり、それまではコンシリアが監督を務めた。また、橋本英郎がユースから昇格し、姫路市立琴丘高等学校の播戸竜二を練習生として獲得した(数か月後にプロ契約)。1stステージは14位(7勝10敗)。7月にエムボマがイタリア・セリエAのカリアリに移籍した。2ndステージは16位(5勝12敗)となり、年間成績は15位。また、ナビスコ杯は予選敗退、天皇杯は3回戦で敗退した。 チームスローガン:Dream together 1999年、コンシリア体制2年目。大黒将志、二川孝広がユースから昇格した。1stステージは6勝9敗で16チーム中10位に終わり、アントネッティがシーズン途中で監督を退任。2ndステージから早野宏史が監督に就任したが、5勝1分9敗の13位。年間成績は11位となった。また、ナビスコ杯は2回戦、天皇杯は4回戦で敗退した。 チームスローガン:激闘宣言 2000年、早野体制2年目。1stステージは5勝2分8敗の13位。2ndステージは開幕から5連勝。第10節の広島戦での勝利で3年ぶりに首位に立った。鹿島と優勝を争ったが、第14節で鹿島、最終節で磐田に破れ、順位は4位。なお、年間成績では6位、15勝2分13敗と3年ぶりに勝ち越した。また、天皇杯では3年ぶりにベスト4へ進出。 チームスローガン:挑戦 2001年、早野体制3年目。遠藤保仁、山口智を獲得。1stステージは9勝6敗の5位。1stステージ終了後、稲本がクラブ初となる海外移籍で、イングランド・プレミアリーグのアーセナルFCへ移籍。2ndステージは低迷し、第8節にC大阪戦(大阪ダービー、Vゴール負け)の翌日に早野が監督を辞任した。コーチの竹本一彦が監督に昇格したが、最終成績は5勝2分8敗の11位。年間成績は16チーム中7位(14勝2分14敗)。 チームスローガン:新挑戦 2002年、前柏監督の西野朗が監督に就任。1stステージは中断期間までに4勝1分け2敗の4位。再開後も4連勝で一時は3位に浮上、最終的に9勝1分5敗で4位に入った。2ndステージも磐田と優勝を争ったが、直接対決で0-2と完敗するなどし、2位の成績(10勝5敗)。年間順位も過去最高の3位となり、19勝1分10敗と2年振りの勝ち越しを達成。また失点数・反則ポイント共に、チーム歴代最少であった。 チームスローガン:Over the Top 2003年は、西野体制2年目。年間で7度アディショナルタイムで失点を喫するなど失った勝点が積み重なった結果、一時は残留争いに加わった。1stステージは4勝4分7敗で12位、2ndステージは優勝争いには絡めず、6勝5分4敗で7位。年間成績も10勝9分11敗と4年ぶりに負け越した。シーズン終了後、新井場徹が鹿島に移籍した。4月17日、1996年12月29日の天皇杯準決勝広島戦でのプレー中の事故を最後に1998年シーズン途中に退団した今藤幸治が死去した。 チームスローガン:Re:Start - ガンバが変わる - 2004年、西野体制3年目。シジクレイ、フェルナンジーニョらを獲得。1st・2ndステージ共に優勝争いに加わり、1stステージ7勝3分5敗で4位、2ndステージ8勝3分4敗で3位の成績。なお、この年はユース出身の大黒将志がリーグ戦日本人最多の20得点を挙げた。また、J1・1st第15節新潟戦で家長昭博がJリーグ史上初となる2種登録選手によるデビュー戦での初得点を挙げた。カップ戦においては、ナビスコ杯ベスト8、天皇杯ベスト4の成績となった。 チームスローガン:熱き青の力で、共に頂点へ 2005年、西野体制4年目。アラウージョ、藤ヶ谷陽介を獲得。リーグ戦序盤6試合はわずか1勝であったが、リーグ戦中盤以降にはアラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョを擁する攻撃力が機能するようになり(総得点は合計82)、22節に首位に立つ。ナビスコ杯は初めて決勝へ進出。決勝は千葉にPK戦で敗退したが、準優勝の成績を収めた。リーグ戦では終盤に失速し、第33節終了時点でC大阪に抜かれ、2位に後退する。それでも、最終節で川崎に勝利し、勝点1差の首位だったC大阪がFC東京と引き分けたため、クラブ創設以来初また関西のチームとして初となるリーグ優勝を果たした(詳細は2005年J1最終節を参照)。同時にAFCチャンピオンズリーグ2006(ACL)の出場権を獲得した。 この年、アラウージョがクラブのシーズン最多得点となる33得点を挙げ、クラブでは1998年のエムボマ以来となる得点王と、クラブ初となるリーグMVPを獲得。シーズン終了後、アラウージョが移籍。この年、16得点を挙げた大黒もフランス2部リーグのグルノーブルへ移籍した。また、1993年のJリーグ開幕から所属した松波正信が現役を引退した。 チームスローガン:もっと熱く、青く、強く!!!〜さらに新たな挑戦へ〜 2006年、西野体制5年目。大型補強を行い、FWにマグノ・アウベスと、7年ぶりにG大阪復帰となる播戸竜二。柏から元日本代表のMF明神智和、日本代表のDF加地亮らを獲得。また、ユースからは安田理大、平井将生ら過去最多の6人が昇格した。 初出場したAFCチャンピオンズリーグ2006はマグノ・アウベスが8得点で大会得点王を獲得したが、グループリーグで敗退。A3チャンピオンズカップ2006は中国の大連実徳と千葉には勝利したが、韓国の蔚山現代に大敗し、2位の成績。 リーグ戦は最終節前で浦和に勝点3差の2位であったが、最終節の浦和との直接対決に2-3で敗れ、リーグ連覇はならなかった(最終順位は3位)。なお、マグノ・アウベスがクラブ史上3人目の得点王となる26得点、播戸も16得点を挙げた。 リーグ戦終了後、宮本恒靖がオーストリアのレッドブル・ザルツブルクへ移籍、また、フェルナンジーニョも移籍した。 天皇杯では、Jリーグ加入後初(前身の松下電器時代を含めると16年ぶり)の決勝進出を果たしたが、浦和に敗退した。 チームスローガン:超攻撃 2007年、西野体制6年目。FWバレー、レンタルでDF中澤聡太を獲得。開幕前に行われたゼロックススーパーカップでは浦和と2年連続で対戦し、マグノ・アウベスのハットトリックを含む4-0で勝利しスーパカップ初制覇。 ナビスコ杯では、2年ぶりに決勝進出。決勝では川崎と対戦し、優勝。決勝点を挙げた安田理大が、大会MVPとニューヒーロー賞を受賞した。 リーグ戦は、クラブ初となる開幕4連勝で波に乗り、中断期間まで12勝5分け1敗と好調のまま首位。中断明けの浦和との直接対決に敗れ、最終的に2年連続の3位に終わったが、浦和が前年度の天皇杯とAFCチャンピオンズリーグ2007を優勝したため、ACLの大会規定により天皇杯優勝枠でAFCチャンピオンズリーグ2008の出場が決まった。 シーズン後、外国籍選手のクラブ最多出場記録を持ち、ゲームキャプテンも務めたシジクレイが移籍。また、實好礼忠が現役を引退した。 チームスローガン:Power 〜力の結集〜 2008年、西野体制7年目。佐々木勇人、ルーカス、山崎雅人らを獲得した2008年シーズンは300日余りの間に公式戦を過去最多の61試合をこなす過酷な日程となった。 2月のパンパシフィックチャンピオンシップ2008は、初戦でロサンゼルス・ギャラクシー、決勝でヒューストン・ダイナモに夫々勝利し、1992年のクイーンズカップ以来となる16年ぶりに国際タイトルを獲得した。 5月17日、埼玉スタジアムの浦和戦(第13節)で、一部のG大阪サポーターによる浦和側への観客席に対する物の投げ込みを発端とした両クラブのサポーターが衝突する騒動が発生し、クラブは騒動を起こしたBB sez TOKYOの団員2名を永久入場禁止とし、同団体は解散となった。また、Jリーグから1000万円の制裁金が課された。 7月30日、スルガ銀行チャンピオンシップでアルゼンチンのアルセナルFCと対戦し、0 - 1で敗れた。 2年ぶりに出場したAFCチャンピオンズリーグ2008では準決勝で前年覇者である浦和とのACL史上初のJリーグ勢対決を2戦合計4 - 2(第1戦 1 - 1、第2戦 3 - 1)で制すると、11月12日の決勝ではオーストラリアのアデレード・ユナイテッドに2戦合計5 - 0(第1戦 3 - 0、第2戦 2 - 0)で勝利し、クラブ史上初、Jリーグ勢では1999年(AFCチャンピオンズリーグの前身であるアジアクラブ選手権)の磐田、2007年の浦和に次ぐ3クラブ目となるアジア制覇を果たす。また、ACL史上3クラブ目の無敗での優勝、そして、史上初のアウェー全勝(6戦中4戦が逆転勝ち)での優勝であった。遠藤保仁が大会MVPを受賞。また、AFCよりアジア年間最優秀クラブ賞を受賞し、監督の西野がアジア年間最優秀監督賞を受賞した。 一方で、リーグ戦はシーズン序盤でやや躓くと、立て直してきた中盤には播戸竜二が肝機能障害、遠藤がウイルス感染症で離脱。更に、エースストライカーのバレーがUAEのアル・アハリに移籍。また、横浜FMからロニーを獲得するも、チームにフィットせず中盤で大失速。特にJ1第19節からJ1第24節まで勝利が無く、優勝争いから脱落する。最終順位は8位に終わった。 12月、日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ2008は初戦の準々決勝でこの年3度目の対戦となったアデレードに1 - 0で勝利。準決勝はヨーロッパ王者のマンチェスター・ユナイテッドに3 - 5で敗戦。3位決定戦は北中米カリブ海王者のパチューカに1 - 0で勝利し、前年の浦和に続き大会3位となった。 天皇杯はクラブワールドカップとの日程が並行したため、準々決勝以降は中2・3日の間隔で試合が行なわれたが、2年ぶりに決勝へ進出。柏との決勝は延長後半に途中出場の播戸の先制点が決勝点となり1 - 0で勝利し、前身の松下電器時代の1990年度大会以来、18年ぶり2度目の優勝を果たす。これにより、国内3大タイトルを全て獲得した5つ目のクラブとなった。同時にAFCチャンピオンズリーグ2009出場権も獲得した。 チームスローガン:SHOBU〜そして、ワールドスタンダードへ〜 2009年、西野体制8年目。レアンドロ、チョ・ジェジンなどのFW、高木和道、パク・ドンヒョクの日韓代表経験を持つDFらを獲得した。 5月2日、レアンドロがJ1第9節 大分戦で4月8日のACLグループリーグ第3節 スリウィジャヤ戦から続いていた、公式戦の連続試合得点をクラブ新記録となる7試合連続ゴールを達成した。最終的には5月10日のJ1第11節 柏戦までの9試合まで記録を更新。また、同試合で4月12日J1第5節 大宮戦から続いていたJ1の連続試合得点をクラブタイ記録の6試合連続ゴールも達成した。 5月20日、ACLグループリーグ第6節 FCソウル戦で、この年クラブ初の高校2年生でトップチームに昇格した宇佐美貴史が、1997年に稲本潤一が記録したクラブ最年少記録を更新する、17歳14日での公式戦初出場・初得点を記録。しかし、試合には敗れ、2006年のACLから続いていたACLの連続無敗記録が19試合で途切れた。そして、ラウンド16で川崎に敗れ、ACL連覇を逃した。 リーグ戦は開幕から二川孝広と加地亮の不在や期待された新戦力がチームに馴染まなかった影響により、なかなか調子が上がらず、特に5月後半から7月の半ば頃まで、万博でのホームゲームで6連敗(ACL、ナビスコカップ含む)を喫した。さらに8月にはチーム得点王のレアンドロがカタールのアル・サッドに移籍。新潟からペドロ・ジュニオールを獲得するもチームへのフィットに時間がかかり結果は出せず、一時は鹿島との最大勝点差が19となった。 11月8日、J1第31節 京都戦のペドロ・ジュニオールの2得点目で鹿島、磐田に次ぐ3クラブ目となるリーグ戦クラブ通算1000ゴールを達成。11月24日、AFCより遠藤保仁が日本人選手5人目、Jリーグ所属選手では1997年の中田英寿(平塚)以来となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した。 後半戦はなんとか立て直し、第32節まで優勝の可能性を残しつつも、第33節で首位の鹿島との直接対決で1-5と大敗し優勝を逃した。それでも、最終的に3位となり、AFCチャンピオンズリーグ2010の出場権は獲得した。 天皇杯は準々決勝で鹿島を破りリーグ戦での雪辱を果たすと、天皇杯6試合で8得点を挙げたルーカスの活躍もあり2年連続で決勝進出。決勝では名古屋を4 - 1で破り、歴代7チーム目の天皇杯連覇を達成。そして、天皇杯決勝戦を最後に、1997年から所属した松代直樹が現役を引退した。 チームスローガン:夢 〜すべてをひとつに〜 2010年、西野体制9年目。ここ数年行った大型補強を行わず、新人とレンタル復帰以外では、FWのドドとゼ・カルロスの獲得のみにとどめ、現有戦力の維持を優先した。 シーズン開幕から6試合連続公式戦未勝利。リーグ戦も開幕から5試合連続未勝利で、その後も相次ぐ主力選手の離脱、外国籍選手の不調、更には試合終了間際の失点などが重なり、なかなか波に乗れず、1試合未消化であるものの首位争いから大きく離され、11位で中断期間に入る。また、ペドロ・ジュニオールがブラジルのクラブへ移籍し、ゼ・カルロスも途中移籍した。 AFCチャンピオンズリーグ2010は、グループリーグ第3節シンガポール・アームド・フォーシズ戦で平井将生が日本人選手では7人目、ユース出身選手では大黒将志以来となるハットトリックを達成する活躍などで、3年連続グループリーグを突破するもラウンド16でこの年ACLを制した城南一和に敗れた。 リーグ後半戦、磐田から韓国代表のイ・グノを獲得。この年優勝した名古屋との直接対決では2試合とも敗れ、勝点10差をつけられ独走優勝を許してしまったが、2位の成績となり、AFCチャンピオンズリーグ2011の出場権を獲得した。なお、ACLでハットトリックを決めた平井がチームトップの14得点(リーグでは日本人2位)、高校3年生ながら主力に定着した宇佐美貴史も高校生Jリーガーのシーズン最多記録となる7得点を挙げ、G大阪下部組織出身者として初のJリーグベストヤングプレーヤー賞(新人王)を受賞した。3年目の武井択也も途中離脱した明神智和の代役としてチームに貢献するなど、多くの若手選手が飛躍したシーズンであった。 天皇杯では準決勝で清水に敗れ天皇杯3連覇を逃した。 シーズン終了後、安田理大がオランダ1部・フィテッセに、C大阪へレンタル移籍していた家長昭博がスペイン1部・マジョルカに、広島へレンタル移籍していた山崎雅人が広島に、安田晃大が北九州に、ルーカスがアトレチコ・パラナエンセに完全移籍した。 チームスローガン:新芯進 〜新たなる未来へ〜 クラブ設立20周年となる2011年、西野体制10年目。Kリーグ・全北現代モータースから元U-23韓国代表のキム・スンヨン、ブラジル1部・SCインテルナシオナルから昨シーズンC大阪でリーグ戦14得点を挙げたアドリアーノ、大学生の金正也、藤春廣輝、川西翔太を獲得、ユースから大森晃太郎が昇格し、開幕直後にレンタルでコリンチャンス-ALからアフォンソを獲得した。 アンブロ(販売元:デサント)と新たに2020年シーズンまでのユニフォームサプライヤー契約を締結した。また、1995年以来毎年行われてきた石川県西部緑地公園陸上競技場でのホームゲームから撤退した。 3月11日に発生した東日本大震災の影響で、J1第2節から第6節が開催延期となった。これを受け、クラブ公式サイトで被災地への義援金を募るチャリティーオークションが開催され、3月27日には神戸との「東北地方太平洋沖地震チャリティーマッチ ?LET'S SUPPORT OUR FRIENDS 今こそ仲間のために行動しよう!?」が万博記念競技場で開催された。10月2日、創立20周年記念試合となったJ1第28節浦和戦で、6クラブ目となるJ1通算300勝を達成。 AFCチャンピオンズリーグ2011はグループリーグを首位で突破したが、ラウンド16で当時8年間リーグ戦で敗れていないC大阪に敗退。ナビスコ杯は浦和に準決勝で敗退。天皇杯は水戸に3回戦で敗退。 リーグ序盤戦、アドリアーノがクラブタイ記録の6試合連続得点を記録するなど得点ランキングトップを独走する活躍を見せ、攻撃面ではリーグトップの得点数であったが、守備面は開幕からの連続失点試合がリーグワーストの18試合で、総失点数が一時期リーグ最多となった。6月、アドリアーノがカタールのアル・ジャイシュ、7月に宇佐美がドイツ・バイエルン・ミュンヘンに移籍した一方、草津からFWラフィーニャを獲得。ラフィーニャ加入以降の夏場を無敗で乗り切り、第22節川崎戦で2009年3月以来となる首位に立ったが、第29節名古屋戦に大敗し、柏に首位を明け渡した。その後、最終節まで優勝の可能性を残したが、最終順位は3位で2年連続無冠に終わった。 シーズン終了後、2002年から10年間監督を務めた西野朗が退任した。 チームスローガン:躍動 2012年、監督にジョゼ・カルロス・セホーンが就任。クラブ史上初のブラジル人監督となった。コーチ陣も元日本代表の呂比須ワグナーを含む3人が加入。山口智や橋本英郎、下平匠やイ・グノらが退団した一方、FC東京から今野泰幸、甲府からパウリーニョ、徳島から佐藤晃大、FCソウルからイ・スンヨルを完全移籍で、清水から武田洋平、CAタボン・ダ・セーハからエドゥワルドをレンタル移籍で獲得し、丹羽大輝が6年ぶり、寺田紳一と倉田秋が3年ぶりにレンタル移籍先から復帰。新人では大卒で阿部浩之、テスト生から沼田圭悟を獲得し、ユースからは田尻健、西野貴治、稲森克尚が昇格した。 シーズン初の公式戦となったAFCチャンピオンズリーグ2012グループリーグ初戦に0-3で敗北。また、J1第2節のC大阪戦(大阪ダービー)を含むJ1第3節まで公式戦5連敗を喫した。J1第3節終了後の3月26日に監督のセホーン、ヘッドコーチの呂比須、フィジカルコーチのウェリントンおよび強化本部長の山本浩靖を解任。後任にコーチの松波正信がクラブOB初・クラブ最年少で監督に就任した。ACLでは1勝に留まり、この年出場したJリーグ勢で唯一グループリーグで敗退。 第6節(川崎戦)でリーグ戦初勝利を挙げたが、中断前の12試合でわずか2勝(3分7敗)。15位の新潟と勝点差6(ACL出場による日程変更でリーグ戦試合消化はガンバが新潟より1試合少ない状態)の16位と降格圏に低迷。これを受け、夏の補強としてRCDマヨルカから家長昭博、アル・サッドからレアンドロが期限付き移籍で復帰。また、清水から岩下敬輔を期限付き移籍で獲得。一方で、6月にラフィーニャと契約解除。7月にイ・スンヨルが蔚山現代FC、寺田が横浜FC、星原が水戸へそれぞれ期限付き移籍で退団。中盤以降、新戦力のレアンドロや家長の活躍もあり後半戦はやや持ち直すものの、第33節時点で降格圏内の16位で第34節(最終節)を迎える。最終的にはジュビロ磐田に、1-2で敗れ、初のJ2降格が決定した。この年、総得点数はリーグ1位の67得点であったが、総失点はリーグ17位の65失点であった。大量得点で勝つ事が多く、1試合3得点以上の試合では9戦全勝だったのに対し、1試合2得点以下の試合では11分14敗と1勝もすることができなかった。また、ホームは17試合の内わずか4勝(7分6敗)に終わった。前年3位から17位への順位降下は、2021年シーズン終了時点でも、J1リーグにおける最大の順位降下記録である。 天皇杯は3年ぶりに決勝へ進出したが、柏に敗れ、ACLの出場権を逃した。シーズン終了後、松波が監督を退任した。 チームスローガン:「復活〜さらなる進化を勝ち取るために〜」 初のJ2で迎えた2013年、監督に元清水監督の長谷川健太が就任。中澤聡太が川崎へ、佐々木勇人が仙台へ完全移籍したが、主力選手の大半がチームに残留した。シーズン前の補強では、ロンドン五輪韓国代表のオ・ジェソク、関西大学からユース出身の岡崎建哉を獲得。一方で、ユースからの昇格は14年ぶりに見送られた。 序盤戦はややつまずくも開幕から12試合連続無敗を記録(6勝6分)。第13節神戸戦で初黒星を喫したが、第13節以降6連勝を記録。第16節終了時点で神戸をかわして首位に浮上。代表組の遠藤・今野が不在となった6月も無敗で乗り切り前半戦を首位で折り返す。後半戦、2012年夏から期限付き移籍で加入していた家長とレアンドロがそれぞれ契約満了により退団するが、ステアウア・ブカレストからロチャ、ドイツ・TSG1899ホッフェンハイムへの期限付き移籍が満了した宇佐美貴史が2年ぶりに復帰した。夏場はロチャ・宇佐美の活躍で順調に乗り切ったが、第32節長崎戦でホーム初黒星を喫すると、以降やや失速し第35節で神戸に再び首位の座を明け渡してしまう。それでも、第37節以降連勝を重ねると、第39節熊本戦での勝利で首位を再奪還すると同時に1年でのJ1昇格が決定。さらに、ホーム最終戦となった第41節山形戦でJ2優勝を達成した。ホーム万博でタイトルを勝ち取ったことはこれが初であった。また、J1・J2両カテゴリーの優勝は柏・広島に次ぐ3クラブ目となった。総得点は2位の神戸の78点を21点上回る99得点であった。 この年、ホームでの観客動員は平日開催が多かったこともあり、ホームゲームのシーズン平均入場者数は前年よりも下回る12,286人(前年度比83.1%)であったが、アウェーでは各地で好調な動員を記録。前年のJ2の平均観客動員は6000人を下回ったが、2013年のアウェーのガンバ戦はほとんどが1万人以上の動員を記録。中でも、富山、松本、岡山など複数のクラブ過去最多動員記録を更新し、J2全体の入場者数は前年より約15%増加するなど、J2の観客動員増加に大きく貢献。このJ2全体に巻き起こった現象はアベノミクスになぞらえ「ガバノミクス」「アシノミクス」などと呼ばれた。 チームスローガン:「Rising G」 2年ぶりのJ1で迎えた2014年、長谷川体制2年目。新潟から東口順昭、千葉から米倉恒貴を獲得し、河田晃兵が3年ぶり、金正也が2年ぶりにレンタル先から復帰。外国人選手では、クリシューマECからリンス、パウリスタFCから期限付き移籍でエブソンを獲得。ユースからは内田裕斗と小川直毅、さらに井手口陽介がクラブ史上5人目となる飛び級で昇格した。シーズン途中には、エブソンが讃岐へ期限付き移籍、加地亮が、MSL・チーヴァス・USAへ完全移籍したが、川崎・甲府に在籍していたパトリックを期限付き移籍で獲得した。 4月16日、ナビスコカップ・グループリーグ第3節鳥栖戦で、2種登録選手の高木彰人が16歳8カ月12日での公式戦初出場を果たし、2009年に宇佐美が記録したクラブ史上最年少出場記録を更新した。 7年ぶりに予選からの参加となったナビスコカップではAグループ1位で決勝トーナメント進出。準々決勝では同じAグループで2位に入った神戸に快勝(2戦合計4 - 1)、準決勝では2007年の決勝で顔を合わせた川崎に2戦合計5-4と打ち合いを制し、7年ぶりに決勝進出。決勝ではこの年の天皇杯4回戦でも顔を合わせた広島と対戦、前半35分までに2点先取されるも、前半のうちに1点を返し後半に2点を挙げ逆転勝ち。ナビスコカップの決勝では史上初となる2点差からの逆転優勝で、2007年以来2回目のナビスコカップ制覇を果たした。 J1では、開幕直前に前年のチーム得点王の宇佐美が負傷離脱したこともあり、前半戦は極度の得点力不足に陥りブラジルワールドカップによる中断前は4勝3分7敗で降格圏の16位に低迷。それでも、後半戦は復帰した宇佐美や中断期間に新加入したパトリックを中心とした攻撃陣が機能し、中断後早々5連勝で降格圏から一気に抜け出すと、8月末から10月にかけては10年ぶりとなる7連勝を記録し優勝争いに加わる。第32節、負ければ優勝の可能性が消滅する首位浦和との天王山を制し勝点差2に詰めよると、続く第33節神戸戦での勝利で浦和を得失点差で上回り初の首位に浮上。そして最終節、最下位のアウェー徳島戦はスコアレスドローに終わったが、優勝の可能性を残していた2位浦和・3位鹿島がそれぞれ敗れたため、2005年以来9年ぶり2回目のJ1優勝を果たした。J1昇格1年目でのリーグ優勝は、2011年の柏以来2例目であり、また最大勝点差14からの逆転優勝はJリーグ史上最大だった。中断後は15勝3分2敗と猛烈な巻き返しを見せ、総得点はリーグ2位の59得点を記録。総失点もリーグ2位タイの31失点に留め、完封試合はクラブ新記録となる14試合を記録するなど、2年前J2に降格した主原因であった守備面は大幅に改善され攻守共に安定した数字を残した。 天皇杯では、翌年1月開催のAFCアジアカップ2015の影響で日程が例年よりも前倒しになり、リーグ戦と並行して行われたことで他のJ1クラブが早々に敗退する中、J3優勝の金沢、徳島、広島、2013年の天皇杯でPK戦の末に敗れた大宮、2010年の準決勝で敗れた清水をそれぞれ下し、2012年以来2年ぶりに決勝進出。決勝ではこの年J1昇格プレーオフを制した山形を3 - 1で下し5年ぶり3回目(前身時代含めると4回目)の天皇杯制覇を果たした。これにより、2000年の鹿島以来14年ぶり2チーム目、日本人監督のもとでは史上初、さらにJ1昇格1年目のクラブでも初の国内三冠を達成した。 チームスローガン:「Moving G」 2015年、長谷川体制3年目。仙台から赤嶺真吾、横浜FMから小椋祥平、磐田から藤ヶ谷陽介を獲得し、ユースからは林瑞輝、妹尾直哉、嫁阪翔太、平尾壮の4人が昇格した。7月8日、清水より長沢駿を獲得。 1月24日、インドネシア・スーパーリーグのペルシジャ・ジャカルタとの親善試合「パナソニックカップ2015」がインドネシアで行われ、4-0で勝利した。 2月28日、三冠王者として挑んだ富士ゼロックススーパーカップは前年リーグ2位の浦和に2-0で勝利し、8年ぶり2度目の優勝を果たした。 5月27日、2種登録選手で高校2年生の堂安律がACLラウンド16第2戦FCソウル戦でプロデビューを果たし、直後のJ1第10節鹿島戦でクラブ史上最年少となるリーグ戦デビューを果たした。 3年ぶりに出場したACLは初戦広州富力、第2節城南FCに2連敗し、予選敗退ムードが漂っていたが、第3節ブリーラム・ユナイテッドFC戦に引き分け、第4節ブリーラム戦でACL初勝利をあげる。第5節広州富力戦は5-0で圧勝。最終節城南FC戦も逆転勝利で3勝1分2敗とし、首位通過を決めた。ノックアウトステージラウンド16ではFCソウルと対戦。第1戦目は敵地で3-1、第2戦目はホームで3-2で連勝してベスト8に進出。準々決勝は前年の韓国王者全北現代との日韓決戦を2戦合計3-2で下しベスト4に進出。準決勝は2013年のACL王者で中国スーパーリーグ4連覇中の広州恒大との日中決戦に2戦合計1-2で敗れ7年ぶりの決勝進出とはならなかった。 ナビスコカップはACLの影響で決勝トーナメントから参加。準々決勝はPK戦の末に名古屋を準決勝では新潟をそれぞれ下し、2年連続で決勝進出を決めたものの、決勝では過密日程からかパフォーマンスが落ちてしまい、鹿島に0-3で敗れ連覇はならなかった。 1stステージ序盤は今野泰幸の負傷離脱でチームの調子が上がらなかったが、今野復帰後は調子を取り戻す。しかし、ACLとの過密日程により選手には疲労が溜まり、先制するも追いつかれる試合が続き、結果的には1stステージ4位で終えた。 2ndステージも全てのカップ戦を勝ち抜き過密日程が続いたことで、年間1位の広島と年間2位の浦和に大きく差をつけられた。年間順位4位で迎えた最終節で山形に勝利、年間3位のFC東京が鳥栖と引き分けたため、得失点差で3位に浮上しチャンピオンシップ出場を決めた。 CSは浦和との準決勝を延長戦の末3-1で勝利し決勝進出。リーグ戦年間順位1位の広島と対戦した決勝ではホームでの第1戦を終盤の連続失点で逆転負けし、アウェイでの第2戦も引き分けた事により2戦合計3-4でリーグ連覇を逃した。 天皇杯はACLでベスト8以上に入ったことで4回戦から出場。4回戦では川崎、万博での最後の公式戦となった準々決勝では鳥栖を破り、準決勝ではCSで敗れた広島にリベンジを果たして2年連続で決勝に進出。決勝では浦和にパトリックの2得点で勝利し、2008年・2009年大会以来となる天皇杯連覇を飾った。この年の公式戦は、最終的に2008年の61試合に次ぐJ1全クラブ最多となる60試合に達するハードな日程だった。 チームスローガン:Ambition クラブ設立25周年となる2016年、長谷川体制4年目。本拠地をサッカー専用スタジアム「パナソニックスタジアム吹田」に移転。また、J3リーグにセカンドチーム「ガンバ大阪U-23」が参戦。 ユースから高木彰人、市丸瑞希、初瀬亮、堂安律が昇格(堂安は飛び級での昇格)。関西学院大学から呉屋大翔、大津高校から野田裕喜と一美和成が加入。愛媛から岡崎建哉が期限付き移籍から復帰。横浜FMからアデミウソンを期限付きで、藤本淳吾を完全移籍で獲得。明神智和とリンスが移籍した。 2月14日、市立吹田サッカースタジアムのこけら落としマッチ「Panasonic Cup」が開催され、名古屋に3-1で勝利した。 AFCチャンピオンズリーグではグループG組に入った。上海上港(中国)、水原三星(韓国)、メルボルン(オーストリア)と同組に入ったが、2013年の広島に続いて日本サッカー史上2チーム目のグループステージ未勝利とグループステージがホームアンドアウェー制度になった2004年以降では最低となる勝点2しか稼げずにGL敗退が決定した。 1stステージでは開幕早々にDF丹羽が離脱したことでセンターバックが人材難になりスタートダッシュに失敗。新戦力のアデミウソンが4得点と活躍するも、ACLとの過密日程でコンディションが上がらず首位の鹿島とは勝点15差の6位に低迷した。特にホームでは3勝2分4敗と大きく取りこぼした。1stステージ終了後、夏の移籍市場で宇佐美がドイツ1部・FCアウクスブルクに完全移籍し、ガンバ大阪一筋の二川が東京ヴェルディに期限付き移籍した。 Jリーグカップでは決勝まで勝ち進み、3年連続ファイナル進出となった。決勝の浦和レッズ戦では1-1の同点で延長戦でも決着がつかずにPKとなったが、4-5で敗れてしまい準優勝となった。 2ndステージは10勝3敗4分け、勝点34の4位にとどまり、年間総合順位でも勝点58で3位の鹿島に1ポイント及ばず4位となり、チャンピオンシップ進出はならなかった。天皇杯ではベスト8まで勝ち進んだが、ベスト8で横浜F・マリノスに敗れて今シーズンは無冠に終わった。 チームスローガン:勝 2017年、長谷川体制5年目。期限付き移籍で加入していたアデミウソンを完全移籍で獲得し、千葉から井出遥也、大宮から泉澤仁、名古屋から森勇人、横浜FMからファビオ、昨年は東京Vに在籍した鈴木椋大、清水から三浦弦太を補強。また、U-23チームを主戦とする選手として札幌から中原彰吾、東京Vから郡大夢を期限付き移籍で獲得、ユースから食野亮太郎が昇格、東福岡高校から高江麗央、市立船橋高校から高宇洋、韓国からペ・スヨンが加入した。一方で、岩下敬輔が福岡に、阿部浩之が川崎に移籍し、内田達也が東京Vに、西野貴治が千葉に期限付き移籍、赤嶺真吾は期限付き移籍先の岡山に完全移籍した。シーズン開幕直後に、鹿島から赤﨑秀平を期限付き移籍で獲得、また前年の大ケガにより登録を抹消されていたパトリックを再登録した。 AFCチャンピオンズリーグ2017には東地区プレーオフ2のプレーオフラウンドから出場し、ホームでジョホール・ダルル・タクジムFC(マレーシア)に勝利して本戦出場決定。本戦ではグループHに入り、三浦弦太、堂安律、初瀬亮といった若手を積極起用して臨んだが、アデレード・ユナイテッド(オーストラリア)に1勝1分けとしたものの、その試合で2-0でリードしている最中に金正也がロングボールの対応をしようとして足を滑らせて失点に絡んでしまったり、後半13分に名手・遠藤がPKを失敗する等ミスも重なり、江蘇蘇寧(中国)・済州ユナイテッド(韓国)に連敗し、勝点4で2年連続でグループ最下位で敗退となった。 夏の移籍市場では城南FCから黄義助を獲得、千葉へ期限付き移籍していた西野が復帰。一方で堂安がオランダFCフローニンゲンに期限付き移籍、丹羽とパトリックが広島に移籍した。 4月16日、第7節・C大阪との大阪ダービーで、一部のサポーターがナチス親衛隊「SS」を連想させる文字の入ったフラッグを掲出したことが問題になった。クラブは同月20日に謝罪し、翌21日にサポーター・グループの処分を発表。さらに5月11日、C大阪戦で起きたサポーター・グループの不適切フラッグ掲出問題について、Jリーグ・裁定委員会からの制裁が決定したことを発表した。 9月7日、監督の長谷川がシーズン限りで退任する事が発表された。また、天皇杯では4回戦で柏レイソルに敗退し、ルヴァンカップでも準決勝でセレッソ大阪に敗れてしまい無冠となった。攻撃陣は長沢以外に2けた得点を挙げた選手がおらず、J1では長谷川政権史上最悪の10位・48得点となり、退任発表以降はクラブワースト記録となる13試合未勝利のままシーズンを終えた。 チームスローガン:奪還 2018年、レヴィー・クルピが新監督に就任。浦和から矢島慎也、山形から菅沼駿哉が復帰。東海大学付属相模高等学校から山口竜弥、前橋育英高等学校から松田陸、東福岡高校から福田湧矢、三菱養和ユースから中村敬斗が入団。ユースから谷晃生、芝本蓮、白井陽斗が昇格した。 J1リーグ戦では開幕から3連敗し、J1リーグが18チーム体制になった2005年以降初めて、16チーム体制だった2000年以来18年ぶりとなる単独最下位に転落、またYBCルヴァンカップ1試合の敗戦も合わせて、前年から続く公式戦連続未勝利記録は17まで伸びた。けが人が続出したことがあった。 その後最下位は脱し、ルヴァンカップではノックアウトステージ進出を果たしたものの、 J1リーグ戦では調子は上向かず、リーグ前半戦17試合を終えて4勝3分10敗、勝点15でJ2降格の可能性のある16位に低迷、また天皇杯では、初戦の2回戦で対戦した関西学院大に1-1から延長戦の末1-2で敗れた。ワールドカップによる中断を挟んで J1リーグ戦5試合連続未勝利となった翌日の7月23日、監督のクルピを解任、U-23監督の宮本恒靖が後任のトップチーム監督に就任した。 監督交代後、シーズン途中にはレノファ山口から小野瀬康介、神戸から渡邉千真を補強したが、長沢が渡邉とトレードする形で神戸へ期限付き移籍。 また、監督交代後、序盤は苦戦し4戦目の第21節FC東京戦で宮本体制での初勝利を決める。9月以降はチームが上向き、第25節川崎戦から第33節長崎戦にかけて21年ぶりクラブタイ記録となる9連勝を飾り、宮本就任以降は10勝3分4敗、勝点33を積み上げ最終的に9位でJ1残留を決めた。 チームスローガン:GAMBAISM 2019年、宮本体制2年目。広州恒大から金英權、ブリーラムから青山直晃、熊本から田中達也 を獲得。また、仙台から矢島、徳島から呉屋、金沢から田尻が期限付き移籍から復帰。さらに開幕直後にはスペインからダビド・コンチャを期限付き移籍で獲得。また、ユースから奥野耕平、関西学院大から髙尾瑠が新加入。 一方で期限付き移籍をしていた長沢と二川、ファビオや初瀬などがそれぞれ移籍した。 第2戦で今季初勝利するも第5節から7戦勝ち無し。第12節の大阪ダービーからは食野や矢島、中村などの若手選手を大量に起用し、巻き返しを図ったが、一時はJ2自動降格圏に転落。しかし、前半戦最後の最後でなんとか持ち直し、前半戦は13位で終えた。 シーズン途中にはFCアウクスブルク から宇佐美が完全移籍で2016年夏以来3年ぶり2度目、広島からパトリックが期限付き移籍で2017年夏以来2年ぶりに、リーズ・ユナイテッド から井手口が完全移籍で2017年以来1年半ぶりに復帰。また、川崎から鈴木雄斗を期限付き移籍で、山口から高木大輔を完全移籍で獲得した。さらに9月には昨シーズンまでビルバオに所属していた元スペイン代表のマルケル・スサエタを完全移籍で獲得した。 一方でエースの黄義助がフランスのボルドーへ、これまで国内三冠やJ1復帰・残留などに貢献した今野が磐田へ、ベテランの藤本が京都へ、オ・ジェソクがFC東京へ、中村がオランダのFCトゥウェンテへ、食野がイングランドのマンチェスター・シティ へ、米倉が千葉へとそれぞれ移籍するなど主力級や若手の選手が大量に流出してしまった。 天皇杯は、3回戦で法政大学に0-2で敗戦し、2年連続で大学勢に敗退する結果となった。 10月4日、第28節の札幌戦に勝利し、鹿島、横浜FM、浦和に次ぐJ1通算400勝を達成した。 ルヴァンカップでは、2年ぶりに準決勝へ進出したが、札幌相手に2戦合計2-2、アウェーゴールルールにより、3年ぶりの決勝進出はならなかった。また、4年連続の無冠が確定した。 リーグ戦の最終成績は、12勝11分11敗の勝ち点47の7位。 チームスローガン : GAMBAISM 2020年、宮本体制3年目。トゥールーズFCから昌子源、鳥栖から小野裕二、石川慧、岡山から一森純を完全移籍で、磐田から新里亮、柏から猿田遥己、川崎 からタビナス・ジェファーソンを期限付き移籍で獲得。また、FC東京からオ・ジェソク、岐阜から市丸が期限付き移籍から復帰。また、ユースから川崎修平、塚元大、唐山翔自、関西大学から黒川圭介、関西学院大から山本悠樹、ボイン高等学校からシン・ウォノが新加入。さらに、広島から期限付き移籍で復帰していたパトリックが完全移籍へ移行した。 一方で、元スペイン代表のスサエタとコンチャ、期限付き移籍をしていた呉屋や米倉、一美などがそれぞれ移籍した。 また、シーズン途中には2000年から在籍している遠藤が磐田に期限付き移籍で、今シーズン復帰したばかりのオ・ジェソクが名古屋に完全移籍で、市丸が琉球に期限付き移籍でそれぞれ移籍した。 リーグ戦では9年ぶりに開幕戦で勝利した後、一時期2位に浮上するも、夏に連敗で一時期失速。その後は12戦負けなしなどで好調を維持し、2位でシーズンを終え、3年ぶりのACL出場権及び天皇杯出場権を獲得した。また、これまでパナソニックスタジアム吹田で勝利がなかった名古屋グランパスエイト、鹿島アントラーズ、柏レイソル、ヴィッセル神戸から初勝利を収めた。 20勝5分9敗という成績に対し得失点差は僅かに+4であり、得点数もリーグ9位だった。またアウェイでの勝率は71%に達し、アウェイ戦だけ見ると独走で優勝した川崎を超えるリーグ1位の成績だった。 天皇杯は決勝で川崎に0-1で敗戦し、準優勝で終わった。 チームスローガン : TOGETHER as ONE 宮本体制4年目。FCソウルからチュ・セジョン、松本からレアンドロ・ペレイラ、鳥栖からチアゴ・アウベスを獲得。 また、横浜FCから一美、山口から林が復帰。一方で、渡邉、高江、市丸、松田らがそれぞれ移籍し、期限付き移籍中の遠藤と谷が移籍期間を延長した。また、ユースからの昇格は8年ぶりに見送られた。 開幕戦消化後、新型コロナウィルスの感染がチーム関係者複数に発生し3月9日から3月23日にかけてトップチーム活動の休止を余儀なくされた。活動再開後も調子を上げることができず、リーグ戦10試合消化時点で1勝4分5敗の暫定18位、得点数も3と低迷した。 そうした事情を考慮し、5月13日付で宮本監督との契約を解除。当初は強化アカデミー部長で2012年に監督を務めた松波正信が後任決定まで暫定的に指揮を執るとしていたが、6月1日に後任監督を松波として現体制を継続させることを発表した。 その後、4年ぶりの出場となったAFCチャンピオンズリーグでは、全北現代モータース、チェンライ・ユナイテッドFC、タンピネス・ローバースFCと同組。新型コロナウイルス感染症の影響のためウズベキスタンでの集中開催となったグループステージでは、タンピネスとの初戦に勝利するもその後3戦連続ドローと勝ち星を積み上げられず、第5節のタンピネス戦で大会2勝目を挙げ望みをつなげたが、第6節で全北現代に敗れグループ2位となり、他グループの結果により、日本勢で唯一のGS敗退となった。 帰国後は、新型コロナウイルス感染症の影響で開催延期になっていた3月分の全6試合を東京オリンピック期間中に中2日で開催することとなり、7月24日の福岡戦を皮切りに、9月5日のルヴァンカップ準々決勝2ndレグのC大阪戦まで国内15連戦、ACLを含めて21連戦を戦うこととなった。 シーズン途中には、フルミネンセFCからウェリントン・シウバ、水戸から柳澤亘を完全移籍で獲得。また、愛媛から加藤大智を期限付き移籍で獲得。一方で、一美が徳島へ、川﨑がポルティモネンセSCへ完全移籍。また、唐山が愛媛へ期限付き移籍した。 リーグ戦では、怪我人が続出したこともあり、シーズンを通して2度の4連敗を喫するなど低迷。ルヴァンカップを含め大量失点で敗れる試合も多く、攻撃・守備両方において課題を残すシーズンとなった。リーグ戦の最終成績は12勝8分18敗の勝ち点44の13位。33得点はリーグ4番目に少なく、Jリーグ参入以降で最低の数字となった。シーズン終了後に松波監督が退任。 チームスローガン : BE THE HEAT, BE THE HEART 前年度まで大分を率いた片野坂知宏が監督に就任。ヘッドコーチを務めた2015年以来、7年ぶりの復帰となる。 城南FCからクォン・ギョンウォン、清水から石毛秀樹、徳島から福岡将太をそれぞれ完全移籍で獲得。また、湘南から齊藤未月、サンタ・リタからダワンをそれぞれ期限付き移籍で獲得。また、愛媛から期限付き移籍で獲得していた加藤が完全移籍に移行した。さらにユースから中村仁郎と坂本一彩がトップ昇格、関西学院大学から山見大登が加入した。 一方でキム・ヨングォンが蔚山現代に、井手口がセルティックに、小野が鳥栖に、チアゴ・アウベスが岡山に、矢島が大宮にそれぞれ完全移籍。また、唐山が水戸に、塚本が金沢にそれぞれ期限付き移籍。そして、2020年から磐田に期限付き移籍していた遠藤保仁が同クラブに完全移籍した。 リーグ戦前半こそは勝点を積み上げれていたものの、シーズン後半になるにつれ失速。第25節、同じく残留を争う清水に0-2で破れたことで監督の片野坂知宏を解任。後任には松田浩が監督に就任。松田就任後の成績は4勝3分3敗、最終節で鹿島に0-0で引き分けて残留を確定させた。最終結果は9勝10分15敗の15位。降格した清水エスパルスとの勝点差は3。 得点数は33で、リーグ6番目に少なかった。チーム得点王はパトリックの5ゴールであり、クラブ史上最も少なかった。 ルヴァンカップは1勝2分3敗の3位でグループステージ敗退。天皇杯は4回戦で鹿島に敗退。 シーズン終了後に松田監督の退任を発表。さらに攻撃の要として長年在籍したパトリックや小野瀬康介が契約満了のため退団することが発表された。 チームスローガン : BE THE HEAT, BE THE HEART 2021-2022年にかけて徳島を率いていたダニエル・ポヤトスを新監督に招聘。マルセル・サンツがヘッドコーチに就任。 パトリック(京都サンガFCへ移籍)、ウェリントン・シウバ、レアンドロ・ペレイラ(ペルセポリスFC(イラン)へ移籍)、加藤大智、小野瀬 康介(湘南ベルマーレへ移籍)、芝本連(FCティアモ枚方へ移籍)が契約満了で退団。齊藤未月が期限付き移籍満了で退団。唐山 翔自は水戸ホーリーホックへ期限付き移籍延長。坂本一彩がファジアーノ岡山、南野遥海がテゲバジャーロ宮崎、髙橋隆大が奈良クラブへそれぞれ期限付き移籍。ツエーゲン金沢から塚元大、ベガルタ仙台から佐藤 瑶大がそれぞれ育成型期限付き移籍から、湘南ベルマーレに期限付き移籍していた谷晃生が復帰した。昌子源が鹿島アントラーズ、チュ セジョンが大田ハナシチズン(韓国)へそれぞれ完全移籍。ロアッソ熊本より杉山直宏、V・ファーレン長崎より江川湧清、モンテディオ山形より半田陸、SCサンタ・リタ(ブラジル)よりダワン、オーデンセ ボルドクルブ(デンマーク)よりイッサム ジェバリ、マッカビ・ハイファFC(イスラエル)よりネタ ラヴィが完全移籍加入した。 2月8日、チョンブリFC(タイ)と提携を締結。 開幕戦こそ引き分けたがその後は低迷。第14節の敗戦で3年連続のリーグ戦4連敗を喫し最下位に転落。第15節の前にはサポーター連合がクラブへの抗議としてツイッター上で、この日の試合の応援を拒否する姿勢を表明する事態となった。試合にも敗れ、25年ぶりの5連敗となってしまった。試合後は選手やポヤトス監督らがゴール裏に集まったサポーターと話し合いののちに、選手とサポーターが握手を交わし大きな拍手が送られた。 天皇杯は高知ユナイテッドSC(JFL)に2回戦で敗れ敗退。 リーグ戦では第15節新潟戦から24節湘南戦まで8勝1分1敗と急速に盛り返し、残留争いから抜け出す。その後は勝ちに見放され再び低迷。 10月27日、ポヤトス監督と来シーズンの契約更新を発表。 翌日のリーグ戦、セレッソ大阪との大阪ダービーは1-0の完封負けで、2年連続でリーグ戦シーズンダブルを食らった。次の福岡戦でも負け、シーズン2度目の5連敗を喫する。またこの試合により、94~96年以来2度目の3年連続2桁順位が確定した。最終節を前に残留を決めるも、その後最終節まで連敗を7に伸ばし、95年の8連敗に次ぐ記録となった。最終順位は9勝7分18敗で16位となり、降格した2012年に次ぐ低い順位となった(勝ち点、得失点差は2012年を下回る)。さらに失点数リーグワーストタイ(61失点)を記録するなど、苦しいシーズンとなった。総得点は38で、7ゴールを挙げたファン・アラーノがチーム得点王となった。 選手移籍、育成型レンタル移籍、コーチングスタッフおよびチームスタッフの相互交流によりトップチーム強化を目指す。 アカデミー年代における選手・スタッフの留学、試合の実施、トレーニングメソッドの情報交換などによる相互交流により、若手選手の育成強化を目指す。 ※町中大輔ジュニアユース監督のJFA公認S級コーチ海外研修をチョンブリFCにて実施(1/30~2/12) ※7月にタイで行われる交流試合にジュニアユースチームが参加 タイ・リーグおよびタイ国内サッカー、Jリーグおよび日本国内サッカーの選手スカウト情報を可能な範囲で相互共有し連携する。 アジアサッカー連盟(AFC) Jリーグ Jリーグカップ その他受賞 最多得点試合 最多失点試合 連勝記録 連続無敗記録 連敗記録 リーグ戦通算勝利記録 最年少出場 最年少得点 通算最多出場 通算最多得点 シーズン最多得点 連続試合得点 ハットトリック 記念ゴール ホームスタジアムは市立吹田サッカースタジアム(パナソニックスタジアム吹田, Panasonic Stadium Suita)。2015年までは万博記念競技場をホームスタジアムとし、同競技場の南には練習グラウンドが併設されている。(天然芝グラウンド2面) 1997年までは京都府京田辺市の松下電工(現:パナソニック)敷地内にあった練習グラウンドを使用していた。 G大阪が関西唯一のJリーグクラブであった頃は、神戸ユニバー記念競技場や西京極競技場でもホームゲームを行ったことがある。また、1995年〜2010年まで石川県西部緑地公園陸上競技場でホームゲームを行っていた。 2008年6-7月にフードフェスタが導入され、万博記念競技場の最寄り駅「公園東口駅」からスタジアムに向かう通り道でフードコートが開催されている。2008年8月より名称を「美味G横丁(おいじいよこちょう)」とし、ホームゲームで開催されている。2009年からはメインスタンド裏にも出店している。2016年の市立吹田サッカースタジアム移転によりフードコートもスタジアム内に移動し、名称も「美味G」に変更された。 クラブハウスとオフィシャルショップ「Blu SPAZIO(ブルスパジオ)」はホームが万博だった2015年までは練習グラウンド横に併設されていた。2016年の市立吹田サッカースタジアム移転により両施設ともスタジアム内に移転し、新たにこれまでに獲得したトロフィーや歴代所属選手のサイン入りスパイクなどが展示されたミュージアム「Blu STORIA(ブルストリア)」がオフィシャルショップ横に併設された。 Jリーグ開幕からホームスタジアムとして使用していた万博記念競技場が国際サッカー連盟(FIFA)の定める国際規格を満たしておらず老朽化も進んでいたことで、2008年7月に新スタジアムの建設・移転計画が発表された。万博記念公園内に新たにスタジアムを建設し、その建設資金を行政からの資金拠出なしに寄附金により充当するというもので、諸問題の調整を経て2013年12月にスタジアム建設の起工式が行われ、2015年9月に竣工した。2016年のJリーグよりホームスタジアムが市立吹田サッカースタジアム/通称パナスタに移転された。 J1リーグ戦 AFCチャンピオンズリーグ J2リーグ戦 J3リーグ戦 参考記録 J1リーグ戦 J2リーグ戦 J3リーグ戦 入場者数の太字は歴代最多記録 青、 黒 ゲームシャツには1997年シーズンから青と黒の縦縞模様のデザインを使用している。これには1996年シーズン終了後に当時G大阪でプレーしていた礒貝洋光が縦縞模様への変更を提案したという経緯があるが、彼自身は1997年から浦和へ移籍したため一度も着ることはなかった。 また、クラブエンブレムの変更を機に、青と黒を基軸にホワイトとゴールドを使用し、ブランドの強固なイメージを形成するとしている。 「スポーツのチカラで地域を元気にしたい、地域の心の拠り所でありたい、子ども達に夢を持つきっかけを与えたい」といったガンバ大阪の設立理念を実現すべく、2017年より例年8,9月に開催。試合当日は選手が記念ユニフォームを着用し、来場者には記念シャツが配布される。 ガンバ大阪U-23(ガンバおおさか・アンダートゥエンティスリー、略称表記:G大23)は、2016年から2020年にかけてJ3リーグ(J3)に参加していた、ガンバ大阪に所属する23歳以下の選手で構成されるサッカーチーム(U-23チーム)。 2015年12月15日、Jリーグの理事会において2016年シーズンよりJ1・J2クラブの「U-23チーム」がJ3に参加することが発表され、初年度参加チームの一つとして参戦することがクラブから発表された。 ガンバ大阪強化本部にはかねてよりセカンドチームを持ち、若手選手が試合経験が積める場を提供していきたいという構想があり、それまで公式戦への試合出場が難しかったU-23世代を中心としたセカンドチームで「ガンバ大阪U-23」チームを編成。J3リーグを戦うことで、実戦での経験を重ね、各選手のレベルアップを図る。また、U-23世代の選手がレベルアップすることにより、チーム内の競争を促し、チーム全体のレベルアップ・強化に繋げることを目標としている。また、セカンドチームのJ3参戦に際し、2016年から運用する新ホームスタジアム「市立吹田サッカースタジアム(現:パナソニックスタジアム吹田)」の稼働率を上げることもセカンドチームの編成に踏み切った要因として挙げられている。 上記の目的を達成するため、トップチームとU-23チームの編成は合同を基本としつつも、練習の質を下げないためにトップチームのトレーニングに参加するU-23メンバーを限定し、そこに出場機会のなかった選手をU-23のメンバーとしてJ3の試合に出場させる方針をとっている。 日刊スポーツが2019年7月16日付 の記事で、2020年を最後としてU-23チームの参戦を終了させる方向である見込みであると報じられた。それに伴い、「ガンバ大阪U-23」は2020年シーズンをもってJ3リーグでの参加を終了することになった。 1月7日、トップチームアシスタントコーチ兼U-23チーム初代監督として、クラブOBで前年まで名古屋のコーチを務めていた實好礼忠が就任。当初はトップチームとU-23のメンバーを区別していなかった(登録メンバーは両者で共通としている)が、総勢37人の大所帯となったことから、2月10日以降は時間を分けての練習を開始した。3月11日には2種登録選手の追加登録を行い、ユースの11選手がU-23チームのメンバーとしてに出場することが可能となった。また、初年度となった2016年度は年間で9位となったが、U-19日本代表に堂安律、初瀬亮、市丸瑞希が選出されてAFC U-19選手権バーレーン2016での優勝に貢献した。 U-23チームがトップチームと分けられ、コーチもトップチームと異なるスタッフが担当することとなった。これについて当時U-20日本代表監督を務めていた内山篤は、U-23が単独活動化したことによって、U-23を離れてトップチームに帯同こそするものの十分には試合に出られないという若手選手が出てしまうことを危惧していた。實好がG大阪ユース監督に異動し、後任の監督に宮本恒靖、ヘッドコーチに山口智、フィジカルコーチにイ・チャンヨブ、GKコーチに松代直樹が就任した。3月12日、第1節のガイナーレ鳥取戦ではGKの谷晃生が16歳3か月の若さでJリーグデビューを果たした。途中大量失点で敗れるなど第20節から8連敗と苦しんだが、最終節までの6試合は無敗と年間16位でシーズンを終えた。 宮本体制2年目。6月18日に発生した大阪北部地震により、直後に予定されていたザスパクサツ群馬戦の開催会場、万博記念競技場が一部損壊したため、試合会場をパナソニックスタジアム吹田に変更、開催日も8月に延期する措置を取った。夏季J3リーグ戦中断期間前までの17試合で6勝5分6敗の勝点23で暫定10位となる。 中断期間初日の7月23日、トップチーム監督を解任されたレヴィー・クルピの後任に宮本が指名されたことを受け、實好が約1年半ぶりに監督に復帰した。チーム発足後初めて勝利数が敗戦数を上回り、順位も過去最高の6位でシーズンを終えた。 實好に代わり、クラブOBで過去にジュビロ磐田やサガン鳥栖などで監督を務めた森下仁志が監督に就任。シーズン序盤は好調を維持するも、中盤にかけてU-23チームで結果を出した選手がトップチームに引き抜かれ、また移籍などの台所事情で低迷が続いた。それでも、2種登録の唐山翔自がJリーグ最年少ハットトリックを記録するなど、唐山を中心とした攻撃力で結果を出していた。最終的には、年間17位でシーズンを終えた。 2020年 森下体制2年目。U-23チームのJ3リーグ参戦は同年が最後のシーズンとなる。シーズン序盤は6連敗を喫するなど苦しんでいたが、後半戦にかけて少しずつ持ち直し、最終的に14位でラストシーズンを終えた。 U-23チームはトップチームと同じくパナソニックスタジアム吹田での開催を基本としつつ、一部主催試合をトップチームが2015年まで本拠地としていた万博記念競技場でも行う。 ユニフォームのデザインはトップチームと同様。サプライヤーもトップと同じUMBRO。 G大阪のアカデミーは、初代監督 釜本邦茂が主催していたジュニアユースおよびジュニア年代のクラブチーム「釜本FC」が移行する形でJリーグ開幕前年の1992年に発足したものであり、「豊かな人間形成」「世界に通じるクリエイティブな選手の育成」「フェアプレー精神の遵守」の3つをコンセプトとする指導方針のもと、ユース(約30名)、ジュニアユース(3チーム、約300名)、ジュニア(4チーム、約1500名)の3カテゴリーで構成された一貫指導体制を敷いている。 2008年までG大阪の育成・普及部長を務めた初代ユース監督上野山信行の指導のもと、Jリーグ開幕当初から様々な大会で実績を残している。また、宮本恒靖、稲本潤一、新井場徹、大黒将志、橋本英郎、二川孝広、丹羽大輝、家長昭博、安田理大、倉田秋、宇佐美貴史など多くの選手がトップチームの主力に定着している。 Jリーグ開幕当初から全国のクラブユースチームを代表するチームで、1998年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 では、大黒将志、二川孝広らを擁して、全国レベルの強豪校と互角に渡り合い準優勝の成績を収めた。なお、Jユースカップの優勝回数(4回)は最多である。 2020年、2021年に関して(プレミアリーグ) 新型コロナウイルス感染拡大に伴い未開催(2020年)、未消化試合あり(2021年)。 タイトル 万博グラウンドがある吹田市にあるチーム。高円宮杯で2006年、2007年と2連覇、2012年に史上初の全国3冠、2012年のマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップで準優勝するなど、様々な大会で実績を残している。 タイトル 2001年6月に発足。2010年の日本クラブユースサッカー選手権では初出場でベスト16。また、2011年に関西サンライズリーグへ昇格した。 トップチーム昇格者の内、飛び級で昇格した選手は稲本潤一、新井場徹(1997年)、家長昭博(2004年)、宇佐美貴史(2009年)、井手口陽介(2014年)、堂安律(2016年)の6名で、特に宇佐美はジュニアユースとユースをそれぞれ2年間で飛び級している唯一の高校2年生次でのトップチーム昇格者である。 かつて読売サッカークラブやヴェルディの親会社だった読売新聞グループ本社もスポンサーの1社であった。 2008年より開催されているクラブ関係者とサポーターとの意見交換会。議事録は公式サイトに掲載されている。 ガンバ大阪の決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016 金額の単位: 百万円
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ガンバ大阪(ガンバおおさか、英: Gamba Osaka)は、日本の大阪府吹田市、豊中市、茨木市、高槻市、池田市、摂津市、箕面市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ヤンマーディーゼルサッカー部のサブチームであったヤンマークラブの監督・選手で結成した松下電器産業サッカー部(1980年・昭和55年)を前身とする。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2005年に初タイトルとなるJ1リーグ優勝を果たし、2008年にはAFCチャンピオンズリーグ制覇、2012年シーズンは17位で初のJ2リーグ降格となった。2014年にはJ1復帰1シーズン目での国内三冠(J1リーグ・Jリーグカップ・天皇杯)を達成。主要タイトル獲得数はJリーグ全加盟クラブ中、鹿島アントラーズ、浦和レッズに次いで3位。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ホームスタジアムはパナソニックスタジアム吹田。Jリーグ加盟の1993年から2015年までは万博記念競技場をホームスタジアムとしていた。練習グラウンドは万博記念公園スポーツ広場内のガンバ大阪練習場。当初は神戸ユニバー記念競技場や西京極競技場を準本拠地、淀川区(新大阪駅近く)にクラブ事務所と京田辺市に練習場と「近畿代表」「オール関西」的な意味合いが強かった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2011年までのホームタウンは大阪府吹田市の1市。1997年に練習場とクラブ事務所をスタジアムがある万博記念公園に移転。2004年より吹田市、茨木市および高槻市、2006年より前述3市および豊中市を重点4市と定めた。2010年、それまで各市でG大阪の支援活動を行っていた4市の後援会が一丸となり、G大阪とともに各自治体、企業などと協力し、青少年の健全育成や街の活性化をはじめとする地域貢献活動を目的とした「ガンバ大阪後援会」が発足した。なお、大阪府大阪市と堺市をホームタウンとしているセレッソ大阪に対し、G大阪は北摂・北河内地域14市3町を重点地域にしている。ホームタウンはその後、2012年2月に茨木市、高槻市、豊中市の3市、2015年5月に池田市、摂津市、箕面市の3市 をそれぞれ追加し、北摂地域の全ての市となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "クラブ名の「ガンバ(GAMBA)」は、イタリア語で「脚」を意味し「脚」によってシンプルで強いチームを目指す。また、日本語の「頑張る」にも通じ、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "という意味が込められている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "発足から1995年までのクラブ名は「パナソニックガンバ大阪」。略称表記はJリーグ発足当初は「大阪」であったが、1995年に大阪市・堺市をホームタウンとするセレッソ大阪や、2023年に東大阪市をホームタウンとするFC大阪がJリーグに昇格してからは、それら2クラブと区別するため「G大阪」(Gは「Gamba」の頭文字)や「ガ大阪」と略記される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "運営会社は株式会社ガンバ大阪で、設立当初は松下電器産業(現・パナソニック)が全株式を保有していたが、1997年に関西電力、大阪ガス、西日本旅客鉄道が株主となっている。なお、資本金はJリーグクラブの中でも最少。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "マスコットは松下進デザインの「ガンバボーイ」で、ゼウスの生まれ変わりという設定。ガンバって勝利を勝ち取る元気なサッカーボーイで、雷の形の闘志あふれるエネルギーをその手につかんでいる。人間をモチーフにした数少ないマスコットの1つ(オリジナル10では唯一の人間をモチーフにしたマスコット)。Jリーグ開幕当初は、デザインイラストどおりギリシャ風の衣装を着用するデザインだったが、1990年代後半頃からはユニフォームを着用したイラストに変更された。ただし、ユニフォーム以外を着用しているものも少数ではあるが存在した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "エンブレムは1995年までは、クラブマスコットのガンバボーイそのものがエンブレムの代わりで、正式なエンブレムができた1996年以降は、クラブカラーと同じブルーとブラックで大阪府の府鳥「百舌鳥」を伝統の象徴である盾型にアレンジし、その中央にはサッカーボールが描かれ、勝利の証である月桂樹のかわりに、大阪府の木「銀杏」の葉が周囲を飾るものになっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2021年10月2日、オフィシャルホームページにて、2022年シーズンよりエンブレムとロゴを変更する事が発表された。 エンブレムは、炎、ハート、ゴールの3つの要素によってガンバ大阪の頭文字「G」を造形。エンブレム下部より上昇する炎の形状は、熱狂を生み出す青い炎となる、ガンバ大阪の姿を象徴し、エンブレムの中心からハートの形状を描くブルーのラインは、心の中で燃え続ける熱い情熱によって、ファン・サポーター、地域、日本のスポーツ文化の中心となる意志を表す。 エンブレム上部に描かれたゴールの形状は、栄光(ゴール)に向けて真摯に挑み続ける、決意を表している。 ロゴは、エンブレムのエッセンスを取り入れた、シンプルでありながら意志の強さのあるユニークで現代的なデザインに変更された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2022年4月1日付で、メインスポンサーであるパナソニックの事業再編(持株会社・パナソニックホールディングスへの移行)に伴い、これまでパナソニック本社直轄で運営していた企業スポーツクラブの運営を委託する新母体としてパナソニックスポーツ株式会社が設立され、ガンバ大阪はそのパナソニックスポーツの子会社(パナソニックホールディングスが所有していた株式をパナソニックスポーツに移譲)として機能することになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1980年に創部された松下電器産業サッカー部が前身。1984年に日本サッカーリーグ(JSL)2部、1986年にJSL1部へ昇格。第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1990年)優勝 などの成績を残した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1991年10月1日、運営会社である株式会社松下サッカークラブを設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1992年にクラブ名を「パナソニックガンバ大阪」と命名。Jリーグ創設時からの加盟クラブ「オリジナル10」の一つであり、当初は近畿地方で唯一のJリーグクラブだった。Jリーグ加盟時は松下がユニバーサル映画を買収した時期と重なり、強そうなのでスティーヴン・スピルバーグの映画『ジョーズ』から大阪城にも引っ掛け「大阪ジョーズ」という名前が有力候補だった。しかし、ジョーズエピネと言う有名脱毛剤を販売していた居藤高久がジョーズという商標を持っており、貸してもらうことができなかったため、ガンバ大阪と言う名前になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "松下初代監督水口洋次の同い年の親友で松下監督をJSL閉幕時点でも務めた釜本邦茂が引き続きJ参戦に向けて指揮を執った。永島昭浩、礒貝洋光、本並健治、エジバウドなどが所属していた。1992年のJリーグカップは8位に終わったが、第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会はベスト8の成績。しかし、1993年1月にエジバウドがシーズン開幕を待たずして交通事故で他界した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1993年Jリーグ開幕節(5月16日)、万博記念競技場で浦和と対戦し、和田昌裕の得点で1 - 0で勝利したが、1st・2ndステージとも8勝10敗の成績で、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。Jリーグ開幕初年は年間成績7位に終わる。ナビスコ杯ではベスト4へ進出。帝京高等学校時代の2年生次で出場した第70回全国高校サッカー選手権では7得点を挙げ大会得点王に輝き、同校を優勝に導いた大型ストライカーとして注目を集めた松波正信は卒業の93年開幕したばかりのJリーグの4クラブ(名古屋グランパスエイト、鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原)から正式オファーがあり、ガンバに加入。同年5月16日の開幕節ではベンチ入りも逃したが6月9日、サントリー第11節サンフレッチェ広島戦で決めたJ初ゴールがJリーグ通算100ゴールとなった。以後、初年度から出場機会を掴みリーグ戦29試合出場7得点を記録、7得点のうち10代最後の誕生日の前日11月20日、NICOSシリーズ第14節市原緑地運動公園臨海競技場で当時高卒ルーキーだった松波はキックオフから延長までフルタイム出場しハットトリックを達成、3点目は延長前半のサドンデス(Vゴール)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1994年、釜本体制2年目。永島が清水エスパルスに移籍した一方、前年からのアレイニコフに加え、ツベイバやプロタソフといった元ソ連代表勢が加入した。しかし、守備の要となる筈だったツベイバがケガで離脱し、1stステージは7勝15敗で12チーム中10位。2ndステージはツベイバが復帰したが、7連敗を喫すなど最下位争いの常連となり、名古屋グランパスエイト・浦和と共にJリーグのお荷物と扱われるようになった。最終的に8勝14敗で1stステージ同様の10位の成績。カップ戦はナビスコ杯・天皇杯共にベスト4で敗退。シーズン終了後、成績不振により釜本が監督を解任された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1995年、ジークフリート・ヘルトが監督に就任。ヒルハウス、スクリーニャらが加入。また、ユースから宮本恒靖らがクラブで初めて昇格した。1stステージ序盤は6勝2敗と好スタートを切り、首位争いに加わったが、その後は8連敗を喫し、最終的なステージ成績は10勝16敗で14チーム中11位。2ndステージは8勝18敗の13位。年間総合順位は初めて最下位に終わり、シーズン終了後にヘルトが監督を退任した。天皇杯は2年連続でベスト4に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1996年、クラブ名を「ガンバ大阪」、法人名を「(株)ガンバ大阪」にそれぞれ改称。前アシスタントコーチのヨジップ・クゼが監督に就任。初の1シーズン制で行われ、リーグ開幕から15連敗していたV川崎に第9節に勝利するなど、前半戦は8勝7敗。しかし後半戦で失速し、最終的な年間成績は11勝19敗で16チーム中12位。年間成績は初年度から参加した10チーム中唯一4年連続の負け越しとなった。天皇杯は3年連続でベスト4に進出した一方で、ナビスコ杯では予選で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "チームスローガン:GAMBA REVOLUTION", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1997年、クゼ体制2年目。礒貝が浦和、本並がV川崎に移籍。一方でカメルーン代表のパトリック・エムボマが加入し、新井場徹がユースから昇格した。また、ユースから飛び級でトップチームに昇格した稲本潤一が当時のJリーグ最年少出場記録となる17歳171日でJリーグ公式戦に初出場した。1stステージを8勝8敗(17チーム中8位)と初めて勝敗を五分に持ち込むと、2ndステージは当時のJリーグ記録となる9連勝を飾り、首位争いに加わり、2位の成績を残した。また、年間成績も初めて勝ち越し4位となった。なお、エムボマは25得点を挙げて、クラブ初のJリーグ得点王とベストイレブンを獲得。シーズン終了後、クゼが監督が母国クロアチア代表のスタッフ就任により退団、天皇杯はアシスタントコーチのフリードリッヒ・コンシリアが率い、4年連続でベスト4に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "チームスローガン:Run Together ともに勝利を!", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1998年、フレデリック・アントネッティの監督就任が決まっていたが、ヨーロッパのシーズンが終了してからの来日という形になり、それまではコンシリアが監督を務めた。また、橋本英郎がユースから昇格し、姫路市立琴丘高等学校の播戸竜二を練習生として獲得した(数か月後にプロ契約)。1stステージは14位(7勝10敗)。7月にエムボマがイタリア・セリエAのカリアリに移籍した。2ndステージは16位(5勝12敗)となり、年間成績は15位。また、ナビスコ杯は予選敗退、天皇杯は3回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "チームスローガン:Dream together", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1999年、コンシリア体制2年目。大黒将志、二川孝広がユースから昇格した。1stステージは6勝9敗で16チーム中10位に終わり、アントネッティがシーズン途中で監督を退任。2ndステージから早野宏史が監督に就任したが、5勝1分9敗の13位。年間成績は11位となった。また、ナビスコ杯は2回戦、天皇杯は4回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "チームスローガン:激闘宣言", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2000年、早野体制2年目。1stステージは5勝2分8敗の13位。2ndステージは開幕から5連勝。第10節の広島戦での勝利で3年ぶりに首位に立った。鹿島と優勝を争ったが、第14節で鹿島、最終節で磐田に破れ、順位は4位。なお、年間成績では6位、15勝2分13敗と3年ぶりに勝ち越した。また、天皇杯では3年ぶりにベスト4へ進出。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "チームスローガン:挑戦", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2001年、早野体制3年目。遠藤保仁、山口智を獲得。1stステージは9勝6敗の5位。1stステージ終了後、稲本がクラブ初となる海外移籍で、イングランド・プレミアリーグのアーセナルFCへ移籍。2ndステージは低迷し、第8節にC大阪戦(大阪ダービー、Vゴール負け)の翌日に早野が監督を辞任した。コーチの竹本一彦が監督に昇格したが、最終成績は5勝2分8敗の11位。年間成績は16チーム中7位(14勝2分14敗)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "チームスローガン:新挑戦", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2002年、前柏監督の西野朗が監督に就任。1stステージは中断期間までに4勝1分け2敗の4位。再開後も4連勝で一時は3位に浮上、最終的に9勝1分5敗で4位に入った。2ndステージも磐田と優勝を争ったが、直接対決で0-2と完敗するなどし、2位の成績(10勝5敗)。年間順位も過去最高の3位となり、19勝1分10敗と2年振りの勝ち越しを達成。また失点数・反則ポイント共に、チーム歴代最少であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "チームスローガン:Over the Top", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2003年は、西野体制2年目。年間で7度アディショナルタイムで失点を喫するなど失った勝点が積み重なった結果、一時は残留争いに加わった。1stステージは4勝4分7敗で12位、2ndステージは優勝争いには絡めず、6勝5分4敗で7位。年間成績も10勝9分11敗と4年ぶりに負け越した。シーズン終了後、新井場徹が鹿島に移籍した。4月17日、1996年12月29日の天皇杯準決勝広島戦でのプレー中の事故を最後に1998年シーズン途中に退団した今藤幸治が死去した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "チームスローガン:Re:Start - ガンバが変わる -", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2004年、西野体制3年目。シジクレイ、フェルナンジーニョらを獲得。1st・2ndステージ共に優勝争いに加わり、1stステージ7勝3分5敗で4位、2ndステージ8勝3分4敗で3位の成績。なお、この年はユース出身の大黒将志がリーグ戦日本人最多の20得点を挙げた。また、J1・1st第15節新潟戦で家長昭博がJリーグ史上初となる2種登録選手によるデビュー戦での初得点を挙げた。カップ戦においては、ナビスコ杯ベスト8、天皇杯ベスト4の成績となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "チームスローガン:熱き青の力で、共に頂点へ", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年、西野体制4年目。アラウージョ、藤ヶ谷陽介を獲得。リーグ戦序盤6試合はわずか1勝であったが、リーグ戦中盤以降にはアラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョを擁する攻撃力が機能するようになり(総得点は合計82)、22節に首位に立つ。ナビスコ杯は初めて決勝へ進出。決勝は千葉にPK戦で敗退したが、準優勝の成績を収めた。リーグ戦では終盤に失速し、第33節終了時点でC大阪に抜かれ、2位に後退する。それでも、最終節で川崎に勝利し、勝点1差の首位だったC大阪がFC東京と引き分けたため、クラブ創設以来初また関西のチームとして初となるリーグ優勝を果たした(詳細は2005年J1最終節を参照)。同時にAFCチャンピオンズリーグ2006(ACL)の出場権を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この年、アラウージョがクラブのシーズン最多得点となる33得点を挙げ、クラブでは1998年のエムボマ以来となる得点王と、クラブ初となるリーグMVPを獲得。シーズン終了後、アラウージョが移籍。この年、16得点を挙げた大黒もフランス2部リーグのグルノーブルへ移籍した。また、1993年のJリーグ開幕から所属した松波正信が現役を引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "チームスローガン:もっと熱く、青く、強く!!!〜さらに新たな挑戦へ〜", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2006年、西野体制5年目。大型補強を行い、FWにマグノ・アウベスと、7年ぶりにG大阪復帰となる播戸竜二。柏から元日本代表のMF明神智和、日本代表のDF加地亮らを獲得。また、ユースからは安田理大、平井将生ら過去最多の6人が昇格した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "初出場したAFCチャンピオンズリーグ2006はマグノ・アウベスが8得点で大会得点王を獲得したが、グループリーグで敗退。A3チャンピオンズカップ2006は中国の大連実徳と千葉には勝利したが、韓国の蔚山現代に大敗し、2位の成績。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "リーグ戦は最終節前で浦和に勝点3差の2位であったが、最終節の浦和との直接対決に2-3で敗れ、リーグ連覇はならなかった(最終順位は3位)。なお、マグノ・アウベスがクラブ史上3人目の得点王となる26得点、播戸も16得点を挙げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "リーグ戦終了後、宮本恒靖がオーストリアのレッドブル・ザルツブルクへ移籍、また、フェルナンジーニョも移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "天皇杯では、Jリーグ加入後初(前身の松下電器時代を含めると16年ぶり)の決勝進出を果たしたが、浦和に敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "チームスローガン:超攻撃", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2007年、西野体制6年目。FWバレー、レンタルでDF中澤聡太を獲得。開幕前に行われたゼロックススーパーカップでは浦和と2年連続で対戦し、マグノ・アウベスのハットトリックを含む4-0で勝利しスーパカップ初制覇。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ナビスコ杯では、2年ぶりに決勝進出。決勝では川崎と対戦し、優勝。決勝点を挙げた安田理大が、大会MVPとニューヒーロー賞を受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "リーグ戦は、クラブ初となる開幕4連勝で波に乗り、中断期間まで12勝5分け1敗と好調のまま首位。中断明けの浦和との直接対決に敗れ、最終的に2年連続の3位に終わったが、浦和が前年度の天皇杯とAFCチャンピオンズリーグ2007を優勝したため、ACLの大会規定により天皇杯優勝枠でAFCチャンピオンズリーグ2008の出場が決まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "シーズン後、外国籍選手のクラブ最多出場記録を持ち、ゲームキャプテンも務めたシジクレイが移籍。また、實好礼忠が現役を引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "チームスローガン:Power 〜力の結集〜", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2008年、西野体制7年目。佐々木勇人、ルーカス、山崎雅人らを獲得した2008年シーズンは300日余りの間に公式戦を過去最多の61試合をこなす過酷な日程となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2月のパンパシフィックチャンピオンシップ2008は、初戦でロサンゼルス・ギャラクシー、決勝でヒューストン・ダイナモに夫々勝利し、1992年のクイーンズカップ以来となる16年ぶりに国際タイトルを獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "5月17日、埼玉スタジアムの浦和戦(第13節)で、一部のG大阪サポーターによる浦和側への観客席に対する物の投げ込みを発端とした両クラブのサポーターが衝突する騒動が発生し、クラブは騒動を起こしたBB sez TOKYOの団員2名を永久入場禁止とし、同団体は解散となった。また、Jリーグから1000万円の制裁金が課された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "7月30日、スルガ銀行チャンピオンシップでアルゼンチンのアルセナルFCと対戦し、0 - 1で敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2年ぶりに出場したAFCチャンピオンズリーグ2008では準決勝で前年覇者である浦和とのACL史上初のJリーグ勢対決を2戦合計4 - 2(第1戦 1 - 1、第2戦 3 - 1)で制すると、11月12日の決勝ではオーストラリアのアデレード・ユナイテッドに2戦合計5 - 0(第1戦 3 - 0、第2戦 2 - 0)で勝利し、クラブ史上初、Jリーグ勢では1999年(AFCチャンピオンズリーグの前身であるアジアクラブ選手権)の磐田、2007年の浦和に次ぐ3クラブ目となるアジア制覇を果たす。また、ACL史上3クラブ目の無敗での優勝、そして、史上初のアウェー全勝(6戦中4戦が逆転勝ち)での優勝であった。遠藤保仁が大会MVPを受賞。また、AFCよりアジア年間最優秀クラブ賞を受賞し、監督の西野がアジア年間最優秀監督賞を受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "一方で、リーグ戦はシーズン序盤でやや躓くと、立て直してきた中盤には播戸竜二が肝機能障害、遠藤がウイルス感染症で離脱。更に、エースストライカーのバレーがUAEのアル・アハリに移籍。また、横浜FMからロニーを獲得するも、チームにフィットせず中盤で大失速。特にJ1第19節からJ1第24節まで勝利が無く、優勝争いから脱落する。最終順位は8位に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "12月、日本で開催されたFIFAクラブワールドカップ2008は初戦の準々決勝でこの年3度目の対戦となったアデレードに1 - 0で勝利。準決勝はヨーロッパ王者のマンチェスター・ユナイテッドに3 - 5で敗戦。3位決定戦は北中米カリブ海王者のパチューカに1 - 0で勝利し、前年の浦和に続き大会3位となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "天皇杯はクラブワールドカップとの日程が並行したため、準々決勝以降は中2・3日の間隔で試合が行なわれたが、2年ぶりに決勝へ進出。柏との決勝は延長後半に途中出場の播戸の先制点が決勝点となり1 - 0で勝利し、前身の松下電器時代の1990年度大会以来、18年ぶり2度目の優勝を果たす。これにより、国内3大タイトルを全て獲得した5つ目のクラブとなった。同時にAFCチャンピオンズリーグ2009出場権も獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "チームスローガン:SHOBU〜そして、ワールドスタンダードへ〜", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2009年、西野体制8年目。レアンドロ、チョ・ジェジンなどのFW、高木和道、パク・ドンヒョクの日韓代表経験を持つDFらを獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "5月2日、レアンドロがJ1第9節 大分戦で4月8日のACLグループリーグ第3節 スリウィジャヤ戦から続いていた、公式戦の連続試合得点をクラブ新記録となる7試合連続ゴールを達成した。最終的には5月10日のJ1第11節 柏戦までの9試合まで記録を更新。また、同試合で4月12日J1第5節 大宮戦から続いていたJ1の連続試合得点をクラブタイ記録の6試合連続ゴールも達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "5月20日、ACLグループリーグ第6節 FCソウル戦で、この年クラブ初の高校2年生でトップチームに昇格した宇佐美貴史が、1997年に稲本潤一が記録したクラブ最年少記録を更新する、17歳14日での公式戦初出場・初得点を記録。しかし、試合には敗れ、2006年のACLから続いていたACLの連続無敗記録が19試合で途切れた。そして、ラウンド16で川崎に敗れ、ACL連覇を逃した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "リーグ戦は開幕から二川孝広と加地亮の不在や期待された新戦力がチームに馴染まなかった影響により、なかなか調子が上がらず、特に5月後半から7月の半ば頃まで、万博でのホームゲームで6連敗(ACL、ナビスコカップ含む)を喫した。さらに8月にはチーム得点王のレアンドロがカタールのアル・サッドに移籍。新潟からペドロ・ジュニオールを獲得するもチームへのフィットに時間がかかり結果は出せず、一時は鹿島との最大勝点差が19となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "11月8日、J1第31節 京都戦のペドロ・ジュニオールの2得点目で鹿島、磐田に次ぐ3クラブ目となるリーグ戦クラブ通算1000ゴールを達成。11月24日、AFCより遠藤保仁が日本人選手5人目、Jリーグ所属選手では1997年の中田英寿(平塚)以来となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "後半戦はなんとか立て直し、第32節まで優勝の可能性を残しつつも、第33節で首位の鹿島との直接対決で1-5と大敗し優勝を逃した。それでも、最終的に3位となり、AFCチャンピオンズリーグ2010の出場権は獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "天皇杯は準々決勝で鹿島を破りリーグ戦での雪辱を果たすと、天皇杯6試合で8得点を挙げたルーカスの活躍もあり2年連続で決勝進出。決勝では名古屋を4 - 1で破り、歴代7チーム目の天皇杯連覇を達成。そして、天皇杯決勝戦を最後に、1997年から所属した松代直樹が現役を引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "チームスローガン:夢 〜すべてをひとつに〜", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2010年、西野体制9年目。ここ数年行った大型補強を行わず、新人とレンタル復帰以外では、FWのドドとゼ・カルロスの獲得のみにとどめ、現有戦力の維持を優先した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "シーズン開幕から6試合連続公式戦未勝利。リーグ戦も開幕から5試合連続未勝利で、その後も相次ぐ主力選手の離脱、外国籍選手の不調、更には試合終了間際の失点などが重なり、なかなか波に乗れず、1試合未消化であるものの首位争いから大きく離され、11位で中断期間に入る。また、ペドロ・ジュニオールがブラジルのクラブへ移籍し、ゼ・カルロスも途中移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ2010は、グループリーグ第3節シンガポール・アームド・フォーシズ戦で平井将生が日本人選手では7人目、ユース出身選手では大黒将志以来となるハットトリックを達成する活躍などで、3年連続グループリーグを突破するもラウンド16でこの年ACLを制した城南一和に敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "リーグ後半戦、磐田から韓国代表のイ・グノを獲得。この年優勝した名古屋との直接対決では2試合とも敗れ、勝点10差をつけられ独走優勝を許してしまったが、2位の成績となり、AFCチャンピオンズリーグ2011の出場権を獲得した。なお、ACLでハットトリックを決めた平井がチームトップの14得点(リーグでは日本人2位)、高校3年生ながら主力に定着した宇佐美貴史も高校生Jリーガーのシーズン最多記録となる7得点を挙げ、G大阪下部組織出身者として初のJリーグベストヤングプレーヤー賞(新人王)を受賞した。3年目の武井択也も途中離脱した明神智和の代役としてチームに貢献するなど、多くの若手選手が飛躍したシーズンであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "天皇杯では準決勝で清水に敗れ天皇杯3連覇を逃した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "シーズン終了後、安田理大がオランダ1部・フィテッセに、C大阪へレンタル移籍していた家長昭博がスペイン1部・マジョルカに、広島へレンタル移籍していた山崎雅人が広島に、安田晃大が北九州に、ルーカスがアトレチコ・パラナエンセに完全移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "チームスローガン:新芯進 〜新たなる未来へ〜", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "クラブ設立20周年となる2011年、西野体制10年目。Kリーグ・全北現代モータースから元U-23韓国代表のキム・スンヨン、ブラジル1部・SCインテルナシオナルから昨シーズンC大阪でリーグ戦14得点を挙げたアドリアーノ、大学生の金正也、藤春廣輝、川西翔太を獲得、ユースから大森晃太郎が昇格し、開幕直後にレンタルでコリンチャンス-ALからアフォンソを獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "アンブロ(販売元:デサント)と新たに2020年シーズンまでのユニフォームサプライヤー契約を締結した。また、1995年以来毎年行われてきた石川県西部緑地公園陸上競技場でのホームゲームから撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "3月11日に発生した東日本大震災の影響で、J1第2節から第6節が開催延期となった。これを受け、クラブ公式サイトで被災地への義援金を募るチャリティーオークションが開催され、3月27日には神戸との「東北地方太平洋沖地震チャリティーマッチ ?LET'S SUPPORT OUR FRIENDS 今こそ仲間のために行動しよう!?」が万博記念競技場で開催された。10月2日、創立20周年記念試合となったJ1第28節浦和戦で、6クラブ目となるJ1通算300勝を達成。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ2011はグループリーグを首位で突破したが、ラウンド16で当時8年間リーグ戦で敗れていないC大阪に敗退。ナビスコ杯は浦和に準決勝で敗退。天皇杯は水戸に3回戦で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "リーグ序盤戦、アドリアーノがクラブタイ記録の6試合連続得点を記録するなど得点ランキングトップを独走する活躍を見せ、攻撃面ではリーグトップの得点数であったが、守備面は開幕からの連続失点試合がリーグワーストの18試合で、総失点数が一時期リーグ最多となった。6月、アドリアーノがカタールのアル・ジャイシュ、7月に宇佐美がドイツ・バイエルン・ミュンヘンに移籍した一方、草津からFWラフィーニャを獲得。ラフィーニャ加入以降の夏場を無敗で乗り切り、第22節川崎戦で2009年3月以来となる首位に立ったが、第29節名古屋戦に大敗し、柏に首位を明け渡した。その後、最終節まで優勝の可能性を残したが、最終順位は3位で2年連続無冠に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "シーズン終了後、2002年から10年間監督を務めた西野朗が退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "チームスローガン:躍動", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2012年、監督にジョゼ・カルロス・セホーンが就任。クラブ史上初のブラジル人監督となった。コーチ陣も元日本代表の呂比須ワグナーを含む3人が加入。山口智や橋本英郎、下平匠やイ・グノらが退団した一方、FC東京から今野泰幸、甲府からパウリーニョ、徳島から佐藤晃大、FCソウルからイ・スンヨルを完全移籍で、清水から武田洋平、CAタボン・ダ・セーハからエドゥワルドをレンタル移籍で獲得し、丹羽大輝が6年ぶり、寺田紳一と倉田秋が3年ぶりにレンタル移籍先から復帰。新人では大卒で阿部浩之、テスト生から沼田圭悟を獲得し、ユースからは田尻健、西野貴治、稲森克尚が昇格した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "シーズン初の公式戦となったAFCチャンピオンズリーグ2012グループリーグ初戦に0-3で敗北。また、J1第2節のC大阪戦(大阪ダービー)を含むJ1第3節まで公式戦5連敗を喫した。J1第3節終了後の3月26日に監督のセホーン、ヘッドコーチの呂比須、フィジカルコーチのウェリントンおよび強化本部長の山本浩靖を解任。後任にコーチの松波正信がクラブOB初・クラブ最年少で監督に就任した。ACLでは1勝に留まり、この年出場したJリーグ勢で唯一グループリーグで敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "第6節(川崎戦)でリーグ戦初勝利を挙げたが、中断前の12試合でわずか2勝(3分7敗)。15位の新潟と勝点差6(ACL出場による日程変更でリーグ戦試合消化はガンバが新潟より1試合少ない状態)の16位と降格圏に低迷。これを受け、夏の補強としてRCDマヨルカから家長昭博、アル・サッドからレアンドロが期限付き移籍で復帰。また、清水から岩下敬輔を期限付き移籍で獲得。一方で、6月にラフィーニャと契約解除。7月にイ・スンヨルが蔚山現代FC、寺田が横浜FC、星原が水戸へそれぞれ期限付き移籍で退団。中盤以降、新戦力のレアンドロや家長の活躍もあり後半戦はやや持ち直すものの、第33節時点で降格圏内の16位で第34節(最終節)を迎える。最終的にはジュビロ磐田に、1-2で敗れ、初のJ2降格が決定した。この年、総得点数はリーグ1位の67得点であったが、総失点はリーグ17位の65失点であった。大量得点で勝つ事が多く、1試合3得点以上の試合では9戦全勝だったのに対し、1試合2得点以下の試合では11分14敗と1勝もすることができなかった。また、ホームは17試合の内わずか4勝(7分6敗)に終わった。前年3位から17位への順位降下は、2021年シーズン終了時点でも、J1リーグにおける最大の順位降下記録である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "天皇杯は3年ぶりに決勝へ進出したが、柏に敗れ、ACLの出場権を逃した。シーズン終了後、松波が監督を退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "チームスローガン:「復活〜さらなる進化を勝ち取るために〜」", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "初のJ2で迎えた2013年、監督に元清水監督の長谷川健太が就任。中澤聡太が川崎へ、佐々木勇人が仙台へ完全移籍したが、主力選手の大半がチームに残留した。シーズン前の補強では、ロンドン五輪韓国代表のオ・ジェソク、関西大学からユース出身の岡崎建哉を獲得。一方で、ユースからの昇格は14年ぶりに見送られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "序盤戦はややつまずくも開幕から12試合連続無敗を記録(6勝6分)。第13節神戸戦で初黒星を喫したが、第13節以降6連勝を記録。第16節終了時点で神戸をかわして首位に浮上。代表組の遠藤・今野が不在となった6月も無敗で乗り切り前半戦を首位で折り返す。後半戦、2012年夏から期限付き移籍で加入していた家長とレアンドロがそれぞれ契約満了により退団するが、ステアウア・ブカレストからロチャ、ドイツ・TSG1899ホッフェンハイムへの期限付き移籍が満了した宇佐美貴史が2年ぶりに復帰した。夏場はロチャ・宇佐美の活躍で順調に乗り切ったが、第32節長崎戦でホーム初黒星を喫すると、以降やや失速し第35節で神戸に再び首位の座を明け渡してしまう。それでも、第37節以降連勝を重ねると、第39節熊本戦での勝利で首位を再奪還すると同時に1年でのJ1昇格が決定。さらに、ホーム最終戦となった第41節山形戦でJ2優勝を達成した。ホーム万博でタイトルを勝ち取ったことはこれが初であった。また、J1・J2両カテゴリーの優勝は柏・広島に次ぐ3クラブ目となった。総得点は2位の神戸の78点を21点上回る99得点であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "この年、ホームでの観客動員は平日開催が多かったこともあり、ホームゲームのシーズン平均入場者数は前年よりも下回る12,286人(前年度比83.1%)であったが、アウェーでは各地で好調な動員を記録。前年のJ2の平均観客動員は6000人を下回ったが、2013年のアウェーのガンバ戦はほとんどが1万人以上の動員を記録。中でも、富山、松本、岡山など複数のクラブ過去最多動員記録を更新し、J2全体の入場者数は前年より約15%増加するなど、J2の観客動員増加に大きく貢献。このJ2全体に巻き起こった現象はアベノミクスになぞらえ「ガバノミクス」「アシノミクス」などと呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "チームスローガン:「Rising G」", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2年ぶりのJ1で迎えた2014年、長谷川体制2年目。新潟から東口順昭、千葉から米倉恒貴を獲得し、河田晃兵が3年ぶり、金正也が2年ぶりにレンタル先から復帰。外国人選手では、クリシューマECからリンス、パウリスタFCから期限付き移籍でエブソンを獲得。ユースからは内田裕斗と小川直毅、さらに井手口陽介がクラブ史上5人目となる飛び級で昇格した。シーズン途中には、エブソンが讃岐へ期限付き移籍、加地亮が、MSL・チーヴァス・USAへ完全移籍したが、川崎・甲府に在籍していたパトリックを期限付き移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "4月16日、ナビスコカップ・グループリーグ第3節鳥栖戦で、2種登録選手の高木彰人が16歳8カ月12日での公式戦初出場を果たし、2009年に宇佐美が記録したクラブ史上最年少出場記録を更新した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "7年ぶりに予選からの参加となったナビスコカップではAグループ1位で決勝トーナメント進出。準々決勝では同じAグループで2位に入った神戸に快勝(2戦合計4 - 1)、準決勝では2007年の決勝で顔を合わせた川崎に2戦合計5-4と打ち合いを制し、7年ぶりに決勝進出。決勝ではこの年の天皇杯4回戦でも顔を合わせた広島と対戦、前半35分までに2点先取されるも、前半のうちに1点を返し後半に2点を挙げ逆転勝ち。ナビスコカップの決勝では史上初となる2点差からの逆転優勝で、2007年以来2回目のナビスコカップ制覇を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "J1では、開幕直前に前年のチーム得点王の宇佐美が負傷離脱したこともあり、前半戦は極度の得点力不足に陥りブラジルワールドカップによる中断前は4勝3分7敗で降格圏の16位に低迷。それでも、後半戦は復帰した宇佐美や中断期間に新加入したパトリックを中心とした攻撃陣が機能し、中断後早々5連勝で降格圏から一気に抜け出すと、8月末から10月にかけては10年ぶりとなる7連勝を記録し優勝争いに加わる。第32節、負ければ優勝の可能性が消滅する首位浦和との天王山を制し勝点差2に詰めよると、続く第33節神戸戦での勝利で浦和を得失点差で上回り初の首位に浮上。そして最終節、最下位のアウェー徳島戦はスコアレスドローに終わったが、優勝の可能性を残していた2位浦和・3位鹿島がそれぞれ敗れたため、2005年以来9年ぶり2回目のJ1優勝を果たした。J1昇格1年目でのリーグ優勝は、2011年の柏以来2例目であり、また最大勝点差14からの逆転優勝はJリーグ史上最大だった。中断後は15勝3分2敗と猛烈な巻き返しを見せ、総得点はリーグ2位の59得点を記録。総失点もリーグ2位タイの31失点に留め、完封試合はクラブ新記録となる14試合を記録するなど、2年前J2に降格した主原因であった守備面は大幅に改善され攻守共に安定した数字を残した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "天皇杯では、翌年1月開催のAFCアジアカップ2015の影響で日程が例年よりも前倒しになり、リーグ戦と並行して行われたことで他のJ1クラブが早々に敗退する中、J3優勝の金沢、徳島、広島、2013年の天皇杯でPK戦の末に敗れた大宮、2010年の準決勝で敗れた清水をそれぞれ下し、2012年以来2年ぶりに決勝進出。決勝ではこの年J1昇格プレーオフを制した山形を3 - 1で下し5年ぶり3回目(前身時代含めると4回目)の天皇杯制覇を果たした。これにより、2000年の鹿島以来14年ぶり2チーム目、日本人監督のもとでは史上初、さらにJ1昇格1年目のクラブでも初の国内三冠を達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "チームスローガン:「Moving G」", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2015年、長谷川体制3年目。仙台から赤嶺真吾、横浜FMから小椋祥平、磐田から藤ヶ谷陽介を獲得し、ユースからは林瑞輝、妹尾直哉、嫁阪翔太、平尾壮の4人が昇格した。7月8日、清水より長沢駿を獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1月24日、インドネシア・スーパーリーグのペルシジャ・ジャカルタとの親善試合「パナソニックカップ2015」がインドネシアで行われ、4-0で勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2月28日、三冠王者として挑んだ富士ゼロックススーパーカップは前年リーグ2位の浦和に2-0で勝利し、8年ぶり2度目の優勝を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "5月27日、2種登録選手で高校2年生の堂安律がACLラウンド16第2戦FCソウル戦でプロデビューを果たし、直後のJ1第10節鹿島戦でクラブ史上最年少となるリーグ戦デビューを果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "3年ぶりに出場したACLは初戦広州富力、第2節城南FCに2連敗し、予選敗退ムードが漂っていたが、第3節ブリーラム・ユナイテッドFC戦に引き分け、第4節ブリーラム戦でACL初勝利をあげる。第5節広州富力戦は5-0で圧勝。最終節城南FC戦も逆転勝利で3勝1分2敗とし、首位通過を決めた。ノックアウトステージラウンド16ではFCソウルと対戦。第1戦目は敵地で3-1、第2戦目はホームで3-2で連勝してベスト8に進出。準々決勝は前年の韓国王者全北現代との日韓決戦を2戦合計3-2で下しベスト4に進出。準決勝は2013年のACL王者で中国スーパーリーグ4連覇中の広州恒大との日中決戦に2戦合計1-2で敗れ7年ぶりの決勝進出とはならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ナビスコカップはACLの影響で決勝トーナメントから参加。準々決勝はPK戦の末に名古屋を準決勝では新潟をそれぞれ下し、2年連続で決勝進出を決めたものの、決勝では過密日程からかパフォーマンスが落ちてしまい、鹿島に0-3で敗れ連覇はならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1stステージ序盤は今野泰幸の負傷離脱でチームの調子が上がらなかったが、今野復帰後は調子を取り戻す。しかし、ACLとの過密日程により選手には疲労が溜まり、先制するも追いつかれる試合が続き、結果的には1stステージ4位で終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2ndステージも全てのカップ戦を勝ち抜き過密日程が続いたことで、年間1位の広島と年間2位の浦和に大きく差をつけられた。年間順位4位で迎えた最終節で山形に勝利、年間3位のFC東京が鳥栖と引き分けたため、得失点差で3位に浮上しチャンピオンシップ出場を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "CSは浦和との準決勝を延長戦の末3-1で勝利し決勝進出。リーグ戦年間順位1位の広島と対戦した決勝ではホームでの第1戦を終盤の連続失点で逆転負けし、アウェイでの第2戦も引き分けた事により2戦合計3-4でリーグ連覇を逃した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "天皇杯はACLでベスト8以上に入ったことで4回戦から出場。4回戦では川崎、万博での最後の公式戦となった準々決勝では鳥栖を破り、準決勝ではCSで敗れた広島にリベンジを果たして2年連続で決勝に進出。決勝では浦和にパトリックの2得点で勝利し、2008年・2009年大会以来となる天皇杯連覇を飾った。この年の公式戦は、最終的に2008年の61試合に次ぐJ1全クラブ最多となる60試合に達するハードな日程だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "チームスローガン:Ambition", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "クラブ設立25周年となる2016年、長谷川体制4年目。本拠地をサッカー専用スタジアム「パナソニックスタジアム吹田」に移転。また、J3リーグにセカンドチーム「ガンバ大阪U-23」が参戦。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ユースから高木彰人、市丸瑞希、初瀬亮、堂安律が昇格(堂安は飛び級での昇格)。関西学院大学から呉屋大翔、大津高校から野田裕喜と一美和成が加入。愛媛から岡崎建哉が期限付き移籍から復帰。横浜FMからアデミウソンを期限付きで、藤本淳吾を完全移籍で獲得。明神智和とリンスが移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2月14日、市立吹田サッカースタジアムのこけら落としマッチ「Panasonic Cup」が開催され、名古屋に3-1で勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグではグループG組に入った。上海上港(中国)、水原三星(韓国)、メルボルン(オーストリア)と同組に入ったが、2013年の広島に続いて日本サッカー史上2チーム目のグループステージ未勝利とグループステージがホームアンドアウェー制度になった2004年以降では最低となる勝点2しか稼げずにGL敗退が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1stステージでは開幕早々にDF丹羽が離脱したことでセンターバックが人材難になりスタートダッシュに失敗。新戦力のアデミウソンが4得点と活躍するも、ACLとの過密日程でコンディションが上がらず首位の鹿島とは勝点15差の6位に低迷した。特にホームでは3勝2分4敗と大きく取りこぼした。1stステージ終了後、夏の移籍市場で宇佐美がドイツ1部・FCアウクスブルクに完全移籍し、ガンバ大阪一筋の二川が東京ヴェルディに期限付き移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "Jリーグカップでは決勝まで勝ち進み、3年連続ファイナル進出となった。決勝の浦和レッズ戦では1-1の同点で延長戦でも決着がつかずにPKとなったが、4-5で敗れてしまい準優勝となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2ndステージは10勝3敗4分け、勝点34の4位にとどまり、年間総合順位でも勝点58で3位の鹿島に1ポイント及ばず4位となり、チャンピオンシップ進出はならなかった。天皇杯ではベスト8まで勝ち進んだが、ベスト8で横浜F・マリノスに敗れて今シーズンは無冠に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "チームスローガン:勝", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2017年、長谷川体制5年目。期限付き移籍で加入していたアデミウソンを完全移籍で獲得し、千葉から井出遥也、大宮から泉澤仁、名古屋から森勇人、横浜FMからファビオ、昨年は東京Vに在籍した鈴木椋大、清水から三浦弦太を補強。また、U-23チームを主戦とする選手として札幌から中原彰吾、東京Vから郡大夢を期限付き移籍で獲得、ユースから食野亮太郎が昇格、東福岡高校から高江麗央、市立船橋高校から高宇洋、韓国からペ・スヨンが加入した。一方で、岩下敬輔が福岡に、阿部浩之が川崎に移籍し、内田達也が東京Vに、西野貴治が千葉に期限付き移籍、赤嶺真吾は期限付き移籍先の岡山に完全移籍した。シーズン開幕直後に、鹿島から赤﨑秀平を期限付き移籍で獲得、また前年の大ケガにより登録を抹消されていたパトリックを再登録した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ2017には東地区プレーオフ2のプレーオフラウンドから出場し、ホームでジョホール・ダルル・タクジムFC(マレーシア)に勝利して本戦出場決定。本戦ではグループHに入り、三浦弦太、堂安律、初瀬亮といった若手を積極起用して臨んだが、アデレード・ユナイテッド(オーストラリア)に1勝1分けとしたものの、その試合で2-0でリードしている最中に金正也がロングボールの対応をしようとして足を滑らせて失点に絡んでしまったり、後半13分に名手・遠藤がPKを失敗する等ミスも重なり、江蘇蘇寧(中国)・済州ユナイテッド(韓国)に連敗し、勝点4で2年連続でグループ最下位で敗退となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "夏の移籍市場では城南FCから黄義助を獲得、千葉へ期限付き移籍していた西野が復帰。一方で堂安がオランダFCフローニンゲンに期限付き移籍、丹羽とパトリックが広島に移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "4月16日、第7節・C大阪との大阪ダービーで、一部のサポーターがナチス親衛隊「SS」を連想させる文字の入ったフラッグを掲出したことが問題になった。クラブは同月20日に謝罪し、翌21日にサポーター・グループの処分を発表。さらに5月11日、C大阪戦で起きたサポーター・グループの不適切フラッグ掲出問題について、Jリーグ・裁定委員会からの制裁が決定したことを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "9月7日、監督の長谷川がシーズン限りで退任する事が発表された。また、天皇杯では4回戦で柏レイソルに敗退し、ルヴァンカップでも準決勝でセレッソ大阪に敗れてしまい無冠となった。攻撃陣は長沢以外に2けた得点を挙げた選手がおらず、J1では長谷川政権史上最悪の10位・48得点となり、退任発表以降はクラブワースト記録となる13試合未勝利のままシーズンを終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "チームスローガン:奪還", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "2018年、レヴィー・クルピが新監督に就任。浦和から矢島慎也、山形から菅沼駿哉が復帰。東海大学付属相模高等学校から山口竜弥、前橋育英高等学校から松田陸、東福岡高校から福田湧矢、三菱養和ユースから中村敬斗が入団。ユースから谷晃生、芝本蓮、白井陽斗が昇格した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "J1リーグ戦では開幕から3連敗し、J1リーグが18チーム体制になった2005年以降初めて、16チーム体制だった2000年以来18年ぶりとなる単独最下位に転落、またYBCルヴァンカップ1試合の敗戦も合わせて、前年から続く公式戦連続未勝利記録は17まで伸びた。けが人が続出したことがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "その後最下位は脱し、ルヴァンカップではノックアウトステージ進出を果たしたものの、 J1リーグ戦では調子は上向かず、リーグ前半戦17試合を終えて4勝3分10敗、勝点15でJ2降格の可能性のある16位に低迷、また天皇杯では、初戦の2回戦で対戦した関西学院大に1-1から延長戦の末1-2で敗れた。ワールドカップによる中断を挟んで J1リーグ戦5試合連続未勝利となった翌日の7月23日、監督のクルピを解任、U-23監督の宮本恒靖が後任のトップチーム監督に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "監督交代後、シーズン途中にはレノファ山口から小野瀬康介、神戸から渡邉千真を補強したが、長沢が渡邉とトレードする形で神戸へ期限付き移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "また、監督交代後、序盤は苦戦し4戦目の第21節FC東京戦で宮本体制での初勝利を決める。9月以降はチームが上向き、第25節川崎戦から第33節長崎戦にかけて21年ぶりクラブタイ記録となる9連勝を飾り、宮本就任以降は10勝3分4敗、勝点33を積み上げ最終的に9位でJ1残留を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "チームスローガン:GAMBAISM", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "2019年、宮本体制2年目。広州恒大から金英權、ブリーラムから青山直晃、熊本から田中達也 を獲得。また、仙台から矢島、徳島から呉屋、金沢から田尻が期限付き移籍から復帰。さらに開幕直後にはスペインからダビド・コンチャを期限付き移籍で獲得。また、ユースから奥野耕平、関西学院大から髙尾瑠が新加入。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "一方で期限付き移籍をしていた長沢と二川、ファビオや初瀬などがそれぞれ移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "第2戦で今季初勝利するも第5節から7戦勝ち無し。第12節の大阪ダービーからは食野や矢島、中村などの若手選手を大量に起用し、巻き返しを図ったが、一時はJ2自動降格圏に転落。しかし、前半戦最後の最後でなんとか持ち直し、前半戦は13位で終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "シーズン途中にはFCアウクスブルク から宇佐美が完全移籍で2016年夏以来3年ぶり2度目、広島からパトリックが期限付き移籍で2017年夏以来2年ぶりに、リーズ・ユナイテッド から井手口が完全移籍で2017年以来1年半ぶりに復帰。また、川崎から鈴木雄斗を期限付き移籍で、山口から高木大輔を完全移籍で獲得した。さらに9月には昨シーズンまでビルバオに所属していた元スペイン代表のマルケル・スサエタを完全移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "一方でエースの黄義助がフランスのボルドーへ、これまで国内三冠やJ1復帰・残留などに貢献した今野が磐田へ、ベテランの藤本が京都へ、オ・ジェソクがFC東京へ、中村がオランダのFCトゥウェンテへ、食野がイングランドのマンチェスター・シティ へ、米倉が千葉へとそれぞれ移籍するなど主力級や若手の選手が大量に流出してしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "天皇杯は、3回戦で法政大学に0-2で敗戦し、2年連続で大学勢に敗退する結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "10月4日、第28節の札幌戦に勝利し、鹿島、横浜FM、浦和に次ぐJ1通算400勝を達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップでは、2年ぶりに準決勝へ進出したが、札幌相手に2戦合計2-2、アウェーゴールルールにより、3年ぶりの決勝進出はならなかった。また、4年連続の無冠が確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "リーグ戦の最終成績は、12勝11分11敗の勝ち点47の7位。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "チームスローガン : GAMBAISM", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2020年、宮本体制3年目。トゥールーズFCから昌子源、鳥栖から小野裕二、石川慧、岡山から一森純を完全移籍で、磐田から新里亮、柏から猿田遥己、川崎 からタビナス・ジェファーソンを期限付き移籍で獲得。また、FC東京からオ・ジェソク、岐阜から市丸が期限付き移籍から復帰。また、ユースから川崎修平、塚元大、唐山翔自、関西大学から黒川圭介、関西学院大から山本悠樹、ボイン高等学校からシン・ウォノが新加入。さらに、広島から期限付き移籍で復帰していたパトリックが完全移籍へ移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "一方で、元スペイン代表のスサエタとコンチャ、期限付き移籍をしていた呉屋や米倉、一美などがそれぞれ移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "また、シーズン途中には2000年から在籍している遠藤が磐田に期限付き移籍で、今シーズン復帰したばかりのオ・ジェソクが名古屋に完全移籍で、市丸が琉球に期限付き移籍でそれぞれ移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "リーグ戦では9年ぶりに開幕戦で勝利した後、一時期2位に浮上するも、夏に連敗で一時期失速。その後は12戦負けなしなどで好調を維持し、2位でシーズンを終え、3年ぶりのACL出場権及び天皇杯出場権を獲得した。また、これまでパナソニックスタジアム吹田で勝利がなかった名古屋グランパスエイト、鹿島アントラーズ、柏レイソル、ヴィッセル神戸から初勝利を収めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "20勝5分9敗という成績に対し得失点差は僅かに+4であり、得点数もリーグ9位だった。またアウェイでの勝率は71%に達し、アウェイ戦だけ見ると独走で優勝した川崎を超えるリーグ1位の成績だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "天皇杯は決勝で川崎に0-1で敗戦し、準優勝で終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "チームスローガン : TOGETHER as ONE", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "宮本体制4年目。FCソウルからチュ・セジョン、松本からレアンドロ・ペレイラ、鳥栖からチアゴ・アウベスを獲得。 また、横浜FCから一美、山口から林が復帰。一方で、渡邉、高江、市丸、松田らがそれぞれ移籍し、期限付き移籍中の遠藤と谷が移籍期間を延長した。また、ユースからの昇格は8年ぶりに見送られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "開幕戦消化後、新型コロナウィルスの感染がチーム関係者複数に発生し3月9日から3月23日にかけてトップチーム活動の休止を余儀なくされた。活動再開後も調子を上げることができず、リーグ戦10試合消化時点で1勝4分5敗の暫定18位、得点数も3と低迷した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "そうした事情を考慮し、5月13日付で宮本監督との契約を解除。当初は強化アカデミー部長で2012年に監督を務めた松波正信が後任決定まで暫定的に指揮を執るとしていたが、6月1日に後任監督を松波として現体制を継続させることを発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "その後、4年ぶりの出場となったAFCチャンピオンズリーグでは、全北現代モータース、チェンライ・ユナイテッドFC、タンピネス・ローバースFCと同組。新型コロナウイルス感染症の影響のためウズベキスタンでの集中開催となったグループステージでは、タンピネスとの初戦に勝利するもその後3戦連続ドローと勝ち星を積み上げられず、第5節のタンピネス戦で大会2勝目を挙げ望みをつなげたが、第6節で全北現代に敗れグループ2位となり、他グループの結果により、日本勢で唯一のGS敗退となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "帰国後は、新型コロナウイルス感染症の影響で開催延期になっていた3月分の全6試合を東京オリンピック期間中に中2日で開催することとなり、7月24日の福岡戦を皮切りに、9月5日のルヴァンカップ準々決勝2ndレグのC大阪戦まで国内15連戦、ACLを含めて21連戦を戦うこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "シーズン途中には、フルミネンセFCからウェリントン・シウバ、水戸から柳澤亘を完全移籍で獲得。また、愛媛から加藤大智を期限付き移籍で獲得。一方で、一美が徳島へ、川﨑がポルティモネンセSCへ完全移籍。また、唐山が愛媛へ期限付き移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "リーグ戦では、怪我人が続出したこともあり、シーズンを通して2度の4連敗を喫するなど低迷。ルヴァンカップを含め大量失点で敗れる試合も多く、攻撃・守備両方において課題を残すシーズンとなった。リーグ戦の最終成績は12勝8分18敗の勝ち点44の13位。33得点はリーグ4番目に少なく、Jリーグ参入以降で最低の数字となった。シーズン終了後に松波監督が退任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "チームスローガン : BE THE HEAT, BE THE HEART", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "前年度まで大分を率いた片野坂知宏が監督に就任。ヘッドコーチを務めた2015年以来、7年ぶりの復帰となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "城南FCからクォン・ギョンウォン、清水から石毛秀樹、徳島から福岡将太をそれぞれ完全移籍で獲得。また、湘南から齊藤未月、サンタ・リタからダワンをそれぞれ期限付き移籍で獲得。また、愛媛から期限付き移籍で獲得していた加藤が完全移籍に移行した。さらにユースから中村仁郎と坂本一彩がトップ昇格、関西学院大学から山見大登が加入した。 一方でキム・ヨングォンが蔚山現代に、井手口がセルティックに、小野が鳥栖に、チアゴ・アウベスが岡山に、矢島が大宮にそれぞれ完全移籍。また、唐山が水戸に、塚本が金沢にそれぞれ期限付き移籍。そして、2020年から磐田に期限付き移籍していた遠藤保仁が同クラブに完全移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "リーグ戦前半こそは勝点を積み上げれていたものの、シーズン後半になるにつれ失速。第25節、同じく残留を争う清水に0-2で破れたことで監督の片野坂知宏を解任。後任には松田浩が監督に就任。松田就任後の成績は4勝3分3敗、最終節で鹿島に0-0で引き分けて残留を確定させた。最終結果は9勝10分15敗の15位。降格した清水エスパルスとの勝点差は3。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "得点数は33で、リーグ6番目に少なかった。チーム得点王はパトリックの5ゴールであり、クラブ史上最も少なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップは1勝2分3敗の3位でグループステージ敗退。天皇杯は4回戦で鹿島に敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "シーズン終了後に松田監督の退任を発表。さらに攻撃の要として長年在籍したパトリックや小野瀬康介が契約満了のため退団することが発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "チームスローガン : BE THE HEAT, BE THE HEART", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "2021-2022年にかけて徳島を率いていたダニエル・ポヤトスを新監督に招聘。マルセル・サンツがヘッドコーチに就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "パトリック(京都サンガFCへ移籍)、ウェリントン・シウバ、レアンドロ・ペレイラ(ペルセポリスFC(イラン)へ移籍)、加藤大智、小野瀬 康介(湘南ベルマーレへ移籍)、芝本連(FCティアモ枚方へ移籍)が契約満了で退団。齊藤未月が期限付き移籍満了で退団。唐山 翔自は水戸ホーリーホックへ期限付き移籍延長。坂本一彩がファジアーノ岡山、南野遥海がテゲバジャーロ宮崎、髙橋隆大が奈良クラブへそれぞれ期限付き移籍。ツエーゲン金沢から塚元大、ベガルタ仙台から佐藤 瑶大がそれぞれ育成型期限付き移籍から、湘南ベルマーレに期限付き移籍していた谷晃生が復帰した。昌子源が鹿島アントラーズ、チュ セジョンが大田ハナシチズン(韓国)へそれぞれ完全移籍。ロアッソ熊本より杉山直宏、V・ファーレン長崎より江川湧清、モンテディオ山形より半田陸、SCサンタ・リタ(ブラジル)よりダワン、オーデンセ ボルドクルブ(デンマーク)よりイッサム ジェバリ、マッカビ・ハイファFC(イスラエル)よりネタ ラヴィが完全移籍加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "2月8日、チョンブリFC(タイ)と提携を締結。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "開幕戦こそ引き分けたがその後は低迷。第14節の敗戦で3年連続のリーグ戦4連敗を喫し最下位に転落。第15節の前にはサポーター連合がクラブへの抗議としてツイッター上で、この日の試合の応援を拒否する姿勢を表明する事態となった。試合にも敗れ、25年ぶりの5連敗となってしまった。試合後は選手やポヤトス監督らがゴール裏に集まったサポーターと話し合いののちに、選手とサポーターが握手を交わし大きな拍手が送られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "天皇杯は高知ユナイテッドSC(JFL)に2回戦で敗れ敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "リーグ戦では第15節新潟戦から24節湘南戦まで8勝1分1敗と急速に盛り返し、残留争いから抜け出す。その後は勝ちに見放され再び低迷。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "10月27日、ポヤトス監督と来シーズンの契約更新を発表。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "翌日のリーグ戦、セレッソ大阪との大阪ダービーは1-0の完封負けで、2年連続でリーグ戦シーズンダブルを食らった。次の福岡戦でも負け、シーズン2度目の5連敗を喫する。またこの試合により、94~96年以来2度目の3年連続2桁順位が確定した。最終節を前に残留を決めるも、その後最終節まで連敗を7に伸ばし、95年の8連敗に次ぐ記録となった。最終順位は9勝7分18敗で16位となり、降格した2012年に次ぐ低い順位となった(勝ち点、得失点差は2012年を下回る)。さらに失点数リーグワーストタイ(61失点)を記録するなど、苦しいシーズンとなった。総得点は38で、7ゴールを挙げたファン・アラーノがチーム得点王となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "選手移籍、育成型レンタル移籍、コーチングスタッフおよびチームスタッフの相互交流によりトップチーム強化を目指す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "アカデミー年代における選手・スタッフの留学、試合の実施、トレーニングメソッドの情報交換などによる相互交流により、若手選手の育成強化を目指す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "※町中大輔ジュニアユース監督のJFA公認S級コーチ海外研修をチョンブリFCにて実施(1/30~2/12)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "※7月にタイで行われる交流試合にジュニアユースチームが参加", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "タイ・リーグおよびタイ国内サッカー、Jリーグおよび日本国内サッカーの選手スカウト情報を可能な範囲で相互共有し連携する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "アジアサッカー連盟(AFC)", "title": "タイトル・表彰" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "Jリーグ", "title": "タイトル・表彰" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "Jリーグカップ", "title": "タイトル・表彰" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "その他受賞", "title": "タイトル・表彰" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "最多得点試合", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "最多失点試合", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "連勝記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "連続無敗記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "連敗記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "リーグ戦通算勝利記録", "title": "クラブ記録" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "最年少出場", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "最年少得点", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "通算最多出場", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "通算最多得点", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "シーズン最多得点", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "連続試合得点", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "ハットトリック", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "記念ゴール", "title": "個人記録" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "ホームスタジアムは市立吹田サッカースタジアム(パナソニックスタジアム吹田, Panasonic Stadium Suita)。2015年までは万博記念競技場をホームスタジアムとし、同競技場の南には練習グラウンドが併設されている。(天然芝グラウンド2面) 1997年までは京都府京田辺市の松下電工(現:パナソニック)敷地内にあった練習グラウンドを使用していた。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "G大阪が関西唯一のJリーグクラブであった頃は、神戸ユニバー記念競技場や西京極競技場でもホームゲームを行ったことがある。また、1995年〜2010年まで石川県西部緑地公園陸上競技場でホームゲームを行っていた。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "2008年6-7月にフードフェスタが導入され、万博記念競技場の最寄り駅「公園東口駅」からスタジアムに向かう通り道でフードコートが開催されている。2008年8月より名称を「美味G横丁(おいじいよこちょう)」とし、ホームゲームで開催されている。2009年からはメインスタンド裏にも出店している。2016年の市立吹田サッカースタジアム移転によりフードコートもスタジアム内に移動し、名称も「美味G」に変更された。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "クラブハウスとオフィシャルショップ「Blu SPAZIO(ブルスパジオ)」はホームが万博だった2015年までは練習グラウンド横に併設されていた。2016年の市立吹田サッカースタジアム移転により両施設ともスタジアム内に移転し、新たにこれまでに獲得したトロフィーや歴代所属選手のサイン入りスパイクなどが展示されたミュージアム「Blu STORIA(ブルストリア)」がオフィシャルショップ横に併設された。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "Jリーグ開幕からホームスタジアムとして使用していた万博記念競技場が国際サッカー連盟(FIFA)の定める国際規格を満たしておらず老朽化も進んでいたことで、2008年7月に新スタジアムの建設・移転計画が発表された。万博記念公園内に新たにスタジアムを建設し、その建設資金を行政からの資金拠出なしに寄附金により充当するというもので、諸問題の調整を経て2013年12月にスタジアム建設の起工式が行われ、2015年9月に竣工した。2016年のJリーグよりホームスタジアムが市立吹田サッカースタジアム/通称パナスタに移転された。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "J1リーグ戦", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "J2リーグ戦", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "J3リーグ戦", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "参考記録", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "J1リーグ戦", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "J2リーグ戦", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "J3リーグ戦", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "入場者数の太字は歴代最多記録", "title": "入場者数" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "青、 黒", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "ゲームシャツには1997年シーズンから青と黒の縦縞模様のデザインを使用している。これには1996年シーズン終了後に当時G大阪でプレーしていた礒貝洋光が縦縞模様への変更を提案したという経緯があるが、彼自身は1997年から浦和へ移籍したため一度も着ることはなかった。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "また、クラブエンブレムの変更を機に、青と黒を基軸にホワイトとゴールドを使用し、ブランドの強固なイメージを形成するとしている。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "「スポーツのチカラで地域を元気にしたい、地域の心の拠り所でありたい、子ども達に夢を持つきっかけを与えたい」といったガンバ大阪の設立理念を実現すべく、2017年より例年8,9月に開催。試合当日は選手が記念ユニフォームを着用し、来場者には記念シャツが配布される。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "ガンバ大阪U-23(ガンバおおさか・アンダートゥエンティスリー、略称表記:G大23)は、2016年から2020年にかけてJ3リーグ(J3)に参加していた、ガンバ大阪に所属する23歳以下の選手で構成されるサッカーチーム(U-23チーム)。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "2015年12月15日、Jリーグの理事会において2016年シーズンよりJ1・J2クラブの「U-23チーム」がJ3に参加することが発表され、初年度参加チームの一つとして参戦することがクラブから発表された。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "ガンバ大阪強化本部にはかねてよりセカンドチームを持ち、若手選手が試合経験が積める場を提供していきたいという構想があり、それまで公式戦への試合出場が難しかったU-23世代を中心としたセカンドチームで「ガンバ大阪U-23」チームを編成。J3リーグを戦うことで、実戦での経験を重ね、各選手のレベルアップを図る。また、U-23世代の選手がレベルアップすることにより、チーム内の競争を促し、チーム全体のレベルアップ・強化に繋げることを目標としている。また、セカンドチームのJ3参戦に際し、2016年から運用する新ホームスタジアム「市立吹田サッカースタジアム(現:パナソニックスタジアム吹田)」の稼働率を上げることもセカンドチームの編成に踏み切った要因として挙げられている。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "上記の目的を達成するため、トップチームとU-23チームの編成は合同を基本としつつも、練習の質を下げないためにトップチームのトレーニングに参加するU-23メンバーを限定し、そこに出場機会のなかった選手をU-23のメンバーとしてJ3の試合に出場させる方針をとっている。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "日刊スポーツが2019年7月16日付 の記事で、2020年を最後としてU-23チームの参戦を終了させる方向である見込みであると報じられた。それに伴い、「ガンバ大阪U-23」は2020年シーズンをもってJ3リーグでの参加を終了することになった。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "1月7日、トップチームアシスタントコーチ兼U-23チーム初代監督として、クラブOBで前年まで名古屋のコーチを務めていた實好礼忠が就任。当初はトップチームとU-23のメンバーを区別していなかった(登録メンバーは両者で共通としている)が、総勢37人の大所帯となったことから、2月10日以降は時間を分けての練習を開始した。3月11日には2種登録選手の追加登録を行い、ユースの11選手がU-23チームのメンバーとしてに出場することが可能となった。また、初年度となった2016年度は年間で9位となったが、U-19日本代表に堂安律、初瀬亮、市丸瑞希が選出されてAFC U-19選手権バーレーン2016での優勝に貢献した。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "U-23チームがトップチームと分けられ、コーチもトップチームと異なるスタッフが担当することとなった。これについて当時U-20日本代表監督を務めていた内山篤は、U-23が単独活動化したことによって、U-23を離れてトップチームに帯同こそするものの十分には試合に出られないという若手選手が出てしまうことを危惧していた。實好がG大阪ユース監督に異動し、後任の監督に宮本恒靖、ヘッドコーチに山口智、フィジカルコーチにイ・チャンヨブ、GKコーチに松代直樹が就任した。3月12日、第1節のガイナーレ鳥取戦ではGKの谷晃生が16歳3か月の若さでJリーグデビューを果たした。途中大量失点で敗れるなど第20節から8連敗と苦しんだが、最終節までの6試合は無敗と年間16位でシーズンを終えた。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "宮本体制2年目。6月18日に発生した大阪北部地震により、直後に予定されていたザスパクサツ群馬戦の開催会場、万博記念競技場が一部損壊したため、試合会場をパナソニックスタジアム吹田に変更、開催日も8月に延期する措置を取った。夏季J3リーグ戦中断期間前までの17試合で6勝5分6敗の勝点23で暫定10位となる。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "中断期間初日の7月23日、トップチーム監督を解任されたレヴィー・クルピの後任に宮本が指名されたことを受け、實好が約1年半ぶりに監督に復帰した。チーム発足後初めて勝利数が敗戦数を上回り、順位も過去最高の6位でシーズンを終えた。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "實好に代わり、クラブOBで過去にジュビロ磐田やサガン鳥栖などで監督を務めた森下仁志が監督に就任。シーズン序盤は好調を維持するも、中盤にかけてU-23チームで結果を出した選手がトップチームに引き抜かれ、また移籍などの台所事情で低迷が続いた。それでも、2種登録の唐山翔自がJリーグ最年少ハットトリックを記録するなど、唐山を中心とした攻撃力で結果を出していた。最終的には、年間17位でシーズンを終えた。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "2020年", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "森下体制2年目。U-23チームのJ3リーグ参戦は同年が最後のシーズンとなる。シーズン序盤は6連敗を喫するなど苦しんでいたが、後半戦にかけて少しずつ持ち直し、最終的に14位でラストシーズンを終えた。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "U-23チームはトップチームと同じくパナソニックスタジアム吹田での開催を基本としつつ、一部主催試合をトップチームが2015年まで本拠地としていた万博記念競技場でも行う。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "ユニフォームのデザインはトップチームと同様。サプライヤーもトップと同じUMBRO。", "title": "ガンバ大阪U-23" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "G大阪のアカデミーは、初代監督 釜本邦茂が主催していたジュニアユースおよびジュニア年代のクラブチーム「釜本FC」が移行する形でJリーグ開幕前年の1992年に発足したものであり、「豊かな人間形成」「世界に通じるクリエイティブな選手の育成」「フェアプレー精神の遵守」の3つをコンセプトとする指導方針のもと、ユース(約30名)、ジュニアユース(3チーム、約300名)、ジュニア(4チーム、約1500名)の3カテゴリーで構成された一貫指導体制を敷いている。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "2008年までG大阪の育成・普及部長を務めた初代ユース監督上野山信行の指導のもと、Jリーグ開幕当初から様々な大会で実績を残している。また、宮本恒靖、稲本潤一、新井場徹、大黒将志、橋本英郎、二川孝広、丹羽大輝、家長昭博、安田理大、倉田秋、宇佐美貴史など多くの選手がトップチームの主力に定着している。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "Jリーグ開幕当初から全国のクラブユースチームを代表するチームで、1998年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 では、大黒将志、二川孝広らを擁して、全国レベルの強豪校と互角に渡り合い準優勝の成績を収めた。なお、Jユースカップの優勝回数(4回)は最多である。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "2020年、2021年に関して(プレミアリーグ)", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染拡大に伴い未開催(2020年)、未消化試合あり(2021年)。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "タイトル", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "万博グラウンドがある吹田市にあるチーム。高円宮杯で2006年、2007年と2連覇、2012年に史上初の全国3冠、2012年のマンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップで準優勝するなど、様々な大会で実績を残している。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "タイトル", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "2001年6月に発足。2010年の日本クラブユースサッカー選手権では初出場でベスト16。また、2011年に関西サンライズリーグへ昇格した。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "トップチーム昇格者の内、飛び級で昇格した選手は稲本潤一、新井場徹(1997年)、家長昭博(2004年)、宇佐美貴史(2009年)、井手口陽介(2014年)、堂安律(2016年)の6名で、特に宇佐美はジュニアユースとユースをそれぞれ2年間で飛び級している唯一の高校2年生次でのトップチーム昇格者である。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "かつて読売サッカークラブやヴェルディの親会社だった読売新聞グループ本社もスポンサーの1社であった。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "2008年より開催されているクラブ関係者とサポーターとの意見交換会。議事録は公式サイトに掲載されている。", "title": "サポーターミーティング" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "ガンバ大阪の決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "人件費は事業費に含まれる。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" } ]
ガンバ大阪は、日本の大阪府吹田市、豊中市、茨木市、高槻市、池田市、摂津市、箕面市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。
{{サッカークラブ | font-color = #aa8532 | background-color = #003287 | border-color = #000 | 原語表記 = ガンバ大阪 | 呼称 = ガンバ大阪 | 愛称 = ガンバ、青黒 | カラー = {{color box|#003287}} ブルー & {{color box|black}} ブラック<ref name="jleague" /><br> {{color box|white}} ホワイト & {{color box|#aa8532}} ゴールド<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamba-osaka.net/c/club/club.html|title=クラブ概要 ガンバ大阪|accessdate=2023-6-29}}</ref> | 創設 = 1980 | リーグ=[[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン=[[J1リーグ]] | クラブライセンス=J1 | ホームタウン = [[大阪府]][[吹田市]]、[[茨木市]]、[[高槻市]]、[[豊中市]]、[[池田市]]、[[摂津市]]、[[箕面市]]<ref name="jleague" /> | スタジアム = [[ファイル:Municipal Suita Stadium.JPG|center|216px]][[市立吹田サッカースタジアム|パナソニックスタジアム吹田]] | キャパ = 39,694<ref name="stadium">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/club/gosaka/day/#stadium|title=ガンバ大阪スタジアム|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2016-01-28}}</ref> | 法人名 = 株式会社ガンバ大阪<ref name="jleague" /> | 代表 = {{Flagicon|JPN}} [[小野忠史]]<ref name="jleague" /> | 監督 = {{Flagicon|ESP}} [[ダニエル・ポヤトス]] | HP = https://www.gamba-osaka.net/ |pattern_la1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |pattern_b1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP2 |pattern_ra1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |pattern_sh1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |pattern_so1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |leftarm1=000055|body1=000055|rightarm1=000055|shorts1=000000|socks1=000000 |pattern_la2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_b2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_ra2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_sh2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_so2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |leftarm2=FEFEFE|body2=FEFEFE|rightarm2=FEFEFE|shorts2=ffffff|socks2=DCDCDC }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社ガンバ大阪 | 英文社名 = GAMBA OSAKA Co., Ltd. | ロゴ = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 565-0826 | 本社所在地 = 大阪府吹田市千里万博公園3-3 万博記念公園スポーツ広場内<ref name="jleague" /> | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1991年]][[10月1日]] | 業種 = 9050 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = サッカークラブの運営他 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[小野忠史]]<ref name="jleague" /> | 資本金 = 1000万円 | 発行済株式総数 = | 売上高 = 59.69億円(2022年度)<ref name="jl2022">{{Cite web|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/wp-content/themes/j_corp/assets/pdf/club-r3kaiji_1_20230725.pdf|title=2022年度(令和4年度)J1クラブ決算一覧|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2023-11-18}}</ref> | 営業利益 = 2.27億円(2022年度)<ref name="jl2022"/> | 経常利益 = 1.04億円(2022年度)<ref name="jl2022"/> | 純利益 = 1.04億円(2022年度)<ref name="jl2022"/> | 純資産 = 4.53億円(2022年度)<ref name="jl2022"/> | 総資産 = 21.62億円(2022年度)<ref name="jl2022"/> | 従業員数 = | 決算期 = 1月期 | 主要株主 = [[パナソニックスポーツ]] 70%<br />[[関西電力]] 10%<br />[[大阪瓦斯|大阪ガス]] 10%<br />[[西日本旅客鉄道]] 10% | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = {{Official website|https://www.gamba-osaka.net/}} | 特記事項 = }} '''ガンバ大阪'''(ガンバおおさか、{{Lang-en-short|Gamba Osaka}})は、[[日本]]の[[大阪府]][[吹田市]]、[[豊中市]]、[[茨木市]]、[[高槻市]]、[[池田市]]、[[摂津市]]、[[箕面市]]をホームタウンとする<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/club/gosaka/day/#profile|title=クラブガイド:ガンバ大阪|work=日本プロサッカーリーグ、j1リーグ所属 |accessdate=2015-3-30}}</ref>、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロ[[サッカー]]クラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つ。 == 概要 == [[ファイル:パナソニックスタジアム吹田 2023年5月3日セレッソ大阪戦.jpg|サムネイル|280x280ピクセル|2023年5月3日 ガンバ大阪 vs セレッソ大阪]] [[ヤンマーディーゼルサッカー部]]のサブチームであった[[ヤンマークラブ]]の監督・選手で結成した'''[[松下電器産業サッカー部]]'''([[1980年]]・[[昭和]]55年)を前身とする。 [[2005年]]に初タイトルとなる[[2005年のJリーグ|J1リーグ]]優勝を果たし、2008年には[[AFCチャンピオンズリーグ2008|AFCチャンピオンズリーグ]]制覇、2012年シーズンは17位で初の[[J2リーグ]]降格となった。2014年にはJ1復帰1シーズン目での[[トレブル (サッカー)|国内三冠]](J1リーグ・[[Jリーグカップ]]・[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]])を達成。主要タイトル獲得数はJリーグ全加盟クラブ中、[[鹿島アントラーズ]]、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]に次いで3位。 ホームスタジアムは[[市立吹田サッカースタジアム|パナソニックスタジアム吹田]]<ref name="jleague" />。Jリーグ加盟の1993年から2015年までは[[万博記念競技場]]をホームスタジアムとしていた。練習グラウンドは[[万博記念公園]]スポーツ広場内のガンバ大阪練習場<ref name="jleague" />。当初は[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユニバー記念競技場]]や[[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場|西京極競技場]]を準本拠地、[[淀川区]]([[新大阪駅]]近く)にクラブ事務所と[[京田辺市]]に練習場と「近畿代表」「オール関西」的な意味合いが強かった。 2011年までの[[ホームタウン]]は[[大阪府]][[吹田市]]の1市。[[1997年]]に練習場とクラブ事務所をスタジアムがある[[万博記念公園]]に移転。[[2004年]]より吹田市、茨木市および高槻市、[[2006年]]より前述3市および豊中市を重点4市と定めた<ref name="yb09-102"/><ref>[http://www.gamba-osaka.net/support/meeting/meeting2.html 第2回 サポーターミーティング] - ガンバ大阪オフィシャルサイト</ref>。[[2010年]]、それまで各市でG大阪の支援活動を行っていた4市の後援会が一丸となり、G大阪とともに各[[地方公共団体|自治体]]、企業などと協力し、青少年の健全育成や街の活性化をはじめとする地域貢献活動を目的とした「ガンバ大阪後援会」が発足した。なお、大阪府[[大阪市]]と[[堺市]]をホームタウンとしている[[セレッソ大阪]]に対し、G大阪は[[北摂]]・[[北河内 (大阪府)|北河内]]地域14市3町<ref group="注">'''吹田市'''・'''茨木市'''・'''高槻市'''・'''豊中市'''・'''摂津市'''・'''池田市'''・'''箕面市'''・[[島本町]]・[[豊能町]]・[[能勢町]]・[[交野市]]・[[門真市]]・[[四條畷市]]・[[大東市]]・[[寝屋川市]]・[[枚方市]]・[[守口市]]。このうち、ゴシック体で示している都市がJリーグに届け出ているホームタウンエリア。</ref>を重点地域にしている<ref name="yb09-102">『ガンバ大阪オフィシャルイヤーブック 2009』 102頁</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.j-league.or.jp/document/jnews-plus/002/vol002.pdf|title=Jリーグニュースプラス Vol.2|date=20120601054410}} - Jリーグ公式サイト、2008年4月</ref>。ホームタウンはその後、2012年2月に[[茨木市]]、[[高槻市]]、[[豊中市]]の3市<ref name="jleague" /><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00004340.html|title=ガンバ大阪・名古屋グランパスのホームタウン広域化について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2012年2月21日|accessdate=2013年3月1日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141205003239/http://www.j-league.or.jp/release/000/00004340.html|archivedate=2014-12-05}}</ref>、2015年5月に[[池田市]]、[[摂津市]]、[[箕面市]]の3市<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-35366/|title=松本山雅FC、ガンバ大阪ホームタウン追加について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015年5月21日|accessdate=2015年5月21日}}</ref> をそれぞれ追加し、北摂地域の全ての市となった。 クラブ名の「'''ガンバ(GAMBA)'''」は、[[イタリア語]]で「'''脚'''」を意味し「脚」によってシンプルで強いチームを目指す<ref name="jleague" />。また、[[日本語]]の「'''頑張る'''」にも通じ<ref name="jleague" />、 * チーム一丸となって勝利を目指してガンバるチーム * どんな状況でもガンバって勝利を勝ちとるチーム * 大阪をホームタウンとし、大阪を中心とした関西ファンの声援を受けてガンバるチーム * 日本一、世界一のクラブ組織に向けてガンバるサッカークラブ という意味が込められている<ref>[http://www.gamba-osaka.net/gamba/index.html クラブ概要 - ガンバ大阪オフィシャルサイト]</ref>。 発足から[[1995年]]までのクラブ名は「パナソニックガンバ大阪」。略称表記はJリーグ発足当初は「大阪」であったが、1995年に大阪市・[[堺市]]をホームタウンとするセレッソ大阪や、2023年に[[東大阪市]]をホームタウンとする[[FC大阪]]がJリーグに昇格してからは、それら2クラブと区別するため「G大阪」(Gは「Gamba」の頭文字)や「ガ大阪」と略記される。 運営会社は'''株式会社ガンバ大阪'''で、設立当初は松下電器産業(現・[[パナソニック]])が全株式を保有していたが、1997年に[[関西電力]]、[[大阪瓦斯|大阪ガス]]、[[西日本旅客鉄道]]が株主となっている。なお、資本金はJリーグクラブの中でも最少<!-- 2008年発表の決算情報より。資本金0のモンテディオ山形除く -->。 [[マスコット]]は[[松下進]]デザインの「[[ガンバボーイ]]」<ref name="jleague" />で、[[ゼウス]]の生まれ変わりという設定。ガンバって勝利を勝ち取る元気なサッカーボーイで、雷の形の闘志あふれるエネルギーをその手につかんでいる。人間をモチーフにした数少ないマスコットの1つ([[オリジナル10]]では唯一の人間をモチーフにしたマスコット)。Jリーグ開幕当初は、デザインイラストどおり[[ギリシャ]]風の衣装を着用するデザインだったが<ref>{{Wayback|url=http://www.jsgoal.jp/photo/00061700/00061730.html|title=&#91; 5.15 ハッピーバースデー J.LEAGUE &#93; PLAYBACK 1993|date=20140916152029}} - [[J's GOAL]]、2010年5月13日。また、2011年10月2日の20周年記念試合では開幕当初の衣装で登場した。</ref>、1990年代後半頃からはユニフォームを着用したイラストに変更された。ただし、ユニフォーム以外を着用しているものも少数ではあるが存在した。 [[エンブレム]]は[[1995年]]までは、クラブ[[マスコット]]のガンバボーイそのものがエンブレムの代わりで、正式なエンブレムができた[[1996年]]以降は、クラブカラーと同じブルーとブラックで[[大阪府]]の府鳥「[[モズ|百舌鳥]]」を伝統の象徴である盾型にアレンジし、その中央には[[サッカーボール]]が描かれ、勝利の証である[[月桂樹]]のかわりに、大阪府の木「[[イチョウ|銀杏]]」の葉が周囲を飾るものになっている。 [[2021年]][[10月2日]]、オフィシャルホームページにて、[[2022年]]シーズンよりエンブレムとロゴを変更する事が発表された。 エンブレムは、炎、ハート、ゴールの3つの要素によってガンバ大阪の頭文字「G」を造形。エンブレム下部より上昇する炎の形状は、熱狂を生み出す青い炎となる、ガンバ大阪の姿を象徴し、エンブレムの中心からハートの形状を描くブルーのラインは、心の中で燃え続ける熱い情熱によって、ファン・サポーター、地域、日本のスポーツ文化の中心となる意志を表す。 エンブレム上部に描かれたゴールの形状は、栄光(ゴール)に向けて真摯に挑み続ける、決意を表している。 ロゴは、エンブレムのエッセンスを取り入れた、シンプルでありながら意志の強さのあるユニークで現代的なデザインに変更された<ref>[https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/12886/ ガンバ大阪 新エンブレム・ロゴ発表のお知らせ - ガンバ大阪オフィシャルサイト]</ref>。 [[2022年]][[4月1日]]付で、メインスポンサーである[[パナソニック]]の事業再編(持株会社・[[パナソニックホールディングス]]への移行)に伴い、これまでパナソニック本社直轄で運営していた企業スポーツクラブの運営を委託する新母体として[[パナソニックスポーツ]]株式会社が設立され、ガンバ大阪はそのパナソニックスポーツの子会社(パナソニックホールディングスが所有していた株式をパナソニックスポーツに移譲)として機能することになった<ref>[https://news.panasonic.com/jp/press/data/2022/04/jn220401-2/jn220401-2.html パナソニック スポーツ株式会社の発足について]</ref>。 == 歴史 == === 前史 === {{main|松下電器産業サッカー部}} [[1980年]]に創部された[[松下電器産業サッカー部]]が前身<ref name="jleague" />。[[1984年]]に[[日本サッカーリーグ]](JSL)2部<ref name="jleague" />、[[1986年]]にJSL1部へ昇格<ref name="jleague" />。[[第70回天皇杯全日本サッカー選手権大会]](1990年)優勝<ref name="jleague" /> などの成績を残した。 [[1991年]][[10月1日]]、運営会社である株式会社松下サッカークラブを設立。 === 1992年 - 2012年(J1) === ==== 1992年 - 1995年 ==== [[1992年]]にクラブ名を「'''パナソニックガンバ大阪'''」と命名。Jリーグ創設時からの加盟クラブ「[[オリジナル10]]」の一つであり、当初は[[近畿地方]]で唯一のJリーグクラブだった。Jリーグ加盟時は松下が[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニバーサル映画]]を買収した時期と重なり、強そうなので[[スティーヴン・スピルバーグ]]の映画『[[ジョーズ]]』から[[大坂城|大阪城]]にも引っ掛け「大阪ジョーズ」という名前が有力候補だった。しかし、ジョーズエピネと言う有名脱毛剤を販売していた居藤高久がジョーズという商標を持っており、貸してもらうことができなかったため、ガンバ大阪と言う名前になった。 松下初代監督[[水口洋次]]の同い年の親友で松下監督をJSL閉幕時点でも務めた[[釜本邦茂]]が引き続きJ参戦に向けて指揮を執った。[[永島昭浩]]、[[礒貝洋光]]、[[本並健治]]、[[エジバウド・マルティンス・ダ・フォンセカ|エジバウド]]などが所属していた。[[1992年のJリーグカップ]]は8位に終わったが、[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]はベスト8の成績。しかし、1993年1月にエジバウドがシーズン開幕を待たずして交通事故で他界した。 [[1993年Jリーグ開幕節]]([[5月16日]])、[[万博記念競技場]]で[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]と対戦し、[[和田昌裕]]の得点で1 - 0で勝利したが、1st・2ndステージとも8勝10敗の成績で、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。Jリーグ開幕初年は年間成績7位に終わる。[[1993年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]ではベスト4へ進出。[[帝京中学校・高等学校|帝京高等学校]]時代の2年生次で出場した[[第70回全国高等学校サッカー選手権大会|第70回全国高校サッカー選手権]]では7得点を挙げ大会得点王に輝き、同校を優勝に導いた大型ストライカーとして注目を集めた[[松波正信]]は卒業の93年開幕したばかりのJリーグの4クラブ([[名古屋グランパスエイト]]、[[鹿島アントラーズ]]、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]])から正式オファーがあり、ガンバに加入。同年5月16日の開幕節ではベンチ入りも逃したが6月9日、サントリー第11節[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]戦で決めたJ初ゴールがJリーグ通算100ゴールとなった。以後、初年度から出場機会を掴みリーグ戦29試合出場7得点を記録、7得点のうち10代最後の誕生日の前日[[11月20日]]、NICOSシリーズ第14節[[市原緑地運動公園臨海競技場]]で当時高卒ルーキーだった松波はキックオフから延長までフルタイム出場し[[ハットトリック]]を達成、3点目は延長前半のサドンデス([[Vゴール]])。 [[1994年のJリーグ|1994年]]、釜本体制2年目。永島が[[清水エスパルス]]に移籍した一方、前年からの[[セルゲイ・アレイニコフ|アレイニコフ]]に加え、[[アフリク・ツベイバ|ツベイバ]]や[[オレグ・プロタソフ|プロタソフ]]といった元[[サッカーソビエト連邦代表|ソ連代表]]勢が加入した。しかし、守備の要となる筈だったツベイバがケガで離脱し、1stステージは7勝15敗で12チーム中10位。2ndステージはツベイバが復帰したが、7連敗を喫すなど最下位争いの常連となり、[[名古屋グランパスエイト]]・浦和と共にJリーグのお荷物と扱われるようになった<ref>サッカーマガジンJリーグ名古屋グランパス優勝号 2011年 1/1号、p.64。</ref>。最終的に8勝14敗で1stステージ同様の10位の成績。カップ戦は[[1994年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]・[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]共にベスト4で敗退。シーズン終了後、成績不振により釜本が監督を解任された。 [[1995年のJリーグ|1995年]]、[[ジークフリート・ヘルト]]が監督に就任。[[ハンス・ヒルハウス|ヒルハウス]]、[[ヴィエッコスラブ・スクリーニャ|スクリーニャ]]らが加入。また、ユースから[[宮本恒靖]]らがクラブで初めて昇格した。1stステージ序盤は6勝2敗と好スタートを切り、首位争いに加わったが、その後は8連敗を喫し、最終的なステージ成績は10勝16敗で14チーム中11位。2ndステージは8勝18敗の13位。年間総合順位は初めて最下位に終わり、シーズン終了後にヘルトが監督を退任した。[[第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2年連続でベスト4に入った。 ==== 1996年 - 1998年 ==== [[1996年のJリーグ|1996年]]、クラブ名を「'''ガンバ大阪'''」、法人名を「'''(株)ガンバ大阪'''」にそれぞれ改称。前アシスタントコーチの[[ヨジップ・クゼ]]が監督に就任。初の1シーズン制で行われ、リーグ開幕から15連敗していたV川崎に第9節に勝利するなど、前半戦は8勝7敗。しかし後半戦で失速し、最終的な年間成績は11勝19敗で16チーム中12位。年間成績は初年度から参加した10チーム中唯一4年連続の負け越しとなった。[[第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は3年連続でベスト4に進出した一方で、[[1996年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]では予選で敗退した。 [[ファイル:Ancien du PSG Patrick Mboma.jpg|thumb|250px|[[パトリック・エムボマ]]]] チームスローガン:'''GAMBA REVOLUTION''' [[1997年のJリーグ|1997年]]、クゼ体制2年目。礒貝が浦和、本並がV川崎に移籍。一方で[[サッカーカメルーン代表|カメルーン代表]]の[[パトリック・エムボマ]]が加入し、[[新井場徹]]がユースから昇格した。また、ユースから飛び級でトップチームに昇格した[[稲本潤一]]が当時のJリーグ最年少出場記録となる17歳171日でJリーグ公式戦に初出場した。1stステージを8勝8敗(17チーム中8位)と初めて勝敗を五分に持ち込むと、2ndステージは当時のJリーグ記録となる9連勝を飾り、首位争いに加わり、2位の成績を残した。また、年間成績も初めて勝ち越し4位となった。なお、エムボマは25得点を挙げて、クラブ初の[[Jリーグアウォーズ#得点王|Jリーグ得点王]]と[[1997年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]を獲得。シーズン終了後、クゼが監督が母国[[サッカークロアチア代表|クロアチア代表]]のスタッフ就任により退団、[[第77回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]はアシスタントコーチの[[フリードリッヒ・コンシリア]]が率い、4年連続でベスト4に入った。 チームスローガン:'''Run Together ともに勝利を!''' [[1998年のJリーグ|1998年]]、[[フレデリック・アントネッティ]]の監督就任が決まっていたが、ヨーロッパのシーズンが終了してからの来日という形になり、それまではコンシリアが監督を務めた。また、[[橋本英郎]]がユースから昇格し、[[姫路市立琴丘高等学校]]の[[播戸竜二]]を練習生として獲得した(数か月後にプロ契約)。1stステージは14位(7勝10敗)。7月にエムボマがイタリア・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[カリアリ・カルチョ|カリアリ]]に移籍した。2ndステージは16位(5勝12敗)となり、年間成績は15位。また、[[1998年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]は予選敗退、[[第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は3回戦で敗退した。 ==== 1999年 - 2001年 ==== チームスローガン:'''Dream together''' [[1999年のJリーグ|1999年]]、コンシリア体制2年目。[[大黒将志]]、[[二川孝広]]がユースから昇格した。1stステージは6勝9敗で16チーム中10位に終わり、アントネッティがシーズン途中で監督を退任。2ndステージから[[早野宏史]]が監督に就任したが、5勝1分9敗の13位。年間成績は11位となった。また、[[1999年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]は2回戦、[[第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で敗退した。 チームスローガン:'''激闘宣言''' [[2000年のJリーグ|2000年]]、早野体制2年目。1stステージは5勝2分8敗の13位。2ndステージは開幕から5連勝。第10節の[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦での勝利で3年ぶりに首位に立った。[[鹿島アントラーズ|鹿島]]と優勝を争ったが、第14節で鹿島、最終節で[[ジュビロ磐田|磐田]]に破れ、順位は4位。なお、年間成績では6位、15勝2分13敗と3年ぶりに勝ち越した。また、[[第80回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では3年ぶりにベスト4へ進出。 チームスローガン:'''挑戦''' [[2001年のJリーグ|2001年]]、早野体制3年目。[[遠藤保仁]]、[[山口智 (サッカー選手)|山口智]]を獲得。1stステージは9勝6敗の5位。1stステージ終了後、稲本がクラブ初となる海外移籍で、[[イングランド]]・[[プレミアリーグ]]の[[アーセナルFC]]へ移籍。2ndステージは低迷し、第8節に[[セレッソ大阪|C大阪]]戦([[大阪ダービー]]、[[ゴールデンゴール|Vゴール]]負け)の翌日に早野が監督を辞任した。コーチの[[竹本一彦]]が監督に昇格したが、最終成績は5勝2分8敗の11位。年間成績は16チーム中7位(14勝2分14敗)。 ==== 2002年 - 2004年 ==== チームスローガン:'''新挑戦''' [[2002年のJリーグ|2002年]]、前[[柏レイソル|柏]]監督の[[西野朗]]が監督に就任。1stステージは中断期間までに4勝1分け2敗の4位。再開後も4連勝で一時は3位に浮上、最終的に9勝1分5敗で4位に入った。2ndステージも磐田と優勝を争ったが、直接対決で0-2と完敗するなどし、2位の成績(10勝5敗)。年間順位も過去最高の3位となり、19勝1分10敗と2年振りの勝ち越しを達成。また失点数・[[反則ポイント]]共に、チーム歴代最少であった。 チームスローガン:'''Over the Top''' [[2003年のJリーグ|2003年]]は、西野体制2年目。年間で7度[[アディショナルタイム]]で失点を喫するなど失った勝点が積み重なった結果、一時は残留争いに加わった。1stステージは4勝4分7敗で12位、2ndステージは優勝争いには絡めず、6勝5分4敗で7位。年間成績も10勝9分11敗と4年ぶりに負け越した。シーズン終了後、[[新井場徹]]が鹿島に移籍した。4月17日、1996年12月29日の天皇杯準決勝[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]戦でのプレー中の事故を最後に1998年シーズン途中に退団した[[今藤幸治]]が死去した。 チームスローガン:'''Re:Start - ガンバが変わる -''' [[2004年のJリーグ|2004年]]、西野体制3年目。[[シジクレイ・デ・ソウザ|シジクレイ]]、[[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]らを獲得。1st・2ndステージ共に優勝争いに加わり、1stステージ7勝3分5敗で4位、2ndステージ8勝3分4敗で3位の成績。なお、この年はユース出身の[[大黒将志]]がリーグ戦日本人最多の20得点を挙げた。また、J1・1st第15節[[アルビレックス新潟|新潟]]戦で[[家長昭博]]がJリーグ史上初となる[[2種登録選手]]によるデビュー戦での初得点を挙げた。カップ戦においては、[[2004年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]ベスト8、[[第84回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]ベスト4の成績となった。 ==== 2005年 ==== {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #003287 solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.02|y=0|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF"><span style="font-size:small;color:#000000;">''' '05 J1最終節 川崎戦 布陣'''</span></span>}} {{Image label|x=0.62|y=0.22|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[大黒将志|<span style="font-size:small;color:#003287">'''大黒将志'''</span>]]}} {{Image label|x=0.12|y=0.22|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|<span style="font-size:small;color:#003287">'''アラウージョ'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.32|y=0.38|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[エルディス・フェルナンド・ダマショ|<span style="font-size:small;color:#003287"><small>'''フェルナンジーニョ'''</small></span>]]</span>}} {{Image label|x=0.71|y=0.55|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[渡辺光輝|<span style="font-size:small;color:#003287">'''渡辺光輝'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.07|y=0.55|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[家長昭博|<span style="font-size:small;color:#003287">'''家長昭博'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.19|y=0.77|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[遠藤保仁|<span style="font-size:small;color:#003287">'''遠藤保仁'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.6|y=0.77|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[橋本英郎|<span style="font-size:small;color:#003287">'''橋本英郎'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.13|y=0.97|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[山口智 (サッカー選手)|<span style="font-size:small;color:#003287">'''山口智'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.38|y=0.97|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[宮本恒靖|<span style="font-size:small;color:#003287">'''宮本恒靖'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.68|y=0.97|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[シジクレイ・デ・ソウザ|<span style="font-size:small;color:#003287">'''シジクレイ'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.37|y=1.17|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[藤ヶ谷陽介|<span style="font-size:small;color:#003287">'''藤ヶ谷陽介'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.63|y=1.37|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[西野朗|<span style="font-size:small;color:#000000">監督:'''西野朗'''</span>]]</span>}} </div> |} チームスローガン:'''熱き青の力で、共に頂点へ''' [[2005年のJリーグ|2005年]]、西野体制4年目。[[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]、[[藤ヶ谷陽介]]を獲得。リーグ戦序盤6試合はわずか1勝であったが、リーグ戦中盤以降にはアラウージョ、大黒将志、[[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]を擁する攻撃力が機能するようになり(総得点は合計82)、22節に首位に立つ。[[2005年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]は初めて決勝へ進出。決勝は[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]にPK戦で敗退したが、準優勝の成績を収めた。リーグ戦では終盤に失速し、第33節終了時点で[[セレッソ大阪|C大阪]]に抜かれ、2位に後退する。それでも、最終節で[[川崎フロンターレ|川崎]]に勝利し、勝点1差の首位だったC大阪が[[FC東京]]と引き分けたため、クラブ創設以来初また関西のチームとして初となるリーグ優勝を果たした(詳細は[[2005年J1最終節]]を参照)。同時に[[AFCチャンピオンズリーグ2006]](ACL)の出場権を獲得した。 この年、アラウージョがクラブのシーズン最多得点となる33得点を挙げ、クラブでは1998年のエムボマ以来となる[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]と、クラブ初となるリーグ[[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞(MVP)|MVP]]を獲得。シーズン終了後、アラウージョが移籍。この年、16得点を挙げた大黒も[[リーグ・ドゥ|フランス2部リーグ]]の[[グルノーブル・フット38|グルノーブル]]へ移籍した。また、[[1993年]]のJリーグ開幕から所属した[[松波正信]]が現役を引退した。 ==== 2006年 ==== チームスローガン:'''もっと熱く、青く、強く!!!〜さらに新たな挑戦へ〜''' [[2006年のJリーグ|2006年]]、西野体制5年目。大型補強を行い、FWに[[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]と、7年ぶりにG大阪復帰となる[[播戸竜二]]。[[柏レイソル|柏]]から元[[サッカー日本代表|日本代表]]のMF[[明神智和]]、日本代表のDF[[加地亮]]らを獲得。また、ユースからは[[安田理大]]、[[平井将生]]ら過去最多の6人が昇格した。 初出場した[[AFCチャンピオンズリーグ2006]]はマグノ・アウベスが8得点で大会得点王を獲得したが、グループリーグで敗退。[[A3チャンピオンズカップ2006]]は[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国]]の[[大連実徳]]と千葉には勝利したが、[[Kリーグ|韓国]]の[[蔚山現代FC|蔚山現代]]に大敗し、2位の成績。 リーグ戦は最終節前で[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]に[[勝点]]3差の2位であったが、最終節の浦和との直接対決に2-3で敗れ、リーグ連覇はならなかった(最終順位は3位)。なお、マグノ・アウベスがクラブ史上3人目の[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]となる26得点、播戸も16得点を挙げた。 リーグ戦終了後、宮本恒靖が[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア]]の[[レッドブル・ザルツブルク]]へ移籍、また、[[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]も移籍した。 [[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では、Jリーグ加入後初(前身の[[松下電器産業サッカー部|松下電器]]時代を含めると16年ぶり)の決勝進出を果たしたが、浦和に敗退した。 ==== 2007年 ==== [[画像:Nabisco Final 2007 G.Osaka.JPG|thumb|right|250px|ナビスコカップ決勝時のガンバ大阪サポーターによるコレオグラフィー]] チームスローガン:'''超攻撃''' [[2007年のJリーグ|2007年]]、西野体制6年目。FW[[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]、[[期限付き移籍|レンタル]]でDF[[中澤聡太]]を獲得。開幕前に行われた[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックススーパーカップ]]では浦和と2年連続で対戦し、[[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]の[[ハットトリック]]を含む4-0で勝利しスーパカップ初制覇。 [[2007年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]では、2年ぶりに決勝進出。決勝では[[川崎フロンターレ|川崎]]と対戦し、優勝。決勝点を挙げた[[安田理大]]が、大会MVPとニューヒーロー賞を受賞した。 リーグ戦は、クラブ初となる開幕4連勝で波に乗り、中断期間まで12勝5分け1敗と好調のまま首位。中断明けの浦和との直接対決に敗れ、最終的に2年連続の3位に終わったが、浦和が前年度の天皇杯と[[AFCチャンピオンズリーグ2007]]を優勝したため、ACLの大会規定により天皇杯優勝枠で[[AFCチャンピオンズリーグ2008]]の出場が決まった。 シーズン後、外国籍選手のクラブ最多出場記録を持ち、ゲームキャプテンも務めた[[シジクレイ・デ・ソウザ|シジクレイ]]が移籍。また、[[實好礼忠]]が現役を引退した。 ==== 2008年 ==== チームスローガン:'''Power 〜力の結集〜''' [[2008年のJリーグ|2008年]]、西野体制7年目。[[佐々木勇人]]、[[ルーカス・セベリーノ|ルーカス]]、[[山崎雅人]]らを獲得した[[2008年のJリーグ|2008年]]シーズンは300日余りの間に公式戦を過去最多の61試合をこなす過酷な日程となった。 2月の[[パンパシフィックチャンピオンシップ2008]]は、初戦で[[ロサンゼルス・ギャラクシー]]、決勝で[[ヒューストン・ダイナモ]]に夫々勝利し、[[1992年]]の[[クイーンズカップ]]以来となる16年ぶりに国際タイトルを獲得した。 5月17日、[[埼玉スタジアム2002|埼玉スタジアム]]の浦和戦(第13節)で、一部のG大阪サポーターによる浦和側への観客席に対する物の投げ込みを発端とした両クラブのサポーターが衝突する騒動が発生し、クラブは騒動を起こした[[BB sez TOKYO]]の団員2名を永久入場禁止とし、同団体は解散となった。また、Jリーグから1000万円の制裁金が課された。 7月30日、[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦|スルガ銀行チャンピオンシップ]]で[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|アルゼンチン]]の[[アルセナルFC]]と対戦し、0 - 1で敗れた。 {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #003287 solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.02|y=0|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF"><span style="font-size:small;color:#000000;">''' '08 ACL決勝 アデレード戦 布陣'''<br/>(第1戦 第2戦 共に同じ)</span></span>}} {{Image label|x=0.4|y=0.28|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[ルーカス・セベリーノ|<span style="font-size:small;color:#003287">'''ルーカス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.39|y=0.39|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[遠藤保仁|<span style="font-size:small;color:#003287">'''遠藤保仁'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.08|y=0.48|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[二川孝広|<span style="font-size:small;color:#003287">'''二川孝広'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.65|y=0.48|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[佐々木勇人|<span style="font-size:small;color:#003287">'''佐々木勇人'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.19|y=0.66|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[橋本英郎|<span style="font-size:small;color:#003287">'''橋本英郎'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.6|y=0.66|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[明神智和|<span style="font-size:small;color:#003287">'''明神智和'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.07|y=0.83|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[安田理大|<span style="font-size:small;color:#003287">'''安田理大'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.23|y=1|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[山口智 (サッカー選手)|<span style="font-size:small;color:#003287">'''山口智'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.58|y=1|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[中澤聡太|<span style="font-size:small;color:#003287">'''中澤聡太'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.78|y=0.86|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[加地亮|<span style="font-size:small;color:#003287">'''加地亮'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.37|y=1.17|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[藤ヶ谷陽介|<span style="font-size:small;color:#003287">'''藤ヶ谷陽介'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.63|y=1.37|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[西野朗|<span style="font-size:small;color:#000000">監督:'''西野朗'''</span>]]</span>}} </div> |} 2年ぶりに出場した[[AFCチャンピオンズリーグ2008]]では準決勝で前年覇者である浦和とのACL史上初のJリーグ勢対決を2戦合計4 - 2(第1戦 1 - 1、第2戦 3 - 1)で制すると、11月12日の決勝ではオーストラリアの[[アデレード・ユナイテッドFC|アデレード・ユナイテッド]]に2戦合計5 - 0(第1戦 3 - 0、第2戦 2 - 0)で勝利し、クラブ史上初、Jリーグ勢では1999年(AFCチャンピオンズリーグの前身であるアジアクラブ選手権)の[[ジュビロ磐田|磐田]]、2007年の浦和に次ぐ3クラブ目となるアジア制覇を果たす。また、ACL史上3クラブ目の無敗での優勝、そして、史上初の[[ホーム・アンド・アウェー|アウェー]]全勝(6戦中4戦が逆転勝ち)での優勝であった。[[遠藤保仁]]が大会MVPを受賞。また、[[アジアサッカー連盟|AFC]]よりアジア年間最優秀クラブ賞を受賞し、監督の西野がアジア年間最優秀監督賞を受賞した。 一方で、リーグ戦はシーズン序盤でやや躓くと、立て直してきた中盤には[[播戸竜二]]が[[肝機能障害]]、遠藤がウイルス感染症で離脱。更に、エースストライカーの[[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]が[[UAEリーグ|UAE]]の[[アル・アハリ・ドバイ|アル・アハリ]]に移籍。また、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[ロニエルトン・ペレイラ・サントス|ロニー]]を獲得するも、チームにフィットせず中盤で大失速。特にJ1第19節からJ1第24節まで勝利が無く、優勝争いから脱落する。最終順位は8位に終わった。 12月、日本で開催された[[FIFAクラブワールドカップ2008]]は初戦の準々決勝でこの年3度目の対戦となったアデレードに1 - 0で勝利。準決勝は[[UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08|ヨーロッパ王者]]の[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]に3 - 5で敗戦。3位決定戦は[[CONCACAFチャンピオンズリーグ|北中米カリブ海王者]]の[[CFパチューカ|パチューカ]]に1 - 0で勝利し、前年の浦和に続き大会3位となった。 天皇杯はクラブワールドカップとの日程が並行したため、準々決勝以降は中2・3日の間隔で試合が行なわれたが、2年ぶりに決勝へ進出。[[柏レイソル|柏]]との決勝は延長後半に途中出場の播戸の先制点が決勝点となり1 - 0で勝利し、前身の[[松下電器産業サッカー部|松下電器]]時代の1990年度大会以来、18年ぶり2度目の優勝を果たす。これにより、国内3大タイトルを全て獲得した5つ目のクラブとなった。同時に[[AFCチャンピオンズリーグ2009]]出場権も獲得した。 ==== 2009年 ==== チームスローガン:'''SHOBU〜そして、ワールドスタンダードへ〜''' [[2009年のJリーグ|2009年]]、西野体制8年目。[[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]、[[チョ宰榛|チョ・ジェジン]]などのFW、[[高木和道]]、[[朴東赫|パク・ドンヒョク]]の日韓代表経験を持つDFらを獲得した。 [[ファイル:Saitama Stadium Panorama.jpg|thumb|280px|2009年5月16日 浦和レッズ戦]] 5月2日、レアンドロがJ1第9節 [[大分トリニータ|大分]]戦で4月8日のACLグループリーグ第3節 [[スリウィジャヤFC|スリウィジャヤ]]戦から続いていた、公式戦の[[#連続試合得点|連続試合得点]]をクラブ新記録となる7試合連続ゴールを達成した。最終的には5月10日のJ1第11節<ref group="注" name="dates">第10節 川崎戦はACL出場のため、7月1日に実施。</ref> 柏戦までの9試合まで記録を更新。また、同試合で4月12日J1第5節 [[大宮アルディージャ|大宮]]戦から続いていたJ1の連続試合得点をクラブタイ記録の6試合連続ゴールも達成した。 5月20日、ACLグループリーグ第6節 [[FCソウル]]戦で、この年クラブ初の高校2年生でトップチームに昇格した[[宇佐美貴史]]が、1997年に[[稲本潤一]]が記録したクラブ最年少記録を更新する、17歳14日での公式戦初出場・初得点を記録。しかし、試合には敗れ、2006年のACLから続いていたACLの連続無敗記録が19試合で途切れた。そして、ラウンド16で[[川崎フロンターレ|川崎]]に敗れ、ACL連覇を逃した。 リーグ戦は開幕から[[二川孝広]]と[[加地亮]]の不在や期待された新戦力がチームに馴染まなかった影響により、なかなか調子が上がらず、特に5月後半から7月の半ば頃まで、万博でのホームゲームで6連敗(ACL、ナビスコカップ含む)を喫した。さらに8月にはチーム得点王のレアンドロが[[カタール・スターズリーグ|カタール]]の[[アル・サッド]]に移籍。[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[ペドロ・ビスポ・モレイラ・ジュニオール|ペドロ・ジュニオール]]を獲得するもチームへのフィットに時間がかかり結果は出せず、一時は鹿島との最大[[勝点]]差が19となった。 11月8日、J1第31節 [[京都サンガF.C.|京都]]戦のペドロ・ジュニオールの2得点目で鹿島、磐田に次ぐ3クラブ目となるリーグ戦クラブ通算1000ゴールを達成。11月24日、[[アジアサッカー連盟|AFC]]より遠藤保仁が日本人選手5人目、Jリーグ所属選手では1997年の[[中田英寿]]([[湘南ベルマーレ|平塚]])以来となる[[アジア年間最優秀選手賞]]を受賞した。 後半戦はなんとか立て直し、第32節まで優勝の可能性を残しつつも、第33節で首位の鹿島との直接対決で1-5と大敗し優勝を逃した。それでも、最終的に3位となり、[[AFCチャンピオンズリーグ2010]]の出場権は獲得した。 [[第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は準々決勝で鹿島を破りリーグ戦での雪辱を果たすと、天皇杯6試合で8得点を挙げた[[ルーカス・セベリーノ|ルーカス]]の活躍もあり2年連続で決勝進出。決勝では[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]を4 - 1で破り、歴代7チーム目の天皇杯連覇を達成。そして、天皇杯決勝戦を最後に、1997年から所属した[[松代直樹]]が現役を引退した。 ==== 2010年 ==== チームスローガン:'''夢 〜すべてをひとつに〜''' [[2010年のJリーグ|2010年]]、西野体制9年目。ここ数年行った大型補強を行わず、新人と[[期限付き移籍|レンタル]]復帰以外では、FWの[[ドーグラス・マラドーナ・カンポス・ダンギ|ドド]]と[[ジョゼ・カルロス・フェレイラ・フィーリョ|ゼ・カルロス]]の獲得のみにとどめ、現有戦力の維持を優先した。 シーズン開幕から6試合連続公式戦未勝利。リーグ戦も開幕から5試合連続未勝利で、その後も相次ぐ主力選手の離脱、外国籍選手の不調、更には試合終了間際の失点などが重なり、なかなか波に乗れず、1試合未消化であるものの首位争いから大きく離され、11位で中断期間に入る。また、ペドロ・ジュニオールがブラジルのクラブへ移籍し、ゼ・カルロスも途中移籍した。 [[AFCチャンピオンズリーグ2010]]は、グループリーグ第3節[[シンガポール・アームド・フォーシズFC|シンガポール・アームド・フォーシズ]]戦で[[平井将生]]が日本人選手では7人目、ユース出身選手では[[大黒将志]]以来となるハットトリックを達成する活躍などで、3年連続グループリーグを突破するもラウンド16でこの年ACLを制した[[城南一和天馬|城南一和]]に敗れた。 リーグ後半戦、[[ジュビロ磐田|磐田]]から[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]の[[李根鎬|イ・グノ]]を獲得。この年優勝した[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]との直接対決では2試合とも敗れ、勝点10差をつけられ独走優勝を許してしまったが、2位の成績となり、[[AFCチャンピオンズリーグ2011]]の出場権を獲得した。なお、ACLでハットトリックを決めた平井がチームトップの14得点(リーグでは日本人2位)、高校3年生ながら主力に定着した[[宇佐美貴史]]も高校生Jリーガーのシーズン最多記録となる7得点を挙げ、G大阪下部組織出身者として初の[[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|Jリーグベストヤングプレーヤー賞]](新人王)を受賞した。3年目の[[武井択也]]も途中離脱した[[明神智和]]の代役としてチームに貢献するなど、多くの若手選手が飛躍したシーズンであった。 [[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では準決勝で[[清水エスパルス|清水]]に敗れ天皇杯3連覇を逃した。 シーズン終了後、[[安田理大]]が[[エールディヴィジ|オランダ1部]]・[[フィテッセ]]に、C大阪へレンタル移籍していた[[家長昭博]]が[[プリメーラ・ディビシオン|スペイン1部]]・[[RCDマヨルカ|マジョルカ]]に、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]へレンタル移籍していた[[山崎雅人]]が広島に、[[安田晃大]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]に、[[ルーカス・セベリーノ|ルーカス]]が[[アトレチコ・パラナエンセ]]に完全移籍した。 ==== 2011年 ==== チームスローガン:'''新芯進 〜新たなる未来へ〜''' クラブ設立20周年となる[[2011年のJリーグ|2011年]]、西野体制10年目。[[Kリーグクラシック|Kリーグ]]・[[全北現代モータース]]から元U-23韓国代表の[[金承龍|キム・スンヨン]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ|ブラジル1部]]・[[SCインテルナシオナル]]から昨シーズンC大阪でリーグ戦14得点を挙げた[[アドリアーノ・フェヘイラ・マルティンス|アドリアーノ]]、大学生の[[金正也]]、[[藤春廣輝]]、[[川西翔太]]を獲得、ユースから[[大森晃太郎]]が昇格し、開幕直後にレンタルで[[SCコリンチャンス・アラゴアーノ|コリンチャンス-AL]]から[[マノエル・アフォンソ・ジュニオール|アフォンソ]]を獲得した。 アンブロ(販売元:[[デサント]])と新たに2020年シーズンまでのユニフォームサプライヤー契約を締結した。また、1995年以来毎年行われてきた[[石川県西部緑地公園陸上競技場]]でのホームゲームから撤退した。 3月11日に発生した[[東日本大震災によるスポーツへの影響#Jリーグ|東日本大震災の影響]]で、J1第2節から第6節が開催延期となった。これを受け、クラブ公式サイトで被災地への義援金を募るチャリティーオークションが開催され、3月27日には[[ヴィッセル神戸|神戸]]との「[[東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!#Jリーグクラブの慈善試合|東北地方太平洋沖地震チャリティーマッチ ?LET'S SUPPORT OUR FRIENDS 今こそ仲間のために行動しよう!?]]」が[[万博記念競技場]]で開催された。10月2日、創立20周年記念試合となったJ1第28節[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦で、6クラブ目となるJ1通算300勝を達成。 [[AFCチャンピオンズリーグ2011]]はグループリーグを首位で突破したが、ラウンド16で当時8年間リーグ戦で敗れていないC大阪に敗退。[[2011年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]は浦和に準決勝で敗退。[[第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は[[水戸ホーリーホック|水戸]]に3回戦で敗退。 リーグ序盤戦、アドリアーノがクラブタイ記録の6試合連続得点を記録するなど得点ランキングトップを独走する活躍を見せ、攻撃面ではリーグトップの得点数であったが、守備面は開幕からの連続失点試合がリーグワーストの18試合で、総失点数が一時期リーグ最多となった。6月、アドリアーノがカタールの[[アル・ジャイシュ・ドーハ|アル・ジャイシュ]]、7月に宇佐美が[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ]]・[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]に移籍した一方、[[ザスパクサツ群馬|草津]]からFW[[ハファエル・ドス・サントス・デ・オリベイラ|ラフィーニャ]]を獲得。ラフィーニャ加入以降の夏場を無敗で乗り切り、第22節[[川崎フロンターレ|川崎]]戦で2009年3月以来となる首位に立ったが、第29節名古屋戦に大敗し、[[柏レイソル|柏]]に首位を明け渡した。その後、[[2011年J1最終節|最終節]]まで優勝の可能性を残したが、最終順位は3位で2年連続無冠に終わった。 シーズン終了後、2002年から10年間監督を務めた[[西野朗]]が退任した。 ==== 2012年 ==== [[画像:Kokuritsu Kasumigaoka 20130101 1.JPG|thumb|right|280px|天皇杯決勝時のガンバ大阪サポーター]] チームスローガン:'''躍動''' [[2012年のJリーグ|2012年]]、監督に[[ジョゼ・カルロス・セホーン]]が就任。クラブ史上初の[[ブラジル人]]監督となった。コーチ陣も元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[呂比須ワグナー]]を含む3人が加入。[[山口智 (サッカー選手)|山口智]]や[[橋本英郎]]、[[下平匠]]やイ・グノらが退団した一方、[[FC東京]]から[[今野泰幸]]、[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]から[[パウロ・アントニオ・デ・オリベイラ|パウリーニョ]]、[[徳島ヴォルティス|徳島]]から[[佐藤晃大]]、[[FCソウル]]から[[李昇烈|イ・スンヨル]]を完全移籍で、[[清水エスパルス|清水]]から[[武田洋平]]、[[CAタボン・ダ・セーハ]]から[[エドゥワルド・ジョゼ・ジニズ・コスタ|エドゥワルド]]をレンタル移籍で獲得し、[[丹羽大輝]]が6年ぶり、[[寺田紳一]]と[[倉田秋]]が3年ぶりにレンタル移籍先から復帰。新人では大卒で[[阿部浩之]]、テスト生から[[沼田圭悟]]を獲得し、ユースからは[[田尻健]]、[[西野貴治]]、[[稲森克尚]]が昇格した。 シーズン初の公式戦となった[[AFCチャンピオンズリーグ2012]]グループリーグ初戦に0-3で敗北。また、J1第2節のC大阪戦([[大阪ダービー]])を含むJ1第3節まで公式戦5連敗を喫した。J1第3節終了後の[[3月26日]]に監督のセホーン、ヘッドコーチの呂比須、フィジカルコーチの[[ウェリントン・ヴァウクェル・コエーリョ|ウェリントン]]および強化本部長の[[山本浩靖]]を解任。後任にコーチの[[松波正信]]がクラブOB初・クラブ最年少で監督に就任した。ACLでは1勝に留まり、この年出場したJリーグ勢で唯一グループリーグで敗退。 第6節(川崎戦)でリーグ戦初勝利を挙げたが、中断前の12試合でわずか2勝(3分7敗)。15位の[[アルビレックス新潟|新潟]]と勝点差6(ACL出場による日程変更でリーグ戦試合消化はガンバが新潟より1試合少ない状態)の16位と降格圏に低迷。これを受け、夏の補強として[[RCDマヨルカ]]から[[家長昭博]]、[[アル・サッド]]から[[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]が期限付き移籍で復帰。また、清水から[[岩下敬輔]]を期限付き移籍で獲得。一方で、6月にラフィーニャと契約解除。7月にイ・スンヨルが[[蔚山現代FC]]、寺田が[[横浜FC]]、星原が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へそれぞれ期限付き移籍で退団。中盤以降、新戦力のレアンドロや家長の活躍もあり後半戦はやや持ち直すものの、第33節時点で降格圏内の16位で第34節(最終節)を迎える。最終的にはジュビロ磐田に、1-2で敗れ、初のJ2降格が決定した。この年、総得点数はリーグ1位の67得点であったが、総失点はリーグ17位の65失点であった。大量得点で勝つ事が多く、1試合3得点以上の試合では9戦全勝だったのに対し、1試合2得点以下の試合では11分14敗と1勝もすることができなかった。また、ホームは17試合の内わずか4勝(7分6敗)に終わった。前年3位から17位への順位降下は、[[2021年のJ1リーグ|2021年シーズン]]終了時点でも、J1リーグにおける最大の順位降下記録である<ref>降格を含む場合、[[2011年のJリーグ ディビジョン1|2011年J1]] 17位→[[2012年のJリーグ ディビジョン2|2012年J2]] 18位の[[アビスパ福岡|福岡]]が最大。</ref>。 [[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は3年ぶりに決勝へ進出したが、[[柏レイソル|柏]]に敗れ、ACLの出場権を逃した。シーズン終了後、松波が監督を退任した。 === 2013年(J2) === チームスローガン:「'''復活〜さらなる進化を勝ち取るために〜'''」 初の[[J2リーグ|J2]]で迎えた[[2013年のJリーグ|2013年]]、監督に元[[清水エスパルス|清水]]監督の[[長谷川健太]]が就任<ref name="jleague" />。[[中澤聡太]]が[[川崎フロンターレ|川崎]]へ、[[佐々木勇人]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]へ完全移籍したが、主力選手の大半がチームに残留した。シーズン前の補強では、ロンドン五輪韓国代表の[[呉宰碩|オ・ジェソク]]、[[関西大学]]からユース出身の[[岡崎建哉]]を獲得。一方で、ユースからの昇格は14年ぶりに見送られた。 序盤戦はややつまずくも開幕から12試合連続無敗を記録(6勝6分)。第13節神戸戦で初黒星を喫したが、第13節以降6連勝を記録。第16節終了時点で神戸をかわして首位に浮上。代表組の遠藤・今野が不在となった6月も無敗で乗り切り前半戦を首位で折り返す。後半戦、2012年夏から期限付き移籍で加入していた家長とレアンドロがそれぞれ契約満了により退団するが、[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]から[[アディ・ロチャ・ソブリーニョ・フィーリョ|ロチャ]]、ドイツ・[[TSG1899ホッフェンハイム]]への期限付き移籍が満了した[[宇佐美貴史]]が2年ぶりに復帰した。夏場はロチャ・宇佐美の活躍で順調に乗り切ったが、第32節長崎戦でホーム初黒星を喫すると、以降やや失速し第35節で神戸に再び首位の座を明け渡してしまう。それでも、第37節以降連勝を重ねると、第39節熊本戦での勝利で首位を再奪還すると同時に1年でのJ1昇格が決定。さらに、ホーム最終戦となった第41節山形戦でJ2優勝を達成した。ホーム万博でタイトルを勝ち取ったことはこれが初であった。また、J1・J2両カテゴリーの優勝は柏・広島に次ぐ3クラブ目となった。総得点は2位の神戸の78点を21点上回る99得点であった。 この年、ホームでの観客動員は平日開催が多かったこともあり、ホームゲームのシーズン平均入場者数は前年よりも下回る12,286人(前年度比83.1%)であったが、アウェーでは各地で好調な動員を記録。前年のJ2の平均観客動員は6000人を下回ったが、2013年のアウェーのガンバ戦はほとんどが1万人以上の動員を記録<ref>アウェー全21試合中、[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]([[北九州市立本城陸上競技場|本城]] 7,207人)、[[徳島ヴォルティス|徳島]]([[徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場|鳴門大塚]] 8,897人)、[[ザスパクサツ群馬|群馬]]([[群馬県立敷島公園県営陸上競技場|正田スタ]] 7,810人)3試合を除く18試合で1万人超。うち北九州戦については[[2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選|2014ワールドカップ予選]]、群馬戦はヨーロッパ遠征のため、ともに遠藤、今野が[[サッカー日本代表]]に選出され不在だった。</ref>。中でも、富山、松本、岡山など複数のクラブ過去最多動員記録を更新し、J2全体の入場者数は前年より約15%増加するなど、J2の観客動員増加に大きく貢献。このJ2全体に巻き起こった現象は[[アベノミクス]]になぞらえ「ガバノミクス」「アシノミクス」などと呼ばれた。 === 2014年 - (J1) === ==== 2014年 ==== チームスローガン:'''「Rising G」''' 2年ぶりのJ1で迎えた[[2014年のJリーグ|2014年]]、長谷川体制2年目。[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[東口順昭]]、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[米倉恒貴]]を獲得し、[[河田晃兵]]が3年ぶり、[[金正也]]が2年ぶりにレンタル先から復帰。外国人選手では、[[クリシューマEC]]から[[リンス・リマ・ヂ・ブリット|リンス]]、[[パウリスタFC]]から期限付き移籍で[[エブソン・パトリシオ・ヴァスコンセロス・ド・ナシメント|エブソン]]を獲得。ユースからは[[内田裕斗]]と[[小川直毅]]、さらに[[井手口陽介]]がクラブ史上5人目となる飛び級で昇格した。シーズン途中には、エブソンが[[カマタマーレ讃岐|讃岐]]へ期限付き移籍、[[加地亮]]が、[[メジャーリーグサッカー|MSL]]・[[クラブ・デポルティボ・チーヴァス・USA|チーヴァス・USA]]へ完全移籍したが、[[川崎フロンターレ|川崎]]・[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に在籍していた[[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]を期限付き移籍で獲得した。 4月16日、[[2014年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]・グループリーグ第3節鳥栖戦で、2種登録選手の[[高木彰人]]が16歳8カ月12日での公式戦初出場を果たし、2009年に宇佐美が記録したクラブ史上最年少出場記録を更新した。 {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #003287 solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.02|y=0|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF"><span style="font-size:small;color:#000000;">''' '14 J1最終節 徳島戦 布陣'''</span></span>}} {{Image label|x=0.18|y=0.24|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[宇佐美貴史|<span style="font-size:small;color:#003287">'''宇佐美貴史'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.24|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|<span style="font-size:small;color:#003287">''''''パトリック'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.45|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[大森晃太郎|<span style="font-size:small;color:#003287">'''大森晃太郎'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.72|y=0.45|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[阿部浩之|<span style="font-size:small;color:#003287">'''阿部浩之'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.19|y=0.66|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[遠藤保仁|<span style="font-size:small;color:#003287">'''遠藤保仁'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.6|y=0.66|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[今野泰幸|<span style="font-size:small;color:#003287">'''今野泰幸'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.07|y=0.85|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[呉宰碩|<span style="font-size:small;color:#003287">''''''オ・ジェソク''''''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.23|y=1.02|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[岩下敬輔|<span style="font-size:small;color:#003287">'''岩下敬輔'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.58|y=1.02|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[丹羽大輝|<span style="font-size:small;color:#003287">'''丹羽大輝'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.72|y=0.85|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[米倉恒貴|<span style="font-size:small;color:#003287">'''米倉恒貴'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.40|y=1.20|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[東口順昭|<span style="font-size:small;color:#003287">'''東口順昭'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.50|y=1.37|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[長谷川健太|<span style="font-size:small;color:#000000">監督:'''長谷川健太'''</span>]]</span>}} </div> |} 7年ぶりに予選からの参加となったナビスコカップではAグループ1位で決勝トーナメント進出。準々決勝では同じAグループで2位に入った[[ヴィッセル神戸|神戸]]に快勝(2戦合計4 - 1)、準決勝では2007年の決勝で顔を合わせた[[川崎フロンターレ|川崎]]に2戦合計5-4と打ち合いを制し、7年ぶりに決勝進出。決勝ではこの年の[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]4回戦でも顔を合わせた[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]と対戦、前半35分までに2点先取されるも、前半のうちに1点を返し後半に2点を挙げ逆転勝ち。ナビスコカップの決勝では史上初となる2点差からの逆転優勝で、2007年以来2回目のナビスコカップ制覇を果たした。 J1では、開幕直前に前年のチーム得点王の宇佐美が負傷離脱したこともあり、前半戦は極度の得点力不足に陥り[[2014 FIFAワールドカップ|ブラジルワールドカップ]]による中断前は4勝3分7敗で降格圏の16位に低迷。それでも、後半戦は復帰した宇佐美や中断期間に新加入したパトリックを中心とした攻撃陣が機能し、中断後早々5連勝で降格圏から一気に抜け出すと、8月末から10月にかけては10年ぶりとなる7連勝を記録し優勝争いに加わる。第32節、負ければ優勝の可能性が消滅する首位[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]との天王山を制し勝点差2に詰めよると、続く第33節神戸戦での勝利で浦和を得失点差で上回り初の首位に浮上。そして最終節、最下位のアウェー[[徳島ヴォルティス|徳島]]戦はスコアレスドローに終わったが、優勝の可能性を残していた2位浦和・3位[[鹿島アントラーズ|鹿島]]がそれぞれ敗れたため、2005年以来9年ぶり2回目のJ1優勝を果たした。J1昇格1年目でのリーグ優勝は、2011年の[[柏レイソル|柏]]以来2例目であり、また最大勝点差14からの逆転優勝はJリーグ史上最大だった<ref>{{cite news|date=2014-12-06|url=https://news.livedoor.com/article/detail/9547865/|title=G大阪、ミラクルVで3冠王手! 降格圏から史上最大14差ひっくり返す|publisher=LivedoorNEWS|accessdate=2014-12-06}}</ref>。中断後は15勝3分2敗と猛烈な巻き返しを見せ、総得点はリーグ2位の59得点を記録。総失点もリーグ2位タイの31失点に留め、完封試合はクラブ新記録となる14試合を記録するなど、2年前J2に降格した主原因であった守備面は大幅に改善され攻守共に安定した数字を残した。 天皇杯では、翌年1月開催の[[AFCアジアカップ2015]]の影響で日程が例年よりも前倒しになり、リーグ戦と並行して行われたことで他のJ1クラブが早々に敗退する中、[[J3リーグ|J3]]優勝の[[ツエーゲン金沢|金沢]]、徳島、広島、[[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2013年の天皇杯]]でPK戦の末に敗れた大宮、[[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2010年]]の準決勝で敗れた清水をそれぞれ下し、[[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2012年]]以来2年ぶりに決勝進出。決勝ではこの年[[J1昇格プレーオフ]]を制した山形を3 - 1で下し5年ぶり3回目(前身時代含めると4回目)の天皇杯制覇を果たした。これにより、2000年の鹿島以来14年ぶり2チーム目、日本人監督のもとでは史上初、さらにJ1昇格1年目のクラブでも初の'''[[トレブル (サッカー)|国内三冠]]'''を達成した。 ==== 2015年 ==== チームスローガン:'''「Moving G」''' [[2015年のJリーグ|2015年]]、長谷川体制3年目。[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[赤嶺真吾]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[小椋祥平]]、[[ジュビロ磐田|磐田]]から[[藤ヶ谷陽介]]を獲得し、ユースからは[[林瑞輝]]、[[妹尾直哉]]、[[嫁阪翔太]]、[[平尾壮]]の4人が昇格した。7月8日、[[清水エスパルス|清水]]より[[長沢駿]]を獲得。 1月24日、[[インドネシア・スーパーリーグ]]の[[ペルシジャ・ジャカルタ]]との親善試合「パナソニックカップ2015」がインドネシアで行われ、4-0で勝利した。 2月28日、三冠王者として挑んだ[[2015年のスーパーカップ (日本サッカー)|富士ゼロックススーパーカップ]]は前年リーグ2位の浦和に2-0で勝利し、8年ぶり2度目の優勝を果たした。 5月27日、2種登録選手で高校2年生の[[堂安律]]がACLラウンド16第2戦FCソウル戦でプロデビューを果たし、直後のJ1第10節鹿島戦でクラブ史上最年少となるリーグ戦デビューを果たした。 3年ぶりに出場した[[AFCチャンピオンズリーグ2015|ACL]]は初戦[[広州富力足球倶楽部|広州富力]]、第2節[[城南FC]]に2連敗し、予選敗退ムードが漂っていたが、第3節[[ブリーラム・ユナイテッドFC]]戦に引き分け、第4節ブリーラム戦でACL初勝利をあげる。第5節広州富力戦は5-0で圧勝。最終節城南FC戦も逆転勝利で3勝1分2敗とし、首位通過を決めた。ノックアウトステージラウンド16では[[FCソウル]]と対戦。第1戦目は敵地で3-1、第2戦目はホームで3-2で連勝してベスト8に進出。準々決勝は前年の韓国王者[[全北現代モータース|全北現代]]との'''日韓決戦'''を2戦合計3-2で下しベスト4に進出。準決勝は2013年のACL王者で中国スーパーリーグ4連覇中の[[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]との'''日中決戦'''に2戦合計1-2で敗れ7年ぶりの決勝進出とはならなかった。 ナビスコカップはACLの影響で決勝トーナメントから参加。準々決勝はPK戦の末に名古屋を準決勝では新潟をそれぞれ下し、2年連続で決勝進出を決めたものの、決勝では過密日程からかパフォーマンスが落ちてしまい、鹿島に0-3で敗れ連覇はならなかった。 1stステージ序盤は[[今野泰幸]]の負傷離脱でチームの調子が上がらなかったが、今野復帰後は調子を取り戻す。しかし、ACLとの過密日程により選手には疲労が溜まり、先制するも追いつかれる試合が続き、結果的には1stステージ4位で終えた。 2ndステージも全てのカップ戦を勝ち抜き過密日程が続いたことで、年間1位の広島と年間2位の浦和に大きく差をつけられた。年間順位4位で迎えた最終節で[[モンテディオ山形|山形]]に勝利、年間3位のFC東京が[[サガン鳥栖|鳥栖]]と引き分けたため、得失点差で3位に浮上し[[2015年のJリーグチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]出場を決めた。 CSは浦和との準決勝を延長戦の末3-1で勝利し決勝進出。リーグ戦年間順位1位の広島と対戦した決勝ではホームでの第1戦を終盤の連続失点で逆転負けし、アウェイでの第2戦も引き分けた事により2戦合計3-4でリーグ連覇を逃した。 天皇杯はACLでベスト8以上に入ったことで4回戦から出場。4回戦では川崎、[[万博記念競技場|万博]]での最後の公式戦となった準々決勝では鳥栖を破り、準決勝ではCSで敗れた広島にリベンジを果たして2年連続で決勝に進出。決勝では浦和にパトリックの2得点で勝利し、2008年・2009年大会以来となる天皇杯連覇を飾った。この年の公式戦は、最終的に2008年の61試合に次ぐJ1全クラブ最多となる60試合に達するハードな日程だった。 ==== 2016年 ==== '''{{small|{{main|2016年のガンバ大阪}}}}''' チームスローガン:'''Ambition''' クラブ設立25周年となる[[2016年のJリーグ|2016年]]、長谷川体制4年目。本拠地をサッカー専用スタジアム「[[市立吹田サッカースタジアム|パナソニックスタジアム吹田]]」に移転。また、[[J3リーグ]]にセカンドチーム「[[#ガンバ大阪U-23|ガンバ大阪U-23]]」が参戦。 ユースから[[高木彰人]]、[[市丸瑞希]]、[[初瀬亮]]、[[堂安律]]が昇格(堂安は飛び級での昇格)。[[関西学院大学体育会サッカー部|関西学院大学]]から[[呉屋大翔]]、[[熊本県立大津高等学校|大津高校]]から[[野田裕喜]]と[[一美和成]]が加入。愛媛から[[岡崎建哉]]が期限付き移籍から復帰。横浜FMから[[アデミウソン・ブラガ・ビスポ・ジュニオール|アデミウソン]]を期限付きで、[[藤本淳吾]]を完全移籍で獲得。[[明神智和]]と[[リンス・リマ・ヂ・ブリット|リンス]]が移籍した。 2月14日、市立吹田サッカースタジアムの[[こけら落とし]]マッチ「Panasonic Cup」が開催され、名古屋に3-1で勝利した。 [[AFCチャンピオンズリーグ]]ではグループG組に入った。[[上海上港集団足球倶楽部|上海上港]](中国)、[[水原三星ブルーウィングス|水原三星]](韓国)、[[メルボルン・ビクトリー|メルボルン]](オーストリア)と同組に入ったが、2013年の広島に続いて日本サッカー史上2チーム目のグループステージ未勝利とグループステージがホームアンドアウェー制度になった2004年以降では最低となる勝点2しか稼げずにGL敗退が決定した。 1stステージでは開幕早々にDF丹羽が離脱したことでセンターバックが人材難になりスタートダッシュに失敗。新戦力のアデミウソンが4得点と活躍するも、ACLとの過密日程でコンディションが上がらず首位の鹿島とは勝点15差の6位に低迷した。特にホームでは3勝2分4敗と大きく取りこぼした。1stステージ終了後、夏の移籍市場で宇佐美がドイツ1部・[[FCアウクスブルク]]に完全移籍し、ガンバ大阪一筋の二川が東京ヴェルディに期限付き移籍した。 [[Jリーグカップ]]では決勝まで勝ち進み、3年連続ファイナル進出となった。決勝の[[浦和レッズ]]戦では1-1の同点で延長戦でも決着がつかずにPKとなったが、4-5で敗れてしまい準優勝となった。 2ndステージは10勝3敗4分け、勝点34の4位にとどまり、年間総合順位でも勝点58で3位の鹿島に1ポイント及ばず4位となり、チャンピオンシップ進出はならなかった。天皇杯ではベスト8まで勝ち進んだが、ベスト8で[[横浜F・マリノス]]に敗れて今シーズンは無冠に終わった。 ==== 2017年 ==== '''{{small|{{main|2017年のガンバ大阪}}}}''' チームスローガン:'''勝''' [[2017年のJリーグ|2017年]]、長谷川体制5年目。期限付き移籍で加入していたアデミウソンを完全移籍で獲得し、千葉から[[井出遥也]]、[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[泉澤仁]]、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から[[森勇人]]、横浜FMから[[ファビオ・アギアール・ダ・シウヴァ|ファビオ]]、昨年は東京Vに在籍した[[鈴木椋大]]、清水から[[三浦弦太]]を補強。また、U-23チームを主戦とする選手として[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[中原彰吾]]、東京Vから[[郡大夢]]を期限付き移籍で獲得、ユースから[[食野亮太郎]]が昇格、[[東福岡高校]]から[[高江麗央]]、[[市立船橋高校]]から[[高宇洋]]、韓国から[[裴洙ヨン|ペ・スヨン]]が加入した。一方で、[[岩下敬輔]]が福岡に、[[阿部浩之]]が川崎に移籍し、[[内田達也]]が東京Vに、[[西野貴治]]が千葉に期限付き移籍、[[赤嶺真吾]]は期限付き移籍先の岡山に完全移籍した。シーズン開幕直後に、鹿島から[[赤﨑秀平]]を期限付き移籍で獲得、また前年の大ケガにより登録を抹消されていた[[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]を再登録した。 [[AFCチャンピオンズリーグ2017]]には東地区プレーオフ2のプレーオフラウンドから出場し、ホームで[[ジョホール・ダルル・タクジムFC]](マレーシア)に勝利して本戦出場決定。本戦ではグループHに入り、三浦弦太、堂安律、初瀬亮といった若手を積極起用して臨んだが、[[アデレード・ユナイテッドFC|アデレード・ユナイテッド]](オーストラリア)に1勝1分けとしたものの、その試合で2-0でリードしている最中に金正也がロングボールの対応をしようとして足を滑らせて失点に絡んでしまったり、後半13分に名手・遠藤がPKを失敗する等ミスも重なり、[[江蘇蘇寧足球倶楽部|江蘇蘇寧]](中国)・[[済州ユナイテッドFC|済州ユナイテッド]](韓国)に連敗し、勝点4で2年連続でグループ最下位で敗退となった<ref group="注">因みにホームスタジアムが万博記念競技場から2016年吹田スタジアムに代わったが、2015年9月16日に準々決勝第2戦で[[全北現代モータース]]戦以降勝った事が無く、ホームで7戦連続勝利なしは日本サッカー史上最長記録である。また2004年以降2年連続でグループステージを最下位で敗退したのは日本サッカー史上初である。</ref>。 夏の移籍市場では[[城南FC]]から[[黄義助]]を獲得、千葉へ期限付き移籍していた西野が復帰。一方で堂安がオランダ[[FCフローニンゲン]]に期限付き移籍、丹羽とパトリックが広島に移籍した。 4月16日、第7節・[[セレッソ大阪|C大阪]]との[[大阪ダービー]]で、一部のサポーターがナチス親衛隊「SS」を連想させる文字の入ったフラッグを掲出したことが問題になった。クラブは同月20日に謝罪し、翌21日にサポーター・グループの処分を発表。さらに5月11日、C大阪戦で起きたサポーター・グループの不適切フラッグ掲出問題について、Jリーグ・裁定委員会からの制裁が決定したことを発表した<ref>[https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%90%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E9%80%A3%E6%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B0%E6%8E%B2%E5%87%BA%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%A7%E3%81%91%E3%82%93%E8%B2%AC%E3%81%A8200%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%AE%E5%88%B6%E8%A3%81%E9%87%91%E3%81%82/1w2htnsa2zapl1gjorg8adz8yj ガンバ大阪、ナチス連想フラッグ掲出問題でけん責と200万円の制裁金] GOAL(2017年5月11日)</ref>。 9月7日、監督の長谷川がシーズン限りで退任する事が発表された。また、天皇杯では4回戦で柏レイソルに敗退し、ルヴァンカップでも準決勝でセレッソ大阪に敗れてしまい無冠となった。攻撃陣は長沢以外に2けた得点を挙げた選手がおらず、J1では長谷川政権史上最悪の10位・48得点となり、退任発表以降はクラブワースト記録となる13試合未勝利のままシーズンを終えた。 ==== 2018年 ==== '''{{small|{{main|2018年のガンバ大阪}}}}''' チームスローガン:'''奪還''' [[2018年のJリーグ|2018年]]、[[レヴィー・クルピ]]が新監督に就任。[[浦和レッズ|浦和]]から[[矢島慎也]]、[[モンテディオ山形|山形]]から[[菅沼駿哉]]が復帰。[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大学付属相模高等学校]]から[[山口竜弥]]、[[前橋育英高等学校]]から[[松田陸 (1999年生のサッカー選手)|松田陸]]、[[東福岡高校]]から[[福田湧矢]]、三菱養和ユースから[[中村敬斗]]が入団。ユースから[[谷晃生]]、[[芝本蓮]]、[[白井陽斗]]が昇格した。 [[2018年のJ1リーグ|J1リーグ戦]]では開幕から3連敗し、J1リーグが18チーム体制になった[[2005年のJリーグ ディビジョン1|2005年]]以降初めて、16チーム体制だった[[2000年のJリーグ ディビジョン1|2000年]]以来18年ぶりとなる単独最下位に転落、また[[2018年のJリーグカップ|YBCルヴァンカップ]]1試合の敗戦も合わせて、前年から続く公式戦連続未勝利記録は17まで伸びた<ref>{{Cite web|和書|date=2018-03-11|url=https://hochi.news/articles/20180310-OHT1T50303.html|title=【G大阪】クルピ監督「責任は私」開幕3連敗18年ぶり最下位…公式戦17戦勝ちなし|work=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|accessdate=2018-07-23}}</ref>。けが人が続出したことがあった。 その後最下位は脱し、ルヴァンカップではノックアウトステージ進出を果たしたものの、 J1リーグ戦では調子は上向かず、リーグ前半戦17試合を終えて4勝3分10敗、勝点15でJ2降格の可能性のある16位に低迷、また[[天皇杯 JFA 第98回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では、初戦の2回戦で対戦した[[関西学院大学体育会サッカー部|関西学院大]]に1-1から延長戦の末1-2で敗れた。[[2018 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]による中断を挟んで J1リーグ戦5試合連続未勝利となった翌日の7月23日、監督のクルピを解任、U-23監督の[[宮本恒靖]]が後任のトップチーム監督に就任した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-07-23|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20180723/798641.html |title=16位低迷のG大阪、宮本恒靖氏の指揮官就任を発表…クルピ監督を解任 |work=サッカーキング|publisher=フロムワン|accessdate=2018-07-23}}</ref>。 監督交代後、シーズン途中には[[レノファ山口]]から[[小野瀬康介]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[渡邉千真]]を補強したが、長沢が渡邉とトレードする形で神戸へ期限付き移籍。 また、監督交代後、序盤は苦戦し4戦目の第21節FC東京戦で宮本体制での初勝利を決める。9月以降はチームが上向き、第25節川崎戦から第33節長崎戦にかけて21年ぶりクラブタイ記録となる9連勝を飾り、宮本就任以降は10勝3分4敗、勝点33を積み上げ最終的に9位でJ1残留を決めた。 ==== 2019年 ==== '''{{small|{{main|2019年のガンバ大阪}}}}''' チームスローガン:'''GAMBAISM''' [[2019年のJリーグ|2019年]]、宮本体制2年目。[[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]から[[金英權]]、[[ブリーラム・ユナイテッド|ブリーラム]]から[[青山直晃]]、[[ロアッソ熊本|熊本]]から[[田中達也 (1992年生のサッカー選手)|田中達也]]<ref group="注">その後、わずか半年で[[大分トリニータ|大分]]へ再び完全移籍</ref> を獲得。また、[[ベガルタ仙台|仙台]]から矢島、[[徳島ヴォルティス|徳島]]から呉屋<ref group="注">開幕直後に[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ再び期限付き移籍</ref>、[[ツエーゲン金沢|金沢]]から田尻が期限付き移籍から復帰。さらに開幕直後にはスペインから[[ダビド・コンチャ]]を期限付き移籍で獲得。また、ユースから[[奥野耕平]]、[[関西学院大学|関西学院大]]から[[髙尾瑠]]が新加入。 一方で期限付き移籍をしていた長沢と二川、ファビオや初瀬などがそれぞれ移籍した。 第2戦で今季初勝利するも第5節から7戦勝ち無し。第12節の大阪ダービーからは食野や矢島、中村などの若手選手を大量に起用し、巻き返しを図ったが、一時はJ2自動降格圏に転落。しかし、前半戦最後の最後でなんとか持ち直し、前半戦は13位で終えた。 シーズン途中には[[FCアウクスブルク]]<ref group="注">昨シーズンは[[フォルトゥナ・デュッセルドルフ|デュッセルドルフ]]所属</ref> から宇佐美が完全移籍で2016年夏以来3年ぶり2度目、[[サンフレッチェ広島|広島]]からパトリックが期限付き移籍で2017年夏以来2年ぶりに、[[リーズ・ユナイテッド]]<ref group="注">昨シーズンは[[SpVggグロイター・フュルト|フュルト]]所属</ref> から井手口が完全移籍で2017年以来1年半ぶりに復帰。また、[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[鈴木雄斗]]を期限付き移籍で、[[レノファ山口FC|山口]]から[[高木大輔]]を完全移籍で獲得した。さらに9月には昨シーズンまで[[アスレティック・ビルバオ|ビルバオ]]に所属していた[[サッカースペイン代表|元スペイン代表]]の[[マルケル・スサエタ]]を完全移籍で獲得した。 一方でエースの黄義助がフランスの[[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]へ、これまで国内三冠やJ1復帰・残留などに貢献した今野が[[ジュビロ磐田|磐田]]へ、ベテランの藤本が[[京都サンガF.C.|京都]]へ、オ・ジェソクが[[FC東京]]へ、中村がオランダの[[FCトゥウェンテ]]へ、食野がイングランドの[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]<ref group="注">その後、スコットランドの[[ハート・オブ・ミドロシアンFC|ハーツ]]へ期限付き移籍</ref> へ、米倉が[[ジェフ千葉|千葉]]へとそれぞれ移籍するなど主力級や若手の選手が大量に流出してしまった。 天皇杯は、3回戦で[[法政大学体育会サッカー部|法政大学]]に0-2で敗戦し、2年連続で大学勢に敗退する結果となった。 10月4日、第28節の[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦に勝利し、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]に次ぐJ1通算400勝を達成した。 [[2019年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]では、2年ぶりに準決勝へ進出したが、[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]相手に2戦合計2-2、アウェーゴールルールにより、3年ぶりの決勝進出はならなかった。また、4年連続の無冠が確定した。 リーグ戦の最終成績は、12勝11分11敗の勝ち点47の7位。 ====2020年==== チームスローガン : '''GAMBAISM''' [[2020年のJリーグ|2020年]]、宮本体制3年目。[[トゥールーズFC]]から[[昌子源]]、[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[小野裕二]]、[[石川慧]]、[[ファジアーノ岡山|岡山]]から[[一森純]]を完全移籍で、[[ジュビロ磐田|磐田]]から[[新里亮]]、[[柏レイソル|柏]]から[[猿田遥己]]、[[川崎フロンターレ|川崎]]<ref group="注">昨シーズンは[[FC岐阜|岐阜]]に所属。</ref> から[[タビナス・ジェファーソン]]を期限付き移籍で獲得。また、[[FC東京]]から[[オ・ジェソク]]、岐阜から市丸が期限付き移籍から復帰。また、ユースから[[川崎修平]]、[[塚元大]]、[[唐山翔自]]、[[関西大学]]から[[黒川圭介]]、[[関西学院大学|関西学院大]]から[[山本悠樹]]、[[ボイン高等学校]]からシン・ウォノが新加入。さらに、[[サンフレッチェ広島|広島]]から期限付き移籍で復帰していたパトリックが完全移籍へ移行した。 一方で、元スペイン代表のスサエタとコンチャ、期限付き移籍をしていた呉屋や米倉、一美などがそれぞれ移籍した。 また、シーズン途中には2000年から在籍している遠藤が[[ジュビロ磐田|磐田]]に期限付き移籍で、今シーズン復帰したばかりの[[オ・ジェソク]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]に完全移籍で、市丸が[[FC琉球|琉球]]に期限付き移籍でそれぞれ移籍した。 リーグ戦では9年ぶりに開幕戦で勝利した後、一時期2位に浮上するも、夏に連敗で一時期失速。その後は12戦負けなしなどで好調を維持し、2位でシーズンを終え、3年ぶりのACL出場権及び天皇杯出場権を獲得した。また、これまで[[パナソニックスタジアム吹田]]で勝利がなかった[[名古屋グランパスエイト]]、[[鹿島アントラーズ]]、[[柏レイソル]]、[[ヴィッセル神戸]]から初勝利を収めた。 20勝5分9敗という成績に対し得失点差は僅かに+4であり、得点数もリーグ9位だった。またアウェイでの勝率は71%に達し、アウェイ戦だけ見ると独走で優勝した川崎を超えるリーグ1位の成績だった<ref>{{Cite web |title=ホーム&アウェイ順位表 - J1リーグ (日本) {{!}} FootyStats |url=https://footystats.org/jp/japan/j1-league/home-away-league-table |website=footystats.org |access-date=2023-12-05 |language=ja-jp}}</ref>。 天皇杯は決勝で[[川崎フロンターレ|川崎]]に0-1で敗戦し、準優勝で終わった。 ====2021年==== チームスローガン : '''TOGETHER as ONE''' 宮本体制4年目。[[FCソウル]]から[[朱世鐘|チュ・セジョン]]、[[松本山雅FC|松本]]から[[レアンドロ・マルコス・ペルチェナ・ペレイラ|レアンドロ・ペレイラ]]、[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[チアゴ・アウベス・サレス・デ・リマ|チアゴ・アウベス]]を獲得。 また、[[横浜FC]]から一美、[[レノファ山口FC|山口]]から林が復帰。一方で、渡邉、高江、市丸、松田らがそれぞれ移籍し、期限付き移籍中の遠藤と谷が移籍期間を延長した。また、ユースからの昇格は8年ぶりに見送られた。 開幕戦消化後、新型コロナウィルスの感染がチーム関係者複数に発生し3月9日から3月23日にかけてトップチーム活動の休止を余儀なくされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20210322/1233970.html|title=新型コロナ8人陽性でトップチーム活動休止中のG大阪、23日から活動再開|publisher=サッカーキング|date=2021-03-22|accessdate=2021-06-02}}</ref>。活動再開後も調子を上げることができず、リーグ戦10試合消化時点で1勝4分5敗の暫定18位、得点数も3と低迷した。 そうした事情を考慮し、5月13日付で宮本監督との契約を解除<ref name="gamba20210514">{{Cite press release|和書|title=トップチーム監督交代のお知らせ|url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/12363/|publisher=ガンバ大阪|date=2021-05-14|accessdate=2021-06-02}}</ref>。当初は強化アカデミー部長で2012年に監督を務めた[[松波正信]]が後任決定まで暫定的に指揮を執る{{R|gamba20210514}}としていたが、6月1日に後任監督を松波として現体制を継続させることを発表した<ref>{{Cite press release|和書|title=松波 正信監督体制 継続決定のお知らせ|url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/12413/|publisher=ガンバ大阪|accessdate=2021-06-01|language=ja}}</ref>。 その後、4年ぶりの出場となった[[AFCチャンピオンズリーグ2021|AFCチャンピオンズリーグ]]では、[[全北現代モータース]]、[[チェンライ・ユナイテッドFC]]、[[タンピネス・ローバースFC]]と同組。新型コロナウイルス感染症の影響のためウズベキスタンでの集中開催となった[[AFCチャンピオンズリーグ2021 グループリーグ|グループステージ]]では、タンピネスとの初戦に勝利するもその後3戦連続ドローと勝ち星を積み上げられず、第5節のタンピネス戦で大会2勝目を挙げ望みをつなげたが、第6節で全北現代に敗れグループ2位となり、他グループの結果により、日本勢で唯一のGS敗退となった。 帰国後は、新型コロナウイルス感染症の影響で開催延期になっていた3月分の全6試合を[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック]]期間中に中2日で開催することとなり、7月24日の[[アビスパ福岡|福岡]]戦を皮切りに、9月5日の[[2021年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]準々決勝2ndレグの[[セレッソ大阪|C大阪]]戦まで国内15連戦、ACLを含めて21連戦を戦うこととなった。 シーズン途中には、[[フルミネンセFC]]から[[ウェリントン・アウヴェス・ダ・シウバ|ウェリントン・シウバ]]、[[水戸ホーリーホック|水戸]]から[[柳澤亘]]を完全移籍で獲得。また、[[愛媛FC|愛媛]]から[[加藤大智]]を期限付き移籍で獲得。一方で、一美が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ、川﨑が[[ポルティモネンセSC]]へ完全移籍。また、唐山が[[愛媛FC|愛媛]]へ期限付き移籍した。 リーグ戦では、怪我人が続出したこともあり、シーズンを通して2度の4連敗を喫するなど低迷。ルヴァンカップを含め大量失点で敗れる試合も多く、攻撃・守備両方において課題を残すシーズンとなった。リーグ戦の最終成績は12勝8分18敗の勝ち点44の13位。33得点はリーグ4番目に少なく、Jリーグ参入以降で最低の数字となった。シーズン終了後に松波監督が退任。 ====2022年==== チームスローガン : '''BE THE HEAT, BE THE HEART''' 前年度まで[[大分トリニータ|大分]]を率いた[[片野坂知宏]]が監督に就任。ヘッドコーチを務めた2015年以来、7年ぶりの復帰となる。 [[城南FC]]から[[クォン・ギョンウォン]]、[[清水エスパルス|清水]]から[[石毛秀樹]]、[[徳島ヴォルティス|徳島]]から[[福岡将太]]をそれぞれ完全移籍で獲得。また、[[湘南ベルマーレ|湘南]]から[[齊藤未月]]、[[サンタ・リタ]]から[[ダワン・フラン・ウラーノ・ダ・プリフィカソン・オリヴェイラ|ダワン]]をそれぞれ期限付き移籍で獲得。また、愛媛から期限付き移籍で獲得していた加藤が完全移籍に移行した。さらにユースから[[中村仁郎]]と[[坂本一彩]]がトップ昇格、[[関西学院大学]]から[[山見大登]]が加入した。 一方で[[キム・ヨングォン]]が[[蔚山現代]]に、井手口が[[セルティック]]に、小野が[[サガン鳥栖|鳥栖]]に、チアゴ・アウベスが[[ファジアーノ岡山|岡山]]に、矢島が[[大宮アルディージャ|大宮]]にそれぞれ完全移籍。また、唐山が[[水戸ホーリーホック|水戸]]に、塚本が[[ツエーゲン金沢|金沢]]にそれぞれ期限付き移籍。そして、2020年から磐田に期限付き移籍していた遠藤保仁が同クラブに完全移籍した。 リーグ戦前半こそは勝点を積み上げれていたものの、シーズン後半になるにつれ失速。第25節、同じく残留を争う清水に0-2で破れたことで監督の[[片野坂知宏]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=トップチーム監督交代のお知らせ |url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/13978/ |website=ガンバ大阪オフィシャルサイト |access-date=2022-11-06 |language=ja}}</ref>を解任。後任には[[松田浩]]<ref name=":0" />が監督に就任。松田就任後の成績は4勝3分3敗、最終節で鹿島に0-0で引き分けて残留を確定させた。最終結果は9勝10分15敗の15位。降格した[[清水エスパルス]]との勝点差は3。 得点数は33で、リーグ6番目に少なかった。チーム得点王はパトリックの5ゴールであり、クラブ史上最も少なかった。 ルヴァンカップは1勝2分3敗の3位でグループステージ敗退。天皇杯は4回戦で[[鹿島アントラーズ|鹿島]]に敗退。 シーズン終了後に松田監督の退任を発表。さらに攻撃の要として長年在籍した[[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]や小野瀬康介が契約満了のため退団することが発表された。 ====2023年==== チームスローガン : '''BE THE HEAT, BE THE HEART''' 2021-2022年にかけて[[徳島ヴォルティス|徳島]]を率いていた[[ダニエル・ポヤトス]]を新監督に招聘。マルセル・サンツがヘッドコーチに就任。 [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]([[京都サンガF.C.|京都サンガFC]]へ移籍)、[[ウェリントン・アウヴェス・ダ・シウバ|ウェリントン・シウバ]]、[[レアンドロ・マルコス・ペルチェナ・ペレイラ|レアンドロ・ペレイラ]]([[ペルセポリスFC|ペルセポリスFC(イラン)]]へ移籍)、[[加藤大智]]、[[小野瀬康介|小野瀬 康介]]([[湘南ベルマーレ]]へ移籍)、[[芝本蓮|芝本連]]([[FC TIAMO枚方|FCティアモ枚方]]へ移籍)が契約満了で退団。[[齊藤未月]]が[[期限付き移籍]]満了で退団。[[唐山翔自|唐山 翔自]]は[[水戸ホーリーホック]]へ期限付き移籍延長。[[坂本一彩]]が[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]、[[南野遥海]]が[[テゲバジャーロ宮崎]]、[[髙橋隆大]]が[[奈良クラブ]]へそれぞれ期限付き移籍。[[ツエーゲン金沢]]から[[塚元大]]、[[ベガルタ仙台]]から[[佐藤瑶大|佐藤 瑶大]]がそれぞれ育成型期限付き移籍から、[[湘南ベルマーレ]]に期限付き移籍していた[[谷晃生]]が復帰した。[[昌子源]]が[[鹿島アントラーズ]]、[[朱世鐘|チュ セジョン]]が[[大田ハナシチズン|大田ハナシチズン(韓国)]]へそれぞれ完全移籍。[[ロアッソ熊本]]より[[杉山直宏]]、[[V・ファーレン長崎]]より[[江川湧清]]、[[モンテディオ山形]]より[[半田陸]]、[[SCサンタ・リタ|SCサンタ・リタ(ブラジル)]]より[[ダワン・フラン・ウラーノ・ダ・プリフィカソン・オリヴェイラ|ダワン]]、[[オーデンセBK|オーデンセ ボルドクルブ(デンマーク)]]より[[イッサム・ジェバリ|イッサム ジェバリ]]、[[マッカビ・ハイファFC|マッカビ・ハイファFC(イスラエル)]]より[[ネタ・ラヴィ|ネタ ラヴィ]]が完全移籍加入した。 2月8日、[[チョンブリーFC|チョンブリFC]](タイ)と提携を締結<ref>{{Cite web|和書|title=タイ・リーグ チョンブリFCと提携のお知らせ |url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/14528/ |website=ガンバ大阪オフィシャルサイト |access-date=2023-02-08 |language=ja}}</ref>。 開幕戦こそ引き分けたがその後は低迷。第14節の敗戦で3年連続のリーグ戦4連敗を喫し最下位に転落<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2023/05/14/kiji/20230514s00002179587000c.html |title=G大阪、痛恨の逆転負けで最下位に転落 試合後、サポーターからは怒号が… |website=[[スポーツニッポン]] |publisher = |accessdate=2023-05-14}}</ref>。第15節の前にはサポーター連合がクラブへの抗議としてツイッター上で、この日の試合の応援を拒否する姿勢を表明する事態となった。試合にも敗れ、25年ぶりの5連敗となってしまった。試合後は選手やポヤトス監督らがゴール裏に集まったサポーターと話し合いののちに、選手とサポーターが握手を交わし大きな拍手が送られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20230520-7QDYR4UJMVMOJIJ5ACB2JOAI6Q/ |title=G大阪25年ぶりリーグ戦5連敗 試合前にはサポーター連合が応援ボイコットを宣言 |website=[[サンケイスポーツ]] |publisher = |accessdate=2023-05-20}}</ref>。 天皇杯は[[高知ユナイテッドSC]]([[JFL]])に2回戦で敗れ敗退。 リーグ戦では第15節新潟戦から24節湘南戦まで8勝1分1敗と急速に盛り返し、残留争いから抜け出す。その後は勝ちに見放され再び低迷。 10月27日、ポヤトス監督と来シーズンの契約更新を発表。 翌日のリーグ戦、セレッソ大阪との大阪ダービーは1-0の完封負けで、2年連続でリーグ戦シーズンダブルを食らった<ref>{{Cite web |url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20231028/1825303.html |title=白熱の“大阪ダービー”を制したのはC大阪! 敗れたG大阪は痛恨のリーグ戦4連敗 |publisher = |accessdate=2023-10-28}}</ref>。次の福岡戦でも負け、シーズン2度目の5連敗を喫する。またこの試合により、94~96年以来2度目の3年連続2桁順位が確定した<ref>{{Cite web |title=【G大阪】クラブ史上2度目3年連続2桁順位確定 今季最長8戦未勝利、5連敗でJ1残留お預け - J1 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202311110001572.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-11-17 |language=ja |last=横田和幸}}</ref>。最終節を前に残留を決めるも、その後最終節まで連敗を7に伸ばし、95年の8連敗に次ぐ記録となった。最終順位は9勝7分18敗で16位となり、降格した2012年に次ぐ低い順位となった(勝ち点、得失点差は2012年を下回る)。さらに失点数リーグワーストタイ(61失点)を記録するなど、苦しいシーズンとなった<ref>{{Cite web |url=https://hochi.news/articles/20231203-OHT1T51140.html?page=1 |title=28年ぶり7連敗のG大阪、スタンドにサポーターから過激メッセージ「腐った土から芽は出ない」 |access-date=2023-12-3 |publisher=スポーツ報知}}</ref>。総得点は38で、7ゴールを挙げた[[ファン・マテウス・アラーノ・ナシメント|ファン・アラーノ]]がチーム得点王となった。 * '''トップチーム強化''' 選手移籍、育成型レンタル移籍、コーチングスタッフおよびチームスタッフの相互交流によりトップチーム強化を目指す。 * '''育成強化''' アカデミー年代における選手・スタッフの留学、試合の実施、トレーニングメソッドの情報交換などによる相互交流により、若手選手の育成強化を目指す。 ※[[町中大輔]]ジュニアユース監督の[[JFA公認S級コーチ]]海外研修をチョンブリFCにて実施(1/30~2/12) ※7月にタイで行われる交流試合にジュニアユースチームが参加 * '''スカウト連携''' [[タイ・リーグ1|タイ・リーグ]]およびタイ国内サッカー、Jリーグおよび日本国内サッカーの選手スカウト情報を可能な範囲で相互共有し連携する。 == 選手 == {{main|ガンバ大阪の選手一覧#所属選手・スタッフ}} === 国際大会出場選手 === {{Col-begin}} {{Col-3}} * '''[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]''' ** [[1998 FIFAワールドカップ|1998年]] - {{Flagicon|CMR}} [[パトリック・エムボマ|エムボマ]] ** [[2002 FIFAワールドカップ|2002年]] - {{Flagicon|JPN}} [[宮本恒靖]] ** [[2006 FIFAワールドカップ|2006年]] - {{Flagicon|JPN}} [[宮本恒靖]]、[[加地亮]]、[[遠藤保仁]] ** [[2010 FIFAワールドカップ|2010年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2014 FIFAワールドカップ|2014年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、[[今野泰幸]] ** [[2018 FIFAワールドカップ|2018年]] - {{Flagicon|JPN}} [[東口順昭]] ** [[2022 FIFAワールドカップ|2022年]] - {{Flagicon|KOR}} [[クォン・ギョンウォン]] {{Col-3}} * '''[[FIFAコンフェデレーションズカップ|コンフェデレーションズカップ]]''' ** [[キング・ファハド・カップ1995|1995年]] - {{Flagicon|JPN}} [[礒貝洋光]]、[[山口敏弘]] ** [[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|2001年]] - {{Flagicon|JPN}} [[都築龍太]]、[[稲本潤一]] ** [[FIFAコンフェデレーションズカップ2003|2003年]] - {{Flagicon|JPN}} 宮本恒靖、遠藤保仁 ** [[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005年]] - {{Flagicon|JPN}} 宮本恒靖、遠藤保仁、[[大黒将志]] ** [[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、今野泰幸 {{Col-3}} * '''[[AFCアジアカップ|アジアカップ]]''' ** [[AFCアジアカップ2000|2000年]] - {{Flagicon|JPN}} 稲本潤一 ** [[AFCアジアカップ2004|2004年]] - {{Flagicon|JPN}} 宮本恒靖、遠藤保仁 ** [[AFCアジアカップ2007|2007年]] - {{Flagicon|JPN}} 加地亮、[[橋本英郎]]、遠藤保仁 ** [[AFCアジアカップ2011|2011年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、藤本淳吾 ** [[AFCアジアカップ2015|2015年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、今野泰幸、東口順昭 ** [[AFCアジアカップ2019|2019年]] - {{Flagicon|JPN}} 東口順昭、[[三浦弦太]] {{Flagicon|KOR}} [[黄義助|ファン・ウィジョ]] {{Col-end}} {{Col-begin}} {{Col-2}} * '''[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]''' ** [[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|1996年]] - {{Flagicon|JPN}} [[森岡茂]] ** [[2000年シドニーオリンピックのサッカー競技|2000年]] - {{Flagicon|JPN}} 都築龍太、宮本恒靖、稲本潤一 ** [[2008年北京オリンピックのサッカー競技|2008年]] - {{Flagicon|JPN}} [[安田理大]] ** [[2016年リオデジャネイロオリンピックのサッカー競技|2016年]] - {{Flagicon|JPN}} [[井手口陽介]]、[[藤春廣輝]](OA) {{Col-2}} * '''[[アジア競技大会サッカー競技|アジア競技大会]]''' ** [[1998年アジア競技大会におけるサッカー競技|1998年]] - {{Flagicon|JPN}} 稲本潤一、宮本恒靖 ** [[2002年アジア競技大会におけるサッカー競技|2002年]] - {{Flagicon|JPN}} [[中山悟志]] ** [[2006年アジア競技大会におけるサッカー競技|2006年]] - {{Flagicon|JPN}} [[家長昭博]] ** [[2010年アジア競技大会におけるサッカー競技|2010年]] - {{Flagicon|JPN}} [[大塚翔平]]、[[菅沼駿哉]] ** [[2014年アジア競技大会におけるサッカー競技|2014年]] - {{Flagicon|JPN}} [[西野貴治]] ** [[2018年アジア競技大会におけるサッカー競技|2018年]] - {{Flagicon|JPN}} [[初瀬亮]]、{{Flagicon|KOR}} [[黄義助|ファン・ウィジョ]] {{Col-end}} {{Col-begin}} {{Col-2}} * '''[[FIFA U-20ワールドカップ|U-20ワールドカップ]]''' ** [[1997 FIFAワールドユース選手権|1997年]] - {{Flagicon|JPN}} 宮本恒靖 ** [[1999 FIFAワールドユース選手権|1999年]] - {{Flagicon|JPN}} 稲本潤一、[[播戸竜二]] ** [[2005 FIFAワールドユース選手権|2005年]] - {{Flagicon|JPN}} 家長昭博 ** [[2007 FIFA U-20ワールドカップ|2007年]] - {{Flagicon|JPN}} 安田理大 ** [[2017 FIFA U-20ワールドカップ|2017年]] - {{Flagicon|JPN}} [[堂安律]]、[[市丸瑞希]]、初瀬亮、[[高木彰人]] ** [[2019 FIFA U-20ワールドカップ|2019年]] - {{Flagicon|JPN}} [[中村敬斗]] {{Col-2}} * '''[[FIFA U-17ワールドカップ|U-17ワールドカップ]]''' ** [[1993 FIFA U-17世界選手権|1993年]] - {{Flagicon|JPN}} 宮本恒靖 ** [[1995 FIFA U-17世界選手権|1995年]] - {{Flagicon|JPN}} [[新井場徹]]、稲本潤一 ** [[2001 FIFA U-17世界選手権|2001年]] - {{Flagicon|JPN}} [[木村敦志]] ** [[2007 FIFA U-17ワールドカップ|2007年]] - {{Flagicon|JPN}} [[田中裕人]]、[[大塚翔平]] ** [[2009 FIFA U-17ワールドカップ|2009年]] - {{Flagicon|JPN}} [[内田達也]]、[[宇佐美貴史]] ** [[2013 FIFA U-17ワールドカップ|2013年]] - {{Flagicon|JPN}} [[林瑞輝]] ** [[2017 FIFA U-17ワールドカップ|2017年]] - {{Flagicon|JPN}} [[谷晃生]]、[[奥野耕平]] ** [[2019 FIFA U-17ワールドカップ|2019年]] - {{Flagicon|JPN}} [[唐山翔自]] {{Col-end}} == 成績 == {{main|ガンバ大阪の年度別成績一覧}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%;" !colspan="11"|国内三大大会成績 |- !colspan="3"|[[J1リーグ]]!!rowspan="2"| !colspan="3"|[[Jリーグカップ]]!!rowspan="2"| !colspan="3"|[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]] |- !順位!!回数!!年度!!成績!!回数!!年度!!成績!!回数!!年度 |- |bgcolor=gold|'''優勝'''||2||align=left|2005, 2014|| rowspan="16" | |bgcolor=gold|'''優勝'''||2||align=left|2007, 2014|| rowspan="16" | |bgcolor=gold|'''優勝'''||4||align=left|2008, 2009, 2014, 2015 |- |bgcolor=silver|'''2位'''||3||align=left|2010, 2015, 2020 |bgcolor=silver|'''準優勝'''||3||align=left|2005, 2015, 2016 |bgcolor=silver|'''準優勝'''||3||align=left|2006, 2012 2020 |- |bgcolor=#deb678|'''3位'''||6||align=left|2002, 2004, 2006, 2007, 2009, 2011 !ベスト4 |7||align=left|1993, 1994, 2002, 2008, 2011, 2017, 2019 !ベスト4 |8||align=left|1994, 1995, 1996, 1997, 2000, 2004, 2007, 2010 |- !4位 |2||align=left|1997, 2016 !ベスト8 |9||align=left|2003, 2004, 2006, 2009, 2010, 2012, 2018, 2021, 2023 !ベスト8 |5|| align="left" |1992, 2001, 2005, 2016, 2021 |- !6位 |1||align=left|2000 !2回戦敗退 |3||align=left|1999, 2000, 2001 !ベスト16 |5|| align="left" |1999, 2002, 2003, 2017, 2022 |- !7位 |3||align=left|1993, 2001, 2019 !予選敗退 |6||align=left|1992, 1996, 1997, 1998, 2020, 2022 !3回戦敗退 |4||align=left|1998, 2011, 2013, 2019 |- !8位 |1||align=left|2008 | colspan="3" rowspan="10" | !2回戦敗退 |3||align=left|1993, 2018, 2023 |- !9位 |1||align=left|2018 | colspan="3" rowspan="9" | |- !10位 |3||align=left|1994, 2003, 2017 |- !11位 |1||align=left|1999 |- !12位 |1||align=left|1996 |- !13位 |1|| align="left"|2021 |- !14位 |1|| align="left" |1995 |- !15位 |2|| align="left" |1998, 2022 |- !16位 |1 |2023 |- !17位 |1||align=left|2012 |- |} === 年度別チーム得点王 === {|class="wikitable" !年度||チーム得点王||得点||備考 |- |[[1993年のJリーグ|1993]]||{{Flagicon|JPN}} [[永島昭浩]]||12得点|| |- |[[1994年のJリーグ|1994]]||{{Flagicon|JPN}} [[山口敏弘]]||16得点|| |- |[[1995年のJリーグ|1995]]||{{Flagicon|NED}} [[ハンス・ヒルハウス|ヒルハウス]]||20得点|| |- |[[1996年のJリーグ|1996]]||{{Flagicon|CRO}} [[ムラデン・ムラデノビッチ|ムラデノビッチ]]||11得点|| |- |[[1997年のJリーグ|1997]]||{{Flagicon|CMR}} [[パトリック・エムボマ|エムボマ]]||'''25得点'''||'''リーグ得点王''' |- |[[1998年のJリーグ|1998]]||{{Flagicon|JPN}} [[小島宏美]]||17得点|| |- |[[1999年のJリーグ|1999]]||{{Flagicon|JPN}} 小島宏美<br />{{Flagicon|BRA}} [[ルイス・エンリケ・ヴィエイラ|ルイジーニョ]]||6得点|| |- |[[2000年のJリーグ|2000]]||{{Flagicon|JPN}} 小島宏美||9得点|| |- |[[2001年のJリーグ|2001]]||{{Flagicon|CRO}} [[ニーノ・ブーレ]]||17得点|| |- |[[2002年のJリーグ|2002]]||{{Flagicon|BRA}} [[ジュリアノ・タデュー・アランダ|マグロン]]||22得点|| |- |[[2003年のJリーグ|2003]]||{{Flagicon|BRA}} マグロン||15得点|| |- |[[2004年のJリーグ|2004]]||{{Flagicon|JPN}} [[大黒将志]]||20得点|| |- |[[2005年のJリーグ|2005]]||{{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]||'''33得点'''||'''J1得点王''' |- |[[2006年のJリーグ|2006]]||{{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]||'''26得点'''||'''J1得点王''' |- |[[2007年のJリーグ|2007]]||{{Flagicon|BRA}} [[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]||20得点|| |- |[[2008年のJリーグ|2008]]||{{Flagicon|BRA}} バレー||10得点|| |- |[[2009年のJリーグ|2009]]||{{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]||11得点|| |- |[[2010年のJリーグ|2010]]||{{Flagicon|JPN}} [[平井将生]]||14得点|| |- |[[2011年のJリーグ|2011]]||{{Flagicon|KOR}} [[李根鎬|イ・グノ]]||15得点|| |- |[[2012年のJリーグ|2012]]||{{Flagicon|BRA}} レアンドロ||14得点|| |- |[[2013年のJリーグ|2013]]||{{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]]||19得点|| |- |[[2014年のJリーグ|2014]]||{{Flagicon|JPN}} 宇佐美貴史||10得点|| |- |[[2015年のJリーグ|2015]]||{{Flagicon|JPN}} 宇佐美貴史||19得点|| |- |[[2016年のJリーグ|2016]]||{{Flagicon|JPN}} [[長沢駿]]<br />{{Flagicon|BRA}} [[アデミウソン]]||9得点|| |- |[[2017年のJリーグ|2017]]||{{Flagicon|JPN}} [[長沢駿]]||10得点|| |- |[[2018年のJリーグ|2018]]||{{Flagicon|KOR}} [[黄義助]]||16得点|| |- |[[2019年のJリーグ|2019]]||{{Flagicon|BRA}} [[アデミウソン・ブラガ・ビスポ・ジュニオール|アデミウソン]]||10得点|| |- |[[2020年のJリーグ|2020]]||{{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]||9得点|| |- |[[2021年のJリーグ|2021]]||{{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]||13得点|| |- |[[2022年のJリーグ|2022]]||{{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]||5得点|| |- |[[2023年のJリーグ|2023]]||{{Flagicon|BRA}} [[ファン・マテウス・アラーノ・ナシメント|ファン・アラーノ]]||7得点|| |} == ダービーマッチ == * [[大阪ダービー]] - [[セレッソ大阪]]との対戦 * [[関西ダービー#阪神ダービー|阪神ダービー]] - [[ヴィッセル神戸]]との対戦 * [[関西ダービー#京阪ダービー|京阪ダービー]] - [[京都サンガF.C.]]との対戦 == タイトル・表彰 == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]:2回''' ** [[2005年のJリーグ|2005]], [[2014年のJリーグ|2014]] * '''[[J2リーグ]]:1回''' ** [[2013年のJリーグ|2013]] * '''[[Jリーグカップ]]:2回''' ** [[2007年のJリーグカップ|2007]], [[2014年のJリーグカップ|2014]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:4回'''<!-- 前身時代のタイトルは除く --> ** [[第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2008]], [[第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2009]], [[第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2014]], [[第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2015]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:2回''' ** 2007, [[2015年のスーパーカップ (日本サッカー)|2015]] === 国際タイトル === * '''[[AFCチャンピオンズリーグ]]:1回''' [[ファイル:AFC Champions League Trophy.png|25px]] ** [[AFCチャンピオンズリーグ2008|2008]] === その他タイトル === * '''[[クイーンズカップ]]''':1回 ** 1992 * '''[[パンパシフィックチャンピオンシップ]]''':1回 ** [[パンパシフィックチャンピオンシップ2008|2008]] === 表彰 === '''[[アジアサッカー連盟]](AFC)''' * '''[[アジア年間最優秀選手賞|AFC年間最優秀選手賞]]''' ** 2009年 - {{Flagicon|JPN}} [[遠藤保仁]] * '''[[アジア年間最優秀ユース選手賞|AFC年間最優秀ユース選手賞]]''' ** 2016年 - {{Flagicon|JPN}} [[堂安律]] * '''AFC年間最優秀監督賞''' ** 2008年 - {{Flagicon|JPN}} [[西野朗]] * '''AFC年間最優秀クラブ賞''' ** 2008年 * '''[[AFCチャンピオンズリーグ#大会最優秀選手|AFCチャンピオンズリーグMVP]]''' ** [[AFCチャンピオンズリーグ2008|2008年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 * '''[[AFCチャンピオンズリーグ#得点王|AFCチャンピオンズリーグ得点王]]''' ** [[AFCチャンピオンズリーグ2006|2006年]] - {{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]] 8得点 ** [[AFCチャンピオンズリーグ2009|2009年]] - {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]] 10得点 [[ファイル:Clemerson de Araújo Soares.jpg|thumb|250px|2005年にJリーグMVP・得点王を獲得した[[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]]] '''[[Jリーグアウォーズ|Jリーグ]]''' * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀選手賞|最優秀選手賞(MVP)]]''' ** [[2005年のJリーグ#表彰|2005年]] - {{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]] ** [[2014年のJリーグ#表彰|2014年]] - {{Flagicon|JPN}} [[遠藤保仁]] * '''[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]''' ** [[1997年のJリーグ#表彰|1997年]] - {{Flagicon|CMR}} [[パトリック・エムボマ|エムボマ]] 25得点 ** 2005年 - {{Flagicon|BRA}} アラウージョ 33得点 ** [[2006年のJリーグ#表彰|2006年]] - {{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]] 26得点 * '''[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]]''' ** [[1997年のJリーグ#ベストイレブン|1997年]] - {{Flagicon|CMR}} エムボマ ** [[2000年のJリーグ#ベストイレブン|2000年]] - {{Flagicon|JPN}} [[稲本潤一]] ** [[2003年のJリーグ#ベストイレブン|2003年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2004年のJリーグ#ベストイレブン|2004年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、{{Flagicon|JPN}} [[大黒将志]] ** [[2005年のJリーグ#ベストイレブン|2005年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、{{Flagicon|BRA}} [[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]、{{Flagicon|BRA}} アラウージョ ** [[2006年のJリーグ#ベストイレブン|2006年]] - {{Flagicon|JPN}} [[山口智 (サッカー選手)|山口智]]、{{Flagicon|JPN}} [[加地亮]]、{{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、{{Flagicon|BRA}} マグノ・アウベス ** [[2007年のJリーグ#ベストイレブン|2007年]] - {{Flagicon|JPN}} 山口智、{{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、{{Flagicon|BRA}} [[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]] ** [[2008年のJリーグ#ベストイレブン|2008年]] - {{Flagicon|JPN}} 山口智、{{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2009年のJリーグ#ベストイレブン|2009年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2010年のJリーグ#ベストイレブン|2010年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2011年のJリーグ#ベストイレブン|2011年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2012年のJリーグ#ベストイレブン|2012年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** [[2014年のJリーグ#ベストイレブン|2014年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、{{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]]、{{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]] ** [[2015年のJリーグ#ベストイレブン|2015年]] - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁、{{Flagicon|JPN}} 宇佐美貴史 ** [[2017年のJリーグ#ベストイレブン|2017年]] - {{Flagicon|JPN}} [[井手口陽介]] ** [[2018年のJリーグ#ベストイレブン|2018年]] - {{Flagicon|KOR}} [[黄義助|ファン・ウィジョ]] * '''[[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|ベストヤングプレーヤー賞]]''' ** [[2010年のJリーグ#表彰|2010年]] - {{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]] ** [[2016年のJリーグ#表彰|2016年]] - {{Flagicon|JPN}} [[井手口陽介]] * '''[[Jリーグアウォーズ#最優秀監督賞|最優秀監督賞]]''' ** 2005年 - {{Flagicon|JPN}} [[西野朗]] ** 2014年 - {{Flagicon|JPN}} [[長谷川健太]] * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞(高円宮杯)|フェアプレー賞(高円宮杯)]]''' ** '''高円宮杯''' *** [[2007年のJリーグ#表彰|2007年]], [[2011年のJリーグ#表彰|2011年]] ** '''J1''' *** [[2008年のJリーグ#表彰|2008年]], [[2015年のJリーグ#表彰|2015年]], [[2017年のJリーグ#表彰|2017年]], [[2018年のJリーグ#表彰|2018年]] ** '''J2''' *** [[2013年のJリーグ#表彰|2013年]] * '''[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー個人賞|フェアプレー個人賞]]''' ** 2005年 - {{Flagicon|JPN}} 大黒将志 * '''[[Jリーグアウォーズ#J2 Most Exciting Player|J2 Most Exciting Player]]''' ** 2013年 - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 * '''[[Jリーグアウォーズ#Join賞|チェアマン特別賞(Join賞)]]''' ** 2008年 ※下部組織による選手育成の功績を讃えて * '''特別賞''' ** 2008年 ※[[AFCチャンピオンズリーグ2008|AFCチャンピオンズリーグ]]優勝を讃えて * '''最優秀育成クラブ賞''' ** 2016年 '''[[Jリーグカップ]]''' * '''[[Jリーグカップ#最優秀選手賞|最優秀選手賞(MVP)]]''' ** [[2007年のJリーグカップ|2007年]] - {{Flagicon|JPN}} [[安田理大]] ** [[2014年のJリーグカップ|2014年]] - {{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]] * '''[[Jリーグカップ#ニューヒーロー賞|ニューヒーロー賞]]''' ** 2007年 - {{Flagicon|JPN}} 安田理大 ** 2014年 - {{Flagicon|JPN}} 宇佐美貴史 ** 2016年 - {{Flagicon|JPN}} [[井手口陽介]] ** 2019年 - {{Flagicon|JPN}} [[中村敬斗]] '''その他受賞''' * '''ミスターガンバ・黄金の脚賞''' <!-- 2004年以前の受賞者は不明。 --> ** 2005年 - {{Flagicon|JPN}} [[橋本英郎]] ** 2006年 - {{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]] ** 2007年 - {{Flagicon|JPN}} [[明神智和]] ** 2008年 - {{Flagicon|JPN}} [[二川孝広]] ** 2009年 - {{Flagicon|JPN}} 明神智和 ** 2010年 - {{Flagicon|JPN}} 橋本英郎 ** 2011年 - {{Flagicon|JPN}} [[武井択也]] ** 2012年 - {{Flagicon|JPN}} [[佐藤晃大]] ** 2013年 - {{Flagicon|JPN}} [[藤春廣輝]] ** 2014年 - {{Flagicon|JPN}} [[東口順昭]] ** 2015年 - {{Flagicon|JPN}} [[丹羽大輝]] ** 2016年 - {{Flagicon|JPN}} [[井手口陽介]] ** 2017年 - {{Flagicon|JPN}} [[倉田秋]] ** 2018年 - {{Flagicon|KOR}} [[黄義助|ファン・ウィジョ]] ** 2019年 - {{Flagicon|JPN}} [[倉田秋]] ** 2020年 - {{Flagicon|JPN}} [[東口順昭]] ** 2021年 - {{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]] ** 2022年 - {{Flagicon|JPN}} [[黒川圭介]] ** 2023年 - {{Flagicon|BRA}} [[ダワン・フラン・ウラーノ・ダ・プリフィカソン・オリヴェイラ|ダワン]] * '''[[日本年間最優秀選手賞]]''' ** 2005年 - {{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]] ** 2008年 - {{Flagicon|JPN}} [[遠藤保仁]] ** 2014年 - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 * '''[[日本プロスポーツ大賞]]''' ** 2005年 殊勲賞 ** 2008年 特別賞 ** 2010年 - {{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]](優秀新人賞) * '''[[報知プロスポーツ大賞]]''' ** 1997年 - {{Flagicon|CMR}} [[パトリック・エムボマ|エムボマ]] ** 2008年 - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 * '''[[テレビ朝日]] ビッグスポーツ大賞「[[やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜|日本サッカー応援宣言!やべっちF.C.]]賞(サッカープロジェクト賞)」''' ** 2008年 - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 * '''関西スポーツ賞''' ** 2005年 特別賞 ** 2008年 特別賞 ** 2009年 特別賞 - {{Flagicon|JPN}} 遠藤保仁 ** 2014年 特別賞 * '''大阪イメージアップ賞(知事賞詞)''' ** 2009年、2014年 * '''関西・こころの特別賞''' ** 2009年、2015年 * '''豊中かがやき大賞''' ** 2014年 == クラブ記録 == '''最多得点試合''' *J1リーグ戦 ** 7-1 【2004年10月2日 2nd第8節 C大阪戦(万博)】 ** 7-1 【2005年7月2日 第13節 東京V戦(万博)】 ** 7-2 【2012年8月25日 第23節 札幌戦(万博)】 *J2リーグ戦 ** 8-2 【2013年7月3日 第22節 岐阜戦(長良川)】 *J3リーグ戦 ** 6-1 【2016年9月18日 第22節 鹿児島戦(吹田S)】 *Jリーグカップ ** 6-3 【2016年9月14日 準々決勝第2戦 広島戦(吹田S)】 *天皇杯 ** 6-1 【2009年10月31日 3回戦 [[福岡大学]]戦(万博)】 ** 6-2 【2010年9月5日 2回戦 [[大阪体育大学]]戦(万博)】 *AFCチャンピオンズリーグ(ACL) ** 15-0 【2006年3月22日 グループリーグ第2節 [[ダナンFC]]戦(万博)】(ACLの最多得点タイ記録) '''最多失点試合''' *J1リーグ戦 ** 1-7 【1996年5月4日 第12節 柏戦(万博)】 *Jリーグカップ ** 1-7 【1994年8月3日 準決勝 V川崎戦(瑞穂)】 '''連勝記録''' *J1リーグ戦 ** 9連勝 【1997年8月9日 2nd第4節 清水戦(日本平) - 1997年9月13日 第12節 横浜F戦(万博)】 ** 9連勝 【2018年9月1日 第25節 川﨑戦(吹田S) - 2018年11月24日 第33節 長崎戦(吹田S)】 *天皇杯 ** 15連勝 【2008年11月16日 4回戦 甲府戦(万博) - 2010年12月25日 準々決勝 浦和戦(万博)】 *AFCチャンピオンズリーグ(ACL) ** 8連勝 【2008年10月8日 決勝T準決勝第2戦 浦和戦(埼玉) - 2009年5月6日 グループリーグ第5節 [[山東魯能泰山足球倶楽部|山東魯能泰山]]戦(山東)】 '''連続無敗記録''' *J1リーグ戦 ** 13試合 【2007年4月22日 第7節 磐田戦(万博) - 2007年8月11日 第19節 新潟戦(万博)】 *ホーム ** 25試合(20勝5分) 【2006年3月29日 第4節 大宮戦 - 2007年8月11日 第19節 新潟戦】(J1史上最多タイ記録) *AFCチャンピオンズリーグ(ACL) ** 19試合 【2006年5月3日 グループリーグ第5節 [[全北現代モータース]]戦(万博) - 2009年5月6日 グループリーグ第5節 山東魯能泰山戦(山東)】 '''連敗記録''' *J1リーグ戦 ** 8連敗 【1995年5月10日 サントリー第15節 浦和戦(大宮) - 1995年7月8日 第22節 V川崎戦(万博)】 '''リーグ戦通算勝利記録''' * 初勝利 【1993年5月16日 サントリー第1節 浦和戦(万博)】 * 通算100勝 【1999年8月16日 2nd第4節 柏戦(万博)】 * 通算150勝 【2002年11月16日 2nd第13節 浦和戦(駒場)】 * 通算200勝 【2006年4月15日 第8節 横浜FM戦(日産)】 * 通算250勝 【2009年4月17日 第6節 山形戦(万博)】 * 通算300勝 【2011年10月2日 第28節 浦和戦(万博)】 * 通算350勝 【2014年9月20日 第24節 C大阪戦(万博)】 * 通算400勝 【2017年5月20日 第12節 鳥栖戦(吹田S)】 == 個人記録 == '''最年少出場''' *公式戦 ** 15歳10カ月29日 - {{Flagicon|JPN}} [[中村仁郎]]【2019年7月21日 J3リーグ第17節 セレッソ大阪U-23戦(ヤンマースタジアム長居)】 *J1リーグ戦 ** 16歳11カ月18日 - {{Flagicon|JPN}} [[堂安律]]【2015年6月3日 1st第10節 鹿島戦(万博)】 '''最年少得点''' *公式戦 ** 16歳9日 - {{Flagicon|JPN}} [[中村仁郎]]【2019年9月1日 J3リーグ第21節 福島ユナイテッドFC戦(パナソニックスタジアム吹田)】 *J1リーグ戦 ** 17歳179日 - {{Flagicon|JPN}} [[稲本潤一]] 【1997年4月20日 第3節 清水戦(万博)】 '''通算最多出場''' *日本人選手 ** 605試合 - {{Flagicon|JPN}} [[遠藤保仁]] (2001年 - 2020年) 【初出場:2001年3月10日 1st第1節 福岡戦】 *外国籍選手 ** 178試合 - {{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]] (2014年 - 2017年 , 2019 - 2022年) 【初出場:2014年7月19日 第15節 甲府戦】 '''通算最多得点''' *日本人選手 ** 98得点 - {{Flagicon|JPN}} [[遠藤保仁]] (2001年 - 2020年) *外国籍選手 ** 52得点 - {{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]] (2014年 - 2017年 , 2019 - 2022年) '''シーズン最多得点''' *日本人選手 ** 20得点 - {{Flagicon|JPN}} [[大黒将志]] (2004年) *外国籍選手 ** 33得点 - {{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]] (2005年) '''連続試合得点''' *公式戦 ** 9試合 *** {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]【2009年4月8日 ACLグループリーグ第3節 vsスリウィジャヤ - 2009年5月10日 J1リーグ第11節 柏戦】 *J1リーグ戦 ** 6試合 *** {{Flagicon|CMR}} [[パトリック・エムボマ|エムボマ]]【1997年8月23日 2nd第7節 C大阪戦 - 1997年9月13日 2nd第12節 横浜F戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]【2005年9月3日 第22節 東京V戦 - 2005年10月15日 第27節 神戸戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[播戸竜二]]【2006年8月27日 第20節 名古屋戦 - 2006年10月1日 第25節 甲府戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]【2009年4月12日 第5節 大宮戦 - 2009年5月10日 第11節<ref group="注" name="dates"/> 柏戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[橋本英郎]]【2010年7月28日 第15節 神戸戦 - 2010年8月22日 第20節 名古屋戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[アドリアーノ・フェヘイラ・マルティンス|アドリアーノ]]【2011年4月29日 第8節 山形戦 - 2011年6月15日 第15節<ref group="注">第9節名古屋戦、第10節鹿島戦はACL出場により、8月17日と7月27日に実施。</ref> 仙台戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]]【2015年3月22日 第3節 甲府戦 - 2015年4月29日 第8節 松本戦】 *** {{Flagicon|KOR}} [[黄義助|ファン・ウィジョ]]【2018年9月15日 第26節 神戸戦 - 2018年11月10日 第32節 湘南戦】 '''ハットトリック''' *J1リーグ戦 ** 4得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[ジュリアノ・タデュー・アランダ|マグロン]]【2002年7月14日 1st第8節 清水戦】 ** 3得点 *** {{Flagicon|JPN}} [[永島昭浩]]【1993年6月5日 サントリー第7節 名古屋戦】(日本人選手初のハットトリック) *** {{Flagicon|JPN}} [[松波正信]]【1993年11月20日 NICOS第14節 市原戦】(18歳364日のJ1最年少記録) *** {{Flagicon|JPN}} [[山口敏弘]]【1994年4月6日 サントリー第7節 平塚戦】 *** {{Flagicon|UKR}} [[オレグ・プロタソフ|プロタソフ]]【1995年6月28日 サントリー第20節 清水戦】 *** {{Flagicon|CMR}} [[パトリック・エムボマ|エムボマ]]【1998年4月18日 1st第7節 柏戦】 *** {{Flagicon|YUG}} [[アント・ドロブニャク|ドロブニャク]]【1998年8月8日 1st第17節 横浜F戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[小島宏美]]【2000年4月22日 1st第8節 福岡戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[大黒将志]]【2004年10月2日 2nd第8節 C大阪戦】【2004年11月6日 2nd第12節 新潟戦】【2005年4月23日 第7節 FC東京戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]【2005年7月2日 第13節 東京V戦】【2005年9月10日 第23節 広島戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]【2006年3月12日 第2節 C大阪戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]【2006年3月12日 第2節 C大阪戦】【2006年11月26日 第33節 京都戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]【2007年9月1日 第24節 名古屋戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[ハファエル・ドス・サントス・デ・オリベイラ|ラフィーニャ]]【2011年8月20日 第22節 川崎戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]【2012年8月25日 第23節 札幌戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]【2014年9月27日 第26節 鳥栖戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]]【2015年6月27日 1st第17節 山形戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]【2021年11月7日 第35節 大分戦】 *J2リーグ戦 ** 4得点 *** {{Flagicon|JPN}} [[宇佐美貴史]]【2013年10月27日 第38節 徳島戦】 ** 3得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]【2013年4月21日 第10節 富山戦】 *J3リーグ戦 ** 3得点 *** {{Flagicon|JPN}} [[塚元大]]【2019年6月23日 第13節 鳥取戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[唐山翔自]]【2019年9月1日 第21節 福島戦】 *Jリーグカップ ** 4得点 *** {{Flagicon|JPN}} [[長沢駿]]【2018年4月4日 グループリーグ第3節 名古屋戦】 ** 3得点 *** {{Flagicon|KOR}} [[黄義助|ファン・ウィジョ]]【2018年6月9日 グループリーグプレーオフ 磐田戦】 *天皇杯 ** 5得点 *** {{Flagicon|JPN}} [[大黒将志]]【2004年12月12日 5回戦 横浜FC戦】 ** 3得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[フラビオ・エンリケ・デ・パイバ・カンポス|フラビオ]]【1994年12月11日 2回戦 [[大塚製薬サッカー部]]戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[礒貝洋光]]【1995年12月11日 2回戦 ブランメル仙台戦】 *** {{Flagicon|BRA}} [[ルーカス・セベリーノ|ルーカス]]【2009年10月31日 3回戦 福岡大学戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[倉田秋]]【2014年7月12日 2回戦 ツエーゲン金沢戦】 *** {{Flagicon|JPN}} [[中村敬斗]]【2019年7月3日 2回戦 カマタマーレ讃岐戦】 *FUJI XEROX SUPER CUP(スーパーカップ) ** 3得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]【2007年2月24日 浦和戦】(スーパーカップ初ハットトリック) *AFCチャンピオンズリーグ(ACL) ** 4得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]【2006年3月22日 グループリーグ第2節 vsダ・ナン(万博)】 ** 3得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]【2006年3月22日 グループリーグ第2節 vsダ・ナン(万博)】 *** {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]【2009年3月17日 グループリーグ第2節 vsFCソウル(ソウル)】 *** {{Flagicon|JPN}} [[平井将生]]【2010年3月23日 グループリーグ第3節 vsシンガポール・アームド・フォーシズ(シンガポール)】 *** {{Flagicon|JPN}} [[川﨑修平]]【2021年7月7日 グループリーグ第5節 タンピネス・ローバース戦】 *パンパシフィックチャンピオンシップ ** 4得点 *** {{Flagicon|BRA}} [[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]【2008年2月23日 決勝 vsヒューストン・ダイナモ(ハワイ)】(大会初ハットトリック) 記念ゴール *[[Jリーグ歴代記念ゴール達成者一覧|J1リーグ記録]] ** 通算100ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[松波正信]]【1993年6月9日 サントリー第11節 広島戦(万博)】 ** 通算10,000ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[前田雅文]]【2005年5月8日 第11節 名古屋戦(万博)】 ** 通算15,500ゴール - {{Flagicon|BRA}} [[ハファエル・ドス・サントス・デ・オリベイラ|ラフィーニャ]]【2011年9月18日 第26節 横浜FM戦(日産)】 *クラブ記録 ** 第1ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[和田昌裕]]【1993年5月16日 サントリー第1節 浦和戦(万博)】 ** 通算100ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[山村博土]]【1994年9月21日 NICOS第12節 広島戦(福島)】 ** 通算200ゴール - {{Flagicon|NED}} [[ハンス・ヒルハウス|ヒルハウス]]【1995年11月22日 NICOS第25節 C大阪戦(万博)】 ** 通算300ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[稲本潤一]]【1997年9月20日 2nd第13節 柏戦(万博)】 ** 通算400ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[小島宏美]]【2000年4月22日 1st第8節 福岡戦(万博)】 ** 通算500ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[吉原宏太]]【2002年4月13日 1st第6節 FC東京戦(万博)】 ** 通算600ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[山口智 (サッカー選手)|山口智]]【2004年4月3日 1st第6節 清水戦(万博)】 ** 通算700ゴール - {{Flagicon|BRA}} [[クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス|アラウージョ]]【2005年7月6日 第14節 広島戦(広島ビ)】 ** 通算800ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[播戸竜二]]【2006年8月30日 第21節 新潟戦(万博)】 ** 通算900ゴール - {{Flagicon|JPN}} 播戸竜二【2008年3月30日 第3節 東京V戦(万博)】 ** 通算1,000ゴール - {{Flagicon|BRA}} [[ペドロ・ビスポ・モレイラ・ジュニオール|ペドロ・ジュニオール]]【2009年11月8日 第31節 京都戦(万博)】 ** 通算1,100ゴール - {{Flagicon|KOR}} [[李根鎬|イ・グノ]]【2011年7月10日 第3節 大宮戦(NACK)】 ** 通算1,200ゴール - {{Flagicon|BRA}} [[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]【2012年9月22日 第26節 浦和戦(埼玉)】 ** 通算1,300ゴール - {{Flagicon|JPN}} [[西野貴治]]【2013年10月20日 J2第37節 富山戦(万博)】 ** 通算1,400ゴール - {{Flagicon|BRA}} [[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]【2015年7月11日 2nd第1節 甲府戦(万博)】 ** 通算1,500ゴール - [[金正也]]【2017年4月1日 第5節 新潟戦(デンカS)】 === その他記録 === * 1試合2選手のハットトリック ** 2006年3月12日のC大阪戦で、[[エルディス・フェルナンド・ダマショ|フェルナンジーニョ]]と[[マグノ・アウベス・ジ・アラウージョ|マグノ・アウベス]]の2選手が共にハットトリックを記録。 *** これは1996年5月15日に[[湘南ベルマーレ|平塚]]の[[ジウベルト・カルロス・ナシメント|ベッチーニョ]]、[[ジュビロ磐田|磐田]]の[[サルヴァトーレ・スキラッチ|スキラッチ]]が初めて記録。同一チームでは2004年8月21日の東京V戦で、浦和の[[永井雄一郎]]と[[山瀬功治]]が記録して以来4例目。 == スタジアム == {{main|市立吹田サッカースタジアム|万博記念競技場}} [[ファイル:ASTRO VISION in Expo '70 Stadium.jpg|thumb|200px|万博記念競技場 ホーム側サポーターとアストロビジョン]] ホームスタジアムは[[市立吹田サッカースタジアム]](パナソニックスタジアム吹田, Panasonic Stadium Suita)。2015年までは[[万博記念競技場]]をホームスタジアムとし、同競技場の南には練習グラウンドが併設されている。(天然芝グラウンド2面) [[1997年]]までは[[京都府]][[京田辺市]]の松下電工(現:[[パナソニック]])敷地内にあった練習グラウンドを使用していた。 G大阪が関西唯一のJリーグクラブであった頃は、[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユニバー記念競技場]]や[[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場|西京極競技場]]でもホームゲームを行ったことがある。また、1995年〜2010年まで[[石川県西部緑地公園陸上競技場]]でホームゲームを行っていた<ref>{{Wayback |url=http://www.gamba-osaka.net/news/news_detail.php?id=2833 |title=2011年シーズン 金沢での公式戦開催について |date=20110209202142 }}</ref>。 2008年6-7月にフードフェスタが導入され、万博記念競技場の最寄り駅「[[公園東口駅]]」からスタジアムに向かう通り道でフードコートが開催されている。2008年8月より名称を「美味G横丁(おいじいよこちょう)」とし、ホームゲームで開催されている。2009年からはメインスタンド裏にも出店している。2016年の市立吹田サッカースタジアム移転によりフードコートもスタジアム内に移動し、名称も「美味G」に変更された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.gamba-osaka.net/news/index/no/3958/ |title=「Panasonic Cup 」スタジアムグルメ-美味G-のご案内|publisher=ガンバ大阪|date=2016-02-13|accessdate=2016-02-14}}</ref>。 クラブハウスとオフィシャルショップ「Blu SPAZIO(ブルスパジオ)」はホームが万博だった2015年までは練習グラウンド横に併設されていた。2016年の市立吹田サッカースタジアム移転により両施設ともスタジアム内に移転し、新たにこれまでに獲得したトロフィーや歴代所属選手のサイン入りスパイクなどが展示されたミュージアム「Blu STORIA(ブルストリア)」がオフィシャルショップ横に併設された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.gamba-osaka.net/news/index/no/3949/ |title=ガンバ大阪ミュージアム「Blu STORIA」情報!|publisher=ガンバ大阪|date=2016-02-11|accessdate=2016-02-14}}</ref>。 === 万博記念競技場からの移転 === {{main|市立吹田サッカースタジアム#建設の経緯}} Jリーグ開幕からホームスタジアムとして使用していた[[万博記念競技場]]が[[国際サッカー連盟]](FIFA)の定める国際規格を満たしておらず老朽化も進んでいたことで、[[2008年]]7月に新スタジアムの建設・移転計画が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.field-of-smile.jp/news/news_detail.php?id=26|title=「新スタジアム」建設にむけて|work=スタジアム建設募金団体公式サイト|date=2008-07-18|accessdate=2013-03-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130605070709/http://www.field-of-smile.jp/news/news_detail.php?id=26|archivedate=2013-06-05}}</ref>。万博記念公園内に新たにスタジアムを建設し、その建設資金を行政からの資金拠出なしに寄附金により充当するというもので、諸問題の調整を経て[[2013年]]12月にスタジアム建設の起工式が行われ、2015年9月に竣工した。[[2016年のJリーグ]]よりホームスタジアムが市立吹田サッカースタジアム/通称パナスタに移転された。 == 入場者数 == === 最多入場者試合 === [[ファイル:Expo '70 Stadium.jpg|thumb|280px|2007年4月7日 川崎フロンターレ戦]] '''J1リーグ戦''' * '''[[市立吹田サッカースタジアム|パナソニックスタジアム吹田]]''' ** 37,334人【2019年8月18日 第23節 磐田戦】 * '''[[万博記念競技場]]''' ** 22,884人【2005年9月24日 第25節 鹿島戦】 (改修前) ** 20,991人【2011年11月3日 第31節 鹿島戦】 (改修後) * '''[[石川県西部緑地公園陸上競技場]]''' ** 19,129人【2005年8月24日 第20節 磐田戦】 * '''[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユニバー記念競技場]]''' ** 41,054人【1993年11月6日 NICOS第10節 V川崎戦】 '''AFCチャンピオンズリーグ''' * '''パナソニックスタジアム吹田''' ** 14,756人【2016年4月6日 MD4 上海上港戦】 * '''万博記念競技場''' ** 20,639人【2008年11月5日 決勝 アデレード・ユナイテッド戦】 '''J2リーグ戦''' * '''万博記念競技場''' ** 18,193人【2013年7月20日 第25節 神戸戦】 '''J3リーグ戦''' * '''パナソニックスタジアム吹田''' ** 8,038人【2016年4月10日 第4節 C大23戦】 * '''[[万博記念競技場]]''' ** 1,711人【2016年4月23日 第6節 大分戦】 参考記録 * '''[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]''' ** 46,880人【2007年1月1日 天皇杯決勝 浦和戦】 * '''[[横浜国際総合競技場]]''' ** 67,618人【2008年12月18日 CWC準決勝 [[マンチェスター・ユナイテッドFC]]戦】 * '''[[埼玉スタジアム2002]]''' ** 62,241人【2006年12月2日 J1第34節 浦和戦】 === 最少入場者試合 === '''J1リーグ戦''' * '''パナソニックスタジアム吹田''' ** 13,731人【2016年4月15日 1st第7節 柏戦】 * '''万博記念競技場''' ** 2,720人【1999年4月28日 1st第9節 京都戦】 * '''石川県西部緑地公園陸上競技場''' ** 7,739人【2001年11月3日 2nd第13節 広島戦】 * '''神戸ユニバー記念競技場''' ** 7,774人【1995年9月27日 NICOS第12節 磐田戦】 '''J2リーグ戦''' * '''万博記念競技場''' ** 6,559人【2013年9月15日 第33節 水戸戦】 '''J3リーグ戦''' * '''パナソニックスタジアム吹田''' ** 1,552人【2016年7月24日 第18節 福島戦】 * '''万博記念競技場''' ** 1,066人【2016年8月7日 第20節 琉球戦】 === 年度別入場者数 === {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:8.5pt;" |- !rowspan="2"|年度!!rowspan="2"|所属!!rowspan="2"|合計<br />入場者数!!rowspan="2"| !!colspan="3"|最多入場者数!!rowspan="2"| !!colspan="3"|最少入場者数!!rowspan="2"| !!rowspan="2"|平均<br />入場者数!!rowspan="2"|試合数!!colspan="3"|ホーム試合会場 |- !入場者数!!相手!!会場!!入場者数!!相手!!会場!!リーグ戦!!リーグカップ!!ACL |- |1993||rowspan="6"|J||388,286||rowspan="26"| ||'''41,054'''||V川崎||rowspan="2"|神戸ユ||rowspan="26"| ||13,069||名古屋||rowspan="2"|西京極||rowspan="26"| ||21,571||18||align="left"|'''[[万博記念競技場|万博]]'''15、[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユ]]2<br/>[[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場|西京極]]1||align="left"|万博2、神戸ユ1||rowspan="13" align="left"|(不参加) |- |1994||'''492,084'''||37,292||浦和||12,568||磐田||22,367||22||align="left"|'''万博'''17、神戸ユ4<br/>西京極1||align="left"|万博2 |- |1995||346,054||19,486||V川崎||万博||7,320||清水||rowspan="21"|万博||13,310||26||align="left"|'''万博'''21、神戸ユ3<br/>西京極1、[[SAGAサンライズパーク陸上競技場|佐賀]]1||align="left"|(未開催) |- |1996||120,058||13,517||名古屋||金沢||5,025||磐田||8,004||15||align="left"|'''万博'''14、[[石川県西部緑地公園陸上競技場|金沢]]1||align="left"|万博7 |- |1997||135,088||16,071||浦和||rowspan="19"|万博||4,716||京都||8,443||16||align="left"|'''万博'''15、金沢1||align="left"|万博3 |- |1998||148,290||18,890||磐田||3,282||柏||8,723||17||align="left"|'''万博'''16、金沢1||align="left" rowspan="4"|万博2 |- |1999||rowspan="14"|J1||119,934||17,807||名古屋||'''2,720'''||京都||7,996||rowspan="6"|15||align="left" rowspan="2"|'''万博'''15 |- |2000||146,917||21,543||rowspan="2"|鹿島||4,182||福岡||9,794 |- |2001||175,849||21,598||6,175||FC東京||11,723||align="left" rowspan="3"|'''万博'''14、金沢1 |- |2002||191,429||22,712||磐田||6,130||広島||12,762||align="left"|万博4 |- |2003||153,324||16,146||鹿島||4,828||rowspan="2"|千葉||10,222||align="left"|万博3 |- |2004||187,752||18,011||磐田||4,429||12,517||align="left"|'''万博'''14、[[岡山県総合グラウンド陸上競技場|岡山]]1||align="left"|万博2、金沢1 |- |2005||271,416||22,884||鹿島||6,646||新潟||15,966||rowspan="8"|17||align="left" rowspan="3"|'''万博'''16、金沢1||align="left"|万博5 |- |2006||276,395||20,916||rowspan="2"|浦和||8,388||rowspan="2"|大分||16,259||align="left"|万博1||align="left"|万博3 |- |2007||296,465||20,982||12,163||17,439||align="left"|万博5||align="left"|(不参加) |- |2008||274,169||20,773||横浜FM||10,039||柏||16,124||align="left"|'''万博'''17||align="left"|万博1、金沢1||align="left"|万博6 |- |2009||301,105||20,394||京都||10,159||山形||17,712||align="left" rowspan="2"|'''万博'''16、金沢1||align="left" rowspan="4"|万博1||align="left"|万博4 |- |2010||283,111||20,973||C大阪||9,093||京都||16,654||align="left"|万博3 |- |2011||278,981||20,991||鹿島||11,364||磐田||16,411||align="left" rowspan="2"|'''万博'''17||align="left"|万博4 |- |2012||251,232||19,393||FC東京||8,218||鳥栖||14,778||align="left"|万博3 |- |2013||J2||257,996||18,193||神戸||6,559||水戸||12,286||21||align="left"|'''万博'''21||align="left"|(不参加)||rowspan="2" align="left"|(不参加) |- |2014||rowspan="5"|J1||250,738||19,569||C大阪||10,898||清水||14,749||rowspan="5"|17||align="left" rowspan="2"|'''万博'''17||align="left"|万博5 |- |2015||271,984||18,842||川崎||10,702||名古屋||15,999||align="left"|万博2||align="left"|万博6 |- |2016||430,806||34,231||横浜FM||rowspan="3"|吹田||13,731||柏||rowspan="3"|吹田||'''25,342'''||align="left" rowspan="3"|'''[[市立吹田サッカースタジアム|吹田S]]'''17 ||align="left" rowspan="2"|吹田S2||align="left"|吹田S3 |- |2017||412,710||36,177||rowspan="2"|C大阪||13,074||大宮||24,277||align="left"|吹田S4 |- |2018||399,242||35,242||11,824||仙台||23,485||align="left"|吹田S5||align="left"|(不参加) |- !colspan="2"|計!!!! !!colspan="3"| !! !!colspan="3"| !! !!!!446!!万博369 / 吹田S51<br/>金沢12 / その他14!!colspan="2"| |} 入場者数の'''太字'''は歴代最多記録 == ユニフォーム == {{ユニフォームの色2 | F正シャツ=青×黒<ref name="jleague" />|F正パンツ=黒<ref name="jleague" />|F正ストッキング=黒or青<ref name="jleague" /> | F副シャツ=白<ref name="jleague" />|F副パンツ=白<ref name="jleague" />|F副ストッキング=白<ref name="jleague" /> | G正シャツ=赤|G正パンツ=赤|G正ストッキング=赤 | G副シャツ=黄|G副パンツ=黄|G副ストッキング=黄 | G第3シャツ=緑|G第3パンツ=緑|G第3ストッキング=緑 |pattern_la1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |pattern_b1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP2 |pattern_ra1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |pattern_sh1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |pattern_so1= _Gamba Osaka 2023 HOME FP |leftarm1=000055|body1=000055|rightarm1=000055|shorts1=000000|socks1=000000 |pattern_la2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_b2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_ra2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_sh2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |pattern_so2= _Gamba Osaka 2023 AWAY FP |leftarm2=FEFEFE|body2=FEFEFE|rightarm2=FEFEFE|shorts2=ffffff|socks2=DCDCDC |pattern_la3=|pattern_b3=_black_nzfc_shoulders|pattern_ra3=|pattern_sh3=|pattern_so3= |leftarm3=EE1D23|body3=EE1D23|rightarm3=EE1D23|shorts3=EE1D23|socks3=EE1D23| |pattern_la4=|pattern_b4=_black_nzfc_shoulders|pattern_ra4=|pattern_sh4=|pattern_so4= |leftarm4=D3DC47|body4=D3DC47|rightarm4=D3DC47|shorts4=D3DC47|socks4=D3DC47| |pattern_la5=|pattern_b5=_silver_nzfc_shoulders|pattern_ra5=|pattern_sh5=|pattern_so5= |leftarm5=3B3A5C|body5=3B3A5C|rightarm5=3B3A5C|shorts5=3B3A5C|socks5=3B3A5C| }} === チームカラー === {{colorbox|#003287}} 青、{{colorbox|black}} 黒 ゲームシャツには[[1997年]]シーズンから青と黒の縦縞模様のデザインを使用している。これには1996年シーズン終了後に当時G大阪でプレーしていた[[礒貝洋光]]が縦縞模様への変更を提案したという経緯があるが、彼自身は1997年から浦和へ移籍したため一度も着ることはなかった<ref name="historybook"/>。 また、クラブエンブレムの変更を機に、青と黒を基軸にホワイトとゴールドを使用し、ブランドの強固なイメージを形成するとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamba-osaka.net/c/brand/index.html |title=ブランド ガンバ大阪 |accessdate=2022-03-22}}</ref>。 === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #000; 4px 4px 4px #000;" |- style="background-color:#003287; color:white; font-weight:bold;" |掲出箇所||スポンサー名||表記||掲出年||備考 |- !胸 |[[パナソニックホールディングス]]||Panasonic||1992年 - || |- !rowspan="2"|鎖骨 |[[パナソニック]]||{{small|Make New}}<br/>―<br/>{{small|Panasonic}}<br/>([[QRコード]])||2022年 - ||左側に表記<br/>2022年は「nanoeX」表記 |- |[[ダイセル]]||DAICEL||2018年 - ||右側に表記 |- !背中上部 |[[ロート製薬]]||ROHTO||2003年2nd - || |- !背中下部 |[[シップヘルスケアホールディングス]]||SHIP<br/>{{smaller|HEALTHCARE}}||2017年 - || |- !袖 |[[TOYO TIRE]]||TOYO<br/>TIRES||2020年 - ||2016年2nd - 2019年はパンツ |- !パンツ前面 |[[吹田市]]||SUITA<br/>{{smaller|CITY}}||2020年11月 - 同年12月<br/>2021年4月 - ||2020年は「吹田市」表記 |- !パンツ背面 |ガンバ大阪||[[持続可能な開発目標|{{smaller|SUSTAINABLE<br />DEVELOPMENT}}<br />GOALS]]||2021年9月 - ||「SDGsmileプロジェクト」の一環として掲出<ref>[https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/12836/ ガンバ大阪がみんなで取り組むSDGs(持続可能な開発目標) 「SDGsmileプロジェクト」キックオフのお知らせ]</ref> |} === エピソード === * ロート製薬は、2004年夏季にロゴを変更したがそのシーズンは旧ロゴのままで試合を行い、2005年シーズンから新ロゴを着用している。 * 2006年シーズンは、2005年のJ1リーグ年間優勝クラブであるため、日本サッカー協会のシンボルである[[八咫烏]]の付いたチャンピオンマークが右袖についていた。 * フィールドプレーヤーの3rdユニフォームは2ndユニフォームが青色であった2006年まで白色のシャツを採用していた。2011年は、マスコットの「[[ガンバボーイ]]」が持つ稲妻をイメージした黄色のゲームシャツを採用した。 * エンブレムの上には、獲得タイトル数に合わせて9つの星が二段に分けて据えられている。上段の中心に据えられている大きな星は2008年の[[AFCチャンピオンズリーグ]]の優勝である。また、2009年以降は国際試合ユニフォームにも星が1つつけられている。 * 2001年 - 2002年の2ndユニフォームのチェンジショーツ及び、2003 - 2008年、2013‐15年の2ndユニフォームのパンツのカラーに白色を採用していた。 * 2011年10月2日、創立20周年記念試合となったJ1第28節[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦では、この試合限定で黒色のゲームシャツを着用した。 * 2012年9月15日、[[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]]の[[スペランツァFC大阪高槻]]との同日開催となったJ1第28節[[アルビレックス新潟|新潟]]戦では、黄色の限定ユニフォームを着用した。 * 2020年10月31日、J1第28節[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦では「♯ホームで勝とう~ガンバとともに~」プロジェクトの一環として、[[墨絵]]アーティストの茂本ヒデキチがデザインしたユニフォームを着用。サッカープレイヤーをモチーフとし、“[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|2019新型コロナウイルス]]に負けない”という思いを込め、墨絵で表現している<ref name="GAMBA 2020 SP kit" >{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000017.000035448.html |title= 10/31(土)明治安田生命J1 第25節 札幌戦 『♯ホームで勝とう~ガンバとともに~』 限定ユニフォームシャツ付き企画を実施|publisher= PR TIMES|date=2020-9-25|accessdate=2023-7-17}}</ref>。なお、限定ユニフォームシャツは、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|2019新型コロナウイルス]]の[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|世界的な感染拡大]]の影響を受けている団体に1万枚配布された<ref name="GAMBA 2020 SP kit" />。 === GAMBA EXPO === 「スポーツのチカラで地域を元気にしたい、地域の心の拠り所でありたい、子ども達に夢を持つきっかけを与えたい」といったガンバ大阪の設立理念を実現すべく<ref name="GAMBA EXPO 2023" >{{Cite web|和書|title=8/19(土)明治安田生命J1 第24節 湘南戦『GAMBA EXPO 2023』開催のお知らせ |url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/15160/ |website=ガンバ大阪オフィシャルサイト |access-date=2023-06-30 |language=ja}}</ref>、2017年より例年8,9月に開催。試合当日は選手が記念ユニフォームを着用し、来場者には記念シャツが配布される。 *2017年8月13日、[[ジュビロ磐田]]戦では、[[太陽の塔]]をかたどった白色のユニフォームを採用した<ref>[https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/5909/ 太陽の塔とのコラボ!『GAMBA EXPO』を8/13(日)明治安田生命J1 第22節磐田戦で開催!]</ref>。 *2018年9月29日、[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]戦では、前年に続き「GAMBA EXPO 2018」として太陽の塔の内部をかたどった黒色/赤色のユニフォームを採用した<ref>[https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/8058/ GAMBA EXPO 2018 記念ユニフォームデザイン&来場者全員配布オリジナルユニフォームシャツデザインについて]</ref>。 *2019年8月18日、ジュビロ磐田戦にて、前年に続き「GAMBA EXPO 2019」を開催。その際に、黒地にカラフルな手型をあしらった[[木梨憲武]]による記念ユニフォームを採用した<ref>[https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/9742/ 『GAMBA EXPO 2019』記念ユニフォームデザイン&来場者全員配布オリジナルユニフォームシャツデザイン発表!]</ref>。 *2021年8月21日のFC東京戦で開催。"世界とのつながり"がテーマということもあり、アメリカ・シアトル在住のアーティストである太田翔伍が記念ユニホーム&ユニホームシャツのデザインを務めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000024.000035448.html |title=8/21(土)明治安田生命J1リーグ 第25節 ガンバ大阪 vs. FC東京において、「世界とのつながり」をテーマに『GAMBA EXPO 2021』を開催|publisher= PR TIMES|date=2021-6-12|accessdate=2023-7-17}}</ref>。 *2022年8月14日の清水エスパルス戦で開催。「BEAUTY&YOUTH UNITED ARROWS / ビューティ&ユース [[ユナイテッドアローズ]]」とのコラボデザインユニフォームを採用。ガンバ大阪史上初めてアパレルブランドとのコラボレーションを実現し、ロゴやエンブレムにゴールドをあしらった<ref>{{Cite web|和書|title=8/14(日)明治安田生命J1 第25節 清水戦『GAMBA EXPO 2022』開催のお知らせ |url=https://www.gamba-osaka.net/gameinfo/news/no/13621/ |website=ガンバ大阪オフィシャルサイト |access-date=2023-06-30 |language=ja}}</ref>。 *2023年8月19日の湘南ベルマーレ戦で開催。「繋ぎ、進める」をテーマに、岩屋民穂によるデザインプロダクション「GraphersRock」がデザインを担当。水の波打つような 「輪が広がっていく様子」をユニフォームに落とし込み 「チームの力」と「サポーターの力」が一体感の創造、未知のチカラを生み出し、 ガンバ大阪が新たなステージへと進化していく姿をグラフィックで表現。フィールドプレーヤーが黒、ゴールキーパーが青を基調としたデザインとなる<ref name="GAMBA EXPO 2023" />。 === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年:[[アディダス]] * 1993年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]]、カップ戦は[[アディダス]] * 1997年 - 1998年:アディダス * 1999年 - 2002年:[[ルコックスポルティフ]] * 2003年<ref name="GAMBA Umbro" >{{Cite web |url=https://www.gamba-osaka.net/c/thankumbro/index.html |title=THANKUmbro |publisher= ガンバ大阪公式サイト|accessdate=2023-7-17}}</ref> - 2022年<ref name="GAMBA Umbro" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/14231/c/0/year/2022/month/10/|title=オフィシャルサプライヤー デサントジャパン株式会社様「アンブロ」との契約満了についてのお知らせ|accessdate=2022-10-24}}</ref>:[[アンブロ]] * 2023年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/14416/c/0/year/2022/month/12/|title=「hummel(ヒュンメル)」(株式会社エスエスケイ)とオフィシャルサプライヤー新規契約のお知らせ|accessdate=2022-12-25}}</ref> - 現在:[[ヒュンメル]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #003287; font-size:smaller; 4px 4px 4px #000;" ! colspan="5" |FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Gamba Osaka 1992 HOME FP|pattern_b= _Gamba Osaka 1992 HOME FP|pattern_ra= _Gamba Osaka 1992 HOME FP|pattern_sh= _Gamba Osaka 1992 HOME FP|pattern_so= _Gamba Osaka 1992 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=000|socks=|title={{Center|1992}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Gamba Osaka 1993 HOME FP|pattern_b= _Gamba Osaka 1993 HOME FP|pattern_ra= _Gamba Osaka 1993 HOME 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2023 AWAY FP |leftarm=FEFEFE|body=FEFEFE|rightarm=FEFEFE|shorts=ffffff|socks=DCDCDC|title={{Center|2023<br/>GAMBA EXPO}}}} |- |||||||||| |} === 歴代ユニフォームスポンサー表記 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #000; font-size:smaller; 4px 4px 4px #000;" |- style="background-color:#003287; color:white; font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー |- style="background-color:#003287; color:white; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面 |- |1992||rowspan="32"|[[パナソニックホールディングス|Panasonic]]||colspan="2" rowspan="26"|解禁前||rowspan="5"|-||rowspan="5"|[[パナソニックホールディングス|Panasonic]]||rowspan="9"|-||rowspan="10"|解禁前||rowspan="28"|解禁前||[[アディダス|adidas]] |- |1993||rowspan="4"|[[ミズノ|Mizuno]] / <br/>[[アディダス|adidas]] |- |1994 |- |1995 |- |1996 |- |1997||rowspan="6"|[[パナソニックホールディングス|Panasonic]]||rowspan="19"|解禁前||rowspan="2"|[[アディダス|adidas]] |- |1998 |- |1999||rowspan="4"|[[ルコックスポルティフ|le coq sportif]] |- |2000 |- |2001||- / <br/>[[ゼンショク|でん]]<br/>(2nd) |- |2002||rowspan="13"|[[ゼンショク|でん]]||rowspan="3"|- |- |2003||[[パナソニックホールディングス|Panasonic]]<br/>(1st) / <br/>[[ロート製薬|ROHTO]]<br/>(2nd)||rowspan="20"|[[アンブロ|UMBRO]] |- |2004||rowspan="20"|[[ロート製薬|ROHTO]] |- |2005||rowspan="2"|- / <br/>[[シャディ]]<br/>(2005年8月 - ) |- |2006 |- |2007||rowspan="3"|[[ミドリ電化|MIDORI]] |- |2008 |- |2009 |- |2010||rowspan="2"|- |- |2011 |- |2012||rowspan="3"|[[大建工業|DAIKEN]] |- |2013 |- |2014 |- |2015||rowspan="4"|[[大建工業|DAIKEN]]||[[学校法人追手門学院|追手門学院]] |- |2016||-||- / <br/>[[TOYO TIRE|TOYO<br />TIRES]]<br/>(2nd) |- |2017||rowspan="7"|[[シップヘルスケアホールディングス|SHIP<br />{{smaller|HEALTHCARE}}]]||rowspan="3"|[[TOYO TIRE|TOYO<br/>TIRES]] |- |2018||-||rowspan="6"|[[ダイセル|DAICEL]] |- |2019||rowspan="2"|[[大建工業|DAIKEN]]||- |- |2020||rowspan="4"|[[TOYO TIRE|TOYO<br />TIRES]]||- /<br/>[[吹田市]]||- |- |2021||-||- /<br/> [[吹田市|SUITA<br />{{smaller|CITY}}]]||- /<br/>[[持続可能な開発目標|{{smaller|SUSTAINABLE<br />DEVELOPMENT}}<br/>GOALS]] |- |2022||[[パナソニック|nanoeX]]||rowspan="2"|[[吹田市|SUITA<br/>{{smaller|CITY}}]]||rowspan="2"|[[持続可能な開発目標|{{smaller|SUSTAINABLE<br />DEVELOPMENT}}<br/>GOALS]] |- |2023||[[パナソニック|{{small|Make New}}<br/>―<br/>{{small|Panasonic}}]]<br/>([[QRコード]])||[[ヒュンメル|hummel]] |} *1992年のナビスコカップ - 1996年は背中スポンサーの松下電器産業(現:パナソニック)(表記:「Matsushita Electric Industrial Co., Ltd.」または「Panasonic / National」)は背番号の下部に書かれてあった<ref group="注">Jリーグでは2016年から背中の広告に関してこれまでの背番号上の上部だけでなく裾部分の下部にも掲出が可能になったが、ガンバ大阪ではそれ以前に下部にスポンサーを掲出していたことになる。2016年以前に下部にロゴを提出していた例として[[FC東京]]と[[柏レイソル]]がある(FC東京は2008年までは、他のチームと同様に上部に掲出していた。2009年以降背中スポンサーの[[東京ガスライフバル|LIFEVAL]](2009年)、[[東京電力|TEPCO]](2010年 - 2011年4月)、[[三菱商事|Mitsubishi Corporation]](2012年 - 2016年)は下部に掲出していたが、2017年よりMitsubishi Corporationが上部に移動した。柏の場合は2014年から上部にスポンサーの[[アメリカンファミリー生命保険会社|Aflac]]、下部に柏が支援している[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン]]のロゴが無償提出されていた。また2016年 - 2018年は下部に無償ロゴのセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに加え有償のスポンサーの [http://www.zeal-holdings.co.jp/ ジールホールディングス] を掲出していた。)。</ref>。1997年以後は背番号の上に背中スポンサーを掲示している。背中下部スポンサーが解禁された2016年はスポンサーを掲出しなかったが2017年からはSHIP HEALTHCAREがスポンサーとして掲出している。 *2006年以降の[[AFCチャンピオンズリーグ]](ACL)の試合は胸広告([[パナソニックホールディングス|Panasonic]])のみ掲示。 == マスコット == * '''ガンバボーイ '''ガンバって勝利を勝ち取る、ガンバの元気なサッカーBOY。チーム名「GAMBA」の由来である「脚」をシンボリックに表現し、闘志溢れるエネルギーをその手でつかみとっている。 * '''モフレム '''ムードメーカーとして色々な接点で熱狂を生み出し、情熱でガンバ大阪とサポーターをつなぐ存在。名前はモフモフしたフォルムと炎(フレイム)を合わせて名付けられた<ref>{{Cite web|和書|title=クラブ概要|ガンバ大阪オフィシャルサイト |url=https://www.gamba-osaka.net/c/club/club.html |website=ガンバ大阪オフィシャルサイト |access-date=2023-06-29 |language=ja}}</ref>。 == ガンバ大阪U-23 == {{サッカークラブ| |font-color = #FFF |background-color = #003287 |border-color = #000 |クラブ名=ガンバ大阪U-23 |原語表記= |愛称= |カラー= |創設=2016 |解散=2020 |リーグ=[[日本プロサッカーリーグ]] |ディビジョン=[[J3リーグ]] |クラブライセンス= |ホームタウン= |スタジアム= |キャパ= |法人名= |監督= |HP= }} '''ガンバ大阪U-23'''(ガンバおおさか・アンダートゥエンティスリー、略称表記:G大23)は、2016年から2020年にかけて[[J3リーグ]](J3)に参加していた、ガンバ大阪に所属する23歳以下の選手で構成されるサッカーチーム(U-23チーム)。 === 概要 (U-23) === 2015年12月15日、Jリーグの理事会において[[2016年のJ3リーグ|2016年シーズン]]よりJ1・J2クラブの「U-23チーム」がJ3に参加することが発表され<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-40975/|title=2016明治安田生命J3リーグへ参加するU-23チームが決定!|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015-12-15|accessdate=2016-01-25}}</ref>、初年度参加チームの一つとして参戦することがクラブから発表された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.gamba-osaka.net/news/index/c/0/no/3759/ |title=2016明治安田生命J3リーグに「ガンバ大阪U-23」チームが参加|publisher=ガンバ大阪|date=2015-12-15|accessdate=2016-01-25}}</ref>。 ガンバ大阪強化本部にはかねてよりセカンドチームを持ち、若手選手が試合経験が積める場を提供していきたいという構想があり<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www2.gamba-osaka.net/supporter/meeting13.html|title=第13回サポーターミーティング|publisher=ガンバ大阪|date=2014-08-31|accessdate=2016-01-25}}</ref>、それまで公式戦への試合出場が難しかったU-23世代を中心としたセカンドチームで「ガンバ大阪U-23」チームを編成。J3リーグを戦うことで、実戦での経験を重ね、各選手のレベルアップを図る。また、U-23世代の選手がレベルアップすることにより、チーム内の競争を促し、チーム全体のレベルアップ・強化に繋げることを目標としている。また、セカンドチームのJ3参戦に際し、2016年から運用する新ホームスタジアム「[[市立吹田サッカースタジアム]](現:パナソニックスタジアム吹田)」の稼働率を上げることもセカンドチームの編成に踏み切った要因として挙げられている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1549082.html|title=G大阪セカンドチームJ3参入検討 若手に英才教育|publisher=日刊スポーツ|date=2015-10-06|accessdate=2016-01-25}}</ref>。 上記の目的を達成するため、トップチームとU-23チームの編成は合同を基本としつつも、練習の質を下げないためにトップチームのトレーニングに参加するU-23メンバーを限定し、そこに出場機会のなかった選手をU-23のメンバーとしてJ3の試合に出場させる方針をとっている<ref>{{Cite press release|和書|url=http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201602070004-spnavi?p=2|title=U−23が参戦するJ3、成功の鍵は?FC東京、G大阪、C大阪それぞれの事情|publisher=スポーツナビ|date=2016-02-07|accessdate=2017-09-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/column/article/418/ |title=「三者三様」U-23チームのJ3参戦はいかに(♯35) |author=川端暁彦 |work=J.LEAGUE.jp|date=2016-04-25 |accessdate=2017-09-12}}</ref>。 日刊スポーツが2019年7月16日付<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/201907160000916.html|title=JがU23リーグ戦終了へ、来季からJ3に新規定|newspaper=日刊スポーツ|date=2019-07-16|archiveurl=https://archive.fo/n1Ecy|archivedate=2019-09-26|accessdate=2019-09-26}}</ref> の記事で、[[2020年のJ3リーグ|2020年]]を最後としてU-23チームの参戦を終了させる方向である見込みであると報じられた。それに伴い、「ガンバ大阪U-23」は2020年シーズンをもってJ3リーグでの参加を終了することになった。 === 略歴 (U-23) === ;2016年 1月7日、トップチームアシスタントコーチ兼U-23チーム初代監督として、クラブOBで前年まで[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]のコーチを務めていた[[實好礼忠]]が就任<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.gamba-osaka.net/news/index/no/3827|title=ガンバ大阪 コーチングスタッフ加入のお知らせ|publisher=ガンバ大阪|date=2016-01-07|accessdate=2016-01-25}}</ref>。当初はトップチームとU-23のメンバーを区別していなかった(登録メンバーは両者で共通としている)が、総勢37人の大所帯となったことから、2月10日以降は時間を分けての練習を開始した。3月11日には2種登録選手の追加登録を行い<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-42219/|title=登録選手追加・変更・抹消のお知らせ(2016/03/11)|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2016-03-11|accessdate=2016-03-15}}</ref>、ユースの11選手がU-23チームのメンバーとしてに出場することが可能となった。また、初年度となった2016年度は年間で9位となったが、U-19日本代表に[[堂安律]]、[[初瀬亮]]、[[市丸瑞希]]が選出されてAFC U-19選手権バーレーン2016での優勝に貢献した。<ref>[http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161128-00010005-sportiva-socc&p=3 久保くんだけじゃない。J3がサッカー界に残した「知られざる功績」] webスポルティーバ(2016年11月28日)</ref> ;2017年 U-23チームがトップチームと分けられ、コーチもトップチームと異なるスタッフが担当することとなった。これについて当時[[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]]監督を務めていた[[内山篤]]は、U-23が単独活動化したことによって、U-23を離れてトップチームに帯同こそするものの十分には試合に出られないという若手選手が出てしまうことを危惧していた<ref>{{Cite journal|和書|title=U-20ワールドカップ2017開幕直前 日本代表リポート|year=2017|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|journal=[[サッカークリニック]]|issue=2017年6月号}}</ref>。實好がG大阪ユース監督に異動し、後任の監督に[[宮本恒靖]]、ヘッドコーチに[[山口智 (サッカー選手)|山口智]]、フィジカルコーチに[[李昌燁|イ・チャンヨブ]]、GKコーチに[[松代直樹]]が就任した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170110-00539955-soccerk-socc 宮本恒靖氏、G大阪U-23の監督就任が決定…山口智氏がヘッドコーチに] サッカーキング(2017年1月10日)</ref>。3月12日、第1節の[[ガイナーレ鳥取]]戦ではGKの[[谷晃生]]が16歳3か月の若さでJリーグデビューを果たした。途中大量失点で敗れるなど第20節から8連敗と苦しんだが、最終節までの6試合は無敗と年間16位でシーズンを終えた。 ;2018年 宮本体制2年目。6月18日に発生した[[大阪北部地震]]により、直後に予定されていた[[ザスパクサツ群馬]]戦の開催会場、万博記念競技場が一部損壊したため、試合会場をパナソニックスタジアム吹田に変更、開催日も8月に延期する措置を取った。夏季J3リーグ戦中断期間前までの17試合で6勝5分6敗の勝点23で暫定10位となる。 中断期間初日の7月23日、トップチーム監督を解任された[[レヴィー・クルピ]]の後任に宮本が指名されたことを受け、實好が約1年半ぶりに監督に復帰した。チーム発足後初めて勝利数が敗戦数を上回り、順位も過去最高の6位でシーズンを終えた。 ;2019年 實好に代わり、クラブOBで過去に[[ジュビロ磐田]]や[[サガン鳥栖]]などで監督を務めた[[森下仁志]]が監督に就任。シーズン序盤は好調を維持するも、中盤にかけてU-23チームで結果を出した選手がトップチームに引き抜かれ、また移籍などの台所事情で低迷が続いた。それでも、2種登録の唐山翔自がJリーグ最年少ハットトリックを記録するなど、唐山を中心とした攻撃力で結果を出していた。最終的には、年間17位でシーズンを終えた。 '''2020年''' 森下体制2年目。U-23チームのJ3リーグ参戦は同年が最後のシーズンとなる。シーズン序盤は6連敗を喫するなど苦しんでいたが、後半戦にかけて少しずつ持ち直し、最終的に14位でラストシーズンを終えた。 === 成績(U-23) === {| class="wikitable" style="text-align: center; border:double #000; box-shadow: 4px 4px 4px #000;" |- style="background-color:#003287; color:white; font-weight:bold;" |年度||所属||順位||試合||勝点||style="width:1.8em;"|勝||style="width:1.8em;"|引||style="width:1.8em;"|負||得点||失点||得失点||style="width:18em;"|監督 |- |[[2016年のJ3リーグ|2016]]|| rowspan="5" |[[J3リーグ|J3]]||9位 (16)||30||38||10||8||12||42||41||+1|| align=left|{{flagicon|JPN}} [[實好礼忠]] |- |[[2017年のJ3リーグ|2017]]||16位 (17)||32||26||7||5||20||31||65||-34|| align=left|{{flagicon|JPN}} [[宮本恒靖]] |- |[[2018年のJ3リーグ|2018]]||6位 (17)||32||47||13||8||11||53||43||+10|| align=left|{{flagicon|JPN}} 宮本恒靖 → {{flagicon|JPN}} 實好礼忠 |- |[[2019年のJ3リーグ|2019]]|| 17位 (18)||34 |35 |9 |8 |17 |54 |54 |0 | rowspan="2" align="left" |{{flagicon|JPN}} [[森下仁志]] |- |[[2020年のJ3リーグ|2020]] |14位(18) |34 |35 |9 |8 |17 |43 |55 |−12 |} === 表彰(U-23)=== ;クラブ * J3フェアプレー賞:2回 **2019年、2020年 ; 個人別 * J3[[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|月間MVP]]:2回 ** [[髙木彰人]](2019年5月) ** [[川﨑修平]](2020年8月) === ホームゲーム開催試合数 === U-23チームはトップチームと同じくパナソニックスタジアム吹田での開催を基本としつつ、一部主催試合をトップチームが2015年まで本拠地としていた[[万博記念競技場]]でも行う。 {| class="wikitable" |- !年度!!パナスタ<br/>(吹田S)!!万博 |- |2016||9||6 |- |2017||13||3 |- |2018||11||5 |- |2019||16||1 |} === ユニフォーム === ユニフォームのデザインはトップチームと同様。サプライヤーもトップと同じUMBRO。 ==== 歴代ユニフォームスポンサー年表 ==== {| class="wikitable" style="text-align: center; border:double #000; box-shadow: 4px 4px 4px #000;" |- style="background-color:#003287; color:white; font-weight:bold;" |年度||胸||鎖骨||背中上部||背中下部||袖||パンツ||サプライヤー |- |2016|| rowspan="5" |[[パナソニック|Panasonic]]||rowspan="2"|解禁前|| rowspan="5" |[[ロート製薬|ROHTO]]|| rowspan="5" |-|| rowspan="5" |-||- / <br/>[[TOYO TIRE|TOYO<br />TIRES]]<!---(第14節 - )--->|| rowspan="5" |[[アンブロ|UMBRO]] |- |2017|| rowspan="4" |- |- |2018||- |- |2019||- / <br/>[[日本経済新聞社|NIKKEI]] |- |2020 | - |} == アカデミー == G大阪のアカデミーは、初代監督 [[釜本邦茂]]が主催していたジュニアユースおよびジュニア年代のクラブチーム「釜本FC」が移行する形でJリーグ開幕前年の[[1992年]]に発足したものであり<ref name="historybook">『ガンバ大阪15年史』ベースボール・マガジン社、2007年 ISBN 978-4583614632</ref><ref>[http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201607260010-spnavi 育成のキーマンが語るそれぞれのスタイルJ2・J3漫遊記 G大阪&C大阪U-23 後編]([[宇都宮徹壱]] スポーツナビ)</ref>、「豊かな人間形成」「世界に通じるクリエイティブな選手の育成」「フェアプレー精神の遵守」の3つをコンセプトとする指導方針のもと、ユース(約30名)、ジュニアユース(3チーム、約300名)、ジュニア(4チーム、約1500名)の3カテゴリーで構成された一貫指導体制を敷いている<ref>[http://www.gamba-osaka.net/youth/index.html アカデミー - ガンバ大阪オフィシャルサイト]</ref>。 [[2008年]]までG大阪の育成・普及部長を務めた初代ユース監督[[上野山信行]]の指導のもと、Jリーグ開幕当初から様々な大会で実績を残している。また、[[宮本恒靖]]、[[稲本潤一]]、[[新井場徹]]、[[大黒将志]]、[[橋本英郎]]、[[二川孝広]]、[[丹羽大輝]]、[[家長昭博]]、[[安田理大]]、[[倉田秋]]、[[宇佐美貴史]]など多くの選手がトップチームの主力に定着している。 === ガンバ大阪ユース === Jリーグ開幕当初から全国のクラブユースチームを代表するチームで、[[1998年]]の[[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|高円宮杯全日本ユースサッカー選手権]] では、[[大黒将志]]、[[二川孝広]]らを擁して、全国レベルの強豪校と互角に渡り合い準優勝の成績を収めた。なお、[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]]の優勝回数(4回)は最多である。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!!colspan="6" |リーグ戦!!rowspan="2"| ||colspan="3"|カップ戦!!rowspan="2" |監督 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース<br />選手権]]!![[高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会|高円宮杯]]!![[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]] |- |1992||||||||||||||||rowspan="19"| ||bgcolor="silver"|準優勝||||||rowspan="5"|[[上野山信行]] |- |1993||||||||||||||||ベスト8||||bgcolor=#deb678|3位 |- |1994||||||||||||||||||ベスト16||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |1995||||||||||||||||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト8||ベスト4 |- |1996||||||||||||||||GL敗退||ベスト8||bgcolor="silver"|準優勝 |- |1997||||||||||||||||ベスト4||ベスト16||ベスト4||rowspan="2"|[[西村昭宏]] |- |1998||||||||||||||||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト4 |- |1999||||||||||||||||GL敗退||||ベスト16||[[竹本一彦]] |- |2000||||||||||||||||ベスト8||||bgcolor="gold"|'''優勝'''||rowspan="3"|[[高橋真一郎]] |- |2001||||||||||||||||ベスト8||||ベスト8 |- |2002||||||||||||||||GL敗退||||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |[[2003年のJFAプリンスリーグU-18|2003]]||rowspan="5"|[[高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関西|プリンスリーグ関西]]||7||19||6||1||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト8||GL敗退||ベスト16||rowspan="5"|[[島田貴裕]] |- |[[2004年のJFAプリンスリーグU-18|2004]]||7||19||6||1||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''||GL敗退||ベスト8||GL敗退 |- |[[2005年のJFAプリンスリーグU-18|2005]]||7||18||6||0||1||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト4||ベスト16||ベスト4 |- |[[2006年のJFAプリンスリーグU-18#関西|2006]]||6||13||4||1||1||bgcolor="silver"|2位||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト4||ベスト16 |- |[[2007年のJFAプリンスリーグU-18#関西|2007]]||6||14||4||2||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト8||ベスト4 |- |[[2008年のJFAプリンスリーグU-18#関西|2008]]||rowspan="2"|プリンスリーグ関西1部||7||16||5||1||1||bgcolor="silver"|2位||ベスト4||ベスト16||bgcolor="gold"|'''優勝'''||[[松波正信]] |- |[[2009年のJFAプリンスリーグU-18#関西|2009]]||7||7||2||1||4||7位||GL敗退||||ベスト4||rowspan="2"|島田貴裕 |- |[[2010年のJFAプリンスリーグU-18#関西|2010]]||プリンスリーグ関西2部||7||21||7||0||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト8||||GL敗退 |- !rowspan="2"|年度!!rowspan="2"|所属!!colspan="6"|リーグ戦!!rowspan="2"| !!colspan="3"|カップ戦!!rowspan="2"|監督 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|クラブユース<br />選手権]]!!colspan="2"|[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2011#関西|2011]]||rowspan="2"|プリンスリーグ関西1部||14||34||11||1||2||bgcolor="silver"|2位||rowspan="8"| ||GL敗退||colspan="2"|ベスト16||rowspan="6"|梅津博徳 |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2012#関西|2012]]||18||48||16||0||2||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト16||colspan="2" bgcolor="silver"|準優勝 |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2013#プレミアリーグ|2013]]|| rowspan="10" |[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ|プレミアリーグWEST]]|| rowspan="7" |18||23||7||2||9||7位||ベスト4||colspan="2"|ベスト8 |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2014#WEST|2014]]||37||12||1||5||bgcolor="silver"|2位||ベスト8||colspan="2" bgcolor="silver"|準優勝 |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2015#WEST|2015]]||39||12||3||3||bgcolor="gold"|'''優勝'''||GL敗退||colspan="2" |ベスト16 |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2016#WEST|2016]]||29||9||2||7||5位||ベスト16||colspan="2" |ベスト8 |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2017#WEST|2017]]||32||9||5||4||3位||ベスト8||colspan="2" bgcolor="silver"|準優勝||[[實好礼忠]] |- |[[高円宮杯U-18サッカーリーグ2018#WEST|2018]]||35||10||5||3||bgcolor="silver"|2位||ベスト16||colspan="2" |ベスト8||實好礼忠→島田貴裕 |- |2019 |34 |10 |4 |4 |3位 | |1回戦敗退 | colspan="2" |準優勝 | |- |2020 | - | - | - | - | - | - | | - | colspan="2" rowspan="2" | - | |- |2021 |14 |24 |7 |2 |5 |3位 | | - | |- |2022 |22 | | | | |11位 | |GL敗退 | colspan="2" |3位(CL内) | |} 2020年、2021年に関して(プレミアリーグ) 新型コロナウイルス感染拡大に伴い未開催(2020年)、未消化試合あり(2021年)。 '''タイトル''' * '''[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|日本クラブユースサッカー選手権]]:4回''' ** 1998年, [[第30回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|2006年]], [[第31回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|2007年]], [[第47回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|2023年]] * '''[[Jリーグユース選手権大会|Jユースカップ]]:4回''' ** 1994年, 2000年, 2002年, [[第16回Jリーグユース選手権大会|2008年]] * '''[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ|高円宮杯プレミアリーグWEST]]:1回''' ** [[高円宮杯U-18サッカーリーグ2015|2015年]] * '''[[サニックス杯国際ユースサッカー大会]]:1回''' ** 2013年 * '''FBS高校・ユース招待:1回''' : 2007年 * '''[[高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関西|プリンスリーグ関西1部]]:5回''' ** 2003年, 2004年, 2005年, [[2007年のJFAプリンスリーグU-18#関西|2007年]], [[高円宮杯U-18サッカーリーグ2012#関西|2012年]] === ガンバ大阪ジュニアユース === 万博グラウンドがある[[吹田市]]にあるチーム。[[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会|高円宮杯]]で2006年、2007年と2連覇、2012年に史上初の全国3冠、2012年の[[マンチェスター・ユナイテッド・プレミアカップ]]で準優勝するなど、様々な大会で実績を残している。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!!colspan="6" |リーグ戦!!rowspan="2"| ||colspan="3"|カップ戦!!rowspan="2" |監督 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|クラブユース<br />選手権]]!![[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会|高円宮杯]]!![[JFAプレミアカップ|JFA<br />プレミアカップ]] |- |1998||||||||||||||||rowspan="21" | ||GL敗退||||||rowspan="4"|[[島田貴裕]] |- |1999||||||||||||||||ベスト4|||| |- |2000||||||||||||||||||ベスト16|| |- |2001||||||||||||||||ベスト8||ベスト8|| |- |2002||||||||||||||||GL敗退||||||rowspan="2"|曽根純也 |- |2003||||||||||||||||ベスト16|||| |- |2004||||||||||||||||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト4||||rowspan="13"|鴨川幸司 |- |2005||||||||||||||||ベスト16||ベスト16|| |- |2006||rowspan="3" |モルテン・大阪府リーグ1部||9||14||4||2||3||5位||ベスト8||bgcolor="gold"|'''優勝'''|| |- |2007||11||23||7||2||2||bgcolor="silver"|2位||ベスト8||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |2008||11||16||5||1||5||7位||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト16||GL敗退 |- |2009||rowspan="7" |[[関西サッカーリーグ (U-15)サンライズリーグ|関西サンライズリーグ]]||9||22||7||1||1||bgcolor="silver"|2位||GL敗退||||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |2010||11||27||9||0||2||bgcolor="gold"|'''優勝'''||||||GL敗退 |- |2011||11||30||10||0||1||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="silver"|準優勝||1回戦敗退||GL敗退 |- |2012||22||63||21||0||1||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |2013||22||61||20||1||1||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト4||||GL敗退 |- |2014||22||43||13||4||5||3位||ベスト32||ベスト16|| |- |2015||22||40||12||4||6||3位||ベスト4|||| |- |2016||rowspan="3" |高円宮杯地域リーグ関西||22||52||16||4||2||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト8||ベスト32|| |- |2017||22||40||12||4||6||bgcolor="silver"|2位||ベスト16||ベスト16||||rowspan="2"|梅津博徳 |- |2018||22||46||14||4||4||bgcolor="gold"|'''優勝'''||1回戦敗退||ベスト32||GL敗退 |} '''タイトル''' * '''[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|日本クラブユースサッカー選手権]]:1回''' ** [[第27回日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|2012年]] * '''[[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会|高円宮杯全日本ユースサッカー選手権]]:4回''' ** [[高円宮杯第18回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会|2006年]], [[高円宮杯第19回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会|2007年]], [[高円宮杯第24回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会|2012年]], 2019年 * '''[[JFAプレミアカップ]]:3回''' ** 2007年, 2009年, 2012年 * '''[[関西サッカーリーグ (U-15)サンライズリーグ|関西サンライズリーグ]]:6回''' ** 2010年, 2011年, 2012年, 2013年, 2016年, 2018年 === ガンバ大阪堺ジュニアユース === {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!!colspan="6" |リーグ戦!!rowspan="2"| ||colspan="3"|カップ戦 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|クラブユース<br />選手権]]!![[高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会|高円宮杯]]!![[JFAプレミアカップ|JFA<br />プレミアカップ]] |- |1998||||||||||||||||rowspan="25" | ||ベスト16||ベスト16||bgcolor="silver"|準優勝 |- |1999||||||||||||||||ベスト8|||| |- |2000|||||||||||||||||||| |- |2001||||||||||||||||GL敗退|||| |- |2002||||||||||||||||GL敗退||ベスト16|| |- |2003||||||||||||||||GL敗退|||| |- |2004||||||||||||||||GL敗退||GL敗退|| |- |2005|||||||||||||||||||| |- |2006||rowspan="2" |モルテン・大阪府リーグ1部||9||13||4||1||4||6位||ベスト16|||| |- |2007||11||18||6||0||5||6位|||||| |- |rowspan="2" |2008||モルテン・大阪府リーグ2部A||11||15||5||0||6||9位||rowspan="2" | ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | |- |モルテン・大阪府リーグ2部B||11||30||10||0||1||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |rowspan="2" |2009||モルテン・大阪府リーグ1部||10||9||2||3||5||8位||rowspan="2" | ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | |- |モルテン・大阪府リーグ2部A||11||27||8||3||0||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |rowspan="2" |2010||rowspan="3" |モルテン・大阪府リーグ1部||9||18||5||3||1||bgcolor="silver"|2位 ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | |- |9||16||5||1||3||4位 |- |rowspan="2" |2011|||9||8||2||2||5||8位||rowspan="2" | ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | |- |フューチャーリーグ大阪1部||12||7||2||1||9||7位 |- |2012||アドバンスリーグ大阪2部A||18||37||12||1||5||3位||||||| |- |2013||アドバンスリーグ大阪2部B||18||46||14||4||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''|||GL敗退|||| |- |2014||rowspan="3" |アドバンスリーグ大阪1部||18||28||9||1||8||4位|||ベスト32|||| |- |2015||18||29||9||2||7||5位|||||| |- |2016||18||17||4||5||9||7位|||||| |- |2017||アドバンスリーグ大阪2部A||19||46||12||5||2||bgcolor="silver"|2位||||||| |- |2018||アドバンスリーグ大阪1部||18||27||7||6||5||4位||||||| |} === ガンバ大阪門真ジュニアユース === 2001年6月に発足。2010年の[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|日本クラブユースサッカー選手権]]では初出場でベスト16。また、2011年に[[関西サッカーリーグ (U-15)サンライズリーグ|関西サンライズリーグ]]へ昇格した。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" ! rowspan="2" |年度!! rowspan="2" |所属!!colspan="6" |リーグ戦!!rowspan="2"| ||colspan="3"|カップ戦 |- !試合!!勝点!!勝!!分!!敗!!順位!![[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会|クラブユース<br />選手権]]!![[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会|高円宮杯]]!![[JFAプレミアカップ|JFA<br />プレミアカップ]] |- |2001||||||||||||||||rowspan="20" | |||||| |- |2002|||||||||||||||||||| |- |2003|||||||||||||||||||| |- |2004|||||||||||||||||||| |- |2005|||||||||||||||||||| |- |2006||rowspan="7" |モルテン・大阪府リーグ1部||9||21||6||3||0||bgcolor="silver"|2位|||||| |- |2007||11||20||6||2||3||4位|||||| |- |rowspan="2" |2008||11||27||8||3||0||bgcolor="gold"|'''優勝'''||rowspan="2" | ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | |- |11||14||4||2||5||7位 |- |rowspan="2" |2009||10||20||6||2||2||bgcolor="silver"|2位||rowspan="2" | ||rowspan="2" | ||rowspan="2" | |- |9||22||7||1||1||bgcolor="gold"|'''優勝''' |- |2010||9||19||6||1||2||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト16|||| |- |2011||rowspan="5"|[[関西サッカーリーグ (U-15)サンライズリーグ|関西サンライズリーグ]]||11||15||4||3||4||7位|||||| |- |2012||22||28||8||4||10||6位||GL敗退||1回戦敗退|| |- |2013||22||37||11||4||7||4位||ベスト32|||| |- |2014||22||34||10||4||8||6位|||||| |- |2015||22||40||13||1||8||5位||||||| |- |2016||rowspan="3" |高円宮杯地域リーグ関西||22||36||11||3||8||6位|||||| |- |2017||22||30||9||3||10||7位||||ベスト16|| |- |2018||22||41||13||2||7||4位||ベスト8||ベスト16|| |} === ガンバ大阪ジュニア === * '''[[全日本少年サッカー大会]] 大阪府大会:1回'''(2016年) === トップチーム昇格者・出身選手 === {{main|ガンバ大阪の選手一覧#下部組織出身者}} トップチーム昇格者の内、飛び級で昇格した選手は[[稲本潤一]]、[[新井場徹]](1997年)、[[家長昭博]](2004年)、[[宇佐美貴史]](2009年)、[[井手口陽介]](2014年)、[[堂安律]](2016年)の6名で、特に宇佐美はジュニアユースとユースをそれぞれ2年間で飛び級している唯一の高校2年生次でのトップチーム昇格者である。 == スポンサー == {{Main2|スポンサーについては、[https://www2.gamba-osaka.net/sponsor/index.html パートナー] を}} かつて[[読売サッカークラブ]]やヴェルディの親会社だった[[読売新聞グループ本社]]もスポンサーの1社であった。 == メディア == * [[テレビ大阪]](TVO) ** 「ガンバレ!GAMBA」 ([[1993年]]-[[1996年]]3月) * [[ジュピターテレコム|J:COM]] ** 「GAMBA EX」 (-[[2009年]]12月) * [[毎日放送]](MBS) ** [[GAMBA TV〜青と黒〜]](2009年9月28日-) ** [[KICK OFF! (テレビ番組)#各番組の詳細|KICK OFF! KANSAI]](2023年4月1日-) *[[朝日放送テレビ]](ABC) ** [[Jフットニスタ]](2015年4月7日-) *[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー]] **「GAMBA FAMILY」 (2013年- ) == サポーターミーティング == 2008年より開催されているクラブ関係者とサポーターとの意見交換会。議事録は公式サイトに掲載されている。 {{Main2|サポーターミーティング議事録は、[https://www2.gamba-osaka.net/supporter/meeting.html 当項目] を}} == 決算 == ガンバ大阪の決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収入|営業収入}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!事業費 !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|管理費|一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |3,418 ||1,684 ||506 ||552 ||676 ||style="background-color:wheat" |3,525 ||2,797 ||N.A. ||728 ||style="background-color:wheat" |-107 ||style="background-color:wheat" |5 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |3,361 ||1,729 ||505 ||485 ||642 ||style="background-color:wheat" |3,118 ||2,390 ||1,623 ||728 ||style="background-color:wheat" |243 ||style="background-color:wheat" |14 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |3,212 ||1,437 ||534 ||488 ||753 ||style="background-color:wheat" |3,304 ||2,635 ||1,927 ||669 ||style="background-color:wheat" |-92 ||style="background-color:wheat" |67 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |4,399 ||1,748 ||598 ||672 ||1,381 ||style="background-color:wheat" |4,137 ||3,233 ||2,304 ||904 ||style="background-color:wheat" |262 ||style="background-color:wheat" |39 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |4,078 ||1,731 ||588 ||371 ||1,388 ||style="background-color:wheat" |3,939 ||2,993 ||2,215 ||946 ||style="background-color:wheat" |139 ||style="background-color:wheat" |39 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |3,346 ||1,734 ||553 ||375 ||684 ||style="background-color:wheat" |3,380 ||2,626 ||1,773 ||754 ||style="background-color:wheat" |-34 ||style="background-color:wheat" |11 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |3,817 ||1,739 ||597 ||223 ||117 ||1,141 ||style="background-color:wheat" |3,745 ||2,010 ||334 ||336 ||80 ||0 ||985 ||style="background-color:wheat" |72 ||style="background-color:wheat" |47 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |3,285 ||1,840 ||529 ||232 ||123 ||561 ||style="background-color:wheat" |3,352 ||1,707 ||321 ||267 ||102 ||0 ||955 ||style="background-color:wheat" |-67 ||style="background-color:wheat" |4 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |2,786 ||1,696 ||465 ||105 ||138 ||382 ||style="background-color:wheat" |2,839 ||1,486 ||233 ||194 ||114 ||0 ||812 ||style="background-color:wheat" |-53 ||style="background-color:wheat" |-63 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |3,863 ||1,843 ||592 ||238 ||138 ||1,052 ||style="background-color:wheat" |3,778 ||1,815 ||298 ||242 ||117 ||0 ||1,306 ||style="background-color:wheat" |85 ||style="background-color:wheat" |40 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |4,282 ||1,907 ||795 ||270 ||137 ||1,173 ||style="background-color:wheat" |4,205 ||1,956 ||357 ||313 ||113 ||0 ||1,466 ||style="background-color:wheat" |77 ||style="background-color:wheat" |37 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] 金額の単位: 百万円 </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!物販 !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!物販 !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |5,146 ||1,817 ||1,390 ||288 ||140 ||588 ||923 ||style="background-color:wheat" |4,882 ||1,900 ||832 ||426 ||121 ||0 ||451 ||1,152 ||style="background-color:wheat" |264 ||style="background-color:wheat" |20 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=3418, 3361, 3212, 4399, 4078, 3346, 3817, 3285, 2786, 3863, 4282, 5146 |y2=3525, 3118, 3304, 4137, 3939, 3380, 3745, 3352, 2839, 3778, 4205, 4882 |y3= , 1623, 1927, 2304, 2215, 1773, 2010, 1707, 1486, 1815, 1956, 1900 |yAxisMin=0 }} === 資産 === {| class="wikitable" |- !年度 !!総資産 !!総負債 !!純資産 !!資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||1,399 ||1,385 ||14 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||1,281 ||1,252 ||28 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||1,216 ||1,121 ||95 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||1,255 ||1,120 ||134 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||1,188 ||1,015 ||173 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||1,037 ||854 ||182 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||1,318 ||1,089 ||229 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||972 ||740 ||232 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||735 ||566 ||169 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||1,479 ||1,214 ||209 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||1,839 ||1,595 ||244 ||10 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||1,844 ||1,581 ||263 ||10 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=1399, 1281, 1216, 1255, 1188, 1037, 1318, 972, 735, 1479, 1839, 1844 |y2=14, 28, 95, 134, 173, 182, 229, 232, 169, 209, 244, 263 |showSymbols=yes }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ガンバ大阪の選手一覧]] * [[ガンバ大阪チアダンスチーム]] * [[大阪ダービー]]/[[関西ダービー]] * [[2005年J1最終節]] * [[仙石幸一]] (ホームゲームスタジアムDJ) * [[池田琴弥]] (ホームゲームスタジアムDJ、元ホームゲームスタジアムレポーター) * [[スペランツァ大阪]] * [[朝日放送テレビ|朝日放送]] ([[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]でのG大阪ホームゲーム中継制作協力担当会社。スカパーで生放送される試合は朝日放送およびスカパー!の協力による[[ワンセグ#エリアワンセグ|エリアワンセグ]]放送「G-SEG ジーセグ powered by スカパー!」を実施している) * [[GAMBINO]] * [[BRIGATE NEROAZZURRE]] * [[Black and Blue Squad]](通称BB) * [[BB sez TOKYO]] == 外部リンク == * [https://www.gamba-osaka.net/ ガンバ大阪オフィシャルサイト] * {{Twitter|GAMBA_OFFICIAL|ガンバ大阪オフィシャル}} * {{Instagram|gambaosaka_official|ガンバ大阪}} * {{Facebook|GambaOsakaOfficial|ガンバ大阪 GAMBA OSAKA}} * {{Youtube|c=UCftKGb8v-BTXBNRUHMeHpBw|GAMBA-FAMILY.NET【ガンバ大阪公式チャンネル】}} * [http://gamba-family.net/ オフィシャル動画サイト GAMBA -FAMILY.NET] * [https://www.mbs.jp/gamba/ 公式応援番組 GAMBA TV〜青と黒〜] * [https://www.flashscore.co.jp/team/g-osaka/zLQAGOBK/ ガンバ大阪 試合結果 - ガンバ大阪 最新結果] {{Navboxes|title = <span style="color:white;">ガンバ大阪 関連テンプレート</span>|titlestyle=background:#003287; color:#FFF; border:2px solid #000 |list1= {{ガンバ大阪のメンバー}} {{ガンバ大阪及びその前身チーム歴代監督}} {{ガンバ大阪歴代主将}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Jリーグオリジナル10}} {{Navboxes|title=獲得タイトル |list1= {{Jリーグ優勝チーム}} {{J2優勝チーム}} {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} {{AFCチャンピオンズリーグ優勝クラブ}} }} {{高円宮杯U-18サッカーリーグ}} {{Jリーグスタジアム}} {{日本プロサッカーリーグのマスコット}} {{Jリーグクラブ・チアリーディングチーム}} {{パナソニック}} {{Normdaten}} 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サンフレッチェ広島F.C
サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェひろしまエフシー、英: Sanfrecce Hiroshima F.C)は、日本の広島県広島市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は「サンフレッチェ広島」(サンフレッチェひろしま)。 1938年(昭和13年)に創設されたマツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブを前身とする。日本のサッカー1部リーグ(日本サッカーリーグ、J1リーグの優勝回数は8度を数え、これは鹿島アントラーズと並び国内最多。(日本の全国サッカーリーグ歴代優勝チーム (1部)) 運営会社「株式会社サンフレッチェ広島」は1992年4月設立、これまで社長はマツダ系か家電量販店・エディオン(旧デオデオ)系の人物が就任していたが、2018年から就任した山本拓也はナイキジャパン出身で、2020年に就任した仙田信吾は中国放送出身(2019年はRCCフロンティア会長) と外部からの招聘が2人続いている。なお2社の有価証券報告書によれば、(株)サンフレッチェ広島は双方ともに「関連会社」にあたる。 クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、広島の戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなむ。 チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ」 とサンチェの彼女(設定時。なお現在はただのお友達)として2000年に誕生した「フレッチェ」。 エンブレムは2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。 ホームスタジアムは広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ、エディオンスタジアム広島)、練習場は安芸高田市サッカー公園 である。詳細はスタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。 なお、育成組織についてはサンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参照のこと。他に、女子チームとしてWEリーグ所属のサンフレッチェ広島レジーナを保有する。 グッズ・チケット等は広島市中区紙屋町シャレオにあるV-POINT、あるいは サンフレッチェ広島オフィシャルオンラインショップ で購入できる。ワンタッチパス対応ICチケットはPASPY一体型と1試合のみ試験的に発売したキーホルダー型の2種類存在する(詳細は下記#関連情報参照)。 1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1982年、今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。 低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた(サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。 すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた。 プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった。 同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた(チーム名やチームカラー決定経緯については#チーム名およびチームカラー節を参照)。 1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力・広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階 に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため、地元企業を中心に出資団体を募った。 また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは東欧や北欧へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこでハルムスタッズBK監督だったスチュワート・バクスターやサッカーチェコスロバキア代表選手達と出会い、スカウトすることになる 1992年、バクスターが監督に就任。イワン・ハシェック、パベル・チェルニー、盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。 クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある。 当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、1994年にサントリーシリーズで初優勝を果たした。 この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏・佐藤康之・柳本啓成・森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保ち裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった。 しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下 していった。その結果、JリーグチャンピオンシップではV川崎に敗戦し、年間優勝には届かなかった。 バクスターは得点力アップのためミカエル・ラウドルップ補強を要請したものの、クラブは高い年俸および移籍金がかかるため難色を示し、結果クラブはバクスターを諦めた。 チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦 でオランダ人のビム・ヤンセンが監督に就任した。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。 ジョン・ファンルーン、ピーター・ハウストラ、サントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視 し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。 前年度優勝したことにより総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った。 その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義・笛真人や森秀昭・久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。 クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した。 1996年ごろのJリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年、バルセロナ五輪で名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが監督就任する。 同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの、森保だけが完全から期限付き移籍に変わった のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった。 そこへ、官民のトップで経営改善の話し合いが行われ、その中で家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。 一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税・沢田謙太郎や伊藤哲也・吉田康弘・山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇・服部公太や高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルド、アウレリオ・ヴィドマー、トニー・ポポヴィッチ、ハイデン・フォックス、スティーブ・コリカら外国人選手も補強した。 トムソン就任当初は主力にケガ人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。オズワルド・アルディレス(当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」 と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。 就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、さらなる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。 4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブは今後地方のクラブが生き残る手段として、アカデミー含めたクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと目指すことを決め、以降攻撃趣向のある監督選びをすることになる。 その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になったロシア人ヴァレリー・ニポムニシ を監督招聘する。当時Jリーグで唯一3トップを採用し、久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。 残留に向けオレグ・パシニンとセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した1994年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。 ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任した。この際、ヴァレリーが新監督に推薦 したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。 2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した。戦術が定まらずチームはバラバラのまま、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村のケガで急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由 に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。 同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格するかたちで監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。 同年12月、責任を取って木村は辞任した。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。 同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治がゼネラルマネージャーに就任した。 小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手も多数放出する。その代わりに、佐藤寿人・茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある小村徳男や戸田和幸・盛田剛平らのベテラン、セザール・サンパイオやリカルド・ベット・ジニーニョ・ウェズレイのブラジル人達を補強し、同時期に台頭した広島ユース から髙萩洋次郎・前田俊介・髙柳一誠などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。 2003年のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)。 J1復帰初年のこの年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう。 前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている。 同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。 より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。3年半に渡る小野体制はこれを以て終焉を迎えた。 後任に、GKコーチの望月一頼がドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリア人ミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。 新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘と柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。 また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。 前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。 これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する。また、入れ替え戦終了直後には「J2降格なら代表選考を優先して退団やむなし」と目されていた佐藤寿が「1年でJ1に帰ろう」とサポーターの前で涙ながらに頭を下げ、その後届いたJ1クラブからのオファーを全て断り残留した。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した が終盤の9連勝で浦和を抜いて逆転優勝を果たした鹿島に0-2で敗れて準優勝。C大阪(1994年、2001年、2003年)を抜いて天皇杯4連敗となった。 クラブはJ2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった。 ウェズレイ、駒野友一は退団したものの、佐藤寿ら他の選手はチームに残留。続投するペトロヴィッチを含め、戦力の大半を維持して開幕を迎える。また、横浜FCを退団していた久保竜彦が6年ぶりに復帰した。 3月のゼロックス・スーパーカップで、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも勢いが留まることはなく、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。 2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・髙萩洋次郎・森脇良太・佐藤昭大・槙野智章・中林洋次など若手の台頭 や、「ミシャ式」と称される独特のサッカースタイルを確立するきっかけとなった。さらに、それまでJリーグ独自で規定されていた移籍金制度が2009年をもって撤廃されたこと がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作・水本裕貴・李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン(中島浩司・山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミハエル・ミキッチやダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。 J1復帰の2009年、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権を獲得し、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった。 2009年のJ1復帰後3年連続でJ1リーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010や天皇杯で早期敗退し、初めて進んだ2010Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝でも逆転しながら終了間際に前田遼一に決められて延長戦の末3-5で敗れて準優勝。Jリーグカップと天皇杯を合わせての決勝戦で5連敗となり、2022年現在清水(2005年の天皇杯、2008Jリーグヤマザキナビスコカップ、2010年の天皇杯、2012Jリーグヤマザキナビスコカップ)を抜いて最長。肝心なところで勝負弱さが露呈した。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場はコンディションが低下、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった。ただ、組織的で攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された。J2に降格しながら監督を代えなかった判断をした広島フロントは賞賛され、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。 2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、更に約2億円の第三者割当増資を行うことになった。 2012年5月、すべての手続が完了した。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている。 減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった。更に2012年末、減資の責任を取る形で社長の本谷祐一が退任し、エディオン顧問の小谷野薫が新社長に就任した。 ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、彼のサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中で森保一の名前が挙がることになった。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった。また、以降数年は経営改善のため積極的な補強を行えないことから、さらには独特なサッカースタイルを用いていることから他チームからの戦力補充が容易にできなくなったこともあり、手薄なところをピンポイント補強あるいは最悪の場合は現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用する方針で進んでいく。 2012年11月24日、第33節のC大阪戦に勝利し、1試合を残して クラブ史上初となるJ1年間総合優勝を決めた。なお、2008年にはJ2で年間優勝しているため、前年の柏に続いてJ1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを持つクラブとなった。また、オリジナル10の中で3大タイトルのいずれもを取っていないチームはなくなったことになる。 FIFAクラブワールドカップ(CWC)は、初戦でオークランド・シティに勝利。準々決勝でアルアハリに敗退したが、5位決定戦で蔚山現代FCに勝利して5位の成績。その一方で天皇杯では、初戦(2回戦)でFC今治(四国リーグ)に1-2で敗れた。 J1リーグ戦ではACLでの不調も響き、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断時点では、首位大宮と勝点差8、ACL圏内となる3位の横浜FMとは勝点差3の5位となる。リーグ戦再開直後から5連勝し、前半戦最後となる第17節終了時には大宮と勝点で並び得失点差で首位に立つが、第21節名古屋戦での引き分けを期に、3連敗を含む5試合勝利なしとなり、一旦3位まで順位を下げる。第26節から3連勝し再び首位に立つも、第29節、横浜FMとの直接対決に敗れ、横浜FMと同節で勝利した浦和に抜かれ再び3位に降格。第33節湘南戦の勝利で2位に再浮上し、優勝するには勝利が絶対条件となる最終節アウェーで、森保就任前まではやられっ放し、かつカシマスタジアムでのJ1シーズンホーム最終戦で1998年から15シーズン負けなし(14勝1分)と「難攻不落」だった鹿島 に2-0で勝ち、前節まで首位にいた横浜FMが川崎に0-1と敗れたため、劇的な逆転で2年連続優勝を飾った。 AFCチャンピオンズリーグでは、怪我人が多く出たのも重なりJリーグ王者としては7シーズンぶりにグループステージ敗退。ホームアンドアウェー制となった2004年以降では日本サッカー史上初(厳密には2006年のACLの東京ヴェルディ1969以来2チーム目)のグループステージ勝利なしという不名誉な記録も付いた。 同年の天皇杯は、2008年以来となる6年ぶりの決勝に進出したが、決勝ではリーグ戦で優勝を争った横浜FM に0-2で敗れ、東洋工業時代を含めて決勝戦8連敗(Jリーグ発足後だけでも5連敗)となり、またしてもジンクスを破る事が出来なかった。 2014年は、リーグ連覇に貢献した西川が浦和に移籍してしまうものの、仙台から林卓人が10年ぶりの復帰となったほか、甲府より柏好文が複数クラブとの争奪戦を制し獲得、徳島より柴崎晃誠を獲得した。Jリーグ王者として挑んだシーズンの開幕を告げるゼロックススーパーカップでは2-0で横浜FMに快勝し、公式戦では森保就任後初めて横浜FMに勝利した。史上2チーム目の3連覇をかけたリーグ戦では29失点だった昨シーズンから37に増加し、リーグ戦3連覇が消えたばかりか、ACL出場圏も獲得出来ず8位に終わった。特に、関東でのアウェーでの試合は1勝も出来ずに終わった。2014年のAFCチャンピオンズリーグでは、アウェーこそ全く勝てなかったものの、前年の準優勝チーム・FCソウルをホームで迎えた第3節で森保就任後ACL初勝利。最終節も勝利し、3回目の挑戦にしてクラブ史上初のグループリーグ突破を果たした。決勝トーナメントでは、当時小野伸二が所属していたウェスタン・シドニーと対戦。第1戦は3-1で快勝したものの、第2戦はゴールデンウィークにかけての11連戦の10戦目だったのに加え、12時間にも及ぶ長距離移動も重なって満足に練習が出来なかった影響からか第1戦のアドバンテージを生かせず0-2で敗戦。エディオンスタジアム広島での1失点が重く圧し掛かり、逆転でベスト16敗退となった。2年連続決勝進出を目指した天皇杯はG大阪に敗れベスト16どまり。ナビスコカップは当時リーグ戦では2012年の開幕戦以来5連敗中と相性の悪い浦和に2戦合計2-2(ホームでの第1戦0-0)で、準決勝は史上4チーム目の2連覇 を狙う柏に2戦合計3-2(ホームでの第1戦は2-0)と準々決勝、準決勝共に前年のファイナリストを相手に主力を代表招集で欠きながら も競り勝ち、2010年以来となる4年ぶりの決勝に進んだ。しかし決勝では、リーグ戦で勝てず(1分1敗)天皇杯でもベスト16敗退に追い込まれたG大阪相手に、ナビスコカップ通算最多得点記録の更新がかかる佐藤の2ゴールで2点を先制するも、その後3点を奪われ逆転負け。監督が森保に代わってもカップ戦の勝負弱さを克服出来ないまま決勝戦7連敗(前身の東洋工業時代を含めると、決勝戦9連敗) となってしまい、3大タイトルでは3年ぶりの無冠に終わってしまった。 2015年2月に小谷野薫が広島市長選挙出馬の為、社長の座を退いた。後任には前強化部長の織田秀和が就いた。髙萩が海外挑戦のため退団し、石原は浦和に移籍、シャドーのレギュラー2選手を同時に失った。その後釜に徳島からドウグラス、2009年オフにもオファーを出していた京都の工藤浩平を獲得。このうち工藤はリーグ戦僅か6分の出場に留まり、6月に松本山雅FCに移籍。ドウグラスとボランチからコンバートさせた柴崎が穴を埋めて余りある活躍を見せることになる。1stステージは浦和に独走を許しながら3位につける。2ndステージに入ると第1節、第2節をそれぞれ4得点、6得点と攻撃陣が爆発し2連勝、続く第3節ではアウェーで浦和に逆転勝利を収め、このシーズン初めて年間勝点首位に浮上。その後は浦和とのマッチレースの様相を呈したが、森保就任からの武器だった持ち前の守備力に攻撃力が加わり、1stステージ同様に大崩れする事なく、最終節で湘南に勝利し2ndステージ優勝と年間勝点1位が確定。年間の勝ち点74は現行の制度下での最高記録。またアウェーで13勝3分1敗の勝ち点42を挙げいずれも現行の制度で新記録 となった。 Jリーグチャンピオンシップは年間勝点1位のため準決勝をシードされ、勝ち上がった年間3位のG大阪と対戦。敵地で行われた第1戦は後半アディショナルタイムに2得点生まれ、3-2で劇的な逆転勝ち。満員のホームで迎えた第2戦は先制されながら浅野の同点ゴールで1-1、2戦合計4-3で年間優勝を勝ち取った。これで森保監督は4年間で3度のリーグ優勝を果たした。佐藤が2ndステージ最終節でJ1通算157ゴール目を記録し中山雅史と並びJ1通算最多得点保持者となったのを筆頭に、ドウグラスは得点ランキング2位の21ゴール(チームのJ1におけるシーズン最多得点記録)、浅野拓磨は先発出場の機会こそ無かったがリーグ戦初を含む8ゴールを決めスーパーサブに定着、ベストヤングプレーヤー賞を受賞した。Jリーグアウォーズでは青山がMVPに輝き、ベストイレブンには青山に塩谷、ドウグラスを加えた3人が選出された。森保も3度目の最優秀監督賞を受賞。また、優秀選手賞を7人が受賞している。青山は1stステージ最終節鳥栖戦のゴールで年間最優秀ゴールも受賞。チームとしても4年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞し優勝に花を添えた。 開催国王者枠として3年ぶりに出場したFIFAクラブワールドカップ2015では、オークランド・シティFC、TPマゼンベを破り、準決勝で南米王者であるリーベル・プレートに善戦したものの0-1で敗退。3位決定戦でアジア王者の広州恒大に逆転勝ちし、2007年の浦和、2008年のG大阪に次ぐ、日本のクラブ史上3チーム目の3位入賞を果たした。その他のカップ戦では、サブメンバー主体で臨んだナビスコカップは予選リーグ敗退。天皇杯ではベスト4まで勝ち進むが、前年も天皇杯のベスト16で敗れたG大阪に準決勝で敗北した。 2016年は新たに森保監督と2017年シーズンまでの2年契約で合意し森保体制5年目。山岸智らが契約満了にて退団、またドウグラスの慰留に失敗し完全移籍・期限付き移籍延長のいずれにも合意することができず、チームトップスコアラーでリーグ優勝とCWC3位の立役者を失う事になった。ドウグラスの代役として清水のピーター・ウタカ(期限付き移籍)や京都の宮吉拓実、山形のキム・ボムヨン(いずれも完全移籍)らを補強し、新卒では四日市中央工業高から森島司、ユースから長沼洋一が入団。 シーズン初戦となったゼロックススーパーカップでは天皇杯優勝のG大阪と3年間で10回目の対戦、佐藤寿人や新加入のウタカの得点でタイトルを手にした。しかし、リーグ戦では佐々木が1stステージ第4節で横山知伸に危険なタックルを受け右膝前十字靭帯を断裂、これを皮切りに怪我人が続出する苦しい台所事情を強いられ、ウタカが得点王争いのトップに立つなどの活躍はあったが1stステージを4位で折り返す。2ndステージではアーセナルへの海外挑戦を決めた浅野らの退団やアンデルソン・ロペス・野上結貴の加入など多少の選手の入れ替わりがあったものの、勝負所第9節からの7試合で5敗(特に12節の浦和戦から3連敗)を喫するなど失速。2ndステージ10位・年間勝ち点6位と前半戦から順位を落とす結果に終わった。Jリーグアウォーズではウタカが19得点で得点王(レアンドロと同点)、塩谷が3年連続でベストイレブン、チームとして5年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞した。 リーグ戦より一足先に開幕したACLは山東魯能、FCソウル、ブリーラム・ユナイテッドと同組となる。過去の参戦シーズン同様若手中心の消極的な選手起用が目立ち、最終戦を残してグループステージ敗退が決定。チームのACL観客動員数が歴代最多動員を記録した最終戦のFCソウルこそ2-1で勝利し意地は見せたが、それ以外の試合は観客動員数が10000人を割り込む等 クラブ・サポーター双方共にACLへの関心の薄さが改めて浮き彫りとなった。また、カップ戦は、ルヴァンカップ、天皇杯ともにベスト8で敗退しシーズンを終えた。 森保体制6年目。前シーズンをもって森崎浩司が引退、佐藤・ウタカらが退団した一方、フェリペ・シウバ、工藤壮人らが完全移籍で加入した。また、ロペスの期限付き移籍期間を延長した。 攻撃陣の不調で開幕から出遅れ降格圏に沈んだチームは7月に森保の退任を発表、前任ペトロヴィッチと並ぶ長期間の森保体制は5年半で終了した。数試合を横内昭展の指揮で戦ったのち新たに監督に就任したクラブOBのヤン・ヨンソンの下、パトリックや丹羽大輝を補強し、ペトロビッチ・森保体制下で継続してきた3-4-2-1のフォーメーションと決別したチームは持ち直し、ホーム最終戦となった第33節FC東京戦で新加入の稲垣祥の勝ち越しゴールで残留を確定させた。最終順位は15位。ヨンソンは次年度に続投することなく、清水で監督に就任してチームを去った。 日本サッカー協会に戻っていた城福浩を新たな監督に迎える。開幕から3連勝、さらに6戦負けなし、しかもその勝利を挙げたチームの中には前年ACLに出場した鹿島、浦和、川崎という上位進出も期待出来るチームも含めて9試合で8勝1分で首位を独走。第10節にFC東京に敗れて初黒星を喫したが、第11節から4連勝となるも、ワールドカップによるリーグ戦中断前最後の第15節に2敗目を喫するも、2位との勝点差は9であった。だが再開後にチーム状態は暗転。第26節以降全く勝てず、首位陥落した第28節から6連敗、最終6試合勝ちなし(うち4試合が完封負け)と深刻な得点力不足に悩まされ、川崎に逆転され2位でシーズン終了。 2月のACLプレーオフを勝利すると、グループステージを久しぶりに突破してベスト16に進出。アウェーゴールの差で鹿島に敗退した。最終的に6位に終わったリーグ戦でも若手が台頭し、特に大迫敬介や森島司、松本泰志は離脱した林、柴崎、青山の穴を埋め、ACLで出色のパフォーマンスを見せた荒木隼人は水本・吉野からレギュラーの座を奪い、前年復帰した川辺駿はリーグ戦全試合に出場した。新戦力ではドウグラス・ヴィエイラがポストプレーを武器に1トップに定着、ハイネルも後半戦は不動の右ウィングバックとして活躍した。一方前年終盤から不振を極めていたパトリックは、この年背番号10を背負うも新戦術に順応できずG大阪に出戻り。少なくなった初優勝メンバーの水本も、夏の移籍で松本に新天地を求めた。また、再びチーム伝統の3-6-1システムに取り組んだこともあり、前年右SBを担った和田拓也が早々に構想外となり横浜FMへ移籍した。水本と入れ替わりで松本から加入したレアンドロ・ペレイラは怪我で実働10試合に満たなかったが、出場した試合では貴重な得点源として得点力不足の解消に一役買った。 総じてチームの若返りに成功したが、チームの最多得点者が柏の8点という状況から見て取れるように特にゴールを奪えるフォワード不足は本年も解消されることは無かった。 城福体制3年目、櫛引一紀を大宮アルディージャから、永井龍を松本山雅FCから獲得するが補強効果は限定的で、加入2年目を迎えたレアンドロ・ペレイラがリーグ3位の15得点を挙げチームを牽引。新型コロナウイルス感染症の影響を受け変則日程・J2降格無しのレギュレーションにて行われたリーグ戦・ルヴァンカップ共に好調な滑り出しを見せるも、終盤にかけて勝ちきれない引き分け続きの試合が増え、結果的にリーグ戦を中位の8位で終えた。過密日程の中で若手の起用が目立ったシーズンでもあり、特別指定選手としてプレーした藤井智也はリーグ戦15試合に出場した。 城福体制4年目。前年末にペレイラとの契約に合意できず(その後G大阪へ)この年も外国人ストライカーの慰留に失敗。新たな得点源として横浜FMでリーグ戦22試合13得点とインパクトを残していたジュニオール・サントスを完全移籍で獲得 した。 過去3シーズンと異なり「この選手たちと違う景色が見たい」という城福の理想とするサッカーを体現するべく、この年はシーズン途中から4バックを取り入れるなどの改革を進めた が、新フォーメーションの1トップを担うドウグラス・ヴィエイラが故障、チームは第8節の4位を最高点に中位に定着。川辺がグラスホッパーへ引き抜かれて以降は攻守に精彩を欠き、この年降格する仙台にシーズン敗北を喫した第33節を以て城福の退任が決定(試合に敗れたもののJ1残留も確定)。残る5試合は沢田謙太郎ヘッドコーチが監督職を引き継いだが状態は上向くことなく、リーグ11位でフィニッシュ。また、天皇杯初戦(2回戦から登場)では本職ではない選手をDFに置くなど極端なターンオーバーを行った挙句、関西サッカーリーグ1部に所属するおこしやす京都ACに1-5で大敗するなど、リーグ戦順位以上に屈辱的な1年を過ごした。 ミヒャエル・スキッベを新監督に、前岡山監督の有馬賢二や前川崎GKコーチの菊池新吉らを新コーチに迎えるなど、スタッフを大きく入れ替えて開幕を迎える。 コロナ禍による日本への入国制限でスキッベの来日が遅れ、迫井深也ヘッドコーチの指揮した序盤こそ苦戦したものの、下部組織出身の満田誠、野津田岳人、川村拓夢、過去にスキッベの下でプレーしたナッシム・ベン・カリファらが台頭。リーグ第28節で2019年以来の5連勝を飾り、暫定ながら首位に立つなど上位争いを演じた。終盤は川崎との直接対決に敗れて以降は1勝2敗2分と失速したものの、リーグ戦ではACLプレーオフ圏内となる3位でフィニッシュした 天皇杯は、ホンダロックSC、横浜FC、ザスパクサツ群馬、C大阪、京都を下し、2013年以来9大会ぶりの決勝進出を果たした。ヴァンフォーレ甲府との決勝戦では延長後半・PK戦で2度のPK失敗を喫し敗戦。これで天皇杯決勝は東洋工業時代を含めて9連敗(Jリーグ発足後だけでも6連敗)となってしまった。 ルヴァンカップは名古屋、清水、徳島と同居するグループBを4勝2敗で首位通過。プレーオフで札幌に勝利し3年ぶりの決勝トーナメント進出。準々決勝で横浜FM、準決勝で福岡を破り、2014年大会以来8年ぶり、2022年シーズンでは通算4回目の対戦となるC大阪が待つ決勝に駒を進めた。優勝を逃した天皇杯決勝の翌週に行われた決勝では広島ユース出身のC大阪加藤陸次樹に先制点を奪われるも、夏の補強で加入したピエロス・ソティリウが途中出場から試合終了間際に2ゴールを挙げ、逆転勝利で悲願のルヴァンカップ初優勝を果たした。 第10節終了時点では2位になったが、怪我人の続出や得点力不足に喘ぎ、勝ちを重ねられず徐々に順位が低下。更に夏の移籍で森島司が退団するが、加藤陸次樹がユース卒業以来の復帰を果たしすぐに先発メンバーに定着、マルコス・ジュニオールも稼働は短時間ながら卓越した攻撃力を発揮して穴を埋める。怪我人の復帰した後半戦は持ち直し、2年連続で3位の成績を収めた。なお、J1・33節のG大阪戦がエディオンスタジアム広島での最終公式戦となり、3-0の勝利で華を添えた。同年限りで林卓人が引退(前述G大阪戦に途中出場)、2002年よりスカウト・2015年より強化部長を務めた足立修が公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りにより退任した。 決定に直接携わった今西和男およびフロントスタッフは次のように語っている。 また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。 チームカラー選定時の事業担当者だった木之本興三は、著書『日本サッカーに捧げた両足』の中で、 1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。 設立当時はユニフォームなどで赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしている京都サンガF.C.(京紫)との差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。 2011年からはユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更されたこともあって、アウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社の鳥居をイメージする色として採用されたという。なお白色ユニホームはサードユニホームとして引き続き採用される。 1994年6月11日、磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。選手は喜びのあまり授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)を、頭に被ったり振り回したりしてはしゃいでいた。 ところがこの際、チェアマン杯をサポーターに見せようと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞紙面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割った旧チェアマン杯のかけらは広島の選手スタッフおよびサポーター総出でかき集め、一旦溶かされてペンダントとなった。 1995年4月1日、熊本市水前寺競技場で横浜フリューゲルス戦が行われた。当時九州にはJリーグチームがなく、この試合は熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日に万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分の準備をし熊本にはそれら2試合分のアウェー用道具を持参していた。そのため持参したのはアウェー用として使っていた2ndユニフォームの白だったが、対戦相手の横浜Fの1stユニフォームは白。2つのアウェー用道具を一緒に事前準備していたためスタッフは間違いを犯した。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ ものの間に合わなかった。 広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、熊本県サッカー協会からスプレーを借りたが時間が足りなかった。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。パンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。 この試合はNHKBSにより生放送され、延長前半12分にイワン・ハシェックのVゴールで広島が勝利しJ通算50勝を達成した。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り、Jリーグから制裁金が課せられた。 レプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした。 2008年3月1日、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。 2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。 チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、安芸高田市サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。 2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。 発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。 大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。 2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。 広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。 それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。 1995年から2002年(後、2008年に復帰)までサンフレッチェのエースストライカーであった久保竜彦のチャントは『君の瞳に恋してる』であった。J2降格と共にチームを去った久保の後継者として生え抜きの茂木弘人や前田俊介が期待されていたが、2005年に小野監督と織田強化部長(いずれも役職は当時のもの)自らが獲得に動いた佐藤寿人が加入。茂木らに期待していたサポーターは佐藤の獲得を疑問視した。しかし佐藤は移籍1年目から2桁得点を挙げ、同年11月27日の第33節ヴィッセル神戸戦でこの年2度目のハットトリックを達成するとサポーターは自然発生的に佐藤を久保のチャントで祝福した。 中野和也がこの日を「佐藤のエース載冠式」と形容したように、以後サポーターの間で『君の瞳に恋してる』はエースストライカーに贈られる特別なチャントと目されている。 ホームであるエディオンスタジアム広島において試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。 自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史や岡山一成に憧れた柏木陽介と槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。森脇移籍後は、千葉を中心に塩谷や野津田、増田卓也等が行っている。 試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。 2010年に槙野智章と森脇良太(時折GKの西川周作も参加する)を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。槙野は2010年に、森脇は2013年、西川は2014年に広島を退団したが、現在でも佐藤や林を中心にパフォーマンスは続いている。 以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、個人情報保護法が施行した2005年以降公開されていない。 中国新聞HP の過去の成績で1996年以降のスポンサーを確認できる。 1997年以降、エディオングループがユニフォームスポンサーとして定着している。 また、2011年 - 2012年にFC岐阜のユニフォームスポンサー(背中上部)だったエイデンもエディオングループの店舗ブランドであるが、岐阜の場合はエディオン本体ではなく社内カンパニーであるエディオン EASTカンパニーがスポンサーであったが、本社のブランド統合に伴いJリーグ規定に接触することからユニフォームについては広島のみに集約される形となり、2013年以降はユニフォームスポンサーからは外れている。 現在、Jリーグ主催公式戦はすべて広島広域公園陸上競技場(エディオンスタジアム広島、「Eスタ」、旧称:広島ビッグアーチ(広島ビ))で行われている。 広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容 できず、Jリーグがクラブライセンス発給・申請の際に定める座席の収容人員の基準(J1:15000人、J2:1万人)を満たしていないために使用不可となった。但し、2011年8月13日の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。 かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや広域第一などで行われ、吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。 現在、主に使用されるのは下記の3つ。 また、過去には下記の場所で練習していたこともある。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。 サンフレッチェ広島の決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016、 2017、 2018、 2019、 2020、 2021 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014 2015、 2016、 2017、 2018、 2019、 2020、 2021 金額の単位: 百万円
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェひろしまエフシー、英: Sanfrecce Hiroshima F.C)は、日本の広島県広島市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は「サンフレッチェ広島」(サンフレッチェひろしま)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1938年(昭和13年)に創設されたマツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブを前身とする。日本のサッカー1部リーグ(日本サッカーリーグ、J1リーグの優勝回数は8度を数え、これは鹿島アントラーズと並び国内最多。(日本の全国サッカーリーグ歴代優勝チーム (1部))", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "運営会社「株式会社サンフレッチェ広島」は1992年4月設立、これまで社長はマツダ系か家電量販店・エディオン(旧デオデオ)系の人物が就任していたが、2018年から就任した山本拓也はナイキジャパン出身で、2020年に就任した仙田信吾は中国放送出身(2019年はRCCフロンティア会長) と外部からの招聘が2人続いている。なお2社の有価証券報告書によれば、(株)サンフレッチェ広島は双方ともに「関連会社」にあたる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、広島の戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなむ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ」 とサンチェの彼女(設定時。なお現在はただのお友達)として2000年に誕生した「フレッチェ」。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "エンブレムは2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ホームスタジアムは広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ、エディオンスタジアム広島)、練習場は安芸高田市サッカー公園 である。詳細はスタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、育成組織についてはサンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参照のこと。他に、女子チームとしてWEリーグ所属のサンフレッチェ広島レジーナを保有する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "グッズ・チケット等は広島市中区紙屋町シャレオにあるV-POINT、あるいは サンフレッチェ広島オフィシャルオンラインショップ で購入できる。ワンタッチパス対応ICチケットはPASPY一体型と1試合のみ試験的に発売したキーホルダー型の2種類存在する(詳細は下記#関連情報参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1982年、今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた(サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた(チーム名やチームカラー決定経緯については#チーム名およびチームカラー節を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力・広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階 に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため、地元企業を中心に出資団体を募った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは東欧や北欧へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこでハルムスタッズBK監督だったスチュワート・バクスターやサッカーチェコスロバキア代表選手達と出会い、スカウトすることになる", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1992年、バクスターが監督に就任。イワン・ハシェック、パベル・チェルニー、盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、1994年にサントリーシリーズで初優勝を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏・佐藤康之・柳本啓成・森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保ち裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下 していった。その結果、JリーグチャンピオンシップではV川崎に敗戦し、年間優勝には届かなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バクスターは得点力アップのためミカエル・ラウドルップ補強を要請したものの、クラブは高い年俸および移籍金がかかるため難色を示し、結果クラブはバクスターを諦めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦 でオランダ人のビム・ヤンセンが監督に就任した。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ジョン・ファンルーン、ピーター・ハウストラ、サントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視 し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "前年度優勝したことにより総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義・笛真人や森秀昭・久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1996年ごろのJリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年、バルセロナ五輪で名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが監督就任する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの、森保だけが完全から期限付き移籍に変わった のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "そこへ、官民のトップで経営改善の話し合いが行われ、その中で家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税・沢田謙太郎や伊藤哲也・吉田康弘・山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇・服部公太や高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルド、アウレリオ・ヴィドマー、トニー・ポポヴィッチ、ハイデン・フォックス、スティーブ・コリカら外国人選手も補強した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "トムソン就任当初は主力にケガ人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。オズワルド・アルディレス(当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」 と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、さらなる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブは今後地方のクラブが生き残る手段として、アカデミー含めたクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと目指すことを決め、以降攻撃趣向のある監督選びをすることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になったロシア人ヴァレリー・ニポムニシ を監督招聘する。当時Jリーグで唯一3トップを採用し、久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "残留に向けオレグ・パシニンとセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した1994年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任した。この際、ヴァレリーが新監督に推薦 したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した。戦術が定まらずチームはバラバラのまま、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村のケガで急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由 に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格するかたちで監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同年12月、責任を取って木村は辞任した。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治がゼネラルマネージャーに就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手も多数放出する。その代わりに、佐藤寿人・茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある小村徳男や戸田和幸・盛田剛平らのベテラン、セザール・サンパイオやリカルド・ベット・ジニーニョ・ウェズレイのブラジル人達を補強し、同時期に台頭した広島ユース から髙萩洋次郎・前田俊介・髙柳一誠などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2003年のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "J1復帰初年のこの年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。3年半に渡る小野体制はこれを以て終焉を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "後任に、GKコーチの望月一頼がドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリア人ミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘と柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する。また、入れ替え戦終了直後には「J2降格なら代表選考を優先して退団やむなし」と目されていた佐藤寿が「1年でJ1に帰ろう」とサポーターの前で涙ながらに頭を下げ、その後届いたJ1クラブからのオファーを全て断り残留した。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した が終盤の9連勝で浦和を抜いて逆転優勝を果たした鹿島に0-2で敗れて準優勝。C大阪(1994年、2001年、2003年)を抜いて天皇杯4連敗となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "クラブはJ2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ウェズレイ、駒野友一は退団したものの、佐藤寿ら他の選手はチームに残留。続投するペトロヴィッチを含め、戦力の大半を維持して開幕を迎える。また、横浜FCを退団していた久保竜彦が6年ぶりに復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "3月のゼロックス・スーパーカップで、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも勢いが留まることはなく、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・髙萩洋次郎・森脇良太・佐藤昭大・槙野智章・中林洋次など若手の台頭 や、「ミシャ式」と称される独特のサッカースタイルを確立するきっかけとなった。さらに、それまでJリーグ独自で規定されていた移籍金制度が2009年をもって撤廃されたこと がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作・水本裕貴・李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン(中島浩司・山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミハエル・ミキッチやダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "J1復帰の2009年、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権を獲得し、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2009年のJ1復帰後3年連続でJ1リーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010や天皇杯で早期敗退し、初めて進んだ2010Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝でも逆転しながら終了間際に前田遼一に決められて延長戦の末3-5で敗れて準優勝。Jリーグカップと天皇杯を合わせての決勝戦で5連敗となり、2022年現在清水(2005年の天皇杯、2008Jリーグヤマザキナビスコカップ、2010年の天皇杯、2012Jリーグヤマザキナビスコカップ)を抜いて最長。肝心なところで勝負弱さが露呈した。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場はコンディションが低下、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった。ただ、組織的で攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された。J2に降格しながら監督を代えなかった判断をした広島フロントは賞賛され、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、更に約2億円の第三者割当増資を行うことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2012年5月、すべての手続が完了した。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった。更に2012年末、減資の責任を取る形で社長の本谷祐一が退任し、エディオン顧問の小谷野薫が新社長に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、彼のサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中で森保一の名前が挙がることになった。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった。また、以降数年は経営改善のため積極的な補強を行えないことから、さらには独特なサッカースタイルを用いていることから他チームからの戦力補充が容易にできなくなったこともあり、手薄なところをピンポイント補強あるいは最悪の場合は現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用する方針で進んでいく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2012年11月24日、第33節のC大阪戦に勝利し、1試合を残して クラブ史上初となるJ1年間総合優勝を決めた。なお、2008年にはJ2で年間優勝しているため、前年の柏に続いてJ1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを持つクラブとなった。また、オリジナル10の中で3大タイトルのいずれもを取っていないチームはなくなったことになる。 FIFAクラブワールドカップ(CWC)は、初戦でオークランド・シティに勝利。準々決勝でアルアハリに敗退したが、5位決定戦で蔚山現代FCに勝利して5位の成績。その一方で天皇杯では、初戦(2回戦)でFC今治(四国リーグ)に1-2で敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "J1リーグ戦ではACLでの不調も響き、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断時点では、首位大宮と勝点差8、ACL圏内となる3位の横浜FMとは勝点差3の5位となる。リーグ戦再開直後から5連勝し、前半戦最後となる第17節終了時には大宮と勝点で並び得失点差で首位に立つが、第21節名古屋戦での引き分けを期に、3連敗を含む5試合勝利なしとなり、一旦3位まで順位を下げる。第26節から3連勝し再び首位に立つも、第29節、横浜FMとの直接対決に敗れ、横浜FMと同節で勝利した浦和に抜かれ再び3位に降格。第33節湘南戦の勝利で2位に再浮上し、優勝するには勝利が絶対条件となる最終節アウェーで、森保就任前まではやられっ放し、かつカシマスタジアムでのJ1シーズンホーム最終戦で1998年から15シーズン負けなし(14勝1分)と「難攻不落」だった鹿島 に2-0で勝ち、前節まで首位にいた横浜FMが川崎に0-1と敗れたため、劇的な逆転で2年連続優勝を飾った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグでは、怪我人が多く出たのも重なりJリーグ王者としては7シーズンぶりにグループステージ敗退。ホームアンドアウェー制となった2004年以降では日本サッカー史上初(厳密には2006年のACLの東京ヴェルディ1969以来2チーム目)のグループステージ勝利なしという不名誉な記録も付いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "同年の天皇杯は、2008年以来となる6年ぶりの決勝に進出したが、決勝ではリーグ戦で優勝を争った横浜FM に0-2で敗れ、東洋工業時代を含めて決勝戦8連敗(Jリーグ発足後だけでも5連敗)となり、またしてもジンクスを破る事が出来なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2014年は、リーグ連覇に貢献した西川が浦和に移籍してしまうものの、仙台から林卓人が10年ぶりの復帰となったほか、甲府より柏好文が複数クラブとの争奪戦を制し獲得、徳島より柴崎晃誠を獲得した。Jリーグ王者として挑んだシーズンの開幕を告げるゼロックススーパーカップでは2-0で横浜FMに快勝し、公式戦では森保就任後初めて横浜FMに勝利した。史上2チーム目の3連覇をかけたリーグ戦では29失点だった昨シーズンから37に増加し、リーグ戦3連覇が消えたばかりか、ACL出場圏も獲得出来ず8位に終わった。特に、関東でのアウェーでの試合は1勝も出来ずに終わった。2014年のAFCチャンピオンズリーグでは、アウェーこそ全く勝てなかったものの、前年の準優勝チーム・FCソウルをホームで迎えた第3節で森保就任後ACL初勝利。最終節も勝利し、3回目の挑戦にしてクラブ史上初のグループリーグ突破を果たした。決勝トーナメントでは、当時小野伸二が所属していたウェスタン・シドニーと対戦。第1戦は3-1で快勝したものの、第2戦はゴールデンウィークにかけての11連戦の10戦目だったのに加え、12時間にも及ぶ長距離移動も重なって満足に練習が出来なかった影響からか第1戦のアドバンテージを生かせず0-2で敗戦。エディオンスタジアム広島での1失点が重く圧し掛かり、逆転でベスト16敗退となった。2年連続決勝進出を目指した天皇杯はG大阪に敗れベスト16どまり。ナビスコカップは当時リーグ戦では2012年の開幕戦以来5連敗中と相性の悪い浦和に2戦合計2-2(ホームでの第1戦0-0)で、準決勝は史上4チーム目の2連覇 を狙う柏に2戦合計3-2(ホームでの第1戦は2-0)と準々決勝、準決勝共に前年のファイナリストを相手に主力を代表招集で欠きながら も競り勝ち、2010年以来となる4年ぶりの決勝に進んだ。しかし決勝では、リーグ戦で勝てず(1分1敗)天皇杯でもベスト16敗退に追い込まれたG大阪相手に、ナビスコカップ通算最多得点記録の更新がかかる佐藤の2ゴールで2点を先制するも、その後3点を奪われ逆転負け。監督が森保に代わってもカップ戦の勝負弱さを克服出来ないまま決勝戦7連敗(前身の東洋工業時代を含めると、決勝戦9連敗) となってしまい、3大タイトルでは3年ぶりの無冠に終わってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2015年2月に小谷野薫が広島市長選挙出馬の為、社長の座を退いた。後任には前強化部長の織田秀和が就いた。髙萩が海外挑戦のため退団し、石原は浦和に移籍、シャドーのレギュラー2選手を同時に失った。その後釜に徳島からドウグラス、2009年オフにもオファーを出していた京都の工藤浩平を獲得。このうち工藤はリーグ戦僅か6分の出場に留まり、6月に松本山雅FCに移籍。ドウグラスとボランチからコンバートさせた柴崎が穴を埋めて余りある活躍を見せることになる。1stステージは浦和に独走を許しながら3位につける。2ndステージに入ると第1節、第2節をそれぞれ4得点、6得点と攻撃陣が爆発し2連勝、続く第3節ではアウェーで浦和に逆転勝利を収め、このシーズン初めて年間勝点首位に浮上。その後は浦和とのマッチレースの様相を呈したが、森保就任からの武器だった持ち前の守備力に攻撃力が加わり、1stステージ同様に大崩れする事なく、最終節で湘南に勝利し2ndステージ優勝と年間勝点1位が確定。年間の勝ち点74は現行の制度下での最高記録。またアウェーで13勝3分1敗の勝ち点42を挙げいずれも現行の制度で新記録 となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "Jリーグチャンピオンシップは年間勝点1位のため準決勝をシードされ、勝ち上がった年間3位のG大阪と対戦。敵地で行われた第1戦は後半アディショナルタイムに2得点生まれ、3-2で劇的な逆転勝ち。満員のホームで迎えた第2戦は先制されながら浅野の同点ゴールで1-1、2戦合計4-3で年間優勝を勝ち取った。これで森保監督は4年間で3度のリーグ優勝を果たした。佐藤が2ndステージ最終節でJ1通算157ゴール目を記録し中山雅史と並びJ1通算最多得点保持者となったのを筆頭に、ドウグラスは得点ランキング2位の21ゴール(チームのJ1におけるシーズン最多得点記録)、浅野拓磨は先発出場の機会こそ無かったがリーグ戦初を含む8ゴールを決めスーパーサブに定着、ベストヤングプレーヤー賞を受賞した。Jリーグアウォーズでは青山がMVPに輝き、ベストイレブンには青山に塩谷、ドウグラスを加えた3人が選出された。森保も3度目の最優秀監督賞を受賞。また、優秀選手賞を7人が受賞している。青山は1stステージ最終節鳥栖戦のゴールで年間最優秀ゴールも受賞。チームとしても4年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞し優勝に花を添えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "開催国王者枠として3年ぶりに出場したFIFAクラブワールドカップ2015では、オークランド・シティFC、TPマゼンベを破り、準決勝で南米王者であるリーベル・プレートに善戦したものの0-1で敗退。3位決定戦でアジア王者の広州恒大に逆転勝ちし、2007年の浦和、2008年のG大阪に次ぐ、日本のクラブ史上3チーム目の3位入賞を果たした。その他のカップ戦では、サブメンバー主体で臨んだナビスコカップは予選リーグ敗退。天皇杯ではベスト4まで勝ち進むが、前年も天皇杯のベスト16で敗れたG大阪に準決勝で敗北した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2016年は新たに森保監督と2017年シーズンまでの2年契約で合意し森保体制5年目。山岸智らが契約満了にて退団、またドウグラスの慰留に失敗し完全移籍・期限付き移籍延長のいずれにも合意することができず、チームトップスコアラーでリーグ優勝とCWC3位の立役者を失う事になった。ドウグラスの代役として清水のピーター・ウタカ(期限付き移籍)や京都の宮吉拓実、山形のキム・ボムヨン(いずれも完全移籍)らを補強し、新卒では四日市中央工業高から森島司、ユースから長沼洋一が入団。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "シーズン初戦となったゼロックススーパーカップでは天皇杯優勝のG大阪と3年間で10回目の対戦、佐藤寿人や新加入のウタカの得点でタイトルを手にした。しかし、リーグ戦では佐々木が1stステージ第4節で横山知伸に危険なタックルを受け右膝前十字靭帯を断裂、これを皮切りに怪我人が続出する苦しい台所事情を強いられ、ウタカが得点王争いのトップに立つなどの活躍はあったが1stステージを4位で折り返す。2ndステージではアーセナルへの海外挑戦を決めた浅野らの退団やアンデルソン・ロペス・野上結貴の加入など多少の選手の入れ替わりがあったものの、勝負所第9節からの7試合で5敗(特に12節の浦和戦から3連敗)を喫するなど失速。2ndステージ10位・年間勝ち点6位と前半戦から順位を落とす結果に終わった。Jリーグアウォーズではウタカが19得点で得点王(レアンドロと同点)、塩谷が3年連続でベストイレブン、チームとして5年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "リーグ戦より一足先に開幕したACLは山東魯能、FCソウル、ブリーラム・ユナイテッドと同組となる。過去の参戦シーズン同様若手中心の消極的な選手起用が目立ち、最終戦を残してグループステージ敗退が決定。チームのACL観客動員数が歴代最多動員を記録した最終戦のFCソウルこそ2-1で勝利し意地は見せたが、それ以外の試合は観客動員数が10000人を割り込む等 クラブ・サポーター双方共にACLへの関心の薄さが改めて浮き彫りとなった。また、カップ戦は、ルヴァンカップ、天皇杯ともにベスト8で敗退しシーズンを終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "森保体制6年目。前シーズンをもって森崎浩司が引退、佐藤・ウタカらが退団した一方、フェリペ・シウバ、工藤壮人らが完全移籍で加入した。また、ロペスの期限付き移籍期間を延長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "攻撃陣の不調で開幕から出遅れ降格圏に沈んだチームは7月に森保の退任を発表、前任ペトロヴィッチと並ぶ長期間の森保体制は5年半で終了した。数試合を横内昭展の指揮で戦ったのち新たに監督に就任したクラブOBのヤン・ヨンソンの下、パトリックや丹羽大輝を補強し、ペトロビッチ・森保体制下で継続してきた3-4-2-1のフォーメーションと決別したチームは持ち直し、ホーム最終戦となった第33節FC東京戦で新加入の稲垣祥の勝ち越しゴールで残留を確定させた。最終順位は15位。ヨンソンは次年度に続投することなく、清水で監督に就任してチームを去った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "日本サッカー協会に戻っていた城福浩を新たな監督に迎える。開幕から3連勝、さらに6戦負けなし、しかもその勝利を挙げたチームの中には前年ACLに出場した鹿島、浦和、川崎という上位進出も期待出来るチームも含めて9試合で8勝1分で首位を独走。第10節にFC東京に敗れて初黒星を喫したが、第11節から4連勝となるも、ワールドカップによるリーグ戦中断前最後の第15節に2敗目を喫するも、2位との勝点差は9であった。だが再開後にチーム状態は暗転。第26節以降全く勝てず、首位陥落した第28節から6連敗、最終6試合勝ちなし(うち4試合が完封負け)と深刻な得点力不足に悩まされ、川崎に逆転され2位でシーズン終了。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2月のACLプレーオフを勝利すると、グループステージを久しぶりに突破してベスト16に進出。アウェーゴールの差で鹿島に敗退した。最終的に6位に終わったリーグ戦でも若手が台頭し、特に大迫敬介や森島司、松本泰志は離脱した林、柴崎、青山の穴を埋め、ACLで出色のパフォーマンスを見せた荒木隼人は水本・吉野からレギュラーの座を奪い、前年復帰した川辺駿はリーグ戦全試合に出場した。新戦力ではドウグラス・ヴィエイラがポストプレーを武器に1トップに定着、ハイネルも後半戦は不動の右ウィングバックとして活躍した。一方前年終盤から不振を極めていたパトリックは、この年背番号10を背負うも新戦術に順応できずG大阪に出戻り。少なくなった初優勝メンバーの水本も、夏の移籍で松本に新天地を求めた。また、再びチーム伝統の3-6-1システムに取り組んだこともあり、前年右SBを担った和田拓也が早々に構想外となり横浜FMへ移籍した。水本と入れ替わりで松本から加入したレアンドロ・ペレイラは怪我で実働10試合に満たなかったが、出場した試合では貴重な得点源として得点力不足の解消に一役買った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "総じてチームの若返りに成功したが、チームの最多得点者が柏の8点という状況から見て取れるように特にゴールを奪えるフォワード不足は本年も解消されることは無かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "城福体制3年目、櫛引一紀を大宮アルディージャから、永井龍を松本山雅FCから獲得するが補強効果は限定的で、加入2年目を迎えたレアンドロ・ペレイラがリーグ3位の15得点を挙げチームを牽引。新型コロナウイルス感染症の影響を受け変則日程・J2降格無しのレギュレーションにて行われたリーグ戦・ルヴァンカップ共に好調な滑り出しを見せるも、終盤にかけて勝ちきれない引き分け続きの試合が増え、結果的にリーグ戦を中位の8位で終えた。過密日程の中で若手の起用が目立ったシーズンでもあり、特別指定選手としてプレーした藤井智也はリーグ戦15試合に出場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "城福体制4年目。前年末にペレイラとの契約に合意できず(その後G大阪へ)この年も外国人ストライカーの慰留に失敗。新たな得点源として横浜FMでリーグ戦22試合13得点とインパクトを残していたジュニオール・サントスを完全移籍で獲得 した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "過去3シーズンと異なり「この選手たちと違う景色が見たい」という城福の理想とするサッカーを体現するべく、この年はシーズン途中から4バックを取り入れるなどの改革を進めた が、新フォーメーションの1トップを担うドウグラス・ヴィエイラが故障、チームは第8節の4位を最高点に中位に定着。川辺がグラスホッパーへ引き抜かれて以降は攻守に精彩を欠き、この年降格する仙台にシーズン敗北を喫した第33節を以て城福の退任が決定(試合に敗れたもののJ1残留も確定)。残る5試合は沢田謙太郎ヘッドコーチが監督職を引き継いだが状態は上向くことなく、リーグ11位でフィニッシュ。また、天皇杯初戦(2回戦から登場)では本職ではない選手をDFに置くなど極端なターンオーバーを行った挙句、関西サッカーリーグ1部に所属するおこしやす京都ACに1-5で大敗するなど、リーグ戦順位以上に屈辱的な1年を過ごした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ミヒャエル・スキッベを新監督に、前岡山監督の有馬賢二や前川崎GKコーチの菊池新吉らを新コーチに迎えるなど、スタッフを大きく入れ替えて開幕を迎える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "コロナ禍による日本への入国制限でスキッベの来日が遅れ、迫井深也ヘッドコーチの指揮した序盤こそ苦戦したものの、下部組織出身の満田誠、野津田岳人、川村拓夢、過去にスキッベの下でプレーしたナッシム・ベン・カリファらが台頭。リーグ第28節で2019年以来の5連勝を飾り、暫定ながら首位に立つなど上位争いを演じた。終盤は川崎との直接対決に敗れて以降は1勝2敗2分と失速したものの、リーグ戦ではACLプレーオフ圏内となる3位でフィニッシュした", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "天皇杯は、ホンダロックSC、横浜FC、ザスパクサツ群馬、C大阪、京都を下し、2013年以来9大会ぶりの決勝進出を果たした。ヴァンフォーレ甲府との決勝戦では延長後半・PK戦で2度のPK失敗を喫し敗戦。これで天皇杯決勝は東洋工業時代を含めて9連敗(Jリーグ発足後だけでも6連敗)となってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップは名古屋、清水、徳島と同居するグループBを4勝2敗で首位通過。プレーオフで札幌に勝利し3年ぶりの決勝トーナメント進出。準々決勝で横浜FM、準決勝で福岡を破り、2014年大会以来8年ぶり、2022年シーズンでは通算4回目の対戦となるC大阪が待つ決勝に駒を進めた。優勝を逃した天皇杯決勝の翌週に行われた決勝では広島ユース出身のC大阪加藤陸次樹に先制点を奪われるも、夏の補強で加入したピエロス・ソティリウが途中出場から試合終了間際に2ゴールを挙げ、逆転勝利で悲願のルヴァンカップ初優勝を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "第10節終了時点では2位になったが、怪我人の続出や得点力不足に喘ぎ、勝ちを重ねられず徐々に順位が低下。更に夏の移籍で森島司が退団するが、加藤陸次樹がユース卒業以来の復帰を果たしすぐに先発メンバーに定着、マルコス・ジュニオールも稼働は短時間ながら卓越した攻撃力を発揮して穴を埋める。怪我人の復帰した後半戦は持ち直し、2年連続で3位の成績を収めた。なお、J1・33節のG大阪戦がエディオンスタジアム広島での最終公式戦となり、3-0の勝利で華を添えた。同年限りで林卓人が引退(前述G大阪戦に途中出場)、2002年よりスカウト・2015年より強化部長を務めた足立修が公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りにより退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "決定に直接携わった今西和男およびフロントスタッフは次のように語っている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "チームカラー選定時の事業担当者だった木之本興三は、著書『日本サッカーに捧げた両足』の中で、", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "設立当時はユニフォームなどで赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしている京都サンガF.C.(京紫)との差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2011年からはユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更されたこともあって、アウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社の鳥居をイメージする色として採用されたという。なお白色ユニホームはサードユニホームとして引き続き採用される。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1994年6月11日、磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。選手は喜びのあまり授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)を、頭に被ったり振り回したりしてはしゃいでいた。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ところがこの際、チェアマン杯をサポーターに見せようと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞紙面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割った旧チェアマン杯のかけらは広島の選手スタッフおよびサポーター総出でかき集め、一旦溶かされてペンダントとなった。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1995年4月1日、熊本市水前寺競技場で横浜フリューゲルス戦が行われた。当時九州にはJリーグチームがなく、この試合は熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日に万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分の準備をし熊本にはそれら2試合分のアウェー用道具を持参していた。そのため持参したのはアウェー用として使っていた2ndユニフォームの白だったが、対戦相手の横浜Fの1stユニフォームは白。2つのアウェー用道具を一緒に事前準備していたためスタッフは間違いを犯した。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ ものの間に合わなかった。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、熊本県サッカー協会からスプレーを借りたが時間が足りなかった。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。パンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "この試合はNHKBSにより生放送され、延長前半12分にイワン・ハシェックのVゴールで広島が勝利しJ通算50勝を達成した。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り、Jリーグから制裁金が課せられた。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "レプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2008年3月1日、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、安芸高田市サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1995年から2002年(後、2008年に復帰)までサンフレッチェのエースストライカーであった久保竜彦のチャントは『君の瞳に恋してる』であった。J2降格と共にチームを去った久保の後継者として生え抜きの茂木弘人や前田俊介が期待されていたが、2005年に小野監督と織田強化部長(いずれも役職は当時のもの)自らが獲得に動いた佐藤寿人が加入。茂木らに期待していたサポーターは佐藤の獲得を疑問視した。しかし佐藤は移籍1年目から2桁得点を挙げ、同年11月27日の第33節ヴィッセル神戸戦でこの年2度目のハットトリックを達成するとサポーターは自然発生的に佐藤を久保のチャントで祝福した。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "中野和也がこの日を「佐藤のエース載冠式」と形容したように、以後サポーターの間で『君の瞳に恋してる』はエースストライカーに贈られる特別なチャントと目されている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ホームであるエディオンスタジアム広島において試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史や岡山一成に憧れた柏木陽介と槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。森脇移籍後は、千葉を中心に塩谷や野津田、増田卓也等が行っている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2010年に槙野智章と森脇良太(時折GKの西川周作も参加する)を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。槙野は2010年に、森脇は2013年、西川は2014年に広島を退団したが、現在でも佐藤や林を中心にパフォーマンスは続いている。", "title": "エピソード・アラカルト" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、個人情報保護法が施行した2005年以降公開されていない。", "title": "所属" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "中国新聞HP の過去の成績で1996年以降のスポンサーを確認できる。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "1997年以降、エディオングループがユニフォームスポンサーとして定着している。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "また、2011年 - 2012年にFC岐阜のユニフォームスポンサー(背中上部)だったエイデンもエディオングループの店舗ブランドであるが、岐阜の場合はエディオン本体ではなく社内カンパニーであるエディオン EASTカンパニーがスポンサーであったが、本社のブランド統合に伴いJリーグ規定に接触することからユニフォームについては広島のみに集約される形となり、2013年以降はユニフォームスポンサーからは外れている。", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "現在、Jリーグ主催公式戦はすべて広島広域公園陸上競技場(エディオンスタジアム広島、「Eスタ」、旧称:広島ビッグアーチ(広島ビ))で行われている。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容 できず、Jリーグがクラブライセンス発給・申請の際に定める座席の収容人員の基準(J1:15000人、J2:1万人)を満たしていないために使用不可となった。但し、2011年8月13日の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや広域第一などで行われ、吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。", "title": "スタジアム" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "現在、主に使用されるのは下記の3つ。", "title": "練習場・キャンプ地" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "また、過去には下記の場所で練習していたこともある。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。", "title": "練習場・キャンプ地" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "サンフレッチェ広島の決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "人件費は事業費に含まれる。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016、 2017、 2018、 2019、 2020、 2021", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014 2015、 2016、 2017、 2018、 2019、 2020、 2021", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" } ]
サンフレッチェ広島F.Cは、日本の広島県広島市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称は「サンフレッチェ広島」(サンフレッチェひろしま)。
{{サッカークラブ | クラブ名 = サンフレッチェ広島F.C |font-color = #fff |background-color = #513292 |border-color = #bf9d46 | 原語表記 = サンフレッチェ広島F.C<ref>Jリーグ規約 第3章第27条(1)</ref> | 呼称 = サンフレッチェ広島<ref name="jleague"/> | 愛称 = | カラー = {{colorbox|#51318F}} 紫<ref name="jleague"/> | 創設 = 1938 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス=J1 | ホームタウン = [[広島県]][[広島市]]<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/club/hiroshima|title=クラブガイド:サンフレッチェ広島|publisher=[[日本プロサッカーリーグ]]|accessdate=2017-9-17}}</ref> | スタジアム = [[ファイル:広島ビッグアーチ01.jpg|210px]]<br/>[[広島広域公園陸上競技場|エディオンスタジアム広島]]<ref name="jleague"/> | キャパ = 35,909<ref name="jleague"/> | 法人名 = 株式会社サンフレッチェ広島<ref name="jleague"/> | 代表 = {{Flagicon|JPN}} [[仙田信吾]]<ref name="jleague"/> | 監督 = {{Flagicon|GER}} [[ミヒャエル・スキッベ]] | HP = https://www.sanfrecce.co.jp/ | pattern_la1 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP | leftarm1 = 533C82 | body1 = 533C82 | rightarm1 = 533C82 | shorts1 = 533C82 | socks1 = 44237c | pattern_la2 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP | leftarm2 = ffffff | body2 = ffffff | rightarm2 = ffffff | shorts2 = e20018 | socks2 = ffffff }} {| class="infobox" style="font-size: 88%; width: 22em; text-align: center" ! colspan=3 style="font-size: 125%; background-color: #51318F; color: #fff; text-align:center;"| サンフレッチェ広島F.C |- ! width="33%" style="text-align:center;" |[[File:Football pictogram.svg|30px]] ! width="33%" style="text-align:center;" |[[File:Football pictogram.svg|30px]] ! width="33%" style="text-align:center;" |[[File:Football pictogram.svg|30px]] |- ! style="text-align:center;" |'''サッカー<br />(男子)''' ! style="text-align:center;" |[[サンフレッチェ広島レジーナ|サッカー<br /> (女子)]] ! style="text-align:center;" |[[サンフレッチェ広島F.Cの育成組織|サッカー<br />(アカデミー)]] |- ! width="33%" style="text-align:center;" |[[File:Athletics pictogram.svg|30px]] |- ! style="text-align:center;" |[[トップス広島|異競技連携]] |} {{ external media | topic = エンブレム | align = | width = | image1 = [[:en:file:SanfrecceHiroshima.png]]現エンブレム<!-- 2013年現在[[Jリーグメディアプロモーション]]が肖像権を管理しているため注意 --> | image2 = [[:en:file:SanfreeceHiroshima.png]]旧エンブレム }} '''サンフレッチェ広島F.C'''(サンフレッチェひろしまエフシー、{{Lang-en-short|Sanfrecce Hiroshima F.C}})は、[[日本]]の[[広島県]][[広島市]]をホームタウンとする<ref name="jleague"/>、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロ[[サッカー]]クラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つ。呼称は「'''サンフレッチェ広島'''」(サンフレッチェひろしま)。 == 概要 == {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社サンフレッチェ広島<ref name="leadersclub">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2022-01-01|url=http://www.chugoku-np.co.jp/leadersclub/interviews_company38.html|title=中国新聞LEADERS倶楽部|accessdate=2022-01-21}}</ref> | 英文社名 = Sanfrecce Hiroshima FC Co., Ltd.{{#tag:ref|クラブ公式発表<ref>{{Cite web|url=http://www.sanfrecce.co.jp/en/|title=Club Profile|publisher=サンフレッチェ広島F.C|accessdate=2017-9-17}}</ref>。Jリーグ公式では"Sanfrecce Hiroshima Corporation"<ref>{{Cite web|url=https://www.jleague.jp/en/club/hiroshima|publisher=Jリーグ公式|language=英語|title=CLUB GUIDE|accessdate=2017-9-17}}</ref>、2001年時点では"K.K.Sanfrecce Hiroshima"<ref>{{Cite web|和書|publisher=サンフレッチェ広島公式|url=https://web.archive.org/web/20010304184333/http://www.sanfrecce.co.jp/companyE.html|language=英語|title=Club Profile 2001年度版|accessdate=2014-11-18}}</ref> を用いている。|group="注"}} | ロゴ = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = S.FC | 本社郵便番号 = 730-0051 | 本社所在地 = [[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[大手町 (広島市中区)|大手町]]1-4-14上田ビル2F<ref name="jleague"/><ref name="leadersclub" /> | 設立 = [[1992年]][[4月24日]] | 業種 = 9050 | 事業内容 = サッカー事業<ref name="leadersclub" /> | 代表者 = [[取締役]][[会長]] [[久保允誉]]<br />[[代表取締役]][[社長]] [[仙田信吾]] | 資本金 = 2億2000万円<ref name="jl2017"/> | 売上高 = 34億2,400万円(2018年1月期)<ref name="jl2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf|title=2017年度(平成29年度)Jクラブ個別情報開示資料|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2018-08-07}}</ref> | 営業利益 = ▲1,400万円 (2018年1月期)<ref name="jl2017"/> | 経常利益 = ▲100万円 (2018年1月期)<ref name="jl2017"/> | 純利益 = 100万円 (2018年1月期)<ref name="jl2017"/> | 純資産 = 12億1,100万円 (2018年1月期)<ref name="jl2017"/> | 総資産 = 16億2,500万円 (2018年1月期)<ref name="jl2017"/> | 従業員数 = 48人 (2021年12月現在)<ref name="leadersclub" /> | 決算期 = 1月期 | 主要株主 = [[エディオン]] 46.96%、<br/>[[マツダ]] 16.67%、<br/>[[中国電力]] 3.42%、<br/>[[広島銀行]] 2.99%、<br/>[[広島県]] 2.50%、<br/>[[広島市]] 2.50% 含め64株主<ref name="jsgoal2012-05-15">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00137475&keyword=&team=451&year=2012 |title=減資及び第三者割当増資完了のお知らせ |publisher=J's GOAL |date=2012-05-15 |accessdate=2022-02-24}}</ref> | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[竹下虎之助]](広島県(公選5代)知事)<br />[[古田徳昌]](マツダ7代社長)<br />久保允誉(旧[[デオデオ]]2代目社長) | 外部リンク = | 特記事項 = 取締役会長の久保允誉はエディオン社長を兼務。 }} [[1938年]](昭和13年)に創設された[[マツダ]](旧・東洋工業)のサッカー部である'''[[東洋工業サッカー部|マツダサッカークラブ]]'''を前身とする。日本のサッカー1部リーグ([[日本サッカーリーグ]]、[[J1リーグ]]の優勝回数は8度を数え、これは[[鹿島アントラーズ]]と並び国内最多。([[日本の全国サッカーリーグ歴代優勝チーム (1部)]]) 運営会社「'''株式会社サンフレッチェ広島'''」は1992年4月設立、これまで社長はマツダ系か[[家電量販店]]・[[エディオン]](旧[[デオデオ]])系の人物が就任していたが、2018年から就任した山本拓也は[[ナイキ|ナイキジャパン]]出身で、2020年に就任した仙田信吾は[[中国放送]]出身(2019年はRCCフロンティア会長)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=595350&comment_sub_id=0&category_id=256|title=サンフレ新社長に仙田氏就任へ|accessdate=2019年12月10日|publisher=中国新聞デジタル(中国新聞社)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200115050807/https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=602791&comment_sub_id=0&category_id=112|archivedate=2020年1月10日}}</ref> と外部からの招聘が2人続いている。なお2社の[[有価証券報告書]]によれば、(株)サンフレッチェ広島は双方ともに「[[関連会社]]」にあたる。 クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」および[[イタリア語]]で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、広島の戦国大名・[[毛利元就]]の「[[三子教訓状|三本の矢]]」の故事にちなむ<ref name="jleague"/>。 チーム[[マスコット]]は、[[中国山地]]に生息する[[ツキノワグマ]]をモチーフとした「[[サンチェ (サンフレッチェ広島)|サンチェ]]」<ref name="jleague"/> とサンチェの彼女(設定時。なお現在はただのお友達)として2000年に誕生した「フレッチェ」<ref name="jleague"/>。 [[エンブレム]]は[[2005年]][[1月10日]](公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00015269&keyword=&team=451&year=2005 |title=エンブレム変更について |publisher=J's GOAL |date=2005-01-12 |accessdate=2022-02-24}}</ref>。 ホームスタジアムは[[広島広域公園陸上競技場]](広島ビッグアーチ、エディオンスタジアム広島)<ref name="jleague"/>、練習場は[[安芸高田市サッカー公園]]<ref name="jleague"/> である。詳細は[[#スタジアム|スタジアム]]の項および[[#練習場・キャンプ地|練習場・キャンプ地]]の項を参照。 なお、育成組織については[[サンフレッチェ広島F.Cの育成組織]]を参照のこと。他に、女子チームとして[[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]]所属の[[サンフレッチェ広島レジーナ]]を保有する。 グッズ・チケット等は広島市中区[[紙屋町シャレオ]]にあるV-POINT、あるいは [https://store.jleague.jp/club/hiroshima/ サンフレッチェ広島オフィシャルオンラインショップ] で購入できる。[[ワンタッチパス]]対応ICチケットは[[PASPY]]一体型と1試合のみ試験的に発売したキーホルダー型の2種類存在する(詳細は下記[[#関連情報]]参照)。 == 歴史 == === 前史(マツダ時代) === {{Main|東洋工業サッカー部}} [[1938年]]に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、[[1970年代]]に入ると徐々に低迷し、[[1980年代]]に入ると、JSL2部へ2度降格した。[[1981年]]マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更{{#tag:ref|1980年代、社名変更やJSL1部昇降格を機に数度正式名称を変えている。1981年から「マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部」、1984年から「マツダスポーツクラブサッカー部」、1986年から「マツダサッカークラブ」。|group="注"}}。[[1982年]]、[[今西和男]]がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えた[[ハンス・オフト]]をコーチに招聘した<ref name="imanishi04">[[#今西インタビュー]]、#4</ref><ref name="HIHYO0612">[[#GM論]]</ref>。 低迷の原因が地方の[[ハンデキャップ]]による有力新人獲得の不足{{#tag:ref|当時のJSLはほとんど[[アマチュア|セミプロ]]化していたがマツダはあくまで[[社員選手]]として社業も行なっていた、さらに練習場の環境も他と比べて劣っていたことから、いい新人が入って来なかった<ref name="imanishi04" />。|group="注"}}と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームの[[マツダSC|マツダSC東洋クラブ]]を強化し、[[中国サッカーリーグ]]に参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った<ref name="imanishi04" />。ここからは、後にオフト自身により[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出された[[森保一]]をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた<ref>[[#森保自伝]]、p.65</ref>([[サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史]]参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから[[小林伸二]]をはじめとする数多くの指導者を育てた<ref name="NIKKANCOLUMN">{{Cite news |title=記者コラム「見た 聞いた 思った」、優れた指導者の条件 |newspaper=[[ニッカンスポーツ]] |date=2005-05-29 |author=横田和幸 |url=http://blog.nikkansports.com//nikkansports/writer/archives/2005/05/post_56.html |accessdate=2022-02-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060726164602/http://blog.nikkansports.com//nikkansports/writer/archives/2005/05/post_56.html |archivedate=2006-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.footballchannel.jp/2014/05/06/post38963/ |title=偶然か。必然か。サンフレッチェ広島出身者から優秀な監督が続出 |publisher=フットボールチャンネル |date=2014-05-06 |accessdate=2014-05-08}}</ref>。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00137575&keyword=&team=469&year=2012 |title=Jリーグ20年、熊本の場合 |publisher=J's GOAL |date=2012-05-17 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref name="imanishi06" />。 すでに動き出していたプロ化への布石として、当時[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]で活躍していた[[風間八宏]]を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた<ref name="HIHYO0612" /><ref>[[#森保自伝]]、p.131-132</ref>。 === Jリーグ創設前夜 === プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となる[[マツダ]]は財政的理由から降りようとした。そこへ、[[野村尊敬]]県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった[[竹下虎之助]]県知事とマツダの[[古田徳昌]]社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の[[1991年]][[1月23日]]、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体([[オリジナル10]])発表。[[西日本]]では[[兵庫県]]以西で唯一、[[中国地方]]唯一の参加となった<ref name="imanishi05">[[#今西インタビュー]]、#5</ref><ref name="IKKYUDIARY">{{Cite web|和書|publisher=[[田辺一球]]責任編集コラム|date=2006-05-01||url=https://web.archive.org/web/20080117203151/http://akanotamashii.com/diary/diary.cgi?mode=popup&y=2006&m=5&d=1|title=フリーキック|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 同年11月プロクラブ化に向け、[[広島県立美術館|旧広島県立美術館]]2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた<ref name="SIGMA200905">{{Cite journal|和書 |author = [[中野和也]] |date = 2009-05 |title =連載 スタッフたちの「ガンバロウゼ」 |journal = [[紫熊倶楽部]] |pages = 20-21}}</ref>(チーム名やチームカラー決定経緯については[[#チーム名およびチームカラー]]節を参照)。 1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後の[[デオデオ]]で現[[エディオン]])・[[中国電力]]・[[広島銀行]]など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を[[広島クリスタルプラザ]]4階<ref name="SIGMA200905" /> に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため<ref name="IKKYUDIARY" />、地元企業を中心に出資団体を募った<ref name="imanishi05" />。 また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは[[東欧]]や[[北欧]]へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこで[[ハルムスタッズBK]]監督だった[[スチュワート・バクスター]]や[[サッカーチェコスロバキア代表]]選手達と出会い、スカウトすることになる<ref name="HIHYO0612" /><ref name="asahi2012-06-22">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/area/gifu/articles/MTW20130122220660013.html|title=明確な戦術 バクスター|publisher=朝日新聞|date=2012-06-22|accessdate=2014-01-01}}</ref> === 1992年 - 1994年(バクスター時代) === [[ファイル:Stuart Baxter.jpg|thumb|right|250px|バクスター]] [[1992年]]、バクスターが監督に就任。[[イワン・ハシェック]]、[[パベル・チェルニー]]、[[盧廷潤]]ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。[[藤和不動産サッカー部|フジタ]]から[[高木琢也]](マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、[[富士通サッカー部|富士通]]から[[小島光顕]]などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。 クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/note.php?note_id=289589617779267|title=風間八宏が日本人初ゴール、フットボール史に名を刻む|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-03-08|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 当初は引退しコーチをしていた[[ヤン・ヨンソン]]、[[松田浩]]、[[望月一頼]]を現役復帰させるほど選手層が薄く、[[1992年のJリーグカップ|1992年のヤマザキナビスコカップ]]では、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、[[1994年]]にサントリーシリーズで初優勝を果たした<ref name="asahi2012-06-22" /><ref name="nike1994">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/note.php?note_id=297860536952175|title=悲願のステージ優勝、円熟期を迎えた“三本の矢”|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-03-23|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブル[[ミッドフィールダー|ボランチ]](風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは[[片野坂知宏]]・[[佐藤康之]]・[[柳本啓成]]・[[森山佳郎]]と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保ち裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった<ref>[[#森保自伝]]、p.133</ref>。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった<ref name="HIHYO0612" /><ref name="nike1994" />。 しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり<ref name="HIHYO0612" />、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり<ref name="imanishi06">[[#今西インタビュー]]、#6</ref>、[[トーレ・ペデルセン]]をCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下<ref name="asahi2012-06-22" /> していった。その結果、[[Jリーグチャンピオンシップ]]では[[東京ヴェルディ1969|V川崎]]に敗戦し、年間優勝には届かなかった。 バクスターは得点力アップのため[[ミカエル・ラウドルップ]]補強を要請したものの、クラブは高い年俸および移籍金がかかるため難色を示し、結果クラブはバクスターを諦めた<ref name="imanishi06" /><ref name="asahi2012-06-22" />。 === 1995年 - 1996年(ヤンセン時代) === [[ファイル:Wim Jansen 2013.jpg|thumb|right|200px|ヤンセン]] チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して[[1995年]]、ハンス・オフトの推薦<ref name="HIHYO0612" /> で[[オランダ]]人の[[ビム・ヤンセン]]が監督に就任した<ref name="imanishi06" />。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の[[信藤整]]の社長就任が決定した。 [[ジョン・ファンルーン]]、[[ピーター・ハウストラ]]、[[アントニオ・カルロス・サントス|サントス]]らを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視<ref name="moriyasu142">[[#森保自伝]]、p.142</ref> し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風の[[トータルフットボール]]を目指した<ref name="nike1995">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/note.php?note_id=306083056129923|title=ユースチームが初の王者に、成長を印象づけたシーズン|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-04-06|accessdate=2012-12-31}}</ref>。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った<ref name="HIHYO0612" /><ref name="moriyasu142" /><ref name="nike1995" />。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。 前年度優勝したことにより総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した<ref name="HIHYO0612"/><ref name="imanishi06" />。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った<ref name="TYUGOKU971104">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1997-11-04|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/sanf3.html|title=ファン離れ加速の恐れ 夢を壊さぬ努力が必要|accessdate=2012-06-02}}</ref>。 その中でヤンセンはレギュラー起用した[[上村健一]]を初め、[[桑原裕義]]・[[笛真人]]や[[森秀昭]]・[[久保竜彦]]ら若手を積極的に起用した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/note.php?note_id=316035745134654|title=本拠地が正式移転、ビッグアーチとともに新たなステージへ|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-04-19|accessdate=2012-12-31}}</ref>。特に[[路木龍次]]はU-23[[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|アトランタ五輪]]代表を経て、日本代表にまで上りつめた。 クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した<ref name="HIHYO0612" />。 === 1997年 - 2000年(トムソン時代) === 1996年ごろのJリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め<ref name="TYUGOKU980110">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1998-01-10|url=http://www.chugoku-np.co.jp/MAZDA/1/980110.html|title=マツダ特集 「貢献」と「再建」はざまで苦悩 -地域との関係|accessdate=2013-05-30}}</ref>、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた<ref name="imanishi06" />[[1997年]]、[[1992年バルセロナオリンピックのサッカー競技|バルセロナ五輪]]で名を上げた[[スコットランド人]][[エディ・トムソン]]が監督就任する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/note.php?note_id=324255754312653|title=選手育成型のクラブへ、スコットランド人監督が就任|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-05-01|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダも[[フォード・モーター]]主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る<ref name="TYUGOKU980110" /><ref name="TYUGOKU980408">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1998-04-08|url=http://www.chugoku-np.co.jp/MAZDA/4/980408.html|title=マツダ特集 サンフレ支援 揺れる心 - 合理主義の下|accessdate=2012-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1998-06-07|url=http://www.chugoku-np.co.jp/MAZDA/7/980607.html|title=マツダ特集 企業の利益見据え判断|accessdate=2013-05-30}}</ref>。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった<ref name="SIGMA200905" /><ref name="TYUGOKU971102">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1997-11-02|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/sanf1.html|title=入場料収入リーグ最低 存続かけ大ナタふるう|accessdate=2012-06-02}}</ref><ref name="hue.ac">{{Cite web|和書|publisher=[[広島経済大学]]|date=1997|url=http://www.hue.ac.jp/Seminar/sd_oka/manabukai/mbk97.pdf|format=PDF|title=学ぶ会報告書|accessdate=2012-06-02}}</ref>。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの<ref name="hue.ac" />、森保だけが完全から[[期限付き移籍]]に変わった<ref>[[#森保自伝]]、p.152</ref> のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった<ref name="TYUGOKU971104" />。 そこへ、官民のトップで経営改善の話し合いが行われ<ref name="TYUGOKU980110" />、その中で家電量販店の[[デオデオ]]の介入が決定、1998年6月の取締役会で[[久保允誉]]の社長就任が決定した<ref name="hue.ac" />。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の[[広島西飛行場]]ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。 一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、[[藤本主税]]・[[沢田謙太郎]]や[[伊藤哲也]]・[[吉田康弘 (サッカー選手)|吉田康弘]]・[[山口敏弘]]らを安く獲得しながらも、久保竜彦・[[下田崇]]・[[服部公太]]や[[高橋泰]]らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングした[[イアン・クルーク]]、自身が持つ[[オーストラリア]]への強いパイプを生かして[[グラハム・アーノルド]]、[[アウレリオ・ヴィドマー]]、[[トニー・ポポヴィッチ]]、[[ハイデン・フォックス]]、[[スティーブ・コリカ]]ら外国人選手も補強した。 トムソン就任当初は主力にケガ人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。[[オズワルド・アルディレス]](当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1998-08-05|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/1998/Ss98080501.html|title=守るサンフレ完敗 ゴール遠し|accessdate=2012-06-02}}</ref> と言われるほどであった。一時は[[J1参入決定戦]]圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた<ref name="hue.ac" />。 就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成<ref name="nike1999">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/note.php?note_id=334094509995444|title=森保一がクラブ初のリーグ通算200試合出場達成|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-05-17|accessdate=2012-12-31}}</ref>。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破<ref name="nike1999" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1999-05-15|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/1999/Ss99051501.html|title=オープンスペース 強さ本物、どこにでも勝てる|accessdate=2012-06-02}}</ref>。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである[[森崎和幸]]の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ<ref name="nike1999" />。翌2000年、さらなる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2000-05-27|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/2000/Ss00052701.html|title=オープンスペース 決定力不足 ヒーロー求む|accessdate=2012-06-02}}</ref><ref name="nike2000">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/一つの形となって表れたサンフレッチェ広島の哲学/354373204634241|title=一つの形となって表れたサンフレッチェ広島の哲学|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-06-22|accessdate=2012-12-31}}</ref>。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった<ref name="nike2000" />。 === 2001年(ヴァレリー時代) === [[ファイル:ValeryNepomnyaschy.jpg|thumb|right|200px|ヴァレリー]] 4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した[[2001年]]、クラブは今後地方のクラブが生き残る手段として、アカデミー含めたクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと目指すことを決め、以降攻撃趣向のある監督選びをすることになる<ref name="nike2001">{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/ロシア人監督が就任攻撃的フットボールへの転換期/361917513879810|title=ロシア人監督が就任、攻撃的フットボールへの転換期|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-07-06|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になった[[ロシア]]人[[ヴァレリー・ニポムニシ]]<ref>{{Cite web|publisher=daum|date=2011-10-24|url=http://sports.media.daum.net/soccer/news/col/pchcross/view.html?gid=10383&newsid=20111024175728506&p=m_daum|language=韓国語|title=니포 축구의 마지막 보물 ‘이을용’|accessdate=2012-12-31}}</ref> を監督招聘する<ref name="nike2001" />。当時Jリーグで唯一3トップを採用し<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2001-01-26|url=https://web.archive.org/web/20040912014157/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw01012601.html|title=「守り」から「攻め」へ J唯一の3トップ|accessdate=2012-12-31}}</ref>、久保竜・[[大木勉]]・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2001-07-24|url=https://web.archive.org/web/20021031174821/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw01072401.html|title=攻撃布陣、守備に反動/第1ステージ|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>[[#森保自伝]]、p.156</ref>。 残留に向け[[オレグ・パシニン]]と[[セルゲイ・スカチェンコ]]を補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した<ref name="nike2001" />。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・[[駒野友一]]、森崎和幸・[[森崎浩司|浩司]]兄弟、[[田中マルクス闘莉王|トゥーリオ]]らの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した1994年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2001-11-27|url=https://web.archive.org/web/20011220215526/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw01112702.html|title=浸透ヴァレリー流 第2Sの軌跡|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>[[#森保自伝]]、p.157</ref>。 ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任{{#tag:ref|ヴァレリー自身は退任直後のロシアメディアでのインタービューで夫人が夏の暑さと地震を嫌がったためと答えている<ref>{{Cite web|publisher=sport-express.ru|date=2001-12-11|url=http://www.sport-express.ru/newspaper/2001-12-11/3_1/|language=ロシア語|title=МЕЧТАЮ КОГДА-НИБУДЬ ПОРАБОТАТЬ В РОССИИ|accessdate=2013-05-30}}</ref> 。翌年ヴァレリーは中国の山東魯能監督に就任するが、山東側はヴァレリー退任発表後に接触したと報道されている<ref>{{Cite web|publisher=sports.sina.com|date=2001-12-18|url=http://sports.sina.com.cn/j/2001-12-18/18217558.shtml|language=中国語|title=俄罗斯名帅重返甲A 涅波正式出任山东鲁能主教练|accessdate=2013-05-30}}</ref>。一方で広島番記者である[[中野和也]]は山東側による金銭的な引きぬきがあったと断定している{{Sfn|中野和也|2013|p=193}}。|group="注"}}した<ref name="nike2001" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=サンフレッチェ広島公式|date=2001-11-27|url=https://web.archive.org/web/20021105072731/http://www.sanfrecce.co.jp/new-hp/news/source/20011127a.html|title=ヴァレリー監督の退任について|accessdate=2012-06-02}}</ref>。この際、ヴァレリーが新監督に推薦<ref name="TYUGOKU020717">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2002-07-17|url=https://web.archive.org/web/20020806073234/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw02071701.html|title=ガジエフ監督、退団へ|accessdate=2012-12-31}}</ref> したロシア人[[ガジ・ガジエフ]]をクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった<ref name="sigma2003-01">{{Cite journal|和書 |author = 中野和也 |date = 2003-01 |journal = 紫熊倶楽部}}</ref>。 === 2002年(ガジエフ・木村時代) === [[ファイル:GGadzhiev.jpg|thumb|right|200px|ガジエフ]] [[2002年]]、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した<ref name="sigma2003-01" />。戦術が定まらずチームはバラバラのまま<ref name="chugoku2002-12-02">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2002-12-02|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/feature/siren/02120201.html|title=楽観ムード 球団に漂う|accessdate=2012-12-31}}</ref>、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2002-09-29|url=https://web.archive.org/web/20021015124721/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw02092901.html|title=攻撃的守り指示へ上村復帰 29日京都戦|accessdate=2012-12-31}}</ref>、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、[[ネスコ・ミロヴァノヴィッチ|ミロ]]や上村のケガで急遽獲得した[[ミシェル・パンセ・ビロング]]の新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由<ref>{{Cite web|和書|publisher=サンフレッチェ広島公式|date=2002-07-11|url=https://web.archive.org/web/20030405045224/http://www.sanfrecce.co.jp/new-hp/news/source/20020711a.html|title=ガジエフ監督の緊急一時帰国について|accessdate=2012-12-31}}</ref> に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった<ref name="TYUGOKU020717" /><ref name="chugoku2002-12-02" />。 同年7月、コーチを務めていた[[木村孝洋]]が昇格するかたちで監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった<ref>{{Cite web|和書|publisher=サンフレッチェ広島公式|date=2002-07-17|url=https://web.archive.org/web/20030220153511/http://www.sanfrecce.co.jp/new-hp/news/source/20020717b.html|title=木村孝洋ヘッドコーチの監督就任について|accessdate=2012-12-31}}</ref>。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2002-12-03|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/feature/siren/02120301.html|title=選手の起用 一貫性欠く|accessdate=2012-12-31}}</ref>。同年9月、[[小野剛 (サッカー指導者)|小野剛]]をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2002-12-04|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/feature/siren/02120401.html|title=速攻徹底 光みえた終盤|accessdate=2012-12-31}}</ref>。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初の[[J2リーグ|Jリーグ ディビジョン2]](J2)降格が決まった。 同年12月、責任を取って木村は辞任した<ref>{{Cite web|和書|publisher=サンフレッチェ広島公式|date=2002-12-04|url=https://web.archive.org/web/20030430133551/http://www.sanfrecce.co.jp/new-hp/news/source/20021204a.html|title=木村孝洋監督の辞任について|accessdate=2012-12-31}}</ref>。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2004-08-01|url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/interview/In04080101.html|title=日本サッカーの未来 サンフレ小野剛監督に聞く|accessdate=2012-12-31}}</ref>。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。 同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ<ref>[[#今西インタビュー]]</ref>、元[[Jヴィレッジ]]副社長の[[高田豊治]]が[[ゼネラルマネージャー]]に就任した。 === 2003年 - 2006年(小野 / 小野・ペトロヴィッチ時代) === 小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手も多数放出する。その代わりに、[[佐藤寿人]]・[[茂原岳人]]などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある[[小村徳男]]や[[戸田和幸]]・[[盛田剛平]]らのベテラン、[[セザール・サンパイオ]]や[[リカルド・カヴァルカンテ・リベイロ|リカルド]]・[[ジョベルト・アラウジョ・マルチンス|ベット]]・[[イロンジーノ・フェレイラ・ネト|ジニーニョ]]・[[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]の[[ブラジル人]]達を補強し、同時期に台頭した広島ユース<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/ユースチームが2冠を達成将来の礎を築いたシーズン/379020245502870|title=ユースチームが2冠を達成、将来の礎を築いたシーズン|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-08-24|accessdate=2012-12-31}}</ref> から[[髙萩洋次郎]]・[[前田俊介]]・[[髙柳一誠]]などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。 ;2003年(J2) [[2003年]]のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については[[2003年J2第43節・最終節]]を参照)<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/graph/index.html|title=サンフレ・グラフ J1への道|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/1年での1部返り咲き苦しみから得た結束力|title=1年での1部返り咲き、苦しみから得た結束力|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-08-04|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 ;2004年 J1復帰初年のこの年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう<ref>{{Cite web|和書|date=2004-11-30|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/kaiko/2004/041130.html|title=課題は決定力|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2004-11-27|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/kaiko/2004/041227a.html|title=ほろ苦い「復帰元年」 2004年10大ニュース|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 ;2005年 前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた<ref>{{Cite web|和書|date=2005-12-05|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/05kikaku/kaiko/ono.html|title=小野監督に聞く|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/1部リーグ戦でホーム通算100勝達成記録に残るシーズンに/386685188069709|title=1部リーグ戦でホーム通算100勝達成…記録に残るシーズンに|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-08-24|accessdate=2012-12-31}}</ref>。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り<ref>{{Cite web|和書|date=2005-12-08|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/05kikaku/kaiko/kaiko3.html|title=鉄壁トリオが大車輪|accessdate=2012-12-31}}</ref>、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている<ref>{{Cite web|和書|date=2005-12-07|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/05kikaku/kaiko/kaiko2.html|title=「佐藤寿効果」随所に|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 同年には駒野が[[東アジアサッカー選手権]]から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。 ;2006年 {{Wikinews|サッカー・J1リーグ、サンフレッチェとセレッソで監督交代|2007サッカー入れ替え戦、京都サンガ2年ぶりJ1復帰|鹿島、天皇杯を制して2007年度2冠}} {{ external media | topic = ペトロヴィッチ | align = | width = | image1 = [[:en:file:Sanfrecce hiroshima-20100620-michael-petrovic-1.jpg]]<!-- 2012年現在[[Jリーグメディアプロモーション]]が肖像権を管理しているため注意 --> }} より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した<ref name="nike2006">{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/オーストリア人指揮官が就任攻撃的スタイルの構築へ|title=オーストリア人指揮官が就任、攻撃的スタイルの構築へ|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-09-14|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2006-04-09|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/06kikaku/onotaisei/060419.html|title=中盤新布陣 選手とずれ|accessdate=2012-12-31}}</ref>。3年半に渡る小野体制はこれを以て終焉を迎えた。 後任に、GKコーチの[[望月一頼]]が[[2006 FIFAワールドカップ|ドイツW杯本大会]]による中断期間までの暫定で就任する<ref name="nike2006" /><ref>{{Cite web|和書|date=2006-04-20|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/06kikaku/onotaisei/060420.html|title=立て直しの方策|accessdate=2012-06-02}}</ref>。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督の[[オーストリア]]人[[ミハイロ・ペトロヴィッチ]]へとバトンを渡した<ref name="nike2006" /><ref>{{Cite web|和書|date=2006-05-06|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/2006/Ss06050601.html|title=ピンポイント 手堅い望月流「合格」|publisher=中国新聞|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref name="chugoku2006-11-18">{{Cite web|和書|date=2006-11-18|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/2006/Ss200611180326.html|title=ピンポイント 監督に感謝のMVP|publisher=中国新聞|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、[[青山敏弘]]と[[柏木陽介]]の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した<ref name="nike2006" /><ref name="chugoku2006-11-18" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2006-12-05|url=https://web.archive.org/web/20061217052619/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw200612050159.html|title=<ペトロビッチ流サンフレ再生・上>選手の特性見抜く名医|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。 === 2007年 - 2011年(ペトロヴィッチ時代) === ;2007年 前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2007-04-17|url=https://web.archive.org/web/20070430102719/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw200704170098.html|title=2年連続の赤字 4億9800万円、補強・監督交代響く|accessdate=2012-12-31}}</ref>。同年には[[募集株式|第三者割当増資]]を行いデオデオが筆頭株主となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00054923&keyword=&team=451&year=2007 |title=株式会社サンフレッチェ広島 増資についてのお知らせ |publisher=J's GOAL |date=2007-09-26 |accessdate=2022-02-24}}</ref>。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権{{#tag:ref|2006年に組織再編を行い[[織田秀和]]強化部長が実質的な現場のトップとなったが、最終的な決定権は久保允誉社長に委ねられていた。ただ久保は本業である[[エディオン]]社長の激務もあり、迅速な決定が下せない状況だった<ref name="assist2007-w">{{Cite journal|和書 |date = 2007 |title = 取締役会長 久保允誉、熱く語る |journal = ASSIST |pages = 6-9}}</ref>。|group="注"}}の問題から主な補強が[[イリアン・ストヤノフ]]のみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた[[京都サンガF.C.]]との[[J1・J2入れ替え戦]]に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した<ref name="nike2008">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/2度目の屈辱自分たちのフットボール継承という決断/391561500915411|title=2度目の屈辱、自分たちのフットボール継承という決断|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-09-27|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2007-12-31|url=https://web.archive.org/web/20080118173327/http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw200712310236.html|title=サンフレ07年十大ニュース|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する<ref name="SPORTSNAVI081112">{{Cite web|和書|publisher=スポーツナビ|date=2008-11-12|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jleague/2008/text/200811110012-spnavi.html|title=J2を席巻した広島の強みと課題|accessdate=2012-12-31}}</ref>。また、入れ替え戦終了直後には「J2降格なら代表選考を優先して退団やむなし」と目されていた佐藤寿が「1年でJ1に帰ろう」とサポーターの前で涙ながらに頭を下げ、その後届いたJ1クラブからのオファーを全て断り残留した。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した<ref name="nike2008" /> が終盤の9連勝で浦和を抜いて逆転優勝を果たした鹿島に0-2で敗れて準優勝。C大阪(1994年、2001年、2003年)を抜いて天皇杯4連敗となった。 クラブはJ2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の[[本谷祐一]]が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した<ref name="assist2007-w" />。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった<ref name="TYUGOKU080201">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2008-02-01|url=https://web.archive.org/web/20080206091119/http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw200802010055.html|title=フロントを2本部制に 組織見直し|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 [[ファイル:Nabisco Final 2010-Hiroshima.JPG|thumb|right|250px|2010年ナビスコカップ決勝時のサンフレッチェ広島サポーターによるコレオグラフィー]] ;2008年(J2) [[ウェズレイ・ハイムンド・ペレイラ・ダ・シルヴァ|ウェズレイ]]、[[駒野友一]]は退団したものの、佐藤寿ら他の選手はチームに残留。続投するペトロヴィッチを含め、戦力の大半を維持して開幕を迎える。また、[[横浜FC]]を退団していた久保竜彦が6年ぶりに復帰した。 3月の[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス・スーパーカップ]]{{#tag:ref|Jリーグ優勝の鹿島アントラーズが天皇杯も制したため、当時の規定により天皇杯優勝チームの代替として出場。|group="注"}}で、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも勢いが留まることはなく、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した<ref name="SPORTSNAVI081112" /><ref name="nike2012">{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/攻撃的フットボールの進化圧倒的な強さで1部返り咲き/391953800876181|title=攻撃的フットボールの進化、圧倒的な強さで1部返り咲き|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-09-28|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・[[髙萩洋次郎]]・[[森脇良太]]・[[佐藤昭大]]・[[槙野智章]]・[[中林洋次]]など若手の台頭<ref name="SPORTSNAVI081112" /><ref name="nike2012" /> や、「[[ミシャ式]]」と称される独特のサッカースタイルを確立するきっかけとなった。さらに、それまでJリーグ独自で規定されていた[[移籍金]]制度が2009年をもって撤廃されたこと<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカー選手会|url=http://www.j-pfa.or.jp/activity/transfer|title=移籍制度問題|accessdate=2012-12-31}}</ref> がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、[[2008年北京オリンピックのサッカー競技|北京五輪]]U-23代表([[西川周作]]・[[水本裕貴]]・[[李忠成]])や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていた[[オシムチルドレン]]<ref>{{Cite web|和書|date=2009-12-06|publisher=[[神奈川新聞]]|url=https://web.archive.org/web/20110609094837/http://news.kanaloco.jp/localnews/article/0912060021/|title=MF山岸がJ1広島へ、1年間の期限付き移籍/フロンターレ|accessdate=2012-12-31}}</ref>([[中島浩司 (サッカー選手)|中島浩司]]・[[山岸智]]・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、[[ミハエル・ミキッチ]]や[[ダビド・ムジリ]]など[[東ヨーロッパ]]系の選手を中心に獲得するようになった。 ;2009年 J1復帰の[[2009年]]、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また[[第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]の結果により繰り上がりで翌年の[[AFCチャンピオンズリーグ2010|AFCチャンピオンズリーグ]](ACL)への出場権{{#tag:ref|前年度のJ1上位3チームならびに天皇杯優勝チームに翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権が与えられるが、J1上位3チームのいずれかが天皇杯を優勝した場合、J1第4位チームに繰り上がりで出場権が与えられる。|group="注"}}を獲得し、前身大会を含めれば[[アジアクラブ選手権1969]]出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本サッカー協会|date=2010-01-01|url=http://www.jfa.or.jp/match/topics/2010/8.html|title=AFCチャンピオンズリーグ2010 サンフレッチェ広島が出場権獲得|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.facebook.com/notes/nike-football-japan/クラブ史上初となるアジアへの挑戦権を獲得/399597626778465|title=クラブ史上初となるアジアへの挑戦権を獲得|publisher=NikeFootballJapan(facebook)|date=2012-10-19|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 2009年のJ1復帰後3年連続でJ1リーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010や天皇杯で早期敗退し、初めて進んだ[[2010年のJリーグカップ|2010Jリーグヤマザキナビスコカップ]]決勝でも逆転しながら終了間際に[[前田遼一]]に決められて延長戦の末3-5で敗れて準優勝。Jリーグカップと天皇杯を合わせての決勝戦で5連敗となり、2022年現在清水([[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2005年の天皇杯]]、[[2008年のJリーグカップ|2008Jリーグヤマザキナビスコカップ]]、[[第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2010年の天皇杯]]、[[2012年のJリーグカップ|2012Jリーグヤマザキナビスコカップ]])を抜いて最長。肝心なところで勝負弱さが露呈した<ref name="chugoku20111205">{{cite news |title=無冠でもスタイル確立 |newspaper=中国新聞 |date=2011-12-05 |page=16}}</ref>。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場はコンディションが低下、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった<ref name="chugoku20111205" />。ただ、組織的で攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された<ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-15|publisher=[[共同通信]]|url=http://www.47news.jp/EN/201105/EN2011051501000659.html|title=あとで差が出る! J2の過ごし方 スタイルの原点、確立する好機|accessdate=2012-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2011-11-19|publisher=Jマガ|url=https://news.livedoor.com/article/detail/6041429/|title=ペトロヴィッチ監督が広島に植え付けた攻撃的なスタイル|accessdate=2012-12-31}}</ref>。J2に降格しながら監督を代えなかった判断をした広島フロントは賞賛され<ref name="SPORTSNAVI081112" />、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。 === 経営改革 === {{see|Jリーグクラブライセンス制度}} 2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、[[資本金]]約21億円を99%[[資本減少|減資]]し累積赤字解消にあて、更に約2億円の[[第三者割当増資]]を行うことになった<ref>{{cite news |title=経営安定へ苦渋の選択 |newspaper=中国新聞 |date=2011-12-22 |page=17}}</ref>。 2012年5月、すべての手続が完了した<ref name="jsgoal2012-05-15" />。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64<ref name="jsgoal2012-05-15" />。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている<ref name="jsgoal2012-05-15" /><ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2012-05-16|url=http://www.47news.jp/localnews/hiroshima/2012/05/post_20120516175033.html|title=サンフレ増資2億円集まる|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し<ref>{{cite news |title=ペトロビッチ監督退任へ 契約更新せず |newspaper=中国新聞 |date=2011-11-10 |page=14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/official/detail.php?press_code=00128261&keyword=&team=451&year=2011 |title=ペトロヴィッチ監督の来季契約について |publisher=J's GOAL |date=date=2011-11-09 |accessdate=2022-02-24}}</ref>、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-12-30|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw201112300042.html|title=経営再建へ厳しい契約交渉 減俸やアップ幅抑制|accessdate=2012-12-31}}</ref>。更に2012年末、減資の責任を取る形で社長の[[本谷祐一]]が退任し、エディオン顧問の[[小谷野薫]]が新社長に就任した<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2012-12-19|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw201212190091.html|title=サンフレ新社長に小谷野氏 「経営再建進める」|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 === 2012年 - 2017年(森保 / 森保・ヨンソン時代) === {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #aeff35 solid 1px" |<div style="position: relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size: 90%; color: #003999;">'''2012年基本フォーメーション'''</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[森保一|<span style="font-size: 90%; color: #003999;">監督 '''森保一'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=1.09|scale=220|text=[[西川周作|<span style="font-size: 90%; color: white">'''西川周作'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.92|scale=220|text=[[森脇良太|<span style="font-size: 90%; color: white">'''森脇良太'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.92|scale=220|text=[[千葉和彦|<span style="font-size: 90%; color: white">'''千葉和彦'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.92|scale=220|text=[[水本裕貴|<span style="font-size: 90%; color: white">'''水本裕貴'''</span>]]}} {{Image label|x=0.66|y=0.60|scale=220|text=[[ミハエル・ミキッチ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミキッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.75|scale=220|text=[[青山敏弘|<span style="font-size: 90%; color: white">'''青山敏弘'''</span>]]}} {{Image label|x=0.50|y=0.75|scale=220|text=[[森崎和幸|<span style="font-size: 90%; color: white">'''森崎和幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.60|scale=220|text=[[清水航平|<span style="font-size: 90%; color: white">'''清水航平'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.40|scale=220|text=[[石原直樹|<span style="font-size: 90%; color: white">'''石原直樹'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.40|scale=220|text=[[髙萩洋次郎|<span style="font-size: 90%; color: white">'''髙萩洋次郎'''</span>]]}} {{Image label|x=0.35|y=0.25|scale=220|text=[[佐藤寿人|<span style="font-size: 90%; color: white">'''佐藤寿人'''</span>]]}} </div> |} ;2012年 ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、彼のサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中で[[森保一]]の名前が挙がることになった<ref name="jsgoal20111208">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00129799&keyword=&team=451&year=2011 |title=【広島:森保一新監督就任会見】森保一監督コメント |publisher=J's GOAL |date=2011-12-08 |accessdate=2022-02-24}}</ref><ref name="chugoku20111204">{{Cite web|和書|date=2011-12-04|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw201112040054.html|title=新監督に森保氏 クラブ初「生え抜き」|publisher=中国新聞|accessdate=2010-12-08}}</ref>。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった<ref name="jsgoal20111208" /><ref name="chugoku20111204" />。また、以降数年は経営改善のため積極的な補強を行えないことから、さらには独特なサッカースタイルを用いていることから他チームからの戦力補充が容易にできなくなったこともあり、手薄なところをピンポイント補強あるいは最悪の場合は現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用する方針で進んでいく<ref>{{cite news |title=5人加入 底上げ期待 |newspaper=中国新聞 |date=2013-01-13 |page=16}}</ref>。 [[2012年]][[11月24日]]、第33節の[[セレッソ大阪|C大阪]]戦に勝利し、1試合を残して<ref group="注">Jリーグが1リーグ制になってからは2010年以来となる最終節を待たずしての優勝だった。</ref> クラブ史上初となるJ1年間総合優勝を決めた<ref group="注">前身の[[東洋工業サッカー部]]時代には[[日本サッカーリーグ]]で5度優勝しており、それを含めれば1970年以来のトップリーグ戦での優勝となる。</ref>。なお、2008年にはJ2で年間優勝しているため、前年の[[柏レイソル|柏]]に続いてJ1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを持つクラブとなった。また、[[オリジナル10]]の中で3大タイトルのいずれもを取っていないチームはなくなったことになる。 [[FIFAクラブワールドカップ]](CWC)は、初戦で[[オークランド・シティFC|オークランド・シティ]]に勝利。準々決勝で[[アルアハリ]]に敗退したが、5位決定戦で[[蔚山現代FC]]に勝利して5位の成績。その一方で天皇杯では、初戦(2回戦)で[[FC今治]]([[四国サッカーリーグ|四国リーグ]])に1-2で敗れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/09/08/kiji/K20120908004071860.html|title=天皇杯2回戦 J1広島が“4部”に敗戦 神戸はJFLに不覚|work=[[スポーツニッポン]]|date=2012-09-08|accessdate=2014-07-11}}</ref>。 ;2013年 J1リーグ戦ではACLでの不調も響き、[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|コンフェデレーションズカップ]]によるリーグ戦中断時点では、首位[[大宮アルディージャ|大宮]]と勝点差8、ACL圏内となる3位の[[横浜F・マリノス|横浜FM]]とは勝点差3の5位となる。リーグ戦再開直後から5連勝し、前半戦最後となる第17節終了時には大宮と勝点で並び得失点差で首位に立つが、第21節[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦での引き分けを期に、3連敗を含む5試合勝利なしとなり、一旦3位まで順位を下げる。第26節から3連勝し再び首位に立つも、第29節、横浜FMとの直接対決に敗れ、横浜FMと同節で勝利した[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]に抜かれ再び3位に降格。第33節[[湘南ベルマーレ|湘南]]戦の勝利で2位に再浮上し、優勝するには勝利が絶対条件となる最終節アウェーで、森保就任前まではやられっ放し、かつ[[カシマスタジアム]]でのJ1シーズンホーム最終戦で1998年から15シーズン負けなし(14勝1分)と「難攻不落」だった[[鹿島アントラーズ|鹿島]]<ref>{{cite news|date=2013-12-06|url=https://web.archive.org/web/20131207072603/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20131206-OHT1T00224.htm|title=【広島】逆転連覇へ鹿島戦5発の寿人「モチベーションが上がる」|publisher=スポーツ報知|accessdate=2013-12-13}}</ref> に2-0で勝ち、前節まで首位にいた横浜FMが[[川崎フロンターレ|川崎]]に0-1と敗れたため、劇的な逆転で2年連続優勝を飾った<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20131207-1228102.html 広島逆転2連覇] 日刊スポーツ 2013年12月7日閲覧</ref>。 [[AFCチャンピオンズリーグ2013|AFCチャンピオンズリーグ]]では、怪我人が多く出たのも重なりJリーグ王者としては7シーズンぶりにグループステージ敗退。ホームアンドアウェー制となった2004年以降では日本サッカー史上初(厳密には[[AFCチャンピオンズリーグ2006|2006年のACL]]の[[東京ヴェルディ1969]]以来2チーム目<ref group="注">[[AFCチャンピオンズリーグ2006|2006年のACL]]で東京ヴェルディは[[蔚山現代FC|蔚山現代ホランイ]]、[[インドネシア]]の[[アレマ・マラン]]、[[タイ王国]]の[[TTMピチットFC|タバコ・モノポリー]]と同じグループだったが、アレマ・マランとタバコ・モノポリーが失格だったため、蔚山現代との[[一騎討ち]]となり、東京ヴェルディは2連敗で敗退した。</ref>)のグループステージ勝利なしという不名誉な記録も付いた。 同年の天皇杯は、2008年以来となる6年ぶりの決勝に進出したが、決勝ではリーグ戦で優勝を争った横浜FM<ref group="注">Jリーグ開幕後リーグ戦の上位2チームが決勝で対戦するのは、史上初めて。</ref> に0-2で敗れ、東洋工業時代を含めて決勝戦8連敗(Jリーグ発足後だけでも5連敗)となり、またしてもジンクスを破る事が出来なかった。 ;2014年 2014年は、リーグ連覇に貢献した西川が浦和に移籍してしまうものの、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[林卓人]]が10年ぶりの復帰となったほか、[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]より[[柏好文]]が複数クラブとの争奪戦を制し獲得、[[徳島ヴォルティス|徳島]]より[[柴崎晃誠]]を獲得した。Jリーグ王者として挑んだシーズンの開幕を告げる[[2014年のスーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックススーパーカップ]]では2-0で横浜FMに快勝し、公式戦では森保就任後初めて横浜FMに勝利した。史上2チーム目の3連覇をかけたリーグ戦では29失点だった昨シーズンから37に増加し、リーグ戦3連覇が消えたばかりか、ACL出場圏も獲得出来ず8位に終わった。特に、関東でのアウェーでの試合は1勝も出来ずに終わった。[[AFCチャンピオンズリーグ2014|2014年のAFCチャンピオンズリーグ]]では、アウェーこそ全く勝てなかったものの、前年の準優勝チーム・[[FCソウル]]をホームで迎えた第3節で森保就任後ACL初勝利。最終節も勝利し、3回目の挑戦にしてクラブ史上初のグループリーグ突破を果たした。決勝トーナメントでは、当時[[小野伸二]]が所属していた[[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC|ウェスタン・シドニー]]と対戦。第1戦は3-1で快勝したものの、第2戦はゴールデンウィークにかけての11連戦の10戦目だったのに加え、12時間にも及ぶ長距離移動も重なって満足に練習が出来なかった影響からか第1戦のアドバンテージを生かせず0-2で敗戦。エディオンスタジアム広島での1失点が重く圧し掛かり、逆転でベスト16敗退となった。2年連続決勝進出を目指した天皇杯は[[ガンバ大阪|G大阪]]に敗れベスト16どまり。ナビスコカップは当時リーグ戦では2012年の開幕戦以来5連敗中と相性の悪い浦和に2戦合計2-2(ホームでの第1戦0-0)で、準決勝は史上4チーム目の2連覇<ref group="注">これまで連覇を達成しているのは東京ヴェルディ、千葉、鹿島の3チーム。</ref> を狙う柏に2戦合計3-2(ホームでの第1戦は2-0)と準々決勝、準決勝共に前年のファイナリストを相手に主力を代表招集で欠きながら<ref group="注">準々決勝は水本と皆川が、準決勝は水本と塩谷がそれぞれ代表に選ばれた。</ref> も競り勝ち、2010年以来となる4年ぶりの決勝に進んだ。しかし決勝では、リーグ戦で勝てず(1分1敗)天皇杯でもベスト16敗退に追い込まれたG大阪相手に、ナビスコカップ通算最多得点記録の更新がかかる佐藤の2ゴールで2点を先制するも、その後3点を奪われ逆転負け。監督が森保に代わってもカップ戦の勝負弱さを克服出来ないまま決勝戦7連敗(前身の東洋工業時代を含めると、決勝戦9連敗)<ref group="注">2つのカップ戦を合わせた成績で、ナビスコカップは2連敗目。</ref> となってしまい、3大タイトルでは3年ぶりの無冠に終わってしまった。 {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #aeff35 solid 1px" |<div style="position: relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size: 90%; color: #003999;">'''2015年Jリーグ基本フォーメーション'''</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: #003999;">監督 '''森保一'''</span>}} {{Image label|x=0.39|y=1.09|scale=220|text=[[林卓人|<span style="font-size: 90%; color: white">'''林卓人'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.92|scale=220|text=[[塩谷司|<span style="font-size: 90%; color: white">'''塩谷司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.97|scale=220|text=[[佐々木翔 (サッカー選手)|<span style="font-size: 80%; color: white">(佐々木翔)</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=1.02|scale=220|text=[[宮原和也|<span style="font-size: 80%; color: white">(宮原和也)</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.92|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''千葉和彦'''</span>}} {{Image label|x=0.10|y=0.92|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''水本裕貴'''</span>}} {{Image label|x=0.66|y=0.60|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミキッチ'''</span>}} {{Image label|x=0.20|y=0.75|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''青山敏弘'''</span>}} {{Image label|x=0.50|y=0.75|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''森崎和幸'''</span>}} {{Image label|x=0.13|y=0.60|scale=220|text=[[柏好文|<span style="font-size: 90%; color: white">'''柏好文'''</span>]]}} {{Image label|x=0.10|y=0.65|scale=220|text=<span style="font-size: 80%; color: white">(清水航平)</span>}} {{Image label|x=0.55|y=0.40|scale=220|text=[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ドウグラス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.40|scale=220|text=[[柴崎晃誠|<span style="font-size: 90%; color: white">'''柴崎晃誠'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.45|scale=220|text=[[森崎浩司|<span style="font-size: 80%; color: white">(森崎浩司)</span>]]}} {{Image label|x=0.35|y=0.25|scale=220|text=<span style="font-size: 90%; color: white">'''佐藤寿人'''</span>}} {{Image label|x=0.35|y=0.30|scale=220|text=[[浅野拓磨|<span style="font-size: 80%; color: white">(浅野拓磨)</span>]]}} </div> |} ;2015年 2015年2月に小谷野薫が[[2015年広島市長選挙|広島市長選挙]]出馬の為、社長の座を退いた。後任には前強化部長の[[織田秀和]]が就いた。髙萩が海外挑戦のため退団し、石原は[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]に移籍、シャドーのレギュラー2選手を同時に失った。その後釜に[[徳島ヴォルティス|徳島]]から[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]]、2009年オフにもオファーを出していた[[京都サンガF.C.|京都]]の[[工藤浩平]]を獲得。このうち工藤はリーグ戦僅か6分の出場に留まり、6月に[[松本山雅FC]]に移籍。ドウグラスとボランチからコンバートさせた柴崎が穴を埋めて余りある活躍を見せることになる。1stステージは浦和に独走を許しながら3位につける。2ndステージに入ると第1節、第2節をそれぞれ4得点、6得点と攻撃陣が爆発し2連勝、続く第3節ではアウェーで浦和に逆転勝利を収め、このシーズン初めて年間勝点首位に浮上。その後は浦和とのマッチレースの様相を呈したが、森保就任からの武器だった持ち前の守備力に攻撃力が加わり、1stステージ同様に大崩れする事なく、最終節で湘南に勝利し2ndステージ優勝と年間勝点1位が確定。年間の勝ち点74は現行の制度下での最高記録。またアウェーで13勝3分1敗の勝ち点42を挙げいずれも現行の制度で新記録<ref>厳密には14勝を挙げた2002年の磐田と1994年のV川崎(現在の東京V)に次いで3番目だが、当時は延長戦やPK戦がありこれらの決着を引き分けとして換算すると90分での成績は2002年の磐田が9勝6分の勝ち点33止まり、1994年のV川崎が11勝6分5敗の勝ち点39止まりとなる為である。</ref> となった。 [[Jリーグチャンピオンシップ]]は年間勝点1位のため準決勝をシードされ、勝ち上がった年間3位の[[ガンバ大阪|G大阪]]と対戦。敵地で行われた第1戦は後半アディショナルタイムに2得点生まれ、3-2で劇的な逆転勝ち。満員のホームで迎えた第2戦は先制されながら浅野の同点ゴールで1-1、2戦合計4-3で年間優勝を勝ち取った。これで森保監督は4年間で3度のリーグ優勝を果たした。佐藤が2ndステージ最終節でJ1通算157ゴール目を記録し[[中山雅史]]と並びJ1通算最多得点保持者となったのを筆頭に、ドウグラスは得点ランキング2位の21ゴール(チームのJ1におけるシーズン最多得点記録)、[[浅野拓磨]]は先発出場の機会こそ無かったがリーグ戦初を含む8ゴールを決めスーパーサブに定着、[[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|ベストヤングプレーヤー賞]]を受賞した。[[Jリーグアウォーズ]]では青山がMVPに輝き、ベストイレブンには青山に塩谷、ドウグラスを加えた3人が選出された。森保も3度目の最優秀監督賞を受賞。また、優秀選手賞を7人が受賞している。青山は1stステージ最終節鳥栖戦のゴールで年間最優秀ゴールも受賞。チームとしても4年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞し優勝に花を添えた。 開催国王者枠として3年ぶりに出場した[[FIFAクラブワールドカップ2015]]では、[[オークランド・シティFC]]、[[マゼンベ|TPマゼンベ]]を破り、準決勝で南米王者である[[CAリーベル・プレート|リーベル・プレート]]に善戦したものの0-1で敗退。3位決定戦で[[AFCチャンピオンズリーグ2015|アジア王者]]の[[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]に逆転勝ちし、2007年の[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]、2008年の[[ガンバ大阪|G大阪]]に次ぐ、日本のクラブ史上3チーム目の3位入賞を果たした。その他のカップ戦では、サブメンバー主体で臨んだ[[2015年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は予選リーグ敗退。[[第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]ではベスト4まで勝ち進むが、前年も天皇杯のベスト16で敗れたG大阪に準決勝で敗北した。 ;2016年 {{main|2016年のサンフレッチェ広島F.C}} [[2016年のJリーグ|2016年]]は新たに森保監督と2017年シーズンまでの2年契約で合意し森保体制5年目。[[山岸智]]らが契約満了にて退団、またドウグラスの慰留に失敗し完全移籍・期限付き移籍延長のいずれにも合意することができず、チームトップスコアラーでリーグ優勝とCWC3位の立役者を失う事になった。ドウグラスの代役として[[清水エスパルス|清水]]の[[ピーター・ウタカ]](期限付き移籍)や[[京都サンガF.C.|京都]]の[[宮吉拓実]]、[[モンテディオ山形|山形]]の[[金範容|キム・ボムヨン]](いずれも完全移籍)らを補強し、新卒では[[三重県立四日市中央工業高等学校|四日市中央工業高]]から[[森島司]]、ユースから[[長沼洋一]]が入団。 シーズン初戦となった[[2016年のスーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックススーパーカップ]]では[[第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]優勝の[[ガンバ大阪|G大阪]]と3年間で10回目の対戦、佐藤寿人や新加入のウタカの得点でタイトルを手にした。しかし、リーグ戦では佐々木が1stステージ第4節で[[横山知伸]]に危険なタックルを受け右膝前十字靭帯を断裂、これを皮切りに怪我人が続出する苦しい台所事情を強いられ、ウタカが得点王争いのトップに立つなどの活躍はあったが1stステージを4位で折り返す。2ndステージでは[[アーセナルFC|アーセナル]]への海外挑戦を決めた浅野らの退団や[[アンデルソン・ロペス]]・[[野上結貴]]の加入など多少の選手の入れ替わりがあったものの、勝負所第9節からの7試合で5敗(特に12節の浦和戦から3連敗)を喫するなど失速。2ndステージ10位・年間勝ち点6位と前半戦から順位を落とす結果に終わった。Jリーグアウォーズではウタカが19得点で得点王(レアンドロと同点)、塩谷が3年連続でベストイレブン、チームとして5年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞した。 リーグ戦より一足先に開幕したACLは山東魯能、FCソウル、[[ブリーラム・ユナイテッドFC|ブリーラム・ユナイテッド]]と同組となる。過去の参戦シーズン同様若手中心の消極的な選手起用が目立ち、最終戦を残してグループステージ敗退が決定。チームのACL観客動員数が歴代最多動員を記録した最終戦のFCソウルこそ2-1で勝利し意地は見せたが、それ以外の試合は観客動員数が10000人を割り込む等<ref group="注">特に初戦の山東魯能戦は5809人と50000人収容である筈のエディオンスタジアム広島ながら6000人をも割り込む有様だった。</ref> クラブ・サポーター双方共にACLへの関心の薄さが改めて浮き彫りとなった。また、カップ戦は、[[2016年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]、天皇杯ともにベスト8で敗退しシーズンを終えた。 ;2017年 {{main|2017年のサンフレッチェ広島F.C}}<!--詳細は年度別記事に記載し、本記事では概略のみ述べてください--> 森保体制6年目。前シーズンをもって森崎浩司が引退、佐藤・ウタカらが退団した一方、[[フェリペ・デ・オリベイラ・シウバ|フェリペ・シウバ]]、[[工藤壮人]]らが完全移籍で加入した。また、ロペスの期限付き移籍期間を延長した。 攻撃陣の不調で開幕から出遅れ降格圏に沈んだチームは7月に森保の退任を発表、前任ペトロヴィッチと並ぶ長期間の森保体制は5年半で終了した。数試合を[[横内昭展]]の指揮で戦ったのち新たに監督に就任したクラブOBの[[ヤン・ヨンソン]]の下、[[アンデルソン・パトリック・アグウイアル・オリベイラ|パトリック]]や[[丹羽大輝]]を補強し、ペトロビッチ・森保体制下で継続してきた3-4-2-1のフォーメーションと決別したチームは持ち直し、ホーム最終戦となった第33節[[FC東京]]戦で新加入の[[稲垣祥]]の勝ち越しゴールで残留を確定させた。最終順位は15位。ヨンソンは次年度に続投することなく、清水で監督に就任してチームを去った。 === 2018年 - 2021年(城福 / 城福・沢田時代) === ;2018年 [[日本サッカー協会]]に戻っていた[[城福浩]]を新たな監督に迎える。開幕から3連勝、さらに6戦負けなし、しかもその勝利を挙げたチームの中には前年ACLに出場した鹿島、浦和、川崎という上位進出も期待出来るチームも含めて9試合で8勝1分で首位を独走。第10節にFC東京に敗れて初黒星を喫したが、第11節から4連勝となるも、[[2018 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]によるリーグ戦中断前最後の第15節に2敗目を喫するも、2位との勝点差は9であった。だが再開後にチーム状態は暗転。第26節以降全く勝てず、首位陥落した第28節から6連敗、最終6試合勝ちなし(うち4試合が完封負け)と深刻な得点力不足に悩まされ、川崎に逆転され2位でシーズン終了。 ;2019年 2月のACLプレーオフを勝利すると、グループステージを久しぶりに突破してベスト16に進出。アウェーゴールの差で鹿島に敗退した。最終的に6位に終わったリーグ戦でも若手が台頭し、特に[[大迫敬介]]や[[森島司]]、[[松本泰志 (サッカー選手)|松本泰志]]は離脱した林、柴崎、青山の穴を埋め、ACLで出色のパフォーマンスを見せた[[荒木隼人]]は水本・吉野からレギュラーの座を奪い、前年復帰した[[川辺駿]]はリーグ戦全試合に出場した。新戦力では[[ドウグラス・ダ・シルバ・ヴィエイラ|ドウグラス・ヴィエイラ]]がポストプレーを武器に1トップに定着、[[ハイネル・サントス・ナシメント|ハイネル]]も後半戦は不動の右ウィングバックとして活躍した。一方前年終盤から不振を極めていたパトリックは、この年背番号10を背負うも新戦術に順応できずG大阪に出戻り。少なくなった初優勝メンバーの水本も、夏の移籍で松本に新天地を求めた。また、再びチーム伝統の3-6-1システムに取り組んだこともあり、前年右SBを担った[[和田拓也 (サッカー選手)|和田拓也]]が早々に構想外となり横浜FMへ移籍した。水本と入れ替わりで松本から加入した[[レアンドロ・マルコス・ペルチェナ・ペレイラ|レアンドロ・ペレイラ]]は怪我で実働10試合に満たなかったが、出場した試合では貴重な得点源として得点力不足の解消に一役買った。 総じてチームの若返りに成功したが、チームの最多得点者が柏の8点という状況から見て取れるように特にゴールを奪えるフォワード不足は本年も解消されることは無かった。 ;2020年 城福体制3年目、[[櫛引一紀]]を大宮アルディージャから、[[永井龍]]を松本山雅FCから獲得するが補強効果は限定的で、加入2年目を迎えたレアンドロ・ペレイラがリーグ3位の15得点を挙げチームを牽引。[[新型コロナウイルス感染症]]の影響を受け変則日程・J2降格無しのレギュレーションにて行われたリーグ戦・ルヴァンカップ共に好調な滑り出しを見せるも、終盤にかけて勝ちきれない引き分け続きの試合が増え、結果的にリーグ戦を中位の8位で終えた。過密日程の中で若手の起用が目立ったシーズンでもあり、[[特別指定選手]]としてプレーした<ref>{{Cite web|和書|title=藤井智也選手(立命館大学) 、2020年JFA・Jリーグ特別指定選手 承認のお知らせ |url=https://www.sanfrecce.co.jp/news/team/2564 |website=サンフレッチェ広島 {{!}} SANFRECCE HIROSHIMA |accessdate=2022-01-18 |language=ja}}</ref>[[藤井智也]]はリーグ戦15試合に出場した。 ;2021年 城福体制4年目。前年末にペレイラとの契約に合意できず(その後G大阪へ)この年も外国人ストライカーの慰留に失敗。新たな得点源として横浜FMでリーグ戦22試合13得点とインパクトを残していた[[ホセ・アントニオ・ドス・サントス・ジュニオール|ジュニオール・サントス]]を完全移籍で獲得<ref>{{Cite web|和書|title=広島が“新エース候補”ジュニオール・サントスを獲得 横浜FMで昨季13得点「全力を尽くしたい」 |url=https://www.football-zone.net/archives/302122 |website=www.football-zone.net |accessdate=2022-01-18 |language=ja}}</ref> した。 過去3シーズンと異なり「この選手たちと違う景色が見たい」という城福の理想とするサッカーを体現するべく、この年はシーズン途中から4バックを取り入れるなどの改革を進めた<ref>[https://www.footballista.jp/special/123850 サンフレッチェ広島と城福浩の4年間(後編)。「違う景色が見たい」2021年の混迷の理由] footballista([[中野和也]])、2021年11月10日、2022年8月20日閲覧</ref> が、新フォーメーションの1トップを担う[[ドウグラス・ダ・シルバ・ヴィエイラ|ドウグラス・ヴィエイラ]]が故障、チームは第8節の4位を最高点に中位に定着。川辺が[[グラスホッパー・クラブ・チューリッヒ|グラスホッパー]]へ引き抜かれて以降は攻守に精彩を欠き、この年降格する仙台にシーズン敗北を喫した第33節を以て城福の退任が決定(試合に敗れたもののJ1残留も確定)。残る5試合は[[沢田謙太郎]]ヘッドコーチが監督職を引き継いだが状態は上向くことなく、リーグ11位でフィニッシュ。また、天皇杯初戦(2回戦から登場)では本職ではない選手をDFに置くなど極端なターンオーバーを行った挙句、[[関西サッカーリーグ]]1部に所属する[[おこしやす京都AC]]に1-5で大敗するなど、リーグ戦順位以上に屈辱的な1年を過ごした。 === 2022年 - (スキッベ時代)=== ;2022年 [[ミヒャエル・スキッベ]]を新監督に、前[[ファジアーノ岡山|岡山]]監督の[[有馬賢二]]や前川崎GKコーチの[[菊池新吉]]らを新コーチに迎えるなど、スタッフを大きく入れ替えて開幕を迎える。 コロナ禍による日本への入国制限でスキッベの来日が遅れ、[[迫井深也]]ヘッドコーチの指揮した序盤こそ苦戦したものの、下部組織出身の[[満田誠]]、[[野津田岳人]]、[[川村拓夢]]、過去にスキッベの下でプレーした[[ナッシム・ベン・カリファ]]らが台頭。リーグ第28節で2019年以来の5連勝を飾り、暫定ながら首位に立つなど上位争いを演じた。終盤は川崎との直接対決に敗れて以降は1勝2敗2分と失速したものの、リーグ戦ではACLプレーオフ圏内となる3位でフィニッシュした{{efn|group=注|実際には[[AFCチャンピオンズリーグ2022|2022シーズンのACL]]で[[浦和レッズ]]が優勝したため、大会規定により<ref>{{Cite web|url=https://www.the-afc.com/competitions/afc-champions-league/latest/news/more-member-associations-to-benefit-from-inclusive-afc-champions-league|title=More Member Associations to benefit from inclusive AFC Champions League|website=the-afc.com |publisher=Asian Football Confederation|date=23 November 2019 |access-date=2022-11-18}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.the-afc.com/competitions/afc-champions-league/latest/news/acl-2020-to-kick-off-in-singapore-and-philippines |title=ACL 2020 to kick-off in Singapore and Philippines |website=the-afc.com |publisher=Asian Football Confederation |date=13 January 2020 |access-date=2022-11-18}}</ref>J1リーグ3位クラブのACLプレーオフ出場権は浦和に与えられた。J1リーグで3位に入ったクラブがACL出場権を得られなかった事例は2009年にACLが32チーム制に変わってから史上初めて<ref>[https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/Jleague-J1-MD34-result-Marinos3-20221105/bltfb4b20b847465217 横浜FM、川崎&甲府がACL本戦出場!3位広島は浦和のACL決勝の結果次第でPOへ](GOAL)</ref>。}} [[天皇杯 JFA 第102回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、[[ミネベアミツミFC|ホンダロックSC]]、横浜FC、[[ザスパクサツ群馬]]、C大阪、京都を下し、[[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2013年]]以来9大会ぶりの決勝進出を果たした。[[ヴァンフォーレ甲府]]との決勝戦では延長後半・PK戦で2度のPK失敗を喫し敗戦。これで天皇杯決勝は東洋工業時代を含めて9連敗(Jリーグ発足後だけでも6連敗)となってしまった。 [[2022年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]は名古屋、清水、徳島と同居するグループBを4勝2敗で首位通過。プレーオフで札幌に勝利し3年ぶりの決勝トーナメント進出。準々決勝で横浜FM、準決勝で福岡を破り、2014年大会以来8年ぶり、2022年シーズンでは通算4回目の対戦となるC大阪が待つ決勝に駒を進めた<ref>なお過去2回(2010年と2014年)はいずれもACLに出場していた関係でグループステージを免除されていた為、グループステージを勝ち抜く形で決勝に進出したのは史上初である。</ref>。優勝を逃した天皇杯決勝の翌週に行われた決勝では広島ユース出身のC大阪[[加藤陸次樹]]に先制点を奪われるも、夏の補強で加入した[[ピエロス・ソティリウ]]が途中出場から試合終了間際に2ゴールを挙げ<ref>ソティリウはJリーグカップ決勝戦史上9人目の1試合2ゴールでこの内途中出場からは延長戦で達成した[[小林悠 (サッカー選手)|小林悠]]に続いて2人目。ブラジル人以外の外国人選手がこれを達成した事、及び途中出場の選手が90分間+アディショナルタイムでの決着で2ゴールを挙げた事はいずれもJリーグカップ決勝戦史上初である。この活躍が評価されたソティリウは、ヨーロッパ諸国出身選手としては史上初の大会MVPを受賞した。</ref>、逆転勝利<ref group="注">これにより、オリジナル10では消滅した[[横浜フリューゲルス]]を除く全てのクラブがルヴァンカップ(旧ナビスコカップ)で1度は優勝を達成した。</ref>で悲願のルヴァンカップ初優勝を果たした。 ;2023年 第10節終了時点では2位になったが、怪我人の続出や得点力不足に喘ぎ、勝ちを重ねられず徐々に順位が低下。更に夏の移籍で[[森島司]]が退団するが、加藤陸次樹がユース卒業以来の復帰を果たしすぐに先発メンバーに定着、[[マルコス・ジュニオール・リマ・ドス・サントス|マルコス・ジュニオール]]も稼働は短時間ながら卓越した攻撃力を発揮して穴を埋める。怪我人の復帰した後半戦は持ち直し、2年連続で3位の成績を収めた。なお、J1・33節のG大阪戦がエディオンスタジアム広島での最終公式戦となり、3-0の勝利で華を添えた。同年限りで[[林卓人]]が引退(前述G大阪戦に途中出場)、2002年よりスカウト・2015年より強化部長を務めた[[足立修]]が公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りにより退任した。 {{main2|詳細は[[サンフレッチェ広島F.Cの年度別成績一覧]]}} == タイトル・表彰 == {{main2|詳細は[[サンフレッチェ広島F.Cの年度別成績一覧#タイトル]]}} === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]] ** '''年間:3回''' *** [[2012年のJリーグ|2012]], [[2013年のJリーグ|2013]], [[2015年のJリーグ|2015]] ** '''1stステージ:1回''' *** [[1994年のJリーグ|1994]] ** '''2ndステージ:1回''' *** [[2015年のJリーグ|2015]] * '''[[J2リーグ]]:1回''' ** [[2008年のJリーグ|2008]] * '''[[Jリーグカップ]]:1回''' ** [[2022年のJリーグカップ|2022]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:4回''' ** 2008, 2013, [[2014年のスーパーカップ (日本サッカー)|2014]], [[2016年のスーパーカップ (日本サッカー)|2016]] === その他タイトル === * '''[[トヨタプレミアカップ]]''':1回 ** 2016 === 表彰 === ;[[日本年間最優秀選手賞]] * 2012年 - [[佐藤寿人]] ;Jリーグ * MVP ** 2012年 - 佐藤寿人 ** 2015年 - [[青山敏弘]] * [[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]] ** 2012年 - 佐藤寿人(22ゴール) ** 2016年 - [[ピーター・ウタカ]](19ゴール) * [[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] ** 1994年 - [[高木琢也]] ** 2005年 - 佐藤寿人 ** 2010年 - [[槙野智章]] ** 2012年 - [[西川周作]]、[[水本裕貴]]、青山敏弘、[[髙萩洋次郎]]、佐藤寿人 ** 2013年 - 西川周作、青山敏弘 ** 2014年 - [[塩谷司]] ** 2015年 - 塩谷司、青山敏弘、[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]] ** 2016年 - 塩谷司 * 新人王(ベストヤングプレーヤー賞) ** 2000年 - [[森崎和幸]] ** 2015年 - [[浅野拓磨]] * フェアプレー賞/[[高円宮杯]]:8回 ** [[2010年のJリーグ|2010年]]・[[2012年のJリーグ|2012年]]・[[2013年のJリーグ|2013年]]・[[2014年のJリーグ|2014年]]・[[2015年のJリーグ|2015年]]・[[2016年のJリーグ|2016年]]・[[2017年のJリーグ|2017年]]・[[2018年のJリーグ|2018年]] * フェアプレー個人賞 ** 2004年 - [[下田崇]] ** 2007年 - 佐藤寿人 ** 2009年 - [[服部公太]] ** 2010年 - 槙野智章 ** 2012年 - 佐藤寿人 ** 2013年 - 佐藤寿人 ** 2014年 - 水本裕貴 ** 2017年 - 水本裕貴 * 最優秀監督賞 ** 2012年 - [[森保一]] ** 2013年 - 森保一 ** 2015年 - 森保一 * 優秀監督賞 ** 2022年 - [[ミヒャエル・スキッベ]] ;Jリーグカップ * ニューヒーロー賞 ** 2010年 - 髙萩洋次郎 * 得点王 ** 2009年 - 佐藤寿人 ** 2022年 - [[ホセ・アントニオ・ドス・サントス・ジュニオール|ジュニオール・サントス]] * MVP ** 2022年 - [[ピエロス・ソティリウ]] ;その他 * [[アジアサッカー連盟|AFC]]月間最優秀ゴール賞:[[久保竜彦]](2000年8月19日、J1・2nd第10節 G大阪戦)<ref>{{Cite web|和書|author=中国新聞|date=2010-4-27|url=https://web.archive.org/web/20001017124853/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw00090901.html|title=久保に最優秀ゴール賞|accessdate=2010-06-05}}</ref> * [[FIFAクラブワールドカップ]]得点王:佐藤寿人(2012年) * [[FIFAプスカシュ賞]]ノミネート:佐藤寿人(2014年3月8日、J1第2節 川崎戦) == 記録 == {{main2|詳細は[[サンフレッチェ広島F.Cの年度別成績一覧#記録]]}} === クラブ記録 === ;公式戦初試合 * リーグ戦:2-1(1993年5月16日、Jサントリーカップ第1節 市原戦) * リーグ杯:2-3(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1節 読売ヴェルディ戦) * カップ戦:2-0(1992年12月5日、天皇杯1回戦 同志社大学戦) ;1試合最多 * 得点 ** リーグ戦:7-1(2008年9月7日、J2第34節 岐阜戦) ** リーグ杯:7-0(2009年5月30日、ヤマザキナビスコカップ第4節 大宮戦) ** カップ戦:8-0(2015年9月5日、天皇杯2回戦 [[広島経済大学]]戦) * 失点 ** リーグ戦:0-7(2009年10月25日、J1第30節 川崎戦) ** リーグ杯:3-6(2016年9月4日、YBCルヴァンカップ準々決勝第2戦 G大阪戦) ** カップ戦:1-5(2021年6月16日、天皇杯2回戦 対[[おこしやす京都AC]]戦)  ;公式戦連続記録 *勝敗 **連勝:10試合(J2リーグ戦のみ、2003年3月23日-2003年5月10日) **連敗:7試合(J1リーグ戦のみ、2002年7月24日-2002年8月31日) **未敗戦:16試合(13(J2)+3(天皇杯)、2008年8月23日-2008年12月6日) **未勝利:14試合(1(天皇杯)+10(J1)+3(ヤマザキナビスコカップ)、2005年12月10日-2006年4月29日) **引分:4試合(J1リーグ戦のみ、2004年10月3日-2004年10月31日) *得失点 **得点:25試合(7(J1)+13(J2)+1(ヤマザキナビスコカップ)+4(天皇杯)、2008年5月11日-2009年4月26日) **無失点:7試合(J2リーグ戦のみ、2003年9月6日-2003年10月11日) **無得点 ***4試合(2(J)+2(チャンピオンシップ)、1994年11月16日-1994年12月2日) ***4試合(Jリーグ戦のみ、1995年8月26日-1995年9月9日) **失点:17試合(12(J1)+3(ヤマザキナビスコカップ)+2(カップ)、2005年11月27日-2006年4月29日) === 個人記録 === ;試合出場記録 * 最年少:[[髙萩洋次郎]](2種登録)、16歳8ヶ月3日(2003年4月5日、J2第4節 湘南戦) * 最年長:[[ミハエル・ミキッチ]]、37歳5ヶ月25日(2017年7月1日、J1第17節 浦和戦) * 1シーズン最多:[[柳本啓成]]、55試合(50(J)+5(カップ)、1995年) * 在籍最多:[[服部公太]]、543試合(365(J1)+85(J2)+51(リーグ杯)+36(カップ)+2(入替戦)+1(スーパーカップ)+5(ACL)、1996年-2011年) * 公式戦連続:服部公太、143試合(74(J1)+44(J2)+14(リーグ杯)+11(カップ)、2002年11月30日-2006年4月22日) ** リーグ戦のみ:服部公太、218試合(133(J1)+85(J2)、2002年11月30日-2008年11月30日) ;ゴール記録 * 最年少:[[髙柳一誠]](2種登録)、17歳10ヶ月10日(2004年7月24日、ナビスコカップ第6節 東京V戦) ** リーグ戦:髙萩洋次郎、18歳0ヶ月19日(2004年8月21日、J1・2nd第2節 C大阪戦) * 最年長:ミハエル・ミキッチ、37歳4カ月8日(2017年5月14日、J1第11節 C大阪戦) * 1シーズン最多:[[佐藤寿人]]、31ゴール(28(J2)+2(カップ)+1(スーパーカップ)、2008年) * 1シーズン最多([[J1リーグ]]のみ):佐藤寿人、22ゴール(2012年) * 1試合個人最多:[[高橋泰]]、4ゴール(2003年4月19日、J2第7節 横浜FC戦) * 在籍最多:佐藤寿人、201ゴール(134(J1)+28(J2)+21(リーグ杯)+12(カップ)+2(スーパーカップ)+1(ACL)+3(クラブW杯)、2005年-2014年現在) * 公式戦連続:[[森崎浩司]]、5試合(J2リーグにて、2003年4月19日-2003年5月10日)、[[李忠成]](J1リーグにて、2010年9月18日-2010年10月24日) ;その他 *最長在籍年数:20年 **[[森崎和幸]](1999年-2018年、ユースも含めると22年在籍) * 公式戦連続フルタイム出場:服部公太、143試合(上記連続出場と同じ) ** リーグ戦のみ:服部公太、171試合(127(J1)+44(J2)、2002年11月30日-2007年10月6日) * 公式戦初ゴール:[[森保一]](1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1戦 読売V戦、前半25分) ** リーグ戦初ゴール:[[風間八宏]](1993年5月16日、Jサントリー第1節 市原戦、前半1分) <!-- * リーグ通算ゴールhttps://web.archive.org/web/20000818010646/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw00080201.html --> <!--* J1最速ゴール:佐藤寿人、開始8秒(2006年4月22日、J1第9節 C大阪戦)2015年現在で岩下祐三の開始7秒--> * 兄弟初アベックゴール:森崎和幸・森崎浩司(2004年5月5日、J1・1st第8節 C大阪戦) == 国際記録 == {{main2|詳細は[[サンフレッチェ広島F.Cの年度別成績一覧#国際記録]]}} === 国際試合 === * 親善および練習試合は除く * 2013年から広島ビッグアーチはネーミングライツ導入しエディオンスタジアム広島となったが、FIFA([[国際サッカー連盟]])の規定により、FIFA主管[[AFCチャンピオンズリーグ]]でAFC([[アジアサッカー連盟]])公式スポンサー以外の[[国際サッカー連盟#クリーンスタジアム|私企業の名前を冠したスタジアム名等をつける事が禁止]]されている。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" ! 開催年!!月日 !! 大会名 !! 対戦相手 !! 会場 !! 結果 |- |rowspan=6|2010年||2月24日||rowspan="6"|[[AFCチャンピオンズリーグ2010|ACL2010]] グループリーグ||{{Flagicon|CHN}} [[山東魯能泰山]]||[[広島広域公園陸上競技場|広島ビッグアーチ]]||● 0-1 |- |3月10日||{{Flagicon|KOR}} [[浦項スティーラース]]||[[浦項スティールヤード]]||● 1-2 |- |3月24日||{{Flagicon|AUS}} [[アデレード・ユナイテッドFC]]||[[ハインドマーシュ・スタジアム]]||● 2-3 |- |3月30日||{{Flagicon|AUS}} アデレード・ユナイテッドFC||広島ビッグアーチ||○ 1-0 |- |4月13日||{{Flagicon|CHN}} 山東魯能泰山||[[山東省体育中心体育場]]||○ 3-2 |- |4月27日||{{Flagicon|KOR}} 浦項スティーラース||広島ビッグアーチ||○ 4-3 |- |rowspan="3"|2012年||12月6日||[[FIFAクラブワールドカップ2012|FCWC2012]] 1回戦||{{Flagicon|NZL}} [[オークランド・シティFC]]||[[横浜国際総合競技場]]||○ 1-0 |- |12月9日||FCWC2012 準々決勝||{{Flagicon|EGY}} [[アル・アハリ]]||rowspan="2"|[[豊田スタジアム]]||● 1-2 |- |12月12日||FCWC2012 5位決定戦||{{Flagicon|KOR}} [[蔚山現代FC]]||○ 3-2 |- |rowspan="6"|2013年||2月27日||rowspan="6"|[[AFCチャンピオンズリーグ2013|ACL2013]] グループリーグ||{{Flagicon|UZB}} [[FCブニョドコル|ブニョドコル]]||広島ビッグアーチ||● 0-2 |- |3月13日|||{{Flagicon|CHN}} [[北京国安足球倶楽部|北京国安]]||[[北京工人体育場]]||● 1-2 |- |4月2日|||{{Flagicon|KOR}} 浦項スティーラース||広島ビッグアーチ||● 0-1 |- |4月10日|||{{Flagicon|KOR}} 浦項スティーラース||浦項スティールヤード||△ 1-1 |- |4月23日|||{{Flagicon|UZB}} ブニョドコル||[[JARスタジアム]]||△ 0-0 |- |4月30日|||{{Flagicon|CHN}} 北京国安||広島ビッグアーチ||△ 0-0 |- |rowspan="8"|2014年||2月25日||rowspan="6"|[[AFCチャンピオンズリーグ2014|ACL2014]] グループリーグ||{{Flagicon|CHN}} 北京国安||広島ビッグアーチ||△ 1-1 |- |3月11日|||{{Flagicon|AUS}} [[セントラルコースト・マリナーズFC|セントラルコースト・マリナーズ]]||[[セントラルコースト・スタジアム]]||● 1-2 |- |3月19日|||{{Flagicon|KOR}} [[FCソウル]]||広島ビッグアーチ||○ 2-1 |- |4月1日|||{{Flagicon|KOR}} FCソウル||[[ソウルワールドカップ競技場]]||△ 2-2 |- |4月16日|||{{Flagicon|CHN}} 北京国安||北京工人体育場||△ 2-2 |- |4月23日|||{{Flagicon|AUS}} セントラルコースト・マリナーズ||広島ビッグアーチ||○ 1-0 |- |5月7日||rowspan="2"|ACL2014 ラウンド16||rowspan="2"|{{Flagicon|AUS}} [[ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFC|ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ]]||広島ビッグアーチ||○ 3-1 |- |5月14日||[[パラマタ・スタジアム]]||● 0-2 |- |rowspan="4"|2015年||12月10日||[[FIFAクラブワールドカップ2015|FCWC2015]] 1回戦||{{Flagicon|NZL}} オークランド・シティFC||[[横浜国際総合競技場]]||○ 2-0 |- |12月13日||FCWC2015 準々決勝||{{Flagicon|COD}} [[マゼンベ]]||rowspan="2"|[[長居陸上競技場|長居スタジアム]]||○ 3-0 |- |12月16日||FCWC2015 準決勝||{{Flagicon|ARG}} [[リーベル・プレート]]|||● 0-1 |- |12月20日||FCWC2015 3位決定戦||{{Flagicon|CHN}} [[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]||横浜国際総合競技場||○ 2-1 |- |rowspan="6"|2016年||2月23日||rowspan="6"|[[AFCチャンピオンズリーグ2016|ACL2016]] グループリーグ||{{Flagicon|CHN}} 山東魯能泰山||広島広域公園陸上競技場||● 1-2 |- |3月1日|||{{Flagicon|KOR}} FCソウル||ソウルワールドカップ競技場||● 1-4 |- |3月16日|||{{Flagicon|THA}} [[ブリーラム・ユナイテッドFC|ブリーラム・ユナイテッド]]||広島広域公園陸上競技場||○ 3-0 |- |4月5日|||{{Flagicon|THA}} ブリーラム・ユナイテッド||[[ニュー・アイモバイル・スタジアム|ブリーラム・スタジアム]]||○ 2-0 |- |4月20日|||{{Flagicon|CHN}} 山東魯能泰山||[[済南奥林匹克体育中心|済南オリンピックスポーツセンター]]||● 0-1 |- |5月4日|||{{Flagicon|KOR}} FCソウル||広島広域公園陸上競技場||○ 2-1 |- | rowspan="9" |2019年 |2月19日 |[[AFCチャンピオンズリーグ2019|ACL2019]] プレーオフステージ |{{Flagicon|THA}} [[チェンライ・ユナイテッドFC|チェンライ・ユナイテッド]] |広島広域公園陸上競技場 |〇 0-0(PK4-3) |- |3月5日 | rowspan="6" |ACL2019 グループリーグ |{{Flagicon|CHN}} 広州恒大 |[[天河体育中心体育場|広州天河体育中心体育場]] |● 0-2 |- |3月12日 |{{Flagicon|AUS}} [[メルボルン・ビクトリーFC|メルボルン・ビクトリー]] |広島広域公園陸上競技場 |〇 2-1 |- |4月10日 |{{Flagicon|KOR}} [[大邱FC]] |広島広域公園陸上競技場 |〇 2-0 |- |4月23日 |{{Flagicon|KOR}} 大邱FC |[[大邱フォレストアレーナ]] |〇 1-0 |- |5月8日 |{{Flagicon|CHN}} 広州恒大 |広島広域公園陸上競技場 |〇 1-0 |- |5月22日 |{{Flagicon|AUS}} メルボルン・ビクトリー |[[メルボルン・レクタンギュラー・スタジアム|レクタンレギュラースタジアム]] |〇 3-1 |- |6月18日 | rowspan="2" |ACL2019 ラウンド16 |{{Flagicon|JPN}} [[鹿島アントラーズ]] |[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマサッカースタジアム]] |● 0-1 |- |6月25日 |{{Flagicon|JPN}} 鹿島アントラーズ |広島広域公園陸上競技場 |〇 3-2 |} === 国際大会出場選手 === {{Col-begin}} {{Col-3}} ;W杯 * [[1994 FIFAワールドカップ|1994年]] ** {{Flagicon|KOR}}[[盧廷潤]] * [[2006 FIFAワールドカップ|2006年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[駒野友一]] * [[2014 FIFAワールドカップ|2014年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[青山敏弘]] ** {{Flagicon|KOR}}[[黄錫鎬]] {{Col-3}} ;コンフェデ杯 * [[キング・ファハド・カップ1995|1995年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[森保一]] ** {{Flagicon|JPN}}[[柳本啓成]] * [[FIFAコンフェデレーションズカップ2001|2001年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[久保竜彦]] * [[FIFAコンフェデレーションズカップ2013|2013年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[西川周作]] {{Col-3}} ;アジア杯 * [[AFCアジアカップ1992|1992年]] ** {{Flagicon|JPN}}森保一 ** {{Flagicon|JPN}}[[高木琢也]] ** {{Flagicon|JPN}}[[前川和也]] * [[AFCアジアカップ1996|1996年]] ** {{Flagicon|JPN}}高木琢也 ** {{Flagicon|JPN}}柳本啓成 ** {{Flagicon|JPN}}路木龍次 * [[AFCアジアカップ2000|2000年]] ** {{Flagicon|JPN}}下田崇 ** {{Flagicon|JPN}}久保竜彦 * [[AFCアジアカップ2007|2007年]] ** {{Flagicon|JPN}}駒野友一 ** {{Flagicon|JPN}}[[佐藤寿人]] * [[AFCアジアカップ2011|2011年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[李忠成]] ** {{Flagicon|JPN}}[[森脇良太]] * [[AFCアジアカップ2015|2015年]] ** {{Flagicon|JPN}}塩谷司 * [[AFCアジアカップ2019|2019年]] ** {{Flagicon|JPN}}青山敏弘 ** {{Flagicon|JPN}}[[佐々木翔]] {{Col-end}} {{Col-begin}} {{Col-2}} ;夏季五輪(U-23代表) * [[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|1996年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[上村健一]] ** {{Flagicon|JPN}}[[下田崇]] ** {{Flagicon|JPN}}[[路木龍次]] * [[2004年アテネオリンピックのサッカー競技|2004年]] ** {{Flagicon|JPN}}駒野友一 ** {{Flagicon|JPN}}[[森崎浩司]] * [[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技|2012年]] ** {{Flagicon|KOR}}黄錫鎬 * [[2016年リオデジャネイロオリンピックのサッカー競技|2016年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[塩谷司]](オーバーエイジ枠) {{Col-2}} ;アジア大会(A代表【1994年】 U-23代表【2002年~】) * [[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|1994年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[森山佳朗]] ** {{Flagicon|JPN}}高木琢也 * [[2002年アジア競技大会におけるサッカー競技|2002年]] ** {{Flagicon|JPN}}駒野友一 ** {{Flagicon|JPN}}森崎和幸 * [[2006年アジア競技大会におけるサッカー競技|2006年]] ** {{Flagicon|JPN}}青山敏弘 ** {{Flagicon|JPN}}[[佐藤昭大]] ** {{Flagicon|JPN}}前田俊介 * [[2014年アジア競技大会におけるサッカー競技|2014年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[野津田岳人]] ** {{Flagicon|JPN}}[[吉野恭平]] * [[2018年アジア競技大会におけるサッカー競技|2018年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[松本泰志]] {{Col-end}} {{Col-begin}} {{Col-2}} ;U-20W杯 * [[1995 FIFAワールドユース選手権|1995年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[大木勉]] ** {{Flagicon|JPN}}下田崇 * [[2001 FIFAワールドユース選手権|2001年]] ** {{Flagicon|JPN}}駒野友一 ** {{Flagicon|JPN}}[[森崎和幸]] ** {{Flagicon|JPN}}森崎浩司 * [[2003 FIFAワールドユース選手権|2003年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[茂木弘人]] * [[2005 FIFAワールドユース選手権|2005年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[前田俊介]] ** {{Flagicon|JPN}}[[吉弘充志]] * [[2007 FIFA U-20ワールドカップ|2007年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[柏木陽介]] ** {{Flagicon|JPN}}[[平繁龍一]] ** {{Flagicon|JPN}}[[槙野智章]] {{Col-2}} ;U-17W杯 * [[2007 FIFA U-17ワールドカップ|2007年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[岡本知剛]] ** {{Flagicon|JPN}}[[原裕太郎]] * [[2013 FIFA U-17ワールドカップ|2013年]] ** {{Flagicon|JPN}}[[白岡ティモシィ]] ** {{Flagicon|JPN}}[[宮原和也]] {{Col-end}} ;アラカルト * 日本人初招集 ** [[高木琢也]]:1992年5月31日キリンチャレンジカップ対[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]戦 ** [[前川和也]]:同上 ** [[森保一]]:同上 * 日本人初国際Aマッチ出場 ** 高木琢也:1992年5月31日キリンチャレンジカップ対アルゼンチン代表戦 ** 森保一:同上 * 在籍時日本人最多キャップ:高木琢也:45試合(1992年-1997年) * 在籍時日本人最多ゴール:高木琢也:27ゴール(1992年-1997年) == エピソード・アラカルト == === チーム名およびチームカラー === 決定に直接携わった[[今西和男]]およびフロントスタッフは次のように語っている。 :チーム名は公募したところ、県花である「[[カエデ|モミジ]]」やそこから連想する「赤」、そして「[[毛利元就]]」に関するものなど様々な候補が寄せられた<ref name="imanishi05" />。その中で最多案ではなかったが、元就の故事・三本の矢にちなんだ「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった<ref name="SIGMA200905" />。ただ[[商標|商標登録]]されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という名をスタッフ会議で作りだした<ref name="imanishi05" /><ref name="SIGMA200905" />。 :次にチームカラーは、当初マツダのチームカラーである「青」<ref name="imanishi05" /> を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向{{#tag:ref|マツダがリーグ加盟およびチーム詳細決定が遅かったせいもある。他にも、青と水色の「古河ゼブラ」の[[古河電気工業サッカー部|古河電工]]や、[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]時に濃い青を使っていた[[ヤマハ発動機サッカー部|ヤマハ]]も、それぞれジェフ、ジュビロとしてリーグ加盟時に濃い青系から変えている。|group="注"}}もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した<ref name="SIGMA200905" />。そこで、広島サッカー界の名門である広島一中(現[[広島県立広島国泰寺高等学校|国泰寺高校]])のチームカラーにあやかり、聖徳太子の[[冠位十二階]]で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、さらにはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した<ref name="imanishi05" /><ref name="SIGMA200905" />。 :そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された<ref name="SIGMA200905" />。 また、[[川淵三郎]]の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。 :川淵と広島球団社長との酒席で、広島社長がチーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」に決定したと話した。川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。 チームカラー選定時の事業担当者だった[[木之本興三]]は、著書『日本サッカーに捧げた両足』の中で、 :広島の関係者に「英語のパープルには《高貴な》という意味があります。色にしても意味合いにしても最高じゃないですか。紫ならどこのチームと重なり合うことはありませんから。地元でも敵地でも《紫と言えば広島》が定着し、非常に良い相乗効果を生み出すことでしょう」と、当時勧めたが、2012年シーズンで初優勝して、紫色で埋め尽くされたサンフレッチェの優勝パレードをテレビで観て、「あの時から20年、''およそサッカーのユニフォームらしくない色''の広島が初優勝の偉業を成し遂げるとは、と大きな喜びを感じた」と書いている<ref>[[木之本興三]]『日本サッカーに捧げた両足 真実のJリーグ創世記』[[ワニブックス]]、2013年、p. 17</ref>。 1993年当時は組織内の[[トリオ]]を「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。 *[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]:[[鹿取義隆]]・[[潮崎哲也]]・[[杉山賢人]] - [[リリーフ|救援投手]]。[[1993年の日本シリーズ]]も参照。 *[[自由民主党 (日本)|自民党]]:[[河野洋平]]・[[石原慎太郎]]・[[橋本龍太郎]] - [[第40回衆議院議員総選挙|1993年衆議院議員総選挙]]で敗れ野党に転落したときに、党を担う次世代の若手としてアピールした。 設立当時はユニフォームなどで赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしている[[京都サンガF.C.]]([[京紫]])との差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。 2011年からはユニホームサプライヤーがそれまでの[[ミズノ]]から[[ナイキ]]に変更されたこともあって、アウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは[[厳島神社]]の[[鳥居]]をイメージする色として採用されたという。なお白色ユニホームはサードユニホームとして引き続き採用される。 === 記録・出来事 === ;チェアマン杯破損 [[1994年]][[6月11日]]、[[ヤマハスタジアム|磐田スタジアム]]で行われた[[ジュビロ磐田]]戦で、広島は2-1で勝利し、[[Jリーグチャンピオンシップ|サントリーシリーズ]]優勝を決めた。選手は喜びのあまり授与された高級[[クリスタル・ガラス|クリスタル]]製のチェアマン杯([[HOYA|HOYAクリスタル]]特製)を、頭に被ったり振り回したりしてはしゃいでいた<ref name="nikkan20121124">{{Cite web|和書|date=2012-11-24|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp1-20121124-1051471.html|title=【復刻】広島ガラスのカップ割っちゃった|publisher=ニッカンスポーツ|accessdate=2012-12-31}}</ref>。 ところがこの際、チェアマン杯をサポーターに見せようと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損<ref name="r25">{{Cite web|和書|date=2013-05-04|url=http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20130503-00029583-r25|title=Jリーグ20年 珍事件BEST8|publisher=web R25|accessdate=2013-05-04}}</ref>。この珍事は翌日のスポーツ新聞紙面を飾った<ref name="nikkan20121124" />。クラブはその場でJリーグ側に陳謝<ref name="nikkan20121124" />、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割った旧チェアマン杯のかけらは広島の選手スタッフおよびサポーター総出でかき集め、一旦溶かされてペンダントとなった<ref name="nikkan20121124" /><ref>2009年10月16日付[[エル・ゴラッソ]]</ref>。 ;ユニフォーム忘れ [[1995年]][[4月1日]]、[[熊本市水前寺競技場]]で[[横浜フリューゲルス]]戦が行われた。当時九州にはJリーグチームがなく、この試合は熊本県を[[ホームタウン]]とほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の[[4月5日]]に[[万博記念競技場]]でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分の準備をし熊本にはそれら2試合分のアウェー用道具を持参していた<ref name="sigma201009">{{Cite journal|和書 |author = 中野和也 |date = 2010-09 |title = Jリーグ史上に残るトラブルを全員で乗り切ったこと |journal = 紫熊倶楽部 |pages = 20-21}}</ref>。そのため持参したのはアウェー用として使っていた2ndユニフォームの白だったが<ref name="sigma201009" />、対戦相手の[[横浜フリューゲルス#ユニフォームに関しての特記項目|横浜Fの1stユニフォームは白]]{{#tag:ref|当時、白、またはそれに近い色を1stユニにしていたのは横浜Fの1チームだけであり、横浜Fとアウェーで対戦するクラブは必然的に1stユニを着用しなければいけなかった。|group="注"}}。2つのアウェー用道具を一緒に事前準備していたためスタッフは間違いを犯した。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ<ref name="sigma201009" /> ものの間に合わなかった。 広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、[[熊本県サッカー協会]]からスプレーを借りたが時間が足りなかった<ref name="sigma201009" />。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ<ref name="r25" /><ref name="sigma201009" />。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。パンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。 この試合は[[Jリーグ中継 (NHK)|NHKBSにより生放送]]され、延長前半12分に[[イワン・ハシェック]]の[[ゴールデンゴール|Vゴール]]で広島が勝利しJ通算50勝を達成した<ref name="sigma201009" />。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り<ref name="sigma201009" />、Jリーグから制裁金が課せられた。 レプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした<ref name="sigma201009" />。 ;初のJ2クラブ「日本一」達成 [[2008年]][[3月1日]]、[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]で行われた[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス・スーパーカップ]]において、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]覇者であった[[鹿島アントラーズ]]に勝利し、2部制ができた[[1999年]]以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。 ;初の「ベストメンバー規定」違反による罰則 {{Main2|詳細は[[ベストメンバー規定#2009年・サンフレッチェ広島]]を}} [[2009年]][[6月3日]]、ナビスコ杯・対[[大分トリニータ]]戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。 === 交流 === ;吉田町(安芸高田市) チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である[[高田郡]]吉田町(現:[[安芸高田市]])とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、安芸高田市サッカー公園完成や、毎年[[清神社]]に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。 {{Main2|詳細は[[吉田町 (広島県)#サンフレッチェ広島との関係]]を}} ;横川町(西区)<ref name="TYUGOKUSALON070608">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞メディアクラブ|date=2007-06-08|url=http://www.media-club.jp/media/news/backnumber/salon070608.html|title=サンフレと若者支援で町に活気を|accessdate=2012-06-03}}</ref> 2007年3月、[[広電バス]]がホームゲーム開催日に、JR・広電[[横川駅 (広島県)|横川駅]]とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが[[横川町 (広島市)|横川町]]商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。 ;他のJリーグクラブへの協力 発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。 大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の[[今西和男]]がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた<ref name="HIHYO0612" />。 2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで[[中国・四国Jクラブ情報懇談会]]を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。 ;他競技交流 広島県内を拠点として活躍する8競技9団体で[[トップス広島]](異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。 それとは別に2競技1文化団体による[[P3 HIROSHIMA]](広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。 === その他 === ;エースのチャント 1995年から2002年(後、2008年に復帰)までサンフレッチェのエースストライカーであった[[久保竜彦]]のチャントは『[[君の瞳に恋してる]]』であった。J2降格と共にチームを去った久保の後継者として生え抜きの[[茂木弘人]]や[[前田俊介]]が期待されていたが、2005年に小野監督と織田強化部長(いずれも役職は当時のもの)自らが獲得に動いた[[佐藤寿人]]が加入。茂木らに期待していたサポーターは佐藤の獲得を疑問視した。しかし佐藤は移籍1年目から2桁得点を挙げ、同年11月27日の第33節[[ヴィッセル神戸]]戦でこの年2度目のハットトリックを達成するとサポーターは自然発生的に佐藤を久保のチャントで祝福した。 [[中野和也]]がこの日を「佐藤のエース載冠式」と形容したように、以後サポーターの間で『君の瞳に恋してる』はエースストライカーに贈られる特別なチャントと目されている<ref>{{cite news|url=http://www.soccerdigestweb.com/news/detail4/id=20953|title=佐藤寿人――偉大なストライカーが歩んだ道と愛される理由|author=中野和也|publisher=[[サッカーダイジェスト]]|date=2016-12-02|accessdate=2017-03-13}}</ref>。 ;サンフレッチェ劇場<ref>{{Cite web|和書|publisher=J's GOAL|date=2008-12-29|url=http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00075981.html|title=「サンフレッチェ劇場」によって渋滞解消?|accessdate=2012-06-03}}</ref> ホームであるエディオンスタジアム広島において試合で勝利後、選手が[[メガホン|トランジスタメガホン]]片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。 自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた[[中山雅史]]や[[岡山一成]]に憧れた[[柏木陽介]]と[[槙野智章]]が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに[[森脇良太]]が加わり、現在の名前となった。森脇移籍後は、千葉を中心に塩谷や野津田、[[増田卓也]]等が行っている。 試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。 ;ゴールパフォーマンス 2010年に槙野智章と森脇良太(時折GKの西川周作も参加する)を中心にゴール後にさまざまな[[ゴールパフォーマンス]]を行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。槙野は2010年に、森脇は2013年、西川は2014年に広島を退団したが、現在でも佐藤や林を中心にパフォーマンスは続いている。 {{Main2|詳細は[[槙野智章#パフォーマンス]]を}} == 所属 == === フロント === <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * 社長 ** 1992年4月 - 1995年6月 : [[古田徳昌]] ** 1995年6月 - 1998年6月 : [[信藤整]] ** 1998年6月 - 2007年12月 : [[久保允誉]] ** 2008年1月 - 2012年12月 : [[本谷祐一]] ** 2013年1月 - 2015年2月 : [[小谷野薫]] ** 2015年2月 - 2017年12月 : [[織田秀和]] ** 2018年1月 - 2019年12月 : [[山本拓也 (実業家)|山本拓也]] ** 2020年1月 - 現在 : [[仙田信吾]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> * 強化担当トップ ** 1992年 - 2002年 : [[今西和男]]総監督 ** 2003年 - 2005年 : [[高田豊治]]ゼネラルマネージャー ** 2006年 - 2015年 : 織田秀和強化部長 ** 2015年 - 現在 : [[足立修]]強化部長 </div>{{clear|left}} === 育成組織 (アカデミー) === {{Main2|[[サンフレッチェ広島F.Cの育成組織]]を}} ;ユース {{Main2|[http://www.sanfrecce.co.jp/under/youth/ 公式サイト]}} ;ジュニアユース以下 以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、[[個人情報の保護に関する法律|個人情報保護法]]が施行した2005年以降公開されていない。 == ユニフォーム == {| style="margin-left:16px; float:right;" |- | {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ style="font-size:120%; font-weight:bold;"|ユニフォームの色 |- ! style="background-color:#efefef;" |カラー ! style="background-color:#efefef;" |シャツ ! style="background-color:#efefef;" |パンツ ! style="background-color:#efefef;" |ストッキング |- |FP(1st) |紫 |紫 |紫 |- |FP(2nd) |白 |白 |白 |- |GK(1st) |緑 |緑 |緑 |- |GK(2nd) |黄 |黄 |黄 |- |GK(3rd) |紫 |紫 |紫 |} |- | class="toccolours" style="padding:0; text-align:center;" colspan="2"| {| style="width:100%; text-align:center;" |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP| pattern_b = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP| pattern_ra = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP| pattern_sh = __Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP| pattern_so = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP| | 左袖 = | 胴 = | 右袖 = | パンツ = 533C82 | ストキング = 44237c | 種別 = FP 1st }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP| pattern_b = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP| pattern_ra = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP| pattern_sh = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP| pattern_so = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP| | 左袖 = fff | 胴 = | 右袖 = fff | パンツ = | ストキング = ffffff | 種別 = FP 2nd }} |} |- | class="toccolours" style="padding:0; text-align:center;" colspan="2"| {| style="width:100%; text-align:center;" |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _nikegk2223green1| pattern_b = _nikegk2223Green| pattern_ra = _nikegk2223green1| pattern_sh = _nikegk2223green | pattern_so = | 左袖 = 00ff00 | 胴 = 00ff00 | 右袖 = 00ff00 | パンツ = 00ff00 | ストキング = 00ff00 | 種別 = GK 1st }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _nikegk2223Yellow1| pattern_b = _nikegk2223Yellow| pattern_ra = _nikegk2223Yellow1| pattern_sh = _nikegk2223Yellow| pattern_so = | 左袖 = ffff00 | 胴 = ffff00 | 右袖 = ffff00 | パンツ = ffff00 | ストキング = ffff00 | 種別 = GK 2nd }} |{{サッカーユニフォーム | pattern_la = _nikegk2223Purple1 | pattern_b = _nikegk2223Purple| pattern_ra = _nikegk2223Purple1| pattern_sh = _nikegk2223purple| pattern_so = | 左袖 = dda0dd | 胴 = dda0dd | 右袖 = dda0dd | パンツ = dda0dd | ストキング = D0C0FF | 種別 = GK 3rd }} |} |} === チームカラー === * {{colorbox|#51318F}} 紫 :色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照。 === ユニフォームスポンサー === :{{Official website}} 参照。なお同スポンサーでも表記名や掲出個所が年により変わっており、詳細は[[サンフレッチェ広島F.C#エディオングループのスポンサー変遷|下記]]を参照。 ;公式戦用 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double !箇所!!スポンサー名!!表記!!掲出年!!備考 |- !胸 |rowspan="2"|[[エディオン]]||EDION||1997年 - ||Jリーグ・カップ戦用<br/>「[[デオデオ|DeODEO]]」「YourVoice」表記を含む<br/>名義・掲出場所の変遷は[[サンフレッチェ広島F.C#エディオングループのスポンサー変遷|下記]]を参照 |- !rowspan="2"|鎖骨 |EDION光プラス||2023年 - ||左側に提出 |- |[[ハイセンス|ハイセンスジャパン]]||Hisense||2019年 - <ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sanfrecce.co.jp/news/release/?n=12649&m=1&y=2019 |title=新ユニフォームスポンサー(鎖骨右)に、ハイセンスジャパン株式会社が決定!|publisher=公式サイト|date=2018-1-12|accessdate=2019-1-16}}</ref>||右側に掲出 |- !背中上部 |[[マツダ]]||MAZDA||2010年 - ||過去ACL出場時にはACL用胸にも掲出 |- !背中下部 |[[ひろぎんホールディングス]]||ひろぎんHD||2017年 - ||2017年 - 2020年は「[[広島銀行]]」表記 |- !袖 |[[イズミ]]||[[ゆめタウン|you<br/>me]]||2015年 - ||2014年はパンツに掲出 |- !パンツ前面 |[[テラル]]||TERAL||2016年 - || |- !パンツ背面 |エディオン||モバイル<br/>e保険||2023年 - || |} ;練習着 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double !colspan="2"|箇所!!スポンサー名!!表記!!備考 |- !colspan="2"|胸 |マツダ||MAZDA|| |- !rowspan="2"|鎖骨 !左側 |[[マツオカコーポレーション]]||MATSUOKA CORPORATION|| |- !右側 |[[キャリアカレッジジャパン]]||資格のキャリカレ|| |- !rowspan="2"|背中 !通常 |[[村上農園]]||村上農園|| |- !ウォームアップジャケット |マツダ||MAZDA|| |- !colspan="2"|左袖 |[[良和ハウス]]||良和ハウス||半袖のみ |- !rowspan="2"|右袖 !ウォームアップジャケット |[[中国電力]]||中国電力|| |- !半袖 |[[西川ゴム工業]]||nishikawa|| |- !colspan="2"|パンツ |エディオン||EDION|| |} * ユニフォーム左胸のエンブレム上の星(★)は[[2012年のJリーグ ディビジョン1|2012年]]・[[2013年のJリーグ ディビジョン1|2013年]]・[[2015年のJ1リーグ|2015年]]各シーズンのJ1での優勝と[[2022年のJリーグカップ|2022年]]のJリーグカップ優勝を表している。 === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年 - 2010年:[[ミズノ]] * 2011年 - 現在:[[ナイキ]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #51318F; font-size:smaller" !colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 HOME FP2|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1992 - 1995}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 HOME FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1996 - 1999}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 HOME FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2000 - 2002}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 HOME FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2003 - 2004}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 HOME FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2005 - 2006}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 HOME FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2007 - 2009}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 HOME FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 HOME FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 HOME FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=f00|title={{Center|2010}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce11h|pattern_b=_sanfrecce11h|pattern_ra=_sanfrecce11h|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 HOME FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=280051|title={{Center|2011}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce1112h|pattern_b=_sanfrecce12h|pattern_ra=_sanfrecce1112h|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 HOME FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=8000FF|title={{Center|2012}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_porto1213a|pattern_b=_porto1213a|pattern_ra=_porto1213a|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2013 HOME FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2013 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=280051|socks=44009e|title={{Center|2013}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce14h|pattern_b=_sanfrecce14h|pattern_ra=_sanfrecce14h|pattern_sh=_sanfrecce14 H|pattern_so=_sanfrecce14 H |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=280051|socks=280051|title={{Center|2014}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=|pattern_b=_sanfrecce15H|pattern_ra=|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2015 HOME FP|pattern_so=_nikefootballwhitelogo |leftarm=8000FF|body=|rightarm=8000FF|shorts=8000FF|socks=8000FF|title={{Center|2015}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce16h|pattern_b=_sanfrecce16H|pattern_ra=_sanfrecce16h|pattern_sh=_sanfrecce16H|pattern_so=_sanfrecce16 H |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=200031|title={{Center|2016}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce17h|pattern_b=_sanfrecce17H|pattern_ra=_sanfrecce17h|pattern_sh=_sanfrecce17H|pattern_so=_sanfrecce17h |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2017}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce18h|pattern_b=_sanfrecce18h|pattern_ra=_sanfrecce18h|pattern_sh=_sanfrecce18h|pattern_so= _sanfrecce17h |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2018}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce19h|pattern_b=_sanfrecce19h|pattern_ra=_sanfrecce19h|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2019 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2019 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2019}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la = _sanfrecce20h| pattern_b = _sanfrecce20h| pattern_ra = _sanfrecce20h| pattern_sh =| pattern_so = _sanfrecce20h |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=533C82|socks=533C82|title={{Center|2020}}}} |{{Football kit|filetype=png | pattern_la = _sanfrecce21h| pattern_b = _sanfrecce21h| pattern_ra = _sanfrecce21h| pattern_sh = _sanfrecce21h| pattern_so = _sanfrecce21h | leftarm = 533C82| body = 533C82| rightarm = 533C82| shorts = 533C82| socks = 44237c|title={{Center|2021}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 HOME FP|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 HOME FP2|pattern_ra= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 HOME FP|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 HOME FP2|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 HOME FP2 |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2022}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP|pattern_ra= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2023 - }}}} |- |||||||||| |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #51318F; font-size:smaller" !colspan=5|FP 2nd |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 AWAY FP2|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1993 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1992 - 1995}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 AWAY FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 1996 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|1996 - 1999}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 AWAY FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2000 -2002 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2000 - 2002}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 AWAY FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2003 -2004 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2003 - 2004}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 AWAY FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2005 -2006 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2005 - 2006}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 AWAY FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2007 -2009 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2007 - 2009}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 AWAY FP|pattern_b=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 AWAY FP|pattern_ra=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 AWAY FP|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2010 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=f00|title={{Center|2010}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce11a|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 AWAY FP|pattern_ra=_sanfrecce11a|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=FF8080|title={{Center|2011}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=|pattern_b=_sanfrecce12a|pattern_ra=|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 AWAY FP |leftarm=FF8080|body=|rightarm=FF8080|shorts=FF8080|socks=FF8080|title={{Center|2012}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce13a|pattern_b=_sanfrecce13a|pattern_ra=_sanfrecce13a|pattern_sh= _sanfrecce13 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2013 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=fff|socks=fff|title={{Center|2013}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce14a|pattern_b=_sanfrecce14a|pattern_ra=_sanfrecce14a|pattern_sh= _sanfrecce14A|pattern_so= _sanfrecce14A |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=fff|socks=fff|title={{Center|2014}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=|pattern_b=_sanfrecce15A|pattern_ra=|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2015 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2016 AWAY FP |leftarm=fff|body=|rightarm=fff|shorts=fff|socks=fff|title={{Center|2015}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce16a|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2016 AWAY FP|pattern_ra=_sanfrecce16a|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2016 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2016 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=fff|title={{Center|2016}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce17a|pattern_b=_sanfrecce17A|pattern_ra=_sanfrecce17a|pattern_sh=_sanfrecce17a|pattern_so=_sanfrecce17a |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=8000C8|title={{Center|2017}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce18a|pattern_b=_sanfrecce18a|pattern_ra=_sanfrecce18a|pattern_sh=_sanfrecce18a|pattern_so=_sanfrecce17a |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=8000C8|title={{Center|2018}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=|pattern_b=_sanfrecce19a|pattern_ra=|pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2019 AWAY FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2019 AWAY FP2 |leftarm=261C3D|body=|rightarm=261C3D|shorts=|socks=|title={{Center|2019}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=|pattern_b= _antlers20a|pattern_ra=|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2020 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2020 AWAY FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=FFF|title={{Center|2020}}}} |{{Football kit|filetype=png | pattern_la = _rbl2021h| pattern_b = _sanfrecce21a| pattern_ra = _rbl2021h| pattern_sh = _sanfrecce21a| pattern_so = _sanfrecce21a | leftarm = ffffff| body = ffffff| rightarm = ffffff| shorts = e20018| socks = ffffff|title={{Center|2021}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 AWAY FP|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 AWAY FP2|pattern_ra= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 AWAY FP|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 AWAY FP2|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2022 AWAY FP |leftarm=261C3D|body=|rightarm=261C3D|shorts=|socks=|title={{Center|2022}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP|pattern_ra= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2023 AWAY FP |leftarm=261C3D|body=|rightarm=261C3D|shorts=|socks=|title={{Center|2023 - }}}} |- |||||||||| |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #51318F; font-size:smaller" !colspan=5|FP Other |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce11t|pattern_b= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 3rd FP|pattern_ra=_sanfrecce11t|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 3rd FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2011 3rd FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=fff|title={{Center|2011 3rd}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 3rd FP|pattern_b=_sanfrecce12t|pattern_ra= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 3rd FP|pattern_sh= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 3rd FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2012 3rd FP |leftarm=fff|body=|rightarm=fff|shorts=|socks=fff|title={{Center|2012 3rd}}}} |{{Football kit|filetype=png | pattern_la = _sanfrecce18h 8.11 Peace Prayer Uniform| pattern_b = _sanfrecce18h 8.11 Peace Prayer Uniform| pattern_ra = _sanfrecce18h 8.11 Peace Prayer Uniform| pattern_sh = _sanfrecce18h| pattern_so = _sanfrecce17h |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2018 8.11<br>平和祈念}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_sanfrecce18a|pattern_b=_sanfrecce18a|pattern_ra=_sanfrecce18a|pattern_sh=_sanfrecce18a|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima 2019 3rd FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=|title={{Center|2019 3rd}}}} |{{Football kit|filetype=png | pattern_la = _sanfrecce19h| pattern_b = _sanfrecce19h Peace Prayer Uniform| pattern_ra = _sanfrecce19h| pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2019 HOME FP|pattern_so=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2019 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2019 8.3<br>平和祈念}}}} |- |{{Football kit|filetype=png | pattern_la = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2021 SP HOME FP| pattern_b = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2021 SP HOME FP| pattern_ra = _Sanfrecce Hiroshima F.C 2021 SP HOME FP| pattern_sh=_Sanfrecce Hiroshima F.C 2021 SP HOME FP|pattern_so= _Sanfrecce Hiroshima F.C 2021 SP HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=EBFF00|title={{Center|2021<br><small>LIMITED</small><br><small>カープコラボ</small>}}}} |- |||||||||| |} ;平和祈念ユニフォーム ;2018年 :2018年6月、8月11日にホームで行われる[[V・ファーレン長崎|長崎]]戦で『ピースマッチ~One Ball. One World.スポーツができる平和に感謝~』の開催を発表。平和首長会議の後援のもと、選手・観客が一体となって世界恒久平和の実現を、全世界へ発信することを狙いとしている。なおこの試合で、平和祈念モデルのユニフォームを着用。両肩に6羽の[[折り鶴]]、右胸にピースマッチのキャッチコピーである『One Ball. One World.』 のロゴをあしらい、サッカーを通じて、世界平和を願い続ける想いを表現。お互いを尊重しあい、エールを交換する意味を込めて、お互いのチームカラーの番号を身に纏う。なお、広島のユニフォームには、長崎のチームカラーである青とオレンジで構成された番号がデザインされている。1試合限定で着用すると共に、この平和祈念ユニフォームの売上の一部を、[[原爆ドーム]]保存事業等に関する基金へ寄付することにしている<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.sanfrecce.co.jp/news/release/?n=11965 |title=8月11日(土・祝)V・ファーレン長崎戦『ピースマッチ~One Ball. One World.スポーツができる平和に感謝~』開催|publisher=公式サイト|date=2018-6-22|accessdate=2018-6-26}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.sanfrecce.co.jp/news/release/?n=11967 |title=オンラインショップ「e-VPOINT」限定 8月11日 ピースマッチ着用 平和祈念ユニフォーム販売のお知らせ|publisher=公式サイト|date=2018-6-22|accessdate=2018-6-26}}</ref>。 ;2019年 :2019年8月3日に行われる、ピースマッチ1試合限定で着用。背番号カラーは、広島の復興と平和の象徴である、[[クスノキ]](市の木)や[[キョウチクトウ]](市の花)などをイメージした緑を起用。また、左胸にピースマッチロゴ、背番号下部には広島の風景をデザインしている。なお、平和祈念ユニフォームの売上の一部は、[[原爆ドーム]]保存事業等に関する基金へ寄付することになっている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://e-vpoint.sanfrecce.co.jp/fs/hiroshima/c/peace|title=ピースマッチ限定グッズ |publisher=公式サイト|accessdate=2020-4-12}}</ref>。 === 歴代ユニフォームスポンサー表記 === [http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/index.html 中国新聞HP] の過去の成績で1996年以降のスポンサーを確認できる。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center" |- style="background-color: #51318F; color:#FFF; font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー||colspan="3"|配色 |- style="background-color: #51318F; color:#FFF; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面||1st||2nd||3rd |- |1992||-||colspan="2" rowspan="26"|解禁前||-||rowspan="24"|解禁前||rowspan="3"|[[マツダ|mazda]]||rowspan="11"|-||rowspan="28"|解禁前||rowspan="19"|[[ミズノ|Mizuno]]||rowspan="4"|紫白紫||rowspan="4"|白紫白||rowspan="19"|- |- |1993||rowspan="2"|[[フォード・モーター|Ford]]||rowspan="10"|[[ウッドワン|JUKEN]] |- |1994 |- |1995||rowspan="2"|[[マツダ|mazda]]||rowspan="4"|- |- |1996||rowspan="7"|紫紫紫||rowspan="7"|白白白 |- |1997||rowspan="6"|[[デオデオ|DeODEO]] |- |1998 |- |1999||rowspan="12"|[[カルビー|Calbee]] |- |2000 |- |2001 |- |2002 |- |2003||YourVoice||rowspan="7"|[[ライフ (信販)|LifeCARD]]||[[デオデオ|DeODEO]]||rowspan="2"|紫白紫||rowspan="4"|白紫白 |- |2004||rowspan="6"|[[デオデオ|DeODEO]]||- |- |2005||rowspan="4"|[[アーバンコーポレイション]]||rowspan="2"|紫紫紫 |- |2006 |- |2007||rowspan="10"|紫紫紫||rowspan="4"|白白白 |- |2008 |- |2009||rowspan="2"|[[エディオン]] |- |2010||[[デオデオ|DeODEO]] / <br/>[[マツダ|MAZDA]]||rowspan="14"|[[マツダ|MAZDA]] |- |2011||[[デオデオ|DeODEO]]<br/>(1st・2nd)<br />[[エディオン|edion]]<br/>(3rd)||rowspan="2"|[[AS進学セミナー]]||[[エディオン]]<br/>(1st・2nd)<br />[[デオデオ|DeODEO]]<br/>(3rd)||rowspan="13"|[[ナイキ|Nike]]||rowspan="2"|朱朱朱||rowspan="2"|白白白 |- |2012|||[[エディオン]]<ref>クラブワールドカップのみ「EDION」。</ref>||[[エディオン|イードットコム]] |- |2013||rowspan="2"|[[エディオン|EDION]] / <br/>[[マツダ|MAZDA]]||[[万田酵素]]||[[エディオン|クオルネット]]||rowspan="4"|白白白||rowspan="6"|- |- |2014||[[万田酵素|Manda]]||[[イズミ|you me]] |- |2015||[[エディオン|EDION]]||rowspan="9"|[[イズミ|you me]]||[[SKYACTIV TECHNOLOGY|SKYACTIV]] |- |2016||[[エディオン|EDION]] / <br/>[[マツダ|MAZDA]]||-||rowspan="8"|[[テラル|TERAL]] |- |2017||rowspan="2"|[[エディオン|EDION]]||rowspan="4"|[[広島銀行]]||rowspan="2"|紫紫黄||黄黄紫 |- |2018||colspan="2"|-||白白紫 |- |2019||[[エディオン|EDION]] / <br/>[[マツダ|MAZDA]]||rowspan="4"|-||rowspan="5"|[[ハイセンス|Hisense]]||紫紫紺||紺紺青||白白白 |- |2020||rowspan="4"|[[エディオン|EDION]]||rowspan="3"|-||rowspan="4"|紫紫紫||白赤白||rowspan="4"|- |- |2021||rowspan="3"|[[ひろぎんホールディングス|ひろぎんHD]]||rowspan="3"|白白白 |- |2022 |- |2023||[[エディオン|EDION光プラス]]||[[エディオン|モバイル<br/>e保険]] |} * 1993・1994年のフォードを除いて、広島市または広島県に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛している。 ** フォードが胸スポンサーを務めていたのは、当時マツダがフォード傘下であった縁による(2010年をもって会計上でフォード傘下ではなくなっている)。 ** 1993年と1994年のナビスコカップでは胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は背番号上のJUKENも外れて1992年と同じだった。 * 当初からずっとマツダがユニフォームスポンサーに入っている。 ** 1997年デオデオ(現エディオン)経営参加以降は、練習用の胸およびユースのスポンサーとなっている。ちなみにこの際、公式戦用胸スポンサーと同額で契約している<ref>{{Cite web|和書|author=中国新聞|date=1998-01-10|url=http://www.chugoku-np.co.jp/MAZDA/1/980110.html|title=マツダ特集 「貢献」と「再建」はざまで苦悩 -地域との関係|accessdate=2010-02-10}}</ref>。 ** 2010年公式戦背中スポンサーに復活。また同年のACL用の胸スポンサーになり、ACL出場年は毎回ACL用の胸スポンサーになっている。 ** 2015年には[[SKYACTIV TECHNOLOGY|SKYACTIV]]名義でパンツにスポンサーを掲出した。 * 練習用スポンサーのほとんどを中国電力グループが占めている。一時は[[中電工]]も入っていた。 * Jリーグ発足時、[[オリジナル10]]のリーグ戦ユニフォームサプライヤーとして一括契約していた[[ミズノ]]と最も長く契約していたのは広島で、2011年に[[ナイキ]]がユニフォームサプライヤーになるまで18年間契約していた。 === エディオングループのスポンサー変遷 === 1997年以降、エディオングループがユニフォームスポンサーとして定着している。 * 1997年 - 2002年、2004年 - 2011年の1st・2ndユニフォームの胸及び2003年、2011年の3rdユニフォームのパンツに掲載していた「DeODEO」([[デオデオ]])は、エディオングループの店舗ブランドで旧社名。企業名変更や組織再編に伴いスポンサー名が変更しており、1997年 - 2009年は(株)デオデオ、2010年は(株)[[エディオンWEST]]、2011年以降は(株)エディオン。 * 2003年の胸に掲載していた「YourVoice」は、当時存在していたデオデオ(エディオングループ)のオリジナルブランド。 * 2009年 - 2011年の1st・2ndユニフォームのパンツ及び2011年の3rdユニフォーム、2012年以降の胸スポンサーの「エディオン」・「EDION」は、当初から(株)エディオンがスポンサー。 * 2012年パンツスポンサーの「イードットコム」は、エディオン系の販売ブランド。 * 2013年パンツスポンサーの「クオルネット」は、エディオンのモバイルインターネットサービス会社。 また、2011年 - 2012年に[[FC岐阜]]のユニフォームスポンサー(背中上部)だった[[エイデン]]もエディオングループの店舗ブランドであるが、岐阜の場合はエディオン本体ではなく社内カンパニーである[[エディオンEAST|エディオン EASTカンパニー]]がスポンサーであったが、本社のブランド統合に伴いJリーグ規定に接触することからユニフォームについては広島のみに集約される形となり、2013年以降はユニフォームスポンサーからは外れている。 == スタジアム == <!--スタジアムの略称はJリーグの公式略称へ合わせました。--> ;ホームスタジアム推移 現在、Jリーグ主催公式戦はすべて[[広島広域公園陸上競技場]](エディオンスタジアム広島、「Eスタ」、旧称:広島ビッグアーチ(広島ビ<REF GROUP="注" NAME="命名権">ACLでは「広島ビ」扱い</ref>))で行われている。 {{wide image|Big Arch Stadium Panorama.jpg|700px|エディオンスタジアム広島}} * 1992年 - 1994年:[[広島県総合グランドメインスタジアム|広島スタジアム]](広島ス) ** 当初から広島ビと併用していたが、1993年までの通年と1994年ニコスシリーズ(第2ステージ)はアジア大会に備えた芝生保護、開催準備などの観点で試合数を制限していた。 ** 1995年ぐらいまで、[[広島県立びんご運動公園陸上競技場]](びんご)・[[福山市竹ヶ端運動公園陸上競技場]](竹ヶ端)・[[東平尾公園博多の森陸上競技場]](博多陸)・[[大分市営陸上競技場]](大分陸)・[[愛媛県総合運動公園陸上競技場]](愛媛陸)・[[鳥取市営サッカー場]](鳥取バード)でもホームゲームを開催していた。 * 1994年 - 現在 広島ビッグアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年) ** 1994年から2003年まで広島スタジアムと併用。年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。 ** 1998年1stステージは広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、最終の鹿島戦を除く7試合は広島スタジアムをホームに。 ** 2004年から2006年までリーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。 ** 2007年以降、リーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ(2013年より命名権導入により「Eスタ」)。 広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-06-03|url=http://www.47news.jp/localnews/hiroshima/2011/06/post_20110603182129.html|title=予約重複しサンフレ会場変更 |accessdate=2012-06-03}}</ref> できず、[[Jリーグクラブライセンス制度|Jリーグがクラブライセンス発給・申請の際]]に定める座席の収容人員の基準([[J1リーグ|J1]]:15000人、[[J2リーグ|J2]]:1万人<REF GROUP="注">[[J3リーグ|J3]]は本拠地として使用するスタジアムのスペックを原則5000人収容としているので、使用することは可能である</ref>)を満たしていないために使用不可となった。但し、[[2011年]][[8月13日]]の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。 かつて行われていた[[Jサテライトリーグ]]では、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや[[広島広域公園第一球技場|広域第一]]などで行われ、吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。 ;年度別・競技場別の試合数 :出典元:<ref>[http://www.sanfrecce.co.jp/info/game_schedule/ サンフレッチェ広島公式サイト・日程と記録]、[http://www5c.biglobe.ne.jp/~sanf/siai/index.htm サンフレッチェ広島公式記録]、[https://web.archive.org/web/20080623055554/http://www.geocities.jp/japanfootballresults/index.html ジャパンフットボールリザルツ](1992-2004年までの記録)</ref> :※参考 リーグ戦ホームゲーム数(2003・2008年はJ2、ほかはJ1<1992-98年のJリーグを含む>) :1993年 18試合 :1994年・2003年 22試合 :1995年 26試合 :1996年・1999-2002年・2004年 15試合 :1997年 16試合 :1998年・2005-2007年・2009年-2020年・2022年 17試合 :2008年 22試合 :2021年 19試合 {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |- !rowspan="2"|年度!!colspan="3"|リーグ戦!!rowspan="2"|Jリーグ杯!!rowspan="2"|ACL!!rowspan="2"|備考 |- !広島ビ<BR><small>(Eスタ)</small>!!広島ス<BR><small>(コカスタ)</small>!!その他 |- |align="right"|1992年||-||-||-||広島ス5||rowspan="18"|不参加||Jリーグ杯のみ |- |align="right"|1993年||3||13||愛媛陸1<BR>びんご1<BR>大分陸1||広島ビ1<BR>広島ス1|| |- |align="right"|1994年||12||8||博多陸1<BR>竹ヶ端1<BR>愛媛陸1||(主催なし)||広島ビは[[1994年のJリーグ#サントリーチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]1を含む<BR>この年より事実上広島ビに本拠移転(届出上は広島スのまま)<BR>「サントリーシリーズ」(年間前期)ステージ優勝もチャンピオンシップ(年間決勝)敗退 |- |align="right" style="white-space:nowrap" |1995年||15||7||大分陸1<BR>愛媛陸1<BR>鳥取1||(非開催)|| |- |align="right"|1996年||10||2||鳥取バード1<BR>鹿児島1<BR>愛媛陸1||広島ビ5<BR>広島ス1<BR>大分陸1||この年より正式に広島ビに届け出上の本拠移転 |- |align="right"|1997年||15||0||愛媛陸1||広島ビ3|| |- |align="right"|1998年||10||7|| ||広島ス1<BR>鳥取バード1||第1Sは広島スを暫定メインに使用 |- |align="right"|1999年||9||6|| ||広島ビ1<br>広島ス1||  |- |align="right"|2000年||13||2|| ||広島ス2|| |- |align="right"|2001年||8||7|| ||広島ス3|| |- |align="right"|2002年||12||3|| ||広島ビ2<BR>広島ス1||J2降格 |- |align="right"|2003年||12||12|| ||不参加||J1昇格 |- |align="right"|2004年||15||0|| ||広島ス3||rowspan="3"|リーグ戦は広島ビのみ<BR>Jリーグ杯は広島スのみでそれぞれ開催 |- |align="right"|2005年||17||0|| ||広島ス3 |- |align="right"|2006年||17||0|| ||広島ス3 |- |align="right"|2007年||17||0|| ||広島ビ3||Jリーグ公式戦全主催試合を広島ビのみで開催<REF GROUP="注">以後2011年を除き同じ</ref><BR>J2降格 |- |align="right"|2008年||22||0|| ||不参加||広島ス=命名権採用により「コカスタ」へ変更<BR>J2優勝・J1昇格 |- |align="right"|2009年||17||0|| ||広島ビ3||リーグ4位も[[AFCチャンピオンズリーグ|アジアチャンピオンズリーグ]]進出決定<REF GROUP="注">[[第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]で[[ガンバ大阪]](リーグ2位)優勝のため</ref> |- |align="right"|2010年||17||0|| ||広島ビ2||広島ビ3||Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ<br>(ACL出場につき) |- |align="right"|2011年||16||1|| ||広島ビ1||rowspan="2"|不参加||コカスタにてJ1リーグ1試合開催 |- |align="right"|2012年||17||0|| ||広島ビ3||J1優勝 |- |align="right"|2013年||17||0|| ||Eスタ1||広島ビ<REF GROUP="注" NAME="命名権"/> 3||広島ビ=命名権採用により「Eスタ」に変更<REF GROUP="注" NAME="命名権"/><BR>Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ<br>(ACL出場につき)<br>J1優勝(チーム初連覇) |- |align="right"|2014年||17||0|| ||Eスタ2||広島ビ<REF GROUP="注" NAME="命名権"/>4||Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ<br>(ACL出場につき)<br>ACL=広島ビは決勝トーナメント1含む |- |align="right"|2015年||17||0|| ||Eスタ3||不参加||J1第2S・CS優勝 |- |align="right"|2016年||17||0|| ||Eスタ1||広島ビ<REF GROUP="注" NAME="命名権"/> 3||Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ<br>(ACL出場につき) |- |align="right"|2017年||17||0|| ||Eスタ4||rowspan="2"|不参加||Jリーグ杯=Eスタはプレーオフステージ1含む |- |align="right"|2018年||17||0|| ||Eスタ3|| |- |align="right"|2019年||17||0|| ||Eスタ1||広島ビ<REF GROUP="注" NAME="命名権"/> 3||Jリーグ杯=決勝トーナメントのみ<br>(ACL出場につき)<br>ACL=広島ビはプレーオフ・決勝トーナメント各1含む |- |align="right"|2020年||17||0|| ||(主催なし)||rowspan="3"|不参加|| |- |align="right"|2021年||19||0|| ||Eスタ3|| |- |align="right"|2022年||17||0|| ||Eスタ6||Jリーグ杯優勝 |} ;サッカースタジアム構想 {{Main|広島のサッカースタジアム構想}} == 練習場・キャンプ地 == [[ファイル:Yoshidapark1.jpg|250px|thumb|right|安芸高田市サッカー公園]] ;練習場 現在、主に使用されるのは下記の3つ。 * [[安芸高田市サッカー公園]]:メイン練習場 * [[広島広域公園陸上競技場]](広島ビッグアーチ):ホームゲームの前日練習はここで行われることが多い。 * 広島広域公園補助競技場:ビッグアーチと同様。 また、過去には下記の場所で練習していたこともある<ref name="TYUGOKU971103">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=1997-11-03|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/sanf2.html|title=イレブンから不満続出 施設面でも改善を要求|accessdate=2012-06-03}}</ref>。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。 * [[呉市総合スポーツセンター|マツダ健保グランド]]([[呉市]]郷原):吉田ができる前のトップチーム専用練習場。現在は呉市が所有。 * マツダ鯛尾グランド([[安芸郡 (広島県)|安芸郡]]坂):吉田ができる前のサテライトチーム専用練習場。現在は[[マツダブルーズーマーズ|マツダラグビー部]]の練習場。 * マツダ体育館(南区大州):吉田ができる前のトレーニングジム。 * [[中国電力坂グラウンド]](安芸郡坂):中国電力が所有。 * [[広島県総合グランドメインスタジアム|コカコーラウェスト・広島スタジアム]]、[[広島県総合グランドラグビー場|コカコーラウェストラグビー場]](西区観音新町) ;[[キャンプ (日本プロサッカーリーグ)|キャンプ]]地 * 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や[[清神社]]にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを沖縄・[[本部町]]で、二次キャンプを宮崎・[[シーガイア]]で行なう。 * 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には[[大分県]]・[[淡路島]](ともに冬季)、[[北海道]]・[[松江市]]・[[筑波大学]](ともに夏季)などで行われている。2011年から本部町キャンプを開始した。 * 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には[[東ヨーロッパ|東欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]](バクスター)、[[大韓民国]](ヤンセン)、[[アデレード]](トムソン)、[[グアム]](小野剛)、[[アンタルヤ]](ペトロヴィッチ)、[[タイ王国|タイ]](城福)、[[トルコ]](スキッベ)で行われている。 == 決算 == サンフレッチェ広島の決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収入|営業収入}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!事業費 !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|管理費|一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |2,304 ||1,276 ||346 ||238 ||444 ||style="background-color:wheat" |2,473 ||1,871 ||1,107 ||602 ||style="background-color:wheat" |-169 ||style="background-color:wheat" |-165 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |2,267 ||1,192 ||379 ||232 ||464 ||style="background-color:wheat" |2,765 ||2,298 ||1,414 ||467 ||style="background-color:wheat" |-498 ||style="background-color:wheat" |-500 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |2,626 ||1,193 ||438 ||285 ||710 ||style="background-color:wheat" |2,567 ||2,081 ||1,236 ||486 ||style="background-color:wheat" |59 ||style="background-color:wheat" |53 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |2,287 ||1,191 ||428 ||148 ||520 ||style="background-color:wheat" |2,534 ||2,102 ||1,209 ||432 ||style="background-color:wheat" |-247 ||style="background-color:wheat" |-219 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |2,728 ||1,364 ||545 ||280 ||539 ||style="background-color:wheat" |2,708 ||2,263 ||1,313 ||445 ||style="background-color:wheat" |20 ||style="background-color:wheat" |12 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |2,605 ||1,231 ||560 ||295 ||519 ||style="background-color:wheat" |2,853 ||2,385 ||1,372 ||468 ||style="background-color:wheat" |-248 ||style="background-color:wheat" |-265 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |2,676 ||1,439 ||458 ||232 ||108 ||439 ||style="background-color:wheat" |2,671 ||1,324 ||218 ||250 ||125 ||0 ||754 ||style="background-color:wheat" |5 ||style="background-color:wheat" |-7 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |3,176 ||1,406 ||551 ||239 ||100 ||880 ||style="background-color:wheat" |2,949 ||1,412 ||239 ||254 ||132 ||0 ||912 ||style="background-color:wheat" |227 ||style="background-color:wheat" |223 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |3,198 ||1,373 ||541 ||232 ||99 ||953 ||style="background-color:wheat" |3,072 ||1,449 ||263 ||279 ||126 ||0 ||954 ||style="background-color:wheat" |126 ||style="background-color:wheat" |130 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |3,149 ||1,537 ||505 ||219 ||93 ||796 ||style="background-color:wheat" |3,019 ||1,349 ||297 ||299 ||138 ||0 ||937 ||style="background-color:wheat" |130 ||style="background-color:wheat" |122 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |3,610 ||1,469 ||638 ||236 ||89 ||1,178 ||style="background-color:wheat" |3,440 ||1,809 ||273 ||281 ||128 ||0 ||949 ||style="background-color:wheat" |170 ||style="background-color:wheat" |150 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] 金額の単位: 百万円 </div> {| class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!物販 !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!物販 !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |3,794 ||1,620 ||563 ||290 ||93 ||487 ||741 ||style="background-color:wheat" |3,435 ||1,553 ||271 ||423 ||156 ||0 ||314 ||717 ||style="background-color:wheat" |359 ||style="background-color:wheat" |312 |- |style="font-weight:bold;" |2017 ||style="background-color:wheat" |3,424 ||1,540 ||496 ||484 ||88 ||362 ||448 ||style="background-color:wheat" |3,438 ||1,602 ||263 ||531 ||132 ||0 ||249 ||661 ||style="background-color:wheat" |-14 ||style="background-color:wheat" |1 |- |style="font-weight:bold;" |2018 ||style="background-color:wheat" |3,367 ||1,530 ||500 ||364 ||82 ||370 ||521 ||style="background-color:wheat" |3,597 ||1,864 ||283 ||383 ||137 ||0 ||260 ||670 ||style="background-color:wheat" |-230 ||style="background-color:wheat" |-277 |- |style="font-weight:bold;" |2019 ||style="background-color:wheat" |3,737 ||1,582 ||547 ||766 ||80 ||302 ||461 ||style="background-color:wheat" |3,711 ||1,931 ||327 ||369 ||137 ||0 ||224 ||723 ||style="background-color:wheat" |26 ||style="background-color:wheat" |22 |- |style="font-weight:bold;" |2020 ||style="background-color:wheat" |3,209 ||1,593 ||272 ||570 ||61 ||260 ||453 ||style="background-color:wheat" |3,401 ||2,040 ||165 ||295 ||101 ||0 ||181 ||619 ||style="background-color:wheat" |-192 ||style="background-color:wheat" |-166 |- |style="font-weight:bold;" |2021 ||style="background-color:wheat" |3,460 ||1,779 ||262 ||498 ||68 ||297 ||556 ||style="background-color:wheat" |3,485 ||1,876 ||259 ||321 ||134 ||86 ||217 ||592 ||style="background-color:wheat" |-25 ||style="background-color:wheat" |19 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf 2017]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h30kaiji_1.pdf 2018]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h31kaiji.pdf 2019]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-r2kaiji.pdf 2020]、 [https://aboutj.jleague.jp/corporate/wp-content/themes/j_corp/assets/pdf/club-r3kaiji_1_20220728.pdf 2021] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |type=line |showSymbols=yes |legend=凡例 |yAxisMin=0 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |colors=#0000aa,#00aa00,#ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019, 2020, 2021 |y1=2304, 2267, 2626, 2287, 2728, 2605, 2676, 3176, 3198, 3149, 3610, 3794, 3424, 3367, 3737, 3209, 3460 |y2=2473, 2765, 2567, 2534, 2708, 2853, 2671, 2949, 3072, 3019, 3440, 3435, 3438, 3597, 3711, 3401, 3485 |y3=1107, 1414, 1236, 1209, 1313, 1372, 1324, 1412, 1449, 1349, 1809, 1553, 1602, 1864, 1931, 2040, 1876 }} === 資産 === {| class="wikitable" |- !年度 !!総資産 !!総負債 !!純資産 !!資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||931 ||431 ||500 ||1,610 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||610 ||610 ||0 ||1,610 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||1,088 ||535 ||553 ||2,210 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||810 ||476 ||333 ||2,110 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||786 ||440 ||346 ||2,110 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||977 ||896 ||80 ||2,110 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||962 ||889 ||73 ||2,110 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||1,203 ||708 ||495 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||1,134 ||509 ||625 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||1,202 ||454 ||748 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||1,445 ||547 ||898 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||1,691 ||481 ||1,210 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2017 ||1,625 ||414 ||1,211 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2018 ||1,410 ||476 ||933 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2019 ||1,516 ||561 ||955 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2020 ||1,482 ||692 ||790 ||220 |- |style="font-weight:bold;" |2021 ||1,785 ||1,014 ||771 ||220 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJ1 クラブ決算一覧。<br /> [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]<br /> [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h29kaiji.pdf 2017]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h30kaiji_1.pdf 2018]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h31kaiji.pdf 2019]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-r2kaiji.pdf 2020]、 [https://aboutj.jleague.jp/corporate/wp-content/themes/j_corp/assets/pdf/club-r3kaiji_1_20220728.pdf 2021] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |showSymbols=yes |legend=凡例 |yAxisMin=0 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019, 2020, 2021 |y1=931, 610, 1088, 810, 786, 977, 962, 1203, 1134, 1202, 1445, 1691, 1625, 1410, 1516, 1482, 1785 |y2=500, 0, 553, 333, 346, 80, 73, 495, 625, 748, 898, 1210, 1211, 933, 955, 790, 771 }} == 関連情報 == [[ファイル:EDION Hiroshima honten 20190623-1.JPG|250px|thumb|right|[[エディオン広島本店]](東館および西館)]] {{ external media | topic = V-point(2010年以前) | align = | width = | image1 = [[:en:file:Deodeo honten 2010-2.JPG]]<!-- 2012年現在[[Jリーグメディアプロモーション]]が肖像権を管理しているため注意 --> }} [[ファイル:Moondust-carnation.JPG|250px|thumb|right|オフィシャルフラワー[[ムーンダスト]]。]] ;紙媒体 * オフィシャル ** [[紫熊倶楽部]]:オフィス・ウエンブリー発行、編集長[[中野和也]] ** サンフレッチェ広島アシストマガジン「Assist」:[[アドプレックス]]([[月刊タウン情報 ひろしま|Tj Hiroshima]]編集室)発行 * 新聞 ** {{Wayback|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/ |title=中国新聞 サンフレ情報 |date=20000118172605}}:[[中国新聞]] * [[タウン情報誌]] ** [[広島アスリートマガジン]] ** Tj Hiroshima:コラボ企画「PickupPlayer」 ;テレビ * [[広島ホームテレビ]] ** ひろしま深堀ライブ フロントドア ** [[KICK OFF! (テレビ番組)#各番組の詳細|KICK OFF! HIROSHIMA]] * [[広島テレビ放送]] ** [[進め!スポーツ元気丸]] * [[テレビ新広島]] ** スポーツ知りため!([[情報チャージ 知りため!]]内) ** [[波田健一|波田予報士]]の当たる!?天気予報([[ひろしま満点ママ!!]]内、ホームゲーム開催日の天気を予報) *中国放送 **Eタウンスポーツ *その他 ** 熱血!サンフレ魂([[ふれあいチャンネル]]) ;ラジオ * AM(中国放送(RCCラジオ)) ** おひるーなイレブン(「おひるーな」内・毎週月曜日) ** [[サンデースタジアムGOGO!]](※プロ野球シーズンオフのみ) * FM ** [[サンフレッチェ・ラジオ・サポーターズクラブ “GOA〜L”]]([[広島エフエム放送|広島FM]]) ** 吉田流サッカー斬り(曜子とTOCOの口八丁手八丁!、[[中国コミュニケーションネットワーク|FMちゅーピー]]) * 2001年8月<ref>{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2001-09-27|url=https://web.archive.org/web/20010922033705/www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/Sw01091701.html|title=ホームゲームのFM実況中継が好評|accessdate=2012-06-03}}</ref> から2008年末まで [http://www.rcc.net/soccer/champ.htm スタジアムFM](実況:[[石橋真]]、解説:[[吉田安孝]]・[[足立修]]・[[山出久男]]など)を行っていたが、利用者が少なくなったため廃止 ;応援歌など * オフィシャル公認 ** 『SANFRECCE THEME』『SANFRECCE ANTHEM』藤島([[手島いさむ]]&[[藤川朝洋]]、2010年) ** 『[[光の射すほうへ (THE CRANE FLYの曲)|光の射すほうへ]]』[[THE CRANE FLY]](2006年) ** 『Remember〜スタジアムへの道〜』[[神園さやか]](2005年) ** 『GOAL and PROUD』加藤健一など(2003年) ** 『[[SAYYEA',JAN-GO]]』[[西城秀樹]](1994年) ** 『[[ときめいてハットトリック-GET HAT TRICK-]]』村井亜紀withNOBU-SONS(1993年) * 未公認 ** 『ビッグアーチ』電大([[川西幸一]]・[[手島いさむ]]・[[堀内一史|EBI]]、2012年) ;オフィシャルフラワー * [[ムーンダスト]] - 2016年より ;交通 * [[ラッピング車両]] ** [[広島電鉄5100形電車|サンフレッチェ電車5108号]]([[広島電鉄]])<ref name="HIRODEN">[https://web.archive.org/web/20150709232114/http://www.hiroden.co.jp/j-league/cheer.htm サンフレッチェ広島応援企画]</ref> ** [[広島高速交通6000系電車|サンフレッチェ・応援トラム6012号]]([[広島高速交通]]) ** [[キハ40系|サンフレッチェ応援ラッピングトレイン]]([[西日本旅客鉄道|JR西日本]])<ref>{{Cite web|和書|publisher=サンフレッチェ広島公式|date=2020-02-14|url=https://www.sanfrecce.co.jp/news/event/2577|title=サンフレッチェ広島応援ラッピングトレインのお披露目式典開催についてのお知らせ|accessdate=2020-10-21}}</ref> ** [http://www.daiichi-taxi.com/01service/01taxi.html サンフレッチェタクシー]([[フォーブル]]) ** [http://www.daiichi-taxi.com/02bus/ サンフレッチェ路線バス](大町団地線、フォーブル) ** [https://www.sanfrecce.co.jp/news/_release/10349.html サンフレッチェ広島専用デザインバス]([[中国ジェイアールバス]]、選手移動用) * [[山陽自動車道]]・[[宮島サービスエリア|宮島SA]](上り側)内にコーナーが設けられている。 ;[[ワンタッチパス]]対応ICチケット * [[PASPY#事業者以外が発行するもの|サンフレッチェPASPY]] - 2010年発行開始。[[乗車カード]]である[[PASPY]]と一体化したもの<ref name="HIRODEN" />。2016年シーズンで発行終了した。 * キーホルダー型 - 2015年試験的発行。[[戸田工業]]と共同開発したもので、カードタイプ以外のものとしてはJリーグ初<ref>{{Cite news |title=キーホルダーでサンフレ観戦|url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=163779&comment_sub_id=0&category_id=110 |newspaper=中国新聞 |date=2015-06-18 |accessdate=2015-06-18 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考資料 == * {{Cite book|和書|author=中野和也 |authorlink=中野和也 |title=サンフレッチェ情熱史 |date=2013-12 |publisher=ソル・メディア |isbn=4905349141 |ref=harv}} * {{Facebook|nikefootballjp/app_312903522102149|Nike Football Japan / SANFRECCE / History}} * {{Cite web|和書|publisher=[[広島サッカー向上委員会]]、[[中国放送]]|url=http://www.rcc.net/soccer/archive/070211.htm|title=今西和男さん(FC岐阜セネラルマネージャー、吉備国際大学教授/'07年2月11日放送)|accessdate=2012-12-31|ref = 今西インタビュー}} * {{Cite journal|和書 |author = [[加部究]] |date = 2006-12 |title = GM考察 第1章 広島のドン:今西氏のクラブGM論|journal = [[サッカー批評]] |issue = 33 |isbn = 4575478938 |ref = GM論}} * {{Cite journal|和書|author = [[小澤一郎 (スポーツライター)|小澤一郎]]|journal=サッカー批評 |issue = 50|url=http://www.footballchannel.jp/2012/12/14/post696/|title=サンフレッチェ広島のブレない指針(前編)|accessdate=2012-12-31}} * {{Cite journal|和書|author = 小澤一郎|journal=サッカー批評 |issue = 50|url=http://www.footballchannel.jp/2012/12/16/post879/|title=サンフレッチェ広島のブレない指針(後編)|accessdate=2012-12-31}} * {{Cite book|和書 |author= 森保一|authorlink=森保一 |coauthors = [[西岡明彦]] |title = ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に |origdate = 2004-02 |publisher = [[フロムワン]] |isbn = 4757210159 |ref = 森保自伝}} * [[紫熊倶楽部]]各号 * [[紫熊倶楽部|季刊紙「ASSIST」]]各号 * [[中国新聞]]各紙 * {{Wayback|url=http://www5c.biglobe.ne.jp/~sanf/index.htm |title=サンフレッチェ広島記録集 |date=20031007062625}} * {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/sanfreccediary/ |title=SANFRECCE Diary |date=20040209075707}} * {{Wayback|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Sanfre/1996/index.html |title=サンフレッチェ 1996年の成績 |date=20070828010522}} == 関連項目 == *[[サンフレッチェ広島F.Cの選手一覧]] * 上記以外でクラブ創設に尽力した主な人物 ** [[下村幸男]]:元日本代表監督、元スカウトスーパーバイザー ** [[小沢通宏]]:元日本代表、元マツダSC部長 ** [[松本育夫]]:元日本代表、元日本サッカー協会技術スタッフ * [[スタジアムDJ]] ** [[貢藤十六]]:現在のメイン ** [[石橋竜史]]:2代目メイン ** [[広田みのる]]:初代メイン * [[ユニコーン (バンド)|ユニコーン]] ** [[奥田民生]]:アルビレックス新潟・応援歌CDへの自身の楽曲使用を拒否したエピソードがある。 ** [[手島いさむ]]:藤島(藤川朝洋とのユニット)として『SANFRECCE THEME』『SANFRECCE ANTHEM』を提供。 * [[アンガールズ]]:ライブDVD名に元広島の[[パベル・チェルニー|チェルニー]]の名が使われている。 * [[トップス広島]] - [[P3 HIROSHIMA]] *[[サンフレッチェ広島レジーナ]] *[[中四国サテライトリーグ]] *[[SPL∞ASH]]:2014年より『サンフレッチェ・レディース』を務めるアイドルグループ。 == 外部リンク == {{commonscat|Sanfrecce Hiroshima}} * {{Official website}} * オフィシャル携帯サイト・TSSサンフレッチェ広島 ** [https://www.sanfrecce.co.jp/community/mobile/index.html オフィシャルウェブサイト内紹介] ** [http://www.tss-tv.co.jp/sanfrecce/index.html TSSウェブサイト内紹介] * {{YouTube|user=sanfreccechannel|SANFRECCE HIROSHIMA CHANNEL}} * {{Facebook|sanfrecce.hiroshima.official|公式 Facebook}} * {{Twitter|sanfrecce_SFC|公式 Twitter}} * {{Instagram|sanfrecce.official|公式 Instagram}} {{サンフレッチェ広島F.Cのメンバー}} {{サンフレッチェ広島F.C及びその前身チーム歴代監督}} {{サンフレッチェ広島F.Cのシーズン成績}} {{Navboxes |title = Jリーグ |titlestyle = |list1= {{日本プロサッカーリーグ}} {{Jリーグオリジナル10}} }} {{Navboxes|title=獲得タイトル・記録 |list1= {{Jリーグ優勝チーム}} {{J2優勝チーム}} {{Jリーグカップ優勝チーム}} }} {{トップス広島}} {{広島県のサッカーチーム}} {{エディオングループ}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=サンフレッチェ広島 |1-1=広島市中区の企業 |1-2=1992年設立の企業 |1-3=サンフレッチェ広島F.C }} {{デフォルトソート:さんふれつちえひろしま}} [[Category:サンフレッチェ広島F.C|*]] [[Category:1938年設立のスポーツチーム]] [[Category:Jリーグクラブ]] [[Category:広島県の象徴]] [[Category:広島県のサッカークラブ]]
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対テロ戦争
対テロ戦争(たいテロせんそう、英語: War on Terrorism または War on Terror、略称: WoT)は、およそ2001年頃から勃発した、アメリカ合衆国などの有志連合と呼ばれる国家と、国内外におけるテロリズムを行う組織の間の戦争である。勃発の原因としてはアメリカ同時多発テロが契機となっており、テロ攻撃の犯人がアルカーイダであるとされ、アメリカ軍がイギリス軍などと共にアルカーイダをかくまっているとされたアフガニスタン・イスラム首長国を攻撃し、崩壊させた他、後にアルカーイダの最高指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。しかし、アメリカの支援を受けて成立したアフガニスタン・イスラム共和国がゲリラ化したターリバーンの攻撃を受け崩壊。同国に展開していたアメリカ軍は撤退する事となった。 正式名はテロとのグローバル戦争(GWOT:Global War on Terrorism)と呼び、第三次世界大戦やテロとの戦いとも呼ばれた。 アメリカ同時多発テロ事件を起こしたアルカイダの首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの殺害成功(2011年)により、歴史的な区切りを迎えたとされる。 しかし、2014年には、アルカイダよりも規模が大きいISILと世界各国の戦いが勃発している。 対テロ戦争の当事者は大きく有志連合とテロ組織の2つの勢力に分かれる。アメリカ合衆国を中心とした有志連合は「テロリストによる大量殺人への対抗」、イスラム過激派を中心としたテロ組織は「西側諸国によるムスリム迫害への対抗」という立場を取っている。自衛のための戦争を行っている、という認識は双方の勢力に共通している。 テロ組織自体は大量殺人の正当化という意味で世界的に批判されているが、テロリズムの撲滅という大義名分を掲げるアメリカが、イスラム諸国の状況を深く理解せずにアルカイダ以外の組織に対して先手必勝で仕掛けた「自衛戦争」により、イスラム諸国の反感を買い、新たなテロ組織の台頭を招いている事実も批判されている。 対テロ戦争は「人類史上最大の連合」とも呼ばれた多くの国家が連合して行っている。対テロ戦争で行われた作戦によって変動するものであり、特定の国際機構や同盟に規定された単一の国家の連合ではない。世界に存在する、ありとあらゆる組織を凌駕する圧倒的な戦力を擁する。 対テロ戦争において最も指導的な立場にあるのがアメリカ合衆国とイギリスであり、イラクやアフガニスタンで対テロ作戦を展開している。アメリカ合衆国は『四年次国防見直し(Quadrennial Defense Review)』にて国家戦略として国土防衛や大量破壊兵器使用の防止などと並んでテロリスト・ネットワークの打倒を掲げている。 またアメリカ合衆国だけでなくイスラエルはパレスチナ問題を通じてでテロリズムに直面している。反シオニズムのパレスチナ勢力としてヒズボラやハマースなどがあるが、これらは政治勢力であると同時にテロ攻撃をも行う勢力である。なお、同じ反シオニズム勢力の中でもファタハなどの穏健派は有志連合に味方している。 対テロ作戦はさらにオーストラリアやカナダなどが参加しており、中東や東南アジア、アフリカの角などでの多国籍軍による作戦やアフガニスタンでの不朽の自由作戦ではイラクやアフガニスタンはまさに当事国となっており、国民がテロの被害にあったりまたは国民がテロ組織に加入したりするなど深刻な状況であるためアメリカなどと共に軍や警察を動員してテロ組織と戦っている。またアフガニスタンではパキスタンも政府軍や米英軍などを支援しているほか同国も軍を派遣している。その他ではフィリピンやインドネシアなどの東南アジア諸国も国内のテロ組織の掃討・監視等を行い対策を強化。また日本はアメリカとの同盟に基づき兵站を担うなど後方支援を行っている。 テロ組織とはテロリズムを実践する組織である。またテロ組織を支援するとされるイランやシリアなどの国家はテロ支援国家と呼ばれる。冷戦後のテロ組織はイスラム主義の運動と関連しており、従来の分離主義や民族主義の運動と並ぶテロ活動の動機となっている。小規模で戦力は弱いが、ゲリラ的な活動を主体とし、テロ組織の所在の特定やテロ事件発生の予測と撲滅が難しい。 対テロ戦争の主体として特に有名なテロ組織として挙げられるのがアルカイダである。アルカイダはウサーマ・ビン・ラーディンによって主導されているが、固定的な構成員を持つ組織ではなく、首脳部によって構成される中核を中心とするテロリストの流動的かつ広範なネットワークであるとされている。 ビン・ラーディンの主張はサウジアラビア駐留米軍の撤退、サウジアラビアの税制や保健衛生の改革、イラク制裁の解除、パキスタンやチェチェン、カシミールでの人権弾圧の解決である。第二次世界大戦での核攻撃、戦後の核開発、イスラエル支援、人権侵害などを理由にアメリカを「史上最悪の文明」として強く非難する。 またアルカーイダと関係があったとされるタリバンはムハンマド・オマルが指導するイスラム主義運動の流れを汲む政治勢力であり、2022年現在アフガニスタンを支配している。 また、アルカイダやタリバンなどとは別に、ソマリアのイスラム法廷会議や東南アジアのアブ・サヤフ、ジェマ・イスラミアもイスラム原理主義組織として知られる他、反シオニズムの政治勢力であるハマースやヒズボラ、フセイン政権崩壊後のバアス党などはレジスタンス活動でもあるが、その手法にテロリズムが含まれるためにテロ組織と呼ばれることもある。 テロリズムを定義することは難しいが、その目的から政治的な策略として理解することができる。つまり暴力によって政府や社会に対する心理的な衝撃を与えるための手段であり、より大きな政治戦略の一環として位置づけることができる。軍事学的に見れば、テロ攻撃はゲリラ戦のような不正規戦でしばしば利用される作戦である。テロ攻撃に必要な計画、人員、装備、訓練、拠点などは高度に秘匿されながら準備され、敵である政府や軍事組織だけでなく、一般市民までをも攻撃の対象とする場合もある。これは攻撃の物理的な成果は本質的には重要ではなく、その攻撃でもたらされる恐怖や畏怖が狙いであるためである。 テロ攻撃を防御することは極めて困難である。テロ攻撃の被害を防ぐためには不正規戦において敵に攻勢をかける必要がある。しかし伝統的な軍事力に対する作戦とは異なり、不正規戦の特性に合致した作戦能力が必要である。この作戦能力が備わっている戦力として特殊部隊が高く評価されている。特殊部隊はテロリストを発見してから排除するまでのあらゆる機能を集約した部隊である。対テロ作戦として、特殊部隊はさまざまな情報源を活用した諜報・諜報活動、対ゲリラ作戦のような存在が秘匿された敵を迅速に発見、拘束して殲滅する戦闘、また現地の行政機関や治安機関との関係を構築して連携する民事作戦、公共サービスの提供などによって現地住民の人心を掌握する心理戦を行う。敵ゲリラ組織だけでなく、一般市民までをも攻撃の対象とする場合もある。これも攻撃の物理的な成果は本質的には重要ではなく、その攻撃でもたらされる恐怖や畏怖が狙いであるためである。 アメリカ同時多発テロ事件が起きた2001年9月11日以降、イスラム過激派と世界各国の対立の構図が形成され、終わりの見えない戦いが続いている。 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにより、ハイジャックされた2機の飛行機はニューヨークの世界貿易センタービル、1機はバージニア州アーリントン郡の国防総省に衝突し、1機はペンシルベニア州に墜落した。 結果として約3,000人の民間人が死亡し、世界に衝撃を与えた。事件はアルカーイダによるものと報道され、国際テロ組織の脅威が強く認識されることになった。米大統領ジョージ・W・ブッシュはこの大規模なテロ事件をうけて9月12日の国家安全保障チームの会合において、このようなテロ攻撃はもはやテロリズムではなく「戦争行為(acts of war)」であると述べた。 こうして自由と民主主義が危機に瀕している情勢と主張し、このような新しい脅威に対抗するためにテロリズムとの戦い、すなわち対テロ戦争の重要性が論じられるようになる。 9月20日にはブッシュ大統領は米国議会と国民に対して訴えかけ、ウサーマ・ビン・ラーディンが指導するアルカーイダなどの国際テロリズムの存在を指摘した上でアルカーイダがアフガニスタン政府によって支援されていると述べ、当時アフガニスタンを統治していたターリバーンを非難した。 10月7日、有志連合は「テロリズムに対する汎地球戦争」(Global War on Terrorism)としてアフガニスタン侵攻を開始した。アメリカ軍が主力となり、『不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom-Afghanistan, OEF-A)』を実行してアルカーイダと繋がりがあるとされたターリバーン政権を攻撃した。これが対テロ戦争における最初の戦いと位置づけることができる。 北大西洋条約機構もこの軍事作戦に賛同はするが、主要な作戦への参加は各国の自主性に委ねた。関連する作戦として10月16日に海上阻止を行う『活発なエンデバー作戦(Operation Active Endeavour)』を公式に開始した。 また不朽の自由作戦はアフガニスタンだけでなく、有志連合によって2002年にはフィリピン、グルジア、ジブチ、エチオピア、ソマリアでも行われた。これら作戦は地域の安定化のための治安作戦や軍事支援などを含むものである。 ターリバーン政権を打倒した後もインドネシアのバリ島やテロ事件などが続き、またアルカーイダの指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンも10年近く行方がわからなくなり(2011年5月2日にアメリカ軍により殺害)、テロリズムの脅威はなくならなかった。対テロ戦争は続き、2002年1月29日の一般教書演説ではイラク、北朝鮮、イランなどを名指しして「悪の枢軸」と発言した。核開発疑惑をめぐってはイラクのフセイン政権への敵視を強める。 テロリストが入手可能なイラクの大量破壊兵器について国際原子力機関がイラクを調査し、そのような疑惑は否定される。しかしアメリカはその報告を認めず、2003年3月19日にイラク戦争を開始してフセイン政権を倒すが、大量破壊兵器は発見されなかった。イラク戦争によってフセイン政権が打倒されると、イラクでは抑圧の重石がなくなった事も災いして部族、民族、宗派をめぐる対立が激化し、治安が急速に悪化する。2004年7月、サッダーム・フセイン元大統領はイラクの裁判所に起訴され、2006年12月に死刑判決を受け執行された。 イラクでフセイン政権を打倒した後の2004年3月にパキスタンではワジリスタン紛争が開始された。パキスタン軍や地域の武装勢力と、ターリバーン、アルカーイダ系の武装勢力との戦いであり、アメリカもアルカーイダを掃討するために作戦に参加した。この作戦によってアフガニスタンとパキスタン国境地帯のターリバーン勢力は打撃を受けた。 しかし2004年3月11日にアルカーイダ系のテロ組織によってスペイン列車爆破事件が実行され、またチェチェン共和国独立派によって9月1日にベスラン学校占拠事件が発生した。2005年にも7月7日にロンドン同時爆破事件が引き起こされ、21日にも二回目のテロ事件があった。それ以後もインドネシア、インドでもテロ事件が続いた。 ヒラリー・クリントン国務長官は2009年3月30日、ハーグに向かう途中で同行記者団に、バラク・オバマ政権が「対テロ戦争」なる語の使用を中止した旨述べた。 アメリカ軍はイラクからは2011年12月に撤退した。アフガニスタンではアメリカ軍および国際治安支援部隊とターリバーンの戦闘が継続している。また掲げられたイラク侵攻の理由が変えられたためにその正統性に対する批判もある。イスラム主義に根ざしたテロ組織ではアメリカとイスラエルの軍隊がダール・アル=イスラームの征服をもくろんで開始したものであり、イスラム教徒が彼らと戦うのはアッラーの道にかなったジハードであるとしている。対テロ戦争でパレスチナ問題のパレスチナ側組織がテロ組織として挙げられていることなどにより、その正統性に疑いを投げかける材料とされている。 イギリス外務大臣デイヴィッド・ミリバンドは、2009年1月15日付ガーディアンに論文を投稿、この中で「“対テロ戦争”なる定義は誤りだった、却って諸勢力を団結させる事に繋がった」と述べた。イギリス政府も2007年からは「テロを煽る事になる」としてこの語を用いないようにしている。
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対テロ戦争は、およそ2001年頃から勃発した、アメリカ合衆国などの有志連合と呼ばれる国家と、国内外におけるテロリズムを行う組織の間の戦争である。勃発の原因としてはアメリカ同時多発テロが契機となっており、テロ攻撃の犯人がアルカーイダであるとされ、アメリカ軍がイギリス軍などと共にアルカーイダをかくまっているとされたアフガニスタン・イスラム首長国を攻撃し、崩壊させた他、後にアルカーイダの最高指導者であるウサーマ・ビン・ラーディンを殺害した。しかし、アメリカの支援を受けて成立したアフガニスタン・イスラム共和国がゲリラ化したターリバーンの攻撃を受け崩壊。同国に展開していたアメリカ軍は撤退する事となった。 正式名はテロとのグローバル戦争と呼び、第三次世界大戦やテロとの戦いとも呼ばれた。 アメリカ同時多発テロ事件を起こしたアルカイダの首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの殺害成功(2011年)により、歴史的な区切りを迎えたとされる。 しかし、2014年には、アルカイダよりも規模が大きいISILと世界各国の戦いが勃発している。
{{出典の明記|date=2022年8月}} {{Battlebox | battle_name = 対テロ戦争 | campaign = アフガニスタン紛争 (2001年-2021年) |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:US Marines in Operation Enduring Freedom.jpg|300px]] | caption = アフガニスタンでの作戦行動中の[[アメリカ海兵隊]]。テロ組織の構成員が潜伏していると考えられる民家を捜査している。 | conflict = テロとの戦い<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-181801 |title=テロとの戦い |publisher=[[コトバンク]] |date=2007 |accessdate=2023-09-30}}</ref> | date = [[2001年]][[9月11日]]以降{{R|"kotobank"}} | place = アフガニスタンやイラクなど{{R|"kotobank"}}。 | result = 対象国に対して軍事侵攻が行われているが、力によってテロを完全に封じ込めることは不可能となっている{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = '''軍事作戦参加国'''<br/>[[有志連合]]<br>{{PAK}}<br/>{{ETH}}<br/>{{SOM}}<br/>{{YEM}}<br/>{{Flagicon|PSE}}[[ファタハ]]<br/>{{LBY}} | combatant2 = '''作戦の標的'''<br>[[イスラム過激派]] | commander1 = | commander2 = | strength1 = [[国際治安支援部隊]]<br/>102,052人<br/>(うち米軍68,000人)<br/>米軍増派30,000人<br/>連合軍増派7,000人<ref>{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/genre/detail/D-120-0016.html |title=国際治安支援部隊(ISAF) |publisher=[[イミダス]] |date=2013-03 |accessdate=2023-04-09}}</ref><br/>[[イラク駐留軍]]<br/>増派以前138,000人<br/>(うち米軍93%)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-01/2008030106_01_0.html |title=崩れゆく有志連合 イラク「多国籍」軍 いまや米兵93% |publisher=[[しんぶん赤旗]] |date=2008-03-01 |accessdate=2023-04-09}}</ref><br/>[[アフガニスタン軍]]<br/>総兵力181,000人<br/>うち陸軍174,000人<br/>うち空軍7,000人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html |title=アフガニスタン・イスラム共和国 |publisher=[[外務省]] |date=2021-05-14 |accessdate=2023-04-09}}</ref><br/>[[イラク治安部隊]]<br/>総兵力193,000人<br/>うち陸軍180,000人<br/>うち海軍3,000人<br/>うち空軍5,000人<br/>うち防空軍5,000人<br/>[[準軍事組織]]148,000人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html |title=イラク共和国 |publisher=[[外務省]] |date=2022-12-16 |accessdate=2023-04-09}}</ref> | strength2 = アルカーイダ<br/>数十人~500人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/al-qaida.html |title=アルカイダ |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-04-09}}</ref><br/>ターリバーン<br/>58,000人~100,000人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/taliban.html |title=タリバン |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-04-09}}</ref><br/>イスラム国<br/>10,000人<br/>(最盛期33,000人)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ME_N-africa/ISIL.html |title=イラク・レバントのイスラム国(ISIL) |publisher=[[公安調査庁]] |date=2021 |accessdate=2023-04-09}}</ref> | casualties1 = 米軍7052人[[戦死]]<br/>現地国軍200,000人戦死<br/>[[民間人]]370,000人犠牲<br/>関係者数百人以上犠牲<ref name="tokyo">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/130158 |title=「9・11」から20年 死者100万人に迫るも、深まる人種・宗教間対立 |publisher=[[東京新聞]] |date=2021-09-10 |accessdate=2023-04-09}}</ref> | casualties2 = 300,000人戦死{{R|"tokyo"}} }} '''対テロ戦争'''(たいテロせんそう、{{lang-en|War on Terrorism}} または {{en|War on Terror、略称: '''WoT'''}})は、およそ[[2001年]]頃から勃発した、[[アメリカ合衆国]]などの[[有志連合]]と呼ばれる国家と、国内外における[[テロリズム]]を行う組織の間の[[戦争]]である。勃発の原因としては[[アメリカ同時多発テロ]]が契機となっており、テロ攻撃の犯人が[[アルカーイダ]]であるとされ、[[アメリカ軍]]が[[イギリス軍]]などと共にアルカーイダをかくまっているとされた[[アフガニスタン・イスラム首長国]]を攻撃し、崩壊させた他、後にアルカーイダの最高指導者である[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]を殺害した。しかし、アメリカの支援を受けて成立した[[アフガニスタン・イスラム共和国]]が[[ゲリラ]]化した[[ターリバーン]]の攻撃を受け崩壊。同国に展開していたアメリカ軍は撤退する事となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/topics/focus.html |title=対テロ戦争の20年 |publisher=~米国同時多発テロ事件から「タリバン」復権に至るまでの国際テロ情勢と今後の注目動向~ |date=2021 |accessdate=2023-02-23}}</ref>。 正式名は'''テロとのグローバル戦争'''({{en|GWOT:Global War on Terrorism}})と呼び<ref>Global War On Terror' Is Given New Name , Scott Wilson and Al Kamen, The Washington Post , 25 March 2009</ref><ref>"Global War on Terrorism Expeditionary Medal GWOTEM and Global War on Terrorism Service Medal GWOTSM" . US Army Human Resource Command Website</ref>、[[第三次世界大戦]]<ref>"Bush likens 'war on terror' to WWIII". ABC News Online – Abc.net.au. 06/05/2006.</ref>や'''テロとの戦い'''とも呼ばれた<ref group="注釈">対テロ戦争の定義についての論争はテロリズムの定義によって変化しうる。この定義については[[ホワイトハウス]](http://www.whitehouse.gov/infocus/nationalsecurity/faq-what.html )における「The American Response to Terrorism is being fought at home and abroad through multiple operations including: diplomatic, military, financial, investigative, homeland security and humanitarian actions.([[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]のテロリズムに対する対応は国内と海外で次のものを含む多角運用を通じた戦いである:外交、軍事、金融、調査のアクションおよび国土安全保障と人道主義のアクション。)」との記述を参考とした。</ref>。 [[アメリカ同時多発テロ事件]]を起こした[[アルカーイダ|アルカイダ]]の首謀者である[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]]成功(2011年)により、歴史的な区切りを迎えたとされる。 しかし、[[2014年]]には、[[アルカーイダ|アルカイダ]]よりも規模が大きい[[ISIL]]と世界各国の戦いが勃発している。 == 当事者 == 対テロ戦争の当事者は大きく有志連合とテロ組織の2つの勢力に分かれる。アメリカ合衆国を中心とした有志連合は「テロリストによる大量殺人への対抗」、[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]を中心としたテロ組織は「[[西側諸国]]による[[ムスリム]][[迫害]]への対抗」という立場を取っている。自衛のための戦争を行っている、という認識は双方の勢力に共通している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/200804/34.pdf|title=中社2008.04「対テロ戦争と平和」|accessdate=2019年2月16日|publisher=}}</ref>。 テロ組織自体は大量殺人の正当化という意味で世界的に批判されているが、テロリズムの撲滅という大義名分を掲げるアメリカが、[[イスラム世界|イスラム諸国]]の状況を深く理解せずにアルカイダ以外の組織に対して先手必勝で仕掛けた「[[自衛戦争]]」により、イスラム諸国の反感を買い、新たなテロ組織の台頭を招いている事実も批判されている。 === 有志連合 === 対テロ戦争は「人類史上最大の連合」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2003/2003/|title=平成15年版防衛白書|publisher=防衛省|accessdate=2017-08-19}}第1章国際軍事情勢第1節国際社会の課題</ref>とも呼ばれた多くの国家が連合して行っている。対テロ戦争で行われた作戦によって変動するものであり、特定の[[国際機構]]や同盟に規定された単一の国家の連合ではない。世界に存在する、ありとあらゆる組織を凌駕する圧倒的な戦力を擁する。 対テロ戦争において最も指導的な立場にあるのが[[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]であり、イラクやアフガニスタンで対テロ作戦を展開している。アメリカ合衆国は『四年次国防見直し(Quadrennial Defense Review)』にて[[国家戦略]]として国土防衛や[[大量破壊兵器]]使用の防止などと並んでテロリスト・ネットワークの打倒を掲げている<ref>本文については{{Cite web|date=2006-02-06|url=http://www.defenselink.mil/qdr/report/Report20060203.pdf|title=Quadrennial Defense Review Report|format=PDF|publisher=アメリカ国防総省|accessdate=2017-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060206024906/http://www.defenselink.mil/qdr/report/Report20060203.pdf|archivedate=2006-02-06}}を参照。</ref>。 またアメリカ合衆国だけでなく[[イスラエル]]は[[パレスチナ問題]]を通じてでテロリズムに直面している。[[反シオニズム]]のパレスチナ勢力として[[ヒズボラ]]や[[ハマース]]などがあるが、これらは政治勢力であると同時にテロ攻撃をも行う勢力である。なお、同じ反シオニズム勢力の中でも[[ファタハ]]などの[[穏健|穏健派]]は有志連合に味方している。 対テロ作戦はさらに[[オーストラリア]]や[[カナダ]]などが参加しており、[[中東]]や[[東南アジア]]、[[アフリカの角]]などでの[[多国籍軍]]による作戦やアフガニスタンでの[[不朽の自由作戦]]では[[イラク]]や[[アフガニスタン・イスラム共和国|アフガニスタン]]はまさに当事国となっており、国民がテロの被害にあったりまたは国民がテロ組織に加入したりするなど深刻な状況であるためアメリカなどと共に軍や警察を動員してテロ組織と戦っている。またアフガニスタンでは[[パキスタン]]も政府軍や米英軍などを支援しているほか同国も軍を派遣している。その他では[[フィリピン]]や[[インドネシア]]などの[[東南アジア]]諸国も国内のテロ組織の掃討・監視等を行い対策を強化。また[[日本]]はアメリカとの同盟に基づき[[兵站]]を担うなど[[後方支援]]を行っている。 === テロ組織 === [[テロ組織と認定された組織の一覧|テロ組織]]とは[[テロリズム]]を実践する組織である。またテロ組織を支援するとされる[[イラン]]や[[シリア]]などの国家は[[テロ支援国家]]と呼ばれる。[[冷戦]]後のテロ組織は[[イスラム主義]]の運動と関連しており、従来の分離主義や[[民族主義]]の運動と並ぶテロ活動の動機となっている。小規模で戦力は弱いが、ゲリラ的な活動を主体とし、テロ組織の所在の特定やテロ事件発生の予測と撲滅が難しい。 対テロ戦争の主体として特に有名なテロ組織として挙げられるのが[[アルカーイダ|アルカイダ]]である。アルカイダは[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]によって主導されているが、固定的な構成員を持つ組織ではなく、首脳部によって構成される中核を中心とするテロリストの流動的かつ広範なネットワークであるとされている<ref>ジェイソン・バーク著『アルカイダ ビンラディンと国際テロ・ネットワーク』(講談社)40項-46項を参照されたい。</ref>。 ビン・ラーディンの主張は[[サウジアラビア]]駐留米軍の撤退、サウジアラビアの税制や保健衛生の改革、イラク制裁の解除、[[パキスタン]]や[[チェチェン共和国|チェチェン]]、[[カシミール]]での人権弾圧の解決である。[[第二次世界大戦]]での核攻撃、戦後の核開発、イスラエル支援、人権侵害などを理由にアメリカを「史上最悪の文明」として強く非難する<ref>ジェイソン・バーク著『アルカイダ ビンラディンと国際テロ・ネットワーク』(講談社)61項を参照されたい。</ref>。 {{main|アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|2021年ターリバーン攻勢}} またアルカーイダと関係があったとされる[[ターリバーン|タリバン]]は[[ムハンマド・オマル]]が指導するイスラム主義運動の流れを汲む政治勢力であり、2022年現在アフガニスタンを支配している。 また、アルカイダやタリバンなどとは別に、ソマリアの[[イスラム法廷会議]]や東南アジアの[[アブ・サヤフ]]、[[ジェマ・イスラミア]]もイスラム原理主義組織として知られる他、[[反シオニズム]]の政治勢力である[[ハマース]]や[[ヒズボラ]]、フセイン政権崩壊後の[[バアス党]]などはレジスタンス活動でもあるが、その手法にテロリズムが含まれるためにテロ組織と呼ばれることもある。 == 作戦概要 == === テロリズム === {{Main|テロリズム}} テロリズムを定義することは難しいが、その目的から[[政治]]的な策略として理解することができる。つまり[[暴力]]によって政府や社会に対する心理的な衝撃を与えるための手段であり、より大きな政治戦略の一環として位置づけることができる。[[軍事学]]的に見れば、テロ攻撃は[[ゲリラ戦]]のような不正規戦でしばしば利用される作戦である。テロ攻撃に必要な計画、人員、装備、訓練、拠点などは高度に秘匿されながら準備され、敵である政府や軍事組織だけでなく、一般市民までをも攻撃の対象とする場合もある。これは攻撃の物理的な成果は本質的には重要ではなく、その攻撃でもたらされる恐怖や畏怖が狙いであるためである。 === 対テロ作戦 === {{main|対反乱作戦|対テロ作戦|対ゲリラ作戦}} テロ攻撃を防御することは極めて困難である。テロ攻撃の被害を防ぐためには不正規戦において敵に攻勢をかける必要がある。しかし伝統的な[[軍事力]]に対する作戦とは異なり、不正規戦の特性に合致した作戦能力が必要である。この作戦能力が備わっている戦力として[[特殊部隊]]が高く評価されている。特殊部隊はテロリストを発見してから排除するまでのあらゆる機能を集約した部隊である。対テロ作戦として、特殊部隊はさまざまな情報源を活用した[[諜報]]・[[諜報活動]]、[[対ゲリラ作戦]]のような存在が秘匿された敵を迅速に発見、拘束して殲滅する[[戦闘]]、また現地の行政機関や治安機関との関係を構築して連携する民事作戦、公共サービスの提供などによって現地住民の人心を掌握する[[心理戦]]を行う。敵ゲリラ組織だけでなく、一般市民までをも攻撃の対象とする場合もある。これも攻撃の物理的な成果は本質的には重要ではなく、その攻撃でもたらされる恐怖や畏怖が狙いであるためである。 == 経過 == [[アメリカ同時多発テロ事件]]が起きた2001年9月11日以降、イスラム過激派と世界各国の対立の構図が形成され、終わりの見えない戦いが続いている。 === テロリズムの脅威 === {{Main|アメリカ同時多発テロ事件}} [[2001年]][[9月11日]]に発生したアメリカ同時多発テロにより、[[ハイジャック]]された2機の飛行機は[[ニューヨーク]]の世界貿易センタービル、1機は[[バージニア州]][[アーリントン郡 (バージニア州)|アーリントン郡]]の国防総省に衝突し、1機は[[ペンシルベニア州]]に墜落した。 結果として約3,000人の民間人が死亡し、世界に衝撃を与えた。事件は[[アルカーイダ]]によるものと報道され、国際テロ組織の脅威が強く認識されることになった。[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]]はこの大規模なテロ事件をうけて9月12日の国家安全保障チームの会合において、このようなテロ攻撃はもはやテロリズムではなく「戦争行為(acts of war)」であると述べた。 こうして自由と[[民主主義]]が危機に瀕している情勢と主張し、このような新しい脅威に対抗するためにテロリズムとの戦い、すなわち対テロ戦争の重要性が論じられるようになる。 === 対テロ作戦の開始 === {{Main|アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)}} 9月20日にはブッシュ大統領は米国議会と国民に対して訴えかけ、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]が指導する[[アルカーイダ]]などの[[国際テロリズム]]の存在を指摘した上でアルカーイダがアフガニスタン政府によって支援されていると述べ、当時[[アフガニスタン]]を統治していた[[ターリバーン]]を非難した。 10月7日、[[有志連合]]は「テロリズムに対する汎地球戦争」(Global War on Terrorism)として[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタン侵攻]]を開始した。アメリカ軍が主力となり、『[[不朽の自由作戦]](Operation Enduring Freedom-Afghanistan, OEF-A)』を実行してアルカーイダと繋がりがあるとされたターリバーン政権を攻撃した。これが対テロ戦争における最初の戦いと位置づけることができる。 [[北大西洋条約機構]]もこの軍事作戦に賛同はするが、主要な作戦への参加は各国の自主性に委ねた。関連する作戦として10月16日に海上阻止を行う『活発なエンデバー作戦(Operation Active Endeavour)』を公式に開始した。 また不朽の自由作戦はアフガニスタンだけでなく、有志連合によって2002年には[[フィリピン]]、[[ジョージア (国)|グルジア]]、[[ジブチ]]、[[エチオピア]]、[[ソマリア]]でも行われた。これら作戦は地域の安定化のための治安作戦や軍事支援などを含むものである。 === イラクへの侵攻 === {{Main|イラク戦争}} ターリバーン政権を打倒した後も[[インドネシア]]の[[バリ島]]やテロ事件などが続き、またアルカーイダの指導者である[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]も10年近く行方がわからなくなり(2011年5月2日にアメリカ軍により殺害)、テロリズムの脅威はなくならなかった。対テロ戦争は続き、2002年1月29日の一般教書演説では[[イラク]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[イラン]]などを名指しして「[[悪の枢軸]]」と発言した。核開発疑惑をめぐってはイラクのフセイン政権への敵視を強める。 テロリストが入手可能なイラクの[[大量破壊兵器]]について[[国際原子力機関]]がイラクを調査し、そのような疑惑は否定される。しかしアメリカはその報告を認めず、2003年3月19日にイラク戦争を開始してフセイン政権を倒すが、大量破壊兵器は発見されなかった。イラク戦争によってフセイン政権が打倒されると、イラクでは抑圧の重石がなくなった事も災いして部族、民族、宗派をめぐる対立が激化し、治安が急速に悪化する。2004年7月、[[サッダーム・フセイン]]元大統領はイラクの裁判所に起訴され、2006年12月に死刑判決を受け[[サッダーム・フセインの死刑執行|執行]]された。 === 続くテロ事件 === イラクでフセイン政権を打倒した後の2004年3月にパキスタンでは[[ワジリスタン紛争]]が開始された。[[パキスタン軍]]や地域の武装勢力と、ターリバーン、アルカーイダ系の武装勢力との戦いであり、アメリカもアルカーイダを掃討するために作戦に参加した。この作戦によってアフガニスタンとパキスタン国境地帯のターリバーン勢力は打撃を受けた。 しかし2004年3月11日にアルカーイダ系のテロ組織によって[[スペイン列車爆破事件]]が実行され、また[[チェチェン共和国]]独立派によって9月1日に[[ベスラン学校占拠事件]]が発生した。2005年にも7月7日に[[ロンドン同時爆破事件]]が引き起こされ、21日にも二回目のテロ事件があった。それ以後もインドネシア、インドでもテロ事件が続いた。 == 評価 == [[ヒラリー・クリントン]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]は2009年3月30日、ハーグに向かう途中で同行記者団に、[[バラク・オバマ]]政権が「対テロ戦争」なる語の使用を中止した旨述べた<ref>『「対テロ戦争」使用やめます=前政権の負のイメージ払しょく?-米』時事通信</ref>。 アメリカ軍はイラクからは2011年12月に撤退した。アフガニスタンではアメリカ軍および国際治安支援部隊とターリバーンの戦闘が継続している。また掲げられたイラク侵攻の理由が変えられたためにその正統性に対する批判もある。[[イスラム主義]]に根ざしたテロ組織ではアメリカとイスラエルの軍隊がダール・アル=イスラームの征服をもくろんで開始したものであり、[[イスラム教|イスラム教徒]]が彼らと戦うのはアッラーの道にかなった[[ジハード]]であるとしている。対テロ戦争で[[パレスチナ問題]]のパレスチナ側組織がテロ組織として挙げられていることなどにより、その正統性に疑いを投げかける材料とされている。 [[外務・英連邦・開発大臣|イギリス外務大臣]][[デイヴィッド・ミリバンド]]は、2009年1月15日付[[ガーディアン]]に論文を投稿、この中で「“対テロ戦争”なる定義は誤りだった、却って諸勢力を団結させる事に繋がった」と述べた。[[イギリス政府]]も2007年からは「テロを煽る事になる」としてこの語を用いないようにしている。 == 対テロ戦争の結果 == * イラクでは国連安全保障理事会が採択した国家の再建と復興プロセスに基づいて、2005年1月に暫定国会議員選挙が行われた<ref name="ja-moha-iraq">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html 外務省>各国・地域情勢>中東>イラク共和国>基礎データ]</ref>。 *2005年8月に暫定国会が新憲法案を採択して国民に公開し、2005年10月に新憲法案承認を問う国民投票で新憲法案が承認された<ref name="ja-moha-iraq" />。 * 承認された新憲法案に基づいて2005年12月に第1回国会議員選挙が行われた<ref name="ja-moha-iraq" />。 * 2006年5月に国会が首相を選出し、2006年6月に首相が閣僚を任命して、初代内閣が組閣された<ref name="ja-moha-iraq" />。 * 2010年3月に第2回国会議員選挙が行われ、2010年11月に国会が首相を選出し、2010年12月に首相が閣僚を任命して、第2代内閣が組閣された<ref name="ja-moha-iraq" />。 * アフガニスタンでは2001年12月に部族代表者会議で暫定政府が設立され<ref name="ja-moha-afganistan">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iraq/data.html 外務省>各国・地域情勢>中東>アフガニスタン・イスラム共和国>基礎データ]</ref>。 *2002年6月に部族代表者による暫定議会が召集された<ref name="ja-moha-afganistan" />。 *2003年12月に暫定議会により新憲法が採択され施行された2004年10月に第1回大統領選挙が行われ大統領が選出された<ref name="ja-moha-afganistan" />。 *2005年9月に第1回国会議員選挙が行われた<ref name="ja-moha-afganistan" />。 *2009年8月に第2回大統領選挙が行われ大統領が選出された<ref name="ja-moha-afganistan" />。 *2010年9月に第2回国会議員選挙が行われた<ref name="ja-moha-afganistan" />。 == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <references /> == 関連項目 == * [[アメリカのアフガニスタン侵攻]] * [[イラク戦争]] * [[偽旗作戦]] * [[テロ支援国家]] * [[グァンタナモ米軍基地]] **[[グアンタナモ、僕達が見た真実]] * [[アブグレイブ刑務所における捕虜虐待]] * [[キューバ系アメリカ人財団#テロ活動]] * [[米国愛国者法]] * [[非対称戦争]] * [[対テロ作戦]] == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20080706172826/http://www.whitehouse.gov/infocus/nationalsecurity/faq-what.html 対テロ戦争についてのQ&A](ホワイトハウス){{en icon}} *米同時多発テロ10周年:米政府の口に出しにくい事情 [http://j.people.com.cn/94474/7592143.html 上] [http://j.people.com.cn/94474/7592168.html 下] (人民日報) {{対テロ戦争}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たいてろせんそう}} [[Category:対テロ戦争|*]] [[Category:不正規戦争]] [[Category:戦争と暴力に関するメタファー]]
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横浜フリューゲルス
横浜フリューゲルス(よこはまフリューゲルス、Yokohama Flügels)は、かつて存在した日本のプロサッカークラブ。1993年から1998年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟していた。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つであった。 前身は横浜市にあった中区スポーツ少年団(後にFCゴールを経て横浜サッカークラブと改称)。その後、全日本空輸(ANA)が援助を行い、横浜トライスターサッカークラブ、1984年にチームの運営会社「全日空スポーツ株式会社」を設立後は全日空横浜サッカークラブとなった。「トライスター」とは当時のANAの主力機、ロッキードL-1011の愛称であり、ユニフォームにも同様のロゴが使用されていた。 1991年にJリーグに加盟。Jリーグ開幕時の加盟クラブのひとつ。 ホームタウンは当初東京都町田市とする計画で、町田青年会議所が中心の「町田にプロサッカークラブを誘致する会」が設立され誘致活動を行っていたが、ホームスタジアムとなる予定だった町田市立陸上競技場の整備問題などを解決できず断念。結局ホームタウンは神奈川県横浜市、ホームスタジアムは三ツ沢公園球技場(後に横浜国際総合競技場も追加)となった。 練習会場は当初、同市神奈川区にある全日空菅田総合グラウンドを使用していたが、1994年からは戸塚区保土ヶ谷大洋球場(大洋ホエールズの練習場)跡に建設されたフリューゲルス・東戸塚トレーニングセンターを使用した。チームの合併後はF・マリノスが練習場として使用したが、横浜みなとみらい21のマリノスタウンへの移転後は横浜FCが使用するようになった(後述)。 「フリューゲル(Flügel)」はドイツ語で「翼」の意。なお、 /l/ は有声音なので、英語で発音するなら語尾の s は、本来的には /s/ ではなく /z/ となる。 スタート当初は全日空(ANA)のAと、Jリーグ参戦にあたり共同出資した佐藤工業のSを取って「(横浜)AS(エイ・エス)フリューゲルス」と名乗っていた時期もあった。ちなみに読売新聞とフジテレビ「プロ野球ニュース」では1992年と1993年はチーム名表記を「AS(フリューゲルス)」、スポーツ報知と日本テレビも「AS横浜フリューゲルス」と紹介していたが、1994年から「横浜F(横浜フリューゲルス)」に統一された。 1992年 - 1995年までは九州地方にJリーグのクラブがなかったこともあり、「特別活動地域」として長崎県、熊本県、鹿児島県の3県で活動していたが、アビスパ福岡がJリーグに加盟した1996年以降は解消した(後述)。 Jリーグ発足を前にエドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、アウドロらを獲得。開幕戦は清水エスパルスに3-2で競り勝つスタートを切った。チームは1st、2ndステージとも7位に終わった。 2ndステージでの途中でJリーグの優勝が絶望となったため、加茂監督は天皇杯に目標を切り換えことることとし、思惑通り快進撃を続けることが出来た(1回戦:田辺製薬、2回戦:浦和レッズ、準々決勝:ヴェルディ川崎、準決勝:サンフレッチェ広島)。決勝では、1stステージの王者アントラーズに終了間際に2-2の同点とされ延長戦となるも、延長戦で4ゴールを決め6-2で勝利。Jリーグ開幕後初の天皇杯で優勝した。 開幕前のゼロックス・スーパーカップ(Jリーグの年間優勝チームと天皇杯優勝チームが対戦)で、ヴェルディ川崎と対戦。この試合では惜しくも1-2で敗れるも昨年から磨き上げてきたゾーンプレスが機能し、自信を深めて開幕を迎えることとなった。その勢いそのままに1stステージの第4節から第11節にかけ8連勝。一時は2位になるなど優勝も狙える状況だったが、終盤に山口、前園の怪我による戦線離脱が響き最終的に5位となった。さらに、攻撃の要として活躍していたアマリージャが1stステージ限りで退団・引退するとチームは低迷。2ndステージは8位に終わった。 この年限りで、エドゥー、フェルナンド・ダニエル・モネール、バウベル・ダ・シルバ・コスタらもチームを去っている。 加茂が日本代表の監督に就任するため退任、ヘッドコーチであった木村文治が監督に就任した。現役ブラジル代表を含むブラジルトリオ(ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイール)の加入が話題を呼んだが、1stステージでは14チーム中13位に終わる。木村は1stステージ第14節で監督を辞任、後任のアントニオ・カルロス・シルバもチームを上位に押し上げることが出来なかった。 大量失点しまうことが多く、両ステージを合わせた失点数がリーグワーストであった。 しかし、シルバの若手起用の下、楢﨑正剛、吉田孝行、波戸康広といったこの年入団した選手が台頭した。 「再建屋」と呼ばれ、南米では高い評価を得ているブラジル人のオタシリオが監督に就任。オタシリオは昨年までの4-4-2システムから3-5-2に変更。前年度チームに加入したブラジルトリオがチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返した(もし前年度までの2ステージ制ならば1stステージ優勝であった)。しかしアトランタ五輪後に再開した後半戦で勝ち点を伸ばしきれず、優勝したアントラーズ、2位のグランパスと勝利数は21で並ぶものの、勝ち点で及ばず最終順位は3位となった。 エバイール、前園が退団した一方、バウベルが1994年以来の再入団。1stステージでは最終節までアントラーズと優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝を逃した(勝ち点差2で2位)。 しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。 この年限りで、オタシリオ監督が退任。 カルロス・レシャックが監督に就任。パウロ・フットレ、イゴール・レディアコフらを獲得、3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーでマリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなど、1stステージは10勝7敗の成績を残した。しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格した。 1998年10月29日、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形でマリノスとフリューゲルスの合併が発覚。出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社のANAも単独でクラブを支える余力がなかったと報道されている。マリノスの親会社日産自動車との協議の結果、両クラブは合併の上、実質的には主導権を持つマリノスにフリューゲルスが吸収されることになった。そして、その日に開かれたJリーグの臨時理事会で、両クラブの合併が正式に承認された。 合併発表後で初の試合となった10月31日のセレッソ戦で試合後にサポーター各団体が合同でスタジアム前の広場に座り込み、合併撤回を求めてクラブフロントとの話し合いを要求した。全選手も街頭での活動に加わった合併反対署名運動等は全国で起こり、62万を超える署名が集まった。11月7日のホーム最終戦(三ツ沢)では試合後のセレモニーでエンゲルス監督がクラブの存続と救済を訴えるアピールを日本語で行い、フリューゲルスファンとしても知られていた川平慈英が存続支援を明言するなど、マスメディアでも連日社会問題として取り上げられた。 選手やサポーターは合併について全日空側とミーティングを行い、合併撤回を訴えたが、「決まったこと」として話し合いは平行線を辿る。そのような中で全日空側は「12月4日までは調印しない。調印するときは事前にサポーターや選手に伝える」と回答していたが、その約束は守られず12月2日、抜き打ちで両クラブの合併が調印された。 そんな合併劇の中、第78回天皇杯が開幕し、フリューゲルスは調印式後の12月13日に初戦を迎えた。同大会においては出場機会に恵まれず翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他クラブへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった桜井孝司らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でクラブがさらに一丸となった。準々決勝ジュビロ、準決勝アントラーズ、1999年1月1日決勝エスパルスを破って優勝した。 天皇杯優勝クラブに出場権が与えられるゼロックス杯とアジアカップウィナーズカップには、天皇杯準優勝のエスパルスが出場した。 1999年2月1日、マリノスと正式合併。マリノスはチーム名をフリューゲルス由来の「F」を加えた「F・マリノス」へと改称した。練習場はフリューゲルスの東戸塚トレーニングセンターを引き継いで「戸塚トレーニングセンター」とし、2007年のマリノスタウン完成まで使用した。 一方、フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はそれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」 を運営会社として横浜FCが設立され、日本フットボールリーグ(JFL)への参加が特例として認められた。横浜FCは1999年に設立されていた「フリューゲルス再建基金」からも2,500万円の融資を受けてチームを運営し、JFLで2年連続優勝した2000年のシーズン終了後には翌2001年からのJリーグ(J2)参加が認められた。以後、横浜FCはフリューゲルスとは異なる、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されていない。 また、「フリューゲルス再建基金」は2009年8月29日に拠出者総会を行い、2,000万円分を横浜FCの観戦チケットとして返済を受け、残る3,800万円分は横浜市が進めていたニッパツ三ツ沢球技場の観客席の増設(約2,200席分)へ寄付する事になり、それに合わせて同球技場の一般客メインゲート脇の柱に再建基金についての銘板が設置された。 「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は現在も横浜マリノス株式会社が保有している。2004年2月、マスコットの「とび丸」をはじめとしたフリューゲルス関連グッズが日本サッカー協会ビル(JFAハウス)内の「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。 2023年のJリーグ開幕戦では実況の下田恒幸がDAZNの実況において、「無念にも消えたFの想いも背負う横浜・Fマリノス」というフリューゲルスに関する言及があった。 フリューゲルス(全日空スポーツ)最大の出資者で、合併を主導したANAは、合併後のF・マリノスも運営した「横浜マリノス株式会社」に30%資本参加したが、主要株主は引き続き、70%の株式を所有する大手自動車メーカーの日産自動車だった上、ANAは2002年2月には全株式を日産に売却した。2011年にはユニフォームでの社名掲示位置が背中から袖に変更、さらに2013年を以てユニフォームスポンサーから撤退した。国際線航空便のエコノミークラス割引運賃制度として使われていた「とび丸航空券」は1999年2月から「GET」に改変され、現在は「エコ割」となっている。 フリューゲルスの共同出資者であった佐藤工業は、2002年3月に会社更生法の適用を申請し、2009年9月にその手続きが完了した。フリューゲルス解散後もサッカーに対する同社の積極的な姿勢は残り、2011年1月21日には日本サッカー協会と協定書を交わし、同協会が進める「JFAこころのプロジェクト」(ユメセン)に協賛企業としての支援を開始した。同社の本社がある富山県では2007年11月に設立されたカターレが2009年からJ2に参入し、佐藤工業は出資はしなかったものの、カターレの主催試合ではベンチ広告のスポンサーとなっている。 チームの合併発表時にフリューゲルスへ在籍していた23選手 は、関係者の尽力や天皇杯の活躍もあって、翌年も大久保貴広(Honda FC、JFL)以外は全員Jリーグクラブ(J2を含む)との契約を果たした。フリューゲルスを吸収したF・マリノスには永井秀樹・佐藤一樹・三浦淳宏・波戸康広・吉田孝行など、天皇杯決勝での先発4人を含む5選手が加入。合併2年目の2000年には三浦らの活躍で第1ステージ優勝も果たした。波戸は2004年シーズン途中に移籍した後、2010年にF・マリノスへ復帰し、2011年限りで現役を退いた。F・マリノスにスライドした旧フリューゲルスユースの選手 で、坂田大輔と田中隼磨はその後のF・マリノスで中心選手となり、共に日本代表まで選出された。 生え抜きの中心選手として現場・サポーター不在の合併を厳しく批判した山口素弘と、日本代表のGKをめぐってマリノスの川口能活と激しい競争をしていた楢﨑正剛はマリノスには加わらず、1998 FIFAワールドカップ日本代表にも選ばれていたこの2人はグランパスへ移った。楢﨑はスタメン表の前所属クラブ欄からフリューゲルスの名前が消えることを嫌い、その後2018年に引退するまで移籍することはなかった。 同大会のブラジル代表では大会初ゴールを挙げるなどで準優勝となったセザール・サンパイオはブラジルに帰国してパルメイラス復帰、選手会長として山口と共に合併反対の急先鋒だった前田浩二はジュビロ磐田、原田武男はセレッソ大阪、天皇杯決勝は出場停止だった薩川了洋は柏レイソル、天皇杯決勝でゴールを挙げた久保山由清は決勝の相手だった清水エスパルス、ユース出身の井上雄幾は天皇杯優勝の実績で新監督に就任したエンゲルスとともにジェフユナイテッド市原へ移籍と、ベテラン・中堅の主力選手はF・マリノス以外へと分散した。また、フリューゲルスのフロントから京都パープルサンガの統括部長に招かれた木村文治はフリューゲルスの若手6選手を京都に入団させた。 合併発表後の新チーム移籍が比較的順調に進んだ事もあり、急ごしらえで発足した横浜FCには直接フリューゲルスから移籍した選手はいなかったが、1993年のJリーグ開幕時にフリューゲルスで活躍していた高田昌明や渡邉一平などが加入した。その後も佐藤一樹などの元フリューゲルス選手が入団する中で、2005年8月にはアルビレックス新潟に在籍していた山口が加入し、山口は2006年に主将として横浜FCをJ1昇格へ導いた(その後2007年限りで引退)。なお、山口はF・マリノス使用時には近づかなかった旧東戸塚(LEOC)トレーニングセンターを横浜FCが引き継いだ際にはフリューゲルス時代と同じ場所に自分のロッカーを置き、自らの引退試合でも「フリューゲルス」の名前を使おうとしたが、上記の通りに名称の権利を持つF・マリノス(横浜マリノス株式会社)からの許可が下りず、山口は引退試合の開催自体を取りやめた。なお、山口は2012年から2014年まで横浜FCの監督を務めた。 なお、フリューゲルスのトップチーム在籍経験者のうち、現役選手として登録されているのは2019年時点で遠藤保仁のみとなっている。 1995年を頂点にした観客数の急減、Jリーグ各クラブの赤字額の増大に起因する「Jリーグの危機」は、1997年のJリーグ準会員・鳥栖フューチャーズの存続問題 に続くこのマリノス・フリューゲルス合併で誰の目にも明白となった。日本代表の周囲はフランスW杯出場で盛り上がっていたが、Jリーグはヴェルディが読売新聞社撤退による大幅な経営縮小やベルマーレもフジタ撤退による経営危機が重なり、また前年のアジア通貨危機に端を発した不況の影響に苦しんでいた。 Jリーグチェアマンとして事態の収拾に当たった川淵三郎は、「自分に話が来た時は両チームの合併は決定事項で覆せなかった」という言い訳する一方、Jリーグの責任者として合併を認めた事はサポーター達や前田選手会長などから当然のごとく「サポーター無視」として多くの批判を浴び、後に「これが一番辛かった」と述懐した。この事態は親会社に依存した各クラブの経営体質に問題があると判断した川淵は経営監視体制の強化に乗り出し、各クラブの財務状況の公開を徐々に進めた。また、翌年から導入したJリーグ2部制では、より経営環境が厳しくなるJ2の各クラブに一層の地域密着を求めた。 なお、翌1999年よりJリーグが2部制に移行する関係で、1997年・1998年の成績を元に下位5クラブによるJ1参入決定戦(トーナメントによる入れ替え戦)が行われることになったが、フリューゲルスの消滅により入れ替え戦の参加が下位4クラブに減少し、トーナメントも一部変更となった。 前述したように、フリューゲルスはJリーグ発足当初は九州地方をホームタウンとするJクラブがなかったこと、またANAがクラブのメインスポンサーとなっていることから、横浜市と沖縄県を含む九州各県のダブルホームタウンを実施する予定にし、ホームゲームの半数程度を九州で行う方針にしていた。これは「ANAが乗り入れている空港のある地域全てを本拠地にする」計画を持っていたことも絡んでいる。ところが、そうしてしまうと各県につき1試合ずつしか割り当てられず、興業的にも不利であることから一部フリューゲルスの主催ゲーム開催を拒絶した県もあったため、結局九州での準本拠地は長崎県、熊本県、鹿児島県の3県に絞った。 また、Jリーグではホームタウンを原則1チームにつき1市区町村となっている(現在は同一都道府県内の複数市区町村にまたぐ広域ホームタウンが認められている)とした関係もあり、正式なホームタウンは横浜市としながら、これら3県は「特別活動地域」というカテゴリーを設けてホームタウンとほぼ同じ権限を持ち、フリューゲルスの主催ゲーム(天皇杯は除く)を優先的に開催することができた。このため、Jリーグ発足最初の4年(1992-95)はフリューゲルス以外のチームがこの3県で主管試合をすることはなかった。 これに伴って、長崎、水前寺、鴨池の各競技場も照明設備の新設、スタンドの座席改築他のJリーグ開催基準を充足する工事が施された。 Jリーグ発足時、同じ横浜にホームを置くマリノスと同日に主催試合を行う事が珍しく無かったが、Jリーグが同一会場での複数試合開催をピッチコンディションや観客の入れ替え等の点で認めていない為、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスが下記の九州3県か、東京・国立競技場などの他会場を使うケースがあった。 逆に福岡県ではフリューゲルスの主催試合は行われず、マリノスが1993年・1994年に各2試合ずつ東平尾公園博多の森陸上競技場で主催試合を行った。この他、同競技場ではヴェルディやレッズなども主催試合を開催し、ヴェルディは福岡ブルックス(現在のアビスパ)がJリーグ準会員となった1995年にも東平尾公園博多の森球技場で1試合を主催した。いずれの試合でもフリューゲルスはアウェーチームとして登場しなかった。 各年度の開催試合数は横浜フリューゲルスの年度別成績一覧#年度別入場者数を参照のこと。 上記の関係もあり、1カ月以上も三ツ沢(球)でのゲームが組まれず、事実上の長期ロードに出たことがあった。特に1993年の11月から12月にかけての試合に至っては三ツ沢(球)のフリューゲルス主催試合は1試合しか行われなかった。また7月から9月始めにかけても熊本と国立で1試合ずつ試合をしており、このステージのホームゲーム9試合で三ツ沢(球)で試合をしたのはわずか3分の1に当たる3試合だけだった。 1994年、三ツ沢(球)の芝生の張替え工事を行った関係で第1ステージ(サントリーシリーズ)の後半・5月14日以後の主催試合も鹿児島、長崎、国立、富山と転戦し(熊本・水前寺は当時改修工事中だったため第1ステージは行わず)、ワールドカップを挟んで8月20日に行ったグランパスとの対戦でようやく3カ月ぶり(改修前最後の試合は5月7日のガンバ大阪戦)に三ツ沢(球)に帰ってきたという事例もある。 このため九州での試合では横浜Fのモチベーションやパフォーマンスは低くなってしまい、その結果、フリューゲルスの九州でのホームゲームの結果はリーグ戦・カップ戦合計で5勝22敗、しかも1994年7月23日のヤマザキナビスコカップ1回戦(対セレッソ、鹿児島)に1-0で勝利したのを最後に14連敗という成績であった。またスタジアム別では鹿児島で3勝7敗、長崎で2勝8敗、熊本は7戦全敗であった。 公式なホームタウンではないが、佐藤工業の創業の地が富山県にあるため、1994年から数年間は富山県総合運動公園陸上競技場でも毎年1試合程度の主催試合を開催していた。 1996年、アビスパがJリーグに参入したのに伴って横浜Fの特別活動地域のカテゴリーは消滅し、各クラブが平等に主催できるようになったが、サンガ等他クラブの主催試合も行われていた鹿児島県については、その後もフリューゲルスの主催ゲームを年1-2試合程度開催した。 THE ALFEE 「Victory」(1993年4月28日リリース) シャンティ・スナイダー 「Flying So High」1998年に発表された。 1st(主にホーム用)は白をベースに、2nd(主にアウェー用)は青ベースに製作された。
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"「再建屋」と呼ばれ、南米では高い評価を得ているブラジル人のオタシリオが監督に就任。オタシリオは昨年までの4-4-2システムから3-5-2に変更。前年度チームに加入したブラジルトリオがチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返した(もし前年度までの2ステージ制ならば1stステージ優勝であった)。しかしアトランタ五輪後に再開した後半戦で勝ち点を伸ばしきれず、優勝したアントラーズ、2位のグランパスと勝利数は21で並ぶものの、勝ち点で及ばず最終順位は3位となった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "エバイール、前園が退団した一方、バウベルが1994年以来の再入団。1stステージでは最終節までアントラーズと優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝を逃した(勝ち点差2で2位)。 しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。 この年限りで、オタシリオ監督が退任。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "カルロス・レシャックが監督に就任。パウロ・フットレ、イゴール・レディアコフらを獲得、3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーでマリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなど、1stステージは10勝7敗の成績を残した。しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格した。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1998年10月29日、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形でマリノスとフリューゲルスの合併が発覚。出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社のANAも単独でクラブを支える余力がなかったと報道されている。マリノスの親会社日産自動車との協議の結果、両クラブは合併の上、実質的には主導権を持つマリノスにフリューゲルスが吸収されることになった。そして、その日に開かれたJリーグの臨時理事会で、両クラブの合併が正式に承認された。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "合併発表後で初の試合となった10月31日のセレッソ戦で試合後にサポーター各団体が合同でスタジアム前の広場に座り込み、合併撤回を求めてクラブフロントとの話し合いを要求した。全選手も街頭での活動に加わった合併反対署名運動等は全国で起こり、62万を超える署名が集まった。11月7日のホーム最終戦(三ツ沢)では試合後のセレモニーでエンゲルス監督がクラブの存続と救済を訴えるアピールを日本語で行い、フリューゲルスファンとしても知られていた川平慈英が存続支援を明言するなど、マスメディアでも連日社会問題として取り上げられた。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "選手やサポーターは合併について全日空側とミーティングを行い、合併撤回を訴えたが、「決まったこと」として話し合いは平行線を辿る。そのような中で全日空側は「12月4日までは調印しない。調印するときは事前にサポーターや選手に伝える」と回答していたが、その約束は守られず12月2日、抜き打ちで両クラブの合併が調印された。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そんな合併劇の中、第78回天皇杯が開幕し、フリューゲルスは調印式後の12月13日に初戦を迎えた。同大会においては出場機会に恵まれず翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他クラブへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった桜井孝司らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でクラブがさらに一丸となった。準々決勝ジュビロ、準決勝アントラーズ、1999年1月1日決勝エスパルスを破って優勝した。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "天皇杯優勝クラブに出場権が与えられるゼロックス杯とアジアカップウィナーズカップには、天皇杯準優勝のエスパルスが出場した。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1999年2月1日、マリノスと正式合併。マリノスはチーム名をフリューゲルス由来の「F」を加えた「F・マリノス」へと改称した。練習場はフリューゲルスの東戸塚トレーニングセンターを引き継いで「戸塚トレーニングセンター」とし、2007年のマリノスタウン完成まで使用した。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はそれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」 を運営会社として横浜FCが設立され、日本フットボールリーグ(JFL)への参加が特例として認められた。横浜FCは1999年に設立されていた「フリューゲルス再建基金」からも2,500万円の融資を受けてチームを運営し、JFLで2年連続優勝した2000年のシーズン終了後には翌2001年からのJリーグ(J2)参加が認められた。以後、横浜FCはフリューゲルスとは異なる、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されていない。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、「フリューゲルス再建基金」は2009年8月29日に拠出者総会を行い、2,000万円分を横浜FCの観戦チケットとして返済を受け、残る3,800万円分は横浜市が進めていたニッパツ三ツ沢球技場の観客席の増設(約2,200席分)へ寄付する事になり、それに合わせて同球技場の一般客メインゲート脇の柱に再建基金についての銘板が設置された。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は現在も横浜マリノス株式会社が保有している。2004年2月、マスコットの「とび丸」をはじめとしたフリューゲルス関連グッズが日本サッカー協会ビル(JFAハウス)内の「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2023年のJリーグ開幕戦では実況の下田恒幸がDAZNの実況において、「無念にも消えたFの想いも背負う横浜・Fマリノス」というフリューゲルスに関する言及があった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "フリューゲルス(全日空スポーツ)最大の出資者で、合併を主導したANAは、合併後のF・マリノスも運営した「横浜マリノス株式会社」に30%資本参加したが、主要株主は引き続き、70%の株式を所有する大手自動車メーカーの日産自動車だった上、ANAは2002年2月には全株式を日産に売却した。2011年にはユニフォームでの社名掲示位置が背中から袖に変更、さらに2013年を以てユニフォームスポンサーから撤退した。国際線航空便のエコノミークラス割引運賃制度として使われていた「とび丸航空券」は1999年2月から「GET」に改変され、現在は「エコ割」となっている。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "フリューゲルスの共同出資者であった佐藤工業は、2002年3月に会社更生法の適用を申請し、2009年9月にその手続きが完了した。フリューゲルス解散後もサッカーに対する同社の積極的な姿勢は残り、2011年1月21日には日本サッカー協会と協定書を交わし、同協会が進める「JFAこころのプロジェクト」(ユメセン)に協賛企業としての支援を開始した。同社の本社がある富山県では2007年11月に設立されたカターレが2009年からJ2に参入し、佐藤工業は出資はしなかったものの、カターレの主催試合ではベンチ広告のスポンサーとなっている。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "チームの合併発表時にフリューゲルスへ在籍していた23選手 は、関係者の尽力や天皇杯の活躍もあって、翌年も大久保貴広(Honda FC、JFL)以外は全員Jリーグクラブ(J2を含む)との契約を果たした。フリューゲルスを吸収したF・マリノスには永井秀樹・佐藤一樹・三浦淳宏・波戸康広・吉田孝行など、天皇杯決勝での先発4人を含む5選手が加入。合併2年目の2000年には三浦らの活躍で第1ステージ優勝も果たした。波戸は2004年シーズン途中に移籍した後、2010年にF・マリノスへ復帰し、2011年限りで現役を退いた。F・マリノスにスライドした旧フリューゲルスユースの選手 で、坂田大輔と田中隼磨はその後のF・マリノスで中心選手となり、共に日本代表まで選出された。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "生え抜きの中心選手として現場・サポーター不在の合併を厳しく批判した山口素弘と、日本代表のGKをめぐってマリノスの川口能活と激しい競争をしていた楢﨑正剛はマリノスには加わらず、1998 FIFAワールドカップ日本代表にも選ばれていたこの2人はグランパスへ移った。楢﨑はスタメン表の前所属クラブ欄からフリューゲルスの名前が消えることを嫌い、その後2018年に引退するまで移籍することはなかった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "同大会のブラジル代表では大会初ゴールを挙げるなどで準優勝となったセザール・サンパイオはブラジルに帰国してパルメイラス復帰、選手会長として山口と共に合併反対の急先鋒だった前田浩二はジュビロ磐田、原田武男はセレッソ大阪、天皇杯決勝は出場停止だった薩川了洋は柏レイソル、天皇杯決勝でゴールを挙げた久保山由清は決勝の相手だった清水エスパルス、ユース出身の井上雄幾は天皇杯優勝の実績で新監督に就任したエンゲルスとともにジェフユナイテッド市原へ移籍と、ベテラン・中堅の主力選手はF・マリノス以外へと分散した。また、フリューゲルスのフロントから京都パープルサンガの統括部長に招かれた木村文治はフリューゲルスの若手6選手を京都に入団させた。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "合併発表後の新チーム移籍が比較的順調に進んだ事もあり、急ごしらえで発足した横浜FCには直接フリューゲルスから移籍した選手はいなかったが、1993年のJリーグ開幕時にフリューゲルスで活躍していた高田昌明や渡邉一平などが加入した。その後も佐藤一樹などの元フリューゲルス選手が入団する中で、2005年8月にはアルビレックス新潟に在籍していた山口が加入し、山口は2006年に主将として横浜FCをJ1昇格へ導いた(その後2007年限りで引退)。なお、山口はF・マリノス使用時には近づかなかった旧東戸塚(LEOC)トレーニングセンターを横浜FCが引き継いだ際にはフリューゲルス時代と同じ場所に自分のロッカーを置き、自らの引退試合でも「フリューゲルス」の名前を使おうとしたが、上記の通りに名称の権利を持つF・マリノス(横浜マリノス株式会社)からの許可が下りず、山口は引退試合の開催自体を取りやめた。なお、山口は2012年から2014年まで横浜FCの監督を務めた。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、フリューゲルスのトップチーム在籍経験者のうち、現役選手として登録されているのは2019年時点で遠藤保仁のみとなっている。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1995年を頂点にした観客数の急減、Jリーグ各クラブの赤字額の増大に起因する「Jリーグの危機」は、1997年のJリーグ準会員・鳥栖フューチャーズの存続問題 に続くこのマリノス・フリューゲルス合併で誰の目にも明白となった。日本代表の周囲はフランスW杯出場で盛り上がっていたが、Jリーグはヴェルディが読売新聞社撤退による大幅な経営縮小やベルマーレもフジタ撤退による経営危機が重なり、また前年のアジア通貨危機に端を発した不況の影響に苦しんでいた。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Jリーグチェアマンとして事態の収拾に当たった川淵三郎は、「自分に話が来た時は両チームの合併は決定事項で覆せなかった」という言い訳する一方、Jリーグの責任者として合併を認めた事はサポーター達や前田選手会長などから当然のごとく「サポーター無視」として多くの批判を浴び、後に「これが一番辛かった」と述懐した。この事態は親会社に依存した各クラブの経営体質に問題があると判断した川淵は経営監視体制の強化に乗り出し、各クラブの財務状況の公開を徐々に進めた。また、翌年から導入したJリーグ2部制では、より経営環境が厳しくなるJ2の各クラブに一層の地域密着を求めた。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、翌1999年よりJリーグが2部制に移行する関係で、1997年・1998年の成績を元に下位5クラブによるJ1参入決定戦(トーナメントによる入れ替え戦)が行われることになったが、フリューゲルスの消滅により入れ替え戦の参加が下位4クラブに減少し、トーナメントも一部変更となった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "前述したように、フリューゲルスはJリーグ発足当初は九州地方をホームタウンとするJクラブがなかったこと、またANAがクラブのメインスポンサーとなっていることから、横浜市と沖縄県を含む九州各県のダブルホームタウンを実施する予定にし、ホームゲームの半数程度を九州で行う方針にしていた。これは「ANAが乗り入れている空港のある地域全てを本拠地にする」計画を持っていたことも絡んでいる。ところが、そうしてしまうと各県につき1試合ずつしか割り当てられず、興業的にも不利であることから一部フリューゲルスの主催ゲーム開催を拒絶した県もあったため、結局九州での準本拠地は長崎県、熊本県、鹿児島県の3県に絞った。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、Jリーグではホームタウンを原則1チームにつき1市区町村となっている(現在は同一都道府県内の複数市区町村にまたぐ広域ホームタウンが認められている)とした関係もあり、正式なホームタウンは横浜市としながら、これら3県は「特別活動地域」というカテゴリーを設けてホームタウンとほぼ同じ権限を持ち、フリューゲルスの主催ゲーム(天皇杯は除く)を優先的に開催することができた。このため、Jリーグ発足最初の4年(1992-95)はフリューゲルス以外のチームがこの3県で主管試合をすることはなかった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これに伴って、長崎、水前寺、鴨池の各競技場も照明設備の新設、スタンドの座席改築他のJリーグ開催基準を充足する工事が施された。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Jリーグ発足時、同じ横浜にホームを置くマリノスと同日に主催試合を行う事が珍しく無かったが、Jリーグが同一会場での複数試合開催をピッチコンディションや観客の入れ替え等の点で認めていない為、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスが下記の九州3県か、東京・国立競技場などの他会場を使うケースがあった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "逆に福岡県ではフリューゲルスの主催試合は行われず、マリノスが1993年・1994年に各2試合ずつ東平尾公園博多の森陸上競技場で主催試合を行った。この他、同競技場ではヴェルディやレッズなども主催試合を開催し、ヴェルディは福岡ブルックス(現在のアビスパ)がJリーグ準会員となった1995年にも東平尾公園博多の森球技場で1試合を主催した。いずれの試合でもフリューゲルスはアウェーチームとして登場しなかった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "各年度の開催試合数は横浜フリューゲルスの年度別成績一覧#年度別入場者数を参照のこと。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "上記の関係もあり、1カ月以上も三ツ沢(球)でのゲームが組まれず、事実上の長期ロードに出たことがあった。特に1993年の11月から12月にかけての試合に至っては三ツ沢(球)のフリューゲルス主催試合は1試合しか行われなかった。また7月から9月始めにかけても熊本と国立で1試合ずつ試合をしており、このステージのホームゲーム9試合で三ツ沢(球)で試合をしたのはわずか3分の1に当たる3試合だけだった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1994年、三ツ沢(球)の芝生の張替え工事を行った関係で第1ステージ(サントリーシリーズ)の後半・5月14日以後の主催試合も鹿児島、長崎、国立、富山と転戦し(熊本・水前寺は当時改修工事中だったため第1ステージは行わず)、ワールドカップを挟んで8月20日に行ったグランパスとの対戦でようやく3カ月ぶり(改修前最後の試合は5月7日のガンバ大阪戦)に三ツ沢(球)に帰ってきたという事例もある。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "このため九州での試合では横浜Fのモチベーションやパフォーマンスは低くなってしまい、その結果、フリューゲルスの九州でのホームゲームの結果はリーグ戦・カップ戦合計で5勝22敗、しかも1994年7月23日のヤマザキナビスコカップ1回戦(対セレッソ、鹿児島)に1-0で勝利したのを最後に14連敗という成績であった。またスタジアム別では鹿児島で3勝7敗、長崎で2勝8敗、熊本は7戦全敗であった。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "公式なホームタウンではないが、佐藤工業の創業の地が富山県にあるため、1994年から数年間は富山県総合運動公園陸上競技場でも毎年1試合程度の主催試合を開催していた。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1996年、アビスパがJリーグに参入したのに伴って横浜Fの特別活動地域のカテゴリーは消滅し、各クラブが平等に主催できるようになったが、サンガ等他クラブの主催試合も行われていた鹿児島県については、その後もフリューゲルスの主催ゲームを年1-2試合程度開催した。", "title": "歴史・概要" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "THE ALFEE 「Victory」(1993年4月28日リリース)", "title": "オフィシャルテーマソング" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "シャンティ・スナイダー 「Flying So High」1998年に発表された。", "title": "応援ソング" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1st(主にホーム用)は白をベースに、2nd(主にアウェー用)は青ベースに製作された。", "title": "ユニフォーム" } ]
横浜フリューゲルスは、かつて存在した日本のプロサッカークラブ。1993年から1998年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟していた。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つであった。
{{出典の明記|date=2012年12月}} {{サッカークラブ |font-color= #0033bf |background-color= #ffffff |原語表記=全日空佐藤工業サッカークラブ |呼称=横浜フリューゲルス |愛称=フリエ |カラー={{colorbox|#fff}} 白、{{colorbox|#0033bf}} 青 |創設=1964 |解散=1998 |リーグ=[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] |ディビジョン= |ホームタウン=[[神奈川県]][[横浜市]]<br/><small>1992年 - 1995年は「特別活動地域」として[[長崎県]]・[[熊本県]]・[[鹿児島県]]も指定(本文参照)</small> |スタジアム=[[三ツ沢公園球技場]]<br/>[[横浜国際総合競技場]](1998年のみ併用)<br/><small>※特別活動地域のスタジアムは本文参照</small> |キャパ=15,046(三ツ沢球)、70,000(横浜国際) |法人名=[[全日空スポーツ]]株式会社 |代表= |監督= |HP= | pattern_la1 = _Yokohama Flügels 1998 HOME FP | pattern_b1 = _Yokohama Flügels 1998 HOME FP | pattern_ra1 = _Yokohama Flügels 1998 HOME FP | pattern_sh1 = _Yokohama Flügels 1998 HOME FP | pattern_so1 = _Yokohama Flügels 1998 HOME FP | leftarm1 = | body1 = | rightarm1 = | shorts1 = | socks1 = | pattern_la2 = _Yokohama Flügels 1998 AWAY FP | pattern_b2 = _Yokohama Flügels 1998 AWAY FP | pattern_ra2 = _Yokohama Flügels 1998 AWAY FP | pattern_sh2 = _Yokohama Flügels 1998 AWAY FP | pattern_so2 = _Yokohama Flügels 1998 AWAY FP | leftarm2 = | body2 = | rightarm2 = | shorts2 = | socks2 = |}} '''横浜フリューゲルス'''(よこはまフリューゲルス、{{lang|de|Yokohama Flügels}})は、かつて存在した[[日本]]のプロ[[サッカー]]クラブ。[[1993年]]から[[1998年]]まで[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟していた。Jリーグ創設当初からのチーム、[[オリジナル10]]の1つであった。 == 歴史・概要 == === 成り立ち === {{main|全日空横浜サッカークラブ}} 前身は横浜市にあった中区スポーツ少年団(後にFCゴールを経て横浜サッカークラブと改称)。その後、[[全日本空輸]](ANA)が援助を行い、'''横浜トライスターサッカークラブ'''、1984年にチームの運営会社「'''[[全日空スポーツ]]株式会社'''」を設立後は'''[[全日空横浜サッカークラブ]]'''となった。「トライスター」とは当時のANAの主力機、[[ロッキード L-1011 トライスター|ロッキードL-1011]]の愛称であり、ユニフォームにも同様のロゴが使用されていた。 === Jリーグ加盟 === [[ファイル:Mitsuzawa100502.JPG|270 px|thumb|フリューゲルスのホームスタジアムであった三ツ沢公園球技場]] [[1991年]]にJリーグに加盟。[[オリジナル10|Jリーグ開幕時の加盟クラブ]]のひとつ。 [[ホームタウン]]は当初[[東京都]][[町田市]]とする計画で、町田青年会議所が中心の「町田にプロサッカークラブを誘致する会」が設立され誘致活動を行っていたが、ホームスタジアムとなる予定だった[[町田市立陸上競技場]]の整備問題などを解決できず断念<ref>[https://www.zelvia.co.jp/news/news-145059/ 【トップチーム創設30周年企画】守屋実の未来への言霊(第6回)] - FC町田ゼルビア・2019年6月24日</ref>。結局ホームタウンは[[神奈川県]][[横浜市]]、ホームスタジアムは[[三ツ沢公園球技場]](後に[[横浜国際総合競技場]]も追加)となった。 練習会場は当初、同市[[神奈川区]]にある全日空菅田総合グラウンドを使用していたが、[[1994年]]からは[[戸塚区]]保土ヶ谷大洋球場([[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]の練習場)跡に建設された[[横浜FC LEOCトレーニングセンター|フリューゲルス・東戸塚トレーニングセンター]]を使用した。チームの合併後は[[横浜F・マリノス|F・マリノス]]が練習場として使用したが、[[横浜みなとみらい21]]の[[マリノスタウン]]への移転後は[[横浜FC]]が使用するようになった(後述)。 「フリューゲル({{lang|de|Flügel}})」は[[ドイツ語]]で「[[翼]]」の意。なお、 /l/ は[[有声音]]なので、英語で発音するなら語尾の s は、本来的には /s/ ではなく /z/ となる。 スタート当初は'''全日空(ANA)'''のAと、Jリーグ参戦にあたり共同出資した'''[[佐藤工業]]'''のSを取って「(横浜)'''AS'''(エイ・エス)'''フリューゲルス'''」と名乗っていた時期もあった。ちなみに[[読売新聞]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[プロ野球ニュース]]」では[[1992年]]と[[1993年]]はチーム名表記を「AS(フリューゲルス)」、[[スポーツ報知]]と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]も「AS横浜フリューゲルス」と紹介していたが、1994年から「横浜F(横浜フリューゲルス)」に統一された。 1992年 - [[1995年]]までは[[九州地方]]にJリーグのクラブがなかったこともあり、「特別活動地域」として[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[鹿児島県]]の3県で活動していたが、[[アビスパ福岡]]がJリーグに加盟した[[1996年]]以降は解消した([[#特別活動地域|後述]])。 === 1993年 - 1998年 === ; [[1993年のJリーグ|1993年]] Jリーグ発足を前に[[カルロス・エドゥアルド・マランゴン|エドゥー]]、[[フェルナンド・ダニエル・モネール]]、[[アウドロヴァーニ・メノン|アウドロ]]らを獲得。開幕戦は[[清水エスパルス]]に3-2で競り勝つスタートを切った<ref>{{Cite web|和書|url=https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=50|title=’93Jリーグサントリーシリーズ 第1節第2日|website=Data Jleague|accessdate=2023-10-14}}</ref>。チームは1st、2ndステージとも7位に終わった。 2ndステージでの途中でJリーグの優勝が絶望となったため、加茂監督は[[第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]に目標を切り換えことることとし、思惑通り快進撃を続けることが出来た(1回戦:田辺製薬、2回戦:浦和レッズ、準々決勝:ヴェルディ川崎、準決勝:サンフレッチェ広島)。決勝では、1stステージの王者[[鹿島アントラーズ|アントラーズ]]に終了間際に2-2の同点とされ延長戦となるも、延長戦で4ゴールを決め6-2で勝利<ref> Jサッカーグランプリ 1994年2月号 p.4-p.9</ref>。Jリーグ開幕後初の天皇杯で優勝した。 ; [[1994年のJリーグ|1994年]] 開幕前のゼロックス・スーパーカップ(Jリーグの年間優勝チームと天皇杯優勝チームが対戦)で、ヴェルディ川崎と対戦。この試合では惜しくも1-2で敗れるも昨年から磨き上げてきたゾーンプレスが機能し、自信を深めて開幕を迎えることとなった。その勢いそのままに1stステージの第4節から第11節にかけ8連勝。一時は2位になるなど優勝も狙える状況だったが、終盤に山口、前園の怪我による戦線離脱が響き最終的に5位となった。さらに、攻撃の要として活躍していた[[ラウル・アマリージャ|アマリージャ]]が1stステージ限りで退団・引退するとチームは低迷。2ndステージは8位に終わった。 この年限りで、[[カルロス・エドゥアルド・マランゴン|エドゥー]]、[[フェルナンド・ダニエル・モネール]]、[[バウベル・ダ・シルバ・コスタ]]らもチームを去っている。 ; [[1995年のJリーグ|1995年]] 加茂が日本代表の監督に就任するため退任、ヘッドコーチであった[[木村文治]]が監督に就任した。現役ブラジル代表を含むブラジルトリオ([[クリザン・セザール・ジ・オリヴェイラ・フィーリョ|ジーニョ]]、[[セザール・サンパイオ]]、[[エバイール・アパレシード・パウリーノ|エバイール]])の加入が話題を呼んだが、1stステージでは14チーム中13位に終わる。木村は1stステージ第14節で監督を辞任、後任の[[アントニオ・カルロス・シルバ]]もチームを上位に押し上げることが出来なかった。 大量失点しまうことが多く、両ステージを合わせた失点数がリーグワーストであった。 しかし、シルバの若手起用の下、[[楢﨑正剛]]、[[吉田孝行]]、[[波戸康広]]といったこの年入団した選手が台頭した。 ; [[1996年のJリーグ|1996年]] 「再建屋」と呼ばれ、南米では高い評価を得ているブラジル人の[[オタシリオ]]が監督に就任。オタシリオは昨年までの4-4-2システムから3-5-2に変更。前年度チームに加入したブラジルトリオがチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返した(もし前年度までの2ステージ制ならば1stステージ優勝であった)。しかしアトランタ五輪後に再開した後半戦で勝ち点を伸ばしきれず、優勝したアントラーズ、2位のグランパスと勝利数は21で並ぶものの、勝ち点で及ばず最終順位は3位となった<ref>{{cite news | url=https://data.j-league.or.jp/SFRT01/?competitionSectionIdLabel=%E7%AC%AC%EF%BC%93%EF%BC%90%E7%AF%80&competitionIdLabel=%EF%BC%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0&yearIdLabel=1996%E5%B9%B4&yearId=1996&competitionId=36&competitionSectionId=30&search=search| publisher =data.j-league | title =1996 Jリーグ 順位表 | accessdate =17 April 2020}}</ref>。 ; [[1997年のJリーグ|1997年]] エバイール、前園が退団した一方、[[バウベル・ダ・シルバ・コスタ|バウベル]]が1994年以来の再入団。1stステージでは最終節まで[[鹿島アントラーズ|アントラーズ]]と優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝を逃した(勝ち点差2で2位)<ref>{{cite news | url=https://data.j-league.or.jp/SFRT01/?competitionSectionIdLabel=%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%97%E7%AF%80&competitionIdLabel=%EF%BC%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0+%EF%BC%91%EF%BD%93%EF%BD%94&yearIdLabel=1997%E5%B9%B4&yearId=1997&competitionId=52&competitionSectionId=17&search=search | publisher =/data.j-league | title =1997 Jリーグ 1st 順位表 | accessdate =17 April 2020}}</ref>。 しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。 この年限りで、オタシリオ監督が退任。 ; [[1998年のJリーグ|1998年]] [[カルロス・レシャック]]が監督に就任。[[パウロ・フットレ]]、[[イゴール・レディアコフ]]らを獲得、3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーでマリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなど、1stステージは10勝7敗の成績を残した。しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだった[[ゲルト・エンゲルス]]が昇格した。 === チーム合併と天皇杯優勝 === {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #99B3FF solid 1px" |----- | <div style="position: relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|350px]] {{Image label|x=0.05|y=0.04|scale=350|text=[[ゲルト・エンゲルス|<span style="font-size:small;color:Purple">'''監督 ゲルト・エンゲルス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.10|scale=350|text=[[楢﨑正剛|<span style="font-size:small;color:Black">'''1'''<br/>'''楢﨑正剛'''</span>]]}} {{Image label|x=0.22|y=0.33|scale=350|text=[[佐藤尽|<span style="font-size:small;color:Maroon">'''4'''<br/>'''佐藤 尽'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.30|scale=350|text=[[原田武男|<span style="font-size:small;color:Maroon">'''7'''<br/>'''原田武男'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.33|scale=350|text=[[前田浩二|<span style="font-size:small;color:Maroon">'''13'''<br/>'''前田浩二'''</span>]]}} {{Image label|x=0.32|y=0.55|scale=350|text=[[山口素弘|<span style="font-size:small;color:Navy">'''5'''<br/>'''山口素弘'''</span>]][[ファイル:Captain sports.svg|10px]]</font>}} {{Image label|x=0.58|y=0.55|scale=350|text=[[セザール・サンパイオ|<span style="font-size:small;color:Navy">'''8'''<br/>'''サンパイオ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.78|y=0.72|scale=350|text=[[三浦淳宏|<span style="font-size:small;color:Navy">'''6'''<br/>'''三浦淳宏'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.72|scale=350|text=[[波戸康広|<span style="font-size:small;color:Navy">'''12'''<br/>'''波戸康広'''</span>]]}} {{Image label|x=0.45|y=0.80|scale=350|text=[[永井秀樹|<span style="font-size:small;color:Navy">'''10'''<br/>'''永井秀樹'''</span>]]}} {{Image label|x=0.32|y=1|scale=350|text=[[久保山由清|<span style="font-size:small;color:White">'''22'''<br/>'''久保山由清'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=1|scale=350|text=[[吉田孝行|<span style="font-size:small;color:White">'''9'''<br/>'''吉田孝行'''</span>]]}} </div> |----- | <small>第78回[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]決勝 vs[[清水エスパルス|エスパルス]]戦([[1999年]][[1月1日]]、[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立霞ヶ丘競技場]])の布陣。数字は背番号、[[ファイル:Captain sports.svg|10px]]はキャプテン。<br/> 後半途中から[[フォワード (サッカー)|FW]]吉田に替えてFW[[アンデルソン・ジルス・デ・サンパイオ|アンデルソン]](背番号29)が出場。[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]のレギュラーメンバー・[[薩川了洋]](背番号3)は累積警告のため出場停止。</small> |} [[1998年]][[10月29日]]、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形でマリノスとフリューゲルスの合併が発覚。出資会社の一つであった[[佐藤工業]]が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社の[[全日本空輸|ANA]]も単独でクラブを支える余力がなかったと報道されている。マリノスの親会社[[日産自動車]]との協議の結果、両クラブは合併の上、実質的には主導権を持つマリノスにフリューゲルスが吸収されることになった。そして、その日に開かれたJリーグの臨時理事会で、両クラブの合併が正式に承認された。 合併発表後で初の試合となった[[10月31日]]の[[セレッソ大阪|セレッソ]]戦で試合後にサポーター各団体が合同でスタジアム前の広場に座り込み、合併撤回を求めてクラブフロントとの話し合いを要求した。全選手も街頭での活動に加わった合併反対署名運動等は全国で起こり、62万を超える署名が集まった。[[11月7日]]のホーム最終戦(三ツ沢)では試合後のセレモニーでエンゲルス監督がクラブの存続と救済を訴えるアピールを日本語で行い、フリューゲルスファンとしても知られていた[[川平慈英]]が存続支援を明言するなど、マスメディアでも連日社会問題として取り上げられた。 {{要出典範囲|選手やサポーターは合併について全日空側とミーティングを行い、合併撤回を訴えたが、「決まったこと」として話し合いは平行線を辿る。そのような中で全日空側は「12月4日までは調印しない。調印するときは事前にサポーターや選手に伝える」と回答していたが、その約束は守られず12月2日、抜き打ちで両クラブの合併が調印された<ref>山口素弘『横浜フリューゲルス 消滅の軌跡』日本文芸社、1999年4月20日、80頁</ref>|date=2023年9月|title=}}。 そんな合併劇の中、[[第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第78回天皇杯]]が開幕し、フリューゲルスは調印式後の[[12月13日]]に初戦を迎えた。{{要出典範囲|同大会においては出場機会に恵まれず翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他クラブへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった[[桜井孝司]]らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でクラブがさらに一丸となった|date=2023年8月}}。準々決勝[[ジュビロ磐田|ジュビロ]]、準決勝[[鹿島アントラーズ|アントラーズ]]、[[1999年]][[1月1日]]決勝[[清水エスパルス|エスパルス]]を破って優勝した。 天皇杯優勝クラブに出場権が与えられる[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス杯]]と[[アジアカップウィナーズカップ]]には、天皇杯準優勝のエスパルスが出場した。 ==== 合併発表前後の試合結果 ==== {| class="wikitable" style="border-collapse:collapse; text-align:center; font-size:90%;" !開催年!!月日!!colspan="2"|時期!!会場!!勝敗!!得点!!相手!!備考 |- |rowspan="9"|1998||[[10月24日]]||rowspan="5"|[[1998年のJリーグ|Jリーグ<br>2ndステージ]]||第13節||[[鹿児島県立鴨池陸上競技場]]||●||align="center"|2 - 3||[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]||合併発表直前<br>準本拠と位置付けていた鹿児島での最終戦 |- |[[10月31日]]||第14節||[[横浜国際総合競技場]]||○||align="center"|7 - 0||[[セレッソ大阪]]||合併発表直後 球場最多得点記録 |- |[[11月3日]]||第15節||[[広島ビッグアーチ]]||○||align="center"|2 - 1||[[サンフレッチェ広島F.C]]|| |- |[[11月7日]]||第16節||[[三ツ沢公園球技場]]||○||align="center"|2 - 1||[[アビスパ福岡]]||本拠地最後の試合 |- |[[11月14日]]||第17節||[[札幌厚別公園競技場]]||○||align="center"|4 - 1||[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]||リーグ戦最後の試合 |- |[[12月13日]]||rowspan="5"|[[第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]||3回戦||[[東平尾公園博多の森球技場]]||○||align="center"|4 - 2||[[大塚製薬サッカー部]]|| |- |[[12月20日]]||4回戦||[[鳥取市営サッカー場]]||○||align="center"|3 - 0||[[ヴァンフォーレ甲府]]|| |- |[[12月23日]]||準々決勝||[[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場]]||○||align="center"|2 - 1||[[ジュビロ磐田]]|| |- |[[12月27日]]||準決勝||[[長居陸上競技場]]||○||align="center"|1 - 0||[[鹿島アントラーズ]]|| |- |1999||[[1月1日]]||決勝||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]||○||align="center"|2 - 1||[[清水エスパルス]]||クラブ最後の試合 |} === その後 === ;各クラブへの影響 [[1999年]][[2月1日]]、マリノスと正式合併。マリノスはチーム名をフリューゲルス由来の「F」を加えた「[[横浜F・マリノス|F・マリノス]]」へと改称した。練習場はフリューゲルスの東戸塚トレーニングセンターを引き継いで「戸塚トレーニングセンター」とし、2007年の[[マリノスタウン]]完成まで使用した。 一方、フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はそれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」<ref>法人登記申請は1998年12月25日。</ref> を運営会社として[[横浜FC]]が設立され、[[日本フットボールリーグ]](JFL)への参加が特例として認められた。横浜FCは1999年に設立されていた「フリューゲルス再建基金」からも2,500万円の融資を受けてチームを運営し、JFLで2年連続優勝した[[2000年]]のシーズン終了後には翌[[2001年]]からのJリーグ(J2)参加が認められた。以後、横浜FCはフリューゲルスとは異なる、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されていない。 また、「フリューゲルス再建基金」は2009年8月29日に拠出者総会を行い、2,000万円分を横浜FCの観戦チケットとして返済を受け、残る3,800万円分は横浜市が進めていたニッパツ三ツ沢球技場の観客席の増設(約2,200席分)へ寄付する事になり、それに合わせて同球技場の一般客メインゲート脇の柱に再建基金についての銘板が設置された<ref>出典:横浜市環境創造局 記者発表資料平成22年(2010年)3月12日付 「[http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/kisha/h21/100312-1.html フリューゲルス再建基金管理委員会に市長から感謝状を贈呈します]」、フリューゲルス再建基金管理委員会 「[http://www.geocities.jp/flugels_saiken/ お知らせ(2010年2月22日)]」</ref>。 「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は現在も[[横浜マリノス]]株式会社が保有している。[[2004年]]2月、マスコットの「とび丸」をはじめとしたフリューゲルス関連グッズが[[日本サッカー協会ビル]](JFAハウス)内の「[[日本サッカーミュージアム]]」に寄贈された。 2023年のJリーグ開幕戦では実況の[[下田恒幸]]が[[DAZN]]の実況において、「無念にも消えたFの想いも背負う横浜・Fマリノス」というフリューゲルスに関する言及があった。 ;各スポンサーの対応 フリューゲルス(全日空スポーツ)最大の出資者で、合併を主導したANAは、合併後のF・マリノスも運営した「横浜マリノス株式会社」に30%資本参加したが、主要株主は引き続き、70%の株式を所有する大手自動車メーカーの日産自動車だった上、ANAは[[2002年]]2月には全株式を日産に売却した。2011年にはユニフォームでの社名掲示位置が背中から袖に変更、さらに2013年を以てユニフォームスポンサーから撤退した。国際線航空便のエコノミークラス割引運賃制度として使われていた「とび丸航空券」は1999年2月から「GET」に改変され、現在は「エコ割」となっている。 フリューゲルスの共同出資者であった佐藤工業は、[[2002年]]3月に会社更生法の適用を申請し、[[2009年]]9月にその手続きが完了した。フリューゲルス解散後もサッカーに対する同社の積極的な姿勢は残り<ref>会社更生法手続き完了時には、当時の同社社長が川淵や元フリューゲルス選手からの激励について謝意を述べ、今後もサッカーに関わる事を述べている。出典:夕刊フジ2009年9月24日付記事、[http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20090924/soc0909241627003-n1.htm](※サーバーからは削除済み、各種サイトで転記記事が確認可能)</ref>、[[2011年]]1月21日には日本サッカー協会と協定書を交わし、同協会が進める「[[JFAこころのプロジェクト]]」(ユメセン)に協賛企業としての支援を開始した<ref>佐藤工業ホームページ「[http://www.satokogyo.co.jp/wha/index.html 新着情報]」、2011年1月21日付トピックス。</ref>。同社の本社がある富山県では[[2007年]]11月に設立された[[カターレ富山|カターレ]]が2009年からJ2に参入し、佐藤工業は出資はしなかったものの、カターレの主催試合ではベンチ広告のスポンサーとなっている。 ;所属選手の動向 チームの合併発表時にフリューゲルスへ在籍していた23選手<ref>発表直前に退団を表明し、そのまま現役を引退した[[パウロ・フットレ]]を除き、天皇杯の途中でレンタル元の[[スポルティング・デ・ヒホン]]へ復帰した[[イゴール・レディアコフ]]を含む。他にフロンターレ([[ジャパンフットボールリーグ]](旧JFL))へレンタル中だった服部浩紀は、1999年にエスパルスへ入団した。</ref> は、関係者の尽力や天皇杯の活躍もあって、翌年も[[大久保貴広]]([[Honda FC]]、JFL)以外は全員Jリーグクラブ(J2を含む)との契約を果たした<ref>Jリーグクラブ退団後の進路では、そのまま現役引退をするか、アマチュアのJFLや地域リーグでプレーする選手が多く含まれるのが通例である。</ref>。フリューゲルスを吸収したF・マリノスには[[永井秀樹]]・[[佐藤一樹]]・[[三浦淳宏]]・[[波戸康広]]・[[吉田孝行]]など、天皇杯決勝での先発4人を含む5選手が加入。合併2年目の[[2000年]]には三浦らの活躍で第1ステージ優勝も果たした。波戸は2004年シーズン途中に移籍した後、[[2010年]]にF・マリノスへ復帰し、[[2011年]]限りで現役を退いた。F・マリノスにスライドした旧フリューゲルスユースの選手<ref>他に[[大橋正博]]なども該当する。</ref> で、[[坂田大輔]]と[[田中隼磨]]はその後のF・マリノスで中心選手となり、共に日本代表まで選出された。 生え抜きの中心選手として現場・サポーター不在の合併を厳しく批判した[[山口素弘]]と、日本代表のGKをめぐってマリノスの[[川口能活]]と激しい競争をしていた[[楢﨑正剛]]はマリノスには加わらず<ref> 楢﨑は2010年12月にJリーグの最優秀選手賞を受賞したが、合併から12年を経たこの時点でも「横浜フリューゲルスへの思いも強い。『あんなことは2度おきてはダメなんです』と今でも話す」と紹介されている。 出典:zakzak 2010年12月7日付「[http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20101207/soc1012071222000-n1.htm 楢﨑、謙虚にスーパーセーブ「Jアウォーズ」最優秀選手賞受賞]」</ref>、[[1998 FIFAワールドカップ日本代表]]にも選ばれていたこの2人は[[名古屋グランパス|グランパス]]へ移った。楢﨑はスタメン表の前所属クラブ欄からフリューゲルスの名前が消えることを嫌い、その後2018年に引退するまで移籍することはなかった<ref>{{Cite web|和書|date=2016-11-12 |url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=20535 |title=【名古屋】気になる楢﨑の去就動向。「前所属・横浜フリューゲルス」が残留への後押しになるか |publisher=サッカーダイジェストweb |accessdate=2019-02-09}}</ref><ref name=sponichi>{{Cite web|和書|date=2019-01-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2019/01/08/kiji/20190108s00002179196000c.html |title=楢﨑引退…強かった「前所属・横浜フリューゲルス」への思い 残るは遠藤のみに |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2019-02-09}}</ref>。 同大会の[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]では大会初ゴールを挙げるなどで準優勝となった[[セザール・サンパイオ]]はブラジルに帰国して[[パルメイラス]]復帰、選手会長として山口と共に合併反対の急先鋒だった[[前田浩二]]は[[ジュビロ磐田]]、[[原田武男]]は[[セレッソ大阪]]、天皇杯決勝は出場停止だった[[薩川了洋]]は[[柏レイソル]]、天皇杯決勝でゴールを挙げた[[久保山由清]]は決勝の相手だった[[清水エスパルス]]、ユース出身の[[井上雄幾]]は天皇杯優勝の実績で新監督に就任したエンゲルスとともに[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]へ移籍と、ベテラン・中堅の主力選手はF・マリノス以外へと分散した。また、フリューゲルスのフロントから[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]の統括部長に招かれた[[木村文治]]はフリューゲルスの若手6選手を京都に入団させた。 合併発表後の新チーム移籍が比較的順調に進んだ事もあり、急ごしらえで発足した横浜FCには直接フリューゲルスから移籍した選手はいなかったが、1993年のJリーグ開幕時にフリューゲルスで活躍していた[[高田昌明]]や[[渡邉一平]]などが加入した。その後も佐藤一樹などの元フリューゲルス選手が入団する中で、2005年8月には[[アルビレックス新潟]]に在籍していた山口が加入し、山口は2006年に主将として横浜FCをJ1昇格へ導いた(その後2007年限りで引退)。なお、山口はF・マリノス使用時には近づかなかった旧東戸塚(LEOC)トレーニングセンターを横浜FCが引き継いだ際にはフリューゲルス時代と同じ場所に自分のロッカーを置き<ref>山口へのインタビューより。出典:ベースボールマガジン社『まるごとJリーグ完全版 栄光の記憶15年』、2007</ref>、自らの引退試合でも「フリューゲルス」の名前を使おうとしたが、上記の通りに名称の権利を持つF・マリノス(横浜マリノス株式会社)からの許可が下りず、山口は引退試合の開催自体を取りやめた。なお、山口は2012年から2014年まで横浜FCの監督を務めた。 なお、フリューゲルスのトップチーム在籍経験者のうち、現役選手として登録されているのは2019年時点で[[遠藤保仁]]<ref>2022年時点ではジュビロ磐田に所属</ref>のみとなっている<ref name=sponichi/>。 ;リーグ全体への影響 1995年を頂点にした観客数の急減、Jリーグ各クラブの赤字額の増大に起因する「Jリーグの危機」は、1997年の[[Jリーグ準加盟制度|Jリーグ準会員]]・[[鳥栖フューチャーズ]]の存続問題<ref>1998年1月の同クラブ解散決定を受け、新チームの[[サガン鳥栖]]が発足。</ref> に続くこのマリノス・フリューゲルス合併で誰の目にも明白となった。日本代表の周囲はフランスW杯出場で盛り上がっていたが、Jリーグは[[東京ヴェルディ|ヴェルディ]]が[[読売新聞社]]撤退による大幅な経営縮小や[[湘南ベルマーレ|ベルマーレ]]も[[フジタ]]撤退による経営危機が重なり、また前年の[[アジア通貨危機]]に端を発した不況の影響に苦しんでいた。 Jリーグチェアマンとして事態の収拾に当たった川淵三郎は、「自分に話が来た時は両チームの合併は決定事項で覆せなかった」という言い訳する一方、Jリーグの責任者として合併を認めた事はサポーター達や前田選手会長などから当然のごとく「サポーター無視」として多くの批判を浴び、後に「これが一番辛かった」と述懐した。この事態は親会社に依存した各クラブの経営体質に問題があると判断した川淵は経営監視体制の強化に乗り出し、各クラブの財務状況の公開を徐々に進めた。また、翌年から導入したJリーグ2部制では、より経営環境が厳しくなるJ2の各クラブに一層の地域密着を求めた。 なお、翌1999年よりJリーグが2部制に移行する関係で、1997年・1998年の成績を元に下位5クラブによる[[J1参入決定戦]](トーナメントによる入れ替え戦)が行われることになったが、フリューゲルスの消滅により入れ替え戦の参加が下位4クラブに減少し、トーナメントも一部変更となった。 === 特別活動地域 === ==== 特別活動地域の選定基準とその経緯 ==== [[ファイル:Kamoike kyougijyou 1.jpg|thumb|300px|フリューゲルスが特別活動地域として使用したスタジアムの一つ・[[鹿児島県立鴨池陸上競技場]]]] 前述したように、フリューゲルスはJリーグ発足当初は[[九州地方]]を[[ホームタウン]]とするJクラブがなかったこと、またANAがクラブのメインスポンサーとなっていることから、横浜市と[[沖縄県]]を含む九州各県のダブルホームタウンを実施する予定にし、ホームゲームの半数程度を九州で行う方針にしていた。これは「ANAが乗り入れている空港のある地域全てを本拠地にする」計画を持っていたことも絡んでいる。ところが、そうしてしまうと各県につき1試合ずつしか割り当てられず、興業的にも不利であることから一部フリューゲルスの主催ゲーム開催を拒絶した県もあったため、結局九州での準本拠地は長崎県、熊本県、鹿児島県の3県に絞った。 また、Jリーグではホームタウンを原則1チームにつき1[[市町村|市区町村]]となっている(現在は同一都道府県内の複数市区町村にまたぐ広域ホームタウンが認められている)とした関係もあり、正式なホームタウンは横浜市としながら、これら3県は「特別活動地域」というカテゴリーを設けてホームタウンとほぼ同じ権限を持ち、フリューゲルスの主催ゲーム(天皇杯は除く)を優先的に開催することができた。このため、Jリーグ発足最初の4年(1992-95)はフリューゲルス以外のチームがこの3県で主管試合をすることはなかった。 これに伴って、長崎、水前寺、鴨池の各競技場も照明設備の新設、スタンドの座席改築他のJリーグ開催基準を充足する工事が施された。 Jリーグ発足時、同じ横浜にホームを置く[[横浜F・マリノス|マリノス]]と同日に主催試合を行う事が珍しく無かったが、Jリーグが同一会場での[[ダブルヘッダー|複数試合開催]]をピッチコンディションや観客の入れ替え等の点で認めていない為、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスが下記の九州3県か、東京・国立競技場などの他会場を使うケースがあった。 逆に福岡県ではフリューゲルスの主催試合は行われず、マリノスが1993年・1994年に各2試合ずつ[[東平尾公園博多の森陸上競技場]]で主催試合を行った。この他、同競技場では[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ]]や[[浦和レッドダイヤモンズ|レッズ]]なども主催試合を開催し、ヴェルディは福岡ブルックス(現在の[[アビスパ福岡|アビスパ]])がJリーグ準会員となった1995年にも[[東平尾公園博多の森球技場]]で1試合を主催した。いずれの試合でもフリューゲルスはアウェーチームとして登場しなかった。 ;特別活動地域のスタジアム *[[長崎県立総合運動公園陸上競技場]] *[[熊本市水前寺競技場]] *[[鹿児島県立鴨池陸上競技場]] 各年度の開催試合数は[[横浜フリューゲルスの年度別成績一覧#年度別入場者数]]を参照のこと。 ==== 過酷な試合日程 ==== 上記の関係もあり、1カ月以上も三ツ沢(球)でのゲームが組まれず、事実上の長期ロードに出たことがあった。特に[[1993年]]の11月から12月にかけての試合に至っては三ツ沢(球)のフリューゲルス主催試合は1試合しか行われなかった。また7月から9月始めにかけても熊本と国立で1試合ずつ試合をしており、このステージのホームゲーム9試合で三ツ沢(球)で試合をしたのはわずか3分の1に当たる3試合だけだった。 [[1994年]]、三ツ沢(球)の芝生の張替え工事を行った関係で第1ステージ(サントリーシリーズ)の後半・5月14日以後の主催試合も鹿児島、長崎、国立、富山と転戦し(熊本・水前寺は当時改修工事中だったため第1ステージは行わず)、[[1994 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]を挟んで8月20日に行ったグランパスとの対戦でようやく3カ月ぶり(改修前最後の試合は5月7日のガンバ大阪戦)に三ツ沢(球)に帰ってきたという事例もある。 このため九州での試合では横浜Fのモチベーションやパフォーマンスは低くなってしまい、その結果、フリューゲルスの九州でのホームゲームの結果はリーグ戦・カップ戦合計で5勝22敗、しかも[[1994年]][[7月23日]]の[[Jリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]1回戦(対[[セレッソ大阪|セレッソ]]、鹿児島)に1-0で勝利したのを最後に14連敗という成績であった。またスタジアム別では鹿児島で3勝7敗、長崎で2勝8敗、熊本は7戦全敗であった。 公式なホームタウンではないが、[[佐藤工業]]の創業の地が富山県にあるため、[[1994年]]から数年間は[[富山県総合運動公園陸上競技場]]でも毎年1試合程度の主催試合を開催していた。 ==== 特別活動地域の縮小 ==== [[1996年]]、[[アビスパ福岡|アビスパ]]がJリーグに参入したのに伴って横浜Fの特別活動地域のカテゴリーは消滅し、各クラブが平等に主催できるようになったが、[[京都サンガF.C.|サンガ]]等他クラブの主催試合も行われていた鹿児島県については、その後もフリューゲルスの主催ゲームを年1-2試合程度開催した。 == 成績 == {{main|横浜フリューゲルスの年度別成績一覧}} == タイトル・表彰 == === 国内大会 === * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]]:2回''' ** [[第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1993年]]、[[第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1998年]] === 国際大会 === * '''[[アジアカップウィナーズカップ]]:1回''' ** [[アジアカップウィナーズカップ1994-95|1995]] * '''[[アジアスーパーカップ]]:1回''' ** 1995 === 個人別 === *Jリーグ ** [[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] *** [[1996年]] - [[楢﨑正剛]]、[[前園真聖]]、[[山口素弘]] *** [[1997年]] - 山口素弘 *** [[1998年]] - 楢﨑正剛 == チームのマスコットキャラクター == ;とび丸 :*当時、ホームゲーム等で試合を盛り上げていたフリューゲルスのマスコットキャラクター。 :*[[ムササビ]]がモチーフになっており、ゴーグルとマントを使って空を飛ぶ事が出来る。好物は霞。 :*ANAの格安航空券「とび丸航空券」でも使用され、商標権はANAが所持していた。 :*チーム消滅後、[[2004年]]2月に他のフリューゲルス関連グッズと共に「[[日本サッカーミュージアム]]」に寄贈された。 == オフィシャルテーマソング == [[THE ALFEE]] 「[[Victory (THE ALFEEの曲)|Victory]]」([[1993年]][[4月28日]]リリース) :作詞・作曲:[[高見沢俊彦]] 編曲:THE ALFEE == 応援ソング == [[シャンティ・スナイダー]] 「Flying So High」1998年に発表された。 == ユニフォーム == === チームカラー === *{{colorbox|white}} 白、{{colorbox|#0033bf}} 青 === ユニフォームサプライの遍歴 === *1992年:[[プーマ]] *1993年 - 1996年:リーグ戦・[[ミズノ]]、カップ戦・[[プーマ]] *1997年 - 1998年:プーマ ===歴代ユニフォーム=== {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #0033bf; box-shadow: 4px 4px 4px #00A2E8;" |- style="background-color:#ffffff; color:#0033bf; font-weight:bold;" !colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Yokohama Flügels 1992 HOME FP |pattern_b= _Yokohama Flügels 1992 HOME FP |pattern_ra= _Yokohama Flügels 1992 HOME FP |pattern_sh= _Yokohama Flügels 1992 HOME FP |pattern_so= _Yokohama Flügels 1992 HOME FP 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|1995||rowspan="2"|サンミッシェル<br>南青山 |- |1996 |- |1997||rowspan="2"|[[全日本空輸|ANA]]||rowspan="2"|[[プーマ|PUMA]] |- |1998 |} === ユニフォームに関しての特記項目 === 1st(主にホーム用)は白をベースに、2nd(主にアウェー用)は青ベースに製作された。 *プーマ製の2ndは[[1995年]]まで殆ど使用されず、実際に使用されたのは天皇杯での試合や海外のクラブとの試合など、数試合にとどまっていた。ミズノ製の初代デザインの2ndは、スポンサーロゴ入りのサンプル品とチームロゴ入りの市販用のレプリカしか存在しなかった。 *[[1996年]]に[[アビスパ福岡]]、[[1997年]]に[[ヴィッセル神戸]]が昇格し、それぞれ銀や白・黒のストライプが1stで使用されることとなったため、それ以後は2ndの登場機会が増えた。 *また[[ジュビロ磐田]]など1stが薄い水色ベースのクラブとのホームゲームでも、フリューゲルスが2ndを着用したことがあった。この場合、アウェー側も2ndを着用した。 == 所属選手 == {{Main|横浜フリューゲルスの選手一覧}} == 主な記録 == *1試合最多入場者 **55014人([[1994年]][[6月8日]]、vs[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ]]) *1試合最少入場者 **3762人([[1998年]][[10月17日]]、vs[[ヴィッセル神戸|ヴィッセル]]) *1試合最多得点 **7-0(1998年[[10月31日]]、vs[[セレッソ大阪|セレッソ]]) *1試合最多失点 **0-6([[1995年]][[8月12日]]、vs[[浦和レッドダイヤモンズ|レッズ]]) **3-6(1995年[[10月18日]]、vs[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ]]) **3-6(1998年[[8月8日]]、vs[[ガンバ大阪|ガンバ]]) *[[ハットトリック]] **[[エバイール・アパレシード・パウリーノ|エバイール]]([[1996年]][[10月30日]]、vs[[アビスパ福岡|アビスパ]]) **[[山口素弘]]([[1997年]][[8月16日]]、vs[[鹿島アントラーズ|アントラーズ]]) **[[吉田孝行]](1998年10月31日、vsセレッソ) *ベストイレブン **[[楢﨑正剛]]([[ゴールキーパー (サッカー)|GK]])1996年、1998年 **[[前園真聖]]([[ミッドフィールダー|MF]])1996年 **[[山口素弘]](MF)1996年、1997年 == チーム名変遷 == *1964年- 横浜中区スポーツ少年団(後に横浜サッカークラブに変更) *1979年- 横浜トライスターサッカークラブ *1984年- 全日空横浜サッカークラブ *1988年- 全日空サッカークラブ *1992年- 全日空佐藤工業サッカークラブ(呼称:横浜フリューゲルス) == 余談 == *[[ペナルティ (お笑いコンビ)|ペナルティ]]の[[ヒデ (お笑い芸人)|ヒデ]]が[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]・[[専修大学]]時代に、それぞれ獲得の申し入れを受けたことで知られる(厳密には、市船時代は前身の[[全日空横浜サッカークラブ|全日空横浜サッカー部]]が獲得を申し入れている)。 *高校時代の[[中田英寿]]をスカウトしたJリーグ10クラブの中の一つ。 *[[西紀寛]]は市立船橋高校時代の1998年、強化指定選手でサテライトの試合にも出場し、翌年からの入団も内定していたが、クラブが消滅したため、オファーのあったジュビロに入団した。 *[[フィクション]]の世界では「[[キャプテン翼]]」において、[[若島津健]](後に[[名古屋グランパスエイト|グランパス]]に移籍)が高校卒業後に入団したクラブとなっており、[[加茂周]]、[[石末龍治]]、[[森敦彦]]が作中に登場している。 *フリューゲルス消滅時、[[日産自動車栃木工場|日産栃木工場]]のアマチュアチームに「フリューゲルス」と名付ける案<ref>辻野巨保著 ボクらが起こしたFの奇跡 p143</ref> があった。 *全日空横浜SC・横浜フリューゲルスのOBによる事実上のセカンドチーム「東京フリエSC」([[1993年]]結成)があった。[[1999年]]には佐川急便東京SC([[1991年]]創部)とチームを統合して「佐川急便東京フリエ」を名乗った。のちに[[日本フットボールリーグ]]に昇格([[2001年]])した、[[佐川急便東京SC|佐川急便東京サッカークラブ]]の源流の一つである。 == 参照 == <references /> == 関連項目 == *[[横浜ダービー]] *[[横浜ASフリューゲルスアワー]] *[[全日本空輸]](ANA) *[[全日空スポーツ]] *[[横浜F・マリノス]] *[[横浜FC]] *[[横浜スポーツ&カルチャークラブ]] *[[佐川急便東京SC]](創設当初、横浜Fを退団した選手の受け入れ先として「佐川急便東京フリエSC」と名乗って活動した時期があった) == 外部リンク == *{{Wayback |url=http://www.ananet.or.jp/flugels/ |title=エーエス フリューゲルス |date=19970606070830 }} *{{Wayback |url=http://www2.vc-net.ne.jp/~fairy/fulie/ |title=横浜フリューゲルスを存続させる会 公式ホームページ |date=20010605231009 }} *[https://web.archive.org/web/19990203031810/http://home4.highway.ne.jp/future/lab/ft981124.htm 横浜フリューゲルスの消滅とJリーグの理念] {{Jリーグオリジナル10}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} {{日本プロサッカーリーグ}} {{DEFAULTSORT:よこはまふりゆけるす}} [[Category:横浜フリューゲルス|*]] [[Category:現在活動していない横浜市のスポーツチーム]] [[Category:1964年設立のスポーツチーム]] [[Category:1998年廃止のスポーツチーム]]
2003-03-21T13:04:25Z
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アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)
アフガニスタン紛争(アフガニスタンふんそうロシア語: Афганская война、パシュトー語: د افغانستان جگړه)とは、冷戦時代の1978年に成立したアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)と同国と軍事同盟を締結して介入・侵攻したソビエト連邦(ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起したムジャーヒディーンと呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した戦争である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立するアメリカ合衆国(アメリカ)やイギリス等の西側諸国やパキスタン、サウジアラビア、イラン等のイスラム世界の国々、エジプト等の親米アラブ諸国、更には当時思想面でソ連と対立していた中華人民共和国(中国)などの一部の東側諸国もムジャーヒディーンを支援し、武器などを送る軍事援助やスパイを送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、ソ連軍は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる臨時政府が創られた。 しかし、当時のソ連軍はアフガニスタンの「点と線」しか支配する事が出来ず、同国のほとんどをムジャーヒディーンが支配していた事から当時の同国の実質的な指導勢力は共産主義政府ではなくムジャーヒディーンではないかとする説もあり、だとすればこれはソ連が同盟国アフガニスタンに介入したのではなく、共産主義国家化させようとしたソ連とイスラム国家化しようとしたアフガニスタンの戦争であるとする説にも結び付く事になる。 日本のマスメディアでは、ソ連軍の侵攻以降の局面は「アフガニスタン侵攻」(アフガニスタンしんこう)などと呼ばれる事も多い。「ソ連・アフガン戦争」(ソれん・アフガンせんそう)と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。 長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が戦死、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、「ソ連のベトナム戦争」と言われた。とは言っても、かつてアメリカ軍と戦ったベトナム民主共和国(北ベトナム)や南ベトナム解放民族戦線が統一された指揮系統を持っていたのに対し、アフガニスタンのムジャーヒディーンはあくまで部族や派閥の集まりであり、統一された指揮系統は持っていなかったなどの違いはある。 1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力の蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍は1979年12月24日に軍事介入した。ソ連国家保安委員会 (KGB)は政体混乱の収拾能力が無いとみたハフィーズッラー・アミーン革命評議会議長(書記長)を特殊部隊で襲撃(嵐333号作戦)して死に至らしめ、バブラク・カールマルを新たな指導者とし、アミーン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。 共産主義政権とソ連軍に対してムジャーヒディーンと呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また米国中央情報局(CIA)やチャールズ・ウィルソンらによる極秘の武器供給など、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ルートを握っていたパキスタン経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。また、パキスタンとその友好国の中華人民共和国は訓練キャンプも提供していた。サウジアラビアなどの親米アラブ諸国と反共反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)を結成していたエジプトのアンワル・アッ=サーダート政権もムジャーヒディーンの支援を表明して協力した。ムジャーヒディーンには20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。その中にはサウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となり、後にアメリカ同時多発テロを行うことになる、ウサーマ・ビン・ラーディンも参加していた。 多くの国々は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なした。たとえば1982年11月29日の国連総会でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択されている。一方でソ連を支持した国々もあり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義のテロリズムを封じ込める為の攻撃としている。アンゴラ、東ドイツ、ベトナム、インドはソ連のアフガニスタンでの立場を支持した。ただし、この紛争をきっかけにして、後にイスラム原理主義テロリストの活動が活発になった事実もある。 最終的にソ連軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。 しかしソ連撤退後も今日の日に至るまでアフガニスタンに平和の日々が訪れることはなく、ムジャーヒディーンの内部抗争、タリバンの台頭、タリバンと米国を含む有志連合諸国およびアフガニスタン・イスラム共和国政府の間の戦闘といった複数の要因により戦火が長引いているのが現状で、2021年にはタリバンが再度の政権掌握を果たすなど未だ不安定な情勢下にある。 1919年の独立以降、アフガニスタンは王国であり、1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議のロヤ・ジルガによって推戴されていた。ザーヒル・シャーは従兄弟のムハンマド・ダーウードを首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。1973年、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のためにイタリアに赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。ダーウードは中立的な外交政策でソ連とアメリカの両方から援助を引き出し、国内の開発を進めようとした。 1978年4月27日にダーウードはアブドゥル・カディル大佐に暗殺された。共産主義政党アフガニスタン人民民主党が政権を掌握し、4月30日に革命評議会布告第1号によって国名をアフガニスタン民主共和国(DRA)とした。5月1日に発足した政権の首班はヌール・ムハンマド・タラキー革命評議会議長兼首相で、バブラク・カールマルが副議長兼副首相、ハフィーズッラー・アミーンが副首相兼外相となった。 革命政府は1978年12月2日の革命評議会布告第8号により、封建的土地所有を解体する土地改革を実施する方針を打ち出した。耕地としての価値で区分した7等級のそれぞれに所有の上限を設け、限度を越えた分を無償で没収し、農民に無償で分配するものである。土地改革は1979年1月から実施され、4月までに26万866.4ヘクタール(2686km)が13万2264家族に分配されたという。部族指導者の物的利益を直撃する土地改革は、彼らの強い反発を招いたが、政府は軍隊を派遣し農民に武器を配って改革を実施した。また、政府が男女平等政策を進めたことも、宗教意識を逆なでするものであった。 外交的には非同盟・中立を標榜したが、ソ連寄りの姿勢は早くからはっきりしており、5月15日にソビエト連邦と共同声明を発してあらゆる分野での協力を約し、12月5日には善隣友好条約を結んだ。この条約は軍事協力に関する条項を含んでおり、ソ連は1979年1月に軍事顧問団を派遣した。 人民民主党には政権掌握前から派閥の対立があり、革命政府樹立後も政権幹部の左遷・解任・逮捕が相次いでいた。1979年3月、革命評議会議長はそのままで、首相職がタラキーからアミーンに交代した。 この3月に、東北部のヌーリスターンで反乱が起こった。さらに西部ヘラートでソ連人技術者が殺され、ファラーで空軍基地が襲われるなど、反乱は全国に拡大した。夏には全州の半分以上に何らかの反乱がおき、首都でも衝突が発生した。ソ連の軍事顧問が反政府ゲリラとの戦いに参入したが、ゲリラの勢力はむしろ拡大し、ベトナム戦争を思わせる泥沼状態に陥った。 内戦が深刻化する中、タラキーは1979年9月16日に失脚して、アミーンが革命評議会議長になった。この政変でソ連はアミーンの追い落としをはかってタラキーを後押ししたと言われる。10月6日にアフガニスタンのシャー・ワリ外務大臣は社会主義諸国の大使の前でソ連の陰謀を非難した。 ヘラートのアフガン政府第17軍が崩壊したことを受け、1979年3月17日より、ソ連の政治局ではアフガン情勢について討議が行われた。しかし書記長レオニード・ブレジネフ不在の中で政治局員達の意見は分かれた。国防相ドミトリー・ウスチノフやKGB議長ユーリ・アンドロポフは「侵略者のレッテルを確実に貼られることを意識」するとしながらも軍事介入を主張した。しかし首相アレクセイ・コスイギンは政府軍への支援が先決であると消極的であり、アンドレイ・キリレンコは明確に反対していた。一方で外相のアンドレイ・グロムイコは「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない」としながらも、軍事介入には消極的であった。 翌3月18日にはタラキーから、援助がなければ政権が崩壊するため、アフガン政府軍の制服を着たソ連軍を派遣するよう要請が入った。しかしコスイギンは発覚の確率が高く、ソ連が非難を受けるとして拒否した。この日の会議ではデタントの流れや非同盟諸国への影響を懸念したアンドロポフとウスチノフも介入回避に傾き、19日にはブレジネフもこの方針を承認した。 しかし、9月にタラキーがアミーンのクーデターによって排除されると、ソ連指導部はアミーンに対して不信を抱き始めた。10月19日にはアミーンがアメリカと接触するなど、「バランス外交」を志向している上に政府が腐敗していると報告があり、12月にはGRU(参謀本部情報総局)の派遣が決定された。 12月12日には、アフガン問題をグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフの三人に一任する決定が行われ、介入決定も行われたと見られている。12月26日にはブレジネフの別荘で最終確認が行われ、翌12月27日には「アミーン政権の腐敗と統治能力の欠如」「1978年12月のソ連・アフガン条約に基づくカールマルの軍事援助要請」を主な理由として、本格的な軍事介入を開始した。 介入決定の大きな要因として、アミーンの政治姿勢が1978年以来のソ連の勢力を失わせる危険があったことが挙げられる。1979年12月31日にアンドロポフらが政治局に提出した報告書では、「四月革命の成果と我が国の安全保障上の利益が危険な状態」にさらされているため、軍事介入が必要であるとしている。アフガニスタンはソ連にとって要衝であり、アフガンの喪失は安全保障に多大な影響があると考えられた。 また、アメリカ合衆国の軍事支援の影響もあった。当時のアメリカ合衆国連邦政府は、パキスタンを経由して、非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは、当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。ソ連政府は、武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。 もう一つの要因として、イスラム原理主義の動きから発生した、イランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝政府が倒され、ルーホッラー・ホメイニーを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。 なぜなら、アフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起これば、ソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンでは、イスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドクトリン」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのもソ連であった。 また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ、大量のアメリカ軍をペルシャ湾へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。反ソを目的とした中国との接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。 まず、ソビエト連邦は、アミーン書記長によるソ連軍派遣要請を受けて派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。しかし、ソ連軍はアミーン書記長の拘束殺害を目的とした宮殿への襲撃作戦(嵐333号作戦)を立案し、KGBアルファ部隊やGRUスペツナズなどの特殊部隊を投入して実行した。公式には、アミーンは革命裁判で「国家に対する罪」を宣告され処刑されたと、アフガニスタンラジオが発表した。 その後は親ソ的なバブラク・カールマルを首班とする新政権を擁立してアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。 ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの戦闘を行った。 ムジャーヒディーンはそれぞれ分派を作ったため、ベトナム戦争における南ベトナム解放民族戦線や北ベトナム人民軍のように統合された指揮系統や思想は存在しなかった。 中東におけるソ連の影響力浸透を嫌ったアメリカ、パキスタン、中国、エジプト、イギリス、サウジアラビア、イランが主なムジャーヒディーン支援国であり、これらはソ連のモスクワオリンピックをボイコットした国々でもある。また、武装勢力の中には中立的な勢力もあったが、戦局の進展によっては反ソ連派に結集することもあった。 一般に1979年12月24日を紛争の始まりとすることが多いが、どの出来事を始まりとするかについては解釈の違いがある。 1979年の戦死: 86人 1980年の戦死: 1,484人 1981年の戦死: 1,298人 1982年の戦死: 1,948人 1983年の戦死者: 1,446人 1983年、戦闘行動はアフガン全土に拡大。 1984年の戦死者: 2,343人 1984年からカーブル市内でも、ムジャーヒディーンのテロ攻撃が頻発するようになった。 1985年の戦死者: 1,868人 1985年中、第8次、第9次パンジシール作戦が行われたが、マスードを捕らえることに失敗。 1986年の戦死者: 1,333人 1987年の戦死者: 1,215人 1988年の戦死者: 759人 1989年の戦死者: 53人 ソビエト連邦軍はゲリラに対し決定的な勝利を得られないまま1989年に全面撤退したが、戦争の当事国双方に大きな影響が残された。 ソビエト連邦軍は撤退したが、その後も政府軍やムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、アフガニスタンの紛争はなおも継続した。 以降の経緯はアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アフガニスタン紛争(アフガニスタンふんそうロシア語: Афганская война、パシュトー語: د افغانستان جگړه)とは、冷戦時代の1978年に成立したアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)と同国と軍事同盟を締結して介入・侵攻したソビエト連邦(ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起したムジャーヒディーンと呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した戦争である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立するアメリカ合衆国(アメリカ)やイギリス等の西側諸国やパキスタン、サウジアラビア、イラン等のイスラム世界の国々、エジプト等の親米アラブ諸国、更には当時思想面でソ連と対立していた中華人民共和国(中国)などの一部の東側諸国もムジャーヒディーンを支援し、武器などを送る軍事援助やスパイを送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、ソ連軍は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる臨時政府が創られた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "しかし、当時のソ連軍はアフガニスタンの「点と線」しか支配する事が出来ず、同国のほとんどをムジャーヒディーンが支配していた事から当時の同国の実質的な指導勢力は共産主義政府ではなくムジャーヒディーンではないかとする説もあり、だとすればこれはソ連が同盟国アフガニスタンに介入したのではなく、共産主義国家化させようとしたソ連とイスラム国家化しようとしたアフガニスタンの戦争であるとする説にも結び付く事になる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本のマスメディアでは、ソ連軍の侵攻以降の局面は「アフガニスタン侵攻」(アフガニスタンしんこう)などと呼ばれる事も多い。「ソ連・アフガン戦争」(ソれん・アフガンせんそう)と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が戦死、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、「ソ連のベトナム戦争」と言われた。とは言っても、かつてアメリカ軍と戦ったベトナム民主共和国(北ベトナム)や南ベトナム解放民族戦線が統一された指揮系統を持っていたのに対し、アフガニスタンのムジャーヒディーンはあくまで部族や派閥の集まりであり、統一された指揮系統は持っていなかったなどの違いはある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力の蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍は1979年12月24日に軍事介入した。ソ連国家保安委員会 (KGB)は政体混乱の収拾能力が無いとみたハフィーズッラー・アミーン革命評議会議長(書記長)を特殊部隊で襲撃(嵐333号作戦)して死に至らしめ、バブラク・カールマルを新たな指導者とし、アミーン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "共産主義政権とソ連軍に対してムジャーヒディーンと呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また米国中央情報局(CIA)やチャールズ・ウィルソンらによる極秘の武器供給など、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ルートを握っていたパキスタン経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。また、パキスタンとその友好国の中華人民共和国は訓練キャンプも提供していた。サウジアラビアなどの親米アラブ諸国と反共反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)を結成していたエジプトのアンワル・アッ=サーダート政権もムジャーヒディーンの支援を表明して協力した。ムジャーヒディーンには20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。その中にはサウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となり、後にアメリカ同時多発テロを行うことになる、ウサーマ・ビン・ラーディンも参加していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "多くの国々は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なした。たとえば1982年11月29日の国連総会でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択されている。一方でソ連を支持した国々もあり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義のテロリズムを封じ込める為の攻撃としている。アンゴラ、東ドイツ、ベトナム、インドはソ連のアフガニスタンでの立場を支持した。ただし、この紛争をきっかけにして、後にイスラム原理主義テロリストの活動が活発になった事実もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "最終的にソ連軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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"p", "text": "なぜなら、アフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起これば、ソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンでは、イスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドクトリン」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのもソ連であった。", "title": "ソ連介入の決定" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ、大量のアメリカ軍をペルシャ湾へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。反ソを目的とした中国との接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。", "title": "ソ連介入の決定" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "まず、ソビエト連邦は、アミーン書記長によるソ連軍派遣要請を受けて派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。しかし、ソ連軍はアミーン書記長の拘束殺害を目的とした宮殿への襲撃作戦(嵐333号作戦)を立案し、KGBアルファ部隊やGRUスペツナズなどの特殊部隊を投入して実行した。公式には、アミーンは革命裁判で「国家に対する罪」を宣告され処刑されたと、アフガニスタンラジオが発表した。", "title": "ソビエト連邦軍の戦略" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後は親ソ的なバブラク・カールマルを首班とする新政権を擁立してアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。", "title": "ソビエト連邦軍の戦略" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの戦闘を行った。", "title": "ソビエト連邦軍の戦略" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ムジャーヒディーンはそれぞれ分派を作ったため、ベトナム戦争における南ベトナム解放民族戦線や北ベトナム人民軍のように統合された指揮系統や思想は存在しなかった。", "title": "アフガニスタン武装勢力" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "中東におけるソ連の影響力浸透を嫌ったアメリカ、パキスタン、中国、エジプト、イギリス、サウジアラビア、イランが主なムジャーヒディーン支援国であり、これらはソ連のモスクワオリンピックをボイコットした国々でもある。また、武装勢力の中には中立的な勢力もあったが、戦局の進展によっては反ソ連派に結集することもあった。", "title": "アフガニスタン武装勢力" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "一般に1979年12月24日を紛争の始まりとすることが多いが、どの出来事を始まりとするかについては解釈の違いがある。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1979年の戦死: 86人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1980年の戦死: 1,484人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1981年の戦死: 1,298人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1982年の戦死: 1,948人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1983年の戦死者: 1,446人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1983年、戦闘行動はアフガン全土に拡大。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1984年の戦死者: 2,343人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1984年からカーブル市内でも、ムジャーヒディーンのテロ攻撃が頻発するようになった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1985年の戦死者: 1,868人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1985年中、第8次、第9次パンジシール作戦が行われたが、マスードを捕らえることに失敗。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1986年の戦死者: 1,333人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1987年の戦死者: 1,215人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1988年の戦死者: 759人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1989年の戦死者: 53人", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦軍はゲリラに対し決定的な勝利を得られないまま1989年に全面撤退したが、戦争の当事国双方に大きな影響が残された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦軍は撤退したが、その後も政府軍やムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、アフガニスタンの紛争はなおも継続した。 以降の経緯はアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)を参照。", "title": "紛争の継続" } ]
アフガニスタン紛争とは、冷戦時代の1978年に成立したアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)と同国と軍事同盟を締結して介入・侵攻したソビエト連邦(ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起したムジャーヒディーンと呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した戦争である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立するアメリカ合衆国(アメリカ)やイギリス等の西側諸国やパキスタン、サウジアラビア、イラン等のイスラム世界の国々、エジプト等の親米アラブ諸国、更には当時思想面でソ連と対立していた中華人民共和国(中国)などの一部の東側諸国もムジャーヒディーンを支援し、武器などを送る軍事援助やスパイを送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、ソ連軍は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる臨時政府が創られた。 しかし、当時のソ連軍はアフガニスタンの「点と線」しか支配する事が出来ず、同国のほとんどをムジャーヒディーンが支配していた事から当時の同国の実質的な指導勢力は共産主義政府ではなくムジャーヒディーンではないかとする説もあり、だとすればこれはソ連が同盟国アフガニスタンに介入したのではなく、共産主義国家化させようとしたソ連とイスラム国家化しようとしたアフガニスタンの戦争であるとする説にも結び付く事になる。 日本のマスメディアでは、ソ連軍の侵攻以降の局面は「アフガニスタン侵攻」(アフガニスタンしんこう)などと呼ばれる事も多い。「ソ連・アフガン戦争」(ソれん・アフガンせんそう)と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。 長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が戦死、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、「ソ連のベトナム戦争」と言われた。とは言っても、かつてアメリカ軍と戦ったベトナム民主共和国(北ベトナム)や南ベトナム解放民族戦線が統一された指揮系統を持っていたのに対し、アフガニスタンのムジャーヒディーンはあくまで部族や派閥の集まりであり、統一された指揮系統は持っていなかったなどの違いはある。
{{出典の明記|date=2023年6月}} {{Battlebox | battle_name = アフガニスタン紛争 | campaign = 冷戦 |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:Collage - Guerra de Afganistán 1978-1992.jpg|300px]] | caption = 左上から時計回りにソ連軍の[[狙撃手|狙撃兵]]、ソ連軍の[[装甲車]]部隊、作戦中のムジャーヒディーン、ムジャーヒディーンとアメリカの[[首脳会談]]。 | conflict = アフガニスタン紛争/[[冷戦]]<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%B4%9B%E4%BA%89-156247 |title=アフガニスタン紛争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-06-07}}</ref> | date = [[1978年]][[4月]] - [[1992年]]4月{{R|"kotobank"}} | place = [[アフガニスタン]]{{R|"kotobank"}} | result = ムジャーヒディーン側の勝利。ソ連軍は[[撤退]]し、アフガニスタンの政権は崩壊{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = {{SSR}}<br/>{{AFG1980}} | combatant2 = {{Mujahidin}}<br/>支援国<br/>{{USA}}<br/>{{PAK}}<br/>{{SAU}}<br/>{{GBR}}<br/>{{PRC}}<br/>{{IRN}}<br/>{{EGY}} | commander1 = {{Flagicon|SSR}} [[レオニード・ブレジネフ]]<br/>{{Flagicon|SSR}} [[ユーリ・アンドロポフ]]<br/>{{Flagicon|SSR}} [[コンスタンティン・チェルネンコ]]<br/>{{Flagicon|SSR}} [[ミハイル・ゴルバチョフ]]<br/>{{Flagicon|AFG1978}} [[ヌール・ムハンマド・タラキー]]<br/>{{Flagicon|AFG1978}} [[ハフィーズッラー・アミーン]]<br/>{{Flagicon|AFG1980}} [[バブラク・カールマル]]<br/>{{Flagicon|AFG1980}} [[ハジ・モハンマド・チャムカニ]]<br/>{{Flagicon|AFG1987}} [[ムハンマド・ナジーブッラー]] | commander2 = {{Flagicon|Jihad}} [[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[アフマド・シャー・マスード]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[ムハンマド・ユーヌス・ハーリス]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[アブドゥル・ラスル・サイヤフ]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[:en:Mohammad Nabi Mohammadi|モウルビー・ムハンマド・ナビー・ムハンマディ]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]]<br/>{{Flagicon|Jihad}} [[サイード・アフマド・ギラニ]]<br/>{{Flagicon|PAK}} [[ムハンマド・ジア=ウル=ハク]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ジミー・カーター]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ロナルド・レーガン]] | strength1 = 1988年当時<br/>[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]100,300人<br/>[[アフガニスタン軍]]40,000人<br/>同国[[秘密警察]]20,000人<br/>同国[[民兵]]100,000人<ref name="mofa">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1988/s63-2-1-2-3.htm |title=(3)アフガニスタン問題 |publisher=[[外務省]] |date=1988 |accessdate=2023-06-07}}</ref> | strength2 = 1988年当時<br/>国内ムジャーヒディーン130,000人<br/>国外予備勢力110,000人{{R|"mofa"}} | casualties1 = 15,000人以上[[戦死]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.arabnews.jp/article/45thanniversary/article_17785/ |title=ソ連アフガニスタン侵攻 |publisher=アラブニュース |date=2020-06-11 |accessdate=2023-06-07}}</ref> | casualties2 = 2,000,000人以上戦死<br/>[[難民]]6,000,000人以上<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.y-history.net/appendix/wh1702-001.html |title=ソ連のアフガニスタン侵攻 |publisher=世界史の窓 |accessdate=2023-06-07}}</ref> }} '''アフガニスタン紛争'''(アフガニスタンふんそう{{lang-ru|Афганская война}}、{{lang-ps|د افغانستان جگړه}})とは、[[冷戦]]時代の[[1978年]]に成立した[[アフガニスタン民主共和国]](アフガニスタン)と同国と[[軍事同盟]]を締結して介入・侵攻した[[ソビエト連邦]](ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起した[[ムジャーヒディーン]]と呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した[[戦争]]である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立する[[アメリカ合衆国]](アメリカ)や[[イギリス]]等の[[西側諸国]]や[[パキスタン]]、[[サウジアラビア]]、[[イラン]]等の[[イスラム世界]]の国々、[[エジプト]]等の親米[[アラブ世界|アラブ諸国]]、更には当時思想面でソ連と対立していた[[中華人民共和国]](中国)などの一部の[[東側諸国]]もムジャーヒディーンを支援し、武器などを送る軍事援助や[[スパイ]]を送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる[[臨時政府]]が創られた。 しかし、当時のソ連軍はアフガニスタンの「点と線」しか支配する事が出来ず、同国のほとんどをムジャーヒディーンが支配していた事から当時の同国の実質的な指導勢力は共産主義政府ではなくムジャーヒディーンではないかとする説もあり、だとすればこれはソ連が同盟国アフガニスタンに介入したのではなく、共産主義国家化させようとしたソ連とイスラム国家化しようとしたアフガニスタンの戦争であるとする説にも結び付く事になる。 日本の[[マスメディア]]では、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の侵攻以降の局面は「'''アフガニスタン侵攻'''」(アフガニスタンしんこう)などと呼ばれる事も多い。「'''ソ連・アフガン戦争'''」(ソれん・アフガンせんそう)と呼んだ場合、[[アフガニスタン]]の反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内での戦闘は、[[1979年]]の出兵から[[1989年]]の完全撤収まで約10年に及んだ。 長期化した戦争で、ソ連側は1万4000人以上が[[戦死]]、アフガン側はその数倍の戦死者を出す結果となり、「ソ連の[[ベトナム戦争]]」と言われた<ref>Richard Cohen (April 22, 1988). "The Soviets' Vietnam". Washington Post. </ref><ref>"Afghanistan was Soviets' Vietnam". Boca Raton News. April 24, 1988. </ref>。とは言っても、かつて[[アメリカ軍]]と戦った[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)や[[南ベトナム解放民族戦線]]が統一された指揮系統を持っていたのに対し、アフガニスタンのムジャーヒディーンはあくまで部族や派閥の集まりであり、統一された指揮系統は持っていなかったなどの違いはある。 == 概要 == {{USSR}} [[1978年]]に[[アフガニスタン]]では、[[共産主義]]政党である[[アフガニスタン人民民主党]]による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力の蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。ソ連軍は[[1979年]][[12月24日]]に軍事介入した。[[ソ連国家保安委員会|ソ連国家保安委員会 (KGB)]]は政体混乱の収拾能力が無いとみた[[ハフィーズッラー・アミーン]][[アフガニスタンの国家元首の一覧|革命評議会議長]]([[アフガニスタン人民民主党|書記長]])を特殊部隊で襲撃([[嵐333号作戦]])して死に至らしめ<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/8428701.stm |publisher=BBC News |title=How Soviet troops stormed Kabul palace|language=|date= 2009-12-27}}</ref>、[[バブラク・カールマル]]を新たな指導者とし、アミーン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。 [[File:Charlie Wilson with Afghan man.jpg|thumb|[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]と[[ムジャーヒディーン]]。]] 共産主義政権とソ連軍に対して[[ムジャーヒディーン]]と呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また[[アメリカ中央情報局|米国中央情報局(CIA)]]や[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]らによる極秘の武器供給など<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2693680 |title=チャーリー・ウィルソン米元議員が死去、ソ連アフガン侵攻でCIAに協力 |publisher=AFPBB News|date=2010-02-11}}</ref>、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ルートを握っていた[[パキスタン]]経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。また、パキスタンとその友好国の[[中華人民共和国]]は訓練キャンプも提供していた<ref>S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland (illustrated ed.). M.E. Sharpe. p. 158. ISBN 0-7656-1318-2. Retrieved May 22, 2012.</ref>。[[サウジアラビア]]などの[[親米]][[アラブ]]諸国と反共反ソ同盟{{仮リンク|サファリ・クラブ|en|Safari Club}}を結成していた[[エジプト]]の[[アンワル・アッ=サーダート]]政権もムジャーヒディーンの支援を表明して協力した<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/1981/09/23/world/sadat-says-us-buys-soviet-arms-in-egypt-for-afghan-rebels.html|title=SADAT SAYS U.S. BUYS SOVIET ARMS IN EGYPT FOR AFGHAN REBELS |language=|work=[[ニューヨーク・タイムズ]] |date=1981-09-23 |accessdate=2019-07-12}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/02/14/egypt-says-it-trains-afghan-rebels/a09f455a-fca0-48c0-b7fe-12e8c9bcede6/|title=Egypt Says It Trains Afghan Rebels |work=[[ワシントン・ポスト]] |date=1980-02-14 |accessdate=2019-07-12}}</ref>。ムジャーヒディーンには20以上の[[イスラム教国|イスラム諸国]]から来た20万人の義勇兵が含まれていた。その中にはサウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となり、後に[[アメリカ同時多発テロ]]を行うことになる、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]も参加していた。 多くの国々は、この戦争は[[主権|主権国家]]への正当な理由のない侵略行為だと見なした。たとえば[[1982年]][[11月29日]]の[[国連総会]]でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする[[国連決議]] 37/37 が採択されている。一方でソ連を支持した国々もあり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいは[[イスラム原理主義]]の[[テロリズム]]を封じ込める為の攻撃としている。[[アンゴラ]]、[[東ドイツ]]、[[ベトナム]]、[[インド]]はソ連のアフガニスタンでの立場を支持した<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/01/12/india-supports-soviets-afghan-position-in-un-debate/17dd1eb5-93f9-44bf-9f95-ecda7285843c/|title=India Supports Soviets' Afghan Position in U.N. Debate|website=[[ワシントン・ポスト]]|date=1980-01-12|accessdate=2019-05-18}}</ref>。ただし、この紛争をきっかけにして、後にイスラム原理主義テロリストの活動が活発になった事実もある。 最終的にソ連軍は[[1988年]][[5月15日]]から[[1989年]][[2月2日]]の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年[[2月15日]]にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。 しかしソ連撤退後も今日の日に至るまでアフガニスタンに平和の日々が訪れることはなく、ムジャーヒディーンの内部抗争、[[ターリバーン|タリバン]]の台頭、タリバンと[[アメリカ合衆国|米国]]を含む[[有志連合]]諸国および[[アフガニスタン・イスラム共和国]]政府の間の戦闘といった複数の要因により戦火が長引いているのが現状で、2021年にはタリバンが再度の政権掌握を果たすなど未だ不安定な情勢下にある。 == 人民民主党政権への反発 == [[1919年]]の独立以降、アフガニスタンは王国であり、[[1933年]]以降は[[ザーヒル・シャー]]が国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議の[[ロヤ・ジルガ]]によって推戴されていた。ザーヒル・シャーは従兄弟の[[ムハンマド・ダーウード]]を首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。[[1973年]]、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のために[[イタリア]]に赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。ダーウードは中立的な外交政策でソ連とアメリカの両方から援助を引き出し、国内の開発を進めようとした。 [[1978年]]4月27日にダーウードはアブドゥル・カディル大佐に暗殺された。[[共産主義]]政党[[アフガニスタン人民民主党]]が政権を掌握し、4月30日に革命評議会布告第1号によって国名をアフガニスタン民主共和国(DRA)とした。5月1日に発足した政権の首班は[[ヌール・ムハンマド・タラキー]]革命評議会議長兼首相で、[[バブラク・カールマル]]が副議長兼副首相、[[ハフィーズッラー・アミーン]]が副首相兼外相となった<ref>小林三衛「[https://doi.org/10.11387/jsl1951.1982.117 アフガニスタン革命と土地改革法]」(『法社会学』34号、1984年)117頁。</ref>。 革命政府は1978年12月2日の革命評議会布告第8号により、封建的土地所有を解体する土地改革を実施する方針を打ち出した。耕地としての価値で区分した7等級のそれぞれに所有の上限を設け、限度を越えた分を無償で没収し、農民に無償で分配するものである。土地改革は[[1979年]]1月から実施され、4月までに26万866.4ヘクタール(2686km{{sup|2}})が13万2264家族に分配されたという<ref>小林三衛「アフガニスタン革命と土地改革法」120頁。</ref>。部族指導者の物的利益を直撃する土地改革は、彼らの強い反発を招いたが、政府は軍隊を派遣し農民に武器を配って改革を実施した<ref>{{Cite journal|和書|title=アフガニスタンの歴史と闘いの伝統 / 増田 紘一|journal=[[前衛 (雑誌)|前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌]]|issue=453|publisher=日本共産党中央委員会|date=1980-06-01|pages=72|id={{NDLJP|2755886/41}}}}</ref>。また、政府が男女平等政策を進めたことも、宗教意識を逆なでするものであった<ref>斎藤吉史「アフガニスタン危機の構図」(『世界』412号、1980年3月)57頁。</ref>。 外交的には非同盟・中立を標榜したが<ref>{{Cite journal|和書|title=〈アフガニスタン〉民主共和国政府の革命的任務の基本路線|journal=世界政治資料|issue=532|publisher=日本共産党中央委員会|date=1978-09-10|pages=61 - 64|id={{NDLJP|1409642/33}}}}</ref>、ソ連寄りの姿勢は早くからはっきりしており、5月15日にソビエト連邦と共同声明を発してあらゆる分野での協力を約し、12月5日には善隣友好条約を結んだ<ref>小林三衛「アフガニスタン革命と土地改革法]」117-118頁。</ref>。この条約は軍事協力に関する条項を含んでおり、ソ連は1979年1月に軍事顧問団を派遣した<ref>平井友義「ソ連戦略の誤算」(『世界』412号、1980年3月)49頁。</ref>。 == 反乱勃発と拡大 == 人民民主党には政権掌握前から派閥の対立があり、革命政府樹立後も政権幹部の左遷・解任・逮捕が相次いでいた<ref name="名前なし-1">小林三衛「アフガニスタン革命と土地改革法」118-119頁。</ref>。1979年3月、革命評議会議長はそのままで、首相職がタラキーからアミーンに交代した。 この3月に、東北部の[[ヌーリスターン州|ヌーリスターン]]で反乱が起こった。さらに西部[[ヘラート州|ヘラート]]でソ連人技術者が殺され、[[ファラー州|ファラー]]で空軍基地が襲われるなど、反乱は全国に拡大した。夏には全州の半分以上に何らかの反乱がおき、首都でも衝突が発生した<ref>斎藤吉史「アフガニスタン危機の構図」57頁。</ref>。ソ連の軍事顧問が反政府ゲリラとの戦いに参入したが、ゲリラの勢力はむしろ拡大し、[[ベトナム戦争]]を思わせる泥沼状態に陥った<ref>平井友義「ソ連戦略の誤算」47-49頁。</ref>。 内戦が深刻化する中、タラキーは[[1979年]]9月16日に失脚して、アミーンが革命評議会議長になった<ref name="名前なし-1"/>。この政変でソ連はアミーンの追い落としをはかってタラキーを後押ししたと言われる。10月6日にアフガニスタンのシャー・ワリ外務大臣は社会主義諸国の大使の前でソ連の陰謀を非難した<ref>{{Cite journal|和書|title=アフガニスタン問題の真相と自主独立の立場 / 緒方 靖夫|journal=[[前衛 (雑誌)|前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌]]|issue=453|publisher=日本共産党中央委員会|date=1980-06-01|pages=57 - 58}}{{NDLJP|2755886/33}}</ref>。 == ソ連介入の決定 == ヘラートのアフガン政府第17軍が崩壊したことを受け、1979年3月17日より、ソ連の[[ソ連共産党政治局|政治局]]ではアフガン情勢について討議が行われた。しかし書記長[[レオニード・ブレジネフ]]不在の中で政治局員達の意見は分かれた。国防相[[ドミトリー・ウスチノフ]]や[[ソ連国家保安委員会|KGB]]議長[[ユーリ・アンドロポフ]]は「侵略者のレッテルを確実に貼られることを意識」するとしながらも軍事介入を主張した。しかし首相[[アレクセイ・コスイギン]]は政府軍への支援が先決であると消極的であり、[[アンドレイ・キリレンコ (政治家)|アンドレイ・キリレンコ]]は明確に反対していた<ref>金(1998:264)</ref>。一方で外相の[[アンドレイ・グロムイコ]]は「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない」としながらも、軍事介入には消極的であった<ref>金(1998:264-265)</ref>。 翌3月18日にはタラキーから、援助がなければ政権が崩壊するため、アフガン政府軍の制服を着たソ連軍を派遣するよう要請が入った。しかしコスイギンは発覚の確率が高く、ソ連が非難を受けるとして拒否した<ref name="kim1998265">金(1998:265)</ref>。この日の会議では[[デタント]]の流れや[[非同盟諸国]]への影響を懸念したアンドロポフとウスチノフも介入回避に傾き、19日にはブレジネフもこの方針を承認した<ref name="kim1998265"/>。 しかし、9月にタラキーがアミーンのクーデターによって排除されると、ソ連指導部はアミーンに対して不信を抱き始めた。10月19日にはアミーンがアメリカと接触するなど、「[[バランス外交]]」を志向している上に政府が腐敗していると報告があり、12月には[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|GRU(参謀本部情報総局)]]の派遣が決定された。 12月12日には、アフガン問題をグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフの三人に一任する決定が行われ、介入決定も行われたと見られている<ref>金(1998:267)</ref>。12月26日にはブレジネフの別荘で最終確認が行われ、翌12月27日には「アミーン政権の腐敗と統治能力の欠如」「1978年12月のソ連・アフガン条約に基づくカールマルの軍事援助要請」を主な理由として、本格的な軍事介入を開始した<ref name="kim1998268">金(1998:268)</ref>。 介入決定の大きな要因として、アミーンの政治姿勢が1978年以来のソ連の勢力を失わせる危険があったことが挙げられる。1979年12月31日にアンドロポフらが政治局に提出した報告書では、「四月革命の成果と我が国の安全保障上の利益が危険な状態」にさらされているため、軍事介入が必要であるとしている<ref name="kim1998268"/>。アフガニスタンはソ連にとって要衝であり、アフガンの喪失は安全保障に多大な影響があると考えられた。 また、[[アメリカ合衆国]]の軍事支援の影響もあった。当時の[[アメリカ合衆国連邦政府]]は、パキスタンを経由して、非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは、当時進行していた[[米ソデタント]]の動きからも不利益と判断された。ソ連政府は、武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。 もう一つの要因として、[[イスラム原理主義]]の動きから発生した、[[イラン]]での[[イラン革命]]が挙げられる。革命で[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]皇帝政府が倒され、[[ルーホッラー・ホメイニー]]を中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。 なぜなら、アフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起これば、ソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンでは、イスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者[[レオニード・ブレジネフ]]が、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「[[ブレジネフ・ドクトリン]]」によって裏付けられている。その後勃発した[[イラン・イラク戦争]]において、最も強力に[[イラク]]を援助したのもソ連であった。 また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ、大量の[[アメリカ軍]]を[[ペルシャ湾]]へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。反ソを目的とした中国との接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。 == ソビエト連邦軍の戦略 == まず、ソビエト連邦は、アミーン書記長による[[ソ連軍]]派遣要請を受けて派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。しかし、ソ連軍はアミーン書記長の拘束殺害を目的とした宮殿への襲撃作戦([[嵐333号作戦]])を立案し、[[ソ連国家保安委員会|KGB]][[アルファ部隊]]や[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|GRU]][[スペツナズ]]などの特殊部隊を投入して実行した。公式には、アミーンは革命裁判で「国家に対する罪」を宣告され処刑されたと、アフガニスタンラジオが発表した<ref>[http://partners.nytimes.com/library/world/africa/122879binladen.html Afghan President is Ousted and Executed in Kabul Coup, Reportedly with Soviet Help] [[ニューヨーク・タイムズ]] 1979年12月28日</ref>。 その後は親ソ的なバブラク・カールマルを首班とする新政権を擁立してアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。 === 戦術 === [[File:SovietafghanwarTanksHelicopters.jpg|thumb|アフガニスタンに展開するソ連軍の部隊 (1984年)]] ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの[[戦闘]]を行った。 * ソ連第40軍(10万人以上の地上部隊で構成)の展開。航空支援、[[兵站]]部門、[[ソ連内務省|内務省(MVD)]]の[[ロシア国内軍|部隊]]及び[[ソ連国家保安委員会|国家保安委員会 (KGB)]]傘下の[[ロシア国境軍|国境警備隊]]、それから他の種々雑多な部隊を含めると、総勢でおよそ17万5千人になったと複数の観測者によって計算されている。この数字は当時のソビエト連邦が保有するカテゴリー1(第一線級)の師団のほぼ20%に相当した。 * 前線の裏側ではソビエト連邦によって[[化学兵器]]が広域にわたって使用されていた。このことは(ソ連の軍事雑誌が伝えるところによると)ソ連軍のための訓練だとみなされていた (化学兵器の使用については異説あり)。 * 2000万個以上の[[対人地雷]]がソ連軍によってばらまかれた。これらの対人地雷は地雷が不発弾となったとき、発見しやすくする為に色を塗り、投下時の空気抵抗を減らすために異様な形をしたもの([[PFM-1]]を参照)が生産された、それを[[おもちゃ]]と間違えて拾った[[子供]]が死傷する事件が度々起こったため「[[人形]]爆弾」と呼ばれた * ソ連軍の[[戦闘教義]]はもともと平原及び丘陵地帯における([[北大西洋条約機構|NATO]]軍や[[中国人民解放軍]]などの)正規軍相手の[[電撃戦]]及び[[国家総力戦|総力戦]]を前提としたものであり、[[ゲリラ]]及び[[パルチザン]]の[[対反乱作戦|掃討作戦]]や[[山岳戦]]を想定していなかったため、戦闘では苦戦を強いられた。[[ベトナム戦争]]におけるアメリカ軍と同様に[[ヘリコプター]]で[[ヘリボーン|機動]]する治安作戦、掃討作戦がアフガニスタン全土で多く実施されたが、目覚しい戦果はあがらなかった。 *9年間に渡る戦争において平均してアフガニスタンに駐留したソ連軍の兵力は10万人強である。[[1984年]]頃、ソ連陸軍首脳は政府に対し地上兵力増強を要求した。軍の要求した兵員数は30.5万人で駐留軍を3倍に増やすというものであった。アフガニスタンのゲリラ勢力は最大でも10万人であり、30万人増強が行われれば反政府勢力は壊滅していた可能性もある。戦闘が最も激しかった[[1985年]]のソ連軍の総兵力は実に511万5000人(他に国内保安部隊など113万5000人)という大きなものであったが、その世界最大の陸上兵力を持つソ連軍が、より多くの兵員をアフガニスタンに投入出来なかったのは経済面を含んだ輸送力の不足のためであった<ref>三野正洋著『わかりやすいアフガニスタン戦争』</ref>。 *対ゲリラ専用に戦闘ヘリコプター[[Mi-24 (航空機)|Mi-24]]が多数投入され、航空戦力を持たないムジャーヒディーンにとって大きな脅威になった。しかし、アメリカと中国とイギリスがムジャーヒディーンに[[FIM-92 スティンガー]]などの[[携帯式防空ミサイルシステム]]を供与したため<ref>{{cite web|url=http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php|title=Trade Registers|website=armstrade.sipri.org|accessdate=2019-05-17}}</ref>、Mi-24の脅威は限定的なものとなった<ref>Steele, Jonathan (2010). "Afghan Ghosts: American Myths". World affairs journal. Retrieved July 16, 2015.</ref>。 == アフガニスタン武装勢力 == {{main|ムジャーヒディーン}} ムジャーヒディーンはそれぞれ分派を作ったため、[[ベトナム戦争]]における[[南ベトナム解放民族戦線]]や[[ベトナム人民軍|北ベトナム人民軍]]のように統合された指揮系統や思想は存在しなかった。 中東におけるソ連の影響力浸透を嫌ったアメリカ、パキスタン、中国、エジプト、イギリス、サウジアラビア、イランが主なムジャーヒディーン支援国であり<ref>Interview with Dr. Zbigniew Brzezinski - (June 13, 1997). Part 2. Episode 17. Good Guys, Bad Guys. June 13, 1997.</ref><ref>Crile, George (2003). Charlie Wilson's War: The Extraordinary Story of the Largest Covert Operation in History. Atlantic Monthly Press. ISBN 0-87113-854-9.</ref>、これらはソ連の[[モスクワオリンピック]]をボイコットした国々でもある。また、武装勢力の中には中立的な勢力もあったが、戦局の進展によっては反ソ連派に結集することもあった。 ===代表的なムジャーヒディーン勢力=== ==== パシュトゥーン人系 ==== *イスラム国民戦線 (指導者: [[サイード・アフマド・ギラニ]]) *アフガニスタン民族解放戦線 (指導者: [[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]]) *イスラム革命運動党 (指導者: モウルビー・ムハンマド・ナビー・ムハンマディ) *イスラム党 *ヘクマティヤール派 (指導者: [[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]) *ハリス派 (指導者:[[ムハマッド・ユヌス・ハリス]]) ==== パシュトゥーン・タジク人系 ==== *イスラム協会 (指導者: [[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]、軍指揮官: [[アフマド・シャー・マスード]]) ==== ハザーラ人系 ==== *イスラム革命統一評議会 (指導者: セイエド・アソ・ベヘシティ) *イスラム勝利組織 (指導者: ミール・フサイン・サーデキー) *パズラタン *イスラム聖戦防衛機構 ==== ウズベク人系 ==== *イスラム国民運動党 ==== ヌーリスターン人系 ==== *ヒルミ == 経過 == 一般に1979年12月24日を紛争の始まりとすることが多いが、どの出来事を始まりとするかについては解釈の違いがある。 === 年表 === [[File:Evstafiev-40th army HQ-Amin-palace-Kabul.jpg|thumb|250px|right|[[カーブル]]のソ連軍総司令部。旧アフガン大統領官邸。(1987年)]] ; [[1978年]] * [[4月27日]] - 人民民主党のクーデターにより、アフガニスタン共和国大統領[[ムハンマド・ダーウード]]([[ザーヒル・シャー]]元国王の従兄弟)が殺害される。釈放された人民民主党書記長[[ヌール・ムハンマド・タラキー]]は、[[4月30日]]に革命評議会議長に選出され、書記長、首相として政権を握り、アフガニスタン民主共和国の樹立を宣言した。タラキーと並ぶ人民民主党の幹部ハフィーズッラー・アミーンとバブラク・カールマルはともに首相代理に任命された。 * 春 - 地方で部族や[[イスラム教|イスラム]]擁護勢力による抵抗運動及び反乱が始まる。 * 晩春 - ソビエト政府がアミーンと接触し、タラキー排除に関する話し合いを始めた。 * [[12月5日]] - 民主共和国がソビエト連邦との友好条約に調印。 ; [[1979年]] 1979年の戦死: 86人 * [[2月15日]] - [[アメリカ合衆国|米国]][[大使]]アドルフ・ダッブスが暴徒により誘拐され、アミーン首相によって救出が試みられている間に殺害された。アメリカは彼の死を導くことになった銃撃戦を引き起こしたとしてソ連を非難した。 * 3月 - ソビエト連邦がアフガニスタンに対する強力な軍事的支援を開始。その一つとして500人の軍事顧問が援助のために到着した。彼らが家族を伴ってきたことは長期にわたり関与することを意味した。 * [[3月10日]] - [[ヘラート]]の[[イスマーイール・ハーン|アフガニスタン人部隊]]が暴動を起こし、350人のソビエト市民が殺された。[[3月20日]]までに暴動は鎮圧されたが、これにより多くの人命が失われた。 * 3月 - ソビエトの顧問団はアフガニスタン政府の技術者からバグラム空軍基地の運営を引継ぎ始めた。外交上の公文書や機関紙[[プラウダ]]の記事ではアフガニスタンを“社会主義国家群の一員”と呼び始めた。ソビエト連邦は今やアフガニスタンを[[ブレジネフ・ドクトリン|ブレジネフ政策]]に属するものと見なしているということを示唆するものとして理解された。 * 8月 - ソビエト陸軍の司令官イヴァン・パブロスキー将軍が50人以上の将校を伴ってアフガニスタンに到着。 * [[9月1日]] - タラキー議長が[[キューバ]]の[[ハバナ]]で開かれた非同盟諸国の会議に出席。 * [[9月11日]] - タラキーが[[カーブル]]に帰国。 * [[9月12日]] - アミーンの圧力により、タラキーが「健康上の理由」により政府と党の一切の職務を辞職。 * [[9月14日]] - 大統領宮殿においてアミーン暗殺未遂。タラキーによって命令されたものだとみられる。 * [[9月16日]] - アミーン首相が、政府と党におけるタラキーの職を継承。 * [[9月18日]] - タラキー寄りの政府の役人や軍の将校の一部の集団が抵抗したが、アミーンに忠実な他の者たちによって殺された。タラキーはこの戦闘の最中に殺されたと推測される。 * 10月 - パブロスキー将軍と参謀たちはアフガニスタンを離れた。ソビエト連邦は南の複数のソビエト社会主義共和国でカテゴリー2の師団の動員を開始した。 * [[10月10日]] - カーブル・タイムズが、タラキーの病死を報じた。他の新聞の報道は、銃撃戦の最中に死亡したのではないかと示唆したが、それを証明できる者はいなかった。 * [[11月7日]] - ロシア革命記念日を祝うカーブル・タイムズ誌は、「偉大な10月革命の継続」におけるアフガニスタンの役割についての記事を書いた。この報告を見た多くの人は、人民民主党がアフガニスタンに関するブレジネフ政策を受け入れたと見なした。 * [[11月28日]] - ソビエト連邦の内務大臣の代理として、ヴィクトール・パプチン中将が「相互協力と利害関係上の問題点」に関する会合に出席するためにカーブルに到着した。中将は侵攻の調整役を引き受ける[[ソ連国家保安委員会|ソ連国家保安委員会 (KGB)]]のトップであったと推測される。 * 12月 - [[タシュケント]]を拠点とする重武装したソ連の空挺大隊のいくつかがバグラム空軍基地に配置された。 * [[12月17日]] - アフガニスタンの情報機関の長であるアサドゥッラー・アミーン暗殺未遂。重傷を負ったアサドゥッラーは、タシュケントで治療を受けるために国を離れた。 * [[12月18日]] - バグラムに配置された空挺部隊は[[サラン峠]]を見張るために移動した。これはタシュケントを本拠地とする第357自動車化狙撃師団が国境を越えてやってくるのを支援するためのものであった。 * [[12月21日]] - 増強されたソビエト空挺連隊がバグラムに空輸された。 * [[12月22日]] - アフガニスタンに駐留するソビエト軍の顧問団はアフガニスタン人の部隊に戦車や他の重要な装備についてのメンテナンスのサイクルを経験させるように勧めた。カーブルの外側に通じる遠距離通信網は首都を孤立させるために切断された。アミーンは大統領府を侵攻があった場合により守りやすい場所にあるダールルアマーン宮殿に移した。 * [[12月24日]] - ソビエト連邦の3個師団規模の部隊がカーブルとその周辺地域の飛行場をすべて制圧した。[[スペツナズ]]がカーブルの通信網の支配権を掌握し、都市内のすべての通信を統制した。 * [[12月26日]] - さらなるソビエト連邦の連隊や師団規模の部隊がアフガニスタン国境に向かって南下を始めた。 * [[12月27日]] - ソ連軍の3個大隊がアミーンのいる宮殿を攻撃し、アミーンを殺害する([[嵐333号作戦]])。また、アフガニスタン人の役人が多数逮捕され投獄される。 * [[12月28日]] - ソ連軍の3つの自動車化狙撃師団がソビエト連邦南部の4つの予備師団に支援されてアフガニスタン国境を越えた。 * [[12月29日]] - タラキーらのハルク派と別路線であったために[[東ヨーロッパ|東欧]]で亡命生活を送っていた人民民主党パルチャム派のリーダーであるバブラク・カールマルが、アフガニスタン民主共和国の革命評議会議長、首相、人民民主党の書記長に就任。この日までに5万人以上のソビエト軍がアフガニスタン国内に到着。 ; [[1980年]] 1980年の戦死: 1,484人 * 1月 - ソ連第40軍、アフガンの重要都市を占領。 * [[1月15日]] - 第6回国連緊急総会において、ソ連軍の撤退を求めた決議が賛成多数(賛成104、反対18、棄権18)で採択される。 * [[2月20日]] - カーブルで大規模な反政府行動が発生。ソ連指導部は、当初の計画になかった反乱鎮圧へのソ連軍の投入に同意。 * 2月 - 1979年夏に反乱軍に寝返っていたアフガン山岳歩兵連隊を攻撃するために、[[クナル州|クナル]]作戦開始。軍事的には成功したが、同地に権力を確立することはできなかった。 * 4月 - {{仮リンク|ホースト攻囲戦|fa|محاصره خوست|en|Siege of Khost}}開始(1980年 - [[1991年]]、[[ホースト州]])。 * [[5月11日]] - {{仮リンク|カラ村の戦い|Ru|Бой у кишлака Хара}}。 * 春 - 第1次パンジシール作戦。([[パンジシール攻勢 (アフガニスタン紛争)|パンジシール攻勢]]、1980年 - [[1985年]]、[[ヒンドゥークシュ山脈]]の[[サラン峠]]) * 秋 - 第2次パンジシール作戦。 *6月22日 - 第6回先進国首脳会議の開幕当日に、ソ連がアフガン駐留ソ連軍の一部(1個師団約1万人と戦車108台)撤退を発表<ref>{{Cite journal|和書|url=https://hdl.handle.net/2344/00001878 |title=アフガン侵攻への国際的反発 : ソ連のアジア政策 |journal=アジア動向年報 1981年版 |publisher=アジア経済研究所 |year=1981 |pages=654-687 |id={{NCID|BN02174620}}|author=佐久間邦夫 |accessdate=2021-09-16}}</ref>。 * [[7月19日]] - [[モスクワオリンピック]]開幕。ソ連軍の攻撃を非難した50カ国がボイコット。 * [[8月3日]] - {{仮リンク|シャエスタ村の戦い|Ru|Бой у кишлака Шаеста}}。 * 11月 - カーブルの隣接州で、ウダール({{Lang|Ru|Удар}}、打撃の意)作戦開始。 ; [[1981年]] 1981年の戦死: 1,298人 * 1月 - アフガニスタンで全国民皆兵法成立。20歳以上の国民は兵役義務を負った。 * 4月 - 第3次パンジシール作戦。 * [[6月18日]] - トラボラ峡谷でムジャーヒディーンの大規模な基地が発見され、ソ連軍第66自動車化狙撃旅団とアフガン軍第11師団が攻撃開始。大量の武器弾薬が鹵獲されたが、ムジャーヒディーン部隊は逃走。 ; [[1982年]] 1982年の戦死: 1,948人 * 4月 - [[ニームルーズ州|ニームルーズ]]で作戦。 * [[5月18日]] - 第5次パンジシール作戦開始。約1万2千人が投入され、今回の作戦で初めて大規模ヘリ強襲(3日間で3千人が降着)が行われた。[[アフマド・シャー・マスード|マスード]]の捕捉に失敗。 * 8月 - 第6次パンジシール作戦。 * 10月 第37回[[国連総会]]において、ソ連軍の撤退を求める決議が賛成多数(賛成114、反対21、棄権13、投票不参加9)で採択される。 * 12月 - パンジシール渓谷に支配を確立できなかったため、アフガン政府軍は渓谷から撤退。 ; [[1983年]] 1983年の戦死者: 1,446人 * [[1月2日]] - [[マザーリシャリーフ]]でソ連の民間人16人が誘拐。1ヵ月後、強襲により解放されたが、6人が死亡した。 * 7月末 - ムジャーヒディーン、[[ホースト州|ホースト]]の封鎖に着手。 1983年、戦闘行動はアフガン全土に拡大。 ; [[1984年]] 1984年の戦死者: 2,343人 * 1月 - スティンガーを装備するムジャーヒディーンにより孤立させられた[[パクティーカー州|ウルグン]]に対して、{{仮リンク|ウルグン作戦|fr|Siège d'Urgun|en|Siege of Urgon}}開始。 * [[4月21日]] - 第7次パンジシール作戦開始。ソ連軍1万1千人、アフガン軍2,600人、航空機200機、ヘリ190機を投入。[[アフマド・シャー・マスード|マスード]]の捕捉に失敗。 * [[4月30日]] - {{仮リンク|第682機動小銃連隊第1大隊の喪失|Ru|Гибель 1-го батальона 682-го мотострелкового полка}}。 * [[8月31日]] - ムジャーヒディーン、カブール空港を襲撃。 1984年からカーブル市内でも、ムジャーヒディーンのテロ攻撃が頻発するようになった。 ; [[1985年]] 1985年の戦死者: 1,868人 * 3月 - [[ジャラーラーバード]]から{{仮リンク|バリコト|it|Barikot|en|Barikot}}(古代国家{{仮リンク|ウッディヤーナ|en|Oddiyana}}があった地域で、[[エメラルド]]鉱山からの鉱物資源が[[紛争鉱物]]となっている。)に至る[[クナル州|クナール州]]において、{{仮リンク|クナール作戦|ru|Кунарские операции}}開始({{lang-ru-short|[[:ru:Кунарские операции|Кунарские операции]]}})。ソ連軍は11,500人を投入。 * 4月 - {{仮リンク|マラヴァル峠の戦い|ru|Гибель Мараварской роты|en|Battle of Maravar Pass}}([[4月21日]] - [[4月22日]])、{{仮リンク|バダベル蜂起|ru|Восстание в лагере Бадабер|en|Badaber Uprising}}([[4月26日]] - [[4月27日]]、[[カイバル・パクトゥンクワ州]]{{仮リンク|ペシャワール地区|en|Peshawar District}})。 * [[5月25日]] - {{仮リンク|コンヤック村での第149機動小銃連隊第4中隊の戦闘|Ru|Бой 4-й роты 149-го мотострелкового полка у кишлака Коньяк}}。 * [[7月13日]] - [[ホースト州|ホースト]]の戦い開始。戦いは48日間続いた。 * 9月 - 第1次{{仮リンク|ジャバラの戦い|ru|Битва за базу Джавара|en|Battles of Zhawar}}(9月 - 10月)。 * [[11月22日]] - {{仮リンク|アフリジュ村の戦い|Ru|Бой у кишлака Афридж}}。 1985年中、第8次、第9次[[パンジシール州|パンジシール]]作戦が行われたが、マスードを捕らえることに失敗。 ; [[1986年]] 1986年の戦死者: 1,333人 * 2月 - 第2次{{仮リンク|ジャバラの戦い|ru|Битва за базу Джавара|en|Battles of Zhawar}}([[2月28日]] - [[4月19日]])。 * [[5月4日]] - [[ムハンマド・ナジーブッラー]]が革命評議会議長に選出。 * 6月から7月 - {{仮リンク|ヤフサジ山への上陸|Ru|Десант на гору Яфсадж}}。 * [[6月16日]] - {{仮リンク|マヌーバ作戦|Ru|Операция «Манёвр»}}。 * [[8月18日]]から[[8月26日]] - {{仮リンク|トラップ作戦|Ru|Операция «Западня»}}。 ; [[1987年]] 1987年の戦死者: 1,215人 * 5月 - {{仮リンク|ジャリの戦い|en|Battle of Jaji}}([[5月20日]] - [[6月13日]])、{{仮リンク|アルガンダブの戦い|en|Battle of Arghandab (1987)}}([[5月22日]] - 6月下旬、[[カンダハール州]])。 * [[11月23日]] - ムジャーヒディーンの暫定政権が誕生する危険性があったホースト地区に対して、{{仮リンク|マギストラリ作戦|ru|Операция ≪Магистраль≫|en|Operation Magistral}}({{lang-ru-short|Магистраль}}、[[1986年]][[11月19日]] - [[1988年]][[1月10日]])開始。第108、[[第201軍事基地 (ロシア陸軍)|第201自動車化狙撃師団]]、第103空挺師団、第56独立空挺旅団、第345独立空挺連隊、アフガン軍5個歩兵師団、1個戦車旅団を投入。12月30日にホーストに進出。 ; [[1988年]] 1988年の戦死者: 759人 * [[1月7日]] - {{仮リンク|3234高地の戦い|ru|Бой у высоты 3234|en|Battle for Hill 3234}}。 * [[4月14日]] - アフガニスタン、パキスタン、ソ連、アメリカの4カ国が、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定([[:en:Geneva Accords (1988)|ジュネーヴ協定]])」に署名(5月15日発効)。ソ連軍の半数が1988年8月15日までに撤退し、それより9ヶ月以内に全部隊の撤退が完了することが決定される。撤退検証のため、[[国際連合平和維持活動]](後の[[国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション]])の設置が求められる。 * 10月 - [[ソ連軍のアフガニスタンからの撤退]]([[1988年]][[5月15日]] - [[1989年]][[2月15日]])。{{仮リンク|アロー作戦|en|Operation Arrow}}([[10月23日]] - [[11月7日]])。 * [[11月29日]] - [[ロヤ・ジルガ]]において、ナジーブッラーがアフガニスタン大統領に選出。 ; [[1989年]] 1989年の戦死者: 53人 * [[2月15日]] - 第40軍最後の部隊と軍司令官[[ボリス・グロモフ]]大将がアフガニスタンを撤退、ソ連軍の完全撤退完了。 == 影響 == ソビエト連邦軍はゲリラに対し決定的な勝利を得られないまま[[1989年]]に全面撤退したが、戦争の当事国双方に大きな影響が残された。 === ソビエト連邦 === * ソビエト連邦軍では1万5,000人が死亡し、7万5,000人が負傷して、多大な犠牲を被ったことから、ソ連の「[[ベトナム戦争]]」とも呼ばれた。 * アフガニスタンに駐留するソビエト兵の間で[[麻薬]]が蔓延した結果、帰国後も元兵士が日常生活への適応に苦しみ、社会問題に発展した。 * 2013年においても、紛争当時に[[軍隊]]から離脱した旧ソ連軍兵士がアフガニスタンで発見されている<ref>{{Cite web|和書|date= 2013.03.07|url= https://www.cnn.co.jp/fringe/35029183.html|title= アフガンで行方不明の旧ソ連兵士、33年ぶりに生存を確認|publisher= CNN|accessdate=2018-10-08}}</ref>。 === アフガニスタン === * 戦闘員(ムジャーヒディーンや政府関係者)はおよそ9万人が死亡、9万人が負傷した。ソ連と比較した場合、10倍以上の損害を負ったことになる。市民の死傷者を含めると、総人口の10%、男性人口の13.5%が死亡し、全体では150万人が死亡したと推定されている。これにより戦後は一時的に国民の半分が14歳以下(つまり大部分の大人が死亡した)になるほどであった<ref>{{Cite web|和書|url = https://web.archive.org/web/20170531053246/http://www.jsce.or.jp/strategy/files/afghanistan.pdf|title = アフガニスタン 国土復興ビジョン試案|website = www.jsce.or.jp|publisher = 土木学会|date = 2017-05-31|accessdate = 2019-12-30}}</ref>。 * 少なくとも400万人以上の[[難民]]が発生し、周辺諸国に逃れた<ref>{{Cite web|和書|url = https://mainichi.jp/articles/20191222/k00/00m/040/036000c|title = 旧ソ連軍侵攻から40年 避難強いられ、未来見えないアフガン難民 UNHCR局長が寄稿|website = mainichi.jp|publisher = 毎日新聞|date = 2019-12-22|accessdate = 2019-12-30}}</ref>。 * アフガニスタンは国の価値の約1/3から1/2にあたるおよそ500億ドルの損害を被った。 * 1万5千ある村落のうち、5千の村落は完全に破壊されるか、または農地や井戸や道路といった経済的な基盤をすべて破壊されることで経済的に立ち行かなくなった。 * 全国民の半数の14歳以上の者が死んだために、[[識字率]]は36.3%という低い数字にまでなり、このことは現在でもアフガニスタンの経済成長を阻害している。 * 農業生産量は50%にまで減少し、[[家畜]]の50%が失われた。 * 舗装された[[道路]]の70%は破壊された。 * ソ連軍はアフガニスタンに大量の[[自動小銃]]をはじめとした各種兵器を遺棄し、加えてソ連とアメリカの両国はそれぞれアフガニスタン政府軍とムジャーヒディーンに相当量の兵器を供与したため、以降の[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年) |アフガニスタン紛争(内戦、1989年-2001年)]]に使われて大きな被害をもたらした。 == 紛争の継続 == ソビエト連邦軍は撤退したが、その後も政府軍やムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、アフガニスタンの紛争はなおも継続した。 以降の経緯は[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]]を参照。 == 題材とした作品 == ;映画 *『[[007 リビング・デイライツ]]』(1987年、イギリス・米国) *『[[アフガン/ネクサス奪還作戦]]』(1988年、米国) *『[[レッド・アフガン]]』(1988年、米国) *『[[ランボー3/怒りのアフガン]]』(1988年、米国) *『[[アフガン・ボーダーを越えろ!]]』(1990年、フランス) *『[[レッド・ストーム/アフガン侵攻]]』(1991年、ソ連・イタリア) *『[[エスケープ・フロム・アフガン]]』(2002年、米国) *『[[アフガン (映画)|アフガン]]』(2005年、ロシア) *『[[チャーリー・ウィルソンズ・ウォー]]』(2007年、米国) *『[[君のためなら千回でも]]』(2007年、米国) *『[[アフガン・ハンター 極秘兵器・スティンガー発射]]』(2010年、ロシア) *『[[リービング・アフガニスタン]]』(2018年、ロシア) ;マンガ *『[[Cat Shit One|Cat Shit One'80]]』 *『[[BLACK LAGOON]]』 ;ゲーム *『[[メタルギアソリッドV|METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN]]』 *『[[コール オブ デューティ ブラックオプス2|Call of Duty: Black Ops II]]』 == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=金成浩 |url=https://hdl.handle.net/2115/40164 |title=ブレジネフ政治局と政治局小委員会 : 対アフガンと対ポーランド外交政策決定構造の比較 |journal=スラヴ研究 |publisher=北海道大学スラブ研究センター |year=1998 |issue=45 |pages=263-285 |naid=110000241199 |issn=05626579}} * {{Cite journal|和書 |author=小林三衛 |url=https://doi.org/10.11387/jsl1951.1982.117 |title=アフガニスタン革命と土地改革法 |journal=法社会学 |publisher=日本法社会学会 |year=1982 |volume=1982 |issue=34 |pages=117-121,282 |naid=130003570680 |doi=10.11387/jsl1951.1982.117 |issn=0437-6161}} * {{Cite journal|和書|author=斎藤吉史 |title=アフガニスタン危機の構図 (米ソ対決のディレンマ<特集>) |journal=世界 |issn=05824532 |publisher=岩波書店 |year=1980 |month=mar |issue=412 |pages=51-59 |naid=40002101498}} * 平井友義「ソ連戦略の誤算」、『世界』412号、1980年3月。 * {{Cite journal|和書|author=増田紘一 |title=アフガニスタンの歴史と闘いの伝統 |journal=前衛 |issn=13425013 |publisher=日本共産党中央委員会 |year=1980 |month=jun |issue=453 |pages=68-77 |naid=40002192287}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Soviet war in Afghanistan}} * [[1980年モスクワオリンピックのボイコット]] * [[アフガニスタン人民民主党]] * [[南下政策]] * [[イラン・イラク戦争]] * [[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]] * [[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]] * [[スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ]] * [[アフガニスタンの軍事]] {{authority control}} {{DEFAULTSORT:あふかにすたんふんそう1979-1989}} [[Category:20世紀の戦争]] [[Category:第一次アフガニスタン紛争|*1979-1989]] [[Category:ソビエト連邦の戦争]] [[Category:イスラム国家の戦争]] [[Category:アフガニスタンの政治|ふんそう1979-1989]] [[Category:20世紀以降のイスラム世界史]] [[Category:イギリスの戦争]] [[Category:アメリカ合衆国の戦争]] [[Category:イランの戦争]] [[Category:中華人民共和国の戦争]] [[Category:パキスタンの戦争]] [[Category:サウジアラビアの戦争]] [[Category:アフガニスタン・ソビエト連邦関係]] [[Category:ゲリラ]] [[Category:1979年のアフガニスタン|ふんそう1979-1989]] [[Category:1980年代のアフガニスタン|ふんそう1979-1989]] [[Category:レオニード・ブレジネフ]] [[Category:ミハイル・ゴルバチョフ]] [[Category:ユーリ・アンドロポフ]] [[Category:アフマド・シャー・マスード]] [[Category:ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]] [[Category:ウサーマ・ビン・ラーディン]]
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聖戦
聖戦(せいせん)とは、宗教的に神聖とみなされる、正義のための戦争を意味する語である。 戦争を宗教的な意義付けから正義の戦いと意味づける行為は、人類の歴史の草創から見られる現象である。多くの宗教では殺人を戒める教義が明記されている。そのため敵と戦って打ち勝つことを単なる世俗的な利害の勝利とは考えず、自分達の信じる神が、地上の悪と不正義を一掃する行為を代行しているのだと考えることによって、戦争に正当性を付与することを求めたのである。 地中海世界・ヘレニズム世界では、古代オリエントのシュメールの時代から、都市国家と都市国家の間の戦争は都市の究極的な所有者である守護神同士の間の戦争であると信じられてきた。 また、古代ギリシアの隣保同盟における聖域や神殿の利権をめぐって戦われた戦争も「聖戦」(神聖戦争)と呼ばれる。 ヘブライ人(ユダヤ人)が生み出したユダヤ教の聖典であるヘブライ語聖書(旧約聖書)においても、神(ヤハウェ)はヘブライ人の軍隊を守護する神であり、ヘブライ人が敵を打ち破り、悪を打ち滅ぼすことは神に定められた神聖な義務として意義付けられた(律法で「隣人を愛せよ、敵を憎め」と教えているかのような表現がマタイによる福音書第5章第43節にあるが、律法には必ずしもこの通りの表現は認められない。但し、エッセネ派にはこれと同じ表現があるという)。この思想が終末思想と結びついて神と悪魔との最終戦争(ハルマゲドン)の観念と、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」を生み出す。また、旧約聖書の預言者たちが伝えた異教徒を殲滅する戦いを鼓舞する神の言葉は、キリスト教の中に十字軍の思想を生み出し、キリスト教が世界中に広まる原動力となった。その後、ヨーロッパのキリスト教国際社会は正戦思想や国際法思想を生み出して、戦争観を次第に世俗化させていくが、十字軍思想の痕跡を現在のアメリカ合衆国の「正義の戦い」「対テロ戦争」の思想に見出す論者もいる。その一例として、北の十字軍の専門家・山内進などを挙げることが出来る。 旧約聖書における戦闘は概ね、神託を得て・出撃し・戦闘に入り・都市を攻略し・虐殺し・聖絶した後、聖絶物である戦利品の分配、と言う手順を踏んで行われる。 イスラム教のジハードの思想は、基本的にユダヤ教、キリスト教の聖戦観念と異なり、あくまでも自国に対する侵略戦争を仕掛けられた場合にのみ行われる。イスラムでは、自分たちの領土に侵略してくる敵に対して、武器を持たずに降伏しなさい、という立場をとらず、侵略してくる敵に対して自ら立ち上がって自国を守ることを奨励し、その自衛の戦争のことをジハード(聖戦)という。近年、一部のイスラム過激派がこの言葉を悪用し、自分たちの私利私欲のための戦争をジハードと呼んだり、テロ行為のことをジハードと呼ぶことがあるが、あくまでも本来の意味からは遠く離れた間違った使い方である。聖戦の思想が現在に至るまで存続し、近代に復興しつつある点に、世俗化した非イスラム世界の戦争観と際立った対照を示している。 近代日本では、日中戦争から聖戦という語が多用されはじめ、斎藤隆夫がこれを反軍演説で批判した際には聖戦貫徹議員連盟が結成されている。東アジアを列強から解放するという目的で太平洋戦争も行い、これを聖戦とした。日本基督教団は「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を発表、これに協力した。日本基督教団は敗戦後第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白を行ない、懺悔している。また、仏教界においても、多くの仏教者が大乗仏教の精神から戦争を聖戦として肯定した。その一例として、元宣教師で曹洞宗僧侶のブライアン・アンドルー・ヴィクトリアは、学僧・市川白弦の業績を踏まえながら、鈴木大拙を始め多くの禅僧の戦争肯定発言を紹介し批判している。 第二次世界大戦の独ソ戦中、ソビエト連邦では「聖なる戦い(Свящeнная война)」という軍歌が製作された。
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聖戦(せいせん)とは、宗教的に神聖とみなされる、正義のための戦争を意味する語である。
{{Otheruses|神聖な宗教戦争|イスラム教の教義|ジハード|ロシアの軍歌|聖なる戦い|映画|聖戦 (映画)}} '''聖戦'''(せいせん)とは、[[宗教]]的に神聖とみなされる、正義のための[[戦争]]を意味する語である。 == 概要 == 戦争を宗教的な意義付けから正義の戦いと意味づける行為は、人類の[[歴史]]の草創から見られる現象である。多くの宗教では[[殺人]]を戒める教義が明記されている。そのため敵と戦って打ち勝つことを単なる世俗的な利害の勝利とは考えず、自分達の信じる神が、地上の悪と不正義を一掃する行為を代行しているのだと考えることによって、戦争に正当性を付与することを求めたのである。 == 古代 == [[地中海]]世界・[[ヘレニズム]]世界では、[[古代オリエント]]の[[シュメール]]の時代から、都市国家と都市国家の間の戦争は都市の究極的な所有者である守護神同士の間の戦争であると信じられてきた。 また、[[古代ギリシア]]の[[隣保同盟]]における[[聖域]]や[[神殿]]の利権をめぐって戦われた戦争も「聖戦」([[神聖戦争]])と呼ばれる。 == ユダヤ・キリスト教における聖戦 == {{出典の明記|section=1|date=2011年2月}} [[ヘブライ人]]([[ユダヤ人]])が生み出した[[ユダヤ教]]の聖典である[[ヘブライ語聖書]]([[旧約聖書]])においても、神([[ヤハウェ]])はヘブライ人の軍隊を守護する神であり、ヘブライ人が敵を打ち破り、悪を打ち滅ぼすことは神に定められた神聖な義務として意義付けられた(律法で「隣人を愛せよ、敵を憎め」と教えているかのような表現が[[マタイによる福音書]]第5章第43節にあるが、律法には必ずしもこの通りの表現は認められない。但し、エッセネ派にはこれと同じ表現があるという<ref>青野太潮『どうよむか、聖書』朝日選書、朝日新聞社、1994年</ref>)。{{要出典範囲|この思想が[[終末思想]]と結びついて神と[[悪魔]]との最終戦争(ハルマゲドン)の観念と、『[[新約聖書]]』の「[[ヨハネの黙示録]]」を生み出す。|date=2011年2月}}{{要出典範囲|また、旧約聖書の[[預言者]]たちが伝えた異教徒を殲滅する戦いを鼓舞する神の言葉は、[[キリスト教]]の中に[[十字軍]]の思想を生み出し、キリスト教が世界中に広まる原動力となった。|date=2011年2月}}その後、[[ヨーロッパ]]のキリスト教国際社会は正戦思想や[[国際法]]思想を生み出して、戦争観を次第に世俗化させていくが、十字軍思想の痕跡を現在の[[アメリカ合衆国]]の「正義の戦い」「[[対テロ戦争]]」の思想に見出す論者もいる。その一例として、北の十字軍の専門家・山内進などを挙げることが出来る<ref>山内進『十字軍の思想』ちくま新書、2003年</ref>。 旧約聖書における戦闘は概ね、[[神託]]を得て・出撃し・戦闘に入り・都市を攻略し・虐殺<ref>但し[[岩波委員会訳聖書]]の『ヨシュア記、士師記』239頁によれば、「捕虜のような物」にしたのであって物理的に殺した訳ではないらしい。</ref>し・[[聖絶]]<ref>『岩波委員会訳聖書』によれば、「神無きもの」になった捕虜を、ヤハウェの信徒として迎え入れる行為である。</ref>した後、聖絶物である戦利品の分配、と言う手順を踏んで行われる。 == イスラム教における聖戦 == [[イスラム教]]の[[ジハード]]の思想は、基本的にユダヤ教、キリスト教の聖戦観念と異なり、あくまでも自国に対する侵略戦争を仕掛けられた場合にのみ行われる。イスラムでは、自分たちの領土に侵略してくる敵に対して、武器を持たずに降伏しなさい、という立場をとらず、侵略してくる敵に対して自ら立ち上がって自国を守ることを奨励し、その自衛の戦争のことをジハード(聖戦)という。近年、一部の[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]がこの言葉を悪用し、自分たちの私利私欲のための戦争をジハードと呼んだり、テロ行為のことをジハードと呼ぶことがあるが、あくまでも本来の意味からは遠く離れた間違った使い方である。聖戦の思想が現在に至るまで存続し、[[近代]]に復興しつつある点に、世俗化した非イスラム世界の戦争観と際立った対照を示している。 == 日本における聖戦 == 近代日本では、[[日中戦争]]から聖戦という語が多用されはじめ、[[斎藤隆夫]]がこれを[[反軍演説]]で批判した際には[[聖戦貫徹議員連盟]]が結成されている。東アジアを[[列強]]から解放するという目的で[[太平洋戦争]]も行い、これを聖戦とした。[[日本基督教団]]は「[[日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰]]」を発表、これに協力した。日本基督教団は敗戦後[[第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白]]を行ない、懺悔している。また、仏教界においても、多くの仏教者が大乗仏教の精神から戦争を聖戦として肯定した。その一例として、元宣教師で[[曹洞宗]]僧侶のブライアン・アンドルー・ヴィクトリアは、学僧・[[市川白弦]]の業績を踏まえながら、[[鈴木大拙]]を始め多くの[[禅僧]]の戦争肯定発言を紹介し批判している<ref>ヴィクトリア著、エイミー・ルイーズ・ツジモト訳『禅と戦争―禅仏教は戦争に協力したか―』光人社、2001年</ref>。 == ソ連における聖戦 == [[第二次世界大戦]]の[[独ソ戦]]中、[[ソビエト連邦]]では「[[聖なる戦い]]({{lang|ru|Свящeнная война}})」という[[軍歌]]が製作された。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *[[山内進]]『十字軍の思想』ちくま新書、2003年。(ISBN 4-4800-6122-3) *[[菱木政晴]]「国家神道の宗教学的考察―顕彰と謝罪―」「西山学報」42号、1994年3月。 ==関連項目== *[[宗教戦争]] *[[十字軍]] *[[正戦論]] *[[プロパガンダ]] {{DEFAULTSORT:せいせん}} [[Category:宗教問題]] [[Category:戦争]] [[Category:靖国神社問題]] [[Category:カトリック]]
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ジュビロ磐田
ジュビロ磐田(ジュビロいわた、英: Júbilo Iwata)は、日本の静岡県磐田市、御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、森町、浜松市、湖西市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 1972年創部のヤマハ発動機サッカー部が前身。1993年にJリーグ準会員、1994年にJリーグ正会員となる。 運営会社は株式会社ジュビロ、ヤマハ発動機等が出資している。 チーム名の「ジュビロ」はポルトガル語のjúbilo [ʒuːbilu](ジュビル)およびスペイン語のjúbilo [ˈxuβilo](フビロ)で「歓喜」を意味する ホームスタジアムはヤマハスタジアム(磐田)、練習場はヤマハ大久保グラウンドである(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。 ホームタウンは長らく磐田市のみであったが、2023年5月16日に御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、森町、浜松市、湖西市を追加し、静岡県西部地域7市1町に広域化した。 1972年に創部したヤマハ発動機サッカー部が前身となり、1992年にJリーグ準会員として承認された。1993年にジャパンフットボールリーグ1部で準優勝し、翌年からのJリーグ参加が承認された。同年にはオランダ代表のファネンブルグを獲得した。 1994年、元日本代表監督のハンス・オフトが監督に就任。勝矢寿延をマリノスから獲得、更にJリーグ開幕を前にアリ・ダエイと契約するもイランからの出国許可が下りず、移籍は破談となった。4月14日に元イタリア代表のサルヴァトーレ・スキラッチを獲得。夏には現役ブラジル代表でキャプテンを務めたドゥンガを補強した。同年、藤田俊哉・服部年宏・田中誠・奥大介が入団。1995年には名波浩・福西崇史が加入。 クラブスローガン:「Jubiro PRIDE 覚悟」 クラブスローガン「UNITE FOR W1N 集結せよ勝利のために」 クラブスローガン「Go Beyond 突き進め!!」 クラブスローガン「夢と感動を 共に」 2024年 詳細は「2024年のジュビロ磐田」を参照。 ※2022シーズンまで。他チームでの出場も含む。 ホームスタジアムはヤマハスタジアム(磐田)である。また、静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパ)でも不定期にホームゲームを開催している。 ホームゲーム開催数はジュビロ磐田の年度別成績一覧#会場別主催ゲーム開催数を参照。 過去に浜北市(現:静岡県浜松市)で計画された複合スタジアムについては浜北市#複合スタジアム構想を参照。 静岡県鳥のサンコウチョウのシルエットと、ホームタウンの磐田市を流れる天竜川と静岡県内の大河、大井川、安倍川、富士川を象徴する上下の青い帯が描かれている モチーフは静岡県の県鳥、サンコウチョウ。 シーズンシート名は「コルテアズー(Corte Azul)」。ポルトガル語で「水色の宮廷」の意味。 磐田市の地域社会への貢献の一環として、ジュビロでは選手の磐田市内全23小学校への訪問事業を展開、毎年5月を基本として「磐田市民デー」を開催。バックスタンドのフリーゾーン(ホーム側一部除く)を貸切にし、磐田市内全23小学校の小学生児童5-6年生(約3000名程度)とその保護者を招き「磐田市小学生一斉観戦授業」を行っている。 ジュビロの試合観戦し、チームへの愛着、磐田市をふるさととして誇りに思い、将来にわたって磐田市への愛着を持続させることを目的として2011年より始めている。該当試合はフリーゾーンホーム席の一部も招待客専用となる。 またこの「一斉観戦授業」とは別で、事前の申し込み制であるが、磐田市を含む周辺市町村の小学生・中学生・高校生を対象とした観戦招待も行われている 2015年より磐田に在籍する外国人選手をフィーチャーしたイベント「○○の日」(○○の部分には選手名やその選手の愛称が入る)が開催されている。そのイベントが開催される試合ではその選手に因んだ応援グッズが配布される。 開催は全てヤマハスタジアム。 2016年から夏に「真夏の○○」と題したホームイベントを行っている。イベント開催中は、限定ユニフォームを着用し、来場者プレゼントが用意される。 限定ユニフォームは、ジュビロのクラブカラーとは異なるカラーになり、2016年は赤(通常ユニフォームのGK用をフィールドプレイヤーが着用)、2017年は黒となっている。 2018年は、2016年から行われていた「真夏の〇〇」から名称を変更し、Summer Night Challenge としてホームゲームイベントを開催。2018年の限定ユニフォームは黒色。なお、GKユニフォームの販売はない。 1994年に発売されたDR(デ・レーテ)が歌っている「ジュビロ・オレ!」がジュビロ磐田のオフィシャルテーマソングとなっている。 2013年8月3日に榛葉樹人が歌うクラブアンセム「フォッツァ ジュビロ! 〜歓喜への讃歌〜」が発表された。 オフィシャルテーマソングの他にシーズンソングがあり、スタジアムやジュビロTV内などで流れる。 2011年、クラブの企画・制作・撮影によるオリジナル番組「ジュビロTV」を開始。スタジアムのビジョンで上映される「ジュビロTV~stadium channel~」、SBSテレビ(静岡放送)で放送される「ジュビロTV~SBS channel~」、スカパー!で放送される「ジュビロTV PLUS」の3種類がある。2012年春からは、スマートフォンで視聴できる「ジュビロTVモバイル」がスタートした。 2022年9月29日、ファビアン・ゴンザレスの加入を巡り、前所属クラブ退団後、磐田との契約締結前にタイのクラブと取り交わした契約が存在したことに関して、国際サッカー連盟の紛争解決室より、FIFA規則に違反するとして補強禁止(ユース含む)の処罰を受けた。ただ、10月19日にこの判決を不服としスポーツ仲裁裁判所に上訴した。 また、2023年4月28日に国際サッカー連盟より、「クラブに対する登録禁止処分」移籍・登録禁止の制裁に関する範囲の明確化を目的としたサーキュラーno.1843が発行された。 ユースチームに関する記載があり、移籍・登録禁止の制裁に関する解釈が変更されたことによって、15歳までの選手については、日本サッカー協会(JFA)に登録が必要となる大会・活動への参加が認められることが明記された。 ジュビロ磐田の決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016 金額の単位: 百万円
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ジュビロ磐田は、日本の静岡県磐田市、御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、森町、浜松市、湖西市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
{{サッカークラブ | font-color = #FFFFFF | background-color = #6C8CBD | 原語表記 = ジュビロ磐田 | 呼称 = ジュビロ磐田 | 愛称 = | カラー = {{color box|#6C8CBD}} サックスブルー<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/club/iwata/#profile|title=プロフィール|publisher=[[日本プロサッカーリーグ]]|accessdate=2023-10-23}}</ref> | 創設 = 1972 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス = J1 | ホームタウン = [[静岡県]][[磐田市]]、[[御前崎市]]、[[菊川市]]、[[掛川市]]、[[袋井市]]、[[森町 (静岡県)|森町]]、[[浜松市]]、[[湖西市]]<ref name="jleague" /> | スタジアム = [[ファイル:Yamahastafium05161.JPG|center|220px]][[ヤマハスタジアム|ヤマハスタジアム(磐田)]]<ref name="jleague" /> | キャパ = 15,165<ref name="jleague" /> | 法人名 = 株式会社ジュビロ<ref name="jleague" /> | 代表 = {{Flagicon|JPN}} 浜浦幸光 | 監督 ={{Flagicon|JPN}} [[横内昭展]] | HP = https://www.jubilo-iwata.co.jp/ | pattern_la1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | leftarm1 = FFFFFF | body1 = FFFFFF | rightarm1 = FFFFFF | shorts1 = FFFFFF | socks1 = 3F9FFF | pattern_la2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | leftarm2 = FFFFFF | body2 = FFFFFF | rightarm2 = FFFFFF | shorts2 = FFFFFF | socks2 = FFFFFF }} {{基礎情報 会社 | 社名=株式会社ジュビロ<ref name="jleague" /> | 英文社名=JUBILO CO.,LTD | ロゴ = | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = 非上場 | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 438-0025 | 本社所在地 = [[静岡県]][[磐田市]]新貝2500<ref name="profile"/> | 設立 = [[1992年]][[8月21日]]<ref name="profile"/> | 業種 = 9050 | 事業内容 = サッカークラブの運営その他 | 代表者 = 浜浦幸光 | 資本金 = 6億7,900万円<ref name="profile"/> | 発行済株式総数 = | 売上高 = 32億2545万1000円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/60e2f/297696 株式会社ジュビロ 第31期決算公告]</ref> | 営業利益 = 3億2640万5000円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> | 経常利益 = 3億4296万1000円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> | 純利益 = 2億8956万4000円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> | 純資産 = 2億6799万1000円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> | 総資産 = 13億5779万5000円<br>(2023年01月31日時点)<ref name="fy" /> | 決算期= 3月期 | 主要株主= [[ヤマハ発動機]]<ref name="profile"/><br>[[浜松ホトニクス]]<ref name="profile"/><br>[[静岡銀行]]<ref name="profile"/><br>[[ヤマハ]]<ref name="profile"/><br>[[静岡新聞]]<ref name="profile"/><br>[[静岡放送]]<ref name="profile"/> 他 | 外部リンク= {{Official website}} | 特記事項= 2014年7月1日、株式会社ヤマハフットボールクラブより商号変更<ref name="jubilo20140625"/> }} {{色}} '''ジュビロ磐田'''(ジュビロいわた、{{Lang-en-short|Júbilo Iwata}})は、[[日本]]の[[静岡県]][[磐田市]]、[[御前崎市]]、[[菊川市]]、[[掛川市]]、[[袋井市]]、[[森町 (静岡県)|森町]]、[[浜松市]]、[[湖西市]]をホームタウンとする、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 == 概要 == [[1972年]]創部の'''[[ヤマハ発動機サッカー部]]'''が前身<ref name="jleague" />。1993年に[[Jリーグ準会員制度|Jリーグ準会員]]<ref name="jleague" />、[[1994年]]にJリーグ正会員となる<ref name="jleague" />。 運営会社は'''株式会社ジュビロ'''<ref name="jleague" />、[[ヤマハ発動機]]等が出資している<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://www.jubilo-iwata.co.jp/club/company.php|title=クラブ概要|work=ジュビロ磐田|accessdate=2017-9-17}}</ref>。 チーム名の「ジュビロ」は[[ポルトガル語]]のjúbilo [ʒuːbilu](ジュビル)および[[スペイン語]]のjúbilo [ˈxuβilo](フビロ)で「'''歓喜'''」を意味する<ref name="jleague" /> ホームスタジアムは[[ヤマハスタジアム|ヤマハスタジアム(磐田)]]<ref name="jleague" />、練習場は[[ヤマハ大久保グラウンド]]である<ref name="jleague" />(詳細は[[#スタジアム・練習場]]を参照)。 ホームタウンは長らく磐田市のみであったが、[[2023年]][[5月16日]]に[[御前崎市]]、[[菊川市]]、[[掛川市]]、[[袋井市]]、[[森町 (静岡県)|森町]]、[[浜松市]]、[[湖西市]]を追加し、静岡県西部地域7市1町に広域化した<ref name="jleague_25163">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/news/article/25163/|title=ジュビロ磐田 ホームタウン追加について|work=Jリーグ.jp|accessdate=2023-05-16|date=2023-05-16}}</ref><ref name="official_8962">{{Cite web|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8962|title=静岡県西部地域7市町ホームタウン追加のお知らせ|work=ジュビロ磐田|accessdate=2023-05-16|date=2023-05-16}}</ref>。 == 歴史 == === 1990年代 === {{main|ヤマハ発動機サッカー部}} [[ファイル:2014 FIFA Announcement 2 (Before).jpg|thumb|250px|[[ドゥンガ]]]] 1972年に創部した[[ヤマハ発動機サッカー部]]が前身となり、1992年に[[Jリーグ準会員制度|Jリーグ準会員]]として承認された。1993年に[[ジャパンフットボールリーグ]]1部で準優勝し、翌年からのJリーグ参加が承認された。同年には[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]の[[ジェラルド・ファネンブルグ|ファネンブルグ]]を獲得した。 1994年、元[[サッカー日本代表|日本代表]]監督の[[ハンス・オフト]]が監督に就任。[[勝矢寿延]]をマリノスから獲得、更にJリーグ開幕を前に[[アリ・ダエイ]]と契約するもイランからの出国許可が下りず<ref> [[週刊サッカーマガジン]] 1994年5月11日/18日号 no454 p。24-25</ref>、移籍は破談となった。4月14日に[[サッカーイタリア代表|元イタリア代表]]の[[サルヴァトーレ・スキラッチ]]を獲得。夏には[[サッカーブラジル代表|現役ブラジル代表]]でキャプテンを務めた[[ドゥンガ]]を補強した。同年、[[藤田俊哉]]・[[服部年宏]]・[[田中誠 (サッカー選手)|田中誠]]・[[奥大介]]が入団。1995年には[[名波浩]]・[[福西崇史]]が加入。 ; [[1997年のJリーグ|1997年]] * 2ndステージで初優勝。 * チャンピオンシップ、1stステージ優勝の[[鹿島アントラーズ|鹿島]]を破り、初の年間王者を獲得。 * [[ドゥンガ]]がMVPを獲得。 * ドゥンガ、[[大神友明]]、[[名波浩]]、[[中山雅史]]が[[2002年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]に選出。 ; [[1998年のJリーグ|1998年]] * 1stステージで優勝。2ndステージは2位、[[Jリーグチャンピオンシップ]]は、鹿島に敗戦。ナビスコ杯で優勝。 * 中山雅史が27試合出場36得点(現在リーグ戦最多得点記録)を記録。MVP、得点王などタイトルを獲得。 * 1stステージ第6節[[セレッソ大阪]]戦は1-9とジュビロ磐田が圧勝、中でも中山雅史は5得点を挙げるなど活躍した。この記録は、2019年の[[柏レイソル|柏]]の[[マイケル・オルンガ]]に抜かれるまでは、最多だった。 * ワールドカップに中山雅史、名波浩、服部年宏、ブラジル代表キャプテンとして[[ドゥンガ]]が出場。 * 中山雅史、名波浩、ドゥンガ、奥大介が[[ベストイレブン]]に選出。 * シーズン終了後、ドゥンガが退団。 * シーズン107得点と得失点差+68は現在J1歴代最多記録。 * 90分以内での勝利26勝は2回戦総当たりになった1996年以降で、2020年の[[川崎フロンターレ|川崎]]と並んでJ1最多タイ記録。 ; [[1999年のJリーグ|1999年]] * 1stステージで優勝したが、2ndステージは12位と絶不調に。しかし、2ndステージ優勝の[[清水エスパルス|清水]]との静岡ダービーを破り2度目の王者に。 * 1stステージ終了後、名波浩が[[セリエA (サッカー)|イタリア]]・[[ヴェネツィアFC|ACヴェネツィア]]へ移籍。 * [[福西崇史]]がベストイレブンに選出。 * [[AFCチャンピオンズリーグ|アジアクラブ選手権]](現ACL)で初優勝。 === 2000年代 === ==== 2000年 - 2005年 ==== ; [[2000年のJリーグ|2000年]] * [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]で初優勝。 * 9月、[[名波浩]]が復帰。 * 年間順位4位。年間勝点数は[[柏レイソル|柏]]に次ぐ2位。 * 中山雅史が2度目の得点王獲得(29試合20得点)、ベストイレブンに選出。 ; [[2001年のJリーグ|2001年]] [[画像:Nabisco Final 2001-Iwata.JPG|thumb|right|300px|2001年ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー]] * 1stステージ優勝、2ndステージ2位、チャンピオンシップは[[鹿島アントラーズ|鹿島]]に敗戦。 * ナビスコ杯準優勝、天皇杯ベスト8。 * 藤田俊哉がMVPを獲得。 * [[アルノ・ヴァン・ズワム|ヴァンズワム]]、[[大岩剛]]、[[藤田俊哉]]、[[福西崇史]]、[[服部年宏]]がベストイレブンに選出。 * 1999年のアジアスーパーカップ優勝、7-8月に[[スペイン]]で開催される[[FIFAクラブ世界選手権2001]]への出場が決まっていたが、運営面の問題で開催不能となる<ref group="注釈">同大会のグループリーグで、[[レアル・マドリード]](スペイン)と初戦で対戦、[[ロサンゼルス・ギャラクシー]]や[[アクラ・ハーツ・オブ・オーク]]との対戦が予定されていた。</ref>。「世界と戦う」ために名波を中心とした[[N-BOX]]を採用。 ; [[2002年のJリーグ|2002年]] * リーグ戦は、前後期共優勝。 * 年間成績26勝3敗1分(リーグ戦1分1敗、天皇杯1敗)。 * [[高原直泰]]が得点王(27試合26得点)とMVPを獲得。シーズン終了後、高原は[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ1部]]・[[ハンブルガーSV]]移籍。 * ワールドカップに服部年宏、福西崇史、中山雅史が出場。 * [[2002年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]、同一クラブから史上最多タイ7人(田中、鈴木、名波、福西、藤田、中山、高原)選出。 * [[AFCチャンピオンズリーグ|アジアクラブ選手権]]は3年連続決勝に進出。 ; [[2003年のJリーグ|2003年]] [[画像:Jubilo-Iwata Vs Yokohama-F.Marinos 2003.JPG|thumb|right|300px|2003年開幕戦。発煙筒の演出があった。]] * 昨年までヘッドコーチだった[[柳下正明]]が監督に就任。 * [[成岡翔]]、[[大井健太郎]]、[[菊地直哉]]らが加入。 * 8月、藤田俊哉が[[エールディヴィジ|オランダ1部]]・[[FCユトレヒト]]へ期限付き移籍。 * 1stステージは2位。 * 2ndステージでは、最終節の横浜FM戦を敗戦し優勝を逃す(ステージ順位は2位)。 * ゼロックス杯、天皇杯で優勝。 * 福西崇史がベストイレブンに選出。 ; [[2004年のJリーグ|2004年]] * [[桑原隆]]が監督に復帰。1stステージ2位だったが、2ndステージは、一時最下位になるなど成績が低迷、何とか持ちこたえて13位で終わったが、年間順位は5位となり、黄金時代は終わりを迎えた。 * ゼロックス杯で優勝。 ; [[2005年のJリーグ|2005年]] * 監督に[[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]][[U-23サッカー日本代表|U-23日本代表]]監督だった[[山本昌邦]]が就任。[[ジェフユナイテッド市原・千葉|市原]]から[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[村井慎二]]、[[茶野隆行]]、[[デンマーク・スーペルリーガ|デンマーク1部]]・[[FCノアシェラン]]から[[川口能活]]、[[京都サンガF.C.|京都]]から元[[サッカー韓国代表|韓国代表]][[崔龍洙]]ら大型補強を敢行する。 * 6月、藤田俊哉が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]へ移籍。 * シーズン年間は6位。 * [[カレン・ロバート]]が新人王を獲得。 ==== 2006年 - 2009年 ==== ; [[2006年のJリーグ|2006年]] * ナビスコ杯は準々決勝敗退、直後に[[山本昌邦]]監督が辞任する。 * 後任に磐田OB[[アジウソン・ディアス・バティスタ|アジウソン]]監督に就任。 * リーグ戦は5位。 * 川口能活が4年ぶりベストイレブンを受賞。 * ワールドカップに[[川口能活]]、[[福西崇史]]が出場。 ; [[2007年のJリーグ|2007年]] :クラブスローガン :「'''VAMOS CONTIGO'''」 * 2月、福西崇史が[[FC東京]]、[[服部年宏]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ移籍、[[名波浩]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]へ期限付き移籍。 * 6月、[[菊地直哉]]が県条例違反(淫行)容疑で逮捕。[[起訴猶予処分]]となった6月29日にクラブは菊地と契約解除した。 * 9月、成績不振を理由に[[アジウソン・ディアス・バティスタ|アジウソン]]を監督から解任。後任にトップチームコーチ兼サテライトチーム監督の[[内山篤]]が就任。 * [[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]元監督の[[柳下正明]]がヘッドコーチに就任。 * 年間成績は9位。 ; [[2008年のJリーグ|2008年]] :クラブスローガン :「'''Hungrrrrry!'''」 * [[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[駒野友一]]、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[萬代宏樹]]を完全移籍で獲得する。 * 期限付き移籍の[[河村崇大]]、名波浩が復帰。 * 3月、右近弘が社長を退任。4月、前[[ヤマハモーターパワープロダクツ]]社長の馬淵喜勇が社長に就任。 * シーズン途中、元[[U-20サッカーブラジル代表|U-20ブラジル代表]]の[[ロドリゴ・ラセルダ・ラモス|ロドリゴ]]を[[RCストラスブール]]から獲得。 * 8月28日に内山を監督から解任して、9月1日に[[ハンス・オフト]]が監督に就任。 * J1最終節[[大宮アルディージャ|大宮]]に敗れ、得失点差で17位の東京Vを上回りながら最終順位は16位。 ** J2・3位の[[ベガルタ仙台|仙台]]との[[J1・J2入れ替え戦]]を1勝1分とし、残留。 {{See also|2008年J1最終節}} * 入れ替え戦終了後、オフトが監督を退任。名波浩が現役引退。 * 馬淵が成績不振と大幅減収の責任で社長を退任、後任にヤマハモーター台湾社長の[[吉野博行]]が就任。 ; [[2009年のJリーグ|2009年]] :クラブスローガン :「'''SPEEDY ACTION 2009'''」 * 磐田元監督の[[柳下正明]]が監督に復帰した。 * [[河村崇大]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]、[[森下俊]]が[[京都サンガF.C.|京都]]、[[田中誠]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ完全移籍。[[松井謙弥]]が京都へ期限付き移籍。一方で[[那須大亮]]を東京Vから獲得、ユースから2人昇格。 * 3月7日の開幕戦で[[モンテディオ山形|山形]]に2-6、史上ワースト失点で敗戦したが、その後立て直す。 * 4月、強化部長代理に服部健二が就任。 * [[サッカー韓国代表|韓国代表]]の[[李根鎬|イ・グノ]]を獲得。 * 7月、[[押谷祐樹]]が[[FC岐阜|岐阜]]へ期限付き移籍。 * シーズン成績は11位。 * [[前田遼一]]が高原以来7年ぶり日本人得点王を受賞(34試合20得点)、自身初ベストイレブンを受賞。 * しかし、失点数が60とリーグ最多になった。 === 2010年代 === ==== 2010年 - 2013年 ==== ; [[2010年のJリーグ|2010年]] :クラブスローガン :「'''EVOLUTION 2010'''」 [[画像:Nabisco Final 2010-Iwata.JPG|thumb|right|340px|2010年ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー]] * 長年磐田を支えた[[中山雅史]]が[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]へ移籍し、[[鈴木秀人]]が現役を引退。 * [[茶野隆行]]、[[村井慎二]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]、[[萬代宏樹]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]、[[京都サンガF.C.|京都]]へ期限付き移籍していた[[松井謙弥]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]へ完全移籍。 * [[朴柱昊|パク・チュホ]]を[[鹿島アントラーズ|鹿島]]から、[[李康珍|イ・ガンジン]]を[[釜山アイパーク]]から、[[荒田智之]]を[[水戸ホーリーホック|水戸]]から完全移籍で獲得。 * [[2010 FIFAワールドカップ日本代表]]に[[川口能活]]、[[駒野友一]]が選出、駒野は全4試合フル出場。 * シーズン途中、[[李根鎬|イ・グノ]]が[[ガンバ大阪|G大阪]]、[[カレン・ロバート]]が[[ロアッソ熊本|熊本]]へ完全移籍。 * [[菅沼実]]と[[古賀正紘]]を[[柏レイソル|柏]]から期限付き移籍で獲得。 * [[2010年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]、決勝で[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]を破り、7年振りにタイトルを獲得した(ナビスコカップは12年ぶり)。MVPには、2ゴール1アシストを記録した[[前田遼一]]が選出された。 * 第17節終了時点で15位の成績。後半戦に入り第22節~29節まで無敗、第32節、3連覇中の鹿島をアウェーで8年ぶりに破るなど7勝4敗6分の成績を残し、最終順位は11位。 * シーズン17得点の前田遼一が2000年の中山雅史以来通算2度目、2年連続Jリーグ得点王、ベストイレブンに選出される。 ; [[2011年のJリーグ|2011年]] :クラブスローガン :「'''ROAD TO CHAMPION 2011'''」 * [[成岡翔]]が[[アビスパ福岡|福岡]]、[[上田康太]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[犬塚友輔]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]へ完全移籍。 * [[松浦拓弥]]が福岡、[[大井健太郎]]が湘南へ期限付き移籍。[[大畑拓也 (サッカー選手)|大畑拓也]]が[[順天堂大学蹴球部|順天堂大学]]へ進学。 * [[藤田義明]]を[[大分トリニータ|大分]]から完全移籍で、[[植村慶]]を[[湘南ベルマーレ|湘南]]から期限付き移籍で獲得。 * [[小林裕紀]]と[[山田大記]]が[[明治大学体育会サッカー部|明治大学]]から、[[金園英学]]が[[関西大学体育会サッカー部|関西大学]]から加入。 * シーズン途中、開幕からスタメンに定着していた[[朴柱昊|パク・チュホ]]が[[スーパーリーグ (スイス)|スイス1部]]・[[FCバーゼル]]へ完全移籍。 * 7月、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[サンパウロFC]]から[[ロドリゴ・リベイロ・ソウト|ロドリゴ・ソウト]]を完全移籍で獲得。 * 8月、[[スルガ銀行チャンピオンシップ2011]]で[[アルゼンチン]]の[[CAインデペンディエンテ]]に勝利。国際大会優勝は12年ぶり。 * 開幕戦6年ぶりに勝利。その後も勝ち点を積み上げていた。 * 年間成績は8位。 * ナビスコカップはベスト8、天皇杯は3回戦で敗退。 * シーズン終了後、柳下が監督を退任。 * ゼネラルマネージャー制を導入して服部健二が就任。 ; [[2012年のJリーグ|2012年]] :クラブスローガン :「'''原点開起 ROAD TO CHAMPION 2012'''」 * 前年はコーチであった[[森下仁志]]が監督に就任。 * [[ジウソン・ド・アマラウ|ジウシーニョ]]がブラジル1部・[[SCコリンチャンス・パウリスタ]]、[[本田慎之介]]が[[タイ・リーグ1|タイ1部]]・[[ブリーラム・ユナイテッドFC]]、[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[李康珍|イ・ガンジン]]が[[全北現代モータース]]、[[船谷圭祐]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]、[[加賀健一]]が[[FC東京]]、[[那須大亮]]が[[柏レイソル|柏]]、古賀正紘が[[アビスパ福岡|福岡]]、[[西紀寛]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]、前年湘南に期限付き移籍をしていた大井健太郎が[[アルビレックス新潟|新潟]]へそれぞれ完全移籍。[[岡田隆]]、荒田智之が福岡、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ期限付移籍。 * 新加入選手は、[[千代反田充]]を[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から、[[阿部吉朗]]を[[湘南ベルマーレ|湘南]]から、[[松岡亮輔]]を[[ヴィッセル神戸|神戸]]から、[[曺秉局|チョ・ビョングク]]を[[ベガルタ仙台|仙台]]からそれぞれ完全移籍で獲得、[[宮崎智彦]]を鹿島から、[[菅沼駿哉]]をG大阪から期限付き移籍で獲得。押谷祐樹、松浦拓弥がレンタル先の岐阜、福岡から復帰。 * 新人の[[白星東|ペク・ソンドン]]が韓国の[[延世大学校]]から、[[櫻内渚]]が関西大学から、[[木下高彰]]が[[浜松開誠館中学校・高等学校|浜松開誠館高校]]から加入。 * 7月、元[[サッカー韓国代表|韓国代表]][[韓相云|ハン・サンウン]]を[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[城南FC|城南一和天馬]]から完全移籍、[[小林祐希]]を東京Vから期限付き移籍で獲得。 * 途中まではACL争いの中に入っていたが、第26節から失速して12位。ナビスコカップはグループリーグ敗退。 * 天皇杯は4回戦敗退。 ; [[2013年のJリーグ|2013年]] :クラブスローガン :「'''原点開起 ROAD TO CHAMPION 2013'''」 * [[黄誠秀]]が[[ザスパクサツ群馬|群馬]]、千代反田充が[[徳島ヴォルティス|徳島]]、荒田智之が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]、[[韓相云|ハン・サンウン]]が韓国1部・[[蔚山現代FC]]、[[ロドリゴ・リベイロ・ソウト|ロドリゴ・ソウト]]がブラジル1部・[[クルーベ・ナウチコ・カピバリベ]]へ完全移籍。竹重安希彦が新潟、押谷祐樹が岡山へそれぞれ期限付き移籍、岡田隆の移籍期限が延長された。 * 前年度、期限付き移籍で加入していた植村慶、菅沼駿哉、宮崎智彦、小林祐希を完全移籍で獲得した。神戸から現役[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[伊野波雅彦]]とシーズン途中にフィテッセから日本代表[[安田理大]]を完全移籍で獲得、京都から[[鄭又榮|チョン・ウヨン]]が期限付き移籍で加入。 * 磐田U-18所属で2種登録されていた[[牲川歩見]]、関西大学から[[田中裕人]]が加入。 * リーグ戦は、開幕7戦を2分5敗、第7節時点で最下位。第8節[[湘南ベルマーレ|湘南]]戦でリーグ戦初勝利を挙げるが、第9節[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に敗戦、5月4日に森下が監督を解任された。 * ヘッドコーチ[[長澤徹]]が監督代行を務め、5月19日より[[U-23サッカー日本代表]]元監督[[関塚隆]]が監督に就任(長澤はヘッドコーチに復帰)。 * しかし第31節で鳥栖に敗れ、クラブ史上初の[[J2リーグ|J2]]へ降格が決定した。 * 天皇杯3回戦敗退。 * シーズン終了後、監督の関塚、GMの服部健二、ヘッドコーチの長澤が退任。 ==== 2014年 - 2015年(J2)==== ;[[2014年のJリーグ|2014年]] :クラブスローガン :「'''勝!!!'''」 * 元[[京都サンガF.C.|京都]]監督の[[加藤久]]がゼネラルマネージャー、OBである[[服部年宏]]が強化部長にそれぞれ就任し、元[[大分トリニータ|大分]]監督の[[ペリクレス・シャムスカ]]を監督に招聘した。 * [[山本脩斗]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[小林裕紀]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]、[[安田理大]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ移籍。 * [[松岡亮輔]]が[[モンテディオ山形|山形]]、[[金沢浄]]が[[ザスパクサツ群馬|群馬]]、[[川口能活]]が[[FC岐阜|岐阜]]、[[植村慶]]が[[福島ユナイテッドFC|福島]]へ完全移籍。 * [[曺秉局|チョ・ビョングク]]が[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国1部]]・[[上海申花足球倶楽部]]へ完全移籍し、[[北脇里規]]が退団。 * [[エクストラクラサ|ポーランド1部]]・[[レヒア・グダニスク]]から[[松井大輔]]、[[ガンバ大阪|G大阪]]から[[藤ヶ谷陽介]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[アジウソン・ペレイラ・デ・ソウザ|ポポ]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[アソシアソン・ポルトゥゲーザ・ジ・デスポルトス]]から[[フェルジナンド・ペレイラ・レダ|フェルジナンド]]を完全移籍で獲得。 * [[川崎フロンターレ|川崎]]から[[森下俊]]を期限付き移籍で獲得。[[アビスパ福岡|福岡]]への期限付き移籍が満了した岡田隆が復帰。 * 新人として、磐田U-18出身である[[小川大貴]]([[明治大学体育会サッカー部|明治大学]])と[[上村岬]][[筑波大学蹴球部|(筑波大学]])が加入。 * 6月16日に[[山本康裕]]が新潟へ期限付き移籍。 * 6月24日にブラジル1部・[[SEパルメイラス]]から[[ルイス・オタヴィオ・サントス・デ・アラウージョ|チンガ]]を期限付き移籍で獲得。 * 7月1日付で、「株式会社ヤマハフットボールクラブ」から「株式会社ジュビロ」へ商号を変更。また、2015シーズンからエンブレムを変更と発表<ref name="jubilo20140625">{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=3727|title=法人名変更のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2004-6-25|accessdate=2017-9-17}}</ref> * 7月24日に[[山田大記]]が[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ2部]]・[[カールスルーエSC]]に移籍。 * 8月6日に[[坪内秀介]]を新潟から期限付き移籍で獲得した。 * 天皇杯は4回戦で敗退。 * 9月25日にシャムスカを監督から解任し、OBである[[名波浩]]が監督に就任。 * J2リーグ戦は4位。[[J1昇格プレーオフ]]は準決勝で山形に後半ATに山形のGK[[山岸範宏]]にゴールを決められ敗戦、J1復帰はならなかった。 {{Main|2014年のJリーグ#J1昇格プレーオフ}} ; [[2015年のJリーグ|2015年]] :クラブスローガン :「'''繋ぐ――Road to J1'''」 * 15年在籍した[[前田遼一]]が[[FC東京]]へ移籍。 * [[金園英学]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]、[[山崎亮平]]が新潟、[[阿部吉朗]]が松本、[[藤ヶ谷陽介]]がG大阪、[[白星東|ペク・ソンドン]]が鳥栖へ完全移籍。 * 既に期限付き移籍中だった[[菅沼実]]もペク・ソンドンと同じ鳥栖へ完全移籍。 * [[竹重安希彦]]が[[栃木SC|栃木]]、[[菅沼駿哉]]が京都へ完全移籍し、[[アジウソン・ペレイラ・デ・ソウザ|ポポ]]、[[フェルジナンド・ペレイラ・レダ|フェルジナンド]]、[[ルイス・オタヴィオ・サントス・デ・アラウージョ|チンガ]]の[[ブラジル人]]3名は退団した。 * [[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[井波靖奈]]、岐阜から[[中村祐輝]]、ポーランド1部・[[ルフ・ホジューフ]]から[[クシシュトフ・カミンスキー|カミンスキー]]、[[タイ・リーグ1|タイ1部]]・[[ムアントン・ユナイテッドFC]]から[[ジェイ・ボスロイド|ジェイ]]を完全移籍で獲得したことに加え、元磐田の選手である[[上田康太]]と[[太田吉彰]]が大宮と仙台から完全移籍で復帰。 * [[パラナ・クルーベ]]から[[アダイウトン・ドス・サントス・ダ・シルバ|アダイウトン]]、川崎から[[森島康仁]]、広島から[[川辺駿]]をそれぞれ期限付き移籍で獲得。 * 一方、継続選手は新潟から期限付き移籍中だった坪内秀介を完全移籍で獲得。 * 新人は[[船橋市立船橋高等学校|市立船橋高校]]から[[志村滉]]、[[鹿児島城西高等学校|鹿児島城西高校]]から[[岩元颯オリビエ]]、中京大学から[[清水貴文]]が入団し、磐田U-18からは[[上原力也]]と[[石田崚真]]の内部昇格を発表。 * 1月28日、[[石田崚真]]に未成年飲酒・喫煙が発覚。仮契約を一旦解除し、2月1日 - 7月31日の6か月間は練習生としてクラブに所属すると発表。 * 今年度から開催された[[Jリーグ・スカパー! ニューイヤーカップ]] 鹿児島ラウンドでは浦和、清水、熊本と共に参加し2位の成績を収めた。 * 天皇杯は2回戦でアビスパ福岡に0-1で敗れた。 * リーグ戦は[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[アビスパ福岡|福岡]]と最終節まで自動昇格争いを展開、最終順位を2位とし2016年からのJ1復帰が決まった。 * ジェイが20得点でJ2得点王を獲得。 ==== 2016年 - 2019年(J1) ==== ; [[2016年のJリーグ|2016年]] :クラブスローガン :「'''繋ぐ 夢の実現へ'''」 * [[木下高彰]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]、[[駒野友一]]が[[FC東京]]、[[坪内秀介]]が[[ザスパクサツ群馬|群馬]]へ移籍。 * [[田中裕人]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]、[[牲川歩見]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ期限付き移籍。 * 新加入は、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[中村太亮 (サッカー選手)|中村太亮]]、[[ロアッソ熊本|熊本]]から[[齊藤和樹]]、鳥栖から[[奥田達朗]]、[[FC岐阜|岐阜]]から[[高木和道]]、[[アルビレックス新潟|新潟]]から元磐田の大井健太郎を完全移籍で獲得。 * 期限付き移籍だった[[森島康仁]]、[[森下俊]]、[[アダイウトン・ドス・サントス・ダ・シルバ|アダイウトン]]が完全移籍した。 * 新潟に期限付き移籍していた[[山本康裕]]が復帰。 * 新人として[[桐光学園中学校・高等学校|桐光学園高校]]から[[小川航基]]、[[鹿児島実業高等学校|鹿児島実業高校]]から[[大南拓磨]]、[[青山学院大学]]から[[荒木大吾]]が入団。 * 1stステージでは従来の4-2-3-1だけでなく、相手にあわせて3-4-2-1も併用して8位に入った。また、5月には[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ代表]]の[[アヴラアム・パパドプーロス]]を獲得した。 * 8月に[[小林祐希]]が[[エールディヴィジ|オランダ1部]]・[[SCヘーレンフェーン]]へ移籍した。 * 2ndステージでは開幕から9試合連続未勝利で、2勝7分8敗の14位。 * 年間成績は、8勝12分14敗の13位。 ; [[2017年のJリーグ|2017年]] :クラブスローガン:「'''繋ぐ Challenge For Next'''」 * [[岡田隆]]が引退、[[森島康仁]]、[[中村祐輝]]、[[高木和道]]、[[ジェイ・ボスロイド|ジェイ]]、[[アヴラアム・パパドプーロス|パパドプーロス]]が退団。 * [[奥田達朗]]が長崎、[[上村岬]]が期限付き移籍先の[[FC今治|今治]]へ移籍。 * [[石田崚真]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]へ期限付き移籍。 * 長崎へ期限付き移籍していた[[田中裕人]]が[[愛媛FC|愛媛]]へ、[[ヴァンラーレ八戸|八戸]]へ期限付き移籍していた[[岩元颯オリビエ]]が[[ガイナーレ鳥取|鳥取]]へ、鳥栖へ期限付き移籍していた[[牲川歩見]]が群馬へ期限付き移籍先を変更した。 * [[横浜F・マリノス|横浜FM]]から元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[中村俊輔]]、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[川又堅碁]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[高橋祥平]]、[[大分トリニータ|大分]]から[[松本昌也]]、[[AC長野パルセイロ|長野]]から[[三浦龍輝]]を獲得。 * [[サッカーウズベキスタン代表|ウズベキスタン代表]]の[[ファズィル・ムサエフ|ムサエフ]]、[[昌平中学・高等学校|昌平高校]]から[[針谷岳晃]]、[[東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校|東福岡高校]]から[[藤川虎太朗]]が入団。 * 5月に[[伊藤洋輝]]とプロ契約を締結し、2種登録選手として登録。 * 8月に[[松井大輔]]が[[Iリガ|ポーランド2部]]・{{仮リンク|オードラ・オポーレ|pl|Odra Opole}}へ移籍。 * 9月に[[山田大記]]が[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ2部]]・[[カールスルーエSC]]から完全移籍で2014年7月以来4年振り復帰。 * 10月に行われた天皇杯では[[横浜F・マリノス|横浜FM]]に0-1で敗れ、ベスト8止まりとなった。 * 年間成績は、16勝10分8敗の6位。 ; [[2018年のJリーグ|2018年]] :クラブスローガン:「'''繋ぐ 2018 Challenge For Next'''」 * [[岩元颯オリビエ]]が引退、[[清水貴文]]が[[栃木シティFC]]、[[中村太亮 (サッカー選手)|中村太亮]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[上田康太]]と[[齊藤和樹]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]へ移籍。 * [[田中裕人]]が[[愛媛FC|愛媛]]へ完全移籍。[[石田崚真]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]との期限付き移籍期間を延長。[[ザスパクサツ群馬|群馬]]へ期限付き移籍していた[[牲川歩見]]が[[アスルクラロ沼津|沼津]]へ期限付き移籍。 * [[2015年のJリーグ|2015年]]から3年間期限付き移籍していた[[川辺駿]]が[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]へ復帰した。 * [[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]から[[新里亮]]、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[田口泰士]]、[[ロアッソ熊本|熊本]]から[[ガブリエウ・アルゴロ・モルベッキ|モルベッキ]]、[[2017年のJリーグ|2017年]]7月に[[特別指定選手]]に承認されていた[[中野誠也 (サッカー選手)|中野誠也]]が[[筑波大学]]より入団。 * [[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエC|ブラジル3部]]・[[トンベンセFC]]から[[ギレルメ・オリベイラ・サントス|ギレルメ]]が期限付き移籍で加入。 * 5月にクラブと双方合意の上でギレルメとの契約を解除した。 * 6月に[[志村滉]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ期限付き移籍。[[川崎フロンターレ|川崎]]より元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[大久保嘉人]]が完全移籍で加入。 * 7月に志村滉が水戸から復帰。 * 8月にモルベッキが[[SC相模原|相模原]]へ期限付き移籍した。元[[サッカートルコ代表|トルコ代表]]の[[エレン・アルバイラク|エレン]]が完全移籍で加入。 * 天皇杯では[[ベガルタ仙台|仙台]]に[[PK戦]]で敗れ、2年連続でベスト8。 * 年間成績は10勝11分13敗で16位。[[J1参入プレーオフ]]出場。 * J1参入プレーオフでは、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]と対戦。2-0で勝利し、J1残留を果たした。 {{Main|2018年のJリーグ#J1参入プレーオフ}} ; [[2019年のJリーグ|2019年]] :クラブスローガン:「'''繋ぐ Challenging! 2019'''」 * [[松浦拓弥]]が[[横浜FC]]、[[牲川歩見]]が期限付き移籍先の[[アスルクラロ沼津|沼津]]へ移籍。 * [[伊藤洋輝]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]へ期限付き移籍。 * [[ツエーゲン金沢|金沢]]に期限付き移籍していた[[石田崚真]]が復帰。[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[森谷賢太郎]]、[[モンテディオ山形|山形]]から[[中山仁斗]]、[[ディヴィジア・ナツィオナラ|モルドバ1部]]・[[FCシェリフ・ティラスポリ]]から[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク代表]]の[[ジェルソン・ロドリゲス|ロドリゲス]]が加入。 * 2014年9月から指揮を執った監督の[[名波浩]]が、第17節終了後に成績不振の責任を取って退任。ヘッドコーチを務めていた[[鈴木秀人]]が監督に就任。 * 2019年8月15日付で、[[鈴木秀人]]が退任。[[小林稔 (サッカー選手)|小林稔]]が暫定監督として指揮を執ったのち、8月20日より[[スペイン]]出身の[[フェルナンド・フベロ]]が監督に就任。なお、1シーズンに4人目の監督が就任するのはクラブ史上最多<ref>{{Cite news|和書|url=https://hochi.news/articles/20190819-OHT1T50259.html|title=【磐田】新監督にスペイン人のフベロ氏…クラブシーズン最多の4人目|publisher=[[スポーツ報知]]|date=2019-08-20|accessdate=2019-08-20}}</ref>。 * シーズン途中に[[中野誠也 (サッカー選手)|中野誠也]]が岡山、[[小川航基]]が水戸へ育成型レンタル。[[中村俊輔]]が横浜FC、ロドリゲスが[[ウクライナ・プレミアリーグ|ウクライナ1部]]・[[FCディナモ・キエフ]]へ完全移籍。石田崚真が[[レノファ山口FC|山口]]へ期限付き移籍。[[エレン・アルバイラク|エレン]]と双方合意の上で契約解除。 * [[ガンバ大阪|G大阪]]より[[今野泰幸]]、[[タイ・リーグ1|タイ1部]]・[[チョンブリーFC]]より[[ルキアン・アラウージョ・デ・アルメイダ|ルキアン]]、[[セルビア・スーペルリーガ|セルビア1部]]・[[レッドスター・ベオグラード]]より[[ロレンゾ・エベシリオ|エベシリオ]]、無所属となっていた[[ファビオ・アギアール・ダ・シウヴァ|ファビオ]]の4選手が完全移籍で加入。名古屋より[[秋山陽介]]が期限付き移籍加入。 * 第33節の[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]戦に勝利するも、残留を争っていた16位[[湘南ベルマーレ|湘南]]が勝利をおさめたことで、最終の第34節を前に両チームの勝ち点差が4となったことから年間順位17位以下が確定、2度目のJ2降格が決定した。第34節は[[ヴィッセル神戸|神戸]]に敗れ、勝ち点31で[[松本山雅FC|松本]]と並ばれ得失点差で下回り、クラブ史上初となるJ1最下位(18位)でシーズンを終了した。なお、勝ち点31は1999年より[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]が2部制になってからのJ1年間最下位チームとしては最多であった。 * 川又の長期離脱などが影響しリーグワースト2位の総得点29に留まった。 === 2020年代 === ==== 2020年 - 2021年(J2) ==== ; [[2020年のJリーグ|2020年]] クラブスローガン:「'''Jubiro PRIDE 覚悟'''」 * 監督は継続してスペイン出身の[[フェルナンド・フベロ]] *[[川又堅碁]]と[[田口泰士]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]、[[森下俊]]が[[いわてグルージャ盛岡]]、[[大久保嘉人]]が[[東京ヴェルディ1969]]、[[クシシュトフ・カミンスキー|カミンスキー]]が[[エクストラクラサ|ポーランド1部]]・[[ヴィスワ・プウォツク]]、[[アダイウトン・ドス・サントス・ダ・シルバ|アダイウトン]]が[[FC東京]]、[[大南拓磨]]が[[柏レイソル|柏]]、[[荒木大吾]]が[[京都サンガF.C.|京都]]、[[中山仁斗]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ完全移籍。 *[[森谷賢太郎]]が[[愛媛FC|愛媛]]へ、[[新里亮]]が[[ガンバ大阪|G大阪]]へ、[[高橋祥平]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ期限付き移籍。 *[[秋山陽介]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]へレンタルバック。 *[[太田吉彰]]が引退。 *[[小川航基]]が水戸から、[[中野誠也 (サッカー選手)|中野誠也]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]から、[[石田崚真]]が[[レノファ山口FC|山口]]から、[[伊藤洋輝]]が名古屋からレンタルバック。 * [[フアン・フォルリン]]は[[セグンダ・ディビシオン|スペイン2部]]・[[レアル・オビエド]]から、[[大武峻]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]から、[[中川創]]が柏から、[[大森晃太郎]]がFC東京から、[[ルイス・マルセロ・モライス・ドス・ヘイス|ルリーニャ]]が[[キプロス・ファーストディビジョン|キプロス1部]]・[[パフォスFC]]から完全移籍で加入。 *[[舩木翔]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]から育成型期限付き移籍で加入。 *[[清田奈央弥]]と[[三木直土]]が磐田U-18から、[[吉長真優]]が[[成立学園中学・高等学校|成立学園高校]]から新卒加入。 *2月23日に行われた開幕戦・[[モンテディオ山形|山形]]戦に勝利するも、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の影響でリーグ戦が延期・中断となった。 *リーグ中断中の6月13日に行われた[[アスルクラロ沼津|沼津]]との無観客でのトレーニングマッチで、[[ヤマハ]]が開発するサポーターがスマホで操作し、リアルタイムで選手に声援を送れるリモート応援システム『Remote Cheerer powered by SoundUD』が世界で初めて使用された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=7281|title=6/13(土)練習試合 vs. 沼津 リモート応援システムのご参加方法について|publisher=ジュビロ磐田|date=2020-06-11|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 *6月28日にリーグ戦が再開。再開初戦は[[京都サンガF.C.|京都]]に敗れた。開幕から連敗こそなかったものの、連勝は第9・10節のみ、前半戦21試合終了時点で7勝9分5敗勝点30、首位[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]と勝点差14の7位となる。 *後半戦に入りシーズン初の連敗、かつ6試合連続勝利なし(3分3敗)となり、第23節終了翌日の10月1日付で[[フェルナンド・フベロ]]が退任<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=7472|title=フェルナンド・フベロ監督 退任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2020-10-02|accessdate=2023-10-23}}</ref>。後任として強化本部長の[[鈴木政一]]が監督に就任した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=7473|title=鈴木 政一監督 就任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2020-10-02|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 *10月5日、元日本代表MF[[遠藤保仁]]がG大阪から期限付き移籍で加入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=7482|title=遠藤 保仁選手が期限付き移籍加入|publisher=ジュビロ磐田|date=2020-10-05|accessdate=2020-12-11}}</ref>。一方、同月28日にはMF[[針谷岳晃]]が北九州へ期限付き移籍<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=7509|title=針谷 岳晃選手が期限付き移籍|publisher=ジュビロ磐田|date=2020-10-28|accessdate=2020-12-11}}</ref>。12月9日にはGK[[志村滉]]が[[FC東京]]に期限付き移籍した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=7574|title=志村 滉選手が期限付き移籍|publisher=ジュビロ磐田|date=2020-12-09|accessdate=2020-12-11}}</ref>。 *J2リーグ戦は第36戦終了時点で2位[[アビスパ福岡|福岡]]との勝点差が19となり、6試合を残して2位以内となる可能性が消滅、J1昇格を逃した<ref>{{Cite news|date=2020-11-25|url=https://www.nikkansports.com/m/soccer/news/amp/202011250001124.html|title=J2磐田の昇格消滅…6戦ぶり勝利待たずに“終戦”|newspaper=[[日刊スポーツ]]|accessdate=2020-12-11}}</ref>。 *第41節、最終戦に連勝し、16勝15分11敗の6位でシーズンを終えた。 ; [[2021年のJ2リーグ|2021年]] クラブスローガン「'''UNITE FOR W1N 集結せよ勝利のために'''」 *監督は継続して[[鈴木政一]] *元日本代表[[中山雅史]]がトップチームのコーチに就任。 *[[中野誠也 (サッカー選手)|中野誠也]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[ファズィル・ムサエフ|ムサエフ]]が[[ウズベキスタン・スーパーリーグ|ウズベキスタン1部]]・{{ill|トゥロンFK|uz|Turon (futbol klubi)}}、ルリーニャが[[モンテディオ山形|山形]]、[[石田崚真]]が[[SC相模原|相模原]]へ、[[志村滉]]が北九州へ完全移籍 *[[上原力也]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]期限付き移籍。 *[[針谷岳晃]]は北九州への期限付き移籍延長。 *[[舩木翔]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]へレンタルバック。 *[[山本義道]]が完全移籍に移行。 *[[鈴木海音]]がトップチームとプロ契約。 *[[遠藤保仁]]が期限付き移籍期間延長。 *[[大津祐樹]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から、[[鈴木雄斗]]が[[川崎フロンターレ|川崎]]から、[[鹿沼直生]]が相模原から、[[ファビアン・ゴンザレス]]が[[カテゴリア・プリメーラA|コロンビア1部]]・[[アトレティコ・ナシオナル]]から、[[加藤智陽]]が[[ウッコネン|フィンランド2部]]・{{ill|ACカヤーニ|fi|AC Kajaani}}から、[[アレクセイ・コシェレフ]]が[[エールディヴィジ|オランダ1部]]・[[フォルトゥナ・シッタート]]から完全移籍加入。 *[[FC琉球|琉球]]に0-1、[[FC町田ゼルビア|町田]]に1-3と開幕2連敗でシーズンをスタートする *5月15日[[ザスパクサツ群馬|群馬]]戦から6月26日[[V・ファーレン長崎|長崎]]戦までJ2記録タイとなる7試合連続完封勝利を達成。 *6月23日に[[伊藤洋輝]]の[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ1部]]・[[VfBシュトゥットガルト]]への期限付き移籍が発表される。 *7月3日の新潟戦で3-2の勝利を収めて8連勝で初めて首位に浮上する。しかし、次の[[レノファ山口FC|山口]]戦で2-2の引き分けで9連勝とはならなかった。また次節の山形戦で1-2の敗戦により、5月1日の栃木SC戦から続いていた13戦無敗記録がストップした *7月に[[金子翔太]]が[[清水エスパルス|清水]]から、[[伊藤槙人]]が横浜FMから期限付き移籍加入。[[高野遼]]が横浜FMから完全移籍加入。[[大武峻]]が群馬へ期限付き移籍 *8月に[[藤川虎太朗]]が[[ロアッソ熊本|熊本]]に期限付き移籍。 *[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、準々決勝で[[大分トリニータ|大分]]に0-2と敗れ、ベスト8敗退。 *10月27日に監督の鈴木政一が体調不良で検査入院<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8024|title=鈴木政一監督の体調について|publisher=ジュビロ磐田|date=2021-10-30|accessdate=2021-12-23}}</ref>。離脱中はヘッドコーチの[[服部年宏]]が代理を務め、鈴木は12月5日の[[ブラウブリッツ秋田|秋田]]戦に復帰した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8084|title=鈴木 政一監督復帰のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2021-12-04|accessdate=2021-12-23}}</ref>。 *第39節の[[水戸ホーリーホック|水戸]]戦で3-1と勝利し、3年ぶりの[[J1リーグ]]昇格が決定した。 *第41節の群馬に0-0と引き分けたが2位の[[京都サンガF.C.|京都]]が引き分けで終わり、J2優勝が決定した。2010年の[[Jリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]]で優勝して以来、11年ぶりのタイトルである。 ==== [[2022年のJ1リーグ|2022年]](J1) ==== クラブスローガン「'''Go Beyond 突き進め!!'''」 *3年ぶりの[[J1リーグ]]復帰。 *[[鈴木政一]]が監督を退いてクラブアドバイザーとなり、後任の監督には前年まで[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]を率いていた[[伊藤彰 (サッカー選手)|伊藤彰]]が就任<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8125|title=伊藤 彰監督 就任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2021-12-25|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 *[[ルキアン・アラウージョ・デ・アルメイダ|ルキアン]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ、[[小川航基]]が[[横浜FC]]へ、[[杉本大地]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]へ完全移籍。 *[[三木直土]]が[[藤枝MYFC|藤枝]]へ、[[鈴木海音]]が[[栃木SC|栃木]]へ、[[藤川虎太朗]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]へ、[[中川創]]が[[FC琉球|琉球]]へ育成型期限付き移籍。[[針谷岳晃]]が北九州への育成型期限付き移籍期間延長。 *[[加藤智陽]]、[[今野泰幸]]、[[大武峻]]が契約満了。 *[[上原力也]]が期限付き移籍より復帰。 *[[伊藤槙人]]、[[金子翔太]]、[[遠藤保仁]]が完全移籍に移行。 *[[ジャーメイン良]]、[[袴田裕太郎]]が横浜FCから、[[梶川裕嗣]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から、[[黒川淳史]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]から完全移籍加入。 *[[杉本健勇]]が[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]より期限付き移籍で加入。 *[[藤原健介]]が磐田U-18から、古川陽介が[[静岡学園中学校・高等学校|静岡学園高校]]から加入内定。 *[[リカルド・ケイロス・ジ・アレンカストロ・グラッサ|リカルド・グラッサ]]が[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエB|ブラジル2部]]・[[CRヴァスコ・ダ・ガマ]]から、[[ルイス・エドゥアルド・フレウリ・パシェコ|ドゥドゥ]]がブラジル2部・[[ヴィラ・ノヴァFC]]から完全移籍加入内定。 *7月、[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]]・[[シント=トロイデンVV]]に在籍していた[[松原后]]が完全移籍で加入。[[袴田裕太郎]]が大宮へ期限付き移籍。 *8月1日、[[清田奈央弥]]が[[福島ユナイテッドFC|福島]]に期限付き移籍。 *8月6日、[[東京国際大学]]から[[師岡柊生]]が加入内定。その後、クラブ不祥事により内定取消しとなり、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]へ加入が発表された。 *8月14日、7月に4連敗や8月の浦和戦での0-6の大敗など成績低迷のため監督の[[伊藤彰 (サッカー選手)|伊藤彰]]とトップチームマネジメント部長の[[鈴木秀人]]が解任された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8459|title=伊藤 彰監督 解任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-08-14|accessdate=2022-09-11}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8460|title=鈴木 秀人トップチームマネジメント部長 解任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-08-14|accessdate=2022-09-11}}</ref><ref>{{Cite news|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202210290000436.html|title=磐田J2降格、1年で逆戻り 7月4戦連続無得点で4連敗し最下位、8月監督解任も立て直せず|newspaper=日刊スポーツ|date=2022-10-29|accessdate=2023-10-23}}</ref>。後任には、トップチームのヘッドコーチだった[[渋谷洋樹]]の就任が発表された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8465|title=渋谷 洋樹監督 就任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-08-17|accessdate=2022-09-10}}</ref>。 * 10月1日、[[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ2部]]・[[静岡SSUボニータ]]とパートナーシップ契約を締結<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8548|title=静岡SSUボニータとのパートナーシップ契約締結のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-10-01|accessdate=2023-02-04}}</ref>。 * 監督交代後は、ルーキー[[古川陽介]]のJ初ゴールで、この年優勝の横浜FMに1-0で勝利、第30節[[セレッソ大阪|C大阪]]戦から第31節[[清水エスパルス|清水]]戦)にかけて1勝3分と4試合連続無敗でJ1残留に希望が開いたかに見えた。しかし、結果的に横浜FM戦でのこの1勝しか挙げることができず、第33節[[ガンバ大阪|G大阪]]戦も0-2で敗戦し17位以下が確定、J2降格が決まった。また、第33節終了時点で17位清水との勝ち点差が4あることから年間順位も最下位が確定。昇格1年での降格はクラブ史上初であり<ref>{{Cite news|和書|url=https://hochi.news/articles/20221030-OHT1T51026.html?page=1|title=磐田がJ2降格 1年で降格はクラブ史上初 渋谷洋樹監督は退任決定的 後任候補は外国人指揮官ら複数人|newspaper=スポーツ報知|date=2022-10-30|accessdate=2023-10-23}}</ref>、J2優勝クラブの1年での降格も[[2021年のJ1リーグ|前年]]の[[徳島ヴォルティス|徳島]]に続き2年連続となった。 *代表取締役社長である[[小野勝]]は今シーズンをもって退任を発表した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8613|title=小野 勝 代表取締役社長 辞任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-11-05|accessdate=2022-11-05}}</ref>。 *監督の渋谷も契約期間満了により退任し<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8614|title=渋谷 洋樹監督 退任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-11-06|accessdate=2022-11-06}}</ref>、伊藤彰率いるベガルタ仙台のヘッドコーチに就任した。そしてコーチの[[中山雅史]]の退団・[[2023年のJ3リーグ|2023年]]からの[[アスルクラロ沼津|沼津]]監督就任する事が発表<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8622|title=中山 雅史コーチ 退任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-11-13|accessdate=2022-11-13}}</ref>、GKコーチの[[山岸範之]]も[[大宮アルディージャ|大宮]]のGKコーチに就任することも発表された。 ==== [[2023年のJ2リーグ|2023年]](J2) ==== クラブスローガン「夢と感動を 共に」 * 小野勝前社長の後任に元ラグビー選手([[静岡ブルーレヴズ|ヤマハ発動機ジュビロ]]所属)の[[浜浦幸光]]が就任した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8673|title=代表取締役社長交代のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-12-22|accessdate=2022-12-22}}</ref>。 * 新監督に[[サッカー日本代表]]コーチの[[横内昭展]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8685|title=横内 昭展監督 就任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-12-25|accessdate=2022-12-26}}</ref>、コーチに[[2022年のJ3リーグ|前年]]まで[[松本山雅FC]]でヘッドコーチをしていた[[三浦文丈]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8686|title=三浦 文丈コーチ 就任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-12-25|accessdate=2022-12-26}}</ref>、GKコーチには元日本代表の[[川口能活]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8690|title=川口 能活GKコーチ 就任のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-12-26|accessdate=2022-12-26}}</ref>が就任した。 * 前年に発生した[[ファビアン・ゴンザレス]]の契約を巡るトラブルのため、[[国際サッカー連盟]](FIFA)から2023年シーズン終了までの新規選手獲得を禁じられる。この影響で、[[2023年のJリーグ|2023年]]の新加入選手は、ユースから[[後藤啓介 (サッカー選手)|後藤啓介]]がトップチームに昇格のみとなった。 * DF[[大井健太郎]]、GK[[アレクセイ・コシェレフ]]が契約満了となった。 * [[黒川淳史]]が[[FC町田ゼルビア|町田]]へ完全移籍。また、[[袴田裕太郎]]が期限付き移籍先の[[大宮アルディージャ|大宮]]へ完全移籍した。 * [[中川創]]が[[FC琉球|琉球]]、[[鈴木海音]]が[[栃木SC|栃木]]、[[藤川虎太朗]]、[[針谷岳晃]]が[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]からそれぞれ復帰した。 * [[清田奈央弥]]は[[福島ユナイテッドFC|福島]]への育成型[[期限付き移籍]]期間が延長された。また、[[藤枝MYFC|藤枝]]に育成型期限付き移籍していた[[三木直土]]が福島へ育成型期限付き移籍することが発表された。 * [[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から期限付き移籍で加入していた[[杉本健勇]]の完全移籍に移行したが、その後、3月21日に[[横浜F・マリノス|横浜FM]]へ期限付き移籍。 * 開幕節[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]戦に[[後藤啓介 (サッカー選手)|後藤啓介]](17歳260日)がJリーグ初出場、2得点を挙げ、[[高原直泰]]の持つクラブ最年少得点記録(18歳290日)を更新した<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202302180001149.html|title=【磐田】17歳260日の後藤啓介が高原超えクラブ最年少弾含む2発も惜敗「喜びと悔しさ半々」 - J2|newspaper=日刊スポーツ|accessdate=2023-02-22}}</ref>。 * 4月19日、[[Jリーグカップ|ルヴァンカップ]]グループステージ第4節横浜FM戦にて[[2種登録選手]]の川合徳孟(16歳1か月16日)が公式戦に初出場し、 [[山本康裕]]が持つ16歳10か月25日のクラブ最年少出場記録を更新した。 * 2023年5月16日の理事会で、[[磐田市]]周辺の6市1町にホームタウンを拡大した。[[静岡朝日テレビ]]がジュビロ磐田に取材したところ、これまで登記ホームタウンは試合会場のある磐田市のみだったが、クラブ側が「地域を広げて広くサポーターに応援してもらいたい」という狙いで、Jリーグ加盟当初からホームタウンの拡大を検討・構想化しており、現に[[掛川市]]や[[浜松市]]などに育成チームの練習会場を設けるなどをしていた<ref>{{Cite news|和書|url=https://look.satv.co.jp/_ct/17629156|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230516145946/https://look.satv.co.jp/_ct/17629156|title=ジュビロ磐田ホームタウンに浜松市や掛川市など6市1町を追加 静岡県西部全体がホームタウンに|newspaper=[[静岡朝日テレビ]]|date=2023-05-16|archivedate=2023-05-16|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 * 7月13日、[[山本義道]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]、8月7日、[[中川創]]が藤枝へ[[期限付き移籍]]。 * 11月12日に行われた第42節[[栃木SC|栃木]]戦に勝利、自動昇格枠を争う2位の[[清水エスパルス|清水]]は[[水戸ホーリーホック|水戸]]に引き分け、同じく自動昇格枠を争う4位の[[東京ヴェルディ1969|東京V]]は大宮に勝利し磐田と同勝点になったものの得失点差で及ばず、磐田の2位及びJ1復帰が決まった<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202311120000088.html|title=【J2最終節】磐田が逆転でJ1復帰!昇格PO最後の1枠は山形がロスタイム弾で進出/詳細|newspaper=日刊スポーツ|date=2023-11-12|accessdate=2023-11-12}}</ref>。 * 12月25日、[[大津祐樹]]の現役引退が発表された<ref>{{Cite web |title=大津 祐樹選手 現役引退のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9324 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-25 |language=ja}}</ref>。 ==== 2024年 -(J1) ==== [[2024年のJ1リーグ|'''2024年''']] 詳細は「[[2024年のジュビロ磐田]]」を参照。 * [[横内昭展]]が監督を続投<ref>{{Cite web |title=横内 昭展監督 続投のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9250 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-11-14 |language=ja}}</ref>。 * [[ファビアン・ゴンザレス]]<ref>{{Cite web |title=ファビアン ゴンザレス選手 契約満了のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9273 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-11-28 |language=ja}}</ref>([[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に加入<ref>{{Cite web |title=ファビアン ゴンザレス 選手 加入のお知らせ {{!}} ヴァンフォーレ甲府 公式サイト |url=https://www.ventforet.jp/news/team/523611 |website=ヴァンフォーレ甲府 公式サイト {{!}} VENTFORET KOFU |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>)、[[針谷岳晃]]<ref>{{Cite web |title=針谷 岳晃選手 契約満了のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9272 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-11-28 |language=ja}}</ref>が契約満了で退団。 * [[福島ユナイテッドFC|福島]]に[[期限付き移籍]]中だった[[三木直土]]<ref>{{Cite web |title=三木 直土選手 契約満了のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9288 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-04 |language=ja}}</ref>([[ガイナーレ鳥取|鳥取]]へ加入<ref>{{Cite web |title=三木 直土選手 移籍先決定のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9329 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>)、[[清田奈央弥]]<ref>{{Cite web |title=清田 奈央弥選手 契約満了のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9287 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-04 |language=ja}}</ref>が契約満了で退団。 * 後藤啓介が[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ジュピラー・プロ・リーグ]]に所属する[[RSCアンデルレヒト]]へ期限付き移籍<ref>{{Cite web |title=後藤 啓介選手がRSCアンデルレヒトへ期限付き移籍 |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9274 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-11-28 |language=ja}}</ref>。[[吉長真優]]が[[カマタマーレ讃岐]]へ育成型期限付き移籍<ref>{{Cite web |title=吉長 真優選手 カマタマーレ讃岐へ育成型期限付き移籍 |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9330 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 * [[中川創]]が[[期限付き移籍]]先である[[藤枝MYFC]]、[[鈴木雄斗]]が[[湘南ベルマーレ]]<ref>{{Cite web |title=鈴木 雄斗選手 湘南ベルマーレへ完全移籍 |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9318 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-23 |language=ja}}</ref>、[[梶川裕嗣]]が[[鹿島アントラーズ]]<ref>{{Cite web |title=梶川 裕嗣選手 鹿島アントラーズへ完全移籍 |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9336 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>、[[山本康裕]]が[[松本山雅FC]]<ref>{{Cite web |title=山本 康裕選手 松本山雅FCへ完全移籍 |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9338 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>へ完全移籍した。 * [[大分トリニータ]]から[[高畑奎汰]]<ref>{{Cite web |title=高畑 奎汰選手が完全移籍加入 |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9316 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-21 |language=ja}}</ref>、[[カマタマーレ讃岐]]から[[川﨑一輝|川崎一輝]]<ref>{{Cite web |title=川﨑 一輝選手 完全移籍加入のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9328 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-26 |language=ja}}</ref>、[[ロアッソ熊本]]から[[平川怜]]<ref>{{Cite web |title=平川 怜選手 完全移籍加入のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9341 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-30 |language=ja}}</ref>が完全移籍加入した。 * [[東邦高等学校]]から[[朴勢己]]<ref>{{Cite web |title=朴 勢己選手 加入内定のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9331 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-26 |language=ja}}</ref>が加入。 * 開幕戦はホームで[[ヴィッセル神戸]]と対戦することが決まった<ref>{{Cite web |title=2024明治安田J1リーグ 第1節・第2節対戦カード決定! |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=9319 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-12-23 |language=ja}}</ref>。 == 成績 == {{main|ジュビロ磐田の年度別成績一覧}} == タイトル == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]''' ** '''年間:3回''' *** [[1997年のJリーグ|1997]], [[1999年のJリーグ|1999]], [[2002年のJリーグ|2002]] ** '''1stステージ:4回''' *** [[1998年のJリーグ|1998]], [[1999年のJリーグ|1999]], [[2001年のJリーグ|2001]], [[2002年のJリーグ|2002]] ** '''2ndステージ:2回''' *** [[1997年のJリーグ|1997]], [[2002年のJリーグ|2002]] * '''[[J2リーグ]]:1回''' ** [[2021年のJリーグ|2021]] * '''[[Jリーグカップ]]:2回''' ** [[1998年のJリーグカップ|1998]], [[2010年のJリーグカップ|2010]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:1回''' ** [[第83回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2003]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:3回''' ** 2000, 2003, 2004 === 国際タイトル === * '''[[AFCチャンピオンズリーグ|アジアクラブ選手権]](現AFCチャンピオンズリーグ):1回''' [[ファイル:AFC Champions League Trophy.png|25px]] ** [[アジアクラブ選手権1998-99|1998-99]] * '''[[アジアスーパーカップ]]:1回''' ** 1999 * '''[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦]]:1回''' ** [[スルガ銀行チャンピオンシップ2011|2011]] === 表彰 === *'''[[J1リーグ]]''' **'''最優秀選手(MVP)''' *** 1997 - [[ドゥンガ]] *** 1998 - [[中山雅史]] *** 2001 - [[藤田俊哉]] *** 2002 - [[高原直泰]] ** '''[[Jリーグベストイレブン]]''' *** 1996 - [[名波浩]] *** 1997 - [[大神友明]]、ドゥンガ、名波浩、中山雅史 *** 1998 - [[田中誠 (サッカー選手)|田中誠]]、[[奥大介]]、ドゥンガ、名波浩、藤田俊哉、中山雅史 *** 1999 - [[福西崇史]] *** 2000 - 中山雅史 *** 2001 - [[アルノ・ヴァン・ズワム|ヴァンズワム]]、[[大岩剛]]、[[服部年宏]]、福西崇史、藤田俊哉 *** 2002 - [[鈴木秀人]]、田中誠、名波浩、福西崇史、藤田俊哉、高原直泰、中山雅史 *** 2003 - 福西崇史 *** 2006 - [[川口能活]] *** 2009 - [[前田遼一]] *** 2010 - 前田遼一 *** 2012 - [[駒野友一]] **[[Jリーグアウォーズ|'''得点王''']] *** 1998 - 中山雅史 36得点 *** 2000 - 中山雅史 20得点 *** 2002 - 高原直泰 26得点 *** 2009 - 前田遼一 20得点 *** 2010 - 前田遼一 17得点 **[[Jリーグアウォーズ|'''新人王''']] *** 2005 - [[カレン・ロバート]] **フェアプレー賞(高円宮杯) *** 2009、2017 **フェアプレー個人賞 *** 2008 - 川口能活 *'''[[Jリーグカップ]]''' ** [[Jリーグカップ#MVP|'''MVP''']] *** 1998 - [[川口信男]] *** 2010 - [[前田遼一]] **[[Jリーグカップ#ニューヒーロー賞|'''ニューヒーロー賞''']] *** 1996 - 名波浩 *** 1998 - 高原直泰 *'''[[J2リーグ]]''' **'''[[得点王]]''' ***2015 - [[ジェイ・ボスロイド|ジェイ]] ***2021 - [[ルキアン・アラウージョ・デ・アルメイダ|ルキアン]] **'''ベストイレブン''' ***2023 - [[リカルド・ケイロス・ジ・アレンカストロ・グラッサ|リカルド・グラッサ]] **'''優秀監督賞''' ***2023 - [[横内昭展]] == 個人記録 == === J1リーグ戦通算出場記録 === *'''600試合出場''' ** 遠藤保仁 641試合 '''継続中''' *'''300試合出場''' ** 鈴木秀人 328試合 引退 ** 名波浩 314試合 引退 ** 太田吉彰 310試合 引退 ** 大井健太郎 305試合 '''継続中''' *'''250試合出場''' ** 山本康裕 260試合 '''継続中''' ** 杉本健勇 258試合 '''継続中''' *'''200試合出場''' ** 藤田義明 220試合 引退 ** 森下仁志 202試合 引退 *'''150試合出場''' ** 大森晃太郎 167試合 '''継続中''' ** 大津祐樹 166試合 '''継続中''' ** 佐藤洋平 164試合 引退 *'''100試合出場''' ** 山田大記 150試合 '''継続中''' ** 金子翔太 135試合 '''継続中''' ** ジャーメイン良 101試合 '''継続中''' === J2リーグ戦通算出場記録 === * '''200試合出場''' ** 鈴木雄斗 221試合 継続中 *'''100試合出場''' ** 黒川淳史 146試合 '''継続中''' ** 松本昌也 136試合 '''継続中''' ** 山本義道 110試合 '''継続中''' ※2022シーズンまで。他チームでの出場も含む。 === リーグ戦記録ゴール === ==== J1リーグ ==== * 6000得点目 鈴木秀人 【1999年2nd第12節(11月7日)・広島戦】 ==== J2リーグ ==== * 14000得点目 川辺駿 【2015年第27節(8月1日)・岡山戦】 === リーグ戦通算GK最小防御率 === * ヴァンズワム 0.89点 === ハットトリック === ==== J1リーグ ==== * 5得点 ** 中山雅史【1998年1st第6節(4月15日)・C大阪戦】 * 4得点 ** 中山雅史【1998年1st第7節(4月18日)・広島戦】 ** 中山雅史【1998年1st第8節(4月25日)・福岡戦】 ** 高原直泰【2002年2nd第5節(9月22日)・FC東京戦】 * 3得点 ** [[サルヴァトーレ・スキラッチ|スキラッチ]]【1995年サントリー第20節(6月28日)・柏戦】 ** スキラッチ【1996年第14節(5月15日)・平塚戦】 ** 中山雅史【1997年2nd第13節(9月20日)・V川崎戦】 ** 中山雅史【1998年1st第9節(4月29日)・札幌戦】 ** 奥大介【1998年2nd第8節(9月26日)・市原戦】 ** 高原直泰【1998年2nd第8節(9月26日)・市原戦】 ** 中山雅史【1998年2nd第9節(10月3日)・横浜F戦】 ** 藤田俊哉【2000年1st第10節(5月3日)・川崎戦】 ** 中山雅史【2000年2nd第14節(11月23日)・広島戦】 ** 清水範久【2001年2nd第9節(10月17日)・FC東京戦】 ** 高原直泰【2002年1st第14節(8月10日)・仙台戦】 ** 前田遼一【2005年第15節(7月9日)・C大阪戦】 ** 前田遼一【2008年第28節(10月5日 ・札幌戦】 ** 前田遼一【2009年第30節(10月25日) ・名古屋戦】 ==== J2リーグ ==== * 3得点 ** ジェイ【2015年第28節(8月8日)・京都戦】 == スタジアム・練習場 == === ホームスタジアム === ホームスタジアムは[[ヤマハスタジアム|ヤマハスタジアム(磐田)]]である。また、[[静岡県小笠山総合運動公園スタジアム]](エコパ)でも不定期にホームゲームを開催している。 ホームゲーム開催数は[[ジュビロ磐田の年度別成績一覧#会場別主催ゲーム開催数]]を参照。 過去に[[浜北市]](現:[[静岡県]][[浜松市]])で計画された複合スタジアムについては[[浜北市#複合スタジアム構想]]を参照。 === 練習場 === * [[ヤマハ大久保グラウンド]]:トップチームの練習場。ピッチサイドにはクラブハウスが併設されている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://global.yamaha-motor.com/jp/news/2001/1121/sports.html|title=ジュビロ磐田クラブハウスの建設について|publisher=[[ヤマハ発動機]]|date=2001-11-21|accessdate=2023-10-23}}</ref>。元々ヤマハ発動機野球部(現在はクラブチーム登録)の本拠地として使用されていた[[野球場]]であったが、ジュビロ磐田がJリーグに加盟したのと同時期に野球部がここから撤退し、ジュビロ磐田の専用グラウンドとして使用されるようになった。野球場時代の名残りからベンチルームの一部が残っている。また、マスコットとロゴマークが描かれたバックスクリーンも残されていたが、撤去された。グラウンド北側にはラグビー場が設けられており、[[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]]の[[静岡ブルーレヴズ]]が練習場として使用している。 * ジュビロ上大之郷グラウンド:ジュビロ磐田U-18、ジュビロ磐田U-15などの試合・練習場<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=322|title=「ジュビロ上大之郷グラウンド」使用開始について|publisher=ジュビロ磐田|date=2008-08.11|accessdate=2023-10-23}}</ref>。人工芝グラウンド1面と人工芝フットサルグラウンド2面を有する。 * ヤマハ加茂グラウンド:ジュビロサッカースクール磐田会場専用の練習場。人工芝グラウンド1面を有する。 == ユニフォーム == {{ユニフォームの色2 | F正シャツ=水色|F正パンツ=水色|F正ストッキング=水色 | F副シャツ=白|F副パンツ=水色|F副ストッキング=白 | G正シャツ=ピンク|G正パンツ=ピンク|G正ストッキング=ピンク | G副シャツ=濃紺|G副パンツ=濃紺|G副ストッキング=濃紺 | G第3シャツ=緑|G第3パンツ=緑|G第3ストッキング=緑 | pattern_la1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Jubilo Iwata 2023 HOME FP | pattern_so1 =_Jubilo Iwata 2023 HOME FP | leftarm1=FFFFFF|body1=FFFFFF|rightarm1=FFFFFF|shorts1=FFFFFF|socks1 =3F9FFF | pattern_la2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Jubilo Iwata 2023 AWAY FP | leftarm2=FFFFFF|body2=FFFFFF|rightarm2=FFFFFF|shorts2=FFFFFF|socks2=FFFFFF | pattern_la3= | pattern_b3= | pattern_ra3= | pattern_sh3= | pattern_so3= _navytop | leftarm3=E6007C|body3=E6007C|rightarm3=E6007C|shorts3=E6007C|socks3=E6007C | pattern_la4= | pattern_b4= | pattern_ra4= | pattern_sh4= | pattern_so4= _sky_blue_on_top | leftarm4=1B2644|body4=1B2644|rightarm4=1B2644|shorts4=1B2644|socks4=1B2644 | pattern_la5= | pattern_b5= | pattern_ra5= | pattern_sh5= | pattern_so5= _navytop | leftarm5=008738|body5=008738|rightarm5=008738|shorts5=008738|socks5=008738 }} === クラブカラー === * {{colorbox|#6C8CBD}} サックスブルー<ref name="jleague" /> ** Jリーグ昇格以前の1stユニフォームは、濃い青色の上下に赤をアクセントとして使用、2ndユニフォームは白に赤と青のライン。 ** 2003年、クラブ創立10周年を記念して全身紺色(ヤマハ時代のものよりも更に濃い青色)の3rdユニフォームが用意され、ホームの[[清水エスパルス|清水]]戦で着用 ** 2005年、[[レアル・マドリード]]及び[[FCバイエルン・ミュンヘン]]との親善試合等で全身紺色を着用 ** 2006年からは練習試合用としてその年のリーグ戦のユニフォームを紺色にしたものが用意されている。 ** 背番号下のネームはオ段の伸びる音「H」が表記されている。 ** エンブレム上(2011年までは襟後ろ)の3つの星(★)は3度のJ1年間優勝を表す。 === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |掲出箇所||スポンサー名||表記||掲出年||備考 |- !胸 |[[ヤマハ発動機]]||YAMAHA||1993年<br/>2009年 - ||1997年 - 2008年は袖<br/>2007年 - 2008年はパンツ |- !鎖骨 |[[ミツカン]]||mizkan||2023年8月 - ||右側に表記<br/>30周年記念ユニのみ |- !背中上部 |[[サーラグループ]]||SaLa||2011年 - ||2009年 - 2010年は袖およびパンツ |- !背中下部 |[http://www.sakura-kogyo.co.jp/ サクラ工業]||SAKURA||2020年 - || |- !袖 |[[浜松ホトニクス]]||HAMAMATSU<br/>{{smaller|PHOTON IS OUR BUSINESS}}||2012年 - || |- !パンツ前面 |なし||-||-|| |- !パンツ背面 |なし||-||-|| |} === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1993年:[[プーマ]]<ref name="kit History">{{Cite web|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/danke_puma/|title=DANKE PUMA|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2021-11-27}}</ref> * 1994年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]]、カップ戦はプーマ<ref name="kit History"/> * 1997年 - 2021年<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8069|title=プーマジャパン株式会社様とのユニフォームサプライヤー契約満了のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-27}}</ref>:プーマ * 2022年<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8103|title=新オフィシャルサプライヤーAdmiral(アドミラル)に決定|publisher=ジュビロ磐田|date=2021-12-13|accessdate=2021-12-13}}</ref> - 現在:[[アドミラルフットウェア|アドミラル]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #6C8CBD; font-size:smaller; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="text-align:center; background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 1994 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 1994 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 1994 HOME FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 1994 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 1994 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|1994 - 1996}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 1997 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 1997 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 1997 HOME FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 1997 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 1997 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|1997}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 1998 - 1999 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 1998 - 1999 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 1998 - 1999 HOME FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 1998 - 1999 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 1998 - 1999 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|1998 - 1999}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 2000 - 2001 Home FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 2000 - 2001 Home FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 2000 - 2001 Home FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 2000 - 2001 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 2000 - 2001 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|2000 - 2001}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 2002 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 2002 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 2002 HOME FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 2002 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 2002 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|2002}}}} |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 2003 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 2003 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 2003 HOME FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 2003 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 2003 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|2003}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 2004 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 2004 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 2004 HOME FP|pattern_sh= _Jubilo Iwata 2004 HOME FP|pattern_so= _Jubilo Iwata 2004 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=40CFFF|title={{Center|2004}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la= _Jubilo Iwata 2005 HOME FP|pattern_b= _Jubilo Iwata 2005 HOME FP|pattern_ra= _Jubilo Iwata 2005 HOME 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rowspan="25"|解禁前||-||rowspan="23"|解禁前||rowspan="9"|解禁前||-||rowspan="27"|解禁前||[[プーマ|PUMA]] |- |1994||rowspan="12"|[[ネスレ日本|Nestlé]]||rowspan="2"|[[ブイトーニ|Buitoni]]||rowspan="2"|[[キットカット|KitKat]]||rowspan="3"|[[ミズノ|Mizuno]] / <br/>[[プーマ|PUMA]] |- |1995 |- |1996||[[キットカット|KitKat]]||- |- |1997||[[ブイトーニ|Buitoni]]||rowspan="12"|[[ヤマハ発動機|YAMAHA]]||rowspan="25"|[[プーマ|PUMA]] |- |1998||rowspan="8"|[[大日本除虫菊|KINCHO]] |- |1999 |- |2000 |- |2001 |- |2002||- / <br/>[[フォルクスワーゲン|VW]] |- |2003||rowspan="3"|[[フォルクスワーゲン|VW]] |- |2004 |- |2005 |- |2006||rowspan="3"|[[飯田産業|{{smaller|いいだのいい家}}<br/>飯田産業]]||[[キットカット|Nestlé KitKat]]||- |- |2007||[[ネスレ・ミロ|{{smaller|Nestlé}}<br/>MILO]]||rowspan="2"|[[ヤマハ発動機|YAMAHA]] |- |2008||[[ジョインベスト証券|joinvest<br/>{{smaller|ジョインベスト証券}}]] |- |2009||rowspan="15"|[[ヤマハ発動機|YAMAHA]]||[https://www.artner.co.jp/ ΛRTNER]||colspan="2" rowspan="2"|[[サーラグループ|SaLa]] |- |2010||[https://www.ginza-de-futsal.com/ 銀座deフットサル] |- |2011||rowspan="13"|[[サーラグループ|SaLa]]||[[百年住宅]]||[[アートネイチャー]] |- |2012||rowspan="12"|[[浜松ホトニクス|HAMAMATSU<br/>{{smaller|PHOTON IS OUR BUSINESS}}]]||- / <br/>[https://www.k-l.co.jp/ KONDO LEASE] |- |2013||[https://change-inc.net/ チェンジ] |- |2014||[[静岡新聞]] |- |2015||rowspan="5"|[https://change-inc.net/ チェンジ] |- |2016||- / <br/>[https://www.zenwell.co.jp/ zen<br/>{{smaller|Well-Ordered}}] |- |2017||rowspan="3"|[https://www.zenwell.co.jp/ zen<br/>{{smaller|Well-Ordered}}] |- |2018||colspan="2" rowspan="5"|- |- |2019 |- |2020||rowspan="4"|[http://www.sakura-kogyo.co.jp/ SAKURA]||[[静岡新聞]]||rowspan="4"|- |- |2021||rowspan="3"|- |- |2022||rowspan="2"|[[アドミラルフットウェア|Admiral]] |- |2023||-||[[ミツカン|mizkan]]<br/>(30周年記念) |- |} == スポンサー == {{Main2|スポンサーについては、[https://www.jubilo-iwata.co.jp/general/sponsor.php スポンサー一覧] を}} == アカデミー == ;U-18 :タイトル ::[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会]]:1999 ::[[高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ東海]]:2004、2007、2009、2011、2012、2013 ;U-15 :編成:ジュビロ磐田U-15、ジュビロ磐田U-15CENTRAL(前SS磐田)、ジュビロ磐田U-15WEST(前SS浜松)、 ジュビロ磐田U-15EAST(前SS掛川)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8795|title=ジュビロアカデミー活動についてのお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2023-02-16|accessdate=2023-02-16}}</ref> ;キッズ・ジュニア(年少~小学6年) :編成:ジュビロサッカースクール(磐田、上大之郷、浜松/鶴見・飯田、浜松/早出、浜松/志都呂、浜松/浜北、浜松/有玉、掛川、島田) ;レディース(小学生~高校生の女子) == その他クラブ情報 == === エンブレム === 静岡県鳥の[[サンコウチョウ]]のシルエットと、ホームタウンの磐田市を流れる[[天竜川]]と静岡県内の大河、[[大井川]]、[[安倍川]]、[[富士川]]を象徴する上下の青い帯が描かれている<ref name="profile"/> === マスコットキャラクター === [[File:Jubilokun.jpg|250px|thumb|right|ジュビロくん]] モチーフは静岡県の県鳥、[[サンコウチョウ]]<ref name="jleague" />。 ; ジュビロくん : 1993年11月16日生まれ。磐田市出身。身長182センチ、体重78キロ {| class="wikitable" |+マスコット総選挙<br/>歴代成績 !年度 !順位 !前年比較 |- |2013年 |34 | |- |2014年 |34 | - |- |2015年 |36 |2位[[ファイル:Arrowdownred.png]] |- |2016年 |29 |7位[[ファイル:Arrowupgreen.png]] |- |2017年 |23 |6位[[ファイル:Arrowupgreen.png]] |- |2018年 |19 |4位[[ファイル:Arrowupgreen.png]] |- |2019年 |21 |3位[[ファイル:Arrowdownred.png]] |- |2020年 |20 |1位[[ファイル:Arrowupgreen.png]] |- |2021年 |12 |8位[[ファイル:Arrowupgreen.png]] |- |2022年 |6 |6位[[ファイル:Arrowupgreen.png]] |- |2023年 |10 |4位[[ファイル:Arrowdownred.png]] |} : ; ジュビィちゃん : 2003年3月21日生まれ。浜松市出身。身長163センチ、体重52キロ。ジュビロくんのガールフレンド。 === シーズンシート === シーズンシート名は「コルテアズー(Corte Azul)」。[[ポルトガル語]]で「水色の宮廷」の意味<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jubilo-iwata.co.jp/ticket/info/service.php|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090803013856/http://www.jubilo-iwata.co.jp/ticket/info/service.php|title=コルテアズー|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2013-10-23|archivedate=2009-8-3}}</ref>。 === 特別招待事業「磐田市小学生一斉観戦授業」=== 磐田市の地域社会への貢献の一環として、ジュビロでは選手の磐田市内全23小学校への訪問事業を展開、毎年5月を基本として「磐田市民デー」を開催。バックスタンドのフリーゾーン(ホーム側一部除く)を貸切にし、磐田市内全23小学校の小学生児童5-6年生(約3000名程度)とその保護者を招き「[[社会科見学|磐田市小学生一斉観戦授業]]」を行っている。 ジュビロの試合観戦し、チームへの愛着、磐田市をふるさととして誇りに思い、将来にわたって磐田市への愛着を持続させることを目的として2011年より始めている。該当試合はフリーゾーンホーム席の一部も招待客専用となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=2632|title=5/12(土)鹿島戦のホームゲームイベント ~磐田デー~|publisher=ジュビロ磐田|date=2012-05-10|accessdate=2023-10-23}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=2588|title=5/12(土)鹿島戦のフリーゾーン着席エリア|publisher=ジュビロ磐田|date=2012-04-06|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 またこの「一斉観戦授業」とは別で、事前の申し込み制であるが、磐田市を含む周辺市町村の小学生・中学生・高校生を対象とした観戦招待も行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/hometown/children.php|title=学校教育関連|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2023-10-23}}</ref> === 試合イベント === {{宣伝|section=1|date=2017年9月}} ==== ○○の日 ==== 2015年より磐田に在籍する外国人選手をフィーチャーしたイベント「○○の日」(○○の部分には選手名やその選手の愛称が入る)が開催されている。そのイベントが開催される試合ではその選手に因んだ応援グッズが配布される。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="text-align:center; background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |開催日||イベント名||選手||対戦相手||結果||配布グッズ |- | [[2015年]][[8月8日]] | ジェイの日 | {{Flagicon|ENG}} [[ジェイ・ボスロイド|ジェイ]] | [[京都サンガF.C.]] | △3-3 | お面<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/gameevent/index20150808.php|title=8/8(土)京都戦「浜松デー」ホームゲームイベントのご案内|publisher=ジュビロ磐田|date=2015-07-30|accessdate=2023-10-23}}</ref> |- | 2015年[[9月20日]] | カミックの日<br/>~みんなで掲げてゴールを阻止するぞ~ | {{Flagicon|POL}} [[クシシュトフ・カミンスキー|カミンスキー]] | [[愛媛FC]] | △0-0 | 紙製のグローブ<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=4414|title=9/20(日)愛媛戦は「カミックの日」|publisher=ジュビロ磐田|date=2015-09-08|accessdate=2023-10-23}}</ref> |- | 2015年[[11月8日]] | アダイウトンの日<br/>~元気と繋ぐ~ | {{Flagicon|BRA}} [[アダイウトン・ドス・サントス・ダ・シルバ|アダイウトン]] | [[V・ファーレン長崎]] | ○4-2 | 紙製の帽子<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/gameevent/index20151108.php|title=11/8(日)長崎戦のホームゲームイベント「アダイウトンの日」~元気と繋ぐ~|publisher=ジュビロ磐田|date=2015-10-16|accessdate=2023-10-23}}</ref> |- | [[2016年]][[9月10日]] | パパの日 | {{Flagicon|GRE}}{{Flagicon|AUS}} [[アヴラアム・パパドプーロス|パパドプーロス]] | [[ヴィッセル神戸]] | ●3-4 | 顔写真手持ちグッズ<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=5033|title=9/10(土)神戸戦~浜松ホトニクスマッチ~は「パパの日」|publisher=ジュビロ磐田|date=2016-09-02|accessdate=2023-10-23}}</ref> |- | [[2017年]][[6月25日]] | ムサエフの日 | {{Flagicon|UZB}} [[ファズィル・ムサエフ|ムサエフ]] | [[FC東京]] | ○2-0 | お面<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=5501|title=6/25(日)FC東京戦~人権サポーターマッチ~「ムサエフの日」の配布物決定|publisher=ジュビロ磐田|date=2017-06-09|accessdate=2023-10-23}}</ref> |} 開催は全てヤマハスタジアム。 ==== 真夏の○○ ==== 2016年から夏に「真夏の○○」と題したホームイベントを行っている。イベント開催中は、限定ユニフォームを着用し、来場者プレゼントが用意される。 限定ユニフォームは、ジュビロのクラブカラーとは異なるカラーになり、2016年は赤(通常ユニフォームのGK用をフィールドプレイヤーが着用)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/ticket/manatsuno_game/uniform.php|title=真夏の大決戦限定プロモデルユニフォーム発売|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2023-10-23}}</ref>、2017年は黒<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/ticket/2017manatsuno_game/uniform.php|title=真夏の挑戦2017「オーセンティックユニフォーム」販売|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2023-10-23}}</ref>となっている。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="text-align:center; background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |イベント名||年||日程||対戦相手||結果||配布グッズ |- | rowspan=3|真夏の大決戦 | rowspan=3|2016年 | [[7月30日]] | 柏レイソル | ●1-2 | バンダナ |- | [[8月13日]] | ガンバ大阪 | ●0-2 | ユニフォーム型うちわ |- | [[8月20日]] | サガン鳥栖 | △1-1 | リストバンド |- | rowspan=3|真夏の挑戦 | rowspan=3|2017年 | [[8月5日]] | サンフレッチェ広島 | ●2-3 | ランドリーバッグ |- | [[8月19日]] | セレッソ大阪 | △1-1 | ユニフォーム型うちわ |- | [[8月26日]] | ヴィッセル神戸 | ○2-1 | バンダナ |} ==== Summer Night Challenge ==== 2018年は、2016年から行われていた「真夏の〇〇」から名称を変更し、Summer Night Challenge としてホームゲームイベントを開催。2018年の限定ユニフォームは黒色。なお、GKユニフォームの販売はない<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/ticket/summer_night_challenge2018/uniform.php|title=Summer Night Challenge 2018 「Limited Uniform(限定ユニフォーム)」販売|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="text-align:center; background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |イベント名||年||日程||対戦相手||結果||配布グッズ |- | rowspan=3|Summer Night Challenge 2018 | rowspan=3|2018年 | [[8月1日]] | ガンバ大阪<br/>~浜松デー~ | △1-1 | ユニフォーム型ミニタオル |- | [[8月5日]] | ベガルタ仙台<br/>~鹿児島デー~ | ○3-2 | うちわ |- | [[8月19日]] | 柏レイソル<br/>~プーママッチ~ | ○2-0 | ランドリーバッグ |} ==== オフィシャルテーマソング ==== 1994年に発売されたDR(デ・レーテ)が歌っている「ジュビロ・オレ!」がジュビロ磐田のオフィシャルテーマソングとなっている。 2013年8月3日に[[榛葉薫人|榛葉樹人]]が歌うクラブアンセム「フォッツァ ジュビロ! 〜歓喜への讃歌〜」が発表された<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=3279|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140116112017/http://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=3279|title=クラブアンセム発表「フォッツァ ジュビロ! ~歓喜への讃歌~」|publisher=ジュビロ磐田|accessdate=2013-08-03|archivedate=2020-09-24}}</ref>。 ==== シーズンソング ==== オフィシャルテーマソングの他にシーズンソングがあり、スタジアムやジュビロTV内などで流れる。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="text-align:center; background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||タイトル||アーティスト |- |2011 |[[ソナポケイズム② 〜あなたのうた〜|ハレルヤ!!!!!!!]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=1975|title=2011 シーズンソング発表!!!|publisher=ジュビロ磐田|date=2011-03-03|accessdate=2023-10-23}}</ref> |[[Sonar Pocket|ソナーポケット]] |- |2012 |[[僕の宝物 (シクラメンの曲)|必死マン]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=2423|title=2012 シーズンソング決定|publisher=ジュビロ磐田|date=2011-12-15|accessdate=2023-10-23}}</ref> |[[シクラメン (グループ)|シクラメン]] |- |2013 |[[サヨナラスタート|キミサンバ]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=2964|title=2013シーズンソング決定|publisher=ジュビロ磐田|date=2012-12-19|accessdate=2023-10-23}}</ref> |[[GOLD RUSH (音楽グループ)|GOLD RUSH]] |- |2014 |[[どんなに どんなに|ウィーアーワン]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=3485|title=2014年シーズンソングアーティスト「シクラメン」に決定|publisher=ジュビロ磐田|date=2014-01-14|accessdate=2023-10-23}}</ref> |シクラメン |- |2015 |君の風になって |rowspan=2|[[TANEBI|USAGI]] |- |2016 |名もなき挑戦者 |- |2017 |[[パッサボーラ!|パッサボーラ! (Jubilo ver.)]] |rowspan=2|[[UNIONE]] |- |2018 |Higher |- |2019 |[[little flower|WE CAN!]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=6428|title=2019年シーズンタイアップアーティスト「足立佳奈」に決定|publisher=ジュビロ磐田|date=2018-12-26|accessdate=2023-10-23}}</ref> |[[足立佳奈]] |- |2020 |僕らのPRIDE |rowspan="4" |[[スピラ・スピカ]] |- |2021 |UNITE |- |2022 |Go Beyond |- |2023 |最響未来ファンファーレ |} === ジュビロTV === 2011年、クラブの企画・制作・撮影によるオリジナル番組「ジュビロTV」を開始。スタジアムのビジョンで上映される「ジュビロTV~stadium channel~」、SBSテレビ([[静岡放送]])で放送される「ジュビロTV~SBS channel~」、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]で放送される「ジュビロTV PLUS」の3種類がある。2012年春からは、[[スマートフォン]]で視聴できる「ジュビロTVモバイル」がスタートした。 == 関連番組 == ; 静岡第一テレビ * KICK OFF! SHIZUOKA(毎週日曜日・17:00~17:30)2023年4月 - ; SBS * JubiloTV(毎週木曜日・22:57~23:00)*クラブ自作番組 * みなスポ(毎週土曜日・17:00~17:30) ; 静岡朝日テレビ * スポーツパラダイス(毎週金曜日・23:10~) ; テレビ静岡 * おは・スポ・サンデー(毎週日曜日・6:15~6:30) ; NHK静岡 * たっぷり静岡(月~金・18:10~19:00) == 補強禁止問題 == 2022年9月29日、[[ファビアン・ゴンザレス]]の加入を巡り、前所属クラブ退団後、磐田との契約締結前にタイのクラブと取り交わした契約が存在したことに関して、[[国際サッカー連盟]]の紛争解決室より、FIFA規則に違反するとして補強禁止(ユース含む)の処罰を受けた。ただ、10月19日にこの判決を不服とし[[スポーツ仲裁裁判所]]に上訴した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8582|title=ファビアン ゴンザレス選手に関する国際サッカー連盟(FIFA)決定およびスポーツ仲裁裁判所(CAS)への上訴のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-10-19|accessdate=2022-10-20}}</ref>。 また、2023年4月28日に国際サッカー連盟より、「クラブに対する登録禁止処分」移籍・登録禁止の制裁に関する範囲の明確化を目的としたサーキュラーno.1843が発行された。 ユースチームに関する記載があり、移籍・登録禁止の制裁に関する解釈が変更されたことによって、'''15歳までの選手については、日本サッカー協会(JFA)に登録が必要となる大会・活動への参加が認められる'''ことが明記された。 *その内容は以下のとおり<ref>{{Cite news|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/jleague/detail/?370737-370737-fl|title=磐田に“補強禁止”などの制裁…F・ゴンザレスの契約を巡りFIFA規則違反 クラブはCASに上訴|newspaper=[[ゲキサカ]]|date=2022-10-19|accessdate=2023-10-23}}</ref>。 **ファビアン・ゴンザレスに対して、タイのクラブへ5万ドルの賠償金支払いを命令する。ジュビロも連帯して当該支払い義務を負うものとする。 **ファビアン・ゴンザレスに対してのスポーツ制裁として、4か月間(2022年9月29日(木)~11月5日(土)の38日間および2023年2月18日(土)~5月11日(木)の82日間)の公式試合出場禁止処分<ref>{{Cite web|和書|title=ファビアン ゴンザレス選手に対する4ヶ月間の公式戦出場停止処分のお知らせ |url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8787 |website=www.jubilo-iwata.co.jp |access-date=2023-02-16 |language=ja}}</ref> **ジュビロに対するスポーツ制裁として、今後2回(2023年第1期・第2期登録期間中)の新規選手の登録禁止処分。トップチームだけでなく、下部組織を含むすべての年齢カテゴリーの男子チームを対象とする。 ***この影響で、今季加入内定していた[[師岡柊生]]の仮契約の解除が発表された(その後、師岡は[[鹿島アントラーズ|鹿島]]の加入が決まった)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jubilo-iwata.co.jp/newslist/detail/?nw_seq=8623|title=師岡 柊生選手 来季加入仮契約解除のお知らせ|publisher=ジュビロ磐田|date=2022-11-17|accessdate=2022-11-20}}</ref>。ただし、ユースからトップチームへの昇格など、当クラブの選手の登録区分の変更、並びに他チームへ[[期限付き移籍]]している選手の移籍期間満了に伴うジュビロへの復帰に関しては対象外としていた。 == 決算 == ジュビロ磐田の決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収入|営業収入}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||事業費||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|管理費|一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |3,890 ||1,704 ||654 ||317 ||1,215 ||style="background-color:wheat" |4,073 ||3,349 ||1,834 ||724 ||style="background-color:wheat" |-183 ||style="background-color:wheat" |-106 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |3,717 ||1,946 ||561 ||338 ||872 ||style="background-color:wheat" |3,939 ||3,238 ||1,869 ||701 ||style="background-color:wheat" |-222 ||style="background-color:wheat" |-214 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |3,594 ||2,127 ||524 ||277 ||666 ||style="background-color:wheat" |3,515 ||2,845 ||1,575 ||670 ||style="background-color:wheat" |79 ||style="background-color:wheat" |85 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |3,387 ||1,882 ||582 ||266 ||657 ||style="background-color:wheat" |3,659 ||3,051 ||1,657 ||608 ||style="background-color:wheat" |-272 ||style="background-color:wheat" |-258 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |3,422 ||1,943 ||511 ||225 ||743 ||style="background-color:wheat" |3,395 ||2,684 ||1,582 ||711 ||style="background-color:wheat" |27 ||style="background-color:wheat" |4 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |3,151 ||1,793 ||408 ||339 ||611 ||style="background-color:wheat" |2,901 ||2,308 ||1,254 ||593 ||style="background-color:wheat" |250 ||style="background-color:wheat" |209 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 </div> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |3,151 ||1,695 ||424 ||227 ||31 ||774 ||style="background-color:wheat" |2,919 ||1,299 ||323 ||258 ||47 ||0 ||992 ||style="background-color:wheat" |232 ||style="background-color:wheat" |186 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |3,391 ||1,674 ||403 ||233 ||149 ||932 ||style="background-color:wheat" |3,174 ||1,437 ||309 ||253 ||162 ||0 ||1,013 ||style="background-color:wheat" |217 ||style="background-color:wheat" |170 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |3,298 ||1,645 ||446 ||206 ||249 ||752 ||style="background-color:wheat" |3,233 ||1,369 ||328 ||253 ||182 ||0 ||1,101 ||style="background-color:wheat" |65 ||style="background-color:wheat" |45 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |3,027 ||1,583 ||374 ||101 ||159 ||810 ||style="background-color:wheat" |3,004 ||1,352 ||298 ||244 ||164 ||0 ||946 ||style="background-color:wheat" |23 ||style="background-color:wheat" |24 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |2,995 ||1,515 ||396 ||100 ||231 ||754 ||style="background-color:wheat" |2,943 ||1,263 ||305 ||229 ||186 ||0 ||960 ||style="background-color:wheat" |53 ||style="background-color:wheat" |48 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] 金額の単位: 百万円 </div> {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||物販||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||物販||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |3,303 ||1,569 ||474 ||219 ||234 ||294 ||513 ||style="background-color:wheat" |3,263 ||1,378 ||422 ||227 ||238 ||0 ||168 ||830 ||style="background-color:wheat" |40 ||style="background-color:wheat" |62 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=3890, 3717, 3594, 3387, 3422, 3151, 3151, 3391, 3298, 3027, 2995, 3303 |y2=4073, 3939, 3515, 3659, 3395, 2901, 2919, 3174, 3233, 3004, 2943, 3263 |y3=1834, 1869, 1575, 1657, 1582, 1254, 1299, 1437, 1369, 1352, 1263, 1378 |yAxisMin=0 }} === 資産 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #6C8CBD; box-shadow:4px 4px 4px #6C8CBD;" |- style="background-color:#6C8CBD; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||総資産||総負債||純資産||資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||1,229 ||719 ||509 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||956 ||660 ||295 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||1,158 ||777 ||381 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||1,343 ||1,220 ||122 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||1,011 ||884 ||127 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||948 ||612 ||336 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||1,182 ||659 ||523 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||1,340 ||648 ||692 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||1,286 ||548 ||738 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||1,235 ||473 ||762 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||1,329 ||519 ||810 ||679 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||1,527 ||654 ||873 ||679 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=1229, 956, 1158, 1343, 1011, 948, 1182, 1340, 1286, 1235, 1329, 1527 |y2=509, 295, 381, 122, 127, 336, 523, 692, 738, 762, 810, 873 |showSymbols=yes }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ジュビロ磐田の選手一覧]] * [[ジュビロ磐田の年度別成績一覧]] * [[静岡ダービー]] * [[東海チャンピオンシップ]] * [[静岡ブルーレヴズ]](2021年6月まではヤマハ発動機ジュビロという名称だった) * [[静岡産業大学サッカー部]](ジュビロと技術提携を結んでいる) * [[静岡SSUボニータ]](磐田市に本拠地を置く女子サッカークラブ) * [[Ole Ole Jubilo]]([[静岡エフエム放送|K-MIX]]で、ジュビロ磐田を応援するラジオ番組) * [[SBSビッグナイター]]([[静岡放送|SBSラジオ]]で、ホームゲームの一部をラジオ中継) * [[浜松エフエム放送]](浜松市の[[コミュニティ放送|コミュニティFM]]で、ホーム及びアウェイ全試合を生中継) * [[杉山直 (タレント)|杉山直]](ジュビロ磐田の[[スタジアムDJ]]) == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|サッカー|[[ファイル:Soccer.svg|34px|Portal:サッカー]]}} * {{Official website|mobile=http://mobile.jubilo-iwata.co.jp}} * {{Facebook|ジュビロ磐田-456385577729324}} * {{Twitter|Jubiloiwata_YFC|ジュビロ磐田}} * {{Instagram|jubiloiwata.official|ジュビロ磐田}} * {{YouTube|user = jubilochannel|ジュビロ磐田 公式動画サイト}} * [https://www.at-s.com/sports/shizuoka/jubilo/index.html 静岡新聞SBS] {{Navboxes|title =ジュビロ磐田 関連テンプレート|titlestyle=background-color:#6C8CBD; 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アゾレス諸島
アゾレス諸島(アゾレスしょとう、Azores)は、大西洋の中央部(マカロネシア)に位置するポルトガル領の群島。諸島全体は自治権を持ち、一つの行政区でもある。島名の発音はポルトガル語ではアソーレス (Açores) となる。 ポルトガル沖約1000kmの大西洋上に浮かぶ。1427年に発見された。リスボンから約1500km、北アメリカの東端から3900kmの位置にある。火山が起源で、九つの島からなる。ピコ島の火山ピコ山は標高2351mでアゾレス諸島のみならずポルトガルの最高地点である。 捕鯨および遠洋漁業の基地としても使われたほか、現在は温暖な気候から保養地として人気がある。 カルタゴ人による紀元前の遺跡が2011年に発見されたが、以前からヨーロッパの古典詩・サーガに登場する『西方の島々』のモデルと考えられていた。 1427年、ポルトガル人ディエゴ・デ・シルベスによって「発見」された。マルティン・ベハイムによれば、1431年にエンリケ航海王子の配下の船長のひとりによって発見されたという。1439年以降植民地化が進むが、初期はポルトガルからの移住者を中心とするものの、各国から移住者があった。その地理上の位置から、新大陸への重要な航海基地となった。 1583年、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王としてフランス人商人を排除するためにアゾレス諸島に船団を派遣した。アゾレス諸島は、ポルトガル領の中で最後までハプスブルク朝のスペイン王フェリペ2世のポルトガル支配に抵抗した土地となった。 1820年からの内戦では、アゾレス諸島は自由主義派の拠点となり、テルセイラ島にマリア2世の宮廷が置かれた。 第二次世界大戦中、ポルトガルは一貫して中立国であったが、イギリスとの英葡永久同盟やアメリカからの政治的圧力があったために、事実上、島は連合軍の基地として使用された。 1976年以降、アゾレス諸島全体は自治権をもつ1つの行政区(ポルトガル語: Região Autónoma dos Açores)となっている。アゾレス地域圏の首府と行政府はサンミゲル島のポンタ・デルガダ、議会はファイアル島のオルタ(英語版)、司法上の中心はテルセイラ島のアングラ・ド・エロイズモにおかれる。 リスボンのほぼ西に位置する。主要な島は9つ。総面積は2355kmである。気候は一年を通じて温暖である。アゾレス諸島は、大西洋中央海嶺とホットスポットが重複した位置にあり、基本的には、火山島である。全域はユネスコ世界ジオパークに指定されている。 アゾレス諸島の島は、3つに大別される。 最大の島はサンミゲル島、最小の島はコルヴォ島である。その他にフォルミガス島 (Ilhéus das Formigas)などがある。 また、西経25度~31度という位置にあることから、ポルトガル本土やマデイラ諸島よりも1時間遅いUTC-1(夏時間の際にはUTC+0)を標準時として採用している(スペイン本土とカナリア諸島の関係に似ているが、スペインよりも1時間遅れている)。 リスボンおよびポルトとサンミゲル島のポンタ・デルガダの間にSATA Internationalの定期便が就航するほか、ヨーロッパの主要都市との間にも定期便が運航されている。ポンタ・デルガダ空港からアゾレス諸島各島に航空便がある。 また、ポルトガル本土の主な港との間にフェリーなどの定期船も運航されているほか、観光客を乗せたクルーズ客船も頻繁に運航されている。 人口は全島を合わせて24万人強で、その半分以上がサンミゲル島に住む。2002年12月31日の統計では、全島の人口は23万8767人、人口密度は106人/kmである。全人口の95%がローマ・カトリック信者である。 諸島内には16世紀から18世紀にかけた建築物が随所に残る。テルセイラ島のアングラ・ド・エロイズモの市街と、ピコ島のワイン畑の景観がユネスコの世界遺産に登録されている。 非公式ながらサッカーアゾレス諸島代表というナショナル選抜チームも存在する(しかし、1998年以降活動していない)。 2002年と2006年のFIFAワールドカップに、アソーレス諸島から初のポルトガル代表選手として出場したペドロ・パウレタがいる。ヌーノ・ベッテンコートはアメリカに移民した。
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アゾレス諸島(アゾレスしょとう、Azores)は、大西洋の中央部(マカロネシア)に位置するポルトガル領の群島。諸島全体は自治権を持ち、一つの行政区でもある。島名の発音はポルトガル語ではアソーレス (Açores) となる。
{{基礎情報 国 |自治領等 = y |略名 = アゾレス諸島 |日本語国名 = アゾレス自治地域 |公式国名 = {{Lang|pt|Região Autónoma dos Açores}} |国旗画像 = Flag of the Azores.svg |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of the Azores.svg|85px|アゾレス諸島の紋章]] |国章リンク = |標語 = {{lang|pt|Antes morrer livres que em paz sujeitos}}<br/ > ''平和の中で隷属するより自由人として死なん'' |国歌 = [[アゾレスの歌]] |国歌追記 = |位置画像 = Portugal in the European Union and in its region (Azores special).svg |公用語 = [[ポルトガル語]] |首都 = [[ポンタ・デルガダ]] |最大都市 = ポンタ・デルガダ |元首等肩書 = 共和国代表 |元首等氏名 = {{ill2|ペドロ・マヌエル・ドス・レイス・アルヴェス・カタリーノ|pt|Pedro Manuel dos Reis Alves Catarino}} |首相等肩書 = {{ill2|アゾレス自治地域の自治政府主席|en|Presidents of the Regional Government of the Azores|label=自治政府主席}} |首相等氏名 = {{ill2|ジョゼ・マヌエル・ボリエイロ|en|José Manuel Bolieiro}} |面積順位 = |面積大きさ = |面積値 = 2,322 |水面積率 = |面積追記 = |人口統計年 = 2014 |人口順位 = |人口大きさ = |人口値 = 246,353 |人口密度値 = 106.1 |人口追記 = <ref>[https://citypopulation.de/Portugal-Cities.html Citypopulation.de/Portugal]</ref> |GDP統計年元 = |GDP値元 = |GDP元追記 = |GDP統計年MER = |GDP順位MER = |GDP値MER = |GDPMER追記 = |GDP統計年 = |GDP順位 = |GDP値 = |GDP/人 = |GDP追記 = |建国形態 = 自治化 |建国年月日 = [[1976年]][[9月4日]] |通貨 = [[ユーロ]] |通貨コード = EUR |通貨追記 = |時間帯 = -1 |夏時間 = ±0 |時間帯追記 = |ISO 3166-1 = |ISO 3166-1追記 = |ccTLD = [[.pt]] |ccTLD追記 = |国際電話番号 = 351 |国際電話番号追記 = |注記 = }} [[File:Azores-map.png|thumb|290px|アゾレス諸島地図]] '''アゾレス諸島'''(アゾレスしょとう、Azores)は、[[大西洋]]の中央部([[マカロネシア]])に位置する[[ポルトガル]]領の群島。諸島全体は自治権を持ち、一つの[[行政区]]でもある。島名の発音は[[ポルトガル語]]では'''アソーレス''' (Açores) となる。 == 概要 == ポルトガル沖約1000kmの大西洋上に浮かぶ。[[1427年]]に発見された。[[リスボン]]から約1500km、[[北アメリカ]]の東端から3900kmの位置にある。[[火山]]が起源で、九つの島からなる。[[ピコ島]]の火山[[ピコ山]]は標高2351mでアゾレス諸島のみならずポルトガルの最高地点である。 [[捕鯨]]および[[遠洋漁業]]の基地としても使われたほか、現在は温暖な気候から保養地として人気がある。 == 歴史 == [[カルタゴ]]人による[[紀元前]]の遺跡が2011年に発見された<ref>[http://portuguese-american-journal.com/carthaginian-temples-found-azores/ Carthaginian temples found – Azores] Portuguese American Journal</ref>が、以前からヨーロッパの古典詩・サーガに登場する『西方の島々』のモデルと考えられていた。 [[1427年]]、[[ポルトガル人]][[ディエゴ・デ・シルベス]]によって「発見」された<ref name="Encarta">Microsoft Encarta Encyclopedia 2005.</ref>。[[マルティン・ベハイム]]によれば、[[1431年]]に[[エンリケ航海王子]]の配下の船長のひとりによって発見されたという。[[1439年]]以降植民地化が進むが、初期はポルトガルからの移住者を中心とするものの、各国から移住者があった。その地理上の位置から、[[新大陸]]への重要な航海基地となった。 [[1583年]]、[[スペイン君主一覧|スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]が[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]]としてフランス人商人を排除するためにアゾレス諸島に船団を派遣した。アゾレス諸島は、ポルトガル領の中で最後まで[[ハプスブルク家|ハプスブルク朝]]の[[スペイン王]][[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]のポルトガル支配に抵抗した土地となった。 [[1820年]]からの内戦では、アゾレス諸島は[[自由主義]]派の拠点となり、[[テルセイラ島]]に[[マリア2世]]の宮廷が置かれた。 [[第二次世界大戦]]中、[[エスタド・ノヴォ|ポルトガル]]は一貫して[[中立国]]であったが、[[イギリス]]との[[英葡永久同盟]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]からの政治的圧力があったために、事実上、島は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の基地として使用された。 [[1976年]]以降、アゾレス諸島全体は自治権をもつ1つの行政区({{Lang-pt|Região Autónoma dos Açores}})となっている。アゾレス地域圏の首府と行政府はサンミゲル島の[[ポンタ・デルガダ]]、議会はファイアル島の{{仮リンク|オルタ (アゾレス諸島)|en|Horta, Azores|label=オルタ}}、司法上の中心はテルセイラ島の[[アングラ・ド・エロイズモ]]におかれる。 == 地理 == [[File:Azoren (14).jpg|thumb|250px|[[ピコ島]]の成層火山ピコ山の風景]] {| class="wikitable" style="float:right;clear:right;font-size:small;margin-left:1em;" |+アゾレス諸島の各島(サイズ別) |- !島名!!面積<br />(km{{sup|2}}) |- |[[サンミゲル島]]||style="text-align:right"|759 |- |[[ピコ島]]||style="text-align:right"|446 |- |[[テルセイラ島]]||style="text-align:right"|403 |- |[[サンジョルジェ島]]||style="text-align:right"|246 |- |[[ファイアル島]]||style="text-align:right"|173 |- |[[フローレス島 (ポルトガル)|フローレス島]]||style="text-align:right"|143 |- |[[サンタマリア島]]||style="text-align:right"|97 |- |[[グラシオーザ島]]||style="text-align:right"|62 |- |[[コルヴォ島]]||style="text-align:right"|17 |} [[リスボン]]のほぼ西に位置する。主要な島は9つ。総面積は2355km{{sup|2}}である。気候は一年を通じて温暖である。アゾレス諸島は、[[大西洋中央海嶺]]と[[ホットスポット (地学)|ホットスポット]]が重複した位置にあり、基本的には、火山島である。全域は[[ユネスコ世界ジオパーク]]に指定されている<ref>{{Cite web |title=AÇORES UNESCO GLOBAL GEOPARK (Portugal) |url=https://en.unesco.org/global-geoparks/acores |website=UNESCO |date=2021-07-28 |access-date=2022-10-20 |language=en}}</ref>。 アゾレス諸島の島は、3つに大別される。 * 東部 (Grupo Oriental):[[サンミゲル島]] (São Miguel)、[[サンタマリア島]] (Santa Maria)。 * 中部 (Grupo Central):[[テルセイラ島]] (Terceira)、[[サンジョルジェ島]] (São Jorge)、[[ピコ島]] (Pico)、[[ファイアル島]] (Faial)、[[グラシオーザ島]] (Graciosa)。 * 西部 (Grupo Ocidental):[[フローレス島 (ポルトガル)|フローレス島]] (Flores)、[[コルヴォ島]] (Corvo)。 最大の島はサンミゲル島、最小の島はコルヴォ島である。その他に[[フォルミガス島]] ([[:pt:Ilhéus das Formigas|Ilhéus das Formigas]])などがある。 また、[[西経]]25度~31度という位置にあることから、ポルトガル本土や[[マデイラ諸島]]よりも1時間遅い[[UTC-1]](夏時間の際には[[UTC+0]])を[[標準時]]として採用している([[スペイン]]本土と[[カナリア諸島]]の関係に似ているが、スペインよりも1時間遅れている)。 == 交通 == [[リスボン]]および[[ポルト]]とサンミゲル島の[[ポンタ・デルガダ]]の間に[[SATA International]]の定期便が就航するほか、[[ヨーロッパ]]の主要都市との間にも定期便が運航されている。[[ポンタ・デルガダ空港]]からアゾレス諸島各島に航空便がある。 また、ポルトガル本土の主な港との間に[[フェリー]]などの定期船も運航されているほか、観光客を乗せたクルーズ客船も頻繁に運航されている。 == 住民 == 人口は全島を合わせて24万人強で、その半分以上がサンミゲル島に住む。2002年12月31日の統計では、全島の人口は23万8767人、人口密度は106人/km{{sup|2}}である。全人口の95%が[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]信者である。 == 文化 == [[File:Cidade de Angra do Heroísmo, ilha Terceira, Açores.jpg|thumb|250px|テルセイラ島の[[アングラ・ド・エロイズモ]]。世界遺産に登録されている]] 諸島内には[[16世紀]]から[[18世紀]]にかけた建築物が随所に残る。テルセイラ島の[[アングラ・ド・エロイズモ]]の市街と、[[ピコ島]]の[[ワイン]]畑の景観が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。 非公式ながら[[サッカーアゾレス諸島代表]]というナショナル選抜チームも存在する(しかし、[[1998年]]以降活動していない)。 == 世界遺産 == * アゾレス諸島の[[アングラ・ド・エロイズモ]]の町の中心地区。 * [[ピコ島]]の葡萄園文化の景観 == 著名な出身者 == [[2002年]]と[[2006年]]の[[FIFAワールドカップ]]に、アソーレス諸島から初のポルトガル代表選手として出場した[[ペドロ・パウレタ]]がいる。[[ヌーノ・ベッテンコート]]はアメリカに移民した。 == 映像 == *NHK BSプレミアム 「ワイルドライフ 命の輝き「大西洋アゾレス諸島 クジラが集う海の楽園」」 (2019年9月放映) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[マカロネシア]] ** [[マデイラ諸島]] ** [[カナリア諸島]] ** [[カーボベルデ|ベルデ岬諸島]]([[バルラヴェント諸島]]および[[ソタヴェント諸島]])([[カーボベルデ]]領) == 外部リンク == {{Commons|The Azores}} * [http://www.azores.com/ THE AZORES ISLANDS ARE NOT JUST A DESTINATION BUT A MAGICAL JOURNEY - The The practical site of Azores] * [http://www.destinazores.com/ Azores Tourist Guide - Destinazores] * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/sokone.html#07 |title=消滅した国々-アゾレス諸島 |date=20051125104929}} {{ja icon}} * [http://theazoresislands.blogspot.com The Azores Islands, Portuguese Azores Islands Site] {{en icon}} {{ポルトガルの行政区画}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:あそれす}} [[Category:アゾレス諸島|*]] [[Category:アゾレス諸島の島|*]] [[Category:マカロネシア]] 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有限要素法
有限要素法(ゆうげんようそほう、英語: Finite Element Method, FEM)は数値解析手法の一つ。 解析的に解くことが難しい微分方程式の近似解を数値的に得る方法の一つであり、 Turner-Clough-Martin-Toppによって導入された。 方程式が定義された領域を小領域(要素)に分割し、各小領域における方程式を比較的単純で共通な補間関数で近似する。 構造力学分野で発達し、他の分野でも広く使われている手法である。その背景となる理論は、関数解析(リースの表現定理、ラックス=ミルグラムの定理など)と結びついて、数学的に整然としている。 FEMを用いて現象を研究・分析することを「有限要素解析(FEA)」と呼ぶことがある。 多くの場合に有限要素法では、近似解を求めることが連立一次方程式を解くことに帰着される (つまり最終的には数値線形代数の知識が必要になる)。得られる全体の係数行列は一般に疎行列となる。使用記憶領域の削減と計算速度向上のため、行列のデータ構造には様々な形式が用いられ、その格納形式に対応して効率よく解くソルバーが存在する。たとえば、直接法で解く場合のスカイライン法などが知られている。 形状関数とは、節点における物理量(変位など)から要素内の物理量を内挿するために用いられる関数である。たとえば四面体一次要素の場合、4つの頂点に節点i = 1, ... , 4 がとられ、節点i に対する形状関数Ni とそれぞれの点における物理量ui を用いて、要素内の任意の点 p における物理量up は形状関数の線形結合として と表される。 形状関数Ni には、 という性質がある。 複雑な構造物を小さな要素の集合体として、(静的解析の場合)一次方程式に各節点の変位量の境界条件(ディリクレ境界条件やノイマン境界条件等)を代入して解く。 対象の構造に外力が加わって変形する場合などを解析する際に、構造解析には大きく分けて、変位を未知数にとる変位法と応力を未知数にとる応力法があり、有限要素構造解析では変位法が主流である。その理由は、応力法に比べてアルゴリズムが機械的に実行でき、プログラミングに適しているからである。機械設計分野ではCADモデルを用いた解析が浸透している。 構造解析では使用している式に意味づけをしているが、その他の分野では手法として使用することが多い。電子状態計算(→実空間法)・電気工学・電磁場解析・流体解析など、微分方程式で記述されるあらゆる場の問題に適用可能であって、近年ではそれらの連成解析(流体構造連成、電磁場構造解析など)も盛んに研究されている。 また、従来は取扱いが難しかったクラックや大変形問題に対して、格子を用いないメッシュフリー法の研究も行われている。
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有限要素法は数値解析手法の一つ。 解析的に解くことが難しい微分方程式の近似解を数値的に得る方法の一つであり、 Turner-Clough-Martin-Toppによって導入された。 方程式が定義された領域を小領域(要素)に分割し、各小領域における方程式を比較的単純で共通な補間関数で近似する。 構造力学分野で発達し、他の分野でも広く使われている手法である。その背景となる理論は、関数解析(リースの表現定理、ラックス=ミルグラムの定理など)と結びついて、数学的に整然としている。 FEMを用いて現象を研究・分析することを「有限要素解析(FEA)」と呼ぶことがある。
{{Differential equations}} {{計算物理学}} '''有限要素法'''(ゆうげんようそほう、{{lang-en|Finite Element Method}}, '''FEM''')は[[数値解析]]手法の一つ。 解析的に解くことが難しい[[微分方程式]]の近似解を数値的に得る方法の一つであり<ref name="bs">Brenner, S., & Scott, R. (2007). The mathematical theory of finite element methods (Vol. 15). Springer Science & Business Media.</ref><ref name="or">Oden, J. T., & Reddy, J. N. (2012). An introduction to the mathematical theory of finite elements. Courier Corporation.</ref><ref name="Yamamoto1">{{Cite book |和書 |author=山本哲朗 |title=数値解析入門 |edition=増訂版 |date=2003-06 |publisher=[[サイエンス社]] |series=サイエンスライブラリ 現代数学への入門 14 |ISBN=4-7819-1038-6}}</ref><ref>Ciarlet, P. G. (2002). The finite element method for elliptic problems (Vol. 40). SIAM.</ref>、 Turner-Clough-Martin-Toppによって導入された<ref>Clough, R. W., Martin, H. C., Topp, L. J., & Turner, M. J. (1956). Stiffness and deflection analysis of complex structures. Journal of the Aeronautical Sciences, 23(9).</ref>。 方程式が定義された領域を小領域([[計算格子|要素]])に分割し、各小領域における方程式を比較的単純で共通な[[補間]]関数で近似する<ref name="Yamamoto1"/>。 [[構造力学]]分野で発達し<ref name="zt">Zienkiewicz, O. C., & Taylor, R. L. (2005). The finite element method for solid and structural mechanics. Elsevier.</ref>、他の分野でも広く使われている手法である。その背景となる理論は、[[関数解析]]([[リースの表現定理]]、[[弱形式#ラックス=ミルグラムの定理|ラックス=ミルグラムの定理]]など)と結びついて、数学的に整然としている<ref name="bs"/><ref name="or"/><ref group="注釈">たとえば、有限要素法によって構成される近似解が属する集合は、元の偏微分方程式の解が属する関数空間の有限次元部分空間となるように構成されることが多い。</ref><ref>桂田祐史、[http://nalab.mind.meiji.ac.jp/~mk/lecture/suurikeisantokuron/fem-theory.pdf Poisson方程式に対する有限要素法の解析超特急]</ref>。 FEMを用いて現象を研究・分析することを「有限要素解析(FEA)」と呼ぶことがある。 == 特徴 == *各小領域内を一次関数で補間(近似空間が元の解空間の[[部分空間]]になる場合はある種の[[射影]]を求めることになる)した場合、全領域では適切な[[ノルム]]に対して[[最良近似]]であることが示される<ref group="注釈">補間方法の理論的背景として、{{仮リンク|ガラーキン法|en|Galerkin method|fr|Méthode de Galerkine|it|Metodo di Galërkin|de|Galerkin-Methode|id|Metode Galerkin|cs|Galerkinova metoda|pl|Metoda Galerkina|zh|伽辽金法}}(重みつき残差法の一種)や[[レイリー・リッツ法]](最小ポテンシャル原理)を適用して解を求めるが、両方式は最終的に同じ弱形式に帰着される。</ref>。 *線形問題<ref>Johnson, C., Navert, U., & Pitkaranta, J. (1984). Finite element methods for linear hyperbolic problems. CMAME, 45, 285-312.</ref>・非線形問題<ref>Wriggers, P. (2008). Nonlinear finite element methods. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Akyuz, F. A., & Merwin, J. E. (1968). Solution of nonlinear problems of elastoplasticity by finite element method. AIAA Journal, 6(10), 1825-1831.</ref>・動的解析<ref>Bathe, K. J., Ramm, E., & Wilson, E. L. (1975). Finite element formulations for large deformation dynamic analysis. International journal for numerical methods in engineering, 9(2), 353-386.</ref><ref>Jonker, B. (1990). A finite element dynamic analysis of flexible manipulators. The International Journal of Robotics Research, 9(4), 59-74.</ref><ref>Hughes, T. J. (2012). The finite element method: linear static and dynamic finite element analysis. Courier Corporation.</ref>など、さまざまな問題に対応できる。これは、近似方程式の作り方や領域形状について、自由度が高いことに起因する<ref name="bs"/><ref name="or"/><ref name="Yamamoto1"/>。 *FEMでは、変動微分法を用いて、[[誤差関数]]を最小化することで解を近似する。 == メッシュ == *領域全体をより単純な部分に細分化することには、以下のような利点がある。 *:複雑な形状を正確に表現できる。異種材料の特性を与えることができる。トータルソリューションの表現が容易。局所的な効果を把握できる。 *計算のため小領域に分割することを「[[計算格子|メッシュ]]を切る」という言い方をする。メッシュの適切さは解析結果の正確さに大きく影響する。 *FEMは工学的な解析を行うための計算ツールとしても広く用いられる。FEMを用いた[[CAE]]ソフトウエアでは、複雑な幾何形状を微小要素に分割するメッシュを自動生成する機能をもつものがある。ただしそうした場合も形状の[[特異点_(数学)|特異点]]の扱いに気をつける必要がある。(構造解析における隅部など) *自動車や石油パイプラインのような複雑な解析や、境界が移動する固体反応のように領域が変化する場合や、必要な精度が領域全体で変化する場合や、解が滑らかでない場合などにはFEMは特に適している。FEMではメッシュの粗さを調整することで解析の計算コストを抑えることができる。(変化が大きく重要な部分はメッシュを細かくし予測精度を高め、変化の小さい部分は予測精度を上げる必要がないのでメッシュを粗くし、計算量を減らす。)例えば、自動車の正面衝突シミュレーションでは、車の前部など重要な領域はメッシュを細かくし、後部のメッシュを粗くする。また数値気象予報では、比較的穏やかな場所よりも、高度に非線形な現象が発生している場所(大気中の熱帯低気圧や海洋の渦など)を正確に予測することが重要になる。 == アルゴリズム == *解析対象領域内で成り立つ方式([[ポアソン方程式]]など)に対してある重み関数の積を施し、それを領域内で積分した[[弱形式]]を形成する。 *解析領域内部を小さな有限範囲の[[計算格子|要素]]に分割する。一般的に、要素はその境界に節点が配置され、要素内部の物理量は各節点に対応する'''形状関数'''と節点の値の積の和として表現される<ref group="注釈">したがって、使用する形状関数には一定の制限がある。</ref>。 *:有限要素法では多くの種類の要素が定式化されていて、問題に依って使い分けられるようになっている。要素の種類の違いは、要素の形状、要素内での解の近似に用いる[[多項式]]の次数や、隣り合う要素の間の境界での近似解の連続性などによる。 *解析領域全体の[[弱形式]]は積分で表されるので、それぞれの要素内の積分の総和として表すことができる。つまり、各要素の節点における未知数に対してこの積分を適用することによって、各要素の係数行列(連立一次方程式の左辺行列)を作成する(未知数は変位、速度、圧力など。右辺ベクトルも同時に形成される)。この係数行列は'''要素剛性行列'''と呼ばれる。 *:実際の複雑な問題では要素領域内に対する積分の値を解析的な式計算で求めるのは難しいので、領域の補間関数の次数に応じて[[ガウス求積|ガウス・ルジャンドル法]]などの[[数値積分]]を用いて近似することが多い<ref name="Yamamoto1"/>。 *各要素における係数行列(要素係数行列)の総和を取って領域全体の係数行列('''全体剛性行列'''<ref>土倉泰. (2005). 全体剛性行列を用いた粒状要素解析. 応用力学論文集, 8, 549-556.</ref>と呼ばれる)を作成し、解を求めることができる。 多くの場合に有限要素法では、近似解を求めることが連立一次方程式を解くことに帰着される (つまり最終的には[[数値線形代数]]の知識が必要になる)<ref name="Yamamoto1"/>。得られる全体の係数行列は一般に[[疎行列]]となる。使用記憶領域の削減と計算速度向上のため、行列のデータ構造には様々な形式が用いられ、その格納形式に対応して効率よく解くソルバーが存在する。たとえば、直接法で解く場合のスカイライン法などが知られている<ref>Elwi, A. E., & Murray, D. W. (1985). Skyline algorithms for multilevel substructure analysis. International journal for numerical methods in engineering, 21(3), 465-479.</ref>。 === 形状関数 === 形状関数とは、節点における物理量([[変位]]など)から要素内の物理量を[[要素内補間|内挿]]するために用いられる関数である。たとえば四面体一次要素の場合、4つの頂点に節点''i'' = 1, ... , 4 がとられ、節点''i'' に対する形状関数''N<sub>i</sub>'' とそれぞれの点における物理量''u<sub>i</sub>'' を用いて、要素内の任意の点 ''p'' における物理量''u<sub>p</sub>'' は形状関数の線形結合として :<math>u_p=\sum_{i=1}^{4}N_i u_i=\begin{pmatrix}N_1&N_2&N_3&N_4\end{pmatrix}\begin{pmatrix}u_1\\u_2\\u_3\\u_4\end{pmatrix}</math> と表される。 形状関数''N<sub>i</sub>'' には、 * 節点''i'' の位置において''N<sub>i</sub>'' = 1 * それ以外の節点位置において''N<sub>i</sub>'' = 0 という性質がある。 == 構造解析分野への応用<ref name="zt"/> == 複雑な構造物を小さな要素の集合体として、(静的解析の場合)一次方程式<!-- [K][x]=[F] -->に各節点の変位量の境界条件([[ディリクレ境界条件]]や[[ノイマン境界条件]]等)を代入して解く。 対象の構造に外力が加わって変形する場合などを解析する際に、構造解析には大きく分けて、変位を未知数にとる変位法と応力を未知数にとる応力法があり、有限要素構造解析では変位法が主流である。その理由は、応力法に比べてアルゴリズムが機械的に実行でき、プログラミングに適しているからである。機械設計分野ではCADモデルを用いた解析が浸透している<ref>Foucault, G., Cuillière, J. C., François, V., Léon, J. C., & Maranzana, R. (2008). Adaptation of CAD model topology for finite element analysis. Computer-Aided Design, 40(2), 176-196.</ref>。 == その他の分野への応用 == 構造解析では使用している式に意味づけをしているが、その他の分野では手法として使用することが多い。[[電子状態計算]](→[[実空間法]]<ref>Garcıa-Cervera, C. J. (2007). An efficient real space method for orbital-free density-functional theory. Commun. Comput. Phys, 2(2), 334-357.</ref>)・[[電気工学]]<ref>中田高義, & 高橋則雄. (1980). 電気工学のための有限要素法. 電氣學會雜誌, 100(1), 45-48.</ref>・[[電磁場解析]]<ref>Salon, S. J. (1995). Finite element analysis of electrical machines (Vol. 101). Boston: Kluwer Academic Publishers.</ref>・[[流体解析]]<ref>Reddy, J. N., & Gartling, D. K. (2010). The finite element method in heat transfer and fluid dynamics. CRC Press.</ref><ref>Chung, T. J. (1978). Finite element analysis in fluid dynamics. NASA STI/Recon Technical Report A, 78.</ref><ref>Sackinger, P. A., Brown, R. A., & Derby, J. J. (1989). A finite element method for analysis of fluid flow, heat transfer and free interfaces in Czochralski crystal growth. International journal for numerical methods in fluids, 9(4), 453-492.</ref>など、微分方程式で記述されるあらゆる場の問題に適用可能であって、近年ではそれらの連成解析<ref>張群, & 久田俊明. (2001). 流体・構造連成有限要素解析における連成手法に関する検討. 日本機械学会論文集 A 編, 67(662), 1555-1562.</ref>(流体構造連成、電磁場構造解析など)も盛んに研究されている。 また、従来は取扱いが難しかったクラックや大変形問題に対して、格子を用いない[[メッシュフリー法]]の研究も行われている<ref>Liu, G. R. (2009). Meshfree methods: moving beyond the finite element method. Taylor & Francis.</ref><ref>Yagawa, G., & Yamada, T. (1996). Free mesh method: a new meshless finite element method. Computational Mechanics, 18(5), 383-386.</ref><ref>Puso, M. A., Chen, J. S., Zywicz, E., & Elmer, W. (2008). Meshfree and finite element nodal integration methods. International Journal for Numerical Methods in Engineering, 74(3), 416-446.</ref>。 == 関連項目 == * [[超収束]] * [[数値解析]] * [[精度保証付き数値計算]] * [[第一原理バンド計算]] * [[アワーグラスモード]] ===手法=== * [[境界要素法]] * [[差分法]] * [[代用電荷法]] * [[粒子法]] * [[FDTD法]] * [[変分法]] ===ソフトウェア=== * [[GetFEM++]]<ref>Y. Renard, K. Poulios GetFEM: Automated FE modeling of multiphysics problems based on a generic weak form language. Preprint, https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-02532422/document .</ref> * [[FreeFem++]]<ref>大塚厚二, & 高石武史. [[日本応用数理学会]]監修, 有限要素法で学ぶ現象と数理―FreeFem++ 数理思考プログラミング―,(2014).</ref><ref>大塚厚二. (2001). 数理指向有限要素計算プログラミング言語 FreeFem++. 応用数理, 11(3), 249-252.</ref> * [[:en:FEniCS Project]]<ref>Dupont, T., Hoffman, J., Johnson, C., Kirby, R. C., Larson, M. G., Logg, A., & Scott, L. R. (2003). The fenics project. Chalmers Finite Element Centre, Chalmers University of Technology.</ref><ref>Logg, A., Mardal, K. A., & Wells, G. (Eds.). (2012). Automated solution of differential equations by the finite element method: The FEniCS book (Vol. 84). Springer Science & Business Media.</ref> *[[MATLAB]]<ref>Kwon, Y. W., & Bang, H. (2018). The finite element method using MATLAB. CRC Press.</ref><ref>Pepper, D. W., & Heinrich, J. C. (2017). The finite element method: basic concepts and applications with MATLAB, MAPLE, and COMSOL. CRC Press.</ref><ref>Alberty, J., Carstensen, C., Funken, S. A., & Klose, R. (2002). Matlab implementation of the finite element method in elasticity. Computing, 69(3), 239-263.</ref><ref>Dabrowski, M., Krotkiewski, M., & Schmid, D. W. (2008). MILAMIN: MATLAB‐based finite element method solver for large problems. Geochemistry, Geophysics, Geosystems, 9(4).</ref><ref>Chen, L. (2008). iFEM: an innovative finite element methods package in MATLAB. Preprint, University of Maryland.</ref><ref>Alberty, J., Carstensen, C., & Funken, S. A. (1999). Remarks around 50 lines of Matlab: short finite element implementation. Numerical algorithms, 20(2-3), 117-137.</ref><ref>Ferreira, A. J. (2008). MATLAB codes for finite element analysis: solids and structures (Vol. 157). Springer Science & Business Media.</ref> * [[:en:MFEM|MFEM]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連文献 == === 和書 === {{div col|rules=yes}} * 大地羊三:「有限要素法とその応用」、森北出版(数学ライブラリー 38)(1975年2月20日)。 * G. ストラング、G.J.フィックス、三好哲彦・藤井宏(共訳):「有限要素法の理論」、培風館(1976年4月30日)。 * 加川幸雄:「電気・電子のための 有限要素法入門」、オーム社(1977年5月30日)。 * A.R.Mitchell、R.Wait、[[森正武]](訳):「偏微分方程式の有限要素法」、科学技術出版(1978年5月10日)。 * K.J.Bathe、E.L.Wilson、菊地文雄(訳):「有限要素法の数値計算」、科学技術出版社(1979年9月15日)。 * J.T. オーデン、山田嘉昭(訳):「非線形連続体の有限要素法1」、培風館(1979年11月10日)。 * J.T. オーデン、山田嘉昭(訳):「非線形連続体の有限要素法2」、培風館(1980年1月20日)。 * [[鷲津久一郎]]、宮本博、山田嘉昭、山本善之、川井忠彦(共編)「有限要素法ハンドブック I基礎編」、培風館、ISBN 4-563-03169-0(1981年9月25日)。 * 加川幸雄:「電気・電子のための 有限要素法の実際」、オーム社、ISBN 4-274-02923-9(1982年5月30日)。 * 中田高義、高橋則雄:「電気工学の有限要素法」、森北出版(1982年7月15日)。 * 水木久夫、原平八郎:「有限要素法 理論編」、森北出版、ISBN 4-627-07180-9 (1983年1月25日)。 * 鷲津久一郎、宮本博、山田嘉昭、山本善之、川井忠彦(共編)「有限要素法ハンドブック II応用編」、培風館、ISBN 4-563-03180-1(1983年1月25日)。 * 加川幸雄:「閉領域問題のための 有限/境界要素法」、サイエンス社(1983年7月10日)。 * 森正武:「有限要素法とその応用」、岩波書店(応用数学叢書)(1983年9月9日)。 * C.C.ツィエンキーヴィッツ、𠮷識雅夫(訳)、山田嘉昭(訳):「マトリックス有限要素法(三訂版)」、培風館、ISBN 4-563-03168-2(1984年9月30日)。 * スハス V. パタンカー、水谷幸夫・香月正司(共訳):「コンピュータによる熱移動と流れの数値解析」、森北出版、ISBN 4-627-91190-4(1985年2月27日)。 * 川原睦人:「有限要素法流体解析」、日科技連、ISBN 4-8171-6011-X(1985年3月8日)。 * 鷲津久一郎、池川昌弘:「有限要素法」、岩波書店、ISBN: 4-00-006065-1 (1987年6月24日)。 * 小柴正則:「光・波動のための有限要素法の基礎」、ISBN 4-627-91350-8(1990年10月31日)。 * 久田俊明:「非線形有限要素法のためのテンソル解析の基礎」、丸善、ISBN 978-4621045817(1992年11月1日)。 * 矢川元基、半谷裕彦:「有限要素法の基礎」、朝倉書店、ISBN 4-254-23079-6(1994年6月15日)。 * 日本塑性加工学会 (編):「非線形有限要素法-線形弾性解析から塑性加工解析まで」 、コロナ社、ISBN 978-4339043181(1994年12月1日)。 * 久田俊明、野口裕久:「非線形有限要素法の基礎と応用」、丸善、ISBN 978-4621041253(1996年1月1日)。 * 棚橋隆彦:「流れの有限要素法解析 I」、朝倉書店、ISBN 4-254-11406-0(1997年9月10日)。 * 棚橋隆彦:「流れの有限要素法解析 II」、朝倉書店、ISBN 4-254-11407-9(1997年9月10日)。 * 三好俊郎、白鳥正樹、坂田信二:「有限要素法解析」、朝倉書店、ISBN 4-254-11405-2(1998年9月1日)。 * 矢川元基、塩谷隆二:「超並列有限要素解析」、朝倉書店、ISBN 4-254-23662-X(1998年10月20日)。 * 久田俊明:「非線形有限要素法のためのテンソル解析の基礎」、丸善、ISBN 978-4621045817(1999年9月1日)。 * 矢川元基、青山裕司: 「有限要素法固有値解析」、森北出版、ISBN 4-627-91761-9(2001年9月28日)。 * 日本計算工学会(編)、手塚明、土田英二:「アダプティブ有限要素法」、丸善(2003年8月30日)。 * 矢川元基、吉村忍:「計算固体力学」、岩波書店(シリーズ現代工学入門)、ISBN 4-00-006942-X(2005年7月7日)。 * 福森栄次:「よくわかる有限要素法」、オーム社、ISBN 4-274-06628-2(2005年11月15日)。 * 林正:「ハイアラーキ有限要素法―大型要素による高精度解析法」、技報堂出版、ISBN 978-4765517119 (2006年12月)。 * 川面恵司、渡邉隆之、岡本紀明:「有限要素法のモデル化技術と応用解析」、養賢堂、ISBN 978-4-8425-0422-3(2007年6月27日)。 * 邵長城:「基本からわかる有限要素法」、森北出版、ISBN 978-4-627-91991-4(2008年10月1日)。 * Jacob Fish, Ted Belytschko: 「有限要素法」、丸善、ISBN 978-4-621-07996-6(2008年12月25日)。 * 浦川肇:「ラプラシアンの幾何と有限要素法」、朝倉書店(朝倉数学大系3)、ISBN 978-4-254-11823-0(2009年10月25日)。 * 板根政男:「例題で学ぶ Marc有限要素法解析入門」、丸善、ISBN 978-4-621-08362-8(2011年3月30日)。 * EA de Souza Neto、D. 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2003-03-21T14:40:49Z
2023-10-02T18:35:45Z
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アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジルのレーシングドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。 F1史を代表するドライバーの1人とされ、多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」や「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されている。計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位の記録であった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとの熾烈なライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。 異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が名付けた「音速の貴公子」がよく知られている。 アイルトン・セナ・ダ・シルバは、サンパウロのサンタナ地区にあるプロマトレ産科病院で生まれた。セナは地主で工場経営者でもある資産家ミルトン・ダ・シルバとその妻ネイジ・セナ・ダ・シルバの長男であり、姉のヴィヴィアーニと弟のレオナルドという姉弟がいた。 セナは人生の最初の4年間を母方の祖父ジョアン・セナが所有する家で過ごした。優れた運動神経を持った子供であり、体操やその他のスポーツを得意とした。自動車とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時だった。一方で、幼少時のセナには運動協調性の問題があり、3歳になった時点でも階段を登ることが苦手だった。そのため脳波図(EEG)を調べたが、まったく異常が無いことが確認された。両親はセナを「ベコ(Beco)」というニックネームで呼んでいた。 セナが7歳の時、家族が所有する農場で初めてジープを運転し、クラッチを使うことなくギアチェンジすることを覚えた。セナはサンパウロのイジェノポリス地区にあるカレジオ・リオ・ブランコ(ポルトガル語版)を1977年に卒業し、その後は経営学に特化された大学に進学したが、3ヶ月通った後に退学した。 セナに与えられた初めてのレーシングカートは父ミルトンが自作したもので、1馬力の小さな芝刈り機用エンジンを載せていた。セナが13歳の時、インテルラゴス・サーキットで初めてレーシングカートの競技会に参加した。セナは先頭から初レースをスタートし、自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードして見せたが、最終的にライバルの1人に接触されてリタイアした。父ミルトンは息子のレース活動をサポートし、セナの才能を認めるルシオ・パスカル・ガスコンがその成長を助けた。 セナは1977年に南アメリカ・カート選手権を制した。その後、セナは1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦し、1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となった。1978年にチームメイトとなったテリー・フラートン(英語版)は、のちにセナによって最も対戦を楽しめたライバルとして名前を挙げられている。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞した。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位に入った。1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚した。 1981年2月、セナはフォーミュラカーレースに参戦するため、妻リリアンと共にイギリス(イングランド)に渡った。1981年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズに参戦して両方の選手権でチャンピオンとなった。イギリスで成功を収めたにもかかわらず、家業を手伝うように求める両親からのプレッシャーもあり、セナは1981年シーズンの終了後にフォーミュラ・フォードからの引退を発表し、ブラジルに帰国した。 しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く希望した妻リリアンと両者合意の上で離婚し、1982年2月に単身で再度イギリスに渡った。1982年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード2000に転向し、イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなった。1982年のフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、セナは5月にゾルダーでジル・ヴィルヌーヴの死亡事故を目の当たりにし、数ヶ月後のホッケンハイムでもディディエ・ピローニの大事故に居合わせた。 1983年シーズン、セナはイギリスF3選手権にウエストサリー・レーシングから参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。しかし後半戦以降はエディ・ジョーダン・レーシング所属のマーティン・ブランドルがセナとの差を縮め、両者の関係が険悪になるほどの激しいタイトル争いとなったが、最終的にセナが僅差でチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。 また、初めてF3規格で開催されたマカオGPにセオドールから参戦し、2ヒートを連取して優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハが更新するまで、7年にわたりコースレコードであった。 なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、トヨタ・2T-Gエンジンを搭載していた。 この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向きに名乗るようになる。 F1へステップアップする際には、マクラーレン、ウィリアムズ、ブラバムのマシンテストに招かれ交渉し、当初ブラバム入りが有力となるも、当時ブラバムのエースで前年チャンピオンであるネルソン・ピケが反対したため実現しなかったとの説があった。ブラバムのボスだったバーニー・エクレストンによると、1983年オフのテストで何名かの若手をテストし、一番速かったセナをエクレストンも強力に欲していた。しかしメインスポンサーのイタリア乳製品企業「パルマラット」がチームの2名ともブラジリアンになる事へ難色を示し、1人はヨーロッパドライバーにとの要求があったため、エクレストンはイタリア人のテオ・ファビをピケのサポート役に決定。セナのブラバム入りはご破算となった。その後、複数チームとの交渉を経て、デレック・ワーウィックを移籍で失ったトールマンと契約締結しF1デビューが決まった。 初戦ブラジルGPは前年型のTG183で出場。ターボトラブルでリタイアしたが、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初入賞を達成。しかし前年型マシンはワーウィックやブルーノ・ジャコメリに合わせて作られておりステアリングが重く、腕力を必要としたため、まだ線の細かったセナは体力面で苦労をしていた。第4戦サンマリノGPではチームがピレリからミシュランへとタイヤメーカー契約を変える際の契約トラブルも重なり、キャリア唯一となる予選落ちを喫している。第5戦からニューマシンTG184が投入されると、大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンにF1初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップも記録した。 第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の「水タンク事件」による記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドだった。 マシントラブルやF1での経験不足から安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行、ドイツGPでの一時5位走行等、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数えたが、それでもランキングでロータスのナイジェル・マンセルと並び9位に入った。 シーズンの途中で翌年からのロータス移籍を発表するが、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPでピエルルイジ・マルティニにシートを明け渡した。実質上の代役はステファン・ヨハンソンであるが、イタリアGP後怪我で出走出来ないジョニー・チェコットの代役の座に移った。そのためイタリアGPのみヨハンソンがカーナンバー19のセナのマシンに乗っている。 また、この年にはF1とスケジュールが重ならなかった6月15日のWEC第4戦ニュルブルクリンク1000kmレースにヨースト・レーシングのNEWMANポルシェ・956(アンリ・ペスカローロ、S.ヨハンソンとのチーム)で参戦し、これがグループCカー及び耐久レースへの唯一となる参戦歴となっている(予選9位/決勝8位)。 当時名門に数えられていたロータスに移籍し、F1通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差をつけ、3位以下は全て周回遅れにする独走でF1初優勝を果たした。しかしシーズン前半は安定感に欠け、入賞レースはポルトガルGPのみだった。一方で、セナの速さはFLや連続PPなどの記録として表れ始めた。 シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台に立つ。特に、雨となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪い、以後ゴールまで独走というポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回のみとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、ロータスのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。 「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などからマシンのレギュレーション違反が疑われて検査がなされたり(違反項目は見つからず)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、ニキ・ラウダらに苦言を呈され、後にセナが謝罪する事態となった。 シーズン終了後にはデ・アンジェリスがブラバムに移籍し、ロータスのチームマネージャーであるピーター・ウォーはその後継ドライバーとしてデレック・ワーウィックを加入させたいと考えていたが、セナはこれに反対し「チームの資金を補うために1カー体制にすべき」と希望していた。イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であったという説もあった。結局後継のドライバーはF1ルーキーのジョニー・ダンフリーズとなった。 前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年より名実ともにロータスのNo.1ドライバーとなった。シーズン前半は8戦中6戦でポイントを獲得し、第2戦スペインGP・第7戦デトロイトGPでは優勝を記録した。スペインGPでの勝利は、背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライコンディションでは初の勝利でもあった。 シーズン後半はマシントラブル続きでリタイヤが多く、獲得ポイントは停滞した。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦オーストリアGPでは、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦イタリアGPにおいては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦ポルトガルGPでは、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しドライバーズ・チャンピオンの可能性が消滅した。ドライバーズランキングは4位。 予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得したが、優勝は前年同様2勝に留まった。またウィリアムズ・ホンダ勢との争いで苦戦を強いられたことで、ホンダエンジンの獲得を希望するようになった。 セナの要望を受けたピーター・ウォーがホンダエンジンの獲得に成功し、チームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・中嶋悟が加入。しかし99Tに導入された開発途上のアクティブサスペンションに不具合が多発、この問題はシーズンを通して解決できず様々なトラブルに苦しんだ。それまでの2年間多く獲得していたPPも、この年は第2戦サンマリノGPのみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を挙げた。以後もシャシーやウイングに改良は加えられたが、戦闘力は横ばいで向上しなかった。また、デトロイトでの勝利はチーム・ロータスにとって最後のF1勝利となった。 第7戦イギリスGPでは3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1 - 4位独占の一角を占めるものの、セナは1 - 2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢に周回遅れにされており、ロータスと同じエンジンを搭載のFW11Bとは大きな差があった。第11戦イタリアGPではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周の最終コーナーにてコースアウトしてしまいピケの先行を許し2位に終わる。この時点で5戦を残しチャンピオンの可能性が消滅した。 ウィリアムズ・ホンダによって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇。また、F1が初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPでは、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダに母国でのF1表彰台をもたらした。 このシーズンはルーキーの中嶋が7ポイントに対してセナは2勝で57ポイントとチームメイトに大差をつけたが、イタリアGP開催期間の9月4日にマクラーレンとホンダが開いた共同記者会見にセナも同席し、翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、セナがマクラーレンに移籍しアラン・プロストとコンビを組む事が発表された。悲願であるF1ワールド・チャンピオンを獲るためにセナは3年過ごしたロータスを去ることになった。 当時すでに2度のワールド・チャンピオンを獲得していたプロストとジョイントNo.1体制でコンビを組む。セナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンは開幕から連勝を重ねた。ジョイントNo.1体制のため、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる優勝争いが再三行われた。 2人のポイントが分散し、コンストラクターズ・チャンピオンの獲得が第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズ・チャンピオン争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPではスタートの失敗により14番手に順位を落としたあと挽回して優勝、自身初のワールド・チャンピオンを獲得した。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時のF1史上最多記録を更新するものであった。 「ホンダ・RA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP・第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレンが他を圧倒したシーズンとなった。 しかし、第13戦ポルトガルGPでの幅寄せ行為以降、2人の関係には溝が出来始めていた。 初めてとなるカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPでの通算34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。 決勝では第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での紳士協定に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生。これ以後、前年に兆候があった2人の溝が深まり、チームは大きな問題を抱えることとなった。 その後セナは第4戦メキシコGPまで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦カナダGPは完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。 それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦日本GPにおいて、トップ争いの中で両者はカシオシケインで接触。先にシケインに入ったプロストの右インにセナがつっこみ、両者は接触したままシケイン入り口で直進したまま止まった。プロストはリタイアして車を降り、セナは再スタートしシケインの近道を通過するもレース後に失格処分となり、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦オーストラリアGPに挑んだが、トップ独走中に周回遅れのマーティン・ブランドルに追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。 プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦ハンガリーGPのみという成績であり、安定度の差が獲得ポイントに現れる結果となった。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから一方的に「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス発行拒否の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月のことだった。 前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナがバレストルに謝罪するという形により、開幕直前にスーパーライセンスの発行が許可され、この年の参戦が決定した。 開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年ティレルでデビューしたジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。 この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦イギリスGP以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンとなった。 ただし、その決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に先行するプロストのインにセナがつっこみ、両者ともそのままコースアウトしリタイアという、2年連続で後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこのスタート直後の追突が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触後の納得できない失格裁定と、この日本GPにおけるポールシッター(セナ)のスターティンググリッド位置変更を認めなかったバレストル会長に対する報復の意図があったと告白したが、大きな批判を受けた。 当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。 しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が序盤はセミオートマチックトランスミッションのトラブルに苦しんだウィリアムズ・FW14の戦闘力で巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。 第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを果たし、6戦ぶりの優勝となった。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦日本GPでは、それまでとは異なりマクラーレン勢が優勢で、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行した。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPも制し、7勝でシーズンを終えた。 この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップは譲らなかった。 一方、前年に続いてウィリアムズから移籍のオファーを受けており、前年にもあったフェラーリやウィリアムズとの移籍に関する交渉はロン・デニスに対してプレッシャーをかける意味合いも強かったとされるが、この年のセナは真剣にマクラーレンを離れてFW14の高い戦闘力も思い知らされていたウィリアムズ・ルノーへ移籍する考えを抱いていた。交渉を重ね気持ちは移籍へと傾いていたが、8月13日にウィリアムズからマンセルとパトレーゼの契約更新が発表された。この発表後に取材陣に対してセナは「ちょっと驚いている。というのは僕とウィリアムズの間には・・・(沈黙)、いや、とにかくびっくりしている。このウィリアムズの発表をハッピーな気持ちでは聞けなかった。今シーズンの結果が全て出る前に決まったというプロセスにとてもガッカリしてるという意味でね。」と述べ、決定の時期がセナの本意でなかったと滲ませるコメントをした。ルノーがセナ獲得のために32億円の契約金を用意していたとも報じられた。その後ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年もマクラーレンに残留することとなった。しかしセナ自身は後に「僕はあの時ウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ」と語っている。 ニューマシンMP4/7Aが第3戦に投入されるも、ウィリアムズのアクティブサスペンションを実用化させハイテクを搭載したFW14Bが圧倒的な戦闘力を発揮。マンセルが開幕から5連勝するなど、マクラーレンは完全に劣勢となった。エンジンパワーに頼ったマシンから、空力とパワーとのトータルバランスが重要なマシン作りに変わった転換期でもあった。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルの予定外のタイヤ交換の隙にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでも、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。 しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨が強くなる中スリックタイヤで走行を続ける賭けに出たが失敗し5位に終わっている。結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、ミハエル・シューマッハにも敗れ4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。 さらに、セナに6年間エンジンを提供してきたホンダが同年最終戦をもってF1参戦を休止することを表明。休止発表の直後に行われた第13戦イタリアGPでは、ウィリアムズ勢に揃ってトラブルが発生し、セナは自身最後となるホンダエンジンでの優勝を飾った。しかし、ホンダの母国ラストレースである第15戦日本GPでは、ヘルメットに小さな日の丸をペイントした他、コクピット内にも日の丸の小旗を用意してチェッカー後に地元の日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく準備しての決勝だったが、わずか3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生しS字セクション先でスローダウン、最初のリタイア車となってしまった。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調だったが決勝ではトップ争い中にマンセルに追突して両者リタイア。ホンダでのラスト2戦を好結果で締めくくることはできなかった。 ホンダが撤退したため、マクラーレンはカスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対しワークス仕様の供給を求めたが、先にフォードとの独占ワークス契約を結んでいるベネトンがこれを拒絶。最新仕様はベネトンにのみ供給され、マクラーレンは旧スペックの使用となった。このため、マクラーレン勢は1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られ、開幕前からセナはタイトル争いにおいて苦戦することが予想されていた。 開幕戦こそ予選で肉薄出来たが、ウィリアムズとのマシンの戦力差が大きく、モチベーションが低下したセナは1993年中の休養もほのめかすようになり、前年チャンピオンとなったマンセルがCARTに転向したことに続き、セナもまたCART転向を検討しシーズン前には同郷の先輩エマーソン・フィッティパルディのペンスキー・PC22(英語版)をテストドライブしていた。結局は開幕直前にマクラーレンと1戦ごとに契約を結ぶ異例の契約方式で残留した。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、全戦出走に至った。セナのF1参戦が未確定だった開幕前には、ロン・デニスがセナ休養となった場合に備え、ウィリアムズと一旦契約した後に諸事情で白紙となりロータス残留かと思われたミカ・ハッキネンと駆け込みで契約締結していた。 開幕戦南アフリカGPではPPのプロストから僅差の予選2位から、一時はトップを走行しての2位。第2戦ブラジルGPではペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイア、セーフティーカー導入などを味方につけて母国2勝目を挙げた。第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち連勝を果たした。第6戦モナコGPでは、PPのプロストがフライングスタートによるペナルティストップ時にエンジンストール、更に代わってトップに立ったミハエル・シューマッハがマシントラブルでリタイアしたことからグラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。 しかし、これ以後ウィリアムズが復調、雨のレースが訪れなかったこともあって、セナは表彰台すら届かないレースが続く。プロストにポイント差を広げられ、更にはシューマッハやプロストのチームメイトであるデイモン・ヒルにも苦戦するようになる。序盤のセナによる3度の優勝歴とロン・デニスの交渉により第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンは序盤戦に未搭載だったアクティブサスペンションやTCSなどハイテクを装備することで戦闘力が向上しており、セナの成績向上には至らなかった。第13戦イタリアGPでのリタイアによりセナはタイトル獲得の可能性が消滅し、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、予選ではマイケル・アンドレッティに代わり同レースからチームメイトとなったハッキネンに敗れ、決勝ではリタイヤにより、表彰台未登壇の自身ワースト記録を更新(8戦連続)してしまう出来事もあった。 プロストの引退表明により直接対決が残り2戦となった第15戦日本GPおよび最終戦オーストラリアGP(後者はこの年初にしてウィリアムズ以外のチームでは唯一となるPPを獲得)では連勝を果たした。結果的にオーストラリアGPでの通算41勝目が自身最後のF1勝利となった。 同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていたデイモン・ヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にカート大会に参加、これが最後の「セナプロ対決」となった。 6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たす。マスコミなどはセナがシーズンを圧倒するのではないかと予想する者までいた。 しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテクがこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常に神経質なマシンに仕上がっていた。テストにおいても最速ではあったが、前年までの圧倒的な速さが消えていた。 特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。 空力にも手を加えられていたが、低速コーナーではベネトンのマシンが優勢で、1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。FW16は空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と漏らしている。 開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイア。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタートで出遅れた上にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイア。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。 迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には鼻骨骨折というクラッシュの規模からすると軽傷で済んだが、一時は安否を心配される大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。 これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と話していたという。 セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープして直後にミハエル・シューマッハを従えたが、後方グランドスタンド前での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、高速左コーナー「タンブレロ」において時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となりグリップを失ったままアウト側に向かい、そのまま直進してコースアウト、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、マシンはボディー右側が大破し、セナは頭部に致命傷を負った。 セナは意識不明のままコース上に降りたヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で帰らぬ人となった(以後、ジュール・ビアンキが2014年日本グランプリ決勝での事故により翌年死亡するまで20年間F1ドライバーの死亡事故は発生しなかった)。 事故直前の車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るものの、路面の舗装が変わる部分で突然車両がグリップを失い、そのままコンクリートウォールに激突する様子が記録されている。事故原因として当初疑われたパワーステアリング故障は否定された(コントロール喪失後もテレメトリーによる操舵トルクおよびパワーステアリング圧が持続していることから)。現在ではステアリングコラムが壊れた、またはわずかな路面の不整から車両が不安定となりコントロールを失ったことが原因と考えられているが、事故原因の確定的な結論には至っていない。 検死の結果、セナの死因はクラッシュ時にマシンの「サスペンションの一部が、ヘルメットを貫通した」ことであると結論付けられた。 セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去のアナウンスを優先し、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していた現地のテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。 セナの亡骸がイタリアから母国に搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラス MD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。 母国の政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。多くのドライバーがセナの葬儀に出向いたため、FIA会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、5月7日にオーストリアのザルツブルクで行われたローランド・ラッツェンバーガーの葬儀に出席した。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。 ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称。サンパウロ地下鉄では、彼が生まれ育った地域にある駅名「ジャルジン・サンパウロ駅」に彼の名前を付けて変更を行う(Estação Jardim São Paulo-Ayrton Senna)など、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。 また、同年に行われた1994 FIFAワールドカップではサッカーブラジル代表が1994 FIFAワールドカップ・決勝で4度目の優勝を果たし、「SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA É NOSSO!」(セナ、共に走ろう。4度目の優勝は我々のものだ)という横断幕を掲げた。 1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーを悼むために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。 セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐ彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後、彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った。 セナの死から24年後となる2018年、マクラーレン・オートモーティブよりセナの名を冠した新型スーパーカー「マクラーレン・セナ」が発表された。 予選での速さで知られ、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーは未だいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった(2021年10月現在はルイス・ハミルトンのPP101回が最多記録)。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、PP最多記録保持者のルイス・ハミルトンで35.7%、セナのPP最多記録を更新したシューマッハで25.3%に留まっている。 予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。 決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数19回(2019年シーズン終了時・歴代15位タイ)は、勝利数41回(歴代5位)、PP数65回(歴代3位)と比較すると少ない。 セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。 セナ以前にもケケ・ロズベルグが「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤを採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークがノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、セナのアクセルワーク自体が無視されてしまうという「セナだけに発生するトラブル」が起こり、ホンダはこの問題を解決するのに苦労した。 セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」となった。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と述べ、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現できないとの結論に達している。 このテクニックにより多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている。1989年第12戦イタリアGPのモンツァ・サーキットでは予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、ホンダV10エンジンをプロストより1000回転高い領域で使用していたという。 後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「車はアンダー気味にセッティングをしておいて、セナ足で細かくパワーオーバーを出すことで打ち消し、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。 日本のサックス奏者本田雅人がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。 「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。 得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないと発言している。これは同じくウェットレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。 雨と同時に、ストリート(市街地)コースを得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた。走行した6ストリートコースのうち、デビュー年のみの開催だったダラスは未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録した。モンテカルロでは5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、スパ(2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、デトロイトでは3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP(フェニックス、モンテカルロ、スパ、アデレード)をすべて制した。 パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のあるイモラも、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。 逆に鬼門とされていたのはモンツァ、エストリル、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグア、インテルラゴスなどである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは1勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみだった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中の単独スピンなどが発生している。 また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは地元GPにおいても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝率を記録しており、この面では対照的な結果が残ることとなった。 その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで直接苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言内容として驚きだ」「僕たちF1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「私には私の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンであるジャック・ブラバムは、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた。後述するトップ・ギアのセナ特集でマーティン・ブランドルは「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくる」と語っている。 セナは神経質で内向的な性格と言われていた。ただ、ロータスでチームメイトだったエリオ・デ・アンジェリス、マクラーレンでコンビを組んだゲルハルト・ベルガー、ウィリアムズでチームメイトだったデイモン・ヒル、トレーニング・ジムで知り合ったティエリー・ブーツェン、同じポルトガル語圏出身でロータスの後輩であるペドロ・ラミー、同胞で後輩のマウリシオ・グージェルミン、ルーベンス・バリチェロらとは良好な関係を築いていた。バリチェロが94年のイモラにおいて事故を起こした際には、その入院先に家族よりも先に訪れ、意識を取り戻すまで付き添っていた。バリチェロは目覚めた時にセナが傍らに居て驚いたというエピソードを後に語っている。 ロータスでチームメイトとなった中嶋悟は、「彼は、レースの闘い方やコースのこと、(マシン)セッティングのこと、そして、政治的なことまで包み隠さずアドバイスしてくれた」「彼ほど性格が生真面目なドライバーを見たことがない」とセナの人間的な面を語っている。 2度の選手権王者となった1990年頃には、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦ベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている(詳細はエディ・アーバインを参照)。この一件では6か月の執行猶予付きで2戦出場停止処分を受けた。 ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルは、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、89年鈴鹿のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。これらの構図は、慢性的にF1界を取り巻いてきた欧州封建の側面と対峙するかのようなセナの姿勢を印象付け、特に欧州圏外での熱狂的なファン獲得に繋がった要因とも言われている。 彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない......それは非常に難しいことだったでしょう。 1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。 また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。 開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいないとされた。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件でホンダのエンジニアによるセナへの評価や信頼が上昇することとなった。 1988年の鈴鹿でのレース後に、セナはアラン・プロストと共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、礼を言われるとは思ってもいなかったので、感激しほとんど料理を食べることができず、ただ涙を流していたという。 レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピーは「Just move it」。 また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。 2013年、ホンダは1989年日本GPにおけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを3DCGで再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した。 1987年はロータス、1988 - 1992年はマクラーレンで通算6年間ホンダエンジン搭載車でドライブした。なおここでは記録のパーセンテージのうち小数点以下は四捨五入して掲載している。 ドライバーズタイトル、優勝、PP、FL、通算ポイントといずれもホンダエンジンのドライバー別通算記録の中で最多記録となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジルのレーシングドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "F1史を代表するドライバーの1人とされ、多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」や「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されている。計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位の記録であった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとの熾烈なライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が名付けた「音速の貴公子」がよく知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アイルトン・セナ・ダ・シルバは、サンパウロのサンタナ地区にあるプロマトレ産科病院で生まれた。セナは地主で工場経営者でもある資産家ミルトン・ダ・シルバとその妻ネイジ・セナ・ダ・シルバの長男であり、姉のヴィヴィアーニと弟のレオナルドという姉弟がいた。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "セナは人生の最初の4年間を母方の祖父ジョアン・セナが所有する家で過ごした。優れた運動神経を持った子供であり、体操やその他のスポーツを得意とした。自動車とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時だった。一方で、幼少時のセナには運動協調性の問題があり、3歳になった時点でも階段を登ることが苦手だった。そのため脳波図(EEG)を調べたが、まったく異常が無いことが確認された。両親はセナを「ベコ(Beco)」というニックネームで呼んでいた。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "セナが7歳の時、家族が所有する農場で初めてジープを運転し、クラッチを使うことなくギアチェンジすることを覚えた。セナはサンパウロのイジェノポリス地区にあるカレジオ・リオ・ブランコ(ポルトガル語版)を1977年に卒業し、その後は経営学に特化された大学に進学したが、3ヶ月通った後に退学した。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "セナに与えられた初めてのレーシングカートは父ミルトンが自作したもので、1馬力の小さな芝刈り機用エンジンを載せていた。セナが13歳の時、インテルラゴス・サーキットで初めてレーシングカートの競技会に参加した。セナは先頭から初レースをスタートし、自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードして見せたが、最終的にライバルの1人に接触されてリタイアした。父ミルトンは息子のレース活動をサポートし、セナの才能を認めるルシオ・パスカル・ガスコンがその成長を助けた。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "セナは1977年に南アメリカ・カート選手権を制した。その後、セナは1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦し、1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となった。1978年にチームメイトとなったテリー・フラートン(英語版)は、のちにセナによって最も対戦を楽しめたライバルとして名前を挙げられている。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞した。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位に入った。1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚した。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1981年2月、セナはフォーミュラカーレースに参戦するため、妻リリアンと共にイギリス(イングランド)に渡った。1981年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズに参戦して両方の選手権でチャンピオンとなった。イギリスで成功を収めたにもかかわらず、家業を手伝うように求める両親からのプレッシャーもあり、セナは1981年シーズンの終了後にフォーミュラ・フォードからの引退を発表し、ブラジルに帰国した。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く希望した妻リリアンと両者合意の上で離婚し、1982年2月に単身で再度イギリスに渡った。1982年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード2000に転向し、イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなった。1982年のフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、セナは5月にゾルダーでジル・ヴィルヌーヴの死亡事故を目の当たりにし、数ヶ月後のホッケンハイムでもディディエ・ピローニの大事故に居合わせた。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1983年シーズン、セナはイギリスF3選手権にウエストサリー・レーシングから参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。しかし後半戦以降はエディ・ジョーダン・レーシング所属のマーティン・ブランドルがセナとの差を縮め、両者の関係が険悪になるほどの激しいタイトル争いとなったが、最終的にセナが僅差でチャンピオンを獲得した。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、初めてF3規格で開催されたマカオGPにセオドールから参戦し、2ヒートを連取して優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、1990年にミカ・ハッキネンとミハエル・シューマッハが更新するまで、7年にわたりコースレコードであった。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、トヨタ・2T-Gエンジンを搭載していた。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向きに名乗るようになる。", "title": "F1以前" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "F1へステップアップする際には、マクラーレン、ウィリアムズ、ブラバムのマシンテストに招かれ交渉し、当初ブラバム入りが有力となるも、当時ブラバムのエースで前年チャンピオンであるネルソン・ピケが反対したため実現しなかったとの説があった。ブラバムのボスだったバーニー・エクレストンによると、1983年オフのテストで何名かの若手をテストし、一番速かったセナをエクレストンも強力に欲していた。しかしメインスポンサーのイタリア乳製品企業「パルマラット」がチームの2名ともブラジリアンになる事へ難色を示し、1人はヨーロッパドライバーにとの要求があったため、エクレストンはイタリア人のテオ・ファビをピケのサポート役に決定。セナのブラバム入りはご破算となった。その後、複数チームとの交渉を経て、デレック・ワーウィックを移籍で失ったトールマンと契約締結しF1デビューが決まった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "初戦ブラジルGPは前年型のTG183で出場。ターボトラブルでリタイアしたが、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初入賞を達成。しかし前年型マシンはワーウィックやブルーノ・ジャコメリに合わせて作られておりステアリングが重く、腕力を必要としたため、まだ線の細かったセナは体力面で苦労をしていた。第4戦サンマリノGPではチームがピレリからミシュランへとタイヤメーカー契約を変える際の契約トラブルも重なり、キャリア唯一となる予選落ちを喫している。第5戦からニューマシンTG184が投入されると、大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンにF1初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップも記録した。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。またティレル勢の「水タンク事件」による記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦ベルギーGPが6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドだった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "マシントラブルやF1での経験不足から安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行、ドイツGPでの一時5位走行等、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数えたが、それでもランキングでロータスのナイジェル・マンセルと並び9位に入った。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "シーズンの途中で翌年からのロータス移籍を発表するが、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現した。この影響でセナは第14戦イタリアGPでピエルルイジ・マルティニにシートを明け渡した。実質上の代役はステファン・ヨハンソンであるが、イタリアGP後怪我で出走出来ないジョニー・チェコットの代役の座に移った。そのためイタリアGPのみヨハンソンがカーナンバー19のセナのマシンに乗っている。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、この年にはF1とスケジュールが重ならなかった6月15日のWEC第4戦ニュルブルクリンク1000kmレースにヨースト・レーシングのNEWMANポルシェ・956(アンリ・ペスカローロ、S.ヨハンソンとのチーム)で参戦し、これがグループCカー及び耐久レースへの唯一となる参戦歴となっている(予選9位/決勝8位)。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "当時名門に数えられていたロータスに移籍し、F1通算16戦目となる第2戦ポルトガルGPで自身初のPPを獲得した。豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、2位のミケーレ・アルボレートに1分以上の差をつけ、3位以下は全て周回遅れにする独走でF1初優勝を果たした。しかしシーズン前半は安定感に欠け、入賞レースはポルトガルGPのみだった。一方で、セナの速さはFLや連続PPなどの記録として表れ始めた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台に立つ。特に、雨となった第13戦ベルギーGPでは、予選2位からスタートでトップを奪い、以後ゴールまで独走というポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回のみとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、ロータスのエースだったエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などからマシンのレギュレーション違反が疑われて検査がなされたり(違反項目は見つからず)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦モナコGP予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、ニキ・ラウダらに苦言を呈され、後にセナが謝罪する事態となった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "シーズン終了後にはデ・アンジェリスがブラバムに移籍し、ロータスのチームマネージャーであるピーター・ウォーはその後継ドライバーとしてデレック・ワーウィックを加入させたいと考えていたが、セナはこれに反対し「チームの資金を補うために1カー体制にすべき」と希望していた。イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であったという説もあった。結局後継のドライバーはF1ルーキーのジョニー・ダンフリーズとなった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年より名実ともにロータスのNo.1ドライバーとなった。シーズン前半は8戦中6戦でポイントを獲得し、第2戦スペインGP・第7戦デトロイトGPでは優勝を記録した。スペインGPでの勝利は、背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライコンディションでは初の勝利でもあった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "シーズン後半はマシントラブル続きでリタイヤが多く、獲得ポイントは停滞した。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦オーストリアGPでは、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦イタリアGPにおいては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦ポルトガルGPでは、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しドライバーズ・チャンピオンの可能性が消滅した。ドライバーズランキングは4位。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得したが、優勝は前年同様2勝に留まった。またウィリアムズ・ホンダ勢との争いで苦戦を強いられたことで、ホンダエンジンの獲得を希望するようになった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "セナの要望を受けたピーター・ウォーがホンダエンジンの獲得に成功し、チームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・中嶋悟が加入。しかし99Tに導入された開発途上のアクティブサスペンションに不具合が多発、この問題はシーズンを通して解決できず様々なトラブルに苦しんだ。それまでの2年間多く獲得していたPPも、この年は第2戦サンマリノGPのみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を挙げた。以後もシャシーやウイングに改良は加えられたが、戦闘力は横ばいで向上しなかった。また、デトロイトでの勝利はチーム・ロータスにとって最後のF1勝利となった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第7戦イギリスGPでは3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1 - 4位独占の一角を占めるものの、セナは1 - 2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢に周回遅れにされており、ロータスと同じエンジンを搭載のFW11Bとは大きな差があった。第11戦イタリアGPではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周の最終コーナーにてコースアウトしてしまいピケの先行を許し2位に終わる。この時点で5戦を残しチャンピオンの可能性が消滅した。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ウィリアムズ・ホンダによって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇。また、F1が初めて鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPでは、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダに母国でのF1表彰台をもたらした。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このシーズンはルーキーの中嶋が7ポイントに対してセナは2勝で57ポイントとチームメイトに大差をつけたが、イタリアGP開催期間の9月4日にマクラーレンとホンダが開いた共同記者会見にセナも同席し、翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、セナがマクラーレンに移籍しアラン・プロストとコンビを組む事が発表された。悲願であるF1ワールド・チャンピオンを獲るためにセナは3年過ごしたロータスを去ることになった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "当時すでに2度のワールド・チャンピオンを獲得していたプロストとジョイントNo.1体制でコンビを組む。セナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンは開幕から連勝を重ねた。ジョイントNo.1体制のため、第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる優勝争いが再三行われた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2人のポイントが分散し、コンストラクターズ・チャンピオンの獲得が第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズ・チャンピオン争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPではスタートの失敗により14番手に順位を落としたあと挽回して優勝、自身初のワールド・チャンピオンを獲得した。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時のF1史上最多記録を更新するものであった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "「ホンダ・RA168E」を搭載した「MP4/4」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦サンマリノGP・第6戦デトロイトGPでは、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレンが他を圧倒したシーズンとなった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし、第13戦ポルトガルGPでの幅寄せ行為以降、2人の関係には溝が出来始めていた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "初めてとなるカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦アメリカGPでの通算34度目のPPは、それまでジム・クラークが保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "決勝では第2戦サンマリノGPでシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での紳士協定に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生。これ以後、前年に兆候があった2人の溝が深まり、チームは大きな問題を抱えることとなった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その後セナは第4戦メキシコGPまで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦カナダGPは完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦日本GPにおいて、トップ争いの中で両者はカシオシケインで接触。先にシケインに入ったプロストの右インにセナがつっこみ、両者は接触したままシケイン入り口で直進したまま止まった。プロストはリタイアして車を降り、セナは再スタートしシケインの近道を通過するもレース後に失格処分となり、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦オーストラリアGPに挑んだが、トップ独走中に周回遅れのマーティン・ブランドルに追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦ハンガリーGPのみという成績であり、安定度の差が獲得ポイントに現れる結果となった。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、FIAの会長であったジャン=マリー・バレストルから一方的に「危険なドライバー」と見なされ、スーパーライセンス発行拒否の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月のことだった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナがバレストルに謝罪するという形により、開幕直前にスーパーライセンスの発行が許可され、この年の参戦が決定した。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年ティレルでデビューしたジャン・アレジと繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦イギリスGP以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンとなった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ただし、その決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に先行するプロストのインにセナがつっこみ、両者ともそのままコースアウトしリタイアという、2年連続で後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこのスタート直後の追突が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触後の納得できない失格裁定と、この日本GPにおけるポールシッター(セナ)のスターティンググリッド位置変更を認めなかったバレストル会長に対する報復の意図があったと告白したが、大きな批判を受けた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が序盤はセミオートマチックトランスミッションのトラブルに苦しんだウィリアムズ・FW14の戦闘力で巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "第10戦ハンガリーGPでは、直前に本田宗一郎が死去。喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを果たし、6戦ぶりの優勝となった。続く第11戦ベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦日本GPでは、それまでとは異なりマクラーレン勢が優勢で、チームメイトのゲルハルト・ベルガーがPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行した。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦オーストラリアGPも制し、7勝でシーズンを終えた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップは譲らなかった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方、前年に続いてウィリアムズから移籍のオファーを受けており、前年にもあったフェラーリやウィリアムズとの移籍に関する交渉はロン・デニスに対してプレッシャーをかける意味合いも強かったとされるが、この年のセナは真剣にマクラーレンを離れてFW14の高い戦闘力も思い知らされていたウィリアムズ・ルノーへ移籍する考えを抱いていた。交渉を重ね気持ちは移籍へと傾いていたが、8月13日にウィリアムズからマンセルとパトレーゼの契約更新が発表された。この発表後に取材陣に対してセナは「ちょっと驚いている。というのは僕とウィリアムズの間には・・・(沈黙)、いや、とにかくびっくりしている。このウィリアムズの発表をハッピーな気持ちでは聞けなかった。今シーズンの結果が全て出る前に決まったというプロセスにとてもガッカリしてるという意味でね。」と述べ、決定の時期がセナの本意でなかったと滲ませるコメントをした。ルノーがセナ獲得のために32億円の契約金を用意していたとも報じられた。その後ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年もマクラーレンに残留することとなった。しかしセナ自身は後に「僕はあの時ウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ」と語っている。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ニューマシンMP4/7Aが第3戦に投入されるも、ウィリアムズのアクティブサスペンションを実用化させハイテクを搭載したFW14Bが圧倒的な戦闘力を発揮。マンセルが開幕から5連勝するなど、マクラーレンは完全に劣勢となった。エンジンパワーに頼ったマシンから、空力とパワーとのトータルバランスが重要なマシン作りに変わった転換期でもあった。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、6連勝目前だったマンセルの予定外のタイヤ交換の隙にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦ドイツGPでも、終盤にリカルド・パトレーゼの追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦スペインGPでは、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦ベルギーGPでは、雨が強くなる中スリックタイヤで走行を続ける賭けに出たが失敗し5位に終わっている。結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、ミハエル・シューマッハにも敗れ4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "さらに、セナに6年間エンジンを提供してきたホンダが同年最終戦をもってF1参戦を休止することを表明。休止発表の直後に行われた第13戦イタリアGPでは、ウィリアムズ勢に揃ってトラブルが発生し、セナは自身最後となるホンダエンジンでの優勝を飾った。しかし、ホンダの母国ラストレースである第15戦日本GPでは、ヘルメットに小さな日の丸をペイントした他、コクピット内にも日の丸の小旗を用意してチェッカー後に地元の日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく準備しての決勝だったが、わずか3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生しS字セクション先でスローダウン、最初のリタイア車となってしまった。最終戦オーストラリアGPでは、予選から好調だったが決勝ではトップ争い中にマンセルに追突して両者リタイア。ホンダでのラスト2戦を好結果で締めくくることはできなかった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ホンダが撤退したため、マクラーレンはカスタマー仕様のフォードHBV8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対しワークス仕様の供給を求めたが、先にフォードとの独占ワークス契約を結んでいるベネトンがこれを拒絶。最新仕様はベネトンにのみ供給され、マクラーレンは旧スペックの使用となった。このため、マクラーレン勢は1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られ、開幕前からセナはタイトル争いにおいて苦戦することが予想されていた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "開幕戦こそ予選で肉薄出来たが、ウィリアムズとのマシンの戦力差が大きく、モチベーションが低下したセナは1993年中の休養もほのめかすようになり、前年チャンピオンとなったマンセルがCARTに転向したことに続き、セナもまたCART転向を検討しシーズン前には同郷の先輩エマーソン・フィッティパルディのペンスキー・PC22(英語版)をテストドライブしていた。結局は開幕直前にマクラーレンと1戦ごとに契約を結ぶ異例の契約方式で残留した。第7戦カナダGPまでは1戦ごとの契約で走った後、第8戦フランスGPにて正式にシーズン契約を結び、全戦出走に至った。セナのF1参戦が未確定だった開幕前には、ロン・デニスがセナ休養となった場合に備え、ウィリアムズと一旦契約した後に諸事情で白紙となりロータス残留かと思われたミカ・ハッキネンと駆け込みで契約締結していた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "開幕戦南アフリカGPではPPのプロストから僅差の予選2位から、一時はトップを走行しての2位。第2戦ブラジルGPではペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイア、セーフティーカー導入などを味方につけて母国2勝目を挙げた。第3戦ヨーロッパGP(ドニントンパーク)でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち連勝を果たした。第6戦モナコGPでは、PPのプロストがフライングスタートによるペナルティストップ時にエンジンストール、更に代わってトップに立ったミハエル・シューマッハがマシントラブルでリタイアしたことからグラハム・ヒルを上回るモナコ6勝目を達成し、1989年からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "しかし、これ以後ウィリアムズが復調、雨のレースが訪れなかったこともあって、セナは表彰台すら届かないレースが続く。プロストにポイント差を広げられ、更にはシューマッハやプロストのチームメイトであるデイモン・ヒルにも苦戦するようになる。序盤のセナによる3度の優勝歴とロン・デニスの交渉により第9戦イギリスGPよりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンは序盤戦に未搭載だったアクティブサスペンションやTCSなどハイテクを装備することで戦闘力が向上しており、セナの成績向上には至らなかった。第13戦イタリアGPでのリタイアによりセナはタイトル獲得の可能性が消滅し、続く第14戦ポルトガルGPでプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、予選ではマイケル・アンドレッティに代わり同レースからチームメイトとなったハッキネンに敗れ、決勝ではリタイヤにより、表彰台未登壇の自身ワースト記録を更新(8戦連続)してしまう出来事もあった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "プロストの引退表明により直接対決が残り2戦となった第15戦日本GPおよび最終戦オーストラリアGP(後者はこの年初にしてウィリアムズ以外のチームでは唯一となるPPを獲得)では連勝を果たした。結果的にオーストラリアGPでの通算41勝目が自身最後のF1勝利となった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていたデイモン・ヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にカート大会に参加、これが最後の「セナプロ対決」となった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たす。マスコミなどはセナがシーズンを圧倒するのではないかと予想する者までいた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテクがこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常に神経質なマシンに仕上がっていた。テストにおいても最速ではあったが、前年までの圧倒的な速さが消えていた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの空力的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。 空力にも手を加えられていたが、低速コーナーではベネトンのマシンが優勢で、1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。FW16は空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と漏らしている。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイア。第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタートで出遅れた上にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイア。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には鼻骨骨折というクラッシュの規模からすると軽傷で済んだが、一時は安否を心配される大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と話していたという。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープして直後にミハエル・シューマッハを従えたが、後方グランドスタンド前での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、高速左コーナー「タンブレロ」において時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となりグリップを失ったままアウト側に向かい、そのまま直進してコースアウト、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、マシンはボディー右側が大破し、セナは頭部に致命傷を負った。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "セナは意識不明のままコース上に降りたヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で帰らぬ人となった(以後、ジュール・ビアンキが2014年日本グランプリ決勝での事故により翌年死亡するまで20年間F1ドライバーの死亡事故は発生しなかった)。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "事故直前の車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るものの、路面の舗装が変わる部分で突然車両がグリップを失い、そのままコンクリートウォールに激突する様子が記録されている。事故原因として当初疑われたパワーステアリング故障は否定された(コントロール喪失後もテレメトリーによる操舵トルクおよびパワーステアリング圧が持続していることから)。現在ではステアリングコラムが壊れた、またはわずかな路面の不整から車両が不安定となりコントロールを失ったことが原因と考えられているが、事故原因の確定的な結論には至っていない。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "検死の結果、セナの死因はクラッシュ時にマシンの「サスペンションの一部が、ヘルメットを貫通した」ことであると結論付けられた。", "title": "F1" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去のアナウンスを優先し、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していた現地のテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "セナの亡骸がイタリアから母国に搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラス MD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "母国の政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。多くのドライバーがセナの葬儀に出向いたため、FIA会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、5月7日にオーストリアのザルツブルクで行われたローランド・ラッツェンバーガーの葬儀に出席した。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称。サンパウロ地下鉄では、彼が生まれ育った地域にある駅名「ジャルジン・サンパウロ駅」に彼の名前を付けて変更を行う(Estação Jardim São Paulo-Ayrton Senna)など、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、同年に行われた1994 FIFAワールドカップではサッカーブラジル代表が1994 FIFAワールドカップ・決勝で4度目の優勝を果たし、「SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA É NOSSO!」(セナ、共に走ろう。4度目の優勝は我々のものだ)という横断幕を掲げた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1994年の第4戦モナコGPでは、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーを悼むために、レースに際してグリッドの最前列をあけ、PPのグリッドにセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗がペイントされた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐ彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後、彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "セナの死から24年後となる2018年、マクラーレン・オートモーティブよりセナの名を冠した新型スーパーカー「マクラーレン・セナ」が発表された。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "予選での速さで知られ、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーは未だいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった(2021年10月現在はルイス・ハミルトンのPP101回が最多記録)。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、PP最多記録保持者のルイス・ハミルトンで35.7%、セナのPP最多記録を更新したシューマッハで25.3%に留まっている。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数19回(2019年シーズン終了時・歴代15位タイ)は、勝利数41回(歴代5位)、PP数65回(歴代3位)と比較すると少ない。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "セナ以前にもケケ・ロズベルグが「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤを採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークがノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、セナのアクセルワーク自体が無視されてしまうという「セナだけに発生するトラブル」が起こり、ホンダはこの問題を解決するのに苦労した。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」となった。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と述べ、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現できないとの結論に達している。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "このテクニックにより多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている。1989年第12戦イタリアGPのモンツァ・サーキットでは予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、ホンダV10エンジンをプロストより1000回転高い領域で使用していたという。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「車はアンダー気味にセッティングをしておいて、セナ足で細かくパワーオーバーを出すことで打ち消し、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "日本のサックス奏者本田雅人がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないと発言している。これは同じくウェットレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "雨と同時に、ストリート(市街地)コースを得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた。走行した6ストリートコースのうち、デビュー年のみの開催だったダラスは未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録した。モンテカルロでは5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、スパ(2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、デトロイトでは3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP(フェニックス、モンテカルロ、スパ、アデレード)をすべて制した。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のあるイモラも、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "逆に鬼門とされていたのはモンツァ、エストリル、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグア、インテルラゴスなどである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは1勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみだった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中の単独スピンなどが発生している。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは地元GPにおいても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝率を記録しており、この面では対照的な結果が残ることとなった。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで直接苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言内容として驚きだ」「僕たちF1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「私には私の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンであるジャック・ブラバムは、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた。後述するトップ・ギアのセナ特集でマーティン・ブランドルは「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくる」と語っている。", "title": "ドライビングスタイル・技術" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "セナは神経質で内向的な性格と言われていた。ただ、ロータスでチームメイトだったエリオ・デ・アンジェリス、マクラーレンでコンビを組んだゲルハルト・ベルガー、ウィリアムズでチームメイトだったデイモン・ヒル、トレーニング・ジムで知り合ったティエリー・ブーツェン、同じポルトガル語圏出身でロータスの後輩であるペドロ・ラミー、同胞で後輩のマウリシオ・グージェルミン、ルーベンス・バリチェロらとは良好な関係を築いていた。バリチェロが94年のイモラにおいて事故を起こした際には、その入院先に家族よりも先に訪れ、意識を取り戻すまで付き添っていた。バリチェロは目覚めた時にセナが傍らに居て驚いたというエピソードを後に語っている。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ロータスでチームメイトとなった中嶋悟は、「彼は、レースの闘い方やコースのこと、(マシン)セッティングのこと、そして、政治的なことまで包み隠さずアドバイスしてくれた」「彼ほど性格が生真面目なドライバーを見たことがない」とセナの人間的な面を語っている。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2度の選手権王者となった1990年頃には、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。1993年日本GPではセナが周回遅れにしようとしていたエディ・アーバインがセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦ベルギーGPでマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている(詳細はエディ・アーバインを参照)。この一件では6か月の執行猶予付きで2戦出場停止処分を受けた。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていたジャン=マリー・バレストルは、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、89年鈴鹿のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。これらの構図は、慢性的にF1界を取り巻いてきた欧州封建の側面と対峙するかのようなセナの姿勢を印象付け、特に欧州圏外での熱狂的なファン獲得に繋がった要因とも言われている。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない......それは非常に難しいことだったでしょう。", "title": "人間関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいないとされた。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件でホンダのエンジニアによるセナへの評価や信頼が上昇することとなった。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1988年の鈴鹿でのレース後に、セナはアラン・プロストと共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、礼を言われるとは思ってもいなかったので、感激しほとんど料理を食べることができず、ただ涙を流していたという。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピーは「Just move it」。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2013年、ホンダは1989年日本GPにおけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを3DCGで再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1987年はロータス、1988 - 1992年はマクラーレンで通算6年間ホンダエンジン搭載車でドライブした。なおここでは記録のパーセンテージのうち小数点以下は四捨五入して掲載している。", "title": "ホンダとの関係" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ドライバーズタイトル、優勝、PP、FL、通算ポイントといずれもホンダエンジンのドライバー別通算記録の中で最多記録となる。", "title": "ホンダとの関係" } ]
アイルトン・セナ・ダ・シルバは、ブラジルのレーシングドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。 F1史を代表するドライバーの1人とされ、多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」や「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されている。計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位の記録であった。アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとの熾烈なライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。 異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が名付けた「音速の貴公子」がよく知られている。
{{ポルトガル語圏の姓名|セナ|ダ・シルバ}} {{F1ドライバー | 氏名 = アイルトン・セナ | Image = Ayrton Senna 8 (cropped).jpg | image-size = 300px | 説明 = | フルネーム = アイルトン・セナ・ダ・シルバ | 国籍 = {{BRA}} | 出身地 = [[サンパウロ州]][[サンパウロ]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1960|3|21|no}} | 死没地 = {{ITA}}<br>[[エミリア=ロマーニャ州]][[ボローニャ]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1960|3|21|1994|5|1}} | 年 = 1984-1994 | 所属チーム = '84 [[トールマン]]<br>'85-'87 [[チーム・ロータス|ロータス]]<br>'88-'93 [[マクラーレン]]<br>'94 [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]] | 出走回数 = 162 (161スタート) | タイトル = 3 (1988,1990,1991) | 優勝回数 = 41 | 通算獲得ポイント = 610 (614) | 表彰台回数 = 80 | ポールポジション = 65 | ファステストラップ = 19 | 初戦 = [[1984年ブラジルグランプリ|1984年ブラジルGP]] | 初勝利 = [[1985年ポルトガルグランプリ|1985年ポルトガルGP]] | 最終勝利 = [[1993年オーストラリアグランプリ|1993年オーストラリアGP]] | 最終戦 = [[1994年サンマリノグランプリ|1994年サンマリノGP]] }} '''アイルトン・セナ・ダ・シルバ'''(Ayrton Senna da Silva, [[1960年]][[3月21日]] - [[1994年]][[5月1日]])は、[[ブラジル]]のレーシングドライバー。[[フォーミュラ1|F1世界選手権]]において、[[1988年のF1世界選手権|1988年]]・[[1990年のF1世界選手権|1990年]]・[[1991年のF1世界選手権|1991年]]と、計3度[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|ワールドチャンピオン]]を獲得した。 F1史を代表するドライバーの1人とされ、多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」や「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されている<ref>{{cite news|url=http://f1greatestdrivers.autosport.com/?driver=1 |title=Formula 1's Greatest Drivers – AUTOSPORT.com – Ayrton Senna |publisher=F1greatestdrivers.autosport.com |date= |accessdate=4 January 2013}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.autosport.com/news/report.php/id/80517 |title=Drivers vote Senna the greatest ever – F1 news |publisher=Autosport.Com |date=10 December 2009 |accessdate=4 January 2013}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.sify.com/sports/alonso-voted-best-driver-news-news-khxqOjgjchi.html |title=Alonso voted best driver |publisher=Sify.com |date=23 July 2010 |accessdate=1 May 2014}}</ref><ref name="bbctop20">{{cite web|last=talent|first=Formula|title=Formula 1's greatest drivers. Number 1: Ayrton Senna |url=https://www.bbc.co.uk/sport/0/formula1/20324109 |publisher=BBC Sport|date=20 November 2012|accessdate=22 November 2012}}</ref>。計65度の[[ポールポジション|PP]]獲得数は、2006年に[[ミハエル・シューマッハ]]に更新されるまで歴代1位の記録であった。[[アラン・プロスト]]、[[ネルソン・ピケ]]、[[ナイジェル・マンセル]]とは、[[1980年代]]から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「'''[[四強 (モータースポーツ)#F1における四強|四強]]'''」「'''ビッグ4'''」「'''F1四天王'''」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとの熾烈な[[ライバル]]関係が知られ、日本では2人の争いが「'''セナ・プロ決戦'''」「'''セナ・プロ対決'''」などと呼ばれた。 異名には「'''Genius'''(天才)」「'''マジック・セナ'''」などがあり、若手時代には「'''ハリー'''」の[[愛称]]でも呼ばれた。[[日本]]では、[[古舘伊知郎]]が名付けた「'''音速の貴公子'''」がよく知られている<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/294852 古舘伊知郎が説く仕事で活きる「凝縮ワード」 - 東洋経済オンライン]</ref>。 == F1以前 == ===出生・幼=== アイルトン・セナ・ダ・シルバは、[[サンパウロ]]のサンタナ地区にあるプロマトレ産科病院で生まれた<ref>{{cite web |url=http://senna.globo.com/institutoayrtonsenna/br/noticias_interna.asp?cod_Noticia=128 |title=Gafisa presta homenagem a Ayrton Senna: "morador ilustre a gente não esquece" |publisher=Senna.globo.com |accessdate=2 October 2010}}</ref>。セナは[[地主]]で工場経営者でもある資産家ミルトン・ダ・シルバとその妻ネイジ・セナ・ダ・シルバの長男であり、姉のヴィヴィアーニと弟のレオナルドという[[姉弟]]がいた<ref name=champion>{{cite web|title=Ayrton Senna: Tragic Hero|url=http://www.f1-grandprixhistory.net/Senna.html#Introduction|publisher=History and Legends of Grand Prix Racing|accessdate=30 August 2012|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121001080432/http://www.f1-grandprixhistory.net/Senna.html#Introduction|archivedate=1 October 2012|df=dmy-all}}</ref>。 セナは人生の最初の4年間を母方の祖父ジョアン・セナが所有する家で過ごした。優れた運動神経を持った子供であり、[[体操]]やその他のスポーツを得意とした。[[自動車]]とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時だった。一方で、幼少時のセナには運動協調性の問題があり、3歳になった時点でも[[階段]]を登ることが苦手だった。そのため[[脳波]]図(EEG)を調べたが、まったく異常が無いことが確認された。両親はセナを「ベコ(Beco)」という[[ニックネーム]]で呼んでいた<ref name=child>{{cite book|last=Williams|first=Richard|title=The Death of Ayrton Senna|year=2010 |origyear=1995|publisher=Penguin Books|isbn=}}</ref>。 セナが7歳の時、家族が所有する[[農場]]で初めて[[ジープ]]を運転し、[[クラッチ]]を使うことなくギアチェンジすることを覚えた<ref name=book>{{cite book|title=Formula One: The Story of Grand Prix Racing|last=Kapadia|first=Behram|year=2004|publisher=Silverdale Books|isbn=1-85605-899-9|page=66}}</ref>。セナはサンパウロのイジェノポリス地区にある{{ill2|カレジオ・リオ・ブランコ|pt|Colégio_Rio_Branco}}を1977年に卒業し、その後は[[経営学]]に特化された大学に進学したが、3ヶ月通った後に退学した<ref name=veja>{{Cite web|和書|title=100 years in 34|url=http://veja.abril.com.br/especiais/extras/fechado/senna04.html|publisher=Veja|date=3 May 1994|accessdate=24 August 2012|language=Portuguese}}</ref>。 ===カートレース=== [[File:Ayrton Senna Karting.jpg|thumb|220px|セナは13歳で[[レーシングカート]]競技に参加し始めた。]] セナに与えられた初めての[[レーシングカート]]は父ミルトンが自作したもので、1[[馬力]]の小さな[[芝刈り機]]用エンジンを載せていた。セナが13歳の時、[[インテルラゴス・サーキット]]で初めてレーシングカートの競技会に参加した<ref name=video>"Ayrton Senna – The Right to Win (2004)</ref>。セナは先頭から初レースをスタートし、自分より数歳年上のライバルたちを相手にレースの大半をリードして見せたが、最終的にライバルの1人に接触されてリタイアした。父ミルトンは息子のレース活動をサポートし、セナの才能を認めるルシオ・パスカル・ガスコンがその成長を助けた<ref>''Ayrton Senna: Racing in My Blood, Official Video Biography'' (Kultur Video, 1991).</ref>。 セナは1977年に南アメリカ・カート選手権を制した。その後、セナは[[1978年]]から1982年にかけて[[世界カート選手権]]に参戦し、1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となった<ref>{{cite web|url=http://www.motorsportsetc.com/info/senna.htm|title=Ayrton Senna – Racing Career|publisher=MotorSports Etc|accessdate=2018-12-08}}</ref>。1978年にチームメイトとなった{{ill2|テリー・フラートン|en|Terry Fullerton}}は、のちにセナによって最も対戦を楽しめたライバルとして名前を挙げられている<ref name=asenna>{{cite news|last=Calkin|first=Jessamy|title=Senna: the driver who lit up Formula One|url=https://www.telegraph.co.uk/culture/film/8524259/Senna-the-driver-who-lit-up-Formula-One.html|publisher=The Telegraph|date=20 May 2011|accessdate=15 August 2012|location=London}}</ref>。また、1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞した<ref>[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1978/kart/1978-0002-1 ’78ジャパンカートレース A リザルト | JAFモータースポーツ]</ref><ref group="注釈">当該レースの公式プログラムにおける日本語表記は「センナ・ダ・シルバ」</ref>。団体戦では増田二三四・平野晴男とともに5位に入った。[[1980年]]のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚した。 ===ジュニア・フォーミュラ=== [[File:Ayrton Senna Beginning - Formula Ford 1981, Van Diemen.jpg|thumb|right|220px|フォーミュラ・フォード1600のコックピットに座る21歳のセナ。マシンには「A. ダ・シルバ」と表記されている。(1981年)]] [[1981年]]2月、セナは[[フォーミュラカー]]レースに参戦するため、妻リリアンと共にイギリス([[イングランド]])に渡った<ref>{{Cite book |title=The Power and the Glory: Senna, Prost and F1's Golden Era |author= David Sedgwick |year=2018|url=https://books.google.co.jp/books?id=d0RKDwAAQBAJ&lpg=PP1&dq=The%20Power%20and%20the%20Glory%3A%20Senna%2C%20Prost%20and%20F1's%20Golden%20Era&hl=ja&pg=PT47#v=snippet&q=%22Thus%20late%20one%20chilly%22&f=false|page=47}}</ref>。1981年シーズン、セナは[[フォーミュラ・フォード]]1600の2つのシリーズに参戦して両方の選手権でチャンピオンとなった。イギリスで成功を収めたにもかかわらず、家業を手伝うように求める両親からのプレッシャーもあり、セナは1981年シーズンの終了後にフォーミュラ・フォードからの引退を発表し、ブラジルに帰国した<ref name=child /><ref>{{Cite book |title=Ayrton Senna: As Time Goes by |last=Hilton |first=Christopher |year=1999|pages=38–40}}</ref>。 しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く希望した妻リリアンと両者合意の上で離婚し、1982年2月に単身で再度イギリスに渡った<ref>{{Cite book |title=The Power and the Glory: Senna, Prost and F1's Golden Era |author= David Sedgwick |year=2018|page=51|url=https://books.google.co.jp/books?id=d0RKDwAAQBAJ&lpg=PP1&dq=The%20Power%20and%20the%20Glory%3A%20Senna%2C%20Prost%20and%20F1's%20Golden%20Era&hl=ja&pg=PT51#v=onepage&q=%22In%20February%201982%22&f=false}}</ref>。1982年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード2000に転向し、イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなった<ref>{{cite news|title=From the Vault: F1 is robbed one of its most dazzling talents|url=https://www.theguardian.com/sport/2008/apr/30/formulaone|publisher=The Guardian|accessdate=30 April 2008| archiveurl= https://web.archive.org/web/20080505113059/http://www.guardian.co.uk/sport/2008/apr/30/formulaone| archivedate= 5 May 2008 | deadurl= no| date=30 April 2008| location=London}}</ref>。1982年のフォーミュラ・フォード2000はF1の前座として開催されることも多く、セナは5月に[[ゾルダー・サーキット|ゾルダー]]で[[ジル・ヴィルヌーヴ]]の死亡事故を目の当たりにし、数ヶ月後の[[ホッケンハイムリンク|ホッケンハイム]]でも[[ディディエ・ピローニ]]の大事故に居合わせた<ref>{{Cite book |title=The Power and the Glory: Senna, Prost and F1's Golden Era |author= David Sedgwick |year=2018|page=53|url=https://books.google.co.jp/books?id=d0RKDwAAQBAJ&lpg=PP1&dq=The%20Power%20and%20the%20Glory%3A%20Senna%2C%20Prost%20and%20F1's%20Golden%20Era&hl=ja&pg=PT53#v=snippet&q=%22He%20is%20at%20Zolder%20in%20May%22&f=false}}</ref>。 ===F3=== [[ファイル:Ayrton Senna Macau Grand Prix.jpg|right|thumb|マカオGP優勝車]] [[1983年]]シーズン、セナは[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3選手権]]に[[ウエストサリー・レーシング]]から参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。しかし後半戦以降は[[ジョーダン・グランプリ#チーム発足|エディ・ジョーダン・レーシング]]所属の[[マーティン・ブランドル]]がセナとの差を縮め、両者の関係が険悪になるほどの激しいタイトル争いとなったが、最終的にセナが僅差でチャンピオンを獲得した<ref>Hilton, Christopher, ''Ayrton Senna&nbsp;– The Complete Story'' (2004), pp. 99–116.</ref>。最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。 また、初めて[[フォーミュラ3|F3]]規格で開催された[[1983年のマカオグランプリ|マカオGP]]に[[セオドール]]から参戦し、2ヒートを連取して優勝した。この年のマカオGP予選でセナが記録したタイムは、[[1990年のマカオグランプリ|1990年]]に[[ミカ・ハッキネン]]と[[ミハエル・シューマッハ]]が更新するまで、7年にわたりコースレコードであった。 なおセナがイギリスF3王者・マカオGP優勝者となったときのマシンはいずれも、[[トヨタ・T型エンジン#2T-G|トヨタ・2T-Gエンジン]]を搭載していた<ref>[https://toyotagazooracing.com/archive/ms/jp/F1archive/experience/features/2004/senna/index.html アイルトン・セナとトヨタエンジン]</ref>。 この頃から、父方の姓「'''ダ・シルバ'''」ではなく母方の姓「'''セナ'''」を表向きに名乗るようになる。 {{-}} == F1 == === デビュー前の交渉 === F1へステップアップする際には、[[マクラーレン・MP4/1#MP4/1C|マクラーレン]]、[[ウィリアムズ・FW08|ウィリアムズ]]、[[ブラバム・BT52|ブラバム]]<ref>[https://www.grandprix247.com/2019/03/03/flashback-when-senna-tested-for-brabham/ SENNA TESTED FOR BRABHAM-BMW] GrandPrix247 2019年3月3日</ref>のマシンテストに招かれ<ref>[https://www.ayrtonsenna.com.br/en/piloto/formula-1/1983-o-ano-dos-testes-na-f-1/senna-na-mclaren-em-1983-o-primeiro-e-impressionante-teste-da-historica-parceria-na-f-1/ The first and impressive test of Senna in a McLaren in 1983] アイルトン・セナ公式ウェブサイト</ref>交渉し、当初ブラバム入りが有力となるも、当時ブラバムのエースで前年チャンピオンであるネルソン・ピケが反対したため実現しなかったとの説があった<ref>「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ、ベストセラーズ、1994年)pp.117 - 119 </ref>。ブラバムのボスだった[[バーニー・エクレストン]]によると、1983年オフのテストで何名かの若手をテストし<ref group="注釈">セナの他[[ピエルルイジ・マルティニ]]、[[マウロ・バルディ]]、[[クリスチャン・ダナー]]、[[ロベルト・ゲレーロ]]がテストドライブし、ベテランの[[ジョン・ワトソン (レーサー)|ジョン・ワトソン]]もブラバムの候補だった。</ref>、一番速かったセナをエクレストンも強力に欲していた。しかしメインスポンサーのイタリア乳製品企業「[[パルマラット]]」がチームの2名とも[[ブラジル人|ブラジリアン]]になる事へ難色を示し、1人はヨーロッパドライバーにとの要求があったため<ref name="Autospo_8405">SUTTON's DIARY No.2未定のブラバムの事情 [[オートスポーツ]] No.394 23頁 三栄書房 1984年5月1日発行 </ref>、エクレストンはイタリア人の[[テオ・ファビ]]をピケのサポート役に決定。セナのブラバム入りはご破算となった。その後、複数チームとの交渉を経て、[[デレック・ワーウィック]]を移籍で失った[[トールマン]]と契約締結しF1デビューが決まった。 === トールマン時代 === [[ファイル:Ayrton Senna 1984 cropped.jpg|thumb|right|トールマンTG184・ハート]] ; '''1984年''' 初戦[[1984年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]は前年型の[[トールマン・TG183|TG183]]で出場。[[ターボ]]トラブルでリタイアしたが、第2戦[[1984年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]で6位に入り、初入賞を達成。しかし前年型マシンはワーウィックや[[ブルーノ・ジャコメリ]]に合わせて作られておりステアリングが重く、腕力を必要としたため、まだ線の細かったセナは体力面で苦労をしていた<ref group="注釈">トールマンのメカニックだった[[津川哲夫]]が自身のYoutubeチャンネルにて「F1デビュー年のセナはまだF1を操る体力が無く、セッションごとに疲れ切っていた」と証言している。</ref><ref group="映像">{{Cite video|date=2021年5月2日|title=【津川哲夫のF1ヒストリー】セナvs津川哲夫 1984年トールマン時代【#28】(8分10秒付近~)|url=https://www.youtube.com/watch?v=dpiRYpSJ5_Q |medium=|publisher=津川哲夫のF1グランプリボーイズ}}</ref>。第4戦[[1984年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]ではチームが[[ピレリ]]から[[ミシュラン]]へとタイヤメーカー契約を変える際の契約トラブルも重なり、キャリア唯一となる予選落ちを喫している。第5戦からニューマシン[[トールマン・TG184|TG184]]が投入されると、大雨でハーフレースとなった第6戦[[1984年モナコグランプリ|モナコGP]]では、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。自身とトールマンにF1初の表彰台をもたらすと同時に、自身初の[[ファステストラップ]]も記録した<ref>[https://www.formula1.com/en/results.html/1984/races/471/monaco/fastest-laps.html 42e Grand Prix Automobile de Monaco - FASTEST LAPS] Formula1.com、03 Jun 1984</ref>。 第10戦[[イギリスグランプリ|イギリスGP]]・最終戦[[1984年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]でも3位に入り、計3度の表彰台を経験。また[[ティレル]]勢の「水タンク事件」による記録抹消に伴い、7位で完走していた第3戦[[1984年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]が6位に繰り上がったため、入賞は参戦した15戦中5レースとなった。予選最高位は、ポルトガルGPでの3位グリッドだった。 マシントラブルやF1での経験不足から安定した結果は残せなかったが、第8戦[[1984年アメリカ東グランプリ|デトロイトGP]]での予選7位、第9戦[[1984年アメリカグランプリ|ダラスGP]]での予選6位から一時4位走行、[[1984年ドイツグランプリ|ドイツGP]]での一時5位走行等、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。リタイヤは8回を数えたが、それでもランキングで[[チーム・ロータス|ロータス]]の[[ナイジェル・マンセル]]と並び9位に入った。 シーズンの途中で翌年からの[[チーム・ロータス|ロータス]]移籍を発表するが、トールマンとは3年契約を結んでいたため二重契約として問題になった。結局はロータスとセナがトールマンに違約金を支払い、セナ自身に1レースの出走禁止の処分を課すことを条件に翌年からのロータス移籍は実現した。この影響でセナは第14戦[[1984年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で[[ピエルルイジ・マルティニ]]にシートを明け渡した。実質上の代役は[[ステファン・ヨハンソン]]であるが、イタリアGP後怪我で出走出来ない[[ジョニー・チェコット]]の代役の座に移った。そのためイタリアGPのみヨハンソンがカーナンバー19のセナのマシンに乗っている。 また、この年にはF1とスケジュールが重ならなかった[[6月15日]]の[[スポーツカー世界選手権|WEC]]第4戦[[ニュルブルクリンク]]1000kmレースに[[ヨースト・レーシング]]のNEWMAN[[ポルシェ・956]]([[アンリ・ペスカローロ]]、S.ヨハンソンとのチーム)で参戦し、これが[[グループC]]カー及び[[耐久レース]]への唯一となる参戦歴となっている(予選9位/決勝8位)<ref>[https://www.ayrtonsenna.com.br/en/piloto/provas-especiais/historica-corrida-de-senna-em-um-prototipo/ Senna’s Historic Race in a Prototype]Ayrtonsenna.com </ref>。 === ロータス時代 === ; '''1985年''' 当時名門に数えられていたロータスに移籍し、F1通算16戦目となる第2戦[[1985年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]で自身初のPPを獲得した。豪雨となった決勝でもスタートから終始トップを走行し、2位の[[ミケーレ・アルボレート]]に1分以上の差をつけ、3位以下は全て周回遅れにする独走でF1初優勝を果たした<ref name=":0" />。しかしシーズン前半は安定感に欠け、入賞レースは[[1985年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]のみだった。一方で、セナの速さはFLや連続PPなどの記録として表れ始めた。 シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、第10戦[[1985年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]から5戦連続で表彰台に立つ。特に、雨となった第13戦[[1985年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]では、予選2位からスタートでトップを奪い、以後ゴールまで独走というポルトガルGPと類似した展開で自身2勝目を挙げた。マシントラブルやガス欠などにより、予選でのPP7回に対し優勝は上記の2回のみとなったが、シーズン後半に安定してポイントを積み重ねたことで、ロータスのエースだった[[エリオ・デ・アンジェリス]]を上回るランキング4位となった。 「予選」と「雨」に強さを見せた一方で、車体下面・後方から立ち上がる火花などからマシンのレギュレーション違反が疑われて<ref group="注釈">車体下面が歪み、[[グラウンド・エフェクト・カー|グラウンド・エフェクト]]を発生しているのではないかなど。セナは「とにかく[[最低地上高|ライドハイド]]が低い」と、火花の理由を語っていた。</ref>検査がなされたり(違反項目は見つからず)、ダーティーな走りが問題にされる一面もあった。特に第4戦[[1985年モナコグランプリ|モナコGP]]予選では、他者のタイムアタックを妨害したとしてアルボレート、[[ニキ・ラウダ]]らに苦言を呈され、後にセナが謝罪する事態となった。 シーズン終了後にはデ・アンジェリスがブラバムに移籍し、ロータスのチームマネージャーである[[ピーター・ウォー]]はその後継ドライバーとして[[デレック・ワーウィック]]を加入させたいと考えていたが、セナはこれに反対し<ref group="注釈">セナが前年TG183Bをドライブした際に非常に腕力が必要で苦労したため、同じ車でセナの前年入賞を繰り返したワーウィックの力量を高く感じたという。</ref>「チームの資金を補うために1カー体制にすべき」と希望していた。イギリスのチームであるロータスに同国籍のワーウィックが加入した場合に、チーム内での自分の立場が危うくなると感じての行動であったという説もあった。結局後継のドライバーはF1ルーキーの[[ジョニー・ダンフリーズ]]となった。 ; '''1986年''' [[ファイル:Senna Brands 1986.jpg|thumb|right|[[ロータス・98T|ロータス98T・ルノー]]]] 前年は名目上セカンド・ドライバーであったが、この年より名実ともにロータスのNo.1ドライバーとなった。シーズン前半は8戦中6戦でポイントを獲得し、第2戦[[1986年スペイングランプリ|スペインGP]]・第7戦[[1986年アメリカグランプリ|デトロイトGP]]では優勝を記録した。スペインGPでの勝利は、背後に迫るマンセルを0.014秒という僅差で抑えきったもので、完全ドライコンディションでは初の勝利でもあった。 シーズン後半はマシントラブル続きでリタイヤが多く、獲得ポイントは停滞した。マンセル、プロスト、ピケとのチャンピオン争いが佳境に入る中、第12戦[[1986年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]では、エンジン・トラブルでレース前半にリタイヤ。第13戦[[1986年イタリアグランプリ|イタリアGP]]においては、クラッチ・トラブルでスタート直後にリタイヤ。第14戦[[1986年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]では、終盤まで2位を走行していたが、ファイナルラップでガス欠に見舞われ4位に終わり、この時点で2戦を残しドライバーズ・チャンピオンの可能性が消滅した。ドライバーズランキングは4位。 予選では前年を上回るシーズン16戦中8度のPPを獲得したが、優勝は前年同様2勝に留まった。また[[ウィリアムズ・FW11|ウィリアムズ・ホンダ]]勢との争いで苦戦を強いられたことで、ホンダエンジンの獲得を希望するようになった。 ; '''1987年''' [[File:Lotus 99T front-right 2010 Pavilion Pit Stop.jpg|thumb|right|ロータス99T・ホンダ]] セナの要望を受けたピーター・ウォーがホンダエンジンの獲得に成功し、チームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・[[中嶋悟]]が加入。しかし[[ロータス・99T|99T]]に導入された開発途上の[[アクティブサスペンション]]<ref group="注釈">当時のコンピュータ技術がまだ未熟であり、この年のみでロータスのアクティブ・サスは姿を消した。本格採用は1992年。</ref>に不具合が多発、この問題はシーズンを通して解決できず様々なトラブルに苦しんだ。それまでの2年間多く獲得していたPPも、この年は第2戦[[1987年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]のみに留まっている。それでも市街地で行われた第4戦[[1987年モナコグランプリ|モナコGP]]・第5戦[[1987年アメリカグランプリ|デトロイトGP]]では、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り2連勝を挙げた。以後もシャシーやウイングに改良は加えられたが、戦闘力は横ばいで向上しなかった。また、デトロイトでの勝利はチーム・ロータスにとって最後のF1勝利となった。 第7戦[[1987年イギリスグランプリ|イギリスGP]]では3位となり、4位に入った中嶋とともにホンダエンジン勢1 - 4位独占の一角を占めるものの、セナは1 - 2位フィニッシュを決めたウィリアムズ・ホンダ勢に周回遅れにされており<ref>[https://www.formula1.com/en/results.html/1987/races/517/great-britain/race-result.html Shell Oils British Grand Prix - RACE RESULT] Formula1.com、 12 Jul 1987</ref>、ロータスと同じエンジンを搭載の[[ウィリアムズ・FW11#FW11B|FW11B]]とは大きな差があった。第11戦[[1987年イタリアグランプリ|イタリアGP]]ではレース終盤までトップを走行、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、残り8周の最終コーナーにてコースアウトしてしまいピケの先行を許し2位に終わる。この時点で5戦を残しチャンピオンの可能性が消滅した。 [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]・[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]]によって支配されたシーズンとなったが、16戦中11戦入賞と勝利レース以外でも堅実に結果を残し、ランキングは3位に上昇<ref group="注釈">最終戦[[1987年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]での2位が失格とならなければ、負傷欠場したマンセルを上回りランク2位となっていた。</ref>。また、F1が初めて[[鈴鹿サーキット]]で開催された第15戦[[1987年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では、予選7位から2位でフィニッシュし、ホンダに母国でのF1表彰台をもたらした。 このシーズンはルーキーの中嶋が7ポイントに対してセナは2勝で57ポイントとチームメイトに大差をつけたが、[[1987年イタリアグランプリ|イタリアGP]]開催期間の9月4日に[[マクラーレン]]とホンダが開いた共同記者会見にセナも同席し、翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、セナがマクラーレンに移籍し[[アラン・プロスト]]とコンビを組む事が発表された<ref>ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のチーム」桜井総監督記者の質問に答える GPX 1987年イタリア 31頁 山海堂</ref><ref group="注釈">ホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている</ref>。悲願であるF1ワールド・チャンピオンを獲るためにセナは3年過ごしたロータスを去ることになった。 === マクラーレン時代 === [[ファイル:Ayrton Senna 1988 Canada.jpg|thumb|right|1988年カナダGP]] ; '''1988年''' 当時すでに2度のワールド・チャンピオンを獲得していたプロストとジョイントNo.1体制<ref group="注釈">2人のドライバーに優劣をつけないこと</ref>でコンビを組む。セナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンは開幕から連勝を重ねた。ジョイントNo.1体制のため、第5戦[[1988年カナダグランプリ|カナダGP]]、第7戦[[1988年フランスグランプリ|フランスGP]]、第10戦[[1988年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]など、2台のマクラーレンによる優勝争いが再三行われた。 2人のポイントが分散し、コンストラクターズ・チャンピオンの獲得が第11戦[[1988年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]で決定したのに対し、ドライバーズ・チャンピオン争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦[[1988年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]ではスタートの失敗により14番手に順位を落としたあと挽回して優勝、自身初のワールド・チャンピオンを獲得した<ref group="注釈">全16戦での総獲得ポイントはプロストが上回っていたが、[[有効ポイント制]]が適用された結果セナがタイトルを獲得した。</ref>。この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時のF1史上最多記録を更新するものであった。 「[[ホンダ・RA168E]]」を搭載した「[[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]]」と2人のドライバーにより、チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュを記録。特に第2戦[[1988年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]・第6戦[[1988年アメリカグランプリ|デトロイトGP]]では、3位以下を周回遅れにしての1-2フィニッシュを達成するなど、マクラーレンが他を圧倒したシーズンとなった。 しかし、第13戦[[1988年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]での幅寄せ行為以降、2人の関係には溝が出来始めていた。 ; '''1989年''' [[File:Mclaren mp4 5.jpg|thumb|260px|[[マクラーレン・MP4/5]]に乗るセナ]] 初めてとなるカーナンバー1を付けてシーズンに挑み、予選では前年同様13度のPPを獲得。特に第5戦[[1989年アメリカグランプリ|アメリカGP]]での通算34度目のPPは、それまで[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]が保持していた当時の最多記録を、21年ぶりに更新するものであった。 決勝では第2戦[[1989年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]でシーズン初勝利となったが、このレースで「先に第1コーナーに進入した者がレースの主導権を得る」というプロストとの間での[[紳士協定]]に反し、赤旗中断を経た再スタート直後、2コーナーでプロストを抜いてしまう事件が発生。これ以後、前年に兆候があった2人の溝が深まり、チームは大きな問題を抱えることとなった。 その後セナは第4戦[[1989年メキシコグランプリ|メキシコGP]]まで3連勝を記録しランキングトップに立つが、第5戦アメリカGPからは逆に4戦連続リタイヤ(終盤にストップした第6戦[[1989年カナダグランプリ|カナダGP]]は完走扱い)となり、セナの勝利時にも確実にポイントを積み重ねたプロストに、大きくリードを許すことになった。 それでも争いはシーズン終盤まで縺れたが、第15戦[[1989年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]において、トップ争いの中で両者はカシオシケインで接触。先にシケインに入ったプロストの右インにセナがつっこみ、両者は接触したままシケイン入り口で直進したまま止まった。プロストはリタイアして車を降り、セナは再スタートしシケインの近道を通過するもレース後に失格処分となり、タイトルは一旦プロストの手に渡った。セナとマクラーレンは失格処分に抗議して民事裁判に持ち込み、最後の可能性を掛け最終戦[[1989年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]に挑んだが、トップ独走中に周回遅れの[[マーティン・ブランドル]]に追突しリタイヤ、裁定を待たずしてタイトルの可能性を失った(日本GPの結果も、結局覆らなかった)。 プロストが4勝ながら13度の入賞(うち2位7回)を記録したのに対し、セナはプロストを上回る6勝であるものの、他の入賞が第10戦[[1989年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]のみという成績であり、安定度の差が獲得ポイントに現れる結果となった。チームメイト同士の接触という後味の悪いものとなったことに加え、セナは当時、[[国際自動車連盟|FIA]]の会長であった[[ジャン=マリー・バレストル]]から一方的に「危険なドライバー」と見なされ、[[スーパーライセンス]]発行拒否の危機に陥る。ライセンスが発行されたのは、年が明けた2月のことだった。 ; '''1990年''' [[File:McLaren MP4-5B 2009 Japan.jpg|thumb|200px|[[マクラーレン・MP4/5|マクラーレンMP4/5B]]・ホンダ]] 前述のライセンスの問題から引退危機に晒され、本人も後に「もう走らないつもりだった」と語る状態だったが、最終的にセナがバレストルに謝罪するという形により、開幕直前にスーパーライセンスの発行が許可され、この年の参戦が決定した。 開幕戦[[1990年アメリカグランプリ|アメリカGP]]では、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。セナのF1キャリアにおいては、最も後方のグリッドからの優勝であり、前年[[ティレル]]でデビューした[[ジャン・アレジ]]と繰り広げたバトルは、「歴史に残る名バトル」の1つとして後々まで語られることとなった。 この年もタイトル争いは、セナと[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]に移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。セナは予選で10度のPPを獲得しており、特に第14戦[[1990年スペイングランプリ|スペインGP]]では、自身が目標としていた通算50回目のPPを獲得。決勝でも6勝を挙げ、また前年とは対照的な手堅いレース運びも見せるようになった(入賞計11回)。第8戦[[1990年イギリスグランプリ|イギリスGP]]以外はポイントリーダーの座を守り、最終的に5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンとなった。 ただし、その決定劇は第15戦[[1990年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]において、スタート直後に先行するプロストのインにセナがつっこみ、両者ともそのままコースアウトしリタイア<ref name=":1" />という、2年連続で後味の悪いものとなった。翌1991年の日本GP後に、セナはこのスタート直後の追突が故意によるものだったと認めている。セナは前年の同GPでの接触後の納得できない失格裁定と、この日本GPにおけるポールシッター(セナ)のスターティンググリッド位置変更を認めなかったバレストル会長に対する報復の意図があったと告白したが<ref group="注釈">セナは「去年バレストルによって僕は勝利を奪われた。この事は決して忘れない。そしてこの90年また僕とプロストがずっと戦ってきて、鈴鹿では予選が終わった後でバレストルが命令を出してポールポジションの位置が不利なまま、僕はそこに座らされた。完全に頭に来たよ。これでもしスタートで抜かれて先頭じゃなくなったら、その時はもう後先考えずに突っ込んでやるって決めたんだ。そうして現実に、ラバーの乗ったアウト側からスタートしたプロストがスタートで僕の前に出た。そう、その状況になったら僕は突っ込むってことは決めていたんだよ。政治家(バレストル)がくだらない最低の決断をずっとしてきた結果がこれだ。」と話した。 アイルトン・セナの解放宣言 [[GPX (雑誌)|グランプリ・エクスプレス]] '91オーストラリアGP号 10頁 1991年11月23日発行</ref>、大きな批判を受けた。 ; '''1991年''' [[ファイル:Ayrton Senna McLaren MP4-6 1991 United States.jpg|thumb|right|[[マクラーレン・MP4/6]]]] 当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦[[1991年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]では、[[トランスミッション|ギアボックス]]トラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。 しかし、第5戦カナダGP以降はウィリアムズ勢が序盤は[[セミオートマチックトランスミッション]]のトラブルに苦しんだ[[ウィリアムズ・FW14]]の戦闘力で巻き返し、マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。 第10戦[[1991年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]では、直前に[[本田宗一郎]]が死去。喪章を付けて挑んだこのレースで、セナは[[ポールトゥーウィン]]を果たし、6戦ぶりの優勝となった。続く第11戦[[1991年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録し、再び苦しいレースを強いられた。だが第15戦[[1991年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では、それまでとは異なりマクラーレン勢が優勢で、チームメイトの[[ゲルハルト・ベルガー]]がPPから先行し、セナはタイトルを争うマンセルを抑えて2位を走行した。10周目、セナに急接近したマンセルは1コーナーでコースアウトしてリタイア。この時点で、セナの3度目のチャンピオンが決定した(レースは2位)。その後、豪雨で大幅短縮となった最終戦[[1991年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]も制し、7勝でシーズンを終えた。 この年も安定して結果を残し、全戦ポイント制復活初年度において全16戦中完走15回・入賞14回を記録。中盤以降は苦戦を強いられていたが、結局一度もランキングトップは譲らなかった。 一方、前年に続いてウィリアムズから移籍のオファーを受けており、前年にもあったフェラーリやウィリアムズとの移籍に関する交渉<ref>フェラーリがセナと接触 セナ「ドライバーにとってフェラーリは永遠のあこがれ」 GPX1990サンマリノ 30頁 1990年6月2日発行 </ref>はロン・デニスに対してプレッシャーをかける意味合いも強かったとされるが<ref name="91belgiam_gpx">セナ契約更新 動き始めた'91シート GPX 1990年ベルギーGP 30頁 山海堂 1990年9月15日発行 </ref>、この年のセナは真剣にマクラーレンを離れてFW14の高い戦闘力も思い知らされていたウィリアムズ・ルノーへ移籍する考えを抱いていた。交渉を重ね気持ちは移籍へと傾いていたが、[[8月13日]]にウィリアムズからマンセルとパトレーゼの契約更新が発表された。この発表後に取材陣に対してセナは「ちょっと驚いている。というのは僕とウィリアムズの間には・・・(沈黙)、いや、とにかくびっくりしている。このウィリアムズの発表をハッピーな気持ちでは聞けなかった。今シーズンの結果が全て出る前に決まったというプロセスにとてもガッカリしてるという意味でね。」と述べ、決定の時期がセナの本意でなかったと滲ませるコメントをした。ルノーがセナ獲得のために32億円の契約金を用意していたとも報じられた<ref>マンセルとパトレーゼのウィリアムズ契約更新発表 GPX 1991ベルギーGP号 30頁 1991年9月14日発行</ref>。その後ホンダ側からの熱心な説得により、翌1992年もマクラーレンに残留することとなった。しかしセナ自身は後に「僕はあの時ウィリアムズに行くべきだった。僕のミスだ」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=F1 : 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート1 - SENNA - F1-Live.com |url=https://web.archive.org/web/20090505030357/http://jp.f1-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/090504020349.shtml |website=web.archive.org |date=2009-05-05 |access-date=2022-08-12}}</ref>。 ; '''1992年''' [[ファイル:7twinringmotegi.jpg|thumb|right|[[マクラーレン・MP4/7A]]]] ニューマシン[[マクラーレン・MP4/7A|MP4/7A]]が第3戦に投入されるも、ウィリアムズの[[アクティブサスペンション]]を実用化させハイテクを搭載した[[ウィリアムズ・FW14#FW14B|FW14B]]が圧倒的な戦闘力を発揮。マンセルが開幕から5連勝するなど、マクラーレンは完全に劣勢となった。エンジンパワーに頼ったマシンから、空力とパワーとのトータルバランスが重要なマシン作りに変わった転換期でもあった。そんな中でも、第6戦[[1992年モナコグランプリ|モナコGP]]では、6連勝目前だったマンセルの予定外のタイヤ交換の隙にトップに立つと、そのまま押さえ切り同GP4連覇を記録。第10戦[[1992年ドイツグランプリ|ドイツGP]]でも、終盤に[[リカルド・パトレーゼ]]の追走を抑え、2位を得るなど、時折存在をアピールした。 しかし、優勝3回・PP1回に留まり、リタイヤは7回を記録(F1参戦中、デビューした1984年に次ぐ2度目の多さ)。得意とする雨のレースでも結果を残せず、第5戦[[1992年スペイングランプリ|スペインGP]]では、2位走行中の終盤にスピンでストップ。第12戦[[1992年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]では、雨が強くなる中[[スリックタイヤ]]で走行を続ける賭けに出たが失敗し5位に終わっている。結局、ランキングはウィリアムズの2人に加え、[[ミハエル・シューマッハ]]にも敗れ4位に終わった。シーズン中1度もランキングトップに立てなかったのは、1985年シーズン以来のことだった。 さらに、セナに6年間エンジンを提供してきたホンダが同年最終戦をもってF1参戦を休止することを表明。休止発表の直後に行われた第13戦[[1992年イタリアグランプリ|イタリアGP]]では、ウィリアムズ勢に揃ってトラブルが発生し、セナは自身最後となるホンダエンジンでの優勝を飾った。しかし、ホンダの母国ラストレースである第15戦[[1991年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では、ヘルメットに小さな日の丸をペイントした他、コクピット内にも日の丸の小旗を用意してチェッカー後に地元の日本人ファンとホンダへの感謝を示すべく準備しての決勝だったが、わずか3周目にそのホンダエンジンにトラブルが発生しS字セクション先でスローダウン、最初のリタイア車となってしまった。最終戦[[1992年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では、予選から好調だったが決勝ではトップ争い中にマンセルに追突して両者リタイア。ホンダでのラスト2戦を好結果で締めくくることはできなかった。 ; '''1993年''' [[ファイル:Senna's McLaren MP4-8.jpg|thumb|right|[[マクラーレン・MP4/8]]]] ホンダが撤退したため、マクラーレンはカスタマー仕様の[[フォード・コスワース・HBエンジン|フォードHB]]V8エンジンを搭載。マクラーレンはフォード・コスワースに対し[[ワークス・チーム|ワークス]]仕様の供給を求めたが、先にフォードとの独占ワークス契約を結んでいる[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]がこれを拒絶。最新仕様はベネトンにのみ供給され、マクラーレンは旧スペックの使用となった。このため、マクラーレン勢は1年間の休養から復帰したプロストを擁するウィリアムズ・ルノー陣営に対して1992年以上に不利な状況と見られ、開幕前からセナはタイトル争いにおいて苦戦することが予想されていた。 開幕戦こそ予選で肉薄出来たが、ウィリアムズとのマシンの戦力差が大きく、モチベーションが低下したセナは1993年中の休養もほのめかすようになり、前年チャンピオンとなったマンセルが[[チャンプカー|CART]]に転向したことに続き、セナもまたCART転向を検討しシーズン前には同郷の先輩[[エマーソン・フィッティパルディ]]の{{仮リンク|ペンスキー・PC22|en|Penske PC-22}}をテストドライブしていた。結局は開幕直前にマクラーレンと1戦ごとに契約を結ぶ異例の契約方式で残留した。第7戦[[1993年カナダグランプリ|カナダGP]]までは1戦ごとの契約で走った後、第8戦[[1993年フランスグランプリ|フランスGP]]にて正式にシーズン契約を結び、全戦出走に至った。セナのF1参戦が未確定だった開幕前には、ロン・デニスがセナ休養となった場合に備え、ウィリアムズと一旦契約した後に諸事情で白紙となりロータス残留かと思われた[[ミカ・ハッキネン]]と駆け込みで契約締結していた。 開幕戦[[1993年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]ではPPのプロストから僅差の予選2位から、一時はトップを走行しての2位。第2戦[[1993年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]ではペナルティにより一旦は4位まで転落するが、レース途中の豪雨によるプロストのリタイア、セーフティーカー導入などを味方につけて母国2勝目を挙げた。第3戦[[1993年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]([[ドニントンパーク]])でも、大雨の中オープニングラップで4台抜きを見せてトップに立ち連勝を果たした。第6戦[[1993年モナコグランプリ|モナコGP]]では、PPのプロストがフライングスタートによるペナルティストップ時にエンジンストール、更に代わってトップに立ったミハエル・シューマッハがマシントラブルでリタイアしたことから[[グラハム・ヒル]]を上回るモナコ6勝目を達成し、[[1989年]]からのモナコGP連勝記録を5に伸ばした。 しかし、これ以後ウィリアムズが復調、雨のレースが訪れなかったこともあって、セナは表彰台すら届かないレースが続く。プロストにポイント差を広げられ、更にはシューマッハやプロストのチームメイトである[[デイモン・ヒル]]にも苦戦するようになる。序盤のセナによる3度の優勝歴とロン・デニスの交渉により第9戦[[1993年イギリスグランプリ|イギリスGP]]よりベネトンと同じ最新スペックのエンジンを手に入れることに成功したが、ベネトンは序盤戦に未搭載だったアクティブサスペンションや[[トラクションコントロール|TCS]]などハイテクを装備することで戦闘力が向上しており、セナの成績向上には至らなかった。第13戦[[1993年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でのリタイアによりセナはタイトル獲得の可能性が消滅し、続く第14戦[[1993年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]でプロストのタイトルが決定した。このポルトガルGPでは、予選では[[マイケル・アンドレッティ]]に代わり同レースからチームメイトとなったハッキネンに敗れ<ref group="注釈">決勝では1周目に先行した後、リタイヤするまでハッキネンの前を走っていた。</ref>、決勝ではリタイヤにより、表彰台未登壇の自身ワースト記録を更新(8戦連続)してしまう出来事もあった。 プロストの引退表明により直接対決が残り2戦となった第15戦[[1993年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]および最終戦[[1993年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]](後者はこの年初にしてウィリアムズ以外のチームでは唯一となるPPを獲得)では連勝を果たした。結果的にオーストラリアGPでの通算41勝目が自身最後のF1勝利となった。 同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていた[[デイモン・ヒル]]、そのほか[[アンドレア・デ・チェザリス]]、[[フィリップ・アリオー]]、[[ジョニー・ハーバート]]らと共にカート大会に参加、これが最後の「セナプロ対決」となった<ref>[http://archive.as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=62504 セナプロ最終対決、1/2ヘルメットが発売中] [[AUTO SPORT]]web 2015年1月3日、2016年8月18日閲覧。</ref>。 === ウィリアムズ時代 === [[ファイル:1994Williams-RenaultFW16B.jpg|thumb|right|[[ウィリアムズ・FW16]]]] ; '''1994年''' 6年間在籍したマクラーレンを離れ、かねてから望んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たす。マスコミなどはセナがシーズンを圧倒するのではないかと予想する者までいた。 しかし、前年までのウィリアムズの武器であった[[アクティブサスペンション]]や[[トラクションコントロール]]などのハイテクがこの年のルール変更により禁止され、新車[[ウィリアムズ・FW16|FW16]]は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーである[[エイドリアン・ニューウェイ]]の指揮の元、[[航空力学|空力]]を重視したマシンは非常に神経質なマシンに仕上がっていた。テストにおいても最速ではあったが、前年までの圧倒的な速さが消えていた。 特にアクティブサスペンションはニューウェイの作りだすマシンの[[航空力学|空力]]的に神経質な部分を補っていたため、その禁止はウィリアムズにとって大きな打撃となった。 空力にも手を加えられていたが、低速コーナーではベネトンのマシンが優勢で、1994年第3戦サンマリノGP前にはセナはベルガーに対して「ゲルハルト、マシンをドライブするなんてことはできないよ。FW16は空力的にドライブが難しい部分があったようだ。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と漏らしている<ref>[http://jp.f1-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/090501171645.shtml 独占インタビュー ベルガーが語るセナ]</ref>。 開幕戦[[1994年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]ではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイア。第2戦[[1994年パシフィックグランプリ|パシフィックGP]]でも2戦連続のPPを獲得するも、スタートで出遅れた上にハッキネンと[[ニコラ・ラリーニ]]に追突されてリタイア。開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。 === 事故死 === {{main|アイルトン・セナの死}} [[ファイル:San Marino 1994 Tamburello.svg|thumb|イモラ・サーキットのレイアウトとタンブレロコーナーの位置]] 迎えた[[1994年サンマリノグランプリ|第3戦サンマリノGP]]は、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞の[[ルーベンス・バリチェロ]]が大クラッシュを起こし病院に搬送された。結果的には[[鼻骨]][[骨折]]というクラッシュの規模からすると軽傷で済んだが、一時は安否を心配される大きな事故であった。そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュした[[ローランド・ラッツェンバーガー]]が死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。 これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人[[アドリアーネ・ガリステウ|アドリアーナ]]に「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と話していたという。 [[File:1994_San_Marino_GP_-_start_02.jpg|thumb|ポールポジションからスタートするセナ]]セナは開幕から3戦連続の[[ポールポジション]]から決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープして直後に[[ミハエル・シューマッハ]]を従えたが、後方グランドスタンド前での事故により[[セーフティーカー]]が導入される。そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、高速左コーナー「タンブレロ」において時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となりグリップを失ったままアウト側に向かい、そのまま直進してコースアウト、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、マシンはボディー右側が大破し、セナは頭部に致命傷を負った。 セナは意識不明のままコース上に降りた[[ヘリコプター]]でボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には[[脳死]]状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分、34歳で帰らぬ人となった(以後、[[ジュール・ビアンキ]]が[[2014年日本グランプリ (4輪)|2014年日本グランプリ]]決勝での事故により翌年死亡するまで20年間F1ドライバーの死亡事故は発生しなかった)。 事故直前の車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るものの、路面の舗装が変わる部分で突然車両がグリップを失い、そのままコンクリートウォールに激突する様子が記録されている。事故原因として当初疑われた[[パワーステアリング]]故障は否定された(コントロール喪失後もテレメトリーによる操舵トルクおよびパワーステアリング圧が持続していることから)。現在ではステアリングコラムが壊れた、またはわずかな路面の不整から車両が不安定となりコントロールを失ったことが原因と考えられているが、事故原因の確定的な結論には至っていない。 検死の結果、セナの死因はクラッシュ時にマシンの「サスペンションの一部が、ヘルメットを貫通した」ことであると結論付けられた<ref>{{cite news | first = Ian | last = Thomsen | title = Williams Says Italy May Cite Steering In Senna's Death | url = http://www.iht.com/articles/1995/02/11/prix_0.php | work = International Herald Tribune | publisher = | date = 1995-02-11| accessdate = 2006-10-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061123015308/http://www.iht.com/articles/1995/02/11/prix_0.php|archivedate=2006-11-23}}</ref>。 == 死後 == [[ファイル:Ayrton Senna, Morumbi.jpg|thumb|right|セナが眠るモルンビー墓地]] === ブラジル国内の反応 === セナが事故死した1994年5月1日には[[サンパウロ]]にて[[サッカー]]・[[サンパウロFC]]対[[パルメイラス]]の試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去のアナウンスを優先し、[[黙祷]]を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していた現地のテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売、[[葬儀]]を放送したテレビ番組の[[視聴率]]は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、[[国葬]]が行われた。 セナの亡骸がイタリアから母国に搬送されるに際しては、[[ヴァリグ・ブラジル航空]]の定期便の[[マクドネル・ダグラス MD-11]]の[[ファーストクラス]]の客席が用いられ、空からは[[ブラジル空軍]]機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。 [[ファイル:AyrtonSennaMormbiName.jpg|thumb|墓碑銘は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(『新約聖書』ローマ信徒への手紙8章39節)」による]] 母国の政府はセナの死に対して[[国葬]]の礼をもってあたり、[[アラン・プロスト]]、[[ゲルハルト・ベルガー]]、[[ミケーレ・アルボレート]]、[[ティエリー・ブーツェン]]、[[エマーソン・フィッティパルディ]]、[[ジャッキー・スチュワート]]、[[デイモン・ヒル]]、[[ロン・デニス]]、[[フランク・ウィリアムズ]]らが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。多くのドライバーがセナの葬儀に出向いたため、[[国際自動車連盟|FIA]]会長の[[マックス・モズレー]]はセナの葬儀ではなく、5月7日にオーストリアの[[ザルツブルク]]で行われた[[ローランド・ラッツェンバーガー]]の葬儀に出席した<ref>{{cite news | title = Track Topics |author1=David Tremayne |author2=Mark Skewis |author3=Stuart Williams |author4=Paul Fearnley | work=Motoring News | publisher=News Publications Ltd. |date=5 April 1994}}</ref>。また、Deutsche Presse-Agenturによると、[[ミハエル・シューマッハ]]は葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「''NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS''(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである([[ローマ人への手紙]]8:39)」に因む。 ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を[[交通安全]]の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内から[[グアルーリョス国際空港]]を経て[[リオデジャネイロ]]方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念した。その他、[[リオデジャネイロ]]市が[[ネルソン・ピケ・サーキット]]にアクセスする道路の一つをセナの名に改称。[[サンパウロ地下鉄]]では、彼が生まれ育った地域にある駅名「ジャルジン・サンパウロ駅」に彼の名前を付けて変更を行う(Estação Jardim São Paulo-Ayrton Senna)など、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。 また、同年に行われた[[1994 FIFAワールドカップ]]では[[サッカーブラジル代表]]が[[1994 FIFAワールドカップ・決勝]]で4度目の優勝を果たし、「SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA É NOSSO!」(セナ、共に走ろう。4度目の優勝は我々のものだ)という横断幕を掲げた。 === 日本国内の反応 === ;ホンダ :死亡当時、セナが3度のF1ワールドチャンピオンを獲得した際にエンジンを供給していたホンダ([[本田技研工業|本田技研工業株式会社]])は、既にF1から撤退して1年以上経過しており、セナとは何も正式な契約・関係もない状況であった。しかし、セナとの「お別れ」を希望する日本のファンのために、セナが1992年にドライブしていた[[マクラーレン・MP4/7A|マクラーレンMP4/7A・ホンダ]]と実使用したヘルメット([[ロータス・99T|ロータス・ホンダ]]時代のもの)を[[青山 (東京都港区)|青山]]の本社1階ショールームに展示し献花などお別れの場を設けた。 :その際、[[1991年]]に死去していた創業者の[[本田宗一郎]]の「自動車メーカーの経営者が車の[[渋滞]]を起こすような社葬などしてはいけない」との生前からの言葉に合わせるように<ref name=サンケイスポーツ>1994年5月3日サンケイスポーツ 社会面・芸能面</ref>、通常は一般に開放していない本社地下の駐車場を、車で訪れたファンに対して無料で開放するなど、最大限の配慮を持ってセナの死を悼んだ。記帳した人にはその後、ホンダからセナの[[ポストカード]]が3枚入った封筒が郵送された。 ;フジテレビ :セナのクラッシュは、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ではF1グランプリ中継の前番組である「[[スポーツWAVE]]」で報じられ、続いてF1グランプリ中継が[[イモラ・サーキット|イモラサーキット]]からの生中継で開始された。放送は、その後一旦決勝レースの録画放送になったが、それから約20数分後にセナの訃報が「ニュース速報」として字幕スーパーで伝えられてから、レースシーンの放映を中断。再び生中継に変わり、既にレースが終わって夕刻を迎えていたイモラサーキットから、このレースの実況担当の[[三宅正治]]と解説の[[今宮純]]、ピットリポートの[[川井一仁]]が、視聴者にセナの死を涙を堪えながら伝えた<ref name=サンケイスポーツ/>。 :その後は即席のセナ追悼放送に切り替わり、その場にフェラーリの[[後藤治]]が通りかかり、ホンダ時代のセナとの思い出を語るとともに、「苦しまずに逝ったことが救い」と沈痛な面持ちで述べた。後日に深夜放送枠で、司会に[[古舘伊知郎]]、ゲストに[[森脇基恭]]・[[中嶋悟]]、セナのファンである[[森口博子]]を迎え、前出の3人もイモラから[[衛星放送]]で参加する形で追悼放送が行われた。その後に、本放送時にほとんど放送されなかった決勝レースの全編が改めて放送された。これは民放の地上波でありながら、[[CM]]無しのノーカットでの放送だった<ref name=サンケイスポーツ/>。 ;フジテレビ以外のテレビ局 :セナの事故死はNHKをはじめとした各局でもニュースで速報で報じられた。またワイドショーでもセナ追悼の特集が組まれた。 === その他 === 1994年の第4戦[[1994年モナコグランプリ|モナコGP]]では、前戦で事故死したセナとラッツェンバーガーを悼むために、レースに際して[[グリッド (モータースポーツ)|グリッド]]の最前列をあけ、PPの[[グリッド (モータースポーツ)|グリッド]]にセナの母国ブラジル国旗が、セカンドグリッドにはラッツェンバーガーの母国[[オーストリア]]国旗がペイントされた。 セナを偲んでニキ・ラウダは「去年、セナがドニントン(1993年第3戦ヨーロッパGP)で勝った時、すぐ彼に電話したんだ。私は『これまで見た中で、君の最高のレースだ。F1史上最高のレースかもしれない』と言ったんだ。セナは本当にマジックだよ。私が一番印象深いのは、彼のモチベーションだ。常に自分の能力の限界を求め続けた。そして過去に誰も成しえなかった技術と完璧さを持った、最高のドライバーだった。それを我々は失った。今後、彼のようなドライバーが出てくるかどうかは分からない」と語った<ref>『GPX 1994モナコGP号』、山海堂、P.13</ref>。 セナの死から24年後となる[[2018年]]、[[マクラーレン・オートモーティブ]]よりセナの名を冠した新型[[スーパーカー]]「[[マクラーレン・セナ]]」が発表された。 == 特筆されるレース == === 評価の高いレース === ; [[1984年モナコグランプリ|1984年第6戦モナコGP]] : 予選を13位で通過。大雨となった決勝レースでは、[[ファステストラップ]]を更新しながら猛烈な勢いで追い上げ、この年チャンピオンとなるマクラーレンのニキ・ラウダを、雨の中で[[オーバーテイク]]するなどの活躍を見せた。首位の[[アラン・プロスト|プロスト]]との差を縮めつつあったものの、大雨により31周終了時点でレース中断の赤旗が振られた。ラップタイム差だけを見ればプロストを[[オーバーテイク]]して初優勝の可能性もあったため、セナは新人にして僅か6戦目で初の表彰台を獲得したにもかかわらず、表彰台で笑顔は見られなかった。 : 当時メカとして所属していた[[津川哲夫]]が後年語ったところによると、レース後に整備のためマシンの各パーツを解体していた際、フロント・サスペンションのスプリング・リングが破損し割れていたことが判明(津川曰く、「辛うじて首の皮一枚で繋がっている状態」であった)。もしレースが中断されていなければ、あと数周ももたずにサスペンションは完全に破損に至り、優勝はおろかチェッカーを受けることすら不可能だったろうと指摘している<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=-ChNsTozlho 【津川哲夫のF1ヒストリー】1984年雨のモナコGP あの時、赤旗がなければ優勝はセナかベロフか?]</ref>。 ; [[1985年ポルトガルグランプリ|1985年第2戦ポルトガルGP]] : 予選で初のPPを獲得すると、大雨となった決勝レースでは一度も首位を譲ることなく独走。2位以下に1分以上の差(3位以下は周回遅れ)をつけ、デビュー16戦目にして初優勝を飾った。[[ファステストラップ]]も記録する完全勝利で、「雨のセナ」の片鱗も見せた。「去年のモナコ以上に大変だった。前に誰もいなくて、いいペースだったから行こうと思ったんだ。最高の瞬間だったね」と語った<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=JRIOKRHhOto|title=Ayrton Senna's first F1 win - 1985 Portuguese Grand Prix|accessdate=2021-04-09|publisher=FORMULA 1 2015-04-21}}</ref>。 ; [[1986年スペイングランプリ|1986年第2戦スペインGP]] : 予選でPPを獲得しスタートからトップを走行するが、後続に肉薄される厳しい展開となり、40周目にはマンセルの先行を許し差を広げられた。しかしマンセルはタイヤトラブルにより徐々にペースダウン、再度接近した後、63周目に抜き返しトップに返り咲いた。その後、ピットインによりタイヤを交換したマンセルがファイナルラップの最終コーナーでセナを抜きにかかるが、先行したのはコントロール・ラインを通過した後であった。2人の差は0.014秒で、当時2番目となる僅差だった。 ; [[1988年日本グランプリ (4輪)|1988年第15戦日本GP]] : 優勝すれば初のタイトル獲得という状況で、予選でPPを獲得。しかし決勝ではスタートに失敗、エンジンをストールしかけ、大幅に順位を落とし1コーナーは14位で通過した。その後、オープニングラップで8位まで挽回、以後も次々にオーバーテイクを繰り返しながら、首位プロストを追った。小雨がぱらつく天候にも助けられレース中盤には追いつき、27周目の[[シケイン]]出口でプロストの[[スリップストリーム]]に入ると、次の1コーナーで[[オーバーテイク]]を成功させた。そのまま首位でチェッカーフラッグを受け、初のドライバーズタイトルを獲得した。 ; [[1990年アメリカグランプリ|1990年第1戦アメリカGP]] : 新チームメイトのベルガーがPPを獲得する一方で、電気系トラブルなどもありセナは5番グリッドからのスタート。決勝では、デビュー9戦目のアレジが4番グリッドから好スタートを切り、1周目からトップを走行する展開となった。セナは、順位を上げながら徐々に差を詰めてゆき、中盤には背後まで迫った。34周目、セナはついにアレジを抜きトップに立つが、アレジも譲らず続くコーナーで抜き返した。翌35周目、セナは同じコーナーで再びトライし、オーバーテイク。そのまま背後に張り付き、2度・3度と仕掛けたアレジだが、今度は抜き返すまでには至らず。以後は差も開いてゆき、そのままセナが優勝、表彰台で2人は健闘を称え合った。 ; [[1991年ブラジルグランプリ|1991年第2戦ブラジルGP]] : 母国でいまだ優勝がない状況の中、この年で8度目の挑戦を迎えた。予選ではPPを獲得、決勝でもスタートからトップを走るが、マンセルが接近し序盤は2人のみが大きく抜け出す展開となる。その後、マンセルはタイヤ交換時のタイムロスで大きく遅れ、最後は[[ギアボックス]]トラブルでリタイヤ。代わって2位となったパトレーゼとは大差が付いており、母国初優勝が大きく近づいたように思えた。 : しかしマンセルのリタイヤの少し前から、セナもギアボックスにトラブルを抱えていた。まず4速に入らなくなり、その後は立て続けに3速・5速が使えなくなった。ラスト数周では、ついに6速ギアしか使えない状態となったが、雨も落ち濡れ始めた路面を6速だけで走りきり、トップでチェッカーを受けた。シートベルトが体を締め付けるなどのトラブルもあり、レース終了後には車から降りられないほど疲労していた。 : この際にウイニングラップ時のセナ本人の感動の嗚咽を、国際中継担当の地元のテレビ局が[[盗聴|無線傍受]]し放送電波に乗せて全世界に配信した(当時はチーム無線は非公開が原則であった)。マクラーレンが傍受されにくい[[ケンウッド]]製無線システムを前倒し導入したのは、この一件が原因である。{{要出典|date=2018年11月}}この音声はF1公式Youtube動画「Top 10 Race-Winning Radio Celebrations」の1位に選ばれている<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=SWk_g7EWZjQ|title=Top 10 Race-Winning Radio Celebrations|accessdate=2019-9-23|publisher=Youtube}}</ref>。 ; [[1991年ハンガリーグランプリ|1991年第10戦ハンガリーGP]] : ウィリアムズ勢に苦戦し勝利から遠ざかっていた中、本田宗一郎が死去。直後の開催となったこのGPでは、セナを含めチーム全員が喪章をつけて挑んだ。予選では、超軽量カウルや予選用ガソリンの投入もあり5戦ぶりにPPを獲得すると、決勝でも1度もトップを譲らずに優勝。レース終了後、セナは久々の勝利を本田宗一郎に捧げた。 ; [[1992年モナコグランプリ|1992年第6戦モナコGP]] : リタイヤ続きなうえ、完走しても[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]勢には2台に付いて行けないレースが続く中、モナコGPを迎えた。しかし状況は変わらず、開幕から5戦連続[[ポールトゥーウィン]]を記録していた[[ナイジェル・マンセル|マンセル]]がここでもPPを獲得、セナは予選中にクラッシュするなど精彩を欠き、3番グリッドに留まった。決勝レースでは、スタートで[[リカルド・パトレーゼ|パトレーゼ]]をかわして2位に浮上するが、マンセルのペースに付いて行けず。残り8周の時点では、28秒後方の単独2位を走行していた。しかしここでマンセルがリアタイヤに異常を感じて(実際はホイールのナットが緩んだのが原因)緊急ピットイン。タイヤ交換を終え、ピットアウトした時には、セナが首位に立っていた。逃げるセナだが、新品のタイヤを装着したマンセルは追い上げ、74周目には予選6位に相当する[[ファステストラップ]]を記録した。 : 残り3周でついにテール・トゥー・ノーズの状態となり、マンセルは狭いコース幅を一杯に使い、あらゆるコーナーでインからアウトからオーバーテイクを狙うも、セナは僅かにレコードラインをはずしながら抑え込んだ。途中でブルーフラッグが提示されるほどのペース差があったが、最終的にマンセルはセナを抜くことが出来ず、0.215秒差でセナがトップチェッカーを受け、シーズン初勝利を果たした。チェッカー直後にセナのエンジンから白煙が上がるなど厳しい状態での勝利だった。 : マンセルの6連勝を阻むと同時に、自身モナコGP4連勝を達成。通算ではモナコ5勝目となり、[[モナコマイスター]]と呼ばれた[[グラハム・ヒル]]の記録に並んだ。また、モナコGP50回目の記念レースでもあった。 ; [[1992年ドイツグランプリ|1992年第10戦ドイツGP]] : モナコGPで勝利したものの、その後は3戦連続リタイア、このGPの予選も3位グリッドと苦しい状況は変わっていなかった。セナはタイヤ無交換作戦で決勝に挑み、14周目にはタイヤ交換を行ったマンセルの前に出た。マンセルはすぐに追いつき抜きにかかるが、セナがライン取りで抑え込むという、モナコGPを思い起こさせるバトルが演じられた。マンセルは攻めの走りの中で、19周目に第2シケインを直進し不通過となるが、そのまま加速してセナをパスした<ref group="注釈">この件ではマンセルにはペナルティが出されず、最終的に2人が数秒差でゴールしたこともあって、解説者として現場にいたプロストは裁定に疑問を唱えていた。[http://f1express.cnc.ne.jp/column/index.php?cat_id=224&teiko_id=79658&archive_flg=&now_page=1 ナイジェルの勝利が素晴らしいとは書けない]</ref>が、直後の20周目に今度はパトレーゼがタイヤ交換を行い、2位のままでレースが進んだ。 : ファステストラップを更新しながら差を縮めるパトレーゼに対し、セナもペースを上げたが、残り4周の時点で2台はテール・トゥー・ノーズとなった。ペースではパトレーゼが上回ったが、セナはライン取りで抑え込み、先行を許さなかった。そのままの順位で迎えた最終周、高速区間の最後であるアジップ・カーブでパトレーゼが仕掛けるが、セナはここでも抑えきり、一方のパトレーゼはスピンを喫しストップした(8位完走扱い)。 : 2位を守ったセナは、そのままトップのマンセルから4秒の差でチェッカーを受け、レース後に「表彰台で健闘を称え合いたかった」とパトレーゼが登壇出来なかったことを残念がるコメントを残している。 ; [[1993年ブラジルグランプリ|1993年第2戦ブラジルGP]] : PPのプロストに1.8秒以上の大差をつけられ、予選3位。スタート直後に予選2位のヒルのインを突いて2番手に浮上するも抜き返され、さらに黄旗無視でピットでの10秒ペナルティーストップを命じられ、4位に後退した。その後、曇り気味だったサーキット周辺に雨が降り出し、これを見たセナは真っ先にレインタイヤへの交換を決断した。暫くして雨は一気に激しくなり、クラッシュするドライバーが続出した。チームとの無線連絡が混乱状態にあってピットインが遅れたプロストもクラッシュした。プロストがリタイアする直前にセーフティカーが出動し、セナはプロストに代わって首位に出たヒルとの差を一気に縮めた。 : レース再開後、雨が上がったのを見てすぐさまスリックタイヤに交換し、1周遅れで交換して首位のまま復帰したヒルのタイヤが温まり切っていないのを見逃さずに抜いて首位に立ち、そのまま1位でチェッカーフラッグを受けた。事前の予想では困難とされた勝利に興奮した地元の観衆が、コースに乱入してセナのマシンを取り囲んだことでウィニングランを続行出来なくなり、セーフティーカーに乗り換えて続けることになった。 ; [[1993年ヨーロッパグランプリ|1993年第3戦ヨーロッパGP]] : PPのプロストに1.6秒以上の大差をつけられ、予選4位。決勝はウェットコンディションでスタート。セナはスタートで出遅れ、1コーナー通過時には5位に後退するも、ここから一気にペースを上げる。次の2コーナーでシューマッハをパスすると、3コーナーではアウトに大きくはらみながら加速し、4コーナー手前でベンドリンガーをパス。そのままの勢いでヒルの後ろに付くと、7コーナーで一気にヒルのインを突きオーバーテイク。セナは10コーナーのメルボルンヘアピン進入でプロストのインに並ぶとそのまま抜き去り、オープニングラップだけで4台を抜き首位に立った。その後、タイヤ交換のトラブルで一時後退する場面もあったが、最終的に2位以下に大差を付けてシーズン2勝目を挙げた。 : ロン・デニスは1995年の取材に「私としては、アイルトンの最高のレースはこの雨のドニントン・パークだと思っている。この時はチームとアイルトンの息が100%合っていた。これはそうそうある事じゃない名誉なことだった。」と述べている<ref name="F1gpsp_1996_01">追憶の彼方のアイルトン 第11回 無二のパートナー、ロン・デニス [[F1グランプリ特集]]1月号 88頁 [[ソニーマガジンズ]] 1996年1月16日発行</ref>。 : 抜かれたドライバーの1人であるカール・ベンドリンガーが「これは下手に付いて行かないほうがいいと直感した」と語るなど、歴代のチャンピオンドライバーや当時のドライバーたちも、称賛する数々の発言を残している{{要出典|date=2018年11月}}。 ; [[1993年モナコグランプリ|1993年第6戦モナコGP]] : 予選はプロスト、シューマッハに続く3番手。スタートでトップ3に順位の変動はなかったものの、プロストに[[フライング]]の裁定が下り、10秒間のストップ&ゴーペナルティーが科せられる。12周終了時点でプロストはペナルティーを受けるためにピットイン。10秒間の停止の後スタートを切るが[[クラッチ]]が繋がらずにエンジンストール。大きくタイムをロスして周回遅れとなり完全に優勝争いから脱落する。 : これで2位に上がったセナだが、プロストに代わり首位に立ったシューマッハとも20秒近くの差があった。その差を少しずつ詰めるものの、追いつくほどには至らない中、33周目にシューマッハのマシンが[[アクティブサスペンション]]のオイル漏れにより、ローズヘアピンで出火してリタイアしたことで首位に立つと、そのままトップでチェッカーを受けモナコGP5年連続優勝を果たした。通算6勝目となったことでセナはモナコGPにおけるグラハム・ヒルの最多勝記録を塗り替え、「稀代の[[モナコ・マイスター]]」と称された<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2014/05/24/20_1/|title=セナ没後20年。新たな「モナコマイスター」は誕生するのか?|accessdate=2020-4-28|publisher=Web Sportiva 2014年5月24日}}</ref>。 ; [[1993年日本グランプリ (4輪)|1993年第15戦日本GP]] : 前戦ポルトガルGPでタイトル獲得、そして引退発表を行ったプロストに対し、セナのモチベーションは残す2戦のみとなったプロストとの直接対決を制する事にあった。予選は初戦以来となる僅差での2位。決勝当日は苦手としていた鈴鹿でのスタートダッシュを決める事を重視し、フリー走行でそれを想定したライン取りで走り込んだ。その甲斐あり、スタートではPPのプロストに第1コーナーで先行した。セナは首位を堅持してチェッカーフラッグを受けたが、結果的にこれがセナ最後の鈴鹿での出走ならびに勝利となった。 : なお、このレースでデビューした[[エディー・アーバイン]]を周回遅れにする際に抜き返され、レース後、セナがアーバインの元に詰め寄り、殴り合い寸前となる(関係者の制止で未遂になった)一幕もあった。「周回遅れのせいで本当に怖い思いをした。こんなのはプロじゃない」と語り、[[放送禁止用語]]を使うほど苛立っていた<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=xTBHrMqLD3o|title=Senna Rages After Bust-Up With Irvine {{!}} 1993 Japanese Grand Prix|accessdate=2021-03-20|publisher=FORMULA 1 2017-10-14}}</ref>。 ; [[1993年オーストラリアグランプリ|1993年第16戦オーストラリアGP]] : プロストとの最後の直接対決となったこのレースで、この年初となるPPを獲得。決勝レースでも、セナはタイヤ交換時以外は首位を明け渡す事無く勝利した。2年ぶりのポール・トゥー・ウィンを記録し、結果的にこれがセナ生前最後の勝利ともなった。ロン・デニスの仲介で、パルクフェルメ及び表彰台で2位で現役最後のチェッカーを受けたプロストを労う光景は、多くの者に「1つの時代の終焉」を見せた。 === 物議を醸したレース === ; [[1985年モナコグランプリ|1985年第4戦モナコGP]] : 予選で速さを見せた一方、自身のアタック後もコース上に留まったり、レース用タイヤを履き再度出ていくなどの行動を取る。結果的に自身3度目のPPを獲得するも、他者のアタックを妨害したとして、ニキ・ラウダやミケーレ・アルボレートから非難を受けた。決勝ではエンジントラブルが発生し、序盤のうちにリタイヤとなった。 ; [[1987年ベルギーグランプリ|1987年第3戦ベルギーGP]] : 予選では3位グリッドを獲得し、決勝では赤旗中断を経た後、スタートでトップに立つが、その周のうちに2位のマンセルと絡みリタイヤとなった。一旦は復帰したマンセルも、結局は接触の際のダメージによりリタイヤとなった。 : マンセルはリタイヤ後、ロータスのピットに殴り込みをかけ乱闘となるが、セナはメカニックがマンセルを抑えさせている間に殴打し、返り討ちにした。ピットにマンセルが現れた際、セナは高級な[[腕時計]]を付けた状態であったが、乱闘になりそうなことを察知して、時計が壊れないよう外してから迎え撃ったという。 ; [[1988年モナコグランプリ|1988年第3戦モナコGP]] : 予選で2位のチームメイトのプロストに1.427秒、3位フェラーリのベルガーに2.687秒の差を付けてPPを獲得。この予選についてセナは「意識的な理解を大きく越えていると実感したので突然怖くなり、ゆっくりピットに戻って、それ以上は走らなかった」と語っている<ref name="b">[http://www.formula1.com/teams_and_drivers/hall_of_fame/45/ The Official Formula 1 Website - Hall of Fame Ayrton Senna]</ref>。 : 決勝レースでも速さを見せトップを走った。プロストは終盤に2位に浮上するも、1分近い差が開いていた。直後より、プロストはセナを上回るペースで少しずつ差を詰めると、セナはこれに反応し、互いにファステストラップを出し合う状況が続いた。チームは無用の争いを避けるべく双方にペースダウンを指示したが、これでセナは集中力が切れるかたちとなり、67周目に[[トンネル]]手前のポルティエコーナーでガードレールにクラッシュしリタイヤとなった。残り周回数は少なく、追いつかれる可能性がほぼ無い状況でのミスであった。セナはこの後ピットに帰らずモンテカルロの自宅へと直帰し、なぜこのミスが起きたのが自分の一週間前の行動をすべて振り返り分析したという<ref>桜井淑敏が自宅訪問で見たプロスト・セナ・ピケ① GPX 1988年ポルトガルGP号 11頁 山海堂 1988年10月15日発行</ref>。以降のセナのレーススタイルに大きく影響したレースと言われている。 ; [[1988年ポルトガルグランプリ|1988年第13戦ポルトガルGP]] : 予選ではプロストがPPを獲得し、セナは2番グリッド。決勝ではスタートで多重事故が発生、赤旗中断を経て再スタートとなった。再スタートでは、プロストがセナをアウト側に牽制、グリーンにはみ出しそうになったセナだが、プロストを抜き1コーナーでトップに立った。2周目のメインストレートで、プロストはセナに仕掛けるが、今度はセナがプロストをイン側の壁に幅寄せし、接触寸前となった。結局、プロストはセナを抜きそのまま優勝、セナはセッティングの失敗もあり、徐々に順位を下げ最終的に6位で終わった。 : レース後プロストはセナを批判し、両者に確執が生まれるきっかけとなった。幅寄せは双方が行ったが、プロストはスピードの乗り切らないスタート直後であるのに対し、セナは完全にレーシングスピードで走行する2周目であった為、後年にはセナの行為だけが取り上げられるケースが多い。 ; [[1989年サンマリノグランプリ|1989年第2戦サンマリノGP]] : 予選ではセナがPP、プロストが2番グリッドを獲得し、マクラーレン勢がフロントローを独占。レース前に2人の間では、序盤に無用な争いで共倒れになることを避ける為、「スタートで先に第1コーナーに進入したほうが、レースの主導権を握る権利を得る」という紳士協定が取り交わされていた。そんな中決勝が開始となり、一旦はセナが好スタートを切ったが、ベルガーの炎上事故によりレース中断となる。再スタートではプロストが好スタートを切り第1コーナー(タンブレロ)をトップで通過したが、セナは続く第2コーナー(トサ・コーナー)でプロストのインを突き、あっさりと抜いてしまう。 : レースは、そのままセナが優勝、プロストが2位となりマクラーレンの1-2フィニッシュで終わったが、レース後にプロストは「協定を反故にした」としてセナを批判。ロン・デニスも交えた3名で話し合いも行われたが、これ以後2人の確執は、外部にも知られるものとなった。 ; [[1989年日本グランプリ (4輪)|1989年第15戦日本GP]] : タイトルの可能性は残るものの、セナがタイトルを獲得するためには、最低でもこのレース及び最終戦での優勝が必須条件。ノーポイントであれば、ここでプロストのタイトル獲得が決まる状況の中、予選で2位プロストに1.730秒の大差をつけてPPを獲得。しかし決勝では、スタートからプロストに先行され、プロストが決勝レースでのセッティングに重点を置いていたこともあり、抜くことが出来ないまま終盤を迎えた。 : 数周に渡り同様の狙いを見せた後、47周目のシケイン進入でついにセナがプロストのインに飛び込んだ結果、レース前からセナに対して「もう扉を開けない」と宣言していた通り、ラインを譲らずに走行したプロストに追突<ref>[http://www.formula1.com/content/fom-website/en/championship/drivers/hall-of-fame/Alain_Prost.html The Official Formula 1 Website - Hall of Fame Alain Prost]</ref>。2台のマシンは並んで停止。プロストは即座にマシンを降りたが、逆転王座に賭けるセナはマーシャルに押し掛けを指示、シケインをショートカットする形でレースに復帰した。ノーズ交換のためにピットインをする間に[[アレッサンドロ・ナニーニ|ナニーニ]]が先行するが、セナはこれをパスし、ひとまずトップでチェッカーを受けた。 : しかしレース終了後、シケインのショートカットと言う理由が後に押し掛けをしたという理由に変更される不可解な裁定ではあったが、失格処分を受ける。この結果プロストのタイトル獲得が決定した。セナは控訴していたが後に棄却された。「一歩も引く気はなかった。ただ右側へ向かっただけで、自然なことだ<ref name=":1" />。でも塞がれてしまった。あまり意味のないレースだったかもしれないね。このことは忘れない」と語った<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=WBForKcFWoA|title=Ayrton Senna and Alain Prost's Championship Deciding Crash {{!}} 1989 Japanese Grand Prix|accessdate=2021-09-02|publisher=FORMULA 1 2019-10-22}}</ref>。 ; [[1990年ハンガリーグランプリ|1990年第10戦ハンガリーGP]] : 予選ではタイムが伸びずに4番グリッド、決勝でもスタートに失敗し6位まで転落する。更にはパンクにより想定外のタイヤ交換を余儀なくされ、22周目にピットアウトした際には、11位まで順位を下げていた。ここから追い上げを見せ、最終的には優勝したブーツェンと0.288秒差の2位でフィニッシュした。しかし追い上げの過程の中で、64周目のシケインで2位のナニーニを弾き飛ばし、リタイヤに追い込んでいた。レース後、ナニーニは直接セナを批判するコメントをしなかったが、「今日のことは忘れない」と語った。 : このGPでは、チームメイトのベルガーも、同じシケインでマンセルを弾き飛ばす場面があり、マクラーレン勢の行為が揃って物議を醸すこととなった。 ; [[1990年日本グランプリ (4輪)|1990年第15戦日本GP]] : プロストがノーポイントであれば、セナのタイトル獲得が決まるという、前年とは逆の立場でこのレースを迎えた。セナは予選でPPを獲得しプロストが2位と、同じドライバーが同じ順で3年連続[[フロントロー]]に並んだ。過去2年、スタートを失敗しているセナは、このレースでもスタートで出遅れプロストが先行、1コーナー進入時にはプロストのフェラーリがアウト、セナがインの状態だった。先行したプロストがレコードラインを守りインに切れ込む中、セナは前年に引き続きまたも後方から接触。左側の[[グラベル]]に弾き出され、双方共にリタイア<ref name=":1">{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=omOPU-ejZEg|title=Top 10 Moments In Ayrton Senna And Alain Prost's Rivalry|accessdate=2021-09-02|publisher=FORMULA 1 2019-10-23}}</ref>。レース開始から9秒で、セナのタイトル獲得が決定した。 : セナの行為は、当時は故意か否かで紛糾したが、翌年の鈴鹿でセナ自ら故意の追突であったことを告白。前年のプロストとの接触を、故意によるものと判断したセナの報復行為に非難が浴びせられた。「レーサー同士の戦いはリスクがつきものだ。わずかな隙を逃さずに挑まなければ、レーサーとは言えない。僕たちは常に勝つために競争をしている。それが勝利へのモチベーションなんだ」と語った<ref name=":1" />。 ; [[1991年ドイツグランプリ|1991年第9戦ドイツGP]] : 予選では2位グリッドを獲得するも、スタートで順位を落としたこともあり、レースの大半をプロストとの4位争いに費やす。終始セナが先行し、プロストが肉薄する展開であったが、プロストは38周目に第2シケインでセナに仕掛けた。セナはそのまま譲らず、プロストは押し出されるかたちで直進、パイロンを倒しながらエスケープゾーンに入り、そのままマシンを止めた。セナはその後も4位を走るが最終周にガス欠でストップし、ノーポイントに終わった。 : プロストはセナの行為を危険だと激しく非難したが、続くハンガリーGPで2人の話し合いが行われ、一時的に和解することとなった。 ; [[1991年日本グランプリ (4輪)|1991年第15戦日本GP]] : 予選から、僚友のゲルハルト・ベルガーと共に当時のレコードラップを更新しあう走りを見せ、2番手グリッドを獲得。決勝前にベルガーと「最初に1コーナーに入った者が優勝する」という[[紳士協定]]を密かに結びレースに挑む。決勝はベルガーが先行し、セナは、優勝しかチャンピオンへの道がない3番手のマンセルを抑え、ベルガーを逃がす作戦に出る。 : しかし、マンセルが10周目の2コーナーでコースアウトしてリタイアした瞬間にセナのチャンピオンが確定したことで、作戦を変更しベルガーを追撃する。ベルガーは序盤で[[エキゾーストマニホールド|エキゾーストパイプ]]が破損、エンジン出力が低下したことでラップタイムが落ち、追撃してきたセナにあっさり抜かれてしまう。紳士協定違反に当惑するベルガーを尻目に、セナは磐石の走りでトップを快走。このまま終わると思われた最終ラップの最終コーナー、セナはベルガーに合図を送りながらイン側を明け渡し、ベルガーがセナを抜き優勝した。 : この行為は、「チャンピオン獲得に協力してくれたベルガーへのセナからのプレゼント」と好意的な評価をする声があった一方、「セナが自身の速さを充分見せつけて真の勝者を印象付けた後で紳士協定に基づき仕方なく優勝を譲った」恣意的な行動と非難する声も多くあがった。レース後、ことのいきさつについて当事者とロン・デニスの3人が激論を交わし、特にベルガーはその露骨な譲り方に怒りを抱いていたことが明らかになっている<ref>フジテレビF1グランプリ 1991年総集編のナレーションより</ref><ref>[https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/f1_ogutan/384284.html オグたん式「F1の読み方」2010年7月30日の記事]。当時[[小倉茂徳]]はマクラーレンチームの日本語広報担当だった。</ref>。後にベルガーはフジテレビのインタビューに対して、「セナがスローダウンしたからエンジンがトラブりやがったな、ざまあみろ、と思って前に出たら違った。もし意図がわかっていたら抜かなかった」との旨を語っている。 ; [[1992年ブラジルグランプリ|1992年第3戦ブラジルGP]] : ニューマシン・[[マクラーレン・MP4/7A|MP4/7A]]を投入するも、予選ではウィリアムズ勢にタイムで大きく離された3位となった。決勝でもペースが上がらずウィリアムズ勢に大きく引き離され、後方には4位のシューマッハ以下が数珠繋ぎに続く状態であった。シューマッハが何度も仕掛けようと試みる中、セナは加減速を繰り返すという手段で抑え込んだ。しかし17周目に1コーナーでシューマッハの先行を許すと、アレジやブランドルにも次々と抜かれた後、電気系トラブルによりリタイアとなった。 : セナを憧れとしていたシューマッハだが、このブロックの件で「チャンピオンのとる行動ではない」と批判した。一方のセナは、加減速を繰り返した理由について「既にエンジンにトラブルがあった為(意図的ではない)」と主張。以後両者の間で何度もトラブルが起こる発端となった。 ; [[1992年カナダグランプリ|1992年第7戦カナダGP]] : 前戦モナコGPでの優勝の勢いもあり、予選でシーズン初(結果的に唯一)のPPを獲得し、決勝でもスタートからトップを走るが、ペースがあがらず、セナを先頭に5秒以内に8台がひしめき合う状態となった。15周目、2位のマンセルが最終コーナーで仕掛けるが、曲がり切れずにクラッシュし、そのままリタイヤとなった。一方のセナは、マンセルのリタイヤ後もトップを守っていたがギアボックストラブルにより中盤にリタイヤ、連勝はならなかった。 : マンセルは自身のクラッシュをセナの危険走行が原因と判断、リタイヤ後もマシンの中に留まり1周後に戻ってきたセナに拳を上げ抗議するまで、マシンから降りようとしなかった。それでも怒りは収まらず、マクラーレンピットへ向かい、今度はロン・デニスに抗議を行った。レーシングスーツから着替えた後は、ウィリアムズのメカニックを引き連れてコントロール・タワーへ向かい、「セナの危険な行為ではじき出された」と主張、前戦モナコGPで健闘を称え合ったのとは対照的な場面となった。一方のセナはレース後に、クラッシュの原因は「曲がり切れないようなスピードでコーナーに入っていったマンセルにある」と主張した。 ; [[1992年オーストラリアグランプリ|1992年第16戦オーストラリアGP]] : セナはホンダエンジンで戦う最後のレース、マンセルはF1からの引退レースと、互いに想いを抱える状況の中、予選ではマンセルがシーズン14回目のPPを獲得、セナも2位でフロントローを獲得した。決勝ではセナが1周目に一旦トップに立つが、すぐにマンセルに抜き返され、そのまま膠着状態でレースが進んだ。このシーズンで初めて、マンセルを追い詰める展開となったセナだが、19周目に両者は接触しそのままリタイヤとなった。 : 接触直後、セナはマンセルの元へ向かい握手の為に手を差し出したが、マンセルは拒否。更にはコントロールタワーへ向かい「セナがオーバースピードで突っ込んだ」と主張するも、認められなかった。一方、セナは「マンセルが突然減速し避けきれなかった」と語り、両者共に後味の悪い形で節目のレースを終えた。 ; [[1993年南アフリカグランプリ|1993年開幕戦南アフリカGP]] : 予選2位からスタートを決めトップでレースを進めるが、序盤から油圧系トラブルを抱えペースが上がらず、後方にはプロストとシューマッハが肉薄する。22周目のS字でプロストに抜かれると、続けざまにシューマッハにも抜かれてセナは一気に3位に転落する。しかしその周のうちにシューマッハと同じタイミングでタイヤ交換に入り、メカニックの迅速な作業により再度シューマッハの前に出た。その後もシューマッハに攻め立てられるが、40周目のコンチネンタル・カーブで両者は軽く接触、セナが何事もなく走行を続けたのに対し、シューマッハはスピンを喫しリタイアとなった。 : シューマッハは、接触の原因をセナの過度なブロック走行によるものと捉え激怒。しかしFIAの裁定は「不可抗力」とされ、セナには一切のペナルティが下ることは無く、そのまま2位でフィニッシュした。 == ドライビングスタイル・技術 == ; 予選 [[ファイル:Senna Imola89 Incar.jpeg|thumb|right|1988年サンマリノGP]] 予選での速さで知られ、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回の[[ポールポジション|PP]]を記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーは未だいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった(2021年10月現在は[[ルイス・ハミルトン]]のPP101回が最多記録)。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、PP最多記録保持者のルイス・ハミルトンで35.7%、セナのPP最多記録を更新したシューマッハで25.3%に留まっている。 予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。 決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、[[ファステストラップ]]獲得数19回(2019年シーズン終了時・歴代15位タイ)は、勝利数41回(歴代5位)、PP数65回(歴代3位)と比較すると少ない。 ; セナ足 セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。 セナ以前にも[[ケケ・ロズベルグ]]が「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる<ref>F1解剖講座-データで見るF1グランプリ(二玄社)</ref>。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系に[[ドライブ・バイ・ワイヤ]]<ref group="注釈">当時は[[フライ・バイ・ワイヤ]]と呼ばれていた。</ref>を採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークがノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、セナのアクセルワーク自体が無視されてしまうという「セナだけに発生するトラブル」が起こり、ホンダはこの問題を解決するのに苦労した。 セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」となった。[[中谷明彦]]は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と述べ、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現できないとの結論に達している<ref>『F1パーフェクトブック アイルトン・セナの時代』(別冊宝島)、『実録F1ドライバー列伝 Hondaを疾らせた男達』(竹書房)参照。</ref>。 このテクニックにより多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。[[後藤治]]によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている<ref>柴田久仁夫「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』三栄書房、50頁-55頁、2004年。</ref>。1989年第12戦イタリアGPのモンツァ・サーキットでは予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、ホンダV10エンジンをプロストより1000回転高い領域で使用していたという。 後に[[Racing On]]でセナ没後10年企画が行われた際、「車は[[アンダーステア|アンダー]]気味にセッティングをしておいて、セナ足で細かく[[オーバーステア|パワーオーバー]]を出すことで打ち消し、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。 日本の[[サックス]]奏者[[本田雅人]]がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。 ; 雨 「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。 得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないと発言している。これは同じくウェットレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた[[中嶋悟]]も同様である。 ; サーキット別 [[File:Ayrton Senna 1991 USA 3.jpg|thumb|240px|得意とした市街地コース]] 雨と同時に、[[サーキット#設置方法による分類|ストリート(市街地)コース]]を得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた<ref group="注釈">F1では、市街地で開催されたGPには37戦参加しており、半数以上を制したことになる。</ref>。走行した6ストリートコース<ref group="注釈">[[モンテカルロ市街地コース|モンテカルロ]]、[[デトロイト市街地コース|デトロイト]]、[[フェア・パーク#フォーミュラ1|ダラス]]、[[スパ・フランコルシャン|スパ]](2/3が公道)、[[アデレード市街地コース|アデレード]]、[[フェニックス市街地コース|フェニックス]]。</ref>のうち、デビュー年のみの開催だった[[フェア・パーク#フォーミュラ1|ダラス]]は未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録した。[[モンテカルロ市街地コース|モンテカルロ]]では5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、[[スパ・フランコルシャン|スパ]](2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、[[デトロイト市街地コース|デトロイト]]では3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP([[フェニックス市街地コース|フェニックス]]、モンテカルロ、スパ、[[アデレード市街地コース|アデレード]])をすべて制した。 パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。[[ハンガロリンク]]では、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のある[[イモラ・サーキット|イモラ]]も、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。 逆に鬼門とされていたのは[[モンツァ・サーキット|モンツァ]]、[[エストリル・サーキット|エストリル]]、地元ブラジルGPの舞台となった[[ネルソン・ピケ・サーキット|ジャカレパグア]]、[[インテルラゴス・サーキット|インテルラゴス]]などである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは1勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみだった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中の単独スピンなどが発生している。 また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間<ref group="注釈">[[ポール・リカール・サーキット|ポール・リカール]]6回、[[マニクール・サーキット|マニ・クール]]3回、[[ディジョン・プレノワ・サーキット|ディジョン]]1回</ref>でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは地元GPにおいても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝率を記録しており<ref group="注釈">ポール・リカールで9度中5勝、マニクールで2度中1勝、ディジョンで3度中1勝、ジャガレパグアで9度中5勝、インテルラゴスで3度中1勝。</ref>、この面では対照的な結果が残ることとなった。 ; 危険な走行 その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だった[[ジャッキー・スチュワート]]はその点を憂慮し、セナへのインタビューで直接苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言内容として驚きだ」「僕たちF1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「私には私の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンである[[ジャック・ブラバム]]は、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた<ref>{{Cite web|和書|author=小倉茂徳 |date=2010-08-27 |url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/f1_ogutan/389582.html |title=F1の品格 |work=オグたん式「F1の読み方」 |publisher=Car Watch |accessdate=2012-02-11 }}</ref>。後述するトップ・ギアのセナ特集で[[マーティン・ブランドル]]は「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくる」と語っている。<!--また{{要出典範囲|ラウダも、「プロストが24人いれば、毎回素晴らしいGPが見られるだろう。しかし24人全員がセナなら、全員1周も持たずに接触リタイヤとなるだろう<ref>この後、「24人がマンセルなら全員[[ゴルフ場]]へ行くだろう」との言葉が続く。</ref>。」との言葉を残している}}。|出典を提示して下さい。--> == 人間関係 == セナは神経質で内向的な性格と言われていた。ただ、ロータスでチームメイトだった[[エリオ・デ・アンジェリス]]<ref>{{Cite book|和書|title=GPcar Story Vol.05 ロータス97T・ルノー|edition=|date=2013-10-20|publisher=三栄書房|asin=|volume=|chapter=クラシック・チーム・ロータスの記憶|page=88-90|isbn=978-4-7796-1917-5}}</ref>、マクラーレンでコンビを組んだ[[ゲルハルト・ベルガー]]、ウィリアムズでチームメイトだった[[デイモン・ヒル]]<ref name="a">[http://jp.f1-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/090430002405.shtml 独占インタビュー! ワトキンス博士が語るセナ]</ref>、トレーニング・ジムで知り合った[[ティエリー・ブーツェン]]、同じポルトガル語圏出身でロータスの後輩である[[ペドロ・ラミー]]、同胞で後輩の[[マウリシオ・グージェルミン]]、[[ルーベンス・バリチェロ]]らとは良好な関係を築いていた。バリチェロが[[1994年サンマリノグランプリ|94年のイモラ]]において事故を起こした際には、その入院先に家族よりも先に訪れ、意識を取り戻すまで付き添っていた。バリチェロは目覚めた時にセナが傍らに居て驚いたというエピソードを後に語っている。 ロータスでチームメイトとなった中嶋悟は、「彼は、レースの闘い方やコースのこと、(マシン)セッティングのこと、そして、政治的なことまで包み隠さずアドバイスしてくれた」「彼ほど性格が生真面目なドライバーを見たことがない」とセナの人間的な面を語っている。 2度の選手権王者となった1990年頃には、若手ドライバーへのアドバイスをしたり、レース中に無線で冗談まで言うようになっていた。[[1993年日本グランプリ (4輪)|1993年日本GP]]ではセナが周回遅れにしようとしていた[[エディ・アーバイン]]がセナに進路を譲らなかった一件で、レース後にアーバインに殴りかかる事件も起こった。アーバインは殴られたと公言しているが、これは1987年第3戦[[1987年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でマンセルと殴りあったのとは違い、周囲の制止で思いとどまっている(詳細は[[エディ・アーバイン]]を参照)。この一件では6か月の[[執行猶予]]付きで2戦出場停止処分を受けた<ref>『F1速報 1994 総集編』 ニューズ出版、1995年、74頁。</ref>。 ドライバーではないが、セナの現役時代にFIA会長を務めていた[[ジャン=マリー・バレストル]]は、同じフランス人のプロストに露骨に肩入れした一方で、[[1989年日本グランプリ (4輪)|89年鈴鹿]]のシケインでの事件による失格裁定や、1990年のPPの位置を巡る争いなど、セナとは犬猿の仲で知られた。これらの構図は、慢性的にF1界を取り巻いてきた欧州封建の側面と対峙するかのようなセナの姿勢を印象付け、特に欧州圏外での熱狂的なファン獲得に繋がった要因とも言われている。 === ライバル関係の一例 === ;ネルソン・ピケ :3度のF1ワールドチャンピオンに輝いた[[ネルソン・ピケ]]とは、母国の先輩・後輩でありながら犬猿の仲だったことが知られ、生涯友好的な関係ではなかった。ピケからの発言として、「奴の乗ったマシンに乗るときは念入りに消毒する必要がある」「サンパウロのタクシードライバー」「女に興味のないラジコン狂」など、マスメディアによって伝えられた悪口も数多い。しかし、1992年にピケが[[インディ500]]予選時に両足複雑骨折の重傷を負った際には、見舞い電報を送っており、ピケ本人は「読んで涙が流れた」と語っている。ピケはセナの葬儀に出席していないが、セナ死去時の追悼コメントでは、「暫くは出てこない存在」などセナを評価する言葉を残している。 ; ナイジェル・マンセル :[[ファイル:Mansell and Senna at Silverstone ultra cropped.jpg|thumb|220px|right|1991年イギリスGPでマンセルのマシンに乗るセナ]] :マンセルとは、殴り合いの喧嘩なども含めていざこざが多数あるものの、遺恨を残すまでには至らなかった。1991年にセナがチャンピオンを獲得した際には、タイトル争いの相手であったマンセルは、ピットで迎え祝福。逆に1992年にマンセルが初タイトルを獲得した際には、セナがピットまで赴き祝福の言葉を述べている。また、[[1992年モナコグランプリ|1992年のモナコGP]]ではお互いを讃えあうなど、よきライバル関係を築いていた。セナが他界した後、日本のテレビ番組に出演した際にも「お互いに凄い奴だと認め合っていた」と、その関係について語っている。当時のF1の救急医療班の代表であり、セナとは家族ぐるみの交流があった[[シド・ワトキンス]]も、マンセルとセナは友好的な関係だった、と語っている<ref name="a" />。 ; アラン・プロスト :[[ファイル:Senna Prost and Boutsen Montreal 1988.jpg|thumb|right|220px|1988年カナダGPにて優勝したセナ(中央)と2位のプロスト(左)]] :プロストとは、前述のように様々な因縁があった。しかし、後述のプロストのコメントにもあるとおり、プロストがF1を休養していた1992年には2人は個人的に連絡を取り合っていたという。今宮純と川井一仁もその共著の中で「2人はカメラが回っていないところでは、話もよくしている」と記述している。また、後にプロスト自身はセナとの関係について「問題を抱えていた時期もあったことは確かだが、マスコミによって多くの人物にライバル以上の敵対関係として捉えられることとなった」と語っている。2人が最も険悪だったとされる1989年でも、ウィリアムズでのピケとマンセルの様に一切情報共有が無いということはなく、ミーティングなどではチームのプラスとなるためにプロフェッショナルな関係を保っていたという。[[1994年サンマリノグランプリ|1994年のサンマリノGP]]の最中である4月29日、フリー走行中のセナは地元のテレビ局による中継の解説を務めていたプロストに対し、無線で「親愛なるアラン元気かい? 君がいなくなって淋しいよ」と伝えている。セナの事故死はその2日後だった。これらのことから、2人の関係が悪かったと一概には言えない。プロストはセナの死後、セナのファンクラブのフランス支部名誉会長も務めている。 :また、フジテレビ主催のセナ追悼イベントのインタビューの中では次のように語っている。 {{Quotation| 事故から3か月たった今でも、ほとんど毎日セナのことを考えています。彼がいなくなったことで、僕のF1での大切な思い出が消えてしまいました。セナはレースでやる気を起こすためにはライバルが必要だという事に気付きました。セナには僕が必要だったのです。“僕”を倒すために彼は燃えたのです。でも、我々の間にはお互い尊敬の気持ちがありました。一年間レースをやめていた時でも、セナとはよく電話で話をしました。セナは、僕がいないとやる気が起きないと言っていました。「今年のセナはもうレースへの情熱を持っていない」と感じました。<br>  彼は、いつまでも挑戦者でいたかった。しかし、守る立場に立たされてしまったのです。若いレーサーを相手にトップの座を守らなければならない……それは非常に難しいことだったでしょう。<br>  セナが僕を一番魅了させたのは ”レースで100%集中していたこと" 。簡単に100%と言うけれど、実際に100%集中するのはとんでもないことです。僕には家庭もあるし、休暇もある。ゴルフや自転車、スキーにも夢中になります。ですから、僕の場合、95%……いや98%くらいレースに捧げていると思っています。しかし、セナの場合、大切なものはレースだけなのです。また僕の乗るマシンに何らかのトラブルが生じた時、僕ならすぐにピットに入ると思います。でも、セナは違いました。彼は本能で走ろうとするのです。今となっては、セナと共に走ったこと、それが僕にとって一番大切な思い出です。|''第1部 アイルトン・セナ Forever'' 内 プロストへのインタビューVTRより}} ;ミハエル・シューマッハ :デビュー当時のシューマッハはベテラン相手に物怖じせず、セナとの間に何度かトラブルが生じた。[[1992年ブラジルグランプリ|1992年第3戦ブラジルGP]]では{{要出典|date=2014年5月|加速減速を繰り返しながらブロックした}}セナに対して、シューマッハが「チャンピオンのする行為ではない」と批判{{要出典|date=2014年5月|(セナはエンジンのミスファイアと発言)}}。第8戦[[1992年フランスグランプリ|フランスGP]]では、スタート直後に追突してきたシューマッハを、再スタート前のグリッド上でセナが厳しく諭す一幕があった。両者はその後[[ドイツ]]・[[ホッケンハイムリンク]]において、テスト走行中のトラブルで乱闘寸前になった。また、[[1993年南アフリカグランプリ|1993年開幕戦南アフリカGP]]ではセナがコーナーでインをついたシューマッハにマシンを被せて妨害しスピンさせる行為もあった{{efn|この一件ではセナには特にペナルティが出ず、この出来事が1994年最終戦オーストラリアGPでシューマッハがコーナーでインをついたヒルに対して同様の行為をした遠因であるとも言われている}}。しかし1994年には互いに認め合い、安全面について話し合うこともあった。 :1994年サンマリノGPの悲劇を眼前で目撃したシューマッハは、レース後モーターホームに閉じこもり、婚約者のコリーナと泣き続けたと後に語っている。[[2000年イタリアグランプリ|2000年イタリアGP]]ではセナに並ぶ通算41勝目を挙げた際、表彰台後の記者会見で「勝ち星(41勝)がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」と尋ねられると「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん…」と語った後、突然号泣して口を閉ざした<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=UyhKYGYAvXI|title=Top 10 Tearjerkers in Formula 1|accessdate=2021-04-09|publisher=FORMULA 1 2020-05-15}}</ref>。その後再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ」と答えた<ref>GPX 2000年イタリアGP 3頁 山海堂</ref>。 == ホンダとの関係 == 1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。[[本田宗一郎]]と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。 また、1987年までホンダF1総監督だった[[桜井淑敏]]とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。 開幕戦[[1987年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]では、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいないとされた。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件でホンダのエンジニアによるセナへの評価や信頼が上昇することとなった。 [[1988年日本グランプリ (4輪)|1988年の鈴鹿]]でのレース後に、セナは[[アラン・プロスト]]と共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、礼を言われるとは思ってもいなかったので、感激しほとんど料理を食べることができず、ただ涙を流していたという<ref>『[[産経新聞]]』「from Editor」〈F1をめぐる「男の涙」〉[[2009年]](平成21年)[[11月16日]] 月曜日 12版 6面。</ref>。 レース以外でもホンダとは関係を持ち、[[1989年]]にホンダのフラグシップ・スポーツカー、[[ホンダ・NSX|NSX]]の開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社の[[ホンダ・VT250F#派生・後継車種|VT250スパーダ]](2輪)の紙面広告に出演。その後、同社の[[ホンダ・プレリュード|プレリュード]](4代目)のCMにも出演した。[[キャッチコピー]]は「'''Just move it'''」。 また、マクラーレンで担当エンジニアだった[[木内健雄]]と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。 2013年、ホンダは[[1989年日本グランプリ (4輪)|1989年日本GP]]におけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを[[3DCG]]で再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した<ref>"[http://www.honda.co.jp/news/2013/4130927.html アイルトン・セナの鈴鹿最速ラップをCGで再現した体験型Webコンテンツ「3D-View」を公開]". 本田技研工業.(2013年9月27日)2014年3月3日閲覧。</ref><ref>"[http://www.honda.co.jp/internavi-dots/dots-lab/senna1989/ Ayrton Senna 1989]". dots by internavi.</ref>。 === ホンダエンジン搭載車でのセナの記録 === 1987年はロータス、1988 - 1992年はマクラーレンで通算6年間ホンダエンジン搭載車でドライブした。なおここでは記録のパーセンテージのうち小数点以下は四捨五入して掲載している。 * ドライバーズタイトル3回 1988、1990、1991年と全てマクラーレン・ホンダ時代に獲得。 * 優勝通算41回中32回 自身の全優勝の78%がホンダエンジンでの優勝である。 * PP通算65回中46回 自身の全PPの70%がホンダエンジンでの記録である。 * FL通算19回中14回 自身の全FLの74%がホンダエンジンでの記録である。 * 通算ポイント614点中435点 自身の通算ポイントの71%がホンダエンジンでの記録である。 ドライバーズタイトル、優勝、PP、FL、通算ポイントといずれもホンダエンジンのドライバー別通算記録の中で最多記録となる。 == F1における主な記録 == *'''ワールドチャンピオン獲得3回'''(歴代5位タイ 当時歴代2位タイ) **1988年、1990年、1991年 *'''優勝41回'''(歴代5位 当時歴代2位) **1991年第2戦[[ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]でジャッキー・スチュワートの27勝を更新。 *'''ポールポジション65回'''(歴代3位 当時歴代1位) **1989年第5戦[[アメリカグランプリ|アメリカGP]]でジム・クラークの33回を更新。2006年第4戦サンマリノGPでミハエル・シューマッハが更新。 *'''年間ポールポジション13回'''(歴代3位タイ 当時歴代1位) **1988年、89年に連続して記録。1973年のロニー・ピーターソン、1974年、1975年のニキ・ラウダ、1984年のネルソン・ピケの9回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。 *'''年間ポール・トゥ・ウィン7回'''(歴代5位 当時歴代1位) **1988年、91年に記録。それまでの5回を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。 *'''連続ポールポジション8回'''(歴代1位) **1988年第14戦スペインGP - 1989年第5戦アメリカGPにかけて記録。 *'''連続フロントロー獲得24回'''(歴代1位) **1988年第9戦ドイツGP - 1989年第16戦オーストラリアGPにかけて記録。 *'''同一GPでの連続PP7回'''(歴代1位) **サンマリノGPにおいて、1985年 - 1991年にかけて記録。 *'''同一GPでの連続優勝5回'''(歴代1位) **モナコGPにおいて、1989年 - 1993年にかけて記録。 *'''開幕からの連続優勝4回'''(歴代3位タイ 当時歴代1位) **1991年に記録。それまでの記録2勝を更新。1992年にナイジェル・マンセルが更新。 *'''開幕からの連続PP6回'''(歴代2位タイ 当時歴代1位) **1988年に記録。1977年のジェームス・ハントの3回を更新。1993年にアラン・プロストが更新。 *'''モナコGP6勝'''(歴代1位) **1993年に更新。1987年、1989年 - 1993年に記録し、1969年にグラハム・ヒルが記録した5勝を更新。 == エピソード == ;パーソナルデータ :* 利き手は左。 :* 血液型はRh+B型<ref>[http://images.planetf1.com/12/02/800x600/1982-Ayrton-Senna-Winner-Formula-Ford-2000_2716608.jpg planetf1.com] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130316115246/http://images.planetf1.com/12/02/800x600/1982-Ayrton-Senna-Winner-Formula-Ford-2000_2716608.jpg |date=2013年3月16日 }}</ref>。 :* 趣味のひとつに、[[ラジコン]]の[[飛行機]]や[[ヘリコプター]]があった。市販のものを購入し、独自に改造も行うほど。日本の友人から日本製の製品も多く受け取り熱中していた。 :* [[コーヒー]]が苦手と語っている。「ブラジル人ながらコーヒーが苦手なのは僕くらいかも知れない」とも語っている。 :* オフには故郷のプライベートアイランドで[[水上オートバイ]]を楽しんだ。1991年のシーズン中に水上オートバイの事故に遭い、後頭部を縫う怪我を負った。 <!--* {{要出典範囲|[[ジル・ヴィルヌーヴ]]に憧れていた経緯があり、生前に尊敬するドライバーを尋ねられた際には、ほぼ必ず名を挙げていた}}。またロータス時代のカーナンバーも、「No.11」ではなく、ヴィルヌーヴに縁の深い「No.12」を好んで使用していた。1990年のカーナンバーもヴィルヌーヴが事故死の1982年に付けていた「No.27」であった。ヴィルヌーブ事故死の際は、サポートレースに参加するために現場におり、大きなショックを受けたという。|出典を明記して下さい。--> ;家族・恋人 :[[ファイル:Bruno senna 2009.jpg|thumb|right|140px|甥のブルーノ・セナ]] :* 両親は父ミルトン、母ネイジ、兄弟は姉ビビアーニ、弟レオナルド。「セナ」は母方のファミリーネーム。 :* 姉のビビアーニ・セナ・ラッニは弟の死後「アイルトン・セナ財団」の代表に就任し、[[1994年日本グランプリ (4輪)|1994年日本GP]]にゲストとして来日し、日本のファンへ感謝のスピーチを述べた。ビビアーニの息子(アイルトンの甥)'''[[ブルーノ・セナ]]'''は後にレーサーとなり、2010年にF1デビューを果たした。 :** その後ブルーノが[[フォーミュラE]]に参戦するとかつてのライバル・プロストとピケの息子([[ニコラ・プロスト]]、[[ネルソン・ピケJr.]])と戦うこととなり、日本のメディアでは「セナ・プロ対決再び」「4強の子が集う」と話題になった<ref group="注釈">厳密に言えばマンセルの子供は参戦しておらず、またブルーノはアイルトンの甥なので「4強」ではない。</ref>。2016年に開催されたロンドンePではニコラがポールポジション、ブルーノがフロントローに着けて「セナ・プロ対決」が実現した。 :* 一時期、当時ブラジルの国民的アイドル[[:en:Xuxa|シューシャ]](本名:マリア・ダ・グラサ・メネゲル)と交際していた。その出演番組にセナがゲスト出演したこともある。1988年のクリスマス番組で彼女がセナに「欲しい物は何?」と聞くと「ここでは言えない」と言って彼女にだけ耳打ちした。その後シューシャはワールドチャンピオンのお祝いと称し「新年の分」「1990年の分」「1991年の分」「1992年の分」「1993年の分」として何度も彼の顔にキスをしている。能天気なまでのキスシーンとは裏腹に「1993年の分」で終わることが1994年の事故を暗示していると後に評判となる。また、1990年ブラジルGPでは、シューシャがセナの応援に来ており、後にセナの葬儀にも参列した。なお、シューシャはセナと付き合う以前は[[サッカー選手]]の[[ペレ]]と交際をしており、セナと付き合ってからシューシャを巡ってセナとペレの間でトラブルがあったとの噂が広まっている<ref>{{Cite book|和書|author=ペレ著、伊達淳訳|title=ペレ自伝|publisher=[[白水社]]|year=2008|isbn=978-4560026304|page=303-304}}</ref>。 ;信仰心 :* 敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]の家庭で育ち、自身も[[聖書]]を携帯し、インタビューなどでたびたび神の存在について語っている。 :* 1988年日本GPで自身初のチャンピオンを獲得した際には、レース後の会見で「スプーンカーブを走っている時、宙に浮いたような神を見た。光に包まれて、天高く上がっていってるんだ」と発言した<ref>"[http://number.bunshun.jp/articles/-/7973 今日の名言]". Number Web.(2009年11月19日)2014年3月3日閲覧。</ref>。 ;慈善活動 :* セナ自身の意向により常に完全に匿名で行われていたため存命当時に公にされることはなかったが、チャリティに非常に熱心で、数百万ドルの私財を恵まれない子供たちに寄付していたという<ref name="b" /><ref>[http://jp.f1-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/090504020710.shtml 独占インタビュー! ジャコビが語るセナ パート2]</ref>。 ;ビジネス :* F1ドライバーとしての収入とは別に、自身で発足した会社を持ち事業を展開していた。通称「セナビル」と言われる自宅兼社屋をサンパウロ市内に私有、「[[セニーニャ]] (Senninha)」という自身をモチーフにしたキャラクター商品などの販売で収益を得、またその一部は寄付などにも充てていた。 ;交渉術 [[ファイル:AyrtonSenna's Racingsuit.jpg|thumb|right|180px|ナシオナル銀行のロゴの入ったマクラーレン時代のレーシングスーツ]] :* チームとの交渉事ではタフな一面を見せた。マクラーレンではドライバーの個人スポンサーのPRを認めていなかったが、特例として[[ナシオナル銀行]](NACIONAL)のキャップやロゴの露出を認めさせた。契約金が合意しなかった時は、[[ロン・デニス]]代表と[[コイントス]]で決めたこともあった。 :* 1983年オフにセナと共にF1テストを受けた[[マーティン・ブランドル]]は、「セナはあの当時からF3ボーイズと思えない老練な考え方をしていた。彼はトールマンと最初のF1契約を結ぶときに違約金さえ何とかなればいつでも破棄できる契約を結び、より強力なマシンに乗るチャンスを逃さないよう準備出来ていた。あの時点でセナは精神的に大人だった」と証言している<ref>GPインタビュー マーティン・ブランドル [[F1速報]]1991ブラジルGP 31頁 武集書房 1991年4月13日発行</ref>。 :* 1990年夏にロン・デニスと行われた契約延長交渉でも年俸や契約年数など条件面の隔たりが大きく、セナはウィリアムズとフェラーリから契約を望まれていることを隠さずにデニスにプレッシャーを与え<ref name="91belgiam_gpx"></ref>、デニスが3年契約を希望していたものをセナが主張する1年契約プラス1年のオプション契約になり、報酬額もセナの希望した約22億円とされる額をデニスは全て飲むことになった。デニスをして「彼(セナ)はこのグランプリ界随一の交渉家だ」と言わしめた<ref name="91belgiam_gpx"></ref>。 :* 1993年はフォードのワークスエンジン獲得を訴え、サンマリノGPでは金曜日のフリー走行開始直前までサーキット入りせずチームにプレッシャーをかけた。 :* 一方、ベルガーと共に[[ワニ]]の棲む池に[[ロン・デニス]]を叩き落とし、「契約金を上げると約束すれば、助けてやる」という交渉をしたこともあった。なお、この際は、ロン・デニスが契約金上昇を約束し、2人に助けられている。 ;投票結果 :* イギリスのF1 Racing誌(2007年2月号)は、史上最速のF1ドライバーとしてアイルトン・セナを選出した。同誌は、[[国際自動車連盟|FIA]]の[[マックス・モズレー]]会長、当時の[[フェラーリ]]チーム代表の[[ジャン・トッド]]、元チャンピオンの[[ケケ・ロズベルグ]]、元チームオーナーの[[エディ・ジョーダン]]などのF1界を代表する有識者(28人)に投票を依頼し、最速ドライバー歴代50傑を決定した。セナは[[ミハエル・シューマッハ]]を抑えてランキング1位になった。3位は[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]。 :* イギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載され、1位にアイルトン・セナを選出した。これは同誌のリーダーパネル会員の数千におよぶ投票で決定されたもので、2位はミハエル・シューマッハ、3位に[[ファン・マヌエル・ファンジオ]]。 :* 英誌オートスポーツは、F1ドライバー経験者217人の投票により「F1で最も偉大なドライバー」にセナを選出した。2位はミハエル・シューマッハ。3位はファン・マヌエル・ファンジオ。現役ではフェラーリの[[フェルナンド・アロンソ]]の9位が最高だった(2009年12月)<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/motor/news/p-sp-tp2-20091212-575062.html 偉大なF1ドライバー1位はセナ] 日刊スポーツ2009年12月12日付。</ref>。 ;日本のメディア関連 :* フジテレビによるF1中継では、セナの印象的なレースとして語られることの多いGPは、[[三宅正治]]が実況を担当していたケースが多かった。優勝レースの担当回数は[[古舘伊知郎]]・[[大川和彦]]に及ばない<ref group="注釈">三宅の8回に対し、古舘は12回(1990年アメリカGP・1993年日本GP等)、大川は11回(1988年サンマリノGP・1988年日本GP等)担当している。</ref>が、名レースとして語られることの多いGP<ref group="注釈">1991年ブラジルGP・1992年モナコGP・1993年ヨーロッパGPなど。</ref>や節目の勝利<ref group="注釈">ホンダエンジンでの最後の優勝となった1992年イタリアGP、自身最後の優勝である1993年オーストラリアGP等。</ref>の割合が高かった他、優勝レース以外でも、パトレーゼの猛攻を凌ぎ2位を死守した1992年ドイツGP、最期となった1994年サンマリノGP等が三宅の実況であった。 :* 一方で、単純にセナと相性の悪いアナウンサーとしてよく話題に挙がるのは当時[[関西テレビ放送|関西テレビ]]アナウンサーの[[馬場鉄志]]であり、終盤までトップを走行しながら勝利を逃す<ref group="注釈">1988年イタリアGP・1989年ハンガリーGP・1990年メキシコGP。</ref>、大きな遺恨を残す事態を生む<ref group="注釈">1988年ポルトガルGP・1989年ポルトガルGP。</ref>、シーズン初リタイヤを喫する<ref group="注釈">1989年アメリカGP・1990年サンマリノGP・1993年サンマリノGP。いずれも馬場の該当シーズンにおける、初実況レースであった。</ref>等、単に「優勝出来なかった」という以上の出来事を伴うレースが多くあった。ホンダ陣営も馬場との相性に関するエピソードを知っており、1990年スペインGPでは、馬場の顔写真<ref group="注釈">このGPの結果次第では、直後の日本GPを待たずしてセナのチャンピオンが決まる可能性があり、それを避けたかったフジテレビ陣営が、国際[[ファクシミリ|FAX]]で送信しコメンタリーブースに貼り付けていたもの。</ref>を見たホンダスタッフが「悪ふざけが過ぎる!」と怒ったこともあった<ref>別冊宝島 F1マクラーレン・ホンダ 栄光の1988年 16戦15勝の舞台裏 ISBN 4800214815 内インタビュー</ref>。1993年のスペインGPでは馬場が実況、古舘が解説を担当したが、古館が「'''馬場さんがアナウンサー担当の時にセナが勝った確率はなんと1割8分です。22戦して4勝<ref group="注釈">ただし4勝のうち2勝は、新記録となる開幕4連勝を達成した1991年モナコGP、本田宗一郎逝去直後の弔い合戦を制した1991年ハンガリーGPという節目の勝利であった。</ref>です'''」と発言し、それを聞いた馬場自身も「あまりその話題には触れたくないのでありますが…」と困惑する場面もあった(結果はプロストが優勝し、セナは2位)。 :* 1991年には[[週刊少年ジャンプ]]([[集英社]])がマクラーレンのスポンサーとなっていたことから、35号から51号にかけてセナを主人公として同年のシリーズを描く『Fの閃光-アイルトン・セナの挑戦!!-』(原作: [[西村幸祐]] 画: 長沢克泰・[[鬼窪浩久]])が連載された。 :* 1992年10月20日、日本GP直前にフジテレビの依頼で「[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]」「[[タイム3]]」「[[FNNスーパータイム]]」にはしご出演。「いいとも」の収録後、フジテレビへ向かうセナを出待ちをする人混みで[[新宿アルタ]]前が一時騒然となった。[[石橋貴明]]はオフの日に「いいとも」を見ていたところ、偶然セナの番組出演を知り、フジテレビ関係者を通じて「会いたい」と交渉したところ、許諾が下りた。当時、「[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]」内の「生ダラCART GP」で"アイルトン・タカ"と名乗っていた石橋は、番組で使っていたヘルメットを持参してセナと対面し、意気投合する。石橋はかねてより、セナの生ダラCART GP参戦を願っていたが、モナコGP観戦のため現地へ向かう空港で出会った[[グッドイヤー]]幹部の仲介が奏功し、1993年12月に実現する。コーナーレギュラーの[[定岡正二]]と共に念願のカート対決を楽しんだ。セナはコースを逆走したり、石橋を真似て「[[シェー]]」のポーズをとるなど終始リラックスしていた。レース後、石橋から「鈴鹿で優勝した際のヘルメット」のプレゼントを頼まれ、これを快諾した。セナは日本の友人である石橋との交流を楽しみにしていたようで、折に触れ石橋のことを気にかけていた。前述のヘルメットはセナの死から約1年後、財団からホンダのスタッフを通じて石橋に手渡されたが、一度も被らずに自宅で丁重に保管されているという<ref>{{Cite web|和書 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/853055 |title=「生々しい傷が残って…」衝撃の死から1年後、アイルトン・セナから石橋貴明に届いた“約束のヘルメット”「一度も頭を入れたことはありません」 |website=Number Web |publisher=文藝春秋 |date=2022-05-01 |accessdate=2022-05-03}}</ref>。 :* 1993年、南アフリカGP参戦の為に[[ヤン・スマッツ空港]]へ到着。待機していた報道陣から今回F1参戦を表明した経緯についてインタビューを受けていたところ、プロレスラーの[[アントニオ猪木]]が突然目の前に現れ、日本の報道陣はどよめいたがセナと猪木は握手を交わし、[[ブラジルポルトガル語|ポルトガル語]]でしばし会話。同じブラジルにルーツを持つ両者だっただけに、「知り合いなのか?」と尋ねられたが、お互いに「テレビで観た事はある」と答えた<ref>「ピットリポーター川井ちゃん F1ワハハ読本③」、川井一仁著、ソニー・マガジンズ</ref>。 :* 2013年に発売された[[PlayStation 3]]用ゲーム『[[グランツーリスモ6]]』で、アイルトン・セナ財団がグランツーリスモ6と長期的なパートナーシップを締結。5月に追加コンテンツ「アイルトン・セナ・トリビュート」が登場し、セナが運転したマシンを運転、セナの人生をたどることができる。収録されたフォーミュラカーは[[ロータス・97T]]。また、オープニングムービーにセナ財団がサポートしている学校も実写で登場する。なお、1993年のF1を題材とするゲームでは開幕前に休養も取りざたされていた一連の影響のためか、セナが初期設定では登録されていないというゲームが多かった(多くの場合はエディット機能による登録は可能だった)。 ;伝記映画 :* 死後16年以上が経過した[[2010年日本グランプリ (4輪)|2010年日本GP]]に合わせ、[[ドキュメンタリー映画]]『[[アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ]]』が公開された。この映画は全世界での公開になるが、世界に先駆けて日本は先行上映された。映像や声の出演は生前のセナ本人だけでなく、善きライバルであったプロスト、所属チームのオーナーだったフランク・ウィリアムズやロン・デニス、親族では実姉のヴィヴィアーニ・セナから実父、実母などセナの生涯に携わった人物が多数登場する<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/78561/full/|title = アイルトン・セナ初のドキュメンタリー映画、世界最速、日本先行公開決定|publisher = オリコン|date = 2010-07-28|accessdate = 2011-01-10}}</ref>。 :* この映画のプロデューサーのジェイムズ・ゲイ・リースによると、セナが死の1か月ほど前にイモラサーキットでテストを行った際に、タンブレロに立ち、イモラサーキットの関係者に路面に凹凸があり危険だと指摘し、「ここで今年誰かが死ぬ」と話している映像があるが、映画にはうまく組み込ませることができなかったという<ref>[http://www.f1fanatic.co.uk/2011/06/02/making-senna-part-5/ The Making of Senna part 5: The lost scenes]</ref>。 :* また、その現場を個人カメラマンが別角度から撮影した映像もあり、セナの死から数日後のフジテレビのニュース番組で放送された。 == レース戦績 == === F1以前の戦績 === {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" |- ! 年 ! カテゴリー ! 所属チーム ! シャシー ! エンジン ! 優勝数<br />/ 参戦数 ! PP ! FL ! 年間ランキング |- ! [[1981年]] | [[フォーミュラ・フォード]]1600 | - | バン・ディーメン RF80<br />バン・ディーメン RF81 | [[フォード・モーター|フォード]] | 12 / 20 | 6 | 9 | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' |- ! rowspan=3 | [[1982年]] | ヨーロッパ・フォーミュラ・フォード2000 | ルーセン・グリーン・レーシング | バン・ディーメン RF82 | フォード | 6 / 9 | 8 | 5 | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' |- | イギリス・フォーミュラ・フォード2000 | ルーセン・グリーン・レーシング | バン・ディーメン RF82 | フォード | 16 / 19 | 8 | 16 | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' |- | [[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3]] (スポット参戦) | - | [[ラルト]] RT3 | [[トヨタ]] | 1 / 1 | 1 | 1 ! - |- ! rowspan=2 | [[1983年]] | イギリスF3 | ウエストサリー・ レーシング | ラルト RT3 | トヨタ | 12 / 20 | 15 | 12 | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' |- | [[フォーミュラ3|F3]] [[マカオグランプリ]] | ウエストサリー ・レーシング | ラルト RT3 | トヨタ | - | '''PP''' | '''FL''' | {{MsStatsC|1st}} | '''総合優勝''' |} === イギリス・フォーミュラ・フォード2000 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! チーム ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 14 ! 15 ! 16 ! 17 ! 18 ! 順位 ! ポイント ! 参照 |- ! [[1982年のイギリス・フォーミュラ・フォード選手権|1982年]] ! [[ルーセン・グリーン・レーシング]] |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[ブランズ・ハッチ|BRH]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[オウルトン・パーク|OUL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[ドニントン・パーク|DON]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[スネッタートン・モーターレーシング・サーキット|SNE]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[マロリー・パーク|MAL]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|ret}}|[[オウルトン・パーク|OUL]]<br /><small>Ret</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[ブランズ・ハッチ|BRH]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[マロリー・パーク|MAL]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''[[ブランズ・ハッチ|BRH]]'''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[オウルトン・パーク|OUL]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|2nd}}|[[スネッタートン・モーターレーシング・サーキット|SNE]]<br /><small>2</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[カステルコンベ|CAS]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[スネッタートン・モーターレーシング・サーキット|SNE]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[スラクストン・サーキット|THR]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|2nd}}|''[[ブランズ・ハッチ|BRH]]''<br /><small>2</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''1位''' |{{MsStatsC|1st}}|'''378''' |<ref>{{Cite web|title=Formula Ford 2000 Rushen Green Racing, Van Diemen 1982|url=http://www.sennaworld.com/1982.html|website=www.sennaworld.com|accessdate=2021-02-11}}</ref> |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]]) === イギリス・フォーミュラ3選手権 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! チーム ! エンジン ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 14 ! 15 ! 16 ! 17 ! 18 ! 19 ! 20 ! 順位 ! ポイント |- ! [[1983年のイギリス・フォーミュラ3選手権|1983年]] ! [[ウエストサリー・レーシング]] ! [[トヨタ自動車|トヨタ]] |{{MsStatsC|1st}}|[[シルバーストン・サーキット|''SIL'']]<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''[[スラクストン・サーキット|THR]]'''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[ドニントン・パーク|DON]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''[[スラクストン・サーキット|THR]]'''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[スラクストン・サーキット|THR]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[ブランズ・ハッチ|BRH]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|ret}}|[[シルバーストン・サーキット|SIL]]<br /><small>Ret</small> |{{MsStatsC|dns}}|'''[[キャドウェル・パーク|CAD]]'''<br /><small>DNS</small> |{{MsStatsC|ret}}|''[[スネッタートン・モーターレーシング・サーキット|SNE]]''<br /><small>Ret</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|2nd}}|'''''[[ドニントン・パーク|DON]]'''''<br /><small>2</small> |{{MsStatsC|ret}}|''[[オウルトン・パーク|OUL]]''<br /><small>Ret</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''[[シルバーストン・サーキット|SIL]]'''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|ret}}|'''[[オウルトン・パーク|OUL]]'''<br /><small>Ret</small> |{{MsStatsC|ret}}|'''[[スラクストン・サーキット|THR]]'''<br /><small>Ret</small> |{{MsStatsC|2nd}}|[[シルバーストン・サーキット|SIL]]<br /><small>2</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''''[[スラクストン・サーキット|THR]]'''''<br /><small>1</small> |{{MsStatsC|1st}}|'''1位''' |{{MsStatsC|1st}}|'''132''' |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]]) === マカオグランプリ === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! チーム ! シャーシー/エンジン ! 予選 ! レース1 ! レース2 ! 総合順位 |- ! [[1983年のマカオグランプリ|1983年]] |align="left" | {{flagicon|GBR}}[[ウエストサリー・レーシング]] |align="left" | [[ラルト|ラルト・RT3]] [[トヨタ自動車|トヨタ]] |1位 |{{MsStatsC|1st}}| '''''1''''' |{{MsStatsC|1st}}| '''1''' |{{MsStatsC|1st}}| '''1位''' |} === F1 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! 所属チーム ! シャシー !エンジン ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 14 ! 15 ! 16 ! WDC ! ポイント |- !rowspan="2" | [[1984年のF1世界選手権|1984年]] !rowspan="2" | [[トールマン]] ! [[トールマン・TG183|TG183B]] ! rowspan="2" | [[ブライアン・ハート (企業)|ハート]]<br>415T<br>1.5 [[直列4気筒|S4]] [[ターボチャージャー|t]] | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1984年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>6</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1984年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>6</small> | {{MsStatsC|dnq}} | [[1984年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>DNQ</small> | | | | | | | | | | | | !rowspan="2" | 9位 !rowspan="2" | 13 |- ! [[トールマン・TG184|TG184]] | | | | | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | ''[[1984年モナコグランプリ|MON]]''<br /><small>2<sup>‡</sup></small> | {{MsStatsC|f}} | [[1984年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>7</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年アメリカ東グランプリ|DET]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年アメリカグランプリ|DAL]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1984年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>Ret</small> | [[1984年イタリアグランプリ|ITA]] | {{MsStatsC|ret}} | [[1984年ヨーロッパグランプリ|EUR]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1984年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>3</small> |- ! [[1985年のF1世界選手権|1985年]] !rowspan="3" | [[チーム・ロータス|ロータス]] ! [[ロータス・97T|97T]] ! [[ルノーF1|ルノー]]<br>EF15<br>1.5 [[V型6気筒|V6]] [[ターボチャージャー|t]] | {{MsStatsC|ret}} | [[1985年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1985年ポルトガルグランプリ|POR]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|f}} | '''[[1985年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>7<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1985年モナコグランプリ|MON]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|f}} | ''[[1985年カナダグランプリ|CAN]]''<br /><small>16</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''''[[1985年アメリカグランプリ|DET]]'''''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1985年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|f}} | [[1985年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>10<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1985年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1985年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1985年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|3rd}} | '''[[1985年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1985年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''[[1985年ヨーロッパグランプリ|EUR]]'''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1985年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1985年オーストラリアグランプリ|AUS]]'''<br /><small>Ret</small> ! 4位 ! 38 |- ! [[1986年のF1世界選手権|1986年]] ! [[ロータス・98T|98T]] ! [[ルノーF1|ルノー]]<br>EF15B<br>1.5 [[V型6気筒|V6]] [[ターボチャージャー|t]] | {{MsStatsC|2nd}} | '''[[1986年ブラジルグランプリ|BRA]]'''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1986年スペイングランプリ|ESP]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1986年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1986年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1986年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1986年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>5</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1986年アメリカグランプリ|DET]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1986年フランスグランプリ|FRA]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1986年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1986年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''[[1986年ハンガリーグランプリ|HUN]]'''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1986年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1986年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|pt}} | '''[[1986年ポルトガルグランプリ|POR]]'''<br /><small>4<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|3rd}} | '''[[1986年メキシコグランプリ|MEX]]'''<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1986年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> ! 4位 ! 55 |- ! [[1987年のF1世界選手権|1987年]] ! [[ロータス・99T|99T]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>RA166E<br>1.5 [[V型6気筒|V6]] [[ターボチャージャー|t]] | {{MsStatsC|ret}} | [[1987年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''[[1987年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1987年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | ''[[1987年モナコグランプリ|MON]]''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | ''[[1987年アメリカグランプリ|DET]]''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1987年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>4</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1987年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1987年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1987年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1987年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>5</small> | {{MsStatsC|2nd}} | ''[[1987年イタリアグランプリ|ITA]]''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|f}} | [[1987年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>7</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1987年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>5</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1987年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1987年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|dsq}}| [[1987年オーストラリアグランプリ|{{Color|white|AUS}}]]<br /><small>DSQ</small> | {{MsStatsC|3rd}} | '''3位''' | {{MsStatsC|3rd}} | '''57''' |- ! [[1988年のF1世界選手権|1988年]] ! rowspan="8" | [[マクラーレン]] ! [[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>[[ホンダ・RA168E|RA168E]]<br>1.5 [[V型6気筒|V6]] [[ターボチャージャー|t]] | {{MsStatsC|dsq}} | '''[[1988年ブラジルグランプリ|{{Color|white|BRA}}]]'''<br /><small>DSQ</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1988年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''''[[1988年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''[[1988年メキシコグランプリ|MEX]]'''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1988年カナダグランプリ|CAN]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1988年アメリカグランプリ|DET]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1988年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1988年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1988年ドイツグランプリ|GER]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1988年ハンガリーグランプリ|HUN]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1988年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|f}} | '''[[1988年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>10<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1988年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>6</small> | {{MsStatsC|pt}} | '''[[1988年スペイングランプリ|ESP]]'''<br /><small>4</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1988年日本グランプリ (4輪)|JPN]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''[[1988年オーストラリアグランプリ|AUS]]'''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' | {{MsStatsC|1st}} | '''90 (94)''' |- ! [[1989年のF1世界選手権|1989年]] ! [[マクラーレン・MP4/5|MP4/5]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>RA109E<br>3.5 [[V型10気筒|V10]] | {{MsStatsC|f}} | '''[[1989年ブラジルグランプリ|BRA]]'''<br /><small>11</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1989年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1989年モナコグランプリ|MON]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1989年メキシコグランプリ|MEX]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''''[[1989年アメリカグランプリ|USA]]'''''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|f}} | [[1989年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>7<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1989年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1989年イギリスグランプリ|GBR]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1989年ドイツグランプリ|GER]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1989年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1989年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1989年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1989年ポルトガルグランプリ|POR]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1989年スペイングランプリ|ESP]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|dsq}} | '''[[1989日本グランプリ (4輪)|{{Color|white|JPN}}]]'''<br /><small>DSQ</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1989年オーストラリアグランプリ|AUS]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''2位''' | {{MsStatsC|2nd}} | '''60''' |- ! [[1990年のF1世界選手権|1990年]] ! [[マクラーレン・MP4/5|MP4/5B]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>RA100E<br>3.5 [[V型10気筒|V10]] | {{MsStatsC|1st}} | [[1990年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|3rd}} | '''[[1990年ブラジルグランプリ|BRA]]'''<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1990年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1990年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1990年カナダグランプリ|CAN]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|f}} | [[1990年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>20<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1990年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1990年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1990年ドイツグランプリ|GER]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1990年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1990年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''''[[1990年イタリアグランプリ|ITA]]'''''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1990年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1990年スペイングランプリ|ESP]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1990年日本グランプリ (4輪)|JPN]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1990年オーストラリアグランプリ|AUS]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' | {{MsStatsC|1st}} | '''78''' |- ! [[1991年のF1世界選手権|1991年]] ! [[マクラーレン・MP4/6|MP4/6]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>RA121E<br>3.5 [[V型12気筒|V12]] | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年アメリカグランプリ|USA]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年ブラジルグランプリ|BRA]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年モナコグランプリ|MON]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1991年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1991年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1991年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1991年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>4<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|f}} | [[1991年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>7<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年ハンガリーグランプリ|HUN]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|2nd}} | '''''[[1991年イタリアグランプリ|ITA]]'''''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1991年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1991年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>5</small> | {{MsStatsC|2nd}} | ''[[1991年日本グランプリ (4輪)|JPN]]''<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1991年オーストラリアグランプリ|AUS]]'''<br /><small>1<sup>‡</sup></small> | {{MsStatsC|1st}} | '''1位''' | {{MsStatsC|1st}} | '''96''' |- !rowspan="2" | [[1992年のF1世界選手権|1992年]] ! [[マクラーレン・MP4/6|MP4/6B]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>RA122E<br>3.5 [[V型12気筒|V12]] | {{MsStatsC|3rd}} | [[1992年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1992年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> | | | | | | | | | | | | | | !rowspan="2" | 4位 !rowspan="2" | 50 |- ! [[マクラーレン・MP4/7A|MP4/7A]] ! [[ホンダF1|ホンダ]]<br>RA122E/B<br>3.5 [[V型12気筒|V12]] | | | {{MsStatsC|ret}} | [[1992年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|f}} | [[1992年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>9<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|3rd}} | [[1992年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1992年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1992年カナダグランプリ|CAN]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1992年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1992年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1992年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1992年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1992年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>5</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1992年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|3rd}} | ''[[1992年ポルトガルグランプリ|POR]]''<br /><small>3</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1992年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1992年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> |- ! rowspan="2" | [[1993年のF1世界選手権|1993年]] ! rowspan="2" | [[マクラーレン・MP4/8|MP4/8]] ! [[フォード・モーター|フォード]]<br>HBE7<br>3.5 [[V型8気筒|V8]] | {{MsStatsC|2nd}} | [[1993年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1993年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | ''[[1993年ヨーロッパグランプリ|EUR]]''<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1993年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|2nd}} | [[1993年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>2</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1993年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|f}} | [[1993年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>18<sup>†</sup></small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1993年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>4</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1993年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>5</small> | | | | | | | | rowspan="2" {{MsStatsC|2nd}} | '''2位''' | rowspan="2" {{MsStatsC|2nd}} | '''73''' |- ! [[フォード・モーター|フォード]]<br>HBA8<br>3.5 [[V型8気筒|V8]] | | | | | | | | | | {{MsStatsC|pt}} | [[1993年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>4</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1993年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|pt}} | [[1993年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>4</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1993年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | [[1993年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|1st}} | [[1993年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>1</small> | {{MsStatsC|1st}} | '''[[1993年オーストラリアグランプリ|AUS]]'''<br /><small>1</small> |- ! [[1994年のF1世界選手権|1994年]] ! [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]] ! [[ウィリアムズ・FW16|FW16]] ! [[ルノーF1|ルノー]]<br>RS6<br>3.5 [[V型10気筒|V10]] | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1994年ブラジルグランプリ|BRA]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1994年パシフィックグランプリ|PAC]]'''<br /><small>Ret</small> | {{MsStatsC|ret}} | '''[[1994年サンマリノグランプリ|SMR]]'''<br /><small>Ret</small> | [[1994年モナコグランプリ|MON]] | [[1994年スペイングランプリ|ESP]] | [[1994年カナダグランプリ|CAN]] | [[1994年フランスグランプリ|FRA]] | [[1994年イギリスグランプリ|GBR]] | [[1994年ドイツグランプリ|GER]] | [[1994年ハンガリーグランプリ|HUN]] | [[1994年ベルギーグランプリ|BEL]] | [[1994年イタリアグランプリ|ITA]] | [[1994年ポルトガルグランプリ|POR]] | [[1994年ヨーロッパグランプリ|EUR]] | [[1994年日本グランプリ (4輪)|JPN]] | [[1994年オーストラリアグランプリ|AUS]] ! NC ! 0 |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:F1 driver results legend 2|key]]) * <sup>‡</sup> : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。 * <sup>†</sup> : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。 === 世界耐久選手権 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! チーム ! 使用車両 ! クラス ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 順位 ! ポイント |- ! [[1984年の世界耐久選手権|1984年]] ! [[ヨースト・レーシング|ニューマン ヨースト・レーシング]] ! [[ポルシェ・956]] ! C1 | [[モンツァ・サーキット|MNZ]] | [[シルバーストン・サーキット|SIL]] | [[1984年のル・マン24時間レース|LMS]] | {{MsStatsC|pt}} | [[ニュルブルクリンク|NÜR]]<br /><small>8</small> | [[ブランズ・ハッチ|BRH]] | [[カナディアンタイヤ・モスポート・パーク|MOS]] | [[スパ・フランコルシャン|SPA]] | [[イモラ・サーキット|IMO]] | [[富士スピードウェイ|FSW]] | [[キャラミ|KYA]] | [[サンダウン・レースウェイ|SAN]] ! 82位 ! 3 |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]]) == 関連項目 == * [[アイルトン・セナの死]] * [[国際モータースポーツ殿堂]] * [[ナシオナル銀行]] * [[セニーニャ]] * [[senna]] * [[アイルトン・セナ 〜音速の彼方へ]] '''関連人物''' * [[ブルーノ・セナ]] * [[ゲルハルト・ベルガー]] * [[エリック・コマス]] * [[桜井淑敏]] * [[アドリアーネ・ガリステウ|アドリアーナ・ガリステウ]] - 最後の恋人。 * [[瀬奈じゅん]] '''CM出演''' * [[ホンダ・プレリュード]] * [[本田技研工業|ホンダ]][[ホンダ・VT250F#派生・後継車種|VT250スパーダ]] * [[昭和シェル石油]] * [[セガ|SEGA]] [[メガドライブ]]用ソフト [[アイルトン・セナ スーパーモナコGP II]](監修も担当) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 映像資料 === {{Reflist|group=映像}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{commons&cat|Ayrton Senna}} '''公式ウェブサイト''' * [https://www.ayrtonsenna.com.br/ アイルトン・セナ公式ウェブサイト] * [https://institutoayrtonsenna.org.br/pt-br.html アイルトン・セナ財団 公式ウェブサイト] * [http://www.senna-club.com/ アイルトン・セナ公式ファンクラブウェブサイト] '''非公式ウェブサイト''' * [https://senna-web.com/ Ayrton Senna da Silva Memorial Museum] * [http://www.ayrton-senna.com/s-files/ Ayrton Senna: The Senna Files] {{S-start}} {{s-sports}} {{succession box|title=[[イギリス・フォーミュラ3選手権|イギリスF3]]チャンピオン |before=[[トミー・バーン (レーサー)|トミー・バーン]]|after=[[ジョニー・ダンフリーズ]]|years=1983年}} {{succession box|title=[[マカオグランプリ]]優勝者 |before=[[ロベルト・モレノ]]|after=[[ジョン・ニールセン]]|years=1983年}} {{succession box|title=[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|years=[[1988年のF1世界選手権|1988年]]|before=[[ネルソン・ピケ]]|after=[[アラン・プロスト]]}} {{succession box|title=[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|years=[[1990年のF1世界選手権|1990年]]-[[1991年のF1世界選手権|1991年]]|before=アラン・プロスト|after=[[ナイジェル・マンセル]]}} {{S-end}} <!--{{先代次代|[[F1死亡事故一覧|F1死亡事故]]|1994年5月1日|[[ローランド・ラッツェンバーガー]]|n/a}}--> {{マカオグランプリ優勝者一覧}} {{F1ドライバーズチャンピオン}} {{トールマン}} {{ロータス}} {{マクラーレン}} {{ウィリアムズ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:せな あいるとん}} [[Category:アイルトン・セナ|*]] [[Category:ブラジルのF1ドライバー]] [[Category:トールマンのF1ドライバー]] [[Category:チーム・ロータスのF1ドライバー]] [[Category:マクラーレンのF1ドライバー]] [[Category:ウィリアムズのF1ドライバー]] [[Category:イギリスF3選手権のドライバー]] [[Category:マカオグランプリ勝者]] [[Category:スポーツカー世界選手権のドライバー]] [[Category:競技中に死亡したモータースポーツ選手]] [[Category:国葬された人物]] [[Category:イタリア系ブラジル人のスポーツ選手]] [[Category:ポルトガル系ブラジル人]] [[Category:サンパウロ出身の人物]] [[Category:20世紀ブラジルの人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:1994年没]]
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湘南ベルマーレ
湘南ベルマーレ(しょうなんベルマーレ、英: Shonan Bellmare)は、日本の神奈川県平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、厚木市、伊勢原市、南足柄市、寒川町、大磯町、二宮町、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町、箱根町、真鶴町、湯河原町をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 フジタ工業サッカー部を前身として1994年にベルマーレ平塚の名称でJリーグへ加盟、2000年に現チーム名に改称した。ホームスタジアムはレモンガススタジアム平塚で、練習場は平塚市の馬入ふれあい公園サッカー場。チーム名はラテン語の美しい(bellum、ベルム)と海(Mare、マーレ)の2つの単語を合わせた造語。 ホームタウンは1999年までは平塚市1市、2000年よりJリーグで「広域ホームタウン制度」が認められたことを受けて厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、藤沢市と中郡(大磯町、二宮町)・高座郡(寒川町)の3町を加えた7市3町へ変更された。2017年10月24日には鎌倉市、南足柄市と足柄上郡(中井町、大井町、松田町、山北町、開成町)・足柄下郡(箱根町、真鶴町、湯河原町)の8町をホームタウンに加え、神奈川県西部の9市11町にホームタウンを拡大した。 設立以来、フジタの出資する株式会社湘南ベルマーレ平塚が運営を行っていたが、フジタの経営難により1999年に新旧分離を実施し、地元企業が共同出資する株式会社湘南ベルマーレが運営する。2018年4月に、当時の筆頭株主だった三栄建築設計と、トレーニングジム・健康食品販売などを手がけるRIZAPグループが共同出資した合弁会社「メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ」がクラブの第三者割当増資を引き受け、同社が筆頭株主となっている(詳細後述) 湘南は曺貴裁体制より「攻撃的で、走る意欲に満ち溢れた、アグレッシブで痛快なサッカー」という内容の独自の堅守速攻スタイル「湘南スタイル」を提唱している。攻撃的と語られているが、湘南はカウンター重視の攻守一体の堅守速攻的な戦い方が多く、ポゼッション比率が少なく、攻撃重視のサッカーという事ではなく、攻撃性・攻撃的な姿勢・意識を持つ事であるように見受けられる。湘南はプロフェッショナルチームである以上、成果は「勝点3」のみと考えており、選手には「判断スピード」「強いフィジカル」「90分間走り続ける強い意欲・意志」「ポジティブに取り組む姿勢」「逆境をプラスにする事」「夢と目標を明確に持つ事」「一つ一つの練習に100%の集中力で取り組む事」「ミスを割り切り常にチャレンジする事」「謙虚さ」などを求めている。この湘南スタイルを軸に、曺は就任時の2012年より湘南を三度J2からJ1へ1年で昇格させている。 前身は1968年に栃木県で発足した藤和不動産サッカー部(フジタSC)で、1975年にフジタ工業サッカー部に改称した。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格、1977年JSL初優勝。以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回を果たした。1992年10月、運営会社としてフジタが全額出資する株式会社フジタスポーツクラブが設立され、チームの愛称を「湘南ベルマーレ」とした。 1993年、Jリーグ準会員に承認。ベルマーレ平塚へチーム名を変更した。同時に運営会社の商号を株式会社ベルマーレ平塚へ変更し、地元企業・団体などが出資(1996年に株式会社湘南ベルマーレ平塚へ商号を変更)した。1993年のJFL1部で優勝、スタジアム問題もクリアして、Jリーグ入会が承認された。 Jリーグ加入前から監督を務めていた古前田充とヘッドコーチのニカノールの二頭体制の下、超攻撃的サッカーを標榜したが、サントリーシリーズは全クラブ最多の54失点を喫して12チーム中11位の成績。そこで、それまで左サイドバックを務めていた岩本輝雄をオフェンシブハーフにコンバートし、左サイドバックには公文裕明を起用。これが功を奏し、ニコスシリーズは得点が全クラブ最多タイの48、失点が全クラブ最少タイの26と攻守共に安定し、V川崎と1勝差の2位に躍進し、湘南の暴れん坊と呼ばれた。また、天皇杯は決勝でC大阪を破り、初優勝した。田坂和昭が新人王、ベッチーニョおよび名塚善寛がベストイレブンを受賞した。 中田英寿が入団。シモン加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置くスリーボランチを採用。サントリーシリーズは全クラブ最多の60得点を挙げ、7位とまずまずの成績を残したが、ニコスシリーズは一転不振に陥り、8月末にニカノールが解任されると、第18節限りで古前田も辞任。残り試合はサテライト監督を務めていた植木繁晴が監督代行を務めたが、14チーム中最下位に終わる。それでも最後はアジアカップウィナーズカップで優勝した。 1998 FIFAワールドカップ日本代表としてGK小島伸幸、MF中田、FW呂比須ワグナー、同韓国代表としてDF洪明甫の計4人が選出された。W杯終了後、中田がイタリア・ACペルージャへ移籍。この年に姉妹クラブで日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)のフジタサッカークラブ・マーキュリーが廃部した。 メインスポンサーのフジタが経営再建のためスポンサーから撤退。また、小島、野口幸司、名塚、田坂、公文裕明、岩元など主力が退団(岩本輝雄、名良橋晃、ベッチーニョ、アウミール、渡辺卓は1998年1stステージ以前に退団)。J1リーグ戦は1st・2ndステージ共に最下位(年間4勝)に終わり、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ降格した。12月にフジタが株式会社湘南ベルマーレを新たに設立しクラブの営業権を同社へ移すと共に、同社株式を平塚市などの湘南ベルマーレ平塚の株主に譲渡した。一方でフジタは湘南ベルマーレ平塚の全株式を買い取った。なお、湘南ベルマーレ平塚は2004年11月22日の臨時株主総会決議により解散した。 チーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンを平塚市1市から厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、平塚市、藤沢市、中郡大磯町、二宮町および高座郡寒川町の神奈川県の7市3町へ変更・広域化した。 加藤久を監督に迎えて、名古屋からベテランGK伊藤裕二、清水からDF白井博幸、元V川崎の前園真聖や元清水の松原良香などを獲得したが、終盤に8連敗するなど苦戦を強いられ8位に終わった。加藤をシーズン中に解任する発表をしたフロントに不信感を持った前園、松原らの主力もチームを去った。 田中孝司が監督に就任。元コロンビア代表のパラシオスをはじめとしたコロンビア組を中心に補強。1998年以来の復帰となった栗原圭介とエースとして期待された若手FW高田保則がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。前年と同じく8位に終わる。 田中体制2年目。パラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した熊林親吾、吉野智行らを中心にチームが奮起。前年度に在籍していたガビリアがコロンビアで練習中に落雷を受け死亡する悲報もあったが5位へ躍進。 サミアを監督に迎え、フラット3を組み込んだ3-5-2システムを採用。開幕戦こそ機能したが、パラシオスのケガによる離脱、期待されていた元プレミアリーグミドルズブラのリカルドの不調など序盤で躓き、10位に終わった(サミアは途中退任、リカルドも退団)。 山田体制2年目。FC東京よりアマラオを獲得したが、前年に続き波に乗れず、7月に山田松市を監督より解任して、上田栄治が後任監督に就任したが、前年と同じく10位に終わった。シーズン終了後、2003年より攻撃の中心として据えられていたキム・グンチョル、シーズン途中で柏へレンタル移籍していたパラシオスが退団した。 上田体制2年目。シーズン序盤は快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられ、結局リーグ戦7位でシーズンを終えた。シーズン終了後、ユースからの生え抜きのFW高田保則や鈴木良和、佐野裕哉、吉野智行、バリシッチなどが退団した。 上田体制3年目。レンタル移籍のFW梅田直哉を浦和から完全移籍で、山形からMF外池大亮、元浦和のMFアジエル、元山形のMFニヴァウド、FWファビオを獲得した。リーグ戦は、シーズン中盤に8連敗を喫するなどで、上田が監督を辞任。終盤も6連敗するなど11位に終わった。シーズン終了後、佐藤悠介が東京Vへ移籍。また、城定信次、小林弘記など7人が退団した。 菅野将晃が監督に就任。浅野哲也がトップチームコーチに就任。FC東京からジャーン、山形から原竜太、清水から斉藤俊秀、ドイツ・SVアイントラハト・トリーアから鈴木伸貴を獲得。また、鹿島から名良橋晃が11年ぶりに復帰した。また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻した(2006年までの湘南のレンタル放出は、資金面などの理由もあり基本的には完全移籍をオプション事項に盛り込んでいた。そのため、レンタル先から復帰させたのは当時としては珍しい事例だった)。アジエルを攻撃の基点としたチーム作りで昇格争いに肉薄、終盤まで昇格の可能性を残したが6位でシーズンを終えた。このシーズンをもって選手会長の外池大亮が引退。 菅野体制2年目。左サイドバックのレギュラーを務めていた尾亦弘友希がC大阪に移籍。一方で福岡よりリンコン、新潟から三田光、FC東京から阿部吉朗、山形から湘南ユース出身の臼井幸平を獲得。リーグ戦は最終節まで昇格争いに絡んだが、最終順位は5位となった。 湘南OBの反町康治が監督に就任。また、新潟時代に反町が指導した寺川能人、野澤洋輔、元京都のFW田原豊。Honda FCからDF村松大輔を獲得した一方、DF斉藤俊秀、FW石原直樹などが退団した。リーグ戦は開幕5連勝でスタートダッシュに成功。シーズンを通して昇格レースに絡み、12月5日の最終節水戸戦で勝利し3位が確定。11年ぶりにJリーグ ディビジョン1 (J1)復帰が決定した(11シーズンぶりのJ1復帰はJリーグ最長記録)。このシーズンをもって、原竜太と伊藤友彦が現役を引退した。 このシーズンは終盤の第49節甲府戦(勝ち点91同士で並んでいた)を含むアディショナルタイムでの得点が10得点を数え、最終節水戸戦も2点のビハインドを跳ね返した。 反町体制2年目。千葉から新居辰基、新潟から松尾直人、札幌から中山元気、水戸より小澤雄希、神戸より平塚ジュニア、ジュニアユース出身の馬場賢治を期限付き移籍で獲得した。 リーグ戦は、開幕前にポジションを問わずケガ人が続出し、引退しユースチームのコーチを務めていた伊藤が現役復帰を余儀なくされ、練習試合が組めなくなるほどに深刻なものとなった。開幕戦(山形戦)は引き分け、第4節の新潟戦で初勝利を収めたが、前年までの堅守が崩壊、大量失点に苦しむ。中でも、前年の昇格の功労者であるアジエルが両脛のケガから立ち直れず選手登録抹消(退団はせず)、効果的な攻め手を欠き、前年までの人数をかけた鋭いカウンターを中心とした攻撃は影を潜めた。 後半戦を前に、選手登録されているGK4人中、3人が負傷離脱中という状況を打開するために、浦和から都築龍太を期限付き移籍で獲得(これと同時に金永基を登録抹消、退団はせず)。さらに中国・北京国安に所属していたFWヴァウドと、元FC東京のエメルソンを獲得した。椎間板ヘルニアのため戦列を離れていた野澤洋輔や開幕前に大ケガを負った松尾直人が戦列に復帰したが、7月18日の京都戦以降勝ちが全くないまま、11月14日(第30節)の清水戦に敗れ、4試合を残してJ2降格が決定した。その後も名古屋の優勝を目の前で決められてしまうなど最終節まで連敗し、結局リーグ戦21試合連続未勝利となった。これはJ1のワースト記録となった(J全体では北九州の35試合連続未勝利がワースト)。また、勝ち点16、シーズン3勝、総失点82、得失点差-51はJ1ワースト記録となった(当時)。 反町体制3年目。清水から西部洋平、FC東京から阿部伸行、C大阪から石神直哉を完全移籍で獲得。また、磐田から大井健太郎、名古屋から巻佑樹と平木良樹、鹿島から佐々木竜太も期限付き移籍で獲得した。その一方で、エメルソン、寺川能人、中山元気らが退団した。開幕戦は岡山に5-0と圧勝したが、昨年同様にケガ人による離脱者が多数発生し、シーズンを通しほぼ中位に留まり、シーズン成績は14位に終わった。 天皇杯は4回戦で川崎を撃破した。シーズン終了後、反町が監督を退任した。 新監督に曺貴裁が就任。この年より「湘南スタイル」(ミスを割り切りアグレッシブにトライする攻守一体の堅守速攻)が確立されていった。 6年間在籍していたアジエルが中国・武漢卓爾に、小澤雄希がSC相模原に、西部洋平が川崎に、田原豊が横浜FCに、臼井幸平が栃木SCに、松尾直人が関西サッカーリーグ・FC大阪に、野澤洋輔が松本に、昨シーズン甲府にレンタル移籍していた阿部吉朗が磐田に、ツエーゲン金沢にレンタル移籍していた菅野哲也がSC相模原に完全移籍、石神直哉が大分に、松浦勇武がFC琉球にレンタル移籍、大井健太郎(磐田に復帰⇒新潟へ完全移籍)、巻佑樹(名古屋へ復帰)、佐々木竜太(鹿島へ復帰)がレンタル移籍期間満了につき退団したが、神戸から馬場賢治、山形から下村東美、古橋達弥、パウリスタFCからマセナを完全移籍で、大宮から宮崎泰右、新潟から昨シーズン愛媛FCにレンタル移籍していた大野和成をレンタル移籍で獲得、 松本拓也、古林将太、島村毅がレンタル移籍先から復帰、植村慶、三平和司のレンタル移籍期間が延長、大槻周平、三原向平が新加入した。 また7月には札幌のキリノを完全移籍で獲得した。 リーグ戦は、開幕戦で前年度天皇杯準優勝の京都に勝利。開幕から9試合を4連勝2回を含む8勝1分負けなしで、第3節終了時から首位をキープ。第10節(水戸戦)から第17節(北九州戦)まで8戦勝ち無しで第13節に2位、第17節終了時には6位まで順位を下げたが、第18節から9試合連続負けなし(5勝4分)で、第31節(栃木SC戦)に勝利して2位に浮上。第39節の千葉戦に引き分けて3位となったが、最終節に町田戦に勝利して、京都に代わって自動昇格圏内の2位に入り、3年ぶりのJリーグ ディビジョン1 (J1)復帰が決定した。シーズン終了後に12年間在籍していた坂本紘司が引退した。 2月には1億円を超える債務超過に転落し、最悪の場合はクラブ自体の解散の可能性もあるとの一部報道があった(実際の債務超過額は8268万9819円)が、9月から10月にかけて行われた湘南ベルマーレ持株会への一口5万円の拠出金の募集に4120万円、普通株に2980万円の申込みがあり、合計7100万円の増資を行った。また、第2回湘南ベルマーレ持株会への一口5万円の拠出金の募集により1000万円、普通株の3000万円の申込みがあり、Jリーグの承認後に2013年1月の臨時株主総会の承認を受け増資を行う予定。 最終的に上記2回の増資により債務超過は解消した。また5期ぶりの黒字計上となった。 曺体制2年目。 金永基(大分)、松本拓也(北九州)、福田健人(新潟S)、前年大分へ期限付き移籍していた三平和司(京都)が完全移籍、松浦勇武(JFL・琉球)、植村慶(磐田)が期限付き移籍先へ完全移籍。三原向平(愛媛)、山口貴弘(長崎)、今シーズン大阪桐蔭高校から加入した白井康介(JFL・福島U)が期限付き移籍、宮崎泰右(大宮)、イ・ミンス(清水)が所属元へ復帰した。 補強は、栃木SCから宇佐美宏和・荒堀謙次、東京Vから梶川諒太、山形から鈴木雄太が完全移籍で、川崎から安藤駿介、柏から中川寛斗、武富孝介、クォン・ハンジンが期限付き移籍で獲得、新外国人としてムアントン・ユナイテッドからエジバウドを獲得、河野諒祐(前年2種登録選手)、村岡拓哉、吉濱遼平(前年特別指定選手)、田村翔太が新加入した。 シーズン中にエジバウドが退団、クォン・ハンジンが群馬へ期限付き移籍先が変更、キリノがアル・シャアブへ、岩上祐三が松本山雅FCへ期限付き移籍したが、水原三星ブルーウィングスからステボ、ECペロタスからウェリントンが完全移籍で、コメルシアウFCからアレックス・サンターナ、FC東京から大竹洋平が期限付き移籍で加入、特別指定選手として三竿雄斗、宮市剛、菊地俊介、福岡将太(ともに2014年に正式加入することが内定)、2種登録選手として南翔太が加入した。 リーグ戦は開幕から6戦勝ち無し(3分3負)となったが、第7節大分戦に2-1で勝利し初勝利を挙げた。 しかしながら折り返しの17節まで3勝4分10負の勝ち点13で16位と苦しい戦いが続き、第32節のFC東京戦に1-2で敗れ16位以下が確定、J2降格が決まった。 曺体制3年目。下村東美、古橋達弥、石神直哉らベテラン選手の契約満了を発表。高山薫、韓国栄が柏に完全移籍、田村翔太、河野諒祐、村岡拓哉、猪狩佑貴の4名が福島に、鎌田翔雅が岡山に、馬場賢治が水戸にレンタル移籍。レンタル移籍中だった三原向平(愛媛)、山口貴弘(長崎)の移籍期間が延長、大野和成(新潟)、安藤駿介(川崎)、アレックス・サンターナ(コメルシアウFC)がそれぞれ所属元へ復帰した。 補強面では、愛媛より秋元陽太を、FC東京よりレンタル移籍中の大竹洋平らを完全移籍で獲得。福島にレンタル移籍中の吉濱遼平、白井康介が復帰。前年から柏よりレンタル移籍中の武富孝介、中川寛斗の移籍期間が延長。FC東京から丸山祐市が、鳥栖から岡田翔平がレンタル移籍で加入した。 開幕から14連勝するなど、快進撃を続ける。15節で愛媛FCに敗北したが、その後は21戦負けなし。9月23日、アウェイの第33節の京都戦に2-2で引き分け、J1自動昇格を確定した。 その後2連敗を喫するものの、結果的に2014シーズンを31勝8分3敗、勝ち点101でリーグ優勝を勝ち取った。 曺体制4年目。2年ぶりのJ1挑戦となった。 福島へレンタル移籍していた猪狩佑貴が引退、福島へレンタル移籍していた河野諒祐(JFL・V大分)、鈴木雄太、吉濱遼平(群馬)、阿部伸行(北九州)、宇佐美宏和(山形)、長崎にレンタル移籍していた山口貴弘(大分)、岡山にレンタル移籍していた鎌田翔雅(清水)が完全移籍、岩尾憲、宮市剛(水戸)、福岡将太、今シーズンユースから昇格した前田尚輝(福島)、梶川諒太(長崎)、亀川諒史(福岡)がレンタル移籍、田村翔太、安東輝(福島)のレンタル移籍期間が延長、村岡拓哉(福島)、馬場賢治(水戸)、荒堀謙次(栃木)、三原向平(愛媛)がレンタル移籍先に完全移籍、丸山祐市(FC東京)、樋口寛規(清水→相模原にレンタル移籍)、中川寛斗、武富孝介(柏)、熊谷アンドリュー(横浜FM)が所属元へ復帰した。 補強面では、札幌から李昊乗を、横浜FMから藤田祥史、昨シーズン福岡にレンタル移籍していた武田英二郎を、浦和から坪井慶介を、ボタフォゴからアンドレ・バイアを、東京Vから金鐘必を、柏から2シーズンぶりの復帰となる高山薫を完全移籍で、ミラソルFCからアリソンを、浦和から山田直輝を、川崎から可児壮隆をレンタル移籍で獲得。レンタル移籍だった藤田征也が完全移籍に移行、レンタル移籍中の岡田翔平の移籍期間が延長、岡崎亮平(6月に熊本へレンタル移籍)、アモリン、キリノが新加入した。 8月に行われた東アジアカップ2015では遠藤航が日本代表として出場した。年齢制限のない日本代表選手を輩出したのは98年の小島、中田、呂比須以来17年ぶり。名前が湘南ベルマーレとなってからは初めてである。 シーズンは鹿島から20年ぶり、名古屋から16年ぶり、柏から17年ぶりに勝利するなど勝負強さを発揮し、最終成績8位で湘南ベルマーレとなってから史上初のJ1残留を決めた。曺監督の手腕は高く評価され、シーズンオフには曺の故郷のクラブである京都サンガF.C.への監督就任の可能性が高まったが、最終的には湘南ベルマーレとの契約を更新した。 同年のシーズン開始に合わせてテレビ神奈川(tvk)で「Spirit ベルマーレTV」の放映が開始され、テレビでの広報体制が強化された。 曺体制5年目。 遠藤航(浦和)、永木亮太(鹿島)、秋元陽太(FC東京)、古林将太(名古屋)、李昊乗(Kリーグ・全南)、水戸にレンタル移籍していた岩尾憲(徳島)が完全移籍、広瀬健太(栃木)、福島にレンタル移籍していた安東輝(金沢)、水戸にレンタル移籍していた宮市剛(鳥取)がレンタル移籍、白井康介(愛媛)、梶川諒太(長崎)、亀川諒史(福岡)がレンタル移籍先へ完全移籍、前田尚輝、福岡将太(福島)のレンタル移籍期間が延長、可児壮隆(川崎へ復帰→金沢へレンタル移籍)がレンタル移籍期間満了、澤田篤樹、アリソン、アモリンが退団した。 補強面では、横浜FMから奈良輪雄太、端戸仁を、松本から村山智彦を、甲府から下田北斗を完全移籍で、千葉からパウリーニョを、浦和から岡本拓也をレンタル移籍で獲得、山田直輝のレンタル移籍期間が延長、岡崎亮平、田村翔太がレンタル移籍先から復帰、神谷優太、山根視来、長谷川アーリアジャスールが新加入した。 10月22日のJ1 2ndステージ第15節の大宮戦で敗れ、年間順位で16位以下が確定、4度目のJ2降格が決定した。 曺体制6年目。この年はベルマーレ平塚時代にメインスポンサーであったフジタが18年ぶりにユニフォームスポンサーに復帰した。 金鐘必(徳島)、三竿雄斗(鹿島)、菊池大介(浦和)、大竹洋平(岡山)、村山智彦(松本)、大槻周平(神戸)、長谷川アーリアジャスール(大宮)、福島へレンタル移籍をしていた福岡将太(栃木SC)が完全移籍、梶川裕嗣(徳島)がレンタル移籍、岡本知剛(鳥栖に復帰→松本へ完全移籍)、ウェズレー(タイ・ブリーラム・ユナイテッドFCへ復帰→Kリーグ・仁川へ移籍)がレンタル移籍期間満了、大分へレンタル移籍していたキリノが退団した。 補強面では、愛媛から表原玄太を、名古屋から野田隆之介を、FC東京から2シーズンぶりの復帰となる秋元陽太を完全移籍で、柏から秋野央樹をレンタル移籍で獲得、安東輝、宮市剛がレンタル移籍先から復帰、石原広教がユースから昇格、後藤雅明、杉岡大暉が新加入した。 シーズン中には、伊藤剛が福島、宮市剛がJFL・滋賀へ育成型レンタル移籍、シキーニョが期限付き移籍契約解除(その後大分へレンタル移籍)となったが、大宮からドラガン・ムルジャを完全移籍で、名古屋から高橋諒をレンタル移籍で獲得した。 第39節、10月28日開催だった2位福岡が東京V戦で引き分けたため、湘南の2位以上が確定しJ1昇格が決定。翌日行われた岡山戦で湘南が引き分けたため3年ぶり2回目のJ2優勝が決定した。 曺体制7年目。 坪井慶介(山口)、安東輝(松本)、武田英二郎(横浜FC)、広瀬健太(新潟)、下田北斗(川崎)、藤田祥史(秋田)、ジネイ(甲府)、タンドウ・ベラピ(Aリーグ・ウェリントン・フェニックスFC)、ドラガン・ムルジャ(スロベニア・NKオリンピア・リュブリャナ)が完全移籍で退団し、神谷優太(愛媛)、奈良輪雄太(東京V)、JFL・V大分へ期限付き移籍していたパク・テファン(韓国ナショナルリーグ・天安市庁FC)、JFL・滋賀へ期限付き移籍していた宮市剛(盛岡)が他クラブに期限付き移籍し、山田直輝(浦和に復帰)がレンタル移籍期間満了、レンタル移籍の伊藤剛、田村翔太(福島)、梶川裕嗣(徳島)がレンタル移籍先へ完全移籍した。また和田響稀(福島)、呂薛安(盛岡)がユースから昇格し即期限付き移籍した。 補強面では、新潟から5シーズンぶりに復帰の大野和成を、山形から富居大樹を、浦和から梅崎司を、広島からミキッチを、セルビア・パルチザン・ベオグラードから元セルビア代表のアレン・ステバノヴィッチを完全移籍で、柏から小林祐介を、Kリーグ2・釜山から韓国代表のイ・ジョンヒョプをレンタル移籍で獲得、高橋諒が完全移籍に移行、真田幸太がユースから昇格、新井光、松田天馬、山口和樹、坂圭祐、鈴木国友、金子大毅が新加入した。 2018年4月、当時湘南ベルマーレの筆頭株主だった三栄建築設計がRIZAPグループと共同で「株式会社メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ」を設立。この新設会社が湘南ベルマーレ株式の50%を取得した。同時にRIZAPグループは湘南ベルマーレに対して取締役7名を派遣し、本格的にクラブ運営に関与することになった。RIZAPグループはベルマーレに対し今後3年間で10億円を投資する意向である。 リーグ戦では、開幕戦こそ勝利したものの、その後8試合で1勝3分4敗と低迷、第10節からシーズン初の連勝を挙げたが直後に3連敗し、ワールドカップによるリーグ戦中断前の第15節終了時には暫定12位となる。再開後は11位から14位の間を推移し、最終節直前の時点では14位、最終節の結果次第で16位に陥落しJ1参入プレーオフに進出する可能性は残っていたものの、最終節では名古屋相手に2点を先制したもののその後2PKを与え結局引き分け、10勝11分13敗、鳥栖と勝点得失点差で並ぶも総得点で上回り13位でシーズンを終えた。 YBCルヴァンカップでは、グループDで第5節まで3位にいたが、最終節で2位長崎に勝利し、3勝1分2敗で逆転で2位となり決勝トーナメントに進出、1回戦で仙台に初戦ホームで3-0と快勝したが2戦目アウェーは1-3で敗れたものの計4-3で準々決勝進出、C大阪に初戦ホーム3-0、2戦目アウェー2-2で準決勝に進出、柏には初戦アウェー1-1、2戦目ホームも90分では1-1で延長となり、延長でともに1点を追加し2-2となったためPK戦に突入、5-4で勝利し初の決勝進出となる。決勝では、横浜FMと対戦し、36分に杉岡大暉のミドルシュートで先制した1点を守り切り、湘南ベルマーレとなってからは初、ベルマーレ平塚時代の第74回天皇杯で優勝して以来の3大タイトル獲得となった。 天皇杯では、4回戦で川崎に敗れた。 曺体制8年目。序盤は好調を維持したものの、監督の曺貴裁がクラブ内でコーチングスタッフや選手へのパワーハラスメントを行っていたと報道され、進退問題が浮上。曺が活動を自粛し、コーチの高橋健二が暫定的に指揮を執ることになった。その後Jリーグも調査を行った結果、曺のパワハラ行為が認定され、Jリーグからけん責と公式戦5試合の出場資格停止処分が下される。これを受けて曺は監督を退任、後任にU-18監督の浮嶋敏が監督に就任した。 永年チームを率いた曺の活動自粛と監督交代の影響もあり、順位を徐々に落とし、最終的に年間順位16位となって、J1参入プレーオフでJ2の4位から勝ち上がってきた徳島ヴォルティスと対戦。試合は1-1の引き分けで終わったが、規定により初めて2年連続のJ1残留を決めた。 浮嶋体制2年目。シーズン序盤から下位に低迷し、第1節(13位)と第6節(15位)を除きシーズンを通じて仙台・横浜FCと共に16位以下に低迷。シーズン総得点29は16番目の仙台・大分からも7点離されるほどの得点力不足に悩まされた結果、6勝9分18敗の勝ち点27で最下位(18位)に終わる。しかし、新型コロナウィルス感染症の影響でレギュレーションが変更となり、J1からの降格がなくなったためJ1残留となった。 浮嶋体制3年目。序盤5試合は3-1で勝った仙台戦以外は敗れて1勝4敗だったが、そこから8戦無敗と降格圏から脱出。6月27日からの柏戦から5連敗を喫し再び17位に沈み、8月29日の浦和戦を最後に浮島が退任。山口智がコーチから昇格した。その後山口に代わっても浦和戦から6戦勝ちなしと三度17位に沈んだが鳥栖に引き分けて16位に浮上し横浜FCとの直接対決も勝利し15位浮上。谷晃生がG大阪からのレンタル移籍であるので、Jリーグの規定で出場出来なかった最終節も引き分け。終始しぶとく勝ち点を拾い敗れても2点差以内にとどめて勝ち点で徳島に並ばれても得失点差で上回り、残留争いを制した。その一方でリーグ最多でもある16引き分けはJ2を戦った2002年と並んでチーム史上最多タイとなり、20チーム中唯一連勝がなかった。 山口体制2年目。最初の14試合で1勝4分け8敗と最下位に沈んでいたが、アンドレス・イニエスタ擁する神戸とベストイレブンにも選ばれたジェジエウと谷口彰悟を大怪我と出場停止で失った川崎に勝ち最下位脱出。2年ぶりに連勝するとC大阪戦後は6戦負けなしで12位に浮上。9月3日にはレモンガススタジアムでも川崎に勝ちクラブ史上初めて川崎との神奈川ダービー連勝。最後は僅か2敗にとどめて12位でフィニッシュ。クラブ名が「湘南ベルマーレ」に変わってからは2ステージ制に当たる2015年の8位に次ぐ好成績だった。町野修斗が日本人最多となる13ゴールを挙げた実績を買われ、1998年に開催されたフランスワールドカップで中田英寿、小島伸幸、洪明甫、呂比須ワグナーが選ばれて以来6大会ぶりにクラブからワールドカップメンバーが選出された。 ※出典:Jリーグ・JFL・日本代表・ブンデスリーガのデータベース。2015年8月末時点 (Jリーグ・J1およびJ2のみ。Jリーグカップ、天皇杯全日本サッカー選手権大会、FUJI XEROX SUPER CUP、アジアカップウィナーズカップ等は含まない) 2002年、Jリーグ百年構想に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ(湘南BSC)を新たに設立した。同時にジュニア、及びジュニアユース部門を湘南BSCへ移管して、株式会社湘南ベルマーレはトップチームおよびユースの運営を行うこととなった。また、湘南BSCはサッカー以外の異競技交流にも取り組んでいる。なお、湘南BSCに関する詳細は当項目を参照のこと。 株式会社湘南ベルマーレは、2004年よりスペインのCAオサスナと提携している 他、2013年3月より福島ユナイテッドFCと「営業・事業」「強化」「アカデミー」に関する提携を締結した(後述)。 また、かつてはスポンサーの産業能率大学の繋がりにより「湘南シーレックス」(現在の横浜DeNAベイスターズのファーム(2軍)チーム)と共同割引チケットなどの企画を行ったこともある。 かつては親会社であったフジタが所有する大神グラウンドを練習場とし、クラブハウスも置いていたが、大神グラウンドを2004年に買収した松蔭大学が松蔭大学湘南キャンパスのグラウンドとした。2006年9月までは契約でベルマーレが練習場として使用していたが、2006年10月から馬入ふれあい公園サッカー場に練習場を移すと共に、事務所やクラブハウスも馬入サッカー場の隣接地へ移転した。 2006年9月、日系ベルマーレ(Club Nikkei Bellmare)(スペイン語版)を設立。強化プログラムの一環として、外国籍枠のないパラグアイリーグで若手選手の派遣・育成・強化を図る計画であり、同リーグの地域2部(実質4部に相当)に所属。チーム顧問として、南米サッカー連盟会長のニコラス・レオス、株式会社湘南ベルマーレ元社長の眞壁潔が名を連ねる。将来的にはこのクラブで育った選手が湘南ベルマーレへ、そして世界のリーグ・クラブへ選手たちが飛躍していくことを願い、サポートしていきたいと関係者が語っている。 クラブの運営主体は現地法人のサクラグループ社と日本のSEA Global社が出資して設立した「社団法人日系ベルマーレ」であり、湘南ベルマーレは出資はしていないため、両クラブの関係は提携・協力という形となる。 海外で選手を育成しようという意図としては同じものではあるが、アルビレックス新潟が母体となり設立されたアルビレックス新潟シンガポール、 また、プロ野球広島東洋カープが直接運営するカープアカデミー などとは異なった組織となっている 2013年、福島ユナイテッドFCとの業務提携を行った。両クラブは、クラブやホームタウンの枠を飛び越えて、互いのスケールメリットを拡大すると共に、さらなるクラブの価値向上と発展を目指すことを念頭に、営業・事業、選手やコーチなどの育成、下部組織の提携などを進めていく。 このことで、湘南に所属する選手でなかなか出場機会を得られない選手を福島に紹介し、期限付き移籍(若手選手育成型含む)などにより実践機会の提供強化を図ること、さらに福島が湘南の練習場(馬入サッカー場)を会場としたシーズン開幕前の練習開催や、2014年1月に平塚で行われた合同ファン感謝イベントで、互いのサポーターが提携関係のクラブのグッズの購入するなどの相乗効果やメリットを生み出すことができる としている。 中田英寿はベルマーレに1995年から1998年7月まで在籍した。 2010年シーズン開幕前に、ラ・パルレの協賛で4人のベルマーレクイーン、1人のベルマーレマーメイドが選出された。5人はホームゲーム・ホームタウン内のイベントに登場しチームのマスコットとして活動。個人的にアウェーに出向くメンバーもいた。2010年10月にラ・パルレが倒産したが、2011年以降もメンバーを入れ替えて活動を続け、週刊サッカーマガジン2011年6月発売のインタビュー企画にも登場した。インターネット投票などを通じて2012年は4人(うち2人は2年ぶりの選出)、2013年も4人、2014年は5人が選出された。2016年はメンバーの一般募集は実施せずにオスカープロモーションから選出された。 湘南ベルマーレは、本拠地を平塚市に移転してから今日まで平塚競技場(レモンガススタジアム平塚)を本拠地としているが、現状の収容人員はJ1基準の15,000人をわずかに上回る程度しかない。そこで、大手建設コンサルタント会社から、ホームタウンである平塚、藤沢、茅ケ崎市などから複数の箇所を候補地として、2万人以上収容できるスタジアムの建設構想を検討していたことが、2016年9月の一部報道で明らかになった。 そして2017年1月、「湘南スタジアム研究会」と称する、地元商工会議所や経済関係者らからなる組織が結成され、同12月までをめどに移転候補先をベルマーレに提案する方針を確認した。これまでも、平塚競技場のJリーグクラブライセンス制度に適合した屋根付きスタジアムへの改修や増築などについてベルマーレ側は平塚市に訴えてきたが、平塚市はこの計画に消極的な姿勢が続いている。そこで、新たなスタジアムの建設の可能性を探るように研究会に要請しているという。 同4月の第2回研究会会合で、平塚競技場以外の平塚、茅ケ崎、藤沢、小田原の4市から、民有地3か所、公有地7か所の都合10か所の候補が挙げられた。今後はスタジアムをサッカー・ラグビーだけでなく、コンサートなど多目的用途に利用できるように音楽関係者からの意見を求めるとしている。 一方、平塚市は平塚競技場に引き続きとどまってもらうように要請している。平塚市は2000年のJ2降格以後、スタジアムの年間使用料推定約5000万円のうち、3000万円を減免している。この減免処置は現状ベルマーレのみであるため、「多大な支援をしてきたのに、突然(平塚競技場から)出ていくのは勝手すぎる」との声が市役所からも出ている。また平塚市長の落合克宏も「平塚競技場に残ってもらいたいメッセージの一つ」として、スタンド増築や2017年末に予定される照明塔のLED化などについて話している。 2023年5月、今回の新スタジアム建設構想の事業主体であるベルマーレが出資した関連会社・「湘南メディアスタジアム」は、平塚市に対して、平塚競技場に隣接する民間の私有地・約6万m2を平塚市が取得して平塚市総合公園の敷地の一部に参入したうえでスタジアムを新設する計画案を発表した。当初は2022年10月に既存公園施設内に新設する案を予定していたが、建蔽率が公園法に基づく上限を超えることから、場所の再考を求められていたもので、民間の私有地を平塚市が購入して公園の面積に加えることによって建蔽率をクリアできるとした。 計画では2万人収容規模で、サッカー・ラグビーなどの球技場の他、コンサートなどの多目的に使用できる最新型とし、賑わいや経済効果、災害時の防災拠点としての活用を目指す。しかし平塚市が総合公園の建設を望まない場合、平塚市の民有地を代替地とする第2案も出している。建設費用は142億円程度(設計なども含む)で、その半分は企業版ふるさと納税や市民からのクラウドファンディングで賄い、完成後平塚市に寄付後、湘南メディアスタジアムが指定管理者として管理・運営するとしている。これについて、2023年5月31日に会見を行った落合は「何度も設置が困難と伝えてきた総合公園に作る案は受け入れられない」とし、そのうえで「建設費の半額負担も市の規模や財政上の問題から困難。無理な提案を一方的に突き付けられて残念だ」とする見解を示した。 この平塚総合公園の敷地内の民有地について、Qolyの取材では、平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)の東側にあった、第一三共ケミカルファーマ工場跡地が推測されると報じているが、製薬工場の跡地であり、土壌汚染の可能性があることから、その調査や土地を購入するための費用負担も大きいため、すぐに簡単に建設へと至る話ではなさそうと指摘している。 湘南ベルマーレの決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "湘南ベルマーレ(しょうなんベルマーレ、英: Shonan Bellmare)は、日本の神奈川県平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、厚木市、伊勢原市、南足柄市、寒川町、大磯町、二宮町、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町、箱根町、真鶴町、湯河原町をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フジタ工業サッカー部を前身として1994年にベルマーレ平塚の名称でJリーグへ加盟、2000年に現チーム名に改称した。ホームスタジアムはレモンガススタジアム平塚で、練習場は平塚市の馬入ふれあい公園サッカー場。チーム名はラテン語の美しい(bellum、ベルム)と海(Mare、マーレ)の2つの単語を合わせた造語。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ホームタウンは1999年までは平塚市1市、2000年よりJリーグで「広域ホームタウン制度」が認められたことを受けて厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、藤沢市と中郡(大磯町、二宮町)・高座郡(寒川町)の3町を加えた7市3町へ変更された。2017年10月24日には鎌倉市、南足柄市と足柄上郡(中井町、大井町、松田町、山北町、開成町)・足柄下郡(箱根町、真鶴町、湯河原町)の8町をホームタウンに加え、神奈川県西部の9市11町にホームタウンを拡大した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "設立以来、フジタの出資する株式会社湘南ベルマーレ平塚が運営を行っていたが、フジタの経営難により1999年に新旧分離を実施し、地元企業が共同出資する株式会社湘南ベルマーレが運営する。2018年4月に、当時の筆頭株主だった三栄建築設計と、トレーニングジム・健康食品販売などを手がけるRIZAPグループが共同出資した合弁会社「メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ」がクラブの第三者割当増資を引き受け、同社が筆頭株主となっている(詳細後述)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "湘南は曺貴裁体制より「攻撃的で、走る意欲に満ち溢れた、アグレッシブで痛快なサッカー」という内容の独自の堅守速攻スタイル「湘南スタイル」を提唱している。攻撃的と語られているが、湘南はカウンター重視の攻守一体の堅守速攻的な戦い方が多く、ポゼッション比率が少なく、攻撃重視のサッカーという事ではなく、攻撃性・攻撃的な姿勢・意識を持つ事であるように見受けられる。湘南はプロフェッショナルチームである以上、成果は「勝点3」のみと考えており、選手には「判断スピード」「強いフィジカル」「90分間走り続ける強い意欲・意志」「ポジティブに取り組む姿勢」「逆境をプラスにする事」「夢と目標を明確に持つ事」「一つ一つの練習に100%の集中力で取り組む事」「ミスを割り切り常にチャレンジする事」「謙虚さ」などを求めている。この湘南スタイルを軸に、曺は就任時の2012年より湘南を三度J2からJ1へ1年で昇格させている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "前身は1968年に栃木県で発足した藤和不動産サッカー部(フジタSC)で、1975年にフジタ工業サッカー部に改称した。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格、1977年JSL初優勝。以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回を果たした。1992年10月、運営会社としてフジタが全額出資する株式会社フジタスポーツクラブが設立され、チームの愛称を「湘南ベルマーレ」とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1993年、Jリーグ準会員に承認。ベルマーレ平塚へチーム名を変更した。同時に運営会社の商号を株式会社ベルマーレ平塚へ変更し、地元企業・団体などが出資(1996年に株式会社湘南ベルマーレ平塚へ商号を変更)した。1993年のJFL1部で優勝、スタジアム問題もクリアして、Jリーグ入会が承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Jリーグ加入前から監督を務めていた古前田充とヘッドコーチのニカノールの二頭体制の下、超攻撃的サッカーを標榜したが、サントリーシリーズは全クラブ最多の54失点を喫して12チーム中11位の成績。そこで、それまで左サイドバックを務めていた岩本輝雄をオフェンシブハーフにコンバートし、左サイドバックには公文裕明を起用。これが功を奏し、ニコスシリーズは得点が全クラブ最多タイの48、失点が全クラブ最少タイの26と攻守共に安定し、V川崎と1勝差の2位に躍進し、湘南の暴れん坊と呼ばれた。また、天皇杯は決勝でC大阪を破り、初優勝した。田坂和昭が新人王、ベッチーニョおよび名塚善寛がベストイレブンを受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "中田英寿が入団。シモン加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置くスリーボランチを採用。サントリーシリーズは全クラブ最多の60得点を挙げ、7位とまずまずの成績を残したが、ニコスシリーズは一転不振に陥り、8月末にニカノールが解任されると、第18節限りで古前田も辞任。残り試合はサテライト監督を務めていた植木繁晴が監督代行を務めたが、14チーム中最下位に終わる。それでも最後はアジアカップウィナーズカップで優勝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1998 FIFAワールドカップ日本代表としてGK小島伸幸、MF中田、FW呂比須ワグナー、同韓国代表としてDF洪明甫の計4人が選出された。W杯終了後、中田がイタリア・ACペルージャへ移籍。この年に姉妹クラブで日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)のフジタサッカークラブ・マーキュリーが廃部した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "メインスポンサーのフジタが経営再建のためスポンサーから撤退。また、小島、野口幸司、名塚、田坂、公文裕明、岩元など主力が退団(岩本輝雄、名良橋晃、ベッチーニョ、アウミール、渡辺卓は1998年1stステージ以前に退団)。J1リーグ戦は1st・2ndステージ共に最下位(年間4勝)に終わり、Jリーグ ディビジョン2(J2)へ降格した。12月にフジタが株式会社湘南ベルマーレを新たに設立しクラブの営業権を同社へ移すと共に、同社株式を平塚市などの湘南ベルマーレ平塚の株主に譲渡した。一方でフジタは湘南ベルマーレ平塚の全株式を買い取った。なお、湘南ベルマーレ平塚は2004年11月22日の臨時株主総会決議により解散した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "チーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンを平塚市1市から厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、平塚市、藤沢市、中郡大磯町、二宮町および高座郡寒川町の神奈川県の7市3町へ変更・広域化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "加藤久を監督に迎えて、名古屋からベテランGK伊藤裕二、清水からDF白井博幸、元V川崎の前園真聖や元清水の松原良香などを獲得したが、終盤に8連敗するなど苦戦を強いられ8位に終わった。加藤をシーズン中に解任する発表をしたフロントに不信感を持った前園、松原らの主力もチームを去った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "田中孝司が監督に就任。元コロンビア代表のパラシオスをはじめとしたコロンビア組を中心に補強。1998年以来の復帰となった栗原圭介とエースとして期待された若手FW高田保則がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。前年と同じく8位に終わる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "田中体制2年目。パラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した熊林親吾、吉野智行らを中心にチームが奮起。前年度に在籍していたガビリアがコロンビアで練習中に落雷を受け死亡する悲報もあったが5位へ躍進。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "サミアを監督に迎え、フラット3を組み込んだ3-5-2システムを採用。開幕戦こそ機能したが、パラシオスのケガによる離脱、期待されていた元プレミアリーグミドルズブラのリカルドの不調など序盤で躓き、10位に終わった(サミアは途中退任、リカルドも退団)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "山田体制2年目。FC東京よりアマラオを獲得したが、前年に続き波に乗れず、7月に山田松市を監督より解任して、上田栄治が後任監督に就任したが、前年と同じく10位に終わった。シーズン終了後、2003年より攻撃の中心として据えられていたキム・グンチョル、シーズン途中で柏へレンタル移籍していたパラシオスが退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "上田体制2年目。シーズン序盤は快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられ、結局リーグ戦7位でシーズンを終えた。シーズン終了後、ユースからの生え抜きのFW高田保則や鈴木良和、佐野裕哉、吉野智行、バリシッチなどが退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "上田体制3年目。レンタル移籍のFW梅田直哉を浦和から完全移籍で、山形からMF外池大亮、元浦和のMFアジエル、元山形のMFニヴァウド、FWファビオを獲得した。リーグ戦は、シーズン中盤に8連敗を喫するなどで、上田が監督を辞任。終盤も6連敗するなど11位に終わった。シーズン終了後、佐藤悠介が東京Vへ移籍。また、城定信次、小林弘記など7人が退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "菅野将晃が監督に就任。浅野哲也がトップチームコーチに就任。FC東京からジャーン、山形から原竜太、清水から斉藤俊秀、ドイツ・SVアイントラハト・トリーアから鈴木伸貴を獲得。また、鹿島から名良橋晃が11年ぶりに復帰した。また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻した(2006年までの湘南のレンタル放出は、資金面などの理由もあり基本的には完全移籍をオプション事項に盛り込んでいた。そのため、レンタル先から復帰させたのは当時としては珍しい事例だった)。アジエルを攻撃の基点としたチーム作りで昇格争いに肉薄、終盤まで昇格の可能性を残したが6位でシーズンを終えた。このシーズンをもって選手会長の外池大亮が引退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "菅野体制2年目。左サイドバックのレギュラーを務めていた尾亦弘友希がC大阪に移籍。一方で福岡よりリンコン、新潟から三田光、FC東京から阿部吉朗、山形から湘南ユース出身の臼井幸平を獲得。リーグ戦は最終節まで昇格争いに絡んだが、最終順位は5位となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "湘南OBの反町康治が監督に就任。また、新潟時代に反町が指導した寺川能人、野澤洋輔、元京都のFW田原豊。Honda FCからDF村松大輔を獲得した一方、DF斉藤俊秀、FW石原直樹などが退団した。リーグ戦は開幕5連勝でスタートダッシュに成功。シーズンを通して昇格レースに絡み、12月5日の最終節水戸戦で勝利し3位が確定。11年ぶりにJリーグ ディビジョン1 (J1)復帰が決定した(11シーズンぶりのJ1復帰はJリーグ最長記録)。このシーズンをもって、原竜太と伊藤友彦が現役を引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このシーズンは終盤の第49節甲府戦(勝ち点91同士で並んでいた)を含むアディショナルタイムでの得点が10得点を数え、最終節水戸戦も2点のビハインドを跳ね返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "反町体制2年目。千葉から新居辰基、新潟から松尾直人、札幌から中山元気、水戸より小澤雄希、神戸より平塚ジュニア、ジュニアユース出身の馬場賢治を期限付き移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "リーグ戦は、開幕前にポジションを問わずケガ人が続出し、引退しユースチームのコーチを務めていた伊藤が現役復帰を余儀なくされ、練習試合が組めなくなるほどに深刻なものとなった。開幕戦(山形戦)は引き分け、第4節の新潟戦で初勝利を収めたが、前年までの堅守が崩壊、大量失点に苦しむ。中でも、前年の昇格の功労者であるアジエルが両脛のケガから立ち直れず選手登録抹消(退団はせず)、効果的な攻め手を欠き、前年までの人数をかけた鋭いカウンターを中心とした攻撃は影を潜めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "後半戦を前に、選手登録されているGK4人中、3人が負傷離脱中という状況を打開するために、浦和から都築龍太を期限付き移籍で獲得(これと同時に金永基を登録抹消、退団はせず)。さらに中国・北京国安に所属していたFWヴァウドと、元FC東京のエメルソンを獲得した。椎間板ヘルニアのため戦列を離れていた野澤洋輔や開幕前に大ケガを負った松尾直人が戦列に復帰したが、7月18日の京都戦以降勝ちが全くないまま、11月14日(第30節)の清水戦に敗れ、4試合を残してJ2降格が決定した。その後も名古屋の優勝を目の前で決められてしまうなど最終節まで連敗し、結局リーグ戦21試合連続未勝利となった。これはJ1のワースト記録となった(J全体では北九州の35試合連続未勝利がワースト)。また、勝ち点16、シーズン3勝、総失点82、得失点差-51はJ1ワースト記録となった(当時)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "反町体制3年目。清水から西部洋平、FC東京から阿部伸行、C大阪から石神直哉を完全移籍で獲得。また、磐田から大井健太郎、名古屋から巻佑樹と平木良樹、鹿島から佐々木竜太も期限付き移籍で獲得した。その一方で、エメルソン、寺川能人、中山元気らが退団した。開幕戦は岡山に5-0と圧勝したが、昨年同様にケガ人による離脱者が多数発生し、シーズンを通しほぼ中位に留まり、シーズン成績は14位に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "天皇杯は4回戦で川崎を撃破した。シーズン終了後、反町が監督を退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "新監督に曺貴裁が就任。この年より「湘南スタイル」(ミスを割り切りアグレッシブにトライする攻守一体の堅守速攻)が確立されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "6年間在籍していたアジエルが中国・武漢卓爾に、小澤雄希がSC相模原に、西部洋平が川崎に、田原豊が横浜FCに、臼井幸平が栃木SCに、松尾直人が関西サッカーリーグ・FC大阪に、野澤洋輔が松本に、昨シーズン甲府にレンタル移籍していた阿部吉朗が磐田に、ツエーゲン金沢にレンタル移籍していた菅野哲也がSC相模原に完全移籍、石神直哉が大分に、松浦勇武がFC琉球にレンタル移籍、大井健太郎(磐田に復帰⇒新潟へ完全移籍)、巻佑樹(名古屋へ復帰)、佐々木竜太(鹿島へ復帰)がレンタル移籍期間満了につき退団したが、神戸から馬場賢治、山形から下村東美、古橋達弥、パウリスタFCからマセナを完全移籍で、大宮から宮崎泰右、新潟から昨シーズン愛媛FCにレンタル移籍していた大野和成をレンタル移籍で獲得、 松本拓也、古林将太、島村毅がレンタル移籍先から復帰、植村慶、三平和司のレンタル移籍期間が延長、大槻周平、三原向平が新加入した。 また7月には札幌のキリノを完全移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "リーグ戦は、開幕戦で前年度天皇杯準優勝の京都に勝利。開幕から9試合を4連勝2回を含む8勝1分負けなしで、第3節終了時から首位をキープ。第10節(水戸戦)から第17節(北九州戦)まで8戦勝ち無しで第13節に2位、第17節終了時には6位まで順位を下げたが、第18節から9試合連続負けなし(5勝4分)で、第31節(栃木SC戦)に勝利して2位に浮上。第39節の千葉戦に引き分けて3位となったが、最終節に町田戦に勝利して、京都に代わって自動昇格圏内の2位に入り、3年ぶりのJリーグ ディビジョン1 (J1)復帰が決定した。シーズン終了後に12年間在籍していた坂本紘司が引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2月には1億円を超える債務超過に転落し、最悪の場合はクラブ自体の解散の可能性もあるとの一部報道があった(実際の債務超過額は8268万9819円)が、9月から10月にかけて行われた湘南ベルマーレ持株会への一口5万円の拠出金の募集に4120万円、普通株に2980万円の申込みがあり、合計7100万円の増資を行った。また、第2回湘南ベルマーレ持株会への一口5万円の拠出金の募集により1000万円、普通株の3000万円の申込みがあり、Jリーグの承認後に2013年1月の臨時株主総会の承認を受け増資を行う予定。 最終的に上記2回の増資により債務超過は解消した。また5期ぶりの黒字計上となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "曺体制2年目。 金永基(大分)、松本拓也(北九州)、福田健人(新潟S)、前年大分へ期限付き移籍していた三平和司(京都)が完全移籍、松浦勇武(JFL・琉球)、植村慶(磐田)が期限付き移籍先へ完全移籍。三原向平(愛媛)、山口貴弘(長崎)、今シーズン大阪桐蔭高校から加入した白井康介(JFL・福島U)が期限付き移籍、宮崎泰右(大宮)、イ・ミンス(清水)が所属元へ復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "補強は、栃木SCから宇佐美宏和・荒堀謙次、東京Vから梶川諒太、山形から鈴木雄太が完全移籍で、川崎から安藤駿介、柏から中川寛斗、武富孝介、クォン・ハンジンが期限付き移籍で獲得、新外国人としてムアントン・ユナイテッドからエジバウドを獲得、河野諒祐(前年2種登録選手)、村岡拓哉、吉濱遼平(前年特別指定選手)、田村翔太が新加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "シーズン中にエジバウドが退団、クォン・ハンジンが群馬へ期限付き移籍先が変更、キリノがアル・シャアブへ、岩上祐三が松本山雅FCへ期限付き移籍したが、水原三星ブルーウィングスからステボ、ECペロタスからウェリントンが完全移籍で、コメルシアウFCからアレックス・サンターナ、FC東京から大竹洋平が期限付き移籍で加入、特別指定選手として三竿雄斗、宮市剛、菊地俊介、福岡将太(ともに2014年に正式加入することが内定)、2種登録選手として南翔太が加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "リーグ戦は開幕から6戦勝ち無し(3分3負)となったが、第7節大分戦に2-1で勝利し初勝利を挙げた。 しかしながら折り返しの17節まで3勝4分10負の勝ち点13で16位と苦しい戦いが続き、第32節のFC東京戦に1-2で敗れ16位以下が確定、J2降格が決まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "曺体制3年目。下村東美、古橋達弥、石神直哉らベテラン選手の契約満了を発表。高山薫、韓国栄が柏に完全移籍、田村翔太、河野諒祐、村岡拓哉、猪狩佑貴の4名が福島に、鎌田翔雅が岡山に、馬場賢治が水戸にレンタル移籍。レンタル移籍中だった三原向平(愛媛)、山口貴弘(長崎)の移籍期間が延長、大野和成(新潟)、安藤駿介(川崎)、アレックス・サンターナ(コメルシアウFC)がそれぞれ所属元へ復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "補強面では、愛媛より秋元陽太を、FC東京よりレンタル移籍中の大竹洋平らを完全移籍で獲得。福島にレンタル移籍中の吉濱遼平、白井康介が復帰。前年から柏よりレンタル移籍中の武富孝介、中川寛斗の移籍期間が延長。FC東京から丸山祐市が、鳥栖から岡田翔平がレンタル移籍で加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "開幕から14連勝するなど、快進撃を続ける。15節で愛媛FCに敗北したが、その後は21戦負けなし。9月23日、アウェイの第33節の京都戦に2-2で引き分け、J1自動昇格を確定した。 その後2連敗を喫するものの、結果的に2014シーズンを31勝8分3敗、勝ち点101でリーグ優勝を勝ち取った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "曺体制4年目。2年ぶりのJ1挑戦となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "福島へレンタル移籍していた猪狩佑貴が引退、福島へレンタル移籍していた河野諒祐(JFL・V大分)、鈴木雄太、吉濱遼平(群馬)、阿部伸行(北九州)、宇佐美宏和(山形)、長崎にレンタル移籍していた山口貴弘(大分)、岡山にレンタル移籍していた鎌田翔雅(清水)が完全移籍、岩尾憲、宮市剛(水戸)、福岡将太、今シーズンユースから昇格した前田尚輝(福島)、梶川諒太(長崎)、亀川諒史(福岡)がレンタル移籍、田村翔太、安東輝(福島)のレンタル移籍期間が延長、村岡拓哉(福島)、馬場賢治(水戸)、荒堀謙次(栃木)、三原向平(愛媛)がレンタル移籍先に完全移籍、丸山祐市(FC東京)、樋口寛規(清水→相模原にレンタル移籍)、中川寛斗、武富孝介(柏)、熊谷アンドリュー(横浜FM)が所属元へ復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "補強面では、札幌から李昊乗を、横浜FMから藤田祥史、昨シーズン福岡にレンタル移籍していた武田英二郎を、浦和から坪井慶介を、ボタフォゴからアンドレ・バイアを、東京Vから金鐘必を、柏から2シーズンぶりの復帰となる高山薫を完全移籍で、ミラソルFCからアリソンを、浦和から山田直輝を、川崎から可児壮隆をレンタル移籍で獲得。レンタル移籍だった藤田征也が完全移籍に移行、レンタル移籍中の岡田翔平の移籍期間が延長、岡崎亮平(6月に熊本へレンタル移籍)、アモリン、キリノが新加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "8月に行われた東アジアカップ2015では遠藤航が日本代表として出場した。年齢制限のない日本代表選手を輩出したのは98年の小島、中田、呂比須以来17年ぶり。名前が湘南ベルマーレとなってからは初めてである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "シーズンは鹿島から20年ぶり、名古屋から16年ぶり、柏から17年ぶりに勝利するなど勝負強さを発揮し、最終成績8位で湘南ベルマーレとなってから史上初のJ1残留を決めた。曺監督の手腕は高く評価され、シーズンオフには曺の故郷のクラブである京都サンガF.C.への監督就任の可能性が高まったが、最終的には湘南ベルマーレとの契約を更新した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "同年のシーズン開始に合わせてテレビ神奈川(tvk)で「Spirit ベルマーレTV」の放映が開始され、テレビでの広報体制が強化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "曺体制5年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "遠藤航(浦和)、永木亮太(鹿島)、秋元陽太(FC東京)、古林将太(名古屋)、李昊乗(Kリーグ・全南)、水戸にレンタル移籍していた岩尾憲(徳島)が完全移籍、広瀬健太(栃木)、福島にレンタル移籍していた安東輝(金沢)、水戸にレンタル移籍していた宮市剛(鳥取)がレンタル移籍、白井康介(愛媛)、梶川諒太(長崎)、亀川諒史(福岡)がレンタル移籍先へ完全移籍、前田尚輝、福岡将太(福島)のレンタル移籍期間が延長、可児壮隆(川崎へ復帰→金沢へレンタル移籍)がレンタル移籍期間満了、澤田篤樹、アリソン、アモリンが退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "補強面では、横浜FMから奈良輪雄太、端戸仁を、松本から村山智彦を、甲府から下田北斗を完全移籍で、千葉からパウリーニョを、浦和から岡本拓也をレンタル移籍で獲得、山田直輝のレンタル移籍期間が延長、岡崎亮平、田村翔太がレンタル移籍先から復帰、神谷優太、山根視来、長谷川アーリアジャスールが新加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "10月22日のJ1 2ndステージ第15節の大宮戦で敗れ、年間順位で16位以下が確定、4度目のJ2降格が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "曺体制6年目。この年はベルマーレ平塚時代にメインスポンサーであったフジタが18年ぶりにユニフォームスポンサーに復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "金鐘必(徳島)、三竿雄斗(鹿島)、菊池大介(浦和)、大竹洋平(岡山)、村山智彦(松本)、大槻周平(神戸)、長谷川アーリアジャスール(大宮)、福島へレンタル移籍をしていた福岡将太(栃木SC)が完全移籍、梶川裕嗣(徳島)がレンタル移籍、岡本知剛(鳥栖に復帰→松本へ完全移籍)、ウェズレー(タイ・ブリーラム・ユナイテッドFCへ復帰→Kリーグ・仁川へ移籍)がレンタル移籍期間満了、大分へレンタル移籍していたキリノが退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "補強面では、愛媛から表原玄太を、名古屋から野田隆之介を、FC東京から2シーズンぶりの復帰となる秋元陽太を完全移籍で、柏から秋野央樹をレンタル移籍で獲得、安東輝、宮市剛がレンタル移籍先から復帰、石原広教がユースから昇格、後藤雅明、杉岡大暉が新加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "シーズン中には、伊藤剛が福島、宮市剛がJFL・滋賀へ育成型レンタル移籍、シキーニョが期限付き移籍契約解除(その後大分へレンタル移籍)となったが、大宮からドラガン・ムルジャを完全移籍で、名古屋から高橋諒をレンタル移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "第39節、10月28日開催だった2位福岡が東京V戦で引き分けたため、湘南の2位以上が確定しJ1昇格が決定。翌日行われた岡山戦で湘南が引き分けたため3年ぶり2回目のJ2優勝が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "曺体制7年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "坪井慶介(山口)、安東輝(松本)、武田英二郎(横浜FC)、広瀬健太(新潟)、下田北斗(川崎)、藤田祥史(秋田)、ジネイ(甲府)、タンドウ・ベラピ(Aリーグ・ウェリントン・フェニックスFC)、ドラガン・ムルジャ(スロベニア・NKオリンピア・リュブリャナ)が完全移籍で退団し、神谷優太(愛媛)、奈良輪雄太(東京V)、JFL・V大分へ期限付き移籍していたパク・テファン(韓国ナショナルリーグ・天安市庁FC)、JFL・滋賀へ期限付き移籍していた宮市剛(盛岡)が他クラブに期限付き移籍し、山田直輝(浦和に復帰)がレンタル移籍期間満了、レンタル移籍の伊藤剛、田村翔太(福島)、梶川裕嗣(徳島)がレンタル移籍先へ完全移籍した。また和田響稀(福島)、呂薛安(盛岡)がユースから昇格し即期限付き移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "補強面では、新潟から5シーズンぶりに復帰の大野和成を、山形から富居大樹を、浦和から梅崎司を、広島からミキッチを、セルビア・パルチザン・ベオグラードから元セルビア代表のアレン・ステバノヴィッチを完全移籍で、柏から小林祐介を、Kリーグ2・釜山から韓国代表のイ・ジョンヒョプをレンタル移籍で獲得、高橋諒が完全移籍に移行、真田幸太がユースから昇格、新井光、松田天馬、山口和樹、坂圭祐、鈴木国友、金子大毅が新加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2018年4月、当時湘南ベルマーレの筆頭株主だった三栄建築設計がRIZAPグループと共同で「株式会社メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ」を設立。この新設会社が湘南ベルマーレ株式の50%を取得した。同時にRIZAPグループは湘南ベルマーレに対して取締役7名を派遣し、本格的にクラブ運営に関与することになった。RIZAPグループはベルマーレに対し今後3年間で10億円を投資する意向である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "リーグ戦では、開幕戦こそ勝利したものの、その後8試合で1勝3分4敗と低迷、第10節からシーズン初の連勝を挙げたが直後に3連敗し、ワールドカップによるリーグ戦中断前の第15節終了時には暫定12位となる。再開後は11位から14位の間を推移し、最終節直前の時点では14位、最終節の結果次第で16位に陥落しJ1参入プレーオフに進出する可能性は残っていたものの、最終節では名古屋相手に2点を先制したもののその後2PKを与え結局引き分け、10勝11分13敗、鳥栖と勝点得失点差で並ぶも総得点で上回り13位でシーズンを終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "YBCルヴァンカップでは、グループDで第5節まで3位にいたが、最終節で2位長崎に勝利し、3勝1分2敗で逆転で2位となり決勝トーナメントに進出、1回戦で仙台に初戦ホームで3-0と快勝したが2戦目アウェーは1-3で敗れたものの計4-3で準々決勝進出、C大阪に初戦ホーム3-0、2戦目アウェー2-2で準決勝に進出、柏には初戦アウェー1-1、2戦目ホームも90分では1-1で延長となり、延長でともに1点を追加し2-2となったためPK戦に突入、5-4で勝利し初の決勝進出となる。決勝では、横浜FMと対戦し、36分に杉岡大暉のミドルシュートで先制した1点を守り切り、湘南ベルマーレとなってからは初、ベルマーレ平塚時代の第74回天皇杯で優勝して以来の3大タイトル獲得となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "天皇杯では、4回戦で川崎に敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "曺体制8年目。序盤は好調を維持したものの、監督の曺貴裁がクラブ内でコーチングスタッフや選手へのパワーハラスメントを行っていたと報道され、進退問題が浮上。曺が活動を自粛し、コーチの高橋健二が暫定的に指揮を執ることになった。その後Jリーグも調査を行った結果、曺のパワハラ行為が認定され、Jリーグからけん責と公式戦5試合の出場資格停止処分が下される。これを受けて曺は監督を退任、後任にU-18監督の浮嶋敏が監督に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "永年チームを率いた曺の活動自粛と監督交代の影響もあり、順位を徐々に落とし、最終的に年間順位16位となって、J1参入プレーオフでJ2の4位から勝ち上がってきた徳島ヴォルティスと対戦。試合は1-1の引き分けで終わったが、規定により初めて2年連続のJ1残留を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "浮嶋体制2年目。シーズン序盤から下位に低迷し、第1節(13位)と第6節(15位)を除きシーズンを通じて仙台・横浜FCと共に16位以下に低迷。シーズン総得点29は16番目の仙台・大分からも7点離されるほどの得点力不足に悩まされた結果、6勝9分18敗の勝ち点27で最下位(18位)に終わる。しかし、新型コロナウィルス感染症の影響でレギュレーションが変更となり、J1からの降格がなくなったためJ1残留となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "浮嶋体制3年目。序盤5試合は3-1で勝った仙台戦以外は敗れて1勝4敗だったが、そこから8戦無敗と降格圏から脱出。6月27日からの柏戦から5連敗を喫し再び17位に沈み、8月29日の浦和戦を最後に浮島が退任。山口智がコーチから昇格した。その後山口に代わっても浦和戦から6戦勝ちなしと三度17位に沈んだが鳥栖に引き分けて16位に浮上し横浜FCとの直接対決も勝利し15位浮上。谷晃生がG大阪からのレンタル移籍であるので、Jリーグの規定で出場出来なかった最終節も引き分け。終始しぶとく勝ち点を拾い敗れても2点差以内にとどめて勝ち点で徳島に並ばれても得失点差で上回り、残留争いを制した。その一方でリーグ最多でもある16引き分けはJ2を戦った2002年と並んでチーム史上最多タイとなり、20チーム中唯一連勝がなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "山口体制2年目。最初の14試合で1勝4分け8敗と最下位に沈んでいたが、アンドレス・イニエスタ擁する神戸とベストイレブンにも選ばれたジェジエウと谷口彰悟を大怪我と出場停止で失った川崎に勝ち最下位脱出。2年ぶりに連勝するとC大阪戦後は6戦負けなしで12位に浮上。9月3日にはレモンガススタジアムでも川崎に勝ちクラブ史上初めて川崎との神奈川ダービー連勝。最後は僅か2敗にとどめて12位でフィニッシュ。クラブ名が「湘南ベルマーレ」に変わってからは2ステージ制に当たる2015年の8位に次ぐ好成績だった。町野修斗が日本人最多となる13ゴールを挙げた実績を買われ、1998年に開催されたフランスワールドカップで中田英寿、小島伸幸、洪明甫、呂比須ワグナーが選ばれて以来6大会ぶりにクラブからワールドカップメンバーが選出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "※出典:Jリーグ・JFL・日本代表・ブンデスリーガのデータベース。2015年8月末時点", "title": "通算得点ランキング" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "(Jリーグ・J1およびJ2のみ。Jリーグカップ、天皇杯全日本サッカー選手権大会、FUJI XEROX SUPER CUP、アジアカップウィナーズカップ等は含まない)", "title": "通算得点ランキング" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2002年、Jリーグ百年構想に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ(湘南BSC)を新たに設立した。同時にジュニア、及びジュニアユース部門を湘南BSCへ移管して、株式会社湘南ベルマーレはトップチームおよびユースの運営を行うこととなった。また、湘南BSCはサッカー以外の異競技交流にも取り組んでいる。なお、湘南BSCに関する詳細は当項目を参照のこと。", "title": "下部組織・育成" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "株式会社湘南ベルマーレは、2004年よりスペインのCAオサスナと提携している 他、2013年3月より福島ユナイテッドFCと「営業・事業」「強化」「アカデミー」に関する提携を締結した(後述)。", "title": "下部組織・育成" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、かつてはスポンサーの産業能率大学の繋がりにより「湘南シーレックス」(現在の横浜DeNAベイスターズのファーム(2軍)チーム)と共同割引チケットなどの企画を行ったこともある。", "title": "下部組織・育成" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "かつては親会社であったフジタが所有する大神グラウンドを練習場とし、クラブハウスも置いていたが、大神グラウンドを2004年に買収した松蔭大学が松蔭大学湘南キャンパスのグラウンドとした。2006年9月までは契約でベルマーレが練習場として使用していたが、2006年10月から馬入ふれあい公園サッカー場に練習場を移すと共に、事務所やクラブハウスも馬入サッカー場の隣接地へ移転した。", "title": "クラブハウス" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2006年9月、日系ベルマーレ(Club Nikkei Bellmare)(スペイン語版)を設立。強化プログラムの一環として、外国籍枠のないパラグアイリーグで若手選手の派遣・育成・強化を図る計画であり、同リーグの地域2部(実質4部に相当)に所属。チーム顧問として、南米サッカー連盟会長のニコラス・レオス、株式会社湘南ベルマーレ元社長の眞壁潔が名を連ねる。将来的にはこのクラブで育った選手が湘南ベルマーレへ、そして世界のリーグ・クラブへ選手たちが飛躍していくことを願い、サポートしていきたいと関係者が語っている。", "title": "日系ベルマーレ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "クラブの運営主体は現地法人のサクラグループ社と日本のSEA Global社が出資して設立した「社団法人日系ベルマーレ」であり、湘南ベルマーレは出資はしていないため、両クラブの関係は提携・協力という形となる。 海外で選手を育成しようという意図としては同じものではあるが、アルビレックス新潟が母体となり設立されたアルビレックス新潟シンガポール、 また、プロ野球広島東洋カープが直接運営するカープアカデミー などとは異なった組織となっている", "title": "日系ベルマーレ" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2013年、福島ユナイテッドFCとの業務提携を行った。両クラブは、クラブやホームタウンの枠を飛び越えて、互いのスケールメリットを拡大すると共に、さらなるクラブの価値向上と発展を目指すことを念頭に、営業・事業、選手やコーチなどの育成、下部組織の提携などを進めていく。", "title": "Jリーグ他クラブとの提携" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "このことで、湘南に所属する選手でなかなか出場機会を得られない選手を福島に紹介し、期限付き移籍(若手選手育成型含む)などにより実践機会の提供強化を図ること、さらに福島が湘南の練習場(馬入サッカー場)を会場としたシーズン開幕前の練習開催や、2014年1月に平塚で行われた合同ファン感謝イベントで、互いのサポーターが提携関係のクラブのグッズの購入するなどの相乗効果やメリットを生み出すことができる としている。", "title": "Jリーグ他クラブとの提携" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "中田英寿はベルマーレに1995年から1998年7月まで在籍した。", "title": "中田英寿との関係" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2010年シーズン開幕前に、ラ・パルレの協賛で4人のベルマーレクイーン、1人のベルマーレマーメイドが選出された。5人はホームゲーム・ホームタウン内のイベントに登場しチームのマスコットとして活動。個人的にアウェーに出向くメンバーもいた。2010年10月にラ・パルレが倒産したが、2011年以降もメンバーを入れ替えて活動を続け、週刊サッカーマガジン2011年6月発売のインタビュー企画にも登場した。インターネット投票などを通じて2012年は4人(うち2人は2年ぶりの選出)、2013年も4人、2014年は5人が選出された。2016年はメンバーの一般募集は実施せずにオスカープロモーションから選出された。", "title": "ベルマーレクイーン" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "", "title": "ベルマーレクイーン" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "湘南ベルマーレは、本拠地を平塚市に移転してから今日まで平塚競技場(レモンガススタジアム平塚)を本拠地としているが、現状の収容人員はJ1基準の15,000人をわずかに上回る程度しかない。そこで、大手建設コンサルタント会社から、ホームタウンである平塚、藤沢、茅ケ崎市などから複数の箇所を候補地として、2万人以上収容できるスタジアムの建設構想を検討していたことが、2016年9月の一部報道で明らかになった。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "そして2017年1月、「湘南スタジアム研究会」と称する、地元商工会議所や経済関係者らからなる組織が結成され、同12月までをめどに移転候補先をベルマーレに提案する方針を確認した。これまでも、平塚競技場のJリーグクラブライセンス制度に適合した屋根付きスタジアムへの改修や増築などについてベルマーレ側は平塚市に訴えてきたが、平塚市はこの計画に消極的な姿勢が続いている。そこで、新たなスタジアムの建設の可能性を探るように研究会に要請しているという。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "同4月の第2回研究会会合で、平塚競技場以外の平塚、茅ケ崎、藤沢、小田原の4市から、民有地3か所、公有地7か所の都合10か所の候補が挙げられた。今後はスタジアムをサッカー・ラグビーだけでなく、コンサートなど多目的用途に利用できるように音楽関係者からの意見を求めるとしている。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "一方、平塚市は平塚競技場に引き続きとどまってもらうように要請している。平塚市は2000年のJ2降格以後、スタジアムの年間使用料推定約5000万円のうち、3000万円を減免している。この減免処置は現状ベルマーレのみであるため、「多大な支援をしてきたのに、突然(平塚競技場から)出ていくのは勝手すぎる」との声が市役所からも出ている。また平塚市長の落合克宏も「平塚競技場に残ってもらいたいメッセージの一つ」として、スタンド増築や2017年末に予定される照明塔のLED化などについて話している。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2023年5月、今回の新スタジアム建設構想の事業主体であるベルマーレが出資した関連会社・「湘南メディアスタジアム」は、平塚市に対して、平塚競技場に隣接する民間の私有地・約6万m2を平塚市が取得して平塚市総合公園の敷地の一部に参入したうえでスタジアムを新設する計画案を発表した。当初は2022年10月に既存公園施設内に新設する案を予定していたが、建蔽率が公園法に基づく上限を超えることから、場所の再考を求められていたもので、民間の私有地を平塚市が購入して公園の面積に加えることによって建蔽率をクリアできるとした。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "計画では2万人収容規模で、サッカー・ラグビーなどの球技場の他、コンサートなどの多目的に使用できる最新型とし、賑わいや経済効果、災害時の防災拠点としての活用を目指す。しかし平塚市が総合公園の建設を望まない場合、平塚市の民有地を代替地とする第2案も出している。建設費用は142億円程度(設計なども含む)で、その半分は企業版ふるさと納税や市民からのクラウドファンディングで賄い、完成後平塚市に寄付後、湘南メディアスタジアムが指定管理者として管理・運営するとしている。これについて、2023年5月31日に会見を行った落合は「何度も設置が困難と伝えてきた総合公園に作る案は受け入れられない」とし、そのうえで「建設費の半額負担も市の規模や財政上の問題から困難。無理な提案を一方的に突き付けられて残念だ」とする見解を示した。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "この平塚総合公園の敷地内の民有地について、Qolyの取材では、平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)の東側にあった、第一三共ケミカルファーマ工場跡地が推測されると報じているが、製薬工場の跡地であり、土壌汚染の可能性があることから、その調査や土地を購入するための費用負担も大きいため、すぐに簡単に建設へと至る話ではなさそうと指摘している。", "title": "スタジアム移転構想" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "湘南ベルマーレの決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016", "title": "決算" } ]
湘南ベルマーレは、日本の神奈川県平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、厚木市、伊勢原市、南足柄市、寒川町、大磯町、二宮町、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町、箱根町、真鶴町、湯河原町をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
{{Otheruses|JリーグのJ1に所属しているチーム|日本フットサルリーグに所属しているチーム|湘南ベルマーレフットサルクラブ}} {{サッカークラブ | font-color = #FFFFFF | background-color = #6EB92B | border-color = #005CA2 | 原語表記 = 湘南ベルマーレ | 呼称 = 湘南ベルマーレ | 愛称 = ベルマーレ | カラー = {{colorbox|#6EB92B}} ライトグリーン<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/club/shonan/day|title=クラブガイド:湘南ベルマーレ|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2021-02-19}}</ref><br>{{colorbox|#005CA2}} ブルー{{R|jleague}}<br>{{colorbox|#FFFFFF}} ホワイト{{R|jleague}} | 創設 = 1968 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス = J1 | ホームタウン = [[神奈川県]][[平塚市]]、[[鎌倉市]]、[[藤沢市]]、[[小田原市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[秦野市]]、[[厚木市]]、[[伊勢原市]]、[[南足柄市]]、[[寒川町]]、[[大磯町]]、[[二宮町]]、[[中井町]]、[[大井町]]、[[松田町]]、[[山北町]]、[[開成町]]、[[箱根町]]、[[真鶴町]]、[[湯河原町]]{{R|jleague}} | スタジアム = [[ファイル:Hiratsuka20100102 4.JPG|center|220px]][[平塚競技場|レモンガススタジアム平塚]]{{R|jleague}} | キャパ = 15,380{{R|jleague}} | 法人名 = 株式会社湘南ベルマーレ{{R|jleague}} | 代表 = 代表取締役会長兼社長 眞壁潔 代表取締役副社長GM [[坂本紘司]] | 監督 = {{Flagicon|JPN}} [[山口智 (サッカー選手)|山口智]] | HP = http://www.bellmare.co.jp/ | pattern_la1 = _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | leftarm1 = 6fb92e | body1 = 6fb92e | rightarm1 = 6fb92e | shorts1 = 38e64e | socks1 = 08E524 | pattern_la2 = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Shonan Bellmare 2022 AWAY FP | pattern_so2 = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | leftarm2 = FFFFFF | body2 = FFFFFF | rightarm2 = FFFFFF | shorts2 = FFFFFF | socks2 = FFFFFF }} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社湘南ベルマーレ |英文社名 = Shonan Bellmare Co., Ltd. |種類 = 株式会社 |本社所在地 = [[神奈川県]][[平塚市]]中堂18番8号{{R|jleague}} |設立 = [[1999年]](平成11年)[[12月8日]] <ref name="clubguide">{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/clubinfo#shonanbellmare|title=株式会社湘南ベルマーレ|work=湘南ベルマーレ|accessdate=2018-11-21}}</ref> |業種 = 9050 |事業内容 = サッカークラブの運営他 |代表者 = 眞壁潔(会長) |資本金 = 7億947万2000円 |売上高 = 24億7742万4000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/73b8c/322963 株式会社湘南ベルマーレ 第24期決算公告]</ref> |営業利益 = 1451万7000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |経常利益 = 1093万1000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |純利益 = 1540万3000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |純資産 = 1億2919万9000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |総資産 = 14億2237万6000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" /> |従業員数 = |決算期 = 1月期 |主要株主 = メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ、湘南ベルマーレ持株会、公益財団法人平塚市まちづくり財団、[[学校法人産業能率大学]]など356名(社)<ref name="clubguide"/> |主要子会社 = |関係する人物 = [[河野太郎]](元[[監査役]])<br>[[小池信三]]([[名誉会長]]) |外部リンク = http://www.bellmare.co.jp |特記事項 = 1999年12月、株式会社湘南ベルマーレ平塚から営業権を譲受。 |郵便番号 = 254-0026{{R|jleague}} }} '''湘南ベルマーレ'''(しょうなんベルマーレ、{{Lang-en-short|Shonan Bellmare}})は、[[日本]]の[[神奈川県]][[平塚市]]、[[鎌倉市]]、[[藤沢市]]、[[小田原市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[秦野市]]、[[厚木市]]、[[伊勢原市]]、[[南足柄市]]、[[寒川町]]、[[大磯町]]、[[二宮町]]、[[中井町]]、[[大井町]]、[[松田町]]、[[山北町]]、[[開成町]]、[[箱根町]]、[[真鶴町]]、[[湯河原町]]をホームタウンとする、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 == 概要 == '''[[藤和不動産サッカー部|フジタ工業サッカー部]]'''を前身として[[1994年]]に'''ベルマーレ平塚'''の名称でJリーグへ加盟{{R|jleague}}、[[2000年]]に現チーム名に改称した。ホームスタジアムはレモンガススタジアム平塚で{{R|jleague}}、練習場は平塚市の[[馬入サッカー場|馬入ふれあい公園サッカー場]]{{R|jleague}}。チーム名は[[ラテン語]]の美しい(bellum、ベルム)と海({{lang|la|Mare}}、マーレ)の2つの単語を合わせた造語{{R|jleague}}。 ホームタウンは1999年までは平塚市1市、2000年よりJリーグで「広域ホームタウン制度」が認められたことを受けて厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、藤沢市と[[中郡]](大磯町、二宮町)・[[高座郡]](寒川町)の3町を加えた7市3町へ変更された。2017年10月24日には鎌倉市、南足柄市と[[足柄上郡]](中井町、大井町、松田町、山北町、開成町)・[[足柄下郡]](箱根町、真鶴町、湯河原町)の8町をホームタウンに加え、神奈川県西部の9市11町にホームタウンを拡大した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-51320/|title=湘南ベルマーレ ホームタウン追加について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2017-10-24|accessdate=2017-10-24}}</ref>。 設立以来、[[フジタ]]の出資する'''株式会社湘南ベルマーレ平塚'''が運営を行っていたが、フジタの経営難により1999年に[[新旧分離]]を実施し、地元企業が共同出資する'''株式会社湘南ベルマーレ'''が運営する。2018年4月に、当時の筆頭株主だった[[三栄建築設計]]と、トレーニングジム・健康食品販売などを手がける[[RIZAPグループ]]が共同出資した[[合弁会社]]「メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ」がクラブの[[第三者割当増資]]を引き受け、同社が筆頭株主となっている(詳細後述) === 湘南スタイル === 湘南は[[曺貴裁]]体制より「攻撃的で、走る意欲に満ち溢れた、アグレッシブで痛快なサッカー」という内容の独自の堅守速攻スタイル「湘南スタイル」を提唱している<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=トップチームフィロソフィ « 湘南ベルマーレ公式サイト|url=https://www.bellmare.co.jp/team/philosophy|website=www.bellmare.co.jp|accessdate=2021-11-29}}</ref><ref name=":1" />。攻撃的と語られているが、湘南はカウンター重視の攻守一体の堅守速攻的な戦い方が多く、ポゼッション比率が少なく、攻撃重視のサッカーという事ではなく、攻撃性・攻撃的な姿勢・意識を持つ事であるように見受けられる<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=湘南ベルマーレ 2021 チームスタイル[攻撃セットプレー] {{!}} データによってサッカーはもっと輝く {{!}} Football LAB|url=https://www.football-lab.jp/shon/style/|website=www.football-lab.jp|accessdate=2021-11-29}}</ref>。湘南はプロフェッショナルチームである以上、成果は「勝点3」のみと考えており、選手には「判断スピード」「強いフィジカル」「90分間走り続ける強い意欲・意志」「ポジティブに取り組む姿勢」「逆境をプラスにする事」「夢と目標を明確に持つ事」「一つ一つの練習に100%の集中力で取り組む事」「ミスを割り切り常にチャレンジする事」「謙虚さ」などを求めている<ref name=":0" />。この湘南スタイルを軸に、曺は就任時の2012年より湘南を三度J2からJ1へ1年で昇格させている。 == 歴史 == === 前身 === {{Main|藤和不動産サッカー部}} 前身は[[1968年]]に[[栃木県]]で発足した藤和不動産サッカー部(フジタSC)で{{R|jleague}}、[[1975年]]にフジタ工業サッカー部に改称した{{R|jleague}}。[[1972年]]に[[日本サッカーリーグ]](JSL)1部へ昇格{{R|jleague}}、[[1977年]]JSL初優勝。以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回を果たした。1992年10月、運営会社として[[フジタ]]が全額出資する'''株式会社フジタスポーツクラブ'''が設立され、チームの愛称を「'''湘南ベルマーレ'''」とした。 [[1993年]]、[[Jリーグ準会員制度|Jリーグ準会員]]に承認。'''ベルマーレ平塚'''へチーム名を変更した。同時に運営会社の商号を株式会社ベルマーレ平塚へ変更し、地元企業・団体などが出資([[1996年]]に株式会社湘南ベルマーレ平塚へ商号を変更)した。[[1993年のJFL]]1部で優勝、スタジアム問題もクリアして、Jリーグ入会が承認された{{R|jleague}}。 === 1994年 - 1999年(Jリーグ) === [[ファイル:Hidetoshi Nakata November 2011 (cropped).JPG|thumb|250px|[[中田英寿]]]] ;1994年 Jリーグ加入前から監督を務めていた[[古前田充]]とヘッドコーチの[[ニカノール・デ・カルバーリョ|ニカノール]]の二頭体制の下、超攻撃的サッカーを標榜したが、サントリーシリーズは全クラブ最多の54失点を喫して12チーム中11位の成績。そこで、それまで左サイドバックを務めていた[[岩本輝雄]]をオフェンシブハーフにコンバートし、左サイドバックには[[公文裕明]]を起用。これが功を奏し、ニコスシリーズは得点が全クラブ最多タイの48、失点が全クラブ最少タイの26と攻守共に安定し、[[東京ヴェルディ1969|V川崎]]と1勝差の2位に躍進し、'''湘南の暴れん坊'''と呼ばれた。また、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は決勝でC大阪を破り、初優勝した。[[田坂和昭]]が新人王、[[ジウベルト・カルロス・ナシメント|ベッチーニョ]]および[[名塚善寛]]が[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]]を受賞した。 ;[[1995年]] [[中田英寿]]が入団。[[レイナルド・ビセンチ・シモン|シモン]]加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置くスリーボランチを採用。サントリーシリーズは全クラブ最多の60得点を挙げ、7位とまずまずの成績を残したが、ニコスシリーズは一転不振に陥り、8月末にニカノールが解任されると、第18節限りで古前田も辞任。残り試合はサテライト監督を務めていた[[植木繁晴]]が監督代行を務めたが、14チーム中最下位に終わる。それでも最後は[[アジアカップウィナーズカップ]]で優勝した。 ;1998年 [[1998 FIFAワールドカップ日本代表]]としてGK[[小島伸幸]]、MF中田、FW[[呂比須ワグナー]]、同韓国代表としてDF[[洪明甫]]の計4人が選出された。W杯終了後、中田が[[イタリア]]・[[ペルージャ・カルチョ|ACペルージャ]]へ移籍。この年に姉妹クラブで[[日本女子サッカーリーグ]](Lリーグ)の[[フジタ天台SCマーキュリー|フジタサッカークラブ・マーキュリー]]が廃部した<ref name="shonankeizai20100305"/>。 ;[[1999年]] メインスポンサーのフジタが経営再建のためスポンサーから撤退<ref name="shonankeizai20100305">{{Cite web|和書|url=http://shonan.keizai.biz/column/4/|title=11年ぶりのJ1昇格を果たした湘南ベルマーレ|work=湘南経済新聞|date=2010-3-5|accessdate=2013-3-13}}</ref>。また、小島、[[野口幸司]]、名塚、田坂、[[公文裕明]]、[[岩元洋成|岩元]]など主力が退団([[岩本輝雄]]、[[名良橋晃]]、ベッチーニョ、[[アウミール・デ・ソウザ・フラガ|アウミール]]、[[渡辺卓 (サッカー選手)|渡辺卓]]は1998年1stステージ以前に退団)。J1リーグ戦は1st・2ndステージ共に最下位(年間4勝)に終わり、[[J2リーグ|Jリーグ ディビジョン2]](J2)へ降格した。12月にフジタが株式会社湘南ベルマーレを新たに設立しクラブの営業権を同社へ移すと共に、同社株式を平塚市などの湘南ベルマーレ平塚の株主に譲渡した。一方でフジタは湘南ベルマーレ平塚の全株式を買い取った。なお、湘南ベルマーレ平塚は2004年11月22日の臨時株主総会決議により解散した<ref>[[官報]]、2004年12月9日、2014年5月1日閲覧</ref>。 === 2000年 - 2009年(J2) === ;2000年 チーム名を「ベルマーレ平塚」から「'''湘南ベルマーレ'''」に改称{{R|jleague}}。ホームタウンを平塚市1市から[[厚木市]]、[[伊勢原市]]、[[小田原市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[秦野市]]、平塚市、[[藤沢市]]、[[中郡]][[大磯町]]、[[二宮町]]および[[高座郡]][[寒川町]]の[[神奈川県]]の7市3町へ変更・広域化した{{R|jleague}}{{R|shonankeizai20100305}}。 [[加藤久]]を監督に迎えて、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]からベテランGK[[伊藤裕二]]、[[清水エスパルス|清水]]からDF[[白井博幸]]、元V川崎の[[前園真聖]]や元清水の[[松原良香]]などを獲得したが、終盤に8連敗するなど苦戦を強いられ8位に終わった。加藤をシーズン中に解任する発表をしたフロントに不信感を持った前園、松原らの主力もチームを去った。 ;2001年 [[田中孝司 (サッカー選手)|田中孝司]]が監督に就任。元[[サッカーコロンビア代表|コロンビア代表]]の[[エーベル・パラシオス|パラシオス]]をはじめとしたコロンビア組を中心に補強。1998年以来の復帰となった[[栗原圭介]]とエースとして期待された若手FW[[高田保則]]がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。前年と同じく8位に終わる。 ;2002年 田中体制2年目。パラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した[[熊林親吾]]、[[吉野智行]]らを中心にチームが奮起。前年度に在籍していた[[エルマン・ガビリア|ガビリア]]がコロンビアで練習中に[[落雷]]を受け死亡する悲報もあったが5位へ躍進。 ;2003年 [[アジャム・ブジャラリ・モハメッド|サミア]]を監督に迎え、フラット3を組み込んだ3-5-2システムを採用。開幕戦こそ機能したが、パラシオスのケガによる離脱、期待されていた元プレミアリーグ[[ミドルスブラFC|ミドルズブラ]]の[[ハミルトン・リカルド|リカルド]]の不調など序盤で躓き、10位に終わった(サミアは途中退任、リカルドも退団)。 ;2004年 山田体制2年目。[[FC東京]]より[[ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ|アマラオ]]を獲得したが、前年に続き波に乗れず、7月に[[山田松市]]を監督より解任して、[[上田栄治]]が後任監督に就任したが、前年と同じく10位に終わった。シーズン終了後、2003年より攻撃の中心として据えられていた[[金根哲|キム・グンチョル]]、シーズン途中で[[柏レイソル|柏]]へレンタル移籍していたパラシオスが退団した。 ;2005年 上田体制2年目。シーズン序盤は快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられ、結局リーグ戦7位でシーズンを終えた。シーズン終了後、ユースからの生え抜きのFW[[高田保則]]や[[鈴木良和]]、[[佐野裕哉]]、[[吉野智行]]、[[ジョシップ・バリシッチ|バリシッチ]]などが退団した。 ;2006年 上田体制3年目。レンタル移籍のFW[[梅田直哉]]を[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から完全移籍で、[[モンテディオ山形|山形]]からMF[[外池大亮]]、元浦和のMF[[アジエル・デ・オリベイラ・アモリム|アジエル]]、元山形のMF[[ニヴァウド・ローレンス・ダ・シルバ|ニヴァウド]]、FW[[ジョゼ・ファビオ・サントス・ジ・オリベイラ|ファビオ]]を獲得した。リーグ戦は、シーズン中盤に8連敗を喫するなどで、上田が監督を辞任。終盤も6連敗するなど11位に終わった。シーズン終了後、[[佐藤悠介]]が東京Vへ移籍。また、[[城定信次]]、[[小林弘記]]など7人が退団した。 ;2007年 :クラブスローガン :「'''蹴志 Best mind'''」 [[菅野将晃]]が監督に就任。[[浅野哲也]]がトップチームコーチに就任。FC東京から[[ジャーン・カルロ・ウィッテ|ジャーン]]、山形から[[原竜太]]、[[清水エスパルス|清水]]から[[斉藤俊秀]]、ドイツ・[[SVアイントラハト・トリーア]]から[[鈴木伸貴]]を獲得。また、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]から[[名良橋晃]]が11年ぶりに復帰した。また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻した(2006年までの湘南のレンタル放出は、資金面などの理由もあり基本的には完全移籍をオプション事項に盛り込んでいた。そのため、レンタル先から復帰させたのは当時としては珍しい事例だった)。アジエルを攻撃の基点としたチーム作りで昇格争いに肉薄、終盤まで昇格の可能性を残したが6位でシーズンを終えた。このシーズンをもって選手会長の[[外池大亮]]が引退。 ;2008年 :クラブスローガン :「'''志闘 ~HEART&HARD~'''」 菅野体制2年目。左サイドバックのレギュラーを務めていた[[尾亦弘友希]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]に移籍。一方で[[アビスパ福岡|福岡]]より[[アブラゥン・リンコン・マルチンス|リンコン]]、[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[三田光]]、FC東京から[[阿部吉朗]]、山形から湘南ユース出身の[[臼井幸平]]を獲得。リーグ戦は最終節まで昇格争いに絡んだが、最終順位は5位となった。 ;2009年 :クラブスローガン :「'''勇志湘南 Heart&Hard'''」 {{Image label begin|width=200|float=right|caption=ポジション|link=|margin=1ex|image=Soccer Field Transparant.svg}} {{Image label|scale=200|x=0.04|y=0.02|text=<span style="font-size: 90%; color: black;">'''2009年'''</span>}} {{Image label|scale=200|x=0.55|y=1.40|text=[[反町康治|<span style="font-size: 90%; color: navy;">監督 '''反町康治'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.39|y=1.29|text=[[野澤洋輔|<span style="font-size: 90%; color: white">'''野澤洋輔'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.60|y=0.82|text=[[臼井幸平|<span style="font-size: 90%; color: white">'''臼井幸平'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.52|y=0.97|text=[[ジャーン・カルロ・ウィッテ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ジャーン'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.15|y=0.97|text=[[村松大輔|<span style="font-size: 90%; color: white">'''村松大輔'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.07|y=0.82|text=[[島村毅|<span style="font-size: 90%; color: white">'''島村毅 '''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.66|y=0.54|text=[[寺川能人|<span style="font-size: 90%; color: white">'''寺川能人'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.36|y=0.73|text=[[田村雄三|<span style="font-size: 90%; color: white">'''田村雄三'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.10|y=0.54|text=[[坂本紘司|<span style="font-size: 90%; color: white">'''坂本紘司'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.53|y=0.40|text=[[アジエル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アジエル'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.20|y=0.40|text=[[中村祐也|<span style="font-size: 90%; color: white">'''中村祐也'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.35|y=0.23|text=[[田原豊|<span style="font-size: 90%; color: white">'''田原豊'''</span>]]}} {{Image label end}} 湘南OBの[[反町康治]]が監督に就任。また、新潟時代に反町が指導した[[寺川能人]]、[[野澤洋輔]]、元[[京都サンガF.C.|京都]]のFW[[田原豊]]。[[Honda FC]]からDF[[村松大輔]]を獲得した一方、DF[[斉藤俊秀]]、FW[[石原直樹]]などが退団した。リーグ戦は開幕5連勝でスタートダッシュに成功。シーズンを通して昇格レースに絡み、12月5日の最終節[[水戸ホーリーホック|水戸]]戦で勝利し3位が確定。11年ぶりに[[J1リーグ|Jリーグ ディビジョン1]] (J1)復帰が決定した(11シーズンぶりのJ1復帰はJリーグ最長記録)。このシーズンをもって、[[原竜太]]と[[伊藤友彦]]が現役を引退した。 このシーズンは終盤の第49節[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]戦(勝ち点91同士で並んでいた)を含む[[アディショナルタイム]]での得点が10得点を数え、最終節水戸戦も2点のビハインドを跳ね返した。{{See also|2009年J2最終節}} === 2010年(J1) === :クラブスローガン :「'''PLAY ON Heart & Hard 2010'''」 反町体制2年目。[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[新居辰基]]、新潟から[[松尾直人]]、[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[中山元気]]、[[水戸ホーリーホック|水戸]]より[[小澤雄希]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]より平塚ジュニア、ジュニアユース出身の[[馬場賢治]]を期限付き移籍で獲得した。 リーグ戦は、開幕前にポジションを問わずケガ人が続出し、引退しユースチームのコーチを務めていた伊藤が現役復帰を余儀なくされ、練習試合が組めなくなるほどに深刻なものとなった。開幕戦(山形戦)は引き分け、第4節の新潟戦で初勝利を収めたが、前年までの堅守が崩壊、大量失点に苦しむ。中でも、前年の昇格の功労者である[[アジエル・デ・オリベイラ・アモリム|アジエル]]が両脛のケガから立ち直れず選手登録抹消(退団はせず)、効果的な攻め手を欠き、前年までの人数をかけた鋭いカウンターを中心とした攻撃は影を潜めた。 後半戦を前に、選手登録されているGK4人中、3人が負傷離脱中という状況を打開するために、浦和から[[都築龍太]]を期限付き移籍で獲得(これと同時に[[金永基]]を登録抹消、退団はせず)。さらに[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国]]・[[北京国安足球倶楽部|北京国安]]に所属していたFW[[エリヴァウド・アントニオ・サライバ|ヴァウド]]と、元FC東京の[[エメルソン・デ・アンドラーデ・サントス|エメルソン]]を獲得した。椎間板ヘルニアのため戦列を離れていた[[野澤洋輔]]や開幕前に大ケガを負った[[松尾直人]]が戦列に復帰したが、7月18日の京都戦以降勝ちが全くないまま、11月14日(第30節)の[[清水エスパルス|清水]]戦に敗れ、4試合を残してJ2降格が決定した。その後も[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]の優勝を目の前で決められてしまうなど最終節まで連敗し、結局リーグ戦21試合連続未勝利となった。これはJ1のワースト記録となった(J全体では[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]の35試合連続未勝利がワースト)。また、勝ち点16、シーズン3勝、総失点82、得失点差-51はJ1ワースト記録となった(当時)。 === 2011年 - 2012年(J2) === ;2011年 :クラブスローガン :「'''蹴燃 HEART&HARD'''」 反町体制3年目。清水から[[西部洋平]]、FC東京から[[阿部伸行]]、C大阪から[[石神直哉]]を完全移籍で獲得。また、[[ジュビロ磐田|磐田]]から[[大井健太郎]]、名古屋から[[巻佑樹]]と[[平木良樹]]、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]から[[佐々木竜太]]も期限付き移籍で獲得した。その一方で、エメルソン、[[寺川能人]]、[[中山元気]]らが退団した。開幕戦は岡山に5-0と圧勝したが、昨年同様にケガ人による離脱者が多数発生し、シーズンを通しほぼ中位に留まり、シーズン成績は14位に終わった。 天皇杯は4回戦で[[川崎フロンターレ|川崎]]を撃破した。シーズン終了後、反町が監督を退任した。 ;2012年 :クラブスローガン :「'''蹴激'''」 新監督に[[曺貴裁]]が就任。この年より「湘南スタイル」(ミスを割り切りアグレッシブにトライする攻守一体の堅守速攻)が確立されていった<ref name=":0" /><ref name=":1" />。 6年間在籍していた[[アジエル・デ・オリベイラ・アモリム|アジエル]]が中国・[[武漢卓爾足球倶楽部|武漢卓爾]]に、[[小澤雄希]]が[[SC相模原]]に、[[西部洋平]]が川崎に、[[田原豊]]が[[横浜FC]]に、[[臼井幸平]]が[[栃木SC]]に、[[松尾直人]]が[[関西サッカーリーグ]]・[[FC大阪]]に、[[野澤洋輔]]が[[松本山雅FC|松本]]に、昨シーズン[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]にレンタル移籍していた[[阿部吉朗]]が磐田に、[[ツエーゲン金沢]]にレンタル移籍していた[[菅野哲也]]が[[SC相模原]]に完全移籍、[[石神直哉]]が[[大分トリニータ|大分]]に、[[松浦勇武]]が[[FC琉球]]にレンタル移籍、[[大井健太郎]](磐田に復帰⇒新潟へ完全移籍)、[[巻佑樹]](名古屋へ復帰)、[[佐々木竜太]](鹿島へ復帰)がレンタル移籍期間満了につき退団したが、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[馬場賢治]]、[[モンテディオ山形|山形]]から[[下村東美]]、[[古橋達弥]]、[[パウリスタFC]]から[[ハファエル・ドス・サントス・マセナ|マセナ]]を完全移籍で、[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[宮崎泰右]]、新潟から昨シーズン[[愛媛FC]]にレンタル移籍していた[[大野和成]]をレンタル移籍で獲得、 [[松本拓也 (サッカー選手)|松本拓也]]、[[古林将太]]、[[島村毅]]がレンタル移籍先から復帰、[[植村慶]]、[[三平和司]]のレンタル移籍期間が延長、[[大槻周平]]、[[三原向平]]が新加入した。 また7月には札幌の[[チアゴ・キリーノ・ダ・シウヴァ|キリノ]]を完全移籍で獲得した。 リーグ戦は、開幕戦で前年度天皇杯準優勝の京都に勝利。開幕から9試合を4連勝2回を含む8勝1分負けなしで、第3節終了時から首位をキープ。第10節([[水戸ホーリーホック|水戸]]戦)から第17節([[ギラヴァンツ北九州|北九州]]戦)まで8戦勝ち無しで第13節に2位、第17節終了時には6位まで順位を下げたが、第18節から9試合連続負けなし(5勝4分)で、第31節(栃木SC戦)に勝利して2位に浮上。第39節の千葉戦に引き分けて3位となったが、最終節に[[FC町田ゼルビア|町田]]戦に勝利して、京都に代わって自動昇格圏内の2位に入り、3年ぶりの[[J1リーグ|Jリーグ ディビジョン1]] (J1)復帰が決定した。シーズン終了後に12年間在籍していた[[坂本紘司]]が引退した。 2月には1億円を超える債務超過に転落し、最悪の場合はクラブ自体の解散の可能性もあるとの一部報道があった(実際の債務超過額は8268万9819円)が、9月から10月にかけて行われた湘南ベルマーレ持株会への一口5万円の拠出金の募集に4120万円、普通株に2980万円の申込みがあり、合計7100万円の増資を行った<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/66379|title=【御礼】湘南ベルマーレ持株会へご参加いただいた皆様へ|work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2012-10-27}}</ref>。また、第2回湘南ベルマーレ持株会への一口5万円の拠出金の募集により1000万円、普通株の3000万円の申込みがあり、Jリーグの承認後に2013年1月の[[臨時株主総会]]の承認を受け増資を行う予定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/71151|title=【御礼】湘南ベルマーレ持株会へご参加いただいた皆様へ|work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2012-12-27}}</ref>。 最終的に上記2回の増資により債務超過は解消した。また5期ぶりの黒字計上となった<ref>{{cite web|url=https://twitter.com/konotarogomame|title=2013年2月4日|work=河野太郎twitter|accessdate=2013-2-18}}</ref>。 === 2013年(J1) === :クラブスローガン :「'''蹴躍'''」 曺体制2年目。 [[金永基]]([[大分トリニータ|大分]])、[[松本拓也 (サッカー選手)|松本拓也]]([[ギラヴァンツ北九州|北九州]])、[[福田健人]]([[アルビレックス新潟シンガポール|新潟S]])、前年大分へ期限付き移籍していた[[三平和司]]([[京都サンガ|京都]])が完全移籍、[[松浦勇武]]([[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[FC琉球|琉球]])、[[植村慶]]([[ジュビロ磐田|磐田]])が期限付き移籍先へ完全移籍。[[三原向平]]([[愛媛FC|愛媛]])、[[山口貴弘]]([[V・ファーレン長崎|長崎]])、今シーズン[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]から加入した[[白井康介]](JFL・[[福島ユナイテッドFC|福島U]])が期限付き移籍、[[宮崎泰右]]([[大宮アルディージャ|大宮]])、[[李珉洙|イ・ミンス]]([[清水エスパルス|清水]])が所属元へ復帰した。 補強は、[[栃木SC]]から[[宇佐美宏和]]・[[荒堀謙次]]、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]から[[梶川諒太]]、[[モンテディオ山形|山形]]から[[鈴木雄太]]が完全移籍で、[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[安藤駿介]]、[[柏レイソル|柏]]から[[中川寛斗]]、[[武富孝介]]、[[クォン・ハンジン]]が期限付き移籍で獲得、新外国人として[[ムアントン・ユナイテッド]]から[[エジバウド・ロハス・エルモーサ|エジバウド]]を獲得、[[河野諒祐]](前年2種登録選手)、[[村岡拓哉]]、[[吉濱遼平]](前年特別指定選手)、[[田村翔太]]が新加入した。 シーズン中にエジバウドが退団、クォン・ハンジンが[[ザスパクサツ群馬|群馬]]へ期限付き移籍先が変更、[[チアゴ・キリーノ・ダ・シウヴァ|キリノ]]が[[アル・シャアブ]]へ、[[岩上祐三]]が[[松本山雅FC]]へ期限付き移籍したが、[[水原三星ブルーウィングス]]から[[ステヴィカ・リスティッチ|ステボ]]、[[ECペロタス]]から[[ウェリントン・ルイス・デ・ソウザ|ウェリントン]]が完全移籍で、[[コメルシアウFC (リベイラン・プレト)|コメルシアウFC]]から[[アレックス・ホベルト・サンターナ・ハファエル|アレックス・サンターナ]]、[[FC東京]]から[[大竹洋平]]が期限付き移籍で加入、特別指定選手として[[三竿雄斗]]、[[宮市剛]]、[[菊地俊介]]、[[福岡将太]](ともに2014年に正式加入することが内定)、2種登録選手として[[南翔太 (サッカー選手)|南翔太]]が加入した。 リーグ戦は開幕から6戦勝ち無し(3分3負)となったが、第7節[[大分トリニータ|大分]]戦に2-1で勝利し初勝利を挙げた。 しかしながら折り返しの17節まで3勝4分10負の勝ち点13で16位と苦しい戦いが続き、第32節の[[FC東京]]戦に1-2で敗れ16位以下が確定、J2降格が決まった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20131123/150236.html|title=湘南が1年でJ2へ…2節を残して降格3チームが決定|work=サッカーキング|accessdate=2013-11-23}}</ref>。 === 2014年(J2) === {{Image label begin|width=200|float=right|caption=ポジション|link=|margin=1ex|image=Soccer Field Transparant.svg}} {{Image label|scale=200|x=0.04|y=0.02|text=<span style="font-size: 90%; color: black;">'''2014年'''</span>}} {{Image label|scale=200|x=0.60|y=1.40|text=[[チョウ貴裁|<span style="font-size: 90%; color: navy;">監督 '''曺貴裁'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.39|y=1.29|text=[[秋元陽太|<span style="font-size: 90%; color: white">'''秋元陽太'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.72|y=0.97|text=[[遠藤航|<span style="font-size: 90%; color: white">'''遠藤航'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.40|y=0.97|text=[[丸山祐市|<span style="font-size: 90%; color: white">'''丸山祐市'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.10|y=0.97|text=[[三竿雄斗|<span style="font-size: 90%; color: white">'''三竿雄斗'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.20|y=0.80|text=[[菊地俊介|<span style="font-size: 90%; color: white">'''菊地俊介'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.66|y=0.53|text=[[藤田征也|<span style="font-size: 90%; color: white">'''藤田征也'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.50|y=0.80|text=[[永木亮太|<span style="font-size: 90%; color: white">'''永木亮太'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.10|y=0.54|text=[[菊池大介|<span style="font-size: 90%; color: white">'''菊池大介'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.53|y=0.40|text=[[岡田翔平|<span style="font-size: 90%; color: white">'''岡田翔平'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.20|y=0.40|text=[[武富孝介|<span style="font-size: 90%; color: white">'''武富孝介'''</span>]]}} {{Image label|scale=200|x=0.35|y=0.25|text=[[ウェリントン・ルイス・デ・ソウザ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウェリントン'''</span>]]}} {{Image label end}} :クラブスローガン :「'''決弾'''」 曺体制3年目。[[下村東美]]、[[古橋達弥]]、[[石神直哉]]らベテラン選手の契約満了を発表<ref>{{cite news|date=2013-12-12|url=http://www.bellmare.co.jp/95239|title=契約満了選手のお知らせ|publisher=湘南ベルマーレ公式サイト|accessdate=2013-12-12}}</ref>。[[高山薫]]、[[韓国栄]]が[[柏レイソル|柏]]に完全移籍、[[田村翔太]]、[[河野諒祐]]、[[村岡拓哉]]、[[猪狩佑貴]]の4名が[[福島ユナイテッドFC|福島]]に、[[鎌田翔雅]]が[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]に、[[馬場賢治]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]にレンタル移籍。レンタル移籍中だった[[三原向平]]([[愛媛FC|愛媛]])、[[山口貴弘]]([[V・ファーレン長崎|長崎]])の移籍期間が延長、[[大野和成]]([[アルビレックス新潟|新潟]])、[[安藤駿介]]([[川崎フロンターレ|川崎]])、アレックス・サンターナ([[コメルシアウFC (リベイラン・プレト)|コメルシアウFC]])がそれぞれ所属元へ復帰した。 補強面では、[[愛媛FC|愛媛]]より[[秋元陽太]]を、[[FC東京]]よりレンタル移籍中の[[大竹洋平]]らを完全移籍で獲得。[[福島ユナイテッドFC|福島]]にレンタル移籍中の[[吉濱遼平]]、[[白井康介]]が復帰。前年から[[柏レイソル|柏]]よりレンタル移籍中の[[武富孝介]]、[[中川寛斗]]の移籍期間が延長。[[FC東京]]から[[丸山祐市]]が、[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[岡田翔平]]がレンタル移籍で加入した。 開幕から14連勝するなど、快進撃を続ける。15節で愛媛FCに敗北したが、その後は21戦負けなし。9月23日、アウェイの第33節の[[京都サンガF.C.|京都]]戦に2-2で引き分け、J1自動昇格を確定した。 その後2連敗を喫するものの、結果的に2014シーズンを31勝8分3敗、勝ち点101でリーグ優勝を勝ち取った。 === 2015年 - 2016年(J1) === ;2015年 :クラブスローガン :「'''証明 show the style'''」 曺体制4年目。2年ぶりのJ1挑戦となった。 [[福島ユナイテッドFC|福島]]へレンタル移籍していた[[猪狩佑貴]]が引退<ref group="注釈">猪狩はそのまま同クラブ職員となり「[[Spirit ベルマーレTV]]」にも出演するようになった。</ref>、福島へレンタル移籍していた[[河野諒祐]]([[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[ヴェルスパ大分|V大分]])、[[鈴木雄太]]、[[吉濱遼平]]([[ザスパクサツ群馬|群馬]])、[[阿部伸行]]([[ギラヴァンツ北九州|北九州]])、[[宇佐美宏和]]([[モンテディオ山形|山形]])、[[V・ファーレン長崎|長崎]]にレンタル移籍していた[[山口貴弘]]([[大分トリニータ|大分]])、[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]にレンタル移籍していた[[鎌田翔雅]]([[清水エスパルス|清水]])が完全移籍、[[岩尾憲]]、[[宮市剛]]([[水戸ホーリーホック|水戸]])、[[福岡将太]]、今シーズンユースから昇格した[[前田尚輝]](福島)、[[梶川諒太]](長崎)、[[亀川諒史]]([[アビスパ福岡|福岡]])がレンタル移籍、[[田村翔太]]、[[安東輝]](福島)のレンタル移籍期間が延長、[[村岡拓哉]](福島)、[[馬場賢治]](水戸)、[[荒堀謙次]]([[栃木SC|栃木]])、[[三原向平]]([[愛媛FC|愛媛]])がレンタル移籍先に完全移籍、[[丸山祐市]](FC東京)、[[樋口寛規]](清水→[[SC相模原|相模原]]にレンタル移籍)、[[中川寛斗]]、[[武富孝介]]([[柏レイソル|柏]])、[[熊谷アンドリュー]]([[横浜F・マリノス|横浜FM]])が所属元へ復帰した。 補強面では、[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[李昊乗]]を、横浜FMから[[藤田祥史]]、昨シーズン福岡にレンタル移籍していた[[武田英二郎]]を、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から[[坪井慶介]]を、[[ボタフォゴ]]から[[アンドレ・ルイス・バイア・ドス・サントス・ヴィアナ|アンドレ・バイア]]を、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]から[[金鐘必]]を、柏から2シーズンぶりの復帰となる[[高山薫]]を完全移籍で、[[ミラソルFC]]から[[アリソン・エンリケ・ミラ|アリソン]]を、浦和から[[山田直輝]]を、[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[可児壮隆]]をレンタル移籍で獲得。レンタル移籍だった[[藤田征也]]が完全移籍に移行、レンタル移籍中の[[岡田翔平]]の移籍期間が延長、[[岡崎亮平]](6月に[[ロアッソ熊本|熊本]]へレンタル移籍)、[[ファビオ・ダ・コンセイソン・アモリン|アモリン]]、[[チアゴ・キリーノ・ダ・シウヴァ|キリノ]]が新加入した。 8月に行われた[[東アジアカップ2015]]では[[遠藤航]]が日本代表として出場した。年齢制限のない日本代表選手を輩出したのは98年の小島、中田、呂比須以来17年ぶり。名前が湘南ベルマーレとなってからは初めてである。 シーズンは鹿島から20年ぶり、名古屋から16年ぶり、柏から17年ぶりに勝利するなど勝負強さを発揮し、最終成績8位で湘南ベルマーレとなってから史上初のJ1残留を決めた。曺監督の手腕は高く評価され、シーズンオフには曺の故郷のクラブである[[京都サンガF.C.]]への監督就任の可能性が高まったが、最終的には湘南ベルマーレとの契約を更新した<ref>[[京都新聞]]、京都サンガ応援特集、2015年12月3日付記事、[http://www.kyoto-np.co.jp/info/sports/sanga/20151203_6.html]。</ref>。 同年のシーズン開始に合わせて[[テレビ神奈川]](tvk)で「[[Spirit ベルマーレTV]]」の放映が開始され、テレビでの広報体制が強化された<ref group="注釈">なお、平塚市内などを放映エリアとするケーブルテレビ局の[[湘南ケーブルネットワーク]]では以前から「Go!Go!ベルマーレ」を放映している。</ref>。 ;2016年 :クラブスローガン :「'''挑越 {{smaller|湘南EXPRESSは、2016年も走り続けます}}'''」 曺体制5年目。 [[遠藤航]]([[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]])、[[永木亮太]]([[鹿島アントラーズ|鹿島]])、[[秋元陽太]]([[FC東京]])、[[古林将太]]([[名古屋グランパスエイト|名古屋]])、[[李昊乗]]([[Kリーグクラシック|Kリーグ]]・[[全南ドラゴンズ|全南]])、水戸にレンタル移籍していた[[岩尾憲]]([[徳島ヴォルティス|徳島]])が完全移籍、[[広瀬健太]](栃木)、福島にレンタル移籍していた[[安東輝]]([[ツエーゲン金沢|金沢]])、水戸にレンタル移籍していた[[宮市剛]]([[ガイナーレ鳥取|鳥取]])がレンタル移籍、[[白井康介]](愛媛)、[[梶川諒太]](長崎)、[[亀川諒史]](福岡)がレンタル移籍先へ完全移籍、[[前田尚輝]]、[[福岡将太]](福島)のレンタル移籍期間が延長、[[可児壮隆]](川崎へ復帰→金沢へレンタル移籍)がレンタル移籍期間満了、[[澤田篤樹]]、[[アリソン・エンリケ・ミラ|アリソン]]、[[ファビオ・ダ・コンセイソン・アモリン|アモリン]]が退団した。 補強面では、横浜FMから[[奈良輪雄太]]、[[端戸仁]]を、[[松本山雅FC|松本]]から[[村山智彦]]を、[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]から[[下田北斗]]を完全移籍で、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[パウロ・ロベルト・ゴンサガ|パウリーニョ]]を、浦和から[[岡本拓也]]をレンタル移籍で獲得、[[山田直輝]]のレンタル移籍期間が延長、[[岡崎亮平]]、[[田村翔太]]がレンタル移籍先から復帰、[[神谷優太]]、[[山根視来]]、[[長谷川アーリアジャスール]]が新加入した。 [[10月22日]]のJ1 2ndステージ第15節の[[大宮アルディージャ|大宮]]戦で敗れ、年間順位で16位以下が確定、4度目のJ2降格が決定した。 === 2017年 (J2) === :クラブスローガン :「'''共走'''」 曺体制6年目。この年はベルマーレ平塚時代にメインスポンサーであった[[フジタ]]が18年ぶりにユニフォームスポンサーに復帰した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/161158|title=2017シーズン ユニフォームパートナー(袖)「株式会社フジタ」決定のお知らせ|work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2016-12-20}}</ref>。 [[金鐘必]]([[徳島ヴォルティス|徳島]])、[[三竿雄斗]]([[鹿島アントラーズ|鹿島]])、[[菊池大介]]([[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]])、[[大竹洋平]]([[ファジアーノ岡山FC|岡山]])、[[村山智彦]]([[松本山雅FC|松本]])、[[大槻周平]]([[ヴィッセル神戸|神戸]])、[[長谷川アーリアジャスール]]([[大宮アルディージャ|大宮]])、[[福島ユナイテッドFC|福島]]へレンタル移籍をしていた[[福岡将太]]([[栃木SC]])が完全移籍、[[梶川裕嗣]](徳島)がレンタル移籍、[[岡本知剛]]([[サガン鳥栖|鳥栖]]に復帰→松本へ完全移籍)、[[ウェズレー・スミス・アウヴェス・フェイトーザ|ウェズレー]]([[タイ・リーグ|タイ]]・[[ブリーラム・ユナイテッドFC]]へ復帰→[[Kリーグクラシック|Kリーグ]]・[[仁川ユナイテッドFC|仁川]]へ移籍)がレンタル移籍期間満了、[[大分トリニータ|大分]]へレンタル移籍していた[[チアゴ・キリーノ・ダ・シウヴァ|キリノ]]が退団した。 補強面では、[[愛媛FC|愛媛]]から[[表原玄太]]を、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]から[[野田隆之介]]を、[[FC東京]]から2シーズンぶりの復帰となる[[秋元陽太]]を完全移籍で、[[柏レイソル|柏]]から[[秋野央樹]]をレンタル移籍で獲得、[[安東輝]]、[[宮市剛]]がレンタル移籍先から復帰、[[石原広教]]がユースから昇格、[[後藤雅明]]、[[杉岡大暉]]が新加入した。 シーズン中には、[[伊藤剛 (サッカー選手)|伊藤剛]]が[[福島ユナイテッドFC|福島]]、宮市剛が[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[レイラック滋賀FC|滋賀]]へ育成型レンタル移籍、[[フランシスコ・ソウザ・ドス・サントス|シキーニョ]]が期限付き移籍契約解除(その後大分へレンタル移籍)となったが、大宮から[[ドラガン・ムルジャ]]を完全移籍で、名古屋から[[高橋諒]]をレンタル移籍で獲得した。 第39節、10月28日開催だった2位[[アビスパ福岡|福岡]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]戦で引き分けたため、湘南の2位以上が確定しJ1昇格が決定。翌日行われた岡山戦で湘南が引き分けたため3年ぶり2回目のJ2優勝が決定した。 === 2018年 - (J1) === ;2018年 :クラブスローガン :「'''ALIVE'''」 曺体制7年目。 [[坪井慶介]]([[レノファ山口FC|山口]])、[[安東輝]]([[松本山雅FC|松本]])、[[武田英二郎]]([[横浜FC]])、[[広瀬健太 (サッカー選手)|広瀬健太]]([[アルビレックス新潟|新潟]])、[[下田北斗]]([[川崎フロンターレ|川崎]])、[[藤田祥史]]([[ブラウブリッツ秋田|秋田]])、[[テルマリオ・デ・アラウージョ・サクラメント|ジネイ]]([[ヴァンフォーレ甲府|甲府]])、[[タンドゥ・ベラフィ|タンドウ・ベラピ]]([[Aリーグ]]・[[ウェリントン・フェニックスFC]])、[[ドラガン・ムルジャ]]([[1.SNL|スロベニア]]・[[NKオリンピア・リュブリャナ (2005年)|NKオリンピア・リュブリャナ]])が完全移籍で退団し、[[神谷優太]]([[愛媛FC|愛媛]])、[[奈良輪雄太]]([[東京ヴェルディ1969|東京V]])、[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[ヴェルスパ大分|V大分]]へ期限付き移籍していた[[朴兌桓|パク・テファン]]([[ナショナルリーグ (韓国)|韓国ナショナルリーグ]]・[[天安市庁FC]])、JFL・[[レイラック滋賀FC|滋賀]]へ期限付き移籍していた[[宮市剛]]([[いわてグルージャ盛岡|盛岡]])が他クラブに期限付き移籍し、[[山田直輝]]([[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]に復帰)がレンタル移籍期間満了、レンタル移籍の[[伊藤剛 (サッカー選手)|伊藤剛]]、[[田村翔太]]([[福島ユナイテッドFC|福島]])、[[梶川裕嗣]]([[徳島ヴォルティス|徳島]])がレンタル移籍先へ完全移籍した。また[[和田響稀]](福島)、[[呂薛安]](盛岡)がユースから昇格し即期限付き移籍した。 補強面では、新潟から5シーズンぶりに復帰の[[大野和成]]を、[[モンテディオ山形|山形]]から[[富居大樹]]を、浦和から[[梅崎司]]を、[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]から[[ミハエル・ミキッチ|ミキッチ]]を、[[セルビア・スーペルリーガ|セルビア]]・[[パルチザン・ベオグラード]]から元[[サッカーセルビア代表|セルビア代表]]の[[アレン・ステバノヴィッチ]]を完全移籍で、[[柏レイソル|柏]]から[[小林祐介]]を、[[Kリーグ2]]・[[釜山アイパーク|釜山]]から[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]の[[李庭協|イ・ジョンヒョプ]]をレンタル移籍で獲得、[[高橋諒]]が完全移籍に移行、[[真田幸太]]がユースから昇格、[[新井光 (サッカー選手)|新井光]]、[[松田天馬]]、[[山口和樹 (1995年生のサッカー選手)|山口和樹]]、[[坂圭祐]]、[[鈴木国友]]、[[金子大毅]]が新加入した。 2018年4月、当時湘南ベルマーレの筆頭株主だった三栄建築設計が[[RIZAPグループ]]と共同で「株式会社メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズ」を設立。この新設会社が湘南ベルマーレ株式の50%を取得した。同時にRIZAPグループは湘南ベルマーレに対して取締役7名を派遣し、本格的にクラブ運営に関与することになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/190361|title=株式会社湘南ベルマーレ 募集株式発行及び株式会社メルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズへの割当決定のお知らせ|publisher=湘南ベルマーレ公式サイト・ニュース|date=2018-04-15|accessdate=2018-05-16}}</ref><ref group="注釈">三栄建築設計はメルディアRIZAP湘南スポーツパートナーズに50.05%出資する筆頭株主だが、その株式に議決権はなく、象徴的な出資にとどまる。</ref>。RIZAPグループはベルマーレに対し今後3年間で10億円を投資する意向である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1804/06/news117.html|title=RIZAPは湘南ベルマーレの「優勝」にコミットできるのか|publisher=[[ITmedia]] ビジネスONLINE|date=2018-04-06|accessdate=2018-05-16}}</ref>。 リーグ戦では、開幕戦こそ勝利したものの、その後8試合で1勝3分4敗と低迷、第10節からシーズン初の連勝を挙げたが直後に3連敗し、[[2018 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]によるリーグ戦中断前の第15節終了時には暫定12位となる。再開後は11位から14位の間を推移し、最終節直前の時点では14位、最終節の結果次第で16位に陥落し[[J1参入プレーオフ]]に進出する可能性は残っていたものの、最終節では名古屋相手に2点を先制したもののその後2PKを与え結局引き分け、10勝11分13敗、鳥栖と勝点得失点差で並ぶも総得点で上回り13位でシーズンを終えた。 [[2018年のJリーグカップ|YBCルヴァンカップ]]では、グループDで第5節まで3位にいたが、最終節で2位長崎に勝利し、3勝1分2敗で逆転で2位となり決勝トーナメントに進出、1回戦で仙台に初戦ホームで3-0と快勝したが2戦目アウェーは1-3で敗れたものの計4-3で準々決勝進出、C大阪に初戦ホーム3-0、2戦目アウェー2-2で準決勝に進出、柏には初戦アウェー1-1、2戦目ホームも90分では1-1で延長となり、延長でともに1点を追加し2-2となったためPK戦に突入、5-4で勝利し初の決勝進出となる。決勝では、横浜FMと対戦し、36分に[[杉岡大暉]]のミドルシュートで先制した1点を守り切り、湘南ベルマーレとなってからは初、ベルマーレ平塚時代の[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第74回天皇杯]]で優勝して以来の3大タイトル獲得となった。 [[第98回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では、4回戦で川崎に敗れた。 ;2019年 :クラブスローガン :「'''Acceleration -加速-'''」 曺体制8年目。序盤は好調を維持したものの、監督の[[曺貴裁]]がクラブ内でコーチングスタッフや選手への[[パワーハラスメント]]を行っていたと報道され<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASM8F5R38M8FULZU00K.html|title=「滑ってんじゃねーかよ」スパイク蹴る…湘南監督に指摘|newspaper=朝日新聞|date=2019-08-13|accessdate=2021-11-03}}</ref>、進退問題が浮上<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/201908110001068.html |title=湘南曹監督が退任濃厚 コンプライアンス問題浮上|newspaper=日刊スポーツ|date=2019-08-12|accessdate=2021-11-03}}</ref>。曺が活動を自粛し、コーチの[[高橋健二 (サッカー選手)|高橋健二]]が暫定的に指揮を執ることになった。その後Jリーグも調査を行った結果、曺のパワハラ行為が認定され、Jリーグからけん責と公式戦5試合の出場資格停止処分が下される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-60842/|title=制裁決定について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2019-10-04|accessdate=2021-11-03}}</ref>。これを受けて曺は監督を退任、後任にU-18監督の[[浮嶋敏]]が監督に就任した。 永年チームを率いた曺の活動自粛と監督交代の影響もあり、順位を徐々に落とし、最終的に年間順位16位となって、[[J1参入プレーオフ]]で[[J2リーグ|J2]]の4位から勝ち上がってきた[[徳島ヴォルティス]]と対戦。試合は1-1の引き分けで終わったが、規定により初めて2年連続のJ1残留を決めた。 ;2020年 :クラブスローガン :「'''PROGRESSION -前進-'''」 浮嶋体制2年目。シーズン序盤から下位に低迷し、第1節(13位)と第6節(15位)を除きシーズンを通じて[[ベガルタ仙台|仙台]]・[[横浜FC]]と共に16位以下に低迷。シーズン総得点29は16番目の仙台・[[大分トリニータ|大分]]からも7点離されるほどの得点力不足に悩まされた結果、6勝9分18敗の勝ち点27で最下位(18位)に終わる。しかし、新型コロナウィルス感染症の影響でレギュレーションが変更となり、J1からの降格がなくなったためJ1残留となった。 ;2021年 :クラブスローガン :「'''One Bellmare -一-'''」 浮嶋体制3年目。序盤5試合は3-1で勝った仙台戦以外は敗れて1勝4敗だったが、そこから8戦無敗と降格圏から脱出。6月27日からの柏戦から5連敗を喫し再び17位に沈み、8月29日の浦和戦を最後に浮島が退任。[[山口智]]がコーチから昇格した。その後山口に代わっても浦和戦から6戦勝ちなしと三度17位に沈んだが鳥栖に引き分けて16位に浮上し横浜FCとの直接対決も勝利し15位浮上。[[谷晃生]]がG大阪からのレンタル移籍であるので、Jリーグの規定で出場出来なかった最終節も引き分け。終始しぶとく勝ち点を拾い敗れても2点差以内にとどめて勝ち点で徳島に並ばれても得失点差で上回り、残留争いを制した。その一方でリーグ最多でもある16引き分けはJ2を戦った2002年と並んでチーム史上最多タイとなり、20チーム中唯一連勝がなかった。 ;2022年 :クラブスローガン :「'''BELIEVE -新湘南へ-'''」 山口体制2年目。最初の14試合で1勝4分け8敗と最下位に沈んでいたが、[[アンドレス・イニエスタ]]擁する神戸とベストイレブンにも選ばれた[[ジェジエウ・カルドソ・ミランダ|ジェジエウ]]と[[谷口彰悟]]を大怪我と出場停止で失った川崎に勝ち最下位脱出。2年ぶりに連勝するとC大阪戦後は6戦負けなしで12位に浮上。9月3日にはレモンガススタジアムでも川崎に勝ちクラブ史上初めて川崎との神奈川ダービー連勝<ref>厳密には2001年のJ2でも連勝しているが、当時は2004年まで4回戦総当たり制だったので、2010年に川崎と共に2回戦総当たり制のJ1で戦う様になってからはクラブ史上初である。</ref>。最後は僅か2敗にとどめて12位でフィニッシュ。クラブ名が「湘南ベルマーレ」に変わってからは2ステージ制に当たる2015年の8位に次ぐ好成績だった。[[町野修斗]]が日本人最多となる13ゴールを挙げた実績を買われ、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年に開催されたフランスワールドカップ]]で[[中田英寿]]、[[小島伸幸]]、[[洪明甫]]、[[呂比須ワグナー]]が選ばれて以来6大会ぶりにクラブからワールドカップメンバーが選出された。 ;2023年 :クラブスローガン : == 成績 == {{Main|湘南ベルマーレの年度別成績一覧}} == 通算得点ランキング == {| class="wikitable" style="text-align:center; border:3px solid #005CA2; box-shadow: 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" | 順位 || 選手名 || 得点数 |- | 1 || [[坂本紘司]] ||57 |- | 2 || [[ジウベルト・カルロス・ナシメント|ベッチーニョ]] ||56 |- | 3 || [[野口幸司]] ||53 |- | 4 || [[アジエル・デ・オリベイラ・アモリム|アジエル]] ||48 |- | 5 || [[高田保則]] ||43 |- | 6 || [[石原直樹]] ||41 |- | 7 || [[呂比須ワグナー]] ||36 |- | 8 || [[加藤望]] ||30 |- | 9 || [[栗原圭介]]||29 |- | 10 || [[柿本倫明]] ||28 |- | 11 || [[高山薫]] ||25 |- | 12 || [[阿部吉朗]] ||25 |- | 13 || [[菊池大介]]||23 |- | 14 ||[[中村祐也]]||23 |- | 15 ||[[ウェリントン・ルイス・デ・ソウザ|ウェリントン]]||23 |- | 16 ||[[遠藤航]]||23 |- | 17 ||[[田原豊]]||21 |- | 18 ||[[永木亮太]]||18 |- | 19 || [[アウミール・デ・ソウザ・フラガ|アウミール]] ||17 |- | 20 || [[原竜太]] ||17 |} ※出典:[http://footballgeist.com/team/%E6%B9%98%E5%8D%97%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AC&id=ranking Jリーグ・JFL・日本代表・ブンデスリーガのデータベース]。2015年8月末時点 (Jリーグ・J1およびJ2のみ。[[Jリーグカップ]]、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯全日本サッカー選手権大会]]、[[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]、[[アジアカップウィナーズカップ]]等は含まない) == タイトル・表彰 == === 国内タイトル === * '''[[J2リーグ]]:2回''' ** [[2014年のJリーグ|2014]], [[2017年のJリーグ|2017]] * '''[[Jリーグカップ]]:1回''' ** [[2018年のJリーグカップ|2018]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:1回''' ** [[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1994]] === 国際タイトル === * '''[[アジアカップウィナーズカップ]]:1回''' **[[アジアカップウィナーズカップ1995|1995]] === 表彰 === * '''J1リーグ''' ** [[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] *** 1994年 - [[名塚善寛]], [[ジウベルト・カルロス・ナシメント|ベッチーニョ]] *** 1997年 - [[中田英寿]] ** [[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|ベストヤングプレーヤー賞]] *** 1994年 - [[田坂和昭]] ** [[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|功労選手賞]] *** 1998年 - [[都並敏史]] *** 2022年 - [[石原直樹]] ** 月間ベストゴール *** 2020年11月 - [[齊藤未月]] ** [[Jリーグアウォーズ#最優秀ゴール賞|最優秀ゴール賞]] *** 2020年 - 齊藤未月 ** [[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞(高円宮杯)|フェアプレー賞]] *** 2020年 ** [[Jリーグアウォーズ#最優秀育成クラブ賞|最優秀育成クラブ賞]] *** 2021年 ** 月間優秀監督賞 *** 2022年6月、2023年10月 - [[山口智 (サッカー選手)|山口智]] ** [[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|月間MVP]] *** 2023年10月 - [[富居大樹]] * '''J2リーグ''' ** フェアプレー賞 *** 2014年 ** [[Jリーグアウォーズ#優秀監督賞・優勝監督賞|優秀監督賞]] *** 2017年 - [[曺貴裁]] ** [[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|功労選手賞]] *** 2008年 - [[名良橋晃]] *** 2009年 - [[加藤望]] ** [[Jリーグアウォーズ#Jリーグベストピッチ賞|ベストピッチ賞]] *** 2006年 - [[平塚競技場]] ** [[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|月間MVP]] *** 2014年3月 - [[永木亮太]] *** 2014年4月 - [[遠藤航]] *** 2017年6月 - [[秋元陽太]] * '''Jリーグカップ''' ** [[Jリーグカップ#最優秀選手賞|最優秀選手賞]] *** 2018年 - [[杉岡大暉]] == ユニフォーム == {{独自研究|section=1|date=2011年5月}} {{ユニフォームの色2 | F正シャツ=黄緑{{R|jleague}}|F正パンツ=黄緑{{R|jleague}}|F正ストッキング=黄緑{{R|jleague}} | F副シャツ=ゴールド{{R|jleague}}|F副パンツ=黒{{R|jleague}}|F副ストッキング=黒{{R|jleague}} | G正シャツ=ペールピンク|G正パンツ=ペールピンク|G正ストッキング=ペールピンク | G副シャツ=チャコールグレー|G副パンツ=チャコールグレー|G副ストッキング=チャコールグレー | G第3シャツ=オリーブグリーン|G第3パンツ=オリーブグリーン|G第3ストッキング=オリーブグリーン | pattern_la1= _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_b1= _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_ra1= _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_sh1= _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | pattern_so1= _Shonan Bellmare 2023 HOME FP | leftarm1=6EB92B | body1=6EB92B | rightarm1=6EB92B | shorts1=6EB92B | socks1=6EB92B | pattern_la2= _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | pattern_b2= _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | pattern_ra2= _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | pattern_sh2= _Shonan Bellmare 2022 AWAY FP | pattern_so2= _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP | leftarm2=FFFFFF | body2=FFFFFF | rightarm2=FFFFFF | shorts2=000000 | socks2=FFFFFF | pattern_la3= | pattern_b3= | pattern_ra3= | pattern_sh3= | pattern_so3= | leftarm3=EC6CA5 | body3=EC6CA5 | rightarm3=EC6CA5 | shorts3=EC6CA5 | socks3=EC6CA5 | pattern_la4= | pattern_b4= | pattern_ra4= | pattern_sh4= | pattern_so4= | leftarm4=4B4A48 | body4=4B4A48 | rightarm4=4B4A48 | shorts4=4B4A48 | socks4=4B4A48 | pattern_la5= | pattern_b5= | pattern_ra5= | pattern_sh5= | pattern_so5= | leftarm5= 316745 | body5= 316745 | rightarm5= 316745 | shorts5= 316745 | socks5= 316745 }} === チームカラー === * {{colorbox|#6EB92B}} ライトグリーン{{R|jleague}}、{{colorbox|#005CA2}} ブルー{{R|jleague}}、{{colorbox|#FFFFFF}} ホワイト{{R|jleague}} === ユニフォームデザイン === *1997年にJリーグクラブで初めて、背番号の下に背ネームを採用。1997年 - 1999年及び2002年 - 2004年に採用された。 *2000年までライトグリーンを基調。2001年よりブルー基調に変更したが、2010年よりライトグリーンを基調とするデザインに再度変更している。 *ライトグリーンは親会社であったフジタのイメージカラーであるが、[[1994年のJリーグ]]加盟時にJリーグ側から青からの変更依頼があったためライトグリーンを全面に押し出した。 *2013年から付いた左胸のエンブレム上の星(★)は[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会]](1994年)および[[アジアカップウィナーズカップ|アジアカップウィナーズカップ1995-96]]の優勝を表している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/73100|title=2013シーズン ユニフォームデザイン決定のお知らせ|work=湘南ベルマーレ公式サイト|accessdate=2013-3-13}}</ref>。2015年からは[[2014年のJリーグ ディビジョン2|J2]]優勝(2014年)、2018年からは[[2017年のJ2リーグ|J2]]優勝(2017年)、2019年からは[[2018年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]優勝(2018年)を表す星がそれぞれつけられた(それに伴い、J2優勝を表す星2つは右袖に移動)。 *2019年よりエンブレムの下に、クラブのスローガンである「たのしめてるか。」を配置した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/208759|title=2019シーズン ユニフォームデザイン決定のお知らせ|work=湘南ベルマーレ公式サイト|accessdate=2019-1-20|date=2012-01-11}}</ref>。 === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #005CA2; 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |掲出箇所||スポンサー名||表記||掲出年||備考 |- !胸 |[[リップルコミュニティ]]||RiPTy||2023年 - ||2022年6月 - 同年10月はパンツ前面 |- !rowspan="2"|鎖骨 |[[日本端子]]||日本端子||2021年11月 - ||左側に表記<br/>2012年10月 - 12月は胸<br/>2016年 - 2021年は背中下部<br/>2012年10月 - 同年12月は「日本端子 {{smaller|Nippon Tanshi Co., Ltd.}}」表記<br/>2018年 - 2021年は「NT 日本端子」表記 |- |[[RIZAPグループ]]||RIZAP||2018年10月 - ||右側に表記 |- !背中上部 |[[学校法人産業能率大学|産業能率大学]]||産業能率大学||2010年 - ||2004年途中 - 2009年は胸<br/>2004年途中 - 2006年は「{{smaller|SANNO}} 産能大」表記<br/>2007年 - 2009年は「SANNO {{smaller|産業能率大学}}」表記 |- !背中下部 |[https://www.mackenzie.co.jp/ マッケンジーハウス]||Mackenzie<br/>House||2022年 - ||2021年9月 - 同年12月はパンツ前面 |- !袖 |[[フジタ]]||FUjiTA||1996年 - 1998年<br/>2017年 - || |- !パンツ |なし||-||-|| |} === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年 - 1993年(Jリーグ準会員):[[アシックス]]、93年天皇杯のみベーシック(フェニックス) * 1994年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]]、カップ戦はベーシック(フェニックス) * 1997年 - 1998年:リーグ戦はミズノ、カップ戦は[[Kappa|カッパ]](フェニックス) * 1999年 - 2002年:カッパ・スポーツ(フェニックス) * 2003年 - 2004年:[[プーマ]] * 2005年 - 2006年:[http://piko-hawaii.jp/ PIKO](製作:2005年はエレア・ジャポネスポーツ、2006年はエーライン・ジャポネスポーツ) * 2007年 - 2011年:[[カレッジリーグ|エーライン]](エーライン・ジャポネスポーツ / カレッジリーグ) * 2012年 - 現在:[[ペナルティ (スポーツ用品)|ペナルティ]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:3px solid #005CA2; font-size:smaller; 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="text-align:center; background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la = _Shonan Bellmare 1994 HOME FP |pattern_b = _Shonan Bellmare 1994 HOME FP |pattern_ra = _Shonan Bellmare 1994 HOME FP |pattern_sh = _Shonan Bellmare 1994 HOME FP |pattern_so = _Shonan Bellmare 1994 HOME FP |leftarm = |body = |rightarm = |shorts = |socks = | title = {{Center|1994 - 1996}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la = _Shonan Bellmare 1997 HOME FP |pattern_b = _Shonan Bellmare 1997 HOME FP |pattern_ra = _Shonan Bellmare 1997 HOME FP |pattern_sh = _Shonan Bellmare 1997 HOME FP |pattern_so = _Shonan Bellmare 1997 HOME FP |leftarm = |body = |rightarm = |shorts = |socks = | title = 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|pattern_so = _Shonan Bellmare 2022 SP FP |leftarm = |body = |rightarm = |shorts = |socks = | title = {{Center|2022<br>ひまわり}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP |pattern_b = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP |pattern_ra = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP |pattern_sh = _Shonan Bellmare 2022 AWAY FP |pattern_so = _Shonan Bellmare 2023 AWAY FP2 |leftarm = |body = |rightarm = |shorts = |socks = fff | title = {{Center|2023 3rd - }}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la = _Shonan Bellmare 2023 SP FP |pattern_b = _Shonan Bellmare 2023 SP FP |pattern_ra = _Shonan Bellmare 2023 SP FP |pattern_sh = _Shonan Bellmare 2023 SP FP |pattern_so = _Shonan Bellmare 2023 SP FP |leftarm = |body = |rightarm = |shorts = |socks = | title = {{Center|2023<br>七夕記念}}}} |- |||||||||| |} === 歴代ユニフォームスポンサー表記 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:3px solid #005CA2; 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー |- style="background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面 |- |1994||rowspan="6"|[[第二電電|DDI]]||rowspan="24" colspan="2"|解禁前||[[HOYA|HOYA<br/>{{smaller|VISION CARE}}]]||rowspan="22"|解禁前||rowspan="2"|[[東ハト|Tohato]]||rowspan="9"|-||rowspan="26"|解禁前||rowspan="3"|[[ミズノ|Mizuno]] / <br/>Basic |- |1995||rowspan="4"|[[HOYA]] |- |1996||rowspan="3"|[[フジタ|FUjiTA]] |- |1997||rowspan="2"|[[Mizuno]] / <br/>[[Kappa]] |- |1998 |- |1999||- / <br/>[[cdmaOne|{{smaller|cdma}}One]]||- / <br/>[[ウィルコム|{{smaller|DDI}}<br/>POCKET]]||rowspan="4"|[[Kappa]] |- |2000||[[第二電電|DDI]] / <br/>[[KDDI]]||rowspan="2"|[[中田英寿|nakata.net]]||- / <br/>[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]] |- |2001||[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]]||[[リズメディア|Rhythmedia]] |- |2002||rowspan="2"|[[リズメディア|Rmt<br/>{{smaller||Rhythmedia Tribe}}]]||-||rowspan="2"|[[エイベックス|a<br/>{{smaller|avex group}}]] |- |2003||- / <br/>[[リゲイン|Regain]]|| - / <br/>[[リゲイン|Regain]]||rowspan="2"|[[プーマ|PUMA]] |- |2004||[[リズメディア|Rmt<br/>{{smaller|Rhythmedia Tribe}}]] / <br>[[学校法人産業能率大学|{{smaller|SANNO}} 産能大]]||[[リゲイン|Regain]] / <br>[[三共 (製薬会社)|SANKYO]]||[[エイベックス|avex group]] /<br/> A<br/>{{smaller|APTHOME}}||rowspan="2"|[[三共 (製薬会社)|SANKYO]] |- |2005||rowspan="2"|[[学校法人産業能率大学|{{smaller|SANNO}} 産能大]]||[[三共 (製薬会社)|SANKYO]]||rowspan="3"|A<br/>{{smaller|APTHOME}}||rowspan="2"|[http://piko-hawaii.jp/ PIKO] |- |2006||- / <br/>[[テクノプロ・ホールディングス|グッドウィル]]||rowspan="4"|[[第一三共|Daiichi-Sankyo]] |- |2007||rowspan="3"|[[学校法人産業能率大学|SANNO<br/>{{smaller|産業能率大学}}]]||[[テクノプロ・ホールディングス|グッドウィル]]||rowspan="5"|[[カレッジリーグ|A-LINE]] |- |2008||-||A<br/>{{smaller|APTHOME}} / <br/>- |- |2009||- / <br/>[[GMOクリック証券|クリック証券]]||- |- |2010||[[ラ・パルレ|La<br/>PARLER]] / <br/>[http://www.inetrely.co.jp I Net Rely<br/>{{smaller|CORPORATION}}]||rowspan="14"|[[学校法人産業能率大学|産業能率大学]]||[[NOVAホールディングス|{{smaller|ジーコム}}<br/>NOVA]]||[[シノケン]] |- |2011||-||-||- |- |2012||- / <br/>[[日本端子|日本端子<br/>{{smaller|Nippon Tanshi Co., Ltd.}}]]||rowspan="3"|[[チェッカーモータース|CHECKER<br/>{{smaller|MOTORS<br/>WILLPLUS}}]]|| - / <br/>[http://www.trust-tech.jp/ TRUST TECH]||rowspan="12"|[[ペナルティ (スポーツ用品)|PENALTY]] |- |2013||- / <br/>[http://www.triterasu.co.jp/ TRI TERASU]|| - / <br/>[http://www.start-c.jp/ START] |- |2014||[http://www.triterasu.co.jp/ TRI TERASU]||rowspan="5"|[[横浜ゴム|YOKOHAMA]] |- |2015||[[エナリス|ENERES]]||rowspan="2"|[http://www.triterasu.co.jp/ TRI TERASU] |- |2016||[[三栄建築設計]]||rowspan="2"|[[日本端子]] |- |2017||rowspan="5"|[[三栄建築設計|MELDIA<br/>{{smaller|三栄建築設計}}]]||rowspan="7"|[[フジタ|FUjiTA]] |- |2018||[http://shinkowapharma.com/ 新興和製薬]||- / <br/>[[RIZAPグループ|RIZAP]]||rowspan="4"|[[日本端子|NT<br/>日本端子]] |- |2019||- / <br/>[[アンリツ|Λnritsu]]||rowspan="5"|[[RIZAPグループ|RIZAP]]||- |- |2020||-||- / <br/>[https://www.hnk-exp.co.jp/ HNK 東日本急行]||rowspan="2"|- |- |2021||- / <br/>[[日本端子|NT<br/>日本端子]]||- / <br/>[https://www.mackenzie.co.jp/ Mackenzie House] |- |2022||[[三栄建築設計|MELDIA]]||rowspan="2"|[[日本端子]]||rowspan="2"|[https://www.mackenzie.co.jp/ Mackenzie<br/>House]||- / <br/>[[リップルコミュニティ|RiPTy]]||- / <br/>[[イノアックコーポレーション|INOAC]] |- |2023||[[リップルコミュニティ|RiPTy]]|| colspan="2" |- |} === 特殊ユニフォーム === *アジアカップ戦用ユニフォーム :アジアでのカップ戦では、胸がHOYAの物、リーグ戦と同様にDDIの物などいくつか種類がある。基本はベーシック製のカップ戦ユニフォームと同じデザイン(ただし袖にスポンサーはなく、背も個人名が入っている)。また1995年の中国遠征時及びプレシーズンマッチとして行われた湘南ローズカップ用として、胸スポンサーがFujitaになっている物も存在する。アジアスーパーカップでは、胸にDDI、袖に日の丸がついたユニフォームを着用した。 * レジェンド・オブ・ベルマーレ :2003年、ベルマーレの誕生10周年を境に、100試合以上(9,000分以上)出場し、クラブの発展に貢献した選手を「レジェンド・オブ・ベルマーレ」と称し表彰。受賞者には在籍当時に付けていた背番号と名前をゴールドでプリントした、表彰したシーズンのホームモデルユニフォームが贈られる。 :しかし、正式な受賞者は2003年の[[ジウベルト・カルロス・ナシメント|ベッチーニョ]]のみ。同じく2003年に[[呂比須ワグナー]]が規定出場時間には届かないが、[[1998 FIFAワールドカップ]]の出場に貢献したなどの特例を受けて受賞した。 * ジュニアユース全国大会用ユニフォーム :2006年よりジュニアユースチームが公式戦の決勝トーナメントなど、特別な試合でのみ着用するユニフォームが存在する。ベルマーレOBの[[中田英寿]]が2004年にベルマーレから依頼された物で、デザインを中田が監修、ウェア自体も彼がチームにプレゼントしている。 :これは、ジュニアユースの子供達に物を大切にして欲しい、そうした気持ちも育てていかなければならないと感じたジュニアユースコーチ達が、大学ラグビーの正選手のみに渡されるユニフォームにヒントを得て、「憧れの選手のデザインした物ならば、愛着が生まれ、大切に使うのでは」と思い立ち、中田にオファーした物。 * 七夕記念ユニフォーム :2007年:[[湘南ひらつか七夕まつり]]の盛り上げとホームタウンの結びつきを強める狙いで<ref>{{Cite web|和書|url=http://plaza.rakuten.co.jp/jfasmc/diary/200706120000/|title=湘南から|work=湘南から・サッカー・今年の七夕|date=2007-6-12|accessdate=2013-1-16}}</ref>[[7月7日]]の試合においてのみ使用された。1試合のみ着用されるユニフォームはジュビロ磐田の10周年記念ユニフォームに続き2例目で、登録上は両方ともサードシャツ扱いとなっている。 :2009年:エーラインが七夕マンスリーと題して企画<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/5054|title=「七夕マンスリー」第2戦の福岡戦はA-LINEスペシャルデー|work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2013-1-16}}</ref>。一般販売用は追加販売や、その後に受注生産もかかるなど好調な売上を記録した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/5280|title=七夕記念公式オーセンティックユニフォーム完売と受注生産による販売のお知らせ|work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2013-1-16}}</ref>。 :2011年:東日本大震災の復興を祈願した「復興祈願七夕 2011オーセンティックユニフォーム」として企画した。 :2020年:地域の活気を取り戻すこと及び医療現場の最前線で戦っている人々に感謝を表す「MAKE IT BLUE」キャンペーンの日本実行委員会の活動に賛同し、「2020七夕・MAKE IT BLUE記念ユニフォーム」として企画した。 :2021年:新しいライフスタイルの在り方を考えるきっかけにしてもらいたいとの思いから、「2021七夕・One Health記念ユニフォーム」として企画した。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller; border:3px solid #005CA2; box-shadow: 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="text-align:center; background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||月日||時期||対戦相手||スコア||ユニフォームの特徴 |- |2007||7月7日||J2第26節||[[アビスパ福岡|福岡]]||0-2●||ベルマーレのチームカラーと笹の色であるライトグリーンと、夜空の黒を配色。<br>デザインは2007年ホームモデルと同様だが、ホームモデルとはライトグリーン配色が反転。 |- |2008||7月5日||J2第24節||[[水戸ホーリーホック|水戸]]||0-1●||夜空の黒を配色、ホームモデルとライトグリーンが反転。<br>笹のライトグリーンを前面に押し出すモデル。 |- |rowspan="2"|2009||7月9日||J2第26節||[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]||2-1○||rowspan="2"|フィールドプレーヤー用は夜空をイメージした黒をメインにステッチに星を表す金色を配色。<br>ゴールキーパー用は七夕の笹を表したライトグリーンをメインにステッチに星を表す金色を配色。 |- |7月19日||J2第28節||[[アビスパ福岡|福岡]]||2-3● |- |rowspan="3"|2010||8月1日||J1第16節||[[清水エスパルス|清水]]||3-6●||rowspan="3"|[[1994年のJリーグ]]昇格当時のデザインを復刻。フィールドプレーヤー用のメインカラーは黒。ライトグリーンが<br/>首と袖周りに配色。ゴールキーパー用はライトグリーンを使用。フィールドプレーヤー用と配色が対となる。 |- |8月18日||J1第19節||[[京都サンガF.C.|京都]]||2-2△ |- |8月21日||J1第20節||[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]||1-4● |- |rowspan="3"|2011||7月2日||J2第19節||[[東京ヴェルディ1969|東京V]]||1-3●||rowspan="3"|フィールドプレーヤー用は夜空と力強さをイメージした黒。<br/>ゴールキーパー用は天の川をイメージしたサックスブルー。<br/>両ユニフォーム共に前後両面にゴールドの十字ラインを配している。 |- |7月17日||J2第21節||[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]||2-0○ |- |7月31日||J2第23節||[[ロアッソ熊本|熊本]]||1-0○ |- |rowspan="3"|2012||7月1日||J2第22節||[[松本山雅FC|松本]]||1-1△||rowspan="3"|ユニフォーム全面に星がグラデーションで入り、さらに肩口、パンツサイドのPENALTYマークにも星マークがドット。<br/>フィールドプレーヤー用は夜空をイメージした黒。ゴールキーパー用は七夕の笹を表したライトグリーン。 |- |7月22日||J2第25節||[[モンテディオ山形|山形]]||0-0△ |- |7月29日||J2第26節||[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]||1-0○ |- |rowspan="3"|2013||7月6日||J1第14節||[[ベガルタ仙台|仙台]]||0-0△ ||rowspan="3"|デザインコンセプトは、ユニフォーム全面に表現された「天の川」。<br/>今までにない大胆なデザインで、クラブ20周年記念の七夕記念ユニフォーム。<br/>フィールドプレーヤー用は青がベース。ゴールキーパー用はピンクがベース。<br/>両ユニフォーム共に左袖部分がグリーンとなっている。 |- |7月10日||J1第15節||[[柏レイソル|柏]]||1-2● |- |7月17日||J1第17節||[[アルビレックス新潟|新潟]]||0-2● |- |rowspan="3"|2014||7月5日||J2第21節||[[ザスパクサツ群馬|群馬]]||0-1○||rowspan="3"|フィールドプレイヤー用には夜空を彩る星(勝ち星)をイメージしたフラッシュイエローを大胆にシャツ、パンツ、ソックスに採用。<br/>七夕飾りの吹流しをグリーンで表現。<br/>ゴールキーパーは天の川をイメージしたパープルを濃淡グラデーションで表現。 |- |7月20日||J2第22節||[[ロアッソ熊本|熊本]]||2-1○ |- |7月26日||J2第23節||[[カターレ富山|富山]]||2-0○ |- |rowspan="3"|2015||7月11日||J1 2nd第1節||[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]||2-1○||rowspan="3"|フィールドプレイヤー用は「グリーンギャラクシー」をコンセプトに、<br/>ディープネイビーの宇宙空間で光輝くグリーンの星雲をボディ上部にデザイン。<br/>シャツ全体に配置したグラデーションピンストライプは勝利へと進む、「緑の流星」を表現。<br/>ゴールキーパー用のベースカラーはクールグレーをベースに、<br/>シアンブルーからネイビーのグラデーションで夏らしいカラーリングに仕上げた。 |- |7月19日||J1 2nd第3節||[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]||0-2● |- |7月29日||J1 2nd第5節||[[柏レイソル|柏]]||3-0○ |- |rowspan="3"|2016||7月2日||J1 2nd第1節||[[横浜F・マリノス|横浜FM]]||0-3●||rowspan="3"|フィールドプレイヤー用は漆黒の夜空で緑に輝く沢山の星座をボディ全体にデザイン。<br/>クラブエンブレムの近くには七夕伝説の主役である「琴座のベガ=織姫星」と<br/>「わし座のアルタイル=彦星」をフラッシュイエローでプリント。<br/>GK用はフラッシュグリーンにブラックを掛け合わせた、七夕らしいカラーリング。<br/>星図は200年前の古星図を基にデザイン。 |- |7月13日||J1 2nd第3節||[[サガン鳥栖|鳥栖]]||0-2● |- |7月30日||J1 2nd第6節||[[川崎フロンターレ|川崎]]||2-3● |- |rowspan="3"|2017||7月1日||J2第21節||[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]||2-1○||rowspan="3"|「幻惑」を意味する「ダズルパターン」を使用。<br/>複雑な幾何学模様の中に七夕にちなんだスターパターンを組み込んだ。<br/>フィールドプレーヤーは「湘南ブルー」、ゴールキーパーは昨年に引き続き「ベルマーレグリーン」でカラーリング。 |- |7月16日||J2第23節||[[東京ヴェルディ1969|東京V]]||2-0○ |- |7月29日||J2第25節||[[徳島ヴォルティス|徳島]]||2-0○ |- |2018||7月18日||J1第16節||[[サガン鳥栖|鳥栖]]||1-1△||デザインコンセプトは「Victory Star/勝利の星」。<br/>天空に向かって上昇する星をスターグラデーションで表現、星が作り出すV字ラインは、Victory(勝利)のVをイメージ。<br/>袖ラインもスターグラデーションでデザイン。<br/>カラーリングはフィールドプレーヤーはネイビーにベルマーレグリーンの星、ゴールキーパーはフラッシュマゼンタにピンクの星を採用。 |- |rowspan="2"|2019||6月30日||J1第17節||[[セレッソ大阪|C大阪]]||0-2●||rowspan="2"|フィールドプレイヤー用のベースカラーにはサポーターからも人気が高いネイビーを採用し、<br/>七夕にちなんだスタージオメトリーパターン(幾何学模様)を同系色で表現。<br/>ゴールキーパー用は前年に続きピンクを採用した。<br/>また最大の特徴として、全てのユニフォームパートナーの理解のもと、<br/>ブランディングの一環としてヨーロッパのトップリーグなど多くのクラブチームが採用している。<br/>「スポンサーロゴ、背番号・ネーム表記、ホームタウン表記」などをクラブカラーのライトグリーン1色で統一表現した、<br/>スタイリッシュなデザインを実現。<br/>そして背番号、ネームには昇華プリントを採用し、湿度の高い日本の夏に適応して軽量化を図った。 |- |7月14日||J1第19節||[[ヴィッセル神戸|神戸]]||3-1○ |- |rowspan="4"|2020||7月4日||J1第2節||[[ベガルタ仙台|仙台]]||0-1●||rowspan="4"|2020年の[[湘南ひらつか七夕まつり]]は新型コロナウイルスの影響により開催中止となったが、<br/>「こんな時こそ地域を明るくしたい」との思いからバンブー柄を使用した。<br/>MAKE IT BLUE JAPAN実行委員会の活動に賛同し、フィールドプレーヤー用は青で、ゴールキーパー用はピンクで全身を統一し、<br/>シャツ前面裾には「MAKE IT BLUE」のロゴマークが付く。 |- |7月12日||J1第4節||[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]||0-0△ |- |7月22日||J1第6節||[[鹿島アントラーズ|鹿島]]||1-0○ |- |12月16日||J1第33節||[[大分トリニータ|大分]]||1-2● |- | rowspan="5" |2021||7月11日||J1第22節||[[FC東京]]||0-1●|| rowspan="5" |[[世界自然保護基金|公益財団法人世界自然保護基金ジャパン]](WWFジャパン)とコラボし、「人と動物、生態系の健康はひとつ」であるという「ワンヘルス」のイメージマークをあしらったデザイン。<br/>クラブ収益の一部をWWFジャパンのワンヘルス推進に取り組む野生生物グループに寄付し、環境保全活動等に役立てることとしている。 |- |8月9日||J1第23節||[[鹿島アントラーズ|鹿島]]||1-2● |- |8月15日 |J1第24節 |[[名古屋グランパスエイト|名古屋]] |0-1● |- |8月21日||J1第25節||[[清水エスパルス|清水]]||1-1△ |- |8月29日||J1第27節||[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]||0-0△ |- | rowspan="6" |2022 |5月3日 |J1第11節 |[[清水エスパルス|清水]] |1-4● | rowspan="6" |2022年に発生した[[ロシア]]による[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナ侵攻]]を受け、人道支援の一環として、[[ウクライナ]]をイメージした黄色と青をカラーに採用。 ウクライナ国花の[[ヒマワリ|ひまわり]]をモチーフにした「ひまわりユニフォーム」を着用し、ユニフォームのクラブ収益を全額ウクライナ支援に寄付することとしている。 |- |7月2日 |J1第19節 |[[名古屋グランパスエイト|名古屋]] |0-0△ |- |7月6日 |J1第20節 |[[ガンバ大阪|G大阪]] |1-0○ |- |7月17日 |J1第22節 |[[アビスパ福岡|福岡]] |0-0△ |- |8月7日 |J1第24節 |[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]] |1-5● |- |8月21日 |J1第26節 |[[鹿島アントラーズ|鹿島]] |1-1△ |- |} * SHONAN10thユニフォーム :「湘南ベルマーレ」へ名称変更して10周年の2009年に作成。 :10年間の感謝と、これから先も共に歩んでいただきたいという願いを込めて天皇杯で着用された。 *スペシャルエキシビションマッチ用ユニフォーム :2012年9月14日、[[J2リーグ|J2]]第33節の草津戦の開始前に行われた「ベルマーレレジェンド(OB選手)vs 芸能人サッカーチーム SWERVES(スワーブス)」のスペシャルエキシビションマッチにてベルマーレレジェンド(OB選手)が着用したユニフォーム。デザインはこの年の通常モデルと同じものであるが、フィールドプレーヤー用が青、ゴールキーパー用はピンクを基調としている。また胸にはこの年のユニフォーム袖スポンサーである[[チェッカーモータース]]のロゴを付けたものとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/62258|title=9月14日(金)スペシャルエキシビションマッチ ベルマーレレジェンドユニフォームスポンサーに株式会社ウイルプラスホールディングス決定のお知らせ |work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2012-9-8}}</ref>。 *ベルマーレ創立20周年記念試合「Re-member」用ユニフォーム :2013年1月27日のベルマーレ創立20周年記念試合「Re-member」においてベルマーレチームが着用する1試合限定のメモリアルユニフォーム。ベルマーレの歴史に色濃く残るデザインのひとつのストライプ柄を現代風にアレンジしアクセントとしてアシメントリーを採用し、躍動感を演出。右袖にはベルマーレ平塚時代のホームタウン表記である「HIRATSUKA」とJリーグ20周年マーク。左袖にはベルマーレ20周年マークが入る<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/71179|title=ベルマーレ創立20周年記念試合「Re-member」着用ユニフォーム発表・限定オーセンティクユニフォーム予約販売開始のお知らせ |work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2012-12-28}}</ref>。 *クラブ創立50周年記念オーセンティックユニフォーム :2018年9月22日のクラブ創立50周年記念試合(J1第27節C大阪戦)にて、ベルマーレチームが着用した1試合限定のメモリアルユニフォーム。フジタ工業クラブサッカー部時代のユニフォームデザインを復刻したもの<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/196051|title=「クラブ創立50周年記念試合」開催および「クラブ創立50周年記念オーセンティックユニフォーム」販売のお知らせ |work=湘南ベルマーレ公式サイト・トピックス|accessdate=2018-7-10}}</ref>。 == 下部組織・育成 == 2002年、[[Jリーグ百年構想]]に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、[[特定非営利活動法人]][[湘南ベルマーレスポーツクラブ]](湘南BSC)を新たに設立した。同時にジュニア、及びジュニアユース部門を湘南BSCへ移管して、株式会社湘南ベルマーレはトップチームおよびユースの運営を行うこととなった。また、湘南BSCはサッカー以外の[[湘南ベルマーレスポーツクラブ|異競技交流]]にも取り組んでいる。なお、湘南BSCに関する詳細は[[湘南ベルマーレスポーツクラブ|当項目]]を参照のこと。 株式会社湘南ベルマーレは、2004年より[[プリメーラ・ディビシオン|スペイン]]の[[CAオサスナ]]と提携している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsgoal.jp/official/00008000/00008235.html|title=湘南ベルマーレ/クラブ・アトレチコ・オサスナ クラブ間提携に関して|work=[[J's Goal]]|date=2004-6-2|accessdate=2014-5-2}}</ref> 他、2013年3月より[[福島ユナイテッドFC]]と「営業・事業」「強化」「アカデミー」に関する提携を締結した([[#Jリーグ他クラブとの提携|後述]])<ref name="福島ユナイテッドとの提携">{{Cite web|和書|url=http://www.bellmare.co.jp/72276|title=湘南ベルマーレ・福島ユナイテッドFC 提携のお知らせ|work=湘南ベルマーレ公式サイト|accessdate=2013-3-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00149591.html|title=【湘南ベルマーレ・福島ユナイテッド提携会見】会見でのコメント|work=[[J's Goal]]|date=2013-1-17|accessdate=2013-3-13}}</ref>。 また、かつてはスポンサーの[[学校法人産業能率大学|産業能率大学]]の繋がりにより「[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]」(現在の[[横浜DeNAベイスターズ]]のファーム(2軍)チーム)と共同割引チケットなどの企画を行ったこともある。 == クラブハウス == かつては親会社であった[[フジタ]]が所有する大神グラウンドを練習場とし、クラブハウスも置いていたが、大神グラウンドを2004年に買収した[[松蔭大学]]が[[松蔭大学湘南キャンパス]]のグラウンドとした。2006年9月までは契約でベルマーレが練習場として使用していたが、2006年10月から[[馬入サッカー場|馬入ふれあい公園サッカー場]]に練習場を移すと共に、事務所やクラブハウスも馬入サッカー場の隣接地へ移転した。 == 日系ベルマーレ == 2006年9月、{{仮リンク|クルブ日系ベルマーレ|label=日系ベルマーレ(Club Nikkei Bellmare)|es|Club Nikkei Bellmare}}を設立。強化プログラムの一環として、外国籍枠のないパラグアイリーグで若手選手の派遣・育成・強化を図る計画であり、同リーグの地域2部(実質4部に相当)に所属。チーム顧問として、南米サッカー連盟会長のニコラス・レオス、株式会社湘南ベルマーレ元社長の眞壁潔が名を連ねる。将来的にはこのクラブで育った選手が湘南ベルマーレへ、そして世界のリーグ・クラブへ選手たちが飛躍していくことを願い、サポートしていきたいと関係者が語っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://nikkeibellmare.jp/about/|title=日系ベルマーレとは|work=NIKKEI BELLMARE 日系ベルマーレサッカー留学プログラム|accessdate=2013-1-16}}</ref>。 クラブの運営主体は現地法人のサクラグループ社と日本のSEA Global社が出資して設立した「社団法人日系ベルマーレ」であり、湘南ベルマーレは出資はしていないため、両クラブの関係は提携・協力という形となる。 海外で選手を育成しようという意図としては同じものではあるが、[[アルビレックス新潟]]が母体となり設立された[[アルビレックス新潟シンガポール]]、<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.albirex.com.sg/index.php?option=com_content&view=article&id=3&Itemid=171&lang=ja|title=クラブ基本情報|work=Albilex Niigata Singapore公式サイト・クラブガイド|accessdate=2013-1-16}}</ref> また、プロ野球[[広島東洋カープ]]が直接運営する[[カープアカデミー]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.carp.co.jp/facilities12/dominica.html|title=【ドミニカ共和国アカデミー|work=広島東洋カープ公式サイト・施設案内・ドミニカ|accessdate=2013-1-16}}</ref> などとは異なった組織となっている == Jリーグ他クラブとの提携 == [[2013年]]、[[福島ユナイテッドFC]]との業務提携を行った。両クラブは、クラブやホームタウンの枠を飛び越えて、互いのスケールメリットを拡大すると共に、さらなるクラブの価値向上と発展を目指すことを念頭に、営業・事業、選手やコーチなどの育成、下部組織の提携などを進めていく<ref name="福島ユナイテッドとの提携"/>。 このことで、湘南に所属する選手でなかなか出場機会を得られない選手を福島に紹介し、[[期限付き移籍]](若手選手育成型含む)などにより実践機会の提供強化を図ること、さらに福島が湘南の練習場(馬入サッカー場)を会場としたシーズン開幕前の練習開催や、2014年1月に平塚で行われた合同ファン感謝イベントで、互いのサポーターが提携関係のクラブのグッズの購入するなどの相乗効果やメリットを生み出すことができる<ref>[[テレビ東京]]「[[FOOT×BRAIN]]」(同系2014年3月8日放送分)</ref> としている。 == 中田英寿との関係 == [[中田英寿]]はベルマーレに1995年から1998年7月まで在籍した。 * 2000年-から2001年までユニフォーム背中部分のスポンサーとなった(ロゴは「nakata.net」)。 * 2002年以降、オフィシャルクラブパートナーとなっている。 * 2006年、中田がデザインしたユニフォームを、ジュニアユースが全国大会などで着用した。詳細は後述の[[#特殊ユニフォーム]]参照。 * 2008年、中田が主催するTAKE ACTION! 2008 『+1 FOOTBALL MATCH』に向けての身体作りの為、湘南の練習に参加<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.youtube.com/watch?v=KnA2tyEOqPQ|title=中田英寿氏 湘南ベルマーレで練習参加① .|work=YouTube|accessdate=2013-1-20}}</ref>。 * 2010年2月、『湘南ベルマーレJ1昇格記念試合』として、湘南OBチームの「We're back F.C.」と「TAKE ACTION F.C.」とが対戦。中田にとっては海外移籍以来となる平塚競技場での試合となり、前半は「TAKE ACTION F.C.」、後半は「We're back F.C.」のメンバーとして出場した。 * 2013年1月、ベルマーレ創立20周年記念試合「Re-member」にベルマーレOBとして出場。 == ベルマーレクイーン == 2010年シーズン開幕前に、[[ラ・パルレ]]の協賛で4人のベルマーレクイーン、1人のベルマーレマーメイドが選出された。5人はホームゲーム・ホームタウン内のイベントに登場しチームのマスコットとして活動。個人的にアウェーに出向くメンバーもいた。2010年10月にラ・パルレが[[倒産]]したが、2011年以降もメンバーを入れ替えて活動を続け、[[週刊サッカーマガジン]][[2011年]][[6月]]発売のインタビュー企画にも登場した。インターネット投票などを通じて2012年は4人(うち2人は2年ぶりの選出)、2013年も4人、2014年は5人が選出された。2016年はメンバーの一般募集は実施せずに[[オスカープロモーション]]から選出された。 === ベルマーレクイーン(2010年) === * [[井上ゆりな]] - グランプリ獲得者 * [[石井寛子 (タレント)|石井寛子]] * [[林弓束]] * [[大熊未沙]] === ベルマーレマーメイド(2010年) === * [[伊藤聖夏]] === ベルマーレクイーン2011 === {{表2列| * [[日野里奈]] * [[土方くるみ]] * [[住田奈央]] | * [[清水瞳]] * [[坂本麻衣]] * [[坂田愛美]] }} === ベルマーレクイーン2012 === * [[井上ゆりな]] - 2010年も選出 * [[大熊未沙]] - 2010年も選出 * [[美瑛 (モデル)|美瑛]] * [[小原美緒]] === ベルマーレクイーン2013 === * [[相澤香純]] * [[桂木美咲]] * [[久保有紀]] * [[美月サヤ]] === ベルマーレクイーン2014 === * [[小嶋栞]] * [[坂梨亜里咲]] * [[橘杏]] * [[米山真理]] * [[渡邉裕希]] === ベルマーレクイーン2015 === * [[片岡沙織]] * [[片岡夏実]] * [[谷口桃子]] * [[村田奈央]] * [[小嶋栞]] === ベルマーレクイーン2016 === * [[千田絵民]] * [[大槻瞳]] * [[菊田彩乃]] * [[荒町紗耶香]] * [[沖本光希]] === ベルマーレクイーン2017 === * 小川千尋 -2014年度[[ファイターズガール]] * [[竹田朱里]] * [[米倉れいな]] * [[林杏南]] * [[天野春香]] === ベルマーレクイーン2018 === * [[三浦結加]] * [[大内美久菜]] * 林杏南 -2017年に引き続き選出 * [[水波咲]] * [[大矢琴水]] === ベルマーレクイーン2019 === * [[別所愛珠香]] * [[山間あゆ]] * [[大下栞奈]] === ベルマーレクイーン2020 === * [[桑原海夕]] * [[中野優希]] * [[星夏穂]] === ベルマーレクイーン2021 === * [[川添りな]] -9月に体調不良で辞退 * 中野優希 -2020年に引き続き選出 * [[門上華子]] * [[豊田ゆき]] -9月に体調不良の川添りなに代わり選出 === ベルマーレクイーン2022 === * 豊田ゆき -2021年に引き続き選出 * [[山下明日花]] * [[星名美雨]] === ベルマーレクィーン2023 === * [[小竹めい]] -アイドルユニットit's sunny所属 * [[きょろ]] * [[横山いおり]] === ベルマーレ応援ユニット2023=== * [[川口飛雄我]] * [[蒼葉ちえ]] * [[市川珠葵]] - [[ミス・ジャパン (株式会社HDR)|ミスジャパン2022]][[静岡県|静岡]]代表 == スタジアム移転構想 == 湘南ベルマーレは、本拠地を平塚市に移転してから今日まで[[平塚競技場]](レモンガススタジアム平塚)を本拠地としているが、現状の収容人員はJ1基準の15,000人をわずかに上回る程度しかない。そこで、大手建設コンサルタント会社から、ホームタウンである平塚、藤沢、茅ケ崎市などから複数の箇所を候補地として、2万人以上収容できるスタジアムの建設構想を検討していたことが、2016年9月の一部報道で明らかになった<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/1717014.html 湘南2万人新スタジアム 平塚、藤沢など候補に検討](2016年9月29日 日刊スポーツ)</ref>。 そして2017年1月、「湘南スタジアム研究会」と称する、地元商工会議所や経済関係者らからなる組織が結成され、同12月までをめどに移転候補先をベルマーレに提案する方針を確認した。これまでも、平塚競技場の[[Jリーグクラブライセンス制度]]に適合した屋根付きスタジアムへの改修や増築などについてベルマーレ側は平塚市に訴えてきたが、平塚市はこの計画に消極的な姿勢が続いている。そこで、新たなスタジアムの建設の可能性を探るように研究会に要請しているという<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201701/CK2017012102000152.html ベルマーレ本拠地移転 検討 12月までに候補地答申](2017年1月21日 東京新聞)</ref>。 同4月の第2回研究会会合で、平塚競技場以外の平塚、茅ケ崎、藤沢、小田原の4市から、民有地3か所、公有地7か所の都合10か所の候補が挙げられた。今後はスタジアムをサッカー・ラグビーだけでなく、コンサートなど多目的用途に利用できるように音楽関係者からの意見を求めるとしている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201704/CK2017042002000166.html ベルマーレ本拠地移転 平塚など4市10カ所候補](2017年4月20日 東京新聞)</ref>。 一方、平塚市は平塚競技場に引き続きとどまってもらうように要請している。平塚市は2000年のJ2降格以後、スタジアムの年間使用料推定約5000万円のうち、3000万円を減免している。この減免処置は現状ベルマーレのみであるため、「多大な支援をしてきたのに、突然(平塚競技場から)出ていくのは勝手すぎる」との声が市役所からも出ている。また平塚市長の[[落合克宏]]も「平塚競技場に残ってもらいたいメッセージの一つ」として、スタンド増築や2017年末に予定される照明塔のLED化などについて話している<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201705/CK2017053002000176.html?ref=rank ベルマーレ、ホーム移転の動き加速 平塚「残留」へ熱意届くか](2017年5月30日 東京新聞)</ref>。 [[2023年]][[5月]]、今回の新スタジアム建設構想の事業主体であるベルマーレが出資した関連会社・「湘南メディアスタジアム」は、平塚市に対して、平塚競技場に隣接する民間の私有地・約6万㎡を平塚市が取得して平塚市総合公園の敷地の一部に参入したうえでスタジアムを新設する計画案を発表した。当初は[[2022年]][[10月]]に既存公園施設内に新設する案を予定していたが、建蔽率が公園法に基づく上限を超えることから、場所の再考を求められていたもので、民間の私有地を平塚市が購入して公園の面積に加えることによって建蔽率をクリアできるとした<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/kanagawa/news/20230525-OYTNT50161/ ベルマーレ 新スタジアム候補2か所」](2023年5月27日 読売新聞)</ref>。 計画では2万人収容規模で、サッカー・ラグビーなどの球技場の他、コンサートなどの多目的に使用できる最新型とし、賑わいや経済効果、災害時の防災拠点としての活用を目指す。しかし平塚市が総合公園の建設を望まない場合、平塚市の民有地を代替地とする第2案も出している。建設費用は142億円程度(設計なども含む)で、その半分は企業版[[ふるさと納税]]や市民からの[[クラウドファンディング]]で賄い、完成後平塚市に寄付後、湘南メディアスタジアムが[[指定管理者]]として管理・運営するとしている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR5T7SY2R5TULOB003.html ベルマーレが新スタジアム計画 平塚市総合公園内で建設費142億円 足立朋子2023年5月26日 10時45分](朝日新聞)</ref>。これについて、2023年5月31日に会見を行った落合は「何度も設置が困難と伝えてきた総合公園に作る案は受け入れられない」とし、そのうえで「建設費の半額負担も市の規模や財政上の問題から困難。無理な提案を一方的に突き付けられて残念だ」とする見解を示した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR5Z6WFLR5ZULOB00H.html ベルマーレの新スタジアム計画「無理な提案で残念」 平塚市長が苦言 足立朋子2023年5月31日 11時26分](朝日新聞)</ref>。 この平塚総合公園の敷地内の民有地について、Qolyの取材では、[[平塚球場]](バッティングパレス相石スタジアムひらつか)の東側にあった、[[第一三共ケミカルファーマ]]工場跡地が推測される<ref>(参考資料)[https://www.daiichisankyo.co.jp/media/press_release/detail/index_5870.html 第一三共ケミカルファーマ株式会社平塚工場の閉鎖に関するお知らせ]</ref>と報じているが、製薬工場の跡地であり、土壌汚染の可能性があることから、その調査や土地を購入するための費用負担も大きいため、すぐに簡単に建設へと至る話ではなさそうと指摘している<ref>[https://qoly.jp/2023/06/25/3dzhuk73-oks-1?part=2 反発を招いた湘南ベルマーレの新スタジアム構想…ポイントとなりそうな「平塚市の民有地」はどこ?](Qoly)</ref>。 == 決算 == 湘南ベルマーレの決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" style="border:3px solid #005CA2; box-shadow: 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="text-align:center; background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収入|営業収入}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||事業費||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|管理費|一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |733 ||336 ||133 ||111 ||153 ||style="background-color:wheat" |731 ||541 ||352 ||190 ||style="background-color:wheat" |2 ||style="background-color:wheat" |0 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |709 ||352 ||128 ||114 ||115 ||style="background-color:wheat" |855 ||651 ||425 ||204 ||style="background-color:wheat" |-146 ||style="background-color:wheat" |-144 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |970 ||370 ||141 ||118 ||341 ||style="background-color:wheat" |970 ||763 ||504 ||207 ||style="background-color:wheat" |0 ||style="background-color:wheat" |1 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |930 ||341 ||142 ||111 ||336 ||style="background-color:wheat" |1,062 ||789 ||542 ||273 ||style="background-color:wheat" |-132 ||style="background-color:wheat" |-132 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |1,066 ||372 ||191 ||105 ||398 ||style="background-color:wheat" |1,178 ||912 ||618 ||266 ||style="background-color:wheat" |-112 ||style="background-color:wheat" |-115 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |1,288 ||430 ||360 ||209 ||289 ||style="background-color:wheat" |1,342 ||1,041 ||646 ||301 ||style="background-color:wheat" |-54 ||style="background-color:wheat" |-53 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 * 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] </div> {| class="wikitable" style="border:3px solid #005CA2; box-shadow: 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="text-align:center; background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |670 ||227 ||168 ||91 ||0 ||184 ||style="background-color:wheat" |991 ||511 ||62 ||70 ||0 ||0 ||348 ||style="background-color:wheat" |-321 ||style="background-color:wheat" |-130 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |869 ||330 ||203 ||89 ||0 ||247 ||style="background-color:wheat" |873 ||366 ||67 ||75 ||0 ||0 ||365 ||style="background-color:wheat" |-4 ||style="background-color:wheat" |4 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |1,191 ||387 ||263 ||191 ||0 ||350 ||style="background-color:wheat" |1,211 ||530 ||82 ||98 ||0 ||0 ||501 ||style="background-color:wheat" |-20 ||style="background-color:wheat" |-11 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |1,121 ||453 ||225 ||93 ||0 ||350 ||style="background-color:wheat" |1,126 ||452 ||76 ||87 ||0 ||0 ||511 ||style="background-color:wheat" |-5 ||style="background-color:wheat" |2 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |1,561 ||573 ||335 ||193 ||0 ||460 ||style="background-color:wheat" |1,517 ||699 ||90 ||102 ||0 ||0 ||626 ||style="background-color:wheat" |44 ||style="background-color:wheat" |5 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] </div> {| class="wikitable" style="border:3px solid #005CA2; box-shadow: 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="text-align:center; background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||物販||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||物販||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |1,627 ||681 ||331 ||185 ||0 ||199 ||231 ||style="background-color:wheat" |1,628 ||798 ||104 ||113 ||0 ||0 ||129 ||484 ||style="background-color:wheat" |-1 ||style="background-color:wheat" |3 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=733, 709, 970, 930, 1066, 1288, 670, 869, 1191, 1121, 1561, 1627 |y2=731, 855, 970, 1062, 1178, 1342, 991, 873, 1211, 1126, 1517, 1628 |y3=352, 425, 504, 542, 618, 646, 511, 366, 530, 452, 699, 798 |yAxisMin=0 }} === 資産 === {| class="wikitable" style="border:3px solid #005CA2; box-shadow: 4px 4px 4px #6EB92B;" |- style="text-align:center; background-color:#6EB92B; color:#FFFFFF; font-weight:bold;" |年度||総資産||総負債||純資産||資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||206 ||125 ||81 ||369 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||233 ||165 ||67 ||434 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||288 ||220 ||68 ||434 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||392 ||375 ||16 ||474 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||521 ||520 ||1 ||524 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||354 ||307 ||47 ||574 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||237 ||320 ||-83 ||574 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||302 ||270 ||32 ||630 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||338 ||318 ||20 ||630 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||321 ||299 ||22 ||630 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||427 ||344 ||83 ||658 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||411 ||325 ||86 ||658 |} <div style="font-size:small"> * 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=206, 233, 288, 392, 521, 354, 237, 302, 338, 321, 427, 411 |y2=81, 67, 68, 16, 1, 47, -83, 32, 20, 22, 83, 86 |showSymbols=yes }} == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[湘南ベルマーレの選手一覧]] * [[神奈川ダービー]] * [[湘南ベルマーレフットサルクラブ]] * [[河野太郎]] == 外部リンク == * {{Official website|mobile=http://shonan-bellmare.sportsinfo.jp}} * {{Facebook|teambellmare|湘南ベルマーレ 【公式】}} * {{Twitter|bellmare_staff|湘南ベルマーレ}} * {{Twitter|kingbell_shonan|キングベルⅠ世}} * {{YouTube|u=ShonanBellmareFC|湘南ベルマーレ}} * {{Official website|bellmare.or.jp|特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ}} * {{LINE公式アカウント|shonanbellmare}} {{Navboxes|title =湘南ベルマーレ 関連テンプレート|titlestyle=background-color:#6EB92B; color:#FFF; border:3px solid #005CA2; line-height:110%; |list1= {{湘南ベルマーレのメンバー}} {{湘南ベルマーレ及びその前身チーム歴代監督}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Navboxes|title=獲得タイトル |list1= {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} {{J2優勝チーム}} }} {{神奈川県のサッカーチーム}} {{デフォルトソート:しようなんへるまあれ}} [[Category:湘南ベルマーレ|*]] [[Category:1968年設立のスポーツチーム]] [[Category:1999年設立の企業]] [[Category:RIZAPグループ]] [[Category:Jリーグクラブ]] [[Category:過去のJリーグ百年構想クラブ]]
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4,700
3月22日
3月22日(さんがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から81日目(閏年では82日目)にあたり、年末まであと284日ある。
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3月22日(さんがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から81日目(閏年では82日目)にあたり、年末まであと284日ある。
{{カレンダー 3月}} '''3月22日'''(さんがつにじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から81日目([[閏年]]では82日目)にあたり、年末まであと284日ある。 == できごと == [[Image:Battle of Yashima Artwork.jpg|thumb|180x180px|[[屋島の戦い]](1185)。画像は『平家物語絵巻』より「扇の的」]] [[Image:O%21_the_fatal_Stamp.jpg|thumb|231x231px|[[1765年印紙法|印紙法]]が英国議会を通過(1765)。画像はこれに反発した米国の新聞。]] [[Image:BoJ.jpg|thumb|180x180px|[[日本銀行]]本店落成(1896)。設計は[[辰野金吾]]]] [[Image:%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E7%95%AA%E7%B5%84%E8%A1%A8_%281925%E5%B9%B4%29.jpg|thumb|180x180px|社団法人東京放送局、[[ラジオ]]試験放送を開始(1925)。画像は1925年の番組表]] [[Image:Comet_c1995o1.jpg|thumb|128x128px|[[ヘール・ボップ彗星]]、地球に最接近(1997)]] * [[238年]] - [[ゴルディアヌス1世]]と彼の息子[[ゴルディアヌス2世]]が共同皇帝として[[ローマ帝国|ローマ]]皇帝への即位を宣言。 * [[650年]]([[大化]]6年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - 日本の[[元号]]が大化から[[白雉]]に改元。 * [[1185年]]([[元暦]]2年/[[寿永]]4年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[治承・寿永の乱]]: [[屋島の戦い]]がおこなわれ源氏方が勝利。 * [[1765年]] - [[13植民地]]を対象とする[[1765年印紙法|印紙法]]が[[イギリス]]議会を通過。 * [[1804年]]([[享和]]4年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - 日本の元号が享和から[[文化 (元号)|文化]]に改元。 * [[1809年]] - [[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]が[[スウェーデン]]王に即位。 * [[1833年]] - [[ドイツ]]諸邦国が[[ドイツ関税同盟]]締結、施行は翌年元日より。 * [[1888年]] - [[イングランド]]の[[フットボールリーグ]]が発足。 * [[1896年]] - [[日本銀行]]本店が落成。 * [[1897年]] - 初の日本人の経営・編集による日刊[[専門紙#英字新聞|英字新聞]]『[[ジャパンタイムス]]』が創刊<ref>{{Cite web|和書|url=https://info.japantimes.co.jp/archives/index_ja.html |title=The Japan Times Archives |access-date=15 Aug 2023 |publisher=THE JAPAN TIMES LTD.}}</ref>。 * [[1898年]] - 『[[時事新報]]』が[[社説]]「[[支那人親しむ可し]]」を掲載。 * [[1907年]] - [[南アフリカ]]のインド移民を制限する法律に反対して弁護士[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]が[[市民的不服従|不服従運動]]を開始。 * [[1908年]] - [[東京]][[大久保 (新宿区)|大久保]]で[[出歯亀]]事件がおこる。 * [[1916年]] - [[袁世凱]]が[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]皇帝を退位。 * [[1919年]] - [[シベリア出兵]]: [[イワノフカ事件]]おこる。 * [[1925年]] - 社団法人東京放送局(現:[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|放送センター]])が[[ラジオ]]試験放送を開始。 * [[1927年]] - [[昭和金融恐慌]]の最中、村井銀行、[[左右田銀行]]、八十四銀行、中沢銀行が2週間の休業を宣言<ref>今度は村井銀行が休業『中外商業新報』昭和2年3月22日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p98-99 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1933年]] - [[ナチス・ドイツ]]初の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]である[[ダッハウ強制収容所]]の運用を開始。 * [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ドイツ]]の要求により[[リトアニア]]が[[メーメル]]を割譲。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦: [[第2次シルテ湾海戦]]。 * [[1945年]] - [[アラブ連盟]]創設。 * [[1957年]] - 男声コーラスグループ・[[ダークダックス]]がデビュー。 * [[1962年]] - [[尹潽善]]が[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]を辞任。 * [[1963年]] - [[ビートルズ]]初の[[アルバム]]『[[プリーズ・プリーズ・ミー (アルバム)|プリーズ・プリーズ・ミー]]』が発売。 * [[1964年]] - [[大阪環状線]]で大阪駅〜福島駅間の複線化により全線複線化が完成。環状運転を開始した。 * [[1965年]] - [[ニコラエ・チャウシェスク]]が[[ルーマニア共産党]][[総書記]]に就任。 * [[1970年]] - 第1回全日本女子プロボウリング選手権開催。[[中山律子]]が優勝。 * [[1978年]] - [[日本電信電話公社|電電公社]]が[[光ファイバー]]による[[海底ケーブル]]通信の実験に成功。 * [[1979年]] - [[静岡県]][[下田市]][[神子元島]]沖合で漁船「皆徳丸」が沈没。翌日に2人救助されるも18人が死亡・行方不明<ref>海の18人も絶望『朝日新聞』1979年(昭和54年)3月23日夕刊 3版 15面</ref>。 * [[1985年]] - 第1回[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]調査検討委員会が日本初のエイズ患者を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/63405 |title=3月22日 初の日本人エイズ患者を厚生省が発表(1985年) |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[講談社]] |date=22 Mar 2019 |website=サイエンス365days}}</ref>。 * [[1987年]] - 北海道の[[日本国有鉄道|国鉄]][[士幌線]]がこの日限りで廃止。 * [[1990年]] - 台湾で[[三月学運|野百合学生運動]]が終結。大学生約6千名による民主化要求に対し、[[李登輝]]総統がその要求を受入れ、国是会議を開催することなどを決定した。 * [[1993年]] - [[インテル]]社が最初の[[Intel Pentium (1993年)|ペンティアム]][[プロセッサ]](32[[ビット]]、60[[メガヘルツ|MHz]])の販売開始。 * [[1994年]] - [[榎井村事件]]で、[[高松高等裁判所|高松高裁]]が再審無罪の判決。 * [[1995年]] - 宇宙ステーション「[[ミール]]」に宇宙滞在最長記録である438日間滞在していた[[ロシア]]の宇宙飛行士[[ワレリー・ポリャコフ]]が地球に帰還。 * 1995年 - [[公証人役場事務長逮捕監禁致死事件]]および[[地下鉄サリン事件]]で、警視庁が[[オウム真理教]]に対する強制捜査を実施。 * 1995年 - [[ロッキード事件]]丸紅ルートの裁判で、最高裁が[[田中角榮]]元首相への5億円の[[賄賂罪|贈賄]]を認定し、有罪が確定。 * [[1997年]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[秋田新幹線]]開業。[[盛岡駅]] - [[秋田駅]]間に「[[こまち (列車)|こまち]]」が運行開始。 * 1997年 - [[北越急行]][[北越急行ほくほく線|ほくほく線]][[犀潟駅]] - [[六日町駅]]間が開業。 * 1997年 - [[ヘール・ボップ彗星]]が地球に最接近。 * [[2004年]] - 東日本旅客鉄道(JR東日本)が[[Suica]]ショッピングサービス開始。 * [[2006年]] - [[日野自動車]]、小型[[バス (車両)|バス]]の新型[[日野・ポンチョ]]の製造を開始。 * [[2008年]] - [[2008年中華民国総統選挙]]が行われ、[[中国国民党]]の[[馬英九]]が当選。 * [[2016年]] - [[2016年ブリュッセル爆発]]が発生。 * [[2017年]] - [[2017年ロンドンテロ事件]]が発生。 * [[2021年]] - 第10代[[コソボ首相]]に[[アルビン・クルティ]]が就任<ref>{{Cite web |url=https://www.reuters.com/world/kosovo-parliament-backs-albin-kurti-new-prime-minister-2021-03-22/ |title=Kosovo parliament backs Albin Kurti as new prime minister |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=23 Mar 2021}}</ref>。 * [[2023年]] - [[2023 ワールド・ベースボール・クラシック|第5回ワールド・ベースボール・クラシック]]に於いて[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|野球日本代表]]が3大会14年ぶりの優勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023032200405&g=soc |title=14年ぶり栄冠、列島歓喜 「夢のよう」「感動した」―侍ジャパン優勝でファンら・WBC |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[時事通信社]] |date=22 Mar 2023 |website=JIJI.COM}}</ref>。 == 誕生日 == === 人物 === [[Image:Bernhard_Strigel_007.jpg|thumb|[[ハプスブルク家]]出身の[[神聖ローマ皇帝]]、[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]](1459-1519)誕生|267x267ピクセル]] [[Image:Anthonyvandyckselfportrait.jpeg|thumb|180x180px|[[フランドル]]の画家[[アンソニー・ヴァン・ダイク]](1599-1641)誕生。画像は自画像(1633)]] [[Image:Shozan_Sakuma.jpg|thumb|幕末の兵学者、[[佐久間象山]](1811-1864)|278x278ピクセル]] [[Image:Randolph_Caldecott_illustration2.jpg|thumb|[[イラストレーター]]、[[ランドルフ・コールデコット]](1846-1886)。画像は『ジャックの建てた家』(1887)。[[コールデコット賞]]に名を残す|209x209ピクセル]] [[Image:Robert-millikan2.jpg|thumb|物理学者[[ロバート・ミリカン]](1868-1953)。[[光電効果]]の研究など|237x237ピクセル]] [[Image:%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%99%8B%E5%B9%B3.jpg|thumb|作曲家[[中山晋平]](1887-1952)。『[[シャボン玉 (唱歌)|シャボン玉]]』『[[ゴンドラの唄]]』など3000曲を遺した|235x235ピクセル]] [[Image:Orchard_Road_3%2C_Singapore_Biennale_2006%2C_Oct_06.JPG|thumb|芸術家、[[草間彌生]](1929-)。画像はシンガポールでの[[インスタレーション]](2006)|240x240ピクセル]] [[Image:Burton_Richter_at_Stanford_3-4-09_5.JPG|thumb|物理学者[[バートン・リヒター]](1931-2018)。[[ジェイプサイ中間子]]を発見|180x180ピクセル]] * [[1212年]]([[建暦]]2年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[後堀河天皇]]、第86代[[天皇]](+ [[1234年]]) * [[1394年]] - [[ウルグ・ベク]]、[[ティムール朝]]の第4代[[君主]](+ [[1449年]]) * [[1459年]] - [[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1519年]]) * [[1599年]] - [[アンソニー・ヴァン・ダイク]]、画家(+ [[1641年]]) * [[1609年]] - [[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世]]、[[ポーランド王]](+ [[1672年]]) * [[1785年]] - [[アダム・セジウィック]]、[[地質学者]](+ [[1873年]]) * [[1797年]] - [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]、[[ドイツ皇帝]]、プロイセン王(+ [[1888年]]) * 1797年 - [[エドゥアルト・ガンス]]、[[法学者]](+ [[1839年]]) * [[1799年]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルゲランダー]]、[[天文学者]](+ [[1875年]]) * [[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[佐久間象山]]、兵学者(+ [[1864年]]) * [[1821年]]([[文政]]4年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[花柳壽輔 (初代)]]、[[日本舞踊|日本舞踊家]](+ [[1903年]]) * [[1837年]]([[天保]]8年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[成島柳北]]、[[文学者]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1884年]]) * [[1846年]] - [[ランドルフ・コールデコット]]、[[イラストレーター]]、[[美術家]](+ [[1886年]]) * [[1852年]] - [[オタカール・シェフチーク]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1934年]]) * [[1857年]] - [[神田乃武]]、教育者、英学者、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]][[名誉教授]](+[[1923年]]) * [[1867年]]([[慶応]]3年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[山崎朝雲]]、[[彫刻家]](+ [[1954年]]) * [[1868年]] - [[ロバート・ミリカン]]、[[物理学者]](+ [[1953年]]) * 1868年 - [[アルフレッド・ファウラー]]、天文学者(+ [[1940年]]) * [[1869年]] - [[エミリオ・アギナルド]]、初代[[フィリピンの大統領|フィリピン共和国大統領]](+ [[1964年]]) * [[1875年]] - [[小倉正恒]]、[[実業家]]、[[財政家]](+ [[1961年]]) * [[1875年]] - [[フリードリヒ・フォン・ヒューネ]]、[[古生物学|古生物学者]](+ [[1969年]]) * [[1879年]] - [[ヴィルヘルム・シュレンク]]、[[化学者]](+ [[1943年]]) * [[1880年]] - [[小磯國昭]]、政治家、第41代[[内閣総理大臣]](+ [[1950年]]) * 1880年 - [[藍澤彌八]]、実業家、[[アイザワ証券グループ]]創業者(+[[1969年]]) * [[1883年]] - [[大錦大五郎]]、[[大相撲]]第28代[[横綱]](+ [[1943年]]) * [[1887年]] - [[チコ・マルクス]]、[[コメディアン|喜劇俳優]]、[[マルクス兄弟]]の長男(+ [[1961年]]) * 1887年 - [[中山晋平]]、[[作曲家]](+ [[1952年]]) * 1887年 - [[小村雪岱]]、[[日本画家]](+ [[1940年]]) * [[1889年]] - [[小原英一]]、実業家(+ [[1959年]]) * [[1894年]] - [[山内義雄]]、[[フランス文学者]](+ [[1973年]]) * [[1896年]] - [[賀竜]]、[[軍人]](+ [[1969年]]) * [[1897年]] - [[牛原虚彦]]、[[映画監督]](+ [[1985年]]) * [[1899年]] - [[エリアナ・パヴロワ]]、[[バレリーナ]](+ [[1941年]]) * [[1902年]] - [[楢橋渡]]、[[政治家]](+ [[1973年]]) * [[1904年]] - [[山花秀雄]]、政治家(+ [[1987年]]) * [[1907年]] - [[ジェームズ・ギャビン]]、[[アメリカ陸軍]]の軍人(+ [[1990年]]) * [[1909年]] - [[ネイサン・ローゼン]]、物理学者(+ [[1995年]]) * [[1911年]] - [[安井謙]]、政治家(+ [[1986年]]) * 1911年 - [[瑞穂春海]]、映画監督、脚本家(+[[1995年]]) * [[1912年]] - [[カール・マルデン]]、[[俳優]](+ [[2009年]]) * [[1913年]] - [[ルー・ワッサーマン]]、[[ユニバーサル・スタジオ]]元社長、名誉会長(+ [[2002年]]) * [[1914年]] - [[丸山眞男]]、[[政治学者]]、[[評論家]](+ [[1996年]]) * [[1915年]] - [[濃人渉]]、[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1990年]]) * 1915年 - [[ジョン・マコーネル (平和運動家)|ジョン・マコーネル]]、平和運動家 (+ [[2012年]]) * [[1916年]] - [[辻昶]]、フランス文学者(+ [[2000年]]) * [[1917年]] - [[村上一治]]、元プロ野球選手(+ [[1965年]]) * [[1920年]] - [[猿橋勝子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lab.toho-u.ac.jp/univ/diversity2/center/history/past.html |title=女性科学者の先駆 猿橋勝子氏 |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[東邦大学]]}}</ref>、[[地球科学者]](+ [[2007年]]) * 1920年 - [[小津次郎]]、[[英文学者]](+ [[1988年]]) * 1920年 - [[岸田純之助]]、[[サイエンスライター|科学ジャーナリスト]](+ [[2012年]]) * 1920年 - [[黒田能行]]、元衆議院決算委員会(現決算行政監視委員会)調査室長、元衆議院国家公務員労働組合委員長(+ [[2014年]]) * 1920年 - [[ファニー・ウォーターマン]]、[[ピアニスト]]、[[音楽]][[教育家]] (+ [[2020年]]) * 1920年 - [[ヘルムート・ヴィンシャーマン]]、[[オーボエ]]奏者・[[指揮者]]・[[教育者]](+ [[2021年]]) * [[1923年]] - [[マルセル・マルソー]]、[[パントマイム|パントマイマー]](+ [[2007年]]) * [[1926年]] - [[野口渉]]、プロ野球選手(+ 没年不詳) * [[1928年]] - [[立間祥介]]、[[中国文学者]](+ [[2014年]]) * 1928年 - [[網岡雄]]、政治家(+ [[2011年]]) * 1928年 - [[エリック・ドナルド・ハーシュ]]、[[教育学|教育学者]] * [[1929年]] - [[草間彌生]]、[[彫刻家]]、[[画家]]、[[小説家]] * [[1930年]] - [[スティーヴン・ソンドハイム]]、[[作詞家]]、作曲家(+ [[2021年]]) * [[1931年]] - [[ウィリアム・シャトナー]]、[[俳優]] * 1931年 - [[バートン・リヒター]]、[[物理学者]](+ [[2018年]]) * 1933年 - [[円子宏]]、元プロ野球選手(+ [[1998年]]) * 1933年 - [[ミシェル・イダルゴ]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者(+ [[2020年]]) * 1933年 - [[アボルハサン・バニーサドル]]、政治家、初代[[イランの大統領|イラン大統領]](+ [[2021年]]) * 1933年 - [[香西泰]]、[[経済学者]](+ [[2018年]]) * [[1934年]] - [[大橋巨泉]]、[[放送作家]]、[[タレント]]、[[政治家]](+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1681363.html |title=大橋巨泉さんが死去 12日、急性呼吸不全 82歳 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=20 Jul 2016 |accessdate=15 Aug 2023}}</ref>) * [[1935年]] - [[森田健 (ボクシング審判員)|森田健]]、[[審判員 (ボクシング)|ボクシング審判]] * 1935年 - [[新間寿]]、実業家、元[[新日本プロレス]]営業本部長 * 1935年 - [[公卿敬子]]、[[俳優|女優]]、[[声優]] * [[1937年]] - [[村川透]]、[[映画監督]] * 1937年 - [[アルミン・ハリー]]、[[陸上競技選手]] * [[1940年]] - [[富樫雅彦]]、[[ジャズ]][[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2007年]]) * 1940年 - [[ハイン・S・ニョール]]、俳優、[[医師]](+ [[1996年]]) * [[1941年]] - [[安恵照剛]]、将棋棋士 * 1941年 - [[奥地圭子]]、[[教育関係人物一覧|教育者]] * 1941年 - [[ブルーノ・ガンツ]]、俳優(+ [[2019年]]) * [[1943年]] - [[桂枝助]]、[[落語家]](+ [[2004年]]) * 1943年 - [[ジョージ・ベンソン]]、[[ギタリスト]]、[[歌手]] * 1943年 - [[キース・レルフ]]、ミュージシャン([[ヤードバーズ]])(+ [[1976年]]) * [[1944年]] - [[鈴村和成]]、フランス文学研究者 * 1944年 - [[千葉泰久]]、実業家 * 1944年 - [[大塚博堂]]、[[シンガーソングライター]](+ [[1981年]]) * [[1946年]] - [[ルーディ・ラッカー]]、[[SF作家]] * [[1947年]] - [[三田村賢二]]、俳優 * [[1948年]] - [[山根基世]]、[[アナウンサー]] * 1948年 - [[吉見佑子]]、[[音楽評論家]] * 1948年 - [[アンドリュー・ロイド・ウェッバー]]、[[作曲家]] * [[1949年]] - [[大野俊三 (ジャズトランペッター)|大野俊三]]、ジャズトランペット奏者 * 1949年 - [[山田明郷]]、俳優 * 1949年 - [[逢川亮子]]、[[声優]] * 1949年 - [[ファニー・アルダン]]、[[俳優|女優]] * [[1950年]] - [[堀内正美]]、俳優 * 1950年 - [[高坂真琴]]、声優 * 1950年 - [[山岸伸]]、写真家 * [[1952年]] - [[市橋保彦]]、実業家、[[日野自動車]]会長 * 1952年 - [[稲葉正吉 (政治家)|稲葉正吉]]、政治家 * 1952年 - [[結城哲郎]]、[[フリーアナウンサー]] * [[1953年]] - [[松井道夫]]、実業家、[[松井証券]]社長 * 1953年 - [[児玉龍彦]]、医学者、東京大学名誉教授 * 1953年 - [[笠間雄二]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[真島茂樹]]、振付師、俳優、歌手 * [[1955年]] - [[田村信]]、漫画家 * 1955年 - [[清田精二]]、ラジオパーソナリティ、アナウンサー * 1955年 - [[レナ・オリン]]、女優 * [[1957年]] - [[水樹和佳子]]、[[漫画家]] * 1957年 - [[田村勲]]、元プロ野球選手(+ [[2000年]]) * [[1958年]] - [[上門一裕]]、実業家 * 1958年 - [[古賀潤一郎]]、元政治家 * 1958年 - [[糸数勝彦]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[春海四方]]、俳優 * 1959年 - [[幸田直子]]、女優、声優 * 1959年 - [[矢野明仁]]、タレント * 1959年 - [[山口美央子]]、シンガーソングライター * 1959年 - [[有賀修二]]、技術者、実業家 * 1959年 - [[大島典子]]、元アナウンサー * 1959年 - [[マシュー・モディーン]]、俳優 * [[1960年]] - [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]、小説家、歴史作家 * 1960年 - [[荻原修]]、元プロ野球選手 * [[1961年]] - [[大貫健一]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]] * [[1962年]] - [[北野勇作]]、SF作家 * 1962年 - [[古手川伸子]]、女優 * 1962年 - [[片岡光宏]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[中友子]]、声優、ナレーター * 1963年 - [[リッチ・モンテレオーネ]]、元プロ野球選手 * [[1964年]] - [[金子隆博]]、[[サクソフォーン]]奏者([[米米CLUB]]) * 1964年 - [[若山かずさ]]、[[演歌歌手]] * 1964年 - [[是永英治]]、実業家、著作家 * 1964年 - [[西沢大良]]、建築家 * [[1965年]] - [[京谷和央]]、報道記者、ニュースキャスター * 1965年 - [[近藤はじめ]]、アナウンサー、気象予報士 * 1965年 - [[石川小百合]]、アナウンサー * 1965年 - [[原秀治]]、バレーボール指導者、元バレーボール選手 * [[1966年]] - [[渡辺伸彦]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[中本千晶]]、作家 * 1967年 - [[古井千佳夫]]、元アナウンサー * 1967年 - [[マリオ・チポリーニ]]、[[自転車競技]]選手([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]) * [[1968年]] - [[前川和也]]、サッカー指導者、元サッカー選手 * 1968年 - [[鈴木新]]、ギター奏者 * 1968年 - [[ユーロニモス]]、ミュージシャン(+ [[1993年]]) * [[1969年]] - [[有働由美子]]、アナウンサー * [[1970年]] - [[橋本美加子]]、歌手、アイドル、女優 * 1970年 - [[黄永祚]]、陸上競技選手 * 1970年 - [[レオンティエン・ファンモールセル]]、自転車競技選手 * [[1971年]] - [[キーガン=マイケル・キー]]、[[コメディアン]] * [[1972年]] - [[堀井美香]]、アナウンサー * 1972年 - [[コリー・ライドル]]、プロ野球選手(+ [[2006年]]) * 1972年 - [[エルビス・ストイコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1972年 - [[高橋信夫]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[黒崎えり子]]、[[ネイリスト]] * 1973年 - [[石原洋三郎]]、政治家 * 1973年 - [[橋詰尚子]]、気象予報士 * 1973年 - [[秋葉直樹]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[岩田林平]]、実業家 * 1974年 - [[ジェイソン・フィリップス (投手)|ジェイソン・フィリップス]]、プロ野球選手 * 1974年 - [[マーカス・キャンビー]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1975年]] - 中村豪、[[お笑いタレント]]([[やるせなす]]) * [[1976年]] - [[リース・ウィザースプーン]]、[[俳優|女優]] * 1976年 - [[丹下博喜]]、ミュージカル俳優 * 1976年 - [[土岐麻子]]、歌手 * [[1977年]] - [[左東広之]]、舞台俳優 * [[1979年]] - [[馬場裕之]]、お笑いタレント([[ロバート (お笑いトリオ)|ロバート]]) * 1979年 - [[吉岡毅志]]、俳優 * 1979年 - [[高木りな]]、女優 * 1979年 - [[Sachi (モデル)|Sachi]]、[[ファッションモデル]] * [[1980年]] - [[中村幸也]]、政治活動家、実業家 * 1980年 - [[柳明日香]]、元タレント * [[1981年]] - [[木村はるか]]、声優、舞台女優、劇作家、脚本家 * 1981年 - [[神嶌ありさ]]、女優、タレント * 1981年 - [[趙東和]]、野球指導者、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[萩原舞 (AV女優)|萩原舞]]、[[AV女優]] * 1982年 - [[諸岡奈央]]、[[空手家]] * [[1983年]] - [[森愛子]]、声優 * 1983年 - [[春野友矢]]、漫画家 * [[1984年]] - [[ジョー・スミス (投手)|ジョー・スミス]]、プロ野球選手 * 1984年 - [[ピオトル・トロホウスキ]]、サッカー選手 * 1984年 - [[碧風羽]]、[[イラストレーター]] * 1984年 - 八十島、お笑いタレント([[2700 (お笑いコンビ)|2700]]) * 1984年 - [[岸本鮎佳]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/2000037560/ |title=岸本鮎佳 |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、[[劇作家]]、[[脚本家]]、[[演出家]] * [[1985年]] - [[桃瀬えみる]]、元AV女優、元グラビアアイドル * [[1986年]] - [[小林由佳 (空手家)|小林由佳]]、[[空手家]] * 1986年 - [[張文秀]]、陸上競技選手 * [[1987年]] - [[アイク・デービス]]、元プロ野球選手 * [[1988年]] - [[小原徳子]]、女優 * 1988年 - [[大石参月]]、[[ファッションモデル]] * 1988年 - [[コンスタンチン・ベズマテルニフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1989年]] - [[坂越由実子]]、歌手([[hy4 4yh]]) * 1989年 - [[服部美穂]]、女優 * 1989年 - [[鈴木千絵里]]、元タレント、元グラビアアイドル * 1989年 - [[中村恭平 (野球)|中村恭平]]、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[白井奈津]]、[[ラジオパーソナリティ]] * 1990年 - [[椎名香奈江]]、女優、グラビアアイドル * 1990年 - [[パトリック・ドープラ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[ダニー・ウェブ]]、ロードレース世界選手 * [[1994年]] - [[白又敦]]、タレント、俳優 * 1994年 - [[吉田大輝]]、俳優 * 1994年 - [[エドウィン・ディアス]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[橋本わかな]]、女優 * [[1997年]] - [[鈴木博志]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[名倉ひなの]]、ラグビーユニオン選手 * 1997年 - [[小野寺友香]]、元バレーボール選手 * [[1998年]] - 傍士聖海、アイドル([[iDOL Street]]) * 1998年 - [[川後陽菜]]、モデル、YouTuber、元アイドル(元[[乃木坂46]]) * [[1999年]] - [[湯井飛鳥]]、プロ野球選手 * 1999年 - 藤崎しおり、アイドル、ピアニスト([[BANZAI JAPAN]]、[[NIRA (音楽ユニット)|NIRA]]) * 1999年 - [[ミック・シューマッハ]]、F1ドライバー * [[2000年]] - [[渡辺桃]]、プロレスラー * [[2001年]] - [[高良彩花]]、陸上競技選手 * 2001年 - [[小宮りりか]]、元子役 * [[2004年]] - 永野恵、アイドル(元[[AKB48]]) * [[2013年]] - [[市川新之助 (8代目)]]、歌舞伎役者 * [[2018年]] - [[星街すいせい]]、 VTuber * 生年不明 - [[中野たむ]]、プロレスラー * 生年不明 - [[尾崎真実]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/1000091848/ |title=尾崎真実 |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB[[ザテレビジョン]]}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[狭川尚紀]]、声優 * 生年不明 - [[仲野元]]、舞台俳優、声優 * 生年不明 - [[永吉ユカ]]、声優 * 生年不明 - [[小田菜摘]]、小説家 * 生年不明 - [[林家志弦]]、[[漫画家]] * 生年不明 - [[元原絵里奈]]、漫画家 * 生年不明 - [[柚月純]]、漫画家 === 人物以外(動物など) === * [[1993年]] - [[エイシンガイモン]]、[[競走馬]] * 1993年 - [[サイレントハンター (競走馬)|サイレントハンター]]、競走馬 (+[[2014年]]) * [[1999年]] - [[アサクサデンエン]]、競走馬 * [[2012年]] - [[ドゥラメンテ]]、競走馬 (+[[2021年]]) * [[2020年]] - [[タスティエーラ]]、競走馬 == 忌日 == {{multiple image | caption1 = [[佐藤継信]](1158-1185)戦死 | image1 = Genpei_Kassen_Ezu.10_Yasima.jpg | width1 = 90 | alt1 = 源平合戦、佐藤継信戦死 | image2 = Jean-Baptiste_Lully_1.jpeg | width2 = 90 | caption2 = フランス[[バロック]]の作曲家、[[ジャン=バティスト・リュリ]](1632-1687)没 | alt2 = ジャン=バティスト・リュリ }} [[Image:Fritz_Fleischer-Mehr_Licht%21.jpg|thumb|180x180px|詩人[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]](1749-1832)没。画像はフリッツ・フライシャー『ゲーテの死』(1900)]] [[Image:Tokugawa_Ienari.jpg|thumb|180x180px|[[江戸幕府]]第11代[[征夷大将軍]]、[[徳川家斉]](1773-1841)没]] [[Image:Yoyogi_Gymnasium.jpg|thumb|180x180px|建築家、[[丹下健三]](1913-2005)。画像は丹下が手掛けた[[国立代々木競技場]](1964)]] * [[570年]]([[欽明天皇]]32年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[蘇我稲目]]、[[飛鳥時代]]の[[大臣 (日本)|大臣]](* [[506年]]頃) * [[1185年]]([[文治]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[佐藤継信]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1158年]]) * [[1602年]] - [[アゴスティーノ・カラッチ]]、[[画家]]・[[版画家]](* [[1557年]]) * [[1615年]]([[慶長]]20年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[池田忠継]]、[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1599年]]) * [[1687年]] - [[ジャン=バティスト・リュリ]]、[[作曲家]](* [[1632年]]) * [[1758年]] - [[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]、[[神学者]](* [[1703年]]) * [[1789年]]([[寛政]]元年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[井伊直幸]]、[[江戸幕府]][[大老]]、第13代[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1729年]]) * [[1801年]]([[享和]]元年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[大典顕常]]、[[僧]]、[[漢詩|漢詩人]](* [[1719年]]) * [[1832年]] - [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[作家]](* [[1749年]]) * [[1841年]]([[天保]]12年[[1月30日 (旧暦)|閏1月30日]]) - [[徳川家斉]]、江戸幕府11代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1773年]]) * [[1852年]] - [[ジェレマイア・モロー]]、第9代[[オハイオ州知事]](* [[1771年]]) * [[1885年]] - [[ハリー・パークス]]、[[外交官]](* [[1828年]]) * [[1913年]] - [[宋教仁]]、革命運動家、[[政治家]](* [[1882年]]) * 1913年 - [[ルッジェーロ・オッディ]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[生理学者]](* [[1864年]]) * [[1929年]] - [[井上良馨]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[元帥]](* [[1845年]]) * [[1942年]] - [[建畠大夢]]、[[彫刻家]](* [[1880年]]) * [[1943年]] - [[新美南吉]]、作家(* [[1913年]]) * [[1944年]] - [[エグモント・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルト]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](* [[1918年]]) * [[1945年]] - [[西竹一]](バロン西)、[[軍人]](* [[1902年]]) * [[1950年]] - [[アーサー・ホプキンス]]、[[劇作家]]、[[脚本家]]、映像監督、プロデューサー(* [[1878年]]) * [[1951年]] - [[ウィレム・メンゲルベルク]]、[[指揮者]](* [[1871年]]) * [[1963年]] - [[シリー・アウセム]]、[[テニス]]選手(* [[1909年]]) * 1963年 - [[アーチボルド・ジョイス]]、作曲家(* [[1873年]]) * [[1972年]] - [[霧立のぼる]]、[[俳優|女優]](* [[1917年]]) * [[1973年]] - [[湯口敏彦]]、[[プロ野球選手]](* [[1952年]]) * [[1974年]] - [[福田平八郎]]、[[日本画家]](* [[1892年]]) * [[1976年]] - [[藤原義江]]、[[テノール]]歌手、藤原歌劇団創始者(* [[1898年]]) * 1976年 - [[山口政信]]、プロ野球選手(* [[1916年]]) * [[1977年]] - [[村山知義]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[演出家]]、[[画家]](* [[1901年]]) * [[1979年]] - [[ウォルター・レッグ]]、レコーディング・プロデューサー(* [[1906年]]) * [[1980年]] - [[佐伯達夫]]、[[日本高等学校野球連盟]]会長(* [[1892年]]) * [[1985年]] - [[アリスター・ハーディ]]、[[海洋生物学|海洋生物学者]](* [[1896年]]) * [[1992年]] - [[杉田弘子]]、元女優(* [[1934年]]) * 1992年 - [[桐山襲]]、小説家(* 1949年) * [[1994年]] - [[胡桃沢耕史]]、小説家(* [[1925年]]) * 1994年 - [[菅貫太郎]]、[[俳優]](* [[1934年]]) * [[1995年]] - [[新村源雄]]、[[政治家]](* [[1919年]]) * 1995年 - [[原田力男]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1939年]]) * [[1996年]] - [[ヴァーツラフ・ネリベル]]、作曲家(* [[1919年]]) * [[1997年]] - [[登坂重次郎]]、政治家(* [[1913年]]) * [[1998年]] - [[西邑昌一]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]・監督(* [[1912年]]?) * [[1999年]] - [[里中まりあ]]、[[AV女優]](* [[1977年]]) * [[2001年]] - [[奈良本辰也]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1913年]]) * 2001年 - [[あすなひろし]]、[[漫画家]](* [[1941年]]) * [[2002年]] - [[奥田靖雄]]、[[言語学|言語学者]](* [[1919年]]) * 2002年 - [[ルドルフ・バウムガルトナー]]、[[指揮者]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1917年]]) * [[2004年]] - [[アフマド・ヤースィーン]]、[[ハマース]]創設者(* [[1936年]]) * 2004年 - [[ジャネット・アクユズ・マッテイ]]、[[天文学者]](* [[1943年]]) * 2004年 - [[豆千代]]、歌手(* 1912年) * [[2005年]] - [[阪田寛夫]]、[[詩人]]、小説家(* [[1925年]]) * 2005年 - [[丹下健三]]、[[建築家]](* [[1913年]]) * [[2006年]] - 3代目[[三遊亭圓右]]、[[落語家]](* [[1923年]]) * 2006年 - [[ピーター・オルワ]]、[[プロボクサー]](* [[1949年]]) * [[2007年]] - [[村上弘]]、第3代[[日本共産党委員長]](* [[1921年]]) * 2007年 - [[城山三郎]]、小説家(* [[1927年]]) * 2007年 - [[菅野光夫]]、元プロ野球選手(* [[1952年]]) * [[2017年]] - [[佐藤大輔]]、小説家、漫画原作者、ゲームデザイナー(* [[1964年]]) * [[2023年]] - [[団時朗]]、俳優(* [[1949年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:African waterfall.jpg|thumb|180px|国連水の日]] * [[世界水の日]]({{World}}) *: [[1992年]]の国連総会で決定した[[国際デー]]の一つ。 * [[放送記念日]]({{JPN}}) *: [[日本放送協会]]が[[1943年]]に制定。[[1925年]]のこの日に社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が東京[[芝浦]]に設けられた東京放送局仮スタジオから日本初のラジオ放送が行なわれたことを記念<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010534 |title=ラジオとテレビ番組の出発点!【放送記念日特集】 |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]アーカイブス}}</ref>。 * さくらねこの日({{JPN}}) *: [[兵庫県]][[芦屋市]]の公益財団法人どうぶつ基金が制定。不妊治療を終え、耳の先を桜の形に少し切った「さくらねこ」を多くの人に知ってもらうことが目的。同法人は、犬や猫の殺処分ゼロを目指し、不幸な命を減らすために無料で不妊治療を行っている。日付は「3(さくら)22(にゃんにゃん)」の語呂合わせから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=95|isbn=978-4422021140 }}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0322|date=Mar 2023}} * [[2007年]] - [[マンハッタン]]沖、約30キロメートルの地点で「マンハッタン沖タンカー沈没事件」発生。(ゲーム『[[メタルギアソリッド2]]』) * [[2012年]] - [[エンリコ・プッチ|プッチ神父]]のスタンドによって、時が加速し始める。(漫画『[[ストーンオーシャン|ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1925年]] - 橘(雉真、ローズウッド)安子、[[連続テレビ小説]]『[[カムカムエヴリバディ]]』のヒロイン * [[1971年]] - 葉鳥新義、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|coauthors = [[小畑健]] |year = 2006 |title = DEATH NOTE |volume = 第13巻 |page = 30 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874095-9 }}</ref> * 2132年 - 要咲良、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://fafner-exodus.jp/special/character/sakura.html |title=要 咲良 |work=『蒼穹のファフナーEXODUS』 |accessdate=15 Aug 2023 |publisher=[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]]・FAFNER WXODUS PROJECT}}</ref> * 生年不明 - 涼宮遙、ゲーム・アニメ『[[君が望む永遠]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.age-soft.com/former/Product/kiminozole/character.htm |title=キャラクター 涼宮 遙 |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[アージュ]] |work=『君が望む永遠 ~Latest Edition~』}}</ref> * 生年不明 - 土宮神楽、漫画・アニメ『[[喰霊|喰霊 GA-REI]]』のヒロイン * 生年不明 - [[新田瞬]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 55 }}</ref> * 生年不明 - 石田宗弦、漫画『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page = 72 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-874079-3 }}</ref> * 生年不明 - 黄ツチ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1505922207373230087}}</ref> * 生年不明 - セメントス、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group04/04-08/ |title=セメントス |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 別所千源、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2019|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-882053-8|quote=|date=|volume=39巻|page=110}}</ref> * 生年不明 - 宮川卓也、漫画・アニメ『[[ベイビーステップ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[進撃の巨人の登場人物#アニ|アニ・レオンハート]]、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kt_shingeki|976654870001233920}}</ref> * 生年不明 - ジャマダハルの血、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1506103476530696197}}</ref> * 生年不明 - アンジー・クレーマー、漫画『[[はみだしっ子]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/archives/exh-miharajun/miharajun_05.html |title=「~没後20年展~ 三原順 復活祭」第5期 R011 アンジー特集 |work=『はみだしっ子』 |accessdate=15 Aug 2023 |publisher=米沢嘉博記念図書館・[[明治大学]]}}</ref> * 生年不明 - 安藤みなわ、漫画・アニメ『[[まほろまてぃっく]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 藤原虎、漫画『[[夢みる太陽]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 間桐雁夜、小説・アニメ『[[Fate/Zero]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ufotable|1241720266973052928}}</ref> * 生年不明 - 袴田武司、小説・漫画・アニメ『[[カラダ探し]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 茜屋=一文字の介、小説・漫画・アニメ『[[ログ・ホライズン]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 逆巻アヤト、シチュエーションCD・アニメ『[[DIABOLIK LOVERS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_dialover|844202408297222144}}</ref> * 生年不明 - ケリュネイア、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 影丸、アニメ『[[神魂合体ゴーダンナー!!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 風見一姫、ゲーム・アニメ『[[グリザイアの果実]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|grisaia_fw|1505922190742462464}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#佐竹美奈子|佐竹美奈子]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30010 |title=佐竹 美奈子(さたけ みなこ) |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#渡辺みのり|渡辺みのり]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sidem-gs.idolmaster-official.jp/idol/minori/ |title=渡辺 みのり |access-date=15 Aug 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER SIDE M GROWING STARS』}}</ref> * 生年不明 - 田中幸子、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/sachiko.html |title=田中 幸子 |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=15 Aug 2023 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]]}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|March 22|22 March}} {{新暦365日|3|21|3|23|[[2月22日]]|[[4月22日]]|[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]|0322|3|22}} {{1年の月と日}}
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3月23日
3月23日(さんがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から82日目(閏年では83日目)にあたり、年末まであと283日ある。
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3月23日(さんがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から82日目(閏年では83日目)にあたり、年末まであと283日ある。
{{カレンダー 3月}} '''3月23日'''(さんがつにじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から82日目([[閏年]]では83日目)にあたり、年末まであと283日ある。 == できごと == [[Image:Japanese Tensho Embassy with Pope Gregory XIII 1585.png|thumb|240px|[[天正遣欧少年使節]]が[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に公式謁見(1585)]] [[Image:Himeyuri_Monument-2.jpg|thumb|140px|[[ひめゆり学徒隊]]を動員(1945)。画像は[[ひめゆりの塔]]]] [[Image:Mir_sts89_big.jpg|thumb|200px|旧[[ソビエト連邦]]の[[宇宙ステーション]]「[[ミール]]」廃棄処分される(2001)]] * [[1274年]]([[文永]]11年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[日蓮]]が[[鎌倉幕府|幕府]]に赦免され、[[佐渡国]]から[[鎌倉]]へ帰る{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[豊島河原合戦]]開戦。 * [[1400年]] - [[ベトナム]]で、[[胡季犛]]が[[陳少帝|少帝]]から皇位を[[簒奪]]し、[[陳朝]]が滅亡。 * [[1585年]]([[天正]]13年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[天正遣欧少年使節]]が[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]に公式謁見。 * [[1633年]]([[寛永]]10年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[江戸幕府]]が[[奉書船]]以外で海外渡航した日本人の帰国を禁止する。 * [[1775年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[パトリック・ヘンリー]]が「{{仮リンク|自由を与えよ。然らずんば死を与えよ|en|Give me Liberty, or give me Death!}}」の演説を行う。 * [[1801年]](ユリウス暦[[3月11日]]) - ロシア皇帝[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]が{{仮リンク|パーヴェル1世暗殺事件|ru|Убийство Павла I|label=暗殺}}される。 * [[1806年]] - [[ルイス・クラーク探検隊]]が復路の探検に出発。 * [[1887年]] - [[所得税法]]が公布。 * [[1914年]] - アメリカ海軍の戦艦[[オクラホマ (戦艦)|オクラホマ]]が進水。 * [[1919年]] - [[イタリア王国|イタリア]]で[[ベニート・ムッソリーニ]]が「戦士のファッショ(後の[[ファシスト党]])」を結成。 <!-- 当該項目によれば3月24日* [[1933年]] - [[ドイツ]]議会で[[全権委任法]](授権法)、可決。 --> <!-- 英語版によれば3月24日 * [[1934年]] - アメリカで[[フィリピン独立法]]成立。 --> * [[1935年]] - [[ソビエト連邦]]が[[満州国]]に[[東清鉄道]]を有償譲渡する協定の調印がおこなわれる。 * [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: 日本軍が[[インド洋]]の[[アンダマン諸島]]を占領。 * [[1942年]] -[[バチカン]]と[[日本]]が国交を樹立し、相互に[[公使館]]を設置した<ref>{{Cite news|title=Religion: Rising Sun at the Vatican|url=https://content.time.com/time/subscriber/article/0,33009,777719,00.html|work=Time|date=1942-04-06|access-date=2022-12-05|issn=0040-781X|language=en-US}}</ref>。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: 米軍の沖縄上陸作戦開始に伴い、[[ひめゆり学徒隊]]に動員令が下る。 * 1945年 - [[青森県]][[赤石村 (青森県)|赤石村]]で[[赤石村雪泥流災害|雪泥流]]([[土石流]])が発生。87名死亡。 * [[1950年]] - [[世界気象機関]]設立。 * [[1951年]] - 解散寸前のプロ野球団[[広島東洋カープ|広島カープ]]が[[広島県]]・[[中国新聞]]などの再建策提出で存続を決定。 * [[1953年]] - 中国からの[[引揚者|引揚げ]]第一船「[[興安丸]]」が舞鶴に入港。 * [[1956年]] - [[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が世界初の[[イスラム共和制|イスラム教徒による共和国]]となる。 * 1956年 - [[中日新聞]]社機が長野県[[乗鞍岳]]の[[乗鞍コロナ観測所]]付近で墜落。乗員4人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=112 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1962年]] - [[帝都高速度交通営団]](現在の[[東京地下鉄]])[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]が全線完成。 * [[1963年]] - [[富山県]][[薬師岳]]にて、[[名古屋大学]]登山部のメンバーが同年1月より行方不明となっていた[[愛知大学]]学生の遺体を発見([[愛知大学山岳部薬師岳遭難事故]])。 * [[1965年]] - アメリカが世界初の2人乗り宇宙船「[[ジェミニ3号]]」を打上げ。 * [[1976年]] - [[児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件]]。 * [[1986年]] - [[南岸低気圧]]の通過で、関東地方でこの時期としては季節外れの記録的な[[豪雪|大雪]]。 <!-- 独立項目ができたら * [[1986年]] - [[西武鉄道新宿線田無駅追突事故]]発生。 --> * [[1989年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ユタ大学]]の2教授が[[常温核融合]]に成功したと発表。その後真偽を巡る論争に発展。 * [[1994年]] - [[アエロフロート航空593便墜落事故]]。 <!-- * [[1995年]] - 『[[フルハウス (アメリカ合衆国のテレビドラマ)|フルハウス]]』放送終了。 --> * [[1996年]] - [[中華民国]]([[台湾]])初の[[中華民国総統|総統]]直接選挙([[1996年中華民国総統選挙]])で[[李登輝]]が当選。 * [[1998年]] - [[ロシア]]の[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領、[[セルゲイ・キリエンコ|キリエンコ]]燃料エネルギー相を第一副首相に昇格させ、首相代行に任命、組閣を指示する。 * [[1999年]] - [[パラグアイ]]の副大統領ルイス・マリア・アルガーニャが暗殺される。 * 1999年 - [[能登半島沖不審船事件]]。[[自衛隊]]に初の実戦命令となった[[海上警備行動]]が発令される。 * [[2001年]] - 旧[[ソビエト連邦]]の[[宇宙ステーション]]「[[ミール]]」が南太平洋上の大気圏で廃棄処分される。 <!-- * [[2008年]] - 日本で初めての、全[[ラジオ#FMラジオ|FM放送]]局同時参加・一斉放送による、[[桑田佳祐]]の[[石垣島]]でのライブ[[生中継]]。 --> * [[2008年]] - JR[[常磐線]][[荒川沖駅]]の構内で、[[殺人罪 (日本)|殺人]]容疑で[[指名手配]]中の男性[[被疑者]]が通行人を刃物で切り付け、8人が死傷。([[土浦連続殺傷事件]]) * [[2009年]] - [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]決勝<ref>{{Cite web|和書|date=2009年3月24日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2585708 |title=松坂が2大会連続で最優秀選手に、第2回WBC |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-03-25}}</ref>で[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]チームが[[野球大韓民国代表|韓国代表]]を破り、大会2連覇を達成(現地時間)。 * 2009年 - [[成田国際空港]]にて中国・広州発成田行きの[[フェデックス]]80便「MD-11型」機が着陸に失敗して炎上、乗員2名が犠牲<ref>{{Cite web|和書|date=2009年3月23日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2585020 |title=成田空港で貨物機が着陸失敗、炎上 操縦士2人死亡 |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-03-25}}</ref>。([[フェデックス80便着陸失敗事故]]) <!-- 特記すべき事柄ですか? * [[2010年]] - 鹿児島県[[姶良市]]が市制施行。 --> <!-- 特記すべき事柄ですか? * [[2013年]] - [[Suica]]・[[PASMO]]・[[Kitaca]]・[[TOICA]]・[[ICOCA]]・[[SUGOCA]]・[[nimoca]]・[[はやかけん]]・[[manaca]]・[[PiTaPa]]間との[[乗車カード]]相互利用が開始される。 --> * [[2015年]] - [[イタリア]]の[[タイヤ]]メーカー、[[ピレリ]]が[[中国化工集団公司]]に買収される<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-24 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDX23H2U_T20C15A3FFE000/ |title=習指導部「世界一流」狙う 中国企業がタイヤ再編 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-03-25}}</ref>。買収額は71億ユーロ(約9200億円)規模と中国企業による買収としては当時最大規模。 * [[2018年]] - [[大韓民国|韓国]]の[[李明博]]元大統領が収賄や背任、職権乱用などの容疑で逮捕<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL3Q4D0GL3QUHBI01T.html|title=李明博元大統領を逮捕 韓国検察、収賄などの容疑で|newspaper=朝日新聞社|date=2018-03-23|accessdate=2018-03-25}}</ref>。 * [[2019年]] - [[シリア民主軍]]、[[ISIL]]最後の拠点とされる{{仮リンク|バグズ (シリア)|en|Al-Baghuz Fawqani|label=バグズ}}を制圧<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190323/k10011858321000.html|title=「シリアのIS支配地域はなくなった」 最後の拠点制圧と発表|newspaper=NHK WEB NEWS|date=2019-03-23|accessdate=2019-03-24}}</ref>。 * 2019年 - [[三陸鉄道リアス線]]開業。 == 誕生日 == === 人物 === [[Image:Pierre-Simon_Laplace.jpg|thumb|upright|数学者[[ピエール=シモン・ラプラス]](1749-1827)誕生。[[ラプラス変換]]を発見]] [[Image:Masayoshi_Matsukata_posing.jpg|thumb|upright|日本国第4・6代[[内閣総理大臣]]、[[松方正義]](1835-1924)]] [[Image:Roger_Martin_du_Gard_1937.jpg|thumb|upright|作家[[ロジェ・マルタン・デュ・ガール]](1881-1958)。代表作『チボー家の人々』]] [[Image:Juan_Gris_001.jpg|thumb|180px|[[キュビスム]]の画家[[フアン・グリス]](1887-1927)誕生。画像は『ブラインド』(1914)]] <!--[[Image:JoanCrawfordByYousufKarsh.jpg|thumb|upright|女優[[ジョーン・クロフォード]](1905-1977)]]--> [[Image:Wernher_von_Braun.jpg|thumb|upright|[[ロケット]]の開発者、[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]](1912-1977)]] [[Image:Kawakami_Tetsuharu.jpg|thumb|upright|プロ野球選手・監督、[[川上哲治]](1920-2013)誕生。選手としてNPB史上初の2000本安打、監督として巨人を[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]に導く。]] * [[1338年]]([[延元]]3年/[[暦応]]元年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[後光厳天皇]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の北朝第4代[[天皇]](+ [[1374年]]) * [[1429年]] - [[マーガレット・オブ・アンジュー]]、[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]妃(+ [[1482年]]) * [[1543年]]([[天文 (元号)|天文]]14年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[上井覚兼]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[島津氏]]家臣(+ [[1589年]]) * [[1638年]] - [[フレデリクス・ルイシ]]、[[植物学|植物学者]]、[[解剖学|解剖学者]](+ [[1731年]]) * [[1689年]] - [[ヨハン・アダム・クルムス]]、解剖学者(+ [[1745年]]) * [[1703年]]([[元禄]]16年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[松平頼寛]]、第2代[[守山藩|守山藩主]](+ [[1763年]]) * [[1749年]] - [[ピエール=シモン・ラプラス]]、[[数学者]](+ [[1827年]]) * [[1769年]] - [[ウィリアム・スミス (地質学者)|ウィリアム・スミス]]、[[地質学|地質学者]](+ [[1839年]]) * [[1800年]]([[寛政]]13年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[前田利保]]、第10代[[富山藩|富山藩主]](+ [[1859年]]) * [[1823年]] - [[ジョージ・ヘンリー・ウィリアムズ]]、第32代[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1910年]]) * [[1826年]] - [[レオン・ミンクス]]、[[作曲家]](+ [[1917年]]) * [[1829年]] - [[ノーマン・ポグソン]]、[[天文学者]](+ [[1891年]]) * [[1834年]] - [[ユリウス・ロイプケ]]、[[音楽家]](+ [[1858年]]) * [[1835年]]([[天保]]6年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[松方正義]]、第4代[[内閣総理大臣]](+ [[1924年]]) * [[1858年]] - [[ルートヴィッヒ・クヴィデ]]、[[歴史家|歴史学者]]、[[平和主義|平和主義者]](+ [[1941年]]) * [[1862年]]([[文久]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[本野一郎]]、[[外交官]](+ [[1918年]]) * [[1873年]] - [[秦佐八郎]]、[[細菌学|細菌学者]](+ [[1938年]]) * [[1878年]] - [[フランツ・シュレーカー]]、作曲家(+ [[1934年]]) * [[1881年]] - [[ロジェ・マルタン・デュ・ガール]]、[[小説家]](+ [[1958年]]) * 1881年 - [[ヘルマン・シュタウディンガー]]、[[化学者]](+ [[1965年]]) * 1881年 - [[エゴン・ペトリ]]、[[ピアニスト]](+ [[1962年]]) * 1881年 - [[ギャビー・クラバス]]、元プロ野球選手(+ [[1963年]]) * [[1882年]] - [[エミー・ネーター]]、数学者(+ [[1935年]]) * [[1883年]] - [[北大路魯山人]]、芸術家(+ [[1959年]]) * [[1884年]] - [[徳川家正]]、[[徳川宗家]]第17代当主、[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]](+ [[1963年]]) * [[1887年]] - [[フアン・グリス]]、[[画家]](+ [[1927年]]) * 1887年 - [[ヨゼフ・チャペック]]、画家、[[作家]](+ [[1945年]]) * 1887年 - [[岩田祐吉]]、[[俳優]](+ [[1980年]]) * [[1893年]] - [[フランツ・フォン・ヴェチェイ]]、[[ヴァイオリニスト]]、作曲家(+ [[1935年]]) * [[1894年]] - [[吉田甲子太郎]]、[[翻訳家]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](+ [[1957年]]) * [[1900年]] - [[エーリヒ・フロム]]、[[精神分析学|精神分析学者]](+ [[1980年]]) * [[1901年]] - [[森澤信夫]]、[[モリサワ]]創業者(+ [[2000年]]) * [[1905年]] - [[ジョーン・クロフォード]]、[[俳優|女優]](+ [[1977年]]) * 1905年 - [[ララ・アンデルセン]]、[[歌手]]、女優(+ [[1972年]]) * 1905年 - [[ポール・グリモー]]、[[アニメーター]]、[[映画監督]](+ [[1994年]]) * [[1907年]] - [[ダニエル・ボベット]]、[[薬理学者]](+ [[1992年]]) * [[1908年]] - [[アルヒープ・リューリカ]]、[[航空]]技術者(+ [[1984年]]) * [[1910年]] - [[黒澤明]]、[[映画監督]](+ [[1998年]]) * [[1912年]] - [[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]、[[科学技術|科学技術者]](+ 1977年) * 1912年 - [[杉森久英]]、小説家(+ [[1997年]]) * [[1913年]] - [[麻生三郎]]、[[洋画家]](+ [[2000年]]) * [[1915年]] - [[ヴァシリ・ザイツェフ]]、軍人(+ [[1991年]]) * [[1919年]] - [[水戸光子]]、女優(+ [[1981年]]) * [[1920年]] - [[川上哲治]]、元[[プロ野球選手]]、監督(+ [[2013年]]<ref name="nikkansports">{{Cite web|和書|date=2013-10-30 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131030-1211387.html |title=巨人V9「打撃の神様」川上哲治氏死去 |publisher=[[日刊スポーツ]] |accessdate=2020-11-10}}</ref>) * [[1921年]] - [[ジェイムズ・ブリッシュ]]、[[SF作家]](+ [[1975年]]) * [[1924年]] - [[高瀬文志郎]]、[[天文学者]](+ [[2015年]]) * [[1925年]] - [[潮健児]]、[[俳優]](+ [[1993年]]) * [[1926年]] - [[若杉嘉津子]]、女優(+ 没年不詳) * [[1929年]] - [[犬塚弘]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、俳優(元[[ハナ肇とクレージーキャッツ]](+ [[2023年]]) * 1929年 - [[村松剛]]、[[評論家]](+ [[1994年]]) * 1929年 - [[津本陽]]、[[小説家]](+ [[2018年]]) * [[1931年]] - [[戸川昌子]]、推理作家、歌手(+ [[2016年]]) * [[1932年]] - [[辻真先]]、[[推理作家]]、[[脚本家]] * [[1933年]] - [[ヘイス・アラン・ジェンキンス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1933年 - [[フィリップ・ジンバルドー]]、[[心理学者]] * [[1934年]] - [[マーク・ライデル]]、映画監督、俳優 * [[1936年]] - [[山田智彦]]、小説家(+ [[2001年]]) * [[1938年]] - [[佐藤文隆]]、[[宇宙物理学|宇宙物理学者]] * 1938年 - [[南原幹雄]]、小説家 * 1938年 - [[石上滋夫]]、元プロ野球選手 * [[1939年]] - [[ボリス・ティシチェンコ]]、[[作曲家]](+ [[2010年]]) * [[1940年]] - [[トミー・ビロッティ]]、[[マフィア]](+ [[1980年]]) * [[1942年]] - [[ミヒャエル・ハネケ]]、映画監督 * 1942年 - [[森山加代子]]、歌手(+ [[2019年]]) * [[1943年]] - [[松本照夫]]、元プロ野球選手(+ [[1992年]]) * [[1944年]] - [[マイケル・ナイマン]]、作曲家 * 1944年 - [[リック・オケイセック]]、ミュージシャン([[カーズ (バンド)|カーズ]])(+ [[2019年]]) * [[1947年]] - [[鳥塚しげき]]、歌手 * [[1949年]] - [[江畑謙介]]、[[軍事]]評論家(+ [[2009年]]) * 1949年 - [[福本潤一]]、[[政治家]] * 1949年 - [[田原アルノ]]、[[声優]] * 1949年 - [[片岡春雄]]、政治家 * [[1950年]] - [[コリンヌ・クレリー]]、女優 * [[1951年]] - [[中村英子]]、女優(+ [[1975年]]) * [[1952年]] - [[児島美ゆき]]、女優 * 1952年 - [[レックス・ティラーソン]]、政治家、元[[アメリカ合衆国国務長官]] * 1952年 - [[数住岸子]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1997年]]) * 1952年 - [[キム・スタンリー・ロビンソン]]、SF作家 * 1952年 - [[三輪昭尚]]、実業家、第4代[[内閣情報通信政策監]] * [[1953年]] - [[チャカ・カーン]]、歌手 * [[1954年]] - [[堀秀行]]、声優 * 1954年 - [[山田耕大]]、[[脚本家]] * [[1955年]] - [[モーゼス・マローン]]、[[バスケットボール選手]](+ [[2015年]]<ref>[http://jp.reuters.com/article/2015/09/14/moses-malone-idJPKCN0RE08T20150914 NBA=殿堂入りのマローン氏、60歳で死去] ロイター 2015年9月14日</ref>) * [[1956年]] - [[山本恭司]]、ミュージシャン * 1956年 - [[剛竜馬]]、[[プロレスラー]](+ [[2009年]]) * 1956年 - [[長田渚左]]、[[ノンフィクション作家]]、[[ニュースキャスター|キャスター]]、女優 * 1956年 - [[ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ]]、政治家 * [[1957年]] - [[浅田彰]]、[[哲学|哲学者]] * 1957年 - [[アマンダ・プラマー]]、女優 * [[1959年]] - [[伊倉一恵]]、声優 * [[1960年]] - [[多和田葉子]]、小説家 * 1960年 - [[きゃんひとみ]]、[[タレント]] * 1960年 - [[城谷光俊]]、俳優 * [[1961年]] - [[出光ケイ]]、[[テレビ]]キャスター、スポーツジャーナリスト * 1961年 - [[武正公一]]、政治家 * [[1962年]] - [[松村和子]]、歌手 * 1962年 - [[夏まゆみ]]、[[振付師]](+ [[2023年]]) * 1962年 - [[山賀博之]]、[[アニメ監督]] * 1962年 - [[スティーヴ・レッドグレーヴ]]、[[ボート]]選手 * [[1963年]] - [[ミチェル]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者 * 1963年 - [[マグナム北斗]]、タレント、元[[AV男優]] * [[1964年]] - [[大木裕之]]、[[映像作家]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]] * [[1965年]] - [[アントニオ・ジョルジ・セシリオ・ソブリホ|トニーニョ]]、元サッカー選手 * 1965年 - [[ペーター・シールゲン]]、調教師、元騎手 * 1965年 - [[藤本隆史]]、警察官僚 * [[1966年]] - [[大沢逸美]]、女優、歌手、タレント * 1966年 - [[ゲレン大嶋]]、三線プレーヤー、作曲家、ラジオDJ * [[1967年]] - [[七瀬なつみ]]、女優 * 1967年 - [[ジェリー・ブルックス]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[端本悟]]、[[オウム真理教]]元幹部 元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]]) * [[1968年]] - [[SABE]]、[[漫画家]](+ [[2009年]]) * 1968年 - [[デーモン・アルバーン]]、ミュージシャン([[ブラー]]、[[ゴリラズ]]) * 1968年 - [[戸田弥生]]、ヴァイオリニスト * 1968年 - [[フェルナンド・イエロ]]、プロサッカー選手 * 1968年 - [[冴島奈緒]]、[[AV女優]](+ [[2012年]]) * [[1970年]] - [[松永政行]]、[[体操競技]]選手 * 1970年 - [[天方直実]]、[[シンガーソングライター]] * [[1971年]] - [[天山広吉]]、[[プロレスラー]] * 1971年 - [[ヤスミン・ゴーリ]]、[[モデル (職業)|モデル]] * [[1972年]] - [[ジュディット・ゴドレーシュ]]、女優 * 1972年 - [[タケル (格闘家)|タケル]]、[[キックボクサー]](+ [[2023年]]) * 1972年 - [[ジョー・カルザゲ]]、[[プロボクサー]] * [[1973年]] - [[ジェイソン・キッド]]、[[バスケットボール]]選手 * 1973年 - [[イェジー・ドゥデク]]、サッカー選手 * 1973年 - [[沢松奈生子]]、元[[テニス]]選手 * 1973年 - [[篠田陽介]]、政治家 <!-- 特筆性は? * 1973年 - 全炳鎬、プロ野球選手 --> * [[1974年]] - [[マーク・ハント]]、[[格闘家]] * 1974年 - [[平松一宏]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[穂高あゆみ]]、元女優 * [[1975年]] - [[峰倉かずや]]、[[漫画家]] * 1975年 - [[辻栄蔵]]、[[競艇]]選手 * [[1976年]] - [[マルコス・ゴメス・デ・アラウージョ|マルキーニョス]]、サッカー選手 * 1976年 - [[ミシェル・モナハン]]、女優 * [[1977年]] - [[マキシム・マリニン]]、[[フィギュアスケート選手一覧|フィギュアスケート選手]] * [[1978年]] - [[ワルテル・サムエル]]、元サッカー選手 * [[1979年]] - [[マーク・バーリー]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[姜暢雄]]、俳優 * [[1981年]] - [[本田武史]]、[[フィギュアスケート|プロスケーター]]、解説者 * 1981年 - [[梅佳代]]、[[写真家]] * 1981年 - [[加藤健 (野球)|加藤健]]、元プロ野球選手 <!-- 特筆性は? * 1981年 - 辻本健司、ミュージシャン([[Chicago Poodle]]) --> <!-- 特筆性は? * 1981年 - 根建太一、[[お笑いタレント]]([[囲碁将棋 (お笑いコンビ)|囲碁将棋]]) --> * 1981年 - [[トニー・ペーニャ・ジュニア]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[佐藤友則 (競馬)|佐藤友則]]、[[騎手]] * 1982年 - [[アフマド・ハールーン (モルディブの政治家)|アフマド・ハールーン]] - 政治家 * [[1983年]] - [[王超 (野球)|王超]]、プロ野球選手 <!-- 特筆性は? * 1983年 - 松下省伍、ミュージシャン([[MONOBRIGHT]]) --> * [[1984年]] - [[市岡元気]]、サイエンスアクアー、サイエンスアーティスト、俳優、モデル * 1984年 - [[岡部磨知]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1984年 - [[堀慎吾]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]] * [[1985年]] - [[メンフィス・モンロー]]、[[ポルノ女優]] * [[1986年]] - [[水瀬葵]]、[[グラビアアイドル]] * 1986年 - [[小田原彩]]、タレント * [[1987年]] - [[一色雅]]、グラビアアイドル * 1987年 - [[あんどうさくら]]、声優 * [[1988年]] - [[桜木睦子]]、元グラビアアイドル * 1988年 - [[平田良介]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[デリン・ベタンセス]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[古谷有美]]、アナウンサー * 1988年 - [[灘坂舞]]、元AV女優 * 1988年 - [[安枝瞳]]、モデル、元[[レースクイーン]]、元グラビアアイドル * [[1989年]] - [[山田弘喜]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[李大恩|イ・デウン]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[西田麻衣]]、グラビアアイドル * 1989年 - [[中村恵吾]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[遠藤一星]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[黒沢美怜]]、タレント * [[1990年]] - [[芦野李沙]]、バレーボール選手 * 1990年 - [[ダイヤモンド酒井理絵]]、キックボクサー * 1990年 - [[ハイメ・アルグエルスアリ]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]] * 1990年 - [[ユージェニー・オブ・ヨーク]]、[[イギリス王室]]成員 * 1990年 - [[金相豎]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[大和田仁美]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aoni.co.jp/search/ohwada-hitomi.html|title=青二プロダクション 大和田仁美|accessdate=2019-07-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130706024201if_/https://www.aoni.co.jp/search/ohwada-hitomi.html|archivedate=2021-01-09}}</ref>、声優 * [[1991年]] - [[川島絢子]]、元タレント * 1991年 - [[千賀健永]]、アイドル([[Kis-My-Ft2]]) * 1991年 - [[鳥海汐里]]、タレント * [[1992年]] - [[カイリー・アービング]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * [[1993年]] - [[イ・ヒョヌ]]、俳優 * 1993年 - [[横山和生]]、[[騎手]] * 1993年 - [[紗倉まな]]、AV女優、タレント、小説家 * [[1994年]] - [[ニック・パウエル]]、サッカー選手 * 1994年 - [[優里]]、シンガーソングライター * 1994年 - [[川口翔平]]、俳優 * [[1995年]] - [[オザン・トゥファン]]、サッカー選手 * 1995年 - [[エステル・レデツカ]]、[[スノーボード選手一覧|スノーボード]]・[[スキー選手一覧|スキー選手]] * [[1996年]] - [[ほのか (モデル)|ほのか]]、モデル、[[グラビアモデル]] * [[1998年]] - [[佐野勇斗]]<ref>[https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M15-0574 佐野 勇斗] - 日本タレント名鑑</ref>、俳優、歌手 * 1998年 - [[伊藤達彦 (陸上選手)|伊藤達彦]]、陸上選手 * 1998年 - [[佐藤楓 (アイドル)|佐藤楓]]<!--スポーツ選手の佐藤楓への誤リンクに注意-->、アイドル([[乃木坂46]]) * 1998年 - [[四宮ありす]]、AV女優 * [[2000年]] - [[ロンジュン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * [[2001年]] - [[ジョナゴールド (アイドル)|ジョナゴールド]]、歌手(元[[りんご娘]]・2代目) * [[2002年]] - [[武元唯衣]]、アイドル([[櫻坂46]]) * 生年不明 - [[亀岡慎一]]、[[ゲームクリエイター]]、[[キャラクターデザイナー]] * 生年不明 - [[亜桜ゆぅき]]、アイドル === 人物以外(動物など) === * [[1927年]] - [[ギャラントフォックス]]、[[競走馬]](+ [[1953年]]) * [[1975年]] - [[アリダー]]、競走馬(+ [[1990年]]) * [[1983年]] - [[グランパズドリーム]]、競走馬(+ [[1996年]]) * [[1991年]] - [[オースミタイクーン]]、競走馬 * [[1993年]] - [[オリエンタルエクスプレス]]、競走馬 * [[1994年]] - [[タイキシャトル]]、[[種牡馬]]、競走馬(+ [[2022年]]) * [[2000年]] - [[エイシンチャンプ]]、競走馬 * [[2004年]] - [[アサクサキングス]]、競走馬 * [[2006年]] - [[クオリティロード]]、競走馬 * [[2009年]] - [[シゲルスダチ]]、競走馬(+ [[2014年]]) * [[2019年]] - [[イクイノックス]]、競走馬 == 忌日 == [[Image:%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E6%B3%95%E5%B8%AB.jpg|thumb|150px|歌人、[[西行]](1118-1190)没。画像は[[菊池容斎]]画]] [[Image:Pedro_Castile_beheading.jpg|thumb|180px|カスティーリャ王[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]](1334-1369)、処刑される]] [[Image:Captain_Kidd_hanging.jpg|thumb|upright|海賊キャプテン・キッドこと[[ウィリアム・キッド]](1645-1701)、縛り首となる]] [[Image:Saint_Petersburg_St_Michael%27s_Castle.jpg|thumb|150px|[[ロシア皇帝]][[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]](1754-1801)、[[ミハイロフスキー城]](画像)で暗殺される]] [[Image:Stendhal.jpg|thumb|160px|作家[[スタンダール]](1842)、脳溢血で斃れる]] * [[1022年]]([[乾興 (宋)|乾興]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[真宗 (宋)|真宗]]、[[北宋]]の第3代皇帝(* [[968年]]) * [[1103年]] - [[ウード1世 (ブルゴーニュ公)|ウード1世]]、[[ブルゴーニュ公]](* [[1058年]]) * [[1190年]]([[文治]]6年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[西行]]、[[鎌倉時代]]の[[歌人]](* [[1118年]]) * [[1369年]] - [[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王(* [[1334年]]) * [[1548年]]([[天文 (元号)|天文]]17年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[板垣信方]]、[[武将|戦国武将]] * 1548年([[天文 (元号)|天文]]17年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[甘利虎泰]]、[[武将|戦国武将]](* [[1498年]]?) * 1548年([[天文 (元号)|天文]]17年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]])) - [[若槻清尚]]、[[武将|戦国武将]] * [[1553年]](天文22年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[長尾晴景]]、[[戦国大名]](* [[1509年]]) * [[1555年]] - [[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]]、第221代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1481年]]) * [[1609年]]([[慶長]]14年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[田中吉政]]、[[柳河藩|柳河藩主]](* [[1548年]]) * [[1680年]] - [[ニコラス・フーケ]]、[[フランス]]の大蔵卿(* [[1615年]]) * [[1701年]] - [[ウィリアム・キッド]]、[[海賊]]船船長(* [[1645年]]) * [[1730年]] - [[カール (ヘッセン=カッセル方伯)|カール]]、[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]](* [[1654年]]) * [[1748年]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ヴァルター]]、[[音楽理論家]]、[[オルガニスト]]、[[作曲家]](* [[1684年]]) * [[1801年]] - [[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]、[[ロマノフ朝]]第9代[[ロシア帝国]][[皇帝]](* [[1754年]]) * [[1806年]] - [[ジョージ・フレデリック・ピント]]、作曲家(* [[1785年]]) * [[1818年]] - [[ニコラ・イズアール]]、作曲家(* [[1775年]]) * [[1842年]] - [[スタンダール]]、[[小説家]](* [[1783年]]) * [[1849年]] - [[アンドレス・マヌエル・デル・リオ]]、[[化学者]](* [[1764年]]) * [[1862年]] - [[カール・ロベルト・ネッセルローデ]]、元ロシア帝国首相(* [[1780年]]) * [[1864年]]([[文久]]4年2月16日) - [[安岡直行]]、[[土佐藩]][[郷士]](* [[1839年]]) * 1864年(文久4年2月16日) - [[田所重道]]、土佐藩郷士(* [[1841年]]) * [[1872年]]([[明治]]5年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[玉松真弘]]、[[国学|国学者]](* [[1810年]]) * [[1881年]] - [[ニコライ・ルビンシテイン]]、[[ピアニスト]]、作曲家(* [[1835年]]) * 1891年 - [[松平斉民]]、第8代[[津山藩|津山藩主]](* [[1814年]]) * [[1894年]] - [[ジョージ・ロマネス]]、[[生物学者]](* [[1848年]]) * [[1897年]] - [[ソフィー・ファン・オラニエ=ナッサウ]]、[[オランダ]]王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ヴィレム2世]]の長女(* [[1824年]]) * [[1907年]] - [[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]]、[[法学者]]、[[思想家]](* [[1827年]]) * [[1922年]] - [[オットマール・フォン・モール]]、[[外交官]](* [[1846年]]) * [[1925年]] - [[内藤千代子]]、小説家(* [[1893年]]) * [[1928年]] - [[竹内明太郎]]、[[立憲政友会]][[衆議院議員]](* [[1860年]]) * [[1936年]] - [[橋戸信]]、[[野球選手]](* [[1879年]]) * [[1948年]] - [[ニコライ・ベルジャーエフ]]、[[哲学|哲学者]](* [[1874年]]) * [[1953年]] - [[ラウル・デュフィ]]、[[画家]](* [[1877年]]) * [[1958年]] - [[山川均]]、[[社会主義]]運動家、理論家、[[評論家]](* [[1880年]]) * [[1963年]] - [[トアルフ・スコーレム]]、[[数学者]](* [[1887年]]) * [[1964年]] - [[ピーター・ローレ]]、[[俳優]](* [[1904年]]) * 1964年 - [[清水秀雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1918年]]) * [[1970年]] - [[川田芳子]]、[[俳優|女優]](* [[1895年]]) * 1970年 - [[八谷泰造]]、[[石油化学工業]]技術者、[[日本触媒]]創業者(* [[1906年]]) * [[1972年]] - [[クリストバル・バレンシアガ]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1895年]]) * [[1979年]] - [[近藤日出造]]、[[漫画家]](* [[1908年]]) * [[1980年]] - [[亀山龍樹]]、[[作家]]、[[翻訳家]](* [[1922年]]) * [[1981年]] - [[クロード・オーキンレック]]、[[イギリス陸軍]]の[[元帥]](* [[1884年]]) * 1981年 - [[平田郷陽]]、[[人形]]作家(* [[1903年]]) * 1981年 - [[マイク・ヘイルウッド]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1940年]]) * 1981年 - [[ベアトリス・ティンズリー]]、[[天文学者]](* [[1941年]]) * [[1982年]] - [[マリオ・プラーツ]]、[[美術史|美術史家]]、文学研究者(* [[1896年]]) * [[1984年]] - [[ジャン・プルーヴェ]]、[[建築家]]、[[デザイナー]](* [[1901年]]) * [[1985年]] - [[小池朝雄]]、俳優、[[声優]](* [[1931年]]) * [[1989年]] - [[金子一平 (政治家)|金子一平]]、政治家(* [[1913年]]) * [[1990年]] - [[藤田進]]、俳優(* [[1912年]]) * 1990年 - [[村松栄紀]]、レーサー(* [[1965年]]) * [[1992年]] - [[フリードリヒ・ハイエク]]、[[経済学者]](* [[1899年]]) * [[1993年]] - [[芹沢光治良]]、[[小説家]](* [[1896年]]か[[1897年]]) * 1993年 - [[友竹正則]]、[[バリトン]][[歌手]]、[[詩人]](* [[1931年]]) * [[1994年]] - [[ジュリエッタ・マシーナ]]、俳優(* [[1921年]]) * [[1995年]] - [[ラッセル・マーカー]]、[[化学者]](* [[1902年]]) * [[1998年]] - [[石丸寛]]、[[指揮者]]、[[九州交響楽団]]音楽監督(* [[1922年]]) * [[1999年]] - [[河野鷹思]]、[[グラフィックデザイナー]]、[[エディトリアルデザイナー]](* [[1906年]]) * 1999年 - [[水島道太郎]]、俳優(* [[1912年]]) * 1999年 - [[高橋和枝]]、声優(* [[1929年]]) * [[2000年]] - [[カール・シャウプ]]、経済学者(* [[1902年]]) * 2000年 - [[鈴木清 (写真家)|鈴木清]]、[[写真家]](* [[1943年]]) * [[2003年]] - [[梶岡忠義]]、元プロ野球選手(* [[1920年]]) * 2003年 - [[天本英世]]、俳優(* [[1926年]]) * [[2004年]] - [[寺島尚彦]]、作曲家、[[作詞家]](* [[1930年]]) * 2004年 - [[又野誠治]]、俳優(* [[1960年]]) * [[2006年]] - [[ピオ・レイヴァ]]、歌手(* [[1917年]]) * 2006年 - [[サラ・コールドウェル]]、[[指揮者]](* [[1924年]]) * 2006年 - [[徳田ザウルス]]、[[漫画家]](* [[1958年]]) * [[2007年]] - [[毛岸青]]、[[毛沢東]]の次男(* [[1923年]]) * [[2010年]] - [[長沢二郎]]、[[競泳]]選手(* [[1932年]]) * [[2011年]] - [[エリザベス・テイラー]]<ref name=abc-death2>{{cite web|title=Elizabeth Taylor dies aged 79|url=http://www.abc.net.au/news/stories/2011/03/24/3172059.htm|work=ABC News Australia|publisher=Australian Broadcasting Corporation|accessdate=2020-11-18|date=2011-03-23}}</ref>、[[俳優|女優]](* [[1932年]]) * 2011年 - [[ホゼ・アグエイアス]]、[[ニューエイジ]]思想家(* [[1939年]]) * [[2012年]] - [[会田豊彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/03/23/kiji/K20120323002889470.html|title=元中日選手 会田豊彦さん死去、74歳|publisher=Sponichi Annex|date=2012-03-23|accessdate=2020-10-30}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1937年]]) * [[2013年]] - [[萩原宏久]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/03/25/kiji/K20130325005473030.html 元巨人チーフトレーナー 萩原宏久氏死去 甲子園優勝監督 原監督に“おまじない”] スポーツニッポン 2020年10月24日閲覧</ref>、高校野球指導者(* [[1944年]]) * [[2016年]] - {{仮リンク|ハイデマリー・シュヴェルマー|de|Heidemarie Schwermer}}、作家、消費者活動家(* [[1942年]]) * [[2023年]] - [[奈良岡朋子]]、女優(* [[1929年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Kalundborg-mediumwave.swn.jpg|thumb|240px|世界気象デー]] * 世界気象デー({{World}}) *: [[1950年]]3月23日に[[世界気象機関]](WMO)が発足したことから、発足10周年を記念して[[1960年]]に制定。[[国際デー]]の一つ。 * 共和制記念日({{PAK}}) *: [[1956年]]のこの日、[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が[[イスラム共和制|イスラム教徒による共和国]]に移行したことを記念。 * ハンガリー・ポーランド友好の日({{HUN}}・{{POL}}) * 海の日({{BOL}}) *: [[1879年]]のこの日、ボリビア・[[ペルー]]と[[チリ]]との間の戦争「[[太平洋戦争_(1879年-1884年)|太平洋戦争]]」が開戦した。1884年にチリが勝利し、ボリビアは海につながる領土を失って[[内陸国]]となった。 <!-- 年によって日附が大きく変わるので、一々載せていられない。 * [[復活祭]] *: [[キリスト教]]([[西方教会]])、[[2008年]] --> == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0323|date=2011年6月}} * [[1925年]] - 星辰の位置正しき時。ルルイエが浮上する。(小説『[[クトゥルフの呼び声 (小説)|クトゥルフの呼び声]]』) * [[2018年]] - ホテルバンドーで俳優の藤見野イサオが殺害され、同じく俳優の王都楼真悟が逮捕される。(ゲーム『[[逆転裁判|逆転裁判2]]』) * [[2196年]] - 時空警察仕様のエリー型アンドロイドERRE-2201-E、[[時空警察ヴェッカーD-02#D-02|時空刑事エリー]]が完成する。(『[[時空警察ヴェッカーD-02]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1977年]] - 中条伸人、漫画・アニメ『[[BUS GAMER]]』に登場するキャラクター * [[1992年]] - 若月修輔、ゲーム・アニメ『[[Myself ; Yourself]]』に登場するキャラクター * 1992年 - 若月朱里、ゲーム・アニメ『Myself ; Yourself』に登場するキャラクター * 4983年 - 神崎あかり、アニメ『[[バトルアスリーテス 大運動会]]』の主人公 * 生年不明 - 花巻吸歌、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/hanamaki_suika |title=岩手 花巻吸歌 |access-date=2022-10-02 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref> * 生年不明 - 長門櫻、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/nagato_sakura |title=山口 長門櫻 |access-date=2022-10-02 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref> * 生年不明 - 久芒白春、漫画『[[Mr.FULLSWING]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ドン・観音寺、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year=2006|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=62|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=4-08-874079-3}}</ref> * 生年不明 - マングスタ、漫画『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 薙切えりな、漫画・アニメ『[[食戟のソーマ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=原作:附田祐斗|authorlink1=附田祐斗|author2=作画:佐伯俊|authorlink2=佐伯俊 (漫画家)|year=2017|title=食戟のソーマ 第23巻「荒野を拓く者」|page=190|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-881020-1}}</ref> * 生年不明 - エクトプラズム、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group04/04-10/ |title=エクトプラズム |work= |website=TVアニメ『僕のヒーローアカデミア』 |accessdate=2022-10-02 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 塚本八雲、漫画・アニメ『[[スクールランブル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=小林尽(監修)|authorlink=小林尽|year=2006|title=School Rumble Treasure File|page=46|publisher=[[講談社]]|series=KCデラックス|isbn=978-4-06-372137-9}}</ref> * 生年不明 - 柊沢エリオル、漫画・アニメ『[[カードキャプターさくら]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 中山有里子、漫画『[[会計チーフはゆ〜うつ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - メルフォンド=リブロデイク、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ(監修)|authorlink=東まゆみ|year=2009|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|page=97|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|isbn=978-4-86127-616-3}}</ref> * 生年不明 - 比与森楓、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=小林立|authorlink=小林立 |year = 2016 |title = 咲-Saki- |volume = 第16巻 |page = 181 |publisher = [[スクウェア・エニックス]] |isbn = 978-4-7575-5193-0 }}</ref> * 生年不明 - 赤月知佳、漫画・アニメ『[[ZOMBIE-LOAN]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 化野菱理、小説・漫画・アニメ『[[ロード・エルメロイII世の事件簿]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite|和書|title=ロード・エルメロイII世の事件簿 material|author=三田誠 / 坂本みねぢ|date=2020|publisher=TYPE-MOON|pages=51}}</ref> * 生年不明 - 花小金井雛子、アニメ『[[アキハバラ電脳組]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 千浦真林、読者参加企画『[[Milky Season]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#中野有香|中野有香]]、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20112 |title=中野 有香 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=2022-10-02 |work=THE IDOLM@STER アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - タイキシャトル、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=taikishuttle |title=タイキシャトル |publisher=Cygames |accessdate=2022-10-02 |website=「ウマ娘 プリティーダービー」公式ポータルサイト}}</ref> * 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#Poppin'Party|牛込りみ]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/ushigome-rimi/ |title=牛込りみ |access-date=2022-10-02 |publisher=Craft Egg Inc. bushiroad |work=BanG Dream!ガールズバンドパーティ!}}</ref><ref>{{Twitter status|bang_dream_info|844564577933144064}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|March 23|23 March}} {{新暦365日|3|22|3|24|[[2月23日]]|[[4月23日]]|[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]|0323|3|23}} {{1年の月と日}}
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3月24日
3月24日(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から83日目(閏年では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。
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{{カレンダー 3月}} '''3月24日'''(さんがつにじゅうよっか、さんがつにじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から83日目([[閏年]]では84日目)にあたり、年末まであと282日ある。 == できごと == [[Image:Tokugawa Ieyasu2.JPG|thumb|140px|[[徳川家康]]、[[征夷大将軍]]に就任(1603年)]] [[Image:Sakuradamon_incident_1860.jpg|thumb|300px|[[桜田門外の変]](1860年)]] [[Image:Enabling Act in colour.jpg|thumb|200px|[[ドイツ国|ドイツ]]で[[全権委任法]]が成立(1933年)]] * [[1185年]]([[元暦]]2年/[[寿永]]4年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - [[治承・寿永の乱]]: [[屋島]]から敗走する[[平氏]]軍を[[源氏]]方が追撃。([[志度合戦]]) * [[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[足利尊氏]]が[[豊島河原合戦]]に敗れ、九州に落ち延びる。 * [[1603年]] - [[イングランド王国|イングランド]]女王[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の死去に伴い、スコットランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]がイングランド王ジェームズ1世としても即位。スコットランドとイングランドが[[同君連合]]となる。 * 1603年([[慶長]]8年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[徳川家康]]が[[征夷大将軍]]に就任する。[[日本史]]における[[江戸時代]]の始まり。 * [[1860年]]([[安政]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[桜田門外の変]]が起こる。 * [[1869年]]([[明治2年]][[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[江戸幕府]]の貨幣鋳造所だった[[金座]]・[[銀座 (歴史)|銀座]]が廃止される。 * [[1882年]] - [[ロベルト・コッホ]]が[[結核菌]]の発見を学会で報告。 * [[1891年]] - 日本で[[度量衡法]]公布。(施行1893年1月1日) * [[1895年]] - [[李鴻章]]が第3回[[日清戦争|日清]]講和会議の帰途狙撃される。 * [[1914年]] - [[シーメンス事件]]による国政の混乱の責任を負い、[[第1次山本内閣|第一次山本権兵衛内閣]]が[[内閣総辞職|総辞職]]。 <!-- 英語版にあるが、[[ギリシャ]]の記述と相違 * [[1923年]] - [[ギリシャ]]が共和制に移行。 --> * [[1925年]] - 玉南電気鉄道線(現・[[京王電鉄]][[京王線]])[[府中駅 (東京都)|府中駅]] - 東八王子駅(現・[[京王八王子駅]])間開業により、[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|新宿追分駅]](廃駅) - 東八王子駅間全線開通。 * [[1927年]] - [[北伐 (中国国民党)|北伐]]: [[蔣介石]]率いる[[国民革命軍]]が[[南京]]に入城するも軍の一部が暴徒化し外国人を襲撃、これに対し列強の駐留軍が城内に砲撃し多数の死傷者を出す。([[南京事件 (1927年)|南京事件]]) * [[1928年]] - [[上野公園]]で御大礼記念国産振興博覧会が始まる<ref>黒山の人垣-初日の会場一巡記『東京朝日新聞』昭和3年3月25日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p162 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1933年]] - ドイツ議会で[[全権委任法]]が可決。 * [[1934年]] - アメリカ議会で[[フィリピン独立法]]が可決。 * [[1953年]] - [[国際電信電話]]株式会社(KDD、現在の[[KDDI]])設立。 * [[1955年]] - [[埼玉県名細村米軍機墜落事故]] * [[1959年]] - [[イラク]]が中東の反共軍事同盟[[中央条約機構|バグダッド条約機構]]を脱退。 * [[1964年]] - [[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]]米大使が日本人少年に刺され負傷。輸血された血液から肝炎に感染し、[[売血]]が問題化する。 * [[1965年]] - [[河川法]]制定により[[荒川 (関東)#荒川放水路|荒川放水路]]が[[荒川 (関東)|荒川]]本流となる。これに伴い[[流路形状#旧河道|旧河道]]の名称が、それまで[[白鬚橋]]辺りから下流<ref>{{Cite web|和書|title=あらかわを知る|url=https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kanko/kankojoho/yokoso/shiru.html#cms42B0B|publisher=荒川区|accessdate=2017-05-24}}</ref>の[[通称|俗称]]だった「[[隅田川]]」となる<ref>{{Cite web|和書|title=すみだ区報(墨田区のお知らせ「すみだ」) 2015年3月21日号|url=https://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/150321/kuhou01.html|publisher=墨田区|accessdate=2017-05-24}}</ref>。 * [[1967年]] - [[Osaka Metro谷町線|大阪市営地下鉄谷町線]]・[[東梅田駅]] - [[谷町四丁目駅]]間が開業。 * [[1972年]] - [[北アイルランド問題]]: [[イギリス]]政府が[[北アイルランド]]の直轄統治を宣言。 * [[1975年]] - 合成洗剤事業の出遅れや[[第一次オイルショック]]による資源節減等の影響で、大手老舗メーカー・[[ミツワ石鹸]]が倒産。同社の生産設備および商標は旧日本サンホームとの関係から[[P&G|P&Gサンホーム]]が買収。 * 1975年 - [[集団就職#移動手段|集団就職列車]]の運行が終了。 * [[1976年]] - [[アルゼンチン]]で軍部による無血クーデター。[[イザベル・ペロン]]大統領が失脚。 * [[1980年]] - [[エルサルバドル]]のカトリック司祭・[[オスカル・ロメロ]]がミサの司式の最中に狙撃を受けて暗殺される。 * [[1983年]] - [[中国自動車道]]が全線開通。[[東京]]([[首都高速道路]]・[[東名高速道路]]・[[中央自動車道]])から[[熊本県]][[八代市]]([[九州自動車道]][[八代インターチェンジ|八代IC]])まで高速道路で結ばれる。 * [[1987年]] - [[三菱重工爆破事件]]を起こした[[東アジア反日武装戦線]]の[[大道寺将司]]と[[益永利明]]について、最高裁で上告が棄却され死刑判決が確定。 * [[1988年]] - [[上海列車事故]]。[[高知学芸中学校・高等学校|高知学芸高]]の修学旅行中の生徒教員など29人死亡 * 1988年 - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]木原線([[大原駅 (千葉県)|大原]] - [[上総中野駅|上総中野]])が[[いすみ鉄道]]に転換。 * [[1989年]] - [[エクソンバルディーズ号原油流出事故]]。タンカー・[[エクソン・ヴァルディーズ]]号が暗礁で破損、4万1300トンの油が海に流出する。 <!-- 1991年5月29日 * [[1993年]] - [[エリトリア]]が[[エチオピア]]から独立。--> * [[1993年]] - [[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]が発見される。 * [[1995年]] - [[深海]]調査船[[かいこう]]が[[チャレンジャー海淵]]の世界最深部を探査。 * [[1996年]] - [[サッカー]]の[[1996年アトランタオリンピック|アトランタオリンピック]]予選準決勝で[[U-23サッカー日本代表|U-23日本代表]]が[[U-23サッカーサウジアラビア代表|U-23サウジアラビア代表]]を破り、[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコ大会]]以来28年ぶりの五輪出場権を獲得。 * [[1999年]] - [[コソボ]]交渉が決裂し、[[北大西洋条約機構|NATO]]軍が[[アライド・フォース作戦|ユーゴスラビア空爆]]を開始。 * 1999年 - [[千葉都市モノレール]]1号線[[千葉駅]] - [[県庁前駅 (千葉県)|県庁前駅]]間が開業。 * [[2001年]] - [[芸予地震]]発生。 * 2001年 - [[Apple]]が[[macOS|Mac OS X]]の最初のバージョンをリリース。 <!-- * [[2006年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ|ハンナ・モンタナ]]が放送開始。 --> <!-- * [[2007年]] - フィギュア世界選手権で[[安藤美姫]]が金メダル、[[浅田真央]]は銀メダル。 --> * [[2008年]] - [[ブータン]]の[[国民議会 (ブータン)|国民議会]](下院)で、前年12月の[[国家評議会 (ブータン)|国家評議会]](上院)選挙に続いて初めて[[普通選挙]]による選挙([[2008年ブータン総選挙]])を実施。[[ブータン調和党]]が圧勝。 * [[2015年]] - [[ジャーマンウイングス9525便墜落事故]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2015年3月25日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3043481 |title=ドイツ旅客機墜落、乗客乗員150人死亡 ブラックボックス回収 |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-03-31}}</ref>。 * [[2023年]] - テレビアニメ「[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]」(第1作)の最終回が放送され、1997年から続いた[[サトシ (アニメポケットモンスター)|サトシ]]と[[ピカチュウ]]の冒険に幕を下ろす<ref>{{Cite web|和書|date=2023年3月24日 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2272781/full/ |title=『ポケモン』最終回でサトシ&ピカチュウの物語完結 26年の歴史に幕で感動の声続々 世界トレンド1位の大反響 |work=ORICON NEWS |publisher=オリコン |accessdate=2023-04-16}}</ref>。 == 誕生日 == === 人物 === [[Image:Bol, Michiel de Ruyter.jpg|thumb|upright|[[オランダ]][[海軍]]の[[提督]]、[[ミヒール・デ・ロイテル]](1607-1676)誕生]] [[Image:Arai_Hakuseki_-_Japanischer_Gelehrter.jpg|thumb|upright|[[儒学者]]、[[新井白石]](1657-1725)誕生]] [[Image:John_Harrison_Uhrmacher.jpg|thumb|upright|時計職人[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]](1693-1776)は3月24日生、3月24日没<!--。遠洋航海のための経度測定を可能にする精度の時計を作った-->]] [[Image:Morris_Tulip_and_Willow_design_1873.jpg|thumb|upright|[[アーツ・アンド・クラフツ]]運動を興した[[デザイナー]]、[[ウィリアム・モリス]](1834-1896)。画像は『チューリップと柳』(1873)]] [[Image:HarryHoudini-1899.jpg|thumb|upright|「脱出王」の異名を取った[[奇術師]]、[[ハリー・フーディーニ]](1874-1926)]] [[Image:Debye100.jpg|thumb|upright|分子構造を研究した化学者[[ピーター・デバイ]](1884-1966)]] [[Image:Kichiemon_Nakamura_I_as_Takebe_Genz%C5%8D.jpg|thumb|upright|[[歌舞伎]]役者、初代[[中村吉右衛門 (初代)|中村吉右衛門]](1886-1954)]] [[ファイル:Rafael Orozco 1992.jpg|サムネイル|283x283ピクセル|ラテン音楽界の偉大な歌手の一人[[ラファエル・オロスコ・マエストレ]](1954-1992)誕生]]<!--[[Image:FrutigerFaces.png|thumb|upright|[[書体デザイナー]]、[[アドリアン・フルティガー]](1928-)。画像はフルティガーがデザインした書体]]--> * [[1141年]]([[永治]]元年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[熊谷直実]]<ref group="注">「四十八巻伝」27では、蓮生は[[建永]]2年9月4日([[1207年]][[9月27日]]))に往生したとある。</ref>、[[平安時代]]末期・[[鎌倉時代]]初期の[[武将]](+ [[1207年]]) * [[1229年]]([[寛喜]]元年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[北条長時]]、[[鎌倉幕府]]第6代[[執権]](+ [[1264年]]) * [[1490年]] - [[ゲオルク・アグリコラ]]、[[鉱山]]学者、[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[1555年]]) * [[1529年]]([[享禄]]2年2月15日) - [[龍造寺隆信]]、[[戦国大名]](+ [[1584年]]) * [[1607年]] - [[ミヒール・デ・ロイテル]]、[[オランダ]]の[[軍人|海軍軍人]](+ [[1676年]]) * [[1657年]]([[明暦]]3年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[新井白石]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[儒教|儒学者]](+ [[1725年]]) * [[1693年]] - [[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]、[[時計]]製作者(+ [[1776年]]) * [[1763年]]([[宝暦]]13年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]、第3代[[三河吉田藩|吉田藩主]](+ [[1817年]]) * [[1776年]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[調所広郷]]、[[薩摩藩]][[家老]](+ [[1849年]]) * [[1809年]] - [[ジョゼフ・リウヴィル]]、[[数学者]](+ [[1882年]]) * [[1820年]] - [[アレクサンドル・エドモン・ベクレル]]、[[物理学者]](+ [[1891年]]) * [[1823年]]([[文政]]6年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[下岡蓮杖]]、[[写真家|写真師]](+ [[1914年]]) * [[1828年]]([[文政]]11年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[島津忠寛]]、第11代[[佐土原藩|佐土原藩主]]・[[伯爵]](+ [[1896年]]) * [[1834年]] - [[ウィリアム・モリス]]、[[詩人]]、[[デザイナー]](+ [[1896年]]) * [[1835年]] - [[ヨーゼフ・シュテファン]]、物理学者(+ [[1893年]]) * [[1839年]] - [[ホレース・タットル]]、[[天文学者]](+ [[1923年]]) * [[1861年]]([[万延]]2年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[堀直弘]]、第12代[[村松藩|村松藩主]](+ [[1919年]]) * [[1870年]]([[明治]]3年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[本多光太郎]]、物理学者、[[金属工学|金属工学者]](+ [[1954年]]) * 1870年(明治3年2月23日)- [[安井てつ]]、[[教育関係人物一覧|教育者]](+ [[1945年]]) * [[1874年]] - [[ハリー・フーディーニ]]、[[マジシャン (奇術)|奇術師]](+ [[1926年]]) * 1874年 - [[ルイージ・エイナウディ]]、[[政治家]]、[[財政家]](+ [[1961年]]) * [[1877年]] - [[アレクセイ・ノビコフ=プリボイ]]、[[作家]](+ [[1944年]]) * [[1879年]] - [[ハーバート・ラング]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1957年]]) * [[1884年]] - [[ピーター・デバイ]]、物理学者、[[化学者]](+ [[1966年]]) * 1884年 - [[黒田チカ]]、[[化学者]](+ [[1968年]]) * [[1886年]] - [[中村吉右衛門 (初代)]]、[[歌舞伎役者一覧|歌舞伎役者]](+ [[1954年]]) * 1886年 - [[エドワード・ウェストン]]、[[写真家]](+ [[1958年]]) * [[1887年]] - [[赤木正雄]]、政治家、[[砂防]]技術者(+ [[1972年]]) * 1887年 - [[ロスコー・アーバックル]]、[[コメディアン|喜劇俳優]](+ [[1933年]]) * 1887年 - [[岡田春夫 (初代)|岡田春夫]]、政治家、衆議院議員(+ [[1937年]]) * [[1889年]] - [[林譲治 (政治家)|林譲治]]、政治家、第41代[[衆議院議長]](+ [[1960年]]) * 1889年 - [[アレクシア・ブリン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ 没年不詳) * [[1893年]] - [[ジョージ・シスラー]]、[[野球選手]](+ [[1973年]]) * 1893年 - [[ウォルター・バーデ]]、天文学者(+ [[1960年]]) * [[1894年]] - [[竹田儀一]]、政治家(+ [[1973年]]) * [[1897年]] - [[ヴィルヘルム・ライヒ]]、[[精神分析]]家(+ [[1957年]]) * [[1898年]] - [[宮田東峰]]、[[ハーモニカ]]奏者(+ [[1986年]]) * [[1900年]] - [[小山富士夫]]、[[陶磁器]]研究家、[[陶芸家]](+ [[1975年]]) * [[1901年]] - [[アブ・アイワークス]]、[[アニメーター]]、[[アニメーション]]技術者(+ [[1971年]]) * [[1902年]] - [[トマス・E・デューイ]]、[[ニューヨーク州]]知事(+ [[1971年]]) * 1902年 - [[塩谷信男]]、医学博士、正心調息法の創始者(+ [[2008年]]) * [[1903年]] - [[アドルフ・ブーテナント]]、[[生化学|生化学者]](+ [[1995年]]) * [[1909年]] - [[クライド・バロウ]]、[[銀行強盗]]、「[[ボニーとクライド]]」の1人(+ [[1934年]]) * [[1910年]] - [[エドゥアルト・シュトラウス2世]]、[[指揮者]](+ [[1969年]]) * [[1911年]] - [[ジョセフ・バーベラ]]、アニメーター(+ [[2006年]]) * [[1913年]] - [[渡辺白泉]]、[[俳人]](+ [[1969年]]) * [[1915年]] - [[ゴージャス・ジョージ]]、[[プロレスラー]](+ [[1963年]]) * [[1917年]] - [[向坊隆]]、[[応用化学|応用化学者]](+ [[2002年]]) * 1917年 - [[ジョン・ケンドリュー]]、生化学者(+ [[1997年]]) * [[1921年]] - [[小峰元]]、[[小説家]](+ [[1994年]]) * 1921年 - [[ワシリー・スミスロフ]]、第8代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの公式世界チャンピオン]](+ [[2010年]]) * [[1925年]] - [[速水優]]、第28代[[日本銀行]]総裁(+ [[2009年]]) * [[1926年]] - [[ダリオ・フォ]]、[[劇作家]]、[[俳優]](+ [[2016年]]<ref>{{Cite news|title=ダリオ・フォさん死去 イタリアのノーベル文学賞劇作家|newspaper=朝日新聞|date=2016-10-13|url=http://www.asahi.com/articles/ASJBF5K0JJBFUHBI02C.html|accessdate=2020-11-08}}</ref>) * [[1928年]] - [[アラン・シリトー]]、小説家(+ [[2010年]]) * 1928年 - [[バイロン・ジャニス]]、[[ピアニスト]] * [[1929年]] - [[高橋玄洋]]、[[脚本家]]、劇作家 * 1929年 - [[井上萬二]]、陶芸家 * 1929年 - [[多羅間俊彦]]、[[旧皇族]](+ [[2015年]]) * [[1930年]] - [[スティーブ・マックイーン]]、俳優(+ [[1980年]]) * 1930年 - [[ダヴィド・ダッコ]]、元[[中央アフリカの大統領|中央アフリカ共和国大統領]](+ [[2003年]]) * [[1931年]] - [[高橋彦博]]、[[政治学者]] * 1931年 - [[神楽坂はん子]]、[[歌手]](+ [[1995年]]) * [[1932年]] - [[小尾芙佐]]、[[翻訳家]] * [[1933年]] - [[八重樫茂生]]、元[[サッカー選手]]、指導者(+ [[2011年]]) * [[1934年]] - [[梅木恒明]]、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]指導者 (+ [[2013年]]) * [[1936年]] - [[デヴィッド・スズキ]]、[[生物学者の一覧|生物学者]]、[[環境問題]]活動家 * [[1938年]] - [[ホルガー・シューカイ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[カン (バンド)|カン]])(+ [[2017年]]) * [[1939年]] - [[小山修三]]、[[文化人類学|文化人類学者]]、[[考古学者]](+ [[2022年]]) * [[1942年]] - [[大熊伸行]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2011年]]) * [[1943年]] - [[神部年男]]、元プロ野球選手 * 1943年 - [[マリカ・キリウス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1944年]] - [[ヴォイスラヴ・コシュトニツァ]]、[[ユーゴスラビア|ユーゴスラビア連邦共和国]]最後の大統領 * 1944年 - [[R・リー・アーメイ]]、[[アメリカ海兵隊]]の[[軍人]]、俳優(+ [[2018年]]) * 1944年 - [[ジェフリー・パーカー]]、生物学者 * [[1945年]] - [[ロバート・T・バッカー]]、[[古生物学|古生物学者]] * 1945年 - [[カーティス・ハンソン]]、[[映画監督]](+ [[2016年]]) * [[1946年]] - [[辻昌憲]]、[[自転車競技]]選手(+ [[1985年]]) * [[1947年]] - [[梶芽衣子]]、[[俳優|女優]] * [[1948年]] - [[イェジ・ククチカ]]、[[登山家]](+ [[1989年]]) * 1948年 - [[フォルカー・フィンケ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者 * [[1949年]] - [[ルート・クロル]]、元サッカー選手、指導者 * 1949年 - [[ニック・ロウ]]、ミュージシャン * [[1950年]] - [[安田泰一]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[松本薫 (狂言師)|松本薫]]、[[狂言師]] * 1951年 - [[トミー・ヒルフィガー]]、[[ファッションデザイナー]] * [[1954年]] - [[大島やすいち]]、[[漫画家]] * [[1954年]] - [[ラファエル・オロスコ・マエストレ]]、歌手(+ [[1992年]]) * [[1956年]] - [[島田紳助]]、元[[タレント]]、元[[司会|司会者]] * 1956年 - [[スティーブ・バルマー]]、[[実業家]] * 1956年 - [[山口健]]、[[声優]](+ [[2011年]]) * 1956年 - [[岩城浩幸]]、元[[TBSテレビ]][[記者]]、[[解説委員]](+ [[2022年]]) * [[1958年]] - [[鶴田保子]]、[[ジャンボ鶴田]]夫人 * 1958年 - [[平賀雅臣]]、俳優 * [[1960年]] - [[ケリー・ルブロック]]、女優、モデル * [[1961年]] - [[小形満]]、声優 * [[1963年]] - [[大沼朗裕]]、テレビプロデューサー * [[1965年]] - [[合田浩章]]、[[アニメ監督]]、アニメーター * 1965年 - [[朝倉世界一]]、漫画家 * 1965年 - [[ジ・アンダーテイカー]]、プロレスラー * [[1966年]] - [[大橋薫]]、漫画家 * 1966年 - [[楠桂]]、漫画家 * 1966年 - [[松永光弘]]、プロレスラー * [[1967年]] - [[辻口博啓]]、[[シェフ|料理人]] * 1967年 - [[峯村リエ]]、女優 * 1967年 - [[ティエリ・ジャルネ]]、[[騎手]] * [[1968年]] - [[桜井進]]、[[科学|サイエンス]]ナビゲーター * 1968年 - [[斉藤一美]]、[[文化放送]][[アナウンサー]] * [[1969年]] - [[郭李建夫]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[ヨーコ・ゼッターランド]]、元[[バレーボール]]選手 * 1969年 - [[秋乃桜子]]、元タレント、元女優 * 1969年 - [[シュテファン・エバーハーター]]、元[[アルペンスキー]]選手 * [[1970年]] - [[天野ひろゆき]]、[[お笑いタレント]]([[キャイ〜ン]]) * 1970年 - [[酒井格]]、[[作曲家]] * 1970年 - [[ちはる]]、タレント * 1970年 - [[原田泰造]]、お笑いタレント([[ネプチューン (お笑いトリオ)|ネプチューン]]) * 1970年 - [[桑元孝雄]]、[[高校野球]]指導者 * 1970年 - [[ララ・フリン・ボイル]]、女優 * 1970年 - [[シャロン・コアー]]、ミュージシャン([[ザ・コアーズ]]) * [[1971年]] - [[羽鳥慎一]]、フリーアナウンサー * [[1972年]] - [[クリストフ・デュガリー]]、元サッカー選手 * [[1973年]] - [[丹下桜]]、声優 * 1973年 - [[DJ JIN]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]([[RHYMESTER]]) * [[1974年]] - [[アリソン・ハニガン]]、女優 * 1974年 - [[セルゲイ・クリュギン]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]] * [[1975年]] - [[トーマス・ヨハンソン]]、[[テニス]]選手 * [[1976年]] - [[くわばたりえ]]、お笑いタレント([[クワバタオハラ]]) * 1976年 - [[ペイトン・マニング]]、[[アメリカンフットボール]]選手 * 1976年 - [[張民]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1977年]] - [[三浦祥朗]]、声優 * 1977年 - [[永島英明]]、[[ハンドボール]]選手 * [[1978年]] - [[持田香織]]、[[ミュージシャン]]([[Every Little Thing]]) * 1978年 - [[加藤武治]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[ホセ・バルベルデ]]、プロ野球選手 * 1978年 - [[トマーシュ・ウイファルシ]]、元サッカー選手 * [[1979年]] - [[滝川英治]]、俳優 * [[1980年]] - [[SHOGO (歌手)|SHOGO]]、ミュージシャン([[175R]]) * [[1981年]] - [[ダーク・ヘイハースト]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[KENN]]、声優 * 1982年 - [[大友愛]]、元バレーボール選手 * 1982年 - [[姫嶋菜穂子]]、タレント * 1982年 - [[コーリー・ハート]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[初音映莉子]]、女優 * 1982年 - [[ジャック・スワガー]]、プロレスラー * 1982年 - [[フーリー・デュプレア]]、元ラグビー選手 * 1982年 - [[ロビンソン・テヘダ]]、プロ野球選手 * [[1983年]] - [[安東理紗]]、アナウンサー * [[1984年]] - [[ホセ・ルイス (内野手)|ホセ・ルイス]]、プロ野球選手 * 1984年 - [[藤本淳吾]]、サッカー選手 * 1984年 - [[ロマン・ヴォロビオフ]]、サッカー選手 * 1984年 - [[クリス・ボッシュ]]、元[[バスケットボール選手]] * 1984年 - [[神永東吾]]、ミュージカル俳優 * 1984年 - [[石井亮輔]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]] * [[1985年]] - [[綾瀬はるか]]、女優 * 1985年 - [[平野早矢香]]、元[[卓球]]選手 * [[1986年]] - [[平手晃平]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]] * 1986年 - Maboos、ミュージシャン([[Electroboyz]]) * [[1987年]] - [[麻美ゆま]]、タレント、元[[AV女優]] * 1987年 - [[岩崎陽平]]、[[サッカー]]選手 * 1987年 - [[パク・ジョンミン (俳優)|パク・ジョンミン]]、俳優 * 1987年 - [[ピエール=ルー・ブーケ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1988年]] - [[水波綾]]、プロレスラー * 1988年 - [[原綾子]]、ファッションモデル * 1988年 - [[西尾知亜紀]]、アナウンサー * 1988年 - [[盛川あきこ]]、元[[グラビアアイドル]]、元AV女優 * [[1989年]] - [[長谷川るみ]]、タレント、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]2号) * 1989年 - [[井岡一翔]]、[[プロボクサー]] * 1989年 - [[アンドレイ・セミョノフ (1989年生のサッカー選手)|アンドレイ・セミョノフ]]、サッカー選手 * [[1990年]] - [[青木瑠璃子]]、声優 * 1990年 - [[大津祐樹]]、サッカー選手 * 1990年 - [[スターリン・カストロ]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[ケイシャ・キャッスル=ヒューズ]]、女優 * 1990年 - [[ポーフィリオ・ロペス]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[レヴァン・ムチェドリーゼ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[大東和華子]]、[[アナウンサー]] * 1991年 - [[金平将至]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[M!ho]]、女優 * [[1993年]] - [[篠田拓馬]]、俳優 * 1993年 - [[竜星涼]]、俳優 * 1993年 - [[小田島渚]]、女優、グラビアアイドル * [[1995年]] - [[春花]]、[[ドラッグレース|ドラッグレーサー]]、元[[ファッションモデル]]、元女優 * 1995年 - たける、お笑いタレント([[東京ホテイソン]]) * 1995年 - [[柾木玲弥]]、俳優 * 1995年 - [[山田麻莉奈]]、声優、アイドル(元[[HKT48]]) * [[1996年]] - [[森川彩香]]、アイドル(元[[AKB48]]) * 1996年 - [[中谷進之介]]、サッカー選手 * [[1997年]] - 玉川桃奈、元ダンサー(元[[Dream5]]) * 1997年 - [[ミナ (歌手)|ミナ]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]]) * 1997年 - [[井口綾子]]、タレント、グラビアアイドル * 1997年 - [[Laur]] 、作曲家、編曲家、DJ([[HARDCORE TANO*C]]) * [[1998年]] - [[鈴木裕乃]]、元モデル、元女優(元[[私立恵比寿中学]]) * 1998年 - 須藤祥、[[YouTuber]]([[だいにぐるーぷ]]) * [[1999年]] - 土路生優里、女優、元アイドル(元[[STU48]]) * 1999年 - [[岩見秀哉]]、陸上選手 * 1999年 - [[甲斐田陽菜]]、元プロ野球選手 * [[2000年]] - [[百瀬あすか]]、AV女優 * [[2001年]] - [[中野愛理]]、アイドル、モデル([[SKE48]]、[[カミングフレーバー]]) * 生年不明 - [[中田俊輔]]、声優 === 人物以外(動物など) === * [[1952年]] - [[メイヂヒカリ]]、[[競走馬]](+ [[1980年]]) * [[1962年]] - [[カブトシロー]]、競走馬(+ [[1987年]]) * [[1970年]] - [[タケホープ]]、競走馬(+ [[1994年]]) * [[1985年]] - [[アラホウトク]]、競走馬(+[[1998年]]) * [[1990年]] - [[インターマイウェイ]]、競走馬(+ [[1999年]]) * [[1992年]] - [[マヤノトップガン]]、競走馬(+ [[2019年]]) * [[1993年]] - [[ロイヤルタッチ]]、競走馬(+ 2019年) * [[1994年]] - [[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]]、競走馬(+ [[2015年]]) * 1994年 - [[ミッドナイトベット]]、競走馬 * [[1997年]] - [[ダイタクリーヴァ]]、競走馬 * 1997年 - [[ノボジャック]]、競走馬 * 1997年 - [[フサイチソニック]]、競走馬 * [[2010年]] - [[コパノリッキー]]、競走馬 * [[2013年]] - [[ディーマジェスティ]]、競走馬 == 忌日 == [[Image:Harun_Al-Rashid_and_the_World_of_the_Thousand_and_One_Nights.jpg|thumb|upright|[[アッバース朝]]最盛期の[[カリフ]]、[[ハールーン・アッ=ラシード]](766-809)没]] [[Image:Ashikaga_Mochijuji_color.jpg|thumb|160px|[[足利持氏]](1398-1439)、[[永享の乱]]にて自害(1438)]] <!--[[Image:Ii-Naomasa_statue.jpg|thumb|250px|[[徳川家康]]の重臣、[[井伊直政]](1561-1602)没]]--> [[Image:Funeral_Elisabeth.jpg|thumb|300px|イングランド女王[[エリザベス1世]](1533-1603)没。画像は女王の葬列]] <!--[[Image:Ii_Naosuke.jpg|thumb|upright|江戸幕府[[大老]][[井伊直弼]](1815-1860)、[[桜田門外の変]]で暗殺]]--> [[Image:Longfellow-Grave2.jpg|thumb|upright|[[ロマン主義]]詩人[[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー]](1807-1882)、腹膜炎で没]] [[Image:Jules_Verne_in_1892.jpg|thumb|upright|[[サイエンス・フィクション|SF]]開祖の1人、[[ジュール・ヴェルヌ]](1828-1905)]] [[Image:Ogino_Ginko2.jpg|thumb|upright|近代日本最初の女性医師、[[荻野吟子]](1851-1913)]] * [[809年]] - [[ハールーン・アッ=ラシード]]、[[アッバース朝]]第5代[[カリフ]](* [[766年]]) * [[870年]]([[貞観 (日本)|貞観]]12年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[春澄善縄]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[797年]]) * [[1351年]]([[正平 (日本)|正平]]6年/[[観応]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[高師直]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]] * 1351年(正平6年/観応2年2月26日) - [[高師泰]]、南北朝時代の武将 * 1351年(正平6年/観応2年2月26日) - [[高師世]]、南北朝時代の武将 * [[1439年]]([[永享]]11年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[足利持氏]]、[[室町幕府]]第4代[[鎌倉公方]](* [[1398年]]) * [[1455年]] - [[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]、第208代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1397年]]) * [[1563年]]([[永禄]]6年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[細川晴元]]、[[室町時代]]末期の[[管領]](* [[1514年]]) * [[1577年]]([[天正]]5年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[直江景綱]]、[[武将|戦国武将]](* [[1509年]]) * [[1602年]]([[慶長]]7年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[井伊直政]]、戦国武将(* [[1561年]]) * [[1603年]] - [[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]、[[イングランド王国|イングランド]]女王(* [[1533年]]) * [[1644年]] - [[ツェツィーリア・レナータ]]、[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ポーランド王ヴワディスワフ4世]]の妃(* [[1611年]]) * [[1653年]] - [[ザムエル・シャイト]]、[[作曲家]](* [[1587年]]) * [[1704年]]([[元禄]]17年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[市川團十郎 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1660年]]) * [[1760年]]([[宝暦]]10年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[井伊直定]]、第10・12代[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1700年]]) * [[1766年]]([[明和]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[徳川宗翰]]、[[常陸国]][[水戸藩]]の第5代藩主(* [[1728年]]) * [[1776年]] - [[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]、[[時計]]製作者(* [[1693年]]) * 1776年([[安永 (元号)|安永]]5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[尾崎散木]]、[[書道|書家]]、[[篆刻|篆刻家]](* [[1703年]]) * [[1794年]] - [[ジャック・ルネ・エベール]]、[[フランス革命]]期の政治家(* [[1757年]]) * [[1805年]] - [[アロイス1世]]、[[リヒテンシュタイン|リヒテンシュタイン公]](* [[1759年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年3月1日) - [[徳川斉彊]]、第12代[[紀州藩|紀州藩主]](* [[1820年]]) * [[1860年]]([[安政]]7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[井伊直弼]]、[[江戸幕府]]の[[大老]]、第16代彦根藩主(* [[1815年]]) * [[1863年]]([[文久]]3年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[長井雅楽]]、[[長州藩|長州藩士]](* [[1819年]]) * [[1864年]] - [[カール・クラウス (化学者)|カール・クラウス]]、[[化学者]](* [[1796年]]) * [[1869年]] - [[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]、[[フランス]]の[[将軍]]、[[軍事学|軍事学者]](* [[1779年]]) * [[1877年]] - [[ウォルター・バジョット]]、[[評論家]]、[[ジャーナリスト]](* [[1826年]]) * [[1882年]] - [[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[詩人]](* [[1807年]]) * [[1885年]] - [[ジェイコブ・トンプソン]]、第5代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1810年]]) * [[1889年]] - [[高階経徳]]、旧[[御典医|典薬寮医師]]、[[明治天皇]]の侍医で日本最初の女医[[荻野吟子]]の師(* [[1833年]]) * [[1894年]] - [[イラリオン・プリャニシニコフ]]、[[画家]](* [[1840年]]) * [[1895年]] - [[ジョン・オサリヴァン]]、[[コラムニスト]](* [[1813年]]) * [[1899年]] - [[グスタフ・ヴィーデマン]]、[[物理学者]](* [[1826年]]) * [[1905年]] - [[ジュール・ヴェルヌ]]、[[SF作家]](* [[1828年]]) * [[1908年]] - [[スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)|第8代デヴォンシャー公爵スペンサー・キャヴェンディッシュ]]、イギリスの[[政治家]]・[[貴族]](* [[1833年]]) * [[1909年]] - [[ジョン・ミリントン・シング]]、[[劇作家]](* [[1871年]]) * [[1916年]] - [[エンリケ・グラナドス]]、作曲家(* [[1867年]]) * [[1918年]] - [[マイク・ドノバン]]、[[プロボクサー]](* [[1847年]]) * 1918年 - [[チャン・リン・スー]]、[[奇術|奇術師]](* [[1861年]]) * [[1924年]] - [[華頂宮博忠王]]、[[皇族]](* [[1902年]]) * [[1932年]] - [[梶井基次郎]]、[[小説家]](* [[1901年]]) * [[1935年]] - [[油屋熊八]]、[[実業家]](* [[1863年]]) * [[1936年]] - [[ヨーゼフ・ヤーダスゾーン]]、[[皮膚科学|皮膚科学者]](* [[1863年]]) * [[1936年]] - [[牧野信一]]、[[小説家]](* [[1896年]]) * [[1937年]] - [[牧野謙次郎]]、[[漢学者]](* [[1863年]]) * [[1939年]] - [[杉村陽太郎]]、[[外交官]]、[[国際オリンピック委員会|IOC委員]](* [[1884年]]) * [[1940年]] - [[エドアール・ブランリー]]、物理学者(* [[1844年]]) * [[1946年]] - [[ギルバート・ルイス]]、[[化学者]](* [[1875年]]) * 1946年 - [[アレクサンドル・アレヒン]]、[[チェス]]選手(* [[1892年]]) * [[1950年]] - [[ハロルド・ラスキ]]、[[政治学者]](* [[1893年]]) * [[1951年]] - [[エディ・コリンズ]]、[[プロ野球選手]](* [[1887年]]) * [[1953年]] - [[メアリー・オブ・テック]]、[[イギリス|イギリス王]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の妃(* [[1867年]]) * [[1956年]] - [[ウィレム・ヘンドリック・ケーソン]]、物理学者(* [[1876年]]) * [[1960年]] - [[中林仁一郎]]、実業家(* [[1891年]]) * [[1962年]] - [[オーギュスト・ピカール]]、物理学者、[[冒険家]](* [[1884年]]) * [[1969年]] - [[ジョセフ・カサブブ]]、[[コンゴ民主共和国|コンゴ]]大統領(* [[1910年]]?) * [[1970年]] - [[河津憲太郎]]、[[水泳]]選手(* [[1914年]]) * [[1971年]] - [[保井コノ]]、[[植物学者]](* [[1880年]]) * [[1972年]] - [[綾部健太郎]]、[[政治家]]、第53代[[衆議院議長]](* [[1890年]]) * [[1974年]] - [[吉田五十八]]、[[建築家]](* [[1894年]]) * [[1976年]] - [[E・H・シェパード]]、[[挿絵]][[画家]]、[[イラストレーター]](* [[1879年]]) * 1976年 - [[バーナード・モントゴメリー]]、[[イギリス陸軍]]の[[大将]](* [[1887年]]) * [[1977年]] - [[マクシム・サブーロフ]]、[[ゴスプラン]]議長(* [[1900年]]) * 1977年 - [[諸井三郎]]、作曲家(* [[1903年]]) * [[1978年]] - [[アンドレ・ラルマン]]、[[天文学者]](* [[1904年]]) * [[1980年]] - [[オスカル・ロメロ]]、[[エルサルバドル]]の[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]](* [[1917年]]) * [[1985年]] - [[志水速雄]]、[[政治学者]](* [[1935年]]) * [[1993年]] - [[服部高顯]]、第9代[[最高裁判所長官]](* [[1912年]]) * 1993年 - [[ジョン・ハーシー]]、[[ジャーナリスト]]、[[小説家]](* [[1914年]]) * [[1994年]] - [[小島政二郎]]、小説家(* [[1894年]]) * [[1995年]] - [[尾上梅幸 (7代目)]]、[[歌舞伎|歌舞伎役者]](* [[1915年]]) * [[2000年]] - [[平山三郎]]、[[小説家]](* [[1917年]]) * 2000年 - [[越智伊平]]、政治家(* [[1920年]]) * 2000年 - [[小松原一男]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイナー]](* [[1943年]]) * [[2002年]] - [[セーサル・ミルスタイン]]、[[生物学|生物学者]](* [[1927年]]) * 2002年 - [[ドロシー・ディレイ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1917年]]) * [[2004年]] - [[三ツ矢歌子]]、[[俳優|女優]](* [[1936年]]) * 2004年 - [[野口正明]]、元プロ野球選手(* [[1925年]]) * [[2005年]] - [[人見恭一郎]]、[[ジャズ]][[音楽評論家]](* [[1937年]]) * [[2006年]] - [[リチャード・フライシャー]]、[[映画監督]](* [[1916年]]) * [[2008年]] - [[リチャード・ウィドマーク]]、俳優(* [[1914年]]) * [[2009年]] - [[辻昌建]]、プロボクサー(* [[1978年]]) * [[2010年]] - [[ロバート・カルプ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2713173?cx_amp=all&act=all|title=米俳優ロバート・カルプさん死去、テレビ「アイ・スパイ」で有名に|publisher=AFPBB News|date=2010-03-25|accessdate=2020-11-18}}</ref>、[[俳優]]、映画監督(* [[1930年]]) * [[2013年]] - [[磯貝碧蹄館]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500O_V20C13A3CC0000/|title=磯貝碧蹄館氏が死去 俳人|publisher=日本経済新聞|date=2013-03-25|accessdate=2020-10-29}}</ref>、[[書家]]、[[俳人]](* [[1924年]]) * [[2016年]] - [[ヨハン・クライフ]]、元[[サッカー選手]]、指導者(* [[1947年]]) * [[2021年]] - [[田中邦衛]]、俳優(* [[1932年]]) * 2021年 - [[古賀稔彦]]、[[柔道家]](* [[1967年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:%E6%A2%B6%E4%BA%95%E5%9F%BA%E6%AC%A1%E9%83%8E%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A2%91.JPG|thumb|240px|[[梶井基次郎]](1901-1932)の命日、「檸檬忌」。画像は松坂城址の文学碑]] * [[世界結核デー]]({{World}}) *: [[1882年]]3月24日に[[ロベルト・コッホ]]が[[結核]]菌を発見したことから、[[世界保健機関]]が1997年に制定。 * {{仮リンク|真実と正義の日|en|Day of Remembrance for Truth and Justice}}({{ARG}}) *: [[2006年]]に制定。[[1976年]]のこの日の[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]将軍による軍事クーデターを記念。これにより[[イザベル・ペロン]]大統領が失脚し軍事政権へと移行したが、「[[汚い戦争]]」と呼ばれる弾圧行為により、1983年の民政移管までの間に3万人の国民が行方不明となった。 * 檸檬忌({{JPN}}) *: 作家[[梶井基次郎]]の命日。名前の由来は、代表作である小説『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』から。 <!-- 年によって大きく日附が変動するので、いちいち書かない * [[アーシューラー]](イスラム教、2002年) --> {{clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0324|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - 越山識、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://7o3x.com/char/profiles.html#1 |title=キャラクター 越山識 |publisher=杉基イクラ/KADOKAWA 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2022-10-02 |website=アニメ『ナナマル サンバツ』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - [[キャプテン翼の登場人物#ドイツ(西ドイツ)|ヘルマン・カルツ]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year=2003|title=キャプテン翼 3109日全記録|publisher=集英社|isbn=4-08-782789-5|page=168}}</ref> * 生年不明 - 蛇遣い座のシャイナ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=14 |title=蛇遣い座(オピュクス)のシャイナ |access-date=2022-10-02 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=車田正美 |work=聖闘士星矢}}</ref> * 生年不明 - 古間円児(魔猿)、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sotonami|580509479000797185}}</ref> * 生年不明 - 蕾見不二子、漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|zetchil_kousiki|1506646963311181825}}</ref> * 生年不明 - 三井光博、漫画『[[東京★イノセント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=鳴見なる|authorlink=鳴見なる|year=2008|title=東京★イノセント|volume=第5巻|page=34|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[月刊ガンガンWING#ガンガンウイングコミックス|ガンガンウイングコミックス]]|isbn=978-4-7575-2363-0}}</ref> * 生年不明 - 野々原ゆずこ、漫画・アニメ『[[ゆゆ式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author = 三上小又 |year = 2009 |title = ゆゆ式 |volume = 第1巻|publisher = 芳文社 |page = 2 |series = まんがタイムKRコミックス |isbn=978-4-8322-7794-6 }}</ref> * 生年不明 - ジャック・ターナー、ゲーム『[[龍虎の拳]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|snk_enter|977863356982878208}}</ref> * 生年不明 - 花音、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/kanon.php |title=花音 |work=閃乱カグラNewWave Gバースト |publisher=Marvelous Inc |accessdate=2022-10-02}}</ref> * 生年不明 - ヨシアキ、ゲーム『[[消滅都市]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shoumetsutoshi|845199668862627840}}</ref> * 生年不明 - ネネカ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1506813080181014529}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|March 24|24 March}} {{新暦365日|3|23|3|25|[[2月24日]]|[[4月24日]]|[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]|0324|3|24}} {{1年の月と日}}
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柏レイソル
柏レイソル(かしわレイソル、英: Kashiwa Reysol)は、日本の千葉県柏市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 史上初めてJ1昇格年にJ1優勝を果たしたクラブである。 1940年に創部された日立製作所本社サッカー部(1970年に日立製作所サッカー部へ改称)が前身となり、1995年にJリーグへ加盟した。運営会社は株式会社日立柏レイソルである。ホームタウン登録は千葉県柏市のみであるが、それに加えて我孫子市、鎌ケ谷市、流山市、野田市、松戸市、印西市、白井市を活動エリア とし、サッカースクールやホームゲームでのホームタウンデーなどを行っている。 チーム名はスペイン語の「レイ(Rey)」(王)と「ソル(Sol)」(太陽)を合わせた造語で、「太陽王」を意味する。ホームスタジアムは三協フロンテア柏スタジアムである(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。マスコットは「太陽の王子」をイメージした「レイくん」である。 前身の日立製作所サッカー部は、日本サッカーリーグ(JSL)が創設された1965年から参加した8チーム(オリジナル8)のうちの1つ。JSLリーグ戦で1回、JSLカップで1回、天皇杯で2度、それぞれ優勝した。 1990年にプロリーグ(Jリーグ=1993年創設)参加を表明。1992年4月、運営会社となる株式会社日立スポーツを設立。1993年、日立FC柏レイソルとクラブ名称を変更し、フジタ(現:湘南ベルマーレ)、ヤマハ(現:ジュビロ磐田)と共にJリーグ準会員に承認された。(初代社長は佐藤東里) 1993年、JFLにおいて2位以内の成績でJリーグ加盟が認められることになっていたが、最終順位は5位。秋に当時ブラジル代表のカレッカを獲得。山口芳忠が初代監督として指揮をとった。JFLの成績ではJリーグ昇格はならなかったが、それでもJリーグカップにおいてベスト4入りすれば、Jリーグへの加盟が承認される条件の中、カレッカを加え、リーグカップに挑んだが、チームは得失点差で決勝トーナメント進出を逃したことで、Jリーグへの加盟は認められなかった。 1994年、戸塚哲也、柱谷幸一を獲得。10月23日、JFL最終節、NTT関東サッカー部戦にカレッカのゴールで1-0と勝利したことで2位が確定し、Jリーグ昇格を決めた。カレッカはこの年チーム最多の19得点を挙げた。 1995年、開幕を前にブラジル代表のミューレルを獲得、代表でもツートップを組んだカレッカとのプレーは期待されたが、僅か数試合プレーしたのみで退団した。1stステージは最終戦でそれまで10連敗していたホームで勝利をあげたが最下位(14位)。1stステージ終了後のゼ・セルジオを監督から解任し、7月の2ndステージからはアントニーニョが監督に就任。1stステージ優勝の横浜Mに2戦2勝するなど2ndステージは5位(年間成績は12位)。ナビスコ杯では準決勝まで勝ち上がった。 1996年、柏レイソルへクラブ名称を変更。また、ニカノール・デ・カルバーリョが監督に就任。エジウソンがゴールを量産、両サイドバックが激しく動く攻撃的なサッカーを展開、12連勝を達成するなど、年間5位の成績。シーズン終了後カレッカが退団した。 1997年、二カノール体制2年目。1stステージは,優勝争いに加わり3位であったが、2ndステージは10位に終わった。なお、エジウソンがW杯出場を目指し,2ndシーズン途中に退団。また、シーズン終了後にニカノールが金銭面を巡ってクラブと合意に至らず監督を退任。 1998年、監督に西野朗が就任。また、7月にブルガリア代表のフリスト・ストイチコフが加入した。 1999年、西野体制2年目。横浜Fから薩川了洋、平塚から洪明甫を獲得した一方、2ndステージ前にストイチコフが退団した。リーグ戦は年間3位の成績。また、ナビスコカップで優勝し、クラブ初タイトルを獲得。 2000年、西野体制3年目。1stステージは4位。シーズン途中にサーシャ・ドラクリッチとのトレードで黄善洪を獲得した。2ndステージは終盤まで優勝を争い、最終節の勝った方が優勝という鹿島との直接対決でスコアレスドローとなり優勝を逃す。 年間では最多の勝点を獲得したものの、1st/2ndステージ勝者 が年間1位/2位となるため、総合3位でシーズンを終えた。年間勝ち点1位のチームがチャンピオンシップ出場を逃したのはこれが唯一のケースである。 2001年、柳想鐵を獲得、1stステージが6位、2ndステージが7位。なお、7月に西野を解任し、スティーブ・ペリマンが後任の監督に就任した。シーズン終了後に洪明甫が退団した。 2002年、1stステージは7連敗を喫するなど14位。シーズン途中に黄善洪との契約を解除、8月にペリマンを解任し、マルコ・アウレリオが監督に就任。2ndステージは9位。 2003年、1stステージが9位、2ndステージが11位(年間成績は12位)。シーズン終了後にマルコ・アウレリオが退任した(事実上の解任)。 2004年、日立製作所サッカー部OBの池谷友良がコーチから監督に昇格したが、1stステージは15位の成績。1stステージ終了後に池谷が退任し、早野宏史が後任監督に就任したが、2ndステージも15位。J1年間最下位に終わったが、J1・J2入れ替え戦で福岡に勝利し、J1に残留した。 2005年、韓国代表のFW崔成国やクレーベルらを獲得(崔は7月31日付でレンタル移籍を終了)。低迷打破のため、元ブラジル代表FWフランサを獲得し、元東京Vのラモス瑠偉をコーチに起用した。 10月15日、アウェーの浦和戦で、2人の退場者を出すなどし、0-7で大敗。11月26日、ホームの東京V戦に5-1と大勝したが、年間16位の成績。 J1・J2入れ替え戦は甲府に、第1戦はアウェーで1-2、第2戦はホームでバレーにダブルハットトリックを決められ2-6と連敗し、Jリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。シーズンを通して退場者を多く出してしまい、Jリーグ加盟初年度にあたる1995年の12枚に次ぐ9枚の退場者を出す始末だった。早野は天皇杯(G大阪戦)を前に監督を辞任し、山形や川崎の元監督の石崎信弘が監督に就任。 明神智和がG大阪、波戸康広・土屋征夫が大宮、玉田圭司が名古屋、大野敏隆が東京V、矢野貴章・永田充が新潟へ完全移籍したが、4年ぶりの復帰となった北嶋秀朗を清水から完全移籍で、SEパルメイラスから前年神戸でプレーしていたディエゴを期限付き移籍で獲得した。J2リーグ戦は横浜FC・神戸と自動昇格枠を争い、2位神戸と勝ち点差1の3位で迎えた最終節・湘南戦に勝利し、神戸が仙台に敗れたため、2位での自動昇格を決め、1年でのJリーグ ディビジョン1(J1)復帰を果たした。なお、84得点は2006年シーズンJ2最多得点であった。 合言葉として「一心同体」が使用されたシーズンであった。 石崎体制2年目。リカルジーニョ、ディエゴが退団した一方、GK水谷雄一、MFアルセウ、マルシオ・アラウージョ、FW阿部吉朗、DF古賀正紘などが加入。J1復帰1年目の目標を「勝ち点45を取る」と設定した。また、3月末に運営会社の社長が小野寺重之から河西晋二郎に交代した。 リーグ戦は開幕戦で磐田に勝利。その後も苦手にしていたアウェーでも勝ち点を得るようになり、前半戦の台風の目となる。また、中盤戦は、2年前は大敗したアウェーの浦和戦を1-1で乗り切ると、苦戦が予想された8月を3勝2分と無敗で過ごす。特に浦和・横浜FMらとJ1最少失点の座を争い、8月までの23試合中12試合が無失点であった。9月23日の川崎戦で当初の目標の勝ち点45を残り8試合を残して達成したがその後は故障者が相次いだ事もあり、4連敗を含む1勝1分6敗であった。 石崎体制3年目。GK水谷雄一、MF谷澤達也が移籍したものの、GK菅野孝憲、MFアレックス、FWポポなどを獲得。DFの補強は鎌田次郎 のみと攻撃陣の補強が目立った。 リーグ戦は第15節時点で3位につけたが、中盤以降は低迷して、最終成績は11位。天皇杯は、前身の日立製作所時代以来、33年ぶりに決勝へ進出。決勝はG大阪に敗れたが、準優勝の成績を収めた。シーズン終了後に石崎監督を解任。 監督に高橋真一郎が、コーチに元日本代表DFの井原正巳、元清水のシジマール・アントニオ・マルチンスが就任。アレックスが千葉へ移籍した一方、2007年に在籍していたアルセウ、ナイジェリア1部からアデバヨを獲得。また、柏レイソルユースから史上最多の5人の選手が入団した。 シーズン開幕後、アルセウがケガのため登録抹消。フランサ、李忠成などが相次いで負傷離脱。大宮から小林慶行、ブラジル1部・クルゼイロECからアンセウモ・ハモン、G大阪からパク・ドンヒョクをレンタル移籍で獲得したが、第17節終了時点でリーグ最多失点の17位と低迷したため、7月15日をもって高橋を監督から解任。東京V、名古屋元監督のネルシーニョが後任監督に就任したが、第33節の大宮戦に引き分けて、2006年以来2度目のJ2降格となった。なお、ナビスコ杯はグループリーグ敗退、天皇杯は3回戦で敗退した。 ネルシーニョ体制2年目。ブラジル1部・クルゼイロからレアンドロ・ドミンゲスを獲得した一方、杉山浩太が期限付き移籍満了で清水へ復帰した。また、シーズン途中にフランサが退団、菅沼実、古賀正紘が期限付きで磐田に移籍した。J2リーグ戦は、開幕から19試合無敗と年間敗戦数「2」のリーグ敗戦数最少記録を樹立。第33節の岐阜戦で3位以内が確定。第36節の横浜FC戦に勝利してJ2優勝も決めた。天皇杯は4回戦で敗退した。 ネルシーニョ体制3年目。右SBのレギュラーだった小林祐三が横浜FMへ、古賀、菅沼が磐田へそれぞれ完全移籍した一方、大宮から安英学、京都から増嶋竜也、福岡から中島崇典、清水から兵働昭弘、ブラジル1部・サンパウロFCからジョルジ・ワグネルを獲得。シーズン6位以内を目標に掲げてシーズンに入った。また、3月末に運営会社の社長が河西晋二郎から御手洗尚樹(日立製作所・執行役常務)に交代した。 リーグ戦はU-22日本代表の酒井宏樹、澤昌克、J・ワグネルらの活躍もあり首位戦線で健闘、名古屋、G大阪と優勝を争い、第29節で首位に浮上。第34節(最終節)で浦和を破り、Jリーグ初となるJ1昇格1年目でのJ1初優勝を飾った。また、J1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを受賞した初のチームとなった。ナビスコ杯は初戦敗退、天皇杯は4回戦で敗退した。また、FIFAクラブワールドカップ2011はオークランド・シティFC(ニュージーランド)モンテレイ(メキシコ)に勝利。3位決定戦でアル・サッド(カタール)に敗退したが4位の成績を残した。 ネルシーニョ体制4年目。藏川洋平が熊本に、パク・ドンヒョクが大連実徳足球倶楽部に、仙石廉(岡山)、池元友樹(北九州)がそれぞれレンタル移籍していたにチームに完全移籍、兵働昭弘が千葉に、相馬大士がJFL・FC琉球に、岡山にレンタル移籍していた山崎正登がFC岐阜に、JFL・ブラウブリッツ秋田にレンタル移籍していた比嘉厚平が山形に、岐阜にレンタル移籍していたエフライン・リンタロウが秋田にレンタル移籍、武富孝介の熊本への期限付き移籍期間も延長した。 補強は横浜FMから昨シーズン横浜FCに期限付き移籍していた藤田優人、栃木SCからリカルド・ロボ、磐田から那須大亮、東京Vから昨シーズン北九州にレンタル移籍していた福井諒司を完全移籍で獲得、岐阜にレンタル移籍していた川浪吾郎、栃木SCにレンタル移籍していた渡部博文が復帰、ユースから山中亮輔が昇格した。また、リーグ戦の開幕後に三浦雄也が加入した。 シーズン途中に北嶋秀朗が熊本、リカルド・ロボが千葉、林陵平が山形、中島崇典が横浜FC、三浦雄也が松本へレンタル移籍、酒井宏樹がドイツ1部・ハノーファー96へ完全移籍し、元千葉のネット・バイアーノが加入した。 FUJI XEROX SUPER CUPは、FC東京に勝利して初優勝。リーグ戦は6位の成績。AFCチャンピオンズリーグ2012はラウンド16、ナビスコ杯はベスト4の成績。 第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会は、決勝戦でG大阪を下し、日立製作所時代以来37年ぶり3度目の天皇杯優勝を果たした。これにより、Jリーグ7チーム目、オリジナル10以外のチームでは磐田に次いで2チーム目の国内3大タイトル(J/J1・ナビスコ杯・天皇杯)獲得チームとなった。また、2回戦は柏レイソルU-18との「兄弟対決」となった。 ネルシーニョ体制5年目。安英学、三浦雄也、エフライン・リンタロウ、ネット・バイアーノ、GKコーチのシジマールが退団、那須大亮が浦和、水野晃樹が甲府、福井諒司が東京Vに、北嶋秀朗(熊本)、比嘉厚平、林陵平(共に山形)、山崎正登(FC岐阜)、中島崇典(横浜FC)、兵働昭弘(千葉)がレンタル先にそれぞれ完全移籍。ユースから昇格した中川寛斗、クォン・ハンジン、熊本にレンタル移籍中だった武富孝介が湘南、川浪吾郎が徳島、JFL・FC琉球にレンタル移籍中だった相馬大士がJFL・町田にそれぞれレンタル移籍した。 補強面では、アルビレックス新潟から鈴木大輔、横浜FMから谷口博之と狩野健太、山形から柏ユース出身の太田徹郎、韓国1部・釜山アイパークから金昌洙を完全移籍、中国1部・広州恒大足球倶楽部からクレオを期限付き移籍でそれぞれ獲得。ユースからは秋野央樹、木村裕、小林祐介、中村航輔が加入し、レンタル移籍した中川を含めて5人が昇格した。 FUJI XEROX SUPER CUPは広島に敗退した。 8月31日、アウェー鹿島戦終了後、ネルシーニョが辞意を表明するが、9月5日「感情的に熱くなって間違った態度を取った」と撤回、10月17日にはネルシーニョが2014年度も継続して指揮を執ることが発表された。 AFCチャンピオンズリーグ2013では、Jリーグ勢で唯一の決勝トーナメント進出を果たした。決勝ラウンドは準決勝で広州恒大足球倶楽部に2戦合計1-8で敗れた。 リーグ戦は10位の成績。ナビスコカップは決勝で浦和を破り、14年ぶり2回目の優勝を果たした。 天皇杯は4回戦で大分に敗れ、大会2連覇と2014年のACL出場は成らなかった。 ネルシーニョ体制6年目。前年にJFL・町田にレンタル移籍していた相馬大士が引退、ジョルジ・ワグネル、澤昌克が退団、クレオがレンタル移籍満了により退団、前年より湘南にレンタル移籍中だった武富孝介、中川寛斗の移籍期間を延長、山中亮輔が千葉、谷口博之が鳥栖にレンタル移籍、前年よりレンタル移籍中だったクォン・ハンジン(湘南⇒群馬)、川浪吾郎(徳島)がレンタル先に完全移籍となった。 補強面では、湘南から高山薫とハン・グギョン、水戸から柏レイソルU18出身の輪湖直樹、カタール1部・アル・サッドから元G大阪のレアンドロを完全移籍で獲得。U18から中谷進之介が加入した。 シーズン開幕後、5月にチーム内に負傷者が相次いだこともあり、U-18から中山雄太、大島康樹、手塚康平、会津雄生、山本健司の5名を二種登録。8月にブラジル1部・フィゲイレンセFCからドゥドゥ、栃木からエドゥアルドをそれぞれレンタル移籍で獲得。 6月にレアンドロ・ドミンゲスが名古屋、田中順也がポルトガル1部・スポルティングCPに、8月にハン・グギョンがカタール1部・カタールSCにそれぞれ完全移籍した。 天皇杯は、3回戦で千葉との千葉ダービーでPK戦の末敗退。 スルガ銀行チャンピオンシップでは、CAラヌースに2-1で勝利し、4年連続となるタイトルを獲得した。 ナビスコカップは、2002年以来となるグループリーグからの決勝トーナメント進出を果たした。準々決勝は当時6年間リーグ戦負けなしの横浜FMに快勝したものの、準決勝は前年の準々決勝で破っていた広島に2戦合計2-3で敗れ、連覇の夢は潰えた。 ネルシーニョが9月17日に今季限りでの退任を発表した。 J1第28節の鹿島戦から第34節の新潟戦まで7連勝の4位でシーズンを終了した。J1優勝のG大阪が天皇杯も優勝したため、繰上げでAFCチャンピオンズリーグ2015の出場権を獲得した。2011シーズンから続いていた3大主要タイトルの連続優勝こそならなかったものの、ホームの日立柏サッカー場では、リーグ戦17試合中11勝5分1敗という好成績を残した。 井原正巳、アレックス、ピメンテウらコーチ陣3人が契約満了により退任。 新監督にダイレクターだった吉田達磨が就任。また、布部陽功(柏コーチ)がヘッドコーチ、杉山弘一(タイ2部・アユタヤFC監督)がコーチ、松原直哉(U-18コーチ)がフィジカルコーチ、松本拓也(アカデミーGKコーチ)がGKコーチ、 渡辺毅(U-12監督)がダイレクターに就任した。同年から全カテゴリー同じコンセプトで、ボールを保持するサッカーを目指す。 橋本和が浦和、高山薫が湘南、谷口博之が鳥栖、渡部博文が仙台に完全移籍。木村裕が長崎、中村航輔が福岡にレンタル移籍。ドゥドゥがレンタル移籍満了で退団した。 補強面では、オランダ2部・VVVフェンローから大津祐樹を完全移籍、甲府からクリスティアーノを期限付き移籍で獲得。湘南にレンタル移籍中だった武富孝介、中川寛斗、千葉にレンタル移籍中だった山中亮輔が復帰。明治大学から三浦龍輝が新加入。U-18から大島康樹、中山雄太が昇格した。 シーズン開幕後、U-18から滝本晴彦、熊川翔、浮田健誠の3名を二種登録。流通経済大学から湯澤聖人を特別強化選手に登録。6月に大宮から今井智基を完全移籍で獲得。7月にレアンドロが神戸に完全移籍。7月にブラジル1部・アトレチコ・パラナエンセからエデルソンを完全移籍で獲得。 AFCチャンピオンズリーグ2015ではプレーオフからのスタートだったが、チョンブリーFC(タイ)を3-2で下して予選を通過した。グループリーグでは日本勢の中では好調な滑り出しをして、第5節の全北現代モータース戦で勝利をおさめて決勝トーナメントに進出を果たした。 しかし、リーグ戦ファーストステージでは、初戦に前年まで監督だったネルシーニョが率いる神戸に勝利したものの、最終的にわずか4勝しか挙げられず、最終順位は14位と低迷。セカンドステージでは序盤巻き返しを見せ上位に食い込むものの、ACL敗退後はわずか2勝。年間10位、セカンドステージ8位でリーグ戦を終えた。 AFCチャンピオンズリーグ決勝トーナメントでは1回戦で水原三星ブルーウィングス(韓国)と対戦。1stレグはレアンドロの2得点をあげる活躍などで3-2で勝利。2ndレグは0-2と追い込まれていたが小林祐介のプロ初得点で、2戦合計4-4となったがアウェーゴールの差で勝利した。準々決勝では広州恒大淘宝足球倶楽部(中国)と対戦。1stレグはホームの日立での戦いだったが3失点を許して敗戦。2ndレグでもクリスティアーノが得点して反撃を見せるが、1-3で落とし2戦合計2-4でACLの敗退が決まった。 天皇杯では、準決勝で浦和に0-1で敗戦、決勝進出はならなかった。 シーズン終了後、吉田が監督を退任した。 新監督にミルトン・メンデスが就任。工藤壮人がアメリカ1部・バンクーバー・ホワイトキャップス(カナダ)へ、金昌洙が韓国1部・全北現代モータースへ、鈴木大輔がスペイン2部・ジムナスティック・タラゴナへ、近藤直也が千葉へ、狩野健太が川崎へ、菅野孝憲が京都へ、三浦龍輝が長野へ、藤田優人が鳥栖へ移籍。また、期限付き移籍のクリスティアーノが甲府に復帰。長崎へレンタル中の木村裕はレンタル延長となった。 補強面では仙台から鎌田次郎、U-18から手塚康平、流通経済大学から湯澤聖人、甲府から伊東純也、タイ1部・チョンブリーFCからジュリアーノ・ミネイロ、ブラジル1部・AAポンチ・プレッタからディエゴ・オリヴェイラを獲得し、福岡に期限付き移籍をしていた中村航輔が復帰した。また、U-18から安西海斗、滝本晴彦が昇格。田中順也が一年半ぶりにスポルティングCPから期限付き移籍で復帰した。 リーグ開幕後にはメンデスの構想外となっていたエドゥアルドの川崎へ期限付き移籍。サンパウロ州選手権1部・アソシアソン・フェロヴィアリア・ジ・エスポルテスからパトリック、ブラジル1部・クルゼイロECからドゥドゥを期限付き移籍で獲得した(ミルトン・メンデス辞任後、パトリックは構想外となり未登録のまま退団)。 キャプテンを8名に任命する、練習と試合での指示が異なるなどチームは混迷し、ちばきんカップはジェフ千葉に0-3と完敗、リーグ戦開幕後も2連敗を喫した。3月12日のリーグ1stステージ3節・磐田戦後に、ミルトン・メンデスは家族の健康上の理由で辞任を表明した。 後任には、ヘッドコーチの下平隆宏が監督に昇格した。監督交代後は、アカデミー出身の中谷進之介、中山雄太、中村航輔らを中心としたディフェンス陣が貢献し、リーグタイ記録となる5試合連続完封勝利を記録した。1stステージは7位で終了。 5月28日、1997年から2004年まで在籍していた薮崎真哉が代表取締役を務めているジールホールディングスとユニフォームスポンサー契約をした。これによりユニフォームの背中下部には無償提供のセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンとユニフォームスポンサーのジールホールディングスの2つのロゴが入ることになった。 6月22日にはクリスティアーノが甲府から完全移籍で再加入をした。7月20日にエデルソンがCRヴァスコ・ダ・ガマへ期限付き移籍、8月5日には大島康樹が富山へ育成型期限付き移籍、9月15日にはジュリアーノ・ミネイロが退団した。 2ndステージでは6節、14節に最高4位をマークするも終盤の失速が響き5位で終了、また年間順位は8位でリーグ戦を終えた。天皇杯は4回戦で湘南に敗れた。 下平体制2年目。山中亮輔が横浜FM、茨田陽生が大宮、稲田康志が新潟、太田徹郎が鳥栖へ完全移籍。増嶋竜也が仙台、湯澤聖人が京都、秋野央樹が湘南へ期限付き移籍。長崎へレンタル中の木村裕、川崎へレンタル中のエドゥアルドはそのまま完全移籍となった。ポルトガル1部・スポルティングCPからレンタルしていた田中順也は神戸へ完全移籍となった。 補強面ではU-18から古賀太陽がトップチームに昇格。山口から小池龍太、デンマーク1部・ブレンビーIFから尹錫榮、仙台からハモン・ロペスが完全移籍で加入、流通経済大学から橋口拓哉が新加入した。また、富山へレンタルしていた大島康樹が復帰した。2月には中川創、猿田遥己の2名が二種契約として登録された。 ちばぎんカップでは2-0で勝利した。 リーグ開幕後にはドイツ2部・VfBシュトゥットガルトから細貝萌を獲得。また、U-18から宮本駿晃が二種契約として登録された。 前半戦は当初4-4-2の形ながらサイドのクリスティアーノ、伊東も攻撃参加する4トップを使用していたが、4月8日の清水戦までで2勝4敗となり、プランの練り直しを余儀なくされた。4月16日の神戸戦から2トップにクリスティアーノ、中川を置く前線のハードワーク型に変えると6月4日の浦和戦まで8連勝、6月25日の札幌戦まで10戦負け無しを記録。暫定首位に浮上したが、序盤の3連敗や上位陣への敗戦などが響き3位で折り返した。 ルヴァンカップはグループステージ敗退となるも、初戦で活躍した手塚康平がリーグ戦でも主力としてプレーするなどの収穫を獲た。 夏の移籍では韓国1部・全北現代モータースからキム・ボギョンを獲得。今季絶望の重症となったドゥドゥは登録抹消、今季リーグ出場ゼロの安西海斗は山形へ育成型期限付き移籍となった。 後半戦は8月に手塚が今季絶望の重症を負い、セントラルMFは小林や金のローテーションとなった。また、R・ロペスが左MFとして定着するなど先発の入れ替わりの多いシーズンとなった。結果で見ると負けは少ないものの、終盤に守り切れない試合が多く勝ち点を取りこぼした結果、33節の鹿島戦をドローで終え3位C大阪と勝ち点4差となり、最終節を残し4位以下が確定となった。最終節は勝利し最終順位を4位で終えた。 天皇杯では準決勝まで進出。試合前に行われた準決勝第1戦でC大阪が勝利し決勝に進出したため、柏が対横浜FM戦で勝てばその時点で最低でもAFCチャンピオンズリーグ2018(ACL)プレーオフ出場権確定となる状況で、11分にR・ロペスのゴールで先制するも、69分伊藤翔のゴールで追い付かれ延長戦に突入、終了間際の118分にウーゴ・ヴィエイラに決勝点を決められ準決勝敗退となったため、自力でのACL出場権獲得はなくなり、C大阪の天皇杯優勝による繰り上げでのACLプレーオフ進出を待つこととなった。 元日に行われた天皇杯決勝はC大阪が制したため、繰り上げによるACLプレーオフ出場権を手にした。 下平体制3年目。輪湖直樹が福岡へ、大津祐樹が横浜FMへ、武富孝介が浦和へ完全移籍。橋口拓哉が町田へ、小林祐介が湘南へ、ディエゴ・オリヴェイラがFC東京へ期限付き移籍。湘南にレンタル中の秋野央樹、山形にレンタル中の安西海斗はレンタル延長。京都にレンタル中の湯澤聖人は甲府に完全移籍。仙台にレンタル中の増嶋竜也は千葉にレンタルとなった。 補強面では新潟から小泉慶と山崎亮平、ペルー1部・デポルティーボ・ムニシパルから澤昌克、大宮から江坂任と瀬川祐輔、福岡から亀川諒史、横浜FMから朴正洙を完全移籍で獲得した。 1月24日、三協フロンテアとのスタジアムネーミングライツ及びユニフォームスポンサー契約を締結した(詳細は#ユニフォームと#スタジアム・練習場を参照)。 AFCチャンピオンズリーグ2018ではプレーオフからのスタートだったが、ムアントン・ユナイテッドFC(タイ)を3-0で下して本選出場を果たした。本選では初戦、過去6戦無敗だった全北現代(韓国)にロペス、江坂のゴールで一時は2-0とリードするも2-3で逆転負け。続くホームの天津権健足球倶楽部(中国)戦は1点リードで迎えた終盤にアレシャンドレ・パトにゴールを奪われ1-1と昨年からの課題だった終盤の失点癖 がACLでも露呈してしまう。連勝だけでなく大量得点も奪っておきたい傑志体育会(香港)との2連戦はホームで1-0で勝利も、アウェイはクリスティアーノ、伊東、キム・ボギョンをベンチスタートで温存も、亀川が前半早々に退場した事でゲームプランの立て直しを余儀なくされ終了間際の失点で0-1で敗北を喫した。守護神・中村を負傷で欠いたホームの全北現代戦は0-2で敗北し、チーム史上初めてグループステージ敗退となった。最終節の天津戦は控えメンバー主体で挑むも2-3で敗北。結果1勝1分4敗、6得点10失点で大会を去った。 リーグ前半戦は、前半に先制し後半終盤に失点するゲームを繰り返し、5月12日の川崎戦ロスタイムにJ1初出場の鈴木雄斗にヘディングシュートで逆転負けした事により下平は解任、後任はヘッドコーチの加藤望が昇格した。加藤体制初戦の名古屋戦は勝利を収めたものの守護神中村が脳震盪で負傷退場。ワールドカップのメンバー登録には間に合ったが、その中断明けのFC東京戦でも脳震盪で負傷離脱し、11月3日の川崎戦まで後半戦の試合ほとんどを第2GKの桐畑に任せる事となった。 夏の移籍では中谷進之介が名古屋に完全移籍、尹錫榮が韓国1部・FCソウルに期限付き移籍と前半戦で先発でプレーしたDFを放出。さらに古賀太陽が福岡に期限付き移籍、今井智基が松本に完全移籍とサイドバックの控え選手を放出。また、ハモン・ロペスが契約を解除され、古巣の仙台に戻った。補強面では千葉の高木利弥、ブラジル1部・フルミネンセFCからカタール国籍を持つナタン・ヒベイロ、中国1部・貴州智誠足球倶楽部から昨季スペイン1部ジローナFCでプレーしたケニア人FWオルンガを獲得し、9月にはスペイン2部・ジムナスティック・タラゴナを退団しフリーとなっていた鈴木大輔が2015シーズンぶりの復帰を果たした。 天皇杯では2回戦から出場し、VONDS市原FCに6-0で勝利。続く3回戦では山形とクラブの歴史上未だに勝利のないNDソフトスタジアム山形で対戦。後半に先制を許し、アディショナルタイムのPKでなんとか追い付くもさらに後半ATに勝ち越しゴールを決められ3回戦敗退。苦手とするアウェイ山形にまたも勝てなかった。 ルヴァンカップではACLに出場したため決勝トーナメントからの出場となった。初戦の甲府戦はアウェイの1stleg、ホームの2ndleg共に引き分け、合計3-3のアウェイゴール差で準決勝に進出。準決勝の湘南戦はホームで1-1、アウェイも1-1とドローとなり、延長戦でも1点ずつ入れ合いPK戦に突入。結果PK戦を落とし敗退となった。 加藤体制への移行後もチーム状況は改善せず、下平体制のリーグ14戦5勝2分7敗に対して加藤体制ではリーグ18戦5勝1分12敗と悪化。また4連敗・3連敗を喫するなど、サポーターからも解任の声が高まっていった。第32節終了時点、勝点33、17位の状況で11月10日に加藤を監督から解任し、後任にコーチ兼アカデミーヘッドオブコーチの岩瀬健が監督に就任した。岩瀬体制初戦の第33節・C大阪戦は勝点37で並ぶ湘南・鳥栖・名古屋の結果によって自動降格が決定する状況のなか、3-0で4試合振りの勝利を収めるも、同節で湘南・鳥栖・名古屋が揃って勝利したためシーズン17位が確定、2010年以来9シーズン振りのJ2降格が決定した。 今季初の連勝を狙った最終節G大阪戦は4-2で勝利し、最終節にして初の連勝となった。最終成績は12勝3分19敗の勝点39、得失点差-7の17位、2012年J1のG大阪を超え、17位チームとしての過去最高勝点、かつ同年16位の神戸の勝点39得失点差-9を上回り、J2自動降格チームの最高成績記録を更新した。攻撃面では、総得点こそ47で前年度に比べ2点減っただけにとどまったが、先述のGK中村の負傷による長期離脱や中谷の放出が致命傷となり、前年度はリーグ3位の33失点だった守備が崩壊、リーグワースト4位タイで前年より1.5倍強の54失点を喫した。 また、今シーズンをもって栗澤僚一が現役引退を表明した。 新監督として、ネルシーニョが2014年以来5年振りに就任。福岡監督を退任した井原正巳がヘッドコーチに復帰、現役引退した栗澤はコーチに就任した。 冬の移籍では細貝萌がタイ1部・ブリーラム・ユナイテッドFCへ、鈴木大輔が浦和へ、亀川諒史が長崎へ、中山雄太がオランダ1部・PECズウォレへ完全移籍。中川寛斗が湘南へ、キム・ボギョンが韓国1部・蔚山現代FCへ、伊東純也がベルギー1部・KRCヘンクへ期限付き移籍。ナタン・ヒベイロが期限付き移籍期間満了、澤昌克が契約満了につき退団。山形に育成型期限付き移籍していた安西海斗がポルトガル・SCブラガに完全移籍。千葉に期限付き移籍していた増嶋竜也がレンタル延長。町田に期限付き移籍していた橋口拓哉がテゲバジャーロ宮崎に、FCソウルに期限付き移籍していた尹錫榮が韓国1部・江原FCに期限付き移籍。FC東京に期限付き移籍していたディエゴ・オリヴェイラと湘南に期限付き移籍していた秋野央樹がそのまま完全移籍となった。また、2種登録の小久保玲央ブライアンがポルトガル1部・SLベンフィカへ移籍した。 獲得面では湘南に期限付き移籍していた小林祐介、福岡に期限付き移籍していた古賀太陽が復帰。神戸から高橋峻希、浦和から菊池大介、長崎から田上大地、京都から染谷悠太、清水から村田和哉、ブラジル1部・セアラーSCからヒシャルジソンを完全移籍で獲得。2019年加入内定の上島拓巳が加入。ブラジル1部・CRフラメンゴからガブリエル・サンタナを期限付き移籍で獲得した。また、U-18から杉井颯と山田雄士が昇格した。 シーズン前半戦は開幕から4連勝を飾るも全て1点差というギリギリの試合となり、18節の福岡戦までで複数得点は3試合のみと得点力に課題が残る結果となった。しかし、フォーメーションを変えた19節の千葉ダービーを2-0で勝利すると、アウェイ山形に初勝利する等その後2連勝。10勝7分4敗の3位で前半を折り返した。 ルヴァンカップでは初戦こそ勝利するも残り5試合勝ち無しの最下位でグループステージ敗退となった。 天皇杯は2回戦から出場。初戦のいわてグルージャ盛岡に4-0で勝利。続く鳥栖戦はスコアレスで延長戦に入り、延長前半にフェルナンド・トーレスの現役ラストゴールを決められ、2年連続の3回戦敗退。 夏の移籍では朴正洙が鳥栖、村田和哉が福岡、猿田遥己が鹿児島へ期限付き移籍。中川創が相模原へ育成型期限付き移籍。小泉慶が鹿島、高木利弥が松本、小池龍太がベルギー2部・スポルティング・ロケレンへ完全移籍。獲得面ではフォルタレーザECからジュニオール・サントス、C大阪から山下達也が完全移籍。ブラジル1部・CRフラメンゴからマテウス・サヴィオ、神戸から三原雅俊、新潟から川口尚紀を期限付き移籍で獲得した。 シーズン後半戦は折り返しからの連勝を継続し、25節岡山戦の勝利で今季初の首位浮上、また29節岐阜戦で11連勝を飾り、クラブのJ2連勝記録を更新した(30節新潟戦で連勝はストップ)。連勝ストップ後は首位独走のアドバンテージを利用し、小池退団後固定できなかった右サイドバックに瀬川を起用する等の実験的采配や山形・横浜FC・水戸・大宮と上位戦に敗北する等で勝ち点を落とし2位との勝ち点差は徐々に縮まっていったが、それでも首位を明け渡さず41節町田戦にて3-0で勝利した事で、最終節を残しJ2優勝とJ1昇格を決めた。また、最終節京都戦では13-1という記録的勝利。チームとしてJリーグとしてのJリーグ1試合の最多得点記録が更新された。この試合でオルンガが挙げた8得点は、Jリーグの公式戦1試合における個人最多得点新記録となった。 ネルシーニョ体制2年目。スタッフ人事では2018年にJ1残り2節を監督として指揮したアカデミーヘッドオブコーチの岩瀬健が大分のヘッドコーチ就任の為退団した。 冬の移籍では上島拓巳と菊池大介が福岡へ、田中陸が山口へ、手塚康平が横浜FCへ、杉井颯が金沢へ、宮本駿晃が山形へ、田上大地が新潟へ期限付き移籍。ガブリエルはレンタルバックとなった。レンタル組では橋口拓哉(テゲバジャーロ宮崎)が岐阜、中川創(相模原)が磐田へ完全移籍。猿田遥己(鹿児島)がG大阪、村田和哉(福岡)が山口へ期限付き移籍。増嶋竜也(千葉)と中川寛斗(湘南)がレンタル先へ完全移籍。パク・ジョンス(鳥栖)はレンタル延長。また、キム・ボギョン(蔚山現代FC)は韓国1部・全北現代モータースへ完全移籍、ユン・ソギョン(江原FC)は韓国1部・釜山アイパークへ期限付き移籍となった。 獲得面では磐田から大南拓磨、鳥栖から高橋祐治と三丸拡、新潟から戸嶋祥郎、湘南(愛媛に期限付き移籍)から神谷優太、岡山から仲間隼斗、G大阪(長崎に期限付き移籍)から呉屋大翔、横浜FCから北爪健吾、韓国1部・蔚山現代からキム・スンギュを完全移籍で獲得。マテウス・サヴィオ、三原雅俊、川口尚紀のレンタル組を完全移籍で買い取り。東洋大学から松本健太、U-18から細谷真大、鵜木郁哉、井出敬大が昇格。 シーズン開幕後には昇格した井出が4月に登録抹消され、6月に栃木へ移籍、7月には松本が大宮へ育成型期限付き移籍、8月にはジュニオール・サントスが横浜FMへ期限付き移籍した。また、ベルギー1部・KRCヘンクへ期限付き移籍していた伊東純也がヘンクに買い取られた。 シーズン序盤は開幕戦の札幌戦に4-2で勝利し、新型コロナウイルスによる中断期間に入る。中断期間中は他チームとの練習試合を行わない、クリスティアーノが負傷離脱する等の出来事があった中、再開後初戦の第2節FC東京戦へ。しかし、開幕戦2ゴールのオルンガが沈黙、ヒシャルジソンがイエロー2枚で退場等、チーム全体として不調に陥り、結局再開後3連敗を喫する。しかし、有観客試合となった第5節の湘南戦では怪我から復帰した中村をはじめ古賀以外の守備陣を一新。攻撃陣も新加入選手の活躍や復活したオルンガの2ゴール等で3-2と勝利すると、続く浦和戦では今季初のクリーンシートで4-0の勝利を収めた。 シーズン通じて上位~中位を行き来しており、シーズン終盤まで来季ACL出場の可能性も残されていたが、コロナウイルス感染影響で12月9日に延期となった第27節大分戦を引き分けた事でACL出場権の可能性が消滅した。 ルヴァンカップではグループリーグ3戦全勝、準々決勝も勝利し、準決勝の横浜FM戦では直前のリーグ戦で1-3と敗れるもカップ戦で1-0とリベンジ達成し、決勝に進出した。しかし、決勝直前の11月2日に選手1名に新型コロナウイルスの陽性反応、さらに翌3日にはネルシーニョを含むチームスタッフ2名、その後も4日に選手2名とスタッフ8名が陽性反応を受け、クラブとリーグの協議の結果、11月7日の決勝を延期する事を発表。代替試合は2021年1月4日となる 決勝戦では前半にレアンドロに先制されるも終了間際に瀬川がコーナーキックから同点に持ち込む。が、後半途中に投入されたアダイウトンに決勝点を決められ敗戦。オルンガ、江坂を始めとする攻撃陣は徹底的に対策を取られ沈黙し、守備面では相手ブラジル人選手に好きなようにされるなど試合内容では圧倒される結果となった。 Jリーグアウォーズではオルンガが28ゴールで得点王に輝いたのに加え、ブラジル人以外の外国人選手からは1995年の当時ユーゴスラビア(今のセルビア)人であるドラガン・ストイコビッチ以来2人目となる最優秀選手賞にも輝いた。得点王の選手が最優秀選手賞を同時に受賞したのは史上8人目で2003年に受賞したエメルソンの浦和は年間で6位だったが、チームはJ1を7位で終えている為史上最も年間順位の低いチームからのMVP受賞となった。 ネルシーニョ体制3年目。スタッフ人事では2012年から2015年まで柏に在籍した藤田優人がU-18コーチに就任した。 冬の移籍では小林祐介が千葉へ、オルンガがカタール1部・アル・ドゥハイルSCへ、中村航輔がポルトガル1部・ポルティモネンセSCへ、山崎亮平が長崎へ完全移籍。鎌田次郎が相模原へ期限付き移籍。桐畑和繁は一度契約満了になるも再契約し岐阜に期限付き移籍した。レンタル組ではパク・ジョンス(鳥栖)が韓国1部・城南FCへ、ジュニオール・サントス(横浜FM)が広島へ、ユン・ソギョン(釜山アイパーク)は韓国1部・江原FCへ完全移籍。菊池大介(福岡)が栃木へ、杉井颯(金沢)が鳥取へ、猿田遥己(G大阪)が横浜FCへ期限付き移籍。田上大地(新潟)が移籍期間延長。田中陸(山口)と手塚康平(横浜FC)がレンタル先へ完全移籍。宮本駿晃(山形)は退団。村田和哉(山口)は現役を引退した。 獲得面では仙台から椎橋慧也、大宮からイッペイ・シノヅカ、ブラジル1部・フルミネンセFCよりドッジ、ブラジル1部・レッドブル・ブラガンチーノよりアンジェロッティが完全移籍加入。松本健太(大宮)、上島拓巳(福岡)が復帰。佐々木雅士と大嶽拓馬がU-18から昇格した。 開幕後にはSEパルメイラスよりエメルソン・サントス、ボタフォゴFRよりペドロ・ハウルが加入。 オルンガ頼みの昨季から戦術を変えなかった事でシーズン序盤から低調な試合が続き、開幕戦で敗れた後第二節湘南戦では勝利を挙げたが、そこから4連敗。しかし4月には残留争いのライバル相手に3連勝する等復活の兆しが見えかけたがそこから6月27日の20節湘南戦まで勝ちが無くなり、降格圏内にまで順位が落ちる事になった。シーズン折り返しの19節時点での成績は4勝2分13敗と、降格した2018年加藤体制時より悪化している状況であった。 ルヴァンカップではグループリーグ1勝3分2敗で敗退。 天皇杯は2回戦から出場。初戦の栃木シティFCに3-0で勝利するが、次戦の京都戦では1-2の逆転負けで敗退となった。 シーズン途中には大谷不在時キャプテンを務めた司令塔の江坂任が6月に浦和へ完全移籍。7月には呉屋大翔が大分へ完全移籍で退団、浦和より武藤雄樹が完全移籍で加入した。 9月には今季加入のペドロ・ハウルがメキシコ1部・FCフアレスへ期限付き移籍した。 シーズン後半は復調を見せ、35節C大阪戦時点で後半戦8勝2分6敗となり、3試合を残して降格圏との勝ち点差が10になった為J1残留が確定した。 最終成績は12勝5分21敗の勝点41で15位。負数は降格した4チームと同じ20を超えるワースト3タイ、得失点差も降格4チームに次ぐワースト5の-19点と今季のJ1でも最低クラスの戦績となった。 2021年12月4日のホーム最終戦セレモニーにて監督続投が発表され、ネルシーニョ体制4年目。1992年に運営会社となる株式会社日立スポーツを設立し30年目の節目を迎える。 冬の移籍ではヒシャルジソンがブラジル1部・セアラーSCへ、仲間隼斗が鹿島へ、神谷優太が清水へ、クリスティアーノと高橋峻希が長崎へ、瀬川祐輔が湘南へ、山下達也がC大阪へ完全移籍。滝本晴彦が今治、イッペイ・シノヅカが新潟へ期限付き移籍。レンタル組では杉井颯(鳥取)が長野へ、菊池大介(栃木)が岐阜へ完全移籍。桐畑和繁(岐阜)がレンタル延長。田上大地(新潟)と鎌田次郎(相模原)がそのままレンタル先へ完全移籍。ペドロ・ハウル(FCフアレス)がブラジル・ゴイアスECへ期限付き移籍。 獲得面では熊本から岩下航、清水から中村慶太、神戸からドウグラス、鳥栖から小屋松知哉が完全移籍加入。猿田遥己(横浜FC)が復帰。U-18から升掛友護、田中隼人、真家英嵩が昇格。筑波大学より森海渡と加藤匠人、日本体育大学柏高等学校より土屋巧が加入。 昨年の低調ぶりから多くの記者や解説者が下位や降格を予想する中始まったリーグ前半戦は、そういった予想を覆す戦いを見せ、4月5日のセレッソ戦で5勝1分1敗で暫定首位に立つ絶好調ぶりを見せる。その後3連敗やホームで中々勝てない等調子を落とす時期もあったが、リーグの半分を終えて首位と勝ち点4差の4位で折り返した。なお、4~5月に着用した限定ユニフォームでの戦績は2勝1分3敗。 ルヴァンカップは2勝2分2敗で札幌との直接対戦成績により3位でグループステージ敗退。 天皇杯は2回戦から出場。初戦の筑波大学に1-0で勝利し、3回戦の徳島戦でも2-1で逆転勝ちをして5年ぶりのベスト16入りしたが、続く4回戦の神戸戦では1-2と敗戦し、ベスト8入りとはならなかった。 夏の移籍ではキム・スンギュがサウジアラビア・アル・シャバブ・リヤドへ完全移籍。エメルソン・サントスがアトレチコ・ゴイアニエンセへ期限付き移籍。鵜木郁哉が水戸へ育成型期限付き移籍。また鳥栖より守田達弥が期限付きで加入した。 リーグ後半戦は調子を落とし、8月6日のアウェイ京都戦を最後にシーズン終了までの10戦を未勝利となり、ACL権争いから大きく後退。勝点47の7位でフィニッシュとなった。 また、今季限りで大谷秀和と染谷悠太が現役を引退した。 ネルシーニョ体制5年目。スタッフ人事では昨季引退した大谷秀和と染谷悠太がそれぞれトップチームコーチ、U-18コーチに就任した。 冬の移籍では北爪健吾と高橋祐治が清水へ、大南拓磨が川崎へ、上島拓巳が横浜FMへ、ドッジがサントスFC(ブラジル)へ完全移籍。森海渡が徳島へ、大嶽拓馬が愛媛へ、山田雄士が栃木へ、アンジェロッティが大宮へ期限付き移籍。レンタル組では桐畑和繁(岐阜)が引退。ペドロ・ハウル(ブラジル・ゴイアスEC)がCRヴァスコ・ダ・ガマへ完全移籍。滝本晴彦(今治)がレンタル先へ完全移籍。イッペイ・シノヅカ(新潟)が契約解除。 獲得面では札幌から高嶺朋樹、山形から山田康太、清水から片山瑛一と立田悠悟、鳥栖からジエゴ、名古屋から仙頭啓矢、ヴィボーFF(デンマーク)からジェイ=ロイ・フロートを完全移籍で獲得。期限付き移籍で加入していた守田達弥が完全移籍に移行。U-18からは山本桜大とモハマドファルザン佐名が昇格。東京国際大学から落合陸、流通経済大学から熊澤和希、日本体育大学柏高等学校からオウイエ・ウイリアムが加入。 ちばぎんカップでは守備陣のミスが相次ぎ敗れると、リーグ開幕後は昨季からの不調を引きずるような形で1節2節と引き分けて、リーグ戦12戦連続未勝利でクラブワーストタイに並ぶ。第3節福岡戦に敗北した事で13戦連続未勝利となりクラブ単独ワースト記録となった。また、ルヴァンカップ第3節新潟戦で敗北した事により、リーグ・カップ含めた公式戦19戦連続未勝利でこちらもクラブワーストとなった。 4月9日の第7節鹿島戦にて今季初勝利を挙げ、リーグ戦連続未勝利は16、公式戦は19で止まった。 瀧川龍一郎社長の任期満了に伴い、4月1日付けで山崎和伸に交代。4月7日に前年鹿島を退団し無所属となっていたブエノが加入。 5月13日の第13節横浜FC戦に敗北後、サポーターは居残り抗議を行い布部GMとの話し合いに発展。コールリーダーを中心に終始冷静な話し合いが進められ、最後はエールの拍手で締め括ったが、その4日後の5月17日、チームはネルシーニョ退任を発表。後任はヘッドコーチの井原正巳。 井原体制となってからも1勝が遠く、第16節札幌戦では5-4、第17節横浜FM戦では4-3と撃ち合いに敗北。2勝6分9敗・勝点12の最下位でシーズンを折り返した。 夏の移籍では中村慶太が長崎へ完全移籍。升掛友護が愛媛へ育成型期限付き移籍。大嶽拓馬(愛媛レンタル)がヴェルスパ大分へ育成型期限付き移籍。 また、浦和から犬飼智也が期限付き移籍で加入。山田雄士(栃木レンタル)が復帰。 天皇杯は2回戦で山梨学院大学PEGASUS(山梨県代表)、3回戦で徳島、4回戦で札幌、準々決勝で名古屋を下し、準決勝ではJ2勢で唯一準決勝まで勝ち進んだ熊本に4-0で勝利。2012シーズンの第92回大会以来11大会ぶりの決勝進出を決めた。 決勝戦では19本のシュートを放ちながら無得点に終わり、0-0でPK戦に突入。10人目まで続き、GK対決となった松本のPKをチョン・ソンリョンが止めた事で試合終了、準優勝となった。 ルヴァンカップはグループステージを1勝に終わり最下位で敗退。 シーズン後半戦も天皇杯こそ勝ち進むもののリーグ戦は10試合未勝利が続き、迎えた第22節は奇しくも1年前と全く同じ8月6日のアウェイ京都戦。細谷のゴールで1-0で勝利し井原体制初勝利となった。なお、昨年の京都戦から今年の京都戦までの1年でリーグ戦は2勝しか挙げていなかった。その後は新加入の犬飼を中心に守備が安定。京都戦以降は主に引き分けで勝ち点1を重ね、最終節を前に最下位横浜FCとの勝ち点差は3となり、最終節で敗北しても12差ある得失点差を横浜FCが上回らない限りは残留という状況になった。 最終節名古屋戦は1-1で引き分け、横浜FCが敗北したため、勝点差は4となり、6勝15分13敗・勝点33の17位でJ1残留が決定した(通常のレギュレーションであれば自動降格の順位)。なお、6勝は今季J1ワースト、15分は今季J1最多となる。 井原体制2年目。 冬の移籍では椎橋慧也が名古屋へ、山田康太がG大阪へ完全移籍。三原雅俊、ブエノ、ドウグラスが契約満了。レンタル組では大嶽拓馬(ヴェルスパ大分)、アンジェロッティ(大宮)、エメルソン・サントス(アトレチコGO)が契約満了。 獲得面では木下康介(京都)が完全移籍で加入。期限付き移籍で加入していた犬飼智也が完全移籍に移行。鵜木郁哉(水戸レンタル)が復帰。 ジェフユナイテッド市原・千葉との対戦。 1995年から開始された、シーズン開幕前に行われるジェフユナイテッド市原・千葉とのプレシーズンマッチ。 U-18、U-15/14/13、U-12/11/10、U-9スペシャルクラス、GKクラス、スクールからなるアカデミー本体のほか、「柏レイソルアライアンスグループ」の名の下に、「柏レイソルアライアンスアカデミー」として柏市、野田市、流山市、長生郡白子町で、また、「柏レイソルアライアンスクラブ」として柏市、松戸市、我孫子市、流山市、茨城県取手市をホームタウンとする計8クラブと提携してアカデミー活動を行っている。 2014年現在J1・J2の40クラブで唯一Jリーグのオフィシャルチケッティングパートナーであるチケットぴあでのチケット販売を行っておらず、ローソンチケットとJリーグの公式販売サイトであるJリーグチケットでのみ販売している(かつてはチケットぴあでの販売を行っていた時期があり、Pコード「592-120」が割り当てられていた)。 柏レイソルの決算は、つぎのとおり。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016 金額の単位: 百万円 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016 金額の単位: 百万円
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "柏レイソル(かしわレイソル、英: Kashiwa Reysol)は、日本の千葉県柏市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "史上初めてJ1昇格年にJ1優勝を果たしたクラブである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1940年に創部された日立製作所本社サッカー部(1970年に日立製作所サッカー部へ改称)が前身となり、1995年にJリーグへ加盟した。運営会社は株式会社日立柏レイソルである。ホームタウン登録は千葉県柏市のみであるが、それに加えて我孫子市、鎌ケ谷市、流山市、野田市、松戸市、印西市、白井市を活動エリア とし、サッカースクールやホームゲームでのホームタウンデーなどを行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "チーム名はスペイン語の「レイ(Rey)」(王)と「ソル(Sol)」(太陽)を合わせた造語で、「太陽王」を意味する。ホームスタジアムは三協フロンテア柏スタジアムである(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。マスコットは「太陽の王子」をイメージした「レイくん」である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "前身の日立製作所サッカー部は、日本サッカーリーグ(JSL)が創設された1965年から参加した8チーム(オリジナル8)のうちの1つ。JSLリーグ戦で1回、JSLカップで1回、天皇杯で2度、それぞれ優勝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1990年にプロリーグ(Jリーグ=1993年創設)参加を表明。1992年4月、運営会社となる株式会社日立スポーツを設立。1993年、日立FC柏レイソルとクラブ名称を変更し、フジタ(現:湘南ベルマーレ)、ヤマハ(現:ジュビロ磐田)と共にJリーグ準会員に承認された。(初代社長は佐藤東里)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1993年、JFLにおいて2位以内の成績でJリーグ加盟が認められることになっていたが、最終順位は5位。秋に当時ブラジル代表のカレッカを獲得。山口芳忠が初代監督として指揮をとった。JFLの成績ではJリーグ昇格はならなかったが、それでもJリーグカップにおいてベスト4入りすれば、Jリーグへの加盟が承認される条件の中、カレッカを加え、リーグカップに挑んだが、チームは得失点差で決勝トーナメント進出を逃したことで、Jリーグへの加盟は認められなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1994年、戸塚哲也、柱谷幸一を獲得。10月23日、JFL最終節、NTT関東サッカー部戦にカレッカのゴールで1-0と勝利したことで2位が確定し、Jリーグ昇格を決めた。カレッカはこの年チーム最多の19得点を挙げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1995年、開幕を前にブラジル代表のミューレルを獲得、代表でもツートップを組んだカレッカとのプレーは期待されたが、僅か数試合プレーしたのみで退団した。1stステージは最終戦でそれまで10連敗していたホームで勝利をあげたが最下位(14位)。1stステージ終了後のゼ・セルジオを監督から解任し、7月の2ndステージからはアントニーニョが監督に就任。1stステージ優勝の横浜Mに2戦2勝するなど2ndステージは5位(年間成績は12位)。ナビスコ杯では準決勝まで勝ち上がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1996年、柏レイソルへクラブ名称を変更。また、ニカノール・デ・カルバーリョが監督に就任。エジウソンがゴールを量産、両サイドバックが激しく動く攻撃的なサッカーを展開、12連勝を達成するなど、年間5位の成績。シーズン終了後カレッカが退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1997年、二カノール体制2年目。1stステージは,優勝争いに加わり3位であったが、2ndステージは10位に終わった。なお、エジウソンがW杯出場を目指し,2ndシーズン途中に退団。また、シーズン終了後にニカノールが金銭面を巡ってクラブと合意に至らず監督を退任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1998年、監督に西野朗が就任。また、7月にブルガリア代表のフリスト・ストイチコフが加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1999年、西野体制2年目。横浜Fから薩川了洋、平塚から洪明甫を獲得した一方、2ndステージ前にストイチコフが退団した。リーグ戦は年間3位の成績。また、ナビスコカップで優勝し、クラブ初タイトルを獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2000年、西野体制3年目。1stステージは4位。シーズン途中にサーシャ・ドラクリッチとのトレードで黄善洪を獲得した。2ndステージは終盤まで優勝を争い、最終節の勝った方が優勝という鹿島との直接対決でスコアレスドローとなり優勝を逃す。 年間では最多の勝点を獲得したものの、1st/2ndステージ勝者 が年間1位/2位となるため、総合3位でシーズンを終えた。年間勝ち点1位のチームがチャンピオンシップ出場を逃したのはこれが唯一のケースである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2001年、柳想鐵を獲得、1stステージが6位、2ndステージが7位。なお、7月に西野を解任し、スティーブ・ペリマンが後任の監督に就任した。シーズン終了後に洪明甫が退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2002年、1stステージは7連敗を喫するなど14位。シーズン途中に黄善洪との契約を解除、8月にペリマンを解任し、マルコ・アウレリオが監督に就任。2ndステージは9位。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2003年、1stステージが9位、2ndステージが11位(年間成績は12位)。シーズン終了後にマルコ・アウレリオが退任した(事実上の解任)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2004年、日立製作所サッカー部OBの池谷友良がコーチから監督に昇格したが、1stステージは15位の成績。1stステージ終了後に池谷が退任し、早野宏史が後任監督に就任したが、2ndステージも15位。J1年間最下位に終わったが、J1・J2入れ替え戦で福岡に勝利し、J1に残留した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2005年、韓国代表のFW崔成国やクレーベルらを獲得(崔は7月31日付でレンタル移籍を終了)。低迷打破のため、元ブラジル代表FWフランサを獲得し、元東京Vのラモス瑠偉をコーチに起用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "10月15日、アウェーの浦和戦で、2人の退場者を出すなどし、0-7で大敗。11月26日、ホームの東京V戦に5-1と大勝したが、年間16位の成績。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "J1・J2入れ替え戦は甲府に、第1戦はアウェーで1-2、第2戦はホームでバレーにダブルハットトリックを決められ2-6と連敗し、Jリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。シーズンを通して退場者を多く出してしまい、Jリーグ加盟初年度にあたる1995年の12枚に次ぐ9枚の退場者を出す始末だった。早野は天皇杯(G大阪戦)を前に監督を辞任し、山形や川崎の元監督の石崎信弘が監督に就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "明神智和がG大阪、波戸康広・土屋征夫が大宮、玉田圭司が名古屋、大野敏隆が東京V、矢野貴章・永田充が新潟へ完全移籍したが、4年ぶりの復帰となった北嶋秀朗を清水から完全移籍で、SEパルメイラスから前年神戸でプレーしていたディエゴを期限付き移籍で獲得した。J2リーグ戦は横浜FC・神戸と自動昇格枠を争い、2位神戸と勝ち点差1の3位で迎えた最終節・湘南戦に勝利し、神戸が仙台に敗れたため、2位での自動昇格を決め、1年でのJリーグ ディビジョン1(J1)復帰を果たした。なお、84得点は2006年シーズンJ2最多得点であった。 合言葉として「一心同体」が使用されたシーズンであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "石崎体制2年目。リカルジーニョ、ディエゴが退団した一方、GK水谷雄一、MFアルセウ、マルシオ・アラウージョ、FW阿部吉朗、DF古賀正紘などが加入。J1復帰1年目の目標を「勝ち点45を取る」と設定した。また、3月末に運営会社の社長が小野寺重之から河西晋二郎に交代した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "リーグ戦は開幕戦で磐田に勝利。その後も苦手にしていたアウェーでも勝ち点を得るようになり、前半戦の台風の目となる。また、中盤戦は、2年前は大敗したアウェーの浦和戦を1-1で乗り切ると、苦戦が予想された8月を3勝2分と無敗で過ごす。特に浦和・横浜FMらとJ1最少失点の座を争い、8月までの23試合中12試合が無失点であった。9月23日の川崎戦で当初の目標の勝ち点45を残り8試合を残して達成したがその後は故障者が相次いだ事もあり、4連敗を含む1勝1分6敗であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "石崎体制3年目。GK水谷雄一、MF谷澤達也が移籍したものの、GK菅野孝憲、MFアレックス、FWポポなどを獲得。DFの補強は鎌田次郎 のみと攻撃陣の補強が目立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "リーグ戦は第15節時点で3位につけたが、中盤以降は低迷して、最終成績は11位。天皇杯は、前身の日立製作所時代以来、33年ぶりに決勝へ進出。決勝はG大阪に敗れたが、準優勝の成績を収めた。シーズン終了後に石崎監督を解任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "監督に高橋真一郎が、コーチに元日本代表DFの井原正巳、元清水のシジマール・アントニオ・マルチンスが就任。アレックスが千葉へ移籍した一方、2007年に在籍していたアルセウ、ナイジェリア1部からアデバヨを獲得。また、柏レイソルユースから史上最多の5人の選手が入団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シーズン開幕後、アルセウがケガのため登録抹消。フランサ、李忠成などが相次いで負傷離脱。大宮から小林慶行、ブラジル1部・クルゼイロECからアンセウモ・ハモン、G大阪からパク・ドンヒョクをレンタル移籍で獲得したが、第17節終了時点でリーグ最多失点の17位と低迷したため、7月15日をもって高橋を監督から解任。東京V、名古屋元監督のネルシーニョが後任監督に就任したが、第33節の大宮戦に引き分けて、2006年以来2度目のJ2降格となった。なお、ナビスコ杯はグループリーグ敗退、天皇杯は3回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制2年目。ブラジル1部・クルゼイロからレアンドロ・ドミンゲスを獲得した一方、杉山浩太が期限付き移籍満了で清水へ復帰した。また、シーズン途中にフランサが退団、菅沼実、古賀正紘が期限付きで磐田に移籍した。J2リーグ戦は、開幕から19試合無敗と年間敗戦数「2」のリーグ敗戦数最少記録を樹立。第33節の岐阜戦で3位以内が確定。第36節の横浜FC戦に勝利してJ2優勝も決めた。天皇杯は4回戦で敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制3年目。右SBのレギュラーだった小林祐三が横浜FMへ、古賀、菅沼が磐田へそれぞれ完全移籍した一方、大宮から安英学、京都から増嶋竜也、福岡から中島崇典、清水から兵働昭弘、ブラジル1部・サンパウロFCからジョルジ・ワグネルを獲得。シーズン6位以内を目標に掲げてシーズンに入った。また、3月末に運営会社の社長が河西晋二郎から御手洗尚樹(日立製作所・執行役常務)に交代した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "リーグ戦はU-22日本代表の酒井宏樹、澤昌克、J・ワグネルらの活躍もあり首位戦線で健闘、名古屋、G大阪と優勝を争い、第29節で首位に浮上。第34節(最終節)で浦和を破り、Jリーグ初となるJ1昇格1年目でのJ1初優勝を飾った。また、J1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを受賞した初のチームとなった。ナビスコ杯は初戦敗退、天皇杯は4回戦で敗退した。また、FIFAクラブワールドカップ2011はオークランド・シティFC(ニュージーランド)モンテレイ(メキシコ)に勝利。3位決定戦でアル・サッド(カタール)に敗退したが4位の成績を残した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制4年目。藏川洋平が熊本に、パク・ドンヒョクが大連実徳足球倶楽部に、仙石廉(岡山)、池元友樹(北九州)がそれぞれレンタル移籍していたにチームに完全移籍、兵働昭弘が千葉に、相馬大士がJFL・FC琉球に、岡山にレンタル移籍していた山崎正登がFC岐阜に、JFL・ブラウブリッツ秋田にレンタル移籍していた比嘉厚平が山形に、岐阜にレンタル移籍していたエフライン・リンタロウが秋田にレンタル移籍、武富孝介の熊本への期限付き移籍期間も延長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "補強は横浜FMから昨シーズン横浜FCに期限付き移籍していた藤田優人、栃木SCからリカルド・ロボ、磐田から那須大亮、東京Vから昨シーズン北九州にレンタル移籍していた福井諒司を完全移籍で獲得、岐阜にレンタル移籍していた川浪吾郎、栃木SCにレンタル移籍していた渡部博文が復帰、ユースから山中亮輔が昇格した。また、リーグ戦の開幕後に三浦雄也が加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シーズン途中に北嶋秀朗が熊本、リカルド・ロボが千葉、林陵平が山形、中島崇典が横浜FC、三浦雄也が松本へレンタル移籍、酒井宏樹がドイツ1部・ハノーファー96へ完全移籍し、元千葉のネット・バイアーノが加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "FUJI XEROX SUPER CUPは、FC東京に勝利して初優勝。リーグ戦は6位の成績。AFCチャンピオンズリーグ2012はラウンド16、ナビスコ杯はベスト4の成績。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会は、決勝戦でG大阪を下し、日立製作所時代以来37年ぶり3度目の天皇杯優勝を果たした。これにより、Jリーグ7チーム目、オリジナル10以外のチームでは磐田に次いで2チーム目の国内3大タイトル(J/J1・ナビスコ杯・天皇杯)獲得チームとなった。また、2回戦は柏レイソルU-18との「兄弟対決」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制5年目。安英学、三浦雄也、エフライン・リンタロウ、ネット・バイアーノ、GKコーチのシジマールが退団、那須大亮が浦和、水野晃樹が甲府、福井諒司が東京Vに、北嶋秀朗(熊本)、比嘉厚平、林陵平(共に山形)、山崎正登(FC岐阜)、中島崇典(横浜FC)、兵働昭弘(千葉)がレンタル先にそれぞれ完全移籍。ユースから昇格した中川寛斗、クォン・ハンジン、熊本にレンタル移籍中だった武富孝介が湘南、川浪吾郎が徳島、JFL・FC琉球にレンタル移籍中だった相馬大士がJFL・町田にそれぞれレンタル移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "補強面では、アルビレックス新潟から鈴木大輔、横浜FMから谷口博之と狩野健太、山形から柏ユース出身の太田徹郎、韓国1部・釜山アイパークから金昌洙を完全移籍、中国1部・広州恒大足球倶楽部からクレオを期限付き移籍でそれぞれ獲得。ユースからは秋野央樹、木村裕、小林祐介、中村航輔が加入し、レンタル移籍した中川を含めて5人が昇格した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "FUJI XEROX SUPER CUPは広島に敗退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "8月31日、アウェー鹿島戦終了後、ネルシーニョが辞意を表明するが、9月5日「感情的に熱くなって間違った態度を取った」と撤回、10月17日にはネルシーニョが2014年度も継続して指揮を執ることが発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ2013では、Jリーグ勢で唯一の決勝トーナメント進出を果たした。決勝ラウンドは準決勝で広州恒大足球倶楽部に2戦合計1-8で敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "リーグ戦は10位の成績。ナビスコカップは決勝で浦和を破り、14年ぶり2回目の優勝を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "天皇杯は4回戦で大分に敗れ、大会2連覇と2014年のACL出場は成らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制6年目。前年にJFL・町田にレンタル移籍していた相馬大士が引退、ジョルジ・ワグネル、澤昌克が退団、クレオがレンタル移籍満了により退団、前年より湘南にレンタル移籍中だった武富孝介、中川寛斗の移籍期間を延長、山中亮輔が千葉、谷口博之が鳥栖にレンタル移籍、前年よりレンタル移籍中だったクォン・ハンジン(湘南⇒群馬)、川浪吾郎(徳島)がレンタル先に完全移籍となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "補強面では、湘南から高山薫とハン・グギョン、水戸から柏レイソルU18出身の輪湖直樹、カタール1部・アル・サッドから元G大阪のレアンドロを完全移籍で獲得。U18から中谷進之介が加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "シーズン開幕後、5月にチーム内に負傷者が相次いだこともあり、U-18から中山雄太、大島康樹、手塚康平、会津雄生、山本健司の5名を二種登録。8月にブラジル1部・フィゲイレンセFCからドゥドゥ、栃木からエドゥアルドをそれぞれレンタル移籍で獲得。 6月にレアンドロ・ドミンゲスが名古屋、田中順也がポルトガル1部・スポルティングCPに、8月にハン・グギョンがカタール1部・カタールSCにそれぞれ完全移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "天皇杯は、3回戦で千葉との千葉ダービーでPK戦の末敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "スルガ銀行チャンピオンシップでは、CAラヌースに2-1で勝利し、4年連続となるタイトルを獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ナビスコカップは、2002年以来となるグループリーグからの決勝トーナメント進出を果たした。準々決勝は当時6年間リーグ戦負けなしの横浜FMに快勝したものの、準決勝は前年の準々決勝で破っていた広島に2戦合計2-3で敗れ、連覇の夢は潰えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ネルシーニョが9月17日に今季限りでの退任を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "J1第28節の鹿島戦から第34節の新潟戦まで7連勝の4位でシーズンを終了した。J1優勝のG大阪が天皇杯も優勝したため、繰上げでAFCチャンピオンズリーグ2015の出場権を獲得した。2011シーズンから続いていた3大主要タイトルの連続優勝こそならなかったものの、ホームの日立柏サッカー場では、リーグ戦17試合中11勝5分1敗という好成績を残した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "井原正巳、アレックス、ピメンテウらコーチ陣3人が契約満了により退任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "新監督にダイレクターだった吉田達磨が就任。また、布部陽功(柏コーチ)がヘッドコーチ、杉山弘一(タイ2部・アユタヤFC監督)がコーチ、松原直哉(U-18コーチ)がフィジカルコーチ、松本拓也(アカデミーGKコーチ)がGKコーチ、 渡辺毅(U-12監督)がダイレクターに就任した。同年から全カテゴリー同じコンセプトで、ボールを保持するサッカーを目指す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "橋本和が浦和、高山薫が湘南、谷口博之が鳥栖、渡部博文が仙台に完全移籍。木村裕が長崎、中村航輔が福岡にレンタル移籍。ドゥドゥがレンタル移籍満了で退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "補強面では、オランダ2部・VVVフェンローから大津祐樹を完全移籍、甲府からクリスティアーノを期限付き移籍で獲得。湘南にレンタル移籍中だった武富孝介、中川寛斗、千葉にレンタル移籍中だった山中亮輔が復帰。明治大学から三浦龍輝が新加入。U-18から大島康樹、中山雄太が昇格した。 シーズン開幕後、U-18から滝本晴彦、熊川翔、浮田健誠の3名を二種登録。流通経済大学から湯澤聖人を特別強化選手に登録。6月に大宮から今井智基を完全移籍で獲得。7月にレアンドロが神戸に完全移籍。7月にブラジル1部・アトレチコ・パラナエンセからエデルソンを完全移籍で獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ2015ではプレーオフからのスタートだったが、チョンブリーFC(タイ)を3-2で下して予選を通過した。グループリーグでは日本勢の中では好調な滑り出しをして、第5節の全北現代モータース戦で勝利をおさめて決勝トーナメントに進出を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし、リーグ戦ファーストステージでは、初戦に前年まで監督だったネルシーニョが率いる神戸に勝利したものの、最終的にわずか4勝しか挙げられず、最終順位は14位と低迷。セカンドステージでは序盤巻き返しを見せ上位に食い込むものの、ACL敗退後はわずか2勝。年間10位、セカンドステージ8位でリーグ戦を終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ決勝トーナメントでは1回戦で水原三星ブルーウィングス(韓国)と対戦。1stレグはレアンドロの2得点をあげる活躍などで3-2で勝利。2ndレグは0-2と追い込まれていたが小林祐介のプロ初得点で、2戦合計4-4となったがアウェーゴールの差で勝利した。準々決勝では広州恒大淘宝足球倶楽部(中国)と対戦。1stレグはホームの日立での戦いだったが3失点を許して敗戦。2ndレグでもクリスティアーノが得点して反撃を見せるが、1-3で落とし2戦合計2-4でACLの敗退が決まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "天皇杯では、準決勝で浦和に0-1で敗戦、決勝進出はならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "シーズン終了後、吉田が監督を退任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "新監督にミルトン・メンデスが就任。工藤壮人がアメリカ1部・バンクーバー・ホワイトキャップス(カナダ)へ、金昌洙が韓国1部・全北現代モータースへ、鈴木大輔がスペイン2部・ジムナスティック・タラゴナへ、近藤直也が千葉へ、狩野健太が川崎へ、菅野孝憲が京都へ、三浦龍輝が長野へ、藤田優人が鳥栖へ移籍。また、期限付き移籍のクリスティアーノが甲府に復帰。長崎へレンタル中の木村裕はレンタル延長となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "補強面では仙台から鎌田次郎、U-18から手塚康平、流通経済大学から湯澤聖人、甲府から伊東純也、タイ1部・チョンブリーFCからジュリアーノ・ミネイロ、ブラジル1部・AAポンチ・プレッタからディエゴ・オリヴェイラを獲得し、福岡に期限付き移籍をしていた中村航輔が復帰した。また、U-18から安西海斗、滝本晴彦が昇格。田中順也が一年半ぶりにスポルティングCPから期限付き移籍で復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "リーグ開幕後にはメンデスの構想外となっていたエドゥアルドの川崎へ期限付き移籍。サンパウロ州選手権1部・アソシアソン・フェロヴィアリア・ジ・エスポルテスからパトリック、ブラジル1部・クルゼイロECからドゥドゥを期限付き移籍で獲得した(ミルトン・メンデス辞任後、パトリックは構想外となり未登録のまま退団)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "キャプテンを8名に任命する、練習と試合での指示が異なるなどチームは混迷し、ちばきんカップはジェフ千葉に0-3と完敗、リーグ戦開幕後も2連敗を喫した。3月12日のリーグ1stステージ3節・磐田戦後に、ミルトン・メンデスは家族の健康上の理由で辞任を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "後任には、ヘッドコーチの下平隆宏が監督に昇格した。監督交代後は、アカデミー出身の中谷進之介、中山雄太、中村航輔らを中心としたディフェンス陣が貢献し、リーグタイ記録となる5試合連続完封勝利を記録した。1stステージは7位で終了。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "5月28日、1997年から2004年まで在籍していた薮崎真哉が代表取締役を務めているジールホールディングスとユニフォームスポンサー契約をした。これによりユニフォームの背中下部には無償提供のセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンとユニフォームスポンサーのジールホールディングスの2つのロゴが入ることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "6月22日にはクリスティアーノが甲府から完全移籍で再加入をした。7月20日にエデルソンがCRヴァスコ・ダ・ガマへ期限付き移籍、8月5日には大島康樹が富山へ育成型期限付き移籍、9月15日にはジュリアーノ・ミネイロが退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2ndステージでは6節、14節に最高4位をマークするも終盤の失速が響き5位で終了、また年間順位は8位でリーグ戦を終えた。天皇杯は4回戦で湘南に敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "下平体制2年目。山中亮輔が横浜FM、茨田陽生が大宮、稲田康志が新潟、太田徹郎が鳥栖へ完全移籍。増嶋竜也が仙台、湯澤聖人が京都、秋野央樹が湘南へ期限付き移籍。長崎へレンタル中の木村裕、川崎へレンタル中のエドゥアルドはそのまま完全移籍となった。ポルトガル1部・スポルティングCPからレンタルしていた田中順也は神戸へ完全移籍となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "補強面ではU-18から古賀太陽がトップチームに昇格。山口から小池龍太、デンマーク1部・ブレンビーIFから尹錫榮、仙台からハモン・ロペスが完全移籍で加入、流通経済大学から橋口拓哉が新加入した。また、富山へレンタルしていた大島康樹が復帰した。2月には中川創、猿田遥己の2名が二種契約として登録された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ちばぎんカップでは2-0で勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "リーグ開幕後にはドイツ2部・VfBシュトゥットガルトから細貝萌を獲得。また、U-18から宮本駿晃が二種契約として登録された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "前半戦は当初4-4-2の形ながらサイドのクリスティアーノ、伊東も攻撃参加する4トップを使用していたが、4月8日の清水戦までで2勝4敗となり、プランの練り直しを余儀なくされた。4月16日の神戸戦から2トップにクリスティアーノ、中川を置く前線のハードワーク型に変えると6月4日の浦和戦まで8連勝、6月25日の札幌戦まで10戦負け無しを記録。暫定首位に浮上したが、序盤の3連敗や上位陣への敗戦などが響き3位で折り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップはグループステージ敗退となるも、初戦で活躍した手塚康平がリーグ戦でも主力としてプレーするなどの収穫を獲た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "夏の移籍では韓国1部・全北現代モータースからキム・ボギョンを獲得。今季絶望の重症となったドゥドゥは登録抹消、今季リーグ出場ゼロの安西海斗は山形へ育成型期限付き移籍となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "後半戦は8月に手塚が今季絶望の重症を負い、セントラルMFは小林や金のローテーションとなった。また、R・ロペスが左MFとして定着するなど先発の入れ替わりの多いシーズンとなった。結果で見ると負けは少ないものの、終盤に守り切れない試合が多く勝ち点を取りこぼした結果、33節の鹿島戦をドローで終え3位C大阪と勝ち点4差となり、最終節を残し4位以下が確定となった。最終節は勝利し最終順位を4位で終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "天皇杯では準決勝まで進出。試合前に行われた準決勝第1戦でC大阪が勝利し決勝に進出したため、柏が対横浜FM戦で勝てばその時点で最低でもAFCチャンピオンズリーグ2018(ACL)プレーオフ出場権確定となる状況で、11分にR・ロペスのゴールで先制するも、69分伊藤翔のゴールで追い付かれ延長戦に突入、終了間際の118分にウーゴ・ヴィエイラに決勝点を決められ準決勝敗退となったため、自力でのACL出場権獲得はなくなり、C大阪の天皇杯優勝による繰り上げでのACLプレーオフ進出を待つこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "元日に行われた天皇杯決勝はC大阪が制したため、繰り上げによるACLプレーオフ出場権を手にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "下平体制3年目。輪湖直樹が福岡へ、大津祐樹が横浜FMへ、武富孝介が浦和へ完全移籍。橋口拓哉が町田へ、小林祐介が湘南へ、ディエゴ・オリヴェイラがFC東京へ期限付き移籍。湘南にレンタル中の秋野央樹、山形にレンタル中の安西海斗はレンタル延長。京都にレンタル中の湯澤聖人は甲府に完全移籍。仙台にレンタル中の増嶋竜也は千葉にレンタルとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "補強面では新潟から小泉慶と山崎亮平、ペルー1部・デポルティーボ・ムニシパルから澤昌克、大宮から江坂任と瀬川祐輔、福岡から亀川諒史、横浜FMから朴正洙を完全移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1月24日、三協フロンテアとのスタジアムネーミングライツ及びユニフォームスポンサー契約を締結した(詳細は#ユニフォームと#スタジアム・練習場を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "AFCチャンピオンズリーグ2018ではプレーオフからのスタートだったが、ムアントン・ユナイテッドFC(タイ)を3-0で下して本選出場を果たした。本選では初戦、過去6戦無敗だった全北現代(韓国)にロペス、江坂のゴールで一時は2-0とリードするも2-3で逆転負け。続くホームの天津権健足球倶楽部(中国)戦は1点リードで迎えた終盤にアレシャンドレ・パトにゴールを奪われ1-1と昨年からの課題だった終盤の失点癖 がACLでも露呈してしまう。連勝だけでなく大量得点も奪っておきたい傑志体育会(香港)との2連戦はホームで1-0で勝利も、アウェイはクリスティアーノ、伊東、キム・ボギョンをベンチスタートで温存も、亀川が前半早々に退場した事でゲームプランの立て直しを余儀なくされ終了間際の失点で0-1で敗北を喫した。守護神・中村を負傷で欠いたホームの全北現代戦は0-2で敗北し、チーム史上初めてグループステージ敗退となった。最終節の天津戦は控えメンバー主体で挑むも2-3で敗北。結果1勝1分4敗、6得点10失点で大会を去った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "リーグ前半戦は、前半に先制し後半終盤に失点するゲームを繰り返し、5月12日の川崎戦ロスタイムにJ1初出場の鈴木雄斗にヘディングシュートで逆転負けした事により下平は解任、後任はヘッドコーチの加藤望が昇格した。加藤体制初戦の名古屋戦は勝利を収めたものの守護神中村が脳震盪で負傷退場。ワールドカップのメンバー登録には間に合ったが、その中断明けのFC東京戦でも脳震盪で負傷離脱し、11月3日の川崎戦まで後半戦の試合ほとんどを第2GKの桐畑に任せる事となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "夏の移籍では中谷進之介が名古屋に完全移籍、尹錫榮が韓国1部・FCソウルに期限付き移籍と前半戦で先発でプレーしたDFを放出。さらに古賀太陽が福岡に期限付き移籍、今井智基が松本に完全移籍とサイドバックの控え選手を放出。また、ハモン・ロペスが契約を解除され、古巣の仙台に戻った。補強面では千葉の高木利弥、ブラジル1部・フルミネンセFCからカタール国籍を持つナタン・ヒベイロ、中国1部・貴州智誠足球倶楽部から昨季スペイン1部ジローナFCでプレーしたケニア人FWオルンガを獲得し、9月にはスペイン2部・ジムナスティック・タラゴナを退団しフリーとなっていた鈴木大輔が2015シーズンぶりの復帰を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "天皇杯では2回戦から出場し、VONDS市原FCに6-0で勝利。続く3回戦では山形とクラブの歴史上未だに勝利のないNDソフトスタジアム山形で対戦。後半に先制を許し、アディショナルタイムのPKでなんとか追い付くもさらに後半ATに勝ち越しゴールを決められ3回戦敗退。苦手とするアウェイ山形にまたも勝てなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップではACLに出場したため決勝トーナメントからの出場となった。初戦の甲府戦はアウェイの1stleg、ホームの2ndleg共に引き分け、合計3-3のアウェイゴール差で準決勝に進出。準決勝の湘南戦はホームで1-1、アウェイも1-1とドローとなり、延長戦でも1点ずつ入れ合いPK戦に突入。結果PK戦を落とし敗退となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "加藤体制への移行後もチーム状況は改善せず、下平体制のリーグ14戦5勝2分7敗に対して加藤体制ではリーグ18戦5勝1分12敗と悪化。また4連敗・3連敗を喫するなど、サポーターからも解任の声が高まっていった。第32節終了時点、勝点33、17位の状況で11月10日に加藤を監督から解任し、後任にコーチ兼アカデミーヘッドオブコーチの岩瀬健が監督に就任した。岩瀬体制初戦の第33節・C大阪戦は勝点37で並ぶ湘南・鳥栖・名古屋の結果によって自動降格が決定する状況のなか、3-0で4試合振りの勝利を収めるも、同節で湘南・鳥栖・名古屋が揃って勝利したためシーズン17位が確定、2010年以来9シーズン振りのJ2降格が決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "今季初の連勝を狙った最終節G大阪戦は4-2で勝利し、最終節にして初の連勝となった。最終成績は12勝3分19敗の勝点39、得失点差-7の17位、2012年J1のG大阪を超え、17位チームとしての過去最高勝点、かつ同年16位の神戸の勝点39得失点差-9を上回り、J2自動降格チームの最高成績記録を更新した。攻撃面では、総得点こそ47で前年度に比べ2点減っただけにとどまったが、先述のGK中村の負傷による長期離脱や中谷の放出が致命傷となり、前年度はリーグ3位の33失点だった守備が崩壊、リーグワースト4位タイで前年より1.5倍強の54失点を喫した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "また、今シーズンをもって栗澤僚一が現役引退を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "新監督として、ネルシーニョが2014年以来5年振りに就任。福岡監督を退任した井原正巳がヘッドコーチに復帰、現役引退した栗澤はコーチに就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "冬の移籍では細貝萌がタイ1部・ブリーラム・ユナイテッドFCへ、鈴木大輔が浦和へ、亀川諒史が長崎へ、中山雄太がオランダ1部・PECズウォレへ完全移籍。中川寛斗が湘南へ、キム・ボギョンが韓国1部・蔚山現代FCへ、伊東純也がベルギー1部・KRCヘンクへ期限付き移籍。ナタン・ヒベイロが期限付き移籍期間満了、澤昌克が契約満了につき退団。山形に育成型期限付き移籍していた安西海斗がポルトガル・SCブラガに完全移籍。千葉に期限付き移籍していた増嶋竜也がレンタル延長。町田に期限付き移籍していた橋口拓哉がテゲバジャーロ宮崎に、FCソウルに期限付き移籍していた尹錫榮が韓国1部・江原FCに期限付き移籍。FC東京に期限付き移籍していたディエゴ・オリヴェイラと湘南に期限付き移籍していた秋野央樹がそのまま完全移籍となった。また、2種登録の小久保玲央ブライアンがポルトガル1部・SLベンフィカへ移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "獲得面では湘南に期限付き移籍していた小林祐介、福岡に期限付き移籍していた古賀太陽が復帰。神戸から高橋峻希、浦和から菊池大介、長崎から田上大地、京都から染谷悠太、清水から村田和哉、ブラジル1部・セアラーSCからヒシャルジソンを完全移籍で獲得。2019年加入内定の上島拓巳が加入。ブラジル1部・CRフラメンゴからガブリエル・サンタナを期限付き移籍で獲得した。また、U-18から杉井颯と山田雄士が昇格した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "シーズン前半戦は開幕から4連勝を飾るも全て1点差というギリギリの試合となり、18節の福岡戦までで複数得点は3試合のみと得点力に課題が残る結果となった。しかし、フォーメーションを変えた19節の千葉ダービーを2-0で勝利すると、アウェイ山形に初勝利する等その後2連勝。10勝7分4敗の3位で前半を折り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップでは初戦こそ勝利するも残り5試合勝ち無しの最下位でグループステージ敗退となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "天皇杯は2回戦から出場。初戦のいわてグルージャ盛岡に4-0で勝利。続く鳥栖戦はスコアレスで延長戦に入り、延長前半にフェルナンド・トーレスの現役ラストゴールを決められ、2年連続の3回戦敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "夏の移籍では朴正洙が鳥栖、村田和哉が福岡、猿田遥己が鹿児島へ期限付き移籍。中川創が相模原へ育成型期限付き移籍。小泉慶が鹿島、高木利弥が松本、小池龍太がベルギー2部・スポルティング・ロケレンへ完全移籍。獲得面ではフォルタレーザECからジュニオール・サントス、C大阪から山下達也が完全移籍。ブラジル1部・CRフラメンゴからマテウス・サヴィオ、神戸から三原雅俊、新潟から川口尚紀を期限付き移籍で獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "シーズン後半戦は折り返しからの連勝を継続し、25節岡山戦の勝利で今季初の首位浮上、また29節岐阜戦で11連勝を飾り、クラブのJ2連勝記録を更新した(30節新潟戦で連勝はストップ)。連勝ストップ後は首位独走のアドバンテージを利用し、小池退団後固定できなかった右サイドバックに瀬川を起用する等の実験的采配や山形・横浜FC・水戸・大宮と上位戦に敗北する等で勝ち点を落とし2位との勝ち点差は徐々に縮まっていったが、それでも首位を明け渡さず41節町田戦にて3-0で勝利した事で、最終節を残しJ2優勝とJ1昇格を決めた。また、最終節京都戦では13-1という記録的勝利。チームとしてJリーグとしてのJリーグ1試合の最多得点記録が更新された。この試合でオルンガが挙げた8得点は、Jリーグの公式戦1試合における個人最多得点新記録となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制2年目。スタッフ人事では2018年にJ1残り2節を監督として指揮したアカデミーヘッドオブコーチの岩瀬健が大分のヘッドコーチ就任の為退団した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "冬の移籍では上島拓巳と菊池大介が福岡へ、田中陸が山口へ、手塚康平が横浜FCへ、杉井颯が金沢へ、宮本駿晃が山形へ、田上大地が新潟へ期限付き移籍。ガブリエルはレンタルバックとなった。レンタル組では橋口拓哉(テゲバジャーロ宮崎)が岐阜、中川創(相模原)が磐田へ完全移籍。猿田遥己(鹿児島)がG大阪、村田和哉(福岡)が山口へ期限付き移籍。増嶋竜也(千葉)と中川寛斗(湘南)がレンタル先へ完全移籍。パク・ジョンス(鳥栖)はレンタル延長。また、キム・ボギョン(蔚山現代FC)は韓国1部・全北現代モータースへ完全移籍、ユン・ソギョン(江原FC)は韓国1部・釜山アイパークへ期限付き移籍となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "獲得面では磐田から大南拓磨、鳥栖から高橋祐治と三丸拡、新潟から戸嶋祥郎、湘南(愛媛に期限付き移籍)から神谷優太、岡山から仲間隼斗、G大阪(長崎に期限付き移籍)から呉屋大翔、横浜FCから北爪健吾、韓国1部・蔚山現代からキム・スンギュを完全移籍で獲得。マテウス・サヴィオ、三原雅俊、川口尚紀のレンタル組を完全移籍で買い取り。東洋大学から松本健太、U-18から細谷真大、鵜木郁哉、井出敬大が昇格。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "シーズン開幕後には昇格した井出が4月に登録抹消され、6月に栃木へ移籍、7月には松本が大宮へ育成型期限付き移籍、8月にはジュニオール・サントスが横浜FMへ期限付き移籍した。また、ベルギー1部・KRCヘンクへ期限付き移籍していた伊東純也がヘンクに買い取られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "シーズン序盤は開幕戦の札幌戦に4-2で勝利し、新型コロナウイルスによる中断期間に入る。中断期間中は他チームとの練習試合を行わない、クリスティアーノが負傷離脱する等の出来事があった中、再開後初戦の第2節FC東京戦へ。しかし、開幕戦2ゴールのオルンガが沈黙、ヒシャルジソンがイエロー2枚で退場等、チーム全体として不調に陥り、結局再開後3連敗を喫する。しかし、有観客試合となった第5節の湘南戦では怪我から復帰した中村をはじめ古賀以外の守備陣を一新。攻撃陣も新加入選手の活躍や復活したオルンガの2ゴール等で3-2と勝利すると、続く浦和戦では今季初のクリーンシートで4-0の勝利を収めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "シーズン通じて上位~中位を行き来しており、シーズン終盤まで来季ACL出場の可能性も残されていたが、コロナウイルス感染影響で12月9日に延期となった第27節大分戦を引き分けた事でACL出場権の可能性が消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップではグループリーグ3戦全勝、準々決勝も勝利し、準決勝の横浜FM戦では直前のリーグ戦で1-3と敗れるもカップ戦で1-0とリベンジ達成し、決勝に進出した。しかし、決勝直前の11月2日に選手1名に新型コロナウイルスの陽性反応、さらに翌3日にはネルシーニョを含むチームスタッフ2名、その後も4日に選手2名とスタッフ8名が陽性反応を受け、クラブとリーグの協議の結果、11月7日の決勝を延期する事を発表。代替試合は2021年1月4日となる 決勝戦では前半にレアンドロに先制されるも終了間際に瀬川がコーナーキックから同点に持ち込む。が、後半途中に投入されたアダイウトンに決勝点を決められ敗戦。オルンガ、江坂を始めとする攻撃陣は徹底的に対策を取られ沈黙し、守備面では相手ブラジル人選手に好きなようにされるなど試合内容では圧倒される結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "Jリーグアウォーズではオルンガが28ゴールで得点王に輝いたのに加え、ブラジル人以外の外国人選手からは1995年の当時ユーゴスラビア(今のセルビア)人であるドラガン・ストイコビッチ以来2人目となる最優秀選手賞にも輝いた。得点王の選手が最優秀選手賞を同時に受賞したのは史上8人目で2003年に受賞したエメルソンの浦和は年間で6位だったが、チームはJ1を7位で終えている為史上最も年間順位の低いチームからのMVP受賞となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制3年目。スタッフ人事では2012年から2015年まで柏に在籍した藤田優人がU-18コーチに就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "冬の移籍では小林祐介が千葉へ、オルンガがカタール1部・アル・ドゥハイルSCへ、中村航輔がポルトガル1部・ポルティモネンセSCへ、山崎亮平が長崎へ完全移籍。鎌田次郎が相模原へ期限付き移籍。桐畑和繁は一度契約満了になるも再契約し岐阜に期限付き移籍した。レンタル組ではパク・ジョンス(鳥栖)が韓国1部・城南FCへ、ジュニオール・サントス(横浜FM)が広島へ、ユン・ソギョン(釜山アイパーク)は韓国1部・江原FCへ完全移籍。菊池大介(福岡)が栃木へ、杉井颯(金沢)が鳥取へ、猿田遥己(G大阪)が横浜FCへ期限付き移籍。田上大地(新潟)が移籍期間延長。田中陸(山口)と手塚康平(横浜FC)がレンタル先へ完全移籍。宮本駿晃(山形)は退団。村田和哉(山口)は現役を引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "獲得面では仙台から椎橋慧也、大宮からイッペイ・シノヅカ、ブラジル1部・フルミネンセFCよりドッジ、ブラジル1部・レッドブル・ブラガンチーノよりアンジェロッティが完全移籍加入。松本健太(大宮)、上島拓巳(福岡)が復帰。佐々木雅士と大嶽拓馬がU-18から昇格した。 開幕後にはSEパルメイラスよりエメルソン・サントス、ボタフォゴFRよりペドロ・ハウルが加入。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "オルンガ頼みの昨季から戦術を変えなかった事でシーズン序盤から低調な試合が続き、開幕戦で敗れた後第二節湘南戦では勝利を挙げたが、そこから4連敗。しかし4月には残留争いのライバル相手に3連勝する等復活の兆しが見えかけたがそこから6月27日の20節湘南戦まで勝ちが無くなり、降格圏内にまで順位が落ちる事になった。シーズン折り返しの19節時点での成績は4勝2分13敗と、降格した2018年加藤体制時より悪化している状況であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップではグループリーグ1勝3分2敗で敗退。 天皇杯は2回戦から出場。初戦の栃木シティFCに3-0で勝利するが、次戦の京都戦では1-2の逆転負けで敗退となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "シーズン途中には大谷不在時キャプテンを務めた司令塔の江坂任が6月に浦和へ完全移籍。7月には呉屋大翔が大分へ完全移籍で退団、浦和より武藤雄樹が完全移籍で加入した。 9月には今季加入のペドロ・ハウルがメキシコ1部・FCフアレスへ期限付き移籍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "シーズン後半は復調を見せ、35節C大阪戦時点で後半戦8勝2分6敗となり、3試合を残して降格圏との勝ち点差が10になった為J1残留が確定した。 最終成績は12勝5分21敗の勝点41で15位。負数は降格した4チームと同じ20を超えるワースト3タイ、得失点差も降格4チームに次ぐワースト5の-19点と今季のJ1でも最低クラスの戦績となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2021年12月4日のホーム最終戦セレモニーにて監督続投が発表され、ネルシーニョ体制4年目。1992年に運営会社となる株式会社日立スポーツを設立し30年目の節目を迎える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "冬の移籍ではヒシャルジソンがブラジル1部・セアラーSCへ、仲間隼斗が鹿島へ、神谷優太が清水へ、クリスティアーノと高橋峻希が長崎へ、瀬川祐輔が湘南へ、山下達也がC大阪へ完全移籍。滝本晴彦が今治、イッペイ・シノヅカが新潟へ期限付き移籍。レンタル組では杉井颯(鳥取)が長野へ、菊池大介(栃木)が岐阜へ完全移籍。桐畑和繁(岐阜)がレンタル延長。田上大地(新潟)と鎌田次郎(相模原)がそのままレンタル先へ完全移籍。ペドロ・ハウル(FCフアレス)がブラジル・ゴイアスECへ期限付き移籍。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "獲得面では熊本から岩下航、清水から中村慶太、神戸からドウグラス、鳥栖から小屋松知哉が完全移籍加入。猿田遥己(横浜FC)が復帰。U-18から升掛友護、田中隼人、真家英嵩が昇格。筑波大学より森海渡と加藤匠人、日本体育大学柏高等学校より土屋巧が加入。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "昨年の低調ぶりから多くの記者や解説者が下位や降格を予想する中始まったリーグ前半戦は、そういった予想を覆す戦いを見せ、4月5日のセレッソ戦で5勝1分1敗で暫定首位に立つ絶好調ぶりを見せる。その後3連敗やホームで中々勝てない等調子を落とす時期もあったが、リーグの半分を終えて首位と勝ち点4差の4位で折り返した。なお、4~5月に着用した限定ユニフォームでの戦績は2勝1分3敗。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップは2勝2分2敗で札幌との直接対戦成績により3位でグループステージ敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "天皇杯は2回戦から出場。初戦の筑波大学に1-0で勝利し、3回戦の徳島戦でも2-1で逆転勝ちをして5年ぶりのベスト16入りしたが、続く4回戦の神戸戦では1-2と敗戦し、ベスト8入りとはならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "夏の移籍ではキム・スンギュがサウジアラビア・アル・シャバブ・リヤドへ完全移籍。エメルソン・サントスがアトレチコ・ゴイアニエンセへ期限付き移籍。鵜木郁哉が水戸へ育成型期限付き移籍。また鳥栖より守田達弥が期限付きで加入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "リーグ後半戦は調子を落とし、8月6日のアウェイ京都戦を最後にシーズン終了までの10戦を未勝利となり、ACL権争いから大きく後退。勝点47の7位でフィニッシュとなった。 また、今季限りで大谷秀和と染谷悠太が現役を引退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ネルシーニョ体制5年目。スタッフ人事では昨季引退した大谷秀和と染谷悠太がそれぞれトップチームコーチ、U-18コーチに就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "冬の移籍では北爪健吾と高橋祐治が清水へ、大南拓磨が川崎へ、上島拓巳が横浜FMへ、ドッジがサントスFC(ブラジル)へ完全移籍。森海渡が徳島へ、大嶽拓馬が愛媛へ、山田雄士が栃木へ、アンジェロッティが大宮へ期限付き移籍。レンタル組では桐畑和繁(岐阜)が引退。ペドロ・ハウル(ブラジル・ゴイアスEC)がCRヴァスコ・ダ・ガマへ完全移籍。滝本晴彦(今治)がレンタル先へ完全移籍。イッペイ・シノヅカ(新潟)が契約解除。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "獲得面では札幌から高嶺朋樹、山形から山田康太、清水から片山瑛一と立田悠悟、鳥栖からジエゴ、名古屋から仙頭啓矢、ヴィボーFF(デンマーク)からジェイ=ロイ・フロートを完全移籍で獲得。期限付き移籍で加入していた守田達弥が完全移籍に移行。U-18からは山本桜大とモハマドファルザン佐名が昇格。東京国際大学から落合陸、流通経済大学から熊澤和希、日本体育大学柏高等学校からオウイエ・ウイリアムが加入。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "ちばぎんカップでは守備陣のミスが相次ぎ敗れると、リーグ開幕後は昨季からの不調を引きずるような形で1節2節と引き分けて、リーグ戦12戦連続未勝利でクラブワーストタイに並ぶ。第3節福岡戦に敗北した事で13戦連続未勝利となりクラブ単独ワースト記録となった。また、ルヴァンカップ第3節新潟戦で敗北した事により、リーグ・カップ含めた公式戦19戦連続未勝利でこちらもクラブワーストとなった。 4月9日の第7節鹿島戦にて今季初勝利を挙げ、リーグ戦連続未勝利は16、公式戦は19で止まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "瀧川龍一郎社長の任期満了に伴い、4月1日付けで山崎和伸に交代。4月7日に前年鹿島を退団し無所属となっていたブエノが加入。 5月13日の第13節横浜FC戦に敗北後、サポーターは居残り抗議を行い布部GMとの話し合いに発展。コールリーダーを中心に終始冷静な話し合いが進められ、最後はエールの拍手で締め括ったが、その4日後の5月17日、チームはネルシーニョ退任を発表。後任はヘッドコーチの井原正巳。 井原体制となってからも1勝が遠く、第16節札幌戦では5-4、第17節横浜FM戦では4-3と撃ち合いに敗北。2勝6分9敗・勝点12の最下位でシーズンを折り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "夏の移籍では中村慶太が長崎へ完全移籍。升掛友護が愛媛へ育成型期限付き移籍。大嶽拓馬(愛媛レンタル)がヴェルスパ大分へ育成型期限付き移籍。 また、浦和から犬飼智也が期限付き移籍で加入。山田雄士(栃木レンタル)が復帰。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "天皇杯は2回戦で山梨学院大学PEGASUS(山梨県代表)、3回戦で徳島、4回戦で札幌、準々決勝で名古屋を下し、準決勝ではJ2勢で唯一準決勝まで勝ち進んだ熊本に4-0で勝利。2012シーズンの第92回大会以来11大会ぶりの決勝進出を決めた。 決勝戦では19本のシュートを放ちながら無得点に終わり、0-0でPK戦に突入。10人目まで続き、GK対決となった松本のPKをチョン・ソンリョンが止めた事で試合終了、準優勝となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ルヴァンカップはグループステージを1勝に終わり最下位で敗退。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "シーズン後半戦も天皇杯こそ勝ち進むもののリーグ戦は10試合未勝利が続き、迎えた第22節は奇しくも1年前と全く同じ8月6日のアウェイ京都戦。細谷のゴールで1-0で勝利し井原体制初勝利となった。なお、昨年の京都戦から今年の京都戦までの1年でリーグ戦は2勝しか挙げていなかった。その後は新加入の犬飼を中心に守備が安定。京都戦以降は主に引き分けで勝ち点1を重ね、最終節を前に最下位横浜FCとの勝ち点差は3となり、最終節で敗北しても12差ある得失点差を横浜FCが上回らない限りは残留という状況になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "最終節名古屋戦は1-1で引き分け、横浜FCが敗北したため、勝点差は4となり、6勝15分13敗・勝点33の17位でJ1残留が決定した(通常のレギュレーションであれば自動降格の順位)。なお、6勝は今季J1ワースト、15分は今季J1最多となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "井原体制2年目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "冬の移籍では椎橋慧也が名古屋へ、山田康太がG大阪へ完全移籍。三原雅俊、ブエノ、ドウグラスが契約満了。レンタル組では大嶽拓馬(ヴェルスパ大分)、アンジェロッティ(大宮)、エメルソン・サントス(アトレチコGO)が契約満了。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "獲得面では木下康介(京都)が完全移籍で加入。期限付き移籍で加入していた犬飼智也が完全移籍に移行。鵜木郁哉(水戸レンタル)が復帰。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "ジェフユナイテッド市原・千葉との対戦。", "title": "ダービーマッチ" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "1995年から開始された、シーズン開幕前に行われるジェフユナイテッド市原・千葉とのプレシーズンマッチ。", "title": "ダービーマッチ" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォーム" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "U-18、U-15/14/13、U-12/11/10、U-9スペシャルクラス、GKクラス、スクールからなるアカデミー本体のほか、「柏レイソルアライアンスグループ」の名の下に、「柏レイソルアライアンスアカデミー」として柏市、野田市、流山市、長生郡白子町で、また、「柏レイソルアライアンスクラブ」として柏市、松戸市、我孫子市、流山市、茨城県取手市をホームタウンとする計8クラブと提携してアカデミー活動を行っている。", "title": "アカデミー" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2014年現在J1・J2の40クラブで唯一Jリーグのオフィシャルチケッティングパートナーであるチケットぴあでのチケット販売を行っておらず、ローソンチケットとJリーグの公式販売サイトであるJリーグチケットでのみ販売している(かつてはチケットぴあでの販売を行っていた時期があり、Pコード「592-120」が割り当てられていた)。", "title": "チケット" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "柏レイソルの決算は、つぎのとおり。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "人件費は事業費に含まれる。", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016", "title": "決算" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "金額の単位: 百万円", "title": "決算" } ]
柏レイソルは、日本の千葉県柏市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 史上初めてJ1昇格年にJ1優勝を果たしたクラブである。
{{サッカークラブ |font-color = #231815 |background-color = #FFF000 | 原語表記 = 柏レイソル | 呼称 = 柏レイソル | カラー = {{colorbox|#FFF100}} イエロー<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/club/kashiwa/day/#profile|title=クラブガイド:柏レイソル|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2014-4-18}}</ref> <br/> {{colorbox|black}} ブラック | 創設 = 1940 | リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] | ディビジョン = [[J1リーグ]] | クラブライセンス = J1 | ホームタウン = [[千葉県]][[柏市]]<ref name="jleague" /> | スタジアム = [[ファイル:Kashiwa20120311-1.JPG|250px]]<br/>[[日立柏サッカー場|三協フロンテア柏スタジアム]]<ref name="jleague" /> | キャパ = 15,109<ref name="jleague" /> | 法人名 = 株式会社日立柏レイソル<ref name="jleague" /> | 代表 = {{Flagicon|JPN}} 山崎和伸<ref name="jleague" /> | 監督 = {{Flagicon|JPN}} [[井原正巳]] | HP = https://www.reysol.co.jp/ | pattern_la1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | leftarm1 = | body1 = | rightarm1 = | shorts1 = | socks1 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'''柏レイソル'''(かしわレイソル、{{Lang-en-short|Kashiwa Reysol}})は、[[日本]]の[[千葉県]][[柏市]]をホームタウンとする<ref name="jleague" />、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロ[[サッカー]]クラブ。 史上初めてJ1昇格年にJ1優勝を果たしたクラブである。 == 概要 == [[1940年]]に創部された'''[[日立製作所本社サッカー部]]'''(1970年に'''日立製作所サッカー部'''へ改称<ref group="注">1970年シーズンまでは日立製作所本社サッカー部の名称で競技に参加。1971年シーズンから日立製作所サッカー部と改めた。</ref>)が前身となり<ref name="jleague" />、[[1995年]]にJリーグへ加盟した<ref name="jleague" />。運営会社は'''株式会社日立柏レイソル'''である<ref name="jleague" />。[[ホームタウン]]登録は[[千葉県]][[柏市]]のみであるが<ref name="jleague" />、それに加えて[[我孫子市]]、[[鎌ケ谷市]]、[[流山市]]、[[野田市]]、[[松戸市]]、[[印西市]]、[[白井市]]を活動エリア<ref name="hometown">{{Cite web|和書|url=http://www.reysol.co.jp/club/town/|title=ホームタウン|work=柏レイソル|accessdate=2013-4-28}}</ref> とし、サッカースクールやホームゲームでのホームタウンデーなどを行っている<ref name="hometown"/>。 チーム名は[[スペイン語]]の「レイ(Rey)」(王)と「ソル(Sol)」(太陽)を合わせた造語で、「太陽王」を意味する<ref name="jleague" />。ホームスタジアムは[[日立柏サッカー場|三協フロンテア柏スタジアム]]である<ref name="jleague" />(詳細は[[#スタジアム・練習場]]を参照)。マスコットは「太陽の王子」をイメージした「レイくん」である<ref name="jleague" />。 == 歴史 == === Jリーグ昇格前 === {{Main|日立製作所本社サッカー部}} 前身の日立製作所サッカー部は、[[日本サッカーリーグ]](JSL)が創設された1965年から参加した8チーム(オリジナル8)のうちの1つ。JSLリーグ戦で1回、[[JSLカップ]]で1回、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]で2度、それぞれ優勝した。 1990年にプロリーグ(Jリーグ=1993年創設)参加を表明。[[1992年]]4月、運営会社となる'''株式会社日立スポーツ'''を設立<ref name="jleague" />。1993年、'''日立FC柏レイソル'''とクラブ名称を変更し<ref name="jleague" />、[[藤和不動産サッカー部|フジタ]](現:[[湘南ベルマーレ]])、[[ヤマハ発動機サッカー部|ヤマハ]](現:[[ジュビロ磐田]])と共に[[Jリーグ準会員制度|Jリーグ準会員]]に承認された。(初代社長は佐藤東里) [[1993年]]、[[ジャパンフットボールリーグ|JFL]]において2位以内の成績でJリーグ加盟が認められることになっていたが、最終順位は5位。秋に当時[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレッカ]]を獲得。[[山口芳忠]]が初代監督として指揮をとった。JFLの成績ではJリーグ昇格はならなかったが、それでもJリーグカップにおいてベスト4入りすれば、Jリーグへの加盟が承認される条件の中、カレッカを加え、リーグカップに挑んだが、チームは得失点差で決勝トーナメント進出を逃したことで、Jリーグへの加盟は認められなかった<ref name="reysol10">DECADE 柏レイソル10年史 文化工房 星雲社、2004年、p68-71 {{ISBN2|4-434-04119-3}}</ref>。 [[1994年]]、[[戸塚哲也]]、[[柱谷幸一]]を獲得。[[10月23日]]、JFL最終節、[[NTT関東サッカー部]]戦にカレッカのゴールで1-0と勝利したことで2位が確定し、Jリーグ昇格を決めた<ref name="reysol10"/>。カレッカはこの年チーム最多の19得点を挙げた。 === 1995年 - 2005年(Jリーグ・J1) === 1995年、開幕を前にブラジル代表の[[ルイス・アントニオ・コレイア・ダ・コスタ|ミューレル]]を獲得、代表でもツートップを組んだカレッカとのプレーは期待されたが、僅か数試合プレーしたのみで退団した。1stステージは最終戦でそれまで10連敗していたホームで勝利をあげたが最下位(14位)。1stステージ終了後の[[ジョゼ・セルジオ・プレスティ|ゼ・セルジオ]]を監督から解任し、7月の2ndステージからは[[ベネディクト・アントニオ・アンジェリ|アントニーニョ]]が監督に就任。1stステージ優勝の[[横浜F・マリノス|横浜M]]に2戦2勝するなど2ndステージは5位(年間成績は12位)。ナビスコ杯では準決勝まで勝ち上がった。 1996年、'''柏レイソル'''へクラブ名称を変更<ref name="jleague" />。また、[[ニカノール・デ・カルバーリョ]]が監督に就任。[[エジウソン・ダ・シルバ・フェレイラ|エジウソン]]がゴールを量産、両サイドバックが激しく動く攻撃的なサッカーを展開、12連勝を達成するなど、年間5位の成績。シーズン終了後カレッカが退団した。 1997年、二カノール体制2年目。1stステージは,優勝争いに加わり3位であったが、2ndステージは10位に終わった。なお、[[エジウソン・ダ・シルバ・フェレイラ|エジウソン]]が[[1998 FIFAワールドカップ|W杯]]出場を目指し,2ndシーズン途中に退団。また、シーズン終了後にニカノールが金銭面を巡ってクラブと合意に至らず監督を退任。 [[ファイル:Hristo Stoichkov PFC Litex Lovech manager.jpg|thumb|250px|[[フリスト・ストイチコフ]]]] 1998年、監督に[[西野朗]]が就任。また、7月に[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア代表]]の[[フリスト・ストイチコフ]]が加入した。 1999年、西野体制2年目。[[横浜フリューゲルス|横浜F]]から[[薩川了洋]]、[[湘南ベルマーレ|平塚]]から[[洪明甫]]を獲得した一方、2ndステージ前にストイチコフが退団した。リーグ戦は年間3位の成績。また、[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]で優勝し、クラブ初タイトルを獲得。 2000年、西野体制3年目。1stステージは4位。シーズン途中に[[サーシャ・ドラクリッチ]]とのトレードで[[黄善洪]]を獲得した。2ndステージは終盤まで優勝を争い、最終節の勝った方が優勝という[[鹿島アントラーズ|鹿島]]との直接対決でスコアレスドローとなり優勝を逃す。 年間では最多の勝点を獲得したものの、1st/2ndステージ勝者<ref group="注">1stステージは横浜FM、2ndステージは鹿島で、年間優勝はチャンピオンシップ勝者の鹿島。</ref> が年間1位/2位となるため、総合3位でシーズンを終えた。年間勝ち点1位のチームがチャンピオンシップ出場を逃したのはこれが唯一のケースである。 2001年、[[柳想鐵]]を獲得、1stステージが6位、2ndステージが7位。なお、7月に西野を解任し、[[スティーブ・ペリマン]]が後任の監督に就任した。シーズン終了後に洪明甫が退団した。 [[2002年]]、1stステージは7連敗を喫するなど14位。シーズン途中に黄善洪との契約を解除、8月にペリマンを解任し、[[マルコ・アウレリオ・モレイラ|マルコ・アウレリオ]]が監督に就任。2ndステージは9位。 [[2003年]]、1stステージが9位、2ndステージが11位(年間成績は12位)。シーズン終了後にマルコ・アウレリオが退任した(事実上の解任)。 [[2004年]]、日立製作所サッカー部OBの[[池谷友良]]がコーチから監督に昇格したが、1stステージは15位の成績。1stステージ終了後に池谷が退任し、[[早野宏史]]が後任監督に就任したが、2ndステージも15位。J1年間最下位に終わったが、[[J1・J2入れ替え戦]]で[[アビスパ福岡|福岡]]に勝利し、J1に残留した<ref group="注">この年は、翌シーズンからのJ1リーグの所属クラブを16から18に拡大するのに伴い、J2リーグへの自動降格は無く、J1リーグ最下位(16位)の柏とJ2リーグ3位の福岡が入れ替え戦を行った。</ref>。 [[2005年]]、[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]の[[フォワード (サッカー)|FW]][[崔成国]]や[[クレーベル・サンタナ・ロウレイロ|クレーベル]]らを獲得(崔は7月31日付でレンタル移籍を終了)。低迷打破のため、元ブラジル代表FW[[フランソアウド・セナ・デ・ソウザ|フランサ]]を獲得し、元[[東京ヴェルディ1969|東京V]]の[[ラモス瑠偉]]をコーチに起用した。 [[10月15日]]、アウェーの[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦で、2人の退場者を出すなどし、0-7で大敗。[[11月26日]]、ホームの東京V戦に5-1と大勝したが、年間16位の成績。 J1・J2入れ替え戦は[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に、第1戦はアウェーで1-2、第2戦はホームで[[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]に[[ハットトリック|ダブルハットトリック]]を決められ2-6と連敗し、[[J2リーグ|Jリーグ ディビジョン2]](J2)降格が決まった<ref group="注">なお、両クラブはそれぞれ前身(JSL)時代に、柏は日立製作所として甲府は[[甲府サッカークラブ]]として、入れ替え戦を戦ったことがあり、その際は日立が2戦2勝だった。</ref>。シーズンを通して退場者を多く出してしまい、Jリーグ加盟初年度にあたる1995年の12枚に次ぐ9枚の退場者を出す始末だった<ref>レギュラーシーズンではクレーベルが2回、小林祐三、小林亮、明神、土屋、平山、波戸が1回。甲府とのJ1・J2入れ替え戦第2戦で永田である。</ref>。早野は[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]](G大阪戦)を前に監督を辞任し、山形や川崎の元監督の[[石崎信弘]]が監督に就任。 === 2006年(J2) === : チームスローガン : 「'''タフネス'''」 [[明神智和]]がG大阪、[[波戸康広]]・[[土屋征夫]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[玉田圭司]]が名古屋、[[大野敏隆]]が東京V、[[矢野貴章]]・[[永田充]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]へ完全移籍したが、4年ぶりの復帰となった[[北嶋秀朗]]を清水から完全移籍で、[[SEパルメイラス]]から前年[[ヴィッセル神戸|神戸]]でプレーしていた[[ディエゴ・デ・ソウザ・ガマ・シルバ|ディエゴ]]を期限付き移籍で獲得した。J2リーグ戦は[[横浜FC]]・神戸と自動昇格枠を争い、2位神戸と勝ち点差1の3位で迎えた最終節・[[湘南ベルマーレ|湘南]]戦に勝利し、神戸が[[ベガルタ仙台|仙台]]に敗れたため、2位での自動昇格を決め、1年での[[J1リーグ|Jリーグ ディビジョン1]](J1)復帰を果たした。なお、84得点は2006年シーズンJ2最多得点であった。 合言葉として「一心同体」が使用されたシーズンであった。 === 2007年 - 2009年(J1) === ==== 2007年 ==== : チームスローガン : 「'''挑戦 ~進化しつづけるタフネス'''」 石崎体制2年目。[[リカルド・アレッシャンドレ・ドス・サントス|リカルジーニョ]]、[[ディエゴ・デ・ソウザ・ガマ・シルバ|ディエゴ]]が退団した一方、GK[[水谷雄一]]、MF[[アルセウ・ホドリゲス・シモーニ・フィーリョ|アルセウ]]、[[マルシオ・ロドリゲス・アラウージョ|マルシオ・アラウージョ]]、FW[[阿部吉朗]]、DF[[古賀正紘]]などが加入。J1復帰1年目の目標を「勝ち点45を取る」と設定した。また、3月末に運営会社の社長が[[小野寺重之]]から河西晋二郎に交代した。 リーグ戦は開幕戦で[[ジュビロ磐田|磐田]]に勝利。その後も苦手にしていたアウェーでも勝ち点を得るようになり、前半戦の台風の目となる。また、中盤戦は、2年前は大敗したアウェーの[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦を1-1で乗り切ると、苦戦が予想された8月を3勝2分と無敗で過ごす。特に浦和・[[横浜F・マリノス|横浜FM]]らとJ1最少失点の座を争い、8月までの23試合中12試合が無失点であった。9月23日の[[川崎フロンターレ|川崎]]戦で当初の目標の勝ち点45を残り8試合を残して達成したがその後は故障者が相次いだ事もあり、4連敗を含む1勝1分6敗であった。 ==== 2008年 ==== : チームスローガン : 「'''UNIAO ~ウニオン~ 団結・結束'''」 石崎体制3年目。GK[[水谷雄一]]、MF[[谷澤達也]]が移籍したものの、GK[[菅野孝憲]]、MF[[アレックス・アントニオ・デ・メロ・サントス|アレックス]]、FW[[アジウソン・ペレイラ・デ・ソウザ|ポポ]]などを獲得<ref group="注">同シーズンは過去に柏在籍経験があるMF[[茂原岳人]]も再加入したが、[[ヴィッセル神戸|神戸]]在籍時(当時未成年)の不祥事により逮捕され、2008年5月16日付で解雇。</ref>。DFの補強は[[鎌田次郎]]<ref group="注">2006年に[[特別指定選手]]として在籍。</ref> のみと攻撃陣の補強が目立った。 リーグ戦は第15節時点で3位につけたが、中盤以降は低迷して、最終成績は11位。[[第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、前身の日立製作所時代以来、33年ぶりに決勝へ進出。決勝は[[ガンバ大阪|G大阪]]に敗れたが、準優勝の成績を収めた。シーズン終了後に石崎監督を解任。 ==== 2009年 ==== : チームスローガン : 「'''Pra Frente,REYSOL ~共に前に進もう~'''」 監督に[[高橋真一郎]]が、コーチに元日本代表DFの[[井原正巳]]、元[[清水エスパルス|清水]]の[[シジマール・アントニオ・マルチンス]]が就任。[[アレックス・アントニオ・デ・メロ・サントス|アレックス]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ移籍した一方、[[2007年]]に在籍していた[[アルセウ・ホドリゲス・シモーニ・フィーリョ|アルセウ]]、[[ナイジェリア・プレミアリーグ|ナイジェリア1部]]から[[アデバヨ・アディグン|アデバヨ]]を獲得。また、柏レイソルユースから史上最多の5人の選手が入団した。 シーズン開幕後、アルセウがケガのため登録抹消。[[フランソアウド・セナ・デ・ソウザ|フランサ]]、[[李忠成]]などが相次いで負傷離脱。[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[小林慶行]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[クルゼイロEC]]から[[アンセウモ・ハモン・アルヴェス・エルクラノ|アンセウモ・ハモン]]、G大阪から[[朴東赫|パク・ドンヒョク]]をレンタル移籍で獲得したが、第17節終了時点でリーグ最多失点の17位と低迷したため、7月15日をもって高橋を監督から解任。[[東京ヴェルディ1969|東京V]]、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]元監督の[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]]が後任監督に就任したが、第33節の大宮戦に引き分けて、2006年以来2度目のJ2降格となった。なお、ナビスコ杯はグループリーグ敗退、天皇杯は3回戦で敗退した。 === 2010年(J2) === : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制2年目。[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[クルゼイロEC|クルゼイロ]]から[[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|レアンドロ・ドミンゲス]]を獲得した一方、[[杉山浩太]]が期限付き移籍満了で清水へ復帰した。また、シーズン途中にフランサが退団、[[菅沼実]]、[[古賀正紘]]が期限付きで[[ジュビロ磐田|磐田]]に移籍した。J2リーグ戦は、開幕から19試合無敗と年間敗戦数「2」のリーグ敗戦数最少記録を樹立。第33節の[[FC岐阜|岐阜]]戦で3位以内が確定。第36節の[[横浜FC]]戦に勝利してJ2優勝も決めた。天皇杯は4回戦で敗退した。 === 2011年 - 2018年(J1) === ==== 2011年 ==== {| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #0C46E7 solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.02|y=0|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF"><span style="font-size:small;color:#000000">''' '11 J1基本フォーメーション 布陣'''</span></span>}} {{Image label|x=0.18|y=0.24|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[田中順也|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''田中順也'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.24|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[工藤壮人|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''工藤壮人</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.45|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[ジョルジ・ワグネル|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''J.ワグネル'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.67|y=0.45|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[レアンドロ・ドミンゲス|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''レアンドロ'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.19|y=0.66|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[大谷秀和|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''大谷秀和'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.6|y=0.66|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[茨田陽生|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''茨田陽生'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.07|y=0.85|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[橋本和|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''橋本和'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.23|y=1.02|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[近藤直也|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''近藤直也'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.58|y=1.02|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[増嶋竜也|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''増嶋竜也'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.72|y=0.85|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[酒井宏樹|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''酒井宏樹'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.40|y=1.20|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[菅野孝憲|<span style="font-size:small;color:#0C46E7">'''菅野孝憲'''</span>]]</span>}} {{Image label|x=0.40|y=1.37|scale=200|text=<span style="background-color:#FFFFFF">[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|<span style="font-size:small;color:#000000">監督:ネルシーニョ</span>]]</span>}} </div> |} : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制3年目。右SBのレギュラーだった[[小林祐三]]が横浜FMへ、古賀、菅沼が磐田へそれぞれ完全移籍した一方、大宮から[[安英学]]、[[京都サンガF.C.|京都]]から[[増嶋竜也]]、[[アビスパ福岡|福岡]]から[[中島崇典]]、清水から[[兵働昭弘]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[サンパウロFC]]から[[ジョルジ・ワグネル]]を獲得。シーズン6位以内を目標に掲げてシーズンに入った<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/150123 魅惑の攻撃サッカーで柏がJ1を面白くする。~レイソル躍進の理由と展望~] -[[Sports Graphic Number|Number]]Web: 2011年7月27日</ref>。また、3月末に運営会社の社長が河西晋二郎から御手洗尚樹(日立製作所・執行役常務)に交代した<ref>{{Cite press release|和書|url=http://blog.reysol.co.jp/news/2011/011658.html|title=社長交代のお知らせ|publisher=柏レイソル|date=2011-2-18|accessdate=2013-4-28}}</ref>。 リーグ戦は[[U-23サッカー日本代表|U-22日本代表]]の[[酒井宏樹]]、[[澤昌克]]、J・ワグネルらの活躍もあり首位戦線で健闘、[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]、[[ガンバ大阪|G大阪]]と優勝を争い、第29節で首位に浮上。[[2011年J1最終節|第34節(最終節)]]で浦和を破り、Jリーグ初となるJ1昇格1年目でのJ1初優勝を飾った<ref group="注">現J1相当のみの時代の2部組織である[[ジャパンフットボールリーグ]]からの昇格組も1年目での優勝を果たしたチームはなく、これまでJ1昇格1年目での最高順位は2010年の[[セレッソ大阪|C大阪]]の3位であった。</ref><ref group="注">前身の[[日立製作所サッカー部]]時代には1972年の[[日本サッカーリーグ]]で優勝しており、トップリーグ優勝は39年ぶりであった。また[[オリジナル10]]以外のチームが優勝するのは[[ジュビロ磐田|磐田]]に続き2チーム目。</ref><ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/176880 本物の強さを証明した柏がJ1初制覇! 名古屋、G大阪の戦い方と徹底比較。] - NumberWEB: 2011年12月5日</ref>。また、J1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを受賞した初のチームとなった<ref group="注">翌2012年に[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]、2013年に[[ガンバ大阪|G大阪]]、2017年に[[川崎フロンターレ|川崎]]が達成し、現在は柏と広島とG大阪と川崎の4クラブのみ。</ref>。ナビスコ杯は初戦敗退、天皇杯は4回戦で敗退した。また、[[FIFAクラブワールドカップ2011]]は[[オークランド・シティFC]](ニュージーランド)[[CFモンテレイ|モンテレイ]](メキシコ)に勝利。3位決定戦で[[アル・サッド]](カタール)に敗退したが4位の成績を残した。 ==== 2012年 ==== [[ファイル:Kokuritsu Kasumigaoka 20130101 2.JPG|thumb|250px|[[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]決勝戦]] : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制4年目。[[藏川洋平]]が[[ロアッソ熊本|熊本]]に、[[朴東赫|パク・ドンヒョク]]が[[大連実徳足球倶楽部]]に、[[仙石廉]]([[ファジアーノ岡山FC|岡山]])、[[池元友樹]]([[ギラヴァンツ北九州|北九州]])がそれぞれレンタル移籍していたにチームに完全移籍、[[兵働昭弘]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]に、[[相馬大士]]が[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[FC琉球]]に、岡山にレンタル移籍していた[[山崎正登]]が[[FC岐阜]]に、JFL・[[ブラウブリッツ秋田]]にレンタル移籍していた[[比嘉厚平]]が[[モンテディオ山形|山形]]に、岐阜にレンタル移籍していた[[エフライン・リンタロウ・ダ・シルバ|エフライン・リンタロウ]]が秋田にレンタル移籍、[[武富孝介]]の熊本への期限付き移籍期間も延長した。 補強は横浜FMから昨シーズン[[横浜FC]]に期限付き移籍していた[[藤田優人]]、[[栃木SC]]から[[リカルド・ロボ]]、[[ジュビロ磐田|磐田]]から[[那須大亮]]、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]から昨シーズン[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]にレンタル移籍していた[[福井諒司]]を完全移籍で獲得、岐阜にレンタル移籍していた[[川浪吾郎]]、栃木SCにレンタル移籍していた[[渡部博文]]が復帰、ユースから[[山中亮輔]]が昇格した。また、リーグ戦の開幕後に[[三浦雄也]]が加入した。 シーズン途中に[[北嶋秀朗]]が熊本、リカルド・ロボが千葉、[[林陵平]]が山形、[[中島崇典]]が[[横浜FC]]、三浦雄也が[[松本山雅FC|松本]]へレンタル移籍、[[酒井宏樹]]が[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ1部]]・[[ハノーファー96]]へ完全移籍し、元千葉の[[エウヴァウド・ジョゼ・デ・アグイアール・ネット|ネット・バイアーノ]]が加入した。 [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]は、[[FC東京]]に勝利して初優勝。リーグ戦は6位の成績。[[AFCチャンピオンズリーグ2012]]はラウンド16、ナビスコ杯はベスト4の成績。 [[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]は、決勝戦で[[ガンバ大阪|G大阪]]を下し、日立製作所時代以来37年ぶり3度目の天皇杯優勝を果たした。これにより、Jリーグ7チーム目<ref group="注">[[東京ヴェルディ|東京V]]、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]、[[ジュビロ磐田|磐田]]、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]、G大阪に次ぐ。</ref>、[[オリジナル10]]以外のチームでは[[ジュビロ磐田|磐田]]に次いで2チーム目の国内3大タイトル(J/J1・ナビスコ杯・天皇杯)獲得チームとなった。また、2回戦は柏レイソルU-18との「兄弟対決」となった。 ==== 2013年 ==== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制5年目。[[安英学]]、[[三浦雄也]]、[[エフライン・リンタロウ・ダ・シルバ|エフライン・リンタロウ]]、[[ネット・バイアーノ]]、GKコーチの[[シジマール・アントニオ・マルチンス|シジマール]]が退団、[[那須大亮]]が[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]、[[水野晃樹]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、[[福井諒司]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]に、[[北嶋秀朗]]([[ロアッソ熊本|熊本]])、[[比嘉厚平]]、[[林陵平]](共に[[モンテディオ山形|山形]])、[[山崎正登]]([[FC岐阜]])、[[中島崇典]]([[横浜FC]])、[[兵働昭弘]](千葉)がレンタル先にそれぞれ完全移籍。ユースから昇格した[[中川寛斗]]、[[クォン・ハンジン]]、熊本にレンタル移籍中だった[[武富孝介]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]、[[川浪吾郎]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]、[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[FC琉球]]にレンタル移籍中だった[[相馬大士]]がJFL・[[FC町田ゼルビア|町田]]にそれぞれレンタル移籍した。 補強面では、[[アルビレックス新潟]]から[[鈴木大輔 (サッカー選手)|鈴木大輔]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[谷口博之]]と[[狩野健太]]、山形から柏ユース出身の[[太田徹郎]]、[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[釜山アイパーク]]から[[金昌洙 (サッカー選手)|金昌洙]]を完全移籍、[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国1部]]・[[広州足球倶楽部|広州恒大足球倶楽部]]から[[クレヴェルソン・ガブリエウ・コルドヴァ|クレオ]]を期限付き移籍でそれぞれ獲得。ユースからは[[秋野央樹]]、[[木村裕]]、[[小林祐介 (サッカー選手)|小林祐介]]、[[中村航輔]]が加入し、レンタル移籍した中川を含めて5人が昇格した。 [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]は広島に敗退した。 8月31日、アウェー鹿島戦終了後、ネルシーニョが辞意を表明するが、9月5日「感情的に熱くなって間違った態度を取った」と撤回、10月17日にはネルシーニョが2014年度も継続して指揮を執ることが発表された<ref>{{cite news|date=2013-10-17|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/10/17/kiji/K20131017006827380.html|title=柏 ネルシーニョ監督が来季も指揮|publisher=SponichiAnnex|accessdate=2013-10-23}}</ref>。 [[AFCチャンピオンズリーグ2013]]では、Jリーグ勢で唯一の決勝トーナメント進出を果たした。決勝ラウンドは準決勝で[[広州足球倶楽部|広州恒大足球倶楽部]]に2戦合計1-8で敗れた。 リーグ戦は10位の成績。[[2013年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は決勝で浦和を破り、14年ぶり2回目の優勝を果たした。 [[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は4回戦で[[大分トリニータ|大分]]に敗れ、大会2連覇と2014年のACL出場は成らなかった。 ==== 2014年 ==== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制6年目。前年に[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[FC町田ゼルビア|町田]]にレンタル移籍していた[[相馬大士]]が引退、[[ジョルジ・ワグネル]]、[[澤昌克]]が退団、[[クレヴェルソン・ガブリエウ・コルドヴァ|クレオ]]がレンタル移籍満了により退団、前年より[[湘南ベルマーレ|湘南]]にレンタル移籍中だった[[武富孝介]]、[[中川寛斗]]の移籍期間を延長、[[山中亮輔]]が[[ジェフユナイテッド千葉|千葉]]、[[谷口博之]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]にレンタル移籍、前年よりレンタル移籍中だった[[クォン・ハンジン]](湘南⇒[[ザスパクサツ群馬|群馬]])、[[川浪吾郎]]([[徳島ヴォルティス|徳島]])がレンタル先に完全移籍となった。 補強面では、湘南から[[高山薫]]と[[韓国栄|ハン・グギョン]]、[[水戸ホーリーホック|水戸]]から柏レイソルU18出身の[[輪湖直樹]]、[[カタール・スターズ・リーグ|カタール1部]]・[[アル・サッド]]から元[[ガンバ大阪|G大阪]]の[[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]を完全移籍で獲得。U18から[[中谷進之介]]が加入した。 シーズン開幕後、5月にチーム内に負傷者が相次いだこともあり、U-18から[[中山雄太]]、[[大島康樹]]、[[手塚康平]]、[[会津雄生]]、山本健司の5名を二種登録。8月に[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[フィゲイレンセFC]]から[[ルイス・エドゥアルド・ドス・サントス・ゴンザガ|ドゥドゥ]]、[[栃木SC|栃木]]から[[カルロス・エドゥアルド・ベンディニ・ジュスティ|エドゥアルド]]をそれぞれレンタル移籍で獲得。 6月に[[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|レアンドロ・ドミンゲス]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]、[[田中順也]]が[[プリメイラ・リーガ|ポルトガル1部]]・[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]に、8月にハン・グギョンがカタール1部・[[カタールSC]]にそれぞれ完全移籍した。 [[第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は、3回戦で千葉との千葉ダービーでPK戦の末敗退。 [[スルガ銀行チャンピオンシップ2014|スルガ銀行チャンピオンシップ]]では、[[CAラヌース]]に2-1で勝利し、4年連続となるタイトルを獲得した。 [[2014年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]は、2002年以来となるグループリーグからの決勝トーナメント進出を果たした。準々決勝は当時6年間リーグ戦負けなしの横浜FMに快勝したものの、準決勝は前年の準々決勝で破っていた広島に2戦合計2-3で敗れ、連覇の夢は潰えた。 ネルシーニョが9月17日に今季限りでの退任を発表した。 J1第28節の鹿島戦から第34節の新潟戦まで7連勝の4位でシーズンを終了した。J1優勝のG大阪が天皇杯も優勝したため、繰上げで[[AFCチャンピオンズリーグ2015]]の出場権を獲得した。2011シーズンから続いていた3大主要タイトルの連続優勝こそならなかったものの、ホームの日立柏サッカー場では、リーグ戦17試合中11勝5分1敗という好成績を残した。 [[井原正巳]]、[[アレッサンドロ・フェルナンデス・グレゴリオ|アレックス]]、[[カルロス・アルベルト・ピメンテウ|ピメンテウ]]らコーチ陣3人が契約満了により退任。 ==== 2015年 ==== : チームスローガン : 「'''MORE(モア)'''」 新監督にダイレクターだった[[吉田達磨]]が就任。また、[[布部陽功]](柏コーチ)がヘッドコーチ、[[杉山弘一]]([[タイ・リーグ2|タイ2部]]・[[アユタヤFC]]監督)がコーチ、[[松原直哉]](U-18コーチ)がフィジカルコーチ、[[松本拓也 (1980年生のサッカー選手)|松本拓也]](アカデミーGKコーチ)がGKコーチ、 [[渡辺毅]](U-12監督)がダイレクターに就任した。同年から全カテゴリー同じコンセプトで、ボールを保持するサッカーを目指す。 [[橋本和]]が[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]、[[高山薫]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]、[[谷口博之]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]、[[渡部博文]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]に完全移籍。[[木村裕]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]、[[中村航輔]]が[[アビスパ福岡|福岡]]にレンタル移籍。[[ルイス・エドゥアルド・ドス・サントス・ゴンザガ|ドゥドゥ]]がレンタル移籍満了で退団した。 補強面では、[[エールステ・ディヴィジ|オランダ2部]]・[[VVVフェンロー]]から[[大津祐樹]]を完全移籍、[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]から[[クリスティアーノ・ダ・シウヴァ|クリスティアーノ]]を期限付き移籍で獲得。[[湘南ベルマーレ|湘南]]にレンタル移籍中だった[[武富孝介]]、[[中川寛斗]]、[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]にレンタル移籍中だった[[山中亮輔]]が復帰。[[明治大学体育会サッカー部|明治大学]]から[[三浦龍輝]]が新加入。U-18から[[大島康樹]]、[[中山雄太]]が昇格した。 シーズン開幕後、U-18から[[滝本晴彦]]、[[熊川翔]]、[[浮田健誠]]の3名を二種登録。[[流通経済大学サッカー部|流通経済大学]]から[[湯澤聖人]]を特別強化選手に登録。6月に[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[今井智基]]を完全移籍で獲得。7月に[[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]に完全移籍。7月にブラジル1部・[[アトレチコ・パラナエンセ]]から[[エデルソン・アウヴェス・リベイロ・シウヴァ|エデルソン]]を完全移籍で獲得。 [[AFCチャンピオンズリーグ2015]]ではプレーオフからのスタートだったが、[[チョンブリーFC]](タイ)を3-2で下して予選を通過した。グループリーグでは日本勢の中では好調な滑り出しをして、第5節の[[全北現代モータース]]戦で勝利をおさめて決勝トーナメントに進出を果たした。 しかし、リーグ戦ファーストステージでは、初戦に前年まで監督だったネルシーニョが率いる[[ヴィッセル神戸|神戸]]に勝利したものの、最終的にわずか4勝しか挙げられず、最終順位は14位と低迷。セカンドステージでは序盤巻き返しを見せ上位に食い込むものの、ACL敗退後はわずか2勝。年間10位、セカンドステージ8位でリーグ戦を終えた。 AFCチャンピオンズリーグ決勝トーナメントでは1回戦で[[水原三星ブルーウィングス]](韓国)と対戦。1stレグは[[レアンドロ・モンテーラ・ダ・シルバ|レアンドロ]]の2得点をあげる活躍などで3-2で勝利。2ndレグは0-2と追い込まれていたが[[小林祐介]]のプロ初得点で、2戦合計4-4となったがアウェーゴールの差で勝利した。準々決勝では[[広州足球倶楽部|広州恒大淘宝足球倶楽部]](中国)と対戦。1stレグはホームの日立での戦いだったが3失点を許して敗戦。2ndレグでもクリスティアーノが得点して反撃を見せるが、1-3で落とし2戦合計2-4でACLの敗退が決まった。 [[第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では、準決勝で浦和に0-1で敗戦、決勝進出はならなかった。 シーズン終了後、吉田が監督を退任した。 ==== 2016年 ==== : チームスローガン :「'''柏から世界へ UNIDOS SOMOS FORTES'''」 新監督に[[ミルトン・メンデス]]が就任。[[工藤壮人]]が[[メジャーリーグサッカー|アメリカ1部]]・[[バンクーバー・ホワイトキャップス]]([[カナダ]])へ、[[金昌洙 (サッカー選手)|金昌洙]]が[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[全北現代モータース]]へ、[[鈴木大輔 (サッカー選手)|鈴木大輔]]が[[セグンダ・ディビシオン|スペイン2部]]・[[ジムナスティック・タラゴナ]]へ、[[近藤直也]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ、[[狩野健太]]が[[川崎フロンターレ|川崎]]へ、[[菅野孝憲]]が[[京都サンガF.C.|京都]]へ、[[三浦龍輝]]が[[AC長野パルセイロ|長野]]へ、[[藤田優人]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ移籍。また、期限付き移籍の[[クリスティアーノ・ダ・シウヴァ|クリスティアーノ]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に復帰。[[V・ファーレン長崎|長崎]]へレンタル中の[[木村裕]]はレンタル延長となった。 補強面では[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[鎌田次郎]]、U-18から[[手塚康平]]、[[流通経済大学サッカー部|流通経済大学]]から[[湯澤聖人]]、甲府から[[伊東純也]]、[[タイ・リーグ1|タイ1部]]・[[チョンブリーFC]]から[[ジュリアーノ・ミネイロ・フェルナンデス|ジュリアーノ・ミネイロ]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[AAポンチ・プレッタ]]から[[ディエゴ・オリヴェイラ・デ・ケイロス|ディエゴ・オリヴェイラ]]を獲得し、[[アビスパ福岡|福岡]]に期限付き移籍をしていた[[中村航輔]]が復帰した。また、U-18から[[安西海斗]]、[[滝本晴彦]]が昇格。[[田中順也]]が一年半ぶりに[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]から期限付き移籍で復帰した。 リーグ開幕後にはメンデスの構想外となっていた[[カルロス・エドゥアルド・ベンディニ・ジュスティ|エドゥアルド]]の[[川崎フロンターレ|川崎]]へ期限付き移籍。[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州選手権1部]]・[[アソシアソン・フェロヴィアリア・ジ・エスポルテス]]から[[パトリック・マルセリーノ|パトリック]]、ブラジル1部・[[クルゼイロEC]]から[[ルイス・エドゥアルド・ダ・シルバ・ドス・サントス|ドゥドゥ]]を期限付き移籍で獲得した(ミルトン・メンデス辞任後、パトリックは構想外となり未登録のまま退団)。 キャプテンを8名に任命する、練習と試合での指示が異なるなどチームは混迷し、ちばきんカップはジェフ千葉に0-3と完敗、リーグ戦開幕後も2連敗を喫した。3月12日のリーグ1stステージ3節・[[ジュビロ磐田|磐田]]戦後に、ミルトン・メンデスは家族の健康上の理由で辞任を表明した。 後任には、ヘッドコーチの[[下平隆宏]]が監督に昇格した。監督交代後は、[[柏レイソルのアカデミー|アカデミー]]出身の[[中谷進之介]]、[[中山雄太]]、[[中村航輔]]らを中心としたディフェンス陣が貢献し、リーグタイ記録となる5試合連続完封勝利を記録した。1stステージは7位で終了。 5月28日、1997年から2004年まで在籍していた[[薮崎真哉]]が代表取締役を務めているジールホールディングスとユニフォームスポンサー契約をした。これによりユニフォームの背中下部には無償提供の[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン]]とユニフォームスポンサーのジールホールディングスの2つのロゴが入ることになった。 6月22日にはクリスティアーノが甲府から完全移籍で再加入をした。7月20日に[[エデルソン・アウヴェス・リベイロ・シウヴァ|エデルソン]]が[[CRヴァスコ・ダ・ガマ]]へ期限付き移籍、8月5日には[[大島康樹]]が[[カターレ富山|富山]]へ育成型期限付き移籍、9月15日にはジュリアーノ・ミネイロが退団した。 2ndステージでは6節、14節に最高4位をマークするも終盤の失速が響き5位で終了、また年間順位は8位でリーグ戦を終えた。天皇杯は4回戦で湘南に敗れた。 ==== 2017年 ==== : チームスローガン :「'''柏から世界へ'''」 下平体制2年目。[[山中亮輔]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]、[[茨田陽生]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[稲田康志]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]、[[太田徹郎]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ完全移籍。[[増嶋竜也]]が[[ベガルタ仙台|仙台]]、[[湯澤聖人]]が[[京都サンガF.C.|京都]]、[[秋野央樹]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]へ期限付き移籍。[[V・ファーレン長崎|長崎]]へレンタル中の[[木村裕]]、[[川崎フロンターレ|川崎]]へレンタル中の[[カルロス・エドゥアルド・ベンディニ・ジュスティ|エドゥアルド]]はそのまま完全移籍となった。[[プリメイラ・リーガ|ポルトガル1部]]・[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]からレンタルしていた[[田中順也]]は[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ完全移籍となった。 補強面ではU-18から[[古賀太陽]]がトップチームに昇格。[[レノファ山口FC|山口]]から[[小池龍太]]、[[デンマーク・スーペルリーガ|デンマーク1部]]・[[ブレンビーIF]]から[[尹錫榮]]、[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[ハモン・ロペス・デ・フレイタス|ハモン・ロペス]]が完全移籍で加入、[[流通経済大学サッカー部|流通経済大学]]から[[橋口拓哉]]が新加入した。また、[[カターレ富山|富山]]へレンタルしていた[[大島康樹]]が復帰した。2月には[[中川創]]、[[猿田遥己]]の2名が二種契約として登録された。 ちばぎんカップでは2-0で勝利した。 リーグ開幕後には[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ2部]]・[[VfBシュトゥットガルト]]から[[細貝萌]]を獲得。また、U-18から[[宮本駿晃]]が二種契約として登録された。 前半戦は当初4-4-2の形ながらサイドのクリスティアーノ、伊東も攻撃参加する4トップを使用していたが、4月8日の[[清水エスパルス|清水]]戦までで2勝4敗となり、プランの練り直しを余儀なくされた。4月16日の[[ヴィッセル神戸|神戸]]戦から2トップにクリスティアーノ、中川を置く前線のハードワーク型に変えると6月4日の[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦まで8連勝、6月25日の[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦まで10戦負け無しを記録。暫定首位に浮上したが、序盤の3連敗や上位陣への敗戦などが響き3位で折り返した。 [[2017年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]はグループステージ敗退となるも、初戦で活躍した[[手塚康平]]がリーグ戦でも主力としてプレーするなどの収穫を獲た。 夏の移籍では[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[全北現代モータース]]から[[金甫炅|キム・ボギョン]]を獲得。今季絶望の重症となった[[ルイス・エドゥアルド・ダ・シルバ・ドス・サントス|ドゥドゥ]]は登録抹消、今季リーグ出場ゼロの[[安西海斗]]は[[モンテディオ山形|山形]]へ育成型期限付き移籍となった。 後半戦は8月に手塚が今季絶望の重症を負い、セントラルMFは小林や金のローテーションとなった。また、R・ロペスが左MFとして定着するなど先発の入れ替わりの多いシーズンとなった。結果で見ると負けは少ないものの、終盤に守り切れない試合が多く勝ち点を取りこぼした結果、33節の[[鹿島アントラーズ|鹿島]]戦をドローで終え3位[[セレッソ大阪|C大阪]]と勝ち点4差となり、最終節を残し4位以下が確定となった。最終節は勝利し最終順位を4位で終えた。 [[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では準決勝まで進出。試合前に行われた準決勝第1戦でC大阪が勝利し決勝に進出したため、柏が対横浜FM戦で勝てばその時点で最低でも[[AFCチャンピオンズリーグ2018]](ACL)プレーオフ出場権確定となる状況で、11分にR・ロペスのゴールで先制するも、69分[[伊藤翔]]のゴールで追い付かれ延長戦に突入、終了間際の118分に[[ウーゴ・ヴィエイラ]]に決勝点を決められ準決勝敗退となったため、自力でのACL出場権獲得はなくなり、C大阪の天皇杯優勝による繰り上げでのACLプレーオフ進出を待つこととなった。 元日に行われた天皇杯決勝はC大阪が制したため、繰り上げによるACLプレーオフ出場権を手にした。 ==== 2018年 ==== : チームスローガン :「'''柏から世界へ'''」 下平体制3年目。[[輪湖直樹]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ、[[大津祐樹]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]へ、[[武富孝介]]が[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]へ完全移籍。[[橋口拓哉]]が[[FC町田ゼルビア|町田]]へ、[[小林祐介]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]へ、[[ディエゴ・オリヴェイラ・デ・ケイロス|ディエゴ・オリヴェイラ]]が[[FC東京]]へ期限付き移籍。湘南にレンタル中の[[秋野央樹]]、[[モンテディオ山形|山形]]にレンタル中の[[安西海斗]]はレンタル延長。[[京都サンガF.C.|京都]]にレンタル中の[[湯澤聖人]]は[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に完全移籍。[[ベガルタ仙台|仙台]]にレンタル中の[[増嶋竜也]]は[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]にレンタルとなった。 補強面では[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[小泉慶]]と[[山崎亮平]]、[[プリメーラ・ディビシオン (ペルー)|ペルー1部]]・[[デポルティーボ・ムニシパル]]から[[澤昌克]]、[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[江坂任]]と[[瀬川祐輔]]、[[アビスパ福岡|福岡]]から[[亀川諒史]]、[[横浜F・マリノス|横浜FM]]から[[朴正洙]]を完全移籍で獲得した。 1月24日、[[三協フロンテア]]とのスタジアムネーミングライツ及びユニフォームスポンサー契約を締結した(詳細は[[#ユニフォーム]]と[[#スタジアム・練習場]]を参照)。 [[AFCチャンピオンズリーグ2018]]ではプレーオフからのスタートだったが、[[ムアントン・ユナイテッドFC]](タイ)を3-0で下して本選出場を果たした。本選では初戦、過去6戦無敗だった全北現代(韓国)にロペス、江坂のゴールで一時は2-0とリードするも2-3で逆転負け。続くホームの[[天津天海足球倶楽部|天津権健足球倶楽部]](中国)戦は1点リードで迎えた終盤に[[アレシャンドレ・ロドリゲス・ダ・シウヴァ|アレシャンドレ・パト]]にゴールを奪われ1-1と昨年からの課題だった終盤の失点癖<ref group="注">2017年は33失点だったものの、後半30分から試合終了までの失点数がその前の15分間と同様9である。</ref> がACLでも露呈してしまう。連勝だけでなく大量得点も奪っておきたい[[傑志体育会]](香港)との2連戦はホームで1-0で勝利も、アウェイはクリスティアーノ、伊東、キム・ボギョンをベンチスタートで温存も、亀川が前半早々に退場した事でゲームプランの立て直しを余儀なくされ終了間際の失点で0-1で敗北を喫した。守護神・中村を負傷で欠いたホームの全北現代戦は0-2で敗北し、チーム史上初めてグループステージ敗退となった。最終節の天津戦は控えメンバー主体で挑むも2-3で敗北。結果1勝1分4敗、6得点10失点で大会を去った。 リーグ前半戦は、前半に先制し後半終盤に失点するゲームを繰り返し、5月12日の[[川崎フロンターレ|川崎]]戦ロスタイムにJ1初出場の[[鈴木雄斗]]にヘディングシュートで逆転負けした事により下平は解任、後任はヘッドコーチの[[加藤望]]が昇格した。加藤体制初戦の[[名古屋グランパス|名古屋]]戦は勝利を収めたものの守護神中村が脳震盪で負傷退場。[[2018 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]のメンバー登録には間に合ったが、その中断明けの[[FC東京]]戦でも脳震盪で負傷離脱し、[[11月3日]]の[[川崎フロンターレ|川崎]]戦まで後半戦の試合ほとんどを第2GKの桐畑に任せる事となった。 夏の移籍では[[中谷進之介]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]に完全移籍、[[尹錫榮]]が[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[FCソウル]]に期限付き移籍と前半戦で先発でプレーしたDFを放出。さらに[[古賀太陽]]が[[アビスパ福岡|福岡]]に期限付き移籍、[[今井智基]]が[[松本山雅FC|松本]]に完全移籍とサイドバックの控え選手を放出。また、ハモン・ロペスが契約を解除され、古巣の仙台に戻った。補強面では[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]の[[高木利弥]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[フルミネンセFC]]から[[カタール]]国籍を持つ[[ナタン・オタヴィオ・ヒベイロ|ナタン・ヒベイロ]]、[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国1部]]・[[貴州恒豊足球倶楽部|貴州智誠足球倶楽部]]から昨季[[プリメーラ・ディビシオン|スペイン1部]][[ジローナFC]]でプレーした[[ケニア]]人FW[[マイケル・オルンガ|オルンガ]]を獲得し、9月には[[セグンダ・ディビシオン|スペイン2部]]・[[ジムナスティック・タラゴナ]]を退団しフリーとなっていた[[鈴木大輔 (サッカー選手)|鈴木大輔]]が2015シーズンぶりの復帰を果たした。 [[第98回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では2回戦から出場し、[[VONDS市原|VONDS市原FC]]に6-0で勝利。続く3回戦では[[モンテディオ山形|山形]]とクラブの歴史上未だに勝利のない[[山形県総合運動公園陸上競技場|NDソフトスタジアム山形]]で対戦。後半に先制を許し、アディショナルタイムのPKでなんとか追い付くもさらに後半ATに勝ち越しゴールを決められ3回戦敗退。苦手とするアウェイ山形にまたも勝てなかった。 [[2018年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]ではACLに出場したため決勝トーナメントからの出場となった。初戦の[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]戦はアウェイの1stleg、ホームの2ndleg共に引き分け、合計3-3のアウェイゴール差で準決勝に進出。準決勝の[[湘南ベルマーレ|湘南]]戦はホームで1-1、アウェイも1-1とドローとなり、延長戦でも1点ずつ入れ合いPK戦に突入。結果PK戦を落とし敗退となった。 加藤体制への移行後もチーム状況は改善せず、下平体制のリーグ14戦5勝2分7敗に対して加藤体制ではリーグ18戦5勝1分12敗と悪化。また4連敗・3連敗を喫するなど、サポーターからも解任の声が高まっていった<ref>{{cite news|date=2018-11-04|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/11/04/kiji/20181104s00002179083000c.html|title=柏GK中村復帰も悪夢3失点 指揮官へ「辞めてくれ!」の怒号|publisher=スポニチ|accessdate=2018-11-26}}</ref>。第32節終了時点、勝点33、17位の状況で[[11月10日]]に加藤を監督から解任し、後任にコーチ兼アカデミーヘッドオブコーチの[[岩瀬健]]が監督に就任した<ref>{{cite news|date=2018-11-10|url=https://www.reysol.co.jp/news/topteam/001476.html|title=監督交代のお知らせ|publisher=柏レイソルオフィシャルサイト|accessdate=2018-11-10}}</ref>。岩瀬体制初戦の第33節・[[セレッソ大阪|C大阪]]戦は勝点37で並ぶ湘南・[[サガン鳥栖|鳥栖]]・名古屋の結果によって自動降格が決定する状況のなか、3-0で4試合振りの勝利を収めるも、同節で湘南・鳥栖・名古屋が揃って勝利したためシーズン17位が確定、2010年以来9シーズン振りのJ2降格が決定した<ref>{{cite news|date=2018-11-24|url=https://www.footballchannel.jp/2018/11/24/post298504/|title=柏、C大阪に快勝もJ2降格が決定。神戸は残留。PO圏は最後まで大混戦|publisher=フットボールチャンネル|accessdate=2018-11-24}}</ref>。 今季初の連勝を狙った最終節[[ガンバ大阪|G大阪]]戦は4-2で勝利し、最終節にして初の連勝となった。最終成績は12勝3分19敗の勝点39、得失点差-7の17位、[[2012年のJリーグ ディビジョン1|2012年J1]]のG大阪を超え、17位チームとしての過去最高勝点、かつ同年16位の神戸の勝点39得失点差-9を上回り、'''J2自動降格チームの最高成績'''記録を更新した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-12-01|url=https://www.footballchannel.jp/2018/12/01/post299485/|title=降格決定済の柏は2連勝。勝点39で“自動降格チーム史上最高成績”に|work=フットボールチャンネル|publisher=カンゼン|accessdate=2018-12-08}}</ref>。攻撃面では、総得点こそ47で前年度に比べ2点減っただけにとどまったが、先述のGK中村の負傷による長期離脱や中谷の放出が致命傷となり、前年度はリーグ3位の33失点だった守備が崩壊、リーグワースト4位タイで前年より1.5倍強の54失点を喫した。 また、今シーズンをもって[[栗澤僚一]]が現役引退を表明した。 === 2019年(J2)=== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 新監督として、[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]]が2014年以来5年振りに就任。[[アビスパ福岡|福岡]]監督を退任した[[井原正巳]]がヘッドコーチに復帰、現役引退した栗澤はコーチに就任した。 冬の移籍では[[細貝萌]]が[[タイ・リーグ1|タイ1部]]・[[ブリーラム・ユナイテッドFC]]へ、[[鈴木大輔 (サッカー選手)|鈴木大輔]]が[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]へ、[[亀川諒史]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ、[[中山雄太]]が[[エールディヴィジ|オランダ1部]]・[[PECズウォレ]]へ完全移籍。[[中川寛斗]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]へ、[[金甫炅|キム・ボギョン]]が[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[蔚山現代FC]]へ、[[伊東純也]]が[[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]]・[[KRCヘンク]]へ期限付き移籍。[[ナタン・オタヴィオ・ヒベイロ|ナタン・ヒベイロ]]が期限付き移籍期間満了、[[澤昌克]]が契約満了につき退団。[[モンテディオ山形|山形]]に育成型期限付き移籍していた[[安西海斗]]が[[ポルトガル]]・[[SCブラガ]]に完全移籍。[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]に期限付き移籍していた[[増嶋竜也]]がレンタル延長。[[FC町田ゼルビア|町田]]に期限付き移籍していた[[橋口拓哉]]が[[テゲバジャーロ宮崎]]に、[[FCソウル]]に期限付き移籍していた[[尹錫榮]]が韓国1部・[[江原FC]]に期限付き移籍。[[FC東京]]に期限付き移籍していた[[ディエゴ・オリヴェイラ]]と湘南に期限付き移籍していた[[秋野央樹]]がそのまま完全移籍となった。また、2種登録の[[小久保玲央ブライアン]]が[[プリメイラ・リーガ|ポルトガル1部]]・[[SLベンフィカ]]へ移籍した。 獲得面では湘南に期限付き移籍していた[[小林祐介]]、[[アビスパ福岡|福岡]]に期限付き移籍していた[[古賀太陽]]が復帰。[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[高橋峻希]]、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から[[菊池大介]]、[[V・ファーレン長崎|長崎]]から[[田上大地]]、[[京都サンガF.C.|京都]]から[[染谷悠太]]、[[清水エスパルス|清水]]から[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[セアラーSC]]から[[ヒシャルジソン・フェルナンデス・ドス・サントス|ヒシャルジソン]]を完全移籍で獲得。2019年加入内定の[[上島拓巳]]が加入。ブラジル1部・[[CRフラメンゴ]]から[[ガブリエル・サンターナ・ピント|ガブリエル・サンタナ]]を期限付き移籍で獲得した。また、U-18から[[杉井颯]]と[[山田雄士]]が昇格した。 シーズン前半戦は開幕から4連勝を飾るも全て1点差というギリギリの試合となり、18節の[[アビスパ福岡|福岡]]戦までで複数得点は3試合のみと得点力に課題が残る結果となった。しかし、フォーメーションを変えた19節の[[千葉ダービー]]を2-0で勝利すると、アウェイ[[モンテディオ山形|山形]]に初勝利する等その後2連勝。10勝7分4敗の3位で前半を折り返した。 [[2019年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]では初戦こそ勝利するも残り5試合勝ち無しの最下位でグループステージ敗退となった。 [[天皇杯 JFA 第99回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦から出場。初戦の[[いわてグルージャ盛岡]]に4-0で勝利。続く[[サガン鳥栖|鳥栖]]戦はスコアレスで延長戦に入り、延長前半に[[フェルナンド・トーレス]]の現役ラストゴールを決められ、2年連続の3回戦敗退。 夏の移籍では[[朴正洙]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]、[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]が[[アビスパ福岡|福岡]]、[[猿田遥己]]が[[鹿児島ユナイテッドFC|鹿児島]]へ期限付き移籍。[[中川創]]が[[SC相模原|相模原]]へ育成型期限付き移籍。[[小泉慶]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]、[[高木利弥]]が[[松本山雅FC|松本]]、[[小池龍太]]が[[ベルギー・ファースト・ディビジョンB|ベルギー2部]]・[[スポルティング・ロケレン]]へ完全移籍。獲得面では[[フォルタレーザEC]]から[[ホセ・アントニオ・ドス・サントス・ジュニオール|ジュニオール・サントス]]、[[セレッソ大阪|C大阪]]から[[山下達也]]が完全移籍。ブラジル1部・[[CRフラメンゴ]]から[[マテウス・ゴンサウヴェス・サヴィオ|マテウス・サヴィオ]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[三原雅俊]]、[[アルビレックス新潟|新潟]]から[[川口尚紀]]を期限付き移籍で獲得した。 シーズン後半戦は折り返しからの連勝を継続し、25節[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]戦の勝利で今季初の首位浮上、また29節[[FC岐阜|岐阜]]戦で11連勝を飾り、クラブのJ2連勝記録を更新した(30節[[アルビレックス新潟|新潟]]戦で連勝はストップ)。連勝ストップ後は首位独走のアドバンテージを利用し、小池退団後固定できなかった右サイドバックに瀬川を起用する等の実験的采配や山形・[[横浜FC]]・[[水戸ホーリーホック|水戸]]・[[大宮アルディージャ|大宮]]と上位戦に敗北する等で勝ち点を落とし2位との勝ち点差は徐々に縮まっていったが、それでも首位を明け渡さず41節[[FC町田ゼルビア|町田]]戦にて3-0で勝利した事で、最終節を残しJ2優勝とJ1昇格を決めた。また、最終節京都戦では13-1という記録的勝利。チームとしてJリーグとしてのJリーグ1試合の最多得点記録が更新された。この試合で[[マイケル・オルンガ|オルンガ]]が挙げた8得点は、Jリーグの公式戦1試合における個人最多得点新記録となった。 {{Main|2019年J2最終節 柏対京都}} === 2020年 -(J1)=== ==== 2020年 ==== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制2年目。スタッフ人事では2018年にJ1残り2節を監督として指揮したアカデミーヘッドオブコーチの[[岩瀬健]]が[[大分トリニータ|大分]]のヘッドコーチ就任の為退団した。 冬の移籍では[[上島拓巳]]と[[菊池大介]]が[[アビスパ福岡|福岡]]へ、[[田中陸]]が[[レノファ山口|山口]]へ、[[手塚康平]]が[[横浜FC]]へ、[[杉井颯]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]へ、[[宮本駿晃]]が[[モンテディオ山形|山形]]へ、[[田上大地]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]へ期限付き移籍。[[ガブリエル・サンターナ・ピント|ガブリエル]]はレンタルバックとなった。レンタル組では[[橋口拓哉]]([[テゲバジャーロ宮崎]])が[[FC岐阜|岐阜]]、[[中川創]]([[SC相模原|相模原]])が[[ジュビロ磐田|磐田]]へ完全移籍。[[猿田遥己]]([[鹿児島ユナイテッドFC|鹿児島]])が[[ガンバ大阪|G大阪]]、[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]([[アビスパ福岡|福岡]])が山口へ期限付き移籍。[[増嶋竜也]]([[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]])と[[中川寛斗]]([[湘南ベルマーレ|湘南]])がレンタル先へ完全移籍。[[朴正洙|パク・ジョンス]]([[サガン鳥栖|鳥栖]])はレンタル延長。また、[[金甫炅|キム・ボギョン]]([[蔚山現代FC]])は韓国1部・[[全北現代モータース]]へ完全移籍、[[尹錫榮|ユン・ソギョン]]([[江原FC]])は韓国1部・[[釜山アイパーク]]へ期限付き移籍となった。 獲得面では磐田から[[大南拓磨]]、鳥栖から[[高橋祐治]]と[[三丸拡]]、新潟から[[戸嶋祥郎]]、湘南([[愛媛FC|愛媛]]に期限付き移籍)から[[神谷優太]]、[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]から[[仲間隼斗]]、G大阪([[V・ファーレン長崎|長崎]]に期限付き移籍)から[[呉屋大翔]]、横浜FCから[[北爪健吾]]、韓国1部・蔚山現代から[[金承奎|キム・スンギュ]]を完全移籍で獲得。[[マテウス・ゴンサウヴェス・サヴィオ|マテウス・サヴィオ]]、[[三原雅俊]]、[[川口尚紀]]のレンタル組を完全移籍で買い取り。東洋大学から[[松本健太 (サッカー選手)|松本健太]]、U-18から[[細谷真大]]、[[鵜木郁哉]]、[[井出敬大]]が昇格。 シーズン開幕後には昇格した井出が4月に登録抹消され、6月に[[栃木SC|栃木]]へ移籍、7月には松本が[[大宮アルディージャ|大宮]]へ育成型期限付き移籍、8月には[[ホセ・アントニオ・ドス・サントス・ジュニオール|ジュニオール・サントス]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]へ期限付き移籍した。また、[[ベルギー・ファースト・ディヴィジョンA|ベルギー1部]]・[[KRCヘンク]]へ期限付き移籍していた[[伊東純也]]がヘンクに買い取られた。 シーズン序盤は開幕戦の[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦に4-2で勝利し、新型コロナウイルスによる中断期間に入る。中断期間中は他チームとの練習試合を行わない、クリスティアーノが負傷離脱する等の出来事があった中、再開後初戦の第2節[[FC東京]]戦へ。しかし、開幕戦2ゴールのオルンガが沈黙、ヒシャルジソンがイエロー2枚で退場等、チーム全体として不調に陥り、結局再開後3連敗を喫する。しかし、有観客試合となった第5節の湘南戦では怪我から復帰した中村をはじめ古賀以外の守備陣を一新。攻撃陣も新加入選手の活躍や復活したオルンガの2ゴール等で3-2と勝利すると、続く[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]戦では今季初のクリーンシートで4-0の勝利を収めた。 シーズン通じて上位~中位を行き来しており、シーズン終盤まで来季ACL出場の可能性も残されていたが、コロナウイルス感染影響で12月9日に延期となった第27節[[大分トリニータ|大分]]戦を引き分けた事でACL出場権の可能性が消滅した。 [[2020年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]ではグループリーグ3戦全勝、準々決勝も勝利し、準決勝の[[横浜F・マリノス|横浜FM]]戦では直前のリーグ戦で1-3と敗れるもカップ戦で1-0とリベンジ達成し、決勝に進出した。しかし、決勝直前の11月2日に選手1名に新型コロナウイルスの陽性反応、さらに翌3日には[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]]を含むチームスタッフ2名、その後も4日に選手2名とスタッフ8名が陽性反応を受け、クラブとリーグの協議の結果、11月7日の決勝を延期する事を発表<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jleague.jp/release/post-64987/ |title=2020JリーグYBCルヴァンカップ決勝 11月7日(土)開催中止のお知らせ|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2020-11-04|accessdate=2020-11-22}}</ref>。代替試合は2021年1月4日となる<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.jleague.jp/release/post-65064/ |title=2020JリーグYBCルヴァンカップ決勝 開催日・試合会場・テレビ放送決定のお知らせ 2021年1月4日(月)/国立競技場で開催 フジテレビ系列にて全国生中継(予定)|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-22}}</ref> 決勝戦では前半に[[ウェベルソン・レアンドロ・オリベイラ・モウラ|レアンドロ]]に先制されるも終了間際に[[瀬川祐輔|瀬川]]が[[コーナーキック]]から同点に持ち込む。が、後半途中に投入された[[アダイウトン・ドス・サントス・ダ・シルバ|アダイウトン]]に決勝点を決められ敗戦。オルンガ、江坂を始めとする攻撃陣は徹底的に対策を取られ沈黙し、守備面では相手ブラジル人選手に好きなようにされるなど試合内容では圧倒される結果となった。 [[Jリーグアウォーズ]]では[[マイケル・オルンガ|オルンガ]]が28ゴールで得点王に輝いたのに加え、ブラジル人以外の外国人選手からは1995年の当時[[ユーゴスラビア|ユーゴスラビア(今のセルビア)]]人である[[ドラガン・ストイコビッチ]]以来2人目となる最優秀選手賞にも輝いた<ref group="注">クラブから最優秀選手賞に輝いたのは2011年の[[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|ドミンゲス]]以来2人目である。</ref>。[[得点王]]の選手が最優秀選手賞を同時に受賞したのは史上8人目で2003年に受賞した[[マルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ|エメルソン]]の[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]は年間で6位だったが、チームは[[J1リーグ|J1]]を7位で終えている為史上最も年間順位の低いチームからの[[最優秀選手|MVP]]受賞となった。 ==== 2021年 ==== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制3年目。スタッフ人事では2012年から2015年まで柏に在籍した[[藤田優人]]がU-18コーチに就任した。 冬の移籍では[[小林祐介]]が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ、[[マイケル・オルンガ|オルンガ]]が[[カタール・スターズ・リーグ|カタール1部]]・[[アル・ドゥハイルSC]]へ、[[中村航輔]]が[[プリメイラ・リーガ|ポルトガル1部]]・[[ポルティモネンセSC]]へ、[[山崎亮平]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ完全移籍。[[鎌田次郎]]が[[SC相模原|相模原]]へ期限付き移籍。[[桐畑和繁]]は一度契約満了になるも再契約し[[FC岐阜|岐阜]]に期限付き移籍した。レンタル組では[[朴正洙|パク・ジョンス]]([[サガン鳥栖|鳥栖]])が[[Kリーグ1|韓国1部]]・[[城南FC]]へ、[[ホセ・アントニオ・ドス・サントス・ジュニオール|ジュニオール・サントス]]([[横浜F・マリノス|横浜FM]])が[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]へ、[[尹錫榮|ユン・ソギョン]]([[釜山アイパーク]])は韓国1部・[[江原FC]]へ完全移籍。[[菊池大介]]([[アビスパ福岡|福岡]])が[[栃木SC|栃木]]へ、[[杉井颯]]([[ツエーゲン金沢|金沢]])が[[ガイナーレ鳥取|鳥取]]へ、[[猿田遥己]]([[ガンバ大阪|G大阪]])が[[横浜FC]]へ期限付き移籍。[[田上大地]]([[アルビレックス新潟|新潟]])が移籍期間延長。[[田中陸]]([[レノファ山口|山口]])と[[手塚康平]]([[横浜FC]])がレンタル先へ完全移籍。[[宮本駿晃]]([[モンテディオ山形|山形]])は退団。[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]([[レノファ山口FC|山口]])は現役を引退した。 獲得面では[[ベガルタ仙台|仙台]]から[[椎橋慧也]]、[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[イッペイ・シノヅカ]]、[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[フルミネンセFC]]より[[ドグラス・モレイラ・ファグンデス|ドッジ]]、ブラジル1部・[[レッドブル・ブラガンチーノ]]より[[ロドリゴ・ルイス・アンジェロッティ|アンジェロッティ]]が完全移籍加入。[[松本健太 (サッカー選手)|松本健太]]([[大宮アルディージャ|大宮]])、[[上島拓巳]]([[アビスパ福岡|福岡]])が復帰。[[佐々木雅士]]と大嶽拓馬がU-18から昇格した。<br/> 開幕後には[[SEパルメイラス]]より[[エメルソン・ハイムンド・サントス|エメルソン・サントス]]、[[ボタフォゴFR]]より[[ペドロ・ハウル・ガライ・ダ・シルバ|ペドロ・ハウル]]が加入。 オルンガ頼みの昨季から戦術を変えなかった事でシーズン序盤から低調な試合が続き、開幕戦で敗れた後第二節[[湘南ベルマーレ|湘南]]戦では勝利を挙げたが、そこから4連敗。しかし4月には残留争いのライバル相手に3連勝する等復活の兆しが見えかけたがそこから6月27日の20節湘南戦まで勝ちが無くなり、降格圏内にまで順位が落ちる事になった。シーズン折り返しの19節時点での成績は4勝2分13敗と、降格した2018年加藤体制時より悪化している状況であった。 [[2021年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]ではグループリーグ1勝3分2敗で敗退。<br/> [[天皇杯 JFA 第101回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦から出場。初戦の[[栃木シティFC]]に3-0で勝利するが、次戦の[[京都サンガF.C.|京都]]戦では1-2の逆転負けで敗退となった。 シーズン途中には大谷不在時キャプテンを務めた司令塔の[[江坂任]]が6月に[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]へ完全移籍。7月には[[呉屋大翔]]が[[大分トリニータ|大分]]へ完全移籍で退団、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]より[[武藤雄樹]]が完全移籍で加入した。<br/> 9月には今季加入のペドロ・ハウルが[[リーガMX|メキシコ1部]]・[[FCフアレス]]へ期限付き移籍した。 シーズン後半は復調を見せ、35節[[セレッソ大阪|C大阪]]戦時点で後半戦8勝2分6敗となり、3試合を残して降格圏との勝ち点差が10になった為J1残留が確定した。<br/> 最終成績は12勝5分21敗の勝点41で15位。負数は降格した4チームと同じ20を超えるワースト3タイ、得失点差も降格4チームに次ぐワースト5の-19点と今季のJ1でも最低クラスの戦績となった。 ==== 2022年 ==== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 2021年12月4日のホーム最終戦セレモニーにて監督続投が発表され、ネルシーニョ体制4年目。1992年に運営会社となる株式会社日立スポーツを設立し30年目の節目を迎える。 冬の移籍では[[ヒシャルジソン・フェルナンデス・ドス・サントス|ヒシャルジソン]]が[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|ブラジル1部]]・[[セアラーSC]]へ、[[仲間隼斗]]が[[鹿島アントラーズ|鹿島]]へ、[[神谷優太]]が[[清水エスパルス|清水]]へ、[[クリスティアーノ・ダ・シウヴァ|クリスティアーノ]]と[[高橋峻希]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ、[[瀬川祐輔]]が[[湘南ベルマーレ|湘南]]へ、[[山下達也]]が[[セレッソ大阪|C大阪]]へ完全移籍。[[滝本晴彦]]が[[FC今治|今治]]、[[イッペイ・シノヅカ]]が[[アルビレックス新潟|新潟]]へ期限付き移籍。レンタル組では[[杉井颯]]([[ガイナーレ鳥取|鳥取]])が[[AC長野パルセイロ|長野]]へ、[[菊池大介]]([[栃木SC|栃木]])が[[FC岐阜|岐阜]]へ完全移籍。[[桐畑和繁]](岐阜)がレンタル延長。[[田上大地]](新潟)と[[鎌田次郎]]([[SC相模原|相模原]])がそのままレンタル先へ完全移籍。[[ペドロ・ハウル・ガライ・ダ・シルバ|ペドロ・ハウル]]([[FCフアレス]])がブラジル・[[ゴイアスEC]]へ期限付き移籍。 獲得面では[[ロアッソ熊本|熊本]]から[[岩下航]]、清水から[[中村慶太]]、[[ヴィッセル神戸|神戸]]から[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]]、[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[小屋松知哉]]が完全移籍加入。[[猿田遥己]]([[横浜FC]])が復帰。U-18から[[升掛友護]]、[[田中隼人 (サッカー選手)|田中隼人]]、[[真家英嵩]]が昇格。[[筑波大学]]より[[森海渡]]と[[加藤匠人]]、[[日本体育大学柏高等学校]]より[[土屋巧]]が加入。 昨年の低調ぶりから多くの記者や解説者が下位や降格を予想する中始まったリーグ前半戦は、そういった予想を覆す戦いを見せ、4月5日のセレッソ戦で5勝1分1敗で暫定首位に立つ絶好調ぶりを見せる。その後3連敗やホームで中々勝てない等調子を落とす時期もあったが、リーグの半分を終えて首位と勝ち点4差の4位で折り返した。なお、4~5月に着用した限定ユニフォームでの戦績は2勝1分3敗。 [[2022年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]は2勝2分2敗で[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]との直接対戦成績により3位でグループステージ敗退。 [[天皇杯 JFA 第101回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦から出場。初戦の[[筑波大学蹴球部|筑波大学]]に1-0で勝利し、3回戦の[[徳島ヴォルティス|徳島]]戦でも2-1で逆転勝ちをして5年ぶりのベスト16入りしたが、続く4回戦の[[ヴィッセル神戸|神戸]]戦では1-2と敗戦し、ベスト8入りとはならなかった。 夏の移籍では[[金承奎|キム・スンギュ]]が[[サウジアラビア]]・[[アル・シャバブ・リヤド]]へ完全移籍。[[エメルソン・ハイムンド・サントス|エメルソン・サントス]]が[[アトレチコ・ゴイアニエンセ]]へ期限付き移籍。[[鵜木郁哉]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ育成型期限付き移籍。また[[サガン鳥栖|鳥栖]]より[[守田達弥]]が期限付きで加入した。 リーグ後半戦は調子を落とし、8月6日のアウェイ[[京都サンガF.C.|京都]]戦を最後にシーズン終了までの10戦を未勝利となり、ACL権争いから大きく後退。勝点47の7位でフィニッシュとなった。<br/> また、今季限りで[[大谷秀和]]と[[染谷悠太]]が現役を引退した。 ==== 2023年 ==== : チームスローガン : 「'''Vitoria'''」 ネルシーニョ体制5年目。スタッフ人事では昨季引退した[[大谷秀和]]と[[染谷悠太]]がそれぞれトップチームコーチ、U-18コーチに就任した。 冬の移籍では[[北爪健吾]]と[[高橋祐治]]が[[清水エスパルス|清水]]へ、[[大南拓磨]]が[[川崎フロンターレ|川崎]]へ、[[上島拓巳]]が[[横浜F・マリノス|横浜FM]]へ、[[ドグラス・モレイラ・ファグンデス|ドッジ]]が[[サントスFC]](ブラジル)へ完全移籍。[[森海渡]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ、[[大嶽拓馬]]が[[愛媛FC|愛媛]]へ、[[山田雄士]]が[[栃木SC|栃木]]へ、[[ロドリゴ・ルイス・アンジェロッティ|アンジェロッティ]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]へ期限付き移籍。レンタル組では[[桐畑和繁]]([[FC岐阜|岐阜]])が引退。[[ペドロ・ハウル]](ブラジル・[[ゴイアスEC]])が[[CRヴァスコ・ダ・ガマ]]へ完全移籍。[[滝本晴彦]]([[FC今治|今治]])がレンタル先へ完全移籍。[[イッペイ・シノヅカ]]([[アルビレックス新潟|新潟]])が契約解除。 獲得面では[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]から[[高嶺朋樹]]、[[モンテディオ山形|山形]]から[[山田康太]]、清水から[[片山瑛一]]と[[立田悠悟]]、[[サガン鳥栖|鳥栖]]から[[ジエゴ・ジャラ・ロドリゲス|ジエゴ]]、[[名古屋グランパス|名古屋]]から[[仙頭啓矢]]、[[ヴィボーFF]](デンマーク)から[[ジェイ=ロイ・フロート]]を完全移籍で獲得。期限付き移籍で加入していた[[守田達弥]]が完全移籍に移行。U-18からは[[山本桜大]]と[[モハマドファルザン佐名]]が昇格。[[東京国際大学]]から[[落合陸]]、[[流通経済大学]]から[[熊澤和希]]、[[日本体育大学柏高等学校]]から[[オウイエ・ウイリアム]]が加入。<br/> ちばぎんカップでは守備陣のミスが相次ぎ敗れると、リーグ開幕後は昨季からの不調を引きずるような形で1節2節と引き分けて、リーグ戦12戦連続未勝利でクラブワーストタイに並ぶ。第3節福岡戦に敗北した事で13戦連続未勝利となりクラブ単独ワースト記録となった。また、ルヴァンカップ第3節新潟戦で敗北した事により、リーグ・カップ含めた公式戦19戦連続未勝利でこちらもクラブワーストとなった。<br/> 4月9日の第7節[[鹿島アントラーズ|鹿島]]戦にて今季初勝利を挙げ、リーグ戦連続未勝利は16、公式戦は19で止まった。 [[瀧川龍一郎]]社長の任期満了に伴い、4月1日付けで山崎和伸に交代。4月7日に前年鹿島を退団し無所属となっていた[[ウェリントン・ダニエル・ブエノ|ブエノ]]が加入。<br/> 5月13日の第13節[[横浜FC]]戦に敗北後、サポーターは居残り抗議を行い布部GMとの話し合いに発展<ref>{{cite news|date=2023-05-13|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202305130001377.html|title=【柏】最下位の横浜FCに敗れサポ「降格しても監督は続けるのか」布部GMが拡声器を使って説明|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2023-05-20}}</ref>。コールリーダーを中心に終始冷静な話し合いが進められ、最後はエールの拍手で締め括ったが、その4日後の5月17日、チームはネルシーニョ退任を発表。後任はヘッドコーチの[[井原正巳]]<ref>{{cite news|date=2023-05-17|url=https://www.reysol.co.jp/news/topteam/035800.html|title=監督交代のお知らせ|publisher=柏レイソルオフィシャルサイト|accessdate=2023-05-20}}</ref>。<br/> 井原体制となってからも1勝が遠く、第16節札幌戦では5-4、第17節横浜FM戦では4-3と撃ち合いに敗北。'''2勝6分9敗・勝点12の最下位'''でシーズンを折り返した。 夏の移籍では[[中村慶太]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へ完全移籍。[[升掛友護]]が愛媛へ育成型期限付き移籍。大嶽拓馬(愛媛レンタル)が[[ヴェルスパ大分]]へ育成型期限付き移籍。<br/> また、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から[[犬飼智也]]が期限付き移籍で加入。山田雄士(栃木レンタル)が復帰。 [[天皇杯 JFA 第103回全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は2回戦で[[山梨学院大学|山梨学院大学PEGASUS]](山梨県代表)、3回戦で徳島、4回戦で札幌、準々決勝で名古屋を下し、準決勝ではJ2勢で唯一準決勝まで勝ち進んだ熊本に4-0で勝利。2012シーズンの第92回大会以来11大会ぶりの決勝進出を決めた。<br/> 決勝戦では19本のシュートを放ちながら無得点に終わり、0-0でPK戦に突入。10人目まで続き、GK対決となった松本のPKをチョン・ソンリョンが止めた事で試合終了、準優勝となった。 [[2023年のJリーグカップ|ルヴァンカップ]]はグループステージを1勝に終わり最下位で敗退。 シーズン後半戦も天皇杯こそ勝ち進むもののリーグ戦は10試合未勝利が続き、迎えた第22節は奇しくも1年前と全く同じ8月6日のアウェイ[[京都サンガF.C.|京都]]戦。細谷のゴールで1-0で勝利し井原体制初勝利となった。なお、昨年の京都戦から今年の京都戦までの1年でリーグ戦は2勝しか挙げていなかった。その後は新加入の犬飼を中心に守備が安定。京都戦以降は主に引き分けで勝ち点1を重ね、最終節を前に最下位横浜FCとの勝ち点差は3となり、最終節で敗北しても12差ある得失点差を横浜FCが上回らない限りは残留という状況になった。 最終節名古屋戦は1-1で引き分け、横浜FCが敗北したため、勝点差は4となり、6勝15分13敗・勝点33の17位でJ1残留が決定した(通常のレギュレーションであれば自動降格の順位)。なお、6勝は今季J1ワースト、15分は今季J1最多となる。 ==== 2024年 ==== : チームスローガン : 井原体制2年目。 冬の移籍では[[椎橋慧也]]が[[名古屋グランパス|名古屋]]へ、[[山田康太]]が[[ガンバ大阪|G大阪]]へ完全移籍。[[落合陸]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]へ期限付き移籍。[[三原雅俊]]、[[ウェリントン・ダニエル・ブエノ|ブエノ]]、[[デャンフレス・ドウグラス・シャガス・マトス|ドウグラス]]が契約満了。レンタル組では[[大嶽拓馬]]([[ヴェルスパ大分]])、[[ロドリゴ・ルイス・アンジェロッティ|アンジェロッティ]]([[大宮アルディージャ|大宮]])、[[エメルソン・サントス]]([[アトレチコ・ゴイアニエンセ|アトレチコGO]])が契約満了。 獲得面では[[木下康介]]([[京都サンガF.C.|京都]])、[[野田裕喜]]([[モンテディオ山形|山形]])が完全移籍で加入。期限付き移籍で加入していた[[犬飼智也]]が完全移籍に移行。[[鵜木郁哉]](水戸レンタル)が復帰。 == 成績 == {{Main|柏レイソルの年度別成績一覧}} == ダービーマッチ == [[File:Reykun.jpg|thumb|right|200px|マスコットのレイくん]] === 千葉ダービー === {{Main|千葉ダービー}} [[ジェフユナイテッド市原・千葉]]との対戦。 === ちばぎんカップ === {{Main|ちばぎんカップ}} 1995年から開始された、シーズン開幕前に行われる[[ジェフユナイテッド市原・千葉]]とのプレシーズンマッチ。 == タイトル == === 国内タイトル === * '''[[J1リーグ]]:1回''' ** [[2011年のJリーグ|2011]] * '''[[J2リーグ]]:2回''' ** [[2010年のJリーグ|2010]], [[2019年のJリーグ|2019]] * '''[[Jリーグカップ]]:2回''' ** [[1999年のJリーグカップ|1999]], [[2013年のJリーグカップ|2013]] * '''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:1回''' ** [[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2012]] * '''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:1回''' ** 2012 === 国際タイトル === * '''[[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦]]:1回''' ** [[スルガ銀行チャンピオンシップ2014|2014]] === その他受賞 === * [[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞(高円宮杯)|J1フェアプレー賞]]:1回''' ** 2018 * [[Jリーグアウォーズ#最優秀育成クラブ賞|Jリーグ 最優秀育成クラブ賞]]:1回''' ** 2021 === 個人別 === * J1リーグ ** 得点王 *** [[2020年]] [[マイケル・オルンガ|オルンガ]] ** 最優秀選手賞 *** [[2011年]] [[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|レアンドロ・ドミンゲス]] *** [[2020年]] [[マイケル・オルンガ|オルンガ]] ** [[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] *** [[2000年]] [[洪明甫]]、[[明神智和]] *** 2011年 [[近藤直也]]、[[酒井宏樹]]、[[ジョルジ・ワグネル]]、[[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|レアンドロ・ドミンゲス]] *** [[2012年]] [[レアンドロ・ドミンゲス・バルボーザ|レアンドロ・ドミンゲス]] *** [[2017年]] [[中村航輔]] *** [[2020年]] [[マイケル・オルンガ|オルンガ]] ** ベストヤングプレーヤー賞 *** 2011年 [[酒井宏樹]] *** [[2017年]] [[中山雄太]] *** [[2022年]] [[細谷真大]] ** フェアプレー個人賞 *** [[2001年]] [[南雄太]] *** [[2014年]] [[工藤壮人]] ** タグ・ホイヤーヤングガンアワード *** [[2017年]] [[中村航輔]]、[[中山雄太]] ** [[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|月間MVP]] *** 2017年5月度 - [[中村航輔]] *** 2020年8月度 - [[マイケル・オルンガ|オルンガ]] ** 月間ベストゴール *** 2022年5月度 - [[マテウス・ゴンサウヴェス・サヴィオ|マテウス・サヴィオ]] * 最優秀監督賞 ** 1996年 [[ニカノール・デ・カルバーリョ|ニカノール]] ** 2000年 [[西野朗]] ** 2011年 [[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]] * Jリーグカップ ** 最優秀選手賞 *** [[1999年]] [[渡辺毅]] *** [[2013年]] [[工藤壮人]] * J2リーグ ** 月間MVP *** 2019年7月度 - [[クリスティアーノ・ダ・シウヴァ|クリスティアーノ]] *** 2019年8月度 - [[マイケル・オルンガ|オルンガ]] ** 月間ベストゴール *** 2019年8月度 - [[クリスティアーノ・ダ・シウヴァ|クリスティアーノ]] ** 月間最優秀監督賞 *** 2019年8月度 - [[ネルシーニョ・バチスタ|ネルシーニョ]] * 内閣総理大臣杯[[日本プロスポーツ大賞]] ** 日本プロスポーツ新人賞 *** [[2017年]] [[中山雄太]] == スタジアム・練習場 == {{Main|日立柏サッカー場|柏の葉公園総合競技場}} {{節スタブ|date=2017年7月}} [[ファイル:Kashiwa20120311-1.JPG|thumb|250px|日立柏サッカー場(2012年・柏熱地帯<ゴール裏レイソル応援席>増築後)]] * ホームスタジアムは[[日立柏サッカー場]]である。2018年から[[三協フロンテア]]とのネーミングライツ契約を締結し、「三協フロンテア柏スタジアム」となった<ref>[http://blog.reysol.co.jp/news/2018/016261.html 三協フロンテア株式会社スタジアムネーミングライツ及びユニフォームスポンサー契約締結]</ref>。なお、過去の開催スタジアムは下表を参照のこと。 * 練習場は日立柏サッカー場に隣接する日立柏総合グラウンドである<ref name="jleague" />。過去は柏市内の[[あけぼの山公園|あけぼの山農業公園]]芝生広場も使用していた。 === 本拠地問題 === {{内容過剰|date=2012年12月|Wikipedia:過剰な内容の整理/過剰な内容の整理|section=1}} [[ファイル:Kashiwanoha200701021.JPG|250px|thumb|[[柏の葉公園総合競技場]]]] * [[柏の葉公園総合競技場]](以下柏の葉)をホームとすることを前提として、[[日立柏サッカー場]](以下便宜上「日立台」)をJリーグ基準の収容人員(15,000人以上)にすることで1993年にJリーグ準会員の承認を受けた。[[1999年]]に柏の葉が竣工するまで、日立台の収容人数を15,900人とすることで基準を満たし、柏の葉の完成後に本拠地を移転することとした。 * 2005年秋になって、一部の報道では日立台の改修を2009年度以後に進める「市民スポーツ文化スタジアム」の基本構想をまとめ、整備する計画であると伝えられた。スタジアムとピッチの距離を保ち、今のアットホームな雰囲気を保つため、25,000人規模のスタジアムを目指しての改修ではなく、現状の規模を維持したままでの改修を望む声もある{{Refnest|group="注"|2010年11月には「日立柏サッカー場のアウェー席を増築し、消防法の収容人員が18,000人に拡張される」と報じられたが<ref>[[日刊スポーツ]]西日本版(大阪・名古屋・西部本社発行)2010年11月30日</ref>、クラブから正式な改修の発表はこの当時はなされていなかった。}}。なお、柏市議会も2012年3月の開幕までに完成することを目指し、座席3,000人分の増築を検討していることを公表した<ref>[http://www.asahi.com/sports/fb/TKY201012090463.html 2010年12月10日・朝日新聞]</ref>。2011年8月から増築工事が開始された<ref>[http://blog.reysol.co.jp/news/2011/012421.html スタジアム増築に伴うホームゲーム開催時の運営方法変更について]</ref>。 * [[2012年]][[3月11日]]に竣工。前述のとおりゴール裏について、「柏熱(はくねつ)地帯ホーム自由席」を西側へ変更すると共に二層式(新設の2階席は座席)とし、ビジター自由席を東側に変更した。また、メインスタンドのホーム側の座席も一部増築し、Jリーグ届出の収容人員が15,349人となった。市民寄付によるホームゴール裏の正門「柏シヴィックプライドゲート」が設置し、大型映像装置を西側から東側へ移設した。 * なお、柏の葉でのホームゲームは下表の通り、公式戦では2009年以降開催されておらず、移転は事実上白紙の状態である。 ; 年度別・競技場別の試合数<ref>[http://footballgeist.com/ フットボールガイスト]、レイソル公式サイト</ref> : ※参考 リーグ戦ホームゲーム数(2006・2010年・2019年はJ2、ほかはJ1<1995-98年のJリーグを含む>) : 1995年:26試合 : 1996年・1999年 - 2004年:15試合 : 1997年:16試合 : 1998年・2005年・2007年 - 2009年・2011年 - 2018年・2020年・2022年 - 2023年:17試合 : 2006年:24試合 : 2010年:18試合 : 2019年:21試合 : 2021年:19試合 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #231815; box-shadow: 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="text-align:center; background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="3"|リーグ戦||rowspan="2"|Jリーグ杯||rowspan="2"|ACL||rowspan="2"|備考 |- style="text-align:center; background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |日立台<br/>(三協F)||柏の葉||その他 |- |1995||23||rowspan="4"|-||[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立]]3||非開催||rowspan="17"|不参加|| |- |1996||12||国立2<br/>[[新潟市陸上競技場|新潟市陸]]1||日立台7|| |- |1997||rowspan="2"|15||国立1||日立台3|| |- |1998||国立2||日立台2|| |- |1999||10||rowspan="3"|4||国立1||日立台4||Jリーグカップ優勝<br/>この年柏の葉完成 |- |2000||11||なし||日立台1|| |- |2001||10||国立1||日立台1<br/>柏の葉1|| |- |2002||rowspan="4"|11||2||国立2||柏の葉3|| |- |2003||rowspan="2"|3||rowspan="2"|国立1||日立台2<br/>柏の葉1|| |- |2004||日立台2<br/>柏の葉1|| |- |2005||4||国立2||日立台3||J2降格 |- |2006||21||rowspan="2"|3||なし||不参加||J1昇格 |- |2007||12||rowspan="3"|国立2||日立台3|| |- |2008||15||rowspan="16"|0||柏の葉3|| |- |2009||15||日立台3||J2降格 |- |2010||18||なし||不参加||J1昇格 / J2優勝 |- |2011||rowspan="3"|15||rowspan="3"|国立2||日立台1||J1優勝 |- |2012||rowspan="2"|日立台2||日立台3||天皇杯優勝 |- |2013||日立台6||Jリーグカップ優勝<br/>ACLは決勝T3も含む |- |2014||rowspan="5"|17||rowspan="10"|なし||日立台5||不参加||スルガ銀行チャンピオンシップ優勝 |- |2015||日立台1<ref group="注" name=リーグ杯>ACL東地区プレーオフを敗退した場合はJリーグ杯に出場し、同大会3試合を主催予定だった。</ref>||日立台5||ACLは東地区プレーオフ1、決勝トーナメント1を含む<ref group="注" name="acl">POを勝利したためグループステージ3を追加。決勝トーナメント進出時はさらに追加有り。</ref><br/>リーグ杯はACL本戦出場のため決勝トーナメントのみ |- |2016||rowspan="2"|日立台3||rowspan="2"|不参加|| |- |2017|| |- |2018||三協F2<ref group="注" name=リーグ杯/>||日立台4||J2降格<br/>ACLはプレーオフ1を含む<ref group="注" name="acl"/><br/>リーグ杯はACL本戦出場のためプライムステージのみ |- |2019||21||三協F3||rowspan="5"|不参加||J1昇格 / J2優勝 |- |2020||17||三協F2<ref group="注">本来ならば4チームによる2回戦総当たりで行われるため、三協Fで5試合が行われる予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大に伴うレギュレーション変更に伴い第4節 - 第6節が中止となったため、2試合のみとなった。</ref>|| |- |2021||19||三協F3|| |- |2022||17||三協F3|| |- |2023||17||三協F3|| |} == ユニフォーム == {{ユニフォームの色2 | F正シャツ=黄|F正パンツ=黒|F正ストッキング=黒 | F副シャツ=白|F副パンツ=紺|F副ストッキング=白 | G正シャツ=青|G正パンツ=青|G正ストッキング=青 | G副シャツ=緑|G副パンツ=緑|G副ストッキング=緑 | G第3シャツ=薄桃|G第3パンツ=薄桃|G第3ストッキング=薄桃 | pattern_la1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_b1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_ra1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_sh1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | pattern_so1 = _Kashiwa Reysol 2023 HOME FP | leftarm1 = | body1 = | rightarm1 = | shorts1 = | socks1 = | pattern_la2 = _Kashiwa Reysol 2023 AWAY FP | pattern_b2 = _Kashiwa Reysol 2023 AWAY FP | pattern_ra2 = _Kashiwa Reysol 2023 AWAY FP | pattern_sh2 = _Kashiwa Reysol 2023 AWAY FP | pattern_so2 = _Kashiwa Reysol 2023 AWAY FP | leftarm2 = | body2 = | rightarm2 = | shorts2 = | socks2 = | pattern_la3= | pattern_b3= | pattern_ra3= | pattern_sh3 = | pattern_so3 = | leftarm3=172A88|body3=172A88|rightarm3=172A88|shorts3=172A88|socks3=172A88 | pattern_la4= | pattern_b4= | pattern_ra4= | pattern_sh4 = | pattern_so4 = | leftarm4=008C36|body4=008C36|rightarm4=008C36|shorts4=008C36|socks4=008C36 | pattern_la5= | pattern_b5= | pattern_ra5= | pattern_sh5 = | pattern_so5 = | leftarm5=F7C9DD|body5=F7C9DD|rightarm5=F7C9DD|shorts5=F7C9DD|socks5=F7C9DD }} === クラブカラー === * {{colorbox|#FFF100}} 黄<ref name="jleague" />、 {{colorbox|black}} 黒 <br/> [[ファイル:Reysol_Home_Color.png|thumb|250px|ホームゲームカラー 黄/黒(2022年 J1第4節)]] <br/> === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #231815; 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |掲出箇所||スポンサー名||表記||掲出年||備考 |- !胸 |[[日立製作所]]||HITACHI<br/>{{smaller|Inspire the Next}}<br/>LUMADA{{refnest|group="注"|「Inspire the Next」は[[日立グループ]]のコーポレート・ステートメント、「LUMADA」は日立の先進的なデジタル技術を活用したソリューション/サービス/テクノロジーの総称である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hitachi.co.jp/about/corporate/identity/details.html|title=日立グループ・アイデンティティとは|website=日立製作所|accessdate=2023-09-23}}</ref>。}}||1992年 - ||1992年 - 2000年は「HITACHI」表記<br/>2001年 - 2020年は「HITACHI {{smaller|Inspire the Next}}」表記 |- !rowspan="2"|鎖骨 |[[日立ソリューションズ]]||日立ソリューションズ||2023年 - ||左側に表記 |- |[[三協フロンテア]]||三協フロンテア||2018年 - ||右側に表記<br/>スタジアムネーミングライツ契約も締結 |- !背中上部 |[[アフラック生命保険]]||Aflac||2005年 - ||1999年 - 2001年は袖<br/>1999年 - 2001年は「アメリカンファミリー」表記<br/>2002年 - 2004年は「AFLAC」表記 |- !背中下部 |[[日立ビルシステム]]||日立ビルシステム||2019年5月<!--契約は4月26日からであったが、披露は5月19日であった為--><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.reysol.co.jp/news/sponsor/031990.html|title=『株式会社日立ビルシステム』ユニフォームスポンサー契約締結のお知らせ|publisher=柏レイソル|date=2019-04-26|accessdate=2019-05-31}}</ref> - || |- !rowspan="2"|袖 |[[日立システムズ]]||日立システムズ||2023年 - ||上側に表記 |- |[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン]]||{{smaller|KASHIWA}}<br/>Reysol<br/>×<br/>Save the Children||2019年 - ||無償提供<br/>下側に表記<br/>2012年はパンツ<br/>2014年 - 2016年は背中下部<br/>2016年 - 2018年は背中下部上<br/>2012年は「Save the Children {{smaller|JAPAN}}」表記<br/>2014年 - 2016年は「{{smaller|KASHIWA}} Reysol×<br/>Save the Children {{smaller|JAPAN}}」表記 |- !rowspan="2"|パンツ前面 |[[ローソン]]||rowspan="2"|{{smaller|LAWSON TICKET}}<br/>ローチケ||rowspan="2"|2017年 - ||rowspan="2"|2017年 - 2020年は「LAWSON」表記 |- |[[ローソンエンタテインメント]] |- !パンツ背面 |[[日立ハイテク]]||日立ハイテク||2023年 - || |} * 基本的に2年に1度のペース、奇数年にユニフォームデザインを変更している。また、2014年まで背中の選手名が無かったが、2015年から選手名が追加された。 * 国際試合用のユニフォームは胸スポンサーの[[日立製作所|HITACHI]]のみで背中に選手名が入る。国際試合用ユニフォームは[[FIFAクラブワールドカップ2011]]から使用されており、デザイン変更は[[AFCチャンピオンズリーグ2015|ACL2015]]と[[AFCチャンピオンズリーグ2018|ACL2018]]の2回。 * [[2014年]]から各アカデミーチームの胸部分に[[マブチモーター]](表記:MABUCHI MOTOR)のロゴが入っている。背中は「HITACHI」。 ** また、2012年にトップチームのパンツスポンサーだった[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン]]は、2013年以降はアカデミーチームのパンツスポンサーとなった。2014年7月12日からトップチームのユニフォーム背中下部のロゴとなった{{Refnest|group="注"|Jリーグは2016年より背中下部へのスポンサー広告が解禁<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1579754.html|title=『スポンサー募集!Jリーグユニ背面下部の広告解禁|publisher=日刊スポーツ|date=2015年12月15日}}</ref> となったが、柏はそれ以前の2014年より支援ロゴを掲載している。2016年以前に下部にロゴを提出していた例として[[FC東京]]と[[ガンバ大阪]]がある。(FC東京の場合は2009年から下部にスポンサーのロゴ([[東京ガスライフバル|LIFEVAL]](2009年)、[[東京電力|TEPCO]](2010年-2011年4月)、[[三菱商事|Mitsubishi Corporation]](2012年以降))を提出している。その代わり上部にはスポンサーではなくほかのチームでは下部に入る選手名を表記。2016年の解禁後も上部には選手名を表記、下部にスポンサーを掲出の形を継続していたが2017年よりMitsubishi Corporationが上部に移動した。G大阪は[[1992年]]から[[1996年]]の間、背中スポンサーであった[[パナソニック|松下電器産業]](表記:「National/Panasonic」または「Matsushita Electric Industrial Co., Ltd. 」)を下部に入れていた。1997年以降は上部に移動している。背中下部スポンサーが解禁された2016年はスポンサーを掲出しなかったが2017年からはSHIP HEALTHCAREがスポンサーとして掲出している。)}}。 * 左胸のエンブレム上の星(★)4つは[[1999年のJリーグカップ]]、[[2011年のJリーグ|2011年のJ1リーグ戦]]および[[第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会]](2012年)、[[2013年のJリーグカップ]]の優勝を表している<ref>{{Cite press release|和書|url=http://blog.reysol.co.jp/news/2013/014754.html|title=『2013年モデルレプリカユニフォーム』を注文されたお客様へ|publisher=柏レイソル|date=2013年1月30日|accessdate=2013年4月28日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130205211440/http://blog.reysol.co.jp/news/2013/014754.html|archivedate=2013-02-05}}</ref>。国際試合用ユニフォームには星は入っていない。2021/22シーズンはエンブレム上ではなく左袖のセーブ・ザ・チルドレンロゴ下、2023シーズンは左肩に入る。 *2012年シーズンは、2011年のJ1リーグ年間優勝クラブであるため、日本サッカー協会のシンボルである[[八咫烏]]の付いたチャンピオンマークが右袖についていた。 *2022シーズンは限定ユニフォームとして30周年記念ユニフォームを4〜5月のリーグ戦ホームゲームにて着用した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.reysol.co.jp/news/topteam/034673.html|title=『柏レイソル クラブ創立30周年記念ユニフォーム』着用試合のお知らせ|publisher=柏レイソル|date=2022-01-15|accessdate=2022-01-21}}</ref>。 <br/> [[ファイル:Reysol_2022_30TH.png|thumb|250px|30周年記念ユニフォーム着用のホームゲーム(2022年 J1第6節)]] <br/> === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === * 1992年 - 1994年:[[アディダス]] * 1995年 - 1996年:リーグ戦は[[ミズノ]]、カップ戦は[[アディダス]](2ndモデルの配色は、シャツ・パンツ・ソックス全て、白) * 1997年 - 2010年:[[アンブロ]] * 2011年 - 現在:[[ヨネックス]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #231815; font-size:smaller; 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="color:#231815; font-weight:bold;" !colspan="5"|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Kashiwa Reysol 1992-94 HOME FP adidas|pattern_b=_Kashiwa Reysol 1992-94 HOME FP adidas|pattern_ra=_Kashiwa Reysol 1992-94 HOME FP adidas|pattern_sh=_Kashiwa Reysol 1992-94 HOME FP adidas|pattern_so=_Kashiwa Reysol 1992-94 HOME FP adidas |leftarm=|body=|rightarm=|shorts= |socks=|title={{Center|1992 - 1994}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_Kashiwa Reysol 1995-96 HOME FP Mizuno|pattern_b=_Kashiwa Reysol 1995-96 HOME FP Mizuno|pattern_ra=_Kashiwa Reysol 1995-96 HOME FP Mizuno|pattern_sh=_Kashiwa Reysol 1995-96 HOME FP Mizuno|pattern_so=_Kashiwa Reysol 1995-96 HOME FP Mizuno 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|rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー |- style="background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面 |- |1992||rowspan="9"|[[日立製作所|HITACHI]]||rowspan="26" colspan="2"|解禁前||rowspan="3"|-||rowspan="22"|解禁前||rowspan="7"|-||rowspan="10"|解禁前||rowspan="28"|解禁前||rowspan="3"|[[アディダス|adidas]] |- |1993 |- |1994 |- |1995||rowspan="7"|[[日立マクセル|maxell]]||rowspan="2"|[[ミズノ|Mizuno]] /<br/>[[アディダス|adidas]] |- |1996 |- |1997||rowspan="14"|[[アンブロ|UMBRO]] |- |1998 |- |1999||rowspan="2"|[[アフラック生命保険|アメリカンファミリー<br/>(1st)<br/>アメリカン<br/>ファミリー<br/>(2nd)]] |- |2000 |- |2001||rowspan="20"|[[日立製作所|HITACHI<br/>{{smaller|Inspire the Next}}]]||[[アフラック生命保険|アメリカン<br/>ファミリー]] |- |2002||rowspan="3"|[[アフラック生命保険|AFLAC]]||rowspan="4"|-||rowspan="7"|[[日立マクセル|maxell]] |- |2003 |- |2004 |- |2005||rowspan="19"|[[アフラック生命保険|Aflac]] |- |2006||[[Wooo]] |- |2007||rowspan="5"|[[日立製作所|uVΛLUE]] |- |2008 |- |2009||rowspan="3"|[[麗澤大学]] |- |2010 |- |2011||rowspan="13"|[[ヨネックス|YONEX]] |- |2012||[[日立製作所|Harmonious Cloud]]||[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|Save tha Children<br/>{{smaller|JAPAN}}]] |- |2013||[[日立製作所|Human Dreams.<br/>Make IT Real.]]||[[日立アーバンインベストメント|日立アーバン<br/>{{smaller|インベストメント}}]] |- |2014||rowspan="2"|[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|{{smaller|KASHIWA}}<br/>Reysol×Save the Children<br/>{{smaller|JAPAN}}]]||rowspan="5"|[[日立アーバンインベストメント|日立アーバン<br/>{{smaller|インベストメント}}]]||- / <br/>[[日立製作所|{{smaller|SOCIAL INNOVATION}}<br/>IT'S OUR<br/>FUTURE]] |- |2015||rowspan="2"|[[日立製作所|{{smaller|SOCIAL INNOVATION}}<br/>IT'S OUR<br/>FUTURE]] |- |2016||[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|{{smaller|KASHIWA}}<br/>Reysol×Save the Children<br/>{{smaller|JAPAN}}]]<br/>(上部)<br/>- / <br/>[https://zeal-c.jp/ Zeal Holdings]<br/>(下部<!---J1第14節 - --->) |- |2017||rowspan="2"|[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|{{smaller|KASHIWA}}<br/>Reysol×Save the Children]]<br/>(上部)<br/>[https://zeal-c.jp/ Zeal Holdings]<br/>(下部)||rowspan="4"|[[ローソン|LAWSON]] |- |2018||rowspan="5"|-||rowspan="6"|[[三協フロンテア]] |- |2019||- / <br/>[[日立ビルシステム]]<!---(J2第14節 - )--->||rowspan="4"|[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|{{smaller|KASHIWA}}<br/>Reysol×Save the Children]] |- |2020||rowspan="4"|[[日立ビルシステム]]||rowspan="3"|- |- |2021||rowspan="3"|[[日立製作所|HITACHI<br/>{{smaller|Inspire the Next}}<br/>LUMADA]]||rowspan="3"|[[ローソンエンタテインメント|{{smaller|LAWSON TICKET}}<br/>ローチケ]] |- |2022 |- |2023||[[日立ソリューションズ]]||[[日立システムズ]]<br/>(上部)<br/>[[セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|{{smaller|KASHIWA}}<br/>Reysol×Save the Children]]<br/>(下部)||[[日立ハイテク]] |} == アカデミー == {{Main|柏レイソルのアカデミー}} U-18、U-15/14/13、U-12/11/10、U-9スペシャルクラス、GKクラス、スクールからなるアカデミー本体のほか、「柏レイソルアライアンスグループ」の名の下に、「柏レイソルアライアンスアカデミー」として[[柏市]]、[[野田市]]、[[流山市]]、[[長生郡]][[白子町]]で、また、「柏レイソルアライアンスクラブ」として柏市、[[松戸市]]、[[我孫子市]]、流山市、[[茨城県]][[取手市]]をホームタウンとする計8クラブと提携してアカデミー活動を行っている。 == チケット == 2014年現在J1・J2の40クラブで唯一{{Refnest|group="注"|J3を含めると[[AC長野パルセイロ]]・[[藤枝MYFC]]もチケットぴあでの販売はしていない。}}Jリーグのオフィシャルチケッティングパートナーである[[チケットぴあ]]でのチケット販売を行っておらず、[[ローソンチケット]]とJリーグの公式販売サイトであるJリーグチケットでのみ販売している(かつてはチケットぴあでの販売を行っていた時期があり、Pコード「592-120」が割り当てられていた)。 == 決算 == 柏レイソルの決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {| class="wikitable" style="border:double #231815; box-shadow: 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="text-align:center; background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収入|営業収入}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||事業費||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|管理費|一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |3,874 ||1,782 ||529 ||250 ||1,313 ||style="background-color:wheat" |3,858 ||3,398 ||N.A. ||460 ||style="background-color:wheat" |16 ||style="background-color:wheat" |1 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |3,244 ||2,502 ||284 ||139 ||319 ||style="background-color:wheat" |3,462 ||3,048 ||2,188 ||414 ||style="background-color:wheat" |-218 ||style="background-color:wheat" |-197 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |3,143 ||1,930 ||411 ||258 ||544 ||style="background-color:wheat" |3,105 ||2,641 ||1,693 ||464 ||style="background-color:wheat" |38 ||style="background-color:wheat" |37 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |2,997 ||1,874 ||460 ||236 ||427 ||style="background-color:wheat" |3,048 ||2,537 ||1,694 ||511 ||style="background-color:wheat" |-51 ||style="background-color:wheat" |-67 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |2,859 ||1,763 ||474 ||209 ||413 ||style="background-color:wheat" |2,930 ||2,412 ||1,580 || 518||style="background-color:wheat" |-71 ||style="background-color:wheat" |-55 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |2,743 ||1,998 ||291 ||117 ||337 ||style="background-color:wheat" |2,698 ||2,209 ||1,485 ||489 ||style="background-color:wheat" |45 ||style="background-color:wheat" |28 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] 金額の単位: 百万円 人件費は事業費に含まれる。 </div> {| class="wikitable" style="border:double #231815; box-shadow: 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="text-align:center; background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |3,543 ||1,878 ||496 ||230 ||74 ||865 ||style="background-color:wheat" |3,391 ||1,919 ||153 ||268 ||36 ||0 ||1,015 ||style="background-color:wheat" |152 ||style="background-color:wheat" |164 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |3,551 ||1,989 ||576 ||234 ||74 ||678 ||style="background-color:wheat" |3,527 ||2,047 ||174 ||225 ||38 ||0 ||1,043 ||style="background-color:wheat" |24 ||style="background-color:wheat" |10 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |3,412 ||1,947 ||646 ||204 ||71 ||544 ||style="background-color:wheat" |3,380 ||2,118 ||198 ||266 ||40 ||0 ||758 ||style="background-color:wheat" |32 ||style="background-color:wheat" |3 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |3,165 ||1,943 ||466 ||201 ||66 ||489 ||style="background-color:wheat" |3,195 ||2,059 ||138 ||209 ||39 ||0 ||750 ||style="background-color:wheat" |-30 ||style="background-color:wheat" |0 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |3,019 ||1,928 ||518 ||186 ||34 ||353 ||style="background-color:wheat" |3,083 ||1,888 ||167 ||232 ||40 ||0 ||756 ||style="background-color:wheat" |-64 ||style="background-color:wheat" |-38 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] 金額の単位: 百万円 </div> {| class="wikitable" style="border:double #231815; box-shadow: 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="text-align:center; background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |年度||{{abbr|収益|営業収益}}||広告料||入場料||{{abbr|配分|Jリーグ配分金}}||{{abbr|育成|アカデミー}}||物販||その他||{{abbr|費用|営業費用}}||{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}}||{{abbr|試合|試合関連経費}}||{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}}||{{abbr|育成|アカデミー運営経費}}||{{abbr|女子|女子チーム運営経費}}||物販||{{abbr|販売|販売費および一般管理費}}||{{abbr|利益|営業利益}}||{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |2,874 ||1,929 ||435 ||185 ||30 ||61 ||234 ||style="background-color:wheat" |2,830 ||1,753 ||132 ||180 ||39 ||0 ||48 ||678 ||style="background-color:wheat" |44 ||style="background-color:wheat" |57 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa, #00aa00, #ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=3874, 3244, 3143, 2997, 2859, 2743, 3543, 3551, 3412, 3165, 3019, 2874 |y2=3858, 3462, 3105, 3048, 2930, 2698, 3391, 3527, 3380, 3195, 3083, 2830 |y3= , 2188, 1693, 1694, 1580, 1485, 1919, 2047, 2118, 2059, 1888, 1753 |yAxisMin=0 }} === 資産 === {| class="wikitable" style="border:double #231815; box-shadow: 4px 4px 4px #FFF100;" |- style="text-align:center; background-color:#FFF100; color:#231815; font-weight:bold;" |年度||総資産||総負債||純資産||資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||1,336 ||1,272 ||63 ||22 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||756 ||890 ||-134 ||22 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||758 ||855 ||-96 ||22 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||553 ||717 ||-163 ||22 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||466 ||685 ||-219 ||22 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||1,819 ||999 ||819 ||100 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||2,094 ||1,110 ||984 ||100 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||2,456 ||1,462 ||994 ||100 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||2,238 ||1,241 ||997 ||100 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||2,038 ||1,041 ||997 ||100 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||2,215 ||1,256 ||959 ||100 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||2,225 ||1,209 ||1,016 ||100 |} <div style="font-size:small"> 出典: 各年度のJクラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位: 百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=1336, 756, 758, 553, 466, 1819, 2094, 2456, 2238, 2038, 2215, 2225 |y2=63, -134, -96, -163, -219, 819, 984, 994, 997, 997, 959, 1016 |showSymbols=yes }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=|editor=|year=2004|title=Decade柏レイソル10年史年|publisher=[[文化工房]]、[[星雲社]]|isbn=4434041193}} == 関連項目 == * [[柏レイソルの選手一覧]] * [[ちばぎんカップ]] * [[CAN DO レイソル]] * [[Rising Reysol]] * [[千葉ダービー]] * [[:Category:柏レイソル]] == 外部リンク == {{Commonscat|Kashiwa Reysol}} * {{Official website|mobile=http://mb.reysol.co.jp/}} * {{Facebook|ReysolOfficial|柏レイソル/Hitachi Kashiwa Reysol}} * [https://mobile.twitter.com/REYSOL_Official?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor 柏レイソル](@REYSOL_Official) - [https://mobile.twitter.com/?lang=ja Twitter] * [https://www.instagram.com/kashiwareysol_official/ 柏レイソル](@kashiwareysol-official) - [https://www.instagram.com/ Instagram] * [https://www.tiktok.com/@kashiwareysol_official 柏レイソル](@kashiwareysol_official) - [https://www.tiktok.com/ja-JP/ TikTok] * {{Twitter|Reykun_kashiwaR|レイくん@柏レイソル}} * {{Facebook|reysol.academy|柏レイソルアカデミー}} * {{Twitter|kswacademy|柏レイソルアカデミー}} {{Navboxes |title=柏レイソル 関連テンプレート |titlestyle=background-color:#FFF100; color:#231815; |list1= {{柏レイソルのメンバー}} {{柏レイソル及びその前身チーム歴代監督}} {{柏レイソル歴代主将}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Navboxes |title=獲得タイトル |list1= {{Jリーグ優勝チーム}} {{J2優勝チーム}} {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} }} {{日立グループ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=日立柏レイソル |1-1=柏市の企業 |1-2=1992年設立の企業 |1-3=柏レイソル |}} {{デフォルトソート:かしわれいそる}} [[Category:柏レイソル|*]] [[Category:1940年設立のスポーツチーム]] [[Category:Jリーグクラブ]] [[Category:過去のJリーグ百年構想クラブ]]
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3月27日
3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。
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3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。
{{カレンダー 3月}} '''3月27日'''(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から86日目([[閏年]]では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。 == できごと == [[Image:Attempt_of_blocking_Port-Arthur.jpg|thumb|[[日露戦争]]、第2次[[旅順港閉塞作戦]](1904)|263x263ピクセル]] [[Image:Rostislav1895-1920Bosphorus.jpg|thumb|180x180px|[[黒海艦隊]]による[[ボスポラス砲撃 (1915年3月)|ボスポラス砲撃]](1915)はじまる]] [[Image:Suhartoappointedpresident.jpg|thumb|180x180px|[[スハルト]]が[[インドネシア]]大統領に就任(1968)]] [[Image:Westgaarde.jpg|thumb|180x180px|[[テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故]](1977)。画像はモニュメント]] * [[1306年]] - [[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]]が[[スコットランド王国|スコットランド]]王への即位を宣言。 * [[1581年]]([[天正]]9年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[イエズス会]]巡察使[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]が黒人[[弥助]]同道で[[織田信長]]に謁見する。 * [[1625年]] - [[イングランド王国|イングランド]]・スコットランド・[[アイルランド王国|アイルランド]]王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が死去。[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が後継の王に即位。 * [[1782年]] - ロッキンガム侯[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]がイギリスの第13代首相に就任。 * [[1814年]] - [[米英戦争]]・[[クリーク戦争]]: [[ホースシュー・ベンドの戦い]] * [[1846年]] - [[米墨戦争]]: [[ザカリー・テイラー]]将軍指揮下の部隊が[[テキサス砦包囲戦|テキサス砦]]の建造を開始。 * [[1854年]] - [[クリミア戦争]]: [[イギリス]]が[[ロシア帝国]]に宣戦布告。 * [[1879年]] - [[沖縄県]]設置<ref>{{Cite web|和書|title=1879年3月27日 「沖縄県」の設置 – 沖縄県公文書館 |url=https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4631 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=沖縄県公文書館}}</ref>。 * [[1904年]] - [[日露戦争]]: [[第二回旅順口閉塞作戦]]。[[広瀬武夫]]海軍中佐が戦死。 * [[1912年]] - [[東京市]]が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に贈呈した[[サクラ]]の苗木が[[ワシントンD.C.]]の[[ポトマック川]]のほとりに植樹される<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20120328k0000e030207000c.html |accessdate=17 Jul 2023 |title=桜寄贈100年:ミシェル米大統領夫人ら植樹 ワシントン |publisher=[[毎日新聞]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120328174451/mainichi.jp/select/world/europe/news/20120328k0000e030207000c.html |archivedate=28 Mar 2012}}</ref>。 * [[1915年]](ユリウス暦[[3月14日]]) - [[第一次世界大戦]]: [[ロシア]]の[[黒海艦隊]]による[[ボスポラス砲撃 (1915年3月)|ボスポラス砲撃]]作戦が始まる。 * [[1926年]] - 神戸有馬電気鉄道([[神戸電鉄]]の祖)設立。 * 1926年 - [[弘南鉄道]]設立。 * [[1927年]] - 福島県[[内郷町]]の[[常磐炭田|内郷炭坑]]町田立坑で坑内火災が発生。救助隊の[[二次災害]]による被害も含め死者131人<ref>磐城炭坑で坑内火災、百五人が絶望『東京朝日新聞』昭和2年2月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p626 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref><ref>百三十一人の遺体発見『河北新報』昭和2年3月31日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p627)</ref>。 * [[1932年]] - [[1929年]](昭和4年)に発売された『[[東京行進曲]]』の大ヒットにより「銀座の柳」復活の機運が高まり、[[東京朝日新聞社]]などがおよそ柳300本を寄贈して植栽された。これを記念して東京朝日新聞社の講堂で、『銀座柳復活祭』が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://smtrc.jp/town-archives/city/ginza/p06.html |title=東京都 銀座・京橋「銀座の柳」 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[三井住友トラスト不動産]]}}</ref>。 * [[1933年]] - 日本が[[国際連盟]]に対し正式に脱退を通告<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s08_1933_01.html |title=昭和8年(1933)3月|国際連盟からの脱退を通告する |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[国立公文書館]]}}</ref>。 * [[1938年]] - [[日中戦争]]: [[台児荘の戦い]]が始まる、 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ユーゴスラビア]]でクーデター。反独軍事政権が樹立し、2日前に加盟した[[日独伊三国同盟]]から離脱。 * 1941年 - 第二次世界大戦: [[マタパン岬沖海戦]]が始まる。 * [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[アッツ島沖海戦]]。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: アメリカ軍が日本周辺の[[機雷戦|機雷封鎖作戦]]「[[飢餓作戦]]」を開始。 * [[1963年]] - [[ビーチング・アックス]]: {{仮リンク|リチャード・ビーチング|en|Richard Beeching}}が報告書「[[イギリス国鉄]]の再建」を政府に提出。 * [[1964年]] - [[アラスカ地震]]。 * [[1968年]] - [[インドネシア]]で大統領代行[[スハルト]]が第2代大統領に就任。 * [[1968年]] - 宇宙飛行士[[ユーリイ・ガガーリン]]が、ジェット戦闘機の飛行訓練中に墜落死。 * [[1969年]] - アメリカの火星探査機「[[マリナー6号と7号|マリナー7号]]」打ち上げ。 * 1969年 - フジテレビのドラマ『[[男はつらいよ#テレビドラマ|男はつらいよ]]』が終了。 * [[1976年]] - [[ワシントンメトロ]]の最初の区間が開業。 * [[1977年]] - [[テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故]]。583名が死亡。 * [[1985年]] - [[サラリーマン税金訴訟]]で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が「必要経費実額控除を認めない現行税制は合憲」と初の判断。 * [[1987年]] - [[三重県]]の[[日本国有鉄道|国鉄]][[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]が第三セクター・[[伊勢鉄道]]に転換。 * 1987年 - 国鉄[[佐賀線]]・[[志布志線]]がこの日限りで廃止。 * [[1992年]] - [[私鉄総連]]が春闘一斉ストライキを実施。 * [[1993年]] - [[江沢民]]が[[中華人民共和国]][[中華人民共和国主席|国家主席]]に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57244940W0A320C2EAC000/ |title=3月27日 中国の国家主席に江沢民氏が就任 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=26 Mar 2020}}</ref>。 * 1993年 - [[上信越自動車道]][[藤岡インターチェンジ|藤岡IC]] - [[佐久インターチェンジ|佐久IC]]間開通。 * [[1997年]] - [[NTTレゾナント|NTT]]がポータルサイト「[[goo]]」を開設。 * 1997年 - 法学者260人「選択的[[夫婦別姓]]制度の導入と[[婚外子]]相続分の平等化の実現を求めるアピール」。 * [[1999年]] - [[日産自動車]]が[[フランス]]の[[ルノー]]と資本提携に合意<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28569690W8A320C1EAC000/ |title=3月27日 日産と仏ルノー、資本提携で合意 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=26 Mar 2018}}</ref>。 * [[2001年]] - [[シーエス日本]]設立。 * [[2003年]] - [[名古屋市営地下鉄上飯田線]]開通。[[名鉄小牧線]]と[[相互直通運転]]開始。 * [[2005年]] - プロ野球・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が[[千葉ロッテマリーンズ]]に0対26の大敗([[千葉ロッテマリーンズ 26-0 東北楽天ゴールデンイーグルス|当該試合記事]]参照)。 * [[2006年]] - [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]の[[有明駅 (東京都)|有明駅]] - [[豊洲駅]]間が開業。 * 2006年 - [[近鉄けいはんな線]][[生駒駅]] - [[学研奈良登美ヶ丘駅]]開業。 * [[2015年]] - [[姫路城]]の平成の修理が終わり再公開された<ref>{{Cite web|和書|date=28 Mar 2015 |url=https://www.sankei.com/article/20150328-UJDNVVKV2BJB5PTULVVTV72V2Y/ |title=大天守からの絶景に感嘆の声 商店街なども祝賀ムードに 姫路城再オープン |publisher=[[産業経済新聞]] |accessdate=17 Jul 2023}}</ref>。 * [[2017年]] - [[栃木県]]の[[那須]]で登山講習中だった県立大田原高校山岳部の高校生7名と顧問の教諭1名が、雪崩に巻き込まれて死亡した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASR3W40WKR3SUTIL01X.html |title=亡き兄へ 同じ17歳になった妹からの手紙 那須・雪崩事故6年 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=27 Mar 2023}}</ref>。 * [[2018年]] - [[森友学園問題]]: [[佐川宣寿]]の証人喚問が行われた<ref>{{Cite web|和書|date=28 Mar 2018 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28643080X20C18A3MM8000/ |title=改ざん経緯、証言拒む 佐川氏「官邸の指示ない」 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=17 Jul 2023}}</ref>。 * [[2019年]] - [[豊臣秀吉]]が[[加藤清正]]へ宛てて書いた朝鮮出兵を命じる朱印状が見つかる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM3V4RDDM3VOBJB003.html |title=秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=28 Mar 2019}}</ref>。 * [[2021年]] - 同年2月にクーデターで実権を握った国軍への抗議が続く[[ミャンマー]]で、デモに参加した市民十数人が治安部隊に殺害された。死者数は、少なくとも91人以上と見られ、クーデター開始以降で最大<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/56553385 |title=ミャンマー国軍が100人以上を殺害と 国軍記念日のデモで |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPPAN |date=28 Mar 2021}}</ref>。 * [[2023年]] - [[理化学研究所]]らが製作した国産量子コンピューターの初号機が、[[埼玉県]][[和光市]]で稼働する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASR3W5TWRR3WULBH001.html |title=量子コンピューター国産機が始動 かつて最先端、遅れた今もチャンス |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=27 Mar 2023}}</ref>。 * 2023年 - [[七隈線]]の[[天神南駅]] - [[博多駅]]間が延伸開業。 == 誕生日 == === 人物 === [[Image:Louis_Charles_of_France5.jpg|thumb|[[ルイ17世]](1785-1795)誕生。6歳時に[[フランス革命]]を迎え幽閉される|221x221ピクセル]] [[Image:Wilhelm_Roentgen.jpg|thumb|[[X線]]の発見者、[[ヴィルヘルム・レントゲン]](1845-1923)誕生|223x223ピクセル]] [[Image:Ganjir%C5%8D_Nakamura_I_as_Sasaki_Takatsuna.jpg|thumb|[[上方歌舞伎]]役者、[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]](1860-1935)|254x254ピクセル]] [[Image:Barcelona_mies_v_d_rohe_pavillon_weltausstellung1999_02.jpg|thumb|180x180px|建築家[[ミース・ファン・デル・ローエ]](1886-1969)。画像はバルセロナ・パビリオン(1929)の復元建築]] [[Image:Satō_Eisaku.jpg|thumb|第61-63代内閣総理大臣、[[佐藤栄作]](1901-1975)。[[非核三原則]]を提唱|254x254ピクセル]] [[Image:Mstislav_Rostropovich_1978.jpg|thumb|[[チェリスト]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]](1927-2007)|267x267ピクセル]] [[Image:Quentin Tarantino.jpg|thumb|[[映画監督]][[クエンティン・タランティーノ]](1963-)|185x185ピクセル]] * [[972年]] - [[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]]、[[フランス王国|フランス国王]](+ [[1031年]]) * [[1675年]] ([[延宝]]3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[大久保常春]]、初代[[鳥山藩|鳥山藩主]] (+ [[1728年]]) * [[1676年]] - [[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]、[[ラーコーツィの独立戦争|ハンガリーの反ハプスブルク独立戦争]]指導者(+ [[1735年]]) * [[1709年]] ([[宝永]]6年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[大関増興]]、第7代[[黒羽藩|黒羽藩主]] (+ [[1770年]]) * [[1730年]] ([[享保]]15年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[丹羽高庸]]、第9代[[二本松藩|二本松藩主]] (*[[1765年]]) * [[1753年]] - [[アンドリュー・ベル]]、[[宣教師]]、[[教育学者]](+ [[1832年]]) * [[1785年]] - [[ルイ17世]]、(名目上)フランス国王(+ [[1795年]]) * [[1797年]] - [[アルフレッド・ド・ヴィニー]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[詩人]](+ [[1863年]]) * [[1809年]] - [[ジョルジュ・オスマン]]、[[フランス]]の[[政治家]](+ [[1891年]]) * [[1810年]] ([[文化 (元号)|文化]]7年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[松平親良]]、第9代[[杵築藩|杵築藩主]] (+ [[1891年]]) * [[1813年]] (文化7年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[松平信豪]]、第6代[[丹波亀山藩|亀山藩主]] (+ [[1865年]]) * [[1817年]] - [[カール・ネーゲリ]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1891年]]) * [[1824年]]([[文政]]7年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[久邇宮朝彦親王]]、[[皇族]](+ [[1891年]]) * 1824年 - [[ヴィルヘルム・ヒットルフ]]、[[物理学者]]、[[化学者]](+ [[1914年]]) * [[1845年]] - [[ヴィルヘルム・レントゲン]]、物理学者(+ [[1923年]]) * [[1847年]] - [[オットー・ヴァラッハ]]、化学者(+ [[1931年]]) * [[1850年]]([[嘉永]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[清浦奎吾]]、政治家、第23代[[内閣総理大臣]](+ [[1942年]]) * [[1851年]] - [[ヴァンサン・ダンディ]]、[[作曲家]](+ [[1931年]]) * [[1853年]]([[嘉永]]6年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[下山順一郎]]、[[薬学|薬学者]](+ [[1912年]]) * [[1857年]] - [[カール・ピアソン]]、[[統計学|数理統計学者]](+ [[1936年]]) * [[1860年]]([[安政]]7年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[中村鴈治郎 (初代)]]、[[歌舞伎|歌舞伎役者]](+ [[1935年]]) * [[1865年]] - [[エフゲニー・ボトキン]]、ニコライ2世一家の[[主治医]](+ [[1918年]]) * [[1871年]] - [[ハインリヒ・マン]]、[[小説家]](+ [[1950年]]) * [[1875年]] - [[アルベール・マルケ]]、[[画家]](+ [[1947年]]) * [[1878年]] - [[ミラー・ハギンス]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1929年]]) * [[1879年]] - [[エドワード・スタイケン]]、[[写真家]](+ [[1973年]]) * [[1886年]]([[ユリウス暦]]3月15日) - [[セルゲイ・キーロフ]]、政治家(+ [[1934年]]) * 1886年 - [[ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[建築家]](+ [[1969年]]) * [[1891年]] - [[戸塚九一郎]]、政治家(+ [[1973年]]) * [[1892年]] - [[ファーディ・グローフェ]]、作曲家(+ [[1972年]]) * [[1893年]] - [[カール・マンハイム]]、[[社会学者]](+ [[1947年]]) * [[1896年]] - [[岡部金治郎]]、[[工学者]](+ [[1984年]]) * [[1897年]] - [[坂田英一]]、政治家(+ [[1969年]]) * 1897年 - [[エファ・マンリー]]、[[ニグロリーグ]]の球団経営者(+ [[1981年]]) * [[1899年]] - [[グロリア・スワンソン]]、[[俳優|女優]](+ [[1983年]]) * [[1901年]] - [[佐藤栄作]]、政治家、第61-63代[[内閣総理大臣]](+ [[1975年]]) * 1901年 - [[カール・バークス]]、[[イラストレーター]](+ [[2000年]]) * [[1903年]] - [[小林勇]]、[[出版]]人、[[随筆家]](+ [[1981年]]) * [[1905年]] - [[三谷八郎]]、元野球選手(没年不詳) * [[1906年]] - [[松山英夫]]、映画プロデューサー、実業家(+[[1986年]]) * [[1909年]] - [[小沢栄太郎]]、[[俳優]]、[[演出家]](+ [[1988年]]) * [[1910年]] - [[森茂喜]]、政治家(+ [[1989年]]) * [[1912年]] - [[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[作家]]、[[英文学者]](+ [[1977年]]) * 1912年 - [[ジェームズ・キャラハン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[2005年]]) * [[1913年]] - [[植田正治]]、写真家(+ [[2000年]]) * 1913年 - [[高橋義孝]]、[[ドイツ文学者]]、[[文芸評論家]](+ [[1995年]]) * [[1915年]] - [[ロバート・ロックウッド・ジュニア]]、[[ブルース]]・[[ミュージシャン]](+ [[2006年]]) * [[1916年]] - [[登張正実]]、[[ドイツ文学者]](+ [[2006年]]) * 1916年 - [[千田モト]]、舞踏家(+[[1997年]]) * [[1917年]] - [[大沢清輝]]、[[天文学者]](+ [[2005年]]) * 1917年 - [[サイラス・ヴァンス]]、政治家(+ [[2002年]]) * [[1923年]] - [[遠藤周作]]、[[小説家]](+ [[1996年]]) * 1923年 - [[金子信雄]]、俳優(+ [[1995年]]) * [[1924年]] - [[高峰秀子]]、女優(+ [[2010年]]) * 1924年 - [[伊達三郎]]、俳優(+ [[1991年]]) * 1924年 - [[サラ・ヴォーン]]、[[ジャズ]]歌手(+ [[1990年]]) * [[1925年]] - [[夢路いとし]]、[[漫才師]](+ [[2003年]]) * [[1926年]] - [[梶山静六]]、[[政治家]](+ [[2000年]]) * [[1927年]] - [[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]、[[チェリスト]]、[[指揮者]](+ [[2007年]]) * 1927年 - [[マルティン・ヴァルザー]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[2023年]]) * [[1928年]] - [[三浦大助]]、政治家 * 1928年 - [[田辺聖子]]、[[小説家]](+ [[2019年]]) * 1928年 - [[槐柳二]]、[[声優]](+ [[2017年]]) * [[1930年]] - [[黛執]]、[[俳人]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=黛執氏が死去 俳人 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65332910S0A021C2CN8000/ |date=22 Oct 2020 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S14668276.html|title=黛執さん死去|publisher=[[朝日新聞デジタル]]|date=23 Oct 2020|accessdate=17 Jul 2023}}</ref>) * 1930年 - [[岡田春馬]]、英米文学者(+[[2007年]]?) * [[1931年]] - [[今西正男]]、声優(+ [[2000年]]) * 1931年 - [[デビッド・ジャンセン]]、俳優(+ [[1980年]]) * 1931年 - [[久坂葉子]]、小説家(+ [[1952年]]) * 1931年 - [[松平頼暁]]、[[現代音楽]]作曲家、[[生物物理学|生物物理学者]](+ [[2023年]]) * 1931年 - [[三好京三]]、小説家(+ [[2007年]]) * [[1932年]] - [[浮田逸郎]]、元[[プロ野球選手]](+ 2017年) * [[1934年]] - [[島村宜伸]]、政治家 * [[1937年]] - [[赤瀬川原平]]、小説家(+ [[2014年]]) * 1937年 - [[林正夫]]、元[[騎手]]、[[調教師]] * [[1938年]] - [[若林正人]]、[[ニュースキャスター]] * [[1941年]] - [[小林克也]]、[[ディスクジョッキー|DJ]] * 1941年 - [[榊原英資]]、[[エコノミスト]]、元[[財務官 (日本)|財務官]] * [[1942年]] - [[マイケル・ヨーク]]、俳優 * 1942年 - [[ジョン・サルストン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[2018年]]) * [[1944年]] - [[新橋耐子]]、女優 * 1944年 - [[平山輝武]]、元バスケットボール選手 * [[1945年]] - [[宮本信子]]、女優、歌手 * [[1946年]] - [[上村香子]]、女優 * [[1947年]] - [[左時枝]]、女優 * 1947年 - [[松田千枝]]、マラソンランナー * 1947年 - [[阿部成宏]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[大隅正人]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[石内都]]、写真家 * [[1948年]] - [[舞小雪]]、女優、[[宝塚歌劇団55期生]] * [[1949年]] - [[小林節]]、[[憲法学者]]、[[弁護士]] * [[1950年]] - [[工藤美代子]]、[[ノンフィクション作家]] * [[1950年]] - [[石戸教嗣]]、教育社会学者、 [[埼玉大学]][[名誉教授]] * 1950年 - [[トニー・バンクス (ミュージシャン)|トニー・バンクス]]、[[ミュージシャン]] * 1950年 - [[ビクター・ハリス]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[大島宇三郎]]、俳優 * 1951年 - [[窪田等]]、俳優、声優 * [[1952年]] - [[マリア・シュナイダー (女優)|マリア・シュナイダー]]、女優(+ [[2011年]]) * [[1953年]] - [[高中正義]]、ミュージシャン * 1953年 - [[アンネマリー・モザー=プレル]]、[[スキー]]選手 * [[1954年]] - [[パヴェル・シマヌスキ]]、作曲家 * 1954年 - [[香川正人]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]]) * [[1955年]] - [[山口良一]]、俳優、[[タレント]] * 1955年 - [[中内潤]]、実業家 * [[1956年]] - [[工藤啓子]]、女優 * 1956年 - [[デビッド・ホステトラー]]、元プロ野球選手 * [[1959年]] - [[今川勉]]、[[ドラマー]]([[ECHOES]])(+ [[2020年]]) * 1959年 - [[菅原淳一]]、声優 * 1959年 - [[河惣益巳]]、[[漫画家]] * [[1960年]] - [[上川誠二]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[栗田よう子]]、女優 * [[1961年]] - [[津久井教生]]、声優 * 1961年 - [[松本孝弘]]、[[ギタリスト]]([[B'z]]) * 1961年 - [[トニー・ロミンゲル]]、[[自転車競技]]選手 * [[1962年]] - [[ムトウユージ]]、[[アニメ監督]] * 1962年 - [[美加理]]、女優 * [[1963年]] - [[クエンティン・タランティーノ]]、[[映画監督]] * 1963年 - [[中村喜伸]]、[[テレビプロデューサー]] * [[1964年]] - [[クラーク・ダッチェラー]]、ミュージシャン([[ジョニー・ヘイツ・ジャズ]]) * [[1965年]] - [[平沼定晴]]、元プロ野球選手 * [[1966年]] - [[梅澤春人]]、漫画家 * 1966年 - [[渡邉洋一]]、官僚 * [[1967年]] - [[小橋建太]]、元[[プロレスラー]] * [[1968年]] - [[ウエノコウジ]]、ミュージシャン(元[[THEE MICHELLE GUN ELEPHANT]]) * 1968年 - [[馬文革]]、[[卓球]]選手 * [[1969年]] - [[中嶋聡]]、元プロ野球選手、監督 * 1969年 - [[マライア・キャリー]]、歌手 * [[1970年]] - [[廣末登]]、社会学者、作家 * 1970年 - [[エリザベス・ミッチェル]]、女優 * [[1971年]] - [[デビッド・クルサード]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * 1971年 - [[川島郭志]]、プロボクサー * 1971年 - [[茜灯里]]、作家、ジャーナリスト * [[1972年]] - [[ジミー・フロイド・ハッセルバインク]]、元[[サッカー選手]] * 1972年 - [[森長正樹]]、[[陸上競技選手]] * 1972年 - [[池内万作]]、俳優 * [[1973年]] - [[青木さやか]]、[[お笑いタレント]] * 1973年 - [[目黒未奈]]、女優、声優 * 1973年 - [[伊藤和広]]、オペラ歌手 * [[1974年]] - [[ガイスカ・メンディエタ]]、元サッカー選手 * 1974年 - [[宗像徹]]、調教助手、元騎手 * [[1975年]] - [[高橋智隆]]、ロボットクリエーター * 1975年 - [[丸山智己]]、俳優、[[ファッションモデル]] * 1975年 - [[藤原克昭]]、[[オートバイ|モーターサイクル]]・[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]ライダー * 1975年 - [[ファーギー (歌手)|ファーギー]]、ミュージシャン * [[1976年]] - [[村上真哉]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[金澤あかね]]、女優、タレント * 1977年 - [[石井亮次]]、アナウンサー * 1977年 - [[下妻由幸]]、声優 * [[1978年]] - [[塙宣之]]、お笑い芸人([[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]) * 1978年 - [[よしたに]]、漫画家 * 1978年 - [[ディー・ブラウン (野球)|ディー・ブラウン]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[篠塚ひろむ]]、漫画家 * 1979年 - [[樫本大進]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1979年 - [[マイケル・カダイアー]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[イ・ジフン]]、歌手、俳優 * [[1980年]] - [[阿部薫 (俳優)|阿部薫]]、俳優 * 1980年 - [[前田新悟]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[細野由華]]、元タレント * 1981年 - [[カカウ]]、元サッカー選手 * 1981年 - [[林俊傑]]、歌手 * 1981年 - [[高橋なんぐ]]、ローカルタレント * [[1982年]] - [[砂央里]]、ファッションモデル * 1982年 - [[知花くらら]]、ファッションモデル * 1982年 - [[平澤光秀]]、元プロレスラー * [[1983年]] - [[ジョシュ・ヒル]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[涼平 (ギタリスト)|涼平]]、ギタリスト(元[[メガマソ]]、元[[彩冷える|アヤビエ]]) * 1983年 - [[佐藤大和]]、弁護士 * [[1985年]] - [[市原朋彦]]、俳優 * [[1986年]] - [[マヌエル・ノイアー]]、サッカー選手 * [[1987年]] - [[バスター・ポージー]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[内田篤人]]、元サッカー選手 * [[1989年]] - [[菜月理子]]、グラビアアイドル * 1989年 - [[マット・ハービー]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[久野静香]]、アナウンサー * 1989年 - [[福山博之]]、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[竹内恵美子]]、声優 * 1990年 - [[ニコラ・ヌクル]]、サッカー選手 * 1990年 - [[ホセ・ルイス・サンマルティン・マト]]、サッカー選手 * 1990年 - [[キンブラ]]、[[シンガーソングライター]] * [[1991年]] - [[古屋美紀]]、バレーボール選手 * 1991年 - [[俵小百合]]、元タレント * [[1992年]] - [[佐藤瑠香]]、柔道家 * 1992年 - [[萩原麻子]]、元野球選手 * 1992年 - [[運天ジョン・クレイトン]]、元プロ野球選手 * 1992年 - [[入澤優]]、タレント * 1992年 - [[悠木碧]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/悠木碧/ |title=悠木碧 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |accessdate=17 Jul 2023 |work=goo人名事典}}</ref>、声優 * 1992年 - [[大坪康亮]]、声優 * [[1994年]] - [[板山祐太郎]]、プロ野球選手 * 1994年 - [[永塚梓]]、ハンドボール選手 * [[1995年]] - [[相原美咲]]、グラビアアイドル * [[1997年]] - [[リサ (BLACKPINK)|リサ]]、[[歌手]]、[[ダンサー]]([[BLACKPINK]]) * 1997年 - [[高橋胡桃]]、タレント、[[アイドル]](元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]27号) * [[1998年]] - [[関紫優]]、元モデル * [[2000年]] - 小川麗奈、アイドル(元[[こぶしファクトリー]]) * 2000年 - [[ハリー・ベイリー]]、女優、歌手 * [[2004年]] - [[達孝太]]、プロ野球選手 * 2004年 - 太田有紀、アイドル([[AKB48]]) * 2004年 - [[園田乃彩]]、モデル * [[2005年]] - [[市川染五郎 (8代目)|市川染五郎]](8代目)、[[歌舞伎役者]] * [[2008年]] - [[横溝菜帆]]、女優 * 生年不明 - [[桃山千歳]]、女優、[[宝塚歌劇団33期生]] * 生年不明 - [[征海未亜]]、漫画家 * 生年不明 - [[桜乃みか]]、漫画家 * 生年不明 - ユメノユア、アイドル([[GANG PARADE]]) * 生年不明 - [[Chima]]、シンガーソングライター * 生年不明 - [[原宿ぽむ]]、プロレスラー === 人物以外(動物など) === * [[1968年]] - [[ヒカルイマイ]]、[[競走馬]](+ [[1992年]]) * [[1971年]] - [[キタノカチドキ]]、競走馬(+ [[1983年]]) * [[1985年]] - [[オグリキャップ]]、競走馬、種牡馬(+ [[2010年]]) * [[1995年]] - [[エアデジャヴー]]、競走馬(+ [[2015年]]) * [[1996年]] - [[ノボトゥルー]]、競走馬(+ [[2021年]]) * [[1999年]] - [[ヤマノブリザード]]、競走馬(+ [[2007年]]) * [[2000年]] - [[ゼンノロブロイ]]、競走馬、種牡馬(+ [[2022年]]) * [[2007年]] - [[エイシンフラッシュ]]、競走馬 == 忌日 == [[Image:Daisenji.jpg|thumb|180x180px|戦国武将、[[武田信虎]](1494-1574)没。画像は甲府の墓所]] [[Image:James_I_of_England_by_Daniel_Mytens.jpg|thumb|イングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]](1567-1603)没|260x260ピクセル]] [[Image:Hirose_Takeo.jpg|thumb|海軍中佐[[広瀬武夫]](1868-1904)戦死|235x235ピクセル]] [[Image:Dewar_James_flask.jpg|thumb|[[低温物理学]]者[[ジェイムズ・デュワー]](1842-1923)没。[[魔法瓶]]の発明者だった。|259x259ピクセル]] * [[973年]] - [[ヘルマン・ビルング]]、[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]] * [[1378年]] - [[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]、第201代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1336年]]?) * [[1462年]] - [[ヴァシーリー2世]]、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]](* [[1415年]]) * [[1482年]] - [[マリー・ド・ブルゴーニュ]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ女公]]・[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世]]の妻(* [[1457年]]) * [[1507年]]([[永正]]4年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[武田信縄]]、[[甲斐国]]の[[戦国大名]](* [[1471年]]) * [[1574年]]([[天正]]2年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[武田信虎]]、甲斐国の戦国大名(* [[1494年]]) * [[1625年]] - [[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[イングランド王国|イングランド]]国王(* [[1566年]]) * [[1630年]]([[寛永]]7年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[永田徳本]]、[[室町時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[医師]](* [[1513年]]) * [[1679年]] - [[アブラハム・ミグノン]]、[[画家]](* [[1640年]]) * [[1741年]]([[寛保]]元年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[本因坊秀伯]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1716年]]) * [[1757年]] - [[ヨハン・シュターミッツ]]、[[作曲家]](* [[1717年]]) * [[1770年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]、画家(* [[1696年]]) * [[1776年]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[池田継政]]、第3代[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1702年]]) * [[1836年]] - [[ジェームス・ファニン]]、[[テキサス革命]]の運動家(* [[1805年]]) * [[1850年]] - [[ヴィルヘルム・ベーア]]、[[天文学者]](* [[1797年]]) * [[1904年]] - [[杉野孫七]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[准士官|兵曹長]](* [[1867年]]) * 1904年 - [[広瀬武夫]]、日本海軍の[[中佐]](* [[1868年]]) * [[1906年]] - [[トード・ラムゼイ]]、元プロ野球選手(* [[1864年]]) * [[1910年]] - [[アレキザンダー・アガシー]]、[[エンジニア]]、[[海洋学|海洋学者]](* [[1835年]]) * [[1917年]] - [[モージズ・イジーキエル]]、[[彫刻家]](* [[1844年]]) * [[1923年]] - [[ジェイムズ・デュワー]]、[[化学者]]、[[物理学者]](* [[1842年]]) * [[1926年]] - [[島木赤彦]]、[[歌人]](* [[1876年]]) * [[1940年]] - [[ウォルター・ウェストン]]、[[登山家]]、[[キリスト教]][[宣教師]](* [[1861年]]) * [[1952年]] - [[豊田喜一郎]]、実業家、[[トヨタ自動車]]の創業者(* [[1894年]]) * [[1966年]] - [[黒田善太郎]]、実業家、[[コクヨ]]の創業者(* [[1879年]]) * [[1967年]] - [[ヤロスラフ・ヘイロフスキー]]、化学者(* [[1890年]]) * [[1968年]] - [[ユーリ・ガガーリン]]、[[宇宙飛行士]](* [[1934年]]) * [[1972年]] - [[マウリッツ・エッシャー]]、[[版画家]](* [[1898年]]) * [[1974年]] - [[林柳波]]、[[詩人]](* [[1892年]]) * 1974年 - [[王明]]、[[政治家]](* [[1904年]]) * [[1975年]] - [[アーサー・ブリス]]、作曲家(* [[1891年]]) * [[1978年]] - [[片野重脩]]、[[政治家]]、[[実業家]](* [[1891年]]) * 1978年 - [[鈴木武樹]]、[[ドイツ文学者]]、[[評論家]](* [[1934年]]) * [[1981年]] - [[茅盾]]、[[作家]]、社会活動家(* [[1896年]]) * [[1986年]] - [[池田正之輔]]、[[政治家]](* [[1898年]]) * [[1994年]] - [[川合幸三]]、[[プロ野球選手]](* [[1927年]]) * [[1998年]] - [[フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ]]、[[実業家]]、[[自動車]]技術者、[[デザイナー]](* [[1909年]]) * [[1999年]] - [[沖田浩之]]、[[俳優]]、[[歌手]](* [[1963年]]) * [[2001年]] - [[児島襄]]、作家(* [[1927年]]) * [[2002年]] - [[ビリー・ワイルダー]]、映画監督(* [[1906年]]) * 2002年 - [[ダドリー・ムーア]]、俳優(* [[1935年]]) * [[2004年]] - [[安藤満]]、[[麻雀|プロ雀士]](* [[1949年]]) * [[2006年]] - [[スタニスワフ・レム]]、[[小説家]]、[[SF作家]](* [[1921年]]) * [[2007年]] - [[植木等]]、[[コメディアン]]、俳優([[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]])(* [[1926年]]) * 2007年 - [[ポール・ラウターバー]]、化学者(* [[1929年]]) * [[2008年]] - [[ジャン=マリー・バレストル]]、[[国際自動車連盟]]会長(* [[1921年]]) * [[2009年]] - [[藤間紫]]、[[俳優|女優]]、[[舞踏家|舞踊家]](* [[1923年]]) * [[2010年]] - [[しばたはつみ]]、歌手(* [[1952年]]) * 2010年 - [[相川進]]、元プロ野球選手(* [[1948年]]) * [[2012年]] - [[浜田義雄]]、元プロ野球選手(* [[1926年]]) * [[2013年]] - [[坂口良子]]、女優(* [[1955年]]) * [[2014年]] - [[朝倉摂]]、舞台美術家、画家(* [[1922年]]) * 2014年 - [[斎藤功 (地理学者)|斎藤功]]、[[地理学者]](* [[1942年]]) * [[2016年]] - [[三浦清弘]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/27/kiji/K20160327012297220.html |title=三浦清弘氏死去 杉浦忠氏らと南海黄金期の投手陣を支える |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=27 Mar 2016 |website=Sponichi Annex}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1938年]]) * [[2020年]] - [[渡辺信夫]]、[[神学者]]、[[キリスト教]]牧師(* [[1923年]]) * 2020年 - [[渡辺泰]]、元[[毎日新聞]]記者、アニメ研究者(* [[1934年]]) * 2020年 - [[泉水博]]、元[[日本赤軍]]活動家(* [[1936年]]) * [[2022年]] - [[森本英夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022033000719 |title=森本英夫氏死去 大阪市立大名誉教授 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[信濃毎日新聞]]デジタル |date=30 Mar 2022}}</ref>、[[フランス語]][[学者]]、[[大阪市立大学]]・[[甲南女子大学]][[名誉教授]](* [[1934年]]) == 記念日・年中行事 == [[ファイル:Sen no Rikyu JPN.jpg|thumb|160px|[[千利休]]をしのぶ利休忌]] *[[サクラ#「さくらの日」|さくらの日]]({{JPN}}) *: 日本さくらの会が[[1992年]]に制定。3×9(さくら)=27の語呂合せと、[[七十二候]]のひとつ「桜始開(さくらはじめてひらく)」が重なる時期であることから。 *[[千利休|表千家利休忌]]({{JPN}}) *: 千利休の祥月命日は旧暦2月28日(天正19年2月28日没)。[[表千家]]では3月27日に、[[裏千家]]は[[3月28日]]利休忌を執り行なう。利休の流れを汲む門弟たちが一堂に集い、利休の画を掛けて、利休に茶を供え、利休の遺徳を忍ぶ。 * [[鎌数伊勢大神宮]][[神楽]]({{JPN}}) *: 毎年、3月27日から28日の二日間、[[千葉県]][[旭市]]の鎌数伊勢大神宮で[[神楽]]が奉納される。鎌数伊勢大神宮神楽は、江戸時代中期の宝歴6年([[1756年]])から続く歴史あるもので、猿田彦、うずめ、おかめ、鯛釣りなど12座の舞で五穀豊穣が祈願される<ref>{{Cite web|和書|url=https://kamakazu.com/free/saiten |title=祭典・行事 3月27日・28日 例大祭 (鎌数神楽) |access-date=17 Jul 2023 |publisher=干潟八万石 総鎮守 鎌数伊勢大神宮}}</ref>。 * [[仙石原]]湯立獅子舞({{JPN}}) *: [[神奈川県]][[箱根町]]の[[仙石原]]諏訪神社で江戸時代から続く神事。獅子によって七つの舞が奉納される。煮えたぎる釜の回りを巡りながら舞う「釜めぐりの舞」で、獅子が笹の葉で振りまく湯玉を浴びると、一年間健康でいられると言われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakone.or.jp/6079 |title=仙石原湯立獅子舞 |access-date=17 Jul 2023 |publisher=箱根町総合観光案内所}}</ref>。 * [[世界演劇の日]](World Theatre Day)({{World}}) *: ユネスコの外郭団体である[[国際演劇協会]](ITI)が制定。[[1962年]]のこの日に、ITIが第1回シアター・オブ・ネイションズ(諸国民演劇祭)をパリで開催したことを記念。 * 国軍記念日({{MMR}}) *: [[1945年]]3月27日のビルマ国軍対日蜂起を記念。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0327|date=Jul 2023}} * [[1993年]] - スネールイマジン(♀)が現れる。電王ライナーフォームに倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』) * [[2004年]] - [[角川春樹]]、国立劇場で能を舞う。(小説『[[帝都物語]]』) * [[2200年]] - [[ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)|宇宙戦艦ヤマト]]、[[ガミラス帝国|ガミラス本星]]に引き込まれ、空洞部の海に着水。(アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1971年]] - 藤井八雲、漫画・アニメ『[[3×3 EYES]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=3×3EYES|date=1990-11-06|publisher=[[講談社]]|page=19|author=[[高田裕三]]|volume=6|isbn=4-06-102228-8}}</ref> * 生年不明 - イサム・ダイソン、アニメ『[[マクロスプラス]]』の主人公 * 生年不明 - 佐倉千代、漫画・アニメ『[[月刊少女野崎くん]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/nozakikun/chara/ |title=佐倉千代 |access-date= 17 Jul 2023 |publisher=[[椿いづみ]]/[[スクウェアエニックス]]・「月刊少女野崎くん」製作委員会 [[テレビ東京]] |work=『月刊少女野崎くん』}}</ref> * 生年不明 - 小川美紅、漫画・アニメ『[[ウイングマン]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 吉良イヅル、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人 |year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page = 132 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 4-08-874079-3}}</ref> * 生年不明 - 日向ハナビ、漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史 |year = 2002 |title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page = 110 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 4-08-873288-X}}</ref> * 生年不明 - 末益、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 秋樽桜備、漫画・アニメ『[[炎炎ノ消防隊]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|fireforce_pr|1243281573832790021}}</ref> * 生年不明 - ドロンパ、漫画・アニメ『[[オバケのQ太郎]]』に登場するキャラクター<ref>『オバケのQ太郎4』藤子F・不二雄大全集 ドロンパのたんじょう日</ref> * 生年不明 - 佐々木茂男、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tweet_maruko|1507885114335932418}}</ref> * 生年不明 - 立花香織、漫画・アニメ『[[HIGH SCORE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 足須沙穂都、漫画・アニメ『[[マンガ家さんとアシスタントさんと]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 佐々木妃子、漫画・アニメ『[[曇天に笑う]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|donten_anime|978767960608194560}}</ref> * 生年不明 - 冨永裕、漫画『[[キミは宙のすべて]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 紺野小桜、漫画・アニメ『[[ライフル・イズ・ビューティフル]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 大月雪弥、漫画『[[送球ボーイズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 夢野琴、アニメ『[[おねがいマイメロディ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ラムネ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m03.html |title=住民名簿 3月 ラムネ |access-date= 17 Jul 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - 月城アリス、ゲーム・アニメ『[[D.C. ~ダ・カーポ~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc_heroine_details.html#ars |title=月城 アリス |publisher=[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |access-date=17 Jul 2023 |work=『D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ I&II~ プラスシチュエーション』}}</ref> * 生年不明 - 朝比奈ミキ、ゲーム・アニメ『[[D.C.II ~ダ・カーポII~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/dc2ps/character/miki.html |title=朝比奈 ミキ |access-date= 17 Jul 2023 |publisher=[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.II P.S.~ダ・カーポII~プラスシチュエーション』}}</ref> * 生年不明 - 村松さくら、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20167 |title=村松 さくら(むらまつ さくら) |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 桜さんご、ゲーム・アニメ『[[ガイストクラッシャー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|capcom_gcg|448977797592014848}}</ref> * 生年不明 - 紫京院ひびき、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1507854918404747264}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=柴崎恵美子|title=テレビ超ひゃっか プリパラ アイドルずかん|publisher=[[小学館]]|year=2016|page=28|ISBN=978-4-09-750417-7}}</ref> * 生年不明 - 藤宮桜、ゲーム・アニメ『[[バトルガール ハイスクール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bgirl_colopl|713971711364890624}}</ref> * 生年不明 - 前田慶次、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|978466643125956608}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#桜守歌織|桜守歌織]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30009 |title=桜守 歌織(さくらもり かおり) |access-date=17 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 弥生ひな、ゲーム・アニメ『[[ワッチャプリマジ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|PrettySeriesPR|1507854912150859776}}</ref> * 生年不明 - ベルベット、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/fatamusica/velvet/ |title=ベルベット |access-date= 17 Jul 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> * 生年不明 - 條島もも、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/jojima|title=條島 もも|publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |work=『八月のシンデレラナイン』|accessdate= 17 Jul 2023 }}</ref> * 生年不明 - オグリキャップ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://umamusume.jp/character/detail/?name=oguricap |title=オグリキャップ |publisher=[[Cygames]] |accessdate=17 Jul 2023 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref> * 生年不明 - ゼンノロブロイ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://umamusume.jp/character/detail/?name=zennorobroy |title=ゼンノロブロイ |publisher=[[Cygames]] |accessdate=17 Jul 2023 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref> * 生年不明 - エイシンフラッシュ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://umamusume.jp/character/detail/?name=eishinflash |title=エイシンフラッシュ |publisher=[[Cygames]] |accessdate=17 Jul 2023 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|March 27|27 March}} {{新暦365日|3|26|3|28|[[2月27日]]|[[4月27日]]|[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]|0327|3|27}} {{1年の月と日}}
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3月28日
3月28日(さんがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から87日目(閏年では88日目)にあたり、年末まであと278日ある。
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{{カレンダー 3月}} '''3月28日'''(さんがつにじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から87日目([[閏年]]では88日目)にあたり、年末まであと278日ある。 == できごと == [[Image:DidiusJulianusSest.jpg|thumb|150px|[[ディディウス・ユリアヌス]]、競売で帝位を落札し[[ローマ皇帝]]に就任(193年)。66日後には処刑された]] [[Image:Carter_leaving_Three_Mile_Island.jpg|thumb|200px|[[スリーマイル島原子力発電所事故]] (1979) 。画像は[[4月1日]]に現地を視察した大統領[[ジミー・カーター]]]] * [[193年]] - [[ディディウス・ユリアヌス]]が親衛隊の帝位の「公開競売」を落札しローマ皇帝に即位。 * [[364年]] - ローマ皇帝[[ウァレンティニアヌス1世]]が、弟の[[ウァレンス]]を共同皇帝とする。 * [[1336年]]([[延元]]元年2月15日) - [[光厳上皇]]の[[新田義貞]][[追討]]の[[院宣]]が[[鞆の浦|備後の鞆]]の[[足利尊氏]]のもとに到着。 * [[1531年]]([[享禄]]4年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[中嶋の戦い]]はじまる。 * [[1802年]] - [[ヴィルヘルム・オルバース]]が2番目の[[小惑星]][[パラス (小惑星)|パラス]]を発見。(その後、[[ケレス (準惑星)|ケレス]]が[[準惑星]]に分類されたため、パラスは[[小惑星帯]]最大の小惑星となった) * [[1854年]] - [[クリミア戦争]]: [[イギリス]]と[[フランス]]が[[ロシア帝国]]に宣戦布告し、クリミア戦争が開戦。 * [[1861年]]([[文久]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[元号]]が[[万延]]から文久に改元。 * [[1871年]] - [[パリ市庁舎]]で[[パリ・コミューン]]の成立を宣言。 * [[1876年]] - 日本の[[明治政府]]が[[廃刀令]]を発布。 * [[1890年]] - 日本最初の民間[[鉄道車両]]メーカー「[[平岡工場]]」が開業。 * [[1894年]] - [[金玉均]]が[[上海市|上海]]で朝鮮政府の[[刺客]]により[[暗殺]]される。 * [[1900年]] - [[スウェーデン]]の探検家・地理学者の[[スウェン・ヘディン]]によって、廃墟になっていた[[シルクロード]]の古代都市が発見される。 * [[1901年]] - 北海道会法・北海道地方費法公布。[[北海道]]が府県と同等の[[地方公共団体]]となる。 * [[1913年]] - [[陸軍所沢飛行場]]で着陸寸前の陸軍機が墜落し、木村鈴四郎・[[徳田金一]]両中尉が死亡。日本初の飛行機死亡事故。 * [[1920年]] - [[平塚らいてう]]・[[市川房枝]]らが[[新婦人協会]]の発会式を行う。 * [[1929年]] - [[国宝保存法]]公布。 * [[1930年]] - [[トルコ]]が、首都アンゴラを[[アンカラ]]に、コンスタンティノープルを[[イスタンブール]]に改称。 * [[1938年]] - [[南京市|南京]]に[[中華民国維新政府]]が成立。 * [[1940年]] - [[敵性語]]追放: 日本の[[内務省 (日本)|内務省]]が[[藤原釜足]]や[[ディック・ミネ]]ら16人に[[芸名]]の改名を指示。 * [[1950年]] - 女子プロ野球の[[日本女子野球連盟]]が発足。 * [[1959年]] - [[中華人民共和国国務院]]が[[チベット]]政府を解散させる。 * 1959年 - [[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]が竣工。 * [[1960年]] - カトリック東京[[大司教]]・[[土井辰雄]]が日本人初の[[枢機卿]]に任命される。 * [[1961年]] - [[名張毒ぶどう酒事件]]。 * [[1964年]] - [[アラスカ地震]]。 * [[1968年]] - [[東京大学]]の[[卒業式]]が、学生による[[東大安田講堂事件|安田講堂占拠]]のため中止になる。 * [[1979年]] - [[スリーマイル島原子力発電所事故]]。 * [[1991年]] - [[東名高速道路]]の[[駒門パーキングエリア|駒門PA]] - [[厚木インターチェンジ|厚木IC]]間の拡幅工事に伴い3車線の新上り線([[足柄サービスエリア|足柄SA]] - [[大井松田インターチェンジ|大井松田IC]]間)が開通。同時に同区間の旧上り線を閉鎖し、下り線への改築工事開始。 * [[1993年]] - [[東京都江戸東京博物館]]が開館。 * [[1995年]] - [[東京都]]初の[[コミュニティ放送局|コミュニティFM放送局]]、[[エフエムむさしの]](むさしのFM)が開局。 * [[1999年]] - [[仙台文学館]]が[[台原森林公園]]内に開館。 * [[2001年]] - [[薬害エイズ事件]]に関連して、[[安部英]]に対して第一審・[[東京地方裁判所]]が無罪の判決。 * 2001年 - [[埼玉高速鉄道]][[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]] - [[浦和美園駅|浦和美園]]間開業。[[東京メトロ南北線|営団地下鉄南北線]]・[[東急目黒線]]と相互乗り入れ開始。また、[[東急東横線]]に[[特別急行列車|特急]]が新設される。 * [[2003年]] - 日本初の[[情報収集衛星]]「光学1号機」「レーダ1号機」を打上げ。 * [[2005年]] - [[スマトラ島沖地震 (2005年)|スマトラ島沖地震]]。 * 2005年 - 半世紀ぶりに改訂された新しい[[日本産業規格|日本工業規格]]のマーク(JISマーク)が発表。[[10月1日]]より使用開始。 * 2005年 - 日本の栃木県[[さくら市]]・茨城県[[かすみがうら市]]・岐阜県[[海津市]]が市制施行。茨城県[[下館市]]ほか3町が合併して[[筑西市]]が発足。 * [[2016年]] - [[スカイマーク]]が東京地方裁判所からの監督命令の取り消し決定と民事再生手続きの終結を発表。 == 誕生日 == === 人物 === [[Image:Fra_bartolomeo_02_Vision_of_St_Bernard_with_Sts_Benedict_and_John_the_Evangelist.jpg|thumb|250px|[[ルネサンス]]期の画家[[フラ・バルトロメオ]] (1472 - 1517) 誕生。画像は『聖ベルナルドゥスの幻視』 (1504 - 1507) ]] [[Image:Aristide_Briand_2.jpg|thumb|upright|[[フランス]]の政治家[[アリスティード・ブリアン]] (1862 - 1932) 誕生。[[ロカルノ条約]]の締結に尽力]] [[Image:Maxim_Gorky_authographed_portrait.jpg|thumb|upright|作家[[マクシム・ゴーリキー]] (1868 - 1936) 誕生。代表作『[[どん底]]』 (1902) ]] [[Image:W._Mengelberg.jpg|thumb|upright|指揮者[[ウィレム・メンゲルベルク]] (1871 - 1951) ]] [[Image:Sh%C5%8Droku_Onoe_II_as_Sagisaka_Bannai.jpg|thumb|upright|歌舞伎役者、2代目[[尾上松緑 (2代目)|尾上松緑]] (1913 - 1989) 。画像は『仮名手本忠臣蔵』の鷺坂伴内]] [[Image:Alexander_Grothendieck.jpg|thumb|upright|[[代数幾何学]]を現代化した数学者[[アレクサンドル・グロタンディーク]] (1928 - ) ]] [[Image:Mario_Vargas_Llosa.jpg|thumb|upright|[[ラテンアメリカ文学]]の旗手、[[マリオ・バルガス・リョサ]] (1936 - ) ]] [[Image:Kitanofuji_handprint.JPG|thumb|upright|横綱[[北の富士勝昭]] (1942 - ) ]] [[ファイル:Lady Gaga Gröna Lund crop.jpg|サムネイル|[[アメリカ合衆国]]出身の歌手[[レディー・ガガ]](1986-)]] * [[1472年]] - [[フラ・バルトロメオ]]、[[画家]](+ [[1517年]]) * [[1515年]] - [[アビラのテレサ]]、[[神秘主義|神秘家]](+ [[1582年]]) * [[1592年]] - [[コメニウス]]、[[教育者]](+ [[1670年]]) * [[1633年]]([[寛永]]10年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[脇坂安政]]、[[龍野藩|龍野藩主]](+ [[1694年]]) * [[1667年]]([[寛文]]7年閏[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[藤堂高睦]]、[[津藩|津藩主]](+ [[1708年]]) * [[1742年]] - [[ヨハン・ダビット・ウィース]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1818年]]) * [[1750年]] - [[フランシスコ・デ・ミランダ]]、[[ベネズエラ]]の独立運動指導者(+ [[1816年]]) * [[1756年]]([[宝暦]]6年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[織田秀綿]]、[[柳本藩|柳本藩主]](+ [[1806年]]) * [[1799年]] - [[カール・アドルフ・フォン・バセドウ]]、[[医師]]、[[バセドウ病]]の発見者(+ [[1854年]]) * [[1827年]]([[文政]]10年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[稲葉正誼]]、[[淀藩|淀藩主]](+ [[1848年]]) * [[1837年]] - [[ウィルヘルム・キューネ]]、[[生理学者]](+ [[1900年]]) * [[1860年]]([[安政]]7年)- [[岡市之助]]、第23代[[陸軍大臣]](+ [[1916年]]) * [[1862年]] - [[アリスティード・ブリアン]]、[[フランスの首相|フランス首相]](+ [[1932年]]) * [[1868年]] - [[マクシム・ゴーリキー]]、[[作家]](+ [[1936年]]) * [[1871年]] - [[ウィレム・メンゲルベルク]]、[[指揮者]](+ [[1951年]]) * [[1876年]] - [[國見山悦吉]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1924年]]) * [[1878年]] - [[佐々木惣一]]、[[法学者]](+ [[1965年]]) * [[1882年]] - [[石井柏亭]]、[[洋画家]](+ [[1958年]]) * [[1885年]] - [[黒澤酉蔵]]、[[実業家]](+ [[1982年]]<ref>[[#北海道新聞1982年2月6日|北海道新聞1982年2月6日(夕刊)]]、1面</ref>) * [[1891年]] - [[西尾末広]]、[[政治家]](+ [[1981年]]) * [[1892年]] - [[コルネイユ・ハイマンス]]、生理学者(+ [[1968年]]) * [[1893年]] - [[桂小文治 (2代目)]]、[[落語家]](+ [[1967年]]) * [[1895年]] - [[高田保]]、[[劇作家]]、[[随筆家]](+ [[1952年]]) * [[1897年]] - [[萩原雄祐]]、[[天文学者]](+ [[1979年]]) * 1897年 - [[ゼップ・ヘルベルガー]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[1977年]]) * [[1898年]] - [[田岡良一]]、[[法学者]]・[[京都大学]]名誉教授(+ [[1985年]]) * [[1899年]] - [[香川綾]]、[[教育関係人物一覧|教育者]]、[[栄養学|栄養学者]]、[[医学博士]](+ [[1997年]]) * [[1900年]] - [[寿岳文章]]、[[イギリス文学者|英文学者]]、[[随筆家]](+ [[1992年]]) * [[1902年]] - [[桂三木助 (3代目)|桂三木助]](三代目)、[[落語家]](+ [[1961年]]) * [[1903年]] - [[ルドルフ・ゼルキン]]、[[ピアニスト]](+ [[1991年]]) * 1903年 - [[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、[[映画監督]](+ [[1966年]]) * [[1906年]] - [[伊藤真乗]]、宗教家、[[真如苑]]開祖(+ [[1989年]]) * 1906年 - [[田部武雄]]、[[野球選手]](+ [[1945年]]) * [[1909年]] - [[ネルソン・オルグレン]]、[[作家]](+ [[1981年]]) * [[1910年]] - [[坊屋三郎]]、[[ヴォードヴィル|ヴォードヴィリアン]]、[[俳優]](+ [[2002年]]) * [[1911年]] - [[松原操|松原操(初代ミス・コロムビア)]]、[[歌手]](+ [[1984年]]) * [[1912年]] - [[大岡虎雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1975年]]) * 1912年 - [[A・バートラム・チャンドラー]]、[[SF作家]](+ [[1984年]]) * 1912年 - [[ルシール・フレッチャー]]、[[脚本家]]、[[作家]](+ [[2000年]]) * [[1913年]] - [[尾上松緑 (2代目)|尾上松緑]](二代目)、[[歌舞伎]]俳優(+ 1989年) * 1913年 - [[田岡一雄]]、3代目[[山口組]]組長(+ [[1981年]]) * 1913年 - [[篠田桃紅]]、[[美術家]] (+ [[2021年]]) * 1913年 - [[扇谷正造]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1992年]]) * [[1914年]] - [[ボフミル・フラバル]]、[[小説家]](+ [[1997年]]) * [[1915年]] - [[濱谷浩]]、[[写真家]](+ [[1999年]]) * 1915年 - [[ジェイ・リビングストン]]、[[作曲家]](+ [[2001年]]) * [[1916年]] - [[岩谷時子]]、[[作詞家]](+ [[2013年]]) * [[1917年]] - [[安部徹]]、俳優(+ [[1993年]]) * 1917年 - [[坂本朝一]]、[[放送]]人、第12代[[日本放送協会|NHK]]会長(+ [[2003年]]) * [[1921年]] - [[ダーク・ボガード]]、俳優(+ 1999年) * [[1922年]] - [[佐藤守良]]、政治家(+ [[1996年]]) * [[1923年]] - [[嶋崎均]]、政治家(+ [[1997年]]) * [[1924年]] - [[邱永漢]]、作家(+ [[2012年]]) * [[1927年]] - [[利根川裕]]、作家 * 1927年 - [[永田文夫]]、[[音楽評論家]]、訳詞家(+ [[2016年]]) * [[1928年]] - [[アレクサンドル・グロタンディーク]]、[[数学者]](+ [[2014年]]) * 1928年 - [[ズビグネフ・ブレジンスキー]]、[[政治学者]]、元[[国家安全保障担当大統領補佐官]](+ [[2017年]]) * 1928年 - [[野上龍雄]]、[[脚本家]](+ [[2013年]]) * [[1929年]] - [[色川武大]]、作家(+ [[1989年]]) * [[1930年]] - [[ジェローム・アイザック・フリードマン]]、[[物理学者]] * [[1932年]] - [[本多勝一]]、[[ジャーナリスト]] * [[1933年]] - [[ばばこういち]]、ジャーナリスト(+ [[2010年]]) * [[1934年]] - [[高倉みゆき]]、女優 * 1934年 - [[飯倉照平]]、[[中国文学者]](+ [[2019年]]) * 1934年 - [[レスター・R・ブラウン]]、[[思想家]]、環境活動家 * [[1936年]] - [[マリオ・バルガス・リョサ]]、[[小説家]] * 1936年 - [[藤巻潤]]、俳優 * 1936年 - [[羽黒花統司]]、大相撲力士(+ [[1984年]]) * [[1939年]] - [[絵沢萌子]]、女優 * [[1940年]] - [[塩山紀生]]、[[アニメーター]]、[[イラストレーター]](+ [[2017年]]) * 1940年 - [[斎藤精一郎]]、[[エコノミスト]] * [[1942年]] - [[北の富士勝昭]]、[[大相撲]]第52代[[横綱]] * 1942年 - [[木村庄之助 (33代)]]、元大相撲[[立行司]] * 1942年 - [[松井昌雄]]、宗教家、[[実業家]] * 1942年 - [[ダニエル・デネット]]、[[哲学|哲学者]] * 1942年 - [[マイク・ニューウェル]]、[[映画監督]] * 1942年 - [[ジェリー・スローン]]、元[[バスケットボール選手]]、指導者 * [[1944年]] - [[リック・バリー]]、元バスケットボール選手 * [[1945年]] - [[笹倉武久]]、[[日本中央競馬会]][[調教師]] * 1945年 - [[ロドリゴ・ドゥテルテ]]、政治家、[[フィリピン]]第16代[[フィリピンの大統領|大統領]] * [[1946年]] - [[ヘンリー・ポールソン]]、第74代[[アメリカ合衆国財務長官]] * 1946年 - [[アレハンドロ・トレド]]、政治家、元[[ペルーの大統領|ペルー大統領]] * 1946年 - [[野田義治]]、実業家、[[サンズエンタテインメント]]社長、[[イエローキャブ (芸能プロダクション)|イエローキャブ]]創業者 * [[1947年]] - [[高田ひろお]]、[[作詞家]]、[[絵本作家]]、[[脚本家]] * [[1948年]] - [[ダイアン・ウィースト]]、[[俳優|女優]] * 1948年 - [[ミラン・ウィリアムズ]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2006年]]) * [[1949年]] - [[伊武雅刀]]、俳優、[[声優]]、[[ナレーター]] * [[1952年]] - [[トニー・ブライズ]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](+ [[1975年]]) * [[1954年]] - [[佐藤雅彦 (メディアクリエーター)|佐藤雅彦]]、メディアクリエーター * [[1956年]] - [[石坂啓]]、[[漫画家]] * [[1958年]] - [[カート・ヘニング]]、[[プロレスラー]](+ [[2003年]]) * [[1959年]] - [[ラウラ・チンチージャ]]、政治家 * [[1960年]] - [[安藤勝己]]、[[騎手]] * 1960年 - [[濱口楠彦]]、騎手(+ [[2013年]]) * 1960年 - [[石田衣良]]、小説家 * 1960年 - [[エリック=エマニュエル・シュミット]]、[[劇作家]] * [[1961年]] - [[おかけんた]]、[[漫才師]] * 1961年 - [[グレン・デービス (野球)|グレン・デービス]]、元プロ野球選手、実業家、政治家 * [[1962年]] - [[井上正治 (漫画家)|井上正治]]、漫画家 * 1962年 - [[鷲生功]]、俳優 * [[1963年]] - [[赤木俊夫]]、財務官僚(+ [[2018年]]) * 1963年 - [[本多知恵子]]、声優(+ [[2013年]]) * 1963年 - [[ニーナ・アナニアシヴィリ]]、[[バレリーナ]] * [[1965年]] - [[こしばてつや]]、漫画家 * [[1967年]] - [[安生洋二]]、プロレスラー * [[1968年]] - [[アイリス・チャン]]、ジャーナリスト(+ [[2004年]]) * 1968年 - [[大河内一楼]]、[[脚本家]]、小説家 * 1968年 - [[戸田昌宏]]、俳優 * [[1969年]] - [[イルケ・ヴィルダ]]、[[陸上競技選手]] * 1969年 - [[富岡佳子]]、[[ファッションモデル]] * 1969年 - [[川島正一]]、[[調教師]] * 1969年 - [[三渡洲アデミール]]、元[[サッカー選手]] * 1969年 - [[宮本裕子 (女優)|宮本裕子]]、女優 * 1969年 - [[松沢夏樹]]、漫画家 * 1969年 - [[的場浩司]]、俳優 * [[1970年]] - [[水野真紀]]、女優 * 1970年 - [[ヴィンス・ヴォーン]]、俳優 * [[1971年]] - [[長尾大]]、[[ミュージシャン]] * 1971年 - [[大北浩士]]、神社仏閣愛好家、ミリタリー愛好家、フリーライター、写真家 * 1971年 - [[盧廷潤]]、元サッカー選手 * 1971年 - [[島津亜矢]]、歌手 * [[1972年]] - [[鄭珉哲]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[古谷実]]、漫画家 * 1972年 - [[加藤亜希子]]、[[アナウンサー]] * [[1973年]] - [[エディ・ファトゥ]]、プロレスラー(+ [[2009年]]) * 1973年 - [[小林彩子]]、歌手、女優 * 1973年 - [[国府達矢]]、歌手、作曲家 * 1973年 - [[程嶋しづマ]]、俳優、声優 * 1973年 - [[いとうかなこ]]、歌手 * 1973年 - [[小松利昌]]、俳優 * [[1974年]] - [[岸尾だいすけ]]、声優 * 1974年 - [[西田多江]]、アナウンサー * [[1975年]] - [[神田うの]]、タレント、[[モデル (職業)|モデル]] * 1975年 - [[保村真]]、声優 * 1975年 - [[フリオ・ズレータ]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[イバン・エルゲラ]]、サッカー選手 * 1975年 - [[國友真由美]]、アナウンサー * [[1976年]] - [[青木治親]]、[[ロードレース世界選手権|WGP]]ライダー * 1976年 - [[門脇英基]]、[[総合格闘家]] * [[1977年]] - [[多村仁志]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[井上詩織]]、[[AV女優]] * [[1979年]] - [[岡平健治]]、ミュージシャン * [[1980年]] - [[葵みのり]]、元AV女優 * 1980年 - [[堀越啓仁]]、政治家 * [[1981年]] - 梶剛、お笑い芸人(元[[アイスクリーム (お笑いコンビ)|アイスクリーム]] ) * 1981年 - [[藤村知可]]、女優、声優 * 1981年 - [[石川雅実]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[ジュリア・スタイルズ]]、女優 * [[1982年]] - [[小泉エリ]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[1983年]] - [[市川円香]]、タレント * [[1984年]] - [[天海麗]]、元AV女優 * 1984年 - [[クリストファー・サンバ]]、サッカー選手 * [[1985年]] - [[鈴木明子]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * 1985年 - [[西島未智|ミユキニシジマ]]、ダンサー、女優、タレント * 1985年 - [[スタニスラス・ワウリンカ]]、テニス選手 * 1985年 - [[チアゴ・ダ・シルバ]]、プロ野球選手 * [[1986年]] - [[古味直志]]、漫画家 * 1986年 - [[吉川麻衣子]]、元タレント、元女優、元モデル * 1986年 - [[レディー・ガガ]]、歌手 * [[1987年]] - [[豊田拓矢]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[大西智也]]、元陸上選手 * [[1988年]] - [[鈴木藤丸]]、俳優 * 1988年 - [[渚 (AV女優)|渚]]、元AV女優 * 1988年 - [[ライアン・ケイリッシュ]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[出口恵理]]、ミュージカル俳優 * [[1989年]] - [[ミラ・リャン]]、フィギュアスケート選手 * 1989年 - [[カタリナ・ゲルボルト]]、元フィギュアスケート選手 * [[1990年]] - [[エカテリーナ・ボブロワ]]、元フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[ルカ・マッローネ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[黒木優子]]、[[プロボクサー]] * 1991年 - [[飛鳥凛]]、女優 * 1991年 - [[飯田哲矢]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[加藤翔平]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[仲尾次オスカル]]、元プロ野球選手 * 1991年 - あきらかにあきら、ミュージシャン([[THE ORAL CIGARETTES]]) * 1991年 - [[村澤明伸]]、陸上選手 * [[1992年]] - [[佐藤エリ]]、ファッションモデル、タレント * [[1993年]] - [[高橋龍輝]]、俳優 * 1993年 - [[森谷佳奈]]、[[山陰放送]]アナウンサー * [[1994年]] - 田中梨奈、アイドル(元[[JK21]]) * 1994年 - [[中島広稀]]、俳優 * 1994年 - [[ジャクソン (GOT7)|Jackson]]、歌手([[GOT7]]) * [[1997年]] - [[松村朱咲]]、元プロ野球選手 * [[1998年]] - [[相澤莉多]]、俳優 * 1998年 - [[希水しお]]、声優、歌手 * [[1999年]] - [[加藤脩平]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[吉武千颯]]、声優、歌手 * [[2000年]] - [[嶋津雄大]]、陸上競技選手 * [[2003年]] - [[石川翔鈴]]、タレント、インフルエンサー * [[2005年]] - 川﨑星輝、アイドル([[ジャニーズJr.]]、少年忍者) * 生年不詳 - [[谷澤みき]]、[[4コマ漫画|4コマ]]漫画家 * 生年不詳 - [[しゃあ]]、[[イラストレーター]] * 生年不詳 - [[深崎暮人]]、イラストレーター * 生年不明 - [[加藤寛規 (声優)|加藤寛規]]、声優 === 人物以外(動物など) === * [[1985年]] - [[アサティス]]、[[競走馬]](+ [[2007年]]) * 1985年 - [[メジロアルダン]]、競走馬(+ [[2002年]]) * [[1989年]] - [[アドラーブル]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000225086/ |title=アドラーブル|publisher=[[公益社団法人]][[日本軽種馬協会]]|website=JBIS-Search|accessdate=2020-12-03}}</ref>、競走馬(+ [[2005年]]) == 忌日 == [[Image:JuntokuGotobaTennoRyo.jpg|thumb|upright|[[後鳥羽天皇]] (1180 - 1239) 没。画像は大原陵]] [[Image:Musorgsky_Grave.jpg|thumb|upright|作曲家[[モデスト・ムソルグスキー]] (1839 - 1881) 没]] [[Image:Uchimura_Kanzo.jpg|thumb|120px|[[無教会主義]]を唱えたキリスト教思想家、[[内村鑑三]] (1861 - 1930) ]] [[Image:Grave_of_Sergei_Rachmaninoff.jpg|thumb|upright|作曲家・ピアニスト、[[セルゲイ・ラフマニノフ]] (1873 - 1943) ]] {{listen|filename=Sergei Rachmaninoff performs Rachmaninoff's Prelude in C sharp minor, Op. 3.ogg|title=ラフマニノフ『前奏曲 嬰ハ短調』作品3|description=[[セルゲイ・ラフマニノフ]] (1873 - 1943) による自作自演}} [[File:Ryuichi_Sakamoto_side.jpg|thumb|upright|作曲家・ピアニスト、[[坂本龍一]] (1952 - 2023)]] * [[193年]] - [[ペルティナクス]]、[[ローマ皇帝]](* [[126年]]) * [[1239年]]([[延応]]元年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[後鳥羽天皇]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Go-Toba Go-Toba emperor of Japan] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第82代[[天皇]](* [[1180年]]) * [[1241年]] - [[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1170年]]) * [[1563年]] - [[グラレアヌス]]、[[音楽理論|音楽理論家]](* [[1488年]]) * [[1584年]] - [[イヴァン4世]](イヴァン雷帝){{要出典|date=2021-03}}、[[モスクワ大公国]]の[[ツァーリ]](* [[1530年]]) * [[1868年]] - [[ジェイムズ・ブルーデネル (第7代カーディガン伯爵)]]、イギリスの陸軍軍人、政治家(* [[1797年]]) * [[1870年]] - [[ジョージ・ヘンリー・トーマス]]、[[アメリカ陸軍]]の[[少将]](* [[1816年]]) * [[1874年]] - [[ペーター・ハンゼン]]、[[天文学者]](* [[1795年]]) * [[1881年]] - [[モデスト・ムソルグスキー]]、[[作曲家]](* [[1839年]]) * [[1885年]] - [[ルードヴィグ・ヌールマン]]、作曲家(* [[1831年]]) * [[1894年]] - [[金玉均]]、[[政治家]](* [[1851年]]) * [[1905年]] - [[黄遵憲]]、[[清|清朝]]の[[詩人]]、[[外交官]](* [[1848年]]) * [[1907年]] - [[チック・スタル]]、元プロ野球選手(* [[1873年]]) * [[1910年]] - [[エドゥアール・コロンヌ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](* [[1838年]]) * [[1930年]] - [[内村鑑三]]、[[キリスト教]][[思想|思想家]](* [[1861年]]) * [[1933年]] - [[フリードリッヒ・ザンデル]]、宇宙工学者(* [[1887年]]) * [[1938年]] - [[鄭孝胥]]、[[満州国]][[国務総理大臣]](* [[1860年]]) * [[1939年]] - [[田中光顕]]、[[陸援隊]]幹部、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少将]]、[[宮内省|宮内大臣]](* [[1843年]]) * [[1941年]] - [[ヴァージニア・ウルフ]]、[[小説家]](* [[1882年]]) * [[1943年]] - [[セルゲイ・ラフマニノフ]]、作曲家、[[ピアニスト]](* [[1873年]]) * [[1947年]] - [[ジョニー・エバース]]、元プロ野球選手(* [[1881年]]) * [[1949年]] - [[グリゴラシュ・ディニク]]、作曲家、ヴァイオリニスト(* [[1889年]]) * [[1953年]] - [[ジム・ソープ]]、[[陸上競技]]、プロ野球選手(* [[1888年]]) * [[1958年]] - [[築田多吉]]、[[看護師]](* [[1872年]]) * 1958年 - [[チャック・クライン]]、プロ野球選手(* [[1904年]]) * [[1969年]] - [[ドワイト・D・アイゼンハワー]]、政治家、第34代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1890年]]) * [[1972年]] - [[ドニー・ブッシュ]]、元プロ野球選手(* [[1887年]]) * [[1973年]] - [[椎名麟三]]、小説家(* [[1911年]]) * [[1974年]] - [[フランソワーズ・ロゼー]]、[[俳優|女優]](* [[1891年]]) * 1974年 - [[ディノ・チアーニ]]、ピアニスト(* [[1941年]]) * [[1982年]] - [[ウイリアム・ジオーク]]、[[化学者]](* [[1895年]]) * [[1983年]] - [[ワルワーラ・ブブノワ]]、[[美術家]](* [[1886年]]) * [[1985年]] - [[マルク・シャガール]]、[[画家]](* [[1887年]]) * [[1987年]] - [[マリア・フォン・トラップ]]、トラップファミリー合唱団結成者(* [[1905年]]) * [[1994年]] - [[ウジェーヌ・イヨネスコ]]、[[劇作家]](* [[1909年]]) * [[1995年]] - [[目時春雄]]、元プロ野球選手(* [[1925年]]) * [[1996年]] - [[金丸信]]、政治家(* [[1914年]]) * 1996年 - [[ハンス・ブルーメンベルク]]、[[哲学|哲学者]](* [[1920年]]) * [[2001年]] - [[藤本二三代]]、[[歌手]](* [[1946年]]) * [[2004年]] - [[ピーター・ユスティノフ]]、俳優、作家(* [[1921年]]4月16日) * 2004年 - [[うしおそうじ]]、[[漫画家]]、[[特撮]][[プロデューサー]]、[[演出家]](* [[1921年]]) * 2004年 - [[ピーター・ユスティノフ]]、俳優、作家(* 1921年) * [[2005年]] - [[モーラ・リンパニー]]、ピアニスト(* [[1915年]]) * [[2006年]] - [[キャスパー・ワインバーガー]]、[[アメリカ合衆国国防長官]](* [[1917年]]) * 2006年 - [[田島義博]]、[[経済学者]](* [[1931年]]) * [[2007年]] - [[横地治男]]、[[柔道|柔道家]](* [[1912年]]) * [[2011年]] - [[氏家齊一郎]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]会長、元[[日本民間放送連盟]]会長(* [[1926年]]) * [[2014年]] - [[森禮子]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1928年]]) * [[2017年]] - [[渋谷文久]]、政治家(* 生年不明) * [[2018年]] - [[月亭可朝]]、落語家、[[タレント]](* [[1938年]]) * [[2020年]] - [[堀川とんこう]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200406162817/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020040400268&g=soc|title=堀川とんこうさん死去 テレビプロデューサー|publisher=時事ドットコム|date=2020-04-04|accessdate=2020-11-18}}</ref>、[[テレビプロデューサー]]、演出家(* [[1937年]]) * [[2023年]] - [[坂本龍一]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1952年]]) === 人物以外(動物など) === * [[1945年]] - [[ウラヌス (競技馬)|ウラヌス号]]、[[西竹一]]の愛馬、競走馬(* [[1918年]]?) * [[2014年]] - [[ヤエノムテキ]]、競走馬(*[[1985年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Orbispictus.JPG|thumb|240px|[[チェコ]]と[[スロバキア]]の教師の日。チェコの教育者[[コメニウス]]の誕生日を記念している。画像は世界初の[[イラストレーション|イラスト]]入り教科書とも言われるコメニウスの『世界図絵』 (1658) ]] * {{仮リンク|チベット農奴解放記念日|zh|西藏百万农奴解放纪念日}}({{CHN}}[[チベット自治区]]) *: 1959年のこの日、中華人民共和国政府がチベット政府の廃止を宣言した。 * [[教師の日]]({{CZE}}・{{SVK}}) *: チェコ生まれの教育者[[コメニウス]]の誕生日。 * [[三ツ矢サイダー]]の日({{JPN}}) *: 「み(3)つ(2)や(8)」の語呂合わせ。[[アサヒ飲料]]が制定。 * 京都裏千家[[千利休|利休]]忌({{JPN}}) * シルクロードの日 *: 1900年のこの日に廃墟となっていたシルクロードの楼蘭(現在のクロライナ)が発見されたことに由来する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nansuka.jp/nansuka-editors/p002129/|title=3月28日は「シルクロードの日」。由来と世界遺産に登録された背景や歴史をご紹介!|work=ナンスカ|date=2019-08-28|accessdate=2020-07-07}}</ref>。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0328|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * [[1984年]] - 広瀬康一、漫画・アニメ『[[ダイヤモンドは砕けない|ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない]]』に登場するキャラクター * [[2077年]] - レイミ・サイオンジ、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=62|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - 小石川光希、漫画・アニメ『[[ママレード・ボーイ]]』の主人公 * 生年不明 - 有馬公生、漫画・アニメ『[[四月は君の嘘]]』の主人公<ref>TVアニメ『四月は君の嘘』op曲CD「光るなら」に付属した生徒証明書に記載。</ref> * 生年不明 - 秋津ミツバ、秋葉原おもてなしキャラクター<ref>{{Twitter status|akitsumitsuba14|1508436623200907266}}</ref> * 生年不明 - ナターシャ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=108 |title=ナターシャ |access-date=2022-09-29 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |work=聖闘士星矢 |author=車田正美}}</ref> * 生年不明 - 安田靖春、漫画・アニメ『[[SLAM DUNK]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=井上雄彦|authorlink=井上雄彦|date=1995-03-03|title=SLAM DUNK|volume=23巻|page=47|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088718439}}</ref> * 生年不明 - サルウ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/salou.html |title=サルウ |work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |accessdate=2020-07-07}}</ref> * 生年不明 - [[春野サクラ]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/naruto/chara/|title=テレビ東京・あにてれ NARUTO -ナルト- 疾風伝 キャラクター|work=[[岸本斉史]] スコット/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・[[ぴえろ]]|accessdate=2020-07-07}}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2002-07-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=101|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088732886}}</ref> * 生年不明 - うちはタジマ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1508096508859916288}}</ref> * 生年不明 - 蘇枋隼飛、漫画・アニメ『[[WIND BREAKER (漫画)|WIND BREAKER]]』のキャラクター<ref>{{Twitter status|winbre_sakura|1640368082337267714}}</ref> * 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#伏黒夜々|伏黒夜々]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year=2020|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=24巻|page=138|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-882496-3}}</ref> * 生年不明 - 樹、漫画・アニメ『[[ストレンジ・プラス]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 水上桜、漫画・アニメ『[[ディーふらぐ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 歳納京子、漫画・アニメ『[[ゆるゆり]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yuruyuri.com/1st/character/index.html|title=キャラクター|TVアニメゆるゆり|work=[[なもり]]/[[一迅社]]・七森中ごらく部|accessdate=2020-07-07}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date= 2011-11-28|editor=ポストメディア編集部 |title = TVアニメゆるゆり公式ファンブック |page =26 |publisher = [[一迅社]] |isbn =978-4758012485}}</ref> * 生年不明 - 白鳥ヒカリ、テレビドラマ『[[アイドル×戦士ミラクルちゅーんず!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|date=2017-07-12|title=アイドル×戦士ミラクルちゅーんず!ヒロインずかん |page=24|publisher=[[小学館]]|series=テレビ超ひゃっか|author=佐藤春華|isbn=978-4097504214}}</ref> * 生年不明 - 千歳ハル、アニメ『[[音楽少女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://ongaku-shoujo.jp/#character |title=CHARACTER 千歳ハル |access-date=2022-09-29 |website=TVアニメ「音楽少女」公式サイト}}</ref> * 生年不明 - レイヴン、ゲーム『[[GUILTY GEAR X]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ggxrd.com/rev/ac/character/raven.html |title=RAVEN レイヴン |access-date=2022-09-29 |website=GUILTY GEAR Xrd REV 2 AC版公式サイト}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#白坂小梅|白坂小梅]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20089 |title=白坂 小梅(しらさか こうめ) |access-date=2022-09-29 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 三ノ輪ヒカリ、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aikatsu_dcd|1243709883062472705}}</ref> * 生年不明 - 作草部チコ、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|978802797909917697}}</ref> * 生年不明 - ルルス、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=177&cate=name&cont=Lullus |title=ルルス |access-date=2022-09-29 |publisher=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - ヘルト、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=144&cate=name&cont=Held |title=ヘルト |access-date=2022-09-29 |publisher=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref> * 生年不明 - メジロアルダン、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=mejiroardan |title=メジロアルダン |publisher=「ウマ娘 プリティーダービー」公式ポータルサイト |date= |accessdate=2022-08-10}}</ref> * 生年不明 - セト、メディアミックス『[[カゲロウプロジェクト]]』に登場するキャラクター == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|March 28|28 March}} {{新暦365日|3|27|3|29|[[2月28日]]|[[4月28日]]|[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]|0328|3|28}} {{1年の月と日}}
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3月29日
3月29日(さんがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。
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3月29日(さんがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。
{{カレンダー 3月}} '''3月29日'''(さんがつにじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から88日目([[閏年]]では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。 == できごと == [[Image:Hanoi-taxi-march1973.jpg|thumb|200px|[[ベトナム戦争]]、米軍の撤退が完了(1973)。画像は解放され帰国の途に就く米軍捕虜]] [[Image:Solar_eclipse_animate_%282006-Mar-29%29.gif|thumb|160px|[[2006年3月29日の日食|世界的な皆既日食]](2006)]] <!-- 動画 --> * [[1461年]] - [[薔薇戦争]]: [[タウトンの戦い]] * [[1792年]] - {{仮リンク|グスタフ3世暗殺事件|sv|Mordet på Gustav III|label=銃撃}}された[[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]が死去。13歳の[[グスタフ4世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ4世アドルフ]]が即位。 * [[1806年]] - [[トーマス・ジェファーソン]]米大統領が[[カンバーランド道路]]の建設を承認。 * [[1807年]] - [[ヴィルヘルム・オルバース]]が4番目の[[小惑星]][[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]を発見。 * [[1809年]] - スウェーデンで、クーデターによる臨時政府が国王グスタフ4世アドルフの王位を剥奪し、叔父のカール・ヨハン(後の国王[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]])を摂政に任命。 * [[1849年]] - [[イギリス]]が[[パンジャーブ|パンジャーブ地方]]を併合。 * [[1867年]] - イギリスの北米[[植民地]]を[[自治領]][[カナダ]]とする[[英領北アメリカ法]]が成立。 * [[1871年]] - [[ロンドン]]の[[ロイヤル・アルバート・ホール]]が開場。 * [[1872年]]([[明治]]5年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - [[東京日日新聞]](現・[[毎日新聞]])創刊。 * [[1886年]] - [[アトランタ]]の薬剤師[[ジョン・ペンバートン]]が[[コカ・コーラ]]を初めて製造する。 * [[1894年]] - [[甲午農民戦争]](東学党の乱){{要検証|date=2010年3月|title=何の日付か不明です}} * [[1897年]] - 日本で[[金本位制]]の[[貨幣法]]が公布。 * [[1900年]] - 衆議院議員選挙法改正。選挙権がそれまでの直接国税15円以上から10円以上に引き下げられる。 * [[1911年]] - 日本初の[[労働法]]である[[工場法 (日本)|工場法]]が公布。 <!--[[普通選挙法]]の記述と相違 * [[1925年]] - 日本で[[普通選挙法]]成立。 --> <!-- 翌日の就任で書く * [[1930年]] - [[ドイツ]]の首相に[[ハインリッヒ・ブリューニング]]が任命される。 --> <!-- 3月27日~29日。3月27日で記述済み * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ペロポネソス半島]]沿岸で[[マタパン沖海戦]]が発生し、イギリスと[[イタリア]]の海軍が交戦。 --> * [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]: ドイツの[[V1飛行爆弾]]によるイギリス本土への攻撃が終息。 * [[1951年]] - 日本の[[衆議院]]本会議で、革命を賞賛して議会政治を否認する発言をしたとして[[川上貫一]]議員の[[除名#日本の議員の除名|除名]]処分を決定。 * [[1961年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第23条]]の批准が成立。 * [[1967年]] - [[恵庭事件]]: 第1審の[[札幌地方裁判所|札幌地裁]]が被告人全員の無罪判決。[[検察官]]が上訴をせず確定。 * [[1969年]] - [[東京メトロ東西線|営団地下鉄東西線]][[東陽町駅]] - [[西船橋駅]]間が全線開業。快速運転を開始。 * [[1971年]] - [[1968年]]の[[ソンミ村虐殺事件]]の軍事法廷で、[[ウィリアム・カリー (軍人)|ウィリアム・カリー]]中尉に終身刑、他の13人に無罪の判決。 * [[1973年]] - [[ベトナム戦争]]: [[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]の最後の兵士が[[ベトナム共和国|南ベトナム]]から撤退。 * [[1974年]] - アメリカの宇宙探査機「[[マリナー10号]]」が史上初の[[金星]]による[[スイングバイ]]を実施。 * [[1981年]] - 第1回[[ロンドンマラソン]]開催。[[今市4人殺傷事件]]発生。 * [[1982年]] - [[インド]]で[[テルグ・デサム党]]結成。 * 1982年 - メキシコ南部の火山[[エルチチョン]]が大噴火。死者150人以上。 * 1982年 - [[スティービー・ワンダー]]と[[ポール・マッカートニー]]のシングル「[[エボニー・アンド・アイボリー|Ebony and Ivory]]」がリリース。 * [[1987年]] - 北海道の[[日本国有鉄道|国鉄]][[羽幌線]]がこの日限りで廃止。国鉄時代最後の廃止路線。<!-- 最終運転日で記載 --> * [[1989年]] - [[女子高生コンクリート詰め殺人事件]]が発覚。 * 1989年 - 群馬県のJR[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾線]]が[[第三セクター鉄道]]・[[わたらせ渓谷鐵道]]に転換。 * [[1993年]] - [[フランス]]首相に[[エドアール・バラデュール]]が就任。 * [[1999年]] - [[ニューヨーク証券取引所]]の[[ダウ平均株価]]が初めて10,000ドルを突破。 * [[2004年]] - [[エストニア]]、[[スロバキア]]、[[スロベニア]]、[[ブルガリア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]、[[ルーマニア]]が[[北大西洋条約機構]] (NATO) に正加盟。 * 2004年 - [[アイルランド]]が、世界で初めて全ての公共の場所での喫煙を禁止。 * [[2006年]] - [[南アメリカ]]、[[北アフリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[西アジア|西]]・[[中央アジア]]で[[皆既日食]]観測(詳細は[[2006年3月29日の日食]])。 * [[2010年]] - [[モスクワ地下鉄爆破テロ (2010年)|モスクワ地下鉄爆破テロ]]が起こる<ref>{{Cite web|和書|date=2010年3月30日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2714786 |title=モスクワ地下鉄の自爆攻撃、「首謀組織をせん滅する」ロシア首脳 |work=AFPBB News |publisher=フランス通信社 |accessdate=2018-04-07}}</ref>。 * [[2016年]] - 日本で[[平和安全法制]]が施行<ref>{{Cite web|和書|date=2017年5月19日 |url=https://www.kantei.go.jp/jp/headline/heiwa_anzen.html |title=「なぜ」、「いま」、平和安全法制か? |publisher=首相官邸 |accessdate=2018-04-07}}</ref>。 * [[2017年]] - [[テリーザ・メイ]]首相が[[イギリスの欧州連合離脱]]の手続き開始を宣言する<ref>{{Cite web|和書|date=2017年3月30日 |url=http://www.bbc.com/japanese/39440032 |title=英政府、ブレグジット通知 関連法撤廃へ |publisher=BBC |accessdate=2018-04-07}}</ref>。 * [[2018年]] - [[東京ミッドタウン日比谷]]が開業<ref>{{Cite web|和書|date=2018-03-29 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28750930Z20C18A3TJ2000/ |title=「起業の聖地」にも狙い ミッドタウン日比谷開業 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-04-07}}</ref>。 <!-- 死亡記事は忌日節に記載してください --> == 誕生日 == <!--[[Image:John Dickinson - Paper manufacturer.jpg|thumb|upright|連続で紙を漉く機構を発明した[[発明家]][[ジョン・ディキンソン]](1782-1869)誕生]]--> [[Image:Battle_of_Liaoyang.jpg|thumb|300px|[[日露戦争]]時の[[ロシア]]満州軍総司令官、[[アレクセイ・クロパトキン]](1848-1925)誕生]] [[Image:Cy Young 1 MLB HOF.jpg|thumb|upright|[[メジャーリーグ]]で史上最多の511勝を挙げた投手[[サイ・ヤング]](1867-1955)]] [[Image:Indiagatedelhi.JPG|thumb|180px|[[ニューデリー]]の[[都市計画]]にも携わった[[建築家]][[エドウィン・ラッチェンス]](1869-1944)。画像は<!--ニューデリーの-->インディア・ゲート]] [[Image:Ernst_Juenger_inSG.jpg|thumb|upright|[[マジックリアリズム|魔術的リアリズム]]の作家[[エルンスト・ユンガー]](1895-1998)]] <!--[[Image:Manowar1920.jpg|thumb|upright|『[[20世紀のアメリカ名馬100選]]』の1位にも選ばれたアメリカ合衆国の名競走馬[[マンノウォー]](1917-1947)]]--> <!--[[Image:09-02-06-OriginalWaltons.jpg|thumb|upright|世界最大の[[小売業]][[ウォルマート]]の創業者[[サム・ウォルトン]](1918-1992)。画像はウォルトンの最初の店]]--> [[Image:John_Major_1996.jpg|thumb|upright|[[イギリス]]の第72代首相[[ジョン・メージャー]](1943-)、空中ブランコ乗りの息子として生まれる]] <!-- [[Image:VangelisElGrecopremiereDE2.jpg|thumb|upright|映画音楽などで多大な業績を残している作曲家[[ヴァンゲリス]](1943-)]] [[Image:Michael_Brecker_Munich_2001.JPG|thumb|upright|[[フュージョン]]のサックス奏者[[マイケル・ブレッカー]](1949-2007)]] --> [[Image:Jun_Murai_20091031.jpg|thumb|upright|[[JUNET]]と[[WIDEプロジェクト]]を設立した日本の[[インターネット]]の草分け的存在、[[計算機科学|計算機科学者]][[村井純]](1955-)]] === 人物 === * [[1477年]]([[文明 (日本)|文明]]9年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[大内義興]]{{要出典|date=2021-03}}、[[戦国大名]](+ [[1529年]]) * [[1501年]]([[文亀]]元年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[村上義清]]{{要出典|date=2021-04}}、[[戦国大名]](+ [[1573年]]) * [[1561年]] - [[サントーリオ・サントーリオ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Santorio-Santorio Santorio Santorio Italian physician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[医学者]](+ [[1636年]]) * [[1633年]]([[寛永]]10年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]) - [[松平乗久]]、初代[[肥前国]][[唐津藩|唐津藩主]](+ [[1686年]]) * [[1658年]]([[万治]]元年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[室鳩巣]]、[[儒教|儒学者]](+ [[1734年]]) * [[1673年]]([[寛文]]13年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[南部通信]]、第3代[[陸奥国]][[八戸藩|八戸藩主]](+ [[1716年]]) * [[1769年]] - [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]、[[軍人]](+ [[1851年]]) * [[1774年]]([[安永]]3年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[藤田幽谷]]、儒学者(+ [[1826年]]) * [[1782年]] - [[ジョン・ディキンソン (発明家)|ジョン・ディキンソン]]、[[発明家]](+ [[1869年]]) * [[1790年]] - [[ジョン・タイラー]]、第10代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1862年]]) * [[1799年]] - [[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1869年]]) * [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[萩原広道]]、[[国学|国学者]]、[[歌人]](+ [[1863年]]) * [[1821年]] - [[カール・グスタフ・アドルフ・クニース]]、[[経済学者]](+ [[1898年]]) * [[1824年]] - [[ルートヴィヒ・ビューヒナー]]、[[自然科学者]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1899年]]) * [[1826年]] - [[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、[[社会主義|社会主義者]](+ [[1900年]]) * [[1840年]]([[天保]]11年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]) - [[松平直克]]、第7代[[武蔵国]][[川越藩|川越藩主]]・[[前橋藩|前橋藩主]](+ [[1897年]]) * [[1843年]](天保14年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - [[増山正同]]、第8代[[伊勢国]][[長島藩|長島藩主]]・[[子爵]](+ [[1887年]]) * [[1848年]] - [[アレクセイ・クロパトキン]]、軍人(+ [[1925年]]) * [[1849年]] - [[ジョージ・ホール (野球)|ジョージ・ホール]]、[[プロ野球選手]](+ [[1923年]]) * [[1853年]] - [[エリフ・トムソン]]、[[電気工学|電気工学者]]、[[発明家]](+ [[1937年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[和井内貞行]]、[[養魚|養魚家]](+ [[1922年]]) * [[1867年]] - [[サイ・ヤング]]、プロ野球選手(+ [[1955年]]) * [[1869年]] - [[エドウィン・ラッチェンス]]、[[建築家]](+ [[1944年]]) * [[1880年]] - [[ロジーナ・レヴィーン]]、[[ピアニスト]]、ピアノ教師(+ [[1976年]]) * [[1884年]] - [[阿部眞之助]]、[[政治評論家]]、第9代NHK会長(+ [[1964年]]) * [[1889年]] - [[ワーナー・バクスター]]、[[俳優]](+ [[1951年]]) * [[1895年]] - [[エルンスト・ユンガー]]、[[作家]]、[[思想家]](+ [[1998年]]) * [[1896年]] - [[ヴィルヘルム・アッカーマン]]、[[数学者]](+ [[1962年]]) * [[1897年]] - [[太刀光電右エ門]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1952年]]) * [[1899年]] - [[ラヴレンチー・ベリヤ]]、[[政治家]](+ [[1953年]]) * [[1900年]] - [[チャールズ・エルトン]]、[[動物学者]]、[[動物]][[生態学|生態学者]](+ [[1991年]]) * [[1901年]] - [[羽仁五郎]]、[[歴史家]](+ [[1983年]]) * [[1902年]] - [[ウィリアム・ウォルトン]]、[[作曲家]](+ [[1983年]]) * 1902年 - [[マルセル・エイメ]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[童話作家]](+ [[1967年]]) * 1902年 - [[小川芳樹]]、[[金属工学|冶金学者]]、[[金属工学|金属工学者]](+ [[1959年]]) * 1902年 - [[冨澤有爲男]]、[[画家]]、作家(+ [[1970年]]) * [[1905年]] - [[村井正誠]]、画家(+ [[1999年]]) * [[1906年]] - [[小山祐士]]、劇作家(+ [[1982年]]) * [[1908年]] - [[ロバート・ウェイトン]]<ref name=spu0529>{{Cite news|url=https://sputniknews.jp/20200529/7491942.html|title=男性の世界最高齢者が死去|date=2020-05-29|accessdate=2020-11-15|newspaper=スプートニク日本ニュース}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35151716.html|title=1908年生まれの英国人、世界最高齢の男性に認定|date= 2020-04-01|accessdate=2020-10-23|newspaper=CNN}}</ref>、[[スーパーセンテナリアン]]、世界最高齢男性(+ [[2020年]]) * [[1909年]] - [[花田清輝]]、[[文芸評論家]]、小説家、劇作家(+ [[1974年]]) * [[1912年]] - [[加藤新平]]、[[法学者]](+ 1999年) * [[1913年]] - [[太田晶二郎]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1987年]]) * [[1915年]] - [[佐藤功]]、法学者(+ [[2006年]]) * [[1916年]] - [[小林茂太]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不詳) * [[1918年]] - [[サム・ウォルトン]]、[[実業家]](+ [[1992年]]) * [[1923年]] - [[本田実信]]、歴史学者(+ 1999年) * 1923年 - [[ジェフ・デューク]]、[[オートバイ競技|オートバイレーサー]](+ 2015年) * [[1927年]] - [[小泉文夫]]、[[音楽学者]](+ [[1983年]]) * 1927年 - [[ジョン・ベーン]]、[[生化学|生化学者]](+ [[2004年]]) * [[1929年]] - [[レナルト・メリ]]、政治家、作家、[[映画監督]](+ [[2006年]]) * [[1930年]] - [[浅倉久志]]、[[翻訳家]](+ [[2010年]]) * 1930年 - [[稲葉まつ子]]、[[俳優#性別での分類|女優]] * [[1933年]] - [[新橋遊吉]]、小説家(+ [[2018年]]) * [[1936年]] - [[リチャード・ロドニー・ベネット]]、作曲家(+ [[2012年]]) * 1936年 - [[岡崎恒人]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[実相寺昭雄]]、映画監督(+ [[2006年]]) * 1937年 - [[万里昌代]]、[[俳優|女優]] * [[1939年]] - [[フランシス・アグリー]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[アストラッド・ジルベルト]]、[[ボサノヴァ]]歌手(+ [[2023年]]) * [[1941年]] - [[ジョゼフ・テイラー]]、[[宇宙物理学|宇宙物理学者]] * [[1942年]] - [[緒方賢一]]、[[声優]] * 1942年 - [[嵯峨野昇]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]]) * [[1943年]] - [[エリック・アイドル]]、[[俳優]] * 1943年 - [[ジョン・メージャー]]、政治家、元イギリス首相 * 1943年 - [[ヴァンゲリス]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2022年]]) * [[1944年]] - [[デニー・マクレイン]]、元プロ野球選手 * [[1945年]] - [[ウォルト・フレイジャー]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * [[1947年]] - [[柴田国明]]、[[ボクシング]]選手 * 1947年 - [[ボビー・キンボール]]、[[ミュージシャン]]([[TOTO (バンド)|TOTO]]) * [[1948年]] - [[バッド・コート]]、[[俳優]]、[[声優]] * [[1949年]] - [[マイケル・ブレッカー]]、[[サクソフォーン]]奏者(+ [[2007年]]) * 1949年 - [[五嶋節]]、株式会社オフィスGOTO代表取締役 * [[1951年]] - [[ロジャー・マイヤーソン]]、経済学者 * [[1952年]] - [[ライナー・ボンホフ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者 * 1952年 - [[テオフィロ・ステベンソン]]、ボクシング選手 * [[1954年]] - [[梅原克彦]]、政治家、官僚、第32代[[仙台市]]長 * [[1955年]] - [[村井純]]、[[計算機科学|計算機科学者]] * 1955年 - [[大豊昌央]]、元大相撲力士、年寄8代[[荒汐部屋|荒汐]] * 1955年 - [[ブレンダン・グリーソン]]、俳優 * [[1956年]] - [[江口寿史]]、[[漫画家]] * 1956年 - [[若の富士昭一]]、元大相撲力士 * [[1957年]] - [[桂三木助 (4代目)|四代目桂三木助]]、[[落語家]](+ [[2001年]]) * 1957年 - [[クリストファー・ランバート]]、俳優 * [[1959年]] - [[有田和之]]、画家 * 1959年 - [[中村真理子]]、漫画家 * [[1960年]] - [[鶴ひろみ]]、声優(+ [[2017年]]<ref name="ori20171117">{{Cite web|和書|date=2017-11-17 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2100812/full/|title=声優・鶴ひろみさん死去 事務所が正式発表 運転中に大動脈解離|publisher=ORICON NEWS|accessdate=2020-11-23}}</ref>) * 1960年 - [[小林弘利]]、[[脚本家]]、小説家 * [[1961年]] - [[アデミール・ダ・コスタ]]、[[空手道|空手家]] * 1961年 - [[辻よしなり]]、[[アナウンサー]] * 1961年 - [[鮎川麻弥]]、[[シンガーソングライター]] * [[1963年]] - [[野沢直子]]、[[タレント]] * 1963年 - [[ジル・ワトソン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1964年]] - [[エル・マクファーソン]]、[[ファッションモデル]] * 1964年 - [[金村修]]、[[写真家]] * [[1965年]] - [[大野俊三 (サッカー選手)|大野俊三]]、元サッカー選手 * 1965年 - [[鈴木ほのか]]、女優、[[歌手]] * 1965年 - [[パラスケビ・パトリドゥ]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]] * [[1966年]] - [[中川敬]]、ミュージシャン([[ソウル・フラワー・ユニオン]]) * [[1967年]] - [[宇津本直紀]]、作曲家、[[音楽プロデューサー]](元[[DEEN]]) * 1967年 - [[横山雄二]]、[[中国放送]][[アナウンサー]] * [[1968年]] - [[黒田洋介]]、[[脚本家]] * 1968年 - [[アラン・ブディクスマ]]、バドミントン選手 * 1968年 - [[廉京燁]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[石川智晶]]、歌手([[See-Saw]]) * 1969年 - [[吉原孝介]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[キム・バッテン]]、陸上選手 * 1969年 - [[望月新一]]、数学者 * [[1971年]] - [[田中秀道]]、[[プロゴルファー]] * 1971年 - [[西島秀俊]]、俳優 * 1971年 - [[石川静 (声優)|石川静]]、[[声優]] * 1971年 - [[青山正克]]、元野球選手 * 1971年 - [[ロバート・ギブズ]]、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ホワイトハウス報道官|報道官]] * 1971年 - [[アッティラ・シハー]]、ミュージシャン * [[1972年]] - [[アレックス・オチョア]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[SAICO]]、歌手 * 1972年 - [[諏訪部順一]]、声優、ナレーター * 1972年 - [[マヌエル・ルイ・コスタ]]、元サッカー選手 * [[1973年]] - [[池田宇隆]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[マルク・オーフェルマルス]]、元サッカー選手 * [[1974年]] - [[田口宏子]]、声優 * 1974年 - [[松澤由美|松澤由実]]、声優、歌手 * 1974年 - [[田山真美子]]、元歌手、元タレント * 1974年 - [[☆Taku Takahashi]]、ミュージシャン([[m-flo]]) * [[1975年]] - [[ユール・クリス]]、アイスホッケー選手 * [[1976年]] - [[ジェニファー・カプリアティ]]、[[テニス]]選手 * 1976年 - [[浪川大輔]]、声優 ※実際の誕生日であり、戸籍上の誕生日は[[4月2日]] * 1976年 - [[桜庭あつこ]]、元タレント * 1976年 - [[ケビン・ニコルソン]]、野球選手 * 1976年 - [[スコット・アッチソン]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[曹竣揚]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[ルタ・パスカウスキエネ]]、[[卓球選手]] * 1977年 - [[高橋美津子]]、女優 * [[1978年]] - [[小野澤宏時]]、[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手 * [[1979年]] - [[篠原ともえ]]、[[歌手]]、タレント、[[ファッションデザイナー]] * 1979年 - [[廣瀬純]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[吉田裕 (お笑い芸人)|吉田裕]]、[[喜劇俳優]] * 1979年 - [[宇佐美大輔]]、[[バレーボール選手一覧|バレーボール選手]] * [[1980年]] - [[佐藤良子]]、元アナウンサー * 1980年 - [[傳田真央]]、[[歌手]] * 1980年 - [[キム・テヒ]]、女優 * 1980年 - [[元井美貴]]、[[気象予報士]] * 1980年 - [[堀内ナナ]]、元[[AV女優]] * [[1982年]] - [[滝沢秀明]]、実業家、演出家、元歌手、元俳優(元[[タッキー&翼]]) * 1982年 - [[永田杏奈]]、女優、[[タレント]] * [[1983年]] - [[嶋田美樹]]、元バレーボール選手 * 1983年 - [[鈴木亮平 (俳優)|鈴木亮平]]、俳優 * 1983年 - [[安倍慎二郎]]、声優 * [[1984年]] - [[里田まい]]、タレント、歌手(元[[カントリー娘。]]) * 1984年 - [[キラ・カアイフエ]]、プロ野球選手 * [[1985年]] - [[クリスティアネ・フュルスト]]、バレーボール選手 * [[1986年]] - [[阪田瑞穂]]、元女優(元[[美少女クラブ31]]) * 1986年 - [[佐藤唯]]、タレント、女優 * [[1987年]] - [[ヨイラン・セルセ]]、野球選手 * 1987年 - [[渡部恵子]]、声優 * [[1988年]] - [[桜子 (AV女優)|桜子]]、元AV女優 * [[1989年]] - [[吉田有希 (アイドル)|吉田有希]]、アイドル * 1989年 - [[屋宜照悟]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[ライネル・ロサリオ]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[ジェームズ・トムキンス]]、サッカー選手 * [[1990年]] - [[青柳塁斗]]、俳優 * 1990年 - [[海神みなみ]]、女優 * 1990年 - [[佐野光来]]、タレント * 1990年 - [[中里崇宏]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[伊奈川愛菓]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]] * 1991年 - [[深川麻衣]]、タレント、元アイドル(元[[乃木坂46]]) * 1991年 - [[河野大樹]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[ヘイリー・マクファーランド]]、女優 * 1991年 - [[ペ・ジュヒョン]]、アイドル ([[Red Velvet]]) * [[1992年]] - [[モーガン・フィギンズ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1994年]] - [[上原健太 (野球)|上原健太]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[友寄蓮]]、女優 * 1995年 - 井口栞里、タレント、元アイドル(元[[SKE48]]) * [[1996年]] - [[石丸千賀]]、元アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]]) * [[1997年]] - [[水野翔]]、元[[騎手]] * 1997年 - 和田海佑、アイドル([[NMB48]]) * [[1998年]] - [[小西桜子]]、女優 * [[1999年]] - [[柏木ひなた]]、アイドル(元[[私立恵比寿中学]]) * 1999年 - 福田朱里、アイドル([[STU48]]) * [[2000年]] - [[江籠裕奈]]、アイドル(SKE48) * 2000年 - [[松島海斗]]、俳優 * 2000年 - [[岡田桃香]]、元女子プロ野球選手 * [[2002年]] - 工藤理子、アイドル(STU48) * 2002年 - 中廣弥生、元アイドル(元STU48) * [[2008年]] - [[住田萌乃]]、女優(元[[パプリカ (曲)#Foorin|Foorin]]) * 生年不詳 - [[相本結香]]、[[声優]] * 生年不明 - [[小笠原早紀]]、声優 * 生年不明 - [[仲台吉一]]、声優 === 人物以外(動物など) === * [[1917年]] - [[マンノウォー]]、[[競走馬]](+ [[1947年]]) * [[1987年]] - [[エイシンサニー]]、競走馬(+ [[2021年]]) * [[1992年]] - [[ベストタイアップ]]、競走馬(+ [[2016年]]) * [[1995年]] - [[ダンツシリウス]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000293493/ |title= ダンツシリウス |work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2020-12-03}}</ref>、競走馬(+ [[2008年]]) * [[2001年]] - [[ブラックタイド]]、競走馬、[[種牡馬]] * [[2003年]] - [[アクシオン (競走馬)|アクシオン]]、競走馬(+ [[2013年]]) == 忌日 == <!--[[Image:Emperor_Go-Murakami.jpg|thumb|upright|南朝の第2代天皇、[[後村上天皇]](1328-1368)没]]--> <!--[[Image:Swedenborg%27s_grave.jpg|thumb|upright|神秘主義者[[エマヌエル・スヴェーデンボリ]](1688-1772)没]]--> [[Image:Gustav III by Alexander Roslin - torso (Nationalmuseum, 15330).png|thumb|upright|スウェーデン王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]](1746-1792)、3週間前に受けた銃撃により没]] [[Image:Georges_Seurat_-_Un_dimanche_apr%C3%A8s-midi_%C3%A0_l%27%C3%8Ele_de_la_Grande_Jatte.jpg|thumb|250px|[[点描]]を用いた[[新印象派]]の画家[[ジョルジュ・スーラ]](1859-1891)没。画像は『[[グランド・ジャット島の日曜日の午後]]』(1884-86)]] * [[1368年]]([[正平 (日本)|正平]]23年/[[応安]]元年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[後村上天皇]]、第97代[[天皇]](* [[1328年]]) * [[1461年]] - [[ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]、[[イングランド]]の[[貴族]](* [[1421年]]) * [[1772年]] - [[エマヌエル・スヴェーデンボリ]]、[[思想家]](* [[1688年]]) * [[1792年]] - [[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](* [[1746年]]) * [[1826年]] - [[ヨハン・ハインリッヒ・フォス]]、[[詩人]](* [[1751年]]) * [[1877年]] - [[稲妻雷五郎]]、[[大相撲]]第7代[[横綱]](* [[1802年]]) * [[1888年]] - [[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]、[[作曲家]](* [[1813年]]) * [[1891年]] - [[ジョルジュ・スーラ]]、[[画家]](* [[1859年]]) * [[1892年]] - [[バハーウッラー]]、[[バハイ教]]の祖(* [[1817年]]) * [[1912年]] - [[ロバート・スコット]]、[[南極]]探検家(* [[1868年]]) * [[1924年]] - [[チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード]]、作曲家(* [[1852年]]) * [[1931年]] - [[鈴木三郎助]]、[[味の素]]創業者(* [[1867年]]) * [[1932年]] - [[フィリッポ・トゥラーティ]]、[[社会主義]]運動家(* [[1857年]]) * [[1937年]] - [[フョードル・ケーネマン]]、[[ピアニスト]]、作曲家(* [[1873年]]) * [[1939年]] - [[カロル・シマノフスキ]]、作曲家(* [[1882年]]) * 1939年 - [[立原道造]]、[[詩人]](* [[1914年]]) * [[1945年]] - [[嶋清一]]、[[野球選手]](* [[1920年]]) * 1945年 - [[易作霖]]、[[教育関係人物一覧|教育者]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](* [[1897年]]) * [[1947年]] - [[ウィリアム・ベリマン・スコット]]、[[古生物学|古生物学者]](* [[1858年]]) * [[1964年]] - [[井田磐楠]]、[[政治家]](* [[1881年]]) * [[1965年]] - [[北村一男]]、政治家(* [[1897年]]) * [[1970年]] - [[ハーバート・ハロルド・リード]]、[[地質学|地質学者]](* [[1889年]]) * [[1980年]] - [[マントヴァーニ]]、[[イージーリスニング]][[編曲|編曲者]]、[[指揮者]](* [[1905年]]) * [[1982年]] - [[カール・オルフ]]、作曲家(* [[1895年]]) * 1982年 - [[ネーサン・ファラガット・トワイニング]]、[[アメリカ統合参謀本部議長]](* [[1897年]]) * [[1985年]] - [[スール・スーリール]]、[[歌手]](* [[1933年]]) * 1985年 - [[成田啓二]]、元[[プロ野球選手]](* [[1919年]]) * [[1986年]] - [[川又克二]]、[[実業家]](* [[1905年]]) * [[1988年]] - [[宮城宗典]]、ミュージシャン([[ヒルビリー・バップス]])(* [[1965年]]) * [[1994年]] - [[香川登志緒]]、[[放送作家]](* [[1924年]]) * [[1995年]] - [[松田尚之]]、[[彫刻家]](* [[1898年]]) * [[1997年]] - [[小林吉雄]]、元プロ野球選手(* [[1919年]]) * [[2001年]] - [[ジョン・ルイス (ジャズ演奏者)|ジョン・ルイス]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* [[1920年]]) * 2001年 - [[山本浩二 (バスケットボール)|山本浩二]]、元バスケットボール選手、指導者(* [[1952年]]) * [[2003年]] - [[カルロ・ウルバニ]]、[[重症急性呼吸器症候群|SARS]]を新病と初めて認定した[[医師]](* [[1956年]]) * [[2007年]] - [[トシオ・ナカヤマ]]、[[ミクロネシア連邦の大統領|ミクロネシア連邦大統領]](* [[1931年]]) * 2007年 - [[成毛滋]]、[[ギタリスト]](* [[1947年]]) * [[2009年]] - [[中西勝己]]、元プロ野球選手(* [[1935年]]) * [[2010年]] - [[高須シヅ]]、産婦人科医、美容外科医(* [[1944年]]) * 2010年 - [[チェ・ジニョン]]、俳優、歌手(* [[1970年]]) * [[2015年]] - 大城公人、俳優、ミュージシャン([[HIROZ]]、[[HIROZ SEVEN+]])(* [[1985年]]) * 2015年 - [[近藤次郎]]、航空工学者(* [[1917年]]) * 2015年 - [[吉野文六]]、[[外交官]](* [[1918年]]) * [[2017年]] - {{仮リンク|劉慕沙|zh|劉慕沙}}<ref>{{Cite web|和書|date=2017-03-30 |url=https://web.archive.org/web/20170330094249/http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201703300006.aspx |title=翻訳家・劉慕沙さん死去 川端康成や吉本ばななの作品手掛ける/台湾 |publisher=中央社フォーカス台湾 |accessdate=2017-04-03}}</ref>、翻訳家(* [[1935年]]) * [[2020年]] - [[クシシュトフ・ペンデレツキ]]、作曲家、指揮者(* [[1933年]]) * 2020年 - [[志村けん]]<ref name=tvasahi>{{Cite news|title=新型コロナで志村けんさん死去 急逝に驚きと悲しみ|newspaper=[[テレビ朝日]]|date=2020-3-30|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000180414.html|accessdate=2020-11-18}}</ref>、コメディアン([[ザ・ドリフターズ]])(* [[1950年]]) * 2020年 - [[山本博文]]<ref name="asahi">{{Cite news|title=東大史料編纂所教授の山本博文さん死去 テレビでも活躍|url=https://www.asahi.com/articles/ASN3Y62WXN3YUCLV001.html|newspaper=朝日新聞社|date=2020-3-29|accessdate=2020-11-03}}</ref>、歴史学者(* [[1957年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Marimo lake akann.jpg|thumb|240px|[[マリモ]]の日]] * {{仮リンク|青年節 (台湾)|zh|革命先烈紀念日|label=青年節}}(革命先烈紀念日)({{ROC}}) *: [[1954年]]から実施。[[1911年]][[3月29日 (旧暦)|旧暦3月29日]]([[4月27日]])の反清武装蜂起「[[黄花崗起義]]」(三・二九広州起義)を記念。 * マリモの日({{JPN}}) *: [[1952年]]3月29日に、[[北海道]][[阿寒湖]]の[[マリモ]]が国の[[特別天然記念物]]に指定されたことから。 * 八百屋お七の日({{JPN}}) *: [[天和 (日本)|天和]]3年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[1683年]][[4月25日]])、恋人を思うあまりに[[放火]]した[[八百屋]]の娘[[八百屋お七|お七]]が火刑に処されたことに由来。 * ラヴィットの日({{JPN}}) *: [[令和]]3年3月29日に、[[TBS]]系列情報バラエティ番組『[[ラヴィット!]]』が放送開始した事にちなみ、同番組の一周年記念に日本記念日協会に申請し登録された事を同日の生放送で発表した。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0329|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * [[1972年]] - [[ジョー・ヒガシ|ジョー・東]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1111281793229946881}}</ref> * 生年不明 - 塩江修子、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/shionoe_shuko |title=香川 塩江修子 |access-date=2023-01-10 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref> * 生年不明 - 富士一平、漫画『[[すすめ!!パイレーツ]]』シリーズに登場するキャラクター * 生年不明 - 地獄の番犬座のダンテ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=20 |title=地獄の番犬座(ケルベロス)のダンテ |access-date=2023-01-10 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』}}</ref> * 生年不明 - オースチン・オブライエン、漫画・アニメ『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 羅砂(四代目風影)、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史 |authorlink=岸本斉史 |year=2002 |title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page=58 |publisher=[[集英社]] |series=[[ジャンプ・コミックス]] |isbn=4-08-873288-X}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史 |year=2005 |title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |publisher=集英社 |series=ジャンプ・コミックス |page=67 |isbn=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - レニー・エプスタイン、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author= 星野桂|authorlink=星野桂 |year = 2008 |title = D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page = 105 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-874248-9 }}</ref> * 生年不明 - 春菜寿、漫画・アニメ『[[らいか・デイズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 虎金井天下、漫画・アニメ『[[すもももももも 地上最強のヨメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |year=2006 |title=すもももももも 〜地上最強のヨメ〜 GUIDE BOOK |page=68 |publisher=[[スクウェア・エニックス]] |series=ガイドブック |isbn=4-7575-1771-8}}</ref> * 生年不明 - 因幡聡明、漫画・アニメ『[[キューティクル探偵因幡]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 川添珠姫、漫画・アニメ『[[BAMBOO BLADE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 森下こよみ、小説・漫画・アニメ『[[よくわかる現代魔法]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 千明ちあき(アルミナム・バルキリー)、小説・アニメ『[[アクセル・ワールド]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 紅月カレン、アニメ『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|geass_gr|1508458904077824000}}</ref> * 生年不明 - 枇々木丈(G-89)、アニメ『[[ガッチャマン クラウズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 藤堂香澄、ゲーム『[[龍虎の拳]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1111284308273217536}}</ref> * 生年不明 - 楠木翔子、ゲーム『[[ダブルキャスト (ゲーム)|ダブルキャスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=ザ・プレイステーション編集部 |author2=アミューズメント書籍編集部 |title=「やるドラ」攻略シリーズ ダブルキャスト 公式ガイド |series=The PlayStation BOOKS |publisher=[[SBクリエイティブ|ソフトバンク 出版事業部]] |language=ja |date=1998-07-15 |page=28 |isbn=4-7973-0678-5}}</ref> * 生年不明 - 真白友也、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!|あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/mashiro_tomoya/ |title=真白友也 |publisher=Happy Elements |accessdate=2023-01-09 |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref> * 生年不明 - アルゴン、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sb69g|1129658127282974720}}</ref> * 生年不明 - 北門倫毘沙、メディアミックス『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://bpro-official.com/artists/kitakore/ |title=キタコレ 北門倫毘沙 |publisher=B-PROJECT |accessdate=2023-01-09 |work=『B-PROJECT』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons&cat|March 29|29 March}} {{新暦365日|3|28|3|30|([[2月29日]]、[[閏年]])|[[4月29日]]|[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]|0329|3|29}} {{1年の月と日}}
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セレッソ大阪
セレッソ大阪(、西: Cerezo Osaka)は、日本の大阪府大阪市、堺市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 1957年創部のヤンマーディーゼルサッカー部が前身となり、1995年にJリーグへ加盟した。ホームスタジアムはヨドコウ桜スタジアム 。チーム名の「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語で「桜」という意味。桜は大阪の「市花」で、大阪市全体を、そして日本を代表するチームになるようにという願いが込められている。ホームタウンは加盟当初より2013年までは大阪市一市であったが、2014年に堺市が追加された。 ユニフォームは桜をモチーフにしたピンク色が採用されており、メインカラーが同色であることは世界的に珍しい。他にはパレルモFCやインテル・マイアミCFなどがある。 マスコットは狼の「ノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ」(愛称ロビー。"高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家のオオカミの息子"という意味がある)。2008年より、ロビーの母親として「エレガンテ・エスプレンディーダ・マダマ・ロビーナ・デ・セレッソ」(愛称マダム・ロビーナ、「優雅で華麗な、由緒あるセレッソ家の“オオカミの令夫人”」という意味)が加わった。 なお、ガンバ大阪、FC大阪などと区別するため「C大阪」(CはCerezoの頭文字)や「セ大阪」などと略記される。 かつては上位争いをした翌年にJ2に降格した事が3度あったが、2017年以降はJ1に定着し安定した成績を残している。 前身は1957年創部のヤンマーディーゼルサッカー部。日本サッカーリーグ(JSL)で4回、JSLカップで2回、天皇杯で3回それぞれ優勝した。 こちらのページも参照。 こちらのページも参照。 ホームスタジアムはヨドコウ桜スタジアム(長居球技場)である。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「セレッソ大阪の年度別成績一覧#年度別入場者数」を参照のこと。 トップチームのトレーニングは2013年から舞洲スポーツアイランドの「セレッソ大阪スポーツクラブ クラブハウス・グラウンド」を使用している。この練習場は既存の舞洲球技場を大阪市から賃貸し、天然芝化やクラブハウスの新設などしたもの で、天然芝2面・新設の人工芝1面があり、下部組織チームも使用している。 なお、2012年まで練習場として使用していた南津守さくら公園スポーツ広場はセレッソ大阪堺レディースやアカデミーが使用している。また2010年以降は毎年9月中旬から約1か月間行う天然芝の養生期間に限りJ-GREEN堺を使用することもある。以前は舞洲島内北部にあった旧・舞洲グラウンド(現在の施設とは別の場所・2010年4月閉鎖)や尼崎市のヤンマーグラウンド(現在は下部組織チームが使用)も使用していた。 セレッソ大阪U-23(セレッソおおさか・アンダートゥエンティースリー、略称表記:C大23)は、2016年から2020年にかけてJ3リーグ(J3)に参加していた、セレッソ大阪所属の23歳以下の選手で構成されるサッカーチーム(U-23チーム)。 2015年12月15日、Jリーグの理事会において2016年シーズンよりJ1・J2クラブの「U-23チーム」がJ3に参加することが発表され、初年度参加チームの一つとして承認された。「タフな試合環境の中でトップチームを担う次の才能を開花させる」との思いを込めて、SAKURA NEXT(サクラ・ネクスト)という独自愛称が与えられている。 U-23を育成の一番上のカテゴリー(もしくは育成とトップチームの間)として位置づけ、トップチームと別に練習を行ってチームの育成を図っている。 日刊スポーツが2019年7月16日付 の記事で、Jリーグが2020年を最後としてU-23チームの参戦を終了させる方向である見込みと報じたとおり、「セレッソ大阪U-23」は2020年シーズンをもってJ3リーグへの参加およびチーム活動を終了した。 初年度の監督には、2014年シーズン途中からトップチームの指揮を執り、2015年にはアカデミー(U-18)の監督を務めた大熊裕司が就任。また、初年度では若手がトップチームに上がることが少なかったが、序盤戦にオーバーエージ枠で出場していた清原翔平がトップチームに這い上がった。 大熊体制2年目。開幕戦では瀬古歩夢、喜田陽といった高校1年生も選ばれ、平均年齢17歳で挑んだ。また、序盤こそは選手の入れ替わりがあって苦しんだが、斧澤隼輝、西本雅崇がトップに絡み、ユースの小林洵が試合を重ねて成長をした。 大熊体制3年目。第3節から第12節にかけて10戦負け無し(5勝5分)を記録し一時は2位にも入った。その後は2度の連敗もあって順位を落とすが、第23節から第26節にかけて4連勝を記録するなど、最終的にはチーム発足後初めて勝利数が敗戦数を上回り、順位も過去最高の7位でシーズンを終えた。個人では、米澤令衣が得点ランク6位の12ゴールを記録する活躍を見せた。 大熊体制4年目。序盤から好調を維持し、第6節では首位に立った。最終的には前年の過去最高順位を更新して、6位でフィニッシュした。 「-」:改修中につき閉鎖 ユニフォームデザイン及びユニフォームのサプライヤーはトップチームと同じ。 セレッソ大阪のアカデミーは、各年代別日本代表にも多くの選手を輩出しており、アカデミー出身の柿谷曜一朗や山口蛍、扇原貴宏、杉本健勇、南野拓実らが日本代表に選ばれている。また、セレッソ大阪の育成組織である「ハナサカクラブ」にも注目が向けられている。 2016年から長期的な「SAKURA SPECTACLE」というクラブ哲学が発表され、アカデミーの名称をスペイン語で「セレッサ」と呼ぶことになった。 2021年、風間八宏が技術委員に就任しアカデミーの育成方針が変更された。同年8月からは、おおむね月1回のペースで、小学生から高校生までの各年代のチーム、ヤンマーレディース(2023年のプロ化に伴って改名)やその下部組織選手らから選ばれた選手が同じグラウンドに集まり、ボールを「止める」「蹴る」といった基本動作から、技術を高め、個の力をつけるための特別なトレーニングに取り組んでいる。また、その年代・性別バラバラの選手でチームを組み、対外試合を行っている。 2022年夏、クラブユースの全てのカテゴリーを制覇し、史上初のクラブユース三冠を達成したアカデミーとなった。8月3日、日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会でセレッソ大阪U-18が優勝。8月8日、日本クラブユース 女子サッカー大会(U-18)でセレッソ大阪堺ガールズが初優勝。8月24日にはセレッソ大阪U-15が日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会で初優勝。 セレッソ大阪のアカデミーは年代別の選抜チームとして、第2種(高校生年代)の「U-18」、第3種(中学生年代)の「U-15」、「西U-15」、「和歌山U-15」、第4種(小学生年代)の「U-12」がある。これらは、次のようなピラミッド構造を形成している。 2009年にはレディースU-15(セレッソ大阪レディース)が設立され、2013年よりなでしこリーグ2部相当の「なでしこチャレンジリーグ」参入を果たすなど、女子選手の育成にも力を入れている。 ハナサカクラブは、セレッソ大阪の育成組織をサポートすることを目的に設立した育成サポートクラブ(個人協賛会)で、2007年に発足した。個人や団体などから年度ごとに会費を募り、合宿や遠征、練習試合、食事などの費用補助にする。ハナサカクラブの会費はクラブ運営費とは完全に分けられ、育成組織の活動をサポートするためのみに活用される。 ユースを含めたすべての育成組織のチームは2012年より、セレッソ大阪スポーツクラブが運営している。 セレッソ大阪の決算は、つぎのとおり。 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010 金額の単位:百万円 人件費は事業費に含まれる。 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2011、 2012、 2013、 2014、 2015 金額の単位:百万円 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2016 金額の単位:百万円 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 2005、 2006、 2007、 2008、 2009、 2010、 2011、 2012、 2013、 2014、 2015、 2016 金額の単位:百万円
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セレッソ大阪(セレッソおおさか、は、日本の大阪府大阪市、堺市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグに加盟するプロサッカークラブ。
{{出典の明記|date=2016年2月}} {{サッカークラブ |font-color = #fff |background-color = #FA1A82 |border-color = #1E2380 |原語表記 = セレッソ大阪 |呼称 = セレッソ大阪 |愛称 = セレッソ、桜 |カラー = {{color box|#FA1A82}} ピンク<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/club/cosaka|title=プロフィール:セレッソ大阪|work=[[日本プロサッカーリーグ]]|accessdate=2022-5-16}}</ref> <br/>{{color box|#133068}} ネイビー |創設 = 1957 |リーグ = [[日本プロサッカーリーグ]] |ディビジョン = [[J1リーグ]] |クラブライセンス = J1 |ホームタウン = [[大阪府]][[大阪市]]、[[堺市]]<ref name="jleague" /> |スタジアム = [[ファイル:NagaiBallField220226.jpg|center|220px]][[長居球技場|ヨドコウ桜スタジアム]]<ref name="jleague" /> |キャパ = 24,481<ref name="jleague" /> |法人名 = 株式会社セレッソ大阪<ref name="jleague" /> |代表 = {{Flagicon|JPN}} [[森島寛晃]]<ref name="jleague" /> |監督 = {{Flagicon|JPN}} [[小菊昭雄]] <ref name="jleague" /> |HP = https://www.cerezo.jp/ |pattern_la1 = _cerezo osaka 2023 HOME FP |pattern_b1 = _cerezo osaka 2023 HOME FP |pattern_ra1 = _cerezo osaka 2023 HOME FP |pattern_sh1 = _cerezo osaka 2023 HOME FP2 |pattern_so1 = _cerezo osaka 2022 HOME FP 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web|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/wp-content/themes/j_corp/assets/pdf/club-r2kaiji_1_20210729.pdf|title=2020年度 クラブ決算一覧|work=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2022-5-16}}</ref> |発行済株式総数 = |売上高 = 29億1,500万円 (2021年1月期)<ref name="jl2020" /> |営業利益 = ▲6億6,400万円 (2021年1月期)<ref name="jl2020" /> |経常利益 =▲6億5,700万円 (2021年1月期)<ref name="jl2020" /> |純利益 = ▲8億0,100万円 (2021年1月期)<ref name="jl2020" /> |純資産 = ▲7億8,800万円 (2021年1月期)<ref name="jl2020" /> |総資産 = 5億4,500万円 (2021年1月期)<ref name="jl2020" /> |従業員数 = |決算期 = 1月期 |主要株主 = [[日本ハム]]<ref name="company"/><br />[[ヤンマー#関連会社|セイレイ興産]]<ref name="company"/> 他 |主要子会社 = [[セレッソ大阪スポーツクラブ]] |関係する人物 = |外部リンク = https://www.cerezo.jp/ |特記事項 = 2018年5月17日に大阪サッカークラブ株式会社から商号変更。 }} {{読み仮名|'''セレッソ大阪'''|セレッソおおさか|{{lang-es-short|Cerezo Osaka}}}}は、[[日本]]の[[大阪府]][[大阪市]]、[[堺市]]をホームタウンとする<ref name="jleague" />、[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 == 概要 == 1957年創部の'''[[ヤンマーディーゼルサッカー部]]'''が前身となり<ref name="jleague" />、1995年にJリーグへ加盟した<ref name="jleague" />。ホームスタジアムは[[長居球技場|ヨドコウ桜スタジアム]]<ref name="jleague" /> 。チーム名の「セレッソ({{lang|es|Cerezo}})」は[[スペイン語]]で「[[桜]]」という意味<ref name="jleague" />。桜は大阪の「市花」で、大阪市全体を、そして日本を代表するチームになるようにという願いが込められている<ref name="jleague" />。ホームタウンは加盟当初より2013年までは[[大阪市]]一市であったが、2014年に[[堺市]]が追加された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/sports/watching_games/cerezo-home2.html|title=セレッソ大阪|publisher=[[堺市]]|date=2022-5-9|accessdate=2022-5-16}}</ref>。 ユニフォームは桜をモチーフにしたピンク色が採用されており、メインカラーが同色であることは世界的に珍しい<ref>{{Cite web|和書|url=https://football-tribe.com/japan/2019/04/19/111098/|title=珍しいカラー?ピンクのベストユニフォームはどれだ!?|publisher =FOOTBALL TRIBE|accessdate=2022-09-08}}</ref>。他には[[パレルモFC]]や[[インテル・マイアミCF]]などがある。 [[マスコット]]は[[オオカミ|狼]]の「[[ノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ]]」(愛称ロビー。"高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家のオオカミの息子"という意味がある)。2008年より、ロビーの母親として「エレガンテ・エスプレンディーダ・マダマ・ロビーナ・デ・セレッソ」(愛称マダム・ロビーナ、「優雅で華麗な、由緒あるセレッソ家の“オオカミの令夫人”」という意味)が加わった。 なお、[[ガンバ大阪]]、[[FC大阪]]などと区別するため「C大阪」(Cは{{lang|es|Cerezo}}の頭文字)や「セ大阪」などと略記される。 かつては上位争いをした翌年にJ2に降格した事が3度あったが、2017年以降はJ1に定着し安定した成績を残している<ref>{{Cite web|和書|url=https://data.mobaj.net/club/cosaka |title=セレッソ大阪 成績一覧 |publisher = |accessdate=2023-09-24}}</ref>。 == 歴史 == === 前身 === {{main|ヤンマーディーゼルサッカー部}} 前身は1957年創部の[[ヤンマーディーゼルサッカー部]]<ref name="jleague" />。[[日本サッカーリーグ]](JSL)で4回、[[JSLカップ]]で2回、[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]で3回それぞれ優勝した。 === 1993年 - 1994年(JFL) === *1993年 - '''ヤンマーディーゼルサッカー部'''を母体としてセレッソ大阪が発足<ref name="jleague" />。 **12月6日 - 大阪・中之島の[[リーガロイヤルホテル]]にて[[ヤンマー|ヤンマーディーゼル(現・ヤンマー)]]・[[日本ハム]]・[[カプコン]]などの共同出資による新運営会社「'''大阪サッカークラブ株式会社'''(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「'''セレッソ大阪'''」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった[[鬼武健二]]が就任。 *1994年 - [[パウロ・エミリオ・フロッサルド・ジョルジ|パウロ・エミリオ]]が初代監督に就任。 **3月8日 - 神戸市立中央球技場(現:[[御崎公園球技場]])に[[ウルグアイ]]の[[CAペニャロール]]を迎えてC大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。 **10月20日 - [[ジャパンフットボールリーグ]](JFL)の最終節前、[[台風]]の影響で延期になっていた[[中央防犯サッカー部|中央防犯藤枝ブルックス]](現:[[アビスパ福岡]])戦で延長後半12分に[[見崎充洋]]が決勝ゴールを挙げて勝利して2位以内が確定。 **10月23日 - JFLの最終節、[[コスモ石油四日市FC]]戦を勝利しJFL優勝を決めた。 **[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では[[東京ヴェルディ1969|V川崎]]、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]、[[横浜F・マリノス|横浜M]]らJリーグ勢を破って準優勝の成績を残した。 === 1995年 - 2001年(J1) === *1995年 - Jリーグに加盟<ref name="jleague" />。 **[[森島寛晃]]が[[1995年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]を獲得。 *1996年 - 成績不振によりエミリオが監督を辞任。後任にコーチだった[[楚輪博]]が監督に昇格。 **7月3日 - ナビスコカップの[[アビスパ福岡|福岡]]戦で8得点。'''チーム最多得点記録'''。 **7月27日 - [[長居陸上競技場|大阪長居スタジアム]](長居)が改修終了。それに伴いC大阪のホームスタジアムも[[長居第2陸上競技場]]から長居へ変更。[[こけら落し]]としてブラジルの[[ボタフォゴFR]]と親善試合を行った(1-3で敗戦)。 **5月11日から10月2日 - リーグ戦で5か月間10試合に及ぶ連敗を記録。'''チーム連敗最長記録'''。 *1997年 - 監督に[[クルゼイロEC]]元監督の[[レヴィー・クルピ|レヴィル・クルピ]]が就任。カプコンが出資から撤退。 *1998年 - [[松木安太郎]]が監督に就任。リーグ戦では34試合中13試合で3失点以上を喫した。韓国代表の[[黄善洪]]が入団。 **4月15日 - 長居での[[ジュビロ磐田|磐田]]戦で 1-9 の敗戦。'''Jリーグ最多失点・得点記録'''。 **8月8日 - 長居での柏戦で 5-7 の敗戦。'''試合当りのJリーグ最多得点記録'''。 *1999年 - [[レネ・デザイェレ]]が監督に就任。 **黄善洪が[[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]]と[[1999年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]を獲得。 **12月 - 天皇杯を前にレネが監督を辞任し、[[戦術]]面を担当していた[[副島博志]]が監督代行としてチームを指揮。 *2000年 - 副島が監督に就任。韓国代表の[[尹晶煥]]が入団。 **1月29日 - 大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の[[鬼武健二]]から[[藤井純一]]に交代。鬼武は会長に就任。 **1月31日 - [[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]と3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]と業務提携を結んだ。 **3月30日 - 大阪市議会において大阪市によるC大阪への1千万円の出資が承認。 **5月27日 - [[西澤明訓]]と森島寛晃の軸を中心に[[西谷正也]]と[[盧廷潤]]のサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝だったが、最終節で残留争いで15位の[[川崎フロンターレ|川崎]]に[[ゴールデンゴール|Vゴール]]で敗れ、ステージ優勝を[[横浜F・マリノス|横浜FM]]にさらわれた。 **森島と西澤が[[2000年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]を獲得。シーズン終了後、西澤が[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]の[[RCDエスパニョール]]へ移籍。 *2001年 - 1stステージは16チーム中14位。 **7月27日 - 強化担当だった[[大西忠生]]が成績不振を理由に副社長を辞任。 **8月20日 - 副島が成績不振を理由に監督を辞任(事実上の解任)。後任は[[ジョアン・カルロス・ダ・シウバ・コスタ|ジョアン・カルロス]]が就任。 **11月3日 - [[FC東京]]戦に敗れ、J2降格が決定。カルロスが監督を辞任。後任にはコーチだった[[西村昭宏]]が監督に昇格。 **[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は決勝へ進出したが、[[清水エスパルス|清水]]に延長の末2-3で敗れた。なお、J2降格決定から天皇杯の決勝まで7連勝であった。 === 2002年(J2) === *2002年 - [[2002 FIFAワールドカップ]]の代表選手として森島寛晃・西澤明訓・[[尹晶煥]]らが選出された。 **11月16日 - 第43節の[[アルビレックス新潟|新潟]]戦に3-0と勝利して、J1復帰が決定。最終順位は2位。 === 2003年 - 2006年(J1) === *2003年 - 1stステージは5位。2ndステージに入ると白星が遠く、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村がシーズン途中で解任。シーズンの残りはヘッドコーチだった[[塚田雄二]]が監督を務め、天皇杯は3度目の決勝進出を果たすが、[[ジュビロ磐田|磐田]]に敗れ、準優勝。 *2004年 - 監督就任が決定していた[[ナドベザ・ペーター]]が狭心症の発作のため来日不可能となり、練習開始前日に直前にナドベザとは旧知の仲だった[[フアド・ムズロビッチ]]が急遽監督に就任したが、準備不足やクラブとの方針の違いもあり、公式戦3試合(リーグ戦2試合・カップ戦1試合)のみで解任される。後任にはヘッドコーチだった[[アルベルト・ポボル]]が昇格したが守備が崩壊。1stステージ最終節で最下位争いをしていた[[柏レイソル|柏]]にホームで惨敗し、最下位でステージを終えたことが決定打となりアルベルトも解任となった。2ndステージからは前年まで[[大分トリニータ|大分]]の監督だった[[小林伸二]]が指揮を執り、西村から数えて1年足らずで5人が監督を務める異例の事態となった。2ndステージも低迷し、13節終了時点で残り2試合に1敗でもすれば年間最下位と[[J1・J2入れ替え戦]]行きが決定するところまで追い込まれたが、14節・最終節と連勝し、最終節で柏を逆転して年間15位に浮上、J1残留が決定した。2ndステージは12位。シーズン終了後、大久保がスペインの[[RCDマヨルカ|マヨルカ]]にレンタル移籍。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2005年最終節布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[小林伸二|<span style="font-size:small;color:navy;">監督 '''小林伸二'''</span>]]}} {{Image label|x=0.35|y=1.09|scale=220|text=[[吉田宗弘|<span style="font-size:small;color:white;">'''吉田宗弘'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.93|scale=220|text=[[前田和哉|<span style="font-size:small;color:white;">'''前田和哉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.93|scale=220|text=[[藤本康太|<span style="font-size:small;color:white;">'''藤本康太'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.93|scale=220|text=[[柳本啓成|<span style="font-size:small;color:white;">'''柳本啓成'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.76|scale=220|text=[[下村東美|<span style="font-size:small;color:white;">'''下村東美'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.76|scale=220|text=[[ファビオ・アウヴェス・フェリックス|<span style="font-size:small;color:white;">'''ファビーニョ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.63|scale=220|text=[[久藤清一|<span style="font-size:small;color:white;">'''久藤清一'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.63|scale=220|text=[[ジョゼ・カルロス・ガルシア・レアル|<span style="font-size:small;color:white;">'''ゼ・カルロス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.46|scale=220|text=[[森島寛晃|<span style="font-size:small;color:white;">'''森島寛晃'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.46|scale=220|text=[[古橋達弥|<span style="font-size:small;color:white;">'''古橋達弥'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.29|scale=220|text=[[西澤明訓|<span style="font-size:small;color:white;">'''西澤明訓'''</span>]]}} </div> |} *2005年 - 小林が監督続投。GKに[[ガンバ大阪|G大阪]]から[[吉田宗弘]]を完全移籍で獲得、DFには[[2003年夏季ユニバーシアード]]優勝メンバーの[[江添建次郎]]を7クラブに及ぶ争奪戦の末に獲得に成功、テスト生出身の[[前田和哉]]も入団した。[[京都サンガF.C.|京都]]からFW[[黒部光昭]]、東京VからMF[[廣山望]]をいずれもレンタル移籍で獲得。外国人選手も数年続いた東欧路線から一変して、[[ブルーノ・エベルトン・クアドロス|ブルーノ・クアドロス]]、[[ファビオ・アウヴェス・フェリックス|ファビーニョ]]、[[ジョゼ・カルロス・ガルシア・レアル|ゼ・カルロス]]を獲得。 **当初9位を目標に掲げ、開幕は3連敗と出遅れたが、新加入の吉田、ブルーノ・クアドロス、江添が開幕からスタメンに定着、江添が第3節の[[大宮アルディージャ|大宮]]戦で右ひざじん帯断裂の重傷を負ったが、その穴を前田が埋め、[[ミッドフィールダー|ボランチ]]のファビーニョや[[下村東美]]とともに守備の建て直しに成功、森島寛晃・西澤明訓・[[古橋達弥]]・黒部光昭といった当時のJ1屈指の攻撃陣と攻守の歯車がかみ合いだし、第4節の名古屋戦で初勝利を挙げると第11節の清水戦まで8試合負けなし、前半戦を6勝5分6敗で折り返した。後半戦はG大阪や鹿島、浦和などの上位チームがもたつく間に順位を上げ、第33節でG大阪を抜いて首位に立った。 **勝てば優勝決定、敗戦・ドローで自力優勝が消えるという状況で迎えた最終節・FC東京戦で1点リードしていたが、[[アディショナルタイム]]で同点に追いつかれ優勝は成らなかった。翌朝の[[朝日新聞]]には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節~最終節)に限れば10勝6分1敗、当時のJリーグ無敗最長記録となる16試合無敗で、天皇杯も含めれば準決勝で清水に敗れるまで20試合負けなしであった。また、この年の平均観客動員数は過去最高の1試合当り17,648人。 **シーズン終了後、ファビーニョが家庭の事情により退団。他にも[[布部陽功]]と[[久藤清一]]を放出(ともに[[アビスパ福岡|福岡]]に移籍)し、黒部と廣山のレンタル移籍契約を更新しない(黒部は浦和へ再度レンタル移籍、廣山は東京Vに復帰)など、世代交代を図る為にベテラン選手に対して大なたを振るった。 **吉田と古橋がベストイレブンに選ばれ、前田が優秀新人賞を獲得した。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2006年最終節布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[塚田雄二|<span style="font-size:small;color:navy;">監督 '''塚田雄二'''</span>]]}} {{Image label|x=0.35|y=1.09|scale=220|text=[[吉田宗弘|<span style="font-size:small;color:white;">'''吉田宗弘'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.93|scale=220|text=[[前田和哉|<span style="font-size:small;color:white;">'''前田和哉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.93|scale=220|text=[[ブルーノ・クアドロス|<span style="font-size:small;color:white;">'''ブルーノ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.93|scale=220|text=[[柳本啓成|<span style="font-size:small;color:white;">'''柳本啓成'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.76|scale=220|text=[[下村東美|<span style="font-size:small;color:white;">'''下村東美'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.76|scale=220|text=[[名波浩|<span style="font-size:small;color:white;">'''名波浩'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.63|scale=220|text=[[宮本卓也|<span style="font-size:small;color:white;">'''宮本卓也'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.63|scale=220|text=[[ジョゼ・カルロス・ガルシア・レアル|<span style="font-size:small;color:white;">'''ゼ・カルロス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.46|scale=220|text=[[古橋達弥|<span style="font-size:small;color:white;">'''古橋達弥'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.29|scale=220|text=[[大久保嘉人|<span style="font-size:small;color:white;">'''大久保嘉人'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.29|scale=220|text=[[西澤明訓|<span style="font-size:small;color:white;">'''西澤明訓'''</span>]]}} </div> |} *2006年- 小林体制3年目。東京Vから[[山田卓也]]を完全移籍で、[[河村崇大]]を[[ジュビロ磐田|磐田]]からレンタル移籍で獲得。新外国人選手では[[エリソン・カルロス・ドス・サントス・シルバ|ピンゴ]]が入団。即戦力では中盤中心の補強を行い、新加入選手では強化指定選手となっていた[[森島康仁]]が入団したのをはじめ、大学選抜で活躍した[[小松塁]]や、高校生ながら素質を見込まれてプロ契約を結んだ[[香川真司]]、クラブ最年少の16歳でトップチーム昇格を果たした柿谷曜一朗らが入団した。リーグ戦は、開幕からの4節をすべて3失点以上で負けるなどしてつまづき、8節終了時で1勝1分6敗の成績。4月18日付で小林が解任され、育成アドバイザーを務めていた塚田雄二が2度目の監督に就任した。 **4月22日、[[サンフレッチェ広島|広島]]戦(アウェイ)で、FW[[佐藤寿人]]にJ新記録となる試合開始から僅か8秒でゴールを決められた(Jリーグ最速得点・失点記録)。 **6月15日、[[RCDマヨルカ|マヨルカ]]にレンタル移籍していた大久保がチームに復帰した。 **8月13日、磐田から元日本代表MF[[名波浩]]を[[レンタル移籍]]で獲得。以後チーム状況が多少上向き、勝ち点を重ねるようになった。 **11月26日、大宮戦で[[柿谷曜一朗]]がチーム最年少出場記録となる16歳10か月で公式戦デビュー。 **12月2日、最終節で[[川崎フロンターレ|川崎]]に敗れ、年間17位となり5シーズンぶりのJ2降格が決定。塚田は降格の責任を取り監督辞任。後任に東京Vヘッドコーチの[[都並敏史]]が就任した。シーズン終了後に、大久保嘉人([[ヴィッセル神戸|神戸]]へ)、西澤明訓(清水へ)、名波浩(磐田復帰後、東京Vへ)、下村東美([[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]へ)、[[ブルーノ・クアドロス]](退団後、[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]へ)が退団した。 === 2007年 - 2009年(J2) === {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2007年基本布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[レヴィー・クルピ|<span style="font-size:small;color:navy;">監督 '''クルピ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=1.09|scale=220|text=[[吉田宗弘|<span style="font-size:small;color:white;">'''吉田宗弘'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.80|scale=220|text=[[柳沢将之|<span style="font-size:small;color:white;">'''柳沢将之'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[前田和哉|<span style="font-size:small;color:white;">'''前田和哉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.93|scale=220|text=[[羽田憲司|<span style="font-size:small;color:white;">'''羽田憲司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.80|scale=220|text=[[ジョゼ・カルロス・ガルシア・レアル|<span style="font-size:small;color:white;">'''ゼ・カルロス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.43|scale=220|text=[[濱田武|<span style="font-size:small;color:white;">'''濱田武'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.63|scale=220|text=[[アレシャンドロ・ルイス・フェルナンデス|<span style="font-size:small;color:white;">'''アレー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.63|scale=220|text=[[ジェルマーノ・ボロビック・カルドゾ・シュウェジェル|<span style="font-size:small;color:white;">'''ジェルマーノ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.43|scale=220|text=[[香川真司|<span style="font-size:small;color:white;">'''香川真司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.26|scale=220|text=[[古橋達弥|<span style="font-size:small;color:white;">'''古橋達弥'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.26|scale=220|text=[[小松塁|<span style="font-size:small;color:white;">'''小松塁'''</span>]]}} </div> |} *2007年-ヤンマーサッカー部発足から創設50周年を迎えた。完全移籍で[[柳沢将之]](東京V)を、レンタル移籍で[[羽田憲司]](鹿島)、[[丹羽竜平]](神戸)を獲得。逆にレンタルさせていた[[濱田武]]([[サガン鳥栖|鳥栖]])と[[千葉貴仁]](札幌)、小松塁([[V・ファーレン長崎|長崎]])を復帰させ、新人では[[立命館大学]]から[[阪田章裕]]、外国人選手ではブラジルから[[アレシャンドロ・ルイス・フェルナンデス|アレー]]と韓国[[ユニバーシアード]]代表の[[金信泳]]を獲得。 **主力選手が移籍したことで、若手選手が必然的に出場機会を得た。 **リーグ戦は開幕3連敗でスタートし、第4節の京都戦で初勝利を挙げた。第12節の[[ザスパクサツ群馬|草津]]戦で柿谷がJ2最年少記録となるゴール(17歳3か月)を決めるが、森島寛晃が原因不明の首痛に悩まされるようになり戦列を離脱した事や、一気に若返った選手の適性を見極める為、戦力を使い回す試行錯誤をしていて勝ち点が延びず、第14節終了時点で4勝3分6敗でJ2の9位という成績であった。 **5月7日付で監督の都並、コーチの[[藤川孝幸]]、GMの西村昭宏を解任し、後任に元監督のレヴィー・クルピが監督に就任した。就任当初は1勝3敗と負けが先行したが、第19節の試合なし期間を活用した[[淡路島]]ミニキャンプで戦術を浸透させ、メンバーも小松塁をFWのスタメンに抜擢、香川真司をサイドに、ゼ・カルロスと柳沢将之を左右のSBに固定するなど、それまでの使い回しから一変した選手起用を実施。これが功を奏して第20節からは4連勝。第2クール終了後には、比較的戦力に余裕のあったFW陣から金信泳を鳥栖へレンタル移籍させ、空きができた外国人枠を活用して、[[ミッドフィールダー|ボランチ]]を強化するためにクルピの肝いりで[[ジェルマーノ・ボロビック・カルドゾ・シュウェジェル|ジェルマーノ]]を獲得した。その後第3クールでは9勝3敗のリーグ1位の成績を残したが、第1クールでの出遅れと、京都(2勝2分)以外のJ1昇格争いを繰り広げた上位チームに大きく負け越した(札幌と仙台には1勝3敗、東京Vと湘南には1分3敗)事が響き、J2・5位に終わった。 **昇格を逃したものの、FWに抜擢されて12ゴールを挙げた小松をはじめ、香川・森島康・柿谷が世代別代表に選出されて国際大会で活躍。しかし、その森島康や柿谷でもレギュラーではなく、彼らより先にU-23代表にも選出され、当初スタメンで出場していた[[苔口卓也]]に至っては、クルピ就任以後ベンチ入りする機会すら限られるなど、チーム内競争は激しさを増し、戦力の底上げがなされた。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2008年第1布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[レヴィー・クルピ|<span style="font-size:small;color:navy;">監督 '''クルピ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=1.09|scale=220|text=[[相澤貴志|<span style="font-size:small;color:white;">'''相澤貴志'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.80|scale=220|text=[[柳沢将之|<span style="font-size:small;color:white;">'''柳沢将之'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[前田和哉|<span style="font-size:small;color:white;">'''前田和哉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.93|scale=220|text=[[羽田憲司|<span style="font-size:small;color:white;">'''羽田憲司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.80|scale=220|text=[[尾亦弘友希|<span style="font-size:small;color:white;">'''尾亦弘友希'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.43|scale=220|text=[[濱田武|<span style="font-size:small;color:white;">'''濱田武'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.63|scale=220|text=[[アレシャンドロ・ルイス・フェルナンデス|<span style="font-size:small;color:white;">'''アレー'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.63|scale=220|text=[[ジェルマーノ・ボロビック・カルドゾ・シュウェジェル|<span style="font-size:small;color:white;">'''ジェルマーノ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.43|scale=220|text=[[香川真司|<span style="font-size:small;color:white;">'''香川真司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.26|scale=220|text=[[ロドリゴ・ヴィルジリオ|<span style="font-size:small;color:white;">'''カレカ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.26|scale=220|text=[[小松塁|<span style="font-size:small;color:white;">'''小松塁'''</span>]]}} </div> |} *2008年-吉田宗弘が福岡に完全移籍、苔口卓也が[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]にレンタル移籍した。補強はGKに川崎から[[相澤貴志]]をレンタル移籍で獲得、退団したゼ・カルロスの後任となる左SBに湘南から[[尾亦弘友希]]を完全移籍で獲得、FWに[[ロドリゴ・ヴィルジリオ|カレカ]]をレンタル移籍で獲得した。また前田和哉がキャプテンとなった。 **開幕は[[水戸ホーリーホック|水戸]]に勝利し、久々の開幕戦勝利を収めた。 **5月は前月末の[[愛媛FC|愛媛]]戦から数えて、負けなしの7連勝を飾り2位に浮上。 **6月は怪我人と出場停止選手が続出。1勝1分4敗の成績。 **7月も1勝1分2敗と勝ち点を伸ばせないまま終わる。 **8月は2勝1分2敗と浮上の兆しが見えてきたに思われたが、[[本間勇輔]]がスタジアムマスターに就任し、新たなアンセムを作曲した9月も低迷のまま終わり、10月、上位争いをした3位の仙台との直接対決に敗れた時点で勝ち点8差がつけられていた。 **11月に入りC大阪が3連勝した一方、仙台は2分1敗と不振に陥った為、勝ち点差を1にまで縮めて最終節を迎えた。C大阪は愛媛に勝利を挙げたが、仙台も勝利したために逆転ならず、4位となりJ1昇格はならなかった。 **香川が日本五輪代表に選ばれ3月のアンゴラA代表との試合の際に見せたプレーが日本代表監督である[[岡田武史]]の目に止まり、香川は平成生まれとして初の日本代表に招集された。C大阪からは大久保嘉人以来4年ぶりの代表選出。香川はキリンカップ・[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール代表]]戦でデビューし、ワールドカップ3次予選の2試合に出場。香川は8月に行われる[[2008年北京オリンピックの日本選手団|北京オリンピック日本代表]]にも選ばれた。 **シーズン途中に、名古屋から[[青山隼]]、横浜FMから[[乾貴士]]、新人の[[白谷建人]]を含めて世代別の日本代表の経験がある選手を多く獲得。これはクルピの方針で『C大阪に移籍して、さらに成長する可能性のある選手』を獲得する傾向にある。一方でチームにフィットしなかったカレカを解雇し、出場機会が激減した森島康をレンタル(シーズン終了後に完全)移籍で[[大分トリニータ|大分]]に放出した。 **この年を最後に森島寛晃が現役を引退。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2009年第1節布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[レヴィー・クルピ|<span style="font-size:small;color:navy;">監督 '''クルピ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.27|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.93|scale=220|text=[[前田和哉|<span style="font-size:small;color:white;">'''前田和哉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.42|y=0.93|scale=220|text=[[チアゴ・マルチネッリ・ダ・シウバ|<span style="font-size:small;color:white;">'''チアゴ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.93|scale=220|text=[[江添建次郎|<span style="font-size:small;color:white;">'''江添建次郎'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.76|scale=220|text=[[羽田憲司|<span style="font-size:small;color:white;">'''羽田憲司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.76|scale=220|text=[[ルイス・フェルナンド・マルチネス|<span style="font-size:small;color:white;">'''マルチネス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.63|scale=220|text=[[酒本憲幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''酒本憲幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.63|scale=220|text=[[石神直哉|<span style="font-size:small;color:white;">'''石神直哉'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.46|scale=220|text=[[香川真司|<span style="font-size:small;color:white;">'''香川真司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.46|scale=220|text=[[乾貴士|<span style="font-size:small;color:white;">'''乾貴士'''</span>]]}} {{Image label|x=0.40|y=0.29|scale=220|text=[[カイオ・フェリペ・ゴンサウベス|<span style="font-size:small;color:white;">'''カイオ'''</span>]]}} </div> |} *2009年-ジェルマーノ、[[古橋達弥]]、[[山本浩正]]、柳沢将之などが完全移籍で去り、相澤貴志、丹羽竜平、青山隼がレンタル終了、レンタル移籍中の森島康仁や宮本卓也も完全移籍する。しかし、レンタル移籍で加入していた乾貴士、羽田憲司、平島崇が完全移籍に移行し、小松塁、香川真司などの主力が残留した。また、レンタルで[[石神直哉]]を獲得し、[[西澤明訓]]が[[清水エスパルス|清水]]から復帰した。外国人選手では前年途中加入し、フィットしていた[[カイオ・フェリペ・ゴンサウベス|カイオ]]が残留、[[パルメイラス]]から[[ルイス・フェルナンド・マルチネス|マルチネス]]、[[クルゼイロEC|クルゼイロ]]から[[チアゴ・マルチネッリ・ダ・シウバ|チアゴ]]とクラブの主力だった2選手と[[2007 FIFA U-20ワールドカップ|2007年U-20W杯]]韓国代表の[[金鎮鉉|キム・ジンヒョン]]を「[[外国人枠 (サッカー)|アジア枠]]」で獲得。中でも新加入のマルチネスの評価は高く、「J1でもトップクラスのボランチ」とも評された。マルチネス自身、二部のクラブでプレーした経験がなく、移籍に当初は抵抗も感じたが、セレッソが本気でJ1昇格を目指しているチームであることを知り、そうした抵抗感はなくなったと語っている<ref>[[EL GOLAZO]] 2009年6月24日号。</ref>。 **開幕戦となった[[サガン鳥栖|鳥栖]]戦は4-1で勝利。以降、3月から4月は、4月19日の[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]戦で一敗を喫したのみであった。 **その後も勝ち点を積み重ねるが、6月に[[カターレ富山|富山]]と鳥栖に連敗する。 **7月9日、鹿島から[[船山祐二]]を獲得。船山は加入直後こそ出場機会に恵まれなかったが、終盤戦にレギュラーを獲得。マルチネス故障の穴を埋め、チームの快進撃に大きく貢献した。 **8月中旬から3戦連続で勝ちなしと不振に陥る。 **8月30日の[[ロアッソ熊本|熊本]]戦からは10勝3分と勝ち点を積み重ね、11月8日に[[ザスパクサツ群馬|草津]]に5-0で勝利をおさめ、J1昇格が決定。同時に勝ち点100越えを達成した。J2で勝ち点100以上を達成したチームは川崎、広島に次いで3チーム目(ただし川崎は44試合、広島は42試合)。シーズンを通じて昇格圏外に落ちることはなかった。 **11月8日の鳥栖戦の後、今季3シーズンぶりにチームに復帰した西澤明訓が引退を発表。西澤は当初、右足首のコンディションが悪く、すでに清水で引退するつもりであったが、前年に引退した森島から「戻って何とかJ1に上げてほしい」と言われたこともあり、「自分の中で、J2に落としたというのは汚点だったから・・・せめて、J1に上げるためにちょっとでも力になれれば」という思いで復帰を決めた。5月20日の[[ロアッソ熊本|熊本]]戦で復帰後初ゴール。決して万全の状態ではなかったが、クルピ監督は西澤がチームに与えるポジティブな影響を期待し、常にベンチに置き続けた。11月8日の引退発表は、セレモニーを開催するような形を好まなかったため「あの場のノリです(笑)」と語っているが、「できれば避けたかった」という引退セレモニーはホーム最終節の[[FC岐阜|岐阜]]戦(11月28日)の後に開催されている<ref>Twelfth 2010年2月号。</ref>。なお、引退後は代理人になることを目指しているが、2010年2月にはセレッソ大阪アンバサダーに就任した。 **その後はJ2優勝を目指すが、11月22日の仙台戦(0-1)、1試合置いて12月5日の鳥栖戦(1-2)と、いずれもアウェイで後半ロスタイムに失点して敗北。シーズン2位となった([[2009年J2最終節]])。 === 2010年 - 2014年(J1) === {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2010年開幕戦布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[レヴィー・クルピ|<span style="font-size:small;color:navy;">'''監督 クルピ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.65|y=0.93|scale=220|text=[[羽田憲司|<span style="font-size:small;color:white;">'''羽田憲司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.93|scale=220|text=[[茂庭照幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''茂庭照幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.93|scale=220|text=[[上本大海|<span style="font-size:small;color:white;">'''上本大海'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.76|scale=220|text=[[ルイス・フェルナンド・マルチネス|<span style="font-size:small;color:white;">'''マルチネス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.76|scale=220|text=[[カルロス・ハファエル・ド・アマラウ|<span style="font-size:small;color:white;">'''アマラウ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.63|scale=220|text=[[高橋大輔 (サッカー選手)|<span style="font-size:small;color:white;">'''高橋大輔'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.63|scale=220|text=[[尾亦弘友希|<span style="font-size:small;color:white;">'''尾亦弘友希'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.46|scale=220|text=[[香川真司|<span style="font-size:small;color:white;">'''香川真司'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.46|scale=220|text=[[乾貴士|<span style="font-size:small;color:white;">'''乾貴士'''</span>]]}} {{Image label|x=0.36|y=0.29|scale=220|text=[[アドリアーノ・フェレイラ・マルティンス|<span style="font-size:small;color:white;">'''アドリアーノ'''</span>]]}} </div> |} *2010年-[[松井謙弥]](磐田…京都へのレンタル移籍期間満了)、[[茂庭照幸]]([[FC東京]])、[[上本大海]]、[[清武弘嗣]]、[[高橋大輔 (サッカー選手)|高橋大輔]](大分)、[[播戸竜二]](G大阪)、[[カルロス・ハファエル・ド・アマラウ|アマラウ]]([[CRヴァスコ・ダ・ガマ]])を完全移籍で、[[家長昭博]](G大阪…大分へのレンタル移籍期間満了)、[[アドリアーノ・フェレイラ・マルティンス|アドリアーノ]]([[アトレチコ・パラナエンセ|アトレチコPR]])をレンタル移籍で、[[扇原貴宏]]、[[永井龍]](共にC大阪U-18)、[[荻野賢次郎]]([[京都府立峰山高等学校|峰山高校]])が新加入して、レンタル移籍だった[[石神直哉]]が完全移籍となった。また[[金甫炅|キム・ボギョン]]([[弘益大学校]])とも契約したが、外国人枠の都合で大分へレンタル移籍。 **開幕戦は[[大宮アルディージャ|大宮]]に0-3で敗戦。序盤は苦戦したが、京都戦で初勝利をおさめると、鹿島を破るなど前半は8位。 **前半戦最終戦の5月16日の[[ヴィッセル神戸|神戸]]戦を以て香川が[[ボルシア・ドルトムント]]へ移籍。 **香川移籍後も、家長、清武らが彼の穴を埋める活躍を魅せ、更にアドリアーノがフィットしたこともあってチームの歯車がかみ合って好調を維持。特に前年香川と共に得点を量産した乾が香川移籍後にようやく調子を上げ、チームの柱として活躍。 **優勝争いに食い込み、J1過去最高の3位に入り、[[AFCチャンピオンズリーグ]]出場権を獲得。前年J2クラブがJ1昇格を果たしたその年度にACL出場を果たすのは史上初の偉業だった。 **ナビスコカップは1分5敗でグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦で鹿島に敗退。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2011年開幕戦布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[レヴィー・クルピ|<span style="font-size:small;color:navy;">'''監督 クルピ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.80|scale=220|text=[[高橋大輔 (サッカー選手)|<span style="font-size:small;color:white;">'''高橋大輔'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[茂庭照幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''茂庭照幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.93|scale=220|text=[[上本大海|<span style="font-size:small;color:white;">'''上本大海'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.80|scale=220|text=[[丸橋祐介|<span style="font-size:small;color:white;">'''丸橋祐介'''</span>]]}} {{Image label|x=0.15|y=0.65|scale=220|text=[[ルイス・フェルナンド・マルチネス|<span style="font-size:small;color:white;">'''マルチネス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.55|y=0.65|scale=220|text=[[中後雅喜|<span style="font-size:small;color:white;">'''中後雅喜'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.43|scale=220|text=[[乾貴士|<span style="font-size:small;color:white;">'''乾貴士'''</span>]]}} {{Image label|x=0.28|y=0.43|scale=220|text=[[金甫炅|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ボギョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.72|y=0.43|scale=220|text=[[倉田秋|<span style="font-size:small;color:white;">'''倉田秋'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.26|scale=220|text=[[ホドリゴ・ピンパォン・ヴァイアーナ|<span style="font-size:small;color:white;">'''ホドリゴ・ピンパォン'''</span>]]}} </div> |} *2011年-シーズンオフに[[家長昭博]]のスペイン・リーガエスパニョーラの[[RCDマヨルカ|マヨルカ]]への移籍を皮切りに、2009年度キャプテンの[[羽田憲司]](神戸)、[[石神直哉]]([[湘南ベルマーレ|湘南]])、[[山下達也]]([[北海道コンサドーレ札幌|札幌]])、[[多田大介]]([[ガイナーレ鳥取|鳥取]])が移籍。[[アドリアーノ・フェレイラ・マルティンス|アドリアーノ]](アトレチコPR)はレンタル期間満了の上、G大阪に完全移籍。一方、大分からキム・ボギョンが復帰した他、神戸から[[高橋祐太郎]](DF[[高橋大輔 (サッカー選手)|高橋大輔]]の実弟)を完全移籍で獲得。[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]から[[中後雅喜]]を、G大阪から[[倉田秋]](千葉へのレンタル期間満了)を、またCRヴァスコ・ダ・ガマから[[ホドリゴ・ピンパォン・ヴァイアーナ|ホドリゴ・ピンパォン]]を、それぞれ期限付き移籍で獲得した。 **開幕戦のG大阪との[[大阪ダービー]]は1-2で敗戦。 **2011の布陣は1トップがピンパォンで、キム・倉田・乾の3シャドーが流動的に動く4-2-3-1に近いシステムを使う。 **[[AFCチャンピオンズリーグ2011]]では初出場ながらグループリーグをグループGの2位で突破。5月24日のラウンド16では、G大阪とのACL史上初の大阪ダービーを1-0で制し、Jリーグ勢唯一の決勝トーナメント進出を果たす。しかし、準々決勝で[[全北現代モータース|全北現代]]に2戦合計5-9(第1戦 4-3、第2戦 1-6)で敗れ、ベスト8で敗退。 **8月に[[乾貴士]]がドイツ2部の[[VfLボーフム]]へ完全移籍、ピンパォンが契約満了による退団(後に大宮に入団)。これを受け、[[ファビオ・ロジェリオ・コレア・ロペス|ファビオ・ロペス]]、[[FC東京]]よりMF[[大竹洋平]]をそれぞれ期限付き移籍にて獲得。 **8月20日の[[清水エスパルス|清水]]戦・9月11日の[[サンフレッチェ広島|広島]]戦にて[[播戸竜二]]が途中出場での[[ハットトリック]]を達成。 **シーズン終了後、「2007年から5シーズン指揮を執ってきましたが、J2からJ1へ昇格、さらにACL出場、そしてその中から数多くの選手がフル代表・五輪代表に選出され、欧州へ飛び立っていったことを考えると、セレッソにとっては一つのサイクルが終わり、節目の時がきたのではないかと思います。その間、単身で日本にいましたが、はるか遠くのブラジルにいる家族のもとへ帰る時が来たのではないか、という結論に至りました」として、監督の[[レヴィー・クルピ]]が退任<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10006680&contents_code=100100100|title=レヴィー・クルピ監督との契約について|website=セレッソ大阪|date=2011-11-16|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120119191029/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10006680&contents_code=100100100|archivedate=2012-01-19}}</ref>。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2012年開幕戦布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.20|y=1.26|scale=220|text=[[セルジオ・ソアレス|<span style="font-size:small;color:navy;">監督 '''セルジオ・ソアレス'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.80|scale=220|text=[[酒本憲幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''酒本憲幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[茂庭照幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''茂庭照幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.93|scale=220|text=[[藤本康太|<span style="font-size:small;color:white;">'''藤本康太'''</span>]]}} {{Image label|x=0.07|y=0.80|scale=220|text=[[丸橋祐介|<span style="font-size:small;color:white;">'''丸橋祐介'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.65|scale=220|text=[[扇原貴宏|<span style="font-size:small;color:white;">'''扇原貴宏'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.65|scale=220|text=[[山口螢|<span style="font-size:small;color:white;">'''山口螢'''</span>]]}} {{Image label|x=0.04|y=0.43|scale=220|text=[[清武弘嗣|<span style="font-size:small;color:white;">'''清武弘嗣'''</span>]]}} {{Image label|x=0.28|y=0.43|scale=220|text=[[金甫炅|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ボギョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.43|scale=220|text=[[ウェリントン・クレイトン・ゴンサウベス・ドス・サントス|<span style="font-size:small;color:white;">'''ブランキーニョ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.35|y=0.26|scale=220|text=[[エヴェルトン・ケンペス・ドス・サントス・ゴンサウベス|<span style="font-size:small;color:white;">'''ケンペス'''</span>]]}} </div> |} *2012年-新監督に[[セルジオ・ソアレス]]が就任。[[上本大海]]([[ベガルタ仙台|仙台]])、[[小松塁]]([[川崎フロンターレ|川崎]])、[[高橋祐太郎]]([[ロアッソ熊本|熊本]])、[[尾亦弘友希]]([[アビスパ福岡|福岡]])が移籍、[[ファビオ・ロジェリオ・コレア・ロペス|ファビオ・ロペス]]が退団、[[中後雅喜]]はレンタル期間満了(その後[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ移籍)となったが、川崎から[[横山知伸]]、清水から[[児玉新]]、札幌から2年ぶりの復帰となる[[山下達也]]を完全移籍で獲得。徳島にレンタル移籍していた[[柿谷曜一朗]]が復帰した。また、[[エヴェルトン・ケンペス・ドス・サントス・ゴンサウベス|ケンペス]]をレンタルで、[[ブランキーニョ]]を完全移籍で獲得した。新しいシーズンのキャプテンには藤本康太が就任した。 **開幕戦は[[サガン鳥栖|鳥栖]]に0-0のドロー。ホーム開幕戦となった[[大阪ダービー]]はブランキーニョとケンペスのゴールで2-1で勝利を収めた。 **3月27日、[[杉本健勇]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ約3か月半の[[期限付き移籍]]。 **清武弘嗣が7月1日付で[[1.FCニュルンベルク]]へ、キム・ボギョンが8月1日付で[[カーディフ・シティFC]]へ移籍。それに伴って外国人枠が空き、[[ASローマ]]から[[ファビオ・エンリケ・シンプリシオ|ファビオ・シンプリシオ]]を獲得した。加えて、夏の移籍期間には[[枝村匠馬]](清水)と[[ヘベルチ・フェルナンデス・デ・アンドラーデ|ヘベルチ]](草津)をともにレンタルで獲得。外国人枠の関係でブランキーニョを[[モンテディオ山形|山形]]に期限付きで放出した。 **7月27日から8月12日にかけて開催された[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]の[[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技|男子サッカー]]には、山口螢、扇原貴宏、[[東京ヴェルディ1969|東京V]]への短期レンタルから戻ってきた[[杉本健勇]]、1.FCニュルンベルクへの移籍が決まった清武弘嗣(以上日本代表)、カーディフ・シティFCへの移籍が決まったキム・ボギョン(韓国代表)が選出された。3位決定戦で日本対韓国が実現し、上記の5選手すべてが出場した。 **成績不振を理由に、監督のセルジオ・ソアレスおよびコーチのデニスとの契約を8月25日付で解除。後任に、前監督の[[レヴィー・クルピ]]が就任した<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10008597|title=監督交代のお知らせ|website=セレッソ大阪|date=2012-08-26|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004213333/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10008597|archivedate=2013-10-04}}</ref>。クルピとの契約期間は2012年12月2日までだったが、就任後チームの成績が上向くと、チーム側も続投要請を行い、11月15日、新たに2013年2月1日から1年間の契約更新が発表された<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10009147|title=レヴィー・クルピ監督 契約更新のお知らせ|website=セレッソ大阪|date=2012-11-15|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004215434/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10009147|archivedate=2013-10-04}}</ref>。 **最終節までJ1残留を争ったが、最終節で[[川崎フロンターレ|川崎]]に引き分けて、J1残留を決めた。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2013年開幕戦布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.51|y=1.26|scale=220|text=[[レヴィー・クルピ|<span style="font-size:small;color:navy;">'''監督 クルピ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.80|scale=220|text=[[酒本憲幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''酒本憲幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[茂庭照幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''茂庭照幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.93|scale=220|text=[[藤本康太|<span style="font-size:small;color:white;">'''藤本康太'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.80|scale=220|text=[[丸橋祐介|<span style="font-size:small;color:white;">'''丸橋祐介'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.65|scale=220|text=[[ファビオ・エンリケ・シンプリシオ|<span style="font-size:small;color:white;">'''シンプリシオ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.65|scale=220|text=[[横山知伸|<span style="font-size:small;color:white;">'''横山知伸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=0.43|scale=220|text=[[山口螢|<span style="font-size:small;color:white;">'''山口螢'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.43|scale=220|text=[[南野拓実|<span style="font-size:small;color:white;">'''南野拓実'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.26|scale=220|text=[[エジノ・ホベルト・クーニャ|<span style="font-size:small;color:white;">'''エジノ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.26|scale=220|text=[[柿谷曜一朗|<span style="font-size:small;color:white;">'''柿谷曜一朗'''</span>]]}} </div> |} *2013年-G大阪と神戸がJ2に降格したことにより、関西で唯一のJ1チームとして戦う。監督は引き続きレヴィー・クルピが務め、新戦力として[[武田洋平]]([[清水エスパルス|清水]])、[[具聖潤|ク・ソンユン]](在鉉高校)、[[新井場徹]]([[鹿島アントラーズ|鹿島]])、[[椋原健太]]([[FC東京|東京]]、期限付き)、[[楠神順平]]([[川崎フロンターレ|川崎]])、[[ウェリントン・クレイトン・ゴンサウベス・ドス・サントス|ブランコ]]([[モンテディオ山形|山形]]からレンタルバック、旧登録名ブランキーニョ)、[[エジノ・ホベルト・クーニャ|エジノ]]([[UANLティグレス]])が加わり、ユースからは[[秋山大地]]、[[岡田武瑠]]、[[小暮大器]]、[[南野拓実]]の4名が昇格した。[[後藤寛太]]、[[高橋大輔 (サッカー選手)|高橋大輔]]が契約満了、[[舩津徹也]]、[[ヘベルチ・フェルナンデス・デ・アンドラーデ|ヘベルチ]]が期限付き移籍期間満了で退団し、[[荻野賢次郎]]が[[アルビレックス新潟シンガポール]]、[[児玉新]]が[[大分トリニータ|大分]]、[[松井謙弥]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]](期限付き)へ移籍した。昨季ともに大分へと期限付きで移籍していた[[夛田凌輔]]は[[J2リーグ|J2]]・[[ザスパクサツ群馬|群馬]]に、[[野口直人]]は[[日本フットボールリーグ|JFL]]・[[レイラック滋賀FC|びわこ]]に、再び期限付きで加入した。また、2012年9月から[[Aリーグ]]・[[パース・グローリーFC]]に期限付き移籍していた[[永井龍]]は、移籍期間を2013年4月30日まで延長。2013年シーズンのキャプテンは昨年に引き続き藤本康太が務める。 **開幕戦は、この年から新たに背番号8を受け継ぐこととなった柿谷曜一朗のゴールで、[[アルビレックス新潟|新潟]]相手に1-0で勝利。J1での開幕戦勝利は1999年以来、実に14年ぶりのことであった<ref>{{Cite news|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20130303-OHT1T00006.htm |title=【C大阪】柿谷V弾!背番「8」が決めた!14年ぶり開幕飾る|newspaper=スポーツ報知|date=2013-3-3|archivedate=2013-3-7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130307120011/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20130303-OHT1T00006.htm}}</ref>。また、酒本憲幸がこの試合でJ1リーグ通算100試合出場を達成した。 **契約を更新せず、海外挑戦が囁かれていた[[村田和哉 (サッカー選手)|村田和哉]]について、3月30日、正式に2013年度の契約を両者合意の上で結ばないことが発表された<ref>[http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10009977&contents_code=100100&date_s=&iPage=「村田和哉選手の契約についてのお知らせ」] セレッソ大阪公式サイト、2013年3月31日</ref>。その後、村田は[[清水エスパルス|清水]]に加入。同じく去就が発表されていなかった[[キム・チャンフン]]は[[蔚山現代尾浦造船|蔚山現代尾浦造船トルゴレFC]]への期限付き移籍が発表された<ref>[http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10009978&contents_code=100100&date_s=2013/03&iPage=「キム チャンフン選手期限付き移籍のお知らせ」] セレッソ大阪公式サイト、2013年3月30日</ref>。 **4月9日、武田洋平が右ひざ内側側副じん帯損傷で全治5週間と診断されたと発表された。第3GKだったク・ソンユンがベンチに入ることで、外国人枠の関係で[[ブラジル人]]選手が3名中2名しかメンバー入りできない事態に陥り、4月11日、昨季[[FC岐阜|岐阜]]でプレーしていた[[多田大介]]を緊急補強<ref>[http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010090&contents_code=100100&date_s=&iPage=「多田大介選手 加入のお知らせ」] セレッソ大阪公式サイト、2013年4月11日</ref>。多田にとっては2009年以来、4シーズンぶりの復帰となった。 **6月10日、契約期間が6月30日までとなっていたシンプリシオの契約延長が発表された。契約期間は2013年7月1日から2014年1月1日まで<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010541&contents_code=100100&date_s=&iPage=7|title=シンプリシオ選手 契約更新のお知らせ|website=セレッソ大阪|date=2013-06-10|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004220022/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010541&contents_code=100100&date_s=&iPage=7|archivedate=2013-10-04}}</ref>。 **7月1日に井上翔太の[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]への<ref>{{Cite web|url= http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010680&contents_code=100100&date_s=&iPage=2|title=井上翔太選手 ギラヴァンツ北九州に期限付き移籍のお知らせ|website=セレッソ大阪|date=2013-07-01|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004215303/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010680&contents_code=100100&date_s=&iPage=2|archivedate=2013-10-04}}</ref>、12日に永井龍のパース・グローリーFCへの<ref>{{Cite web|date=2013-07-12|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010765&contents_code=100100&date_s=&iPage=|title=永井 龍選手 パース・グローリーFC期限付き移籍期間延長のお知らせ|publisher=セレッソ大阪|accessdate=2013-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140414062931/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010765&contents_code=100100&date_s=&iPage=|archivedate=2014-04-14}}</ref>、そして26日には播戸竜二の[[サガン鳥栖|鳥栖]]への期限付き移籍が発表された<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010896&contents_code=100100100|title=播戸竜二選手 サガン鳥栖に期限付き移籍のお知らせ|website=セレッソ大阪|date=2013-07-26|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130825053410/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010896&contents_code=100100100|archivedate=2013-08-25}}</ref>。いずれも期間は2014年1月31日まで。 **7月15日、ユース出身者としてははじめて、柿谷曜一朗、山口螢、扇原貴宏の3選手が日本代表に選出された。そのうち、山口と扇原はハナサカクラブ出身者として初の選出となった。8月27日にキム・ジンヒョンが1年ぶりに韓国代表に選ばれた。 **膝の手術のため昨季いっぱいで退団していた[[高橋大輔 (サッカー選手)|高橋大輔]]が現役引退を決断し、7月24日、クラブの公式ホームページでも発表された<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010875&contents_code=100100&date_s=&iPage=4|title=高橋大輔選手の現役引退について|website=セレッソ大阪|date=2013-07-24|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140414062406/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010875&contents_code=100100&date_s=&iPage=4|archivedate=2014-04-14}}</ref>。 **7月26日、「マンチェスター・ユナイテッドツアー2013 PRESENTED BY AON ヤンマープレミアムカップ」として、セレッソ大阪と[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]のフレンドリーマッチが長居スタジアムで開催された。マンチェスター・ユナイテッドの一員としてピッチに立った香川真司にとって凱旋試合となったこの一戦は、セレッソが終了間際に失点したことにより、2-2の引き分けに終わった。試合後、香川は「成長した姿を見せられてよかった」「サッカー人生のひとつの歴史になったというか、誇りに思います」などの言葉を残している<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010908&contents_code=100104&date_s=&iPage=2|title=マンチェスター・ユナイテッド モイーズ監督、香川選手コメント|website=セレッソ大阪|date=2013-07-27|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131004215734/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10010908&contents_code=100104&date_s=&iPage=2|archivedate=2013-10-04}}</ref>。 **10月ごろから「来季からクラブのフィロソフィーを変えるプランもある」(社長の[[岡野雅夫|岡野]])などとして監督・コーチ陣および強化部長を総入れ替えするとの報道が流れはじめ<ref>{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/10/10/kiji/K20131010006781350.html|title=セレッソ大改造!クルピ監督今季限りで退任、コーチ陣総入れ替え|newspaper=スポーツニッポン|date=2013-10-10|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131104034000/http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/10/10/kiji/K20131010006781350.html|archivedate=2013-11-04}}</ref>、かつてセレッソにも在籍した[[名波浩]]らの名前が監督候補として取り沙汰される中で、11月25日、監督のクルピ、ヘッドコーチのマテル、フィジカルコーチのホドウホ、強化部長の[[梶野智]]の退任(契約満了)が正式に発表された。退任の発表にあたり、クルピは「セレッソで過ごした年月を振り返ると、心あたたまる思い出ばかりです。これから先も、いつまでも私はセレッソを応援し続けます」などとするコメントを発表した<ref>{{Cite web|url=http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10011833&contents_code=100100100|title=レヴィー・クルピ監督との契約について|website=セレッソ大阪|date=2013-11-25|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202223440/http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10011833&contents_code=100100100|archivedate=2013-12-02}}</ref>。結局シーズンは最後まで[[AFCチャンピオンズリーグ2014]]出場権争いに絡み、第33節終了時には一旦6位に下がるも、最終節に勝利し、前節3位、4位だったが最終節で敗れた鹿島、浦和を抜いて4位でリーグ戦を終了、3位以内での出場権獲得は逃したが、[[第93回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]の結果次第での出場の可能性を残した。 **今季は、柿谷らの活躍もあり、夏ごろから人気が上昇。練習グラウンドにも若い女性が詰めかけるようになり、メディアも「セレ女」などと報じるようになった<ref>たとえば、[http://www.footballchannel.jp/2013/11/27/post14321/ 「サッカー業界で話題。“セレ女”って何?」] フットボールチャンネル、2013年11月27日</ref>。その結果、2013年シーズンは観客動員が増加し{{refnest|group="注"|1試合あたりの平均観客動員数で見ると、J1全体が昨季より約3%落とす中、セレッソは約11%増となった<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/OSK201312020095.html|title=「セレッソ女子」急増中 イケメン効果?観客数1割増|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2013-12-04|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131225183105/http://www.asahi.com/articles/OSK201312020095.html|archivedate=2013-12-25}}</ref>。}}、また次シーズンの年間シートの売り上げも、過去最高だった今季レベルにまで年内のうちに到達した<ref>{{Cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/12/27/kiji/K20131227007276410.html|title=C大阪 柿谷&山口人気で来季の年間シート売り上げ絶好調|newspaper=スポーツニッポン|date=2013-12-27|accessdate=2023-11-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131228005106/http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/12/27/kiji/K20131227007276410.html|archivedate=2013-12-28}}</ref>。 **第93回天皇杯全日本サッカー選手権では4回戦で[[サガン鳥栖|鳥栖]]に敗れたが、天皇杯を2013年J1で2位だった横浜FMが制した為、ACLの出場権を獲得した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.cerezo.jp/news/2013-12-29|title=AFCチャンピオンズリーグ2014出場権獲得のお知らせ|publisher=セレッソ大阪|date=2013-12-29|accessdate=2016-2-22}}</ref>。 {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2014年開幕戦布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.40|y=1.26|scale=220|text=[[ランコ・ポポヴィッチ|<span style="font-size:small;color:navy;">'''監督 ポポヴィッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.64|y=0.80|scale=220|text=[[酒本憲幸|<span style="font-size:small;color:white;">'''酒本憲幸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[藤本康太|<span style="font-size:small;color:white;">'''藤本康太'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.93|scale=220|text=[[山下達也|<span style="font-size:small;color:white;">'''山下達也'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.80|scale=220|text=[[丸橋祐介|<span style="font-size:small;color:white;">'''丸橋祐介'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.65|scale=220|text=[[扇原貴宏|<span style="font-size:small;color:white;">'''扇原貴宏'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.65|scale=220|text=[[山口螢|<span style="font-size:small;color:white;">'''山口螢'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=0.33|scale=220|text=[[長谷川アーリアジャスール|<span style="font-size:x-small;color:white;">'''長谷川アーリアジャスール'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.43|scale=220|text=[[南野拓実|<span style="font-size:small;color:white;">'''南野拓実'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.26|scale=220|text=[[柿谷曜一朗|<span style="font-size:small;color:white;">'''柿谷曜一朗'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.26|scale=220|text=[[ディエゴ・フォルラン|<span style="font-size:small;color:white;">'''フォルラン'''</span>]]}} </div> |} *2014年-新監督に前年までFC東京監督だった[[ランコ・ポポヴィッチ]]が就任。[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]から[[武田博行]]、[[京都サンガF.C.|京都]]から[[染谷悠太]]と[[安藤淳]]、[[FC東京]]から[[長谷川アーリアジャスール]]、[[大分トリニータ|大分]]から[[丹野研太]]、[[関西大学]]から[[小谷祐喜]]が加入、期限付き移籍していた[[永井龍]]、[[岡田武瑠]]が復帰した。一方、[[茂庭照幸]]が[[タイ・プレミアリーグ]]の[[バンコク・グラスFC]]、[[金聖基]]が[[水戸ホーリーホック|水戸]]、[[横山知伸]]が[[大宮アルディージャ|大宮]]、[[武田洋平]]が大分へ完全移籍し、2013年シーズン中に期限付き移籍していた[[井上翔太]]、[[播戸竜二]]、[[夛田凌輔]]、[[松井謙弥]]がいずれも期限付き移籍先の北九州、[[サガン鳥栖|鳥栖]]、[[ザスパクサツ群馬|群馬]]、[[徳島ヴォルティス|徳島]]に完全移籍、[[小暮大器]]が徳島に期限付き移籍、さらに2013年シーズン期限付き移籍で在籍していた[[椋原健太]]、[[枝村匠馬]]は契約終了でそれぞれFC東京、[[清水エスパルス|清水]]に戻り、[[野口直人]]、[[多田大介]]とは契約を更新しないこととなった。1月28日、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]で[[2010 FIFAワールドカップ|南アフリカワールドカップ]]MVPの[[ディエゴ・フォルラン]]、2月26日に[[ハンブルガーSV]]から[[ゴイコ・カチャル]]を7月31日までの期限付き移籍で獲得した。 **3年ぶり2度目の出場となる[[AFCチャンピオンズリーグ2014|ACL]]ではグループリーグをグループEの2位で突破。2大会連続となる決勝トーナメント進出を果たす。しかし、決勝トーナメントのラウンド16で前年[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国スーパーリーグ]]とACLの2冠を勝ち取った[[広州恒大足球倶楽部|広州恒大]]に2戦合計2-5(長居での第1戦 1-5、広州での第2戦 1-0)で敗れ、ベスト16で敗退した。 *6月7日、カチャル本人の意向により早期契約解除が発表。柿谷曜一朗が7月16日にスイスの[[FCバーゼル]]へ完全移籍。 *成績不振により9日に監督のポポヴィッチとヘッドコーチの契約解除が発表された。6月16日、新監督に[[マルコ・ペッツァイオリ]]が就任。 *8月11日、その柿谷の後釜として、ドイツの[[VfBシュトゥットガルト|シュトゥットガルト]]を退団したFW[[カカウ]]が2015年6月までの契約で移籍加入。 *9月7日、キャプテンの山口や藤本を怪我で、日本代表の扇原と韓国代表のキム・ジンヒョンを代表招集で欠いた状態で臨んだナビスコカップ準々決勝・川崎フロンターレとの第2戦を3-2で勝った事でペッツァイオリの監督就任後初勝利を果たしたが、ヤンマースタジアムでの第1戦を1-3で落とした事で合計得点で及ばず去年に続いて準々決勝で敗退となった。 *ペッツァイオリの監督就任後もリーグ戦で全く勝てずに降格圏内に低迷。9月8日、ペッツァイオリとヘッドコーチ・[[カルステン・ラキース]]の解任及びユース監督の[[大熊裕司]]が監督に就任したが、11月29日の鹿島戦に敗れて3度目のJ2降格が決まった。06年同様、躍進の翌年に降格という屈辱を味わった。 *昨年の躍進と人気の上昇からフロントの期待も高く、開幕前には「目指すのは優勝じゃない。観客を魅了しての優勝や!」と、前年4位だったにも関わらずあたかも優勝して当然のような広告を作り<ref>{{Cite web |title=新聞広告データアーカイブ {{!}} 日本新聞協会 |url=http://www.pressnet.or.jp/adarc/ |website=新聞広告データアーカイブ {{!}} 日本新聞協会 |access-date=2023-12-04}}</ref>、結果的に降格したためサッカーファンの間で嘲笑の対象となる。 === 2015年 - 2016年(J2) === *2015年-新監督に[[パウロ・アウトゥオリ]]が監督に就任。[[玉田圭司]]、[[橋本英郎]]、[[関口訓充]]、[[茂庭照幸]]、[[椋原健太]]、[[パブロ・フィリペ・テイシェイラ|パブロ]]を獲得。また、[[中澤聡太]]を期限付きで獲得し、[[小暮大器]]が期限付きから復帰した。ユースからは[[阪本将基]]、[[沖野将基]]、[[西本雅崇]]、[[前川大河]]、[[温井駿斗]]が昇格。[[具聖潤]]、[[高正大]]、[[杉本健勇]]、[[南野拓実]]、[[金聖埈]]、[[黒木聖仁]]が完全移籍し、[[小谷祐喜]]、[[平野甲斐]]が期限付き移籍をした。 **リーグ開幕から6試合負けなし(3勝3分)だったが、第7節から[[ツエーゲン金沢|金沢]]・[[ザスパクサツ群馬|群馬]]に連敗するなど8試合で3勝5敗、第8節から19節までは、第10節終了後に一度4位になったのを除き、順位は7位以下の昇格プレーオフ圏外で推移する。第15節から9試合負けなし(4勝5分)で、第20節終了後4位に浮上してからは、プレーオフ圏内から落ちることはなく、第30節からは3位をキープしていたが、第35節、4位[[アビスパ福岡|福岡]]との直接対決に敗れ4位に後退、続く第36節[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]戦では勝利したものの、試合後アウトゥオリが選手の前で辞意を表明しチームは混乱、続く5試合で2分3敗と失速したことから、11月17日、リーグ最終節を前にアウトゥオリが退任し、強化部長の[[大熊清]]が急遽監督に就任。最終順位は4位となり[[J1昇格プレーオフ]]に回ったが、決勝で福岡に引き分け。昇格プレーオフのレギュレーション(引き分けの場合はリーグ戦上位チームが勝ち抜け)によりJ1昇格は成らなかった。 [[2015年のJリーグ#J1昇格プレーオフ|こちらのページ]]も参照。 *2016年-大熊体制2年目。[[J3リーグ]]に「セレッソ大阪U-23」が発足。[[スーパーリーグ (スイス)|スイス]]・[[FCバーゼル|バーセル]]から[[柿谷曜一朗]]、[[川崎フロンターレ|川崎]]から[[杉本健勇]]が完全移籍でチームに復帰。さらに金沢から[[清原翔平]]、[[鹿島アントラーズ|鹿島]]から[[山村和也]]、[[FC東京]]から[[松田陸 (1991年生のサッカー選手)|松田陸]]を完全移籍で獲得、期限付き移籍加入だった[[中澤聡太]]が完全移籍、[[小谷祐喜]]([[SC相模原|相模原]])、[[温井駿斗]]([[鈴鹿ポイントゲッターズ|鈴鹿]])、[[米澤令衣]]([[ブラウブリッツ秋田|秋田]])、[[丸岡満]]([[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]・[[ボルシア・ドルトムント|ドルトムント]])が期限付き移籍先から復帰、新外国人として[[エリアス・バルボサ・デ・ソウザ|ソウザ]]、[[ブルーノ・レボリ・メネジュウ|ブルーノ・メネゲウ]]、[[リカルド・エンリケ・ダ・シルバ・ドス・サントス|リカルド・サントス]]を補強、ユースから[[岸本武流]]、[[庄司朋乃也]]が昇格、大学から[[澤上竜二]]、[[木本恭生]]を獲得した。一方で[[岡田武瑠]]、[[パブロ・フィリペ・テイシェイラ|パブロ]]、[[エジミウソン・ドス・サントス・シルバ|エジミウソン]]、[[マグノ・ダマセーノ・サントス・ダ・クルス|マグノ・クルス]]が退団、[[山口蛍]]が[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ドイツ・ブンデスリーガ2部]]・[[ハノーファー96|ハノーファー]]、[[永井龍]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]、[[吉野峻光]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]、[[染谷悠太]]が[[京都サンガF.C.|京都]]、[[楠神順平]]が[[サガン鳥栖|鳥栖]]へ完全移籍、[[前川大河]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ期限付き移籍した。 **6月に山口蛍がハノーファーから完全移籍で復帰、7月には[[安俊洙|アン・ジュンス]]、[[ベサルト・アブドゥラヒミ]]の外国人選手2名を補強した。一方で7月に[[扇原貴宏]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]、ブルーノ・メネゲウが[[中国サッカー・スーパーリーグ|中国スーパーリーグ]]の[[長春亜泰足球倶楽部|長春亜泰]]へ完全移籍、[[橋本英郎]]が[[AC長野パルセイロ|長野]]、小谷祐喜が[[ロアッソ熊本|熊本]]へ期限付き移籍した。 **リーグ開幕から昇格争い圏内を維持、一時は自動昇格圏内に上がるものの第22節以降は3位、第37節で清水に抜かれ4位となりそのまま4位でリーグ戦を終了。J1昇格プレーオフ準決勝は京都(J2・5位)に1-1の引き分けとなり、昇格プレーオフのレギュレーション(引き分けの場合はリーグ戦上位チームが勝ち抜け)により決勝進出、決勝は[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]を破り、3年ぶりとなるJ1復帰を決めた。シーズン終了後に大熊が監督を退任した。 [[2016年のJリーグ#J1昇格プレーオフ|こちらのページ]]も参照。 === 2017年 - (J1) === {|style="float:right;margin-left:1em;margin-bottom:0.5em;width:180px;border:hotpink solid 1px" |<div style="position:relative;"> [[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|200px]] {{Image label|x=0.04|y=0.02|scale=300|text=<span style="font-size:10pt;">{{color|navy|'''2017年YBCルヴァンカップ決勝布陣'''}}</span>}} {{Image label|x=0.40|y=1.26|scale=220|text=[[尹晶煥|<span style="font-size:small;color:navy;">'''監督 尹晶煥'''</span>]]}} {{Image label|x=0.25|y=1.09|scale=220|text=[[金鎮鉉|<span style="font-size:small;color:white;">'''キム・ジンヒョン'''</span>]]}} {{Image label|x=0.70|y=0.80|scale=220|text=[[松田陸 (1991年生のサッカー選手)|<span style="font-size:small;color:white;">'''松田陸'''</span>]]}} {{Image label|x=0.51|y=0.93|scale=220|text=[[マテイ・ヨニッチ|<span style="font-size:small;color:white;">'''ヨニッチ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.18|y=0.93|scale=220|text=[[木本恭生|<span style="font-size:small;color:white;">'''木本恭生'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.80|scale=220|text=[[丸橋祐介|<span style="font-size:small;color:white;">'''丸橋祐介'''</span>]]}} {{Image label|x=0.17|y=0.65|scale=220|text=[[エリアス・バルボサ・デ・ソウザ|<span style="font-size:small;color:white;">'''ソウザ'''</span>]]}} {{Image label|x=0.58|y=0.65|scale=220|text=[[山口蛍|<span style="font-size:small;color:white;">'''山口蛍'''</span>]]}} {{Image label|x=0.68|y=0.43|scale=220|text=[[水沼宏太|<span style="font-size:small;color:white;">'''水沼宏太'''</span>]]}} {{Image label|x=0.08|y=0.43|scale=220|text=[[清武弘嗣|<span style="font-size:small;color:white;">'''清武弘嗣'''</span>]]}} {{Image label|x=0.54|y=0.26|scale=220|text=[[杉本健勇|<span style="font-size:small;color:white;">'''杉本健勇'''</span>]]}} {{Image label|x=0.20|y=0.26|scale=220|text=[[柿谷曜一朗|<span style="font-size:small;color:white;">'''柿谷曜一朗'''</span>]]}} </div> |} ;2017年 *2017年-新監督に元[[サガン鳥栖|鳥栖]]監督でチームOBの[[尹晶煥]]が就任。新戦力として[[仁川ユナイテッドFC]]から[[マテイ・ヨニッチ]]、[[レノファ山口FC|山口]]から[[福満隆貴]]、[[FC東京]]から[[圍謙太朗]]を完全移籍で、FC東京から[[水沼宏太]]を期限付き移籍で獲得、[[セビージャFC|セビージャ]]から清武弘嗣が完全移籍で復帰。[[エリアス・バルボサ・デ・ソウザ|ソウザ]]が完全移籍に移行した。また、U-18から[[斧澤隼輝]]、[[森下怜哉]]、[[舩木翔]]が昇格。[[大山武蔵]]、[[茂木秀]]の高校生2名を獲得し、広島ユースから[[山根永遠]]、早稲田大学から[[山内寛史]]を獲得した。一方で、[[北野貴之]]、[[中澤聡太]]、[[田代有三]]が退団、[[小暮大器]]が[[愛媛FC|愛媛]]、[[玉田圭司]]が[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]、[[AC長野パルセイロ|長野]]へ期限付き移籍していた[[橋本英郎]]が[[東京ヴェルディ1969|東京V]]へ完全移籍、[[武田博行]]が東京V、[[米澤令衣]]が山口、[[池田樹雷人]]が[[タイ・リーグ]]・[[バンコク・グラスFC]]へ期限付き移籍、[[小谷祐喜]]([[ロアッソ熊本|熊本]])、[[平野甲斐]](タイ・リーグ・[[アーミー・ユナイテッドFC]])は期限付き移籍先へ完全移籍し、[[ベサルト・アブドゥラヒミ]]は期限付き移籍期間満了となった。 **6月に[[庄司朋乃也]]が[[ツエーゲン金沢|金沢]]へ、7月に[[清原翔平]]が[[徳島ヴォルティス|徳島]]へ、[[丸岡満]]が[[V・ファーレン長崎|長崎]]へそれぞれ期限付き移籍した。 *リーグ戦では第4節の[[サガン鳥栖|鳥栖]]戦で初勝利を挙げる。その後、トップ下にコンバートされた[[山村和也|山村]]や1トップに入った杉本の好調もあり、前半戦を首位で折り返す。8月から9月にかけては2勝1分5敗と苦しんだが、9月9日、第25節FC東京戦に勝利し、同節16位となった広島が引き分けたことで、年間順位15位以上が確定、J1昇格プレーオフにより昇格したクラブとして史上初めてJ1残留を決めた。第29節以降は5連勝し、第33節の[[ヴィッセル神戸|神戸]]戦での勝利で3位を確定させ、翌シーズンの[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]出場権を獲得した<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/201711260000460.html C大阪逆転で5連勝、3位以上を確定/C-神33節] 日刊スポーツ、2017年11月26日h</ref>。山口が2度目の、リーグ2位の22得点を挙げた[[杉本健勇]]が初の[[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]]に選出されたほか、監督の尹が[[Jリーグアウォーズ#優秀監督賞・優勝監督賞|優秀監督賞]]を受賞した。 *ルヴァンカップではリーグ戦で控え組の選手が活躍して準決勝まで勝ち進みG大阪と決勝をかけて戦った。1stレグはホームで2-2の引き分けだったが、2ndレグでは後半終了直前の[[木本恭生|木本]]のゴールで2-1で勝利し、クラブ史上初の決勝進出を果たした<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/10/08/kiji/20171008s00002010217000c.html C大阪 劇的ロスタイム弾で初の決勝へ G大阪は4年連続決勝進出ならず] スポーツニッポン、2017年10月8日</ref>。その[[2017年のJリーグカップ#決勝|ルヴァンカップ決勝]]では杉本とソウザのゴールで[[川崎フロンターレ|川崎]]に2-0で勝利し、クラブ史上初の優勝を果たした<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/japan/ync/20171104/664357.html ルヴァン杯優勝はC大阪! 杉本が決勝点、クラブ史上初タイトルを獲得!] サッカーキング、2017年11月4日</ref>。 *天皇杯でもルヴァンカップに続いて、準決勝で、[[ヴィッセル神戸]]を破り決勝まで勝ち進んだ。[[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会#決勝|決勝戦]]では[[横浜F・マリノス|横浜FM]]相手に先制されるも山村と水沼の得点で逆転してクラブ初の優勝を遂げた。この優勝でルヴァンカップに続いて2冠を達成した<ref>[http://www.jfa.jp/news/00015951/ セレッソ大阪、延長戦を制して43年ぶりの優勝で今季2冠 ~第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝~] 公益財団法人日本サッカー協会公式サイト、2018年1月2日</ref>。 *リーグ戦は3位と関西のチームでは最高位。 ;2018年 *尹体制2年目。[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]から[[高木俊幸]]、[[ファジアーノ岡山|岡山]]から[[片山瑛一]]、[[浦項スティーラース]]から[[梁東炫|ヤン・ドンヒョン]]、[[HJKヘルシンキ]]から[[田中亜土夢]]を獲得。また、[[バンコク・ユナイテッドFC]]から[[チャウワット・ヴィラチャード]]を期限付き移籍で獲得し、前年[[FC東京]]から期限付き移籍で加入していた[[水沼宏太]]が完全移籍。[[関西学院大学]]から[[魚里直哉]]、[[福岡大学]]から[[永石拓海]]、[[長崎総合科学大学附属高等学校]]から[[安藤瑞季]]が新加入。U-18から[[山田寛人]]と[[中島元彦]]が昇格した。 *初出場となった[[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]では、[[川崎フロンターレ|川崎]]に3-2で勝利し初優勝を果たした。[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]優勝チームが同大会で優勝するのは、2008年の[[サンフレッチェ広島|広島]]以来10年ぶりとなった。 *4年ぶりに出場する[[AFCチャンピオンズリーグ2018]]は、[[広州恒大淘宝足球倶楽部|広州恒大]]、[[済州ユナイテッドFC]]、[[ブリーラム・ユナイテッドFC|ブリーラム・ユナイテッド]]と対戦。第1節・済州戦を勝利、第2節・広州恒大戦を引き分け2試合計で勝ち点4を獲得した。第3節・ブリーラム戦では杉本や山口、柿谷やキム・ジンヒョンらを筆頭に4日前に行われた札幌戦のスタメンをいずれも帯同させずに試合に臨み2失点を喫し敗戦。ブリーラムをホームに迎えた第4節もヤン・ドンヒョンのオウンゴールなどで2点を失ったのが響き、杉本が終了間際に同点ゴールを決めて引き分けとしたのがやっと。第5節・済州戦には勝利、決勝トーナメント進出に望みを繋いだが[[天河体育中心体育場]]での最終節・広州恒大戦は怪我から復帰したばかりの清武を始め、杉本や山口、柿谷、キム・ジンヒョン、丸橋等、3日前に行われたJ1第8節・FC東京戦のスタメンをまたも帯同させずにスタメンを10人入れ替えて<ref name=jcast1804>[https://www.j-cast.com/2018/04/18326489.html?p=all セレッソはACLから「追放されるべき」 主力温存、豪ジャーナリストが激怒] JCASTニュース、2018年4月18日、2018年4月19日閲覧</ref> 試合に臨み、試合は1-3で広州恒大に敗戦、決勝トーナメント進出を争っていたブリーラムが済州に勝利した為、グループリーグ3位となり、チーム史上初のグループステージ敗退となった。最終節の試合後の会見で尹は記者からの「ACLよりJリーグを優先しているのか」という質問に対し、「ACLよりJリーグに重点を置いてるのは事実」と答え、主力を休ませた事を認めている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/04/18/kiji/20180417s00002181409000c.html セレッソ散った…主力不在で見せ場欠き、ACL1次リーグ敗退] スポーツニッポン、2018年4月17日、2018年4月19日閲覧</ref>。このスタメン入れ替え策については、[[Twitter]]や[[電子掲示板|インターネット掲示板]]等でも賛否が分かれた<ref name=jcast1804/>。 *リーグ戦は最初の3戦で全て引き分けに終わるなど勝ち切れない試合が続き、第4節のアウェイ神戸戦で初黒星。第5節から8節までは4連勝と一気に巻き返すかに見えたが、第9節のアウェイ大阪ダービー(ガンバ大阪)に0-1で惜敗。第14節までは3勝2分と再び立て直したが、15節からは8戦で4分4敗と失速してしまった。前年に22得点を挙げた杉本が僅か5ゴールに終わるなど攻撃陣の不振も響き、ACL圏外となる7位で終了した。 *ルヴァンカップにはノックアウトステージより出場。湘南ベルマーレに2戦合計2-5(1stレグ0-3,2ndレグ2-2)で敗れ準々決勝敗退となった。 *天皇杯では3回戦まで勝ち進んだが、4回戦でヴァンフォーレ甲府に0-1で敗れ、ルヴァンカップ同様連覇はならなかった。 *10月6日に行われたホームで開催されたガンバ大阪との大阪ダービー(第29節)に0-1で敗戦。その直後に尹監督が今シーズン限りで退任するとの報道が流れ、11月20日にはクラブからも公式に発表された<ref>{{Cite web|和書|title=尹 晶煥監督 契約満了のお知らせ|url=https://www.cerezo.jp/news/2018-11-19-3/|website=セレッソ大阪オフィシャルウェブサイト {{!}} Cerezo OSAKA|accessdate=2020-02-26|language=ja}}</ref>。 *リーグ戦は7位と関西のチームでは最高位。 ;2019年 * アカデミーからの生え抜きであり、クラブの象徴的存在でもあった山口蛍と杉本健勇がそれぞれ神戸と浦和に移籍。山村和也も川崎に移籍するなど、2017年の2冠達成に大きく貢献した主力が相次いで退団。大幅な戦力ダウンが懸念されたが、札幌より[[都倉賢]]、仙台より[[奥埜博亮]]、神戸より[[藤田直之]]が完全移籍で加入。オスマルの抜けた外国人MF枠には[[レアンドロ・デサバト (1990年生のサッカー選手)|レアンドロ・デサバト]]を新たに獲得し、攻撃陣では[[ブルーノ・ペレイラ・メンデス|ブルーノ・メンデス]]を期限付き移籍で獲得するなど、即戦力となる選手を数多く獲得して戦力の低下を防いだ。この他、圍謙太朗と丸岡満がそれぞれ福岡と山口から期限付き移籍から復帰した。 *尹晶煥に代わる新たな指揮官として、前年まで東京ヴェルディを率いていた[[ミゲル・アンヘル・ロティーナ]]を招聘。ヘッドコーチとしてロティーナを補佐していたイバン・バランコも同時に加入した。 *この年はフロントの体制も大きく変わり、2016年より3年間社長を務めた玉田稔の後任として、クラブOBのレジェンドであり強化部門の責任者を務めていた森島寛晃が就任した。クラブOBの元選手がJクラブの社長に就任するのは札幌の[[野々村芳和]]に次いで史上二人目となる。 *リーグ開幕戦は[[アンドレス・イニエスタ]]、[[ダビド・ビジャ]]、[[ルーカス・ポドルスキ]]といった強力な攻撃陣を揃え、更に山口の移籍先でもある因縁の神戸をホームに迎えた。守勢に立たされる時間が長い試合展開となったが、77分に山下達也のヘディングゴールで挙げた先制点を守り切り1-0で見事勝利した。その後はチームの熟成不足もあって低空飛行が続いたが、ロティーナの構築した守備戦術が浸透するに従って徐々に勝ち点を伸ばし、第13節ではそれまで無敗で首位を快走していたFC東京に勝利。このシーズンに優勝を果たした横浜F・マリノスにはホーム・アウェイ共に勝利し、ホームで行われたガンバ大阪との第27節大阪ダービーでは3-1で快勝しリーグ戦では7年ぶりとなるダービー勝利を果たすなど、一時は優勝争いを伺える4位にまで浮上した。第28節のホーム鹿島戦に0-1で敗戦して優勝争いからは脱落したが、それでも最終的には勝ち点59で5位に食い込んだ。この年は強固な守備力が武器となり、シーズン25失点は2008年に大分が記録した24失点に次ぐ史上2番目の少なさであった。その一方で都倉とメンデスがシーズン途中で負傷離脱したこともあって総得点は39点に留まった。 *ルヴァンカップではグループステージを3勝2分1敗で首位通過したが、プレーオフステージでFC東京に2戦合計1-2で敗れ決勝T進出を逃した。 *天皇杯では4回戦で2-4でサガン鳥栖に敗れた。 *リーグ戦は5位と関西のチームでは最高位。 ;2020年 * ロティーナ体制2年目。[[水沼宏太]]が横浜F・マリノスへ完全移籍。[[田中亜土夢]]、ソウザや福満隆貴も退団したもののモンテディオ山形より[[坂元達裕]]を完全移籍で、シントトロイデンより[[小池裕太]]、オイペンより[[豊川雄太]]を獲得。ソウザの後釜として[[ルーカス・ダ・シウヴァ・イジドロ|ルーカス・ミネイロ]]を獲得した。 * [[サンガスタジアム by KYOCERA]]のこけら落としとして行われた京都とのプレシーズンマッチでは、坂元のゴールなどで勝利を挙げた。 * 開幕戦で大分に勝利後、新型コロナウイルスによる試合延期。 * 再開後初戦の[[市立吹田サッカースタジアム|パナスタ]]でのG大阪戦で、2-1で17年ぶりにアウェイでのリーグ戦の大阪ダービー勝利を果たした。 * 新戦力の坂元、ロティーナの戦術理解を深めた片山の活躍により安定した順位をキープ。 * ルヴァンカップではグループリーグを勝ち抜いたものの、柏に0-3で敗北。 *リーグでは4位だったものの、天皇杯の結果を受けて[[AFCチャンピオンズリーグ2021]]プレーオフへの出場が決定した。 *11月にロティーナの退任が発表された。 ; 2021年 * 柿谷曜一朗、木本恭生が名古屋グランパスへ完全移籍。片山瑛一が清水へ、ブルーノ・メンデス(福岡)、デサバト、都倉賢(長崎)、鈴木孝司(新潟)との契約満了。守備の要であったマテイ・ヨニッチが[[上海申花足球倶楽部|上海申花]]([[中国サッカー・スーパーリーグ|中国超級]])へ完全移籍。 * 新監督としてレヴィー・クルピが2013年以来のセレッソ大阪監督に復帰。 * 新戦力としてGK[[ダン・バン・ラム]]、DF[[進藤亮佑]]、[[新井直人]]、[[鳥海晃司]]、[[チアゴ・パグヌサット|チアゴ]]、[[ダンクレー・ルイス・デ・ジェズス・ペドレイラ|ダンクレー]]、MF[[原川力]]、[[松本泰志 (サッカー選手)|松本泰志]]、[[為田大貴]]、FW[[松田力]]、[[アダム・タガート]]、[[加藤陸次樹]]、[[大久保嘉人]]が加入。 * 開幕戦は大久保嘉人のゴールが決勝点となり、2-0で柏レイソルに勝利。新型コロナウイルスの影響で外国籍選手の来日が叶わない中、19歳の西尾隆矢が定位置を掴んでいる。序盤は好調だったが、その後負傷者が続出し調子を落とした。 * ACLではプレーオフで[[メルボルン・シティFC|メルボルン・シティ]]と対戦予定だったが、[[オーストラリアサッカー連盟]]が同国クラブの不参加を表明し、不戦勝でグループステージに進出。タイ・ブリーラムで集中開催されたグループJでは[[広州足球倶楽部|広州FC]]、[[傑志体育会|傑志]]、[[ポートFC]]と対戦し無敗で首位通過するも、ラウンド16でホーム・長居球技場にて[[浦項スティーラース|浦項]]に敗れ大会を終えた。 * DFダンクレーは加入わずか4ヶ月で[[アル・アハリ・サウジFC|アル・アハリ]]([[サウジ・プロフェッショナルリーグ|サウジアラビア1部]])に完全移籍することが6月26日に発表された。 * 7月26日、サンフレッチェ広島からの期限付き移籍でプレーしていた松本泰志の同クラブへの復帰が発表された。 * 成績不振に陥り、8月26日にレヴィー・クルピが退任。同日、コーチの[[小菊昭雄]]の監督就任が発表された。 *8月29日、乾貴士と10年ぶりの復帰で合意したと発表。 *リーグでは12位に終わり、開幕当初に掲げた3位以内・ACL出場の目標には及ばなかった。 *ルヴァンカップでは、4年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]に0-2で敗れて準優勝。 *天皇杯では[[浦和レッズ]]に0-2で敗れ準決勝敗退。 *シーズン終了をもって[[大久保嘉人]]が現役引退。 ; 2022年 *小菊体制2年目。 *各ポジションに同じレベルの選手を揃え、「どの選手が試合に出てもレベルの変わらない、同じ戦いができるチームに」することを補強・編成の方針とした<ref>{{Cite web|和書|title=2022シーズンチーム始動記者会見実施 |url=https://www.cerezo.jp/news/2022-01-15-13-26/ |website=セレッソ大阪オフィシャルウェブサイト {{!}} Cerezo OSAKA |access-date=2022-08-21 |language=ja}}</ref>。「今回の補強は派手さはないものの、戦力が不足しているポジションを的確に穴埋め」したとも評価されている<ref>{{Cite web|和書|title=C大阪が新体制発表 大久保、坂元抜けても堅実補強で今季も狙うは3位以内 : スポーツ報知|url=https://web.archive.org/web/20220114090419/https://hochi.news/articles/20220114-OHT1T51125.html?page=1|website=web.archive.org|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref>。 **[[藤田直之]](鳥栖)、[[豊川雄太]](京都)、[[小池裕太]](横浜FM)、[[庄司朋乃也]](金沢)、[[田平起也]](岩手)を完全移籍で放出。[[チアゴ・パグヌサット|チアゴ]]が名古屋へ期限付き移籍。U-20日本代表として期待されながらも出場機会に恵まれなかった[[西川潤]]が鳥栖に期限付き移籍。[[坂元達裕]]が[[KVオーステンデ|オーステンデ]]([[ベルギー・ファースト・ディビジョンA|ベルギー1部]])へ期限付き移籍。[[瀬古歩夢]]が[[グラスホッパー・クラブ・チューリッヒ]]([[スーパーリーグ (スイス)|スイス1部]])へ完全移籍。 **浦和から[[山中亮輔]]、岡山から[[上門知樹]]、徳島から[[鈴木徳真]]、山形から[[中原輝]]、長崎から[[毎熊晟矢]]を完全移籍で獲得。柏を契約満了になった[[山下達也]]が加入し2年半ぶりに復帰。U-18から[[岡澤昂星]]が昇格。外国人は[[CDサンタ・クララ|サンタ・クララ]]より[[ジェアン・パトリッキ・リマ・ドス・ヘイス|ジェアン・パトリッキ]]を完全移籍で獲得。2021年に[[上海申花足球倶楽部|上海申花]]へ放出した[[マテイ・ヨニッチ]]を完全移籍で獲得し2年ぶりに復帰。2021年は福岡でプレーした[[ブルーノ・ペレイラ・メンデス|ブルーノ・メンデス]]([[デポルティーボ・マルドナド]])が期限付き移籍で2年ぶりに復帰。 * 日本・ブラジル・オーストラリア・韓国・ベトナム・クロアチア・タイの計7国籍の選手が在籍するチームとなった。 *5月25日、KVオーステンデに6月30日までの期限付きで移籍していた坂元達裕の、同クラブへの完全移籍が発表された。 *6月1日、2018年にもセレッソ大阪(主にU-23)でプレーした[[チャウワット・ヴィラチャード|チャウワット]]が、[[BGパトゥム・ユナイテッドFC|パトゥム・ユナイテッド]]から再び期限付き移籍加入することが発表された。 *6月9日、乾貴士との契約解除を発表。4月5日、柏戦の後半途中に交代する際スタッフに暴言を吐いた事などを理由に、クラブより謹慎処分として公式戦6試合の出場停止および全体練習への参加が禁止されていたが、処分期間が終了した後も練習に参加することはなかった。その後、乾は7月に清水への加入が発表された<ref>[http://www.asahi.com/articles/OSK201312020095.html C大阪を契約解除の乾貴士、清水に加入…「本人は非常に反省し今後に生かしたいという思い] 読売新聞、2022年7月22日</ref>。 *6月16日、[[FC TIAMO枚方|FCティアモ枚方]]からの期限付き移籍でプレーしていた[[新井晴樹]]の[[HNKシベニク]]([[プルヴァHNL|クロアチア1部]])への期限付き移籍が発表された。 *8月1日、かつてのクラブの出資企業だったカプコンとトップパートナー契約を締結。ユニフォームパンツ背面並びに練習着胸部にロゴを掲出し、26年ぶりのユニフォームスポンサー復帰となった。 *8月10日、岡澤昂星の[[レッドブル・ブラガンチーノ]]への期限付き移籍が発表された。なお、同クラブは7月22日に、セレッソ大阪のトップパートナーであるヤンマーとプレミアム・パートナー契約を結んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=ブラジルプロサッカーチーム「レッドブル・ブラガンチーノ」とプレミアム・パートナー契約を締結|2022年|ニュース|ヤンマー |url=https://www.yanmar.com/jp/news/2022/07/22/111877.html |website=ヤンマー |access-date=2022-08-21 |language=ja}}</ref>。 *8月16日、ダン・バン・ラムのビンディンFC([[Vリーグ1]])への完全移籍が発表された。 *10月22日、広島とのルヴァンカップ決勝では、加藤陸次樹のゴールで先制するも、後半にヨニッチが退場し、終了間際に[[ピエロス・ソティリウ]]にPKとコーナーキックから2点を奪われて逆転負け。史上3チーム目の2年連続準優勝となった。 *天皇杯は広島に1-2で敗れ準々決勝敗退。広島とはこのシーズン対戦した4戦全敗となった。 *他チームに期限付き移籍中の[[中島元彦]]、[[藤尾翔太]]、[[松本凪生]]、[[西川潤]]がそれぞれのチームで活躍をみせた。 *リーグ戦は5位で終了し関西のクラブでは最高位だったが、[[AFCチャンピオンズリーグ|ACL]]出場圏には届かなかった。 *浦和レッズ、川崎フロンターレ、ヴィッセル神戸、ガンバ大阪にリーグ戦全勝・公式戦無敗だった。 *先発メンバーの過半数がJ2からの個人昇格選手だった。 ; 2023年 *小菊体制3年目。 *[[アダム・タガート]]([[パース・グローリーFC|パース]])、[[新井直人]](新潟)、[[茂木秀]](今治)、[[吉馴空矢]]([[FC大阪]])を完全移籍で放出。[[チアゴ・パグヌサット|チアゴ]]が契約満了で、[[ブルーノ・ペレイラ・メンデス|ブルーノ・メンデス]]、[[チャウワット・ヴィラチャード|チャウワット]]が期限付き移籍期間満了で退団。ユース時代から活躍した[[丸橋祐介]]が[[タイ・リーグ1|タイ1部]]の[[BGパトゥム・ユナイテッドFC|パトゥム・ユナイテッド]]へ期限付き移籍(5月31日付で復帰)。[[藤尾翔太]](徳島)が期限付き移籍から復帰するも3月6日付で町田へ期限付き移籍。昨年獲得し公式戦7得点と活躍した[[ジェアン・パトリッキ・リマ・ドス・ヘイス|ジェアン・パトリッキ]]が[[ヴィッセル神戸|神戸]]へ完全移籍。 *[[ブルーノ・エベルトン・クアドロス|ブルーノ・クアドロス]](札幌)がコーチとして17年振りにチームに復帰。 *外国籍選手は[[梁韓彬]]([[FCソウル]])、[[ジョアン・ヴィクトル・ダ・ヴィトーリア・フェルナンデス|カピシャーバ]]([[ECジュベントゥージ|ジュベントゥージ]])、[[レオ・セアラ]](横浜FM)、[[ジョルディ・クルークス]](福岡)を完全移籍で獲得。 *2月1日、元日本代表の[[香川真司]]が13年ぶりに復帰することが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=香川 真司選手 完全移籍加入について {{!}} セレッソ大阪オフィシャルウェブサイト {{!}} Cerezo OSAKA |url=https://www.cerezo.jp/news/2023-0201-1100 |website=セレッソ大阪オフィシャルウェブサイト |access-date=2023-02-01}}</ref>。 *7月7日、昨季途中から[[HNKシベニク]]([[プルヴァHNL|クロアチア1部]])でプレーしていた[[新井晴樹]]([[FC TIAMO枚方|枚方]])が期限付き移籍で再加入。 *夏の移籍期間では[[原川力]](FC東京)、[[中原輝]](東京V)、[[岡澤昂星]](琉球)をそれぞれ期限付き移籍で、[[加藤陸次樹]](広島)を完全移籍で放出。一方で[[藤枝MYFC|藤枝]]から[[渡邉りょう]]を、[[大宮アルディージャ|大宮]]から[[柴山昌也]]を完全移籍で獲得。 *7月28日、親善試合の[[パリ・サンジェルマンFC]]戦は3-2で逆転勝ち。 *2年連続準優勝だったルヴァンカップはグループステージ敗退(1勝2分3敗)。 *天皇杯は[[湘南ベルマーレ|湘南]]にPK戦の末敗れラウンド16敗退。 *8月16日、2016年からプレーしていたDF[[松田陸]]が[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]に期限付き移籍。 *リーグ戦のガンバ大阪との大阪ダービーでは2年連続で全勝となった<ref>{{Cite web |url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20231028/1825303.html |title=白熱の“大阪ダービー”を制したのはC大阪! 敗れたG大阪は痛恨のリーグ戦4連敗 |publisher = |accessdate=2023-10-28}}</ref>。 *開幕1週間前に負傷者が続出した事や、ボール保持を志向したことでチームはボール運びと連携面で不安定になった。リーグ戦は開幕3試合で1分2敗と低調なスタートで、3月8日のルヴァンカップグループステージ第1節FC東京戦でようやくシーズン初勝利を収める。主力選手の負傷離脱が相次いだが、監督の小菊のマネジメントである「練習から勝ち抜いた選手」が出場機会を得て活躍、前半戦最後の試合では出場機会の乏しい選手が多数起用されたが、当時首位だったヴィッセル神戸に勝利し5位で折り返した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo.jp/matches/result/2023061002/ |title=2 HOME FULL TIME 1 0-0 2-1 ヴィッセル神戸 |publisher = |accessdate=2023-06-11}}</ref>。 *だがシーズン後半戦も怪我人が戻ってくることはなく、さらに為田、山中が負傷離脱、奥埜、清武は手術で復帰時期が未定となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo.jp/news/2023-0810-1300/ |title=山中亮輔選手の負傷について |publisher = |accessdate=2023-08-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo.jp/news/2023-0704-1730/ |title=奥埜 博亮選手の負傷について |publisher = |accessdate=2023-08-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo.jp/news/2023-0707-1100/ |title=為田 大貴選手の負傷について |publisher = |accessdate=2023-08-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo.jp/news/2023-0730-1600/ |title=清武 弘嗣選手の負傷について |publisher = |accessdate=2023-08-10}}</ref>。その後第27節の鹿島アントラーズ、第28節のヴィッセル神戸の上位対決に連敗しチームが失速してしまい、優勝争いから脱落<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo.jp/matches/result/2023092310/ |title=2023明治安田生命J1リーグ |publisher = |accessdate=2023-09-23}}</ref>。 *第27節以降は1勝1分6敗と低調なままで、その間の得点は大阪ダービーでの1点のみ、2度の3連敗を喫するなど苦しむようになった。 *最終的に15勝4分15敗の9位でフィニッシュ。昨季よりも順位を落としてしまい、シーズン終盤に露呈した拙攻拙守という課題を突き付けられることになった。 *[[反則ポイント]]数が規定よりも少なかったチームが受賞するフェアプレー賞を、初受賞から7年連続で受賞、また反則ポイント数がJ1最小だったため、2度目のフェアプレー賞・高円宮杯を受賞した。 ; 2024年 *小菊体制4年目。 *J1連続8年目のシーズンとなり、これはクラブ史上最長記録である。 *長きにわたり守備の要として活躍した[[マテイ・ヨニッチ]]と[[丸橋祐介]]が契約満了で退団。 == 成績 == {{main|セレッソ大阪の年度別成績一覧}} == タイトル・表彰 == === 国内タイトル === *'''[[Jリーグカップ]]:1回''' **[[2017年のJリーグカップ|2017]] *'''[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:1回''' **[[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2017]] *'''[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]:1回''' **[[2018年のスーパーカップ (日本サッカー)|2018]] === その他タイトル === *'''[[ジャパンフットボールリーグ]]''':1回 **[[第3回ジャパンフットボールリーグ|1994]] === 表彰 === ==== J1リーグ ==== ===== [[Jリーグベストイレブン|ベストイレブン]] ===== *[[1995年のJリーグ#表彰|1995年]] {{Flagicon|JPN}} [[森島寛晃]] *[[1999年のJリーグ#表彰|1999年]] {{Flagicon|KOR}} [[黄善洪]] *[[2000年のJリーグ#表彰|2000年]] {{Flagicon|JPN}} 森島寛晃、 {{Flagicon|JPN}} [[西澤明訓]] *[[2005年のJリーグ#表彰|2005年]] {{Flagicon|JPN}} [[吉田宗弘]]、 {{Flagicon|JPN}} [[古橋達弥]] *[[2011年のJリーグ#表彰|2011年]] {{Flagicon|JPN}} [[清武弘嗣]] *[[2013年のJリーグ#表彰|2013年]] {{Flagicon|JPN}} [[山口蛍]]、 {{Flagicon|JPN}} [[柿谷曜一朗]] *[[2017年のJリーグ#表彰|2017年]] {{Flagicon|JPN}} 山口蛍、 {{Flagicon|JPN}} [[杉本健勇]] *[[2023年のJリーグ#表彰|2023年]] {{Flagicon|JPN}} [[毎熊晟矢]] ===== [[Jリーグアウォーズ#得点王|得点王]] ===== *1999年 J1 {{Flagicon|KOR}} 黄善洪 ===== [[Jリーグアウォーズ#ベストヤングプレーヤー賞|ベストヤングプレーヤー賞]] ===== *2013年 {{Flagicon|JPN}} [[南野拓実]] *2020年 {{Flagicon|JPN}} [[瀬古歩夢]] ===== [[Jリーグアウォーズ#優秀監督賞|優秀監督賞]] ===== *2017年 J1 {{Flagicon|KOR}} [[尹晶煥]] ===== [[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞(高円宮杯)|フェアプレー賞高円宮杯]] ===== *2018年、2023年 =====フェアプレー賞===== *7回(2017年、2018年、2019年、2020年、2021年、2022年、2023年) ===== [[Jリーグアウォーズ#フェアプレー個人賞|フェアプレー個人賞]] ===== *2013年 {{Flagicon|JPN}} 柿谷曜一朗 *2017年 {{Flagicon|JPN}} 柿谷曜一朗 ===== [[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|功労選手賞]] ===== *2009年 {{Flagicon|JPN}} 森島寛晃 ===== [[Jリーグアウォーズ#最優秀ゴール賞|最優秀ゴール賞]] ===== *2013年 {{Flagicon|JPN}} 柿谷曜一朗(第33節・対鹿島戦・38分) ==== J2リーグ ==== ===== 得点王 ===== *[[2009年のJリーグ#表彰|2009年]] {{Flagicon|JPN}} [[香川真司]] ==== アジアサッカー連盟(AFC) ==== ===== [[アジア年間最優秀ユース選手賞]] ===== *2003年 {{Flagicon|JPN}} [[大久保嘉人]] ==== Jリーグカップ ==== ===== 最優秀選手賞 ===== *2017年 {{Flagicon|JPN}} [[杉本健勇]] ==== その他 ==== ===== [[Jリーグアウォーズ#Jリーグベストピッチ賞|Jリーグベストピッチ賞]] ===== *[[2012年のJリーグ#表彰|2012年]] [[長居球技場|キンチョウスタジアム]] *2013年 キンチョウスタジアム ===== [[Jリーグアウォーズ#最優秀育成クラブ賞|最優秀育成クラブ賞]] ===== ===== [[報知プロスポーツ大賞]] ===== *2003年 Jリーグ部門 {{Flagicon|JPN}} 大久保嘉人 ===== [[日本プロスポーツ大賞]] ===== *2013年 新人賞 {{Flagicon|JPN}} 南野拓実 ===== 関西スポーツ賞 ===== *2009年 特別功労賞 {{Flagicon|JPN}} 森島寛晃 *2018年 {{Flagicon|JPN}} セレッソ大阪<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sports/201801/0010883170.shtml|title= 関西スポーツ賞に2団体7個人 柔道・阿部詩ら|publisher=[[神戸新聞|神戸新聞NEXT]]|date=2018-1-9|accessdate=2018-1-16}}</ref> == スタジアム他 == {{multiple image|align=right|direction=vertical|width=220 |image2=Minamitsumori20071209.jpg|caption2=南津守グラウンドのクラブハウス |image3=Minamitsumori20071209a.jpg|caption3=南津守グラウンド }} === ホームスタジアム === ホームスタジアムは[[長居球技場|ヨドコウ桜スタジアム]](長居球技場)である<ref name="jleague" />。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「[[セレッソ大阪の年度別成績一覧#年度別入場者数]]」を参照のこと。 === 練習場・クラブハウス === トップチームのトレーニングは2013年から[[舞洲スポーツアイランド]]の「セレッソ大阪スポーツクラブ クラブハウス・グラウンド」を使用している<ref name="jleague" />。この練習場は既存の舞洲球技場を大阪市から賃貸し、天然芝化やクラブハウスの新設などしたもの<ref>{{Cite web|和書|publisher=大阪市|title=舞洲球技場及び球技場関連施設用地の入札結果について|url=http://www.city.osaka.lg.jp/port/page/0000162883.html|accessdate=2013-06-13}}</ref> で、天然芝2面・新設の人工芝1面があり、下部組織チームも使用している<ref>[http://www.cerezo.co.jp/news_detail.asp?c_idx=10009473&contents_code=100104 セレッソ大阪ブログ2013年1月19日より]</ref>。 なお、2012年まで練習場として使用していた[[南津守さくら公園]]スポーツ広場は[[セレッソ大阪堺レディース]]やアカデミーが使用している。また2010年以降は毎年9月中旬から約1か月間行う天然芝の養生期間に限り[[堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンター|J-GREEN堺]]を使用することもある。以前は舞洲島内北部にあった旧・舞洲グラウンド(現在の施設とは別の場所・2010年4月閉鎖)や[[尼崎市]]のヤンマーグラウンド(現在は下部組織チームが使用)も使用していた。 == スポンサー == {{Main2|スポンサーについては、[https://www.cerezo.jp/club/sponsors/ セレッソ大阪スポンサー一覧] を}} == ユニフォーム == {{ユニフォームの色2 |F正シャツ=ピンク|F正パンツ=紺|F正ストッキング=紺 |F副シャツ=白|F副パンツ=白|F副ストッキング=白 |G正シャツ=黒|G正パンツ=黒|G正ストッキング=黒 |G副シャツ=緑|G副パンツ=緑|G副ストッキング=緑 |G第3シャツ=ピンク|G第3パンツ=ピンク|G第3ストッキング=ピンク |pattern_la1= _cerezo osaka 2023 HOME FP |pattern_b1= _cerezo osaka 2023 HOME FP |pattern_ra1= _cerezo osaka 2023 HOME FP |pattern_sh1= _cerezo osaka 2023 HOME FP2 |pattern_so1= _cerezo osaka 2022 HOME FP |leftarm1=FA1A82 |body1=FA1A82 |rightarm1=FA1A82 |shorts1=000040 |socks1=001e43 |pattern_la2= _cerezo osaka 2023 AWAY FP |pattern_b2= _cerezo osaka 2023 AWAY FP |pattern_ra2= _cerezo osaka 2023 AWAY FP |pattern_sh2= _cerezo osaka 2023 AWAY FP |pattern_so2= _cerezo osaka 2022 AWAY FP |leftarm2=fff |body2=fff |rightarm2=fff |shorts2=fff |socks2= |pattern_la3= |pattern_b3= |pattern_ra3= |pattern_sh3= |pattern_so3= |leftarm3=000000 |body3=000000 |rightarm3=000000 |shorts3=000000 |socks3=000000 |pattern_la4= |pattern_b4= 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*2017年J1第32節から左胸のエンブレム上に[[2017年のJリーグカップ|同年のルヴァンカップ]]優勝を示す星マークが付けられた。その後[[第97回天皇杯全日本サッカー選手権大会|同年度の天皇杯]]でも優勝を果たした事に伴い、2018年モデルからは同じ位置に星マークが更に1つ追加された。 === ユニフォームスポンサー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; border:double #1E2380; 4px 4px 4px #FA1A82;" |- style="background-color:#FA1A82; color:#fff; font-weight:bold;" |掲出箇所||スポンサー名||表記||掲出年||備考 |- !胸 |[[ヤンマー|ヤンマーホールディングス]]||YANMAR||2006年 - ||1994年 - 1996年は袖<br/>1997年 - 2005年は背中上部 |- !rowspan="2"|鎖骨 |[[日本梱包運輸倉庫|ニッコンホールディングス]]||NIKKON||2022年 - ||左側に掲出 |- |[[淀川製鋼所]]||ヨドコウ||2021年 - ||右側に掲出<br />2021年は鎖骨両側 |- !背中上部 |[[日本ハム]]||Nipponham||1994年前半<br />2006年 - ||1994年後半、1995年 - 2005年は胸<br/>(2006年 - 2009年は「NIPPONHAM」<br />2010年 - 2014年は「ニッポンハム」表記) |- !背中下部 |[[ビア・シン|シンハーコーポレーション]]||SINGHA||2016年 - || |- !袖 |[[カプコン]]||CAPCOM||2023年 - ||1994年前半は胸<br/>1994年後半、1995年 - 1996年は背中上部<br/>2022年8月 - 同年10月はパンツ背面<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.cerezo.jp/news/2022-0801-1400/|title=株式会社カプコンとトップパートナー契約締結のお知らせ|publisher=公式サイト|date=2022-08-01|accessdate=2022-08-01}}</ref> |- !パンツ前面 |[[ナカバヤシ]]||ナカバヤシ||2018年 - || |- !パンツ背面 |なし||-||- |} === ユニフォームサプライヤーの遍歴 === *1994年 - 2014年:リーグ戦・カップ戦とも[[ミズノ]] *2015年 - 現在:[[プーマ]] === 歴代ユニフォーム === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:65%; border:double #1E2380; font-size:smaller; 4px 4px 4px #FA1A82;" !colspan=5|FP 1st |- |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_cerezo osaka 1994 HOME FP|pattern_b= _cerezo osaka 1994 HOME FP|pattern_ra= _cerezo osaka 1994 HOME FP|pattern_sh= _cerezo osaka 1994 HOME FP|pattern_so= _cerezo osaka 1994 HOME FP |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=010049|title={{Center|1994 - 1996}}}} |{{Football kit|filetype=png |pattern_la=_cerezo_osaka9798h|pattern_b=_cerezo_osaka_9798h|pattern_ra=_cerezo_osaka9798h|pattern_sh=_cerezo_osaka9798h|pattern_so= |leftarm=|body=|rightarm=|shorts=|socks=010049|title={{Center|1997 - 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style="background-color:#FA1A82; color:#fff; font-weight:bold;" |rowspan="2"|年度||colspan="8"|箇所||rowspan="2"|サプライヤー |- style="background-color:#FA1A82; color:#fff; font-weight:bold;" |胸||鎖骨左||鎖骨右||背中上部||背中下部||袖||パンツ前面||パンツ背面 |- |1994||[[カプコン|CAPCOM]] / <br/>[[日本ハム|Nippon<br/>Ham]]||colspan="2" rowspan="24"|解禁前||[[日本ハム|Nippon<br/>Ham]] / <br/>[[カプコン|CAPCOM]]||rowspan="22"|解禁前||rowspan="3"|[[ヤンマー]]||rowspan="8"|解禁前||rowspan="26"|解禁前||rowspan="21"|[[ミズノ|Mizuno]] |- |1995||[[日本ハム|Nippon<br/>Ham]]||rowspan="2"|[[カプコン|CAPCOM]] |- |1996||rowspan="10"|[[日本ハム|NIPPON<br/>HAM]] |- |1997||rowspan="9"|[[ヤンマー|Yanmar]]||rowspan="2"|[[大阪オリンピック構想|2008<br/>OSAKA<br/>{{smaller|オリンピックを大阪に!}}]] |- |1998 |- |1999||- |- |2000||rowspan="6"|[[タマノイ酢]] |- |2001 |- |2002||大装ハウス |- |2003||大装 |- |2004||rowspan="6"|[[アルペン (企業)|{{smaller|SPORTS}}<br/>DEPO]] |- |2005 |- |2006||rowspan="18"|[[ヤンマー|YANMAR]]||rowspan="4"|[[日本ハム|NIPPONHAM]]||[[アサヒ飲料|{{smaller|SUPER}} H2O<br/>{{smaller|≪ Hypotonic Sports Water}}]] |- |2007||rowspan="2"|[[大阪メトロサービス|OSAKA<br/>PiTaPa]] |- |2008 |- |2009||- |- |2010||rowspan="5"|[[日本ハム|ニッポンハム]]||- / <br/>[[大日本除虫菊|KINCHO]]<!--7月-->||- / <br/>[https://www.sanyu-j-net.co.jp SANYU]<!--7月--> |- |2011||rowspan="8"|[[大日本除虫菊|KINCHO]]||rowspan="7"|[https://www.sanyu-j-net.co.jp SANYU] |- |2012 |- |2013 |- |2014 |- |2015||rowspan="9"|[[日本ハム|Nipponham]]||rowspan="9"|[[プーマ|PUMA]] |- |2016||rowspan="8"|[[ビア・シン|SINGHA]] |- |2017 |- |2018||colspan="2" rowspan="3"|-||rowspan="6"|[[ナカバヤシ]] |- |2019||rowspan="4"|[[シャープ|SHARP]] |- |2020||- / <br/>[http://dafc.jp/ DANISH] |- |2021||colspan="2"|[[淀川製鋼所|ヨドコウ]]||- |- |2022||rowspan="2"|[[日本梱包運輸倉庫|NIKKON]]||rowspan="2"|[[淀川製鋼所|ヨドコウ]]||- / <br/>[[カプコン|CAPCOM]] |- |2023||[[カプコン|CAPCOM]]||- |} == セレッソ大阪U-23 == {{サッカークラブ |font-color=#fff |background-color=#FA1A82 |border-color=#1E2380 |クラブ名=セレッソ大阪U-23 |原語表記= |呼称=セレッソ大阪U-23 |愛称=SAKURA NEXT<ref name="release20160117">{{Cite press release|和書|url=https://www.cerezo.co.jp/news/2016-01-17-4/|title=2016シーズン クラブスローガン・チーム方針について|publisher=セレッソ大阪|date=2016-01-17|accessdate=2016-01-17}}</ref> |カラー= |創設=2016 |解散=2020 |リーグ= |ディビジョン= |クラブライセンス= |ホームタウン= |スタジアム= |キャパ= |法人名= |代表= |監督= |HP= }} '''セレッソ大阪U-23'''(セレッソおおさか・アンダートゥエンティースリー、略称表記:C大23)は、2016年から2020年にかけて[[J3リーグ]](J3)に参加していた、セレッソ大阪所属の23歳以下の選手で構成されるサッカーチーム(U-23チーム)<ref name="U23release20151215">{{Cite press release|和書|url=https://www.cerezo.co.jp/news/2015-12-15-5/|title=セレッソ大阪U-23 2016明治安田生命J3リーグに参加決定|publisher=セレッソ大阪|date=2015-12-15|accessdate=2016-01-17}}</ref>。 === 概要(U-23) === 2015年12月15日、Jリーグの理事会において[[2016年のJ3リーグ|2016年シーズン]]よりJ1・J2クラブの「U-23チーム」がJ3に参加することが発表され<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-40975/|title=2016明治安田生命J3リーグへ参加するU-23チームが決定!|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015-12-15|accessdate=2016-01-17}}</ref>、初年度参加チームの一つとして承認された<ref name="U23release20151215"/>。「タフな試合環境の中でトップチームを担う次の才能を開花させる」との思いを込めて、'''SAKURA NEXT'''(サクラ・ネクスト)という独自愛称が与えられている<ref name="release20160117"/>。 U-23を育成の一番上のカテゴリー(もしくは育成とトップチームの間)として位置づけ、トップチームと別に練習を行ってチームの育成を図っている<ref>{{Cite press release|和書|url=http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201602070004-spnavi?p=2|title=U−23が参戦するJ3、成功の鍵は?FC東京、G大阪、C大阪それぞれの事情|publisher=スポーツナビ|date=2016-02-07|accessdate=2016-06-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/column/article/418/ |title=「三者三様」U-23チームのJ3参戦はいかに(♯35) |author=川端暁彦 |work=J.LEAGUE.jp|date=2016-04-25 |accessdate=2017-09-12}}</ref>。 日刊スポーツが2019年7月16日付<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/201907160000916.html|title=JがU23リーグ戦終了へ、来季からJ3に新規定|newspaper=日刊スポーツ|date=2019-07-16|archiveurl=https://archive.fo/n1Ecy|archivedate=2019-09-26|accessdate=2019-09-26}}</ref> の記事で、Jリーグが[[2020年のJ3リーグ|2020年]]を最後としてU-23チームの参戦を終了させる方向である見込みと報じたとおり、「セレッソ大阪U-23」は2020年シーズンをもってJ3リーグへの参加およびチーム活動を終了した。 === 略歴(U-23) === ;2016年 初年度の監督には、2014年シーズン途中からトップチームの指揮を執り、2015年にはアカデミー(U-18)の監督を務めた[[大熊裕司]]が就任<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.cerezo.co.jp/news/2016-01-17-2/|title=2016シーズン チームスタッフ決定のお知らせ|publisher=セレッソ大阪|date=2016-01-17|accessdate=2016-01-17}}</ref>。また、初年度では若手がトップチームに上がることが少なかったが、序盤戦にオーバーエージ枠で出場していた[[清原翔平]]がトップチームに這い上がった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/12/14/kiji/K20161214013903090.html C大阪U23 もの足りなかったJ3参入1年目 台頭する若手が見たい ] スポーツニッポン(2016年12月14日)2016年12月20日閲覧。</ref>。 ;2017年 大熊体制2年目。開幕戦では[[瀬古歩夢]]、[[喜田陽]]といった高校1年生も選ばれ、平均年齢17歳で挑んだ。また、序盤こそは選手の入れ替わりがあって苦しんだが、[[斧澤隼輝]]、[[西本雅崇]]がトップに絡み、ユースの[[小林洵]]が試合を重ねて成長をした<ref>[http://www.mycerezo.jp/news/article/199/00011468/?p=1 セレッソ番の3記者が語る「2017総括&2018展望」vol.5] まいど!セレッソ~マイセレ(2018年1月13日)</ref>。 ;2018年 大熊体制3年目。第3節から第12節にかけて10戦負け無し(5勝5分)を記録し一時は2位にも入った。その後は2度の連敗もあって順位を落とすが、第23節から第26節にかけて4連勝を記録するなど、最終的にはチーム発足後初めて勝利数が敗戦数を上回り、順位も過去最高の7位でシーズンを終えた。個人では、[[米澤令衣]]が得点ランク6位の12ゴールを記録する活躍を見せた。 ;2019年 大熊体制4年目。序盤から好調を維持し、第6節では首位に立った。最終的には前年の過去最高順位を更新して、6位でフィニッシュした。 === 活動方針(U-23) === *ゴールを奪う選手の強化育成<ref name="release20160117"/> *ボールを奪う選手の強化育成<ref name="release20160117"/> *勝利に貪欲な選手の強化育成<ref name="release20160117"/> === ホームゲーム開催試合数(U-23) === 「-」:改修中につき閉鎖 {|class="wikitable" |- !年度!!金鳥スタ!!ヤンマー!!その他 |- |2016||13||2||0 |- |2017||8||7<ref group="注">うち1試合は[[紀三井寺運動公園陸上競技場|和歌山県紀三井寺]]で開催する予定だったものが[[平成29年台風第18号]]の影響により中止されたものの代替開催。</ref>||[[高知県立春野総合運動公園陸上競技場|高知陸]]1 |- |2018||8||8||0 |- |2019||-||17||0 |} === 成績(U-23) === {|class="wikitable" style="font-size:small" !年度!!所属!!順位!!試合!!勝点!!style="width:1.8em;"|勝!!style="width:1.8em;"|引!!style="width:1.8em;"|負!!得点!!失点!!得失点!!監督 |- |[[2016年のJ3リーグ|2016]] ||rowspan="5"|[[J3リーグ|J3]] ||12位||30||32||8||8||14||38||47||-9||rowspan="4" align=left|{{flagicon|JPN}} [[大熊裕司]] |- |[[2017年のJ3リーグ|2017]]||13位||32||35||8||11||13||39||43||-4 |- |[[2018年のJ3リーグ|2018]]||7位||32||46||13||7||12||47||36||+11 |- |[[2019年のJ3リーグ|2019]]||6位||34||52||16||4||14||49||56||-7 |- |[[2020年のJ3リーグ|2020]]||18位||34||25||5||10||19||28||61||-33||align=left|{{flagicon|JPN}} [[村田一弘]]→<br / >{{flagicon|JPN}} [[丸山良明]](7月-) |} === 表彰(U-23) === ;チーム * J3[[Jリーグアウォーズ#フェアプレー賞(高円宮杯)|フェアプレー賞]]:3回 ** 2017年、2019年、2020年 ;個人別 * J3[[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|月間MVP]] ** 2019年2月・3月:[[山田寛人]] === ユニフォーム === ユニフォームデザイン及びユニフォームのサプライヤーはトップチームと同じ。 ==== 歴代ユニフォームスポンサー年表 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center; border:double #1E2380; box-shadow: 4px 4px 4px #FA1A82;" |- style="background-color:#FA1A82; color:#fff; font-weight:bold;" |年度||胸||鎖骨||背中上部||背中下部||袖||パンツ||サプライヤー |- |2016|| rowspan="5" |[[ヤンマー|YANMAR]]||rowspan=2|解禁前|| rowspan="5" |[[日本ハム|Nipponham]]||rowspan=5|[[ナカバヤシ]]||rowspan=5 |[[たこ焼道楽わなか|{{smaller|たこ焼道楽}}<br />わなか]] | rowspan="5" |-||rowspan=5|[[プーマ|PUMA]] |- |2017 |- |2018|| rowspan="3" |- |- |2019 |- |2020 |- |} == アカデミー == セレッソ大阪のアカデミーは、各年代別日本代表にも多くの選手を輩出しており、アカデミー出身の[[柿谷曜一朗]]や[[山口蛍]]、[[扇原貴宏]]、[[杉本健勇]]、[[南野拓実]]らが日本代表に選ばれている。また、セレッソ大阪の育成組織である「ハナサカクラブ」にも注目が向けられている<ref>たとえば、[http://www.soccer-king.jp/sk_column/article/126149.html 「C大阪のアカデミー出身の柿谷、山口、扇原が東アジア杯制覇に貢献・・・クラブ関係者が明かす日本代表選出の舞台裏」] SOCCER KING、2013年7月29日</ref>。 2016年から長期的な「SAKURA SPECTACLE」というクラブ哲学が発表され、アカデミーの名称をスペイン語で「セレッサ」と呼ぶことになった。 2021年、[[風間八宏]]が技術委員に就任しアカデミーの育成方針が変更された。同年8月からは、おおむね月1回のペースで、小学生から高校生までの各年代のチーム、[[セレッソ大阪ヤンマーレディース|ヤンマーレディース]](2023年のプロ化に伴って改名)やその下部組織選手らから選ばれた選手が同じグラウンドに集まり、ボールを「止める」「蹴る」といった基本動作から、技術を高め、個の力をつけるための特別なトレーニングに取り組んでいる。また、その年代・性別バラバラの選手でチームを組み、対外試合を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20230919-YZLWUA4GDBMVLKIF7BOYSPTQTM/ |title=小学~高校混成チームが大学生と引き分け…セレッソ大阪アカデミー「スペトレ」で浮かび上がる「個の力」 |publisher = |accessdate=2023-09-19}}</ref>。 2022年夏、クラブユースの全てのカテゴリーを制覇し、史上初のクラブユース三冠を達成したアカデミーとなった。8月3日、[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会]]でセレッソ大阪U-18が優勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo-sportsclub.com/news/?id=110226 |title=日本クラブユース女子 決勝 JFAアカデミー福島戦|レビュー: |publisher = |accessdate=2022-08-08}}</ref>。8月8日、日本クラブユース 女子サッカー大会(U-18)でセレッソ大阪堺ガールズが初優勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://womens-clubyouth-u18.com/post-30081/ |title=8/8 決勝 JFAアカデミー福島 0-1 セレッソ大阪堺ガールズ |publisher = |accessdate=2022-08-08}}</ref>。8月24日にはセレッソ大阪U-15が[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会]]で初優勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cerezo-sportsclub.com/news/?id=110336 |title=クラブユース選手権(Uー15) 決勝 横浜FCジュニアユース戦|レビュー: |publisher = |accessdate=2022-08-24}}</ref>。 === アカデミーの構成 === セレッソ大阪のアカデミーは年代別の選抜チームとして、[[日本サッカー協会チーム登録種別#第2種|第2種]](高校生年代)の「U-18」、[[日本サッカー協会チーム登録種別#第3種|第3種]](中学生年代)の「U-15」、「西U-15」、「和歌山U-15」、[[日本サッカー協会チーム登録種別#第4種|第4種]](小学生年代)の「U-12」がある。これらは、次のようなピラミッド構造を形成している。 {|class="wikitable" style="font-size:smaller;" |+セレッソ大阪 アカデミーの構成 2017年時点 !チーム !!登録種別 |- |U-18 ||第2種(高校生年代) |- |U-15 ||rowspan=3|第3種(中学生年代) |- |西U-15 |- |和歌山U-15 |- |U-12 ||第4種(小学生年代) |} 2009年にはレディースU-15([[セレッソ大阪レディース]])が設立され、2013年より[[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]]2部相当の「なでしこチャレンジリーグ」参入を果たすなど、女子選手の育成にも力を入れている。 === ハナサカクラブ === ハナサカクラブは、セレッソ大阪の育成組織をサポートすることを目的に設立した育成サポートクラブ(個人協賛会)で、2007年に発足した。個人や団体などから年度ごとに会費を募り、合宿や遠征、練習試合、食事などの費用補助にする。ハナサカクラブの会費はクラブ運営費とは完全に分けられ、育成組織の活動をサポートするためのみに活用される。 === セレッソ大阪スポーツクラブ === ユースを含めたすべての育成組織のチームは2012年より、[[セレッソ大阪スポーツクラブ]]が運営している。 {{Main|セレッソ大阪スポーツクラブ}} === 出身選手 === {{Main|セレッソ大阪の選手一覧#下部組織出身者}} === 主な成績 === ==== U-18 ==== *'''[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ|高円宮杯U-18サッカーリーグ チャンピオンシップ]]''' **'''優勝1回:2014年''' *'''[[高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ|高円宮杯U-18サッカーリーグ プレミアリーグWEST]]''' **'''優勝1回:2014年''' *'''[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会]]''' **'''優勝2回:1996年、2009年、2022年''' **準優勝1回:1994年 *'''[[Jリーグユース選手権大会]]''' **準優勝2回:2008年、2011年 *'''[[高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関西]]''' **'''優勝2回:2008年、2010年''' ==== U-15 ==== *'''[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会]]''' **'''優勝1回:2022年''' **準優勝2回:2018年、2019年 *'''[[高円宮杯 JFA 全日本U-15サッカー選手権大会]]''' **'''優勝1回:2015年''' *'''[[関西サッカーリーグ (U-15)サンライズリーグ|高円宮杯U-15サッカーリーグ関西 サンライズリーグ]]''' **'''優勝1回:2014年''' ==== 西U-15 ==== *'''高円宮杯U-15サッカーリーグ関西 サンライズリーグ''' **'''優勝1回:2009年''' ==== U-12 ==== *'''[[JFA 全日本U-12サッカー選手権大会]]''' **'''優勝2回:2014年, 2017年''' *'''[[ダノンネーションズカップ in JAPAN]]''' **準優勝1回:2012年 == BGM == === 選手紹介 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !年度!!曲名!!アーティスト名!!DJ |- |2006||rowspan=3|Dark Chest of Wonders||rowspan=3|[[ナイトウィッシュ]]||rowspan=3|[[西川大介]] |- |2007 |- |2008 |} === 選手入場 === {|class="wikitable" style="font-size:small" !年度!!曲名!!アーティスト名 |- |2008||saturate||[[ケミカル・ブラザーズ]] |- |2009||セレッソ大阪アンセム||[[本間勇輔]] |} == セレッソ大阪応援ナビゲーター・セレッソガール == * セレッソ大阪応援ナビゲーター : セレッソ大阪の『ホームタウン活動』を中心に、セレッソ大阪の広告塔として活動。 : 駒川商店街まつりの企画がきっかけで2016年に誕生した。その為、1期生は大阪市東住吉区駒川にある「[[駒川商店街]]」で2016年7月10日に開催された「関西コレクション presents KOMAGAWA RUNWAY supported by セレッソ大阪」において選出された関西コレクションエンターテインメント所属のモデルが就任している。 * セレッソガール : 『SNS([[TikTok]])での情報発信』を軸にデジタルの力を活用してセレッソの魅力を発信。 : 動画配信アプリ「[[ミクチャ]]」や「TikTok」を活用したオンラインオーディションを実施。初年度の2021年度は、720名の参加者の中から審査を勝ち上がった5名を新たにセレッソガールに決定。2021年2月27日から「[https://www.tiktok.com/@cerezogirl2021 セレッソガールTikTokアカウント]」を開設し、セレッソの魅力をTikTokを通じて発信。 {|class="wikitable" style="font-size:small" !年度!!期生!!colspan="4"|セレッソ大阪応援ナビゲーター!!colspan="5"|セレッソガール!!備考 |- |2016||rowspan=2|1期生||rowspan=2|石井里奈||rowspan=2|久保葉月|| rowspan="2" |渡邉みさき|| ||colspan="5"| ||<ref>[https://www.cerezo.jp/news/2016-09-10-2/ 【9/11V・ファーレン長崎戦】「セレッソ大阪応援ナビゲーター」来場のお知らせ] セレッソ大阪 2017年3月1日</ref> |- |2017||||colspan="5"| ||<ref>[https://www.cerezo.jp/news/2017-03-01-7/ セレッソ大阪応援ナビゲーター 今シーズンも活動継続のお知らせ] セレッソ大阪 2017年3月1日</ref> |- |2018||2期生||森脇るか||Momona||小西陽向||櫻井菜々美|| colspan="5" | ||<ref>[https://www.cerezo.jp/news/2020-02-17-14-00/ セレッソ大阪応援ナビゲーター2期生決定のお知らせ] セレッソ大阪 2018年2月24日</ref> |- |2020||3期生|| rowspan="3" |増田亜美||大西未有||木津紗也加||柳田千晶|| colspan="5" | ||<ref>[https://www.cerezo.jp/news/2020-02-17-14-00/ セレッソ大阪応援ナビゲーター3期生決定のお知らせ] セレッソ大阪 2020年2月17日</ref> |- |2021|| rowspan="2" |-|| rowspan="2" |中西梨璃風|||橋本佳奈||||山口莉子||鈴瀬まりあ||酒井美穂||林康子||||<ref>[https://www.cerezo.jp/news/2021-02-25-15-30/ 2021年セレッソ大阪応援ナビゲーターについて] セレッソ大阪 2021年2月27日</ref> |- |2022||上田セナ||||北西優花||山川明香音||香椎康子||酒井美穂||和有羽||<ref>{{Cite web|和書|title=2022シーズンセレッソ大阪 応援ナビゲーター決定のお知らせ {{!}} セレッソ大阪オフィシャルウェブサイト {{!}} Cerezo OSAKA |url=https://www.cerezo.jp/news/2022-02-24-18-07 |website=セレッソ大阪オフィシャルウェブサイト |access-date=2023-02-05}}</ref> |- |2023 | | | | | | | | | | | |} == 決算 == セレッソ大阪の決算は、つぎのとおり。 === 損益 === {|class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収入|営業収入}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!事業費 !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|管理費|一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||style="background-color:wheat" |2,311 ||1,110 ||392 ||413 ||396 ||style="background-color:wheat" |2,283 ||1,599 ||N.A. ||684 ||style="background-color:wheat" |28 ||style="background-color:wheat" |79 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||style="background-color:wheat" |2,108 ||1,161 ||328 ||242 ||377 ||style="background-color:wheat" |2,318 ||1,697 ||1,150 ||621 ||style="background-color:wheat" |-210 ||style="background-color:wheat" |-199 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||style="background-color:wheat" |2,066 ||1,102 ||200 ||109 ||655 ||style="background-color:wheat" |2,045 ||1,497 ||889 ||548 ||style="background-color:wheat" |21 ||style="background-color:wheat" |208 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||style="background-color:wheat" |1,940 ||1,293 ||216 ||106 ||325 ||style="background-color:wheat" |1,999 ||1,448 ||824 ||551 ||style="background-color:wheat" |-59 ||style="background-color:wheat" |-64 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||style="background-color:wheat" |2,241 ||1,252 ||278 ||122 ||589 ||style="background-color:wheat" |2,319 ||1,650 ||1,085 ||669 ||style="background-color:wheat" |-78 ||style="background-color:wheat" |-84 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||style="background-color:wheat" |2,554 ||1,282 ||428 ||290 ||554 ||style="background-color:wheat" |2,528 ||1,938 ||1,301 ||590 ||style="background-color:wheat" |26 ||style="background-color:wheat" |3 |} <div style="font-size:small"> 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010] 金額の単位:百万円 人件費は事業費に含まれる。 </div> {|class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||style="background-color:wheat" |2,527 ||1,361 ||449 ||223 ||20 ||474 ||style="background-color:wheat" |2,570 ||1,185 ||348 ||184 ||56 ||7 ||790 ||style="background-color:wheat" |-43 ||style="background-color:wheat" |-54 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||style="background-color:wheat" |2,618 ||1,120 ||495 ||228 ||0 ||775 ||style="background-color:wheat" |2,546 ||969 ||290 ||538 ||0 ||0 ||749 ||style="background-color:wheat" |72 ||style="background-color:wheat" |63 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||style="background-color:wheat" |3,213 ||1,499 ||954 ||220 ||0 ||540 ||style="background-color:wheat" |3,201 ||1,212 ||464 ||652 ||0 ||0 ||873 ||style="background-color:wheat" |8 ||style="background-color:wheat" |6 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||style="background-color:wheat" |3,711 ||1,511 ||856 ||232 ||0 ||1,172 ||style="background-color:wheat" |3,859 ||1,680 ||341 ||679 ||0 ||0 ||1159 ||style="background-color:wheat" |-88 ||style="background-color:wheat" |-90 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||style="background-color:wheat" |2,712 ||1,505 ||464 ||109 ||0 ||634 ||style="background-color:wheat" |3,195 ||1,523 ||297 ||498 ||0 ||0 ||877 ||style="background-color:wheat" |-483 ||style="background-color:wheat" |16 |} <div style="font-size:small"> 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015] 金額の単位:百万円 </div> {|class="wikitable" |- !年度 !!{{abbr|収益|営業収益}} !!広告料 !!入場料 !!{{abbr|配分|Jリーグ配分金}} !!{{abbr|育成|アカデミー}} !!物販 !!その他 !!{{abbr|費用|営業費用}} !!{{abbr|人件費|選手・チームスタッフ人件費}} !!{{abbr|試合|試合関連経費}} !!{{abbr|トップ|トップチーム運営経費}} !!{{abbr|育成|アカデミー運営経費}} !!{{abbr|女子|女子チーム運営経費}} !!物販 !!{{abbr|販売|販売費および一般管理費}} !!{{abbr|利益|営業利益}} !!{{abbr|純利益|当期純利益}} |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||style="background-color:wheat" |3,008 ||1,738 ||510 ||102 ||0 ||239 ||419 ||style="background-color:wheat" |2,983 ||1,494 ||324 ||345 ||0 ||0 ||189 ||631 ||style="background-color:wheat" |25 ||style="background-color:wheat" |8 |} <div style="font-size:small"> 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位:百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円) |legend=凡例 |type=line |showSymbols=yes |colors=#0000aa,#00aa00,#ff8000 |y1Title=営業収益 |y2Title=営業費用 |y3Title=選手・チームスタッフ人件費 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=2311, 2108, 2066, 1940, 2241, 2554, 2527, 2618, 3213, 3711, 2712, 3008 |y2=2283, 2318, 2045, 1999, 2319, 2528, 2570, 2546, 3201, 3859, 3195, 2983 |y3=, 1150, 889, 824, 1085, 1301, 1185, 969, 1212, 1680, 1523, 1494 |yAxisMin=0 }} === 資産 === {|class="wikitable" |- !年度 !!総資産 !!総負債 !!純資産 !!資本金 |- |style="font-weight:bold;" |2005 ||452 ||144 ||307 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2006 ||314 ||206 ||108 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2007 ||486 ||170 ||316 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2008 ||543 ||291 ||251 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2009 ||622 ||455 ||167 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2010 ||724 ||554 ||169 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2011 ||694 ||579 ||115 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2012 ||722 ||543 ||179 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2013 ||784 ||599 ||185 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2014 ||811 ||716 ||95 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2015 ||813 ||703 ||110 ||315 |- |style="font-weight:bold;" |2016 ||1,300 ||1,181 ||119 ||315 |} <div style="font-size:small"> 出典:各年度のJ1 クラブ決算一覧。 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h17kaiji.pdf 2005]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h18kaiji.pdf 2006]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h19kaiji.pdf 2007]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h20kaiji.pdf 2008]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h21kaiji.pdf 2009]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h22kaiji.pdf 2010]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h23kaiji.pdf 2011]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h24kaiji.pdf 2012]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h25kaiji.pdf 2013]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h26kaiji.pdf 2014]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h27kaiji.pdf 2015]、 [https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h28kaiji.pdf 2016] 金額の単位:百万円 </div> {{Graph:Chart |width=400 |height=300 |xAxisTitle=年度 |yAxisTitle=金額(百万円)|legend=凡例 |type=area |colors=#0000aa,#ff8000 |y1Title=総資産 |y2Title=純資産 |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016 |y1=452, 314, 486, 543, 622, 724, 694, 722, 784, 811, 813, 1300 |y2=307, 108, 316, 251, 167, 169, 115, 179, 185, 95, 110, 119 |showSymbols=yes }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目== *[[セレッソ大阪の選手一覧]] *[[セレッソ大阪堺レディース]] *[[大阪ダービー]] - 同じ[[大阪府]]に本拠地を置く[[ガンバ大阪]]との対戦。 *[[関西ダービー]] *[[ゴラッソ!セレッソ]] - [[関西テレビ放送|関西テレビ]]で放送されていたセレッソ大阪応援番組。 *[[セレッソ大阪スポーツクラブ]] *[[フラッグシンフォニー]] *[[たこやきレインボー]] - スターダストプロモーションに所属する5人組の女性アイドルグループ。2017年に「公式サポーター見習い」、2018年から事実上の解散まで「公認セレ女(セレじょ)」として広報活動等に協力していた。 *[[ROLAND (ホスト)|ROLAND]] - ホスト・タレント・実業家。2020年より「公認セレ男(セレお)」として広報活動等に協力している。 == 外部リンク == *{{Official website}} *{{Facebook|OfficialCerezoOsaka}} *{{Twitter|crz_official}} *{{Instagram|cerezo_osaka}} *{{YouTube|channel=UCCvy1DY5OP7D4RWsqczIxbA}} *[https://www.mycerezo.jp/ まいど!セレッソ~マイセレ~] - セレッソ大阪公式ファンサイト、2020年3月をもって更新終了 *{{LINE公式アカウント|cerezo}} {{Navboxes|title=セレッソ大阪関連テンプレート|titlestyle=background-color:#FA1A82;color:#fff;border:2px solid#1E2380; |list1= {{セレッソ大阪のメンバー}} {{セレッソ大阪及びその前身チーム歴代監督}} }} {{日本プロサッカーリーグ}} {{Navboxes|title=獲得タイトル |list1= {{JFL優勝チーム}} {{Jリーグカップ優勝チーム}} {{天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝チーム}} }} {{高円宮杯U-18サッカーリーグ}} {{デフォルトソート:せれつそおおさか}} [[Category:セレッソ大阪|*]] [[Category:1957年設立のスポーツチーム]] [[Category:1993年設立の企業]] [[Category:東住吉区の企業]] [[Category:Jリーグクラブ]] [[Category:過去のJリーグ百年構想クラブ]]
2003-03-21T15:48:09Z
2023-12-08T04:32:35Z
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