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'''1月6日'''(いちがつむいか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から6日目にあたり、年末まであと359日([[閏年]]では360日)ある。
== できごと ==
* [[1066年]] - [[ウェセックス家|ウェセックス王家]]出身の[[イングランド王国|イングランド王]][[エドワード懺悔王]]が死去し、[[賢人会議]]を経て[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド・ゴドウィンソン]]がイングランド王位を引き継いだ。
* [[1205年]] - [[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ・ヴォン・シュヴァーベン]]が再び[[ローマ王]]に戴冠された。
* [[1227年]] - 1214年に[[ブーヴィーヌの戦い]]で[[フランス王国|フランス王]][[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ尊厳王]]に敗れ、捕虜に取られていた[[フランドル伯]][[フェラン (フランドル伯)|フェラン]]が解放された。
* [[1286年]] - [[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]が[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂(ランス)]]で戴冠され、[[フランス王]]となった。
* [[1321年]] - [[ネマニッチ朝]]の王族[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ (セルビア王)|ステファン・デチャンスキ]]がステファン・ウロシュ3世として[[セルビア王国 (中世)|セルビア王]]に就任した。
* [[1355年]] - [[ボヘミア王国|ボヘミア王]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル1世]]がローマで戴冠され、カール4世として[[神聖ローマ皇帝]]に就任した。そして同時に[[ロンバルディアの鉄王冠]]も授けられた。
* [[1449年]] - [[パレオロゴス家]]の王族[[コンスタンティノス11世パレオロゴス|コンスタンティノス]]が[[ミストラス]]にて、コンスタンティノス11世パレオロゴスとして[[東ローマ皇帝]]に就任した。彼が最後のローマ皇帝となった。
* [[1610年]]([[慶長]]14年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[有馬晴信]]がポルトガル船マードレ・デ・デウス号を焼き討ち。[[岡本大八事件]]の発端の一つとなる。
* [[1649年]] - [[イングランド内戦]]:[[長期議会]]が国王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の裁判を行うことを議決。
* [[1838年]] - [[サミュエル・モールス]]、[[アルフレッド・ヴェイル]]らが初めて[[電信]]の実験に成功。
* [[1842年]] - [[イギリス]]の[[カーブル]]撤退。[[アフガニスタン]]に侵攻した[[インド]]のイギリス軍に対する[[パシュトゥーン人|アフガン人]]の抵抗に、[[イギリス軍]]がアクバル=ハーンと協議、撤退を開始。しかし途中で攻撃を受け、4500人のイギリス軍は全滅。
* [[1912年]] - アメリカ合衆国議会が[[ニューメキシコ州|ニューメキシコ]]をアメリカ合衆国47番目の州として承認。
* 1912年 - [[アルフレート・ヴェーゲナー]]がドイツ地質学会で初めて[[大陸移動説]]を発表。
* [[1926年]] - ルフトハンザ航空設立
* [[1929年]] - [[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]]王[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]が憲法を停止して議会を解散、[[1月6日独裁制|独裁制]]を敷く。
* [[1932年]] - [[春秋園事件]]。[[天竜三郎|天竜]]・[[大ノ里萬助|大ノ里]]ら32人の力士が[[日本相撲協会|相撲協会]]の体質改善などの要望書を相撲協会に提出。
* [[1937年]] - [[名古屋城]]の[[金鯱]]の尾のうろこ110枚のうち58枚が剥ぎ取られているのを発見。同月27日に犯人を逮捕。
* [[1941年]] - [[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が年頭教書で「[[4つの自由]]」の演説を行う。
* [[1942年]] - 改正兌換券200円 5円が発行。
* [[1948年]] - [[ケネス・クレイボーン・ロイヤル]][[アメリカ合衆国陸軍長官|米陸軍長官]]が「日本を極東における[[共産主義]]の防壁にする」と演説。
* [[1949年]] - 国連総会で中国の[[国共内戦]]への不介入を決議。
* [[1950年]] - [[イギリス]]が[[中華人民共和国]]を[[国家の承認|承認]]し、[[中華民国]]と断交。
* 1950年 - [[二俣事件]]。
* 1950年 - [[コミンフォルム]]が、「日本の情勢について」と題する論文を機関誌『[[恒久平和のために人民民主主義のために!]]』に掲載<ref>{{Cite web |title=“For a lasting peace, for a people's democracy!” |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000112957 |website=レファレンス協同データベース |accessdate=13 Feb 2023 |publisher=国立国会図書館 |date=2012-12-06}}</ref>。[[日本共産党]]による[[武装闘争]]の端緒となる。
* [[1951年]] - [[江華良民虐殺事件]]
* [[1960年]] - [[神奈川県]][[横須賀市]]の[[衣笠病院]]で火災。新生児、妊産婦、看護婦ら16人が死亡、重軽傷24人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=141|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1967年]] - [[ベトナム戦争]]: [[アメリカ海兵隊]]が[[南ベトナム]]で{{仮リンク|メコンデルタ作戦|en|Operation Deckhouse Five}}を開始。
* [[1968年]] - [[大相撲]]初場所の番付発表で、[[高見山大五郎|高見山]]が外国人力士として初めて[[幕内|入幕]]。
* [[1975年]] - [[東京競馬場]]にて[[ハイセイコー]]の引退式が行われる。
* 1975年 - [[マラッカ海峡]]で太平洋海運所属の大型[[タンカー]]祥和丸が[[原油]]を満載した状態で座礁。原油流出を起こす<ref>10日ぶり離礁 原油抜き取りは続ける『中国新聞』昭和50年1月16日朝刊15面</ref>。
* [[1976年]] - [[平安神宮放火事件]]。[[平安神宮]]本殿などが新左翼活動家の[[放火]]により全焼。
* [[1977年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が「一枚のキップから」キャンペーン開始。
* [[1978年]] - [[聖イシュトヴァーンの王冠]]がアメリカから[[ハンガリー]]に返還される。
* [[1982年]] - [[ベーリング海]]で[[第二十八あけぼの丸]]が沈没。32人が死亡。
* [[1995年]] - [[アルカーイダ]]によるテロ計画「[[ボジンカ計画]]」が事前に発覚する。
* [[1998年]] - [[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]結成。[[小沢一郎]]が党首に就任。
* [[2001年]] - [[中央省庁再編]]。[[日本の行政機関|日本の中央省庁]]はこれまでの1府22省庁から1府12省庁に再編統合される。
* [[2010年]] - [[シーシェパード]]の高速船「[[アースレース|アディ・ギル]]」が日本の調査[[捕鯨]]船「第2昭南丸」に衝突。
* [[2012年]] - [[北朝鮮漂流船問題]]が発生。
* [[2013年]] - [[小笠原諸島]][[父島]]で世界初となる[[ダイオウイカ]]の生きている姿の撮影に成功。
* [[2016年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国]]が[[水素爆弾]]による[[核実験]]に成功と宣言<ref>{{Cite web|和書 |title=北朝鮮が「水爆実験に成功」と発表 |url=https://www.bbc.com/japanese/35240113 |website=BBCニュース |date=2016-01-06 |access-date=2023-02-13}}</ref>。
* [[2018年]] - [[荻田泰永]]が日本人初の無補給、単独徒歩での[[南極点]]到達を達成<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25412280W8A100C1CC0000/ |title=無補給単独歩行で南極点到達 冒険家荻田さん、日本人初 |access-date=13 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=6 Jan 2018}}</ref>。
* 2018年 - [[東シナ海]]の[[上海]]沖で[[石油タンカー]]・サンチ号が貨物船と衝突<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/43165466 |title=東シナ海のタンカー事故後も漁業活動 海産物汚染の恐れ |access-date=13 Feb 2023 |publisher=BBC NEWS JAPAN |date=23 Feb 2018}}</ref>。
* 2018年 - [[ヴァルソロメオス1世]]・[[コンスタンティノープル総主教庁|コンスタンティノープル総主教]]が前日、[[ウクライナ正教会 (2018年設立)|ウクライナ正教会]]の[[ロシア正教会]]管轄からの独立を承認する[[トモス (正教会)|トモス]]に署名し、[[独立正教会]]となる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM15752RM15UHBI01J.html |title=ウクライナ正教会が独立へ ロシア正教会の管轄下から |access-date=13 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=6 Jan 2019}}</ref>。
* [[2021年]] - この日をもって[[アメリカ合衆国次期大統領]]が[[ジョー・バイデン]]に決定するも、複数のトランプ支持者が[[2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件|国会議事堂を襲撃する事件]]が発生した。
== 誕生日 ==
* [[1367年]] - [[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]、[[イングランド君主一覧|イングランド王]](+ [[1400年]])
* [[1412年]] - [[ジャンヌ・ダルク]]<ref>(see Pernoud's ''Joan of Arc By Herself and Her Witnesses'', p. 98: 「ブーランビリエはジャンヌがドンレミで生まれたと語った。そして正確な、あるいは正確だと思われるジャンヌの誕生日は、御公現の祝日1月6日だと証言した」</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/joan-of-arc-is-born |title=Joan of Arc is born |access-date=13 Feb 2023 |publisher=A&E Television Networks, LLC. |language=En}}</ref>、フランスの国民的英雄、聖女(+ [[1431年]])
* [[1660年]]([[万治]]2年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]])- [[松前矩広]]、第5代[[松前藩|松前藩主]](+ [[1721年]])
* [[1739年]]([[元文]]3年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]])- [[大岡忠喜]]、第2代[[岩槻藩|岩槻藩主]](+ [[1806年]])
* [[1740年]](元文4年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]])- [[本多忠籌]]、第2代[[泉藩|泉藩主]](+ [[1813年]])
* [[1745年]] - [[ジャック・モンゴルフィエ]]<ref>{{Cite web |title=Joseph-Michel and Jacques-Étienne Montgolfier {{!}} French aviators |url=https://www.britannica.com/biography/Montgolfier-brothers |website=Britannica |access-date=2023-02-13 |language=en}}</ref>、[[モンゴルフィエ兄弟]]の弟(+ [[1799年]])
* [[1775年]]([[安永]]3年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]])- [[伊達斉村]]、第8代[[仙台藩|仙台藩主]](+ [[1796年]])
* [[1785年]]([[天明]]4年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]])- [[足代弘訓]]、[[国学|国学者]]、[[歌人]](+ [[1856年]])
* [[1799年]] - [[ジェデッドアイア・スミス]]、[[マウンテンマン]](+ [[1831年]])
* [[1803年]] - [[アンリ・エルツ]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1888年]])
* [[1822年]] - [[ハインリヒ・シュリーマン]]、[[考古学者]](+ [[1890年]])
* [[1828年]] - [[ヘルマン・グリム]]、文化史家(+ [[1901年]])
* [[1832年]] - [[ギュスターヴ・ドレ]]、[[画家]](+ 1888年)
* [[1838年]] - [[マックス・ブルッフ]]、作曲家(+ [[1920年]])
* [[1842年]] - [[クラレンス・キング]]、[[地質学者]](+ [[1901年]])
* [[1850年]] - [[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]、[[社会民主主義]][[思想家]]、[[政治家]](+ [[1932年]])
* [[1856年]] - [[ジュゼッペ・マルトゥッチ]]、作曲家(+ [[1909年]])
* [[1858年]] - [[アルバート・マンセル]]、[[マンセル・カラー・システム|マンセル表色系]]の発案者(+ [[1918年]])
* [[1861年]] - [[ヴィクトール・オルタ]]、[[建築家]] (+ [[1947年]])
* [[1865年]] - [[ニコライ・マル]]、[[言語学者]]、[[民族学者]](+ [[1934年]])
* [[1867年]]([[慶応]]2年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]])- [[床次竹二郎]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[逓信省|逓信大臣]](+ [[1935年]])
* [[1869年]]([[明治元年]][[11月24日 (旧暦)|11月24日]])- [[高野房太郎]]、[[労働運動家]](+ [[1904年]])
* [[1872年]] - [[アレクサンドル・スクリャービン]]、作曲家(+ [[1915年]])
* [[1878年]] - [[カール・サンドバーグ]]、[[詩人]](+ [[1967年]])
* [[1898年]] - [[ジェイムス・フィッツモーリス]]、[[パイロット (航空)|飛行家]](+ [[1965年]])
* [[1902年]] - [[今西錦司]]、生態学者、人類学者(+ [[1992年]])
* [[1903年]] - [[モーリス・アブラヴァネル]]、[[指揮者]](+ [[1993年]])
* [[1905年]] - [[エリック・フランク・ラッセル]]、[[SF作家]](+ [[1978年]])
* [[1906年]] - [[杉村春子]]、[[俳優|女優]](+ [[1997年]]<ref>{{Facebook post|NHKarchives|3740063149394795}}</ref>)
* 1906年 - [[ジョージ・レドヤード・ステビンズ]]、[[植物学|植物学者]]、[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[2000年]])
* [[1908年]] - [[スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー]]、[[チェリスト]](+ [[1963年]])
* [[1909年]] - [[市川團十郎 (11代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1965年]])
* [[1913年]] - [[ロレッタ・ヤング]]、女優(+ [[2000年]])
* [[1914年]] - [[武田豊]]、[[実業家]](+ [[2004年]])
* [[1920年]] - [[ジョン・メイナード=スミス]]、[[生物学者]](+ 2004年)
* 1920年 - [[文鮮明]]、[[統一教会]]の創立者、教祖(+ [[2012年]])
* 1920年 - [[アーリー・ウィン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1999年]])
* 1920年 - [[野口二郎]]、プロ野球選手(+ [[2007年]])
* [[1921年]] - [[久万俊二郎]]、実業家(+ [[2011年]])
* [[1923年]] - [[吉田満]]、[[小説家]](+ [[1979年]])
* 1923年 - [[長谷川善三]]、プロ野球選手(+ [[1998年]])
* [[1924年]] - [[金大中]]、[[政治家]](+ [[2009年]])(戸籍上の生年月日は[[1925年]][[12月3日]])
* [[1925年]] - ジョン・デロリアン ([[:en:John DeLorean|John DeLorean]])、[[デロリアン]]・モーター・カンパニー(DMC)創業者(+ [[2005年]])
* 1925年 - [[阿部八郎]]、元プロ野球選手
* [[1926年]] - [[立原正秋]]、[[小説家]](+ [[1980年]])
* [[1927年]] - [[神谷不二]]、[[国際政治学者]](+ [[2009年]])
* 1927年 - [[板倉正男]]、プロ野球選手(+ [[2011年]])
* [[1929年]] - [[バブラク・カールマル]]、政治家(+ [[1996年]])
* [[1930年]] - [[南温平]]、元プロ野球選手
* [[1931年]] - [[八千草薫]]、女優(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201910280000709.html |title=八千草薫さん死去、がんと闘いながら撮影に極秘参加 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2019-10-28 |accessdate=13 Feb 2023}}</ref>)
* 1931年 - [[キャプシーヌ]]、女優、ファッションモデル(+ [[1990年]])
* 1931年 - [[福嶋一雄]]、元[[野球選手]]
* 1931年 - [[荒岡昭]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[アントニオ・ロペス・ガルシア]]、画家
* 1936年 - [[原知佐子]]、女優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://natalie.mu/eiga/news/363855 |title=女優の原知佐子が84歳で死去、「赤いシリーズ」や実相寺昭雄の監督作で活躍 |access-date=13 Feb 2023 |publisher=映画ナタリー |date=20 Jan 2020}}</ref>)
* [[1939年]] - [[ヴァレリー・ロバノフスキー]]、[[サッカー]]指導者(+ [[2002年]])
* [[1944年]] - [[ロルフ・ツィンカーナーゲル]]、[[医学者]]
* [[1945年]] - [[浜四津敏子]]、[[政治家]] (+ [[2020年]])
* 1945年 - [[松原智恵子]]、女優
* [[1946年]] - [[シド・バレット]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2006年]])
* 1946年 - [[正垣泰彦]]、実業家、[[サイゼリヤ]]創業者
* [[1947年]] - [[ハワード・ジョージ]]、[[物理学者]]
* [[1949年]] - [[居村眞二]]、[[漫画家]](+ [[2005年]])
* 1949年 - [[本田路津子]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]][[歌手]]
* 1949年 - [[矢吹二朗]]、俳優
* [[1951年]] - [[すずき一平]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1952年]] - [[スルマ・ユガール]]、[[歌手]]
* 1952年 - [[ボブ・アダムズ (内野手)|ボブ・アダムス]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[マルコム・ヤング]]、ミュージシャン([[AC/DC]])(+ [[2017年]])
* [[1954年]] - [[高橋まこと]]、ミュージシャン(元BOØWY)
* 1954年 - [[高橋はるみ]]、[[政治家]]
* 1954年 - [[中畑清]]、元プロ野球選手、監督
* 1954年 - [[堀井雄二]]、ゲームシナリオライター
* 1954年 - [[アンソニー・ミンゲラ]]、[[映画監督]](+ [[2008年]])
* 1954年 - [[赤城マリ子]]、元[[プロレスラー]]
* [[1955年]] - [[ローワン・アトキンソン]]、[[喜劇|コメディ]][[俳優]]
* [[1958年]] - [[CHAGE]]、[[シンガーソングライター]]([[CHAGE and ASKA]])
* [[1959年]] - [[惣領冬実]]、漫画家
* 1959年 - [[伊藤恵]]、ピアニスト
* [[1960年]] - [[大場久美子]]、[[タレント]]
* 1960年 - [[尾仲浩二]]、[[写真家]]
* 1960年 - [[高田誠一]]、歌手(元[[BLACK CATS]])(+ [[2004年]])
* 1960年 - [[森山雄治]]、[[アニメーション監督]]
* 1960年 - [[ナタリア・ベステミアノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1961年]] - [[木村優子]]、元[[アナウンサー]]
* [[1962年]] - [[なかじままり]]、女優、[[ものまねタレント]]
* [[1963年]] - [[佐藤夕子 (政治家)|佐藤夕子]]、[[政治家]]
* 1963年 - [[ノーム・チャールトン]]、元プロ野球選手
* [[1964年]] - [[高見泰範]]、元野球選手
* [[1965年]] - [[麗美]]、シンガーソングライター
* 1965年 - [[ティム・マクドナルド]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* 1965年 - [[土谷正実]]、元[[オウム真理教]]幹部、元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]])
* [[1967年]] - [[山田久美]]、[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]
* [[1969年]] - [[イリエ・ドゥミトレスク]]、元サッカー選手、指導者
* [[1970年]] - [[大田こぞう]]、ラジオパーソナリティ
* 1970年 - [[徳田吉成]]、元プロ野球選手
* [[1971年]] - [[真中満]]、元プロ野球選手、監督
* [[1973年]] - [[太田和美 (競艇選手)|太田和美]]、[[競艇選手]]
* [[1974年]] - [[李相日]]、[[映画監督]]
* 1974年 - [[西村麗子]]、元ミュージカル俳優
* [[1975年]] - [[ゆかな]]<ref name="seiyuhistory102">{{Cite book|和書|year=1997|title=声優ヒストリー 12人の声優が歩んだ軌跡|pages=48|publisher=[[徳間書店]]|ISBN=978-4-19-720015-3}}</ref>、[[声優]]
* 1975年 - [[日向あずみ]]、元[[プロレスラー]]
* 1975年 - [[高岡由美子]]、モデル、タレント
* 1975年 - [[DABO]]、ヒップホップMC([[NITRO MICROPHONE UNDERGROUND]])
* [[1976年]] - [[ジョニー・ヨング・ボッシュ]]、声優
* [[1978年]] - [[つじあやの]]、歌手、[[ウクレレ]]奏者
* 1978年 - [[Reina (歌手)|Reina]]、歌手([[MAX (音楽グループ)|MAX]])
* 1978年 - [[スティーブ・ハートセル]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1978年 - [[ケーシー・フォッサム]]、プロ野球選手
* 1978年 - [[森本学]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[山北茂利]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[藤尾仁志]]、[[お笑い芸人]]([[オクラホマ (お笑い)|オクラホマ]])
* 1979年 - [[宝来麻紀子]]、元[[バレーボール]]選手
* 1979年 - [[竹川美子]]、[[演歌歌手]]
* 1979年 - [[森見登美彦]]、[[小説家]]
* 1979年 - チョン・ソヨン、女優
* [[1980年]] - AIKO、タレント([[FLIP-FLAP]])
* 1980年 - YUKO、タレント(FLIP-FLAP)
* 1980年 - [[萱島大介]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[ミハエル・ミキッチ]]、サッカー選手
* 1980年 - [[吉岡大輔 (スキー選手)|吉岡大輔]]、スキー選手
* [[1981年]] - [[菊地凛子]]、[[俳優|女優]]
* 1981年 - [[芝田安希]]、元バレーボール選手
* 1981年 - [[坂井恭子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.office-pac.jp/talent/profile/?id=sakai-k |title=坂井恭子 |access-date=13 Feb 2023 |publisher=[[オフィスPAC]]}}</ref>、声優
* [[1982年]] - [[ギルバート・アリナス]]、[[バスケットボール]]選手
* 1982年 - [[河内貴哉]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[桑佳あさ]]、漫画家
* 1982年 - [[エディ・レッドメイン]]、俳優
* [[1984年]] - 中澤章吾、[[お笑い芸人]]([[かたつむり (お笑い)|かたつむり]])
* 1984年 - [[ポール・オセゲラ]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[龐佳穎]]、[[競泳]]選手
* 1985年 - [[中林大樹]]、俳優
* 1985年 - [[マヌエル・O・ロドリゲス]]、プロ野球選手
* 1985年 - ソ・ヒョリム、女優
* [[1986年]] - [[アレックス・ターナー]]、[[歌手]]([[アークティック・モンキーズ]])
* 1986年 - [[兼下真由子|美月]]、元歌手
* 1986年 - [[今井綾子]]、野球選手
* [[1988年]] - [[齊藤勝]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[星創太]]、陸上選手
* [[1989年]] - [[亀田大毅]]、元[[プロボクサー]]
* 1989年 - [[マックス・パーキス]]、俳優
* 1989年 - [[鈴木麻世]]、女優
* 1989年 - [[安田由紀奈]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000011695/ |title=安田由紀奈(やすだゆきな) |access-date=21 Feb 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、タレント
* 1989年 - [[三上枝織]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aoni.co.jp/search/mikami-shiori.html |title=三上 枝織 |access-date=13 Feb 2023 |publisher=[[青二プロダクション]]}}</ref>、声優
* 1989年 - [[アンディ・キャロル]]、サッカー選手
* 1989年 - [[辻本賢人]]、元プロ野球選手
* [[1990年]] - [[内田嶺衣奈]]、アナウンサー
* [[1991年]] - [[関谷愛里紗]]、女優、[[ジュニアアイドル]]
* 1991年 - [[イェルーン・ズート]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[HIROYA]]、[[キックボクサー]]
* 1992年 - [[宮原理子]]、女優
* [[1993年]] - [[八代拓]]、声優
* 1993年 - [[井上大仁]]、陸上選手
* [[1994年]] - [[乙坂智]]、プロ野球選手
* 1994年 - [[JB (GOT7)|JB]]、アイドル([[GOT7]])
* 1994年 - [[小笹大輔]]、ミュージシャン([[Official髭男dism]])
* 1994年 - [[松田リマ]]、女優
* [[1995年]] - [[砂川信哉]]、クイズプレイヤー
* [[1996年]] - [[田中凛]]、女優
* 1996年 - ウ・ジユン、歌手([[Bolbbalgan4|BOL4]])
* [[1997年]] - [[デミ・オリモロイ]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[柿木映二]]、元プロ野球選手
* [[1998年]] - [[矢野優花]]、女優
* 1998年 - [[茜子]]、[[ファッションモデル]]、[[グラビアモデル]]
* [[1999年]] - [[梅澤美波]]、アイドル([[乃木坂46]])
* 1999年 - [[小髙茉緒]]、[[日本テレビ]]アナウンサー
* [[2000年]] - シュファ、アイドル([[(G)I-DLE]])
* 2000年 - クォン・ウンビン、アイドル、女優([[CLC (音楽グループ)|CLC]])
* [[2002年]] - [[梁川奈々美]]、元[[アイドル]](元[[カントリー・ガールズ]]、元[[Juice=Juice]])
* 2002年 - [[渡辺優奈]]、女優
* 生年不詳 - [[岡本倫]]、漫画家
* 生年不明 - [[安西英美]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aoni.co.jp/search/anzai-hidemi.html |title=安西 英美 |publisher=[[青二プロダクション]] |accessdate=13 Feb 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[土田玲央]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.81produce.co.jp/dcms_plusdb/index.php/item?cell003=た行&cell029=男性&keyword=&cell028=&cell004=&name=土田%E3%80%80玲央&id=83&label=1 |title=土田玲央 |access-date=13 Feb 2023 |publisher=[[81プロデュース]]}}</ref>、声優
== 忌日 ==
* [[1406年]] - [[ロジャー・ウォールデン]]、[[イングランド]]大蔵卿、[[カンタベリー大司教]]
* [[1448年]] - [[クリストファ3世 (デンマーク王)|クリストファ3世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1418年]])
* [[1536年]] - [[バルダッサーレ・ペルッツィ]]、[[画家]]・[[建築家]](* [[1481年]])
* [[1537年]] - [[アレッサンドロ・デ・メディチ]]、[[フィレンツェ公国|フィレンツェ公]](* [[1510年]])
* [[1541年]] - [[ベルナールト・ファン・オルレイ]]、画家(* [[1487年]]-[[1491年]]頃)
* [[1725年]]([[享保]]9年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[近松門左衛門]]、[[人形浄瑠璃]]の[[劇作家]](* [[1653年]])
* [[1731年]] - [[エティーヌ・F・ジョフロア]]、[[化学者]](* [[1672年]])
* [[1831年]] - [[ロドルフ・クレゼール]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1766年]])
* [[1852年]] - [[ルイ・ブライユ]]、[[アルファベット]]の[[点字]]開発者(* [[1809年]])
* [[1856年]] - [[ニコラ=シャルル・ボクサ]]、作曲家、[[ハープ]]奏者(* [[1789年]])
* [[1884年]] - [[グレゴール・ヨハン・メンデル]]、[[遺伝学|遺伝学者]](* [[1822年]])
* [[1891年]] - [[レオ・ドリーブ]]、作曲家(* [[1836年]])
* [[1907年]] - [[阿部十郎]]、[[新選組]]隊士(* [[1837年]])
* 1907年 - [[伊達宗敦]]、[[仙台藩]][[知藩事|知事]](* [[1852年]])
* [[1918年]] - [[ゲオルク・カントール]]、[[数学者]](* [[1845年]])
* [[1919年]] - [[セオドア・ルーズベルト]]、第26代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1858年]])
* [[1928年]] - [[アルビン・クレンツレーン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1876年]])
* [[1933年]] - [[ヴラディーミル・ド・パハマン]]、[[ピアニスト]](* [[1848年]])
* [[1942年]] - [[アンリ・ド・バイエ=ラトゥール]]、第3代[[国際オリンピック委員会]]委員長(* [[1876年]])
* 1942年 - [[アレクサンドル・ベリャーエフ]]、[[SF作家]](* [[1884年]])
* [[1944年]] - [[イーダ・ターベル]]、[[ジャーナリスト]](* [[1857年]])
* [[1945年]] - [[ウラジミール・ベルナドスキー]]、[[鉱物学|鉱物学者]]、[[地球化学|地球化学者]](* [[1863年]])
* [[1949年]] - [[ヴィクター・フレミング]]、[[映画監督]](* [[1889年]])
* [[1950年]] - [[イザイア・ボウマン]]、[[地理学者]](* [[1878年]])
* [[1956年]] - [[ミスタンゲット]]、[[シャンソン]][[歌手]]、[[俳優|女優]](* [[1873年]])
* [[1957年]] - [[エド・アッバティッチオ]]、[[プロ野球選手]](* [[1876年]])
* [[1959年]] - [[観世華雪]]、[[能楽師]](* [[1884年]])
* [[1965年]] - [[花柳章太郎]]、[[女形]]役者(* [[1894年]])
* [[1972年]] - [[陳毅]]、[[軍人]]、政治家、外交官、詩人、[[中華人民共和国外交部]]第2代外交部長(* [[1901年]])
* [[1974年]] - [[ダビッド・アルファロ・シケイロス]]、[[画家]](* [[1896年]])
* [[1975年]] - [[ジョージ・プライス (科学者)|ジョージ・プライス]]、[[科学者]](* [[1922年]])
* [[1978年]] - [[バート・マンロー]]、[[ライダー一覧|ライダー]](* [[1899年]])
* [[1981年]] - [[A・J・クローニン]]、[[作家]](* [[1896年]])
* [[1990年]] - [[パーヴェル・チェレンコフ]]、[[物理学者]](* [[1904年]])
* 1990年 - [[イアン・チャールソン]]、[[俳優]](* [[1949年]])
* [[1993年]] - [[ディジー・ガレスピー]]、[[ジャズ]][[トランペット]]奏者(* [[1917年]])
* 1993年 - [[ルドルフ・ヌレエフ]]、[[バレエ]][[ダンサー]](* [[1938年]])
* 1996年 - [[キム・グァンソク]]、[[シンガーソングライター]](* [[1964年]])
* [[1999年]] - [[ミシェル・ペトルチアーニ]]、ジャズピアニスト(* [[1962年]])
* [[2001年]] - [[中島洋次郎]]、政治家(* [[1959年]])
* [[2006年]] - [[加藤芳郎]]、[[漫画家]](* [[1925年]])
* [[2008年]] - [[松本理恵]]、[[作詞家]]、[[シンガーソングライター]](* [[1980年]])
* [[2013年]] - [[石川洋]]、アナウンサー(* [[1959年]])
* 2013年 - [[趙成珉]]、プロ野球選手(* [[1973年]])
* [[2015年]] - [[石井光三]]、[[芸能プロモーター]]、[[タレント]](* [[1931年]])
* [[2017年]] - [[バヤズィット・オスマン]]、[[オスマン家]]44代家長(* [[1924年]])
* [[2019年]] - [[天地総子]]、[[歌手]](* [[1941年]])
* [[2021年]] - [[鍋島直昶]]、[[ジャズ]]・[[ヴィブラフォン]]奏者(* [[1926年]])
* 2021年 - [[オシアン・エリス]]、[[ハープ]]奏者、作曲家(* [[1928年]])
* 2021年 - [[岡村喬生]]、[[オペラ]][[歌手]]、俳優(* [[1931年]])
* 2021年 - [[宇波彰]]、[[哲学者]]、[[文芸評論家|文芸]]・[[美術評論家|芸術評論家]](* [[1933年]])
* 2021年 - [[鈴木銀一郎]]、[[ゲームデザイナー]](* [[1934年]])
* 2021年 - [[田所善治郎]]、[[プロ野球選手]](* 1934年)
== 記念日・年中行事 ==
* [[小寒]]({{JPN}} [[2011年]]・[[2012年]])
*: [[二十四節気]]の一つ。太陽の黄経が285度の時で、寒さが最も厳しくなる前の時期。
* 六日年越し({{JPN}})
*: 正月七日を「七日正月」といい、その前日を年越しとして祝う。
* 東京消防[[出初式]]
* [[エピファニー|公現節]]/公現祭/主顕節/顕現節([[キリスト教]])
*: 本来は1月6日の固定祝日だが、地域や宗派によっては1月の第一日曜日に祝うところもある。
* [[色]]の日({{JPN}})
*: [[色]]に関係する[[職業]]の人の[[記念日]]。「い(1)ろ(6)」の語呂合せから。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0106|date=2011年6月}}
*1948年(昭和23年)- 隅田光一と鶴岡七郎は、二十万の資金で二億の金を作る「隅田理論」の実行を決める。(小説『[[白昼の死角]]』第2章)
*年時不明 萩原研二が爆弾解体中に殉職。(名探偵コナン『揺れる警視庁1200万人の人質」冒頭)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1854年]]([[1852年]]、[[1853年]]説もあり) - [[シャーロック・ホームズ]]、小説『[[シャーロック・ホームズシリーズ|シャーロック・ホームズ]]』[[シャーロック・ホームズシリーズ|シリーズ]]に登場する人物<ref>{{Cite web|和書 |url=https://gaga.ne.jp/holmes/profile/profile.html |title=ホームズのプロフィール |access-date=2023-02-05 |publisher=[[ギャガ|GAGA]] |work=映画『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』 公式サイト}}</ref>
* [[1949年]] - [[古畑任三郎の登場人物#古畑任三郎|古畑任三郎]]、テレビドラマ『[[古畑任三郎]]』の主人公<ref>{{Twitter status|itm_nlab|1478857600758591488}}</ref>
* [[1968年]] - [[DEATH NOTEの登場人物|アンソニー・レスター]]、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>[[DEATH NOTE (アニメ)|アニメ版]]では1971年生まれ({{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|coauthors = [[小畑健]]|date=2007-09-04|title = DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド|series=[[ジャンプコミックス]]|publisher = [[集英社]]|isbn = 978-4088741970|page = 73 }})</ref>
* [[1974年]] - [[キャミィ|キャミィ・ホワイト]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイターシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130450 |title=キャラ図鑑125:キャミィ |access-date=2022-10-08 |publisher=[[カプコン|CAPCOM]] |work=シャドルー格闘家研究所}}</ref>
* [[1989年]] - 森美咲、アニメ『[[東のエデン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ホビー編集部|date = 2010-03-31|title = 東のエデン 完全設定資料集|publisher = [[エンターブレイン]]|isbn = 978-4047264502|page=14 }}</ref>
* [[2015年]] - フィン・エ・ルド・スイ・ラフィンティ、アニメ『[[輪廻のラグランジェ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|date=2012-06-25 |title = TVアニメーション「輪廻のラグランジェ」オフィシャルガイド|publisher = [[スクウェア・エニックス]]|isbn = 978-4757536463|pages = 30-32 }}</ref>
* [[2104年]] - 遠見千鶴、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://fafner-beyond.jp/character/ |title=遠見千鶴 |work=『蒼穹のファフナーTHE BEYOND』 |accessdate=2023-02-05 |publisher=[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]]・FAFNER BEYOND PROJECT}}</ref>
* 生年不明 - 湊みお、ゲーム・アニメ『[[アイカツフレンズ!]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/aikatsufriends_01/character/mio.html |title=湊 みお |access-date=2023-02-05 |publisher=BNP/BANDAI, [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツフレンズ!』}}</ref>
* 生年不明 - 有栖川凛、漫画『[[みならい女神 プルプルんシャルム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=キダニエル、マルイノ、[ジコウリュウ(原著)|date=2015-03-09|title=みならい女神プルプルんシャルム通常版|volume=1|publisher =[[講談社]]|series=シリウスKC|isbn = 978-4063765366|page=11 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ntv.co.jp/tesapuru/character/rin.html |title=有栖川 凛 |work=『てさぐれ!製作委員会』 |accessdate=2023-02-05 |publisher=てさぐれ!製作委員会 みならい女神育成局/[[講談社]] [[日本テレビ]]}}</ref>
* 生年不明 - [[土萠ほたる]](セーラーサターン)、漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://sailormoon-official.com/world/saturn.php |title=土萠ほたる セーラーサターン |publisher=[[武内直子]]・PNP・[[講談社]]・[[東映アニメーション]]・[[ネルケプランニング]]・[[ドワンゴ]]他 |accessdate=2023-02-05 |work=『美少女戦士セーラームーン』}}</ref>
* 生年不明 - 巨犬座のシリウス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=23 |title=巨犬座(カニスマヨル)のシリウス |access-date=2022-10-08 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=車田正美 |work=聖闘士星矢}}</ref>
* 生年不明 - オイモ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Oimo.html |title=オイモ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2023-02-05 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - タイルストン、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Tilestone.html |title=タイルストン |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2023-02-05 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ハイジ、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 志村ダンゾウ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref name="naruto3">{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2008-09-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=99|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088742472}}</ref>
* 生年不明 - エビゾウ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref name="naruto3" />
* 生年不明 - ダルイ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|684390363705032705}}</ref>
* 生年不明 - 清水潔子、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2012-08-03|title=ハイキュー!!|page=72|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088704821|volume=2巻}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyu.jp/chara/karasuno/shimizu.html|title=清水 潔子 CV:名塚 佳織|work=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]]|accessdate=2020-06-27}}</ref>
* 生年不明 - 紀ノ国寧々、漫画・アニメ『[[食戟のソーマ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shokugeki_anime|1214178244578004993}}</ref>
* 生年不明 - 勝呂達磨、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aoex_official|1478743235245735937}}</ref>
* 生年不明 - 桐島葵、漫画・アニメ『[[君のいる町]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_kimimachi|1478995621579493377}}</ref>
* 生年不明 - 菅原梅樹、漫画・ドラマCD『[[國崎出雲の事情]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 霧島祈、漫画『[[ケルベロス (漫画)|ケルベロス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 紅孩児、漫画・アニメ『[[最遊記シリーズ|最遊記]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 賈詡文和、漫画・アニメ『[[一騎当千 (漫画)|一騎当千]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/ikki_eb/character/kaku/ |title=賈詡 文和 |work=『一騎当千エクストラバースト』 |accessdate=2023-02-05 |publisher=[[塩崎雄二]]・[[ワニブックス]]/一騎当千EE パートナーズ [[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - 上重漫、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://sciasta.com/characters.html |title=上重 漫(うえしげ すず) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=2023-01-21 |publisher=[[小林立]]}}</ref>
* 生年不明 - 雪小路野ばら、漫画・アニメ『[[妖狐×僕SS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|date=2012-03-22 |title = 妖狐×僕SS オフィシャルガイド 0巻|publisher =[[スクウェア・エニックス]]|series=[[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]]|isbn =978-4757535008|page=56 }}</ref>
* 生年不明 - ジャンヌダルク、漫画・アニメ『[[ドリフターズ (漫画)|ドリフターズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 棚橋鈴音、漫画・アニメ『[[恋愛ラボ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 苗、漫画・アニメ『[[ねこのひたいであそぶ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - アリス・ベッカム、アニメ『[[出撃!マシンロボレスキュー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sunriseworld_pr|1478924285712363523}}</ref>
* 生年不明 - ジョー・パケーロ、アニメ『[[トミカ絆合体 アースグランナー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|earthgranner|1611128488236572673}}</ref>
* 生年不明 - ぺろっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|date=2011-10-05|title=Tamagotchi iD L ぴかぴか育て方ガイド|page=68|editor=講談社|editor-link=講談社|isbn=978-4063648768}}</ref><ref>{{Cite book |和書|date=2011-11-01|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|page=31|publisher=[[小学館]]|series=テレビ超ひゃっか|author1=ウィズ|authorlink1=ウィズ (玩具)|author2=バンダイ(監修)|authorlink2=バンダイ|isbn=978-4097510482}}</ref>
* 生年不明 - アルベルト・コーレイン、ゲーム・アニメ『[[悠久幻想曲]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 沢渡真琴、ゲーム・アニメ『[[Kanon (ゲーム)|Kanon]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://key.visualarts.gr.jp/product/kanon/character/ |title=キャラクター紹介 沢渡 真琴<さわたり まこと> |work=『Kanon』 |accessdate=2023-02-05 |publisher=[[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]] / [[Key (ゲームブランド)|Key]]}}</ref>
* 生年不明 - チョコ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 チョコ |access-date=2023-02-05 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 三村かな子、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20161 |title=三村 かな子 |access-date=2023-02-05 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 安斎都、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/search/detail/20014 |title=安斎 都 |access-date=2023-02-05 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 若王子ルイ、ゲーム・アニメ『[[Tokyo 7th シスターズ|Tokyo 7th Sisters]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|t7s_staff|1346652710515265541}}</ref>
* 生年不明 - エルロック・ショルメ、ゲーム・アニメ『[[Code:Realize ~創世の姫君~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cr_otomate|949597570233352192}}</ref>
* 生年不明 - パティル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=120&cate=name&cont=Patil |title=パティル |access-date=2023-01-21 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 白河ユイナ、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/30g/shirakawa-yuina/ |title=白河ユイナ |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=2023-01-21}}</ref>
* 生年不明 - 淡海きのえ、メディアミックス『[[魔法少女大戦]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - フィオナ、メディアミックス『[[ラピスリライツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.lapisrelights.com/character/fiona/ |title=フィオナ(CV:伊藤 はるか) |access-date=2023-02-05 |publisher=[[KLab|KLabGames]] [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |work=『ラピスリライツ』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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4,953 | 1月9日 | 1月9日(いちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から9日目に当たり、年末まであと356日(閏年では357日)ある。
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'''1月9日'''(いちがつここのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から9日目に当たり、年末まであと356日([[閏年]]では357日)ある。
== できごと ==
* [[1127年]]([[靖康]]元年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[靖康の変]]: [[金 (王朝)|金]]の軍勢によって首府[[開封市|開封]]が陥落、[[北宋]]が滅亡し、皇帝[[欽宗]]と[[太上皇帝|太上皇]][[徽宗]]は金に連行。
* [[1260年]]([[正元 (日本)|正元]]元年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]) - 日本の皇室の系統が[[持明院統]]と[[大覚寺統]]に分裂する。
* [[1788年]] - [[コネチカット植民地]]が[[アメリカ合衆国憲法]]に批准し、[[アメリカ合衆国]]5番目の州・[[コネチカット州]]となる。
* [[1806年]] - [[イギリス海軍]]提督[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]の、イギリスでは君主以外では初となる[[国葬]]が行われる。
* [[1822年]] - ポルトガル王太子[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ]]が、父王[[ジョアン6世 (ポルトガル王)|ジョアン6世]]の命に反し、ブラジル摂政としてブラジルに残ることを決める。
* [[1861年]] - [[南北戦争]]: [[ミシシッピ州]]がアメリカ合衆国を脱退。
* 1863年 - 南北戦争: [[アーカンソー・ポストの戦い]]が始まる。
* [[1878年]] - [[ウンベルト1世]]が[[イタリア王国|イタリア王]]に即位。
* [[1879年]] - [[大蔵省]]商務局を設置。
* [[1885年]] - [[日本]]と[[李氏朝鮮]]の間で[[漢城条約]]が締結される。
* [[1891年]] - [[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]講師の[[内村鑑三]]が[[教育勅語]]への拝礼を[[キリスト教|キリスト教徒]]の立場から拒否したため免職。([[内村鑑三不敬事件|不敬事件]])
* [[1905年]] - [[サンクトペテルブルク]][[冬宮殿]]前広場で、[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]勃発。[[グレゴリオ暦|グレゴリウス暦]][[1月22日]]。
* [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ガリポリの戦い]]。英軍部隊がヘレス岬からの離脱を終了。
* [[1918年]] - [[三俣の大雪崩]]: [[新潟県]][[三俣村 (新潟県)|三俣村]](現・[[湯沢町]])で大規模な[[雪崩]]が発生、死者155名。記録に残るものでは日本最悪の雪崩災害。
* [[1923年]] - スペイン人の[[フアン・デ・ラ・シエルバ]]が開発した[[オートジャイロ]]が初飛行。
* [[1932年]] - [[ドイツ国|ドイツ]]が、第一次世界大戦の[[戦争賠償|賠償金]]358億マルクの支払不可能を宣言。
* 1932年 - [[春秋園事件]]: [[日本相撲協会]]の体質を不満として[[天竜三郎|天龍三郎]]ら[[出羽海部屋|出羽ノ海部屋]]の32名の[[関取]]が協会を脱退<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bunshun.jp/articles/-/29756?page=4 |title=マゲを切って料亭に立てこもる力士32人……90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは? |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[文春オンライン]] |date=31 Jan 2020 |page=3}}</ref>。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[イギリス空軍]]により爆撃機「[[アブロ ランカスター]]」が初飛行。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[汪兆銘政権]](南京国民政府)が米英に宣戦布告。
* 1943年 - 汪兆銘政権と日本が、中国に有する専管[[租界]]返還と[[治外法権]]撤廃を定めた協定に調印。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[ルソン島の戦い]]: 米軍が[[ルソン島]]上陸を開始。
* [[1950年]] - [[イスラエル]]・[[デンマーク]]が[[中華人民共和国]]を[[国家の承認|承認]]。
* [[1951年]] - [[国際連合本部ビル]]が竣工。
* [[1952年]] - [[電気通信省]](後の[[日本電信電話公社|電電公社]])が[[慶弔]][[電報]]の取扱いを再開。
* [[1964年]] - [[パナマ運河地帯]]の高校で米国国旗だけを掲揚したことから暴動化。米軍の発砲で両国民に死者が出る。(国旗事件)
* 1964年 - 警視庁が、個展に[[偽札|模造千円札]]を出品した画家・[[赤瀬川原平]]を[[通貨及証券模造取締法]]違反容疑で任意取調べ。
* [[1966年]] - [[神奈川県]][[川崎市]][[川崎駅]]前にて[[金井ビル火災]]が発生。
* [[1968年]] - [[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)結成。
* 1968年 - マラソン選手[[円谷幸吉]]が自殺。
* [[1972年]] - 退役後、洋上大学への改装のため[[香港]]に係留されていた豪華客船「[[クイーン・エリザベス (客船)|クイーン・エリザベス]]」で火災が発生し、転覆。
* [[1975年]] - [[ビートルズ]]解散。
* [[1985年]] - [[東京都|東京]]・[[両国 (墨田区)|両国]]に新[[両国国技館|国技館]]が落成。
* <!--* [[1986年]] - 国鉄、「[[シュプール号]]」運転開始。(特筆性?)-->1985年 - [[北九州高速鉄道小倉線|北九州モノレール小倉線]]が開業<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/664542/ |title=【あの日】北九州モノレールが営業開始=1月9日 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[西日本新聞]] |date=9 Jan 2022}}</ref>。
* [[1996年]] - [[足立区]]で女性の首なし焼死体が発見される。([[足立区首なし殺人事件]])
* [[2005年]] - [[スーダン]]政府と反政府組織の[[スーダン人民解放軍]]が包括和平協定を締結。
* 2005年 - 前年11月の[[ヤーセル・アラファート]]の死去に伴い[[パレスチナ自治政府]]の{{仮リンク|2005年パレスチナ自治政府大統領選挙|en|Palestinian presidential election, 2005|label=大統領選挙}}が行われ、PLO議長[[マフムード・アッバース]]が当選。
* [[2006年]] - 『[[オペラ座の怪人 (1986年のミュージカル)|オペラ座の怪人]]』が『[[キャッツ (ミュージカル)|キャッツ]]』を抜き、[[ロングラン公演の一覧 (ブロードウェイ)|ブロードウェイ・ロングラン記録]]を更新。
* [[2007年]] - 日本の防衛庁が[[省]]に昇格して[[防衛省]]が発足<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO54158530Y0A100C2EAC000/ |title=1月9日 防衛省が発足、初代防衛相に久間氏 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=8 Jan 2020}}</ref>。
* [[2007年]] - [[Apple]]が初代[[iPhone]]を発表<ref>{{Cite web|和書 |url=https://iphone-mania.jp/news-271399/ |title=13年前に発表された初代iPhoneは、こんな端末だった |access-date=17 Feb 2023 |publisher=iPhone Mania |date=10 Jan 2020}}</ref>。
* [[2013年]] - [[大阪府立桜宮高等学校|大阪市立桜宮高等学校]]で体罰自殺事件が発覚<ref>{{Cite web|和書 |date=2013-01-10 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNZO50452540Q3A110C1CC1000/ |title=副顧問2人、体罰黙認 大阪の高2自殺 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=17 Feb 2023}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[前田光高]]、第3代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1645年]])
* [[1624年]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[明正天皇]]、第109代[[天皇]](+ [[1696年]])
* [[1673年]]([[寛文]]12年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[森長直]]、第2代[[西江原藩|西江原藩主]]、初代[[赤穂藩|赤穂藩主]](+ [[1722年]])
* [[1674年]] - [[ラインハルト・カイザー]]、[[作曲家]](+ [[1739年]])
* [[1693年]]([[元禄]]6年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[相良長興]]、第5代[[人吉藩|人吉藩主]](+ [[1734年]])
* [[1756年]]([[宝暦]]5年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[戸田氏教]]、第7代[[大垣藩|大垣藩主]](+ [[1806年]])
* [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[松平定通]]、第11代[[松山藩|松山藩主]](+ [[1835年]])
* [[1812年]]([[文化 (元号)|文化]]8年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[丹羽氏賢]]、第5代[[三草藩|三草藩主]](+ [[1854年]])
* [[1829年]] - [[アドルフ・シュラーギントヴァイト]]、[[植物学|植物学者]]、[[探検家]](+ [[1857年]])
* [[1835年]]([[天保]]5年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[岩崎弥太郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/237/ |title=岩崎弥太郎|近代日本人の肖像 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>、[[実業家]]、[[三菱財閥]]の創業者(+ [[1885年]])
* [[1875年]] - [[ガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニー]]、[[彫刻家]](+ [[1942年]])
* [[1876年]] - [[ロベルト・ミヒェルス]]、[[社会学|社会学者]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1936年]])
* [[1883年]] - [[チャールズ・ベーコン]]、陸上競技選手(+ [[1968年]])
* [[1890年]] - [[カレル・チャペック]]、[[劇作家]](+ [[1938年]])
* [[1891年]] - [[朝比奈宗源]]、[[僧侶]]、[[臨済宗]][[円覚寺]]派管長(+ [[1979年]])
* [[1894年]] - [[柳本柳作]]、[[海軍軍人]](+ [[1942年]])
* [[1895年]] - [[増本量]]、金属[[物理学者]](+ [[1987年]])
* [[1902年]] - [[アン・ニクソン・クーパー]]、市民活動家(+ [[2009年]])
* [[1903年]] - [[藤田信男]]、[[野球選手]](+ [[1991年]])
* [[1906年]] - [[オスカー・ドミンゲス]]、[[画家]]、[[美術家]](+ [[1957年]])
* [[1908年]] - [[シモーヌ・ド・ボーヴォワール]]、作家、哲学者(+ [[1986年]])
* [[1913年]] - [[リチャード・ニクソン]]、第37代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1994年]])
* [[1921年]] - [[ルーファス・ゲインズ]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不明)
* [[1924年]] - [[アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・レベデフ]]、チューバ奏者、[[作曲家]] (+ [[1992年]])
* 1924年 - [[セルゲイ・パラジャーノフ]]、[[映画監督]](+ [[1990年]])
* [[1925年]] - [[リー・ヴァン・クリーフ]]、[[俳優]](+ [[1989年]])
* [[1927年]] - [[中山研一]]、[[刑法学者]](+ [[2011年]])
* [[1928年]] - [[汐路章]]、俳優(+ [[1994年]])
* [[1929年]] - [[ハイナー・ミュラー]]、[[劇作家]]、[[演出家]](+ [[1995年]])
* [[1933年]] - 初代[[コロムビア・ローズ]]、歌手
* 1933年 - [[藤島泰輔]]、小説家、[[評論家]](+ [[1997年]])
* [[1934年]] - [[弘瀬昌彦]]、元プロ野球選手
* 1934年 - [[バート・スター]]、元[[アメリカンフットボール]]選手(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2019/05/27/kiji/20190527s00040079197000c.html |title=NFLの伝説のQBスター氏が死去 85歳 スーパーボウルの初代王者 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2019-05-27 |accessdate=17 Feb 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>)
* [[1935年]] - [[小淵泰輔]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* [[1937年]] - [[森祗晶]]、元プロ野球選手、元[[プロ野球監督]]
* [[1938年]] - [[大林宣彦]]、映画監督(+ [[2020年]])
* 1938年 - [[伊吹文明]]、政治家
* [[1940年]] - [[ピエール・ギュヨタ]]、[[小説家]](+ [[2020年]])
* 1940年 - [[東君平]]、[[絵本作家]]、[[児童文学|童話作家]](+ [[1986年]])
* 1940年 - [[田島征三]]、[[絵本作家]]
* 1940年 - [[田島征彦]]、絵本作家
* [[1941年]] - [[ジョーン・バエズ]]、シンガーソングライター
* 1941年 - [[龍虎勢朋]]、[[タレント]]、[[俳優]]、元[[大相撲]]力士(+ [[2014年]])
* 1941年 - [[ジョン・エレンビー]]、[[実業家]]、[[開発者]](+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ29ID1_Z20C16A8000000/ |title=エレンビー氏死去75歳、「ノートパソコンの父」 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2016-08-29 |accessdate=17 Feb 2023}}</ref>)
* 1941年 - [[高木一巳]]、元プロ野球選手
* [[1944年]] - [[ジミー・ペイジ]]、ギタリスト
* [[1947年]] - [[岸部一徳]]、[[俳優]]
* [[1949年]] - [[宮地佑紀生]]、パーソナリティ
* 1949年 - [[甲斐和雄]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[南佳孝]]、シンガーソングライター
* 1950年 - [[村井英司]]、元プロ野球選手
* 1950年 - [[長坂一]]、実業家
* [[1951年]] - [[長島忠美]]、政治家、衆議院議員(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20170819-XUBLSDMRFRJUBMWGD4FXH5TKOM/ |title=自民・長島忠美衆院議員が死去 旧山古志村の村長 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=19 Aug 2017}}</ref>)
* [[1953年]] - [[宗茂]]、元[[マラソン]]選手
* 1953年 - [[宗猛]]、元マラソン選手
* [[1954年]] - [[尾崎健夫]]、[[プロゴルファー]]
* [[1955年]] - [[遠藤雄幸]]、政治家、実業家
* [[1959年]] - [[上田誠仁]]、[[陸上競技]]選手
* 1959年 - [[リゴベルタ・メンチュウ]]、グアテマラの人権活動家
* [[1960年]] - [[西村徳文]]、元プロ野球選手、監督
* [[1962年]] - [[西村ミツル]]、[[漫画原作者]]
* [[1963年]] - [[五十嵐麗]]、[[声優]]
* 1963年 - [[マイケル・エバーソン]]、[[言語学者]]
* [[1964年]] - [[塚田きよみ]]、元女優
* [[1965年]] - [[一路真輝]]、女優
* [[1966年]] - [[鈴木美香]]、フリーアナウンサー、女優
* [[1968年]] - [[藤田幸子]]、元バレーボール選手
* [[1969年]] - [[水口栄二]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[清水市代]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]]
* [[1970年]] - [[合田雅吏]]、[[俳優]]
* 1970年 - [[佐藤ドミンゴ]]、[[ラジオパーソナリティー]]、俳優
* 1970年 - [[及川麻衣]]、元女優
* [[1971年]] - [[エリザベス・プンサラン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1972年]] - [[中川祐子]]、[[フリーアナウンサー]]
* [[1973年]] - [[黒木克昌|マグナムTOKYO]]、[[プロレスラー]]
* 1973年 - [[若井おさむ]]、お笑い芸人
* 1973年 - [[パク・ソンウン]]、俳優
* 1973年 - [[ショーン・ポール]]、[[レゲエ]]ミュージシャン
* [[1974年]] - [[木山仁]]、[[空手道|空手家]]
* 1974年 - [[岡本真夜]]、[[歌手]]
* 1974年 - [[武田豊樹]]、[[競輪選手]]、元スピードスケート選手
* 1974年 - [[野瀬育二]]、声優
* 1974年 - [[高梨利洋]]、元プロ野球選手
* 1974年 - 小堀裕之、お笑い芸人([[2丁拳銃]])
* [[1975年]] - [[赤江珠緒]]、[[アナウンサー]]
* 1975年 - [[清水将海]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[デイモン・マイナー]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[高野八誠]]、俳優
* 1978年 - [[北川智規 (野球)|北川智規]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[平山智規]]、元[[サッカー選手]]
* 1978年 - [[A.J.]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[バックストリート・ボーイズ]])
* 1978年 - [[占部房子]]、女優
* [[1979年]] - [[伴都美子]] 、[[歌手]]([[Do As Infinity]])
* 1979年 - [[神島崇]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[西山道隆]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[川島蹴太]]、歌手
* 1980年 - [[水沢史絵]]<ref name="mizusawa">{{Cite web |url=https://fumie-mizusawa.themedia.jp/pages/2136226/PROFILE |title=PROFILE |publisher=水沢史絵 Official Web Site |accessdate=17 Feb 2023}}</ref>、声優
* 1980年 - [[セルヒオ・ガルシア]]、[[プロゴルファー]]
* [[1981年]] - [[橘実里]]、[[俳優|女優]]
* 1981年 - [[中山うり]]、[[シンガーソングライター]]、[[美容師]]
* [[1982年]] - [[キャサリン (プリンセス・オブ・ウェールズ)|キャサリン妃]]、イギリス王室[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム王太子]]の妃
* 1982年 - [[田中雅彦]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[DJ BOOBY]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]([[ET-KING]])
* 1982年 - [[トニー・ペーニャ (投手)|トニー・ペーニャ]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[山崎みどり]]、[[タレント]]、元[[レースクイーン]]
* 1983年 - [[くぼてんき]]、気象予報士、[[紙芝居|紙芝居師]]
* [[1984年]] - [[金田美香]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/prof/203361/ |title=金田美香のプロフィール |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、タレント、女優
* 1984年 - [[蒼国来栄吉]]、元大相撲力士、年寄9代[[荒汐]]
* 1984年 - 平川美香、歌手
* [[1985年]] - [[高橋りか]]、タレント
* 1985年 - [[齋藤舞]]、ミュージカル俳優
* [[1986年]] - [[明石健志]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[石井寛子 (競輪選手)|石井寛子]]、競輪選手
* 1986年 - 盛山晋太郎、お笑い芸人([[見取り図 (お笑いコンビ)|見取り図]])
* [[1987年]] - [[甲斐麻美]]、元女優
* 1987年 - [[井上真央]]、女優
* [[1988年]] - [[キャサリン・コペリー]]、フィギュアスケート選手
* 1988年 - [[小野茜 (タレント)|小野茜]]、[[グラビアアイドル]]、タレント
* [[1989年]] - [[池見典子]]、グラビアアイドル
* 1989年 - [[ミハエラ・クライチェク]]、[[テニス]]選手
* 1989年 - [[ニーナ・ドブレフ]]、女優、モデル
* 1989年 - [[ヤナ・マクシマワ]]、陸上競技選手
* 1989年 - [[田村優 (ラグビー選手)|田村優]]、ラグビー選手
* [[1990年]] - [[森本晋太郎]] - お笑い芸人([[トンツカタン]])
* 1990年 - [[伊藤未希]]、女優
* 1990年 - [[鈴木沙織]]、[[スキー]][[ハーフパイプ]]選手
* 1990年 - [[廣永遼太郎]]、サッカー選手
* 1990年 - [[早田功駿]]、騎手
* 1990年 - [[ステファナ・ベリコビッチ]]、[[バレーボール選手]]
* [[1991年]] - [[笠原将生]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[福谷浩司]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[黒川ティム]]、俳優、歌手(元[[PrizmaX]])
* 1991年 - [[真凛]]、タレント、女優
* [[1992年]] - [[方博]]、卓球選手
* [[1993年]] - [[爲井椋允]]、俳優、[[モデル (職業)|モデル]]、[[ダンサー]]、歌手
* 1993年 - [[レオナルド・ウルヘエス]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[子安光樹]]、声優
* [[1996年]] - [[小泉遥 (アイドル)|小泉遥]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000014303/ |title=小泉遥 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、モデル(元[[Doll☆Elements]])
* 1996年 - [[永原和可那]]、[[バドミントン]]選手
* 1996年 - [[ジェイコブ・ニックス]]、プロ野球選手
* [[1997年]] - [[西畑大吾]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.johnnys-net.jp/page?id=profile&artist=56 |title=なにわ男子 Profile 西畑大吾 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=Johnny&Associates |website=Johnny‘s net}}</ref>、アイドル([[なにわ男子]])
* 1997年 - [[Liyuu]]、[[コスプレイヤー]]、歌手、声優([[Liella!]])
* [[1998年]] - [[矢部昌暉]]、歌手、俳優([[DISH//]])
* [[2000年]] - [[眞栄田郷敦]]、俳優、モデル
* 2000年 - ジフン、アイドル([[TRCNG]])
* 2001年 - [[竹内唯人]]、歌手
* 2002年 - 荒井芽依、アイドル([[LINKL PLANET]])
* [[2006年]] - 遠藤理子、アイドル([[櫻坂46]])
* 生年不明 - [[小畑友紀]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://betsucomi.shogakukan.co.jp/author/259/ |title=小畑友紀 作品一覧 |publisher=[[小学館]] |accessdate=17 Feb 2023 |website=ベツコミ}}</ref>、[[漫画家]]
* 生年不明 - [[雪妃真矢]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://iceribbon.com/fighter_detail.php?id=27 |title=雪妃真矢 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=アイリスリボン}}</ref>、プロレスラー
* 生年不明 - [[岡本理絵]]<ref>{{Cite web |url=https://www.okamotorie.com/profile |title=PROFILE |publisher=岡本理絵official website |accessdate=17 Feb 2023}}</ref>、声[[優]]
* 生年不明 - [[歩サラ]]<ref>{{Twitter status|ayumi_sarah|288949583344717825}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[神山羊]]、シンガーソングライター<ref>{{Twitter status|Yuki_Jouet|1082926666551156736}}</ref>
== 忌日 ==
* [[642年]]([[舒明天皇]]13年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[船王後]]、[[貴族]]
* [[940年]]([[天慶]]2年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[源宗于]]、[[歌人]]
* [[1263年]]([[弘長]]2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[親鸞]]、[[浄土真宗]]の宗祖とされる僧(* [[1173年]])
* [[1283年]]([[至元 (元世祖)|至元]]19年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[文天祥]]、[[南宋]]の政治家(* [[1236年]])
* [[1499年]] - [[ヨハン・ツィーツェロ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨハン・ツィーツェロ]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](* [[1455年]])
* [[1514年]] - [[アンヌ・ド・ブルターニュ]]、ブルターニュ女公・フランス王妃(* [[1477年]])
* [[1561年]]([[永禄]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[尼子晴久]]、[[出雲国]]の[[戦国大名]](* [[1514年]])
* [[1608年]]([[慶長]]12年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[宇都宮国綱]]、[[下野国]]の戦国大名(* [[1568年]])
* [[1757年]] - [[ベルナール・フォントネル]]、著述家(* [[1657年]])
* [[1848年]] - [[カロライン・ハーシェル]]、[[天文学者]](* [[1750年]])
* [[1873年]] - [[ナポレオン3世]]、[[フランス]]皇帝(* [[1808年]])
* [[1878年]] - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]、[[イタリア王国|イタリア]]初代国王(* [[1820年]])
* [[1904年]] - [[井伊直憲]]、第16代[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1848年]])
* 1904年 - [[チャールズ・フォスター (財務長官)|チャールズ・フォスター]]、第40代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1828年]])
* [[1905年]] - [[ルイーズ・ミシェル]]、[[無政府主義]]運動家(* [[1830年]])
* [[1908年]] - [[ヴィルヘルム・ブッシュ]]、[[画家]]、[[詩人]](* [[1832年]])
* [[1918年]] - [[柳川春葉]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1877年]])
* [[1922年]] - [[竹内綱]]、[[自由民権運動]]の活動家、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]][[衆議院議員]](* [[1841年]])
* [[1923年]] - [[キャサリン・マンスフィールド]]、小説家(* [[1888年]])
* [[1925年]] - [[木内重四郎]]、[[京都府知事]](* [[1866年]])
* [[1927年]] - [[ヒューストン・ステュアート・チェンバレン]]、[[思想家]](* [[1855年]])
* [[1931年]] - 2代目[[桂小文枝]]、[[落語家]](* [[1878年]])
* [[1933年]] - [[ダフネ・アクハースト]]、[[テニス]]選手(* [[1903年]])
* [[1935年]] - [[藤本喜久雄]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[少将|造船少将]](* [[1888年]])
* [[1936年]] - [[ジョン・ギルバート (俳優)|ジョン・ギルバート]]、[[俳優]](* [[1899年]])
* [[1937年]] - [[松瀬青々]]、俳人(* [[1869年]])
* [[1939年]] - [[ヨハン・シュトラウス3世]]、[[音楽家]](* [[1866年]])
* [[1947年]] - [[カール・マンハイム]]、[[社会学|社会学者]](* [[1893年]])
* [[1957年]] - [[有馬頼寧]]、第2代[[日本中央競馬会]]理事長([[有馬記念]]創設者)、プロ野球球団オーナー(* [[1884年]])
* [[1961年]] - [[エミリー・グリーン・ボルチ]]、[[雑誌]][[編集者]]、[[平和主義]]運動家(* [[1867年]])
* [[1964年]] - [[八波むと志]]、[[コメディアン]](* [[1926年]])
* [[1966年]] - [[三木龍喜]]、テニス選手(* [[1904年]])
* [[1968年]] - [[円谷幸吉]]、[[マラソン]]選手(* [[1940年]])
* [[1971年]] - [[エルマー・フリック]]、元プロ野球選手(* [[1876年]])
* [[1974年]] - [[高津正道]]、[[衆議院議長|衆議院副議長]](* [[1893年]])
* [[1976年]] - [[ルーペルト・ヴィルト]]、天文学者(* [[1905年]])
* [[1981年]] - [[カジミェシュ・セロツキ]]、作曲家(* [[1922年]])
* [[1983年]] - [[中川一郎]]、[[政治家]](* [[1925年]])
* [[1985年]] - [[藤井日達]]、[[日本山妙法寺大僧伽]]を創始した[[僧]](* [[1885年]])
* [[1986年]] - [[新田恭一]]、元[[プロ野球監督]](* [[1898年]])
* [[1988年]] - [[宇野重吉]]、俳優(* [[1914年]])
* [[1989年]] - [[ビル・テリー]]、元プロ野球選手(* [[1898年]])
* 1989年 - [[マーシャル・ストーン]]、[[数学者]](* [[1903年]])
* 1989年 - [[斉藤一之]]、高校野球指導者(* [[1929年]])
* [[1990年]] - [[スパッド・チャンドラー]]、元プロ野球選手(* [[1907年]])
* [[1995年]] - [[スパーヌウォン]]、初代[[ラオス人民民主共和国主席]](* [[1909年]])
* [[1996年]] - [[ウォルター・M・ミラー・ジュニア]]、[[SF作家]](* [[1923年]])
* 1996年 - [[平岡千之]]、[[外交官]](* [[1930年]])
* [[1998年]] - [[福井謙一]]、[[化学者]](* [[1918年]])
* [[1999年]] - [[芦田伸介]]、俳優(* [[1917年]])
* [[2001年]] - [[林雅子]]、[[建築家]](* [[1928年]])
* 2001年 - [[戴国煇]]、[[農学者]]、[[作家]](* [[1931年]])
* [[2003年]] - [[森下直人]]、[[ドリームステージエンターテインメント]]社長(* [[1960年]])
* [[2005年]] - [[橋本幸治]]、[[映画監督]](* [[1936年]])
* 2005年 - [[小森和子]]、[[映画評論家]] (* [[1909年]])
* [[2008年]] - [[高杉一郎]]、小説家、[[翻訳家]](* [[1908年]])
* 2008年 - [[月本裕]]、作家、雑誌編集者(* [[1960年]])
* [[2012年]] - [[小泉淳作]]、[[日本画家]](* [[1924年]])
* [[2013年]] - [[藤田良雄]]、[[天文学者]](* 1908年)
* 2013年 - [[ジェームズ・M・ブキャナン]]、[[経済学者]](* [[1919年]])
* [[2015年]] - [[高瀬文志郎]]、天文学者(* [[1924年]])
* [[2016年]] - [[桂春団治 (3代目)|桂春団治(三代目)]]、[[落語家]](* [[1930年]])
* [[2017年]] - [[ジグムント・バウマン]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.rodo.co.jp/column/11245/ |title=世界中を席巻する「手品師のトリック」/ジグムント・バウマン『自分とは違った人たちとどう向き合うか 難民問題から考える』 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=労働新聞社 |date=16 Apr 2017}}</ref>、[[社会学者]](* [[1925年]])
* [[2019年]] - [[青山丘]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39863300Q9A110C1000000/ |title=青山丘氏が死去 元衆院議員 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=10 Jan 2019}}</ref>、[[政治家]](* [[1941年]])
* [[2021年]] - [[左藤恵]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210109-OYT1T50262/ |title=【独自】左藤恵・元法相が死去…僧侶として死刑執行命令書への署名拒む |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[読売新聞]] |date=10 Jan 2021}}</ref>、政治家(* [[1924年]])
* 2021年 - [[笠井智一]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20210112-JLLKHF2FOZP2PMODQEAIHEWYB4/ |title=笠井智一氏死去 「零戦」「紫電改」の元パイロット |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=12 Jan 2021}}</ref>、元[[大日本帝国海軍|海軍]]軍人(* [[1926年]])
* 2021年 - [[川上哲郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHD1255W0S1A110C2000000/ |title=川上哲郎氏が死去 元関経連会長 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=12 Jan 2021}}</ref>、[[実業家]](* [[1928年]])
* 2021年 - [[井上隆明]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bungaku-report.com/blog/2021/01/post-884.html |title=井上隆明さん死去、90歳 文芸評論家で元秋田経法大学長(秋田魁新報電子版) |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[文学通信]] |date=16 Jan 2021}}</ref>、[[文芸評論家]](* [[1930年]])
* 2021年 - [[中野亜里]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20210110-IEJSIRVAJBKMDP7JCJI3EG3JRA/ |title=中野亜里さん死去 大東文化大教授 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=10 Jan 2021}}</ref>、[[政治学者]](* [[1960年]])
* [[2022年]] - [[海部俊樹]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA140ZT0U2A110C2000000/ |title=海部俊樹元首相が死去 91歳、自衛隊初の海外本格派遣 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=14 Jan 2022}}</ref>、政治家、第77、78代[[内閣総理大臣]](* [[1931年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成人の日]]({{JPN}})※1月第2月曜日([[2006年]]、[[2012年]]、[[2017年]]、[[2023年]]など)
* {{仮リンク|殉教者の日 (パナマ)|en|Martyrs' Day (Panama)|label=殉教者の日}}({{PAN}})
*: [[1946年]]のこの日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]統治下の[[パナマ運河地帯]]の高校でアメリカ国旗だけを掲揚したことから住民が暴動を起こし、米軍の発砲で両国民に死者が出た。
* 宵戎({{JPN}})
*: [[十日戎]]の前日。
* [[クイズ]]の日、とんちの日({{JPN}})
*:とんちで有名な[[一休さん]]([[一休宗純]])から、「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合せ。
* [[風邪]]の日({{JPN}})
*:[[寛政]]7年[[1月9日 (旧暦)|旧暦1月9日]]、横綱[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]が風邪([[インフルエンザ]])で亡くなったことにちなむ。
* ジャマイカブルーマウンテンコーヒーの日({{JPN}})
*:ジャマイカコーヒー輸入協議会が制定。ジャマイカ産コーヒーの名物であるブルーマウンテンコーヒーのさらなる普及が目的。日付は、ジャマイカ産コーヒーがキングストン港より日本に向けて初めて1400袋(1袋60kg)もの大量出荷をした[[1967年]]のこの日から<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=9|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0109|date=2011年6月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1960年]] - [[セブルス・スネイプ]]、[[J・K・ローリング]]の小説[[ハリー・ポッターシリーズ|『ハリー・ポッター』シリーズ]]に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://warnerbros.co.jp/franchise/wizardingworld/special/characters/severus-snape.html |title=セブルス・スネイプ |access-date=17 Feb 2023 |publisher=Warner Bros. Japan}}</ref>
* [[1978年]] - 岡村敬助、特撮『[[仮面ライダードライブ]]』に登場する人物<ref>最終話より。</ref>
* [[1989年]] - 大杉智、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[東のエデン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor = ホビー編集部|year = 2010|title = 東のエデン 完全設定資料集|publisher = [[エンターブレイン]]|isbn = 978-4-04-726450-2|page = 22}}</ref>
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]508年 - パヴィヌ、ゲーム『[[スターオーシャン5 -Integrity and Faithlessness-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=84|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - ピクルス、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Pickles.html |title=ピクルス |access-date=17 Feb 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#波の国|白]](ハク)、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-873288-X|page=91}}</ref><ref>{{Twitter status|narucole_jp|685477017333153792}}</ref>
* 生年不明 - デイジー、漫画・アニメ・舞台『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|stage_reborn|1480102041791967235}}</ref>
* 生年不明 - 茅野カエデ、漫画・アニメ『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ansatsu_k|1479830252318871555}}</ref>
* 生年不明 - 平唯一、漫画・アニメ『[[ALL OUT!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|allout_anime|685477024065040386}}</ref>
* 生年不明 - 花畑よしえ、漫画・アニメ『[[アホガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|year=2013|title=アホガール|volume=1巻|page=68|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4-06-384871-7}}</ref>
* 生年不明 - フェリス=コンコル、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ(監修)|authorlink=東まゆみ|year=2009|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=978-4-86127-616-3|page=63}}</ref>
* 生年不明 - 万年大会、漫画・アニメ『[[スロウスタート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://slow-start.com/#character |title=Character 万年大会 |publisher=[[篤見唯子]] [[芳文社]]/スロウスタート製作委員会 |accessdate=2023-01-21 |work=『スロウスタート』}}</ref>
* 生年不明 - 深見真理、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://7o3x.com/char/profiles.html#2 |title=深見真理 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2023-01-21 |work=『ナナマル サンバツ』}}</ref>
* 生年不明 - 石動純、ゲーム・アニメ『[[true tears]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://truetears.jp/character/index.html |title=キャラクター 石動 純 |access-date=17 Feb 2023 |publisher=true tears製作委員会 |work=『true tears』}}</ref>
* 生年不明 - 金田悟、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/kaneda.html |title=金田 悟 |accessdate=2023-01-21 |publisher=[[MF文庫J]] [[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - 恵庭椎、小説・アニメ『[[スーパーカブ (小説)|スーパーカブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|supercub_anime|1479830250481754112}}</ref>
* 生年不明 - リン・デイヴス、小説・漫画・アニメ『[[メルヘン・メドヘン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://maerchen-anime.com/chara/lynne.html |title=Lynne Daves リン・デイヴス |access-date=2023-01-21 |publisher=MMM/メルヘン・メドヘン製作委員会 |work=『メルヘン・メドヘン』}}</ref>
* 生年不明 - 犬塚キューマ、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ|革命機ヴァルヴレヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.valvrave.com/character/#c5 |title=犬塚キューマ |access-date=2023-01-21 |publisher=SUNRISE/VVV Committee, MBS |work=『革命機ヴァルヴレイヴ』}}</ref>
*生年不明 - 花諷院和狆、ゲーム・アニメ『[[SAMURAI SPIRITS]]』に登場するキャラクター<ref name="SNK">{{Twitter status|snk_enter|951070227340472320}}</ref>
*生年不明 - ヴァネッサ、ゲーム・アニメ『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|THE KING OF FIGHTERS]]』に登場するキャラクター<ref name="SNK" />
*生年不明 - キャンディ・ダイアモンド、ゲーム・アニメ『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|THE KING OF FIGHTERS]]』に登場するキャラクター<ref name="SNK" />
*生年不明 - バズレー、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 バズレー |access-date=2023-01-21 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 月白陽子、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1214924724775653377}}</ref>
* 生年不明 - 月居ほのか、ゲーム・アニメ『[[CUE!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://cue-animation.jp/character/#/honoka |title=月居 ほのか |access-date=17 Feb 2023 |publisher=CUE! Animation Project |work=『CUE! 』}}</ref>
*生年不明 - 東山陽彩、ゲーム『[[アイ・アム・マジカミ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|mgcm_official|1479045159421685765}}</ref>
*生年不明 - 神宮寺寂雷、メディアミックス『[[ヒプノシスマイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hypnosismic.com/character/shinjuku/ill-doc/ |title=神宮寺 寂雷 / ill-DOC |accessdate=2023-01-21 |publisher=[[キングレコード|King Record Co., Ltd.]] |work=『ヒプノシスマイク』}}</ref>
*生年不明 - 嵐柴エイジ、メディアミックス『[[PROJECT SCARD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://project-scard.com/character/ |title=嵐柴エイジ |access-date=2023-01-21 |publisher=PROJECT SCARD GoHands, Frontier Works/Praeter-Project |work=『PROJECT SCARD』}}</ref>
* 生年不明 - 一条聖也、漫画・アニメ『[[賭博破戒録カイジ]]』・漫画『[[上京生活録イチジョウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=三好智樹,瀬戸義明,萩原天晴,福本伸行|authorlink=三好智樹|year=2023|title=上京生活録イチジョウ|volume=6巻|page=134|publisher=[[講談社]]|accessdate=2023-03-06|ISBN=978-4-06-531024-3}}</ref>
<!--* 生年不明 - 薫京ノ介、漫画『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター-->
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|1|8|1|10|[[12月9日]]|[[2月9日]]|[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]|0109|1|09}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%889%E6%97%A5 |
4,954 | 1月10日 | 1月10日(いちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から10日目に当たり、年末まであと355日(閏年では356日)ある。 | [
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'''1月10日'''(いちがつとおか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から10日目に当たり、年末まであと355日([[閏年]]では356日)ある。
== できごと ==
* [[紀元前49年]] - [[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]: [[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が、[[元老院 (ローマ)|元老院]]の命令を無視して[[ルビコン川]]を渡りイタリアに侵入{{要出典|date=2021-05}}。
* [[8年]] - [[王莽]]が[[新]]を建国、[[前漢]]が滅亡。
* [[236年]] - [[ファビアヌス (ローマ教皇)|ファビアヌス]]がローマ教皇に即位。
<!-- * [[1593年]]([[天正]]20年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[元号]]を[[天正]]から[[文禄]]に改元。 -->
* [[1352年]]([[観応]]2年[[12月23日]]) - [[光厳上皇]]が[[三種の神器]]を[[南朝 (日本)|南朝]]に渡す。
* [[1723年]]([[享保]]7年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[小石川養生所]]が開設される。
* [[1776年]] - [[トマス・ペイン]]の政治評論パンフレット『[[コモン・センス]]』が発行。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]独立の機運を高める。
* [[1833年]] - [[フェリックス・メンデルスゾーン]]の[[カンタータ]]『[[最初のワルプルギスの夜]]』が初演。
* [[1861年]] - [[南北戦争]]: [[フロリダ州]]が[[アメリカ合衆国]]から離脱。
* [[1863年]] - [[ロンドン]]の[[パディントン駅|パディントン]] - [[ファリンドン駅|ファリンドン]]5.5kmに世界初の地下鉄・[[メトロポリタン鉄道]]が開業。
* [[1870年]] - [[ジョン・ロックフェラー]]が[[スタンダード・オイル]]を設立。
* [[1873年]] - [[日本]]で[[徴兵令]]が施行(以後、現役兵の入営日となる)。
* [[1901年]] - アメリカ・[[テキサス州]][[スピンドルトップ]]で大油田を発見。
* [[1913年]] - [[チベット・モンゴル相互承認条約]]調印。
* [[1920年]] - [[ヴェルサイユ条約]]が発効。[[国際連盟]]が発足。
* [[1922年]] - [[アーサー・グリフィス]]が[[アイルランド自由国]]の国民議会([[ドイル・エアラン]])議長に就任。
* [[1943年]] - [[兵庫県]][[有馬温泉]]で火災、49棟(40戸)が焼失<ref>有馬温泉で火事、中心街の四十九棟焼く(昭和18年1月11日 毎日新聞(大阪))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p710 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1946年]] - 第1回[[国際連合総会]]が[[ロンドン]]で開幕。
* [[1947年]] - [[国際連合安全保障理事会決議16]]が採択、[[トリエステ自由地域]]が承認される。
* [[1949年]] - アメリカの[[RCAレコード|ビクター]]が45回転[[レコード]](ドーナツ盤)を開発・公開。
* [[1954年]] - [[コメット連続墜落事故]]: [[英国海外航空781便墜落事故]]起こる。
* [[1959年]] - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]が放送開始。
* [[1978年]] - [[平尾昌晃]]が[[畑中葉子]]との[[デュエット]]で「[[カナダからの手紙]]」をリリース。
* [[1979年]] - [[ヘン・サムリン]]政権による[[カンプチア人民共和国]]が成立。
* [[1984年]] - アメリカ合衆国と[[バチカン]]が117年ぶりに国交回復。
* [[1985年]] - [[グリコ・森永事件]]: [[大阪府警察|大阪府警]]が「[[キツネ目の男]]」の[[似顔絵]]を公開。
* [[1990年]] - 日本唯一の[[講談]]定席だった東京上野の[[本牧亭]]が閉場。
* [[1998年]] - [[中華人民共和国|中国]][[河北省]]北部でマグニチュード6.2の地震(張北-尚義地震)。死者50人、被災者54万人。
* [[2000年]] - [[国民の祝日に関する法律|祝日法]]において、初めて[[ハッピーマンデー制度]]が適用された。
* 2000年 - [[AOL|アメリカ・オンライン]]が米[[タイム・ワーナー]]買収を発表。
* 2000年 - [[多摩都市モノレール線]]・[[立川北駅]] - [[多摩センター駅]]間が開業し、全線開業。
* [[2006年]] - [[栃木県]][[下野市]]が市制施行。
== 誕生日 ==
* [[1480年]] - [[マルグリット・ドートリッシュ|マルガレーテ(マルグリット)]]、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の娘(+ [[1530年]])
* [[1573年]] - [[シモン・マリウス]]、[[天文学者]](+ [[1624年]])
<!---* [[1638年]] - [[ニコラウス・ステノ]]、[[地質学|地質学者]](+ [[1686年]])---「[[ニコラウス・ステノ]]」には「1月11日(ユリウス暦1月1日)」と記載--->
* [[1729年]] - [[ラザロ・スパランツァーニ]]、[[博物学|博物学者]](+ [[1799年]])
* [[1745年]] - [[イサーク・ティチング]]、外科医、学者、在日オランダ商館長(+ [[1812年]])
* [[1747年]] -[[アブラアム=ルイ・ブレゲ|アブラアン・ルイ・ブレゲ]]、[[時計]]職人
* [[1769年]] - [[ミシェル・ネイ]]、[[ナポレオン戦争]]期の[[フランス軍]][[元帥]](+ [[1815年]])
* [[1770年]] - [[シャルル・アンドレ・メルダ]]、[[軍人]](+ [[1812年]])
* [[1797年]] - [[アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ]]、作家 (+ [[1848年]])
* [[1810年]] - [[ジェレマイア・ブラック]]、第23代[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1883年]])
* [[1820年]]([[文政]]2年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[安藤信正]]、[[老中]]、陸奥国[[磐城平藩]]第5代藩主(+ [[1871年]])
* [[1831年]]([[文政]]13年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]])- [[牧野貞直]]、第8代[[笠間藩|笠間藩主]](+ [[1887年]])
* [[1835年]]([[天保]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[福澤諭吉]]、[[思想家]](+ [[1901年]])
* 1835年 - [[ハリー・ライト]]、プロ野球選手、監督(+ [[1895年]])
* [[1848年]]([[弘化]]4年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[鳥尾小弥太]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[1905年]])
* [[1853年]] - [[ジョン・マーチン・シェバーリ]]、天文学者(+ [[1924年]])
* [[1864年]] - [[ピョートル・ニコラエヴィチ]]、ロシア帝国の皇族(+ [[1931年]])
* [[1868年]]([[慶応]]3年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[尾崎紅葉]]、[[小説家]](+ [[1903年]])
* [[1869年]]([[明治]]元年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[月亭小文都]]、[[落語家]](+ [[1902年]])
* [[1873年]] - [[ジョージ・オートン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1958年]])
* 1873年 - [[チック・スタル]]、プロ野球選手(+ [[1907年]])
* [[1883年]] - [[アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ]]、小説家(+ [[1945年]])
* [[1884年]] - [[山村暮鳥]]、[[詩人]]、[[児童文学|児童文学者]](+ [[1924年]])
* [[1891年]] - [[小野清一郎]]、法学者(+ [[1986年]])
* 1891年 - [[辰野保]]、[[陸上競技]]選手、[[弁護士]]、[[政治家]](+ [[1938年]])
* [[1894年]] - [[石田茂作]]、[[考古学|考古学者]](+ [[1977年]])
* [[1903年]] - [[ジャン・モレル]]、[[指揮者]](+ [[1975年]])
* 1903年 - [[磯村英一]]、[[都市社会学]]の[[研究者]](+ [[1997年]])
* [[1907年]] - [[日守新一]]、[[俳優]](+ [[1959年]])
* [[1908年]] - [[伴淳三郎]]、[[喜劇俳優]](+ [[1981年]])
* 1908年 - [[バーナード・リー]]、俳優(+ 1981年)
* [[1913年]] - [[田中英光]]、小説家(+ [[1949年]])
* 1913年 - [[グスターフ・フサーク]]、[[チェコスロバキア]]の指導者(+ [[1991年]])
* [[1916年]] - [[スネ・ベリストローム]]、[[生化学|生化学者]](+ [[2004年]])
* [[1919年]] - [[照國萬藏]]、[[大相撲]][[力士]]、第38代横綱(+ [[1977年]])
* 1919年 - [[十勝岩豊]]、大相撲力士(+ [[1979年]])
* [[1924年]] - [[マックス・ローチ]]、[[ジャズ]]ミュージシャン(+ [[2007年]])
* [[1926年]] - [[北村正利]]、[[天文学者]](+ [[2012年]])
* 1926年 - [[織井茂子]]、[[歌手]](+ [[1996年]])
* 1926年 - [[いいだもも]]、[[作家]]、[[評論家]](+ [[2011年]])
* 1926年 - [[森亘]]、[[病理学|病理学者]](+ [[2012年]])
* [[1928年]] - [[森毅]]、[[数学者]](+ [[2010年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2010/07/26071874.html?p=all|title=数学者の森毅さん死去 82歳|publisher=J-CAST|date=2010-07-26|accessdate=2020-11-13}}</ref>)
* [[1929年]] - [[三遊亭圓歌 (3代目)|三代目三遊亭圓歌]]、[[落語家]](+ [[2017年]])
* [[1930年]] - [[三宅久之]]、[[政治評論家]](+ [[2012年]])
* 1930年 - [[山下耕作]]、[[映画監督]](+ [[1998年]])
* [[1931年]] - [[井上安雄]]、[[プロ野球選手]](+ [[2014年]])
* [[1933年]] - [[田口計]]、[[俳優]]、[[声優]]
* 1933年 - [[アントン・ロジャース]]、俳優(+ [[2007年]])
* [[1934年]] - [[長門裕之]]、俳優(+ [[2011年]])
* 1934年 - [[松橋慶季]]、プロ野球選手(+ [[2015年]])
* [[1935年]] - [[浜村淳]]、[[タレント]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[映画評論家]]
* 1935年 - [[塙嘉彦]]、[[編集者]](+ [[1980年]])
<!-- 12月10日との重複* [[1936年]] - [[寺山修司]]、[[劇作家]](+ [[1983年]]) ※戸籍上の誕生日。実際は[[1935年]]生まれ。-->
* [[1938年]] - [[ドナルド・クヌース]]、[[数学者]]、コンピュータ科学者
* [[1938年]] - [[瞳麗子]]、俳優
* [[1939年]] - [[村田満]]、釣り人
* [[1941年]] - [[梁川郁雄]]、元プロ野球選手
* [[1942年]] - [[小松政夫]]、[[喜劇俳優|コメディアン]](+ [[2020年]])
* 1942年 - [[ペーター・シュミードル]]、[[クラリネット]]奏者
* 1942年 - [[ウォルター・ヒル]]、[[映画監督]]
* 1942年 - [[嵐山光三郎]]、[[編集者]]、[[作家]]、[[エッセイスト]]
* [[1943年]] - [[江尻亮]]、元プロ野球選手、監督
* [[1944年]] - [[クリストファー・チェイス=ダン]]、[[社会学者]]
* [[1945年]] - [[ロッド・スチュワート]]、[[ロック (音楽)|ロック]]歌手
* [[1946年]] - [[中村文弥]]、[[俳優]](+ [[2001年]])
* [[1947年]] - [[谷畑孝]]、元政治家
* [[1948年]] - [[ドナルド・フェイゲン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[ソングライター]]
* 1948年 - [[あおい輝彦]]、俳優
* 1948年 - [[ベルナール・テブネ]]、[[自転車競技]]選手
* 1948年 - [[ミッシャ・マイスキー]]、[[チェリスト]]
* 1948年 - [[山元二三男]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[工富保]]、[[漫画編集者]](+ [[2011年]])
* 1949年 - [[ジョージ・フォアマン]]、[[プロボクサー]]
* [[1950年]] - [[佐々木一十郎]]、政治家、元[[名取市]]長
* 1950年 - [[北畑隆生]]、[[官僚]]
* 1950年 - [[中室幹雄]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[仲野裕]]、声優
* [[1952年]] - [[青木裕史]]、[[歌手]] (+ [[2020年]])
* 1952年 - [[高木美也子]]、[[生命倫理学|生命倫理学者]]
* 1952年 - [[川端誠]]、[[絵本作家]]
* 1952年 - [[ロー・ボルジェス]]、歌手
* [[1953年]] - [[市橋秀彦]]、元プロ野球選手
* 1953年 - [[曽根陽一]]、[[写真家]]
* 1953年 - [[パット・ベネター]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1955年]] - [[ヤスミナ・カドラ]]、作家
* 1955年 - [[尾西兼一]]、[[脚本家]]
* [[1956年]] - [[大門実紀史]]、政治家
* [[1958年]] - [[アナトリ・ピサレンコ]]、重量挙げ選手
* [[1959年]] - [[とみさわ千夏]]、[[漫画家]]
* [[1960年]] - [[ケルビン・トーベ]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[高田裕司 (声優)|高田裕司]]、声優
* [[1961年]] - [[石嶺和彦]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[大畑徹]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[近藤満]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1961年 - [[西山浩司]]、俳優、タレント
* 1961年 - [[梅田淳]]、アナウンサー
* [[1963年]] - [[林あまり]]、[[歌人]]
* 1963年 - [[河野太郎]]、政治家
* 1963年 - [[欠端光則]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[宣銅烈]]、元プロ野球選手、監督
* 1963年 - [[キラ・イワノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1999年]])
* [[1964年]] - [[福王昭仁]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[多田彰文]]、[[作曲家]]
* [[1965年]] - [[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]]、お笑いタレント、[[漫才師]]([[爆笑問題]])
* 1965年 - [[平川弘]]、[[サッカー選手]]
* [[1966年]] - [[財前直見]]、女優
* [[1967年]] - [[棟方公寿]]、[[バスケットボール選手]]、指導者
* 1967年 - [[堀田祐美子]]、[[プロレスラー]]
* [[1969年]] - [[野村貴仁]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[森下直親]]、[[イラストレーター]]
* [[1971年]] - [[フランシスコ・フィリォ]]、[[空手道|空手家]]
* [[1972年]] - [[山口達也]]、元歌手、元タレント(元[[TOKIO]])
* [[1973年]] - [[ひじおか誠]]、漫画家
* 1973年 - AKKO、歌手([[My Little Lover|MY LITTLE LOVER]])
* 1973年 - [[ゲーリー・ラス]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[島崎直也]]、ケミカルエンターテイナー
* 1974年 - [[柚木涼香]]、[[声優]]
* 1974年 - [[吉田真由子]]、女優、タレント
* 1974年 - [[リティク・ローシャン]]、俳優
* [[1975年]] - [[祖堅正慶]]、作曲家、音響エンジニア
* 1975年 - [[前田剛]]、声優
* 1975年 - [[森岡洋一郎]]、政治家
* [[1976年]] - [[レミー・ボンヤスキー]]、[[プロフェッショナルファイター]]
* 1976年 - [[イアン・ポールター]]、[[ゴルフ|プロゴルファー]]
* 1976年 - [[劉国梁]]、元[[卓球]]選手、コーチ
* [[1978年]] - [[三橋加奈子]]、声優
<!-- 年の出典が不明 * [[1979年]] - 高井淳、ミュージシャン -->
* [[1980年]] - [[仁部智]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[矢内理絵子]]、[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]
* 1980年 - [[ペトリ・リンドロス]]、ミュージシャン
* [[1981年]] - [[戎岡淳一]]、プロボクサー
* 1981年 - [[井村久美子]]、陸上選手
* 1981年 - {{仮リンク|ナスリ・アトウェ|en|Nasri_(musician)}}、ミュージシャン([[Magic!|マジック!]])
* [[1982年]] - [[市来光弘]]<ref>{{Cite book|和書|title=日本音声製作者名鑑2007|page=19|publisher=[[小学館]]|year=2007|ISBN=978-4-09-526302-1}}</ref>、声優
* 1982年 - [[福圓美里]]<ref name="アニメイトタイムズ">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=721|title=福圓美里のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-05}}</ref>、声優
* 1982年 - [[祐仙勇]]、声優
* [[1984年]] - [[アレクサンドル・ポポフ (フィギュアスケート選手)|アレクサンドル・ポポフ]]、フィギュアスケート選手
* 1984年 - [[マルアーヌ・シャマフ]]、サッカー選手
* 1984年 - [[ハンター・ジョーンズ]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[里中唯]]、元タレント
* 1986年 - [[前田祐二]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[岡崎愛子]]、車いす[[アーチェリー]]選手
* [[1987年]] - [[伊藤千晃]]、歌手(元[[AAA (音楽グループ)|AAA]])
* 1987年 - [[巽真悟]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[パオロ・エスピーノ]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[佐々木孝介]]、元野球選手、高校野球指導者
* [[1988年]] - [[笹岡莉紗]]、元[[ファッションモデル]]、元女優
* 1988年 - [[光上せあら]]、[[歌手]](元[[SDN48]])
* 1988年 - [[ゾエ・ブラン]]、フィギュアスケート選手
* 1988年 - [[ラファエル・ドリス]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[あべみほ]]、タレント、グラビアアイドル
* [[1989年]] - [[内藤理沙]]、[[アイドル]]([[美少女クラブ31]])
* 1989年 - [[石黒英雄]]、俳優
* 1989年 - [[アリエル・ミランダ]]、プロ野球選手
* 1989年 - ソルジ、アイドル([[EXID]])
* [[1990年]] - [[石浦将勝]]、元大相撲力士、年寄23代間垣
* 1990年 - [[市村龍]]、タレント
* 1990年 - [[小倉奈々]]、元[[AV女優]]
* 1990年 - [[辻詩音]]、[[シンガーソングライター]]
* 1990年 - [[林みなほ]]、アナウンサー、実業家
* [[1992年]] - [[西野太盛]]、俳優
* [[1995年]] - 高田健太、アイドル([[JBJ95]]、元[[JBJ (音楽グループ)|JBJ]])
* [[1996年]] - [[大原櫻子]]、女優、歌手
* 1996年 - [[Miyu (ジュニアアイドル)|Miyu]]、モデル
* 1996年 - へユン、アイドル([[Cherry Bullet]])
* [[1997年]] - [[今野鮎莉]]、元女優
* [[1999年]] - ヨルム、アイドル([[宇宙少女]])
* [[2000年]] - [[山本草太]]、フィギュアスケート選手
* 2000年 - [[菅原茉椰]]、アイドル([[SKE48]])
* 2000年 - シオン、アイドル([[ONEUS]])
* 2000年 - 希山愛、アイドル([[ばってん少女隊]])
* [[2001年]] - [[新井舞良]]、ファッションモデル
* 2001年 - [[中町綾]]、YouTuber
* [[2002年]] - [[和智日菜子]]、タレント
* [[2003年]] - プリンス、アイドル ([[GHOST9]])
* 2005年 - パク・ゴヌク([[ZEROBASEONE]])
* [[2009年]] - [[大角ゆき]]、子役
* 生年不明 - [[岩村琴美]]、声優
* 生年不明 - [[早坂愛]]、声優
* 生年不明 - [[岩本ナオ]]、漫画家
* 生年不明 - [[紺野比奈子]]、漫画家(+ [[2015年]])
* 生年不明 - [[天田有希子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://pro-baobab.jp/ladies/amada_y/index.html |title=天田有希子 |publisher=ぷろだくしょんバオバブ |accessdate=2021-01-15}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[飯島晶子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.voicek.co.jp/profile|title=プロフィール|publisher=ヴォイスケ|accessdate=2021-01-05}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[和泉忍]]<ref>{{Cite web|和書|title=和泉忍(いずみしのぶ)(SHINOBU IZUMI)|url=https://www.wingwave.jp/talent/2040junior-f/shinobu.html|website=www.wingwave.jp|accessdate=2020-11-25}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[浦嶋りんこ]]、歌手
== 忌日 ==
* [[976年]] - [[ヨハネス1世ツィミスケス]]、[[東ローマ帝国]][[皇帝]](* [[925年]])
* [[1156年]]([[久寿]]2年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[藤原泰子]]、[[鳥羽天皇]]の[[皇后]](* [[1095年]])
* [[1182年]]([[養和]]元年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[藤原聖子]]、[[崇徳天皇]]の[[中宮]](* [[1122年]])
* [[1645年]] - [[ウィリアム・ロード]]、[[カンタベリー大主教]](* [[1573年]])
* [[1665年]]([[寛文]]4年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[山内忠義]]、第2代[[土佐藩|土佐藩主]](* [[1592年]])
* [[1778年]] - [[カール・フォン・リンネ]]、[[博物学|博物学者]](* [[1707年]])
* [[1794年]] - [[ゲオルク・フォルスター]]、博物学者、[[探検家]]、[[革命家]](* [[1754年]])
* [[1824年]] - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]]、第5代[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]王(* [[1759年]])
* [[1833年]] - [[アドリアン=マリ・ルジャンドル]]、[[数学者]](* [[1752年]])
* [[1846年]] - [[エティエンヌ・ピヴェール・ド・セナンクール]]、[[小説家]](* [[1770年]])
* [[1862年]] - [[サミュエル・コルト]]、[[コルト・ファイヤーアームズ]]創立者(* [[1814年]])
* [[1895年]] - [[バンジャマン・ゴダール]]、[[作曲家]](* [[1849年]])
* [[1904年]] - [[ジャン=レオン・ジェローム]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1824年]])
* [[1917年]] - [[バッファロー・ビル]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](* [[1846年]])
* [[1920年]] - [[芳川顕正]]、政治家(* [[1842年]])
* [[1922年]] - [[大隈重信]]、[[教育関係人物一覧|教育者]]、第8代・17代[[内閣総理大臣]]、[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](現・[[早稲田大学]])創設者(* [[1838年]])
* [[1931年]] - [[高島北海]]、[[日本画家]](* [[1850年]])
* [[1934年]] - [[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]、[[共産主義|共産主義者]](* [[1909年]])
* [[1935年]] - [[エドウィン・フラック]]、[[陸上競技]]選手(* [[1873年]])
* [[1941年]] - [[イサイ・シュール]]、[[数学者]](* [[1875年]])
* 1941年 - [[フランク・ブリッジ]]、作曲家(* [[1879年]])
* [[1947年]] - [[織田作之助]]、[[小説家]](* [[1913年]])
* 1947年 - [[長谷川テル]]、社会運動家、[[エスペランティスト]](* [[1912年]])
* [[1951年]] - [[仁科芳雄]]、[[物理学者]](* [[1890年]])
* 1951年 - [[シンクレア・ルイス]]、[[小説家]](* [[1885年]])
* [[1957年]] - [[有馬頼寧]]、[[政治家]]、[[日本中央競馬会]]第2代理事長(* [[1884年]])
* 1957年 - [[ガブリエラ・ミストラル]]、[[詩人]]、[[教育者]](* [[1889年]])
* [[1961年]] - [[ダシール・ハメット]]、[[推理作家]](* [[1894年]])
* [[1963年]] - [[タデウシュ・シェリゴフスキ]]、作曲家(* [[1896年]])
* [[1965年]] - [[松沢一鶴]]、[[競泳|競泳選手]](* [[1900年]])
* [[1967年]] - [[ラダ・ビノード・パール]]、[[法学者]]、[[極東国際軍事裁判]][[判事]](* [[1886年]])
* [[1968年]] - [[ネル・ホール・ホップマン]]、[[テニス]]選手(* [[1909年]])
* [[1970年]] - [[パーヴェル・ベリャーエフ]]、[[宇宙飛行士]](* [[1925年]])
* [[1971年]] - [[ココ・シャネル]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1883年]])
* [[1973年]] - [[郡司次郎正]]、小説家、[[作詞家]](* [[1905年]])
* [[1976年]] - [[ハウリン・ウルフ]]、[[ブルース]]歌手(* [[1910年]])
* 1976年 - [[スティーヴン・ウルマン]]、[[言語学|言語学者]](* [[1914年]])
* [[1981年]] - [[リチャード・ブーン]]、[[俳優]](* [[1917年]])
* [[1983年]] - [[ロイ・デメイオ]]、[[マフィア]]の構成員(* [[1940年]])
* [[1985年]] - [[アントーン・カラス]]、[[ツィター]]奏者、作曲家(* [[1906年]])
* [[1986年]] - [[猪谷六合雄]]、[[スキー]]指導者、[[猪谷千春]]の父(* [[1890年]])
* 1986年 - [[ヤロスラフ・サイフェルト]]、作家、[[詩人]]、[[ジャーナリスト]](* [[1901年]])
* 1986年 - [[長津義司]]、作曲家(* [[1904年]])
* [[1990年]] - [[栃錦清隆]]、[[大相撲]]第44代[[横綱]](* [[1925年]])
* 1990年 - [[ジュリエット・ベルト]]、女優、[[映画監督]](* [[1947年]])
* [[1992年]] - [[松村喜雄]]、[[推理作家]]、[[評論家]](* [[1918年]])
* [[1997年]] - [[アレクサンダー・トッド]]、[[生化学|生化学者]](* [[1907年]])
* [[2002年]] - [[田中一光]]、[[グラフィックデザイナー]](* [[1930年]])
* [[2004年]] - [[日下章]]、[[プロ野球選手]](* [[1927年]])
* 2004年 - [[ジャック・モイヤー]]、[[生物海洋学|海洋生物学者]](* [[1929年]])
* 2004年 - [[アレクサンドラ・リプリー]]、小説家(* [[1934年]])
* [[2005年]] - [[ジョゼフィーヌ=シャルロット・ド・ベルジック]]、[[ルクセンブルク大公]][[ジャン (ルクセンブルク大公)|ジャン]]の妃(* [[1927年]])
* [[2007年]] - [[阿部保]]、詩人(* [[1910年]])
* 2007年 - [[カルロ・ポンティ]]、[[映画プロデューサー]](* [[1912年]])
* 2007年 - [[木暮正夫]]、[[児童文学]]作家(* [[1939年]])
* [[2008年]] - [[長沢勝俊]]、作曲家(* [[1923年]])
* 2008年 - [[クリストファー・ボウマン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1967年]])
* [[2012年]] - [[桜井孝雄]]、[[プロボクサー]](* [[1941年]])
* [[2014年]] - [[水沢薫]]、プロ野球選手(* [[1965年]])
* [[2015年]] - [[フランチェスコ・ロージ]]、[[映画監督]](* [[1922年]])
* [[2016年]] - [[竹田圭吾]]、[[ジャーナリスト]](* [[1964年]])
* 2016年 - [[デヴィッド・ボウイ]]、[[ミュージシャン]]、俳優(* [[1947年]])
* [[2017年]] - [[ローマン・ヘルツォーク]]、政治家、第7代[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ大統領]](* [[1934年]])
* [[2021年]] - [[ジュリー・ストレイン]]、[[俳優|女優]]、[[モデル (職業)|モデル]](* [[1962年]])
* [[2022年]] - [[水島新司]]、漫画家(* [[1939年]])
* [[2023年]] - [[ジェフ・ベック]]、ギタリスト(* [[1944年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成人の日]]({{JPN}})※1月第2月曜日([[2000年]]、[[2005年]]、[[2011年]]、[[2022年]]など)
* [[十日戎]]({{JPN}})
*: 大阪の[[今宮戎神社]]、兵庫県の[[西宮神社]]などのえびす神社で正月の10日に行われるお祭りで、地元の人には「えべっさん」と呼ばれ親しまれている。前日[[1月9日]]を「宵戎」、翌日[[1月11日]]を「残り福」と言う。縁起物を沢山つけた笹が「商売繁盛、笹持ってこい!」という賑やかな掛け声とともに売られ、商売繁盛を願ってお賽銭に1万円札が乱れ飛ぶ。
* [[ブードゥー教|ブードゥー]]祭の日({{BEN}})
* [[110番の日]]({{JPN}})
*: [[警察庁]]が[[1985年]]12月に制定し、翌[[1986年]]から実施。全国の[[警察]]で、ダイヤル[[110番]]の有効・適切な利用を呼びかけるキャンペーンが行われる。
* [[辛子明太子|明太子]]の日 ({{JPN}})
*: 福岡の食品会社[[ふくや]]が制定。[[1949年]]のこの日に販売を開始したのを記念としている。
* [[かんぴょう]]の日({{JPN}})
*: かんぴょう(干瓢)の「干」が「一」と「十」の組み合わせから成ることに由来<ref>{{Cite web|和書 |date=2007年 |url=http://www.kanpyo.jp/knowledge.html |title=干瓢の基礎知識:栃木のかんぴょう祭り |publisher=栃木県干瓢商業協同組合 |accessdate=2010-01-09}}</ref>。
* さんま寿司の日({{JPN}})
*: [[三重県]][[熊野市]]のさんま寿司保存会が[[2004年]]に制定。熊野市の[[産田神社]]でこの日に行われる[[例祭]]の後の[[直会]]で、熊野灘沿岸の郷土食「さんま寿司」の原形とされる寿司が出されることから。
*[[中華人民共和国人民警察|人民警察]]節({{PRC}})
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0110|date=2011年6月}}
* 1905年(明治38年)- [[二弦琴]]の御師匠さんの家に行った[[猫]]の「吾輩」は、三毛子が亡くなったことを知る(『[[吾輩は猫である]]』第2話)。
* 2007年 - スノーマンイマジンとアルビノレオイマジンが現れる。桜井侑斗がカイが操るレオソルジャーに敗北して時間が一時崩壊する。崩壊した時間は復活するが桜井侑斗は失踪する(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)。
* 2016年 - 天空寺タケルの命のタイムリミットが訪れる(『[[仮面ライダーゴースト]]』)。
* [[2025年]](昭和100年) - [[火星]]地球化([[テラフォーミング]])計画の第一段階が成功。IMDO(国際火星開発機構)の[[人工衛星]]が[[極冠#火星|火星の両極冠]]に[[水素爆弾|熱核爆弾]]を投下し、その73%を融解させる(映画『[[惑星大怪獣ネガドン]]』)。
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[スペースコロニー]]「アイランド・イフィッシュ」が[[シドニー]]を直撃。これまでを「一週間戦争」と呼ぶ。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 1983年 - 武田一鉄、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref name=":02">{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2017|title=ハイキュー!! ショーセツバン!!|publisher=集英社|location=|isbn=978-4087034387|date=|volume=9巻|quote=カバー裏|author2=星希代子}}</ref><ref name=":022">{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870482-1|quote=|date=|volume=2巻|page=92}}</ref>
*U.C.0067年 - ハマーン・カーン、アニメ『[[機動戦士Ζガンダム|機動戦士Zガンダム]]』に登場するキャラクター
*生年不明 - 聖端姫、小説・漫画・アニメ『[[厨病激発ボーイ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url= http://chubyou.net/chara.html|title=聖 端姫|accessdate=2022-08-11|publisher=アニメ「厨病激発ボーイ」公式サイト}}</ref>
*生年不明 - オトヒメ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Queen_Otohime.html |title=オトヒメ |access-date=2022-09-12 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - 兕丹坊、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year = 2006|title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|publisher = [[集英社]]|isbn = 4-08-874079-3|page = 102}}</ref>
* 生年不明 - カエサル、アニメ・ゲーム『[[ガールズ&パンツァー|ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1347471030730641411}}</ref>
* 生年不明 - レオナ・ハイデルン、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.snk-corp.co.jp/official/kof-xv/characters/characters_leona.php |title=LEONA HEIDERN レオナ・ハイデルン |access-date=2022-09-12 |publisher=SNK |work=THE KING OF FIGHTERS XV}}</ref>
* 生年不明 - ランディ・サンチャゴ、ゲーム『[[サンパギータ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - オカッピ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 オカッピ |access-date=2022-09-12 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref>
* 生年不明 - 瀬名詩織、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20095 |title=瀬名 詩織(せな しおり) |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=2022-09-12 |work=THE IDOLM@STER アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ドローレ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=112&cate=name&cont=Drole |title=ドローレ |access-date=2022-09-12 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 天祥院英智、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/tenshouin_eichi/ |title=天祥院 英智 |accessdate=2022-09-12 |publisher=Happy Elements |website=あんさんぶるスターズ!!}}</ref>
* 生年不明 - 鬼丸静、メディアミックス『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/onimaru-shizuka/ |title=福岡県 鬼丸 静 |access-date=2022-09-12 |publisher=MAGES. アイドル事変製作委員会}}</ref>
=== 記念日・年中行事(フィクション) ===
* 大王感謝の日(漫画『[[星のカービィ デデデでプププなものがたり]]』)
*: 1月10日を別の読みにすると'''いいおう'''になることから由来。記念日の名前のとおり、国王([[デデデ大王]])に感謝する日。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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'''1月11日'''(いちがつじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から11日目に当たり、年末まであと354日([[閏年]]では355日)ある。
== できごと ==
* [[604年]]([[推古天皇]]11年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[聖徳太子]](厩戸皇子)が[[冠位十二階]]の制度を制定{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1055年]] - [[テオドラ (東ローマ女帝)|テオドラ]]が[[東ローマ帝国]]女帝に即位。
* [[1172年]]([[承安 (日本)|承安]]元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[平徳子]](建礼門院徳子)が[[後白河天皇|後白河法皇]]の養女として入内する。
* [[1547年]]([[天文 (元号)|天文]]15年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[足利義輝]]が[[坂本 (大津市)|近江坂本]]の地で[[征夷大将軍|将軍]]に就任する。
* [[1696年]]([[元禄]]8年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[大坂]]・[[千日前]]で、赤根屋半七と女舞三勝が心中。[[浄瑠璃]]『[[艶容女舞衣]]』の題材に。
* [[1787年]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]が[[天王星]]の2つの[[衛星]]、[[チタニア (衛星)|チタニア]]および[[オベロン (衛星)|オベロン]]を発見。
* [[1851年]] - [[太平天国の乱]]。[[清|清国]]で[[洪秀全]]が率いる集団が武装蜂起。
* [[1861年]] - [[南北戦争]]: [[アラバマ州]]が[[アメリカ合衆国]]を脱退。
* [[1877年]] - 官営鉄道(旧[[日本国有鉄道|国鉄]]の前身)の建設・運営母体が工部省鉄道寮から工部省鉄道局へと改組。
* [[1878年]] - [[太政官]]布告により[[伊豆諸島]]が[[静岡県]]から[[東京府]]に移管。
* [[1879年]] - [[ズールー戦争]]勃発。
* [[1908年]] - [[グランド・キャニオン国立公園|グランド・キャニオン国定公園]]を設置。
* [[1913年]] - [[チベット]]と[[モンゴル]]が「[[チベット・モンゴル相互承認条約]]」を締結
* [[1918年]]-財団法人私立兵庫中学校(現:[[滝川中学校・高等学校|学校法人瀧川学園滝川中学校・高等学校]])設立。
* [[1919年]] - [[トランシルバニア]]が[[ルーマニア]]に併合。
* [[1920年]] : [[北海道]]の新[[夕張炭鉱]]で爆発事故。死者36人、負傷者23人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p337 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1922年]] - [[糖尿病]]患者に世界初の[[インスリン]]投与。
* [[1923年]] - [[フランス]]・[[ベルギー]]軍が、ドイツの[[第一次世界大戦]][[戦時賠償|賠償]]支払の遅延を理由に[[ルール地方|ルール]]鉱工業地帯を占領。
* [[1930年]] - [[濱口雄幸内閣]]が金輸出を解禁し[[金本位制]]に復帰する。([[金解禁]])
* 1930年 - [[聖徳太子]]の[[肖像]]の[[百円紙幣#乙百圓券|新百円札]]が発行。
* [[1935年]] - [[アメリア・イアハート]]が[[ハワイ州|ハワイ]]・[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]間の単独飛行に成功。
* [[1938年]] - [[厚生省]]設置。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の第五師団によって[[クアラルンプール]]占領。
* 1942年 - 第二次世界大戦: [[蘭印作戦]]開始。日本軍が[[オランダ領東インド]]の[[タラカン島]]と[[マナド|メナド]]に侵攻する。
* [[1943年]] - [[中華民国の歴史|中華民国]]駐米大使[[魏道明]]がアメリカの[[コーデル・ハル|ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]と[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で中米平等新約を、外交部長[[宋子文]]がイギリスのシーモア([[:en:Horace James Seymour|Seymour]])駐華大使と[[イギリス領インド帝国|インド帝国]]代表{{仮リンク|ヒュー・エドワード・リチャードソン|label=リチャードソン|en|Hugh Edward Richardson}}と[[重慶市|重慶]]で[[中国における治外法権の返還に関する中英条約|中英平等新約]]を締結し、アメリカとイギリスが中国における[[権益]]を放棄する。
* [[1946年]] - [[エンヴェル・ホッジャ]]が[[アルバニア社会主義人民共和国]]樹立を宣言し、最高指導者に就任。
* [[1958年]] - [[大韓民国]]の野党・[[進歩党 (韓国)|進歩党]]の[[曺奉岩]]委員長・[[尹吉重]]幹事長ら党首脳部を[[国家保安法]]違反で一斉逮捕。([[進歩党事件]])
* [[1962年]] - [[中国共産党]]の「[[七千人大会]]」が開会。[[毛沢東]]党主席が[[大躍進政策]]の失敗を認め[[自己批判]]する。
* [[1964年]] - [[カリフォルニア州]][[ウェスト・ハリウッド (カリフォルニア州)|ウェスト・ハリウッド]]の[[ナイトクラブ]]「[[ウィスキー・ア・ゴーゴー]]」が開館。
* [[1965年]] - [[東京都]][[大島町]]元町で、町の70%が消滅する大火事災害([[大島大火]])が発生。
* [[1969年]] - 石田和外が第5代最高裁判所長官に就任。
* [[1972年]] - 東パキスタンが[[バングラデシュ]]に改称。
* [[1973年]] - [[中華人民共和国]]に日本[[大使館]]を設置。
* [[1978年]] - [[ソユーズ計画]]: [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[宇宙船]]「[[ソユーズ26号]]」「[[ソユーズ27号]]」、[[宇宙ステーション|軌道科学ステーション]]「[[サリュート6号]]」が、史上初の3つの[[宇宙船]]によるドッキング。
* [[1991年]] - [[リトアニア独立革命]]: [[ソビエト連邦軍]]が[[リトアニア]]への軍事介入を開始。
* [[1995年]] - {{仮リンク|4 P.M.|en|4 P.M.}}が歌う「[[上を向いて歩こう]]」が全米ヒットチャート10位に。
* [[1996年]] - [[橋本龍太郎]]が第82代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次橋本内閣]]が発足。
* [[1999年]] - [[井原鉄道井原線]]が開業。
* [[2004年]] - 初の[[2038年問題]]により[[現金自動預け払い機|ATM]]の誤作動が発生。
* [[2005年]] - 兵庫県[[南あわじ市]]、熊本県[[宇城市]]が市制施行。
* [[2007年]] - 2007年における[[食品偽装問題]]: [[不二家]]が期限切れの原材料を使用して洋菓子を製造していたことが発覚。
* 2007年 - 中華人民共和国が[[衛星攻撃兵器]]の実験として気象衛星「[[風雲 (気象衛星)#人工衛星破壊実験による風雲1号Cの破壊|風雲1号C]]」をミサイルで破壊。大量の[[スペースデブリ]]が発生する。
* [[2008年]] - 参議院で否決された[[テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法|新テロ対策特措法案]]が、[[衆議院の再議決]]により可決。
* [[2009年]] - [[インドネシア]]の[[カリマンタン島]]沖で地元フェリーが沈没。死者100名以上。
* [[2012年]] - [[広島刑務所]]で収監中の[[中国人]]受刑者が脱獄([[広島刑務所中国人受刑者脱獄事件]])<ref>{{Cite web|和書 |date=2012-01-12 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1105U_R10C12A1CC1000/ |title=中国籍脱走者を特別手配 オウム以来16年ぶり |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-07-26}}</ref>、2日後に身柄を確保<ref>{{Cite web|和書 |date=2012-01-13 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1305F_T10C12A1CC1000/ |title=中国人脱走受刑者を逮捕、広島市内路上で 54時間ぶり |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-07-26}}</ref>。
* [[2013年]] - 最高裁判所において、第1類医薬品のインターネットによる販売を禁じた厚生労働省令を違法とする判決<ref>{{Cite web|和書 |date=2013-01-12 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1106P_R10C13A1CC1000/ |title=薬ネット販売解禁へ 安易な省令規制に警鐘 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-07-26}}</ref>。
* 2013年 - [[セルヴァル作戦]]([[フランス]]による[[マリ共和国]]への軍事介入)開始<ref>{{Cite web|和書 |date=2019年11月27日 |url=http://www.tufs.ac.jp/asc/information/post-630.html |title=マリに対する国際社会の関与 |publisher=現代アフリカ地域研究センター |accessdate=2019-12-12}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[347年]] - [[テオドシウス1世]]、東西に分裂した帝国を統一した最後の[[ローマ皇帝]](+ [[395年]])
* [[1322年]]([[元亨]]元年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[光明天皇]]、[[北朝 (日本)|北朝]]第2代[[天皇]](+ [[1380年]])
* [[1359年]]([[延文]]3年/[[正平 (日本)|正平]]13年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[後円融天皇]]、北朝第5代[[天皇]](+ [[1393年]])
* [[1503年]] - [[パルミジャニーノ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Parmigianino Parmigianino Italian artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1540年]])
* [[1599年]] - 第3代エセックス伯[[ロバート・デヴァルー (第3代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]] - イングランドの貴族、軍人(+ [[1646年]])
* [[1638年]] - [[ニコラウス・ステノ]]、[[科学者]](+ [[1686年]])
* [[1645年]]([[寛永]]21年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[林鳳岡]]、[[儒教|儒学者]](+ [[1732年]])
* [[1755年]] - [[アレクサンダー・ハミルトン]]、[[弁護士]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治家]](+ [[1804年]])
* [[1815年]] - [[ジョン・A・マクドナルド]]、[[カナダの首相|カナダ首相]](+ [[1891年]])
* [[1835年]]([[天保]]5年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[英照皇太后]]、[[孝明天皇]][[女御]](+ [[1897年]])
* [[1842年]] - [[ウィリアム・ジェームズ]]、[[思想家]](+ [[1910年]])
* [[1850年]]([[嘉永]]2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[阿部正静]]、陸奥[[棚倉藩]]第8代藩主(+ [[1878年]])
* [[1853年]](嘉永5年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[東海散士]]、小説家、[[衆議院]]議員(+ [[1922年]])
* [[1868年]] - [[シルバー・キング (野球)|シルバー・キング]]、元プロ野球選手(+ [[1938年]])
* [[1871年]](明治3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[田岡嶺雲]]、[[著作家]]、[[評論家]](+ [[1912年]])
* [[1876年]] - [[エルマー・フリック]]、元プロ野球選手(+ [[1971年]])
* [[1886年]] - [[エルザ・レントシュミット]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1969年]])
* [[1890年]] - [[マックス・キャリー]]、元プロ野球選手(+ [[1976年]])
* [[1893年]] - [[大田黒元雄]]、[[音楽評論家]](+ [[1979年]])
* [[1895年]] - [[きだみのる]]、[[作家]]、[[翻訳家]](+ [[1975年]])
* 1895年 - [[加藤厚太郎]]、[[実業家]](+ [[1959年]])
* [[1896年]] - [[諸井貫一]]、[[実業家]]、[[日本経営者団体連盟|日経連]]初代会長(+ [[1968年]])
* [[1901年]] - [[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト公)]]、[[アンハルト公国]]最後の公爵(+ [[1947年]])
* [[1902年]] - [[モーリス・デュリュフレ]]、[[作曲家]](+ [[1986年]])
* [[1905年]] - [[エラリー・クイーン|マンフレッド・リー]]、小説家(+ [[1971年]])
* [[1907年]] - [[山岡荘八]]、[[小説家]](+ [[1978年]])
* 1907年 - [[ピエール・マンデス=フランス]]、[[フランスの首相|フランス首相]](+ [[1982年]])
* [[1911年]] - [[鈴木善幸]]、政治家、第70代[[内閣総理大臣]](+ [[2004年]])
* [[1918年]] - [[加太こうじ]]、[[評論家]]、庶民文化研究家(+ [[1998年]])
* [[1920年]] - [[稲川豪一]]、元[[プロ野球選手]](+没年不明)
* [[1921年]] - [[谷桃子 (バレエダンサー)|谷桃子]]、[[バレリーナ]](+ [[2015年]])
* [[1924年]] - [[スリム・ハーポ]]、[[ブルース]][[ミュージシャン]](+ [[1970年]])
* [[1925年]] - [[川本喜八郎]]、[[アニメーション]]作家、[[人形]]作家(+ [[2010年]])
* [[1928年]] - [[楠トシエ]]、歌手、女優
* [[1929年]] - [[ワンダ・ウィウコミルスカ]]、[[ヴァイオリニスト]] (+ [[2018年]])
* [[1931年]] - [[田口富久治]]、[[政治学者]](+[[2022年]])
* [[1932年]] - [[石森達幸]]、[[声優]](+ [[2013年]])
* 1932年 - [[岡本忠成]]、アニメーション作家(+[[1990年]])
* [[1933年]] - [[岡田茉莉子]]、女優
* 1933年 - [[小林清志]]、[[俳優]]、声優、ナレーター(+[[2022年]])
* 1933年 - [[高久進]]、[[脚本家]](+[[2009年]])
* [[1934年]] - [[アントニー・ホーア]]、計算機科学者
* [[1936年]] - [[エヴァ・ヘス]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]](+ [[1970年]])
* 1936年 - [[大石正彦]]、元プロ野球選手
* 1936年 - [[渡辺正]]、元[[サッカー選手]]、指導者(+ [[1995年]])
* [[1937年]] - [[江利チエミ]]、[[歌手]](+ [[1982年]])
* [[1939年]] - [[河原崎長一郎]]、俳優(+ [[2003年]])
* 1939年 - [[ちばてつや]]、[[漫画家]]
* [[1941年]] - [[周防郁雄]]、[[実業家]]
* 1941年 - [[大出俊 (俳優)|大出俊]]、俳優
* 1941年 - [[高橋資祐]]、[[アニメーター]]、[[アニメーション]][[演出家]](+ [[2007年]])
* 1941年 - [[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[プロレスラー]]
* [[1943年]] - [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]、[[アニメ監督]]
* [[1944年]] - [[浜口春好]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[日野茂]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[穀田恵二]]、政治家
* [[1948年]] - [[連城三紀彦]]、小説家(+ [[2013年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/obituaries/2013/10/23/0006440987.shtml|title=直木賞作家・連城三紀彦さん死去/おくやみバックナンバー/芸能/|publisher=デイリースポーツ online|date=2013-10-23|accessdate=2020-11-25}}</ref>)
* 1948年 - [[輪島大士]]、元[[大相撲]][[力士]]、第54代[[横綱]]、元プロレスラー(+ [[2018年]])
* 1948年 - [[曽根泰教]]、政治学者
* [[1949年]] - [[白滝政孝]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[ジャック・ズレンシック]]、元プロ野球選手、元GM
* 1951年 - [[大本則夫]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[カイラシュ・サティーアーティ]]、[[子供の権利]]の活動家
* [[1956年]] - [[照井健]]、[[アナウンサー]]
* 1956年 - [[林尚樹]]、実業家
* [[1957年]] - [[氷室冴子]]、小説家(+ [[2008年]])
* 1957年 - [[広橋公寿]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[小野健一 (声優)|小野健一]]、[[声優]]
* [[1959年]] - [[ロイド・マクレンドン]]、元プロ野球選手
* [[1961年]] - [[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン]]、[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]現当主
* [[1964年]] - [[水城まさひと]]、[[4コマ漫画|4コマ]][[漫画家]]
* [[1966年]] - [[西澤ヨシノリ]]、[[プロボクサー]]
* [[1968年]] - [[内海光司]]、[[俳優]](元[[光GENJI]])
* [[1969年]] - [[氷上恭子]]、声優
* 1969年 - [[ベン・リベラ]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[マニー・アクタ]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[広田一成]]、武術選手、俳優
* [[1972年]] - [[宮下直紀]]、俳優
* [[1973年]] - [[深津絵里]]、女優
* 1973年 - [[高橋郁雄]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[正木蒼二]]、俳優
* [[1974年]] - [[吉田恭子 (ヴァイオリニスト)|吉田恭子]]、[[ヴァイオリニスト]]
* [[1975年]] - [[黒田哲史]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[持田真樹]]、女優、歌手
* 1975年 - [[大木彩乃]]、歌手
* 1975年 - [[矢倉克夫]]、政治家
* 1975年 - [[ヴェネチアン・スネアズ]]、[[ブレイクコア]]ミュージシャン
* 1976年 - [[山口貴士]]、弁護士
* 1976年 - [[伊藤憲治 (心理カウンセラー)|伊藤憲治]]、[[心理カウンセラー]]
* [[1977年]] - [[松岡昌宏]]、ミュージシャン、俳優、アイドル([[TOKIO]])
* 1977年 - [[リック・ガトームソン]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[ニコール (歌手)|ニコール]]、歌手、作詞家、作曲家
* [[1978年]] - [[浜口京子]]、[[アマチュアレスリング]]選手
* 1978年 - [[エミール・ヘスキー]]、元[[サッカー選手]]
* 1978年 - [[あさみちゆき]]、[[歌手]]
* 1978年 - [[松井勝法]]、[[漫画家]]
* [[1979年]] - [[矢口学]]、[[実業家]]
* [[1979年]] - [[ミルコ・デムーロ]]、[[騎手]]
* 1979年 - [[小西ゆかり]]、[[射撃選手]]
* 1979年 - [[鈴木智晴]]、声優
* 1979年 - [[シティ・ヌールハリザ]]、歌手
* [[1980年]] - [[清木場俊介]]、歌手(元[[EXILE]])
* 1980年 - [[マイケル・フォルク]]、野球選手
* 1980年 - イ・ジヘ、歌手
* [[1981年]] - [[土居龍太郎]]、元[[プロ野球選手]]
* 1981年 - [[森泰斗]]、騎手
* [[1982年]] - [[デニス・コロディン]]、サッカー選手
* 1982年 - [[ソン・イェジン]]、女優
* 1982年 - [[SCHON]]、ミュージシャン(元[[Naifu]])
* 1982年 - [[宇田由香]]、[[自転車競技]]選手(+ [[2010年]])
* [[1983年]] - [[関口まい]]、女優、[[タレント]]
* 1983年 - [[本日は晴天なり (お笑い芸人)|本日は晴天なり]]、お笑い芸人
* 1983年 - [[小山田貴雄]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[スタニスラフ・ティムチェンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1983年 - [[エイドリアン・スーティル]]、[[レーシングドライバー]]
* [[1984年]] - [[田代万里生]]、[[歌手]]、[[声楽家]]([[テノール]])、[[俳優]]([[ESCOLTA]])
* 1984年 - [[大河内美紗]]、歌手、タレント(元[[SDN48]])
* [[1985年]] - [[Rie fu]]、[[シンガーソングライター]]
* 1985年 - [[中嶋一貴]]、レーシングドライバー
* 1985年 - [[フランク・モンティエ]]、野球選手
* [[1986年]] - [[高野苺]]、漫画家
* [[1987年]] - [[神ユキ]]、 [[モデル (職業)|モデル]]、 [[レースクイーン]]、 [[グラビアアイドル]]、 [[AV女優]]
* 1987年 - [[小泉梓]]、ファッションモデル
* 1987年 - [[ジェイミー・ヴァーディ]]、[[サッカー]]選手
* 1987年 - [[キム・ヨングァン (俳優)|キム・ヨングァン]]、俳優、モデル
* [[1988年]] - [[太田莉菜]]、タレント
* 1988年 - [[ジュンジュン]]、歌手、アイドル(元[[モーニング娘。]])
* [[1989年]] - [[高城樹衣]]、元タレント
* 1989年 - [[杉浦恭平]]、サッカー選手
* 1989年 - [[ピーター・ラピース・ラブスカフニ]]、ラグビー選手
* 1989年 - [[ソンミ (モデル)|ソンミ]]、ファッションモデル
* [[1990年]] - [[山代エンナ]]、[[アーティスト]]
* 1990年 - [[窪田翔太]]、俳優
* 1990年 - [[三村敏玄]]、[[ボート競技]]選手
* 1990年 - [[座安琴希]]、バレーボール選手
* 1990年 - [[ロペス貴子]]、レースクイーン
* [[1991年]] - [[中島卓也 (野球)|中島卓也]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[一岡竜司]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[西平風香]]、女優
* 1992年 - [[松岡絵梨子]]、アナウンサー
* 1992年 - [[福尾誠]]、[[体操]][[インストラクター]]、タレント
* 1992年 - イ・スンフン、アイドル([[WINNER (音楽グループ)|WINNER]])
* [[1993年]] - [[リュボーフィ・バキロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1996年 - [[草間リチャード敬太]]、アイドル([[Aぇ! group]]、関西ジャニーズJr.)
* [[1996年]] - [[楓 (ダンサー)|楓]]、パフォーマー、ファッションモデル、女優 ([[Happiness (グループ)|Happiness]]、元[[E-girls]])
* 1996年 - [[ウリセス・ガルシア]]、サッカー選手
* 1996年 - 日髙竜太、歌手([[BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE]])
* [[1998年]] - [[水本凜]]、元タレント
* 1998年 - [[風戸蘭七]]、シンガーソングライター、女優
* 1998年 - [[ムハンマド・シャバン]]、サッカー選手
* [[1999年]] - [[イ・チェヨン (2000年生の歌手)|イ・チェヨン]]、アイドル(元[[IZ*ONE]])
* 1999年 - [[梅原真子]]、元子役、元アイドル(元[[NMB48]])
* 1999年 - [[栃武蔵陽太]]、[[大相撲力士]]
* [[2002年]] - [[櫻井美羽]]、アイドル([[ME:I]])
* 生年不明 - [[C.G mix]]、ゲーム音楽作曲家、歌手
* 生年非公表 - [[草柳順子]]、[[声優]]
* 生年不明 - [[陰山真寿美]]、声優
* 生年不明 - [[宇乃音亜季]]、声優
* 生年不明 - [[真野美月]]、声優
== 忌日 ==
* [[812年]] - [[スタウラキオス]]、[[東ローマ帝国の皇帝一覧|東ローマ帝国皇帝]]
* [[844年]] - [[ミカエル1世ランガベー]]、東ローマ帝国皇帝
* [[953年]]([[天暦]]6年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[平良文]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[886年]])
* [[1055年]] - [[コンスタンティノス9世モノマコス]]、東ローマ帝国[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]皇帝(* [[1000年]])
* [[1068年]] - [[エクベルト1世 (マイセン辺境伯)|エクベルト1世]]、[[マイセン辺境伯]]
* [[1271年]]([[文永]]7年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[二条良実]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1216年]])
* [[1290年]]([[正応]]2年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[大休正念]]、[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1215年]])
* [[1434年]]([[永享]]5年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[斯波義淳]]、[[室町幕府]][[管領]]、[[守護大名]](* [[1397年]])
* [[1494年]] - [[ドメニコ・ギルランダイオ]]、[[画家]](* [[1449年]])
* [[1570年]] - [[ジェームズ・ステュアート (マリ伯)|ジェームズ・ステュアート]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王族(* [[1531年]])
* [[1660年]]([[万治]]2年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[秋田実季]]、初代[[宍戸藩|宍戸藩主]](* [[1576年]])
* [[1663年]]([[寛文]]2年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[谷衛政]]、第2代[[山家藩|山家藩主]](* [[1598年]])
* [[1666年]](寛文5年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[池田政直 (福本藩主)|池田政直]]、初代[[福本藩|福本藩主]](* [[1634年]])
* [[1672年]](寛文11年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[松平輝綱]]、第2代[[川越藩|川越藩主]](* [[1620年]])
* [[1673年]](寛文12年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[松平定政]]、[[刈谷藩|刈谷藩主]](* [[1610年]])
* [[1719年]]([[享保]]3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[溝口重元]]、第5代[[新発田藩|新発田藩主]](* [[1680年]])
* [[1755年]] - [[ジョゼフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエ]]、[[作曲家]](* [[1705年]]頃)
* [[1762年]]([[宝暦]]11年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[喜連川氏連]]、第7代[[喜連川藩|喜連川藩主]](* [[1739年]])
* [[1780年]]([[安永 (元号)|安永]]8年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[南部利雄]]、第8代[[盛岡藩|盛岡藩主]](* [[1724年]])
* [[1801年]] - [[ドメニコ・チマローザ]]、作曲家(* [[1749年]])
* [[1818年]] - [[ヨハン・ダビット・ウィース]]、[[牧師]](* [[1742年]]?)
* [[1829年]] - [[フリードリヒ・シュレーゲル]]、[[思想家]](* [[1772年]])
* [[1843年]] - [[フランシス・スコット・キー]]、[[弁護士]]、[[詩人]](* [[1779年]])
* [[1869年]] - [[ジョン・ディキンソン (発明家)|ジョン・ディキンソン]]、[[発明家]]、[[実業家]](* [[1782年]])
* [[1882年]] - [[テオドール・シュワン]]、[[生化学者]](* [[1810年]])
* [[1886年]] - [[小野梓]]、[[法学者]]、東京専門学校(現、[[早稲田大学]])創立者のひとり(* [[1852年]])
* [[1891年]] - [[ジョルジュ・オスマン]]、政治家(* [[1809年]])
* [[1897年]] - [[英照皇太后]]、[[孝明天皇]]女御(* [[1833年]])
* [[1901年]] - [[ヴァシリー・カリンニコフ]]、作曲家(* [[1866年]])
* [[1903年]] - [[奥村左近太]]、[[剣術|剣術家]](* [[1842年]])
* [[1911年]] - [[堀田正倫]]、第6代[[佐倉藩|佐倉藩主]](* [[1851年]])
* [[1916年]] - [[高島鞆之助]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]、元[[陸軍大臣]](* [[1844年]])
* [[1920年]] - [[片岡七郎]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]]、[[男爵]](* [[1854年]])
* [[1923年]] - [[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]国王(* [[1868年]])
* [[1924年]] - [[高見山酉之助|髙見山酉之助]]、[[大相撲]][[力士]]、[[関脇]](* [[1873年]])
* [[1928年]] - [[トーマス・ハーディ]]、[[小説家]](* [[1840年]])
* [[1936年]] - [[生田長江]]、[[評論家]](* [[1882年]])
* [[1941年]] - [[エマーヌエール・ラスカー]]、[[チェス]]選手(* [[1868年]])
* [[1944年]] - [[ジョン・W・クリスティー]]、[[技術者]](* [[1865年]])
* 1944年 - [[ガレアッツォ・チャーノ]]、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]時代のイタリア外相(* [[1903年]])
* [[1952年]] - [[藤井健次郎]]、[[植物学者]](* [[1866年]])
* [[1954年]] - [[オスカー・シュトラウス]]、作曲家(* [[1870年]])
* [[1955年]] - [[ジョン・マーシャル・スレイトン]]、元[[ジョージア州]]知事(* [[1866年]])
* [[1956年]] - [[リオネル・ファイニンガー]]、画家(* [[1871年]])
* 1956年 - [[石田一松]]、[[演歌]]歌手、[[作詞家]]、作曲家、[[お笑いタレント]]、[[衆議院議員]](* [[1903年]])
* [[1958年]] - [[エドナ・パーヴァイアンス]]、[[俳優|女優]](* [[1895年]])
* [[1959年]] - [[張景恵]]、[[満州国]]国務総理(* [[1871年]])
* [[1965年]] - [[ウォーリー・ピップ]]、プロ野球選手(* [[1893年]])
* [[1966年]] - [[アルベルト・ジャコメッティ]]、[[彫刻家]](* [[1901年]])
* 1966年 - [[ハンネス・コーレマイネン]]、[[陸上競技選手]](* [[1889年]])
* [[1968年]] - [[シェレシュ・レジェー]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1899年]])
* [[1971年]] - [[喜多六平太 (14世)|喜多六平太]]、[[能]]役者(* [[1874年]])
* [[1974年]] - [[山本有三]]、[[小説家]](* [[1887年]])
* [[1982年]] - [[堀越二郎]]<ref>"Jiro Horikoshi, 78, Dies in Tokyo; Designer of Zero Fighter Aircraft". ''The New York Times''. January 12, 1982.</ref>、[[航空]]技術者(* [[1903年]])
* 1982年 - [[松本白鸚 (初代)|松本白鸚]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1910年]])
* [[1986年]] - [[上村一夫]]、[[漫画家]](* [[1940年]])
* [[1988年]] - [[イジドール・イザーク・ラービ]]、[[物理学者]](* [[1898年]])
* [[1991年]] - [[カール・デイヴィッド・アンダーソン|カール・アンダーソン]]、物理学者(* [[1905年]])
* 1991年 - [[松山英太郎]]、俳優(* [[1942年]])
* [[1992年]] - [[栃葉山暁輝]]、元大相撲力士(* [[1946年]])
* [[1997年]] - [[前田豊]]、[[バレーボール]]選手、指導者(* [[1915年]])
* [[1998年]] - [[クラウス・テンシュテット]]、[[指揮者]](* [[1926年]])
* 1998年 - [[矢代静一]]、[[脚本家]](* [[1927年]])
* [[2000年]] - [[ボブ・レモン]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](* [[1920年]])
* [[2003年]] - [[モーリス・ピアラ]]、[[映画監督]](* [[1925年]])
* [[2005年]] - [[加藤卓男]]、[[陶芸|陶芸家]](* [[1917年]])
* [[2007年]] - [[ドナルド・オスターブロック]]、[[天文学者]](* [[1924年]])
* 2007年 - [[ロバート・アントン・ウィルスン]]、小説家(* [[1932年]])
* [[2008年]] - [[藤倉修一]]、アナウンサー(* [[1914年]])
* 2008年 - [[エドモンド・ヒラリー]]、[[登山家]](* [[1919年]])
* 2008年 - [[牧野隆守]]、元[[労働大臣]](* [[1926年]])
* 2008年 - [[小野修一]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1958年]])
* [[2010年]] - [[ミープ・ヒース|ヘルミーネ・ザントロシェッツ(ミープ・ヒース)]]、[[諸国民の中の正義の人]](* [[1909年]])
* 2010年 - [[エリック・ロメール]]、映画監督(* [[1920年]])
* [[2013年]] - [[原哲男]]、[[コメディアン]]、[[俳優]](* [[1934年]])
* [[2014年]] - [[アリエル・シャロン]]、[[イスラエルの首相|イスラエル首相]](* [[1928年]])
* 2014年 - [[淡路恵子]]、[[俳優|女優]](* [[1933年]])
* [[2015年]] - [[アニタ・エクバーグ]]、女優(* [[1931年]])
* [[2021年]] - [[中地シゲヨ]]、教育者、[[スーパーセンテナリアン]](* [[1905年]])
* 2021年 - [[内田貞夫]]、実業家、元[[三共 (製薬会社)|三共]]代表取締役副社長(* [[1933年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG198RV0Z10C21A1000000/|title=内田貞夫氏が死去 元三共(現第一三共)副社長|publisher=日本経済新聞社|date=2021-01-19|accessdate=2021-01-26}}</ref>
* 2021年 - [[シェルドン・アデルソン]]、実業家、[[ラスベガス・サンズ]][[CEO]](* [[1933年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.reviewjournal.com/business/casinos-gaming/sheldon-adelson-las-vegas-convention-visionary-and-philanthropist-dies-at-87-2250326/|title=SHELDON ADELSON, LAS VEGAS CONVENTION VISIONARY AND PHILANTHROPIST, DIES AT 87|newspaper=Las Vegas Review Journal|date=2021-01-12|accessdate=2021-01-26|language=英語}}</ref>
* 2021年 - [[テツオ・ナジタ]]、[[歴史学者]]、[[シカゴ大学]]名誉教授(* [[1936年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14772500.html|title=テツオ・ナジタさん死去|newspaper=朝日新聞社|date=2021-01-22|accessdate=2021-01-23}}</ref>
* 2021年 - [[ギ・オーフレイ]]、[[柔道家]](* [[1945年]])<ref>{{Cite news|url=https://www.ijf.org/news/show/guy-auffray-passed-away|title=Guy Auffray Passed Away|newspaper=ijf.org|date=2021-01-11|accessdate=2021-01-26}}</ref>
* 2021年 - [[ダヴィド・ハハレイシヴィリ]]、柔道家、[[総合格闘家]](* [[1971年]])<ref>{{Cite news|url=https://iz.ru/1110076/2021-01-11/umer-olimpiiskii-chempion-1992-goda-po-dziudo-david-khakhaleishvili|title=Умер олимпийский чемпион 1992 года по дзюдо Давид Хахалейшвили|newspaper=iz.ru|date=2021-01-11|accessdate=2021-01-26|language=ロシア語}}</ref>
* [[2023年]] - [[高橋幸宏]]、ミュージシャン(* [[1952年]])
* 2023年 - [[鏑木蓮]]、小説家(* [[1961年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成人の日]]({{JPN}})※1月第2[[月曜日]]([[2010年]]、[[2016年]]、[[2021年]]など)
* [[鏡開き]]({{JPN}})
*: [[正月]]に[[年神様]]に供えた[[鏡餅]]を[[雑煮]]や[[汁粉]]にして食べ、一家の円満を願う行事。地方によって日が違い、[[京都]]では4日に、ほかに20日に行う地方もある。
* 蔵開き({{JPN}})
*: 商家などで、新年初めて[[蔵]]を開き、商売繁盛を祈る行事。江戸時代、大名が行った米蔵を開く儀式がその起源とされる。
* [[塩]]の日({{JPN}})
*: 「敵に塩を送る」という言葉の語源となった戦国時代の武将、[[上杉謙信]]と[[武田信玄]]の故事に由来する。[[1569年]][[1月11日 (旧暦)|1月11日]](旧暦)、上杉謙信の助けにより武田信玄のもとに塩が届いたという。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0111|date=2011年6月}}
* 年不明 - [[投身自殺]]に失敗したアンドリュー・マクハーターが[[病院]]の[[ベッド]]でうめいている。(小説『[[ゼロ時間へ]]』)
* 1948年(昭和23年)- 太陽クラブが結成される。(小説『[[白昼の死角]]』第2章<ref group="注">「隅田理論」を実行しようと決めた日の5日後</ref>)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - サイド6、中立宣言(異説では1月17日とも)。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 原鶴美鵺、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/harazuru_miya |title=福岡 原鶴美鵺 |access-date=2022-10-10 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - 赤ツチ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1480555047583088644}}</ref>
* 生年不明 - キエ、漫画『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|year=2008|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4-08-874248-9|page=109}}</ref>
* 生年不明 - 王子一彰、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1348284727711707138}}</ref>
* 生年不明 - 轟焦凍、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-05/ |title=轟焦凍 |access-date=2022-12-11 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 犬童かおる、漫画・アニメ『[[DAYS (漫画)|DAYS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://dengekionline.com/elem/000/001/310/1310608/ |title=TVアニメ『DAYS』犬童かおる役が関智一さん、成神蹴冶役が花江夏樹さんに決定 |access-date=2022-10-11 |publisher=電撃オンライン |date=2016-07-02}}</ref>
* 生年不明 - ラサティ=ティグレス、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ(監修)|authorlink=東まゆみ|year=2005|title=EREMENTAR GERAD オフィシャルガイド|publisher=[[マッグガーデン]]|isbn=4-86127-152-5|page=34}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|publisher=マッグガーデン|series=ブレイドコミックス|year=2009|page=36|ISBN=978-4-86127-616-3}}</ref>
* 生年不明 - 水鳥水花、漫画『[[ばっどがーる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ばっとがーる 2巻|date=2022-11-26|publisher=[[芳文社]]|page=7|author=肉丸|isbn=978-4832274211}}</ref>
* 生年不明 - 高嶋友奈、小説・漫画『[[乃木若葉は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://yuyuyui.jp/character/character13.html |title=高嶋友奈 |access-date=2022-10-10 |publisher=KADOKAWA/altplus |work=結城友奈は勇者である 花結いのきらめき}}</ref>
* 生年不明 - 本村宏樹、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1083563713846599680}}</ref>
* 生年不明 - サイバドール・サラ、アニメ『[[HAND MAID メイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「HAND MAID メイ」紹介サイト |url=http://www.wonderfarm.co.jp/hand-maid/sakuhin/sara.html |title=サイバドール・サラ |accessdate=2022-10-10}}</ref>
* 生年不明 - スレイン・トロイヤード、アニメ『[[アルドノア・ゼロ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aniplexplus.com/itemLmwoRcBC.html |title=『アルドノア・ゼロ』より、スレインと・伊奈帆がキャンバスアートになって登場! ANIPLEX+だけの数量限定販売! |access-date=2022-10-10 |publisher=ANIPLEX+}}</ref>
* 生年不明 - 冬沢亮、アニメ『[[スタミュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hstar-mu.com/character/fuyusawa.html |title=冬沢 亮 |access-date=2022-10-11 |publisher=ひなた凛/スタミュ製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 武田美千留、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=劇場版「ハイスクール・フリート」公式サイト |url=https://www.hai-furi.com/character/02_02/ |title=武田美千留 |accessdate=2022-10-10 |publisher=AAS/新海上安全整備局}}</ref>
* 生年不明 - 佐々木通玄、アニメ『[[number24]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://number24-anime.com/character/tsuugensasaki/ |title=佐々木通玄 |access-date=2022-10-11 |publisher=movic |work=number24}}</ref>
* 生年不明 - 白瀬ティナ、『[[スマイル☆シューター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|smile_shooter|686410285117124613}}</ref>
* 生年不明 - あくま、ゲーム『[[ぷよぷよ]]』シリーズに登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://puyo.sega.jp/puyopuyo!/producer/003/index.html |title=プロデューサーコラム 全22名のキャラクター あくま |accessdate=2022-10-11 |publisher=SEGA |work=ぷよぷよ!}}</ref>
* 生年不明 - マッドマン、ゲーム『[[ワールドヒーローズシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |title=MUDMAN |url=https://game.snk-corp.co.jp/official/nbc/character/mudman.html |website=NEOGEO BATTLE COLISEUM |accessdate=2022-10-11 |publisher=SNK PLAYMORE SEGA}}</ref>
* 生年不明 - マロン、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 マロン |access-date=2022-10-11 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref>
* 生年不明 - ニコ、ゲーム『どうぶつの森』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 結乃・ヴァイスプリンツェシン、ゲーム『[[冷徹冷静しかして×××!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「冷徹冷静しかして×××!!」公式サイト |url=http://www.chien.jp/reirei/ |title=結乃・ヴァイスプリンツェシン |accessdate=2022-10-11 |publisher=Chien}}</ref>
* 生年不明 - 奈月香央里、ゲーム・漫画・アニメ『[[11eyes -罪と罰と贖いの少女-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://lass.jp/11eyes/chara/chara_kaori.html |title=奈月香央里 |access-date=2022-10-11 |publisher=Lass |work=11eyes -罪と罰と贖いの少女-}}</ref>
* 生年不明 - 白鳥太一郎、ゲーム『[[春色桜瀬]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「春色桜瀬」公式サイト |url=http://www.purplesoftware.jp/products/haruiro/ |title=キャラクター |accessdate=2019-01-11}}{{出典無効|date=2022-10-11|title=文字化け}} </ref>
* 生年不明 - 神凪莉都、ゲーム『[[コンチェルトノート]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 久我怜那、ゲーム『サクラの空と、君のコト』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「サクラの空と、君のコト」公式サイト |url=http://hiyoko-soft.com/products/cherry/chara/chara04.html |title=久我怜那 |accessdate=2022-10-11 |publisher=HIYOKO-SOFT}}</ref>
* 生年不明 - サイリ、ゲーム『[[ファイアーエムブレム 覚醒]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 上杉知早、ゲーム『[[かみデレ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「かみデレ」公式サイト |url=https://www.candysoft.jp/ohp/01_products/kamidere/main_cha03.html |title=上杉知早 |accessdate=2022-10-11 |publisher=Candy Soft}}</ref>
* 生年不明 - 神谷しおん、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aikatsu_dcd|686336899863162880}}</ref><ref>[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]](企画・原作)、[[バンダイ]](原案)、サンライズ、バンダイ(監修)『アイカツ! アイドル名鑑』[[小学館]]、2014年、46頁。{{ISBN2|978-4-09-280501-9}}。</ref>
* 生年不明 - 神田篤郎、ゲーム『[[青春はじめました!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「青春はじめました!」公式サイト |url=http://www.honeybee-cd.com/seisyun/member/atsurou.html |title=神田篤郎 |accessdate=2022-10-11 |publisher=honeybee+}}</ref>
* 生年不明 - 佐東八尋、ゲーム『放課後colorful*step』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=「放課後colorful*step」公式サイト |url=http://www.honeybee-cd.com/colorful_step.html |title=ぶんかぶ!吹奏楽部 佐東八尋 |accessdate=2022-10-11 |publisher=honeybee}}</ref>
* 生年不明 - [[ネカリ]]、ゲーム『[[ストリートファイターV]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=キャラ図鑑115:ネカリ |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130336 |website=[[カプコン|CAPCOM]]:シャドルー格闘家研究所 |accessdate=2022-10-11}}</ref>
* 生年不明 - 渡部悟、ゲーム『[[スタンドマイヒーローズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|myhero_info|1215649527673212929}}</ref>
* 生年不明 - ムラサキ(狗駒邑沙季)、ゲーム・アニメ『[[グリザイアシリーズ|グリザイア・ファントムトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://grisaia-pt.com/gptanime/character/murasaki |title=ムラサキ |access-date=2022-10-11 |publisher=Frontwing |work=グリザイア:ファントムトリガーTHE ANIMATION}}</ref>
* 生年不明 - 光田つばめ、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/hikarida |publisher=Akatsuki Inc. |title=光田 つばめ |accessdate=2022-10-11 |work=八月のシンデレラナイン公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - エリーザ、 ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=205 |title=エリーザ |access-date=2022-12-11 |publisher=[[コナミグループ|KONAMI]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - 野目龍広、メディアミックス『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://bpro-official.com/artists/moons/ |title=MooNs 野目龍広 |accessdate=2022-10-11 |publisher=MAGES. |work=B-PROJECT 公式サイト}}</ref>
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* 1985年 - カオラ・スゥ、漫画・アニメ『[[ラブひな]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年1月10日 (木) 15:40 (UTC)}}
* 生年不明 - 立花ユズヒコ、漫画・アニメ『[[あたしンち]]』登場するキャラクター{{要出典|date=2019年1月10日 (木) 15:40 (UTC)}}
* 生年不明 - 田神景世、漫画『[[屍姫]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年1月10日 (木) 15:40 (UTC)}}
* 生年不明 - 白梅梅、ライトノベル・アニメ『[[ベン・トー]]』登場するキャラクター{{要出典|date=2019年1月10日 (木) 15:40 (UTC)}}
2022年10月、3年半以上要出典のためコメントアウト
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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'''1月13日'''(いちがつじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から13日目に当たり、年末まであと352日([[閏年]]では353日)ある。
== できごと ==
* [[532年]] - [[コンスタンティノープル]]で[[ニカの乱]]が起こる。[[888年]] - [[パリ伯]][[ウード (西フランク王)|ウード]]が[[西フランク王国]]国王に選出。
* [[1392年]]([[明徳]]2年/[[元中]]8年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[明徳の乱]]がおこる。
* [[1828年]]([[文政]]10年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[加賀藩|加賀]][[前田氏|前田家]]の江戸藩邸に[[御守殿#御守殿門|御守殿門]](現在の[[東京大学の建造物#本郷キャンパス|東大赤門]])が建立される。
* [[1847年]] - [[アメリカ合衆国]]と[[メキシコ合衆国 (19世紀)|メキシコ合衆国]]が[[カフエンガ条約]]に調印。[[米墨戦争]]のカリフォルニアでの戦いが終結。
* [[1876年]] - [[東京]]でマイナス9.2度を記録(東京の[[最低気温]]記録)。
* [[1898年]] - [[ドレフュス事件]]: [[エミール・ゾラ]]が[[アルフレド・ドレフュス|ドレフュス]]大尉の無実を主張する[[公開状]]『[[私は弾劾する]]』を新聞に発表。
* [[1935年]] - [[ザール (国際連盟管理地域)|国際連盟管理地域ザール]]で[[住民投票]]が行われた結果、[[ドイツ]]復帰支持が多数を占める。
* [[1936年]] - [[日劇ダンシングチーム]] (NDT) が初公演。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[独ソ戦]]: [[赤軍]]が[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]([[カリーニングラード]])に到達、街を包囲。
* 1945年 - [[セルゲイ・プロコフィエフ]]の[[交響曲第5番 (プロコフィエフ)|交響曲第5番]]が[[モスクワ音楽院]]で初演<ref>{{Cite web |url=https://www.bso.org/works/symphony-no-5 |title=Symphony No. 5 in B-flat, Opus 100 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=Boston Symphony Orchestra}}</ref>。
* 1945年 - 日本の[[東海地方]]で[[マグニチュード]]6.8の[[三河地震]]発生。死者2,306人、全潰家屋数7221戸<ref>{{Cite journal|和書|author=中井春香, 武村雅之 |date=2017 |url=https://doi.org/10.5610/jaee.17.2_23 |title=1945年1月13日三河地震における全潰家屋数と死者数の関係 : なぜ多くの犠牲者を生み出したのか? |journal=日本地震工学会論文集 |ISSN=1884-6246 |publisher=日本地震工学会 |volume=17 |issue=2 |pages=2_23-2_37 |doi=10.5610/jaee.17.2_23 |CRID=1390282680334220160 |access-date=2023-10-13}}</ref>。
* [[1946年]] - 一部の閣僚の[[公職追放]]に伴い、[[幣原内閣]]が閣僚を入替え。
* [[1950年]] - [[ホー・チ・ミン]]が[[ベトナム民主共和国]](北ベトナム)の独立を宣言。
* [[1953年]] - [[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]が[[ユーゴスラビア]]の[[大統領]]に就任。
* 1953年 - [[プラウダ]]紙が「[[ユダヤ人]]医師らが[[ソビエト連邦|ソ連]]要人の毒殺を企てた」と報道、ソ連史上の最大の反ユダヤキャンペーンに発展([[医師団陰謀事件]])。
* [[1957年]] - [[美空ひばり]]が浅草国際劇場でファンに[[塩酸]]をかけられ負傷<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.47news.jp/5713216.html |title=<あのころ>美空ひばり塩酸事件 同年齢女性が嫉妬にかられ |access-date=23 Jul 2023 |publisher=Press Net Japan Co.,Ltd. |website=47NEWS |date=13 Jan 2021}}</ref>。
* [[1968年]] - [[大韓民国]]で[[国際勝共連合]]が発足。日本でも同年4月に発足。
* [[1972年]] - [[ガーナ]]の軍人[[イグナティウス・アチャンポン]]が無血クーデターを起こし、[[コフィ・ブシア]]首相を追放して[[ガーナの大統領|国家元首]]となる。
* [[1979年]] - [[国公立大学]][[入学試験|入試]]で初の[[大学共通第1次学力試験|共通一次試験]]が実施される。
* [[1982年]] - [[エア・フロリダ90便墜落事故]]。
* [[1988年]] - [[蔣経国]][[中華民国総統]]が死去し、[[李登輝]]副総統が総統に就任。[[台湾]]出身者が初めて総統になる。
* [[1990年]] - 第1回[[大学入試センター試験]]を実施。14日までの2日間。
* [[1991年]] - [[血の日曜日事件 (リトアニア)|リトアニア血の日曜日事件]]。
* [[1992年]] - [[共和汚職事件]]: [[阿部文男]]衆議院議員を逮捕。現職の衆議院議員の逮捕は[[ロッキード事件]]以来16年ぶり。
* 1992年 - [[加藤紘一]]官房長官が、[[慰安婦|従軍慰安婦]]問題で日本軍の関与を認め正式に謝罪。
* [[2001年]] - [[エルサルバドル]]でマグニチュード7.6の[[エルサルバドル地震|地震]]が発生。死者800名以上。
* [[2009年]] - [[エチオピア]]軍が[[ソマリア]]から撤退を開始。1月15日に首都モガディシオからの撤退を完了<ref>{{Cite web|和書 |date=15 Jan 2009 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2558479 |title=エチオピア軍、ソマリア首都から撤退 |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=23 Jul 2023 |website=AFP BB News}}</ref>。
* [[2012年]] - [[コスタ・コンコルディアの座礁事故]]<ref>{{Cite web|和書 |date=15 Jan 2012 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKA0002_V10C12A1000000/ |title=イタリア豪華客船座礁、船長を拘束 邦人は全員無事 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>。
* [[2017年]] - [[京都府]]妙伝寺の「半跏思惟像」について、金属成分調査の結果、7世紀に朝鮮半島で作られた可能性が高いと発表<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HCZ_T10C17A1CR8000/ |title=京都・妙伝寺の半跏思惟像、朝鮮半島で7世紀に制作か |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=13 Jan 2017}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1592年]]([[天正]]19年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[松浦隆信 (平戸藩主) |松浦隆信]]、[[平戸藩]]主(+ [[1637年]])
* [[1596年]] - [[ヤン・ファン・ホーイェン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Jan-van-Goyen |title=Jan van Goyen|Dutch painter |accessdate=23 jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[画家]](+ [[1656年]])
* [[1635年]] - [[フィリップ・シュペーナー]]、[[牧師]]、[[ドイツ]][[敬虔主義]]の創始者(+ [[1705年]])
* [[1649年]]([[慶安]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[木下俊長]]、[[日出藩]]主(+ [[1716年]])
* [[1653年]]([[承応]]元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[分部信政]]、[[大溝藩]]主(+ [[1715年]])
* [[1698年]]([[元禄]]10年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[有馬一準]]、[[丸岡藩]]主(+ [[1757年]])
* [[1725年]]([[享保]]9年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[阿部正右]]、[[福山藩]]主(+ [[1769年]])
* [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]元年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[松平忠栄 (尼崎藩主)|松平忠栄]]、[[尼崎藩]]主(+ [[1869年]])
* [[1809年]] - [[フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト]]、[[外交官]]、[[政治家]](+ [[1886年]])
* [[1842年]]([[天保]]12年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[大久保忠礼]]、[[小田原藩]]主(+ [[1897年]])
* [[1849年]] - [[エルヴィン・フォン・ベルツ]]、[[医師]](+ [[1913年]])
* [[1858年]] - [[エドモン=フランソワ・アマン=ジャン]]、画家(+ [[1936年]])
* [[1864年]] - [[ヴィルヘルム・ヴィーン]]、[[物理学者]](+ [[1928年]])
* 1864年([[文久]]3年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[屋井先蔵]]、[[発明家]](+ [[1927年]])
* 1864年(文久3年12月5日)- [[中島湘煙|岸田俊子]]、[[フェミニスト|女権拡張運動家]]、[[作家]](+ [[1901年]])
* [[1866年]] - [[ゲオルギイ・グルジエフ]]、[[神秘思想家]](+ [[1949年]])
* 1866年 - [[ヴァシリー・カリンニコフ]]、[[作曲家]](+ 1901年)
* [[1893年]] - [[クラーク・アシュトン・スミス]]、[[ファンタジー]][[小説家]](+ [[1961年]])
* 1893年 - [[シャイム・スーティン]]、画家(+ [[1943年]])
* [[1899年]] - [[田谷力三]]、[[オペラ歌手]](+ [[1988年]])
* [[1902年]] - [[カール・メンガー (数学者)|カール・メンガー]]、[[数学者]](+ [[1985年]])
* [[1902年]] - [[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[政治家]](+[[1988年]])
* [[1903年]] - [[増原恵吉]]、官僚、政治家(+ [[1985年]])
* [[1905年]] - [[ケイ・フランシス]]、[[俳優|女優]](+ [[1968年]])
* [[1906年]] - [[古田晁]]、出版人、[[筑摩書房]]創業者(+ [[1973年]])
* 1906年 - [[周有光]]、経済学者、言語学者 (+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3114142 |title=中国言語学者の周有光氏、111歳で死去「ピンインの父」 |publisher=[[フランス通信社]] |date=15 Jan 2017 |accessdate=23 Jul 2023 |website=AFP BB News}}</ref>)
* [[1911年]] - [[森雅之 (俳優)|森雅之]]、[[俳優]](+ [[1973年]])
* [[1914年]] - [[西住小次郎]]、[[軍人]](+ [[1938年]])
* [[1916年]] - [[宮下義雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1984年]])
* [[1917年]] - [[上林繁次郎]]、元プロ野球選手、政治家(+ [[2002年]])
* [[1918年]] - [[平井英子]]、[[歌手]](+ [[2021年]])
* 1918年 - [[ヴァルター・ヤコビ]]、ロケット科学者(+ [[2009年]])
* [[1922年]] - [[アルベール・ラモリス]]、[[映画監督]](+ [[1970年]])
* 1922年 - [[大森実]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2010年]])
* [[1923年]] - [[ダニイル・シャフラン]]、[[チェリスト]](+ [[1997年]])
* [[1924年]] - [[小野木学]]、[[洋画家]](+ [[1976年]])
* 1924年 - [[ポール・ファイヤアーベント]]、[[科学哲学|科学哲学者]](+ [[1994年]])
* 1924年 - [[ローラン・プティ]]、[[舞踏家]]、[[振付家]](+ [[2011年]])
* [[1926年]] - [[マイケル・ボンド]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=英作家マイケル・ボンド氏死去 「くまのパディントン」 |publisher=[[CNN]].co.jp |date=29 Jun 2017 |url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35103522.html |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>)
* 1926年 - [[メルバ・リストン]]、ジャズ・トロンボーン奏者(+ [[1999年]])
* [[1927年]] - [[シドニー・ブレナー]]、[[生物学者]](+ [[2019年]])
* 1927年 - [[ナジ・ラースロー (フィギュアスケート選手)|ナジ・ラースロー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2005年]])
* [[1929年]] - [[ジョー・パス]]、ジャズギタリスト(+ [[1994年]])
* 1929年 - [[ナジ・マリアンナ]]、フィギュアスケート選手(+ [[2011年]])
* [[1930年]] - [[田中一光]]、[[グラフィックデザイナー]](+ [[2002年]])
* [[1932年]] - [[田中敏朗]]、元[[プロボクサー]]
* 1932年 - [[小田喜美雄]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* [[1934年]] - [[芦田甚之助]]、[[労働運動家]]、[[日本労働組合総連合会|連合]]2代目会長(+ [[2011年]])
* 1934年 - [[ロビン・ミルナー]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2010年]])
* [[1935年]] - [[阿刀田高]]、[[小説家]]
* 1935年 - [[加藤正二 (天文学者)|加藤正二]]、[[天文学者]]
* [[1936年]] - [[石田雅亮]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* [[1938年]] - [[野沢那智]]、俳優、[[声優]]、[[演出家]](+ [[2010年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3002R_Q0A031C1000000/ |title=声優の野沢那智さんが死去 アラン・ドロンら吹き替え |publisher=[[日本経済新聞]] |date=30 Oct 2010 |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>)
* 1938年 - [[和田春樹]]、[[歴史学者]]
* [[1940年]] - [[小松俊広]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* [[1942年]] - [[志賀勝]]、俳優、[[歌手]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=志賀勝さん死去…「仁義なき戦い」など悪役として活躍 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=5 Apr 2020 |url=https://www.sanspo.com/article/20200405-5ISLCXQAVJMRVMEE2WMIDKGJT4/#:~:text=%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E4%BB%81%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%8D%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E6%82%AA%E5%BD%B9%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%B4%BB%E8%BA%8D%E3%81%97%E3%81%9F%E4%BF%B3%E5%84%AA%E3%81%A7%E6%AD%8C%E6%89%8B%E3%80%81%E5%BF%97%E8%B3%80%E5%8B%9D%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%8C%E3%83%BB%E3%81%BE%E3%81%95%E3%82%8B%E3%80%81%E6%9C%AC%E5%90%8D%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%8B%9D%E5%BD%A6%EF%BC%9D%E3%81%8B%E3%82%81%E3%82%84%E3%81%BE%E3%83%BB%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%B2%E3%81%93%EF%BC%89%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8C%EF%BC%93%E6%97%A5%E5%8D%88%E5%BE%8C%EF%BC%98%E6%99%82%EF%BC%91%EF%BC%94%E5%88%86%E3%80%81%E6%8B%A1%E5%BC%B5%E5%9E%8B%E5%BF%83%E7%AD%8B%E7%97%87%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E9%99%84%E5%B1%9E%E7%97%85%E9%99%A2%E3%81%A7%E6%AD%BB%E5%8E%BB%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%EF%BC%94%E6%97%A5%E3%80%81%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82,%EF%BC%97%EF%BC%98%E6%AD%B3%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82/ |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>)
* [[1943年]] - [[米田慶三郎]]、元プロ野球選手
* [[1944年]] - [[松原誠]]、元プロ野球選手
* [[1946年]] - [[北野尚文]]、高校野球指導者
* [[1947年]] - [[遠藤賢司]]、[[音楽家]](+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=遠藤賢司さん死去 最後まで音楽に情熱 ファンに「無理しないで!と言わないで」 |date=25 Oct 2017 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/10/25/kiji/20171025s00041000200000c.html |accessdate=23 Jul 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi ANNEX}}</ref>)
* [[1948年]] - [[橋本祥路]]、作曲家
* 1948年 - [[相米慎二]]、[[映画監督]](+ [[2001年]])
* [[1949年]] - [[ジェームズ・ミルンズ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1951年]] - [[船山基紀]]、作曲家、[[編曲家|アレンジャー]]
* 1951年 - [[ベルナール・ロワゾー]]、[[フランス料理]]の[[料理人]](+ [[2003年]])
* [[1955年]] - [[いがらしみきお]]、[[漫画家]]
* 1955年 - [[伊藤蘭]]、[[俳優|女優]]
* 1955年 - [[紙智子]]、政治家
* 1955年 - [[沢崎誠]]、[[麻雀#プロ雀士|プロ雀士]]
* 1955年 - [[ジェイ・マキナニー]]、[[小説家]]
* [[1956年]] - [[安部恭弘]]、[[シンガーソングライター]]
* 1956年 - [[大地丙太郎]]、[[アニメ監督]]
* [[1959年]] - [[半田利弘]]、天文学者
* 1959年 - [[太川陽介]]、歌手、俳優
* [[1960年]] - [[井上雅彦]]、小説家
* 1960年 - [[マシュー・ボーン]]、[[バレエ]][[演出家]]、[[振付家]]
* [[1961年]] - [[岡崎聡子]]、[[体操選手]]
* [[1962年]] - [[八木啓代]]、[[歌手]]、[[作家]]、エッセイスト、[[ジャーナリスト]]、音楽コーディネーター
* 1962年 - [[ケビン・ミッチェル]]、元プロ野球選手
* [[1963年]] - [[秋本奈緒美]]、女優
* 1963年 - [[水野松也]]、歌手
* [[1964年]] - [[ホセ・ヌーニェス (右投手)|ホセ・ヌーニェス]]、元プロ野球選手
* [[1966年]] - [[柴田光太郎]]、俳優、[[ニュースキャスター|キャスター]]
* 1966年 - [[北山亜紀子]]、[[ビリヤード]]選手
* [[1967年]] - [[田宮五郎]]、俳優(+ [[2014年]])
* 1967年 - [[西村智奈美]]、政治家
* 1967年 - [[山口正朗]]、俳優
* [[1968年]] - [[長山洋子]]、歌手
* 1968年 - [[CHARA]]、ミュージシャン
* 1968年 - [[三浦りさ子]]、[[タレント]]
* 1968年 - [[ジャンニ・モルビデリ]]、[[レーシングドライバー]]
* [[1969年]] - [[南Q太]]、[[漫画家]]
* 1969年 - [[涼元悠一]]、[[小説家]]、[[ゲームシナリオライター]]
* 1969年 - [[川原みなみ]]、タレント、女優
* [[1970年]] - [[鈴木健 (内野手)|鈴木健]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[濱辺幸太]]、俳優
* 1970年 - [[真矢 (ドラマー)|真矢]]、ミュージシャン([[LUNA SEA]])
* 1970年 - [[高木三四郎]]、プロレスラー
* [[1971年]] - [[エルマー・デセンス]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[中村ゆう子]]、[[フリーアナウンサー]]、女優
* [[1972年]] - [[大塚晶則]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[岩居由希子]]、[[声優]]、女優
* [[1974年]] - [[内海雅智]]、ミュージカル俳優
* [[1975年]] - [[ダニエル・ケールマン]]、小説家
* 1975年 - [[ルネ・エリクセン]]、ミュージシャン([[メイヘム]]等)
* 1975年 - [[アンドリュー・ヤン]]、政治家
* [[1977年]] - [[オーランド・ブルーム]]、俳優
* [[1978年]] - [[小林由佳 (政治家)|小林よしか]]、タレント、政治家
* 1978年 - [[ネイト・シルバー]]、[[統計学|統計学者]]
* 1978年 - [[緒乃冬華]]、声優
* [[1979年]] - [[ヴィタリー・ノビコフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1980年]] - [[加地亮]]、元[[サッカー選手]]
* 1980年 - [[大島美幸]]、[[お笑いタレント]]([[森三中]])
* 1980年 - [[藤波貴久]]、ライダー
* [[1981年]] - [[ダレル・ラズナー]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[野口聖古]]、女優、声優、[[ナレーター]]
* [[1982年]] - [[黒崎瞳]]、フリーアナウンサー、キャスター
* 1982年 - [[神尾晋一郎]]、声優
* [[1983年]] - [[普久原淳一]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[下嶋兄]]、タレント、俳優(元[[ジャニーズJr.]])
* [[1984年]] - [[平山あや]]、女優、タレント
* 1984年 - [[山本翔]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[ゲオルギナ・ポータ]]、卓球選手
* 1985年 - [[Raychell]]、歌手、ベーシスト([[SHAZNA]]、[[RAISE A SUILEN]])
* [[1986年]] - [[ジョアニー・ロシェット]]、フィギュアスケート選手
* [[1987年]] - [[大野奨太]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[生形理菜]]、ミュージカル俳優
* [[1989年]] - [[林未紀]]、[[アイドル]]
* 1989年 - [[宮田直樹 (俳優)|宮田直樹]]、俳優
* [[1990年]] - [[八木健史]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[ヴィンチェンツォ・フィオリッロ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[リアム・ヘムズワース]]、俳優
* [[1991年]] - [[角晃多]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[ジュヌヴィエーヴ・ゴーント]]、女優
* [[1992年]] - [[南川忠亮]]、プロ野球選手
* 1992年 - [[アダム・マシューズ]]、サッカー選手
* [[1993年]] - [[佐々木ひかり]]、女優
* 1993年 - [[三澤紗千香]]、声優
* 1993年 - [[鈴乃八雲]]、[[グラビアアイドル]]
* [[1994年]] - [[中山優馬]]、歌手、俳優(元[[NYC (アイドルグループ)|NYC]])
* 1994年 - [[寺田安裕香]]、グラビアアイドル
* 1994年 - 九条ジョー、お笑い芸人([[コウテイ]])
* 1994年 - [[上村和生]]、陸上選手
* [[1995年]] - [[レナ・マロコ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1995年 - [[齋藤明里]]、女優、タレント
* [[1996年]] - [[稲村亜美]]、タレント、グラビアアイドル
* 1996年 - [[今湊敬樹]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー
* [[1999年]] - 伊山摩穂、アイドル (元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]])
* 1999年 - [[梅野雄吾]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[畑岡奈紗]]<ref>{{Cite web|和書 |title=畑岡 奈紗 |url=https://www.lpga.or.jp/members/info/1004326 |accessdate=23 Jul 2023 |publisher=日本女子プロゴルフ協会}}</ref>、[[プロゴルファー]]
* 1999年 - [[大津亮介]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://npb.jp/bis/players/01305157.html |title=大津 亮介 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=一般社団法人日本野球機構}}</ref>、プロ野球選手
* [[2002年]] - 石森璃花、アイドル([[桜坂46]])
== 忌日 ==
* [[紀元前86年]] - [[ガイウス・マリウス]]、[[共和政ローマ]]の[[執政官]](* [[紀元前157年]])
* [[703年]]([[大宝 (日本)|大宝]]2年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]])- [[持統天皇]]、第41代[[天皇]](* [[645年]])
* [[858年]] - [[エゼルウルフ]]、[[ウェセックス|ウェセックス王]]
* [[888年]] - [[カール3世 (フランク王)|カール3世]]、[[フランク王国|フランク王]](* [[839年]]頃)
* [[1001年]]([[長保]]2年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[藤原定子]]、[[一条天皇]]の[[皇后]](* [[977年]])
* [[1151年]] - [[シュジェール]]、[[フランス王国|フランス]][[摂政]]、[[歴史家]](* [[1081年]]頃)
* [[1177年]] - [[ハインリヒ2世 (オーストリア公)|ハインリヒ2世]]、[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]](* [[1107年]])
* [[1330年]] - [[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]]、[[ローマ王]](* [[1286年]])
* [[1599年]] - [[エドマンド・スペンサー]]、[[詩人]](* [[1552年]]頃)
* [[1632年]]([[寛永]]8年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]])- [[最上義俊]]、[[山形藩]]・[[大森藩|大森藩主]](* [[1605年]])
* [[1691年]] - [[ジョージ・フォックス]]、[[クエーカー]]創始者(* [[1624年]])
* [[1717年]] - [[マリア・ジビーラ・メーリアン]]、[[生物学者]]、画家(* [[1647年]])
* [[1765年]]([[明和]]元年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[徳川宗尹]]、[[一橋徳川家]]初代当主(* [[1721年]])
* [[1766年]] - [[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレデリク5世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1723年]])
* [[1797年]] - [[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1715-1797)|エリーザベト・クリスティーネ]]、[[プロイセン王国|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の妃(* [[1715年]])
* [[1828年]]([[文政]]10年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]])- [[伊達斉義]]、第11代[[仙台藩|仙台藩主]](* [[1798年]])
* [[1838年]] - [[フェルディナント・リース]]、[[作曲家]](* [[1784年]])
* [[1849年]]([[嘉永]]元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]])- [[調所広郷]]、[[薩摩藩]][[家老]](* [[1776年]])
* [[1864年]] - [[スティーブン・フォスター|スティーブン・コリンズ・フォスター]]、作曲家(* [[1826年]])
* [[1872年]]([[明治]]4年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]])- [[河上彦斎]]、[[幕末]][[尊皇攘夷派]]の[[武士]](* [[1834年]])
* [[1885年]] - [[スカイラー・コルファクス]]、第17代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1823年]])
* [[1894年]] - [[ナジェジダ・フォン・メック]]、作曲家[[ピョートル・チャイコフスキー]]の支援者(* [[1831年]])
* [[1906年]] - [[アレクサンドル・ポポフ (物理学者)|アレクサンドル・ポポフ]]、[[無線通信]]開発者(* [[1859年]])
* [[1908年]] - [[橋本雅邦]]、[[日本画家]](* [[1835年]])
* [[1913年]] - [[大森兵蔵]]、[[スポーツ科学|体育学者]](* [[1876年]])
* [[1929年]] - [[ワイアット・アープ]]、[[西部開拓時代]]の[[保安官]](* [[1848年]])
* [[1931年]] - [[カンドー・カールマーン]]、鉄道技師、発明家(* [[1869年]])
* [[1932年]] - [[ソフィア (ギリシャ王妃)|ソフィア]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ王]][[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]の妃(* [[1870年]])
* [[1934年]] - [[ポール・ヴィラール]]、[[物理学者]](* [[1860年]])
* 1934年 - [[早田文藏]]、[[植物学|植物学者]](* [[1874年]])
* [[1935年]] - [[ハインリヒ・シェンカー]]、[[音楽学者]](* [[1868年]])
* [[1941年]] - [[ジェイムズ・ジョイス]]、[[小説家]](* [[1882年]])
* [[1949年]] - [[財部彪]]、[[軍人]]、[[政治家]](* [[1867年]])
* [[1963年]] - [[シルバヌス・オリンピオ]]、[[政治家]]、初代[[トーゴ]][[トーゴの大統領一覧|大統領]](* [[1902年]])
* [[1966年]] - [[佐々木すぐる]]、作曲家(* [[1892年]])
* [[1976年]] - [[舟橋聖一]]、小説家(* [[1904年]])
* [[1978年]] - [[ジョー・マッカーシー]]、[[メジャーリーグベースボール]]の監督(* [[1887年]])
* 1978年 - [[ヒューバート・H・ハンフリー]]、第38代アメリカ合衆国副大統領(* [[1911年]])
* [[1979年]] - [[ダニー・ハサウェイ]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[ミュージシャン]](* [[1945年]])
* [[1980年]] - [[アンドレ・コステラネッツ]]、[[指揮者]](* [[1901年]])
* [[1988年]] - [[蔣経国]]、[[中華民国総統]](* [[1910年]])
* [[1993年]] - [[カマルゴ・グアルニエリ]]、作曲家(* [[1907年]])
* 1993年 - [[前川かずお (絵本作家、漫画家)|前川かずお]]、[[絵本作家]]、[[漫画家]](* [[1937年]])
* [[1995年]] - [[ジョーゼフ・ギンゴールド]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1909年]])
* [[1997年]] - [[毛利蔵人]]、作曲家(* [[1950年]])
* [[2000年]] - [[丸木俊]]、[[洋画家]](* [[1912年]])
* [[2002年]] - [[テッド・デミ]]、[[映画監督]](* [[1963年]])
* [[2004年]] - [[坂田道太]]、第64代[[衆議院議長]](* [[1916年]])
* [[2007年]] - [[吉原英雄]]、[[画家]](* [[1931年]])
* 2007年 - [[マイケル・ブレッカー]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(* [[1949年]])
* [[2009年]] - [[パトリック・マクグーハン]]、俳優、脚本家、映像作品監督、プロデューサー(* [[1928年]])
* 2009年 - [[ミハイル・ドンスコイ]]、計算機科学者(* [[1948年]])
* [[2010年]] - [[田の中勇]]、[[声優]](* [[1932年]])
* [[2011年]] - [[藤村多加夫]]、[[俳人]](* [[1925年]])
* [[2013年]] - [[瓦力]]、政治家(* [[1937年]])
* [[2015年]] - [[魚住純子]]、[[俳優|女優]](* [[1933年]])
* [[2019年]] - [[メル・ストットルマイヤー]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://jp.reuters.com/news/picture/%EF%BC%AD%EF%BC%AC%EF%BC%A2%EF%BC%9D%E5%85%83%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E6%B0%8F%E3%81%8C%E6%AD%BB%E5%8E%BB-idJPKCN1P9055 |title=MLB=元ヤンキース、ストットルマイヤー氏が死去 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |ldate=14 Jan 2019 |accessdate=23 Jul 2023 |date=15 Jan 2019}}</ref>、元[[プロ野球選手]](* [[1941年]])
* [[2020年]] - [[竹内睦泰]]、[[予備校]]講師(* [[1966年]])
* [[2021年]] - [[ベルント・カンネンベルク]]<ref>{{Cite web |url=https://worldathletics.org/heritage/news/bernd-kannenberg-obituary |publisher=WORLD ATHLETICS |date=14 Jan 2021 |accessdate=23 Jul 2023 |title=1972 Olympic 50km race walk champion Kannenberg dies}}</ref> 、[[陸上競技]]選手(* [[1942年]])
* 2021年 - [[ティム・ボガート]]<ref>{{Cite web|和書|title= ヴァニラ・ファッジ、ベック・ボガート&アピスなどで活躍したティム・ボガートさん死去|url= https://hochi.news/articles/20210114-OHT1T50135.html|date=14 Jan 2021|accessdate=23 Jul 2023|publisher= [[スポーツ報知]]}}</ref>、[[ベーシスト]]、[[ヴォーカリスト]](* [[1944年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成人の日]]({{JPN}})※1月第2[[月曜日]]([[2003年]]・[[2014年]]・[[2020年]]・[[2025年]])
* 初虚空蔵({{JPN}})
*: 毎月13日は虚空蔵の縁日で、一年で最初のこの日は初虚空蔵と呼ばれている。虚空蔵とは、[[虚空蔵菩薩]]の略で、無限の知恵と慈悲で人々を救うといわれている。虚空菩薩を祀る寺院は、[[京都府]][[嵐山]]の[[法輪寺 (京都市西京区)|法輪寺]]「嵯峨虚空蔵」、[[三重県]][[金剛證寺]]「福威智虚空蔵菩薩」、[[千葉県]][[清澄寺 (鴨川市)|清澄寺]]「能満虚空蔵菩薩」、[[茨城県]][[村松山虚空蔵堂]]「村松虚空蔵」、[[福島県]][[円蔵寺]]「柳津虚空蔵」など。
* ピース記念日/[[たばこ]]の日({{JPN}})
*: [[1946年]]1月13日に高級たばこの「[[ピース (たばこ)|ピース]]」が10本入り7円で初めて発売されたことに由来<ref>{{Cite web|和書 |url=https://prtimes.jp/magazine/today/tobacco-day/ |title=たばこの日(1月13日)|意味や由来・広報PRに活用するポイントや事例を紹介 |access-date=23 Jul 2023 |date=13 Jan 2023 |website=PR TIMES MAGAZINE}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0113|date=Jul 2023}}
* [[1957年]](昭和32年) - この日の夜、安田辰郎が赤坂の料亭「小雪」に1人の客を招待した。(『[[点と線]]』冒頭)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 皇歴[[1990年]] - コーネリア・リ・ブリタニア、テレビアニメ『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|geass_gr|1481279808122335237}}</ref>
* 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#冬空コガラシ|冬空コガラシ]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year=2017|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=7巻|page=99|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-881201-4}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|year=2020|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=24巻|page=169|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-882496-3}}</ref>
* 生年不明 - イカロス・ムッヒ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Ikaros_Much.html |title=イカロス・ムッヒ |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - ゴードン・アグリッパ、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bclover.jp/character/ |title=黒の暴牛 ゴードン・アグリッパ |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |work=『ブラッククローバー』}}</ref>
* 生年不明 - 松原穂乃花、漫画・アニメ『[[きんいろモザイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|_harayui|1613788313613369344}}</ref>
* 生年不明 - [[幸腹グラフィティ#関係者|内木ユキ]]、漫画・アニメ『[[幸腹グラフィティ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kwimkt05|1495691297784725505}}</ref>
* 生年不明 - 須賀政史、漫画『少女暴走(ビースト)モード!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2017|title=JCの魅力を楽しむ健全なアンソロジーコミック|publisher=[[一迅社]]|isbn=978-4-7580-6665-5|page=61}}</ref>
* 生年不明 - 橘フウカ、テレビドラマ『[[アイドル×戦士ミラクルちゅーんず!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author1=岡本智年 |author2=佐藤春華 |title=テレビ超ひゃっか アイドル×戦士ミラクルちゅーんず!ヒロインずかん |publisher=[[小学館]] |year=2017 |page=13 |ISBN=978-4-09-750421-4}}</ref>
* 生年不明 - 虹野沙希、ゲーム『[[ときめきメモリアル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year = 1996|title = ときめきメモリアル オフィシャルイラスト集|publisher = [[徳間書店インターメディア]]|isbn = 4-19-825112-6|page = 40}}</ref>
* 生年不明 - チョキ、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 チョキ |access-date=2022-09-10 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 入巣蒔菜、ゲーム『[[グリザイアの果実]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://frontwing.jp/product/grisaia/character/makina.html |title=入巣 蒔菜 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[フロントウイング|Frontwing]] |work=『グリザイアの果実』}}</ref><ref>{{Cite book|和書|year=2011|title=グリザイアの果実 ビジュアルファンブック|publisher=[[エンターブレイン]]|isbn=978-4-04-727417-4|page=84}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#浜口あやめ|浜口あやめ]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20126 |title=浜口 あやめ(はまぐち あやめ) |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 13(イミ)、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!|SHOW BY ROCK‼︎]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.showbyrock.com/character/LB035.html |title=【Kuronoatmosphere(クロノアトモスフィア)】13(イミ) |access-date=23 Jul 2023|publisher=[[サンリオ]] |work=『SHOW BY ROCK!!』}}</ref>
* 生年不明 - ハデス・アイドネウス、ゲーム・アニメ『[[神々の悪戯]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kamiaso.com/game/origin/chara_hades.php |title=ハデス・アイドネウス |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[ブロッコリー (企業)|BROCCOLI]]/Illust.カズキヨネ |work=『神々の悪戯』}}</ref>
* 生年不明 - 硲道夫、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sidem-gs.idolmaster-official.jp/idol/michio/ |title=硲 道夫 |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER SIDE M GROWING STARS』}}</ref>
* 生年不明 - 姫宮桃李、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ensemble-stars.jp/characters/himemiya_tori/ |title=姫宮 桃李 |accessdate=23 Jul 2023 |publisher=[[Happy Elements]] |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 結城すばる、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/aikatsustars_02/character/chara_subaru.html |title=結城 すばる |access-date=23 Jul 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツスターズ!』}}</ref>
* 生年不明 - ガイ、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=CHARACTER[冬組]ガイ |accessdate=23 Jul 2023 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『A3!』}}</ref>
* 生年不明 - 芹沢鴨 、ゲーム『茜さすセカイでキミと詠う』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aka_seka|1481460999592955906}}</ref>
* 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#RAISE_A_SUILEN|レイヤ(和奏レイ)]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/layer/ |title=レイヤ |work=『BanG Dream! ガールズバンドパーティ!』 |publisher=BanG Dream! Project Craft Egg Inc. [[ブシロード|bushiroad]] |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>
* 生年不明 - 村野さやか、メディアミックス『[[蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.lovelive-anime.jp/hasunosora/member/02/ |title=村野さやか |work=『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』 |publisher=プロジェクトラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ |accessdate=23 Jul 2023}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8813%E6%97%A5 |
4,957 | 1月14日 | 1月14日(いちがつじゅうよっか、いちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から14日目に当たり、年末まであと351日(閏年では352日)ある。 | [
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'''1月14日'''(いちがつじゅうよっか、いちがつじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から14日目に当たり、年末まであと351日([[閏年]]では352日)ある。
== できごと ==
* [[1526年]] - [[イタリア戦争]]: 神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]と捕虜となったフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]が[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]を締結。
* [[1724年]] - [[スペイン君主一覧|スペイン王]][[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が譲位。後継の[[ルイス1世 (スペイン王)|ルイス1世]]の病死で同年中に復位。
* [[1814年]] - [[スウェーデン]]と[[デンマーク]]の間で[[キール条約]]が締結される。
* [[1858年]] - [[フェリーチェ・オルシーニ]]を主犯とした[[ナポレオン3世]]の[[暗殺]]未遂事件が発生。
* [[1874年]] - [[喰違の変]]: [[岩倉具視]]が[[東京]]、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]で不平士族に襲撃される。
* [[1881年]] - 東京で[[内務省 (日本)|内務省]]警視局を改組して[[警視庁 (内務省)|警視庁]]を再設置。
* [[1900年]] - [[ジャコモ・プッチーニ]]の[[オペラ]]『[[トスカ]]』が[[ローマ]]で初演<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chopin.co.jp/media/opera217/a2070 |title=トスカ[全3幕] プッチーニ作曲 |access-date=8 Aug 2023 |publisher=ハンナ |date=28 May 2019}}</ref>。
* [[1903年]] - [[大谷光瑞]]率いる[[大谷探検隊]]が[[インド]][[ビハール州]][[ラージギル]]郊外で[[釈迦]]の住んでいた[[霊鷲山]]を発見。
* [[1914年]] - [[沢柳事件]]: [[京都大学|京都帝国大学]]で、[[沢柳政太郎]]総長の人事に反発して法科大学の教授全員が辞表を提出。
* 1919年 - パリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国の日本全権団は、人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。
* [[1936年]] - [[北海道]][[上砂川町]]の[[日本コークス工業|三井鉱山]]上砂川炭鉱で[[ガス爆発]]事故。死者20人、生死不明1人、重軽傷者18人<ref>死者二十、重軽傷十八人、上砂川鉱の事故『北海タイムス』昭和10年1月16日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p683 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1939年]] - [[ノルウェー]]が南極大陸の[[ドロンニング・モード・ランド]]の領有を宣言。
* [[1940年]] - [[阿部内閣|阿部信行内閣]]が総辞職。
* [[1943年]] - [[カサブランカ会談]]が開催。[[フランクリン・ルーズベルト]]と[[ウィンストン・チャーチル]]が欧州戦線での協力、および[[枢軸国]]に対する[[無条件降伏]]の要求を確認。
* [[1950年]] - [[MiG-17 (航空機)|MiG-17]]が初飛行する。
* [[1954年]] - [[ナッシュ=ケルビネーター|ナッシュ]]とハドソンの合併によって[[アメリカン・モーターズ]]が創業。
* [[1959年]] - [[南極大陸]]で1年間置き去りにされたカラフト犬[[タロとジロ]]の生存が確認される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://nipr-blog.nipr.ac.jp/science-museum/cat-4/1959114-2d10.html |title=1959年1月14日 タロ・ジロの生存確認! |access-date=8 Aug 2023 |publisher=国立極地研究所 |date=14 Jan 2020}}</ref>。
* [[1963年]] - 名門劇団・[[文学座]]の分裂が表面化。中堅劇団員がクーデター的に集団で脱退し、[[劇団雲]]を結成。
* [[1967年]] - [[サンフランシスコ]]で[[ヒューマン・ビーイン]]がはじまる。
* [[1969年]] - [[アメリカ海軍]]の[[航空母艦]]「[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]」の艦載機に搭載されていた[[ズーニー・ロケット弾]]が爆発、27名の死者を出す。
* [[1970年]] - [[第3次佐藤内閣|第3次佐藤栄作内閣]]が成立。
* [[1972年]] - [[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]]が[[デンマーク]]女王に即位。
* [[1978年]] - マグニチュード7.0の[[伊豆大島近海の地震]]発生。死者25人。
* 1978年 - ロックバンド[[セックス・ピストルズ]]のメンバー、[[ジョン・ライドン|ジョニー・ロットン]]がバンドを脱退。実質上の解散となる。
* [[1980年]] - [[インディラ・ガンディー]]が第8代[[インドの歴代首相|インド首相]]に就任。
* [[1998年]] - [[群馬一家3人殺害事件]]が起きる。
* [[2004年]] - [[グルジア王国]]の旗が500年ぶりに[[グルジアの国旗]]として復活する。
* [[2005年]] - [[欧州宇宙機関]]の土星探査機「[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]」から分離された小型探査機「[[ホイヘンス・プローブ]]」が[[土星]]の[[衛星]][[タイタン (衛星)|タイタン]]に突入し、その表面に着陸。
* [[2009年]] - [[中央大学教授刺殺事件]]。
* 2009年 - [[国家元首]]初の[[北極点]]到達者[[モナコ]][[大公]][[アルベール2世 (モナコ大公)|アルベール2世]]が、国家元首として初めて[[南極点]]に到達し、[[地球]]の両極点を制覇。
* [[2011年]] - [[ジャスミン革命]]: [[チュニジア]]の[[ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー]]大統領が[[サウジアラビア]]に脱出<ref>{{Cite web|和書 |title=チュニジア政権崩壊、大統領はサウジに |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2782375 |website=AFP BB News |date=15 Jan 2011 |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[フランス通信社]]}}</ref>。
* [[2020年]] - [[Windows 7]]のサポートが全エディションで終了<ref>{{Cite web|和書 |url=https://support.microsoft.com/ja-jp/windows/windows-7-%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AF-2020-%E5%B9%B4-1-%E6%9C%88-14-%E6%97%A5%E3%81%AB%E7%B5%82%E4%BA%86%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-b75d4580-2cc7-895a-2c9c-1466d9a53962 |title=Windows 7 のサポートは 2020年1月14日に終了しました |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[Microsoft]]}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[紀元前38年]] - [[大ドルスス|ネロ・クラウディウス・ドルースス]] 、[[ローマ帝国]]の軍司令官、第2代皇帝[[ティベリウス]]の弟(+ [[紀元前9年]])
* [[1272年]]([[文永]]8年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[北条貞時]]、[[鎌倉幕府]]第9代[[執権]](+ [[1311年]])
* [[1695年]]([[元禄]]7年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[小出英及]]、第9代[[出石藩|出石藩主]](+ [[1696年]])
* [[1702年]]([[元禄]]14年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[中御門天皇]]、第114代[[天皇]](+ [[1737年]])
* [[1741年]] - [[ベネディクト・アーノルド]]、[[アメリカ独立戦争]]時の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[将軍]](+ [[1801年]])
* [[1744年]]([[寛保]]3年[[11月30日 (旧暦)|11月30日]]) - [[秋月種茂]]、第7代[[高鍋藩|高鍋藩主]](+ [[1819年]])
* [[1763年]]([[宝暦]]12年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[水野忠成]]、第2代[[沼津藩|沼津藩主]]・[[老中]](+ [[1834年]])
* [[1773年]] - [[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)]]、[[外交官]](+ [[1857年]])
* [[1787年]]([[天明]]6年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[遠山友寿]]、第11代[[苗木藩|苗木藩主]](+ [[1839年]])
* [[1797年]] - [[ヴィルヘルム・ベーア]]、[[天文学者]](+ [[1850年]])
* [[1799年]] - [[ヨハン・イグナツ・フォン・デリンガー]]、[[神学者]](+ [[1890年]])
* [[1800年]] - [[ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル]]、音楽学者(+ [[1877年]])
* [[1806年]] - [[マシュー・フォンテーン・モーリー]]、[[海軍]][[士官]]、[[海洋学者]](+ [[1873年]])
* [[1823年]]([[寛保]]3年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[谷衛弼]]、第12代[[山家藩|山家藩主]](+ [[1856年]])
* [[1836年]] - [[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[画家]]、[[版画家]](+ [[1904年]])
* [[1841年]] - [[ベルト・モリゾ]]、[[画家]](+ [[1895年]])
* [[1851年]] - [[ルートヴィヒ・クライゼン]]、[[化学者]](+ [[1930年]])
* [[1857年]]([[安政]]3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[酒井忠匡]]、第8代[[庄内藩|松山藩主]]・[[子爵]](+ [[1911年]])
* [[1875年]] - [[アルベルト・シュヴァイツァー]]、医師、[[オルガニスト]](+ [[1965年]])
* [[1878年]] - [[ヴィクトル・セガレン]]、詩人、医師 (+ [[1919年]])
* [[1884年]] - [[永田鉄山]]、[[陸軍軍人]](+ [[1935年]])
* [[1886年]] - [[ヒュー・ロフティング]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1947年]])
* [[1889年]] - [[棚橋小虎]]、労働運動家、[[政治家]](+ [[1973年]])
* [[1890年]] - [[河原春作]]、文部官僚、教育者([[1971年]])
* 1890年 - [[アーサー・ホームズ]]、[[地質学者]](+ [[1965年]])
* [[1892年]] - [[マルティン・ニーメラー]]、[[ルーテル教会|ルター派]][[牧師]]、[[神学者]](+ [[1984年]])
* 1892年 - [[秦豊吉]]、[[実業家]]、演出家(+ [[1956年]])
* [[1896年]] - [[ジョン・ドス・パソス]]、[[画家]]、小説家(+ [[1970年]])
* [[1901年]] - [[アルフレト・タルスキ]]、[[数学者]]、[[論理学|論理学者]](+ [[1983年]])
* [[1902年]] - [[篠原虎一]]、ヴァイオリニスト、指揮者(+[[1980年]])
* [[1904年]] - [[セシル・ビートン]]、[[写真家]](+ [[1980年]])
* [[1905年]] - [[福田赳夫]]、政治家、第67代[[内閣総理大臣]](+ [[1995年]])
* [[1906年]] - [[小谷正雄]]、[[物理学者]](+ [[1993年]])
* [[1907年]] - [[大木正幹]]、陸上競技選手、[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロス五輪]]日本代表(+[[2000年]])
* 1907年 - [[鈴木壽]]、政治家、教育者(+[[1970年]])
* [[1909年]] - [[エミール・ラング]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1944年]])
* [[1914年]] - [[駒田信二]]、作家、[[中国文学者]](+ [[1994年]])
* [[1915年]] - [[フェリックス・カスパー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2003年]])
* [[1917年]] - [[小田野柏]]、[[プロ野球選手]](+[[2014年]])
* [[1918年]] - [[島方金則]]、プロ野球選手(+ [[1995年]])
* [[1921年]] - [[岩本章]]、プロ野球選手(+ [[1993年]])
* [[1925年]] - [[三島由紀夫]]、作家(+ [[1970年]])
* 1925年 - [[井上普方]]、政治家(+ [[2015年]])
* [[1926年]] - [[マハシュウェタ・デビ]](+ [[2016年]])
* [[1927年]] - [[塚本学]]、歴史学者(+[[2013年]])
* 1927年 - [[原口統三]]、[[詩人]](+ [[1946年]])
* [[1928年]] - [[深江章喜]]、俳優(+[[2015年]])
* 1928年 - [[ハンス・コーンバーグ]]、(+ [[2019年]])
* [[1933年]] - [[斎藤栄]]、[[推理作家]]
* [[1936年]] - [[毒島章一]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* 1936年 - [[ライナー・クリムケ|ライナー・クリンケ]] 、[[馬術]]選手(+ [[1999年]])
* [[1938年]] - [[細川護熙]]、元政治家、第79代[[内閣総理大臣]]
* 1938年 - [[浜中祥和]]、元プロ野球選手
* 1938年 - [[ジャック・ジョーンズ (歌手)|ジャック・ジョーンズ]]、[[歌手]]
* [[1941年]] - [[佐藤雅美]]、作家(+ [[2019年]] )
* 1941年 - [[川口順子]]、政治家
* 1941年 - [[高橋幹夫 (帯広市長)|高橋幹夫]]、政治家
* 1941年 - [[フェイ・ダナウェイ]]、[[俳優|女優]]
* [[1943年]] - [[藤本佑子]]、元バレーボール選手([[東洋の魔女]])
* 1943年 - [[岩本晋]]、医学博士
* 1943年 - [[マリス・ヤンソンス]]、[[指揮者]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASMCM5GBTMCMUCVL02D.html |title=世界的指揮者、マリス・ヤンソンスさんが死去 76歳 |accessdate=8 Aug 2023 |website=[[朝日新聞デジタル]] |date=1 Dec 2019}}</ref>)
* [[1944年]] - [[赤羽建美]]、作家
* 1944年 - [[田中眞紀子]]、元[[政治家]]
* [[1945年]] - [[近藤宏樹]]、政治家
* [[1949年]] - [[忍全功]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[小牧リサ]]、元女優
* [[1954年]] - [[石田純一]]、[[俳優]]、[[タレント]]
* 1954年 - [[ルー大柴]]、タレント
* 1954年 - [[芹明香]]、女優
* 1954年 - [[萩尾みどり]]、女優
* 1954年 - [[森雪之丞]]、[[作詞家]]
* 1954年 - [[渕正信]]、[[プロレスラー]]
* [[1955年]] - [[岩下正明]]、元プロ野球選手
* 1955年 - [[池田憲章]]、特撮研究家、映像評論家(+[[2022年]])
* [[1956年]] - [[赤坂正浩]]、法学者、神戸大学名誉教授
* 1956年 - [[大草理乙子]]、女優
* [[1957年]] - [[斎藤成也]]、遺伝学者
* [[1958年]] - [[深水彰彦]]、ミュージカル俳優
* [[1959年]] - [[吉田鋼太郎]]、俳優、演出家
* 1959年 - [[三遊亭遊吉]]、落語家
* 1959年 - [[柴田理恵]]、タレント、女優
* 1959年 - [[松本海希]]、女優
* 1959年 - [[本澤雅史]]、神道学者(+[[2012年]])
* [[1962年]] - [[安田信二]]、作曲家
* [[1963年]] - [[スティーヴン・ソダーバーグ]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]
* [[1965年]] - [[日下翔平]]、俳優
* [[1966年]] - [[村上里和]]、アナウンサー
* 1966年 - [[マルコ・ヒエタラ]]、[[歌手]]、[[ベーシスト]]([[ナイトウィッシュ]]など)
* [[1967年]] - [[桂憲一]]、俳優
* 1967年 - [[小林和公]]、プロ野球野球審判、元プロ野球選手
* 1967年 - [[佐藤里佳]]、元[[アナウンサー]]
* 1967年 - [[小沢浩一]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[ザック・ワイルド]]、[[ギタリスト]]
* [[1968年]] - [[三宅弘城]]、俳優
* 1968年 - [[松居直美 (タレント)|松居直美]]、ものまねタレント
* 1968年 - [[早川伸吾]]、お笑いタレント
* 1968年 - [[岩井健浩]]、元アナウンサー
* 1968年 - [[村上和幸]]、元野球選手
* 1968年 - [[伍佰]](ウー・バイ)、歌手
* 1968年 - [[LL・クール・J]]、[[ラッパー]]、俳優
* [[1969年]] - [[雅まさ彦]]、[[俳優]]、歌手([[幕末塾]])
* 1969年 - [[デイヴ・グロール]]、[[ミュージシャン]]([[フー・ファイターズ]])
* [[1970年]] - [[林田圭子]]、シンガーソングライター、ハーモニカ奏者
* 1970年 - [[進藤達哉]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[高遠菜穂子]]、[[ボランティア]][[活動家]]
* [[1972年]] - [[波立紀夫]]、フリーアナウンサー、元サッカー選手
* 1972年 - [[松木秀]]、[[歌人]]、[[川柳]]作家
* 1972年 - [[ジェームス・キー]]、エンジニア
* [[1973年]] - [[中村篤史]]、整体師、元キックボクサー
* 1973年 - [[ジャンカルロ・フィジケラ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー
* [[1974年]] - [[重松和世]]、フリーアナウンサー
* 1974年 - [[八木あかね]]、サッカー審判員、フットサル審判員
* 1973年 - [[山口衛里]]、元マラソン選手、陸上競技指導者
* 1974年 - [[藤井優志]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[西郡勲]]、[[映像作家]]
* 1975年 - [[田中美音子]]、[[ハンドボール]]選手
* 1975年 - [[太田陽子]]、元走高跳選手
* [[1976年]] - [[山崎弘也]]、[[お笑いタレント]]([[アンタッチャブル (お笑いコンビ)|アンタッチャブル]])
* [[1977年]] - [[北川悠仁]]、ミュージシャン([[ゆず (音楽グループ)|ゆず]])
* 1977年 - [[辻本耕志]]、お笑いタレント([[フラミンゴ (お笑いトリオ)|フラミンゴ]])
* [[1978年]] - [[澤山佳小里]]、女優、声優
* 1978年 - [[上田晴美]]、女優、声優
* 1978年 - [[クノ・ベッカー]]、俳優
* [[1979年]] - [[中村聖奈]]、グラビアモデル
* 1979年 - [[中村麻美]]、元女優
* 1979年 - [[アンジェラ・リンドヴァル]]、[[スーパーモデル]]、女優
* 1979年 - [[ヴィレ・ヴァンニ]]、ミュージシャン、外科医
* [[1980年]] - [[玉木宏]]、[[俳優]]、歌手
* 1980年 - [[山口瑠美]]、[[歌手]]
* 1980年 - [[加藤義宗]]、俳優
* 1980年 - [[甲斐田裕子]]、[[声優]]
* 1980年 - [[炭谷宗佑]]、元アナウンサー
* 1980年 - [[ゾーイ・ジョーンズ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1981年]] - [[新山千春]]、タレント
* 1981年 - [[森田香央里]]、タレント
* 1981年 - [[荒牧陽子]]、シンガーソングライター
* 1981年 - [[村上純]]、お笑いタレント([[しずる]])
* 1981年 - [[田口節子]]、[[競艇選手]]
* 1981年 - [[岩藤理恵]]、柔道家
* [[1982年]] - [[桜田さくら]]、元[[AV女優]]
* 1982年 - [[ビクトル・バルデス]]、元サッカー選手
* [[1983年]] - [[上原多香子]]、歌手、女優([[SPEED]])
* 1983年 - [[塚原正一]]、俳優
* [[1984年]] - [[松尾依里佳]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[タレント]]
* 1984年 - [[福田将吾]]、バスケットボール選手
* 1984年 - [[エリック・アイバー]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[マイク・ペルフリー]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[古市憲寿]]<ref>{{Twitter status|poe1985|1481880834525532165}}</ref>、社会学者
* 1985年 - [[雅原慶]]、ミュージカル俳優
* 1985年 - [[小明]]、[[グラビアアイドル]]
* 1985年 - [[ショーン・ソーヤー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1986年]] - [[ヨアン・キャバイェ]]、サッカー選手
* 1986年 - [[武田航平]]、俳優
* 1986年 - [[松岡佑起]]、陸上競技選手
* 1986年 - [[前野朋哉]]、俳優
* [[1987年]] - [[橋本淳 (俳優)|橋本淳]]、俳優
* 1987年 - [[井手麻実]]、アナウンサー
* [[1988年]] - [[藤原正典]]、野球指導者、元プロ野球選手
* 1988年 - [[後藤友香里]]、元声優、元歌手(元[[AAA (音楽グループ)|AAA]])
* [[1989年]] - [[豊田エリー]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/prof/509654/ |title=豊田エリー |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[ORICON]] |date=14 May 2010}}</ref>、女優
* 1989年 - [[佐藤美央里]]、モデル、タレント
* 1989年 - [[山田真央]]、タレント
* [[1990年]] - [[寺田明日香]]、[[陸上競技選手]]
* 1990年 - [[喜井つかさ]]、競艇選手
* 1990年 - [[青木志貴]]、声優、舞台俳優
* 1990年 - [[エレーナ・ロドリゲス]]、フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[富田千晴]]、モデル、タレント、女優
* 1991年 - [[平山雅]]、アナウンサー
* 1991年 - [[北條瑛祐]]、[[朝日放送テレビ|朝日放送]][[アナウンサー]]
* 1991年 - [[市川華菜]]、陸上競技(短距離)選手
* 1991年 - [[李雪芮]]、バドミントン選手
* 1991年 - [[アーロン・アルテール]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[トッド・ヴァン・スティーンゼル]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[石谷春貴]]、声優
* [[1993年]] - [[薗一輝]]、俳優
* 1993年 - [[松村優樹]]、陸上選手
* 1993年 - [[マリヤ・クチナ]]、陸上競技選手
* 1993年 - [[ドヴィダス・ネブラウスカス]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[増田怜奈]]、女優、タレント、[[ジュニアアイドル]]
* 1994年 - [[栞菜智世]]、歌手
* 1994年 - [[カイ (歌手)|カイ]]、アイドル([[EXO]])
* 1994年 - [[望月直樹]]、元プロボクサー
* [[1995年]] - [[大石悠馬]]、俳優
* [[1996年]] - [[宇山芽紅]]、トランポリン競技選手
* [[1997年]] - [[夏欣怡]]、バレーボール選手
* [[1998年]] - [[森高愛]]、ファッションモデル、女優
* 1998年 - [[村上来渚]]、歌手、タレント、アイドル(元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]])
* [[1999年]] - [[和田康士朗]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[兎澤朋美]]、陸上競技選手
* 1999年 - [[橋本蒔子]]、競輪選手
* [[2000年]] - [[林田美学]]、[[日本テレビのアナウンサー一覧|日本テレビアナウンサー]]
* 2000年 - [[山口楓斗]]、ラグビー選手
* 2000年 - [[髙橋塁]]、バレーボール選手
* [[2001年]] - 高橋希良、アイドル([[AKB48]])
* 2001年 - [[なえなの]]、タレント、[[YouTuber]]
* [[2002年]] - [[和田はな]]、将棋棋士
* 生年不明 - [[伊東ライフ]]、イラストレーター
* 生年不明 - [[熊谷勇希]]、声優
* 生年不明 - [[木間萌]]、声優
* 生年不明 - [[大橋世津]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.kekke.co.jp/talent/female/ak/oohashi.html |title=大橋世津 |publisher=[[ケッケコーポレーション]] |accessdate=8 Aug 2023}}</ref>、声優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[1676年]] - [[ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ]]、[[作曲家]](* [[1602年]])
* [[1695年]]([[元禄]]7年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[島津光久]]、第2代[[薩摩藩|薩摩藩主]](* [[1616年]])
* [[1701年]](元禄13年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[徳川光圀]]<ref>{{Kotobank|徳川光圀}}</ref>、第2代[[水戸藩|水戸藩主]](* [[1628年]])
* [[1753年]] - [[ジョージ・バークリー]]、[[神学者]](* [[1685年]])
* [[1788年]] - [[フランソワ・ド・グラス]]、[[フランス海軍]][[将官|提督]](* [[1722年]])
* [[1867年]] - [[ドミニク・アングル]]、[[画家]](* [[1780年]])
* [[1898年]] - [[ルイス・キャロル]]、童話作家、数学者(* [[1832年]])
* [[1901年]] - [[シャルル・エルミート]]、[[数学者]](* [[1822年]])
* [[1905年]] - [[エルンスト・アッベ]]、[[物理学者]](* [[1840年]])
* [[1924年]] - [[ゲザ・ジチー]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1849年]])
* [[1928年]] - [[アル・リーチ]]、[[野球選手]](* [[1840年]])
* [[1931年]] - [[ハーディ・リチャードソン]]、[[プロ野球選手]](* [[1855年]])
* [[1938年]] - [[野村萬斎|初世野村萬斎]]、[[狂言|狂言方]](* [[1862年]])
* [[1949年]] - [[ホアキン・トゥリーナ]]、作曲家(* [[1882年]])
* [[1952年]] - [[アルトゥール・カップ]]、作曲家(* [[1878年]])
* [[1953年]] - [[鳥居龍蔵]]、[[考古学者]]、[[人類学|人類学者]]、[[民俗学|民俗学者]](* [[1870年]])
* [[1957年]] - [[ハンフリー・ボガート]]、[[俳優]](* [[1899年]])
* [[1961年]] - [[バリー・フィッツジェラルド]]、俳優(* [[1888年]])
* [[1964年]] - [[浅川伯教]]、[[彫刻家]]、[[陶磁器]]研究家(* [[1884年]])
* [[1966年]] - [[セルゲイ・コロリョフ]]、[[ロケット]]技術者(* [[1907年]])
* [[1972年]] - [[フレゼリク9世 (デンマーク王)|フレゼリク9世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1899年]])
* [[1974年]] - [[李燦]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]]の詩人
* [[1976年]] - [[ファン・ダリエンソ]]、[[タンゴ]]の[[ヴァイオリニスト]](* [[1900年]])
* [[1977年]] - [[アンソニー・イーデン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1897年]])
* 1977年 - [[アナイス・ニン]]、作家(* [[1903年]])
* 1977年 - [[ピーター・フィンチ]]、俳優(* [[1916年]])
* [[1978年]] - [[ハロルド・エイブラハムス]]、[[陸上競技]]選手(* [[1899年]])
* 1978年 - [[花森安治]]、[[編集者]](* [[1911年]])
* 1978年 - [[クルト・ゲーデル]]、[[数学者]](* [[1906年]])
* 1978年 - [[鄭一龍]]、[[政治家]](* [[1912年]])
* [[1979年]] - [[大野源一]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1911年]])
* [[1980年]] - [[山名文夫]]、[[グラフィックデザイナー]](* [[1897年]])
* [[1984年]] - [[レイ・クロック]]、[[起業家]](* [[1902年]])
* [[1986年]] - [[ドナ・リード]]、女優(* [[1921年]])
* [[1988年]] - [[ゲオルギー・マレンコフ]]、[[政治家]](* [[1902年]])
* [[1990年]] - [[財津守]]、元[[プロ野球選手]](* [[1938年]])
* [[1994年]] - [[バーナード・デイビス]]、[[微生物学|微生物学者]](* [[1916年]])
* [[1997年]] - [[胡金銓]]、[[映画監督]](* [[1931年]])
* [[2002年]] - [[マイケル・ヤング (社会学者)|マイケル・ヤング]]、[[社会学者]](* [[1915年]])
* [[2003年]] - [[横須賀功光]]、[[写真家]](* [[1937年]])
* [[2005年]] - [[高梨公之]]、[[法学者]](* [[1915年]])
* [[2006年]] - [[アンリ・コルピ]]、映画監督(* [[1921年]])
* 2006年 - [[シェリー・ウィンタース]]、女優(* [[1922年]])
* [[2010年]] - [[ペトラ・シュルマン]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優(* [[1935年]])
* 2010年 - [[ボビー・チャールズ]]、[[シンガーソングライター]](* [[1938年]])
* [[2011年]] - [[細川俊之]]、[[俳優]]、[[声優]](* [[1940年]])
* 2011年 - [[和田勉]]、[[演出家]]、[[テレビプロデューサー]](* [[1930年]])
* [[2012年]] - [[堀本律雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1935年]])
* [[2014年]] - [[種田訓久]]、元プロ野球選手(* [[1931年]])
* [[2015年]] - [[奥村慎太郎]]、政治家(* [[1954年]])
* [[2016年]] - [[アラン・リックマン]]、[[俳優]](* [[1946年]])
* [[2017年]] - [[周有光]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3114142 |title=中国言語学者の周有光氏、111歳で死去「ピンインの父」 |publisher=[[フランス通信社]] |date=15 Jan 2017 |accessdate=8 Aug 2023 |website=AFP BB News}}</ref>、[[経済学者]]、[[言語学者]](* [[1906年]])
* [[2018年]] - [[夏木陽介]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/01/19/kiji/20180118s00041000404000c.html|date=2018-01-19|title=夏木陽介さん死去 81歳「青春とはなんだ」「Gメン'75」などで活躍|website=Sponichi ANNEX|publisher=[[スポーツニッポン]]|accessdate=8 Aug 2023}}</ref>、[[俳優]](* [[1936年]])
* [[2021年]] - [[横井久美子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20210116/k00/00m/040/162000c| title=横井久美子さん死去 76歳 シンガー・ソングライター 「ノーモア・スモンの歌」 |publisher=[[毎日新聞]]|date=16 Jan 2021|accessdate=8 Aug 2023}}</ref> 、[[シンガーソングライター]](* [[1944年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2007年]] - 初代[[チョロ松]]、[[ウォークマン]]のCMに出演した[[ニホンザル]](* [[1977年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成人の日]]({{JPN}})※1月第2[[月曜日]]([[2002年]]、[[2008年]]、[[2013年]]、[[2019年]]など)
* [[左義長]]・[[どんと祭]]({{JPN}})
* 十四日年越し({{JPN}})
*: 1月15日の[[小正月]]の前日にあたるため、昔は年越しの日として祝っていた。
* 飾納・松納({{JPN}})
*: 正月飾りや門松を取り外す日。
* 鳥追い祭り({{JPN}})
*: [[群馬県]]の[[中之条町]]で1604年(慶長9年)から行なわれているお祭り。田畑の作物を荒らす鳥や獣を追い払い、五穀豊穣・町内厄除・家内安全を願う。伊勢宮での神事の後、『鳥追いだ、鳥追いだ、唐土(とっと)の鳥を追いもうせ、セッセッセ、サーラバよって追いもうせ』の掛声とともに太鼓が打ち鳴らされ、町中を練り歩く。厄年の人や商店等から厄落としや商売繁盛を祈って、みかん投げも行われる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tabi-mag.jp/torioi0114/ |title=鳥追い祭り|中之条町 |access-date=8 Aug 2023 |publisher=プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。
* 四天王寺「どやどや」({{JPN}})
*: [[大阪市]]の[[四天王寺]]で300年以上続くお祭り。元旦から始まる四天王寺の「修正会」の締め括りで、紅白のふんどし姿の参加者が、法要中に祈祷された牛王宝印という魔除けの護符を奪い合う<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20200110-K2MELAKQINITHJSMBLVAINXFCI/ |title=大阪・四天王寺の「どやどや」 高校生が未来へつなぐ |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=10 Jan 2020}}</ref>。
* 面様年頭({{JPN}})
*: [[石川県]]の輪島崎町に古くから伝わる厄よけの神事で、1月14日に「おいで面様」、1月20日に「お帰り面様」が行われる。男面と女面をつけ夫婦神に扮した小学生が氏子の家を回る<ref>{{Cite web|和書 |url=https://wajimanavi.jp/event/mennsama |title=厄よけの神事 面様年頭 |access-date=8 Aug 2023 |publisher=輪島市観光協会 |website=輪島たび結び}}</ref>。
* 刈田嶺神社「暁まいり」({{JPN}})
*: [[宮城県]][[蔵王町]]の刈田嶺神社(白鳥大明神)で行なわれる神事。厄年(数え年で42歳)の男衆が百貫のしめ縄をかつぎ、町内を練り歩いた後、境内の樹齢500年といわれる御神木の夫婦杉に奉納する。神社境内では、[[神楽]]の奉納、[[どんと祭]]などが行われる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=6073 |title=刈田嶺神社暁(あかつき)詣り '23.1.14(土) |access-date=8 Aug 2023 |publisher=公益社団法人 宮城県観光連盟 |website=宮城まるごと探訪}}</ref>。
* [[尖閣諸島開拓の日]]({{JPN}})
*: [[沖縄県]][[石垣市]]が[[2010年]]12月に制定。[[1895年]]のこの日に日本政府が[[尖閣諸島]]を日本領に編入する閣議決定を行ったことにちなむ<ref>{{Cite web|和書 |title=石垣市 1月14日は「尖閣諸島開拓の日」 |publisher=[[日テレNEWS24]] |date=17 Dec 2010 |url=https://news.ntv.co.jp/category/politics/172609 |accessdate=8 Aug 2023}}</ref>。
* 愛と希望と勇気の日({{JPN}})
*: [[1959年]]のこの日、[[南極大陸]]で1年間置き去りにされたカラフト犬[[タロとジロ]]の生存が確認された。
* 褒め言葉カードの日({{JPN}})
*: 日本褒め言葉カード協会が制定し、日本記念日協会が認定した。周囲に感謝を伝える日。褒め言葉の「いいよ」 (=114) から<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kinenbi.gr.jp/yurai.php?TYPE=ofi&MD=3&NM=1647 |title=褒め言葉カードの日 |publisher=日本記念日協会 |accessdate=8 Aug 2023 }}</ref>。
* [[主の割礼祭]]
*: キリストの生誕から8日後に命名と割礼が行われたことを祝う([[ルカによる福音書|ルカの福音書]]2章21節)。そのため、キリストの生誕を[[12月25日]]と考えれば[[1月1日]]が該当日になる。ユリウス暦からグレゴリオ暦に移行した際、クリスマスが12月25日から[[1月7日]]に移動したことに伴い、この日が該当日になった。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0114|date=Aug 2023}}
* 1947年(昭和22年)- 椿英輔[[子爵]]が[[須磨寺]]近くの[[旅館]]「三春園」に投宿。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』第13章<ref group="注">三春園のおかみが[[金田一耕助]]と出川[[刑事]]に語る。</ref>)
* 1957年(昭和32年)- [[東京駅]]で安田辰郎、とみ子、八重子の三人が「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」にお時さんが男と乗車するのを目撃する。(小説『[[点と線]]』第1章第2節)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]327年 - ラティクス・ファーレンス(ラティ)、ゲーム『[[スターオーシャン]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=32|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 愛乃はぁと、ゲーム『[[アルカナハート]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.examu.co.jp/arcanaheart2/chara_01.html |title=愛乃はぁと |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[エクサム|EXAMU]] |work=『アルカナハート2 : ARCANA HEART 2』}}</ref>
* 生年不明 - 東城綾、漫画・アニメ『[[いちご100%]]』のメインヒロイン
* 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#風林寺美羽|風林寺美羽]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』のヒロイン<ref>{{Cite book|和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|year=2014|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書|page=34|publisher=[[小学館]]|series=[[少年サンデーコミックス]]|isbn=978-4-09-125016-2}}</ref>
* 生年不明 - 竜崎桜乃、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1349371890343800837}}</ref>
* 生年不明 - [[朽木ルキア]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year = 2006|title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|publisher = [[集英社]]|isbn = 4-08-874079-3|page = 35}}</ref>
* 生年不明 - 東城歩、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 大森寧々、漫画・アニメ『[[べるぜバブ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 手白球彦、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2019|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|isbn=978-4-08-881717-0|quote=|date=|volume=36巻|page=68}}</ref>
* 生年不明 - 鳩原未来、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1216737934709284864}}</ref>
* 生年不明 - エスタロッサ、漫画・アニメ『[[七つの大罪]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 父、漫画・アニメ『[[あたしンち]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 中慈馬早苗、漫画・アニメ『[[すもももももも 地上最強のヨメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=大高忍(原作)|authorlink=大高忍|year = 2006|title = すもももももも 〜地上最強のヨメ〜 GUIDE BOOK|publisher = [[スクウェア・エニックス]]|isbn = 4-7575-1771-8|page = 114}}</ref>
* 生年不明 - 十和田王子、漫画『[[乙女的シンドローム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|haruzo17|1084728557891284992}}</ref>
* 生年不明 - 神浜コウジ、アニメ『[[プリティーリズム・レインボーライブ]]』・『[[KING OF PRISM by PrettyRhythm]]』、アニメ映画『[[KING OF PRISM -PRIDE the HERO-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kinpri.com/02/character/ |title=神浜コウジ |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[タカラトミーアーツ|T-ARTS]] / [[シンソフィア|syn Sophia]] / [[エイベックス・ピクチャーズ]] / [[タツノコプロ]] / キングオブプリズムPH製作委員会 |work=『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』}}</ref>
* 生年不明 - ベルガモ・レグルト、アニメ『[[イナズマイレブン オリオンの刻印]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=8 Aug 2023}}</ref>
* 生年不明 - ヴァイライラ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ヴィアリアリ、ゲーム『ジルオール』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ピティエ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 ピティエ |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 芦屋、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/ashiya.php |title=芦屋 |access-date=8 Aug 2023 |website=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - フレイグ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=137&cate=name&cont=Fllayg |title=フレイグ |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - タマユラ、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/tokohana/tamayura/ |title=タマユラ |access-date=8 Aug 2023 |publisher=[[bilibili]] [[ジークレスト|GCREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#恵比寿つかさ|恵比寿つかさ]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1084616084488040448}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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== できごと ==
* [[1486年]] - [[ランカスター朝|ランカスター家]]のイングランド王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が[[ヨーク朝|ヨーク家]]の[[エリザベス・オブ・ヨーク|エリザベス]]と結婚し、[[薔薇戦争]]で対立していたランカスター家とヨーク家を統一。
* [[1586年]]([[天正]]13年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[天正地震]]。[[飛騨国]]の[[帰雲城]]が埋没するなど日本中部で被害甚大。
* [[1615年]]([[慶長]]19年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]で和議が成立する。
* [[1654年]] - [[ウクライナ]]で[[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペラヤースラウ会議]]が行われ、結果ウクライナは[[ロシア]]の保護下に入る。
* [[1701年]] - [[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]が初代「[[プロイセンの王]]」に即位。
* [[1778年]] - [[ジェームズ・クック]]がヨーロッパ人で初めて[[ハワイ諸島]]に到達<ref>{{Cite web |url=https://www.nytimes.com/1978/01/18/archives/new-jersey-pages-200-years-after-cook-landed-hawaiians-pay-scant.html |title=200 Years After Cook Landed Hawaiians Pay Scant Attention |access-date=25 Jul 2023 |publisher=The New York Times |date=18 Jan 1978}}</ref>。
* [[1871年]] - [[ヴェルサイユ宮殿]]においてプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]がドイツ皇帝に即位、[[ドイツ帝国]]が成立する。
* [[1911年]] - [[幸徳事件]]([[大逆事件]])で[[幸徳秋水]]ら24名に死刑、2名に有期刑の判決が下される。
* [[1915年]] - 日本が[[対華21ヶ条要求]]を発する。
* [[1919年]] - [[第一次世界大戦]]後処理の[[パリ講和会議]]が始まる。
* [[1924年]] - [[東京市]]で市営バス(現在の[[都営バス]])が運行開始。
* [[1925年]] - [[群馬県]][[世良田村]]で村民が[[水平社]]同人を襲撃する[[世良田村事件]]が発生<ref>群馬県で村民八百人が水平社員を襲う『東京日日新聞』1925年1月19日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.316 毎日コミュニケーションズ 1994年)</ref>。
* [[1937年]] - 独海軍練習艦[[エムデン (軽巡洋艦・3代)|エムデン号]]が訪日横浜港に入港。
* [[1943年]] - [[ワルシャワ・ゲットー蜂起]]: [[ワルシャワ・ゲットー]]でユダヤ人のドイツ軍に対する最初の武装反乱が発生。
* [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]・[[独ソ戦]]: [[レニングラード]]のドイツ軍の包囲をソ連軍が解除し、[[レニングラード包囲戦]]が終結。
* [[1946年]] - 名古屋の雑貨商・[[熊沢寛道]]が、[[南朝 (日本)|南朝]]方の子孫だと名乗りを上げる(熊沢天皇)。
* [[1947年]] - 全官公庁労組拡大共闘委員会が[[2月1日]]午前零時から無期限スト([[二・一ゼネスト]])に突入すると宣言。
* [[1952年]] - 韓国の[[李承晩]]大統領が[[李承晩ライン]]を宣言。
* [[1954年]] - プロ野球・名古屋ドラゴンズの経営から名古屋鉄道が撤退。中部日本新聞社の単独経営となり3年ぶりに「[[中日ドラゴンズ]]」の名称に戻す。
* [[1955年]] - [[宇部港]]沖合で[[アメリカ海軍]]艦ゼネラル・パトリック(13000トン)が気帆船三重丸(170トン)に追突。気帆船が沈没して5人死亡、重軽傷2人<ref>『日本経済新聞』昭和30年1月19日1面</ref>。
* [[1956年]] - [[銀座弁護士妻子殺人事件]]。
* [[1969年]] - [[東大安田講堂事件]]: 東大・[[安田講堂]]を占拠した学生を排除するため[[警視庁]][[機動隊]]が出動。翌日封鎖を解除。
* 1969年 - [[東大紛争]]を支援するとして[[神田駿河台]]近辺の大学生らが[[明大通り]]一帯をバリケード封鎖。(参考:[[神田カルチェ・ラタン闘争]])
* [[1971年]] - [[運輸省]]が[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線|上越]]・[[成田新幹線]]の[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画|基本計画]]を告示。
* [[1976年]] - 前年[[7月20日]]から沖縄で開かれていた[[沖縄国際海洋博覧会]]が閉幕。総入場者数は約350万人<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nhk.or.jp/archives/jidai/special/calendar/0118/ |title=1月18日の過去ニュース |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]アーカイブス}}</ref>。
* [[1977年]] - [[グランヴィル鉄道事故]]が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事に。
* [[1984年]] - [[三井有明鉱火災事故]]: [[福岡県]]の[[三井三池炭鉱|三井三池鉱業所]]の有明鉱坑内で火災が発生。旧式ベルトコンベヤーの整備不良から発火し、[[一酸化炭素中毒]]で83人死亡、負傷者十数人を出した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1475824 |title=きょうの歴史 1月18日 |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[福井新聞]] |date=18 Jan 2022}}</ref>。
* [[1990年]] - [[長崎市長銃撃事件]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO68183540V10C21A1EAC000/ |title=1990年1月18日 長崎市長銃撃、天皇の戦争責任発言巡り |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=15 Jan 2021}}</ref>。
* [[2002年]] - [[シエラレオネ内戦]]が終結。
* [[2006年]] - 前日の[[ライブドア・ショック]]により株式市場全体に売り注文が殺到し、[[東京証券取引所]]の全銘柄が取引停止に。
* [[2012年]] - インターネット関連企業の[[Stop Online Piracy Act]]への抗議活動で、[[英語版ウィキペディア]]、ソーシャルニュースサイト「[[reddit]]」がサービス停止。米[[Google]]、米[[Mozilla]]も抗議活動に参加<ref>{{Cite web|和書 |title=SOPAやPIPAに対する抗議行動が拡大、Facebookも反対表明 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK19025_Z10C12A1000000/ |date=19 Jan 2012 |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。
* [[2017年]] - [[イタリア]]、[[ファリンドラ]]にある[[リゾートホテル]]に[[雪崩]]が直撃して29人が死亡<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3114705 |title=雪崩がホテルを直撃、25人死亡の恐れ 地震頻発の伊中部 |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |date=20 Jan 2017 |website=AFP BB News}}</ref>。
* [[2018年]] - [[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が[[地下鉄サリン事件]]の実行犯の送迎役・[[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]の[[上告]]を棄却し、高橋の無期懲役が確定。[[オウム真理教事件]]の一連の刑事裁判が終結<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20180119-JDLB3HROZBNGFFZ5D47B6UOFQE/ |title=オウム裁判終結 高橋克也被告の無期懲役確定へ 最高裁が上告棄却 |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=19 Jan 2018}}</ref>。
* [[2019年]] - 革新的衛星技術実証1号機を搭載した[[イプシロンロケット]]4号機が、鹿児島の[[内之浦宇宙空間観測所]]から打ち上げられた<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jaxa.jp/press/2019/01/20190118_epsilon4_j.html |title=イプシロンロケット4号機による 革新的衛星技術実証1号機の打上げ結果について |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]] |date=31 Jan 2019}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])- [[津軽為信]]、[[弘前藩|弘前藩主]]、(+ [[1608年]])
* [[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]])- [[松平光長]]、[[高田藩|高田藩主]]、(+ [[1707年]])
* [[1648年]]([[正保]]4年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])- [[池田綱清]]、[[鳥取藩|鳥取藩主]]、(+ [[1711年]])
* [[1689年]] - [[シャルル・ド・モンテスキュー]]<ref>{{Kotobank|モンテスキュー}}</ref>、[[哲学|哲学者]](+ [[1755年]])
* [[1782年]] - [[ダニエル・ウェブスター]]<ref>{{Cite web |title=Daniel Webster {{!}} American Statesman, Orator & Lawyer |url=https://www.britannica.com/biography/Daniel-Webster |website={{!}} Britannica |access-date=25 Jul 2023}}</ref>、[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1852年]])
* [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]5年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]])- [[松平頼学]]、[[西条藩|西条藩主]]、(+ [[1865年]])
* [[1835年]] - [[ツェーザリ・キュイ]]、[[作曲家]]、[[ロシア5人組]]の1人(+ [[1918年]])
* [[1841年]] - [[エマニュエル・シャブリエ]]、[[作曲家]](+ [[1894年]])
* [[1847年]]([[弘化]]3年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])- [[松平定敬]]、[[桑名藩|桑名藩主]]、[[京都所司代]](+ [[1908年]])
* [[1849年]] - [[エドモンド・バートン]]、初代[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]](+ [[1920年]])
* [[1854年]]([[嘉永]]6年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]])- [[片山東熊]]、[[建築家]](+ [[1917年]])
* [[1868年]]([[慶応 (元号)|慶応]]3年12月24日) - [[鈴木貫太郎]]、第42代[[内閣総理大臣]](+ [[1948年]])
* [[1874年]] - [[森田正馬]]、[[医学者]]、[[森田療法]]を創始(+ [[1938年]])
* [[1879年]] - [[アンリ・ジロー]]、[[軍人]](+ [[1949年]])
* [[1882年]] - [[A・A・ミルン]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1956年]])
* [[1884年]] - [[アーサー・ランサム]]、児童文学作家、ジャーナリスト(+ [[1967年]])
* [[1886年]] - [[アントワーヌ・ペヴスナー]]、[[美術家]]、[[画家]](+ [[1962年]])
* [[1889年]] - [[石原莞爾]]、[[軍人]](+ [[1949年]])
* [[1892年]] - [[オリヴァー・ハーディ]]、[[喜劇俳優]]([[ローレル&ハーディ]])(+ [[1957年]])
* [[1894年]] - [[高群逸枝]]、[[詩人]]、[[民俗学|民俗学者]](+ [[1964年]])
* [[1896年]] - [[ビル・マゴワン]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[1954年]])
* [[1898年]] - [[福沢一郎]]、[[画家]](+ [[1992年]])
* [[1901年]] - [[村山知義]]、[[小説家]]、画家(+ [[1977年]])
* [[1911年]] - [[坂田昌一]]、[[物理学者]](+ [[1970年]])
* [[1913年]] - [[ダニー・ケイ]]、[[俳優]]、[[歌手]]、[[コメディアン]](+ [[1987年]])
* [[1917年]] - [[天草四郎 (俳優)|天草四郎]]、[[俳優]](+ [[1986年]])
* 1917年 - [[ヴァシーリー・ミシン]]、宇宙工学者(+ [[2001年]])
* [[1920年]] - [[安井亀和]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1998年]])
* [[1921年]] - [[南部陽一郎]]、[[物理学者]](+ [[2015年]])
* 1921年 - [[山口恵一郎]]、地理学者(+[[1991年]])
* [[1925年]] - [[ジル・ドゥルーズ]]、哲学者(+ [[1995年]])
* [[1926年]] - [[ロイ・キヨオカ]]、[[写真家]]、[[詩人]]、[[芸術家]](+ [[1994年]])
* [[1928年]] - [[角田達郎]]、[[西日本旅客鉄道]]初代社長(+ [[2006年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20060220000359 |title=角田達郎氏死去/元JR西日本社長 |publisher=[[四国新聞]] |date=20 Feb 2006 |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>)
* [[1930年]] - [[倉田準二]]、[[映画監督]](+ [[2002年]])
* [[1931年]] - [[全斗煥]]、政治家、第11・12代[[大韓民国]]大統領(+ [[2021年]])
* [[1932年]] - [[広瀬豊]]、実業家、雑誌編集者(+[[2006年]])
* [[1934年]] - [[レイモンド・ブリッグズ]]、[[作家]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]](+ [[2022年]])
* [[1935年]] - [[須藤美也子]]、政治家(+ [[2018年]])
* [[1936年]] - [[大橋光夫]]、実業家、元[[昭和電工]]社長
* [[1937年]] - [[ジョン・ヒューム]]、[[政治家]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3297219 |title=北アイルランドの政治家J・ヒューム氏死去、83歳 和平に寄与しノーベル賞 |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |website=AFP BB News}}</ref>)
* 1937年 - [[上田利治]]、元プロ野球選手、監督(+ [[2017年]])
* 1937年 - [[遠藤幸雄]]、[[体操競技]]選手(+ [[2009年]])
* [[1938年]] - [[長田豊臣]]、アメリカ史学者
* 1938年 - [[カート・フラッド]]、元プロ野球選手(+ [[1997年]])
* 1938年 - [[アンソニー・ギデンズ]]、[[社会学]]者
* [[1940年]] - [[高橋乗宣]]、経済学者
* 1940年 - [[手塚幸紀]]、指揮者(+[[2020年]])
* 1940年 - [[ペドロ・ロドリゲス]]、F1ドライバー(+ [[1971年]])
* [[1944年]] - [[小椋佳]]、[[歌手]]
* 1944年 - [[高畠導宏]]、元プロ野球選手(+ [[2004年]])
* 1944年 - [[池辺巌]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[おすぎ]]、[[タレント]]、[[映画評論家]]
* 1945年 - [[ピーコ]]、タレント、[[服飾]]評論家
* [[1946年]] - [[トム・ロブソン]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[衣笠祥雄]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]])
* 1947年 - [[鈴木誠一 (声優)|鈴木誠一]]、声優(+ [[1997年]])
* 1947年 - [[ビートたけし]](北野武)、[[漫才師]]、映画監督、俳優
* [[1948年]] - [[笑福亭鶴光]]、[[落語家]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1948年 - [[森山良子]]、歌手
* [[1949年]] - [[伊原春樹]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]]
* 1949年 - [[フィリップ・スタルク]]、[[建築家]]、[[デザイナー]]
* 1949年 - [[藤原真理]]、[[チェリスト]]
* [[1950年]] - [[ジル・ヴィルヌーヴ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(+ [[1982年]])
* [[1951年]] - [[越智通勝]]、実業家
* [[1952年]] - [[三宅卓]]、実業家
* [[1953年]] - [[石川サブロウ]]、[[漫画家]]
* 1953年 - [[千本松喜兵衛]]、俳優(+[[2001年]])
* 1953年 - [[小寺昌治]]、元プロ野球選手、プロ野球審判員
* [[1954年]] - [[テッド・デビアス]]、[[プロレスラー]]
* [[1955年]] - [[ケビン・コスナー]]、俳優
* [[1956年]] - [[水島裕 (声優)|水島裕]]、声優
* [[1957年]] - [[秋野暢子]]、女優
* 1957年 - [[野部利雄]]、漫画家
* [[1959年]] - [[ダグマル・ルルツ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1960年]] - [[桑江知子]]、歌手
* [[1961年]] - [[アレクサンドル・モロズ]]、[[チェス]]選手(+ [[2009年]])
* 1961年 - [[小田真也]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[栗岡英智]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[円谷一夫]]、[[円谷プロダクション]]元名誉会長
* 1961年 - [[ブリジット・オコナー]]、[[劇作家]]、[[脚本家]](+ [[2010年]])
* [[1962年]] - [[石上俊雄]]、政治家
* 1962年 - [[木藤聡子]]、声優(+ [[2020年]])
* [[1963年]] - [[片桐はいり]]、女優
* 1963年 - [[松田優]]、俳優
* [[1964年]] - [[桂三発]]、落語家、タレント
* [[1966年]] - [[宮沢和史]]、ミュージシャン(元[[THE BOOM]])
* 1966年 - [[アレクサンドル・カリフマン]]、[[チェス]]選手
* [[1967年]] - [[山花郁夫]]、政治家
* 1967年 - [[丸山真歩]]、元女優
* [[1969年]] - [[中村直人 (ラグビー選手)|中村直人]]、実業家、元ラグビー選手
* 1969年 - [[ジム・オルーク (ミュージシャン)|ジム・オルーク]]、ミュージシャン
* 1969年 - [[デビッド・バウティスタ|バティスタ]]、プロレスラー
* [[1970年]] - [[山崎まさや]]、お笑い芸人(元[[ジョーダンズ]])
* 1970年 - [[中垣征一郎]]、トレーナー
* [[1971年]] - [[大塚和成]]、弁護士
* 1971年 - [[ジョゼップ・グアルディオラ]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1971年 - [[クリスチャン・フィッティパルディ]]、[[レーシングドライバー]]
* [[1972年]] - [[マイク・リーバーサル]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[屋敷伸之]]、将棋棋士
* [[1973年]] - [[中山忍]]、女優
* 1973年 - [[永田能隆]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[荒川良々]]、俳優
* 1974年 - [[田村たがめ]]、女優
* [[1975年]] - [[後藤由紀恵]]、歌人
* 1975年 - [[たまこ]]、元お笑い芸人(元[[三等分]])
* [[1977年]] - [[相川良太]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[IMAJO]]、ミュージシャン
* 1977年 - [[山本みゆき]]、[[演歌歌手]]
* [[1978年]] - [[アレクセイ・イグナショフ]]、[[プロフェッショナルファイター]]
* 1978年 - [[ブライアン・ファルケンボーグ]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[小島幸子]]、声優
* 1979年 - [[新井浩文]]、元俳優
* 1979年 - [[周杰倫]]、作曲家、歌手、俳優
* 1979年 - [[小川将俊]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ワンディ・ロドリゲス]]、プロ野球選手
* 1979年 - [[パウロ・フェレイラ]]、サッカー選手
* 1979年 - [[アナスタシア・グレベンキナ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1980年]] - [[TAKA (ヒップホップ・ミュージシャン)|TAKA]]、ミュージシャン
* 1980年 - [[林家ぼたん]]、落語家
* 1980年 - [[宇佐美多恵]]、漫画家
* 1980年 - [[最上嗣生]]、声優
* 1980年 - [[藤田和男 (野球)|藤田和男]]、元[[野球選手]]
* 1980年 - [[ロバート・グリーン (1980年生のサッカー選手)|ロバート・グリーン]]、[[サッカー選手]]
* [[1981年]] - [[つちやみえこ]]、元声優
* 1981年 - [[佐々木さやか]]、政治家
* 1981年 - [[實松一成]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[守本奈実]]、[[アナウンサー]]
* 1981年 - [[徐銘]]、フィギュアスケート選手
* 1981年 - [[宋倫]]、フィギュアスケート選手
* 1981年 - [[ブランドン・フェイヒー]]、プロ野球選手
* [[1982年]] - [[和倉聡美]]、フリーアナウンサー
* 1982年 - [[高橋正直]]、馬術競技選手
* 1982年 - [[ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー|バレー]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[寶智山幸観]]、元大相撲力士、年寄17代[[振分]]
* 1982年 - [[塚本浩二]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[井上聡 (バスケットボール)|井上聡]]、元プロバスケットボール選手
* 1983年 - [[上野まな]]、シンガーソングライター
* [[1984年]] - [[長谷部誠]]、サッカー選手
* 1984年 - [[橋爪皓佐]]、作曲家、クラシックギター奏者
* 1984年 - [[ジャスティン・トーマス]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[リッカルド・モントリーヴォ]]、元サッカー選手
* 1985年 - [[和田理沙]]、元女優
* 1985年 - [[伊藤華英]]、元水泳選手
* [[1986年]] - [[山崎育三郎]]、俳優
* 1986年 - [[白井悠介]]、声優
* [[1987年]] - [[広瀬章人]]、 [[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* [[1988年]] - [[王一梅]]、バレーボール選手
* 1988年 - [[神田直輝]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[佐土原かおり]]、声優
* 1988年 - [[ミゲル・メヒア (投手)|ミゲル・メヒア]]、プロ野球選手
* [[1989年]] - [[マイケル・ピネダ]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[南昌輝]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[鈴木康洋]]、俳優、タレント
* [[1990年]] - [[牧野結美]]、元[[アナウンサー]]
* 1990年 - [[中山由香]]、[[ファッションモデル]]、女優
* 1990年 - [[ギフト・ンゴエペ]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[ブレット・ロウリー]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[ハイレ・イブラヒモフ]]、陸上競技選手
* 1990年 - [[ホセ・イグナシオ・フェルナンデス・イグレシアス]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[鮎川太陽]]、俳優
* 1991年 - [[七菜香]]、ファッションモデル
* [[1992年]] - [[加東希望]]、モデル、女優
* 1992年 - [[石津悠]]、女優、ダンサー
* 1992年 - [[サビエル・バティスタ]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[惣田紗莉渚]]、アイドル(元[[SKE48]])
* 1993年 - [[森部万友佳]]、元女優
* 1993年 - [[佐野泰雄]]、元プロ野球選手
* 1993年 - [[藤原季節]]、俳優
* [[1994年]] - [[高橋周平]]、プロ野球選手
* 1994年 - [[中村沙織]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[鈴木竜士]]、競輪選手
* 1994年 - [[矢島慎也]]、サッカー選手
* 1994年 - [[真理奈]]、[[タレント]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[アイドル]](元[[シンデレラマジックEAST]])
* 1994年 - [[知英]]、女優、歌手([[KARA]])
* [[1995年]] - [[藤崎眞樹]]、ラグビー選手
* [[1996年]] - [[西永彩奈]]、グラビアアイドル
* [[1999年]] - [[小林私]]、シンガーソングライター
* [[2000年]]- [[安倍乙]]、女優、グラビアアイドル
* 2000年 - [[久保田紗友]]、女優
* 2000年 - [[小橋川飛鳥]]、俳優、スーツアクター
* [[2001年]] - [[露木志奈]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://diamond.jp/articles/-/267138 |accessdate=25 Jul 2023 |date=5 Apr 2021 |title=自然大好き少女を育んだ個性派幼稚園、山村留学 グリーンスクールという必然/露木志奈・環境活動家 |publisher=[[ダイヤモンド社]]}}</ref>、環境活動家
* 2001年 - [[富田鈴花]]、アイドル([[日向坂46]])
* 2001年 - 兵頭葵、アイドル([[STU48]])
* 2001年 - [[Novel Core]]、ラッパー
* [[2002年]] - [[若月大和]]、サッカー選手
* 2002年 - KANON、歌手([[新しい学校のリーダーズ]])
* [[2004年]] - [[筒井結愛]]、ファッションモデル
* [[2005年]] - [[戸井零士]]、プロ野球選手
* [[2006年]] - [[芹澤もあ]]、アイドル([[ukka]])
* 生年不明 - [[平尾明香]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W14-1156 |title=平尾 明香 |work=日本タレント名鑑 |publisher=[[VIPタイムズ社]] |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[高橋孝治]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kenproduction.co.jp/talent/118 |title=髙橋 孝治 |publisher=[[賢プロダクション]] |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[神本綾華]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.81produce.co.jp/dcms_plusdb/index.php/item?cell003=%E3%81%8B%E8%A1%8C&cell029=%E5%A5%B3%E6%80%A7&keyword=&cell028=&cell004=&name=%E7%A5%9E%E6%9C%AC%E3%80%80%E7%B6%BE%E8%8F%AF&id=376&label=1 |title=神本 綾華 |access-date=25 Jul 2023 |publisher=[[81プロデュース|株式会社81プロデュース]]}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[Lefty Hand Cream]]、ミュージシャン
== 忌日 ==
* [[紀元前52年]] - [[プブリウス・クロディウス・プルケル]]、[[古代ローマ]]の[[政治家]](* [[紀元前92年]])
* [[350年]] - [[コンスタンス1世]]、[[ローマ帝国|ローマ皇帝]](* [[323年]]頃)
* [[474年]] - [[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]、[[東ローマ帝国]][[東ローマ帝国の皇帝一覧|皇帝]](* [[400年]])
* [[819年]]([[弘仁]]9年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]])- [[藤原園人]]、[[平安時代]]の[[右大臣]](* [[756年]])
* [[1239年]]([[暦仁]]元年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]])- [[源智]]、[[浄土宗]]の[[僧]](* [[1183年]])
* [[1367年]] - [[ペドロ1世 (ポルトガル王)|ペドロ1世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(* [[1320年]])
* [[1470年]]([[文明 (日本)|文明]]2年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]])- [[後花園天皇]]、第102代[[天皇]](* [[1419年]])
* [[1525年]] - [[イサベル・デ・アウストリア]]、[[クリスチャン2世 (デンマーク王)|デンマーク王クリスチャン2世]]の王妃(* [[1501年]])
* [[1646年]]([[正保]]2年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[細川忠興]]<ref>{{Kotobank|細川忠興}}</ref>、[[小倉藩]]の初代藩主(* [[1563年]])
* [[1664年]]([[寛文]]3年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]])- [[野中兼山]]、[[土佐藩]]の[[家老]](* [[1615年]])
* [[1747年]] - [[アントニオ・リテレス]]、[[作曲家]](* [[1673年]])
* 1747年([[延享]]3年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]])- [[前田宗辰]]、第7代[[加賀藩|加賀藩主]](* [[1725年]])
* [[1769年]]([[明和]]5年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]])- [[白隠慧鶴]]、[[臨済宗]]の僧(* [[1686年]])
* [[1782年]] - [[ジョン・プリングル]]、[[医師]](* [[1707年]])
* [[1854年]]([[嘉永]]6年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]])- [[前田利友]]、第11代[[富山藩|富山藩主]](* [[1834年]])
* [[1859年]] - [[アルフレッド・ヴェイル]]、[[技術者]](* [[1807年]])
* [[1862年]] - [[ジョン・タイラー]]、第10代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1790年]])
* [[1867年]] - [[音吉]]、漂流民(* [[1819年]])
* [[1873年]] - 初代[[リットン男爵]][[エドワード・ブルワー=リットン]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1803年]])
* [[1878年]] - [[アントワーヌ・セザール・ベクレル]]、[[電気化学|電気化学者]](* [[1788年]])
* [[1890年]] - [[アマデオ1世 (スペイン王)|アマデオ1世]]、[[スペイン]]王(* [[1845年]])
* [[1911年]] - [[奥宮健之]]、社会運動家(* [[1857年]])
* [[1919年]] - [[ジョン (イギリス王子)|ジョン]]、[[イギリス]]の王族(* [[1905年]])
* [[1922年]] - [[吉良平治郎]]、[[郵便]]逓送員(* [[1886年]])
* [[1934年]] - [[オタカール・シェフチーク]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1852年]])
* [[1936年]] - [[ラドヤード・キップリング]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Rudyard-Kipling |title=Rudyard Kipling|British writer |access-date=25 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、小説家、[[児童文学作家一覧|児童文学者]]、[[詩人]](* [[1865年]])
* [[1940年]] - [[本因坊秀哉]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1874年]])
* [[1943年]] - [[大原孫三郎]]、[[実業家]]、[[大原美術館]]創始者(* [[1880年]])
* [[1957年]] - [[牧野富太郎]]、[[植物学|植物学者]](* [[1862年]])
* [[1967年]] - [[ヤン・スメテルリン]]、[[ピアニスト]](* [[1892年]])
* [[1975年]] - [[林家染語楼 (3代目)]]、[[落語家]](* [[1918年]])
* [[1976年]] - [[音丸]]、[[歌手]](* [[1906年]])
* [[1980年]] - [[岩田祐吉]]、[[俳優]](* [[1887年]])
* 1980年 - [[セシル・ビートン]]、[[写真家]](* [[1904年]])
* [[1981年]] - [[和久井節緒]]、俳優、[[声優]](* [[1932年]])
* [[1982年]] - [[三益愛子]]、[[俳優|女優]](* [[1910年]])
* [[1984年]] - [[レオ・カイリー]]、[[プロ野球選手]](* [[1929年]])
* [[1986年]] - [[石母田正]]、[[歴史学者]](* [[1912年]])
* [[1989年]] - [[ブルース・チャトウィン]]、小説家(* [[1940年]])
* [[1990年]] - [[尾形典男]]、[[政治学者]](* [[1915年]])
* 1990年 - [[ピエール・バルビゼ]]、[[ピアニスト]](* [[1922年]])
* [[1991年]] - [[ジャコモ・マンズー]]、[[彫刻家]](* [[1908年]])
* [[1994年]] - [[ロルフ・シンガー]]、[[菌類学|菌類学者]](* [[1904年]])
* [[1995年]] - [[アドルフ・ブーテナント]]、[[生化学|生化学者]](* [[1903年]])
* [[1996年]] - [[レオノール・フィニ]]、[[画家]](* [[1907年]])
* [[1999年]] - [[土居まさる]]、[[アナウンサー]](* [[1940年]])
* [[2001年]] - [[山本壮一郎]]、[[政治家]](* [[1919年]])
* [[2003年]] - [[ザ・シーク]]、[[プロレスラー]](* [[1924年]])
* 2003年 - [[ギャビン・ライアル]]、[[小説家]](* [[1932年]])
* [[2006年]] - [[クリフォード・ネルソン・パイル]]、[[シエラレオネ]][[国歌]]「[[高く我らは汝、自由の国を賞賛する]]」の[[作詞|作詞者]](* [[1933年]])
* [[2008年]] - [[南里征典]]、小説家(* [[1939年]])
* [[2009年]] - [[ヤン・ホラーク]]、[[ピアニスト]](* [[1943年]])
* [[2010年]] - [[ミッキー安川]]、タレント、ラジオパーソナリティ(* 1933年)
* 2010年 - [[ロバート・B・パーカー]]、[[小説家]](* [[1932年]])
* [[2011年]] - [[斎藤勝博]]、元プロ野球選手(* [[1944年]])
* [[2014年]] - [[岩見隆夫]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治評論家]]、[[毎日新聞]]特別顧問(* [[1935年]])
* [[2015年]] - [[岩下守道]]、元プロ野球選手(* [[1931年]])
* 2015年 - [[大豊泰昭]]、元プロ野球選手(* [[1963年]])
* [[2016年]] - [[グレン・フライ]]、ミュージシャン(* [[1948年]])
* [[2017年]] - [[パオロ・スタンツァーニ]]、[[自動車技術者の一覧|自動車技術者]](* [[1936年]])
* [[2020年]] - [[宍戸錠]]<ref>{{Cite web|和書|title=宍戸錠さん死因は虚血性心疾患、本人希望すでに密葬|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202001230000574.html|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=23 Jan 2020|accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、俳優(* [[1933年]])
* 2020年 - {{仮リンク|デイヴィッド・オルニー|en|David Olney}}、ミュージシャン(* [[1948年]])
* [[2021年]] - [[大城美佐子]]<ref>{{Cite web|和書 |title=沖縄民謡界の大御所歌手・大城美佐子さんが死去 84歳 |date=18 Jan 2021 |url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/694312 |publisher=[[沖縄タイムス]]プラス |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、[[民謡]][[歌手]](* [[1936年]])
* 2021年 - [[ジャン=ピエール・バクリ]] <ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3326980 |title=ジャンピエール・バクリさん死去 仏俳優、69歳 |website=AFP BB NEWS |date=19 Jan 2021 |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、俳優、脚本家(* [[1951年]])
* 2021年 - [[デュンダル・アリ・オスマン]] <ref>{{Cite web |url=https://www.dailysabah.com/turkey/diaspora/last-heir-to-ottoman-throne-passes-away-at-90 |title=Last heir to Ottoman throne passes away at 90 |publisher=Daily Sabah |date=19 Jan 2021 |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、[[トルコ]]の[[王位請求者|帝位請求者]]、[[オスマン家]]第45代家長(* [[1930年]])
* 2021年 - [[ドン・サットン]] <ref>{{Cite web|和書 |title=ドジャースの名投手 ドン・サットン氏が死去 75歳 ラソーダ元監督死去から11日 |website=Sponichi Annex |date=20 Jan 2021 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/01/20/kiji/20210120s00001007164000c.html |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=25 Jul 2023}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1945年]])
* 2021年 - [[ジュゼプ・メストレス・クアドレニ]] <ref>{{Cite web |url=https://scherzo.es/fallece-a-los-91-anos-el-compositor-josep-maria-mestres-quadreny/ |title=Fallece, a los 91 años, el compositor Josep Maria Mestres Quadreny |publisher=Scherzo |date=18 Jan 2021 |accessdate=25 Jul 2023 |language=スペイン語}}</ref>、作曲家(* [[1929年]])
== 記念日・年中行事 ==
* 初観音({{JPN}})
*: 観音様は、[[観音菩薩]]、観世音菩薩、観自在菩薩、救世菩薩など様々な呼び名を持つ。[[法華経]]「観世音菩薩普門品第二十五」に、「あまねく衆生を救うために相手に応じて33の姿に変える」と記されている観音様の縁日は毎月18日。そして、その年の最初の縁日を特に「初観音」という。[[京都府|京都]]の[[清水寺]]のほか、[[鎌倉市|鎌倉]]の[[長谷寺 (鎌倉市)|長谷観音]]、[[東京]][[浅草寺]]の「初観音」が有名。中でも、浅草寺の初観音には「亡者送り」という独特の悪魔封じの行事が行われ、多くの信者を集める<ref>{{Cite web|和書 |url=https://imidas.jp/rekigyoji/detail/L-55-074-08-01-G222.html |title=初観音|和の心|暦と行事 |access-date=24 Jul 2023 |publisher=[[イミダス|imidas]]・[[集英社]] |date=18 Jan 2008}}</ref>。
* 振袖火事の日(明暦の大火)({{JPN}})
*: [[1657年]](明暦3年)、1月18日から19日にかけて起こった大火事。因縁の振袖を焼いた火が風に煽られて町中に広がりという伝承を持ち、死者は3万人から10万人といわれている。[[江戸城]]天守閣が焼け落ちた他、多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失するなど、江戸の三大火最大の火災だった。本郷丸山の[[本妙寺 (豊島区)|本妙寺]](現在は豊島区に移転。)から出火したのが最初で、東京吉祥寺の地名の由来となった吉祥寺も、本郷から武蔵野に移転するなど、この大火をきっかけに江戸市中の多くの寺社が移転を余儀なくされた。
* 鯛供養弁天祭({{JPN}})
*: [[日蓮|日蓮聖人]]誕生の地として知られる[[千葉県]][[鴨川市]]小湊で『鯛供養弁天祭』が行なれる。日蓮聖人のご両親のお墓がある妙蓮寺より住職が恵比寿様を持ち、その後を小湊区民がウチワ太鼓を打ち、南妙法蓮華経とお経を唱え、妙の浦丸に乗船する。その後、大弁天様の前にて、漁船、遊覧船の海上安全、大漁祈願のお経を唱える。また、鯛の浦の鯛の供養も行う。なお、古来より鯛の浦では鯛は日蓮聖人の化身と言い伝えられており、地元の人で小湊地域海域でとれた真鯛を食べる人はいない<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tainoura.jp/event.html |title=神秘なイベント 鯛供養弁天祭り |access-date=24 Jul 2023 |publisher=小湊妙の浦遊覧船協業組合}}</ref>。
* 館林初市(だるま市)({{JPN}})
*: [[群馬県]][[館林市]]の本町通り・仲町で、130年余りの歴史がある「初市」が開催される。当日は、だるま供養も同時に開催され、会場にはたくさんのだるまが並ぶ。
* [[都営バス|都バス]]の日({{JPN}})
*: [[1924年]]1月18日に東京市営乗合バスが営業を開始したことに由来し、[[東京都交通局]]が制定。
* [[118番の日]]({{JPN}})
*: [[緊急通報用電話番号]][[118番]]の知名度向上のため、[[2011年]]1月18日より[[海上保安庁]]が制定。
* [[タイ王国軍]]の日({{THA}})
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0118|date=Jul 2023}}
* [[2004年]] - クラーケンイマジンが現れる。電王ロッドフォームに倒される。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0088年 - [[エゥーゴ]]が[[アクシズ]]と同盟締結。[[ティターンズ]]の拠点[[ア・バオア・クー|ゼダンの門]]を破壊。(アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[2034年]] - [[バトルガール ハイスクール#高校3年生|楠明日葉]]、ゲーム「[[バトルガール ハイスクール]]」に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bgirl_colopl|953894153510838272}}</ref><ref>電撃オンライン編集部『バトルガール ハイスクール 公式ビジュアルファンブック』KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016年4月27日。</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://colopl.co.jp/battlegirl-hs/chara/ |title=CHARACTER 高3 楠 明日葉 |access-date=2022-12-15 |publisher=COLOPL/Battle Girl HS Project}}</ref>
* 生年不明 - メロディ、[[サンリオ]]『[[マイメロディ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |title=マイメロディ |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/mymelody/ |access-date=2022-12-15 |publisher=[[サンリオ]]}}</ref>
* 生年不明 - 石井健太郎、漫画・アニメ『[[SLAM DUNK]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=井上雄彦|authorlink=井上雄彦|year=1995|title=SLAM DUNK|volume=23|page=47|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-871843-7}}</ref>
* 生年不明 - レオン・ウェイクフィールド、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1218187502898548737}}</ref>
* 生年不明 - 笹森日佐人、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1350821439235096578}}</ref>
* 生年不明 - バーニン、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-28/ |title=バーニン |access-date=2022-12-15 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 絵鳩早苗、漫画・アニメ『[[クズの本懐]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kuzunohonkai_tv|827719548895846400}}</ref>
* 生年不明 - 市井舞菜、漫画・アニメ『[[推しが武道館いってくれたら死ぬ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_oshibudo|1483091749325217796}}</ref>
* 生年不明 - 秋原雪花、ゲーム『[[結城友奈は勇者である|結城友奈は勇者である 花結いのきらめき]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=秋原 雪花 |url=https://yuyuyui.jp/character/character16.html |access-date=2022-12-15 |work=『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』 |publisher=[[KADOKAWA]]/[[オルトプラス]]}}</ref>
* 生年不明 - 観月マナ、ゲーム『[[WHITE ALBUM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aquaplus_jp|1350820176371990528}}</ref>
* 生年不明 - 神凪統、ゲーム『[[ボーイフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boykiraofficial|953794075521581057}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#北沢志保|北沢志保]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30006 |title=北沢 志保(きたざわ しほ) |access-date=2022-12-15 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - レム、ゲーム『[[あつまれ どうぶつの森]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/switch/acbaa/namelist/m01.html |title=島民名簿 1月 レム |access-date=2023-01-17 |publisher=[[任天堂]] |work=『あつまれ どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - チェルシー、ゲーム『あつまれ どうぶつの森』に登場するキャラクター
* 生年不明 - マレウス・ドラコニア、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/malleus |title=マレウス・ドラコニア |access-date=2022-12-15 |publisher=[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|Disney]] [[Aniplex]] |work=『TWISTED WONDERLAND』}}</ref>
* 生年不明 - 赤葉優花菜、メディアミックス『[[魔法少女大戦]]』に登場するキャラクター
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|18 January}}
{{新暦365日|1|17|1|19|[[12月18日]]|[[2月18日]]|[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]|0118|1|18}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-22T17:40:03Z | 2023-09-17T05:57:54Z | false | false | false | [
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== できごと ==
* [[420年]] - [[サーサーン朝]]第14代[[シャー]]、[[ヤズデギルド1世]]が暗殺される。
* [[754年]]([[天平勝宝]]5年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[鑑真]]が[[仏舎利]]を携え秋妻屋浦(現在の[[鹿児島県]][[南さつま市]][[坊津町秋目]])に上陸。
* [[1187年]]([[文治]]2年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[鎌倉幕府]]が[[鎮西奉行]]を設置する。
* [[1720年]] - [[スウェーデン]]と[[プロイセン王国|プロイセン]]が[[ストックホルム条約]]を締結。
* [[1757年]] - [[フレンチ・インディアン戦争]]: [[かんじきの戦い (1757年)|かんじきの戦い]]起こる。
* [[1793年]] - [[フランス王国|フランス]]国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が[[断頭台]]で処刑される。
* [[1868年]] - [[ヨーゼフ・シュトラウス]]のワルツ『[[天体の音楽]]』がウィーンで初演。
* [[1887年]] - [[東海道本線]]の旧揖斐川橋梁の供用開始。
* [[1899年]] - [[オペル]]自動車が事業を開始。
* [[1904年]] - [[レオシュ・ヤナーチェク]]のオペラ『[[イェヌーファ]]』が[[ブルノ]]の国立劇場で初演される。
* [[1907年]] - 東京株式相場が暴落し、[[戦後恐慌]]が始まる。
* [[1911年]] - 初の[[ラリー・モンテカルロ]]が開幕。
* [[1915年]] - [[デトロイト]]で社会福祉団体「[[キワニス]]」が発足。
* [[1919年]] - [[アイルランド]]で、[[シン・フェイン党]]が[[ドイル・エアラン|議会]]を設置してイギリスからの独立を宣言。
* [[1921年]] - [[リヴォルノ]]で[[イタリア共産党]]が結党。
* [[1925年]] - [[アルバニア]]で[[アフメド・ゾグー]]が[[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|共和国]]宣言を行う。
* [[1930年]] - [[ロンドン海軍軍縮会議]]が始まる。
* [[1932年]] - [[ソ連・フィンランド不可侵条約]]締結。
* [[1935年]] - [[広島県]][[尾道市]]から[[豊島 (広島県)|豊島]]に向かっていた定期連絡船大崎丸が沈没。11人死亡<ref>尾道-豊島間の定期船・大崎丸が沈没『中国新聞』昭和10年1月23日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p635 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1937年]] - 衆議院本会議において[[浜田国松]]が軍部批判。([[腹切り問答]])
* [[1940年]] - [[浅間丸事件]]: 英独間は戦争状態にあり、[[イギリス海軍]]の[[軽巡洋艦]]「[[リヴァプール (軽巡洋艦・2代)|リヴァプール]]」が、千葉県野島崎沖を航行中の[[浅間丸]]」を[[臨検]]し、[[ドイツ]]人乗客21名を逮捕した。
* [[1945年]] - [[新潟県]]小滝村(現:[[糸魚川市]])にて[[雪崩]]発生。民家一軒が全壊、6人死亡。
* [[1952年]] - 札幌市警警備課長・白鳥一雄警部が帰宅途中で射殺される。([[白鳥事件]])
* [[1954年]] - 世界初の[[原子力潜水艦]][[ノーチラス (原子力潜水艦)|ノーチラス号]]が進水。
* [[1962年]] - 大阪に交通科学館(現在の[[交通科学博物館]])が開館。
* [[1963年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系全国ネットで「[[キユーピー3分クッキング]]」放送開始。
* [[1968年]] - [[大韓民国|韓国]]で[[青瓦台襲撃未遂事件]]発生。
* 1968年 - [[ベトナム戦争]]:[[ケサンの戦い]]が始まる。
* 1968年 - [[チューレ空軍基地米軍機墜落事故]]。
* [[1972年]] - [[トリプラ州|トリプラ]]・[[メーガーラヤ州|メーガーラヤ]]が[[インド]]の州となる。
* [[1976年]] - [[イギリス]]と[[フランス]]が共同開発した超音速旅客機の[[コンコルド]]が定期運航を開始。
* [[1977年]] - [[ジミー・カーター]]米大統領が、[[ベトナム戦争]]での[[徴兵]]忌避者に対し無条件の全面恩赦。
* [[1995年]] - 未遂に終わったテロの計画「[[ボジンカ計画]]」の決行が予定されていた日。
* [[1998年]] - [[音楽ユニット]]「[[Kiroro]]」がメジャーデビュー。
* [[2002年]] - [[全日本空輸]]の[[エアバスA321]]型機が[[函館空港]]で操縦ミスによる着陸事故。3人負傷。([[全日空391便函館空港着陸失敗事故]])
* [[2006年]] - [[ICOCA]]と[[PiTaPa]]の相互利用を開始。
* 2006年 - [[大都市近郊区間 (JR)#新潟近郊区間|新潟近郊区間]]で[[Suica]]の使用を開始。
* [[2007年]] - [[宮崎県知事一覧|宮崎県知事]]に元[[タレント]]の[[東国原英夫]](そのまんま東)が初当選。
* 2007年 - [[駿河湾]]で[[深海]][[サメ|ザメ]][[ラブカ]]が生きたまま捕獲<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/modepress/2172325?pid=1272368 |title=深海に生息する珍しいサメ、「ラブカ」 - 静岡 |access-date=5 Jun 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |website=AFP BB News |date=25 Jan 2007}}</ref>。
* [[2010年]] - [[シチズンズ・ユナイテッド対FEC裁判]]。
* [[2011年]] - 吉本所属芸人[[間寛平]]が人類初の[[アースマラソン]]を完走。走行距離約41,000km。かかった日数は766日。
* [[2017年]] - 大相撲初場所14日目で大関[[稀勢の里]]が初優勝。
== 誕生日 ==
* [[1338年]] - [[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]、[[フランス王国|フランス]]王(+ [[1380年]])
* [[1598年]]([[慶長]]2年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[松平忠昌]]、[[福井藩|福井藩主]](+ [[1645年]])
* [[1667年]]([[寛文]]6年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[黒田直邦]]、[[下館藩|下館藩主]]、[[沼田藩|沼田藩主]](+ [[1735年]])
* [[1716年]]([[正徳 (日本)|正徳]]5年12月27日) - [[徳川宗武]]、[[徳川吉宗]]の三男、[[田安徳川家]]初代当主(+ [[1771年]])
* [[1723年]]([[享保]]7年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[松平頼多]]、[[常陸宍戸藩|宍戸藩主]](+ [[1766年]])
* [[1741年]]([[元文]]5年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[伊東祐福]]、[[飫肥藩|飫肥藩主]](+ [[1781年]])
* [[1752年]]([[宝暦]]元年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[相良長寛]]、[[人吉藩|人吉藩主]](+ [[1813年]])
* [[1777年]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[松平直暠]]、[[母里藩|母里藩主]](+ [[1796年]])
* [[1793年]]([[寛政]]4年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[戸沢正胤]]、[[新庄藩|新庄藩主]](+ [[1858年]])
* [[1801年]] - [[ジョン・バットマン]]、[[農家]]、[[探検家]](+ [[1839年]])
* [[1813年]] - [[ジョン・C・フレモント]]、探検家(+ [[1890年]])
* [[1824年]] - [[ストーンウォール・ジャクソン]]、[[軍人]](+ [[1863年]])
* [[1829年]] - [[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]、[[スウェーデン王]](+ [[1907年]])
* [[1836年]]([[天保]]6年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[酒井忠強]]、[[伊勢崎藩|伊勢崎藩主]](+ [[1885年]])
* [[1840年]](天保10年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[阿部正教]]、[[備後福山藩|備後福山藩主]](+ [[1861年]])
* [[1842年]](天保12年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[芳川顕正]]、[[官僚]]、[[政治家]](+ [[1920年]])
* [[1848年]] - [[アンリ・デュパルク]]、[[作曲家]](+ [[1933年]])
* [[1867年]] - [[マキシム・ウェイガン]]、軍人(+ [[1965年]])
* [[1869年]] - [[グリゴリー・ラスプーチン|グリゴリーラスプーチン]]、祈祷僧
* [[1878年]] - [[エゴン・フリーデル]]、[[批評家]]、[[哲学者]]、[[俳優]](+ [[1938年]])
* [[1885年]] - [[板垣征四郎]]、[[陸軍軍人]](+ [[1948年]])
* 1885年 - [[ウンベルト・ノビレ]]、[[探検家]]、軍人(+ [[1978年]])
* 1885年 - [[ロリング・クリスティ]]、[[外交官]]、官僚(+ [[1941年]])
* [[1887年]] - [[ヴォルフガング・ケーラー]]、[[心理学者]](+ [[1967年]])
* [[1889年]] - [[ピティリム・ソローキン]]、[[社会学|社会学者]](+ [[1968年]])
* [[1891年]] - [[片野重脩]]、[[政治家]]、[[実業家]](+ [[1978年]])
* 1891年 - [[フランシスコ・ラザロ]]、[[マラソン]]選手(+ [[1912年]])
* [[1895年]] - [[伊藤野枝]]、婦人解放運動家、[[アナキズム|アナキスト]](+ [[1923年]])
* 1895年 - [[クリストバル・バレンシアガ]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[1972年]])
* [[1899年]] - [[アレクサンドル・チェレプニン]]、作曲家(+ [[1977年]])
* [[1901年]] - [[リカルド・サモラ]]、[[サッカー選手]](+ [[1978年]])
* [[1905年]] - [[クリスチャン・ディオール]]、ファッションデザイナー(+ [[1957年]])
* [[1906年]] - [[永田雅一]]、[[映画]]製作者、[[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]]オーナー(+ [[1985年]])
* [[1912年]] - [[コンラート・ブロッホ]]、[[生化学|生化学者]](+ [[2000年]])
* [[1918年]] - [[アントニオ・ヤニグロ]]、[[チェリスト]]、[[指揮者]](+ [[1989年]])
* [[1921年]] - [[暁テル子]]、[[歌手]]、[[俳優|女優]](+ [[1962年]])
* [[1922年]] - [[テリー・サバラス]]、俳優(+ [[1994年]])
* 1922年 - [[ポール・スコフィールド]]、俳優(+ [[2008年]])
* 1922年 - [[石川忠雄]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[2007年]])
* [[1923年]] - [[ロラ・フローレス]]、歌手、[[ダンサー]]、女優(+ [[1995年]])
* [[1928年]] - [[渋沢利久]]、政治家
* [[1931年]] - [[久我美子]]、女優
* 1931年 - [[杉本秀太郎]]、[[フランス文学者]]、[[国際日本文化研究センター]]名誉教授(+ [[2015年]])
* [[1932年]] - [[稲盛和夫]]、経営者、[[京セラ]]創業者(+ [[2022年]])
* [[1934年]] - [[千野忠男]]、官僚(+[[2008年]])
* [[1935年]] - [[永田徹登]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2018年]])
* [[1936年]] - [[橋本幸治]]、映画プロデューサー、映画監督(+[[2005年]])
* 1936年 - [[笠原淳]]、小説家(+ [[2015年]])
* [[1938年]] - [[中村東蔵 (6代目)]]、歌舞伎役者
* 1938年 - [[種部儀康]]、元プロ野球選手
* 1938年 - [[ウルフマン・ジャック]]、[[ディスクジョッキー|DJ]](+ [[1995年]])
* [[1940年]] - [[ジャック・ニクラス]]、[[プロゴルファー]]
* 1940年 - [[大橋洋治]]、実業家
* 1940年 - [[竜雷太]]、俳優
* 1940年 - [[西脇興司]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[プラシド・ドミンゴ]]、[[テノール]][[歌手]]
* [[1942年]] - [[エドウィン・スター]]、歌手(+ [[2003年]])
* [[1943年]] - [[山本亘]]、俳優
* 1943年 - [[横山謙三]]、サッカー選手、指導者
* [[1944年]] - [[郷原洋行]]、元[[騎手]]、元[[調教師]](+[[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=郷原洋行氏が死去 76歳 ダービー2勝などG1・10勝の名騎手 14年競馬殿堂入り|website=Sponichi Annex|date=9 feb 2020|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2020/02/09/kiji/20200208s00004048526000c.html|publisher=[[スポーツニッポン]]|accessdate=5 Jun 2023}}</ref>)
* 1944年 - [[ウート・ウーギ]]、[[ヴァイオリニスト]]
* [[1945年]] - [[恵比寿まさ子]]、俳優、声優
* [[1947年]] - [[高田純次]]、タレント
* 1947年 - [[ボブ・レイノルズ (野球)|ボブ・レイノルズ]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[ビリー・オーシャン]]、歌手
* 1950年 - [[樋沢良信]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[佐藤剛 (音楽プロデューサー)|佐藤剛]]、[[音楽プロデューサー]]、[[ノンフィクション作家]](+ [[2023年]])
* [[1953年]] - [[ポール・アレン]]、[[マイクロソフト]]共同創業者(+ 2018年<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3193388?act=all |title=ポール・アレン氏が死去 米マイクロソフト創業者、65歳 |accessdate=5 Jun 2023 |date=16 Oct 2018 |publisher=[[フランス通信社]] |website=AFP BB News}}</ref>)
* [[1954年]] - [[三浦洋一 (俳優)|三浦洋一]]、俳優(+ [[2000年]])
* [[1955年]] - [[ジェフ・クーンズ]]、[[美術家]]
* [[1956年]] - [[ジーナ・デイヴィス]]、女優
* 1956年 - [[露の都]]、[[落語家]]
* [[1959年]] - [[京本政樹]]、俳優
* [[1960年]] - [[加藤高道]]、[[歌手]]([[狩人]])
* 1960年 - [[永野護]]、[[漫画家]]
* [[1963年]] - [[アキーム・オラジュワン]]、[[バスケットボール選手]]
* 1963年 - [[平尾誠二]]、元[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手、指導者(+ [[2016年]])
* [[1964年]] - [[中島徹 (音楽家)|中島徹]]、ジャズピアニスト
* [[1965年]] - [[和田昌裕]]、元サッカー選手、サッカー指導者
* 1965年 - [[ジャム・マスター・ジェイ]]、[[ディスクジョッキー]]([[Run-D.M.C.]])(+ [[2002年]])
* [[1966年]] - [[川津泰彦]]、声優
* [[1967年]] - [[藤沢とおる]]、漫画家
* 1967年 - [[宮崎吾朗]]、[[映画監督]]
* 1967年 - [[吉田博彦]]、[[ゲームクリエイター]]、実業家
* 1967年 - 川上つよし、ミュージシャン([[東京スカパラダイスオーケストラ]])
* [[1968年]] - [[斉木洋子]]、アナウンサー
* 1968年 - [[岡田展和]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[アルトゥール・ドミトリエフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1969年]] - [[猫井椿]]、[[漫画家]]([[CLAMP]])
* 1969年 - [[服部譲二]]、ヴァイオリニスト
* 1969年 - [[保村大和]]、俳優
* 1969年 - [[カリーナ・ロンバード]]、女優
* [[1970年]] - [[赤木高太郎]]、元[[騎手]]
* 1970年 - [[アレン・ボクシッチ]]、元サッカー選手
* 1970年 - [[ケン・レオン]]、[[俳優]]
* [[1971年]] - [[桂三ノ助]]、[[落語家]]
* [[1972年]] - [[光田康典]]、[[作曲家]]
* 1972年 - [[ジェームス・ボニチ]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[キャット・パワー]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1973年]] - [[GOMA]]、[[ディジュリドゥ]]奏者
* [[1974年]] - [[島津有理子]]、元[[アナウンサー]]
* [[1975年]] - [[ka-yu]]、[[ミュージシャン]](元[[Janne Da Arc]])
* 1975年 - [[井出有治]]、[[レーシングドライバー]]
* 1975年 - [[ニッキー・バット]]、元サッカー選手
* [[1976年]] - SHIGE、ミュージシャン([[ENDLESS]])
* 1976年 - [[西岡竜一朗]]、元俳優
* 1976年 - [[エマ・バントン]]、歌手
* [[1977年]] - [[フィリップ・ネヴィル]]、元サッカー選手
* [[1978年]] - [[斉藤正行]]、介護コンサルタント、[[実業家]]、[[評論家]]
* 1978年 - [[西山繭子]]、女優
* 1978年 - [[近藤修司]]、プロレスラー
* [[1979年]] - [[下窪陽介]]、元プロ野球選手
* 1979年 - 西森洋一、[[お笑い芸人]]([[モンスターエンジン]])
* 1979年 - [[イヌル・ダラティスタ]]、[[歌手]]
* 1979年 - [[ブライアン・オドリスコル]]、元ラグビー選手
* 1979年 - [[ジョーダン・ピール]]、[[コメディアン]]
* [[1980年]] - [[水樹奈々]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://mizukinana.jp/profile/index.html |title=水樹 奈々 |accessdate=5 Jun 2023 |website=OFFICIAL SITE NANA PARTY}}</ref>、[[声優]]、[[歌手]]
* 1980年 - 川原克己、お笑い芸人([[天竺鼠]])
* 1980年 - [[佐々木慎]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]
* 1980年 - [[北尾まどか]]、[[女流棋士 (将棋)]]
* 1980年 - [[松尾武 (アナウンサー)|松尾武]]、アナウンサー
* 1980年 - [[KEIJI]]、ダンサー([[EXILE]])
* 1980年 - KUBO-C、アーティスト([[DOBERMAN INFINITY]])
* [[1981年]] - [[出合正幸]]、俳優
* 1981年 - [[鍾欣桐]]、歌手、女優
* 1981年 - [[上町史織]]、ハンドボール選手
* 1981年 - [[ウィル・レデズマ]]、プロ野球選手
* [[1982年]] - [[西村晋弥]]、ミュージシャン([[シュノーケル (バンド)|シュノーケル]])
* 1982年 - [[米野智人]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[潮崎豪]]、[[プロレスラー]]
* 1982年 - [[ミシェウ・ジェファーソン・ナシメント]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[三重野葵]]、俳優
* [[1984年]] - [[荒生沙緒利]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1984年 - [[峰岸由香里]]、声優、ナレーター
* 1984年 - [[ダイス (お笑い)|ダイス]]、お笑い芸人
* 1984年 - [[ウェズ・モーガン]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[サーシャ・ピヴォヴァロヴァ]]、[[ファッションモデル]]
* 1985年 - [[原由実]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tower.jp/artist/1097255 |title=原由実 |publisher=[[タワーレコード|TOWER RECORDS]] ONLINE |accessdate=5 Jun 2023}}</ref>、[[声優]]
* 1985年 - [[山村隆太]]、ミュージシャン([[flumpool]])
* 1985年 - [[KENZO (ダンサー)|KENZO]]、ダンサー([[DA PUMP]])
* [[1986年]] - [[角島奈知]]、タレント、元[[ローカルアイドル]](元[[サンフラワー (アイドルグループ)|サンフラワー]])
* 1986年 - [[堀江翔太]]、ラグビー選手
* [[1987年]] - [[柴田愛之助]]、[[俳優]]
* 1987年 - [[チェイス・ダーノー]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[ジェイク・ディークマン]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[アシュトン・イートン]]、陸上競技選手
* 1988年 - [[辰巳奈都子]]、元[[グラビアアイドル]]、女優
* 1988年 - [[加納有沙]]、アナウンサー
* [[1989年]] - [[西田奈津美]]、グラビアアイドル、女優
* 1989年 - 本輝咲<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shochikugeino.co.jp/talents/motokisaki/ |title=本輝咲 |access-date=6 Jun 2023 |publisher=[[松竹芸能]]}}</ref>、俳優
* 1989年 - [[壱岐尾彩花]]、モデル
* 1989年 - [[小林寛 (野球)|小林寛]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[ヘンリク・ムヒタリアン]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[川端かなこ]]、モデル
* 1990年 - [[ジョー・ウィーランド]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[ホセ・ラミレス]]、プロ野球選手
* [[1991年]] - [[大河 (俳優)|大河]]、俳優
* 1991年 - [[クレイグ・ロバーツ]]、俳優
* [[1992年]] - [[宮元英光]]、俳優、モデル
* [[1993年]] - [[内野智香英]]、元バスケットボール選手
* 1993年 - [[吉村那奈美]]、声優、歌手
* 1993年 - 青木千春、元アイドル(元[[WHY@DOLL]])
* [[1994年]] - [[鈴木康平]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[グエン・コン・フォン]] サッカー選手
* [[1996年]] - [[マルコ・アセンシオ]]、サッカー選手
* [[1997年]] - [[ジェレミー・シャダ]]、俳優、声優
* 1997年 - [[橋本楓]]、タレント、元アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]21号)
* [[1997年]] - [[大石竜平]]、サッカー選手
* [[1998年]] - [[津森宥紀]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[神尾楓珠]]、俳優
* [[2000年]] - [[佐々木舞香]]、アイドル([[=LOVE]]、元穂の国娘。)
* [[2000年]] - 千寿うらら、元アイドル([[PPP! PiXiON]])
* 2000年 - [[小西詠斗]]、俳優
* 2000年 - [[夏目かな]]、女優
* [[2002年]] - 赤堀君江、アイドル([[SKE48]])
* 2002年 - ダイゴ(小林大悟)、アイドル([[TO1]])
* [[2004年]] - [[イングリッド・アレクサンドラ]]、[[ノルウェー]]王女
* [[2007年]] - 天野香乃愛、アイドル([[≒JOY]])
* [[2009年]] - 難波碧空([[LIL LEAGUE]])
* 生年不詳 - TETSU、[[ミュージシャン]]([[少年カミカゼ]])
* 生年不詳 - [[かみやまねき]]、原画家、イラストレーター
* 生年不明 - [[須嵜成幸]]、声優
* 生年不明 - [[高宮武郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/高宮武郎/ |title=高宮武郎 |access-date=5 Jun 2023 |publisher=[[NTTレゾナント|NTT Resonant Inc.]]}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[大坪瞳]]、声優
* 生年不明 - [[風花ましろ]]、声優
* 生年不明 - [[相葉ゆきこ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.brush-upone.com/talent/aiba_yukiko.php |title=相葉 ゆきこ |publisher=株式会社ブラッシュアップ・ワン |accessdate=5 Jun 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[MIMI (音楽家)|MIMI]]<ref>{{Twitter status|mimi_3mi|1616773404476182528}}</ref>、[[音楽家]]、[[ボカロP]]
* 成年不明 - [[ハラミちゃん]]、[[ピアニスト]]、[[YouTuber]]
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1999年]] - [[シンボリクリスエス]]、元[[競走馬]]、[[種牡馬]](+ [[2020年]])
== 忌日 ==
* [[304年]] - [[聖アグネス]]、[[キリスト教]]の[[聖人]](* [[291年]])
* [[420年]] - [[ヤズデギルド1世]]、[[サーサーン朝]]第14代[[シャー]]
* [[1330年]] - [[ジャンヌ2世 (ブルゴーニュ女伯)|ジャンヌ]]、[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世]]の妃(* [[1291年]])
* [[1344年]]([[興国]]5年/[[康永]]3年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[成良親王]]、[[征夷大将軍]]、[[後醍醐天皇]]の皇子(* [[1326年]])
* [[1398年]] - [[フリードリヒ5世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ5世]]、[[ニュルンベルク城伯]](* [[1333年]]頃)
* [[1491年]]([[延徳]]2年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[畠山義就]]、[[室町時代]]の[[武将]]
* [[1519年]] - [[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]、[[探検家]](* [[1475年]])
* [[1527年]] - [[フアン・デ・グリハルバ]]、[[コンキスタドール]](* [[1489年]])
* [[1531年]] - [[アンドレア・デル・サルト]]、[[画家]](* [[1486年]])
* [[1542年]]([[天文 (元号)|天文]]11年1月6日) - [[浅井亮政]]、[[近江国]]の[[戦国大名]](* [[1491年]])
* [[1552年]](天文21年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[六角定頼]]、近江国の戦国大名(* [[1495年]])
* [[1580年]]([[天正]]8年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[北畠具房]]、[[伊勢国]]の[[国司]](* [[1547年]])
* [[1683年]] - [[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー]]、[[イングランド]]の[[政治家]](* [[1621年]])
* [[1789年]] - [[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[哲学|哲学者]](* [[1723年]])
* [[1793年]] - [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]、[[フランス王国|フランス]]国王(* [[1754年]])
* [[1795年]] - [[ミシェル・コレット]]、[[作曲家]](* [[1707年]])
* [[1831年]] - [[アヒム・フォン・アルニム]]、[[詩人]](* [[1781年]])
* [[1846年]] - [[フランチェスコ4世 (モデナ公)|フランチェスコ4世]]、[[モデナ公国|モデナ公]](* [[1779年]])
* [[1851年]] - [[アルベルト・ロルツィング]]<ref>{{Cite web |title=Albert Lortzing {{!}} German composer |url=https://www.britannica.com/biography/Albert-Lortzing |access-date=5 Jun 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、作曲家(* [[1801年]])
* [[1857年]]([[安政]]3年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[古今亭志ん生 (初代)]]、[[落語家]](* [[1809年]])
* [[1870年]] - [[アレクサンドル・ゲルツェン]]、哲学者(* [[1812年]])
* [[1872年]] - [[フランツ・グリルパルツァー]]、[[劇作家]](* [[1791年]])
* 1872年 - [[トマス・ブラッグ]]、[[アメリカ連合国司法長官]](* [[1810年]])
* [[1876年]] - [[酒井忠氏]]、第13代[[小浜藩|小浜藩主]](* [[1835年]])
* [[1884年]] - [[オーギュスト・フランショーム]]、[[チェリスト]]、[[作曲家]](* [[1808年]])
* [[1892年]] - [[ジョン・クーチ・アダムズ]]、[[天文学者]]、[[数学者]](* [[1819年]])
* [[1894年]] - [[ギヨーム・ルクー]]、作曲家(* [[1870年]])
* [[1900年]] - [[エドゥアール・リウー]]、[[イラストレーター]]、[[画家]](* [[1833年]])
* [[1901年]] - [[イライシャ・グレイ]]、[[発明家]](* [[1835年]])
* [[1914年]] - [[テオドール・キッテルセン]]、画家、[[芸術家]](* [[1857年]])
* [[1919年]] - [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]、[[大韓帝国]][[皇帝]](* [[1852年]])
* 1919年 - [[ミハイル・トゥガン=バラノフスキー]]、[[経済学者]](* [[1865年]])
* [[1922年]] - [[オレーター・シェーファー]]、[[プロ野球選手]](* [[1851年]])
* [[1924年]] - [[ウラジーミル・レーニン]]、[[ボリシェヴィキ]]指導者(* [[1870年]])
* [[1926年]] - [[カミッロ・ゴルジ]]、[[医学者]](* [[1843年]])
* [[1928年]] - [[ジョージ・ワシントン・ゲーソルズ]]、[[技術者]]、[[パナマ運河]]地域初代総督(* [[1858年]])
* [[1931年]] - [[フェリックス・ブルーメンフェルト]]、作曲家(* [[1863年]])
* [[1935年]] - [[ペール・エークストレム]]、[[画家]](* [[1844年]])
* [[1938年]] - [[ジョルジュ・メリエス]]、[[映画監督]](* [[1861年]])
* [[1940年]] - [[ジェフリー・ホール=セイ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1864年]])
* [[1944年]] - [[ラス・ビハリ・ボース]]、[[インド]]独立運動の指導者(* [[1886年]])
* [[1946年]] - [[杉田久女]]、[[俳人]](* [[1890年]])
* [[1948年]] - [[エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ]]、作曲家(* [[1876年]])
* [[1950年]] - [[ジョージ・オーウェル]]、[[作家]](* [[1903年]])
* [[1951年]] - [[宮本百合子]]、[[小説家]](* [[1899年]])
* [[1955年]] - [[アーチー・ハーン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1880年]])
* [[1958年]] - [[アタウルフォ・アルヘンタ]]、[[指揮者]](* [[1913年]])
* [[1959年]] - [[セシル・B・デミル]]、[[映画監督]](* [[1881年]])
* [[1971年]] - [[リチャード・ラッセル・ジュニア]]、第66代 [[ジョージア州知事]](* [[1897年]])
* [[1972年]] - [[磯永吉]]、[[農学|農学者]](* [[1886年]])
* [[1974年]] - [[浜野徹太郎]]、政治家(* [[1885年]])
* [[1978年]] - [[ディット・クラッパー]]、[[アイスホッケー]]選手(* [[1907年]])
* 1978年 - [[尾留川正平]]、[[地理学者]]<ref>岸本実(1978)"尾留川正平教授の逝去を悼む"[[立正大学]]文学部論叢.61:3-6.(3ページより)</ref>(* [[1911年]]<ref>地理学研究会 編(1975)"尾留川正平先生略歴・著作目録"[[東京教育大学]]地理学研究報告.XIX:1-10.(1ページより)</ref>)
* [[1983年]] - [[里見弴]]、小説家(* [[1888年]])
* [[1984年]] - [[ジャッキー・ウィルソン (ミュージシャン)|ジャッキー・ウィルソン]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手]](* [[1934年]])
* 1984年 - [[森安重勝]]、[[騎手]](* [[1937年]])
* [[1986年]] - [[吉江英四郎]]、元プロ野球選手(* [[1922年]])
* [[1987年]] - [[梶原一騎]]、[[漫画原作者]]、[[作家]](* [[1936年]])
* [[1990年]] - [[ヴィルヘルム・フリットナー]]、[[教育学|教育学者]](* [[1889年]])
* [[1991年]] - [[桑田武]]、元プロ野球選手(* [[1937年]])
* [[1993年]] - [[チャーリー・ゲーリンジャー]]、プロ野球選手(* [[1903年]])
* [[1996年]] - [[横山やすし]]、[[漫才師]](* [[1944年]])
* [[1997年]] - [[百瀬晋六]]、自動車技術者(* [[1919年]])
* [[1997年]] - [[伊藤和夫]]、[[予備校]]講師(* [[1927年]])
* [[1998年]] - [[近藤喜文]]、[[アニメーター]](* [[1950年]])
* [[1999年]] - [[上田音市]]、[[部落問題|部落解放運動家]](* [[1897年]])
* 1999年 - [[チャールズ・ブラウン]]、[[ブルース]][[ピアニスト]]、歌手(* [[1922年]])
* [[2001年]] - [[伊藤鑛二]]、[[アナウンサー]](* [[1933年]])
* [[2002年]] - [[倉田準二]]、映画監督(* [[1930年]])
* 2002年 - [[ペギー・リー]]、歌手(* [[1920年]])
* [[2006年]] - [[イブラヒム・ルゴヴァ]]、[[コソボ|コソボ自治州]]大統領(* [[1944年]])
* [[2007年]] - [[マリア・チオンカン]]、陸上競技選手(* [[1977年]])
* 2007年 - [[U;Nee]]、歌手、[[俳優|女優]](* [[1981年]])
* [[2008年]] - [[浜本万三]]、[[厚生労働大臣|労働大臣]](* [[1920年]])
* 2008年 - [[加藤博一]]、元[[プロ野球選手]](* [[1951年]])
* [[2011年]] - [[亜庭じゅん]]、[[漫画評論|漫画評論家]](* [[1950年]])
* [[2012年]] - [[石岡瑛子]]、[[アートディレクター]]、[[デザイナー]](* [[1938年]])
* 2012年 - [[康永燮]]、[[政治家]]、[[宗教家]](* [[1931年]])
* [[2013年]] - [[佐藤泰三]]、政治家(* [[1924年]])
* 2013年 - [[マイケル・ウィナー]]、映画監督(* [[1935年]])
* [[2015年]] - [[陳舜臣]]、小説家(* [[1924年]])
* 2015年 - [[井本隆]]、元プロ野球選手(* [[1950年]])
* [[2017年]] - [[松方弘樹]]、俳優(* [[1942年]])
* [[2018年]] - [[西部邁]]、[[評論家]](* [[1939年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=評論家・西部邁さん死去、多摩川で自殺か 78歳 |publisher=[[産経新聞]] |date=21 Jan 2018 |url=https://www.sankei.com/article/20180121-7YYGHXXUQVKG3N6WQTQLHXOPEA/ |accessdate=5 Jun 2023}}</ref>)
* [[2019年]] - [[エミリアーノ・サラ]]、サッカー選手(* [[1990年]])
* [[2021年]] - [[ナタリー・ドロン]]、女優(* [[1941年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3327667|title=仏女優ナタリー・ドロンさん死去、79歳 「世界一の美女」とも|website=AFP BB NEWS|date=22 Jan 2021|accessdate=5 Jun 2023}}</ref>)
* [[2023年]] - [[向井政生]]、アナウンサー(* [[1963年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[大寒]]({{JPN}} 2008年・2012年)
*: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が300度の時で、寒さが最も厳しくなるころ。
* 聖アグネスの祝日([[キリスト教]])
*: [[聖アグネス]]の[[聖名祝日]]。聖アグネス殉教の日。
* {{仮リンク|アルタグラシアの聖母の日|en|Día de la Altagracia}}({{DOM}})
* ライバルが手を結ぶ日({{JPN}})
*: [[慶応]]2年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]](旧暦。新暦では[[1866年]][[3月7日]])、[[坂本龍馬]]らの仲介により長州藩と薩摩藩が[[薩長同盟]]を結んだ。
* 料理番組の日({{JPN}})
*: [[1937年]]のこの日、[[英国放送協会|BBC]]が世界初の[[料理番組]]『[[夕べの料理]]』を開始したことにちなむ。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0121|date=Jun 2023}}
*1957年(昭和32年)- 朝、[[香椎]]潟で[[情死]]とみられる男女の死体が発見される。夜、双葉商会の河西が[[札幌駅]]で安田辰郎を出迎える。(『[[点と線]]』)
*2004年(平成16年)竜崎ルエ(Luxaky Luee)が刑務所内で原因不明の心臓麻痺で死亡。(小説『DEATH NOTE アナザーノートロサンゼルスBB連続殺人事件』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 山本元柳斎重國、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=久保帯人 |authorlink=久保帯人 |year=2006 |title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page=200 |publisher=[[集英社]] |isbn=4-08-874079-3}}</ref>
* 生年不明 - 雲外鏡、漫画・アニメ『[[貧乏神が!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 危宿(うるみや)、漫画『[[ふしぎ遊戯 玄武開伝]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|fushigiyugi_30|1616450705317056513}}</ref>
* 生年不明 - 雪代千歳、漫画『[[東京★イノセント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=鳴見なる |authorlink=鳴見なる |year=2007 |title=東京★イノセント |volume=3 |page=98 |publisher=[[スクウェア・エニックス]] |isbn=978-4-7575-2166-7}}</ref>
* 生年不明 - 大室撫子、漫画『[[ゆるゆり]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=なもり |authorlink=なもり |year=2013 |title=なもり画集 ゆるなもり |page=5 |publisher=[[一迅社]] |isbn=978-4-7580-7260-1}}</ref>
* 生年不明 - ラファエル、小説・アニメ『[[乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…|乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|hamehura|1351907336017756160}}</ref>
* 生年不明 - 椎名ひより、小説『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/shiina.html |title=椎名 ひより |accessdate=2023-02-05 |publisher=[[MF文庫J]] [[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref>
* 生年不明 - 本郷主鷹、アニメ『[[Number24]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://number24-anime.com/character/kazutakahongou/ |title=黄風院大学 本郷主鷹 |access-date=2023-02-05 |publisher=[[ムービック|movic]] |work=『Number24』}}</ref>
* 生年不明 - 伊吹泉太郎、アニメ『[[リーマンズクラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://rymansclub.com/character/mitsuhoshi/ |title=ミツホシ銀行 伊吹泉太郎 |access-date=2023-02-05 |publisher=Team RMC/サンライトビバレッジ広報部 |work=『リーマンズクラブ』}}</ref>
* 生年不明 - プチ・キャラット、キャラクターコンテンツ『[[デ・ジ・キャラット]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.broccoli.co.jp/dejiko/chara.php |title=キャラクター プチ・キャラット |access-date=2023-02-05 |publisher=[[ブロッコリー (企業)|BROCCORI]] |work=『デ・ジ・キャラット』}}</ref>
* 生年不明 - 園田、キャラクターコンテンツ『おかえり園田くん』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://pbs.twimg.com/media/CZKKWUyVAAAfIQw.jpg:large |title=園田 |access-date=2023-02-05 |publisher=KOIZUMI LIFETEX CO., LTD. |website=おかえり園田くん(公式) Okaeri Sonoda Kun - Dona Paula}}</ref>
* 生年不明 - ギース・ハワード、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kof_allstar|1219273375635259394}}</ref>
* 生年不明 - ゲンジ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 ゲンジ |access-date=2023-02-05 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref>
* 生年不明 - 胡ノ宮環、ゲーム・アニメ『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal|和書 |date = 2003-11 |journal = [[コンプティーク]] |page = 27 |publisher = [[角川書店]] }}</ref>
* 生年不明 - 大谷つくし、ゲーム・アニメ『[[イナズマイレブン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=2023-02-05}}</ref>
* 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#四条 貴音(しじょう たかね)|四条貴音]]、ゲーム『[[THE IDOLM@STER SP]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/10006 |title=四条 貴音(しじょう たかね) |access-date=2023-02-05 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |date = 2010-11 |journal = [[電撃G's magazine]] |page = 111 |publisher = [[アスキーメディアワークス]] }}</ref>
* 生年不明 - 千倉ムツミ、ゲーム『[[ゴッドイーター|GOD EATER 2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 松山久美子、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20153 |title=松山 久美子(まつやま くみこ) |access-date=2023-02-05 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 福山舞、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20136 |title=福山 舞(ふくやま まい) |access-date=2023-02-05 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - クロエ・アスマ、ゲーム『[[ガンスリンガー ストラトス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|gunsPR|951654017314295808}}</ref>
* 生年不明 - 鍋島ちより、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130408_150057/ |title=【ガールフレンド(仮)通信13】聖櫻学園のお料理マイスター 鍋島ちよりちゃん |access-date=2023-02-05 |publisher=ファミ通App |date=2013-04-08}}</ref>
* 生年不明 - 奥結望、ゲーム『[[ボーイフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boyfriend_kari|954730241888522241}}</ref>
* 生年不明 - ジェルバー、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=73&cate=name&cont=Gerber |title=ジェルバー |access-date=2023-02-05 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - シンボリクリスエス、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=symbolikriss |title=シンボリクリスエス |publisher=[[Cygames]] |accessdate=2023-02-05 |website=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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'''1月22日'''(いちがつにじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から22日目に当たり、年末まであと343日([[閏年]]では344日)ある。
== できごと ==
[[ファイル:Dmitri Shostakovich credit Deutsche Fotothek adjusted.jpg|thumb|200px|[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]作曲[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)]]初演(1934)]]
[[Image:apollo 5_on_pad.jpg|thumb|200px|[[アポロ5号]]打ち上げ(1968)発射台上のアポロ5号]]
[[ファイル:JNR 117 series EMU 531 W.JPG|thumb|[[国鉄117系電車]](1980)営業開始]]
* [[646年]]([[大化]]2年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[大化の改新]]: [[改新の詔]]が発布される。
* [[1506年]] - [[スイス傭兵]]の最初の150人が[[教皇領|ローマ教皇領]]に到着。
* [[1521年]] - 神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が[[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]を召集し、[[マルティン・ルター]]を召喚。
* [[1771年]] - [[スペイン]]が[[イギリス]]領[[フォークランド諸島]]の{{仮リンク|ポート・エグモント|en|Port Egmont}}を占領。
* [[1841年]]([[天保]]11年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[平田篤胤]]が[[儒教]]批判・[[尊王思想]]により[[江戸幕府]]から著述禁止・[[江戸]]退去命令を受ける。
* [[1863年]] - [[ロシア帝国]]支配下の[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]で[[一月蜂起]]が始まる。
* [[1870年]] - 工部省の提旗は白布に赤文字で「工」と書くことが定められる。
* [[1879年]] - [[ズールー戦争]]: {{仮リンク|イサンドルワナの戦い|en|Battle of Isandlwana}}・[[ロルクズ・ドリフトの戦い]]
* [[1889年]] - コロムビア・フォノグラフ(現在の[[コロムビア・レコード]])が創業。
* 1889年 - 徴兵令改正(戸主の徴兵猶予を廃止)。
* [[1901年]] - [[イギリス]]で、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王が死去し、息子の[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]が王位を継承<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Edward-VII |title=Edward VII|king of Great Britain and Ireland |access-date=28 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。戴冠式は、[[1902年]][[8月2日]]。
* [[1903年]] - [[アメリカ]]と[[コロンビア]]が[[パナマ地峡]]の米国の[[租借]]権を認める{{仮リンク|ヘイ・エラン条約|en|Hay–Herrán Treaty|es|Tratado Herrán-Hay}}に調印。コロンビア[[上院]]の否決で承認されず。
* [[1905年]]([[ユリウス暦]]1905年[[1月9日]]) - ロシアの首都[[サンクトペテルブルク]]で、労働者のデモ隊に軍隊が発砲。1千人以上死亡。[[ロシア革命]]のきっかけとなる([[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]])。
* [[1916年]] - 初の国産[[飛行船]]である陸軍の「[[雄飛 (飛行船)|雄飛号]]」が所沢~大阪間で実験飛行。
* [[1917年]] - [[ウッドロウ・ウィルソン]]米大統領が、「勝利なき平和を」と[[第一次世界大戦]]休戦を両陣営に呼びかける。
* [[1919年]] - [[ウクライナ人民共和国]]と[[西ウクライナ人民共和国]]が{{仮リンク|ウクライナ統一条約|en|Act Zluky|label=統一条約}}に調印。ウクライナが統一された<ref>{{Cite web |url=https://pm.gc.ca/en/news/statements/2023/01/22/statement-prime-minister-day-unity-ukraine |title=Statement by the Prime Minister on the Day of Unity of Ukraine |access-date=28 Mar 2023 |publisher=Prime Minister of Canada Justin Trudeau |date=22 Jan 2022}}</ref>。
* [[1924年]] - [[労働党 (イギリス)|労働党]]党首の[[ラムゼイ・マクドナルド]]が[[イギリスの首相|イギリス首相]]兼外務大臣に就任<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Ramsay-MacDonald |title=Ramsay MacDonald|prime minister of United Kingdom |access-date=28 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。イギリス史上初の労働党出身の首相。
* [[1934年]] - [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]のオペラ[[ムツェンスク郡のマクベス夫人 (オペラ)|ムツェンスク郡のマクベス夫人]]がレニングラードで初演される。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: イギリス軍の[[コンパス作戦]]でイタリアの[[トブルク]]要塞が陥落。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[アンツィオの戦い]]が始まる。
* [[1946年]] - ソ連の支援により{{仮リンク|カズィー・ムハンメド|en|Qazi Muhammad}}が[[マハバード共和国]]の成立を宣言。
* [[1959年]] - [[修学旅行列車]]の愛称が「ひので」と「きぼう」に決定。
* [[1961年]] - [[近畿日本鉄道|近鉄]][[伊勢電気鉄道|伊勢線]]の[[江戸橋駅]]〜[[新松阪駅]]間が廃止される<ref>{{Cite book |和書|author=今尾 恵介|date=2010-03-30|title=新・鉄道廃線跡を歩く3 北陸・信州・東海編 |pages=178~184,222|isbn=978-4533078606}}</ref>。
* 1961年 - [[サンタマリア号乗っ取り事件]]が発生。
* [[1962年]] - [[米州機構]]が[[キューバ]]を除名。
* [[1964年]] - この日発売の[[週刊少年サンデー]]([[小学館]])に[[藤子不二雄]]の国民的[[漫画]]『[[オバケのQ太郎]]』が連載を開始。
* [[1968年]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が「[[アポロ5号]]」を打ち上げ<ref>{{Cite web |url=https://www.nasa.gov/centers/marshall/history/this-week-in-nasa-history-apollo-5-launches-jan-22-1968.html |title=This Week in NASA History: Apollo 5 Launches – Jan. 22, 1968 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=NASA National Aeronautics and Space Administration |date=24 Jan 2018}}</ref>。[[アポロ月着陸船]]の無人飛行実験を行う。
* [[1969年]] - [[ソビエト連邦の指導者の一覧|ソ連の最高指導者]][[レオニード・ブレジネフ]]の{{仮リンク|ブレジネフ暗殺未遂事件|en|Brezhnev assassination attempt|label=暗殺未遂事件}}。
* [[1970年]] - [[ボーイング747]]「ジャンボジェット」が[[パンアメリカン航空]]のニューヨーク-ロンドン線で初就航。
* [[1973年]] - [[合衆国最高裁判所|米最高裁]]が[[人工妊娠中絶|妊娠中絶]]を規制する米国内法の大部分を[[違憲審査制|違憲無効]]とする判断を示す([[ロー対ウェイド事件]])。
* [[1975年]] - [[中国地方]]で大雪。各地で早朝から[[送電線]]が次々と切断され、約22万戸が30分から5時間にわたり停電した<ref>雪で停電 22万世帯暗い昼『中国新聞』昭和50年1月23日朝刊15面</ref>。
* 1975年 - [[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|阪神三宮駅]]の地下2階の空調設備から火災。黒煙が地下街のほか駅構内に流れ出して数百人が避難<ref>黒煙地下街包む 火元は空調 数百人避難『中国新聞』昭和50年1月23日朝刊15面</ref>。
* [[1976年]] - [[1971年]]に発生した連続女性殺人事件の犯人、[[大久保清]]の[[死刑]]が[[東京拘置所]]で執行される。
* [[1978年]] - 流星の貴公子と呼ばれた名馬[[テンポイント]]が日経新春杯で開放骨折。手術を施し闘病生活に入るが、同年[[3月5日]]蹄葉炎により死亡した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://uma-furi.com/euthanasia/ |title=競走馬と安楽死〜ディープインパクトとテンポイント〜 |work=競馬コラム&ニュース「ウマフリ」 |date=28 Dec 2019 |accessdate=28 Mar 2023}}</ref>。
* [[1980年]] - ソ連の[[アフガニスタン侵攻]]を批判した物理学者[[アンドレイ・サハロフ]]が[[閉鎖都市]][[ニジニ・ノヴゴロド|ゴーリキー市]]へ流刑。
* [[1981年]] - [[佐賀替え玉保険金殺人事件]]。
* [[1984年]] - [[スーパーボウル]]XVIIIのテレビ中継中、[[リドリー・スコット]]の手による[[Macintosh 128K]]のCM「[[1984 (広告)|1984]]」が放送される。2日後に発売。
* [[1992年]] - 臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)が、脳死が人の死であるという最終報告を公表<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jaam.jp/info/2006_1998/info-20060222_01.html |title=脳死判定と判定後の対応ついて-見解の提言 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=日本救急医学会 |date=21 Feb 2006}}</ref>。
* 1992年 - [[パルサー]][[PSR B1257+12]]で、史上初の[[太陽系外惑星]]が2つ発見される([[PSR B1257+12 B]]と[[PSR B1257+12 C]])。
* [[1986年]] - [[日本社会党]]が、「[[日本社会党の新宣言|新宣言]]」を採択<ref>{{Cite web|和書 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I3306758-00 |title=日本社会党の新宣言--愛と知と力による創造--第50回定期全国大会(1986年1月22日) |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]サーチ}}</ref>。「道」に代表される[[平和革命]]を通した社会主義建設を否定し、社会主義の目標を「一歩一歩改革を進め、社会の質的変革を実現していくこと」とした。
* [[2000年]] - [[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]東西線(現:[[東京メトロ東西線]])の[[原木中山駅]] - [[行徳駅]]間に[[妙典駅]]開業<ref>{{Cite press release|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 平成12年1月22日(土)東西線行徳・原木中山間に「妙典(みょうでん)駅」が開業します。|publisher=[[営団地下鉄]]|date=17 Jan 2000|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000409102811/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-01.html|accessdate=28 Mar 2023|archivedate=9 Apr 2000}}</ref>
* [[2001年]] - 横綱・[[曙太郎]]が引退。
* [[2003年]] - [[太陽系]]外へ向け飛行中の宇宙探査機「[[パイオニア10号]]」との通信が、この日の信号を最後に途絶。
* [[2008年]] - [[イラク]]の[[イラクの国旗|国旗]]から、[[バアス党]]のスローガンを表す3つの星が削除される。
* [[2013年]] - [[ロシア]]の小型衛星[[BLITS]]は衛星としての機能を喪失<ref>{{Cite web|和書 |title=中国衛星の破片が衝突、ロシアの小型衛星が使用不能に |url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35029308.html |website=CNN.co.jp |access-date=28 Mar 2023 |publisher=Cable News Network. A Warner Bros. Discovery Company. |date=10 Mar 2013}}</ref>。
* [[2021年]] - [[核兵器禁止条約]]が発効<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ1Q6FHFQ1QPTIL003.html |title=「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=22 Jan 2022}}</ref>。条約は2017年7月に国連で採択され、2020年10月に批准する国・地域が要件の50に達した。
== 誕生日 ==
* [[1561年]] - [[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Francis-Bacon-Viscount-Saint-Alban |title=Francis Bacon|British author, philosopher, and statesman |access-date=28 Mar 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[哲学者]](+ [[1626年]])
* [[1761年]]([[文政]]2年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[真田信弘]]、信濃藩第4代藩主 (+ [[1737年]])
* [[1774年]]([[安永 (元号)|安永]]2年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[松平頼看]]、[[西条藩]]第7代藩主 (+ [[1797年]])
* [[1788年]] - [[ジョージ・ゴードン・バイロン]]<ref>{{Cite web |title=Lord Byron {{!}} Biography, Poems, Don Juan, Daughter, & Facts {{!}} Britannica |url=https://www.britannica.com/biography/Lord-Byron-poet |access-date=28 May 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[詩人]](+ [[1824年]])
* [[1797年]] - [[マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア|マリア・レオポルディナ]]、[[ブラジル帝国]]皇后(+ [[1826年]])
* [[1820年]]([[文政]]2年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[増山正修]]、[[長島藩]]第7代藩主 (+ [[1869年]])
* [[1824年]](文政6年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[前田利平]]、[[大聖寺藩]]第11代藩主 (+ [[1849年]])
* [[1829年]](文政11年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[久留島通胤]]、[[森藩]]第11代藩主 (+ [[1859年]])
* [[1836年]]([[天保]]6年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[牧野貞久]]、[[笠間藩]]第7代藩主 (+ [[1850年]])
* [[1845年]] - [[ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ]]、[[地理学者]](+ [[1918年]])
* [[1849年]] - [[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ]]、[[劇作家]](+ [[1912年]])
* [[1858年]] - [[フレデリック・ルガード]]、[[軍人]]、[[探検家]]、[[香港総督]]、[[ナイジェリア]]総督(+ [[1945年]])
* [[1872年]]([[明治]]4年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[田山花袋]]、[[小説家]](+ [[1930年]])
* [[1874年]] - [[ジェイ・ヒューズ]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1924年]])
* [[1875年]] - [[D・W・グリフィス]]、[[映画監督]](+ [[1948年]])
* [[1877年]] - [[ヒャルマル・シャハト]]、[[財政家]](+ [[1970年]])
* [[1891年]] - [[モイズ・キスリング]]、[[画家]](+ [[1953年]])
* [[1893年]] - [[コンラート・ファイト]]、[[俳優]](+ [[1943年]])
* 1893年 - [[嶋田的浦]]、[[俳人]](+ [[1950年]])
* [[1902年]] - [[ダニエル・キンゼイ]]、陸上競技選手(+ [[1970年]])
* 1902年 - [[篠崎弘嗣]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1966年]])
* [[1904年]] - [[ジョージ・バランシン]]、[[バレエ]][[振付師]](+ [[1983年]])
* [[1905年]] - [[椋鳩十]]、小説家(+ 1987年)
* [[1906年]] - [[ロバート・E・ハワード]]、[[SF作家]]、[[ファンタジー]]作家(+ [[1936年]])
* [[1908年]] - [[レフ・ランダウ]]、[[物理学者]](+ [[1968年]])
* [[1909年]] - [[ウ・タント]]、第3代[[国際連合事務総長|国連事務総長]](+ [[1974年]])
* 1909年 - [[松木謙治郎]]、元[[プロ野球選手]]、監督(+ [[1986年]])
* 1909年 - [[モリス・スワデシュ]]、[[言語学者]](+ [[1967年]])
* [[1910年]] - [[西垣徳雄]]、元[[プロ野球監督]](+ [[1989年]])
* [[1911年]] - [[ブルーノ・クライスキー]]、[[政治家]](+ [[1990年]])
* [[1912年]] - [[森敦]]、小説家(+ [[1989年]])
* [[1916年]] - [[アンリ・デュティユー]]、[[作曲家]](+ [[2013年]])
* [[1918年]] - [[安田義章]]、[[AV男優]](+ [[2008年]])
* [[1923年]] - [[坂本三十次]]、政治家(+ [[2006年]])
* [[1924年]] - [[J・J・ジョンソン]]、[[トロンボーン]]奏者(+ [[2001年]])
* [[1926年]] - [[オーレル・ニコレ]]、[[フルート]]奏者(+ [[2016年]])
* [[1928年]] - [[網野善彦]]、[[歴史家]](+ [[2004年]])
* 1928年 - [[嶋本昭三]]、[[芸術家]]、[[現代美術家]](+ [[2013年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/smp/life/news/130127/lif1301270001-s.html |title=具体美術協会 嶋本昭三さん死去 85歳 障害者アートの普及に力 |publisher=[[産経デジタル|産経ニュース]] |date=27 Jan 2013 |accessdate=28 Mar 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210508145004/https://www.sankei.com/smp/life/news/130127/lif1301270001-s.html |archive-date=8 May 2021}}</ref>)
* [[1930年]] - [[南風洋子]]、[[俳優|女優]](+ [[2007年]])
* 1930年 - [[松平康隆]]、バレーボール選手、監督(+ [[2011年]])
* 1930年 - [[中村鋭一]]、[[フリーアナウンサー]]、[[タレント]]、政治家(+ [[2017年]])
* [[1931年]] - [[サム・クック]]、歌手(+ [[1964年]])
* [[1934年]] - [[松本明]]、テレビ[[ディレクター]]、[[テレビプロデューサー]](+ [[2022年]])
* [[1938年]] - [[小林恒人]]、[[政治家]](+ [[2020年]])
* [[1939年]] - [[千葉真一]]、俳優、[[歌手]]、[[映画監督]]、[[空手家]](+ [[2021年]])
* 1939年 - [[湯川れい子]]、[[作詞家]]、音楽評論家
* [[1941年]] - [[りんたろう]]、[[アニメ監督|アニメーション監督]]
* [[1944年]] - [[中島節男]]、元プロ野球選手(+ 2022年)
* [[1946年]] - [[鳳蘭]]、女優
* 1946年 - [[マルコム・マクラーレン]]、[[ファッションデザイナー]]、[[ミュージシャン]](+ [[2010年]])
* [[1947年]] - [[星野仙一]]、元プロ野球選手、監督(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/01/06/kiji/20180106s00001173071000c.html |title=星野仙一氏死去 死因はすい臓がん 楽天が発表「最期は昼寝でもしているような安らかな表情」 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=6 Jan 2018}}</ref>)
* 1947年 - [[帚木蓬生]]、小説家、[[精神科医]]
* [[1948年]] - [[たかの友梨]]、[[エステティシャン]]、美容研究家
* [[1949年]] - [[スティーヴ・ペリー]]、ミュージシャン([[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]])
* [[1950年]] - [[伊藤洋一]]、[[経済評論家]]
* 1950年 - [[海老沢泰久]]、[[小説家]]
* [[1950年]] - [[寺本光照]]、鉄道研究家
* [[1951年]] - [[能條純一]]、[[漫画家]]
* 1951年 - [[オンドレイ・ネペラ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1989年]])
* [[1953年]] - [[チョン・ミョンフン]]、[[指揮者]]
* 1953年 - [[ジム・ジャームッシュ]]、[[映画監督]]
* [[1955年]] - [[高橋惠子]]、女優
* 1955年 - [[大島蓉子]]、女優
* 1955年 - [[千葉均]]、[[ばんえい競走]][[騎手]]
* 1957年 - [[ブライアン・デイエット]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[小林誠二]]、元プロ野球選手
* 1958年 - [[筒井大助]]、元[[野球選手]]
* 1958年 - [[中村孝生]]、元[[陸上競技]]選手、[[立正大学]]陸上競技部駅伝部門監督
* [[1959年]] - [[岸本好弘]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1959年 - [[リンダ・ブレア]]、女優
* 1959年 - [[谷昌樹]]、声優
* 1959年 - [[石田博一]]、実業家
* [[1960年]] - [[岡部まり]]、タレント
* 1960年 - [[マイケル・ハッチェンス]]、歌手([[INXS]])(+ [[1997年]])
* [[1961年]] - [[山田雅人]]、タレント
* 1961年 - [[中原茂]]<ref name="localdream">{{Cite web|和書 |url=http://localdream.jp/nakahara |title=中原茂 |publisher=ローカルドリームプロダクション |accessdate=28 Mar 2023}}</ref>、声優
* [[1962年]] - [[謝長亨]]、元野球選手
* [[1963年]] - [[皆川おさむ]]、元[[子役]]、[[童謡歌手]]
* [[1964年]] - [[和田高明]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]][[演出家]]
* 1964年 - [[鈴木哲 (野球)|鈴木哲]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[森健次郎]]、[[プロ野球審判員]]
* [[1965年]] - [[ダイアン・レイン]]、女優
* 1966年 - [[前田和明]]、元[[サッカー選手]]
* [[1967年]] - [[中西学]]、[[プロレスラー]]
* [[1968年]] - [[HEATH]]、ベーシスト(+2023年)
* [[1969年]] - [[土家里織]]、女優
* 1969年 - [[井上美樹 (AV女優)|井上美樹]]、元[[AV女優]]
* [[1970年]] - [[高木理恵]]、[[タレント]]
* [[1972年]] - [[朴璐美]]<ref name="goo人名事典">{{Cite web|和書 |url=https://www.lal-official.com/parkromi |title=朴璐美 |work=芸能プロダクションLAL |accessdate=28 Mar 2023}}</ref>、声優
* [[1973年]] - [[ロジェリオ・セニ]]、サッカー選手
* 1973年 - [[河原純一]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[増健亘志]]、元[[大相撲]]力士
* 1974年 - 三橋貴志、俳優<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/0000007326/ |title=三橋貴志 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate=28 Mar 2023 |website=WEBザテレビジョン}}</ref>
* 1974年 - [[オルガ・マルコワ (フィギュアスケート選手)|オルガ・マルコワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1975年]] - [[今村涼子]]、[[気象予報士]]
* [[1977年]] - [[丸久美子]]、タレント
* 1977年 - [[中田英寿]]、元[[プロサッカー選手]]
* 1977年 - [[ヴァズゲン・アズロヤン]]、フィギュアスケート選手
* 1977年 - [[タミー・シアー]]、フィギュアスケート選手
* [[1978年]] - [[ショーン・フィギンズ]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[林威助]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[カルロス・ルイーズ (野球)|カルロス・ルイーズ]]、元プロ野球選手
* [[1980年]] - [[石川雅規]]、プロ野球選手
* 1980年 - [[脳みそ夫]]、お笑いタレント
* 1980年 - [[エフゲニ・アルドニン]]、サッカー選手
* 1981年 - [[末吉功治]]、俳優、声優
* [[1982年]] - [[ファブリシオ・コロッチーニ]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[陽耀勲]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[ウバルド・ヒメネス]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[香月良仁]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[吉村健二 (投手)|吉村健二]]、元野球選手
* 1984年 - [[馬場憂太]]、元サッカー選手
* 1984年 - [[レオン・ポウ]]、バスケットボール選手
* 1984年 - ライカ・オリヴェイラ([[:en:Raica Oliveira]])、モデル
* 1984年 - [[マセオ・リフテルス]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[呉猛]]、元プロ野球選手
* 1985年 - [[モハメド・シソッコ]]、サッカー選手
* 1985年 - [[オリアンティ・パナガリス]]、ギタリスト
* 1985年 - [[高智海吏]]、ハンドボール選手
* 1985年 - [[齊藤太一]]、ミュージカル俳優
* [[1986年]] - ダニエル・ウェイン・スミス([[:en:Daniel Wayne Smith]])、俳優(+ [[2006年]])
* 1986年 - [[はあちゅう|伊藤春香]]、[[作家]]、[[ブロガー]]
* [[1987年]] - [[仲澤広基]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[原田明絵]]、元AV女優、元[[アイドル]]、元[[歌手]]([[MUH〜]])
* 1987年 - アストリッド・ヤコブセン([[:en:Astrid Jacobsen]])、クロスカントリースキー選手
* 1987年 - [[縞田拓弥]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[ペ・ジヒョン]]、アナウンサー
* [[1988年]] - [[グレッグ・オデン]]、元バスケットボール選手
* [[1989年]] - [[山中誠晃]]、サッカー選手
* 1989年 - 菰岡真美、お笑いタレント(元[[めっちぇん]])
* 1989年 - [[アイリ (タレント)|アイリ]]、女優、モデル
* 1989年 - [[ルータ・ガヤウスカイテー]]、フィギュアスケート選手
* [[1990年]] - [[河合由貴]]、元バレーボール選手
* 1990年 - [[小松加奈]]、ミュージカル俳優
* 1990年 - [[西村光生]]、ボート競技選手
* 1990年 - [[百花繚乱 (タレント)|百花繚乱]]、インターネットタレント
* 1990年 - [[ジャスティン・エラスムス]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[アリーゼ・コルネ]]、[[テニスプレイヤー]]
* [[1991年]] - [[卜部里菜]]、バレーボール選手
* 1991年 - [[アシュリー・ポンセ]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[松永涼子]]、タレント
* 1992年 - [[新内眞衣]]、アイドル(元[[乃木坂46]])
* 1992年 - [[佐野友里子]]、タレント、元アイドル(元[[愛乙女☆DOLL]])
* [[1993年]] - [[シーラ・ヴィルナー]]、フィギュアスケート選手
* 1993年 - [[タスク (俳優)|タスク]] 、俳優(元[[ジャニーズJr.#関西ジャニーズJr.|関西ジャニーズJr.]])
* 1993年 - [[松浦匡希]]、ミュージシャン([[Official髭男dism]])
* 1993年 - [[赤坂沙絵]]、元[[グラビアアイドル]]
* [[1994年]] - [[えなこ]]、[[コスプレ|コスプレイヤー]]、タレント、グラビアアイドル
* [[1996年]] - [[田中美海]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=4049 |title=田中美海|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |work= |accessdate=28 Mar 2023 |publisher=animate Times}}</ref>、[[声優]]
* 1996年 - [[市來玲奈]]、アナウンサー、元アイドル(元乃木坂46)
* 1996年 - [[佐々木久美 (アイドル)|佐々木久美]]、アイドル([[日向坂46]])
* 1996年 - [[石川翔 (俳優)|石川翔]]、俳優
* [[1997年]] - [[鵜澤正太郎]]、俳優、声優
* 1997年 - [[畠山真莉愛]]、元子役
* 1997年 - [[生田絵梨花]]、女優、元アイドル(元乃木坂46)
* 1997年 - [[宮本侑芽]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W07-0379 |title=宮本侑芽 |work=日本タレント名鑑 |publisher=VIPタイムズ社 |accessdate=28 Mar 2023}}</ref>、女優、声優
* 1997年 - [[夏目卓実]]、俳優
* [[1999年]] - [[武田杏香]]、女優、歌手、元ダンサー(元[[E-girls]])
* 1999年 - [[清水陸哉]]<ref>{{Cite web|和書 |date=17 Oct 2016 |url=https://www.sanspo.com/article/20161017-PR4KQ5BEQVLZZF4PQECLWHBMPY/ |title=阪神ドラフト隠し玉は京都国際高・清水!通算37発の強肩&俊足外野手 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |accessdate=28 Mar 2023}}</ref>、元プロ野球選手
* 1999年 - [[朝日ななみ]]、女優
* [[2004年]] - [[佐藤圭汰]]、陸上選手
* 2004年 - [[宮世琉弥]]、 俳優
* [[2005年]] - 山下瞳月、アイドル([[櫻坂46]])
* [[2007年]] - [[海老原鼓]]、アイドル([[ME:I]])
* [[2009年]] - [[池川侑希弥]]、俳優
* 生年不詳 - [[青山ゆかり]]、声優
== 忌日 ==
* [[1552年]] - [[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]、[[イングランド]]の貴族・[[護国卿]](* [[1506年]])
* [[1560年]]([[嘉靖]]38年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[王直]]、貿易商人、[[倭寇]]の頭目(* 生年不詳)
* [[1592年]] - [[エリザベート・ドートリッシュ]]、[[フランス王国|フランス王]][[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の妃(* [[1554年]])
* [[1666年]] - [[シャー・ジャハーン]]、[[ムガル帝国]]第5代皇帝(* [[1592年]])
* [[1745年]]([[延享]]元年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[前田利隆]]、第4代[[富山藩|富山藩主]](* [[1690年]])
* [[1779年]] - [[ジェレマイア・ディクソン]]、[[天文学者]](* [[1733年]])
* [[1799年]] - [[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]<ref>{{Cite web |title=Horace Bénédict de Saussure {{!}} Swiss physicist |url=https://www.britannica.com/biography/Horace-Benedict-de-Saussure |website=Britannica |access-date=28 Mar 2023}}</ref>、[[科学者]](* [[1740年]])
* [[1851年]]([[嘉永]]3年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[国定忠治]]、[[侠客]](* [[1810年]])
* [[1889年]] - [[イグナシー・ドメイコ]]、[[地質学者]]、[[鉱物学者]](* [[1802年]])
* [[1893年]] - [[河竹黙阿弥]]、[[歌舞伎]][[狂言]]作者(* [[1816年]])
* [[1900年]] - [[デイビッド・エドワード・ヒューズ]]、電気技術者(* [[1831年]])
* [[1901年]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]、[[イギリス]]女王(* [[1819年]])
* [[1908年]] - [[アウグスト・ウィルヘルミ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1845年]])
* [[1918年]] - [[吉田東伍]]、[[歴史学者]]、[[地理学|地理学者]](* [[1864年]])
* [[1919年]] - [[カール・ラーション]]、[[画家]](* [[1853年]])
* [[1922年]] - [[フレデリック・バイエル]]、政治家(* [[1837年]])
* 1922年 - [[カミーユ・ジョルダン]]、[[数学者]](* [[1838年]])
* 1922年 - [[ウィリアム・クリスティ (天文学者)|ウィリアム・クリスティ]]、[[天文学者]](* [[1845年]])
* 1922年 - [[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]、第257代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1854年]])
* 1922年 - [[徳川慶久]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]](* [[1884年]])
* [[1936年]] - [[森本六爾]]、[[考古学者]](* [[1903年]])
* [[1938年]] - [[大ノ里萬助]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1892年]])
* 1938年 - [[今井清]]、[[陸軍中将]](* [[1882年]])
* [[1941年]] - [[林忠崇]]、第3代[[請西藩|請西藩主]](* [[1848年]])
* [[1942年]] - [[ルイス・サントップ]]、[[野球選手]](* [[1890年]])
* [[1945年]] - [[エルゼ・ラスカー=シューラー]]、[[詩人]](* [[1869年]])
* [[1948年]] - [[柳亭春楽]]、[[落語家]](* [[1901年]])
* [[1950年]] - [[コリンヌ・リュシェール]]、[[俳優|女優]](* [[1921年]])
* [[1955年]] - [[河原田稼吉]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[文部大臣]](* [[1886年]])
* [[1959年]] - [[エリザベス・ムーア]]、[[テニス]]選手(* [[1876年]])
* 1959年 - [[ケン・ウィリアムズ (外野手)|ケン・ウィリアムズ]]、[[プロ野球選手]](* [[1890年]])
* 1959年 - [[マイク・ホーソーン]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1929年]])
* [[1966年]] - [[川田順]]、[[歌人]]・[[実業家]](* [[1882年]])
* [[1968年]] - [[松永東]]、第45代[[衆議院議長]](* [[1887年]])
* 1968年 - [[デューク・カハナモク]]、[[水泳選手]](* [[1890年]])
* [[1970年]] - [[西角井正慶]]、[[日本文学研究者|国文学者]]、[[民俗学|民俗学者]](* [[1900年]])
* [[1973年]] - [[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]、第36代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1908年]])
* [[1974年]] - [[ジェラルド・クレメンス]]、天文学者(* 1908年)
* [[1976年]] - [[大久保清]]、元[[死刑囚]](* [[1935年]])
* [[1977年]] - [[パスカル・ペレス (ボクサー)|パスカル・ペレス]]、[[プロボクサー]](* [[1926年]])
* [[1979年]] - [[アリー・ハサン・サラーマ]]、[[ミュンヘンオリンピック事件]]の中心人物、[[フォース17]]創設者(* [[1940年]]?)
* [[1983年]] - [[波平暁男]]、[[歌手]](* [[1915年]])
* [[1984年]] - [[一万田尚登]]、第18代[[日本銀行]]総裁、[[大蔵大臣]](* [[1893年]])
* [[1985年]] - [[向坂逸郎]]、[[マルクス経済学|マルクス経済学者]]、[[思想家]](* [[1897年]])
* [[1989年]] - [[ウィリー・ウェルズ]]、元野球選手(* [[1905年]])
* [[1992年]] - [[染谷誠]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[衆議院議員]](* [[1918年]])
* [[1993年]] - [[安部公房]]、[[小説家]](* [[1924年]])
* [[1994年]] - [[灘尾弘吉]]、[[政治家]]、第60・61代衆議院議長(* [[1899年]])
* 1994年 - [[ジャン=ルイ・バロー]]、[[俳優]](* [[1910年]])
* 1994年 - [[テリー・サバラス]]、俳優(* [[1922年]])
* [[1995年]] - [[下田武三]]、[[外交官]]、[[最高裁判所裁判官]]、[[コミッショナー (日本プロ野球)|プロ野球コミッショナー]](* [[1907年]])
* [[1998年]] - [[ハロルド・リンゼル]]、[[神学者]](* [[1913年]])
* [[1999年]] - [[ジョージ・モッセ]]、[[歴史学者]](* [[1918年]])
* [[2001年]] - [[奥田八二]]、[[福岡県知事一覧|福岡県知事]](* [[1920年]])
* 2001年 - [[マルセ太郎]]、[[パントマイム]]芸人、俳優(* [[1933年]])
* 2001年 - [[トミー・エイジー]]、元プロ野球選手(* [[1942年]])
* [[2005年]] - [[コンスエロ・ベラスケス]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1924年]])
* [[2006年]] - [[川田正子]]、[[歌手]](* [[1934年]])
* 2006年 - [[高橋秀直]]、歴史学者(* [[1954年]])
* [[2007年]] - [[アベ・ピエール]]、[[神父]]、[[慈善]]活動家(* [[1912年]])
* 2007年 - [[千速晃]]、[[実業家]](* [[1935年]])
* 2007年 - [[わたなべぢゅんいち]]、[[アニメーター]](* 生年不明)
* [[2008年]] - [[クロード・ピロン]]、[[言語学|言語学者]]、[[心理学者]](* [[1931年]])
* 2008年 - [[ヒース・レジャー]]、俳優(* [[1979年]])
* [[2009年]] - [[梁羽生]]、武侠小説家(* [[1924年]])
* [[2010年]] - [[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]]、女優(* [[1929年]])
* [[2017年]] - [[中村雅哉]]、実業家(* [[1925年]])
* 2017年 - [[ヨーダノ・ベンチュラ]]、プロ野球選手(* [[1991年]])
* 2017年 - [[アンディ・マルテ]]、プロ野球選手(* 1983年)
* [[2018年]] - [[アーシュラ・K・ル=グウィン]]、[[ファンタジー]]・[[SF作家]](* [[1929年]])
* 2018年 - [[片平晋作]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanspo.com/article/20180123-3MWDJKGV7NNF7KVAC3SBWA4XP4/ |title=片平晋作さん死去 西武連続日本一に貢献、一本足打法で活躍 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=23 Jan 2018}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1949年]])
* [[2021年]] - [[ハンク・アーロン]]、プロ野球選手(* [[1934年]])
* 2021年 - [[ルートン・シェルトン]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202101230000128.html |title=ジャマイカ代表得点王が35歳で死去 ALSを公表 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=23 Jan 2021}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.footballchannel.jp/2021/01/23/post407351/ |title=ジャマイカ代表歴代最多得点者のシェルトン氏がALSで死去。35歳 |access-date=28 Mar 2023 |publisher=FOOTBALL CHANNEL |date=23 Jan 2021}}</ref>、サッカー選手(* [[1985年]])
* [[2023年]] - [[上野山功一]]、俳優(* [[1933年]])
== 記念日・年中行事 ==
*統一の日({{UKR}})
*: [[1919年]]のこの日、[[ウクライナ人民共和国]]と[[西ウクライナ人民共和国]]が{{仮リンク|ウクライナ統一条約|en|Act Zluky|label=統一条約}}に調印した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ukrinform.jp/rubric-society/3389979-yuerihaukurainaha-tong-yino-riquan-tude-guan-lian-xing-shi-kai-cui.html |title=1月22日はウクライナは「統一の日」 全土で関連行事開催 |access-date=2022-10-22 |publisher=Ukrinform(ウクライナ国営通信社) |date=2022-01-22}}</ref>。
*飛行船の日({{JPN}})
*: [[1916年]]1月22日に、初の国産[[飛行船]]である陸軍の「雄飛号」が所沢~豊橋(燃料補給)~大阪間で飛行を行ったことに由来<ref>{{Cite web|和書 |url=https://gendai.media/articles/-/69689 |title=1月22日 国産初の飛行船(1916年) |access-date=2022-10-22 |publisher=ブルーバックス編集部 [[講談社]] |date=2020-01-22}}</ref>。
*黙阿弥忌 ({{JPN}})
*: [[近松門左衛門]]、[[鶴屋南北]]とともに、三大歌舞伎作者のひとりといわれ「黙阿弥調」と呼ばれる独特な歌舞伎で後世に大きな影響を与えた歌舞伎役者[[河竹黙阿弥]]の命日。「三人吉三廓初買」「青砥稿花紅彩画」『小袖曾我薊色縫』などの名作を残した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://today.smartnews.com/20180122 |title=黙阿弥忌 |access-date=2022-10-22 |publisher=SmartNews |date=2018-01-22}}</ref>。
*[[ジャズの日]]({{JPN}})
*: 東京都内の老舗ジャズクラブのオーナーらによる「JAZZ DAY実行委員会」が[[2001年]]から実施。JAZZの"JA"がJanuary(1月)の先頭2文字であり、"ZZ"が"22"に似ていることから<ref>{{Cite web|和書 |url=http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/308-1-22 |title=1月22日はジャズの日 |access-date=2022-10-22 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館}}</ref>。
*カレーの日({{JPN}})
*:全日本カレー工業協同組合が2016年に制定、同年11月に日本記念日協会が認定した<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.curry.or.jp/currysday/imgs/20161122NR.pdf |title=冬もカレーをおいしく食べよう! 1 月 22 日を「カレーの日」に制定 |access-date=2022-10-22 |publisher=全日本カレー工業協同組合 |date=2016-11-22}}</ref>。カレーのよりいっそうの普及拡大により、健康で豊かな消費生活の実現に寄与するのが目的<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=18|isbn=978-4422021140}}</ref>。[[全国学校栄養士協議会]]が設立20周年記念事業の一環で全国学校給食統一献立日を設けることを提唱し、メニューを[[カレーライス]]、実施日を1982年1月22日としたことに由来する<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=109515077X00719811124 第95回国会参議院文教委員会第7号(1981年11月24日)](2022年1月22日閲覧)</ref>。実施にあたっては当時の文教委員会でも反対意見が多く、フジテレビ『[[トリビアの泉]]』によれば、賛同した学校は2割であった。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|date=2023年3月}}
* [[1931年]] - [[ミスカトニック大学]][[南極]]探検隊の調査用飛行機が[[狂気山脈]]を発見。着陸後に採掘調査を開始する。(小説『[[狂気の山脈にて]]』)<ref>{{Cite Book |和書 |author=H・P・ラヴクラフト|authorlink=ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|translator=[[大瀧啓裕]]|title=ラヴクラフト全集 4|publisher = [[東京創元社]] |year=1985-11-29 |page=161 |isbn=978-4488523046}}</ref>
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - 地球連邦軍の[[特殊部隊]]が極秘裏にレビル将軍奪還作戦を開始する。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1898年]] - グエン・テュ・アイン、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦]]』に登場するキャラクター
* [[1999年]] - 片山実波、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://wakeupgirls.jp/character03.html |title=片山 実波 |work=Wake Up, Girls! |accessdate=2022-09-17 |publisher=Green Leaves / Wake Up, Girls!製作委員会}}</ref>
* [[2019年]] - うさぎ、漫画・アニメ『[[ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|ngnchiikawa|1366393604655124486}}</ref>
* 生年不明 - 小ノ星海果、漫画・アニメ『[[星屑テレパス]]』の主人公<ref>{{Cite tweet|user=rasuko_okuma|author=大熊らすこ|number=1616994064309620737|title=小ノ星海果さん、お誕生日おめでとう!|date=2023-01-22|accessdate=2023-01-22|link=no}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=星屑テレパス 4|date=2023-09-27|publisher=[[芳文社]]|page=5|author=大熊らすこ|isbn=978-4-8322-7486-0}}</ref>
* 生年不明 - ゴーイング・メリー号、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場する麦わらの一味の海賊船<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Going_Merry.html |title=ゴーイング・メリー号 |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-17 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - メリー、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Merry.html |title=メリー |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-16 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 三上亮、漫画・アニメ『[[ホイッスル!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - マルコム=C=ルベリエ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2008-06-04|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page=106|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088742489}}</ref>
* 生年不明 - ヒデ、漫画・アニメ『[[ジモトがジャパン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shopro.co.jp/tv/jimoto-anime/special.html |title=ヒデ・ジャパンのバースデースイーツが 『プリロール』にて新登場! |access-date=2022-09-17 |publisher=林聖二/[[集英社]]・都道府拳部 |date=2020-01-10 |work=アニメ「ジモトがジャパン」公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - ミーちゃん、漫画・アニメ『[[戦勇。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im2998883 |title=戦勇キャラの誕生日 |access-date=2022-10-22 |publisher=ニコニコ静画 |author=春原ロビンソン |date=2013-04-06}}</ref>
* 生年不明 - 尾形百之助、漫画・アニメ『[[ゴールデンカムイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kamuy_official|1484728896319033345}}</ref>
* 生年不明 - 根木内つくし、漫画『[[つくしまっすぐライフ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - うさぎ、漫画・アニメ『[[ちいかわ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_chiikawa|1484692291566518272}}</ref>
* 生年不明 - 千葉沙千帆、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.hai-furi.com/character/06_07/ |title=千葉 沙千帆|CHARACTER |work=AAS/海上安全整備局 |website=劇場版 ハイスクール・フリート 公式サイト |accessdate=2022-09-17}}</ref>
* 生年不明 - 十条姫和、アニメ『[[刀使ノ巫女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://tojinomiko.jp/chara/02.html |title=CHARACTER 十条姫和 |access-date=2022-09-17 |publisher=TVアニメ『刀使ノ巫女』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 花園雪、キャラクターCD・アニメ『[[ツキウタ。 THE ANIMATION]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tsukino-pro.com/tsukiuta/character/yuki |title=01 花園 雪 |access-date=2022-09-17 |work=TUKIUTA}}</ref>
* 生年不明 - 滝川法生、小説・アニメ『[[ゴーストハント]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tv-tokyo.co.jp/contents/ghosthunt/chara/index.html |title=キャラクター 滝川 法生 |access-date=2022-09-17 |publisher=あにてれ:ゴーストハント}}</ref>
* 生年不明 - ゾフォル、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - フランソワ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 フランソワ |access-date=2022-09-16 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref>
* 生年不明 - ドロシー・ハイアット、ゲーム・アニメ『[[英雄伝説 空の軌跡]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 井ノ倉葵歩、ゲーム『[[ときめきメモリアル4]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - オリオン、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://showbyrock-anime-s.com/character/34.php |title=オリオン |publisher=Show By Rock!! Stars!! 公式サイト |date= |accessdate=2022-09-17}}</ref>
* 生年不明 - TOKIHARU、ゲーム・アニメ『[[DYNAMIC CHORD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|DYNAMICCHORD|1087545400859406337}}</ref>
* 生年不明 - ミチル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=152&cate=name&cont=Michiru |title=ミチル |access-date=2023-01-11 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 白銀リリィ、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/aikatsustars_02/character/chara_lily.html |title=白銀 リリィ |access-date=2022-09-17 |publisher=BNP/BANDAI, DENTSU, TV TOKYO |work=アイカツスターズ!}}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=バンダイナムコピクチャーズ(監修)|authorlink=バンダイナムコピクチャーズ|date=2016-09-14|title=アイカツスターズ! アイドル名かん|page=30|publisher= [[小学館]]|series=テレビ超ひゃっか|isbn=978-4097504184}}</ref>
* 生年不明 - 田山花袋、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1087364252845785089}}</ref>
* 生年不明 - 雪白東、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔雪組〕 雪白 東 |accessdate=2023-01-22 |publisher=Liber Entertainment Inc. |website=『A3!』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|1|21|1|23|[[12月22日]]|[[2月22日]]|[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]|0122|1|22}}
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4,963 | 1月24日 | 1月24日(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から24日目に当たり、年末まであと341日(閏年では342日)ある。
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'''1月24日'''(いちがつにじゅうよっか、いちがつにじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から24日目に当たり、年末まであと341日([[閏年]]では342日)ある。
== できごと ==
* [[41年]] - [[ローマ帝国]]第3代皇帝[[カリグラ]]が{{仮リンク|カッシウス・カエレア|en|Cassius Chaerea}}率いる[[プラエトリアニ|親衛隊]]将校により[[暗殺]]される。[[クラウディウス]]が第4代皇帝に即位。
* [[1336年]]([[正慶]]4年/[[建武 (日本)|建武]]2年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[箱根・竹ノ下の戦い]]で [[足利尊氏]]が建武新政府に反旗を翻す。
* [[1392年]]([[明徳]]2年/[[元中]]8年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[明徳の乱]]が終結する。
* [[1679年]] - イギリス王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]が[[イギリスの議会|イングランド議会]]を解散。
* [[1742年]] - [[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]が[[神聖ローマ皇帝]]に即位。
* [[1776年]] - [[アメリカ独立戦争]]: 大陸軍が英軍のニューヨーク・[[タイコンデロガ砦]]から奪った59基の大砲と迫撃砲を、56日かけてボストンへ輸送。
* [[1813年]] - [[ロンドン]]でフィルハーモニック協会発足。
* [[1842年]]([[天保]]12年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[江戸幕府]]が[[株仲間解散令]]を発布する。
* [[1848年]] - [[カリフォルニア州|カリフォルニア]]の{{仮リンク|アメリカン川|en|American River}}河底で[[砂金]]が発見される。[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]の始まり。
* [[1859年]] - [[アレクサンドル・ヨアン・クザ]]が[[ワラキア]]、[[モルダヴィア]]両公国の公に即位。1862年に両国を統一して[[ルーマニア公国]]とする。
* [[1862年]] - [[ブカレスト]]が[[ルーマニア]]の首都になる。
* [[1911年]] - [[幸徳事件]]で[[幸徳秋水]]ら11名の処刑が行われる。
* [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ドッガー・バンク海戦]]。
* 1915年 - [[テキサス州]]で[[サンディエゴ計画]]が発覚。
* [[1918年]] - [[ロシア]]の[[人民委員会議]]が、同年[[2月1日]]から[[グレゴリオ暦]]を導入することを決定。
* [[1924年]] - ソ連の[[サンクトペテルブルク]]がレニングラードに改称。
* [[1926年]] - [[岩手県]][[久慈市|久慈町]]で大火、住家224戸を含む440戸が全焼<ref>久慈で大火、四百四十戸焼く『東京日日新聞』大正15年1月25日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p25 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1927年]] - 東京地方で気象台開設以来の寒波。
* [[1936年]] - のちに[[近畿日本鉄道]]の一部となる[[大阪電気軌道|関西急行電鉄]]設立。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[南方作戦]]: [[バリクパパン沖海戦]]。
* [[1951年]] - [[八海事件]]。
* [[1960年]] - [[民社党|民主社会党]]結成大会。
* [[1969年]] - [[美濃部亮吉]]東京都知事が[[東京都]]の公営ギャンブル全廃を発表。
* [[1971年]] - [[グループ・サウンズ]]「[[ザ・タイガース]]」が[[日本武道館]]において解散コンサート。グループサウンズブームの終わりを象徴する。
* [[1972年]] - [[グアム島]]で元日本兵の[[横井庄一]]を発見。
* [[1975年]] - [[ザ・ケルン・コンサート]]。
* [[1978年]] - ソ連の原子力軍事衛星・[[コスモス954号]]が[[カナダ]]北西部に落下。
* [[1984年]] - [[Apple|Apple Computer]]から[[Macintosh 128K|Macintosh]]が発売される。
* [[1986年]] - 無人[[宇宙探査機]]「[[ボイジャー2号]]」が[[天王星]]に最接近。
* [[1989年]] - シリアルキラー[[テッド・バンディ]]の処刑が執行される。
* [[1990年]] - 文部省[[宇宙科学研究所]]が工学実験探査機「[[ひてん]]」を打上げ。
* [[1994年]] - 郵便料金を値上げ。
* [[1995年]] - 歌手の[[長渕剛]]が[[大麻取締法]]違反で逮捕される。
* [[2000年]] - 超党派野党、参議院に選択的[[夫婦別姓]]制度を求める民法改正案を提出。
* [[2005年]] - 福岡県[[福津市]]が市制施行。
* [[2006年]] - 陸域観測技術衛星[[だいち]]が[[H-IIAロケット]]8号機で打ち上げ。
* [[2011年]] - ロシア・[[ドモジェドヴォ空港]]で自爆テロ事件が発生。35人が死亡し、130人以上の負傷者が発生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5367|title=ロシアからテロはなくならない|work=JBpress|date=2011-02-11|accessdate=2020-07-12}}</ref>。
* [[2016年]] - [[沖縄県]][[名護市]]でみぞれを観測。みぞれは観測上「雪」と扱うため、[[沖縄本島]]で初めて雪が観測されたことになった。奄美市で115年ぶりに雪が観測され、長崎市では110年の観測で最多となる17cmの積雪が観測された<ref>{{Cite web|和書 |date=2016-01-25 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H6I_U6A120C1000000/ |title=荒天、5人死亡・100人以上負傷 沖縄でみぞれ |work=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2020-07-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |date=2016年1月25日 |url=https://news.ntv.co.jp/category/society/320664 |title=沖縄本島で「雪」 観測史上初めて |work=日テレNEWS24 |publisher=日本テレビ |accessdate=2018-03-31}}</ref>。
* [[2019年]] - [[富山市池多駐在所襲撃事件]]発生。大学生が[[拳銃]]の奪取を目的に[[駐在所]]を襲撃するも取り押さえられる。警官1人が負傷<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-01-24 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM1S5K1DM1SPUZB00L.html |title=富山の駐在所で警察官襲撃 大学生を殺人未遂容疑で逮捕 |publisher=朝日新聞 |accessdate=2020-10-04}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[76年]] - [[ハドリアヌス]]、[[ローマ皇帝]](+ [[138年]])
* [[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]4年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[山崎闇斎]]、[[儒教|儒者]]、神道家(+ [[1682年]])
* [[1705年]] - [[ファリネッリ]]、[[カストラート|カストラート歌手]](+ [[1782年]])
* [[1712年]] - [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](大王)、第3代[[プロイセン王国|プロイセン]]国王、[[フルート]]演奏家、[[作曲家]](+ 1786年)
* [[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]4年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[大久保忠興]]、第4代[[小田原藩|小田原藩主]](+ [[1764年]])
* [[1732年]] - [[カロン・ド・ボーマルシェ]]、[[劇作家]](+ [[1799年]])
* [[1746年]] - [[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]、[[スウェーデン王]](+ [[1792年]])
* [[1756年]]([[宝暦]]5年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[酒井忠以]]、第2代[[姫路藩|姫路藩主]](+ [[1790年]])
* [[1770年]]([[明和]]6年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[宇田川玄真]]、[[蘭方医]](+ [[1835年]])
* [[1776年]] - [[エルンスト・ホフマン]]、[[小説家]]、作曲家、[[画家]](+ [[1822年]])
* [[1813年]]([[文化 (元号)|文化]]9年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[内藤信親]]、第7代[[村上藩|村上藩主]](+ [[1874年]])
* [[1848年]] - [[ワシーリー・スリコフ]]、[[画家]](+ [[1916年]])
* [[1864年]] - [[イズレイル・ザングウィル]]、[[作家]](+ [[1926年]])
* [[1868年]]([[慶応]]3年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[斎藤緑雨]]、小説家、[[評論家]](+ [[1904年]])
* [[1874年]] - [[芳沢謙吉]]、[[外交官]](+ [[1965年]])
* [[1877年]] - [[小原直]]、[[検察官]](+ [[1967年]])
* [[1882年]] - [[ハロルド・バブコック]]、[[天文学者]](+ [[1968年]])
* [[1883年]] - [[松村謙三]]、[[政治家]](+ [[1971年]])
* [[1888年]] - [[エルンスト・ハインケル]]、飛行機設計者(+ [[1958年]])
* 1888年 - [[ヴィッキイ・バウム]]、[[作家]](+ [[1960年]])
* 1888年 - [[直木松太郎]]、野球スコアブック考案者(+ [[1947年]])
* [[1895年]] - [[オイゲン・ロート]]、[[詩人]](+ [[1976年]])
* [[1900年]] - [[小林ハル]]、最後の長岡[[瞽女]]、[[人間国宝]](+ [[2005年]])
* [[1901年]] - [[朝井閑右衛門]]、[[洋画家]](+ [[1983年]])
* [[1902年]] - [[五所平之助]]、[[映画監督]](+ [[1981年]])
* [[1904年]] - [[小泉純也]]、政治家(+ [[1969年]])
* [[1917年]] - [[アーネスト・ボーグナイン]]、[[俳優]](+ [[2012年]])
* [[1925年]] - [[マリア・トールチーフ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[2013年]])
* [[1927年]] - [[江川卓 (ロシア文学者)|江川卓]]、[[ロシア文学|ロシア文学者]](+ [[2001年]])
* [[1928年]] - [[デズモンド・モリス]]、[[動物学|動物学者]]
* 1933年 - [[宇波彰]]、[[哲学者]]、[[文芸評論家|文芸]]・[[美術評論家|芸術評論家]](+ [[2021年]])
* [[1934年]] - [[野口修]]、[[実業家]](+ [[2016年]])
* [[1935年]] - ティーチャ、[[お笑いタレント]]([[めいどのみやげ]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sunmusic-gp.co.jp/talent/meidonomiyage/|title=めいどのみやげ|Sun Music|website=[[サンミュージックプロダクション|Sun Music]]|accessdate=2020-07-12}}</ref>(+ [[2023年]])
* 1935年 - [[西田稔 (野球)|西田稔]]、[[プロ野球選手]](+ [[1994年]])
* [[1936年]] - [[市原悦子]]、[[俳優|女優]](+ [[2019年]])
* 1936年 - [[野際陽子]]、女優、[[アナウンサー]](+ [[2017年]])
* [[1937年]] - [[松野春樹]]、[[官僚]](+ [[2008年]])
* [[1938年]] - [[木村守男]]、[[政治家]](+ [[2023年]])
* [[1939年]] - [[ホゼ・アグエイアス]]、[[ニューエイジ]]思想家(+ [[2011年]])
* [[1941年]] - [[アーロン・ネヴィル]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手|シンガー]]([[ネヴィル・ブラザーズ]])
* 1941年 - [[ニール・ダイアモンド]]、[[シンガーソングライター]]
* 1941年 - [[浦西美治]]、元プロ野球選手
* [[1942年]] - [[熊﨑勝彦]]、[[弁護士]](+ [[2022年]])
* [[1943年]] - [[シャロン・テート]]、女優(+ [[1969年]])
* [[1944年]] - [[片岡五郎]]、俳優
* [[1945年]] - [[木村晋介]]、弁護士
* 1945年 - [[川端達夫]]、政治家
* [[1946年]] - [[松倉悦郎]]、[[僧侶]]、アナウンサー
* [[1947年]] - [[ウォーレン・ジヴォン]]、シンガーソングライター(+ [[2003年]])
* [[1947年]] - [[ミチオ・カク]]、[[理論物理学者]]、作家
* 1947年 - [[尾崎将司]]、[[プロゴルファー]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[大森庸雄]]、[[音楽評論家]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1947年 - [[桜井昌司]]、社会運動家(+ [[2023年]])
* [[1948年]] - [[里中満智子]]、[[漫画家]]
* 1948年 - [[鴨川清]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[吉田理保子]]、元[[声優]]
* [[1950年]] - [[ジュディ・オング]]、[[歌手]]、女優、[[画家]]
* [[1951年]] - [[五輪真弓]]、シンガーソングライター
* [[1953年]] - [[文在寅]]、政治家、第19代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]
* [[1956年]] - [[渡辺正行]]、[[コメディアン]]
* [[1957年]] - [[段田安則]]、俳優
* 1957年 - [[金森栄治]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[永田昌弘]]、元[[野球選手]]
* [[1959年]] - [[前田日明]]、元[[プロレスラー]]
* 1959年 - [[ミシェル・プロドーム]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* [[1960年]] - [[秋元奈美]]、漫画家
* [[1961年]] - [[維新力浩司]]、元[[大相撲]][[力士]]、プロレスラー
* 1961年 - [[ギド・ブッフバルト]]、元サッカー選手、指導者
* 1961年 - [[ナスターシャ・キンスキー]]、女優
* [[1963年]] - [[岩井俊二]]、[[映画監督]]
* [[1964年]] - [[木下ほうか]]、[[俳優]]
* 1964年 - [[渡辺めぐみ]]、女優、タレント
* [[1965年]] - [[小島裕史]]、[[警察官僚]]
* 1965年 - [[広石武彦]]、[[ミュージシャン]]、作曲家
* 1965年 - [[山口かつみ]]、漫画家
* [[1966年]] - [[大張正己]]、[[アニメーター]]
* 1966年 - [[ジュリー・ドレフュス]]、女優
* 1966年 - [[吉井憲治]]、元野球選手
* [[1967年]] - [[川村結花]]、[[シンガーソングライター]]
* 1967年 - [[樋口豊 (ミュージシャン)|樋口豊]]、[[ミュージシャン]]([[BUCK-TICK]])
* 1967年 - [[斉藤直哉]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[林葉直子]]、[[小説家]]、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]
* 1968年 - [[メアリー・ルー・レットン]]、体操選手
* 1968年 - [[風岡尚幸]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[風野春樹]]、[[精神科医]]、[[書評]]家
* [[1971年]] - [[コリー・ベイリー]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[南佳也]]、[[AV男優]]
* [[1972年]] - [[久保純子]]、[[アナウンサー]]
* 1972年 - [[水田直志]]、ゲーム音楽作曲家
* [[1973年]] - [[松岡正樹]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[桜井堅一朗]]、元アナウンサー(+ [[2021年]])
* 1974年 - [[クリスティ・サージアント]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1975年]] - [[宮内知美]]、[[タレント]]
* 1975年 - [[矢野正之]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[高橋顕法]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[永島千佳世]]、プロレスラー
* 1976年 - [[長井龍雪]]、[[アニメーション]][[監督]]
* 1976年 - [[シェイ=リーン・ボーン]]、元フィギュアスケート選手
* [[1977年]] - [[久保田智子]]、元アナウンサー
* 1977年 - 喜多建介、ミュージシャン([[ASIAN KUNG-FU GENERATION]])
* [[1978年]] - [[宮原永海]]、声優
* 1978年 - [[ジャンカルロ・アルバラード]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[明神智和]]、元サッカー選手
* [[1979年]] - [[土屋晴乃]]、[[フリーアナウンサー]]、シネマコメンテーター、タレント
* 1979年 - [[北沢まりあ]]、タレント、女優
* [[1980年]] - [[藤原岬]]、[[ヴォーカリスト]]、ラジオDJ
* [[1982年]] - [[ロッカクアヤコ]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]]
* [[1983年]] - [[ショーン・マロニー]]、サッカー選手
* [[1984年]] - [[大島由香里]]、アナウンサー
* 1984年 - [[スコット・カズミアー]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[安藤悠美]]、レースクイーン、タレント
* 1984年 - [[枢やな]]、漫画家
* [[1985年]] - [[伊藤友樹]]、俳優
* 1985年 - [[あんり]]、女優、元[[グラビアアイドル]]
* 1985年 - [[杉山浩太]]、元サッカー選手
* [[1986年]] - [[水谷百輔]]、元俳優
* [[1987年]] - [[ベン・グエズ]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[ルイス・アルベルト・スアレス]]、サッカー選手
* 1987年 - [[杜野まこ]]、タレント、声優
* 1987年 - [[赤井沙希]]、ファッションモデル、プロレスラー
* 1987年 - [[渡航]]、[[ライトノベル]]作家
* 1987年 - [[伊藤祐輝]]、俳優
* [[1988年]] - [[手嶋ゆか]]、元ファッションモデル
* [[1989年]] - [[鞏立姣]]、陸上競技選手
* 1989年 - [[寺門仁美]]、元タレント、元声優
* 1989年 - [[土井健大]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[中西優香]]、タレント(元[[SKE48]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://solidcube.jp/contents/artist/yuka.html|title=中西 優香|work=SOLID CUBE|accessdate=2020-07-12}}</ref>
* 1989年 - [[ホセ・キンタナ]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[奇誠庸]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[阿部真央]]、シンガーソングライター
* 1990年 - [[入江陵介]]、水泳選手
* 1990年 - [[金子絢香]]、[[プロゴルファー]]
* 1990年 - [[ミッチェル・イスラム]]、元[[アイスダンス]]選手
* [[1991年]] - [[エニー・ロメロ]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[GIRIBOY (歌手)|GIRIBOY]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]
* 1991年 - [[雄大 (キックボクサー)|雄大]]、キックボクサー
* [[1992年]] - [[白水萌生]]、俳優
* 1992年 - [[嘉山未紗]]、声優
* [[1993年]] - [[薄幸]]、お笑いタレント([[納言 (お笑いコンビ)|納言]])
* [[1995年]] - [[和久井優]]、女優、声優
* 1995年 - [[吉川峻平]]、プロ野球選手
* [[1996年]] - [[辻佳奈美|西村佳奈美]]、プロテニスプレーヤー
* [[1998年]] - [[伊藤千由李]]、アイドル(元[[TEAM SHACHI]])
* 1998年 - 神志那結衣、アイドル(元[[HKT48]])
* 1998年 - [[松田鈴英]]、ゴルファー
* 1998年 - [[脇あかり]]、アイドル([[東京パフォーマンスドール]])
* 1998年 - [[一村すみれ]]、声優、女優
* [[1999年]] - [[市川理矩]]、俳優
* [[2000年]] - [[田中偉登]]、俳優
* 2000年 - [[華山志歩]]、アイドル(元[[3B junior]]、はちみつロケット)
* 2000年 - [[湯浅大]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - [[門脇誠]]、プロ野球選手
* [[2002年]] - [[田中雅功]]<ref>[http://www.stardust.co.jp/section1/profile/tanakagaku.html 公式プロフィール]. {{accessdate|2021-01-22}}</ref>、歌手、俳優
* 生年不明 - [[榛野なな恵]]、漫画家
* 生年不明 - [[樋野まつり]]<ref name="profile">{{Cite web|和書|url=http://www.hakusensha.co.jp/artist/profile.php?artistname=%94%F3%96%EC%82%DC%82%C2%82%E8&artistname2=%82%D0%82%CC%82%DC%82%C2%82%E8&keyword=%82%D0+%82%D1&home=%96k%8AC%93%B9&birthday=1%8C%8E24%93%FA&bloodtype=B%8C%5E&debut=1995%94N%81uLaLaDX%81v9%81%5E10%8D%86%81w%82%B1%82%CC%96%B2%82%AA%8Ao%82%DF%82%BD%82%E7%81x|title=白泉社 作家データベース 樋野まつり|publisher=白泉社 |accessdate=2021-01-05}}</ref>、漫画家
* 生年不明 - [[川鍋雅樹]]、声優
* 生年不明 - [[石黒千尋]]、声優
* 生年不明 - ナナ・ドロップ・ビジュー、アイドル(元[[純情のアフィリア]])
== 忌日 ==
=== 人物 ===
* [[41年]] - [[カリグラ]]、第3代[[ローマ皇帝]](* [[12年]])
* [[1336年]] - [[アルフォンソ4世 (アラゴン王)|アルフォンソ4世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]](* [[1299年]])
* [[1349年]] - [[ルキーノ・ヴィスコンティ (ミラノの僭主)|ルキーノ・ヴィスコンティ]]、[[ミラノ]]の僭主(* [[1287年]]頃)
* [[1473年]] - [[コンラート・パウマン]]、[[作曲家]](* [[1404年]])
* [[1525年]] - [[フランチャビージオ]]、[[画家]](* [[1482年]])
* [[1595年]] - [[フェルディナント2世 (オーストリア大公)|フェルディナント2世]]、オーストリア大公、チロルの君主(* [[1529年]])
* [[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]7年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[織田長益]](有楽斎)、[[戦国武将]]、[[有楽流]][[茶道]]創始者(* [[1547年]])
* [[1766年]] ([[明和]]2年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]] - [[丹羽高庸]]、第9代[[二本松藩|二本松藩主]] (* [[1730年]])
* [[1780年]]([[安永]]8年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[平賀源内]]、[[博物学#本草学|本草学者]]、[[作家]]、[[発明家]]、[[洋画家]](* [[1728年]])
* [[1814年]] - [[ウィリアム・ヒース]]、[[アメリカ独立戦争]]期の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[少将]](* [[1737年]])
* 1814年([[文化 (元号)|文化]]10年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[尾藤二洲]]、[[儒教|儒学者]](* [[1745年]])
* [[1824年]] - [[エルコール・コンサルヴィ]]、[[カトリック教会]][[枢機卿]](* [[1757年]])
* [[1852年]] - [[イーサン・ブラウン]]、[[オハイオ州]]知事(* [[1776年]])
* 1852年 - [[ヤーン・コラール]]、[[詩人]]、[[思想|思想家]](* [[1793年]])
* [[1864年]] - [[ジョン・ピーター・リチャードソン (2世)]]、[[サウスカロライナ州知事選挙|サウスカロライナ州知事]](* [[1801年]])
* [[1872年]] - [[ウィリアム・ウェッブ・エリス]]、[[ラグビーフットボール]]考案者(* [[1806年]])
* [[1883年]] - [[フリードリッヒ・フォン・フロトー]]、作曲家(* [[1812年]])
* [[1895年]] - [[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]]、[[財務大臣 (イギリス)|イギリス大蔵大臣]](* [[1849年]])
* [[1891年]] - 宗諄女王、[[皇族]](* [[1817年]])
* [[1911年]] - [[幸徳秋水]]、思想家(* [[1871年]])
* [[1920年]] - [[アメデオ・モディリアーニ]]、[[画家]](* [[1884年]])
* [[1924年]] - [[マリー=アデライド (ルクセンブルク大公)|マリー=アデライド]]、[[ルクセンブルク大公]](* [[1894年]])
* [[1929年]] - [[ウィルフレッド・バデリー]]、[[テニス]]選手(* [[1872年]])
* [[1937年]] - [[森永太一郎]]、[[実業家]]・森永西洋菓子製造所(現・[[森永製菓]])創業者(* [[1865年]])
* [[1938年]] - [[ジム・マトリー]]、[[メジャーリーグ]]監督(* [[1851年]])
* [[1941年]] - [[トミー・ボンド]]、[[プロ野球選手]](* [[1856年]])
* [[1944年]] - [[浅沼誉夫]]、プロ野球監督(* [[1891年]])
* [[1953年]] - [[ベン・テイラー (1888年生の内野手)|ベン・テイラー]]、プロ野球選手(* [[1888年]])
* [[1960年]] - [[火野葦平]]、[[小説家]](* [[1907年]])
* 1960年 - [[エドヴィン・フィッシャー]]、[[ピアニスト]](* [[1886年]])
* [[1962年]] - [[アンドレ・ロート]]、[[画家]](* [[1885年]])
* [[1963年]] - [[東恩納寛惇]]、[[歴史学者]](* [[1882年]])
* [[1965年]] - [[ウィンストン・チャーチル]]、政治家、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1874年]])
* [[1966年]] - [[ホーミ・J・バーバー]]、[[物理学者]](* [[1909年]])
* [[1971年]] - [[山崎元幹]]、[[南満洲鉄道]]総裁(* [[1889年]])
* 1971年 - [[ビル・ウィルソン]]、[[アルコホーリクス・アノニマス]]共同創設者(* [[1895年]])
* 1971年 - [[アルビン・R・カーン]]、[[生物学者]]、[[ボクシング]]コーチ(* [[1892年]])
* [[1973年]] - [[樋口静雄]]、[[歌手]](* [[1911年]])
* [[1983年]] - [[ジョージ・キューカー]]、[[映画監督]](* [[1899年]])
* 1983年 - [[ジョルジュ・ビドー]]、[[フランスの首相|フランス首相]](* 1899年)
* [[1986年]] - [[L・ロン・ハバード]]、作家、[[サイエントロジー]]創始者(* [[1911年]])
* 1986年 - [[フローラ・ハイマン]]、[[バレーボール]]選手(* [[1954年]])
* [[1987年]] - [[金倉円照]]、インド哲学者(* [[1896年]])
* [[1988年]] - [[田口秋魚]]、画家(* [[1903年]])
* [[1989年]] - [[テッド・バンディ]]、連続殺人犯(* [[1946年]])
* [[1991年]] - [[ジャック・シェーファー]]、小説家(* [[1907年]])
* [[1993年]] - [[サーグッド・マーシャル]]、[[合衆国最高裁判所|アメリカ最高裁判所判事]](* [[1908年]])
* [[1994年]] - [[杉浦竜太郎]]、元プロ野球選手(* [[1923年]])
* [[1996年]] - [[山口清吾]]、[[武道|武道家]](* [[1924年]])
* [[2002年]] - [[イーゴリ・キプニス]]、[[チェンバロ]]、[[フォルテピアノ|フォルテピアニスト]](* [[1930年]])
* [[2003年]] - [[ジャンニ・アニェッリ]]、[[実業家]](* [[1921年]])
* 2003年 - [[高橋俊昌]]、[[漫画編集者]]、『[[週刊少年ジャンプ]]』第7代編集長(* [[1958年]])
* [[2004年]] - [[レオニダス・ダ・シルバ]]、[[サッカー]]選手(* [[1913年]])
* [[2006年]] - [[クリス・ペン]]、俳優(* [[1965年]])
* 2006年 - [[ニコラス・シャックルトン]]、[[地質学|地質学者]]、[[気象学|気象学者]](* [[1937年]])
* [[2007年]] - [[エミリアーノ・メルカド・デル・トロ]]、[[長寿]]世界一の[[プエルトリコ]]男性(* [[1891年]])
* 2007年 - [[クリスティーナ・フェルドマン]]、女優(* [[1920年]])
* 2007年 - [[ヴォルフガング・イーザー]]、[[イギリス文学者|英文学者]]、[[美学|美学者]](* [[1926年]])
* 2007年 - [[ジャン=フランソワ・ドニオー]]、[[フランス]]の[[外交官]]、[[政治家]]、[[小説家]](* [[1928年]])
* 2007年 - [[安田章]]、[[日本語学者|国語学者]](* [[1933年]])
* [[2015年]] - [[オットー・カリウス]]、[[ドイツ国防軍]]の元戦車兵エース、薬剤師(* [[1922年]])
* 2015年 - [[トーラー・クランストン]]<ref>[http://globalnews.ca/news/1791348/legendary-figure-skater-toller-cranston-65-has-died/?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed Legendary figure skater Toller Cranston, 65, has died]</ref>、フィギュアスケート選手、[[芸術家]](* [[1949年]])
* [[2016年]] - [[マービン・ミンスキー]]<ref>{{Cite news |title=マービン・ミンスキー氏が死去 「人工知能の父」 |newspaper=日本経済新聞 |date=2016-01-26 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM26H4Y_W6A120C1000000/ |accessdate=2020-12-11}}</ref>、[[コンピュータ科学]]者(* [[1927年]])
* [[2018年]] - [[上月左知子]]<ref name="nikkan">{{Cite news |title=上月佐知子さん死去、87歳 NHK春日局など出演 |newspaper=[[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date=2018-01-30 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201801300000386.html |accessdate=2020-11-20}}</ref>、女優(* [[1930年]])
* 2018年 - [[ジャック・ケッチャム]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://hon.booklog.jp/news/ketchum-20180125|title=【おくやみ】ジャック・ケッチャムさん逝去 代表作:『隣の家の少女』 |publisher=ブクログ通信|date=2018-01-25|accessdate=2020-11-05}}</ref>、小説家(* [[1946年]])
* [[2023年]] - [[門田博光]]、プロ野球選手(* [[1948年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2020年]] - [[サクラローレル]]、[[競走馬]](* [[1991年]])
== 記念日・年中行事 ==
* 金の日/[[ゴールドラッシュ]]デー
*: [[1848年]]のこの日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[カリフォルニア州]]で金の粒が発見された。この噂が広まり、一攫千金を求めて沢山の人たちが集まる[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]となった。
* [[ボーイスカウト]]創立記念日
*: [[1908年]]のこの日、[[ロバート・ベーデン・パウエル]]がボーイスカウト英国本部を設立した。
* 全国学校[[給食]]週間({{JPN}}、[[1月30日]]まで)
*: [[学校給食]]が[[東京都]]・[[神奈川県]]・[[千葉県]]で[[1946年]][[12月24日]]に再開されたことを記念して制定。12月24日が[[冬休み]]のため、1か月ずらした1月24日からとした。
* 法律扶助の日({{JPN}})
*: 法律扶助とは、経済的理由で民事裁判を受けられない人のために費用を立て替える制度で、[[1952年]](昭和27年)1月24日に設立された財団法人法律扶助協会が行なっている。1993年、同協会が設立日を「法律扶助の日」として制定した<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=20|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
* 結祝フィナンシェの日({{JPN}})
*: 株式会社ギブミーファイブが制定。フランス語で「金融家」「お金持ち」といった意味を持つ「フィナンシェ」の認知度を上げることが目的。日付は、「フィナンシェ」の色や形が金塊に似ていることから、ゴールドラッシュの引き金になったと言われる1848年1月24日にちなむ。
* [[エケコ|アラシタの祭]]
*: [[ボリビア]]の[[ラパス]]で行なわれるミニチュア品の市場。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0124|date=2014年6月}}
* [[1922年]] - 藤川紡、一条雪佳の誕生日祝いにラム酒漬けしたレーズン入りプリンを振る舞う。(漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』)<ref>『[[まんがタイムきららキャラット]]』2023年3月号、[[芳文社]]、153頁。実際の雪佳の誕生日はこの1週間前の[[1月17日]]である。</ref>
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1940年]] - [[野比のび助]]、漫画・アニメ『[[ドラえもん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - フランソワーズ・アルヌール(サイボーグ003)、漫画・アニメ『[[サイボーグ009]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://009ing.com/about/004/003.html |title=フランソワーズ・アルヌール |publisher=サイボーグ009公式サイト 009ing |accessdate=2023-01-23 |deadlinkdate=2020-07-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160108074031/http://009ing.com/about/004/003.html |archivedate=2016-01-08}}</ref><ref>{{Twitter status|ishimoripro|1352994505394249729}}</ref>
* 生年不明 - 山中いのいち、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=162|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref>
* 生年不明 - 真戸呉緒、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/special/tokyoghoul/first/chara_08.html |title=真戸呉緒 |work=TVアニメ『東京喰種トーキョーグール√A』 |accessdate=2023-01-23 |publisher=[[石田スイ]]/[[集英社]]・東京喰種製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 越谷夏海、漫画・アニメ『[[のんのんびより]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://nonnontv.com/tvanime/character/ |title=キャラクター 越谷夏海 CV:佐倉綾音 |work=『のんのんびより』 |accessdate=2023-01-23 |publisher=あっと・[[KADOKAWA]]刊/旭丘分校管理組合三期}}</ref>
* 生年不明 - 風衣葉冬優、漫画・アニメ『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|usagi_anime|1617537773614911490}}</ref>
* 生年不明 - ニビ、漫画・アニメ『[[クジラの子らは砂上に歌う]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 石垣哲朗、アニメ・漫画『[[あの夏で待ってる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ichika-ichika.com/character.html |title=キャラクター|石垣哲郎 |access-date=2023-01-23 |publisher=I*Chi*Ka/なつまち製作委員会 |work=『あの夏で待ってる』}}</ref>
* 生年不明 - 倉持ブル、アニメ『[[3丁目のタマ うちのタマ知りませんか?|うちのタマ知りませんか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://uchitama.com/character/#10 |title=倉持ブル |work=『うちタマ⁈ ~うちのタマ知りませんか?~』 |accessdate=2023-01-23 |publisher=[[ソニー・クリエイティブプロダクツ]]/「うちタマ?!」製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 白鳳院綾乃エリザベス、小説・アニメ『[[それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 櫛八玉、小説・アニメ『[[ログ・ホライズン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|loghorizon_TRPG|1485545412039696384}}</ref>
* 生年不明 - ヒカル、読者参加企画『[[Baby Princess]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ぼくっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |date=2011-11-01 |title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん |page=28 |publisher=[[小学館]] |series=テレビ超ひゃっか |editor1-first= |editor1-last=ウィズ |editor1-link=ウィズ (玩具) |editor2-first= |editor2-last=バンダイ |editor2-link=バンダイ |isbn=978-4097510482}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=2011-10-05 |title=Tamagotchi iD L ぴかぴか育て方ガイド |page=48 |editor=講談社 |editor-link=講談社 |isbn=978-4063648768}}</ref>
* 生年不明 - ユメコ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 ユメコ |access-date=2023-01-23 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 神代縁、ゲーム・アニメ『[[Gift 〜ギフト〜#テレビアニメ|Gift ~ギフト~ eternal rainbow]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - クイーン、ゲーム『[[ファイナルファンタジー零式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jp.square-enix.com/ff_reishiki/sp/character/queen.html |title=Queen クイーン |access-date=2023-01-23 |publisher=[[スクウェアエニックス|SQUARE ENIX CO., LTD.]] |work=『ファイナルファンタジー零式』}}</ref>
* 生年不明 - ミリオン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=154&cate=name&cont=Million |title=ミリオン |access-date=2023-01-23 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - ノゾミ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1353160614567239682}}</ref>
* 生年不明 - 桃衣愛、メディアミックス『[[双恋]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桃衣舞、メディアミックス『双恋』に登場するキャラクター
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|1|23|1|25|[[12月24日]]|[[2月24日]]|[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]|0124|1|24}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8824%E6%97%A5 |
4,964 | 1月25日 | 1月25日(いちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から25日目にあたり、年末まであと340日(閏年では341日)ある。 | [
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'''1月25日'''(いちがつにじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から25日目にあたり、年末まであと340日([[閏年]]では341日)ある。
== できごと ==
* [[1077年]] - [[カノッサの屈辱]]: 司祭の任命権([[聖職叙任権]])を巡って教皇[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]と対立し、教会から破門された[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]が、カノッサ城の門前で、武器を捨て裸足で破門の許しを乞い始める。(3日後に赦免)
* [[1327年]] - [[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]が[[イングランド王国|イングランド]]王に即位。
* [[1533年]] - イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が2人目の妻[[アン・ブーリン]]と結婚。
* [[1573年]]([[元亀]]3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]])[[三方ヶ原の戦い]]: [[遠江国]]の[[三方ヶ原]](現在の[[静岡県]][[浜松市]]内)で[[武田信玄]]と[[徳川家康]]の軍が戦い、武田軍が勝利する<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230508-OYT8T50121/ |title=戦国最強の信玄を怒らせ、三方原で大敗…家康はどうして命拾いできたのか |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[讀賣新聞]]オンライン |date=10 May 2023}}</ref>。
* [[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[江戸]]で[[天和の大火|お七火事]]が起こる。
* [[1755年]] - [[モスクワ大学]]創設。
* [[1849年]] - [[ブルガリア国立銀行]]設立。
* [[1858年]] - [[プロイセン王国|プロイセン]]皇太子[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]と[[イギリス]]王女[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]が結婚。
* 1858年([[安政]]4年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[陸奥国|陸奥]][[盛岡藩]]の[[大島高任]]が、[[釜石市|釜石]]で日本初の近代[[高炉]]を建設する。
* [[1879年]] - [[大阪]]の[[朝日新聞社]]が『[[朝日新聞]]』を創刊<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/corporate/guide/outline/11215100 |title=朝日新聞社小史 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>。
* [[1890年]] - [[ネリー・ブライ]]が72日間での[[世界一周]]を達成。
* [[1902年]] - [[北海道]][[旭川市]]で[[最低気温]]マイナス41℃を観測。日本における公式の最低気温の記録。
* [[1904年]] - 鉄道軍事供用令公布。
* [[1907年]] - [[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が[[満州]]からの撤兵を宣言。
* [[1909年]] - [[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[エレクトラ (リヒャルト・シュトラウス)|エレクトラ]]』が[[ゼンパー・オーパー|ドレスデン宮廷歌劇場]]で初演<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.chopin.co.jp/media/opera217/a2124 |title=エレクトラ[1幕]R.シュトラウス作曲 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=株式会社ハンナ |date=6 May 2019}}</ref>。
* [[1911年]] - [[幸徳事件]]([[大逆事件]])で[[管野スガ]]が処刑される。
* [[1918年]] - [[ウクライナ人民共和国]]が[[ボリシェヴィキ]]のソビエト政府から独立。
* [[1924年]] - 第1回[[冬季オリンピック]]、[[シャモニーオリンピック|シャモニー・モンブラン大会]]開催。[[2月5日]]まで。
* [[1927年]] - [[明治節]](現・[[文化の日]])制定を可決(1927年は“明治60年”)。
* [[1935年]] - [[宝塚大劇場]]火災。舞台裏から出火し、内部を焼失。昼夜兼行で復旧工事を進め、4月1日星組公演から再開<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kageki.hankyu.co.jp/fun/history1934.html |title=宝塚歌劇の歩み(1934年-1950年) |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[阪急電鉄]]}}</ref>。
* [[1936年]] - 「[[東京朝日新聞]]」で[[横山隆一]]の漫画『江戸っ子健ちゃん』が連載開始。(10月に『[[フクちゃん|養子のフクちゃん]]』と改題)
* 1936年 - [[福岡県]][[桂川村]]の[[麻生鉱業|麻生吉隈炭鉱]]で[[ガス爆発]]事故が発生。29人が死亡した<ref>麻生吉隈炭坑で坑内火災、四十四人が遭難『九州日報』昭和11年1月27日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p655 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1937年]] - アメリカ[[NBC]]のラジオドラマ『[[ガイディング・ライト]]』が放送開始。後にテレビドラマになり、2009年9月まで約15,000回続く世界一長寿のドラマとなる。
* [[1939年]] - [[チリ]]中部で[[マグニチュード]]7.8の地震。死者3万人。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[タイ王国|タイ]]が[[アメリカ合衆国]]・[[イギリス]]に宣戦布告。
* [[1946年]] - [[国際連合安全保障理事会決議1]]が採択される。
* [[1949年]] - 第1回[[エミー賞]]開催。
* 1949年 - [[中国共産党]]が北京奪回。
* [[1955年]] - ソ連がドイツに対する[[戦争]]状態の終結を宣言。
* [[1960年]] - [[三井三池争議]]: [[三井鉱山]]が[[三井三池炭鉱]]を[[ロックアウト]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/664559/ |title=【あの日】三池炭鉱がロックアウト=1月25日 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[西日本新聞]] |date=25 Jan 2022}}</ref>。全山の労組が無期限ストに突入。
* [[1971年]] - [[ウガンダ]]で[[ミルトン・オボテ]][[ウガンダの大統領|大統領]]の外訪中に軍司令官[[イディ・アミン]]が{{仮リンク|1971年ウガンダ・クーデター|label=クーデター|en|1971 Ugandan coup d'état}}を起こし、大統領に就任。
* [[1979年]] - [[上越新幹線]]の[[清水トンネル#大清水トンネル|大清水トンネル]]が貫通。22,228メートルで貫通当時は世界最長のトンネルであった。
* [[1981年]] - 中国で、[[文化大革命]]の責任者「[[四人組]]」に対する裁判の判決。[[江青]]・元政治局員([[毛沢東]]夫人)と[[張春橋]]・元副首相に死刑宣告([[1983年]]同日に無期懲役に減刑)。
* [[1990年]] - [[パキスタン]]の[[ベーナズィール・ブットー]]首相が出産。現職首相の出産は世界初。
* 1990年 - [[アビアンカ航空52便墜落事故]]。73人死亡。
* [[1994年]] - アメリカの月探査機「[[クレメンタイン (探査機)|クレメンタイン]]」が打ち上げ。
* [[1999年]] - [[厚生省]]が性的不能治療薬[[シルデナフィル|バイアグラ]]を申請から半年で製造承認。
* 1999年 - [[コロンビア]]でマグニチュード6.2の地震。死者1900人。([[コロンビア・キンディオ地震]])
* [[2003年]] - 大相撲の[[朝青龍明徳|朝青龍]]が前場所に続き優勝し、[[横綱]]昇進を決める。
* [[2004年]] - アメリカの[[火星探査機]]「[[オポチュニティ]]」が[[火星]]表面に着陸。
* [[2006年]] - これまで発見された中で最も地球に似た太陽系外惑星である[[OGLE-2005-BLG-390Lb]]が発見。
* [[2011年]] - [[エジプト]]で[[ホスニー・ムバーラク|ムバラク]]大統領の退陣を求める数万人規模の反体制デモが始まる<ref>{{Cite web|和書 |date=26 Jan 2011 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2783415 |title=エジプトで大規模デモ、3人死亡 チュニジア「ジャスミン革命」が波及 |work=AFP BB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=15 Jul 2023}}</ref>。([[エジプト革命 (2011年)|エジプト革命]])
* [[2015年]] - [[ISIL]]がラジオ部門を通じて[[湯川遥菜]]を殺害したことを伝えた<ref>{{Cite web|和書 |date=26 Jan 2015 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35059500.html |title=ISIS傘下のラジオ局、湯川さんの殺害伝える |publisher=[[CNN]].co.jp |accessdate=15 Jul 2023}}</ref>。([[ISILによる日本人拘束事件]])
* [[2019年]] - [[ブラジル]][[ミナスジェライス州]]で[[ヴァーレ]]社の[[鉱滓ダム]]が決壊。死者数120人以上、行方不明者多数<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47153710 |title=【解説】ブラジルのダム決壊、疑問点を整理 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=7 Feb 2019}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |date=2 Feb 2019 |url=https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190202-21brasil.html |title=《ブラジル ダム決壊事故続報》死者110人と行方不明238人=初七日ミサ、生存は絶望視=問われる新政権の環境政策 |publisher=ニッケイ新聞 |accessdate=15 Jul 2023}}</ref>。([[ブルマジーニョ尾鉱ダム決壊事故]])
* [[2023年]] - 第41代となる[[ニュージーランドの首相]]に[[クリス・ヒプキンス]]が就任<ref>{{Cite web|和書 |title=NZのヒプキンス新首相が就任、生活費高騰「最優先課題」 |url=https://jp.reuters.com/article/newzealand-politics-idJPKBN2U31Z7 |publisher=[[ロイター|Reuters]] |date=25 Jan 2023 |access-date=15 Jul 2023}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[750年]] - [[レオーン4世]]、東ローマ帝国皇帝(+ [[780年]])
* [[1425年]] - [[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]](+ [[1474年]])
* [[1477年]] - [[アンヌ・ド・ブルターニュ]]、ブルターニュ女公、フランス王妃(+ [[1514年]])
* [[1505年]] - [[ジョヴァンニ・モローネ]]、[[枢機卿]](+ [[1580年]])
* [[1615年]] - [[ホーファールト・フリンク]]、[[画家]](+ [[1660年]])
* [[1627年]] - [[ロバート・ボイル]]、[[化学者]]、[[物理学者]](+ [[1691年]])
* [[1639年]]([[寛永]]15年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[上杉綱勝]]、第3代[[出羽国]][[米沢藩|米沢藩主]](+ [[1664年]])
* [[1695年]]([[元禄]]7年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[佐竹義格]]、第4代[[出羽国]][[久保田藩|久保田藩主]](+ [[1715年]])
* [[1718年]]([[享保]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[有馬孝純]]、第3代[[越前国]][[丸岡藩|丸岡藩主]](+ [[1757年]])
* [[1736年]] - [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]、[[数学者]](+ [[1813年]])
* [[1743年]] - [[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1819年]])
* [[1759年]] - [[ロバート・バーンズ]]、[[詩人]](+ [[1796年]])
* [[1770年]] - [[フランシス・バーデット]]、政治家(+ [[1844年]])
* [[1775年]]([[安永]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[阿部正精]]、第5代[[備後国]][[備後福山藩|福山藩主]](+ [[1826年]])
* [[1778年]]([[安永]]6年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - [[松平乗寛]]、第3代[[三河国]][[西尾藩|西尾藩主]](+ [[1839年]])
* [[1783年]]([[天明]]2年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[柳沢保泰]]、第4代[[大和国]][[郡山藩|郡山藩主]](+ [[1838年]])
* [[1839年]]([[文政]]9年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[南部利剛]]、第15代[[陸奥国]][[盛岡藩|盛岡藩主]](+ [[1896年]])
* [[1832年]] - [[イヴァン・シーシキン]]、画家(+ [[1898年]])
* [[1837年]]([[天保]]7年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[富岡鉄斎]]、画家、[[儒学|儒学者]](+ [[1924年]])
* [[1841年]] - [[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]、[[海軍軍人]](+ [[1920年]])
* [[1843年]] - [[ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツ]]、数学者(+ [[1921年]])
* [[1860年]]([[安政]]7年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[加藤高明]]、[[政治家]]、第24代[[内閣総理大臣]](+ [[1926年]])
* 1860年(安政7年1月3日) - [[八代六郎]]、[[海軍軍人]](+ [[1930年]])
* [[1868年]] - [[フベンティーノ・ローサス]]、[[作曲家]](+ [[1894年]])
* [[1870年]] - [[豊増竜次郎]]、政治家、弁護士(+[[1941年]])
* 1870年 - [[ヘルゲ・フォン・コッホ]]、数学者(+ [[1924年]])
* [[1874年]] - [[サマセット・モーム]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1965年]])
* [[1878年]] - [[アーンスト・アレキサンダーソン]]、[[電気工学|電気工学者]](+ [[1975年]])
* [[1881年]] - [[エーミール・ルートヴィヒ]]、小説家(+ [[1948年]])
* [[1882年]] - [[ヴァージニア・ウルフ]]、小説家(+ [[1941年]])
* [[1885年]] - [[北原白秋]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tabi-mag.jp/hakusyu-seitan/ |title=白秋生誕祭|柳川市 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=ニッポン旅マガジン}}</ref>、詩人、[[歌人]]、[[童謡]]作家(+ [[1942年]])
* [[1886年]] - [[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、[[指揮者]](+ [[1954年]])
* [[1893年]] - [[百田宗治]]、詩人、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1955年]])
* [[1894年]] - [[千葉三郎]]、[[政治家]](+ [[1979年]])
* [[1899年]] - [[スリーピー・ジョン・エスティス]]、ブルースシンガー(+ [[1977年]])
* 1899年 - [[ポール=アンリ・スパーク]]、[[政治家]](+ [[1972年]])
* [[1900年]] - [[石坂洋次郎]]、作家(+ [[1986年]])
* 1900年 - [[テオドシウス・ドブジャンスキー]]、[[遺伝学|遺伝学者]]、[[進化生物学|進化生物学者]](+ [[1975年]])
* 1900年 - [[銭村健一郎]]、[[野球選手]](+ [[1968年]])
* [[1901年]] - [[望月市恵]]、ドイツ文学者(+[[1991年]])
* [[1902年]] - [[中野重治]]、小説家、[[評論家]]、[[詩人]](+ [[1979年]])
* 1902年 - [[西川寧]]、[[書家]](+ [[1989年]])
* 1902年 - [[リロイ・ブラウン]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]](+ [[1970年]])
* [[1903年]] - [[金子文子]]、[[アナキズム|アナキスト]](+ [[1926年]])
* [[1905年]] - [[マージェリー・シャープ]]、児童文学作家(+ [[1991年]])
* [[1907年]] - [[火野葦平]]、小説家(+ [[1960年]])
* 1907年 - [[中野四郎]]、[[政治家]](+ [[1985年]])
* [[1911年]] - [[メイ牛山]]、美容家(+ [[2007年]])
* 1911年 - [[森三郎]]、童話作家(+ [[1993年]])
* [[1912年]] - [[加藤美代三]]、日本画家(+[[2012年]])
* [[1913年]] - [[川原俊夫]]、実業家、[[ふくや]]創業者(+[[1980年]])
* [[1913年]] - [[谷山兵三]]、薬学者、[[長崎大学]][[名誉教授]]、[[徳島文化女子短期大学]]元学長(+[[1990年]])
* 1913年 - [[三田国夫]]、俳優(没年不詳)
* 1913年 - [[ヴィトルト・ルトスワフスキ]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1994年]])
* 1913年 - [[黄華]]、[[中国]]の[[外交官]]、政治家(+ [[2010年]])
* [[1917年]] - [[イリヤ・プリゴジン]]、化学者、物理学者(+ [[2003年]])
* 1917年 - [[斎藤隆介]]、[[作家]](+ [[1985年]])
* 1917年 - [[土屋隆夫]]、[[推理作家]](+ [[2011年]])
* [[1918年]] - [[後藤杜三]]、眼科医、作家(+[[1991年]])
* [[1920年]] - [[横山操]]、[[日本画家]](+ [[1973年]])
* [[1921年]] - [[アルフレッド・リード]]、[[作曲家]](+ [[2005年]])
* [[1922年]] - [[ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァ]]、[[集団遺伝学|集団遺伝学者]](+ [[2018年]])
* [[1923年]] - [[池波正太郎]]、小説家(+ [[1990年]])
* 1923年 - [[西村晃]]、俳優(+ [[1997年]])
* 1923年 - [[アルビド・カールソン]]、[[薬理学者]](+ 2018年)
* [[1925年]] - [[早川雄三]]、俳優(+ [[2010年]])
* [[1926年]] - [[竹内外史]]、[[数学者]]、[[論理学者]](+ [[2017年]])
* 1926年 - [[樋口廣太郎]]、[[アサヒビール]]名誉会長、元社長(+ [[2012年]])
* [[1927年]] - [[アントニオ・カルロス・ジョビン]]、作曲家(+ [[1994年]])
* [[1928年]] - [[エドゥアルド・シェワルナゼ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]][[ロシアの外相|外相]]、[[グルジアの大統領一覧|グルジア大統領]](+ [[2014年]])
* 1928年 - [[田久保英夫]]、小説家(+ [[2001年]])
* 1928年 - [[佐藤栄太郎]]、学校法人[[佐藤栄学園]]創立者(+ [[2008年]])
* [[1929年]] - [[ベニー・ゴルソン]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者
* [[1930年]] - [[ターニャ・サヴィチェワ]]、『[[ターニャ・サヴィチェワ#ターニャの日記|ターニャの日記]]』の著作者(+ [[1944年]])
* 1930年 - [[菅原道裕]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2014年]])
* [[1932年]] - [[柴田侑宏]]、劇作家、演出家(+[[2019年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201907190001041.html |title=宝塚歌劇団元理事で演出家の柴田侑宏さん死去87歳 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=19 Jul 2019}}</ref>)
* [[1933年]] - [[コラソン・アキノ]]、政治家、11代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](+ [[2009年]])
* 1933年 - [[生島治郎]]、[[小説家]](+ [[2003年]])
* 1933年 - [[内海武彦]]、元プロ野球選手
* [[1935年]] - [[市川雄一]]、政治家(+ 2017年)
* 1935年 - [[アントニオ・エアネス]]、政治家、16代[[ポルトガルの大統領|ポルトガル大統領]]
* [[1937年]] - [[岡野久一]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1938年]] - [[石ノ森章太郎]]、[[漫画家]](+ [[1998年]])
* 1938年 - [[松本零士]]、漫画家(+ [[2023年]])
* 1938年 - [[ヴラジーミル・ヴィソツキー]]、詩人、[[シンガーソングライター]](+ [[1980年]])
* 1938年 - [[エタ・ジェイムズ]]、[[ブルース]]・[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手]](+ [[2012年]])
* [[1939年]] - [[黒田征太郎]]、[[イラストレーター]]
* [[1940年]] - [[小川博 (内野手)|小川博]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[吉村功]]、アナウンサー
* [[1942年]] - [[長澤正信]]、実業家
* 1942年 - [[エウゼビオ]]、[[サッカー選手]](+ [[2014年]])
* [[1943年]] - [[干刈あがた]]、小説家(+ [[1992年]])
* 1943年 - [[トビー・フーパー]]、[[映画監督]](+ 2017年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3140615|title=『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパー監督死去、74歳|publisher=[[フランス通信社]]|website=AFP BB News|date=28 Aug 2017|accessdate=15 Jul 2023}}</ref>)
* 1943年 - [[樋浦勉]]、[[俳優]]、[[声優]]
* 1943年 - [[安井智規]]、元プロ野球選手
* 1943年 - [[パーヴェル・ロマン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1972年]])
* [[1944年]] - [[江守徹]]、俳優
* 1944年 - [[松岡正剛]]、編集者、著述家、日本文化研究者
* [[1945年]] - [[滝良子]]、[[フリーアナウンサー]]、[[ラジオパーソナリティ]](+ [[2021年]])
* 1945年 - [[山口豪久]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/2000026523/ |title=山口豪久 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=WEB [[ザテレビジョン]]}}</ref>、俳優(+ [[1986年]])
* [[1947年]] - [[柴崎正勝]]、有機化学者、薬学者
* 1947年 - [[近藤正道]]、政治家、弁護士
* 1947年 - [[宇野ゆう子]]、[[シャンソン]]歌手
* 1947年 - [[アンヘル・ニエト]]、[[モーターサイクル]]・[[ロードレース (オートバイ)|ロードレーサー]](+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3138081 |title=MotoGPの伝説ニエト氏が死去、一週間前に交通事故 |date=4 Aug 2017 |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=15 Jul 2023 |website=AFP BB News}}</ref>)
* 1947年 - [[エドゥアルド・ゴンサウヴェス・デ・アンドラーデ|トスタン]]、元サッカー選手
* [[1948年]] - [[壤晴彦]]、俳優、声優、[[演出家]]
* 1948年 - [[小溝泰義]]、外交官
* 1948年 - [[前野曜子]]、[[歌手]](+[[1988年]])
* [[1949年]] - [[さとう宗幸]]、歌手、[[俳優]]、[[司会者]]
* 1949年 - [[鈴木勉]]、[[書体デザイナー]](+ [[1998年]])
* 1949年 - [[忠津陽子]]、[[漫画家]]
* 1949年 - [[ポール・ナース]]、[[遺伝学|遺伝学者]]
* [[1950年]] - [[司城志朗]]、小説家
* 1950年 - [[マドモアゼル・愛]]、[[占星術|占星術者]]、[[エッセイスト]]
* 1950年 - [[森田芳光]]、映画監督、[[脚本家]](+ [[2011年]])
* [[1951年]] - [[ビル・ヴィオラ]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]]
* [[1952年]] - [[藤原辰雄]]、[[調教師]]
* 1952年 - [[牛山茂]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-0470 |title=牛山 茂 |work=[[日本タレント名鑑]] |accessdate=15 Jul 2023 |publisher=株式会社VIPタイムズ社}}</ref>、俳優、[[声優]]
* [[1953年]] - [[ウェイン・ファリス|ホンキー・トンク・マン]]、[[プロレスラー]]
* [[1954年]] - [[津山登志子]]、女優(+ [[2023年]])
* 1954年 - [[大橋一夫]]、政治家
* [[1955年]] - [[岩谷徹 (ゲームクリエイター)|岩谷徹]]、[[ゲームクリエイター]]
* [[1956年]] - [[水野智彦]]、政治家
* 1956年 - [[小池博史]]、演出家、作家
* 1956年 - [[巻上公一]]、[[ミュージシャン]]
* [[1957年]] - [[楠みちはる]]、漫画家
* 1957年 - [[上原博之]]、調教師
* [[1958年]] - [[平井卓也]]、政治家
* 1958年 - [[平子裕志]]、実業家、[[全日本空輸]]社長
* [[1959年]] - [[北野誠 (タレント)|北野誠]]、[[タレント]]
* 1959年 - [[キム・ヨンジャ]]、演歌歌手
* [[1960年]] - [[ならはしみき]]、声優
* 1960年 - [[JILL]]、ミュージシャン([[PERSONZ]])
* 1960年 - [[平谷美樹]]、小説家
* 1960年 - [[中村時広]]、政治家
* 1960年 - [[荒木由美子]]、女優
* 1960年 - [[加納幸和]]、[[演出家]]、俳優
* 1960年 - [[良川昌美]]、元プロ野球選手、[[プロ野球審判員|審判]]
* 1960年 - [[楠瀬耕作]]、政治家
* [[1961年]] - [[カトリーヌあやこ]]、漫画家
* [[1963年]] - [[都築香弥子]]、女優、声優
* [[1964年]] - [[妹尾青洸]]、俳優
* 1964年 - [[レパード玉熊]]、[[プロボクサー]]
* [[1965年]] - [[瀬戸山正二]]、ビーチバレー選手
* 1965年 - [[片山愁]]、漫画家
* 1965年 - [[高橋英夫 (政治家)|高橋英夫]]、政治家
* [[1967年]] - [[佐々木望]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/佐々木望/ |title=佐々木望 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=声優名鑑|page=463|publisher=[[成美堂出版]]|year=1999|isbn=978-4-415-00878-3}}</ref>、声優
* 1967年 - [[趙源泰]]、実業家、[[大韓航空]]社長
* 1967年 - [[後藤法子]]、脚本家
* [[1968年]] - [[t-kimura]]、ミュージシャン([[m.o.v.e]])
* 1968年 - [[古屋兎丸]]、[[漫画家]]
* 1968年 - [[熊沢重文]]、[[騎手]]
* [[1969年]] - [[筒井孝]]、元プロ野球選手
* [[1970年]] - [[マキタスポーツ]]、お笑い芸人、俳優
* 1970年 - [[千原せいじ]]、お笑い芸人([[千原兄弟]])
* [[1972年]] - [[竹原慎二]]、元プロボクサー、タレント
* 1972年 - [[浜野谷憲尚]]、[[騎手]]
* 1972年 - [[ホセ・マシーアス]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[津川祥吾]]、政治家
* [[1974年]] - [[芦原妃名子]]、漫画家
* 1974年 - [[ダン・セラフィニ]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[橋爪政吉]]、政治家
* 1975年 - [[竹岡和宏]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[ミア・カーシュナー]]、女優
* [[1977年]] - [[ゆってぃ]]、お笑い芸人
* 1977年 - 樋口和之、元お笑い芸人(元[[5番6番]])
* [[1978年]] - [[菅原卓磨]]、俳優
* 1978年 - [[デニス・メンショフ]]、ロードレース選手
* 1978年 - [[ウォロディミル・ゼレンスキー]]、政治家、6代[[ウクライナの大統領|ウクライナ大統領]]、元[[俳優]]、[[コメディアン]]
* 1978年 - [[ジェイソン・ロバーツ]]、サッカー選手
* 1978年 - [[デリック・ターンボウ]]、プロ野球選手
* [[1979年]] - [[平岡理恵]]、雀士
* 1979年 - [[クリスティーン・レイキン]]、女優
* [[1980年]] - [[黒河奈美]]、声優
* 1980年 - [[エフスタティオス・タヴラリディス]]、サッカー選手
* 1980年 - [[シャビ・エルナンデス]]、サッカー選手
* 1980年 - [[フィル・ストックマン]]、元プロ野球選手
* 1980年 - 長澤喜稔、お笑いタレント(元[[マキシマムパーパーサム]])
* 1980年 - [[ミシェル・マクール]]、プロレスラー
* 1980年 - [[チャン・ジャヨン]]、女優(+ [[2009年]])
* [[1981年]] - [[トシェ・プロエスキ]]、歌手(+ [[2007年]])
* 1981年 - [[アリシア・キーズ]]、歌手
* 1981年 - [[佐藤嘉洋]]、元キックボクサー
* 1981年 - [[許竹見]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[嶋野蘭]]、タレント(元[[チェキッ娘]])
* 1981年 - [[アルトゥール・モラエス]]、サッカー選手
* [[1982年]] - [[櫻井翔]]、[[歌手]]、タレント([[嵐 (グループ)|嵐]])
* 1982年 - [[中村真実]]、サッカー選手
* 1982年 - [[庄子知美]]、タレント
* 1982年 - [[マキシム・シャバリン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1982年 - [[ノエミ (歌手)|ノエミ]]、歌手
* 1982年 - [[朴善英 (アナウンサー)|朴善英]]、アナウンサー
* [[1983年]] - [[今野泰幸]]、サッカー選手
* 1983年 - [[豊岡真澄]]、元タレント(元[[P-chicks]])
* 1983年 - [[仲間リサ]]、[[ファッションモデル]]
* [[1984年]] - [[皆藤愛子]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1984年 - [[ロビーニョ]]、サッカー選手
* 1984年 - [[シュテファン・キースリング]]、サッカー選手
* 1984年 - [[オンドレイ・ホタレック]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1984年 - [[石崎徹]]、政治家
* 1984年 - [[野田澤彩乃]]、[[女流棋士 (将棋)]]
* 1984年 - 河本太、お笑いタレント([[ウエストランド]])
* [[1985年]] - [[前田優香]]、[[AV女優]]
* 1985年 - [[本橋優華]]、元タレント
* 1985年 - [[チーナ・カーロリ]]、歌手
* 1985年 - ユウスケ、ミュージシャン(元[[HIGH and MIGHTY COLOR]])
* [[1986年]] - [[佐藤千晶]]、アナウンサー、ラジオパーソナリティ
* 1986年 - [[結城輝]]、俳優
* 1986年 - [[古財和輝]]、バドミントン選手
* 1986年 - [[荒波翔]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[武井択也]]、元サッカー選手
* [[1987年]] - [[マリア・キリレンコ]]、テニス選手
* 1987年 - [[岩見優輝]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[林弓束]]、タレント
* 1987年 - [[白山博基]]、ミュージカル俳優
* [[1988年]] - [[タチアナ・ゴロビン]]、テニス選手
* 1988年 - [[小澤亮太]]、俳優
* [[1989年]] - [[多部未華子]]、女優
* 1989年 - [[竹内友哉]]、俳優
* 1989年 - [[渡辺舞]]、ファッションモデル、女優
* 1989年 - [[ビクトリア・ムニス]]、フィギュアスケート選手
* 1989年 - [[ファクンド・イムホフ]]、男子バレーボール選手
* [[1990年]] - [[かれん]]、女優
* 1990年 - [[ジュノ (2PM)|ジュノ]]、アイドル
* 1990年 - [[益山司]]、元サッカー選手
* [[1991年]] - [[関口メンディー]]、ダンサー([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]]、[[EXILE]])
* 1991年 - [[工藤ちあき]]、元タレント
* 1991年 - [[北村諒]]、ファッションモデル、俳優
* [[1992年]] - [[有末麻祐子]]、ファッションモデル
* [[1994年]] - [[天野花]]、[[シンガーソングライター]]
* 1994年 - [[北方悠誠]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[森内寛樹]]、ミュージシャン([[MY FIRST STORY]])
* [[1995年]] - [[高橋咲良]]、アナウンサー
* 1995年 - [[佐藤大樹 (ダンサー)|佐藤大樹]]、ダンサー([[FANTASTICS from EXILE TRIBE]]、[[EXILE]])
* 1995年 ‐ [[宮崎湧]]、俳優
* 1995年 ‐ [[謝春花]]、シンガーソングライター
* [[1996年]] - [[杉本早裕吏]]、[[新体操]]選手
* 1996年 - ヒョン・スンヒ 、アイドル([[OH MY GIRL]])
* [[1997年]] - [[溝手るか]]、歌手(元[[SUPER☆GiRLS]])
* 1997年 - [[今川優馬]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[くろくも]]<ref>{{Cite web |url=http://twpf.jp/kurokumo_01 |title=kurokumo_01's Profile |accessdate=15 Jul 2023 |website=ツイフィール}}</ref>、[[歌手]]
* 1999年 - [[立川周]]、[[テレビ東京のアナウンサー一覧|テレビ東京アナウンサー]]
* [[2000年]] - [[長谷川涼香]]、競泳選手
* [[2001年]] - [[近澤諒香]]、競輪選手
* 2001年 - [[木村真那月]]、女優
* [[2003年]] - [[酒井唯菜]]、女優
* [[2004年]] - [[笹岡ひなり]]、女優
* [[2006年]] - [[田中奏生]]<ref>{{Cite web|和書 |title=田中 奏生 |work=TANAKA NANAU OFFICIAL SITE |publisher=[[研音]] |url=https://www.ken-on.co.jp/tanaka/profile/ |accessdate=15 Jul 2023}}</ref>、俳優
* 生年不明 - [[冴月瑠那]]、女優、[[宝塚歌劇団90期生]]
* 生年不明 - [[神山まさみ]]、声優、ナレーター
* 生年不詳 - [[我妻正崇]]、声優
* 生年不詳 - [[石原浩樹]]、声優
* 生年不明 - [[西田紘二]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sigma7.co.jp/actors/nishida_kouji |title=西田 紘二 |accessdate=15 Jul 2023 |publisher=[[シグマ・セブン|株式会社シグマ・セブン]]}}</ref>、声優
* 生年不詳 - [[丘上あい]]、漫画家
* 生年不明 - [[藤原里]]、漫画家
* 生年不明 - [[神田山吹]]、講談師
== 忌日 ==
* [[1019年]]([[寛仁]]2年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[敦康親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* [[999年]])
* [[1214年]]([[建保]]元年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[平徳子]](建礼門院徳子)<ref>{{Kotobank|建礼門院}}</ref>、[[平清盛]]の娘、[[安徳天皇]]の母(* [[1155年]])
* [[1494年]] - [[フェルディナンド1世 (ナポリ王)|フェルディナンド1世]]、[[ナポリ王国|ナポリ王]](* [[1423年]])
* [[1559年]] - [[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1481年]])
* [[1573年]]([[元亀]]3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[鳥居忠広]]、[[武将|戦国武将]](* [[1540年]]?)
* 1573年(元亀3年12月22日) - [[平手汎秀]]、戦国武将(* [[1553年]])
* 1573年(元亀3年12月22日) - [[佐脇良之]]、戦国武将
* 1573年(元亀3年12月22日) - [[夏目吉信]]、戦国武将
* 1573年(元亀3年12月22日) - [[成瀬正義]]、戦国武将
* [[1586年]] - [[ルーカス・クラナッハ (子)|ルーカス・クラナッハ]](子)、[[画家]](* [[1515年]])
* [[1670年]] - [[ニコラ2世 (ロレーヌ公)|ニコラ2世]]、[[ロレーヌ公]](* [[1612年]])
* [[1798年]]([[寛政]]9年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])- [[立花鑑通]]、[[筑後国|筑後]][[柳河藩]]第7代藩主(* [[1730年]])
* [[1821年]]([[文政]]3年12月22日) - [[本多利明]]、[[経世論|経世家]](* [[1743年]])
* [[1849年]] - [[エライアス・パリシュ・アルヴァーズ]]、[[作曲家]]、[[ハープ]]奏者(* [[1808年]])
* [[1870年]]([[明治]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[田沼意尊]]、[[江戸幕府]][[若年寄]]、[[遠江国|遠江]][[相良藩]]主、[[上総国|上総]][[小久保藩]]主(* [[1819年]])
* [[1891年]] - [[小笠原長行]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1822年]])
* [[1896年]] - [[フレデリック・レイトン]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1830年]])
* [[1908年]] - [[ウィーダ]]、[[小説家]](* [[1839年]])
* [[1911年]] - [[管野スガ]]、政治運動家(* [[1881年]])
* [[1920年]] - [[ジャンヌ・エビュテルヌ]]、[[画家]](* [[1898年]])
* [[1938年]] - [[エフゲニー・ポリワーノフ]]、[[言語学|言語学者]](* [[1891年]])
* [[1939年]] - [[アブナー・ダルリンプル]]、元プロ野球選手(* [[1857年]])
* [[1947年]] - [[高野辰之]]、[[日本文学研究者|国文学者]]、[[作詞家]](* [[1876年]])
* 1947年 - [[アル・カポネ]]、[[シカゴ]]=[[マフィア]]の大ボス(* [[1899年]])
* [[1949年]] - [[牧野伸顕]]、[[外交官]]、[[内大臣]](* [[1861年]])
* [[1952年]] - [[スヴェイン・ビョルンソン]]、初代[[アイスランドの大統領|アイスランド大統領]](* [[1881年]])
* [[1956年]] - [[佐野常羽]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[少将]]、[[ボーイスカウト]]指導者(* [[1871年]])
* [[1957年]] - [[志賀潔]]、[[赤痢菌]]を発見した[[細菌学|細菌学者]](* [[1871年]])
* [[1957年]] - [[小林一三]]、[[実業家]](* [[1873年]])
* [[1967年]] - [[エットーレ・バスティアニーニ]]、[[バリトン]][[歌手]](* [[1922年]])
* [[1970年]] - [[円谷英二]]、[[映画監督]](* [[1901年]])
* [[1972年]] - [[エアハルト・ミルヒ]]、元[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]][[元帥]](* [[1892年]])
* [[1973年]] - [[大場政夫]]、[[プロボクサー]](* [[1949年]])
* [[1977年]] - [[寒川光太郎]]、[[小説家]](* [[1908年]])
* [[1980年]] - [[盛永俊太郎]]、[[農学者]](* [[1895年]])
* [[1982年]] - [[ミハイル・スースロフ]]、[[ソビエト連邦共産党]]イデオロギー担当書記(* [[1902年]])
* [[1983年]] - [[安松京三]]、[[昆虫学|昆虫学者]](* [[1908年]])
* [[1987年]] - [[玉置和郎]]、[[総務庁]]長官(* [[1923年]])
* [[1989年]] - [[砂澤ビッキ]]、[[彫刻家]](* [[1931年]])
* [[1990年]] - [[エヴァ・ガードナー]]、[[俳優|女優]](* [[1922年]])
* [[1994年]] - [[スティーヴン・コール・クリーネ]]、[[数学者]](* [[1909年]])
* [[1996年]] - [[ジョナサン・ラーソン]]、[[作曲家]](* [[1960年]])
* 1996年 - [[岡村俊昭]]、元[[プロ野球選手]](* [[1912年]])
* 1996年 - [[中野道義]]、プロ野球選手(* [[1926年]])
* [[1999年]] - [[ロバート・ショウ (指揮者)|ロバート・ショウ]]、[[指揮者]](* [[1916年]])
* 1999年 - [[三木のり平]]、[[コメディアン|喜劇俳優]](* [[1925年]])
* 1999年 - [[土井垣武]]、元プロ野球選手(* [[1921年]])
* [[2002年]] - [[高山栄]]、[[声優]](+ [[1937年]])
* [[2004年]] - [[フランシナ・ブランカース=クン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1918年]])
* 2004年 - [[白木義一郎]]、プロ野球選手、[[公明党]]副委員長(* [[1919年]])
* 2004年 - [[フェヘール・ミクローシュ]]、[[サッカー]]選手(* [[1979年]])
* [[2005年]] - [[フィリップ・ジョンソン]]、[[建築家]](* [[1906年]])
* [[2008年]] - [[田沢芳夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/01/25/kiji/K20080125Z00000540.html|title=元南海投手 田沢芳夫さん死去|publisher=[[スポーツニッポン]]|website=Sponichi Annex|date=25 Jan 2008|accessdate=15 Jul 2023}}</ref>、[[プロ野球選手]](* [[1936年]])
* [[2010年]] - [[アリー・ハサン・アル=マジード]]、元[[政治家]](* [[1941年]])
* [[2011年]] - [[ダニエル・ベル]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2700T_X20C11A1CC0000?s=6|title=米社会学者のダニエル・ベル氏が死去|publisher=[[日本経済新聞]]|date=27 Jan 2011|accessdate=15 Jul 2023}}</ref>、[[社会学者]](* [[1919年]])
* [[2012年]] - [[パーヴォ・ベルグルンド]]、指揮者(* [[1929年]])
* [[2013年]] - [[嶋本昭三]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27012_X20C13A1CC1000/ |title=嶋本昭三氏が死去 前衛美術家 |publisher=産経ニュース |date=27 Jan 2013 |accessdate=15 Jul 2023}}</ref>、[[芸術家]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]](* [[1928年]])
* [[2014年]] - [[河野旭輝]]、元プロ野球選手(* [[1935年]])
* [[2017年]] - [[星宮望]]、[[工学者]]、[[東北大学]][[名誉教授]]、[[東北学院大学]]元大学長(* [[1941年]])
* 2017年 - [[藤村俊二]]<ref>{{Cite web|和書|title=藤村俊二さん死去 82歳、心不全「おヒョイさん」の愛称|website=Sponichi ANNEX|date=1 Feb 2017|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/02/01/kiji/20170201s00041000191000c.html|publisher=[[スポーツニッポン]]|accessdate=15 Jul 2023}}</ref>、[[タレント]]、俳優(* [[1934年]])
* [[2021年]] - [[浦野烋興]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20210126-U4ODVLZKXVPF3OGRNR2XPVTKII/ |title=浦野烋興氏死去 元科学技術庁長官 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=26 Jan 2021}}</ref>、[[政治家]](* [[1941年]])
* [[2023年]] - [[高井美紀]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASR2265F3R22PCVL00R.html |title=毎日放送アナウンサーの高井美紀さん死去 「皇室アルバム」など担当 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞]]デジタル |date=2 Feb 2023}}</ref>、アナウンサー(* [[1967年]])
== 記念日・年中行事 ==
* 初[[天神信仰|天神]]({{JPN}})
*: 天神様の縁日は毎月25日で、1年の最初の縁日である1月25日を「初天神」という。天神様の祭神[[菅原道真]]公の誕生日が[[6月25日]]、命日が[[2月25日]]というところから、毎月25日が縁日になっている<ref>{{Cite web|和書 |url=https://imidas.jp/rekigyoji/detail/L-55-076-08-01-G222.html |title=初天神|和の心 暦と行事 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[イミダス|imidas]]・[[集英社]] |date=25 Jan 2008}}</ref>。
* 鷽替え神事({{JPN}})
*: 古来より、天神様ゆかりの鳥として親しまれている小鳥の「[[ウソ|鷽]]」。初天神の1月25日に木彫りの「鷽」を新しい「鷽」と取り替える神事が「鷽替え神事」。普段知らず知らずのうちに使う「嘘」を、天神様の「まこと」に替えていただき、正しい幸運を招くことを祈念する。凶事をうそにして、幸運に替えることを念願して、江戸時代のはじめから始まったと云われている<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yushimatenjin.or.jp/pc/saiji/usokae.htm |title=鷽(うそ)替え神事 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[湯島天神]]}}</ref>。
* [[左遷]]の日({{JPN}})
*: [[延喜]]元年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]](旧暦。新暦では[[901年]][[2月16日]])、[[菅原道真]]が政敵[[藤原時平]]の謀略により[[大宰府]]に左遷される勅令が発せられたことに因む。
* 菅公学生服の日({{JPN}})
*:[[岡山県]][[岡山市]]の菅公学生服株式会社が制定。自社の学生服のアピールと、子供たちの学業成就と健やか成長を祈るのが目的。日付は、菅原道真公にゆかりの初天神の日から<ref name="Jan25"/>。
* 石ノ森章太郎記念日({{JPN}})
*:株式会社石森プロが、[[石ノ森章太郎]]の誕生日([[1938年]]1月25日)を記念して制定。石ノ森章太郎は、世界一萬画を描いた萬画家として、[[ギネスブック]]にも認定されている<ref name="Jan25">{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=21|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
*日本最低気温の日({{JPN}})
*: [[1902年]]1月25日に、[[北海道]][[旭川市]]で日本における[[最低気温]]の記録である-41℃を観測したことに由来。
*: これは「[[中華まん]]の日」、「[[ホットケーキ]]の日」の由来になっている(これらを食べて温まろう、という意味)。
*中華まんの日
*:コンビニなどで販売される加温まんじゅう(以下、中華まん)の衛生管理や品質向上のために活動する日本加温食品協会が制定。日付は、上記の通り北海道旭川市でー41℃の日本最低気温を記録し、1年で最も寒いとされるこの時期に、ほかほかの中華まんを食べて、身体も心も温め、ほっと一息ついていただきたいという願いから。
* [[主婦休みの日]]({{JPN}})
*:主婦がほっと一息ついて自分磨きやリフレッシュするのが目的で、株式会社サンケイリビング新聞社が中心になって制定。日付は年末年始、ゴールデンウィーク、夏休みなどの主婦が忙しい時期のあとの1月25日、[[5月25日]]、[[9月25日]]の年3日を設定した<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=270|isbn=978-4422021157 }}</ref>。
* お詫びの日({{JPN}})
*: 1077年の[[カノッサの屈辱]]に因む。
* [[美容]]記念日({{JPN}})
*: [[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]・[[平成]]の4つの時代を通して、見かけだけではなく心も体も美しくなることが美容の本来の意味であると、日本で最初に提唱した美容家[[メイ牛山]]の誕生日にちなむ。[[健康食]]という概念をつくり、健康と美容の両立の概念を広めた。女性が楽しく美しくいられる社会は平和な社会であるとの美容哲学と平和理論に基づく。
* {{仮リンク|バーンズ・サッパー|en|Burns supper}}({{SCO}})
*: スコットランドの詩人[[ロバート・バーンズ]]の[[1759年]]の誕生日。スコットランド地方ではこの日、生誕を祝ってこの日の夜にバーンズの作品を朗読し、肉料理を食べる。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0125|date=Jul 2023}}
* [[1993年]] - 宇宙暦元年。最初に地球外惑星の独立を唱えたマリウス・ボルツの誕生日が1993年1月25日であることから、宇宙移民らによって[[2093年]]に制定された。(ライトノベル『[[宇宙一の無責任男]]』)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0087年 - [[パプテマス・シロッコ]]が[[ジャミトフ・ハイマン]]総帥を暗殺し、[[ティターンズ]]の実権を掌握。(アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』)
* U.C.0088年 - [[宇宙世紀の施設と地名#ペズン|小惑星ペズン]]に駐留する親ティターンズ派地球連邦軍教導団の青年将校がペズンを制圧。[[宇宙世紀#(ペズンの反乱)|ペズンの反乱]]を起こす。(雑誌企画『[[ガンダム・センチネル]]』)
* [[コズミック・イラ|C.E.]]71年 - ザフト軍の[[ラウ・ル・クルーゼ|クルーゼ]]隊がガンダム強奪のため、[[オーブ連合首長国|オーブ]]の資源[[スペースコロニー|コロニー]]「ヘリオポリス」を襲撃。(アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1972年]] - 三堂芯吾、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|coauthors = [[小畑健]] |year = 2006 |title = DEATH NOTE |volume = 13 |page = 29 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4-08-874095-9 }}</ref>
* [[1981年]] - 乃木憂助、ドラマ『[[VIVANT]]』の主人公
* [[1986年]] - 金田太郎、漫画『[[赤ちゃんのホスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=丘上あい|title=赤ちゃんのホスト|volume=7|page=93|publisher=講談社|isbn=978-4-06-394509-6}}</ref>
* 生年不明 - アイザック・ギルモア博士、漫画・アニメ『[[サイボーグ009]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishimoripro|1353518216631390208}}</ref>
* 生年不明 - すう、『[[ミュークルドリーミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{YouTube|bpKn_N5eVXs|すう<ミュークルドリーミー>}}</ref>
* 生年不明 - [[ファン・ディアス (キャプテン翼)|ファン・ディアス]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year=2003|title=キャプテン翼 3109日全記録|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-782789-5|page=175}}</ref>
* 生年不明 - [[玉藻京介]]、漫画・アニメ『[[地獄先生ぬ〜べ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=週刊少年ジャンプ特別|authorlink=週刊少年ジャンプ|year = 1997 |title = 地獄先生ぬ〜べ〜大百科 |page = 102 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス デラックス]] |isbn = 4-08-858883-5 }}</ref>
* 生年不明 - [[城之内克也]]、漫画『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋和希|title=遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書|publisher=[[集英社]]|series=Vジャンプブックス|year=2015|page=38|ISBN=978-4-08-779722-0}}</ref>
* 生年不明 - 石田銀、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1485629727520051208}}</ref>
* 生年不明 - ジョーラ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/giolla.html |title=ジョーラ |access-date=15 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - [[波風ミナト]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=147|ISBN=4-08-873734-2}}</ref>
* 生年不明 - 角名倫太郎、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2018|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-881337-0|quote=|date=|volume=30巻|page=26}}</ref>
* 生年不明 - 氷見亜希、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|823908410081103874}}</ref>
* 生年不明 - 海ヘビ座のカーチス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1485809963343753219}}</ref>
* 生年不明 - 桜庭ひかる、漫画・ゲーム・アニメ『[[らき☆すた]]』に登場するキャラクター<ref>『ら・ら・ら らき☆すた ファンブック』([[月刊コンプエース]]2007年9月号付録)[[角川書店]]、2007年、10頁。</ref>
* 生年不明 - [[咲-Saki-の登場人物#原村嘉帆|原村嘉帆]]、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=小林立|authorlink=小林立|year = 2016 |title = 咲-Saki- |volume = 第16巻 |page = 33 |publisher = [[スクウェア・エニックス]] |isbn = 978-4-7575-5193-0 }}</ref>
* 生年不明 - 黄前麻美子、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://tv2nd.anime-eupho.com/sp/character/mamiko/ |title=黄前麻美子 |work=『響け! ユーフォニアム2』 |accessdate= 15 Jul 2023 |publisher=[[京都アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 結城ひなた、ドラマ『[[リズスタ -Top of Artists!-]]』の登場
* 生年不明 - サバンナ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 サバンナ |access-date=15 Jul 2023|publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - プリムラ、ゲーム・アニメ『[[SHUFFLE!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2009-11 |publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |journal = [[電撃G's magazine]] |page = 74 }}</ref>
* 生年不明 - ノコ、ゲーム『[[ドリームクラブGogo.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2014 |title = ドリームクラブ Gogo. ビジュアルファンブック |page = 54 |publisher = [[KADOKAWA]] |ISBN = 978-4-04-729693-0}}</ref>
* 生年不明 - ジェラルド、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=72&cate=name&cont=Gerald |title=ジェラルド |access-date= 15 Jul 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]]|work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドリッシュセブン#IDOLiSH7|和泉一織]]、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドリッシュセブン|IDOLiSH7]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idolish7.com/wp-content/themes/idolish/profile/iori.html |title=和泉一織 |access-date= 15 Jul 2023 |publisher= [[バンダイナムコオンライン]] |work=『アイドリッシュセブン』}}</ref>
* 生年不明 - 北原白秋、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1353356929645608961}}</ref>
* 生年不明 - 中野重治、ゲーム『文豪とアルケミスト』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|1485628517522243584}}</ref>
* 生年不明 - 青葉りんか、ゲーム・アニメ『[[キラッとプリ☆チャン|キラッと!プリ⭐︎チャン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|PrettySeriesPR|1353477681095077888}}</ref>
* 生年不明 - 篁志季、メディアミックス『[[ツキノ芸能プロダクション]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tsukino-pro.com/talent_artist/talent_artist-cat2/sq-ta/takamura-shiki-ta/ |title=篁 志季 |access-date=15 Jul 2023 |publisher=TSUKIPRO TSUKIUTA. UNIVERSAL MUSIC LLC ALTAIR |work=『ツキノ芸能プロダクション』}}</ref>
* 生年不明 - 釈村帝人、メディアミックス『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://bpro-official.com/artists/moons/ |title=MooNs 釈村 帝人 |accessdate= 15 Jul 2023 |publisher=[[MAGES.]] B-PROJECT |work=『B-PROJECT』}}</ref>
* 生年不明 - miho、メディアミックス『[[IDOLY PRIDE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url= https://idolypride.jp/character/miho/ |title=miho |accessdate= 15 Jul 2023 |publisher= Project IDOLY PRIDE |work=『IDOLY PRIDE』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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'''1月27日'''(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から27日目に当たり、年末まであと338日([[閏年]]では339日)ある。
== できごと ==
[[File:Apollo 1's Command Module - GPN-2003-00057.jpg|thumb|140px|[[アポロ1号]]の火災事故(1967年)]]
* [[661年]] - [[アリー・イブン・アビー=ターリブ]]の死去により、[[イスラム教]][[正統カリフ]]が終焉。
* [[1142年]]([[紹興 (宋)|紹興]]11年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[南宋]]の武将[[岳飛]]が宰相[[秦檜]]により謀殺される。
* [[1186年]] - 後の[[神聖ローマ帝国]][[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]が[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]と結婚。
* [[1587年]]([[天正]]14年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[豊臣秀吉]]が[[太政大臣]]に任じられる<ref>{{Twitter status|JPNatArchives|1075224202398048256}}</ref>。
* [[1593年]] - [[コペルニクス]]の[[地動説]]を擁護した[[ジョルダーノ・ブルーノ]]が[[ローマ]]の[[異端審問]]所に引き渡される。7年間に獄中に留め置かれた末に1600年に異端審問を開始。
* [[1606年]] - [[イングランド]]でジェームス1世に対する暗殺未遂事件([[火薬陰謀事件]])で逃亡していた容疑者ら8名が裁判にかけられた。
* [[1785年]] - [[アメリカ合衆国]]初の公立大学、[[ジョージア大学]]が開学。
* [[1868年]]([[慶応 (元号)|慶応]]4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[戊辰戦争]]で、[[鳥羽・伏見の戦い]]が行われる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hugkum.sho.jp/405847 |title=鳥羽・伏見の戦いをわかりやすく解説! 勝敗の決め手や戦後の出来事も【親子で歴史を学ぶ】 |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[小学館]] |date=19 Oct 2022}}</ref>。
* [[1869年]]([[明治]]元年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[榎本武揚]]ら、旧幕府軍が[[函館市|箱館]]で[[蝦夷地]]の領有を宣言。いわゆる[[蝦夷共和国]]が発足する。
* [[1880年]] - [[トーマス・エジソン]]が[[白熱電球]]の[[特許]]を取得<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.gizmodo.jp/2015/02/135-years-ago-and-today.html |title=発明から135年の時を経て、白熱電球はアートとして蘇る |access-date=10 Apr 2023 |publisher=GIZMODO |date=7 Feb 2015}}</ref>。
* [[1882年]] - [[生命保険]]の死亡保険金が日本で初めて支払われ、同年1月31日に新聞報道される。
* [[1888年]] - アメリカ合衆国・[[ワシントンD.C.]]に[[ナショナルジオグラフィック協会]]創設。
* [[1889年]] - [[ブーランジェ将軍事件]]:[[セーヌ=エ=マルヌ県|セーヌ県]]の[[国民議会 (フランス)|下院]][[補欠選挙]]で[[ジョルジュ・ブーランジェ]]が共和各派の推した統一候補に大差をつけて当選。
* [[1890年]] - [[慶應義塾]]が[[慶應義塾大学|大学部]]を設置。
* [[1915年]] - アメリカ合衆国[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]が[[ハイチ]]を[[占領]]。
* [[1918年]] - [[フィンランド内戦]]が開戦。
* 1918年 - アメリカで小説「[[ターザン・シリーズ]]」の初の映画化作品『{{仮リンク|ターザン (1918年の映画)|en|Tarzan of the Apes (1918 film)|label=ターザン}}』が公開。
* [[1926年]] - [[ジョン・ロジー・ベアード]]が初めて[[テレビジョン]]による視覚電信を実演。
* [[1934年]] - [[スタヴィスキー事件]]による混乱の責任を取って、[[フランス]]の[[カミーユ・ショータン]]内閣が総辞職。
* [[1936年]] - [[ロシア]]出身のバス歌手[[フョードル・シャリアピン]]が来日。来日の際、帝国ホテルで[[シャリアピンステーキ]]が出される。
* [[1938年]] - [[平賀譲]][[東京大学|東大]][[総長]]が[[経済学部]]教授[[河合栄治郎]]・[[土方成美]]の[[休職]]処分を[[荒木貞夫]]文相に上申。([[平賀粛学]])
* [[1939年]] - [[ロッキード]][[P-38 (航空機)|P-38]]が初飛行。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[エンドウ沖海戦]]。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[1941年]][[9月9日]]から続いた[[レニングラード包囲戦]]が終戦<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/siege-of-leningrad-is-lifted |title=Siege of Leningrad is lifted |website=THIS DAY IN HISTORY |accessdate=10 Apr 2023 |publisher=A&E Television Networks, LLC. |date=23 Jan 2020}}</ref>。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[ドイツ]]の[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ強制収容所]]が[[ソビエト連邦|ソ連]]軍により解放。
* [[1949年]] - [[太平輪沈没事故]]。
* [[1951年]] - 初めて[[アメリカ合衆国]][[ネバダ核実験場]]で[[核実験]]が行われる。
* [[1953年]] - [[ジョン・フォスター・ダレス]]米国務長官が、対共産圏軍事対決を主張する「[[巻き返し政策]]」の演説を行う。
* [[1964年]] - [[中華人民共和国]]と[[フランス]]との間で[[国交]]が樹立。
* [[1965年]] - [[ベトナム共和国|南ベトナム]]で軍事クーデター。[[グエン・カーン]]将軍が実権を掌幄。
* [[1967年]] - [[アポロ1号]]が訓練中に事故で炎上。宇宙飛行士3人が死亡。
* 1967年 - アメリカ合衆国、[[イギリス]]、[[ソビエト連邦]]などを含む60カ国以上の国が[[宇宙条約]]に署名。
* [[1968年]] - [[東京メトロ日比谷線|営団日比谷線]](当時)の[[神谷町駅]]で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故|車両火災事故]]。
* [[1971年]] - [[葉山御用邸放火事件]]。
* [[1973年]] - [[北ベトナム]]・[[ベトナム共和国|南ベトナム]]・[[南ベトナム解放民族戦線]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の四者でベトナム和平[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]を締結。[[ベトナム戦争]]が正式に[[終戦]]。
* [[1977年]] - 服飾デザイナーの[[森英恵]]が東洋人で初めてパリ・オートクチュールのメンバーになる。
* [[1983年]] - [[青函トンネル]]の先進導抗が貫通。
* [[1989年]] - [[佐賀女性7人連続殺人事件|北方事件]]: [[佐賀県]][[北方町 (佐賀県)|北方町]]で、道路脇の崖下から女性3人の遺体が発見される。
* [[1993年]] - [[曙太郎|曙]]が1月場所で優勝。3月場所で外国人力士初の[[横綱]]昇進が決まった。
* [[1996年]] - [[ニジェール]]で、[[イブライム・バレ・マイナサラ]]が[[クーデター]]により政権掌握。
* [[2001年]] - [[東京23区]]で大雪[[警報]]。東京[[都心]]で8センチの[[積雪]]を観測。
* [[2003年]] - [[全日空機成田空港オーバーラン事故]]: [[全日本空輸]]の[[ボーイング767]]-300型機が、[[成田国際空港]]で操縦ミスによるオーバーラン事故を起こす。
* [[2008年]] - [[2008年大阪府知事選挙]]が行われ[[橋下徹]]が当選。
* [[2011年]] - [[鹿児島県]][[宮崎県]]の両県にまたがる霧島連山の[[新燃岳|新燃岳(しんもえだけ)]]が52年振りに噴火。
* [[2013年]] - [[サンタマリアナイトクラブ火災]]: [[ブラジル]]のサンタマリアのナイトクラブで火災が発生し、233人以上が死亡<ref>{{Cite web|和書 |date=2013-01-28 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK28003_Y3A120C1000000/ |title=ブラジルのクラブ火災、死者は233人 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>。
* [[2019年]] - アイドルグループ「[[嵐 (グループ)|嵐]]」が[[2020年]][[12月31日|12月31]]日をもって活動休止することを発表。
* [[2020年]] - [[フランス]]で発表された『[[ミシュラン]]』で、[[パリ]]にある「Restaurant KEI」の[[小林圭]]が日本人で史上初の三ツ星を獲得した。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
* [[1546年]] - [[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム・フリードリヒ]]、[[ブランデンブルク選帝侯]](+ [[1608年]])
* [[1585年]] - [[ヘンドリック・アーフェルカンプ]]、[[画家]](+ [[1634年]])
* [[1607年]]([[慶長]]11年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]])- [[青木重兼]]、第2代[[麻田藩|麻田藩主]](+ [[1682年]])
* [[1613年]]([[慶長]]17年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]])- [[良如]]、[[浄土真宗本願寺派]]13世(+ [[1662年]])
* [[1687年]] - [[バルタザール・ノイマン]]、[[建築家]](+ [[1753年]])
* [[1708年]] - [[アンナ・ペトロヴナ]]、[[ロシア皇帝]][[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]の娘(+ [[1728年]])
* [[1756年]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]、[[作曲家]](+ [[1791年]])
* [[1775年]] - [[フリードリヒ・シェリング]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1854年]])
* [[1805年]] - [[ゾフィー (オーストリア大公妃)|ゾフィー]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]皇帝[[フランツ・カール・フォン・エスターライヒ|フランツ・カール大公]]妃(+ [[1872年]])
* 1805年 - [[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1805-1877)|マリア・アンナ・フォン・バイエルン]]、[[ザクセン王国|ザクセン]]王[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]の王妃(+ [[1877年]])
* [[1806年]] - [[ホアン・クリソストモ・アリアーガ]]、作曲家(+ [[1826年]])
* [[1807年]] - [[ダーフィト・シュトラウス]]、哲学者、[[神学者]](+ [[1874年]])
* [[1819年]]([[文政]]2年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]])- [[溝口直溥]]、第11代[[新発田藩|新発田藩主]](+ [[1874年]])
* [[1823年]] - [[エドゥアール・ラロ]]、作曲家(+ [[1892年]])
* [[1824年]] - [[デイヴィッド・マッケンドリー・キー (郵政長官)|デイヴィッド・マッケンドリー・キー]]、第30代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1900年]])
* [[1826年]] - [[ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン]]、風刺作家(+ [[1889年]])
* 1826年 - [[リチャード・テイラー (将軍)|リチャード・テイラー]]、[[アメリカ合衆国]][[南北戦争]]の[[南軍]][[将軍]](+ [[1879年]])
* [[1827年]](文政10年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[河井継之助]]、[[越後長岡藩|長岡藩]]家老、[[陽明学|陽明学者]](+ [[1868年]])
* 1827年(文政10年1月1日) - [[ジョン万次郎]]、[[通訳]](+ [[1898年]])
* [[1831年]] - [[アーサー・ヒューズ]]、[[画家]]、[[イラストレーター]](+ [[1915年]])
* [[1832年]] - [[ルイス・キャロル]]、[[童話]][[作家]]、[[数学者]](+ [[1898年]])
* [[1835年]]([[天保]]5年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]])- [[松平定法]]、第10代[[今治藩|今治藩主]](+ [[1901年]])
* [[1836年]] - [[レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ]]、[[小説家]](+ [[1895年]])
* [[1838年]]([[天保]]9年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]) - [[町田久成]]、[[東京国立博物館]]初代館長(+ [[1897年]])
* [[1841年]] - [[アルヒープ・クインジ]]、風景画家(+ [[1910年]])
* [[1848年]]([[弘化]]4年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[東郷平八郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/141/ |title=東郷 平八郎 |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[国立国会図書館]] |work=近代日本人の肖像}}</ref>、[[軍人]](+ [[1934年]])
* [[1849年]]([[嘉永]]2年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[折田彦市]]、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]校長(+ [[1920年]])
* [[1850年]] - [[エドワード・スミス|エドワード・J・スミス]]、[[タイタニック (客船)|タイタニック号]][[船長]](+ [[1912年]])
* 1850年 - [[サミュエル・ゴンパーズ]]、労働運動指導者(+ [[1924年]])
* 1850年 - [[ジョン・コリア (画家)|ジョン・コリア]]、[[画家]](+ [[1934年]])
* [[1853年]] - [[ヨハネス・ユストゥス・ライン]]、[[地理学|地理学者]]、[[日本学|日本学者]](+ [[1918年]])
* [[1855年]]([[安政]]元年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]])- [[建部政世]]、第10代[[林田藩|林田藩主]](+ [[1877年]])
* [[1856年]] - [[エドワード・ポールトン]]、[[生物学者]](+ [[1943年]])
* 1856年(安政2年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]])- [[内藤文成]]、第7代[[挙母藩|挙母藩主]](+ [[1901年]])
* [[1859年]] - [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]、[[ドイツ]]皇帝(+ [[1941年]])
* [[1864年]] - [[ジョン・ウォルター・グレゴリー]]、[[地質学|地質学者]]、[[探検家]](+ [[1932年]])
* [[1885年]] - [[前田青邨]]、[[日本画家]](+ [[1977年]])
* [[1886年]] - [[ラダ・ビノード・パール]]、法学者、[[極東国際軍事裁判]][[判事]](+ [[1967年]])
* [[1891年]] - [[イリヤ・エレンブルク]]、[[作家]](+ 1967年)
* 1891年 - [[高橋亀吉]]、[[経済学者]](+ [[1977年]])
* [[1893年]] - [[宋慶齢]]、[[政治家]]、[[孫文]]夫人(+ [[1981年]])
* 1893年 - [[矢内原忠雄]]、[[経済学者]]、[[東京大学]]学長(+ [[1961年]])
* 1893年 - [[ウィリー・ベックル]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1975年]])
* [[1895年]] - [[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]、[[指揮者]](+ [[1985年]])
* [[1900年]] - [[賀陽宮恒憲王]]、[[皇族]](+ [[1978年]])
* [[1901年]] - [[千宗左 (13代)|千宗左]]、茶道家([[表千家]]13世)(+ [[1979年]])
* 1901年 - [[高野実]]、[[労働運動家]](+ [[1974年]])
* [[1903年]] - [[ジョン・C・エックルス]]、神経生理学者(+ [[1997年]])
* [[1906年]] - [[山中直治]]、[[作曲家]](+ [[1937年]])
* [[1913年]] - [[森下正明]]、[[生態学|生態学者]]、[[京都大学]][[名誉教授]](+ [[1997年]])
* 1913年 - [[横沢七郎]]、[[プロ野球選手]](+ [[2002年]])
* [[1915年]] - [[日本橋きみ栄]]、[[歌手]](+ [[1993年]])
* 1915年 - [[ジャーク・ヒニズドフスキー]]、[[画家]]、[[版画家]]、[[彫刻家]]、[[装幀|装幀家]](+ [[1985年]])
* [[1918年]] - [[エルモア・ジェームス]]、[[ブルース]][[ギタリスト]](+ [[1963年]])
* [[1919年]] - [[成田啓二]]、元プロ野球選手(+ [[1985年]])
* [[1920年]] - [[西澤廣義]]、[[軍人]](+ [[1944年]])
* [[1924年]] - [[ラウフ・デンクタシュ]]、[[北キプロスの大統領|北キプロス・トルコ共和国初代大統領]](+ [[2012年]])
* [[1925年]] - [[奥井成一]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]])
* [[1928年]] - [[白井文吾]]、[[新聞記者]]、[[実業家]]、[[中日新聞社]]顧問名誉会長、[[中日ドラゴンズ]]名誉オーナー
* [[1930年]] - [[ボビー・ブランド|ボビー・ブルー・ブランド]]、[[ブルース]]・[[歌手|シンガー]](+ [[2013年]])
* [[1932年]] - [[ボリス・シャハリン]]、[[体操]]選手(+ [[2008年]])
* [[1935年]] - [[小山明子]]、[[俳優|女優]]
* [[1936年]] - [[サミュエル・ティン]]、[[物理学者]]、[[ノーベル物理学賞]]受賞者
* [[1937年]] - [[ジョン・オグドン]]、[[ピアニスト]](+ [[1989年]])
* 1937年 - [[高山栄]]、[[声優]]、[[俳優]](+ [[2002年]])
* [[1940年]] - [[ジェームズ・クロムウェル]]、俳優
* 1940年 - [[ペトル・ルチンスキ]]、[[モルドバ]]大統領
* [[1941年]] - [[ベアトリス・ティンズリー]]、[[天文学者]]、[[宇宙物理学|宇宙物理学者]](+ [[1981年]])
* 1941年 - [[岩本進]]、元プロ野球選手
* [[1942年]] - [[本庶佑]]、医学者、[[ノーベル医学・生理学賞]]受賞者
* [[1944年]] - [[ニック・メイスン]]、[[ドラマー]]([[ピンク・フロイド]])
* [[1945年]] - [[脇田義信]]、[[アナウンサー]](+ [[2005年]])
* [[1946年]] - [[エヴァ・ロマノワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1948年]] - [[永倉万治]]、[[随筆家]](+ [[2000年]])
* [[1948年]] - [[ミハイル・バリシニコフ]]、[[バレエ]]ダンサー、[[俳優]]
* 1948年 - [[ジャン=フィリップ・コラール]]、[[ピアニスト]]
* 1948年 - [[阿天坊俊明]]、[[野球選手]]
* [[1949年]] - [[並木恵美子|並木惠美子]]、プロボウリング選手
* [[1950年]] - [[植木まり子]]、女優
* [[1951年]] - [[田中邦彦 (実業家)|田中邦彦]]、実業家、[[くら寿司]]創業者、社長
* 1951年 - [[河野忠康]]、政治家
* [[1952年]] - [[石田三示]]、政治家
* 1952年 - [[安達かおる]]、[[AV監督]]
* 1952年 - [[那須博之]]、[[映画監督]](+ [[2005年]])
* [[1954年]] - [[杉山知之]]、[[コンピュータグラフィックス|CG]]アーティスト、[[デジタルハリウッド]]創業者
* 1954年 - [[二宮城光]]、[[空手家]]
* [[1955年]] - [[ジョン・ロバーツ]]、第17代[[アメリカ合衆国連邦最高裁判所]]長官
* [[1956年]] - [[ミミ・ロジャース]]、女優
* 1956年 - [[陰山泰]]、俳優
* [[1957年]] - [[フランク・ミラー]]、コミックライター
* [[1958年]] - [[升家誠司]]、実業家
* [[1960年]] - [[清水ミチコ]]、[[コメディアン]]
* 1960年 - [[柘植伊佐夫]]、人物デザイン、[[ビューティーディレクター]]
* [[1961年]] - [[江森浩子]]、声優
* 1961年 - [[島根恵]]、[[ヴァイオリニスト]]
* [[1962年]] - [[金賢姫]]、元[[北朝鮮]][[スパイ|工作員]]
* [[1963年]] - [[田中哲弥]]、[[作家]]
* [[1964年]] - [[折原みと]]、[[漫画家]]
* 1964年 - [[ブリジット・フォンダ]]、女優
* [[1965年]] - [[アラン・カミング]]、俳優
* [[1966年]] - [[呉俊宏]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[杉森建]]、[[ゲームクリエイター]]、[[イラストレーター]]、漫画家
* 1966年 - [[タムリン・トミタ]]、女優
* 1966年 - [[三田寛子]]、女優
* [[1967年]] - [[バクシーシ山下]]、AV監督
* [[1969年]] - [[小山田圭吾]]、[[音楽家]]
* 1969年 - [[茂木康子]]、[[柔術家]]、[[総合格闘家]]
* [[1970年]] - [[エマニュエル・パユ]]、[[フルート]]奏者
* [[1971年]] - [[巴富士俊英]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1971年 - [[古沢淳]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[鈴木正和 (声優)|鈴木正和]]、声優
* 1971年 - [[嶋村かおり]]、女優、モデル、シナリオライター
* [[1972年]] - [[マーク・オーエン]]、歌手
* [[1972年]] - [[佐藤昇 (ジャーナリスト)|佐藤昇]]、[[ジャーナリスト]]
* [[1974年]] - [[オーレ・アイナル・ビョルンダーレン]]、[[バイアスロン]]選手
* 1974年 - [[ブライアン・ネルソン]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[yasu]]、[[ミュージシャン]]([[Janne Da Arc]])
* 1975年 - [[雨宮処凛]]、[[市民活動家]]
* [[1976年]] - [[安貞桓]]、元[[サッカー選手]]
* [[1977年]] - [[本山哲 (音響監督)|本山哲]]、[[音響監督]]
* [[1978年]] - [[雛形あきこ]]、女優
* 1978年 - [[井本貴史]]、[[お笑いタレント]]([[ライセンス (お笑いコンビ)|ライセンス]])
* 1978年 - [[小林慶行]]、元サッカー選手
* 1978年 - [[ピート・ラフォレスト]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[おかゆまさき]]、[[ライトノベル]]作家
* 1979年 - [[こやまきみこ]]、声優
* 1979年 - [[HAN-KUN]]、ミュージシャン([[湘南乃風]])
* [[1980年]] - [[三遊亭鳳月]]、落語家
* 1980年 - [[マラト・サフィン]]、元[[テニス]]選手
* [[1981年]] - [[アリシア・モリク]]、テニス選手
* 1981年 - [[ノグチピント・エリキソン]]、[[サッカー選手]]
* 1981年 - [[大谷ゆり]]、[[レースクイーン]]
* 1981年 - [[石狩勇気]]、声優
* [[1982年]] - [[熊木杏里]]、[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]]
* 1982年 - [[Gendy]]、シンガーソングライター、[[歌手]]
* 1982年 - [[野田あすか]]、ピアニスト
* 1982年 - [[小山内大和]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[ガビン・フロイド]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[マイク・ザガースキー]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[楠城祐介]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[三上彩]]、元バレーボール選手
* [[1985年]] - [[森山愛子]]、[[演歌歌手]]
* 1985年 - [[大野龍二]]、元陸上選手
* [[1986年]] - [[松永貴志]]、[[ジャズ]][[ミュージシャン]]
* 1986年 - [[藤江均]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[八木麻紗子]]、[[アナウンサー]]
* 1986年 - [[日向大輔]]、声優
* 1986年 - [[ヨハン・フランデ]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[岩田慎司]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[リリー・ドナルドソン]]、[[スーパーモデル]]
* 1987年 - [[コーディ・サターホワイト]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[デニス・グルシャコフ]]、サッカー選手
* 1987年 - [[ロマン・シシュキン]]、サッカー選手
* 1987年 - [[アントン・シュニン]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[ケルロン・モウラ・ソウザ]]、元サッカー選手
* [[1990年]] - [[北井佑季]]、元サッカー選手
* 1990年 - [[ティム・ベッカム]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[マリア・パパソティリウ]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[クリストフ・モリッツ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[アレクサンダル・イグニョフスキ]]、サッカー選手
* 1991年 - [[張芸洋]]、歌手
* [[1993年]] - [[中村有沙]]、女優
* 1993年 - [[張悦]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1993年 - [[ダニエル太郎]]、[[テニス]]選手
* 1993年 - [[太田一輝]]、元サッカー選手
* [[1994年]] - [[野村涼乃]]、女優
* 1994年 - [[王凡]]、バレーボール選手
* [[1996年]] - [[穴井千尋]]、元アイドル(元[[HKT48]])
* 1996年 - [[並木万里菜]]、アナウンサー
* 1996年 - [[小原裕貴 (1996年生のタレント)|小原裕貴]]、元俳優
* [[1997年]] - [[板倉滉]]、サッカー選手
* [[1998年]] - [[上白石萌音]]、女優、歌手
* 1998年 - [[佐藤都志也]]、プロ野球選手
* 1998年 - 加藤翔、[[YouTuber]]([[だいにぐるーぷ]])
* [[1999年]] - [[石本さくら]]、将棋棋士
* 1999年 - [[金慧成]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[平良達郎]]、総合格闘家
* [[2001年]] - [[槙いずな]]、元[[AV女優]]
* [[2002年]] - [[谷端奏人]]、俳優
* [[2003年]] - 大音奏依、アイドル([[LINKL PLANET]])
* [[2004年]] - 豊田陸人、アイドル([[ジャニーズJr.]]、少年忍者)
* 2004年 - 上村亜柚香、アイドル([[上村亜柚香|SKE48]])
* 生年不明 - [[安藤なつみ]]、漫画家
* 生年不明 - [[大久保利洋]]、声優
* 生年不明 - [[川上千尋]]、声優
* 生年不明 - [[亀岡真美]]、声優
* 生年不明 - [[夏怜]]、声優
* 生年不明 - [[中澤ミナ]]<ref>{{Cite web|和書 |title=中澤 ミナ |url=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=12900 |publisher=東京俳優生活協同組合 |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>、声優
* 生年不明 - [[CHiCO_(2014年デビューの歌手)|CHiCO]]、歌手
* 生年不明 - [[ポッキー (ゲーム実況者)|ポッキー]]、[[ゲーム実況者]]
* 生年不明 - 七海ロナ、アイドル([[Palette Project]])、Vtuber
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1999年]] - [[ファインモーション]]、[[競走馬]]
* [[2018年]] - [[ユーバーレーベン]]、[[競走馬]]
== 忌日 ==
* [[1417年]]([[応永]]24年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[上杉禅秀|上杉氏憲]](禅秀)、[[室町時代]]の[[関東管領]]、[[上杉禅秀の乱]]の首謀者
* [[1490年]]([[延徳]]2年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[足利義政]]、[[室町幕府]]第八代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1436年]])
* [[1576年]]([[天正]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]])- [[水野信元]]、[[武将|戦国武将]]
* [[1615年]]([[慶長]]19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[今川氏真]]、[[駿河国]]の[[戦国大名]](* [[1538年]])
* [[1629年]] - [[ヒエロニムス・プレトリウス]]、[[作曲家]](* [[1560年]])
* [[1646年]]([[正保]]2年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[沢庵宗彭]]<ref>{{Kotobank|沢庵宗彭|朝日日本歴史人物事典}}</ref>、[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1573年]])
* [[1732年]] - [[バルトロメオ・クリストフォリ]]、[[楽器]]製作者(* [[1655年]])
* [[1740年]] - [[ブルボン公ルイ・アンリ]]、第4代[[コンデ公]](* [[1692年]])
* [[1802年]] - [[ヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク]]、作曲家(* [[1760年]])
* [[1814年]] - [[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]、哲学者、[[思想|思想家]](* [[1762年]])
* [[1851年]] - [[ジョン・ジェームズ・オーデュボン]]、[[博物画|博物画家]](* [[1785年]])
* [[1860年]] - [[ヤノーシュ・ボヤイ]]、[[数学者]](* [[1802年]])
* [[1893年]] - [[吉子女王|登美宮吉子女王]]、[[水戸藩|水戸藩主]][[徳川斉昭]]の[[正室]](* [[1804年]])
* 1893年 - [[ジェイムズ・キャンベル (郵政長官)|ジェイムズ・キャンベル]]、第19代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1812年]])
* [[1901年]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ]]、[[作曲家]](* [[1813年]])
* [[1904年]] - [[三遊亭圓生 (4代目)]]、[[落語家]](* [[1846年]])
* [[1912年]] - [[西寛二郎]]、第4代[[教育総監]](* 1846年)
* [[1917年]] - [[伊達宗基]]、第14代[[仙台藩|仙台藩主]](* [[1866年]])
* [[1918年]] - [[素木しづ]]、[[小説家]](* [[1895年]])
* [[1919年]] - [[アディ・エンドレ]]、[[詩人]](* [[1877年]])
* [[1922年]] - [[ジョヴァンニ・ヴェルガ]]、小説家(* [[1840年]])
* 1922年 - [[ネリー・ブライ]]、[[ジャーナリスト]](* [[1864年]])
* [[1924年]] - [[長谷川好道]]、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]]、[[参謀本部 (日本)|参謀総長]](* [[1850年]])
* [[1928年]] - [[大岡育造]]、[[政治家]](* [[1856年]])
* [[1929年]] - [[久邇宮邦彦王]]、[[皇族]](* [[1873年]])
* [[1945年]] - [[野口雨情]]、詩人(* [[1882年]])
* [[1947年]] - [[レイナルド・アーン]]、作曲家(* [[1874年]])
* [[1949年]] - [[ボリス・アサフィエフ]]、作曲家(* [[1884年]])
* [[1956年]] - [[エーリヒ・クライバー]]、[[指揮者]](* [[1890年]])
* [[1957年]] - [[佐々木俊一]]、作曲家(* [[1907年]])
* [[1958年]] - [[松山基範]]、[[地球物理学|地球物理学者]](* [[1884年]])
* [[1965年]] - [[三船久蔵]]、[[柔道家]](* [[1883年]])
* [[1967年]] - [[ガス・グリソム]]、[[宇宙飛行士]](* [[1926年]])
* [[1972年]] - [[リヒャルト・クーラント]]、[[数学者]](* [[1888年]])
* 1972年 - [[マヘリア・ジャクソン]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]][[歌手]](* [[1911年]])
* [[1974年]] - [[藤原亮子]]、歌手(* [[1917年]])
* [[1985年]] - [[竹中正久]]、[[暴力団]][[山口組]]第4代組長(* [[1933年]])
* [[1987年]] - [[ノーマン・マクラレン]]、[[アニメーション]]作家(* [[1914年]])
* [[1989年]] - [[坂本登]]、[[プロ野球選手]](* [[1932年]])
* [[1990年]] - [[江戸アケミ]]、[[ミュージシャン]]([[じゃがたら]])(* [[1953年]])
* [[1993年]] - [[奥田良三 (歌手)|奥田良三]]、[[テノール]]歌手(* [[1903年]])
* 1993年 - [[鈴木敬信]]、[[天文学者]](* [[1905年]])
* 1993年 - [[峰吟子]]、女優(* [[1909年]])
* 1993年 - [[アンドレ・ザ・ジャイアント]]、[[プロレスラー]](* [[1946年]])
* [[1995年]] - [[ジャン・タルデュー]]、[[詩人]]、[[劇作家]](* [[1903年]])
* [[1997年]] - [[鈴木康文]]、[[歌人]](* [[1896年]])
* [[1998年]] - [[景山民夫]]、[[小説家]](* [[1947年]])
* [[2000年]] - [[大原富枝]]、小説家(* [[1912年]])
* 2000年 - [[フリードリヒ・グルダ]]、[[ピアニスト]](* [[1930年]])
* 2000年 - [[メイ・ファッグス]]、[[陸上競技]]選手(* [[1932年]])
* [[2001年]] - [[マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ]]、[[イタリア王国|イタリア王]][[ウンベルト2世]]の妃(* [[1906年]])
* [[2002年]] - [[上野瞭]]、[[児童文学]]作家(* [[1928年]])
* 2002年 - [[中西啓介]]、[[政治家]](* [[1941年]])
* [[2003年]] - [[ロッテル・エミーリア]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1906年]])
* [[2006年]] - [[フィリス・キング]]、[[テニス]]選手(* [[1905年]])
* 2006年 - [[杉浦敏介]]、[[実業家]](* [[1911年]])
* 2006年 - [[二宮文造]]、[[政治家]](* [[1920年]])
* 2006年 - [[ヨハネス・ラウ]]、元[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ大統領]](* [[1931年]])
* [[2007年]] - [[楊伝広]]、[[十種競技]]選手(* [[1933年]])
* 2007年 - [[エレーナ・ロマノワ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1963年]])
* [[2008年]] - [[スハルト]]、[[インドネシアの大統領一覧|インドネシア大統領]](* [[1921年]])
* 2008年 - [[百瀬博教]]、[[作家]]、[[詩人]]、[[格闘技]][[プロデューサー]](* [[1940年]])
* 2008年 - [[今宮エビス]]、[[お笑いタレント]](* [[1942年]])
* [[2009年]] - [[柿澤弘治]]、政治家(* [[1933年]])
* 2010年 - [[J・D・サリンジャー]]、[[作家]](* [[1919年]])
* [[2010年]] - [[夏夕介]]、[[俳優]](* [[1950年]])
* [[2014年]] - [[ピート・シーガー]]、[[シンガーソングライター]](* [[1919年]])
* 2014年 - [[永井一郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://animeanime.jp/article/2014/01/28/17249.html |title=声優・永井一郎さん死去 波平役やガンダムのナレーションなどアニメの歴史と伴に歩む |publisher=アニメ!アニメ! |date=28 Jan 2014 |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>、[[声優]](* [[1931年]])
* 2014年 - [[塚田正昭]]、声優(* [[1938年]])
* 2014年 - [[坂東眞砂子]]、[[小説家]](* [[1958年]])
* [[2015年]] - [[チャールズ・タウンズ]]、[[物理学者]](* [[1915年]])
* [[2016年]] - [[青木茂 (参議院議員)|青木茂]]、政治家、元[[サラリーマン新党]]代表(* [[1922年]])
* [[2017年]] - [[エマニュエル・リヴァ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG28H6I_Y7A120C1CC1000?s=6 |title=エマニュエル・リバさん死去 フランス女優 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=28 Jan 2017 |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>、女優(* [[1927年]])
* [[2018年]] - [[沢島忠]]<ref>{{Cite web|和書|date=28 Jan 2018|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/01/28/kiji/20180127s00041000249000c.html|title=沢島忠監督死去、92歳「人生劇場」シリーズで東映任侠路線確立|website=Sponichi ANNEX|publisher=[[スポーツニッポン]]|accessdate=10 Apr 2023}}</ref>、[[映画監督]]、[[演出家|舞台演出家]](* [[1926年]])
* 2018年 - [[熊谷健]]、日本のテレビプロデューサー(* [[1937年]])
* [[2019年]] - [[高橋昌男]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20190131-FZL4WRZWEZPC3KV7USOOF7N46I/ |title=作家の高橋昌男氏が死去 |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=31 Jan 2019}}</ref>、日本の小説家、[[文芸評論家]](* [[1935年]])
* [[2022年]] - [[宗清洋]] <ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ106X9VQ10PTFC019.html |title=ジャズトロンボーンの宗清洋さん死去 「アロージャズ」のリーダー |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=31 Jan 2022 |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>、[[ジャズ]][[トロンボーン]]奏者(* [[1936年]])
* 2022年 - [[李勇武]]、[[北朝鮮]]の軍人、政治家(* [[1923年]])
* 2022年 - [[アラン・バンキャール]]、フランスの[[作曲家]](* [[1937年]])
* [[2023年]] - [[松尾英治]]<ref>{{Cite web|和書 |title=【巨人】ジャイアンツアカデミー副校長の松尾英治さん、敗血症のため逝去 |url=https://hochi.news/articles/20230129-OHT1T51049.html?page=1 |publisher=[[スポーツ報知]] |date=29 Jan 2023 |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>、日本の元プロ野球選手(* [[1964年]])
* 2023年 - [[永井路子]]、小説家(* [[1925年]])
* 2023年 - [[シルヴィア・シムズ]]、イギリスの女優(* [[1934年]])
== 記念日・年中行事 ==
* <span id="国旗制定記念日">国旗制定記念日(日本・民間団体)</span>
*: [[1870年]]の[[1月27日 (旧暦)|旧暦1月27日]](新暦2月27日)に商船規則([[太政官]]布告第57号)が定められ、[[日本の国旗]](日章旗)のデザインの原型が決まったことにちなむ。国旗協会が制定。
* [[ホロコースト犠牲者を想起する国際デー]] (International Holocaust Remembrance Day)
*: [[2005年]]に国連総会本会議で決議。[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]の解放にちなむ。特定の民族や宗教への差別・攻撃を非難する。
* 求婚の日({{JPN}})
*: [[明治16年]]のこの日、中尾勝三郎という人物が生涯の伴侶を求めるため、伊勢新聞および三重日報に求婚広告を出した。これが日本の新聞紙史上初めての求婚広告ということで、求婚の日として制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://prtimes.jp/magazine/today/marriage-proposal-day/ |title=求婚の日(1月27日)|意味や由来・広報PRに活用するポイントと事例を紹介 |access-date=10 Apr 2023 |publisher=PR TIMES MAGAZINE |date=27 Jan 2023}}</ref>。
* 船穂スイートピー記念日 ({{JPN}})
*: 「JA岡山西船穂町花き部会」が制定。[[岡山県]][[倉敷市]]船穂町のスイートピーをもっと広くアピールすることが目的。日付はスイートピーが本格的なシーズンを迎える1月と、1と27で「いいふなお(良い船穂)」と読む語呂合わせから。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0127|date=2023年4月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - [[天王はるか]]、漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://sailormoon-official.com/world/uranus.php |title=天王はるか セーラーウラヌス |accessdate=10 Apr 2023 |publisher=[[武内直子]]・PNP/[[講談社]]・[[東映アニメーション]]・[[ネルケプランニング]]・[[ドワンゴ]] |work=『セーラームーン』}}</ref>
* 生年不明 - 地妖星パピヨンのミュー、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=86 |title=地妖星(ちようせい)パピヨンのミュー |author=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |accessdate=10 Apr 2023 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - シャーロット・シフォン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Charlotte_chiffon.html |title=シャーロット・シフォン |work=『ONE PIECE』 |accessdate=10 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - ローラ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Lola_real.html |title=ローラ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=10 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - [[破面#ロリ・アイヴァーン|ロリ・アイヴァーン]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.j-bleach.com/chara/03/loly.html |title=ロリ・アイヴァーン |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[久保帯人]]/[[集英社]] |work=『BLEACH』}}</ref>
* 生年不明 - 花巻貴大、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-870786-0|volume=7巻|page=187}}</ref>
* 生年不明 - 金沢あるみ、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|denshaichiba|1486612440095801345}}</ref>
* 生年不明 ‐ [[バルログ (ストリートファイター)|バルログ]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=キャラ図鑑112:バルログ |url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130264 |website=[[カプコン|CAPCOM]]:シャドルー格闘家研究所 |access-date=10 Apr 2023}}</ref>
* 生年不明 - イッテツ、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 イッテツ |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - オーロラ、ゲーム『どうぶつの森』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 オーロラ |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 成沢美奈子、ゲーム『[[アッチむいて恋]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asa-pro.com/top/new/chara/index.html |title=MINAKO 成沢 美奈子 |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[ASa Project]] |work=『アッチむいて恋』}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |date = 2010-01 |publisher = [[マックス (出版社)|マックス]] |journal = [[PUSH!!]] |page = 83 }}</ref>
* 生年不明 - 珠姫、ゲーム『[[閃乱カグラ -少女達の真影-|閃乱カグラ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/tamaki.php |title=珠姫 |access-date=10 Apr 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref>
* 生年不明 - 遙華、ゲーム『[[ドリームクラブ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2011 |title = ドリームクラブZERO ビジュアルファンブック |page = 72 |publisher = [[ソフトバンククリエイティブ]] |isbn = 978-4-7973-6114-8}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#真壁瑞希|真壁瑞希]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30031 |title=真壁 瑞希(まかべ みずき) |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=10 Apr 2023 |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 霧隠忠人、ゲーム『[[忍び、恋うつつ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|nin_koi|824891297924206593}}</ref>
* 生年不明 - 東雲リョウコ、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/ryoko.html |title=東雲リョウコ CV: 山本 希望 |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]] |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=10 Apr 2023}}</ref>
* 生年不明 - ファインモーション、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=finemotion |title=ファインモーション |publisher=[[Cygames]] |accessdate=10 Apr 2023 |work=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - 朝比奈まふゆ、メディアミックス『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_sekai|1486353241327783942}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8827%E6%97%A5 |
4,967 | 吉岡美穂 | 吉岡 美穂(、1980年2月3日 - )は、日本のタレント、女優、元グラビアアイドル。本名:日根 美穂(ひね みほ)。夫はIZAM。大阪府東大阪市出身。ワンエイトプロモーション所属。身長169cm。スリーサイズはB85 W59 H87。靴のサイズは24.5cm。 | [
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] | 吉岡 美穂(よしおか みほ、は、日本のタレント、女優、元グラビアアイドル。本名:日根 美穂。夫はIZAM。大阪府東大阪市出身。ワンエイトプロモーション所属。身長169cm。スリーサイズはB85 W59 H87。靴のサイズは24.5cm。 | {{別人|吉岡美帆}}
{{女性モデル
| モデル名 = 吉岡 美穂
| ふりがな = よしおか みほ
| 画像ファイル =
| 画像コメント =
| 別名義 =
| 愛称 =
| 生年 = 1980
| 生月 = 2
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| 出身地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[東大阪市]]
| 死没地 =
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| 時点 = [[2006年]]
| 身長 = 169
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| バスト = 85
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| ヒップ = 87
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| 股下 =
| 靴 = 24.5
| 身体備考 =
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| その他 =
}}
{{読み仮名|'''吉岡 美穂'''|よしおか みほ{{R|FCGMMG21}}|[[1980年]]{{R|FCGMMG21|3式機龍CP38}}[[2月3日]] - }}は、[[日本]]の[[タレント]]、[[俳優|女優]]、元[[グラビアアイドル]]{{R|FCGMMG21}}。本名:'''日根 美穂'''(ひね みほ)。夫は[[IZAM]]。[[大阪府]]{{R|3式機龍CP38}}[[東大阪市]]出身。[[ワンエイトプロモーション]]所属。[[身長]]169cm。[[スリーサイズ]]はB85 W59 H87。靴のサイズは24.5cm。
== 来歴 ==
* [[2000年]]「[[サントリー]]Dハイ小町」および[[全日本GT選手権]]「マリオレーシングチーム」の[[キャンペーンガール]]となり芸能界入り。
* [[2001年]]には[[1980年代]]生まれでは初となる[[トリンプ・イメージガール]]を務め、グラビアなどで徐々に頭角を現し、[[2002年]]に「'''掛けてミホ!?'''」のキャッチフレーズと共に[[アデランス]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]でブレイク、テレビドラマに初主演など一気にスターダムを駆け昇った。
* [[富士紡ホールディングス|B.V.D.]]のキャンペーンガールも務めている。
* デビュー当初は[[インリン・オブ・ジョイトイ]]、[[榎木らん]]と共に「ミイラン」という期間限定ユニットを組んで活動した。また、グラビアなどが活動のメインであった初期はいわゆる「癒し系タレント」の一人に数えられたが、現在ではバラエティ番組での[[天然ボケ]][[キャラ (コミュニケーション)|キャラ]]の方がより認知されている{{R|3式機龍CP38}}。また、女優としてはさほど癒しのイメージではなく、むしろ強気な役柄にキャスティングされる。
* [[2006年]][[11月9日]]、[[IZAM]]との結婚が報道された。この時妊娠3か月であった。
* [[2007年]][[4月17日]]、3,066グラムの男児を出産する。
* [[2007年]][[11月1日]]、出産後初めてイベントに登場し復帰。今後は仕事と家庭の両立をすると発言。
* [[2008年]][[9月14日]]、第二子の妊娠を発表。[[11月7日]]、2,678グラムの女児を出産。
* [[2010年]][[5月28日]]、第三子の妊娠を発表。[[11月25日]]、2,964グラムの男児を出産<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20101125-706479.html|title=IZAM、吉岡美穂夫妻に第3子誕生|newspaper=nikkansports.com|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|date=2010-11-25|accessdate=2014-11-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2021/11/18/0014851763.shtml|title=3児の父IZAM 長女は「少しだけ体を弱くして生まれた」「妻は本当に苦労し頑張った」|publisher=デイリースポーツ online|date=2021-11-18|accessdate=2021-11-18}}</ref>。
== 人物・エピソード ==
* プライベートでは、[[乙葉]]、[[伊東美咲]]などとの交友が深い(2人とはドラマ『[[逮捕しちゃうぞ]]』で共演<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/otohappy/entry-11417002448.html|title=逮捕しちゃうぞ!?|publisher=乙葉のオフィシャルブログ|date=2012-11-30|accessdate=2014-11-12}}</ref>)。なお、乙葉とは[[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]のCMでも共演している。
* 2006年7月1日、『[[PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND]]』にゲストコメンテーターとして出演。出演はこの1回のみであった。
* [[福山雅治]]の「[[Gang★|Gang<sup>★</sup>]]」のMVで[[加藤晴彦]]と共演している。
* 天然キャラや癒し系の癒し系のイメージがバラエティ番組やCMなどで持たれていたが、テレビドラマや映画では、強いイメージや強気な性格の女性の役が多く、普段はのんびりした方であるため、自分と正反対のキャラになることに一苦労したという{{R|3式機龍CP38}}。
*結婚後は芸能活動をセーブし、主婦業や子育てを優先している。
== 賞詞 ==
* 2001年、第1回[[レースクイーン・オブ・ザ・イヤー]]受賞。
* 2002年度、第40回[[ゴールデン・アロー賞]]グラフ賞。
== 出演 ==
=== テレビ ===
==== ドラマ ====
* [[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]]「[[逮捕しちゃうぞ]]」(2002年10月 - 12月、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|EX系]])佐賀沙織 役
* 深夜シリーズドラマ「[[Pな彼女]]」第3シリーズ(2002年9月、[[TBS系列|TBS系]])主演・後藤美奈子 役
* [[クニミツの政]](2003年7月 - 9月、[[フジテレビ系列|CX系]])吉長小百合 役
* [[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜ドラマ]]「[[あした天気になあれ。]]」(2003年10月 - 12月、[[日本テレビ系列|NTV系]])栗尾春香 役
* 木曜ドラマ「[[電池が切れるまで]]」(2004年4月 - 6月、EX系)本条麻衣子 役
* 木曜ドラマ「[[黒革の手帖|松本清張 黒革の手帖]]」(2004年10月 - 12月、EX系)紺野澄江 役
* 深夜ドラマ「[[ディビジョン1 (テレビドラマ)|ディビジョン1]]」「miracle」(2005年1月 - 3月、[[フジテレビジョン|CX]])野仲果歩 役
* [[日曜劇場]]「[[Mの悲劇 (2005年のテレビドラマ)|Mの悲劇]]」(2005年1 - 3月、TBS系)中西瞳 役
* [[恋する日曜日]] セカンドシリーズ「逢えない夜を抱きしめて」(2005年、[[BS-TBS|BS-i]])主演・永井亜矢 役
* 「[[美穂日和]]」ミニドラマ(2005年12月 - 2006年2月、[[毎日放送]])MIHO 役
* [[劇団演技者。]] 第16回「ナーバスな虫々」(2006年2月 - 、CX)珠井妃価子 役
* [[愛と死をみつめて#2006年版|愛と死をみつめて]](2006年3月、EX系)婦人警官 役
==== 情報、バラエティ番組レギュラー ====
* [[オレンジページ]]の料理のいろは([[テレビ朝日|EX]])
* [[三宅裕司のドシロウト]](2002年4月 - 2006年3月、[[山口放送|KRY]]制作NTV系)
* [[本能のハイキック!]](2002年4月 - 9月、CX)
* 芸能人が通う診察室([[日本テレビ放送網|NTV]])
* ごはんがすすむホットテーブル(EX)
* [[征平・宮根のクチコミぃ!?]](2005年10月 - 2006年2月、[[テレビ大阪|TVO]])
* [[おもいッきりDON!]](2009年3月30日 - 10月2日、日本テレビ)[[日テレポシュレ#番組の変遷|DON!DON!ポシュレ]]担当
* [[おもいッきりDON!|おもいッきりDON!第1部 おもいッきりPON!]](2009年10月5日 - 2010年3月26日、日本テレビ)PON!PON!ポシュレ担当
* [[PON!]](2010年3月29日 - 2011年9月30日、日本テレビ)PON!PON!ポシュレ担当
* [[私の何がイケないの?]]([[TBSテレビ|TBS]]、2013年から準レギュラー的にIZAMと出演)
==== その他の番組 ====
* [[イタリア語会話]](2002年 - 2003年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]])生徒
* [[あしたのG]](2003年4月 - 2004年12月、CX)番組ナビゲーター(司会進行)
* [[愛の修羅バラ!]](2009年5月31日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、関西・中京ローカル)夫のIZAMと出演した。
* [[カラオケ大賞 (千葉テレビ放送)|カラオケ大賞]](2021年1月 - 2023年1月、[[千葉テレビ放送]])MC
=== 映画 ===
* 「巌流島 GANRYUJIMA」(2003年10月)
*: かめ 役(映画初出演)
*: 監督 & 原作:[[千葉誠治]]
*: 共演:[[本木雅弘]]、[[田村淳]]、[[西村雅彦]]、[[筧利夫]] ほか
* 「[[ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS]]」(2003年12月、[[東宝]])
*: 如月梓 役
*: 監督:[[手塚昌明]]
*: 共演:[[金子昇]]、[[中尾彬]]、[[高杉亘]]、[[長澤まさみ]] ほか
* 「[[KARAOKE-人生紙一重-]]」(2005年5月、エクセレントフィルム/リベロ)
*: 村岡洋子 役・ヒロイン
*: 監督:[[辻裕之]]
*: 共演:[[押尾学]]、[[宇崎竜童]]、[[室井滋]]、[[貫地谷しほり]] ほか
*: 原作:[[大下英治]]
* 「夏音 -Caonne」(2006年7月、「夏音 -Caonne」製作委員会)
*: 日高マリア 役
*: 監督:[[IZAM]]
*: 共演:[[杉山彩乃]]、[[加勢大周]]、[[北条隆博]]、[[鈴木蘭々]] ほか
* 「[[太陽の傷]]」(2006年9月、シネマパラダイス)
*: 片山香緒里 役
*: 監督:[[三池崇史]]
*: 共演:[[哀川翔]]、[[佐藤藍子]]、[[風間トオル]]、[[宅麻伸]] ほか
* 「[[あなたを忘れない]]」(2007年1月、[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント]])
*: 小島朝子 役
*: 監督:[[花堂純次]]
*: 共演:[[イ・テソン]]、[[HIGH and MIGHTY COLOR|マーキー]]、[[竹中直人]]、[[金子貴俊]] ほか
=== DVDオリジナル作品、ビデオ・オリジナル作品 ===
* 「[[隣之怪]] 壱談 フレーム」(2006年、[[ワーナー・ホーム・ビデオ]])
*: 主人公 達也の妻役(作中で役名は明かされず)
*: 監督:[[横井健司]]
*: 共演:[[白石朋也]]、 [[南まい]]、 [[木原浩勝]] ほか
*: 原作者:[[木原浩勝]]
=== ラジオ番組レギュラー ===
*[[日本エスコン]] 吉岡美穂 素顔でSWEET ROOM(2004年10月 - 2005年3月、[[ニッポン放送]])
*[[ハイパーナイト]]土曜 ド・ミ・ホ(2004年10月 - 2005年9月、[[CBCラジオ]])
*[[オレたちやってま~す|オレたち×××やってま~す]]月曜日(2001年4月 - 9月、[[MBSラジオ]])
*[[オレたちヒーロー]](2003年10月 - 2004年3月、MBSラジオ)
* [[ヤングパーク]]
**ヤングパーク延長戦・トレン丼(2004年4月 - 9月、MBSラジオ)
**ヤングパーク延長戦・2時まで生風討論(2004年10月 - 2005年3月、MBSラジオ)
**シャカリキ!延長戦V3(2005年4月 - 9月、MBSラジオ)
*[[ゴチャ・まぜっ!火曜日 (2011年から2014年まで)|ゴチャ・まぜっ!金スペ]](2005年10月 - 2007年1月、MBSラジオ)
*[[グンゼ|BODY WILD]] Presents 吉岡美穂のワイルドで行こう(2003年1月 - ?、[[エフエム大阪|FM大阪]]・[[エフエム東京|FM東京]])
*[[おしゃべりやってまーす]]月曜日(2003年5月 - 9月、[[K'z Station]])
=== CM ===
* [[サントリー]] 「Dハイ小町」(2000年)
* [[ワコール]](2000年7月 - 12月)
* [[トリンプ・インターナショナル]] [[トリンプ・イメージガール]](2001年)
* [[スパワールド]] 「スパプー」イメージキャラクター(2001年7月 - 9月)
* [[メディア (企業)|メディア]] 「0060えむ電6円電話」(2002年4月 - 12月)
* [[アデランス]](2002年9月 - )
* [[日清食品]] 「麺の達人」(2002年9月 - )
* [[富士フイルム]] コンパクトカメラ 「silvi F2.8」(2002年10月 - 2003年9月)
* [[日本コカ・コーラ]] 「[[ジョージア_(缶コーヒー)|ジョージア]]」(2003年1月 - 12月)
* アシハラ「ジュエリー各種」(2003年1月 - 12月)
* [[NTTレゾナント]] 「[[goo]]」(2003年 - 2004年)
* [[日本損害保険協会]] 「自動車自賠責保険加入促進」(2003年3月 - 5月)
* [[グンゼ]]「BODY WILD」(2003年4月 - 2004年3月)
* シーエー・キャピタル(現:[[ワイジェイFX]]株式会社) インターネット貸取引 「[[外貨ex]]」(2003年11月 - )
* [[ライオン (企業)|ライオン]] 「ビトィーン歯ブラシ」(2004年2月 - )
* [[麻薬・覚せい剤乱用防止センター]] 「[[ダメ。ゼッタイ。]]」イメージキャラクター(2005年4月 - )
* [[新エネルギー財団]] 「住宅用太陽光発電導入促進事業」イメージキャラクター(2005年4月 - )
* [[スターツ出版]] 「恋バナ」(2005年8月 - )
* [[コスモ石油]] 「コスモステーション」(2006年 - )
== 作品 ==
=== イメージビデオ ===
* 「[[it's my color]]」([[2001年]]1月、[[ポニーキャニオン]])
* 「Fatina」(2001年8月、[[竹書房]])
* 「甘い生活」(2002年1月、[[デジキューブ]])
* 「バリアン」(2002年6月、[[小学館]])
* 「ずっとそばにいて…」(2002年11月、デジキューブ)
* 「digitalプレイボーイvol.3」(2003年4月、[[集英社]])
* 「24GOLD」(2004年3月、[[リバプール]])
== 写真集 ==
*2000.06 「MIHO」 [[宙出版]] 撮影:[[高橋生建]]
*2001.01 「clover」 [[ぶんか社]] 撮影:郡司大地
*2001.05 「A・B・L・E」オムニバス写真集 撮影:会田定広
*2001.10 「Inner Angel」 [[ブックマン社]] 撮影:鯨井康雄
*2001.12 「ある晴れた日に」 [[小学館]] 撮影:[[西田幸樹]]
*2002.08 「Ride」 [[ワニブックス]] 撮影:鯨井康雄
*2002.04 [[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]スペシャルグラフィックvol.1「吉岡美穂」小学館 撮影:西田幸樹
*2002.07 「[[「月刊」シリーズ|月刊 吉岡美穂]]」[[新潮社]] 撮影:[[藤代冥砂]]
*2003.03 「M」 小学館 撮影:西田幸樹
*2004.07 「NOVEL」 小学館
*2005.07 「A PLACE IN THE SUN」 ワニブックス 撮影:[[舞山秀一]]
== その他 ==
* [[コンバットマガジン]] 2003年11月号 - ゴジラ映画に関連して表紙などに登場
== 関連項目 ==
* [[グラビアアイドル]]
* [[レースクイーン]]
== 脚注 ==
{{Reflist
|refs=
<ref name="FCGMMG21">{{Harvnb|FCGMMG|2003|p=21|loc=「キャストインタビュー INTERVIEW 02 吉岡美穂」}}</ref>
<ref name="3式機龍CP38">{{Harvnb|3式機龍CP|2016|pp=38-39|loc=「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS キャストインタビュー 吉岡美穂」}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS|date=2003-12-30|publisher=[[朝日ソノラマ]]|series=[[ファンタスティックコレクション]]|isbn=4-257-03688-5|ref={{SfnRef|FCGMMG|2003}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2016-12-21<!--奥付表記-->|title =ゴジラ×3式機龍〈メカゴジラ〉コンプリーション|publisher = [[ホビージャパン]]|isbn = 978-4-7986-1353-6|ref = {{SfnRef|3式機龍CP|2016}}}}
== 外部リンク ==
{{Project 芸能人}}
* [https://18pro.co.jp/talent-list/yoshiokamiho/ ワンエイトプロモーションによる公式プロフィール]
* {{Wayback|url=http://bb.goo.ne.jp/special/grapro/talent/yoshioka.html |title=吉岡美穂のグラビア*プロモ道。 |date=20040502125753}}
* [https://ameblo.jp/miho-yoshioka/ 吉岡美穂オフィシャルブログ Powered by Ameba:](2013年2月-2019年4月15日)
* {{Instagram|miho_yoshioka_18}}(2019年1月11日-)
{{PON!}}
{{ワンエイトプロモーション}}
{{ゴールデンアロー賞グラフ賞}}
{{レースクイーン・オブ・ザ・イヤー}}
{{トリンプ・イメージガール}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:よしおか みほ}}
[[Category:ワンエイトプロモーション]]
[[Category:日本の女性タレント]]
[[Category:日本の女優]]
[[Category:グラビアアイドル]]
[[Category:レースクイーン]]
[[Category:トリンプ・イメージガール]]
[[Category:日本の競馬に関する人物]]
[[Category:大阪府出身の人物]]
[[Category:1980年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-22T18:20:19Z | 2023-12-17T14:32:32Z | false | false | false | [
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"Template:トリンプ・イメージガール"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E7%BE%8E%E7%A9%82 |
4,968 | マイケル・ファラデー | マイケル・ファラデー(英: Michael Faraday、1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イギリスの化学者・物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。
直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則、反磁性、電気分解の法則などを発見。磁性が光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。
化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブンゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノード、カソード、電極 (electrode)、イオンといった用語はファラデーが一般化させた。
ファラデーは貧しい家庭に生まれたため、小学校も中退という教育しか受けておらず、高度な数学などは分からなかったが、科学史上、最も影響を及ぼした科学者の1人とされ、科学史家は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる。
静電容量のSI単位「ファラド (F)」はファラデーにちなんでいる。また、1モルの電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデーの電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。
ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 (Fullerian Professor of Chemistry) であり、死去するまでその職を務めた。
アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートン、マクスウェルの肖像を貼っていたという。
ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派(グラス派)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している。
ジョージ3世時代の1791年に、ニューイントン・バッツで生まれる。現在のサザーク・ロンドン特別区の一部だが、当時はサリーの一部でロンドン橋から南に1マイルほどの場所だった。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズはサンデマン派信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在のカンブリア)のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた ジョージ・リーボー のところに年季奉公に入った。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中にはアイザック・ウォッツの The Improvement of the Mind もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本としてジェーン・マーセットの『化学談義』(Conversations on Chemistry)があった。またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵マスケリエはファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている。
1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、ジョン・テイタム の創設したロンドン市哲学協会(City Philosophical Society)の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者ハンフリー・デービーの講演を何度も聴講した。その入場券はロイヤル・フィルハーモニック協会の創設者の1人 ウィリアム・ダンス がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデービーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は快楽的なものだが、その道は成功と失敗の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは塩化窒素の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の1人が解雇されると、ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の化学助手となった。
当時の階級社会では、彼はその出自のために紳士とはみなされなかった。デービーが1813年から1815年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになった時、彼の従者は一緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人ジェーン・アプリースはファラデーを対等に扱おうとせず、馬車で移動する際は御車席に座らせ、食事も使用人と一緒に摂らせた。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後にナイトに叙せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された。
ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派はスコットランド国教会の分派である。結婚後しばらくして輔祭を務めるようになり、若いころ過ごした集会所の長老を2期務めた。その集会所は1862年にイズリントンに移転しており、2期目はこちらで務めた。
1821年6月12日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚したが、子供はできなかった。2人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。
ファラデーの初期の化学の業績は、ハンフリー・デービーの助手としてのものだった。特に塩素を研究し、2種類の新たな炭素塩化物を発見した。また、ジョン・ドルトンが指摘した現象である気体の拡散に関する初期の実験も行ったが、その物理的重要性をより完全に明確化したのはトーマス・グレアムとヨハン・ロシュミットである。いくつかの気体の液化に成功した。また、鋼合金を調べたり、光学向けの新たなガラスを作ったりしている。後にそれらのガラスは、磁場中に置くと通過する光の偏光面を回転させるという発見に役立ったこと、および磁石の極と反発する反磁性体だと判明したことで歴史的に重要となった。また、化学の一般的手法の確立にも貢献している。
ファラデーはまた、後にブンゼンバーナーと呼ばれ実験用に広く使われるようになった熱源装置の原型を発明した。ファラデーは化学の幅広い分野で活動し、1823年に塩素の液化に成功し、1825年にはベンゼンを発見している。気体の液化は気体が単に沸点の低い液体の蒸気に過ぎないという認識の確立に役立ち、分子凝集の概念により確かな基盤を与えることになった。1820年、ファラデーは炭素と塩素で構成される化学物質 C2Cl6 と C2Cl4 を初めて合成したことを報告し、翌年公表している。また、ハンフリー・デービーが1810年に発見した塩素の包接水和物の構成を特定した。
1833年、電気分解の法則を発見し、アノード、カソード、電極 (electrode)、イオンといった用語を定着させた。これらの用語の多くはウィリアム・ヒューウェルが考案したものである。
また、後に金属ナノ粒子と呼ばれることになるものについて初めて報告している。1847年、金コロイドの光学特性が金塊のそれと異なることを発見した。これは量子サイズの現象の最初の観察報告と見られ、ナノ科学の誕生と言えなくもない。
ファラデーは特に電気と磁気の研究でよく知られている。彼が記録している最初の実験は、7枚の半ペニー貨と7枚の亜鉛シートに6枚の塩水を浸した紙を挟んで積み上げたボルタ電池を作ったことだった。この電池を使って硫酸マグネシウムを電気分解している(1812年7月12日付けのAbbottへの手紙に記述がある)。
デンマークの科学者ハンス・クリスティアン・エルステッドが電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、1821年にデービーとウイリアム・ウォラストンが電動機を作ろうとしたが失敗した。ファラデーは2人とその問題について話し合い、電磁回転 (electromagnetic rotation) と名付けた動きを生じる2つの装置を作り上げた。1つは水銀を入れた皿の中央に磁石を立て、上から水銀に浸るように針金をたらし、その針金と水銀を通るように電流を流すと、電流によって生じた磁場が磁石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転し続けるというものである。もう1つは単極電動機と呼ばれるもので、逆に磁石側が針金の周りを回るようになっていた。それらの実験と発明が現代の電磁技術の基礎を築いた。この成果に興奮したファラデーはデービーやウォラストンの許可を得ずに、それを公表した。
これに怒ったデービーとファラデーの関係が悪化し、デービーは電磁気以外の研究をファラデーに押し付け、数年間電磁気研究から遠ざけたと見られている。デービーはファラデーが王立協会フェローになることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。しかし、ファラデーの友人の推薦により、フェローに選ばれた。また、デービーはウィリアム・ウォラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウォラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。小学校しか卒業していない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。
1824年、ファラデーは導線を流れる電流を外部の磁場によって調節可能かどうかを研究すべく簡単な回路を製作したが、そのような現象は見つけられなかった。3年前、同じ実験室で光が磁場に影響されるかを実験しており、そのときも何も見つけられなかった。その後7年間は光学用ガラス(鉛を加えたホウケイ酸ガラス)の製法を完成させることに費やし、後の研究でそれが光と磁気の関係の研究に役立つことになった。光学の仕事以外の時間を使って電磁気を含む実験の論文を書いて公表し、デービーとのヨーロッパ旅行で出会った海外の科学者とも文通した。デービーの死から2年後の1831年、ファラデーは一連の重要な実験を行い、電磁誘導を発見した。わずか数カ月前にジョゼフ・ヘンリーも発見しているが、2人に先行してイタリアのフランチェスコ・ツァンテデスキが1829年と1830年に同様の論文を発表していた。
他の科学者たちが電磁気現象を力学における遠隔力と考えていたのに対して、ファラデーは空間における電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究している。ファラデーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけてコイルを2つ作ったことであり、一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見した。この現象を相互誘導と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されている。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見した。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。このファラデーの電磁誘導の法則は後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが数理モデル化し、4つのマクスウェルの方程式の1つとなった。そして、さらに一般化され場の理論となっている。
ファラデーは後にこの原理を使って原始的な発電機を製作している。
1839年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「静電気」、電池、「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、電気分解、電磁気学などの現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々な現象を引き起こすとした。
後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。ファラデーの帯電した物体や磁石から磁力線が出ているという概念は、電磁場の視覚化手段を提供した。このモデルは19世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にとってきわめて重要となった。
1845年、ファラデーは多くの物質が磁場に対して弱く反発することを発見し、その現象を反磁性 (diamagnetism) と名付けた。
また、光の進む方向にそって印加された電磁場によって直線偏光の偏光面が回転することを発見。これをファラデー効果と呼ぶ。ファラデーのノートには「私はついに磁気の曲線または「力の線」を解明し、光線を磁化することに成功した」と記してある。
晩年(1862年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、分光器を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を捉えることはできなかった。同じ現象を後にピーター・ゼーマンが改良された機器で研究し、1897年に公表、1902年にノーベル物理学賞を受賞することになった。1897年の論文でも、ノーベル賞講演でも、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。
静電気を研究する中で、ファラデーは帯電した導体では電荷がその表面にしかないことを示し、それら電荷は導体内部の空間には何も影響を及ぼさないことを証明した。これは電荷が内部の電場を打ち消すように分布するためである。この電場を遮蔽する効果を使ったものをファラデーケージと呼ぶ。
ファラデーは優秀な実験主義者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そのため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、ジェームズ・クラーク・マクスウェルらが定式化することになった。またファラデーの電気力線の使用についてマクスウェルは、ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている。
1824年には王立協会フェローに選ばれ、1825年にはデービーの後をついで英国王立実験所長となった。1833年、ファラデーはジョン・「マッド・ジャック」・フラーの推薦で王立研究所の初代フラー教授職に就任した。これはフラーの後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務はない。
王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846年、ハスウェルの炭鉱で95人が死亡した爆発事故を調査し、チャールズ・ライエルと共に詳細な報告書を提出した。その報告書は法科学的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させたとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は1913年に別の炭鉱で大事故が発生するまでなされなかった。
海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは灯台建設や運用、船底の腐食を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。
ファラデーは今では環境学と呼ばれる分野でも活躍した。スウォンジでの工場による汚染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855年7月、タイムズ誌にテムズ川の汚染問題について手紙を送り、パンチ誌に風刺画が掲載されることになった。
1851年、ロンドンで開催された万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。また、ナショナル・ギャラリーでのコレクションのクリーニングと保護についても助言し、1857年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。
教育にも関与している。1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった。
ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825年より開始)、少年少女向きのクリスマス・レクチャー、有名なロウソクの科学などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。
1832年6月、オックスフォード大学はファラデーに名誉博士号を授与した。ファラデーは終生ナイトの名誉を辞退し続け、1858年には王立協会会長職を1865年には王立研究所所長職を辞退している。1838年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれ、1844年にはフランス科学アカデミーの8人の外国人会員の1人に選ばれた。
1848年、アルバート王配殿下の申し出によりサリーのハンプトン・コート宮殿に無料で住めるようになった。1858年に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした。
クリミア戦争 (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった。彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったことも伺える。
1867年8月25日、ハンプトン・コート宮殿内の自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した。
生前ウェストミンスター寺院への埋葬を拒否していたが、アイザック・ニュートンの墓のそばに記念銘板が設置された。遺体はハイゲイト墓地の非国教徒向けの区域に埋葬された。
ロンドンの英国工学技術学会(IET)本部のそばのサボイ・プレイスにファラデーの像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャッスルのロータリーの中央にはブルータリズムの建築家ロドニー・ゴードン が設計し1961年に完成したマイケル・ファラデー記念館 (en) がある。ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。
ラフバラーのラフバラー大学には1960年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青銅製の変圧器の像があり、中にはファラデーの肖像がある。エディンバラ大学の理工系キャンパスにはファラデーの名を冠した5階建ての建物がある。ブルネル大学やスウォンジー大学にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて ファラデー基地 という南極基地を運営していた。
ファラデーの名を冠した通りはイギリス各地(ロンドン、ファイフ、スウィンドン、ノッティンガムなど)にあり、フランス(パリ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。
1991年から2001年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様子が描かれている。
Chemical Manipulation 以外のファラデーの本は学術論文や講義録を集めたものである。死後、ファラデーの日記、大量の書簡、1813年から1815年のデービーとの旅行の記録も出版された。
王立協会よりベーカリアン・メダルを1829年以後複数回にわたって受賞し、それぞれ記念講演を行った。またロイヤル・メダル を1835年と1846の2回、コプリ・メダルを1832年と1838の2回、ランフォード・メダルを1846年に受賞した。
また王立協会によってマイケル・ファラデー賞、英国工学技術学会によってファラデー・メダルが創設された。 | [
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"text": "マイケル・ファラデー(英: Michael Faraday、1791年9月22日 - 1867年8月25日)は、イギリスの化学者・物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。",
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"text": "他の科学者たちが電磁気現象を力学における遠隔力と考えていたのに対して、ファラデーは空間における電気力線・磁力線という近接作用的概念から研究している。ファラデーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけてコイルを2つ作ったことであり、一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見した。この現象を相互誘導と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されている。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見した。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。このファラデーの電磁誘導の法則は後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが数理モデル化し、4つのマクスウェルの方程式の1つとなった。そして、さらに一般化され場の理論となっている。",
"title": "業績"
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"text": "ファラデーは後にこの原理を使って原始的な発電機を製作している。",
"title": "業績"
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"text": "1839年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「静電気」、電池、「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、電気分解、電磁気学などの現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々な現象を引き起こすとした。",
"title": "業績"
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"text": "後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。ファラデーの帯電した物体や磁石から磁力線が出ているという概念は、電磁場の視覚化手段を提供した。このモデルは19世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にとってきわめて重要となった。",
"title": "業績"
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"text": "1845年、ファラデーは多くの物質が磁場に対して弱く反発することを発見し、その現象を反磁性 (diamagnetism) と名付けた。",
"title": "業績"
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"text": "また、光の進む方向にそって印加された電磁場によって直線偏光の偏光面が回転することを発見。これをファラデー効果と呼ぶ。ファラデーのノートには「私はついに磁気の曲線または「力の線」を解明し、光線を磁化することに成功した」と記してある。",
"title": "業績"
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"text": "晩年(1862年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、分光器を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を捉えることはできなかった。同じ現象を後にピーター・ゼーマンが改良された機器で研究し、1897年に公表、1902年にノーベル物理学賞を受賞することになった。1897年の論文でも、ノーベル賞講演でも、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。",
"title": "業績"
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"text": "静電気を研究する中で、ファラデーは帯電した導体では電荷がその表面にしかないことを示し、それら電荷は導体内部の空間には何も影響を及ぼさないことを証明した。これは電荷が内部の電場を打ち消すように分布するためである。この電場を遮蔽する効果を使ったものをファラデーケージと呼ぶ。",
"title": "業績"
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"text": "ファラデーは優秀な実験主義者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そのため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、ジェームズ・クラーク・マクスウェルらが定式化することになった。またファラデーの電気力線の使用についてマクスウェルは、ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている。",
"title": "業績"
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"text": "1824年には王立協会フェローに選ばれ、1825年にはデービーの後をついで英国王立実験所長となった。1833年、ファラデーはジョン・「マッド・ジャック」・フラーの推薦で王立研究所の初代フラー教授職に就任した。これはフラーの後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務はない。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
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"text": "王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846年、ハスウェルの炭鉱で95人が死亡した爆発事故を調査し、チャールズ・ライエルと共に詳細な報告書を提出した。その報告書は法科学的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させたとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は1913年に別の炭鉱で大事故が発生するまでなされなかった。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
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"text": "海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは灯台建設や運用、船底の腐食を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "ファラデーは今では環境学と呼ばれる分野でも活躍した。スウォンジでの工場による汚染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855年7月、タイムズ誌にテムズ川の汚染問題について手紙を送り、パンチ誌に風刺画が掲載されることになった。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
},
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"text": "1851年、ロンドンで開催された万国博覧会では、計画立案と評価に参加した。また、ナショナル・ギャラリーでのコレクションのクリーニングと保護についても助言し、1857年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
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"text": "教育にも関与している。1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
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"text": "ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた金曜講演(1825年より開始)、少年少女向きのクリスマス・レクチャー、有名なロウソクの科学などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。",
"title": "王立研究所と研究以外の業績"
},
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"text": "1832年6月、オックスフォード大学はファラデーに名誉博士号を授与した。ファラデーは終生ナイトの名誉を辞退し続け、1858年には王立協会会長職を1865年には王立研究所所長職を辞退している。1838年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれ、1844年にはフランス科学アカデミーの8人の外国人会員の1人に選ばれた。",
"title": "晩年"
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"text": "1848年、アルバート王配殿下の申し出によりサリーのハンプトン・コート宮殿に無料で住めるようになった。1858年に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした。",
"title": "晩年"
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"text": "クリミア戦争 (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった。彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い平和主義者だったことも伺える。",
"title": "晩年"
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"text": "1867年8月25日、ハンプトン・コート宮殿内の自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した。",
"title": "晩年"
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"tag": "p",
"text": "生前ウェストミンスター寺院への埋葬を拒否していたが、アイザック・ニュートンの墓のそばに記念銘板が設置された。遺体はハイゲイト墓地の非国教徒向けの区域に埋葬された。",
"title": "晩年"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "ロンドンの英国工学技術学会(IET)本部のそばのサボイ・プレイスにファラデーの像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャッスルのロータリーの中央にはブルータリズムの建築家ロドニー・ゴードン が設計し1961年に完成したマイケル・ファラデー記念館 (en) がある。ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。",
"title": "記念"
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{
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"tag": "p",
"text": "ラフバラーのラフバラー大学には1960年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青銅製の変圧器の像があり、中にはファラデーの肖像がある。エディンバラ大学の理工系キャンパスにはファラデーの名を冠した5階建ての建物がある。ブルネル大学やスウォンジー大学にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて ファラデー基地 という南極基地を運営していた。",
"title": "記念"
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"text": "ファラデーの名を冠した通りはイギリス各地(ロンドン、ファイフ、スウィンドン、ノッティンガムなど)にあり、フランス(パリ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。",
"title": "記念"
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"tag": "p",
"text": "1991年から2001年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様子が描かれている。",
"title": "記念"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "Chemical Manipulation 以外のファラデーの本は学術論文や講義録を集めたものである。死後、ファラデーの日記、大量の書簡、1813年から1815年のデービーとの旅行の記録も出版された。",
"title": "著作"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "王立協会よりベーカリアン・メダルを1829年以後複数回にわたって受賞し、それぞれ記念講演を行った。またロイヤル・メダル を1835年と1846の2回、コプリ・メダルを1832年と1838の2回、ランフォード・メダルを1846年に受賞した。",
"title": "栄誉と受賞"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また王立協会によってマイケル・ファラデー賞、英国工学技術学会によってファラデー・メダルが創設された。",
"title": "栄誉と受賞"
}
] | マイケル・ファラデーは、イギリスの化学者・物理学者(あるいは当時の呼称では自然哲学者)で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。 直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則、反磁性、電気分解の法則などを発見。磁性が光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした。電磁気を利用して回転する装置(電動機)を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。 化学者としては、ベンゼンを発見し、塩素の包接水和物を研究し、原始的な形のブンゼンバーナーを発明し、酸化数の体系を提案した。アノード、カソード、電極 (electrode)、イオンといった用語はファラデーが一般化させた。 ファラデーは貧しい家庭に生まれたため、小学校も中退という教育しか受けておらず、高度な数学などは分からなかったが、科学史上、最も影響を及ぼした科学者の1人とされ、科学史家は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる。 静電容量のSI単位「ファラド (F)」はファラデーにちなんでいる。また、1モルの電子の電荷に相当するファラデー定数にも名を残している。ファラデーの電磁誘導の法則は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。 ファラデーは王立研究所の初代フラー教授職 であり、死去するまでその職を務めた。 アルベルト・アインシュタインは壁にファラデー、ニュートン、マクスウェルの肖像を貼っていたという。 ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設されたキリスト教徒の一派であるサンデマン派(グラス派)に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している。 | {{redirect|ファラデー|その他の用法|ファラデー (曖昧さ回避)}}
{{Infobox Scientist
|name = Michael Faraday
|native_name = マイケル・ファラデー
|image = Michael Faraday 001.jpg
|image_width = 200px
|caption = [[トーマス・フィリップス (画家)|トーマス・フィリップス]]による肖像画(1841-1842)<ref>See [http://www.npg.org.uk/live/search/portrait.asp?mkey=mw02170 National Portrait gallery NPG 269]</ref>
|birth_date = [[1791年]][[9月22日]]
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}}
'''マイケル・ファラデー'''({{lang-en-short|Michael Faraday}}、[[1791年]][[9月22日]] - [[1867年]][[8月25日]])は、[[イギリス]]の[[化学者]]・[[物理学者]](あるいは当時の呼称では[[自然哲学]]者)で、[[電磁気学]]および[[電気化学]]の分野での貢献で知られている。
直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が発展させた。同様に[[ファラデーの電磁誘導の法則|電磁誘導の法則]]、[[反磁性]]、[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]]などを発見。磁性が光線に影響を与えること、2つの現象が根底で関連していることを明らかにした<ref name="EncBrit">[http://www.1911encyclopedia.org/Michael_Faraday Michael Faraday] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130605011924/http://www.1911encyclopedia.org/Michael_Faraday |date=2013年6月5日 }} entry at the 1911 Encyclopaedia Britannica hosted by LovetoKnow Retrieved January 2007.</ref><ref name="IEEUK">[http://www.theiet.org/about/libarc/archives/biographies/faraday.cfm "Archives Biographies:Michael Faraday", The Institution of Engineering and Technology.]</ref>。電磁気を利用して回転する装置([[電動機]])を発明し、その後の電動機技術の基礎を築いた。それだけでなく電気を使ったテクノロジー全般が彼の業績から発展したものである。
化学者としては、[[ベンゼン]]を発見し、塩素の[[包接水和物]]を研究し、原始的な形の[[ブンゼンバーナー]]を発明し、[[酸化数]]の体系を提案した。[[アノード]]、[[カソード]]、[[電極]] (electrode)、[[イオン]]といった用語はファラデーが一般化させた。
ファラデーは貧しい家庭に生まれたため、小学校も中退という教育しか受けておらず、高度な数学などは分からなかったが、[[科学史]]上、最も影響を及ぼした[[科学者]]の1人とされ、科学史家<ref>{{Citation|last=Russell |first=Colin |authorlink=|coauthors=|title=Michael Faraday:Physics and Faith |publisher=Oxford University Press |year=2000 |location=New York |pages=|url=|doi=|id=}}</ref>は彼を科学史上最高の実験主義者と呼んでいる<ref>[http://www.bath.ac.uk/news/2006/10/25/gulp-ford251006.html "best [[:en:experimentalist|experimentalist]] in the history of science."] Quoting Dr Peter Ford, from the University of Bath’s Department of Physics. Accessed January 2007.</ref>。
静電容量のSI単位「[[ファラド]] (F)」はファラデーにちなんでいる。また、1モルの電子の電荷に相当する[[ファラデー定数]]にも名を残している。[[ファラデーの電磁誘導の法則]]は、磁束の変化の割合と誘導起電力は比例するという法則である。
ファラデーは[[王立研究所]]の初代[[フラー教授]]職 ([[:en:Fullerian Professor of Chemistry|Fullerian Professor of Chemistry]]) であり、死去するまでその職を務めた。
[[アルベルト・アインシュタイン]]は壁にファラデー、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]の[[肖像]]を貼っていたという<ref>"Einstein's Heroes:Imagining the World through the Language of Mathematics", by Robyn Arianrhod
UQP, reviewed by Jane Gleeson-White, 10 November 2003, The Sydney Morning Herald.</ref>。
ファラデーは信心深い人物で、1730年に創設された[[キリスト教徒]]の一派である[[サンデマン主義|サンデマン派]]([[グラス派]])に属していた。伝記作者は「神と自然の強い一体感がファラデーの生涯と仕事に影響している」と記している<ref>{{Citation|author=Baggott, Jim |title=The myth of Michael Faraday:Michael Faraday was not just one of Britain's greatest experimenters. A closer look at the man and his work reveals that he was also a clever theoretician |journal=New Scientist |date=2 September 1991 |pages=|url=http://www.newscientist.com/article/mg13117874.600-the-myth-of-michael-faraday-michael-faraday-was-not-justone-of-britains-greatest-experimenters-a-closer-look-at-the-man-and-hiswork-reveals-that-he-was-also-a-clever-theoretician-.html |accessdate=2008-09-06 }}</ref>。
==前半生==
[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]時代の1791年に、ニューイントン・バッツ<ref name=ODNB/>で生まれる。現在の[[サザーク・ロンドン特別区]]の一部だが、当時は[[サリー (イングランド)|サリー]]の一部で[[ロンドン橋]]から南に1マイルほどの場所だった<ref>ファラデーの幼少期を含む生涯の簡潔な説明として次がある。<br>EVERY SATURDAY:A JOURNAL OF CHOICE READING, Vol III published at Cambridge in 1873 by Osgood & Co., pp.175-83</ref>。一家は決して順調ではなかった。父ジェームズは[[サンデマン主義|サンデマン派]]信者で、妻と2人の子をかかえて1791年にウェストモーランド(現在の[[カンブリア (イングランド)|カンブリア]])のアスギルという小さな村からロンドンに出てきた。その村では鍛冶屋の見習いをしていた<ref group="注釈">これの意味するところは、ジェームズがサンデマン派信者のつながりから職を得たということである。ジェームズは1791年2月20日にロンドンのサンデマン派の集会に参加し、その後すぐに住居を見つけて引っ越している。詳しくは {{Harvnb|Cantor|1991|pp=57-8}}</ref>。マイケルが生まれたのはその年の秋である。マイケルは4人兄弟の3番目で、学校にはほとんど通っていない<ref>"Michael Faraday." History of Science and Technology. Houghton Mifflin Company, 2004. [http://www.answers.com/topic/michael-faraday Answers.com 4 June 2007]</ref>。14歳のとき、近所で製本業と書店を営んでいた [[:en:George Riebau|ジョージ・リーボー]] のところに年季奉公に入った<ref>{{openplaque|19}}</ref>。7年間の奉公の間に多数の本を読んだ。中には[[アイザック・ウォッツ]]の ''The Improvement of the Mind'' もあり、彼はその中に書かれていた主義と提案を熱心に実践した。多数の本を読むうちに科学への興味が強まり、特に電気に興味を持つようになった。特に影響された本として[[ジェーン・マーセット]]の『化学談義』(''Conversations on Chemistry'')があった<ref>{{cite episode|transcripturl=http://www.uh.edu/engines/epi744.htm|title=Jane Marcet's Books |credits=John H. Lienhard|series=The Engines of Our Ingenuity|serieslink=|airdate=1992 |number=744 |network=NPR|station=KUHF-FM Houston|accessdate=2007-10-02}}</ref>。{{要出典範囲|date=2010年9月|またファラデーと同じく見習いで働いていた画家の卵[[マスケリエ]]はファラデーにデッサンを教えた。そのためファラデーは絵が非常に上手く、科学系の本にある実験装置などを正確に書き写したといわれている}}。
1812年、20歳となり年季奉公の最後の年となったファラデーは、[[:en:John Tatum (scientist)|ジョン・テイタム]] の創設したロンドン市哲学協会(City Philosophical Society)の会合で勉強するようになった。また、当時のイギリスで有名だった化学者[[ハンフリー・デービー]]の講演を何度も聴講した。その入場券は[[ロイヤル・フィルハーモニック協会]]の創設者の1人 [[:en:William Dance|ウィリアム・ダンス]] がファラデーに与えたものだった。ファラデーは300ページにもなったデービーの講演の際につけたノートをデービーに送った。それを見て感心したデービーは、すぐさま好意的な返事をした。ファラデーが科学の道を歩みたいと言ったところ「科学は快楽的なものだが、その道は成功と失敗の連続である。今は何の仕事もない。もしあったら連絡する」といわれ、ファラデーは落胆した。しかしその後、デービーは[[塩化窒素]]の実験中の事故で目を負傷し、ファラデーを秘書として雇うことにした。王立研究所の助手の1人が解雇されると、ハンフリー・デービーは代わりを捜すよう依頼され、1813年3月1日、ファラデーは王立研究所の化学助手となった<ref name="EncBrit"/>。
当時の階級社会では、彼はその出自のために紳士とはみなされなかった。デービーが1813年から1815年まで長いヨーロッパ旅行に出かけることになった時、彼の従者は一緒に行くことを拒んだ。ファラデーは実験助手として同行し、パリで従者の代わりを見つけるまでは従者の役も果たすことを依頼された。結局ファラデーは旅行が終わるまで助手兼従者として働くことになった。裕福な家の出だったデービー夫人ジェーン・アプリースはファラデーを対等に扱おうとせず、馬車で移動する際は御車席に座らせ、食事も使用人と一緒に摂らせた。この扱いにファラデーは落胆し、イギリスに戻ったら科学の道をあきらめようと考えたという。ただしファラデー自身は上流階級になろうという意欲は薄く、後に[[ナイト]]に叙せられる話があった時も断ったとされる。この旅行でファラデーはヨーロッパの有名な科学者らと出会い、アイデアを刺激された<ref name="EncBrit"/>。
ファラデーは敬虔なキリスト教徒だった。彼の属するサンデマン派は[[スコットランド国教会]]の分派である。結婚後しばらくして[[輔祭]]を務めるようになり、若いころ過ごした集会所の[[長老 (キリスト教)|長老]]を2期務めた。その集会所は1862年に[[イズリントン・ロンドン特別区|イズリントン]]に移転しており、2期目はこちらで務めた<ref>{{Harvnb|Cantor|1991|pp=41-43, 60-4, 277-80}}</ref>。
1821年6月12日、サラ・バーナード (1800–1879) と結婚したが<ref>{{Harvnb|Cantor|1991|p=59}}</ref>、子供はできなかった<ref name=ODNB>Frank A. J. L. James, ‘Faraday, Michael (1791–1867)’, [[:en:Oxford Dictionary of National Biography|Oxford Dictionary of National Biography]], [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]], Sept 2004;online edn, Jan 2008 [http://www.oxforddnb.com/view/article/9153 accessed 3 March 2009]</ref>。2人はサンデマン派の教会で家族を介して知り合った。
==業績==
===化学===
[[ファイル:M Faraday Lab H Moore.jpg|thumb|250px|right|1850年ごろの研究室で作業中のファラデー。作者の [[:en:Harriet Jane Moore|Harriet Jane Moore]] はファラデーの生活を水彩画で描いた。]]
[[ファイル:Tetrachloroethylene-3D-vdW.png|thumb|100px|left|[[テトラクロロエチレン]]分子]]
ファラデーの初期の化学の業績は、[[ハンフリー・デービー]]の助手としてのものだった。特に[[塩素]]を研究し、2種類の新たな[[炭素]]塩化物を発見した。また、[[ジョン・ドルトン]]が指摘した現象である気体の拡散に関する初期の実験も行ったが、その物理的重要性をより完全に明確化したのは[[トーマス・グレアム]]と[[ヨハン・ロシュミット]]である。いくつかの気体の[[液化]]に成功した。また、[[鋼]]合金を調べたり、光学向けの新たなガラスを作ったりしている。後にそれらのガラスは、磁場中に置くと通過する光の偏光面を回転させるという発見に役立ったこと、および磁石の極と反発する[[反磁性]]体だと判明したことで歴史的に重要となった。また、化学の一般的手法の確立にも貢献している。
ファラデーはまた、後に[[ブンゼンバーナー]]と呼ばれ実験用に広く使われるようになった熱源装置の原型を発明した<ref>{{Citation|last=Jensen |first=William B. |authorlink=|coauthors=|title=The Origin of the Bunsen Burner |journal=Journal of Chemical Education |volume=82 |issue=4 |pages=|publisher=|year=2005 |url=http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ed082p518|format=PDF}}</ref><ref>{{Harvnb|Faraday|1827|p=127}}</ref>。ファラデーは化学の幅広い分野で活動し、1823年に塩素の液化に成功し、1825年には[[ベンゼン]]を発見している。気体の液化は気体が単に沸点の低い液体の蒸気に過ぎないという認識の確立に役立ち、分子凝集の概念により確かな基盤を与えることになった。1820年、ファラデーは炭素と塩素で構成される化学物質 [[六塩化エタン|C<sub>2</sub>Cl<sub>6</sub>]] と [[テトラクロロエチレン|C<sub>2</sub>Cl<sub>4</sub>]] を初めて合成したことを報告し<ref>{{Citation|author=Faraday, Michael |title=On two new Compounds of Chlorine and Carbon, and on a new Compound of Iodine, Carbon, and Hydrogen |journal=Philosophical Transactions |year=1821 |volume=111|pages=47 |doi=10.1098/rstl.1821.0007 }}</ref><ref>{{Harvnb|Faraday|1859|pp=33-53}}</ref><ref>{{Harvnb|Pearce|1965|pp=122-123}}</ref>、翌年公表している。また、ハンフリー・デービーが1810年に発見した塩素の[[包接水和物]]の構成を特定した<ref>{{Citation|author=Faraday, Michael |title=On Hydrate of Chlorine |journal=Quartly Journal of Science |year=1823 |volume=15|pages=71 }}</ref><ref>{{Harvnb|Faraday|1859|pp=81-84}}</ref>。
1833年、[[ファラデーの電気分解の法則|電気分解の法則]]を発見し、[[アノード]]、[[カソード]]、[[電極]] (electrode)、[[イオン]]といった用語を定着させた。これらの用語の多くは[[ウィリアム・ヒューウェル]]が考案したものである。
また、後に金属[[ナノ粒子]]と呼ばれることになるものについて初めて報告している。1847年、金[[コロイド]]の光学特性が金塊のそれと異なることを発見した。これは[[量子]]サイズの現象の最初の観察報告と見られ、[[ナノテクノロジー|ナノ科学]]の誕生と言えなくもない<ref>{{Citation|url=http://www.nanogallery.info/nanogallery/?ipg=126 |title=The Birth of Nanotechnology |accessdate=2007-07-25 |last=|first=|authorlink=|coauthors=|date=|year=2006 |month=|format=|work=|publisher=Nanogallery.info |pages=|language=|archiveurl=|archivedate=|quote="Faraday made some attempt to explain what was causing the vivid coloration in his gold mixtures, saying that known phenomena seemed to indicate that a mere variation in the size of gold particles gave rise to a variety of resultant colors." }}</ref>。
===電気と磁気===
ファラデーは特に電気と磁気の研究でよく知られている。彼が記録している最初の実験は、7枚の半ペニー貨と7枚の亜鉛シートに6枚の塩水を浸した紙を挟んで積み上げた[[ボルタ電池]]を作ったことだった。この電池を使って[[硫酸マグネシウム]]を電気分解している(1812年7月12日付けのAbbottへの手紙に記述がある)。
[[ファイル:VoltaBattery.JPG|thumb|upright|[[ボルタ電池]]]]
[[ファイル:Faraday magnetic rotation.jpg|thumb|upright|left|電磁力による回転実験(1821年ごろ)<ref>{{Harvnb|Faraday|1839, 1844|loc=vol ii, plate 4}}</ref>]]
[[ファイル:VFPt_Solenoid_correct2.svg|thumb|upright|[[ソレノイド]]]]
デンマークの科学者[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]が電気と磁気の関係を示す現象を発見すると、1821年にデービーと[[ウイリアム・ウォラストン]]が[[電動機]]を作ろうとしたが失敗した<ref name="IEEUK"/>。ファラデーは2人とその問題について話し合い、電磁回転 (electromagnetic rotation) と名付けた動きを生じる2つの装置を作り上げた。1つは[[水銀]]を入れた皿の中央に磁石を立て、上から水銀に浸るように針金をたらし、その針金と水銀を通るように電流を流すと、電流によって生じた磁場が磁石の磁場と反発して針金が磁石の周囲を回転し続けるというものである。もう1つは[[単極電動機]]と呼ばれるもので、逆に磁石側が針金の周りを回るようになっていた。それらの実験と発明が現代の電磁技術の基礎を築いた。この成果に興奮したファラデーはデービーやウォラストンの許可を得ずに、それを公表した。
これに怒ったデービーとファラデーの関係が悪化し、デービーは電磁気以外の研究をファラデーに押し付け、数年間電磁気研究から遠ざけたと見られている<ref>{{Harvnb|Hamilton|2004|pp=165-71, 183, 187-90}}</ref><ref>{{Harvnb|Cantor|1991|pp=231-3}}</ref>。デービーはファラデーが[[王立協会フェロー]]になることを猛烈に反対し、自分が見出したファラデーの頭角に嫉妬を抱き始めていた。しかし、ファラデーの友人の推薦により、フェローに選ばれた。また、デービーはウィリアム・ウォラストン自身が否定しているに関わらず、ファラデーを「ウォラストンの研究を盗んだ」と非難したりもした。もっとも、デービーは「私の最大の発見はファラデーである」という言葉を残している。小学校しか卒業していない製本屋の見習いが19世紀最大の科学者と言われるようになったことを考えると、この言葉は正鵠を射ているといえる。
1824年、ファラデーは導線を流れる電流を外部の磁場によって調節可能かどうかを研究すべく簡単な回路を製作したが、そのような現象は見つけられなかった<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|p=95}}</ref>。3年前、同じ実験室で光が磁場に影響されるかを実験しており、そのときも何も見つけられなかった<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|p=91}}</ref><ref>{{Harvnb|Cantor|1991|p=233}}</ref>。その後7年間は光学用ガラス(鉛を加えた[[ホウケイ酸ガラス]])の製法を完成させることに費やし<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|pp=95-98}}</ref>、後の研究でそれが光と磁気の関係の研究に役立つことになった<ref>{{Harvnb|Thompson|1901|p=100}}</ref>。光学の仕事以外の時間を使って電磁気を含む実験の論文を書いて公表し、デービーとのヨーロッパ旅行で出会った海外の科学者とも文通した<ref>{{Harvnb|Cantor|1991|pp=235-44}} 日記でわかるように、ファラデーはアンペール、アラゴ、エルステッドらの研究の進行状況に大きく影響されている。</ref>。デービーの死から2年後の1831年、ファラデーは一連の重要な実験を行い、[[電磁誘導]]を発見した。わずか数カ月前に[[ジョゼフ・ヘンリー]]も発見しているが、2人に先行してイタリアの[[フランチェスコ・ツァンテデスキ]]が1829年と1830年に同様の論文を発表していた<ref>{{Citation|url=http://en.wikisource.org/wiki/Catholic_Encyclopedia_%281913%29/Francesco_Zantedeschi |title=Francesco Zantedeschi article at the Catholic Encyclopedia|accessdate=2007-06-16 |last=Brother Potamian |first=|authorlink=|coauthors=|date=|year=1913 |month=|format=|work=|publisher=Wikisource |pages=|language=|archiveurl=|archivedate=|quote=}}</ref>。
[[ファイル:Faraday-Daniell.PNG|thumb|left|200px|電気化学の祖とされるイギリスの化学者[[ジョン・フレデリック・ダニエル|ジョン・ダニエル]](左)とファラデー(右)]]
他の科学者たちが電磁気現象を[[力学]]における[[遠隔力]]と考えていたのに対して、ファラデーは空間における[[電気力線]]・[[磁力線]]という[[近接作用]]的概念から研究している<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=77}}</ref>。ファラデーの突破口は、鉄の環に絶縁された導線を巻きつけて[[コイル]]を2つ作ったことであり、一方のコイルに電流を流すともう一方のコイルに瞬間的に電流が流れることを発見した<ref name="IEEUK"/>。この現象を[[相互誘導]]と呼ぶ。この鉄の環のコイルは今も王立研究所に展示されている。その後の実験で、空芯のコイルの中で磁石を動かしても電流が流れることを発見した。また、磁石を固定して導線の方を動かしても電流が流れることを発見。これらの実験で、磁場の変化によって電場が生ずることが明らかとなった。この[[ファラデーの電磁誘導の法則]]は後に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が数理モデル化し、4つの[[マクスウェルの方程式]]の1つとなった。そして、さらに一般化され[[場の理論]]となっている。
ファラデーは後にこの原理を使って原始的な[[発電機]]を製作している。
1839年、電気の基本的性質を明らかにする一連の研究を完成させた。ファラデーは「[[静電気学|静電気]]」、[[電池]]、「動物電気」を使い、静電気による誘引現象、[[電気分解]]、[[電磁気学]]などの現象を生み出した。彼は、当時の科学界で常識だったこれらの電気の種類の違いは存在しないと結論付けた。そして電気は一種類だとし、強さや量(電圧と電流)の違いが様々な現象を引き起こすとした<ref name="IEEUK"/>。
後年ファラデーは電磁力が電気伝導体の周囲の空間に及んでいるという説を提案した。しかし他の科学者はその考え方を拒絶し、ファラデーの存命中は認められなかった。ファラデーの帯電した物体や磁石から[[磁力線]]が出ているという概念は、電磁場の視覚化手段を提供した。このモデルは19世紀後半の産業を支配した電気機械式装置の開発にとってきわめて重要となった。
===反磁性===
[[ファイル:Faraday with glass bar crop2.jpg|thumb|upright|right|1845年の実験で使ったガラス棒を手にしたファラデー。その実験で[[誘電体]]中の光が磁場の影響を受けることを示した。<ref group="注釈">1857年ごろ撮影された写真をベースとした版画。詳しくは [http://www.npg.org.uk/collections/search/portrait/mw41581/Michael-Faraday?LinkID=mp01529&role=sit&rNo=18 National Portrait Gallery, UK]</ref>]]
1845年、ファラデーは多くの物質が磁場に対して弱く反発することを発見し、その現象を[[反磁性]] (diamagnetism) と名付けた。
また、光の進む方向にそって印加された電磁場によって直線[[偏光]]の偏光面が回転することを発見。これを[[ファラデー効果]]と呼ぶ。ファラデーのノートには「私はついに磁気の曲線または「[[電気力線|力の線]]」を解明し、[[光線]]を磁化することに成功した」と記してある。
晩年(1862年)、磁場によって光のスペクトルが変化するのではないかと考え、[[分光器]]を使って実験している。しかしファラデーが使っていた機器ではスペクトルの変化を捉えることはできなかった。同じ現象を後に[[ピーター・ゼーマン]]が改良された機器で研究し、1897年に公表、1902年に[[ノーベル物理学賞]]を受賞することになった。1897年の論文でも<ref>{{Citation|title=The Effect of Magnetisation on the Nature of Light Emitted by a Substance |journal=Nature |year=1897 |volume=55 |pages=347 |author=Zeeman, Pieter |doi=10.1038/055347a0}}</ref>、ノーベル賞講演でも<ref>{{Citation|title=Pieter Zeeman, Nobel Lecture |url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1902/zeeman/lecture/ |accessdate=2008-05-29}}</ref>、ゼーマンはファラデーの業績に言及している。
===ファラデーケージ===
[[ファイル:Faraday cage.gif|left|thumb|300px|外部の電場が電荷の配置を変化させ、それによって電場が打ち消される。]]
静電気を研究する中で、ファラデーは帯電した導体では電荷がその表面にしかないことを示し、それら電荷は導体内部の空間には何も影響を及ぼさないことを証明した。これは電荷が内部の電場を打ち消すように分布するためである。この電場を遮蔽する効果を使ったものを[[ファラデーケージ]]と呼ぶ。
ファラデーは優秀な実験主義者であり、明快かつ簡潔な言葉で考えを伝えた。しかし、数学の知識は乏しかった。そのため電磁誘導の法則を自分で定式化できず、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]らが定式化することになった。またファラデーの[[電気力線]]の使用についてマクスウェルは、ファラデーが高水準の数学者にも匹敵する思考の持ち主であり、将来の数学者はファラデーの業績から様々な貴重な方法を引き出すことができるだろうと述べている<ref name="MaxwellSciPapVol1">[https://books.google.co.jp/books?id=RaqhIhxqLiwC&pg=PA360&lpg=PA360&dq=%22to+have+been+in+reality+a+mathematician%22&source=web&ots=CUK1Be_o6H&sig=R8OycQBKt7eOLEgWVt328XdHqv8&hl=en&redir_esc=y The Scientific Papers of James Clerk Maxwell Volume 1] page 360;Courier Dover 2003, {{ISBN2|0486495604}}</ref>。
==王立研究所と研究以外の業績==
[[ファイル:FaradayFatherThames.jpg|thumb|right|200px|upright|テムズ川の主に名刺を渡すファラデー(1855年7月21日の[[パンチ (雑誌)|パンチ]]誌の風刺画)]]
[[ファイル:Lighthouse lantern room with Fresnel lens.png|thumb|left|1800年代中ごろの灯台の灯室]]
1824年には[[王立協会フェロー]]に選ばれ<ref name=ODNB/><ref>{{FRS |code=NA8218 |title=Faraday;Michael (1791 - 1867) |accessdate=2011-12-11 }}</ref>、1825年にはデービーの後をついで英国王立実験所長となった。1833年、ファラデーは[[:en:John 'Mad Jack' Fuller|ジョン・「マッド・ジャック」・フラー]]の推薦で[[王立研究所]]の初代[[フラー教授職]]に就任した。これはフラーの後援によって創設された化学の教授職であり、名誉職であって講義を行う義務はない。
王立研究所での化学や電磁気学の研究以外に、ファラデーは民間企業やイギリス政府に依頼された仕事に時間を割いた。例えば、炭鉱での爆発事故の調査、法廷での専門家証人、高品質な光学ガラスの成分検討などである。1846年、ハスウェルの炭鉱で95人が死亡した爆発事故を調査し、[[チャールズ・ライエル]]と共に詳細な報告書を提出した。その報告書は[[法科学]]的にしっかりしており、石炭の粉塵が爆発の威力を増加させたとしていた。しかし、炭塵爆発への対策は1913年に別の炭鉱で大事故が発生するまでなされなかった。
海洋国家でもあるイギリスの有名な科学者として、ファラデーは[[灯台]]建設や運用、船底の[[腐食]]を防止するプロジェクトなどにも時間を割いた。
ファラデーは今では[[環境学]]と呼ばれる分野でも活躍した。[[スウォンジ]]での工場による汚染を調査し、造幣所での大気汚染について助言したりしている。1855年7月、[[タイムズ]]誌に[[テムズ川]]の汚染問題について手紙を送り、[[パンチ (雑誌)|パンチ]]誌に風刺画が掲載されることになった。
1851年、ロンドンで開催された[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|万国博覧会]]では、計画立案と評価に参加した。また、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]でのコレクションのクリーニングと保護についても助言し、1857年には同ギャラリー運営委員会の委員も務めた。
[[ファイル:Faraday Michael Christmas lecture detail.jpg|thumb|200px|right|ファラデーのクリスマス・レクチャー (1856)]]
教育にも関与している。1854年、王立研究所で教育について講演し、1862年にはイギリスの教育政策についての持論を伝えるために公立学校委員会に出席した。また当時一般大衆の間で流行っていたこっくりさんや催眠術や降霊会には否定的立場で参加しており、教育に関しては政府に対しても大衆に対しても厳しかった<ref>See ''The Illustrated London News'', July 1853, for Faraday's comments.</ref>。
ファラデーは一般向けの講演も多く行った。世界の優秀な科学者たちを集めた[[金曜講演]](1825年より開始)、少年少女向きの[[クリスマス・レクチャー]]、有名な[[ロウソクの科学]]などであり、今日まで続いているものも多い。ファラデーは1827年から1860年まで19回のクリスマス・レクチャーを行った。
==晩年==
[[ファイル:Faraday Michael old age.jpg|thumb|upright|left|150px|晩年のファラデー]]
[[ファイル:Faraday Michael grave.jpg|thumb|upright|right|150px|[[ハイゲイト墓地]]にあるファラデーの墓]]
1832年6月、[[オックスフォード大学]]はファラデーに名誉博士号を授与した。ファラデーは終生[[ナイト]]の名誉を辞退し続け、1858年には[[王立協会]]会長職を1865年には[[王立研究所]]所長職を辞退している。1838年、[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の外国人会員に選ばれ、1844年にはフランス[[科学アカデミー (フランス)|科学アカデミー]]の8人の外国人会員の1人に選ばれた<ref>{{Harvnb|Gladstone|1872|p=53}}</ref>。
1848年、[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート王配殿下]]の申し出により[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[ハンプトン・コート宮殿]]に無料で住めるようになった。1858年に引退したファラデーは晩年をそこで過ごした<ref>[http://www.twickenham-museum.org.uk/detail.asp?ContentID=197 Twickenham Museum on Faraday and Faraday House], Accessed June 2006</ref>。
[[クリミア戦争]] (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、倫理的な理由からこれを断わった<ref name="Croddy">{{Citation|last=Croddy|first=Eric |coauthors=Wirtz, James J. |title=Weapons of Mass Destruction:An Encyclopedia of Worldwide Policy, Technology, and History|publisher=ABC-CLIO|url=https://books.google.co.jp/books?id=ZzlNgS70OHAC&pg=PA86&lpg=PA86&dq=Faraday++chemical+weapons+Crimean+War&redir_esc=y&hl=ja|year=2005|pages=Page 86|isbn=1851094903}}</ref>。彼は机をたたいてこう言ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」ファラデーが強い[[平和主義]]者だったことも伺える。
1867年8月25日、[[ハンプトン・コート宮殿]]内の自宅で椅子にもたれたまま、眠るようにして死去した<ref>[http://openplaques.org/plaques/2429 Plaque#2429] on Open Plaques</ref>。
生前[[ウェストミンスター寺院]]への埋葬を拒否していたが、[[アイザック・ニュートン]]の墓のそばに記念銘板が設置された。遺体は[[ハイゲイト墓地]]の非国教徒向けの区域に埋葬された。
==記念==
[[ファイル:Michael Faraday statue AB.jpg|thumb|right|upright|150px|ロンドンのサボイ・プレイスにあるファラデー像(作 [[ジョン・ヘンリー・フォーリー]]]]
ロンドンの[[英国工学技術学会]](IET)本部のそばのサボイ・プレイスにファラデーの像がある。同じくロンドンのエレファント・アンド・キャッスルのロータリーの中央には[[ブルータリズム]]の建築家[[:en:Rodney Gordon|ロドニー・ゴードン]] が設計し1961年に完成したマイケル・ファラデー記念館 ([[:en:Michael Faraday Memorial|en]]) がある。ファラデーが生まれたニューイントン・バッツの近くである。同じく生誕地に近いウォルワースにはファラデーの名を冠した小さな公園がある。
[[ラフバラー]]のラフバラー大学には1960年にファラデーの名を冠したホールが建てられた。その食堂の入口付近に青銅製の[[変圧器]]の像があり、中にはファラデーの肖像がある。[[エディンバラ大学]]の理工系キャンパスにはファラデーの名を冠した5階建ての建物がある。[[ブルネル大学]]や[[スウォンジー大学]]にもファラデーの名を冠した建物がある。また、イギリスはかつて [http://www.antarctica.ac.uk/about_bas/our_history/stations_and_refuges/faraday.php ファラデー基地] という南極基地を運営していた。
ファラデーの名を冠した通りはイギリス各地(ロンドン、[[ファイフ]]、[[スウィンドン]]、[[ノッティンガム]]など)にあり、フランス(パリ)やドイツ、カナダ、アメリカにもある。
1991年から2001年にかけて用いられた20[[スターリング・ポンド|UKポンド]][[紙幣]]に肖像が描かれている。王立研究所で電磁スパーク装置を使った講演中の様子が描かれている<ref name="bankofengland">{{Citation|url=http://www.bankofengland.co.uk/banknotes/denom_guide/index.htm|title=Withdrawn banknotes reference guide|publisher=Bank of England|accessdate=2008-10-17}}</ref>。
==著作==
''Chemical Manipulation'' 以外のファラデーの本は学術論文や講義録を集めたものである<ref>{{Harvnb|Hamilton|2004|p=220}}</ref>。死後、ファラデーの日記、大量の書簡、1813年から1815年のデービーとの旅行の記録も出版された。
*{{Citation|last=Faraday |first=Michael |title=Chemical Manipulation, Being Instructions to Students in Chemistry |publisher=John Murray |year=1827}} [https://archive.org/details/chemicalmanipula00fararich 2nd ed. 1830], [https://books.google.co.jp/books?id=apjfZ3P8GdQC&pg=PA1&dq=chemical+manipulation&redir_esc=y&hl=ja#PPP9,M1 3rd ed. 1842]
*{{Citation|last=Faraday |first=Michael |title=Experimental Researches in Electricity, vols. i. and ii. |year=1839, 1844 |publisher=Richard and John Edward Taylor |url=https://archive.org/details/experimentalrese00faraiala }};vol. iii. Richard Taylor and William Francis, 1855 - [http://rack1.ul.cs.cmu.edu/is/faraday/doc.scn?fr=0&rp=http%3A%2F%2Frack1.ul.cs.cmu.edu%2Fis%2Ffaraday%2F&pg=4 オリジナルをスキャンしたもの]
*{{Citation|last=Faraday |first=Michael |title=Experimental Researches in Chemistry and Physics |year=1859 |publisher=Taylor and Francis |url=https://archive.org/details/experimentalrese00fararich}}
*{{Citation|author=Faraday, Michael |title=A Course of Six Lectures on [[ロウソクの科学|the Chemical History of a Candle]] |editor=W. Crookes |year=1861 |publisher=Griffin, Bohn & Co. |url=https://archive.org/details/chemicalhistoryo00faraiala}}
**マイケル・ファラデー 著, 山形浩生 訳, 『[[ロウソクの科学]]』, [[プロジェクト杉田玄白]]. [http://www.genpaku.org/candle01/]
*{{Citation|author=Faraday, Michael |title=On the Various Forces in Nature |year=1873 |publisher=Chatto and Windus |location=|url=https://archive.org/details/onvariousforceso00farauoft |editor=W. Crookes}}
*{{Citation|author=Faraday, Michael |title=Diary |editor=T. Martin |year=1932–1936 }} - ファラデーの日記(全8巻)
*{{Citation|author=Faraday, Michael |title=Curiosity Perfectly Satisfyed:Faraday's Travels in Europe 1813-1815 |editor=B. Bowers and L. Symons |publisher=Institution of Electrical Engineers |year=1991}}
*{{Citation|author=Faraday, Michael |title=The Correspondence of Michael Faraday |year=1991 |volume=1 |publisher=INSPEC, Inc. |location=|url=|editor=F. A. J. L. James}} - volume 2, 1993;volume 3, 1996;volume 4, 1999
*{{Citation|author=Faraday, Michael |title=Michael Faraday's Mental Exercises:An Artisan Essay Circle in Regency London |editor=Alice Jenkins |publisher=Liverpool University Press |location=Liverpool, UK |year=2008}}
*[https://archive.org/details/courseofsixlectu00fararich Course of six lectures on the various forces of matter, and their relations to each other] London;Glasgow:R. Griffin, 1860.
*[https://archive.org/details/liquefactionofga00fararich The liquefaction of gases] Edinburgh:W. F. Clay, 1896.
*{{Citation |last=Faraday |first=Michael |last2=Schoenbein |first2=Christian Friedrich |title=The letters of Faraday and 1836-1862. With notes, comments and references to contemporary letters |publisher=Williams & Norgate |place=London |year=1899 |url=https://archive.org/details/lettersoffaraday00fararich }}
==語録==
{{Wikiquotelang|en|Michael Faraday|マイケル・ファラデー}}
*「[[自然法則|自然の法則]]が一貫しているなら、これほど素晴らしいことはない。そんな中で実験はそのような一貫性を調べる最良の手段だ」<ref>ファラデーの日記の1849年3月19日の記述</ref>
*「働きなさい。完成させなさい。出版しなさい」 — 若かりし[[ウィリアム・クルックス]]への助言
*[[来世]]について聞かれたときの言葉「憶測? 私には全くない。私は確信している」
*「次の日曜日で70歳になるのだから、記憶力が衰えても不思議ではない。この70年間私は幸せだった。そして希望と満足感がある今も幸せだ」<ref>{{Harvnb|Faraday|Schoenbein|1899|p=349}} Christian Friedrich Schönbein への1861年9月19日付けの手紙。</ref>
*「さらに試行せよ。何が可能かを知るために」[[アメリカ合衆国]][[ペンシルベニア州]]の[[:en:Ursinus College|アーサイナス大学]]の理学部のホール玄関に刻まれているファラデーの名言とされる言葉<ref>See [http://www.flickr.com/photos/monyca/17917765/in/pool-ursinus/ ''but still try'']</ref>。
*「あなたが科学者の説を認めるならば、あなたは科学に大きな貢献をすることになるだろう。あなたがそれに対して『はい』とか『いいえ』と言うだけでも、将来の進歩を助けることになる。一部の人は自分の考えに固執して口にするのをためらうに違いない」<ref>{{Harvnb|Jones|1870|loc=2:389}}</ref>
== 栄誉と受賞 ==
王立協会より[[ベーカリアン・メダル]]を1829年以後複数回にわたって受賞し、それぞれ記念講演を行った。また[[ロイヤル・メダル]] を1835年と1846の2回、[[コプリ・メダル]]を1832年と1838の2回、[[ランフォード・メダル]]を1846年に受賞した。
また王立協会によって[[マイケル・ファラデー賞]]、英国工学技術学会によって[[ファラデー・メダル (英国工学技術学会)|ファラデー・メダル]]が創設された。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*{{Citation|last=Jones |first=Henry Bence |title=The Life and Letters of Faraday|year=1870 |publisher=J. B. Lippincott and Company |place=Philadelphia |url=https://books.google.co.jp/books?id=YzuCdNmu5soC&printsec=frontcover&dq=Faraday&redir_esc=y&hl=ja }}
*{{Citation|last=Cantor |first=Geoffrey |title=Michael Faraday, Sandemanian and Scientist |year=1991 |publisher=Macmillian |isbn=0-333-550773}}
*{{Citation|last=Gladstone |first=J. H. |title=Michael Faraday |year=1872 |publisher=Macmillan |place=London |url=https://books.google.co.jp/books?id=pbs4AAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=Faraday&redir_esc=y&hl=ja}}
*{{Citation|last=Hamilton |first=James |title=Faraday:The Life |year=2002 |place=London |publisher=Harper Collins |isbn=0-00-716376-2}}
**{{Cite |和書 |title=電気事始めーーマイケル・ファラデーの生涯 |author=J.Hamilton |translator=佐波正一 |date=2010 |publisher=教文館 |isbn=978-4764266834 |ref=harv }}
*{{Citation|last=Hamilton |first=James |title=A Life of Discovery:Michael Faraday, Giant of the Scientific Revolution |year=2004 |place=New York|publisher=Random House |isbn=1-4000-6016-8 }}
*{{Citation|last=Hirshfeld |first=Alan W. |title=The Electric Life of Michael Faraday |year=2006 |publisher=Walker and Company |isbn=978-0802714701 }}
*{{Citation|last=Thompson |first=Silvanus |title=Michael Faraday, His Life and Work |year=1901 |publisher=Cassell and Company |place=London |isbn=1-4179-7036-7 |url=https://books.google.co.jp/books?id=HKf5g3qYYz8C&printsec=frontcover&dq=Silvanus+Thompson+faraday&redir_esc=y&hl=ja }}
*{{Citation|last=Tyndall |first=John |title=Faraday as a Discoverer |year=1868 |publisher=Longmans, Green, and Company |place=London |edition=|url=https://archive.org/details/faradayasdiscove00tyndrich}}
*{{Citation|first=Williams, L. |last=Pearce |title=Michael Faraday:A Biography |year=1965 |publisher=Basic Books |place=New York }}
*The British Electrical and Allied Manufacturers Association (1931). ''Faraday''. R. & R. Clark, Ltd., Edinburgh, 1931.
*{{Citation|last=Agassi |first=Joseph |title=Faraday as a Natural Philosopher |year=1971 |publisher=[[シカゴ大学出版局|University of Chicago Press]] |place=Chicago |isbn=}}
*{{Citation|last=Ames |first=Joseph Sweetman (Ed.) |title=The Discovery of Induced Electric Currents |volume=2 |year=c1900 |publisher=American Book Company |place=New York |isbn=}}
*{{Citation|last=Gooding |first=David (Ed.) |title=Faraday Rediscovered:Essays on the Life and Work of Michael Faraday, 1791-1867 |year=1985 |publisher=Macmillan/Stockton |place=London/New York |isbn=}}
*{{Citation|last=Thomas |first=John Meurig |title=Michael Faraday and the Royal Institution:The Genius of Man and Place |year=1991 |publisher=Hilger|place=Bristol |isbn=0-7503-0145-7}}
**{{Cite |和書 |title=マイケル・ファラデー 天才科学者の軌跡 |author=J.M.Thomas |translator=千原秀昭・黒田玲子 |date=1994 |publisher=東京化学同人 |isbn=978-4807912636 |series=科学のとびら 23 |ref=harv }}
*{{Citation|last=Russell |first=Colin A. (Ed. Owen Gingerich) |title=Michael Faraday:Physics and Faith (Oxford Portraits in Science Series) |year=2000 |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |place=New York |isbn=0-19-511763-8}}
**{{Cite |和書 |title=マイケル・ファラデー――科学をすべての人に|author=Colin A.Russell (Ed. Owen Gingerich) |translator=須田康子 |date=2007 |publisher=大月書店 |isbn=978-4272440467 |series=オックスフォード科学の肖像 |ref=harv }}
==関連項目==
*[[電磁誘導]]
*[[ファラデーの電磁誘導の法則]]
*[[ファラデーの電気分解の法則]]
*[[ファラデー定数]]
*[[ファラデー効果]]
*[[ファラデーケージ]]
*[[ファラド]]
*[[電気力線]]
*[[ゼーマン効果]]
*[[場]]
*[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]
*[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]
*[[マクスウェルの方程式]]
*[[タイムトラベル少女〜マリ・ワカと8人の科学者たち〜]]
==外部リンク==
{{wikisource author}}
{{Commons|Michael Faraday}}
===伝記===
*[https://web.archive.org/web/20040312015850/http://www.rigb.org/rimain/heritage/faradaypage.jsp Biography at The Royal Institution of Great Britain]
*[http://www.gutenberg.org/etext/1225 Faraday as a Discoverer by John Tyndall, Project Gutenberg] (downloads)
*[http://www.asa3.org/ASA/PSCF/1991/PSCF6-91Eichman.html The Christian Character of Michael Faraday]
*[http://www-personal.umich.edu/~jbourj/money1.htm Michael Faraday on the British twenty-pound banknote]
*[https://archive.org/details/lifediscoverieso00crowrich The Life and Discoveries of Michael Faraday] by J. A. Crowther, London:Society for Promoting Christian Knowledge, 1920
===その他===
*[https://1000ya.isis.ne.jp/0859.html 松岡正剛の千夜千冊『ロウソクの科学』マイケル・ファラデー]
*[http://journals.lww.com/anesthesiology/Abstract/1992/10000/Michael_Faraday_and_His_Contribution_to_Anesthesia.27.aspx Michael Faraday and His Contribution to Anesthesia] - 麻酔剤としてのエーテルの発表(1818年)
*[http://www.magnet.fsu.edu/education/tutorials/java/faradaymotor/index.html Interactive Java Tutorial on Faraday's 1821 Motor] National High Magnetic Field Laboratory
*[http://www.magnet.fsu.edu/education/tutorials/java/faradaypail/index.html Interactive Java Tutorial on Faraday's Ice Pail Experiment] National High Magnetic Field Laboratory
*[https://web.archive.org/web/20130605011924/http://www.1911encyclopedia.org/Michael_Faraday "Faraday"] at LoveToKnow 1911 Britannica Online Encyclopedia
*{{gutenberg author |id=Michael_Faraday |name=Michael Faraday}} (downloads)
*{{青空文庫|001234|46340|新字新仮名|ファラデーの伝 電気学の泰斗}}([[愛知敬一]]著)
* {{Kotobank|ファラデー}}
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4,969 | クラシック | クラシック (英: classic) は、「階級」を表すラテン語「class(クラス)」に由来し、「最高クラスの」=「一流の」という意味であるが、ここから転じて「古典」、「格式のある」の意でも用いられる。文学、音楽などの芸術作品や服装、行事に対して用いられる。ここから、各分野において、歴史的に長く、評価の定まった物事を指して「クラシック」と呼ぶ場合がある。さらに転じて、一流や最高という意味が外れ、単に古くなったものの呼称として使用される場合もある。 | [
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== 音楽 ==
* [[クラシック音楽]] - 西洋に由来する芸術志向音楽。
* [[クラシック・メタル]] - ヘヴィ・メタルにおける古典様式の音楽。
* [[クラシック・ロック]] - ロック音楽の歴史の中で古典とされる時期の作品群。
* [[クラシック・ロック (ラジオ・フォーマット)]] - ラジオ局が編成するロックのフォーマットの一つ。
*[[名曲喫茶クラシック]] - [[東京都]][[中野区]]に存在した[[名曲喫茶]]
=== 音楽作品 ===
* [[クラシック (JUDY AND MARYの曲)]] - [[JUDY AND MARY]]のシングル曲。
* [[CLASSIC (MUCCの曲)]] - [[MUCC]]のシングル曲。
* [[ClaChic -クラシック-]] - [[髙橋真梨子]]のカバーアルバム。
* [[ECHO (Little Glee Monsterの曲)|Classic]] - [[Little Glee Monster]]のシングル収録曲。
* CLASSIC - [[KinKi Kids]]のシングル「[[Topaz Love/DESTINY]]」の通常盤収録曲。
== ブランド・商品 ==
* [[Porter Classic]]・Gallery Porter Classic - 吉田克幸、吉田玲雄が設立日本を代表するアパレルブランド。
* [[Classic (ソフトウェア)]] - [[macOS|Mac OS X]]上で[[Classic Mac OS]]用の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]を動かすために[[Apple]]が用意した互換環境。
* [[Macintosh Classic]] - 1990年に発売された、白黒ディスプレイ一体型の廉価版Macintosh。
* [[サッポロクラシック]] - [[サッポロビール]]の北海道限定[[ビール]]。
* [[トヨタ・クラシック]] - [[トヨタ自動車]]の車種。
* [[日産・グロリア]]・[[日産・セドリック]]のグレード名。
== スポーツ ==
* [[クラシック (競馬)]] - [[競馬]]において歴史の長い[[競馬の競走|競走]]。
* [[クラシック (ロードレース)]] - [[自転車競技]]の一つである[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]において高い格式と長い歴史を持つレース。
*[[ワールド・ベースボール・クラシック]]:野球世界大会。
*[[MLBオールスターゲーム]] (Mid Summer Classic) :メジャーリーグのオールスターゲーム。
*[[ワールドシリーズ]] (Fall Classic) :メジャーリーグのワールドシリーズ。
*[[鳳凰賞競走]](ボートレースクラシック):[[競艇]]の[[スペシャルグレード|SG]]競走。
== 作品名 ==
* [[Classi9]] - 吉村旋の漫画。
* <span lang="ko">클래식</span>、classic - 2003年の韓国映画『[[ラブストーリー (映画)|ラブストーリー]]』の原題。
* [[北海道テレビ放送]]制作の[[テレビ番組]]「[[水曜どうでしょう#水曜どうでしょうClassic|水曜どうでしょうClassic]]」の略称。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[クラシカ (曖昧さ回避)]]
* [[クラシコ (曖昧さ回避)]]
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4,970 | セルシウス度 | セルシウス度(セルシウスど、英語: degree Celsius、記号: °C)または単に度(記号: °C)は、セルシウス温度の単位である。その大きさはケルビン(記号: K)に等しい(°C=K)。温度間隔(temperature interval)または間隔差(temperature difference)は、ケルビンまたはセルシウス度のどちらによっても表すことができ(第13回 CGPM、1967–1968年、決議3)、その数値は同じである。なお、温度差を表現するために、degree(略字 deg) を用いることは1980年以降、禁じられている。現在では、セルシウス度(およびセルシウス温度)は世界的に使用されている。
セルシウス温度の単位は、セルシウス度(記号は °C)であり、定義によってケルビンの大きさと等しい。
日本の計量法での定義は次のようになっている。
計量単位令にあるとおり、単に「度」と表記した場合は、セルシウス度を意味する。
元々の定義は水の凝固点を100度、沸点を0度とし、現在とは逆であった。
セルシウス度の名称は、アンデルス・セルシウスに由来するものである。
水の凝固点と沸点との間を100分割した目盛り付けであることから、この温度系のもともとの名称は“centigrade”(「百分度」の意)であった。
しかし1948年の第9回国際度量衡総会は、3つの名称候補(英語表現:“degree centigrade”,“centesimal degree ”,“degree Celsius”)から、“degree Celsius”を選んだ。これにより、名称が正式に「セルシウス」へ変更された。これには、考案者であるセルシウスの認知のためとSI接頭語であるセンチ(centi)との衝突からくる混乱(centigradeがgradeという単位の100分の1と勘違いされる)を避けるという目的があった。ただし、現在においても英語圏では“centigrade”でも通じる。現在ではイギリスやアイルランドの放送メディアにおいては、かつて使われたcentigradeを用いず、セルシウスと呼ぶようになっている。アメリカ合衆国では日常生活の全般を通じて、依然として華氏度(及び華氏温度)がよく用いられており、華氏度単独で表記するか、華氏度とcentigradeを併記している。
日本や中国では、摂氏度(せっしど)、日本ではセ氏度(セしど)と呼ばれることがある。摂氏の語源は、セルシウスの中国音訳「摂爾修斯」(繁体字: 攝爾修斯; 簡体字: 摄尔修斯; 拼音: Shè'ěrxiūsī)から「摂」+人名に付ける接尾辞「氏」で、「摂氏」「温度」になった。日本の計量法は、名称として「セルシウス度」または「度」のみを定めており、したがって、取引または証明に用いる場合(計量法#取引、証明とは)においては、摂氏度(せっしど)の名称もセ氏度(セしど)の名称も使用することはできない。
ただし、俗用(計量法の規制が働かない場合など、計量法#取引又は証明に該当しないもの)では、例えば「セ氏15度」や漢字による「摂氏15度」の表記もみられる。英語では“fifteen degrees Celsius”と読み、“15 deg C”と略記することがある。アメリカ合衆国では、“fifteen degrees centigrade”と読まれることがある。
かつては、セルシウス度の温度間隔(temperature interval)または温度差(temperature difference)を表現するのに、degree(略字 deg) が用いられた。これは1948年の第9回CGPMが、「温度間隔または温度差を示すときには、degree またはその省略形の deg を用いなければならない」と定めたからである。しかしこの規定は1967/68年の第13回CGPMの決議によって廃止され、更に1980年以降は、degree(略字 deg)の使用は禁じられている。
「セルシウス温度(Celsius temperature)」は参照温度 T 0 {\displaystyle T_{0}} = 273.15 K(ほぼ氷点)からの温度差 t = T − T 0 {\displaystyle t=T-T_{0}} で定義される量の名称であり、「セルシウス度(degree Celsius)」はセルシウス温度を表す温度の単位の名称である。温度の単位と言う場合は、他の物理単位と同様に、温度の1単位(即ち温度間隔)を言う。国際単位系(SI)や日本の計量法での「温度の単位」は、ケルビンまたはセルシウス度(または単に、度)である。
例えば、体温が36.5 °Cというとき、この36.5 °Cは温度の高さを表す「セルシウス温度」(Celsius temperature)であって、「セルシウス度」ではない。セルシウス温度(36.5 °Cなど)の表現のために用いられる単位(1度分の温度間隔)が「セルシウス度」(degree Celsius)である。体温が 36.5 °C から 38.7 °C に上昇した場合、「2.2 セルシウス度 (degrees Celsius) 上がった」または「2.2度 (degrees) 上がった」という言い方をするのであって、「2.2温度上がった」という言い方は誤りである。
しかし、日本語では、通常「体温は36.5度だ」と言い、「体温が2.2度上がった」と言って、同じ「度」を用いるために、字面上も観念上も、区別が分かりにくいが、異なった概念である。英語では temperature と degree とで区別が分かりやすい。そして、1セルシウス度 = 1 K(ケルビン) である。
しかしながら、一般にはこの違いが意識されず、「セルシウス度」と「セルシウス温度」とがしばしば混同され、混乱を招くことが多い(この混同は、「華氏度」と「華氏温度」にも見られる)。
セルシウス度、セルシウス温度の単位記号は、計量法でも国際単位系(SI)でも大文字・立体の「°C」である。°Cは一つの記号であり、「° C」のように離して書いてはならない。
数値と記号の間には1字分の空白(通常は半角スペース(en:thin space))を挿入するのが国際単位系でのルールである。ただし、スペースを入れないとする流儀もある。
セルシウス度は、国際単位系(SI)における取り扱いが、他の単位と異なる点がある。その定義は、温度のSI基本単位の一つである、熱力学温度ケルビンの項でなされている。
一方で、セルシウス度は、「表 4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位」において次のように掲げられている。
「単位の名称」では次のようになっている。
「量の値の形式」では次のようになっている。
セルシウス度の倍量・分量を表すために、例えば、m°C (ミリセルシウス度)のように、SI接頭語を付けることができる。これは日本の計量法でも同じである。国際単位系国際文書第7版(1998)は、SI接頭語を付けて良いことを注記している。
セルシウス度はスウェーデンの天文学者でウプサラ天文台の創始者であるアンデルス・セルシウスが1742年に考案したものに基づいている。ただし、彼は現在のセルシウス温度の目盛付けとは逆の目盛り付けを行った。すなわち、1気圧下における水の凝固点(氷点)を100度、沸点を0度として、その間を100等分する目盛りを考案した。そして氷点以下の温度を、温度が下がるにしたがって101度、102度、103度・・・とした。地球上の気温は現今の温度目盛りで、−90 °C から +60 °C(気温#気温の日本記録)であるから、セルシウス考案の温度目盛りでは、190度 から 40度となって、気温が負数で表現されることはないという利点があるからである。
アンデルス・セルシウスの死後に、水の凝固点を0度、沸点を100度とする現在の目盛り付けに変更された。
誰が目盛りを反転させたについては、カール・フォン・リンネによるものとする説と、リンネによるものではないとする説がある。
W.E.Middletonの1966年の論文ではカール・フォン・リンネらによって1752年までに氷点を0度、沸点を100度とする方式に改められたとしている。
一方、ウプサラ天文台の解説は、セルシウスの死の直後の1744年に、凝固点(氷点)を0度、沸点を100度とする現在の方式に改められたとしている。この改善については、誰か一人の功績によるものではなく、セルシウス、セルシウスの後任のMårten Strömer(スウェーデン語版)、計器制作者のDaniel Ekström(スウェーデン語版)の3人の貢献によるものであるとしている。また、セルシウス度に最初期に注目し、実際に温度計をDaniel Ekströmに製作させたカール・フォン・リンネの功績によるものではないとしている。
なお、現在の国際温度目盛(ITS-90)では、標準気圧(101.325 kPa)下の水の凝固点と沸点は厳密には 0 °C、100 °C ではなく、それぞれ 0.002519 °C、99.9743 °C である(水の性質#融点、水の性質#沸点を参照)。
Unicodeのセルシウス度の記号は、既存の文字コードとの互換性のために用意されている互換文字である。Unicode標準では、セルシウス度の記号はU+00B0 ° degree sign(度)とU+0043 C capital letter c(大文字のC)を組み合わせて使用し、検索の際はこれと一文字の「°C」を同一視することを推奨している。 | [
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"text": "数値と記号の間には1字分の空白(通常は半角スペース(en:thin space))を挿入するのが国際単位系でのルールである。ただし、スペースを入れないとする流儀もある。",
"title": "記号"
},
{
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"tag": "p",
"text": "セルシウス度は、国際単位系(SI)における取り扱いが、他の単位と異なる点がある。その定義は、温度のSI基本単位の一つである、熱力学温度ケルビンの項でなされている。",
"title": "用法"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "一方で、セルシウス度は、「表 4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位」において次のように掲げられている。",
"title": "用法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "「単位の名称」では次のようになっている。",
"title": "用法"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "「量の値の形式」では次のようになっている。",
"title": "用法"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "セルシウス度の倍量・分量を表すために、例えば、m°C (ミリセルシウス度)のように、SI接頭語を付けることができる。これは日本の計量法でも同じである。国際単位系国際文書第7版(1998)は、SI接頭語を付けて良いことを注記している。",
"title": "用法"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "セルシウス度はスウェーデンの天文学者でウプサラ天文台の創始者であるアンデルス・セルシウスが1742年に考案したものに基づいている。ただし、彼は現在のセルシウス温度の目盛付けとは逆の目盛り付けを行った。すなわち、1気圧下における水の凝固点(氷点)を100度、沸点を0度として、その間を100等分する目盛りを考案した。そして氷点以下の温度を、温度が下がるにしたがって101度、102度、103度・・・とした。地球上の気温は現今の温度目盛りで、−90 °C から +60 °C(気温#気温の日本記録)であるから、セルシウス考案の温度目盛りでは、190度 から 40度となって、気温が負数で表現されることはないという利点があるからである。",
"title": "歴史"
},
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"text": "アンデルス・セルシウスの死後に、水の凝固点を0度、沸点を100度とする現在の目盛り付けに変更された。",
"title": "歴史"
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"text": "誰が目盛りを反転させたについては、カール・フォン・リンネによるものとする説と、リンネによるものではないとする説がある。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "W.E.Middletonの1966年の論文ではカール・フォン・リンネらによって1752年までに氷点を0度、沸点を100度とする方式に改められたとしている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一方、ウプサラ天文台の解説は、セルシウスの死の直後の1744年に、凝固点(氷点)を0度、沸点を100度とする現在の方式に改められたとしている。この改善については、誰か一人の功績によるものではなく、セルシウス、セルシウスの後任のMårten Strömer(スウェーデン語版)、計器制作者のDaniel Ekström(スウェーデン語版)の3人の貢献によるものであるとしている。また、セルシウス度に最初期に注目し、実際に温度計をDaniel Ekströmに製作させたカール・フォン・リンネの功績によるものではないとしている。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "なお、現在の国際温度目盛(ITS-90)では、標準気圧(101.325 kPa)下の水の凝固点と沸点は厳密には 0 °C、100 °C ではなく、それぞれ 0.002519 °C、99.9743 °C である(水の性質#融点、水の性質#沸点を参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "Unicodeのセルシウス度の記号は、既存の文字コードとの互換性のために用意されている互換文字である。Unicode標準では、セルシウス度の記号はU+00B0 ° degree sign(度)とU+0043 C capital letter c(大文字のC)を組み合わせて使用し、検索の際はこれと一文字の「°C」を同一視することを推奨している。",
"title": "符号位置"
}
] | セルシウス度または単に度は、セルシウス温度の単位である。その大きさはケルビンに等しい(°C=K)。温度間隔または間隔差は、ケルビンまたはセルシウス度のどちらによっても表すことができ、その数値は同じである。なお、温度差を表現するために、degree を用いることは1980年以降、禁じられている。現在では、セルシウス度(およびセルシウス温度)は世界的に使用されている。 | {{単位
|名称=セルシウス度(または単に「度」)
|フランス語={{Lang|fr|degré Celsius}}
|英語=degree Celsius
|記号={{℃}}
|単位系=SI
|種類=[[SI組立単位]](固有の名称と記号を持つ 22 個のSI単位のうちの一つ)
|物理量=[[温度]]
|定義 = [[ボルツマン定数]]を {{val|1.380649|e=−23|u=J/K}} とすることによって定まる温度(ケルビンと同一)
|由来=[[水]]の[[凝固点]]を0度、[[沸点]]を100度とする温度
|語源=[[アンデルス・セルシウス]]
|画像=[[ファイル:Clinical thermometer 38.7.JPG|300px|体温計]]
}}
'''セルシウス度'''(セルシウスど、{{Lang-en|degree Celsius}}、記号: °C)または単に'''度'''(記号: °C)は、セルシウス温度の[[物理単位|単位]]である。その大きさは[[ケルビン]](記号: K)に等しい(°C=K)<ref group="注釈">セルシウス'''温度'''とケルビンが同じ'''値'''を示しているということではない。セルシウス温度での0 °Cは、ケルビンでは273.15 Kである。詳細は後述を参照。</ref>。温度間隔(temperature interval)または間隔差(temperature difference)は、ケルビンまたはセルシウス度のどちらによっても表すことができ(第13回 CGPM、1967–1968年、決議3)、その数値は同じである。なお、温度差を表現するために、degree(略字 deg) を用いることは1980年以降、禁じられている。現在では、セルシウス度(およびセルシウス'''温度''')は世界的に使用されている。
== 定義 ==
セルシウス'''温度'''の単位は、セルシウス'''度'''(記号は °C)であり、定義によってケルビンの大きさと等しい<ref name="kelvin"/>。
日本の[[計量法]]での定義は次のようになっている<ref name="名前なし-1">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 計量単位令 別表第一] 項番5、温度の欄</ref>。
* セルシウス'''度''' = [[ケルビン]] = [[ボルツマン定数]]を {{val|1.380649|e=−23|u=J/K}} とすることによって定まる温度<ref name="名前なし-1"/>。
* セルシウス'''温度''' = ケルビンで表した[[熱力学温度]]の値から 273.15 を減じたもの
計量単位令にあるとおり、単に「度」と表記した場合は、セルシウス度を意味する。
元々の定義は[[水]]の[[凝固点]]を100度、[[沸点]]を0度とし、'''現在とは逆'''であった。{{main|#歴史}}
== 名称 ==
セルシウス度の名称は、[[アンデルス・セルシウス]]に由来するものである。
水の[[凝固点]]と[[沸点]]との間を100分割した目盛り付けであることから、この温度系のもともとの名称は“centigrade”(「百分度」の意)であった<ref>The American Heritage Dictionary, Second College Edition,"centigrade Fr. Lat. ''centum-'', hundred + Lat. ''gradus'', degree.",p.252, Houghton Mifflin, 1982, ISBN 0-395-32943-4
</ref>。
しかし[[1948年]]の第9回[[国際度量衡総会]]は、3つの名称候補(英語表現:“degree centigrade”,“centesimal degree ”,“degree Celsius”)から、“degree Celsius”を選んだ。これにより、名称が正式に「セルシウス」へ変更された<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 国際度量衡局(BIPM)、産業技術総合研究所計量標準総合センター翻訳、p.129、第9回 CGPM,1948年(CIPM, 1948年(PV,21,88)及び第9回CGPM,1948年(CR,64):「セルシウス度」の採択)温度を表すために用いる「度」(degree)を示すために提案されている三つの名称(“degré centigrade”,“degré centésimal”,“degré Celsius”)の中から,国際度量衡委員会は「セルシウス度,“degré Celsius”」を選択した、産業技術総合研究所 計量標準総合センター</ref>。これには、考案者であるセルシウスの認知のためと[[SI接頭語]]であるセンチ(centi)との衝突からくる混乱(centigradeがgradeという単位の100分の1と勘違いされる)を避けるという目的があった。ただし、現在においても英語圏では“centigrade”でも通じる。現在では[[イギリス]]や[[アイルランド]]の放送メディアにおいては、かつて使われたcentigradeを用いず、セルシウスと呼ぶようになっている。アメリカ合衆国では日常生活の全般を通じて、依然として[[華氏|華氏度]](及び華氏'''温度''')がよく用いられており、華氏度単独で表記するか、華氏度とcentigradeを併記している。
日本や中国では、摂氏度(せっしど)、日本ではセ氏度(セしど)と呼ばれることがある。摂氏の語源は、セルシウスの中国音訳「摂爾修斯」({{Lang-zh|t=攝爾修斯|s=摄尔修斯|hp=Shè'ěrxiūsī|first=t}})から「'''摂'''」+人名に付ける接尾辞「'''氏'''」で、「'''摂氏'''」「'''温度'''」になった。日本の[[計量法]]は、名称として「セルシウス度」または「度」のみを定めており<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051#1357 計量法 別表第一] 温度の項、「ケルビン セルシウス度又は度」と規定されている。</ref>、したがって、取引または証明に用いる場合([[計量法#取引、証明とは]])においては、摂氏度(せっしど)の名称もセ氏度(セしど)の名称も使用することはできない<ref group="注釈">計量法第3条と別表第1、第8条は、「法定計量単位」を明確に定めており、温度の法定計量単位は、「ケルビン セルシウス度又は度」及び「カ氏度」(計量単位令別表第7)である。この規定のゆえに、「セ氏度」、「摂氏度」、「華氏度」の表記は計量法の違反となる。通産省のブックレットは、「計量法では 用語の使用を明確には規定していませんが、・・・」([http://www.keiryou-keisoku.co.jp/databank/kokusai/si/si.pdf 新計量法とSI化の進め方]、通商産業省、SI単位等普及推進委員会、1999年3月発行、p.31 Q21とA21)と記述し、計量法上の「物象の状態の量」の用語の使用を規定してはいないことを表明している。このことは、「計量単位」については、その使用を明確に規定しており、規定外の計量単位(の名称)を使用することは、法に違反となることを示すものである。なお、計量法は「取引又は証明に用いる」計量単位について規制しており、これらの用途以外における「非計量単位」の使用は計量法の規制外である。</ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#90 計量単位規則、別表第一] 項番二、比重、定義の欄、「四セルシウス度の温度の下において」の語が見える。</ref><ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#77 計量単位令 別表第一] 項番5、温度の欄の表現のとおり</ref><ref>1958年に[[アルコール専売法]]の第2条第2項中の「摂氏十五度」を「温度十五度」に改める法律改正がなされている。[https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%B5%B1%E4%B8%80%E3%81%AB%E4%BC%B4%E3%81%86%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%B3%95%E5%BE%8B%E3%81%AE%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B]第9条</ref>。
ただし、俗用(計量法の規制が働かない場合など、[[計量法#取引又は証明に該当しないもの]])では、例えば「セ氏15度」や漢字による「摂氏15度」の表記もみられる。英語では“{{en|fifteen degrees Celsius}}”と読み、“15 deg C”と略記することがある。アメリカ合衆国では、“{{en|fifteen degrees centigrade}}”と読まれることがある。
=== 温度差の名称 ===
かつては、セルシウス度の温度間隔(temperature interval)または温度差(temperature difference)を表現するのに、'''degree'''(略字 '''deg''') が用いられた。これは1948年の第9回[[CGPM]]が、「温度間隔または温度差を示すときには、degree またはその省略形の deg を用いなければならない」と定めたからである<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9.pdf] 9th CGPM, 1948. Writing and printing of unit symbols and of numbers (CR, 70)* Resolution 7, Note 3, p.162. 「To indicate a temperature interval or difference, rather than a temperature, the word “degree”in full, or the abbreviation “deg”, must be used.」 </ref>。しかしこの規定は1967/68年の第13回[[CGPM]]の決議によって廃止され、更に1980年以降は、degree(略字 deg)の使用は禁じられている<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9.pdf] 13th CGPM, 1967/68. SI unit of thermodynamic temperature (kelvin) (CR, 104 and Metrologia, 1968, 4,43), Resolutions 3, p.169 「* At its 1980 meeting, the CIPM approved the report of the 7th meeting of the CCU, which requested that the use of the symbols “°K” and “deg” no longer be permitted.」 </ref>。
== セルシウス度とセルシウス温度 ==
「セルシウス'''温度'''({{en|Celsius '''temperature'''}})」は参照温度 <math>T_0</math> = 273.15 K(ほぼ氷点)からの温度差 <math>t = T - T_0</math> で定義される量の名称であり<ref name="kelvin">{{Cite web|和書
|url= https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf
|title= 国際文書第9版(2019) 国際単位系(SI)日本語版
|accessdate= 2020-07-07
|format= PDF
|publisher= 産業技術総合研究所 計量標準総合センター
|ref= nmij
}}2.3.1 基本単位 ケルビン 、p.102</ref>、「セルシウス'''度'''({{en|'''degree''' Celsius}})」はセルシウス温度を表す温度の単位の名称である。温度の'''単位'''と言う場合は、他の物理単位と同様に、温度の1単位(即ち温度間隔)を言う。[[国際単位系]](SI)や日本の[[計量法]]での「温度の単位」は、ケルビンまたはセルシウス'''度'''(または単に、'''度''')である。
例えば、体温が36.5 °Cというとき、この36.5 °Cは温度の高さを表す「セルシウス'''温度'''」(Celsius temperature)であって、「セルシウス'''度'''」ではない。セルシウス温度(36.5 °Cなど)の表現のために用いられる単位(1度分の温度間隔)が「セルシウス'''度'''」(degree Celsius)である。体温が 36.5 °C から 38.7 °C に上昇した場合、「2.2 セルシウス'''度''' (degrees Celsius) 上がった」または「2.2'''度''' (degrees) 上がった」という言い方をするのであって、「2.2'''温度'''上がった」という言い方は誤りである。
しかし、日本語では、通常「体温は36.5'''度'''だ」と言い、「体温が2.2'''度'''上がった」と言って、同じ「度」を用いるために、字面上も観念上も、区別が分かりにくいが、異なった概念である。英語では temperature と degree とで区別が分かりやすい。そして、1セルシウス'''度''' = 1 K(ケルビン) である。
しかしながら、一般にはこの違いが意識されず、「セルシウス度」と「セルシウス温度」とがしばしば混同され、混乱を招くことが多い(この混同は、「華氏度」と「華氏温度」にも見られる)。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ 量と単位の対応
! !! !! ケルビン !! セルシウス系!!華氏系
|-
! rowspan="3" | 量
! 名称
| 熱力学温度 || セルシウス'''温度'''|| 華氏'''温度'''
|-
! 英語名
| thermodynamic temperature || Celsius temperature|| Fahrenheit temperature
|-
! 対応(体温の例)
| 309.65 K || 36.5 °C || 97.7 °F
|-
! rowspan="3" | 単位
! 名称
| ケルビン || セルシウス'''度'''|| 華氏'''度'''
|-
! 英語名
| kelvin || degree Celsius || degree Fahrenheit
|-
! 換算
| || °C = K || °F = 5/9 K
|-
|}
== 記号 ==
セルシウス度、セルシウス温度の単位記号は、[[計量法]]でも[[国際単位系]](SI)でも[[大文字]]・[[立体活字|立体]]の「°C」である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 計量単位規則 別表第2] 温度・「セルシウス度又は度」の欄 </ref><ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=23 表4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位] p.106、組立量セルシウス温度の欄、国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref>。°Cは一つの記号であり、「° C」のように離して書いてはならない。
数値と記号の間には1字分の[[スペース|空白]](通常は半角スペース([[:en:thin space]]))を挿入するのが国際単位系でのルールである<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=35 5.4.3 量の値の形式位] p.118、「この規則により、セルシウス温度 t の値を表記するには、その単位記号である °C の前に1字分の空白を挿入する。」、国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月</ref>。ただし、スペースを入れないとする流儀もある。
== 用法 ==
セルシウス度は、[[国際単位系]](SI)における取り扱いが、他の単位と異なる点がある。その定義は、温度のSI基本単位の一つである、熱力学温度ケルビンの項でなされている。
一方で、セルシウス度は、「表 4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位<ref> [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 2.3.4 組立単位 表4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位、国際度量衡局(BIPM)、産業技術総合研究所計量標準総合センター翻訳、p.106</ref>」において次のように掲げられている。
{| class="wikitable"
|+ 表4 固有の名称と記号を持つ22個のSI単位(抜粋)
|-
! 組立量 !! 単位の固有の名称 !! 基本単位のみによる表現 !! 他のSI単位も用いた表現
|-
| セルシウス温度 || セルシウス度(注f) || °C = K ||
|-
| colspan="5" | (注f) セルシウス度は、セルシウス温度を表すために使用される。温度差または温度間隔を表す数値は、セルシウス度とケルビンのいずれで表しても同じである。
|-
|}
「単位の名称」では次のようになっている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 国際度量衡局(BIPM)、産業技術総合研究所計量標準総合センター翻訳、p.117</ref>。
{{Quotation
|1= 単位の名称は、通常、直立体で表記し、通常の名詞のように扱う。英語では、文頭の場合もしくは表題のように大文字で書き始めるものを除き、単位の名称は(単位記号が大文字で始まる場合でも)小文字で書き始める。この規則に従って、記号 °C の単位の名称の正しいつづりは「degree Celsius(セルシウス度)」となる(単位 degree は小文字の d で始まり、その修飾語である Celsius は人名に由来するため大文字の C で始まる)。
}}
「量の値の形式」では次のようになっている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 国際度量衡局(BIPM)、産業技術総合研究所計量標準総合センター翻訳、p.118</ref>。
{{Quotation
|1= 数値は、常に単位の前に来て、必ず 1 字分の空白を使って数字と単位を離す。(中略)この規則により、セルシウス温度 <math>t</math> の値を表記するには、その単位記号である °C の前に 1 字分の空白を挿入する。
* 例:<math>t</math> = 30.2 °C
* 不適例:<math>t</math> = 30.2°C
* 不適例:<math>t</math> = 30.2° C
}}
=== SI接頭語 ===
セルシウス度の[[物理単位#倍量単位・分量単位|倍量]]・[[分量]]を表すために、例えば、m°C (ミリセルシウス度)のように、[[SI接頭語]]を付けることができる。これは日本の[[計量法]]でも同じである<ref>計量単位令第4条第1号、セルシウス度は接頭語を付することができない単位として除外されてはいない。</ref>。[[国際単位系国際文書]]第7版(1998)は、SI接頭語を付けて良いことを注記している<ref>国際文書第7版(1998)国際単位系(SI)、日本語版、p.24 表3 注(d) 「この単位(セルシウス度)は、例としてミリセルシウス度 m°C のようにSI接頭語を伴って用いても良い。」、工業技術院計量研究所、ISBN 4-542-30135-4、日本規格協会、1999年11月30日第1版第1刷</ref>。
== 歴史 ==
=== アンデルス・セルシウスによる考案 ===
セルシウス度は[[スウェーデン]]の天文学者で[[ウプサラ天文台]]の創始者である[[アンデルス・セルシウス]]が[[1742年]]に考案したものに基づいている。ただし、彼は現在のセルシウス温度の目盛付けとは逆の目盛り付けを行った<ref name="takata">{{Cite web|和書|author=高田誠二 |url=http://www.netsu.org/JSCTANetsuSokutei/pdfs/32/32-4-162.pdf |title=温度概念と温度計の歴史 |publisher= 日本熱測定学会 |accessdate=2019-11-22}}4. 多様化と標準化、p.165</ref>。すなわち、1[[気圧]]下における[[水]]の[[凝固点]]([[凝固点|氷点]])を100度、[[沸点]]を0度として、その間を100等分する目盛りを考案した。そして氷点以下の温度を、温度が下がるにしたがって101度、102度、103度・・・とした。地球上の[[気温]]は現今の温度目盛りで、−90 °C から +60 °C([[気温#気温の日本記録]])であるから、セルシウス考案の温度目盛りでは、190度 から 40度となって、気温が[[負数]]で表現されることはないという利点があるからである。
=== 目盛り付けの反転 ===
[[アンデルス・セルシウス]]の死後に、水の[[凝固点]]を0度、[[沸点]]を100度とする現在の目盛り付けに変更された。
誰が目盛りを反転させたについては、[[カール・フォン・リンネ]]によるものとする説と、リンネによるものではないとする説がある。
W.E.Middletonの1966年の論文ではカール・フォン・リンネらによって1752年までに氷点を0度、[[沸点]]を100度とする方式に改められたとしている<ref name="takata" />。
一方、[[ウプサラ天文台]]の解説は、セルシウスの死の直後の1744年に、[[凝固点]](氷点)を0度、沸点を100度とする現在の方式に改められたとしている<ref>[http://www.astro.uu.se/history/Celsius_eng.html Anders Celsius 1701-1744] [[ウプサラ天文台]]による解説、第6段落目</ref>。この改善については、誰か一人の功績によるものではなく、セルシウス、セルシウスの後任のMårten Strömer<small>([[:sv:Mårten Strömer|スウェーデン語版]])</small>、計器制作者のDaniel Ekström<small>([[:sv:Daniel Ekström|スウェーデン語版]])</small>の3人の貢献によるものであるとしている<ref>[http://www.astro.uu.se/history/celsius_scale.html History of the Celsius temperature scale] ウプサラ天文台による解説、第5段落の後半部分、「The change to our modern direct scale was inevitable in the long run, however, but there is no sense in trying to give the credit to any single person.」Pehr Wargentin(Secretary of the Academy of Sciences、Royal Swedish Academy of Sciences)の1749年の論文による</ref>。また、セルシウス度に最初期に注目し、実際に温度計をDaniel Ekströmに製作させたカール・フォン・リンネの功績によるものではないとしている<ref>[http://www.astro.uu.se/history/celsius_scale.html History of the Celsius temperature scale] ウプサラ天文台による解説、第5段落の後半部分、「In an account of the history of the thermometer in the Proceedings of the Royal Swedish Academy of Sciences 1749, Pehr Wargentin, Secretary of the Academy of Sciences, mentiones Celsius, his successor Strömer and the instrument maker Ekström in connection with the direct scale. Linné is not mentioned at all. No single person can be given the credit.」 </ref>。
なお、現在の[[温度#国際温度目盛(ITS-90)|国際温度目盛(ITS-90)]]では、標準気圧(101.325 kPa)下の[[水]]の[[凝固点]]と[[沸点]]は厳密には 0 °C、100 °C ではなく、それぞれ {{val|0.002519|u=degC}}、{{val|99.9743|u=degC}} である([[水の性質#融点]]、[[水の性質#沸点]]を参照)。
== 単位の換算 ==
* セルシウス温度から華氏温度への換算
*: <math>\theta/^\circ\text{F}=\frac{9}{5}t/^\circ\text{C}+32</math>
* 華氏温度からセルシウス温度への換算
*: <math>t/^\circ\text{C}=\frac{5}{9}(\theta/{}^\circ\text{F}-32)</math>
** −40 °Cと−40 °Fは等しく、上の式は次のようにも表せる。
**: <math>t/^\circ\text{C}=\frac{5}{9}(\theta/^\circ\text{F}+40)-40</math>
{{temperature}}
{{温度の単位の比較}}
== 符号位置 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[華氏]]
* [[ケルビン]]
*[[温度の単位の換算]]
== 外部リンク ==
* [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] 国際度量衡局(BIPM)、産業技術総合研究所計量標準総合センター翻訳
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4,972 | ナイター | ナイター (nighter)とは野球などの夜間試合を指す和製英語である。主に野球の夜間試合(ナイトゲーム)を指すが、それ以外にもテニスやスキー等、野外で行われる競技を夜間に照明下で行う場合にも使用される。
ナイターに対して、昼間に開催される試合はデーゲームと呼ばれる。一般には18時(午後6時)以後の開始の試合を指す。また本来であればデーゲームとして扱われる試合開始が15-16時(午後3-4時)以後に行われる場合は「薄暮試合」(準ナイターあるいはトワイライトゲーム)とも呼ばれる。
夜間試合を意味する言葉としてナイトゲーム (night game) が使われることが多く、NHK(日本放送協会)はナイターではなくナイトゲームを採用している。
「ナイター」は和製英語であるとするのが定説であるが、野球解説者の伊東一雄はネイティブの表現にもみられないことはないとする異論を唱えている。nighter は(野球に限らず)「夜間興行」という意味で稀に用いられる語ではあり、アメリカンフットボールなどで用いられる。2014年6月18日付日刊スポーツ(大阪版)2面「そこが聞キティ」によると、1949年6月10日付のAP通信によるメジャーリーグ原稿の英文の中に「nighters」という記述が見られ、日本の新聞はそれを参考にしたとされる。
これらのことについて、日本生まれの和製英語が偶然英語で稀に使われている語と一致したのか、あるいは英語の稀語が日本で定着したのか(言語の伝来においてこのようなことは珍しくない)、あるいは和製英語が逆輸出された結果なのかは不明である。
本来「ナイター」「ナイトゲーム」という語は野外で行われる試合に限り使われ、バスケットボール、ボクシングなどの室内競技においてはほとんど使われなかった(ただし1950年代に球場自体がボクシング会場として利用され、実施された例は多数ある)。近年野球などにおいてドーム球場が完成したことで、ドーム球場での試合は室内での試合とはなっているが、野球などの夜間試合は伝統的にナイターと呼ばれる。また、日本の放送局が行うプロ野球中継のナイトゲーム放送の番組名として「○○ナイター」が用いられる例もよくある。
Jリーグでは公式名称としてナイトマッチ (night match) と表現する。ノエビアスタジアム神戸など開閉式屋根付き競技場が屋根を閉じた状態であったり、札幌ドームのような本来屋内型である競技場でも屋外型競技場同様ナイトマッチと呼んでいる。ナイトマッチは大抵19時開始となるが、日曜日・祝日は夏場を除きデイマッチで行われ、土曜日も1試合組まれる程度である。また、札幌厚別公園競技場など照明設備が常設でない競技場でのナイトマッチは平日のみとなっていることが多い。なお、2018年シーズンより一部の節において1試合(2、3試合の場合あり)を「明治安田生命フライデーナイトJリーグ」と称した金曜ナイトマッチとして開催している。
公営競技ではナイター競走あるいはナイトレースと表現されるが、東京シティ競馬はトゥインクルレースという独自の呼称を採用している。なお、1998年より北九州メディアドームでの開催を始め、2000年10月18日より競輪祭を除く全日程を夜間開催とした小倉競輪場については、夜間用照明設備のある他の屋外型公営競技場同様、ナイター競走として扱われている。また通年全日程を原則としてナイターで行う競技場も増加している(ナイター競走#開催される公営競技場参照)ため、競艇・オートレースなどでもSG・G1の全国広域発売級重賞がナイターで行われる事例も散見されている。
2016年に発足されたバスケットボールのプロリーグであるBリーグでも夜間開催の試合をナイトゲームと呼ぶことがある。
テニスやモータースポーツなどではナイトセッション(night session)と表現する。
世界的に見ると、ナイターそのものは白熱電球が発明されて間もない頃から行われていた。1879年のウィーンで、当時発明間もない白熱電球を用いたフィギュアスケートの夜間競技会が実施されたのが世界初のナイターである。また翌1880年には、世界初の野球のナイター試合が開催されている。
通常室内で興行を打つ大相撲においても、20時打出を「ナイター」と呼ぶこともある。本場所では1955年(昭和30年)の九月場所で17時半中入20時打出で試験的に行ったこともあり、サラリーマンからは好評だったものの、力士のコンディションの問題、新聞社からのクレームにより、1場所限りで終わった。ただし、本場所以外では極稀にナイター巡業が行われることもある。
夜間にスポーツを円滑かつ安全に実施する場合、充分な光量を持った照明設備が不可欠である。上述の電球を用いた時代から、メタルハライドランプなどのHIDランプを経て、LED照明が主流となりつつある。
ナイターの照明を「カクテル光線」と称する場合があるが、これは自然光に近づけるため、異なる色温度の光源を複数混在させて照射することをカクテル(混酒)に例えたものである。1956年4月に阪神甲子園球場に設置されたものが発祥だが、単色で十分な演色性・光量が得られるLED照明の普及に伴い、複数色を混和した照明は減っている(野球場#照明も参照)。
21世紀に入ってからは発光ダイオードを利用した照明設備(LED照明)が整備され、従来のメタルハライドランプからの取り換えが行われている。このLED照明の投入により、二酸化炭素の削減や、これまでは停電時などの照明の再点灯に時間を要するため事実上不可能であったスポットライトなど、意図的に照明を消灯・点灯を繰り返すなどの演出技法が取り入れられるようになった。また、光害(照明の光線が外に漏れることによって発生する動植物の生態系や、住民・病院の入院患者などの安眠妨害などの被害)を抑制するための「光害対策ガイドライン」が1998年、当時の環境庁から策定され、それを踏まえ、照明の光が外に漏れないように工夫したLED投光器が設置されている。
スキー場においては、夜間に照明下でゲレンデを営業することをナイターと呼ぶ。大抵のスキー場では一般の営業時間とナイター営業時間は分かれており、リフト券も一般営業時間のものをそのまま利用することはできず、「ナイター券」と呼ばれる専用の券を別に求めなくてはならない場合が多い。
日本のプロ野球において初のナイター開催は、1948年8月17日に横浜ゲーリッグ球場 で行われた巨人対中日の試合である。当時ゲーリッグ球場はアメリカ軍接収下にあったため照明設備があり、20時08分開始で開催された(プロ野球ナイター記念日参照)。
ナイトゲーム開始当初(1950年代から1970年代前半)は主にシングル開催(1試合のみ)である場合19時開始が多かったが、1973年の第1次石油オイルショック以後は省エネルギー対策の一環として試合開始時刻が繰り上げられ、チームにより18時から18時30分までの範囲で試合開始時間を設定するようになった。現在、ナイトゲーム開催は全ての球団が原則として18時開始としているが、稀に18時15分、18時30分ないし19時開始 とするケースが見られる。
2009年は、平日の試合の場合、ロッテの金曜日開催試合が18時30分開始、また横浜の一部の火曜日開催の試合がTBSの編成の都合で、また2011年の横浜も金曜日の一部の試合で同じく18時30分開始となった。その他2010年から那覇で毎年開催されている公式戦(主催は2013年が阪神、2016年がオリックス、2017年は西武、それ以外は横浜・DeNA)では、当地のライフスタイルに合わせて19時開始とした(2013年まで。2014年以降は18時30分開始)。2020年から2021年まで、新型コロナウイルス感染症蔓延拡大とそれに合わせた緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置の発出により、その対象地域に当たる球場のうち首都圏の各球場ないしバンテリンドームナゴヤにおいては、試合終了時刻を極力21時を過ぎないようにするための配慮から、ナイターの試合開始時刻を17:30ないし17:45と早めている。
2012年は、7月25日の巨人対DeNA戦(東京ドーム)を19時開始とした。これは、来場者から「会社帰りでもプレーボールから試合が見たい」などの意見が寄せられたことから、試験的に試合開始を1時間遅らせることにしたもの。ただし、19時開始は前述した通り1970年代中盤までは本拠地開催でも盛んに行われ、それ以後も開幕戦で後楽園球場、東京ドームを併用した日本ハムと巨人が前年にAクラスを勝ち取って同日開幕となった場合、どちらか一方が19時開始 となった例もある。
全球団とも平日は原則的にナイター開催だが、パ・リーグではオリックス以外の5球団が例外的に平日にもデーゲームを組むことがある。
パ・リーグでは、土曜・日曜・祝日の開催は原則デーゲームとしているが、ロッテと楽天、西武、そして試合当日がほっともっとフィールド神戸である場合のオリックスは、夏場の一部 で暑さ対策として、また飛行機での移動が多い日本ハムやソフトバンクを中心に、カード初日のうち移動日を挟んでいない場合は、移動時間に余裕をもたせるためナイターまたは17時開始の薄暮ゲームとするケースもある。
セ・リーグでも、近年は全球団とも土曜・日曜・祝日の開催では夏場の一部を除いて極力デーゲームとしているが、ヤクルトでは本拠地である明治神宮野球場が大学野球の試合を優先しているため、夏場でなくてもナイターであるケースが多い。ただし、ファンサービスの一環として2013年以後、土・日の開催を17時からの薄暮デーゲームとする試合がある。また、DeNAでは2016年7月23日・24日と8月6日・7日の試合は17時30分開始 としている。かつては巨人戦の試合におけるプロ野球中継はテレビ(地上波)での視聴率が稼げたこともあって、特に東京ドーム完成後の1988年以降、2000年まで開催されていた円山球場(照明非設置)でのカード及び消化試合の一部を除いてほぼナイターとしていたが、2005年頃から興行面での考慮 や、ゴールデンタイムのレギュラー番組を優先させるキー局の意向もあり、巨人戦でもホーム・ビジター問わず土曜・日曜・祝日では薄暮を含むデーゲーム開催が増加傾向にある。
このため、週末は夏場の一部を除いて全6試合ともデーゲームで行われ、ナイトゲームを組まなくなる例が多くなっている。セ・リーグ、パ・リーグともに、空調完備のドーム球場では夏場でも週末はデーゲームで開催されることが多く、カードの組み合わせによってはナイトゲームはセ・リーグの1試合のみ、ということもある。ただ、2017年9月30日と2023年9月30日(いずれも土曜日)の開催では、シーズン終盤ということもありチームによっては前日から移動日を挟めず遠距離の移動もあったため、夏季ではない週末の開催ながら移動時間の確保のためドーム球場も含めて6試合全てが18時開始のナイターという、ドーム球場ができてからでは珍しいケースがあった。
セ・パ交流戦では、1カードがホーム・ビジター2試合ずつだった2007年から2014年までは、土曜とその翌日の日曜とでカードが入れ替えとなるケースがあったため移動の関係で一部土曜をデーゲームとし日曜にナイターあるいは薄暮試合として行われたこともある。
日本シリーズは、かつては1964年にナイター開催した以外は1993年まで全試合デーゲームで行われていたが、1994年に試験的に平日開催の第3 - 5戦をナイトゲームとしたところ好評であったため、1995年から全試合で18時台開始(球場または試合により開始時刻が異なる)というナイトゲームに移行した。
オープン戦(春季)は気候の問題もあり通常はデーゲームで行われるが、空調完備のドーム球場では主に平日にナイターで開催する場合もある。 | [
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] | ナイター (nighter)とは野球などの夜間試合を指す和製英語である。主に野球の夜間試合(ナイトゲーム)を指すが、それ以外にもテニスやスキー等、野外で行われる競技を夜間に照明下で行う場合にも使用される。 ナイターに対して、昼間に開催される試合はデーゲームと呼ばれる。一般には18時(午後6時)以後の開始の試合を指す。また本来であればデーゲームとして扱われる試合開始が15-16時(午後3-4時)以後に行われる場合は「薄暮試合」(準ナイターあるいはトワイライトゲーム)とも呼ばれる。 | {{Otheruses|[[夜間]]に行われる[[スポーツ]]、主に[[野球]]の[[試合]]|[[昆虫]]の[[灯火]][[採集]]|昆虫採集#採集法}}
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'''ナイター''' (nighter)とは[[野球]]などの夜間試合を指す和製英語である。主に野球の夜間試合(ナイトゲーム)を指すが、それ以外にも[[テニス]]や[[スキー]]等、野外で行われる競技を夜間に[[照明]]下で行う場合にも使用される。
ナイターに対して、昼間に開催される試合は[[デーゲーム]]と呼ばれる。一般には18時(午後6時)以後の開始の試合を指す。また本来であればデーゲームとして扱われる試合開始が15-16時(午後3-4時)以後に行われる場合は「薄暮試合」(準ナイターあるいはトワイライトゲーム)とも呼ばれる。
== 概要 ==
=== 語源・用語 ===
[[夜]]間[[試合]]を意味する言葉として'''ナイトゲーム''' (night game) が使われることが多く、[[日本放送協会|NHK(日本放送協会)]]はナイターではなくナイトゲームを採用している。
「ナイター」は[[和製英語]]であるとするのが定説である<ref>[http://www.npb.or.jp/qtaro/topic20060605.html 球太郎の野球雑学ページ 和製英語]{{リンク切れ|date=2023-06}}</ref>が、[[野球解説者]]の[[伊東一雄]]は[[ネイティブ]]の表現にもみられないことはないとする異論を唱えている<ref>{{Wayback|url=http://www.fujitv.co.jp:80/sports/column5/pc_00/pc0517.html |title=パンチョ伊東のメジャーリーグ通信 2000.5.17『“ナイター”ってホントに和製英語?』~時とともに、野球用語も移り変わる~|date=20030816124134}} - [[フジテレビジョン]]</ref>。nighter は(野球に限らず)「夜間興行」という意味で稀に用いられる語ではあり、[[アメリカンフットボール]]などで用いられる。2014年6月18日付[[日刊スポーツ]](大阪版)2面「そこが聞キティ」によると、1949年6月10日付の[[AP通信]]によるメジャーリーグ原稿の英文の中に「nighters」という記述が見られ、日本の新聞はそれを参考にしたとされる。
これらのことについて、日本生まれの和製英語が偶然英語で稀に使われている語と一致したのか、あるいは英語の稀語が日本で定着したのか(言語の伝来においてこのようなことは珍しくない)、あるいは和製英語が逆輸出された結果なのかは不明である。
本来「ナイター」「ナイトゲーム」という語は野外で行われる試合に限り使われ、[[バスケットボール]]、[[ボクシング]]などの室内競技においてはほとんど使われなかった(ただし[[1950年代]]に球場自体がボクシング会場として利用され、実施された例は多数ある)。近年野球などにおいて[[ドーム球場]]が完成したことで、ドーム球場での試合は室内での試合とはなっているが、野球などの夜間試合は伝統的にナイターと呼ばれる。また、[[日本]]の[[放送局]]が行う[[プロ野球中継]]のナイトゲーム放送の番組名として「○○ナイター」が用いられる例もよくある。
[[ファイル:2011.07.02 2011 J1リーグ戦 第2節 浦和 1 - 1 G大阪 016.jpg|サムネイル|249x249px|[[埼玉スタジアム2002]]でのナイトマッチ。]]
[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]では公式名称として'''ナイトマッチ''' (night match) と表現する。[[御崎公園球技場|ノエビアスタジアム神戸]]など開閉式屋根付き競技場が屋根を閉じた状態であったり、[[札幌ドーム]]のような本来屋内型である競技場でも屋外型競技場同様ナイトマッチと呼んでいる。ナイトマッチは大抵19時開始となるが、日曜日・祝日は夏場を除きデイマッチで行われ、土曜日も1試合組まれる程度である。また、[[札幌厚別公園競技場]]など照明設備が常設でない競技場でのナイトマッチは平日のみとなっていることが多い。なお、2018年シーズンより一部の節において1試合(2、3試合の場合あり)を「[[明治安田生命保険|明治安田生命]]フライデーナイトJリーグ」と称した金曜ナイトマッチとして開催している<ref>[https://www.jleague.jp/fnj/2021/ 2021明治安田生命Jリーグ フライデーナイトJリーグ]</ref>。
公営競技では[[ナイター競走]]あるいは'''ナイトレース'''と表現されるが、[[大井競馬場|東京シティ競馬]]は'''トゥインクルレース'''という独自の呼称を採用している。なお、[[1998年]]より[[北九州メディアドーム]]での開催を始め、[[2000年]][[10月18日]]より[[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭]]を除く全日程を夜間開催とした[[小倉競輪場]]については、夜間用照明設備のある他の屋外型[[公営競技]]場同様、ナイター競走として扱われている<ref group=注>競輪祭についても2018年以後からはナイター開催が可能となった。この他G1級ではナイター設備のある競輪場で一部ナイター開催(2022年の[[西武園競輪場]]での[[オールスター競輪]]他)が行われた他、G2の「[[サマーナイトフェスティバル]]」も全国広域発売級の重賞で常時ナイター開催が行われている。</ref>。また通年全日程を原則としてナイターで行う競技場も増加している([[ナイター競走#開催される公営競技場]]参照)ため、競艇・オートレースなどでもSG・G1の全国広域発売級重賞がナイターで行われる事例も散見されている。
2016年に発足されたバスケットボールのプロリーグである[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]でも夜間開催の試合をナイトゲームと呼ぶことがある。
[[File:Le Mans Pits at Night.jpg|thumb|249x249px|[[夜]]の[[ル・マン24時間レース]]の[[ピット (サーキット)|ピット]]]]
[[テニス]]や[[モータースポーツ]]などでは'''ナイトセッション'''(night session)と表現する。
=== 競技スポーツにおける夜間興行の歴史 ===
世界的に見ると、ナイターそのものは[[白熱電球]]が発明されて間もない頃から行われていた。[[1879年]]の[[ウィーン]]で、当時発明間もない白熱電球を用いた[[フィギュアスケート]]の夜間競技会が実施されたのが世界初のナイターである<ref>『日本のスケート発達史』 ベースボール・マガジン社 1981年 p.22</ref>。また翌[[1880年]]には、世界初の野球のナイター試合が開催されている。
通常室内で興行を打つ[[大相撲]]においても、20時打出を「ナイター」と呼ぶこともある。[[本場所]]では[[1955年]](昭和30年)の九月場所で17時半中入20時打出で試験的に行ったこともあり、サラリーマンからは好評だったものの、力士のコンディションの問題、新聞社からのクレームにより、1場所限りで終わった<ref>[https://web.archive.org/web/20120321120327/http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/001/013.html 1場所限りのナイター興行] 大相撲コラム集(大相撲あんなこと・こんなこと) - goo 大相撲</ref>。ただし、本場所以外では極稀にナイター巡業が行われることもある。
=== ナイターの設備 ===
夜間にスポーツを円滑かつ安全に実施する場合、充分な光量を持った照明設備が不可欠である。上述の電球を用いた時代から、[[メタルハライドランプ]]などの[[HIDランプ]]を経て、[[LED照明]]が主流となりつつある。
ナイターの照明を「'''カクテル光線'''」と称する場合があるが、これは自然光に近づけるため、異なる[[色温度]]の光源を複数混在させて照射することを[[カクテル]](混酒)に例えたものである。1956年4月に[[阪神甲子園球場]]に設置されたものが発祥だが<ref name="asahi210819">{{Cite news |和書|title=消えゆくカクテル光線、奇策で残す 発祥の地・甲子園 |newspaper=朝日新聞 |date=2021-08-19 |author=森田岳穂 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP8D7WK2P85PLFA00J.html |accessdate=2022-04-05}}</ref>、単色で十分な[[演色性]]・光量が得られる[[LED照明]]の普及に伴い、複数色を混和した照明は減っている([[野球場#照明]]も参照)<ref name="asahi210819" /><ref>{{Cite web|和書|author=安蔵靖志 |url=https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/topic/topic/1398493.html |title=甲子園球場の照明がついにLED化! 何が変わったのか見てきた |website=家電 Watch |date=2022-04-01 |accessdate=2022-04-05}}</ref>。
[[21世紀]]に入ってからは[[発光ダイオード]]を利用した照明設備([[LED照明]])が整備され、従来の[[メタルハライドランプ]]からの取り換えが行われている。このLED照明の投入により、[[二酸化炭素]]の削減や、これまでは停電時などの照明の再点灯に時間を要するため事実上不可能であった[[スポットライト]]など、意図的に照明を消灯・点灯を繰り返すなどの演出技法が取り入れられるようになった<ref>[https://japan.cnet.com/article/35186311/ 甲子園球場がパナソニックのLEDで伝統のカクテル光線を再現](CNET JAPAN コヤマタカヒロ)</ref>。また、[[光害]](照明の光線が外に漏れることによって発生する動植物の生態系や、住民・病院の入院患者などの安眠妨害などの被害)を抑制するための「光害対策ガイドライン」<ref>[https://www.iwasaki.co.jp/lighting/urbanscape/concept/pollution.html 光害とは/光害対策ガイドライン](岩崎電気)・[https://www.env.go.jp/content/900404551.pdf 光害防止制度にかかるガイドブック]([[環境省]])</ref>が[[1998年]]、当時の[[環境庁]]から策定され、それを踏まえ、照明の光が外に漏れないように工夫したLED投光器が設置されている<ref>[https://dime.jp/genre/1327877/ アマチュアや学生のスポーツに明るくてまぶしさを抑えたLED照明を!パナソニックの挑戦とは?【PR】](@DIME)</ref>。
=== 競技スポーツ以外での「ナイター」 ===
[[スキー場]]においては、'''夜間に照明下でゲレンデを営業すること'''をナイターと呼ぶ。大抵のスキー場では一般の営業時間とナイター営業時間は分かれており、リフト券も一般営業時間のものをそのまま利用することはできず、「ナイター券」と呼ばれる専用の券を別に求めなくてはならない場合が多い。
== 日本のプロ野球における各球団のナイターの試合開始時間 ==
[[日本のプロ野球]]において初のナイター開催は、[[1948年]][[8月17日]]に[[横浜公園平和野球場|横浜ゲーリッグ球場]]<ref group="注">解体され現存しないが、後にほぼ同じ位置に[[横浜スタジアム]]が建てられている。</ref> で行われた[[読売ジャイアンツ|巨人]]対[[中日ドラゴンズ|中日]]の試合である。当時ゲーリッグ球場は[[アメリカ軍]]接収下にあったため照明設備があり、20時08分開始で開催された([[プロ野球ナイター記念日]]参照)。
ナイトゲーム開始当初([[1950年代]]から[[1970年代]]前半)は主にシングル開催(1試合のみ)である場合19時開始が多かったが、[[1973年]]の[[オイルショック|第1次石油オイルショック]]以後は[[省エネルギー]]対策の一環として試合開始時刻が繰り上げられ、チームにより18時から18時30分までの範囲で試合開始時間を設定するようになった。現在、ナイトゲーム開催は全ての球団が原則として18時開始としているが、稀に18時15分<ref group="注">[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]のみ長らく平日ナイターは18時15分開始としていたが、[[2022年]]以降は平日ナイターも18時開始としている。</ref>、18時30分ないし19時開始<ref>初期の[[那覇市営奥武山野球場|那覇]]や、2016年の[http://npb.jp/schedule/201603_detail.html 3月29日・30日の日本ハム対オリックス戦] と [http://npb.jp/schedule/201607_detail.html 7月7日のロッテ対西武戦]など。</ref> とするケースが見られる。
[[ファイル:Bay Stars Stadium.JPG|サムネイル|249x249px|[[横浜スタジアム]]でのナイトゲーム。]]
[[2009年]]は、平日の試合の場合、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の[[金曜日]]開催試合が18時30分開始、また[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]の一部の[[火曜日]]開催の試合が[[TBSテレビ|TBS]]の編成の都合で、また[[2011年]]の横浜も金曜日の一部の試合で同じく18時30分開始となった。その他[[2010年]]から[[那覇市|那覇]]で毎年開催されている公式戦(主催は[[2013年]]が[[阪神タイガース|阪神]]、[[2016年]]が[[オリックス・バファローズ|オリックス]]、[[2017年]]は[[埼玉西武ライオンズ|西武]]、それ以外は横浜・DeNA)では、当地のライフスタイルに合わせて19時開始とした([[2013年]]まで。2014年以降は18時30分開始)。[[2020年]]から[[2021年]]まで、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]蔓延拡大とそれに合わせた[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置]]の発出により、その対象地域に当たる球場のうち[[首都圏 (日本)|首都圏]]の各球場ないし[[ナゴヤドーム|バンテリンドームナゴヤ]]においては、試合終了時刻を極力21時を過ぎないようにするための配慮から、ナイターの試合開始時刻を17:30ないし17:45と早めている。
[[2012年]]は、[[7月25日]]の巨人対DeNA戦([[東京ドーム]])を19時開始とした。これは、来場者から「会社帰りでもプレーボールから試合が見たい」などの意見が寄せられたことから、試験的に試合開始を1時間遅らせることにしたもの<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20120125-OYT1T00966.htm 7・25巨人対DeNA戦、午後7時開始を試行] - [[読売新聞]] 2012年1月25日 なおこの前日まで[[都市対抗野球大会]]が行われ、その会場の後片付け作業(清掃・応援台の撤去など)が行われたためでもある。</ref>。ただし、19時開始は前述した通り1970年代中盤までは本拠地開催でも盛んに行われ、それ以後も[[開幕戦]]で[[後楽園球場]]、[[東京ドーム]]を併用した[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]と巨人が前年にAクラスを勝ち取って同日開幕となった場合、どちらか一方が19時開始<ref group="注">その一方は正午開始とした。</ref> となった例もある。
全球団とも平日は原則的にナイター開催だが、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]ではオリックス以外の5球団が例外的に平日にもデーゲームを組むことがある<ref group="注">日本ハムは地方開催のうち、照明設備の無い[[帯広の森野球場|帯広]]、[[釧路市民球場|釧路]](2012年までは[[花咲スポーツ公園硬式野球場|旭川]]、2017年までは[[千代台公園野球場|函館]]も)での試合(2023年は地方開催なし)。[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]は気候の関係で、またロッテ、西武、[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]はファンサービスで主に4月に実施している。</ref><ref>{{cite news |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2023/04/07/0016220098.shtml |title=【野球】平日のロッテ、楽天がデーゲームだったのはなぜ? 監督、選手は賛否両論 |newspaper=[[デイリースポーツ]] |publisher=[[神戸新聞社]] |date=2023-04-07 |accessdate=2023-04-07 }}</ref>。
パ・リーグでは、土曜・日曜・祝日の開催は原則[[デーゲーム]]としているが、ロッテと楽天、西武、そして試合当日が[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]である場合のオリックスは、夏場の一部<ref name="summer" group="注">概ね7月から9月上旬。</ref> で暑さ対策{{refnest|group="注"|ロッテ、楽天、ほっともっとフィールドでのオリックスは使用球場が屋外であり、[[熱中症]]などの対策のため。また、ほっともっとフィールドでは「花火ナイター」を実施するためもある。西武は本拠地は[[ドーム球場]]だが、構造上蒸し暑くなるため<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/82823 ドームだけどもドームじゃない? 西武本拠地が抱える“問題”は解決可能なのか] - [[AERA|AERA dot.]]([[朝日新聞社]])、2020年10月20日</ref>。}}として、また飛行機での移動が多い日本ハムや[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]を中心に、カード初日のうち移動日を挟んでいない場合は、移動時間に余裕をもたせるためナイターまたは17時開始の薄暮ゲームとするケースもある。
[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]でも、近年は全球団とも土曜・日曜・祝日の開催では夏場の一部<ref name="summer" group="注" />を除いて極力デーゲームとしているが、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]では本拠地である[[明治神宮野球場]]が[[日本の大学野球|大学野球]]の試合を優先しているため、夏場でなくてもナイターであるケースが多い。ただし、ファンサービスの一環として[[2013年]]以後、土・日の開催を17時からの薄暮デーゲームとする試合がある。また、DeNAでは2016年7月23日・24日と8月6日・7日の試合は17時30分開始<ref>[http://npb.jp/schedule/201607_detail.html セ・パ公式戦2016年7月]、[http://npb.jp/schedule/201608_detail.html セ・パ公式戦2016年8月]</ref> としている。かつては巨人戦の試合における[[プロ野球中継]]はテレビ([[地上波]])での[[視聴率]]が稼げたこともあって、特に東京ドーム完成後の[[1988年]]以降、2000年まで開催されていた[[札幌市円山球場|円山球場]](照明非設置)でのカード及び[[消化試合]]の一部を除いてほぼナイターとしていたが、[[2005年]]頃から興行面での考慮<ref group="注">子供や家族連れが観戦しやすくするため。</ref> や、ゴールデンタイムのレギュラー番組を優先させるキー局の意向もあり、巨人戦でもホーム・ビジター問わず土曜・日曜・祝日では薄暮を含むデーゲーム開催が増加傾向にある。
このため、週末は夏場の一部<ref name="summer" group="注" />を除いて全6試合ともデーゲームで行われ、ナイトゲームを組まなくなる例が多くなっている。セ・リーグ、パ・リーグともに、空調完備のドーム球場では夏場でも週末はデーゲームで開催されることが多く、カードの組み合わせによってはナイトゲームはセ・リーグの1試合のみ<ref group="注">セ・リーグでドーム球場を本拠地としているのは巨人と中日のみ。</ref>、ということもある。ただ、[[2017年]][[9月30日]]と[[2023年]]9月30日(いずれも土曜日)の開催では、シーズン終盤ということもありチームによっては前日から移動日を挟めず遠距離の移動もあったため、夏季ではない週末の開催ながら移動時間の確保のためドーム球場も含めて6試合全てが18時開始のナイターという、ドーム球場ができてからでは珍しいケースがあった<ref>[http://npb.jp/bis/2017/games/gm20170930.html 2017年9月30日試合結果] - [[日本野球機構|npb]]公式ホームページ</ref><ref>[http://npb.jp/bis/2023/games/gm20230930.html 2023年9月30日試合結果] - [[日本野球機構|npb]]公式ホームページ</ref>。
[[セ・パ交流戦]]では、1カードがホーム・ビジター2試合ずつだった2007年から2014年までは、土曜とその翌日の日曜とでカードが入れ替えとなるケースがあったため移動の関係で一部土曜をデーゲームとし日曜にナイターあるいは薄暮試合として行われたこともある。
[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]は、かつては[[1964年の日本シリーズ|1964年]]にナイター開催した<ref group="注">[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催に伴う暫定措置。</ref>以外は1993年まで全試合デーゲームで行われていたが、[[1994年の日本シリーズ|1994年]]に試験的に平日開催の第3 - 5戦をナイトゲームとしたところ好評であったため、[[1995年の日本シリーズ|1995年]]から全試合で18時台開始(球場または試合により開始時刻が異なる)というナイトゲームに移行した<ref group="注">但し、[[2011年の日本シリーズ|2011年に開催された第1戦]]のみ、番組を中継する[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が当日はゴールデンタイムに『[[2011年ワールドカップバレーボール|ワールドカップバレー2011]]』を放送することが先に決まっていたため、デーゲームで開催した。</ref>。
[[オープン戦]](春季)は気候の問題もあり通常はデーゲームで行われるが、空調完備のドーム球場では主に平日にナイターで開催する場合もある。
==日本で初めてナイター営業した施設==
[[ファイル:日本初のナイター試合(早大二軍対早大新人、1933年7月10日).jpg|thumb|[[戸塚球場]]で行われた日本初のナイター試合(早大二軍対早大新人)]]
* [[野球場]]:[[戸塚球場]]([[1933年]][[7月10日]]に行われた、[[早稲田大学野球部]]の二軍対新人戦が日本初のナイター試合。なお、プロ野球では上記の横浜ゲーリック球場となる)
* 多目的球技場([[サッカー]]会場として利用):[[明治神宮外苑競技場]](現在の[[国立競技場]])
* [[スキー場]]:[[岩原スキー場]](施設の定義次第では[[沼尻スキー場]])
* [[競馬場]]:[[大井競馬場]]
* [[オートレース場]]:[[伊勢崎オートレース場]]
* [[競輪場]]:[[函館競輪場]]
* [[競艇場]]:[[桐生競艇場]]
* [[海水浴場]]:[[虹ヶ浜海水浴場]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典記事 ===
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== 関連項目 ==
* [[ランプ (光源)|ランプ]] - ナイター設備として使われていた、あるいは使われている光源として以下がある。
** [[白熱電球]]
** [[水銀灯]]
** [[メタルハライドランプ]]
** [[ナトリウムランプ]]
** [[LED照明]]
* [[プロ野球中継|ナイター中継]]
* [[ナイター競走]]
{{DEFAULTSORT:ないた}}
[[Category:スポーツの試合]]
[[Category:和製英語]]
[[Category:夜]]
[[Category:夏の季語]] | 2003-03-23T02:51:40Z | 2023-10-22T06:26:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC |
4,973 | 宗教と科学 | この項では宗教と科学(しゅうきょうとかがく)の関係について述べる。
宗教と科学の関係に関する問いかけは、17世紀より重要視されることが多くなった。。両者の関係について述べられる一般的な論調は、およそ次のようなものである。
しかし実際には、上記の三つのように単純化された視点だけでは描ききれないほど、宗教と科学は複雑多岐、かつ実り豊かな関係であった。例えば、キリスト教徒すべてが科学的な探求をしていなかったというわけではない。また、著名な科学者が熱心なキリスト教徒だと公言することも多い。
あるいは、宗教と科学の闘争として扱われていた事柄が、実は科学の対立し合う仮説に関する論争であったり、神学の中での闘争であったということもある。
宗教と科学について考察する場合、「宗教」と「科学」の定義は厳密にしないほうが無難である。宗教と科学の現代的な定義が、時代を超えて正当性を持つと考えていては、実態とかけ離れ、作為的になってしまうだけである。
17世紀に生きる人々にとって、自然についての「知」が、神の御業や計画についての「知」に連なるという前提は、自明のことであった。すなわち、17世紀に誕生した近代科学は、キリスト教と密接な関係にあったのである。リン・ホワイト(英語版)は「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現している。
例えば、キリスト教会によって宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイは、神やキリスト教を否定して科学を唱えたのではない。むしろその反対であり、ガリレイは、「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけではなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」と語っている。
アイザック・ニュートンとゴットフリート・ライプニッツは、神と自然の関係について激しく論争している。「神は常にどこにおいても自然に働きかけている」と考えるニュートンは、「全知・全能なる神の所産である自然は、神の介入による手直しを一切必要としない」と考えるライプニッツから、「神の御業に関して奇妙な見解を示している」と非難された。
ニュートンを擁護するブレーズ・パスカルは、ライプニッツの考えを踏襲したルネ・デカルトに対して、「デカルトを赦すことはできない。彼はその哲学体系のなかで、できれば神なしですませたいと考えたはずだ」と非難した。
1687年にニュートンが発表した著作名は『自然哲学の数学的諸原理』なのであって、『自然科学の数学的諸原理』ではなかった。17世紀において、現在で言うところの「科学的な探求」を行っていた人は、自身のことを自然哲学者と呼んでいたのである。さらに、ニュートンが「自然哲学の根幹というのは、神の属性や神と自然界の関係を探求することなのだ」とはっきりと述べているとおり、そもそも神のことを知り神と自然の関係を知るために自然哲学をしていたのである。そのニュートンに「あなたは"宗教"と"科学"にどのように折り合いをつけたのですか」と問うことは本末転倒である。
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] | この項では宗教と科学(しゅうきょうとかがく)の関係について述べる。 | {{観点|date=2020年10月}}
この項では'''宗教と科学'''(しゅうきょうとかがく)の関係について述べる。
==概説==
宗教と科学の関係に関する問いかけは、17世紀より重要視されることが多くなった。<ref name=hj8>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.8]]</ref>。両者の関係について述べられる一般的な論調は、およそ次のようなものである<ref name=hj912>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.9~12]]</ref>。
*検証可能な事実を対象とする科学と、信仰の理由をあえて求めたりはしない宗教とでは、相容れない<ref name=hj9>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.9]]</ref>。
*人間の欲求に対して別の立場から答えを出しており、本質的には相補的なものである<ref name=hj910>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.9~10]]</ref>。
*仲睦まじい関係である<ref name=hj10>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.10]]</ref>。
しかし実際には、上記の三つのように単純化された視点だけでは描ききれないほど、宗教と科学は複雑多岐、かつ実り豊かな関係であった<ref name=hj12>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.12]]</ref>。例えば、キリスト教徒すべてが科学的な探求をしていなかったというわけではない。また、著名な科学者が熱心なキリスト教徒だと公言することも多い<ref name=hj12>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.12]]</ref>。
あるいは、宗教と科学の闘争として扱われていた事柄が、実は科学の対立し合う[[仮説]]に関する論争であったり、[[神学]]の中での闘争であったということもある<ref name=hj12>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.12]]</ref>。
宗教と科学について考察する場合、「宗教」と「科学」の定義は厳密にしないほうが無難である<ref name=hj14>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.14]]</ref>。宗教と科学の現代的な定義が、時代を超えて正当性を持つと考えていては、実態とかけ離れ、作為的になってしまうだけである<ref name=hj16>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.16]]</ref>。
==キリスト教と近代科学==
17世紀に生きる人々にとって、自然についての「知」が、神の御業や計画についての「知」に連なるという前提は、自明のことであった<ref name=mura26>[[#村上|村上(2002)p.26]]</ref>。すなわち、17世紀に誕生した[[近代科学]]は、[[キリスト教]]と密接な関係にあったのである。{{仮リンク|リン・ホワイト|en|Lynn Townsend White, Jr.}}は「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」<ref name=Lynn91 >[[#ホワイト|ホワイト(1999)p.91]]「西欧」というのが「西ヨーロッパ」を指すとすると意味が変なことになるが。</ref>と表現している。
例えば、キリスト教会によって宗教裁判にかけられた[[ガリレオ・ガリレイ]]は、神やキリスト教を否定して科学を唱えたのではない。むしろその反対であり、ガリレイは、「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけではなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」<ref name=toyoda102 >[[#豊田|豊田(1995)p.102]]</ref>と語っている。
[[アイザック・ニュートン]]と[[ゴットフリート・ライプニッツ]]は、神と自然の関係について激しく論争している。「神は常にどこにおいても自然に働きかけている」と考えるニュートンは、「全知・全能なる神の所産である自然は、神の介入による手直しを一切必要としない」と考えるライプニッツから、「神の御業に関して奇妙な見解を示している」<ref name=mura29>[[#村上|村上(2002)p.29]]</ref>と非難された。
ニュートンを擁護する[[ブレーズ・パスカル]]は、ライプニッツの考えを踏襲した[[ルネ・デカルト]]に対して、「デカルトを赦すことはできない。彼はその哲学体系のなかで、できれば神なしですませたいと考えたはずだ」<ref name=mura30>[[#村上|村上(2002)p.30]]</ref>と非難した。
1687年にニュートンが発表した著作名は『[[自然哲学の数学的諸原理]]』なのであって、『自然科学の数学的諸原理』ではなかった<ref name=hj14>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.14]]</ref>。17世紀において、現在で言うところの「科学的な探求」を行っていた人は、自身のことを自然哲学者と呼んでいたのである<ref name=hj14>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.14]]</ref>。さらに、ニュートンが「自然哲学の根幹というのは、神の属性や神と自然界の関係を探求することなのだ」とはっきりと述べているとおり<ref name=hj14>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.14]]</ref>、そもそも神のことを知り神と自然の関係を知るために自然哲学をしていたのである。そのニュートンに「あなたは"宗教"と"科学"にどのように折り合いをつけたのですか」と問うことは本末転倒である<ref name=hj16>[[#J.H.ブルック|J.H.ブルック(2005)p.16]]</ref>。
==出典==
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>
==文献==
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|J.H.ブルック|en|John Hedley Brooke}}|chapter=|editor=|year=2005|month=|title=科学と宗教|publisher= [[工作舎]]|series=|isbn=|ref=J.H.ブルック}}ISBN 978-4-87502-390-6
* {{Cite book|和書|author=村上陽一郎|authorlink=村上陽一郎|chapter=|editor=|year=2002|month=7|title=近代科学と聖俗革命<新版>|publisher=新曜社|series=|isbn=4-7885-0802-8|ref=村上}}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|リン・ホワイト|en|Lynn Townsend White, Jr.}}|translator=青木靖三|chapter=|editor=|year=1999|month=12|title=機械と神 生態学的危機の歴史的根源|publisher=みすず書房|series=|isbn=4-622-05049-8|ref=ホワイト}}
* {{Cite book|和書|author=豊田利幸|authorlink=豊田利幸|translator=|chapter=|editor=|year=1995|month=9|title=ガリレオ 世界の名著26|publisher=中央公論社|series=|isbn=4-12-400636-5|ref=豊田}}
== 関連項目 ==
*[[宗教]] / [[科学]]
*[[:Category:自然哲学者]]
*[[科学者#科学者と信仰]]
*[[科学原理主義]]
*[[宗教性]]
== 外部リンク ==
{{SEP|religion-science|Religion and Science}}
{{科学技術研究}}
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[[Category:科学史]]
[[Category:宗教学]]
[[Category:宗教と科学|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A8%E7%A7%91%E5%AD%A6 |
4,976 | フォノンバンド | フォノンバンドは、フォノン(量子化された格子振動)の分散曲線のこと。
単位格子に1個の原子しかない結晶では、単一のバンドを形成する。
単位格子に2個以上の原子がある結晶では、低エネルギー側の音響バンドと、高エネルギー側の光学バンドが現れる。この2つのバンド間のギャップをフォノンギャップと呼ぶ。
結晶に不純物や格子欠陥が含まれると、完全結晶の振動モードとは異なる、欠陥モードが発生する。
軽い不純物が含まれたり、原子間力が大きくなると、光学バンドよりさらに高い振動数の欠陥モードが現れる。これを局在振動モードと呼び、結晶中を伝播せずに欠陥付近に局在する。
重い不純物や原子間力の低下では、低い振動数の欠陥モードが現れ、フォノンバンドに埋もれる。この欠陥モードは格子振動モードと共鳴的に相互作用するため、共鳴モードと呼ばれる。
実験的には赤外吸収、ラマン散乱、中性子散乱などから、理論的にはDFPT法などによってフォノンバンドを得ることができる。 | [
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] | フォノンバンドは、フォノン(量子化された格子振動)の分散曲線のこと。 単位格子に1個の原子しかない結晶では、単一のバンドを形成する。 単位格子に2個以上の原子がある結晶では、低エネルギー側の音響バンドと、高エネルギー側の光学バンドが現れる。この2つのバンド間のギャップをフォノンギャップと呼ぶ。 | {{複数の問題
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'''フォノンバンド'''は、[[フォノン]](量子化された格子振動)の[[分散関係|分散曲線]]のこと。
単位格子に1個の原子しかない結晶では、単一のバンドを形成する。
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==欠陥モード==
結晶に不純物や格子欠陥が含まれると、完全結晶の振動モードとは異なる、'''欠陥モード'''が発生する。
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重い不純物や原子間力の低下では、低い振動数の欠陥モードが現れ、フォノンバンドに埋もれる。この欠陥モードは格子振動モードと共鳴的に相互作用するため、'''共鳴モード'''と呼ばれる。
==測定・計算==
実験的には[[赤外吸収]]、[[ラマン散乱]]、[[中性子散乱]]などから、理論的には[[DFPT法]]などによってフォノンバンドを得ることができる。
== 関連項目 ==
* [[フォノン状態密度]]
* [[バンド構造]]
* [[ブリュアンゾーン]]
<!-- == 参考文献 == -->
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:固体物理学]]
<!-- [[en:]] --> | null | 2021-06-13T11:03:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 |
4,977 | フォノン | フォノン(英: phonon)、音子、音響量子、音量子は、結晶中における格子振動の量子(準粒子)である。
格子振動を、音波などの弾性波が伝搬する連続的な媒質(弾性体)中の場だと考え、場の量子論を応用することにより考案された。
場の量子論を結晶格子に応用し、結晶中の振動を量子化したものがフォノンである。フォノンは、光子と同様に生成や消滅をすることができ、質量は存在しない。一般的な量子力学のように粒子数が固定された系の波動関数でフォノンを記述することは難しい。
振幅が大きくなる、つまり振動が激しくなることはフォノンの数が増えることで表される。
1次元の量子的な調和振動子はN個の同種原子から成る。 これはフォノンを考える上で、最も簡単な量子的モデルである。 このモデルは直ちに2次元、3次元に一般化することができる。
質点の位置は平衡位置からのずれx1, x2...として記述される。 (すなわちxi = 0は、粒子iが平衡位置にあることを意味する) 2次元以上の場合では xiはベクトル量となる。 この系のハミルトニアンは次のように書ける。
ここでmは各原子の質量(ここでは全ての原子で等しいと仮定する)、 xi とpiはそれぞれi番目の原子の位置演算子と運動量演算子であり、和は最近接において行う。 しかし格子は、粒子のようにふるまう波動としての側面も現れる。 慣習として、変数として粒子の座標の代わりに、基準モードの波数ベクトルを用いたフーリエ空間における波を扱う。 基準モードの数は、粒子数と等しい。 しかし、フーリエ空間は系の周期性を考える上で非常に有用である。
xkの離散フーリエ変換として定義されるN個の基準座標Qk、pkのフーリエ変換として定義されるN個の共役運動量Πkを導入する。
kn はフォノンの波数であり、すなわち2πを波長で割ったものである。
これらは実空間もしくは波数空間における次の交換関係を満たす。
一般的な結果から、
位置エネルギー項は
ここで
ハミルトニアンは波数空間において次のように書ける
位置変数の間のカップリングは解きほぐされる。Q とΠがエルミートであれば(これらはそうではない)、変換されたハミルトニアンはN個の独立な調和振動子を記述する。
量子化されたあとの形は境界条件に依存する。 簡単のため周期的境界条件が課すと、(N + 1)番目の原子は1番目の原子と同等になる。 これは物理的には原子鎖の始まりと終わりを繋ぎ合わせることに相当する。 この結果の量子化は次のように書ける。
nの上限は波長の最小値から求められ、格子面間隔aの2倍となる。
調和振動子の固有値、またはモードωkのエネルギー準位は次のように書ける。
このエネルギー準位は等間隔であり、それぞれ次のようになる。
ここで1/2ħωは量子的な調和振動子の零点エネルギーである。
次のエネルギー準位に押し上げるためには、正確にエネルギーħωだけが調和振動子の格子に供給されなければならない。 電磁場が量子化されたときのフォトン(光子)との比較から、振動エネルギーの量子はフォノンと呼ばれる。
全ての量子系は波動性と粒子性を同時に示す。 フォノンの粒子性は第二量子化と生成消滅演算子によって理解される。
フォノンの持つエネルギーは格子の熱振動のエネルギーである。調和振動だと見なせる場合は、次のように調和振動子のエネルギーの式と同じ形になる。
E = ∑ k ħ ω k ( n + 1 2 ) {\displaystyle E=\sum _{k}\hbar \omega _{k}\left(n+{\frac {1}{2}}\right)}
ħ {\displaystyle \hbar } はプランク定数、 ω k {\displaystyle \omega _{k}} は振動数、 n {\displaystyle n} はフォノンの数である。和を波数 k {\displaystyle k} について取る。
フォノン間に相互作用がある場合は、エネルギー準位が等間隔である調和振動子とは見なせないので、このような単純な形にならない。
フォノンは振動そのものを量子化したものであり、質量を持たない。一方で運動量は持っており p = ħ k {\displaystyle \mathbf {p} =\hbar \mathbf {k} } で表される。ただしフォノンの運動量は、一様な空間にある粒子の運動量とは性質が異なる。ネーターの定理によると運動量は系の並進対称性から導出されるため、この違いは並進対称性の違いに由来する。一様な空間は連続的な並進対称性を持つが、結晶では離散的な並進対称性を持っている。この離散的な並進対称性から導かれる(広義の)運動量は、通常の運動量とは区別して結晶運動量と呼ばれる。この違いにより、たとえば運動量保存則は、フォノンの運動量だけでなく結晶の逆格子ベクトルも含まれた形となる。
フォノンによる弾性的中性子散乱では、エネルギーとともに運動量も保存される。非弾性中性子散乱では中性子の入射角と散乱角、およびエネルギー変化を調べることでフォノンの波数と各周波数が求まる。
フォノンはひとつの状態 k {\displaystyle k} に何個でも存在できる。よってフォノンはボース粒子であり、ボース゠アインシュタイン統計に従う。
フォノンは、音響フォノンと光学フォノンの2つに大別できる。音響フォノンは、隣のフォノンと同じ位相で振動するが、光学フォノンは逆の位相で振動する。また音響フォノンも光学フォノンも電子励起などを介して光と間接的に相互作用する。光学フォノンは双極子モーメントの変化を伴うため、光との相互作用によって直接励起される(光学的に活性である)。音響フォノンは自身は分極を伴わないため、基本的に光学応答に対して直接寄与はしない。音響フォノンによる光散乱をブリルアン散乱と呼び、光学フォノンによる光散乱をラマン散乱と呼ぶ。
フォノンの波数ベクトル(伝播方向)と同じ方向に格子振動する縦波と、垂直に格子振動する横波という2つのモードがある。
k = 0 {\displaystyle k=0} のとき ω ( k ) = 0 {\displaystyle \omega (k)=0} となる分散曲線は音響フォノンによるものである。音響フォノンの分散曲線の傾き v = d ω ( k ) d k {\displaystyle v={\frac {d\omega (k)}{dk}}} はフォノンの伝搬する群速度である。音響フォノンの分散曲線は k = 0 {\displaystyle k=0} 近傍では k {\displaystyle k} に比例する、つまり一定の群速度となる。これは、音速が波長に比例するという弾性波のもつ性質を表す。
一方で、 k = 0 {\displaystyle k=0} のとき ω ( k ) ≠ 0 {\displaystyle \omega (k)\neq 0} となる分散曲線は光学フォノンによるものである。
フォノンの状態密度は、フォノン数を第一ブリュアンゾーンで積分したものである。実験的には、非弾性中性子散乱で求まる。比熱などは、フォノンの状態密度によって決まる(デバイ模型)。
結晶格子のような周期構造中では、フォノンの振動数は制限され離散的になる。又、量子力学の効果で電子の場合と同様に、フォノンもバンド構造(フォノンバンド)を作る。
物質によっては、温度を下げるとフォノン(格子振動)の振幅が小さくなっていって、ある転移温度以下で低温相へ相転移し、フォノンによる格子の変位が凍結した状態となることがある。
これをフォノンのソフト化と言う。
厳密には、格子振動とフォノンは同義ではないが、同じような意味合いで使われることがある。
フォノンによる熱伝導は、フォノンが音速 v {\displaystyle v} で飛びまわるとして気体分子運動論を適用したモデルで記述できる。熱伝導率 k {\displaystyle k} は、比熱 C {\displaystyle C} とフォノンの平均自由行程 l {\displaystyle l} で表される。
フォノンの平均自由行程は一般的に温度の関数であり、フォノン散乱についての情報を含んでいる。
格子の位置エネルギーは各原子の平衡位置からの変位についてベキ展開できる。
もし2次の項までとれば、格子振動が調和振動と見なすことができ、フォノン間に相互作用はない。
3次および4次の項が比較的小さく摂動とみなせる場合は、これらを調和フォノンの生成消滅演算子を用いて表すことができる。 非調和振動の影響が大きくなると、3次および4次の項によってフォノン間に相互作用が働き、フォノンの生成や消滅が起こる。 3次の項は3つの演算子の積で、1個のフォノンが2個のフォノンに崩壊するような過程を記述する。 4次の項は2個のフォノンの衝突や、1個のフォノンが2個のフォノンに崩壊する過程などの過程を記述する。
温度がデバイ温度よりはるかに高いときは、非調和性の効果が大きくなり、摂動論が適用できなくなる。よって調和近似で考えたフォノンは、素励起としての意味を失う。
固体ヘリウムのような量子固体では、原子間相互作用のポテンシャルエネルギーが極小値よりかなり大きい。よってポテンシャルの極小点のまわりに小さな振動をしているという調和近似の考えが適用することができない。しかし一方で、中性子非弾性散乱の実験を行うと、フォノンのピークが観測される。よって調和近似の枠を超えて、フォノンの概念を基礎づける必要がある。
自己無撞着フォノン法は、このような量子固体や非調和性の大きい古典的固体に対して有効な方法である。ポテンシャルを V ( x ) {\displaystyle V(x)} 、格子点を x = 0 {\displaystyle x=0} とすると、調和近似では力の定数はポテンシャルの二回微分 V ′′ ( 0 ) {\displaystyle V''(0)} で与えられる。一方で自己無撞着フォノン法において力の定数は、(力の定数をパラメータとして含む)調和振動の状態関数 | 0 ⟩ {\displaystyle |0\rangle } に関する V ′′ ( x ) {\displaystyle V''(x)} の期待値で与えられる。
共に質量のないボース粒子であるフォノンと光子の比較を以下に示す。
光子の熱エネルギーの式は、デバイ近似のフォノンの式と似ているが、以下の点が異なる。
フォノンは光子や電子のように、多くの目的で粒子として扱えるので、実用的な応用に利用して操作することができる。フォノンスペクトルは低周波音響から超音波や熱まで広範囲に効果を及ぼすため、フォノニック技術は免震、音響学、熱管理などの広範囲にわたる応用が可能でフォノニック結晶、メタマテリアル、熱電素子、MOEMSなど、さまざまなスケールでフォノンを制御する方法がある。 | [
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"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ħ {\\displaystyle \\hbar } はプランク定数、 ω k {\\displaystyle \\omega _{k}} は振動数、 n {\\displaystyle n} はフォノンの数である。和を波数 k {\\displaystyle k} について取る。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "フォノン間に相互作用がある場合は、エネルギー準位が等間隔である調和振動子とは見なせないので、このような単純な形にならない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "フォノンは振動そのものを量子化したものであり、質量を持たない。一方で運動量は持っており p = ħ k {\\displaystyle \\mathbf {p} =\\hbar \\mathbf {k} } で表される。ただしフォノンの運動量は、一様な空間にある粒子の運動量とは性質が異なる。ネーターの定理によると運動量は系の並進対称性から導出されるため、この違いは並進対称性の違いに由来する。一様な空間は連続的な並進対称性を持つが、結晶では離散的な並進対称性を持っている。この離散的な並進対称性から導かれる(広義の)運動量は、通常の運動量とは区別して結晶運動量と呼ばれる。この違いにより、たとえば運動量保存則は、フォノンの運動量だけでなく結晶の逆格子ベクトルも含まれた形となる。",
"title": "特徴"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "フォノンによる弾性的中性子散乱では、エネルギーとともに運動量も保存される。非弾性中性子散乱では中性子の入射角と散乱角、およびエネルギー変化を調べることでフォノンの波数と各周波数が求まる。",
"title": "特徴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "フォノンはひとつの状態 k {\\displaystyle k} に何個でも存在できる。よってフォノンはボース粒子であり、ボース゠アインシュタイン統計に従う。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "フォノンは、音響フォノンと光学フォノンの2つに大別できる。音響フォノンは、隣のフォノンと同じ位相で振動するが、光学フォノンは逆の位相で振動する。また音響フォノンも光学フォノンも電子励起などを介して光と間接的に相互作用する。光学フォノンは双極子モーメントの変化を伴うため、光との相互作用によって直接励起される(光学的に活性である)。音響フォノンは自身は分極を伴わないため、基本的に光学応答に対して直接寄与はしない。音響フォノンによる光散乱をブリルアン散乱と呼び、光学フォノンによる光散乱をラマン散乱と呼ぶ。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "フォノンの波数ベクトル(伝播方向)と同じ方向に格子振動する縦波と、垂直に格子振動する横波という2つのモードがある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "k = 0 {\\displaystyle k=0} のとき ω ( k ) = 0 {\\displaystyle \\omega (k)=0} となる分散曲線は音響フォノンによるものである。音響フォノンの分散曲線の傾き v = d ω ( k ) d k {\\displaystyle v={\\frac {d\\omega (k)}{dk}}} はフォノンの伝搬する群速度である。音響フォノンの分散曲線は k = 0 {\\displaystyle k=0} 近傍では k {\\displaystyle k} に比例する、つまり一定の群速度となる。これは、音速が波長に比例するという弾性波のもつ性質を表す。",
"title": "特徴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "一方で、 k = 0 {\\displaystyle k=0} のとき ω ( k ) ≠ 0 {\\displaystyle \\omega (k)\\neq 0} となる分散曲線は光学フォノンによるものである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "フォノンの状態密度は、フォノン数を第一ブリュアンゾーンで積分したものである。実験的には、非弾性中性子散乱で求まる。比熱などは、フォノンの状態密度によって決まる(デバイ模型)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "結晶格子のような周期構造中では、フォノンの振動数は制限され離散的になる。又、量子力学の効果で電子の場合と同様に、フォノンもバンド構造(フォノンバンド)を作る。",
"title": "フォノンバンド"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "物質によっては、温度を下げるとフォノン(格子振動)の振幅が小さくなっていって、ある転移温度以下で低温相へ相転移し、フォノンによる格子の変位が凍結した状態となることがある。",
"title": "フォノンのソフト化"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "これをフォノンのソフト化と言う。",
"title": "フォノンのソフト化"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "厳密には、格子振動とフォノンは同義ではないが、同じような意味合いで使われることがある。",
"title": "フォノンのソフト化"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "フォノンによる熱伝導は、フォノンが音速 v {\\displaystyle v} で飛びまわるとして気体分子運動論を適用したモデルで記述できる。熱伝導率 k {\\displaystyle k} は、比熱 C {\\displaystyle C} とフォノンの平均自由行程 l {\\displaystyle l} で表される。",
"title": "熱伝導"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "フォノンの平均自由行程は一般的に温度の関数であり、フォノン散乱についての情報を含んでいる。",
"title": "熱伝導"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "格子の位置エネルギーは各原子の平衡位置からの変位についてベキ展開できる。",
"title": "フォノンの非調和性"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "もし2次の項までとれば、格子振動が調和振動と見なすことができ、フォノン間に相互作用はない。",
"title": "フォノンの非調和性"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "3次および4次の項が比較的小さく摂動とみなせる場合は、これらを調和フォノンの生成消滅演算子を用いて表すことができる。 非調和振動の影響が大きくなると、3次および4次の項によってフォノン間に相互作用が働き、フォノンの生成や消滅が起こる。 3次の項は3つの演算子の積で、1個のフォノンが2個のフォノンに崩壊するような過程を記述する。 4次の項は2個のフォノンの衝突や、1個のフォノンが2個のフォノンに崩壊する過程などの過程を記述する。",
"title": "フォノンの非調和性"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "温度がデバイ温度よりはるかに高いときは、非調和性の効果が大きくなり、摂動論が適用できなくなる。よって調和近似で考えたフォノンは、素励起としての意味を失う。",
"title": "フォノンの非調和性"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "固体ヘリウムのような量子固体では、原子間相互作用のポテンシャルエネルギーが極小値よりかなり大きい。よってポテンシャルの極小点のまわりに小さな振動をしているという調和近似の考えが適用することができない。しかし一方で、中性子非弾性散乱の実験を行うと、フォノンのピークが観測される。よって調和近似の枠を超えて、フォノンの概念を基礎づける必要がある。",
"title": "フォノンの非調和性"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "自己無撞着フォノン法は、このような量子固体や非調和性の大きい古典的固体に対して有効な方法である。ポテンシャルを V ( x ) {\\displaystyle V(x)} 、格子点を x = 0 {\\displaystyle x=0} とすると、調和近似では力の定数はポテンシャルの二回微分 V ′′ ( 0 ) {\\displaystyle V''(0)} で与えられる。一方で自己無撞着フォノン法において力の定数は、(力の定数をパラメータとして含む)調和振動の状態関数 | 0 ⟩ {\\displaystyle |0\\rangle } に関する V ′′ ( x ) {\\displaystyle V''(x)} の期待値で与えられる。",
"title": "フォノンの非調和性"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "共に質量のないボース粒子であるフォノンと光子の比較を以下に示す。",
"title": "フォノンと光子の比較"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "光子の熱エネルギーの式は、デバイ近似のフォノンの式と似ているが、以下の点が異なる。",
"title": "フォノンと光子の比較"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "フォノンは光子や電子のように、多くの目的で粒子として扱えるので、実用的な応用に利用して操作することができる。フォノンスペクトルは低周波音響から超音波や熱まで広範囲に効果を及ぼすため、フォノニック技術は免震、音響学、熱管理などの広範囲にわたる応用が可能でフォノニック結晶、メタマテリアル、熱電素子、MOEMSなど、さまざまなスケールでフォノンを制御する方法がある。",
"title": "フォノニクス"
}
] | フォノン、音子、音響量子、音量子は、結晶中における格子振動の量子(準粒子)である。 格子振動を、音波などの弾性波が伝搬する連続的な媒質(弾性体)中の場だと考え、場の量子論を応用することにより考案された。 | {{Otheruseslist|量子|音楽アルバム|フォノン (アルバム)|番組レーベル|Phonon (レーベル)}}
'''フォノン'''({{lang-en-short|phonon}})、'''音子'''、'''音響量子'''、'''音量子'''は、[[結晶]]中における[[格子振動]]の[[量子]]([[準粒子]])である。
格子振動を、[[音波]]などの[[弾性波]]が伝搬する連続的な[[媒質]]([[弾性体]])中の[[場]]だと考え、[[場の量子論]]を応用することにより考案された<ref name="木暮">{{Cite book|和書|author=木暮嘉明|title=フォノンとは何か-音波と量子の世界-|publisher=[[丸善雄松堂|丸善]]|series=フロンティア・サイエンス・シリーズ|year=1988|isbn=4-621-03309-3}}</ref>。
== 概要 ==
{{see also|場の量子論}}
場の量子論を結晶格子に応用し、結晶中の振動を[[量子化 (物理学)|量子化]]したものがフォノンである。フォノンは、[[光子]]と同様に生成や消滅をすることができ、質量は存在しない。一般的な[[量子力学]]のように粒子数が固定された系の[[波動関数]]でフォノンを記述することは難しい。
[[振幅]]が大きくなる、つまり[[振動]]が激しくなることはフォノンの[[数]]が増えることで表される。
== 1次元の格子振動の量子化 ==
1次元の量子的な調和振動子は''N''個の同種原子から成る。
これはフォノンを考える上で、最も簡単な量子的モデルである。
このモデルは直ちに2次元、3次元に一般化することができる。
質点の位置は平衡位置からのずれ''x''<sub>1</sub>, ''x''<sub>2</sub>…として記述される。
(すなわち''x<sub>i</sub>'' = 0は、粒子''i''が平衡位置にあることを意味する)
2次元以上の場合では ''x<sub>i</sub>''はベクトル量となる。
この系の[[ハミルトニアン]]は次のように書ける。
:<math>\mathcal{H} = \sum_{i=1}^N \frac{p_i^2}{2m} + \frac{1}{2} m\omega^2 \sum_{\{ij\} (\mathrm{nn})} \left(x_i - x_j\right)^2</math>
ここで''m''は各原子の質量(ここでは全ての原子で等しいと仮定する)、
''x<sub>i</sub>'' と''p<sub>i</sub>''はそれぞれ''i''番目の原子の位置演算子と運動量演算子であり、和は最近接において行う。
しかし格子は、粒子のようにふるまう波動としての側面も現れる。
慣習として、変数として粒子の座標の代わりに、基準モードの波数ベクトルを用いたフーリエ空間における波を扱う。
基準モードの数は、粒子数と等しい。
しかし、フーリエ空間は系の周期性を考える上で非常に有用である。
''x<sub>k</sub>''の[[離散フーリエ変換]]として定義される''N''個の'''基準座標'''''Q<sub>k</sub>''、''p<sub>k</sub>''のフーリエ変換として定義される''N''個の'''共役運動量'''''Π<sub>k</sub>''を導入する。
:<math>\begin{align} Q_k &= \frac{1}\sqrt{N} \sum_{l} e^{ikal} x_l \\ \Pi_{k} &= \frac{1}\sqrt{N} \sum_{l} e^{-ikal} p_l. \end{align}</math>
''k<sub>n</sub>'' はフォノンの[[波数]]であり、すなわち2{{pi}}を[[波長]]で割ったものである。
これらは実空間もしくは波数空間における次の交換関係を満たす。
: <math> \begin{align}
\left[x_l , p_m \right]&=i\hbar\delta_{l,m} \\
\left[ Q_k , \Pi_{k'} \right] &=\frac{1}N \sum_{l,m} e^{ikal} e^{-ik'am} \left[x_l , p_m \right] \\
&= \frac{i \hbar}N \sum_{l} e^{ial\left(k-k'\right)} = i\hbar\delta_{k,k'} \\
\left[ Q_k , Q_{k'} \right] &= \left[ \Pi_k , \Pi_{k'} \right] = 0
\end{align}</math>
一般的な結果から、
: <math> \begin{align}
\sum_{l}x_l x_{l+m}&=\frac{1}N\sum_{kk'}Q_k Q_{k'}\sum_{l} e^{ial\left(k+k'\right)}e^{iamk'}= \sum_{k}Q_k Q_{-k}e^{iamk} \\
\sum_{l}{p_l}^2 &= \sum_{k}\Pi_k \Pi_{-k}
\end{align}</math>
位置エネルギー項は
:<math> \tfrac12 m \omega^2 \sum_{j} \left(x_j - x_{j+1}\right)^2= \tfrac12 m\omega^2\sum_{k}Q_k Q_{-k}(2-e^{ika}-e^{-ika})= \tfrac12 \sum_{k}m{\omega_k}^2Q_k Q_{-k}</math>
ここで
:<math>\omega_k = \sqrt{2 \omega^2 \left( 1 - \cos{ka} \right)} = 2\omega\left|\sin\frac{ka}2\right|</math>
ハミルトニアンは波数空間において次のように書ける
:<math>\mathcal{H} = \frac{1}{2m}\sum_k \left( \Pi_k\Pi_{-k} + m^2 \omega_k^2 Q_k Q_{-k} \right)</math>
位置変数の間のカップリングは解きほぐされる。''Q'' と''Π''が[[エルミート]]であれば(これらはそうではない)、変換されたハミルトニアンは''N''個の独立な調和振動子を記述する。
量子化されたあとの形は境界条件に依存する。
簡単のため[[周期的境界条件]]が課すと、(''N'' + 1)番目の原子は1番目の原子と同等になる。
これは物理的には原子鎖の始まりと終わりを繋ぎ合わせることに相当する。
この結果の量子化は次のように書ける。
:<math>k=k_n = \frac{2\pi n}{Na} \quad \mbox{for } n = 0, \pm1, \pm2, \ldots \pm \frac{N}2 .\ </math>
''n''の上限は波長の最小値から求められ、格子面間隔''a''の2倍となる。
調和振動子の固有値、またはモード''ω<sub>k</sub>''のエネルギー準位は次のように書ける。
:<math>E_n = \left(\tfrac12+n\right)\hbar\omega_k \qquad n=0,1,2,3 \ldots</math>
このエネルギー準位は等間隔であり、それぞれ次のようになる。
:<math>\tfrac12\hbar\omega , \ \tfrac32\hbar\omega ,\ \tfrac52\hbar\omega \ \cdots</math>
ここで{{sfrac|1|2}}''ħω''は量子的な調和振動子の[[零点エネルギー]]である。
次のエネルギー準位に押し上げるためには、正確にエネルギー''ħω''だけが調和振動子の格子に供給されなければならない。
[[電磁場]]が量子化されたときの[[光子|フォトン]](光子)との比較から、振動エネルギーの量子はフォノンと呼ばれる。
全ての量子系は波動性と粒子性を同時に示す。
フォノンの粒子性は[[第二量子化]]と[[生成消滅演算子]]によって理解される。
<ref name="Mahan">{{cite book|last=Mahan|first=G. D.|title=Many-Particle Physics|publisher=Springer|location=New York|isbn=0-306-46338-5|year=1981}}</ref>
== 特徴 ==
=== エネルギー ===
フォノンの持つ[[エネルギー]]は[[結晶格子|格子]]の[[熱振動]]の[[エネルギー]]である。調和振動だと見なせる場合は、次のように調和振動子のエネルギーの式と同じ形になる。
{{Indent|<math>E=\sum_k\hbar\omega_k \left( n+\frac{1}{2} \right) </math>}}
<math>\hbar</math> は[[プランク定数]]、<math>\omega_k</math> は[[振動数]]、<math>n</math> はフォノンの数である。[[加法|和]]を[[波数]] <math>k</math> について取る。
フォノン間に相互作用がある場合は、エネルギー準位が等間隔である調和振動子とは見なせないので、このような単純な形にならない。
=== 運動量 ===
{{main|結晶運動量}}
フォノンは振動そのものを量子化したものであり、質量を持たない。一方で運動量は持っており<math>\mathbf{p}=\hbar \mathbf{k}</math>で表される。ただしフォノンの運動量は、一様な空間にある粒子の運動量とは性質が異なる。[[ネーターの定理]]によると運動量は系の[[並進演算子 (量子力学)|並進対称性]]から導出されるため、この違いは並進対称性の違いに由来する。一様な空間は連続的な並進対称性を持つが、結晶では離散的な並進対称性を持っている。この離散的な並進対称性から導かれる(広義の)運動量は、通常の運動量とは区別して[[結晶運動量]]と呼ばれる。この違いにより、たとえば運動量保存則は、フォノンの運動量だけでなく結晶の逆格子ベクトルも含まれた形となる。
フォノンによる弾性的[[中性子散乱]]では、エネルギーとともに運動量も保存される。[[非弾性中性子散乱]]では中性子の入射角と散乱角、およびエネルギー変化を調べることでフォノンの波数と各周波数が求まる。<ref name="木暮"/>
=== ボース粒子 ===
フォノンはひとつの状態 <math>k</math> に何個でも存在できる。よってフォノンは[[ボース粒子]]であり、ボース゠アインシュタイン統計に従う。
=== 分類 ===
==== 音響フォノンと光学フォノン ====
[[File:Optical & acoustic vibrations-en.svg|thumb|250px|二原子鎖の中の光学 ({{en|optical}}) フォノンと音響 ({{en|acoustic}}) フォノン]]
フォノンは、'''音響フォノン'''と'''光学フォノン'''の2つに大別できる。音響フォノンは、隣のフォノンと同じ[[位相]]で振動するが、光学フォノンは逆の位相で振動する。また音響フォノンも光学フォノンも[[電子励起]]などを介して光と間接的に相互作用する<ref name = 100monshu>大阪大学インタラクティブ物質科学・カデットプログラム 物性物理100問集出版プロジェクト編、木村剛・小林研介・田島節子監修『物性物理100問集』大阪大学出版会、2016年。</ref>。光学フォノンは双極子モーメントの変化を伴うため、光との相互作用によって直接励起される(光学的に活性である)<ref>今野豊彦 『物質の対称性と群論』 共立出版、2001年、{{ISBN2|4-320-03409-0}}。</ref>。音響フォノンは自身は[[分極]]を伴わないため、基本的に光学応答に対して直接寄与はしない<ref name = 100monshu/>。音響フォノンによる[[光散乱]]を[[ブリルアン散乱]]と呼び、光学フォノンによる光散乱を[[ラマン散乱]]と呼ぶ。
==== 横型フォノンと縦型フォノン ====
フォノンの波数ベクトル(伝播方向)と同じ方向に格子振動する[[縦波]]と、垂直に格子振動する[[横波]]という2つのモードがある。
*音響フォノンでは、縦型フォノンは物質の[[圧縮]]や[[膨張]]に、横型フォノンは物質の[[ずれ]]に相当し、一般的には前者の[[復元力]]のほうが大きい。よって音響フォノンでは一般的に縦型フォノンのほうが伝播速度([[群速度]])が大きい<ref name = 100monshu/>。
*光学フォノンにおいては、縦型フォノンにより電荷が空間的に偏り([[分極]]{{math|'''P'''}}が[[電荷密度]]{{math|ρ=-∇・'''P'''}}の変化を伴う)、分極による反電場の効果として縦型フォノンのほうが一般的に高い角振動数を持つ<ref name = 100monshu/>。
=== 分散関係と周期性 ===
[[File:Monoatomic chain phonon dispersion.svg|thumb|250px|単原子鎖のフォノンの分散関係]]
[[File:Diatomic phonons.png|thumb|250px|線形2原子鎖におけるフォノンの分散曲線。opticalは光学フォノン、acousticは音響フォノン]]
[[File:Phonon dispersion relations in GaAs.png|thumb|250px|GaAs中の格子振動に対応するフォノンの分散関係ω=ω(k)<ref>{{cite book |title=Fundamentals of Semiconductors |series=Physics and Materials Properties |first1=Peter Y. |last1=Yu |first2=Manuel |last2=Cardona |url=https://books.google.com/books?id=5aBuKYBT_hsC&pg=PA111 |page=111 |chapter=Fig. 3.2: Phonon dispersion curves in GaAs along high-symmetry axes |isbn=3-642-00709-0 |year=2010 |edition=4th |publisher=Springer}}</ref>]]
{{main|分散関係}}
<math>k=0</math>のとき<math>\omega(k)=0</math>となる分散曲線は音響フォノンによるものである。音響フォノンの分散曲線の傾き<math>v=\frac{d\omega(k)}{dk}</math>はフォノンの伝搬する[[群速度]]である。音響フォノンの分散曲線は<math>k=0</math>近傍では<math>k</math>に比例する、つまり一定の群速度となる。これは、音速が波長に比例するという弾性波のもつ性質を表す。
一方で、<math>k=0</math>のとき<math>\omega(k) \ne 0</math>となる分散曲線は光学フォノンによるものである。
=== 状態密度 ===
{{main|状態密度}}
フォノンの状態密度は、フォノン数を第一[[ブリュアンゾーン]]で積分したものである。実験的には、[[非弾性中性子散乱]]で求まる。[[比熱]]などは、フォノンの状態密度によって決まる([[デバイ模型]])。
== フォノンバンド ==
{{main|フォノンバンド}}
[[結晶構造|結晶格子]]のような[[周期]][[構造]]中では、フォノンの[[振動数]]は[[制限]]され[[離散数学|離散的]]になる。又、[[量子力学]]の[[効果]]で[[電子]]の場合と同様に、フォノンも[[バンド構造]](フォノンバンド)を作る。
== フォノンのソフト化 ==
[[物質]]によっては、[[温度]]を下げるとフォノン([[格子振動]])の[[振幅]]が小さくなっていって、ある[[転移温度]]以下で[[温度|低温]][[相_(物質)|相]]へ[[相転移]]し、フォノンによる[[結晶格子|格子]]の[[変位]]が[[凝固|凍結]]した[[状態]]となることがある。
これを'''フォノンのソフト化'''と言う。
厳密には、[[格子振動]]とフォノンは同義ではないが、同じような[[意味]]合いで使われることがある。
== 熱伝導 ==
フォノンによる[[熱伝導]]は、フォノンが[[音速]]<math>v</math>で飛びまわるとして[[気体分子運動論]]を適用したモデルで記述できる<ref name="木暮"/>。[[熱伝導率]]<math>k</math>は、[[比熱]]<math>C</math>とフォノンの[[平均自由行程]]<math>l</math>で表される。
:<math>k=\frac{Cvl}{3}</math>
フォノンの平均自由行程は一般的に温度の関数であり、[[フォノン散乱]]についての情報を含んでいる。
== フォノンの非調和性 ==
=== 摂動論とフォノン間相互作用 ===
格子の[[位置エネルギー]]は各原子の平衡位置からの変位についてベキ展開できる。
もし2次の項までとれば、格子振動が[[調和振動]]と見なすことができ、フォノン間に相互作用はない。
3次および4次の項が比較的小さく[[摂動]]とみなせる場合は、これらを調和フォノンの[[生成消滅演算子]]を用いて表すことができる。
[[非調和振動]]の影響が大きくなると、3次および4次の項によってフォノン間に相互作用が働き、フォノンの生成や消滅が起こる。
3次の項は3つの演算子の積で、1個のフォノンが2個のフォノンに崩壊するような過程を記述する。
4次の項は2個のフォノンの衝突や、1個のフォノンが2個のフォノンに崩壊する過程などの過程を記述する。<ref>[[デイヴィッド・J・サウレス]]著『多体系の量子力学』松原武生・[[米沢富美子]]訳、[[吉岡書店]]、1965年、ISBN 486345144X。</ref>
温度が[[デバイ温度]]よりはるかに高いときは、非調和性の効果が大きくなり、摂動論が適用できなくなる。よって調和近似で考えたフォノンは、素励起としての意味を失う<ref name=bussei>{{cite book | 和書 | title=物性 II 素励起の物理 (新装版 現代物理学の基礎 第7巻) | year=2012 | publisher=岩波書店 | id={{ISBN2|4-00-029807-0}}。ISBN-13: 978-4-00-029807-0}}</ref>。
=== 自己無撞着フォノン法 ===
[[固体ヘリウム]]のような[[量子固体]]では、原子間相互作用のポテンシャルエネルギーが極小値よりかなり大きい。よってポテンシャルの極小点のまわりに小さな振動をしているという調和近似の考えが適用することができない。しかし一方で、中性子非弾性散乱の実験を行うと、フォノンのピークが観測される。よって調和近似の枠を超えて、フォノンの概念を基礎づける必要がある。
自己無撞着フォノン法は、このような量子固体や非調和性の大きい古典的固体に対して有効な方法である。ポテンシャルを<math>V(x)</math>、格子点を<math>x=0</math>とすると、調和近似では力の定数はポテンシャルの二回微分<math>V''(0)</math>で与えられる。一方で自己無撞着フォノン法において力の定数は、(力の定数をパラメータとして含む)調和振動の状態関数<math>|0\rangle</math>に関する<math>V''(x)</math>の期待値で与えられる。<ref name=bussei/>
== フォノンと光子の比較 ==
共に質量のないボース粒子であるフォノンと[[光子]]の比較を以下に示す。<ref>{{Cite book|和書|first1=N. W. |last1=アシュクロフト|first2=N. D. |last2=マーミン|others=松原, 武生(訳)、町田, 一成(訳)|title=固体物理の基礎 (下・1) 固体フォノンの諸問題|series=物理学叢書 48|publisher=吉岡書店|date=1982|id={{ISBN2|4-8427-0202-8}}。ISBN-13: 978-4-8427-0202-5}}</ref>
{|class=wikitable
!||フォノン||光子
|-
|{{rh}}|基準振動の数
|align=center|各<math>\mathbf{k}</math>に対して3p個のモード(pは基本構造中の原子数)<br>分散関係は複雑:<math>\omega=\omega_s(\mathbf{k})</math>(sはモード)
|align=center|各<math>\mathbf{k}</math>に対して2個のモード<br>分散関係は直線:<math>\omega=ck</math>(cは光速)
|-
|{{rh}}|波数ベクトルの制限
|align=center|<math>\mathbf{k}</math>は第一ブリルアンゾーンに限られる
|align=center|<math>\mathbf{k}</math>は任意
|-
|{{rh}}|熱エネルギー密度
|align=center|<math>\sum_s \int\frac{1}{(2\pi)^3}\frac{\hbar\omega_s(\mathbf{k})}{e^{\beta\hbar\omega_s(\mathbf{k})}-1}d\mathbf{k}</math><br>(積分は第一ブリルアンゾーンについて)
|align=center|<math>2 \int\frac{1}{(2\pi)^3}\frac{\hbar ck}{e^{\beta\hbar ck}-1}d\mathbf{k}</math><br>(積分はすべての<math>\mathbf{k}</math>について)
|}
光子の熱エネルギーの式は、デバイ近似のフォノンの式と似ているが、以下の点が異なる。
*光子では、音速が光速で置き換えられている。
*光子では、ただ2つだけのモードだけがある(電磁放射は横波でなければならない、縦波のモードは無い)ことに対応して、余分の因子2/3を持っている。
*許される光子の波数ベクトルの最高値に制限がないため、光子における積分の上限は∞である。
== フォノニクス ==
フォノンは[[光子]]や[[電子]]のように、多くの目的で[[粒子]]として扱えるので、実用的な応用に利用して操作することができる。フォノンスペクトルは低周波音響から[[超音波]]や熱まで広範囲に効果を及ぼすため、フォノニック技術は[[免震]]、[[音響学]]、熱管理などの広範囲にわたる応用が可能で[[フォノニック結晶]]、[[メタマテリアル]]、[[熱電素子]]、[[MOEMS]]など、さまざまなスケールでフォノンを制御する方法がある<ref>{{citation|url=http://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/49223 |title=フォノニクス時代に備えよう |date=2013年11月14日 |volume=503 |issue=7475 |journal=[[ネイチャー|Nature]] }}</ref>。
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ゼロフォノン線とフォノンサイドバンド]]
* [[コヒーレントフォノン]]
* [[スピン-フォノン相互作用]]
* [[フォノン散乱]]
* [[フォノンバンド]]
* [[表面フォノン]]
* [[DFPT法]]
* [[メーザー]]
{{粒子の一覧}}
{{Condensed matter physics topics}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふおのん}}
[[Category:量子力学]]
[[Category:固体物理学]]
[[Category:準粒子]]
[[Category:振動と波動]] | 2003-03-23T05:44:32Z | 2023-12-25T07:30:08Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8E%E3%83%B3 |
4,978 | 格子振動 | 格子振動(こうししんどう、英語: lattice vibration)は、結晶中の原子が、それぞれの安定な位置(格子点)の周辺で行う微小な振動である。固体における熱の一部は、この格子振動に由来しており、ある固体の温度が高い時、その個体における格子振動の振幅が大きいことを示している。
格子振動は、熱伝導の原因の一つであり、比熱とも関係が深い(→デバイ比熱)、また格子振動によって電子が散乱される(→電気伝導に影響)。
格子振動は、従来型の超伝導と深く関わっている(→BCS理論)。格子振動の量子は、フォノンである。
アインシュタインは1911年に、固体の比熱の温度変化を説明するためにアインシュタイン模型を提唱した。この模型では、結晶の各原子が独立に一定の振動数で振動する振動子とした。これに量子仮説と組み合わせて、固体の比熱が高温でに古典値に、低温では急激に0になることを示した。しかしアインシュタイン模型は、格子振動を単純化しすぎていた。
この拡張として振動子間に相互作用を入れて結合系の基準振動を考える試みは、翌年の1912年にボルンとフォン・カルマンによって、また同じ1912年にデバイによっても行われた。ボルンとフォン・カルマンは、実際の固体の構造は、原子が周期的な三次元配列に並んだものであると仮定した格子模型を示した。このときは格子模型はまだ仮説でしかなかった。結晶によるX線回折の発見はFriedrich、Knipping、ラウエによって1913年に公にされ、格子理論が確固としたものになった。格子理論では固体中の原子は格子振動しており、それぞれの格子振動は波数ベクトル、振動数、かたよりの性質によって特徴づけられる。これは系の基準モードであって、そのエネルギーは同じ振動数をもつ調和振動子の場合と同じように量子化される(このとき生じる量子がフォノン)。そうすると結晶にただ一つの振動数が付随するのではなくて、ある複雑な仕組みで原子間の力に依存する振動数分布が存在することになる。
一方でデバイ模型では固体を離散的な格子でなく、連続弾性体とした。これはボルン-フォン・カルマンの理論ほど正確なものではなかったが、単純さの点では優れていた。デバイ模型では、基準モードは等方的な連続媒質中の波動のように取り扱われ、離散的な点の位置に質量が集中しているような系での波動とは扱わない。しかしこのことにより振動数分布が非常に簡単になり、アインシュタイン模型と同じように定積熱容量CVはすべての結晶に対してT/θDの同じ関数になる。このθDはデバイ温度である。デバイによって導入された振動数分布は結晶の実際の振動数分布の特性をかなり取り入れているため、多くの実験事実とよく合っていた。弾性波(音波)の量子(フォノン)の集まりを考えることで、低温におけるT則と高温のデュロン・プティの法則が導かれた。
理論と実験結果との比較によってデバイ理論の欠点が注目されるようになったのは1930年代である。ボルンとフォン・カルマンの理論を用いてその正しい説明を与えたのがBlackmanである。
原子の熱運動が結晶のX線反射に与える影響については、デバイやアイバー・ワラー(英語版)によって論じられた。格子振動によってブラッグ反射強度が減少するだけでなく、ブラッグの法則では許されないような方向にでてくる熱散漫散乱も格子振動は影響を与える。この事実は1938年にLavalによって実験的に見いだされた。またLavalはボルンとフォン・カルマンの理論を用いて正しい説明を与えた。
結晶の比熱は、調和近似以上に理論を進めなくても、かなり良く理解することができる。そして理論はフォノンの振動数だけが関係しているため比較的簡単である。一方で熱伝導率は、格子波と結晶の境界、不純物原子、および転移などの欠陥との相互作用や格子波間の相互作用を考慮しなければ全く理解できない。熱伝導の理論は、1929年にパイエルスによって与えられた。パイエルスはまた格子振動による電子散乱の理論にも貢献したが、この散乱は調和近似においても電気抵抗に寄与するものである。
3次元結晶のポテンシャルエネルギーを平衡位置からのずれ(変位) u {\displaystyle u} でテイラー展開すると、次のように書ける。
ここで α , β , γ , ... {\displaystyle \alpha ,\beta ,\gamma ,\dots } は x , y , z {\displaystyle x,y,z} のいずれか、 l {\displaystyle l} は結晶中の単位セルの位置、 b {\displaystyle b} は単位セル中の原子の位置を表す。 U 2 {\displaystyle U_{2}} は調和ポテンシャル、 U 3 , U 4 , ... {\displaystyle U_{3},U_{4},\dots } は非調和ポテンシャルと呼ばれる。
振動が小さいならば、調和振動と見なすことができる。この調和近似のときは、以下のことが結論できる。
一方で振動が激しいときは、非調和振動の影響が大きくなり、モード間での相互作用が生じる。その結果、熱膨張や格子波の減衰などの現象が起こる。
振動が微少である場合は、基準振動(固有振動)の足し合わせで表せる。基準振動は独立な調和振動子である。よって格子振動は独立な調和振動子の集まりと等価である。
原子の3次元格子を扱う前に、単純化した1次元格子(または線形鎖)のモデルを考える。このモデルでも十分に複雑で、フォノンの重要な特徴が表れている。
原子間に働く力は線形で、最近傍のみ働くと過程すると、弾性ばねによって表される。 それぞれの原子は点粒子と仮定し、原子核と電子は互いに足並みを合わせて運動すると考える(断熱近似)。
···o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o···
ここでnはn番目の原子、dは鎖が平衡状態にあるときの原子間距離、 unはn番目の原子の平衡位置からの変位である。
Cをばね定数、mを原子の質量とすると、n番目の原子の運動方程式は次にようになる。
これは結合方程式であり、解は振動的だと予想されるため、離散フーリエ変換によって新たな座標を定義して分解することができる。 ここで解として次を考える。
ここでndは通常の連続変数xを置き換える。 Ukは基準座標として知られている。 これを運動方程式に代入すると、次のように分解される(これには離散フーリエ変換における正規直交性と完全性関係が必要である。
これは次の解を持つ調和振動子の運動方程式である。
それぞれの基準座標Ukは、基準モード(ノーマルモード)として知られる波数kを持つ格子の独立した振動モードを表す。
ωkについての2つ目の式は角周波数と波数の間の分散関係と呼ばれる 。
N個の原子からなる結晶では、振動モードは3N個だけある。そのうち3個は音響モードであり、残りの3(N-1)個は光学モードである。波数ベクトルkが0の極限で固有振動数ωが0になるようなモードを音響モードという。一方0にならないモードを光学モードという。
音響モードでは単位胞内の原子は同じ方向に変位する。波数が0の音響モードは、すべての構成原子が一斉に同じ方向に同じ振幅だけ動くようなモードであり、またその振動数は0である。長波長の音響モードの格子振動は弾性波として表すことができる。
一方、光学モードでは単位胞内の隣りあう原子が反対向きに運動する。波数が0のときの光学モードでは、多原子系の重心は不変である。光学モードは双極子モーメントの変化を伴うため光学的に活性である。光学モードでは結晶の属する点群、モードの対称性を表す既約表現の種類によって、ラマン活性や赤外活性を評価できる。赤外活性であるならば赤外吸収によって、ラマン活性ならばラマン散乱によって、その振動数を知ることができる。
ある波数ベクトルkで表されるモードは、縦波モードと横波モードに分類することができる。
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] | 格子振動は、結晶中の原子が、それぞれの安定な位置(格子点)の周辺で行う微小な振動である。固体における熱の一部は、この格子振動に由来しており、ある固体の温度が高い時、その個体における格子振動の振幅が大きいことを示している。 格子振動は、熱伝導の原因の一つであり、比熱とも関係が深い(→デバイ比熱)、また格子振動によって電子が散乱される(→電気伝導に影響)。 格子振動は、従来型の超伝導と深く関わっている(→BCS理論)。格子振動の量子は、フォノンである。 | {{出典の明記|date=2011年7月}}
'''格子振動'''(こうししんどう、{{lang-en|lattice vibration}})は、[[結晶]]中の[[原子]]が、それぞれの安定な位置(格子点)の周辺で行う微小な振動である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=格子振動とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A0%BC%E5%AD%90%E6%8C%AF%E5%8B%95-62180|website=コトバンク|accessdate=2021-07-01|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典|last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref>。固体における熱の一部は、この格子振動に由来しており、ある固体の温度が高い時、その個体における格子振動の振幅が大きいことを示している<ref name=":0" />。
格子振動は、[[熱伝導]]の原因の一つであり、[[比熱]]とも関係が深い(→[[デバイ比熱]])、また格子振動によって[[電子]]が散乱される(→[[電気伝導]]に影響)。
格子振動は、従来型の超伝導と深く関わっている(→[[BCS理論]])。格子振動の[[量子]]は、[[フォノン]]である。
== 歴史 ==
=== 比熱 ===
[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]は1911年に、固体の[[比熱]]の温度変化を説明するために[[アインシュタイン模型]]を提唱した。この模型では、結晶の各原子が独立に一定の振動数で振動する振動子とした。これに[[量子仮説]]と組み合わせて、固体の比熱が高温でに古典値に、低温では急激に0になることを示した。しかしアインシュタイン模型は、格子振動を単純化しすぎていた。
この拡張として振動子間に相互作用を入れて結合系の[[基準振動]]を考える試みは、翌年の1912年に[[マックス・ボルン|ボルン]]と[[フォン・カルマン]]によって、また同じ1912年に[[デバイ]]によっても行われた。[[マックス・ボルン|ボルン]]と[[フォン・カルマン]]は、実際の固体の構造は、原子が周期的な三次元配列に並んだものであると仮定した'''格子模型'''を示した。このときは格子模型はまだ仮説でしかなかった<ref>{{cite|和書 |author=芳田 奎|title=固体物理-その発展と現代の焦点- |publisher=岩波書店 |year=1976 }}</ref><ref>M. Born, Th. von Kármán, Über Schwingungen in Raumgittern. Z. Physik 13, 297–309 (1912)</ref>。結晶によるX線回折の発見はFriedrich、Knipping、[[ラウエ]]によって1913年に公にされ、格子理論が確固としたものになった<ref>{{cite journal|author=Friedrich W|author2=Knipping P|author3=von Laue M|date=1912|title=Interferenz-Erscheinungen bei Röntgenstrahlen|journal=Sitzungsberichte der Mathematisch-Physikalischen Classe der Königlich-Bayerischen Akademie der Wissenschaften zu München|volume=1912|page=303}}</ref>。格子理論では固体中の原子は'''格子振動'''しており、それぞれの格子振動は波数ベクトル、振動数、かたよりの性質によって特徴づけられる。これは系の基準モードであって、そのエネルギーは同じ振動数をもつ調和振動子の場合と同じように量子化される(このとき生じる量子がフォノン)。そうすると結晶にただ一つの振動数が付随するのではなくて、ある複雑な仕組みで原子間の力に依存する振動数分布が存在することになる<ref name=cochran>{{Cite book |和書 |author=W・Cochran|translator=小林正一、福地充|year= 1975|title=固体物性シリーズ3 格子振動|publisher=丸善}}</ref>。
一方で[[デバイ模型]]では固体を離散的な格子でなく、[[連続弾性体]]とした。これはボルン-フォン・カルマンの理論ほど正確なものではなかったが、単純さの点では優れていた。デバイ模型では、基準モードは等方的な連続媒質中の波動のように取り扱われ、離散的な点の位置に質量が集中しているような系での波動とは扱わない。しかしこのことにより振動数分布が非常に簡単になり、アインシュタイン模型と同じように[[定積熱容量]]''C''<sub>V</sub>はすべての結晶に対してT/θ<sub>D</sub>の同じ関数になる。このθ<sub>D</sub>はデバイ温度である。デバイによって導入された振動数分布は結晶の実際の振動数分布の特性をかなり取り入れているため、多くの実験事実とよく合っていた。弾性波(音波)の量子([[フォノン]])の集まりを考えることで、低温におけるT<sup>3</sup>則と高温の[[デュロン・プティの法則]]が導かれた。
理論と実験結果との比較によってデバイ理論の欠点が注目されるようになったのは1930年代である。ボルンとフォン・カルマンの理論を用いてその正しい説明を与えたのがBlackmanである<ref name=cochran/>。
=== X線散乱への影響 ===
原子の熱運動が結晶のX線反射に与える影響については、デバイや{{仮リンク|アイバー・ワラー|en|Ivar Waller}}によって論じられた。格子振動によってブラッグ反射強度が減少するだけでなく、ブラッグの法則では許されないような方向にでてくる[[熱散漫散乱]]も格子振動は影響を与える。この事実は1938年にLavalによって実験的に見いだされた。またLavalはボルンとフォン・カルマンの理論を用いて正しい説明を与えた<ref name=cochran/>。
=== 熱伝導・電気伝導 ===
結晶の比熱は、調和近似以上に理論を進めなくても、かなり良く理解することができる。そして理論はフォノンの振動数だけが関係しているため比較的簡単である。一方で熱伝導率は、格子波と結晶の境界、不純物原子、および転移などの欠陥との相互作用や格子波間の相互作用を考慮しなければ全く理解できない。熱伝導の理論は、1929年に[[パイエルス]]によって与えられた。パイエルスはまた格子振動による電子散乱の理論にも貢献したが、この散乱は調和近似においても電気抵抗に寄与するものである<ref name=cochran/>。
== 調和性と非調和性 ==
3次元結晶の[[ポテンシャルエネルギー]]を平衡位置からのずれ(変位)<math>u</math>でテイラー展開すると、次のように書ける<ref>Srivastava G. P (1990), ''The Physics of Phonons''. Adam Hilger, IOP Publishing Ltd, Bristol.</ref>。
:<math>\begin{align}
U &= U_0
+ \sum_{lb\alpha}\frac{\partial U}{\partial u_\alpha(lb)}\Bigg|_0 u_{\alpha}(lb)
+\frac{1}{2!} \sum_{lb, l'b'}\sum_{\alpha\beta}\frac{\partial^2 U}{\partial u_\alpha(lb)\partial u_\beta(l'b')}\Bigg|_0 u_{\alpha}(lb)u_\beta(l'b')
+\frac{1}{3!} \sum_{lb, l'b', l''b''}\sum_{\alpha\beta\gamma}\frac{\partial^2 U}{\partial u_\alpha(lb)\partial u_\beta(l'b')\partial u_\gamma(l''b'')}\Bigg|_0 u_{\alpha}(lb)u_\beta(l'b') u_\gamma(l''b'')
+\dots \\
& =U_0
+\frac{1}{2!} \sum_{lb, l'b'}\sum_{\alpha\beta}\Phi_{\alpha\beta}(lb,l'b') u_{\alpha}(lb)u_\beta(l'b')
+\frac{1}{3!} \sum_{lb, l'b', l''b''}\sum_{\alpha\beta\gamma}\Phi_{\alpha\beta\gamma}(lb,l'b',l''b'') u_{\alpha}(lb)u_\beta(l'b')u_\gamma(l''b'')
+\dots \\
& =U_0+U_2+U_3+\dots \\
\end{align}</math>
ここで<math>\alpha, \beta, \gamma, \dots</math>は<math>x, y, z</math>のいずれか、<math>l</math>は結晶中の単位セルの位置、<math>b</math>は単位セル中の原子の位置を表す。<math>U_2</math>は調和ポテンシャル、<math>U_3, U_4, \dots</math>は非調和ポテンシャルと呼ばれる。
振動が小さいならば、[[調和振動]]と見なすことができる。この調和近似のときは、以下のことが結論できる<ref>{{Cite book |和書 |author=チャールズ・キッテル|authorlink=チャールズ・キッテル|translator=宇野良清ほか|year= 2005|title=キッテル 固体物理学入門 第8版|publisher=丸善|isbn=978-4621076569}}</ref>。
* 2つの格子波は相互作用しない。1個の波動は減衰しないし、時間が経過しても形が変わらない。
* [[熱膨張]]がない
* 等温[[弾性定数]]と断熱弾性定数は等しい。
* 弾性定数は圧力と温度に無関係である。
* ([[デバイ温度]]より)高い温度で、比熱は一定になる。
一方で振動が激しいときは、[[非調和振動]]の影響が大きくなり、モード間での相互作用が生じる。その結果、熱膨張や格子波の減衰などの現象が起こる。
==基準振動==
振動が微少である場合は、[[基準振動]]([[固有振動]])の足し合わせで表せる。基準振動は独立な[[調和振動子]]である。よって格子振動は独立な調和振動子の集まりと等価である<ref>{{Cite book|和書|last=田崎|first=晴明|authorlink=田崎晴明|title=統計力学 I|publisher=[[培風館]]|date=2008-12-5|isbn=978-4-563-02437-6}}</ref>。
== 1次元格子の古典論 ==
原子の3次元格子を扱う前に、単純化した1次元格子(または線形鎖)のモデルを考える。このモデルでも十分に複雑で、フォノンの重要な特徴が表れている。
原子間に働く力は線形で、最近傍のみ働くと過程すると、弾性ばねによって表される。
それぞれの原子は点粒子と仮定し、原子核と電子は互いに足並みを合わせて運動すると考える([[断熱近似]])。
::::::::''n'' − 1 {{pad|1em}} ''n'' {{pad|2em}} ''n'' + 1 {{pad|5em}} ← {{pad|1em}} ''d'' {{pad|1em}} →
···o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o++++++o···
::::::::→→{{pad|2em}}→{{pad|2em}}→→→
::::::::''u''<sub>''n'' − 1</sub>{{pad|2em}}''u<sub>n</sub>''{{pad|2em}}''u''<sub>''n'' + 1</sub>
ここで''n''は''n''番目の原子、''d''は鎖が平衡状態にあるときの原子間距離、 ''u<sub>n</sub>''は''n''番目の原子の平衡位置からの変位である。
''C''をばね定数、''m''を原子の質量とすると、''n''番目の原子の運動方程式は次にようになる。
:<math>-2Cu_n + C\left(u_{n+1} + u_{n-1}\right) = m\frac{d^2u_n}{dt^2}</math>
これは結合方程式であり、解は振動的だと予想されるため、離散フーリエ変換によって新たな座標を定義して分解することができる<ref>{{cite book|last=Mattuck |first=R. |title=A guide to Feynman Diagrams in the many-body problem}}</ref>。
ここで解として次を考える。
:<math>u_n = \sum_{k=1}^N U_k e^{iknd}</math>
ここで''nd''は通常の連続変数''x''を置き換える。
''U<sub>k</sub>''は基準座標として知られている。
これを運動方程式に代入すると、次のように分解される(これには離散フーリエ変換における[[正規直交性]]と[[完全性]]関係が必要である<ref>{{cite book|last1=Greiner |last2=Reinhardt |title=Field Quantisation}}</ref>。
: <math> 2C(\cos {kd-1})U_k = m\frac{d^2U_k}{dt^2}</math>
これは次の解を持つ調和振動子の運動方程式である。
:<math>U_k=A_ke^{i\omega_kt};\qquad \omega_k=\sqrt{ \frac{2C}{m}(1-\cos{kd})}</math>
それぞれの基準座標''U<sub>k</sub>''は、[[基準モード]](ノーマルモード)として知られる波数''k''を持つ格子の独立した振動モードを表す。
''ω<sub>k</sub>''についての2つ目の式は[[角周波数]]と[[波数]]の間の[[分散関係]]と呼ばれる
<ref>{{cite book|last1=Donovan |first1=B. |last2=Angress |first2=J. |title=Lattice Vibrations}}</ref>。
== 音響モードと光学モード ==
[[File:Optical & acoustic vibrations-en.svg|thumb|250px|二原子鎖における光学(optical)モードと音響(acoustic)モード]]
[[File:Diatomic phonons.png|thumb|250px|線形2原子鎖における[[分散曲線]]。opticalは光学モード、acousticは音響モード]]
N個の原子からなる結晶では、[[モード (物理学)|振動モード]]は3N個だけある。そのうち3個は'''音響モード'''であり、残りの3(N-1)個は'''光学モード'''である。[[波数ベクトル]]'''k'''が0の極限で固有振動数ωが0になるようなモードを'''音響モード'''という。一方0にならないモードを'''光学モード'''という。
音響モードでは単位胞内の原子は同じ方向に変位する。波数が0の音響モードは、すべての構成原子が一斉に同じ方向に同じ振幅だけ動くようなモードであり、またその振動数は0である。長波長の音響モードの格子振動は[[弾性波]]として表すことができる。
一方、光学モードでは単位胞内の隣りあう原子が反対向きに運動する。波数が0のときの光学モードでは、多原子系の[[重心]]は不変である。光学モードは双極子モーメントの変化を伴うため光学的に活性である。光学モードでは結晶の属する[[点群]]、モードの対称性を表す[[既約表現]]の種類によって、[[ラマン活性]]や[[赤外活性]]を評価できる。赤外活性であるならば[[赤外吸収]]によって、ラマン活性ならば[[ラマン散乱]]によって、その振動数を知ることができる。
== 縦波モードと横波モード ==
ある波数ベクトル'''''k'''''で表されるモードは、'''[[縦波]]モード'''と'''[[横波]]モード'''に分類することができる。
有限の波数を持つ縦波モードは[[疎密波]]であり、固体の周期的な体積変化をもたらす。体積変化は密度変化である。横波モードには密度変化は見られない。
== 関連項目 ==
*[[熱振動]]
*[[DFPT法]]
*[[物性物理学]]
==脚注==
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== 参考文献 ==
* 今野豊彦 『物質の対称性と群論』 共立出版、2001年。ISBN 4-320-03409-0。
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[[Category:固体物理学]]
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4,979 | 化石 | 化石(かせき、英語: Fossil、ギリシャ語:απολίθωμα)とは、地質時代に生息していた生物が死骸となって長く残っていたもの、もしくはその活動の痕跡を指す。
多くは、古い地層の中の堆積岩において発見される。化石の存在によって知られる生物のことを古生物といい、化石を素材として、過去の生物のことを研究する学問分野を古生物学という。
の二重の性格を併せもっている。
化石は、過去の生物の遺骸や遺跡が何らかの形で地層の中から発見されたものである。腐敗から化石化までのメカニズムなどを研究する学問をタフォノミーという。この用語は、古生物学のイワン・エフレーモフが1940年に作った用語である。タフォノミーには、生物堆積論と化石続成の大きく2分野がある。
遺骸が地層にとじ込められたのち、肉などの軟質部は通常、化学変化により失われる。したがって化石には動物の骨や殻、歯などの固い組織の部分を主として、それらが鉱物に置換されて残っているものが多いが、木の葉や恐竜をはじめとする動物の皮膚や羽毛の型が残っているもの、貝などの内部が鉱物で充填されたものもある。形状的には、凸型(雄型、石膏型形状)のものを「カスト」、凹型(雌型、鋳型形状)を「モールド」と呼ぶ。また、軟体性生物あるいは生物における軟質部が酸素の少ない泥に閉じ込められたバージェス頁岩のような例もまれに見つかる。
また、鉱物に置換されていない例として、炭化した植物、琥珀(こはく)に取り込まれた昆虫、シベリアで発掘された生体に近いマンモス、新しい時代では貝殻がそのまま化石になるなどの例もある。2005年、アメリカでティラノサウルスの大腿骨から柔軟性を残した血管や骨細胞が発見され、どのくらい組織が残されているか注目されている。
生物体それ自体だけでなく生物活動の跡(遺跡)も生痕化石といわれ、化石の一種とされる(足跡、這い跡、巣穴など)。生痕化石は、生物本体の化石よりも重要ではないと考えられるかもしれないが、必ずしもそうではない。生物体化石だけでは判らないことが、生痕化石から判断できる場合も多い。発達した生物が多く現れる古生代カンブリア紀の始めを示すのは這い跡の生痕化石であり、恐竜の行動様式が判るのは足跡の研究の成果である。タンザニアでは、360万年前のアウストラロピテクスの足跡の化石が見つかっており、そこでは親子が並んで二足歩行していることが実際に確かめられている。
動物の糞の化石(糞化石)も、その動物の消化器官の様子や、餌にしていた生物を知る重要な手がかりとなる。また、恐竜の卵の化石は一箇所に集中して大量に見つかることが多く、マイアサウラのように、ある種の恐竜は子育てをしたのではないかと推論される証拠も見つかって、このような例から動物たちの多様な行動様式を知ることができる。
いずれにせよ、化石としてのこる生物は偶然に左右され、その身体の部位、条件、その他きわめて限られた場合だけである。たとえば、鳥類については他のものより産出量は少なく、始祖鳥と現世鳥類を結ぶ進化の過程には未解明な点が今なお多い。また、化石から分かる情報もそれなりに限られたものである。しかし、過去の生物を直接目にすることは、化石を通じてしかありえない。それゆえ、進化という考えの起源の一つが化石研究であったのは当然である。とはいえ、化石から生物界の種すべての情報を引き出せるわけではない。生物界全体を見渡せば、化石から系統進化にかかわる知識を汲み出せるのは動物界と植物界だけにほぼ限られると言ってよい。菌界、原生生物界、細菌、古細菌の化石の産出も少なくないが、微化石として多産するもの以外については、通常、断片的な知識しか得ることができない。
ただし、原核生物など極めて情報量の乏しい生物群でも、他生物の化石と細胞内共生やLGTなどを利用して関連付けることで系統樹に関する情報を得ることができる場合がある。分類群特有の成分も分子化石として産出する場合がある。
化石の中には本体とは別種の生物の生態を示すものがあり、有名なものに歯型が残る化石が挙げられる。例えばアルゼンチンから発見された四肢動物の化石には、爬虫類(ワニやドロマエオサウルス科)が食べ残したと思しき骨に、さらに哺乳類が歯型を残しており、死骸が余すことなく活用されたことを示している。
古生物遺体(遺骸)としての化石は、生物学上の分類にしたがって動物化石、植物化石などのように分類されるが、上述のように遺骸か遺跡か、また遺存の状況や程度によっても分類が可能である。表にまとめると以下のようになるが、あくまでもこれは代表的でわかりやすい事例を掲げたにすぎない。
生物そのものでなく、足跡や糞などの生痕が残ったものを生痕化石という。生物もしくは、その一部は体化石という。
大きさによる分類として、微化石、大型化石(英語版)がある
古くから化石の存在は知られていた。古代ギリシアにおいては、化石を過去の生物と見るものがあったが、アリストテレスは特殊な力によって石の中に生まれるものとみなし、そのため、ヨーロッパでは化石への正しい認識が遅れた。その後の流れの中では、キリスト教の教義とのかかわりもあり、化石を『旧約聖書』に記載されている「ノアの方舟」伝説における洪水の犠牲と見る考え方も長く維持されてきた。
また、化石化した魚は地下水を泳ぐ魚であると解釈されたりもした。「化石」を意味する英語/ドイツ語単語 fossil やフランス語単語 fossile などがラテン語で「掘り起こされた」を意味する fossilis (「掘る」を意味する動詞 fodere から派生したもの)に由来するのはそのためである。
1796年、フランスの博物学者ジョルジュ・キュビエは現生のゾウの骨格とゾウの化石との詳細な比較を行い、この化石は現生種とはまったく異なる古代に絶滅した種であると結論付け、この化石種を「マンモス」と命名した。ほどなくシベリアの永久凍土から氷づけのマンモスが発見され、キュビエの考えに強力な裏づけが得られた。1811年、イギリスのメアリー・アニングによってイクチオサウルスの化石が発見され、解剖学的特徴などについて研究がなされ、これを契機に化石研究が盛んにおこなわれるようになった。化石の研究は、生物学に対しては進化論の重要な証拠となった。ただし、キュビエは反進化論者であった。彼は神による創造という概念から抜けられず、そのために、過去において、時代によって異なる生物が見られるのは、神が生命を創造し、それをノアの洪水のような災害によって滅ぼし、あらためて生命を創造する、ということを繰り返した結果だとする「天変地異説」をとなえ、当時進化論を主張していたジャン=バティスト・ラマルクと激しく対立した。
このように化石は生物の進化の証拠の一つであるが、アメリカ合衆国では、生物の進化はキリスト原理主義と相容れないとして、初等教育では教えてはならないとされる地域もある。
生命がいつ誕生したかについては諸説がある。グリーンランドのイスア地方では、38億年前(先カンブリア時代)の堆積岩中に生命に由来するものと思われる炭素の層が見つかっており、オーストラリアでは保存状態が良好な34億6,000万年前以前のバクテリアの化石が西オーストラリア州より発見されている。同州では、さらに1億年以上古いと推定される化石も見つかっており、早ければ43億年前に生命が発生したと考える研究者もいる。いずれにせよ、化石は生命の起源を探究していくうえで重要な鍵を握る直接的な資料となっている。
化石は過去の生物の遺骸であることから、過去の生物を復元的に考察し、古生物界の様相や推移を知るためのほぼ唯一の資料であり、誕生以来長く続いてきた生命の長い歴史、とくに系統進化の直接的な証拠となる。生物は、地球の歴史のなかで生まれ、それが分化し、あるものは繁栄して、その後ある種は絶滅するが、再び新しい生物群が誕生するという巨大な流れを展開している。この流れのなかで、かつては多くの種に分かれて繁栄したものの、現在はその子孫がごく限られた場所にわずかに生き残っている例を「生きている化石」とよんでいる。
生命誕生以来、地球の表層部に蓄積された化石は莫大な数に達する。これらの化石は記載され、化石標本をもとに同定され、現生の生物と同様にその系統的類縁関係の検討の結果、過去から現在につらなる動植物界のドメイン・界・門・綱・目・科・属・種などの分類上の階級的位置が定められ、系統進化の道筋が明らかにされた。それは通常系統樹(デンドログラム)というかたちでまとめられ、叙述される。また、データの検討と考察によって、種の分化、進化のスピード、絶滅の原因などについても追究されている。さらに、こんにちではコンピュータによる統計処理によってデータの定量的解析が飛躍的に進んでいる。だが、現生の生物の祖先の形を知るには、現在でも化石以外に頼れる証拠はない。いずれにせよ、系統学の存在と発展にとって化石はなくてはならない根本的な資料であり、化石がなくては系統学そのものが成り立たない。
系統学と分類学は密接な関係にある。生物の多様性に関して重要なのは、それが「種」とよばれる不連続群によって最も意味深くあらわれることである。系統学においては連続的なものとしてまとめられることが、ここでは不連続的な一単位を基礎に検討される。また、分類学は古生物のみならず現世の生物をも対象としている。ここでも化石は、他の動植物の標本資料とならんで自然分類を考察していくうえでの重要な手掛かりとなって居る可能性がある。
化石を堆積物としてみた場合、そもそも「古生代」「中生代」「新生代」など地質時代の区分(地質年代)は、化石にもとづいて定められたものであり、カンブリア紀は俗に「三葉虫時代」と呼ばれたりする。
地質学研究の分野において化石を利用する目的には、
などがある。後述する示準化石は1.の、示相化石は3.の根拠となる化石のことであるが、もとより、この二者は互いに対立するものではなく、示準化石であると同時に示相化石である場合も多い。
2.に関しては、三畳紀初期の陸棲の四脚歩行動物であるLystrosaurus(リストロサウルス)の化石がアフリカ大陸と南極大陸の両方で見つかったことにより、アフリカから南極まで乾いた陸の上を歩いたものと考えられ、それゆえ両大陸がかつて接続していた蓋然性があらためて指摘された。同様に、Cynognathus(哺乳類型爬虫類)、Mesosaurus(淡水性の爬虫類)、Glossopteris(シダ類)の化石がいずれもこんにち遠く隔たった複数の大陸にまたがって発見されている。このことは、南半球にかつてひとつながりの大きな大陸(ゴンドワナ大陸)が存在していたとする仮定、大陸移動説およびプレートテクトニクス理論の両仮説を裏付ける物的な証拠資料と考えられる。
放射性同位体による年代推定法が確立するまでは、地層のできた時代を知る手がかりは、化石のみであった。そのなかでも、特定の地質時代に限り生息していた特定の種の化石は示準化石と呼ばれ、それぞれの地層の年代決定に用いられる。これは、イギリスのウィリアム・スミスの研究により確立された方法である。示準化石として好ましい条件には、以下のようなものがある。
示準化石の例としては三葉虫(古生代)、フデイシ(古生代)、アンモナイト(中生代)、ビカリア(新生代)などがある。
特定の環境(気候、水深、水温、地形など)に限って棲息していた特定の種の化石は示相化石と呼ばれ、地層が堆積した古環境の検討や特定に用いられる。示相化石は、サンゴ(暖かく澄んだ浅い海)やシジミ(川の河口付近)などがわかりやすい例であるが、実際にはすべての化石が多かれ少なかれ示相化石としての意味をもつものであり、とくに植物化石は、古気候などを知る重要な資料となっている。こんにち、第四紀における気候の変遷はそれぞれの種の植物化石の消長によって詳細にたどられている。
恐竜、アンモナイト等の古生物の化石は古生物に関する知識を与え、太古の生物へのロマンを感じることができる。アマチュア古生物マニアも数多く存在し、稀少な化石はとくに高値で売買される。博物館でも、特別展や企画展の目玉となることが多いので、高額でやりとりされる場合が少なくない。「龍」も恐竜の化石からイメージされたのではないかと考えられることがあり、恐竜化石は人気が高い。最近では珍しい化石の発掘が商業ベースで進んでおり、有名になった化石が産地を離れて遠隔地のコレクターの手に流れることもあり、研究者たちも頭を痛めている。裏ルートで高額に売り出されてしまうケースも少なくない。
また、古い時代から漢方薬として用いられたり、アンモナイトの化石には魔力が宿るなどとされたりといったかたちで、長く利用されてきた歴史がある。中医学では大型ほ乳類の骨の化石を「竜骨」、歯牙を「竜歯」、角を「竜角」と呼び、いずれも鎮静、不眠などに用いられ、これらの遺物は正倉院薬物中にもみえる。また、甲骨文字の発見は清末の金石学者王懿栄が持病のマラリアの治療薬として「竜骨」を求めたことに端を発するといわれている。
現在でも、三葉虫やアンモナイトなどの美しい化石はアクセサリーに用いられている場合がある。特殊な化石では、宝石や美しい鉱物の成分に置き換わっているものがあり、それ自体が宝石として流通するものがある。琥珀は樹木から分泌された樹液の化石であり、一種の生痕化石であるが、多くの場合宝飾品となり、特に中に昆虫などが封入されたものが珍重される。世界的にはバルト海沿岸の琥珀が特に良質とされ、日本では岩手県久慈市が代表産地である。マイケル・クライトン原作の小説およびその映画化ジュラシック・パーク」では琥珀中の蚊の体内に恐竜の赤血球が残され、そこから恐竜のDNAが抽出されるという設定になっているが、現実にはDNAが保持していた遺伝情報は失われているはずである。また、日本で勾玉の素材などとして愛好されてきた碧玉の多くは放散虫の遺体で形成されている。
なお、石炭・石油・天然ガスは古生物の遺骸が化学変化を受けたものであることから化石燃料とよばれる。
古生物の遺骸がそのまま堆積して岩石化したものとしては石灰岩、苦灰岩、チャート、珪藻土がある。そのほか、海鳥の糞が堆積・固化してできるグアノを起源とするリン鉱床、鉄バクテリアにより生成された鉄鉱床など、人間生活にとって有用な地下資源となっているものも少なくない。 | [
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1796年、フランスの博物学者ジョルジュ・キュビエは現生のゾウの骨格とゾウの化石との詳細な比較を行い、この化石は現生種とはまったく異なる古代に絶滅した種であると結論付け、この化石種を「マンモス」と命名した。ほどなくシベリアの永久凍土から氷づけのマンモスが発見され、キュビエの考えに強力な裏づけが得られた。1811年、イギリスのメアリー・アニングによってイクチオサウルスの化石が発見され、解剖学的特徴などについて研究がなされ、これを契機に化石研究が盛んにおこなわれるようになった。化石の研究は、生物学に対しては進化論の重要な証拠となった。ただし、キュビエは反進化論者であった。彼は神による創造という概念から抜けられず、そのために、過去において、時代によって異なる生物が見られるのは、神が生命を創造し、それをノアの洪水のような災害によって滅ぼし、あらためて生命を創造する、ということを繰り返した結果だとする「天変地異説」をとなえ、当時進化論を主張していたジャン=バティスト・ラマルクと激しく対立した。",
"title": "研究史"
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"text": "このように化石は生物の進化の証拠の一つであるが、アメリカ合衆国では、生物の進化はキリスト原理主義と相容れないとして、初等教育では教えてはならないとされる地域もある。",
"title": "研究史"
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"text": "生命がいつ誕生したかについては諸説がある。グリーンランドのイスア地方では、38億年前(先カンブリア時代)の堆積岩中に生命に由来するものと思われる炭素の層が見つかっており、オーストラリアでは保存状態が良好な34億6,000万年前以前のバクテリアの化石が西オーストラリア州より発見されている。同州では、さらに1億年以上古いと推定される化石も見つかっており、早ければ43億年前に生命が発生したと考える研究者もいる。いずれにせよ、化石は生命の起源を探究していくうえで重要な鍵を握る直接的な資料となっている。",
"title": "化石の意義"
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"text": "化石は過去の生物の遺骸であることから、過去の生物を復元的に考察し、古生物界の様相や推移を知るためのほぼ唯一の資料であり、誕生以来長く続いてきた生命の長い歴史、とくに系統進化の直接的な証拠となる。生物は、地球の歴史のなかで生まれ、それが分化し、あるものは繁栄して、その後ある種は絶滅するが、再び新しい生物群が誕生するという巨大な流れを展開している。この流れのなかで、かつては多くの種に分かれて繁栄したものの、現在はその子孫がごく限られた場所にわずかに生き残っている例を「生きている化石」とよんでいる。",
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"text": "生命誕生以来、地球の表層部に蓄積された化石は莫大な数に達する。これらの化石は記載され、化石標本をもとに同定され、現生の生物と同様にその系統的類縁関係の検討の結果、過去から現在につらなる動植物界のドメイン・界・門・綱・目・科・属・種などの分類上の階級的位置が定められ、系統進化の道筋が明らかにされた。それは通常系統樹(デンドログラム)というかたちでまとめられ、叙述される。また、データの検討と考察によって、種の分化、進化のスピード、絶滅の原因などについても追究されている。さらに、こんにちではコンピュータによる統計処理によってデータの定量的解析が飛躍的に進んでいる。だが、現生の生物の祖先の形を知るには、現在でも化石以外に頼れる証拠はない。いずれにせよ、系統学の存在と発展にとって化石はなくてはならない根本的な資料であり、化石がなくては系統学そのものが成り立たない。",
"title": "化石の意義"
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"text": "系統学と分類学は密接な関係にある。生物の多様性に関して重要なのは、それが「種」とよばれる不連続群によって最も意味深くあらわれることである。系統学においては連続的なものとしてまとめられることが、ここでは不連続的な一単位を基礎に検討される。また、分類学は古生物のみならず現世の生物をも対象としている。ここでも化石は、他の動植物の標本資料とならんで自然分類を考察していくうえでの重要な手掛かりとなって居る可能性がある。",
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"text": "化石を堆積物としてみた場合、そもそも「古生代」「中生代」「新生代」など地質時代の区分(地質年代)は、化石にもとづいて定められたものであり、カンブリア紀は俗に「三葉虫時代」と呼ばれたりする。",
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"text": "地質学研究の分野において化石を利用する目的には、",
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"text": "などがある。後述する示準化石は1.の、示相化石は3.の根拠となる化石のことであるが、もとより、この二者は互いに対立するものではなく、示準化石であると同時に示相化石である場合も多い。",
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"text": "2.に関しては、三畳紀初期の陸棲の四脚歩行動物であるLystrosaurus(リストロサウルス)の化石がアフリカ大陸と南極大陸の両方で見つかったことにより、アフリカから南極まで乾いた陸の上を歩いたものと考えられ、それゆえ両大陸がかつて接続していた蓋然性があらためて指摘された。同様に、Cynognathus(哺乳類型爬虫類)、Mesosaurus(淡水性の爬虫類)、Glossopteris(シダ類)の化石がいずれもこんにち遠く隔たった複数の大陸にまたがって発見されている。このことは、南半球にかつてひとつながりの大きな大陸(ゴンドワナ大陸)が存在していたとする仮定、大陸移動説およびプレートテクトニクス理論の両仮説を裏付ける物的な証拠資料と考えられる。",
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"text": "放射性同位体による年代推定法が確立するまでは、地層のできた時代を知る手がかりは、化石のみであった。そのなかでも、特定の地質時代に限り生息していた特定の種の化石は示準化石と呼ばれ、それぞれの地層の年代決定に用いられる。これは、イギリスのウィリアム・スミスの研究により確立された方法である。示準化石として好ましい条件には、以下のようなものがある。",
"title": "示準化石"
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"text": "示準化石の例としては三葉虫(古生代)、フデイシ(古生代)、アンモナイト(中生代)、ビカリア(新生代)などがある。",
"title": "示準化石"
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"text": "特定の環境(気候、水深、水温、地形など)に限って棲息していた特定の種の化石は示相化石と呼ばれ、地層が堆積した古環境の検討や特定に用いられる。示相化石は、サンゴ(暖かく澄んだ浅い海)やシジミ(川の河口付近)などがわかりやすい例であるが、実際にはすべての化石が多かれ少なかれ示相化石としての意味をもつものであり、とくに植物化石は、古気候などを知る重要な資料となっている。こんにち、第四紀における気候の変遷はそれぞれの種の植物化石の消長によって詳細にたどられている。",
"title": "示相化石"
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"text": "恐竜、アンモナイト等の古生物の化石は古生物に関する知識を与え、太古の生物へのロマンを感じることができる。アマチュア古生物マニアも数多く存在し、稀少な化石はとくに高値で売買される。博物館でも、特別展や企画展の目玉となることが多いので、高額でやりとりされる場合が少なくない。「龍」も恐竜の化石からイメージされたのではないかと考えられることがあり、恐竜化石は人気が高い。最近では珍しい化石の発掘が商業ベースで進んでおり、有名になった化石が産地を離れて遠隔地のコレクターの手に流れることもあり、研究者たちも頭を痛めている。裏ルートで高額に売り出されてしまうケースも少なくない。",
"title": "人間との関わり"
},
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"text": "また、古い時代から漢方薬として用いられたり、アンモナイトの化石には魔力が宿るなどとされたりといったかたちで、長く利用されてきた歴史がある。中医学では大型ほ乳類の骨の化石を「竜骨」、歯牙を「竜歯」、角を「竜角」と呼び、いずれも鎮静、不眠などに用いられ、これらの遺物は正倉院薬物中にもみえる。また、甲骨文字の発見は清末の金石学者王懿栄が持病のマラリアの治療薬として「竜骨」を求めたことに端を発するといわれている。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "現在でも、三葉虫やアンモナイトなどの美しい化石はアクセサリーに用いられている場合がある。特殊な化石では、宝石や美しい鉱物の成分に置き換わっているものがあり、それ自体が宝石として流通するものがある。琥珀は樹木から分泌された樹液の化石であり、一種の生痕化石であるが、多くの場合宝飾品となり、特に中に昆虫などが封入されたものが珍重される。世界的にはバルト海沿岸の琥珀が特に良質とされ、日本では岩手県久慈市が代表産地である。マイケル・クライトン原作の小説およびその映画化ジュラシック・パーク」では琥珀中の蚊の体内に恐竜の赤血球が残され、そこから恐竜のDNAが抽出されるという設定になっているが、現実にはDNAが保持していた遺伝情報は失われているはずである。また、日本で勾玉の素材などとして愛好されてきた碧玉の多くは放散虫の遺体で形成されている。",
"title": "人間との関わり"
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"text": "なお、石炭・石油・天然ガスは古生物の遺骸が化学変化を受けたものであることから化石燃料とよばれる。",
"title": "人間との関わり"
},
{
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"text": "古生物の遺骸がそのまま堆積して岩石化したものとしては石灰岩、苦灰岩、チャート、珪藻土がある。そのほか、海鳥の糞が堆積・固化してできるグアノを起源とするリン鉱床、鉄バクテリアにより生成された鉄鉱床など、人間生活にとって有用な地下資源となっているものも少なくない。",
"title": "人間との関わり"
}
] | 化石とは、地質時代に生息していた生物が死骸となって長く残っていたもの、もしくはその活動の痕跡を指す。 多くは、古い地層の中の堆積岩において発見される。化石の存在によって知られる生物のことを古生物といい、化石を素材として、過去の生物のことを研究する学問分野を古生物学という。 古生物として、
堆積物として、 の二重の性格を併せもっている。 | {{参照方法|date=2018年9月}}
[[File:Ammonite by Azu.jpg|250px|right|thumb|[[アンモナイト]]の化石]]
[[File:PetrifiedWood.jpg|250px|right|thumb|[[珪化木]](木の化石)]]
[[File:Crossotheca nodule.JPG|250px|right|thumb|植物の化石]]
'''化石'''(かせき、{{lang-en|Fossil}}、ギリシャ語:απολίθωμα)とは、[[地質時代]]に生息していた[[生物]]が死骸となって長く残っていたもの、もしくはその活動の痕跡を指す。
多くは、古い[[地層]]の中の[[堆積岩]]において発見される。化石の存在によって知られる生物のことを[[古生物]]といい、化石を素材として、過去の生物のことを研究する学問分野を[[古生物学]]という。
# [[古生物]]として、
# [[堆積物]]として、
の二重の性格を併せもっている。
== でき方と産出状況 ==
[[File:Fossil echinoderm.jpg|230px|right|thumb|モールド状(左)とカスト状(右)の[[ウニ]]化石]]
[[File:ROM-BurgessShale-CompleteAnomalocarisFossil.png|230px|right|thumb|[[バージェス頁岩]]中の[[アノマロカリス]]]]
[[File:Palais de la Decouverte Tyrannosaurus rex p1050040.jpg|230px|right|thumb|[[ティラノサウルス]]の骨格標本]]
{{main|en:Taphonomy}}
化石は、過去の生物の遺骸や遺跡が何らかの形で地層の中から発見されたものである。腐敗から化石化までのメカニズムなどを研究する学問をタフォノミーという。この用語は、古生物学の[[イワン・エフレーモフ]]が1940年に作った用語である。タフォノミーには、生物堆積論と化石続成の大きく2分野がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/kaseki/45/0/45_KJ00003713905/_article/-char/ja/ |title=小集会報告「タフォノミーを考える会」 |access-date=2023-03-23 |last=寿男 |first=安藤 |date=1988 |website=化石 |pages=35–38 |doi=10.14825/kaseki.45.0_35}}</ref>。
遺骸が地層にとじ込められたのち、[[肉]]などの軟質部は通常、[[化学反応|化学変化]]により失われる。したがって化石には動物の[[骨]]や[[殻]]、[[歯]]などの固い組織の部分を主として、それらが[[鉱物]]に置換されて残っているものが多いが、木の[[葉]]や[[恐竜]]をはじめとする動物の[[皮膚]]や[[羽毛]]の型が残っているもの、[[貝]]などの内部が鉱物で充填されたものもある。形状的には、凸型(雄型、石膏型形状)のものを「カスト」、凹型(雌型、鋳型形状)を「モールド」と呼ぶ。また、軟体性生物あるいは生物における軟質部が[[酸素]]の少ない[[泥]]に閉じ込められた[[バージェス頁岩]]のような例もまれに見つかる。
また、鉱物に置換されていない例として、[[炭化]]した植物、[[コハク|琥珀]](こはく)に取り込まれた[[昆虫]]、[[シベリア]]で発掘された生体に近い[[マンモス]]、新しい時代では[[貝殻]]がそのまま化石になるなどの例もある。[[2005年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[ティラノサウルス]]の[[大腿骨]]から柔軟性を残した[[血管]]や[[骨細胞]]が発見され、どのくらい[[組織 (生物学)|組織]]が残されているか注目されている<ref>[http://www.asahi.com/science/news/TKY200503240358.html 6800万年前の恐竜化石から細胞・血管 米で発見(朝日新聞2005年3月25日)]</ref>。
[[File:Lucy Mexico.jpg|150px|left|thumb|二足歩行の足跡が見つかったエチオピアの[[ルーシー (アウストラロピテクス)|「ルーシー」]](レプリカ)]]
[[File:Naturkundemuseum Berlin - Archaeopteryx - Eichstätt.jpg|150px|left|thumb|完全な頭部ののこる[[始祖鳥]]の化石(ベルリン標本)]]
生物体それ自体だけでなく生物活動の跡(遺跡)も[[生痕化石]]といわれ、化石の一種とされる(足跡、這い跡、[[巣]]穴など)。生痕化石は、生物本体の化石よりも重要ではないと考えられるかもしれないが、必ずしもそうではない。生物体化石だけでは判らないことが、生痕化石から判断できる場合も多い。発達した生物が多く現れる[[古生代]][[カンブリア紀]]の始めを示すのは這い跡の生痕化石であり、恐竜の行動様式が判るのは足跡の研究の成果である。[[タンザニア]]では、360万年前の[[アウストラロピテクス]]の足跡の化石が見つかっており、そこでは親子が並んで[[二足歩行]]していることが実際に確かめられている。
動物の[[糞]]の化石(糞化石)も、その動物の消化器官の様子や、餌にしていた生物を知る重要な手がかりとなる。また、[[恐竜]]の卵の化石は一箇所に集中して大量に見つかることが多く、[[マイアサウラ]]のように、ある種の恐竜は子育てをしたのではないかと推論される証拠も見つかって、このような例から動物たちの多様な行動様式を知ることができる。
いずれにせよ、化石としてのこる生物は偶然に左右され、その身体の部位、条件、その他きわめて限られた場合だけである。たとえば、[[鳥類]]については他のものより産出量は少なく、[[始祖鳥]]と現世鳥類を結ぶ[[進化]]の過程には未解明な点が今なお多い。また、化石から分かる情報もそれなりに限られたものである。しかし、過去の生物を直接目にすることは、化石を通じてしかありえない。それゆえ、進化という考えの起源の一つが化石研究であったのは当然である。とはいえ、化石から生物界の[[種 (分類学)|種]]すべての情報を引き出せるわけではない。生物界全体を見渡せば、化石から[[進化|系統進化]]にかかわる知識を汲み出せるのは[[動物界]]と[[植物界]]だけにほぼ限られると言ってよい。[[菌界]]、[[原生生物界]]、[[細菌]]、[[古細菌]]の化石の産出も少なくないが、[[微化石]]として多産するもの以外については、通常、断片的な知識しか得ることができない。
ただし、[[原核生物]]など極めて情報量の乏しい生物群でも、他生物の化石と細胞内共生や[[遺伝子の水平伝播|LGT]]などを利用して関連付けることで系統樹に関する情報を得ることができる場合がある。分類群特有の成分も分子化石として産出する場合がある{{efn|これにより、少なくとも27億年前までには3ドメインが成立していたと推定されている。}}。
化石の中には本体とは別種の生物の生態を示すものがあり、有名なものに歯型が残る化石が挙げられる。例えばアルゼンチンから発見された四肢動物の化石には、爬虫類(ワニやドロマエオサウルス科)が食べ残したと思しき骨に、さらに哺乳類が歯型を残しており、死骸が余すことなく活用されたことを示している<ref>Cretaceous Small Scavengers: Feeding Traces in Tetrapod Bones from Patagonia, Argentina (Silvina de Valais:2012)</ref>。
== 化石の分類 ==
古生物遺体(遺骸)としての化石は、生物学上の分類にしたがって動物化石、植物化石などのように分類されるが、上述のように遺骸か遺跡か、また遺存の状況や程度によっても分類が可能である。表にまとめると以下のようになるが、あくまでもこれは代表的でわかりやすい事例を掲げたにすぎない。
{|class="wikitable" cellspacing="0"
!分類||'''遺体'''(遺骸)||'''遺跡'''([[生痕化石]])
|-
|'''実体のあるもの'''(軟質部ものこるもの)||[[バージェス動物群]]、[[エディアカラ生物群]]、[[澄江動物群]]||バージェス動物群、エディアカラ生物群、澄江生物群
|-
|'''実体のあるもの'''||[[貝殻]]、[[骨]]、[[角]]、[[歯]]、[[琥珀]]にふくまれる[[昆虫]]など、炭化植物||[[巣]]穴、はい跡、足跡、[[胃石]]、[[病気]]
|-
|'''岩石や鉱物で置換されたもの'''||貝殻、骨、[[木]]の幹||[[食物]]、[[糞]]、[[卵]]
|-
|'''岩石にのこされた印象'''||貝殻、[[木の葉]]||食性、[[死]]、[[交尾]]
|-
|'''変形・変質したもの'''||[[石油]]、[[天然ガス]]、[[石炭]]、炭化木||[[リン]]、琥珀
|}
生物そのものでなく、足跡や糞などの生痕が残ったものを[[生痕化石]]という<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/geology/fossil/ippan-kaseki/seikonnkaseki.html |title=生痕化石 |access-date=2023-09-14 |website=www2.city.kurashiki.okayama.jp}}</ref>。生物もしくは、その一部は体化石という<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chiba-u.ac.jp/research/coe_gp/result/education/post_24.html |title=国立大学法人千葉大学 生痕化石から探る古生物の行動生態とその進化 |access-date=2023-09-14 |website=www.chiba-u.ac.jp |publisher=千葉大学 |language=ja}}</ref>。
大きさによる分類として、[[微化石]]、{{ill2|大型化石|en|Macrofossil}}がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://geo.sc.niigata-u.ac.jp/~passage/online_exhibition/library/6.html |title=オンライン展示>大型化石 |access-date=2023-09-14 |website=geo.sc.niigata-u.ac.jp |publisher=新潟大学}}</ref>
== 研究史 ==
[[File:ColumbianMammoth CollegeOfEasternUtah.jpg|230px|right|thumb|[[コロンビアマンモス]]の骨格標本]]
古くから化石の存在は知られていた。[[古代ギリシア]]においては、化石を過去の生物と見るものがあったが、[[アリストテレス]]は特殊な力によって石の中に生まれるものとみなし、そのため、[[ヨーロッパ]]では化石への正しい認識が遅れた。その後の流れの中では、[[キリスト教]]の教義とのかかわりもあり、化石を『[[旧約聖書]]』に記載されている「[[ノアの方舟]]」伝説における洪水の犠牲と見る考え方も長く維持されてきた。
また、化石化した魚は地下水を泳ぐ魚であると解釈されたりもした。「化石」を意味する[[英語]]/[[ドイツ語]]単語 fossil や[[フランス語]]単語 fossile などが[[ラテン語]]で「掘り起こされた」を意味する fossilis (「掘る」を意味する動詞 fodere から派生したもの)に由来するのはそのためである<ref>''Oxford Dictionary of Word Histories'', 2002.</ref>。
[[1796年]]、[[フランス]]の[[博物学者]][[ジョルジュ・キュビエ]]は現生の[[ゾウ]]の骨格とゾウの化石との詳細な比較を行い、この化石は現生種とはまったく異なる古代に絶滅した種であると結論付け、この化石種を「[[マンモス]]」と命名した。ほどなく[[シベリア]]の[[永久凍土]]から氷づけのマンモスが発見され、キュビエの考えに強力な裏づけが得られた。[[1811年]]、[[イギリス]]の[[メアリー・アニング]]によって[[イクチオサウルス]]の化石が発見され、解剖学的特徴などについて研究がなされ、これを契機に化石研究が盛んにおこなわれるようになった。化石の研究は、生物学に対しては[[進化論]]の重要な証拠となった。ただし、キュビエは反進化論者であった。彼は神による創造という概念から抜けられず、そのために、過去において、時代によって異なる生物が見られるのは、神が生命を創造し、それをノアの洪水のような災害によって滅ぼし、あらためて生命を創造する、ということを繰り返した結果だとする「[[天変地異説]]」をとなえ、当時[[進化論]]を主張していた[[ジャン=バティスト・ラマルク]]と激しく対立した。
このように化石は生物の進化の証拠の一つであるが、[[アメリカ合衆国]]では、生物の進化は[[キリスト]][[原理主義]]と相容れないとして、[[初等教育]]では教えてはならないとされる地域もある。
== 化石の意義 ==
=== 生命の誕生 ===
[[File:Nautilus.jpg|180px|right|thumb|生きている化石[[オウムガイ]](姫路市立水族館)]]
[[File:Haeckel arbol bn.png|180px|right|thumb|[[エルンスト・ヘッケル|ヘッケル]]の系統樹(1866年)]]
[[生命]]がいつ誕生したかについては諸説がある。[[グリーンランド]]のイスア地方では、38億年前([[先カンブリア時代]])の堆積岩中に生命に由来するものと思われる[[炭素]]の層が見つかっており、[[オーストラリア]]では保存状態が良好な34億6,000万年前以前の[[バクテリア]]の化石が[[西オーストラリア州]]より発見されている。同州では、さらに1億年以上古いと推定される化石も見つかっており、早ければ43億年前に生命が発生したと考える研究者もいる。いずれにせよ、化石は[[生命の起源]]を探究していくうえで重要な鍵を握る直接的な[[資料]]となっている。
=== 生物史の解明 ===
化石は過去の生物の遺骸であることから、過去の生物を復元的に考察し、古生物界の様相や推移を知るためのほぼ唯一の資料{{efn|ハンソンは、「進化の研究にたいして特殊の寄与をする資料」として[[胚]]と化石を掲げている。}}であり、誕生以来長く続いてきた生命の長い歴史、とくに[[進化|系統進化]]の直接的な証拠となる。生物は、[[地球]]の歴史のなかで生まれ、それが分化し、あるものは繁栄して、その後ある種は絶滅するが、再び新しい生物群が誕生するという巨大な流れを展開している。この流れのなかで、かつては多くの[[種 (分類学)|種]]に分かれて繁栄したものの、現在はその子孫がごく限られた場所にわずかに生き残っている例を「[[生きている化石]]」とよんでいる。
=== 系統学と化石 ===
生命誕生以来、地球の表層部に蓄積された化石は莫大な数に達する。これらの化石は記載され、化石[[標本]]をもとに同定され、現生の生物と同様にその系統的類縁関係の検討の結果、過去から現在につらなる動植物界の[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]・[[界 (分類学)|界]]・[[門 (分類学)|門]]・[[綱 (分類学)|綱]]・[[目 (分類学)|目]]・[[科 (分類学)|科]]・[[属 (分類学)|属]]・[[種 (分類学)|種]]などの分類上の階級的位置が定められ、系統進化の道筋が明らかにされた。それは通常[[系統樹]](デンドログラム)というかたちでまとめられ、叙述される。また、[[データ]]の検討と考察によって、種の分化、進化のスピード、絶滅の原因などについても追究されている。さらに、こんにちでは[[コンピュータ]]による[[統計]]処理によってデータの[[定量的解析]]が飛躍的に進んでいる。だが、現生の生物の祖先の形を知るには、現在でも化石以外に頼れる証拠はない。いずれにせよ、[[系統学]]の存在と発展にとって化石はなくてはならない根本的な資料であり、化石がなくては系統学そのものが成り立たない。
=== 分類学と化石 ===
{{Main|生物の分類}}
[[系統学]]と[[分類学]]は密接な関係にある。生物の多様性に関して重要なのは、それが「種」とよばれる不連続群によって最も意味深くあらわれることである。系統学においては連続的なものとしてまとめられることが、ここでは不連続的な一単位を基礎に検討される。また、分類学は古生物のみならず現世の生物をも対象としている。ここでも化石は、他の動植物の[[標本|標本資料]]とならんで[[分類学#自然分類|自然分類]]を考察していくうえでの重要な手掛かりとなって居る可能性がある。
=== 地質学・地球物理学と化石 ===
[[File:Gondwana fossil map ger.png|right|300px|thumb|古代[[ゴンドワナ大陸]]化石地図 ''Cynognathus''(橙)と''Lystrosaurus''(茶)は三畳紀に生存していた陸棲の哺乳類型爬虫類。''Cynognathus''は体長3mに達したとみられる。''Mesosaurus''(青)は淡水性の爬虫類。''Glossopteris''(緑)はシダ類であり、南半球に所在するすべての大陸とインド亜大陸で化石が見つかっていることから、これらの大陸が一続きであったことを示唆する]]
化石を[[堆積物]]としてみた場合、そもそも「[[古生代]]」「[[中生代]]」「[[新生代]]」など[[地質時代]]の区分([[地球史年表|地質年代]])は、化石にもとづいて定められたものであり、[[カンブリア紀]]は俗に「三葉虫時代」と呼ばれたりする。
[[地質学]]研究の分野において化石を利用する目的には、
# それぞれの地層を時代ごとに分けること。
# 地理的に隔たった地域の地層を互いに時間的に対比すること。
# 化石をふくむ岩石が堆積する際の諸条件を研究すること。
などがある。後述する[[示準化石]]は1.の、[[示相化石]]は3.の根拠となる化石のことであるが、もとより、この二者は互いに対立するものではなく、示準化石であると同時に示相化石である場合も多い。
2.に関しては、[[三畳紀]]初期の陸棲の四脚歩行動物である''Lystrosaurus''([[リストロサウルス]])の化石が[[アフリカ大陸]]と[[南極大陸]]の両方で見つかったことにより、アフリカから南極まで乾いた陸の上を歩いたものと考えられ、それゆえ両大陸がかつて接続していた蓋然性があらためて指摘された。同様に、''Cynognathus''(哺乳類型[[爬虫類]])、''Mesosaurus''(淡水性の爬虫類)、''Glossopteris''(シダ類)の化石がいずれもこんにち遠く隔たった複数の大陸にまたがって発見されている。このことは、南半球にかつてひとつながりの大きな大陸([[ゴンドワナ大陸]])が存在していたとする仮定、[[大陸移動説]]および[[プレートテクトニクス|プレートテクトニクス理論]]の両仮説を裏付ける物的な証拠資料と考えられる。
== 示準化石 ==
[[File:Asaphus kowalewskii 3.jpg|180px|right|thumb|[[三葉虫]]の化石(ロシア産)]]
{{Main|示準化石}}
[[放射性同位体]]による年代推定法が確立するまでは、地層のできた時代を知る手がかりは、化石のみであった。そのなかでも、特定の[[地質時代]]に限り生息していた特定の種の化石は[[示準化石]]と呼ばれ、それぞれの地層の年代決定に用いられる。これは、イギリスの[[ウィリアム・スミス (地質学者)|ウィリアム・スミス]]の研究により確立された方法である。示準化石として好ましい条件には、以下のようなものがある。
# 進化が速かった、すぐに絶滅した、などの原因で、生息していた期間が短い。
# 広い範囲に渡って分布している。
# 数多く産出する(当時の生息数が多い)。
示準化石の例としては[[三葉虫]]([[古生代]])、[[フデイシ]](古生代)、アンモナイト([[中生代]])、[[ビカリア]]([[新生代]])などがある。
== 示相化石 ==
[[File:Yabishi1.jpg|150px|right|thumb|[[八重干瀬]]の[[サンゴ礁]]]]
{{Main|示相化石}}
特定の[[環境]]([[気候]]、[[水深]]、[[水温]]、[[地形]]など)に限って棲息していた特定の種の化石は[[示相化石]]と呼ばれ、地層が堆積した[[古環境]]の検討や特定に用いられる。示相化石は、[[サンゴ]](暖かく澄んだ浅い海)や[[シジミ]]([[川]]の[[河口]]付近)などがわかりやすい例であるが、実際にはすべての化石が多かれ少なかれ示相化石としての意味をもつものであり、とくに植物化石は、古気候などを知る重要な資料となっている。こんにち、[[第四紀]]における気候の変遷はそれぞれの種の植物化石の消長によって詳細にたどられている。
== 人間との関わり ==
[[File:Silver fossil.jpg|right|thumb|化石([[サメ]]の歯)を利用したアクセサリー]]
[[File:Limestone with fossils01.jpg|right|thumb|[[フズリナ]]を含んだ[[石灰岩]]([[大垣城]]の[[石垣]])]]
[[恐竜]]、[[アンモナイト]]等の古生物の化石は古生物に関する知識を与え、太古の生物へのロマンを感じることができる。アマチュア古生物マニアも数多く存在し、稀少な化石はとくに高値で売買される。[[博物館]]でも、特別展や企画展の目玉となることが多いので、高額でやりとりされる場合が少なくない。「[[龍]]」も恐竜の化石からイメージされたのではないかと考えられることがあり、恐竜化石は人気が高い。最近では珍しい化石の発掘が商業ベースで進んでおり、有名になった化石が産地を離れて遠隔地のコレクターの手に流れることもあり、研究者たちも頭を痛めている。裏ルートで高額に売り出されてしまうケースも少なくない。
また、古い時代から[[漢方薬]]として用いられたり、アンモナイトの化石には[[魔力]]が宿るなどとされたりといったかたちで、長く利用されてきた歴史がある。[[中医学]]では大型[[ほ乳類]]の骨の化石を「竜骨」、歯牙を「竜歯」、角を「竜角」と呼び、いずれも[[鎮静]]、[[不眠]]などに用いられ、これらの遺物は[[正倉院]]薬物中にもみえる。また、[[甲骨文字]]の発見は[[清]]末の[[金石学]]者[[王懿栄]]が持病の[[マラリア]]の治療薬として「竜骨」を求めたことに端を発するといわれている。
現在でも、三葉虫やアンモナイトなどの美しい化石は[[装身具|アクセサリー]]に用いられている場合がある。特殊な化石では、[[宝石]]や美しい[[鉱物]]の成分に置き換わっているものがあり、それ自体が宝石として流通するものがある。[[琥珀]]は樹木から分泌された[[樹液]]の化石であり、一種の[[生痕化石]]であるが、多くの場合[[宝石|宝飾品]]となり、特に中に[[昆虫]]などが封入されたものが珍重される。世界的には[[バルト海]]沿岸の琥珀が特に良質とされ、日本では[[岩手県]][[久慈市]]が代表産地である。[[マイケル・クライトン]]原作の小説およびその映画化[[ジュラシック・パーク]]」では琥珀中の[[カ|蚊]]の体内に恐竜の赤血球が残され、そこから恐竜の[[デオキシリボ核酸|DNA]]が抽出されるという設定になっているが、現実にはDNAが保持していた[[遺伝]]情報は失われているはずである。また、日本で[[勾玉]]の素材などとして愛好されてきた[[碧玉]]の多くは[[放散虫]]の遺体で形成されている。
なお、[[石炭]]・[[石油]]・[[天然ガス]]は古生物の遺骸が化学変化を受けたものであることから[[化石燃料]]とよばれる。
古生物の遺骸がそのまま堆積して[[岩石]]化したものとしては[[石灰岩]]、[[苦灰岩]]、[[チャート (岩石)|チャート]]、[[珪藻土]]がある。そのほか、海鳥の糞が堆積・固化してできる[[グアノ]]を起源とする[[リン]]鉱床、鉄バクテリアにより生成された[[鉄鉱石|鉄]]鉱床など、人間生活にとって有用な[[地下資源]]となっているものも少なくない。
== 著名な化石研究者 ==
* [[エルンスト・シュトローマー]]
* [[メアリー・アニング]](Mary Anning、1799年-1847年)
* [[ジョン・ホーナー]]
* [[フィリップ・カリー]]
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{仮リンク|アール・ドーチェスター・ハンソン|en|Earl Dorchester Hanson|label=ハンソン}} 『動物の分類と進化』 [[八杉龍一]]訳、[[岩波書店]]〈現代生物学入門6〉、1975年。
* [[エドウィン・H・コルバート]] 『さまよえる大陸と動物たち - 絶滅した恐龍たちの叙事詩』 [[小畠郁生]]・[[澤田賢治]]訳、[[講談社]]〈ブルーバックス〉、1980年。
* [[浜田隆士]]・[[糸魚川淳二]] 『日本の化石』 [[小学館]]〈自然観察シリーズ17〉、1983年、138-141頁、ISBN 4-09-214017-7。
* [[デボラ・キャドバリー]] 『恐竜の世界をもとめて - 化石を取り巻く学者たちのロマンと野望』 [[北代晋一]]訳、[[無名舎]]、2001年、ISBN 4-89585-951-7。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Fossils}}
* [[考古学]]
* [[古生物学]]
* [[地質学]]
* [[古生物]]: [[マンモス]] - [[恐竜]] - [[始祖鳥]] - [[アンモナイト]] - [[アノマロカリス]]など
* [[生きている化石]]: [[シーラカンス]] - [[カブトガニ]] - [[メタセコイア]]など
* [[エディアカラ生物群]]
* [[バージェス動物群]] - [[バージェス頁岩]]
* [[澄江生物群]]
* [[年代測定]] - [[示準化石]]
* [[偽化石]] ‐ 化石に似た形跡や文様。
* {{仮リンク|化石の産地一覧|en|List of fossil sites|de|Liste bedeutender Fossilfundstellen|es|Anexo:Yacimientos paleontológicos del mundo}}
** [[ラーガーシュテッテ]] - 保存状態の良い化石を産出する地域を指す用語。
* {{ill2|遺存体|en|Biofact (archaeology)}}
* {{ill2|遺存体の保存と修復|en|Conservation and restoration of human remains}}
== 外部リンク ==
* [https://www.nature.com/news/2005/050321/full/050321-13.html "Nature"2005年3月(英文)]
* [https://www.uni-bonn.de/neues/182-2010 Vogelspuren (古代の鳥の化石)(ドイツ語)]
* [https://tokaikaseki.org/ 東海化石研究会]
* {{Wayback |url= http://www.saitoho-on.com/page_1.html|title= 斎藤報恩会自然史博物館|date= 20080701034218}}
* [https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/yatsuo/kaiinkan/ 八尾化石資料館「海韻館」]
* [https://www.gsj.jp/geology/geomap/process-field/fossil.html 化石|地質を学ぶ、地球を知る|産総研地質調査総合センター]
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4,980 | 死刑 | 死刑(しけい、英語: capital punishment)は、対象者(死刑囚)の生命を奪い去る刑罰である。暴力的な表現を比較的控えられるよう、抽象的な表現として「極刑()」あるいは「処刑()」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。処刑とは「刑」に「処」すことなので必ずしも死刑とは限らないが、「処刑」の単語は一般的に死刑のみで使われる。
日本では現在、絞首刑で行われている。現在の多くの死刑存置国ではおおむね人命を奪った犯罪や国家反逆罪、未遂罪に対しても死刑が適用される。一部犯罪に対する刑罰を厳罰化している国々では、生命・身体の脅威になる犯罪(麻薬・覚醒剤などの使用、製造、人身売買など)や、生命を奪わない犯罪(汚職、通貨の偽造、密輸など)などにも死刑が適用される場合がある。その一方、死刑廃止を推進するため1989年12月15日に自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)が国際連合総会で採択された。2022年時点で、ヨーロッパ、南米、カナダやオーストラリアなどの112カ国で全ての犯罪に対して死刑は廃止されている。また一般犯罪においては死刑を廃止しているが、戦時犯罪行為にのみ死刑を定めている国が9カ国あり、ブラジルやイスラエルがそれに当たり、内5カ国がラテンアメリカ諸国である。
一方で、日本を含むアジア諸国(死刑を廃止している中央アジアやブータン、ネパール、カンボジア、モンゴルは除く)や宗教的に応報が原則とされる中東およびアフリカ大陸諸国、そして欧米文化圏では例外となるアメリカ合衆国の連邦政府及び軍隊と27州(州数は2021年4月時点。ネブラスカ州議会は2015年に死刑を廃止したが、2016年に死刑を復活させた)など78カ国で死刑制度が存置されている。それとは別に、事実上廃止している国が23カ国あり、韓国やロシアがそれらの国にあたる。アムネスティ・インターナショナルでは、事実上廃止国も含め死刑廃止国を144カ国としている。
そして、事実上廃止している国を除いた死刑存置国55カ国の内、2013年~2022年の間に死刑執行された国は36カ国である。更にその中で、この期間中に死刑執行があった年が5年以上あった国は23カ国であり、死刑を存置し死刑廃止の政策や慣習を持っていないと思われる国であっても、死刑の頻度が異なったり、そもそもここ10年の間に執行がない国が特にラテンアメリカに存在する。そして、前述の23カ国の内、地域別では16カ国がアジア、5カ国はアフリカで、アジア・アフリカ以外は、アメリカ合衆国とベラルーシとなっている。また、国民の大多数が信仰している宗教の種類で見た場合、イスラム教が13カ国を占める。
そして、2023年5月16日のアムネスティ報告書の調査によれば2022年に世界20カ国で少なくとも883人の死刑(但し、中国や北朝鮮、ベトナムやシリア、アフガニスタンでは未発表の為、 2人とカウントして含めていることに留意する。)が執行された。
死刑執行された者の約37%は、生命犯ではない薬物関連の犯罪により執行されている。そのほとんどは、イラン(255人)・サウジアラビア(57人)・シンガポール(11人)の3カ国で占めており、特にイランは8割近くを占める(但し、薬物関連の犯罪を死刑対象としている中国とベトナムは含まれていない。)。この状況に対して、アムネスティ・インターナショナルのカラマール事務総長は、死刑にする犯罪は意図的な殺人を伴う「最も重大な犯罪」に限定すべきであり、自由権規約第6条第2項違反であると批判した。
死刑は文明の初期段階において刑罰の中心をなすものであり、世界各地で死刑の記録が残されている。石器時代の遺跡から処刑されたと思われる遺体が発見されることもある。
死刑は身体刑と並び、前近代(おおむね18世紀以前)には一般的な刑罰であった。人類の刑罰史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる。また、「死刑」という刑罰でなくとも、多くの「死に至る(ことが多い)刑罰」も用いられていた。
威嚇効果が期待されていたものと考えられており、すなわち見せしめの手段であったため、公開処刑が古今東西で行われていた。火刑、溺死刑、圧殺、生き埋め、磔(はりつけ)、十字架刑、斬首(ざんしゅ)、毒殺、車裂(くるまざき)、鋸挽き、釜茹、石打ち、電気椅子など執行方法も様々であった。近年では、死刑存置国の間でも絞首刑、銃殺刑、電気椅子、ガス殺、注射殺(毒殺)・服毒などに絞られつつあり、比較的肉体的な苦痛の少ないと考えられる方法を採用するのが主流となっている。刑罰の歴史上では文明化と共に死刑を制限することが顕著である。
刑罰として死が適用される犯罪行為も、必ずしも現代的な意味における重犯罪に限られていたわけではない。窃盗や偽証といった人命を奪わない罪状を含んだほか、社会規範・宗教的規範を破った事に対する制裁として適用される場合もあった。たとえば、中世ヨーロッパでは姦通を犯した既婚者女性は原則的に溺死刑に処せられていた。叛乱の首謀者といった政治犯に対するものにも適用された。
死刑は、為政者による宗教弾圧の手段として用いられたこともあり、ローマ帝国時代のキリスト教徒迫害や、江戸時代に長崎で行われたキリシタンの処刑のように、キリスト教徒の処刑が多数行われていた。一方魔女裁判のように、宗教者たちによって死に追いやられた人々も多かった。
その後、近代法制度の確立に伴い、罪刑法定主義によって処罰される犯罪行為が規定され、それに反した場合に限り刑罰を受けるというように限定された。近代法制度下では、どのような犯罪行為に死刑が適用されるかが、あらかじめ規定されている。また18世紀頃から身体を拘束・拘禁する自由刑が一般化し、死刑は「重犯罪向けの特殊な刑罰」という性格を帯びるようになった。死刑の方法もみせしめ効果を狙った残虐なものから絞首刑など単一化されるようになった。
20世紀中期以降は、死刑を存置する国家では、おおむね他人の生命を奪う犯罪のうち、特に凶悪な犯罪者に対し死刑が適用される傾向がある。ただし戦時犯罪については死刑を容認している国も残されており、上官の命令不服従、敵前逃亡、外患誘致、スパイ行為といった利敵行為などに対して適用される場合がある。また、21世紀になっても、国によっては重大な経済犯罪・麻薬密売・児童人身売買・といった直接に他人の生命を侵害するわけではない犯罪にも死刑が適用されることがあるほか、一部国家では、窃盗犯であっても裁判によらず即決で公開処刑される事例が存在する。
ドイツの哲学者イマヌエル・カントは「刑罰は悪に対する悪反動であるため、犯した犯罪に相当する刑罰によって犯罪を相殺しなければならない」として「絶対的応報刑論」を唱えた。これに対して「刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならない」とする考え方は「相対的応報刑論」という。
日本で、死刑を合憲とした1948年(昭和23年)の最高裁判例では、「犯罪者に対する威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲」としており、応報刑的要素についての合憲性は排除されている。なお、予防説では「死刑は一種の必要悪であるとして、犯罪に対する反省もなく、改善不能で矯正も不可能な犯罪者は社会防衛のために死刑にするのもいたしかたない」との死刑存置派からの論拠がある。
刑罰は応報的な面があるのは事実であるが、死刑が社会的存在を消し去るものであるため、死刑が近代刑罰が忌諱する応報的な刑罰ではないとする法学的根拠が必要とされている。一般予防説に従えば、「死刑は、犯罪者の生を奪うことにより、犯罪を予定する者に対して威嚇をなし、犯罪を予定する者に犯行を思い止まらせるようにするために存在する」ことになる。
特別予防説に従えば、「死刑は、矯正不能な犯罪者を一般社会に復して再び害悪が生じることがないようにするために、犯罪者の排除を行う」ということになる。しかし、より正確に「特別予防」の意味をとると、「特別予防」とは犯罪者を刑罰により矯正し、再犯を予防することを意味するため、犯人を殺してしまう「死刑」に特別予防の効果はない。仮釈放のない絶対的終身刑にも同様のことがいえる。
日本やアメリカなど、死刑対象が主に殺人以上の罪を犯した者の場合、死刑は他人の生命を奪った(他人の人権・生きる権利を剥奪した)罪に対して等しい責任(刑事責任)を取らせることになる。
一般的な死刑賛成論者は予防論と応報刑論をあげるが、応報論の延長として敵討つまり、殺人犯に対する報復という発想もある。近代の死刑制度は、被害者のあだ討ちによる社会秩序の弊害を国家が代替することでなくす側面も存在する。国家の捜査能力が低い近代以前は、むしろ仇討ちを是認あるいは義務としていた社会もあり、それは被害者家族に犯罪者の処罰の責任を負わせて、もって捜査、処罰などの刑事制度の一部を構成させていたという側面もある。
殺人などの凶悪犯罪では、裁判官が量刑を決める際に応報は考慮されている。基本的には近代刑法では応報刑を否認することを原則としているが、実際の懲役刑の刑期の長短などは被害者に与えた苦痛や、自己中心的な感情による犯行動機があるなど酌量すべきでないなど、応報に基づいて行われている。ただし、死刑の執行方法は被害者と同様(たとえば焼死させたからといって火あぶりに処すなど)の処刑方法でなく、「人道的」な方法が取られる。
日本では日本国憲法下で初めて死刑を合憲とした判決(死刑制度合憲判決事件、最高裁判所昭和23年3月12日大法廷判決)において、応報論ではなく威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲とされた。
個別の刑罰の特別抑止(再犯抑止)効果を除いた一般抑止効果は、死刑や、終身刑およびほかの懲役刑も含めて、統計上効果が実証されていない。一般論として、死刑反対派は「死刑による犯罪の一般抑止効果の統計的証拠がないこと」、死刑賛成派は「死刑代替刑による威嚇効果が十分でないこと」を指摘する。抑止効果の分析方法には地域比較と歴史的比較がある。地域比較では国や州の制度の違いによって比較が行われる。
地域比較としては、アメリカ合衆国の1960年から2010年までの、「死刑制度がない州・地域」と「死刑制度がある州・地域」の殺人発生率を比較(死刑がない州地域とある州の数は時代の進展とともに変化している)すると、死刑制度がある3州の殺人率の平均値は死刑制度がない州や地域と、いずれの年度も近似値であり統計上有意な差異は確認されていない。
主要工業国(先進国・準先進国)で死刑を実施している国としては、日本、アメリカ合衆国、シンガポール、台湾などがあるが、アメリカ合衆国の殺人率は先進国の中では高く他国の殺人率は低いので、個々の国の殺人率は死刑制度の有無や刑罰制度の重軽により決定されるわけではなく、殺人に対する死刑の一般抑止効果としては、国や州や地域別の比較には意味がないとの指摘もある。
時代的比較では、死刑が廃止された国での廃止前・廃止後を比較する試みがされる。しかし様々な制度や文化、教育、経済など様々な社会環境の変化も伴うため、分析者によってさまざまな結論が導き出されており、それだけを取り出して検討するのは困難である。ただし現段階においては、廃止後に劇的に犯罪が増加・凶悪化した例はこれまでにはなく、また劇的に犯罪が減少した例もない。
精神科医・作家の加賀乙彦は著書『死刑囚と無期囚の心理』の中で、確定死刑囚44人を調査した結果、犯行前や犯行中に自分が犯している殺人行為によって死刑になるかどうかを考えた者はいなかったと報告している。この結果を見て、犯行後に死刑を回避するため目撃者さえ殺害したものまでいたため、無我夢中に殺人をしたものに対する犯罪抑止力はほとんど期待できないと結論付けた。ただし、死刑の可能性を考慮して殺人行為を思い止まった者は、当然、死刑囚にはならないので、死刑の抑止力が働かなかった者だけを例にあげて死刑の抑止力がないと主張するのは無理がある。
自分自身の生命すら省みない自暴自棄な者や、行政機構による自身の殺害を望む自殺志願者、殺人による快楽のみを追い求める自己中心的な、いわゆる「シリアルキラー」には抑止力が働かない例がある。アメリカでは、死刑制度のある州でわざわざ無差別に殺人を犯す者、死刑廃止州で終身刑で服役している囚人が死刑存置州で引き起こした殺人事件を告白し自ら望んで死刑になる者が存在する。例えば、死刑制度のないミシガン州から死刑存置州のイリノイ州に転居して8人を殺害したリチャード・スペックや、死刑廃止州のミネソタ州と死刑存置州のアイオワ州の双方で殺人を犯したチャールズ・ケリーやチャールズ・ブラウンはいずれもアイオワ州で裁判を希望して死刑を受け入れたという。また、死刑執行直前になってもアルバート・フィッシュは「最高のスリル」と待望していたとの説があるが、彼のようなシリアルキラーは他人の生命ばかりか自身の生命の保持すら関心がないので、死刑になることを恐れないなど、自己保身のために犯行を躊躇することはない。アメリカのシリアルキラーのみについていえば死刑の威嚇効果は期待できない。
作家石川達三は、著書『青春の蹉跌』の中で死刑存続論の論拠として
を揚げ、「(死刑は)当然廃止せられるべき」であるが「直ちにこれを廃止するためには、社会の実情がなお整っていない」と主人公に言わせている。
2022年時点で、事実上廃止国を除いた55カ国の死刑存置国で行われている、処刑方法は以下の通り。
日本、韓国、北朝鮮、 マレーシア、エジプト、イラン、ヨルダン、イラク、パキスタン、バングラデシュ、シンガポール他
韓国は、1997年12月30日に23人を死刑執行してから行われておらず、事実上死刑廃止国として扱われている。
米国アラバマ州、フロリダ州、サウスカロライナ州、アーカンソー州、ケンタッキー州、テネシー州、オクラホマ州、ミシシッピ州。
ただし、州によって条件が異なり、アラバマ州、フロリダ州、サウスカロライナ州は処刑対象者が薬殺刑を選択できるが、アーカンソー州(1983年7月3日)、ケンタッキー州(1998年3月30日)、テネシー州(1999年)、ミシシッピ州(1984年6月30日)の場合は、死刑判決がカッコ内の年月日以前に受けた場合でないと、選択できない。
更にオクラホマ州は、薬殺刑の執行が不可能な場合にのみ銃殺か電気処刑の選択が出来るように運用されている。
そして、ネブラスカ州は、かつて電気処刑による死刑執行が行われたが、2008年2月に同州最高裁判所が憲法違反判決を出したため、翌年に、薬物注射による死刑に切り替えている。
米国アリゾナ州、カリフォルニア州、ミズーリ州、ノースカロライナ州。ただし処刑対象者が薬殺刑を選択できる。
コロラド州、メリーランド州は、かつてガス殺刑も選択すれば執行できたが、前者は2013年に、後者は2020年に死刑が廃止された。
またミシシッピ州もガス殺刑を選択できたが、1998年に選択から削除されている。
そしてアメリカ国内で、1977年の死刑再開以降、ガス殺刑で執行されたのは11件であり、1999年3月3日のアリゾナ州でのドイツ国籍を有するウォルター・ラグランドの執行を最後にアメリカ国内で行われていない。
中華人民共和国(主に経済犯罪に対して。但し、以下の北京を始めとした一部地域では、罪種問わず。)、タイ王国、ベトナム、米国の連邦・軍・死刑制度存置州
中華人民共和国において、2020年12月時点で、昆明・長沙・成都・北京・深圳・上海・広州・南京・重慶・杭州・瀋陽・大連・鞍山・平頂山・焦作市・武漢・黒竜江省・ウルムチで薬殺刑が完全導入されており、大部分は都市である。そして、地方人民法院によって、死刑執行方法の運用が異なり、財政支援がないことや無用なトラブルを避けることを理由に薬殺刑に消極的になっている所がある。その為、同じ汚職の罪で、ある者は銃殺刑により施行され、別の者は北京で執行された為、薬殺刑となったケースが生じ、不公平さを露呈している。
ベラルーシ、中華人民共和国(主に一般犯罪に対して。但し、北京を始めとした一部地域は、罪種問わず薬殺刑)、キューバ、北朝鮮、ソマリア、インドネシア、イラン、イエメン、アフガニスタン・アメリカ合衆国ユタ州・オクラホマ州・ミシシッピ州・サウスカロライナ州、死刑を実施するすべての国で死刑囚の身分が現役軍人の場合。
日本でも戦前には陸軍や海軍の軍法会議で適用される場合があった。
また、アメリカでは2023年5月時点で前述の4州のみあるが、あくまでも薬殺刑が執行不可能である場合にのみ執行される。
1977年の死刑執行再開以降、アメリカ国内で銃殺刑に処されたのが3件のみであり、全てユタ州で行われていた。また、サウスカロライナ州で後述の法律により、2022年4月29日に銃殺刑が行われる予定であったが、2022年4月20日にサウスカロライナ州最高裁判所により、執行を一時停止している)。
死刑囚ロニー・リー・ガードナーの希望により銃殺刑が、2010年6月18日に行われ、この執行を最後にアメリカ国内では行われていない。
また、ユタ州では、2004年5月4日以降、銃殺刑を選択することを禁じられたが、2015年3月23日に薬殺刑の執行が不可能である場合に限って認められることとなった。そして、2021年5月14日のサウスカロライナ州で、死刑執行用の薬物が入手できず執行出来ない状況を打破する為、電気椅子だけでなく、銃殺刑も薬殺刑が執行不可能である場合に選択できるような法律が成立した。
イエメンのフーシ派勢力支配地域では、治安要員による銃殺刑後に、クレーンにより銃殺刑後の死体が吊るされる。
キューバは2003年、イランは2008年、インドネシアは2016年を最後に銃殺刑での執行は行っておらず、キューバとインドネシアは、その年を最後に執行自体行っていない。
サウジアラビア、ナイジェリア北部(特定の種類の犯罪でシャリーア裁判所で死刑判決を下された場合)
イランも斬首刑が行われていたが、2001年を最後に執行されていない。また、ナイジェリアのシャリーア裁判所では不倫や殺人、同性愛行為に対し死刑判決を下してきたが、現在までに死刑が執行されたことはない。
アフガニスタン、アラブ首長国連邦、イエメン、イラン、サウジアラビア、スーダン、ブルネイ、ナイジェリア北部、モーリタニア
シャリーアの刑罰として、主に不倫や同性愛行為をした場合に行われる。但し、アラブ首長国連邦、ナイジェリア北部は執行された例がなく、イエメンも滅多に執行されることはない。また、ブルネイは国際批判により、死刑執行自体を2019年5月5日より一時停止している。そして、モーリタニアも1987年の執行を最後に、死刑の執行は行われていない。更に、アフガニスタンは2001年のタリバーン政権崩壊以降、少なくとも2021年のタリバーンによる武力による全土掌握するまで同性愛を理由とした死刑執行はされていない。
その他にも、北朝鮮にてハンマーによる撲殺刑が行われたケースもある。
イラン、北朝鮮、サウジアラビア、ソマリア、イエメン(フーシ派勢力支配地域)などで行われる。
また、中国では以前は公開処刑がテレビで放送されていたほか、バスに死刑執行(薬殺刑)設備を積んだ移動死刑設備がある。
死刑の執行は罪人を殺すという行為を実際に行う者を死刑執行人と呼ぶ。
ヨーロッパ諸国や明治時代以前の日本では、中世時代から死刑執行を業務とする死刑執行人が存在していた。
アメリカや明治以降の日本などでは刑務官が行っている(なお、ヨーロッパ諸国では死刑は廃止されているため、死刑執行人も現存しない)。
(参考)19世紀のヨーロッパ諸国(イギリスは別途、18世紀後半も含めた期間のデータ)及び日米の死刑宣告数(日米除く)及び死刑執行数
アジア(日本を除く)では中華人民共和国やサウジアラビア、イランなどの死刑執行数が多い。またシンガポールは厳罰主義であり、軽微な触法行為に対しても刑罰を加えていることで有名である。また北朝鮮では裁判によらない即決による公開処刑が行われているとの報道もある。なお、アジア諸国で死刑存置国はイスラム教国や東アジアに多い。
2013年~2022年の間にアジア諸国で死刑執行のあった国は下表より、推定も含めて26カ国あった。その内10カ国は執行執行のあった年は5年未満であった。また、5年以上執行のあった16カ国の内、10カ国は国民の大多数がイスラム教を占める国・地域であり、5カ国は漢字文化圏(儒教)であった。
前者に属する諸国の中で、イラン・イラク・サウジアラビアが数十~数百の執行を行っている。一方で、これら3カ国と同じアジアの中東諸国でもバーレーン・ヨルダン・クウェート・オマーン・カタール・アラブ首長国連邦は、死刑執行の頻度が少なく、ヨルダンを除き1桁の執行である。また、パレスチナは死刑執行の頻度が多いが、基本1桁の執行であり、2018年~2021年の4年間は死刑執行が無かった。
また、他のイスラーム教が多くを占めるマレーシアとインドネシアも1桁の死刑執行を行っていた。マレーシアは2018年10月に死刑廃止の検討を表明し、一時停止しため2018年以降執行されておらず、2023年7月には殺人やテロなど11の重罪で有罪になった場合、自動的に死刑となる制度が廃止され、同年9月12日には過去の死刑判決を見直す法律が施行されている。インドネシアは、2017年以降執行されておらず、2009年~2012年の間は一時停止していた。そして、パキスタンは2015年に推定341人という3桁の死刑執行が行われていたが、2016年~2019年は2桁の執行であり、2020年以降は執行されていない。なお、2008年12月~2014年11月の間は、テロ行為を含めた一般刑法犯に対する死刑執行を一時凍結していた(但し軍による執行であることを理由に、2012年10月26日に上官含め3人を殺害した兵士が絞首刑により執行されている。)。
漢字文化圏の場合、世界で最も多いと推定され、数千単位で執行される中国のみならず、推定であるが北朝鮮・ベトナムにおいては、3桁の執行が行われていた。そして、3カ国とも共産主義政党が事実上の一党独裁を行っている。但し、共産主義政党が事実上の一党独裁を行っている国でも、ラオスは1989年以降死刑執行を行っておらず、キューバも2003年を最後に執行されていない。
そして、2023年5月16日のアムネスティ報告書の調査によれば2022年に世界20カ国で少なくとも883人の死刑(但し、中国や北朝鮮、ベトナムやシリア、アフガニスタンでは未発表の為、 2人とカウントして含めていることに留意する。)が執行された。最多の中国は、執行数を公表していないが、少なくとも3,500人(2022年推定)は執行されていると推定されるため、アムネスティ・インターナショナルの死刑執行推定数に含めた場合、世界の死刑執行数の約80%を占めることとなる。世界人口の5分の1が中国に集中していることを考慮しても、世界の主要国の中では、死刑執行率も格段に高い。そして中華人民共和国では、殺人だけでなく麻薬犯罪や汚職事件で有罪になった場合も死刑になる。但し、死刑になる最も多い犯罪は、主に殺人と薬物関連による犯罪である。また、2008年の北京オリンピック開催直前までは公開処刑が行われていた。中国政府は「犯罪抑止力のために必要だ」と主張しているが、中国の人権問題として国際社会の批判を受けている。
日本において死刑判決を宣告する際には、永山則夫連続射殺事件で最高裁(昭和58年7月8日判決)が示した死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多い。そのため永山基準と呼ばれ、第1次上告審判決では基準として以下の9項目が提示されている。
以上の条件のうち、たとえば4項では「被害者2人までは有期、3人は無期、4人以上は死刑」といった基準があるようにいわれるが、実際の判例では事件の重要性などに鑑みながら決定しており、被害者が1人のみの場合でも死刑の可能性は十分にありえる(詳細は日本における死刑#死刑の量刑基準を参照)。
執行方法は銃殺刑が基本であるが、薬殺刑を完全導入している地域で死刑執行する場合や賄賂の授受等の経済犯罪(全てではないが)は薬殺刑で執行される。なお、死刑が適用される犯罪行為としては、賄賂の授受や、麻薬の密売や、売春及び性犯罪などが挙げられる。しかも、致死の結果が生じない刑事事件でも死刑(または終身刑)が下されることがある。また、「死刑は犯罪を撲滅するための最大の切り札である」と司法当局が確信しているため、死刑の執行が大量に行われている。そのため、暴力による刑事事件だけでなく、「株式相場の混乱」といった経済事件にまで死刑判決が下されたことが実際にある。また、19世紀のアヘン戦争の教訓から、麻薬の密輸や密売といった薬物犯罪にも死刑が数多く適用されている。実際に、覚醒剤を中国から持ち出そうとした日本人4人にも死刑判決が出され、2010年4月6日に1人、同年4月9日に3人の死刑が執行されたことがある。
汚職は近年では、死刑になることは稀であるが、汚職によって得られた金額の大きさや社会的影響、2012年の第18回共産党大会以降に行われたものも含まれているか(この大会の一中全会で習近平が中国共産党中央委員会総書記に選出された。更に、習近平は「大トラもハエも一緒にたたけ」とのスローガンを掲げ、権力闘争の一面があると指摘を受けながらも反腐敗運動を展開している)によって、死刑判決が下されることがある。
中華人民共和国の刑罰体系では、一部の犯罪に関して下された死刑に執行猶予が付せられる規定(中華人民共和国刑法43条)がある(とはいえ、この執行猶予はいわゆる再教育を目指すものである。実際に反革命行為に対する死刑宣告を受けたものを死刑の重圧をかけて『労働改造』する目的があると言われている。著名な執行猶予付き死刑を宣告されたものに江青がいる)。
中国における死刑制度の問題点としては、三権分立が成り立っておらず、量刑の判断基準が政治的な意向に左右されやすいことが挙げられる。しかも、法治主義ではなく役人らの意向が強く反映されている人治主義であるため、近代的刑事訴訟手続が充分に行われていないとの指摘がある。これらの死刑制度の問題点は中国の人権問題として国際的批判の対象となっている。
実際、2018年11月20日に麻薬密輸の罪でカナダ人のロバート・ロイド・シェレンバーグに遼寧省大連市の中級人民法院により懲役15年の刑が下されていたが、控訴後に刑が軽すぎることを理由に差し戻しをされ、2019年1月14日に死刑判決が下されている。その後、控訴したが2021年8月10日に遼寧省の高級人民法院(日本の高等裁判所にあたる)により、棄却されている。背景には、アメリカ合衆国政府の要請によりカナダ政府によって2018年12月1日にファーウェイ最高財務責任者(CFO)孟晩舟が逮捕されたことに対する報復が指摘されている。この事件とは別に、スパイ容疑で別のカナダ人2人を逮捕されている。また、2020年において新型コロナウイルス感染症感染拡大防止対策の為に、最高刑が死刑である「公共安全危害罪」を過大解釈し、感染者が隔離治療を拒否して公共の場所に行ったり、公共交通機関を利用した場合も適用されるとし、地方政府によっては病歴や旅行・居住歴などを隠蔽し嘘をついた場合でも適用された。そのため、この罪により逮捕されるケースが生じた。また、この適用を決める過程で議会も通しておらず、三権分立を無視する形で行われている。
更に、新型コロナウイルス感染対策として実施が予定されていた移動制限の実務担当者2人を殺害した男性を事件発生から半年足らずで、死刑執行させた。なお、最高人民法院より、この男性は過去に暴行の罪で服役し、釈放から5年未満で犯行に及んだことにより死刑判決を下すきっかけにつながったことを発表している。
なお、過去にイギリスやポルトガルの植民地であった特別行政区の香港とマカオでは、中国への主権返還前に死刑制度が廃止されている。
死刑執行数を公開している国の中で一人当たり死刑執行率が高い国のひとつとして知られ、薬物取引や殺人・強姦などの犯罪に主に適用される。同時に犯罪率が低く治安の良さは世界トップクラスを維持している。2016年にシンガポール国立大学が実施した同国での意識調査によると、国民の92%が殺人に対する最高刑を死刑とすることを支持している。
また、2020年に関しては、6年振りに死刑執行が無かった。これは、訴訟を受けて死刑執行が保留になった背景があるが、新型コロナ感染症流行の影響に対する規制も原因の1つと言われている。
そして、2022年4月27日に約2年5ヵ月ぶりに執行されることとなった。執行者の知能指数が69であったため、知的障害がある者を執行したことに対して、物議が生じた。
その後、2023年7月26日に2018年にヘロイン30.72グラムを密輸した罪で約19年ぶりに女性(執行時年齢:45歳)の死刑執行が行われた。
韓国は現在、1997年12月30日に23人が死刑執行されたのを最後に、金大中政権発足以降は死刑の執行命令はない。韓国では死刑執行方法は「絞首刑」としているが、軍刑法では敵前逃亡や脱走、抗命罪に対し最高刑として「銃殺刑」が規定されている。また国家反逆罪では最高刑は死刑である。犯行時18歳未満の場合、死刑は宣告されず最高懲役15年に処せられる。また身体障害者と妊婦の死刑は猶予される。
北朝鮮では主に1990年代から続く食糧不足や経済的困窮を背景に起きた事件の殺人犯、刑事犯、経済犯や、北朝鮮を脱出しようとして第三国で逮捕され北朝鮮へと送還されたいわゆる脱北者、及び国内で反体制活動などを行ったとされる政治犯に対して死刑を行っている。これらは祖国反逆罪、反国家目的破壊・陰害罪などの刑法によって行われる。
第三国に出国した多くの脱北者の目撃証言や、過去日本のメディアが入手した隠し撮り映像によれば執行方法は銃殺であり、都市の一部地域を使い公開群集裁判と呼ばれる公開裁判の一部で行われている。公開群集裁判には開かれる都市の、青少年を含んだ住民が呼び出され見学を強要される。裁判官によって死刑判決文が読まれた後は即処刑が行われる。
執行の形態としては、死刑囚1人に対し4人の執行官が自動小銃を用いて銃殺する。高射砲や犬を使用する場合もあり、その残虐性から国際社会より人権侵害との批判の声がある。死刑囚はこの時磔のようにされる事が多い。さらに死刑執行後は周囲の見学者たちに対し死刑囚(の遺体)に石などを投げつけ死刑囚の遺体を更に傷つける事を命令されるという事もあると言われている。処刑は都市部だけでなく強制収容所内においても行われている。正確なデータは存在しないが、かなり多い頻度でこうした死刑は行われていると言われている。
1980年、インドの最高裁は死刑の判断例を「極めて稀な例」のみと制限したほか、2004年~2007年の間は死刑の執行をしなかった。このまま実質的に廃止されるかに思われたが、2008年、160人以上が死亡したムンバイ同時多発テロが発生。2012年、実行犯の死刑を執行したことから、死刑に対する議論は活発になった。最近では、強姦罪にも死刑を適用している。そして、2020年3月20日午前5時半に2012年に起きた集団レイプ事件の加害者4人が絞首刑により執行され、インドにとって1993年に起きたボンベイ爆破事件加害者の死刑執行から5年振りの執行となった。2022年現在の死刑囚は、539人存在するという。
人口の大部分がムスリムである中東諸国では、死刑執行数が多い。インドネシアでは銃殺刑が法定刑であるが、イランやサウジアラビアではコーランの教えにある斬首刑(サウジアラビアのみ)や石打刑が行われている。
イランにおける実態については明らかではないが、人口当たりの死刑執行数は世界最多であると推測される。公開処刑が少なくとも2022年で2件行われており、18歳未満の死刑執行が5件行われている。更に、反政府的傾向を持つ者や政府に抗議する者や少数民族を政治的に弾圧する為に死刑を利用する傾向を強めている。また名誉の殺人に対する刑罰が軽く、「制度化された暴力」と非難されている。また、背教罪があり国教であるイスラム教シーア派とその下位に位置するとされるゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教の存在が認められている宗教以外の信者であるという理由だけで死刑になる可能性があり、実際に執行された例がある。コーランには、殺人であっても被害者遺族が許した場合には死刑の執行が免除されるとあるため、ムスリム同士の場合は金銭による示談(いわゆる血の賠償金)で死刑が免除される場合がある。
またサウジアラビアでは、出稼ぎ労働者については窃盗などの罪で死刑になる場合もあり、ムスリムと異教徒で刑の軽重に差があるとも言われている。更に、強姦の被害者が逆に犯罪者として死刑になる事例も存在する。
2020年に関しては、サウジアラビアは前年の184人から27人と8割半ば近く減少した。この理由に関してサウジアラビア政府側の説明では、薬物関連の犯罪での死刑執行が一時停止された影響によるものとされているが、コロナウイルス感染症2019流行による社会的混乱とG20サミットの自国開催に伴う国際的批判を避けるために、開催期間中は死刑執行しなかったことが原因と見られている。その後は増加し、2022年は196人であり、アムネスティ・インターナショナルによれば、1993年以降で最も多く執行された年でもあった。そして、その内の81人が2022年3月13日に重要な経済的標的への攻撃の計画や、治安部隊メンバーを標的とした攻撃または殺害・誘拐・拷問・不同意性交、サウジアラビア国内への武器の密輸などの罪状により死刑執行されている。執行された者の中にはイエメン人7人とシリア人1人いた。
過去、イギリスでは、1969年の廃止以降、IRAのテロが多発したため、保守党などから数度死刑復活案が唱えられたことがある。またノルウェーは、1945年にヴィドクン・クヴィスリングを死刑にするために特別に銃殺刑が復活している。1945年5月9日に死刑判決を受け、1945年10月24日に銃殺刑が執行された。
現在、欧州連合 (EU) 各国は、不必要かつ非人道的であることを理由として死刑廃止を決定し、死刑廃止をEUへの加盟条件の1つとしている。また欧州人権条約第3条で死刑を禁止するとともに、欧州評議会においても同様の基準を置いている。このため、現EU加盟国の中で死刑制度を存続している国は、1ヵ国も存在しない。
EU加盟を目指しているトルコ共和国はイスラム教国であるが、人権と基本的自由の保護のための条約の第13議定書に従い死刑制度を廃止した。
ベラルーシはヨーロッパで唯一の死刑存置国である。そのため、EU非加盟国であり、人権と基本的自由の保護のための条約第13議定書によって死刑を全廃した欧州評議会から排除されている。
ロシアは、ソ連時代末期の1988年に当時の民主化と人道主義の観点から、死刑の適用対象から60歳以上の高齢者と経済犯罪を除外した。その後は非常に悪質な故意殺人に対してのみ死刑制度が存置されていた。1996年の欧州議会加盟時に死刑執行を停止(99年まで執行があったチェチェン共和国を除く)。1999年に憲法裁判所は、陪審制をすべての地方で導入されるまでの暫定措置として死刑執行停止を決定した。しかし、一部の下級裁判所は死刑判決を継続した。執行停止は2007年初めに期限切れとなり、ロシアが2006年5月に欧州評議会議長国に就任したことをきっかけに、ヨーロッパ諸国から欧州人権条約の死刑廃止議定書(第13議定書)批准を求める声があがった。ロシアの憲法裁判所は2009年11月19日に、第13議定書を批准するまで死刑判決と執行を禁止すると決定した。これは、メドベージェフ大統領が死刑の廃止を支持していた背景がある。 しかし、ロシア憲法裁判所のワレーリィ・ゾルキン長官は死刑復活の可能性はあるとの認識を示し、廃止の動きは進んでいない。さらに、2022年ロシアのウクライナ侵攻後には、ロシアは欧州評議会脱退を宣言し、ロシアから幹部が送り込まれているといわれている自称ドネツク人民共和国はウクライナ軍捕虜に対し死刑判決を出した。
ドイツは、ヴィルヘルム3世の時代(1797年 - 1840年)はオーストリアの影響でブルシェンシャフトなどの市民活動が弾圧され、1836年の市民蜂起では運動家の学生ら数人に死刑が下された(ドイツにおける死刑を参照)。
2001年6月、欧州評議会は、死刑を存続している日米両国に対し2003年1月までに死刑廃止に向けた実効的措置の遂行を求め、それが成されない場合、両国の欧州評議会全体におけるオブザーバー資格の剥奪をも検討する決議を採択した。
アフリカ54カ国のうち2022年12月25日時点で24カ国が死刑廃止している。また、ブルキナファソ・赤道ギニア・ザンビアは通常犯罪のみ廃止している。法的に廃止された国とは別に12カ国が事実上の廃止国(過去10年以上執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる)である。合計すると54カ国のうち死刑を行っていない国は39カ国である。政情が安定している南部諸国における廃止が目立つ。ただし、政情が安定している地域でも、アラブ圏ではイスラム法の影響もあり死刑存続している国が多い。フランスの文化的影響の強い西部アフリカ諸国は、死刑執行を一時停止しているか、国事犯を除く通常犯罪への適用を行っていない国が多い。
2013年~2022年の間で死刑執行された国はアフリカ諸国では8カ国しかなく、その内の赤道ギニア・チャド・ナイジェリアは執行された年が単年ないし2年のみであり(赤道ギニアは2014年1月に殺人罪で9人執行、チャドは2015年8月29日の首都ヌジャメナで38人が死亡した自爆攻撃を行ったボコハラム戦闘員10人の銃殺刑執行。後の2020年に死刑廃止、ナイジェリアは2013年の4人と2016年の3人の執行)、実質5カ国(ボツワナ・エジプト・ソマリア・南スーダン・スーダン)のみであり、ボツワナを除きアラビア半島の近くに位置する。更に、2016年以降の傾向としては、エジプトが最も多く、次いでソマリアであり、エジプトだけで少なくともアフリカ諸国全体の約5割を占め、ソマリアを含めた場合は少なくとも8割を占めており、どちらもイスラム教徒が9割以上を占めている国である。そして2022年においては、アフリカ大陸諸国で執行が確認された国はエジプト・ソマリア・南スーダンの3カ国である。エジプトが最も多く死刑執行されていると推測されており、推定ながらアフリカ大陸諸国全体の約69%に当たり、ソマリアを含めた場合約86%となる。
エジプトは、2020年に関して、同年9月23日に起きたアル・アクラブ刑務所で警官4人と受刑者4人が死亡する脱獄未遂事件があった影響で、2019年の32人(推定)から107人(推定)と前年に比べ3倍以上に増加しており、その年の10月と11月だけで57人(内、10月3日~10月13日の10日間で49人)の死刑執行がされた。更に、死刑執行された23人は政治的暴力に関連した事件で有罪とされた人々に対するものであり、拷問や自白の強要がされていると指摘されている。その後、人権保護を重視した欧米諸国からの圧力とシナイ半島北部の反政府勢力抑え込みの成功による治安の安定、第27回気候変動枠組条約締約国会議招致に向けた印象改善を狙うことを背景に2013年(当初は北シナイ県のみ対象。その後2017年4月に発生したコプト教教会爆破テロの発生をきっかけにエジプト全土に拡大)から続いていた非常事態宣言を2021年10月25日を解除した影響により、推定執行数が前年の約7分の2近く減少した。
ジンバブエでは2005年に死刑執行人が引退してから後任が決まらない状態が続き死刑が執行されておらず、2022年時点で収監中の死刑囚は66人に及ぶ。2012年には候補者が選定されたものの承認を得られなかった。バージニア・マブヒザ (Virginia Mabhiza) 司法相によると、2017年の死刑執行人の求人では数ヶ月で50人以上の応募が集まったという。AFPの報道ではこの背景としてジンバブエの失業率の高さを挙げており、ある調査ではジンバブエの失業率は90%以上であったと報道した。また、2022年時点でも死刑執行されていない。
死刑制度があるのは、アメリカ合衆国(連邦法と軍法と27州法)と中米のグアテマラ、キューバなど少数である。そのうちアメリカは先進国で最大の死刑執行数を記録しているが、多くの死刑執行はテキサス州で行われており、そのためアメリカのメディアが「死刑の格差」と報道しており、同州でこのような姿勢をニューヨーク・タイムズは「執行に対する住民の積極的な支持」、ロイター通信は「犯罪者に厳罰を科すことをいとわない『カウボーイ気質』のほか、一部で根強く残る人種差別意識がある」と報道した。但し、2020年はコロナウイルス感染症流行の影響により、執行停止や執行の延期が相次いだことことによる執行の減少と、トランプ大統領の凶悪犯罪者に対する厳罰志向による連邦政府による死刑執行を17年振りに再会したことにより、連邦政府が最も多く執行した立法行政司法単位となった。
ラテンアメリカ(南米)諸国の傾向として、2022年末時点で61%の国(33カ国中20カ国)が一般犯罪に対する死刑を廃止し、45%の国(33カ国中15カ国)が完全な死刑を廃止している。死刑制度存続国も、2008年12月19日にセントクリストファー・ネイビスで妻を殺害した罪でチャールズ・エルロイ・ラプラスが絞首刑により執行されたのを最後に10年以上死刑を執行していない。
アメリカ合衆国において最初にミシガン州で死刑が廃止されたのが1847年と、ヨーロッパの死刑廃止の歴史よりも古い。アメリカ合衆国において、死刑を廃止した州や地域は時代の進行とともに増加している。アメリカ合衆国は2022年1月時点で、50州、ワシントンD.C.、5自治領、連邦法、軍法、合計58の立法行政司法単位があり、そのうち2022年1月時点で、23州、ワシントンD.C.、5自治領、合計29の立法行政司法単位で法律上死刑が廃止され、27州、連邦、軍隊の合計29の立法行政司法単位で法律上死刑が定められている。
凶悪犯罪の少ない裕福なニューイングランド諸州や、裕福でこそないが治安が安定している北部内陸州において死刑が行われず、貧しい南部諸州では死刑執行数が多い傾向にある。全米では被告人に対する死刑の宣告ならびに死刑執行は減少傾向にあるが、テキサス州など死刑執行の盛んな地域もある。また、未成年に対する殺害を伴わない性犯罪の再犯者への死刑が適用される州法がサウスカロライナ州、フロリダ州、ルイジアナ州、モンタナ州、オクラホマ州の5州で成立したが、殺人を犯していない性犯罪者に対する死刑適用は過酷であり、憲法違反であると法学者から強く批判されていた。連邦最高裁は2008年6月25日にケネディ対ルイジアナ州事件で「非道な犯罪であっても、被害者が死んでいない事件で死刑を適用する法律は、残酷な刑罰であり合衆国憲法に違反し無効」という憲法違反判断を下している。そのため、この法律は見直された。
1990年以降の犯罪捜査でDNA鑑定が導入され、過去に有罪で死刑判決を受けた死刑囚の冤罪が明らかになり、特に2000年代後半以降では再審で無罪になる例が多発している。1973年から2001年までにアメリカ国内では96名の死刑囚が釈放されており、特にフロリダ州では21人も釈放されている。同州では、5人の死刑執行が行われる間に2人が無罪放免になったという。
死刑の適用に際して経済的・人種的差別が存在しているとの指摘もある。これは、優秀で報酬の高い弁護士を雇用できるほどの経済力を持つ者が司法取引で減刑される一方で、比較的貧困層の多いアフリカ系アメリカ人に対する死刑の適用が人口比と比べて多いとの指摘がある。
オーストラリア、ニュージーランド共にいかなる場合も死刑を廃止している。ニュージーランドには死刑廃止後、復活させた事があったが、今日は死刑を非人道的として完全に廃止している。島嶼諸国も死刑廃止している。パプアニューギニアは10年以上死刑停止状態が続いた後、2022年1月に死刑制度が廃止された。
死刑および死刑制度については、人権や冤罪の可能性、倫理的問題、またその有効性、妥当性、人類の尊厳など多くの観点から、全世界的な議論がなされている(詳細は死刑存廃問題を参照のこと)。議論には死刑廃止論と死刑賛成論の両論が存在する。死刑制度を維持している国では在置論と呼ぶ、廃止している国では復活論と呼ぶ。もちろん死刑の廃止と復活は、世界中で史上何度も行われてきている。
近年では死刑は、前述のように「凶悪事件に対して威嚇力行使による犯罪抑止」、または「犯罪被害者遺族の権利として存置は必要である」と主張される場合がある。ただし前者の「犯罪抑止」としては、統計学および犯罪心理学的に死刑の有用性が証明されたものではなく、存在意義はむしろ社会規範維持のために必要とする法哲学的色彩が強い。後者の「被害者遺族の権利」としては家族が殺人にあったとしても、実際に死刑になる実行犯は情状酌量すべき事情のない動機かつ残虐な殺害方法で人を殺めた極少数であることから、菊田幸一など死刑廃止論者から極限られた被害者遺族の権利を認めることに疑問があるとしている。また、いくら凶悪なる殺人行為であっても、その報復が生命を奪うことが果たして倫理的に許されるかという疑問も指摘されている。元々死刑反対派の弁護士で、磯部常治のように妻子を殺害された後も死刑廃止を支持した者がいる。また、岡村勲のように妻を事件で失ったことを機に全国犯罪被害者の会(高齢化で団体の存続が危ぶまれた後2018年6月に解散)を立ち上げた者もいる。
また、死刑執行を停止しているロシア当局によるチェチェン独立派指導者の「殺害」などがあり、死刑制度の有無や執行の有無が、その国家の人権意識の高さと直接の関係はないとの主張も存在するが、死刑制度は民主国家では廃止され非民主国家で維持される傾向にある。地理的には、ヨーロッパ、そして南米の6カ国を除いた国々が、廃止している。ヨーロッパ諸国においてはベラルーシ以外死刑を行っている国はない(ロシアにおいては制度は存在するが執行は十年以上停止状態であるといわれる。チェチェンを参考のこと)。これは死刑制度がヨーロッパ連合が定めた欧州人権条約第3条に違反するとしているためである。リヒテンシュタインでは1987年に死刑が廃止されたが、最後の処刑が行われたのが1785年のことであり、事実上2世紀も前に廃止されていた。また、ベルギーも1996年に死刑が廃止されたが最後に執行されたのは1950年であった。このように、死刑執行が事実上行われなくなって、長年経過した後に死刑制度も正式に廃止される場合が多い。
欧州議会の欧州審議会議員会議は2001年6月25日に日本およびアメリカ合衆国に対して死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する1253決議を可決した。この決議によれば日本は死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が指摘され、アメリカは死刑適用に対する人種的経済的差別と、少年犯罪者および精神障害者に対する死刑執行が行われているとして、両国の行刑制度を非難するものであった。
通常犯罪における死刑が廃止されても、国家反逆罪ないし戦争犯罪によって死刑が行われる場合がある。例えばノルウェーのヴィドクン・クヴィスリングは1945年5月9日、連合国軍に逮捕され国民連合の指導者と共に大逆罪で裁判にかけられ、銃殺刑に処せられた。ノルウェーでは、この裁判のためだけに特別に銃殺刑を復活(通常犯罪の死刑は1905年に廃止されている)した。また同様にイスラエルもナチスによるホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンを処刑するため、死刑制度がないにもかかわらず(戦争犯罪として適用除外されたともいえる)死刑を宣告し執行した。
中東とアフリカとアジアにおいては総じて死刑制度が維持されている。冷戦時代は総じて民主国家が廃止、独裁国家が維持していたが、現在では冷戦崩壊後の民主化と大量虐殺の反省により東欧と南米が廃止、アジアおよび中東とアフリカの一部が民主化後も維持している状態である。またイスラム教徒が多数を占める国では、イスラーム法を名目とした死刑制度が維持されているが、トルコのようにヨーロッパ連合への加盟を目指すために廃止した国や、ブルネイのように1957年以降死刑執行が行われていないため事実上廃止の状態の国もある。
死刑自体が究極の身体刑であると主張される一方、「火あぶり」、「磔」など苦痛を伴う残虐な方法による死刑のみが究極の身体刑であると主張されることもある。また、苦痛を与えることを目的としない死刑は拷問に当たらないとされる。実際に中国で行われている頭部への銃殺刑は、被執行者が「確実に」即死するため、苦痛がないといわれている。しかし、これは実証されておらず、無論既に死んでいる被執行者に確認を取ることもできないので実証は非常に困難であると思われる。
日本で行われている絞首刑では、実際に見学した人物の証言では、死刑囚の遺体から目と舌が飛び出しており、口や鼻から血液や嘔吐物が流れ出しており、下半身から排泄物が垂れ流しになっていたという。この描写は、米国サンクェンティン刑務所長が自身が立ち会った絞首刑について「顔から、ロープのために肉がもぎ取られ、首が半ばちぎれ、眼が飛び出し、舌が垂れ下がった」とか、尿失禁、便失禁、出血もあったとする著者の記述に一致する。一方で1994年12月に死刑執行された元死刑囚の遺体を引き取った遺族が法医学教室の協力で検証した実例では、気道をロープで一気に塞がれたことにより、意識が消失して縊死した可能性が高いとされている。しかし、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士は、絞首刑を執行された者が瞬時に意識を失うことはまれで、最低でも5〜8秒、長ければ2〜3分間意識が保たれると述べている。
なお死刑存置国であるアメリカ合衆国では、日本で行われている絞首刑を非人道的であるとして廃止している州がほとんどで、2018年末の時点で絞首刑が認可されているのは、3州を残すのみとなっている。しかも、この3州においても、薬殺刑が主流で、受刑者が望んだとき、あるいは、薬殺刑が執行できないときのみ絞首刑が選択される。実際のアメリカの絞首刑執行数も、1977年以降2020年9月までの死刑執行数1526件のうちの3件のみであり、1996年1月25日のデラウェア州でビリー・ベイリーの執行を最後に行われていない。これは、絞首刑には失敗があるためである。絞首刑を執行された者は意識を保ったままで苦しんだり、首が切断されることもある。米国で1622年から2002年までに合法的に行われた絞首刑で少なくとも170件の失敗があったとされる。たとえば1901年に死刑が執行されたトーマス・エドワード・ケッチャムはロープが長すぎたため、首がちぎれてしまい絞首刑の写真として販売された。この例以外でも、米国、英国、カナダ、オーストラリアなどで、絞首刑における首の切断が起こっている。最近では、2007年1月15日にイラク・バグダッドで処刑されたサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ(バルザーン・イブラーヒーム・ハサン)の例がある。また、日本でも、1883年(明治16年)7月6日小野澤おとわという人物の絞首刑執行の際に、「刑台の踏板を外すと均(ひと)しくおとわの体は首を縊(くく)りて一丈(いちじょう)余(よ)の高き処(ところ)よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体(からだ)の重かりし故か釣り下る機会(はずみ)に首が半分ほど引き切れたれば血潮が四方あたりへ迸(ほとばし)り、五分間ほどにて全く絶命した」「絞縄(しめなわ)のくい入りてとれざる故、刃物を以て切断し直に棺におさめ」た事故が起こっていることが報道されている。
カナダでは、絞首刑において、1962年12月11日にトロントのドン刑務所でほぼ首が切断されてしまったアーサー・ルーカスの執行を最後として絞首刑が廃止された。ただし、この事故は長らく秘密とされ、カナダの絞首刑はこの事故とは無関係に廃止された。一方で、このような首の切断の危険性によって絞首刑が廃止された例もある。アリゾナ州はエヴァ・デュガンの首の切断で1933年に絞首刑をガス室に変更した。また、アメリカの法律雑誌では死刑存置国ながら日本が行う絞首刑を「非人道的」と非難する論文が掲載されている。そのため絞首刑に代わる「人道的執行方法」としてガス室や電気椅子が導入されたが、現在では薬物投与による安楽死、すなわち薬殺刑が新たな処刑方法として採用されており、他の死刑存置国においても一部採用されている。
そのため日本でも絞首刑には短期間ながらもそれなりの苦痛が伴うとして、アメリカ合衆国で採用されている薬物などによる薬物注射による薬殺刑が適当な死刑執行方法であるとする主張が存在する。ただし、その薬殺刑についても異常な刑罰との訴訟があったが、アメリカ連邦最高裁は2008年4月に憲法に反しないとの判断を下している。しかしその後、使用する薬物の提供を欧州などのメーカー側が拒否されたため、代替薬物としてミダゾラムなどによる混合薬物が使われるようになったものの、死刑執行の失敗とみられる事例が相次ぎ、オクラホマ州の死刑囚らで作る原告団により最高裁の判断を仰いだ。アメリカ連邦最高裁は、執行に使用される鎮静剤ミダゾラムに「激痛をもたらす大きな危険性」があることを原告団が示せなかったと判断し、「残酷で異常な刑罰」を禁じた憲法には違反していないとの見方を示し、2015年6月に再び合憲と判決した。
日本で絞首刑の残虐性が本格的に争われた裁判はいくつか存在するが、いずれも「絞首刑は憲法36条にいう残虐な刑罰ではない」との最高裁判所の確定判決(死刑制度合憲判決事件)が出ている。 | [
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"text": "死刑(しけい、英語: capital punishment)は、対象者(死刑囚)の生命を奪い去る刑罰である。暴力的な表現を比較的控えられるよう、抽象的な表現として「極刑()」あるいは「処刑()」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。処刑とは「刑」に「処」すことなので必ずしも死刑とは限らないが、「処刑」の単語は一般的に死刑のみで使われる。",
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"text": "日本では現在、絞首刑で行われている。現在の多くの死刑存置国ではおおむね人命を奪った犯罪や国家反逆罪、未遂罪に対しても死刑が適用される。一部犯罪に対する刑罰を厳罰化している国々では、生命・身体の脅威になる犯罪(麻薬・覚醒剤などの使用、製造、人身売買など)や、生命を奪わない犯罪(汚職、通貨の偽造、密輸など)などにも死刑が適用される場合がある。その一方、死刑廃止を推進するため1989年12月15日に自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)が国際連合総会で採択された。2022年時点で、ヨーロッパ、南米、カナダやオーストラリアなどの112カ国で全ての犯罪に対して死刑は廃止されている。また一般犯罪においては死刑を廃止しているが、戦時犯罪行為にのみ死刑を定めている国が9カ国あり、ブラジルやイスラエルがそれに当たり、内5カ国がラテンアメリカ諸国である。",
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"text": "一方で、日本を含むアジア諸国(死刑を廃止している中央アジアやブータン、ネパール、カンボジア、モンゴルは除く)や宗教的に応報が原則とされる中東およびアフリカ大陸諸国、そして欧米文化圏では例外となるアメリカ合衆国の連邦政府及び軍隊と27州(州数は2021年4月時点。ネブラスカ州議会は2015年に死刑を廃止したが、2016年に死刑を復活させた)など78カ国で死刑制度が存置されている。それとは別に、事実上廃止している国が23カ国あり、韓国やロシアがそれらの国にあたる。アムネスティ・インターナショナルでは、事実上廃止国も含め死刑廃止国を144カ国としている。",
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"text": "そして、事実上廃止している国を除いた死刑存置国55カ国の内、2013年~2022年の間に死刑執行された国は36カ国である。更にその中で、この期間中に死刑執行があった年が5年以上あった国は23カ国であり、死刑を存置し死刑廃止の政策や慣習を持っていないと思われる国であっても、死刑の頻度が異なったり、そもそもここ10年の間に執行がない国が特にラテンアメリカに存在する。そして、前述の23カ国の内、地域別では16カ国がアジア、5カ国はアフリカで、アジア・アフリカ以外は、アメリカ合衆国とベラルーシとなっている。また、国民の大多数が信仰している宗教の種類で見た場合、イスラム教が13カ国を占める。",
"title": "概要"
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"text": "そして、2023年5月16日のアムネスティ報告書の調査によれば2022年に世界20カ国で少なくとも883人の死刑(但し、中国や北朝鮮、ベトナムやシリア、アフガニスタンでは未発表の為、 2人とカウントして含めていることに留意する。)が執行された。",
"title": "概要"
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"text": "死刑執行された者の約37%は、生命犯ではない薬物関連の犯罪により執行されている。そのほとんどは、イラン(255人)・サウジアラビア(57人)・シンガポール(11人)の3カ国で占めており、特にイランは8割近くを占める(但し、薬物関連の犯罪を死刑対象としている中国とベトナムは含まれていない。)。この状況に対して、アムネスティ・インターナショナルのカラマール事務総長は、死刑にする犯罪は意図的な殺人を伴う「最も重大な犯罪」に限定すべきであり、自由権規約第6条第2項違反であると批判した。",
"title": "概要"
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"text": "死刑は文明の初期段階において刑罰の中心をなすものであり、世界各地で死刑の記録が残されている。石器時代の遺跡から処刑されたと思われる遺体が発見されることもある。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "死刑は身体刑と並び、前近代(おおむね18世紀以前)には一般的な刑罰であった。人類の刑罰史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる。また、「死刑」という刑罰でなくとも、多くの「死に至る(ことが多い)刑罰」も用いられていた。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "威嚇効果が期待されていたものと考えられており、すなわち見せしめの手段であったため、公開処刑が古今東西で行われていた。火刑、溺死刑、圧殺、生き埋め、磔(はりつけ)、十字架刑、斬首(ざんしゅ)、毒殺、車裂(くるまざき)、鋸挽き、釜茹、石打ち、電気椅子など執行方法も様々であった。近年では、死刑存置国の間でも絞首刑、銃殺刑、電気椅子、ガス殺、注射殺(毒殺)・服毒などに絞られつつあり、比較的肉体的な苦痛の少ないと考えられる方法を採用するのが主流となっている。刑罰の歴史上では文明化と共に死刑を制限することが顕著である。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "刑罰として死が適用される犯罪行為も、必ずしも現代的な意味における重犯罪に限られていたわけではない。窃盗や偽証といった人命を奪わない罪状を含んだほか、社会規範・宗教的規範を破った事に対する制裁として適用される場合もあった。たとえば、中世ヨーロッパでは姦通を犯した既婚者女性は原則的に溺死刑に処せられていた。叛乱の首謀者といった政治犯に対するものにも適用された。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "死刑は、為政者による宗教弾圧の手段として用いられたこともあり、ローマ帝国時代のキリスト教徒迫害や、江戸時代に長崎で行われたキリシタンの処刑のように、キリスト教徒の処刑が多数行われていた。一方魔女裁判のように、宗教者たちによって死に追いやられた人々も多かった。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "その後、近代法制度の確立に伴い、罪刑法定主義によって処罰される犯罪行為が規定され、それに反した場合に限り刑罰を受けるというように限定された。近代法制度下では、どのような犯罪行為に死刑が適用されるかが、あらかじめ規定されている。また18世紀頃から身体を拘束・拘禁する自由刑が一般化し、死刑は「重犯罪向けの特殊な刑罰」という性格を帯びるようになった。死刑の方法もみせしめ効果を狙った残虐なものから絞首刑など単一化されるようになった。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "20世紀中期以降は、死刑を存置する国家では、おおむね他人の生命を奪う犯罪のうち、特に凶悪な犯罪者に対し死刑が適用される傾向がある。ただし戦時犯罪については死刑を容認している国も残されており、上官の命令不服従、敵前逃亡、外患誘致、スパイ行為といった利敵行為などに対して適用される場合がある。また、21世紀になっても、国によっては重大な経済犯罪・麻薬密売・児童人身売買・といった直接に他人の生命を侵害するわけではない犯罪にも死刑が適用されることがあるほか、一部国家では、窃盗犯であっても裁判によらず即決で公開処刑される事例が存在する。",
"title": "死刑の歴史"
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"text": "ドイツの哲学者イマヌエル・カントは「刑罰は悪に対する悪反動であるため、犯した犯罪に相当する刑罰によって犯罪を相殺しなければならない」として「絶対的応報刑論」を唱えた。これに対して「刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならない」とする考え方は「相対的応報刑論」という。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "日本で、死刑を合憲とした1948年(昭和23年)の最高裁判例では、「犯罪者に対する威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲」としており、応報刑的要素についての合憲性は排除されている。なお、予防説では「死刑は一種の必要悪であるとして、犯罪に対する反省もなく、改善不能で矯正も不可能な犯罪者は社会防衛のために死刑にするのもいたしかたない」との死刑存置派からの論拠がある。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "刑罰は応報的な面があるのは事実であるが、死刑が社会的存在を消し去るものであるため、死刑が近代刑罰が忌諱する応報的な刑罰ではないとする法学的根拠が必要とされている。一般予防説に従えば、「死刑は、犯罪者の生を奪うことにより、犯罪を予定する者に対して威嚇をなし、犯罪を予定する者に犯行を思い止まらせるようにするために存在する」ことになる。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "特別予防説に従えば、「死刑は、矯正不能な犯罪者を一般社会に復して再び害悪が生じることがないようにするために、犯罪者の排除を行う」ということになる。しかし、より正確に「特別予防」の意味をとると、「特別予防」とは犯罪者を刑罰により矯正し、再犯を予防することを意味するため、犯人を殺してしまう「死刑」に特別予防の効果はない。仮釈放のない絶対的終身刑にも同様のことがいえる。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "日本やアメリカなど、死刑対象が主に殺人以上の罪を犯した者の場合、死刑は他人の生命を奪った(他人の人権・生きる権利を剥奪した)罪に対して等しい責任(刑事責任)を取らせることになる。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "一般的な死刑賛成論者は予防論と応報刑論をあげるが、応報論の延長として敵討つまり、殺人犯に対する報復という発想もある。近代の死刑制度は、被害者のあだ討ちによる社会秩序の弊害を国家が代替することでなくす側面も存在する。国家の捜査能力が低い近代以前は、むしろ仇討ちを是認あるいは義務としていた社会もあり、それは被害者家族に犯罪者の処罰の責任を負わせて、もって捜査、処罰などの刑事制度の一部を構成させていたという側面もある。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "殺人などの凶悪犯罪では、裁判官が量刑を決める際に応報は考慮されている。基本的には近代刑法では応報刑を否認することを原則としているが、実際の懲役刑の刑期の長短などは被害者に与えた苦痛や、自己中心的な感情による犯行動機があるなど酌量すべきでないなど、応報に基づいて行われている。ただし、死刑の執行方法は被害者と同様(たとえば焼死させたからといって火あぶりに処すなど)の処刑方法でなく、「人道的」な方法が取られる。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "日本では日本国憲法下で初めて死刑を合憲とした判決(死刑制度合憲判決事件、最高裁判所昭和23年3月12日大法廷判決)において、応報論ではなく威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲とされた。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "個別の刑罰の特別抑止(再犯抑止)効果を除いた一般抑止効果は、死刑や、終身刑およびほかの懲役刑も含めて、統計上効果が実証されていない。一般論として、死刑反対派は「死刑による犯罪の一般抑止効果の統計的証拠がないこと」、死刑賛成派は「死刑代替刑による威嚇効果が十分でないこと」を指摘する。抑止効果の分析方法には地域比較と歴史的比較がある。地域比較では国や州の制度の違いによって比較が行われる。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "地域比較としては、アメリカ合衆国の1960年から2010年までの、「死刑制度がない州・地域」と「死刑制度がある州・地域」の殺人発生率を比較(死刑がない州地域とある州の数は時代の進展とともに変化している)すると、死刑制度がある3州の殺人率の平均値は死刑制度がない州や地域と、いずれの年度も近似値であり統計上有意な差異は確認されていない。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "主要工業国(先進国・準先進国)で死刑を実施している国としては、日本、アメリカ合衆国、シンガポール、台湾などがあるが、アメリカ合衆国の殺人率は先進国の中では高く他国の殺人率は低いので、個々の国の殺人率は死刑制度の有無や刑罰制度の重軽により決定されるわけではなく、殺人に対する死刑の一般抑止効果としては、国や州や地域別の比較には意味がないとの指摘もある。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "時代的比較では、死刑が廃止された国での廃止前・廃止後を比較する試みがされる。しかし様々な制度や文化、教育、経済など様々な社会環境の変化も伴うため、分析者によってさまざまな結論が導き出されており、それだけを取り出して検討するのは困難である。ただし現段階においては、廃止後に劇的に犯罪が増加・凶悪化した例はこれまでにはなく、また劇的に犯罪が減少した例もない。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "精神科医・作家の加賀乙彦は著書『死刑囚と無期囚の心理』の中で、確定死刑囚44人を調査した結果、犯行前や犯行中に自分が犯している殺人行為によって死刑になるかどうかを考えた者はいなかったと報告している。この結果を見て、犯行後に死刑を回避するため目撃者さえ殺害したものまでいたため、無我夢中に殺人をしたものに対する犯罪抑止力はほとんど期待できないと結論付けた。ただし、死刑の可能性を考慮して殺人行為を思い止まった者は、当然、死刑囚にはならないので、死刑の抑止力が働かなかった者だけを例にあげて死刑の抑止力がないと主張するのは無理がある。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "自分自身の生命すら省みない自暴自棄な者や、行政機構による自身の殺害を望む自殺志願者、殺人による快楽のみを追い求める自己中心的な、いわゆる「シリアルキラー」には抑止力が働かない例がある。アメリカでは、死刑制度のある州でわざわざ無差別に殺人を犯す者、死刑廃止州で終身刑で服役している囚人が死刑存置州で引き起こした殺人事件を告白し自ら望んで死刑になる者が存在する。例えば、死刑制度のないミシガン州から死刑存置州のイリノイ州に転居して8人を殺害したリチャード・スペックや、死刑廃止州のミネソタ州と死刑存置州のアイオワ州の双方で殺人を犯したチャールズ・ケリーやチャールズ・ブラウンはいずれもアイオワ州で裁判を希望して死刑を受け入れたという。また、死刑執行直前になってもアルバート・フィッシュは「最高のスリル」と待望していたとの説があるが、彼のようなシリアルキラーは他人の生命ばかりか自身の生命の保持すら関心がないので、死刑になることを恐れないなど、自己保身のために犯行を躊躇することはない。アメリカのシリアルキラーのみについていえば死刑の威嚇効果は期待できない。",
"title": "死刑の目的"
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"text": "作家石川達三は、著書『青春の蹉跌』の中で死刑存続論の論拠として",
"title": "死刑の目的"
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{
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"text": "を揚げ、「(死刑は)当然廃止せられるべき」であるが「直ちにこれを廃止するためには、社会の実情がなお整っていない」と主人公に言わせている。",
"title": "死刑の目的"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "2022年時点で、事実上廃止国を除いた55カ国の死刑存置国で行われている、処刑方法は以下の通り。",
"title": "死刑の方法"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "日本、韓国、北朝鮮、 マレーシア、エジプト、イラン、ヨルダン、イラク、パキスタン、バングラデシュ、シンガポール他",
"title": "死刑の方法"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "韓国は、1997年12月30日に23人を死刑執行してから行われておらず、事実上死刑廃止国として扱われている。",
"title": "死刑の方法"
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"text": "米国アラバマ州、フロリダ州、サウスカロライナ州、アーカンソー州、ケンタッキー州、テネシー州、オクラホマ州、ミシシッピ州。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ただし、州によって条件が異なり、アラバマ州、フロリダ州、サウスカロライナ州は処刑対象者が薬殺刑を選択できるが、アーカンソー州(1983年7月3日)、ケンタッキー州(1998年3月30日)、テネシー州(1999年)、ミシシッピ州(1984年6月30日)の場合は、死刑判決がカッコ内の年月日以前に受けた場合でないと、選択できない。",
"title": "死刑の方法"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "更にオクラホマ州は、薬殺刑の執行が不可能な場合にのみ銃殺か電気処刑の選択が出来るように運用されている。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "そして、ネブラスカ州は、かつて電気処刑による死刑執行が行われたが、2008年2月に同州最高裁判所が憲法違反判決を出したため、翌年に、薬物注射による死刑に切り替えている。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "米国アリゾナ州、カリフォルニア州、ミズーリ州、ノースカロライナ州。ただし処刑対象者が薬殺刑を選択できる。",
"title": "死刑の方法"
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{
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"text": "コロラド州、メリーランド州は、かつてガス殺刑も選択すれば執行できたが、前者は2013年に、後者は2020年に死刑が廃止された。",
"title": "死刑の方法"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "またミシシッピ州もガス殺刑を選択できたが、1998年に選択から削除されている。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "そしてアメリカ国内で、1977年の死刑再開以降、ガス殺刑で執行されたのは11件であり、1999年3月3日のアリゾナ州でのドイツ国籍を有するウォルター・ラグランドの執行を最後にアメリカ国内で行われていない。",
"title": "死刑の方法"
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{
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"text": "中華人民共和国(主に経済犯罪に対して。但し、以下の北京を始めとした一部地域では、罪種問わず。)、タイ王国、ベトナム、米国の連邦・軍・死刑制度存置州",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国において、2020年12月時点で、昆明・長沙・成都・北京・深圳・上海・広州・南京・重慶・杭州・瀋陽・大連・鞍山・平頂山・焦作市・武漢・黒竜江省・ウルムチで薬殺刑が完全導入されており、大部分は都市である。そして、地方人民法院によって、死刑執行方法の運用が異なり、財政支援がないことや無用なトラブルを避けることを理由に薬殺刑に消極的になっている所がある。その為、同じ汚職の罪で、ある者は銃殺刑により施行され、別の者は北京で執行された為、薬殺刑となったケースが生じ、不公平さを露呈している。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "ベラルーシ、中華人民共和国(主に一般犯罪に対して。但し、北京を始めとした一部地域は、罪種問わず薬殺刑)、キューバ、北朝鮮、ソマリア、インドネシア、イラン、イエメン、アフガニスタン・アメリカ合衆国ユタ州・オクラホマ州・ミシシッピ州・サウスカロライナ州、死刑を実施するすべての国で死刑囚の身分が現役軍人の場合。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "日本でも戦前には陸軍や海軍の軍法会議で適用される場合があった。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "また、アメリカでは2023年5月時点で前述の4州のみあるが、あくまでも薬殺刑が執行不可能である場合にのみ執行される。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "1977年の死刑執行再開以降、アメリカ国内で銃殺刑に処されたのが3件のみであり、全てユタ州で行われていた。また、サウスカロライナ州で後述の法律により、2022年4月29日に銃殺刑が行われる予定であったが、2022年4月20日にサウスカロライナ州最高裁判所により、執行を一時停止している)。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "死刑囚ロニー・リー・ガードナーの希望により銃殺刑が、2010年6月18日に行われ、この執行を最後にアメリカ国内では行われていない。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "また、ユタ州では、2004年5月4日以降、銃殺刑を選択することを禁じられたが、2015年3月23日に薬殺刑の執行が不可能である場合に限って認められることとなった。そして、2021年5月14日のサウスカロライナ州で、死刑執行用の薬物が入手できず執行出来ない状況を打破する為、電気椅子だけでなく、銃殺刑も薬殺刑が執行不可能である場合に選択できるような法律が成立した。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "イエメンのフーシ派勢力支配地域では、治安要員による銃殺刑後に、クレーンにより銃殺刑後の死体が吊るされる。",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "キューバは2003年、イランは2008年、インドネシアは2016年を最後に銃殺刑での執行は行っておらず、キューバとインドネシアは、その年を最後に執行自体行っていない。",
"title": "死刑の方法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "サウジアラビア、ナイジェリア北部(特定の種類の犯罪でシャリーア裁判所で死刑判決を下された場合)",
"title": "死刑の方法"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "イランも斬首刑が行われていたが、2001年を最後に執行されていない。また、ナイジェリアのシャリーア裁判所では不倫や殺人、同性愛行為に対し死刑判決を下してきたが、現在までに死刑が執行されたことはない。",
"title": "死刑の方法"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "アフガニスタン、アラブ首長国連邦、イエメン、イラン、サウジアラビア、スーダン、ブルネイ、ナイジェリア北部、モーリタニア",
"title": "死刑の方法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "シャリーアの刑罰として、主に不倫や同性愛行為をした場合に行われる。但し、アラブ首長国連邦、ナイジェリア北部は執行された例がなく、イエメンも滅多に執行されることはない。また、ブルネイは国際批判により、死刑執行自体を2019年5月5日より一時停止している。そして、モーリタニアも1987年の執行を最後に、死刑の執行は行われていない。更に、アフガニスタンは2001年のタリバーン政権崩壊以降、少なくとも2021年のタリバーンによる武力による全土掌握するまで同性愛を理由とした死刑執行はされていない。",
"title": "死刑の方法"
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{
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"text": "その他にも、北朝鮮にてハンマーによる撲殺刑が行われたケースもある。",
"title": "死刑の方法"
},
{
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"text": "イラン、北朝鮮、サウジアラビア、ソマリア、イエメン(フーシ派勢力支配地域)などで行われる。",
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"text": "また、中国では以前は公開処刑がテレビで放送されていたほか、バスに死刑執行(薬殺刑)設備を積んだ移動死刑設備がある。",
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"text": "死刑の執行は罪人を殺すという行為を実際に行う者を死刑執行人と呼ぶ。",
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},
{
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"text": "ヨーロッパ諸国や明治時代以前の日本では、中世時代から死刑執行を業務とする死刑執行人が存在していた。",
"title": "死刑の方法"
},
{
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"text": "アメリカや明治以降の日本などでは刑務官が行っている(なお、ヨーロッパ諸国では死刑は廃止されているため、死刑執行人も現存しない)。",
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},
{
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"text": "(参考)19世紀のヨーロッパ諸国(イギリスは別途、18世紀後半も含めた期間のデータ)及び日米の死刑宣告数(日米除く)及び死刑執行数",
"title": "各国の死刑"
},
{
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"text": "",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "アジア(日本を除く)では中華人民共和国やサウジアラビア、イランなどの死刑執行数が多い。またシンガポールは厳罰主義であり、軽微な触法行為に対しても刑罰を加えていることで有名である。また北朝鮮では裁判によらない即決による公開処刑が行われているとの報道もある。なお、アジア諸国で死刑存置国はイスラム教国や東アジアに多い。",
"title": "各国の死刑"
},
{
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"text": "2013年~2022年の間にアジア諸国で死刑執行のあった国は下表より、推定も含めて26カ国あった。その内10カ国は執行執行のあった年は5年未満であった。また、5年以上執行のあった16カ国の内、10カ国は国民の大多数がイスラム教を占める国・地域であり、5カ国は漢字文化圏(儒教)であった。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "前者に属する諸国の中で、イラン・イラク・サウジアラビアが数十~数百の執行を行っている。一方で、これら3カ国と同じアジアの中東諸国でもバーレーン・ヨルダン・クウェート・オマーン・カタール・アラブ首長国連邦は、死刑執行の頻度が少なく、ヨルダンを除き1桁の執行である。また、パレスチナは死刑執行の頻度が多いが、基本1桁の執行であり、2018年~2021年の4年間は死刑執行が無かった。",
"title": "各国の死刑"
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"text": "また、他のイスラーム教が多くを占めるマレーシアとインドネシアも1桁の死刑執行を行っていた。マレーシアは2018年10月に死刑廃止の検討を表明し、一時停止しため2018年以降執行されておらず、2023年7月には殺人やテロなど11の重罪で有罪になった場合、自動的に死刑となる制度が廃止され、同年9月12日には過去の死刑判決を見直す法律が施行されている。インドネシアは、2017年以降執行されておらず、2009年~2012年の間は一時停止していた。そして、パキスタンは2015年に推定341人という3桁の死刑執行が行われていたが、2016年~2019年は2桁の執行であり、2020年以降は執行されていない。なお、2008年12月~2014年11月の間は、テロ行為を含めた一般刑法犯に対する死刑執行を一時凍結していた(但し軍による執行であることを理由に、2012年10月26日に上官含め3人を殺害した兵士が絞首刑により執行されている。)。",
"title": "各国の死刑"
},
{
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"text": "漢字文化圏の場合、世界で最も多いと推定され、数千単位で執行される中国のみならず、推定であるが北朝鮮・ベトナムにおいては、3桁の執行が行われていた。そして、3カ国とも共産主義政党が事実上の一党独裁を行っている。但し、共産主義政党が事実上の一党独裁を行っている国でも、ラオスは1989年以降死刑執行を行っておらず、キューバも2003年を最後に執行されていない。",
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},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "そして、2023年5月16日のアムネスティ報告書の調査によれば2022年に世界20カ国で少なくとも883人の死刑(但し、中国や北朝鮮、ベトナムやシリア、アフガニスタンでは未発表の為、 2人とカウントして含めていることに留意する。)が執行された。最多の中国は、執行数を公表していないが、少なくとも3,500人(2022年推定)は執行されていると推定されるため、アムネスティ・インターナショナルの死刑執行推定数に含めた場合、世界の死刑執行数の約80%を占めることとなる。世界人口の5分の1が中国に集中していることを考慮しても、世界の主要国の中では、死刑執行率も格段に高い。そして中華人民共和国では、殺人だけでなく麻薬犯罪や汚職事件で有罪になった場合も死刑になる。但し、死刑になる最も多い犯罪は、主に殺人と薬物関連による犯罪である。また、2008年の北京オリンピック開催直前までは公開処刑が行われていた。中国政府は「犯罪抑止力のために必要だ」と主張しているが、中国の人権問題として国際社会の批判を受けている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "日本において死刑判決を宣告する際には、永山則夫連続射殺事件で最高裁(昭和58年7月8日判決)が示した死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多い。そのため永山基準と呼ばれ、第1次上告審判決では基準として以下の9項目が提示されている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 69,
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"text": "以上の条件のうち、たとえば4項では「被害者2人までは有期、3人は無期、4人以上は死刑」といった基準があるようにいわれるが、実際の判例では事件の重要性などに鑑みながら決定しており、被害者が1人のみの場合でも死刑の可能性は十分にありえる(詳細は日本における死刑#死刑の量刑基準を参照)。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "執行方法は銃殺刑が基本であるが、薬殺刑を完全導入している地域で死刑執行する場合や賄賂の授受等の経済犯罪(全てではないが)は薬殺刑で執行される。なお、死刑が適用される犯罪行為としては、賄賂の授受や、麻薬の密売や、売春及び性犯罪などが挙げられる。しかも、致死の結果が生じない刑事事件でも死刑(または終身刑)が下されることがある。また、「死刑は犯罪を撲滅するための最大の切り札である」と司法当局が確信しているため、死刑の執行が大量に行われている。そのため、暴力による刑事事件だけでなく、「株式相場の混乱」といった経済事件にまで死刑判決が下されたことが実際にある。また、19世紀のアヘン戦争の教訓から、麻薬の密輸や密売といった薬物犯罪にも死刑が数多く適用されている。実際に、覚醒剤を中国から持ち出そうとした日本人4人にも死刑判決が出され、2010年4月6日に1人、同年4月9日に3人の死刑が執行されたことがある。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "汚職は近年では、死刑になることは稀であるが、汚職によって得られた金額の大きさや社会的影響、2012年の第18回共産党大会以降に行われたものも含まれているか(この大会の一中全会で習近平が中国共産党中央委員会総書記に選出された。更に、習近平は「大トラもハエも一緒にたたけ」とのスローガンを掲げ、権力闘争の一面があると指摘を受けながらも反腐敗運動を展開している)によって、死刑判決が下されることがある。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国の刑罰体系では、一部の犯罪に関して下された死刑に執行猶予が付せられる規定(中華人民共和国刑法43条)がある(とはいえ、この執行猶予はいわゆる再教育を目指すものである。実際に反革命行為に対する死刑宣告を受けたものを死刑の重圧をかけて『労働改造』する目的があると言われている。著名な執行猶予付き死刑を宣告されたものに江青がいる)。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "中国における死刑制度の問題点としては、三権分立が成り立っておらず、量刑の判断基準が政治的な意向に左右されやすいことが挙げられる。しかも、法治主義ではなく役人らの意向が強く反映されている人治主義であるため、近代的刑事訴訟手続が充分に行われていないとの指摘がある。これらの死刑制度の問題点は中国の人権問題として国際的批判の対象となっている。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 74,
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"text": "実際、2018年11月20日に麻薬密輸の罪でカナダ人のロバート・ロイド・シェレンバーグに遼寧省大連市の中級人民法院により懲役15年の刑が下されていたが、控訴後に刑が軽すぎることを理由に差し戻しをされ、2019年1月14日に死刑判決が下されている。その後、控訴したが2021年8月10日に遼寧省の高級人民法院(日本の高等裁判所にあたる)により、棄却されている。背景には、アメリカ合衆国政府の要請によりカナダ政府によって2018年12月1日にファーウェイ最高財務責任者(CFO)孟晩舟が逮捕されたことに対する報復が指摘されている。この事件とは別に、スパイ容疑で別のカナダ人2人を逮捕されている。また、2020年において新型コロナウイルス感染症感染拡大防止対策の為に、最高刑が死刑である「公共安全危害罪」を過大解釈し、感染者が隔離治療を拒否して公共の場所に行ったり、公共交通機関を利用した場合も適用されるとし、地方政府によっては病歴や旅行・居住歴などを隠蔽し嘘をついた場合でも適用された。そのため、この罪により逮捕されるケースが生じた。また、この適用を決める過程で議会も通しておらず、三権分立を無視する形で行われている。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 75,
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"text": "更に、新型コロナウイルス感染対策として実施が予定されていた移動制限の実務担当者2人を殺害した男性を事件発生から半年足らずで、死刑執行させた。なお、最高人民法院より、この男性は過去に暴行の罪で服役し、釈放から5年未満で犯行に及んだことにより死刑判決を下すきっかけにつながったことを発表している。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "なお、過去にイギリスやポルトガルの植民地であった特別行政区の香港とマカオでは、中国への主権返還前に死刑制度が廃止されている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "死刑執行数を公開している国の中で一人当たり死刑執行率が高い国のひとつとして知られ、薬物取引や殺人・強姦などの犯罪に主に適用される。同時に犯罪率が低く治安の良さは世界トップクラスを維持している。2016年にシンガポール国立大学が実施した同国での意識調査によると、国民の92%が殺人に対する最高刑を死刑とすることを支持している。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "また、2020年に関しては、6年振りに死刑執行が無かった。これは、訴訟を受けて死刑執行が保留になった背景があるが、新型コロナ感染症流行の影響に対する規制も原因の1つと言われている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "そして、2022年4月27日に約2年5ヵ月ぶりに執行されることとなった。執行者の知能指数が69であったため、知的障害がある者を執行したことに対して、物議が生じた。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "その後、2023年7月26日に2018年にヘロイン30.72グラムを密輸した罪で約19年ぶりに女性(執行時年齢:45歳)の死刑執行が行われた。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "韓国は現在、1997年12月30日に23人が死刑執行されたのを最後に、金大中政権発足以降は死刑の執行命令はない。韓国では死刑執行方法は「絞首刑」としているが、軍刑法では敵前逃亡や脱走、抗命罪に対し最高刑として「銃殺刑」が規定されている。また国家反逆罪では最高刑は死刑である。犯行時18歳未満の場合、死刑は宣告されず最高懲役15年に処せられる。また身体障害者と妊婦の死刑は猶予される。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "北朝鮮では主に1990年代から続く食糧不足や経済的困窮を背景に起きた事件の殺人犯、刑事犯、経済犯や、北朝鮮を脱出しようとして第三国で逮捕され北朝鮮へと送還されたいわゆる脱北者、及び国内で反体制活動などを行ったとされる政治犯に対して死刑を行っている。これらは祖国反逆罪、反国家目的破壊・陰害罪などの刑法によって行われる。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "第三国に出国した多くの脱北者の目撃証言や、過去日本のメディアが入手した隠し撮り映像によれば執行方法は銃殺であり、都市の一部地域を使い公開群集裁判と呼ばれる公開裁判の一部で行われている。公開群集裁判には開かれる都市の、青少年を含んだ住民が呼び出され見学を強要される。裁判官によって死刑判決文が読まれた後は即処刑が行われる。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "執行の形態としては、死刑囚1人に対し4人の執行官が自動小銃を用いて銃殺する。高射砲や犬を使用する場合もあり、その残虐性から国際社会より人権侵害との批判の声がある。死刑囚はこの時磔のようにされる事が多い。さらに死刑執行後は周囲の見学者たちに対し死刑囚(の遺体)に石などを投げつけ死刑囚の遺体を更に傷つける事を命令されるという事もあると言われている。処刑は都市部だけでなく強制収容所内においても行われている。正確なデータは存在しないが、かなり多い頻度でこうした死刑は行われていると言われている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1980年、インドの最高裁は死刑の判断例を「極めて稀な例」のみと制限したほか、2004年~2007年の間は死刑の執行をしなかった。このまま実質的に廃止されるかに思われたが、2008年、160人以上が死亡したムンバイ同時多発テロが発生。2012年、実行犯の死刑を執行したことから、死刑に対する議論は活発になった。最近では、強姦罪にも死刑を適用している。そして、2020年3月20日午前5時半に2012年に起きた集団レイプ事件の加害者4人が絞首刑により執行され、インドにとって1993年に起きたボンベイ爆破事件加害者の死刑執行から5年振りの執行となった。2022年現在の死刑囚は、539人存在するという。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "人口の大部分がムスリムである中東諸国では、死刑執行数が多い。インドネシアでは銃殺刑が法定刑であるが、イランやサウジアラビアではコーランの教えにある斬首刑(サウジアラビアのみ)や石打刑が行われている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "イランにおける実態については明らかではないが、人口当たりの死刑執行数は世界最多であると推測される。公開処刑が少なくとも2022年で2件行われており、18歳未満の死刑執行が5件行われている。更に、反政府的傾向を持つ者や政府に抗議する者や少数民族を政治的に弾圧する為に死刑を利用する傾向を強めている。また名誉の殺人に対する刑罰が軽く、「制度化された暴力」と非難されている。また、背教罪があり国教であるイスラム教シーア派とその下位に位置するとされるゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教の存在が認められている宗教以外の信者であるという理由だけで死刑になる可能性があり、実際に執行された例がある。コーランには、殺人であっても被害者遺族が許した場合には死刑の執行が免除されるとあるため、ムスリム同士の場合は金銭による示談(いわゆる血の賠償金)で死刑が免除される場合がある。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "またサウジアラビアでは、出稼ぎ労働者については窃盗などの罪で死刑になる場合もあり、ムスリムと異教徒で刑の軽重に差があるとも言われている。更に、強姦の被害者が逆に犯罪者として死刑になる事例も存在する。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2020年に関しては、サウジアラビアは前年の184人から27人と8割半ば近く減少した。この理由に関してサウジアラビア政府側の説明では、薬物関連の犯罪での死刑執行が一時停止された影響によるものとされているが、コロナウイルス感染症2019流行による社会的混乱とG20サミットの自国開催に伴う国際的批判を避けるために、開催期間中は死刑執行しなかったことが原因と見られている。その後は増加し、2022年は196人であり、アムネスティ・インターナショナルによれば、1993年以降で最も多く執行された年でもあった。そして、その内の81人が2022年3月13日に重要な経済的標的への攻撃の計画や、治安部隊メンバーを標的とした攻撃または殺害・誘拐・拷問・不同意性交、サウジアラビア国内への武器の密輸などの罪状により死刑執行されている。執行された者の中にはイエメン人7人とシリア人1人いた。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "過去、イギリスでは、1969年の廃止以降、IRAのテロが多発したため、保守党などから数度死刑復活案が唱えられたことがある。またノルウェーは、1945年にヴィドクン・クヴィスリングを死刑にするために特別に銃殺刑が復活している。1945年5月9日に死刑判決を受け、1945年10月24日に銃殺刑が執行された。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "現在、欧州連合 (EU) 各国は、不必要かつ非人道的であることを理由として死刑廃止を決定し、死刑廃止をEUへの加盟条件の1つとしている。また欧州人権条約第3条で死刑を禁止するとともに、欧州評議会においても同様の基準を置いている。このため、現EU加盟国の中で死刑制度を存続している国は、1ヵ国も存在しない。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "EU加盟を目指しているトルコ共和国はイスラム教国であるが、人権と基本的自由の保護のための条約の第13議定書に従い死刑制度を廃止した。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ベラルーシはヨーロッパで唯一の死刑存置国である。そのため、EU非加盟国であり、人権と基本的自由の保護のための条約第13議定書によって死刑を全廃した欧州評議会から排除されている。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "ロシアは、ソ連時代末期の1988年に当時の民主化と人道主義の観点から、死刑の適用対象から60歳以上の高齢者と経済犯罪を除外した。その後は非常に悪質な故意殺人に対してのみ死刑制度が存置されていた。1996年の欧州議会加盟時に死刑執行を停止(99年まで執行があったチェチェン共和国を除く)。1999年に憲法裁判所は、陪審制をすべての地方で導入されるまでの暫定措置として死刑執行停止を決定した。しかし、一部の下級裁判所は死刑判決を継続した。執行停止は2007年初めに期限切れとなり、ロシアが2006年5月に欧州評議会議長国に就任したことをきっかけに、ヨーロッパ諸国から欧州人権条約の死刑廃止議定書(第13議定書)批准を求める声があがった。ロシアの憲法裁判所は2009年11月19日に、第13議定書を批准するまで死刑判決と執行を禁止すると決定した。これは、メドベージェフ大統領が死刑の廃止を支持していた背景がある。 しかし、ロシア憲法裁判所のワレーリィ・ゾルキン長官は死刑復活の可能性はあるとの認識を示し、廃止の動きは進んでいない。さらに、2022年ロシアのウクライナ侵攻後には、ロシアは欧州評議会脱退を宣言し、ロシアから幹部が送り込まれているといわれている自称ドネツク人民共和国はウクライナ軍捕虜に対し死刑判決を出した。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ドイツは、ヴィルヘルム3世の時代(1797年 - 1840年)はオーストリアの影響でブルシェンシャフトなどの市民活動が弾圧され、1836年の市民蜂起では運動家の学生ら数人に死刑が下された(ドイツにおける死刑を参照)。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2001年6月、欧州評議会は、死刑を存続している日米両国に対し2003年1月までに死刑廃止に向けた実効的措置の遂行を求め、それが成されない場合、両国の欧州評議会全体におけるオブザーバー資格の剥奪をも検討する決議を採択した。",
"title": "各国の死刑"
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{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "アフリカ54カ国のうち2022年12月25日時点で24カ国が死刑廃止している。また、ブルキナファソ・赤道ギニア・ザンビアは通常犯罪のみ廃止している。法的に廃止された国とは別に12カ国が事実上の廃止国(過去10年以上執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる)である。合計すると54カ国のうち死刑を行っていない国は39カ国である。政情が安定している南部諸国における廃止が目立つ。ただし、政情が安定している地域でも、アラブ圏ではイスラム法の影響もあり死刑存続している国が多い。フランスの文化的影響の強い西部アフリカ諸国は、死刑執行を一時停止しているか、国事犯を除く通常犯罪への適用を行っていない国が多い。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2013年~2022年の間で死刑執行された国はアフリカ諸国では8カ国しかなく、その内の赤道ギニア・チャド・ナイジェリアは執行された年が単年ないし2年のみであり(赤道ギニアは2014年1月に殺人罪で9人執行、チャドは2015年8月29日の首都ヌジャメナで38人が死亡した自爆攻撃を行ったボコハラム戦闘員10人の銃殺刑執行。後の2020年に死刑廃止、ナイジェリアは2013年の4人と2016年の3人の執行)、実質5カ国(ボツワナ・エジプト・ソマリア・南スーダン・スーダン)のみであり、ボツワナを除きアラビア半島の近くに位置する。更に、2016年以降の傾向としては、エジプトが最も多く、次いでソマリアであり、エジプトだけで少なくともアフリカ諸国全体の約5割を占め、ソマリアを含めた場合は少なくとも8割を占めており、どちらもイスラム教徒が9割以上を占めている国である。そして2022年においては、アフリカ大陸諸国で執行が確認された国はエジプト・ソマリア・南スーダンの3カ国である。エジプトが最も多く死刑執行されていると推測されており、推定ながらアフリカ大陸諸国全体の約69%に当たり、ソマリアを含めた場合約86%となる。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "エジプトは、2020年に関して、同年9月23日に起きたアル・アクラブ刑務所で警官4人と受刑者4人が死亡する脱獄未遂事件があった影響で、2019年の32人(推定)から107人(推定)と前年に比べ3倍以上に増加しており、その年の10月と11月だけで57人(内、10月3日~10月13日の10日間で49人)の死刑執行がされた。更に、死刑執行された23人は政治的暴力に関連した事件で有罪とされた人々に対するものであり、拷問や自白の強要がされていると指摘されている。その後、人権保護を重視した欧米諸国からの圧力とシナイ半島北部の反政府勢力抑え込みの成功による治安の安定、第27回気候変動枠組条約締約国会議招致に向けた印象改善を狙うことを背景に2013年(当初は北シナイ県のみ対象。その後2017年4月に発生したコプト教教会爆破テロの発生をきっかけにエジプト全土に拡大)から続いていた非常事態宣言を2021年10月25日を解除した影響により、推定執行数が前年の約7分の2近く減少した。",
"title": "各国の死刑"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ジンバブエでは2005年に死刑執行人が引退してから後任が決まらない状態が続き死刑が執行されておらず、2022年時点で収監中の死刑囚は66人に及ぶ。2012年には候補者が選定されたものの承認を得られなかった。バージニア・マブヒザ (Virginia Mabhiza) 司法相によると、2017年の死刑執行人の求人では数ヶ月で50人以上の応募が集まったという。AFPの報道ではこの背景としてジンバブエの失業率の高さを挙げており、ある調査ではジンバブエの失業率は90%以上であったと報道した。また、2022年時点でも死刑執行されていない。",
"title": "各国の死刑"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "死刑制度があるのは、アメリカ合衆国(連邦法と軍法と27州法)と中米のグアテマラ、キューバなど少数である。そのうちアメリカは先進国で最大の死刑執行数を記録しているが、多くの死刑執行はテキサス州で行われており、そのためアメリカのメディアが「死刑の格差」と報道しており、同州でこのような姿勢をニューヨーク・タイムズは「執行に対する住民の積極的な支持」、ロイター通信は「犯罪者に厳罰を科すことをいとわない『カウボーイ気質』のほか、一部で根強く残る人種差別意識がある」と報道した。但し、2020年はコロナウイルス感染症流行の影響により、執行停止や執行の延期が相次いだことことによる執行の減少と、トランプ大統領の凶悪犯罪者に対する厳罰志向による連邦政府による死刑執行を17年振りに再会したことにより、連邦政府が最も多く執行した立法行政司法単位となった。",
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"text": "ラテンアメリカ(南米)諸国の傾向として、2022年末時点で61%の国(33カ国中20カ国)が一般犯罪に対する死刑を廃止し、45%の国(33カ国中15カ国)が完全な死刑を廃止している。死刑制度存続国も、2008年12月19日にセントクリストファー・ネイビスで妻を殺害した罪でチャールズ・エルロイ・ラプラスが絞首刑により執行されたのを最後に10年以上死刑を執行していない。",
"title": "各国の死刑"
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"text": "アメリカ合衆国において最初にミシガン州で死刑が廃止されたのが1847年と、ヨーロッパの死刑廃止の歴史よりも古い。アメリカ合衆国において、死刑を廃止した州や地域は時代の進行とともに増加している。アメリカ合衆国は2022年1月時点で、50州、ワシントンD.C.、5自治領、連邦法、軍法、合計58の立法行政司法単位があり、そのうち2022年1月時点で、23州、ワシントンD.C.、5自治領、合計29の立法行政司法単位で法律上死刑が廃止され、27州、連邦、軍隊の合計29の立法行政司法単位で法律上死刑が定められている。",
"title": "各国の死刑"
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"text": "凶悪犯罪の少ない裕福なニューイングランド諸州や、裕福でこそないが治安が安定している北部内陸州において死刑が行われず、貧しい南部諸州では死刑執行数が多い傾向にある。全米では被告人に対する死刑の宣告ならびに死刑執行は減少傾向にあるが、テキサス州など死刑執行の盛んな地域もある。また、未成年に対する殺害を伴わない性犯罪の再犯者への死刑が適用される州法がサウスカロライナ州、フロリダ州、ルイジアナ州、モンタナ州、オクラホマ州の5州で成立したが、殺人を犯していない性犯罪者に対する死刑適用は過酷であり、憲法違反であると法学者から強く批判されていた。連邦最高裁は2008年6月25日にケネディ対ルイジアナ州事件で「非道な犯罪であっても、被害者が死んでいない事件で死刑を適用する法律は、残酷な刑罰であり合衆国憲法に違反し無効」という憲法違反判断を下している。そのため、この法律は見直された。",
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"text": "1990年以降の犯罪捜査でDNA鑑定が導入され、過去に有罪で死刑判決を受けた死刑囚の冤罪が明らかになり、特に2000年代後半以降では再審で無罪になる例が多発している。1973年から2001年までにアメリカ国内では96名の死刑囚が釈放されており、特にフロリダ州では21人も釈放されている。同州では、5人の死刑執行が行われる間に2人が無罪放免になったという。",
"title": "各国の死刑"
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"text": "死刑の適用に際して経済的・人種的差別が存在しているとの指摘もある。これは、優秀で報酬の高い弁護士を雇用できるほどの経済力を持つ者が司法取引で減刑される一方で、比較的貧困層の多いアフリカ系アメリカ人に対する死刑の適用が人口比と比べて多いとの指摘がある。",
"title": "各国の死刑"
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"text": "オーストラリア、ニュージーランド共にいかなる場合も死刑を廃止している。ニュージーランドには死刑廃止後、復活させた事があったが、今日は死刑を非人道的として完全に廃止している。島嶼諸国も死刑廃止している。パプアニューギニアは10年以上死刑停止状態が続いた後、2022年1月に死刑制度が廃止された。",
"title": "各国の死刑"
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"text": "死刑および死刑制度については、人権や冤罪の可能性、倫理的問題、またその有効性、妥当性、人類の尊厳など多くの観点から、全世界的な議論がなされている(詳細は死刑存廃問題を参照のこと)。議論には死刑廃止論と死刑賛成論の両論が存在する。死刑制度を維持している国では在置論と呼ぶ、廃止している国では復活論と呼ぶ。もちろん死刑の廃止と復活は、世界中で史上何度も行われてきている。",
"title": "死刑制度に関する議論"
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"text": "近年では死刑は、前述のように「凶悪事件に対して威嚇力行使による犯罪抑止」、または「犯罪被害者遺族の権利として存置は必要である」と主張される場合がある。ただし前者の「犯罪抑止」としては、統計学および犯罪心理学的に死刑の有用性が証明されたものではなく、存在意義はむしろ社会規範維持のために必要とする法哲学的色彩が強い。後者の「被害者遺族の権利」としては家族が殺人にあったとしても、実際に死刑になる実行犯は情状酌量すべき事情のない動機かつ残虐な殺害方法で人を殺めた極少数であることから、菊田幸一など死刑廃止論者から極限られた被害者遺族の権利を認めることに疑問があるとしている。また、いくら凶悪なる殺人行為であっても、その報復が生命を奪うことが果たして倫理的に許されるかという疑問も指摘されている。元々死刑反対派の弁護士で、磯部常治のように妻子を殺害された後も死刑廃止を支持した者がいる。また、岡村勲のように妻を事件で失ったことを機に全国犯罪被害者の会(高齢化で団体の存続が危ぶまれた後2018年6月に解散)を立ち上げた者もいる。",
"title": "死刑制度に関する議論"
},
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"text": "また、死刑執行を停止しているロシア当局によるチェチェン独立派指導者の「殺害」などがあり、死刑制度の有無や執行の有無が、その国家の人権意識の高さと直接の関係はないとの主張も存在するが、死刑制度は民主国家では廃止され非民主国家で維持される傾向にある。地理的には、ヨーロッパ、そして南米の6カ国を除いた国々が、廃止している。ヨーロッパ諸国においてはベラルーシ以外死刑を行っている国はない(ロシアにおいては制度は存在するが執行は十年以上停止状態であるといわれる。チェチェンを参考のこと)。これは死刑制度がヨーロッパ連合が定めた欧州人権条約第3条に違反するとしているためである。リヒテンシュタインでは1987年に死刑が廃止されたが、最後の処刑が行われたのが1785年のことであり、事実上2世紀も前に廃止されていた。また、ベルギーも1996年に死刑が廃止されたが最後に執行されたのは1950年であった。このように、死刑執行が事実上行われなくなって、長年経過した後に死刑制度も正式に廃止される場合が多い。",
"title": "死刑制度に関する議論"
},
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"paragraph_id": 111,
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"text": "欧州議会の欧州審議会議員会議は2001年6月25日に日本およびアメリカ合衆国に対して死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する1253決議を可決した。この決議によれば日本は死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が指摘され、アメリカは死刑適用に対する人種的経済的差別と、少年犯罪者および精神障害者に対する死刑執行が行われているとして、両国の行刑制度を非難するものであった。",
"title": "死刑制度に関する議論"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "通常犯罪における死刑が廃止されても、国家反逆罪ないし戦争犯罪によって死刑が行われる場合がある。例えばノルウェーのヴィドクン・クヴィスリングは1945年5月9日、連合国軍に逮捕され国民連合の指導者と共に大逆罪で裁判にかけられ、銃殺刑に処せられた。ノルウェーでは、この裁判のためだけに特別に銃殺刑を復活(通常犯罪の死刑は1905年に廃止されている)した。また同様にイスラエルもナチスによるホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンを処刑するため、死刑制度がないにもかかわらず(戦争犯罪として適用除外されたともいえる)死刑を宣告し執行した。",
"title": "死刑制度に関する議論"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "中東とアフリカとアジアにおいては総じて死刑制度が維持されている。冷戦時代は総じて民主国家が廃止、独裁国家が維持していたが、現在では冷戦崩壊後の民主化と大量虐殺の反省により東欧と南米が廃止、アジアおよび中東とアフリカの一部が民主化後も維持している状態である。またイスラム教徒が多数を占める国では、イスラーム法を名目とした死刑制度が維持されているが、トルコのようにヨーロッパ連合への加盟を目指すために廃止した国や、ブルネイのように1957年以降死刑執行が行われていないため事実上廃止の状態の国もある。",
"title": "死刑制度に関する議論"
},
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"paragraph_id": 114,
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"text": "死刑自体が究極の身体刑であると主張される一方、「火あぶり」、「磔」など苦痛を伴う残虐な方法による死刑のみが究極の身体刑であると主張されることもある。また、苦痛を与えることを目的としない死刑は拷問に当たらないとされる。実際に中国で行われている頭部への銃殺刑は、被執行者が「確実に」即死するため、苦痛がないといわれている。しかし、これは実証されておらず、無論既に死んでいる被執行者に確認を取ることもできないので実証は非常に困難であると思われる。",
"title": "残虐性の有無"
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"text": "日本で行われている絞首刑では、実際に見学した人物の証言では、死刑囚の遺体から目と舌が飛び出しており、口や鼻から血液や嘔吐物が流れ出しており、下半身から排泄物が垂れ流しになっていたという。この描写は、米国サンクェンティン刑務所長が自身が立ち会った絞首刑について「顔から、ロープのために肉がもぎ取られ、首が半ばちぎれ、眼が飛び出し、舌が垂れ下がった」とか、尿失禁、便失禁、出血もあったとする著者の記述に一致する。一方で1994年12月に死刑執行された元死刑囚の遺体を引き取った遺族が法医学教室の協力で検証した実例では、気道をロープで一気に塞がれたことにより、意識が消失して縊死した可能性が高いとされている。しかし、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士は、絞首刑を執行された者が瞬時に意識を失うことはまれで、最低でも5〜8秒、長ければ2〜3分間意識が保たれると述べている。",
"title": "残虐性の有無"
},
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"paragraph_id": 116,
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"text": "なお死刑存置国であるアメリカ合衆国では、日本で行われている絞首刑を非人道的であるとして廃止している州がほとんどで、2018年末の時点で絞首刑が認可されているのは、3州を残すのみとなっている。しかも、この3州においても、薬殺刑が主流で、受刑者が望んだとき、あるいは、薬殺刑が執行できないときのみ絞首刑が選択される。実際のアメリカの絞首刑執行数も、1977年以降2020年9月までの死刑執行数1526件のうちの3件のみであり、1996年1月25日のデラウェア州でビリー・ベイリーの執行を最後に行われていない。これは、絞首刑には失敗があるためである。絞首刑を執行された者は意識を保ったままで苦しんだり、首が切断されることもある。米国で1622年から2002年までに合法的に行われた絞首刑で少なくとも170件の失敗があったとされる。たとえば1901年に死刑が執行されたトーマス・エドワード・ケッチャムはロープが長すぎたため、首がちぎれてしまい絞首刑の写真として販売された。この例以外でも、米国、英国、カナダ、オーストラリアなどで、絞首刑における首の切断が起こっている。最近では、2007年1月15日にイラク・バグダッドで処刑されたサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ(バルザーン・イブラーヒーム・ハサン)の例がある。また、日本でも、1883年(明治16年)7月6日小野澤おとわという人物の絞首刑執行の際に、「刑台の踏板を外すと均(ひと)しくおとわの体は首を縊(くく)りて一丈(いちじょう)余(よ)の高き処(ところ)よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体(からだ)の重かりし故か釣り下る機会(はずみ)に首が半分ほど引き切れたれば血潮が四方あたりへ迸(ほとばし)り、五分間ほどにて全く絶命した」「絞縄(しめなわ)のくい入りてとれざる故、刃物を以て切断し直に棺におさめ」た事故が起こっていることが報道されている。",
"title": "残虐性の有無"
},
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"text": "カナダでは、絞首刑において、1962年12月11日にトロントのドン刑務所でほぼ首が切断されてしまったアーサー・ルーカスの執行を最後として絞首刑が廃止された。ただし、この事故は長らく秘密とされ、カナダの絞首刑はこの事故とは無関係に廃止された。一方で、このような首の切断の危険性によって絞首刑が廃止された例もある。アリゾナ州はエヴァ・デュガンの首の切断で1933年に絞首刑をガス室に変更した。また、アメリカの法律雑誌では死刑存置国ながら日本が行う絞首刑を「非人道的」と非難する論文が掲載されている。そのため絞首刑に代わる「人道的執行方法」としてガス室や電気椅子が導入されたが、現在では薬物投与による安楽死、すなわち薬殺刑が新たな処刑方法として採用されており、他の死刑存置国においても一部採用されている。",
"title": "残虐性の有無"
},
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"paragraph_id": 118,
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"text": "そのため日本でも絞首刑には短期間ながらもそれなりの苦痛が伴うとして、アメリカ合衆国で採用されている薬物などによる薬物注射による薬殺刑が適当な死刑執行方法であるとする主張が存在する。ただし、その薬殺刑についても異常な刑罰との訴訟があったが、アメリカ連邦最高裁は2008年4月に憲法に反しないとの判断を下している。しかしその後、使用する薬物の提供を欧州などのメーカー側が拒否されたため、代替薬物としてミダゾラムなどによる混合薬物が使われるようになったものの、死刑執行の失敗とみられる事例が相次ぎ、オクラホマ州の死刑囚らで作る原告団により最高裁の判断を仰いだ。アメリカ連邦最高裁は、執行に使用される鎮静剤ミダゾラムに「激痛をもたらす大きな危険性」があることを原告団が示せなかったと判断し、「残酷で異常な刑罰」を禁じた憲法には違反していないとの見方を示し、2015年6月に再び合憲と判決した。",
"title": "残虐性の有無"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "日本で絞首刑の残虐性が本格的に争われた裁判はいくつか存在するが、いずれも「絞首刑は憲法36条にいう残虐な刑罰ではない」との最高裁判所の確定判決(死刑制度合憲判決事件)が出ている。",
"title": "残虐性の有無"
}
] | 死刑は、対象者(死刑囚)の生命を奪い去る刑罰である。暴力的な表現を比較的控えられるよう、抽象的な表現として「極刑」あるいは「処刑」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。処刑とは「刑」に「処」すことなので必ずしも死刑とは限らないが、「処刑」の単語は一般的に死刑のみで使われる。 | {{暴力的}}
'''死刑'''(しけい、[[英語]]: capital punishment)は、対象者([[死刑囚]])の生命を奪い去る[[刑罰]]である。暴力的な表現を比較的控えられるよう、抽象的な表現として「{{読み仮名|'''極刑'''|きょっけい}}」あるいは「{{読み仮名|'''処刑'''|しょけい}}」とも表現される。刑罰の分類上は生命刑に分類される。処刑とは「刑」に「処」すことなので必ずしも死刑とは限らないが、「処刑」の単語は一般的に死刑のみで使われる。
== 概要 ==
[[日本]]では現在、[[絞首刑]]で行われている。現在の多くの死刑存置国ではおおむね人命を奪った犯罪や国家反逆罪、未遂罪に対しても死刑が適用される。一部犯罪に対する刑罰を厳罰化している国々では、生命・身体の脅威になる[[犯罪]]([[麻薬]]・[[覚醒剤]]などの使用、製造、[[人身売買]]など)や、生命を奪わない犯罪([[汚職]]、通貨の[[偽造]]、[[密輸]]など)などにも死刑が適用される場合がある。その一方、死刑廃止を推進するため[[1989年]][[12月15日]]に[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書|自由権規約第2選択議定書]](死刑廃止議定書)が[[国際連合総会]]で採択された。[[2022年]]時点で、[[ヨーロッパ]]、[[南米]]、[[カナダ]]や[[オーストラリア]]などの112カ国で全ての犯罪に対して死刑は廃止されている。また一般犯罪においては死刑を廃止しているが、[[戦争犯罪|戦時犯罪]]行為にのみ死刑を定めている国が9カ国あり、[[ブラジル]]や[[イスラエル]]がそれに当たり、内5カ国が[[ラテンアメリカ]]諸国である。
一方で、日本を含む[[アジア]]諸国(死刑を廃止している[[中央アジア]]や[[ブータン]]、[[ネパール]]、[[カンボジア]]、[[モンゴル]]は除く)や宗教的に応報が原則とされる中東およびアフリカ大陸諸国{{Efn|54カ国中15カ国。但し、通常犯罪のみ廃止の国や事実上の廃止国は含まれていない。}}、そして欧米文化圏では例外となる[[アメリカ合衆国]]の連邦政府及び軍隊と27州(州数は2021年4月時点<ref name="dpic-facts-states-with-and-without-death-penalty">[http://www.deathpenaltyinfo.org/states-and-without-death-penalty Death Penalty Information Center>Fact>States With and Without the Death Penalty]</ref><ref name="dpic-resources-state-by-state">[http://www.deathpenaltyinfo.org/state_by_state Death Penalty Information Center>Resources>State by State Database]</ref>。[[ネブラスカ州]]議会は[[2015年]]に死刑を廃止したが、[[2016年]]に死刑を復活させた<ref>[https://deathpenaltyinfo.org/nebraska-1 Death Penalty Information Center>Resouces>State Information>Nebraska]</ref>)など78カ国で死刑制度が存置されている。それとは別に、[[事実上]]廃止している国{{Efn|10年以上死刑執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる。}}が23カ国あり、[[韓国]]や[[ロシア]]がそれらの国にあたる。[[アムネスティ・インターナショナル]]では、事実上廃止国も含め死刑廃止国を144カ国としている<ref name="2022死刑廃止">{{Cite report|author=アムネスティ―・インターナショナル|date=2023-05-16|title=死刑廃止 - 最新の死刑統計(2022)|url=https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/statistics.html|format=PDF|accessdate=2023-05-28}}</ref><ref name="死刑廃止国・存置国">{{Cite report|author=アムネスティ―・インターナショナル|date=2022-12-31|title=死刑廃止国・存置国<2022年12月31日現在>|url=https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/DP_2022_country_list.pdf|format=PDF|accessdate=2023-05-28}}</ref>。
そして、事実上廃止している国を除いた死刑存置国55カ国の内、[[2013年]]~[[2022年]]の間に死刑執行された国は36カ国である。更にその中で、この期間中に死刑執行があった年が5年以上あった国は23カ国であり、死刑を存置し死刑廃止の政策や慣習を持っていないと思われる国であっても、死刑の頻度が異なったり、そもそもここ10年の間に執行がない国が特に[[ラテンアメリカ]]に存在する。そして、前述の23カ国の内、地域別では16カ国が[[アジア]]、5カ国は[[アフリカ]]で、アジア・アフリカ以外は、[[アメリカ合衆国]]と[[ベラルーシ]]となっている。また、国民の大多数が信仰している[[宗教]]の種類で見た場合、[[イスラム教]]が13カ国を占める。
そして、[[2023年]][[5月16日]]の[[アムネスティ・インターナショナル|アムネスティ]]報告書の調査によれば2022年に世界20カ国で少なくとも883人の死刑(但し、中国や北朝鮮、ベトナムやシリア、アフガニスタンでは未発表の為、 2人とカウントして含めていることに留意する。)が執行された。<ref>{{Cite web |url=https://www.amnesty.or.jp/library/report/pdf/statistics_DP_2022.pdf |title=2022年の死刑判決と死刑執行 アムネスティ・インターナショナル報告書 日本語訳 |access-date=2023-12-26}}</ref>
死刑執行された者の約37%は、生命犯ではない薬物関連の犯罪により執行されている。そのほとんどは、イラン(255人)・サウジアラビア(57人)・シンガポール(11人)の3カ国で占めており、特にイランは8割近くを占める(但し、薬物関連の犯罪を死刑対象としている中国とベトナムは含まれていない。)。この状況に対して、アムネスティ・インターナショナルのカラマール事務総長は、死刑にする犯罪は意図的な[[殺人]]を伴う「最も重大な犯罪」に限定すべきであり、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約|自由権規約]]第6条第2項違反であると批判した<ref>{{Cite news|author=Dominic Dudley|translator=安藤清香|title=昨年の死刑執行数、上位は中国・イラン・サウジ アムネスティ報告|newspaper=[[フォーブス]]|language=日本語|date=2023-05-29|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/63448|accessdate=2023-05-30
}}</ref>。
== 死刑の歴史 ==
{{main|死刑の歴史}}
[[ファイル:Jean-Léon_Gérôme_-_The_Christian_Martyrs'_Last_Prayer_-_Walters_37113.jpg|thumb|right|280px|[[ジャン=レオン・ジェローム]]によるローマ時代のキリスト教徒[[殉教]]の絵画。火刑、動物刑の公開処刑が描きこまれている]]
死刑は文明の初期段階において刑罰の中心をなすものであり、世界各地で死刑の記録が残されている。[[石器時代]]の[[遺跡]]から処刑されたと思われる[[死体|遺体]]が発見されることもある。
死刑は[[身体刑]]と並び、[[前近代]](おおむね[[18世紀]]以前)には一般的な刑罰であった。[[人類]]の[[刑罰]]史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる<ref>斎藤静敬『刑事政策』創成社 79頁。</ref>。また、「死刑」という刑罰でなくとも、多くの「死に至る(ことが多い)刑罰」も用いられていた。
威嚇効果が期待されていたものと考えられており、すなわち見せしめの手段であったため、公開処刑が古今東西で行われていた。[[火刑]]、[[溺死]]刑、圧殺、生き埋め、[[磔]](はりつけ)、[[キリストの磔刑|十字架刑]]、[[斬首刑|斬首]](ざんしゅ)、毒殺、[[車裂きの刑|車裂]](くるまざき)、[[鋸挽き]]、[[釜茹で|釜茹]]、[[石打ち]]、[[電気椅子]]など執行方法も様々であった。近年では、死刑存置国の間でも[[絞首刑]]、[[銃殺刑]]、[[電気椅子]]、ガス殺、[[薬殺刑|注射殺(毒殺)・服毒]]などに絞られつつあり、比較的肉体的な苦痛の少ないと考えられる方法を採用するのが主流となっている。刑罰の歴史上では文明化と共に死刑を制限することが顕著である<ref>川端博『刑法総論講義』成文堂 660頁。</ref>。
刑罰として死が適用される犯罪行為も、必ずしも現代的な意味における重犯罪に限られていたわけではない。窃盗や偽証といった人命を奪わない罪状を含んだほか、社会規範・宗教的規範を破った事に対する制裁として適用される場合もあった。たとえば、[[中世]][[ヨーロッパ]]では姦通を犯した既婚者女性は原則的に溺死刑に処せられていた{{Efn|ただし、現在でもイスラム法を重要視している国では不倫や婚前前性交渉を理由に死刑になる場合が存在する。}}。叛乱の首謀者といった[[政治犯]]に対するものにも適用された。
死刑は、為政者による[[宗教弾圧]]の手段として用いられたこともあり、ローマ帝国時代の[[キリスト教徒]]迫害や、[[江戸時代]]に[[日本二十六聖人|長崎で行われたキリシタンの処刑]]のように、[[キリスト教徒]]の処刑が多数行われていた。一方[[魔女裁判]]のように、宗教者たちによって死に追いやられた人々も多かった。
その後、近代法制度の確立に伴い、[[罪刑法定主義]]によって処罰される犯罪行為が規定され、それに反した場合に限り刑罰を受けるというように限定された。近代法制度下では、どのような犯罪行為に死刑が適用されるかが、あらかじめ規定されている。また18世紀頃から身体を拘束・拘禁する[[自由刑]]が一般化し、死刑は「重犯罪向けの特殊な刑罰」という性格を帯びるようになった。死刑の方法もみせしめ効果を狙った残虐なものから絞首刑など単一化されるようになった。
20世紀中期以降は、死刑を存置する国家では、おおむね他人の生命を奪う犯罪のうち、特に凶悪な犯罪者に対し死刑が適用される傾向がある。ただし戦時犯罪については死刑を容認している国も残されており、上官の命令不服従、[[敵前逃亡]]、外患誘致、[[スパイ]]行為といった利敵行為などに対して適用される場合がある。また、21世紀になっても、国によっては重大な経済犯罪・麻薬[[密売]]・児童[[人身売買]]・といった直接に他人の生命を侵害するわけではない犯罪にも死刑が適用されることがあるほか、一部国家<ref>北朝鮮に関する報道による。</ref>では、窃盗犯であっても裁判によらず即決で公開処刑される事例が存在する。
== 死刑の目的 ==
=== 死刑とはいかなる類の刑であるか ===
ドイツの哲学者[[イマヌエル・カント]]は「刑罰は悪に対する悪反動であるため、犯した犯罪に相当する刑罰によって犯罪を相殺しなければならない」として「絶対的[[応報刑論]]」を唱えた。これに対して「刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならない」とする考え方は「相対的応報刑論」という。
日本で、死刑を合憲とした[[1948年]](昭和23年)の[[死刑制度合憲判決事件|最高裁判例]]では、「犯罪者に対する威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲」としており、応報刑的要素についての合憲性は排除されている。なお、予防説では「死刑は一種の必要悪であるとして、犯罪に対する反省もなく、改善不能で矯正も不可能な犯罪者は社会防衛のために死刑にするのもいたしかたない」との死刑存置派からの論拠がある<ref>藤本哲也 『刑事政策概論』 青林書院 126頁。</ref>。
=== 死刑の法的根拠 ===
刑罰は応報的な面があるのは事実であるが、死刑が社会的存在を消し去るものであるため、死刑が近代刑罰が忌諱する応報的な刑罰ではないとする法学的根拠が必要とされている。'''一般予防説'''に従えば、「死刑は、犯罪者の[[生命|生]]を奪うことにより、[[犯罪]]を予定する者に対して威嚇をなし、犯罪を予定する者に犯行を思い止まらせるようにするために存在する」ことになる。
'''特別予防説'''に従えば、「死刑は、矯正不能な犯罪者を一般社会に復して再び害悪が生じることがないようにするために、犯罪者の排除を行う」ということになる。しかし、より正確に「特別予防」の意味をとると、「特別予防」とは犯罪者を刑罰により矯正し、再犯を予防することを意味するため、犯人を殺してしまう「死刑」に特別予防の効果はない。仮釈放のない絶対的[[終身刑]]にも同様のことがいえる。
日本やアメリカなど、死刑対象が主に殺人以上の罪を犯した者の場合、死刑は他人の生命を奪った(他人の人権・生きる権利を剥奪した)罪に対して等しい責任(刑事責任)を取らせることになる。
一般的な死刑賛成論者は予防論と応報刑論をあげるが、応報論の延長として[[敵討]]つまり、殺人犯に対する[[報復]]という発想もある。近代の死刑制度は、[[被害者]]のあだ討ちによる社会秩序の弊害を国家が代替することでなくす側面も存在する。国家の捜査能力が低い近代以前は、むしろ仇討ちを是認あるいは義務としていた社会もあり、それは被害者家族に犯罪者の処罰の責任を負わせて、もって捜査、処罰などの刑事制度の一部を構成させていたという側面もある。
殺人などの凶悪犯罪では、裁判官が量刑を決める際に応報は考慮されている。基本的には[[近代]][[刑法]]では[[応報刑]]を否認することを原則としているが、実際の懲役刑の刑期の長短などは被害者に与えた苦痛や、自己中心的な感情による犯行動機があるなど酌量すべきでないなど、応報に基づいて行われている。ただし、死刑の執行方法は被害者と同様(たとえば焼死させたからといって火あぶりに処すなど)の処刑方法でなく、「人道的」な方法が取られる。
日本では[[日本国憲法]]下で初めて死刑を合憲とした判決([[死刑制度合憲判決事件]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]昭和23年3月12日大法廷判決)において、応報論ではなく'''威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲'''とされた。
=== 抑止効果 ===
個別の刑罰の特別抑止(再犯抑止)効果を除いた一般抑止効果は、死刑や、終身刑およびほかの懲役刑も含めて、統計上効果が実証されていない。一般論として、死刑反対派は「死刑による犯罪の一般抑止効果の統計的証拠がないこと」、死刑賛成派は「死刑代替刑による威嚇効果が十分でないこと」を指摘する。抑止効果の分析方法には地域比較と歴史的比較がある。地域比較では国や州の制度の違いによって比較が行われる。
地域比較としては、アメリカ合衆国の1960年から2010年までの、「死刑制度がない州・地域」と「死刑制度がある州・地域」の殺人発生率を比較(死刑がない州地域とある州の数は時代の進展とともに変化している)すると、死刑制度がある3州の殺人率の平均値は死刑制度がない州や地域と、いずれの年度も近似値であり統計上有意な差異は確認されていない<ref>[http://www.deathpenaltyinfo.org/murder-rates-nationally-and-state Death Penalty Information Center>State by State>Sources and Additional Information>States with and without the Death Penalty>Murder Rates by Stat] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.deathpenaltyinfo.org/state_by_state Death Penalty Information Center>State by State Database] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2009 FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports 2009>Violent Crime>Table 4] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2008 FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports 2008>Violent Crime>Table 4] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2006 FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports 2006>Violent Crime>Table 4] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www2.fbi.gov/ucr/cius_04/documents/CIUS2004.pdf FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports >more>2004>Full Document(PDFと文書の76〜84ページ)] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2001/crime_sec201.pdf/view FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports/more>2001>Section II Crime Index Offenses Reported(PDFと文書の66〜75ページ)] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.disastercenter.com/crime/ United States: Uniform Crime Report -- State Statistics from 1960 - 2009] 2010年10月17日閲覧</ref>。
主要工業国(先進国・準先進国)で死刑を実施している国としては、日本、アメリカ合衆国、シンガポール、台湾などがあるが、アメリカ合衆国の殺人率は先進国の中では高く他国の殺人率は低い<ref>[http://www.uncjin.org/Statistics/WCTS/WCTS5/wcts5.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Fifth Survey (1990 - 1994)] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Sixth-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Sixth Survey (1995 - 1997)>Sorted by variable] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Seventh-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Seventh Survey (1998 - 2000)>Sorted by variable] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Eighth-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Eighth Survey (2001 - 2002)>Sorted by variable ] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Ninth-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Ninth Survey (2003 - 2004)>Values and Rates per 100,000 Total Population Listed by Country] 2009年8月31日閲覧</ref>ので、個々の国の殺人率は死刑制度の有無や刑罰制度の重軽により決定されるわけではなく、殺人に対する死刑の一般抑止効果としては、国や州や地域別の比較には意味がないとの指摘もある。
時代的比較では、死刑が廃止された国での廃止前・廃止後を比較する試みがされる。しかし様々な制度や文化、教育、経済など様々な社会環境の変化も伴うため、分析者によってさまざまな結論が導き出されており、それだけを取り出して検討するのは困難である。ただし現段階においては、廃止後に劇的に犯罪が増加・凶悪化した例はこれまでにはなく、また劇的に犯罪が減少した例もない。
[[精神科医]]・[[作家]]の[[加賀乙彦]]は著書『死刑囚と無期囚の心理』の中で、確定死刑囚44人を調査した結果、犯行前や犯行中に自分が犯している殺人行為によって死刑になるかどうかを考えた者はいなかったと報告している。この結果を見て、犯行後に死刑を回避するため目撃者さえ殺害したものまでいたため、無我夢中に殺人をしたものに対する犯罪抑止力はほとんど期待できないと結論付けた。ただし、死刑の可能性を考慮して殺人行為を思い止まった者は、当然、死刑囚にはならないので、死刑の抑止力が働かなかった者だけを例にあげて死刑の抑止力がないと主張するのは無理がある。
自分自身の生命すら省みない自暴自棄な者や、[[拡大自殺|行政機構による自身の殺害]]を望む自殺志願者、殺人による快楽のみを追い求める自己中心的な、いわゆる「[[シリアルキラー]]」には抑止力が働かない例がある。アメリカでは、死刑制度のある州でわざわざ無差別に殺人を犯す者、死刑廃止州で終身刑で服役している囚人が死刑存置州で引き起こした殺人事件を告白し自ら望んで死刑になる者が存在する。例えば、死刑制度のない[[ミシガン州]]から死刑存置州の[[イリノイ州]]に転居して8人を殺害したリチャード・スペックや、死刑廃止州の[[ミネソタ州]]と死刑存置州の[[アイオワ州]]の双方で殺人を犯したチャールズ・ケリーやチャールズ・ブラウンはいずれもアイオワ州で裁判を希望して死刑を受け入れたという。また、死刑執行直前になっても[[アルバート・フィッシュ]]は「最高のスリル」と待望していたとの説があるが、彼のようなシリアルキラーは他人の生命ばかりか自身の生命の保持すら関心がないので、死刑になることを恐れないなど、自己保身のために犯行を躊躇することはない。アメリカのシリアルキラーのみについていえば死刑の威嚇効果は期待できない<ref>宮本倫好『死刑の大国アメリカ』亜紀書房刊</ref>。
作家[[石川達三]]は、著書『[[青春の蹉跌]]』の中で死刑存続論の論拠として
* 「人を殺した者は、彼も亦生命を奪われねばならない」という応報的法的確信
* 威嚇的効果の期待
* 犯罪者の完全隔離
を揚げ、「(死刑は)当然廃止せられるべき」であるが「直ちにこれを廃止するためには、社会の実情がなお整っていない」と主人公に言わせている。
== 死刑の方法 ==
{{main|刑罰の一覧}}
2022年時点で、事実上廃止国を除いた55カ国の死刑存置国で行われている、処刑方法は以下の通り。
===一覧===
====絞首====
[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、 [[マレーシア]]、[[エジプト]]、[[イラン]]、[[ヨルダン]]、[[イラク]]、[[パキスタン]]、[[バングラデシュ]]、[[シンガポール]]他
[[韓国]]は、[[1997年]][[12月30日]]に23人を死刑執行してから行われておらず、事実上死刑廃止国として扱われている。
====電気椅子====
[[アメリカ合衆国|米国]][[アラバマ州]]、[[フロリダ州]]、[[サウスカロライナ州]]、[[アーカンソー州]]、[[ケンタッキー州]]、[[テネシー州]]、[[オクラホマ州]]、[[ミシシッピ州]]。
ただし、州によって条件が異なり、アラバマ州、フロリダ州、サウスカロライナ州は処刑対象者が薬殺刑を選択できるが、[[アーカンソー州]]([[1983年]][[7月3日]])、[[ケンタッキー州]]([[1998年]][[3月30日]])、[[テネシー州]]([[1999年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/amp/3195791|title=米テネシー州の死刑囚、本人の希望通り電気椅子で刑執行 |newspaper=[[AFPBB News]]|date=2018-11-2|accessdate=2020-08-03}}</ref>)、[[ミシシッピ州]]([[1984年]][[6月30日]])の場合は、死刑判決がカッコ内の年月日以前に受けた場合でないと、選択できない。
更に[[オクラホマ州]]は、薬殺刑の執行が不可能な場合にのみ銃殺か電気処刑の選択が出来るように運用されている。
そして、[[ネブラスカ州]]は、かつて[[電気椅子|電気処刑]]による死刑執行が行われたが、[[2008年]]2月に同州最高裁判所が憲法違反判決を出したため、翌年に、薬物注射による死刑に切り替えている<ref name="DPIC State by State">{{Cite web|author=[[:en:Death Penalty Information Center|Death Penalty Information Center]](死刑情報戦センター)|url=https://deathpenaltyinfo.org/state-and-federal-info/state-by-state|title=State by State|accessdate=2020-08-03}}</ref>。
====ガス室====
[[アメリカ合衆国|米国]][[アリゾナ州]]、[[カリフォルニア州]]、[[ミズーリ州]]、[[ノースカロライナ州]]。ただし処刑対象者が薬殺刑を選択できる。
[[コロラド州]]、[[メリーランド州]]は、かつてガス殺刑も選択すれば執行できたが、前者は2013年に、後者は2020年に死刑が廃止された。
また[[ミシシッピ州]]もガス殺刑を選択できたが、1998年に選択から削除されている<ref name="DPIC State by State" />。
そしてアメリカ国内で、1977年の死刑再開以降、ガス殺刑で執行されたのは11件であり、[[1999年]][[3月3日]]のアリゾナ州でのドイツ国籍を有する[[:en:LaGrand case|ウォルター・ラグランド]]の執行を最後にアメリカ国内で行われていない。
====薬殺====
[[中華人民共和国]](主に経済犯罪に対して。但し、以下の北京を始めとした一部地域では、罪種問わず。)、[[タイ王国]]、[[ベトナム]]、米国の連邦・軍・死刑制度存置[[州]]
中華人民共和国において、2020年12月時点で、[[昆明]]・[[長沙]]・[[成都]]・[[北京]]・[[深圳]]・[[上海]]・[[広州]]・[[南京]]・[[重慶]]・[[杭州]]・[[瀋陽]]・[[大連]]・[[鞍山]]・[[平頂山]]・[[焦作市]]・[[武漢]]・[[黒竜江省]]・[[ウルムチ]]で薬殺刑が完全導入されており、大部分は都市である。そして、地方[[人民法院]]によって、死刑執行方法の運用が異なり、財政支援がないことや無用なトラブルを避けることを理由に薬殺刑に消極的になっている所がある。その為、同じ汚職の罪で、ある者は銃殺刑により施行され、別の者は北京で執行された為、薬殺刑となったケースが生じ、不公平さを露呈している<ref name="大揭秘:中国注射死刑的执行全过程(中国における薬殺刑執行の全過程)">{{Cite news|title=大揭秘:中国注射死刑的执行全过程(中国における薬殺刑執行の全過程)|newspaper=[[網易]]|language=中国語(簡体字)|date=2020-12-08|url=https://www.163.com/dy/article/FT8M07V70517F6GH.html|accessdate=2021-06-28}}</ref>。
====銃殺====
[[ベラルーシ]]、中華人民共和国(主に一般犯罪に対して。但し、北京を始めとした一部地域は、罪種問わず薬殺刑)、[[キューバ]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ソマリア]]、[[インドネシア]]、[[イラン]]、[[イエメン]]、[[アフガニスタン]]・アメリカ合衆国ユタ州・オクラホマ州・ミシシッピ州・サウスカロライナ州<ref>{{Cite news|author=Anna Kaplan|title=銃殺か電気椅子か、米国の死刑囚に与えられた「選択」|newspaper=Forbes JAPAN|language=日本語|date=2022-04-23|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/47042/1/1/1?s=ns|accessdate=2022-04-25}}</ref>、死刑を実施するすべての国で死刑囚の身分が現役軍人の場合。
日本でも[[戦前]]には[[日本陸軍|陸軍]]や[[日本海軍|海軍]]の[[軍法会議]]<ref>[[陸軍刑法]]および[[海軍刑法]]で規定</ref>で適用される場合があった。
また、アメリカでは2023年5月時点で前述の4州のみあるが、あくまでも薬殺刑が執行不可能である場合にのみ執行される。
1977年の死刑執行再開以降、アメリカ国内で銃殺刑に処されたのが3件のみであり、全てユタ州で行われていた。また、サウスカロライナ州で後述の法律により、[[2022年]][[4月29日]]に銃殺刑が行われる予定であったが<ref>{{Cite news|title=「銃殺か電気椅子か」選択迫られる受刑者も 米の死刑制度に再注目|newspaper=AFP|language=日本語|date=2022-04-19|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3401072|accessdate=2022-04-25}}</ref>、2022年[[4月20日]]にサウスカロライナ州最高裁判所により、執行を一時停止している<ref>{{Cite news|author=MICHELLE LIU|title=Court halts South Carolina plan for firing squad execution(裁判所、サウスカロライナ州で行われる銃殺隊の執行計画を停止)|newspaper=[[AP通信]]|language=英語|date=2022-04-21|url=https://apnews.com/article/us-supreme-court-business-crime-executions-south-carolina-e460cd28fad87b099ca96cab6c07099e|accessdate=2022-04-25}}</ref>)。
死刑囚[[:en:Ronnie Lee Gardner|ロニー・リー・ガードナー]]の希望により銃殺刑が、[[2010年]][[6月18日]]に行われ、この執行を最後にアメリカ国内では行われていない<ref>{{Cite news|title=ユタ州で銃殺による死刑が復活、全米で唯一|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2010-06-18|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2736412|accessdate=2020-08-02}}</ref>。
また、ユタ州では、[[2004年]][[5月4日]]以降、銃殺刑を選択することを禁じられたが、2015年[[3月23日]]に薬殺刑の執行が不可能である場合に限って認められることとなった<ref>{{Cite news|title=米ユタ州で銃殺による死刑執行|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2015-03-24|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3043394|accessdate=2020-08-02}}</ref>。そして、[[2021年]][[5月14日]]のサウスカロライナ州で、死刑執行用の薬物が入手できず執行出来ない状況を打破する為、電気椅子だけでなく、銃殺刑も薬殺刑が執行不可能である場合に選択できるような法律が成立した<ref name="銃殺刑か電気椅子">{{Cite news|title=銃殺刑か電気椅子、死刑囚の選択肢追加 米サウスカロライナ|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2021-05-18|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3347231?cx_part=search|accessdate=2021-06-06}}</ref>。
イエメンの[[フーシ]]派勢力支配地域では、治安要員による銃殺刑後に、クレーンにより銃殺刑後の死体が吊るされる<ref name="3352099?cx">{{Cite news|title=イエメン反政府武装勢力、男3人を公開処刑 殺人とレイプ殺人で|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2021-06-17|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3352099?cx_part=logly|accessdate=2021-06-20}}</ref>。
キューバは[[2003年]]、イランは[[2008年]]、インドネシアは[[2016年]]を最後に銃殺刑での執行は行っておらず、キューバとインドネシアは、その年を最後に執行自体行っていない。
====斬首====
[[サウジアラビア]]、[[ナイジェリア]]北部(特定の種類の犯罪で[[シャリーア]]裁判所で死刑判決を下された場合)<ref name="EPY" />
イランも斬首刑が行われていたが、[[2001年]]を最後に執行されていない。また、ナイジェリアのシャリーア裁判所では[[不倫]]や[[殺人]]、[[同性愛]]行為に対し死刑判決を下してきたが、現在までに死刑が執行されたことはない<ref name="ムハンマドを侮辱">{{Cite news|title=預言者ムハンマドを侮辱、歌手に死刑判決 ナイジェリア裁判所|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2020-08-11|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3298601|accessdate=2021-06-12}}</ref>。
====石打ち====
[[アフガニスタン]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[イエメン]]、[[イラン]]、[[サウジアラビア]]、[[スーダン]]、[[ブルネイ]]、[[ナイジェリア]]北部、[[モーリタニア]]<ref name="EPY" />
[[シャリーア]]の[[刑罰]]として、主に[[不倫]]や[[同性愛]]行為をした場合に行われる。<br />但し、アラブ首長国連邦、ナイジェリア北部は執行された例がなく<ref name="ムハンマドを侮辱" />、イエメンも滅多に執行されることはない。また、ブルネイは国際批判により、死刑執行自体を[[2019年]][[5月5日]]より一時停止している。そして、モーリタニアも[[1987年]]の執行を最後に、死刑の執行は行われていない。更に、アフガニスタンは2001年の[[ターリバーン|タリバーン]]政権崩壊以降、少なくとも2021年のタリバーンによる武力による全土掌握するまで同性愛を理由とした死刑執行はされていない<ref>{{Cite news|author=Max Bearak|author2=Darla Cameron|title=Here are the 10 countries where homosexuality may be punished by death(同性愛で死刑を科される可能性がある国が10カ国あります。)|newspaper=[[ワシントンポスト]]|language=英語|date=2016-06-13|url=https://www.washingtonpost.com/news/worldviews/wp/2016/06/13/here-are-the-10-countries-where-homosexuality-may-be-punished-by-death-2/|accessdate=2021-06-12}}</ref>。
その他にも、北朝鮮にて[[ハンマー]]による撲殺刑が行われたケースもある<ref name="ハンマーで処刑">{{Cite news|title=北朝鮮の女性経営者が「ハンマーで処刑」された理由|newspaper=[[デイリーNK]]|language=日本語|date=2020-08-22|url=https://dailynk.jp/archives/133563?utm_content=uzou_4&utm_source=uzou|accessdate=2021-05-27}}</ref>。
===公開処刑===
イラン<ref>{{Cite news|title=イランで2年ぶり公開処刑 「中世の慣行」とNGO非難|newspaper=時事通信|language=日本語|agency=AFP通信|date=2022-07-24|url=https://web.archive.org/web/20220724053447/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022072400175&g=int|accessdate=2022-08-03}}</ref>、北朝鮮、サウジアラビア、ソマリア、イエメン([[フーシ]]派勢力支配地域<ref name="3352099?cx" /><ref>{{Cite news|title=内戦下のイエメン、4歳女児のレイプ殺人で男を公開処刑|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2017-08-14|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3139163|accessdate=2021-06-20}}</ref>)などで行われる。
また、中国では以前は公開処刑がテレビで放送されていたほか、バスに死刑執行(薬殺刑)設備を積んだ移動死刑設備がある。
===ギャラリー===
{{gallery
|ファイル:Gallow - british jail.jpg|イギリスでの絞首台と縄(絞首刑)
|ファイル:Garrote Execution - 1901.png|フィリピンでのガローテ(鉄環絞首刑)
|ファイル:Electric chair.jpg|電気椅子(電気処刑)
|ファイル:Gaschamber.jpg|ガス室(ガス殺刑)
|ファイル:SQ Lethal Injection Room.jpg|致死薬注射(薬殺刑)
|ファイル:Mexican execution, 1914.jpg|メキシコでの銃殺刑
|ファイル:Fusilamiento de magnicidas-Reyes.png|[[1906年]]、[[コロンビア]]における反逆者の銃殺処刑
|ファイル:Jacquerie_Navarre.jpg|斧を用いた斬首刑に処される、[[ジャックリーの乱]]の指導者たち
|ファイル:Badische Guillotine.JPG|[[バーデン (領邦)|バーデン]]でのギロチン(複製品)
|ファイル:Sacrificio azteca.jpg|[[アステカ]]での石打ち刑
|ファイル:Avvakum by Pyotr Yevgenyevich Myasoyedov.jpg|火刑に処される[[アヴァクーム]]を描いた絵画
}}
=== 死刑執行人 ===
{{main|死刑執行人}}
死刑の執行は罪人を殺すという行為を実際に行う者を[[死刑執行人]]と呼ぶ。
ヨーロッパ諸国や明治時代以前の日本では、中世時代から死刑執行を業務とする死刑執行人が存在していた。
アメリカや明治以降の日本などでは刑務官が行っている(なお、ヨーロッパ諸国では死刑は廃止されているため、死刑執行人も現存しない)。
== 各国の死刑 ==
{{main2|世界各国の死刑制度に関する詳細については[[世界の死刑制度の現状]]を}}
=== 死刑執行数順位 ===
{|class="wikitable"
|-
!
!国
!2022年の執行数(アムネスティ・インターナショナルによる調査)<ref name="2022死刑廃止" />
|-
!1位
|{{Flagicon|CHN}} [[中華人民共和国における死刑|中華人民共和国]]
|非公表。2022年は約3,500人の死刑執行がされている<ref name="2022AR">{{Cite report|title=2022 Annual Report 年度报告>Death Penalty(2022年度報告>死刑)|和書|author=中米対話基金|date=Sep 2023|url=https://duihua.org/wp-content/uploads/2023/09/2022-DH-Annual-Report-Online.pdf#page=6|format=PDF|pages=4|accessdate=2023-09-24}}</ref>。<br />2018年推定では、少なくとも2000人<ref name="中米対話基金">{{Cite web|author=中米対話基金|url=https://duihua.org/resources/death-penalty-reform/|title=Death Penalty Reform(死刑改革)|date=2019|accessdate=2020-09-05}}</ref>。
|-
!2位
|{{Flagicon|IRN}} [[イランにおける死刑|イラン]]
|少なくとも576人(推定)
|-
!3位
|{{Flagicon|SAU}} [[サウジアラビアにおける死刑|サウジアラビア]]
|196人
|-
!4位
|{{Flagicon|EGY}} [[エジプト]]
|24人
|-
!5位
|{{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国における死刑|アメリカ合衆国]]
|18人
|-
!6位
|{{Flagicon|IRQ}} {{仮リンク|イラクにおける死刑|label=イラク|en|Capital punishment in Iraq}}
|少なくとも11人(推定)
|-
!7位
|{{Flagicon|SGP}} [[シンガポールにおける死刑|シンガポール]]
|11人
|-
!8位
|{{Flagicon|KWT}} [[クウェート]]
|7人
|-
!9位
|{{Flagicon|SOM}} [[ソマリア]]
|少なくとも6人(推定)
|-
!10位
|{{Flagicon|SSD}} [[南スーダン]]
|少なくとも5人(推定)
|-
!11位
|{{Flagicon|PSE}} [[パレスチナ]]
|5人
|-
!12位
|{{Flagicon|YEM}} [[イエメン]]
|少なくとも4人(推定)
|-
!13位
|{{Flagicon|BGD}} [[バングラデシュ]]
|4人
|-
!13位
|{{Flagicon|MMR}}[[ミャンマー]]
|4人<ref name="AFP3416093">{{Cite news|title=ミャンマー国軍、民主活動家ら4人の死刑執行|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2022-07-25|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3416093|accessdate=2022-07-25}}</ref><ref name="4PR23H5AOFIGLEJO3WRWUU2A4M">{{Cite news|author=森浩|title=ミャンマー国軍、スーチー氏側近ら4人に死刑執行|newspaper=産経新聞|language=日本語|date=2022-07-25|url=https://www.sankei.com/article/20220725-4PR23H5AOFIGLEJO3WRWUU2A4M/|accessdate=2022-07-25}}</ref><ref name="325000c毎日">{{Cite news|author=高木香奈|title=国連「憤慨」、ミャンマー国軍を非難 民主活動家ら4人死刑執行|newspaper=毎日新聞|language=日本語|date=2022-07-25|url=https://mainichi.jp/articles/20220725/k00/00m/030/325000c|accessdate=2022-07-25}}</ref>
|-
!15位
|{{Flagicon|BLR}} [[ベラルーシ]]
|1人
|-
!15位
|{{Flagicon|JPN}} [[日本における死刑|日本]]
|[[秋葉原通り魔事件|1人]]
|-
!-位
|{{Flagicon|AFG}}[[アフガニスタンにおける死刑|アフガニスタン]]
|未発表。[[コーネル大学|コーネル大]]法科大学院の死刑問題研究グループによれば、1人執行<ref name="EPY" /><ref name="タリバン復権初死刑執行">{{Cite news|title=タリバン、復権後初の公開処刑 アフガン|newspaper=AFP|language=日本語|date=2022-12-07|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3442348?cx_part=search|accessdate=2022-12-27}}</ref>。<br />[[ターリバーン]]の再掌握前は、2018年に少なくとも3人執行していた<ref name="EPY" />。
|-
!-位
|{{Flagicon|PRK}} [[北朝鮮における死刑|北朝鮮]]
|未発表。[[2013年]]は少なくとも推定82人が公開死刑執行されている。
また、[[2008年]]には少なくとも推定161人が公開死刑執行されている<ref>{{Cite report|author=韓国統一研究院|date=2015-07-01|title=북한인권백서 2015(北朝鮮人権白書2015)|url=https://repo.kinu.or.kr/handle/2015.oak/2403|pages=60|format=PDF|accessdate=2021-05-09}}</ref>。
|-
!-位
|{{Flagicon|SYR}} [[シリア]]
|不明。[[2021年]]は、少なくとも24人(推定)<ref name="EPY" /><ref>{{Cite news
| title =Syria says 24 executed for starting wildfires(山火事を起こした罪で24人の死刑執行をシリア政府が発表)
| newspaper =[[アルジャジーラ]]|language=英語|date=2021-10-21|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/10/21/syria-says-24-executed-over-starting-wildfires|accessdate=2023-05-28}}</ref>
|-
!-位
|{{Flagicon|VNM}} [[ベトナム]]
|未発表。[[2018年]]の執行数は少なくとも推定85人であった。
|}
'''(参考)19世紀のヨーロッパ諸国(イギリスは別途、[[18世紀]]後半も含めた期間のデータ)及び日米の死刑宣告数(日米除く)及び死刑執行数'''
{| class="wikitable sortable"
!rowspan="2"|国名 !!rowspan="2"|期間 !! colspan="2"| 全体!! colspan="2"| 1年平均!!rowspan="2"|執行率<br/>(%)!!rowspan="2"| 死刑廃止年 !!rowspan="2"| 最後の<br/>死刑執行年
|-
! 死刑宣告数(人) !! 死刑執行数(人) !! 死刑宣告数(人) !! 死刑執行数(人)
|-
|rowspan="2"| {{flagcountry|GBR}} || [[1847年]]~[[1860年]] || 787 || 141 || 56.2 || 10.1 || 17.9 ||rowspan="2"| [[1998年]] ||rowspan="2"| [[1964年]]<br/>([[イングランド]])
|-
|[[1865年]]~[[1867年]] || 73 || 29 || 24.3 || 9.7 || 39.7
|-
| {{flagcountry|FRA}} || [[1861年]]~[[1865年]] || 108 || 72 || 21.6 || 14.4 || 66.7 ||[[1981年]] || [[1977年]]
|-
| {{flagcountry|BEL}} || [[1832年]]~[[1855年]] || 613 || 47 || 18.0 || 1.4 || 7.7 || [[1996年]] || [[1950年]]
|-
| {{flagcountry|POL}} || [[1849年]]~[[1862年]] || 327 || 65 || 23.4 || 4.6 || 19.9 || [[1997年]] || [[1988年]]
|-
| {{flagcountry|AUT}} || [[1860年]]~[[1863年]] || 103 || 12 || 25.8 || 3.0 || 11.7 || [[1968年]] || [[1950年]]
|-
| {{flagcountry|SWE}} || [[1857年]]~1860年 || 325 || 29 || 81.3 || 7.3 || 8.9 || [[1972年]] || [[1910年]]
|-
| [[プロイセン王国|プロイセン]] || [[1818年]]~1865年 || 1372 || 449 || 28.6 || 9.4 || 32.7 || [[1987年]] ||[[1981年]]
|-
| colspan="9"|(その他)
|-
|rowspan="3"| {{flagcountry|JPN}} || [[1872年]] || - || - || - || 1,134 || - || - || -
|-
| [[1897年]] || - || - || - || 21 || - || - || -
|-
| [[1890年]]~[[1899年]] || - || 514 || - || 51.4 || - || - || -
|-
|rowspan="3"| {{flagcountry|USA}} || [[1825年]]~[[1849年]] || - || 894 || - || 35.8 || - || - || -
|-
|[[1850年]]~[[1874年]] || - || 1,364 || - || 54.6 || - || - || -
|-
|[[1875年]]~1899年 || - || 2,521 || - || 100.8 || - || - || -
|-
|rowspan="2"| {{flagcountry|GBR}}<br/>||[[1770年]]~[[1830年]] || 35,000 || 7,000 || 573.8 || 114.8 || 20.0 ||rowspan="2"| [[1998年]] ||rowspan="2"| [[1964年]]<br/>([[イングランド]])
|}
*ヨーロッパ諸国の死刑宣告数及び死刑執行数は、1876年(明治9年)10月13日に行われた[[元老院 (日本)|元老院]]会議の改定律例249條1項改正ノ件(號外第16號意見書)第3議会における[[細川潤次郎]]の発言による<ref>{{Cite journal|author=明治法制経済史研究所|title=改定律例二百四十九條一項改正ノ件・〔號外第十六號意見書〕|journal=元老院会議筆記|volume=前期3|pages=243-244|publisher=元老院会議筆記刊行会|date=1968|language=日本語|doi=10.11501/1348658|ref=harv }}</ref>。
*プロイセンの死刑廃止年と最後の死刑執行年は、どちらも[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]である。
*1770年~1830年に行われたイギリスの死刑宣告数及び死刑執行数は、「死刑の在り方についての勉強会」 の添付資料による<ref>{{cite conference|author=今井猛嘉|date=2011-12-19|title=資料20 イギリスにおける死刑廃止ーその経過と現状|conference=「死刑の在り方についての勉強会」|conferenceurl=https://www.moj.go.jp/content/000096631.pdf|pages=1|url=https://www.moj.go.jp/content/000096625.pdf|format=PDF|accessdate=2021-05-11}}</ref>。
*[[日本における死刑囚#明治時代|日本の死刑執行数]]は、明治6年政表<ref name="M6 seihunenpyo" >{{Cite web|和書|publisher=[[正院]][[統計局|第五科]]|title=明治六年政表>司法処刑ノ部>明治六年司法省及ヒ各府県処刑人員(コマ番号12)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937948/12|date=1876|accessdate=2019-3-7}}</ref>と日本政表第2号<ref>{{Cite|title=日本政表 明治7年 刑事裁判ノ部|publisher=太政官調査局|series=第2号|date=1874|pages=15-16|ncid=BN16140536}}</ref>及び昭和43年版白書<ref name="昭和43年犯罪白書">{{Cite report|title=昭和43年版犯罪白書>第三編 犯罪と犯罪者処遇の一〇〇年>第三編 統計表>III-7表 死刑執行人員(明治6~昭和42年)|和書|author=法務省|authorlink=法務省|date=Nov 1968|url=https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/9/nfm/n_9_3_1_1_0_0.html#H003007H|format=JDEG|accessdate=2021-05-10}}</ref>と1872年の死刑に関する旧日本陸軍の記録<ref>{{Cite web|和書|author=陸軍省|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=on&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81%E6%97%A5%E8%AA%8C&IS_TAG_S1=InD&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_KIND=detail&IS_START=1&IS_NUMBER=1&IS_TAG_S18=eadid&IS_KEY_S18=M2008021311042574858&IS_EXTSCH=F2006083118101851446%2BF2006083118133052046%2BF2006090107053643610%2BF2007112717470302467%2BF2007112717485502470%2BF2008021311042374841&IS_ORG_ID=M2008021311042574858|title=JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010384800、第16号壬申6月2、3、4、5、6、7、8日(防衛省防衛研究所)|date=1873-06-|publisher=国立公文書館アジア歴史資料センター|format=JPEG,PDF|accessdate=2022-02-23}}</ref><ref name="明治以後初めての銃殺刑">{{Cite web|和書|author=太政官|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?DEF_XSL=detail&IS_KIND=detail&DB_ID=G9100001EXTERNAL&GRP_ID=G9100001&IS_TAG_S16=eadid&IS_KEY_S16=M0000000000000853374&IS_LGC_S16=AND&IS_TAG_S1=all&IS_KEY_S1=%E6%AD%BB%E5%88%91&IS_MAP_S1=&IS_LGC_S1=&IS_EXTSCH=F2009121017005000405%2BF2005021820554600670%2BF2005021820554900671%2BF2005031609204303022%2BF2005031610541803024%2BF0000000000000000589&IS_ORG_ID=M0000000000000853374&IS_STYLE=default&IS_SORT_FLD=sort.y1%2Csort.m1%2Csort.d1%2Csort.y2%2Csort.m2%2Csort.d2&IS_SORT_KND=asc|title=元兵部省鳶人足藤吉外一人官物ヲ盗取ルニ付死刑|date=1873-05-13|publisher=国立公文書館|format=JPEG,PDF|accessdate=2021-10-04}}</ref><ref name="明治5年仙台鎮台">{{Cite web|和書|author=裁判長[[黒川通軌]]|url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/result?DB_ID=G0000101EXTERNAL&DEF_XSL=default&ON_LYD=&IS_INTERNAL=false&IS_STYLE=default&IS_KEY_T1=%E6%AD%BB%E5%88%91&IS_TAG_T1=InD&IS_MAP_T1=&IS_LGC_T1=AND&IS_KIND=detail&IS_START=1&IS_NUMBER=1&IS_TAG_S18=eadid&IS_KEY_S18=M2006090102091717249&IS_EXTSCH=F2006083118101851446%2BF2006083118133052046%2BF2006083123193825676%2BF2007120315324102601%2BF2007062918201515301%2BF2007062918262715303%2BF2006090102090517100&IS_ORG_ID=M2006090102091717249|title=「裁判所より壬申中仙台鎮台に於て死刑に處せられたる件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04025836500、「大日記 諸寮司伺届弁諸達 1月金 陸軍第1局」(防衛省防衛研究所)|date=1874-01-28|publisher=[[防衛省]][[防衛研究所]]|format=JPEG|accessdate=2023-06-18}}</ref>と第49回陸軍省統計年報<ref name="第49回陸軍省統計年報">{{Cite report|author=陸軍省|date=1937|title=第49回陸軍省統計年報 VI 刑罰 48.軍法会議別処刑人員(総数)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446689/82|accessdate=2020-10-23}}</ref>と明治22年版・明治26年版・明治32年版の海軍省報告<ref name="明治22年版海軍省報告">{{Cite web|和書|author=海軍省|title=海軍省明治二十二年度報告附録 第三二 海軍軍人軍属常人犯者罪状及刑名(コマ番号127)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1366989/127|date=1889|accessdate=2020-10-18}}</ref><ref name="明治26年版海軍省報告">{{Cite web|和書|author=海軍省|title=明治二十六年版海軍省報告附録 第三五 海軍軍人軍属常人犯者罪状及刑名(コマ番号227)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845113/227|date=1893|accessdate=2020-10-18}}</ref><ref name="明治32年版海軍省年報">{{Cite web|和書|author=海軍省|title=明治32年版海軍省年報 海軍軍人軍属常人犯者罪状及刑名(コマ番号119)|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/845098/119|date=1899|accessdate=2020-10-18}}</ref>に有る1872年(明治5年)~1900年(明治33年)の中で、最多年(1872年[明治5年])と[[英照皇太后]]崩御による恩赦<ref>{{Cite|author=内閣|authorlink=第2次松方内閣|title=大喪ニ丁リ減刑ヲ行ハシムル ノ件|publisher=国立公文書館|series=明治30年勅令|volume=7|date=1897-01-19|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?IS_KIND=hierarchy&IS_NUMBER=100&IS_START=1&IS_TAG_S51=prnid&IS_STYLE=default&IS_KEY_S51=F0000000000000016783&IS_EXTSCH=F2009121017005000405%2BF2005021820554600670%2BF2005021820554900671%2BF2005022419051401457%2BF2005022419471101542%2BF2005022419481001545%2BF0000000000000016783&IS_ORG_ID=F0000000000000016783&LIST_TYPE=default&IS_SORT_FLD=sort.y1%2Csort.m1%2Csort.d1%2Csort.y2%2Csort.m2%2Csort.d2&IS_SORT_KND=asc}}</ref>により死刑執行が少なかった最少年(1897年[明治30年])及び[[1890年代]]の累計死刑執行数と1年平均死刑執行数を掲載している。<br/>但し最多年の死刑執行数は、[[鞠山騒動]]によりこの年の[[4月3日]]に[[敦賀県]]の裁判で自裁が下され自裁した4人<ref>{{Cite journal|author=福井県敦賀郡|authorlink=敦賀郡|title=敦賀郡誌 第五編 人物|pages=1126-1127|date=1915|language=日本語|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950917/597|doi=10.11501/950917|accessdate=2021-05-10}}</ref>と[[本多氏|加賀本多家]]旧臣の[[敵討ち]](明治の忠臣蔵と言われている。[[本多政均]]暗殺事件に関わった人物らを加賀本多家旧臣ら15人により殺される。また、[[1873年]](明治6年)[[2月7日]]布達の太政官第37号「[[敵討禁止令|復讐禁止令]]」が出される以前の最後の仇討ちである。)により、この年の[[11月4日]]に[[石川県]]刑獄寮の裁判で自裁が下され自裁した旧臣12人、[[キリスト教]]信仰を理由に[[11月25日]]の京都で秘密裏に獄内で死刑執行された[[市川栄之助]](公式発表では獄死)がいるが、それら17人の死刑執行は含まれていない<ref name="明治忠臣蔵">{{Cite web|和書|author=石川県立図書館|authorlink=石川県立図書館|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184677|title=「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。|date=2015-12-01|website=レファレンス協同データベース|publisher=国立国会図書館|accessdate=2021-05-10}}</ref>。また、[[1894年]]の旧日本海軍の死刑執行数も不明のため、含まれていない。
*アメリカはNPO団体『死刑情報センター(Death Penalty Information Center)』の「EXECUTIONS OVERVIEW Executions in the U.S. 1608-2002: The Espy File」<ref name="dpic-execution-before-1972">[https://deathpenaltyinfo.org/executions/executions-overview/executions-in-the-u-s-1608-2002-the-espy-file EXECUTIONS OVERVIEW Executions in the U.S. 1608-2002: The Espy File]</ref>と[[ブリタニカ]]による運営サイト「ProCon.org 」の「US Executions」の1825年~1899年の間のデータである<ref name="US ExecutionsI">{{Cite web|和書|url=https://deathpenalty.procon.org/us-executions/#I|title=US Executions I. Total Number of US Executions, 1608-2002(アメリカ合衆国における死刑執行 I.アメリカの死刑執行総数 1608~2002年)|date=2016-12-09|website=ProCon.org|accessdate=2021-07-31}}</ref>。
=== アジア ===
[[アジア]](日本を除く)では中華人民共和国やサウジアラビア、イランなどの死刑執行数が多い。またシンガポールは[[厳罰化|厳罰]]主義であり、軽微な触法行為に対しても刑罰を加えていることで有名である。また北朝鮮では裁判によらない即決による公開処刑が行われているとの報道もある。なお、アジア諸国で死刑存置国はイスラム教国や東アジアに多い。
2013年~2022年の間にアジア諸国で死刑執行のあった国は下表より、推定も含めて26カ国あった。その内10カ国は執行執行のあった年は5年未満であった{{Efn|[[インドネシア]]は2013年・2015年・2016年の3年<ref>{{Cite news|title=インドネシア、麻薬犯罪で死刑執行 外国人など4人|newspaper=CNN|language=日本語|date=2016-07-29|url=https://www.cnn.co.jp/world/35086644.html|accessdate=2021-06-03}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=インドネシア:欠陥のある司法制度のもと死刑が執行されている|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2015-10-17|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2015/1017_5635.html|accessdate=2021-06-03}}</ref>、<br />[[バーレーン]]は2016年と2019年<ref>{{Cite press release|和書|title=バーレーン:6年ぶりに死刑執行 人権の大きな後退|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2017-01-18|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2017/0118_6600.html|accessdate=2021-06-05}}</ref><ref>{{Cite news|title=国際人権団体HRWが、バーレーンでの歴然たる人権侵害を批判|newspaper=[[イラン・イスラム共和国放送|ParsToday]]|language=日本語|date=2021-01-14|url=https://parstoday.com/ja/news/middle_east-i69820|accessdate=2021-06-05}}</ref>、[[ヨルダン]]は2014年・2015年<ref>{{Cite news |author=Donna Abu-Nasr|author2=Mohammad Tayseer| title =ヨルダン、死刑囚2人の死刑執行-パイロット殺害動画公開後|newspaper=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|language=日本語|date=2015-02-04|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2015-02-03/--i5pojdyp|accessdate=2021-06-05}}</ref>・2017年、<br />[[クウェート]]は2013年と2017年と2022年、オマーンは2015年と2020年、<br />[[カタール]]は殺人の罪でネパール人出稼ぎ労働者の死刑執行があった2020年のみ<ref>{{Cite news|author=Pankaj Thapa|title=Nepali man sentenced to death executed in Qatar(カタールでネパール人男性を死刑執行)|newspaper=Nepalese Voice|language=英語|date=2020-05-24|url=https://nepalesevoice.com/nepal/nepali-man-sentenced-to-death-executed-in-qatar/|accessdate=2021-06-05}}</ref>、<br />
[[アラブ首長国連邦]]は、2014年<ref>{{Cite news|title=Sri Lankan executed in UAE for murder(スリランカ人、殺人罪でアラブ首長国連邦で死刑執行)|newspaper=[[:w:Arab News|Arab Newse]]|language=英語|date=2014-01-22|url=https://www.arabnews.com/news/513296|accessdate =2022-02-20}}</ref>・2015年<ref>{{Cite news|title=UAEの米教諭刺殺事件、女の死刑執行|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2015-07-13|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3054380|accessdate=2022-02-20}}</ref> ・2017年・2021年の4年<br />[[インド]]は2012年・2013年・2015年・2020年の4年、<br />[[ミャンマー]]は[[国民民主連盟]]議員と著名民主活動家の2人と[[ミャンマー軍]]の情報提供を疑い女性を殺害した男性2人の計4人を執行した[[2022年]]のみ<ref name="AFP3416093">{{Cite news|title=ミャンマー国軍、民主活動家ら4人の死刑執行|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2022-07-25|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3416093|accessdate=2022-07-25}}</ref><ref name="4PR23H5AOFIGLEJO3WRWUU2A4M">{{Cite news|author=森浩|title=ミャンマー国軍、スーチー氏側近ら4人に死刑執行|newspaper=産経新聞|language=日本語|date=2022-07-25|url=https://www.sankei.com/article/20220725-4PR23H5AOFIGLEJO3WRWUU2A4M/|accessdate=2022-07-25}}</ref><ref name="325000c毎日">{{Cite news|author=高木香奈|title=国連「憤慨」、ミャンマー国軍を非難 民主活動家ら4人死刑執行|newspaper=毎日新聞|language=日本語|date=2022-07-25|url=https://mainichi.jp/articles/20220725/k00/00m/030/325000c|accessdate=2022-07-25}}</ref><ref>{{Cite news|title=ミャンマー、1990年以来の死刑執行へ 元議員ら4人|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2022-06-04|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3408209?cx_part=search|accessdate=2022-06-05}}</ref><ref>{{Cite news|author=高木香奈|title=ミャンマー国軍、民主活動家ら4人の死刑承認 執行なら46年ぶり|newspaper=毎日新聞|language=日本語|date=2022-06-04|url=https://mainichi.jp/articles/20220604/k00/00m/030/168000c|accessdate=2022-06-05}}</ref>、<br />[[タイ王国]]は強盗殺人の罪で執行された2018年の1年のみ<ref>{{Cite news|title=タイで9年ぶり死刑執行 アムネスティが非難|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2018-06-29|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3179124|accessdate=2021-06-03}}</ref>であった。}}。また、5年以上執行のあった16カ国の内、10カ国は国民の大多数が[[イスラム教]]を占める国・地域であり、5カ国は[[漢字文化圏]]([[儒教]])であった。
前者に属する諸国の中で、[[イラン]]・[[イラク]]・[[サウジアラビア]]が数十~数百の執行を行っている。一方で、これら3カ国と同じアジアの中東諸国でも[[バーレーン]]・[[ヨルダン]]・[[クウェート]]・[[オマーン]]・[[カタール]]・[[アラブ首長国連邦]]は、死刑執行の頻度が少なく、ヨルダンを除き1桁の執行である。また、[[パレスチナ]]は死刑執行の頻度が多いが、基本1桁の執行であり、2018年~2021年の4年間は死刑執行が無かった。
また、他のイスラーム教が多くを占める[[マレーシア]]と[[インドネシア]]も1桁の死刑執行を行っていた。<br />[[マレーシア]]は2018年10月に死刑廃止の検討を表明し、一時停止しため2018年以降執行されておらず<ref>{{Cite news|title=「死刑廃止」に揺れるアジア スリランカ、40年ぶり執行の動き|newspaper=SankeiBiz|pages=1|language=日本語|date=2019-05-21|url=https://www.sankeibiz.jp/macro/news/190521/mcb1905210500005-n1.htm|accessdate=2021-06-05}}</ref>、2023年[[7月]]には殺人やテロなど11の重罪で有罪になった場合、自動的に死刑となる制度が廃止され、同年[[9月12日]]には過去の死刑判決を見直す法律が施行されている<ref>{{Cite news|title=死刑確定の邦人女性、再審請求へ マレーシア政府の制度撤廃受け|newspaper=Yahoo!ニュース|agency=共同通信|language=日本語|date=2023-09-12|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/0cb0f30ec97c60bb633e6680a6eadf3d5f1fdd32|accessdate=2023-11-23}}</ref><ref>{{Cite news|title=マレーシア、重罪での「強制死刑」制度を廃止へ 下院が可決|newspaper=BBC|language=日本語|date=2023-04-04|url=https://www.bbc.com/japanese/65171672|accessdate=2023-05-30}}</ref>。<br />[[インドネシア]]は、2017年以降執行されておらず、2009年~2012年の間は一時停止していた。<br />そして、[[パキスタン]]は[[2015年]]に推定341人という3桁の死刑執行が行われていたが、2016年~2019年は2桁の執行であり、2020年以降は執行されていない。なお、[[2008年]]12月~[[2014年]]11月の間は、テロ行為を含めた一般刑法犯に対する死刑執行を一時凍結していた(但し[[パキスタン軍|軍]]による執行であることを理由に、2012年[[10月26日]]に上官含め3人を殺害した兵士が絞首刑により執行されている<ref>{{Cite press release|和書|title=パキスタン:死刑廃止の動きに逆行する執行|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2012-11-22|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2012/1122_3664.html|accessdate=2021-06-12}}</ref>。)<ref>{{Cite press release|和書|title=パキスタン:死刑を完全再開 大きな後退|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2015-03-18|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2015/0318_5199.html|accessdate=2021-06-03}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=パキスタン:1年足らずで300人の死刑執行|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2015-11-26|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2015/1126_5729.html|accessdate=2021-06-03}}</ref>。
漢字文化圏の場合、世界で最も多いと推定され、数千単位で執行される中国のみならず、推定であるが[[北朝鮮]]・[[ベトナム]]においては、3桁の執行が行われていた。そして、3カ国とも[[共産党|共産主義政党]]が事実上の[[一党独裁]]を行っている。但し、共産主義政党が事実上の一党独裁を行っている国でも、[[ラオス]]は[[1989年]]以降死刑執行を行っておらず<ref>{{Cite press release|和書|title=ラオス:正式に死刑執行を停止する好機|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2008-08-05|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2008/0805_885.html|accessdate=2021-06-05}}</ref>、[[キューバにおける死刑|キューバ]]も[[2003年]]を最後に執行されていない。
そして、[[2023年]][[5月16日]]の[[アムネスティ・インターナショナル|アムネスティ]]報告書の調査によれば2022年に世界20カ国で少なくとも883人の死刑(但し、中国や北朝鮮、ベトナムやシリア、アフガニスタンでは未発表の為、 2人とカウントして含めていることに留意する。)が執行された。最多の中国は、執行数を公表していないが、少なくとも3,500人(2022年推定)は執行されていると推定されるため、アムネスティ・インターナショナルの死刑執行推定数に含めた場合、世界の死刑執行数の約80%を占めることとなる<ref name="2022AR" /><ref name="中米対話基金" />。世界人口の5分の1が中国に集中していることを考慮しても、世界の主要国の中では、死刑執行率も格段に高い。そして中華人民共和国では、殺人だけでなく麻薬犯罪や汚職事件で有罪になった場合も死刑になる。但し、死刑になる最も多い犯罪は、主に殺人と薬物関連による犯罪である<ref name="2022死刑廃止" />。また、[[2008年北京オリンピック|2008年の北京オリンピック]]開催直前までは公開処刑が行われていた。中国政府は「犯罪抑止力のために必要だ」と主張しているが、[[中国の人権問題]]として国際社会の批判を受けている。
{| class="wikitable"
|+'''2013~2022年の10年間に死刑執行が行われたアジア諸国の執行数<ref name="2022死刑廃止" /><ref name="2021死刑廃止" >{{Cite report|author=アムネスティ・インターナショナル|date=2022-05-24|title=2021年の死刑状況:国家による殺人が増加 イランとサウジでの執行数増で|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2022/0524_9568.html|format=PDF|accessdate=2023-05-28}}</ref><ref name="EPY">{{Cite web|author=Cornell Center on the Death Penalty Worldwide|authorlink=コーネル大学|url=https://deathpenaltyworldwide.org/database/|title=Database |date=2021-12-31|accessdate=2022-02-20}}</ref>
|-
! 国名 !! 2013 !! 2014 !! 2015 !! 2016 !! 2017 !! 2018 !! 2019 !! 2020 !! 2021 !! 2022
|-
!colspan="11" | [[漢字文化圏]]
|-
!colspan="11" | 漢字文化圏の内、共産主義政党が事実上含めて一党独裁を行っている国
|-
! [[中華人民共和国における死刑|中国]]
| 2,400 || 2,400 || 2,400 || 2,000 || 2,200 || 2,000 || - || 3,000+ || 3,000+|| 3,500
|-
! [[北朝鮮における死刑|北朝鮮]]
| 82+ || 2+ || 3+ || 64+ || 5+(?) || 2+ || 8+ || 18+ || 5+||4+
|-
! ベトナム
| colspan="4" | 429+ || - || 85+ || - || - || 0?|| -
|-
! colspan="11" |漢字文化圏の内、共産主義政党が事実上含めて一党独裁を行っていない国
|-
! [[日本における死刑|日本]]
| 8 || 3 || 3 || 3 || 4 || 15 || 3 || 0 || 3||1
|-
! [[中華民国における死刑|台湾]]
| 6 || 5 || 6 || [[台北地下鉄通り魔事件|1]] || 0 || 1 || 0 || 1 || 0||0
|-
!colspan="11" | イスラーム諸国
|-
!バングラデシュ
| 2 || 0 || 3 || 10 || 6 || 0 || 1 || 2 || 5 ||4
|-
! インドネシア
| 5 || 0 || 14 || 4 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0||0
|-
! マレーシア
| 2+ || 2+ || - || 9 || 4 || 0 || 0 || 0 || 0||0
|-
!colspan="11" | イスラーム諸国の内中東に属する国
|-
! バーレーン
| 0 || 0 || 0 || 3 || 0 || 0 || 3 || 0 || 0|| 0
|-
! [[イランにおける死刑|イラン]]
| 727+ || 801+ || 1,052+ || 545+ || 524+ || 285+ || 273+ || 246+ || 337+||576+
|-
! イラク
| 169+ || 61+ || 26+ || 101+ || 125+ || 52+ || 100+ || 45+ || 17+||11+
|-
! ヨルダン
| 0 || 11 || 2 || 0 || 15 || 0 || 0 || 0 || 0|| 0
|-
! クウェート
| 5 || 0 || 0 || 0 || 7 || 0 || 0 || 0 || 0|| 7
|-
! オマーン
| 0 || 0 || 2 || 0 || 0 || 0 || 0 || 4 || 0+|| 0
|-
! パレスチナ
| 3 || 27+ || 0 || 3 || 6 || 0 || 0 || 0 || 0|| 5
|-
! カタール
| 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 1 || 0|| 0
|-
! [[サウジアラビアにおける死刑|サウジアラビア]]
| 79+ || 90+ || 158+ || 154+ || 146+ || 149+ || 184+ || 27 || 69||196
|-
! シリア
| 2 || 7+ || - || - || - || - || - || - || 24+|| -
|-
! アラブ首長国連邦
| 0 || 1 || 1 || 0 || 1 || 0 || 0 || 0 || 1+||0
|-
! イエメン
| 13+ || 22+ || 8+ || 0 || 2+ || 4+ || 2+ || 5+ || 14+||4+
|-
!colspan="11" | イスラーム諸国の内、伝統的中東諸国では含まれないが、拡大中東の定義により中東に属する国
|-
! [[アフガニスタンにおける死刑|アフガニスタン]]
| 2 || 6+ || 1 || 6 || 5 || 3+ || 0? || 0 || 0+||1
|-
! パキスタン
| 0 || 7 || 341 || 87 || 60 || 14 || 14 || 0 || 0||0
|-
!colspan="11" | その他
|-
! [[シンガポールにおける死刑|シンガポール]]
| 0 || 2 || 4 || 4 || 8 || 13 || 4 || 0 || 0||11
|-
! [[インドにおける死刑|インド]]
| 1 || 0 || 1 || 0 || 0 || 0 || 0 || [[2012年インド集団強姦事件|4]] || 0||0
|-
! ミャンマー
| 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0||4
|-
! タイ
| 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 1 || 0 || 0 || 0||0
|-style="text-align:left;"
|colspan="11"|
*死刑執行数は、一部の例外を除きコーネル大法科大学院の死刑問題研究グループが出しているデータを用いている。2021年・2022年は、コーネル大法科大学院の死刑問題研究グループとアムネスティ・インターナショナルが出しているデータで執行数が多い方を採用している。
*中国の2020年~2022年の死刑執行数は、アメリカを拠点とする人権団体「[[:en:Dui Hua Foundation|中米対話基金]]」が発表した2020年度~2022年度報告書<ref name="2020AR">{{Cite report|title=2020 Annual Report 年度报告>Death Penalty(2020年度報告>死刑)|和書|author=中米対話基金|date=Sep 2021|url=https://duihua.org/wp-content/uploads/2021/09/2020-Annual-Report-1.pdf#page=11|format=PDF|pages=8|accessdate=2021-09-18}}</ref><ref name="2021AR">{{Cite report|title=2021 Annual Report 年度报告>Death Penalty(2021年度報告>死刑)|和書|author=中米対話基金|date=Sep 2022|url=https://duihua.s3.amazonaws.com/wp-content/uploads/2022/09/04065329/Dui-Hua-2021-Annual-Report-web-version.pdf#page=10|format=PDF|pages=8|accessdate=2022-09-03}}</ref><ref name="2022AR" />から用いている。
*北朝鮮の2013年は韓国統一研究院で行われた[[脱北者]]の面接調査によって推定した[[公開処刑|公開死刑執行]]人数である<ref>{{Cite report|author=韓国統一研究院|date=2015-07-01|title=북한인권백서 2015(北朝鮮人権白書2015)|url=https://repo.kinu.or.kr/handle/2015.oak/2403|pages=60|format=PDF|accessdate=2021-06-05}}</ref>。
*イランは、いくつかの団体が出した推定数の中で、最も多い推定数のデータを用いている。
*表の「+」は、死刑執行数が、あくまで[[メディア (媒体)|メディア]]等で確認された執行数である為、データよりも多く行われた可能性があることを示している。
*表の「?」は、北朝鮮の場合は、司法手続きをした上での執行であるか不明である為、?としており、アフガニスタン(2019年)とベトナム(2021年)は、執行が無かったか確証が無いため?としている。
*表の「-」は、執行数は不明である。
*ミャンマーでは、[[2021年ミャンマークーデター|2021年に起きたクーデター]]発生から2022年[[1月26日]]までの約1年間で[[ヤンゴン地方域|ヤンゴン管区]]内において市民など101人が死刑判決を受けている<ref>{{Cite news|title=1年間に101人が死刑判決、ヤンゴン管区|newspaper=MYANMAR JAPON|language=日本語|date=2022-01-28|url=https://myanmarjapon.com/newsdigest/2022/01/28-39229.php|accessdate=2022-02-20}}</ref>。
|}
==== 日本 ====
{{main|日本における死刑}}
日本において死刑判決を宣告する際には、[[永山則夫連続射殺事件]]で最高裁(昭和58年7月8日判決)が示した死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多い。そのため'''[[永山基準]]'''と呼ばれ、第1次上告審判決では基準として以下の9項目が提示されている。
#犯罪の性質
#犯行の動機
#犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
#結果の重大性、特に殺害された被害者の数
#遺族の被害感情
#社会的影響
#犯人の年齢
#前科
#犯行後の情状
以上の条件のうち、たとえば4項では「被害者2人までは有期、3人は無期、4人以上は死刑」といった基準があるようにいわれるが、実際の[[判例]]では事件の重要性などに鑑みながら決定しており、被害者が1人のみの場合でも死刑の可能性は十分にありえる(詳細は[[日本における死刑#死刑の量刑基準]]を参照)。
==== 中華人民共和国 ====
{{main|中華人民共和国における死刑}}
執行方法は[[銃殺]]刑が基本であるが、薬殺刑を完全導入している地域で死刑執行する場合<ref>{{Cite news|title=大揭秘:中国注射死刑的执行全过程(中国における薬殺刑執行の全過程)|newspaper=[[網易]]|language=中国語(簡体字)|date=2020-12-08|url=https://www.163.com/dy/article/FT8M07V70517F6GH.html|accessdate=2021-06-28}}</ref>や[[賄賂]]の授受等の経済犯罪(全てではないが)は[[薬殺刑]]で執行される<ref>{{Cite news|title=<死刑>人道的な配慮、「銃殺」から「薬物注射」に全面切り替えへ|newspaper=[[Record China]]|language=日本語|date=2008-03-02|url=https://www.recordchina.co.jp/b16250-s0-c70-d0000.html|accessdate = }}</ref>。なお、死刑が適用される犯罪行為としては、[[賄賂]]の授受や、[[麻薬]]の密売や、[[売春]]及び[[性犯罪]]などが挙げられる。しかも、致死の結果が生じない刑事事件でも死刑(または終身刑)が下されることがある。また、「死刑は犯罪を撲滅するための最大の切り札である」と司法当局が確信しているため、死刑の執行が大量に行われている。そのため、暴力による刑事事件だけでなく、「株式相場の混乱」といった経済事件にまで死刑判決が下されたことが実際にある。また、19世紀の[[アヘン戦争]]の教訓から、麻薬の密輸や密売といった薬物犯罪にも死刑が数多く適用されている。実際に、覚醒剤を中国から持ち出そうとした日本人4人にも死刑判決が出され、[[2010年]][[4月6日]]に1人、同年[[4月9日]]に3人の死刑が執行されたことがある。{{main|2010年中国における日本人死刑執行問題}}
汚職は近年では、死刑になることは稀であるが、汚職によって得られた金額の大きさや社会的影響、2012年の[[中国共産党第十八回全国代表大会|第18回共産党大会]]以降に行われたものも含まれているか(この大会の一中全会で[[習近平]]が[[中国共産党中央委員会総書記]]に選出された。更に、習近平は[[習近平#汚職対策|「大トラもハエも一緒にたたけ」とのスローガンを掲げ、権力闘争の一面があると指摘を受けながらも反腐敗運動を展開している]])によって、死刑判決が下されることがある<ref>{{Cite news|title=国有会社元トップの死刑を執行、中国史上最大の収賄受領で|newspaper=AFP通信|language=日本語|agency=東方新報|date=2021-02-07|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3330345?cx_part=search|accessdate=2021-05-02}}</ref>。
中華人民共和国の刑罰体系では、一部の犯罪に関して下された死刑に[[執行猶予]]が付せられる規定(中華人民共和国刑法43条<ref>[[藤本哲也]] 『刑事政策概論』 青林書院 131頁。</ref>)がある(とはいえ、この執行猶予はいわゆる再教育を目指すものである。実際に反革命行為に対する死刑宣告を受けたものを死刑の重圧をかけて『労働改造』する目的があると言われている。著名な執行猶予付き死刑を宣告されたものに[[江青]]がいる)。
中国における死刑制度の問題点としては、[[三権分立]]が成り立っておらず、量刑の判断基準が政治的な意向に左右されやすいことが挙げられる。しかも、[[法治主義]]ではなく役人らの意向が強く反映されている[[人治主義]]であるため、近代的[[刑事訴訟]]手続が充分に行われていないとの指摘がある。これらの死刑制度の問題点は[[中国の人権問題]]として国際的批判の対象となっている。
実際、[[2018年]][[11月20日]]に麻薬密輸の罪でカナダ人の[[:w:Schellenberg smuggling incident|ロバート・ロイド・シェレンバーグ]]に[[遼寧省]][[大連市]]の中級人民法院により懲役15年の刑が下されていたが、控訴後に刑が軽すぎることを理由に差し戻しをされ、[[2019年]][[1月14日]]に死刑判決が下されている。その後、[[控訴]]したが2021年[[8月10日]]に[[遼寧省]]の高級人民法院(日本の[[高等裁判所]]にあたる)により、棄却されている。背景には、アメリカ合衆国政府の要請によりカナダ政府によって[[2018年]][[12月1日]]に[[ファーウェイ]][[最高財務責任者]](CFO)[[孟晩舟]]が逮捕されたことに対する報復が指摘されている。この事件とは別に、スパイ容疑で別のカナダ人2人を逮捕されている<ref>{{Cite news|title=中国高裁、カナダ人被告の死刑判決維持|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2021-08-10|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3361107|accessdate=2022-09-03}}</ref><ref>{{Cite news|title=中国裁判所、カナダ人被告に死刑判決 麻薬密輸の罪|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2019-01-15|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3206344|accessdate=2022-09-03}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=中国:カナダ人への死刑を破棄せよ|publisher=アムネスティ―・インターナショナル|date=2019-01-22|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2019/0122_7879.html|accessdate=2022-09-03}}</ref>。<br />また、2020年において新型コロナウイルス感染症感染拡大防止対策の為に、最高刑が死刑である「公共安全危害罪」を過大解釈し、感染者が隔離治療を拒否して公共の場所に行ったり、公共交通機関を利用した場合も適用されるとし、地方政府によっては病歴や旅行・居住歴などを隠蔽し嘘をついた場合でも適用された。そのため、この罪により逮捕されるケースが生じた。また、この適用を決める過程で議会も通しておらず、三権分立を無視する形で行われている<ref>{{Cite news|title=新型コロナ 中国で病歴・旅行歴隠しに「死刑」適用も 法を自在に「超拡大解釈」|newspaper=産経新聞|language=日本語|date=2020-03-07|url=https://www.sankei.com/article/20200307-QMR6HIZ2VRLBBF66JHA6GCJZVE/|accessdate=2021-05-02}}</ref>。
更に、新型コロナウイルス感染対策として実施が予定されていた移動制限の実務担当者2人を殺害した男性を事件発生から半年足らずで、死刑執行させた。なお、[[最高人民法院]]より、この男性は過去に暴行の罪で服役し、釈放から5年未満で犯行に及んだことにより死刑判決を下すきっかけにつながったことを発表している<ref>{{Cite news|title=コロナ予防策を妨害し2人殺害の男の死刑執行、中国|newspaper=CNN|language=日本語|date=2020-07-11|url=https://www.cnn.co.jp/world/35156622.html|accessdate=2023-05-28}}</ref>。
なお、過去にイギリスやポルトガルの[[植民地]]であった特別行政区の[[香港]]と[[マカオ]]では、中国への主権返還前に死刑制度が廃止されている。
==== シンガポール ====
{{main|シンガポールにおける死刑}}
死刑執行数を公開している国の中で一人当たり死刑執行率が高い国のひとつとして知られ、薬物取引や殺人・強姦などの犯罪に主に適用される。同時に犯罪率が低く治安の良さは世界トップクラスを維持している<ref>http://news.aol.jp/2016/01/02/safecity/</ref>。[[2016年]]に[[シンガポール国立大学]]が実施した同国での意識調査によると、国民の92%が殺人に対する最高刑を死刑とすることを支持している<ref>http://www.channelnewsasia.com/news/singapore/support-for-death-penalty-high-but-nuanced-nus-survey/3351236.html</ref>。
また、2020年に関しては、6年振りに死刑執行が無かった。これは、訴訟を受けて死刑執行が保留になった背景があるが、新型コロナ感染症流行の影響に対する規制も原因の1つと言われている<ref name="2020死刑廃止" >{{Cite report|author=アムネスティ・インターナショナル|date=2020-04-21|title=2020年の死刑状況:新型コロナウイルスが猛威を振るう中で死刑に固執する国々|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2021/0421_9167.html|format=PDF|accessdate=2023-05-28}}</ref>。
そして、[[2022年]][[4月27日]]に約2年5ヵ月ぶりに執行されることとなった。執行者の[[知能指数]]が69であったため、[[知的障害]]がある者を執行したことに対して、物議が生じた<ref name="知的障害のある死刑囚の刑執行">{{Cite news|title=知的障害のある死刑囚の刑執行 シンガポール|newspaper=BBC|language=日本語|date=2022-04-28|url=https://www.bbc.com/japanese/61253130|accessdate=2022-04-29}}</ref><ref name="麻薬密売人に対する死刑執行">{{Cite news|title=麻薬密売人に対する死刑執行、シンガポールとしての立場を表明|newspaper=シンガポールのビジネス情報サイト AsiaX|language=日本語|date=2019-11-25|url=https://www.asiax.biz/news/52390/|accessdate=2022-04-29}}</ref>。
その後、[[2023年]][[7月26日]]に[[2018年]]に[[ヘロイン]]30.72グラムを密輸した罪で約19年ぶりに[[:en:Execution of Saridewi Djamani|女性(執行時年齢:45歳)の死刑執行]]が行われた<ref>{{Cite news|title=シンガポールで女性の死刑執行、約20年ぶり 麻薬密輸で|newspaper=BBC|language=日本語|date=2023-07-28|url=https://www.bbc.com/japanese/66334482|accessdate=2023-08-02}}</ref><ref>{{Cite news|title=シンガポール、約20年ぶりに女性死刑囚の刑執行 麻薬密売で|newspaper=CNN|language=日本語|date=2023-07-28|url=https://www.cnn.co.jp/world/35207152.html|accessdate=2023-08-02}}</ref>。
==== 大韓民国 ====
{{main|韓国における死刑}}
[[韓国]]は現在、[[1997年]][[12月30日]]に23人が死刑執行されたのを最後に、[[金大中]][[政権]]発足以降は死刑の執行命令はない。韓国では死刑執行方法は「[[絞首刑]]」としているが、軍刑法では[[敵前逃亡]]や脱走、[[抗命罪]]に対し最高刑として「[[銃殺刑]]」が規定されている。また国家反逆罪では最高刑は死刑である。犯行時18歳未満の場合、死刑は宣告されず最高[[懲役]]15年に処せられる。また身体障害者と妊婦の死刑は猶予される。
{| class="wikitable"
|+[[1949年|1949]]~[[1997年]]の韓国の死刑執行数<br />(あくまでも死刑執行が確認された人数である。)
|- style="background:#cccccc;" align=center
!colspan="10" align=center|1948-1969
|-
|colspan="10" align=center|547
|-
!1970
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|9||0||23||9||0||11||13||5||0||7
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|- valign="top"
|-
|}
==== 朝鮮民主主義人民共和国 ====
[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では主に[[1990年代]]から続く食糧不足や経済的困窮を背景に起きた事件の殺人犯、刑事犯、経済犯や、北朝鮮を脱出しようとして第三国で逮捕され北朝鮮へと送還されたいわゆる[[脱北者]]、及び国内で反体制活動などを行ったとされる政治犯に対して死刑を行っている。これらは祖国反逆罪、反国家目的破壊・陰害罪などの刑法によって行われる。
第三国に出国した多くの[[脱北者]]の目撃証言や、過去日本のメディアが入手した隠し撮り映像によれば執行方法は[[銃殺]]であり、都市の一部地域を使い[[公開群集裁判]]と呼ばれる公開裁判の一部で行われている。公開群集裁判には開かれる都市の、青少年を含んだ住民が呼び出され見学を強要される。裁判官によって死刑判決文が読まれた後は即処刑が行われる。
執行の形態としては、死刑囚1人に対し4人の執行官が自動小銃を用いて銃殺する。[[高射砲]]や犬を使用する場合もあり、その残虐性から国際社会より人権侵害との批判の声がある<ref>http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/02/post-4563.php</ref>。死刑囚はこの時[[磔]]のようにされる事が多い。さらに死刑執行後は周囲の見学者たちに対し死刑囚(の遺体)に石などを投げつけ死刑囚の遺体を更に傷つける事を命令されるという事もあると言われている。処刑は都市部だけでなく[[朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所|強制収容所]]内においても行われている。正確なデータは存在しないが、かなり多い頻度でこうした死刑は行われていると言われている。
==== インド ====
1980年、インドの最高裁は死刑の判断例を「極めて稀な例」のみと制限したほか、2004年~2007年の間は死刑の執行をしなかった。このまま実質的に廃止されるかに思われたが、2008年、160人以上が死亡した[[ムンバイ同時多発テロ]]が発生。2012年、実行犯の死刑を執行したことから、死刑に対する議論は活発になった。最近では、[[強姦罪]]にも死刑を適用している<ref>{{Cite news|url=http://topics.jp.msn.com/world/general/article.aspx?articleid=1545259|title=インドで死刑論議過熱=8年ぶり執行で関心高まる|work=時事通信社|publisher=MSN|date=2012-12-01|accessdate=2012-12-01}}</ref>。そして、2020年[[3月20日]]午前5時半に[[2012年インド集団強姦事件|2012年に起きた集団レイプ事件]]の加害者4人が絞首刑により執行され、インドにとって1993年に起きたボンベイ爆破事件加害者の死刑執行から5年振りの執行となった<ref>{{Cite news|title=バス集団レイプ事件、死刑囚4人の刑執行 インド|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2020-03-20|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3274382 |accessdate=2021-05-02}}</ref>。2022年現在の死刑囚は、539人存在するという<ref name="2022死刑廃止" />。
==== 中東諸国 ====
人口の大部分が[[ムスリム]]である[[中東]]諸国では、死刑執行数が多い。[[インドネシア]]では銃殺刑が法定刑であるが、[[イラン]]や[[サウジアラビア]]では[[コーラン]]の教えにある斬首刑(サウジアラビアのみ)や石打刑が行われている。
イランにおける実態については明らかではないが、'''人口当たりの死刑執行数は世界最多'''であると推測される。公開処刑が少なくとも2022年で2件行われており、18歳未満の死刑執行が5件行われている<ref name="2022死刑廃止" />。更に、反政府的傾向を持つ者や政府に抗議する者や少数民族を政治的に弾圧する為に死刑を利用する傾向を強めている<ref name="BBC2021.04.21">{{Cite news|title=世界の死刑、中東4カ国で9割=アムネスティ年次報告|newspaper=BBC|language=日本語|date=2021-04-21|url=https://www.bbc.com/japanese/56826449|accessdate=2021-05-02}}</ref>。また[[名誉の殺人]]に対する刑罰が軽く、「制度化された暴力」と非難されている<ref>{{Cite news|title=駆け落ちした14歳の娘を斬首、父親に禁錮9年の判決 イラン|newspaper=AFP通信|language=日本語|date=2020-08-29|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3301804|accessdate=2021-05-02}}</ref>。また、背教罪があり国教である[[イスラム教]][[シーア派]]とその下位に位置するとされる[[ゾロアスター教]]、[[キリスト教]]、[[ユダヤ教]]の存在が認められている宗教以外の信者であるという理由だけで死刑になる可能性があり、実際に執行された例がある。[[コーラン]]には、殺人であっても被害者遺族が許した場合には死刑の執行が免除されるとあるため、ムスリム同士の場合は金銭による示談(いわゆる[[血の賠償金]])で死刑が免除される場合がある<ref>{{Cite news
|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3012935|title=息子を殺された母親、執行直前の死刑囚を免罪|work=AFPBBNews|publisher=フランス通信社|date=2014-04-18|accessdate=2014-04-20}}</ref>。
また[[サウジアラビア]]では、出稼ぎ労働者については窃盗などの罪で死刑になる場合もあり、ムスリムと異教徒で刑の軽重に差があるとも言われている。更に、強姦の被害者が逆に犯罪者として死刑になる事例も存在する。
2020年に関しては、サウジアラビアは前年の184人から27人と8割半ば近く減少した。この理由に関してサウジアラビア政府側の説明では、薬物関連の犯罪での死刑執行が一時停止された影響によるものとされているが、[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|コロナウイルス感染症2019流行による社会的混乱]]と[[G20]]サミットの自国開催に伴う国際的批判を避けるために、開催期間中は死刑執行しなかったことが原因と見られている<ref>{{Cite press release|和書|title=サウジアラビア:G20後に人権活動家への抑圧を強化|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2021-08-11|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2021/0811_9284.html|accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=Death penalty 2020: Middle East and North Africa dominates list of world’s top executioners(死刑 2020:中東と北アフリカの国々が死刑執行数の多さで世界で上位リストに上がっている。) |publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2021-04-21|url=https://www.amnesty.org/en/latest/news/2021/04/death-penalty-2020-middle-east-and-north-africa-dominates-list-of-worlds-top-executioners/|accessdate=2021-08-15 }}</ref>。その後は増加し、2022年は196人であり、アムネスティ・インターナショナルによれば、[[1993年]]以降で最も多く執行された年でもあった。そして、その内の81人が[[2022年]][[3月13日]]に重要な経済的標的への攻撃の計画や、治安部隊メンバーを標的とした攻撃または殺害・誘拐・拷問・不同意性交、サウジアラビア国内への武器の密輸などの罪状により死刑執行されている。執行された者の中には[[イエメン]]人7人と[[シリア]]人1人いた<ref>{{Cite news|title=サウジアラビア、1日で81人の死刑執行 昨年1年間の合計上回る|newspaper=BBC|language=日本語|date=2022-03-13|url=https://www.bbc.com/japanese/60725362|accessdate=2023-05-28}}</ref>。
=== ヨーロッパ ===
過去、イギリスでは、1969年の廃止以降、[[アイルランド共和軍|IRA]]のテロが多発したため、保守党などから数度死刑復活案が唱えられたことがある。また[[ノルウェー]]は、1945年に[[ヴィドクン・クヴィスリング]]を死刑にするために特別に銃殺刑が復活している。1945年5月9日に死刑判決を受け、1945年10月24日に銃殺刑が執行された。
現在、[[欧州連合]] (EU) 各国は、不必要かつ非人道的であることを理由として死刑廃止を決定し、死刑廃止をEUへの加盟条件の1つとしている。また[[欧州人権条約]]第3条で死刑を禁止するとともに、[[欧州評議会]]においても同様の基準を置いている。このため、現EU加盟国の中で死刑制度を存続している国は、1ヵ国も存在しない{{Efn|[[ラトビア]]はEU加盟に当たって、[[軍法]]上で死刑制度を存続させていたが、2012年に死刑を全廃した。}}。
EU加盟を目指している[[トルコ共和国]]は[[イスラム教]]国であるが、[[人権と基本的自由の保護のための条約]]の第13議定書に従い死刑制度を廃止した。
[[ベラルーシ]]はヨーロッパで唯一の死刑存置国である。そのため、EU非加盟国であり、人権と基本的自由の保護のための条約第13議定書によって死刑を全廃した[[欧州評議会]]から排除されている。
[[ロシア]]は、ソ連時代末期の[[1988年]]に当時の民主化と人道主義の観点から、死刑の適用対象から60歳以上の高齢者と経済犯罪を除外した。その後は非常に悪質な故意殺人に対してのみ死刑制度が存置されていた<ref>朝日新聞 1988年2月24日。</ref>。[[1996年]]の欧州議会加盟時に死刑執行を停止(99年まで執行があったチェチェン共和国を除く)。1999年に[[憲法裁判所]]は、陪審制をすべての地方で導入されるまでの暫定措置として死刑執行停止を決定した。しかし、一部の下級裁判所は死刑判決を継続した。執行停止は2007年初めに期限切れとなり、ロシアが2006年5月に欧州評議会議長国に就任したことをきっかけに、ヨーロッパ諸国から[[欧州人権条約]]の死刑廃止議定書(第13議定書)批准を求める声があがった<ref>「ロシアの死刑廃止を求め欧州から圧力」 モスクワIPS (Inter press service)、[[2006年]][[7月21日]]。</ref>。ロシアの憲法裁判所は2009年11月19日に、第13議定書を批准するまで死刑判決と執行を禁止すると決定した。これは、メドベージェフ大統領が死刑の廃止を支持していた背景がある<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091120-OYT1T01409.htm ロシア、死刑を廃止…陪審制導入で憲法裁決定] 読売新聞2009年11月20日配信 2009年11月25日確認</ref>。<br>
しかし、ロシア憲法裁判所のワレーリィ・ゾルキン長官は死刑復活の可能性はあるとの認識を示し、廃止の動きは進んでいない<ref>[https://sputniknews.jp/20220103/9876357.html ロシア 死刑復活の「可能性は排除されていない」=憲法裁判所長官:] Sputnik 日本</ref>。さらに、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]後には、ロシアは欧州評議会脱退を宣言し<ref>[https://web.archive.org/web/20220316020023/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022031600358 ロシア、欧州評議会脱退を通告 人権条約からも離脱] 時事ドットコム</ref>、ロシアから幹部が送り込まれているといわれている<ref>[https://web.archive.org/web/20220222002321/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022022100611 「親ロシア派」は何者? ウクライナ東部のかいらい政権―ニュースQ&A] 時事ドットコム</ref>自称[[ドネツク人民共和国]]はウクライナ軍捕虜に対し死刑判決を出した<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220610/k00/00m/030/012000c 親ロシア派「共和国」 英国人雇い兵らに死刑判決 英外相は非難] 毎日新聞</ref>。
[[プロイセン王国|ドイツ]]は、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|ヴィルヘルム3世]]の時代(1797年 - 1840年)は[[オーストリア]]の影響で[[ブルシェンシャフト]]などの市民活動が弾圧され、1836年の市民蜂起では運動家の学生ら数人に死刑が下された([[ドイツにおける死刑]]を参照)。
2001年6月、[[欧州評議会]]は、死刑を存続している日米両国に対し2003年1月までに死刑廃止に向けた実効的措置の遂行を求め、それが成されない場合、両国の欧州評議会全体におけるオブザーバー資格の剥奪をも検討する決議を採択した。
=== アフリカ ===
[[アフリカ]]54カ国のうち[[2022年]][[12月25日]]時点で24カ国が死刑廃止している。また、[[ブルキナファソ]]・[[赤道ギニア]]・[[ザンビア]]は通常犯罪のみ廃止している。法的に廃止された国とは別に12カ国が事実上の廃止国(過去10年以上執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる)である。合計すると54カ国のうち死刑を行っていない国は39カ国である。政情が安定している南部諸国における廃止が目立つ。ただし、政情が安定している地域でも、アラブ圏では[[イスラム法]]の影響もあり死刑存続している国が多い。フランスの文化的影響の強い西部アフリカ諸国は、死刑執行を一時停止しているか、国事犯を除く通常犯罪への適用を行っていない国が多い。
2013年~2022年の間で死刑執行された国はアフリカ諸国では8カ国しかなく、その内の[[赤道ギニア]]・[[チャド]]・[[ナイジェリア]]は執行された年が単年ないし2年のみであり(赤道ギニアは2014年1月に殺人罪で9人執行<ref>{{Cite press release|和書|title=赤道ギニア:大統領 死刑廃止へ動く|publisher=アムネスティ・インターナショナル|date=2019-04-18|url=https://www.amnesty.or.jp/news/2019/0418_8074.html|accessdate=2021-05-08}}</ref>、チャドは[[2015年]][[8月29日]]の首都[[ヌジャメナ]]で38人が死亡した[[自爆テロ|自爆攻撃]]を行った[[ボコハラム]]戦闘員10人の銃殺刑執行<ref>{{Cite news|title=ボコ・ハラム戦闘員10人、判決翌日に死刑 チャド|newspaper=AFP通信|language =日本語|date=2015-08-30|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3058785|accessdate=2021-05-08}}</ref>。後の2020年に死刑廃止、ナイジェリアは2013年の4人と2016年の3人の執行<ref name="The Death Penalty in Nigeria">{{cite web|url=https://deathpenaltyworldwide.org/database/?country=Nigeria|title=The Death Penalty in Nigeria|publisher=Death Penalty Worldwide|access-date=2021-05-08}}</ref>)、実質5カ国([[ボツワナ]]・[[エジプト]]・[[ソマリア]]・[[南スーダン]]・[[スーダン]])のみであり、ボツワナを除き[[アラビア半島]]の近くに位置する<ref>{{Cite web|author=Cornell Center on the Death Penalty Worldwide|authorlink=コーネル大学|url=https://deathpenaltyworldwide.org/database/|title=Database 2.5. Executions Per Year|date=2021-04-28|accessdate=2021-05-08}}</ref>。更に、[[2016年]]以降の傾向としては、エジプトが最も多く、次いでソマリアであり、エジプトだけで少なくともアフリカ諸国全体の約5割を占め、ソマリアを含めた場合は少なくとも8割を占めており、どちらもイスラム教徒が9割以上を占めている国である。そして2022年においては、アフリカ大陸諸国で執行が確認された国はエジプト・ソマリア・南スーダンの3カ国である。エジプトが最も多く死刑執行されていると推測されており、推定ながらアフリカ大陸諸国全体の約69%に当たり、ソマリアを含めた場合約86%となる<ref name="2022死刑廃止" />。
エジプトは、2020年に関して、同年[[9月23日]]に起きたアル・アクラブ刑務所で警官4人と受刑者4人が死亡する脱獄未遂事件があった影響で、2019年の32人(推定)から107人(推定)と前年に比べ3倍以上に増加しており、その年の10月と11月だけで57人(内、[[10月3日]]~[[10月13日]]の10日間で49人)の死刑執行がされた。更に、死刑執行された23人は政治的暴力に関連した事件で有罪とされた人々に対するものであり、拷問や自白の強要がされていると指摘されている<ref name="BBC2021.04.21" /><ref>{{Cite press release|和書|title=Egypt: 49 Executions In 10 Days(エジプト:10日間で49人の死刑執行)|publisher=[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]|date=2020-10-22|url=https://www.hrw.org/news/2020/10/22/egypt-49-executions-10-days|accessdate=2021-07-25}}</ref>。その後、人権保護を重視した欧米諸国からの圧力と[[シナイ半島]]北部の反政府勢力抑え込みの成功による治安の安定、[[第27回気候変動枠組条約締約国会議]]招致に向けた印象改善を狙うことを背景に2013年(当初は[[北シナイ県]]のみ対象。その後[[2017年]]4月に発生したコプト教教会爆破テロの発生をきっかけにエジプト全土に拡大)から続いていた非常事態宣言を2021年[[10月25日]]を解除した影響により、推定執行数が前年の約7分の2近く減少した<ref>{{Cite web|和書|author=福山豊和|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/10/8d28b53e84c79a4d.html|title=非常事態宣言を4年ぶりに解除、2022年のCOP27招致に向けた印象改善も狙う(エジプト)|date=2021-10-29|publisher=[[日本貿易振興機構|独立行政法人日本貿易振興機構]]|accessdate=2023-05-28}}</ref>。
{| class="wikitable"
|+'''2013~2022年の10年間に死刑執行が行われたアフリカ諸国の執行数<ref name="2022死刑廃止" /><ref name="2021死刑廃止" /><ref name="EPY" />
|-
! 国名 !! 多くの国民が信仰している宗教 !! 2013 !! 2014 !! 2015 !! 2016 !! 2017 !! 2018 !! 2019 !! 2020!!2021!!2022
|-
!colspan="12" | [[北アフリカ]]諸国
|-
! エジプト
| イスラム教 || 0 ||style="background-color:#FFFF00| 15+ ||style="background-color:#FFFF00| 22+ ||style="background-color:#FF0000| 44+ ||style="background-color:#FF0000| 35+ ||style="background-color:#FF0000| 43+ ||style="background-color:#FF0000| 26 ||style="background-color:#FF0000| 107+||style="background-color:#FF0000| 83+ ||style="background-color:#FF0000|24
|-
! スーダン
| イスラム教||style="background-color:#FFFF00| 21+ ||style="background-color:#FF0000| 23+ || 3 || 2 || 0 || 2 || 0? || 0?|| 1+||0
|-
!colspan="12" |[[東アフリカ]]諸国
|-
!ソマリア
| イスラム教||style="background-color:#FF0000| 34+ || 14+ ||style="background-color:#FF0000| 28+ ||style="background-color:#FFFF00| 7 ||style="background-color:#FFFF00| 24 ||style="background-color:#FFFF00| 13+ ||style="background-color:#FFFF00| 13+ ||style="background-color:#FFFF00| 20 ||style="background-color:#FFFF00| 22||style="background-color:#FFFF00|6+
|-
! 南スーダン
| キリスト教 || 4+ || 0 || 5+ || 2+ || 4 || 7+ || 7 || 2+|| 9+||5+
|-
!colspan="12" | その他
|-
! ボツワナ
| キリスト教 || 1 || 0 || 0 || 1 || 0 || 2 || 1 || 3|| 3|| 0
|-
! チャド
| イスラム教及びキリスト教 || 0 || 0 || 10 || 0 || 0 || 0 || 0 ||colspan="3" | 廃止
|-
! 赤道ギニア
| キリスト教 || 0 || 9 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0 || 0|| 0||廃止(通常犯罪のみ)<br />
|-
! ナイジェリア
| 北部はイスラム教、南部はキリスト教 || 4 || 0 || 0 || 3 || 0 || 0 || 0 || 0|| 0|| 0
|-style="text-align:left;"
|colspan="12"|
*死刑執行数は、一部の例外を除きコーネル大法科大学院の死刑問題研究グループが出しているデータを用いている。2021年・2022年は、コーネル大法科大学院の死刑問題研究グループとアムネスティ・インターナショナルが出しているデータで執行数が多い方を採用している。
*表の「+」は、死刑執行数が、あくまで[[メディア (媒体)|メディア]]等で確認された執行数である為、データよりも多く行われた可能性があることを示している。
*表の「?」は、執行が無かったか確証が無いため?としている。
*表の「-」は、執行数は不明である。
*表の赤色はアフリカ諸国の中でその年に推定であるが最も多く執行された国である。「+」が付いている場合は、その数値で比較していることに注意する。
*表の黄色はアフリカ諸国の中でその年に推定であるが2番目に多く執行された国である。「+」が付いている場合は、その数値で比較していることに注意する。
|}
[[ジンバブエ]]では[[2005年]]に死刑執行人が引退してから後任が決まらない状態が続き死刑が執行されておらず、2022年時点で収監中の死刑囚は66人に及ぶ<ref name="2022死刑廃止" />。2012年には候補者が選定されたものの承認を得られなかった。バージニア・マブヒザ (Virginia Mabhiza) 司法相によると、2017年の死刑執行人の求人では数ヶ月で50人以上の応募が集まったという。[[フランス通信社|AFP]]の報道ではこの背景としてジンバブエの失業率の高さを挙げており、ある調査ではジンバブエの失業率は90%以上であったと報道した<ref>{{Cite news|title=死刑執行人の求人に50人以上応募、失業率9割超のジンバブエ|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3147174|newspaper=AFPBB news|date=2017-10-18|accessdate=2017-10-18}}</ref>。また、2022年時点でも死刑執行されていない。
=== 南北アメリカ ===
死刑制度があるのは、アメリカ合衆国(連邦法と軍法と27州法)と中米の[[グアテマラ]]、キューバなど少数である。そのうちアメリカは先進国で最大の死刑執行数を記録しているが、多くの死刑執行は[[テキサス州]]で行われており、そのためアメリカのメディアが「死刑の格差」と報道しており、同州でこのような姿勢を[[ニューヨーク・タイムズ]]は「執行に対する住民の積極的な支持」、[[ロイター通信]]は「犯罪者に厳罰を科すことをいとわない『[[カウボーイ]]気質』のほか、一部で根強く残る人種差別意識がある」と報道した<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/114022/ 死刑執行6割がテキサス州 米で広がる死刑格差] 2008年3月5日閲覧。{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。但し、2020年はコロナウイルス感染症流行の影響により、執行停止や執行の延期が相次いだことことによる執行の減少と、[[ドナルド・トランプ|トランプ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の凶悪犯罪者に対する[[厳罰]]志向による連邦政府による死刑執行を17年振りに再会したことにより、連邦政府が最も多く執行した立法行政司法単位となった<ref>{{Cite news|和書 |title=米国の死刑、異例のハイペース 政権移行中の執行に議論 |newspaper=[[共同通信]] |date=2020-12-30 |url=https://this.kiji.is/716946110167384064 |accessdate=2023-4-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201230104605/https://this.kiji.is/716946110167384064 |archive-date=2020-12-30}}</ref>。
[[ラテンアメリカ]](南米)諸国の傾向として、2022年末時点で61%の国(33カ国中20カ国)が一般犯罪に対する死刑を廃止し、45%の国(33カ国中15カ国)が完全な死刑を廃止している<ref name="死刑廃止国・存置国" />。死刑制度存続国も、[[2008年]][[12月19日]]に[[セントクリストファー・ネイビス]]で妻を殺害した罪で[[:en:Charles Laplace|チャールズ・エルロイ・ラプラス]]が絞首刑により執行されたのを最後に10年以上死刑を執行していない。
==== アメリカ合衆国 ====
[[ファイル:Death penalty in the United States with hiatuses.svg|right|300px|thumb|'''アメリカ合衆国の州別の死刑制度'''<br />
{{legend|#4daf4a|死刑廃止州}}{{legend|#377eb8|法律上は死刑制度を維持。ただし、死刑を執行しないという公約をしている州}}{{legend|#ffff33|法律上は死刑制度を維持。ただし、死刑を過去10年以上実施していない州}}{{legend|#984ea3|法律上は死刑制度を維持。ただし、特殊な事情が適用される州}}{{legend|#e41a1c|死刑存置州}}
]]
{{main|アメリカ合衆国における死刑}}
アメリカ合衆国において最初に[[ミシガン州]]で死刑が廃止されたのが[[1847年]]と、ヨーロッパの死刑廃止の歴史よりも古い。アメリカ合衆国において、死刑を廃止した州や地域は時代の進行とともに増加している。アメリカ合衆国は2022年1月時点で、50州、ワシントンD.C.、5自治領、連邦法、軍法、合計58の立法行政司法単位があり、そのうち2022年1月時点で、23州、ワシントンD.C.、5自治領、合計29の立法行政司法単位で法律上死刑が廃止され、27州、連邦、軍隊の合計29の立法行政司法単位で法律上死刑が定められている。
凶悪犯罪の少ない裕福な[[ニューイングランド]]諸州や、裕福でこそないが治安が安定している北部内陸州において死刑が行われず、貧しい南部諸州では死刑執行数が多い傾向にある。全米では被告人に対する死刑の宣告ならびに死刑執行は減少傾向にあるが、[[テキサス州]]など死刑執行の盛んな地域もある。また、未成年に対する殺害を伴わない[[性犯罪]]の再犯者への死刑が適用される州法が[[サウスカロライナ州]]、[[フロリダ州]]、[[ルイジアナ州]]、[[モンタナ州]]、[[オクラホマ州]]の5州で成立したが、[[殺人]]を犯していない性犯罪者に対する死刑適用は過酷であり、[[憲法違反]]であると法学者から強く批判されていた。連邦最高裁は2008年6月25日に[[ケネディ対ルイジアナ州事件]]で「非道な犯罪であっても、被害者が死んでいない事件で死刑を適用する法律は、残酷な刑罰であり合衆国憲法に違反し無効」という憲法違反判断を下している。そのため、この法律は見直された。
1990年以降の犯罪捜査で[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]が導入され、過去に有罪で死刑判決を受けた死刑囚の[[冤罪]]が明らかになり、特に2000年代後半以降では[[再審]]で[[無罪]]になる例が多発している。[[1973年]]から[[2001年]]までにアメリカ国内では96名の死刑囚が釈放されており、特にフロリダ州では21人も釈放されている。同州では、5人の死刑執行が行われる間に2人が無罪放免になったという。
死刑の適用に際して経済的・[[人種差別|人種的差別]]が存在しているとの指摘もある。これは、優秀で報酬の高い[[弁護士]]を雇用できるほどの経済力を持つ者が[[司法取引]]で減刑される一方で、比較的貧困層の多い[[アフリカ系アメリカ人]]に対する死刑の適用が人口比と比べて多いとの指摘がある。
=== オセアニア ===
[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]共にいかなる場合も死刑を廃止している。ニュージーランドには死刑廃止後、復活させた事があったが、今日は死刑を非人道的として完全に廃止している。島嶼諸国も死刑廃止している。[[パプアニューギニア]]は10年以上死刑停止状態が続いた後、2022年1月に死刑制度が廃止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://sputniknews.jp/20220121/10000783.html |title=パプア・ニューギニア 死刑を廃止 |accessdate=2022-04-29}}</ref>。
;各国別の死刑制度の現状については下記ボックスを参照。
{{世界の死刑}}
== 死刑制度に関する議論 ==
{{main|死刑存廃問題}}
{{出典の明記|date=2021年6月|section=1}}
死刑および死刑制度については、[[人権]]や[[冤罪]]の可能性、[[倫理学|倫理]]的問題、またその有効性、妥当性、人類の尊厳など多くの観点から、全世界的な議論がなされている(詳細は[[死刑存廃問題]]を参照のこと)。議論には'''死刑廃止論'''と'''死刑賛成論'''の両論が存在する。死刑制度を維持している国では''在置論''と呼ぶ、廃止している国では復活論と呼ぶ。もちろん死刑の廃止と復活は、世界中で史上何度も行われてきている。
近年では死刑は、前述のように「凶悪事件に対して威嚇力行使による犯罪抑止」、または「犯罪被害者遺族の権利として存置は必要である」と主張される場合がある。ただし前者の「犯罪抑止」としては、統計学および犯罪心理学的に死刑の有用性が証明されたものではなく、存在意義はむしろ社会規範維持のために必要とする[[法哲学]]的色彩が強い。後者の「被害者遺族の権利」としては家族が殺人にあったとしても、実際に死刑になる実行犯は情状酌量すべき事情のない動機かつ残虐な殺害方法で人を殺めた極少数{{Efn|日本では毎年1000人近い殺人犯が検挙されるが、死刑判決が確定するのは、そのうち数十人である。}}であることから、[[菊田幸一]]など死刑廃止論者から極限られた被害者遺族の権利を認めることに疑問があるとしている。また、いくら凶悪なる殺人行為であっても、その報復が生命を奪うことが果たして倫理的に許されるかという疑問も指摘されている。元々死刑反対派の弁護士で、[[銀座弁護士妻子殺人事件|磯部常治]]のように妻子を殺害された後も死刑廃止を支持した者がいる。また、[[山一証券代理人弁護士夫人殺人事件|岡村勲]]のように妻を事件で失ったことを機に[[全国犯罪被害者の会]](高齢化で団体の存続が危ぶまれた後2018年6月に解散)を立ち上げた者もいる。
また、死刑執行を停止しているロシア当局によるチェチェン独立派指導者の「殺害」などがあり、死刑制度の有無や執行の有無が、その国家の人権意識の高さと直接の関係はないとの主張も存在するが、死刑制度は民主国家では廃止され非民主国家で維持される傾向にある。地理的には、ヨーロッパ、そして南米の6カ国を除いた国々が、廃止している。ヨーロッパ諸国においては[[ベラルーシ]]以外死刑を行っている国はない([[ロシア]]においては制度は存在するが執行は十年以上停止状態であるといわれる。[[チェチェン]]を参考のこと)。これは死刑制度が[[ヨーロッパ連合]]が定めた[[欧州人権条約]]第3条に違反するとしているためである。[[リヒテンシュタイン]]では[[1987年]]に死刑が廃止されたが、最後の処刑が行われたのが[[1785年]]のことであり、事実上2世紀も前に廃止されていた。また、[[ベルギー]]も[[1996年]]に死刑が廃止されたが最後に執行されたのは[[1950年]]であった。このように、死刑執行が事実上行われなくなって、長年経過した後に死刑制度も正式に廃止される場合が多い。
[[欧州議会]]の欧州審議会議員会議は[[2001年]][[6月25日]]に[[日本]]および[[アメリカ合衆国]]に対して死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する1253決議を可決した。この決議によれば日本は死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が指摘され、アメリカは死刑適用に対する人種的経済的差別と、少年犯罪者および精神障害者に対する死刑執行が行われているとして、両国の行刑制度を非難するものであった。
通常犯罪における死刑が廃止されても、[[国家反逆罪]]ないし[[戦争犯罪]]によって死刑が行われる場合がある。例えばノルウェーのヴィドクン・クヴィスリングは[[1945年]][[5月9日]]、連合国軍に逮捕され国民連合の指導者と共に大逆罪で裁判にかけられ、銃殺刑に処せられた。ノルウェーでは、この裁判のためだけに特別に銃殺刑を復活(通常犯罪の死刑は[[1905年]]に廃止されている)した。また同様に[[イスラエル]]も[[ナチス]]による[[ホロコースト]]に関与した[[アドルフ・アイヒマン]]を処刑するため、死刑制度がないにもかかわらず(戦争犯罪として適用除外されたともいえる)死刑を宣告し執行した。
中東とアフリカとアジアにおいては総じて死刑制度が維持されている。冷戦時代は総じて民主国家が廃止、独裁国家が維持していたが、現在では冷戦崩壊後の民主化と大量虐殺の反省により東欧と南米が廃止、アジアおよび中東とアフリカの一部が民主化後も維持している状態である。またイスラム教徒が多数を占める国では、イスラーム法を名目とした死刑制度が維持されているが、[[トルコ]]のようにヨーロッパ連合への加盟を目指すために廃止した国や、[[ブルネイ]]のように[[1957年]]以降死刑執行が行われていないため事実上廃止の状態の国もある。
== 残虐性の有無 ==
死刑自体が究極の[[身体刑]]であると主張される一方、「火あぶり」、「磔」など苦痛を伴う残虐な方法による死刑のみが究極の身体刑であると主張されることもある。また、苦痛を与えることを目的としない死刑は[[拷問]]に当たらないとされる。実際に中国で行われている頭部への銃殺刑は、被執行者が「確実に」即死するため、苦痛がないといわれている。しかし、これは実証されておらず、無論既に死んでいる被執行者に確認を取ることもできないので実証は非常に困難であると思われる。
日本で行われている絞首刑では、実際に見学した人物の証言<ref name="last1h">別冊宝島「死刑囚最後の1時間」11頁。</ref>では、死刑囚の遺体から[[目]]と[[舌]]が飛び出しており、[[口]]や[[鼻]]から[[血液]]や[[嘔吐物]]が流れ出しており、下半身から[[屎尿|排泄物]]が垂れ流しになっていたという。この描写は、米国サンクェンティン刑務所長が自身が立ち会った絞首刑について「顔から、ロープのために肉がもぎ取られ、首が半ばちぎれ、眼が飛び出し、舌が垂れ下がった」とか、尿失禁、便失禁、出血もあったとする著者の記述に一致する<ref>{{Cite book|和書
|last=ダフィ
|first=クリントン
|year=1978
|title=死刑囚-88人の男と2人の女の最期に立会って
|publisher=サンケイ出版
|pages=14-15
}}</ref>。一方で1994年12月に死刑執行された元死刑囚の遺体を引き取った遺族が[[法医学]]教室の協力で検証した実例<ref name="last1h"/>では、気道をロープで一気に塞がれたことにより、意識が消失して[[縊死]]した可能性が高いとされている。しかし、[[オーストリア]][[法医学]]会会長ヴァルテル・ラブル博士は、絞首刑を執行された者が瞬時に意識を失うことはまれで、最低でも5〜8秒、長ければ2〜3分間意識が保たれると述べている<ref>[https://docs.google.com/document/pub?id=1t78TZ2jLtZmq8LyKDLUla2BwnFKkzwR_AxWljePA2j4 2011年10月11日 大阪地方裁判所、ヴァルテル・ラブル博士証言]</ref>。
なお死刑存置国であるアメリカ合衆国では、日本で行われている[[絞首刑]]を非人道的であるとして廃止している州がほとんどで、2018年末の時点で絞首刑が認可されているのは、3州を残すのみとなっている。しかも、この3州においても、薬殺刑が主流で、受刑者が望んだとき、あるいは、薬殺刑が執行できないときのみ絞首刑が選択される<ref>[http://www.ojp.usdoj.gov/bjs/pub/html/cp/2007/tables/cp07st02.htm U.S.Department of Justice] 2020年10月4日閲覧</ref>。実際のアメリカの絞首刑執行数も、1977年以降2020年9月までの死刑執行数1526件のうちの3件のみであり、[[1996年]][[1月25日]]の[[デラウェア州]]で[[:en:Billy Bailey|ビリー・ベイリー]]の執行を最後に行われていない<ref>[https://deathpenaltyinfo.org/executions/execution-database?filters%5Bmethod%5D=Hanging Death Penalty Information Center] 2020年10月4日閲覧</ref>。これは、絞首刑には失敗があるためである。絞首刑を執行された者は意識を保ったままで苦しんだり、首が切断されることもある。米国で1622年から2002年までに合法的に行われた絞首刑で少なくとも170件の失敗があったとされる<ref>{{Cite book
|last = M. Bohm
|first = Robert
|year = 2007
|title = Death Quest III: An Introduction to the Theory and Practice of Capital Punishment in the United States
|publisher = Lexsis Nexis
|page = 153
}}</ref>。たとえば[[1901年]]に死刑が執行された[[トーマス・エドワード・ケッチャム]]はロープが長すぎたため、首がちぎれてしまい絞首刑の写真として販売された。この例以外でも、米国、英国、カナダ、オーストラリアなどで、絞首刑における首の切断が起こっている<ref>[[日本の死刑#執行方法の妥当性|日本における死刑]]</ref>。最近では、2007年1月15日にイラク・バグダッドで処刑されたサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ([[バルザーン・イブラーヒーム・ハサン]])の例がある<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9902EED91030F935A25752C0A9619C8B63&sec=&spon=&&scp=2&sq=Barzan%20Ibrahim%20al-Tikriti&st=cse The New York Times, 2007.1.16] 2009年10月13日閲覧</ref>。また、日本でも、[[1883年]]([[明治]]16年)[[7月6日]]小野澤おとわという人物の絞首刑執行の際に、「刑台の踏板を外すと均(ひと)しくおとわの体は首を縊(くく)りて一[[丈]](いちじょう)余(よ)の高き処(ところ)よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体(からだ)の重かりし故か釣り下る機会(はずみ)に首が半分ほど引き切れたれば血潮が四方あたりへ迸(ほとばし)り、五分間ほどにて全く絶命した」<ref>[https://docs.google.com/View?id=ddb93p3v_2kqrf2b64 『読売東京新聞』1883年7月7日]</ref>「絞縄(しめなわ)のくい入りてとれざる故、刃物を以て切断し直に[[棺]]におさめ」<ref>[https://docs.google.com/View?id=ddb93p3v_3xhv59dhr 『東京絵入新聞』1883年7月7日]</ref>た事故が起こっていることが報道されている。
カナダでは、絞首刑において、[[1962年]][[12月11日]]に[[トロント]]のドン刑務所でほぼ首が切断されてしまった[[:en:Arthur Lucas|アーサー・ルーカス]]の執行を最後として絞首刑が廃止された。ただし、この事故は長らく秘密とされ、[[カナダ]]の絞首刑はこの事故とは無関係に廃止された<ref>{{Cite book
|last=Hoshowsky
|first=Robert J.
|year=2007
|title=THE LAST TO DIE RONALD TURPIN, ARTHUR LUCAS, AND THE END OF CAPITAL PUNISHMENT IN CANADA
|publisher=Routledge
}}</ref>。一方で、このような首の切断の危険性によって絞首刑が廃止された例もある。アリゾナ州はエヴァ・デュガンの首の切断で1933年に絞首刑をガス室に変更した<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,738741,00.html ''Time'',1930.3.3] 2009年10月13日閲覧</ref>。また、アメリカの法律雑誌では死刑存置国ながら日本が行う絞首刑を「非人道的」と非難する論文が掲載されている。そのため絞首刑に代わる「人道的執行方法」としてガス室や電気椅子が導入されたが、現在では薬物投与による安楽死、すなわち[[薬殺刑]]が新たな処刑方法として採用されており、他の死刑存置国においても一部採用されている。
そのため日本でも絞首刑には短期間ながらもそれなりの苦痛が伴うとして、アメリカ合衆国で採用されている薬物などによる薬物注射による[[薬殺刑]]が適当な死刑執行方法であるとする主張<ref>[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]で死刑判決が確定した[[宮崎勤]]が『[[創 (雑誌)|創]]』に対して薬殺刑の導入を訴える投書をしている。</ref>が存在する。ただし、その薬殺刑についても異常な刑罰との訴訟があったが、アメリカ連邦最高裁は2008年4月に憲法に反しないとの判断を下している。しかしその後、使用する薬物の提供を欧州などのメーカー側が拒否されたため、代替薬物として[[ミダゾラム]]などによる混合薬物が使われるようになったものの、死刑執行の失敗とみられる事例が相次ぎ、[[オクラホマ州]]の死刑囚らで作る原告団により最高裁の判断を仰いだ。アメリカ連邦最高裁は、執行に使用される鎮静剤ミダゾラムに「激痛をもたらす大きな危険性」があることを原告団が示せなかったと判断し、「残酷で異常な刑罰」を禁じた憲法には違反していないとの見方を示し、2015年6月に再び合憲と判決した<ref>{{Cite news |title=米最高裁、薬物投与による死刑に合憲判決|newspaper=AFP通信|language=日本語|location=パリ|date=2015-06-30|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3053139|accessdate=2020-10-04}}</ref>。
日本で絞首刑の残虐性が本格的に争われた裁判はいくつか存在するが<ref>向江璋悦『死刑廃止論の研究』法学書院、1960年</ref><ref>ヴァルテル・ラブル、後藤貞人、前田裕司、渡邉良平『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか』現代人文社、2011年</ref><ref>
{{Cite journal ja-jp
|author = 堀川恵子
|year = 2011
|title = 絞首刑は残虐か(上)
|journal = 世界
|serial = 2012年1月号
|publisher = 岩波書店
|pages = 63-72
}}</ref><ref>
{{Cite journal ja-jp
|author = 堀川恵子
|year = 2012
|title = 絞首刑は残虐か(下)
|journal = 世界
|serial = 2012年2月号
|publisher = 岩波書店
|pages = 122-131
}}</ref>、いずれも「'''絞首刑は[[日本国憲法第36条|憲法36条]]にいう残虐な刑罰ではない'''」との最高裁判所の[[確定判決]]([[死刑制度合憲判決事件]])が出ている。
== 宗教界 ==
* [[ローマカトリック教会]]は、数世紀にわたり、極端なケースに関しては死刑を容認してきたが、[[2018年]][[8月2日]]、[[カテキズム]]の文面を変更し、死刑はいかなる状況においても容認できないと明記した<ref>{{Cite news|title=カトリック教会は死刑に全面反対、バチカンが容認部分の教理変更|newspaper=ロイター|language=日本語|date=2018-08-02|url=https://jp.reuters.com/article/vatican-idJPKBN1KO0I1|accessdate=2020-10-04}}</ref>。日本[[カトリック正義と平和協議会]]は、日本政府による死刑執行に対して複数回、抗議声明を発表している。
* 日本では[[全日本仏教会|全日本仏教界]]を中心に[[天台宗]]・[[日蓮宗]]・[[真宗大谷派|浄土真宗(東)]]・[[曹洞宗]]などが死刑を否定する声明を出している<ref>{{Cite news|title=「死刑廃止について」理事長談話|language=日本語|date=2020-01-30|url=http://www.jbf.ne.jp/info/detail?id=10397|accessdate=2023-08-11}}</ref>。
== 死刑をテーマにした作品 ==
* [[死刑囚最後の日]] - [[ヴィクトル・ユーゴー]]の小説。1829年発表。死刑囚の最後の日々を綴った作品。
* [[異邦人 (カミュ)|異邦人]] - [[アルベール・カミュ]]の小説。1942年発表。殺人により死刑を宣告された主人公の心境を描く。
* [[少年死刑囚 (映画)|少年死刑囚]] - 1955年の映画。[[吉村廉]]監督。原作は[[中山義秀]]。
* [[休暇 (映画)|休暇]] - 2008年の映画。[[門井肇]]監督。
* [[私は貝になりたい]] - 1958年のテレビドラマ。KRT(現・[[TBSテレビ]])制作。翌年に映画化、1994年に再ドラマ化、2008年に再映画化されている。
* [[絞死刑 (映画)|絞死刑]] - 1968年の映画。[[大島渚]]監督。
* [[死刑執行]] - 東京のラジオ局[[文化放送]]で放送された死刑執行に至るまでの過程・葛藤を伝えたドキュメンタリー。後に一部地域でもネットされた。
* [[モリのアサガオ]] - 死刑囚及び死刑制度の存廃に関連した漫画と、それを原作にしたドラマ。
* [[教誨師 (映画)|教誨師]] - 2018年の映画。1人の教晦師と6人の死刑囚とのやり取りを描いた作品。
* [[死刑囚からの恋うた]] - [[奥田瑛二]]が主演で死刑囚を演じたテレビドラマ。1991年[[日本テレビ放送網|日テレ]]制作。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 「[http://globalnewsview.org/archives/10104 世界の死刑]」Maika Kajigaya, Global News View (GNV) (2019年8月1日)
* 重松一義『死刑制度必要論』(信山社)
* [[植松正]]『新刑法教室I総論』(信山社)
* [[板倉宏]]『「人権」を問う』(音羽出版)
* 植松正「死刑廃止論の感傷を嫌う」法律のひろば43巻8号〔1990年〕
* [[井上薫 (弁護士)|井上薫]]『死刑の理由』(新潮文庫)[[永山則夫連続射殺事件|永山事件]]以後、死刑確定した43件の犯罪事実と量刑理由について記されたもの。
* [[竹内靖雄]]『法と正義の経済学』(新潮社)
* [[日垣隆]]『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)
* [[亀井静香]]『死刑廃止論』(花伝社)
* [[藤本哲也]]『刑事政策概論』([[青林書院]])
* [[マルタンモネスティエ]]『図説死刑全書』([[原書房]])
* ヴァルテル・ラブル、後藤貞人、前田裕司、渡邉良平『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか』(現代人文社)
* 向江璋悦『死刑廃止論の研究』(法学書院)
== 関連項目 ==
* [[死刑存廃問題]]
* [[日本における死刑]]
* [[世界の死刑制度の現状]]
* {{仮リンク|非暴力犯罪に対する死刑|fr|Peine de mort pour infractions non-violentes}}
* [[死刑制度合憲判決事件]]
* [[冤罪事件]]
* [[偽装]]
* [[法務死]]
* [[行刑密行主義]]
* [[終身刑]]
* [[シティズ・フォー・ライフの日]] - 世界500都市以上で行われる死刑制度廃止運動
* [[石鐵県死刑囚蘇生事件]]
== 外部リンク ==
{{Wiktionary|死刑}}
{{Commons&cat|Death_Penalty|Death_penalty}}
* [https://www.courts.go.jp/saikosai/index.html 最高裁判所ホームページ]
* [https://www.meiji.ac.jp/museum/criminal/keiji.html 明治大学博物館 刑事部門] - 刑事関係資料を展示している。死刑で使用された処刑具等を、日本で唯一常設展示している[[明治大学]]の[[博物館]]。
* {{Kotobank}}
{{死刑囚}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しけい}}
[[Category:死刑|*]]
[[Category:欺瞞]] | 2003-03-23T08:09:42Z | 2023-12-27T04:59:54Z | false | false | true | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91 |
4,981 | 私刑 | 私刑(しけい、英: Lynching)とは、国家ないし公権力の法に基づく刑罰権を発動することなく、個人または特定集団により執行される私的な制裁。社会的な非行を行った者に対し、法的手続なしに加えられる集団的な暴力的制裁。日本では同音異義語の「死刑」と区別するため、英語に由来するリンチもよく使われる。
近代以前には、私刑が広く行われた。近代国家が刑罰権を独占すると、国家的制裁制度としての刑罰制度が確立し、国家のみが、厳格な要件を満たし、法的な手続に従って、公的な制裁としての刑罰を加えることが許されるようになった。近代刑罰制度のもとでは、私刑(私的制裁)は、違法であり、犯罪とみなされる。
集団による超法規的殺人であるリンチは、違反容疑者や違反者を罰したり、人々を脅迫するために、群衆・暴徒による非公式の公開処刑として行われることが多い。リンチや集団暴行事件はどの社会でも発生している。
私刑は、熱狂・ヒステリー状態下にあるものを含め、観衆・集団のある程度の支持のもとなされる場合がある。民族紛争の際に民兵集団により行われる非戦闘員への残虐行為も私刑といえる。紛争地域や無政府状態の地域では、私刑は21世紀になっても決して珍しいものではなく、殺人の現行犯や単なる泥棒、或いは民族紛争時の戦争犯罪人などと認定された者が民衆に袋叩きにされ、最終的には恐らく被疑者の殺害に至っている映像や写真が数多く出回っており、英語圏ではこうした私刑をMob Justice(暴徒による正義)と呼称している。
中国では公的権威が古く確立していたが、古くから私刑が行われていた。同族集落における盗犯や姦淫などについて私的制裁が行われ、清代末の秘密結社青幇や紅幇の規約違反者に対しても私的制裁が科された。
フィリピンの自警団ダバオ・デス・スクワッドは法律違反者と麻薬密売人の殺人(私刑)を行っているとされる。
中世以前のヨーロッパでは、フェーデやアハトのような私刑原理があり、合法であった。しかし1400年代になり公権力による刑罰権の回収が行われると私刑は違法になった。ドイツでは1495年、マクシミリアン1世による「ラント平和令」の制定によって一切の私刑が禁止された。
アメリカ合衆国の西部開拓時代、フロンティアの地などでの犯罪者に対し、法の裁きを経ず民衆による私的制裁が加えられており、この行為を、アメリカ独立戦争時、暴力的行為を働くことで知られた チャールズ・リンチ(英語版)大佐、ウィリアム・リンチ(英語版)治安判事に因み、「リンチ」と呼称するようになった。チャールズ・リンチが治安判事の権限をこえてロイヤリスト(王党派)を処罰したことがリンチ lynching の語源という。
南北戦争以前において、私刑は治安や秩序維持のために行われるものとされ、素行の悪い奴隷や共同体の規範を逸脱するものに対し、民衆の自警団によって行われるものであった。その後、白人至上主義のKKKが結成され、アフリカ系アメリカ人を対象に私刑を率先して行う役割を持ち、リンチの持つ意味が秩序統制から異人種憎悪の表現へと変化していった。
1889年、ハワイ島ホノカアの官約移民(政府斡旋移民)だった後藤濶が白人商店主らによってリンチ殺害され、電柱に死体を吊るされた。後藤は官約移民として初めて商店を開いたり、得意な英語で日本人移民の相談役となるなど、有力者だった。
1860年のイーストボーンの悲劇では教師が生徒を体罰で殺害した。教師は裁判で無罪を主張したが、有罪となった。
第一次世界大戦終結後の1919年のリヴァプールで、白人と黒人の船員の間で一連の人種暴動が発生した。 パブで黒人船員がタバコを与えることを拒否したために白人船員2人に刺されると、翌日黒人船員の友人らが報復した。その際に警官が負傷したため、警察が黒人地区の下宿を襲撃し、双方に死傷者が出た。 白人暴徒が、黒人船員チャールズ・ウートンをマージー川で溺死させた。
1988年、ベルファストで、2人の私服イギリス兵がIRA暫定派の葬列の方向へ車を走らせていたところ、特殊空挺部隊員と間違われ、群衆に殺害された。
ロシア革命で、社会の混乱が極度に進むなか、強盗など犯罪が多発し、同時に、帝政時代の司法制度が崩壊したことで、私刑(サモスード)が横行した。泥棒がその場で群衆に殴り殺されたり、また、「人民裁判が最も公正で、最も迅速」であるとして、その場で満場一致で死刑判決を下し、殺害する事件も多発した。また、ボリシェヴィキによる赤色テロルでも非常事態と称して、厳格な法的手続きのない方法で制裁や殺害が多数行われた。
2016年トルコクーデター未遂事件の余波で、トルコ軍兵士に対するリンチが発生した。
革命後のメキシコでは、リンチは超法規的暴力の手段として頻繁に起こっている。 宗教的な動機が関係していることもある。
1968年、プエブラ州のサン・ミゲル・カノア村で、プエブラ自治大学の職員5人が共産主義者だとみなされて、村民からリンチを受けた。 リンチは司祭の扇動によるもので、職員2名と滞在先の家主が殺され、職員3名は指を切断されるなどの重傷を負った。 扇動者は起訴されず、逮捕された数名は証拠不十分で釈放された[54]。
2004年11月23日、トラワク・リンチ事件では、麻薬関連犯罪を捜査していた私服捜査官3人が、小学校の外で写真を撮っているのを見て、住民が、子供を誘拐する犯罪者だと誤認し、怒った300人の群衆によってリンチを受け、生きたまま焼かれた。
メキシコ革命後の形成期、1930年から1960年の数十年間におけるリンチの歴史は、リンチが国家の不在や政策の失敗というよりはむしろ、コミュニティの住民によって拒否されたり、模倣される虐待的で強要的な慣行を通じて、地方レベルでの国家権力がいかに作動するのかを示しているし、長期的な政治的文化的推進力にも影響を及ぼすものである。
ジェマ・クロッペ・サンタマリアは、リンチは宗教的信念、魔術による告発、政治的対立によって引き起こされる。また、リンチは、違反者や犯罪容疑者に対する迅速かつ超法規的で、致命的な刑罰を求める国民によって支持されてもいる。メキシコやラテンアメリカ諸国の国民は、脆いつかの間の安全感と正義感のために、問題を自分たちの手で解決しようとして、暴力に参加する。彼らは法に違反し、「他者」とみなされた人々を排除し、傷つけ、最終的に、平和で包摂的な社会を構築する可能性を損なっていると述べている。
サンパウロ大学の社会学者ホセ・デ・ソウザ・マルティンスによれば、ブラジルでは、過去60年間で、150万人ものブラジル人がリンチに参加している。ブラジルでは現在、暴徒が1日に1人以上の犯罪容疑者を殺害、あるいは殺害しようとしている。
1946年7月21日、ボリビアの首都ラパスで、ストライキを起こした学生、教師、鉱山労働者の暴徒が、グアルベルト・ビジャロエル大統領や、政府高官をリンチし、殺害したうえで、遺体は街灯に吊るされた。
ドミニカでは、窃盗から殺人までさまざまな犯罪を犯した容疑者に対するリンチを含む超法規的処罰は一定の支持を得ており、 2014年のラティノバロメトロの調査によると、ドミニカ共和国はラテンアメリカで私刑を受け入れる率が最も高かった。 こうした傾向は北部で顕著である。
2010年のハイチ地震後、救援物資の配布が遅れ、多数の被災者が発生したことにより、略奪行為や略奪容疑者に対する暴徒による正義を特徴とする社会不安に対する懸念が生じた。 2010年のコレラ流行では、ブードゥー教の司祭ら45人が、病気の蔓延の責任を責められて、暴徒によってリンチを受けた。
南アフリカでは、犯罪者や政敵へ鞭打ちや、ガソリンを入れ得たタイヤを首などに掛けて焼き殺すタイヤネックレスなどによる私刑が、アパルトヘイト時代の1980年代に発展した。 反アパルトヘイト運動の支持者は、「人民法廷」を結成し、政府のアパルトヘイト政策の協力者と見なされた同胞の黒人に対して、私刑や殺害を行った。 ネルソン・マンデラの妻でアフリカ民族会議の幹部だったウィニー・マンデラがタイヤネックレスを支持したとき、物議をかもした。最近では、麻薬売人他のギャングメンバーが自警団パガドによってリンチを受けている。
ナイジェリアやカメルーンでは、リンチを含む私刑は「ジャングルの正義」「暴徒の正義」と呼ばれ、広く普及している 。何時間も泥の中で転がされる「泥の治療」やタイヤネックレスなど私刑方法は様々ある。
若者の自警団バカシ・ボーイズや2012年のリバーズ州オビオ/アクポル地区アルーにおいて、債務者に借金を返すよう要求した学生4人に対して、債務者が泥棒だと騒ぎ、住民がタイヤネックレスなどを用いたリンチで殺害した事件が挙げられる。
ケニアでは頻繁にリンチが発生しており、有罪だと見做された人物を暴徒が処刑し、2年間で2900人以上のリンチ事件の報告があり、1980年から 2021年までに一万人以上のリンチ犠牲者がいるともされる。
パレスチナでは、イスラエルと協力した疑いのあるパレスチナ人が群衆によってリンチされ殺害される事件が起こっている。
パレスチナ自治政府が設立される前の第1次インティファーダの期間(1987-1993)中、イスラエルへの協力者とみなされる数百人が、時にはパレスチナ解放機構の暗黙の了解のもとでリンチ、拷問、殺害された。 2000年10月12日、ラマッラーのリンチ事件では、誤ってパレスチナに入国した2人のイスラエル国防軍予備役が、殺害され、遺体は踏みつけられ、火をつけられた 。群衆は切断された2人の遺体をアルマナラ広場まで引きずり、勝利祝賀会を始めた。
2015年10月18日、ベエルシェバでエリトリア人の亡命希望者がイスラエル治安部隊の誤認でリンチされ、射殺された。
2012年8月、パレスチナ人の青少年数人に対するリンチ未遂の容疑で7人のイスラエル人の青少年がエルサレムで逮捕された。
2014年以来、ヒンズー教で神聖視されている牛を守るという名目で、ヒンズー教主義者が非ヒンズー教徒に対して暴力を加えるという「牛を守る自警団によるリンチ事件(Cow vigilante violence)」が多発している。ヒンズー教の暴徒によるインドのイスラム教徒とダリット (不可触民)へのリンチが行われている。 2015年のウッタル・プラデーシュ州ダドリ近郊ビサーダ村で牛を屠殺したとの廉で男性が殺害された集団リンチ事件、2016年のジャールカンドでの集団リンチ事件があり、ラージャスターン州アルワルでは、2017年、2018年に3度目となる集団リンチ殺害事件が発生した。2018年には、インドの航空閣外大臣が、2017年にラムガルで貿易業者をリンチして有罪判決を受けた牛の自警団8人に花輪を贈り、栄誉を与えた。2019年7月には、ビハール州サラーン県チャプラで牛窃盗で男性3名が暴徒に撲殺され、リンチを受けた。
「牛を守る自警団」によるリンチ以外の事件としては、2006年、マハーラーシュトラ州バンダラ地区のカイランジ村で、ダリットの家族4人がクンビ・カーストによってリンチされ虐殺された。
2015年のナガランド州ディマプルでのリンチでは、8000人の暴徒が刑務所に侵入し、裁判を待っていた強姦容疑者をリンチし、撲殺した。
2017年5月にジャールカンド州で7人がリンチを受けて以来、児童誘拐と臓器収奪に関するフェイクニュースがWhatsAppを通じて拡散し、暴力殺害事件(Indian WhatsApp lynchings)が相次いだ
ジャールカンド州では、2019年6月にでイスラム教徒が、「Jai Shri Ram(ジャイ シュリ ラム、ラーマに栄光あれ)」というヒンズー教の挨拶を唱えるよう強制されたうえで撲殺された。7月には、同州グムラ県のナガール・シカリ村民12人が長老会議 (パンチャーヤト)での決議を通じて、黒魔術を行っているという理由で4人をリンチし、殺害した。
インドでのリンチは、民族コミュニティ間の緊張を反映しているとされるが、カースト制度だけでなく、人種的・民族的文化における対立も強いとされる。
2015年3月19日、アフガニスタンのカーブルで、イスラム教のコーランを燃やしたとして地元のムラーから告発された女性が群衆にレンガで頭を殴られるなど撲殺され、焼かれた。 女性は「私はイスラム教徒です。コーランを燃やすことはしない。」と述べたが、群衆は聞き入れなかった。警察と聖職者らは、群衆には信仰を守る権利があると述べ、リンチを擁護した。捜査官によれば、女性がコーランを燃やした証拠はみつからなかった。アシュラフ・ガニー大統領政府は、「いかなる個人も自らを裁判官にし、暴力を用いて他人を罰することは許されない」と述べるとともに、コーランとイスラムの価値観への軽視を引き起こすいかなる行為も強く非難すると付け加えた。
日本では、中世でも私刑的なものはあったが、公刑に対して私刑が確立するのは近世からである。江戸時代の幕府は公刑主義だったが、村方では博奕者などへの過料、または村八分や、放蕩者を座敷牢に入れるような私刑が広く行われたほか、敵討や切捨御免も公権力に認められていた。明治以後、国家が刑罰権を独占し、私刑は犯罪として禁止された。しかし、以下のように、近代以降、現代にいたるまで、リンチ事件、リンチ殺人事件は多数発生している。
明治時代の沖縄県では、サンシー事件や具志頭制縛致死事件が起きた。
関東大震災では、朝鮮人虐殺事件や中国人虐殺事件が起きた。
1879年(明治12年)、相馬藩主相馬誠胤が精神病者として自宅座敷牢に監禁された相馬事件が起こる。
1966年から1986年までに50件以上の患者への暴行や殺害などの精神科病院事件が発生した。1983年には宇都宮病院事件が起きた。1997年には大阪府柏原市の大和川病院で、暴行などによる患者の不審死28件が発覚した大和川病院事件が起きた。同病院は医療法人認可取消処分となり、倒産した。
2012年、千葉市の石郷岡病院で、患者が暴行を受け、のちに死亡した石郷岡病院事件が発生した。
少年犯罪によるリンチ事件も多数発生している。
スパイ容疑での査問(粛清)や、内ゲバなどで私刑事件が発生した。
日本共産党については、1933年に日本共産党スパイ査問事件でリンチ事件が発生した。1951年2月14日には日本共産党「国際派」の牙城だった東京大学細胞において、スパイとみなされた戸塚秀夫、不破哲三、高沢寅男がリンチ査問を受けた東大スパイ・リンチ査問事件が発生した。1952年には、所感派の学生が、立命館大学の学生を共産党国際派の反戦学生同盟員であるがゆえに「帝国主義者のスパイ」としてリンチし、5年後に被害者が自殺した立命館事件や、日本共産党独立遊撃隊による横川元代議士襲撃事件が起きた。
1970年代には、日本の新左翼組織同士での対立により、リンチ殺人を含む内ゲバ暴力事件が多発した。
また、部落解放同盟員が日本共産党や日本民主青年同盟員らを暴行する事件が1974年9月から10月にかけて兵庫県朝来郡で連続した(元津事件など)。同年11月、同県養父市で八鹿高校事件で教職員約60名を部落解放同盟員が監禁、暴行した。
新右翼による内ゲバ殺人事件としてスパイ粛清事件(1982)がある。
学校においても、体罰やいじめ、校内暴力、体罰などで私的制裁が行われ、殺害までに発展した事件が多数ある。
インターネット上では、悪事を犯したと目される人物を正義感をもって衝動的に私刑しようとする行為(ネット自警団)が見られる。特定の個人を名指しして個人情報(当該人の電話番号や住所・実名・本人の写真・家族構成、家族や兄弟の勤務先や通学先など)を晒し出したり、名指しで批判や暴言を投稿している場合がある。対象はいじめの相手・掲示板やSNSで炎上した一般人・犯罪を犯した被疑者・被告人・暴言や失言及び不祥事を起こした芸能人を含む著名人など多岐にわたる。
ジャーナリスト安田浩一は、川崎市中1男子生徒殺害事件での犯人探しや、スマイリーキクチ中傷被害事件などを「ネット私刑」としている。
犯罪事件などを中心に、主として、ワイドショー、週刊誌、ニュースショー、パパラッチなどによって、庶民感情の犯罪への憎悪や覗き見趣味を煽る形で事件にまつわる被害者、加害者を問わず、人間関係やプライバシーなどがマスメディアによって当事者の意向が無視された状態で一方的に流されてしまうことでプライバシーの侵害や名誉毀損が行われている状況の総称。ジャーナリスト浅野健一はマスメディアによるこうした私刑的な行動を、メディア・リンチと呼んでいる。
日本のマスメディアの犯罪報道は、無罪推定すべき被疑者・被告人を犯人視して報道することが多い。日本では、確実な証拠が無いと逮捕しないこと、起訴便宜主義によって有罪に持ち込めると確信できる事件しか起訴しないことなど、捜査機関の判断と裁判所の判断の近接が生じていることが大きいと考えられる。これは日本国外でも同様である。また、被疑者・被告人のプライバシーを暴き立てることによって視聴者・読者の関心が高まりやすいこと、記者クラブ制度によってマスメディアが捜査機関の一部のように振舞っていること、警察、検察の取調べなどの際に被告人に弁護士などの第三者がつかないため、警察発表が一方的に報道される傾向が強いことなども大きいと考えられる。松本サリン事件などはその顕著な例である。本論については人権屋も参照。
犯罪被害者に対しては、世間一般的にはマスメディアは同情的に流すものと意識されているが必ずしもそうではない。被害者やその親族・関係者が事件にまつわる取材を忌避する傾向や事件に関する報道を流すことを望まない例が間々見られるにもかかわらず、マスメディアが当事者の意向を無視して、プライバシーを暴露したり、人間関係や事件に関連するトラブルを一方的に報道することもしばしば見られる。
著名人、タレント、芸能人やそれにまつわる事件のほか、大規模災害の被災者などへの取材活動に関して、視聴率や発行部数の向上など、マスコミが自身の利益に繋がる期待通りの取材成果や映像が得られない場合、彼らに対して横暴な態度を取ることが見られ、これが一種のメディア・リンチではないかとの指摘がある。特に後者の場合には、取材側が大規模災害を一種の「祭り」として楽しんでいる感覚があり、それにまつわる刺激的な演出を求めているために行われる傾向が見られるために、一方的に行われるのではないかとの指摘である。たとえば、報道番組での発言などについてそうした傾向があるとのものである。現在ではブログやSNS内で同様に不道徳な行為を行ったことを告白する人物や、企業等の不祥事、思想的に異なる見解、単なる趣味嗜好の違いに対してまでも、インターネット掲示板で呼びかけて同様のことを行っており、俗に「炎上」と言われている。 | [
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"text": "私刑(しけい、英: Lynching)とは、国家ないし公権力の法に基づく刑罰権を発動することなく、個人または特定集団により執行される私的な制裁。社会的な非行を行った者に対し、法的手続なしに加えられる集団的な暴力的制裁。日本では同音異義語の「死刑」と区別するため、英語に由来するリンチもよく使われる。",
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"text": "近代以前には、私刑が広く行われた。近代国家が刑罰権を独占すると、国家的制裁制度としての刑罰制度が確立し、国家のみが、厳格な要件を満たし、法的な手続に従って、公的な制裁としての刑罰を加えることが許されるようになった。近代刑罰制度のもとでは、私刑(私的制裁)は、違法であり、犯罪とみなされる。",
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"text": "南アフリカでは、犯罪者や政敵へ鞭打ちや、ガソリンを入れ得たタイヤを首などに掛けて焼き殺すタイヤネックレスなどによる私刑が、アパルトヘイト時代の1980年代に発展した。 反アパルトヘイト運動の支持者は、「人民法廷」を結成し、政府のアパルトヘイト政策の協力者と見なされた同胞の黒人に対して、私刑や殺害を行った。 ネルソン・マンデラの妻でアフリカ民族会議の幹部だったウィニー・マンデラがタイヤネックレスを支持したとき、物議をかもした。最近では、麻薬売人他のギャングメンバーが自警団パガドによってリンチを受けている。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "ナイジェリアやカメルーンでは、リンチを含む私刑は「ジャングルの正義」「暴徒の正義」と呼ばれ、広く普及している 。何時間も泥の中で転がされる「泥の治療」やタイヤネックレスなど私刑方法は様々ある。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "若者の自警団バカシ・ボーイズや2012年のリバーズ州オビオ/アクポル地区アルーにおいて、債務者に借金を返すよう要求した学生4人に対して、債務者が泥棒だと騒ぎ、住民がタイヤネックレスなどを用いたリンチで殺害した事件が挙げられる。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "ケニアでは頻繁にリンチが発生しており、有罪だと見做された人物を暴徒が処刑し、2年間で2900人以上のリンチ事件の報告があり、1980年から 2021年までに一万人以上のリンチ犠牲者がいるともされる。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "パレスチナでは、イスラエルと協力した疑いのあるパレスチナ人が群衆によってリンチされ殺害される事件が起こっている。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "パレスチナ自治政府が設立される前の第1次インティファーダの期間(1987-1993)中、イスラエルへの協力者とみなされる数百人が、時にはパレスチナ解放機構の暗黙の了解のもとでリンチ、拷問、殺害された。 2000年10月12日、ラマッラーのリンチ事件では、誤ってパレスチナに入国した2人のイスラエル国防軍予備役が、殺害され、遺体は踏みつけられ、火をつけられた 。群衆は切断された2人の遺体をアルマナラ広場まで引きずり、勝利祝賀会を始めた。",
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"text": "2015年10月18日、ベエルシェバでエリトリア人の亡命希望者がイスラエル治安部隊の誤認でリンチされ、射殺された。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "2012年8月、パレスチナ人の青少年数人に対するリンチ未遂の容疑で7人のイスラエル人の青少年がエルサレムで逮捕された。",
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"text": "2014年以来、ヒンズー教で神聖視されている牛を守るという名目で、ヒンズー教主義者が非ヒンズー教徒に対して暴力を加えるという「牛を守る自警団によるリンチ事件(Cow vigilante violence)」が多発している。ヒンズー教の暴徒によるインドのイスラム教徒とダリット (不可触民)へのリンチが行われている。 2015年のウッタル・プラデーシュ州ダドリ近郊ビサーダ村で牛を屠殺したとの廉で男性が殺害された集団リンチ事件、2016年のジャールカンドでの集団リンチ事件があり、ラージャスターン州アルワルでは、2017年、2018年に3度目となる集団リンチ殺害事件が発生した。2018年には、インドの航空閣外大臣が、2017年にラムガルで貿易業者をリンチして有罪判決を受けた牛の自警団8人に花輪を贈り、栄誉を与えた。2019年7月には、ビハール州サラーン県チャプラで牛窃盗で男性3名が暴徒に撲殺され、リンチを受けた。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "「牛を守る自警団」によるリンチ以外の事件としては、2006年、マハーラーシュトラ州バンダラ地区のカイランジ村で、ダリットの家族4人がクンビ・カーストによってリンチされ虐殺された。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "2015年のナガランド州ディマプルでのリンチでは、8000人の暴徒が刑務所に侵入し、裁判を待っていた強姦容疑者をリンチし、撲殺した。",
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"text": "2017年5月にジャールカンド州で7人がリンチを受けて以来、児童誘拐と臓器収奪に関するフェイクニュースがWhatsAppを通じて拡散し、暴力殺害事件(Indian WhatsApp lynchings)が相次いだ",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "ジャールカンド州では、2019年6月にでイスラム教徒が、「Jai Shri Ram(ジャイ シュリ ラム、ラーマに栄光あれ)」というヒンズー教の挨拶を唱えるよう強制されたうえで撲殺された。7月には、同州グムラ県のナガール・シカリ村民12人が長老会議 (パンチャーヤト)での決議を通じて、黒魔術を行っているという理由で4人をリンチし、殺害した。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "インドでのリンチは、民族コミュニティ間の緊張を反映しているとされるが、カースト制度だけでなく、人種的・民族的文化における対立も強いとされる。",
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"paragraph_id": 38,
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"text": "2015年3月19日、アフガニスタンのカーブルで、イスラム教のコーランを燃やしたとして地元のムラーから告発された女性が群衆にレンガで頭を殴られるなど撲殺され、焼かれた。 女性は「私はイスラム教徒です。コーランを燃やすことはしない。」と述べたが、群衆は聞き入れなかった。警察と聖職者らは、群衆には信仰を守る権利があると述べ、リンチを擁護した。捜査官によれば、女性がコーランを燃やした証拠はみつからなかった。アシュラフ・ガニー大統領政府は、「いかなる個人も自らを裁判官にし、暴力を用いて他人を罰することは許されない」と述べるとともに、コーランとイスラムの価値観への軽視を引き起こすいかなる行為も強く非難すると付け加えた。",
"title": "国・地域別の歴史と実例"
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"text": "日本では、中世でも私刑的なものはあったが、公刑に対して私刑が確立するのは近世からである。江戸時代の幕府は公刑主義だったが、村方では博奕者などへの過料、または村八分や、放蕩者を座敷牢に入れるような私刑が広く行われたほか、敵討や切捨御免も公権力に認められていた。明治以後、国家が刑罰権を独占し、私刑は犯罪として禁止された。しかし、以下のように、近代以降、現代にいたるまで、リンチ事件、リンチ殺人事件は多数発生している。",
"title": "日本"
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"text": "明治時代の沖縄県では、サンシー事件や具志頭制縛致死事件が起きた。",
"title": "日本"
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"text": "関東大震災では、朝鮮人虐殺事件や中国人虐殺事件が起きた。",
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"text": "1879年(明治12年)、相馬藩主相馬誠胤が精神病者として自宅座敷牢に監禁された相馬事件が起こる。",
"title": "日本"
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"text": "1966年から1986年までに50件以上の患者への暴行や殺害などの精神科病院事件が発生した。1983年には宇都宮病院事件が起きた。1997年には大阪府柏原市の大和川病院で、暴行などによる患者の不審死28件が発覚した大和川病院事件が起きた。同病院は医療法人認可取消処分となり、倒産した。",
"title": "日本"
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"text": "2012年、千葉市の石郷岡病院で、患者が暴行を受け、のちに死亡した石郷岡病院事件が発生した。",
"title": "日本"
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"text": "少年犯罪によるリンチ事件も多数発生している。",
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "スパイ容疑での査問(粛清)や、内ゲバなどで私刑事件が発生した。",
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"text": "日本共産党については、1933年に日本共産党スパイ査問事件でリンチ事件が発生した。1951年2月14日には日本共産党「国際派」の牙城だった東京大学細胞において、スパイとみなされた戸塚秀夫、不破哲三、高沢寅男がリンチ査問を受けた東大スパイ・リンチ査問事件が発生した。1952年には、所感派の学生が、立命館大学の学生を共産党国際派の反戦学生同盟員であるがゆえに「帝国主義者のスパイ」としてリンチし、5年後に被害者が自殺した立命館事件や、日本共産党独立遊撃隊による横川元代議士襲撃事件が起きた。",
"title": "日本"
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"text": "1970年代には、日本の新左翼組織同士での対立により、リンチ殺人を含む内ゲバ暴力事件が多発した。",
"title": "日本"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "また、部落解放同盟員が日本共産党や日本民主青年同盟員らを暴行する事件が1974年9月から10月にかけて兵庫県朝来郡で連続した(元津事件など)。同年11月、同県養父市で八鹿高校事件で教職員約60名を部落解放同盟員が監禁、暴行した。",
"title": "日本"
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"text": "新右翼による内ゲバ殺人事件としてスパイ粛清事件(1982)がある。",
"title": "日本"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "学校においても、体罰やいじめ、校内暴力、体罰などで私的制裁が行われ、殺害までに発展した事件が多数ある。",
"title": "日本"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "インターネット上では、悪事を犯したと目される人物を正義感をもって衝動的に私刑しようとする行為(ネット自警団)が見られる。特定の個人を名指しして個人情報(当該人の電話番号や住所・実名・本人の写真・家族構成、家族や兄弟の勤務先や通学先など)を晒し出したり、名指しで批判や暴言を投稿している場合がある。対象はいじめの相手・掲示板やSNSで炎上した一般人・犯罪を犯した被疑者・被告人・暴言や失言及び不祥事を起こした芸能人を含む著名人など多岐にわたる。",
"title": "インターネット・メディア"
},
{
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"text": "ジャーナリスト安田浩一は、川崎市中1男子生徒殺害事件での犯人探しや、スマイリーキクチ中傷被害事件などを「ネット私刑」としている。",
"title": "インターネット・メディア"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "犯罪事件などを中心に、主として、ワイドショー、週刊誌、ニュースショー、パパラッチなどによって、庶民感情の犯罪への憎悪や覗き見趣味を煽る形で事件にまつわる被害者、加害者を問わず、人間関係やプライバシーなどがマスメディアによって当事者の意向が無視された状態で一方的に流されてしまうことでプライバシーの侵害や名誉毀損が行われている状況の総称。ジャーナリスト浅野健一はマスメディアによるこうした私刑的な行動を、メディア・リンチと呼んでいる。",
"title": "インターネット・メディア"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "日本のマスメディアの犯罪報道は、無罪推定すべき被疑者・被告人を犯人視して報道することが多い。日本では、確実な証拠が無いと逮捕しないこと、起訴便宜主義によって有罪に持ち込めると確信できる事件しか起訴しないことなど、捜査機関の判断と裁判所の判断の近接が生じていることが大きいと考えられる。これは日本国外でも同様である。また、被疑者・被告人のプライバシーを暴き立てることによって視聴者・読者の関心が高まりやすいこと、記者クラブ制度によってマスメディアが捜査機関の一部のように振舞っていること、警察、検察の取調べなどの際に被告人に弁護士などの第三者がつかないため、警察発表が一方的に報道される傾向が強いことなども大きいと考えられる。松本サリン事件などはその顕著な例である。本論については人権屋も参照。",
"title": "インターネット・メディア"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "犯罪被害者に対しては、世間一般的にはマスメディアは同情的に流すものと意識されているが必ずしもそうではない。被害者やその親族・関係者が事件にまつわる取材を忌避する傾向や事件に関する報道を流すことを望まない例が間々見られるにもかかわらず、マスメディアが当事者の意向を無視して、プライバシーを暴露したり、人間関係や事件に関連するトラブルを一方的に報道することもしばしば見られる。",
"title": "インターネット・メディア"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "著名人、タレント、芸能人やそれにまつわる事件のほか、大規模災害の被災者などへの取材活動に関して、視聴率や発行部数の向上など、マスコミが自身の利益に繋がる期待通りの取材成果や映像が得られない場合、彼らに対して横暴な態度を取ることが見られ、これが一種のメディア・リンチではないかとの指摘がある。特に後者の場合には、取材側が大規模災害を一種の「祭り」として楽しんでいる感覚があり、それにまつわる刺激的な演出を求めているために行われる傾向が見られるために、一方的に行われるのではないかとの指摘である。たとえば、報道番組での発言などについてそうした傾向があるとのものである。現在ではブログやSNS内で同様に不道徳な行為を行ったことを告白する人物や、企業等の不祥事、思想的に異なる見解、単なる趣味嗜好の違いに対してまでも、インターネット掲示板で呼びかけて同様のことを行っており、俗に「炎上」と言われている。",
"title": "インターネット・メディア"
}
] | 私刑とは、国家ないし公権力の法に基づく刑罰権を発動することなく、個人または特定集団により執行される私的な制裁。社会的な非行を行った者に対し、法的手続なしに加えられる集団的な暴力的制裁。日本では同音異義語の「死刑」と区別するため、英語に由来するリンチもよく使われる。 | {{Otheruses||映画|私刑 リンチ}}
'''私刑'''(しけい、{{Lang-en-short|Lynching}})とは、[[国家]]ないし[[公権力]]の[[法 (法学)|法]]に基づく刑罰権を発動することなく、個人または特定集団により執行される私的な[[制裁]]<ref name="shik">{{kotobank|私刑}} </ref>。社会的な[[非行]]を行った者に対し、法的手続なしに加えられる集団的な暴力的制裁<ref name="lyuch">{{kotobank|リンチ(私刑)}} </ref>。日本では同音異義語の「[[死刑]]」と区別するため、[[英語]]に由来する'''リンチ'''もよく使われる。
== 概要 ==
近代以前には、私刑が広く行われた<ref name="lyuch"/>。[[近代国家]]が[[刑罰]]権を独占すると、国家的制裁制度としての刑罰制度が確立し、国家のみが、厳格な要件を満たし、法的な手続に従って、公的な制裁としての刑罰を加えることが許されるようになった<ref name="lyuch"/>。近代刑罰制度のもとでは、私刑(私的制裁)は、違法であり、[[犯罪]]とみなされる<ref name="lyuch"/>。
集団による[[超法規的殺人]]であるリンチは、違反容疑者や違反者を罰したり、人々を[[脅迫]]するために、群衆・暴徒による非公式の公開処刑として行われることが多い<ref>{{cite book | title=Rough Justice: Lynching and American Society, 1874–1947 | publisher=North Carolina University Press | author=Wood, Amy Louise | year=2009 | isbn=9780807878118|oclc = 701719807}}</ref>。リンチや集団暴行事件はどの社会でも発生している<ref>{{cite book|last1=Berg|first1=Manfred|last2=Wendt|first2=Simon|date=2011|title=Globalizing Lynching History: Vigilantism and Extralegal Punishment from an International Perspective|publisher=Palgrave Macmillan|isbn=978-0-230-11588-0|url-access=registration|url=https://archive.org/details/globali_xxx_2011_00_2018}}</ref><ref>{{cite book | title=Vigilantism and the state in modern Latin America : essays on extralegal violence | publisher=Praeger | author=Huggins, Martha Knisely | year=1991 | location=New York | isbn=0275934764|oclc = 22984858}}</ref><ref>{{cite book | title=Lynching : American mob murder in global perspective | publisher=Ashgate | author=Thurston, Robert W. | year=2011 | location=Burlington, VT | isbn=9781409409083|oclc = 657223792}}</ref>。
私刑は、[[熱狂]]・[[ヒステリー]]状態下にあるものを含め、観衆・集団のある程度の支持のもとなされる場合がある。[[民族紛争]]の際に[[民兵]]集団により行われる非戦闘員への残虐行為も私刑といえる。紛争地域や無政府状態の地域では、私刑は[[21世紀]]になっても決して珍しいものではなく、[[殺人]]の現行犯や単なる[[泥棒]]、或いは民族紛争時の[[戦争犯罪人]]などと認定された者が民衆に袋叩きにされ、最終的には恐らく被疑者の殺害に至っている映像や写真が数多く出回っており、英語圏ではこうした私刑を'''Mob Justice'''(暴徒による正義)と呼称している。
== 国・地域別の歴史と実例 ==
=== 中国 ===
[[中国]]では公的権威が古く確立していたが、古くから私刑が行われていた<ref name="shik"/>。同族集落における盗犯や姦淫などについて私的制裁が行われ、[[清]]代末の[[秘密結社]][[青幇]]や[[紅幇]]の規約違反者に対しても私的制裁が科された<ref name="shik"/>。
=== フィリピン ===
[[フィリピン]]の自警団[[ダバオ・デス・スクワッド]]は法律違反者と麻薬密売人の殺人(私刑)を行っているとされる。
=== ヨーロッパ ===
[[中世]]以前の[[ヨーロッパ]]では、[[フェーデ]]や[[アハト]]のような私刑原理があり、合法であった。しかし[[1400年代]]になり[[公権力]]による刑罰権の回収が行われると私刑は違法になった。[[ドイツ]]では[[1495年]]、[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]による「[[ラント平和令]]」の制定によって一切の私刑が禁止された。
=== アメリカ合衆国 ===
[[ファイル:Lynching-1889.jpg|thumb|150px|[[アメリカ合衆国南部]]にてリンチの犠牲となったアメリカ[[黒人]](1889年)]]
{{external media
|width = 210px
|topic = '''{{color|red|閲覧注意}}'''
|image1 = [[:File:Postcard of the lynched Will Stanley front and back.jpg|リンチ絵葉書(1915年7月)]]
}}
[[ファイル:Lynching-of-lige-daniels.jpg|thumb|150px|[[アメリカ合衆国]][[テキサス州]]にてリンチの犠牲となったアフリカ系アメリカ人(1920年)。]]
[[アメリカ合衆国]]の[[西部開拓時代]]、[[フロンティア]]の地などでの犯罪者に対し、法の裁きを経ず民衆による私的制裁が加えられており、この行為を、[[アメリカ独立戦争]]時、暴力的行為を働くことで知られた {{仮リンク|チャールズ・リンチ|en|Charles Lynch (jurist)}}大佐、{{仮リンク|ウィリアム・リンチ|en|William Lynch (Lynch law)}}治安判事に因み、「リンチ」と呼称するようになった<ref name="a107">『概説アメリカ文化史』(笹田直人、堀真理子、外岡尚美編著)p.107</ref><ref name="shik"/>。チャールズ・リンチが治安判事の権限をこえて[[ロイヤリスト]](王党派)を処罰したことがリンチ lynching の語源という<ref>{{コトバンク|リンチ}};Lynch, Charles</ref>。
[[南北戦争]]以前において、私刑は治安や秩序維持のために行われるものとされ、素行の悪い[[奴隷]]や共同体の規範を逸脱するものに対し、民衆の[[自警団]]によって行われるものであった。その後、[[白人至上主義]]の[[クー・クラックス・クラン|KKK]]が結成され、[[アフリカ系アメリカ人]]を対象に私刑を率先して行う役割を持ち、リンチの持つ意味が秩序統制から異人種憎悪の表現へと変化していった<ref name="a107" /><ref group="注">アメリカにおいて1880年から1930年にかけてリンチの犠牲となった者は、白人723人に対し、黒人3220人であった。</ref>。
* [[レオ・フランク事件]](1884)
* [[1891年3月14日のリンチ事件]]
* [[ジェシー・ワシントンリンチ事件]] - 1916年5月にアメリカ合衆国[[テキサス州]]で発生したリンチ事件。
=== ハワイ ===
1889年、[[ハワイ島]]ホノカアの[[ハワイにおける日本人移民|官約移民(政府斡旋移民)]]だった後藤濶が白人商店主らによってリンチ殺害され、電柱に死体を吊るされた<ref name="hori">堀 江里香 「後藤濶リンチ事件と記念碑――ハワイ日系社会黎明期の記憶の表象」アメリカ研究 47 (0), 185-203, 2013-03-25</ref>。後藤は官約移民として初めて商店を開き、得意な英語で日本人移民の相談役となるなど、有力者だった<ref name="hori"/>。
=== イギリス ===
[[1860年]]の[[イーストボーンの悲劇]]では教師が生徒を体罰で殺害した。教師は裁判で無罪を主張したが、有罪となった。
[[第一次世界大戦]]終結後の[[1919年]]の[[リヴァプール]]で、白人と黒人の船員の間で一連の人種暴動が発生した。 パブで黒人船員がタバコを与えることを拒否したために白人船員2人に刺されると、翌日黒人船員の友人らが報復した。その際に警官が負傷したため、警察が黒人地区の下宿を襲撃し、双方に死傷者が出た。 白人暴徒が、黒人船員チャールズ・ウートンを[[マージー川]]で溺死させた<ref>{{cite news |title=The roots of racism in city of many cultures |url=https://www.liverpoolecho.co.uk/news/liverpool-news/roots-racism-city-many-cultures-3528503 |access-date=March 3, 2021 |work=Liverpool Echo |date=August 3, 2005}}</ref>。
[[1988年]]、[[ベルファスト]]で、2人の私服イギリス兵が[[IRA暫定派]]の葬列の方向へ車を走らせていたところ、[[特殊空挺部隊]]員と間違われ、群衆に殺害された<ref>{{cite news|last=Ware|first=John|title=Guns, grenades and lynchings: Revisiting the funeral murders|url=https://www.irishtimes.com/news/ireland/irish-news/guns-grenades-and-lynchings-revisiting-the-funeral-murders-1.3431818|access-date=December 21, 2021|newspaper=The Irish Times|language=en}}</ref>。
=== ロシア・ソ連 ===
[[ロシア革命]]で、社会の混乱が極度に進むなか、強盗など犯罪が多発し、同時に、帝政時代の司法制度が崩壊したことで、私刑(サモスード)が横行した<ref name="rus">[[長谷川毅]]「[https://hdl.handle.net/2115/5164 犯罪,警察,サモスード : ロシア革命下ペトログラードの社会史への一試論]」スラヴ研究, 34, 27-55,1987年</ref>。泥棒がその場で群衆に殴り殺されたり、また、「[[人民裁判]]が最も公正で、最も迅速」であるとして、その場で満場一致で死刑判決を下し、殺害する事件も多発した<ref name="rus"/>。また、[[ボリシェヴィキ]]による[[赤色テロル]]でも非常事態と称して、厳格な法的手続きのない方法で制裁や殺害が多数行われた。
===トルコ===
[[2016年トルコクーデター未遂事件]]の余波で、[[トルコ軍]]兵士に対するリンチが発生した<ref>{{Cite episode |title=Europe's Flashpoints |url=https://p.dw.com/p/32LYR |series=Close Up — The Current Affairs Documentary |network=[[DW-TV|Deutsche Welle TV]] |year=2018 |number=2 |time=2:12 |archive-date=August 5, 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180805112755/https://www.dw.com/en/europes-flashpoints-2/av-44888523 |quote=Public anger erupted. Soldiers were lynched in the streets including young recruits proven to have been deceived by their generals about the true intentions of the attack.}} [https://www.youtube.com/watch?v=ovxi_k9f-Tg Alt URL]</ref>。
=== メキシコ ===
革命後の[[メキシコ]]では、リンチは超法規的暴力の手段として頻繁に起こっている<ref>{{Cite book|last=Kloppe-Santamaría|first=Gema|title=In the vortex of violence: lynching, extralegal justice, and the state in post-revolutionary Mexico|publisher=University of California Press|year=2020|isbn=978-0-520-97532-3|oclc=1145910776}}</ref>。 宗教的な動機が関係していることもある<ref>Butler, Matthew. "CATHOLIC MOBILIZATIONS IN TWENTIETH-CENTURY MEXICO: From Pious Lynchings and Fascist Salutes to a “Catholic 1968,” Maoist Priests, and the Post-Cristero Apocalypse." ''The Americas'' (2022): 1-16.</ref>。
1968年、[[プエブラ州]]のサン・ミゲル・カノア村で、プエブラ自治大学の職員5人が共産主義者だとみなされて、村民からリンチを受けた。 リンチは司祭の扇動によるもので、職員2名と滞在先の家主が殺され、職員3名は指を切断されるなどの重傷を負った<ref>{{cite journal|url=https://journals.openedition.org/trace/1468|title=Representaciones y conductas. Un repertorio de las violencias entre los nahuas de la Sierra Norte de Puebla|last=Pierre|first=Beaucage|date=June 1, 2010|journal=Trace. Travaux et recherches dans les Amériques du Centre|number=57|pages=9–32|access-date=October 1, 2018|language=es|issn=0185-6286}}</ref>。 扇動者は起訴されず、逮捕された数名は証拠不十分で釈放された[54]。
2004年11月23日、トラワク・リンチ事件では、麻薬関連犯罪を捜査していた私服捜査官3人が、小学校の外で写真を撮っているのを見て、住民が、子供を誘拐する犯罪者だと誤認し、怒った300人の群衆によってリンチを受け、生きたまま焼かれた<ref>Niels A. Uildriks (2009), ''[https://books.google.com/books?id=PICx6XnX1DMC&pg=PA201 Policing Insecurity: Police Reform, Security, and Human Rights in Latin America] Policing Insecurity: Police Reform, Security, and Human Rights in Latin America]''. Rowman & Littlefield, p. 201.</ref><ref>Santos-Reyes, J., Olmos-Peña, S., & Santos-Reyes, D. (2011). Learning from crime: The case of the 'Tláhuac' lynching. In Crime: Causes, Types and Victims (pp. 87-108). Nova Science Publishers, Inc..</ref><ref name="Gema">Lynchings are not new to Mexico: why does this matter? by Gema Kloppe-Santamaría, University of California Press (UC PRESS BLOG) 2021,5,23. ; In the Vortex of Violence: Lynching, Extralegal Justice, and the State in Post-Revolutionary Mexico, University of California Press ,2020.</ref>。
メキシコ革命後の形成期、1930年から1960年の数十年間におけるリンチの歴史は、リンチが国家の不在や政策の失敗というよりはむしろ、コミュニティの住民によって拒否されたり、模倣される虐待的で強要的な慣行を通じて、地方レベルでの国家権力がいかに作動するのかを示しているし、長期的な政治的文化的推進力にも影響を及ぼすものである<ref name="Gema"/>。
ジェマ・クロッペ・サンタマリアは、リンチは宗教的信念、魔術による告発、政治的対立によって引き起こされる<ref name="Gema"/>。また、リンチは、違反者や犯罪容疑者に対する迅速かつ超法規的で、致命的な刑罰を求める国民によって支持されてもいる。メキシコやラテンアメリカ諸国の国民は、脆いつかの間の安全感と正義感のために、問題を自分たちの手で解決しようとして、暴力に参加する。彼らは法に違反し、「他者」とみなされた人々を排除し、傷つけ、最終的に、平和で包摂的な社会を構築する可能性を損なっていると述べている<ref name="Gema"/>。
=== ブラジル ===
[[サンパウロ大学]]の社会学者ホセ・デ・ソウザ・マルティンスによれば、[[ブラジル]]では、過去60年間で、150万人ものブラジル人がリンチに参加している。ブラジルでは現在、暴徒が1日に1人以上の犯罪容疑者を殺害、あるいは殺害しようとしている<ref>{{cite news |title=In Latin America, Awash in Crime, Citizens Impose Their Own Brutal Justice |url=https://www.wsj.com/articles/in-a-continent-awash-in-crime-citizens-impose-their-own-brutal-justice-1544110959?mod=cx_picks&cx_navSource=cx_picks&cx_tag=poptarget&cx_artPos=2#cxrecs_s |work=The Wall Street Journal |date=December 6, 2018}}</ref>。
=== ボリビア ===
[[File:Lynching of Gualberto Villarroel - B&W.jpg|thumb|293x293px| リンチ殺害されたグアルベルト・ビジャロエル大統領]]
1946年7月21日、[[ボリビア]]の首都[[ラパス]]で、[[ストライキ]]を起こした学生、教師、鉱山労働者の暴徒が、グアルベルト・ビジャロエル大統領や、政府高官をリンチし、殺害したうえで、遺体は街灯に吊るされた<ref>{{cite web|last=capuchainformativa_ecmn0t|date=July 22, 2020|title=Bolivia │ Así cayó Villarroel: Miradas de la revuelta del 21 de julio de 1946|url=https://capuchainformativa.org/bolivia-asi-cayo-villarroel-miradas-de-la-revuelta-del-21-de-julio-de-1946/|access-date=November 29, 2020|website=Capucha Informativa|language=es|archive-date=November 25, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20201125055058/https://capuchainformativa.org/bolivia-asi-cayo-villarroel-miradas-de-la-revuelta-del-21-de-julio-de-1946/|url-status=dead}}</ref>。
=== ドミニカ ===
[[ドミニカ]]{{要曖昧さ回避|date=2023年8月}}では、窃盗から殺人までさまざまな犯罪を犯した容疑者に対するリンチを含む超法規的処罰は一定の支持を得ており、 2014年のラティノバロメトロの調査によると、ドミニカ共和国はラテンアメリカで私刑を受け入れる率が最も高かった<ref>[http://web.amnesty.org/report2006/dom-summary-eng Amnesty International | Working to Protect Human Rights<!-- Bot generated title -->] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070810112039/http://web.amnesty.org/report2006/dom-summary-eng |date=August 10, 2007 }}</ref>。 こうした傾向は北部で顕著である<ref>{{cite news|last1=Santana|first1=Antonio|title=Linchamientos en el norte de la República Dominicana alarman a las autoridades|url=http://noticias.lainformacion.com/policia-y-justicia/criminalidad/linchamientos-en-el-norte-de-republica-dominicana-alarman-a-las-autoridades_gWNCA7FNHWgPguFOVzpOK4/|access-date=September 9, 2015|agency=EFE|website=Lainformacion.com|date=June 9, 2012|location=[[Santiago de los Caballeros|Santiago]]|language=es|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160304130905/http://noticias.lainformacion.com/policia-y-justicia/criminalidad/linchamientos-en-el-norte-de-republica-dominicana-alarman-a-las-autoridades_gWNCA7FNHWgPguFOVzpOK4/|archive-date=March 4, 2016}}</ref>。
=== ハイチ ===
2010年の[[ハイチ地震 (2010年)|ハイチ地震]]後、救援物資の配布が遅れ、多数の被災者が発生したことにより、略奪行為や略奪容疑者に対する暴徒による正義を特徴とする社会不安に対する懸念が生じた<ref>{{cite web|url=https://www.thestar.com/news/world/article/751792--haiti-street-justice-the-worst-in-people|title=Mob justice in Haiti|date=January 17, 2010|work=torontstar.com|accessdate=2023-05-11}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2010/01/17/world/americas/17looting.html|title=Looting Flares Where Authority Breaks Down|first1=Simon|last1=Romero|first2=Marc|last2=Lacey|date=January 17, 2010|access-date=September 3, 2017|website=[[The New York Times]]}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/us_and_americas/article6990401.ece|title=Login|website=Timesonline.co.uk}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.theguardian.com/world/2010/jan/15/looters-roam-port-au-prince|title=Looters roam Port-au-Prince as earthquake death toll estimate climbs|author=Rory Carroll|newspaper=The Guardian|date=January 16, 2010}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/centralamericaandthecaribbean/haiti/7005853/Haiti-earthquake-UN-says-worst-disaster-ever-dealt-with.html|archive-url=https://archive.today/20120912063245/http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/centralamericaandthecaribbean/haiti/7005853/Haiti-earthquake-UN-says-worst-disaster-ever-dealt-with.html|url-status=dead|archive-date=September 12, 2012|title=Haiti earthquake: UN says worst disaster ever dealt with|last=Sherwell |first=Philip |author2=Colin Freeman |date=January 16, 2010|website=Telegraph.co.uk|access-date=January 17, 2010}}</ref>。 [[ハイチのコレラ流行|2010年のコレラ流行]]では、[[ブードゥー教]]の司祭ら45人が、病気の蔓延の責任を責められて、暴徒によってリンチを受けた<ref>{{cite news
|url = https://edition.cnn.com/2010/WORLD/americas/12/24/haiti.cholera.killings/index.html?hpt=Sbin%20Officials:%2045%20people%20lynched%20in%20Haiti%20amid%20cholera%20fears
|title = Officials: 45 people lynched in Haiti amid cholera fears
|last1 = Valme
|first1 = Jean M.
|date = December 24, 2010
|publisher = CNN
|access-date = March 22, 2012
}}</ref>。
=== アフリカ ===
[[南アフリカ]]では、犯罪者や政敵へ鞭打ちや、[[ガソリン]]を入れ得た[[タイヤ]]を首などに掛けて焼き殺す[[タイヤネックレス]]などによる私刑が、[[アパルトヘイト]]時代の1980年代に発展した。 反アパルトヘイト運動の支持者は、「人民法廷」を結成し、政府のアパルトヘイト政策の協力者と見なされた同胞の黒人に対して、私刑や殺害を行った<ref>{{cite book |chapter-url=https://www.hrw.org/reports/1991/southafrica1/6.htm |chapter=4. Background: The Black Struggle For Political Power: Major Forces in the Conflict |url=https://www.hrw.org/reports/1991/southafrica1/index.htm |title=The Killings in South Africa: The Role of the Security Forces and the Response of the State |work=[[Human Rights Watch]] |date=January 8, 1991 |isbn=0-929692-76-4 |access-date=November 6, 2006}}</ref>。 [[ネルソン・マンデラ]]の妻で[[アフリカ民族会議]]の幹部だった[[ウィニー・マンデラ]]がタイヤネックレスを支持したとき、物議をかもした<ref>{{cite news |url=http://century.guardian.co.uk/1980-1989/Story/0,,110268,00.html |title=Row over 'mother of the nation' Winnie Mandela |newspaper=[[The Guardian]] |date=January 27, 1989 |access-date=March 22, 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20061008111400/http://century.guardian.co.uk/1980-1989/Story/0,,110268,00.html |archive-date=October 8, 2006 |first=David |last=Beresford |author-link=David Beresford (journalist) |publisher=[[Guardian Newspapers Limited]]}}</ref>。最近では、麻薬売人他のギャングメンバーが[[自警団]][[パガド]]によってリンチを受けている。
[[ナイジェリア]]や[[カメルーン]]では、リンチを含む私刑は「ジャングルの正義」「暴徒の正義」と呼ばれ、広く普及している<ref>[https://books.google.com/books?id=drCQBAAAQBAJ&dq=jungle+justice+cameroon&pg=PA119 Cameroon's predicament, Peter Tse Angwafo, p 119]</ref><ref name="BBC">{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/8021468.stm|title=BBC NEWS - World - Africa - Nigeria's vigilante 'jungle justice'|website=News.bbc.co.uk|access-date=September 3, 2017|date=April 28, 2009}}</ref> <ref>[http://answersafrica.com/jungle-justice-a-vicious-violation-of-human-rights-in-africa.html Jungle Justice: A Vicious Violation if Human Rights in Africa, Amara Onu]</ref>。何時間も泥の中で転がされる「泥の治療」<ref>{{cite web|url=http://pulse.ng/gist/jungle-justice-cable-thief-given-muddy-treatment-in-anambra-graphic-photos-id5655318.html|title=Jungle Justice: Cable thief given muddy treatment in Anambra (Graphic Photos)|first=Isaac|last=Dachen|website=Pulse.ng|access-date=September 3, 2017|date=October 25, 2016}}</ref>や[[タイヤネックレス]]など私刑方法は様々ある<ref>{{cite web|url=http://dailypost.ng/2016/11/18/burning-7-year-old-boy-death-embarrassment-nigeria-annie-idibia-mercy-johnson/|title=Burning 7-year-old boy to death an embarrassment to Nigeria - Annie Idibia, Mercy Johnson|date=November 18, 2016|website=Dailypost.ng|access-date=September 3, 2017}}</ref>。
若者の自警団バカシ・ボーイズ<ref>{{Cite journal|first=Nnaemka Uwakwe |last=Itiri|title=The Transformation of the Bakassi Boys Vigilante Group among the Igbo Ethnic Group of Nigeria into a Community Police Force|url=https://www.academia.edu/19408364|date=2014|journal=VUNA Journal of History and International Relations|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.ascleiden.nl/pdf/youthconfajibade.pdf|title=Anti-Bullet Charms, Lie-Detectors and Street Justice: the Nigerian Youth and the Ambiguities of Self-Remaking|last=Babson|first=Ajibade|date=|access-date =2023-05-13|website=|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20071115130207/http://www.ascleiden.nl/Pdf/youthconfajibade.pdf |archive-date=2007-11-15}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.news24.com/Africa/News/Bakassi-boys-battle-bandits-20020809|title=Bakassi boys battle bandits|date=2002-08-10|website=News24|language=en|access-date=2020-03-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.iol.co.za/news/africa/bakassi-boys-voodoo-is-proving-hard-to-break-95564|title=Bakassi Boys voodoo is proving hard to break|website=www.iol.co.za|language=en|access-date=2020-03-06}}</ref>や2012年の[[リバーズ州]]オビオ/アクポル地区アルーにおいて、債務者に借金を返すよう要求した学生4人に対して、債務者が泥棒だと騒ぎ、住民がタイヤネックレスなどを用いたリンチで殺害した事件が挙げられる<ref>{{cite web|url=http://answersafrica.com/jungle-justice-a-vicious-violation-of-human-rights-in-africa.html|title=Jungle Justice: A Vicious Violation Of Human Rights In Africa|date=July 24, 2015|website=Answersafrica.com|access-date=September 3, 2017}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.dw.com/en/when-the-mob-rules-jungle-justice-in-africa/a-19426438|title=When the mob rules: jungle justice in Africa|date=July 26, 2016|work=[[Deutsche Welle]]|first=Nneka|last=Luke|access-date=September 3, 2017}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.informationng.com/2012/10/real-story-behind-the-burning-alive-of-four-uniport-students-in-port-harcourt-yesterday.html|website=Information Nigeria|title=Real Story Behind The Burning Alive Of Four UNIPORT Students In Port Harcourt Yesterday|date=6 October 2012 |accessdate=August 1, 2015}}</ref><ref>Vladimir Duthiers, "[https://edition.cnn.com/2012/11/26/world/africa/nigeria-mob-justice-duthiers/ Did misunderstanding lead to horrific Nigeria mob killings?]". CNN, November 26, 2012 </ref>。
[[ケニア]]では頻繁にリンチが発生しており、有罪だと見做された人物を暴徒が処刑し、2年間で2900人以上のリンチ事件の報告があり、1980年から 2021年までに一万人以上のリンチ犠牲者がいるともされる<ref>McKee, Robert. 2021. ''Lynchings in Modern Kenya A Continuing Human Rights Scandal''. Leanpub.</ref>。
=== パレスチナ ===
[[パレスチナ]]では、[[イスラエル]]と協力した疑いのあるパレスチナ人が群衆によってリンチされ殺害される事件が起こっている<ref>Be'er, Yizhar & 'Abdel-Jawad, Saleh (January 1994), [http://www.btselem.org/Download/199401_Collaboration_Suspects_Eng.doc "Collaborators in the Occupied Territories: Human Rights Abuses and Violations"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20040715191230/http://www.btselem.org/Download/1994_Collaborators_Eng.rtf |date=July 15, 2004 }} ([[Microsoft Word]] document), B’Tselem – The Israeli Information Center for Human Rights in the Occupied Territories. Retrieved September 14, 2009. Also .</ref><ref>Huggler, Justin & Ghazali, Sa'id (October 24, 2003), "Palestinian collaborators executed", ''The Independent'', [http://www.fromoccupiedpalestine.org/node.php?id=944 reproduced] on fromoccupiedpalestine.org. Retrieved September 14, 2009.</ref><ref>Goldenberg, Suzanne (March 15, 2002), [https://www.theguardian.com/israel/Story/0,2763,667591,00.html {{"'}}Spies' lynched as Zinni flies in"], ''The Guardian''. Retrieved September 14, 2009.</ref>。
[[パレスチナ自治政府]]が設立される前の[[第1次インティファーダ]]の期間(1987-1993)中、イスラエルへの協力者とみなされる数百人が、時には[[パレスチナ解放機構]]の暗黙の了解のもとでリンチ、拷問、殺害された<ref>[https://www.hrw.org/reports/2001/pa/isrpa1101-04.htm "Balancing Security and Human Rights During the Intifada"], [https://www.hrw.org/reports/2001/pa/index.htm ''Justice Undermined: Balancing Security and Human Rights in the Palestinian Justice System''], Human Rights Watch, November 2001, Vol. 13, No. 4 (E).</ref>。 2000年10月12日、[[ラマッラー]]のリンチ事件では、誤ってパレスチナに入国した2人のイスラエル国防軍予備役が、殺害され、遺体は踏みつけられ、火をつけられた<ref>{{Cite news|url=https://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4942631,00.html|title=2000 Ramallah lynch terrorist released from prison|date=March 30, 2017|newspaper=Ynetnews|last1=Zitun|first1=Yoav|last2=Levy|first2=Elior}}</ref> <ref>{{cite web|url=http://www.highbeam.com/doc/1P2-4570672.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20150526210520/http://www.highbeam.com/doc/1P2-4570672.html|url-status=dead|archive-date=May 26, 2015|title='I'll have nightmares for the rest of my life,' photographer says|quote=I got out of the car to see what was happening and saw that they were dragging something behind them. Within moments they were in front of me and, to my horror, I saw that it was a body, a man they were dragging by the feet. The lower part of his body was on fire and the upper part had been shot at, and the head beaten so badly that it was a pulp, like red jelly.|work=Chicago Sun-Tribune|access-date=June 7, 2018|date=October 22, 2000}}</ref>。群衆は切断された2人の遺体をアルマナラ広場まで引きずり、勝利祝賀会を始めた<ref name="revenge">{{cite news |title=A day of rage, revenge and bloodshed |url=https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/israel/1370229/A-day-of-rage%2C-revenge-and-bloodshed.html |archive-url=https://wayback.archive-it.org/all/20171014065726/http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/israel/1370229/A-day-of-rage-revenge-and-bloodshed.html |url-status=dead |archive-date=October 14, 2017 |date=October 13, 2000 |work=[[The Daily Telegraph]] |access-date=July 2, 2009 |location=London |first=Alan |last=Philps}}</ref><ref name="Italy">{{cite web |title=Coverage of Oct 12 Lynch in Ramallah by Italian TV Station RAI |url=http://www.mfa.gov.il/MFA/MFAArchive/2000_2009/2000/10/Coverage%20of%20Oct%2012%20Lynch%20in%20Ramallah%20by%20Italian%20TV |date=October 17, 2000 |publisher=[[Israeli Ministry of Foreign Affairs]] |access-date=July 2, 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20100418160039/http://www.mfa.gov.il/MFA/MFAArchive/2000_2009/2000/10/Coverage%20of%20Oct%2012%20Lynch%20in%20Ramallah%20by%20Italian%20TV |archive-date=April 18, 2010|url-status=live}}</ref><ref name="brutal">{{cite news |title=Lynch mob's brutal attack|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/969778.stm |date=October 13, 2000|work=[[BBC News]]|access-date=September 3, 2006}}</ref><ref name="voice">{{cite news |title=A strange voice said: I just killed your husband|url=https://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/a-strange-voice-said-i-just-killed-your-husband-635341.html |date=October 14, 2000|work=[[The Independent]]|access-date=October 16, 2009 |location=London |first=Raymond |last=Whitaker}}</ref>。
=== イスラエル ===
2015年10月18日、[[ベエルシェバ]]で[[エリトリア]]人の亡命希望者がイスラエル治安部隊の誤認でリンチされ、射殺された<ref>{{cite web|url=https://www.haaretz.com/israel-news/.premium-police-asylum-seeker-was-also-shot-by-border-policeman-1.5413332|title=Slain Eritrean Asylum Seeker Was Also Shot by Border Policeman, Police Say|date=October 26, 2015| access-date =2023-05-13|website=Haaretz.com}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.cnn.com/2016/01/13/middleeast/israel-charges-eritrean-migrant-beating/index.html|title=Israel: 4 charged over 'lynching' of Eritrean migrant|author1=Tim Hume|author2=Michael Schwartz|website=Cnn.com|date=January 13, 2016}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.haaretz.com/israel-news/.premium-man-involved-in-lynching-of-innocent-asylum-seeker-is-sentenced-1.6243033|title=Israeli Man Involved in Lynching of Asylum Seeker Sentenced to 100 Days Community Service|access-date =2023-05-13|date=July 4, 2018|website=Haaretz.com}}</ref>。
2012年8月、パレスチナ人の青少年数人に対するリンチ未遂の容疑で7人のイスラエル人の青少年がエルサレムで逮捕された<ref>"[https://www.nytimes.com/2012/08/21/world/middleeast/7-israelis-held-in-attack-on-palestinians-in-jerusalem.html?pagewanted=all Young Israelis Held in Attack on Arabs]". ''The New York Times''. August 20, 2012.</ref>。
=== インド ===
2014年以来、[[ヒンズー教]]で神聖視されている牛を守るという名目で、ヒンズー教主義者が非ヒンズー教徒に対して暴力を加えるという「牛を守る自警団によるリンチ事件(Cow vigilante violence)」が多発している<ref>{{cite book |last1=Mareš |first1=M. |last2=Bjørgo |first2=T. |date=2019 |chapter=Vigilantism against migrants and minorities: Concepts and goals of current research |title=Vigilantism against Migrants and Minorities |pages=1-30 |work=Routledge |url=https://library.oapen.org/bitstream/handle/20.500.12657/23655/1/9781138493803_text.pdf#page=23}}</ref><ref>{{cite web |last=Chandra |first=R. |date=2018 |title=The Menacing Growth of Mob Lynching: A Study in Indian Legal Perspective |journal=Journal of Legal Studies and Research |volume=4 |issue=4 |pages=134-148|access-date =2023-05-13 |publisher=The Law Brigade (Publishing) Group |url=https://thelawbrigade.com/wp-content/uploads/2019/05/Rakesh.pdf}}</ref><ref>{{cite news |url=https://thediplomat.com/2017/07/hindutva-terrorism-in-india/ |title=Hindutva Terrorism in India: Cow vigilantism is pre-meditated, politically motivated, and seeks to build fear in a community. That makes it terrorism |work=[[The Diplomat]] |first=Sudha |last=Ramachandran |date=7 July 2017}}</ref><ref>[https://jp.wsj.com/articles/SB11839847107728024442804583389252372961298 インドで「牛」守る自警団、深まる宗教対立]Wall Street Journal,2017 年 9 月 13 日</ref><ref>{{cite news|title=Cowboys and Indians; Protecting India's cows|url=https://www.economist.com/news/asia/21705374-udderworldly-debate-cowboys-and-indians|newspaper=[[The Economist]]|date=August 16, 2016}}</ref>。ヒンズー教の暴徒による[[インドにおけるイスラーム|インドのイスラム教徒]]<ref name=biswas_bbc_7_10_17>{{cite news|last=Biswas|first=Soutik|title=Why stopping India's vigilante killings will not be easy|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-india-40505719|work=BBC News|date=July 10, 2017|quote=Last month Prime Minister Narendra Modi said murder in the name of cow protection is "not acceptable." ... The recent spate of lynchings in India have disturbed many. Muslim men have been murdered by Hindu mobs, ... for allegedly storing beef.}}</ref><ref name=kumar_time_6_29_17>{{cite news|last=Kumar|first=Nikhil|title=India's Modi Speaks Out Against Cow Vigilantes After 'Beef Lynchings' Spark Nationwide Protests|url=http://time.com/4838566/india-beef-lynching-attacks-muslims/|magazine=Time|date=June 29, 2017}}</ref>と[[不可触民|ダリット (不可触民)]]へのリンチが行われている<ref name="HRW1">{{cite web|url=https://www.hrw.org/news/2017/04/27/india-cow-protection-spurs-vigilante-violence|title=India: 'Cow Protection' Spurs Vigilante Violence|date=April 27, 2017|access-date =2023-05-13|website=Human Rights Watch}}</ref><ref name=Chatterji>{{cite news|last=Chatterji|first=Saubhadra|date=May 30, 2017|url=http://www.hindustantimes.com/india-news/in-the-name-of-cow-lynching-thrashing-condemnation-in-three-years-of-bjp-rule/story-vMRGhgagVaJG6l9bh884kM.html|title=In the name of cow: Lynching, thrashing, condemnation in three years of BJP rule|work=[[Hindustan Times]]|access-date=June 29, 2017}}</ref>。 2015年の[[ウッタル・プラデーシュ州]]ダドリ近郊ビサーダ村で牛を屠殺したとの廉で男性が殺害された集団リンチ事件<ref name=AlJ-Rumors>{{cite news|title=Indian mob kills man over beef eating rumour|url=http://www.aljazeera.com/news/2015/09/indian-mob-kills-man-cow-slaughter-rumour-150930193719666.html|access-date=October 4, 2015|work=[[Al Jazeera]]|date=October 1, 2015}}</ref>、2016年のジャールカンドでの集団リンチ事件<ref>{{cite news|title=Muslim Cattle Traders Beaten To Death In Ranchi, Bodies Found Hanging From A Tree|url=http://www.huffingtonpost.in/2016/03/19/cattle-traders-killed-ranchi_n_9504182.html|work=Huffington Post India}}</ref><ref>{{cite news|title=Another Dadri-like incident? Two Muslims herding cattle killed in Jharkhand; five held|url=http://zeenews.india.com/news/jharkhand/another-dadri-like-incident-two-muslims-herding-cattle-killed-in-jharkhand_1867361.html|work=Zee News|date=March 19, 2016|language=en}}</ref><ref>{{cite news|title=5 held in Jharkhand killings, section 144 imposed in the area|url=http://www.ibnlive.com/news/india/5-held-in-jharkhand-killings-section-144-imposed-in-the-area-1218536.html|work=News18|date=March 19, 2016}}</ref>があり、[[ラージャスターン州]][[アルワル]]では、2017年<ref name=nytimes>{{cite news|last1=Raj|first1=Suhasini|title=Hindu Cow Vigilantes in Rajasthan, India, Beat Muslim to Death|url=https://www.nytimes.com/2017/04/05/world/asia/india-cow-mob-hindu-vigilantes.html|work=The New York Times|date=April 5, 2017}}</ref><ref>{{cite news|title=Beaten to death for being a dairy farmer|url=https://www.bbc.co.uk/news/world-asia-india-39511556|work=BBC News|date=April 8, 2017}}</ref>、2018年に3度目となる集団リンチ殺害事件が発生した<ref>{{Cite news|url=https://timesofindia.indiatimes.com/india/cow-vigilantes-strike-in-alwar-again-kill-youth/articleshow/65086684.cms|title=Cow vigilantes strike in Alwar again, kill youth - Times of India|work=The Times of India|access-date=July 23, 2018}}</ref>。2018年には、インドの航空閣外大臣が、2017年にラムガルで貿易業者をリンチして有罪判決を受けた牛の自警団8人に花輪を贈り、栄誉を与えた<ref>[https://timesofindia.indiatimes.com/city/ranchi/union-minister-garlands-lynchers-says-honouring-the-due-process-of-law/articleshow/64902269.cms "Union minister garlands lynchers, says 'honouring the due process of law'], "The Times of India"</ref>。2019年7月には、[[ビハール州]]サラーン県チャプラで牛窃盗で男性3名が暴徒に撲殺され、リンチを受けた<ref>[https://thewire.in/rights/bihar-three-men-lynched Bihar three men lynched], The Wire, July 20, 2019</ref>。
「牛を守る自警団」によるリンチ以外の事件としては、2006年、[[マハーラーシュトラ州]]バンダラ地区のカイランジ村で、ダリットの家族4人がクンビ・カーストによってリンチされ虐殺された<ref>{{Cite web |date=2021-09-15 |title=Khairlanji episode: Caste divide cemented by brutality from 15 years ago |url=https://www.hindustantimes.com/india-news/khairlanji-episode-caste-divide-cemented-by-brutality-from-15-years-ago-101631727662814.html |access-date=2022-05-11 |website=Hindustan Times |language=en}}</ref>。
2015年の[[ナガランド州]][[ディマプル]]でのリンチでは、8000人の暴徒が刑務所に侵入し、裁判を待っていた強姦容疑者をリンチし、撲殺した<ref name=Dragged>{{cite news|title=Rape accused dragged out of jail, lynched in Nagaland|url=http://timesofindia.indiatimes.com/india/Rape-accused-dragged-out-of-jail-lynched-in-Nagaland/articleshow/46471326.cms|access-date=March 7, 2015|work=[[The Times of India]]|date=March 5, 2015}}</ref><ref name=NoArrests>{{cite news|title=Dimapur mob lynching case: Situation remains tense in Assam, Nagaland; no arrests so far|url=http://ibnlive.in.com/news/dimapur-mob-lynching-case-situation-remains-tense-in-assam-nagaland-no-arrests-so-far/532522-3-226.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20150308011811/http://ibnlive.in.com/news/dimapur-mob-lynching-case-situation-remains-tense-in-assam-nagaland-no-arrests-so-far/532522-3-226.html|url-status=dead|archive-date=8 March 2015|accessdate=7 March 2015|work=[[IBNLive]]|date=7 March 2015}}</ref><ref>{{cite news| url=http://www.abc.net.au/news/2015-03-09/india-lynch-mob3a-police-arrest-22-over-vigilante-style-murder/6289754 | title=India lynch mob: Police arrest 22 over vigilante-style murder of rape suspect | work=ABC | date=8 March 2015 | access-date=8 March 2015}}</ref>。
2017年5月にジャールカンド州で7人がリンチを受けて以来、児童誘拐と臓器収奪に関する[[フェイクニュース]]が[[WhatsApp]]を通じて拡散し、暴力殺害事件(Indian WhatsApp lynchings)が相次いだ<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-india-44709103|title=Who can stop India WhatsApp lynchings?|date=July 5, 2018|work=BBC}}</ref>
[[ジャールカンド州]]では、2019年6月にでイスラム教徒が、「Jai Shri Ram(ジャイ シュリ ラム、[[ラーマ]]に栄光あれ)」というヒンズー教の挨拶を唱えるよう強制されたうえで撲殺された<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2019/06/25/world/asia/india-hindu-muslim-beating.html|title=Forced to Chant Hindu Slogans, Muslim Man Is Beaten to Death in India|last1=Raj|first1=Suhasini|date=June 25, 2019|work=The New York Times|access-date=February 4, 2020|last2=Nordland|first2=Rod|language=en-US|issn=0362-4331}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-india-48882053|title=The Hindu chant that became a murder cry|date=July 10, 2019|work=BBC News|access-date=February 4, 2020|language=en-GB}}</ref>。7月には、同州グムラ県のナガール・シカリ村民12人が[[パンチャーヤト制|長老会議 (パンチャーヤト)]]での決議を通じて、黒魔術を行っているという理由で4人をリンチし、殺害した<ref>[https://www.indiatoday.in/india/story/jharkhand-lynching-4-killed-on-witchcraft-suspicion-1571830-2019-07-21 4 killed on witchcraft suspicion], [[インディア・トゥデイ]], July 21, 2019</ref>。
インドでのリンチは、民族コミュニティ間の緊張を反映しているとされるが、[[カースト制度]]だけでなく、人種的・民族的文化における対立も強いとされる<ref>Andre Beteille,Race, Caste and Gender,Man,New Series, Vol. 25, No. 3 (Sep., 1990), pp. 489-504 (16 pages), Royal Anthropological Institute of Great Britain and Ireland</ref><ref>{{cite journal|author=Silverberg, James
|date=November 1969|title=Social Mobility in the Caste System in India: An Interdisciplinary Symposium
|journal = The American Journal of Sociology|volume = 75|issue = 3|pages = 443–444|jstor=2775721|quote=The perception of the caste system as a static and textual stratification has given way to the perception of the caste system as a more processual, empirical and contextual stratification.}}</ref>。
=== アフガニスタン ===
2015年3月19日、[[アフガニスタン]]の[[カーブル]]で、イスラム教のコーランを燃やしたとして地元のムラーから告発された女性が群衆にレンガで頭を殴られるなど撲殺され、焼かれた。 女性は「私はイスラム教徒です。コーランを燃やすことはしない。」と述べたが、群衆は聞き入れなかった<ref name="bbc23">[https://www.bbc.com/news/world-asia-32014077 Afghan woman Farkhunda lynched in Kabul 'for speaking out'],BBC,23 March 2015</ref>。警察と聖職者らは、群衆には信仰を守る権利があると述べ、リンチを擁護した<ref name="cleric">{{cite news |url=https://www.reuters.com/article/us-afghanistan-woman-idUSKBN0MG1Z620150320 |title=Afghan cleric and others defend lynching of woman in Kabul |work=[[Reuters]] |first1=Hamid |last1=Shalizi |first2=Jessica |last2=Donati |date=March 20, 2015 |access-date=March 22, 2019 |location=Kabul}}</ref>。捜査官によれば、女性がコーランを燃やした証拠はみつからなかった<ref name="bbc23"/>。[[アシュラフ・ガニー]][[アフガニスタンの大統領|大統領]]政府は、「いかなる個人も自らを裁判官にし、暴力を用いて他人を罰することは許されない」と述べるとともに、コーランとイスラムの価値観への軽視を引き起こすいかなる行為も強く非難すると付け加えた<ref name="cleric"/>。
== 日本 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2023年5月}}
日本では、中世でも私刑的なものはあったが、公刑に対して私刑が確立するのは[[近世]]からである<ref name="shik"/>。[[江戸時代]]の[[幕府]]は公刑主義だったが、村方では[[博奕]]者などへの[[過料]]、または[[村八分]]や、放蕩者を[[座敷牢]]に入れるような私刑が広く行われたほか、[[敵討]]や[[切捨御免]]も公権力に認められていた<ref name="shik"/>。[[明治]]以後、国家が刑罰権を独占し、私刑は犯罪として禁止された<ref name="shik"/>。しかし、以下のように、近代以降、現代にいたるまで、リンチ事件、リンチ殺人事件は多数発生している。
[[明治時代]]の[[沖縄県]]では、[[サンシー事件]]や[[具志頭制縛致死事件]]が起きた。
[[関東大震災]]では、[[関東大震災朝鮮人虐殺事件|朝鮮人虐殺事件]]や[[関東大震災中国人虐殺事件|中国人虐殺事件]]が起きた。
* [[直江津駅リンチ殺人事件]](1945年、[[朝鮮人]]による)
* [[「暁に祈る」事件]]([[シベリア抑留]]の[[強制収容所]]で起きた)
* [[糸満町集団殺人事件]](1967年)
=== 病院など ===
{{See|精神保健の歴史#日本での歴史}}
1879年(明治12年)、[[相馬藩]]主[[相馬誠胤]]が[[精神病]]者として自宅[[座敷牢]]に監禁された[[相馬事件]]が起こる。
1966年から1986年までに50件以上の患者への暴行や殺害などの精神科病院事件が発生した<ref>高木俊介「過去の20年の病院不祥事事件」精神医療45巻2号、p66-74.1986</ref><ref name="hujino"/>。1983年には[[宇都宮病院事件]]が起きた<ref>桐原 尚之「宇都宮病院事件から精神衛生法改正までの歴史の再検討――告発者及びその協力者の意図との関係」『Core Ethics』11:47-57,2015</ref>。1997年には[[大阪府]][[柏原市]]の大和川病院で、暴行などによる患者の不審死28件が発覚した[[大和川病院事件]]が起きた。同病院は医療法人認可取消処分となり、[[倒産]]した<ref>{{Cite journal|和書|journal=立命館大学生存学研究センター,生存学研究センター報告11 |title=精神病院不祥事件が語る入院医療の背景と実態 ──大和川病院事件を通して考える |page=167-195 |url=http://www.arsvi.com/2010/1002na.htm}}</ref><ref>{{Cite news | author = 原昌平 | newspaper = yomidr | publisher = [[読売新聞東京本社]] | title=貧困と生活保護(32)患者が食い物にされていた安田系3病院事件 |date=2016-05-27 |url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160526-OYTET50017/ | accessdate = 2023-05-16 }}</ref><ref name="hujino">{{Cite journal|和書|title=精神科病院の特質と入院患者の人権 |author=藤野 ヤヨイ |journal=現代社会文化研究28 |pages=171-188 |publisher=新潟大学|date=2003-11 |naid=110000563822 |url=https://hdl.handle.net/10191/1052 }}</ref>。
2012年、[[千葉市]]の石郷岡病院で、患者が暴行を受け、のちに死亡した石郷岡病院事件が発生した<ref>[https://www.chibanippo.co.jp/news/national/387369 物音など「なかった」 “暴行”当日で同僚女性 石郷岡病院事件]2017年2月17日 10:36、千葉日報</ref><ref>[[佐藤光展]]「[https://gendai.media/articles/-/59196 首が折れても暴行ではない…? 石郷岡事件「全てが奇妙な判決」]」2018.12.30. 現代ビジネス、講談社、『なぜ、日本の精神医療は暴走するのか』(講談社、2018年)</ref>。
=== 監禁リンチ殺人 ===
* [[尼崎事件]](1987-2011)
* [[北九州監禁殺人事件]](1996-2002)
=== 少年犯罪 ===
[[少年犯罪]]によるリンチ事件も多数発生している。
*[[横浜浮浪者襲撃殺人事件]](1983年) - インドでも1985年にホームレスなどが殺害される[[ストーンマン事件]]が起きている。2002年に[[東村山市ホームレス暴行死事件]]、2020年に[[渋谷ホームレス殺人事件]]、[[岐阜市ホームレス襲撃殺人事件]]がある。
*[[名古屋アベック殺人事件]](1988)
*[[女子高生コンクリート詰め殺人事件]](1988)
*[[大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件]](1994)
*[[栃木リンチ殺人事件]](1999)
*[[東京・山梨連続リンチ殺人事件]](2003)
*[[東大阪集団暴行殺人事件]](2006)
=== 政治集団 ===
{{See|内ゲバ}}
[[スパイ]]容疑での査問([[粛清]])や、[[内ゲバ]]などで私刑事件が発生した。
[[日本共産党]]については、1933年に[[日本共産党スパイ査問事件]]でリンチ事件が発生した<ref>伊集院兼雄「共産党リンチ事件」文藝春秋33巻20号,1955年10月号、津田道夫「責任能力を問われる日共--「共産党リンチ事件」論議の意味」現代の眼 17 (5), p164-173, 1976-05、平野謙「ある個人的回想(続)--文学作品に反映したスパイ・リンチ事件 」文學界 30 (6), p168-193, 1976-06、鈴木 隆一, 小林 峻一 「「超スパイ」松原汚名の45年間-4完-日共スパイ・リンチ事件の原点」現代の眼 19 (4), p208-217, 1978-04、[[立花隆]]「日本共産党の研究 3」講談社文庫1983年</ref>。1951年2月14日には[[日本共産党]]「[[国際派 (日本共産党)|国際派]]」の牙城だった[[東京大学]][[細胞 (政党)|細胞]]において、スパイとみなされた[[戸塚秀夫]]、[[不破哲三]]、[[高沢寅男]]がリンチ査問を受けた[[東大スパイ・リンチ査問事件]]が発生した<ref name="im20">今西一「早稲田・1950年 - 歴史の証言 - 」 立命館言語文化研究20巻3号、2009年、p.213-216</ref><ref>今西一「[https://doi.org/10.34382/00002512 松下清雄を語る会について]」立命館言語文化研究21巻2号、p101-104.</ref><ref>[[荒岱介]]『新左翼とは何だったのか』幻冬舎新書、2008年、p.187</ref>。1952年には、[[所感派]]の学生が、立命館大学の学生を[[国際派 (日本共産党)|共産党国際派]]の[[日本反戦学生同盟|反戦学生同盟員]]であるがゆえに「帝国主義者のスパイ」としてリンチし、5年後に被害者が自殺した立命館事件や<ref name="im20"/>、日本共産党独立遊撃隊による[[横川元代議士襲撃事件]]が起きた。
1970年代には、[[日本の新左翼]]組織同士での対立により、リンチ殺人を含む[[内ゲバ]]暴力事件が多発した。
*[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]による[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]への暴行殺人事件として、[[東京教育大学生リンチ殺人事件]](1970)、[[琉球大学内ゲバ誤認殺人事件]](1974)、[[川崎市女子職員内ゲバ殺人事件]](1975)がある。
*革マル派による中核派への暴行殺人事件として、[[関西大学構内内ゲバ殺人事件]](1971)、[[川口大三郎事件]](1972)、[[中核派書記長内ゲバ殺人事件]](1975)がある。
*革マル派と[[社青同解放派|日本社会主義青年同盟解放派]]との対立においては、[[浦和車両放火内ゲバ殺人事件]]への報復として[[革労協書記長内ゲバ殺人事件]](1977)がある。
* [[山岳ベース事件]]([[連合赤軍]]リンチ殺害事件、1971-72)
*[[革命的労働者協会(社会党社青同解放派)|革労協]]内部のリンチ殺人として[[革労協元幹部内ゲバ殺人事件]](1989年)
また、[[部落解放同盟]]員が[[日本共産党]]や[[日本民主青年同盟]]員らを暴行する事件が1974年9月から10月にかけて[[兵庫県]][[朝来郡]]で連続した([[元津事件]]など)。同年11月、同県[[養父市]]で[[八鹿高校事件]]で教職員約60名を部落解放同盟員が監禁、暴行した<ref>「八鹿高校集団リンチ事件の真相」(特別報告)部落 27 (2), p43-48, 1975-02 部落問題研究所出版部,*矢川 徳光「但馬の「夜と霧」--八鹿高校集団リンチ事件」民主文学 / 日本民主主義文学会 編 (111) p144-149, 1975-02</ref>。
[[新右翼]]による内ゲバ殺人事件として[[スパイ粛清事件]](1982)がある。
=== 学校・教育 ===
[[学校]]においても、[[体罰]]や[[いじめ]]、[[校内暴力]]、[[体罰]]などで私的制裁が行われ、殺害までに発展した事件が多数ある。
* [[東京農業大学ワンダーフォーゲル部死のシゴキ事件]](1965年)
* [[戸塚ヨットスクール事件]](1979 - 1982年)
* [[鹿児島県立若駒学園|牧ノ原学園事件]](1987)
* [[大津市身体障害者リンチ致死事件]](2001)
* [[神戸大学院生リンチ殺人事件]](2002年)
* [[明治大学應援團#不祥事]](2007)
* [[大津市中2いじめ自殺事件]](2011年)
* [[時津風部屋力士暴行死事件]](2007)
=== 宗教 ===
* [[オウム真理教男性信者殺害事件]](1989)
* [[薬剤師リンチ殺人事件]] - [[オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件]](1994)
* [[福島悪魔払い殺人事件]](1995)
;テレビ・報道
* [[豊田商事会長刺殺事件]](1985年)<ref>浅野 健一「報道されたリンチ--豊田商事会長刺殺事件と報道の責任」法学セミナー (368), p16-19, 1985-08,日本評論社</ref>
* [[アフタヌーンショー#やらせリンチ事件|アフタヌーンショーやらせリンチ事件]](1985年)
* [[香川・坂出3人殺害事件]](2007)での報道
== インターネット・メディア ==
=== インターネット ===
{{see also|ネットいじめ|晒し|少年犯罪#少年犯罪者の個人情報}}
[[インターネット]]上では、悪事を犯したと目される人物を正義感をもって衝動的に私刑しようとする行為([[自警団|ネット自警団]])が見られる<ref>{{Cite journal |和書 |title=「ネットで叩く」側の論理 誰が「私刑」を執行するのか |year=2013 |publisher=[[朝日新聞出版]] |journal=[[AERA]] |issue=2013年8月26日号 |page= |url=http://dot.asahi.com/aera/2013082800024.html}}</ref>。特定の個人を名指しして[[個人情報]](当該人の電話番号や住所・実名・本人の写真・家族構成、家族や兄弟の勤務先や通学先など)を晒し出したり、名指しで批判や暴言を投稿している場合がある<ref>[https://www.j-cast.com/2015/03/01229135.html 「容疑者」家族の顔写真投稿、自宅の動画を撮影... 川崎市の中学生殺人、ネットで「私刑」が横行] - [[J-CASTニュース]]、2015年3月7日閲覧</ref>。対象は[[ネットいじめ|いじめの相手]]・掲示板やSNSで炎上した一般人・犯罪を犯した[[被疑者]]・[[被告人]]・暴言や失言及び不祥事を起こした[[芸能人]]を含む著名人など多岐にわたる。
ジャーナリスト[[安田浩一]]は、[[川崎市中1男子生徒殺害事件]]での犯人探しや、[[スマイリーキクチ中傷被害事件]]などを「ネット私刑」としている<ref>『ネット私刑(リンチ)』扶桑社〈扶桑社新書 186〉、2015年7月。</ref>。
=== メディア・リンチ ===
{{出典の明記|date=2023年5月|section=1}}
{{See also|メディアスクラム}}
{{要出典範囲|date=2023年5月|[[犯罪]][[事件]]などを中心に、主として、[[ワイドショー]]、[[週刊誌]]、[[ニュース]]ショー、[[パパラッチ]]などによって、庶民感情の犯罪への憎悪や覗き見趣味を煽る形で事件にまつわる[[被害者]]、[[加害者]]を問わず、人間関係や[[プライバシー]]などが[[マスメディア]]によって当事者の意向が無視された状態で一方的に流されてしまうことでプライバシーの侵害や名誉毀損が行われている状況の総称}}。ジャーナリスト[[浅野健一]]はマスメディアによるこうした私刑的な行動を、メディア・リンチと呼んでいる<ref>浅野健一『メディア・リンチ』潮出版社、1997年11月 ISBN 4267014868</ref>。
{{要出典範囲|date=2023年5月|[[日本]]のマスメディアの犯罪[[報道]]は、[[推定無罪|無罪推定]]すべき被疑者・[[被告人]]を犯人視して報道することが多い。日本では、確実な証拠が無いと[[逮捕]]しないこと、[[起訴]]便宜主義によって[[犯罪|有罪]]に持ち込めると確信できる事件しか起訴しないことなど、捜査機関の判断と[[裁判所]]の判断の近接が生じていることが大きいと考えられる。これは日本国外でも同様である。また、被疑者・被告人の[[プライバシー]]を暴き立てることによって視聴者・読者の関心が高まりやすいこと、[[記者クラブ]]制度によってマスメディアが捜査機関の一部のように振舞っていること、警察、検察の取調べなどの際に被告人に[[弁護士]]などの第三者がつかないため、警察発表が一方的に報道される傾向が強いことなども大きいと考えられる。[[松本サリン事件]]などはその顕著な例である。本論については[[人権屋]]も参照}}。
=== 犯罪被害者に対する報道 ===
{{要出典範囲|date=2023年5月|犯罪被害者に対しては、世間一般的にはマスメディアは同情的に流すものと意識されているが必ずしもそうではない。被害者やその親族・関係者が事件にまつわる取材を忌避する傾向や事件に関する報道を流すことを望まない例が間々見られるにもかかわらず、マスメディアが当事者の意向を無視して、プライバシーを暴露したり、人間関係や事件に関連するトラブルを一方的に報道することもしばしば見られる}}。
=== その他の例としてのメディア・リンチ ===
{{要出典範囲|date=2023年5月|著名人、タレント、芸能人やそれにまつわる事件のほか、大規模災害の被災者などへの取材活動に関して、視聴率や発行部数の向上など、マスコミが自身の利益に繋がる期待通りの取材成果や映像が得られない場合、彼らに対して横暴な態度を取ることが見られ、これが一種のメディア・リンチではないかとの指摘がある。特に後者の場合には、取材側が大規模災害を一種の「祭り」として楽しんでいる感覚があり、それにまつわる刺激的な演出を求めているために行われる傾向が見られるために、一方的に行われるのではないかとの指摘である。たとえば、[[報道番組]]での発言などについてそうした傾向があるとのものである。現在では[[ブログ]]や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]内で同様に不道徳な行為を行ったことを告白する人物や、企業等の不祥事、思想的に異なる見解、単なる趣味嗜好の違いに対してまでも、[[電子掲示板|インターネット掲示板]]で呼びかけて同様のことを行っており、俗に「[[炎上 (ネット用語)|炎上]]」と言われている}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
* [[公開処刑]]
* [[報復]]
* [[拷問]]
* [[吊し上げ]]
* [[誹謗中傷]]
* [[社会的制裁]] - [[社会的排除]] - [[村八分]] - [[自検断]]
* [[自警団]] - [[自粛警察]] - [[警察の暴力]]
* [[いじめ]] - [[性的いじめ]] - [[ネットいじめ]] - [[共同絶交]]
* [[集団行動]]
* [[魔女狩り]]
* [[名誉の殺人]]
* [[モラル・パニック]]
* [[集団心理]]
* [[同調現象]]
* [[モラルハラスメント]]
* [[パワーハラスメント]]
* [[寮|寮生活]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
*{{kotobank}}
*{{kotobank|リンチ(私刑)}}
*{{kotobank|ネット私刑}}
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[[Category:犯罪]]
[[Category:社会問題]]
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[[Category:メディア問題]]
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[[Category:人権侵害]] | 2003-03-23T08:13:31Z | 2023-11-14T23:15:59Z | false | false | false | [
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4,982 | 宗教一覧 | 本項は、宗教の一覧(しゅうきょうのいちらん)である。
ヴェーダ聖典の権威を認めない立場の思想家
(因習に縛られることなく、商工業が盛んな都市国家で活躍し、多くの自由思想家がいて、原始仏教聖典では「六十二見(思想)」としてまとめられているが、ジャイナ教を含めた以下の六師が有名である。六師外道(仏教以外の教え)とも呼ばれる。)
ジャイナ教は、24人の聖人であるティールタンカラを持つ宗教で、マハーヴィーラを最新かつ最後のティールタンカラとする。バラモン教よりも古いとされる場合もある。
ブッダと尊称されるガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)を開祖とする宗教。
バラモン教に対してはヴェーダの権威を否定し、祭式万能主義・バラモン至上主義に反対の意を表した。このためバラモン教側からは虚無主義(ナースティカ)と誤解され批判された。
仏教学では原始仏教・部派仏教・大乗仏教に大別。 | [
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] | 本項は、宗教の一覧(しゅうきょうのいちらん)である。 | {{TOCright}}
本項は、'''[[宗教]]の一覧'''(しゅうきょうのいちらん)である。
==宗教・宗派(教派・分派)==
=== 古代宗教 ===
* [[ゾロアスター教]]([[パールシー|現存]])
** [[ズルワーン教]]
* [[マズダク教]]
* [[ミトラ教]]
* [[マンダ教]](現存)
** 関連: [[サービア教徒]]
* [[マニ教]] (現存)
* [[グノーシス主義]]
* [[古代ギリシアの宗教]]
=== ユダヤ教 ===
{{main|ユダヤ教}}
*[[パリサイ派]]
*[[サドカイ派]]
*[[エッセネ派]]
*[[ラビ・ユダヤ教]]
=== キリスト教系 ===
==== キリスト教 ====
{{main|キリスト教諸教派の一覧}}
* [[アリウス派]]
** [[ユニテリアン]]
* [[正教会]]([[ギリシャ正教]])
** [[ギリシャ正教会]]、[[ルーマニア正教会]]、[[ロシア正教会]]など
* [[東方諸教会]]
** [[ネストリウス派]]
*** [[アッシリア東方教会]]
** [[非カルケドン派正教会]](俗に[[単性説|単性論]]派と呼ばれることがあるが、自らは[[合性論]]派と主張)
*** [[アルメニア使徒教会]]、[[コプト正教会]]、[[エチオピア正教会]]、[[シリア正教会]]など
* [[カトリック教会]]
** [[東方典礼カトリック教会]]
*** [[マロン典礼カトリック教会]](マロン派)
* [[復古カトリック教会]]
* [[ケルト系キリスト教]]
* [[聖公会]](プロテスタントに含めることもある)
** [[イングランド国教会]]、[[米国聖公会]]など
* [[プロテスタント]]
** [[ルーテル教会|ルター派]]
** [[改革派教会]]([[カルヴァン主義]])
*** [[改革長老教会]](狭義の改革派)
**** [[オランダ改革派教会]]など
*** [[長老派]]
**** [[スコットランド国教会]]など
*** [[ピューリタン]]
**** [[クエーカー]]
**** [[会衆派]]
**** [[バプテスト]]
** [[メソジスト]]([[アルミニウス主義]])
*** [[救世軍]]
*** [[ホーリネス]]
**** [[ペンテコステ派]]
* [[ラディカル・リフォーメーション]](根本的宗教改革)
** [[アナバプテスト]](再洗礼派)
*** [[メノナイト]]
**** [[アーミッシュ]]
==== キリスト教系新宗教 ====
{{main|キリスト教の新宗教}}
* [[エホバの証人]]
* [[末日聖徒イエス・キリスト教会]] (モルモン教)
* [[世界平和統一家庭連合]] (旧称、統一教会)
* [[クリスチャン・サイエンス]]
* [[ファミリー・インターナショナル]]
* [[キリスト教福音宣教会]] (摂理)
* [[人民寺院]]
* [[ユニテリアン主義]]
* [[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム]]
* [[全能神]]
* [[セブンスデー・アドベンチスト教会]]
* [[新エルサレム教会]]
* [[神の十戒復古運動]]
====その他====
* [[ニューソート]]
=== イスラム ===
{{main|イスラーム}}
* [[イバード派]]
* [[スンニ派]]
**[[ハナフィー学派]]([[マズハブ#スンナ派の四大法学派|スンナ派の四大法学派]]の1つ)
**[[マーリク学派]](スンナ派の四大法学派の1つ)
**[[シャーフィイー学派]](スンナ派の四大法学派の1つ)
**[[ハンバル学派]](スンナ派の四大法学派の1つ)
*** [[ワッハーブ派]](厳密には宗派ではない)
* [[シーア派]]
** [[ザイド派]]
** [[十二イマーム派]]
*** [[バーブ教]](自他共にイスラム教から分離したとしている)
**** [[バハイ教]](自他共にイスラム教から分離したとしている)
** [[イスマーイール派]]
*** [[ムスタアリー派]]
*** [[ニザール派]]
* [[ドゥルーズ派]](イスマーイール派から派生したが、イスラム教に収まるかは疑問視されることがある)
* [[アラウィー派]](シーヤ派から派生したとされているが詳細は不明で、イスラム教に収まるかは疑問視されることがある)
* [[アレヴィー派]](シーヤ派から派生したとされているが詳細は不明で、イスラム教に収まるかは疑問視されることがある)
* [[アフマディーヤ]](スンニ派から分派したと主張するが、異端とされる)
** [[ラホール派]]
** [[カーディヤーン派]]
* [[スーフィズム]](イスラム神秘主義。宗派ではない)
* [[ネーション・オブ・イスラム]](多くのムスリムはイスラム教に含まれるとみなさない)
=== インド宗教 ===
==== ヒンドゥー教 ====
{{main|ヒンドゥー教}}
*[[バラモン教]](ブラーフマニズム、ヴェーダの宗教) - 古代インドの民族宗教。広義のヒンドゥー教に含まれる<!--ミネルヴァ書房『宗教学入門』83頁。-->。司祭階級バラモン(ブラフミン)を階級の頂点とする。1世紀から3世紀頃は、仏教の興隆に押されて振るわず。4世紀頃にヒンドゥー教(狭義)に発展・継承される。
*[[正統バラモン六派哲学]](何らかの意味でヴェーダ聖典の権威を認める)
**[[サーンキヤ学派]]
**[[ヨーガ学派]]
**[[ニヤーヤ学派]]
**[[ヴァイシェーシカ学派]]
**[[ミーマーンサー学派]]
**[[ヴェーダーンタ学派]]
*[[ヒンドゥー教]](狭義) - バラモン教が4世紀頃にインドの地域宗教を取り込み発展した。
**[[ヴィシュヌ派]]([[w:Vaishnavism|Vaishnavism]])
***[[バーガヴァタ派]]
****[[マドヴァ派]]
****[[ヴィシュヌスヴァーミン派]]
****[[ニンバールカ派]]
****[[ヴァッラバーチャーリヤ派]]
****[[チャイタニヤ派]]
***[[パンチャラートラ派]]
**[[シヴァ派]]([[w:Saivism|Saivism]])
***[[聖典シヴァ派]]
***[[カシミール・シヴァ派]]
***[[パーシュパタ派]]([[獣主派]])
***[[シャクティ派|シャークタ派]](女神崇拝派)
***[[ラセーシュバラ派]]([[水銀派]])
***[[リンガーヤタ派]]
***[[カーパーリカ派]]
**[[スマールタ派]]
**新興宗派
***[[ブラフモ・サマージ]]
***[[プラールタナー・サマージ]]
***[[アーリヤ・サマージ]]
***[[神智学協会]]
***[[ラーマクリシュナ・ミッション]]
***[[シュリー・ナーラーヤナ法普及協会]]
==== インドの自由思想家 ====
ヴェーダ聖典の権威を認めない立場の思想家
(因習に縛られることなく、商工業が盛んな都市国家で活躍し、多くの自由思想家がいて、原始仏教聖典では「六十二見(思想)」としてまとめられているが、ジャイナ教を含めた以下の六師が有名である。六師外道(仏教以外の教え)とも呼ばれる。)
*プーラナ・カッサパの無道徳論(道徳否定論)
*パクダ・カッチャーヤナの要素集合説
*マッカリ・ゴーサーラの[[アージーヴィカ教]](運命決定論)
*アジタ・ケーサカムバリンの唯物論(快楽主義)
*サンジャヤ・ベーラティプッタの懐疑論
==== ジャイナ教 ====
[[ジャイナ教]]は、24人の聖人である[[ティールタンカラ]]を持つ宗教で、[[マハーヴィーラ]]を最新かつ最後のティールタンカラとする。バラモン教よりも古いとされる場合もある。{{see|[[w:Jainism|Jainism]]}}
*[[白衣派]](びゃくえは、シュベーターンバラ)
**[[デーラーヴァーシー派]]
**[[スターナクヴァーシー派]]
*[[裸行派]](ディガンバラ)
**[[テーラーパンティ派]]
**[[ヴィスパンティ派]]
*[[ロンカー派]](ムスリムのインドへの侵入を契機として生まれた)
==== シク教 ====
*[[シク教]]
==== ゾロアスター教 ====
*[[パールシー|インドのゾロアスター教]]
=== 仏教 ===
{{main|仏教}}
[[ブッダ]]と尊称される[[釈迦|ガウタマ・シッダールタ]](ゴータマ・シッダッタ)を開祖とする宗教。
バラモン教に対しては[[ヴェーダ]]の権威を否定し、祭式万能主義・バラモン至上主義に反対の意を表した。このためバラモン教側からは[[虚無主義]]([[アースティカとナースティカ|ナースティカ]])と誤解され批判された。
;二大潮流
* [[上座部仏教]] - 初期仏教の伝統を今に伝える[[#南伝仏教|南伝仏教]](もしくは歴史上の[[部派仏教]]の総体を指す<!--井上順孝『フシギなくらい見えてくる!本当にわかる宗教学』53-54頁。-->)。
* [[大乗仏教]] - 後発の教えである大乗経典を受容する。[[#北伝仏教|北伝仏教]]の主流。
;教えの分類
* 三乗説: [[声聞乗]]・[[縁覚乗]]・[[大乗仏教|菩薩乗]]
** [[小乗]]: 声聞と縁覚の二乗。
** [[大乗]]: 菩薩乗に同じ。
* 三転法輪説(『[[解深密経]]』に基づき、チベット仏教で説かれる<!--朝倉書店『仏教の事典』362頁。-->)
** [[初転法輪]]([[四聖諦]]の教え)
** 第二転法輪([[般若経|般若]]・[[空 (仏教)|空性]]の教え)
** 第三転法輪([[唯識]]と[[如来蔵]]の教え、[[密教]]も含む)
* 顕密二教: [[顕教]] / [[密教]]
* 大乗の主要学派: [[中観派]]・[[瑜伽行唯識派]]
====インド仏教====
{{see also|インドの仏教|インドにおける仏教の衰退}}
仏教学では[[初期仏教|原始仏教]]・[[部派仏教]]・[[大乗仏教]]に大別。
* 初期仏教(前4世紀 - 後1世紀) - 現存の上座部仏教に類似した形態の仏教<!--時代区分は立川武蔵『ブッダをたずねて - 仏教2500年の歴史』18-19頁による-->
** '''[[初期仏教|原始仏教]]'''(根本仏教)
** '''[[部派仏教]]'''(アビダルマ仏教)
*** 歴史上存在した主要部派: [[上座部]]・[[大衆部]]・[[説一切有部]]など
* 中期仏教(後1世紀 - 7世紀中葉)
** 部派仏教と'''[[大乗仏教]]'''
* 後期仏教(7世紀中葉 - 14世紀)
** 部派仏教、後期大乗仏教、'''[[密教]]'''
* 近現代
** [[新仏教運動]]
==== 南伝仏教 ====
{{see also|スリランカの仏教}}
* [[上座部仏教]]
** 南方上座部(南方[[分別説部]])
*** [[マハーヴィハーラ|大寺派]] - 現存の上座部仏教のルーツ。
*** [[無畏山寺派]] - 大乗を受容。12世紀に廃絶。
*** [[祇多林寺派]] - 大乗を受容。12世紀に廃絶。
==== 北伝仏教 ====
* [[中国仏教]]
** [[律宗]]
*** [[南山律宗]]
** [[涅槃宗]]
** [[天台宗]]
** [[三論宗]]
** [[地論宗]]
** [[摂論宗]]
** [[法相宗]]
** [[華厳宗]]
** [[浄土教]]
*** [[白蓮教|白蓮宗]]
** [[禅宗]] ([[w:Chan Buddhism|Chan]])
*** [[牛頭宗]]
*** [[保唐宗]]([[浄衆宗]])
*** [[北宗]]
*** [[南宗]]
*** [[荷澤宗]]
*** [[洪西宗]]
*** [[曹洞宗]]
*** [[臨済宗]]
**** [[楊岐派]]
**** [[黄龍派]]
*** [[雲門宗]]
*** [[法眼宗]]
*** [[い仰宗]]
* [[朝鮮の仏教]]
** [[華厳宗]]
** [[曹渓宗]]
* [[日本の仏教]] - 仏教は日本国内で独自の発達をしている。日本から世界へ出て行ったものもある。
** [[三論宗]]
** [[成実宗]]
** [[法相宗]]
** [[倶舎宗]]
** [[華厳宗]]
** [[律宗]]
** [[真言宗]]
*** [[東寺]]([[東寺派]])
*** [[高野山真言宗]]
*** [[長谷寺]]([[豊山派]])
*** [[智積院]]([[智山派]])
*** [[仁和寺]]([[御室派]])
*** [[醍醐寺]]([[醍醐派]])
*** [[大覚寺]]([[大覚寺派]])
*** [[善通寺]]([[善通寺派]])
*** [[信貴山寺]]([[信貴山派]])
***圓光寺
*** [[真言律宗]]
** [[天台宗]]
*** [[延暦寺]]([[山門派]])
*** [[園城寺]]([[天台寺門宗]])
*** [[西教寺]]([[天台真盛宗]])
*** [[四天王寺]]([[和宗]])
*** [[法隆寺]]([[聖徳宗]])
*** [[浅草寺]]([[聖観音宗]])
*** [[聖護院]]([[本山修験宗]])
** [[浄土宗]]
*** [[鎮西派]]
*** [[浄土宗西山派|西山派]]
** [[浄土真宗]]<!-- 本山の名称は、公式サイトがある場合は、その表記による。 -->
*** [[浄土真宗本願寺派]] - (本山)[[西本願寺|浄土真宗本願寺派本願寺(通称・西本願寺)]]
*** [[真宗大谷派]] - (本山)[[東本願寺|真宗本廟(通称・東本願寺)]]
*** [[真宗高田派]] - (本山)[[専修寺#本山専修寺|真宗高田派本山専修寺]]
*** [[真宗佛光寺派]] - (本山)[[佛光寺|真宗佛光寺派 本山佛光寺]]
*** [[真宗興正派]] - (本山)[[興正寺|真宗興正派 本山興正寺]]
*** [[真宗木辺派]] - (本山)[[錦織寺|真宗木辺派 本山錦織寺]]
*** [[真宗出雲路派]] - (本山)[[毫摂寺|真宗出雲路派 本山毫摂寺]]
*** [[真宗誠照寺派]] - (本山)[[誠照寺|真宗誠照寺派本山誠照寺]]
*** [[真宗三門徒派]] - (本山)[[専照寺]]
*** [[真宗山元派]] - (本山)[[證誠寺 (鯖江市)|證誠寺]]
*** [[真宗浄興寺派]] - (本山)[[浄興寺|真宗浄興寺派 本山浄興寺]]
*** [[浄土真宗東本願寺派]] - (本山)[[浄土真宗東本願寺派本山東本願寺]]
** [[時宗]]
** [[融通念仏宗]]
** [[日蓮宗]]
*** [[日蓮正宗]]
**** [[創価学会]](現在は破門)
*** [[日蓮法華宗]]
*** [[日蓮本宗]]
*** [[日蓮主義仏立講]]
*** [[国柱会]]
*** [[日本山妙法寺大僧伽]]
** [[禅宗]]
*** [[臨済宗]]
**** [[南禅寺]]([[臨済宗南禅寺派|南禅寺派]])
**** [[妙心寺]]([[臨済宗妙心寺派|妙心寺派]])
**** [[大徳寺]]([[臨済宗大徳寺派|大徳寺派]])
**** [[天龍寺]]([[臨済宗天龍寺派|天龍寺派]])
**** [[相国寺]]([[臨済宗相国寺派|相国寺派]])
**** [[東福寺]]([[臨済宗東福寺派|東福寺派]])
**** [[建仁寺]]([[臨済宗建仁寺派|建仁寺派]])-以上、京都
**** [[建長寺]]([[臨済宗建長寺派|建長寺派]])
**** [[円覚寺]]([[臨済宗円覚寺派|円覚寺派]])-以上、鎌倉
**** [[国泰寺 (高岡市)|国泰寺]]([[臨済宗国泰寺派|国泰寺派]])
**** [[佛通寺]]([[臨済宗佛通寺派|佛通寺派]])
**** [[向嶽寺]]([[臨済宗向嶽寺派|向嶽寺派]])
**** [[方広寺]]([[臨済宗方広寺派|方広寺派]])
**** [[永源寺 (東近江市)|永源寺]]([[臨済宗永源寺派|永源寺派]])
*** [[曹洞宗]]
*** [[黄檗宗]]
*** [[普化宗]]
*[[チベット仏教]]
** [[ゲルク派]]
** [[サキャ派]]
** [[カギュ派]]
** [[ニンマ派]]
=== 西アジアの宗教 ===
* [[マンダ教]]
* [[ヤズィーディー|ヤジディ教]]
* {{仮リンク|サマリア教|en|Samaritanism}}([[サマリア人]]の宗教)
=== 中央アジアの宗教 ===
*[[ボン教]](ポン教)
=== 東アジアの宗教 ===
* [[儒教]]
* [[道教]]
** [[正一教]](しょういつきょう)
** [[全真教]](ぜんしんきょう)
** [[法教 (道教)|法教]]
<!--* [[墨家]]
:参考 [[諸子百家]]-->
* [[神道]]
** [[神社本庁]]
<!--* [[陰陽道]]-->
*[[陰陽道]]<ref group="注">陰陽道は国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語ではない。古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。</ref>
**[[土御門神道]]
* [[修験道]]
* [[琉球神道]]
* [[カムイ|カムイ信仰]]
*[[日本]]の[[新宗教]]
** [[黒住教]]
** [[天理教]]
*** [[ほんぶしん]]
*** [[おうかんみち]]
*** [[ほんみち]]
*** [[神一條教]]
** [[金光教]]
** [[パーフェクト リバティー教団]](PL教団)
** [[大本]]
** [[生長の家]]
** [[創価学会]]
** [[立正佼成会]]
** [[霊友会]]
<!--** [[ブリ教]](旧 ブリ友の会)-->
*** [[大形派]]
*** [[松本派]]
*** [[いんなあとりっぷ]]
** [[真如苑]]
** [[日蓮宗葵講]]
** [[世界救世教]]
** [[世界真光文明教団]]
** [[崇教真光]]
** [[白光真宏会]]
** [[解脱会]]
** [[GLA総合本部]]
** [[阿含宗]]
** [[辯天宗]]
** [[念佛宗三寶山無量壽寺]]
** [[オウム真理教]]([[Aleph (宗教団体)|アレーフ]])
** 細木教
** 大国教会
** [[千乃正法]]([[パナウェーブ研究所]])
** [[法の華三法行]]
** [[ライフスペース]]
** [[冨士大石寺顕正会]]
** [[日本平和神軍]]
** [[浄土真宗親鸞会]]
** [[隠れキリシタン#カクレキリシタン|カクレキリシタン]]
** [[キリストの幕屋]] (原始福音)
** [[聖神中央教会|聖神世界宣教会]] (聖神中央教会)
** [[天架教]]
** [[幸福の科学]]
** [[新生佛教教団]]
** [[輝の会]]
<!--*[[朝鮮民主主義人民共和国]]の新宗教
**[[主体思想]]-->
*[[ベトナム]]の新宗教
**[[カオダイ教]]
**[[ホアハオ教]](仏教系とも言われる)
=== その他 ===
*[[ギリシア神話|オリュンポスの神々]]
*[[ローマ神話|ローマの神々]]
*[[北欧神話|ゲルマンの神々]]
*[[フィンランド神話|フィンランドの神々]]
*[[ケルト神話|ケルトの神々]]
*[[スラヴ神話|スラヴの神々]]
*[[インカ神話|インカの神々]]
*[[マヤ神話|マヤの神々]]
*[[アステカ神話|アステカの神々]]
*[[エジプト神話|エジプトの神々]]
*[[ドルイド|ドルイド教]]
* [[心霊主義]]([[スピリティズム]])
* [[ラスタファリ運動]]
* [[宇宙生活教会|ユニバーサルライフ(普遍生活)教会]]
* [[コピミズム伝道教会]]
* アルケー教/アペイロン教
==== 精神修養 ====
* マトリックス教 ([[w:Matrixism|Matrixism]])<!--[http://www.geocities.com/matrixism2069] {{リンク切れ|date=2019-01-28}}-->
* [[法輪功|法輪大法]]
==== 土着宗教など ====
*{{仮リンク|アフリカ先住民の宗教|en|Traditional African religions}}
*{{仮リンク|アメリカ先住民の宗教|en|Native American religion}}
*[[カーゴ・カルト]]
*[[サン人の宗教]]
*[[ナッ信仰]]
*[[アルクトドロ教]]
*[[テングリ|テングリ信仰]]
*{{仮リンク|ヨルバ系宗教|en|Yoruba religion}}
==== ネオペイガニズム ====
{{main|ネオペイガニズム}}
*{{仮リンク|ヒーザニズム|en|Heathenry (new religious movement)}}
**{{仮リンク|アサトル|en|Asatru}}
*{{仮リンク|ネオドルイディズム|en|Neo-Druidism}}
*[[ディエヴトゥリーバ]] ([[w:Dievturiba|Dievturiba]])
*[[ウイッカ]]
**{{仮リンク|ガードナー派ウイッカ|en|Gardnerian Wicca}}
**{{仮リンク|ダイアナ派ウイッカ|en|Dianic Wicca}}
*{{仮リンク|女神運動|en|Goddess movement}}
==== アフロ・クレオール宗教 ====
{{see also|{{仮リンク|アフロ・アメリカの宗教|en|Afro-American religion}}}}
*[[サンテリア]]
*[[ヴードゥー教]]
==== サタニズム系 ====
*[[サタニズム]]
**[[サタン教会]]
**{{仮リンク|サタニック・テンプル|en|The Satanic Temple}}
*[[左道と右道|左道]]
**{{仮リンク|セトの神殿|en|Temple of Set}}
==== 秘教 ====
{{main|秘教}}
*{{仮リンク|古代神秘薔薇十字団|en|Ancient Mystical Order Rosae Crucis}}
==== 神秘主義 ====
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4,985 | 死刑存廃問題 | 死刑存廃問題(しけいそんぱいもんだい)は、死刑制度の是非に関して存在する倫理、法律(憲法)、刑事政策、そして国際外交にかかわる諸問題である。
死刑制度の是非をめぐっては、死刑制度を維持する国では存続に賛成する存置論 (存続論)、死刑制度の廃止を主張する廃止論(反対論)、死刑制度を廃止した国では制度の復活に賛成する復活論とそれに反対する廃止維持論が存在する。死刑制度は宗教、哲学および社会感情が複雑に絡むテーマであり、存置派と廃止派とは、古代から現在に至るまで、様々な論点をめぐって様々な対立をしてきた。
死刑是非の論争の背後には、犯罪者に対する処遇を扱う刑事政策問題の範疇におさまらず、刑罰論や生命論といった法哲学の広く深い対立の溝があり、合意には至っていない。こうした状況のため、死刑存廃の議論は、しばしば「不毛の論議」となる(中嶋 2004, p. 189)。
下記の表は双方の立場から提示された様々な論争の論点の一部を書物 から、列挙したものである。この図でも判るように双方とも鋭く対立している。
なお前述のとおりこれらの論争は無数にある死刑存廃論議のほんの一部であり、このような二項対立的な議論が常になされているわけでもない。また双方の主張者がすべて同一であるわけではない。
死刑の是非の論争は学術的には哲学・倫理学において政策や法の是非を論じる規範倫理学や応用倫理学に属する。この観点において死刑の是非の論争は義務論と帰結主義と徳倫理学の3つに大別される。「人の命を奪う死刑は悪」(人権論)や「死刑の冤罪は取り返しがつかない」などの死刑反対論や、「死刑は応報である」(応報論)や「生命権、自由権、財産権の侵害は死刑、懲役、罰金で償うべき」(社会契約説)などの死刑賛成論は義務論に属する。死刑や終身刑の犯罪抑止効果およびその制度の経済的採算性の比較は帰結主義(論)に属する。徳倫理学においては、死刑という刑罰が残虐であるか、あるいは死刑によって被害者や遺族の救済が達成されるのかという徳に関する考察や、被害者と加害者、捜査に関わる警察や裁判に関わる法曹(検察官、弁護士、裁判官)および死刑を実際に執行する看守などに実際にどのような精神的および道徳的影響が及ぼされるのかが議論される。一般論として反対派は「血を血で贖う」死刑制度は社会を残虐化するとの論を展開し、賛成派は、死刑で罪が償われることにより法の正義および生命の尊厳が再確認されるとの論を展開する。
死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤認による逮捕・起訴・死刑判決・死刑執行が主張される。死刑執行後に冤罪が判明した場合は、その被害は重大であり、被害の回復は不可能である。
冤罪を理由に死刑廃止を主張する人々は、下記の理由で冤罪を論拠とする死刑廃止を主張している。
冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張する人々は、下記の理由で冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張している。
日本においては、1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後、死刑判決を受けて死刑囚になったが、再審で無罪判決を受けて釈放された、免田事件、松山事件、島田事件、財田川事件。
死刑廃止論者は、殺人事件で起訴された被告人のうち、死刑判決が確定する被告人が実際には少ない(日本国内では1990年代以後は毎年600~700人前後が殺害され、殺人犯の90%以上が検挙されているが、年によって上下するが十数人程度しか死刑が確定しない)ことから、現制度では殺人被害者の遺族のうち、死刑存置論者が主張する死刑による感情回復ができないのはおろか、加害者の贖罪すら受けることの出来る者が少ないと批判している。一方で、殺人事件の被害者遺族の大半は死刑を望んでおり、日本も含めて死刑制度の存在する国の被害者遺族の団体の殆どが死刑賛成の立場をとっている。しかし、これらの被害者遺族団体も「目には目」のように殺人罪全てに死刑適用を要求しているのではなく、あくまで情状酌量の余地のない殺人においてのみ死刑の適用を要求している。
日本においては死刑囚に対して被害者の遺族が死刑を執行しないよう法務省に求めた場合 でも死刑は執行されており、これは被害者遺族の感情を回復するどころか傷つけているのではないか、という批判がある。一方、外国では、例えばアメリカでは被害者遺族が死刑を望まない場合は、知事が死刑を終身刑に減刑することができたり、イスラム法国家では、被害者遺族が死刑を望まない場合は遺族の要望で死刑の恩赦が可能である。これは日本では終身刑が存在しないため、外国のように死刑を終身刑に減刑することができないからであるといえる。
他方被害者遺族は、犯罪被害者の被害として、家族を殺害されたという直接的被害にとどまらず、報道機関や司法関係者などから心無い干渉を受けたり、逆に国や社会から見離され孤立化することで二次的被害を受けることが多い事から、被害感情を一層つのらせることになり、加害者である犯人に対し極刑を求める感情が生じているとも云われる。そこで、犯罪者を死刑にすれば犯罪被害者遺族の問題が全て解決するわけではないとして、死刑存置だけでなく犯罪被害者遺族に対する司法的対策を充実すべきであり、そのことが被害者遺族の報復感情と復讐心を緩和させるとの主張 もある。
犯罪被害者救済のために犯罪者に対する附帯私訴の復活を主張する作家で弁護士の中嶋博行は、国が被害者遺族に給付金を与える制度があるが、これらの予算は税金であるので犯罪者に償いをさせるべきであり、死刑相当の凶悪犯は死ぬまで働かせて損害賠償をさせるべきだと主張している(中嶋 2004, pp. 190–191)。
被害者遺族の応報感情のために死刑制度は必要だと主張する藤井誠二は、『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の闘い』のなかで「加害者がこの世にいないと思うだけで、前向きに生きる力がわいてくる」という遺族の言葉を私は聞いたことがある。被害者遺族にとっての「償い」が加害者の「死」であると言い換えることだってできるのだ。私(藤井)はそう考えている」「加害者の死は被害者遺族にとっては償いである」と主張している。ただし、この藤井の事件被害者への一方的な肯定論に立った言論に対する批判も少なくない。また、被害者と加害者の家族が一緒の家庭内の殺人(かつて特に尊属殺は厳罰 になった)の場合については対応できていないといえる。また彼は『重罰化は悪いことなのか 罪と罰をめぐる対話』において、 「人間の尊厳を無残なかたちで奪い取った者に対する罰としての死刑をやめてしまうと、人は何人殺したとしても国家が命を保証することになる。それが殺された側の尊厳に対しての人道なのか。このような、どうしても譲れない一線が、僕をふくめた死刑存置派にはあります。死刑に反対する理由をひとつずつ削いでいくというか、慎重に消去法でやっていって、苦渋の選択として死刑は存置するべきだという立場をとるにいたっています。」(P121-122)と述べている。 アメリカ合衆国連邦最高裁は「被害者感情は客観的に証明できるものではない、よって死刑の理由にするのは憲法違反」との判決を出している。アメリカ合衆国やその他の先進国では、殺人被害者家族による死刑制度賛成団体もあるが、殺人被害者家族と加害者が対話して、加害者が家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思ちを表すことによりすることにより、家族の被害感情を少しでも緩和と加害者との和解や赦しを提案する運動があり、英語ではRestorative Justice、日本語では修復的司法と表現する。被害者と加害者の対話と謝罪・贖罪・賠償・更生の意思の表現による赦しと和解の提案は殺人だけではなく他の暴力犯罪や非暴力犯罪でも提案され実施され、対話の結果として、被害者や被害者の家族が加害者に許しの感情と和解を表明する事例もあり、ある程度の成果になっている。ただし、被害者と加害者の対話の提案は、刑事裁判と刑事司法制度や、少年審判と少年保護処分のように公権力が強制的に行う制度ではなく、被害者または被害者の家族と加害者の両者に提案して両者の合意により成り立つ任意の試みである。犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、加害者に対する被害者や被害者の家族の怒り・恨み・憎しみ・嫌悪・拒絶の感情や処罰感情は大きく強くなる傾向が著しいので、犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、被害者側の拒否により実現される可能性が低いという現実がある。加害者においても、全ての加害者が被害者や被害者に家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思を持つのではなく、謝罪・贖罪・賠償・更生の意思が無く被害者や被害者の家族との対話を拒否する加害者も存在するので、加害者の意思により実現される可能性が低いという現実もある。
死刑を廃止した国に見られる思想として、「環境要因論」がある。
これは、死刑に値する凶悪犯罪の背景に、家庭環境や社会情勢という本人の努力では変えられない環境が必ず存在しているという見方である。この環境要因論は、加害者が優良な環境に恵まれていれば、その加害者は死刑に値する凶悪犯罪を起こさなかった、とする内容であり;これを裏返せば、被害者であっても、加害者が被った劣悪な家庭環境や社会情勢に置かれていれば、死刑に値する凶悪犯罪を起こす可能性を持っている、とも言える。
つまり、加害者を死刑に処しても凶悪犯罪が根絶されないという観点から、犯罪に駆り立てた「環境」を絶つことが犯罪の根絶に必要であると説く内容である。
一部の死刑廃止論者は、死刑は懲役と比較して有効な予防手段ではないとしている。
また、他の一部の死刑廃止論者は、死刑の抑止効果が仮に存在するとしても、他の刑との抑止効果の差はさらに小さい、ないしは均等であるとする。また、そもそも、抑止力などというものは将来にわたって確認・検出不能であると考えられるとして、明確な抑止効果、ないしはその差異が証明されない以上、重大な権利制限を行う生命刑が、現代的な憲法判断により承認されることはないとしている。実際に死刑を廃止したフランスでは死刑制度が存置されていた時代よりも統計的には凶悪犯罪が減少していることなどもあり、犯罪抑止効果などという概念自体科学的に疑わしいといわざるを得ず、また死刑に相当する犯罪行為の目撃者を死刑逃れのため「口封じ」することさえあるとして、犯罪抑止効果に対する懐疑性の理由としている。
それに対し、一部の死刑存置論者は、終身刑や有期刑にしても統計的には明確な抑止効果は証明されておらず、終身刑や有期刑が死刑と同等の抑止効果を持つことが証明されない限り、死刑を廃止すべきではないとする。また、個別の事件を見ると、闇の職業安定所で知り合った3人が女性一人を殺害した後にも犯行を続行しようとしたが、犯人のうち一人が死刑になることの恐怖から自首したという例もあり、死刑制度の存在が犯罪抑止に効果があるとの主張も根強くある。このような認識は少なからざる人々の間で語られるが、数的根拠はない。死刑制度存続を必要とする理論的理由は後述のように犯罪被害者遺族のために必要とするなど複数存在している。また、死刑制度の代替と主張される終身刑(無期懲役)などの刑罰が、死刑と比べ相対的な犯罪抑止効果があるかを示す統計も出ていないのも事実である。すなわち、死刑と長期の懲役のうちどちらが犯罪を抑止する効果が優れているかどうかは誰も検証できていない。これに対してはそもそも「抑止力」という概念をあてはめること自体不適当ではないかという問題もあるとされる。
死刑の犯罪抑止効果について、統計的に 抑止効果がある と主張する論文は、アメリカ合衆国でいくつか発表されているが、その分析と称されるそれに対しては多くに批判が存在しており、全米科学アカデミーの審査によると「どの論文も死刑の犯罪抑止力の有効性を証明できる基準には遠く及ばない」としている。
個別の刑罰の特別抑止(再犯抑止)効果を除いた一般抑止効果は、死刑、終身刑およびほかの懲役刑も含めて、統計上効果が実証されていない。一般論として、死刑反対派は「死刑による犯罪の一般抑止効果の統計的証拠がないこと」、死刑賛成派は「死刑代替刑による威嚇効果が十分でないこと」を指摘する。抑止効果の分析方法には地域比較と歴史的比較がある。地域比較では国や州の制度の違いによって比較が行われる。
地域比較としては、アメリカ合衆国の1960年から2010年までの、死刑制度が無い州や地域と、死刑制度が有る州の殺人発生率を比較(死刑が無い州地域と有る州の数は時代の進展とともに変化している)すると、死刑制度が無い州や地域の殺人率の平均値は、死刑制度が有る3州の殺人率の平均値は死刑制度が無い州や地域と死刑制度が有る州を比較して、いずれの年度も近似値であり統計上有意な差異は確認されていない。
主要工業国(先進国・準先進国)で死刑を実施している国としては、日本、アメリカ合衆国、シンガポール、台湾などがあるが、アメリカ合衆国の殺人率は先進国の中では高く他国の殺人率は低い ので、個々の国の殺人率は死刑制度の有無や刑罰制度の重軽により決定されるわけではなく、殺人に対する死刑の一般抑止効果としては、国や州や地域別の比較には意味がないとの指摘もある。
時代的比較では、死刑が廃止された国での廃止前・廃止後を比較する試みがされる。しかし様々な制度や文化、教育、経済など様々な社会環境の変化も伴うため、分析者によってさまざまな結論が導き出されており、それだけを取り出して検討するのは困難である。ただし現段階においては、廃止後に劇的に犯罪が増加・凶悪化した典型的ケースはこれまでにはなく、また劇的に犯罪が減少したケースもない。
廃止派団体であるアムネスティ・インターナショナルはカナダなどにおける犯罪統計において死刑廃止後も殺人発生率が増加していないことを挙げ「死刑廃止国における最近の犯罪件数は、死刑廃止が悪影響を持つということを示していない」と主張している。これに対し「アムネスティの数値解釈は指標の選択や前後比較の期間設定が恣意的であり、公正にデータを読めばむしろ死刑廃止後に殺人発生率が増加したことが読み取れる」という反論 がなされている。このような主張の正否はともかくとして、いずれの議論においても、死刑制度および無期懲役と凶悪犯罪発生率の間の因果関係の有無が立証されていない点では共通しているといえる。
死刑および終身刑に相当する凶悪犯罪が近代国家では少なくないため、統計で犯罪抑止力にいずれの刑罰が有効であるか否かの因果関係を明示することができないことから、統計的に結論を出すのは難しい。特に日本では「犯罪が増加した」との指摘もあったが、それでもなお他の先進諸国と比較しても低い。たとえば犯罪白書によれば、2000年に発生した殺人の発生率及び検挙率の表 では、日仏独英米の5カ国では発生率は一番低く(1.2)、検挙率もドイツについで2番目によい(94.3%)。この数値を見れば死刑制度の存在が有効に働いているとの主張も可能であるかのようにいえる。しかし、もう一つの死刑存置国であるアメリカ合衆国の数値は、発生率が5.5で最悪、検挙率も63.1%と最低である。そのため死刑制度の存置が犯罪抑止に全く効果がないとの主張も可能である。アメリカが日本と違い殺人の手段として容易に用いることが可能な銃社会であるなど、社会条件に相違点があるとしても、このように統計のみでは死刑の犯罪抑止効果を見出すことができないといえる。
死刑廃止国では凶悪犯が警察官に射殺されることが多いという指摘がある。元参議院議員の佐々木知子は死刑廃止国で警察官による簡易死刑執行(英語版)がおこなわれていると指摘している。これは危険な犯人を射殺してしまえば将来の危険性は永久に除去され刑務所に収容して税金でやしなう必要がないという方法論からきている。
しかし、欧米では銃規制が日本に比べてはるかに緩いので、警察官と銃を使用した犯人への争いの結果として、警察官の正当防衛・業務行為としての発砲が増えるのは必然的であり、それを「簡易死刑執行」という言葉でいいかえるのは、ご都合な詭弁という意見 がある。また日本でも警察官の業務行為としての正当性が認められた判例が()存在することからも、「日本では、警察官は何もできずに死刑をなくしたら理不尽だ」という存置論は根拠をもたない。そもそも、簡易死刑執行は、軍隊においてつかわれていた用語にもかかわらず、なぜ日本だけこの言葉の意味を曲解してもちいるのかが意味不明という指摘がある。また、フランスは死刑廃止と同時に刑法を全面改正して懲役を長くしたという指摘もある。
「簡易死刑執行」は本来は戦時下における軍による軍法上、あるいは司法手続に依らない超法規的処罰(英語版)を指すものであり、司法警察など一般の法執行機関によるものは超法規的処刑と呼ばれている。メキシコ、ブラジル、ロシアなど一部の死刑廃止・凍結国では麻薬密売組織やテロ組織を対象に秘密警察や死の部隊による超法規的処刑が行われている例があるが、超法規的処刑が国際問題にまで発展している国の多くは死刑残置国であり、犯罪組織の撲滅というよりも、国内における反体制派の弾圧を目的に超法規的処刑が正当化されている例がほとんどである。死刑残置国であるインドでは警察官が麻薬密売組織などの構成員と遭遇した際に即座に射殺に及んでしまう事態が多数発生しており、これを記述する法的用語として遭遇殺害(英語版)と呼ばれる概念が存在するが、冤罪の可能性も否定できないとして人権団体からは批難の対象となっている。一方で死刑廃止国であるフィリピンではロドリゴ・ドゥテルテがダバオ市長、後にフィリピン大統領に就任して以来、犯罪者に対する組織的な超法規的処刑を常態化させており、人権団体は批判しているもののこれによりダバオ市及びフィリピンの治安が顕著に改善されたことが確認されている。
なお、犯罪者、法執行機関の双方が銃器を持ち、正当防衛・業務行為としての発砲が発生しやすい国では、自殺(拡大自殺)の一手法として警察官からの発砲を意図的に誘発させる間接自殺(英語版)と呼ばれる行為がしばしば発生するという負の側面も抱えている。
死刑の存廃が社会に影響をもたらすのかどうかは、法学者の間でも決着はついていない。
死刑制度の存在が、国民の一部の残虐的性質を有するものに対し、殺人を鼓舞する残忍化効果を与えているとの指摘や、自暴自棄になった者が死刑制度を悪用する拡大自殺(extended suicide)に走るとの指摘もある。このような拡大自殺に走る者は少ないといわれるが、実例としては2001年に発生した附属池田小事件で死刑が確定した宅間守(2004年に死刑執行)の最大の犯行動機が自殺願望であり、1974年に発生したピアノ騒音殺人事件(近隣騒音殺人事件)では、犯人が自殺もしくは処刑による死を望んだ事があきらかになっている。明治以降の日本の凶悪犯罪史を見渡してもこのような者は極少数であるが、確実な死刑を望むため大量殺人を意図した者は存在している。また前述の2人の死刑囚のように、上級審で争う意思を持たず、弁護人がした控訴を自身の意思で取り下げ、1審の死刑判決を確定させた事例も散発的に発生している。
たとえ凶悪犯罪者といえども死刑を強く求める言論が、生命を軽視する風潮を巻き起こす事になり、よって逆に殺伐とした世情を煽る側面もあるのではないかとする懐疑的な主張がある一方、凶悪な殺人行為に対しては司法が厳格な対処、すなわち死刑をもって処断することこそが人命の尊重につながるとの主張もある。
他方では、死刑制度の廃止が成立した場合の懸念を訴える者も少なくない。代表的なところとしては、人を殺しても死刑制度が無いために死刑にならないならば、復讐のためにその殺人者を殺しても同様に死刑にはならないという理論も成り立つため、敵討の風習の復活に繋がるのではないか、という問題である。ちなみに、この種の懸念は日本においては死刑制度の存廃論議と平行する形で古くから存在しているものであり、たとえば、1960年代に星新一は、ハヤカワ・ミステリ・マガジンで連載していたエッセイ『進化した猿たち』の中で、ある高名な司法関係者に「わが国でなぜ死刑廃止が実現しにくいのか?」という質問をしたところ、理由の1つとしてまず敵討復活の懸念というものを挙げられたと記している。なお、江戸時代の敵討ち、すなわち仇討ちであるが、認められるのは武士階級のみで、対象は尊属を殺害されたものに限定され、子息の殺害に対して適用されず、また「決闘」であったため、返り討ちされる危険性もあった。
2015年のアメリカの銃乱射事件の総数は過去最大であり、乱射事件が起きなかったのはわずか五州である。乱射事件の発生したほとんどの米国州は死刑が廃止されている。「銃乱射する人物の性格に問題 がある」とされていた従来の理論では、説明不可能な事件が増加している。
死刑制度を維持している国では長年に渡って刑罰の一つとして死刑を存続させる死刑存置論と死刑制度を廃止させるほうが適切であるとする死刑廃止論との議論が繰り返されてきた。死刑の適用範囲は厳罰化で拡張される場合も、寛容化で縮小される場合もありえるため、必ずしも存続派が現状維持派とは言い切れない。なお死刑制度が廃止されている国の場合には死刑復活問題となる。実際にアメリカ合衆国のいくつかの州では死刑を廃止または執行の停止をした後に復活しているし、イギリスやフランスでは否決されたものの議会で検討された事もある。20世紀後半以降一度死刑が廃止された後に復活した国は少なく、また復活させた場合でも国際世論の動向を警戒し実際に執行された国はさらに少ない。
論点としては凶悪犯罪に対する抑止力、冤罪の可能性、殺人に対する応報が議論されている。近代社会において、死刑の適用が除外されたものに政治犯に対する刑罰がある。古代より政権を握ったものが反対者を反乱者として処刑する事は珍しくなかった。革命やクーデターといった政変による、例えば外国の軍隊を日本に侵攻させる外患誘致罪は死刑しか規定されていない。また、現在でもイスラエルによるパレスチナ人などへの暗殺のように、名目上死刑廃止国であっても、裁判という形を取らずに人を殺す国家もある。またミャンマーのように死刑が停止されていても人権侵害による犠牲者を出している国もある。
1989年12月、国連総会で採択された市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書(死刑廃止条約)には、随意項目として死刑廃止が存在する。これを加えて廃止を選択する国は、国際条約に基づき「戦時中に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決によって、戦時に適用することを規定」(第2条1項)されている戦時犯罪を除き平時全ての死刑を廃止することになる。なお、戦争犯罪も裁くことがある国際刑事裁判所は、大虐殺を指導した国家元首であっても死刑は適用されず、言い渡せる刑は終身刑(服役して25年以上経過後に仮釈放の可能性がある)と有期30年以下(刑期の3分の2以上経過後に仮釈放の可能性がある)の禁固刑である。
1990年ごろまでは、死刑維持国が大多数を占めたが、一党独裁ないし軍事独裁政権であった国家が民主化した直後に東欧や南米の諸国が死刑を廃止し、死刑廃止国の数が増加した。一方で、アジア・アフリカ・中東においては、民主化の後も死刑を維持する国が多い。1990年代以降、国際社会では死刑制度の廃止に踏み切る国家が増加している。特に死刑の廃止を主張する欧州連合加盟国の強いヨーロッパでは、死刑存置国も死刑の執行停止をせざるを得なくなっており、唯一死刑の執行を続けていたベラルーシが「人権抑圧国」として糾弾されている。また国際連合も死刑廃止条約を推進することなどから、外交の一環として死刑制度に対する国際的圧力は増大しているという考え方もある。なお一部の死刑存置派は一連の動きに対し、国内状況が死刑制度の廃止ができない状態であれば死刑は維持すべきであるとしている。
2007年12月18日、欧州連合などの提案で、国連総会で初めて死刑モラトリアム決議が可決したが、これに対し日本の神余隆博大使は「国民の大半が死刑を支持しており制度廃止に踏み出すことは困難」と述べ、また「決議に賛成すると憲法違反になる」と表明 しており、「日本の内政問題であるから世界の大勢に従うべきでない」としている。これに対し欧州連合は国際連合の人権委員会で「日本の人権問題」として「死刑制度の廃止もしくは停止」を求める勧告を出させている。2008年も欧州連合は同様の決議を提出する予定で、10月28日、日本で同日行われた2名の死刑執行に議長国フランスは「深く憂慮している」と表明した。
国連の死刑廃止条約や、EUの死刑廃止ガイドラインは、通常犯罪に対しては死刑を禁止しているが、戦時の死刑については国家の権利として認めている。死刑廃止論の祖であるチェーザレ・ベッカリーアを始め、過去の死刑廃止論者・団体は、平時の通常犯罪に限定して死刑廃止を主張しており、戦時下など国家の危機における死刑については対象としないことが多かったが、近年では戦時も含めてあらゆる死刑に反対する考え方が広まっている。
世界195ヶ国の色分けは次の通り。(2022年現在)
となっている。
死刑廃止は世界の趨勢(すうせい)であると主張する、死刑廃止派であるアムネスティ・インターナショナルの調べによると、2022年現在、109ヵ国が死刑を全面的に廃止し、7ヵ国が通常犯罪にのみ死刑を廃止している。ただし、人口の多い中国、インド、アメリカ、インドネシア、日本といった国では依然として死刑が存続しているので、人口比では「世界の趨勢」とはなっていない。他に、通常犯罪に対する死刑制度は存置しているが10年以上死刑を執行していない国が25ヵ国あり、これらの国には死刑を行わない政策ないし確立された慣例があると認められる。2010年に新たに死刑を全面的に廃止した国としてガボン共和国があげられる。 2022年現在、54ヵ国が死刑制度を存置している。これらのうち日本を含む23ヵ国が2010年に死刑を執行し、少なくとも527名に対する執行が確認されている。ここには、中国で行われたとみられる数千件の執行は含まれていない。中国では死刑執行に関する統計は国家機密になっていると考えられ、アムネスティ・インターナショナルは中国については2009年より、死刑執行(最低)件数の報告を止めている。他にベラルーシ、モンゴルでも死刑執行は国家機密として扱われ、マレーシア、北朝鮮、シンガポールについては情報が入手困難である。ベトナムでは死刑執行件数の公表は法律で禁止されている。 2010年の死刑宣告は、67ヵ国で少なくとも2,024人に対して行われている。現在、少なくとも17,833人が死刑宣告下にある。
死刑は、受刑者の生命を何らかの方法によって奪う刑罰で、その受刑者の社会的存在を抹殺する刑罰であり、人類の刑罰史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる。しかし、原始社会では殺人はほとんどの場合は同族内でのいざこざでおこる衝動犯罪であり、加害者も被害者も親戚関係であることが多かったため、死刑ははばかられ、代わりに村八分や部族からの追放などの措置がとられることが多かった。実際に死刑となるのは、これらの部族社会における別の部族との争いにおける復讐である。他部族の者が自分の部族の一員を殺した場合は、賠償が行われる場合もあれば、報復措置として殺し合いが行われることもあった。さらに人類に都市文明が生まれると、みせしめの手段として死刑を残酷に演出するために、車裂き、鋸挽き、釜茹、火刑、溺死刑、石打ちなど、その執行方法は多種に及んだ。また、犯罪行為に対するものに限らず社会規範を破ったことに対する制裁 として死刑が行われていた時代もあった。
上記のような執行方法はあまりにも残虐に過ぎ、近代以降あまり受け入れられなくなりつつある。時代が進むにつれ、残虐性のある執行方法を用いる国は減少していくが、これは人道上許容できないという理由によるものが多いと思われる。
完全な形で残っている、世界で2番目に古い法典であるハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」があるため、応報刑が採用されていたようである。ただし加害者の身分が被害者より下であれば厳罰に処せられており、応報刑が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。また場合によっては罰金の納付も認められていた。そのため、基本的に「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」といった現代の罪刑法定主義が採用されていたものであり、復讐を認める野蛮な規定の典型ではなく「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」ものであった。
しかし、ユダヤ人とキリスト教徒はこれらを宗教的教義に反する政治思想・司法制度として批判し続けたため、近代に至るまで罪刑法定主義的な処罰が行われることはなかった。そのため、近世になるまで現在から見ると釣り合いが取れないほど軽い罪や反道徳的な行為が、死刑になる犯罪行為とされていた。このような不文律による処罰を罪刑擅断(専断)主義という。
ユダヤ教とキリスト教の聖典であるモーゼの十戒の日本語訳は古い訳では「汝殺すなかれ」となっており、仏教と同じように不殺の戒が定められていると誤解されるが、実際には「殺人を犯すなかれ」という意味あいであり、死刑の執行に関する記述や、神の民であるユダヤ人の起こす戦争を肯定する記述(ダビデによるゴリアテの殺害など)があるなど、あくまでも犯罪としての殺人を禁じるものであり、死刑そのものを否定するものではない。しかし、キリスト教は罪に対する許しと贖罪を強調したため、教義において応報を理由に死刑を正当化することができなかった。ローマ帝国の国教になる以前にもその正当性は議論されていた。中世ヨーロッパ社会で死刑制度を肯定する思想として、スコラ哲学者でもあった神学者のトマス・アクィナスは、刑罰に応報的な性格があることを認めたが、その正当性を否定する一方で「わずかの酸は麹の全体を膨らます」(コリント前書5章16節)の文言を根拠に、ある人が犯罪によって社会全体に危険を撒き散らし、しかも伝染的なものであるなら、公共の福祉を守るためにこれを殺すことは有益で賞賛に値するとし、死刑がさらなる殺人に対する予防論として肯定した。また、宗教改革の指導者であるマルティン・ルターは、死刑を執行する剣は神に対する奉仕を意味し、人間の手でなく神の手が殺戮するのだ、として肯定すると共に、国家の為政者が凶悪な人間を死刑にするのは正当な行為であり罪でない、と主張していた。
さらに、近世において啓蒙主義がおこり、ジョン・ロックやイマヌエル・カントなどが社会契約説などによって法の根拠を再定義したとき、応報論を死刑の正当理由として復活させたが、彼らの提示する応報論はあくまでも社会全体あるいは自然法に対する侵害に対する応報であり、被害者個人にたいする対価としての応報でない。現代において、世俗主義に基づく欧米各国の裁判所が実際の刑の正当性を論ずる判例において、被害者の立場を回復するという意味での応報論をほとんど認めないのは、応報=復讐=悪とみなす宗教的、さらに歴史的背景が存在すると指摘されている。応報論を刑罰の根拠として認められない結果として、死刑はその正当性を予防論および効用論に頼るざるを得ない状況にあるが、予防論は近代においては刑務所の出現によって完全にその有効性を失っており、これによりカトリック教会はそれまでの立場を改め、死刑反対の立場を宣言している。また、死刑が殺人の発生を未然に防ぐとの効用論も社会統計上その根拠がほとんどなく、欧米社会においては死刑賛成派は非常に弱い立場にある。死刑を実際に執行しているアメリカにおいても、最高裁判所の判例で応報論を根拠とする死刑の正当性は明確に否定されている。また、アメリカでの死刑肯定派を担う保守あるいは右派が応報論を展開しないのは、彼らが同時に保守的キリスト教徒であり、応報論はキリスト教の教義とあまりにも明確に矛盾することが挙げられる。これは、死刑の根本的根拠を応報論に置く日本などの東洋社会や、殺人における裁判の役割をあくまでも加害者と被害者(遺族)間の調停と見なし、加害者が被害者遺族を補償金などで納得させた場合は裁判官が死刑が減刑することが許されているイスラム社会とは対照的である。
キリスト教国は報復論を否定する一方、予防論によって死刑の正当性を位置づけたことで教義上の結論を見たが、見せしめのために前述のような残虐な処刑方法が行われ、教会自体、宗教裁判などによって異端者・魔女であるとした者を大量に処刑した その根拠とされたのは、旧約聖書の『出エジプト記』22章18節律法「呪術を使う女(ヘブライ語でメハシェファ)は生かしておいてはならない」という記述であるが、本来は意味不明であったものが、中世欧州社会では「魔術を行うもの」次に「キリスト教的教養の持たない者」を社会秩序維持のために排除すべきとなり、集団ヒステリーの産物としての魔女の極刑が横行した、と言われている。
政治的権力者ないし宗教指導者への反逆は悲惨な死に至る、というような「威嚇」を狙った目的もあり、歴史的には(異論もあるが)ローマ帝国およびユダヤ教に対する反逆者とされ死刑が執行されたイエス・キリストの磔刑、魔女狩りなど宗教異端者に対する過酷な処刑、イングランドのウィリアム・ウォレスに対する四つ裂きの刑などが有名である。これらの処刑はいずれも公開で行われており、死刑執行を公開することで犯罪を予防しようとする目的 から、生きながら焼き殺す、蒸し殺す、受刑者の身体を公共の場で切り刻んだり引きちぎったりする、などといった極めて凄惨な公開処刑が行われた。しかし中世フランスなどにおける公開処刑の実情を見ても、それが必ずしも威嚇となっていたのかは疑問の残るところである。なお、公開処刑は現在も一部の国では行われている。
人類社会で古くから脈々と続けられてきた死刑制度であるが、日本では死刑が事実上廃止されていた時代があり、前近代社会では極めてまれな事例である。
近代になり、人権の保障として「法無くば罪無く、法無くば罰無し」という罪刑法定主義の原則が取り入れられるようになったが、犯罪者に対し国家が科すべき刑罰に関して、旧派刑法学(客観主義刑法理論)と新派刑法主義(主観主義刑法理論)の新旧刑法学派の対立が生じた。このような、刑罰の本質に対する論争のひとつとして、死刑制度の位置づけによって制度の存否をめぐる議論が生まれた。これにおいて、死刑が適用される犯罪を戦争犯罪のみに限定もしくは完全に撤廃しようとする主張が死刑廃止論であり、それに対して死刑制度を存続すべきという主張が死刑存置論である。
フランスで1789年に勃発したフランス革命を契機として、死刑執行方法はギロチンによる斬首刑に単一化されるようになり、文化の変化に伴って死刑の意義がなくなっていったため、適用範囲が次第に制限されるようになった。フランス革命ではマクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治によって大量の政治犯が処刑されたことから、死刑制度が廃止するかに思われたが、最終的にナポレオン・ボナパルトによって退けられた。
欧米の政治革命の結果として、死刑が適用される範囲は次第に制限されるようになった。たとえば建国間もないアメリカ合衆国では、トマス・ジェファーソンが死刑執行の範囲を制限すべきと主張していた。州レベルではペンシルベニア州が1794年に、死刑を適用できるのは第一級殺人罪のみと限定した。また1847年にミシガン州が殺人犯に対する死刑を禁止し、事実上死刑制度を廃止した。これは国家が国民の生命与奪権まで与えることに疑問が提示された結果ともいえる。特に権力者に対する政治的反逆を行った政治犯に対する死刑は、一部の国を除き忌避されるようになった。
20世紀末から欧州諸国が死刑制度を廃止し、国際連合も死刑廃止条約を打ち出したため、21世紀初頭の国際社会は死刑制度が廃止された国が半数となっている。一方で死刑制度を護持する国も依然として残っているが、死刑制度を存置する国においても、死刑が適用される犯罪はおおむね「他人の生命を奪った犯罪」に制限されるようになっていった。ただし、前述のように厳罰主義ないし宗教観による差異のために、「人の生命が奪われていない犯罪」 でも死刑が適用されている国家がある。
日本で死刑が適用される犯罪は法律上17種類あるが、起訴された事例がない罪種が大部分であり、実際には殺人または強盗殺人など「人を殺害した犯罪」である。そのため、人を殺害した犯罪者のうち、特に悪質な場合において、犯罪者の生命をもって償わせるべきと裁判官に判断された者に死刑が適用されている。
先進国の多くが死刑制度を廃止しているが、アメリカ、日本、シンガポール、台湾などの幾つかの国では現在でも死刑制度を維持している。凶悪犯罪者に対する社会的制裁や犯罪抑止、犯罪被害者遺族の応報感情などを理由に死刑を維持すべきという国内世論も根強い。例えば、死刑存置論者である刑法学者が死刑廃止運動に対する批判(中嶋 2004, p. 189)として「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あなたたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」と発言している。
現在先進国のうち、実質的な死刑存置国はアメリカ合衆国・日本・シンガポールと台湾の4か国である。以前は非先進国のほとんどが非民主国家であったため、経済的な区分で死刑の維持派と廃止派を分けることが多かったが、近年では途上国でも民主国家の数が急増し、人権問題としては民主主義と非民主主義の国家での区分が有意義なものとなっている。この場合、民主主義の国では欧米文化の系列であるヨーロッパと南米などの国のほとんどで死刑が廃止、アジア、中東、アフリカの民主主義の国ではほとんどがは死刑を維持するという文化的な対立が鮮明となっている。またアメリカ合衆国では2013年10月時点で、18州が死刑を廃止・2州と軍は執行を停止という状況で、死刑制度がある32州と連邦も毎年執行している地域はテキサス州のみである。欧州議会の欧州審議会議員会議は2001年6月25日に、死刑執行を継続している日本とアメリカ合衆国に対して死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する1253決議 を可決している。また、国連総会も死刑執行のモラトリアム決議(2007年12月18日)を可決している。さらに、国連のB規約人権委員会は日本を名指しして死刑制度廃止を勧告している。2008年10月30日 には、日本の捜査機関の手続きの改善 や、死刑制度についても「死刑執行数が増加しており、また本人への告知が執行当日であること」などが問題であり、死刑囚本人とその家族が死刑執行に向けて心の準備ができるよう「適切な時間的余裕を持って執行日時を事前通知すべきだ」と批判している。
死刑を肯定する思想は、古くはイタリアの中世カトリック教会最大の神学者で、スコラ学者でもあったトマス・アクィナスによっても主張されたことで知られる。彼は、アリストテレスの思想体系をカトリック神学に結びつけて発展させ、刑罰を科することで犯罪によって失われた利益が回復されるとし、その意味で刑罰に応報的性格をみとめたとされる。また、社会の秩序を防衛するためには為政者の行う死刑は有益かつ正当であると主張したとされる。
カトリック教会はその伝統において、おおむね死刑に好意的であった。神学者のフランシスコ・スアレスは、国民には他の国民の命を奪う権利はないのだから、そうした権利を含む国家の権力とは神が授けたものであるとし、死刑の存在が、国家権力が神に由来することの証明と考えた。宗教改革の時代において指導的神学者であったマルティン・ルターも、死刑を神事として肯定したと言われる。また初期啓蒙思想家のフーゴー・グロティウス、その系統をひく自然法学者プーフェンドルフも死刑を合理的なものとして肯定した。
啓蒙主義の時代においては、自然権と社会契約説を唱えたトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやイマヌエル・カントなどが、世俗的理論のもとに、社会秩序の維持や自然権(生命権)の侵害に対する報復などをもって、死刑の必要性を再定義した。そのほか、モンテスキュー、ルソー、ヘーゲルらの近代思想家も死刑存置論を主張した。
ロックは『市民政府論』の冒頭で、政治権力とは所有権の規制と維持のために、死刑をふくむ法を作る権利だと定義している。ロックによれば、自然状態では、他人の生命や財産を侵害する者に対して誰もが処罰の権利をもっている。自然法のもとでは誰もが自由で平等であり、肥沃な自然を共有財産とし、そこから労働によって私有財産を得る。ロックは生命・自由・資産をまとめて所有と呼び、これを侵害する者は全人類への敵対者となって自然権を喪失するため、万人が自然法の執行者として処罰権をふるい、必要ならば殺す権利があると述べる。こうした自然状態から、人々は所有権の保障を得るために社会契約を結んで協同体(市民社会、国家)に加わることに同意するが、それにともない個々人がもつ処罰権も移譲される。ただし、処罰権はあくまで一般的なものなので、国家にとって、死刑にかんする権利や義務がそこから「明示的に」発生する訳ではない。しかし殺人者や侵略者にかぎれば、自らの行為によって権利を喪失しているので、自然状態では万人に彼らを殺す権利があったのと同じく、国家は彼らに恣意的で専制的な権力をふるうことが正当化される。すなわちこの権力は、殺人者や侵略者の「生命を奪い、欲するならばこれを有害な動物として破滅させる権利」 をも含んでいるのである。ロックの考えでは、殺人者や侵略者は死に値し、死に値するという事実は死刑を十分に正当化するものであった。
三権分立の提唱者として知られるモンテスキューは、死刑についてこう主張する。「これは一種の同害報復権である。これによって社会の安全を奪った、あるいは、他の公民の安全を奪おうとした公民に対し、社会が安全を拒否するのである。この刑罰は事物の本性から引きだされ、理性から、また善悪の源泉から取り出される。公民が生命を奪い、あるいは生命を奪おうと企てるほど安全を侵害した場合は、彼は死に値する。」
ルソーは死刑についてロックの発想を踏襲し発展させたと言われる。彼はグロティウス、プーフェンドルフらによる統治契約説(服従契約)を否定し、社会契約を自由な個人による同意と考えた。国家によって守られる契約当事者の生命は、その国家のための犠牲を求められることもあるとし、「犯罪人に課せられる死刑もほとんど同じ観点の下に考察されうる。刺客の犠牲にならないためにこそ、われわれは刺客になった場合には死刑になることを承諾しているのだ。」と述べる。また彼の言うところでは、「社会的権利を侵害する悪人は、...祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。...そして罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告」であり、すなわち法律違反者は公民たる資格を失うことになり、国家は自己防衛の必要があれば、これを殺してもよいとされる。その他方でルソーは「なにかのことに役立つようにできないというほどの悪人は、決していない。生かしておくだけでも危険だという人を別とすれば、みせしめのためにしても、殺したりする権利を、誰ももたない。」と述べている。
プロイセン出身でドイツ観念論の祖であるイマヌエル・カントは、死刑について、「もし彼が人を殺害したのであれば、彼は死なねばならない。この際には正義を満足させるに足るどんな代替物もない」と語ったことで知られる。カントはホッブズ、ロック、ルソーから社会契約説の発想を継承しつつ、そこから歴史性を完全に捨象し、これを市民社会(国家)がもとづくべき理念として考えた。そうした国家において刑法とは定言命法であり、すなわち裁判所のくだす刑罰は、犯罪者の社会復帰や犯罪の予防といった他の目的の手段であってはならず、無条件で犯罪者を罰するものでなければならない。ルソーが犯罪者を国家の敵とするのに対し、カントは犯罪者も人格として扱わねばならないが故に、刑罰も彼を目的として扱わなければならない(が故に定言命法の対象となる)と考える。そして刑罰の種類や程度を定めるにあたって、司法的正義が規準とするのは、均等の原理すなわち同害報復権(タリオの法)のみだとカントは言う。したがって殺人のばあい、犯罪者の死だけが司法的正義に適うとされ、「刑罰のこの均等は、裁判官が厳格な同害報復の法理にしたがって死刑の宣告を下すことによってだけ可能になる」とされる。このように主張したことで、カントは絶対的応報刑論の見地から死刑を正当化したと言われる。ちなみに、ここでの被害者は公民的社会(国家)であり、個人対個人での補償や配慮は考えられていないと言われる。またカントは、ベッカリーアが死刑廃止の主張のさいに論拠とした、社会契約において当事者が予め死刑に同意することはありえないという議論に対し、人が刑罰を受けるのは刑罰を望んだからではなく罰せられるべき行為を望んだからだと反論した。
ヘーゲルは刑罰の考え方をめぐってカントの応報刑論を批判したが、殺人罪については、生命はいかなるものによっても置き換えられないという理由から、死刑しかありえないと考える。またベッカリーアの死刑廃止論を、社会契約にもとづく国家創設という発想そのものを否定することで斥けている。たしかに国家は、王権神授説の言うような与えられるものではなく、人々によって造られるものではある。しかしヘーゲルの考えでは、いかなるタイプの社会契約もしょせん恣意的で偶発的なものにすぎず、そうしたレベルの合意が国家のような統一体に発展することはない。もともと人々は、共同体の制度・慣習・文化の複雑な網の目のなかで生きており、契約の義務という観念もそれらを前提に生じ、共同体のなかではじめて現実性をもつものである。ところが社会契約論はこうした関係を転倒させ、これら諸々の前提を契約の所産のように勘違いしているのである。すなわち「国家はそもそも契約などではなく、なお、また個々のものとしての諸個人の生命および所有の保護と保全も、けっして無条件に国家の実体的な本質ではない」とヘーゲルは言う。このようにベッカリーアを批判する他方で、彼の著作によってヨーロッパ諸国が死刑に慎重な姿勢をとるようになった事をヘーゲルは評価している。
19世紀には、社会進化論的観点から死刑を肯定する思想があらわれた。イタリアの医学者ロンブローゾは、犯罪者の頭蓋骨解剖・体格調査の研究により、隔世遺伝による生来的犯罪者という考え方を発表し、人為淘汰の思想にもとづく死刑の正当性を主張した。彼によれば、「社会のなかにはたくさんの悪い人間が散在しており、犯罪によってその性が現れてくるというのである。すなわち、そういう悪人の子孫が繁殖するというと、遺伝によって将来は犯罪人をもって充されるようになるから、社会を廓清し立派な人間ばかりにするために、人口淘汰によってこれ等の悪人を除くことが必要である。これを実行するためには、死刑はよい刑罰であって廃止すべきものではない」。また、ロンブローゾの弟子であったエンリコ・フェリも、人為淘汰として死刑は社会の権利であり、生物進化の自然法則に合致すると主張する。彼によれば、「進化の宇宙的法則がわれわれにしめすところに従えば、各種生物の進歩は生存競争に不適当なものの死という不断の淘汰によるのである。...ゆえに社会がその内部に於て、人為的淘汰を行いその生存に有害な要素、即ち反社会的個人、同化不可能者、有害者を除くということは、ただにその権利であるばかりでなく、自然の法則に一致しているのである」。刑法学における「イタリア学派」へと発展した彼らの主張は多くの批判を受けたが、従来の刑法学に実証主義的な手法を導入した点では高く評価されている。
20世紀初頭、ドイツ・ベルリン大学のヴィルヘルム・カール教授は法曹会議のなかで『死刑は刑罰体系の重要な要素であり』として人を殺したる者はその生命を奪われるというのは『多数国民の法的核心である』と主張した。またアメリカ合衆国のケンダルは、ルソーの社会契約説にもとづき、政治犯などと凶悪犯罪者とを区別することで死刑制度を肯定できると主張した。
死刑が正当な刑罰かという問題は16世紀以降論争となり、トマス・モアの『ユートピア』(1516年)や、トーサンの『道徳論』(1748年)などに死刑反対の考えが現れている。しかし社会思想としての死刑廃止論の嚆矢となったのは、イタリアの啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアであり、彼はルソーの影響のもと、社会契約を根拠に死刑を否定したことで知られる。
ベッカリーアは『犯罪と刑罰』(1764年)において、「どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由-あらゆる財産の中でもっとも大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろうか? ...人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人に、-たとえそれが社会にであったとしても-ゆずり渡すことはできないはずだ。」と述べている。すなわち、社会契約の当事者である国民は、自分の生命を放棄するような約束を予め結ぶということはありえないのだから、死刑制度は無効であり、(国家の平時においては)廃止すべきというのがその趣旨である。また彼は、刑事政策上の理由からも反対論を述べ、死刑が抑止効果において終身刑に劣るものだと主張した。「刑罰が正当であるためには、人々に犯罪を思い止まらせるに十分なだけの厳格さをもてばいいのだ。そして犯罪から期待するいくらかの利得と、永久に自由を失うこととを比較判断できないような人間はいないだろう」。さらに彼は、死刑が残酷な行為の手本となり社会的に有害でもあるとも述べている。
『犯罪と刑罰』は当初匿名で出版されたが、ただちに大きな論議を巻き起こした。その背景には、当時のヨーロッパにおける刑事法が一般に抑圧的であり、その運用も恣意的だったことがあると考えられている。司法原則としての法の下の平等は事実上存在せず、犯罪者の社会的地位や縁故・人間関係がもっとも処遇を左右したと言われる。こうした状況一般への人々の不満もあり、『犯罪と刑罰』は翻訳されてヨーロッパ各地で読まれ、のちの立法と刑法思想に多大な影響を与えた。ちなみに、ベッカリーアの思想を最初に実現したのは、トスカーナ大公国の啓蒙専制君主レオポルド1世大公(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)である。レオポルドは即位した1765年に死刑の執行を停止し、1786年には死刑そのものを完全に廃止した。
この時代には他にも、ディドロ『自然の法典』(1755年)、ゾンネンフェルス(1764年の論文)、トマソ・ナタレ『刑罰の効果及び必要に関する政策的研究』(1772年)等が死刑の刑罰としての有効性に疑問を述べ、廃止を主張している。
19世紀には文学の領域で死刑廃止の声があがりはじめ、ヴィクトル・ユゴーの『死刑囚最後の日』(1829年)が反響を呼んだ。またロマン派の詩人で政治家のラマルティーヌが廃止を主張し、ドストエフスキーの『白痴』(1868年)、トルストイ(『戦争と平和』1865年 - 1869年)なども作品中に死刑を取りあげて、廃止論に影響を与えた。
イギリスの社会改革主義者であったベンサムは、刑罰学においてはパノプティコンの考案者として知られる。彼は死刑に関して、功利主義的立場からプラス面とマイナス面とを比較検討した。ベンサムによれば、死刑の戒めとしての効果や人々による支持といったプラス面よりも、死刑が犯罪者による被害者への賠償を不可能にすることや、誤判による死刑の回復不可能性といったマイナス面の方が大きいとされる。ベンサムはこうした比較により、死刑より終身労役刑の方が社会にとっての利益が大きいと結論づけ、死刑廃止を主張した。
ドイツのフランツ・フォン・リストは、ロンブローゾら「イタリア学派」のとなえる生物学的観点のみによる犯罪原因説を否認し、そこに社会学的視点を加え、さらに刑法における目的思想を重要視した。すなわち応報刑では犯罪を抑止できないと考え、法益保護と法秩序の維持を目的とし、社会を犯罪行為から防衛しながら犯罪者による再度の犯罪を予防することを重視する。リストとその弟子達はここから目的刑という新しい刑法学の体系を生み出し、近代学派(新派)の理論を完成させた。応報刑の旧派と目的刑の新派の対立は現代まで続いているが、目的刑を取る刑法学者は通常は死刑廃止を主張している。
20世紀になると、またリストに学んだモリッツ・リープマンとロイ・カルバートが死刑廃止を主張した。リープマンはカール、フィンガーらと死刑存廃をめぐって論争し、死刑は犯人を法の主体として認めず、単に破壊の客体として扱うことを問題として指摘した。エドウィン・H・サザーランドや『合衆国における死刑』(1919年)を書いたレイモンド・T・ブイも死刑廃止を唱えた。作家のカミュ(『ギロチン』1957年)も死刑に反対している。
キリスト教的な立場からは、19世紀初頭にフリードリヒ・シュライアマハー(シュライアーマッハー)が、20世紀にはカール・バルトらの神学者が国家の役割を限定するという立場から死刑廃止を主張した。バルトによれば、刑罰を基礎づける理論は通常、犯罪者の更生、犯罪行為の償い、社会の安全保障、の何れかに収まるが、死刑は何れとも齟齬をきたす。死刑はまず「犯罪者の更生」を放棄するが、社会には、その構成員を秩序へと呼び戻す努力をする義務があるとバルトは言う。第二に、「犯罪行為の償い」とは、神の応報的正義の地上的・人間的表現である。しかしあらゆる人間の過ちに対する神の応報的正義は、バルトによれば、キリスト教ではイエスの死をもって終わっており、刑罰は生を否定しないものでなければならない。そして「社会の安全保障」については、犯罪者の抹殺は社会を自己矛盾に陥れるとバルトは述べる。すなわち、社会制度はつねに暫定的・相対的なものとして修正可能性を担保すべきであり、死刑においてはそうした可能性が排除されるため、社会はむしろ市民の安全を侵害する可能性を常にはらむことになる。こうしてバルトは一国の制度としての死刑には反対するが、その他方で特殊な条件下での死刑を擁護している。バルトの主張によれば、戦時下での売国行為と国家を危機に陥れる独裁者(ヒトラーを念頭に置いている)の二者に関しては、限界状況にある国家の正当防衛という理由から、死刑(犯罪者の殺害)は「神の誡めでありうる」とされる。
近年では、ジャック・デリダが死刑廃止論の思想的検討をしている。デリダによれば、死刑とは刑法の一項目にとどまらず、法そのものを基礎づける条件でもある。それは死刑が元々、主権の概念と深い関わりをもっているからである。シュミットによれば、主権はかつての宗教的権威から国家へと受け継がれたが、これは法の上位にあって例外状態を決定し、(恩赦のように)法を一時停止する権限であり、生殺与奪の最高の権限でもある。廃止論に立つには、こうした主権そのものを問題にする必要があると、デリダは言う。現在の死刑廃止論は、彼によれば政治的に脆弱である。まずベッカリーアにならって戦時の例外を認めるタイプの廃止論は、今日的な状況に太刀打ちできない。何故なら、たとえば戦争とテロとの境目があらかじめ明確でないような状況では、緊急時と平常時の境界線も恣意的に引けるからである。同じくベッカリーア由来の、死刑は抑止力がないから廃止すべきだという主張も、限られた説得力しか持たない。こうした功利主義的な主張は、「法を犯した者は罰せられるべきだから罰せられるべきなのだ」といった、人間の尊厳に訴えるカント的な定言命法を乗り越えられないからである。国際機関による決議や提言も、上記のような国家の主権原理や例外問題の前でつねに頓挫している。こうした点から、これまでの廃止論の言説は大幅に改善していく余地があるとデリダは述べている。
死刑制度の存続賛成派は、その目的として犯罪を予定する者への威嚇効果、つまり(殺人などの凶悪事件)犯罪抑止ないし犯罪抑止力。または人権を剥奪された被害者ないしその遺族の救済(つまるところ報復の代行)などを根拠に死刑を維持 すべきとする。また、死刑制度の廃止派はたとえ人命を奪った凶悪な犯罪者であっても人権はあり、死刑そのもの自体が永久にこの世から存在を抹殺する残虐な刑であり、国家による殺人を合法的に行うことであり是認できない、刑事裁判の誤判による冤罪による処刑を完全に防ぎきれない、などを根拠に廃止すべきと主張する。
現在に至るまで、死刑存置論と死刑廃止論をめぐっては激しく対立しているが、どちらの主張が正しいかを客観的に判断することは誰にもできない問題である。また論理的でない感情論も場合によっては入るため、現実として問題の解決はありえないかもしれない。そのため、死刑制度を存続するにしても廃止するにしても、法学のみならず、死刑制度の存在をどのように見るかで大きく変わるものであり、そのため法学のみならず思想的かつ宗教的な問題や哲学など様々な主義主張が交錯しており、犯罪被害者ないし犯罪者双方の人間の生命についてどう考えるかという根本的な課題 であるといえる。
近年ではイスラム教徒によるテロが相次いだことを背景として、「死刑復活論」という新たな運動がある。
以下の項目は、日本における死刑制度廃止派による主な廃止論である。
「死刑にしてほしいから犯罪をする」という者が相当数いるため、死刑があると逆に犯罪者が増える。
以下の項目は、日本における死刑制度存置派による存置論である。
2009年現在では、法務省は冤罪の疑いがあり再審請求中の死刑囚については、死刑の執行は法務大臣の決裁が必要であること、および、冤罪で死刑を執行した場合は無期刑や有期刑を執行した場合と比較して、非難が大きいので、法務省として明示的に宣言はしていないが、現実の運用としては、死刑囚が再審で無罪判決を受けるか、または、死刑囚が天寿を全うして死ぬまで執行しない運用をしている。
1940年代後半から1960年代にかけて静岡県内では、再審で死刑判決が破棄された島田事件のほか、上級審で死刑破棄・無罪になった幸浦事件や二俣事件といった冤罪事件が多発した。ほかにも現在も冤罪の可能性が指摘されている袴田事件もすべて静岡県であり、全国的に見ても冤罪が多発している。この背景には静岡県警の紅林麻雄警部(1908年-1963年、本人は発覚直後に病死したため県警本部長表彰はされたが、刑事責任には問われていない)が拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成によって「事件解決」を図ったためであり、また「自白」に沿った証拠品の捏造まで行ったことが明らかになっている。この手法が同県警内部でこのような捜査手法がもてはやされ、他の警察署でも行われたのが冤罪多発の一因だといわれている。なお、強要により得られた自白は憲法38条2項及び刑事訴訟法319条1項により証拠能力が否定されるとはいえ密室での取調べにおける自白の強要を公判で明らかにすることは必ずしも容易ではなく、思い込みによる捜査ミスによる冤罪の発生は完全には否定できないといわれている。
実際に21世紀に入っても死刑求刑にたいし証拠不十分で無罪になった北方事件や、死刑適用事件ではないが、被告人が抗弁をあきらめて有罪になりかかった宇和島事件や、捜査や裁判当時の科学鑑定の精度の低さにより真犯人と誤認され有罪判決を受けたが、服役中に科学鑑定の精度が向上し冤罪が判明した足利事件や、服役後に真犯人が判明した氷見事件が発生しており、科学的捜査手法が発達した現在も人が犯罪捜査を行う以上、このような冤罪事件は散発的に発生しており、冤罪による死刑執行あるいは獄中死の危険性は完全に否定できないといえる。ただし、関係者に面識がない場合の強姦殺人事件においてDNAの照合などは証拠として決定的であり、これによって無実が証明され釈放された例があるだけでなく、この証拠によって有罪が確定した場合の冤罪の可能性は極めて低い。
また冤罪ではないにしても裁判の事実認定に誤りがあったために、主犯が処刑を免れ従犯を処刑にした誤判は実際に存在する。1946年に奈良県内で発生した強盗殺人事件では「主犯」とされた者が処刑されたが、懲役刑で服役した「従犯」が1958年に実業家として成功していた本当の主犯を恐喝して逮捕されたために、ただの見張りを主犯にでっち上げていた真相が発覚した実例 などがあるという。古谷惣吉連続殺人事件では、最初の2件の強盗殺人では共犯を「主犯」と誤判して死刑が執行され、「従犯」と誤認した古谷が出所後に8人も殺害した事件があった。古谷がこの事件で逮捕起訴 されたのは「主犯」処刑後であり、懲役10年の刑期出所後の一ヶ月で8人も殺害していた。そのため「主犯」と誤判された者の死刑が執行されずに本当の事実関係が明らかになっていれば、後の8人が殺害されることも防げたはずだと批判された。また1946年に発生した福岡事件では殺害された中国人被害者の関係者による傍聴人の存在が事実認定に影響を与え、犯行現場にいなかった第三者を主犯として処刑にしたとの批判も現在も根強くある。 現実問題として、冤罪(傷害致死だとして事実誤認を理由にする場合もある)の疑いがあるとして再審請求している死刑囚の死刑執行 が避けられる傾向にある。
刑事訴訟法の475条は「確定から6カ月以内に法務大臣が死刑の執行を命令し」とあるため、死刑執行は死刑判決確定後6ヶ月以内に執り行わなければならないのに現実は違うとの批判もあるが、実際には法務当局が死刑執行命令の検討を慎重に行っている為であるとされる。また同法475条2項但し書に「上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない」とあり、再審請求中もしくは恩赦出願中または共犯が逃亡中の死刑囚は、死刑執行までの半年間に算入しないとの規定があるため、執行が猶予される傾向にある。
2000年ごろまで原則的には死刑確定順に死刑が執行されていたが、組織犯罪では共犯者が逃亡中や未確定である事例(連合赤軍事件・三菱重工爆破事件)や冤罪を訴えて再審請求中の者、もしくは闘病中の者は除外され、事実関係に争いがなく死刑判決を受け入れ支援者もなく外部との連絡もない「模範死刑囚」が先に執行が行われているという指摘がある。東京拘置所の収監されていた死刑囚(2008年獄死)の著書 によれば、1983年に練馬一家5人殺害事件で1996年11月に死刑が確定した死刑囚は、拘置所側から「自身のため」と説得され、支援者への面会を一切拒否するようになり、看守に対して丁寧かつ謙虚な態度で接していたという。早期の死刑執行を望んだためか、はたまた死刑回避を望んだためかは今となってはわからないが、確定5年後の2001年12月に死刑執行が行われた。なお、この著者は仲間と一緒に1984年に3人を残虐な手口で殺害した元警察官であり、1993年に上告を取り下げて死刑が確定したが、前述の練馬の元死刑囚よりも早く死刑が確定していながら、死刑執行されることなく、何冊かの著作物を出版しているほどである。そのため、法務省の次の死刑執行対象者の選定基準に公開されていない基準があると推測されている。死刑執行が行われない場合には事実上の仮釈放のない終身刑となり、服役中に獄死した死刑囚も多数存在する。
なお、死刑執行後に冤罪が明らかになった場合、刑事補償法第3条第3項は被執行者遺族に対して3,000万円以内の補償を行うと規定しており、さらに本人の死亡で財産上の損失が生じた場合と認められる場合には「損失額+3,000万円」以内の額とされているが、この金額は犯罪被害者遺族に支払われる金額と同じである。
過去には法務省内でも死刑の存廃やあり方などを議論してきた経緯がある。1970年2月3日には、法制審議会、刑事法特別部会が死刑の存続について審議をとりまとめ、死刑存続の結論を出した。また、2010年7月、日本の法務大臣の下に「死刑の在り方についての勉強会」 が設けられ、2012年3月、その取りまとめ報告が公表された。当初は、死刑囚に死刑の執行をどのように知らせるか、また死刑の執行の情報をどこまで公開するかも議論される予定であったが、議論は尽くされたとする法務大臣小川敏夫によって勉強会は10回の会合をもって打ち切られた。
2008年5月には国際連合の国連人権理事会が日本の人権状況に対する定期審査を実施 したが、このなかで欧州を中心に12ヶ国が日本政府に対し、死刑執行停止や死刑制度の廃止などを求めた。
これは前述のように国連総会で死刑執行の一時停止を加盟国に求める決議が採択されたにもかかわらず、日本で7人が死刑執行された状況を踏まえ、死刑制度廃止を訴える英仏などが説明を求めた。これに対し、日本代表は「国民世論の多数が極めて悪質な犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」と指摘し、「国連総会決議の採択を受けて死刑執行の猶予、死刑の廃止を行うことは考えていない」との立場を表明した。人権理事会は日本に死刑制度の廃止を勧告する人権状況の改善を求めた審査報告をまとめている。
また、国連の自由権規約人権委員会は、2008年10月30日に5回目となる対日審査・最終見解を公表した。その中で、国民世論の支持を死刑制度の存置の根拠としている点について「政府は国民に廃止が望ましいことを知らせるべきだ」と主張。さらに「世論調査に関係なく死刑制度の廃止を検討すべきだ」との改善勧告を行った。
2009年9月、ロンドンに本部を置く国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルは、日本の死刑囚は独房に入れられ精神病に追いやられるような非人間的な扱いを受けており、そのために重い精神病を患った死刑囚に対して死刑執行を行うことは国際法に反している、と主張している。日本で新政権を担うことになる民主党に、死刑囚を精神病に追い込むような、閉ざされた明かりも無い独房に閉じ込めることがないよう改善を求めている。2018年7月6日にオウム真理教の教祖だと言う麻原彰晃やその教団の幹部6人これらその教団の重要人物ら7人が死刑執行されたときに「処刑は正義の実現にはなりえない。」と声明を出した。アムネスティは国連のようなダブルスタンダードを用いず、すべての死刑執行に対して一応の声明を出している。ただし、イギリスは死刑はなくとも暗殺は目立ち、なおかつ終身刑が下される「テロに屈する」国の一つであることに留意する必要がある。
日本では、政府の総理府(現在の内閣府)が5年毎(平成時代以前は不定期)に実施している世論調査において死刑制度に関する調査が行われている。以下は2019年の調査結果である。
このうち、「死刑もやむを得ない」と答えた者に「将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。」との設問を設け、以下の結果となった。
全員に「もし、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止する方がよいと思いますか、それとも、終身刑が導入されても、死刑を廃止しない方がよいと思いますか。」との質問を設け、以下の結果となった。
以上の結果から、法務省は世論調査では国民の8割以上が死刑存置に賛成していると主張している。過去には日弁連などが政府の世論調査には設問の表現に偏りがあり、死刑賛成に誘導されやすい世論調査と強く非難し、情報公開が進めば死刑存置に反対している国民が多く存在するはずであると主張していたが、批判を受け設問を単純化した2014年からの調査でも日本国内の死刑容認論の根強さが浮き彫りになっている。
以後、日弁連は「死刑廃止が必ずしも国民世論の少数になるとは限らない。」と現状の世論については存置が多数派である事を程度認めてるが、他国では世論では死刑支持率が高いなか死刑を廃止したのだから日本も世論調査の結果は死刑存置の理由にはならないと主張している。
一般人に対する世論調査では死刑に対し支持する割合は高いが、刑事司法関係者を対象にした調査では法学研究者や弁護士の過半数が死刑反対である一方で検察官や警察官は多数が死刑賛成である という。これは弁護士が犯罪加害者を擁護する職種であるにたいして警官や検察官は犯罪加害者を追求および糾弾する立場にあるとともに、弁護側と違い被害者遺族の立場を取ることを考えれば当然である。法学者の場合には死刑が根本的には人権の侵害であるという事実があるため死刑反対派となる傾向が高いが、無論、法学者のなかにも死刑制度を存置すべきだと主張する者も少なくない。また死刑に反対することを理由に検察官を止めて弁護士になった元検事、死刑判決をしたくないという理由で民事裁判のみを希望する裁判官 も存在する。その一方で死刑囚処遇を担当していた刑務官の中には死刑制度に疑問を呈している者も少なくない。
日本の国会議員に死刑存置の立場の議連はないが、これは日本は制度として死刑制度が存置されており、現状維持すればいいため、あらたに運動すべき必要がないためである。なお、昭和時代に検討されていた改正刑法草案では死刑の適用される犯罪を現行刑法よりも狭めることになっていた。
1994年に少人数ではあるが超党派の議員連盟「死刑廃止を推進する議員連盟」(現在の会長は亀井静香)が発足し、日本における死刑廃止運動は組織化された。しかし日本の政党で死刑制度廃止を公言しているのは日本共産党だけである。その一方で死刑制度存置を強く主張する政治家は、検察官など法務官僚に一定の支持を得る必要がある現職の法務大臣以外は実はほとんどいないとの指摘がある。たとえば、インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」で死刑制度に関するディベート番組が制作された際、東京拘置所の処刑設備を見学したことのある保坂展人(当時衆議院議員)が「死刑廃止論者」として出演したが、死刑存置派の国会議員を放送局で探したところ誰も出演しなかったため、やむなく刑法学者が出演したという。そのため保坂は死刑推進派といえる国会議員は実際には存在せず『小選挙区制になったことから、多くの人の支持を得る為には死刑廃止とはいえない、俗論におもねっているだけである。そのため(欧州諸国とは違い世論を政治家が変えようというリーダーシップがないので)日本はみんな横並び意識が働いている』と主張しており、実際は死刑制度を存置するのは一般世論に迎合している政治家の不作為だとしている。 | [
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"text": "死刑存廃問題(しけいそんぱいもんだい)は、死刑制度の是非に関して存在する倫理、法律(憲法)、刑事政策、そして国際外交にかかわる諸問題である。",
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"text": "死刑制度の是非をめぐっては、死刑制度を維持する国では存続に賛成する存置論 (存続論)、死刑制度の廃止を主張する廃止論(反対論)、死刑制度を廃止した国では制度の復活に賛成する復活論とそれに反対する廃止維持論が存在する。死刑制度は宗教、哲学および社会感情が複雑に絡むテーマであり、存置派と廃止派とは、古代から現在に至るまで、様々な論点をめぐって様々な対立をしてきた。",
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"text": "死刑是非の論争の背後には、犯罪者に対する処遇を扱う刑事政策問題の範疇におさまらず、刑罰論や生命論といった法哲学の広く深い対立の溝があり、合意には至っていない。こうした状況のため、死刑存廃の議論は、しばしば「不毛の論議」となる(中嶋 2004, p. 189)。",
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"text": "下記の表は双方の立場から提示された様々な論争の論点の一部を書物 から、列挙したものである。この図でも判るように双方とも鋭く対立している。",
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"text": "なお前述のとおりこれらの論争は無数にある死刑存廃論議のほんの一部であり、このような二項対立的な議論が常になされているわけでもない。また双方の主張者がすべて同一であるわけではない。",
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"text": "死刑の是非の論争は学術的には哲学・倫理学において政策や法の是非を論じる規範倫理学や応用倫理学に属する。この観点において死刑の是非の論争は義務論と帰結主義と徳倫理学の3つに大別される。「人の命を奪う死刑は悪」(人権論)や「死刑の冤罪は取り返しがつかない」などの死刑反対論や、「死刑は応報である」(応報論)や「生命権、自由権、財産権の侵害は死刑、懲役、罰金で償うべき」(社会契約説)などの死刑賛成論は義務論に属する。死刑や終身刑の犯罪抑止効果およびその制度の経済的採算性の比較は帰結主義(論)に属する。徳倫理学においては、死刑という刑罰が残虐であるか、あるいは死刑によって被害者や遺族の救済が達成されるのかという徳に関する考察や、被害者と加害者、捜査に関わる警察や裁判に関わる法曹(検察官、弁護士、裁判官)および死刑を実際に執行する看守などに実際にどのような精神的および道徳的影響が及ぼされるのかが議論される。一般論として反対派は「血を血で贖う」死刑制度は社会を残虐化するとの論を展開し、賛成派は、死刑で罪が償われることにより法の正義および生命の尊厳が再確認されるとの論を展開する。",
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"text": "死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤認による逮捕・起訴・死刑判決・死刑執行が主張される。死刑執行後に冤罪が判明した場合は、その被害は重大であり、被害の回復は不可能である。",
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"text": "冤罪を理由に死刑廃止を主張する人々は、下記の理由で冤罪を論拠とする死刑廃止を主張している。",
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"text": "冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張する人々は、下記の理由で冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張している。",
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"text": "日本においては、1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後、死刑判決を受けて死刑囚になったが、再審で無罪判決を受けて釈放された、免田事件、松山事件、島田事件、財田川事件。",
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"text": "死刑廃止論者は、殺人事件で起訴された被告人のうち、死刑判決が確定する被告人が実際には少ない(日本国内では1990年代以後は毎年600~700人前後が殺害され、殺人犯の90%以上が検挙されているが、年によって上下するが十数人程度しか死刑が確定しない)ことから、現制度では殺人被害者の遺族のうち、死刑存置論者が主張する死刑による感情回復ができないのはおろか、加害者の贖罪すら受けることの出来る者が少ないと批判している。一方で、殺人事件の被害者遺族の大半は死刑を望んでおり、日本も含めて死刑制度の存在する国の被害者遺族の団体の殆どが死刑賛成の立場をとっている。しかし、これらの被害者遺族団体も「目には目」のように殺人罪全てに死刑適用を要求しているのではなく、あくまで情状酌量の余地のない殺人においてのみ死刑の適用を要求している。",
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"text": "日本においては死刑囚に対して被害者の遺族が死刑を執行しないよう法務省に求めた場合 でも死刑は執行されており、これは被害者遺族の感情を回復するどころか傷つけているのではないか、という批判がある。一方、外国では、例えばアメリカでは被害者遺族が死刑を望まない場合は、知事が死刑を終身刑に減刑することができたり、イスラム法国家では、被害者遺族が死刑を望まない場合は遺族の要望で死刑の恩赦が可能である。これは日本では終身刑が存在しないため、外国のように死刑を終身刑に減刑することができないからであるといえる。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "他方被害者遺族は、犯罪被害者の被害として、家族を殺害されたという直接的被害にとどまらず、報道機関や司法関係者などから心無い干渉を受けたり、逆に国や社会から見離され孤立化することで二次的被害を受けることが多い事から、被害感情を一層つのらせることになり、加害者である犯人に対し極刑を求める感情が生じているとも云われる。そこで、犯罪者を死刑にすれば犯罪被害者遺族の問題が全て解決するわけではないとして、死刑存置だけでなく犯罪被害者遺族に対する司法的対策を充実すべきであり、そのことが被害者遺族の報復感情と復讐心を緩和させるとの主張 もある。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "犯罪被害者救済のために犯罪者に対する附帯私訴の復活を主張する作家で弁護士の中嶋博行は、国が被害者遺族に給付金を与える制度があるが、これらの予算は税金であるので犯罪者に償いをさせるべきであり、死刑相当の凶悪犯は死ぬまで働かせて損害賠償をさせるべきだと主張している(中嶋 2004, pp. 190–191)。",
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"text": "被害者遺族の応報感情のために死刑制度は必要だと主張する藤井誠二は、『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の闘い』のなかで「加害者がこの世にいないと思うだけで、前向きに生きる力がわいてくる」という遺族の言葉を私は聞いたことがある。被害者遺族にとっての「償い」が加害者の「死」であると言い換えることだってできるのだ。私(藤井)はそう考えている」「加害者の死は被害者遺族にとっては償いである」と主張している。ただし、この藤井の事件被害者への一方的な肯定論に立った言論に対する批判も少なくない。また、被害者と加害者の家族が一緒の家庭内の殺人(かつて特に尊属殺は厳罰 になった)の場合については対応できていないといえる。また彼は『重罰化は悪いことなのか 罪と罰をめぐる対話』において、 「人間の尊厳を無残なかたちで奪い取った者に対する罰としての死刑をやめてしまうと、人は何人殺したとしても国家が命を保証することになる。それが殺された側の尊厳に対しての人道なのか。このような、どうしても譲れない一線が、僕をふくめた死刑存置派にはあります。死刑に反対する理由をひとつずつ削いでいくというか、慎重に消去法でやっていって、苦渋の選択として死刑は存置するべきだという立場をとるにいたっています。」(P121-122)と述べている。 アメリカ合衆国連邦最高裁は「被害者感情は客観的に証明できるものではない、よって死刑の理由にするのは憲法違反」との判決を出している。アメリカ合衆国やその他の先進国では、殺人被害者家族による死刑制度賛成団体もあるが、殺人被害者家族と加害者が対話して、加害者が家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思ちを表すことによりすることにより、家族の被害感情を少しでも緩和と加害者との和解や赦しを提案する運動があり、英語ではRestorative Justice、日本語では修復的司法と表現する。被害者と加害者の対話と謝罪・贖罪・賠償・更生の意思の表現による赦しと和解の提案は殺人だけではなく他の暴力犯罪や非暴力犯罪でも提案され実施され、対話の結果として、被害者や被害者の家族が加害者に許しの感情と和解を表明する事例もあり、ある程度の成果になっている。ただし、被害者と加害者の対話の提案は、刑事裁判と刑事司法制度や、少年審判と少年保護処分のように公権力が強制的に行う制度ではなく、被害者または被害者の家族と加害者の両者に提案して両者の合意により成り立つ任意の試みである。犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、加害者に対する被害者や被害者の家族の怒り・恨み・憎しみ・嫌悪・拒絶の感情や処罰感情は大きく強くなる傾向が著しいので、犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、被害者側の拒否により実現される可能性が低いという現実がある。加害者においても、全ての加害者が被害者や被害者に家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思を持つのではなく、謝罪・贖罪・賠償・更生の意思が無く被害者や被害者の家族との対話を拒否する加害者も存在するので、加害者の意思により実現される可能性が低いという現実もある。",
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"text": "死刑を廃止した国に見られる思想として、「環境要因論」がある。",
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"text": "これは、死刑に値する凶悪犯罪の背景に、家庭環境や社会情勢という本人の努力では変えられない環境が必ず存在しているという見方である。この環境要因論は、加害者が優良な環境に恵まれていれば、その加害者は死刑に値する凶悪犯罪を起こさなかった、とする内容であり;これを裏返せば、被害者であっても、加害者が被った劣悪な家庭環境や社会情勢に置かれていれば、死刑に値する凶悪犯罪を起こす可能性を持っている、とも言える。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "つまり、加害者を死刑に処しても凶悪犯罪が根絶されないという観点から、犯罪に駆り立てた「環境」を絶つことが犯罪の根絶に必要であると説く内容である。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "一部の死刑廃止論者は、死刑は懲役と比較して有効な予防手段ではないとしている。",
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"text": "また、他の一部の死刑廃止論者は、死刑の抑止効果が仮に存在するとしても、他の刑との抑止効果の差はさらに小さい、ないしは均等であるとする。また、そもそも、抑止力などというものは将来にわたって確認・検出不能であると考えられるとして、明確な抑止効果、ないしはその差異が証明されない以上、重大な権利制限を行う生命刑が、現代的な憲法判断により承認されることはないとしている。実際に死刑を廃止したフランスでは死刑制度が存置されていた時代よりも統計的には凶悪犯罪が減少していることなどもあり、犯罪抑止効果などという概念自体科学的に疑わしいといわざるを得ず、また死刑に相当する犯罪行為の目撃者を死刑逃れのため「口封じ」することさえあるとして、犯罪抑止効果に対する懐疑性の理由としている。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "それに対し、一部の死刑存置論者は、終身刑や有期刑にしても統計的には明確な抑止効果は証明されておらず、終身刑や有期刑が死刑と同等の抑止効果を持つことが証明されない限り、死刑を廃止すべきではないとする。また、個別の事件を見ると、闇の職業安定所で知り合った3人が女性一人を殺害した後にも犯行を続行しようとしたが、犯人のうち一人が死刑になることの恐怖から自首したという例もあり、死刑制度の存在が犯罪抑止に効果があるとの主張も根強くある。このような認識は少なからざる人々の間で語られるが、数的根拠はない。死刑制度存続を必要とする理論的理由は後述のように犯罪被害者遺族のために必要とするなど複数存在している。また、死刑制度の代替と主張される終身刑(無期懲役)などの刑罰が、死刑と比べ相対的な犯罪抑止効果があるかを示す統計も出ていないのも事実である。すなわち、死刑と長期の懲役のうちどちらが犯罪を抑止する効果が優れているかどうかは誰も検証できていない。これに対してはそもそも「抑止力」という概念をあてはめること自体不適当ではないかという問題もあるとされる。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "死刑の犯罪抑止効果について、統計的に 抑止効果がある と主張する論文は、アメリカ合衆国でいくつか発表されているが、その分析と称されるそれに対しては多くに批判が存在しており、全米科学アカデミーの審査によると「どの論文も死刑の犯罪抑止力の有効性を証明できる基準には遠く及ばない」としている。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "個別の刑罰の特別抑止(再犯抑止)効果を除いた一般抑止効果は、死刑、終身刑およびほかの懲役刑も含めて、統計上効果が実証されていない。一般論として、死刑反対派は「死刑による犯罪の一般抑止効果の統計的証拠がないこと」、死刑賛成派は「死刑代替刑による威嚇効果が十分でないこと」を指摘する。抑止効果の分析方法には地域比較と歴史的比較がある。地域比較では国や州の制度の違いによって比較が行われる。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "地域比較としては、アメリカ合衆国の1960年から2010年までの、死刑制度が無い州や地域と、死刑制度が有る州の殺人発生率を比較(死刑が無い州地域と有る州の数は時代の進展とともに変化している)すると、死刑制度が無い州や地域の殺人率の平均値は、死刑制度が有る3州の殺人率の平均値は死刑制度が無い州や地域と死刑制度が有る州を比較して、いずれの年度も近似値であり統計上有意な差異は確認されていない。",
"title": "死刑存廃論争"
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"text": "主要工業国(先進国・準先進国)で死刑を実施している国としては、日本、アメリカ合衆国、シンガポール、台湾などがあるが、アメリカ合衆国の殺人率は先進国の中では高く他国の殺人率は低い ので、個々の国の殺人率は死刑制度の有無や刑罰制度の重軽により決定されるわけではなく、殺人に対する死刑の一般抑止効果としては、国や州や地域別の比較には意味がないとの指摘もある。",
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"text": "時代的比較では、死刑が廃止された国での廃止前・廃止後を比較する試みがされる。しかし様々な制度や文化、教育、経済など様々な社会環境の変化も伴うため、分析者によってさまざまな結論が導き出されており、それだけを取り出して検討するのは困難である。ただし現段階においては、廃止後に劇的に犯罪が増加・凶悪化した典型的ケースはこれまでにはなく、また劇的に犯罪が減少したケースもない。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "廃止派団体であるアムネスティ・インターナショナルはカナダなどにおける犯罪統計において死刑廃止後も殺人発生率が増加していないことを挙げ「死刑廃止国における最近の犯罪件数は、死刑廃止が悪影響を持つということを示していない」と主張している。これに対し「アムネスティの数値解釈は指標の選択や前後比較の期間設定が恣意的であり、公正にデータを読めばむしろ死刑廃止後に殺人発生率が増加したことが読み取れる」という反論 がなされている。このような主張の正否はともかくとして、いずれの議論においても、死刑制度および無期懲役と凶悪犯罪発生率の間の因果関係の有無が立証されていない点では共通しているといえる。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "死刑および終身刑に相当する凶悪犯罪が近代国家では少なくないため、統計で犯罪抑止力にいずれの刑罰が有効であるか否かの因果関係を明示することができないことから、統計的に結論を出すのは難しい。特に日本では「犯罪が増加した」との指摘もあったが、それでもなお他の先進諸国と比較しても低い。たとえば犯罪白書によれば、2000年に発生した殺人の発生率及び検挙率の表 では、日仏独英米の5カ国では発生率は一番低く(1.2)、検挙率もドイツについで2番目によい(94.3%)。この数値を見れば死刑制度の存在が有効に働いているとの主張も可能であるかのようにいえる。しかし、もう一つの死刑存置国であるアメリカ合衆国の数値は、発生率が5.5で最悪、検挙率も63.1%と最低である。そのため死刑制度の存置が犯罪抑止に全く効果がないとの主張も可能である。アメリカが日本と違い殺人の手段として容易に用いることが可能な銃社会であるなど、社会条件に相違点があるとしても、このように統計のみでは死刑の犯罪抑止効果を見出すことができないといえる。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "死刑廃止国では凶悪犯が警察官に射殺されることが多いという指摘がある。元参議院議員の佐々木知子は死刑廃止国で警察官による簡易死刑執行(英語版)がおこなわれていると指摘している。これは危険な犯人を射殺してしまえば将来の危険性は永久に除去され刑務所に収容して税金でやしなう必要がないという方法論からきている。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "しかし、欧米では銃規制が日本に比べてはるかに緩いので、警察官と銃を使用した犯人への争いの結果として、警察官の正当防衛・業務行為としての発砲が増えるのは必然的であり、それを「簡易死刑執行」という言葉でいいかえるのは、ご都合な詭弁という意見 がある。また日本でも警察官の業務行為としての正当性が認められた判例が()存在することからも、「日本では、警察官は何もできずに死刑をなくしたら理不尽だ」という存置論は根拠をもたない。そもそも、簡易死刑執行は、軍隊においてつかわれていた用語にもかかわらず、なぜ日本だけこの言葉の意味を曲解してもちいるのかが意味不明という指摘がある。また、フランスは死刑廃止と同時に刑法を全面改正して懲役を長くしたという指摘もある。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "「簡易死刑執行」は本来は戦時下における軍による軍法上、あるいは司法手続に依らない超法規的処罰(英語版)を指すものであり、司法警察など一般の法執行機関によるものは超法規的処刑と呼ばれている。メキシコ、ブラジル、ロシアなど一部の死刑廃止・凍結国では麻薬密売組織やテロ組織を対象に秘密警察や死の部隊による超法規的処刑が行われている例があるが、超法規的処刑が国際問題にまで発展している国の多くは死刑残置国であり、犯罪組織の撲滅というよりも、国内における反体制派の弾圧を目的に超法規的処刑が正当化されている例がほとんどである。死刑残置国であるインドでは警察官が麻薬密売組織などの構成員と遭遇した際に即座に射殺に及んでしまう事態が多数発生しており、これを記述する法的用語として遭遇殺害(英語版)と呼ばれる概念が存在するが、冤罪の可能性も否定できないとして人権団体からは批難の対象となっている。一方で死刑廃止国であるフィリピンではロドリゴ・ドゥテルテがダバオ市長、後にフィリピン大統領に就任して以来、犯罪者に対する組織的な超法規的処刑を常態化させており、人権団体は批判しているもののこれによりダバオ市及びフィリピンの治安が顕著に改善されたことが確認されている。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、犯罪者、法執行機関の双方が銃器を持ち、正当防衛・業務行為としての発砲が発生しやすい国では、自殺(拡大自殺)の一手法として警察官からの発砲を意図的に誘発させる間接自殺(英語版)と呼ばれる行為がしばしば発生するという負の側面も抱えている。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "死刑の存廃が社会に影響をもたらすのかどうかは、法学者の間でも決着はついていない。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "死刑制度の存在が、国民の一部の残虐的性質を有するものに対し、殺人を鼓舞する残忍化効果を与えているとの指摘や、自暴自棄になった者が死刑制度を悪用する拡大自殺(extended suicide)に走るとの指摘もある。このような拡大自殺に走る者は少ないといわれるが、実例としては2001年に発生した附属池田小事件で死刑が確定した宅間守(2004年に死刑執行)の最大の犯行動機が自殺願望であり、1974年に発生したピアノ騒音殺人事件(近隣騒音殺人事件)では、犯人が自殺もしくは処刑による死を望んだ事があきらかになっている。明治以降の日本の凶悪犯罪史を見渡してもこのような者は極少数であるが、確実な死刑を望むため大量殺人を意図した者は存在している。また前述の2人の死刑囚のように、上級審で争う意思を持たず、弁護人がした控訴を自身の意思で取り下げ、1審の死刑判決を確定させた事例も散発的に発生している。",
"title": "死刑存廃論争"
},
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "たとえ凶悪犯罪者といえども死刑を強く求める言論が、生命を軽視する風潮を巻き起こす事になり、よって逆に殺伐とした世情を煽る側面もあるのではないかとする懐疑的な主張がある一方、凶悪な殺人行為に対しては司法が厳格な対処、すなわち死刑をもって処断することこそが人命の尊重につながるとの主張もある。",
"title": "死刑存廃論争"
},
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"paragraph_id": 35,
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"text": "他方では、死刑制度の廃止が成立した場合の懸念を訴える者も少なくない。代表的なところとしては、人を殺しても死刑制度が無いために死刑にならないならば、復讐のためにその殺人者を殺しても同様に死刑にはならないという理論も成り立つため、敵討の風習の復活に繋がるのではないか、という問題である。ちなみに、この種の懸念は日本においては死刑制度の存廃論議と平行する形で古くから存在しているものであり、たとえば、1960年代に星新一は、ハヤカワ・ミステリ・マガジンで連載していたエッセイ『進化した猿たち』の中で、ある高名な司法関係者に「わが国でなぜ死刑廃止が実現しにくいのか?」という質問をしたところ、理由の1つとしてまず敵討復活の懸念というものを挙げられたと記している。なお、江戸時代の敵討ち、すなわち仇討ちであるが、認められるのは武士階級のみで、対象は尊属を殺害されたものに限定され、子息の殺害に対して適用されず、また「決闘」であったため、返り討ちされる危険性もあった。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2015年のアメリカの銃乱射事件の総数は過去最大であり、乱射事件が起きなかったのはわずか五州である。乱射事件の発生したほとんどの米国州は死刑が廃止されている。「銃乱射する人物の性格に問題 がある」とされていた従来の理論では、説明不可能な事件が増加している。",
"title": "死刑存廃論争"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "死刑制度を維持している国では長年に渡って刑罰の一つとして死刑を存続させる死刑存置論と死刑制度を廃止させるほうが適切であるとする死刑廃止論との議論が繰り返されてきた。死刑の適用範囲は厳罰化で拡張される場合も、寛容化で縮小される場合もありえるため、必ずしも存続派が現状維持派とは言い切れない。なお死刑制度が廃止されている国の場合には死刑復活問題となる。実際にアメリカ合衆国のいくつかの州では死刑を廃止または執行の停止をした後に復活しているし、イギリスやフランスでは否決されたものの議会で検討された事もある。20世紀後半以降一度死刑が廃止された後に復活した国は少なく、また復活させた場合でも国際世論の動向を警戒し実際に執行された国はさらに少ない。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "論点としては凶悪犯罪に対する抑止力、冤罪の可能性、殺人に対する応報が議論されている。近代社会において、死刑の適用が除外されたものに政治犯に対する刑罰がある。古代より政権を握ったものが反対者を反乱者として処刑する事は珍しくなかった。革命やクーデターといった政変による、例えば外国の軍隊を日本に侵攻させる外患誘致罪は死刑しか規定されていない。また、現在でもイスラエルによるパレスチナ人などへの暗殺のように、名目上死刑廃止国であっても、裁判という形を取らずに人を殺す国家もある。またミャンマーのように死刑が停止されていても人権侵害による犠牲者を出している国もある。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1989年12月、国連総会で採択された市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書(死刑廃止条約)には、随意項目として死刑廃止が存在する。これを加えて廃止を選択する国は、国際条約に基づき「戦時中に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決によって、戦時に適用することを規定」(第2条1項)されている戦時犯罪を除き平時全ての死刑を廃止することになる。なお、戦争犯罪も裁くことがある国際刑事裁判所は、大虐殺を指導した国家元首であっても死刑は適用されず、言い渡せる刑は終身刑(服役して25年以上経過後に仮釈放の可能性がある)と有期30年以下(刑期の3分の2以上経過後に仮釈放の可能性がある)の禁固刑である。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1990年ごろまでは、死刑維持国が大多数を占めたが、一党独裁ないし軍事独裁政権であった国家が民主化した直後に東欧や南米の諸国が死刑を廃止し、死刑廃止国の数が増加した。一方で、アジア・アフリカ・中東においては、民主化の後も死刑を維持する国が多い。1990年代以降、国際社会では死刑制度の廃止に踏み切る国家が増加している。特に死刑の廃止を主張する欧州連合加盟国の強いヨーロッパでは、死刑存置国も死刑の執行停止をせざるを得なくなっており、唯一死刑の執行を続けていたベラルーシが「人権抑圧国」として糾弾されている。また国際連合も死刑廃止条約を推進することなどから、外交の一環として死刑制度に対する国際的圧力は増大しているという考え方もある。なお一部の死刑存置派は一連の動きに対し、国内状況が死刑制度の廃止ができない状態であれば死刑は維持すべきであるとしている。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2007年12月18日、欧州連合などの提案で、国連総会で初めて死刑モラトリアム決議が可決したが、これに対し日本の神余隆博大使は「国民の大半が死刑を支持しており制度廃止に踏み出すことは困難」と述べ、また「決議に賛成すると憲法違反になる」と表明 しており、「日本の内政問題であるから世界の大勢に従うべきでない」としている。これに対し欧州連合は国際連合の人権委員会で「日本の人権問題」として「死刑制度の廃止もしくは停止」を求める勧告を出させている。2008年も欧州連合は同様の決議を提出する予定で、10月28日、日本で同日行われた2名の死刑執行に議長国フランスは「深く憂慮している」と表明した。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "国連の死刑廃止条約や、EUの死刑廃止ガイドラインは、通常犯罪に対しては死刑を禁止しているが、戦時の死刑については国家の権利として認めている。死刑廃止論の祖であるチェーザレ・ベッカリーアを始め、過去の死刑廃止論者・団体は、平時の通常犯罪に限定して死刑廃止を主張しており、戦時下など国家の危機における死刑については対象としないことが多かったが、近年では戦時も含めてあらゆる死刑に反対する考え方が広まっている。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "世界195ヶ国の色分けは次の通り。(2022年現在)",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "となっている。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "死刑廃止は世界の趨勢(すうせい)であると主張する、死刑廃止派であるアムネスティ・インターナショナルの調べによると、2022年現在、109ヵ国が死刑を全面的に廃止し、7ヵ国が通常犯罪にのみ死刑を廃止している。ただし、人口の多い中国、インド、アメリカ、インドネシア、日本といった国では依然として死刑が存続しているので、人口比では「世界の趨勢」とはなっていない。他に、通常犯罪に対する死刑制度は存置しているが10年以上死刑を執行していない国が25ヵ国あり、これらの国には死刑を行わない政策ないし確立された慣例があると認められる。2010年に新たに死刑を全面的に廃止した国としてガボン共和国があげられる。 2022年現在、54ヵ国が死刑制度を存置している。これらのうち日本を含む23ヵ国が2010年に死刑を執行し、少なくとも527名に対する執行が確認されている。ここには、中国で行われたとみられる数千件の執行は含まれていない。中国では死刑執行に関する統計は国家機密になっていると考えられ、アムネスティ・インターナショナルは中国については2009年より、死刑執行(最低)件数の報告を止めている。他にベラルーシ、モンゴルでも死刑執行は国家機密として扱われ、マレーシア、北朝鮮、シンガポールについては情報が入手困難である。ベトナムでは死刑執行件数の公表は法律で禁止されている。 2010年の死刑宣告は、67ヵ国で少なくとも2,024人に対して行われている。現在、少なくとも17,833人が死刑宣告下にある。",
"title": "死刑制度をめぐる国際問題"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "死刑は、受刑者の生命を何らかの方法によって奪う刑罰で、その受刑者の社会的存在を抹殺する刑罰であり、人類の刑罰史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる。しかし、原始社会では殺人はほとんどの場合は同族内でのいざこざでおこる衝動犯罪であり、加害者も被害者も親戚関係であることが多かったため、死刑ははばかられ、代わりに村八分や部族からの追放などの措置がとられることが多かった。実際に死刑となるのは、これらの部族社会における別の部族との争いにおける復讐である。他部族の者が自分の部族の一員を殺した場合は、賠償が行われる場合もあれば、報復措置として殺し合いが行われることもあった。さらに人類に都市文明が生まれると、みせしめの手段として死刑を残酷に演出するために、車裂き、鋸挽き、釜茹、火刑、溺死刑、石打ちなど、その執行方法は多種に及んだ。また、犯罪行為に対するものに限らず社会規範を破ったことに対する制裁 として死刑が行われていた時代もあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "上記のような執行方法はあまりにも残虐に過ぎ、近代以降あまり受け入れられなくなりつつある。時代が進むにつれ、残虐性のある執行方法を用いる国は減少していくが、これは人道上許容できないという理由によるものが多いと思われる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "完全な形で残っている、世界で2番目に古い法典であるハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」があるため、応報刑が採用されていたようである。ただし加害者の身分が被害者より下であれば厳罰に処せられており、応報刑が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。また場合によっては罰金の納付も認められていた。そのため、基本的に「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」といった現代の罪刑法定主義が採用されていたものであり、復讐を認める野蛮な規定の典型ではなく「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」ものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし、ユダヤ人とキリスト教徒はこれらを宗教的教義に反する政治思想・司法制度として批判し続けたため、近代に至るまで罪刑法定主義的な処罰が行われることはなかった。そのため、近世になるまで現在から見ると釣り合いが取れないほど軽い罪や反道徳的な行為が、死刑になる犯罪行為とされていた。このような不文律による処罰を罪刑擅断(専断)主義という。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ユダヤ教とキリスト教の聖典であるモーゼの十戒の日本語訳は古い訳では「汝殺すなかれ」となっており、仏教と同じように不殺の戒が定められていると誤解されるが、実際には「殺人を犯すなかれ」という意味あいであり、死刑の執行に関する記述や、神の民であるユダヤ人の起こす戦争を肯定する記述(ダビデによるゴリアテの殺害など)があるなど、あくまでも犯罪としての殺人を禁じるものであり、死刑そのものを否定するものではない。しかし、キリスト教は罪に対する許しと贖罪を強調したため、教義において応報を理由に死刑を正当化することができなかった。ローマ帝国の国教になる以前にもその正当性は議論されていた。中世ヨーロッパ社会で死刑制度を肯定する思想として、スコラ哲学者でもあった神学者のトマス・アクィナスは、刑罰に応報的な性格があることを認めたが、その正当性を否定する一方で「わずかの酸は麹の全体を膨らます」(コリント前書5章16節)の文言を根拠に、ある人が犯罪によって社会全体に危険を撒き散らし、しかも伝染的なものであるなら、公共の福祉を守るためにこれを殺すことは有益で賞賛に値するとし、死刑がさらなる殺人に対する予防論として肯定した。また、宗教改革の指導者であるマルティン・ルターは、死刑を執行する剣は神に対する奉仕を意味し、人間の手でなく神の手が殺戮するのだ、として肯定すると共に、国家の為政者が凶悪な人間を死刑にするのは正当な行為であり罪でない、と主張していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "さらに、近世において啓蒙主義がおこり、ジョン・ロックやイマヌエル・カントなどが社会契約説などによって法の根拠を再定義したとき、応報論を死刑の正当理由として復活させたが、彼らの提示する応報論はあくまでも社会全体あるいは自然法に対する侵害に対する応報であり、被害者個人にたいする対価としての応報でない。現代において、世俗主義に基づく欧米各国の裁判所が実際の刑の正当性を論ずる判例において、被害者の立場を回復するという意味での応報論をほとんど認めないのは、応報=復讐=悪とみなす宗教的、さらに歴史的背景が存在すると指摘されている。応報論を刑罰の根拠として認められない結果として、死刑はその正当性を予防論および効用論に頼るざるを得ない状況にあるが、予防論は近代においては刑務所の出現によって完全にその有効性を失っており、これによりカトリック教会はそれまでの立場を改め、死刑反対の立場を宣言している。また、死刑が殺人の発生を未然に防ぐとの効用論も社会統計上その根拠がほとんどなく、欧米社会においては死刑賛成派は非常に弱い立場にある。死刑を実際に執行しているアメリカにおいても、最高裁判所の判例で応報論を根拠とする死刑の正当性は明確に否定されている。また、アメリカでの死刑肯定派を担う保守あるいは右派が応報論を展開しないのは、彼らが同時に保守的キリスト教徒であり、応報論はキリスト教の教義とあまりにも明確に矛盾することが挙げられる。これは、死刑の根本的根拠を応報論に置く日本などの東洋社会や、殺人における裁判の役割をあくまでも加害者と被害者(遺族)間の調停と見なし、加害者が被害者遺族を補償金などで納得させた場合は裁判官が死刑が減刑することが許されているイスラム社会とは対照的である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "キリスト教国は報復論を否定する一方、予防論によって死刑の正当性を位置づけたことで教義上の結論を見たが、見せしめのために前述のような残虐な処刑方法が行われ、教会自体、宗教裁判などによって異端者・魔女であるとした者を大量に処刑した その根拠とされたのは、旧約聖書の『出エジプト記』22章18節律法「呪術を使う女(ヘブライ語でメハシェファ)は生かしておいてはならない」という記述であるが、本来は意味不明であったものが、中世欧州社会では「魔術を行うもの」次に「キリスト教的教養の持たない者」を社会秩序維持のために排除すべきとなり、集団ヒステリーの産物としての魔女の極刑が横行した、と言われている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "政治的権力者ないし宗教指導者への反逆は悲惨な死に至る、というような「威嚇」を狙った目的もあり、歴史的には(異論もあるが)ローマ帝国およびユダヤ教に対する反逆者とされ死刑が執行されたイエス・キリストの磔刑、魔女狩りなど宗教異端者に対する過酷な処刑、イングランドのウィリアム・ウォレスに対する四つ裂きの刑などが有名である。これらの処刑はいずれも公開で行われており、死刑執行を公開することで犯罪を予防しようとする目的 から、生きながら焼き殺す、蒸し殺す、受刑者の身体を公共の場で切り刻んだり引きちぎったりする、などといった極めて凄惨な公開処刑が行われた。しかし中世フランスなどにおける公開処刑の実情を見ても、それが必ずしも威嚇となっていたのかは疑問の残るところである。なお、公開処刑は現在も一部の国では行われている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "人類社会で古くから脈々と続けられてきた死刑制度であるが、日本では死刑が事実上廃止されていた時代があり、前近代社会では極めてまれな事例である。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "近代になり、人権の保障として「法無くば罪無く、法無くば罰無し」という罪刑法定主義の原則が取り入れられるようになったが、犯罪者に対し国家が科すべき刑罰に関して、旧派刑法学(客観主義刑法理論)と新派刑法主義(主観主義刑法理論)の新旧刑法学派の対立が生じた。このような、刑罰の本質に対する論争のひとつとして、死刑制度の位置づけによって制度の存否をめぐる議論が生まれた。これにおいて、死刑が適用される犯罪を戦争犯罪のみに限定もしくは完全に撤廃しようとする主張が死刑廃止論であり、それに対して死刑制度を存続すべきという主張が死刑存置論である。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "フランスで1789年に勃発したフランス革命を契機として、死刑執行方法はギロチンによる斬首刑に単一化されるようになり、文化の変化に伴って死刑の意義がなくなっていったため、適用範囲が次第に制限されるようになった。フランス革命ではマクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治によって大量の政治犯が処刑されたことから、死刑制度が廃止するかに思われたが、最終的にナポレオン・ボナパルトによって退けられた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "欧米の政治革命の結果として、死刑が適用される範囲は次第に制限されるようになった。たとえば建国間もないアメリカ合衆国では、トマス・ジェファーソンが死刑執行の範囲を制限すべきと主張していた。州レベルではペンシルベニア州が1794年に、死刑を適用できるのは第一級殺人罪のみと限定した。また1847年にミシガン州が殺人犯に対する死刑を禁止し、事実上死刑制度を廃止した。これは国家が国民の生命与奪権まで与えることに疑問が提示された結果ともいえる。特に権力者に対する政治的反逆を行った政治犯に対する死刑は、一部の国を除き忌避されるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "20世紀末から欧州諸国が死刑制度を廃止し、国際連合も死刑廃止条約を打ち出したため、21世紀初頭の国際社会は死刑制度が廃止された国が半数となっている。一方で死刑制度を護持する国も依然として残っているが、死刑制度を存置する国においても、死刑が適用される犯罪はおおむね「他人の生命を奪った犯罪」に制限されるようになっていった。ただし、前述のように厳罰主義ないし宗教観による差異のために、「人の生命が奪われていない犯罪」 でも死刑が適用されている国家がある。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本で死刑が適用される犯罪は法律上17種類あるが、起訴された事例がない罪種が大部分であり、実際には殺人または強盗殺人など「人を殺害した犯罪」である。そのため、人を殺害した犯罪者のうち、特に悪質な場合において、犯罪者の生命をもって償わせるべきと裁判官に判断された者に死刑が適用されている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "先進国の多くが死刑制度を廃止しているが、アメリカ、日本、シンガポール、台湾などの幾つかの国では現在でも死刑制度を維持している。凶悪犯罪者に対する社会的制裁や犯罪抑止、犯罪被害者遺族の応報感情などを理由に死刑を維持すべきという国内世論も根強い。例えば、死刑存置論者である刑法学者が死刑廃止運動に対する批判(中嶋 2004, p. 189)として「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あなたたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」と発言している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "現在先進国のうち、実質的な死刑存置国はアメリカ合衆国・日本・シンガポールと台湾の4か国である。以前は非先進国のほとんどが非民主国家であったため、経済的な区分で死刑の維持派と廃止派を分けることが多かったが、近年では途上国でも民主国家の数が急増し、人権問題としては民主主義と非民主主義の国家での区分が有意義なものとなっている。この場合、民主主義の国では欧米文化の系列であるヨーロッパと南米などの国のほとんどで死刑が廃止、アジア、中東、アフリカの民主主義の国ではほとんどがは死刑を維持するという文化的な対立が鮮明となっている。またアメリカ合衆国では2013年10月時点で、18州が死刑を廃止・2州と軍は執行を停止という状況で、死刑制度がある32州と連邦も毎年執行している地域はテキサス州のみである。欧州議会の欧州審議会議員会議は2001年6月25日に、死刑執行を継続している日本とアメリカ合衆国に対して死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する1253決議 を可決している。また、国連総会も死刑執行のモラトリアム決議(2007年12月18日)を可決している。さらに、国連のB規約人権委員会は日本を名指しして死刑制度廃止を勧告している。2008年10月30日 には、日本の捜査機関の手続きの改善 や、死刑制度についても「死刑執行数が増加しており、また本人への告知が執行当日であること」などが問題であり、死刑囚本人とその家族が死刑執行に向けて心の準備ができるよう「適切な時間的余裕を持って執行日時を事前通知すべきだ」と批判している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "死刑を肯定する思想は、古くはイタリアの中世カトリック教会最大の神学者で、スコラ学者でもあったトマス・アクィナスによっても主張されたことで知られる。彼は、アリストテレスの思想体系をカトリック神学に結びつけて発展させ、刑罰を科することで犯罪によって失われた利益が回復されるとし、その意味で刑罰に応報的性格をみとめたとされる。また、社会の秩序を防衛するためには為政者の行う死刑は有益かつ正当であると主張したとされる。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "カトリック教会はその伝統において、おおむね死刑に好意的であった。神学者のフランシスコ・スアレスは、国民には他の国民の命を奪う権利はないのだから、そうした権利を含む国家の権力とは神が授けたものであるとし、死刑の存在が、国家権力が神に由来することの証明と考えた。宗教改革の時代において指導的神学者であったマルティン・ルターも、死刑を神事として肯定したと言われる。また初期啓蒙思想家のフーゴー・グロティウス、その系統をひく自然法学者プーフェンドルフも死刑を合理的なものとして肯定した。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "啓蒙主義の時代においては、自然権と社会契約説を唱えたトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやイマヌエル・カントなどが、世俗的理論のもとに、社会秩序の維持や自然権(生命権)の侵害に対する報復などをもって、死刑の必要性を再定義した。そのほか、モンテスキュー、ルソー、ヘーゲルらの近代思想家も死刑存置論を主張した。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
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"paragraph_id": 65,
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"text": "ロックは『市民政府論』の冒頭で、政治権力とは所有権の規制と維持のために、死刑をふくむ法を作る権利だと定義している。ロックによれば、自然状態では、他人の生命や財産を侵害する者に対して誰もが処罰の権利をもっている。自然法のもとでは誰もが自由で平等であり、肥沃な自然を共有財産とし、そこから労働によって私有財産を得る。ロックは生命・自由・資産をまとめて所有と呼び、これを侵害する者は全人類への敵対者となって自然権を喪失するため、万人が自然法の執行者として処罰権をふるい、必要ならば殺す権利があると述べる。こうした自然状態から、人々は所有権の保障を得るために社会契約を結んで協同体(市民社会、国家)に加わることに同意するが、それにともない個々人がもつ処罰権も移譲される。ただし、処罰権はあくまで一般的なものなので、国家にとって、死刑にかんする権利や義務がそこから「明示的に」発生する訳ではない。しかし殺人者や侵略者にかぎれば、自らの行為によって権利を喪失しているので、自然状態では万人に彼らを殺す権利があったのと同じく、国家は彼らに恣意的で専制的な権力をふるうことが正当化される。すなわちこの権力は、殺人者や侵略者の「生命を奪い、欲するならばこれを有害な動物として破滅させる権利」 をも含んでいるのである。ロックの考えでは、殺人者や侵略者は死に値し、死に値するという事実は死刑を十分に正当化するものであった。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "三権分立の提唱者として知られるモンテスキューは、死刑についてこう主張する。「これは一種の同害報復権である。これによって社会の安全を奪った、あるいは、他の公民の安全を奪おうとした公民に対し、社会が安全を拒否するのである。この刑罰は事物の本性から引きだされ、理性から、また善悪の源泉から取り出される。公民が生命を奪い、あるいは生命を奪おうと企てるほど安全を侵害した場合は、彼は死に値する。」",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
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"paragraph_id": 67,
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"text": "ルソーは死刑についてロックの発想を踏襲し発展させたと言われる。彼はグロティウス、プーフェンドルフらによる統治契約説(服従契約)を否定し、社会契約を自由な個人による同意と考えた。国家によって守られる契約当事者の生命は、その国家のための犠牲を求められることもあるとし、「犯罪人に課せられる死刑もほとんど同じ観点の下に考察されうる。刺客の犠牲にならないためにこそ、われわれは刺客になった場合には死刑になることを承諾しているのだ。」と述べる。また彼の言うところでは、「社会的権利を侵害する悪人は、...祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。...そして罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告」であり、すなわち法律違反者は公民たる資格を失うことになり、国家は自己防衛の必要があれば、これを殺してもよいとされる。その他方でルソーは「なにかのことに役立つようにできないというほどの悪人は、決していない。生かしておくだけでも危険だという人を別とすれば、みせしめのためにしても、殺したりする権利を、誰ももたない。」と述べている。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "プロイセン出身でドイツ観念論の祖であるイマヌエル・カントは、死刑について、「もし彼が人を殺害したのであれば、彼は死なねばならない。この際には正義を満足させるに足るどんな代替物もない」と語ったことで知られる。カントはホッブズ、ロック、ルソーから社会契約説の発想を継承しつつ、そこから歴史性を完全に捨象し、これを市民社会(国家)がもとづくべき理念として考えた。そうした国家において刑法とは定言命法であり、すなわち裁判所のくだす刑罰は、犯罪者の社会復帰や犯罪の予防といった他の目的の手段であってはならず、無条件で犯罪者を罰するものでなければならない。ルソーが犯罪者を国家の敵とするのに対し、カントは犯罪者も人格として扱わねばならないが故に、刑罰も彼を目的として扱わなければならない(が故に定言命法の対象となる)と考える。そして刑罰の種類や程度を定めるにあたって、司法的正義が規準とするのは、均等の原理すなわち同害報復権(タリオの法)のみだとカントは言う。したがって殺人のばあい、犯罪者の死だけが司法的正義に適うとされ、「刑罰のこの均等は、裁判官が厳格な同害報復の法理にしたがって死刑の宣告を下すことによってだけ可能になる」とされる。このように主張したことで、カントは絶対的応報刑論の見地から死刑を正当化したと言われる。ちなみに、ここでの被害者は公民的社会(国家)であり、個人対個人での補償や配慮は考えられていないと言われる。またカントは、ベッカリーアが死刑廃止の主張のさいに論拠とした、社会契約において当事者が予め死刑に同意することはありえないという議論に対し、人が刑罰を受けるのは刑罰を望んだからではなく罰せられるべき行為を望んだからだと反論した。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ヘーゲルは刑罰の考え方をめぐってカントの応報刑論を批判したが、殺人罪については、生命はいかなるものによっても置き換えられないという理由から、死刑しかありえないと考える。またベッカリーアの死刑廃止論を、社会契約にもとづく国家創設という発想そのものを否定することで斥けている。たしかに国家は、王権神授説の言うような与えられるものではなく、人々によって造られるものではある。しかしヘーゲルの考えでは、いかなるタイプの社会契約もしょせん恣意的で偶発的なものにすぎず、そうしたレベルの合意が国家のような統一体に発展することはない。もともと人々は、共同体の制度・慣習・文化の複雑な網の目のなかで生きており、契約の義務という観念もそれらを前提に生じ、共同体のなかではじめて現実性をもつものである。ところが社会契約論はこうした関係を転倒させ、これら諸々の前提を契約の所産のように勘違いしているのである。すなわち「国家はそもそも契約などではなく、なお、また個々のものとしての諸個人の生命および所有の保護と保全も、けっして無条件に国家の実体的な本質ではない」とヘーゲルは言う。このようにベッカリーアを批判する他方で、彼の著作によってヨーロッパ諸国が死刑に慎重な姿勢をとるようになった事をヘーゲルは評価している。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "19世紀には、社会進化論的観点から死刑を肯定する思想があらわれた。イタリアの医学者ロンブローゾは、犯罪者の頭蓋骨解剖・体格調査の研究により、隔世遺伝による生来的犯罪者という考え方を発表し、人為淘汰の思想にもとづく死刑の正当性を主張した。彼によれば、「社会のなかにはたくさんの悪い人間が散在しており、犯罪によってその性が現れてくるというのである。すなわち、そういう悪人の子孫が繁殖するというと、遺伝によって将来は犯罪人をもって充されるようになるから、社会を廓清し立派な人間ばかりにするために、人口淘汰によってこれ等の悪人を除くことが必要である。これを実行するためには、死刑はよい刑罰であって廃止すべきものではない」。また、ロンブローゾの弟子であったエンリコ・フェリも、人為淘汰として死刑は社会の権利であり、生物進化の自然法則に合致すると主張する。彼によれば、「進化の宇宙的法則がわれわれにしめすところに従えば、各種生物の進歩は生存競争に不適当なものの死という不断の淘汰によるのである。...ゆえに社会がその内部に於て、人為的淘汰を行いその生存に有害な要素、即ち反社会的個人、同化不可能者、有害者を除くということは、ただにその権利であるばかりでなく、自然の法則に一致しているのである」。刑法学における「イタリア学派」へと発展した彼らの主張は多くの批判を受けたが、従来の刑法学に実証主義的な手法を導入した点では高く評価されている。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 71,
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"text": "20世紀初頭、ドイツ・ベルリン大学のヴィルヘルム・カール教授は法曹会議のなかで『死刑は刑罰体系の重要な要素であり』として人を殺したる者はその生命を奪われるというのは『多数国民の法的核心である』と主張した。またアメリカ合衆国のケンダルは、ルソーの社会契約説にもとづき、政治犯などと凶悪犯罪者とを区別することで死刑制度を肯定できると主張した。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "死刑が正当な刑罰かという問題は16世紀以降論争となり、トマス・モアの『ユートピア』(1516年)や、トーサンの『道徳論』(1748年)などに死刑反対の考えが現れている。しかし社会思想としての死刑廃止論の嚆矢となったのは、イタリアの啓蒙思想家チェーザレ・ベッカリーアであり、彼はルソーの影響のもと、社会契約を根拠に死刑を否定したことで知られる。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ベッカリーアは『犯罪と刑罰』(1764年)において、「どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由-あらゆる財産の中でもっとも大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろうか? ...人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人に、-たとえそれが社会にであったとしても-ゆずり渡すことはできないはずだ。」と述べている。すなわち、社会契約の当事者である国民は、自分の生命を放棄するような約束を予め結ぶということはありえないのだから、死刑制度は無効であり、(国家の平時においては)廃止すべきというのがその趣旨である。また彼は、刑事政策上の理由からも反対論を述べ、死刑が抑止効果において終身刑に劣るものだと主張した。「刑罰が正当であるためには、人々に犯罪を思い止まらせるに十分なだけの厳格さをもてばいいのだ。そして犯罪から期待するいくらかの利得と、永久に自由を失うこととを比較判断できないような人間はいないだろう」。さらに彼は、死刑が残酷な行為の手本となり社会的に有害でもあるとも述べている。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "『犯罪と刑罰』は当初匿名で出版されたが、ただちに大きな論議を巻き起こした。その背景には、当時のヨーロッパにおける刑事法が一般に抑圧的であり、その運用も恣意的だったことがあると考えられている。司法原則としての法の下の平等は事実上存在せず、犯罪者の社会的地位や縁故・人間関係がもっとも処遇を左右したと言われる。こうした状況一般への人々の不満もあり、『犯罪と刑罰』は翻訳されてヨーロッパ各地で読まれ、のちの立法と刑法思想に多大な影響を与えた。ちなみに、ベッカリーアの思想を最初に実現したのは、トスカーナ大公国の啓蒙専制君主レオポルド1世大公(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)である。レオポルドは即位した1765年に死刑の執行を停止し、1786年には死刑そのものを完全に廃止した。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
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"text": "この時代には他にも、ディドロ『自然の法典』(1755年)、ゾンネンフェルス(1764年の論文)、トマソ・ナタレ『刑罰の効果及び必要に関する政策的研究』(1772年)等が死刑の刑罰としての有効性に疑問を述べ、廃止を主張している。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
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"text": "19世紀には文学の領域で死刑廃止の声があがりはじめ、ヴィクトル・ユゴーの『死刑囚最後の日』(1829年)が反響を呼んだ。またロマン派の詩人で政治家のラマルティーヌが廃止を主張し、ドストエフスキーの『白痴』(1868年)、トルストイ(『戦争と平和』1865年 - 1869年)なども作品中に死刑を取りあげて、廃止論に影響を与えた。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "イギリスの社会改革主義者であったベンサムは、刑罰学においてはパノプティコンの考案者として知られる。彼は死刑に関して、功利主義的立場からプラス面とマイナス面とを比較検討した。ベンサムによれば、死刑の戒めとしての効果や人々による支持といったプラス面よりも、死刑が犯罪者による被害者への賠償を不可能にすることや、誤判による死刑の回復不可能性といったマイナス面の方が大きいとされる。ベンサムはこうした比較により、死刑より終身労役刑の方が社会にとっての利益が大きいと結論づけ、死刑廃止を主張した。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ドイツのフランツ・フォン・リストは、ロンブローゾら「イタリア学派」のとなえる生物学的観点のみによる犯罪原因説を否認し、そこに社会学的視点を加え、さらに刑法における目的思想を重要視した。すなわち応報刑では犯罪を抑止できないと考え、法益保護と法秩序の維持を目的とし、社会を犯罪行為から防衛しながら犯罪者による再度の犯罪を予防することを重視する。リストとその弟子達はここから目的刑という新しい刑法学の体系を生み出し、近代学派(新派)の理論を完成させた。応報刑の旧派と目的刑の新派の対立は現代まで続いているが、目的刑を取る刑法学者は通常は死刑廃止を主張している。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "20世紀になると、またリストに学んだモリッツ・リープマンとロイ・カルバートが死刑廃止を主張した。リープマンはカール、フィンガーらと死刑存廃をめぐって論争し、死刑は犯人を法の主体として認めず、単に破壊の客体として扱うことを問題として指摘した。エドウィン・H・サザーランドや『合衆国における死刑』(1919年)を書いたレイモンド・T・ブイも死刑廃止を唱えた。作家のカミュ(『ギロチン』1957年)も死刑に反対している。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
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{
"paragraph_id": 80,
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"text": "キリスト教的な立場からは、19世紀初頭にフリードリヒ・シュライアマハー(シュライアーマッハー)が、20世紀にはカール・バルトらの神学者が国家の役割を限定するという立場から死刑廃止を主張した。バルトによれば、刑罰を基礎づける理論は通常、犯罪者の更生、犯罪行為の償い、社会の安全保障、の何れかに収まるが、死刑は何れとも齟齬をきたす。死刑はまず「犯罪者の更生」を放棄するが、社会には、その構成員を秩序へと呼び戻す努力をする義務があるとバルトは言う。第二に、「犯罪行為の償い」とは、神の応報的正義の地上的・人間的表現である。しかしあらゆる人間の過ちに対する神の応報的正義は、バルトによれば、キリスト教ではイエスの死をもって終わっており、刑罰は生を否定しないものでなければならない。そして「社会の安全保障」については、犯罪者の抹殺は社会を自己矛盾に陥れるとバルトは述べる。すなわち、社会制度はつねに暫定的・相対的なものとして修正可能性を担保すべきであり、死刑においてはそうした可能性が排除されるため、社会はむしろ市民の安全を侵害する可能性を常にはらむことになる。こうしてバルトは一国の制度としての死刑には反対するが、その他方で特殊な条件下での死刑を擁護している。バルトの主張によれば、戦時下での売国行為と国家を危機に陥れる独裁者(ヒトラーを念頭に置いている)の二者に関しては、限界状況にある国家の正当防衛という理由から、死刑(犯罪者の殺害)は「神の誡めでありうる」とされる。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "近年では、ジャック・デリダが死刑廃止論の思想的検討をしている。デリダによれば、死刑とは刑法の一項目にとどまらず、法そのものを基礎づける条件でもある。それは死刑が元々、主権の概念と深い関わりをもっているからである。シュミットによれば、主権はかつての宗教的権威から国家へと受け継がれたが、これは法の上位にあって例外状態を決定し、(恩赦のように)法を一時停止する権限であり、生殺与奪の最高の権限でもある。廃止論に立つには、こうした主権そのものを問題にする必要があると、デリダは言う。現在の死刑廃止論は、彼によれば政治的に脆弱である。まずベッカリーアにならって戦時の例外を認めるタイプの廃止論は、今日的な状況に太刀打ちできない。何故なら、たとえば戦争とテロとの境目があらかじめ明確でないような状況では、緊急時と平常時の境界線も恣意的に引けるからである。同じくベッカリーア由来の、死刑は抑止力がないから廃止すべきだという主張も、限られた説得力しか持たない。こうした功利主義的な主張は、「法を犯した者は罰せられるべきだから罰せられるべきなのだ」といった、人間の尊厳に訴えるカント的な定言命法を乗り越えられないからである。国際機関による決議や提言も、上記のような国家の主権原理や例外問題の前でつねに頓挫している。こうした点から、これまでの廃止論の言説は大幅に改善していく余地があるとデリダは述べている。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "死刑制度の存続賛成派は、その目的として犯罪を予定する者への威嚇効果、つまり(殺人などの凶悪事件)犯罪抑止ないし犯罪抑止力。または人権を剥奪された被害者ないしその遺族の救済(つまるところ報復の代行)などを根拠に死刑を維持 すべきとする。また、死刑制度の廃止派はたとえ人命を奪った凶悪な犯罪者であっても人権はあり、死刑そのもの自体が永久にこの世から存在を抹殺する残虐な刑であり、国家による殺人を合法的に行うことであり是認できない、刑事裁判の誤判による冤罪による処刑を完全に防ぎきれない、などを根拠に廃止すべきと主張する。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "現在に至るまで、死刑存置論と死刑廃止論をめぐっては激しく対立しているが、どちらの主張が正しいかを客観的に判断することは誰にもできない問題である。また論理的でない感情論も場合によっては入るため、現実として問題の解決はありえないかもしれない。そのため、死刑制度を存続するにしても廃止するにしても、法学のみならず、死刑制度の存在をどのように見るかで大きく変わるものであり、そのため法学のみならず思想的かつ宗教的な問題や哲学など様々な主義主張が交錯しており、犯罪被害者ないし犯罪者双方の人間の生命についてどう考えるかという根本的な課題 であるといえる。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "近年ではイスラム教徒によるテロが相次いだことを背景として、「死刑復活論」という新たな運動がある。",
"title": "死刑制度をめぐる思想史"
},
{
"paragraph_id": 85,
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"text": "以下の項目は、日本における死刑制度廃止派による主な廃止論である。",
"title": "日本における死刑"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "「死刑にしてほしいから犯罪をする」という者が相当数いるため、死刑があると逆に犯罪者が増える。",
"title": "日本における死刑"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "以下の項目は、日本における死刑制度存置派による存置論である。",
"title": "日本における死刑"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "2009年現在では、法務省は冤罪の疑いがあり再審請求中の死刑囚については、死刑の執行は法務大臣の決裁が必要であること、および、冤罪で死刑を執行した場合は無期刑や有期刑を執行した場合と比較して、非難が大きいので、法務省として明示的に宣言はしていないが、現実の運用としては、死刑囚が再審で無罪判決を受けるか、または、死刑囚が天寿を全うして死ぬまで執行しない運用をしている。",
"title": "日本における死刑"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1940年代後半から1960年代にかけて静岡県内では、再審で死刑判決が破棄された島田事件のほか、上級審で死刑破棄・無罪になった幸浦事件や二俣事件といった冤罪事件が多発した。ほかにも現在も冤罪の可能性が指摘されている袴田事件もすべて静岡県であり、全国的に見ても冤罪が多発している。この背景には静岡県警の紅林麻雄警部(1908年-1963年、本人は発覚直後に病死したため県警本部長表彰はされたが、刑事責任には問われていない)が拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成によって「事件解決」を図ったためであり、また「自白」に沿った証拠品の捏造まで行ったことが明らかになっている。この手法が同県警内部でこのような捜査手法がもてはやされ、他の警察署でも行われたのが冤罪多発の一因だといわれている。なお、強要により得られた自白は憲法38条2項及び刑事訴訟法319条1項により証拠能力が否定されるとはいえ密室での取調べにおける自白の強要を公判で明らかにすることは必ずしも容易ではなく、思い込みによる捜査ミスによる冤罪の発生は完全には否定できないといわれている。",
"title": "日本における死刑"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "実際に21世紀に入っても死刑求刑にたいし証拠不十分で無罪になった北方事件や、死刑適用事件ではないが、被告人が抗弁をあきらめて有罪になりかかった宇和島事件や、捜査や裁判当時の科学鑑定の精度の低さにより真犯人と誤認され有罪判決を受けたが、服役中に科学鑑定の精度が向上し冤罪が判明した足利事件や、服役後に真犯人が判明した氷見事件が発生しており、科学的捜査手法が発達した現在も人が犯罪捜査を行う以上、このような冤罪事件は散発的に発生しており、冤罪による死刑執行あるいは獄中死の危険性は完全に否定できないといえる。ただし、関係者に面識がない場合の強姦殺人事件においてDNAの照合などは証拠として決定的であり、これによって無実が証明され釈放された例があるだけでなく、この証拠によって有罪が確定した場合の冤罪の可能性は極めて低い。",
"title": "日本における死刑"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "また冤罪ではないにしても裁判の事実認定に誤りがあったために、主犯が処刑を免れ従犯を処刑にした誤判は実際に存在する。1946年に奈良県内で発生した強盗殺人事件では「主犯」とされた者が処刑されたが、懲役刑で服役した「従犯」が1958年に実業家として成功していた本当の主犯を恐喝して逮捕されたために、ただの見張りを主犯にでっち上げていた真相が発覚した実例 などがあるという。古谷惣吉連続殺人事件では、最初の2件の強盗殺人では共犯を「主犯」と誤判して死刑が執行され、「従犯」と誤認した古谷が出所後に8人も殺害した事件があった。古谷がこの事件で逮捕起訴 されたのは「主犯」処刑後であり、懲役10年の刑期出所後の一ヶ月で8人も殺害していた。そのため「主犯」と誤判された者の死刑が執行されずに本当の事実関係が明らかになっていれば、後の8人が殺害されることも防げたはずだと批判された。また1946年に発生した福岡事件では殺害された中国人被害者の関係者による傍聴人の存在が事実認定に影響を与え、犯行現場にいなかった第三者を主犯として処刑にしたとの批判も現在も根強くある。 現実問題として、冤罪(傷害致死だとして事実誤認を理由にする場合もある)の疑いがあるとして再審請求している死刑囚の死刑執行 が避けられる傾向にある。",
"title": "日本における死刑"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "刑事訴訟法の475条は「確定から6カ月以内に法務大臣が死刑の執行を命令し」とあるため、死刑執行は死刑判決確定後6ヶ月以内に執り行わなければならないのに現実は違うとの批判もあるが、実際には法務当局が死刑執行命令の検討を慎重に行っている為であるとされる。また同法475条2項但し書に「上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない」とあり、再審請求中もしくは恩赦出願中または共犯が逃亡中の死刑囚は、死刑執行までの半年間に算入しないとの規定があるため、執行が猶予される傾向にある。",
"title": "日本における死刑"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2000年ごろまで原則的には死刑確定順に死刑が執行されていたが、組織犯罪では共犯者が逃亡中や未確定である事例(連合赤軍事件・三菱重工爆破事件)や冤罪を訴えて再審請求中の者、もしくは闘病中の者は除外され、事実関係に争いがなく死刑判決を受け入れ支援者もなく外部との連絡もない「模範死刑囚」が先に執行が行われているという指摘がある。東京拘置所の収監されていた死刑囚(2008年獄死)の著書 によれば、1983年に練馬一家5人殺害事件で1996年11月に死刑が確定した死刑囚は、拘置所側から「自身のため」と説得され、支援者への面会を一切拒否するようになり、看守に対して丁寧かつ謙虚な態度で接していたという。早期の死刑執行を望んだためか、はたまた死刑回避を望んだためかは今となってはわからないが、確定5年後の2001年12月に死刑執行が行われた。なお、この著者は仲間と一緒に1984年に3人を残虐な手口で殺害した元警察官であり、1993年に上告を取り下げて死刑が確定したが、前述の練馬の元死刑囚よりも早く死刑が確定していながら、死刑執行されることなく、何冊かの著作物を出版しているほどである。そのため、法務省の次の死刑執行対象者の選定基準に公開されていない基準があると推測されている。死刑執行が行われない場合には事実上の仮釈放のない終身刑となり、服役中に獄死した死刑囚も多数存在する。",
"title": "日本における死刑"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "なお、死刑執行後に冤罪が明らかになった場合、刑事補償法第3条第3項は被執行者遺族に対して3,000万円以内の補償を行うと規定しており、さらに本人の死亡で財産上の損失が生じた場合と認められる場合には「損失額+3,000万円」以内の額とされているが、この金額は犯罪被害者遺族に支払われる金額と同じである。",
"title": "日本における死刑"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "過去には法務省内でも死刑の存廃やあり方などを議論してきた経緯がある。1970年2月3日には、法制審議会、刑事法特別部会が死刑の存続について審議をとりまとめ、死刑存続の結論を出した。また、2010年7月、日本の法務大臣の下に「死刑の在り方についての勉強会」 が設けられ、2012年3月、その取りまとめ報告が公表された。当初は、死刑囚に死刑の執行をどのように知らせるか、また死刑の執行の情報をどこまで公開するかも議論される予定であったが、議論は尽くされたとする法務大臣小川敏夫によって勉強会は10回の会合をもって打ち切られた。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2008年5月には国際連合の国連人権理事会が日本の人権状況に対する定期審査を実施 したが、このなかで欧州を中心に12ヶ国が日本政府に対し、死刑執行停止や死刑制度の廃止などを求めた。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "これは前述のように国連総会で死刑執行の一時停止を加盟国に求める決議が採択されたにもかかわらず、日本で7人が死刑執行された状況を踏まえ、死刑制度廃止を訴える英仏などが説明を求めた。これに対し、日本代表は「国民世論の多数が極めて悪質な犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」と指摘し、「国連総会決議の採択を受けて死刑執行の猶予、死刑の廃止を行うことは考えていない」との立場を表明した。人権理事会は日本に死刑制度の廃止を勧告する人権状況の改善を求めた審査報告をまとめている。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "また、国連の自由権規約人権委員会は、2008年10月30日に5回目となる対日審査・最終見解を公表した。その中で、国民世論の支持を死刑制度の存置の根拠としている点について「政府は国民に廃止が望ましいことを知らせるべきだ」と主張。さらに「世論調査に関係なく死刑制度の廃止を検討すべきだ」との改善勧告を行った。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2009年9月、ロンドンに本部を置く国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルは、日本の死刑囚は独房に入れられ精神病に追いやられるような非人間的な扱いを受けており、そのために重い精神病を患った死刑囚に対して死刑執行を行うことは国際法に反している、と主張している。日本で新政権を担うことになる民主党に、死刑囚を精神病に追い込むような、閉ざされた明かりも無い独房に閉じ込めることがないよう改善を求めている。2018年7月6日にオウム真理教の教祖だと言う麻原彰晃やその教団の幹部6人これらその教団の重要人物ら7人が死刑執行されたときに「処刑は正義の実現にはなりえない。」と声明を出した。アムネスティは国連のようなダブルスタンダードを用いず、すべての死刑執行に対して一応の声明を出している。ただし、イギリスは死刑はなくとも暗殺は目立ち、なおかつ終身刑が下される「テロに屈する」国の一つであることに留意する必要がある。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "日本では、政府の総理府(現在の内閣府)が5年毎(平成時代以前は不定期)に実施している世論調査において死刑制度に関する調査が行われている。以下は2019年の調査結果である。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "このうち、「死刑もやむを得ない」と答えた者に「将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。」との設問を設け、以下の結果となった。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "全員に「もし、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止する方がよいと思いますか、それとも、終身刑が導入されても、死刑を廃止しない方がよいと思いますか。」との質問を設け、以下の結果となった。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "以上の結果から、法務省は世論調査では国民の8割以上が死刑存置に賛成していると主張している。過去には日弁連などが政府の世論調査には設問の表現に偏りがあり、死刑賛成に誘導されやすい世論調査と強く非難し、情報公開が進めば死刑存置に反対している国民が多く存在するはずであると主張していたが、批判を受け設問を単純化した2014年からの調査でも日本国内の死刑容認論の根強さが浮き彫りになっている。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "以後、日弁連は「死刑廃止が必ずしも国民世論の少数になるとは限らない。」と現状の世論については存置が多数派である事を程度認めてるが、他国では世論では死刑支持率が高いなか死刑を廃止したのだから日本も世論調査の結果は死刑存置の理由にはならないと主張している。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "一般人に対する世論調査では死刑に対し支持する割合は高いが、刑事司法関係者を対象にした調査では法学研究者や弁護士の過半数が死刑反対である一方で検察官や警察官は多数が死刑賛成である という。これは弁護士が犯罪加害者を擁護する職種であるにたいして警官や検察官は犯罪加害者を追求および糾弾する立場にあるとともに、弁護側と違い被害者遺族の立場を取ることを考えれば当然である。法学者の場合には死刑が根本的には人権の侵害であるという事実があるため死刑反対派となる傾向が高いが、無論、法学者のなかにも死刑制度を存置すべきだと主張する者も少なくない。また死刑に反対することを理由に検察官を止めて弁護士になった元検事、死刑判決をしたくないという理由で民事裁判のみを希望する裁判官 も存在する。その一方で死刑囚処遇を担当していた刑務官の中には死刑制度に疑問を呈している者も少なくない。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "日本の国会議員に死刑存置の立場の議連はないが、これは日本は制度として死刑制度が存置されており、現状維持すればいいため、あらたに運動すべき必要がないためである。なお、昭和時代に検討されていた改正刑法草案では死刑の適用される犯罪を現行刑法よりも狭めることになっていた。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "1994年に少人数ではあるが超党派の議員連盟「死刑廃止を推進する議員連盟」(現在の会長は亀井静香)が発足し、日本における死刑廃止運動は組織化された。しかし日本の政党で死刑制度廃止を公言しているのは日本共産党だけである。その一方で死刑制度存置を強く主張する政治家は、検察官など法務官僚に一定の支持を得る必要がある現職の法務大臣以外は実はほとんどいないとの指摘がある。たとえば、インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」で死刑制度に関するディベート番組が制作された際、東京拘置所の処刑設備を見学したことのある保坂展人(当時衆議院議員)が「死刑廃止論者」として出演したが、死刑存置派の国会議員を放送局で探したところ誰も出演しなかったため、やむなく刑法学者が出演したという。そのため保坂は死刑推進派といえる国会議員は実際には存在せず『小選挙区制になったことから、多くの人の支持を得る為には死刑廃止とはいえない、俗論におもねっているだけである。そのため(欧州諸国とは違い世論を政治家が変えようというリーダーシップがないので)日本はみんな横並び意識が働いている』と主張しており、実際は死刑制度を存置するのは一般世論に迎合している政治家の不作為だとしている。",
"title": "死刑の是非に関する意見"
}
] | 死刑存廃問題(しけいそんぱいもんだい)は、死刑制度の是非に関して存在する倫理、法律(憲法)、刑事政策、そして国際外交にかかわる諸問題である。 | {{複数の問題
|独自研究 = 2012年10月
|出典の明記 = 2012年10月
}}{{導入部が短い|date=2021年1月}}{{Pathnav|死刑|frame=1}}
'''死刑存廃問題'''(しけいそんぱいもんだい)は、[[死刑]]制度の是非に関して存在する倫理、法律(憲法)、[[刑事政策]]、そして国際外交にかかわる諸問題である。
== 死刑存廃論争 ==
死刑制度の是非をめぐっては、死刑制度を維持する国では存続に賛成する'''存置論 '''(存続論)、死刑制度の廃止を主張する'''廃止論'''(反対論)、死刑制度を廃止した国では制度の復活に賛成する復活論とそれに反対する廃止維持論が存在する。死刑制度は宗教、哲学および社会感情が複雑に絡むテーマであり、存置派と廃止派とは、古代から現在に至るまで、様々な論点をめぐって様々な対立をしてきた。
死刑是非の論争の背後には、[[犯罪者]]に対する処遇を扱う[[刑事政策]]問題の範疇におさまらず、[[刑罰]]論や生命論といった法哲学の広く深い対立の溝があり、合意には至っていない。こうした状況のため、死刑存廃の議論は、しばしば「不毛の論議」となる{{Harv|中嶋|2004|Ref=NAKAJIMA2004|p=189}}。
=== 存廃論論争相関図 ===
{{出典の明記|section=1|date=2008年5月}}
下記の表は双方の立場から提示された様々な論争の論点の一部を書物<ref>[[正木亮]]の『刑事政策汎論』と、[[斉藤静敬]]の『新版死刑再考論』、[[藤本哲也]]の『刑事政策概論』など</ref> から、列挙したものである。この図でも判るように双方とも鋭く対立している。{{main2|論争の詳細については後述の[[死刑存廃問題#存廃論の論点をめぐる議論|死刑存廃論の論点]]および[[死刑存廃問題#死刑制度をめぐる思想史|歴史の項目]]も}}なお前述のとおりこれらの論争は無数にある死刑存廃論議のほんの一部であり、このような二項対立的な議論が常になされているわけでもない。また双方の主張者がすべて同一であるわけではない。
{| class="wikitable"
!width="18%"|論点
!width="41%"|死刑廃止論側の主張
!width="41%"|死刑存置論側の主張
|- style="vertical-align:top"
|'''[[社会契約説]]'''
|法学者であり啓蒙思想家の[[チェーザレ・ベッカリーア|ベッカリーア]]は、人が[[社会契約]]を結ぶ際、その生命に対する権利まで主権者に預託してはいけないとする。生命はあらゆる人間の利益の中で最大のものであり、国民が自らの生命をあらかじめ放棄することはあり得ないとして、少なくとも国家の正常な状態においては死刑は廃止されなければならない。廃止論者のベッカリーアは、死刑よりも終身隷役刑の方が受刑者をして全生涯を奴隷状態と苦しみの中に過ぎさせるので、みせしめ刑として効果的であると論じており、これは死刑以上に「残虐」な刑罰と考えられる。
|社会契約説を最初に確立した[[トマス・ホッブズ]]、[[ジョン・ロック]]や[[イマヌエル・カント|カント]]などの啓蒙思想家は、三大人権(自然権)である生命権と自由権と財産権の社会契約の違反(自然権 の侵害)に相対する懲罰・応報として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は殺人に対する社会契約説の合理的な帰結である(下記の「死刑存置論の系譜」参照)。
|- style="vertical-align:top"
|'''[[人権]]'''
|近代社会において[[人権]]を尊重することは、その対象が犯罪者が入るとしても、悪ではない。すなわち死刑による人権の制限が他刑によるそれに勝るとされるのであれば、それを是正することは社会的に否定されるべきことではないのであり、それが社会に与える影響(凶悪犯罪の増加可能性や費用の問題など)は別途考慮されるべきだが、それ自体は社会に責任が帰せられるものであり国家による人権の更なる尊重を否定するものではない。
|[[人権]]を守るために法の下に行われる懲罰行為は犯罪者の人権を侵害するものであるがこれは法治国家に必要なのであり、国連の人権宣言でも法の下に行われる罰金刑、禁固刑、身体刑、死刑を否定してはいない。殺人(生命権の侵害)に対して執行される死刑は応報であり人権を軽んじていることには当たらない。特に大量殺人を行った犯人を死刑にしないことは不条理であるだけでなく被害者の生命権を侮蔑するものであり法の正義の精神に著しく反する。
|- style="vertical-align:top"
|'''誤判の可能性'''<br/>後述の[[死刑存廃問題#冤罪事件|冤罪もしくは誤判]]も参照
|死刑がその「取り返しの付かなさ」を一つの理由として極刑とされるのであれば寿命という人間の限界を無視した死刑による誤判可能性は無視できない。また[[冤罪]]の責任は、原則的に(つまり寿命という限界を除いて)その被冤罪者本人(=政府権力や裁判官やけ検察や警察など公務員)が負うべきであるが、死刑はその性質上本来的にその責任を負うということを放棄しているのではないかという問題がある。また、死刑と長期間の懲役を同じと考えるのは間違っている、後者は拘束であり死とは比べ物にならない上に残りの人生の自由の可能性もある。新幹線、飛行機、および自動車による事故と、この問題を関連付けることもまた不適切である。さらに罰金や懲役の冤罪は、恐喝や、監禁ではないかという存置論者の意見は直接生命をはく奪されるという最悪の人権侵害を回避したかたちの人権制約の結果とみなすことができるので、否定される。つまり多くの人々に、あなたが冤罪で有罪が確定するときに、死刑で確定するのと、終身刑で確定するのとどちらがよいか、という
世論調査をすれば、ほとんどすべての人々が後者と答えるのは、当然である。誤判が生じるのは、なにも死刑に限ったことではなく、刑罰全体にその可能性は存在するから、死刑を存置せよという主張は通じない。問題は、誤判が生じるのは、なにも死刑に限ったことではなく、刑罰全体にその可能性は存在するならば、自分が冤罪被害者になった場合に、最悪の被害だけでも回避できるようにすべきだ、という主張である。どうせ被害があるのだから、最悪の被害(=冤罪による死刑)でも良いなどとは、主張できない。
なお、認識ある過失ではないかという反論は通じない。なぜなら、冤罪はなくせないということは、存置論もまた認めざるを得ないことであるからである。また、手続きが法律によっているのだから、そのような執行も問題ないという主張については、形式的法治主義と法の支配の違いが理解できていない虚論である。さらに、公共の福祉を持ち出しても正当化することはできない。なぜなら、公共の福祉において外在的な人権制約を認めないのは近代立憲主義では当たり前のことであり(中国や北朝鮮やイランでもないかぎりは)、内在的な人権制約論理による公共の福祉を適用する限りにおいては、最小限の人権制約を実行しなければならないという原理が存在するために、無辜の生命の保護のために有罪があきらかな犯人であっても刑法体系において終身刑などにおきかえることは、無辜の保護という一点のみで正当化される。終身刑にしても冤罪によって刑務所で生涯を絶望のもとに終えるのは死刑よりもむごいと論じることは、存置論の意味がなくなってしまう詭弁に過ぎない。長期間の懲役後に冤罪となっても謝罪金では失った人生と寿命が取り返しがつかないことと同一視することができないのは、自明である。同じだという存置論者は、確定冤罪死刑囚と同じ体験をしてみたものがいないことからも、ただの詭弁論者にすぎない。最後に以上の議論をもとに、存置論(特に日本において)によく見受けられる「自動車で交通事故で死人が出ているから、自動車を廃止しろというのか?」は、2つの理由で例えになっていない。まず、民間企業の生産する自動車は国家主権が及ぶ領土で無条件に適用される刑罰の作用とは異なり、可能性としては自宅にいる間は自動車の事故に会うことは無いようにできるが、冤罪被害にあってしまったら回避は無理である。次に自動車の事故死は公権力による計画的他殺ではない。つまり、この「例え」こそが、憲法が1次的には政府に対する規範である趣旨の近代憲法を理解していない虚論にすぎない。また、「冤罪」は、裁判や取り調べの問題であり死刑制度は刑法という法体系の問題であり、二つの問題を分けて考えるべきだという存置論の意見も意味をなさない。刑法という法体系は、取り調べての容疑者の特定や、検察による起訴、そして裁判による事実認定・量刑判断といった、一連の「実務作業」によって「実装可能」でなければ意味をなさない。つまり、理論的に正当性を持っていても、具体的「システム」<ref>『死刑廃止論』(有斐閣、初版1991年、6版2000年),団藤重光.</ref> としてだ実現できない法に、その存在価値はない。
|誤判が生じるのは、なにも死刑に限ったことではなく、刑罰全体にその可能性は存在する<ref>朝日新聞 2007年12月20日</ref>。誤判の発生により、その生涯を刑務所において絶望と無念に苛まれながら終えるのは、「長期間に渡る精神的拷問後の死」と論じることもできる。さらに誤判に起因する長期間の懲役自体、後の謝罪や謝罪金で回復できるとは言い切れない。例えば、60歳まで無実の罪で投獄された後に「1億円」が渡されるという取引に事前に合意するような一般人がいるだろうか。この影響は投獄される当人のみならず、本人の年齢が60歳ならばその親は大抵の場合は他界、家族も離散、そしてその家族も人殺しの近親者というレッテルを数十年背負うことになるなど、本人の周囲へも甚大な影響を与える場合が多い。このように、事情はどうであれ法制度上の刑罰を受けることは、本人の失われた人生や寿命、またその周辺人物への名誉に、程度の差こそあれ大きな損害を与えるのは自明である。
また、懲役刑を伴わない痴漢や万引きなどの軽い犯罪においても、冤罪被害を受けた一般人は社会的信用を完全に喪失することもある訳であるから、裁判における誤判は、その多くが取り返しがつかないと言えるし、最後まで冤罪が判明しない判決が少なからず存在する可能性すらもある。このように、誤判・冤罪を全ての判決から無くすため、たゆまぬ努力が必要であるという主張は正論であるし、死刑判決に際しては特に、その刑の重さからその判断に万全を尽くすのは当然である。なぜなら死刑執行は、それ自体が刑罰であると同時に、執行の前後では、誤判・冤罪の被害、名誉回復に致命的で甚大な、もしくは一切回復不可能な影響を与えるためである。
しかし一方で、こうした誤判・冤罪の可能性を完全に排除するために、死刑そのものを廃すべきだとの意見は、論の体をなさない主張である。
|- style="vertical-align:top"
|'''犯罪被害者'''
|刑罰の目的が被害者や家族の処罰要求に応えるためという論理は、全ての犯罪事例に適用できない場合があり、論理として不完全で刑法や刑事裁判の根本的論理にはならない。なぜなら、被害者の家族が存在しない、被害者の家族が存在するが所在も連絡先も不明、被害者の家族が存在し所在も連絡先も明らかだが被害者と絶縁状態で関わりを拒否、被害者の家族が死刑反対論者、被害者の家族が当該事件に関しては死刑を求めない、被害者や家族が刑罰を求めず赦しと和解を求める、加害者=被害者の家族、前記の諸事例の場合はこの論理は適用できない。つまり、前記のような事例の場合は論理としては、不起訴、不処罰、罪や判例に対して著しく軽い罰にする必要が生じる。加害者を死刑にすることが、被害者の家族とってどの程度の問題解決となるのか客観的な証明はない。刑法や刑事裁判の目的とは、個別的には、犯罪者に対して犯した罪に応じた処罰をするとともに、犯罪の原因を矯正し改革するための教育や訓練により更生を求める、国や社会全体としては個別的目的の集合体としての社会秩序の維持である。刑事裁判は被害者や家族の処罰感情のために行うものではないので、結果としての被害者や家族の処罰感情を満足させることはあっても、被害者や家族の処罰要求を満たすための処罰は刑事裁判の目的に反する。
仮に、存置論の被害者遺族についての主張を認めたとすると「死刑による冤罪被害者遺族の死刑賛成派への報復権」を担保しなければ、法の公正を著しく損なうというべきである。
殺人に対して執行される死刑は応報であり人権を軽んじていることには当たらないや、遺族が明確に死刑を望んでいる場合に死刑を適用しないのは被害者の生命権と遺族の心情を侮蔑するものであるなどと、存置論は主張するが、死刑による冤罪被害者遺族の心情こそが最も侮辱されていることを無視している。
|罪に対してあまりにも軽すぎる刑が適用された場合、その不条理が被害者にとって第二のトラウマになるのは周知の事実である。情状酌量の余地のない殺人を行った犯人が終身刑で生き続ける不条理は遺族にとっては終わりのない苦痛であり、死刑在廃の議論において殺人の被害者遺族は大抵死刑賛成である。殺人に対して執行される死刑は応報であり人権を軽んじていることには当たらない。イスラム法のように被害者遺族が個人的に死刑を望まない場合は死刑が適用されないなどの制度改正には理はあるが、遺族が明確に死刑を望んでいる場合に死刑を適用しないのは被害者の生命権と遺族の心情を侮蔑するものである。応報そのものを否定することは法の公正を著しく損なう。
|- style="vertical-align:top"
|'''犯罪抑止力'''<br/>存廃論を論じる際抑止力を考慮すべきか、という議論もある。
|まず現状における死刑の犯罪抑止力肯定論は科学的な論拠に基づいたものであるとは到底言えないものである。例えば、1988年に国連犯罪防止・犯罪統制委員会のために行なわれ2002年に改訂された、死刑と殺人発生率の関係についての最新の調査結果報告書は「死刑のもたらす脅威やその適用が、終身刑のもたらす脅威やその適用よりもわずかでも殺人に対する抑止力が大きいという仮説を受け入れるのは妥当ではない」と結論付けているし、[[ニュー・ジャージー州]]では「死刑に抑止力があるという見解が説得的とは言えない」という見地から死刑廃止の一つの根拠としている。対して抑止力肯定論が科学者側から提出された場合もあるという意見もある。それ自体はその通りであるのだが、そのような主張が国際科学学会等で認められたという事例はいまだ存在しないのである。犯罪抑止力なるものが死刑と無期刑との間にその抑止力の優位性の差異があるという意見があるが、現状において死刑廃止国と存置国の犯罪率の推移に死刑廃止を契機とした明らかな違いが全体として特に見られない以上説得的ではない。
|死刑の代替としての無期刑や長期の懲役にしても、統計的には明確な抑止効果は証明されていない。社会的全体での犯罪統計の変化の原因は多くの要因が複雑に相関しているため、個別の刑の犯罪抑止力の統計による実証はもともと不可能である<ref>森下忠『刑事政策大綱』(成文堂)</ref>{{要ページ番号|date=2012年10月}}犯罪の重大さに応じて刑を重くするという刑事政策は元々統計論に基づくものではなく、あくまでも被害に対する応報という法の正義という観点と、刑罰が厳重であれば犯罪を起こす動機が軽減するという「常識論」に基づくものである。よって死刑の抑止力が統計的に証明されていないから同じように統計的に抑止力が証明されていない無期刑に替えるべきとの論そのものに根拠がない。また法哲学においては効用主義を刑法に適用すること自体が正義に反すると指摘されている。例えば詐欺罪に無期刑や死刑にすれば社会全体の詐欺の犯罪数は軽減するかもしれないがこれは法の公正を損なう行為である。同じように殺人に対する罰を社会的効用を理由に無期刑に減らすのは、法によって尊厳を回復するという犯罪被害者の権利を著しく損なうものである。社会統計を理由に死刑の廃止や復活を主張すること自体が論外である。
|- style="vertical-align:top"
|'''世界の趨勢(すうせい)'''
|[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書|自由権規約第2選択議定書]](死刑廃止議定書)が1989年12月に[[国際連合総会|国連総会]]で採択されて以後、世界の多くの国々が死刑制度を廃止ないし死刑執行を停止している。ここ20年(1991-2010)で死刑執行を行った国が1995年の41ヵ国をピークに漸減し、現在20ヶ国前後で推移しているのに対し、死刑制度を全面廃止した国の数は、1991年の48ヵ国から2010年の96ヵ国まで一度も減少せず推移している。即ちひとたび廃止された死刑制度が再導入されることは滅多にない<ref name="amnesty.org">[https://web.archive.org/web/20120613034855/http://www.amnesty.org/en/library/asset/ACT50/001/2011/en/ea1b6b25-a62a-4074-927d-ba51e88df2e9/act500012011en.pdf Amnesty International, Death Sentences and Excutions 2010.]</ref>。こうした世界的趨勢の中、2007年5月国連拷問禁止委員会は日本に対し死刑執行停止を求める勧告<ref>[http://www.news-pj.net/siryou/2007/goumonkinshiiinkai-20070518.html 日本に対する国連拷問禁止委員会の結論及び勧告]</ref> を行っている。これは内政干渉を理由に無視できるものではなく、国際人権規約を批准し、国連人権理事会理事国をつとめる国として、日本は死刑制度のあり方を再考すべきである<ref>[https://web.archive.org/web/20160304080057/http://www.morino-ohisama.jp/about/doc01.pdf 「死刑廃止は世界の流れ」 弁護士小川原優之]</ref><ref>[http://www.toben.or.jp/message/seimei/post-127.html 「死刑執行に関する会長声明」 東京弁護士会会長 山本剛嗣]</ref>。右存置論における「死刑の是非はあくまで法の正義の観点からのみ論じられるべきである。」との主張も、法の正義の観点からいっても反論し難いくらいに否定されているから、独裁・専制国家以外の立憲主義国家においては廃止されてつづけているのであることを無視している。
|自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)の採択における賛成国(59ヶ国)は国連加盟国(当時)の37.1%にすぎず、これを国際的潮流の根拠とするには疑問がある{{Harv|中野|2001|Ref=NAKANO2001|p=102}}。また、当該条約は戦時犯罪への死刑を容認する部分的死刑存置条約であり、現状多くの国はこの点から部分的死刑存置国と言うべきである{{Harv|中野|2001|Ref=NAKANO2001|p=13,50}}。冷戦中は先進国=死刑廃止、途上・独裁国家=死刑維持の傾向が存在したが冷戦後の民主化後もアジアとアフリカの民主国家の多くが死刑制度を維持しており、死刑廃止の潮流と言われているものは、むしろ全面的廃止国の多い欧州と南米の地域的慣行と言ってよい{{Harv|中野|2001|Ref=NAKANO2001|p=124}}。
死刑反対派の国の意見、および国際機関の提言には真摯に耳を傾けるべきではあるが、そもそも刑法は国の基本制度であるため、世界全体で見た時の廃止国数や、それに基づいた国際潮流論にとらわれるべきではなく、死刑の是非はあくまで法の正義の観点からのみ論じられるべきである。
|- style="vertical-align:top"
|'''コスト(金銭的、人的など)'''
|死刑囚を収容する独房の看守や死刑を執行する職員の精神的負担が大きい。また、死刑は無期刑に比べ経費が安く済むという主張は一概には言えない<ref>{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2572851?pid=3819120 |title=米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため |newspaper=AFPBB News |agency=AFP通信 |publisher=クリエイティヴ・リンク |date=2009-02-18 |accessdate=2009-04-02}} 一例として</ref>。
死刑に関わる問題には厳格性が要求される。刑法では、有罪無罪の事実認定だけでなくいかなる疑いがある場合にもそれは常に被告人に有利に解釈されなければならないという前提がある。この厳格性があるがゆえに死刑制度はきわめて高くつくとの見方がある<ref>[http://www.abolish-dp.jca.apc.org/files/090220Speedy_full.html スピーディー・ライス教授の講義]</ref>。
厳格性のゆえに死刑は高くつくということであれば、存置論者は「もっと早くやってしまえばいいだろう」というであろうが、無実の人が処刑される危険性を増すということになる。現行犯など明確な事案なら、時間がかからないだろうという主張も意味がない、全死刑囚のうち現行犯で逮捕される割は極めて少数なので、結局コストは高くついてしまう。
|被告人が「死刑の早期執行を」などの意思を示すことにより、比較的短い期間(1年~数年程度)で死刑が執行されることはある。しかし、こうした例は稀であり、場合によっては収監期間がおよそ半世紀に及ぶ場合([[袴田事件]]など)もある。こうした長期に渡る強制的に自由を抑圧された生活で、死刑囚は[[拘禁反応]]を示す場合も見られるし、他方で収監された刑事施設内で病死、または自然死する場合もある。さらに、こうした死刑囚は「死刑」が刑罰であり、他の懲役囚と同じ様に刑務作業を行う義務を負わず、その分収監のための経費が累積し、社会への負担が高くつきがちである。
|}
=== 存廃論の論点をめぐる議論 ===
死刑の是非の論争は学術的には哲学・倫理学において政策や法の是非を論じる規範倫理学や応用倫理学に属する。この観点において死刑の是非の論争は[[義務論]]と[[帰結主義]]と[[徳倫理学]]の3つに大別される。「人の命を奪う死刑は悪」(人権論)や「死刑の冤罪は取り返しがつかない」などの死刑反対論や、「死刑は応報である」(応報論)や「生命権、自由権、財産権の侵害は死刑、懲役、罰金で償うべき」(社会契約説)などの死刑賛成論は義務論に属する。死刑や終身刑の犯罪抑止効果およびその制度の経済的採算性の比較は帰結主義(論)に属する。徳倫理学においては、死刑という刑罰が残虐であるか、あるいは死刑によって被害者や遺族の救済が達成されるのかという徳に関する考察や、被害者と加害者、捜査に関わる警察や裁判に関わる法曹(検察官、弁護士、裁判官)および死刑を実際に執行する看守などに実際にどのような精神的および道徳的影響が及ぼされるのかが議論される。一般論として反対派は「血を血で贖う」死刑制度は社会を残虐化するとの論を展開し、賛成派は、死刑で罪が償われることにより法の正義および生命の尊厳が再確認されるとの論を展開する。
==== 冤罪の可能性 ====
死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤認による逮捕・起訴・死刑判決・死刑執行が主張される。死刑執行後に冤罪が判明した場合は、その被害は重大であり、被害の回復は不可能である。
===== 冤罪は死刑廃止の理由であるとの主張 =====
冤罪を理由に死刑廃止を主張する人々は、下記の理由で冤罪を論拠とする死刑廃止を主張している。
*完全無欠・全知全能の人は存在せず、全ての人は誤認・誤解・誤判断をする可能性があるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。
*警察・検察・裁判所・法務省も人の集団による組織であるのだから、誤認・誤解・誤判断で逮捕・起訴・有罪判決・刑の執行をする可能性があるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。
*冤罪で死刑を執行したら、その被害は死刑以外の刑罰と比較して重大であり、被害の回復は不可能であるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。
*冤罪で死刑以外の刑罰を執行されても、その被害は死刑と比較して軽少であり、被害の回復は可能であるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。
*冤罪で死刑以外の刑罰を執行されても、本人の存命中に再審請求し、再審で無罪判決を受ければ、名誉の回復は可能であり、金銭による被害賠償を受ければ被害の回復は可能であるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。
===== 冤罪は死刑廃止の理由ではないとの主張 =====
冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張する人々は、下記の理由で冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張している。
*死刑冤罪の執行は取り返しがつかないが終身刑や懲役の冤罪の執行は取り返しがつくという考えは誤りである。まず、冤罪の終身刑や懲役も被害者が冤罪が判明する前に死亡した時点で修復不能である。また、法治制度が人の執行する制度である限りはでは誤審が最後まで判明しない場合は終身刑や懲役でも必ずあるはずである。冤罪によって刑務所で生涯を絶望と無念に終えるのは長期間に渡る精神的拷問後の死であり死刑よりも惨いと論じることもできる。
*懲役により失われた寿命や人生が金銭で回復されるという主張は誤りである。例えば60歳まで無実の罪で投獄された後に生涯年収の例えば2倍のお金が渡されるという取引に事前に合意するような一般人がいるだろうか。本人が60歳なら、親は大抵の場合は亡くなっており、家族も離散あるいは家族は人殺しの近親者のレッテルを数十年背負うわけであるから、これらの、失われた人生や寿命が取り返しがつかないのは自明の理である。また、懲役を伴わない痴漢や万引きなどの軽い犯罪においても前科があれば一般人は社会的信用を完全に喪失するわけであるから、刑罰の大多数の誤判は多くの場合は取り返しがつかない。冤罪が判明しない、あるいはその判明が遅すぎるということは避けられない、取り返しがつかない誤審があるから刑を執行できないというのなら死刑や懲役どころか法制度や政治そのものが成り立たない。死刑の誤審は取り返しがつかないので廃止すべきだが禁固刑の誤審は取り返しがつくので許容できるというのは論の体をなさない。
*冤罪が発生することは死刑に固有の問題ではなく、捜査または裁判の過程で、被疑者や被告人の権利を保護する法律の規定が脆弱で、警察官・検察官・裁判官が被疑者や被告人の権利を軽視することが原因で発生する。死刑の廃止ではなく、法体制の強化に注意が向けられるべきである。
*冤罪の発生をできるだけ少なくすることは、死刑に固有の問題ではなく、捜査または裁判の過程で、被疑者や被告人の権利を保護する法律の規定を拡大・強化し、警察官・検察官・裁判官が被疑者や被告人の権利を重視する必要がある。
*冤罪で刑罰を執行されても、再審請求をすることも、再審請求が受理されることも、再審で無罪判決をうけることも、金銭という代替手段による被害賠償を受けることも、本人でも代理人でも、本人の存命中でも死後でも、刑罰の種類に関係なく可能であり、死刑という特定の刑罰を廃止する理由にはならない。
*1949年に刑事訴訟法が施行されて以後、法務省は冤罪の可能性が高い死刑囚に対しては、執行対象外にして、再審による無罪判決で釈放するか、再審による無罪判決が得られなければ、死刑囚が死ぬまで収監し続け、仮釈放を許可されなかった無期受刑者と同じ処遇にしているので、冤罪による死刑執行の可能性は少なく、死刑という特定の刑罰を廃止する理由にはならない。
===== 無罪が確定した死刑事案 =====
日本においては、1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後、死刑判決を受けて死刑囚になったが、再審で無罪判決を受けて釈放された、[[免田事件]]、[[松山事件]]、[[島田事件]]、[[財田川事件]]。
==== 被害者遺族に対するケアとして ====
死刑廃止論者は、殺人事件で起訴された被告人のうち、死刑判決が確定する被告人が実際には少ない(日本国内では1990年代以後は毎年600~700人前後が殺害され、殺人犯の90%以上が検挙されているが、年によって上下するが十数人程度しか死刑が確定しない)ことから、現制度では殺人被害者の遺族のうち、死刑存置論者が主張する死刑による感情回復ができないのはおろか、加害者の贖罪すら受けることの出来る者が少ないと批判している。一方で、殺人事件の被害者遺族の大半は死刑を望んでおり、日本も含めて死刑制度の存在する国の被害者遺族の団体の殆どが死刑賛成の立場をとっている。しかし、これらの被害者遺族団体も「目には目」のように殺人罪全てに死刑適用を要求しているのではなく、あくまで情状酌量の余地のない殺人においてのみ死刑の適用を要求している。
日本においては死刑囚に対して被害者の遺族が死刑を執行しないよう法務省に求めた場合<ref group="注釈">実際に1980年代に起きた[[名古屋保険金殺人事件]]では従犯も死刑になったが、遺族が従犯については死刑を執行しないようにと運動した例があり、結局主犯とともに死刑が執行された。</ref> でも死刑は執行されており、これは被害者遺族の感情を回復するどころか傷つけているのではないか、という批判がある。一方、外国では、例えばアメリカでは被害者遺族が死刑を望まない場合は、知事が死刑を終身刑に減刑することができたり、イスラム法国家では、被害者遺族が死刑を望まない場合は遺族の要望で死刑の恩赦が可能である。これは日本では終身刑が存在しないため、外国のように死刑を終身刑に減刑することができないからであるといえる。
他方被害者遺族は、犯罪被害者の被害として、家族を殺害されたという直接的被害にとどまらず、報道機関や司法関係者などから心無い干渉を受けたり、逆に国や社会から見離され孤立化することで二次的被害を受けることが多い事から、被害感情を一層つのらせることになり、加害者である犯人に対し極刑を求める感情が生じているとも云われる。そこで、犯罪者を死刑にすれば犯罪被害者遺族の問題が全て解決するわけではないとして、死刑存置だけでなく犯罪被害者遺族に対する司法的対策を充実すべきであり、そのことが被害者遺族の報復感情と復讐心を緩和させるとの主張<ref>日本弁護士連合会『死刑執行停止を求める』日本評論社、45頁</ref> もある。
犯罪被害者救済のために犯罪者に対する[[附帯私訴]]の復活を主張する[[作家]]で弁護士の[[中嶋博行]]は、国が被害者遺族に給付金を与える制度があるが、これらの予算は税金であるので犯罪者に償いをさせるべきであり、死刑相当の凶悪犯は死ぬまで働かせて損害賠償をさせるべきだと主張している{{Harv|中嶋|2004|Ref=NAKAJIMA2004|pp=190-191}}。
被害者遺族の応報感情のために死刑制度は必要だと主張する藤井誠二は、『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の闘い』のなかで「加害者がこの世にいないと思うだけで、前向きに生きる力がわいてくる」という遺族の言葉を私は聞いたことがある。被害者遺族にとっての「償い」が加害者の「死」であると言い換えることだってできるのだ。私(藤井)はそう考えている」「加害者の死は被害者遺族にとっては償いである」と主張している。ただし、この藤井の事件被害者への一方的な肯定論に立った言論に対する批判も少なくない。また、被害者と加害者の家族が一緒の家庭内の殺人(かつて特に[[尊属殺]]は厳罰<ref group="注釈">刑法200条(1997年削除廃止)の尊属殺重罰規定</ref> になった)の場合については対応できていないといえる。また彼は『重罰化は悪いことなのか 罪と罰をめぐる対話』において、
「人間の尊厳を無残なかたちで奪い取った者に対する罰としての死刑をやめてしまうと、人は何人殺したとしても国家が命を保証することになる。それが殺された側の尊厳に対しての人道なのか。このような、どうしても譲れない一線が、僕をふくめた死刑存置派にはあります。死刑に反対する理由をひとつずつ削いでいくというか、慎重に消去法でやっていって、苦渋の選択として死刑は存置するべきだという立場をとるにいたっています。」(P121-122)と述べている。
アメリカ合衆国連邦最高裁は「被害者感情は客観的に証明できるものではない、よって死刑の理由にするのは憲法違反」との判決を出している。アメリカ合衆国やその他の先進国では、殺人被害者家族による死刑制度賛成団体もあるが、殺人被害者家族と加害者が対話して、加害者が家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思ちを表すことによりすることにより、家族の被害感情を少しでも緩和と加害者との和解や赦しを提案する運動があり<ref>[https://web.archive.org/web/20120623024241/http://www.mvfr.org/ Murder Victims' Families for Reconcliation] 2009年9月18日閲覧</ref><ref>[http://www.restorativejustice.org/ Restorative Justice Online, Centre for Justice and Reconciliation] 2009年9月18日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20091118052809/http://www.personal-injury-info.net/restorative-justice.htm Restorative Justice - Offers additional information about restorative justice and relationships] 2009年9月18日閲覧</ref>、英語ではRestorative Justice、日本語では修復的司法と表現する。被害者と加害者の対話と謝罪・贖罪・賠償・更生の意思の表現による赦しと和解の提案は殺人だけではなく他の暴力犯罪や非暴力犯罪でも提案され実施され、対話の結果として、被害者や被害者の家族が加害者に許しの感情と和解を表明する事例もあり、ある程度の成果になっている。ただし、被害者と加害者の対話の提案は、刑事裁判と刑事司法制度や、少年審判と少年保護処分のように公権力が強制的に行う制度ではなく、被害者または被害者の家族と加害者の両者に提案して両者の合意により成り立つ任意の試みである。犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、加害者に対する被害者や被害者の家族の怒り・恨み・憎しみ・嫌悪・拒絶の感情や処罰感情は大きく強くなる傾向が著しいので、犯罪の被害が重大であるほど、被害の回復が不可能や困難であるほど、被害者側の拒否により実現される可能性が低いという現実がある。加害者においても、全ての加害者が被害者や被害者に家族に対して謝罪・贖罪・賠償・更生の意思を持つのではなく、謝罪・贖罪・賠償・更生の意思が無く被害者や被害者の家族との対話を拒否する加害者も存在するので、加害者の意思により実現される可能性が低いという現実もある。
====環境要因論====
死刑を廃止した国に見られる思想として、「環境要因論」がある。
これは、死刑に値する凶悪犯罪の背景に、家庭環境や社会情勢という本人の努力では変えられない環境が必ず存在しているという見方である。この環境要因論は、加害者が優良な環境に恵まれていれば、その加害者は死刑に値する凶悪犯罪を起こさなかった、とする内容であり;これを裏返せば、被害者であっても、加害者が被った劣悪な家庭環境や社会情勢に置かれていれば、死刑に値する凶悪犯罪を起こす可能性を持っている、とも言える。
つまり、加害者を死刑に処しても凶悪犯罪が根絶されないという観点から、犯罪に駆り立てた「環境」を絶つことが犯罪の根絶に必要であると説く内容である。
==== 死刑制度の犯罪抑止効果 ====
一部の死刑廃止論者{{誰|date=2013年5月}}は、死刑は[[懲役]]と比較して有効な予防手段ではないとしている。
また、他の一部の死刑廃止論者{{誰|date=2013年5月}}は、死刑の抑止効果が仮に存在するとしても、他の刑との抑止効果の差はさらに小さい、ないしは均等であるとする。また、そもそも、抑止力などというものは将来にわたって確認・検出不能であると考えられるとして、明確な抑止効果、ないしはその差異が証明されない以上、重大な権利制限を行う生命刑が、現代的な憲法判断により承認されることはないとしている。実際に死刑を廃止したフランスでは死刑制度が存置されていた時代よりも統計的には凶悪犯罪が減少していることなどもあり、犯罪抑止効果などという概念自体科学的に疑わしいといわざるを得ず、また死刑に相当する犯罪行為の目撃者を死刑逃れのため「口封じ」することさえあるとして、犯罪抑止効果に対する懐疑性の理由としている。
それに対し、一部の死刑存置論者{{誰|date=2013年5月}}は、終身刑や有期刑にしても統計的には明確な抑止効果は証明されておらず、終身刑や有期刑が死刑と同等の抑止効果を持つことが証明されない限り、死刑を廃止すべきではないとする。また、個別の事件を見ると、[[闇サイト|闇の職業安定所]]で知り合った3人が女性一人を殺害した後にも犯行を続行しようとしたが、犯人のうち一人が死刑になることの恐怖から自首したという例もあり、死刑制度の存在が犯罪抑止に効果があるとの主張も根強くある。このような認識は少なからざる人々の間で語られるが、数的根拠はない。死刑制度存続を必要とする理論的理由は後述のように犯罪被害者遺族のために必要とするなど複数存在している。また、死刑制度の代替と主張される終身刑(無期懲役)などの刑罰が、死刑と比べ相対的な犯罪抑止効果があるかを示す統計も出ていないのも事実である。すなわち、死刑と長期の懲役のうちどちらが犯罪を抑止する効果が優れているかどうかは誰も検証できていない。これに対してはそもそも「抑止力」という概念をあてはめること自体不適当ではないかという問題もあるとされる。
死刑の犯罪抑止効果について、[[統計]]的に [http://links.jstor.org/sici?sici=0022-3808%28197708%2985%3A4%3C741%3ACPADSF%3E2.0.CO%3B2-O&size=LARGE&origin=JSTOR-enlargePage 抑止効果がある] と主張する[[論文]]は、アメリカ合衆国でいくつか発表されているが、その分析と称されるそれに対しては多くに批判が存在しており、[[米国科学アカデミー|全米科学アカデミー]]の審査によると「どの論文も死刑の犯罪抑止力の有効性を証明できる基準には遠く及ばない」としている<ref>Roger Hood“The death penalty, a worldwide perspective”3rd.ed Oxford university press, 2002, p.209-231</ref>。
個別の刑罰の特別抑止(再犯抑止)効果を除いた一般抑止効果は、死刑、終身刑およびほかの懲役刑も含めて、統計上効果が実証されていない。一般論として、死刑反対派は「死刑による犯罪の一般抑止効果の統計的証拠がないこと」、死刑賛成派は「死刑代替刑による威嚇効果が十分でないこと」を指摘する。抑止効果の分析方法には地域比較と歴史的比較がある。地域比較では国や州の制度の違いによって比較が行われる。
地域比較としては、アメリカ合衆国の1960年から2010年までの、死刑制度が無い州や地域と、死刑制度が有る州の殺人発生率を比較(死刑が無い州地域と有る州の数は時代の進展とともに変化している)すると、死刑制度が無い州や地域の殺人率の平均値は、死刑制度が有る3州の殺人率の平均値は死刑制度が無い州や地域と死刑制度が有る州を比較して、いずれの年度も近似値であり統計上有意な差異は確認されていない<ref>[http://www.deathpenaltyinfo.org/murder-rates-nationally-and-state Death Penalty Information Center>State by State>Sources and Additional Information>States with and without the Death Penalty>Murder Rates by Stat] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.deathpenaltyinfo.org/state_by_state Death Penalty Information Center>State by State Database] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2009 FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports 2009>Violent Crime>Table 4] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2008 FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports 2008>Violent Crime>Table 4] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2006 FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports 2006>Violent Crime>Table 4] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www2.fbi.gov/ucr/cius_04/documents/CIUS2004.pdf FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports >more>2004>Full Document(PDFと文書の76〜84ページ)] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.fbi.gov/about-us/cjis/ucr/crime-in-the-u.s/2001/crime_sec201.pdf/view FBI>Sats and Service>Crime Statistics/UCR>Uniform Crime Reports/more>2001>Section II Crime Index Offenses Reported(PDFと文書の66〜75ページ)] 2010年10月17日閲覧</ref><ref>[http://www.disastercenter.com/crime/ United States: Uniform Crime Report -- State Statistics from 1960 - 2009] 2010年10月17日閲覧</ref>。
主要工業国(先進国・準先進国)で死刑を実施している国としては、日本、アメリカ合衆国、シンガポール、台湾などがあるが、アメリカ合衆国の殺人率は先進国の中では高く他国の殺人率は低い<ref>[http://www.uncjin.org/Statistics/WCTS/WCTS5/wcts5.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Fifth Survey (1990 - 1994)] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Sixth-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Sixth Survey (1995 - 1997)>Sorted by variable] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Seventh-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Seventh Survey (1998 - 2000)>Sorted by variable] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Eighth-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Eighth Survey (2001 - 2002)>Sorted by variable] 2009年8月31日閲覧</ref><ref>[http://www.unodc.org/unodc/en/data-and-analysis/Ninth-United-Nations-Survey-on-Crime-Trends-and-the-Operations-of-Criminal-Justice-Systems.html UNODC>Data and Analysis>Crime surveys>The periodic United Nations Surveys of Crime Trends and Operations of Criminal Justice Systems>Ninth Survey (2003 - 2004)>Values and Rates per 100,000 Total Population Listed by Country] 2009年8月31日閲覧</ref>
ので、個々の国の殺人率は死刑制度の有無や刑罰制度の重軽により決定されるわけではなく、殺人に対する死刑の一般抑止効果としては、国や州や地域別の比較には意味がないとの指摘もある。
時代的比較では、死刑が廃止された国での廃止前・廃止後を比較する試みがされる。しかし様々な制度や文化、教育、経済など様々な社会環境の変化も伴うため、分析者によってさまざまな結論が導き出されており、それだけを取り出して検討するのは困難である。ただし現段階においては、廃止後に劇的に犯罪が増加・凶悪化した典型的ケースはこれまでにはなく、また劇的に犯罪が減少したケースもない。
廃止派団体である[[アムネスティ・インターナショナル]]はカナダなどにおける犯罪統計において死刑廃止後も殺人発生率が増加していないことを挙げ「死刑廃止国における最近の犯罪件数は、死刑廃止が悪影響を持つということを示していない」と主張している<ref>[https://web.archive.org/web/20120103144803/http://amnesty.or.jp/modules/mydownloads/viewcat.php?cid=2 アムネスティ国際事務局:死刑に関する一問一答][https://web.archive.org/web/20110913150116/https://www.amnesty.org/en/library/asset/ACT50/010/2007/en/f45ed09c-d3a2-11dd-a329-2f46302a8cc6/act500102007en.html Amnesty International:Document - The Death Penalty, Questions and Answers]</ref>。これに対し「アムネスティの数値解釈は指標の選択や前後比較の期間設定が恣意的であり、公正にデータを読めばむしろ死刑廃止後に殺人発生率が増加したことが読み取れる」という反論<ref>[https://web.archive.org/web/20190330042241/http://www.geocities.jp/aphros67/090620.htm APHROS 死刑廃止と死刑存置の考察 世界各国の死刑存廃状況 カナダ]</ref> がなされている。このような主張の正否はともかくとして、いずれの議論においても、死刑制度および無期懲役と凶悪犯罪発生率の間の因果関係の有無が立証されていない点では共通しているといえる。
死刑および終身刑に相当する凶悪犯罪が近代国家では少なくないため、統計で犯罪抑止力にいずれの刑罰が有効であるか否かの因果関係を明示することができないことから、統計的に結論を出すのは難しい。特に日本では「犯罪が増加した」との指摘もあったが、それでもなお他の先進諸国と比較しても低い。たとえば犯罪白書によれば、[[2000年]]に発生した殺人の発生率及び検挙率の表<ref>平成18年度犯罪白書38頁</ref> では、日仏独英米の5カ国では発生率は一番低く(1.2)、検挙率もドイツについで2番目によい(94.3%)。この数値を見れば死刑制度の存在が有効に働いているとの主張も可能であるかのようにいえる。しかし、もう一つの死刑存置国であるアメリカ合衆国の数値は、発生率が5.5で最悪、検挙率も63.1%と最低である。そのため死刑制度の存置が犯罪抑止に全く効果がないとの主張も可能である。アメリカが日本と違い殺人の手段として容易に用いることが可能な[[銃社会]]であるなど、社会条件に相違点があるとしても、このように統計のみでは死刑の犯罪抑止効果を見出すことができないといえる。
===== 死刑は懲役より有益なのか? =====
{{main|{{仮リンク|法執行機関職員による殺害の一覧|en|Lists of killings by law enforcement officers}}}}
死刑廃止国では凶悪犯が警察官に射殺されることが多いという指摘がある<ref>[https://web.archive.org/web/20180715170151/https://www.yaserucola.com/entry/shot_dead 痩せるコーラ(新)] 2018年7月12日配信 2018年7月16日閲覧</ref><ref name="fujii">{{Cite book|和書|author=藤井誠二|authorlink=藤井誠二|others=その他の人名|title=殺された側の論理…犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」|origdate=2007-03-06|accessdate=2009-06-21|edition=初版|publisher=[[講談社]]|isbn=9784062138611|pages=p. 102}}</ref><ref>{{Harvnb|森|2008|MORI2008|p= 292}}</ref>。元参議院議員の[[佐々木知子]]は死刑廃止国で警察官による{{仮リンク|略式処刑|en|summary execution|label=簡易死刑執行}}がおこなわれていると指摘している。これは危険な犯人を射殺してしまえば将来の危険性は永久に除去され刑務所に収容して税金でやしなう必要がないという方法論からきている<ref>{{Cite web|和書|author=佐々木知子|url=http://www.sasaki-law.com/memberof/concern7.htm|title=『死刑廃止』には反対|work=佐々木知子のホームページ|accessdate=2010-08-09}}</ref>。
しかし、欧米では銃規制が日本に比べてはるかに緩いので、警察官と銃を使用した犯人への争いの結果として、警察官の正当防衛・業務行為としての発砲が増えるのは必然的であり、それを「簡易死刑執行」という言葉でいいかえるのは、ご都合な詭弁という意見<ref group="注釈">ワシントンアンドリー大学におけるスピーディライス教授の講演会</ref> がある。また日本でも警察官の業務行為としての正当性が認められた判例が(<ref>福岡高裁http://www.hou-nattoku.com/precedent/0121.php</ref>)存在することからも、「日本では、警察官は何もできずに死刑をなくしたら理不尽だ」という存置論は根拠をもたない。そもそも、簡易死刑執行は、軍隊においてつかわれていた用語にもかかわらず、なぜ日本だけこの言葉の意味を曲解してもちいるのかが意味不明という指摘がある<ref group="注釈">ワシントンアンドリー大学におけるスピーディライス教授の講演会</ref>。また、フランスは死刑廃止と同時に刑法を全面改正して懲役を長くしたという指摘もある<ref name="fujii"/>。
「簡易死刑執行」は本来は戦時下における軍による軍法上、あるいは司法手続に依らない{{仮リンク|超法規的処罰|en|Extrajudicial punishment}}を指すものであり、司法警察など一般の法執行機関によるものは[[超法規的殺人|超法規的処刑]]と呼ばれている。メキシコ、ブラジル、ロシアなど一部の死刑廃止・凍結国では麻薬密売組織やテロ組織を対象に[[秘密警察]]や[[死の部隊]]による超法規的処刑が行われている例があるが、超法規的処刑が国際問題にまで発展している国の多くは死刑残置国であり、犯罪組織の撲滅というよりも、国内における反体制派の弾圧を目的に超法規的処刑が正当化されている例がほとんどである。死刑残置国であるインドでは警察官が麻薬密売組織などの構成員と遭遇した際に即座に射殺に及んでしまう事態が多数発生しており、これを記述する法的用語として{{仮リンク|警察による遭遇殺害|en|Encounter_killings_by_police|label=遭遇殺害}}と呼ばれる概念が存在するが、冤罪の可能性も否定できないとして人権団体からは批難の対象となっている。一方で死刑廃止国であるフィリピンでは[[ロドリゴ・ドゥテルテ]]が[[ダバオ]]市長、後にフィリピン大統領に就任して以来、犯罪者に対する組織的な超法規的処刑を常態化させており<ref name="time">{{ウェブアーカイブ|deadlink=yes|title=The Punisher|url=http://www.time.com/time/asia/magazine/article/0,13673,501020701-265480,00.html/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050113031844/https://time.com/time/asia/magazine/article/0,13673,501020701-265480,00.html|archiveservice=ウェイバックマシン}}</ref><ref>{{Cite web|和書||url=https://www.afpbb.com/articles/-/3098959|title=麻薬常習者は「人間ではない」 比大統領、超法規的殺人を正当化|work=AFPBB News|accessdate=2021-06-25}}</ref>、人権団体は批判しているもののこれによりダバオ市及びフィリピンの治安が顕著に改善されたことが確認されている<ref name="time"></ref><ref>{{Cite web|和書||url=https://www.amnesty.or.jp/news/2017/0427_6794.html|title=フィリピン:ASEAN各国はフィリピンでの大量殺人に非難を|work=アムネスティ・インターナショナル|accessdate=2021-06-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書||url=https://hbol.jp/160459|title=フィリピン・マニラの治安改善の影で広がる貧富の格差|work=ハーバー・ビジネス・オンライン|accessdate=2021-06-25}}</ref><ref>{{ウェブアーカイブ|deadlink=yes|title=ドゥテルテ支持率79%は秩序への評価|url=https://www.kyodo.co.jp/intl-news/2019-05-30_2024260/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190626152632/https://www.kyodo.co.jp/intl-news/2019-05-30_2024260/|archiveservice=ウェイバックマシン}}</ref>。
なお、犯罪者、法執行機関の双方が銃器を持ち、正当防衛・業務行為としての発砲が発生しやすい国では、[[自殺]]([[拡大自殺]])の一手法として警察官からの発砲を意図的に誘発させる{{仮リンク|間接自殺|en|Suicide by cop}}と呼ばれる行為がしばしば発生するという負の側面も抱えている。
==== 死刑制度存廃が与える社会への影響 ====
死刑の存廃が社会に影響をもたらすのかどうかは、法学者の間でも決着はついていない。
死刑制度の存在が、国民の一部の残虐的性質を有するものに対し、殺人を鼓舞する残忍化効果を与えているとの指摘や、自暴自棄になった者が死刑制度を悪用する[[拡大自殺]](extended suicide)に走るとの指摘もある。このような拡大自殺に走る者は少ないといわれるが、実例としては[[2001年]]に発生した[[附属池田小事件]]で死刑が確定した[[宅間守]](2004年に死刑執行)の最大の犯行動機が自殺願望であり、[[1974年]]に発生した[[ピアノ騒音殺人事件]](近隣騒音殺人事件)では、犯人が自殺もしくは処刑による死を望んだ事があきらかになっている<ref group="注釈">この死刑囚は[[ノイローゼ]]のため精神異常が亢進しているといわれ、死刑確定から30年以上経過した2008年現在、処刑されていない。</ref>。明治以降の日本の凶悪犯罪史を見渡してもこのような者は極少数であるが、確実な死刑を望むため大量殺人を意図した者は存在している。また前述の2人の死刑囚のように、上級審で争う意思を持たず、弁護人がした控訴を自身の意思で取り下げ、1審の死刑判決を確定させた事例も散発的に発生している。
たとえ凶悪犯罪者といえども死刑を強く求める言論が、生命を軽視する風潮を巻き起こす事になり、よって逆に殺伐とした世情を煽る側面もあるのではないかとする懐疑的な主張がある一方、凶悪な殺人行為に対しては司法が厳格な対処、すなわち死刑をもって処断することこそが人命の尊重につながるとの主張もある。
他方では、死刑制度の廃止が成立した場合の懸念を訴える者も少なくない。代表的なところとしては、人を殺しても死刑制度が無いために死刑にならないならば、復讐のためにその殺人者を殺しても同様に死刑にはならないという理論も成り立つため、[[敵討]]の[[風習]]の復活に繋がるのではないか、という問題である。ちなみに、この種の懸念は日本においては死刑制度の存廃論議と平行する形で古くから存在しているものであり、たとえば、1960年代に[[星新一]]は、[[ハヤカワ・ミステリ・マガジン]]で連載していた[[エッセイ]]『進化した猿たち』の中で、ある高名な司法関係者に「わが国でなぜ死刑廃止が実現しにくいのか?」という質問をしたところ、理由の1つとしてまず敵討復活の懸念というものを挙げられたと記している<ref>星新一『進化した猿たち』新潮社、20頁</ref>。なお、江戸時代の敵討ち、すなわち仇討ちであるが、認められるのは武士階級のみで、対象は尊属を殺害されたものに限定され、子息の殺害に対して適用されず、また「決闘」であったため、返り討ちされる危険性もあった。
2015年のアメリカの銃乱射事件の総数は過去最大であり、乱射事件が起きなかったのはわずか五州<ref>[https://archive.is/jyDrK 2015年のアメリカの銃乱射事件の総数] 2015年12月14日更新 2015年12月17日閲覧</ref>である。乱射事件の発生したほとんどの米国州は死刑が廃止されている。「銃乱射する人物の性格に問題<ref group="注釈">[[サンバーナディーノ]]で[[2015年]][[12月2日]]に起きた銃乱射事件「容疑者は『敬虔なイスラム教徒』『おとなしくて礼儀正しい』」である。</ref> がある」とされていた従来の理論では、説明不可能な事件が増加している。
== 死刑制度をめぐる国際問題 ==
{{main2|世界各国における死刑制度の詳細については[[世界の死刑制度の現状]]を}}
死刑制度を維持している国では長年に渡って[[刑罰]]の一つとして[[死刑]]を存続させる'''死刑存置論'''と死刑制度を廃止させるほうが適切であるとする'''死刑廃止論'''との議論が繰り返されてきた。死刑の適用範囲は[[厳罰化]]で拡張される場合も、寛容化で縮小される場合もありえるため、必ずしも存続派が現状維持派とは言い切れない。なお死刑制度が廃止されている国の場合には'''死刑復活問題'''となる。実際にアメリカ合衆国のいくつかの州では死刑を廃止または執行の停止をした後に復活しているし、イギリスやフランスでは否決されたものの議会で検討された事もある。20世紀後半以降一度死刑が廃止された後に復活した国は少なく、また復活させた場合でも国際世論の動向を警戒し実際に執行された国はさらに少ない。
論点としては凶悪犯罪に対する抑止力、冤罪の可能性、殺人に対する応報が議論されている。近代社会において、死刑の適用が除外されたものに[[政治犯]]に対する刑罰がある。古代より政権を握ったものが反対者を反乱者として処刑する事は珍しくなかった。[[革命]]や[[クーデター]]といった[[レジーム・チェンジ|政変]]による、例えば外国の軍隊を日本に侵攻させる[[外患誘致罪]]は死刑しか規定されていない。また、現在でも[[イスラエル]]による[[パレスチナ人]]などへの[[暗殺]]のように、名目上死刑廃止国であっても、[[裁判]]という形を取らずに人を殺す国家もある。またミャンマーのように死刑が停止されていても人権侵害による犠牲者を出している国もある。
[[1989年]]12月、国連総会で採択された[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書]](死刑廃止条約)には、随意項目として死刑廃止が存在する。これを加えて廃止を選択する国は、国際条約に基づき「戦時中に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決によって、戦時に適用することを規定」(第2条1項)されている戦時犯罪を除き平時全ての死刑を廃止することになる。なお、[[戦争犯罪]]も裁くことがある[[国際刑事裁判所]]は、[[大虐殺]]を指導した国家元首であっても死刑は適用されず、言い渡せる刑は終身刑(服役して25年以上経過後に仮釈放の可能性がある)と有期30年以下(刑期の3分の2以上経過後に仮釈放の可能性がある)の禁固刑である。
1990年ごろまでは、死刑維持国が大多数を占めたが、一党独裁ないし軍事独裁政権であった国家が[[民主化]]した直後に東欧や南米の諸国が死刑を廃止し、死刑廃止国の数が増加した。一方で、アジア・アフリカ・中東においては、民主化の後も死刑を維持する国が多い。1990年代以降、国際社会では死刑制度の廃止に踏み切る国家が増加している。特に死刑の廃止を主張する[[欧州連合]]加盟国の強いヨーロッパでは、死刑存置国も死刑の執行停止をせざるを得なくなっており、唯一死刑の執行を続けていた[[ベラルーシ]]が「人権抑圧国」として糾弾されている<ref group="注釈">ただし実際に政治体制も政府批判を許さない強権的なものであるとの指摘もある。</ref>。また国際連合も死刑廃止条約を推進することなどから、外交の一環として死刑制度に対する国際的圧力は増大しているという考え方もある。なお一部の死刑存置派{{誰|date=2013年5月}}は一連の動きに対し、国内状況が死刑制度の廃止ができない状態であれば死刑は維持すべきであるとしている。
[[2007年]][[12月18日]]、欧州連合などの提案で、国連総会で初めて死刑モラトリアム決議が可決したが、これに対し日本の[[神余隆博]][[国連大使|大使]]は「国民の大半が死刑を支持しており制度廃止に踏み出すことは困難<ref>産経新聞 2007年12月17日</ref>」と述べ、また「決議に賛成すると[[日本国憲法|憲法]]違反になる」と表明<ref>毎日新聞 2007年12月20日朝刊</ref> しており、「日本の内政問題であるから世界の大勢に従うべきでない」としている。これに対し欧州連合は国際連合の人権委員会で「日本の人権問題」として「死刑制度の廃止もしくは停止」を求める勧告を出させている。[[2008年]]も欧州連合は同様の決議を提出する予定で、[[10月28日]]、日本で同日行われた2名の死刑執行に議長国フランスは「深く憂慮している」と表明した。
国連の死刑廃止条約や、EUの死刑廃止ガイドラインは、通常犯罪に対しては死刑を禁止しているが、戦時の死刑については国家の権利として認めている。死刑廃止論の祖である[[チェーザレ・ベッカリーア]]を始め、過去の死刑廃止論者・団体は、平時の通常犯罪に限定して死刑廃止を主張しており、戦時下など国家の危機における死刑については対象としないことが多かったが、近年では戦時も含めてあらゆる死刑に反対する考え方が広まっている。
===死刑制度をめぐる国際社会の現状===
[[ファイル:Capital punishment in the world.svg|thumb|right|300px|死刑制度の世界地図]]
世界195ヶ国の色分けは次の通り。(2022年現在)
* '''青'''{{Bgcolor|#008080| }}:あらゆる犯罪に対する死刑を廃止(109ヶ国)
* '''緑'''{{Bgcolor|#80E000| }}:戦時の逃走、反逆罪などの犯罪は死刑あり。それ以外は死刑を廃止(7ヶ国)
* '''橙'''{{Bgcolor|#E0A040| }}:法律上は死刑制度を維持。ただし、死刑を過去10年以上実施していない死刑執行モラトリアム国。もしくは、死刑を執行しないという公約をしている国。(24ヶ国)
* '''赤'''{{Bgcolor|#FF0000| }}:過去10年の間に死刑の執行を行ったことのある国(55ヶ国)
となっている。
死刑廃止は世界の趨勢(すうせい)であると主張する、死刑廃止派である[[アムネスティ・インターナショナル]]の調べによると、2022年現在、109ヵ国が死刑を全面的に廃止し、7ヵ国が通常犯罪にのみ死刑を廃止している。ただし、人口の多い中国、インド、アメリカ、インドネシア、日本といった国では依然として死刑が存続しているので、人口比では「世界の趨勢」とはなっていない。他に、通常犯罪に対する死刑制度は存置しているが10年以上死刑を執行していない国が25ヵ国あり、これらの国には死刑を行わない政策ないし確立された慣例があると認められる。2010年に新たに死刑を全面的に廃止した国としてガボン共和国があげられる<ref>[https://web.archive.org/web/20130906113755/http://amnesty.org/en/death-penalty/abolitionist-and-retentionist-countries Amnesty International, Abolitionist and Retentionist Countries.]</ref>。
2022年現在、54ヵ国が死刑制度を存置している。これらのうち日本を含む23ヵ国が2010年に死刑を執行し、少なくとも527名に対する執行が確認されている。ここには、中国で行われたとみられる数千件の執行は含まれていない。中国では死刑執行に関する統計は国家機密になっていると考えられ、アムネスティ・インターナショナルは中国については2009年より、死刑執行(最低)件数の報告を止めている。他にベラルーシ、モンゴルでも死刑執行は国家機密として扱われ、マレーシア、北朝鮮、シンガポールについては情報が入手困難である。ベトナムでは死刑執行件数の公表は法律で禁止されている。
2010年の死刑宣告は、67ヵ国で少なくとも2,024人に対して行われている。現在、少なくとも17,833人が死刑宣告下にある<ref name="amnesty.org"/>。
== 歴史 ==
{{Main2|死刑制度の詳細|死刑}}
{{See also|死刑の歴史}}
[[死刑]]は、受刑者の生命を何らかの方法によって奪う刑罰で、その受刑者の社会的存在を抹殺する刑罰であり、人類の刑罰史上最も古くからある刑罰であるといわれ、有史以前に人類社会が形成された頃からあったとされる<ref>斎藤静敬『刑事政策』創成社 79頁</ref>。しかし、原始社会では殺人はほとんどの場合は同族内でのいざこざでおこる衝動犯罪であり、加害者も被害者も親戚関係であることが多かったため、死刑ははばかられ、代わりに[[村八分]]や部族からの追放などの措置がとられることが多かった。実際に死刑となるのは、これらの部族社会における別の部族との争いにおける復讐である。他部族の者が自分の部族の一員を殺した場合は、賠償が行われる場合もあれば、報復措置として殺し合いが行われることもあった。さらに人類に都市文明が生まれると、みせしめの手段として死刑を残酷に演出するために、[[車裂きの刑|車裂き]]、[[鋸挽き]]、[[釜茹刑|釜茹]]、[[火刑]]、[[溺死刑]]、[[石打ち]]など、その執行方法は多種に及んだ。また、犯罪行為に対するものに限らず社会規範を破ったことに対する制裁<ref group="注釈">たとえば、中世[[ヨーロッパ]]では[[姦通]]を犯した既婚者女性は原則的には溺死刑に処せられていた。</ref> として死刑が行われていた時代もあった<ref group="注釈">ただし、現在でもイスラム法を重要視している国では、不倫や婚前性交渉を理由に死刑になる場合も存在する。</ref>。
上記のような執行方法はあまりにも残虐に過ぎ、近代以降あまり受け入れられなくなりつつある。時代が進むにつれ、残虐性のある執行方法を用いる国は減少していくが、これは人道上許容できないという理由によるものが多いと思われる<ref group="注釈">例えば斬首刑の執行具の一つである[[ギロチン]]は、斧や刀による斬首では受刑者に必要以上の苦痛を与えるとして導入されたものであった。</ref>。
=== ヨーロッパ社会の死刑に対する見方の歴史 ===
完全な形で残っている、世界で2番目に古い法典である[[ハンムラビ法典]]は「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」があるため、[[応報刑]]が採用されていたようである。ただし加害者の身分が被害者より下であれば厳罰に処せられており、応報刑が成立するのはあくまで対等な身分同士の者だけであった。また場合によっては罰金の納付も認められていた。そのため、基本的に「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」といった現代の[[罪刑法定主義]]が採用されていたものであり、[[復讐]]を認める野蛮な規定の典型ではなく「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」ものであった。
しかし、[[ユダヤ人]]と[[キリスト教徒]]はこれらを宗教的教義に反する政治思想・司法制度として批判し続けたため、近代に至るまで罪刑法定主義的な処罰が行われることはなかった。そのため、近世になるまで現在から見ると釣り合いが取れないほど軽い罪や反道徳的な行為が、死刑になる犯罪行為とされていた。このような不文律による処罰を罪刑擅断(専断)主義という。
ユダヤ教とキリスト教の聖典である[[モーゼの十戒]]の日本語訳は古い訳では「汝殺すなかれ」となっており、仏教と同じように不殺の戒が定められていると誤解されるが、実際には「殺人を犯すなかれ」という意味あいであり、死刑の執行に関する記述や、神の民であるユダヤ人の起こす戦争を肯定する記述([[ダビデ]]による[[ゴリアテ]]の殺害など)があるなど、あくまでも犯罪としての殺人を禁じるものであり、死刑そのものを否定するものではない。しかし、キリスト教は罪に対する許しと贖罪を強調したため、教義において応報を理由に死刑を正当化することができなかった。[[ローマ帝国]]の国教になる以前にもその正当性は議論されていた。中世ヨーロッパ社会で死刑制度を肯定する思想として、[[スコラ哲学]]者でもあった神学者の[[トマス・アクィナス]]は、刑罰に応報的な性格があることを認めたが、その正当性を否定する一方で「わずかの酸は麹の全体を膨らます」([[コリント前書]]5章16節)の文言を根拠に、ある人が犯罪によって社会全体に危険を撒き散らし、しかも伝染的なものであるなら、公共の福祉を守るためにこれを殺すことは有益で賞賛に値するとし、死刑がさらなる殺人に対する予防論として肯定した。また、[[宗教改革]]の指導者である[[マルティン・ルター]]は、死刑を執行する剣は神に対する奉仕を意味し、人間の手でなく神の手が殺戮するのだ、として肯定すると共に、国家の為政者が凶悪な人間を死刑にするのは正当な行為であり罪でない、と主張していた。
さらに、近世において[[啓蒙主義]]がおこり、[[ジョン・ロック]]や[[イマヌエル・カント]]などが[[社会契約説]]などによって法の根拠を再定義したとき、応報論を死刑の正当理由として復活させたが、彼らの提示する応報論はあくまでも社会全体あるいは自然法に対する侵害に対する応報であり、被害者個人にたいする対価としての応報でない。現代において、世俗主義に基づく欧米各国の裁判所が実際の刑の正当性を論ずる判例において、被害者の立場を回復するという意味での応報論をほとんど認めないのは、応報=復讐=悪とみなす宗教的、さらに歴史的背景が存在すると指摘されている。応報論を刑罰の根拠として認められない結果として、死刑はその正当性を予防論および効用論に頼るざるを得ない状況にあるが、予防論は近代においては刑務所の出現によって完全にその有効性を失っており、これにより[[カトリック教会]]はそれまでの立場を改め、死刑反対の立場を宣言している。また、死刑が殺人の発生を未然に防ぐとの効用論も社会統計上その根拠がほとんどなく、欧米社会においては死刑賛成派は非常に弱い立場にある。死刑を実際に執行しているアメリカにおいても、[[合衆国最高裁判所|最高裁判所]]の判例で応報論を根拠とする死刑の正当性は明確に否定されている。また、アメリカでの死刑肯定派を担う保守あるいは右派が応報論を展開しないのは、彼らが同時に保守的キリスト教徒であり、応報論はキリスト教の教義とあまりにも明確に矛盾することが挙げられる。これは、死刑の根本的根拠を応報論に置く日本などの東洋社会や、殺人における裁判の役割をあくまでも加害者と被害者(遺族)間の調停と見なし、加害者が被害者遺族を補償金などで納得させた場合は裁判官が死刑が減刑することが許されているイスラム社会とは対照的である。
キリスト教国は報復論を否定する一方、予防論によって死刑の正当性を位置づけたことで教義上の結論を見たが、見せしめのために前述のような残虐な処刑方法が行われ、教会自体、宗教裁判などによって異端者・魔女であるとした者を大量に処刑した<ref group="注釈">たとえばドイツの17世紀初頭の[[カロリナ法]]時代にライプツィヒの刑法学者であったカルプツォフ(Benedict Carpzov)は裁判官として40年間の在職期間中に中世の刑法を推奨し8万人に死刑を言い渡し2万人から3万人が死刑執行されたが、その多くは[[魔女狩り|魔女裁判]]であった。</ref> その根拠とされたのは、旧約聖書の『[[出エジプト記]]』22章18節律法「呪術を使う女(ヘブライ語でメハシェファ)は生かしておいてはならない」という記述であるが、本来は意味不明であったものが、中世欧州社会では「魔術を行うもの」次に「キリスト教的教養の持たない者」を社会秩序維持のために排除すべきとなり、集団ヒステリーの産物としての魔女の極刑が横行した、と言われている。
政治的権力者ないし宗教指導者への反逆は悲惨な死に至る、というような「威嚇」を狙った目的もあり、歴史的には(異論もあるが)[[ローマ帝国]]および[[ユダヤ教]]に対する反逆者とされ死刑が執行された[[ナザレのイエス|イエス・キリスト]]の[[キリストの磔刑|磔刑]]、[[魔女狩り]]など宗教異端者に対する過酷な処刑、[[イングランド王国|イングランド]]の[[ウィリアム・ウォレス]]に対する四つ裂きの刑などが有名である。これらの処刑はいずれも公開で行われており、死刑執行を公開することで犯罪を予防しようとする目的<ref name="keiji80">斎藤静敬『刑事政策』創成社 80頁</ref> から、生きながら焼き殺す、蒸し殺す、受刑者の身体を公共の場で切り刻んだり引きちぎったりする、などといった極めて凄惨な[[公開処刑]]が行われた。しかし中世フランスなどにおける公開処刑の実情を見ても、それが必ずしも威嚇となっていたのかは疑問の残るところである<ref group="注釈">当時のフランス国民は、公開処刑を興奮のための娯楽としてしか見ていなかったと言われ、死刑執行を家の中で見ながらセックスを行っていたという例も存在する。</ref>。なお、公開処刑は現在も一部の国では行われている。
=== 死刑廃止論の起こり ===
[[Image:Execution robespierre, saint just....jpg|thumb|280px|right|フランス・[[恐怖政治]]の指導者[[マクシミリアン・ロベスピエール]]の公開処刑を描いた絵画([[1794年]])]]
人類社会で古くから脈々と続けられてきた死刑制度であるが、日本では死刑が事実上廃止されていた時代があり<ref group="注釈">[[嵯峨天皇]]が弘仁9年(818年)に死刑を停止する宣旨([[弘仁格]])を公布して死刑執行が停止された。</ref>、前近代社会では極めてまれな事例である<ref group="注釈">ただし朝廷への反逆者は例外的に斬首されていた。</ref>。
近代になり、人権の保障として「法無くば罪無く、法無くば罰無し」という罪刑法定主義の原則が取り入れられるようになったが、犯罪者に対し国家が科すべき刑罰に関して、旧派刑法学(客観主義刑法理論)と新派刑法主義(主観主義刑法理論)の新旧刑法学派の対立が生じた。このような、刑罰の本質に対する論争のひとつとして、死刑制度の位置づけによって制度の存否をめぐる議論が生まれた。これにおいて、死刑が適用される犯罪を戦争犯罪のみに限定もしくは完全に撤廃しようとする主張が'''死刑廃止論'''であり、それに対して死刑制度を存続すべきという主張が'''死刑存置論'''である。
=== 死刑適用の制限と廃止 ===
[[画像:04CFREU-Article2-Crop.jpg|thumb|280px|right|[[欧州連合基本権憲章]]のうち、死刑の禁止を明記した箇所]]
[[フランス]]で1789年に勃発した[[フランス革命]]を契機として、死刑執行方法は[[ギロチン]]による[[斬首刑]]に単一化されるようになり<ref name="keiji80" />、文化の変化に伴って死刑の意義がなくなっていったため、適用範囲が次第に制限されるようになった。フランス革命では[[マクシミリアン・ロベスピエール]]の[[恐怖政治]]によって大量の[[政治犯]]が処刑されたことから、死刑制度が廃止するかに思われたが、最終的に[[ナポレオン・ボナパルト]]によって退けられた。
欧米の政治革命の結果として、死刑が適用される範囲は次第に制限されるようになった。たとえば建国間もない[[アメリカ合衆国]]では、[[トーマス・ジェファーソン|トマス・ジェファーソン]]が死刑執行の範囲を制限すべきと主張していた。州レベルでは[[ペンシルベニア州]]が[[1794年]]に、死刑を適用できるのは第一級殺人罪のみと限定した。また[[1847年]]に[[ミシガン州]]が殺人犯に対する死刑を禁止し、事実上死刑制度を廃止した。これは国家が国民の生命与奪権まで与えることに疑問が提示された結果ともいえる。特に権力者に対する政治的反逆を行った[[政治犯]]に対する死刑は、一部の国を除き忌避されるようになった。
20世紀末から欧州諸国が死刑制度を廃止し、[[国際連合]]も死刑廃止条約を打ち出したため、21世紀初頭の国際社会は死刑制度が廃止された国が半数となっている。一方で死刑制度を護持する国も依然として残っているが、死刑制度を存置する国においても、死刑が適用される犯罪はおおむね「他人の生命を奪った犯罪」に制限されるようになっていった。ただし、前述のように厳罰主義ないし宗教観による差異のために、「人の生命が奪われていない犯罪」<ref group="注釈">[[中華人民共和国]]の汚職・経済犯罪や、[[シンガポール]]の麻薬犯罪、一部中東諸国の[[イスラーム法]]に基づく宗教的道徳観違反など。</ref> でも死刑が適用されている国家がある。
日本で死刑が適用される犯罪は法律上17種類あるが、起訴された事例がない罪種が大部分であり、実際には殺人または強盗殺人など「人を殺害した犯罪」である<ref group="注釈">他にも、[[内乱罪]]や[[外患誘致罪]]のように、たとえ人命が奪われていなくても、「祖国に対する裏切り行為」は死刑が適用(後者は死刑のみ)されるが、[[刑法 (日本)|刑法]]制定以来適用例が存在しないため除外する。</ref>。そのため、人を殺害した犯罪者のうち、特に悪質な場合において、犯罪者の生命をもって償わせるべきと[[裁判官]]に判断された者に死刑が適用されている。
先進国の多くが死刑制度を廃止しているが、アメリカ、日本、シンガポール、台湾などの幾つかの国では現在でも死刑制度を維持している。凶悪犯罪者に対する社会的制裁や犯罪抑止、犯罪被害者遺族の応報感情などを理由に死刑を維持すべきという国内世論も根強い。例えば、死刑存置論者である刑法学者が死刑廃止運動に対する批判{{Harv|中嶋|2004|Ref=NAKAJIMA2004|p=189}}として「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あなたたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」と発言している。
現在先進国のうち、実質的な死刑存置国はアメリカ合衆国・日本・シンガポールと台湾の4か国である。以前は非先進国のほとんどが非民主国家であったため、経済的な区分で死刑の維持派と廃止派を分けることが多かったが、近年では途上国でも民主国家の数が急増し、人権問題としては民主主義と非民主主義の国家での区分が有意義なものとなっている。この場合、民主主義の国では欧米文化の系列であるヨーロッパと南米などの国のほとんどで死刑が廃止、アジア、中東、アフリカの民主主義の国ではほとんどがは死刑を維持するという文化的な対立が鮮明となっている。またアメリカ合衆国では2013年10月時点で、18州が死刑を廃止・2州と軍は執行を停止という状況で、死刑制度がある32州と連邦も毎年執行している地域は[[テキサス州]]のみである。[[欧州議会]]の欧州審議会議員会議は2001年6月25日に、死刑執行を継続している日本とアメリカ合衆国に対して[[死刑囚]]の待遇改善および適用改善を要求する1253決議<ref group="注釈">この決議では、死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が非難されている。</ref> を可決している。また、[[国連総会]]も死刑執行の[[モラトリアム]]決議(2007年12月18日)を可決している。さらに、国連のB規約人権委員会は日本を名指しして死刑制度廃止を勧告している<ref>{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081031/erp0810310934003-n1.htm |title=日本に死刑廃止検討求める 国連委、慰安婦でも初勧告 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2008-10-31 |accessdate=2010-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081209035752/http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081031/erp0810310934003-n1.htm |archivedate=2008年12月9日}}</ref>。2008年10月30日<ref>{{Cite news |url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000025-mai-int |title=<国連人権委>死刑廃止へ 日本政府に「最終見解」 |newspaper=Yahoo!ニュース |agency=毎日新聞 |publisher=Yahoo Japan |date=2008-10-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081103104351/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000025-mai-int |archivedate=2008年11月3日}}</ref> には、日本の捜査機関の手続きの改善<ref group="注釈">代用監獄の廃止、虚偽の自白を防ぐための取り調べ録画。</ref> や、死刑制度についても「死刑執行数が増加しており、また本人への告知が執行当日であること」などが問題であり、死刑囚本人とその家族が死刑執行に向けて心の準備ができるよう「適切な時間的余裕を持って執行日時を事前通知すべきだ」と批判している。
== 死刑制度をめぐる思想史 ==
=== 死刑存置論の系譜 ===
死刑を肯定する思想は、古くはイタリアの中世[[カトリック教会]]最大の[[神学]]者で、[[スコラ学]]者でもあった[[トマス・アクィナス]]によっても主張されたことで知られる。彼は、[[アリストテレス]]の思想体系をカトリック神学に結びつけて発展させ、刑罰を科することで犯罪によって失われた利益が回復されるとし、その意味で刑罰に応報的性格をみとめたとされる。また、社会の秩序を防衛するためには為政者の行う死刑は有益かつ正当であると主張したとされる<ref>[[三原憲三]]『死刑存廃論の系譜』成文堂10-11頁</ref>。
[[カトリック教会]]はその伝統において、おおむね死刑に好意的であった<ref>カール・バルト『国家の暴力について 死刑と戦争をめぐる創造論の倫理』新教出版社 34-5頁。また、J.デリダ/E.ルディネスコ『来るべき世界のために』岩波書店 203頁</ref>。神学者の[[フランシスコ・スアレス]]は、国民には他の国民の命を奪う権利はないのだから、そうした権利を含む国家の権力とは神が授けたものであるとし、死刑の存在が、国家権力が神に由来することの証明と考えた<ref>[[ホセ・ヨンパルト]]『刑法の七不思議』成文堂 226頁</ref>。[[宗教改革]]の時代において指導的神学者であった[[マルティン・ルター]]も、死刑を神事として肯定したと言われる。また初期啓蒙思想家の[[フーゴー・グロティウス]]、その系統をひく[[自然法論|自然法学者]][[プーフェンドルフ]]も死刑を合理的なものとして肯定した<ref>三原憲三 前掲書 13頁</ref>。
[[啓蒙主義]]の時代においては、[[自然権]]と[[社会契約説]]を唱えた[[トマス・ホッブズ]]、[[ジョン・ロック]]や[[イマヌエル・カント]]などが、世俗的理論のもとに、社会秩序の維持や自然権(生命権)の侵害に対する報復などをもって、死刑の必要性を再定義した。そのほか、[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]らの近代思想家も死刑存置論を主張した<ref>[[立石二六]]『刑法総論』成文堂 2004年 346頁</ref>。
[[ジョン・ロック|ロック]]は『[[市民政府論]]』の冒頭で、政治権力とは[[所有権]]の規制と維持のために、死刑をふくむ法を作る権利だと定義している<ref>ロック『市民政府論』岩波文庫 9頁</ref>。ロックによれば、[[自然状態]]では、他人の生命や財産を侵害する者に対して誰もが処罰の権利をもっている<ref>ロック 前掲書 17、23、24頁</ref>。[[自然法]]のもとでは誰もが自由で平等であり、肥沃な自然を共有財産とし、そこから労働によって[[私有財産]]を得る<ref>ロック 前掲書 10-12、32-36、50、100頁</ref>。ロックは生命・自由・資産をまとめて[[所有権|所有]]と呼び<ref>ロック 前掲書 127頁</ref>、これを侵害する者は全人類への敵対者となって[[自然権]]を喪失するため、万人が自然法の執行者として処罰権をふるい、必要ならば殺す権利があると述べる<ref>ロック 前掲書 13-5、17、22頁</ref>。こうした自然状態から、人々は所有権の保障を得るために[[社会契約]]を結んで協同体([[市民社会]]、国家)に加わることに同意するが、それにともない個々人がもつ処罰権も移譲される<ref>ロック 前掲書 89-90、129-131、173-4頁</ref>。ただし、処罰権はあくまで一般的なものなので、国家にとって、死刑にかんする権利や義務がそこから「明示的に」発生する訳ではない<ref>A.John Simmons, Locke on the Death Penalty. Philosophy.vol.69:270. Cambridge University Press. pp.472-5.</ref>。しかし殺人者や侵略者にかぎれば、自らの行為によって権利を喪失しているので、自然状態では万人に彼らを殺す権利があったのと同じく、国家は彼らに恣意的で専制的な権力をふるうことが正当化される<ref name="名前なし-1">A.John Simmons, ibid. pp.476</ref>。すなわちこの権力は、殺人者や侵略者の「生命を奪い、欲するならばこれを有害な動物として破滅させる権利」<ref>ロック 前掲書 186頁</ref> をも含んでいるのである<ref name="名前なし-1"/>。ロックの考えでは、殺人者や侵略者は死に値し、死に値するという事実は死刑を十分に正当化するものであった<ref>A.John Simmons, ibid. pp.477</ref>。
[[三権分立]]の提唱者として知られる[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]は、死刑についてこう主張する。「これは一種の[[ハンムラビ法典#同害報復|同害報復権]]である。これによって社会の安全を奪った、あるいは、他の公民の安全を奪おうとした公民に対し、社会が安全を拒否するのである。この刑罰は事物の本性から引きだされ、理性から、また善悪の源泉から取り出される。公民が生命を奪い、あるいは生命を奪おうと企てるほど安全を侵害した場合は、彼は死に値する。」<ref>モンテスキュー『[[法の精神]]』上 岩波文庫 348頁</ref>
[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]は死刑について[[ジョン・ロック|ロック]]の発想を踏襲し発展させたと言われる<ref>三原憲三 前掲書 19-20頁</ref><ref>[https://hdl.handle.net/2065/1494 江家義男,「[https://hdl.handle.net/2065/1494 死刑論]」『早稲田法学』12巻 p.1-64 1932年, 早稲田大学法学会, {{issn|0389-0546}}。</ref>。彼は[[グロティウス]]、[[プーフェンドルフ]]らによる統治契約説(服従契約)を否定し、社会契約を自由な個人による同意と考えた。国家によって守られる契約当事者の生命は、その国家のための犠牲を求められることもあるとし、「犯罪人に課せられる死刑もほとんど同じ観点の下に考察されうる。刺客の犠牲にならないためにこそ、われわれは刺客になった場合には死刑になることを承諾しているのだ。」と述べる<ref>ルソー『社会契約論』岩波文庫 54頁</ref>。また彼の言うところでは、「社会的権利を侵害する悪人は、…祖国の一員であることをやめ、さらに祖国にたいして戦争をすることにさえなる。…そして罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告」であり<ref>ルソー 前掲書 55頁</ref>、すなわち法律違反者は公民たる資格を失うことになり、国家は自己防衛の必要があれば、これを殺してもよいとされる。その他方でルソーは「なにかのことに役立つようにできないというほどの悪人は、決していない。生かしておくだけでも危険だという人を別とすれば、みせしめのためにしても、殺したりする権利を、誰ももたない。」と述べている<ref>ルソー 前掲書 56頁。ルソーの死刑論については他に、[[竹田直平]]『刑法と近代法秩序』306-308頁 を参照</ref>。
[[プロイセン王国|プロイセン]]出身で[[ドイツ観念論]]の祖である[[イマヌエル・カント]]は、死刑について、「もし彼が人を殺害したのであれば、彼は死なねばならない。この際には正義を満足させるに足るどんな代替物もない」と語ったことで知られる<ref>カント「人倫の形而上学」『世界の名著第32巻カント』 中央公論社 477頁</ref>。カントはホッブズ、ロック、ルソーから[[社会契約|社会契約説]]の発想を継承しつつ、そこから歴史性を完全に捨象し、これを市民社会(国家)がもとづくべき理念として考えた<ref>カント 前掲書 473-4頁。カントの社会契約論については、ハワード・ウィリアムズ「カントと社会契約」 バウチャー/ケリー編『社会契約論の系譜』 176-197頁を参照</ref>。そうした国家において刑法とは[[定言命法]]であり、すなわち裁判所のくだす刑罰は、犯罪者の社会復帰や犯罪の予防といった他の目的の手段であってはならず、無条件で犯罪者を罰するものでなければならない<ref>カント 前掲書 473頁</ref>。ルソーが犯罪者を国家の敵とするのに対し、カントは犯罪者も人格として扱わねばならないが故に、刑罰も彼を目的として扱わなければならない(が故に定言命法の対象となる)と考える。そして刑罰の種類や程度を定めるにあたって、司法的正義が規準とするのは、均等の原理すなわち[[ハンムラビ法典#同害報復権(タリオの法)|同害報復権(タリオの法)]]のみだとカントは言う<ref>カント 前掲書 474頁</ref>。したがって殺人のばあい、犯罪者の死だけが司法的正義に適うとされ、「刑罰のこの均等は、裁判官が厳格な同害報復の法理にしたがって死刑の宣告を下すことによってだけ可能になる」とされる<ref>カント 前掲書 476頁</ref>。このように主張したことで、カントは[[応報刑論#絶対的応報刑論|絶対的応報刑論]]の見地から死刑を正当化したと言われる。ちなみに、ここでの被害者は公民的社会(国家)であり、個人対個人での補償や配慮は考えられていないと言われる<ref>平田俊博「カントの反・死刑反対論-<死刑に値する>と<生きるに値しない>との狭間を求めて-」現代カント研究5『社会哲学の領野』所収61-62頁</ref>。またカントは、[[ベッカリーア]]が死刑廃止の主張のさいに論拠とした、[[社会契約]]において当事者が予め死刑に同意することはありえないという議論に対し、人が刑罰を受けるのは刑罰を望んだからではなく罰せられるべき行為を望んだからだと反論した</del><ref>カント 前掲書 478-9頁 カントの死刑論については他に[[竹田直平]]『刑法と近代法秩序』308-314頁、増田豊「消極的応報としての刑罰の積極的一般予防機能と人間の尊厳-カントおよびヘーゲルと訣別してもよいのか-」三島淑臣ほか編『人間の尊厳と現代法理論』135-145頁 を参照</ref>。
[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は刑罰の考え方をめぐってカントの[[応報刑論]]を批判したが、殺人罪については、生命はいかなるものによっても置き換えられないという理由から、死刑しかありえないと考える<ref>ヘーゲル「法の哲学」『世界の名著第35巻ヘーゲル』 中央公論社 305頁、[[上妻精]]・小林靖昌・高柳良治『ヘーゲル 法の哲学』有斐閣新書 135頁</ref>。また[[チェーザレ・ベッカリーア|ベッカリーア]]の死刑廃止論を、[[社会契約]]にもとづく国家創設という発想そのものを否定することで斥けている<ref name="ヘーゲル 前掲書 301頁">ヘーゲル 前掲書 301頁</ref>。たしかに国家は、[[王権神授説]]の言うような与えられるものではなく、人々によって造られるものではある。しかしヘーゲルの考えでは、いかなるタイプの社会契約もしょせん恣意的で偶発的なものにすぎず、そうしたレベルの合意が国家のような統一体に発展することはない<ref>ヘーゲル 前掲書 276頁</ref>。もともと人々は、共同体の制度・慣習・文化の複雑な網の目のなかで生きており、契約の義務という観念もそれらを前提に生じ、共同体のなかではじめて現実性をもつものである。ところが社会契約論はこうした関係を転倒させ、これら諸々の前提を契約の所産のように勘違いしているのである<ref>ヘーゲルの社会契約論批判については、ブルース・ハドック「ヘーゲルの社会契約論批判」 バウチャー/ケリー編『社会契約論の系譜』 198-219頁、アラン・パッテン「ヘーゲル政治哲学における社会契約論と承認の政治」ロバート・R・ウイリアムズ編『リベラリズムとコミュニタリアニズムを超えて』217-238頁を参照</ref>。すなわち「国家はそもそも契約などではなく、なお、また個々のものとしての諸個人の生命および所有の保護と保全も、けっして無条件に国家の実体的な本質ではない」とヘーゲルは言う<ref name="ヘーゲル 前掲書 301頁"/>。このようにベッカリーアを批判する他方で、彼の著作によってヨーロッパ諸国が死刑に慎重な姿勢をとるようになった事をヘーゲルは評価している<ref>ヘーゲル 前掲書 302頁、上妻精ほか 前掲書 131頁</ref>。
19世紀には、[[社会進化論]]的観点から死刑を肯定する思想があらわれた。イタリアの医学者[[チェーザレ・ロンブローゾ#生涯|ロンブローゾ]]は、犯罪者の頭蓋骨解剖・体格調査の研究により、[[隔世遺伝]]による[[生来的犯罪人説|生来的犯罪者]]という考え方を発表し、[[人為淘汰]]の思想にもとづく死刑の正当性を主張した。彼によれば、「社会のなかにはたくさんの悪い人間が散在しており、犯罪によってその性が現れてくるというのである。すなわち、そういう悪人の子孫が繁殖するというと、遺伝によって将来は犯罪人をもって充されるようになるから、社会を廓清し立派な人間ばかりにするために、人口淘汰によってこれ等の悪人を除くことが必要である。これを実行するためには、死刑はよい刑罰であって廃止すべきものではない」<ref>三原 前掲書 20-21頁</ref>。また、ロンブローゾの弟子であった[[エンリコ・フェリ]]も、人為淘汰として死刑は社会の権利であり、生物進化の自然法則に合致すると主張する。彼によれば、「進化の宇宙的法則がわれわれにしめすところに従えば、各種生物の進歩は生存競争に不適当なものの死という不断の淘汰によるのである。…ゆえに社会がその内部に於て、人為的淘汰を行いその生存に有害な要素、即ち反社会的個人、同化不可能者、有害者を除くということは、ただにその権利であるばかりでなく、自然の法則に一致しているのである」<ref>三原 前掲書 21頁</ref>。[[刑法学]]における「イタリア学派」へと発展した彼らの主張は多くの批判を受けたが、従来の刑法学に[[実証主義]]的な手法を導入した点では高く評価されている。
20世紀初頭、ドイツ・[[ベルリン大学]]のヴィルヘルム・カール教授は法曹会議のなかで『死刑は刑罰体系の重要な要素であり』として人を殺したる者はその生命を奪われるというのは『多数国民の法的核心である』と主張した。またアメリカ合衆国のケンダルは、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の[[社会契約説]]にもとづき、政治犯などと凶悪犯罪者とを区別することで死刑制度を肯定できると主張した<ref>三原 前掲書 14頁</ref>。
=== 死刑廃止論の系譜 ===
[[Image:Dei delitti e delle pene 1764.jpg|thumb|『犯罪と刑罰』(1764)<br />ヨーロッパ各地で翻訳され、死刑廃止論の先駆けとなった。]]
死刑が正当な刑罰かという問題は16世紀以降論争となり、[[トマス・モア]]の『[[ユートピア]]』([[1516年]])や、トーサンの『道徳論』([[1748年]])などに死刑反対の考えが現れている。しかし社会思想としての死刑廃止論の嚆矢となったのは、イタリアの[[啓蒙思想]]家[[チェーザレ・ベッカリーア]]であり、彼は[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の影響のもと、[[社会契約]]を根拠に死刑を否定したことで知られる<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』成文堂 85頁、『誤判と死刑廃止論』成文堂 2011 75頁</ref>。
ベッカリーアは『[[犯罪と刑罰]]』([[1764年]])において、「どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由-あらゆる財産の中でもっとも大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろうか? …人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人に、-たとえそれが社会にであったとしても-ゆずり渡すことはできないはずだ。」と述べている<ref>ベッカリーア『[[犯罪と刑罰]]』岩波文庫、90-91頁</ref>。すなわち、社会契約の当事者である国民は、自分の生命を放棄するような約束を予め結ぶということはありえないのだから、死刑制度は無効であり、(国家の平時においては)廃止すべきというのがその趣旨である。また彼は、刑事政策上の理由からも反対論を述べ、死刑が抑止効果において終身刑に劣るものだと主張した。「刑罰が正当であるためには、人々に犯罪を思い止まらせるに十分なだけの厳格さをもてばいいのだ。そして犯罪から期待するいくらかの利得と、永久に自由を失うこととを比較判断できないような人間はいないだろう」<ref>ベッカリーア前掲書、94-5頁</ref>。さらに彼は、死刑が残酷な行為の手本となり社会的に有害でもあるとも述べている<ref>立石二六『刑法概論』成文社、2004年、345-346頁</ref>。
『[[犯罪と刑罰]]』は当初匿名で出版されたが、ただちに大きな論議を巻き起こした。その背景には、当時のヨーロッパにおける刑事法が一般に抑圧的であり、その運用も恣意的だったことがあると考えられている。司法原則としての法の下の平等は事実上存在せず、犯罪者の社会的地位や縁故・人間関係がもっとも処遇を左右したと言われる<ref>エリオ・モナケシー「チェザーレ・ベッカリーア」、『刑事学のパイオニア』所収、矯正協会、6,7頁</ref>。こうした状況一般への人々の不満もあり、『犯罪と刑罰』は翻訳されてヨーロッパ各地で読まれ、のちの立法と刑法思想に多大な影響を与えた。ちなみに、ベッカリーアの思想を最初に実現したのは、[[トスカーナ大公国]]の啓蒙専制君主レオポルド1世大公(後の[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]])である。レオポルドは即位した[[1765年]]に死刑の執行を停止し、[[1786年]]には死刑そのものを完全に廃止した<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』成文堂、88頁</ref>。
この時代には他にも、[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]『自然の法典』([[1755年]])、ゾンネンフェルス([[1764年]]の論文)、トマソ・ナタレ『刑罰の効果及び必要に関する政策的研究』([[1772年]])等が死刑の刑罰としての有効性に疑問を述べ、廃止を主張している。
19世紀には文学の領域で死刑廃止の声があがりはじめ、[[ヴィクトル・ユゴー]]の『死刑囚最後の日』([[1829年]])が反響を呼んだ。また[[ロマン主義|ロマン派]]の詩人で政治家の[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ|ラマルティーヌ]]が廃止を主張し、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の『[[白痴 (ドストエフスキー)|白痴]]』([[1868年]])、[[レフ・トルストイ|トルストイ]](『[[戦争と平和]]』[[1865年]] - [[1869年]])なども作品中に死刑を取りあげて、廃止論に影響を与えた。
イギリスの社会改革主義者であった[[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]]は、刑罰学においては[[パノプティコン]]の考案者として知られる。彼は死刑に関して、[[功利主義]]的立場からプラス面とマイナス面とを比較検討した。ベンサムによれば、死刑の戒めとしての効果や人々による支持といったプラス面よりも、死刑が犯罪者による被害者への賠償を不可能にすることや、誤判による死刑の回復不可能性といったマイナス面の方が大きいとされる。ベンサムはこうした比較により、死刑より終身労役刑の方が社会にとっての利益が大きいと結論づけ、死刑廃止を主張した<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』 97-100頁、『誤判と死刑廃止論』 98、99頁</ref>。
ドイツの[[フランツ・フォン・リスト]]は、[[チェーザレ・ロンブローゾ|ロンブローゾ]]ら「イタリア学派」のとなえる生物学的観点のみによる犯罪原因説を否認し、そこに社会学的視点を加え、さらに刑法における目的思想を重要視した。すなわち[[応報刑論|応報刑]]では犯罪を抑止できないと考え、法益保護と法秩序の維持を目的とし、社会を犯罪行為から防衛しながら犯罪者による再度の犯罪を予防することを重視する。リストとその弟子達はここから[[目的刑論|目的刑]]という新しい[[刑法学]]の体系を生み出し、[[刑法学|近代学派(新派)]]の理論を完成させた。応報刑の旧派と目的刑の新派の対立は現代まで続いているが、目的刑を取る刑法学者は通常は死刑廃止を主張している。
20世紀になると、またリストに学んだモリッツ・リープマンとロイ・カルバートが死刑廃止を主張した。リープマンはカール、フィンガーらと死刑存廃をめぐって論争し、死刑は犯人を法の主体として認めず、単に破壊の客体として扱うことを問題として指摘した。エドウィン・H・サザーランドや『合衆国における死刑』([[1919年]])を書いたレイモンド・T・ブイも死刑廃止を唱えた。作家の[[アルベール・カミュ|カミュ]](『ギロチン』[[1957年]])も死刑に反対している<ref>三原憲三『死刑存廃論の系譜』80-102頁</ref>。
キリスト教的な立場からは、[[19世紀]]初頭に[[フリードリヒ・シュライアマハー]](シュライアーマッハー)が、[[20世紀]]には[[カール・バルト]]らの神学者が国家の役割を限定するという立場から死刑廃止を主張した。バルトによれば、刑罰を基礎づける理論は通常、犯罪者の更生、犯罪行為の償い、社会の安全保障、の何れかに収まるが、死刑は何れとも齟齬をきたす<ref>カール・バルト『国家の暴力について』新教出版社 44頁</ref>。死刑はまず「犯罪者の更生」を放棄するが、社会には、その構成員を秩序へと呼び戻す努力をする義務があるとバルトは言う<ref>バルト、前掲書 44-47頁</ref>。第二に、「犯罪行為の償い」とは、神の応報的正義の地上的・人間的表現である。しかしあらゆる人間の過ちに対する神の応報的正義は、バルトによれば、キリスト教ではイエスの死をもって終わっており、刑罰は生を否定しないものでなければならない<ref>バルト、前掲書 48-53頁</ref>。そして「社会の安全保障」については、犯罪者の抹殺は社会を自己矛盾に陥れるとバルトは述べる。すなわち、社会制度はつねに暫定的・相対的なものとして修正可能性を担保すべきであり、死刑においてはそうした可能性が排除されるため、社会はむしろ市民の安全を侵害する可能性を常にはらむことになる<ref>バルト、前掲書 53-57頁</ref>。こうしてバルトは一国の制度としての死刑には反対するが、その他方で特殊な条件下での死刑を擁護している。バルトの主張によれば、戦時下での売国行為と国家を危機に陥れる独裁者(ヒトラーを念頭に置いている)の二者に関しては、限界状況にある国家の正当防衛という理由から、死刑(犯罪者の殺害)は「神の誡めでありうる」とされる<ref>バルト、前掲書 62-72頁</ref>。
近年では、[[ジャック・デリダ]]が死刑廃止論の思想的検討をしている。デリダによれば、死刑とは刑法の一項目にとどまらず、法そのものを基礎づける条件でもある。それは死刑が元々、[[主権]]の概念と深い関わりをもっているからである。[[カール・シュミット#シュミット|シュミット]]によれば、主権はかつての宗教的権威から国家へと受け継がれたが、これは法の上位にあって[[例外状態]]を決定し、([[恩赦]]のように)法を一時停止する権限であり、生殺与奪の最高の権限でもある。廃止論に立つには、こうした主権そのものを問題にする必要があると、デリダは言う。現在の死刑廃止論は、彼によれば政治的に脆弱である。まずベッカリーアにならって戦時の例外を認めるタイプの廃止論は、今日的な状況に太刀打ちできない。何故なら、たとえば戦争とテロとの境目があらかじめ明確でないような状況では、緊急時と平常時の境界線も恣意的に引けるからである。同じくベッカリーア由来の、死刑は抑止力がないから廃止すべきだという主張も、限られた説得力しか持たない。こうした功利主義的な主張は、「法を犯した者は罰せられるべきだから罰せられるべきなのだ」といった、人間の尊厳に訴えるカント的な[[定言命法]]を乗り越えられないからである。国際機関による決議や提言も、上記のような国家の主権原理や例外問題の前でつねに頓挫している。こうした点から、これまでの廃止論の言説は大幅に改善していく余地があるとデリダは述べている<ref>J.デリダ/E.ルディネスコ『来るべき世界のために』201-237頁</ref>。
死刑制度の存続賛成派は、その目的として犯罪を予定する者への威嚇効果、つまり(殺人などの凶悪事件)犯罪抑止ないし犯罪抑止力。または人権を剥奪された被害者ないしその遺族の救済(つまるところ報復の代行)などを根拠に死刑を維持<ref group="注釈">廃止されている場合には復活。明確な意味で復活したのはイタリアなど少数である。</ref> すべきとする。また、死刑制度の廃止派はたとえ人命を奪った凶悪な犯罪者であっても人権はあり、死刑そのもの自体が永久にこの世から存在を抹殺する残虐な刑であり、国家による殺人を合法的に行うことであり是認できない、刑事裁判の誤判による冤罪による処刑を完全に防ぎきれない、などを根拠に廃止すべきと主張する。
現在に至るまで、死刑存置論と死刑廃止論をめぐっては激しく対立しているが、どちらの主張が正しいかを客観的に判断することは誰にもできない問題である。また論理的でない感情論も場合によっては入るため、現実として問題の解決はありえないかもしれない。そのため、死刑制度を存続するにしても廃止するにしても、[[法学]]のみならず、死刑制度の存在をどのように見るかで大きく変わるものであり、そのため法学のみならず思想的かつ宗教的な問題や[[哲学]]など様々な主義主張が交錯しており、犯罪被害者ないし犯罪者双方の人間の生命についてどう考えるかという根本的な課題<ref name="菊田幸一『Q&A 死刑問題の基礎知識』明石書店126頁より引用">菊田幸一『Q&A 死刑問題の基礎知識』明石書店126頁より引用</ref> であるといえる。
近年ではイスラム教徒によるテロが相次いだことを背景として、「死刑復活論」という新たな運動がある<ref>[https://web.archive.org/web/20180716040050/http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=..%2Fqanda3%2F380lGlf5Trcys32352.htm&org=yes 死刑廃止国の国民の大半が死刑制度復活を期待している] 2018年7月16日閲覧</ref>。
==日本における死刑==
=== 日本における死刑廃止論 ===
以下の項目は、日本における死刑制度廃止派による主な廃止論である。
* 人権の更なる尊重を推奨すべきという観点からの廃止論
: 死刑制度は最高裁判決を鑑みても日本国内において最も人権を尊重していない刑罰であると言えるとし、近代社会において人権が、現状を超えて尊重されることは、その直接的な影響によって他者の人権が侵害される場合を除いては肯定・推奨されるとした上で、死刑の廃止が直接的な原因である具体的な人権侵害の危険性が確認できない以上、日本においては死刑廃止は推奨されるべきものである、という意見がある。
* 誤判可能性からの廃止論
: 現代の司法制度においては裁判官も人間であるという考え方である以上、常に誤判の可能性が存在し、生命を剥奪するという性質を持つ死刑においては、他の刑と比べ特に取り返しがつかないため、廃止すべきであるという意見がある。元最高裁判所判事の[[団藤重光]]は、自身が判決を下した死刑事件の事実認定において「一抹の不安(誤判可能性)」が拭い去ることができないという経験から、死刑の廃止を訴えている<ref>団藤重光『死刑廃止論』 有斐閣 2000年</ref>。また、実際に誤判の可能性が示されたのが、後述の1980年代における四大死刑冤罪事件([[免田事件]]、[[財田川事件]]、[[松山事件]]、[[島田事件]])である。
* 国際情勢からの廃止論
: EU諸国欧州協議会や国連などは、死刑廃止を推奨・推進しており、死刑執行を継続している日本に対して非難決議も出されている以上、国家政策上不利益であるという点から廃止すべきであるという意見がある。
: また、死刑制度の存在を理由に死刑廃止国から[[犯罪人引渡|逃亡犯罪人の引渡]]を拒絶されることがあり、日本が「[[犯罪人引渡条約]]」を締結する相手国が米国及び韓国の2カ国と極端に少ない理由のひとつともされている<ref>{{Cite news
| 和書
| author=
| title=犯罪人引き渡し条約、日本はなぜ米韓2カ国としか結んでいない?
| url=https://news.yahoo.co.jp/articles/60ed5d26593372a16015e8a188658cfc7a23277e
| date=2020-01-06
| newspaper=[[Yahoo!ニュース]]
| agency=[[THE PAGE]]
}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyokyodo-law.com/%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%81%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e4%b8%96%e7%95%8c%e4%b8%ad%e3%81%a7%e4%ba%8c%e3%81%8b%e5%9b%bd%e3%81%a8%e3%81%97%e3%81%8b%e7%8a%af%e7%bd%aa%e4%ba%ba%e5%bc%95%e3%81%8d%e6%b8%a1/
|title=なぜ、日本は世界中で二か国としか犯罪人引き渡し条約が締結できないのか?
|accessdate= 2021-01-18
|author= 海渡雄一
|date= 2020-01-15
|publisher= 東京共同法律事務所}}</ref>。
* 国家による死刑乱用の可能性からの廃止論
: 時の権力者の恣意により死刑が乱用され、国民の生命が脅かされる危険性がある。
:
* 犯罪誘発につながることからの廃止論
「死刑にしてほしいから犯罪をする」という者が相当数いるため、死刑があると逆に犯罪者が増える。
*
:[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]は、「死刑制度は『見直す』べき」という見解を提示している。「刑罰のあり方についてより国民的な議論を尽くし、その間は、死刑執行を停止すべき」という主張を公開している<ref>[http://www5.sdp.or.jp/comment/2014/06/26/3038/ 2014年6月26日発表声明「死刑執行に強く抗議する(談話)」]</ref>。
*
:[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]は死刑制度への賛否を明確にしていないが、一部の議員が[[死刑廃止を推進する議員連盟]]に所属している。
=== 日本における死刑存置論 ===
以下の項目は、日本における死刑制度存置派による存置論である。
* 社会契約説からの存置
: 前述のように、啓蒙思想家のルソーやカントは社会契約説から死刑を肯定したとして、刑法学者の[[竹田直平]]は「人間は本来利己的恣意的な行動を為す傾向を有するので、他人からの不侵害の約束と、その約束の遵守を有効に担保する方法とが提供されない限り、何人も自己の生命や自由、幸福の安全を確保することができない」として社会契約の必要を説いた上で、生命を侵害しないという相互不可侵の約束を有効かつ正義にかなった方法で担保するには、違約者すなわち殺人者の生命を提供させる約束をさせることが有効であると主張し、死刑の存置を肯定した。なお前述の「死刑制度には『私はあなたを殺さないと約束する。もし、この約束に違反してあなたを殺すことがあれば、私自身の命を差し出す』という正義にかなった約束事がある。ところが、死刑を廃止しようとする人々は『私はあなたを殺さないと一応約束する。しかし、この約束に違反してあなたを殺すことがあっても、あなたたちは私を殺さないと約束せよ』と要求しているに等しい。これは実に理不尽である」という意見は、竹田が主張したものである。
* 民族的法律観念からの存置論
: 最高検察庁検察官検事を勤めた[[安平政吉]]は「社会秩序を維持する為には、悪質な殺人等を犯した犯罪者に対しては死刑しかなく他の刑罰は考えられず、それにより国民的道徳観も満足される」と主張した。
* 国家的秩序・人倫的維持論からの存置論
: 刑法学者で[[弁護士]]の[[小野清一郎]]は「死刑が正当なものであるかどうか、抽象的に論じがたい」として、抽象的に死刑を否定するのは浅見な人道主義的または個人主義的啓蒙思想に基づく主観的な見解であり、日本の政治思想は仁慈を旨としており国家的秩序と人倫的文化を維持するために絶対に必要な場合には死刑を廃止すべきであるとした上で、制度として維持する場合には適用を極度に慎重にしなければならないとし、死刑制度の存置を条件付で容認したものであるといえる{{Harv|三原|2008|Ref=MIHARA2008|p=44}}。
* 犯罪抑止論
: 死刑存置論者である[[植松正]]は、死刑の威嚇力が社会秩序維持のために必要であると主張した。
* 特別予防論からの存置論
: 目的刑論とは、「刑罰は犯罪を抑止する目的で設置される性格を持つ」とする理論であり、刑罰の威嚇効果によって犯罪抑止を図る一般予防論と、犯罪者に刑罰を科すことによって再犯を防止しようとする特別予防論に分かれる。後者の特別予防論によれば死刑制度は「大抵の犯罪者は教育・矯正をすることで再犯をある程度抑止することができる。しかし死刑が適用されるような凶悪犯は、矯正不可能であり社会秩序維持のために淘汰する必要がある。そのため社会から永久に隔絶することで再犯可能性を完全に根絶する手段として死刑は有用である」となる。そのため、再犯させない究極の手段として死刑は容認されるというものである。なお日本の死刑制度を合憲とした最高裁判例(最大判昭23・3・12)は、この特別予防論を死刑制度の根拠としているが、永山事件判決は一般予防の見地からも罪刑均衡の見地からも止むを得ない場合に限り死刑適用が許されるとしており、以降の裁判例や検察官の論告でもこの表現が引用されることが多い。
* 被害者感情に応じる為に必要とする存置論
: 日本において、凶悪犯罪に対する世論の厳罰化傾向が強まった背景には、従来なおざりにされてきた犯罪被害者への関心が高まったことが一因とされ、遺族の応報感情を満たすことを目的として死刑存置論が主張されることがある。また死刑が執行されないと[[私刑]]<ref group="注釈">19世紀から20世紀のアメリカ合衆国では裁判で死刑にならなかったり、裁判を受ける前の殺人犯を連れ出して群衆がリンチ殺人をおこなう事例があったといわれている。</ref> が増加する危険性があるとした上で、被害者の遺族を納得させるためには必要悪であるという主張がある。また存置論者は廃止論者に対して自身が犯罪被害者になることを想定しているのかと指摘することがある(なお、1956年の[[銀座弁護士妻子殺人事件]]では廃止論者の弁護士[[磯部常治]]が妻子を殺害されてもなお死刑廃止の立場を変えなかった例があるが、岡村勲弁護士の事件に比べて、メディアなどでは取り上げられることはない)。
===冤罪事件===
2009年現在では、法務省は冤罪の疑いがあり再審請求中の死刑囚については、死刑の執行は法務大臣の決裁が必要であること、および、冤罪で死刑を執行した場合は無期刑や有期刑を執行した場合と比較して、非難が大きいので、法務省として明示的に宣言はしていないが、現実の運用としては、死刑囚が再審で無罪判決を受けるか、または、死刑囚が天寿を全うして死ぬまで執行しない運用をしている。
1940年代後半から1960年代にかけて[[静岡県]]内では、再審で死刑判決が破棄された島田事件のほか、上級審で死刑破棄・無罪になった[[幸浦事件]]や[[二俣事件]]といった冤罪事件が多発した。ほかにも現在も冤罪の可能性が指摘されている[[袴田事件]]もすべて静岡県であり、全国的に見ても冤罪が多発している。この背景には[[静岡県警]]の[[紅林麻雄]]警部(1908年-1963年、本人は発覚直後に病死したため県警本部長表彰はされたが、刑事責任には問われていない)が拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成によって「事件解決」を図ったためであり、また「自白」に沿った証拠品の捏造まで行ったことが明らかになっている。この手法が同県警内部でこのような捜査手法がもてはやされ、他の警察署でも行われたのが冤罪多発の一因だといわれている。なお、強要により得られた自白は憲法38条2項及び刑事訴訟法319条1項により証拠能力が否定されるとはいえ密室での取調べにおける自白の強要を公判で明らかにすることは必ずしも容易ではなく、思い込みによる捜査ミスによる冤罪の発生は完全には否定できないといわれている。
実際に21世紀に入っても死刑求刑にたいし証拠不十分で無罪になった[[佐賀女性7人連続殺人事件|北方事件]]や、死刑適用事件ではないが、被告人が抗弁をあきらめて有罪になりかかった[[宇和島事件]]や、捜査や裁判当時の科学鑑定の精度の低さにより真犯人と誤認され有罪判決を受けたが、服役中に科学鑑定の精度が向上し冤罪が判明した[[足利事件]]や、服役後に真犯人が判明した[[氷見事件]]が発生しており、科学的捜査手法が発達した現在も人が犯罪捜査を行う以上、このような冤罪事件は散発的に発生しており、冤罪による死刑執行あるいは獄中死の危険性は完全に否定できないといえる。ただし、関係者に面識がない場合の強姦殺人事件においてDNAの照合などは証拠として決定的であり、これによって無実が証明され釈放された例があるだけでなく、この証拠によって有罪が確定した場合の冤罪の可能性は極めて低い。
また冤罪ではないにしても裁判の事実認定に誤りがあったために、[[主犯]]が処刑を免れ従犯を処刑にした誤判は実際に存在する。[[1946年]]に[[奈良県]]内で発生した強盗殺人事件では「主犯」とされた者が処刑されたが、懲役刑で服役した「従犯」が[[1958年]]に実業家として成功していた本当の主犯を恐喝して逮捕されたために、ただの見張りを主犯にでっち上げていた真相が発覚した実例<ref>村野薫「戦後死刑囚列伝」宝島社刊、103頁</ref> などがあるという。[[古谷惣吉連続殺人事件]]では、最初の2件の強盗殺人では共犯を「主犯」と誤判して死刑が執行され、「従犯」と誤認した古谷が出所後に8人も殺害した事件があった。古谷がこの事件で逮捕起訴<ref group="注釈">これは古谷が偽名で他の刑務所に服役していたためである。なお、どのように抗弁したかは不明であるが、死人に口なしの幸いが自己の責任を軽くしたため、死刑相当の犯行であるにもかかわらず比較的軽微な刑事処分となっている。</ref> されたのは「主犯」処刑後であり、懲役10年の刑期出所後の一ヶ月で8人も殺害していた。そのため「主犯」と誤判された者の死刑が執行されずに本当の事実関係が明らかになっていれば、後の8人が殺害されることも防げたはずだと批判された。また1946年に発生した[[福岡事件]]では殺害された[[中国人]]被害者の関係者による傍聴人の存在が事実認定に影響を与え、犯行現場にいなかった第三者を主犯として処刑にしたとの批判も現在も根強くある。
現実問題として、冤罪(傷害致死だとして事実誤認を理由にする場合もある)の疑いがあるとして再審請求している死刑囚の死刑執行<ref group="注釈">明らかに死刑執行の引き伸ばしを図っている場合には、再審棄却直後ないし申請中に死刑執行が行われる場合も少なくはない。</ref> が避けられる傾向にある。
刑事訴訟法の475条は「確定から6カ月以内に法務大臣が死刑の執行を命令し」とあるため、死刑執行は死刑判決確定後6ヶ月以内に執り行わなければならないのに現実は違うとの批判もあるが、実際には法務当局が死刑執行命令の検討を慎重に行っている為であるとされる。また同法475条2項但し書に「上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない」とあり、再審請求中もしくは恩赦出願中または共犯が逃亡中の死刑囚は、死刑執行までの半年間に算入しないとの規定があるため、執行が猶予される傾向にある。
2000年ごろまで原則的には死刑確定順に死刑が執行されていたが、組織犯罪では共犯者が逃亡中や未確定である事例([[連合赤軍事件]]・[[三菱重工爆破事件]])や冤罪を訴えて再審請求中の者、もしくは闘病中の者は除外され、事実関係に争いがなく死刑判決を受け入れ支援者もなく外部との連絡もない「模範死刑囚」が先に執行が行われているという指摘がある<ref>別冊宝島「死刑囚最後の1時間」8頁</ref>。東京拘置所の収監されていた死刑囚(2008年獄死)の著書<ref>澤地和夫 『東京拘置所 死刑囚物語―獄中20年と死刑囚の仲間たち』 彩流社、2006年</ref> によれば、1983年に[[練馬一家5人殺害事件]]で1996年11月に死刑が確定した死刑囚は、拘置所側から「自身のため」と説得され、支援者への面会を一切拒否するようになり、看守に対して丁寧かつ謙虚な態度で接していたという。早期の死刑執行を望んだためか、はたまた死刑回避を望んだためかは今となってはわからないが、確定5年後の2001年12月に死刑執行が行われた。なお、この著者は仲間と一緒に1984年に3人を残虐な手口で殺害した元[[警察官]]であり、1993年に上告を取り下げて死刑が確定したが、前述の練馬の元死刑囚よりも早く死刑が確定していながら、死刑執行されることなく<ref group="注釈">別冊宝島によれば、上告を取り下げて死刑を確定させたほうが結果的に死刑が先送りになるという法則を実践している向きがあるとしているほか、共犯も死刑判決を受けているため、2人同時の処刑が必要であるためとの指摘もある。</ref>、何冊かの著作物を出版しているほどである。そのため、法務省の次の死刑執行対象者の選定基準に公開されていない基準があると推測されている。死刑執行が行われない場合には事実上の仮釈放のない終身刑となり、服役中に獄死した死刑囚も多数存在する。
なお、死刑執行後に冤罪が明らかになった場合、[[刑事補償法]]第3条第3項は被執行者遺族に対して3,000万円以内の補償を行うと規定しており、さらに本人の死亡で財産上の損失が生じた場合と認められる場合には「損失額+3,000万円」以内の額とされているが、この金額は犯罪被害者遺族に支払われる金額と同じである。
== 死刑の是非に関する意見 ==
過去には[[法務省]]内でも死刑の存廃やあり方などを議論してきた経緯がある。[[1970年]][[2月3日]]には、[[法制審議会]]、刑事法特別部会が死刑の存続について審議をとりまとめ、死刑存続の結論を出した<ref>世界の流れに逆行 廃止論者、一様に失望『朝日新聞』1970年2月4日朝刊 12版 14面</ref>。また、2010年7月、日本の法務大臣の下に「死刑の在り方についての勉強会」[https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji02_00005.html] が設けられ、2012年3月、その取りまとめ報告が公表された。当初は、死刑囚に死刑の執行をどのように知らせるか、また死刑の執行の情報をどこまで公開するかも議論される予定であったが、議論は尽くされたとする法務大臣[[小川敏夫]]によって勉強会は10回の会合をもって打ち切られた。<!--どの節に書くべきなのでしょうか [[日本における死刑]]?-->
=== 国連機関の勧告 ===
[[2008年]]5月には国際連合の[[国連人権理事会]]が日本の人権状況に対する定期審査を実施<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080510AT1G1000T10052008.html |title=国連人権理が初の対日審査、12カ国が死刑制度廃止など求める |newspaper=NIKKEI NET(日経ネット) |publisher=日本経済新聞社 |date=2008-05-10 |accessdate=2008-05-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080511052350/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080510AT1G1000T10052008.html |archivedate=2008年5月11日}}</ref> したが、このなかで欧州を中心に12ヶ国が日本政府に対し、死刑執行停止や死刑制度の廃止などを求めた。
これは前述のように国連総会で死刑執行の一時停止を加盟国に求める決議が採択されたにもかかわらず、日本で7人が死刑執行された状況を踏まえ、死刑制度廃止を訴える英仏などが説明を求めた。これに対し、日本代表は「国民世論の多数が極めて悪質な犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」と指摘し、「国連総会決議の採択を受けて死刑執行の猶予、死刑の廃止を行うことは考えていない」との立場を表明した。人権理事会は日本に死刑制度の廃止を勧告する人権状況の改善を求めた審査報告をまとめている。
また、国連の[[自由権規約人権委員会]]は、2008年10月30日に5回目となる対日審査・最終見解を公表した。その中で、国民世論の支持を死刑制度の存置の根拠としている点について「政府は国民に廃止が望ましいことを知らせるべきだ」と主張。さらに「世論調査に関係なく死刑制度の廃止を検討すべきだ」との改善勧告を行った<ref>「日本は死刑廃止検討を――国連人権委改めて勧告 慰安婦問題にも言及」『朝日新聞』2008年10月31日付夕刊、第3版、第2面。</ref>。
=== 国際的人権団体の報告 ===
[[2009年]]9月、[[ロンドン]]に本部を置く国際的な人権団体[[アムネスティ・インターナショナル]]は、日本の死刑囚は独房に入れられ精神病に追いやられるような非人間的な扱いを受けており、そのために重い精神病を患った死刑囚に対して死刑執行を行うことは国際法に反している、と主張している<ref>[http://edition.cnn.com/2009/WORLD/asiapcf/09/10/japan.executions/index.html CNN International Report: Death row inmates pushed to insanity in Japan]</ref>。日本で新政権を担うことになる民主党に、死刑囚を精神病に追い込むような、閉ざされた明かりも無い独房に閉じ込めることがないよう改善を求めている。[[2018年]][[7月6日]]に[[オウム真理教]]の教祖だと言う[[麻原彰晃]]やその教団の幹部6人これらその教団の重要人物ら7人が死刑執行されたときに「処刑は正義の実現にはなりえない。<ref>[https://web.archive.org/web/20180716084814/http://www.amnesty.or.jp/news/2018/0706_7491.html 正義に反するオウム事件7人の死刑執行] 2018年7月6日配信国際事務局発表ニュース 2018年7月16日閲覧</ref>」と声明を出した。アムネスティは国連のようなダブルスタンダードを用いず、すべての死刑執行に対して一応の声明を出している。ただし、[[イギリス]]は死刑はなくとも暗殺は目立ち<ref>[https://web.archive.org/web/20171008180424/http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/16/jo-cox-mp-dead_n_10509682.html ジョー・コックス氏が銃撃され死亡] 2018年7月16日閲覧</ref>、なおかつ終身刑が下される「テロに屈する」国の一つであることに留意する必要がある。
=== 世論調査 ===
日本では、政府の総理府(現在の[[内閣府]])が5年毎([[平成時代]]以前は不定期)に実施している世論調査において死刑制度に関する調査が行われている。以下は2019年の調査結果である。
* 「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」([[2019年]]11月内閣府実施「[https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-houseido/3_chosahyo.html 基本的法制度に関する世論調査]」から引用)
** (ア)死刑は廃止すべきである‐9.0%
** (イ)死刑もやむを得ない‐80.8%
** わからない・一概に言えない‐10.2%
このうち、「死刑もやむを得ない」と答えた者に「将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。」との設問を設け、以下の結果となった。
* (ア)将来も死刑を廃止しない‐54.4%
* (イ)状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい‐39.9%
全員に「もし、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止する方がよいと思いますか、それとも、終身刑が導入されても、死刑を廃止しない方がよいと思いますか。」との質問を設け、以下の結果となった。
*「廃止しない方がよい」-52.0%
*「廃止する方がよい」-35.1%
*わからない・一概には言えない-12.8%
以上の結果から、[[法務省]]は世論調査では国民の8割以上が死刑存置に賛成していると主張している。過去には[[日本弁護士連合会|日弁連]]などが政府の世論調査には設問の表現に偏りがあり、死刑賛成に誘導されやすい世論調査と強く非難し、情報公開が進めば死刑存置に反対している国民が多く存在するはずであると主張していたが<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/national/intro/TKY201211270944.html |title=死刑容認85%って本当? 「設問に偏り」日弁連検証 |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2012-11-28}}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>、批判を受け設問を単純化した2014年からの調査でも日本国内の死刑容認論の根強さが浮き彫りになっている<ref name=sankei>「「死刑制度」容認80%超 否定派を大幅に上回る 内閣府世論調査」産経新聞 2015年1月24日</ref>。
以後、日弁連は「死刑廃止が必ずしも国民世論の少数になるとは限らない。」<ref>{{Cite web|和書|title=日本弁護士連合会:死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言 |url=https://www.nichibenren.or.jp/document/civil_liberties/year/2016/2016_3.html |website=日本弁護士連合会 |access-date=2022-10-22 |language=ja |date=2016-10-07}}</ref>と現状の世論については存置が多数派である事を程度認めてるが、他国では世論では死刑支持率が高いなか死刑を廃止したのだから日本も世論調査の結果は死刑存置の理由にはならないと主張している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2013/request_130212.pdf |title=死刑制度の廃止について全社会的議論を開始し,死刑の執行を停止するとともに,死刑えん罪事件を未然に防ぐ措置を緊急に講じることを求める要請書 |access-date=2022-10-22 |publisher=日弁連 |date=2014-11-11 |pages=3}}</ref>。
=== 法曹関係者の意見 ===
一般人に対する世論調査では死刑に対し支持する割合は高いが、刑事司法関係者を対象にした調査では法学研究者や弁護士の過半数が死刑反対である一方で検察官や警察官は多数が死刑賛成である<ref>[[菊田幸一]] 『いま、なぜ死刑廃止か』 [[丸善雄松堂|丸善]]、1994年12月。ISBN 4621051431</ref> という。これは弁護士が犯罪加害者を擁護する職種であるにたいして警官や検察官は犯罪加害者を追求および糾弾する立場にあるとともに、弁護側と違い被害者遺族の立場を取ることを考えれば当然である。法学者の場合には死刑が根本的には人権の侵害であるという事実があるため死刑反対派となる傾向が高いが、無論、法学者のなかにも死刑制度を存置すべきだと主張する者も少なくない。また死刑に反対することを理由に検察官を止めて弁護士になった元検事<ref>前坂 俊之,橋本勝『死刑』現代書簡、1991年 p.62~63</ref>、死刑判決をしたくないという理由で民事裁判のみを希望する裁判官<ref>[[中平健吉]]「死刑制度」(神田健次『現代キリスト教倫理1 生と死』日本基督教団出版局、1999年)</ref> も存在する。その一方で死刑囚処遇を担当していた刑務官の中には死刑制度に疑問を呈している者も少なくない<ref group="注釈">別冊宝島「いのちとは何か?」のなかで、元刑務官で著述業の阪本敏夫は、死刑囚との交流体験を述べた上で、近年になって法務大臣が死刑執行の自動化や死刑執行の秘密裏に行われている現状から、いのちの重みが軽くなったとの感情であるとしている。</ref>。
=== 死刑存置論者の国会議員の意見 ===
日本の国会議員に死刑存置の立場の議連はないが、これは日本は制度として死刑制度が存置されており、現状維持すればいいため、あらたに運動すべき必要がないためである。なお、昭和時代に検討されていた改正刑法草案では死刑の適用される犯罪を現行刑法よりも狭めることになっていた。
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=== 死刑廃止論者の国会議員の意見 ===
[[1994年]]に少人数ではあるが超党派の[[議員連盟]]「[[死刑廃止を推進する議員連盟]]」(現在の会長は[[亀井静香]])が発足し、日本における死刑廃止運動は組織化された。しかし日本の政党で死刑制度廃止を公言しているのは日本共産党だけである。その一方で死刑制度存置を強く主張する政治家は、検察官など法務官僚に一定の支持を得る必要がある現職の法務大臣以外は実はほとんどいないとの指摘がある。たとえば、[[インターネット]]放送局「[[ビデオニュース・ドットコム]]」で死刑制度に関する[[ディベート]]番組が制作された際、東京拘置所の処刑設備を見学したことのある[[保坂展人]](当時衆議院議員)が「死刑廃止論者」として出演したが、死刑存置派の国会議員を放送局で探したところ誰も出演しなかったため、やむなく刑法学者が出演したという。そのため保坂は死刑推進派といえる国会議員は実際には存在せず『小選挙区制になったことから、多くの人の支持を得る為には死刑廃止とはいえない、俗論におもねっているだけである。そのため(欧州諸国とは違い世論を政治家が変えようというリーダーシップがないので)日本はみんな横並び意識が働いている』と主張しており<ref>[[別冊宝島]]1419『死刑囚最後の1時間』2007年、105頁</ref>、実際は死刑制度を存置するのは一般世論に迎合している政治家の不作為だとしている。
=== 死刑廃止を主張している団体 ===
==== 国際機関 ====
* [[国際連合]]
* [[国際連合人権理事会]]
* [[欧州連合]]
* [[欧州評議会]]
==== 国内団体 ====
* [[死刑廃止を推進する議員連盟]]
* [[日本共産党]]
* [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]
* [[日本弁護士連合会]](日弁連)
=== 死刑廃止関連の映画 ===
* 1958年、1959年、1994年、2008年『[[私は貝になりたい]]』
* 1968年 [[大島渚]]監督『[[絞死刑 (映画)|絞死刑]]』[[創造社]]作品
* 1995年 [[ティム・ロビンス]]監督『[[デッドマン・ウォーキング]]』([[ショーン・ペン]]、[[スーザン・サランドン]]主演)
* 1995年 『死刑囚2455号』 - アメリカの死刑廃止に拍車をかけた死刑囚[[カーライル・チェスマン]](Caryl Chessman)が書いた自伝の映画化。
* 1996年 [[ブルース・ベレスフォード]]監督『[[ラストダンス (映画)|ラストダンス]]』([[シャロン・ストーン]]主演)
* 1999年 [[フランク・ダラボン]]監督『[[グリーンマイル]]』([[トム・ハンクス]]、[[デヴィッド・モース]]主演)
* 1999年 [[クリント・イーストウッド]]監督・製作・主演『[[トゥルー・クライム (1999年の映画)|トゥルー・クライム]]』
* 2000年 [[ラース・フォン・トリアー]]監督・脚本『[[ダンサー・イン・ザ・ダーク]]』
* 2003年 [[アラン・パーカー]]監督・製作、[[ニコラス・ケイジ]]製作『[[ライフ・オブ・デビッド・ゲイル]]』([[ケビン・スペイシー]]、[[ケイト・ウィンスレット]]主演)
* 2006年 [[ソン・ヘソン]]監督『[[私たちの幸せな時間]]』([[カン・ドンウォン]]、[[イ・ナヨン]]主演)
=== 死刑廃止関連の小説 ===
* 1933年 [[エラリー・クイーン]]著 『[[Zの悲劇]]』
* 1974年 [[城山三郎]]著 『[[落日燃ゆ]]』
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連文献 ==
* [[正木亮]]『刑事政策汎論』増訂改版6版、有斐閣、1949年
* [[竹田直平]]『刑法と近代法秩序』成文堂、1988年 ISBN 4-7923-1139-X
* 植松正「死刑廃止論の感傷を嫌う」 『法律のひろば』43巻8号所収、ぎょうせい、1990年
* [[森毅]]、[[なだいなだ]]、[[内海愛子]]、[[吉田智弥]]『死刑の文化を問いなおす』 インパクト出版会、1994年、ISBN 4-7554-0036-8
* 重松一義『死刑制度必要論』 信山社、1995年、ISBN 4-88261-983-0
* [[呉智英]]『封建主義者かく語りき』 双葉社、1996年、ISBN 4-575-71077-6
* [[森下忠]]『刑事政策大綱』新版第2版、成文堂、1996年、ISBN 4-7923-1411-9
* 植松正『新刑法教室Ⅰ総論』 信山社、1999年、ISBN 4-7972-5085-2
* [[斉藤静敬]]『死刑再考論』新版、成文堂、1999年、ISBN 4-7923-1504-2
* [[宮崎哲弥]]編『人権を疑え』 洋泉社新書、2000年、ISBN 4-89691-494-5
* [[団藤重光]]『死刑廃止論』第6版、有斐閣、2000年、ISBN 4-641-04184-9
* {{Cite book|和書|last=中野|first=進|title=国際法上の死刑存置論|publisher=信山社|year=2001|isbn=4797239425|ref=NAKANO2001}}
* 竹内靖雄『法と正義の経済学』 新潮社、2002年、ISBN 4-10-603513-8
* 村野薫 編『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 [[東京法経学院出版]]、2002年、ISBN 978-4808940034
* [[井上薫 (弁護士)|井上薫]]『死刑の理由』 [[新潮社]]、2003年、ISBN 4-10-117321-4
* {{Cite book|和書|authorlink=中嶋博行|last=中嶋|first=博行|title=罪と罰、だが償いはどこに?|publisher= 新潮社|year=2004|isbn=978-4-10-470301-2 |ref=NAKAJIMA2004}}
* [[菊田幸一]]『Q&A 死刑問題の基礎知識』 [[明石書店]]、2004年、ISBN 4-7503-1952-X
* [[佐久間哲]]『死刑に処す-現代死刑囚ファイル-』 [[自由国民社]]、2005年、ISBN 4-426-75215-9
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* [[坂本敏夫]]『元刑務官が明かす死刑のすべて』 [[文藝春秋]]、2006年、ISBN 4167679876
* [[澤地和夫]] 『東京拘置所 死刑囚物語―獄中20年と死刑囚の仲間たち』 [[彩流社]]、2006年、ISBN 4-7791-1148-X
* [[団藤重光]]、[[伊東乾 (作曲家)|伊東乾]]『反骨のコツ』 [[朝日新聞社]]、2007年、ISBN 978-4-02-273169-2
* 本村洋・本村弥生『天国からのラブレター』 新潮社、2007年、ISBN 4-10-130551-X
* [[中嶋博行]]『この国が忘れていた正義』 文春新書、2007年、ISBN 978-4-16-660582-8
* [[藤本哲也]]『刑事政策概論』全訂第6版、青林書院、2008年、ISBN 978-4-417-01455-3
* [[別冊宝島]]『死刑囚最後の1時間』 宝島社、2008年、ISBN 978-4-7966-6520-9
* {{Cite book|和書|first=憲三|last=三原|authorlink=三原憲三|title=死刑存廃論の系譜|edition=6|publisher=成文堂|year=2008|isbn= 978-4-7923-1796-6|ref=MIHARA2008}}
* {{Cite book|和書|authorlink=森達也|last=森|first=達也|title=死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う|publisher= [[朝日出版社]]|year=2008|isbn=9784255004129|ref=MORI2008}}
* [[美達大和]]『死刑絶対肯定論』 新潮新書、2010年、ISBN 978-4-10-610373-5
* 藤井誠二 『殺された側の論理―犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』 講談社、2011年、ISBN 4062138611
* [[三原憲三]]『誤判と死刑廃止論』 成文堂、2011年、ISBN 978-4-7923-1905-2
* {{Cite book|和書|authorlink=イマヌエル・カント|author=イマヌエル・カント|title=[[人倫の形而上学]] |series=カント全集 第11巻|publisher=理想社|year=1956 |ref=KANT1956}}
== 関連項目 ==
* [[冤罪]]
* [[日本における死刑]] - [[死罪 (律令法)]]
* [[行刑密行主義]]
* [[国際人権規約]]
* [[冤罪事件]]
* [[公開処刑]]
* [[無期刑]]
* [[終身刑]]
* [[目的刑論]]
* [[応報刑論]]
* [[人権問題]]
* [[処刑]]
* [[シティズ・フォー・ライフの日]]
* [[イスラム教における棄教]]([[シャリーア|イスラム法]]上は、棄教者は死刑)
* [[刑事訴訟法]]
* [[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律]](死刑囚の取扱いも規定)
* [[犯罪被害者等基本法]]
* [[全国犯罪被害者の会]]
* [[死刑囚]]
* [[死刑執行人]]
* [[おせんころがし殺人事件]] - 1950年代に死刑存置派から槍玉に挙げられた「矯正不能凶悪犯」の事例
{{デフォルトソート:しけいそんはいもんたい}}
{{Normdaten}}
[[Category:死刑]]
[[Category:刑事政策]]
[[Category:人権問題]]
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4,986 | 紀元前399年 | 紀元前399年(きげんぜん399ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「アウグリヌス、ロングス、プリスクス、ルフスとフィロが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元355年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前399年と表記されるのが一般的となった。 | [
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] | 紀元前399年(きげんぜん399ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「アウグリヌス、ロングス、プリスクス、ルフスとフィロが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元355年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前399年と表記されるのが一般的となった。 | {{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|3}} |
前10年紀2= {{紀元前/年代|410}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|400}} | 10年紀= {{紀元前/年代|390}} |
次10年紀1= {{紀元前/年代|380}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|370}} |
3年前= {{紀元前/年|402}} | 2年前= {{紀元前/年|401}} | 1年前= {{紀元前/年|400}} |
1年後= {{紀元前/年|398}} | 2年後= {{紀元前/年|397}} | 3年後= {{紀元前/年|396}} |}}
'''紀元前399年'''(きげんぜん399ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「アウグリヌス、ロングス、プリスクス、ルフスとフィロが[[執政武官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]355年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前399年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[壬午]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]262年
** [[孝昭天皇]]77年
* [[中国]]
** [[周]] - [[安王 (周)|安王]]3年
** [[秦]] - [[恵公 (戦国秦)|恵公]]元年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[烈公 (晋)|烈公]]17年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[悼王 (楚)|悼王]]3年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[康公 (斉)|康公]]6年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[簡公 (戦国燕)|簡公]]16年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[武公 (趙)|武公]]元年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[文侯 (魏)|文侯]]47年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[烈侯 (韓)|烈侯]]元年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1935年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 146年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[2月15日]] - 哲学者[[ソクラテス]]が若者を惑わし、堕落させたとして、[[アテナイ]]の市民から死刑判決を受けた。[[4月27日]]、ソクラテスは亡命を拒み、[[ドクニンジン]]を飲んで死亡した。
* [[スパルタ]]が[[エーリス]]を攻め、降伏させた。
*スパルタの提督[[リュサンドロス (提督)|リュサンドロス]]は、王が自動的に軍の主導権を取るべきではないと主張して、スパルタの政治体制を改革しようと試みた。彼はまた王の座は選挙で選ばれるべきだとも主張した。しかしこれらの改革は実現されず、[[アゲシラオス2世]]の不評を買った。
* [[マケドニア王国]]国王[[アルケラオス1世]]が狩りの最中に殺された。
=== エジプト ===
* [[ファラオ]]の[[アミルタイオス]]が後継者の[[ネフアアルド1世]]との戦いに敗れ、[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]で処刑された。ネフアアルド1世は[[エジプト第29王朝]]を創設し、[[メンデス (エジプト)|メンデス]]を首都とした。
=== 中国 ===
* [[周]]の王子の定が[[晋 (春秋)|晋]]に亡命する。
* [[虢山]]が崩れ、黄河が塞がる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前399年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前399年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月27日]] - [[ソクラテス]]、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]](* [[紀元前469年]]頃)
* [[アミルタイオス]]
* [[アルケラオス1世]]、[[マケドニア王国]]の[[バシレウス]]
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|399 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=4|年代=300|BC=1}}
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4,987 | 紀元前4世紀 | 紀元前4世紀(きげんぜんよんせいき)は、西暦による紀元前400年から紀元前301年までの100年間を指す世紀。 | [
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] | 紀元前4世紀(きげんぜんよんせいき)は、西暦による紀元前400年から紀元前301年までの100年間を指す世紀。 | {{出典の明記|date=2013年5月}}
{{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 4 | 年代 = 300 | BC = 1 }}
[[ファイル:Napoli BW 2013-05-16 16-24-01.jpg|thumb|300px|[[イッソスの戦い]]。画像は[[古代ローマ|ローマ]]時代の[[ポンペイ]]の[[モザイク]]壁画で、[[アケメネス朝]]の[[ダレイオス3世]]と向かい合うマケドニアの[[アレクサンドロス大王]]([[ナポリ国立考古学博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:20160518 307 pella.jpg|thumb|right|300px|[[マケドニア]]の勃興。アレクサンドロス大王の父[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]の時代からマケドニアは財力と軍事力によって周辺諸国を圧倒し始めた。画像はマケドニアの首都であった[[ペラ]]に残る「ディオニュソスの館」の遺跡。]]
[[ファイル:Académie de Platon - Mosaique romaine - Naples MANN 124545.jpg|thumb|250px|プラトンの[[アカデメイア]]学園。アカデメイア学園は古典古代を通じて教育機関の模範と見なされ、後世「アカデミー」の語源ともなった。画像はローマ時代のポンペイのモザイク壁画(ナポリ国立考古学博物館蔵)。]]
[[ファイル:Aristotle Altemps Inv8575.jpg|thumb|250px|[[アリストテレス]]。『[[形而上学]]』を初めとする諸学に通じ、「万学の祖」として後世の学問に多大な影響を与えるとともに、[[アレクサンドロス大王]]の家庭教師を務めたことでも知られる。画像は[[ローマ国立博物館]]所蔵の胸像。]]
[[ファイル:The great theater of Epidaurus, designed by Polykleitos the Younger in the 4th century BC, Sanctuary of Asklepeios at Epidaurus, Greece (14058124143).jpg|thumb|330px|[[エピダウロス]]の劇場。古代ギリシアでは悲劇や喜劇が民衆に支持されていた。医療の神[[アスクレーピオス|アスクレピオス]]の聖地でもあったエピダウロスの劇場はそれらの中でも最も保存状態が良く、この世紀に作られて以来、現在でも劇場として用いられている。]]
[[ファイル:Via appia.jpg|thumb|250px|[[アッピア街道]]。「全ての道はローマに通ず」という言葉があるように、支配地域を拡大した都市国家ローマにとって軍事や運搬のための道路整備は不可欠だった。画像はクアルト・ミグリオ(Quarto Miglio)付近の街道の風景。]]
[[ファイル:Dama de Elche.jpg|thumb|250px|「エルチェの貴婦人」。フェニキア人の入植活動が盛んになる以前にイベリア半島にいた先住民[[イベリア人]]は独特な文化を発達させていた。イベリア人の文化を代表するこの貴婦人像はスペインのマドリッド国立考古学博物館に所蔵されている。]]
[[ファイル:Armlet from the Oxus Treasure BM 1897.12-31.116.jpg|thumb|250px|[[アケメネス朝]]の残照。[[大英博物館]]所蔵の「オクサスの遺宝」はマケドニアに滅ぼされたアケメネス朝の工芸の巧緻さを示すものとして名高い。画像は[[グリフォン]]をかたどった黄金の腕輪で紀元前5世紀から紀元前4世紀のもの。]]
[[ファイル:Jain Inscription.jpg|thumb|right|220px|[[マウリア朝]]の成立。アレクサンドロス大王襲来の後、インドでも統一王朝の機運が高まった。画像はマウリア朝の初代君主(サムラート)[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]が[[ジャイナ教]]の師(スワミ)[[バドラバーフ]]に帰依したことを記録した碑文で聖地[[シュラバナベラゴラ]]に置かれているもの。]]
[[File:Tambour-song-da2.jpg|thumb|right|230px|[[ドンソン文化]](東山文化)。紀元前4世紀から紀元前1世紀に[[ベトナム]]北部で発展した[[青銅器]]文化で、特に祭器としての[[銅鼓]]は中国雲南からインドシナ半島各地に伝播していく原型ともなった。画像は[[ディエンビエンフー]](奠邊府)の[[ダー川]](沱江)流域で発見された銅鼓。]]
[[ファイル:Silver double-winged creature.jpg|thumb|270px|中山王墓。遊牧民族[[白狄]]を起源とする[[中山国]]は、戦国の大国に挟まれた小国であったが1970年代の発掘により中山王[[Image:KingCuoName.png|18px|サク]]の王墓と大量の埋葬品が出土した。画像は出土した銀象嵌双翼神獣像。]]
'''紀元前4世紀'''(きげんぜんよんせいき)は、[[西暦]]による[[紀元前400年]]から[[紀元前301年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== できごと ==
* [[ケルト人]]が[[アイルランド島]]へ侵攻。
* [[イベリア人]]文化を代表する「{{仮リンク|バーサの貴婦人|en|Lady of Baza}}(スペイン国立考古学博物館蔵)」や「{{仮リンク|エルチェの貴婦人|en|Lady of Elche}}(同館蔵)」が作られる。
* [[デンマーク]]のビェルスコウの[[泥炭地|ピート・ボグ]](泥炭湿原)に埋められていた[[湿地遺体]][[トーロンマン]]はこの時代の人物か。
* [[マケドニア王国]]が[[ギリシア]]を統一し、[[アケメネス朝]]を滅ぼす。
* [[トラキア]]([[ブルガリア]])の「{{仮リンク|パナギュリシテの遺宝|en|Panagyurishte Treasure}}」が埋蔵される( - 紀元前3世紀)。
* [[小アジア]]の[[リュキア]]地方のデムレ近郊の[[ミュラ]]のネクロポリスが造営される。
* ロシアの南[[ウラル山脈|ウラル]]地方が中心地だった[[サルマタイ人]]によるプロホロフカ文化がヴォルガ川・ドン川流域に拡大する。
* ウクライナに「{{仮リンク|黄金の女性胸飾り|en|Golden Pectoral from Tovsta Mohyla}}」が納められた{{仮リンク|トヴスタ・モヒーラ(トルスタヤ・モギーラ)古墳|uk|Товста могила}}が[[スキタイ]]人により作られる。
* インドで[[シシュナーガ朝]]が興亡。
** この王朝のカーラーショーカ王の時代に[[結集|第2回仏典結集]]が行われたか。
** 第2回仏典結集の後に仏教教団で[[根本分裂]]が起こり[[上座部]]と[[大衆部]]に別れたとされる。
* [[ベトナム]]北部で青銅器文化の東山文化([[ドンソン文化]])栄える。
* [[ラ・ベンタ]]([[オルメカ文明]])の衰退と放棄。
=== 紀元前400年代 ===
{{main|紀元前400年代}}
* 紀元前400年頃
** [[メキシコ]]の[[ポポカテペトル山]]噴火。
** 日本の[[弥生時代]]中期が始まる([[2003年]]に公表された[[国立歴史民俗博物館]]グループの研究による)。
*** この時代を代表するのが[[鳥取県]][[鳥取市]]の[[青谷上寺地遺跡]]( - 紀元後200年頃)。
=== 紀元前390年代 ===
{{main|紀元前390年代}}
* 紀元前399年 - アテナイで[[ソクラテス]]に死刑判決が出され処刑される。
* 紀元前396年 - [[エトルリア人]]の町[[ウェイイ]]が[[共和政ローマ]]の[[マルクス・フリウス・カミルス]]により陥落。
* 紀元前396年頃 - ケルト系インスブレス族により[[メディオラヌム]](ミラノ)が建設される。
* 紀元前395年 - [[コリントス戦争]]勃発。
* 紀元前390年 - {{仮リンク|レカイオンの戦い|en|Battle of Lechaeum}}で、アテナイ将軍[[イフィクラテース|イフィクラテス]]が[[軽装歩兵]]([[ペルタスト]])軍を率い、スパルタの[[重装歩兵]](ホプリタイ)軍に勝利する。
=== 紀元前380年代 ===
{{main|紀元前380年代}}
* 紀元前387年
** [[アッリアの戦い]]に勝利したケルト系セノネス人がその王[[ブレンヌス]]に率いられ[[ローマ]]市を蹂躙。
** 大王の和約([[アンタルキダスの和約]])によりコリントス戦争終結。
** [[プラトン]]が[[アカデメイア]]学園を創設。
* 紀元前386年
** [[呂尚|太公望]]の子孫が公位を継承してきた[[斉 (春秋)|斉]](姜斉)に代わり、[[太公 (田斉)|田和]]が新たに[[田斉]]を建て、[[周]]の[[安王 (周)|安王]]により諸侯と認められた。
** 趙の[[敬侯]]が中牟([[河南省]][[鶴壁市]])より[[邯鄲]]([[河北省]]邯鄲市)に遷都する。
* 紀元前381年 - [[楚 (春秋)|楚]]の[[悼王 (楚)|悼王]]が死去し、庇護者を失った[[呉起]]は殺害される。
* 紀元前380年 - [[ネクタネボ1世]]が[[エジプト第30王朝]]を建てる。
** ネクタネボ1世は[[フィラエ神殿]]・[[デンデラ神殿]]ほか記念建造物の造営を盛んに行う。
=== 紀元前370年代 ===
{{main|紀元前370年代}}
* 紀元前378年 - 最後の君主[[静公 (晋)|静公]]が退位を迫られ、[[晋 (春秋)|晋]]が滅亡する。
* 紀元前375年 - [[韓 (戦国)|韓]]が[[鄭]]を滅ぼす。
* 紀元前374年頃 - 秦の[[献公 (秦)|献公]]の巡狩を記念して[[石鼓文]]が刻まれる(現存する中国の石刻文字資料としては最古のもの)。
* 紀元前371年 - [[レウクトラの戦い]]で[[テーバイ]]が[[スパルタ]]に勝利しギリシアの覇権を握る。
* 紀元前370年 - テーバイ軍が[[ペロポネソス半島]]に侵攻し、スパルタ支配下にあった[[メッセニア]]人を解放。
=== 紀元前360年代 ===
{{main|紀元前360年代}}
* 紀元前367年 - [[共和政ローマ]]で[[リキニウス・セクスティウス法]]成立。
* 紀元前364年 - [[キュノスケファライの戦い (紀元前364年)|キュノスケファライの戦い]]でテーバイ軍が[[テッサリア]]軍に勝利するも、テーバイの指導者[[ペロピダス]]が戦死。
* 紀元前362年 - [[マンティネイアの戦い (紀元前362年)|マンティネイアの戦い]]でアテネ・スパルタ連合軍がテーバイに勝利、テーバイの指導者[[エパメイノンダス]]が戦死。
* 紀元前360年頃 - [[小アジア]]の[[リュキア]]地方[[クサントス]]で「{{仮リンク|パヤヴァの墓|en|Tomb of Payava}}」([[大英博物館]]蔵)が作られる。
=== 紀元前350年代 ===
{{main|紀元前350年代}}
* 紀元前359年 - [[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]がマケドニア王に即位。
* 紀元前357年
** ピリッポス2世が[[アンフィポリス]]を占領し、パンガイオン金山を含む[[トラキア]]地方を制圧。
** [[シュラクサイのディオン|ディオン]]が[[シュラクサイ]][[僭主]][[ディオニュシオス2世]]に対する反乱を起こす。
* 紀元前356年
** [[ヘロストラトス]]が[[エフェソス]]の[[アルテミス神殿]]に放火。
** 秦で[[商鞅]]の変法が始まる。
* 紀元前353年 - 田斉と[[趙 (戦国)|趙]]の連合軍が[[孫臏]]の計略により[[魏 (戦国)|魏]]と[[宋 (春秋)|宋]]と[[衛]]の連合軍を破る(桂陵の戦い)。
* 紀元前350年頃
** [[エピダウロス]]の円形劇場が建設される。
** フランス南西部で「{{仮リンク|アグリの黄金兜|fr|Casque d'Agris}}({{仮リンク|アングレーム博物館|fr|Musée d'Angoulême}}蔵)」が作られる。
* 紀元前350年 - 秦が雍から[[咸陽市|咸陽]]に遷都。
=== 紀元前340年代 ===
{{main|紀元前340年代}}
* 紀元前347年 - プラトンが死去、甥の{{仮リンク|スぺウシッポス|en|speusippos}}がアカデメイア学園の学頭を継ぐ。
* 紀元前343年
** アケメネス朝ペルシアが[[古代エジプト|エジプト]]を再征服。ファラオのネクタネボ2世は逃亡し[[エジプト第30王朝]]が滅亡。
** 第一次[[サムニウム戦争]]( - 紀元前341年)。
* 紀元前342年 - [[アリストテレス]]がマケドニアの王子アレクサンドロスの師傅となり、都ペラ近郊にミエザの学園を作る。
* 紀元前341年 - 田斉が孫臏の計略により魏を破る([[馬陵の戦い]])。
* 紀元前340年 - 呉城の戦いで、秦が魏に勝利し黄河以西の領土を併合。魏は安邑から[[大梁]]へ遷都する。
* 紀元前340年頃 - 最古のヨーロッパのパピルス文書である「[[デルヴェニ・パピルス]]」はこの時期のもの。
** これはマケドニアの貴族の墓から出土したもので、[[オルペウス教|オルペウス詩]]を論じた注釈。
=== 紀元前330年代 ===
{{main|紀元前330年代}}
* 紀元前338年
**[[ラティウム同盟]]が解体され、共和政ローマのもとで再編される。
**[[カイロネイアの戦い]]でマケドニアが[[アテナイ]]・テーバイのギリシャ連合軍を破る。
**[[リュキア]]・[[クサンテン]]付近で「{{仮リンク|レト神殿に捧げられた三言語碑文|en|Letoon trilingual}}」が建てられる。
** 秦の[[孝公 (秦)|孝公]]が死去し、庇護者を失った商鞅は処刑される。
* 紀元前337年 - マケドニアを盟主とする[[コリントス同盟]]が結成される。
* 紀元前336年 - [[ヴェルギナ|アイガイ]]にてピリッポス2世が暗殺され、息子の[[アレクサンドロス3世]](大王)がマケドニア王に即位。
** アイガイと推定されるヴェルギナ遺跡にピリッポス2世らマケドニア王族の墳墓が造営される。
* 紀元前335年
** アレクサンドロス3世が[[テーバイ]]の反乱を鎮圧し、テーバイ市街を破壊。
** [[アリストテレス]]がアテナイに[[リュケイオン]]学園を創設。
* 紀元前334年
** アレクサンドロス3世が東方遠征に出発する、小アジアに渡り[[グラニコス川の戦い]]で勝利。
** [[楚 (春秋)|楚]]の[[威王 (楚)|威王]]が[[越]]王[[無彊]]を滅ぼす。
* 紀元前333年 - [[イッソスの戦い]]でアレクサンドロス3世がペルシア王[[ダレイオス3世]]の軍に勝利。
* 紀元前332年
** アレクサンドロス3世による[[ティール包囲戦|ティルス包囲戦]]と[[ガザ包囲戦]]。
** アレクサンドロス3世はエジプトに進軍し、[[シワ・オアシス]]の[[アメン]]神殿に詣でる。
*** ナイル川河口デルタの[[ヘラクレイオン|トニス・ヘラクレイオン]]の西方に[[アレクサンドリア]]市を建設。
* 紀元前331年
** [[ガウガメラの戦い]]でアレクサンドロス3世がペルシア王ダレイオス3世の軍に勝利。
*** 続いてアレクサンドロス3世は[[バビロン]]や[[スサ]]を攻略。[[ウクシオンの戦い]]。[[ペルシス門の戦い]]。
*** アレクサンドロス3世による[[ペルセポリス]]炎上。
** [[メガロポリスの戦い]]でマケドニアがスパルタの反乱を鎮圧する。
* 紀元前330年 - ダレイオス3世が逃走中にバクトリア・サトラップの[[ベッソス]]に殺害され、アケメネス朝は滅亡。
* 紀元前330年頃 - [[サマリア人]]が[[ゲリジム山]]に神殿を建てる。
=== 紀元前320年代 ===
{{main|紀元前320年代}}
* 紀元前329年 - アレクサンドロス3世による[[ソグディアナ]]・[[バクトリア]]の征服( - 紀元前327年)。
** ソグディアナに逃亡したベッソスが捕縛され、アレクサンドロス3世の命で処刑される。
** 現在の[[タジキスタン]]の[[ホジェンド]]に[[アレクサンドリア・エスハテ|アレクサンドリア・エスカテ]](最果てのアレクサンドリア)を建設。
* 紀元前328年 - マケドニア将軍[[クレイトス]]暗殺事件。アレクサンドロス3世とバクトリア王女[[ロクサネ]]の結婚。マケドニア軍が[[鉄門 (中央アジア)|鉄の門]]を超えて{{仮リンク|スワート渓谷|en|Swat valley}}へ進軍。
* 紀元前327年 - アリストテレスの甥で歴史家の{{仮リンク|カリステネス|en|Callisthenes}}が処刑される。
* 紀元前326年
** アレクサンドロス3世が[[ヒュダスペス河畔の戦い]]で[[ポロス]]王と戦う。インド中央への遠征は中止。
** 第二次サムニウム戦争( - 紀元前304年)。
* 紀元前325年頃
** [[マッシリア]]の地理学者で探検家の[[ピュテアス]]が北西ヨーロッパ旅行に出立。
** イタリア中部[[ラツィオ州]]{{仮リンク|ヴルチ|en|Vulci}}のエトルリア系墳墓「{{仮リンク|フランソワの墓|en|François Tomb}}」が造られる。
* 紀元前324年
** {{仮リンク|スサの合同結婚式|en|The Susa weddings}}、アレクサンドロス3世とダレイオス3世皇女[[スタテイラ]]の結婚。
** 秦の[[恵文王 (秦)|恵文王]]が王の称号を名乗る。
* 紀元前323年 - バビロンにてアレクサンドロス3世死去。[[バビロン会議]]の後に[[ディアドコイ戦争]]始まる。
* 紀元前322年
** [[ラミア戦争]]で、アテナイほかポリス連合軍がマケドニアに敗北
*** [[デモステネス]]らが処刑され各ポリスは独立を喪失。
** [[エウボイア島]]の[[カルキス]]にてアリストテレスが死去。
* 紀元前321年 - 共和政ローマが[[サムニウム人]]に敗北、屈辱的な和議を結ぶ(カウディウムの屈辱)。
=== 紀元前310年代 ===
{{main|紀元前310年代}}
* 紀元前318年 - [[函谷関の戦い (紀元前318年)|函谷関の戦い]]で秦の[[樗里疾]]が楚・韓・趙・魏・燕の五国合従軍を撃退。
** 五国合従軍側にオルドス地方の遊牧民族[[義渠]]が含まれていたがこれも撃退。
* 紀元前317年 - [[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]が[[マガダ国]][[ナンダ朝]]を倒し[[マウリヤ朝]]を建国({{仮リンク|ナンダ朝の滅亡|en|Conquest of the Nanda Empire}})。
* 紀元前316年 - [[秦]]が[[古蜀|蜀]]を滅ぼす。
* 紀元前312年
** [[セレウコス1世]]が[[バビロン]]を回復し、[[セレウコス朝]][[シリア]]が開かれる。
** 共和政ローマで[[ローマ街道]]([[アッピア街道]])の建設を開始。
** 藍田の戦いで、秦が楚を破る。
* 紀元前310年頃 - [[河北省]][[平山県]]上三汲郷の[[中山王墓]]が造営されたか。
=== 紀元前300年代 ===
{{main|紀元前300年代}}
* 紀元前309年 - [[カッサンドロス]]により[[アレクサンドロス4世]]とその母[[ロクサネ]]が処刑されアルゲアデス朝が断絶する。
* 紀元前307年
** [[趙 (戦国)|趙]]の[[武霊王]]が「胡服騎射」を導入する。
** 宜陽の戦いで秦の[[武王 (秦)|武王]]が韓に勝利し中原に道が開ける。
*** 武王は[[洛陽]]で鼎を持ち上げようとして急逝。武王の異母弟が即位し秦の[[昭襄王]]となる。
* 紀元前306年頃
** 哲学者[[エピクロス]]が{{仮リンク|ラムプサコス|en|Lampsacus}}からアテナイに移動し、学派の拠点「エピクロスの園」を創設する。
* 紀元前305年
** [[プトレマイオス1世]]が王号を名乗り、[[プトレマイオス朝]][[エジプト]]が開かれる。
** [[ロドス包囲戦]]。
* 紀元前305年頃
** [[セレウコス1世]]がティグリス川西岸に新都[[セレウキア]]を建設。
** セレウコス1世とマウリア朝の[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]が和平を結ぶ。
*** セレウコス1世が[[メガステネス]]を使者としてマウリア朝の都[[パータリプトラ]]に派遣する。
* 紀元前305年頃 - 紀元前250年頃
** 楚の「清華大学蔵戦国竹簡([[清華簡]])」が作成される。
* 紀元前301年 - [[イプソスの戦い]]による[[アンティゴノス1世|アンティゴノス]]の没落。ディアドコイの領土配分がほぼ確定する。
* 紀元前301年頃 - [[キティオンのゼノン]]がアテナイの[[アゴラ]]・[[ストア・ポイキレ]](彩色柱廊)で学派を形成([[ストア派]]の始まり)。
== 人物 ==
=== 地中海世界 ===
==== ギリシア ====
* [[ソクラテス]]([[紀元前469年|前469年]]頃 - [[紀元前399年|前399年]]) - [[哲学者]]・市井での対話を通じて「[[無知の知]]」を探求・弟子にプラトンや[[クセノポン]]・死刑にされる
* [[トラシュブロス (将軍)|トラシュブロス]](? - [[紀元前388年|前388年]]) - アテナイの[[政治家]]・[[三十人政権]]の[[寡頭政]]を打倒・[[僭主]][[クリティアス (三十人僭主)|クリティアス]]らを戦死させ民主派政権を樹立
* [[アニュトス]](生没年不詳) - アテナイの政治家・三十人政権を打倒しこの政権と関わった[[ソクラテス]]を[[メレトス]]らと告発し刑死に追い込む
* アンタルキダス(? - [[紀元前367年|前367年]]) - スパルタの外交官・ペルシアのアルタクセルクセス2世と同盟しコリントス戦争を終結させる
* [[アゲシラオス2世]]([[紀元前444年|前444年]]頃 - [[紀元前360年|前360年]]) - スパルタ王(在位[[紀元前400年|前400年]]頃 - [[紀元前360年|前360年]])・[[マンティネアの戦い]]に勝利するもスパルタは没落
* [[イソクラテス]]([[紀元前436年|前436年]] - [[紀元前338年|前338年]]) - 修辞学者で[[アッティカ十大雄弁家]]の一人・後年は親マケドニア派となり[[デモステネス]]と対立
* [[ディオニュシオス1世]]([[紀元前432年|前432年]]頃 - [[紀元前367年|前367年]]) - シチリア島の[[シュラクサイ]]の[[僭主]]・アドリア海に覇を唱える・暴君で有名
* [[プラトン]]([[紀元前427年|前427年]] - [[紀元前347年|前347年]]) - 哲学者・ソクラテスの弟子で[[アリストテレス]]の師・アカデメイア学園を創設・著作に『[[饗宴]]』ほか
* [[クセノポン]]([[紀元前427年|前427年]]? - [[紀元前355年|前355年]]?) - 軍人・著述家として『[[ソクラテスの思い出]]』『[[アナバシス]]』『[[ギリシア史]]』がある
* [[エパメイノンダス]]([[紀元前420年|前420年]]? - [[紀元前362年|前362年]]) - テーバイの将軍・政治家・[[レウクトラの戦い]]で神聖隊を率いスパルタ軍を破る
* [[イフィクラテース|イフィクラテス]]([[紀元前415年|前415年]]頃 - [[紀元前353年|前353年]]) - アテナイの将軍・[[軽装歩兵]]戦術でコリントス戦争でのレカイオンの戦いに勝利
* [[ディオゲネス (犬儒学派)|シノペのディオゲネス]]([[紀元前412年|前412年]]? - [[紀元前323年|前323年]]) - 哲学者・[[アンティステネス]]の弟子でソクラテスの孫弟子・[[キュニコス派]]の一人
* [[シュラクサイのディオン]]([[紀元前408年|前408年]] - [[紀元前354年|前354年]]) - シュラクサイの政治家・プラトンを招き僭主打倒を訴えるが失敗し暗殺される
* [[エウドクソス]]([[紀元前408年|前408年]]頃 - [[紀元前355年|前355年]]頃) - [[クニドス]]出身の数学者・天文学者・錐体の体積の証明や[[黄金比]]研究や「同心天球説」がある
* [[プラクシテレス]](生没年不詳) - アテナイの彫刻家・等身大女性裸像を最初に作ったか・「[[クニドスのアプロディーテー]]」他がある
* [[スコパス]]([[紀元前395年|前395年]]頃 - [[紀元前350年|前350年]]) - [[パロス島]]出身の彫刻家・「ルドヴィシのアレス」「[[メレアグロス]]像」がある
* [[アギス3世]](? - [[紀元前331年|前331年]]) - スパルタ王(在位[[紀元前338年|前338年]] - [[紀元前331年|前331年]])・マケドニアと[[メガロポリスの戦い]]で戦うも敗死する
* [[フォーキオン]]([[紀元前402年|前402年]]頃 - [[紀元前318年|前318年]]) - アテナイの将軍・政治家・カイロネイアの戦いからラミア戦争で退勢のアテナイを守る
* [[アリストテレス]]([[紀元前384年|前384年]] - [[紀元前322年|前322年]]) - 哲学者・「万学の祖」・アレクサンドロス3世の家庭教師・著作に『[[形而上学]]』ほか
* [[デモステネス]]([[紀元前384年|前384年]] - [[紀元前322年|前322年]]) - 政治家・弁論家・アテナイの指導者として[[ポリス]]の自立を訴え反マケドニア派を結集
* [[アペレス]](生没年不詳) - 画家・アレクサンドロス大王に仕える・[[大プリニウス]]『[[博物誌]]』では空前絶後の画家として評される
* [[リュシッポス]](生没年不詳) - シキュオン出身の彫刻家・アレクサンドロス大王に仕え大王の胸像を作る・「[[アポクシュオメノス]]」他も作成
* デイノクラテス(生没年不詳) - 建築家・アレクサンドロス大王の都市計画に関与・焼失した[[アルテミス神殿]]の再建も手掛けたとされる
* [[ピュテアス]](生没年不詳) - [[マッシリア]]出身の探検家・地理学者・[[ブリテン島]]から北欧各地を遍歴し調査する・著作はほとんどが散逸
* [[テオプラストス]]([[紀元前371年|前371年]] - [[紀元前287年|前287年]]) - 哲学者・植物学者としては『植物誌』『植物原因論』があり「植物学の祖」と呼ばれる
* [[ピュロン]]([[紀元前360年|前360年]]頃 - [[紀元前270年|前270年]]頃) - 哲学者・古代の最初の[[懐疑論]]([[不可知論]])を唱えピュロン主義の起源となる
* [[メナンドロス (作家)|メナンドロス]]([[紀元前342年|前342年]] - [[紀元前292年|前292年]]/[[紀元前91年|前291年]]) - 喜劇作家(新喜劇)・「サモスの女」「髪を切られる女」ほか断片が残る
* [[エウヘメロス]](前4世紀後半 - 前3世紀前半) - 著作家・著作の『神論』では歴史的人物が神々と見なされたとする[[エウヘメリズム]]の説を展開
==== アレクサンドロス帝国とヘレニズム国家 ====
* [[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]([[紀元前382年|前382年]] - [[紀元前336年|前336年]]) - マケドニア国王(在位[[紀元前359年|前359年]] - [[紀元前336年|前336年]])・[[カイロネイアの戦い|カイロネイア]]で勝利・アレクサンドロス3世の父
* [[アレクサンドロス3世]](大王)([[紀元前356年|前356年]] - [[紀元前323年|前323年]]) - マケドニア国王(在位[[紀元前336年|前336年]] - [[紀元前323年|前323年]])・東方遠征でアケメネス朝を滅ぼす
* [[ペルディッカス]](? - [[紀元前321年|前321年]]/[[紀元前320年|前320年]]) - マケドニアの将軍・アレクサンドロス3世死後に[[バビロン会議]]を主導・[[ディアドコイ]]の一人
* [[アンティパトロス]]([[紀元前397年|前397年]] - [[紀元前319年|前319年]]) - マケドニアの将軍・[[ペルディッカス]]死後は帝国摂政となる・ディアドコイの一人
* [[アンティゴノス1世]]([[紀元前382年|前382年]] - [[紀元前301年|前301年]]) - [[アンティゴノス朝]]マケドニアの初代国王(在位[[紀元前306年|前306年]] - [[紀元前301年|前301年]])・ディアドコイの一人
* [[プトレマイオス1世]]([[紀元前367年|前367年]]頃 - [[紀元前283年|前283年]]頃) - プトレマイオス朝エジプトの初代国王(在位[[紀元前323年|前323年]] - [[紀元前285年|前285年]])・ディアドコイの一人
* [[ネアルコス]]([[紀元前360年|前360年]] - [[紀元前300年|前300年]]) - マケドニアの将軍・東方遠征で大王とは別動隊でインドからペルシア湾を航海し記録を残す
* [[リュシマコス]]([[紀元前360年|前360年]] - [[紀元前281年|前281年]]) - トラキア・マケドニア国王(在位[[紀元前306年|前306年]] - [[紀元前281年|前281年]])・ディアドコイの一人・[[コルペディオンの戦い]]で敗死
* [[セレウコス1世]]([[紀元前358年|前358年]] - [[紀元前281年|前281年]]) - セレウコス朝シリアの初代国王(在位[[紀元前312年|前312年]] - [[紀元前281年|前281年]])・ディアドコイの一人
* [[カッサンドロス]]([[紀元前350年|前350年]] - [[紀元前297年|前297年]]) - マケドニア国王(在位[[紀元前305年|前305年]] - [[紀元前297年|前297年]])・アレクサンドロス3世の遺族(母・妃・子)を滅ぼす
==== 共和政ローマとその周辺 ====
* [[ブレンヌス]](生没年不詳) - [[ケルト人|ケルト]]系セノネス族族長・[[アッリアの戦い]]でローマ軍に勝利しローマ市を占領する・後に[[マルクス・フリウス・カミルス|カミルス]]に敗北
* [[マルクス・フリウス・カミルス]]([[紀元前446年|前446年]] - [[紀元前365年|前365年]]) - ローマの軍人・ケルト人を追い払い「ローマ第二の創建者」と呼ばれる
* ガイウス・リキニウス・ストロ(生没年不詳) - ローマの[[護民官]]([[紀元前376年|前376年]] - [[紀元前367年|前367年]])・リキニウス・セクスティウス法制定
* ルキウス・セクスティウス・ラテラヌス(生没年不詳) - ローマの護民官([[紀元前375年|前375年]] - [[紀元前367年|前367年]])・リキニウス・セクスティウス法制定
* [[マルクス・ウァレリウス・コルウス]]([[紀元前370年|前370年]] - [[紀元前270年|前270年]]) - ローマの政治家・伝説的な英雄・農民出身で100歳まで生きたという
* [[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]([[紀元前340年|前340年]] - [[紀元前273年|前273年]]) - ローマの政治家・[[執政官]]・[[独裁官]]・[[アッピア街道]]や[[アッピア水道]]を整備
=== 北アフリカ・西アジア・中央アジア ===
* [[アルタクセルクセス2世]]([[紀元前430年|前430年]]頃 - [[紀元前358年|前358年]]頃) - アケメネス朝ペルシア王(在位:[[紀元前404年|前404年]] - [[紀元前358年|前358年]])・「大王の和約」を締結
* [[マウソロス]](? - [[紀元前353年|前353年]]) - アケメネス朝支配下の[[カリア]]の[[サトラップ]]・死後に建てられた[[マウソロス霊廟]]は[[世界七不思議]]の一つ
* ネクタネボ2世(? - [[紀元前343年|前343年]]以降) - エジプト第30王朝のファラオ(在位[[紀元前360年|前360年]] - [[紀元前343年|前343年]])・アケメネス朝に追われた最後のファラオ
* [[ダレイオス3世]]([[紀元前380年|前380年]]? - [[紀元前330年|前330年]]) - アケメネス朝ペルシア最後の王(在位[[紀元前336年|前336年]] - [[紀元前330年|前330年]])・アレクサンドロス3世に敗退
* [[ベッソス]](? - [[紀元前329年|前329年]]?) - アケメネス朝の[[バクトリア]]の総督・敗退したダレイオス3世を謀殺・アレクサンドロス3世に処刑される
=== 南アジア ===
* ヴァールミーキ(紀元前4世紀?) - インドの聖仙([[リシ]])・[[叙事詩]]『[[ラーマーヤナ]]』(完成は紀元後[[4世紀]]か)の著者とされる
* [[ヴィヤーサ]](紀元前4世紀?) - インドの聖仙(リシ)・叙事詩『[[マハーバーラタ]]』(完成は紀元後4世紀か)の著者とされる
* [[マハーパドマ]](生没年不詳) - インドのマガダ国[[ナンダ朝]]の最初の王か・[[ヴェーダ]]の権威を認めない宗教家たちを保護したとも
* [[ポロス (古代インドの王)|ポロス]](? - [[紀元前317年|前317年]]) - インドの[[パンジャーブ]]東部の王・[[ヒュダスペス河畔の戦い]]では象部隊でアレクサンドロス3世と戦うが敗北
* [[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]](生没年不明) - インドのマウリヤ朝の初代の王(在位[[紀元前340年|前340年]] - [[紀元前293年|前293年]])・アレクサンドロス3世と親交あり?
* [[バドラバーフ]](生没年不詳) - [[ジャイナ教]]第6代教団長で聖典伝承者・マウリヤ朝のチャンドラグプタ王の師と伝えられる
* [[大天|マハーデーヴァ]](生没年不詳) - インドの仏教の僧侶・[[阿羅漢]]を低く見る「大天の五事」により仏教教団の根本分裂を引き起こし大衆部の祖となる
* [[パーニニ]](生没年不詳) - インドの文法学者・「アシュターディヤーイー(パーニニ文典)」の[[サンスクリット]]形態論で旧来の文法を刷新
=== 中国(周・戦国時代)===
* [[扁鵲]](生没年不明) - 春秋戦国時代の医師・半ば伝説的な人物で『[[難経]](黄帝八十一難経)』の執筆者にも仮託される
* [[墨子]]([[紀元前450年|前450年]] - [[紀元前390年|前390年]]頃?) - [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[墨家]]の始祖で『墨子』の著者・「兼愛」「交利」「尚賢」「非攻」などの思想で有名
* [[列子]](活躍時期は[[紀元前400年|前400年]]頃) - 戦国時代の[[道家]]の思想家・[[荘子]]に先立つ・『列子』が残るが実在を否定する説もある
* [[太公 (田斉)|田和]](? - [[紀元前385年|前385年]]) - 戦国時代の田斉の初代君主(太公)(在位[[紀元前386年|前386年]] - [[紀元前385年|前385年]])・姜斉の康公を追放し自ら斉公を名乗る
* [[呉起]](? - [[紀元前381年|前381年]]) - 戦国時代の軍人・政治家・思想家([[兵家]])・[[魯]]の[[元公 (魯)|元公]]や魏の[[文侯 (魏)|文侯]]そして楚の[[悼王 (楚)|悼王]]に仕え国政改革を行う
* 静公(生没年不詳) - 戦国時代の[[晋 (春秋)|晋]]の最後の君主(在位[[紀元前377年|前377年]] - [[紀元前376年|前376年]])・晋の三侯(韓哀侯・魏武侯・趙敬侯)に滅ぼされる
* [[甘徳]](生没年不明) - 戦国時代の田斉の天文学者・魏の石申とともに世界最古級の星表「甘石星経」を記したと伝えられている
* [[威王 (斉)|威王]](? - [[紀元前343年|前343年]]) - 戦国時代の田斉の君主で初代王・暗君を装って数年間雌伏の後に斉を強国にしたことで知られる
* [[鄒忌]](生没年不明) - 戦国時代の田斉の政治家・[[威王 (斉)|威王]]と宣王に宰相として仕え政敵の田忌を斥ける・美丈夫であったことも有名
* [[淳于髠]](生没年不詳) - 戦国時代の田斉の威王に仕える・[[稷下の学士|稷下の学]]の中心人物で[[鄒衍]]や[[田駢]]らと交わる・「鳴かず飛ばず」の故事でも有名
* [[慎到]](生没年不詳) - 戦国時代の田斉の稷下の学の一人・法家でも道家でもあったとされ『慎子』5編が断片的に残る・韓非子に影響を与える
* [[孫臏]](生没年不明) - 戦国時代の[[孫武]]の孫で[[兵法家]]・『[[孫臏兵法]]』の著者・斉の威王に仕え[[馬陵の戦い]]で魏の恵王を破る
* 田忌(生没年不詳) - 戦国時代の斉の将軍・孫臏の推挙により馬陵の戦いで指揮を執り魏に大勝利・後に宰相[[鄒忌]]と対立し楚に亡命
* [[龐涓]](生没年不詳) - 戦国時代の魏の将軍・孫臏を謀略で罪に陥れ排除した・馬陵の戦いでは孫臏の復讐により魏は大敗を喫し龐涓も戦死
* [[恵王 (魏)|恵王]]([[紀元前400年|前400年]] - [[紀元前319年|前319年]]) - 戦国時代の魏の君主(在位[[紀元前369年|前369年]] - [[紀元前319年|前319年]])・馬陵の戦いで敗北し秦の[[商鞅]]に攻撃され覇権喪失
* [[尉繚]](生没年不明) - 戦国時代の[[兵法家]]・魏の恵王との対話篇が残る・[[武経七書]]の一つ『[[尉繚子]]』を著したとされる
* [[申不害]](? - [[紀元前337年|前337年]]) - 戦国時代の韓の政治家・[[釐侯 (韓)|釐侯]]に宰相として仕える・[[法家]]思想を援用し弱小国であった韓を安定させる
* [[孝公 (秦)|孝公]]([[紀元前381年|前381年]] - [[紀元前338年|前338年]]) - 戦国時代の秦の君主(在位[[紀元前361年|前361年]] - [[紀元前338年|前338年]])・商鞅の変法を支持し中央集権化策を推進
* [[商鞅]](? - [[紀元前338年|前338年]]) - 戦国時代の秦の政治家・法家思想による国政改革を進めるが反対派により車裂きの刑に処される
* [[恵文王 (秦)|恵文王]](? - [[紀元前311年|前311年]]) - 戦国時代の秦の君主で初代王(在位[[紀元前338年|前338年]] - [[紀元前311年|前311年]])・孝公の子だが意に沿わぬ商鞅を粛清する
* [[樗里疾]](? - [[紀元前300年|前300年]]) - 戦国時代の秦の王族・[[恵文王 (秦)|恵文王]]の異母弟・韓・魏・趙・燕・斉連合軍を撃破・知者で「智嚢」と呼ばれる
* [[甘茂]](生没年不詳) - 戦国時代の秦の政治家・樗里疾と並び恵文王から昭襄王まで仕える・宜陽の戦いを指揮し韓に勝利する
* [[宣王 (斉)|宣王]](? - [[紀元前324年|前324年]]) - 戦国時代の田斉の君主で威王の子・稷下の学を保護し[[孟子]]らを招聘・弟の[[田嬰|靖郭君]]と甥の[[孟嘗君]]を重用し全盛期を現出
* [[蘇秦]](? - [[紀元前317年|前317年]]?) - 戦国時代の[[縦横家]]・諸国を遊説し秦以外の燕・斉・趙・韓・魏・楚を同盟させた[[合従]]策で知られる
* [[張儀]](? - [[紀元前309年|前309年]]) - 戦国時代の縦横家・秦の恵文王に仕え宰相となる・[[蘇秦]]の[[合従]]策に対し[[連衡]]策で諸国を秦と同盟させる
* [[司馬錯]](生没年不詳) - 戦国時代の秦の将軍・恵文王・[[武王 (秦)|武王]]・[[昭襄王]]の3代に仕えた・張儀との論戦に勝ち蜀を併合する
* [[懐王]](? - [[紀元前299年|前299年]]) - 戦国時代の楚の王(在位[[紀元前329年|前329年]] - [[紀元前299年|前299年]])・張儀の謀略で藍田で戦い秦に敗北・秦に幽閉され死去
* [[武霊王]](? - [[紀元前295年]]) - 戦国時代の趙の王(在位[[紀元前326年|前326年]] - [[紀元前298年|前298年]])・[[胡服騎射]]を取り入れて趙を軍事強国とした
* [[孟子]]([[紀元前372年|前372年]]? - [[紀元前289年|前289年]]) - 戦国時代の[[儒家]]([[性善説]])・『[[孟子 (書物)|孟子]]』を著し[[仁義]]に基づく王道政治を理想とする
* [[楊朱]]([[紀元前370年|前370年]]頃? - [[紀元前319年|前319年]]頃?) - 戦国時代の思想家・個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張・孟子と対立
* [[恵施]]([[紀元前370年|前370年]]頃? - [[紀元前310年|前310年]]頃?) - 戦国時代の思想家・政治家・[[名家 (諸子百家)|名家]]に属すが[[公孫竜]]とは立場が異なる・荘子と接点あり
* [[荘子]]([[紀元前369年|前369年]]? - [[紀元前286年|前286年]]?) - 戦国時代の道家の思想家・諸侯の招聘を拒否し隠棲・著作『[[荘子 (書物)|荘子]]』では[[万物斉同]]の思想を展開
* [[昭王 (燕)|昭王]]([[紀元前335年|前335年]] - [[紀元前279年|前279年]]) - 戦国時代の燕の王(在位[[紀元前308年|前308年]] - [[紀元前279年|前279年]])・斉への復讐のため[[楽毅]]らの賢才を募る
* [[郭隗]](生没年不詳) - 戦国時代の燕の学者・昭王に仕え「隗より始めよ」の故事で知られるよう楽毅・劇辛・鄒衍らの賢才を集める端緒となった
== 発明・発見 ==
* [[ローマ人]]、[[水路橋|水道橋]]を初めて建設。
* [[中国]]で[[ふいご]]の使用が始まる。
* [[アレクサンドリアの大灯台]]の建設が始まる。
== 架空のできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年世紀-04|date=2011年7月}}
* 紀元前400年頃 - ギリシアの壺絵師見習いのデメトリオスが1964年の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]時代の日本へとタイムスリップしてしまう([[ヤマザキマリ]]『[[オリンピア・キュクロス]]』)。
* 紀元前382年 - オリバンダー杖店創業([[ハリー・ポッターと賢者の石]]に登場する杖専門店)。
* 紀元前381年 - 紀元前300年頃 - 鉅子の尊称で呼ばれた墨家の指導者も、3代目の田襄子の代となるとかつての理想を捨て権力と結びつく道をとろうとしていた。 それでも墨子の思想を貫こうとする革離は、趙軍に攻められている梁城城主・梁渓からの依頼により、田襄子の命に背いて単身梁城に乗り込み、趙の大軍を相手に梁城を守ることとなる([[酒見賢一]]の歴史小説『[[墨攻]]』)。
* 紀元前367年以降 - [[シチリア島]][[シュラクサイ]]の暴君ディオニス([[ディオニュシオス2世]])の行状に立腹した青年メロスは王の暗殺を試み捕縛されてしまう。故郷での妹の結婚式に出るため三日の猶予を暴君に乞うメロス。その願いは聞き届けられたがメロスの友人セリヌンティウスがその猶予の間、身代わりになることになった([[ヒュギヌス]]『説話集』が原作。さらに[[フリードリヒ・フォン・シラー]]の『人質』、[[太宰治]]の『[[走れメロス]]』に翻案された)。
* 紀元前356年以前 - ペルシアに敗北したエジプト王ネクタネボ2世はマケドニアに亡命し、魔術師として歓待される。やがてマケドニア王妃[[オリュンピアス]]と結ばれ、その間に生まれた子供が[[アレクサンドロス大王]]であり、魔術師の血を受け継いで、再び父祖の地エジプトに凱旋することになる({{仮リンク|偽カリステネス|fr|Pseudo-Callisthène}}『アレクサンドロス物語』ほか「[[アレクサンドロス・ロマンス]]」)。
== 関連項目 ==
* [[年表]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
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4,989 | 単結晶 | 単結晶(たんけっしょう、single crystal, monocrystal)とは結晶のどの位置であっても、結晶軸の方向が変わらないものをいう。単結晶の集合体が多結晶である。多結晶中の個々の単結晶を結晶粒という。
単結晶の技術は工業的に重要であり、特にシリコン(ケイ素)の単結晶は、半導体製造に欠かせない。 ウエハにはリンなどの不純物をドーピングしており、単結晶ではない。
他の例として、ジェットエンジンをはじめとするガスタービンエンジンでの利用がある。タービンブレードには高温でのクリープ強度が求められるが、ここにはニッケル等をベースとした耐熱合金の単結晶鋳造材料などが用いられている。
有機分子や生体分子の分子構造、無機化合物の結晶構造を決定する技術にX線結晶構造解析がある。その中の単結晶を試料とする手法(単結晶X線回折)は結晶格子内の各原子の位置について非常に多くの情報を与える。そのため、タンパク質や稀少な生体分子について、微量の試料から単結晶を調整して構造解析に供する技術が分子生物学や薬学の成果につながるものとして進歩している。
単純な有機化合物や無機塩の単結晶は次のようにして作れる。まず、溶質を溶媒に溶かして溶液を調製する。この溶液をゆっくりと冷却するか、徐々に溶媒を蒸発させると結晶が発生・成長する。この際、冷却や蒸発が速すぎると多結晶や双晶となりやすい。小結晶を種として入れておき、結晶化を促進させることもある。半導体シリコンの単結晶の製造では既にそれまでに作った単結晶の小片を種結晶として使用し、るつぼから回転させながら微速度で引き上げる。ガスタービンに使用する単結晶ブレードの製造では加熱炉の中の鋳型の内部を溶融金属で満たし、鋳型の基部を水冷しておく。鋳型を微速度で下げることで金属は下から凝固を始めるが、この際、鋳型下部の一部に「セレクタ」と呼ばれる細く絞られた部分があるために、凝固する結晶粒界の内のただ1つだけがこのセレクタ部を経由して結晶が続いたまま成長する。このため鋳型の本体部分はすべて単結晶で構成されることになる。超短パルスレーザーによって結晶核を発生させる方法も開発されている。
分子量が大きく、また軟らかいタンパク質は、重力のために構造が歪みきれいな単結晶が得にくい。これを解決するために、強磁場中や、宇宙ステーションなどの微小重力環境での結晶作製が試みられている。 | [
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] | 単結晶とは結晶のどの位置であっても、結晶軸の方向が変わらないものをいう。単結晶の集合体が多結晶である。多結晶中の個々の単結晶を結晶粒という。 | [[Image:KDP crystal.jpg|thumb|リン酸カリウム KH<sub>2</sub>PO<sub>4</sub> の単結晶]]
'''単結晶'''(たんけっしょう、single crystal, monocrystal)とは[[結晶]]のどの位置であっても、[[結晶軸]]の方向が変わらないものをいう。単結晶の集合体が[[多結晶]]である。多結晶中の個々の単結晶を[[結晶粒]]という<ref name="初級金属学_27">{{cite book | 和書 | title = 新訂 初級金属学 | author = 北田正弘 | publisher = 内田老鶴圃 | date = 2006-05-15 |edition=第1版|isbn=4-7536-5551-2| page = 27 }}</ref>。
== 利用 ==
[[Image:Monokristalines Silizium für die Waferherstellung.jpg|thumb|80px|left|ケイ素の単結晶。これを薄くスライスし[[シリコンウェハー]]が作られる。]]
単結晶の技術は工業的に重要であり、特に[[ケイ素|シリコン]](ケイ素)の単結晶は、[[半導体]]製造に欠かせない。
ウエハにはリンなどの不純物をドーピングしており、単結晶ではない。
他の例として、[[ジェットエンジン]]をはじめとする[[ガスタービンエンジン]]での利用がある。[[タービン]]ブレードには高温での[[クリープ]]強度が求められるが、ここには[[ニッケル]]等をベースとした[[合金|耐熱合金]]の単結晶[[鋳造]][[機械材料|材料]]などが用いられている。
有機分子や生体分子の分子構造、無機化合物の結晶構造を決定する技術に[[X線結晶構造解析]]がある。その中の単結晶を試料とする手法(単結晶X線回折)は結晶格子内の各原子の位置について非常に多くの情報を与える。そのため、[[蛋白質|タンパク質]]や稀少な生体分子について、微量の試料から単結晶を調整して[[構造決定|構造解析]]に供する技術が[[分子生物学]]や[[薬学]]の成果につながるものとして進歩している。
== 製造 ==
単純な有機化合物や無機塩の単結晶は次のようにして作れる。まず、溶質を溶媒に溶かして溶液を調製する。この溶液をゆっくりと冷却するか、徐々に溶媒を[[蒸発]]させると結晶が発生・成長する。この際、冷却や蒸発が速すぎると[[多結晶]]や[[双晶]]となりやすい。小結晶を種として入れておき、[[結晶化]]を促進させることもある。半導体シリコンの単結晶の製造では既にそれまでに作った単結晶の小片を種結晶として使用し、るつぼから回転させながら微速度で引き上げる。ガスタービンに使用する単結晶ブレードの製造では加熱炉の中の鋳型の内部を溶融金属で満たし、鋳型の基部を水冷しておく。鋳型を微速度で下げることで金属は下から凝固を始めるが、この際、鋳型下部の一部に「セレクタ」と呼ばれる細く絞られた部分があるために、凝固する結晶粒界の内のただ1つだけがこのセレクタ部を経由して結晶が続いたまま成長する。このため鋳型の本体部分はすべて単結晶で構成されることになる<ref>佐藤幸徳著 『マイクロガスタービンの本』 日刊工業新聞社 2003年12月28日初版1刷発行 ISBN 4526052132</ref>。[[超短パルス]][[レーザー]]によって結晶核を発生させる方法も開発されている<ref>[http://innovation.nikkeibp.co.jp/etb/20050826-01.html 「阪大発ベンチャーの創晶、タンパク質結晶化受託を事業化」] 日経BP 先端技術事業化サイト</ref>。
分子量が大きく、また軟らかいタンパク質は、重力のために構造が歪みきれいな単結晶が得にくい。これを解決するために、強磁場中<ref>[https://www.jst.go.jp/pr/announce/20000704/hosoku.html 「新薬につながる高品質タンパク質単結晶作製に成功」] 科学技術振興事業団 2000年7月4日</ref>や、[[宇宙ステーション]]<ref>[https://www.jaxa.jp/press/2003/11/20031119_protein_j.html 「高品質タンパク質結晶生成プロジェクト 第2回宇宙実験結果速報」] 宇宙航空研究開発機構 2003年11月19日</ref>などの[[微小重力]]環境での結晶作製が試みられている。
== 参考文献 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[エピタキシャル成長]]
*[[完全結晶]]
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{{wiktionary|sf}}
== SF ==
=== 一般名称 ===
* [[サイエンス・フィクション]](science fiction, Sci-Fi) - 科学小説、もしくはその近傍のジャンル。
** [[スペキュレイティブ・フィクション]](speculative fiction) - 「科学」に限定されないSFの再定義。
* [[乗車カード|ストアードフェアシステム]](Stored Fare System) - [[Suica]]、[[PASMO]]、[[メトロカード (東京)#SFメトロカード|SFメトロカード]]、[[SFパノラマカード]]などの[[乗車カード]]に用いられるシステム。
* [[スモールフォワード]](small forward) - [[バスケットボール#選手のポジション名称|バスケットボールのポジション]]の1つ。
* [[特殊部隊]](special forces)
* [[安全率]](safety factor)
* [[セックスフレンド]](sex friend)
* [[平方フィート]](square foot) - 面積の単位。
* [[自発核分裂]](spontaneous fission)
* [[犠牲フライ]](Sacrifice Fly)
* SF商法 - [[新製品普及会]](Shin-seihin Fukyuukai)が開発した[[催眠商法]]のこと。同種業態をさしてSF商法ともいう。法定義・規制等は[[訪問販売]]を参照。
=== 地名 ===
* [[サンフランシスコ]](San Francisco)
* [[スタッフォード郡 (カンザス州)|スタッフォード郡]](Stafford) - アメリカ合衆国[[カンザス州]]の郡。
=== 組織 ===
* [[ホンダ・SF]]は、嘗て存在した[[本田技研工業]]㈱の直営[[ディーラー]]網である。(SFは、SERVISFACTRYの略である。)
* [[サウンドファクトリー]](Sound Factory) - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]に[[発車メロディ]]を供給している会社。(代表的なものはSF10-60など) 。
* [[東海ラジオ放送]](JOSF)
* [[スターフライヤー]](SFJ) - 日本の航空会社。
* [[Syfy]](旧称「The Sci Fi Channel」「SCI FI」) - [[アメリカ合衆国]]の[[ケーブルテレビ]]局。
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]
* [[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]]
* [[順豊エクスプレス]](SF Express) - 中国の物流大手企業。SFは順豊の[[拼音]]がshun fengであることに由来。
=== 商品名・サービス名・ブランド===
* [[スーパーリーグ・フォーミュラ]](Superleague Formula) - [[2008年]]から[[2011年]]にかけて欧州を中心に行われていた[[フォーミュラカー]]によるレースカテゴリー。
* [[スーパーフォーミュラ]](Super Formula) - [[2013年]]より日本を中心に行われるフォーミュラカーによるレースカテゴリー。
* [[SourceForge.net|SourceForge]] - ソフトウェア共同開発プラットフォーム。
* スーパーファスト(Superfast) - [[インド]]の[[急行列車]]のうち[[表定速度]]が55㎞/hを超える比較的速い列車。S.F. と略される。
* [[スーパーファミコン]](Super Famicom) - [[任天堂]]の[[ゲーム機]]
** [[ニンテンドウパワー#SFメモリカセットとGBメモリカートリッジ|SFメモリカセット]] - 任天堂のゲーム書き換えサービス「[[ニンテンドウパワー]]」のスーパーファミコン用ゲームカセット。
=== 作品など ===
==== ゲームタイトル ====
* [[スペシャルフォース (オンラインゲーム)|スペシャルフォース]](Special Force) - [[ハンゲーム]]のオンライン[[シューティングゲーム]]。
* [[スターフォース]](Star Force) - テーカン(現 [[テクモ]])のシューティングゲーム。
* [[スターフォックス]](Star Fox) - 任天堂の3Dシューティングゲーム、およびその[[スターフォックスシリーズ|シリーズ作品]]。
* [[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]](Street Fighter) - [[カプコン]]の[[対戦型格闘ゲーム]]、およびそのシリーズ作品。
* [[スピンフィーバー]](Spin Fever) - [[コナミ]]のメダルゲームシリーズ。
==== 映画 ====
* [[SF サムライ・フィクション]] - [[1998年]]の[[日本映画]]作品。[[中野裕之]]監督。
==== 音楽 ====
===== SF =====
* 『SF』 - [[2012年]]発売の[[Ypsilon]]の楽曲。
* 『SF』 - [[2014年]]に発売された[[スキマスイッチ]]のアルバム『[[スキマスイッチ (アルバム)|スキマスイッチ]]』に収録されている楽曲。
* 『SF』 - [[2017年]]発売の[[popolomonica]]の楽曲。
===== S.F. =====
* 『S.F.』 - [[1986年]]発売の[[忌野清志郎|忌野清志郎 JOHNNY LOUIS & CHAR]]の楽曲。
===== S.F =====
* 『S.F』 - [[2013年]]発売の[[Rhythmic Toy World]]の楽曲。
==== 出版 ====
* Sci Fi - Syfy局の公式雑誌[http://www.syfy.com/magazine/index.php]。
* 「すこし・ふしぎ=Sukoshi-Fushigi」 - [[藤子・F・不二雄]]の造語である([[藤子・F・不二雄のSF短編]])などのこと。
=== その他 ===
* [[日本煙火協会|SFマーク]] - 日本煙火協会が管理するおもちゃ花火の安全性に関するマーク(Safety Fireworks)。
* スティミュレイティブ ファシリテーター(Stimulative Facilitator) - [[ドラムサークル]]を積極的に地域社会に普及していくファシリテーターの認定制度(一般社団法人ドラムサークルファシリテーター協会(DCFA)が定める民間資格)。
* SF級 - [[API規格]]のエンジンオイルの等級の一つ。
== sf ==
* [[強弱法|スフォルツァンド]](sforzando) - 音楽の強弱記号。
== 関連項目 ==
* [[えすえふ]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]で[[1997年]]-[[1998年]]に放送されていた[[深夜番組]]。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SF |
4,992 | ファンタジー | ファンタジー(英: fantasy [ˈfæntəsi, ˈfæntəzi])は、超自然的、幻想的、空想的な事象を、プロットの主要な要素、あるいは主題や設定に用いるフィクション作品のジャンルである。元は小説等の文学のジャンルであったが、現在はゲームや映画など他のフィクション作品を分類する際にも用いられる。
このジャンルの作品の多くは、超常現象を含む架空の世界を舞台としている。文芸としての「ファンタジー」は幻想文学と呼ばれるジャンルのサブジャンルでもある。
ファンタジーの定義は、曖昧であるが漠然とした傾向として、作品の魔法などの空想的な語彙(要素)が(現実的にはありえなくとも)内部(著者、編集者のみならず善意の理解者を念頭に置くことができる)的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されており、そこでは神話や伝承などから得られた着想が一貫した主題となっていることが挙げられる。 そのような構造の中で、ファンタジー的な要素はどのような位置にあってもかまわない。隠されていても、表面上は普通の世界設定の中に漏れ出す形でも、ファンタジー的な世界に人物を引き込む形でも、そのような要素が世界の一部となっているファンタジー世界の中で全てが起こる形でもありうる。
サイエンス・フィクション (SF) と比較すると、SFは世界設定や物語の展開において自然科学の法則が重要な役割を果たすのに対し、ファンタジーは空想や象徴、魔法が重要な役割を果たす。ただし、SF作品においても、空想科学というだけあって現実世界には存在しない科学法則を仮定し、それに基づいた世界や社会を描く試みがその歴史の初期から存在すること、逆にファンタジー作品においても錬金術や魔法などに、体系的であることを期待させる説明が用意されている場合があることなど、両者の線引きを困難にするようなケースがある。また執筆当時にそのように分類されていたかは別にして、SFとファンタジー双方の作品を発表する作家もおり、SFとファンタジー両方の性質を併せ持った境界線上の作品(SFファンタジー)も多数発表されている。
ファンタジーの定義を広く「仮想の設定のもとに世界を構築する作品」とし、SFをサイエンス・ファンタジーとしてファンタジーに含める考え方もある。SFとファンタジー双方の作品を発表する作家であるアン・マキャフリイなどは、SFはファンタジーのサブジャンルであると度々語っている。
また逆に、現代文学におけるファンタジーの形成と再評価の相当な部分、特にパルプ・マガジンに代表される(児童文学に分類されない)大人向けの部分の多くが、先行して市場が形成されていたサイエンス・フィクションの市場の枠内で行われてきたという歴史的な経緯から、ファンタジーをSFの有力な一分派とする考え方もある。サイエンス・フィクション研究家であるフォレスト・J・アッカーマンやSF作家でSF史の著書もあるブライアン・オールディスなどもこの見解である。
どちらも極論ではあるが、この両者は明確な境界が存在し得ないほど類似している。これらを包括した呼称として「スペキュレイティブ・フィクション」がある。
なお、ファンタジー的(ファンタジーの性質をもつ、幻想的)を意味する英語の形容詞は「ファンタスティック」 (fantastic) 、「ファンタスティカル」 (fantastical) であり、日本語圏で時として使われる「ファンタジック」という語彙は本来の英語では誤りとなる和製英語である。
超自然現象を扱った作品は「スーパーナチュラル」に分類されるが、ファンタジー要素を含む作品もあり境界は曖昧である。
ファンタジーの特徴として語彙や用語にこだわる形式主義がある。架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持たせ、複雑な思想を伝えるために選択された歴史を持つ。例えば、日本の児童文学研究者である石井桃子は『子どもと文学』(1960年)のファンタジーの章でそう指摘している。
同時に外観から思想や宗教寄りの傾向に対する批判もある。例えばフィリップ・プルマン(1946年 - )やJ・K・ローリング(1965年 - )は、作中にキリスト教的ドグマの込められた『ナルニア国物語』(1950年-1952年)に対して強固に批判を行っている。今日の文芸に対しては迂遠な思想よりも現実の社会が有する問題に個人がどう対応するか示唆が求められている。
ここから形式主義を利用した新しい創作者たちは、現実と思想の両方の受容により問題へ対応する修辞を作品の主題にしており、これに対しては作品自体が大人である作者の執筆論に終始している、さらにミーイズムへ深化しているとの批判がある。作家のさねとうあきらは『超激暗爆笑鼎談・何だ難だ!児童文学』(2000年 星雲社)でファンタジーの「不連続性」を指摘している。
文学史の中にファンタジーの起源を求めると、古代・中世の書物に記された神話や伝説、英雄物語などに行き着く。例えば『ベーオウルフ』、『ニーベルンゲンの歌』、中世ロマンス、アーサー王伝説群などが挙げられる。
そして、これらの神話伝説を素材として編まれた数々の文学作品がファンタジーの源流となり、また、ファンタジーの系譜にはイソップ童話のような童話から児童文学につながる流れもある。
近代文学におけるファンタジーは、19世紀から20世紀初頭にかけて隆盛を誇ったリアリズム文学に対するアンチテーゼとして出発している。すなわち、小説世界のルールは現実世界に準じ現実の一コマとして存在しうる物語であるというリアリズム文学に対し、小説世界のルールを小説世界で規定し現実にはありえない物語をファンタジー文学と呼んだのである。
最初期のファンタジーは、主に児童文学の領域にみられる。すなわちチャールズ・キングスレー『水の子 陸の子のためのおとぎばなし』(1863年)やルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865年)などである。これらは、すでに単に子供向けではない大人向けの含蓄が含まれる点で、初期ファンタジー文学としての特質を有している。その後の流れとしては、ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』(1900年)、ジェームス・マシュー・バリー『ピーター・パンとウェンディ』(1911年)、パメラ・トラバース『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(1934年)などが挙げられる。これらもファンタジー文学、児童文学両方の扱いがなされる。
やがてファンタジーは児童文学の一分野として扱われながらも、次第に対象(読者)を大人にも広げていき、またサイエンス・フィクションとも相互に影響しあって発展していく。児童文学に分類されない、大人向けのファンタジーとしてはロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』(1939年)や、ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』(1963年)などが代表作として挙げられる。ただしこの両作品はサイエンス・フィクションの時間テーマものの傑作としても扱われており、ファンタジー文学、SFの両方の扱いがなされる作品でもある。
児童文学に分類されない近代ファンタジーの形成は、ファンタジーの定義の解釈によって諸説はあるものの、狭義のファンタジーとしては1920年代から1940年代にかけて隆盛を誇ったパルプ・マガジンを嚆矢とすることができる。特に通常はSFとファンタジーとの境界ともいえ、そのどちらにも分類されるエドガー・ライス・バローズの火星シリーズ(第1作『火星のプリンセス』は1912年に原型が発表され1917年に完成)、ロバート・E・ハワードによるヒロイック・ファンタジーの最初の完成型とも言われる英雄コナンシリーズ(1932年に第一作発表)がこの時代の代表作であり、同時にJ・R・R・トールキン以前の近代ファンタジー文学の1つの典型と言える。
なお、ハワードは多数の模倣者を生み出したことでも知られ、ハワードとその有象無象の模倣者たちはヒロイック・ファンタジーや同時代に隆盛を誇ったスペースオペラなどの形成に大きな役割を果たしている。
同時期の特筆すべき事項としては、1923年創刊のパルプ・マガジン『ウィアード・テイルズ』、同じく1939年創刊の『アンノウン』の2誌の存在である。『ウィアード・テイルズ』はホラー・フィクションに、『アンノウン』はサイエンス・フィクションに近しい雑誌ではあるものの、ファンタジー的な要素も強く、トールキン以前の近代ファンタジーの形成には無視できない存在となっている。
付け加えるなら、近代ファンタジー形成の黎明期である1910年代からパルプ・マガジンの市場が事実上消滅する第二次世界大戦の直前までの期間においては、市場をみてもファンタジーというジャンルは黎明期であった。例えば、児童文学に分類されない大人向けのファンタジー作品を専門に紹介するパルプ・マガジンは事実上存在していない(ただし『ウィアード・テイルズ』を一応の例外と考えることは可能で、同誌を世界最初のファンタジー専門パルプ・マガジンとみなす場合もある)。この時代のファンタジー作品は、事実上ホラー・ノベルやウィアード・メナスと呼ばれる当時隆盛を誇っていた怪人もの、そして、サイエンス・フィクションの市場の中で発表されており、市場としてもジャンルとしても独立した存在と認知されるのは1930年代末期に前述の『アンノウン』誌や『Fantastic Adventures』誌などが創刊した辺りからである。ただし、認知されたとは言っても限定的なもので、特に一般層への認知度は現代とは比べものにならないほど低かった。事実、後述するトールキンの諸作品の登場後ですらも、バローズやハワードの諸作品はSFか冒険小説に分類されていたし、『ジェニーの肖像』も発表当時はSFに含まれるべきものとされていた。
このような近代ファンタジー文学のひとつの転機となったのは、J・R・R・トールキンによる『指輪物語』(1937年から1949年執筆、1954年刊行)である。『指輪物語』は1960年代後半に北米で人気を博し、その影響下で多くのファンタジー作家が登場した。トールキン作品の影響は文芸以外の形式の表現にも及んでいる。ただしその評価と後に与えた影響は、欧州と北米とでも、かなり異なっている。
まず、欧州では、トールキンの「リアリズム文学へのアンチテーゼ」という第二者的な立場から脱却した「神話の構築」という独自の立脚点や、専門知識を駆使して架空の神話から人工言語まで編み出して背景世界を構築しているという点などが高く評価されている。この点で、トールキンは従来のファンタジー作家とは一線を画す存在であった。
専門知識に従い世界観を構築した類例としては、トールキンの元同僚でもある宗教学者C・S・ルイスの『ナルニア国物語』シリーズ (1950年 - 1956年) や、文化人類学者、上橋菜穂子の『守り人』シリーズ(1996年 -)などがある。そうした傾向の作品を「ハイ・ファンタジー」と呼ぶこともある。
ただしトールキン以前に(それがファンタジーというジャンルだとは認識されていなかったものの)相応の規模を持つ大人向けのファンタジー文学の市場が形成されていたアメリカ合衆国においては、事情が異なる。
北米ではトールキンの文学性や世界観は評価され、後にその様式の作品も産み出されはするものの、「神話の構築」という視点は戦前のロバート・E・ハワードの時点ですでに形成されていたため、それが評価されることは稀であった(北米では『指輪物語』のブームに乗る形で戦前のファンタジー作品がペーパーバックとして多数復刊され、並列する形で紹介された)。模倣者が存在したという点についても同様である。また「リアリズム文学へのアンチテーゼ」という立脚点についても、英国や欧州ではそのような議論は正しいにせよ、ファンタジーの形成当初より「神話を持たない民」であるアメリカ人のための「人造の神話」としての性格が強かったアメリカ合衆国では、そもそもファンタジーが第二者的な立場の作品であるという意識自体が希薄であった。
これらの事情の差は、サイエンス・フィクションがファンタジーの要素を融合させた作品を多数送り出す1960年代から1970年代にかけて欧州と北米との交流が進む過程で希薄になり、1980年代中盤には両者の姿勢にそれほどの差はなくなっている。
他にもさまざまな作品が生み出されている。W・P・キンセラの『シューレス・ジョー』(1982年)はファンタジーの傑作として映画化されている(『フィールド・オブ・ドリームス』 1989年)。J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』(1997年 - ) は、現代のイギリスを舞台に現実空間のすぐそばに魔法が通用する仮想空間を置くことで、リアリズム文学とファンタジー文学との融合を図る独特の作風を持ち、世界的なベストセラーとなっている。
現代におけるファンタジー作品の舞台となる場所や時代は様々である。一例としてヨーロッパ、オリエントや古代日本、中華帝国など、各地・各時代を背景世界のモデルとした作品が挙げられるが、(作品が創作された時点での)現代や、全く架空の世界を舞台にした作品も多い。
日本で「ファンタジー」と言う場合、ヨーロッパ風の世界で繰り広げられる物語を指すことがある。このようなファンタジーは時代背景、小道具、登場人物のふるまいなどは通念上のヨーロッパ世界をモデルとしているが、実際に人々が抱いていたり、仮定される世界観を、直接あるいは間接的に設定やストーリーに取り入れているのが特徴である。よく題材や道具立てに使われる要素として、ドラゴン(竜)や妖精を代表とする各種の怪物、魔法、王家、囚われの姫君の救出、立身出世などが挙げられる。
しかし一方で日本で創作されたファンタジーの物語の一部には、「中世風」の物語を謳いつつも設定で、明らかに中世欧州には存在しなかった着想が用いられることがある。一例としては、貴族を完全に従え、王国の隅々にまで支配権を行き渡らせる君主が挙げられる。実際の中世欧州での王権は後の絶対王政時代ほどには強大でなく、領土統治も封建制に立脚した地方分権が基本であった。王権が強化され君主による中央集権的な統治が本格化するのは、封建制が崩壊し、有力貴族が力を失った絶対王政時代のことである。また、戦争で用いる武具に関しても、プレートアーマーを身に着けた兵士が主となって争い戦う姿が散見されるが、プレートアーマーが普及するのは15世紀のことであり、盛期中世の兵士は革鎧や鎖帷子を着用するのが一般的であった。騎士たちも、中には皇帝直属の独立した帝国騎士(ドイツ語版)もいたが、騎士全盛期のドイツでは多くの平騎士は元来諸侯に仕える家士の身分であった。このように後の時代の要素やイリーガルな着想を含んでいながら、それを一纏めにしてしまっていることが、結果として中世欧州に対する誤ったイメージを生み出している。
こうした誤解には単なる作者側の知識不足(中世と近世を区別していないこと)だけでなく、中世“風”と明記されていながらそれを現実的な中世として真に受けてしまう、いわば受け取る側の問題や、時代区分における中世がかなり長い期間を指す用語である上に、その前後の時代区分に従って解釈が変化するという歴史学に関する問題も存在する(一般的には、社会が大きく変化した宗教改革期を近代の始まりとして1500年前後を中世の終わりとするが、長いスパンの社会変動を捉えて中世が17・18世紀まで継続したとみる論者もおり、通説が必ずしも自明であるわけではない)。
ファンタジーというジャンルはライトノベルやオンライン小説でも広く好まれ、セカイ系、異世界転生などというサブジャンルも生まれている。ファンタジーの中でも特にヒロイック・ファンタジーはコンピュータRPGと相性が良く、ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなど数多くの名作が生み出されている。
ファンタジーのうち、地球とは異なる異世界を舞台とするものを異世界ファンタジーあるいはハイ・ファンタジー、現代世界を舞台とし日常の中に異世界の存在が紛れ込むファンタジーはエブリデイ・マジック、現代ファンタジー、あるいは(ハイ・ファンタジーの対として)ロー・ファンタジーと呼ぶ。
日常の中に異世界の存在が紛れ込む現代ファンタジーの派生として、魔法少女もの、異能バトルもの、伝奇小説などがある。
一般に日本におけるファンタジーとは、中世西洋に着想を得た異世界を舞台とする"西洋ファンタジー"と呼ばれるものである。これに類似した表現として、"中華風ファンタジー"及び"和風ファンタジー"がある。主に過去の西洋を題材とする中世ファンタジーに対して、それぞれ過去の中国及び日本によく似た異世界を舞台とする物語を示す。中華風ファンタジーという用語は漫画『封神演義』が流行した1990年代に用いられるようになった。日本における中華風ファンタジーとしては小野不由美の「十二国記シリーズ」が著名である。和風ファンタジーでは平安時代の陰陽道をモチーフとした夢枕獏の『陰陽師』、古代日本を舞台とした荻原規子の「勾玉シリーズ」などがある。中東、特にアラビアの文化に着想を得た作品は、"アラビアンファンタジー"と呼ばれ、マギが著名である。世界各地の文化に着想を得たオリジナル世界のファンタジーは単に"異世界ファンタジー"と評されることが多く、主な作家に上橋菜穂子などがいる。
前述の通り、ファンタジーはかなり性格の異なる複数の作品群が含まれており、それらは下位ジャンルを形成している。こういった下位ジャンルについては、容易に分けられるものではなく、学術的に確立しているわけでもない。これらを以下に挙げる。
それぞれの下位ジャンルについての詳細は、個別の記事を参照されたい。
他多数
他多数
他多数
他多数
他多数
他多数 | [
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"text": "ファンタジー(英: fantasy [ˈfæntəsi, ˈfæntəzi])は、超自然的、幻想的、空想的な事象を、プロットの主要な要素、あるいは主題や設定に用いるフィクション作品のジャンルである。元は小説等の文学のジャンルであったが、現在はゲームや映画など他のフィクション作品を分類する際にも用いられる。",
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"text": "このジャンルの作品の多くは、超常現象を含む架空の世界を舞台としている。文芸としての「ファンタジー」は幻想文学と呼ばれるジャンルのサブジャンルでもある。",
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"text": "ファンタジーの定義は、曖昧であるが漠然とした傾向として、作品の魔法などの空想的な語彙(要素)が(現実的にはありえなくとも)内部(著者、編集者のみならず善意の理解者を念頭に置くことができる)的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されており、そこでは神話や伝承などから得られた着想が一貫した主題となっていることが挙げられる。 そのような構造の中で、ファンタジー的な要素はどのような位置にあってもかまわない。隠されていても、表面上は普通の世界設定の中に漏れ出す形でも、ファンタジー的な世界に人物を引き込む形でも、そのような要素が世界の一部となっているファンタジー世界の中で全てが起こる形でもありうる。",
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"text": "サイエンス・フィクション (SF) と比較すると、SFは世界設定や物語の展開において自然科学の法則が重要な役割を果たすのに対し、ファンタジーは空想や象徴、魔法が重要な役割を果たす。ただし、SF作品においても、空想科学というだけあって現実世界には存在しない科学法則を仮定し、それに基づいた世界や社会を描く試みがその歴史の初期から存在すること、逆にファンタジー作品においても錬金術や魔法などに、体系的であることを期待させる説明が用意されている場合があることなど、両者の線引きを困難にするようなケースがある。また執筆当時にそのように分類されていたかは別にして、SFとファンタジー双方の作品を発表する作家もおり、SFとファンタジー両方の性質を併せ持った境界線上の作品(SFファンタジー)も多数発表されている。",
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"text": "ファンタジーの定義を広く「仮想の設定のもとに世界を構築する作品」とし、SFをサイエンス・ファンタジーとしてファンタジーに含める考え方もある。SFとファンタジー双方の作品を発表する作家であるアン・マキャフリイなどは、SFはファンタジーのサブジャンルであると度々語っている。",
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"text": "また逆に、現代文学におけるファンタジーの形成と再評価の相当な部分、特にパルプ・マガジンに代表される(児童文学に分類されない)大人向けの部分の多くが、先行して市場が形成されていたサイエンス・フィクションの市場の枠内で行われてきたという歴史的な経緯から、ファンタジーをSFの有力な一分派とする考え方もある。サイエンス・フィクション研究家であるフォレスト・J・アッカーマンやSF作家でSF史の著書もあるブライアン・オールディスなどもこの見解である。",
"title": "ファンタジーの定義"
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"text": "どちらも極論ではあるが、この両者は明確な境界が存在し得ないほど類似している。これらを包括した呼称として「スペキュレイティブ・フィクション」がある。",
"title": "ファンタジーの定義"
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"text": "なお、ファンタジー的(ファンタジーの性質をもつ、幻想的)を意味する英語の形容詞は「ファンタスティック」 (fantastic) 、「ファンタスティカル」 (fantastical) であり、日本語圏で時として使われる「ファンタジック」という語彙は本来の英語では誤りとなる和製英語である。",
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"text": "超自然現象を扱った作品は「スーパーナチュラル」に分類されるが、ファンタジー要素を含む作品もあり境界は曖昧である。",
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"text": "ファンタジーの特徴として語彙や用語にこだわる形式主義がある。架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持たせ、複雑な思想を伝えるために選択された歴史を持つ。例えば、日本の児童文学研究者である石井桃子は『子どもと文学』(1960年)のファンタジーの章でそう指摘している。",
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"text": "同時に外観から思想や宗教寄りの傾向に対する批判もある。例えばフィリップ・プルマン(1946年 - )やJ・K・ローリング(1965年 - )は、作中にキリスト教的ドグマの込められた『ナルニア国物語』(1950年-1952年)に対して強固に批判を行っている。今日の文芸に対しては迂遠な思想よりも現実の社会が有する問題に個人がどう対応するか示唆が求められている。",
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"text": "ここから形式主義を利用した新しい創作者たちは、現実と思想の両方の受容により問題へ対応する修辞を作品の主題にしており、これに対しては作品自体が大人である作者の執筆論に終始している、さらにミーイズムへ深化しているとの批判がある。作家のさねとうあきらは『超激暗爆笑鼎談・何だ難だ!児童文学』(2000年 星雲社)でファンタジーの「不連続性」を指摘している。",
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"text": "文学史の中にファンタジーの起源を求めると、古代・中世の書物に記された神話や伝説、英雄物語などに行き着く。例えば『ベーオウルフ』、『ニーベルンゲンの歌』、中世ロマンス、アーサー王伝説群などが挙げられる。",
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},
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"text": "そして、これらの神話伝説を素材として編まれた数々の文学作品がファンタジーの源流となり、また、ファンタジーの系譜にはイソップ童話のような童話から児童文学につながる流れもある。",
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"text": "近代文学におけるファンタジーは、19世紀から20世紀初頭にかけて隆盛を誇ったリアリズム文学に対するアンチテーゼとして出発している。すなわち、小説世界のルールは現実世界に準じ現実の一コマとして存在しうる物語であるというリアリズム文学に対し、小説世界のルールを小説世界で規定し現実にはありえない物語をファンタジー文学と呼んだのである。",
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"text": "最初期のファンタジーは、主に児童文学の領域にみられる。すなわちチャールズ・キングスレー『水の子 陸の子のためのおとぎばなし』(1863年)やルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865年)などである。これらは、すでに単に子供向けではない大人向けの含蓄が含まれる点で、初期ファンタジー文学としての特質を有している。その後の流れとしては、ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』(1900年)、ジェームス・マシュー・バリー『ピーター・パンとウェンディ』(1911年)、パメラ・トラバース『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(1934年)などが挙げられる。これらもファンタジー文学、児童文学両方の扱いがなされる。",
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"text": "やがてファンタジーは児童文学の一分野として扱われながらも、次第に対象(読者)を大人にも広げていき、またサイエンス・フィクションとも相互に影響しあって発展していく。児童文学に分類されない、大人向けのファンタジーとしてはロバート・ネイサン『ジェニーの肖像』(1939年)や、ジャック・フィニイ『ゲイルズバーグの春を愛す』(1963年)などが代表作として挙げられる。ただしこの両作品はサイエンス・フィクションの時間テーマものの傑作としても扱われており、ファンタジー文学、SFの両方の扱いがなされる作品でもある。",
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},
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"text": "児童文学に分類されない近代ファンタジーの形成は、ファンタジーの定義の解釈によって諸説はあるものの、狭義のファンタジーとしては1920年代から1940年代にかけて隆盛を誇ったパルプ・マガジンを嚆矢とすることができる。特に通常はSFとファンタジーとの境界ともいえ、そのどちらにも分類されるエドガー・ライス・バローズの火星シリーズ(第1作『火星のプリンセス』は1912年に原型が発表され1917年に完成)、ロバート・E・ハワードによるヒロイック・ファンタジーの最初の完成型とも言われる英雄コナンシリーズ(1932年に第一作発表)がこの時代の代表作であり、同時にJ・R・R・トールキン以前の近代ファンタジー文学の1つの典型と言える。",
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"text": "なお、ハワードは多数の模倣者を生み出したことでも知られ、ハワードとその有象無象の模倣者たちはヒロイック・ファンタジーや同時代に隆盛を誇ったスペースオペラなどの形成に大きな役割を果たしている。",
"title": "文学におけるファンタジー"
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"text": "同時期の特筆すべき事項としては、1923年創刊のパルプ・マガジン『ウィアード・テイルズ』、同じく1939年創刊の『アンノウン』の2誌の存在である。『ウィアード・テイルズ』はホラー・フィクションに、『アンノウン』はサイエンス・フィクションに近しい雑誌ではあるものの、ファンタジー的な要素も強く、トールキン以前の近代ファンタジーの形成には無視できない存在となっている。",
"title": "文学におけるファンタジー"
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"text": "付け加えるなら、近代ファンタジー形成の黎明期である1910年代からパルプ・マガジンの市場が事実上消滅する第二次世界大戦の直前までの期間においては、市場をみてもファンタジーというジャンルは黎明期であった。例えば、児童文学に分類されない大人向けのファンタジー作品を専門に紹介するパルプ・マガジンは事実上存在していない(ただし『ウィアード・テイルズ』を一応の例外と考えることは可能で、同誌を世界最初のファンタジー専門パルプ・マガジンとみなす場合もある)。この時代のファンタジー作品は、事実上ホラー・ノベルやウィアード・メナスと呼ばれる当時隆盛を誇っていた怪人もの、そして、サイエンス・フィクションの市場の中で発表されており、市場としてもジャンルとしても独立した存在と認知されるのは1930年代末期に前述の『アンノウン』誌や『Fantastic Adventures』誌などが創刊した辺りからである。ただし、認知されたとは言っても限定的なもので、特に一般層への認知度は現代とは比べものにならないほど低かった。事実、後述するトールキンの諸作品の登場後ですらも、バローズやハワードの諸作品はSFか冒険小説に分類されていたし、『ジェニーの肖像』も発表当時はSFに含まれるべきものとされていた。",
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"text": "このような近代ファンタジー文学のひとつの転機となったのは、J・R・R・トールキンによる『指輪物語』(1937年から1949年執筆、1954年刊行)である。『指輪物語』は1960年代後半に北米で人気を博し、その影響下で多くのファンタジー作家が登場した。トールキン作品の影響は文芸以外の形式の表現にも及んでいる。ただしその評価と後に与えた影響は、欧州と北米とでも、かなり異なっている。",
"title": "文学におけるファンタジー"
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"text": "まず、欧州では、トールキンの「リアリズム文学へのアンチテーゼ」という第二者的な立場から脱却した「神話の構築」という独自の立脚点や、専門知識を駆使して架空の神話から人工言語まで編み出して背景世界を構築しているという点などが高く評価されている。この点で、トールキンは従来のファンタジー作家とは一線を画す存在であった。",
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"text": "専門知識に従い世界観を構築した類例としては、トールキンの元同僚でもある宗教学者C・S・ルイスの『ナルニア国物語』シリーズ (1950年 - 1956年) や、文化人類学者、上橋菜穂子の『守り人』シリーズ(1996年 -)などがある。そうした傾向の作品を「ハイ・ファンタジー」と呼ぶこともある。",
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"text": "ただしトールキン以前に(それがファンタジーというジャンルだとは認識されていなかったものの)相応の規模を持つ大人向けのファンタジー文学の市場が形成されていたアメリカ合衆国においては、事情が異なる。",
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"text": "現代におけるファンタジー作品の舞台となる場所や時代は様々である。一例としてヨーロッパ、オリエントや古代日本、中華帝国など、各地・各時代を背景世界のモデルとした作品が挙げられるが、(作品が創作された時点での)現代や、全く架空の世界を舞台にした作品も多い。",
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"text": "前述の通り、ファンタジーはかなり性格の異なる複数の作品群が含まれており、それらは下位ジャンルを形成している。こういった下位ジャンルについては、容易に分けられるものではなく、学術的に確立しているわけでもない。これらを以下に挙げる。",
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] | ファンタジーは、超自然的、幻想的、空想的な事象を、プロットの主要な要素、あるいは主題や設定に用いるフィクション作品のジャンルである。元は小説等の文学のジャンルであったが、現在はゲームや映画など他のフィクション作品を分類する際にも用いられる。 このジャンルの作品の多くは、超常現象を含む架空の世界を舞台としている。文芸としての「ファンタジー」は幻想文学と呼ばれるジャンルのサブジャンルでもある。 | {{Otheruses}}
{{Redirect|ファンタジック|井上苑子の曲|ファンタジック (井上苑子の曲)}}
{{複数の問題
|出典の明記 = 2015年3月
|独自研究 = 2015年3月
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[[ファイル:John William Waterhouse A Mermaid.jpg|thumb|280px|[[ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス]]『[[人魚]]』(1900)]]
<!--[[ファイル:Circe Offering the Cup to Odysseus.jpg|thumb|280px|[[ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス]]『[[オデュッセウス]]に杯を差し出す[[キルケ]]』(1891)]]-->
'''ファンタジー'''({{lang-en-short|fantasy}} {{IPA-en|ˈfæntəsi, ˈfæntəzi|}}{{Efn|{{Lang-en|Fantazy}}の発音を [ˈfæntəsi, ˈfæntəzi]と並列して示す辞書もあるが([[ウェブスター辞典#メリアム=ウェブスター大学辞典|メリアム=ウェブスター大学辞典]] The Tenth Edition, 1999年)、他はほとんど [ˈfæntəsi]だけを示しており([https://dictionary.cambridge.org/pronunciation/english/fantasy Cambridge Dictionary]、[https://www.macmillandictionary.com/pronunciation/british/fantasy Macmillan Dictionary] など)、[[英国英語]]・[[米国英語]]話者共に [ˈfæntəzi]と発音する人は極端に少ない([http://dupler.co.jp/eng_school/%E5%8B%98%E9%81%95%E3%81%84%E7%99%BA%E9%9F%B3/fantasy/ 勘違い発音(79):「fantasy」は「ファンタジー」ではない?] など)。}})は、[[超自然]]的、[[空想|幻想]]的、[[空想]]的な事象を、[[プロット (物語)|プロット]]の主要な要素、あるいは主題や[[設定 (物語)|設定]]に用いる[[フィクション]]作品のジャンルである。元は[[小説]]等の[[文学]]の[[ジャンル]]であったが、現在は[[ゲーム]]や[[映画]]など他のフィクション作品を分類する際にも用いられる。
このジャンルの作品の多くは、超常現象を含む架空の世界を[[舞台]]としている。<!--ファンタジーは[[サイエンス・フィクション]]や[[ホラー小説|ホラー]]とは[[科学]]や[[死]]の主題を避けることで概ね区別されるが、これらには相互に重複する部分も多い{{要出典|date=2015年3月}}(いずれも[[スペキュレイティブ・フィクション]]のサブジャンルたり得る)。-->文芸としての「ファンタジー」は[[幻想文学]]と呼ばれるジャンルのサブジャンルでもある<ref>[[東雅夫]]編著 『幻想文学入門』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2012年、30頁。</ref>。
== ファンタジーの定義 ==
[[ファイル:William Fettes Douglas - The Alchemist.jpg|thumb|[[錬金術]]師。{{仮リンク|ウィリアム・フェッツ・ダグラス|en|William Fettes Douglas}}画(1853)]] <!--ファイル:Cornelis Pietersz. Bega - De Alchemist.jpg-->
ファンタジーの定義は、曖昧であるが漠然とした傾向として、作品の[[魔法]]などの空想的な[[語彙]](要素)が(現実的にはありえなくとも<ref>Diana Waggoner, ''The Hills of Faraway: A Guide to Fantasy'', p 10, 0-689-10846-X</ref>)内部(著者、編集者のみならず善意の理解者を念頭に置くことができる)的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されており、そこでは[[神話]]や伝承などから得られた着想が一貫した主題となっていることが挙げられる<ref>[[:en:John Grant (science fiction writer)|John Grant]] and [[:en:John CluteJohn Clute]], ''[[:en:The Encyclopedia of Fantasy|The Encyclopedia of Fantasy]]'', "Fantasy", p 338 ISBN 0-312-19869-8</ref>。
そのような構造の中で、ファンタジー的な要素はどのような位置にあってもかまわない。隠されていても、表面上は普通の世界設定の中に漏れ出す形でも、ファンタジー的な世界に人物を引き込む形でも、そのような要素が世界の一部となっているファンタジー世界の中で全てが起こる形でもありうる<ref>Jane Langton, "The Weak Place in the Cloth" p163-180, ''Fantasists on Fantasy'', ed. Robert H. Boyer and Kenneth J. Zahorski, ISBN 0-380-86553-X</ref>。
[[サイエンス・フィクション]] (SF) と比較すると、SFは世界設定や物語の展開において[[自然科学]]の[[法則]]が重要な役割を果たすのに対し、ファンタジーは空想や象徴、魔法が重要な役割を果たす。ただし、SF作品においても、空想科学というだけあって現実世界には存在しない科学法則を仮定し、それに基づいた世界や社会を描く試みがその歴史の初期から存在すること、逆にファンタジー作品においても錬金術や魔法などに、体系的であることを期待させる[[説明]]が用意されている場合があることなど、両者の線引きを困難にするようなケースがある。また執筆当時にそのように分類されていたかは別にして、SFとファンタジー双方の作品を発表する作家もおり、SFとファンタジー両方の性質を併せ持った境界線上の作品(SFファンタジー)も多数発表されている。
ファンタジーの定義を広く「仮想の設定のもとに世界を構築する作品」とし、SFを'''[[サイエンス・ファンタジー]]'''としてファンタジーに含める考え方もある。SFとファンタジー双方の作品を発表する作家である[[アン・マキャフリイ]]などは、SFはファンタジーのサブジャンルであると度々語っている。
また逆に、現代文学におけるファンタジーの形成と再評価の相当な部分、特に[[パルプ・マガジン]]に代表される(児童文学に分類されない)大人向けの部分の多くが、先行して市場が形成されていたサイエンス・フィクションの市場の枠内で行われてきたという歴史的な経緯から、ファンタジーをSFの有力な一分派とする考え方もある。サイエンス・フィクション研究家である[[フォレスト・J・アッカーマン]]やSF作家でSF史の著書もある[[ブライアン・オールディス]]などもこの見解である。
どちらも極論ではあるが、この両者は明確な境界が存在し得ないほど類似している。これらを包括した呼称として「[[スペキュレイティブ・フィクション]]」がある。
なお、ファンタジー的(ファンタジーの性質をもつ、幻想的)を意味する英語の[[形容詞]]は「ファンタスティック」 (fantastic) 、「ファンタスティカル」 (fantastical) であり、日本語圏で時として使われる「ファンタジック」という語彙は本来の英語では誤りとなる[[和製英語]]である<ref>[[大辞林]]([[三省堂]])より</ref>。
[[File:"Group portrait in Forest" from "The Elephant Girl" suite.jpg|thumb|250px|{{ill2|ヘレナ・ブロンクビスト|sv|Helena Blomqvist}}撮影「The Elephant Girl」2011年]]
[[超自然]]現象を扱った作品は「[[:en:Supernatural fiction|スーパーナチュラル]]」に分類されるが、ファンタジー要素を含む作品もあり境界は曖昧である。
== ファンタジーの特徴 ==
ファンタジーの特徴として語彙や用語にこだわる形式主義がある。架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持たせ、複雑な思想を伝えるために選択された歴史を持つ。例えば、日本の児童文学研究者である[[石井桃子]]は『子どもと文学』(1960年)のファンタジーの章でそう指摘している。
同時に外観から思想や宗教寄りの傾向に対する批判もある。例えば[[フィリップ・プルマン]](1946年 - )や[[J・K・ローリング]](1965年 - )は、作中にキリスト教的ドグマの込められた『[[ナルニア国物語]]』(1950年-1952年)に対して強固に批判を行っている。今日の文芸に対しては迂遠な思想よりも現実の社会が有する問題に個人がどう対応するか示唆が求められている。
ここから形式主義を利用した新しい創作者たちは、現実と思想の両方の受容により問題へ対応する[[修辞]]を作品の主題にしており、これに対しては作品自体が大人である作者の<!--運筆(-->執筆論<!--)-->に終始している、さらにミーイズムへ深化しているとの批判がある。作家の[[さねとうあきら]]は『超激暗爆笑鼎談・何だ難だ!児童文学』(2000年 星雲社)でファンタジーの「不連続性」を指摘している。
== 文学におけるファンタジー ==
[[ファイル:Pur 09 aquila.jpg|thumb|left|[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]『[[神曲]]』の挿絵、[[ギュスターヴ・ドレ]]画]]
=== ファンタジーの源流 ===
{{独自研究|section=1|date=2015年3月}}
文学史の中にファンタジーの起源を求めると、古代・中世の書物に記された[[神話]]や[[伝説]]、英雄物語などに行き着く{{要出典|date=2015年3月}}。例えば『[[ベーオウルフ]]』、『[[ニーベルンゲンの歌]]』、中世[[騎士道物語|ロマンス]]、[[アーサー王物語|アーサー王伝説]]群などが挙げられる。
そして、これらの神話伝説を素材として編まれた数々の文学作品がファンタジーの源流となり、また、ファンタジーの系譜には[[イソップ寓話|イソップ童話]]のような[[童話]]から[[児童文学]]につながる流れもある{{要出典|date=2015年3月}}。
近代文学におけるファンタジーは、[[19世紀]]から[[20世紀]]初頭にかけて隆盛を誇った[[写実主義|リアリズム]]文学に対するアンチテーゼとして出発している{{要検証|date=2010年1月}}。すなわち、小説世界のルールは現実世界に準じ現実の一コマとして存在しうる物語であるというリアリズム文学に対し、小説世界のルールを小説世界で規定し現実にはありえない物語をファンタジー文学と呼んだのである{{誰|date=2015年3月}}。
最初期のファンタジーは、主に[[児童文学]]の領域にみられる。すなわち[[チャールズ・キングスレー]]『[[水の子どもたち|水の子 陸の子のためのおとぎばなし]]』([[1863年]])や[[ルイス・キャロル]]『[[不思議の国のアリス]]』([[1865年]])などである。これらは、すでに単に子供向けではない大人向けの含蓄が含まれる点で、初期ファンタジー文学としての特質を有している。その後の流れとしては、[[ライマン・フランク・ボーム]]『[[オズの魔法使い]]』([[1900年]])、[[ジェームス・マシュー・バリー]]『[[ピーター・パン]]とウェンディ』([[1911年]])、[[パメラ・トラバース]]『[[メアリー・ポピンズ|風にのってきたメアリー・ポピンズ]]』([[1934年]])などが挙げられる。これらもファンタジー文学、児童文学両方の扱いがなされる。
やがてファンタジーは児童文学の一分野として扱われながらも、次第に対象(読者)を大人にも広げていき、また[[サイエンス・フィクション]]とも相互に影響しあって発展していく。児童文学に分類されない、大人向けのファンタジーとしては[[ロバート・ネイサン]]『[[ジェニーの肖像]]』([[1939年]])や、[[ジャック・フィニイ]]『ゲイルズバーグの春を愛す』([[1963年]])などが代表作として挙げられる。ただしこの両作品は[[サイエンス・フィクション]]の時間テーマものの傑作としても扱われており、ファンタジー文学、SFの両方の扱いがなされる作品でもある。
=== 近代ファンタジーの形成 ===
[[ファイル:Princess of Mars large.jpg|thumb|left|[[エドガー・ライス・バローズ]]『[[火星のプリンセス]]』表紙(1917年)]]
児童文学に分類されない近代ファンタジーの形成は、ファンタジーの定義の解釈によって諸説はあるものの、狭義のファンタジーとしては[[1920年代]]から[[1940年代]]にかけて隆盛を誇った[[パルプ・マガジン]]を嚆矢とすることができる。特に通常は[[サイエンス・フィクション|SF]]とファンタジーとの境界ともいえ、そのどちらにも分類される[[エドガー・ライス・バローズ]]の[[火星シリーズ]](第1作『[[火星のプリンセス]]』は[[1912年]]に原型が発表され[[1917年]]に完成)、[[ロバート・E・ハワード]]による[[ヒロイック・ファンタジー]]の最初の完成型とも言われる[[英雄コナン]]シリーズ([[1932年]]に第一作発表)がこの時代の代表作であり、同時に[[J・R・R・トールキン]]以前の近代ファンタジー文学の1つの典型と言える。
なお、ハワードは多数の模倣者を生み出したことでも知られ、ハワードとその有象無象の模倣者たちはヒロイック・ファンタジーや同時代に隆盛を誇った[[スペースオペラ]]などの形成に大きな役割を果たしている。
[[ファイル:Weird Tales September 1934.jpg|thumb|[[パルプ・マガジン]]『[[ウィアード・テイルズ]]』]]
同時期の特筆すべき事項としては、[[1923年]]創刊のパルプ・マガジン『[[ウィアード・テイルズ]]』、同じく[[1939年]]創刊の『[[アンノウン (雑誌)|アンノウン]]』の2誌の存在である。『ウィアード・テイルズ』は[[ホラー小説|ホラー]]・フィクションに、『アンノウン』はサイエンス・フィクションに近しい雑誌ではあるものの、ファンタジー的な要素も強く、トールキン以前の近代ファンタジーの形成には無視できない存在となっている。
[[ファイル:FantasticAdventures.jpg|thumb|ファンタジー雑誌『[[:en:Fantastic Adventures|Fantastic Adventures]]』]]
付け加えるなら、近代ファンタジー形成の黎明期である[[1910年代]]からパルプ・マガジンの市場が事実上消滅する[[第二次世界大戦]]の直前までの期間においては、市場をみてもファンタジーというジャンルは黎明期であった。例えば、児童文学に分類されない大人向けのファンタジー作品を専門に紹介するパルプ・マガジンは事実上存在していない(ただし『ウィアード・テイルズ』を一応の例外と考えることは可能で、同誌を世界最初のファンタジー専門パルプ・マガジンとみなす場合もある)。この時代のファンタジー作品は、事実上ホラー・ノベルや[[ウィアード・メナス]]と呼ばれる当時隆盛を誇っていた怪人もの、そして、サイエンス・フィクションの市場の中で発表されており、市場としてもジャンルとしても独立した存在と認知されるのは[[1930年代]]末期に前述の『アンノウン』誌や『[[:en:Fantastic Adventures|Fantastic Adventures]]』誌などが創刊した辺りからである。ただし、認知されたとは言っても限定的なもので、特に一般層への認知度は現代とは比べものにならないほど低かった。事実、後述するトールキンの諸作品の登場後ですらも、バローズやハワードの諸作品は[[サイエンス・フィクション|SF]]か[[冒険小説]]に分類されていたし、『[[ジェニーの肖像]]』も発表当時はSFに含まれるべきものとされていた。
=== 近代ファンタジーの転機 ===
このような近代ファンタジー文学のひとつの転機となったのは、[[J・R・R・トールキン]]による『[[指輪物語]]』(1937年から1949年執筆、[[1954年]]刊行)である。『指輪物語』は1960年代後半に北米で人気を博し、その影響下で多くのファンタジー作家が登場した<ref>川成洋・長尾輝彦編 『現代イギリス読本』 丸善出版、2012年、「第5章 イギリス現代文学I -ファンタジーとミステリ-」</ref>。トールキン作品の影響は文芸以外の形式の表現にも及んでいる。ただしその評価と後に与えた影響は、欧州と北米とでも、かなり異なっている。
まず、欧州では、トールキンの「リアリズム文学へのアンチテーゼ」という第二者的な立場から脱却した「[[神話]]の構築」という独自の立脚点や、専門知識を駆使して架空の神話から[[人工言語]]まで編み出して背景世界を構築しているという点などが高く評価されている。この点で、トールキンは従来のファンタジー作家とは一線を画す存在であった。
専門知識に従い世界観を構築した類例としては、トールキンの元同僚でもある[[宗教学]]者[[C・S・ルイス]]の『[[ナルニア国物語]]』シリーズ ([[1950年]] - [[1956年]]) や、[[文化人類学]]者、[[上橋菜穂子]]の『[[守り人シリーズ|守り人]]』シリーズ([[1996年]] -)などがある。そうした傾向の作品を「[[ハイ・ファンタジー]]」と呼ぶこともある。
ただしトールキン以前に(それがファンタジーというジャンルだとは認識されていなかったものの)相応の規模を持つ大人向けのファンタジー文学の市場が形成されていたアメリカ合衆国においては、事情が異なる。
北米ではトールキンの文学性や世界観は評価され、後にその様式の作品も産み出されはするものの、「神話の構築」という視点は戦前の[[ロバート・E・ハワード]]の時点ですでに形成されていたため、それが評価されることは稀であった(北米では『[[指輪物語]]』のブームに乗る形で戦前のファンタジー作品が[[ペーパーバック]]として多数復刊され、並列する形で紹介された)。模倣者が存在したという点についても同様である。また「リアリズム文学へのアンチテーゼ」という立脚点についても、英国や欧州ではそのような議論は正しいにせよ、ファンタジーの形成当初より「神話を持たない民」であるアメリカ人のための「人造の神話」としての性格が強かったアメリカ合衆国では、そもそもファンタジーが第二者的な立場の作品であるという意識自体が希薄であった。
[[ファイル:FieldofDreamsMay06.jpg|thumb|250px|『[[フィールド・オブ・ドリームス]]』の[[野球場]]。現代的なファンタジーの舞台の一例。]]
これらの事情の差は、[[サイエンス・フィクション]]がファンタジーの要素を融合させた作品を多数送り出す[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて欧州と北米との交流が進む過程で希薄になり、[[1980年代]]中盤には両者の姿勢にそれほどの差はなくなっている。
他にもさまざまな作品が生み出されている。[[W・P・キンセラ]]の『シューレス・ジョー』([[1982年]])はファンタジーの傑作として映画化されている(『[[フィールド・オブ・ドリームス]]』 [[1989年]])。[[J・K・ローリング]]の『[[ハリー・ポッターシリーズ|ハリー・ポッター]]』([[1997年]] - ) は、現代のイギリスを舞台に現実空間のすぐそばに魔法が通用する仮想空間を置くことで、リアリズム文学とファンタジー文学との融合を図る独特の作風を持ち、世界的なベストセラーとなっている。
===現代日本におけるファンタジー===
{{独自研究|date=2015年3月|section=1}}
現代におけるファンタジー作品の舞台となる場所や時代は様々である。一例としてヨーロッパ、オリエントや古代日本、中華帝国など、各地・各時代を背景世界のモデルとした作品が挙げられるが、(作品が創作された時点での)現代や、全く架空の世界を舞台にした作品も多い。
{{疑問点範囲|日本で「ファンタジー」と言う場合、ヨーロッパ風の世界で繰り広げられる物語を指すことがある{{要出典|date=2015年3月}}。このようなファンタジーは時代背景、小道具、登場人物のふるまいなどは通念上のヨーロッパ世界をモデルとしているが、実際に人々が抱いていたり、仮定される[[世界観]]を、直接あるいは間接的に設定やストーリーに取り入れているのが特徴である。よく題材や道具立てに使われる要素として、[[ドラゴン]]([[竜]])や[[妖精]]を代表とする各種の[[怪物]]、魔法、王家、[[Damsel in distress|囚われの姫君]]の救出、立身出世などが挙げられる。|title=ただの「ヨーロッパ風の世界」、「ヨーロッパ世界」では漠然としすぎて説明不足。|date=2015年3月}}
[[ファイル:Boys King Arthur - N. C. Wyeth - p246.jpg|thumb|『[[アーサー王物語|アーサー王と円卓の騎士]]』(1922)、[[N・C・ワイエス]]による馬上試合のイラストレーション]]
しかし一方で日本で創作されたファンタジーの物語の一部には、「中世風」の物語を謳いつつも設定で、明らかに中世欧州には存在しなかった着想が用いられることがある。一例としては、''貴族を完全に従え、王国の隅々にまで支配権を行き渡らせる君主''が挙げられる。実際の中世欧州での[[王権]]は後の[[絶対王政]]時代ほどには強大でなく、領土統治も[[封建制]]に立脚した[[地方分権]]が基本であった。王権が強化され君主による[[中央集権]]的な統治が本格化するのは、封建制が崩壊し、有力貴族が力を失った絶対王政時代のことである。また、戦争で用いる武具に関しても、''[[プレートアーマー]]を身に着けた兵士が主となって争い戦う姿''が散見されるが、プレートアーマーが普及するのは15世紀のことであり、盛期中世の兵士は[[レザーアーマー|革鎧]]や[[鎖帷子]]を着用するのが一般的であった。[[騎士]]たちも、中には[[神聖ローマ皇帝|皇帝]]直属の独立した{{仮リンク|帝国騎士|de|Reichsritter}}もいたが、騎士全盛期のドイツでは多くの平騎士は元来[[諸侯]]に仕える[[ミニステリアーレ|家士]]の身分であった<ref>ハインリヒ・プレティヒャ 『中世への旅 騎士と城』 平尾浩三訳、白水社〈白水Uブックス〉、2010年、14頁。</ref>。このように後の時代の要素やイリーガルな着想を含んでいながら、それを一纏めにしてしまっていることが、結果として中世欧州に対する誤ったイメージを生み出している{{要出典|date=2015年3月}}。
こうした誤解には単なる作者側の知識不足(中世と[[近世]]を区別していないこと)だけでなく、中世“風”と明記されていながらそれを現実的な中世として真に受けてしまう、いわば受け取る側の問題や、時代区分における中世がかなり長い期間を指す用語である上に、その前後の時代区分に従って解釈が変化するという[[歴史学]]に関する問題も存在する(一般的には、社会が大きく変化した[[宗教改革]]期を近代の始まりとして1500年前後を中世の終わりとするが、長いスパンの社会変動を捉えて中世が17・18世紀まで継続したとみる論者もおり、通説が必ずしも自明であるわけではない<ref>服部良久、南川高志、山辺規子 編著 『大学で学ぶ西洋史 [古代・中世]』 ミネルヴァ書房、2006年、161-162頁。</ref>)。
ファンタジーというジャンルは[[ライトノベル]]や[[オンライン小説]]でも広く好まれ、[[セカイ系]]、[[異世界 (ジャンル)|異世界転生]]などというサブジャンルも生まれている。ファンタジーの中でも特に[[ヒロイック・ファンタジー]]は[[コンピュータRPG]]と相性が良く、[[ドラゴンクエストシリーズ|ドラゴンクエスト]]、[[ファイナルファンタジーシリーズ|ファイナルファンタジー]]など数多くの名作が生み出されている。
==ファンタジーの舞台==
ファンタジーのうち、地球とは異なる異世界を舞台とするものを異世界ファンタジーあるいは[[ハイ・ファンタジー]]、現代世界を舞台とし日常の中に異世界の存在が紛れ込むファンタジーは[[エブリデイ・マジック]]、現代ファンタジー、あるいは(ハイ・ファンタジーの対として)[[ロー・ファンタジー]]と呼ぶ。
日常の中に異世界の存在が紛れ込む現代ファンタジーの派生として、[[魔法少女]]もの、異能バトルもの、[[伝奇小説]]などがある。
一般に日本におけるファンタジーとは、中世西洋に着想を得た異世界を舞台とする"西洋ファンタジー"と呼ばれるものである。これに類似した表現として、"中華風ファンタジー"及び"和風ファンタジー"がある。主に過去の西洋を題材とする中世ファンタジーに対して、それぞれ過去の中国及び日本によく似た異世界を舞台とする物語を示す。中華風ファンタジーという用語は漫画『[[封神演義 (漫画)|封神演義]]』が流行した1990年代に用いられるようになった。日本における中華風ファンタジーとしては小野不由美の「[[十二国記]]シリーズ」が著名である。和風ファンタジーでは平安時代の陰陽道をモチーフとした[[夢枕獏]]の『[[陰陽師 (小説)|陰陽師]]』、古代日本を舞台とした[[荻原規子]]の「[[空色勾玉|勾玉]]シリーズ」などがある。中東、特にアラビアの文化に着想を得た作品は、"アラビアンファンタジー"と呼ばれ、[[マギ (漫画)|マギ]]が著名である。世界各地の文化に着想を得たオリジナル世界のファンタジーは単に"異世界ファンタジー"と評されることが多く、主な作家に[[上橋菜穂子]]などがいる。
==ファンタジーの下位ジャンル==
<!--[[ファイル:'Ruggiero Saving Angelica', tempera on wood panel painting attributed to Girolamo da Carpi (Girolamo Sellari),, El Paso Museum of Art.JPG|thumb|200px|ジローラモ・ダ・カルピ画『アンジェリカを救うルッジェーロ』(16世紀)]]-->
前述の通り、ファンタジーはかなり性格の異なる複数の作品群が含まれており、それらは下位ジャンルを形成している。こういった下位ジャンルについては、容易に分けられるものではなく、学術的に確立しているわけでもない。これらを以下に挙げる。
* [[ハイ・ファンタジー]]:異世界、特に[[超自然現象]]が当たり前に存在する架空の世界を舞台としたファンタジー。
*:第一次的な要素として異世界創造を主軸とし、この世ならざる存在・現象が自然法則として存在する世界を舞台としたファンタジーを指す。
*:対立する概念として後述の[[ローファンタジー]]が存在するが、こちらには明確な定義がないとされる。
<!-- *:ローファンタジー、現在世界の未来、現在世界の過去。この四種を総じてファンタジーの四大要素と呼ぶ。※出典不明-->
** [[エピック・ファンタジー]]:[[叙事詩]]ファンタジー。
** [[ヒロイック・ファンタジー]]:英雄ファンタジー。主に主人公が超常的な力を持ち、悪の勢力を討ち果たしていく形式のもの。
** {{ill2|歴史ファンタジー|en|Historical fantasy}}
** [[ダーク・ファンタジー]]:重苦しい展開や悲劇的展開を重視したファンタジー。
** [[バトル・ファンタジー]]
** [[トリップ・ファンタジー]]:現実(をモデルにした世界)の住人が[[異世界 (ジャンル)|異世界]]に移動し、そこで何らかの活躍をするファンタジー。(なお、現在世界の時間軸を用いて移動したもしくは、転生転移した主人公が活躍するこのジャンルはハイファンタジーには含まれない)
** [[東洋ファンタジー]]
*** [[中華風ファンタジー]]
*** [[和風ファンタジー]]
* [[ロー・ファンタジー]]:前述のハイ・ファンタジーに対立する概念として使用される。ロー・ファンタジーが何を指すかはかなり曖昧であり、どの作品がこのジャンルに属するのかについて、一般的な合意はない。現実世界を舞台とし、超自然的要素が加味されたファンタジーを指すことが多い。
<!-- 第二次的創造を必要とし、ハイファンタジーを含むファンタジーの四大要素の一つに当たる。※出典不明、独立記事との矛盾-->
** {{ill2|オカルト・ファンタジー|en|Occult detective fiction}}:[[魔術]]や[[幽霊]]、[[超古代文明]]などと言った[[オカルト]]に分類されるものを主題としたファンタジー。
** [[伝奇小説#日本の近現代の伝奇風小説|伝奇]]ファンタジー
** [[異能バトル]]ファンタジー([[超能力]])
* [[サイエンス・ファンタジー]]:[[サイエンス・フィクション|SF]]とファンタジーの要素を混合した作品。
* [[おとぎ話]]・[[メルヘン]]ファンタジー:漠然とした設定、ステレオタイプの人物、擬人観、魔法が普通に受け入れられている、といった伝承文学の特徴を有したファンタジー。
* [[ゲームファンタジー]]:レベル・[[勇者]]・ステータス・モンスター・[[魔王]]など、[[ロールプレイングゲーム|RPG]]の諸要素の存在を前提とした世界を描くファンタジー。
**[[魔王]]もの:邪悪な魔王とそれに立ち向かう[[勇者]]という[[ロールプレイングゲーム|RPG]]の王道展開を前提とした[[パロディ]]的ファンタジー。
* [[ラブファンタジー]] : 恋愛内容を取り入れたもの。
それぞれの下位ジャンルについての詳細は、個別の記事を参照されたい。
== 代表的な作品 ==
=== 日本以外の作品 ===
[[ファイル:Cowardly lion2.jpg|thumb|[[ライマン・フランク・ボーム]]『[[オズの魔法使い]]』(1900)。[[イラストレーション]]は[[W・W・デンズロー]]]]
[[ファイル:Peter Pan 1924 movie.jpg|thumb|『[[ピーター・パン]]』の映画ポスター(1924)]]
* ☆2007年度 [[映画]]:[[テラビシアにかける橋]]
* ☆1994年度 [[映画]]:[[マスク]]
* ☆1989年度 [[ユニバーサル映画]]:[[フィールド・オブ・ドリームス]]
* [[指輪物語]]([[J・R・R・トールキン]])→(映画:[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]])
* [[ホビットの冒険]](J・R・R・トールキン)→(映画:[[ホビット (映画)]])
* [[ナルニア国物語]]シリーズ([[C・S・ルイス]])→(映画:ナルニア国物語)
* [[ゲド戦記]]([[アーシュラ・K・ル=グウィン]])→(アニメ映画:[[ゲド戦記]])
* [[メアリー・ポピンズ]]シリーズ([[パメラ・トラバース]])→(ミュージカル映画:[[メリー・ポピンズ]])
* [[オズの魔法使い]]シリーズ([[ライマン・フランク・ボーム]]他)→(ミュージカル映画:オズの魔法使い)
* [[ドリトル先生シリーズ]]([[ヒュー・ロフティング]])
* [[クマのプーさん]]シリーズ([[A・A・ミルン]])→(アニメ映画:[[くまのプーさん 完全保存版]])
* [[ムーミン]]シリーズ([[トーベ・ヤンソン]])→(TVアニメ:[[楽しいムーミン一家]])
* [[モモ (児童文学)|モモ]]([[ミヒャエル・エンデ]])
* [[はてしない物語]](ミヒャエル・エンデ)→(映画:[[ネバーエンディング・ストーリー]])
* [[死の王]](平たい地球シリーズ) ([[タニス・リー]])
* [[アヴァロンの霧]]([[マリオン・ジマー・ブラッドリー]])
* [[パーンの竜騎士]]シリーズ([[アン・マキャフリイ]])
* [[エターナル・チャンピオンシリーズ]]([[マイケル・ムアコック]])
** [[メルニボネのエルリック|エルリック]]、[[紅衣の公子コルム]]、[[ドリアン・ホークムーン|ホークムーン]]、[[エレコーゼ]]
* [[英雄コナン]]シリーズ([[ロバート・E・ハワード]])→(映画:[[コナン・ザ・グレート]]シリーズ)
* [[魔法の国ザンス]]シリーズ([[ピアズ・アンソニイ]])
* [[イルスの竪琴]]3部作([[パトリシア・A・マキリップ]])
* [[魔法使いハウルと火の悪魔]](ハウルの動く城シリーズ)([[ダイアナ・ウィン・ジョーンズ]]))→(アニメ映画:[[ハウルの動く城]])
* [[デイルマーク王国史]]シリーズ([[ダイアナ・ウィン・ジョーンズ]])
* [[ベルガリアード物語]]/[[マロリオン物語]]シリーズ([[デイヴィッド・エディングス]])
* [[エレニア記]]/[[タムール記]]シリーズ([[デイヴィッド・エディングス]])
* [[ヴェルガース|ヴァルデマール年代記]]シリーズ([[マーセデス・ラッキー]])
* [[影の棲む城]](五神教シリーズ)([[L・M・ビジョルド]])
* [[氷と炎の歌]]シリーズ([[ジョージ・R・R・マーティン]])
* [[ファーシーアの一族]]シリーズ([[ロビン・ホブ]])
* [[ネシャン・サーガ]]([[ラルフ・イーザウ]])
* [[暁の円卓]]シリーズ([[ラルフ・イーザウ]])
* [[ドラゴンランス]]シリーズ([[マーガレット・ワイス]]、[[トレイシー・ヒックマン]]他)
* [[スペルシンガー・サーガ]]([[アラン・ディーン・フォスター]])
* [[真実の剣]]シリーズ([[テリー・グッドカインド]])
* [[時の車輪]]シリーズ([[ロバート・ジョーダン]])
* [[ファファード&グレイ・マウザー]]シリーズ([[フリッツ・ライバー]])
* [[ダレン・シャン (小説)|ダレン・シャン]]シリーズ([[ダレン・シャン]])
* [[バーティミアス]]3部作([[ジョナサン・ストラウド]])
* [[ハリー・ポッターシリーズ]]([[J・K・ローリング]])→(映画:ハリー・ポッター)
* [[ドラゴンライダー]]([[クリストファー・パオリーニ]])→(映画:エラゴン)
* [[ライラの冒険]]3部作([[フィリップ・プルマン]])→(映画:ライラの冒険)
* [[キングキラー・クロニクル]]([[パトリック・ロスファス]])
* [[ルーンの子供たち]]([[チョン・ミンヒ]])→(ゲーム:テイルズウィーバー)
* [[ArcheAge もみの木と鷹]]([[チョン・ミンヒ]])→(ゲーム:ArcheAge)
* [[不思議の国のアリス]]([[ルイス・キャロル]])
* [[クロニクル千古の闇]]([[ミシェル・ペイヴァー]])
他多数
=== 日本の作品 ===
; 小説作品
* [[いま、会いにゆきます]]([[市川拓司]])
* [[一千一秒物語]]([[稲垣足穂]])
* [[グイン・サーガ]]([[栗本薫]])
* [[デジタル・デビル・ストーリー]]([[西谷史]])
* [[クレヨン王国]]シリーズ([[福永令三]])
* [[アルスラーン戦記]]([[田中芳樹]])
* [[十二国記]]シリーズ([[小野不由美]])
* [[スレイヤーズ]]シリーズ([[神坂一]])
* [[卵王子カイルロッド]]シリーズ(冴木忍)
* [[コロボックル物語]]シリーズ([[佐藤さとる]]、[[有川浩]])
* [[フォーチュン・クエスト]]([[深沢美潮]])
* [[ブレイブ・ストーリー]]([[宮部みゆき]])
* [[空色勾玉|勾玉]]シリーズ([[荻原規子]])
* [[魔術士オーフェン]]シリーズ([[秋田禎信]])
* [[守り人シリーズ]]([[上橋菜穂子]])
* [[ロードス島戦記]]シリーズ([[水野良]])
* [[リーンの翼]]シリーズ([[富野由悠季]])
* [[獣の奏者]]シリーズ(上橋菜穂子)
他多数
; ゲーム作品
* [[ヴァルキリープロファイルシリーズ]]
* [[世界樹の迷宮シリーズ]]
* [[ゼルダの伝説シリーズ]]
* [[ドラゴンクエストシリーズ]]
* [[ファイナルファンタジーシリーズ]]
* [[ファイアーエムブレム|ファイアーエムブレムシリーズ]]
* [[天外魔境|天外魔境シリーズ]]
* [[女神転生シリーズ]]
* [[幻想水滸伝シリーズ]]
* [[テイルズ オブ シリーズ]]
* [[伝説のオウガバトル]]
* [[タクティクスオウガ]]
* [[ベイグラントストーリー]]
* [[東方Project]]
他多数
; 漫画作品
{{main|ファンタジー漫画}}
* [[リボンの騎士]]([[手塚治虫]])
* [[ポーの一族]]([[萩尾望都]])
* [[ファイブスター物語]]([[永野護]])
* [[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]([[三条陸]]・[[稲田浩司]])
* [[魔法陣グルグル]]([[衛藤ヒロユキ]])
* [[鋼の錬金術師]]([[荒川弘]])
* [[マギ (漫画)|マギ]]([[大高忍]])
* [[FAIRY TAIL]]([[真島ヒロ]])
* [[進撃の巨人]]([[諫山創]])
* [[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]([[鈴木央]])
他多数
; アニメ作品
* [[聖戦士ダンバイン]]
* [[機甲界ガリアン]]
* [[天空のエスカフローネ]]
* [[魔法少女アニメ|各種魔法少女アニメ]]
* [[覇王大系リューナイト]]
他多数
; 音楽
* [[SEKAI NO OWARI]]
* [[きゃりーぱみゅぱみゅ]]
他多数
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連文献 ==
* [[石堂藍]] 『ファンタジー・ブックガイド』 [[国書刊行会]] 2003年12月 ISBN 978-4-336-04564-5
* [[風間賢二]] 『きみがアリスで、ぼくがピーター・パンだったころ―おとなが読むファンタジー・ガイド』 ナナ・コーポレート・コミュニケーション 2002年7月 ISBN 978-4-901491-08-2
* いするぎりょうこ 『ファンタジーノベルズガイド』 [[新紀元社]] 1992年7月 ISBN 978-4-88317-214-6
* [[脇明子]] 『魔法ファンタジーの世界』 [[岩波新書]] 2006年5月 ISBN 978-4-00-431020-4
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Fantasy}}
{{ウィキポータルリンク|スペキュレイティブ・フィクション|[[画像:Dragon-149393.svg|34px|Portal:スペキュレイティブ・フィクション]]}}
* [[幻想文学]]
* [[ファンタジー作家一覧]]
* [[架空のものの一覧の一覧]]
*[[ファンタジア]] - 曖昧さ回避
*[[幻想曲]] - [[ふぁんたじあ|ファンタジア]]あるいは'''ファンタジー'''とも呼ばれる。
*[[異界]]
== 外部リンク ==
* [http://wdragon.fc2web.com/ms/index.html ファンタジー的・魔法的 鉱物辞典]
* [http://www.tuins.ac.jp/jm/kokusai/kouza/2005satellite/satellite_mochiduki01.pdf イギリスのファンタジー]
* {{Cite journal|和書
|author=渡邊 真理子
|year=2007
|month=6
|title=アメリカ小説研究とSF/ファンタジー American Fiction Studies and SF/Fantasy
|journal=福岡大學人文論叢
|volume=39
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|pages=129-152
|publisher=福岡大学
|issn= 02852764
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}}
* {{Cite journal|和書
|author=番匠 光子
|year=1967
|month=12
|title=日本近代児童文学におけるファンタジーの問題 : その成立について
|journal=北陸学院短期大学紀要
|volume=
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|pages=46-66
|publisher=北陸学院短期大学
|issn= 02882795
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|accessdate=2010(平成22年)-08-15
}}
{{Fantasy fiction}}
{{Narrative}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふあんたしい}}
[[Category:ファンタジー|*]] | 2003-03-23T11:39:32Z | 2023-11-05T03:45:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC |
4,993 | ベクトル化 | ベクトル化(ベクトルか、英: vectorize)
ベクトル化とは、コンピュータのプログラムにおいて、繰り返し処理で配列(ベクトル)の要素をひとつひとつ計算しているような部分を、手動あるいはコンパイラで(自動ベクトル化)、ベクトル計算機で高速に演算できるよう変形すること。近年のSIMD演算のための並列化やスーパースカラ機でのソフトウェアパイプラインに応用できる内容もある。
High Performance Fortranはこれらの高速化を意識したプログラミング言語である。
以下ではFortranのコードを例にとって説明する。基本的に、ループ演算を1つのベクトル演算命令にするので、doループがベクトル化対象となる。なお、ベクトル命令に出来るパターンは各機種毎、コンパイラ毎に多少異なる。
たとえば以下のようなdoループは1つのベクトル命令に出来る。
以下のような、if文を含むdoループは、それをサポートするハードウェアがあればベクトル化が可能である。
この場合、たとえばSXシリーズでは、
という方法でベクトル化を行なう。
多重ループは、全部まとめて1つのベクトル命令を生成することもある。また、効率化をはかるために、内側のループと外側のループを入れ替える場合もある。これは、ベクトル化を行なうためには、データがメモリ上で連続している必要があるからである。 たとえば、二次元配列を演算する場合、内側のループが連続したメモリをアクセスするようになっていない場合には、演算する順番を入れ替えて(すなわちdoループの内側と外側を入れ替えて)ベクトル化が容易になるようにする。 | [
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] | ベクトル化 ベクトル命令化 - コンパイル時にループをベクトル演算命令に変換すること。この項目で説明。
ベクトル(1次元配列)の演算をサポートするプログラミング環境で、ループをベクトルに書き換えること
行列(多次元配列)を同じ要素を持つベクトル(1次元配列)に変換すること→行列の一列化
他の形式のデータをベクタ形式データに変換すること ベクトル化とは、コンピュータのプログラムにおいて、繰り返し処理で配列(ベクトル)の要素をひとつひとつ計算しているような部分を、手動あるいはコンパイラで(自動ベクトル化)、ベクトル計算機で高速に演算できるよう変形すること。近年のSIMD演算のための並列化やスーパースカラ機でのソフトウェアパイプラインに応用できる内容もある。 High Performance Fortranはこれらの高速化を意識したプログラミング言語である。 | {{出典の明記|date=2015年9月}}
'''ベクトル化'''(ベクトルか、{{Lang-en-short|vectorize}})
*ベクトル命令化 - コンパイル時にループを[[ベクトル演算]]命令に変換すること。この項目で説明。
*ベクトル(1次元[[配列]])の演算をサポートするプログラミング環境で、ループをベクトルに書き換えること
*[[行列 (数学)|行列]](多次元配列)を同じ要素を持つベクトル(1次元配列)に変換すること→[[行列の一列化]]
*他の形式のデータを[[ベクタ形式]]データに変換すること
----
'''ベクトル化'''とは、[[コンピュータ]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]において、繰り返し処理で[[配列]](ベクトル)の要素をひとつひとつ計算しているような部分を、手動あるいは[[コンパイラ]]で(自動ベクトル化)、[[ベクトル計算機]]で高速に演算できるよう変形すること。近年の[[SIMD]]演算のための[[並列化]]や[[スーパースカラ]]機での[[ソフトウェアパイプライン]]に応用できる内容もある。
[[High Performance Fortran]]はこれらの高速化を意識したプログラミング言語である。
==ベクトル化の手法==
以下ではFortranのコードを例にとって説明する。基本的に、ループ演算を1つのベクトル演算命令にするので、doループがベクトル化対象となる。なお、ベクトル命令に出来るパターンは各機種毎、コンパイラ毎に多少異なる。
===単純doループ===
たとえば以下のようなdoループは1つのベクトル命令に出来る。
<syntaxhighlight lang="fortran">
do i = 1, 100
a(i) = a(i) * b(i)
end do
</syntaxhighlight>
===if文を含むdoループ===
以下のような、if文を含むdoループは、それをサポートするハードウェアがあればベクトル化が可能である。
<syntaxhighlight lang="fortran">
do i = 1, 100
if (a(i) > 0.0) then
a(i) = a(i) * 2.0
end if
end do
</syntaxhighlight>
この場合、たとえば[[NEC SX|SXシリーズ]]では、
* 配列aの各要素について、if文を満たすか満たさないかを判断するマスクベクトルを作成。
* マスクが真の部分だけを演算する、ベクトル命令を生成。
という方法でベクトル化を行なう。
===多重ループ===
多重ループは、全部まとめて1つのベクトル命令を生成することもある。また、効率化をはかるために、内側のループと外側のループを入れ替える場合もある。これは、ベクトル化を行なうためには、データがメモリ上で連続している必要があるからである。
たとえば、二次元配列を演算する場合、内側のループが連続したメモリをアクセスするようになっていない場合には、演算する順番を入れ替えて(すなわちdoループの内側と外側を入れ替えて)ベクトル化が容易になるようにする。
==関連項目==
*[[SIMD]]
*[[並列化]]
*[[コンピュータ]]
*[[ベクトル化率]]
*[[計算機工学]]
*[[第一原理バンド計算]]
==参考文献==
{{Refbegin|}}
*{{Cite journal|和書|title=SXシステムの言語処理系 |journal=NEC技報 |volume=39|number=1 |year=1986 |author=近藤良三 |naid=40004407108 |ref=harv }}
{{Refend}}
{{デフォルトソート:へくとるか べ}}
[[Category:分散コンピューティング問題]]
[[Category:SIMDコンピューティング]]
[[Category:並列コンピューティング]]
[[Category:コンパイラ最適化]] | null | 2021-12-13T01:18:44Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:Refbegin",
"Template:Cite journal",
"Template:Refend",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E5%8C%96 |
4,994 | ルパン三世 カリオストロの城 | 『ルパン三世 カリオストロの城』(ルパンさんせい カリオストロのしろ)は、1979年に公開された日本のアニメ映画。モンキー・パンチ原作のアニメ『ルパン三世』の劇場映画第2作で、宮崎駿の劇場映画初監督作品である。ヨーロッパの小国・カリオストロ公国を舞台に、指輪に秘められた宝と偽札の謎にルパン三世たちの活躍を描く。
キャッチコピーは、「前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。」「巨大な城が動き始める!影の軍団が襲ってくる!」「生きては還れぬ謎の古城でついにめぐり逢った最強の敵!」。
1978年に公開された『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(以下、『ルパンVS複製人間』)に続くアニメ『ルパン三世』の劇場版第2作目として制作され、『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』(以下、『TV第2シリーズ』)の放送中に公開された。
本作はスタジオジブリ作品をはじめ、数多くの作品で監督などで携わっている事で知られる宮崎駿の映画初監督作品である。
『ルパン三世』シリーズの中でも、屈指の人気を誇る作品として知られる。公開当時の興行収入は低かったものの、評論家や関係者の中では高く評価され、その後はテレビ放送や上映会等が繰り返された事もあって人気が高まっていった。また、本作での宮崎の演出やレイアウト手法は、後世のアニメ業界に影響を与える事となった。
『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』(以下、『TV第1シリーズ』)後半に「Aプロダクション演出グループ」名義で参加した宮崎や『TV第1シリーズ』の作画監督である大塚康生が参加したことで、『TV第2シリーズ』や『ルパンVS複製人間』と異なり『TV第1シリーズ』後期に準じた作風となった。本作でルパンは『TV第1シリーズ』で着用していた緑色のジャケットを着用しており、車も『TV第1シリーズ』後半に登場したフィアット・500を使っている。
宮崎は本作を「『旧ルパン』、東映時代の作品の大棚ざらい」と位置付けており、参加した『TV第1シリーズ』や東映アニメーション所属時代に使用したアイデア・演出技法などを多く参考にしている。また、作風には宮崎独自の解釈や個性が強く反映されている。
日本テレビ系『金曜ロードショー』では、スタジオジブリ作品と同じく現在も定期的に放送されている。
注・ジョドーより下は役名クレジットなし。
1978年、『ルパン三世 ルパンVS複製人間』が成功したことを受け企画された。同作はターゲットとする観客層に大人を想定していたが、実際の観客層は『TV第2シリーズ』を視聴中の中高生が中心だったことから、ターゲットとする観客層は15~16歳中心に改められた。
監督に関して、製作会社の東京ムービー新社では『TV第2シリーズ』に参加する鈴木清順などが候補に挙がり、その後『ルパンVS複製人間』の脚本家チームが執筆した脚本を元に大塚康生へ監督を依頼していた。だが、気乗りしない大塚は宮崎に相談した結果、宮崎が監督に就任し、大塚自身は作画監督をすることとなった。
当時の宮崎は日本アニメーションで『赤毛のアン』のレイアウトや場面設定を担当していたが、これを降板。1979年5月に制作準備に取りかかった。後の作品と同様、宮崎は脚本なしでイメージボードと絵コンテを描き始め、脚本は共同名義の山崎晴哉が手直しする形となった。後に山崎の手により、脚本を元に集英社コバルト文庫からノベライズされている。
1979年7月、絵コンテの4分の3が完成した段階で作画作業が開始され、終了は公開15日前の11月末だった。大塚は現場について後に「連日修羅場だった」としている一方、宮崎は最初から「参加する各アニメーターの適性」を考え、場面ごとに担当するアニメーターを想定しながら絵コンテを作成したという。
構想~脚本~絵コンテ~製作までの総製作期間は「わずか半年」という短さであり、途中で製作期間内に終わらないと考えた宮崎は、下水道でのシーンの絵コンテを書き直しており、後に不満を語っている。また、本作のDパートでは仕上げに手間がかからないよう絵コンテを切ったとも述べており、ルパンがクラリスを誘拐した後にはオートジャイロによる空中戦も予定されていたが、本編では割愛された。
絵コンテ完成後、わずか4か月半ほどで制作された計算になり、大塚は「質の高さ/製作期間比でいえば、日本の長編アニメーション史上最短の製作期間記録ではないか」と語っている。最終的には製作は、予定された期間より1か月延びることとなったが、宮崎は「この作品で初めて自分の体力の限界を知った」と語っている。
主題歌である「炎のたからもの」の曲の旋律による編曲バリエーションBGMが多数作成されている。またBGM選曲は、本作のために録音された楽曲のほか、TVシリーズや劇場版前作、サウンドトラックアルバムなどから幅広く選び出された。
結婚式の場面で流れるバッハのパストラーレ・ヘ長調・BWV590は、本作の音楽録音の際にエレクトーンで録音し、音に広がりを出すためスピーカーで鳴らせた音をマイクで拾っている。
銭形警部とカリオストロ伯爵の面会する朝食の場面に使用されているBGMは、バッハの管弦楽組曲四番第四楽章Menuett。城の舞踏会とその外で銭形隊がカップラーメンをすすっている場面のBGMは、ヨハン・シュトラウス2世作曲のウィーン気質(かたぎ)の第二ワルツである。
本作は宮崎独自の解釈や演出により、それまでの作品と一線を画すものとなっている。
宮崎は製作時、ルパン達について以下のように考えた。
この意識によって宮崎は、ルパンの盗みのターゲットを「少女の心」とした。
これにより、本作のルパンはアウトローというよりお姫様を救う心優しい男として描かれており、1発の発砲さえしない。同時に、宮崎はルパンの年齢設定もそれまでのイメージよりかなり高くして「ファンの知っているルパンよりも人生経験を積んできたのだから、当然これまでのイメージと異なっていても不思議ではない」とし、ルパンを演じた山田康雄も「歳をとったおじさんルパン」という認識で臨んでいた。また、作中でルパンが過去の自分を回想するシーンでは『TV第1シリーズ』のようなベンツSSKに乗り銃を何発も発砲する描写がされ、ルパンはそのころの自分を「一人で売り出そうと躍起になっている青二才」と呼んでいる。
作中に登場するクラリス姫は、宮崎駿の作品に登場するヒロインの典型である。清楚でいじらしく、主人公による救出を待つ受動的な立場(Damsel in distress)にありながら、自ら積極的に行動する気丈さと勇気も持ち合わせている。島本須美は、後に宮崎が脚本・監督を手がけた『TV第2シリーズ』最終話「さらば愛しきルパンよ」や、映画版『風の谷のナウシカ』でもヒロイン役を演じている。
登場人物の名前の一部には、モーリス・ルブランの『アルセーヌ・ルパン』シリーズに由来するものがある。「カリオストロ」は同シリーズ『カリオストロ伯爵夫人』に登場するルパンの仇敵の名前であり、「クラリス」は同作品に登場する、産まれた男の子をカリオストロ伯爵夫人に誘拐されるルパンの恋人の名前である。なお、カリオストロとは元々、近世フランス史に登場した自称錬金術師で後世のフィクションにも多く取り上げられている人物であり、これを宮崎が題材とした。また、湖底から遺跡が出現するアイデアは『緑の目の令嬢』(『青い目の少女』)から得ている。
劇中に登場する車や銃器類は、宮崎や大塚の趣味が活かされ、ほとんどが実在のものであり(後述)、支配階級であるカリオストロ伯爵のヨーロッパ貴族としての生活ぶりや振る舞いも考証されている。
カリオストロ城のモデルになったのは、修復前のプファルツ城である。城下町は、当時宮崎が愛読した書籍「語りかける中世 イタリアの山岳都市・テベレ川流域」(鹿島出版会、1976年)に掲載された資料写真を参考にしている。
ルパンとカリオストロ伯爵の対決の場となった時計塔は、黒岩涙香・江戸川乱歩の『幽霊塔』をモチーフにしている。
ここでは、本作と『TV第1シリーズ』との共通点を列挙する。
本作の主な舞台であるカリオストロ公国は人口3,500人で、世界で一番小さな国連加盟国と設定されている。壮麗な塔を持つカリオストロ城と城下町、古代ローマ時代に作られた水道橋を持ち、周囲を美しい山々と湖に囲まれた、緑豊かな国である。劇中の新聞やルパンが伯爵に送った予告状から、フランス語が公用語と思われる。さらにクラリスはフランス系、その愛犬カールや衛士長のグスタフなどはドイツ系の名であることから、フランス系とドイツ系の国民が混在し、地理的にも両国に挟まれた、実際のアルザスやルクセンブルクのような場所にあると推定される。
平和でのどかな風景を持つ一方で、世界中で流通する紙幣を精巧に真似た偽札「ゴート札」を製造しており、東西冷戦下においては国際的に無視できない影響力を与えていた。世界最高レベルの造幣技術を誇り、「偽札界のブラックホール」と呼ばれ、400年もの間偽札製造の秘密を守るため、中世の権力闘争や世界中の政府機関、情報機関、警察機関の捜査をかいくぐってきた。
城内には脱出不可能な地下迷宮と、それに続く城内各所へ張り巡らされた落とし穴が隠されており、殺害の証拠隠滅のために、あるいは生きたまま迷宮に落とされた者の遺体が男女貴賤を問わず無数に散乱している。日露戦争中にこの地で調査を行っていたと思われる旧日本軍の軍偵が自決前に壁に刻んだ「1904 3 14 日本國軍偵 河上源之助 ここに果つ...... 仇......」の文を、同じく迷宮に落とされたルパンが発見している。
カリオストロ家は400年間、大公家と伯爵家の2つに分かれていた。大公家が代々の国政を担い、伯爵家は公国の影の部分である暗殺等の謀略を司っていたが、数年前に大公夫妻が謎の火災によって死亡。大公付きの摂政を務めていたラザール・ド・カリオストロ伯爵が、統治権を大公家に戻すためという名目で、大公家最後の姫であるクラリス・ド・カリオストロ姫を強制的に自身の婚約者として迎え、公国の独裁を目論んでいた。しかし、伯爵とクラリスの結婚式の当日、ルパンが引き起こした混乱に乗じて城に突入した銭形らの活躍によって「ゴート札」の印刷工場の存在が世に暴かれ、インターポールの査察が入るに至った。
カリオストロ家の家紋は下半身が魚になったヤギをかたどったもので、大公家と伯爵家にはその当主の証である指輪が代々受け継がれていた。大公家では青地に浮き彫り(カメオ)にされた左向きの銀のヤギ、伯爵家では赤地に彫り込まれた(インタリオ)右向きの金のヤギが用いられている(左右対称)。指輪の外周には今は使われていないゴート文字で「光と影、再び一つとなりて蘇らん」と彫られており、さらにこの2つの指輪を合わせると、その継ぎ目には同じくゴート文字で彫られた「光と影を結び、時告ぐる高き山羊の、日に向かいし眼に我を収めよ」という大公家に伝わる詩が浮かび上がるギミックが施されている。
かつてこの地には古代ローマ人が住んでいたとされ、のちに彼らがこの土地を離れる際、自分たちの住んでいた都市を水門を使って湖の中に沈め、それを大公家が代々守り続けていた。そして結婚式の翌日、湖の水が引いた後の湖底から古代ローマの壮麗な都市遺跡が良好な保存状態のままで姿を現した。
本作の宣伝費は、当時の一般的な作品の「5割増し」で、1億5000万円となった。ポスターは9点作成された。
1979年12月に、公開記念として『ルパンの花嫁コンテスト』が開催された。「ルパン三世の花嫁を一般公募する」という内容であり、水着審査などによるコンテスト優勝者が実際にルパン役の山田康雄と帝国ホテルで挙式をあげ、同時にウエディングドレス、新婚旅行と称した8日間のヨーロッパ旅行ツアー、フィアット500(69年型)の3点がプレゼントされるという企画であった。応募総数は、男女含め3212人であった。
現在では「日本アニメーション史に燦然と輝く名作」として評価が定着している。
公開当時の評価は比較的低いものであり、興行成績は配給収入10億円の成功を収めた前作『ルパンVS複製人間』より下回った。小黒祐一郎はこれに関して、当時のアニメは『宇宙戦艦ヤマト』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』といったSF作品全盛期であり、ブームの主流から離れたオーソドックスな内容、かつ若者向けというよりはファミリー・子ども向けに徹した当作は、当時のアニメファンからの受けが悪かったのではないかと分析している。また、公開段階での宮崎の知名度は低いものだった。
一方、関係者間での評価は公開当時から高く、商業アニメ作品が受賞することが少なかったアニメーション賞大藤信郎賞を受賞している。同時代の関係者からは、宮崎の演出手法やレイアウト、場面設計に注目が集まり、当時出された絵コンテ集はアニメ制作現場での教科書として使用されていた。
その後、1981年頃から数年にわたりアニメ雑誌「アニメージュ」が宮崎の特集を組むようになり、宮崎の名がアニメファンに広まると同時に、本作も名画座や学園祭での頻繁な上映や、関連出版物が多数刊行された。これにより、同誌のアニメグランプリの歴代作品部門で1位を連続受賞し、情報雑誌『ぴあ』の年間アワード企画「もあテン」(もう1度見たい過去作品ランキング)では2年連続ベストワンといった成績を残すなど、熱狂的なファンに支持されるカルトムービー的な作品となった後は、テレビ放送が繰り返し行われるなどした結果、現在の地位と評価を確立した。
宮崎本人は自著『出発点』で、「この作品は『ルパン1stシリーズ』や、東映時代にやってきたことの大棚ざらえで、だから昔からぼくの仕事を見てた人は失望したというのはよくわかるんです。汚れきった中年のおじさんを使って、新鮮なハッとする作品は作れないですよ。こういうことは2度とできないなって、思ってやりました。」と語っている。
公開当初から、本作に対して「鬱屈がある」とアニメ誌やムック誌で発言しており、『風の谷のナウシカ』公開時の『コミックボックス』(1984年5・6月号)の対談では、第二次世界大戦でモスクワを前にして撤退せざるを得なかったドイツ軍を例に挙げ、「独ソ戦のドイツみたいだといつも思うんですよ」と比喩している。
原作者のモンキー・パンチは、「原作とアニメは別」との考えから基本はアニメ製作に関与しない姿勢であり、本作は「宮崎版ルパン三世の傑作」と評している。
1996年には「未だにあの人の影響は強いですね。アメリカでもヨーロッパでも『ルパン三世』を知っている人はほとんどが『カリオストロの城』からですからね。物語の面白さもそうですが、その凄さは、僕とは違う『ルパン三世』を出した感じがします。僕の原作の場合は毒があって、女性に対する優しさはあるけれども、ああいう優しさはないんですね。わりとクール。それに対して宮崎さんは宮崎さん流のルパンを出した」と評しており、原作との違いも述べている一方で、銭形の人物像については「宮崎駿さんの解釈がもっとも正しい」としている。
2007年7月「ルパン三世シークレットナイト(新文芸坐)」では「『これは僕のルパンじゃない』って言ったんですね。『僕には描けない、優しさに包まれた、宮崎さんの作品としてとてもいい作品だ』って。でもこの後半の部分が削られて、最初の一言だけが大きく取り上げられちゃいましてね(苦笑)」と語ったことがある。2015年には「カリオストロを見て逆に僕の方が刺激された」とコメントしている。
ルパン三世役の山田康雄は本作をいたく気に入っており、「これがルパン三世の神髄ではないだろうか」とも語っている。
山田は本作について「日本人の作品にありがちな“お涙ちょうだい”的な人情喜劇にはなっていない。どちらかっていうと、ぼくの好きなアメリカ的な笑いのタイプなんですね」と分析し、「ギャグのセンスが非常に洗練されている」と評している。また「とにかく決定的に面白い。オープニングも話の展開も信じられないくらいだ。構成といい、絵といい、とても質の高いもので、こんなの見たこと無い。各所でギャグがちりばめられており、じつに楽しい」「ちょっと見ただけでは見過ごしちゃうようなところに手がかかっており、細かく描き込んでいる。これがルパンの精神だと思う。シャレていると思うね」と述べており「宮崎さん、大塚さん、バンザイだ」との讃辞も贈った。
アフレコの際、宮崎は「今回はこれまでと調子を変えて、例えばクリント・イーストウッドのような抑えた声をお願いしたいのでよろしく」と注文するが、自身でキャラクターを確立していた山田は「ルパンはまかしときな! 今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるンだ」と横柄な態度を見せた。しかし、試写を見終わった山田はその質の高さに態度を一変。「先程は大変失礼なこと言いまして申しわけございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と宮崎に頭を下げたという。
映画評論家の山田宏一は、1980年のテレビ初放送の際に「この週最高の見ものは、これである。おもしろい。血わき肉躍る(と言っても決して大げさではない)アニメ大活劇だ」と評し、「和田誠氏ふうに言えば、まさに“007”のようなおもしろさ。ギャグあり、アクションありの荒唐無稽なおもしろさ。アニメでこんなにドキドキ、ハラハラさせる映画もめずらしい。とにかく必見!と叫びたいうれしい快作である」と述べている。また、ルパン役の山田に関しても高く評価しており、「クリント・イーストウッドの声の吹き替えに不満な映画ファンも、このルパン三世の声の山田康雄には拍手かっさいを送るにちがいない」としている。
映画監督のスティーヴン・スピルバーグが本作を「史上最高の冒険活劇の1つ」と評し、特に冒頭のカーチェイスを「映画史上最も完璧なカーチェイス」と評したとの噂が国内外のファンの間で存在する。さらにそこから派生し、同監督の作品『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)のアクションシーンでは本作が影響を与えたという噂まで生んだ。スピルバーグが公開当時に本作を見たとすれば1980年のカンヌ国際映画祭が示唆されたが、カンヌの公式情報源によると本作はその年に上映されておらず、他にもスピルバーグが実際に発言したことを示す記録は無いため、事実関係は不明である。その一方、スピルバーグが製作総指揮を務めた『グーニーズ』(1985年)で登場するアーケードゲームが本作の関連ゲーム『クリフハンガー』であるなど、スピルバーグ作品に本作との明らかなつながりを見出すこともでき、北米版のDVD-VideoをリリースしたManga Entertainmentは上記の噂を記載に足ると判断、DVDパッケージ及びDVDに収録された予告編で、このスピルバーグの発言に言及している。
『トイ・ストーリー』などを手掛けたディズニーおよびピクサーのアニメーション監督ジョン・ラセターは、「愛している」という最上級の褒め言葉を使って本作を極めて高く評価している。ラセター曰く、本作が技術的にも芸術的にもストーリー的にも自身に多大なインスピレーションと絶大な影響を与えたと述べ、アニメーションの可能性、そして作りたい映画の方向性を与えてくれたとしている。さらに、この映画の良さについて意気投合したことが現在の妻ナンシーと結婚するきっかけになったとも話している。
※1 下記における各メディアソフトの価格はメーカーが提示した「標準価格」的なものであり、実売価格とは異なる場合がある。
※2 ビデオソフトの市販化にあたり、ビデオやLD、DVDなどに予告編が収録されたが、冒頭部分の宮崎のコメントが削除されている。劇場で使用された予告編では、冒頭に、黒い画面に白抜き文字で「前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。 宮崎駿」というコメントがある(主に上映された劇場の前上映作品『がんばれ!! タブチくん!!』にて使用)。なお、このコメントはキャッチコピーとして同時期に配布されたチラシ・新聞広告でも確認可能。削除された理由については不明。いずれにせよ市販されている媒体での「予告編完全収録」という表記は、実際には一部削除されているため不適切な表記となっている(2010年現在)。
※日本テレビ系列で放送されたもののみ記載。日本テレビ系列以外で放送されたものについては「日本テレビ系列以外」欄に記載。
本作は演出や脚本をはじめ、後続する「ルパン三世」シリーズに大きく影響を与えている。
1995年に作品の今後について話し合いが行われた際、視聴者からの手紙を理由に本作に寄せた作品作りを望むプロデューサーの中谷敏夫に対し「宮崎本人にオファーできないのに同じようなものを作っても、真似した、偽物だと言われるのがオチだ」と『TV第1シリーズ』から参加する飯岡順一が反論したことで口論となり、この一件を重く感じた飯岡は一時期、シリーズの参加を辞退していた。
2019年公開の『ルパン三世 THE FIRST』では、監督・脚本の山崎貴がファンだった本作を強く意識して製作にあたっており「いろいろな点で、『カリオストロの城』から逃げようとしていたんですが、どうしても、“カリオストロ愛”が漏れでてしまいました(笑)」と語っている。
原作者のモンキー・パンチは、上述の通り本作自体は肯定し高く評価しているものの、1996年に「『カリオストロの城』以降、作る人がみんな宮崎さんに引っ張られている。だからルパンが優しく優しくなって、女の子が倒れたら手を貸して起こしてあげるようなルパンばかりで、もういい加減にしてくれと言いたくなる」「僕の原作の場合は毒があって、女性に対する優しさはあるけれども、ああいう優しさはないんですね」「宮崎さんしか出来ないのに、他の演出家が自分の好みではないのにやろうとしているから無理がある。その人が持っている個性で動かしてくれればいいんだけど、宮崎さんのに引きずられている」と苦言を呈している。
2014年5月9日、本作のデジタルリマスター版が東宝映像事業部の配給で期間限定公開された。入場者特典として「完全復刻版B4チラシ」が配布され、劇場パンフレットも復刻販売された。原版の映像に映り込んだ汚れやゴミの除去、音声のノイズの除去、5.1chサラウンドへの再調整等のリマスタリングに3年が費やされている。
2019年10月25、26日には大野雄二による音楽シーンを生演奏する『〜映画公開40周年&大野雄二音楽活動55周年記念オフィシャル・プロジェクト〜映画『ルパン三世 カリオストロの城』シネマ・コンサート!andベストヒット『ルパン三世』ライブ!』を公演。
2020年には池袋・グランドシネマサンシャインにて8月21日から9月3日の期間限定上映がされた。
2017年には、ルパン三世生誕50周年企画としてデジタルリマスター版をベースにしたMX4D版が上映された。入場者特典として特報チラシのデザインのポストカードが配布された。この公開は、期間限定で全17スクリーンという小規模ながら、7600万円以上の興行収入を記録した。
2019年には劇場公開40周年を記念し、『ルパン三世 カリオストロの城 [4D版]』が11月8日から21日まで上映された。MX4D版は2回目の上映で、4DX版での上映は初である。また、入場者特典として「フィルム風しおり」が配布された。その後、2020年にシネマサンシャインにて、急遽4DXの期間限定上映が決定した。
2021年10月1日より2週間、ルパン三世のアニメ化50周年を記念して、全国50館でモンキー・パンチ総監督短編作品「ルパンは今も燃えているか?」との同時上映が実施された。来場者特典としては、A4クリアファイルが、数量限定で配布された。また、公開当時のパンフレットの復刻版が発売されることも発表された。
2019年1月23日、日本公開から40年後にはフランスで劇場初公開された。 | [
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"text": "『ルパン三世 カリオストロの城』(ルパンさんせい カリオストロのしろ)は、1979年に公開された日本のアニメ映画。モンキー・パンチ原作のアニメ『ルパン三世』の劇場映画第2作で、宮崎駿の劇場映画初監督作品である。ヨーロッパの小国・カリオストロ公国を舞台に、指輪に秘められた宝と偽札の謎にルパン三世たちの活躍を描く。",
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"text": "キャッチコピーは、「前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。」「巨大な城が動き始める!影の軍団が襲ってくる!」「生きては還れぬ謎の古城でついにめぐり逢った最強の敵!」。",
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"text": "1978年に公開された『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(以下、『ルパンVS複製人間』)に続くアニメ『ルパン三世』の劇場版第2作目として制作され、『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』(以下、『TV第2シリーズ』)の放送中に公開された。",
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"text": "本作はスタジオジブリ作品をはじめ、数多くの作品で監督などで携わっている事で知られる宮崎駿の映画初監督作品である。",
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"text": "『ルパン三世』シリーズの中でも、屈指の人気を誇る作品として知られる。公開当時の興行収入は低かったものの、評論家や関係者の中では高く評価され、その後はテレビ放送や上映会等が繰り返された事もあって人気が高まっていった。また、本作での宮崎の演出やレイアウト手法は、後世のアニメ業界に影響を与える事となった。",
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"text": "『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』(以下、『TV第1シリーズ』)後半に「Aプロダクション演出グループ」名義で参加した宮崎や『TV第1シリーズ』の作画監督である大塚康生が参加したことで、『TV第2シリーズ』や『ルパンVS複製人間』と異なり『TV第1シリーズ』後期に準じた作風となった。本作でルパンは『TV第1シリーズ』で着用していた緑色のジャケットを着用しており、車も『TV第1シリーズ』後半に登場したフィアット・500を使っている。",
"title": "概要"
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"text": "宮崎は本作を「『旧ルパン』、東映時代の作品の大棚ざらい」と位置付けており、参加した『TV第1シリーズ』や東映アニメーション所属時代に使用したアイデア・演出技法などを多く参考にしている。また、作風には宮崎独自の解釈や個性が強く反映されている。",
"title": "概要"
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"text": "日本テレビ系『金曜ロードショー』では、スタジオジブリ作品と同じく現在も定期的に放送されている。",
"title": "概要"
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"text": "注・ジョドーより下は役名クレジットなし。",
"title": "声の出演"
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"text": "1978年、『ルパン三世 ルパンVS複製人間』が成功したことを受け企画された。同作はターゲットとする観客層に大人を想定していたが、実際の観客層は『TV第2シリーズ』を視聴中の中高生が中心だったことから、ターゲットとする観客層は15~16歳中心に改められた。",
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"text": "監督に関して、製作会社の東京ムービー新社では『TV第2シリーズ』に参加する鈴木清順などが候補に挙がり、その後『ルパンVS複製人間』の脚本家チームが執筆した脚本を元に大塚康生へ監督を依頼していた。だが、気乗りしない大塚は宮崎に相談した結果、宮崎が監督に就任し、大塚自身は作画監督をすることとなった。",
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"text": "当時の宮崎は日本アニメーションで『赤毛のアン』のレイアウトや場面設定を担当していたが、これを降板。1979年5月に制作準備に取りかかった。後の作品と同様、宮崎は脚本なしでイメージボードと絵コンテを描き始め、脚本は共同名義の山崎晴哉が手直しする形となった。後に山崎の手により、脚本を元に集英社コバルト文庫からノベライズされている。",
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"text": "1979年7月、絵コンテの4分の3が完成した段階で作画作業が開始され、終了は公開15日前の11月末だった。大塚は現場について後に「連日修羅場だった」としている一方、宮崎は最初から「参加する各アニメーターの適性」を考え、場面ごとに担当するアニメーターを想定しながら絵コンテを作成したという。",
"title": "製作"
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"text": "構想~脚本~絵コンテ~製作までの総製作期間は「わずか半年」という短さであり、途中で製作期間内に終わらないと考えた宮崎は、下水道でのシーンの絵コンテを書き直しており、後に不満を語っている。また、本作のDパートでは仕上げに手間がかからないよう絵コンテを切ったとも述べており、ルパンがクラリスを誘拐した後にはオートジャイロによる空中戦も予定されていたが、本編では割愛された。",
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"text": "絵コンテ完成後、わずか4か月半ほどで制作された計算になり、大塚は「質の高さ/製作期間比でいえば、日本の長編アニメーション史上最短の製作期間記録ではないか」と語っている。最終的には製作は、予定された期間より1か月延びることとなったが、宮崎は「この作品で初めて自分の体力の限界を知った」と語っている。",
"title": "製作"
},
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"text": "主題歌である「炎のたからもの」の曲の旋律による編曲バリエーションBGMが多数作成されている。またBGM選曲は、本作のために録音された楽曲のほか、TVシリーズや劇場版前作、サウンドトラックアルバムなどから幅広く選び出された。",
"title": "製作"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "結婚式の場面で流れるバッハのパストラーレ・ヘ長調・BWV590は、本作の音楽録音の際にエレクトーンで録音し、音に広がりを出すためスピーカーで鳴らせた音をマイクで拾っている。",
"title": "製作"
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"text": "銭形警部とカリオストロ伯爵の面会する朝食の場面に使用されているBGMは、バッハの管弦楽組曲四番第四楽章Menuett。城の舞踏会とその外で銭形隊がカップラーメンをすすっている場面のBGMは、ヨハン・シュトラウス2世作曲のウィーン気質(かたぎ)の第二ワルツである。",
"title": "製作"
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"text": "本作は宮崎独自の解釈や演出により、それまでの作品と一線を画すものとなっている。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "宮崎は製作時、ルパン達について以下のように考えた。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "この意識によって宮崎は、ルパンの盗みのターゲットを「少女の心」とした。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "これにより、本作のルパンはアウトローというよりお姫様を救う心優しい男として描かれており、1発の発砲さえしない。同時に、宮崎はルパンの年齢設定もそれまでのイメージよりかなり高くして「ファンの知っているルパンよりも人生経験を積んできたのだから、当然これまでのイメージと異なっていても不思議ではない」とし、ルパンを演じた山田康雄も「歳をとったおじさんルパン」という認識で臨んでいた。また、作中でルパンが過去の自分を回想するシーンでは『TV第1シリーズ』のようなベンツSSKに乗り銃を何発も発砲する描写がされ、ルパンはそのころの自分を「一人で売り出そうと躍起になっている青二才」と呼んでいる。",
"title": "特色"
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"tag": "p",
"text": "作中に登場するクラリス姫は、宮崎駿の作品に登場するヒロインの典型である。清楚でいじらしく、主人公による救出を待つ受動的な立場(Damsel in distress)にありながら、自ら積極的に行動する気丈さと勇気も持ち合わせている。島本須美は、後に宮崎が脚本・監督を手がけた『TV第2シリーズ』最終話「さらば愛しきルパンよ」や、映画版『風の谷のナウシカ』でもヒロイン役を演じている。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "登場人物の名前の一部には、モーリス・ルブランの『アルセーヌ・ルパン』シリーズに由来するものがある。「カリオストロ」は同シリーズ『カリオストロ伯爵夫人』に登場するルパンの仇敵の名前であり、「クラリス」は同作品に登場する、産まれた男の子をカリオストロ伯爵夫人に誘拐されるルパンの恋人の名前である。なお、カリオストロとは元々、近世フランス史に登場した自称錬金術師で後世のフィクションにも多く取り上げられている人物であり、これを宮崎が題材とした。また、湖底から遺跡が出現するアイデアは『緑の目の令嬢』(『青い目の少女』)から得ている。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 24,
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"text": "劇中に登場する車や銃器類は、宮崎や大塚の趣味が活かされ、ほとんどが実在のものであり(後述)、支配階級であるカリオストロ伯爵のヨーロッパ貴族としての生活ぶりや振る舞いも考証されている。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "カリオストロ城のモデルになったのは、修復前のプファルツ城である。城下町は、当時宮崎が愛読した書籍「語りかける中世 イタリアの山岳都市・テベレ川流域」(鹿島出版会、1976年)に掲載された資料写真を参考にしている。",
"title": "特色"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "ルパンとカリオストロ伯爵の対決の場となった時計塔は、黒岩涙香・江戸川乱歩の『幽霊塔』をモチーフにしている。",
"title": "特色"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "ここでは、本作と『TV第1シリーズ』との共通点を列挙する。",
"title": "『TV第1シリーズ』との共通点"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "本作の主な舞台であるカリオストロ公国は人口3,500人で、世界で一番小さな国連加盟国と設定されている。壮麗な塔を持つカリオストロ城と城下町、古代ローマ時代に作られた水道橋を持ち、周囲を美しい山々と湖に囲まれた、緑豊かな国である。劇中の新聞やルパンが伯爵に送った予告状から、フランス語が公用語と思われる。さらにクラリスはフランス系、その愛犬カールや衛士長のグスタフなどはドイツ系の名であることから、フランス系とドイツ系の国民が混在し、地理的にも両国に挟まれた、実際のアルザスやルクセンブルクのような場所にあると推定される。",
"title": "カリオストロ公国"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "平和でのどかな風景を持つ一方で、世界中で流通する紙幣を精巧に真似た偽札「ゴート札」を製造しており、東西冷戦下においては国際的に無視できない影響力を与えていた。世界最高レベルの造幣技術を誇り、「偽札界のブラックホール」と呼ばれ、400年もの間偽札製造の秘密を守るため、中世の権力闘争や世界中の政府機関、情報機関、警察機関の捜査をかいくぐってきた。",
"title": "カリオストロ公国"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "城内には脱出不可能な地下迷宮と、それに続く城内各所へ張り巡らされた落とし穴が隠されており、殺害の証拠隠滅のために、あるいは生きたまま迷宮に落とされた者の遺体が男女貴賤を問わず無数に散乱している。日露戦争中にこの地で調査を行っていたと思われる旧日本軍の軍偵が自決前に壁に刻んだ「1904 3 14 日本國軍偵 河上源之助 ここに果つ...... 仇......」の文を、同じく迷宮に落とされたルパンが発見している。",
"title": "カリオストロ公国"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "カリオストロ家は400年間、大公家と伯爵家の2つに分かれていた。大公家が代々の国政を担い、伯爵家は公国の影の部分である暗殺等の謀略を司っていたが、数年前に大公夫妻が謎の火災によって死亡。大公付きの摂政を務めていたラザール・ド・カリオストロ伯爵が、統治権を大公家に戻すためという名目で、大公家最後の姫であるクラリス・ド・カリオストロ姫を強制的に自身の婚約者として迎え、公国の独裁を目論んでいた。しかし、伯爵とクラリスの結婚式の当日、ルパンが引き起こした混乱に乗じて城に突入した銭形らの活躍によって「ゴート札」の印刷工場の存在が世に暴かれ、インターポールの査察が入るに至った。",
"title": "カリオストロ公国"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "カリオストロ家の家紋は下半身が魚になったヤギをかたどったもので、大公家と伯爵家にはその当主の証である指輪が代々受け継がれていた。大公家では青地に浮き彫り(カメオ)にされた左向きの銀のヤギ、伯爵家では赤地に彫り込まれた(インタリオ)右向きの金のヤギが用いられている(左右対称)。指輪の外周には今は使われていないゴート文字で「光と影、再び一つとなりて蘇らん」と彫られており、さらにこの2つの指輪を合わせると、その継ぎ目には同じくゴート文字で彫られた「光と影を結び、時告ぐる高き山羊の、日に向かいし眼に我を収めよ」という大公家に伝わる詩が浮かび上がるギミックが施されている。",
"title": "カリオストロ公国"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "かつてこの地には古代ローマ人が住んでいたとされ、のちに彼らがこの土地を離れる際、自分たちの住んでいた都市を水門を使って湖の中に沈め、それを大公家が代々守り続けていた。そして結婚式の翌日、湖の水が引いた後の湖底から古代ローマの壮麗な都市遺跡が良好な保存状態のままで姿を現した。",
"title": "カリオストロ公国"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "本作の宣伝費は、当時の一般的な作品の「5割増し」で、1億5000万円となった。ポスターは9点作成された。",
"title": "プロモーション"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1979年12月に、公開記念として『ルパンの花嫁コンテスト』が開催された。「ルパン三世の花嫁を一般公募する」という内容であり、水着審査などによるコンテスト優勝者が実際にルパン役の山田康雄と帝国ホテルで挙式をあげ、同時にウエディングドレス、新婚旅行と称した8日間のヨーロッパ旅行ツアー、フィアット500(69年型)の3点がプレゼントされるという企画であった。応募総数は、男女含め3212人であった。",
"title": "プロモーション"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "現在では「日本アニメーション史に燦然と輝く名作」として評価が定着している。",
"title": "評価"
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"tag": "p",
"text": "公開当時の評価は比較的低いものであり、興行成績は配給収入10億円の成功を収めた前作『ルパンVS複製人間』より下回った。小黒祐一郎はこれに関して、当時のアニメは『宇宙戦艦ヤマト』や『宇宙海賊キャプテンハーロック』といったSF作品全盛期であり、ブームの主流から離れたオーソドックスな内容、かつ若者向けというよりはファミリー・子ども向けに徹した当作は、当時のアニメファンからの受けが悪かったのではないかと分析している。また、公開段階での宮崎の知名度は低いものだった。",
"title": "評価"
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"text": "一方、関係者間での評価は公開当時から高く、商業アニメ作品が受賞することが少なかったアニメーション賞大藤信郎賞を受賞している。同時代の関係者からは、宮崎の演出手法やレイアウト、場面設計に注目が集まり、当時出された絵コンテ集はアニメ制作現場での教科書として使用されていた。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "その後、1981年頃から数年にわたりアニメ雑誌「アニメージュ」が宮崎の特集を組むようになり、宮崎の名がアニメファンに広まると同時に、本作も名画座や学園祭での頻繁な上映や、関連出版物が多数刊行された。これにより、同誌のアニメグランプリの歴代作品部門で1位を連続受賞し、情報雑誌『ぴあ』の年間アワード企画「もあテン」(もう1度見たい過去作品ランキング)では2年連続ベストワンといった成績を残すなど、熱狂的なファンに支持されるカルトムービー的な作品となった後は、テレビ放送が繰り返し行われるなどした結果、現在の地位と評価を確立した。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "宮崎本人は自著『出発点』で、「この作品は『ルパン1stシリーズ』や、東映時代にやってきたことの大棚ざらえで、だから昔からぼくの仕事を見てた人は失望したというのはよくわかるんです。汚れきった中年のおじさんを使って、新鮮なハッとする作品は作れないですよ。こういうことは2度とできないなって、思ってやりました。」と語っている。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "公開当初から、本作に対して「鬱屈がある」とアニメ誌やムック誌で発言しており、『風の谷のナウシカ』公開時の『コミックボックス』(1984年5・6月号)の対談では、第二次世界大戦でモスクワを前にして撤退せざるを得なかったドイツ軍を例に挙げ、「独ソ戦のドイツみたいだといつも思うんですよ」と比喩している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "原作者のモンキー・パンチは、「原作とアニメは別」との考えから基本はアニメ製作に関与しない姿勢であり、本作は「宮崎版ルパン三世の傑作」と評している。",
"title": "評価"
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"text": "1996年には「未だにあの人の影響は強いですね。アメリカでもヨーロッパでも『ルパン三世』を知っている人はほとんどが『カリオストロの城』からですからね。物語の面白さもそうですが、その凄さは、僕とは違う『ルパン三世』を出した感じがします。僕の原作の場合は毒があって、女性に対する優しさはあるけれども、ああいう優しさはないんですね。わりとクール。それに対して宮崎さんは宮崎さん流のルパンを出した」と評しており、原作との違いも述べている一方で、銭形の人物像については「宮崎駿さんの解釈がもっとも正しい」としている。",
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"text": "2007年7月「ルパン三世シークレットナイト(新文芸坐)」では「『これは僕のルパンじゃない』って言ったんですね。『僕には描けない、優しさに包まれた、宮崎さんの作品としてとてもいい作品だ』って。でもこの後半の部分が削られて、最初の一言だけが大きく取り上げられちゃいましてね(苦笑)」と語ったことがある。2015年には「カリオストロを見て逆に僕の方が刺激された」とコメントしている。",
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"text": "ルパン三世役の山田康雄は本作をいたく気に入っており、「これがルパン三世の神髄ではないだろうか」とも語っている。",
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"text": "山田は本作について「日本人の作品にありがちな“お涙ちょうだい”的な人情喜劇にはなっていない。どちらかっていうと、ぼくの好きなアメリカ的な笑いのタイプなんですね」と分析し、「ギャグのセンスが非常に洗練されている」と評している。また「とにかく決定的に面白い。オープニングも話の展開も信じられないくらいだ。構成といい、絵といい、とても質の高いもので、こんなの見たこと無い。各所でギャグがちりばめられており、じつに楽しい」「ちょっと見ただけでは見過ごしちゃうようなところに手がかかっており、細かく描き込んでいる。これがルパンの精神だと思う。シャレていると思うね」と述べており「宮崎さん、大塚さん、バンザイだ」との讃辞も贈った。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "アフレコの際、宮崎は「今回はこれまでと調子を変えて、例えばクリント・イーストウッドのような抑えた声をお願いしたいのでよろしく」と注文するが、自身でキャラクターを確立していた山田は「ルパンはまかしときな! 今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるンだ」と横柄な態度を見せた。しかし、試写を見終わった山田はその質の高さに態度を一変。「先程は大変失礼なこと言いまして申しわけございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と宮崎に頭を下げたという。",
"title": "評価"
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"text": "映画評論家の山田宏一は、1980年のテレビ初放送の際に「この週最高の見ものは、これである。おもしろい。血わき肉躍る(と言っても決して大げさではない)アニメ大活劇だ」と評し、「和田誠氏ふうに言えば、まさに“007”のようなおもしろさ。ギャグあり、アクションありの荒唐無稽なおもしろさ。アニメでこんなにドキドキ、ハラハラさせる映画もめずらしい。とにかく必見!と叫びたいうれしい快作である」と述べている。また、ルパン役の山田に関しても高く評価しており、「クリント・イーストウッドの声の吹き替えに不満な映画ファンも、このルパン三世の声の山田康雄には拍手かっさいを送るにちがいない」としている。",
"title": "評価"
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"text": "映画監督のスティーヴン・スピルバーグが本作を「史上最高の冒険活劇の1つ」と評し、特に冒頭のカーチェイスを「映画史上最も完璧なカーチェイス」と評したとの噂が国内外のファンの間で存在する。さらにそこから派生し、同監督の作品『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)のアクションシーンでは本作が影響を与えたという噂まで生んだ。スピルバーグが公開当時に本作を見たとすれば1980年のカンヌ国際映画祭が示唆されたが、カンヌの公式情報源によると本作はその年に上映されておらず、他にもスピルバーグが実際に発言したことを示す記録は無いため、事実関係は不明である。その一方、スピルバーグが製作総指揮を務めた『グーニーズ』(1985年)で登場するアーケードゲームが本作の関連ゲーム『クリフハンガー』であるなど、スピルバーグ作品に本作との明らかなつながりを見出すこともでき、北米版のDVD-VideoをリリースしたManga Entertainmentは上記の噂を記載に足ると判断、DVDパッケージ及びDVDに収録された予告編で、このスピルバーグの発言に言及している。",
"title": "評価"
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"text": "『トイ・ストーリー』などを手掛けたディズニーおよびピクサーのアニメーション監督ジョン・ラセターは、「愛している」という最上級の褒め言葉を使って本作を極めて高く評価している。ラセター曰く、本作が技術的にも芸術的にもストーリー的にも自身に多大なインスピレーションと絶大な影響を与えたと述べ、アニメーションの可能性、そして作りたい映画の方向性を与えてくれたとしている。さらに、この映画の良さについて意気投合したことが現在の妻ナンシーと結婚するきっかけになったとも話している。",
"title": "評価"
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"text": "※1 下記における各メディアソフトの価格はメーカーが提示した「標準価格」的なものであり、実売価格とは異なる場合がある。",
"title": "ビデオソフト"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "※2 ビデオソフトの市販化にあたり、ビデオやLD、DVDなどに予告編が収録されたが、冒頭部分の宮崎のコメントが削除されている。劇場で使用された予告編では、冒頭に、黒い画面に白抜き文字で「前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。 宮崎駿」というコメントがある(主に上映された劇場の前上映作品『がんばれ!! タブチくん!!』にて使用)。なお、このコメントはキャッチコピーとして同時期に配布されたチラシ・新聞広告でも確認可能。削除された理由については不明。いずれにせよ市販されている媒体での「予告編完全収録」という表記は、実際には一部削除されているため不適切な表記となっている(2010年現在)。",
"title": "ビデオソフト"
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"text": "※日本テレビ系列で放送されたもののみ記載。日本テレビ系列以外で放送されたものについては「日本テレビ系列以外」欄に記載。",
"title": "テレビ放送履歴"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "本作は演出や脚本をはじめ、後続する「ルパン三世」シリーズに大きく影響を与えている。",
"title": "後の「ルパン三世」シリーズへの影響"
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"text": "1995年に作品の今後について話し合いが行われた際、視聴者からの手紙を理由に本作に寄せた作品作りを望むプロデューサーの中谷敏夫に対し「宮崎本人にオファーできないのに同じようなものを作っても、真似した、偽物だと言われるのがオチだ」と『TV第1シリーズ』から参加する飯岡順一が反論したことで口論となり、この一件を重く感じた飯岡は一時期、シリーズの参加を辞退していた。",
"title": "後の「ルパン三世」シリーズへの影響"
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"text": "2019年公開の『ルパン三世 THE FIRST』では、監督・脚本の山崎貴がファンだった本作を強く意識して製作にあたっており「いろいろな点で、『カリオストロの城』から逃げようとしていたんですが、どうしても、“カリオストロ愛”が漏れでてしまいました(笑)」と語っている。",
"title": "後の「ルパン三世」シリーズへの影響"
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"text": "原作者のモンキー・パンチは、上述の通り本作自体は肯定し高く評価しているものの、1996年に「『カリオストロの城』以降、作る人がみんな宮崎さんに引っ張られている。だからルパンが優しく優しくなって、女の子が倒れたら手を貸して起こしてあげるようなルパンばかりで、もういい加減にしてくれと言いたくなる」「僕の原作の場合は毒があって、女性に対する優しさはあるけれども、ああいう優しさはないんですね」「宮崎さんしか出来ないのに、他の演出家が自分の好みではないのにやろうとしているから無理がある。その人が持っている個性で動かしてくれればいいんだけど、宮崎さんのに引きずられている」と苦言を呈している。",
"title": "後の「ルパン三世」シリーズへの影響"
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"text": "2014年5月9日、本作のデジタルリマスター版が東宝映像事業部の配給で期間限定公開された。入場者特典として「完全復刻版B4チラシ」が配布され、劇場パンフレットも復刻販売された。原版の映像に映り込んだ汚れやゴミの除去、音声のノイズの除去、5.1chサラウンドへの再調整等のリマスタリングに3年が費やされている。",
"title": "再公開"
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"text": "2019年10月25、26日には大野雄二による音楽シーンを生演奏する『〜映画公開40周年&大野雄二音楽活動55周年記念オフィシャル・プロジェクト〜映画『ルパン三世 カリオストロの城』シネマ・コンサート!andベストヒット『ルパン三世』ライブ!』を公演。",
"title": "再公開"
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"text": "2020年には池袋・グランドシネマサンシャインにて8月21日から9月3日の期間限定上映がされた。",
"title": "再公開"
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"text": "2017年には、ルパン三世生誕50周年企画としてデジタルリマスター版をベースにしたMX4D版が上映された。入場者特典として特報チラシのデザインのポストカードが配布された。この公開は、期間限定で全17スクリーンという小規模ながら、7600万円以上の興行収入を記録した。",
"title": "再公開"
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"text": "2019年には劇場公開40周年を記念し、『ルパン三世 カリオストロの城 [4D版]』が11月8日から21日まで上映された。MX4D版は2回目の上映で、4DX版での上映は初である。また、入場者特典として「フィルム風しおり」が配布された。その後、2020年にシネマサンシャインにて、急遽4DXの期間限定上映が決定した。",
"title": "再公開"
},
{
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"text": "2021年10月1日より2週間、ルパン三世のアニメ化50周年を記念して、全国50館でモンキー・パンチ総監督短編作品「ルパンは今も燃えているか?」との同時上映が実施された。来場者特典としては、A4クリアファイルが、数量限定で配布された。また、公開当時のパンフレットの復刻版が発売されることも発表された。",
"title": "再公開"
},
{
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"text": "2019年1月23日、日本公開から40年後にはフランスで劇場初公開された。",
"title": "再公開"
}
] | 『ルパン三世 カリオストロの城』は、1979年に公開された日本のアニメ映画。モンキー・パンチ原作のアニメ『ルパン三世』の劇場映画第2作で、宮崎駿の劇場映画初監督作品である。ヨーロッパの小国・カリオストロ公国を舞台に、指輪に秘められた宝と偽札の謎にルパン三世たちの活躍を描く。 キャッチコピーは、「前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。」「巨大な城が動き始める!影の軍団が襲ってくる!」「生きては還れぬ謎の古城でついにめぐり逢った最強の敵!」。 | {{Infobox Film
| 作品名 = ルパン三世 カリオストロの城
| 原題 =
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像解説 =
| 監督 = [[宮崎駿]]
| 脚本 = 宮崎駿<br />[[山崎晴哉]]
| 原作 = [[モンキー・パンチ]]
| 製作 = [[藤岡豊]]
| 製作総指揮 =
| 出演者 = [[山田康雄]]<br />[[増山江威子]]<br />[[小林清志]]<br />[[井上真樹夫]]<br />[[納谷悟朗]]<br />[[島本須美]]<br />[[石田太郎]]
| 音楽 = [[大野雄二]]
| 主題歌 = [[BOBBY (歌手)|ボビー]]「[[炎のたからもの]]」
| 制作会社 =
| 製作会社 = [[東京ムービー新社]]
| 配給 = [[東宝]]
| 公開 = {{flagicon|JPN}} 1979年12月15日
| 上映時間 = 100分
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 = 5億円{{Sfn|東宝|1979|p=3}}
| 興行収入 = {{flagicon|JPN}} 6億1000万円{{R|M27}}
| 配給収入 = {{flagicon|JPN}} 3億500万円{{R|M28}}
| 前作 = [[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]
| 次作 = [[ルパン三世 バビロンの黄金伝説]]
}}
『'''ルパン三世 カリオストロの城'''』(ルパンさんせい カリオストロのしろ)は、[[1979年]]に公開された[[日本映画|日本]]の[[アニメーション映画|アニメ映画]]。[[モンキー・パンチ]]原作のアニメ『[[ルパン三世]]』の[[アニメーション映画|劇場映画]]第2作で、[[宮崎駿]]の劇場映画[[映画監督|初監督]]作品である。ヨーロッパの小国・カリオストロ公国を舞台に、指輪に秘められた宝と偽札の謎に[[ルパン三世 (架空の人物)|ルパン三世]]たちの活躍を描く。
[[キャッチコピー]]は、「'''前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。'''」「'''巨大な城が動き始める!影の軍団が襲ってくる!'''」「'''生きては還れぬ謎の古城でついにめぐり逢った最強の敵!'''」。
== 概要 ==
[[1978年]]に公開された『[[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]』(以下、『ルパンVS複製人間』)に続くアニメ『ルパン三世』の劇場版第2作目として制作され、『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]]』(以下、『TV第2シリーズ』)の放送中に公開された。
本作は[[スタジオジブリ]]作品をはじめ、数多くの作品で監督などで携わっている事で知られる'''[[宮崎駿]]の映画初監督作品'''{{Efn|テレビアニメ初監督作品は、[[1978年]]放送の『[[未来少年コナン]]』である。}}である。
『ルパン三世』シリーズの中でも、屈指の人気を誇る作品として知られる<ref>{{Cite news|title=【今さら聞けない】「ルパン三世 カリオストロの城」が不朽の名作と言われる3つのワケ【#金ロー】|publisher=アニメ!アニメ!|date=2020-11-20|url=https://animeanime.jp/article/2020/11/20/57729.html|accessdate=2023-05-01}}</ref>。公開当時の興行収入は低かったものの、評論家や関係者の中では高く評価され、その後はテレビ放送や上映会等が繰り返された事もあって人気が高まっていった。また、本作での宮崎の演出やレイアウト手法は、後世のアニメ業界に影響を与える事となった。
『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]]』(以下、『TV第1シリーズ』)後半に「[[シンエイ動画|Aプロダクション]]演出グループ」名義で参加した宮崎や『TV第1シリーズ』の[[作画監督]]である[[大塚康生]]が参加したことで、『TV第2シリーズ』や『ルパンVS複製人間』と異なり『TV第1シリーズ』後期に準じた作風となった{{R|oguro2}}。本作でルパンは『TV第1シリーズ』で着用していた緑色のジャケットを着用しており、車も『TV第1シリーズ』後半に登場した[[フィアット・500]]を使っている{{R|oguro2}}。
宮崎は本作を「『旧ルパン』、東映時代の作品の大棚ざらい」と位置付けており、参加した『TV第1シリーズ』や[[東映アニメーション]]所属時代に使用したアイデア・演出技法などを多く参考にしている{{Sfn|宮崎駿|1996|p=}}。また、作風には宮崎独自の解釈や個性が強く反映されている。
[[日本テレビ系]]『[[金曜ロードショー]]』では、スタジオジブリ作品と同じく現在も定期的に放送されている。
== あらすじ ==
; プロローグ
: 世界的な怪盗'''[[#ルパン|ルパン三世]]'''は、仲間の'''[[次元大介]]'''・'''[[石川五ェ門]]'''{{Efn|冒頭のカジノから盗み出すシーンでは、五ェ門の姿は全く映っていないが、追っ手の車を真っ二つにしており、その後の偽札を撒き散らすシーンでは後部座席に五ェ門の後頭部と斬鉄剣が確認できる。}}と共に、モナコの国営[[カジノ]]の大金庫から大金を盗み出すが、それが真券同然の精巧さで知られる幻の[[偽札]]'''「[[#カリオストロ公国|ゴート札]]」'''であることに気づく。ルパン家の家訓の一つ「偽物に手を出すなかれ」に従い、偽札を車から撒き散らして捨てたルパンと次元は、ゴート札を次の標的に定めて、その出処と疑われているヨーロッパの'''[[#カリオストロ公国|カリオストロ公国]]'''に向かう。
; 序盤
: 入国したルパンたちは、猛スピードで車を走らせる[[ウェディングドレス]]姿の少女と彼女を追う男達を見かけ、訳もわからぬまま少女を助けようとする。少女はこの国の亡き[[大公]]の娘'''[[#クラリス|クラリス]]'''だった。クラリスは、大公夫妻の死後摂政としてこの国を治めている'''[[#ラザール・ド・カリオストロ伯爵|カリオストロ伯爵]]'''に結婚を迫られ、逃げ出したのだ。ルパン達は追っ手を撃退したが、ルパンはクラリス共々崖から落ち、落ちてきた枯れ木が頭を直撃して気絶する。
: その間に別の追っ手が迫り、クラリスはルパンに累が及ばないよう単身その場を離れ、連れ去られてしまう。ルパンはクラリスが残していった指輪を見て幼い頃の彼女に出逢ったことを思い出す。かつてルパンがゴート札を狙って公国に忍び込んだ末に重傷を負わされたとき、介抱してくれた幼女がクラリスだったのだ。一方、捕らえたクラリスが指輪をしていないことに気づいた伯爵は、クラリスの逃亡を手助けしたルパンらに暗殺集団を差し向ける。伯爵は自分の持つ金の指輪とクラリスの銀の指輪を合わせることで手に入れることができるというゴートの秘宝を狙っていたのだった。
: 宿に現れた暗殺集団の手を逃れたルパンは、伯爵にクラリス奪取を予告、五ェ門を呼び寄せるとともに、ルパンの逮捕に執念を燃やす[[ICPO (ルパン三世)|国際警察(ICPO/インターポール)]]の'''[[銭形幸一|銭形警部]]'''に情報をリークし、クラリスが監禁されている伯爵の城へ来るように仕向ける。銭形は埼玉県警の警察官を多数率いて早速城へとやってくるが、衛士たちに邪魔されて思うように捜査ができない。
; 中盤
: ルパンは水道橋を伝って城内に潜入すると、銭形に変装して衛士隊を欺き、騒ぎを引き起こしてその隙に更に奥へと入り込む。クラリスの身のまわりの世話をする使用人として城に入り込んでいた'''[[峰不二子]]'''からクラリスの居場所を聞き出したルパンはクラリスと対面して指輪を返し、クラリスとしばし心を通わせるが、伯爵に見つかり、地下へと通じる穴に落とされてしまう。地下は巨大な牢獄になっていて、権謀術数の犠牲者やゴート紙幣の謎をつかもうとして見つかった者たちの骨が散らばっている。
: しかしルパンが返した指輪は盗聴器仕込みの偽物だった。伯爵の狙いがカリオストロ家の先祖の財宝であり、その鍵である2つの指輪のうちのひとつを手に入れるためにクラリスに結婚を強いていたことをその指輪を通じて聞き出したルパンは、本物の指輪がほしければクラリスに危害を加えないようにとマイクを通じて伯爵に警告する。
: ルパンは地下牢獄で先に落とし穴に落とされていた銭形と再会する。ふたりは指輪奪還の為に放たれた暗殺者を協力して返り討ちにして地下牢獄から脱出する。その途上、礼拝堂の地下にある偽札工場を発見したことにより義憤を抱く銭形と、クラリスを連れて城を抜け出したいルパンは、一時休戦することを約束する。
: ルパンは銭形とともに伯爵のオートジャイロを奪い、クラリスを救い出すことに成功したかに見えたが、追いついた伯爵一味に胸を撃ち抜かれて重傷を負う。銭形と不二子によってルパンは辛くも救出されるが、クラリスと本物の指輪は伯爵の手に落ちる。
: ルパンと別れた銭形は持ち帰った偽札の証拠を国際警察に提出し、出動を要請するが、「高度に政治的な問題」であることと「クラリスをルパンから守った」伯爵を支持する世論を理由に、国際警察はゴート札について各国毎の対応に留め不動を貫き、銭形を愕然とさせる。以後、銭形はルパン捜査担当の任を解かれ、失意の内に日本へと帰国する。
; 終盤
: 大公夫妻に仕える庭師だった老人の治療によって命を助けられたルパンは、クラリスと伯爵の結婚式に出席する大司教に変装して城に入り込む。一方、ルパンが伯爵とクラリスの結婚式を襲うという情報を不二子から得た銭形も「ルパンによる結婚式襲撃を阻止し、同時にルパンを逮捕する」という天下御免の名目でカリオストロ公国へと再び向かう。不二子は結婚式を中継するテレビクルーの一員になりすましている。ルパンは騒ぎを起こして指輪を奪い取り、クラリスを抱いて窓から式場を脱出する。式場では衛士隊と暗殺集団、そして城内に突入してきた銭形率いる機動隊との間で大乱闘が生じ、その隙に銭形は地下の偽札印刷工場に潜入すると、追ってきた不二子が構えるテレビカメラの前で大仰に偽札を掲げてみせる。
: ルパンとクラリスは水道橋を渡り、時計塔の内部に逃げ込むが、クラリスは時計塔最上部にある巨大な時計の短針の先まで伯爵に追い詰められてしまう。ルパンは時計塔を見て気付いた指輪の秘密を伯爵に教え、指輪を使うことで手に入るであろう宝と引き換えにクラリスを引き渡すよう要求するが、伯爵はルパンの隙を突いて指輪を奪い取り、ルパンを助けるために伯爵を道連れに投身しようとしたクラリスを湖へと蹴落とす。ルパンは後を追って宙に身を投げ、クラリスを抱き止めながら共に湖へと落ちて行く。
: ルパンの言葉に従い、伯爵は大時計の文字盤にあるヤギの彫刻の眼に二つの指輪を填める。ところがそれと同時に時計塔の内部の複雑な歯車が一度に動き出し、時計の針が急速に回り始める。逃げ場を失った伯爵は長針と短針に挟まれて無残な最期を遂げる。やがて時計塔そのものが崩壊を始め、湖の周囲の壁に巨大な穴があいて湖の水が城に流れ込んでくる。
: 夜が明け、無事に湖岸へと辿り着いていたルパンとクラリスは湖の底から現れた遺跡の姿を目の当たりにする。湖は実は時計塔を水門とした[[ダム]]湖で、財宝とは先祖が隠した[[古代ローマ]]の[[ポリス]]であり、時計塔の仕掛けは湛えられている水を排出して沈んだ遺跡を表出させるための装置、そして指輪はその起動装置だったのである。
; エピローグ
: 銭形が不二子とともに[[中継放送|衛星テレビ中継]]で偽札工場の全容を全世界に晒したことで、ようやく国際警察も動き出し、歴史の暗部と言われたカリオストロ公国についに捜査のメスが入ることになった。
: 国連の[[空挺兵|空挺部隊]]が城に向けて降下するのを見ながら、クラリスはルパンについて行くことを望むが、ルパンは葛藤しながらも「お前さんの人生はこれから始まるんだ。俺のように薄汚れちゃいけないんだよ」と国に留まるよう諭し、「困った事があったらいつでも連絡しろ、地球の裏側からだってすぐ来てやるから」と言い残し、次元と五ェ門とともに去って行く。
: ルパンを追ってきた銭形が、「ルパンめ、まんまと盗みおって…!!」と悔しがる。「彼らは何も盗んでいない、自分の為に戦ってくれた」と擁護するクラリスに対し'''「いや、ヤツはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」'''と言い当てると、クラリスは目を輝かせて「はい!」と答える。それを聞いた銭形は敬礼と別れの挨拶をして去って行く。別の車両にいた埼玉県警の警官達も、清々しい表情で手を振って見送るのだった。
:いつかきっとまた会えると希望を抱きながら、クラリスはルパンと銭形たち警官隊の車が追いつ追われつしながら地平線へと消えていく光景を見つめていた。
== 登場人物 ==
=== メインキャラクター ===
{{seealso|ルパン三世#登場人物}}
; [[ルパン三世 (架空の人物)|ルパン三世]](ルパンさんせい)
: [[声優|声]] - [[山田康雄]]
: 本作の主人公。怪盗ルパンこと[[アルセーヌ・ルパン]]の孫で、世界的な大怪盗にして変装の達人。
: ゴート札の出処と疑われているカリオストロ公国へ入国した際に追われていたクラリスを見かけ、助けるために追っ手を撃退するが、彼女は別の追っ手に連れ去られてしまう。クラリスが残した指輪を見て、彼女が昔自分を助けてくれた幼女であったことに気づく。
; [[峰不二子|峰 不二子]](みね ふじこ)
: 声 - [[増山江威子]]
: ルパン一味の付かず離れずの紅一点で、時にはルパン達を利用したり裏切ったりすることも多い。
: カリオストロ城の秘密を探るため、ルパンたちより先に単独で「クラリスの召し使い」として城内に潜入していた。今作ではルパン一味との関わりは少ないものの、ルパンや銭形に情報を流して陰ながらにサポートをしている。
; [[次元大介|次元 大介]](じげん だいすけ)
: 声 - [[小林清志]]
: “コンバットマグナム”[[S&W M19]]を使う射撃の名手で、ルパンの相棒。
: ルパンと共にカリオストロ公国の城に水中から潜入するもはぐれてしまい、その後は五ェ門と共に重傷を負ったルパンを匿ったり、対戦車ライフルによる射撃で援護したりした。クラリスの事を「お姫さん」と呼び、健気な彼女を良い娘と評している。
; [[石川五ェ門 (ルパン三世)|石川 五ェ門]](いしかわ ごえもん)
: 声 - [[井上真樹夫]]
: ルパン一味の一人。大泥棒[[石川五右衛門|石川五ェ門]]の十三代目で、最強の刀「[[斬鉄剣]]」を武器に戦う剣客。
: ルパン達と合流した際、ルパンがわざと銭形をカリオストロに呼んだ意図を見抜く等持ち前の勘の鋭さを見せた。
: クラリスの真摯な立ち振る舞いに触れて、思わず「可憐だ」と漏らし、その後の戦闘では普段以上の冴えを見せた。
; [[銭形幸一|銭形 幸一]](ぜにがた こういち)
: 声 - [[納谷悟朗]]
: [[ICPO (ルパン三世)|インターポール]]所属のルパン三世専任捜査官で、階級は[[警部]]。通称「(銭形の)とっつぁん」。専任捜査官である故、ルパンに関係する事件なら世界中どこでも捜査権が認められている。
: ルパンの情報を聞きつけて埼玉県警機動隊{{Efn|埼玉県警を引き連れているが、「[[警視庁]]をナメるな!」と追っ手の衛士隊や召使いを投げ飛ばしながら言い放っている。}}を率いてカリオストロ公国に駆け付け、伯爵城の外周警備を行うが、カリオストロ伯爵の裏工作でインターポールから帰還命令が出る。納得できずに伯爵に掛け合おうとするが、床に仕掛けられた罠により城の地下牢獄に落とされ、途方に暮れているところを同じく落とされたルパンと合流。ゴート札の秘密を知りルパンと一時休戦して共に地下から脱出。インターポールにニセ札製造の実態を訴えるも歴史の暗部に深く噛む事案であるがゆえに歯牙にもかけられなかったため、一時は落胆して任務から退く。
: その後、不二子からルパンが伯爵の結婚式に乱入する気であることを知らされる。これ幸いと、ルパン逮捕を口実にニセ札の製造現場とその実態を世界に暴露するべく自らも再び機動隊を指揮して現場に赴く。ルパンの大暴れによる騒ぎの中、城に機動隊を率いて突入し、レポーターに変装して潜入した不二子と共に地下の偽札工場を偶然発見した振りをして世界中に中継することで、インターポールの鼻を明かした。
: ルパン曰く「昭和一桁生まれ」とのこと。
: 他の作品と違い、手錠や拳銃を取り出す場面がない。
=== ゲストキャラクター ===
; {{Visible anchor|クラリス・ド・カリオストロ|クラリス}}
: 声 - [[島本須美]]
: 本作のヒロインにしてキーパーソン。カリオストロ公国の公女で、[[大公]]家最後の姫君。大公家に伝わる「銀の山羊の指輪」の所有者。
: 7年前に起きた大公の館の大火事{{Efn|山崎版ノベライズでは、伯爵の差し金による[[放火]]の可能性があると庭師の老人が言及している。}}で両親を亡くして以来、永らく修道院に入っていたが、両家を統一し国を手中に収めようとするカリオストロ伯爵との政略結婚を強いられる。非道な行為を続ける伯爵に反発し、婚礼衣装の仮縫いの隙を突いて脱走する。伯爵の差し向けた追手から逃げている途中でルパンと再会し、一時は助けられるが、再び捕らわれる。
: 終盤では薬物により意識を奪われた状態で結婚式を挙げさせられていたが、三たび城に潜入したルパン一味に助けられ、逃亡中に次元と五ェ門にも感謝の言葉を述べた。
: 幼少期、若き日のルパンが伯爵の城から脱出中に負傷し行き倒れていたところを介抱していた。クラリス本人はその時のことを覚えていないが、エピローグでは「ずっと昔にあの方(ルパン)に会ったような気がするの。……ルパン……。きっとまた会えるわ」と呟く。
; {{Visible anchor|ラザール・ド・カリオストロ伯爵|伯爵}}
: 声 - [[石田太郎]]{{Efn|予告編では[[笹岡繁蔵]]が担当。}}
: [[#公国|カリオストロ公国]]の摂政を務める事実上の統治者。本作の[[悪役]]。
: [[伯爵]]家当主(代数は不明)で、大公夫妻の死後、摂政として公国の実権を握っている。表向きは傲岸不遜ながらも紳士的だが、本性は強欲かつ残虐非道な人物。伯爵家の一族を「大公家の影としてカリオストロ家の暗部を一手に担ってきた」と自認しているように、裏では本物以上と評された[[偽札]]「ゴート札」の密造をも受け継いでおり、世界各国の闇の部分と深く繋がっている。
: 伯爵家に伝わる「[[#指輪|金の山羊の指輪]]」の所有者であり、対となる「[[#指輪|銀の山羊の指輪]]」を持つクラリスとの[[政略結婚]]によってカリオストロの正当な後継者としての地位と、2つの指輪に秘められた[[#財宝|ゴートの秘宝]]を手に入れようと目論む。
: 劇中ではほぼ一貫して「伯爵」と呼ばれ、ファーストネームは劇中では呼ばれない{{Efn|ジョドーのみ「殿下」と呼び、銭形は初対面時に「閣下」と呼んでいる。}}。
: 結婚式をぶち壊しにしたルパンと湖の時計塔で対峙する。ルパンとはぐれたクラリスを追い詰めて殺そうとするが、駆けつけてきたルパンから持ち掛けられた指輪と人質の交換条件を呑む振りをしてルパンを殺そうとし、それを止めようとして飛びかかってきたクラリスをも蹴落とす。ルパンに教わった通りに両指輪を時計の盤面の1時方向にあるレリーフにはめ込むが、指輪が時計塔のスイッチだとは知らなかったため、仕掛けが起動した瞬間に長針と短針に挟まれて苦しみもがく。最後は暗闇で両針が12時を指し、断末魔の叫びをあげると共に死亡した(その際、圧死又は斬首を思わせる軽い音をたてた){{要検証||date=2023年5月}}。
; {{Anchors|ジョドー}}ジョドー
: 声 - [[永井一郎]]
: カリオストロ伯爵に仕える有能な執事。裏の顔として、各国の情報機関からも恐れられる公国の特殊部隊「カゲ」の長官も兼任している。
: 財宝を手に入れようとする伯爵を献身的にサポートし、一度はMG34を用いてルパンに瀕死の重傷を負わせる。伯爵への忠義心は厚く、伯爵が最期を迎えた際は「これでカリオストロも終わりだ」と嘆き、五ェ門に自らを介錯するよう求めた{{Efn|五ェ門はこれに対して「無益な殺生はせぬ」と断った。}}。
; {{Anchors|園丁}}園丁(庭師の老人)
: 声 - [[宮内幸平]]
: 大公家公邸の[[庭師]]。自分の職務に誇りを持っており、大公家の没落後も焼失した公邸跡の庭園を管理し続けている。
: クラリスのことは誕生当時から見守っており、彼女から愛犬のカールを託されている。無愛想だが根は親切で、伯爵との戦いに敗走したルパンたちを匿った。
; {{Anchors|グスタフ}}グスタフ
: 声 - [[常泉忠通]]<ref group="注釈">グスタフの名前が呼ばれるシーンがあったにもかかわらず、役名クレジットはされていない。</ref>
: 主に城内の警備とカリオストロ伯爵の身辺警護を務める、衛士隊長。融通の利かない堅物気質。
; {{Anchors|機動隊}}機動隊
: 声 - [[松田重治]]{{Efn|指揮官を担当。}}
: 銭形が支援部隊として日本から引率してきた[[埼玉県警察]]の[[機動隊]]。
: パトカーと2台の幌付きトラックに分乗し、[[ジュラルミン]]製の大盾と木製[[警棒]]を装備している。拳銃を収納するホルスターも装備しているが、拳銃を構えたり発砲したりする描写はない。
: 負傷者を出しながらも、サーベルで武装した衛士隊と激しく渡り合った。ラストではルパンを追う銭形とともにカリオストロ公国を離れ、クラリスたちに手を振る。
; {{Anchors|カール}}カール
: 庭師の老人が面倒を見ている老犬。大の大人を押し倒すほどの力がある大型犬。犬種は不明。
: 元はクラリスの飼い犬であり、大公夫妻の没後にクラリスが修道院へ入る際、老人へと預けられた。彼女がまだ幼かった頃、カリオストロ城からの逃亡中に負傷して行き倒れていた若き日のルパンを最初に発見していた。
: クラリス以外には懐かないというが、ルパンについたクラリスの匂いにより、彼の傍を離れようとしなかった。
; {{Anchors|大司教}}大司教
: 声 - [[あずさ欣平|梓欽造]]
: [[バチカン]]の[[カトリック教会]][[大司教]]。
: カリオストロ伯爵とクラリスの婚礼の司祭を請われてカリオストロ公国へ向かうが、城への道中で渋滞に巻き込まれる。その隙に地元の人間に変装した次元が、「近道」と称して城とは違う[[田舎]]の方向を案内することで婚礼に間に合わなくさせ、その間にルパンが大司教に変装してクラリスを救出するべく城に入った。
; {{Anchors|衛士隊}}衛士隊
: カリオストロ公国の治安部隊。
: カリオストロ伯爵は「我が国にも警察はある」と同隊を紹介していたが、その活動範囲は[[国境]]の[[検問]]を除けば城外にまでは至らないような描写がなされている。古風な軍服と鉄帽、サーベルを腰に下げた前時代的なスタイルが特徴。拳銃のホルスターも装備するが、使用の描写はない。
; 水兵
: カリオストロ公国水軍の兵士。内火艇に乗艦して[[短機関銃]]で武装し[[セーラー服|水兵服]]を着用している。
: 終盤の時計塔ではルパンと直接対峙するが、塔内に突入した折、1人が歯車に巻き込まれるという壮絶な死を遂げた。
; {{Anchors|カゲ}}カゲ
: ジョドー率いるカリオストロ公国の[[特殊部隊]]。ルパン曰く「暗殺のプロ」。
: 全身に衝撃吸収を兼ねた防弾仕様の頑丈な鎧を纏っており、籠手の鋭い爪と前腕に仕込まれた鋭い刃が特徴。この鎧は次元のマグナム銃の接射も効かず、対戦車ライフルでも吹き飛ばされるのみで原型は保っており、五ェ門の斬鉄剣でようやく斬り落とされるという極めて高い防御性能を誇る。このほか、主に水中任務に特化した軽装、通称「水カゲ」も存在する。正体はカリオストロ公国の召使い達であるが、衛士に比べると年齢層が高いように描写されている。
== 声の出演 ==
注・ジョドーより下は役名クレジットなし。
* [[ルパン三世 (架空の人物)|ルパン三世]] - [[山田康雄]]
* [[峰不二子]] - [[増山江威子]]
* [[次元大介]] - [[小林清志]]
* [[石川五ェ門 (ルパン三世)|石川五ェ門]] - [[井上真樹夫]]
* [[銭形幸一|銭形警部]] - [[納谷悟朗]]
* クラリス - [[島本須美]]
* カリオストロ伯爵 - [[石田太郎]]
* 園丁 - [[宮内幸平]]
* ジョドー - [[永井一郎]]
* グスタフ - [[常泉忠通]]
* 衛士 - [[野島昭生]]{{R|Pamphlet2}}
* 召使い - [[緑川稔]]{{R|Pamphlet2}}
* 印刷主任 - [[加藤正之]]{{R|Pamphlet2}}
* 指揮官 - [[松田重治]]{{R|Pamphlet2}}
* ICPO長官 - [[平林尚三]]{{R|Pamphlet2}}
* 大司教 - [[あずさ欣平|梓欽造]]{{R|Pamphlet2}}
* [[寺島幹夫]]
* [[阪脩]]
* [[鎗田順吉]]
* [[峰恵研]]
* [[山岡葉子]]
== スタッフ ==
* 製作 - [[藤岡豊]]
* 原作 - [[モンキー・パンチ]]([[漫画アクション|週刊漫画アクション]]、パワァ・コミックス([[双葉社]]刊))
* 監督 - [[宮崎駿]]
* プロデューサー - 片山哲生
* 脚本 - 宮崎駿、[[山崎晴哉]]
* 作画監督 - [[大塚康生]]
* 原画 - [[篠原征子]]、[[友永和秀]]、[[河内日出夫]]、[[富沢信雄]]、[[丹内司]]、山内昇壽郎、丸山晃二、真鍋譲二、[[田中敦子 (アニメーター)|田中敦子]]、新川信正
* 動画 - [[青木康直]]、大里美和子、尾崎真佐美、小野昌則、川中京子、柏田涼子、熊本由美子、小林弥生、小島順子、佐野英代、桜井陽子、下崎ジュン子、島津佳子、柴田春美、志田欣弘、鈴木幸雄、田辺厚子、高木美和子、堤純子、塚田洋子、道籏義宣、[[難波日登志]]、原田俊介、林雅子、浜田幸子、浜畑雅代、橋本三郎、平間久美子、比留間敏之、藤村和子、本多薫、望月理江子、吉村洋子、[[亜細亜堂]]、OHプロ
* 動画検査 - 原恵子、島田明子
* 色彩設計 - [[近藤浩子]]
* 仕上検査 - 山本雅世、砂川千里
* 美術 - [[小林七郎]]
* 背景 - 青木勝志、松岡聡、石垣努、[[小倉宏昌]]、[[大野広司]]、海保甚三郎、水谷利春、林裕美子、工藤美由紀、藤江優子(小林プロダクション)、[[山本二三]](テレコム)
* 撮影監督 - 高橋宏固
* 撮影 - 宮内征雄、大田勝美、高橋宣久、平山昭夫、細野正、中村喜則、斉藤佳三、鈴木卓夫(高橋プロダクション)
* 仕上 - 岡嶋國敏(スタジオ古瑠美)、加藤紀子([[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]])、林直哉([[イージー・フィルム|イージーワールド]])、塩谷典子([[スタジオ・タージ]])、岩切紀親(スタジオ・キリー)
* 編集 - 鶴渕允壽
* ネガ編集 - 高橋和子
* 録音 - [[加藤敏 (音響監督)|加藤敏]]([[東北新社]])
* 音楽 - [[大野雄二]]
* 主題歌「[[炎のたからもの]]」([[日本コロムビア|コロムビア・レコード]])
** 作詞 - [[橋本淳 (作詞家)|橋本淳]] / 作曲・編曲 - 大野雄二 / 唄 - [[BOBBY (歌手)|ボビー]]
* 選曲 - [[鈴木清司]]
* 整音 - 飯塚秀保
* 効果 - [[倉橋静男]]([[東洋音響効果グループ|東洋音響]])
* タイトル - 藤井敬康
* 現像 - [[東京現像所]]
* 制作協力 - [[テレコム・アニメーションフィルム]]
* 制作進行 - 吉田力雄、柳内一彦、岩田幹宏
* 助監督 - [[吉田しげつぐ|吉田茂承]]
* 製作担当 - 斎藤壽男
* 配給 - [[東宝]]株式会社
* 製作 - [[東京ムービー新社]]
== 製作 ==
=== 企画・脚本 ===
1978年、『[[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]』が成功したことを受け企画された。同作はターゲットとする観客層に大人を想定していたが、実際の観客層は『TV第2シリーズ』を視聴中の中高生が中心だったことから、ターゲットとする観客層は15~16歳中心に改められた{{R|animage3}}。
監督に関して、製作会社の[[東京ムービー新社]]では『TV第2シリーズ』に参加する[[鈴木清順]]などが候補に挙がり、その後『ルパンVS複製人間』の[[脚本家]]チームが執筆した脚本を元に[[大塚康生]]へ監督を依頼していた。だが、気乗りしない大塚は宮崎に相談した結果、宮崎が監督に就任し、大塚自身は作画監督をすることとなった。
当時の宮崎は[[日本アニメーション]]で『[[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]]』のレイアウトや場面設定を担当していたが、これを降板。1979年5月に制作準備に取りかかった。後の作品と同様、宮崎は脚本なしでイメージボードと[[絵コンテ]]を描き始め、脚本は共同名義の[[山崎晴哉]]が手直しする形となった。後に山崎の手により、脚本を元に[[集英社]][[コバルト文庫]]から[[小説化|ノベライズ]]されている。
=== 製作 ===
1979年7月、絵コンテの4分の3が完成した段階で作画作業が開始され、終了は公開15日前の11月末だった。大塚は現場について後に「連日修羅場だった」としている一方、宮崎は最初から「参加する各アニメーターの適性」を考え、場面ごとに担当するアニメーターを想定しながら絵コンテを作成したという。
構想~脚本~絵コンテ~製作までの総製作期間は「わずか半年」という短さであり、途中で製作期間内に終わらないと考えた宮崎は、下水道でのシーンの絵コンテを書き直しており、後に不満を語っている。また、本作のDパートでは仕上げに手間がかからないよう絵コンテを切ったとも述べており、ルパンがクラリスを誘拐した後にはオートジャイロによる空中戦も予定されていたが、本編では割愛された{{Efn|その画像は映画公開前に東京ムービーの宣伝材料として配られた後にムック誌などにも収録されており、その名残は共同脚本名義の[[山崎晴哉]]によって書かれたノベライズ版にもある。}}。
絵コンテ完成後、わずか4か月半ほどで制作された計算になり、大塚は「質の高さ/製作期間比でいえば、日本の長編アニメーション史上最短の製作期間記録ではないか」と語っている。最終的には製作は、予定された期間より1か月延びることとなったが、宮崎は「この作品で初めて自分の体力の限界を知った」と語っている。
=== 音楽 ===
主題歌である「[[炎のたからもの]]」の曲の旋律による編曲バリエーションBGMが多数作成されている。またBGM選曲は、本作のために録音された楽曲のほか、TVシリーズや劇場版前作、サウンドトラックアルバムなどから幅広く選び出された。
結婚式の場面で流れる[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]のパストラーレ・ヘ長調・BWV590は、本作の音楽録音の際にエレクトーンで録音し、音に広がりを出すためスピーカーで鳴らせた音をマイクで拾っている<ref name="COCX-32227">COCX-32227 『ルパン三世 カリオストロの城 ミュージックファイル』大野雄二インタビュー、コロムビアミュージックエンタテインメント、2003年5月21日発売。</ref>。
銭形警部とカリオストロ伯爵の面会する朝食の場面に使用されているBGMは、バッハの[[管弦楽組曲]]四番第四楽章Menuett。城の舞踏会とその外で銭形隊がカップラーメンをすすっている場面のBGMは、[[ヨハン・シュトラウス2世]]作曲の[[ウィーン気質]](かたぎ)の第二ワルツである。
== 特色 ==
本作は宮崎独自の解釈や演出により、それまでの作品と一線を画すものとなっている。
=== 人物設定 ===
宮崎は製作時、ルパン達について以下のように考えた。
{{Quote|(『TV第1シリーズ』当時は)1970年初頭、[[高度経済成長|高度経済成長期]]のまっただなか。誰もがマイカーを持ちたがり、人々は半ばはしゃぎ気味に生きていた時代でした。そんな時だったから、ちょっとカゲのさした、アンニュイなルパンが生きたのです。浮かれ調子の世の中に向けて機関銃をぶっ放すルパンはわれわれの希望でもあったのです。
|}}
{{Quote|ルパンがイキイキした時代、共感と存在感を持って生きたのは、まぎれもなく一昔前なのだ。(中略)今や行き当たりバッタリの銀行強盗は花ざかり。ハイジャック、テロ、飢饉、戦争が地球のあっちこっちで火を吹き、石油は際限なく値上がりし、何よりも地球そのものに限界があることが明らかになってしまった。<br>ルパンの世界より、現実の世界のほうが、はるかに騒がしくなってしまったのだ。(中略)情報過多はとどまるところを知らず、書店の本棚に兵器の写真集がいくらでもころがり、いまさらワルサーでもないものだ。射ちたきゃ、アメリカに行けば、なにがしかの金でいくらでも射てる。<br>膨張する[[国民総生産|GNP]]にのっかって倦怠を楽しみ、罪もなくミニカーレースに夢中になれたルパンの時代はすぎ去ったのだ。
|}}
{{Quote|ルパンになにを盗ませていいのか分からない。ワッ、いいものがあるぞ、という風には物を盗めない。豊かになりすぎてそういう必然性がないんです。<br>自分なりにルパン像をつからなければならない羽目になったときに、60年代末から70年代頭に一番生き生きしていた男が、今、生き恥をさらして生きているというふうに構えるしか手がなかったんです。
|}}
この意識によって宮崎は、ルパンの盗みのターゲットを「'''少女の心'''」とした{{R|animage1}}<ref>「ルパンは時代にとり残された⋯」 照樹務</ref>。
これにより、本作のルパンはアウトローというよりお姫様を救う心優しい男として描かれており、1発の発砲さえしない。同時に、宮崎はルパンの年齢設定もそれまでのイメージよりかなり高くして「ファンの知っているルパンよりも人生経験を積んできたのだから、当然これまでのイメージと異なっていても不思議ではない」とし、ルパンを演じた[[山田康雄]]も「'''歳をとったおじさんルパン'''」という認識で臨んでいた。また、作中でルパンが過去の自分を回想するシーンでは『TV第1シリーズ』のようなベンツSSKに乗り銃を何発も発砲する描写がされ、ルパンはそのころの自分を「一人で売り出そうと躍起になっている青二才」と呼んでいる{{R|oguro2}}。
=== ヒロイン ===
作中に登場するクラリス姫は、宮崎駿の作品に登場するヒロインの典型である。清楚でいじらしく、主人公による救出を待つ受動的な立場([[Damsel in distress]])にありながら、自ら積極的に行動する気丈さと勇気も持ち合わせている。[[島本須美]]は、後に宮崎が脚本・監督を手がけた『TV第2シリーズ』最終話「[[さらば愛しきルパンよ]]」や、映画版『風の谷のナウシカ』でもヒロイン役を演じている。
=== ルブラン由来の物 ===
登場人物の名前の一部には、[[モーリス・ルブラン]]の『[[アルセーヌ・ルパン]]』シリーズに由来するものがある。「カリオストロ」は同シリーズ『[[カリオストロ伯爵夫人]]』に登場するルパンの仇敵の名前であり、「クラリス」は同作品に登場する、産まれた男の子をカリオストロ伯爵夫人に誘拐されるルパンの恋人の名前である。なお、[[カリオストロ]]とは元々、近世[[フランス]]史に登場した自称[[錬金術師]]で後世の[[フィクション]]にも多く取り上げられている人物{{Efn|2015年の『[[ルパン三世 (2015年TVシリーズ)|TV第4シリーズ]]』『[[ルパン三世 イタリアン・ゲーム]]』でも「カリオストロ」の名が使用されているが、こちらはこの人物を取り上げている。}}であり、これを宮崎が題材とした。また、湖底から遺跡が出現するアイデアは『[[緑の目の令嬢]]』(『青い目の少女』)から得ている{{R|Tweet1}}。
=== その他 ===
劇中に登場する車や銃器類は、宮崎や大塚の趣味が活かされ、ほとんどが実在のものであり(後述)、支配階級であるカリオストロ伯爵のヨーロッパ貴族としての生活ぶりや振る舞いも考証されている。
カリオストロ城のモデルになったのは、修復前の[[プファルツ城]]である{{R|Tweet1}}。城下町は、当時宮崎が愛読した書籍「語りかける中世 イタリアの山岳都市・テベレ川流域」(鹿島出版会、1976年)に掲載された資料写真を参考にしている{{R|Tweet1}}。
ルパンとカリオストロ伯爵の対決の場となった時計塔は、[[黒岩涙香]]・[[江戸川乱歩]]の『[[幽霊塔]]』をモチーフにしている{{Sfn|アニメージュ編集部|1983|pp=129 - 149}}{{R|Tweet1}}。
== 『TV第1シリーズ』との共通点 ==
ここでは、本作と『TV第1シリーズ』との共通点を列挙する。
; 服装、愛車
: 本作公開当時、赤ジャケットの『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|TV第2シリーズ]]』が放送(1977年-1980年)されていたが、『TV第1シリーズ』の緑ジャケットで登場する。[[フィアット・500#2代目 NUOVA 500(1957 - 1977年)|フィアット500]]も『TV第1シリーズ』後半から登場したもので、前作で登場した[[メルセデス・ベンツ・SSK]]は回想シーンのみでの登場。ただし、フィアット500の塗色は青白色から黄色に変更され、本作以降こちらの塗色が定着する。『TV第1シリーズ』のエンディングで不二子がバイクに乗るシーンがあるが、映画での不二子の移動手段も全てバイクだった。
:一方で、銭形警部が乗る日本のパトカーは、第11話「7番目の橋が落ちるとき」にて初登場した[[日産・ブルーバード]](2代目)。本作以降、銭形警部の愛車として定着する。『TV第2シリーズ』[[死の翼アルバトロス|第145話]]をはじめ、複数の作品で登場する。
; 偽札
: 偽札をばらまいて捨ててしまうシーンが、第10話「ニセ札つくりを狙え!」でも登場している。
; 掃除機
: 過去の回想シーンに[[掃除機]]を使って宝石店の商品を吸い取るシーンがあるが、同様の強奪手段を第16話「宝石横取り作戦」で[[バキュームカー]]を用いて行っている。
;フィアット500のパンク
:フィアット500のタイヤのパンクは、こちらも第16話にて同様のシーンが存在する。
;次元の敵への銃撃
:敵に追跡され次元が敵の車のタイヤをマグナムで撃ち抜き「やったー!」と喜ぶシーンと同様のシーンが第21話「ジャジャ馬娘を助け出せ!」にて存在する。
; サーチライト
: やはり思い出を語るシーンで黒の全身スーツ、拳銃入りショルダー[[ホルスター]]を締めた姿で[[サーチライト]]に追われるシーンが、初期オープニングや第4話「脱獄のチャンスは一度」で描かれたルパン三世のイメージを描いている。
; TVスタッフに偽装
: 第18話「美人コンテストをマークせよ」で、ルパンたちがTV局レポーターに偽装して会場に侵入している。乱入した五ェ門が暴れるハプニングでテレビに秘密が映ってしまうのを狙うなど、作戦も同じ。
; 大時計
: 時計塔のメカニズムが第10話「ニセ札つくりを狙え!」で登場し、大時計の針が侵入者を襲うシーンもある。ラストでやはり時計塔は破壊されてしまうが、崩壊前に機構が突然激しく動き出す演出などの共通点がある。
== カリオストロ公国 ==
{{Anchors|カリオストロ公国|公国}}
本作の主な舞台であるカリオストロ公国は人口3,500人で、世界で一番小さな[[国際連合|国連]]加盟国と設定されている。壮麗な塔を持つカリオストロ城と城下町、[[古代ローマ]]時代に作られた[[水路橋|水道橋]]を持ち、周囲を美しい山々と湖に囲まれた、緑豊かな国である。劇中の新聞やルパンが伯爵に送った予告状から、[[フランス語]]が[[公用語]]と思われる。さらにクラリスは[[フランス]]系、その愛犬カールや衛士長のグスタフなどは[[ドイツ]]系の名であることから、フランス系とドイツ系の国民が混在し、地理的にも両国に挟まれた、実際の[[アルザス]]や[[ルクセンブルク]]のような場所にあると推定される。
平和でのどかな風景を持つ一方で、世界中で流通する紙幣を精巧に真似た[[偽札]]「ゴート札」を製造しており、[[東西冷戦]]下においては国際的に無視できない影響力を与えていた。世界最高レベルの造幣技術を誇り、「偽札界のブラックホール」と呼ばれ、400年もの間偽札製造の秘密を守るため、中世の権力闘争や世界中の政府機関、情報機関、警察機関の捜査をかいくぐってきた。
城内には脱出不可能な地下迷宮と、それに続く城内各所へ張り巡らされた落とし穴が隠されており、殺害の証拠隠滅のために、あるいは生きたまま迷宮に落とされた者の遺体が男女貴賤を問わず無数に散乱している。[[日露戦争]]中にこの地で調査を行っていたと思われる旧[[日本軍]]の軍偵が自決前に壁に刻んだ「[[1904年|1904]] [[3月14日|3 14]] 日本國軍偵 河上源之助 ここに果つ…… 仇……」の文を、同じく迷宮に落とされたルパンが発見している。
カリオストロ家は400年間、大公家と伯爵家の2つに分かれていた。大公家が代々の国政を担い、伯爵家は公国の影の部分である[[暗殺]]等の謀略を司っていたが、数年前に大公夫妻が謎の火災によって死亡。大公付きの[[摂政]]を務めていたラザール・ド・カリオストロ伯爵が、統治権を大公家に戻すためという名目で、大公家最後の姫であるクラリス・ド・カリオストロ姫を強制的に自身の婚約者として迎え、公国の独裁を目論んでいた。しかし、伯爵とクラリスの結婚式の当日、ルパンが引き起こした混乱に乗じて城に突入した銭形らの活躍によって「ゴート札」の印刷工場の存在が世に暴かれ、[[ICPO (ルパン三世)|インターポール]]の査察が入るに至った。
{{Anchors|指輪|紋章}}
カリオストロ家の家紋は[[やぎ座|下半身が魚になった]][[ヤギ]]をかたどったもので、大公家と伯爵家にはその当主の証である指輪が代々受け継がれていた。大公家では青地に浮き彫り([[カメオ]])にされた左向きの銀のヤギ、伯爵家では赤地に彫り込まれた([[インタリオ]])右向きの金のヤギが用いられている(左右対称)。指輪の外周には今は使われていない[[ゴート文字]]で「光と影、再び一つとなりて蘇らん」と彫られており、さらにこの2つの指輪を合わせると、その継ぎ目には同じくゴート文字で彫られた「光と影を結び、時告ぐる高き山羊の、日に向かいし眼に我を収めよ」という大公家に伝わる詩が浮かび上がるギミックが施されている{{efn|ただし、現在は経年によりすり減った影響で継ぎ目の文字は読みにくくなっており、このギミックに気づいたルパンも最初の一部分以外は読めずにいたが、大公家の詩を継承していたクラリスの協力で内容を知ることができた。}}。
{{Anchors|財宝}}
かつてこの地には古代[[ローマ人]]が住んでいたとされ、のちに彼らがこの土地を離れる際、自分たちの住んでいた都市を水門を使って湖の中に沈め、それを大公家が代々守り続けていた。そして結婚式の翌日、湖の水が引いた後の湖底から古代ローマの壮麗な都市[[遺跡]]が良好な保存状態のままで姿を現した。
;ゴート札
:カリオストロ公国が製造している「幻」とまで評される偽札。かつて本物以上と称えられた代物で、劇中のルパンの台詞によれば、古くは[[ブルボン朝|ブルボン王朝]]を破滅させ、[[大陸軍 (フランス)|ナポレオン軍]]の軍資金となり、[[世界恐慌]]の引き金となるなど、中世以降の世界情勢の裏に常にその影を見せていたという。
:本作中にルパンと銭形が見つけただけでも、[[日本円]]([[一万円紙幣]])、[[ドイツマルク]]([[西ドイツ]]{{Efn|映画公開当時のドイツは、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と[[東ドイツ]](ドイツ民主共和国)に分断されていた([[ドイツ再統一]]は本作公開後の1990年)。}}の千マルク紙幣)、[[ドル]]、[[ポンド (通貨)|ポンド]]、[[ルピー]]、[[ペソ]]、[[フラン]]、[[リラ (通貨)|リラ]]、[[ウォン]]の偽札を製造していた{{Efn|これらの通貨のうち、ドイツマルク、フラン([[フランス・フラン]]、[[ベルギー・フラン]]、[[ルクセンブルク・フラン]])、リラ([[イタリア・リラ]]、[[サンマリノ・リラ]]、[[バチカン・リラ]])は2002年に[[ユーロ]]への置き換えにより法定通貨としての効力を喪失した。}}。
:カリオストロ城の地下にある印刷工場で製造されており、現在では国営のカジノにまで出回るほどに幅広く流通しているが、一方でその造幣技術は往年に比べて落ちているらしく、完成したサンプルも伯爵から品質の低下を指摘されていた{{Efn|このシーンにおいて偽札製造の担当技術者は「今のような大量生産を続けては…」と、生産量が増えたことを品質低下の原因としていたが、伯爵は質の低下も納期の延長も認めなかった。}}。
== 登場する乗り物・武器 ==
=== 乗り物 ===
; [[フィアット・500#2代目 NUOVA 500(1957 - 1977年)|フィアット・500]]
: ルパンたちが乗る[[イタリア]]製の小型大衆車。改造が施してあり、レバーを引くと[[スーパーチャージャー]]が作動して高速で走行できる。ナンバープレートは「R-33」{{sfn |LupinChateauDeCagliostro |1981 |p=82}}。カリオストロ伯爵の手先が放った手榴弾でフロントガラスやヘッドライトなどが損傷したが、エンディング前には修復されている。塗装はクリームイエロー。パンクしてタイヤ交換をするシーンがあるが、スペアタイヤは丸坊主(溝の無い状態)だった。
: イタリアで上映された折に、事前に申告しておけばフィアットから宣伝料が出た{{Efn|のちに製作されたOVA『[[ルパン三世 GREEN vs RED]]』では、フィアットグループオートモービルズジャパンの協力の元、当時日本への正規輸入が始まったばかりの[[フィアット・500 (2007年)|新型500]]が登場している。}}のにと言われたが、それを聞いた宮崎は「イタリアで上映すると知っていたら別のメーカーにしただろう」と述べている。これは馴染みの無い車両の方が観客は楽しめると考えての事である。
: なお、劇場公開当時、大塚康生が作中に登場したものの同型車(FIAT NUOVA 500)を所有していた。
; [[メルセデス・ベンツ・SSK]]
: [[ドイツ]]製の高級車。ルパンがクラリスとの出会いを思い出す際の回想シーンに登場。
; [[シトロエン・2CV]]
: クラリスが城からの逃走に使用した[[フランス]]製の小型大衆車。塗装は小豆色。ナンバープレートは「F-73」{{sfn |LupinChateauDeCagliostro |1981 |p=84}}だが、シーンによっては「F-14」になっている{{sfn |LupinChateauDeCagliostro |1981 |p=14}}。カーチェイスの末に大破してバラバラになり、湖に落下して水没した。
: 宮崎駿は同型車を所有している。また本作に先駆けて『TV第1シリーズ』第23話でも通常型、及びバンタイプの2CVが「だるまや弁当」の配達車として登場している。
; [[ハンバー・スーパー・スナイプ]]
: クラリスを追うカリオストロ伯爵の部下たちが乗る[[イギリス]]製の[[リムジン]]。ナンバープレートは「C-14」{{sfn |LupinChateauDeCagliostro |1981 |p=84}}。塗装は茶色。防弾仕様の特殊タイヤを履いているが、次元が撃った[[徹甲弾]]が被弾してパンクし大破した。
; [[日産・ブルーバード#2代目 410型系(1963年 - 1967年)|ダットサン・ブルーバード(410型)]]
: 銭形が乗る[[パトカー]]で、白黒塗装の日本警察仕様車。ナンバープレートは「埼玉5 た 110」。初登場時からカリオストロ城に突入するまでは右ハンドルだったが、エンディング前には左ハンドルに変わっている。ドアに書かれている所属名も左側は「埼玉県警」だが、右側は「ICPO」となっている。
: ファンの間では通称「'''銭ブル'''」と呼ばれる{{sfn |LupinChateauDeCagliostro |1981 |p=85}}。宮崎駿が担当した『TV第2シリーズ』第145話「[[死の翼アルバトロス]]」の他、2021年度放送の『[[ルパン三世 PART6|TV第6シリーズ]]』まで、後年の数作品にも銭形の愛車として登場する{{Efn|多くが白黒の日本仕様で、車体表記についても、無表記のものや、作品の舞台に合わせた表記(『[[ルパン三世 風魔一族の陰謀|風魔一族の陰謀]]』では[[岐阜県警]])がなされたりと数種類が登場した。}}。
; [[CMPトラック|C.M.P 15-CWTトラック(キャブ13型)]]
: 機動隊員輸送車として登場。カナディアン・ミリタリー・パターン(C.M.P)、または、ゼニガタ突撃隊輸送車、1943年型カナディアンGMミリタリーパターン{{sfn |LupinChateauDeCagliostro |1981 |p=85}} と呼ばれる、[[英連邦]]払い下げの幌付き[[全輪駆動]]軍用トラックで、塗装は暗灰色。右ハンドルで警察仕様として[[サイレン]]機能と屋根上に[[パトライト]](赤色灯)がある。C.M.Pは[[カナダ]][[フォード・モーター|フォード]]、カナダ[[シボレー]]の両社で製造されたが、作中のC.M.Pはラジエーターグリルが斜めのダイヤ型(フォード製は四角の網目)なのでシボレー製である<ref>月刊『[[ホビージャパン]]』1976年4月号P14の記事より。</ref>
: [[1973年]]には大塚康生が[[昭和のプラモデルメーカー#1972年(昭和47年)|マックス模型]]の製品として同車と同じトラックの1/35模型を「'''C.M.P小型トラック'''」として企画設計し、同社より商品化している。
; [[ハーレーダビッドソン]]・WLA
: 不二子が使用した[[アメリカ]]製の軍用[[オートバイ]]。後部両サイドに[[サドルバッグ]]を取り付けており、ラストシーンでは偽札の原版を入れていた。
: 銭形に電話を掛けるシーンとラストシーンでは[[前照灯|ヘッドライト]]と[[警笛|ホーン]]の上下が逆になっているが、別個の車両ではなく作画ミスと思われる。電話を掛けるシーンに登場する、ホーンが上にあるものが本来の仕様である。
; [[オートジャイロ]](と呼称される航空機)
: カリオストロ伯爵の所有する、一人乗りの架空の小型航空機。伯爵が湖の上を遊覧飛行する際に使用し、クラリス奪回作戦の時にはルパンと銭形も搭乗したが、ジョドーの銃撃で炎上。その後、木に突っ込んで爆散している。
: [[後退翼]]形式の主翼のみで尾翼が存在せず、主翼端に[[垂直尾翼|垂直安定板]]と[[方向舵]]を持つ、[[全翼機]]に似た機体構成で、機体後部に[[推進式 (航空機)|推進式]]に[[プロペラ]]があり、メインエンジンの他にローターブレードの先端には[[ラムジェットエンジン]]が装備されている。ブレード先端のラムジェットによってローターを自力回転させることによって垂直離着陸が可能となっており、作中では“オートジャイロ”と呼ばれているものの、[[垂直離着陸機]]に分類される[[航空機]]である{{Efn|現実のオートジャイロはローターには動力は接続しないのが基本であるが、離陸時のみクラッチを繋いでエンジンでローターを駆動し、垂直離陸を可能にする方式のオートジャイロは実在する。ただし作中のようにローターを駆動するのに別エンジンを用いる形式、また着陸時にもエンジンでローターを駆動する形式のオートジャイロは実在せず、ローターの先端にラムジェットエンジンを付加したオートジャイロも存在しない。<br />ローターの先端に[[ラムジェットエンジン]]を装備し、これによってローターを自力回転させることによって垂直離着陸を行える、という方式は[[第2次世界大戦]]末期に[[ナチスドイツ]]において[[フォッケウルフ トリープフリューゲル]]という機体が設計されているが、本作に登場する“オートジャイロ”とは構造や構成が異なる。[[ヘリコプター]]であれば、このような形式が構想され、通常のヘリコプターに必須のテールローターが不要とされる機体を、アメリカのヒラー社が[[1950年代]]に[[YH-32 (航空機)|YH-32 ホーネット]]として試作している。<br />なお、設定画の通りにラムジェットエンジンであるとした場合、その作動原理上、完全停止状態からは始動出来ず、本編内の描写と矛盾する。このため、作品のファン等には[[固体ロケット|補助ロケットエンジン]]と解釈されていることがある。}}。
: 製作の都合でルパン対オートジャイロのシーンは割愛されたが、劇場公開当時に販売された[[ポスター]]では、フィアットで逃走するルパンと対戦車ライフルで応戦する次元を、本機で追うイラストが公開されていた{{Efn|オートジャイロはパイロットの他に、伯爵の手下が左右主翼上に乗った三人乗り状態であった。『カリオストロの城大事典』P20。}}。また、イメージボードでは伯爵の手下も、本機とは別形式のオートジャイロ{{Efn|形状は[[Fw 61 (航空機)|フォッケウルフFw61]]に酷似。ただし、Fw61はオートジャイロに限りなく似たヘリコプターである。}}を使用し、ルパンと対決する予定であった。
; [[C-119 (航空機)|C-119 フライング・ボックスカー]]
: ツインブーム双胴双発の[[レシプロ]][[輸送機]]。終盤、国連の空挺部隊を輸送して降下させるシーンで登場。
=== 武器 ===
; [[シモノフPTRS1941]]
: [[ソビエト連邦]]製の[[対戦車ライフル]]。強靭な[[鎧]]を着た敵部隊「カゲ」に対し、最終決戦で次元が使用した。この銃でもその[[装甲]]は貫通できず、後方へ吹き飛ばすだけだったが、「カゲ」の大群を相手に獅子奮迅の活躍を見せる。
; [[S&W M27]] .357マグナム 3.5インチ
: 次元が所有する[[拳銃]]。今作はテレビアニメ版で愛用している[[S&W M19]]ではなく、S&W M27を使用{{Sfn|東宝|1979|p=8}}。冒頭のカーチェイスで防弾タイヤを装備した追っ手の車を止めるためにボトルネックケースの[[徹甲弾]]を使うシーンがあるが、実際には使用できない(徹甲弾はライフル弾薬には存在するが、拳銃弾薬には存在しない)。今作では、「カゲ」が着込んだ鎧にダメージを与えることが出来なかったため、序盤の「カゲ」の奇襲以降は出番がなくなる。
; [[ルガーP08|ルガー1900]]
: 不二子が使用する[[ドイツ帝国|ドイツ]]製の拳銃。ルガーP08の原型となった拳銃で、当時のスイス軍などが採用した。設定資料ではグリップ下に銃床を装着する部品がなく、これはスイスルガーの特徴となっている。なお、スイスルガーを紹介する銃器雑誌『[[Gun (雑誌)|月刊Gun]]』[[1979年]]4月号誌上のレポート記事{{Efn|担当記者はジャック・クボタ。}}には、スイスルガーを「不二子に使って欲しい」という記述があった。
; [[UZI (SMG)|UZI]]
: [[イスラエル]]製の[[短機関銃]]。最初期の木製固定銃床を装着したタイプを不二子が使用している。25連ショートマガジンを使用。
; [[M3サブマシンガン|M3短機関銃]]
: プレス加工を多用したアメリカ製の短機関銃。正確には改良型のM3A1で、その独特な形から[[グリースガン (工具)|グリースガン]]との別名がある。冒頭のカジノ襲撃シーンで用心棒達が所持していた。
; [[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|MG34]]
: [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]製の[[汎用機関銃]]。伯爵がジョドーにオートジャイロとルパンを撃たせたシーンに登場。作中では給弾方式に現実のMG34も対応していた[[弾倉#ドラムマガジン|ドラムマガジン方式]]を採用しており、発砲弾数に応じて薬莢が排出されるなど細かい描写がなされているが、一方で「薬莢が本体右側面から排出されている(現実のMG34は本体下部から薬莢を、右側面からはメタルリンクをそれぞれ排出する)」という描写ミスがある。
; [[PPD-40]]
: ソビエト連邦製の短機関銃。冒頭のカーチェイスでクラリスを追う男達が使用。後述のPPSh-41に似ているが、銃身の形状が違い、木製のハンドガードがドラムマガジンより先に付けられているので違いが分かる。次元にタイヤを破壊されるシーンでは、作画ミスでアメリカ製の短機関銃である[[トンプソン・サブマシンガン|トンプソンM1928]]に酷似した短機関銃に描写されている。
; [[MP40]]
: ドイツ製の短機関銃。「カゲ」達が使用。
; [[PPSh-41]]
: ソビエト連邦製の短機関銃。時計塔に侵入した水兵が使用。
; [[ワルサーP38]]
: ルパンの愛用拳銃。今作ではポケットから取り出した直後、銃口がポケットに引っかかっているうちに警備装置の[[レーザー]]で溶かされ、全く活躍していない。回想シーンでのみ発砲している。
; [[M24型柄付手榴弾]]
: ドイツ製の手榴弾。冒頭のカーチェイスで、クラリスの追手たちがルパンのフィアットに向けて投擲。
; [[マークII手榴弾]]
: アメリカ製の手榴弾。その形から通称[[パイナップル]]とも言われる。使用人の偽装を解いて[[迷彩服]]に着替えた不二子が使用。脱出路を開けるべく窓へも投擲したが、壁や窓は防爆仕様でびくともしなかった。
; [[石川五ェ門 (ルパン三世)#斬鉄剣に関して|斬鉄剣]]
: 五ェ門愛用の日本刀。中盤では燃えたルパンのスーツを粉々に斬って助け、最終決戦では、次元の対戦車ライフルでも破壊できないほどの耐久性を持った「カゲ」の鎧を、甲冑だけを軽々と斬り裂いて「カゲ」たちの素顔を露出させる斬れ味を見せた。
; 警備装置
: カリオストロ城の各所に設置された警備システム。警備装置の作動直後に報告された機動隊員の台詞では「対人[[レーダー]]の反応もあります」とあり、庭園や時計塔内部までいかなる場所にも張り巡らされている。しかしその実体は相手を無力化させる[[罠]]や[[警報]]の類ではなく、侵入者を抹殺する自動銃座に近い、警備の範疇を逸脱した殺人兵器である。自在に動くアームの先端に箱形の高出力レーザー発振装置が組み込まれており、銭形が捨てた煙草を地面に落下する前に完全に焼き尽くして消失させたり、ルパンのワルサーP38を一瞬で溶解させるという恐るべき威力を持つ。
; [[メイス]]
: 宿屋の壁に飾ってあった戦棍。設定書には「イガイガハンマー」との名称が付けられている。「カゲ」の襲撃に対してルパンが使用。柄頭から八方に棘が飛び出した形状から、別名[[モーニングスター (武器)|モーニングスター]](明けの明星)とも呼ばれる。
; [[斧|大斧]]&[[盾|楯]]
: 同じく宿屋の壁に飾られていた[[戦斧]]と楯。こちらは次元が使用。斧は戦闘で使い、楯は閃光弾の光を防ぐために構えた。楯の表面にはカリオストロ公国旗と同じ十字の紋章が入っている。
; [[レンチ|スパナ]]
: ナットを締める工具だが、本作内では主に鈍器として活躍。宿屋からの逃走時にはフィアットにしがみつく「カゲ」を次元が殴った他、TV中継時ではリポーターに変装した不二子が、中継を中止させようとする伯爵の手下を殴っている。
; 大型[[レンチ]]
: 両手持ちの大型レンチ。時計塔の備品をルパンが打撃武器へ転用したもの。本来の工具として幾つかの機械部品を外して歯車を落下させた他、伯爵との一騎討ちに使用した。
; [[十手]]
: 銭形愛用の捕り具。格闘武器としての他に指揮杖代わりとしても使用された。[[銭形平次捕物控|先祖伝来]]の物であるのかは不明{{Efn|TRPG『LUPIN III CASTLE OF CAGLIOSTRO ルパン三世 カリオストロの城』のルールブックでは、先祖伝来の物とされていた。}}。今作では設定書こそあるが、愛銃の[[コルト・ガバメント]]は使用されていない。
; [[サーベル]]
: [[騎兵]]用の片手剣。衛士隊の標準装備。終盤の時計塔では伯爵も使用。
; 大楯&警棒
: 主に暴徒鎮圧に使用される機動隊の標準装備。覗視孔付きの楯はジュラルミン製で軽いが、防弾には全く役に立たない。主に機動隊員が使用。
; [[手榴弾#殺傷を目的としない手榴弾|閃光弾]]
: ルパンが宿屋で「カゲ」から逃げる際に使用した手製の手榴弾。殺傷力はないが、人間の目を眩ますほどの強力な光を放つ。ルパンはこれを使う際に、目を守る為にサングラスを着用していた。
; [[ロケット弾]]
: [[大司教]]に変装したルパンのマント裏に大量に仕込まれており、結婚式会場で一斉発射された。弾頭は花火であり、殺傷よりも相手方の攪乱を狙った武器である。
; 指ロケット
: 伯爵の隠し武器。[[篭手|ガントレット]]の指先が五連装の小型ロケット弾になっている。時計塔でルパンへ向けて発射された。
; [[銛]]
: かつてのカリオストロ城にあった警備装置。ルパンが若い頃を回想するシーンに登場。大量の銛を無音で侵入者に発射する仕組みで、前述のレーザー同様に、標的の捕獲よりも抹殺に重点が置かれている。ゴート札の謎を突き止めようとして、逃走しようとしたルパンの背中に突き刺さり、重傷を与える。ルパンは身動きが取れないほどの傷を負って行き倒れてしまうが、少女期のクラリスに助けられる。
== プロモーション ==
本作の宣伝費は、当時の一般的な作品の「5割増し」で、1億5000万円となった{{R|animage3}}。ポスターは9点作成された{{R|animage3}}。
[[1979年]][[12月]]に、公開記念として『'''ルパンの花嫁コンテスト'''』が開催された。「ルパン三世の花嫁を一般公募する」という内容であり、水着審査などによるコンテスト{{Efn|審査員は、[[モンキー・パンチ]]、[[大塚康生]]、[[山田康雄]]をはじめとしたメインキャストの5人、ファンクラブ(当時)の代表者であった。}}優勝者が実際にルパン役の[[山田康雄]]と[[帝国ホテル]]で挙式をあげ、同時にウエディングドレス、新婚旅行と称した8日間のヨーロッパ旅行ツアー、[[フィアット・500|フィアット500(69年型)]]の3点がプレゼントされるという企画であった<ref>「ルパンの花嫁が決まる!」『ジ・アニメ』1980年2月号、[[近代映画社]]</ref>。応募総数は、男女含め3212人であった。
== 評価 ==
現在では「日本アニメーション史に燦然と輝く名作」として評価が定着している<ref>{{Cite news|author=小野寺系|title=宮崎駿監督による文句なしの傑作 『ルパン三世 カリオストロの城』は観る度に発見がある|publisher=リアルサウンド|date=2021-10-14|url=https://realsound.jp/movie/2021/10/post-880236.html|accessdate=2023-05-01}}</ref>。
=== 初公開から現在に至るまで ===
公開当時の評価は比較的低いものであり、興行成績は[[配給収入]]10億円の成功を収めた前作『ルパンVS複製人間』より下回った。[[小黒祐一郎]]はこれに関して、当時のアニメは『[[宇宙戦艦ヤマト]]』や『[[宇宙海賊キャプテンハーロック]]』といったSF作品全盛期であり、ブームの主流から離れたオーソドックスな内容、かつ若者向けというよりはファミリー・子ども向けに徹した当作は、当時のアニメファンからの受けが悪かったのではないかと分析している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.style.fm/as/05_column/animesama67.shtml |title=アニメ様の七転八倒 第67回 虫プロブームとマイナーだった宮崎アニメ|author=小黒祐一郎 |authorlink=小黒祐一郎 |date=2006 |website=WEBアニメスタイル |accessdate=2023-05-01}}</ref>。また、公開段階での宮崎の知名度は低いものだった{{R|oguro1}}。
一方、関係者間での評価は公開当時から高く、商業アニメ作品が受賞することが少なかったアニメーション賞[[大藤信郎賞]]を受賞している。同時代の関係者からは、宮崎の演出手法やレイアウト、場面設計に注目が集まり、当時出された絵コンテ集はアニメ制作現場での教科書として使用されていた。
その後、1981年頃から数年にわたりアニメ雑誌「[[アニメージュ]]」が宮崎の特集を組むようになり、宮崎の名がアニメファンに広まると同時に、本作も名画座や学園祭での頻繁な上映や、関連出版物が多数刊行された{{R|oguro1}}。これにより、同誌のアニメグランプリの歴代作品部門で1位を連続受賞し、情報雑誌『[[ぴあ (雑誌)|ぴあ]]』の年間アワード企画「もあテン」(もう1度見たい過去作品ランキング)では2年連続ベストワンといった成績を残すなど、熱狂的なファンに支持されるカルトムービー的な作品となった後は、テレビ放送が繰り返し行われるなどした結果、現在の地位と評価を確立した{{R|oguro1}}<ref>{{Cite news|author=金澤誠|title=宮崎駿の映画初監督作『カリオストロの城』が名作な理由|publisher=シネマトゥデイ|date=2018-01-19|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0097730|accessdate=2023-05-01}}</ref>。
=== 宮崎自身の評価 ===
宮崎本人は自著『出発点』で、「この作品は『ルパン1stシリーズ』や、東映時代にやってきたことの大棚ざらえで、だから昔からぼくの仕事を見てた人は失望したというのはよくわかるんです。汚れきった中年のおじさんを使って、新鮮なハッとする作品は作れないですよ。こういうことは2度とできないなって、思ってやりました。」と語っている{{Sfn|宮崎駿|1996|p=}}。
公開当初から、本作に対して「鬱屈がある」とアニメ誌やムック誌で発言しており、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』公開時の『[[コミックボックス]]』(1984年5・6月号)の対談では、第二次世界大戦でモスクワを前にして撤退せざるを得なかったドイツ軍を例に挙げ、「[[独ソ戦]]のドイツみたいだといつも思うんですよ」と比喩している。
=== 原作者の評価 ===
原作者の[[モンキー・パンチ]]は、「原作とアニメは別」との考えから基本はアニメ製作に関与しない姿勢{{Efn|後に「料理で言えば五人のキャラクターは素材で、その素材だけ変わらなければどう料理しても構いませんよと預けた形ですから」と語っている{{R|FILES}}。}}であり、本作は「宮崎版ルパン三世の傑作」と評している<ref>{{Cite book|和書|title=世界と日本のアニメーションベスト150 |date=2003 |publisher=ふゅーじょんぷろだくと |page= |isbn=9784893933676}}</ref>。
1996年には「未だにあの人の影響は強いですね。アメリカでもヨーロッパでも『ルパン三世』を知っている人はほとんどが『カリオストロの城』からですからね。物語の面白さもそうですが、その凄さは、僕とは違う『ルパン三世』を出した感じがします。僕の原作の場合は毒があって、女性に対する優しさはあるけれども、ああいう優しさはないんですね。わりとクール。それに対して宮崎さんは宮崎さん流のルパンを出した」と評しており{{R|FILES}}、原作との違いも述べている一方で、銭形の人物像については「宮崎駿さんの解釈がもっとも正しい」としている。
2007年7月「ルパン三世シークレットナイト([[新文芸坐]])」では「『これは僕のルパンじゃない』って言ったんですね。『僕には描けない、優しさに包まれた、宮崎さんの作品としてとてもいい作品だ』って。でもこの後半の部分が削られて、最初の一言だけが大きく取り上げられちゃいましてね(苦笑)」と語ったことがある。2015年には「カリオストロを見て逆に僕の方が刺激された」とコメントしている<ref>{{Cite news|title=モンキー・パンチ氏、「カリオストロの城」に「僕の方が刺激された」日テレ取材で|newspaper=デイリースポーツ|publisher=神戸新聞社|date=2019-04-17|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2019/04/17/0012249123.shtml|accessdate=2023-05-01}}</ref>。
=== 山田康雄の評価 ===
ルパン三世役の[[山田康雄]]は本作をいたく気に入っており、「これがルパン三世の神髄ではないだろうか」とも語っている{{R|Pamphlet1}}。
山田は本作について「日本人の作品にありがちな“お涙ちょうだい”的な人情喜劇にはなっていない。どちらかっていうと、ぼくの好きなアメリカ的な笑いのタイプなんですね」と分析し、「ギャグのセンスが非常に洗練されている」と評している{{R|animage2}}。また「とにかく決定的に面白い。オープニングも話の展開も信じられないくらいだ。構成といい、絵といい、とても質の高いもので、こんなの見たこと無い。各所でギャグがちりばめられており、じつに楽しい」「ちょっと見ただけでは見過ごしちゃうようなところに手がかかっており、細かく描き込んでいる{{Efn|例として、自動車がとびあがるシーンで自動車のビスの1本1本まですべて描いていることを挙げている。}}。これがルパンの精神だと思う。シャレていると思うね」と述べており{{R|animage3}}「宮崎さん、大塚さん、バンザイだ」との讃辞も贈った{{R|Pamphlet1}}。
アフレコの際、宮崎は「今回はこれまでと調子を変えて、例えば[[クリント・イーストウッド]]のような{{Efn|山田は生前、クリント・イーストウッドの吹き替えを専属で担当しており、自身の代表作の一つでもあった。}}抑えた声をお願いしたいのでよろしく」と注文するが、自身でキャラクターを確立していた山田は「ルパンはまかしときな! 今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるンだ」と横柄な態度を見せた{{Efn|これを目にした大塚康生は、思わず宮崎に「生意気だ、降ろしてしまえ」とささやいたという。}}。しかし、試写を見終わった山田はその質の高さに態度を一変。「先程は大変失礼なこと言いまして申しわけございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と宮崎に頭を下げたという{{Sfn|大塚康生|2001|p=185}}。
=== 批評家による評価 ===
映画評論家の[[山田宏一]]は、1980年のテレビ初放送の際に「この週最高の見ものは、これである。おもしろい。血わき肉躍る(と言っても決して大げさではない)アニメ大活劇だ」と評し、「[[和田誠]]氏ふうに言えば、まさに“[[ジェームズ・ボンド|007]]”のようなおもしろさ。ギャグあり、アクションありの荒唐無稽なおもしろさ。アニメでこんなにドキドキ、ハラハラさせる映画もめずらしい。とにかく必見!と叫びたいうれしい快作である」と述べている。また、ルパン役の山田に関しても高く評価しており、「[[クリント・イーストウッド]]の声の吹き替えに不満な映画ファンも、このルパン三世の声の山田康雄には拍手かっさいを送るにちがいない」としている<ref>{{Cite news|author=山田宏一|title=■ ルパン三世 カリオストロの城|newspaper=朝日新聞夕刊|pages= |publisher=朝日新聞社|date=1980-12-12}}</ref>。
=== 日本国外での評価 ===
映画監督の[[スティーヴン・スピルバーグ]]が本作を「史上最高の冒険活劇の1つ」と評し、特に冒頭のカーチェイスを「映画史上最も完璧なカーチェイス」と評したとの噂が国内外のファンの間で存在する{{R|leader|greenberg}}。さらにそこから派生し、同監督の作品『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』(1981年)のアクションシーンでは本作が影響を与えたという噂まで生んだ{{efn|実際にこの[[インディ・ジョーンズ]]シリーズ一作目と本作には、いくつかの類似点が指摘されている<ref>{{cite news |last1=Cecchini |first1=Mike |title=Lupin the 3rd: Castle of Cagliostro Gets Theatrical Release |url=https://www.denofgeek.com/movies/lupin-the-3rd-castle-of-cagliostro-gets-theatrical-release/ |access-date=27 April 2020 |work=[[Den of Geek]] |date=22 August 2017 |archive-date=4 June 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200604014639/https://www.denofgeek.com/movies/lupin-the-3rd-castle-of-cagliostro-gets-theatrical-release/ |url-status=live}}</ref><ref>{{cite news |last1=Worthington |first1=Clint |title=A Look Back at Miyazaki's First Film, "The Castle of Cagliostro" |url=https://thespool.net/movies/2019/05/hayao-miyazaki-the-castle-of-cagliostro-lupin-iii-retro-review/ |access-date=27 April 2020 |work=The Spool |date=5 May 2019 |archive-date=29 October 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201029172046/https://thespool.net/reviews/movies/2019/05/hayao-miyazaki-the-castle-of-cagliostro-lupin-iii-retro-review/ |url-status=live}}</ref><ref>{{cite news |last1=Anderson |first1=Kyle |title=Miyazaki Masterclass – THE CASTLE OF CAGLIOSTRO (1979) |url=https://archive.nerdist.com/miyazaki-masterclass-the-castle-of-cagliostro-1979/ |access-date=27 April 2020 |work=[[Nerdist]] |publisher=[[Nerdist Industries]] |date=7 August 2014 |archive-date=4 June 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200604014638/https://archive.nerdist.com/miyazaki-masterclass-the-castle-of-cagliostro-1979/ |url-status=live}}</ref>。}}{{R|leader}}。スピルバーグが公開当時に本作を見たとすれば[[第33回カンヌ国際映画祭|1980年のカンヌ国際映画祭]]が示唆されたが、カンヌの公式情報源によると本作はその年に上映されておらず、他にもスピルバーグが実際に発言したことを示す記録は無いため、事実関係は不明である。その一方、スピルバーグが製作総指揮を務めた『[[グーニーズ]]』(1985年)で登場する[[アーケードゲーム]]が本作の関連ゲーム『[[クリフハンガー (ゲーム)|クリフハンガー]]』である{{R|leader}}など、スピルバーグ作品に本作との明らかなつながりを見出すこともでき、[[アングロアメリカ|北米]]版の[[DVD-Video]]をリリースした[[:w:Manga Entertainment|Manga Entertainment]]は上記の噂を記載に足ると判断、DVDパッケージ及びDVDに収録された予告編で、このスピルバーグの発言に言及している{{R|greenberg}}<ref>{{ASIN|B000FGG5NK|com|title=Lupin the III: The Castle of Cagliostro}}</ref>。
『[[トイ・ストーリー]]』などを手掛けた[[ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ|ディズニー]]および[[ピクサー・アニメーション・スタジオ|ピクサー]]のアニメーション監督[[ジョン・ラセター]]は、「愛している」という最上級の褒め言葉を使って本作を極めて高く評価している{{R|eleven-arts}}。ラセター曰く、本作が技術的にも芸術的にもストーリー的にも自身に多大なインスピレーションと絶大な影響を与えたと述べ、アニメーションの可能性、そして作りたい映画の方向性を与えてくれたとしている{{R|greenberg|eleven-arts}}。さらに、この映画の良さについて意気投合したことが現在の妻ナンシーと結婚するきっかけになったとも話している{{R|eleven-arts}}。
=== 賞歴 ===
* 第34回[[毎日映画コンクール]]・[[大藤信郎賞]]受賞(1979年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/034.html |title=第34回毎日映画コンクール |publisher=[[毎日新聞]] |date= |accessdate=2016-01-17}}</ref>
* [[キネマ旬報#第54回(1980年度)|第54回キネマ旬報ベスト・テン]]54位(映画評論家の深沢哲也のみが7位に投票{{R|kinejun1980}}。読者選出ベスト・テンは15位{{R|kinejun1980}}。)
* [[アニメージュ]] [[アニメグランプリ]]歴代ベストワン作品1位(1982年 - 1984年)、2位(1980年下半期、1981年、1985年 - 1986年)
* [[キネマ旬報]]創刊85周年オールタイムベスト・テン アニメーション部門1位(2004年)
* [[日本のメディア芸術100選]] アニメーション部門 専門家選出4位、一般選出5位(2006年)
* [[キネマ旬報]]オールタイム・ベスト 映画遺産 アニメーション篇1位(2010年)
=== 売上記録 ===
{| class="wikitable" style="margin-bottom:2em;"
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!内容!!記録!!補足!!出典
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|興行収入||約6.1億円||[[叶精二]]による推測||{{R|M27}}
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|配給収入||約3.05億円|| ||rowspan="4"|{{R|M28}}
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|地方動員||65万8386人||2本立て{{Efn|主に『[[Mr.Boo!ギャンブル大将]]』と}}
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|首都圏・関西動員||約24.2万人||単独
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|全国動員||約90万人||
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|『オリジナル・サウンドトラック ルパン三世・3』||約1万枚出荷||1994年発売のCD||rowspan="6"|{{R|M25}}
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|『ルパン三世 カリオストロの城 ドラマ編』||約1.5万枚出荷||1986年発売のCD
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|『ルパン三世 カリオストロの城 完全収録盤』||約1万枚出荷||1994年発売のCD
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|『カリオストロの城 オリジナル・サウンドトラック BGM集』||約2万枚出荷||1994年発売のCD(再発)
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|『ルパン三世 宮崎駿作品集』||約1万枚出荷||1997年発売のCD
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|『ルパン三世クロニクル ルパン三世<br />カリオストロの城 ミュージックファイル』||約1万枚出荷||2003年発売のCD
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|DVD||約40万枚出荷||2001年発売(2003年6月時点)||{{Sfn|叶精二|2006|p=30}}
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== ビデオソフト ==
=== 日本国内 ===
※1 下記における各メディアソフトの価格はメーカーが提示した「標準価格」的なものであり、実売価格とは異なる場合がある。
※2 ビデオソフトの市販化にあたり、ビデオやLD、DVDなどに予告編が収録されたが、冒頭部分の宮崎のコメントが削除されている。劇場で使用された予告編では、冒頭に、黒い画面に白抜き文字で「前作をしのげないのなら 2作目を作る意味がない。 宮崎駿」というコメントがある(主に上映された劇場の前上映作品『がんばれ!! タブチくん!!』にて使用)。なお、このコメントはキャッチコピーとして同時期に配布されたチラシ・[[新聞広告]]でも確認可能。削除された理由については不明。いずれにせよ市販されている媒体での「予告編完全収録」という表記は、実際には一部削除されているため不適切な表記となっている(2010年現在)。
* 1980年頃に『[[ルパン三世 ルパンVS複製人間|ルパンVS複製人間]]』と共に東宝ビデオから初の[[ビデオグラム|ビデオソフト]]([[VHS]]・[[ベータマックス|β]]:3万8000円、[[U規格]]:5万円)が発売され<ref>「1981年東宝ビデオ総合カタログ」1981年、[[東宝|東宝株式会社]]、p2</ref>、[[1981年]]11月にはVHSとβが1万9800円に値下げされた<ref>「ビデオコレクション1982」1981年、東京ニュース通信社、「週刊TVガイド」臨時増刊12月2日号、p80、p176</ref>。この最初のビデオ版では収録時間が90分に短縮されており{{Sfn|アニメージュ編集部|1983|p=}}、[[1983年]]8月には『ルパン三世 カリオストロの城 完全版』としてノーカット版が発売された。なお、[[1985年]]11月に発売した[[レーザーディスク|LD]]・[[VHD]]は発売当初よりノーカットだった{{Efn|当時は、多くのソフトがVHS版では90分以下にカットされ、β版でノーカットが発売されていた。}}。
* 2001年に[[ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント|ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント]]の「[[スタジオジブリ#ビデオ|ジブリがいっぱい COLLECTION スペシャル]]」ブランドでDVD版が発売された{{Efn|製作:[[トムス・エンタテインメント]]、発売元:ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント、VWDZ8032)}}。2枚組で、英語版や劇場公開時の予告編、またマルチアングルで絵コンテなどの特典が収録されている。本編の音声は劇場公開時のモノラル音声(日本語)、擬似[[ステレオ]](日本語)、英語版がそれぞれ収録されており、映像は[[画面アスペクト比]]16:9で[[スクイーズ]]収録されている<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20010216/ghibli.htm カリオストロの城DVDが、2枚組みになって発売延期]、[[Impress Watch|AV Watch]]、2001年2月16日</ref>。2003年に発売された「劇場版ルパン三世 DVD Limited BOX」には収録されなかった。
* 2008年12月3日に[[バップ]]から[[Blu-ray Disc|ブルーレイ]]ソフトが発売された。本編の映像は[[1080i]]([[H.264|MPEG-4 AVC]])、音声はオリジナル音声([[パルス符号変調|リニアPCMモノラル]])と擬似[[サラウンド|5.1ch]]音声([[DTS-HDマスターオーディオ|DTS-HD Master Audio]] 5.1ch及び[[ドルビーTrueHD|ドルビーTrue HD]] 5.1ch)で収録されている<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20080929/vap.htm VAP、「カリオストロの城」の映像をMPEG-4 AVCに変更]、AV Watch、2008年9月29日</ref>。
* 2014年8月には最新HDマスターを使用したデジタルリマスター版のブルーレイとDVDが[[ウォルト・ディズニー・ジャパン|ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン]]よりリリースされた<ref>[http://www.disney.co.jp/studio/news/20140401_02.html 2014/08/06 ジブリがいっぱいCOLLECTION 『ルパン三世 カリオストロの城』DVD/ブルーレイディスク 発売!]、ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン、2014年4月1日</ref>。ブルーレイはパナソニックが開発した最大36ビットの高階調映像を実現する「マスターグレードビデオコーディング(MGVC)」に対応する([[DIGA]]などのMGVC対応[[BDレコーダー]]で再生可能)<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/641501.html 「カリオストロの城」が最新HDマスター使用でディズニーから再BD化]、AV Watch、2014年4月1日</ref>。
* 2019年7月24日には、[[4K解像度]]視聴に対応した[[Ultra HD Blu-ray]](4K ULTRA HD,UHD BD)版ソフトがバップよりリリースされた<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1175553.html 「ルパン三世 カリオストロの城」が4Kに。7月24日 UHD BD発売]、Impress Watch AV Watch、2019年3月20日</ref>。また、音声もデジタルリマスター版と異なり、旧作アニメーション作品のパッケージ化では初となる7.1chを採用した<ref>{{Cite web|和書|title=劇場公開40周年の『ルパン三世 カリオストロの城』が、“新作以上”のクオリティで帰還!4K ULTRA HDで再加速する魅力 - 映画 Movie Walker|url=https://moviewalker.jp/news/article/197074/|website=Movie Walker|accessdate=2020-05-06|language=ja}}</ref>。
=== 日本国外 ===
* 北米では、1992年にストリームライン・ピクチャーズ ([[:w:Streamline Pictures|Streamline Pictures]]) が『{{lang|en|The Castle of Cagliostro}}』のタイトルで翻訳し、[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]から発売された。日本でも1994年にリンガフォン・ジャパンより英語教材としてVHSソフトが発売されたほか、「ジブリがいっぱいCollection」として発売されたDVDにも収録されており、ルパンの名前は Wolf に変更され、セリフの内容も日本語版から大きく変えられている([http://world-manga.at.webry.info/201205/article_3.html 参考])。ストリームライン・ピクチャーズは、ルパンシリーズでは『ルパンVS複製人間』『[[死の翼アルバトロス]]』『[[さらば愛しきルパンよ]]』も翻訳している。[[イギリス]]と[[オーストラリア]]ではこのストリームライン・ピクチャーズの吹き替え版を用いて[[:w:Manga Entertainment|Manga Entertainment]]が発売した。
* 2000年にManga Entertainmentは上記のストリームラインとは別の吹き替えを用いたDVDを発売した。Mangaは2006年8月に、特別版DVDを発売。この特別版にはレコードのようにA面とB面があり、一枚のディスクの裏表両方が記録面となっている。A面には本編が、B面には大塚康生へのインタビューなどの特典映像が収録されている。2021年1月に、Disctek MediaはStreamline Picturesの吹き替えとManga Entertainmentの吹き替えを両方収録したUltra HD Bluu-rayを発売した<ref>{{Cite web|title=Discotek Media > Lupin The 3rd The Castle of Cagliostro Collectors Edition 4K HDR Blu-ray|url=https://www.discotekmedia.com/Lupin-The-3rd-The-Castle-of-Cagliostro-Collectors-Edition-4K-HDR-Blu-ray.htm|website=www.discotekmedia.com|accessdate=2021-05-14}}</ref>。
* フランスでは翻訳版が3つ存在し、『{{lang|fr|Vidocq contre Cagliostro}}』のタイトルで発売された第1バージョン、Manga Entertainmentが『{{lang|fr|Le Château de Cagliostro}}』のタイトルで発売した第2バージョン、IDPが同じく『{{lang|fr|Le Château de Cagliostro}}』のタイトルで発売した第3バージョンがある。Manga Entertainment による第2バージョンは、上記の Streamline Pictures による英語版を基にした重訳で、ルパンの名はやはり Wolf となっている。
== テレビ放送履歴 ==
※日本テレビ系列で放送されたもののみ記載。日本テレビ系列以外で放送されたものについては「'''日本テレビ系列以外'''」欄に記載。
* 当初は放送枠に合わせ、宮崎自身が約7分間をカット{{Efn|庭園でのプロレスごっこ、大司教が渋滞に巻き込まれるシーンなど。}}したバージョンで放送。5回目の放送でノーカット放送が初めて行われ、以後は毎回ノーカット放送が行われている。
{| class="wikitable"
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!回数!!放送日!!番組名!!視聴率!!備考!!出典
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|1||1980年12月17日||rowspan="4"|[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]||21.2%|| ||
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|2||1982年9月22日||21.8%|| ||
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|3||1984年3月14日||20.3%||{{Efn|当時、宮崎が監督した長編劇場アニメ『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』が公開中であり、番組の解説枠ではスタジオで司会の[[愛川欽也]]との対談を、ルパン役の[[山田康雄]]、不二子役の[[増山江威子]]と共に行っている。山田と増山は、前週の3月7日に放送された『[[刑事コロンボ]]/策謀の結末』終了後にも次回番宣ゲストとして登場。愛川にカリオストロ伯爵役を担当してもらい、3人で一部シーンのアフレコを実演した。}}||
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|4||1985年7月3日||14.7%||{{Efn|当時、『[[ルパン三世 バビロンの黄金伝説]]』の公開が控えていた。}}||
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|5||1991年10月4日||rowspan="2"|[[金曜ロードショー]]||13.7%||{{Efn|初のノーカット放送。以降はノーカット放送が定着する。}}||
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|6||1994年9月2日||22.4%|| ||
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|7||1996年1月2日||今夜のルパン三世||12.1%||||
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|8
|1999年2月26日||rowspan="6"|金曜ロードショー||23.4%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/h110226.html |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19991113135527/http://www.ntv.co.jp/kinro/h110226.html |archivedate=1999-11-13 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|9||2001年6月15日||21.2%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/h130615.html |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060215094604/http://www.ntv.co.jp/kinro/h130615.html |archivedate=2006-02-15 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|10||2004年3月26日||15.8%|| ||
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|11||2008年5月2日||16.4%||{{Efn|HDリマスター版初放送}}||<ref>{{Archive.today|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/before200805/20080502/top.html |title=ルパン三世 カリオストロの城 |date=20200426091456}}</ref>
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|12
|2010年10月8日||12.1%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20101008/index.html |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170424232146/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20101008/index.html |archivedate=2017-04-24 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|13||2012年3月30日||12.7%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20120330/ |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120314152427/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20120330/ |archivedate=2017-04-24 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|14||2015年1月16日||rowspan="4"|金曜ロードSHOW!||14.5%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinro.jointv.jp/lineup/150116/ |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150109122344/https://kinro.jointv.jp/lineup/150116/ |archivedate=2015-01-09 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|15||2016年10月14日||12.4%||{{Efn|[[広島テレビ]]のみ、[[2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグクライマックスシリーズ]]ファイナルステージ第3戦・[[広島東洋カープ|広島]]×[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]を急遽延長したため、放送を同16日に振替。}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinro.jointv.jp/lineup/161014/ |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161006113841/https://kinro.jointv.jp/lineup/161014/ |archivedate=2016-10-06 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|16||2018年1月19日||11.0%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinro.jointv.jp/lineup/20180119 |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180201221114/https://kinro.jointv.jp/lineup/20180119 |archivedate=2018-02-01 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|17||2020年11月20日||10.2%|| ||<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinro.ntv.co.jp/lineup/20201120 |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201101140939/https://kinro.ntv.co.jp/lineup/20201120 |archivedate=2020-11-01 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|18||2023年5月5日||金曜ロードショー|| 7.7%||{{Efn|[[テレビ金沢]]のみ、当日21時58分発生の地震により自社制作の報道特別番組を放送のため、途中打ち切り。}}||<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinro.ntv.co.jp/lineup/20230505 |title=ルパン三世 カリオストロの城 |publisher=金曜ロードショー |accessdate=2023-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230602165523/https://kinro.ntv.co.jp/lineup/20230505 |archivedate=2023-06-02 |deadlinkdate=2023-04-30}}</ref>
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|}
=== 日本テレビ系列以外 ===
* [[1987年]][[1月5日]]15時 - 17時には[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]の『[[アニメだいすき!]]』枠で放送された。
* [[2017年]][[2月12日]]に[[WOWOW]]で放送。CSでの初放送となった<ref>[http://www.wowow.co.jp/pg_info/release/004125/index.php 「銭形警部」放送記念!ついに「カリオストロの城」登場!]</ref>。
* [[2020年]][[1月1日]]に[[AbemaTV]]で放送。インターネットで無料配信されるのは初となった<ref>[https://anime.eiga.com/news/110137/ AbemaTVで「ルパン三世 カリオストロの城」とTVスペシャル5作品を無料配信]</ref>。
* [[2021年]][[10月3日]]に『[[BS12 トゥエルビ]]』の『[[日曜アニメ劇場]]』枠にて放送<ref>[https://www.twellv.co.jp/program/anime/sunday-animation/archive-sunday-animation/sunday-animation-042/ 日曜アニメ劇場『ルパン三世 カリオストロの城』]</ref>。
== 後の「ルパン三世」シリーズへの影響 ==
本作は演出や脚本をはじめ、後続する「ルパン三世」シリーズに大きく影響を与えている。
[[1995年]]に作品の今後について話し合いが行われた際、視聴者からの手紙を理由に本作に寄せた作品作りを望むプロデューサーの[[中谷敏夫]]に対し「宮崎本人にオファーできないのに同じようなものを作っても、真似した、偽物だと言われるのがオチだ」と『TV第1シリーズ』から参加する[[飯岡順一]]が反論したことで口論となり、この一件を重く感じた飯岡は一時期、シリーズの参加を辞退していた<ref>{{Cite|和書|author=飯岡順一|title=私の「ルパン三世」奮闘記 アニメ脚本物語|date=2015|publisher=河出書房新社|page=156-157|isbn=4309275591}}</ref>。
[[2019年]]公開の『[[ルパン三世 THE FIRST]]』では、監督・脚本の[[山崎貴]]がファンだった本作を強く意識して製作にあたっており「いろいろな点で、『カリオストロの城』から逃げようとしていたんですが、どうしても、“カリオストロ愛”が漏れでてしまいました(笑)」と語っている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-18|url=https://moviewalker.jp/news/article/216223/ |title=『ルパン三世 THE FIRST』の山崎貴監督が宮崎駿監督を心からリスペクト|publisher=[[Movie Walker]]|accessdate=2020-03-24}}</ref>。
=== 原作者の意見 ===
原作者のモンキー・パンチは、上述の通り本作自体は肯定し高く評価しているものの、[[1996年]]に「『カリオストロの城』以降、作る人がみんな宮崎さんに引っ張られている。だからルパンが優しく優しくなって、女の子が倒れたら手を貸して起こしてあげるようなルパンばかりで、もういい加減にしてくれと言いたくなる」「僕の原作の場合は毒があって、女性に対する優しさはあるけれども、ああいう優しさはないんですね」「宮崎さんしか出来ないのに、他の演出家が自分の好みではないのにやろうとしているから無理がある。その人が持っている個性で動かしてくれればいいんだけど、宮崎さんのに引きずられている」と苦言を呈している{{R|FILES}}。
=== 直接的な描写 ===
*年齢設定が「不明」で明確でないルパン達レギュラーキャラクターだが、本作以降はある程度年をとった人物と設定されることが多くなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.style.fm/as/05_column/animesama95.shtml |title=アニメ様の七転八倒 第95回 ルパン三世は年をとり続けた!?|author=小黒祐一郎 |authorlink=小黒祐一郎 |date=2007 |website=WEBアニメスタイル |accessdate=2023-05-30}}</ref>。
* [[1997年]]放送のTVスペシャル第9作『[[ルパン三世 ワルサーP38]]』では、銭形警部に示されたICPOによるルパンの使用したワルサーP38の報告書の中に、カリオストロ公国についての記述と伯爵の顔写真が載っているのが見える。
* [[2018年]]放送の『[[ルパン三世 PART5|TV第5シリーズ]]』第23話終盤には、カリオストロ公国の湖の中にある古代都市、崩壊した時計塔や骸骨の山があるカリオストロ城の地下が登場しルパン、次元、五ェ門は城の地下を隠れ家としていた。なお、古代都市は観光名所となっている。
== 関連書籍 ==
* 『ルパン三世 カリオストロの城』 [[集英社文庫]] コバルト・シリーズ 1982年、新版2000年 {{ISBN2|4086105101}}
** [[山崎晴哉]]{{Efn|ノンクレジットだが、本文冒頭部分に[[辻真先]]の執筆と記されている。}}による初期シナリオに基づく小説版。
* 『あれから4年…クラリス回想』 徳間書店 [[アニメージュ]]文庫、1983年8月 {{ISBN2|978-4196695127}}
** フィルムコミックのダイジェスト版、および宮崎駿の回想エッセイとインタビュー
* 『ルパン三世 カリオストロの城 シネマ・コミックEX』 文藝春秋 [[文春文庫|文春ジブリ文庫]]、2019年10月 {{ISBN2|978-4168121203}}
** 旧版は双葉社の文庫判、1984年と1996年に分冊刊行
* 『ルパン三世 カリオストロの城 アニメコレクション』 双葉社、1985年。下記の参考文献は新版
* 『ルパン三世 カリオストロの城 宮崎駿 絵コンテ集』 双葉社、1984年。同上
* 徳間アニメ絵本『ルパン三世 カリオストロの城』 [[徳間書店]]、2000年 {{ISBN2|4198612900}}
* LPレコード『ルパン・トーク・ルパン』日本コロムビア(1982年)、新版CD(1992年)
** アニメ2ndシリーズ終了後、ルパンが成長したクラリスと再会したことがルパン(声:山田康雄)によって語られる<ref>[tonbori堂アニメ語り 『ルパン三世』LPレコード『ルパン・トーク・ルパン』|Web-tonbori堂アネックス https://tonbori.blogspot.com/2017/06/tonbori-lp.html?m=1]</ref>。
== 関連ゲーム ==
* 『[[クリフハンガー (ゲーム)|CLIFF HANGAR]]』 - スターン (1983年)
** 本作と『[[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]』の映像を利用した[[レーザーディスクゲーム]]。
* 『ルパン三世 カリオストロの城』 - [[ムービック]] / [[東宝]] (1985年)
** パソコン[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]他用のロールプレイングゲーム。
* 『ルパン三世 カリオストロの城』 - 東宝 (1987年)
** [[MSX]]用のアクションゲーム。
* 『[[ルパン三世 パンドラの遺産]]』 - [[ナムコ]] (1987年)
** [[ファミリーコンピュータ]]用アクションゲーム。本作の後日談。
* 『LUPIN III CASTLE OF CAGLIOSTRO ルパン三世 カリオストロの城』 - [[ツクダホビー]] (1987年)
** [[テーブルトークRPG]]の[[ワープス]]システムを採用。
** 企画/製作[[オーアールジー|ORG]]、ゲームプロデューサー/[[大貫昌幸]]、ゲームデザイナー/小島裕貴子
* 『[[ルパン三世 カリオストロの城 -再会-]]』 - [[アスミック・エース|アスミック]] (1997年)
** [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用アドベンチャーゲーム。映画の設定資料やムービーも収録されている。
== 再公開 ==
{{Anchors|デジタルリマスター版}}[[2014年]][[5月9日]]、本作の[[デジタルリマスター]]版が東宝映像事業部の配給で期間限定公開された。入場者特典として「完全復刻版B4チラシ」が配布され、劇場パンフレットも復刻販売された。原版の映像に映り込んだ汚れやゴミの除去、音声のノイズの除去、5.1ch[[サラウンド]]への再調整等のリマスタリングに3年が費やされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0062405 |title=初公開から35年!『カリオストロの城』デジタルリマスター版の劇場公開が決定! |publisher=シネマトゥデイ |date=2014-04-22 |accessdate=2014-04-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2036655/ |title=『ルパン三世 カリオストロの城』デジタルリマスター版で劇場上映 |publisher=[[ORICON STYLE]] |date=2014-04-22 |accessdate=2014-04-22}}</ref>。
2019年10月25、26日には大野雄二による音楽シーンを生演奏する『〜映画公開40周年&大野雄二音楽活動55周年記念オフィシャル・プロジェクト〜映画『ルパン三世 カリオストロの城』シネマ・コンサート!andベストヒット『ルパン三世』ライブ!』を公演<ref>[https://www.famitsu.com/news/201906/20178281.html 奇跡の実現!映画『ルパン三世 カリオストロの城』40周年!巨大スクリーンで全編上映&大野雄二率いるオーケストラの生演奏でシネマコンサートとして蘇る!] 2019年6月20日 ファミ通.com</ref>。
2020年には池袋・グランドシネマサンシャインにて8月21日から9月3日の期間限定上映がされた<ref>{{Cite web|和書|title=【8/21(金)より】池袋・グランドシネマサンシャインにて劇場版2作品を上映!|url=https://lupinnewseason.tumblr.com/post/626324147376652288/821%E9%87%91%E3%82%88%E3%82%8A%E6%B1%A0%E8%A2%8B%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AB%E3%81%A6%E5%8A%87%E5%A0%B4%E7%89%882%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%82%92%E4%B8%8A%E6%98%A0|website=ルパン三世|accessdate=2020-10-27}}</ref>。
2017年には、ルパン三世生誕50周年企画としてデジタルリマスター版をベースにした[[MX4D]]版が上映された<ref>{{Cite web|和書|title=映画『ルパン三世 カリオストロの城』MX4D版が全国公開 -シート振動、風、ストロボ等、特殊効果満載|url=https://www.fashion-press.net/news/26563|website=www.fashion-press.net|accessdate=2020-05-06|language=ja}}</ref>。入場者特典として特報チラシのデザインのポストカードが配布された。この公開は、期間限定で全17スクリーンという小規模ながら、7600万円以上の興行収入を記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/news/104894/|title=劇場版第1作「ルパン三世 ルパンVS複製人間」がMX4Dに!9月1日から全国公開|newspaper=アニメハック|date=2017-07-31|accessdate=2022-03-12}}</ref>。
2019年には劇場公開40周年を記念し、『ルパン三世 カリオストロの城 [4D版]』が11月8日から21日まで上映された。MX4D版は2回目の上映で、[[4DX]]版での上映は初である。また、入場者特典として「フィルム風しおり」が配布された<ref>{{Cite web|和書|title=「ルパン三世 カリオストロの城」が4D版でスクリーンに!ルパンと屋根を大ジャンプ!? 新予告編公開|url=https://animeanime.jp/article/2019/09/13/48327.html|website=アニメ!アニメ!|accessdate=2020-05-06|language=ja}}</ref>。その後、2020年にシネマサンシャインにて、急遽4DXの期間限定上映が決定した<ref>{{Cite web|和書|title=『ルパン三世 カリオストロの城』4DX、期間限定上映決定! {{!}} グランドシネマサンシャイン池袋|url=https://www.cinemasunshine.co.jp/theater/gdcs/news/1671.php|website=www.cinemasunshine.co.jp|accessdate=2020-10-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=/スケジュール決定\10/30(金)公開「ルパン三世 カリオストロの城」4DX版10.30-11.5のスケジュール更新しました🗒️🌼9:05🌼18:35⛔特別料金:2,300円(4DX料金込み)1日2回の上映です!お楽しみに👀|url=https://twitter.com/cs_ikebukuro/status/1320908074597699584|website=Twitter|accessdate=2020-10-27|language=ja}}</ref>。
2021年10月1日より2週間、ルパン三世のアニメ化50周年を記念して、全国50館でモンキー・パンチ総監督短編作品「ルパンは今も燃えているか?」との同時上映が実施された。来場者特典としては、A4クリアファイルが、数量限定で配布された。また、公開当時のパンフレットの復刻版が発売されることも発表された<ref>{{Cite web|和書|title=「ルパン三世 カリオストロの城」4K上映の来場特典明らかに、復刻パンフ販売も|url=https://amp.natalie.mu/comic/news/446019| newspaper=コミックナタリー|data=2021-09-21|accessdate=2022-03-12}}</ref>。
=== その他 ===
2019年1月23日、日本公開から40年後には[[フランス]]で劇場初公開された{{Efn|「ルパン」が別の名前に変更されたビデオは出回っていた([[#日本国外]]も参照)}}<ref>{{Cite web|和書|date=2019-02-08|url=https://www.j-cast.com/2019/02/08350010.html?p=all|title=カリオストロの城、フランスで「ついに上映」公開から40周年、「単純に驚いた」と話題|website=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]]|publisher=[[ジェイ・キャスト|株式会社ジェイ・キャスト]]|accessdate=2019-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-02-07|url=https://twitter.com/CampusFrance_jp/status/1093419303611830273/|title=「日本で放映されてから40年、フランスでついに『ルパン三世 カリオストロの城』の上映が実現しました。…」|website=[https://twitter.com/CampusFrance_jp フランス政府留学局・日本支局Twitter]|publisher=[https://www.japon.campusfrance.org/ja キャンピュス・フランス・ジャポン]|accessdate=2018-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=BAUDOUIN ESCHAPASSE|date=2019-01-23|url=https://www.lepoint.fr/pop-culture/cinema/pourquoi-il-faut-voir-le-chateau-de-cagliostro-de-miyazaki-23-01-2019-2288211_2923.php|title=Pourquoi il faut voir Le Château de Cagliostro de Miyazaki(宮崎の『カリオストロの城』を見なければならない理由)/【予告映像】|website=[https://www.lepoint.fr/pop-culture/ Le Point Pop ]|publisher=[[:fr:Le Point|ル・ポワン]]|accessdate=2019-02-09}}</ref><ref>{{Cite news|author=Mathieu Macheret|date=2019-01-23|url=https://www.lemonde.fr/culture/article/2019/01/23/le-chateau-de-cagliostro-aux-origines-du-style-miyazaki_5413154_3246.html|title=« Le Château de Cagliostro » : aux origines du style Miyazaki|newspaper=[[ル・モンド]]|accessdate=2019-02-10}}</ref>。
== 補足 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2016年10月}}
* 草創期の[[コミックマーケット]]では[[吾妻ひでお]]とその周辺の同人がロリコン漫画[[同人誌]]『[[シベール (同人誌)|シベール]]』『[[クラリスマガジン]]』を作成し、ヒロインのクラリスを[[ロリータ・コンプレックス|ロリコン]]キャラクターとして取り上げている。
* 『[[ゼンダ城の虜]]』を初めとする、「近現代ヨーロッパの架空の小国を舞台にした冒険譚」を表す「[[アップフェルラント物語#ルリタニア・テーマ|ルリタニア・テーマ]]」というジャンル名を提唱した[[田中芳樹]]は、日本における代表例として本作と『[[天空の城ラピュタ]]』をあげた<ref>[[田中芳樹]]『[[アップフェルラント物語]]』後書きより{{Full|date=2016年10月}}。また田中の最初の長篇『白夜の弔鐘』で登場する女性「クラリス」の名前は、本作のヒロインから取られている(梶尾真治による文庫版解説より)。</ref>。
* 本作のファンであった[[黒田清子]](旧名:紀宮清子内親王)は、[[黒田慶樹]]との結婚式で着用する白いドレスのモチーフとして、デザイナーにクラリスの花嫁衣装を例示したという話が報道された<ref>{{Cite news |和書 |title=慎太郎都知事仰天祝辞「結婚とは賭けだ」 |newspaper=ウェブ報知 |date=2005-11-15 |url=http://www.yomiuri.co.jp/hochi/news/nov/o20051115_15.htm |access-date=2023-05-01 |publisher=報知新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20051124175711/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/news/nov/o20051115_15.htm |archive-date=2005-11-24}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|30em}}
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="Pamphlet1">{{Harvnb|東宝|1979|pp=16–17}}</ref>
<ref name="Pamphlet2">{{Harvnb|東宝|1979|p=20}}</ref>
<ref name="M25">{{Harvnb|叶精二|2006|p=25}}</ref>
<ref name="M27">{{Harvnb|叶精二|2006|p=27}}</ref>
<ref name="M28">{{Harvnb|叶精二|2006|p=28}}</ref>
<ref name="animage1">{{Cite journal|和書|title=宮崎監督のルパン私論 ルパンレクイエム|journal=アニメージュ VOL.28 |volume=3 |issue=10 |date=1980-10 |pages=77-84 |publisher=徳間書店}}</ref>
<ref name="animage2">{{Cite journal|和書|title=宮崎駿 冒険とロマンの世界|journal=アニメージュ VOL.38 |volume=4 |issue=8 |date=1981-08 |pages=25-56 |publisher=徳間書店}}</ref>
<ref name="animage3">{{Cite journal|和書|title=映画ルパン三世 カリオストロの城|journal=アニメージュ VOL.19 |volume=3 |issue=1 |date=1980-01 |pages=21-36 |publisher=徳間書店}}</ref>
<ref name="kinejun1980">{{Cite journal|和書 |year=2002|title=コラムでふりかえる2001年映画界10大ニュース|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[2002年]]([[平成]]14年)[[2月]]下旬号|page=181|publisher=キネマ旬報社}}</ref>
<ref name="FILES">{{Cite book|和書|editor=植草信和|title=THEルパン三世FILES 増補改訂版|date=1998|publisher=キネマ旬報社|isbn=9784873762203}}</ref>
<ref name="oguro1">{{Cite web|和書|url=http://www.style.fm/as/05_column/animesama68.shtml |title=アニメ様の七転八倒 第68回 宮崎駿と判官びいきのやり過ぎ |author=小黒祐一郎 |authorlink=小黒祐一郎 |date=2006 |website=WEBアニメスタイル |accessdate=2023-05-01}}</ref>
<ref name="oguro2">{{Cite web|和書|url=http://www.style.fm/log/05_column/oguro14.html |title=「編集長のコラム」第14回「『ルパン三世』の話(4)『旧ルパン』のその後の物語」|author=小黒祐一郎 |authorlink=小黒祐一郎 |date=2000 |website=WEBアニメスタイル |accessdate=2023-05-01}}</ref>
<ref name="Tweet1">{{Cite tweet|author=叶精二|user=seijikanoh|number=1329760556589350912|title=#宮崎駿 監督による舞台設定のセルフ解説。|date=2020-11-20|accessdate=2023-05-01}}</ref>
<ref name ="leader">Michael Leader, Jake Cunningham. The Ghibliotheque Anime Movie Guide: The Essential Guide to Japanese Animated Cinema. Welbeck Publishing. 2022. p.29.</ref>
<ref name ="greenberg">Raz Greenberg. Hayao Miyazaki: Exploring the Early Work of Japan's Greatest Animator. Bloomsbury Publishing. 2018. p.67.</ref>
<ref name ="eleven-arts">[https://m.youtube.com/watch?v=oVdUZzhVXkM LUPIN THE 3RD: THE CASTLE OF CAGLIOSTRO sneak peak interview with John Lasseter] (Youtube). 2017.9.7. Eleven Arts.</ref>
}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2015年1月|section=1}}
* {{Cite book|和書|author=東宝|date=1979|title=映画 ルパン三世 カリオストロの城 パンフレット|publisher=東宝株式会社事業部|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=本多健治|title=100てんランド・アニメコレクション③ ルパン三世 カリオストロの城|year=1981|publisher=双葉社|isbn=4-57547169-0|ref={{sfnref |LupinChateauDeCagliostro |1981}}}}
* {{Cite book|和書|editor=アニメック編集部|title=ルパン三世 カリオストロの城 大事典|series=ラポート デラックス⑤|date=1982|publisher=ラポート|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=アニメージュ編集部|title=あれから4年…クラリス回想|date=1983|series=アニメージュ文庫|publisher=徳間書店|isbn=9784196695127|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿|authorlink=宮崎駿|title=出発点―1979~1996|date=1996|publisher=徳間書店|isbn=9784198605414|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=大塚康生|authorlink=大塚康生|title=作画汗まみれ 増補改訂版|date=2001|publisher=徳間書店|isbn=9784198613617|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿|authorlink=宮崎駿|title=スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 ルパン三世カリオストロの城|date=2003|publisher=徳間書店|isbn=9784198616663|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=大塚康生|authorlink=大塚康生|title=リトル・ニモの野望|date=2004|publisher=徳間書店|isbn=9784198618902|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author1=大塚康生|authorlink1=大塚康生|author2=森遊机|title=大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽|date=2006|publisher=実業之日本社|isbn=9784408612553|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=叶精二|authorlink=叶精二|title=宮崎駿全書|date=2006|publisher=フィルムアート社|isbn=9784845906871|ref=harv}}
{{Refbegin}}
{{Refend}}
== 外部リンク ==
* [https://www.tms-e.co.jp/alltitles/lupin/010302.html ルパン三世 カリオストロの城] - [[トムス・エンタテインメント]]
* {{jmdb title|1979|dc003770|ルパン三世 カリオストロの城}}
* {{Allcinema title|146948|ルパン三世 カリオストロの城}}
* {{Kinejun title|19042|ルパン三世 カリオストロの城}}
* {{Movie Walker|mv18863|ルパン三世 カリオストロの城}}
* {{映画.com title|32052|ルパン三世 カリオストロの城}}
* {{Amg movie|8571|ルパン三世 カリオストロの城}}
* {{IMDb title|0079833|ルパン三世 カリオストロの城}}
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[[Category:アニメ作品 る|はんさんせいかりおすとろのしろ]]
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[[Category:宮崎駿の監督映画]]
[[Category:大野雄二の作曲映画]]
[[Category:東京ムービーのアニメ映画]]
[[Category:テレコム・アニメーションフィルムのアニメ作品]]
[[Category:ヨーロッパを舞台とした映画作品]]
[[Category:城を舞台にした映画作品]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B3%E4%B8%89%E4%B8%96_%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%81%AE%E5%9F%8E |
4,995 | 超並列マシン | 超並列マシン (ちょうへいれつマシン、Massively parallel machine) は1990年代から台頭してきた、並列計算機の中で規模の大きなもの(CPU数の多いもの)を言う。大規模クラスターマシン、大規模ワークステーションクラスター、地球シミュレーターなども超並列マシンの範疇に入れることができる。時代と共に並列度は大きくなり、CPU性能は向上するため、何個以上のCPU数(或いは性能)で超並列であるというはっきりとした定義はない。
超並列マシンは分散メモリ型のコンピュータシステムであり、多数のノードから構成され、各ノードは基本的に独立したコンピュータとなっている。本来の超並列マシンはnCUBEやコネクションマシンなどのように、ほとんどのノードがCPUとメモリとノード間接続用の通信ポートのみで構成されるものであった。ノード間通信にはMPIのような標準的なプロトコルを使用してメッセージをやり取りする。2005年現在のスーパーコンピュータはほとんどが超並列マシンである。超並列マシンの性能は、実行しようとするアプリケーションの並列性と、スレッド間の通信量に左右される。アプリケーションの並列性が高ければ多くのノードに展開して並列実行できるため、性能向上が期待できる。しかし、共有メモリ型と異なり、あるスレッドの実行結果をメモリに置くだけでは他のスレッドからは見えないため、通信が必要となる。したがって、計算途中に他のスレッドの結果を待ち合わせなければならないようなアプリケーションではノード数に比例した性能向上は期待できない。超並列マシンでの計算性能の向上は研究の活発な領域である。
超並列処理技術は、ハイパフォーマンスコンピューティング以外の用途でも使われている。その最も普及した例が、Graphics Processing Unit (GPU) である。最新世代のGPUは、少なくとも100個以上、ハイエンドモデルでは1000個以上のストリームプロセッサエレメント(シェーダーユニット)を持ち、8〜32個の集合を一つの命令デコーダに接続し、一つの命令で8〜32個のデータを同時処理できる。このプロセッサエレメントのクラスターは巨大なクロスバースイッチデータバスや、リングバスに接続される。プログラミング言語にはOpenGL/Direct3D用のプログラマブルシェーダー記述言語のほか、GPGPU向けに開発されたCUDAやOpenCLといった汎用言語およびAPIセットが使用され、SIMDやVLIW技術を駆使した内部命令セットへ変換される。単体で10TFLOPSもの理論演算性能を持つ製品もある。近年、このGPUを多数接続して安価な大規模超並列コンピュータを製造しようと言う動きがあり、GPUメーカーも科学計算向けに倍精度浮動小数点の演算性能を強化した製品を徐々に浸透させつつある。また、AIを実現するための機械学習・深層学習をアクセラレートするために、半精度浮動小数点および8ビット整数の演算性能および命令セットを強化する傾向も出始めている。 | [
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] | 超並列マシン は1990年代から台頭してきた、並列計算機の中で規模の大きなもの(CPU数の多いもの)を言う。大規模クラスターマシン、大規模ワークステーションクラスター、地球シミュレーターなども超並列マシンの範疇に入れることができる。時代と共に並列度は大きくなり、CPU性能は向上するため、何個以上のCPU数(或いは性能)で超並列であるというはっきりとした定義はない。 超並列マシンは分散メモリ型のコンピュータシステムであり、多数のノードから構成され、各ノードは基本的に独立したコンピュータとなっている。本来の超並列マシンはnCUBEやコネクションマシンなどのように、ほとんどのノードがCPUとメモリとノード間接続用の通信ポートのみで構成されるものであった。ノード間通信にはMPIのような標準的なプロトコルを使用してメッセージをやり取りする。2005年現在のスーパーコンピュータはほとんどが超並列マシンである。超並列マシンの性能は、実行しようとするアプリケーションの並列性と、スレッド間の通信量に左右される。アプリケーションの並列性が高ければ多くのノードに展開して並列実行できるため、性能向上が期待できる。しかし、共有メモリ型と異なり、あるスレッドの実行結果をメモリに置くだけでは他のスレッドからは見えないため、通信が必要となる。したがって、計算途中に他のスレッドの結果を待ち合わせなければならないようなアプリケーションではノード数に比例した性能向上は期待できない。超並列マシンでの計算性能の向上は研究の活発な領域である。 | {{出典の明記|date=2017年7月}}
'''超並列マシン''' (ちょうへいれつマシン、''Massively parallel machine'') は[[1990年]]代から台頭してきた、[[並列計算機]]の中で規模の大きなもの([[CPU]]数の多いもの)を言う。大規模[[クラスターマシン]]、大規模[[ワークステーションクラスター]]、[[地球シミュレーター]]なども超並列マシンの範疇に入れることができる。時代と共に並列度は大きくなり、CPU性能は向上するため、何個以上のCPU数(或いは性能)で超並列であるというはっきりとした定義はない。
超並列マシンは[[分散メモリ]]型のコンピュータシステムであり、多数のノードから構成され、各ノードは基本的に独立したコンピュータとなっている。本来の超並列マシンは[[nCUBE]]や[[コネクションマシン]]などのように、ほとんどのノードが[[CPU]]と[[記憶装置|メモリ]]とノード間接続用の通信ポートのみで構成されるものであった。ノード間通信には[[Message Passing Interface|MPI]]のような標準的なプロトコルを使用してメッセージをやり取りする。2005年現在の[[スーパーコンピュータ]]はほとんどが超並列マシンである。超並列マシンの性能は、実行しようとするアプリケーションの並列性と、[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]間の通信量に左右される。アプリケーションの並列性が高ければ多くのノードに展開して並列実行できるため、性能向上が期待できる。しかし、[[共有メモリ]]型と異なり、あるスレッドの実行結果をメモリに置くだけでは他のスレッドからは見えないため、通信が必要となる。したがって、計算途中に他のスレッドの結果を待ち合わせなければならないようなアプリケーションではノード数に比例した性能向上は期待できない。超並列マシンでの計算性能の向上は研究の活発な領域である。
==コンシューマー市場での超並列==
超並列処理技術は、[[ハイパフォーマンスコンピューティング]]以外の用途でも使われている。その最も普及した例が、[[Graphics Processing Unit]] (GPU) である。{{いつ範囲|最新|date=2017年7月}}世代のGPUは、少なくとも100個以上、ハイエンドモデルでは1000個以上のストリームプロセッサエレメント(シェーダーユニット)を持ち、8〜32個の集合を一つの命令デコーダに接続し、一つの命令で8〜32個のデータを同時処理できる。このプロセッサエレメントのクラスターは巨大な[[クロスバースイッチ]]データバスや、[[リングバス]]に接続される。プログラミング言語には[[OpenGL]]/[[Direct3D]]用の[[プログラマブルシェーダー]]記述言語のほか、[[GPGPU]]向けに開発された[[CUDA]]や[[OpenCL]]といった汎用言語および[[Application Programming Interface|API]]セットが使用され、[[SIMD]]や[[VLIW]]技術を駆使した内部命令セットへ変換される。単体で10T[[FLOPS]]もの理論演算性能を持つ製品もある。{{いつ範囲|近年|date=2017年7月}}、このGPUを多数接続して安価な大規模超並列コンピュータを製造しようと言う動きがあり、GPUメーカーも科学計算向けに[[倍精度浮動小数点]]の演算性能を強化した製品を徐々に浸透させつつある。また、[[人工知能|AI]]を実現するための[[機械学習]]・[[深層学習]]をアクセラレートするために、[[半精度浮動小数点]]および8ビット整数の演算性能および命令セットを強化する傾向も出始めている。
==関連項目==
*[[メニーコア]]
*[[並列化]]
*[[グリッド化]]
*[[並列コンピューティング]]
*[[スーパーコンピュータ]]
*[[グリッドコンピュータ]]
*[[計算機工学]]
*[[第一原理バンド計算]]
{{並列コンピューティング}}
{{デフォルトソート:ちようへいれつましん}}
[[Category:スーパーコンピュータ]]
<!-- [[Category:計算科学|ちようへいれつましん]] --> | null | 2022-06-17T09:43:27Z | false | false | false | [
"Template:いつ範囲",
"Template:並列コンピューティング",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E4%B8%A6%E5%88%97%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3 |
4,996 | クローン | クローン(英語: clone)は、同一の起源を持ち、なおかつ均一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、個体の集団。もとはギリシア語で植物の小枝の集まりを意味するκλών klōn から。1903年、ハーバート・ウェッバー(英語版)が、栄養生殖によって増殖した個体集団を指す生物学用語として“clone” という語を考案した。本来の意味は挿し木である。
クローンとはすなわち、分子・DNA・細胞・生体などのコピーである。
これらは生物学実験や検査において、不可欠な技術である。クローンを作成することをクローニングと言う。
無性生殖は、原則としてクローンを作る。
単細胞生物の細胞分裂は当然クローンとなる。有性生殖をするまで、群落は1つのクローンである。
体細胞クローンは、年齢の異なる一卵性双生児を作る、という見方もできる。
植物では栄養生殖がある。匍匐茎をのばして増殖する植物は、往々にして群落を形成するが、それらは同一のクローンから構成される。竹林、リンネソウはその例である。
一部の生物、特に三倍体の生物は、マクロには通常どおり種子や胞子を作っているようでも、減数分裂・融合を経ない無融合生殖を行い、子はクローンとなる。セイヨウタンポポが有名で、広大な範囲(アメリカのいくつもの州など)に渡るクローンを形成することもある。無融合生殖によるクローンは動植物を問わず見られる。ヤマコウバシは日本には雌株しか存在せず、一つの株のクローンであることが明らかとなっている。
カビでは、体細胞分裂により生殖子を作る無性生殖が広く行なわれており、クローンの子孫が生まれる。分生子を作る子嚢菌や不完全菌、胞子嚢胞子を作る接合菌類である。
アリなど、有性生殖もする個体が単為生殖している場合は、通常、減数分裂を経ており、クローンではない。
カニの一種キンチャクガニは、左右のはさみにイソギンチャクをつけて、防御などに用いるが、このイソギンチャクが片方だけ失われると、カニはイソギンチャクを2つに引き裂く。引き裂かれたイソギンチャクは、クローンとなり、数日で元の大きさになる。これは、ある動物が別の動物の無性生殖を促す唯一の事例である。
クローンは、遺伝的には均質であり、遺伝子という観点からは群落というよりはむしろ1つの個体であると言え、リチャード・ドーキンスなどはクローンを1つの巨大生物にたとえている。
天然にクローンを作る種では、進化により、それに応じた適応が生まれていると考えられる。具体的には、他のクローン個体に対する利他主義や、真社会性の進化が見られると予想される。雌が単為生殖により集団を作るアブラムシ類では真社会性のものが発見されているし、ヒドロ虫類など、無性生殖による群体を作るものには、分業が見られる例も多い。
適応という観点からは、親は自分のクローンのみを生めば、最も効率よく繁殖できることになる。しかしクローンでは遺伝的多様性が得られないため、単一の要因(伝染病、寄生虫など)により大きな被害を受ける可能性がある。このことが、クローンのみによる繁殖を行う種が少ないことの一因である。歴史的には、広くクローンで栽培されていたグロス・ミチェル品種のバナナが、パナマ病により絶滅した例がある。
植物については、古くから挿し木などのクローン技術が農業、園芸で利用されている。体細胞を材料とするクローンはメリクロン栽培として実用化されている。また、遺伝子をクローニングすることは、インスリン等さまざまな有用物質を生産する遺伝子工学や生物工学において、不可欠の技術となっている。
植物とは異なり、動物では、プラナリアやヒトデなどのごく一部の例外を除き、分化の進んだ体細胞や組織を分離してその細胞を動物個体に成長させることは、未だにできていない。分化の進んでいない(つまり多分化能を維持した状態の)受精卵ではそれが可能である。現在の技術では、胚や体細胞から取り出したDNAを含む細胞核を未受精卵に移植する「核移植」によってクローンを作成する。
人工的な動物個体のクローンは、ウニの胚分割により1891年に初めて作成された。さらに、胚細胞核移植およびに体細胞核移植によるクローンは、カエルのものが初めて作成された。哺乳類のクローンは、ヒツジのものが1996年に始めに作られた。細胞融合を必要とする体細胞核移植では、1998年にウシにおいてもクローンが作成された。細胞融合を必要としない体細胞核移植であるホノルル法によって、1997年にマウスのクローンが作成された。現在は、ホノルル法を用いて、ネコ、ウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ラット、ラクダ、サルなど多くの哺乳動物で、体細胞由来のクローン作成の成功例が報告されている。
個体全身を作製するクローンではなく、体細胞クローン技術やその途中経過である移植者自身の体細胞より発生した幹細胞を利用することで、臓器を複製し機能の損なわれた臓器と置き換えたり、あるいは幹細胞移植による再生医療も研究されている。
日本におけるクローン技術規制法のように、世界各国でヒトクローンを禁止する枠組みができつつある。理由としては、先ほど出たような寿命が短いというような問題の他に、「外見の全く一緒の人達が何人もいると社会制度上大変なことになる」「優秀な人間のクローンをたくさん作り優秀な人間だけの軍隊を作る」、「独裁者がクローンで影武者を立てる」などといった事態が起こるから、ということが挙げられるが、上記のように根本的に不可能なものがある。また、「優秀な人間だけの軍隊・野球チーム・サッカーチーム」などという存在は、生まれてきたクローン人間に強制的に軍人やスポーツ選手の道を歩ませない限り不可能であり、これは「クローン人間に普通の人間並みの人権を認めない」ということになり人権上問題があるばかりか、ある意味奴隷制度にもつながりかねないものである。なお、研究上ネアンデルタール人等といった古人類のクローンについては規定が明確ではなくグレーの部分がある。絶滅した古人類をヒトとして扱うか動物として扱うかは本来法的に問題にならないが、クローン技術で復活させて研究する等といった、技術的な進歩次第では人類進化のための研究を認めるか等を考慮する必要性が発生することも考えられる。
菅沼信彦はいくら法規制をしたとしても、権力者が自分のクローンを作ろうとすることは止められないだろうと述べている。
加藤尚武は、「(クローンの作成が)ドイツでは禁止されているから、アメリカで作ろう」というような事態が起きないように、全世界共通の倫理基準を作るべきだと主張している。
このような禁止措置はES細胞、iPS細胞などの生命科学の発展の障害となる可能性があり、考え方の対立が問題となっている。
多くの宗教はクローン(特に人間のクローン)の作成について批判的な見解を持っている。
クローン人間作製を推進するラエリアン・ムーブメントの関連企業であるクロネイド社は、ES細胞を用いたクローン技術によって、人工臓器を作ることができ、多くの人々を救えると主張している。また、不妊に苦しむカップルにとっては、クローン技術こそ子孫を残すための唯一の方法であるとしている。 | [
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"text": "植物とは異なり、動物では、プラナリアやヒトデなどのごく一部の例外を除き、分化の進んだ体細胞や組織を分離してその細胞を動物個体に成長させることは、未だにできていない。分化の進んでいない(つまり多分化能を維持した状態の)受精卵ではそれが可能である。現在の技術では、胚や体細胞から取り出したDNAを含む細胞核を未受精卵に移植する「核移植」によってクローンを作成する。",
"title": "クローン技術"
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"text": "人工的な動物個体のクローンは、ウニの胚分割により1891年に初めて作成された。さらに、胚細胞核移植およびに体細胞核移植によるクローンは、カエルのものが初めて作成された。哺乳類のクローンは、ヒツジのものが1996年に始めに作られた。細胞融合を必要とする体細胞核移植では、1998年にウシにおいてもクローンが作成された。細胞融合を必要としない体細胞核移植であるホノルル法によって、1997年にマウスのクローンが作成された。現在は、ホノルル法を用いて、ネコ、ウマ、ヤギ、ウサギ、ブタ、ラット、ラクダ、サルなど多くの哺乳動物で、体細胞由来のクローン作成の成功例が報告されている。",
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"text": "個体全身を作製するクローンではなく、体細胞クローン技術やその途中経過である移植者自身の体細胞より発生した幹細胞を利用することで、臓器を複製し機能の損なわれた臓器と置き換えたり、あるいは幹細胞移植による再生医療も研究されている。",
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"text": "日本におけるクローン技術規制法のように、世界各国でヒトクローンを禁止する枠組みができつつある。理由としては、先ほど出たような寿命が短いというような問題の他に、「外見の全く一緒の人達が何人もいると社会制度上大変なことになる」「優秀な人間のクローンをたくさん作り優秀な人間だけの軍隊を作る」、「独裁者がクローンで影武者を立てる」などといった事態が起こるから、ということが挙げられるが、上記のように根本的に不可能なものがある。また、「優秀な人間だけの軍隊・野球チーム・サッカーチーム」などという存在は、生まれてきたクローン人間に強制的に軍人やスポーツ選手の道を歩ませない限り不可能であり、これは「クローン人間に普通の人間並みの人権を認めない」ということになり人権上問題があるばかりか、ある意味奴隷制度にもつながりかねないものである。なお、研究上ネアンデルタール人等といった古人類のクローンについては規定が明確ではなくグレーの部分がある。絶滅した古人類をヒトとして扱うか動物として扱うかは本来法的に問題にならないが、クローン技術で復活させて研究する等といった、技術的な進歩次第では人類進化のための研究を認めるか等を考慮する必要性が発生することも考えられる。",
"title": "法規制"
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"text": "菅沼信彦はいくら法規制をしたとしても、権力者が自分のクローンを作ろうとすることは止められないだろうと述べている。",
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"text": "加藤尚武は、「(クローンの作成が)ドイツでは禁止されているから、アメリカで作ろう」というような事態が起きないように、全世界共通の倫理基準を作るべきだと主張している。",
"title": "法規制"
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"text": "このような禁止措置はES細胞、iPS細胞などの生命科学の発展の障害となる可能性があり、考え方の対立が問題となっている。",
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"title": "宗教の見解"
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"text": "クローン人間作製を推進するラエリアン・ムーブメントの関連企業であるクロネイド社は、ES細胞を用いたクローン技術によって、人工臓器を作ることができ、多くの人々を救えると主張している。また、不妊に苦しむカップルにとっては、クローン技術こそ子孫を残すための唯一の方法であるとしている。",
"title": "宗教の見解"
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] | クローンは、同一の起源を持ち、なおかつ均一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、個体の集団。もとはギリシア語で植物の小枝の集まりを意味するκλών klōn から。1903年、ハーバート・ウェッバーが、栄養生殖によって増殖した個体集団を指す生物学用語として“clone” という語を考案した。本来の意味は挿し木である。 | {{Otheruses}}
{{混同|クーロン|クローニング|クローン病|x2=作成技術である|x3=消化器疾患の}}
'''クローン'''({{lang-en|clone}})は、同一の起源を持ち、なおかつ均一な[[遺伝情報]]を持つ[[核酸]]、[[細胞]]、[[個体]]の[[集団]]。もとは[[ギリシア語]]で[[植物]]の小枝の集まりを意味する{{lang|el|κλών}} klōn から。[[1903年]]、{{仮リンク|ハーバート・ウェッバー|en|Herbert John Webber}}が、[[栄養生殖]]によって増殖した個体集団を指す[[生物学]]用語として“{{Lang|en|clone}}” という語を考案した。本来の意味は[[挿し木]]である。
== 用語 ==
クローンとはすなわち、[[分子]]・[[DNA]]・細胞・[[生体]]などの[[コピー]]である。
* 分子クローン - DNAなど生体分子を複製して得られるコピーの分子のこと。
* 遺伝子クローン(DNAクローン) - 1つのDNAから[[DNAクローニング]]で得られた[[遺伝子]]のこと。
* 細胞クローン - 単一の細胞から[[細胞培養]]によって作られた細胞集団のこと。
* 生物クローン - 未受精卵を用いた核移植や受精卵を用いた胚分割によって作られた、元の生物固体と同じ遺伝情報を持つ生物のこと。
これらは生物学実験や検査において、不可欠な技術である。クローンを作成することを[[クローニング]]と言う。
== 天然のクローン ==
[[File:Dandelions in Tuira Jun2008.jpg|thumb|[[セイヨウタンポポ]]の群落。おそらく1つのクローンである。]]
[[無性生殖]]は、原則としてクローンを作る。
[[単細胞生物]]の[[細胞分裂]]は当然クローンとなる。[[有性生殖]]をするまで、[[群落]]は1つのクローンである。
体細胞クローンは、年齢の異なる[[一卵性双生児]]を作る、という見方もできる<ref>[http://www.tmd.ac.jp/mri/epgn/clone.html 体細胞クローンの遺伝子発現は正常か?] [[東京医科歯科大学難治疾患研究所]]</ref>。
[[植物]]では[[栄養生殖]]がある。[[匍匐茎]]をのばして増殖する植物は、往々にして群落を形成するが、それらは同一のクローンから構成される。[[竹林]]、[[リンネソウ]]はその例である。
一部の生物、特に[[三倍体]]の生物は、マクロには通常どおり[[種子]]や[[胞子]]を作っているようでも、[[減数分裂]]・融合を経ない無融合生殖を行い、子はクローンとなる。[[セイヨウタンポポ]]が有名で、広大な範囲(アメリカのいくつもの州など)に渡るクローンを形成することもある。[[無融合生殖]]によるクローンは動植物を問わず見られる。[[ヤマコウバシ]]は[[日本]]には雌株しか存在せず、一つの株のクローンであることが明らかとなっている<ref>[https://www.osaka-cu.ac.jp/ja/news/2020/210226-1 ヤマコウバシがたった1本の雌株から生じた巨大なクローンであることを発見!]、2021年2月26日、大阪市立大学</ref>。
[[カビ]]では、[[体細胞分裂]]により[[生殖子]]を作る無性生殖が広く行なわれており、クローンの子孫が生まれる。[[分生子]]を作る[[子嚢菌]]や[[不完全菌]]、[[胞子嚢]]胞子を作る[[接合菌]]類である。
[[アリ]]など、有性生殖もする個体が[[単為生殖]]している場合は、通常、[[減数分裂]]を経ており、クローンではない。
カニの一種[[キンチャクガニ]]は、左右のはさみに[[イソギンチャク]]をつけて、防御などに用いるが、このイソギンチャクが片方だけ失われると、カニはイソギンチャクを2つに引き裂く。引き裂かれたイソギンチャクは、クローンとなり、数日で元の大きさになる。これは、ある動物が別の動物の[[無性生殖]]を促す唯一の事例である<ref>{{Cite news |title=カニがイソギンチャクのクローン作り共生維持か |newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2017-2-3 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/020200027/ |accessdate=2018-6-17 |author=Mary Bates}}</ref>。
== クローンと進化 ==
クローンは、遺伝的には均質であり、遺伝子という観点からは群落というよりはむしろ1つの[[個体]]であると言え、[[リチャード・ドーキンス]]などはクローンを1つの巨大生物にたとえている。
天然にクローンを作る種では、[[進化]]により、それに応じた適応が生まれていると考えられる。具体的には、他のクローン個体に対する[[利他主義]]や、[[真社会性]]の進化が見られると予想される。雌が単為生殖により集団を作る[[アブラムシ]]類では真社会性のものが発見されているし、[[ヒドロ虫]]類など、無性生殖による群体を作るものには、分業が見られる例も多い。
適応という観点からは、親は自分のクローンのみを生めば、最も効率よく繁殖できることになる。しかしクローンでは[[遺伝的多様性]]が得られないため、単一の要因([[伝染病]]、[[寄生虫]]など)により大きな被害を受ける可能性がある。このことが、クローンのみによる繁殖を行う種が少ないことの一因である。歴史的には、広くクローンで[[栽培]]されていた[[グロス・ミチェル]]品種の[[バナナ]]が、[[パナマ病]]により[[絶滅]]した例がある。
== クローン技術 ==
=== 植物 ===
植物については、古くから[[挿し木]]などのクローン技術が[[農業]]、[[園芸]]で利用されている。体細胞を材料とするクローンは[[メリクロン]]栽培として実用化されている。また、[[遺伝子]]を[[クローニング]]することは、[[インスリン]]等さまざまな有用物質を生産する[[遺伝子工学]]や[[生物工学]]において、不可欠の技術となっている。
[[植物]]とは異なり、[[動物]]では、[[プラナリア]]や[[ヒトデ]]などのごく一部の例外を除き、分化の進んだ体細胞や組織を分離してその細胞を動物個体に成長させることは、未だにできていない。分化の進んでいない(つまり多分化能を維持した状態の)[[受精卵]]ではそれが可能である。現在の技術では、胚や体細胞から取り出した[[DNA]]を含む[[細胞核]]を未受精卵に移植する「核移植」によってクローンを作成する。
; 胚分割
: [[受精卵]]を分割して、それぞれから正常な個体クローンを作成する方法を胚分割という。この方法により初めての人工的なクローン動物が作成された。
; 核移植
: クローン元の動物の[[細胞核]]を未受精卵に移植することによりクローンを作成する方法を核移植という。クローン元の動物の細胞核が、[[生殖細胞]](胚細胞)由来の場合は'''胚細胞核移植'''、[[体細胞]]由来の場合は'''体細胞核移植'''という。分化した体細胞からクローンを作製するには、分化した核を飢餓状態に置き、[[細胞周期]]を停止させる。その後、核を除去した未受精卵と電気的刺激を与えることにより[[細胞融合]]を起こさせ、その後発生を促すことにより体細胞由来のクローンの[[胎子]]を作ることができる。[[1998年]]に[[若山照彦]]らは、体細胞を核を除去した[[卵子]]に直接注入することにより、細胞融合を行わずクローン個体を作製する'''[[ホノルル法]]'''を開発した。現在、このホノルル法がクローン作成法の標準となっている。
== クローン動物 ==
人工的な動物個体のクローンは、[[ウニ]]の胚分割により[[1891年]]に初めて作成された。さらに、胚細胞核移植およびに体細胞核移植によるクローンは、[[カエル]]のものが初めて作成された。[[哺乳類]]のクローンは、[[ヒツジ]]のものが[[1996年]]に始めに作られた。細胞融合を必要とする体細胞核移植では、[[1998年]]に[[ウシ]]においてもクローンが作成された。細胞融合を必要としない体細胞核移植であるホノルル法によって、[[1997年]]に[[ハツカネズミ属|マウス]]のクローンが作成された。現在は、ホノルル法を用いて、[[ネコ]]、[[ウマ]]、[[ヤギ]]、[[ウサギ]]、[[ブタ]]、[[ラット]]、[[ラクダ]]、[[サル]]など多くの哺乳動物で、体細胞由来のクローン作成の成功例が報告されている。
; ウニ
: [[1891年]]に[[ハンス・ドリーシュ]]は、[[ウニ]]の[[受精卵]]を分割して、それぞれから正常なウニの[[幼生]]を発生させることに成功した。これは初めて人工的に作製された動物個体のクローンであった。
; カエル
: 未受精卵に[[胚|胚細胞]]の核を移植する方法(胚細胞核移植)による最初のクローン動物は、[[1952年]]に[[:en:Robert William Briggs|ロバート・ブリッグス]]と[[:en:Thomas Joseph King|トーマス・キング]]により[[ヒョウガエル]]から作られた。このときは、分化の進んでいない[[胚|初期胚]]の細胞や核を不活化した未受精卵に移植することによりクローンを作成した。[[動物]]の[[体細胞]]の核を未受精卵に移植する方法(体細胞核移植)による最初のクローンは、[[1962年]]に[[ジョン・ガードン (生物学者)|ジョン・ガードン]]により[[アフリカツメガエル]]の[[オタマジャクシ]]から作られた。
; コイ
: 1963年に[[中華人民共和国|中国]]の[[:en:Tong Dizhou|童第周]]が作製した、初めての[[魚類]]のクローンである。[[雄|オス]]のアジア[[鯉]]のDNAを抽出し、[[雌|メス]]のアジア鯉の卵に移植した。1973年には、オスのアジア鯉のDNAをメスのヨーロッパ鯉の卵に移植し、初めての生物種間をまたがるクローンを作製した<ref name="UConn1">{{cite news |author=Charles C. Mann |title=The First Cloning Superpower
|url=http://www.wired.com/wired/archive/11.01/cloning_pr.html |work=[[Wired (magazine)|Wired]] |date=January 2003 |accessdate = 2007-06-03}}</ref>。
; ヒツジ
: [[哺乳類]]のクローンは、[[ヒツジ]]のものが始めに作られた。[[1981年]]に、[[:en:Steen Willadsen|Steen Willadsen]]は[[ヒツジ]]の受精卵からクローン個体を作製した。さらに[[1984年]]に、分化の進んでいない初期胚を未受精卵に核移植することでクローンを作製した。[[1995年]]には[[ロスリン研究所]]で、分化の進んだ胚細胞から[[:en:Megan and Morag|メーガンとモラグ]]という二体のヒツジのクローンが作製された。[[1996年]]7月には、ロスリン研究所の[[:en:Ian Wilmut|イアン・ウィルムット]]と[[:en:Keith Campbell (biologist)|ケイス・キャンベル]]によって、ヒツジの[[乳腺]][[細胞核]]の核移植によるクローン、[[ドリー (羊)|ドリー]]([[2003年]][[2月14日]]死亡)が作られた。これは哺乳類で初めて[[体細胞]]から作られたという点で注目を集めた。さらに、1997年には同研究所において、人為的に改変を加えた遺伝子を持つトランスジェニックヒツジのクローン[[:en:Polly and Molly|ポリーとモリー]]が作成された{{要出典|date=2021-05}}。これは[[トランスジェニック動物]]のクローンとして世界で初めてのものである。
; マウス
: 1986年、[[ソ連]]の科学者は、マーシャ ("Masha") と呼ばれるマウスのクローンを胚細胞核移植によって作製した<ref>{{cite journal|journal=Biofizika| volume= 32| issue= 5|year=1987|author=Chaĭlakhian LM, Veprintsev BN, Sviridova TA, Nikitin VA|pmid= 331894|title=Electrostimulated cell fusion in cell engineering}}</ref>。1997年、[[ハワイ大学マノア校]]の[[柳町隆造]]研究室の若山照彦らによって、ホノルル法を用いた初めてのクローンがマウスから作成された。このマウスは、[[:en:Cumulina|Cumulina]]と名付けられた。2008年には、同じく若山照彦によって冷凍保存された細胞からマウスのクローンが作成された。これは冷凍保存された細胞から作られたクローンとして世界で初めてのものである。
; ブタ
: 2000年3月、初めてのブタのクローンが、ドリーと同じくロスリン研究所によって体細胞から作成された。この時作成された5匹のクローンはMillie, Christa, Alexis, Carrel, そしてDotcomと名付けられた。
: 2000年7月には、世界で2例目、日本では初めての事例となる[[ゼナ (豚)|ゼナ]](雌、[[梅山豚]])が[[農業生物資源研究所]]などによって産み出された。ゼナは子豚を産み、2010年に寿命を終えた。クローン動物による正常な繁殖能力と正常な寿命の実例となった<ref name="ゼナ">{{cite web|url=http://www.nias.affrc.go.jp/press/20100422/|title=世界最高齢の体細胞クローン豚「ゼナ」 約10年で寿命を終える|publisher=[[農業生物資源研究所]]|date=2010-04-22|accessdate=2016-12-01}}</ref>。
: 2014年までに中国の[[:en:Beijing Genomics Institute|BGI]]は新薬テストのために500頭のブタクローンを作成している。
; ガウル
: 2001年1月、初めての[[絶滅危惧種]]のクローンが作成された。誕生した[[ガウル]]のクローンは2日後に死亡した。
; ネコ
: 2001年12月に[[テキサスA&M大学]]の研究者が[[CC (猫)|CC]] (コピーキャット、クローンキャットの意) と呼ばれる初めてのネコのクローンを作製した<ref name="cat1">{{cite news |author=David Braun |title=Scientists Successfully Clone Cat |url=http://news.nationalgeographic.com/news/2002/02/0214_021402copycat.html |work=[[National Geographic]] |date=February 14, 2002 |accessdate = 2007-06-03}}</ref>。CCはクローン元の猫と全く同じDNAを持つにもかかわらず、性格はそれぞれ異なっていた。例えば、CCは好奇心旺盛で活発だったが、クローン元の猫は恥ずかしがりやで臆病だった。また、毛の色も異なる<ref>[http://www.nature.com/nature/journal/v415/n6874/fig_tab/nature723_F1.html FIGURE 1. Nuclear-donor cat, and cloned kitten with its surrogate mother.] - [[ネイチャー]] 2002年2月21日</ref>。2004年には、初めての商業用[[ペット]]としてのネコクローン[[リトルニッキー]]が[[:en:Genetic Savings & Clone|Genetic Savings & Clone]]社によって作製された<ref>{{cite news |title=Pet Cat Cloned for Christmas |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4120179.stm |work=[[BBC]] |date=December 23, 2004 |accessdate= 2007-06-03}}</ref>。
; ラット
: 2003年、初めての[[ラット]]のクローンである[[:en:Ralph (rat)|Ralph]]が中国とフランスの研究者によって作成された。
; ウマ
: 2003年5月28日、初めての[[ウマ]]のクローンである[[:en:Prometea|Prometea]]がイタリアの研究所で作成された。
; イヌ
: [[2005年]]、哺乳類において最も生殖工学の適用が難しいと考えられていた[[イヌ]]でのクローン作製が、[[大韓民国|韓国]]の研究者グループによって報告された。このイヌは[[スナッピー (犬)|スナッピー]]と名付けられた。ところが、このイヌのクローンについて発表した[[ソウル大学校|ソウル大学]]の[[黄禹錫]]教授らに関して、[[2005年]]末に『[[黄禹錫#ES細胞論文不正事件|'''ヒト胚性幹細胞捏造事件''']]』(ES細胞論文の捏造・研究費等横領・卵子提供における倫理問題)が発覚し、これを契機に過去の主だった論文の精査が行なわれた。結局、それまでの黄禹錫の発表成果のうちイヌクローンのみは成功していたことが立証された。2017年には世界初の遺伝子組み換えクローン犬「竜竜」が中国で作製されて韓国に続いて中国は犬体細胞クローン技術を独自に確立した国となった<ref>{{cite news |title=世界初の遺伝子組換えクローン犬、中国が育成に成功 |url=http://j.people.com.cn/n3/2017/0706/c95952-9238058.html |work=[[人民網]] |date=2017-07-06|accessdate=2018-04-18}}</ref>。[[2019年]]、中国[[昆明市]]および[[北京市]]の公安当局は、クローンにより誕生した[[警察犬]]を導入した<ref>{{Cite web |date=2019-11-27 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20191127-OYT1T50192/ |title=北京公安局に「クローン警察犬」…攻撃性高い犬の体細胞採取 |publisher=読売新聞 |accessdate=2019-12-03}}</ref>。
; オオカミ
: 2005年、初めての[[オオカミ]]のクローンがソウル大学の黄禹錫ら韓国の研究者たちによって作成された。このオオカミの名前は[[スナッピー (犬)#発展|Snuwolf]]およびSnuwolffyと名付けられた。
; ブカルド(ピレネーアイベックス)
: 2009年1月、初めての絶滅種のDNAを用いたクローンがスペインの研究所で作成された。[[:en:Pyrenean ibex|ピレネーアイベックス]]は2000年に絶滅しているが、その組織と細胞は冷凍保存されていた。このクローンは誕生7分後に肺障害で死亡した。
; サル
: 2018年1月、[[中国科学院]]は体細胞核移植を用いた世界初の[[霊長類]]([[カニクイザル]])のクローン「[[中中と華華]]」を米科学誌[[セル (雑誌)|セル]]で発表した<ref name=afp18125>{{cite news |title=世界初、サルのクローン誕生 羊のドリーと同じ手法で |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3159894 |work=[[AFPBB]] |date=2018-01-25|accessdate=2018-02-07}}</ref>。研究チームの責任者は「理論上はクローン人間も可能になった」と述べた<ref name=afp18125/>。2019年1月には同研究チームは新薬テストなどでの利用を目的とした世界で初めて[[ゲノム編集]]されたサルのクローンを発表した<ref>{{cite news |title=ゲノム編集サルでクローン 5匹誕生、世界初と中国 |url=https://web.archive.org/web/20190125073455/https://this.kiji.is/461099816758707297 |work=[[時事通信]] |date=2019-01-24|accessdate=2019-01-25}}</ref>。
:
; ヒト
:{{main|[[:en:Human cloning]]}}
: {{要出典範囲|ヒトのクローンは未だ成功していないとする考えが一般的ではある|date=2012-1}}{{いつ|date=2012-1}}。{{efn|2002年に新宗教団体[[ラエリアン・ムーブメント]]の関連団体である[[クロネイド社]]がクローン人間を作ったと発表している。しかし、真偽は不明である。}}「クローン人間」というと、「自分と姿・形が全く同じ人間」というイメージが一般にあるが、仮に自分のクローンを作る場合、<!-- 核移植した細胞を仮親の子宮に着床させ、妊娠・出産することにより作られるため、:作成方法は関係ない-->誕生した時点ではクローンは赤ん坊であるため、現在の自分とは年齢のギャップが生じる。また[[発生生物学]]的にも[[血管]]のパターン(配置構造)や[[指紋]]などは後天的な影響によるものと考えられており、[[生体認証]]の上で利用される血管パターンや指紋の同一な個体の発生率は遺伝的に異なる他の個体と同程度であると考えられている(ただし認証手法によって技術的に同一と判定される率は変化する)ことから、クローン体を用いて生体認証の[[コンピュータセキュリティ]]を突破しようとすることは現実的ではない。
== 再生医療への応用 ==
個体全身を作製するクローンではなく、体細胞クローン技術やその途中経過である移植者自身の体細胞より発生した[[幹細胞]]を利用することで、[[臓器]]を複製し機能の損なわれた臓器と置き換えたり、あるいは幹細胞移植による[[再生医学|再生医療]]も研究されている。
== 法規制 ==
{{main|[[:en:Ethics of cloning]]}}
日本における[[ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律|クローン技術規制法]]のように、世界各国でヒトクローンを禁止する枠組みができつつある。理由としては、先ほど出たような寿命が短いというような問題の他に、「外見の全く一緒の人達が何人もいると社会制度上大変なことになる」「優秀な人間のクローンをたくさん作り優秀な人間だけの軍隊を作る」、「[[独裁者]]がクローンで[[影武者]]を立てる」などといった事態{{efn|[[サイエンスフィクション]]ではよくある表現である。}}が起こるから、ということが挙げられるが、上記のように根本的に不可能なものがある{{efn|たとえば、[[手塚治虫]]の「[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]」の生命編では「クローン人間を使用した殺人ゲーム」が営利目的で企画・実行されるが、クローン元になる大人と同じ年齢・容姿の人物がクローンとして出現することになっている。実際には「クローン元になる大人と同じ遺伝情報を持った赤ん坊が出現する」ものであるため、それで殺人ゲームをやろうとすれば「赤ん坊を一方的に殺す何のスリルもないもの」か「苦労して殺人ゲーム用の赤ん坊を育てなくてはならないまったく経済的に引き合わないもの」になる。}}。また、「優秀な人間だけの軍隊・[[野球]]チーム・[[サッカー]]チーム」などという存在は、生まれてきたクローン人間に強制的に軍人やスポーツ選手の道{{efn|肉体が同じであっても、メンタル面での違いがあるため、同じパフォーマンスを発揮できるとは限らない。}}を歩ませない限り不可能であり、これは「クローン人間に普通の人間並みの人権を認めない」ということになり人権上問題があるばかりか、ある意味[[奴隷制|奴隷制度]]にもつながりかねないものである。なお、研究上[[ネアンデルタール人]]等といった古人類のクローンについては規定が明確ではなくグレーの部分がある。絶滅した古人類をヒトとして扱うか動物として扱うかは本来法的に問題にならないが、クローン技術で復活させて研究する等といった、技術的な進歩次第では人類進化のための研究を認めるか等を考慮する必要性が発生することも考えられる。
[[菅沼信彦]]はいくら法規制をしたとしても、権力者が自分のクローンを作ろうとすることは止められないだろうと述べている。<ref>「最新 生殖医療」p56([[名古屋大学出版会]]、2008年)</ref>
[[加藤尚武]]は、「(クローンの作成が)ドイツでは禁止されているから、アメリカで作ろう」というような事態が起きないように、全世界共通の倫理基準を作るべきだと主張している<ref>{{Cite web|url=http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/kato/clone.html|title=クローン技術と倫理 ライフサイエンスには特有の規制条件が成立するか|accessdate=2014-02-08}}</ref>。
このような禁止措置は[[ES細胞]]、[[iPS細胞]]などの[[バイオテクノロジー|生命科学]]の発展の障害となる可能性があり、考え方の対立が問題となっている。
== 宗教の見解 ==
多くの宗教はクローン(特に人間のクローン)の作成について批判的な見解を持っている。
*[[浄土宗]]は、[[ラエリアン・ムーブメント]]によるクローン人間作製の発表後に、それを批判する声明を出した。クローン人間の作成は「いのち」への冒涜であり、「人間の優劣・差別、支配・被支配につながるとともに、奴隷人間の生産という修羅道への転落を予告するものである」と主張した<ref>{{Cite web|url=http://jodo.or.jp/report/clone.html|title=クローン人間誕生に対する浄土宗の声明|accessdate=2014-02-08}}</ref>。
*[[日本におけるカトリック教会|日本のカトリック教会]]においては、日本司教協議会が、クローン人間も絶対的価値と尊厳を有する「人間」であることに変わりはなく、「人間」を作る行為は神によってのみなされるべきものであって人間の手でなすべきことではないと主張している。また、クローン人間が持つ「男女の営みにおいて誕生し、父と母とのもとで養育される権利」を誰が保証するのかが明らかになっていない点を批判している。さらに、[[ヒト]]のクローンの研究が人間の生命維持に貢献するかどうかわからないことも問題視している<ref>{{Cite web|url=http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/970503.htm|title=クローン人間の研究に関する日本カトリック教会の見解|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030302121730/http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/970503.htm|archivedate=2003-03-02|accessdate=2021-01-12}}</ref>。
クローン人間作製を推進する[[ラエリアン・ムーブメント]]の関連企業である[[クロネイド社]]は、ES細胞を用いたクローン技術によって、人工臓器を作ることができ、多くの人々を救えると主張している。また、不妊に苦しむカップルにとっては、クローン技術こそ子孫を残すための唯一の方法であるとしている<ref>{{Cite web|url=http://www.clonaid.com/page.php?12|title=FAQs|accessdate=2014-02-08}}</ref>。
== クローンを題材とした作品 ==
{{main|Category:クローンを題材としたフィクション作品}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cloning|cloning}}
* [[クローニング]]
* [[クローン食品]]
* [[再生医療]]
* [[ラエリアン・ムーブメント]] - 2002年12月にクローン人間を誕生させたと発表した新宗教団体。
* {{ill2|デジタルクローン|en|Digital cloning}} ‐[[人工知能]](AI)技術によって、対象の人の画風・歌声の癖・思考などをコンピューター上で再現できるようにしたもの。[[ディープフェイク]]
== 外部リンク ==
* {{SEP|cloning|Cloning}}
* {{Kotobank}}
{{DEFAULTSORT:くろおん}}
[[Category:発生生物学]]
[[Category:医療倫理]]
[[Category:生命倫理学]]
[[Category:バイオテクノロジー]]
[[Category:身体論]]
[[Category:クローニング]]
[[Category:再生医学]] | 2003-03-23T12:20:50Z | 2023-11-25T20:01:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3 |
4,998 | ショウジョウバエ | ショウジョウバエ(猩猩蠅)は、ハエ目(双翅目)・ショウジョウバエ科 (Drosophilidae) に属するハエの総称である。科学の分野では、その一種であるキイロショウジョウバエ (Drosophila melanogaster) のことをこう呼ぶことが多い。この種に関しては非常に多くの分野での研究が行われているが、それらに関してはキイロショウジョウバエの項を参照。本項ではこの科全般を扱う。
ショウジョウバエの和名は、代表的な種が赤い目を持つことや酒に好んで集まることから、顔の赤い酒飲みの妖怪「猩々」にちなんで名付けられた。日本では、俗にコバエ(小蝿)やスバエ(酢蝿)などとも呼ばれる。学名の Drosophila は、「湿気・露を好む」というギリシャ語 δροσος (drosos) + φιλα (phila) にちなむ。これは、ドイツ語での通称が「露バエ」を意味する Taufliegen (Tau + Fliegen) であることによる。英語では、俗に fruit fly(果実蝿)、 vinegar fly(酢蝿)、wine fly(ワイン蝿)などと呼ばれる。
ショウジョウバエ科には3,000を超える種が記載されている。
ショウジョウバエ属は17亜属に分類され、日本には7亜属が生息する。多くの種は体長3mm前後と小さく、自然界では熟した果物類や樹液およびそこに生育する天然の酵母を食料とする。酵母は果実や樹液を代謝してアルコール発酵を行うため、ショウジョウバエは酒や酢に誘引されると考えられる。大半の種は糞便や腐敗動物質といったタイプの汚物には接触しないため、病原菌の媒体になることはない。
ショウジョウバエ属は17亜属に分類され、日本には7亜属が生息する。以下に日本で見られるものについて示す。スターティヴァントは亜属を Drosophila のアナグラムで命名した。
2017年8月、ショウジョウバエに青い光を当てると死ぬ原因を日本人の高校生が解明した。青い光を当てるとショウジョウバエの体内の活性酸素が細胞を傷つける酸化ストレスが強まり、細胞が自ら死ぬアポトーシスを促すことが原因とされる。 | [
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] | ショウジョウバエ(猩猩蠅)は、ハエ目(双翅目)・ショウジョウバエ科 (Drosophilidae) に属するハエの総称である。科学の分野では、その一種であるキイロショウジョウバエ のことをこう呼ぶことが多い。この種に関しては非常に多くの分野での研究が行われているが、それらに関してはキイロショウジョウバエの項を参照。本項ではこの科全般を扱う。 | {{出典の明記|date=2017-09-29}}
{{生物分類表
| 名称 = ショウジョウバエ科
| 画像 = [[画像:Biology_Illustration_Animals_Insects_Drosophila_melanogaster.svg|250px]]
| 画像キャプション = [[キイロショウジョウバエ]]成虫のオス(右)とメス(左)
|省略 = 昆虫綱
| 目 = [[ハエ目]](双翅目) [[:w:Diptera|Diptera]]
| 亜目 = [[ハエ亜目]](短角亜目) [[:w:Brachycera|Brachycera]]
| 下目 = [[ハエ下目]] [[:w:Muscomorpha|Muscomorpha]]
| 上科 = [[ミギワバエ上科]] [[:w:Ephydroidea|Ephydroidea]]
| 科 = '''ショウジョウバエ科''' [[:w:Drosophilidae|Drosophilidae]]<!-- <br />{{Taxonomist|★★★}}, [[@@@@年|@@@@]] -->
| 下位分類名 = [[亜科]]
| 下位分類 =
* [[ショウジョウバエ亜科]] [[:w:Drosophilinae|Drosophilinae]]
* [[カブトショウジョウバエ亜科]] [[:w:Steganinae|Steganinae]]
}}
'''ショウジョウバエ'''(猩猩蠅)は、[[ハエ目]](双翅目)・'''ショウジョウバエ科''' ({{sname|Drosophilidae}}) に属する[[ハエ]]の総称である。[[科学]]の分野では、その一種である[[キイロショウジョウバエ]] ({{snamei|Drosophila melanogaster}}) のことをこう呼ぶことが多い。この種に関しては非常に多くの分野での研究が行われているが、それらに関してはキイロショウジョウバエの項を参照。本項ではこの[[科 (分類学)|科]]全般を扱う。
== 名称 ==
ショウジョウバエの[[和名]]は、代表的な種が赤い[[目]]を持つことや[[酒]]に好んで集まることから、顔の赤い酒飲みの[[妖怪]]「[[猩々]]」にちなんで名付けられた。日本では、俗に'''コバエ'''(小蝿)や'''スバエ'''(酢蝿)などとも呼ばれる。学名の {{snamei|'''Drosophila'''}} は、「湿気・露を好む」という[[ギリシャ語]] {{lang|el|δροσος}} ({{lang|grc-latn|'''drosos'''}}) + {{lang|el|φιλα}} ({{lang|grc-latn|'''phila'''}}) にちなむ。これは、[[ドイツ語]]での通称が「露バエ」を意味する {{lang|de|Taufliegen}} ({{lang|de|Tau}} + {{lang|de|Fliegen}}) であることによる。[[英語]]では、俗に '''[[w:fruit fly|fruit fly]]'''(果実蝿)、 {{lang|en|vinegar fly}}(酢蝿)、{{lang|en|wine fly}}(ワイン蝿)などと呼ばれる。
== 生態 ==
ショウジョウバエ科には3,000を超える[[種 (分類学)|種]]が記載されている。
== 下位分類 ==
* [[ショウジョウバエ亜科]] {{sname||Drosophilinae}}
** Drosophilini族
*** [[#ショウジョウバエ属|ショウジョウバエ属]] {{sname||Drosophila}}
** クラドチャエティ二族
* [[カブトショウジョウバエ亜科]] {{sname||Steganinae}}
== ショウジョウバエ属 ==
ショウジョウバエ属は17亜属に分類され、[[日本]]には7亜属が生息する。多くの種は体長3[[ミリメートル|mm]]前後と小さく、自然界では熟した[[果物]]類や[[樹液]]およびそこに生育する天然の[[酵母]]を食料とする。酵母は果実や樹液を代謝して[[アルコール発酵]]を行うため、ショウジョウバエは[[酒]]や[[酢]]に誘引されると考えられる。大半の種は[[糞|糞便]]や腐敗動物質といったタイプの汚物には接触しないため、[[病原菌]]の媒体になることはない。
=== ショウジョウバエ属の分類 ===
[[画像:Drosophila_melanogaster_-_side_%28aka%29.jpg|thumb|250px|right|キイロショウジョウバエの成虫(オス)]]
ショウジョウバエ属は17亜属に分類され、日本には7亜属が生息する。以下に日本で見られるものについて示す。[[アルフレッド・ヘンリー・スターティヴァント|スターティヴァント]]は亜属を {{lang|la|Drosophila}} の[[アナグラム]]で命名した。
* ショウジョウバエ属 {{snamei||Drosophila}} Fallen
** マメジョウバエ亜属 {{snamei||Scaptodrosophila}} 10種
** ニセオトヒメショウジョウバエ亜属 {{snamei||Psilodorha}} 1種
** フサショウジョウバエ亜属 {{snamei||Hirtodrosophila}} 2種
** ニセヒメショウジョウバエ亜属 {{snamei||Lordiphosa}} 8種
** シマショウジョウバエ亜属 {{snamei||Sophophora}} Sturtevant 28種
*** ウスグロショウジョウバエ種群 {{snamei||D. obscura}} sp. group
**** ウスグロショウジョウバエ {{snamei||D. obscura}}
*** キイロショウジョウバエ種群 {{snamei||D. melanogaster}} sp. group
**** [[キイロショウジョウバエ]] {{snamei||D. melanogaster}}
**** オナジショウジョウバエ {{snamei||D. simulans}}
** ショウジョウバエ亜属 {{snamei||Drosophila}} Fallen 38種
*** クロショウジョウバエ種群 {{snamei||D. virilis}} sp. group
**** クロショウジョウバエ {{snamei||D. virilis}}
** ヒョウモンショウジョウバエ亜属 {{snamei||Dorsilopha}} Sturtevant 1種
== 青い光 ==
2017年8月、ショウジョウバエに青い光を当てると死ぬ原因を日本人の高校生が解明した<ref>{{Cite news|url= https://www.asahi.com/articles/ASK9G3F4MK9GUZOB001.html |title= ハエ、青い光を当てるとなぜ死ぬ? 山梨の高校生が解明 |newspaper= 朝日新聞デジタル |publisher= 朝日新聞社 |date= 2017-09-27 |accessdate= 2020-02-23 }}</ref>。青い光を当てるとショウジョウバエの体内の[[活性酸素]]が細胞を傷つける[[酸化ストレス]]が強まり、細胞が自ら死ぬ[[アポトーシス]]を促すことが原因とされる。
<!--
== 参考文献 == -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
* [[Musashi]]
== 外部リンク ==
{{Wikispecies|Drosophilidae}}
{{Commonscat|Drosophilidae}}
* [http://flybase.net/ FlyBase] - 総合的データベース(英語)
* [http://www.ceolas.org/fly/ The WWW Virtual Library Drosophila] - ショウジョウバエ入門(英語)
* [http://sdb.bio.purdue.edu/fly/aimain/1aahome.htm The Interactive Fly] - 遺伝子の解説(英語)
* [http://www.dgrc.kit.ac.jp/index.html ショウジョウバエ遺伝資源センター (Drosophila Genetic Resource Center)]
** [http://kyotofly.kit.jp/JDD/index.html Japan Drosophila Database] - 遺伝子、染色体地図、形態など(日本語)
* [http://jfly.iam.u-tokyo.ac.jp/index_j.html Jfly] - 日本のショウジョウバエ研究者によるノウハウ集、実験プロトコルなど(日本語)
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようしようはえ}}
[[Category:ハエ目]]
[[Category:モデル生物]]
[[Category:遺伝学]]
[[Category:発生生物学]] | null | 2022-04-04T04:38:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%90%E3%82%A8 |
4,999 | 指輪物語 | 『指輪物語』(ゆびわものがたり、原題: The Lord of the Rings)は、イギリスのJ・R・R・トールキンによる長編小説。エルフや人間が国家を築き、戦争を繰り広げる架空の世界を舞台としたハイ・ファンタジー作品である。初期作品『ホビットの冒険』の続編として始まるが、より大きな物語になった。1937年から1949年にかけて少しずつ書かれたが、執筆期間の大部分は第二次世界大戦中であった。最初の版は1954年から1955年にかけて3巻本として出版された。以来多くの言語に翻訳され、増刷を重ね、20世紀の文学で最もポピュラーな作品の一つになった。
『指輪物語』の舞台となる場所は地球である。しかしその舞台となる時代は、著者が創造した歴史上におけるアトランティス崩壊後にあたる遠い昔であると設定されている。トールキンはこの背景世界に、古英語のmiddanġeard(ミドガルド)を現代語化した英語名Middle-earth(中つ国)を与えた。物語は冥王サウロンの作った力の指輪の存在を軸に、ホビットやエルフ、人間、ドワーフ、魔法使い、ゴブリン(トールキンはほとんどの場合オークと呼ぶ)、トロルなど、多彩な種族を巻き込んで展開する。ホビット庄で静かに始まった物語は、やがて中つ国全域を舞台として、世界の運命を決する指輪戦争の成り行きを辿ることになる。本編の他に、豊富な歴史的および言語学的背景資料を提供する、六つの追補編が添えられている。
『指輪物語』はトールキンの他の作品と同様、その文学的な主題と起源に対し、多くの研究者によって広範囲にわたる分析がなされた。『指輪物語』は大作であるが、実はこの物語は1917年以来トールキンが長年取り組んで来た、巨大な神話群または伝説体系(legendarium、レジェンダリウム)の、最後の一篇でしかない。『指輪物語』への影響をあたえたものとして、言語学、神話および宗教があげられる。そしてそれらと同様、トールキン以前のファンタジー作品と第一次世界大戦でのトールキン自身の経験が作品に大きな影響を与えている。一方で『指輪物語』はかなりの影響を現代のファンタジーに与えたと考えられていて、トールキンの作品の衝撃の大きさから、「トールキニアン」(Tolkienian)と「トールキン風」(Tolkienesque)といった単語の使用が、オックスフォード英語辞典に収録された。
『指輪物語』は絶大かつ永続的な人気を得て、大衆文化に頻繁に参照され、ファンによる多くのファンダムが設立され、トールキンとその作品に関する多くの本が出版された。『指輪物語』は短編、ゲーム、美術作品、および音楽作品にさまざまな着想を付与し続けている。広範なメディアでトールキンの作品はよく上演され、特に『指輪物語』はラジオ、劇場、および映画で上演された。2001年 - 2003年の映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作のリリースは、本作の認知度・影響力をさらに高めることとなった。
三部作はすべて世界史上のベストセラーのトップ10に入り、それぞれ1億5500万部、1億5000万部、1億4000万部を売り上げている。
トールキンは、『ホビットの冒険』を書いた後、別の本を書くつもりはなかったが、出版社に説得され、「新ホビットの冒険」を構成しはじめた。完璧主義者であるトールキンの希望のため、執筆ははかどらなかった。かれは小説作品を準創造(sub-creation)、そしてかれ自身を準創造者と考えて、創造をかれの義務であると信じていたため、その創作には妥協がなかったものと推測される。
3巻構成版が非常に広く流通しているので、作品はよく『指輪物語』三部作と呼ばれるが、一つの小説として構想され書かれたので、これは厳密には正しくない。元々トールキンは本作を、大きな一巻本で刊行しようと意図していたのだが、これは第二次世界大戦後の紙不足のために不可能になり、そのかわりに『旅の仲間』(第1部、第2部)、『二つの塔』(第3部、第4部)、『王の帰還』(第5部、第6部、追補編)の3巻に分割され、1954年から1955年の間に出版された。1966年、この他にファンの作った三つの索引が『王の帰還』に追加された。
分割の際に、第5部・第6部に対する『王の帰還』という題について内容を知らせすぎるとしてトールキンは難色を示していた。トールキン自身はこの部分に対し「指輪戦争」を提案していたが、出版社に退けられた。トールキンがもともと6部構成につけようとしていた題は次のとおりである。
作品全体の名前はLotR(LOTR)あるいは単にLRと、三巻はそれぞれ、FR、FOTRあるいはFotR(The Fellowship of the Ring)、TTあるいはTTT(The Two Towers)、そしてRK、ROTKあるいはRotK(The Return of the King)と略記される。
いくつかの場所や登場人物について、トールキンは自ら幼年期にすごしたセアホール(当時はウォリックシャーの一農村で現在はバーミンガムの一部)、そしてバーミンガム自体から着想を得ている。
最初、全3巻はアレン・アンド・アンウィン社から1954年から1955年にかけて、数か月おきに刊行された。その後、多数の出版社が1巻、3巻、6巻あるいは7巻の体裁で複数回にわたり再発行した。ISBN 0-007-20363-2(全4巻セット)等が現在入手可能である。
1960年代初期、ペーパーバック出版社エース・ブックスのSFの編集者ドナルド・A・ウォルハイムは、『指輪物語』の米国ハードカバー版は、米国の著作権法では保護されないと考えた。そしてエース・ブックスはトールキンに許可を得ず、印税も払わずに本作を出版し始めた。
トールキンは、かれに手紙を書いた米国のファンへこのことをはっきりと述べたため、ファンによる草の根の圧力は次第に大きくなり、エース・ブックスはそれらの出版を取りやめ、正式な出版の場合よりはかなり低い額ではあるが、トールキンへの名目上の印税支払をすることになった。しかしながら、正式に認可された版がバランタイン・ブックス(英語版)から出版され、すさまじい商業的成功を得たため、トールキンは十分に報われることとなった。1960年代半ばには、本作はアメリカで最も有名な作品の一つになり、「ガンダルフを大統領に!」といったスローガンが現れるなど、社会現象とまでなった。
本作は多数の言語に翻訳されたが、トールキンは言語学の専門家として、これらの翻訳の多くを検査し、翻訳過程およびかれの作品内容両方を説明するコメントをした。
デンマーク語版の翻訳作業にはマルグレーテ2世も参加しており、挿絵もマルグレーテ2世によるものである。
トールキンによるエピック・ファンタジーの大成功で、ファンタジーへの需要が非常に大きくなり、このジャンルは大きく花開いたと言える。以後、ファンタジーの多くの良書が出版されたが、特筆すべき作品としては、アーシュラ・K・ル=グウィン の『ゲド戦記』やステファン・ドナルドソンの『信ぜざる者コブナント』がある。
1987年、テキストの電子化により、英米のテキストが一致した。
2004年、50周年記念版として、クリスティーナ・スカル、ウェイン・G.ハモンドによる注釈。トールキン作の「マザルブルの書」の挿絵つきで出版された。2005年、クリスティーナ・スカル、ウェイン・G.ハモンドによる索引の再構成、テキストの全面見直し版が出版された。
他の芸術分野すべてと同じように、立派な作品を真似ただけの派生本はたくさん現われた。『指輪物語』の筋をなぞっただけの派生品について、トルキニスク(Tolkienesque)という用語が使われるようになった。魔法のファンタジーの世界を邪悪な冥王の軍隊から救う探究に乗り出す冒険者の一団が...というストーリーがそれにあたる。
1972年から1975年に掛けて瀬田貞二訳の全6巻が評論社から出版され、1977年に同社から内容のほぼ変わらない文庫版全6巻が出版された。1992年、既に亡くなっていた瀬田貞二の訳文をもともと協力していた田中明子が全面的に見直し、両名の共訳という名義になり愛蔵版全3巻、A5版全7巻、文庫版全9巻の三種が発行された。愛蔵版とA5版では、「追補編」Dの後半以降が追加され全訳となった。2003年には、文庫版に第10巻『追補編』が追加発行された。2020年に電子書籍化された際に、長く懸案だった訳文・固有名詞の見直しが行われ、2022年に刊行された「最新版」にもこれが反映されている。
作中にある英語由来の固有名詞を翻訳する際には、各国の言語に寄り添うようにというトールキンの意向を反映して、瀬田貞二訳では幾つかの人名や地名が日本語に翻訳されている。
また、ゴクリが一つの指輪に呼び掛ける“my precious”を「いとしいしと」、マザルブルの間でフロドが上げる鬨の声“Shire!”を「ホビット庄の一の太刀!」と訳した部分などは、瀬田貞二の独創性を示す好例である。なお、瀬田貞二訳で粥村と訳されていたBreeは、田中明子共訳ではブリー村と修正されている。
『指輪物語』はトールキン自身の言語学、おとぎ話、北欧神話、ケルト神話に対する興味から始まった。トールキンは驚くほど自らの世界を詳細に形成し、中つ国とその世界のために、登場人物の系図、言語、ルーン文字、暦、歴史を含む完全な神話体系を創造した。この補足資料のいくらかは『指輪物語』「追補編」で詳述されている。神話の物語は『シルマリルの物語』と題する聖書のような叙事詩的長編へと織りあげられた。
J・R・R・トールキンは以前 『指輪物語』は「基本的には宗教的でカトリック的作品」であると記述した(The Letters of J. R. R. Tolkien(英語版), #142)。そこではゴクリへのビルボおよびフロドによって示される慈悲および哀れみという大きな美徳が勝利をおさめる。フロドが一つの指輪の力と戦ったとき、トールキンの心には主の祈りの言葉「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」が常にあった(同書#181, #191)。トールキンは、自分の作品はどんな種類の寓意をも含まないと繰り返し主張し、また、その問題についてのかれの考えが序文に述べられているのだが、支配の指輪は原子爆弾の寓話であるという推測をするものは多かった。
『指輪物語』のプロットは、前作の『ホビットの冒険』から、そしてより間接的にではあるが『シルマリルの物語』の歴史から組み立てられている。『シルマリルの物語』は、『指輪物語』の登場人物が過去として想起する出来事を含んでいる。ホビットたちは、かれらの全世界を脅かす大きな出来事に巻き込まれ、悪の召使いサウロンは、かれの権力を奪い返すことができる手段として、失われた一つの指輪を回復しようとする。
人間、ホビット、エルフ、ドワーフ、オーク、トロルなどが住む架空の世界である「中つ国(Middle-earth)」を舞台とし、主人公のホビット族であるフロドを含む9人の旅の仲間が、冒険と闇の勢力との戦いを繰り広げる。諸悪の根源・冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊するための冒険と友情が描かれる。その物語は、太古の昔ホビットにより書かれた架空の書物「西境の赤表紙本」の写本を発見したトールキンがその抜粋を翻訳した物である、という体裁をとっている。
より詳細な粗筋は『旅の仲間』、『二つの塔』、『王の帰還』の項を参照のこと。
ビートルズ版の計画があったが実現しなかった。スタンリー・キューブリックも映画化する可能性を調査したが、そのためには、あまりに「壮大」であるとその考えを放棄した、といわれている。1970年代の中頃、有名な映画監督のジョン・ブアマンは、権利所有者で製作者のソウル・ゼインツと共同で、実写映画についての検討をおこなったが、当時はあまりにも費用がかかりすぎると分かった。
1978年、ランキン・バス(英語版)スタジオとトップクラフトは、『指輪物語』関連で最初の映画化として、テレビ放映用アニメーション版『ホビットの冒険』を製作した。これは『指輪物語』の前篇にあたる。
その直後に、ソウル・ゼインツは、ランキン=バスの後を継いで、『旅の仲間』および『二つの塔』の前半部分をアニメーション映画として製作した。1978年、ユナイテッド・アーティスツがリリースした『指輪物語』の監督はラルフ・バクシで、俳優の姿を撮影して、その上から作画するという「ロトスコープ」と呼ばれるアニメーション技術を特色としていた。(おそらく予算の圧迫あるいは超過、あるいは大作と取り組む困難のために)この映画の品質は不均一であった。マックス・フライシャーのロトスコープ技術を使い、実際のアクション・シーケンスの上からアニメーションの絵を書いて、ある部分は完全にうまくアニメーション化されていた。さらに、映画はヘルム峡谷の戦いの後で不意に終わるが、しかしサム、フロドおよびゴクリは死者の沼地を横断する前なのである。最善を尽くしたにもかかわらず、バクシは後編を製作することができず、物語の残りの部分はランキン=バスとトップクラフトが1980年に製作したテレビ放映用アニメーション版『王の帰還』で一部補完された。
これらの映画が若い観衆に目標とされる一方、大人のファンは物語の深みや暗さの多くが台無しになったと苦言を呈した。
このような結果から、『指輪物語』をちゃんと映画にするのは不可能だとも思われるようになった。さらに、小説への全般的な関心の減少も、映像化にこぎつけるのを難しくした。しかしながら、映画製作技術の進歩、中でもコンピュータグラフィックスの進歩により、映画化が実現可能になった。
ミラマックス映画は、ピーター・ジャクソンを監督として、『指輪物語』の完全実写映画化を開始した。資金調達が失敗に終わりそうになったとき、ニュー・ライン・シネマが製作を引き継いだ(ミラマックスの幹部ハーヴェイ・ワインスタインおよびボブ・ワインスタインは、最後まで映画の製作に残った)。
三部作の実写映画は同時に撮影された(例えば、大きな戦闘シーン等に広範囲にコンピュータで生成した画像を追加した)。『ロード・オブ・ザ・リング』は2001年12月に、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』は2002年12月に、そして『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』は2003年12月に公開された。三つの映画はそれぞれの年にすべて長編ドラマ・プレゼンテーション部門のヒューゴー賞を受賞した。
これらの映画が物語を多少変更しており、おそらく、トールキンのもともとの考えとは本質的に異なるところがあると批評した者もあったが、多くは素晴らしい作品として賞賛した。有名な批評家ロジャー・エバートは「ジャクソンは、文学の魅惑的でユニークな部分をとって、現代のアクション映画の用語にそれを再話した。...かれがこの映画で行ったことは恐ろしく困難であり、かれは賞賛に値するが、トールキンに忠実にある方がもっと困難で、勇敢だっただろう」と述べている。
これらの映画はアカデミー賞で17のオスカー(『ロード・オブ・ザ・リング』で4、『二つの塔』で2、『王の帰還』で11)を獲得し、「ファンタジー映画はアカデミー作品賞を受賞出来ない」というジンクスも打ち破った。しかし『ロード・オブ・ザ・リング』で助演男優賞にイアン・マッケランがノミネートされたものの俳優部門での受賞はなかった(その理由はあまりにも登場人物が多すぎるからだと言われている)。前二作に比して『王の帰還』でのノミネート数が突出し、ノミネートされた全ての部門でオスカーを総嘗めにしたのは、三部作全体に対する評価が作品が完結した時点で為された結果と広く見なされている。
視覚効果、とくに感動的なディジタル登場人物であるゴクリの創造は画期的である。一年半かけて三つの映画を同時に撮ってしまうという、撮影の規模だけでも先例がない。
映画は、本質的な興行的成功を証明した。ニュージーランドのウェリントンで、2003年12月1日に行われた『王の帰還』のプレミアはファンの祝賀と公式のプロモーションのうちに行われた(映画の製作はニュージーランドの経済に著しく寄与した)。映画史上最大の水曜日の初日となったといわれる。『王の帰還』はさらに、1997年の『タイタニック』以後初めて10億ドル(全世界)の興行収入を得た映画となった。2004年のアカデミー賞で、『王の帰還』は6年前の『タイタニック』と同じく、11の部門でオスカーを獲得した。11部門の受賞は『ベン・ハー』『タイタニック』と並んで史上1位。全ノミネートで受賞した記録では単独1位である。
2017年、アマゾン・スタジオがテレビドラマ化の権利を獲得した。複数シーズンの契約であり、映画『ロード・オブ・ザ・リング』(2001年)の前日譚となる予定。また、さらなるスピンオフシリーズの可能性も契約には含まれている模様。2018年4月現在、5シーズンが予定されており、権利獲得だけで2億5000万ドル、製作費はテレビドラマ史上最高額となる10億ドルを超えるとも言われている。これは、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』の世界興収とほぼ同じである。契約上、2年以内に製作をスタートする必要があるとのこと。
BBCは、13回の『指輪物語』ラジオドラマ化を1956年に、6回の『ホビットの冒険』を1968年に制作した。トールキンがどちらかのシリーズを聞いたことがあるかどうかはわからない。1956年のシリーズの録音の存在は知られていないが、しかし『ホビットの冒険』は残っている。非常に原作に忠実なドラマ化であり、いくつかの過去の参照として『指輪物語』や『シルマリルの物語』が組み込まれている。
1979年ドラマ化がアメリカで放送され、続いてテープとCDも発売された。キャストまたはクレジットは包装に記されていない。俳優ごとに別々に録音され、様々な部分を編集でつなぎ合わせたようだ。したがって、俳優が一緒に録音した、BBC版と異なり、キャストのだれも現実に互いに対話していないので、非常に出来が悪い。
1981年、BBCは構想も新たに、13回の『指輪物語』を26回30分に分けてドラマ化を放送した。『指輪物語 (1981年のラジオドラマ)』を参照のこと。
現代のファンタジー文学に与えた影響は大きく、テリー・ブルックス、レイモンド・E・フィースト、エスター・M・フリズナー(英語版)など、多くのファンタジー作家がトールキンの影響を受けたことを表明している。1970年代以降、テリー・ブルックスの『シャナラの剣』やステファン・ドナルドソンの「信ぜざる者コブナント」シリーズといった、トールキンの流れを汲む作品が出版され、人気を博した。このようなハイ・ファンタジーとも呼ばれるファンタジー文学は、トールキンの言うところの「準創造」(ファンタジー世界を創作することを意味する造語)を実践し、多くのハイ・ファンタジー長編が「トールキンばりの」と形容された。より直接的な『指輪物語』関連の様々な参照としては例えば、
1970年代にロールプレイングゲームを広めた『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、D&D)は、安田均や小谷真理によれば『指輪物語』の影響を受けている。D&Dは中つ国にみられる種族、とりわけハーフリング(ホビットの言い換え)、エルフ(当作品と同様、ダークエルフと区別される)、ドワーフ、ハーフエルフ、オーク、ドラゴンを扱っている。ただし、このゲームの主導的デザイナーであったゲイリー・ガイギャックスは、インタビューで自分は『指輪物語』にはあまり熱中しなかったと述べ、また、D&D/AD&Dにトールキンからの強い影響があったことは確かだが、さまざまな種類のファンタジーから広く浅く題材を取ったのでトールキンはその中のひとつにすぎない、ということを主張した。また、デイヴィッド・プリングル(英語版)の『ファンタジー百科事典』は、1960年代後半に『指輪物語』がブームになったことで、D&Dのようなファンタジー要素をもつゲームがヒットする素地ができあがったと指摘している。『指輪物語』はD&D以外のエピック・ファンタジーを扱うファンタジー・ロールプレイングゲームやコンピュータRPGなどにも直接・間接の影響を与えた。『指輪物語』を原作とするテーブルトークRPGとして『指輪物語ロールプレイング』(Middle-earth Role Playing、略称MERP)も存在する。
ローグライクゲームのような、アマチュア制作が主流である作品群への影響もあり、Angbandは世界観をそのまま採用している。またハッカー文化界隈でも引き合いに出される「お気に入り」の作品の一つとなっており、スラッシュドット等のニュースサイトでも、指輪物語ネタが振られる様子が見られる。映画化の折には、作品内容に踏み込んで、熱心なファン活動も見られた。
米国ボストン(マサチューセッツ州)に拠点をおくTurbine社が新たにMMORPGとして『The Lord of The Rings Online -Shadows of Angmar』(略称:LOTRO)を開発、2007年Q1に正式リリース。こちらは映画ではなく小説に基づくストーリーラインで、原作に登場するキャラクターがNPCとして登場する。2006年8月、さくらインターネット社が日本での販売権利を獲得し、2007年6月よりサービスを開始するが業績不振により2009年9月に撤退している。
また、コンピュータRPGとして、日本語版はスタークラフトがPC-9800シリーズ対応として制作・販売していた。
『指輪物語』は、幾度もボードゲーム化されている。
以上はジャクソン監督の映画三部作の公開以前に発売されたもので、あくまで原作小説のファンを対象にしたゲームだったが、2001年前後から映画版の鑑賞者を意識したゲームもいくつも作られるようになった。ただし、映画版以後に出たゲームの中でもライナー・クニツィアのデザインする作品や『リスク』の変種のいくつかは、映画版だけでなく原作の『指輪物語』や関連作品にも基づいている。
ドイツ人ライナー・クニツィアがデザインした多人数協力ゲーム。プレイヤーは作中のホビットたちになり、指輪を葬るために滅びの山へ向かうのを目的とする。スゴロクのようにゴール(滅びの山)を目指すゲームだが、ゲームが進行するたびに自動的にサウロンの邪魔が入るというルールになっており、その結果でサウロンに指輪が奪われればプレイヤー全員が敗北となる。一方で誰か一人でもゴールできればプレイヤー全員の勝利になる。そのため、自分がゴールを目指すだけでなく、他者を先にゴールさせるために助けるような行動も可能となっている。英語版はHasbro社、FANTASY FLIGHT GAMES社から出版されている。
『The Lord of the rings』の拡張キット。 | [
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"text": "『指輪物語』(ゆびわものがたり、原題: The Lord of the Rings)は、イギリスのJ・R・R・トールキンによる長編小説。エルフや人間が国家を築き、戦争を繰り広げる架空の世界を舞台としたハイ・ファンタジー作品である。初期作品『ホビットの冒険』の続編として始まるが、より大きな物語になった。1937年から1949年にかけて少しずつ書かれたが、執筆期間の大部分は第二次世界大戦中であった。最初の版は1954年から1955年にかけて3巻本として出版された。以来多くの言語に翻訳され、増刷を重ね、20世紀の文学で最もポピュラーな作品の一つになった。",
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"text": "『指輪物語』の舞台となる場所は地球である。しかしその舞台となる時代は、著者が創造した歴史上におけるアトランティス崩壊後にあたる遠い昔であると設定されている。トールキンはこの背景世界に、古英語のmiddanġeard(ミドガルド)を現代語化した英語名Middle-earth(中つ国)を与えた。物語は冥王サウロンの作った力の指輪の存在を軸に、ホビットやエルフ、人間、ドワーフ、魔法使い、ゴブリン(トールキンはほとんどの場合オークと呼ぶ)、トロルなど、多彩な種族を巻き込んで展開する。ホビット庄で静かに始まった物語は、やがて中つ国全域を舞台として、世界の運命を決する指輪戦争の成り行きを辿ることになる。本編の他に、豊富な歴史的および言語学的背景資料を提供する、六つの追補編が添えられている。",
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"text": "作中にある英語由来の固有名詞を翻訳する際には、各国の言語に寄り添うようにというトールキンの意向を反映して、瀬田貞二訳では幾つかの人名や地名が日本語に翻訳されている。",
"title": "出版史"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "また、ゴクリが一つの指輪に呼び掛ける“my precious”を「いとしいしと」、マザルブルの間でフロドが上げる鬨の声“Shire!”を「ホビット庄の一の太刀!」と訳した部分などは、瀬田貞二の独創性を示す好例である。なお、瀬田貞二訳で粥村と訳されていたBreeは、田中明子共訳ではブリー村と修正されている。",
"title": "出版史"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "『指輪物語』はトールキン自身の言語学、おとぎ話、北欧神話、ケルト神話に対する興味から始まった。トールキンは驚くほど自らの世界を詳細に形成し、中つ国とその世界のために、登場人物の系図、言語、ルーン文字、暦、歴史を含む完全な神話体系を創造した。この補足資料のいくらかは『指輪物語』「追補編」で詳述されている。神話の物語は『シルマリルの物語』と題する聖書のような叙事詩的長編へと織りあげられた。",
"title": "書籍"
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"text": "J・R・R・トールキンは以前 『指輪物語』は「基本的には宗教的でカトリック的作品」であると記述した(The Letters of J. R. R. Tolkien(英語版), #142)。そこではゴクリへのビルボおよびフロドによって示される慈悲および哀れみという大きな美徳が勝利をおさめる。フロドが一つの指輪の力と戦ったとき、トールキンの心には主の祈りの言葉「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」が常にあった(同書#181, #191)。トールキンは、自分の作品はどんな種類の寓意をも含まないと繰り返し主張し、また、その問題についてのかれの考えが序文に述べられているのだが、支配の指輪は原子爆弾の寓話であるという推測をするものは多かった。",
"title": "書籍"
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"text": "『指輪物語』のプロットは、前作の『ホビットの冒険』から、そしてより間接的にではあるが『シルマリルの物語』の歴史から組み立てられている。『シルマリルの物語』は、『指輪物語』の登場人物が過去として想起する出来事を含んでいる。ホビットたちは、かれらの全世界を脅かす大きな出来事に巻き込まれ、悪の召使いサウロンは、かれの権力を奪い返すことができる手段として、失われた一つの指輪を回復しようとする。",
"title": "書籍"
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"text": "人間、ホビット、エルフ、ドワーフ、オーク、トロルなどが住む架空の世界である「中つ国(Middle-earth)」を舞台とし、主人公のホビット族であるフロドを含む9人の旅の仲間が、冒険と闇の勢力との戦いを繰り広げる。諸悪の根源・冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊するための冒険と友情が描かれる。その物語は、太古の昔ホビットにより書かれた架空の書物「西境の赤表紙本」の写本を発見したトールキンがその抜粋を翻訳した物である、という体裁をとっている。",
"title": "あらすじ"
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"text": "より詳細な粗筋は『旅の仲間』、『二つの塔』、『王の帰還』の項を参照のこと。",
"title": "あらすじ"
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"text": "ビートルズ版の計画があったが実現しなかった。スタンリー・キューブリックも映画化する可能性を調査したが、そのためには、あまりに「壮大」であるとその考えを放棄した、といわれている。1970年代の中頃、有名な映画監督のジョン・ブアマンは、権利所有者で製作者のソウル・ゼインツと共同で、実写映画についての検討をおこなったが、当時はあまりにも費用がかかりすぎると分かった。",
"title": "映画化"
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"text": "1978年、ランキン・バス(英語版)スタジオとトップクラフトは、『指輪物語』関連で最初の映画化として、テレビ放映用アニメーション版『ホビットの冒険』を製作した。これは『指輪物語』の前篇にあたる。",
"title": "映画化"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "その直後に、ソウル・ゼインツは、ランキン=バスの後を継いで、『旅の仲間』および『二つの塔』の前半部分をアニメーション映画として製作した。1978年、ユナイテッド・アーティスツがリリースした『指輪物語』の監督はラルフ・バクシで、俳優の姿を撮影して、その上から作画するという「ロトスコープ」と呼ばれるアニメーション技術を特色としていた。(おそらく予算の圧迫あるいは超過、あるいは大作と取り組む困難のために)この映画の品質は不均一であった。マックス・フライシャーのロトスコープ技術を使い、実際のアクション・シーケンスの上からアニメーションの絵を書いて、ある部分は完全にうまくアニメーション化されていた。さらに、映画はヘルム峡谷の戦いの後で不意に終わるが、しかしサム、フロドおよびゴクリは死者の沼地を横断する前なのである。最善を尽くしたにもかかわらず、バクシは後編を製作することができず、物語の残りの部分はランキン=バスとトップクラフトが1980年に製作したテレビ放映用アニメーション版『王の帰還』で一部補完された。",
"title": "映画化"
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"text": "これらの映画が若い観衆に目標とされる一方、大人のファンは物語の深みや暗さの多くが台無しになったと苦言を呈した。",
"title": "映画化"
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"text": "このような結果から、『指輪物語』をちゃんと映画にするのは不可能だとも思われるようになった。さらに、小説への全般的な関心の減少も、映像化にこぎつけるのを難しくした。しかしながら、映画製作技術の進歩、中でもコンピュータグラフィックスの進歩により、映画化が実現可能になった。",
"title": "映画化"
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"text": "ミラマックス映画は、ピーター・ジャクソンを監督として、『指輪物語』の完全実写映画化を開始した。資金調達が失敗に終わりそうになったとき、ニュー・ライン・シネマが製作を引き継いだ(ミラマックスの幹部ハーヴェイ・ワインスタインおよびボブ・ワインスタインは、最後まで映画の製作に残った)。",
"title": "映画化"
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"text": "三部作の実写映画は同時に撮影された(例えば、大きな戦闘シーン等に広範囲にコンピュータで生成した画像を追加した)。『ロード・オブ・ザ・リング』は2001年12月に、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』は2002年12月に、そして『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』は2003年12月に公開された。三つの映画はそれぞれの年にすべて長編ドラマ・プレゼンテーション部門のヒューゴー賞を受賞した。",
"title": "映画化"
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"text": "これらの映画が物語を多少変更しており、おそらく、トールキンのもともとの考えとは本質的に異なるところがあると批評した者もあったが、多くは素晴らしい作品として賞賛した。有名な批評家ロジャー・エバートは「ジャクソンは、文学の魅惑的でユニークな部分をとって、現代のアクション映画の用語にそれを再話した。...かれがこの映画で行ったことは恐ろしく困難であり、かれは賞賛に値するが、トールキンに忠実にある方がもっと困難で、勇敢だっただろう」と述べている。",
"title": "映画化"
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"text": "これらの映画はアカデミー賞で17のオスカー(『ロード・オブ・ザ・リング』で4、『二つの塔』で2、『王の帰還』で11)を獲得し、「ファンタジー映画はアカデミー作品賞を受賞出来ない」というジンクスも打ち破った。しかし『ロード・オブ・ザ・リング』で助演男優賞にイアン・マッケランがノミネートされたものの俳優部門での受賞はなかった(その理由はあまりにも登場人物が多すぎるからだと言われている)。前二作に比して『王の帰還』でのノミネート数が突出し、ノミネートされた全ての部門でオスカーを総嘗めにしたのは、三部作全体に対する評価が作品が完結した時点で為された結果と広く見なされている。",
"title": "映画化"
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"text": "視覚効果、とくに感動的なディジタル登場人物であるゴクリの創造は画期的である。一年半かけて三つの映画を同時に撮ってしまうという、撮影の規模だけでも先例がない。",
"title": "映画化"
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"text": "映画は、本質的な興行的成功を証明した。ニュージーランドのウェリントンで、2003年12月1日に行われた『王の帰還』のプレミアはファンの祝賀と公式のプロモーションのうちに行われた(映画の製作はニュージーランドの経済に著しく寄与した)。映画史上最大の水曜日の初日となったといわれる。『王の帰還』はさらに、1997年の『タイタニック』以後初めて10億ドル(全世界)の興行収入を得た映画となった。2004年のアカデミー賞で、『王の帰還』は6年前の『タイタニック』と同じく、11の部門でオスカーを獲得した。11部門の受賞は『ベン・ハー』『タイタニック』と並んで史上1位。全ノミネートで受賞した記録では単独1位である。",
"title": "映画化"
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"text": "2017年、アマゾン・スタジオがテレビドラマ化の権利を獲得した。複数シーズンの契約であり、映画『ロード・オブ・ザ・リング』(2001年)の前日譚となる予定。また、さらなるスピンオフシリーズの可能性も契約には含まれている模様。2018年4月現在、5シーズンが予定されており、権利獲得だけで2億5000万ドル、製作費はテレビドラマ史上最高額となる10億ドルを超えるとも言われている。これは、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』の世界興収とほぼ同じである。契約上、2年以内に製作をスタートする必要があるとのこと。",
"title": "テレビドラマ化"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "BBCは、13回の『指輪物語』ラジオドラマ化を1956年に、6回の『ホビットの冒険』を1968年に制作した。トールキンがどちらかのシリーズを聞いたことがあるかどうかはわからない。1956年のシリーズの録音の存在は知られていないが、しかし『ホビットの冒険』は残っている。非常に原作に忠実なドラマ化であり、いくつかの過去の参照として『指輪物語』や『シルマリルの物語』が組み込まれている。",
"title": "ラジオドラマ化"
},
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"text": "1979年ドラマ化がアメリカで放送され、続いてテープとCDも発売された。キャストまたはクレジットは包装に記されていない。俳優ごとに別々に録音され、様々な部分を編集でつなぎ合わせたようだ。したがって、俳優が一緒に録音した、BBC版と異なり、キャストのだれも現実に互いに対話していないので、非常に出来が悪い。",
"title": "ラジオドラマ化"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "1981年、BBCは構想も新たに、13回の『指輪物語』を26回30分に分けてドラマ化を放送した。『指輪物語 (1981年のラジオドラマ)』を参照のこと。",
"title": "ラジオドラマ化"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現代のファンタジー文学に与えた影響は大きく、テリー・ブルックス、レイモンド・E・フィースト、エスター・M・フリズナー(英語版)など、多くのファンタジー作家がトールキンの影響を受けたことを表明している。1970年代以降、テリー・ブルックスの『シャナラの剣』やステファン・ドナルドソンの「信ぜざる者コブナント」シリーズといった、トールキンの流れを汲む作品が出版され、人気を博した。このようなハイ・ファンタジーとも呼ばれるファンタジー文学は、トールキンの言うところの「準創造」(ファンタジー世界を創作することを意味する造語)を実践し、多くのハイ・ファンタジー長編が「トールキンばりの」と形容された。より直接的な『指輪物語』関連の様々な参照としては例えば、",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1970年代にロールプレイングゲームを広めた『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、D&D)は、安田均や小谷真理によれば『指輪物語』の影響を受けている。D&Dは中つ国にみられる種族、とりわけハーフリング(ホビットの言い換え)、エルフ(当作品と同様、ダークエルフと区別される)、ドワーフ、ハーフエルフ、オーク、ドラゴンを扱っている。ただし、このゲームの主導的デザイナーであったゲイリー・ガイギャックスは、インタビューで自分は『指輪物語』にはあまり熱中しなかったと述べ、また、D&D/AD&Dにトールキンからの強い影響があったことは確かだが、さまざまな種類のファンタジーから広く浅く題材を取ったのでトールキンはその中のひとつにすぎない、ということを主張した。また、デイヴィッド・プリングル(英語版)の『ファンタジー百科事典』は、1960年代後半に『指輪物語』がブームになったことで、D&Dのようなファンタジー要素をもつゲームがヒットする素地ができあがったと指摘している。『指輪物語』はD&D以外のエピック・ファンタジーを扱うファンタジー・ロールプレイングゲームやコンピュータRPGなどにも直接・間接の影響を与えた。『指輪物語』を原作とするテーブルトークRPGとして『指輪物語ロールプレイング』(Middle-earth Role Playing、略称MERP)も存在する。",
"title": "大衆文化への影響"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ローグライクゲームのような、アマチュア制作が主流である作品群への影響もあり、Angbandは世界観をそのまま採用している。またハッカー文化界隈でも引き合いに出される「お気に入り」の作品の一つとなっており、スラッシュドット等のニュースサイトでも、指輪物語ネタが振られる様子が見られる。映画化の折には、作品内容に踏み込んで、熱心なファン活動も見られた。",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "米国ボストン(マサチューセッツ州)に拠点をおくTurbine社が新たにMMORPGとして『The Lord of The Rings Online -Shadows of Angmar』(略称:LOTRO)を開発、2007年Q1に正式リリース。こちらは映画ではなく小説に基づくストーリーラインで、原作に登場するキャラクターがNPCとして登場する。2006年8月、さくらインターネット社が日本での販売権利を獲得し、2007年6月よりサービスを開始するが業績不振により2009年9月に撤退している。",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、コンピュータRPGとして、日本語版はスタークラフトがPC-9800シリーズ対応として制作・販売していた。",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『指輪物語』は、幾度もボードゲーム化されている。",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以上はジャクソン監督の映画三部作の公開以前に発売されたもので、あくまで原作小説のファンを対象にしたゲームだったが、2001年前後から映画版の鑑賞者を意識したゲームもいくつも作られるようになった。ただし、映画版以後に出たゲームの中でもライナー・クニツィアのデザインする作品や『リスク』の変種のいくつかは、映画版だけでなく原作の『指輪物語』や関連作品にも基づいている。",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ドイツ人ライナー・クニツィアがデザインした多人数協力ゲーム。プレイヤーは作中のホビットたちになり、指輪を葬るために滅びの山へ向かうのを目的とする。スゴロクのようにゴール(滅びの山)を目指すゲームだが、ゲームが進行するたびに自動的にサウロンの邪魔が入るというルールになっており、その結果でサウロンに指輪が奪われればプレイヤー全員が敗北となる。一方で誰か一人でもゴールできればプレイヤー全員の勝利になる。そのため、自分がゴールを目指すだけでなく、他者を先にゴールさせるために助けるような行動も可能となっている。英語版はHasbro社、FANTASY FLIGHT GAMES社から出版されている。",
"title": "大衆文化への影響"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "『The Lord of the rings』の拡張キット。",
"title": "大衆文化への影響"
}
] | 『指輪物語』は、イギリスのJ・R・R・トールキンによる長編小説。エルフや人間が国家を築き、戦争を繰り広げる架空の世界を舞台としたハイ・ファンタジー作品である。初期作品『ホビットの冒険』の続編として始まるが、より大きな物語になった。1937年から1949年にかけて少しずつ書かれたが、執筆期間の大部分は第二次世界大戦中であった。最初の版は1954年から1955年にかけて3巻本として出版された。以来多くの言語に翻訳され、増刷を重ね、20世紀の文学で最もポピュラーな作品の一つになった。 | {{Otheruses|2=1978年のアニメーション映画|3=指輪物語 (映画)}}{{Redirect|ロード・オブ・ザ・リング|映画シリーズ|ロード・オブ・ザ・リング (映画シリーズ)|その他の用法|ロード・オブ・ザ・リング (曖昧さ回避)}}{{Expand English|The Lord of the Rings|date=2021年5月|fa=yes}}
{{基礎情報 書籍
| orig_title= The Lord of the Rings
| image = El Señor de los Anillos lectura.jpg
| image_size= 200
| image_caption = <!-- 画像の概要 -->
| translator= [[瀬田貞二]](1972年 - 1975年)
| illustrator = <!-- イラスト -->
| published = {{En|Vol. 1. ''The fellowship of the ring''}}(1954年)<br />{{En|Vol. 2. ''The two towers''}}(1954年)<br />{{En|Vol. 3. ''The return of the king''}}(1955年)
| publisher = {{仮リンク|アレン・アンド・アンウィン|en|Allen & Unwin|de|George Allen & Unwin|es|George Allen & Unwin|fr|Allen & Unwin|it|Allen & Unwin|nl|George Allen & Unwin|pl|Allen & Unwin|pt|George Allen & Unwin|ca|Allen & Unwin}}
| country = {{UK}}
| type= [[上製本]]・[[並製本]](23cm)
| pages = <!-- ページ数 -->
| preceded_by = [[ホビットの冒険]]
| followed_by = <!-- 次作 -->
| website = <!-- 公式サイト -->
| id2 = <!-- 基本的に書籍のISBNを記入します。 -->
| id2type = <!-- 「id2」に記載したデータを持つ書籍の出版形態を記入します。「id2」と共に使ってください。 -->
| portal1 = 書物
| portal2 = 文学
| portal3 = イギリス
| portal4 =
| portal5 =
| portal6 =
}}
『'''指輪物語'''』(ゆびわものがたり、原題: {{En|''The Lord of the Rings''}})は、[[イギリス]]の[[J・R・R・トールキン]]による長編小説。[[エルフ (トールキン)|エルフ]]や[[人間 (トールキン)|人間]]が国家を築き、戦争を繰り広げる架空の世界を舞台とした[[ハイ・ファンタジー]]作品である。初期作品『[[ホビットの冒険]]』の続編として始まるが、より大きな物語になった。[[1937年]]から[[1949年]]にかけて少しずつ書かれたが、執筆期間の大部分は[[第二次世界大戦]]中であった<ref>{{cite web|url=https://www.nationalgeographic.com/ngbeyond/rings/influences.html|title=World War I and World War II|accessdate=2006-06-16}}</ref>。最初の版は[[1954年]]から[[1955年]]にかけて3巻本として出版された<ref>{{cite web|url=https://www.imdb.com/name/nm0866058/bio |title=Biography for J.R.R. Tolkien|accessdate=2006-06-16}}</ref>。以来多くの言語に翻訳され、増刷を重ね、[[20世紀の文学]]で最もポピュラーな作品の一つになった。
== 概要 ==
『指輪物語』の舞台となる場所は[[地球]]である。しかしその舞台となる時代は、著者が創造した歴史上における[[アトランティス]]崩壊後にあたる遠い昔であると設定されている<ref>{{cite book|last=Tolkien|first= J. R. R.|title=[[The Letters of J. R. R. Tolkien]]|editor=[[ハンフリー・カーペンター|Carpenter, Humphrey]]|year=1981|publisher=Houghton Mifflin Company|place=Boston|id=ISBN 0-395-31555-7|pages=186, 220}}</ref>。トールキンはこの背景世界に、[[古英語]]の{{Lang|ang|middanġeard}}([[ミズガルズ|ミドガルド]])を現代語化した[[英語]]名{{En|Middle-earth}}([[中つ国 (トールキン)|中つ国]])を与えた<ref>{{cite web|url= https://www.dummies.com/WileyCDA/DummiesArticle/id-2287.html | title=Exploring the Diverse Lands of Middle-earth | accessdate=2006-06-16}}</ref>。物語は冥王[[サウロン]]の作った[[一つの指輪|力の指輪]]の存在を軸に、[[ホビット]]や[[エルフ (トールキン)|エルフ]]、[[人間 (トールキン)|人間]]、[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]、[[イスタリ|魔法使い]]、ゴブリン(トールキンはほとんどの場合[[オーク (トールキン)|オーク]]と呼ぶ)、[[トロール (トールキン)|トロル]]など、多彩な種族を巻き込んで展開する。[[ホビット庄]]で静かに始まった物語は、やがて中つ国全域を舞台として、世界の運命を決する[[指輪戦争]]の成り行きを辿ることになる。本編の他に、豊富な歴史的および言語学的背景資料を提供する、六つの追補編が添えられている<ref>{{cite web|url= https://www.cliffsnotes.com/original/WileyCDA/LitNote/id-172%2CpageNum-49.html| title=The Return of the King: Summaries and Commentaries: Appendices|accessdate=2006-06-16}}</ref>。
『指輪物語』はトールキンの他の作品と同様、その文学的な主題と起源に対し、多くの研究者によって広範囲にわたる分析がなされた。『指輪物語』は大作であるが、実はこの物語は1917年以来トールキンが長年取り組んで来た、巨大な神話群または伝説体系({{En|legendarium}}、レジェンダリウム)の、最後の一篇でしかない<ref>{{cite web|url=https://www.tolkiensociety.org/author/biography/| title =J. R. R. Tolkien: A Biographical Sketch|accessdate=2006-06-16}}</ref>。『指輪物語』への影響をあたえたものとして、[[言語学]]、[[神話]]および[[宗教]]があげられる。そしてそれらと同様、トールキン以前のファンタジー作品と[[第一次世界大戦]]でのトールキン自身の経験が作品に大きな影響を与えている。一方で『指輪物語』はかなりの影響を現代のファンタジーに与えたと考えられていて、トールキンの作品の衝撃の大きさから、「トールキニアン」(Tolkienian)と「トールキン風」(Tolkienesque)といった単語の使用が、[[オックスフォード英語辞典]]に収録された<ref>{{cite book |last= Gilliver |first=Peter |title=The Ring of Words: Tolkien and the Oxford English Dictionary |id=ISBN 0198610696 |year= 2006 |publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]}}</ref>。
『指輪物語』は絶大かつ永続的な人気を得て、大衆文化に頻繁に参照され、ファンによる多くのファンダムが設立され、トールキンとその作品に関する多くの本が出版された。『指輪物語』は短編、ゲーム、美術作品、および音楽作品にさまざまな着想を付与し続けている。広範なメディアでトールキンの作品はよく上演され、特に『指輪物語』はラジオ、劇場、および映画で上演された。2001年 - 2003年の映画『[[ロード・オブ・ザ・リング (映画シリーズ)|ロード・オブ・ザ・リング]]』三部作のリリースは、本作の認知度・影響力をさらに高めることとなった<ref name = "surge">{{cite web|author=Gilsdorf, Ethan|date = November 16, 2003|url=http://archive.boston.com/news/globe/magazine/articles/2003/11/16/lord_of_the_gold_ring/| title=Lord of the Gold Ring|work=The Boston Globe|accessdate=2006-06-16}}</ref>。
三部作はすべて[[ベストセラー本の一覧|世界史上のベストセラーのトップ10]]に入り、それぞれ1億5500万部、1億5000万部、1億4000万部を売り上げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.waterstones.com/waterstonesweb/displayProductDetails.do?sku=5007234 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2007年7月31日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928071938/http://www.waterstones.com/waterstonesweb/displayProductDetails.do?sku=5007234 |archivedate=2007年9月28日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref><ref>https://www.thestar.com/entertainment/2007/04/16/tolkien_proves_hes_still_the_king.html</ref><ref name="lotr-statisticsbrain">{{Cite news|url=https://www.statisticbrain.com/lord-of-the-rings-total-franchise-revenue/|title=Lord of the Rings Total Franchise Revenue|date=2015-09-26|newspaper=Statistic Brain|language=en-US|accessdate=2017-01-29}}</ref>。
== 本書の構成 ==
トールキンは、『[[ホビットの冒険]]』を書いた後、別の本を書くつもりはなかったが、出版社に説得され、「新ホビットの冒険」を構成しはじめた。完璧主義者であるトールキンの希望のため、執筆ははかどらなかった。かれは小説作品を準創造({{En|sub-creation}})、そしてかれ自身を準創造者と考えて、創造をかれの義務であると信じていたため、その創作には妥協がなかったものと推測される。
3巻構成版が非常に広く流通しているので、作品はよく『指輪物語』'''三部作'''と呼ばれるが、一つの小説として構想され書かれたので、これは厳密には正しくない。元々トールキンは本作を、大きな一巻本で刊行しようと意図していたのだが、これは[[第二次世界大戦]]後の紙不足のために不可能になり、そのかわりに『[[旅の仲間]]』(第1部、第2部)、『[[二つの塔]]』(第3部、第4部)、『[[王の帰還]]』(第5部、第6部、追補編)の3巻に分割され、[[1954年]]から[[1955年]]の間に出版された。[[1966年]]、この他にファンの作った三つの索引が『王の帰還』に追加された。
分割の際に、第5部・第6部に対する『王の帰還』という題について内容を知らせすぎるとしてトールキンは難色を示していた。トールキン自身はこの部分に対し「指輪戦争」を提案していたが、出版社に退けられた。トールキンがもともと6部構成につけようとしていた題は次のとおりである。
* 第1部「指輪、世に出る」 ''The Ring Sets Out''
* 第2部「指輪、南へ行く」 ''The Ring Goes South''
* 第3部「アイゼンガルドの反逆」 ''The Treason of Isengard''
* 第4部「指輪、東へ行く」 ''The Ring Goes East''
* 第5部「指輪戦争」''The War of the Ring''
* 第6部「第三紀の終わり」 ''The End of the Third Age''
作品全体の名前はLotR(LOTR)あるいは単にLRと、三巻はそれぞれ、FR、FOTRあるいはFotR(The '''F'''ellowship '''o'''f '''t'''he '''R'''ing)、TTあるいはTTT('''T'''he '''T'''wo '''T'''owers)、そしてRK、ROTKあるいはRotK(The '''R'''eturn '''o'''f '''t'''he '''K'''ing)と略記される。
いくつかの場所や登場人物について、トールキンは自ら幼年期にすごしたセアホール(当時はウォリックシャーの一農村で現在は[[バーミンガム]]の一部)、そしてバーミンガム自体から着想を得ている。
== 出版史 ==
最初、全3巻は[[アレン・アンド・アンウィン]]社から[[1954年]]から[[1955年]]にかけて、数か月おきに刊行された。その後、多数の出版社が1巻、3巻、6巻あるいは7巻の体裁で複数回にわたり再発行した。ISBN 0-007-20363-2(全4巻セット)等が現在入手可能である。
[[1960年代]]初期、ペーパーバック出版社[[エース・ブックス]]のSFの編集者[[ドナルド・A・ウォルハイム]]は、『指輪物語』の米国ハードカバー版は、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[著作権]]法では保護されないと考えた。そしてエース・ブックスはトールキンに許可を得ず、印税も払わずに本作を出版し始めた。
トールキンは、かれに手紙を書いた米国のファンへこのことをはっきりと述べたため、ファンによる草の根の圧力は次第に大きくなり、エース・ブックスはそれらの出版を取りやめ、正式な出版の場合よりはかなり低い額ではあるが、トールキンへの名目上の印税支払をすることになった。しかしながら、正式に認可された版が{{仮リンク|バランタイン・ブックス|en|Ballantine Books}}から出版され、すさまじい商業的成功を得たため、トールキンは十分に報われることとなった。1960年代半ばには、本作はアメリカで最も有名な作品の一つになり、「[[ガンダルフ]]を大統領に!」といったスローガンが現れるなど、社会現象とまでなった。
本作は多数の言語に翻訳されたが、トールキンは[[言語学]]の専門家として、これらの翻訳の多くを検査し、翻訳過程およびかれの作品内容両方を説明するコメントをした。
[[デンマーク語]]版の翻訳作業には[[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]]も参加しており、挿絵もマルグレーテ2世によるものである<ref>[https://www.sankei.com/article/20160114-X2HEX2LFCNJL3FUGPUFCAOYWEU/2/ 【世界王室物語-ノブレス・オブリージュ】デンマーク 多才な女王の挑戦 関東学院大教授・君塚直隆(2/4ページ)] - [[産経新聞]]</ref>。
トールキンによる[[エピック・ファンタジー]]の大成功で、[[ファンタジー]]への需要が非常に大きくなり、このジャンルは大きく花開いたと言える。以後、ファンタジーの多くの良書が出版されたが、特筆すべき作品としては、[[アーシュラ・K・ル=グウィン ]]の『[[ゲド戦記]]』や[[ステファン・ドナルドソン]]の『[[信ぜざる者コブナント]]』がある。
[[1987年]]、テキストの電子化により、英米のテキストが一致した。
[[2004年]]、50周年記念版として、クリスティーナ・スカル、ウェイン・G.ハモンドによる注釈。トールキン作の「マザルブルの書」の挿絵つきで出版された。[[2005年]]、クリスティーナ・スカル、ウェイン・G.ハモンドによる索引の再構成、テキストの全面見直し版が出版された。
他の芸術分野すべてと同じように、立派な作品を真似ただけの派生本はたくさん現われた。『指輪物語』の筋をなぞっただけの派生品について、トルキニスク(Tolkienesque)という用語が使われるようになった。魔法のファンタジーの世界を邪悪な冥王の軍隊から救う探究に乗り出す冒険者の一団が…というストーリーがそれにあたる。
=== 日本語版 ===
[[File:Hobbiton.jpg|thumb|220px|[[ホビット庄]]]]
[[1972年]]から[[1975年]]に掛けて[[瀬田貞二]]訳の全6巻が[[評論社]]から出版され、[[1977年]]に同社から内容のほぼ変わらない文庫版全6巻が出版された。[[1992年]]、既に亡くなっていた瀬田貞二の訳文をもともと協力していた[[田中明子]]が全面的に見直し、両名の共訳という名義になり愛蔵版全3巻、A5版全7巻、文庫版全9巻の三種が発行された。愛蔵版とA5版では、「追補編」Dの後半以降が追加され全訳となった。[[2003年]]には、文庫版に第10巻『追補編』が追加発行された。[[2020年]]に電子書籍化された際に、長く懸案だった訳文・固有名詞の見直しが行われ、[[2022年]]に刊行された「最新版」にもこれが反映されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hyoronsha.co.jp/info/2022%e5%b9%b410%e6%9c%8819%e6%97%a5%e3%81%ab%e3%80%8e%e6%9c%80%e6%96%b0%e7%89%88%e3%80%80%e6%8c%87%e8%bc%aa%e7%89%a9%e8%aa%9e%e3%80%8f%ef%bc%88%e8%a9%95%e8%ab%96%e7%a4%be%e6%96%87%e5%ba%ab%ef%bc%89/ |title=2022年10月19日に『最新版 指輪物語』(評論社文庫)が発売!|publisher=評論社 |date=2022-10-19 |access-date=2022-11-23}}</ref><ref>{{Cite book|title=最新版 指輪物語 1 旅の仲間 上|publisher=評論社|year=2022|author1=評論社 編集部 |author2=田中明子 |chapter=『最新版 指輪物語』文庫刊行にあたって}}</ref>。
作中にある英語由来の固有名詞を翻訳する際には、各国の言語に寄り添うようにというトールキンの意向を反映して、[[瀬田貞二]]訳では幾つかの人名や地名が日本語に翻訳されている。
* Black Riders → 黒の乗手
* Easterlings → 東夷
* Glittering Caves → 燦光洞
* Gollum → ゴクリ
* Middle-earth → 中つ国
* Oliphaunt → じゅう
* Rangers → 野伏
* Rivendell → 裂け谷
* Shadowfax → 飛蔭
* The Shire → ホビット庄
* Sting → つらぬき丸
* Strider → 馳夫
また、ゴクリが一つの指輪に呼び掛ける“my precious”を「いとしいしと」、マザルブルの間でフロドが上げる鬨の声“Shire!”を「ホビット庄の一の太刀!」と訳した部分などは、瀬田貞二の独創性を示す好例である。なお、瀬田貞二訳で粥村と訳されていたBreeは、田中明子共訳では[[ブリー村]]と修正されている。
== 書籍 ==
『指輪物語』はトールキン自身の[[言語学]]、[[おとぎ話]]、[[北欧神話]]、[[ケルト神話]]に対する興味から始まった。トールキンは驚くほど自らの世界を詳細に形成し、中つ国とその世界のために、登場人物の系図、[[人工言語|言語]]、[[ルーン文字]]、暦、歴史を含む完全な神話体系を創造した。この補足資料のいくらかは『指輪物語』「追補編」で詳述されている。神話の物語は『[[シルマリルの物語]]』と題する聖書のような叙事詩的長編へと織りあげられた。
J・R・R・トールキンは以前 『指輪物語』は「基本的には宗教的で[[カトリック教会|カトリック]]的作品」であると記述した(''{{仮リンク|The Letters of J. R. R. Tolkien|en|The Letters of J. R. R. Tolkien}}'', #142)。そこではゴクリへのビルボおよびフロドによって示される慈悲および哀れみという大きな美徳が勝利をおさめる。フロドが一つの指輪の力と戦ったとき、トールキンの心には[[主の祈り]]の言葉「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」が常にあった(同書#181, #191)。トールキンは、自分の作品はどんな種類の寓意をも含まないと繰り返し主張し、また、その問題についてのかれの考えが序文に述べられているのだが、支配の指輪は[[原子爆弾]]の寓話であるという推測をするものは多かった。
『指輪物語』のプロットは、前作の『[[ホビットの冒険]]』から、そしてより間接的にではあるが『[[シルマリルの物語]]』の歴史から組み立てられている。『シルマリルの物語』は、『指輪物語』の登場人物が過去として想起する出来事を含んでいる。[[ホビット]]たちは、かれらの全世界を脅かす大きな出来事に巻き込まれ、悪の召使い[[サウロン]]は、かれの権力を奪い返すことができる手段として、失われた[[一つの指輪]]を回復しようとする。
== あらすじ ==
[[人間 (トールキン)|人間]]、[[ホビット]]、[[エルフ (トールキン)|エルフ]]、[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]、[[オーク (トールキン)|オーク]]、[[トロール (トールキン)|トロル]]などが住む架空の世界である「[[中つ国 (トールキン)|中つ国]](Middle-earth)」を舞台とし、主人公のホビット族であるフロドを含む9人の旅の仲間が、冒険と闇の勢力との戦いを繰り広げる。諸悪の根源・冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「[[一つの指輪]]」を破壊するための冒険と友情が描かれる。その物語は、太古の昔ホビットにより書かれた架空の書物「[[西境の赤表紙本]]」の写本を発見したトールキンがその抜粋を翻訳した物である、という体裁をとっている。
より詳細な粗筋は『[[旅の仲間]]』、『[[二つの塔]]』、『[[王の帰還]]』の項を参照のこと。
== 映画化 ==
{{see also|ロード・オブ・ザ・リング (映画シリーズ)}}
[[File:Sir_Peter_Jackson.jpg|thumb|220px|[[ピーター・ジャクソン]]は『[[ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間]]』の[[映画監督]]]]
[[ビートルズ]]版の計画があったが実現しなかった。[[スタンリー・キューブリック]]も映画化する可能性を調査したが、そのためには、あまりに「壮大」であるとその考えを放棄した、といわれている。[[1970年代]]の中頃、有名な映画監督の[[ジョン・ブアマン]]は、権利所有者で製作者の[[ソウル・ゼインツ]]と共同で、実写映画についての検討をおこなったが、当時はあまりにも費用がかかりすぎると分かった。
[[1978年]]、{{仮リンク|ランキン・バス|en|Rankin/Bass Animated Entertainment}}スタジオと[[トップクラフト]]は、『指輪物語』関連で最初の映画化として、テレビ放映用アニメーション版『[[ホビットの冒険#テレビアニメ|ホビットの冒険]]』を製作した。これは『指輪物語』の前篇にあたる。
その直後に、ソウル・ゼインツは、ランキン=バスの後を継いで、『旅の仲間』および『二つの塔』の前半部分をアニメーション映画として製作した。[[1978年]]、[[ユナイテッド・アーティスツ]]がリリースした『[[指輪物語 (映画)|指輪物語]]』の監督は[[ラルフ・バクシ]]で、俳優の姿を撮影して、その上から作画するという「[[ロトスコープ#概要|ロトスコープ]]」と呼ばれるアニメーション技術を特色としていた。(おそらく予算の圧迫あるいは超過、あるいは大作と取り組む困難のために)この映画の品質は不均一であった。[[マックス・フライシャー]]のロトスコープ技術を使い、実際のアクション・シーケンスの上からアニメーションの絵を書いて、ある部分は完全にうまくアニメーション化されていた。さらに、映画はヘルム峡谷の戦いの後で不意に終わるが、しかしサム、フロドおよびゴクリは[[死者の沼地]]を横断する前なのである。最善を尽くしたにもかかわらず、バクシは後編を製作することができず、物語の残りの部分はランキン=バスとトップクラフトが[[1980年]]に製作したテレビ放映用アニメーション版『王の帰還』で一部補完された。
これらの映画が若い観衆に目標とされる一方、大人のファンは物語の深みや暗さの多くが台無しになったと苦言を呈した。
このような結果から、『指輪物語』をちゃんと映画にするのは不可能だとも思われるようになった。さらに、小説への全般的な関心の減少も、映像化にこぎつけるのを難しくした。しかしながら、映画製作技術の進歩、中でも[[コンピュータグラフィックス]]の進歩により、映画化が実現可能になった。
[[ミラマックス]]映画は、[[ピーター・ジャクソン]]を監督として、『指輪物語』の完全実写映画化を開始した。資金調達が失敗に終わりそうになったとき、[[ニュー・ライン・シネマ]]が製作を引き継いだ(ミラマックスの幹部[[ハーヴェイ・ワインスタイン]]および[[ボブ・ワインスタイン]]は、最後まで映画の製作に残った)。
三部作の[[実写]]映画は同時に撮影された(例えば、大きな戦闘シーン等に広範囲にコンピュータで生成した画像を追加した)。『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]』は[[2001年]]12月に、『[[ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔]]』は[[2002年]]12月に、そして『[[ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還]]』は[[2003年]]12月に公開された。三つの映画はそれぞれの年にすべて長編ドラマ・プレゼンテーション部門の[[ヒューゴー賞]]を受賞した。
これらの映画が物語を多少変更しており、おそらく、トールキンのもともとの考えとは本質的に異なるところがあると批評した者もあったが、多くは素晴らしい作品として賞賛した。有名な批評家[[ロジャー・エバート]]は「ジャクソンは、文学の魅惑的でユニークな部分をとって、現代のアクション映画の用語にそれを再話した。…かれがこの映画で行ったことは恐ろしく困難であり、かれは賞賛に値するが、トールキンに忠実にある方がもっと困難で、勇敢だっただろう」と述べている。
これらの映画は[[アカデミー賞]]で17のオスカー(『ロード・オブ・ザ・リング』で4、『二つの塔』で2、『王の帰還』で11)を獲得し、「ファンタジー映画はアカデミー作品賞を受賞出来ない」というジンクスも打ち破った。しかし『ロード・オブ・ザ・リング』で助演男優賞に[[イアン・マッケラン]]がノミネートされたものの俳優部門での受賞はなかった(その理由はあまりにも登場人物が多すぎるからだと言われている)。前二作に比して『王の帰還』でのノミネート数が突出し、ノミネートされた全ての部門でオスカーを総嘗めにしたのは、三部作全体に対する評価が作品が完結した時点で為された結果と広く見なされている。
視覚効果、とくに感動的なディジタル登場人物である[[ゴクリ]]の創造は画期的である。一年半かけて三つの映画を同時に撮ってしまうという、撮影の規模だけでも先例がない。
映画は、本質的な興行的成功を証明した。[[ニュージーランド]]の[[ウェリントン]]で、[[2003年]][[12月1日]]に行われた『王の帰還』のプレミアはファンの祝賀と公式のプロモーションのうちに行われた(映画の製作はニュージーランドの経済に著しく寄与した)。映画史上最大の水曜日の初日となったといわれる。『王の帰還』はさらに、[[1997年]]の『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』以後初めて10億ドル(全世界)の興行収入を得た映画となった。[[2004年]]の[[アカデミー賞]]で、『王の帰還』は6年前の『タイタニック』と同じく、11の部門でオスカーを獲得した。11部門の受賞は『[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]』『タイタニック』と並んで史上1位。全ノミネートで受賞した記録では単独1位である。
== テレビドラマ化==
{{see also|ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪}}
2017年、[[アマゾン・スタジオ]]がテレビドラマ化の権利を獲得した。複数シーズンの契約であり、映画『[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]』(2001年)の前日譚となる予定。また、さらなるスピンオフシリーズの可能性も契約には含まれている模様<ref>https://www.hollywoodreporter.com/tv/tv-news/official-lord-rings-tv-series-gets-multiple-season-commitment-at-amazon-1057486/</ref>。2018年4月現在、5シーズンが予定されており、権利獲得だけで2億5000万ドル、製作費はテレビドラマ史上最高額となる10億ドルを超えるとも言われている。これは、『[[ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還]]』の世界興収とほぼ同じである。契約上、2年以内に製作をスタートする必要があるとのこと<ref>https://www.hollywoodreporter.com/tv/tv-news/how-lord-rings-tv-series-landed-at-amazon-not-netflix-1099213/</ref>。
== ラジオドラマ化 ==
[[英国放送協会|BBC]]は、13回の『指輪物語』[[ラジオドラマ]]化を[[1956年]]に、6回の『ホビットの冒険』を[[1968年]]に制作した。トールキンがどちらかのシリーズを聞いたことがあるかどうかはわからない。1956年のシリーズの録音の存在は知られていないが、しかし『ホビットの冒険』は残っている。非常に原作に忠実なドラマ化であり、いくつかの過去の参照として『指輪物語』や『シルマリルの物語』が組み込まれている。
[[1979年]]ドラマ化がアメリカで放送され、続いてテープとCDも発売された。キャストまたはクレジットは包装に記されていない。俳優ごとに別々に録音され、様々な部分を編集でつなぎ合わせたようだ。したがって、俳優が一緒に録音した、BBC版と異なり、キャストのだれも現実に互いに対話していないので、非常に出来が悪い。
[[1981年]]、BBCは構想も新たに、13回の『指輪物語』を26回30分に分けてドラマ化を放送した。『[[指輪物語 (1981年のラジオドラマ)]]』を参照のこと。
== 大衆文化への影響 ==
[[File:EN-Hobbiton-Matamata-NZ-Attribution-Share-Alike25.jpg|thumb|220px|「Welcome to Hobbiton」[[:en:Matamata, New Zealand|マタマタ、ニュージーランド]]は映画の場所]]
=== 文学 ===
現代のファンタジー文学に与えた影響は大きく、[[テリー・ブルックス]]、[[レイモンド・E・フィースト]]、{{仮リンク|エスター・M・フリズナー|en|Esther Friesner}}など、多くのファンタジー作家がトールキンの影響を受けたことを表明している<ref>[[#Itakura|板倉 2012]], pp. 59-62.</ref>。1970年代以降、テリー・ブルックスの『シャナラの剣』や[[ステファン・ドナルドソン]]の「信ぜざる者コブナント」シリーズといった、トールキンの流れを汲む作品が出版され、人気を博した<ref>[[#Pringle|プリングル 2002]], p. 69.</ref>。このような[[ハイ・ファンタジー]]とも呼ばれるファンタジー文学は、トールキンの言うところの「準創造」(ファンタジー世界を創作することを意味する造語)を実践し<ref>[[#Pringle|プリングル 2002]], pp. 66-70, 545.</ref>、多くのハイ・ファンタジー長編が「トールキンばりの」と形容された{{sfn|井辻|1994|p=177}}。より直接的な『指輪物語』関連の様々な参照としては例えば、
* スティーヴン・キングとピーター・ストラウブの共著による小説『タリスマン』には[[エント]]が出てくる。
* 作家[[ダイアナ・ウィン・ジョーンズ]]著『[[魔法使いハウルと火の悪魔]]』の中で[[裂け谷]]"Rivendell"と書かれた表札の下げられた扉が出てくる。
* 『[[クリプトノミコン]]』シリーズの現代のヒーローはかれ自身をドワーフと、かれの祖父の暗号解読者をエルフと、元合衆国海軍SEAL隊員を人間の種族の一人と、またかれの宿敵(精神病の弁護士)をゴクリと呼んでいる。
* ドイツのファンタジー作家[[ラルフ・イーザウ]]の『[[暁の円卓]]』でトールキンが登場し、主人公デービッドと指輪談義をし、『指輪物語』の執筆を計画していることを明かす。
=== 映像と音楽 ===
* スウェーデンのミュージシャン、[[:sv:Bo Hansson (musiker)|ボ・ハンソン]]は『指輪物語』を原作とするアルバム「''Sagan om Ringen''」を1970年に製作。その後に英語版の「''Lord of the Rings''」(1972年)も発表している。
* テレビ番組『[[バビロン5]]』には時々『指輪物語』へのオマージュや似たような神話的叙事詩のテーマがあらわれる。
* [[ブルーグラス・グループ]]、[[ニッケル・クリーク]]に「トム・ボンバディルの家 - ''The House of Tom Bombadil''」と呼ばれる歌がある。
* フィンランドのバンド、[[ナイトウィッシュ]]には「エルヴェンパス - ''Elvenpath''」(『[[エンジェルズ・フォール・ファースト]]』収録)という『指輪物語』に関連する歌がある<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.nightwish.jp/lyrics/angels-fall-first/elvenpath.html|title = Lyrics: Elvenpath|format = HTML|work =| publisher = Nightwish.jp|language = 日本語|accessdate=2007年7月11日}}</ref>。
* [[プログレッシブ・ロック]]・バンドの[[グラス・ハマー]]には、「ニムロデル - ''Nimrodel''」や『ドゥーナダンの旅 - ''Journey of the Dúnadan''』他、多数のトールキンの影響を受けた作品がある。
* [[エンヤ]]は[[1991年]]に「[[ロスローリエン]] - ''Lothlórien''」をレコーディングし、ピーター・ジャクソンの映画「ロード・オブ・ザ・リング」のサウンドトラックのために"May It Be"と"Aníron"を作った。
* デンマークの音楽グループ、[[トールキン・アンサンブル]]が『指輪物語』に含まれる詩や歌を演奏したCDがClassicoレーベルより1997年以降5枚リリースされている。3枚目の作品『''At dawn in rivendell''」([[デッカ・レコード|デッカ]])には、ピーター・ジャクソンの映画で魔法使いサルマンを演じた俳優[[クリストファー・リー]]が参加している。
* ジャーマンメタルバンド[[ブラインド・ガーディアン]] のアルバム『[[テイルズ・フロム・ザ・トワイライト・ワールド]] - ''Tales from the Twilight World''』には『指輪物語』に関連する「ロード・オブ・ザ・リングズ - ''Lord of the Rings''」という歌がある。さらに、かれらは『シルマリルの物語』を原作とするアルバム『[[ナイトフォール・イン・ミドル・アース]] - ''Nightfall in Middle-Earth''』をリリースし<ref>{{Cite web|和書
| url = http://www009.upp.so-net.ne.jp/memorandum/nightfallinme.htm
| title = 『ナイトフォール・イン・ミドル・アース』の歌詞を読む
| format = HTML
| work =
| publisher = Memorandum 1
| language = 日本語
|accessdate=2007年7月11日
}}</ref>、それには、『シルマリルの物語』の一部に基づいた「カース・オブ・フェアノール - ''The Curse of Fëanor''」<!--や[[一つの指輪]]の暗黒の力をテーマとした『影へ』"Into The Shadow"-->のような歌を含んでいる。かれらの他の作品のうちのいくつかは、トールキンの創造への言及がある<ref>{{Cite web|和書
| url = https://web.archive.org/web/20081217034722/http://www.geocities.jp/eryn_lasgalen/multimedia/bg.html
| title = Blind Guardian (ブラインド・ガーディアン)
| format = HTML
| work =
| publisher = 緑の葉の森
| language = 日本語
|accessdate=2007年7月11日
}}</ref>。
* オーストリアの[[ニュー・エイジ]]・ミュージシャン、[[ガンダルフ (音楽家)|ガンダルフ]]の名前はホビットたちの友人である魔法使いにちなんで選ばれた。『指輪物語』のテーマや登場人物に関連したつくつかの音楽を作曲し、それらのうちのいくつかはかれの2番めのアルバム「想像 - ''Visions''」に入っている。
* [[レナード・ニモイ]]の音楽「''The Ballad of Bilbo Baggins''」は、このシリーズ(特に『ホビットの冒険』)を原作とする。
* [[レッド・ツェッペリン]]の音楽「ミスティ・マウンテン・ホップ - ''Misty Mountain Hop''」(『[[レッド・ツェッペリン IV]]』収録)はトールキンの[[霧ふり山脈]] (''Misty Mountains'') にちなんで命名されている。「[[限りなき戦い]]」(同作収録)は『[[王の帰還]]』の[[ペレンノール野の合戦]] の寓話である。「ランブル・オン ''Ramble On''」(『[[レッド・ツェッペリン II]]』収録)には[[ゴクリ]]と[[モルドール]]が登場する。
* [[ラッシュ (カナダのバンド)|ラッシュ]] のアルバム『[[夜間飛行 (アルバム)|夜間飛行]] - ''Fly By Night''』には、「リベンデル - ''Rivendell''」という歌がある。
* [[スティクス (バンド)|スティクス]]のアルバム『ピーシズ・オブ・エイト~古代への追想 - ''Pieces of Eight''』には『指輪物語 - ''Lords of the Ring''』という歌がある。
* Alan Horvathも『指輪物語』を原作とするアルバム(2004)を作った。
* [[ブロブディンナジエン・バーズ]]はそのトラックの一つを「''Tolkien''」とリミックスを「''The Lord of the Rings''」と名付けた。
* [[T・レックス]]の前身ティラノザウルス・レックスで[[マーク・ボラン]]のパートナーだった[[スティーブ・ペレグリン・トゥック]]の名前は『指輪物語』の登場人物ピピンからとられている。彼らのデビュー・アルバム『[[ティラノザウルス・レックス登場!!]]』には「ちっちゃなトランペット・ブルース - ''Dwarfish Trumpet Blues''」という曲があり、『指輪物語』をはじめとするファンタジー文学の影響が強い。
* オランダの作曲家[[ヨハン・デ・メイ]]は、最初の本格的な作曲作品として1984年から1988年にかけて5楽章からなる[[吹奏楽]]のための[[交響曲第1番 (デ・メイ)|交響曲第1番『指輪物語』]]を作曲した(後に管弦楽に編曲)。1989年[[サドラー国際吹奏楽作曲賞|サドラー賞]]受賞。
* アメリカの作曲家[[ハーバート・オーウェン・リード]]は、管弦楽のために「エントの目覚め」(''Awakening of the Ents'')(後に吹奏楽に改作)と、吹奏楽と合唱のために「ロスローリエンに」(''Of Lothlórien'')を作曲している。
* [[カウント・グリシュナック]]が結成したバンドの名前は登場人物の[[ウルク=ハイ]]からとっている。
=== ロールプレイングゲーム ===
1970年代に[[ロールプレイングゲーム]]を広めた『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』(以下、D&D)は、[[安田均]]や[[小谷真理]]によれば『指輪物語』の影響を受けている{{sfn|安田|2006|p=244}}<ref>[[#Kotani|小谷 1998]], 第5章 ハイテク革命とファンタジー †RPGとファンタジー.</ref>。D&Dは中つ国にみられる種族、とりわけハーフリング(ホビットの言い換え)、エルフ(当作品と同様、[[ダークエルフ]]と区別される)、ドワーフ、ハーフエルフ、オーク、ドラゴンを扱っている。ただし、このゲームの主導的デザイナーであった[[ゲイリー・ガイギャックス]]は、インタビューで自分は『指輪物語』にはあまり熱中しなかったと述べ、また、D&D/AD&Dにトールキンからの強い影響があったことは確かだが、さまざまな種類のファンタジーから広く浅く題材を取ったのでトールキンはその中のひとつにすぎない、ということを主張した<ref>{{cite web |first=Gary|last=Gygax|url=http://archives.theonering.net/features/interviews/gary_gygax.html| title=Gary Gygax — Creator of Dungeons & Dragons|publisher=The One Ring.net|accessdate=28 May 2006}}</ref>。また、{{仮リンク|デイヴィッド・プリングル|en|David Pringle}}の『ファンタジー百科事典』は、1960年代後半に『指輪物語』がブームになったことで、D&Dのようなファンタジー要素をもつゲームがヒットする素地ができあがったと指摘している<ref>[[#Pringle|プリングル 2002]], pp. 478-479.</ref>。『指輪物語』はD&D以外のエピック・ファンタジーを扱うファンタジー・ロールプレイングゲームや[[コンピュータRPG]]などにも直接・間接の影響を与えた<ref>[[#Pringle|プリングル 2002]], pp. 481-500.</ref>。『指輪物語』を原作とする[[テーブルトークRPG]]として『[[ロールマスター|指輪物語ロールプレイング]]』(Middle-earth Role Playing、略称MERP)も存在する。
[[ローグライクゲーム]]のような、アマチュア制作が主流である作品群への影響もあり、[[Angband]]は世界観をそのまま採用している。また[[ハッカー文化]]界隈でも引き合いに出される「お気に入り」の作品の一つとなっており、[[スラッシュドット]]等の[[ニュースサイト]]でも、指輪物語ネタが振られる様子が見られる。映画化の折には、作品内容に踏み込んで、熱心なファン活動も見られた。
米国[[ボストン]](マサチューセッツ州)に拠点をおくTurbine社が新たに[[MMORPG]]として『[[ロード・オブ・ザ・リングス オンライン|The Lord of The Rings Online]] -Shadows of Angmar』(略称:LOTRO)を開発、2007年Q1に正式リリース。こちらは映画ではなく小説に基づくストーリーラインで、原作に登場するキャラクターがNPCとして登場する。2006年8月、さくらインターネット社が日本での販売権利を獲得し、2007年6月よりサービスを開始するが業績不振により2009年9月に撤退している。
また、コンピュータRPGとして、日本語版は[[スタークラフト (ゲーム会社)|スタークラフト]]が[[PC-9800シリーズ]]対応として制作・販売していた。
=== ボードゲーム ===
『指輪物語』は、幾度もボードゲーム化されている。
; SPI社
* War of the Ring
: 旅の仲間の冒険を描くキャラクターゲームに、軍事的な衝突を描いたキャンペーンゲームをアドオンする形になっている。ほかにミニサイズのウォーゲームである「サウロン」と「ゴンドール」も出版された。
; I.C.E.社
* The Fellowship of the Ring
: ダイスを使ったブラインド方式の冒険主体のゲーム。
* The Riddle of the ring
: 邦題『指輪の謎』。翻訳、販売元は[[ホビージャパン]]。 黒の乗り手と指輪を奪い合うゲーム。
以上はジャクソン監督の映画三部作の公開以前に発売されたもので、あくまで原作小説のファンを対象にしたゲームだったが、2001年前後から映画版の鑑賞者を意識したゲームもいくつも作られるようになった。ただし、映画版以後に出たゲームの中でも[[ライナー・クニツィア]]のデザインする作品や『[[リスク (ボードゲーム)|リスク]]』の変種のいくつかは、映画版だけでなく原作の『指輪物語』や関連作品にも基づいている。
; Hasbro社
; R.Di Meglio, M.Maggi, F.Nepitello
* 『Lord of the Rings -War of the Ring-』
: 指輪物語の世界を舞台にエルフ、ゴンドール、ドワーフ、サウロン等の勢力が指輪をめぐっての攻防戦を行う[[ウォー・シミュレーションゲーム]]。
* 『War of the Ring Battles of the Third Age』
: 『Lord of the Rings -War of the Ring-』の追加セット。ヘルム峡谷とミナス・ティリスの戦いを再現。
; KOSMOS社
* 『The Lord of the Rings』
: 『ロード・オブ・ザ・リング ~指輪物語~』翻訳、販売元は[[カプコン]]。
ドイツ人[[ライナー・クニツィア]]がデザインした多人数協力ゲーム。プレイヤーは作中のホビットたちになり、指輪を葬るために滅びの山へ向かうのを目的とする。[[スゴロク]]のようにゴール(滅びの山)を目指すゲームだが、ゲームが進行するたびに自動的にサウロンの邪魔が入るというルールになっており、その結果でサウロンに指輪が奪われればプレイヤー全員が敗北となる。一方で誰か一人でもゴールできればプレイヤー全員の勝利になる。そのため、自分がゴールを目指すだけでなく、他者を先にゴールさせるために助けるような行動も可能となっている。英語版は[[ハズブロ|Hasbro]]社、FANTASY FLIGHT GAMES社から出版されている。
* 『Lord of the Rings : Friends & Foes Expansion』
『The Lord of the rings』の拡張キット。
* 『Lord of the Rings : SAURON Expansion』
: 拡張キット。サウロンのプレイヤーが追加。
* 『Lord of the Rings : Battlefields Expansion』
: 拡張キット。6つの大きな戦いを、それぞれ新しいゲームボードでプレイ。
* 『Der Herr der Ringe Die Entscheidung』
: ミニサイズの軍人将棋のような二人用対戦ゲーム。相手の所在や意図が分からないという構図を作り出ている。ライナー・クニツィアのデザイン。英語版『Lord of the Ring -The Confrontation-(指輪物語-対決-)』はFANTASY FLIGHT GAMES社から出版されている。ボードやコマを豪華にしたデラックス版もある。
* 『Der Herr Der Ringe Das Duell』
: モリアの坑道でのガンダルフとバルログの決闘を描くカード主体のゲーム。ピーター・ノイバウアーのデザイン。
* 『Der Herr Der Ringe Die Gefährten - das Kartenspiel』
: 第一部『旅の仲間』のカードゲーム。ライナー・クニツィアのデザイン。
* 『Der Herr der Ringe: Die Zwei Türme (Kartenspiel)』
: 第二部『2つの塔』のカードゲーム。ライナー・クニツィアのデザイン。
* 『Der Herr der Ringe - Das Kinderspiel』
: 子供用ゲーム。ライナー・クニツィアのデザイン。
; FANTASY FLIGHT GAMES社
* 『Middle-earth Quest』
: 『ミドルアース・クエスト』翻訳、販売元、[[ホビージャパン]]。
: プレイヤーの一人がサウロン役になり、残りのプレイヤーが協力してそれに立ち向かう[[TRPG]]風味のゲーム。
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== 日本語訳 ==
=== 現在入手可能な邦訳 ===
==== 最新版 ====
* 最新版『指輪物語』全6巻(文庫版) [[瀬田貞二]]・[[田中明子]]訳 [[伊藤盡]]・[[沼田香穂里]]編集協力 [[寺島龍一]]本文挿画 評論社 / [[2022年]][[10月19日]]
** 第1巻 『旅の仲間』上 {{ISBN2|978-4-5660-2389-5}}
** 第2巻 『旅の仲間』下 {{ISBN2|978-4-5660-2390-1}}
** 第3巻 『二つの塔』上 {{ISBN2|978-4-5660-2391-8}}
** 第4巻 『二つの塔』下 {{ISBN2|978-4-5660-2392-5}}
** 第5巻 『王の帰還』上 {{ISBN2|978-4-5660-2393-2}}
** 第6巻 『王の帰還』下 {{ISBN2|978-4-5660-2394-9}}
* 最新版『指輪物語』追補編(文庫版) / [[2023年]][[5月30日]]
** 第7巻『追補編』{{ISBN2|978-4-5660-2395-6}}
==== 新版 ====
* 新版『指輪物語』全3巻(愛蔵版) 瀬田貞二・田中明子訳 [[アラン・リー]]絵 [[評論社]] [[1992年]] ISBN 4-566-02353-2
** 第1部 『旅の仲間』ISBN 4-566-02350-8
** 第2部 『二つの塔』ISBN 4-566-02351-6
** 第3部 『王の帰還』ISBN 4-566-02352-4
* 新版『指輪物語』全7巻(A5版) 瀬田貞二・田中明子訳 [[寺島龍一]]挿絵 評論社 [[1992年]] ISBN 4-566-02361-3
** 第1巻 『旅の仲間』上 ISBN 4-566-02354-0
** 第2巻 『旅の仲間』下 ISBN 4-566-02355-9
** 第3巻 『二つの塔』上 ISBN 4-566-02356-7
** 第4巻 『二つの塔』下 ISBN 4-566-02357-5
** 第5巻 『王の帰還』上 ISBN 4-566-02358-3
** 第6巻 『王の帰還』下 ISBN 4-566-02359-1
** 第7巻 『追補編』 ISBN 4-566-02360-5
* 新版『指輪物語』全10巻(文庫版) 瀬田貞二・田中明子訳 寺島龍一挿絵 アラン・リー絵 評論社
** 第1巻 『旅の仲間』上1 1992年 ISBN 4-566-02362-1
** 第2巻 『旅の仲間』上2 1992年 ISBN 4-566-02363-X
** 第3巻 『旅の仲間』下1 1992年 ISBN 4-566-02364-8
** 第4巻 『旅の仲間』下2 1992年 ISBN 4-566-02365-6
** 第5巻 『二つの塔』上1 1992年 ISBN 4-566-02366-4
** 第6巻 『二つの塔』上2 1992年 ISBN 4-566-02367-2
** 第7巻 『二つの塔』下 1992年 ISBN 4-566-02368-0
** 第8巻 『王の帰還』上 1992年 ISBN 4-566-02369-9
** 第9巻 『王の帰還』下 1992年 ISBN 4-566-02370-2
** 第10巻 『追補編』 2003年 ISBN 4-566-02373-7
=== 絶版 ===
* 『指輪物語』全6巻(A5版) 瀬田貞二訳 寺島龍一絵 評論社
** 第1巻 『旅の仲間』上 1972年
** 第2巻 『旅の仲間』下 1972年
** 第3巻 『二つの塔』上 1973年
** 第4巻 『二つの塔』下 1973年
** 第5巻 『王の帰還』上 1974年
** 第6巻 『王の帰還』下 1975年
* 『指輪物語』全6巻(文庫版) 瀬田貞二訳 寺島龍一挿絵 カバー表J.R.Rトールキン画 カバー裏[[J・R・R・トールキン]]本人 評論社文庫
** 第1巻 『旅の仲間』上 初版 1977年 ISBN 4-566-02056-8
** 第2巻 『旅の仲間』下 初版 1977年 ISBN 4-566-02057-6
** 第3巻 『二つの塔』上 初版 1977年 ISBN 4-566-02058-4
** 第4巻 『二つの塔』下 初版 1977年 ISBN 4-566-02059-2
** 第5巻 『王の帰還』上 初版 1977年 ISBN 4-566-02060-6
** 第6巻 『王の帰還』下 初版 1977年 ISBN 4-566-02061-4
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=板倉宏予|others=川村洋・長尾輝彦編 |year=2012 |title=現代イギリス読本 |publisher=丸善 |chapter=偉大なお父様の『指輪物語』と息子・娘の現代ファンタジー |ref=Itakura}}
* {{Citation|和書|last=井辻 |first=朱美 |authorlink=井辻朱美 |year=1994 |title=ファンタジーの森から |publisher=アトリエOCTA}}
* {{Cite book|和書|author=小谷真理|authorlink=小谷真理|origyear=1998 |title=ファンタジーの冒険 |series=筑摩eブックス |publisher=筑摩書房 |ref=Kotani}}
* {{Citation|和書|last=安田 |first=均 |authorlink=安田均 |year=2006 |title=ゲームを斬る |series=Role & Roll Books |publisher=新紀元社}}
* {{Cite book|和書|author=デイヴィッド・プリングル|others=日本語版監修 井辻朱美 |year=2002 |title=図説 ファンタジー百科事典 |publisher=東洋書林 |ref=Pringle}}
== 関連書 ==
* [https://www.kobegakuin.ac.jp/general-information/soran/04_jinbun/45.html 赤井敏夫] {{ASIN|4409140418|title=トールキン神話の世界 (神戸学院大学人文学部人間文化研究叢書)}} ISBN 978-4409140413
** [https://lju.hatenablog.com/entry/20100925/p1 赤井敏夫 “トールキン神話の世界”]
** [https://ci.nii.ac.jp/naid/110004829742 赤井敏夫 Akai,Toshio THE LORD OF THE RINGS AS A MYTHICAL NARRATIVE]
* コリン・ドゥーリエ『トールキンハンドブック』[[田口孝夫]]訳、[[東洋書林]]、2007年
== 関連項目 ==
* 『[[ロード・オブ・ザ・リング (映画シリーズ)|ロード・オブ・ザ・リング]]』([[映画]])
*: 監督・製作:ピーター・ジャクソン、フロド役に[[イライジャ・ウッド]]。三部作構成。
* 『[[指輪物語 (映画)|指輪物語]]』([[アニメーション映画|アニメ]]映画)
*: 監督:ラルフ・バクシ1978。前編のみ
* 『[[:en:The Return of the King (1980 film)|The Return of The King]]』(テレビ[[テレビアニメ|アニメ]]スペシャル版 日本では公開・ビデオ発売ともになし)
*: 製作:Arthur Rankin Jr. & Jules Bass 1980
* 『[[ロールマスター|指輪物語ロールプレイング]]』([[テーブルトークRPG]])
*: 原題は ''Middle-earth Role Playing system'' (MERP)。(1986年。日本語版は1987年)
* 『[[ロード・オブ・ザ・リングス オンライン]]』(オンラインRPG)
*: 開発元:Turbine社(米) 日本語版運営:さくらインターネット
* [[邦題を複数持つ作品一覧]]
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[[Category:指輪物語|*]]
[[Category:中つ国の本]]
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[[Category:三部作]] | 2003-03-23T12:53:43Z | 2023-11-26T07:47:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E8%BC%AA%E7%89%A9%E8%AA%9E |
5,001 | 物理学者 | 物理学者()は、物理学に携わる研究者のことである。
他の学問領域との境界領域に携わっている場合、どう呼ぶかについての明確な定義はない。宇宙や天体について研究している学者を例にとれば、天文学者、宇宙物理学者、物理学者と3通りの呼び方がある。一般的に「天文学者」は、大学で天文学や宇宙物理学を専攻した研究者に対して使われ、「宇宙物理学者」は、宇宙物理学もしくは一般の物理学(ここでは天文学・宇宙物理学以外の物理学を指す)を専攻した研究者に対して使われることが多い。また、天文学及び宇宙物理学の研究者で「物理学者」と指す場合、一般の物理学を専攻した研究者に対して使われる。
中世においては、物理学者は化学者・数学者・錬金術師・哲学者などを兼ねていたが、20世紀になってから学問の専門化がいちじるしく進み、物理学者は物理を学んで博士号などの学位を取得した者が近代の物理学を担っていると言っても過言ではない。 | [
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] | 物理学者は、物理学に携わる研究者のことである。 | {{出典の明記|date=2015年5月}}
{{読み仮名|'''物理学者'''|ぶつりがくしゃ}}は、[[物理学]]に携わる[[研究者]]のことである。
[[File:Albert Einstein 1947.jpg|thumb|right|20世紀の代表的な物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]]]]
== 概要 ==
他の学問領域との境界領域に携わっている場合、どう呼ぶかについての明確な[[定義]]はない。[[宇宙]]や[[天体]]について[[研究]]している[[学者]]を例にとれば、[[天文学者]]、'''宇宙物理学者'''、物理学者と3通りの呼び方がある。一般的に「天文学者」は、[[大学]]で[[天文学]]や[[宇宙物理学]]を[[専攻]]した研究者に対して使われ、「宇宙物理学者」は、宇宙物理学もしくは一般の物理学(ここでは天文学・宇宙物理学以外の物理学を指す)を専攻した研究者に対して使われることが多い。また、天文学及び宇宙物理学の研究者で「物理学者」と指す場合、一般の物理学を専攻した研究者に対して使われる。
[[中世]]においては、物理学者は[[化学者]]・[[数学者]]・[[錬金術師]]・[[哲学者]]などを兼ねていたが、[[20世紀]]になってから[[学問]]の専門化がいちじるしく進み、物理学者は物理を学んで[[博士号]]などの[[学位]]を取得した者が近代の物理学を担っていると言っても過言ではない。
==関連項目==
*[[物理学者の一覧]]
*[[日本の物理学者の一覧]]
{{Normdaten}}
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[[Category:物理学者|*]]
[[Category:物理学]]
[[Category:科学関連の職業]] | null | 2021-08-26T02:49:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85 |
5,002 | エルフ | エルフ(英: elf、複数形: elfs、elves)は、ゲルマン神話に起源を持つ、北ヨーロッパの民間伝承に登場する種族である。日本語では妖精あるいは小妖精と訳されることも多い。北欧神話における彼らは本来、自然と豊かさを司る小神族であった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされる。また彼らは不死あるいは長命であり、魔法の力を持っている。
J・R・R・トールキンの『指輪物語』では、賢明で半神的な種族である「エルフ」が活躍した。この作品が成功して以降、トールキン風のエルフは現代のファンタジー作品における定番となった。近年での日本のファンタジー作品では、「森の中で暮らす種族」としてのイメージが強い事から、漢字表記で「森人」という言語で呼ばれる事も多い。
英語では、エルフ(elf)の複数形は、elfsあるいはelvesである。エルフとの関係やエルフの性質をあらわす形容詞に、elven、elvish、elfin、elfishがある。現代ファンタジーにおける慣例では、綴りに「v」を含む形容詞のelvenとelvishは、人間型のエルフに使われる。これはヴァイキング時代の北欧神話のエルフ像と一致する。綴りに「f」を含む形容詞elfin、 elfishは、小柄なエルフに使われる。これは伝承上のエルフや、ルネサンス期、ロマン主義期のエルフ像と一致する。
欧州各国では以下のように呼ばれる、
elf, álfとそれに関係する単語は、印欧祖語で「白い」を意味する、albhに由来する。
エルフに関する最も古い記述は北欧神話にある。最初期のエルフは、古ノルド語でアールヴ(álfr、複álfar)と呼ばれた。同時期の記述は存在しないが、後の民間伝承に登場するアールヴと語源的に結びついた多くの単語の存在は、エルフへの信仰が古代スカンディナヴィア人だけのものではなく、ゲルマン民族全体で一般的であったことを強く示唆している。
エルフは北欧神話に様々な形で登場する。現代の私たちが当時のエルフの概念を明確に定義づけることはできないが、当時の人々はエルフを強力で美しい、人間ほどの大きさの存在として理解していたように思われる。彼らは一般的に先祖崇拝と同様に、豊かさと結びついた半ば神聖な集団として言及される。エルフの存在は自然の精霊や死者の魂に対するアニミズム的な信仰と類似していて、ほとんど全て人間の信仰と通じるものがある。ほぼ間違いなく、ゲルマン民族にとってのエルフとは、ギリシャ・ローマ神話におけるニンフや、スラヴ神話におけるルサールカのような存在であったと思われる。
スノッリ・ストゥルルソンは、ドヴェルグ(ドワーフ、単 dvergr, 複 dvergar)について、「デックアールヴ(闇のエルフ、単dökkálfr, 複dökkálfar)」または「スヴァルトアールヴ(黒いエルフ、単 svartálfr, 複 svartálfar)」として言及しているが、このような使用法が中世のスカンジナビアにおいて一般的であったかは分からない。スノッリはダークエルフではないエルフを、「リョースアールヴ(光のエルフ、単 Ljósálfr, 複 ljósálfar)」と言及しているが、この使用法は「エルフ」とalbhの語源的な関係と関連している。スノッリは『スノッリのエッダ』において、彼らの違いについて説明している。
スノッリの作品の外に北欧神話のエルフの姿を求めるならば、スノッリの作品以前のエルフの存在を証明する証拠は、スカルド詩(吟唱詩)、エッダ詩(古エッダ)、サガなどに見つけられる。エルフはここで、おそらく「全ての神々」を意味する、「アース神族とエルフ」という慣用句によって、アース神族と結び付けられる。 一部の学者は、エルフをヴァン神族と比較したり、あるいはヴァン神族であるとしてきた。 しかし古エッダの『アルヴィースの歌』では、各種族がさまざまな物に付けた名前が紹介されるが、エルフはアース神族ともヴァン神族とも異なる風習を持つ種族として描かれている。しかし、これは高位の豊穣神であるヴァン神族と、低位の豊穣神であるエルフとの違いを表したものかもしれない。また古エッダの『グリームニルの言葉』では、ヴァン神族のフレイは光のエルフの故郷である「アルフヘイム」の王であるとされている。同じく古エッダの『ロキの口論』では、エーギルの館で宴会を開かれ、アース神族とエルフの大集団が宴に招ばれている。ここでフレイの従者ビュグヴィルとその妻ベイラが登場するが、二人が神々の列に加えられていないことと、フレイがアルフヘイムの支配者であることからこの二人がエルフであることが分かる。
一部の研究者はヴァン神族とエルフはスカンジナビアの青銅器時代の宗教の神であったが、後に主神の座をアース神族に取って代わられたと推測している。ジョルジュ・デュメジルをはじめ、そのほかの研究者は、ヴァン神族とエルフは一般人のもので、アース神族は僧侶や戦士階級の神であったと主張している。(ネルトゥスも参照)
スカルドのシグヴァト・ソルザルソンは、1020年ごろの『東行詩』(Austrfararvísur)の中で、彼がキリスト教徒であったため、スウェーデンの異教徒の家で「エルフの供儀」(álfablót)の間の賄いを拒否されたことについて触れている。しかし、「エルフの供儀」について信頼できるさらなる情報はない。しかし他の供儀(blót)と同様に、「エルフの供儀」にも食料の提供があっただろう。そして後のスカンジナビアの民間伝承も、エルフにもてなしを捧げる伝統を保っている。
これに加えて、『コルマクのサガ』では、エルフへの捧げものがひどい戦傷を癒すことができると信じられていた様子が描かれている。
スカンジナビアのエルフは、人間ほどの大きさであった。『ゲイルスタッド・エルフのオラーフ王』や、『ヴェルンドの歌』で、「妖精の王」と呼ばれている鍛冶師ヴェルンドなど、名声ある男性は死後エルフの列に加えられることがあった。古代の北欧の人々は、エルフと人間との混血も可能だと信じていた。『フロルフ・クラキのサガ』では、デンマーク王ヘルギは彼が出会った中で最も美しい女性であるシルクをまとったエルフと出会う。彼は彼女を強姦し、娘のスクルドが生まれた。スクルドはフロルフ・クラキの殺害者ヒョルバルズルと結婚する。エルフとの混血であったスクルドは魔術に通じており、そのため戦場では無敵であった。かの女の兵士が倒れても、かの女はかれらを立ち上がらせ、戦い続けさせることができた。かの女に勝つには、かの女がエルフなどの兵士を呼び出す前に、かの女を捕らえるしかなかった。もう一つの例には、母親が人間の女王であったホグニがある。『シドレクス・サガ』によると、ホグニの父は、エルフのアドリアン王であった。(ただし、『シドレクス・サガ』の原点のほとんどはドイツ語資料である。)
『ヘイムスクリングラ』と『ソースタイン・サガ』では、現在のブーヒュースレーン地方と一致するアルフヘイムを支配した王統について説明している。彼らにはエルフの血が混ざっていたため、他の男たちよりも美しいといわれていた。
彼らの最後の王の名は、ガンドアールヴといった。
北欧神話とキリスト教神話が混合した、スカンジナビアの民間伝承のエルフは、デンマークではelver、ノルウェーではalv、スウェーデンでは男性がalv、女性がälvaと呼ばれている。ノルウェーでの呼び名alvは、本当の民間伝承ではあまり使われず、使われるときはフルドフォルク(huldrefolk)やヴェッテル(vetter)の同義語として使われる。フルドフォルクとヴェッテルは大地に住む、エルフというよりはドワーフに近い存在であり、アイスランドのhuldufólkに相当する。
デンマークとスウェーデンでは、エルフとヴェッテルとは別の存在として登場する。イギリスの民間伝承に登場する昆虫翼を持つ妖精フェアリー(fairy)は、デンマークではalfer, スウェーデンではälvorと呼ばれているが、正しい訳語はfeerである。デンマークの童話作家アンデルセンの、『バラの花の精』(The Elf of the Rose)に登場するalfは花の中に住めるほど小さく、“肩から足に届くほどの翼”を持っている。アンデルセンはまた、『妖精の丘』(The Elfin Hill)でelvereについて書いている。この物語のエルフは、デンマークの伝統的な民間伝承に似て、丘や岩場に住む美しい女性であり、男たちを死ぬまで躍らせることができる。かの女たちはノルウェーとスウェーデンのフルドラ(huldra)のように、前から見ると美しいが、背中から見ると木の洞のような姿をしている。英国の民間伝承には小さく翼のないエルフも登場する。サンタクロースと同一視されているエルフを、ノルウェーではニッセ(nisse)、スウェーデンではトムテ(tomte)と呼んでいる。
北欧神話型のエルフは主に女性として、丘や石の塚に住むものとして、民間伝承にその姿を残している。スウェーデンのälvor(単、älva)は森の中にエルフ王と住む、驚くほど美しい少女であった。彼らは長命で、この上なく気楽に暮らしていた。このエルフは例によって金髪で白い装いをしているが、スカンジナビアの民間伝承に登場する存在のほとんどがそうであるように、気分を損ねると手に負えなくなる。物語において、彼らはしばしば病気の精霊の役割を演じる。最も一般的でほとんど無害な例では、älvablåst(エルフのひと吹き)と呼ばれるひりひりする吹き出物がある。これはふいごを使った強力なお返しのひと吹きで治すことができる。スカンジナビアに特有の岩石線画であるSkålgroparは、そう信じられていた用途から、älvkvarnar(エルフの粉引き場)として知られていた。誰であれエルフの粉引き場に供物(できればバター)を捧げれば、エルフをなだめることができた。これはおそらく古代スカンジナビアの「エルフの供儀」(álfablót)に起源を持つ習慣だろう。
霧深い朝か夜の草原では、エルフたちが踊るのを見ることができた。彼らが踊ったあとには円状の何かができた。これはälvdanser(エルフの踊り)またはälvringar(エルフの輪)と呼ばれ、この輪の中で小便をすると、性病にかかると信じられていた。エルフの輪(フェアリーリング)は一般的に小さいキノコの輪(菌輪)でできていたが、別種のものもあった(地衣類や他の植物や、そのように見えて広がった鉱床など。また、森に自生するキノコは当時のスカンジナビア半島やロシアなど北方の貧しい農民にとっては、食肉に代わる食感とアミノ酸源である旨味を持った貴重な食材であった)。
エルフの舞を見た人間は、ほんの数時間そうしていたつもりが、実際には多くの歳月が過ぎていることに気付く。中世後期のオーラフ・リッレクランスについての歌では、エルフの女王が彼を踊りに誘うが、彼はこれを断る。オーラフはエルフの女王と踊ったら何が起こるか知っており、また彼は自分の結婚式のために家路に就いていたからである。女王は贈り物を申し出るが、オーラフはこれも辞退する。女王は踊らないのなら殺す、と彼を脅す。しかしオーラフは馬で駆け去り、女王の差し向けた病で死ぬ。彼の花嫁も絶望のため息絶える。
エルフは美しく若いとは限らない。スウェーデンの民話、『Little Rosa and Long Leda』では、エルフの女性(älvakvinna)が、王の牛が今後かの女の丘で草を食べないことを条件に、ヒロインのRosaを助ける。かの女は老女であるとされ、その外見から人々はかの女が地下の住民の一人だと見抜いた。
ドイツの民間伝承では、エルフは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖あるいたずら者だとされる。ドイツ語での「悪夢(Albtraum)」には、「エルフの夢」という意味がある。より古風な言い方、Albdruckには、「エルフの重圧」という意味がある。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因だと考えられていたためである。ドイツのエルフ信仰のこの面は、スカンジナビアのマーラに対する信仰に一致するものである。それはまたインキュビとサキュビに関する信仰とも似ている。 ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では、ドワーフのアルベリッヒ(Alberich)が重要な役割を演じる。アルベリッヒを字義通りに訳せば、「エルフ-王」となる。このようなエルフとドワーフの混同は、『新エッダ』ですでに見られる。アルベリッヒの名は、フランスの武勲詩に登場する妖精王Alberonを通じて、英語名オベロン (Oberon) となった。オベロンはシェイクスピアの『夏の夜の夢』に登場するエルフとフェアリーの王である。
ゲーテの詩で有名な、『魔王』 (Der Erlkönig = 「エルフ王」) の伝説は、比較的最近にデンマークで始まった。かれの詩は、ヨハン・ゴトフリート・ヘルダーが翻訳したデンマークの民間物語、『魔王の娘』をもとにしている。
ドイツとデンマークの民間伝承に登場する魔王は、アイルランド神話のバンシーのように死の前兆として現れるが、バンシーとは異なり、死にそうな人物の前にだけ現れる。魔王の姿と表情から、どのような死が訪れるのかが分かる。魔王が苦しげな表情をしていれば、それを見た人は苦痛に満ちた死を迎え、魔王が安らかな表情をしていれば、穏やかな死を迎える。
グリム兄弟の童話『こびとのくつや』には、靴屋の仕事を手伝う、身長1フィートほどで裸の、Heinzelmännchenと呼ばれる種族が登場する。かれらの仕事に小さな服で報いなければかれらは姿を消し、報いればとても喜ぶ。Heinzelmännchenはむしろコボルトやドワーフに近い存在なのだが、この作品は「靴屋とエルフ」(The Shoemaker & the Elves)と英訳された。
エルフという単語は、古英語の単語ælf(複: ælfe, 地域や年代による変形として、ylfeやælfenがある)として英語に入り、アングロ・サクソン人とともに英国に上陸した。アングロ・サクソン人の学者は、ギリシア神話、ローマ神話に登場するニンフをælfやその変形の単語に翻訳した
初期の英語に関する証拠はわずかではあるが、アングロ・サクソン人のエルフ(ælf)が北欧神話の初期のエルフの同類であると考えられる理由がある。ælfは人間ほどの大きさであり、超自然的な力を持っていて、男性だけの種族というわけではなく、出会った人間を助けることも傷つけることもできた。特にエッダ詩におけるアース神族とエルフ(álfar)の組合せは、古英語の呪文『ウィズ・ファースティス』(Wið færstice)や、アングロサクソンの人名にあるosやælfのような同語族の言葉の特徴的な発生に反映している。(例えばオズワルド(Oswald)や、アルフリック(Ælfric))
北欧神話のエルフの美しさに関するさらなる証拠は、ælfsciene(エルフの美)のような古英単語の中に見つけることができる。この語は、古英語詩の『ユディト記』と『創世記A』に登場する、魅力的で美しい女性に使われている。エルフは美しく潜在的に親切な存在であると、歴史を通して英語を話す社会のある階層には考えられてきたが、例えば『ベーオウルフ』の第112行にあるように、アングロサクソンの資料はエルフと悪霊の同盟についても証言している。一方では古英単語のælfの変形である、oafは、おそらく最初は「取替え子」またはエルフの魔法によって茫然としている人物について述べるのに使われていた。
「エルフの一撃(またはエルフの太矢、エルフの矢、エルフの矢傷)」 (elf-shot) という言葉は、スコットランドや北イングランドで見られる慣用句である。これは病気や傷害が妖精によって引き起こされるという信仰に由来する。16世紀の最後の四半世紀の頃の原稿に、「エルフが起こす激痛」という意味で初めてあらわれた。これは後の17世紀のスコットランドでは、新石器時代の燧石の矢じりを意味するものとされた。この矢じりは古代人が癒しの儀式の際に使ったものだが、17世紀の人々は、魔女やエルフが人や家畜を傷つけるために使ったと信じた。エルフの茶目っ気がもたらす髪のもつれは「エルフロック」(elflock)と呼ばれた。突然の麻痺は「エルフの一突き」(elf stroke)と呼ばれた。このような表現は、ウィリアム・コリンズ(英語版)が書いた1750年の頌歌にも現れる。
エルフはイングランドやスコットランド起源のバラッドに多く登場する。民話と同様に、その多くは「エルフェイム」(Elphame)や「エルフランド」(Elfland)(いずれも北欧神話でいうアルフヘイムのこと)への旅についての内容を含んでいる。エルフェイムやエルフランドは薄気味悪く不快な場所として描かれている。バラッド『詩人トマス』(Thomas the Rhymer)に登場する、エルフェイムの女王のように、エルフは時おり好ましい描かれる。しかし『チャイルド・ローランドの物語』(Tale of Childe Rowland)や、『イザベルと妖精の騎士』(Lady Isabel and the Elf-Knight)のエルフのように、エルフはしばしば強姦や殺人を好む腹黒い性格だとされる。『イザベルと妖精の騎士』のエルフは、イザベルを殺すためにさらう。ほとんどの場合バラッドに登場するエルフは男性である。一般的に知られているエルフの女性は、『詩人トマス』や『エルフランドの女王の乳母』(The Queen of Elfland's Nourice)に登場する、エルフランドの女王ただ一人である。『エルフランドの女王の乳母』では、女王の赤子に授乳させるために女性がさらわれるが、赤子が乳離れをすれば家に帰れるだろう、との約束を得る。どの事例においても英国のエルフはスプライトやピクシーのような特徴を持っていない。
近世のイングランドの民話では、エルフは小さく悪戯好きで、見つけにくい存在として描かれている。かれらは邪悪ではないが、人をいらだたせたり、邪魔したりする。透明であるとされることもある。このような伝承によって、エルフは事実上、イングランド先住民の神話に起源を持つ、フェアリーの同義語となった。
引き続き、「エルフ」の名は「フェアリー」と同様に、プーカやホブゴブリン、ロビン・グッドフェロウやスコットランドのブラウニーなどの、自然の精霊を表す総称になった。現在の一般的な民話では、これらの妖精やそのヨーロッパの親戚たちがはっきりと区別されることはない。
文学からの影響は、エルフの概念をその神話的起源から遠ざけるのに重要な役割を果たした。エリザベス朝の劇作家ウィリアム・シェイクスピアは、エルフを小柄であると想像した。かれは明らかにエルフとフェアリーを同族として考えていた。『ヘンリー四世』の第1部、第2幕、第4場で、老兵フォールスタッフはハル王子に、“痩せこけた、エルフのやから”、と呼びかけている。『夏の夜の夢』では、エルフたちは昆虫ほどの大きさとされている。一方エドマンド・スペンサーは『妖精の女王』 (The Faerie Queene) で、人間型のエルフを採用している。
シェイクスピアとマイケル・ドレイトンの影響は、とても小さな存在に対して、「エルフ」と「フェアリー」を使用するという基準を作った。ビクトリア朝期の文学では、エルフはとがった耳を持ち、ストッキングキャップをかぶった小さな男女として挿絵に描かれている。リチャード・ドイルが挿絵を描いた、1884年にアンドリュー・ラングが書いた妖精物語『いないいない王女』 (Princess Nobody) では、エルフが赤いストッキングキャップをかぶった小人である一方で、フェアリーは蝶の翅を持った小人として描かれている。ロード・ダンセイニの『エルフランドの王女』はこの時代の例外で、人間型のエルフが登場する。
「バックソーンの誓い」 (the Buckthorn vows) という伝説では、バックソーン(クロウメモドキ属の植物)を円形に撒いて、満月の夜に環の中で踊ると、エルフが現れるとされる。踊り手はエルフが逃げ出す前に挨拶して「とまれ、願いをかなえよ!」と言わなければならない。するとエルフが一つ望みをかなえてくれるという。
J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』は現代におけるエルフのイメージに影響を与えた。トールキンのファンタジー小説において、「エルフ」は妖精の総称ではなく、半神的な特徴を持つひとつの種族の名称である。『指輪物語』に登場するエルフは長上族と呼ばれ、身体能力が高く、知識に富み、魔法を使う。人間ほどの背丈をしている。
誤解として長く尖った耳をしているともされるがトールキンが「エルフの耳は尖っている」と説明したことは一度もない。トールキンが『ホビット』の主人公であるビルボの耳はエルフのように尖らせてほしいなどと手紙に書いたなどという話があるが、この”エルフのように”のエルフとは伝統的な妖精のエルフであってトールキンの作品以降に広まったトールキン的エルフとは別件である。(そもそもこの手紙は最初期の作品である『ホビット』の作品の編集中に”未読”のイラストレータに対して送った手紙。トールキン的エルフの概念自体まだ未誕生な時期にトールキン的エルフで書いてくれと言っても通じない)
エルフは一般に、不死もしくは非常に長い寿命を持ち、事故に遭ったり殺害されたりしない限り、数百年から数千年生きるとされている。ただし、徐々に活力がなくなるなど、「枯れていく定め」にあることは確かなようだ。
エルフを扱ったファンタジー作品の中には、人間との混血であるハーフエルフが登場するものもある。多くの場合、ハーフエルフは人間とエルフ双方の特徴を受け継いでおり、人間とエルフの双方から差別的な扱いを受けることがしばしばある。エルフと人間との異類婚姻譚はいくつかの神話にも描かれるモチーフであるが、今日のハーフエルフの原型は『指輪物語』での設定に多くを負っている。同作の半エルフは種族として固定されたものではなく、彼らはエルフと人間のいずれの運命を選ぶかの選択を行い、エルフの運命を選んだものは不死性を得たという設定である。
日本では、古より超常的存在の主役は妖怪や神であり、西洋的な妖精のイメージはなかなか定着しなかったものの、1978年のアニメ映画版『指輪物語』を機に日本でもファンタジーの要素が流行の兆しを見せ、「エルフ」や「オーク」といった言葉が徐々に認知されるようになっていった。その影響から、欧米の文学や民間伝承などに登場する妖精の総称としてのエルフ像よりむしろ、同作で描かれるような固有の種族としてのイメージが日本におけるエルフのステレオタイプとなった。
さらに、悪魔のモチーフである尖った耳を持つ妖精の容姿が描かれた海外のゲームや、ペーパーバック小説のイラストを通じて「エルフの耳は長いもの」というイメージが日本人の間に定着し、日本製のゲームや小説などには耳の長いエルフの絵柄が頻繁に登場するようになった。
テレビゲームでは1987年9月に発売されたファミコン版の『デジタル・デビル物語 女神転生』を皮切りに、『ドラゴンクエストシリーズ』などのファンタジーRPGなどでの登場が続き、特にそのイメージに強固な影響を与えた代表例として、1988年刊行の小説『ロードス島戦記』に登場する出渕裕によるディードリットのキャラクターデザインが挙げられる。『ロードス島戦記』の長い耳のエルフのモチーフは、1982年の映画『ダーククリスタル』だと語られている。
しかし、エルフのイメージは必ずしも耳が尖っていると決まっているわけではなく、本来的にはそのような認識は誤りである。
桐島カブキが執筆した『RPGマガジン』の連載「あなたにも出来るファンタジーRPG設定資料作成マニュアル」でのジョーク的記事では、「エルフは生物学的、社会学的、民俗学的に見てただの猿にすぎない」ということを4ページにわたって解説している。記事によるとエルフが人間から見て美しく見えるのは、単にチャーム(魅了)による擬態に過ぎないらしい。
現代の米国、カナダ、英国における民間伝承では、サンタクロースの助手としてエルフが登場する。このエルフは緑色の服を着て、尖った耳と長い鼻を持つ。想像上の彼らはサンタクロースの工場でクリスマスのプレゼントになるおもちゃを作り、包装している。
アイスランドでのエルフは、目撃したという人々によると、人間に似ているが、やや小型の外観で、素朴で普段は穏やかな生き物であるとされる。2012年には、妖精遺産保護法が成立しており、エルフに関係すると言われている岩などが保護指定されている。1971年には、エルフの家とされる巨大な岩を道路工事に伴って移動させたところ、多くの技術的困難に直面することになった。またレイキャビク近くの道路工事では、「エルフの岩」とされている岩石を誤って土壌に埋めてしまったところ、道路は冠水したり、負傷する人が出たり、周囲で重機の故障が相次いだ。そのためアイスランド道路管理局はこの岩の原状復帰を決め、掘り出し作業と洗浄作業が行われた。アイスランドでは、エルフたちは日々の生活の一部と考えられており、エルフに配慮するために工事が変更になったり、エルフによる警告を信じる漁師が出漁を見合わせるようなことがある。 | [
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"text": "エルフ(英: elf、複数形: elfs、elves)は、ゲルマン神話に起源を持つ、北ヨーロッパの民間伝承に登場する種族である。日本語では妖精あるいは小妖精と訳されることも多い。北欧神話における彼らは本来、自然と豊かさを司る小神族であった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされる。また彼らは不死あるいは長命であり、魔法の力を持っている。",
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"text": "J・R・R・トールキンの『指輪物語』では、賢明で半神的な種族である「エルフ」が活躍した。この作品が成功して以降、トールキン風のエルフは現代のファンタジー作品における定番となった。近年での日本のファンタジー作品では、「森の中で暮らす種族」としてのイメージが強い事から、漢字表記で「森人」という言語で呼ばれる事も多い。",
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"text": "英語では、エルフ(elf)の複数形は、elfsあるいはelvesである。エルフとの関係やエルフの性質をあらわす形容詞に、elven、elvish、elfin、elfishがある。現代ファンタジーにおける慣例では、綴りに「v」を含む形容詞のelvenとelvishは、人間型のエルフに使われる。これはヴァイキング時代の北欧神話のエルフ像と一致する。綴りに「f」を含む形容詞elfin、 elfishは、小柄なエルフに使われる。これは伝承上のエルフや、ルネサンス期、ロマン主義期のエルフ像と一致する。",
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"text": "欧州各国では以下のように呼ばれる、",
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"text": "elf, álfとそれに関係する単語は、印欧祖語で「白い」を意味する、albhに由来する。",
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"text": "エルフに関する最も古い記述は北欧神話にある。最初期のエルフは、古ノルド語でアールヴ(álfr、複álfar)と呼ばれた。同時期の記述は存在しないが、後の民間伝承に登場するアールヴと語源的に結びついた多くの単語の存在は、エルフへの信仰が古代スカンディナヴィア人だけのものではなく、ゲルマン民族全体で一般的であったことを強く示唆している。",
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"text": "エルフは北欧神話に様々な形で登場する。現代の私たちが当時のエルフの概念を明確に定義づけることはできないが、当時の人々はエルフを強力で美しい、人間ほどの大きさの存在として理解していたように思われる。彼らは一般的に先祖崇拝と同様に、豊かさと結びついた半ば神聖な集団として言及される。エルフの存在は自然の精霊や死者の魂に対するアニミズム的な信仰と類似していて、ほとんど全て人間の信仰と通じるものがある。ほぼ間違いなく、ゲルマン民族にとってのエルフとは、ギリシャ・ローマ神話におけるニンフや、スラヴ神話におけるルサールカのような存在であったと思われる。",
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"text": "スノッリ・ストゥルルソンは、ドヴェルグ(ドワーフ、単 dvergr, 複 dvergar)について、「デックアールヴ(闇のエルフ、単dökkálfr, 複dökkálfar)」または「スヴァルトアールヴ(黒いエルフ、単 svartálfr, 複 svartálfar)」として言及しているが、このような使用法が中世のスカンジナビアにおいて一般的であったかは分からない。スノッリはダークエルフではないエルフを、「リョースアールヴ(光のエルフ、単 Ljósálfr, 複 ljósálfar)」と言及しているが、この使用法は「エルフ」とalbhの語源的な関係と関連している。スノッリは『スノッリのエッダ』において、彼らの違いについて説明している。",
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"text": "スノッリの作品の外に北欧神話のエルフの姿を求めるならば、スノッリの作品以前のエルフの存在を証明する証拠は、スカルド詩(吟唱詩)、エッダ詩(古エッダ)、サガなどに見つけられる。エルフはここで、おそらく「全ての神々」を意味する、「アース神族とエルフ」という慣用句によって、アース神族と結び付けられる。 一部の学者は、エルフをヴァン神族と比較したり、あるいはヴァン神族であるとしてきた。 しかし古エッダの『アルヴィースの歌』では、各種族がさまざまな物に付けた名前が紹介されるが、エルフはアース神族ともヴァン神族とも異なる風習を持つ種族として描かれている。しかし、これは高位の豊穣神であるヴァン神族と、低位の豊穣神であるエルフとの違いを表したものかもしれない。また古エッダの『グリームニルの言葉』では、ヴァン神族のフレイは光のエルフの故郷である「アルフヘイム」の王であるとされている。同じく古エッダの『ロキの口論』では、エーギルの館で宴会を開かれ、アース神族とエルフの大集団が宴に招ばれている。ここでフレイの従者ビュグヴィルとその妻ベイラが登場するが、二人が神々の列に加えられていないことと、フレイがアルフヘイムの支配者であることからこの二人がエルフであることが分かる。",
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"text": "一部の研究者はヴァン神族とエルフはスカンジナビアの青銅器時代の宗教の神であったが、後に主神の座をアース神族に取って代わられたと推測している。ジョルジュ・デュメジルをはじめ、そのほかの研究者は、ヴァン神族とエルフは一般人のもので、アース神族は僧侶や戦士階級の神であったと主張している。(ネルトゥスも参照)",
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"text": "スカルドのシグヴァト・ソルザルソンは、1020年ごろの『東行詩』(Austrfararvísur)の中で、彼がキリスト教徒であったため、スウェーデンの異教徒の家で「エルフの供儀」(álfablót)の間の賄いを拒否されたことについて触れている。しかし、「エルフの供儀」について信頼できるさらなる情報はない。しかし他の供儀(blót)と同様に、「エルフの供儀」にも食料の提供があっただろう。そして後のスカンジナビアの民間伝承も、エルフにもてなしを捧げる伝統を保っている。",
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"text": "これに加えて、『コルマクのサガ』では、エルフへの捧げものがひどい戦傷を癒すことができると信じられていた様子が描かれている。",
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"text": "スカンジナビアのエルフは、人間ほどの大きさであった。『ゲイルスタッド・エルフのオラーフ王』や、『ヴェルンドの歌』で、「妖精の王」と呼ばれている鍛冶師ヴェルンドなど、名声ある男性は死後エルフの列に加えられることがあった。古代の北欧の人々は、エルフと人間との混血も可能だと信じていた。『フロルフ・クラキのサガ』では、デンマーク王ヘルギは彼が出会った中で最も美しい女性であるシルクをまとったエルフと出会う。彼は彼女を強姦し、娘のスクルドが生まれた。スクルドはフロルフ・クラキの殺害者ヒョルバルズルと結婚する。エルフとの混血であったスクルドは魔術に通じており、そのため戦場では無敵であった。かの女の兵士が倒れても、かの女はかれらを立ち上がらせ、戦い続けさせることができた。かの女に勝つには、かの女がエルフなどの兵士を呼び出す前に、かの女を捕らえるしかなかった。もう一つの例には、母親が人間の女王であったホグニがある。『シドレクス・サガ』によると、ホグニの父は、エルフのアドリアン王であった。(ただし、『シドレクス・サガ』の原点のほとんどはドイツ語資料である。)",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"text": "『ヘイムスクリングラ』と『ソースタイン・サガ』では、現在のブーヒュースレーン地方と一致するアルフヘイムを支配した王統について説明している。彼らにはエルフの血が混ざっていたため、他の男たちよりも美しいといわれていた。",
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"text": "彼らの最後の王の名は、ガンドアールヴといった。",
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"text": "北欧神話とキリスト教神話が混合した、スカンジナビアの民間伝承のエルフは、デンマークではelver、ノルウェーではalv、スウェーデンでは男性がalv、女性がälvaと呼ばれている。ノルウェーでの呼び名alvは、本当の民間伝承ではあまり使われず、使われるときはフルドフォルク(huldrefolk)やヴェッテル(vetter)の同義語として使われる。フルドフォルクとヴェッテルは大地に住む、エルフというよりはドワーフに近い存在であり、アイスランドのhuldufólkに相当する。",
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"text": "デンマークとスウェーデンでは、エルフとヴェッテルとは別の存在として登場する。イギリスの民間伝承に登場する昆虫翼を持つ妖精フェアリー(fairy)は、デンマークではalfer, スウェーデンではälvorと呼ばれているが、正しい訳語はfeerである。デンマークの童話作家アンデルセンの、『バラの花の精』(The Elf of the Rose)に登場するalfは花の中に住めるほど小さく、“肩から足に届くほどの翼”を持っている。アンデルセンはまた、『妖精の丘』(The Elfin Hill)でelvereについて書いている。この物語のエルフは、デンマークの伝統的な民間伝承に似て、丘や岩場に住む美しい女性であり、男たちを死ぬまで躍らせることができる。かの女たちはノルウェーとスウェーデンのフルドラ(huldra)のように、前から見ると美しいが、背中から見ると木の洞のような姿をしている。英国の民間伝承には小さく翼のないエルフも登場する。サンタクロースと同一視されているエルフを、ノルウェーではニッセ(nisse)、スウェーデンではトムテ(tomte)と呼んでいる。",
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"text": "北欧神話型のエルフは主に女性として、丘や石の塚に住むものとして、民間伝承にその姿を残している。スウェーデンのälvor(単、älva)は森の中にエルフ王と住む、驚くほど美しい少女であった。彼らは長命で、この上なく気楽に暮らしていた。このエルフは例によって金髪で白い装いをしているが、スカンジナビアの民間伝承に登場する存在のほとんどがそうであるように、気分を損ねると手に負えなくなる。物語において、彼らはしばしば病気の精霊の役割を演じる。最も一般的でほとんど無害な例では、älvablåst(エルフのひと吹き)と呼ばれるひりひりする吹き出物がある。これはふいごを使った強力なお返しのひと吹きで治すことができる。スカンジナビアに特有の岩石線画であるSkålgroparは、そう信じられていた用途から、älvkvarnar(エルフの粉引き場)として知られていた。誰であれエルフの粉引き場に供物(できればバター)を捧げれば、エルフをなだめることができた。これはおそらく古代スカンジナビアの「エルフの供儀」(álfablót)に起源を持つ習慣だろう。",
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"text": "霧深い朝か夜の草原では、エルフたちが踊るのを見ることができた。彼らが踊ったあとには円状の何かができた。これはälvdanser(エルフの踊り)またはälvringar(エルフの輪)と呼ばれ、この輪の中で小便をすると、性病にかかると信じられていた。エルフの輪(フェアリーリング)は一般的に小さいキノコの輪(菌輪)でできていたが、別種のものもあった(地衣類や他の植物や、そのように見えて広がった鉱床など。また、森に自生するキノコは当時のスカンジナビア半島やロシアなど北方の貧しい農民にとっては、食肉に代わる食感とアミノ酸源である旨味を持った貴重な食材であった)。",
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"text": "エルフの舞を見た人間は、ほんの数時間そうしていたつもりが、実際には多くの歳月が過ぎていることに気付く。中世後期のオーラフ・リッレクランスについての歌では、エルフの女王が彼を踊りに誘うが、彼はこれを断る。オーラフはエルフの女王と踊ったら何が起こるか知っており、また彼は自分の結婚式のために家路に就いていたからである。女王は贈り物を申し出るが、オーラフはこれも辞退する。女王は踊らないのなら殺す、と彼を脅す。しかしオーラフは馬で駆け去り、女王の差し向けた病で死ぬ。彼の花嫁も絶望のため息絶える。",
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"text": "エルフは美しく若いとは限らない。スウェーデンの民話、『Little Rosa and Long Leda』では、エルフの女性(älvakvinna)が、王の牛が今後かの女の丘で草を食べないことを条件に、ヒロインのRosaを助ける。かの女は老女であるとされ、その外見から人々はかの女が地下の住民の一人だと見抜いた。",
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"text": "ドイツの民間伝承では、エルフは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖あるいたずら者だとされる。ドイツ語での「悪夢(Albtraum)」には、「エルフの夢」という意味がある。より古風な言い方、Albdruckには、「エルフの重圧」という意味がある。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因だと考えられていたためである。ドイツのエルフ信仰のこの面は、スカンジナビアのマーラに対する信仰に一致するものである。それはまたインキュビとサキュビに関する信仰とも似ている。 ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では、ドワーフのアルベリッヒ(Alberich)が重要な役割を演じる。アルベリッヒを字義通りに訳せば、「エルフ-王」となる。このようなエルフとドワーフの混同は、『新エッダ』ですでに見られる。アルベリッヒの名は、フランスの武勲詩に登場する妖精王Alberonを通じて、英語名オベロン (Oberon) となった。オベロンはシェイクスピアの『夏の夜の夢』に登場するエルフとフェアリーの王である。",
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"text": "ゲーテの詩で有名な、『魔王』 (Der Erlkönig = 「エルフ王」) の伝説は、比較的最近にデンマークで始まった。かれの詩は、ヨハン・ゴトフリート・ヘルダーが翻訳したデンマークの民間物語、『魔王の娘』をもとにしている。",
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"text": "ドイツとデンマークの民間伝承に登場する魔王は、アイルランド神話のバンシーのように死の前兆として現れるが、バンシーとは異なり、死にそうな人物の前にだけ現れる。魔王の姿と表情から、どのような死が訪れるのかが分かる。魔王が苦しげな表情をしていれば、それを見た人は苦痛に満ちた死を迎え、魔王が安らかな表情をしていれば、穏やかな死を迎える。",
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"text": "グリム兄弟の童話『こびとのくつや』には、靴屋の仕事を手伝う、身長1フィートほどで裸の、Heinzelmännchenと呼ばれる種族が登場する。かれらの仕事に小さな服で報いなければかれらは姿を消し、報いればとても喜ぶ。Heinzelmännchenはむしろコボルトやドワーフに近い存在なのだが、この作品は「靴屋とエルフ」(The Shoemaker & the Elves)と英訳された。",
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"text": "エルフという単語は、古英語の単語ælf(複: ælfe, 地域や年代による変形として、ylfeやælfenがある)として英語に入り、アングロ・サクソン人とともに英国に上陸した。アングロ・サクソン人の学者は、ギリシア神話、ローマ神話に登場するニンフをælfやその変形の単語に翻訳した",
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"text": "初期の英語に関する証拠はわずかではあるが、アングロ・サクソン人のエルフ(ælf)が北欧神話の初期のエルフの同類であると考えられる理由がある。ælfは人間ほどの大きさであり、超自然的な力を持っていて、男性だけの種族というわけではなく、出会った人間を助けることも傷つけることもできた。特にエッダ詩におけるアース神族とエルフ(álfar)の組合せは、古英語の呪文『ウィズ・ファースティス』(Wið færstice)や、アングロサクソンの人名にあるosやælfのような同語族の言葉の特徴的な発生に反映している。(例えばオズワルド(Oswald)や、アルフリック(Ælfric))",
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"text": "北欧神話のエルフの美しさに関するさらなる証拠は、ælfsciene(エルフの美)のような古英単語の中に見つけることができる。この語は、古英語詩の『ユディト記』と『創世記A』に登場する、魅力的で美しい女性に使われている。エルフは美しく潜在的に親切な存在であると、歴史を通して英語を話す社会のある階層には考えられてきたが、例えば『ベーオウルフ』の第112行にあるように、アングロサクソンの資料はエルフと悪霊の同盟についても証言している。一方では古英単語のælfの変形である、oafは、おそらく最初は「取替え子」またはエルフの魔法によって茫然としている人物について述べるのに使われていた。",
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"text": "エルフはイングランドやスコットランド起源のバラッドに多く登場する。民話と同様に、その多くは「エルフェイム」(Elphame)や「エルフランド」(Elfland)(いずれも北欧神話でいうアルフヘイムのこと)への旅についての内容を含んでいる。エルフェイムやエルフランドは薄気味悪く不快な場所として描かれている。バラッド『詩人トマス』(Thomas the Rhymer)に登場する、エルフェイムの女王のように、エルフは時おり好ましい描かれる。しかし『チャイルド・ローランドの物語』(Tale of Childe Rowland)や、『イザベルと妖精の騎士』(Lady Isabel and the Elf-Knight)のエルフのように、エルフはしばしば強姦や殺人を好む腹黒い性格だとされる。『イザベルと妖精の騎士』のエルフは、イザベルを殺すためにさらう。ほとんどの場合バラッドに登場するエルフは男性である。一般的に知られているエルフの女性は、『詩人トマス』や『エルフランドの女王の乳母』(The Queen of Elfland's Nourice)に登場する、エルフランドの女王ただ一人である。『エルフランドの女王の乳母』では、女王の赤子に授乳させるために女性がさらわれるが、赤子が乳離れをすれば家に帰れるだろう、との約束を得る。どの事例においても英国のエルフはスプライトやピクシーのような特徴を持っていない。",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "近世のイングランドの民話では、エルフは小さく悪戯好きで、見つけにくい存在として描かれている。かれらは邪悪ではないが、人をいらだたせたり、邪魔したりする。透明であるとされることもある。このような伝承によって、エルフは事実上、イングランド先住民の神話に起源を持つ、フェアリーの同義語となった。",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"text": "引き続き、「エルフ」の名は「フェアリー」と同様に、プーカやホブゴブリン、ロビン・グッドフェロウやスコットランドのブラウニーなどの、自然の精霊を表す総称になった。現在の一般的な民話では、これらの妖精やそのヨーロッパの親戚たちがはっきりと区別されることはない。",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"text": "文学からの影響は、エルフの概念をその神話的起源から遠ざけるのに重要な役割を果たした。エリザベス朝の劇作家ウィリアム・シェイクスピアは、エルフを小柄であると想像した。かれは明らかにエルフとフェアリーを同族として考えていた。『ヘンリー四世』の第1部、第2幕、第4場で、老兵フォールスタッフはハル王子に、“痩せこけた、エルフのやから”、と呼びかけている。『夏の夜の夢』では、エルフたちは昆虫ほどの大きさとされている。一方エドマンド・スペンサーは『妖精の女王』 (The Faerie Queene) で、人間型のエルフを採用している。",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"text": "シェイクスピアとマイケル・ドレイトンの影響は、とても小さな存在に対して、「エルフ」と「フェアリー」を使用するという基準を作った。ビクトリア朝期の文学では、エルフはとがった耳を持ち、ストッキングキャップをかぶった小さな男女として挿絵に描かれている。リチャード・ドイルが挿絵を描いた、1884年にアンドリュー・ラングが書いた妖精物語『いないいない王女』 (Princess Nobody) では、エルフが赤いストッキングキャップをかぶった小人である一方で、フェアリーは蝶の翅を持った小人として描かれている。ロード・ダンセイニの『エルフランドの王女』はこの時代の例外で、人間型のエルフが登場する。",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"text": "「バックソーンの誓い」 (the Buckthorn vows) という伝説では、バックソーン(クロウメモドキ属の植物)を円形に撒いて、満月の夜に環の中で踊ると、エルフが現れるとされる。踊り手はエルフが逃げ出す前に挨拶して「とまれ、願いをかなえよ!」と言わなければならない。するとエルフが一つ望みをかなえてくれるという。",
"title": "伝統的なエルフの特徴"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』は現代におけるエルフのイメージに影響を与えた。トールキンのファンタジー小説において、「エルフ」は妖精の総称ではなく、半神的な特徴を持つひとつの種族の名称である。『指輪物語』に登場するエルフは長上族と呼ばれ、身体能力が高く、知識に富み、魔法を使う。人間ほどの背丈をしている。",
"title": "現代のエルフ"
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"text": "誤解として長く尖った耳をしているともされるがトールキンが「エルフの耳は尖っている」と説明したことは一度もない。トールキンが『ホビット』の主人公であるビルボの耳はエルフのように尖らせてほしいなどと手紙に書いたなどという話があるが、この”エルフのように”のエルフとは伝統的な妖精のエルフであってトールキンの作品以降に広まったトールキン的エルフとは別件である。(そもそもこの手紙は最初期の作品である『ホビット』の作品の編集中に”未読”のイラストレータに対して送った手紙。トールキン的エルフの概念自体まだ未誕生な時期にトールキン的エルフで書いてくれと言っても通じない)",
"title": "現代のエルフ"
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"text": "エルフは一般に、不死もしくは非常に長い寿命を持ち、事故に遭ったり殺害されたりしない限り、数百年から数千年生きるとされている。ただし、徐々に活力がなくなるなど、「枯れていく定め」にあることは確かなようだ。",
"title": "現代のエルフ"
},
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"text": "エルフを扱ったファンタジー作品の中には、人間との混血であるハーフエルフが登場するものもある。多くの場合、ハーフエルフは人間とエルフ双方の特徴を受け継いでおり、人間とエルフの双方から差別的な扱いを受けることがしばしばある。エルフと人間との異類婚姻譚はいくつかの神話にも描かれるモチーフであるが、今日のハーフエルフの原型は『指輪物語』での設定に多くを負っている。同作の半エルフは種族として固定されたものではなく、彼らはエルフと人間のいずれの運命を選ぶかの選択を行い、エルフの運命を選んだものは不死性を得たという設定である。",
"title": "現代のエルフ"
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"text": "日本では、古より超常的存在の主役は妖怪や神であり、西洋的な妖精のイメージはなかなか定着しなかったものの、1978年のアニメ映画版『指輪物語』を機に日本でもファンタジーの要素が流行の兆しを見せ、「エルフ」や「オーク」といった言葉が徐々に認知されるようになっていった。その影響から、欧米の文学や民間伝承などに登場する妖精の総称としてのエルフ像よりむしろ、同作で描かれるような固有の種族としてのイメージが日本におけるエルフのステレオタイプとなった。",
"title": "現代のエルフ"
},
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"paragraph_id": 40,
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"text": "さらに、悪魔のモチーフである尖った耳を持つ妖精の容姿が描かれた海外のゲームや、ペーパーバック小説のイラストを通じて「エルフの耳は長いもの」というイメージが日本人の間に定着し、日本製のゲームや小説などには耳の長いエルフの絵柄が頻繁に登場するようになった。",
"title": "現代のエルフ"
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"text": "テレビゲームでは1987年9月に発売されたファミコン版の『デジタル・デビル物語 女神転生』を皮切りに、『ドラゴンクエストシリーズ』などのファンタジーRPGなどでの登場が続き、特にそのイメージに強固な影響を与えた代表例として、1988年刊行の小説『ロードス島戦記』に登場する出渕裕によるディードリットのキャラクターデザインが挙げられる。『ロードス島戦記』の長い耳のエルフのモチーフは、1982年の映画『ダーククリスタル』だと語られている。",
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"text": "しかし、エルフのイメージは必ずしも耳が尖っていると決まっているわけではなく、本来的にはそのような認識は誤りである。",
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"text": "桐島カブキが執筆した『RPGマガジン』の連載「あなたにも出来るファンタジーRPG設定資料作成マニュアル」でのジョーク的記事では、「エルフは生物学的、社会学的、民俗学的に見てただの猿にすぎない」ということを4ページにわたって解説している。記事によるとエルフが人間から見て美しく見えるのは、単にチャーム(魅了)による擬態に過ぎないらしい。",
"title": "現代のエルフ"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "現代の米国、カナダ、英国における民間伝承では、サンタクロースの助手としてエルフが登場する。このエルフは緑色の服を着て、尖った耳と長い鼻を持つ。想像上の彼らはサンタクロースの工場でクリスマスのプレゼントになるおもちゃを作り、包装している。",
"title": "現代のエルフ"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "アイスランドでのエルフは、目撃したという人々によると、人間に似ているが、やや小型の外観で、素朴で普段は穏やかな生き物であるとされる。2012年には、妖精遺産保護法が成立しており、エルフに関係すると言われている岩などが保護指定されている。1971年には、エルフの家とされる巨大な岩を道路工事に伴って移動させたところ、多くの技術的困難に直面することになった。またレイキャビク近くの道路工事では、「エルフの岩」とされている岩石を誤って土壌に埋めてしまったところ、道路は冠水したり、負傷する人が出たり、周囲で重機の故障が相次いだ。そのためアイスランド道路管理局はこの岩の原状復帰を決め、掘り出し作業と洗浄作業が行われた。アイスランドでは、エルフたちは日々の生活の一部と考えられており、エルフに配慮するために工事が変更になったり、エルフによる警告を信じる漁師が出漁を見合わせるようなことがある。",
"title": "現代のエルフ"
}
] | エルフは、ゲルマン神話に起源を持つ、北ヨーロッパの民間伝承に登場する種族である。日本語では妖精あるいは小妖精と訳されることも多い。北欧神話における彼らは本来、自然と豊かさを司る小神族であった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされる。また彼らは不死あるいは長命であり、魔法の力を持っている。 J・R・R・トールキンの『指輪物語』では、賢明で半神的な種族である「エルフ」が活躍した。この作品が成功して以降、トールキン風のエルフは現代のファンタジー作品における定番となった。近年での日本のファンタジー作品では、「森の中で暮らす種族」としてのイメージが強い事から、漢字表記で「森人」という言語で呼ばれる事も多い。 | {{Otheruses|伝説上の種族|その他の用法|エルフ (曖昧さ回避)|}}
'''エルフ'''({{lang-en-short|elf}}、複数形: {{En|elfs}}、{{En|elves}})は、[[ゲルマン神話]]に起源を持つ、北ヨーロッパの民間伝承に登場する種族である。日本語では[[妖精]]あるいは小妖精と訳されることも多い。[[北欧神話]]における彼らは本来、自然と豊かさを司る小神族であった。エルフはしばしば、とても美しく若々しい外見を持ち、森や泉、井戸や地下などに住むとされる。また彼らは[[不老不死|不死]]あるいは長命であり、[[魔法]]の力を持っている。
[[J・R・R・トールキン]]の『[[指輪物語]]』では、賢明で半神的な種族である「エルフ」が活躍した。この作品が成功して以降、[[エルフ (トールキン)|トールキン風のエルフ]]は現代の[[ファンタジー]]作品における定番となった。近年での[[日本]]のファンタジー作品では、「森の中で暮らす種族」としてのイメージが強い事から、漢字表記で「'''森人'''」という言語で呼ばれる事も多い。
==名称==
英語では、エルフ(elf)の複数形は、'''elfs'''あるいは'''elves'''である。エルフとの関係やエルフの性質をあらわす形容詞に、'''elven'''、'''elvish'''、'''elfin'''、'''elfish'''がある。現代ファンタジーにおける慣例では、綴りに「v」を含む形容詞の'''elven'''と'''elvish'''は、人間型のエルフに使われる。これは[[ヴァイキング]]時代の北欧神話のエルフ像と一致する。綴りに「f」を含む形容詞'''elfin'''、 '''elfish'''は、小柄なエルフに使われる。これは伝承上のエルフや、[[ルネサンス]]期、[[ロマン主義]]期のエルフ像と一致する。
欧州各国では以下のように呼ばれる、
* ドイツ: Elfen, Elben
* イギリス: addler(ただし廃語)
* オランダ: Elfen, Alfen, Elven
* デンマーク: alfer, elvere, elverfolk、ellefolk、huldrer
* アイスランド: álfar, álfafólk, huldufólk(Huldufólkは英語のhidden peopleの意)
* ノルウェー: alver, alfer, elvefolk
* スウェーデン: alfer, alver, älvor(Älvorは英語でfairyと訳される)
'''elf''', '''álf'''とそれに関係する単語は、[[インド・ヨーロッパ祖語|印欧祖語]]で「白い」を意味する、'''albh'''に由来する<ref>Hall, Alaric Timothy Peter. 2004. [https://www.alarichall.org.uk/ahphdful.pdf The Meanings of ''Elf'' and Elves in Medieval England] (Ph.D. University of Glasgow). pp. 56-57.</ref>。
== 伝統的なエルフの特徴 ==
=== 北欧神話におけるエルフ ===
エルフに関する最も古い記述は[[北欧神話]]にある。最初期のエルフは、[[古ノルド語]]で'''アールヴ'''(''álfr''、複''álfar'')と呼ばれた。同時期の記述は存在しないが、後の民間伝承に登場するアールヴと語源的に結びついた多くの単語の存在は、エルフへの信仰が古代[[スカンディナヴィア]]人だけのものではなく、[[ゲルマン人|ゲルマン民族]]全体で一般的であったことを強く示唆している。
エルフは北欧神話に様々な形で登場する。現代の私たちが当時のエルフの概念を明確に定義づけることはできないが、当時の人々はエルフを強力で美しい、人間ほどの大きさの存在として理解していたように思われる。彼らは一般的に先祖崇拝と同様に、豊かさと結びついた半ば神聖な集団として言及される。エルフの存在は自然の精霊や死者の魂に対する[[アニミズム]]的な信仰と類似していて、ほとんど全て人間の信仰と通じるものがある。<!-- something that, on a side note, is true also for the Old Norse belief in fylgjur and vörðar ("follower" and "warden" spirits, respectively). 先祖崇拝に関係して、守護霊のたぐいについて書いてあるものと思うが、よく分からないので訳さず。-->ほぼ間違いなく、ゲルマン民族にとってのエルフとは、[[ギリシア神話|ギリシャ]]・[[ローマ神話]]における[[ニュンペー|ニンフ]]や、[[スラヴ神話]]における[[ルサールカ]]のような存在であったと思われる。
[[ファイル:Freyr_art.jpg|thumb|left|180px|光のエルフの支配者、[[ヴァン神族]]の[[フレイ]]。]]
[[スノッリ・ストゥルルソン]]は、[[ドワーフ|ドヴェルグ]](ドワーフ、単 ''dvergr'', 複 ''dvergar'')について、「デックアールヴ(闇のエルフ、単dökkálfr, 複dökkálfar)」または「スヴァルトアールヴ(黒いエルフ、単 ''svartálfr'', 複 ''svartálfar'')」として言及しているが、このような使用法が中世のスカンジナビアにおいて一般的であったかは分からない<ref>Hall 2004, pp. 31-35</ref>。スノッリは[[ダークエルフ]]ではないエルフを、「リョースアールヴ(光のエルフ、単 ''Ljósálfr'', 複 ''ljósálfar'')」と言及しているが、この使用法は「エルフ」と'''albh'''の語源的な関係と関連している。スノッリは『[[スノッリのエッダ]]』において、彼らの違いについて説明している。
: ''“空には「[[アルフヘイム]](エルフの故郷)」と呼ばれる土地がある。「光のエルフ」と呼ばれる人々がそこに住んでいる。しかし、「闇のエルフ」は地下に住み、外見は彼らと違っているが、中身はもっと違っている。光のエルフは太陽よりも明るいが、闇のエルフは[[ピッチ (樹脂)|ピッチ]]よりも黒い。”''
: ''"Sá er einn staðr þar, er kallaðr er Álfheimr. Þar byggvir fólk þat, er Ljósálfar heita, en Dökkálfar búa niðri í jörðu, ok eru þeir ólíkir þeim sýnum ok miklu ólíkari reyndum. Ljósálfar eru fegri en sól sýnum, en Dökkálfar eru svartari en bik."'' <ref>[[スノッリ・ストゥルルソン|Sturluson, Snorri]]. ''[[スノッリのエッダ|The Younger (or Prose) Edda]]'', [http://www.northvegr.org/lore/prose2/index.php Rasmus B. Anderson translation (1897)]. Chapter 7.</ref>
スノッリの作品の外に北欧神話のエルフの姿を求めるならば、スノッリの作品以前のエルフの存在を証明する証拠は、[[スカルド詩]](吟唱詩)、[[古エッダ|エッダ詩]](古エッダ)、[[サガ]]などに見つけられる。エルフはここで、おそらく「全ての神々」を意味する、「アース神族とエルフ」という慣用句によって、[[アース神族]]と結び付けられる<ref>Hall 2004, pp. 37-46</ref>。
一部の学者は、エルフを[[ヴァン神族]]と比較したり、あるいはヴァン神族であるとしてきた<ref>Hall 2004, pp. 43-46</ref>。
しかし古エッダの『[[アルヴィースの言葉|アルヴィースの歌]]』では、各種族がさまざまな物に付けた名前が紹介されるが、エルフはアース神族ともヴァン神族とも異なる風習を持つ種族として描かれている。しかし、これは高位の豊穣神であるヴァン神族と、低位の豊穣神であるエルフとの違いを表したものかもしれない。また古エッダの『[[グリームニルの言葉]]』では、ヴァン神族の[[フレイ]]は光のエルフの故郷である「アルフヘイム」の王であるとされている。同じく古エッダの『[[ロキの口論]]』では、[[エーギル]]の館で宴会を開かれ、アース神族とエルフの大集団が宴に招ばれている。ここでフレイの従者[[ビュグヴィルとベイラ|ビュグヴィル]]とその妻[[ビュグヴィルとベイラ|ベイラ]]が登場するが、二人が神々の列に加えられていないことと、フレイがアルフヘイムの支配者であることからこの二人がエルフであることが分かる。
一部の研究者はヴァン神族とエルフは[[スカンジナビア]]の青銅器時代の宗教の神であったが、後に主神の座をアース神族に取って代わられたと推測している。[[ジョルジュ・デュメジル]]をはじめ、そのほかの研究者は、ヴァン神族とエルフは一般人のもので、アース神族は僧侶や戦士階級の神であったと主張している。([[ネルトゥス]]も参照)
[[スカルド]]の[[シグヴァト・ソルザルソン]]は、1020年ごろの『東行詩』(''Austrfararvísur'')の中で、彼がキリスト教徒であったため、スウェーデンの異教徒の家で「エルフの供儀」(''álfablót'')の間の賄いを拒否されたことについて触れている。しかし、「エルフの供儀」について信頼できるさらなる情報はない<ref>Hall 2004, p. 40</ref>。しかし他の供儀(blót)と同様に、「エルフの供儀」にも食料の提供があっただろう。そして後のスカンジナビアの民間伝承も、エルフにもてなしを捧げる伝統を保っている。<!-- From the time of year (close to the autumnal equinox) and the elves' association with fertility and the ancestors, we might assume that it had to do with the ancestor cult and the life force of the family. 年のうち秋分に近いある時期-->
これに加えて、『[[コルマクのサガ]]』では、エルフへの捧げものがひどい戦傷を癒すことができると信じられていた様子が描かれている。
: ''”ソルヴァルズはゆっくりと癒えていった。彼は立ち上がれるようになるとソルズィスを訪れ、彼女に彼を癒す良い方法を尋ねた。''
: ''「丘があります」、と彼女は答えた。「ここから遠くない、エルフたちが訪れるところが。今からコルマクが殺した雄牛をもって、その血で丘を赤く染め、その肉でエルフのために宴をひらくのです。その時あなたがたは癒されるでしょう」”''
: ''Þorvarð healed but slowly; and when he could get on his feet he went to see Þorðís, and asked her what was best to help his healing.''
: ''"A hill there is," answered she, "not far away from here, where elves have their haunt. Now get you the bull that Kormák killed, and redden the outer side of the hill with its blood, and make a feast for the elves with its flesh. Then thou wilt be healed.''<ref>''[http://www.worldwideschool.org/library/books/lit/epics/LifeandDeathofCormactheSkald/Chap1.html The Life and Death of Cormac the Skald]'' (Old Norse original: ''[http://www.snerpa.is/net/isl/kormaks.htm Kormáks saga]''). Chapter 22.</ref>
スカンジナビアのエルフは、人間ほどの大きさであった。『[[ゲイルスタッド・エルフのオラーフ王]]』や、『[[ヴェルンドの歌]]』で、「妖精の王」と呼ばれている鍛冶師ヴェルンドなど、名声ある男性は死後エルフの列に加えられることがあった。古代の北欧の人々は、エルフと人間との混血も可能だと信じていた。『[[フロルフ・クラキのサガ]]』では、デンマーク王ヘルギは彼が出会った中で最も美しい女性であるシルクをまとったエルフと出会う。彼は彼女を強姦し、娘の[[スクルド]]が生まれた。スクルドは[[フロルフ・クラキ]]の殺害者[[ヒョルバルズル]]と結婚する。[[#ハーフエルフ|エルフとの混血]]であったスクルドは[[セイズ|魔術]]に通じており、そのため戦場では無敵であった。かの女の兵士が倒れても、かの女はかれらを立ち上がらせ、戦い続けさせることができた。かの女に勝つには、かの女がエルフなどの兵士を呼び出す前に、かの女を捕らえるしかなかった<ref>''Setr Skuld hér til inn mesta seið at vinna Hrólf konung, bróður sinn, svá at í fylgd er með henni álfar ok nornir ok annat ótöluligt illþýði, svá at mannlig náttúra má eigi slíkt standast.''[http://www.heimskringla.no/original/fornaldersagaene/hrolfsagakraka.php]</ref>。もう一つの例には、母親が人間の女王であった[[ホグニ]]がある。『[[シドレクス・サガ]]』によると、ホグニの父は、エルフのアドリアン王であった。(ただし、『シドレクス・サガ』の原点のほとんどはドイツ語資料である。)
『[[ヘイムスクリングラ]]』と『[[ソースタイン・サガ ヴァイキングの息子|ソースタイン・サガ]]』では、現在の[[ブーヒュースレーン地方]]と一致するアルフヘイムを支配した王統について説明している。彼らにはエルフの血が混ざっていたため、他の男たちよりも美しいといわれていた。
: "アルフ王によって支配されたその地はアルフヘイムと呼ばれ、これの子供たちはエルフの親戚であった。かれらは他の人々よりも美しかった……。"<ref>''[http://www.northvegr.org/lore/viking/001_02.php The Saga of Thorstein, Viking's Son]'' (Old Norse original: ''[http://www.snerpa.is/net/forn/thorstei.htm Þorsteins saga Víkingssonar]''). Chapter 1.</ref>
彼らの最後の王の名は、ガンドアールヴといった。
=== スカンジナビアの民間伝承のエルフ ===
[[北欧神話]]と[[キリスト教]]神話が混合した、スカンジナビアの民間伝承のエルフは、[[デンマーク]]では'''elver'''、[[ノルウェー]]では'''alv'''、スウェーデンでは[[男性]]が'''alv'''、[[女性]]が'''älva'''と呼ばれている。ノルウェーでの呼び名alvは、本当の民間伝承ではあまり使われず、使われるときは[[フルドフォルク]](''huldrefolk'')や[[ヴェッテル]](''vetter'')の同義語として使われる。フルドフォルクとヴェッテルは大地に住む、エルフというよりはドワーフに近い存在であり、[[アイスランド]]の''huldufólk''に相当する。
デンマークとスウェーデンでは、エルフとヴェッテルとは別の存在として登場する。イギリスの民間伝承に登場する昆虫翼を持つ妖精フェアリー(fairy)は、デンマークでは'''alfer''', スウェーデンでは'''älvor'''と呼ばれているが、正しい訳語は'''feer'''である。デンマークの童話作家[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]の、『バラの花の精』(''The Elf of the Rose'')に登場する'''alf'''は花の中に住めるほど小さく、“肩から足に届くほどの翼”を持っている。アンデルセンはまた、『妖精の丘』(''The Elfin Hill'')で'''elvere'''について書いている。この物語のエルフは、デンマークの伝統的な民間伝承に似て、丘や岩場に住む美しい女性であり、男たちを死ぬまで躍らせることができる。かの女たちはノルウェーとスウェーデンの[[フルドラ]](''huldra'')のように、前から見ると美しいが、背中から見ると木の洞のような姿をしている。英国の民間伝承には小さく翼のないエルフも登場する。[[サンタクロース]]と同一視されているエルフを、ノルウェーでは[[ニッセ]](''nisse'')、スウェーデンでは[[トムテ]](''tomte'')と呼んでいる。
北欧神話型のエルフは主に女性として、丘や石の塚に住むものとして、民間伝承にその姿を残している。<ref name="He-1">An account given in 1926, {{cite book| author=Hellström| year=1990| title=En Krönika om Åsbro| id=ISBN 91-7194-726-4 | pages=36}}</ref><!-- 参照 [[ガラドリエル]]の、“[[中つ国]]に残ったエルフがどのような存在になるか”、という予見。-->スウェーデンのälvor<ref>For the Swedish belief in ''älvor'' see mainly {{cite book| last=Schön| first=Ebbe| year=1986| title=Älvor, vättar och andra väsen| id=ISBN 91-29-57688-1| chapter=De fagra flickorna på ängen}}. A more summary description in English is provided by {{cite book| last=Keightley| first=Thomas| year=1870| url=http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/| title=The Fairy Mythology}}, esp. chapter [http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm017.htm ''Scandinavia: Elves''].</ref>(単、älva)は森の中にエルフ王と住む、驚くほど美しい少女であった。彼らは長命で、この上なく気楽に暮らしていた。このエルフは例によって金髪で白い装いをしているが、スカンジナビアの民間伝承に登場する存在のほとんどがそうであるように、気分を損ねると手に負えなくなる。物語において、彼らはしばしば病気の精霊の役割を演じる。最も一般的でほとんど無害な例では、'''älvablåst'''(エルフのひと吹き)と呼ばれるひりひりする吹き出物がある。これはふいごを使った強力なお返しのひと吹きで治すことができる。スカンジナビアに特有の岩石線画である'''Skålgropar'''は、そう信じられていた用途から、'''älvkvarnar'''(エルフの粉引き場)として知られていた。誰であれエルフの粉引き場に供物(できればバター)を捧げれば、エルフをなだめることができた。これはおそらく古代スカンジナビアの「エルフの供儀」(''álfablót'')に起源を持つ習慣だろう。
[[Image:Ängsälvor - Nils Blommér 1850.jpg|295px|right|thumb|1850年の[[ニルス・ブロメール]]作、『草原のエルフたち』(''Ängsälvor'')]]
霧深い朝か夜の草原では、エルフたちが踊るのを見ることができた。彼らが踊ったあとには円状の何かができた。これは'''älvdanser'''(エルフの踊り)または'''älvringar'''(エルフの輪)と呼ばれ、この輪の中で小便をすると、性病にかかると信じられていた。エルフの輪([[フェアリーリング]])は一般的に小さいキノコの輪([[菌輪]])でできていたが、別種のものもあった([[地衣類]]や他の植物や、そのように見えて広がった[[鉱床]]など。また、森に自生するキノコは当時のスカンジナビア半島やロシアなど北方の貧しい農民にとっては、[[食肉]]に代わる食感と[[アミノ酸]]源である旨味を持った貴重な食材であった)。
: ”森が湖に出会う岸辺で、あなたはエルフの輪を見出す。それは踏みならされた草が円を描く場所。エルフたちがここで踊ったのだ。Tisaren湖<ref>https://www.google.com/maps?ll=59.007568,15.129204&spn=0.074904,0.231245&t=k&hl=en </ref>のほとりで、わたしはそれを見た。それは危険であり、そこに踏み進むか、そこにあるものを取り壊せば、病を得る。”<ref name="He-1" />
エルフの舞を見た人間は、ほんの数時間そうしていたつもりが、実際には多くの歳月が過ぎていることに気付く。<!--(This time phenomenon is retold in Tolkien's The Lord of the Rings when the Fellowship of the Ring discovers that time seems to have run more slowly in elven Lothlórien.)効果としては正反対なので、的外れな記述か。(It also has a remote parallel in the Irish sídhe.)[[en:sídhe]]を見てもエルフの舞についての記述はなし。コメントアウト -->中世後期の[[オーラフ・リッレクランス]]についての歌では、エルフの女王が彼を踊りに誘うが、彼はこれを断る。オーラフはエルフの女王と踊ったら何が起こるか知っており、また彼は自分の結婚式のために家路に就いていたからである。女王は贈り物を申し出るが、オーラフはこれも辞退する。女王は踊らないのなら殺す、と彼を脅す。しかしオーラフは馬で駆け去り、女王の差し向けた病で死ぬ。彼の花嫁も絶望のため息絶える<ref>{{cite book| last=Keightley| first=Thomas| year=1870| url=http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/| title=The Fairy Mythology}} provides two translated versions of the song: ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm018.htm Sir Olof in Elve-Dance]'' and [http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm019.htm The Elf-Woman and Sir Olof].</ref>。
エルフは美しく若いとは限らない。スウェーデンの民話、『Little Rosa and Long Leda』では、エルフの女性('''älvakvinna''')が、王の牛が今後かの女の丘で草を食べないことを条件に、ヒロインのRosaを助ける。かの女は老女であるとされ、その外見から人々はかの女が地下の住民の一人だと見抜いた<ref>{{cite book| chapter=Lilla Rosa och Långa Leda| title=Svenska folksagor| year=1984| publisher=Almquist & Wiksell Förlag AB| location=Stockholm| pages=158}}</ref>。
=== ドイツのエルフ ===
[[ドイツ]]の民間伝承では、エルフは人々や家畜に病気を引き起こしたり、悪夢を見せたりする、ひと癖あるいたずら者だとされる。ドイツ語での「悪夢('''Albtraum''')」には、「エルフの夢」という意味がある。より古風な言い方、'''Albdruck'''には、「エルフの重圧」という意味がある。これは、エルフが夢を見ている人の頭の上に座ることが、悪夢の原因だと考えられていたためである。ドイツのエルフ信仰のこの面は、スカンジナビアの[[:en:Mare (folklore)|マーラ]]に対する信仰に一致するものである。それはまた[[インキュバス|インキュビ]]と[[サキュバス|サキュビ]]に関する信仰とも似ている<ref>Hall 2004, pp 125-26</ref>。
<!-- As noted above, an elven king occasionally appears among the predominantly female elves in Denmark and Sweden. 訳せず。-->ドイツの叙事詩『[[ニーベルンゲンの歌]]』では、ドワーフのアルベリッヒ('''Alberich''')が重要な役割を演じる。アルベリッヒを字義通りに訳せば、「エルフ-王」となる。このようなエルフとドワーフの混同は、『[[新エッダ]]』ですでに見られる。アルベリッヒの名は、フランスの武勲詩に登場する妖精王'''Alberon'''を通じて、英語名[[オーベロン|オベロン]] ('''Oberon''') となった。オベロンは[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[夏の夜の夢]]』に登場するエルフと[[フェアリー]]の王である。
[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の詩で有名な、『魔王』 (''Der Erlkönig'' = 「エルフ王」) の伝説は、比較的最近にデンマークで始まった。かれの詩は、[[ヨハン・ゴトフリート・ヘルダー]]が翻訳したデンマークの民間物語、『魔王の娘』をもとにしている。<!-- The Erlkönig's nature has been the subject of some debate. The name translates literally from the German as "Alder King" rather than its common English translation, "Elf King" (which would be rendered as Elfenkönig in German). It has often been suggested that Erlkönig is a mistranslation from the original Danish elverkonge or elverkonge, which does mean "elf king". 「Erlkönig」を字義通り英訳すると、「Elfking」というより「Alderking」になるが、ドイツ語の「Erlkönig」自体が、おそらくデンマーク語「elverkonge = 英Elfking」の誤訳である。ということを書いてあるものと思うが、日本語には関係ない話なので、コメントアウト。-->
ドイツと[[デンマーク]]の民間伝承に登場する魔王は、[[アイルランド神話]]の[[バンシー]]のように死の前兆として現れるが、バンシーとは異なり、死にそうな人物の前にだけ現れる。魔王の姿と表情から、どのような死が訪れるのかが分かる。魔王が苦しげな表情をしていれば、それを見た人は苦痛に満ちた死を迎え、魔王が安らかな表情をしていれば、穏やかな死を迎える。<!-- This aspect of the legend was immortalised by Goethe in his poem Der Erlkönig, later set to music by Schubert. コメントアウト-->
[[グリム兄弟]]の[[童話]]『こびとのくつや』には、靴屋の仕事を手伝う、身長1フィートほどで裸の、'''Heinzelmännchen'''と呼ばれる種族が登場する。かれらの仕事に小さな服で報いなければかれらは姿を消し、報いればとても喜ぶ。Heinzelmännchenはむしろ[[コボルト]]や[[ドワーフ]]に近い存在なのだが、この作品は「靴屋とエルフ」(''The Shoemaker & the Elves'')と英訳された。<!-- and is echoed in J. K. Rowling's Harry Potter stories (see House-elf). 関係ない気がするので、コメントアウト-->
=== 英国のエルフ ===
[[File:Poor little birdie teased by Richard Doyle.jpg|thumb|left|312px|[[リチャード・ドイル]]の、『からかわれる可哀そうな小鳥』(''Poor little birdie teased'')イギリス民間伝承後期の、森に住む小人としてのエルフ。]]
'''エルフ'''という単語は、古英語の単語''ælf''(複: ''ælfe'', 地域や年代による変形として、'''ylfe'''や'''ælfen'''がある)として英語に入り、[[アングロ・サクソン人]]とともに英国に上陸した<ref>Hall 2004, esp. pp. 212-16</ref>。アングロ・サクソン人の学者は、[[ギリシア神話]]、[[ローマ神話]]に登場する[[ニュンペー|ニンフ]]をælfやその変形の単語に翻訳した<ref>Hall 2004, pp. 81-92</ref>
初期の英語に関する証拠はわずかではあるが、アングロ・サクソン人のエルフ(''ælf'')が北欧神話の初期のエルフの同類であると考えられる理由がある。ælfは人間ほどの大きさであり、超自然的な力を持っていて、男性だけの種族というわけではなく、出会った人間を助けることも傷つけることもできた。特にエッダ詩におけるアース神族とエルフ(''álfar'')の組合せは、古英語の呪文『[[ウィズ・ファースティス]]』(''Wið færstice'')や、アングロサクソンの人名にあるosやælfのような同語族の言葉の特徴的な発生に反映している。(例えばオズワルド(''Oswald'')や、アルフリック(''Ælfric'')<ref>Hall 2004, esp. pp. 56-66</ref>)
北欧神話のエルフの美しさに関するさらなる証拠は、'''ælfsciene'''(エルフの美)のような古英単語の中に見つけることができる。この語は、古英語詩の『[[ユディト記]]』と『[[創世記A]]』に登場する、魅力的で美しい女性に使われている<ref>Hall 2004, pp. 71-76, ''et passim''</ref>。エルフは美しく潜在的に親切な存在であると、歴史を通して英語を話す社会のある階層には考えられてきたが、例えば『[[ベーオウルフ]]』の第112行にあるように、アングロサクソンの資料はエルフと悪霊の同盟についても証言している。一方では古英単語の'''ælf'''の変形である、'''oaf'''は、おそらく最初は「取替え子」またはエルフの魔法によって茫然としている人物について述べるのに使われていた。
「エルフの一撃(またはエルフの太矢、エルフの矢、エルフの矢傷)」 (elf-shot) という言葉は、スコットランドや北イングランドで見られる慣用句である。これは病気や傷害が妖精によって引き起こされるという信仰に由来する<ref>{{仮リンク|キャサリン・ブリッグズ|en|Katharine Mary Briggs}}編著 『妖精事典』 平野敬一、[[井村君江]]、三宅忠明、吉田新一 共訳、冨山房、1992年、43、140-141頁。</ref>。16世紀の最後の四半世紀の頃の原稿に、「エルフが起こす激痛」という意味で初めてあらわれた。これは後の17世紀のスコットランドでは、新石器時代の[[燧石]]の矢じりを意味するものとされた。この矢じりは古代人が癒しの儀式の際に使ったものだが、17世紀の人々は、魔女やエルフが人や家畜を傷つけるために使ったと信じた<ref>Hall, Alaric. 2005. 'Getting Shot of Elves: Healing, Witchcraft and Fairies in the Scottish Witchcraft Trials', [http://taylorandfrancis.metapress.com/app/home/journal.asp?wasp=e3d05mvqtg0qujqugt33&referrer=parent&backto=linkingpublicationresults,1:104708,1 ''Folklore''], 116 (2005), 19-36.</ref>。エルフの茶目っ気がもたらす髪のもつれは「エルフロック」(''elflock'')と呼ばれた。突然の麻痺は「エルフの一突き」(''elf stroke'')と呼ばれた。このような表現は、{{仮リンク|ウィリアム・コリンズ (詩人)|label=ウィリアム・コリンズ|en|William Collins (poet)}}が書いた[[1750年]]の頌歌にも現れる。
: みじめな経験から群集はみな知っている、
: いかに宿命とともに飛び、かれらの「エルフの一撃の矢」を放つかを、
: 病んだ雌羊が夏の糧をあきらめた時、
: 大地に引き伸ばされ、心臓を打たれた牝牛が横たわる時。
: There every herd by sad experience knows,
: How winged with fate their elf-shot arrows fly;
: When the sick ewe her summer-food foregoes,
: Or stretched on earth, the heart-smit heifers lie.<ref>Collins, Willam. 1775. ''[http://poetry.poetryx.com/poems/1850/ An Ode On The Popular Superstitions Of The Highlands Of Scotland, Considered As The Subject Of Poetry]''.</ref>
エルフはイングランドやスコットランド起源の[[バラッド]]に多く登場する。民話と同様に、その多くは「エルフェイム」(''Elphame'')や「エルフランド」(''Elfland'')(いずれも北欧神話でいうアルフヘイムのこと)への旅についての内容を含んでいる。エルフェイムやエルフランドは薄気味悪く不快な場所として描かれている。バラッド『詩人トマス』(''Thomas the Rhymer'')に登場する、エルフェイムの女王のように、エルフは時おり好ましい描かれる。しかし『[[チャイルド・ローランド]]の物語』(''Tale of Childe Rowland'')や、『イザベルと妖精の騎士』(''Lady Isabel and the Elf-Knight'')のエルフのように、エルフはしばしば強姦や殺人を好む腹黒い性格だとされる。『イザベルと妖精の騎士』のエルフは、イザベルを殺すためにさらう。ほとんどの場合バラッドに登場するエルフは男性である。一般的に知られているエルフの女性は、『詩人トマス』や『エルフランドの女王の乳母』(''The Queen of Elfland's Nourice'')に登場する、エルフランドの女王ただ一人である。『エルフランドの女王の乳母』では、女王の赤子に授乳させるために女性がさらわれるが、赤子が乳離れをすれば家に帰れるだろう、との約束を得る。どの事例においても英国のエルフは[[スプライト (伝説の生物)|スプライト]]や[[ピクシー]]のような特徴を持っていない。
近世のイングランドの民話では、エルフは小さく悪戯好きで、見つけにくい存在として描かれている。かれらは邪悪ではないが、人をいらだたせたり、邪魔したりする。透明であるとされることもある。このような伝承によって、エルフは事実上、イングランド先住民の神話に起源を持つ、フェアリーの同義語となった。<!-- for example, the Welsh Ellyll (plural Ellyllon) and Y Dynon Bach Têg. Lompa Lompa the Gigantic Elf from Plemurian Forest. ウェールズのエシシュ(Ellyll, 複: ''Ellyllon'')・・・プレミュリアの森の巨大なエルフロンパ・ロンパ ――固有名詞が全て訳せず。-->
引き続き、「エルフ」の名は「フェアリー」と同様に、[[プーカ]]や[[ゴブリン|ホブゴブリン]]、[[ロビン・グッドフェロウ]]やスコットランドの[[ブラウニー]]などの、自然の精霊を表す総称になった。現在の一般的な民話では、これらの妖精やそのヨーロッパの親戚たちがはっきりと区別されることはない。
文学からの影響は、エルフの概念をその神話的起源から遠ざけるのに重要な役割を果たした。[[エリザベス朝]]の劇作家[[ウィリアム・シェイクスピア]]は、エルフを小柄であると想像した。かれは明らかにエルフとフェアリーを同族として考えていた。『[[ヘンリー四世 (シェイクスピア)|ヘンリー四世]]』の第1部、第2幕、第4場で、老兵[[フォールスタッフ]]は[[ハル王子]]に、“痩せこけた、エルフのやから”、と呼びかけている。『[[夏の夜の夢]]』では、エルフたちは昆虫ほどの大きさとされている。一方[[エドマンド・スペンサー]]は『[[妖精の女王]]』 (''The Faerie Queene'') で、人間型のエルフを採用している。
シェイクスピアと[[マイケル・ドレイトン]]の影響は、とても小さな存在に対して、「エルフ」と「フェアリー」を使用するという基準を作った。ビクトリア朝期の文学では、エルフはとがった耳を持ち、ストッキングキャップをかぶった小さな男女として挿絵に描かれている。[[リチャード・ドイル]]が挿絵を描いた、[[1884年]]に[[アンドリュー・ラング]]が書いた妖精物語『いないいない王女』 (''Princess Nobody'') では、エルフが赤いストッキングキャップをかぶった小人である一方で、フェアリーは蝶の翅を持った小人として描かれている。[[ロード・ダンセイニ]]の『[[エルフランドの王女]]』はこの時代の例外で、人間型のエルフが登場する。
「バックソーンの誓い」 (''the Buckthorn vows'') という伝説では、バックソーン(クロウメモドキ属の植物)を円形に撒いて、満月の夜に環の中で踊ると、エルフが現れるとされる。踊り手はエルフが逃げ出す前に挨拶して「とまれ、願いをかなえよ!」と言わなければならない。するとエルフが一つ望みをかなえてくれるという。
== 現代のエルフ ==
=== 現代ファンタジーのエルフ ===
[[File:Elf markwoman by Kitty.png|thumb|ハイファンタジーにおけるエルフの描写の一例]]
[[J・R・R・トールキン]]の小説『[[指輪物語]]』は現代におけるエルフのイメージに影響を与えた<ref name="Youseijiten,p20">篠崎 2000, p. 20</ref>。トールキンの[[ファンタジー]]小説において、「エルフ」は妖精の総称ではなく、半神的な特徴を持つひとつの種族の名称である<ref name="Youseijiten,p20" />。『指輪物語』に登場するエルフは長上族と呼ばれ、身体能力が高く、知識に富み、魔法を使う<ref name="Shitteokitai,p78">健部 2008, p. 78</ref>。人間ほどの背丈をしている。
誤解として長く尖った耳をしているともされるがトールキンが「エルフの耳は尖っている」と説明したことは一度もない。トールキンが『ホビット』の主人公であるビルボの耳はエルフのように尖らせてほしいなどと手紙に書いたなどという話があるが、この”エルフのように”のエルフとは伝統的な妖精のエルフであってトールキンの作品以降に広まったトールキン的エルフとは別件である。(そもそもこの手紙は最初期の作品である『ホビット』の作品の編集中に”未読”のイラストレータに対して送った手紙。トールキン的エルフの概念自体まだ未誕生な時期にトールキン的エルフで書いてくれと言っても通じない)
エルフは一般に、不死もしくは非常に長い寿命を持ち、事故に遭ったり殺害されたりしない限り、数百年から数千年生きるとされている。ただし、徐々に活力がなくなるなど、「枯れていく定め」にあることは確かなようだ。
=== ハーフエルフ ===
エルフを扱った[[ファンタジー]]作品の中には、人間との[[混血]]であるハーフエルフが登場するものもある。多くの場合、ハーフエルフは人間とエルフ双方の特徴を受け継いでおり、人間とエルフの双方から差別的な扱いを受けることがしばしばある。エルフと人間との[[異類婚姻譚]]はいくつかの[[神話]]にも描かれるモチーフであるが、今日のハーフエルフの原型は『指輪物語』での設定に多くを負っている。同作の[[半エルフ]]は種族として固定されたものではなく、彼らはエルフと人間のいずれの運命を選ぶかの選択を行い、エルフの運命を選んだものは不死性を得たという設定である<ref group="段">健部 2008, p. 80</ref>。
=== 日本の創作物におけるエルフ ===
[[Image:Chara05.png|thumb|150px|エルフ耳の一例]]
日本では、古より超常的存在の主役は妖怪や神であり、西洋的な妖精のイメージはなかなか定着しなかったものの、1978年のアニメ映画版『[[指輪物語 (映画)|指輪物語]]』を機に日本でもファンタジーの要素が流行の兆しを見せ、「エルフ」や「オーク」といった言葉が徐々に認知されるようになっていった。その影響から、欧米の文学や民間伝承などに登場する妖精の総称としてのエルフ像よりむしろ、同作で描かれるような固有の種族としてのイメージが日本におけるエルフのステレオタイプとなった<ref group="段" name="Youseijiten,p21">篠崎 2000, p. 21</ref>。
さらに、悪魔のモチーフである尖った耳を持つ妖精の容姿が描かれた海外のゲームや、ペーパーバック小説のイラストを通じて「エルフの耳は長いもの」というイメージが日本人の間に定着し、日本製のゲームや小説などには耳の長いエルフの絵柄が頻繁に登場するようになった。
テレビゲームでは1987年9月に発売された[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]版の『[[デジタル・デビル物語 女神転生]]』を皮切りに、『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』などのファンタジー[[ロールプレイングゲーム|RPG]]などでの登場が続き、特にそのイメージに強固な影響を与えた代表例として、1988年刊行の小説『[[ロードス島戦記]]』に登場する[[出渕裕]]による[[ディードリット]]のキャラクターデザインが挙げられる。『ロードス島戦記』の長い耳のエルフのモチーフは、1982年の映画『[[ダーククリスタル]]』だと語られている<ref>『季刊コミッカーズ』1999年7月号 (出渕裕のインタビュー)</ref>。
しかし、エルフのイメージは必ずしも耳が尖っていると決まっているわけではなく、本来的にはそのような認識は誤りである<ref group="注">通例、伝承の中のエルフは体のどこかに人間と見分けがつく箇所があるとされるが、たとえばデンマークの伝説では背中にくぼみがあるといわれていたり、スコットランドでは牛のような長い尻尾があるなど、その特徴は様々である(篠崎 2000, p. 14. 健部 2008, p. 79.)。</ref><ref group="段" name="Youseijiten,p22">篠崎 2000, p. 22</ref>。
桐島カブキが執筆した『[[RPGマガジン]]』の連載「あなたにも出来るファンタジーRPG設定資料作成マニュアル」でのジョーク的記事では、「エルフは生物学的、社会学的、民俗学的に見てただの猿にすぎない」ということを4ページにわたって解説している<ref>月刊『RPGマガジン』第2号(1990年5月号)。</ref>。記事によるとエルフが人間から見て美しく見えるのは、単にチャーム(魅了)による[[擬態]]に過ぎないらしい。
=== クリスマスのエルフ ===
{{Main|クリスマスのエルフ}}
現代の[[アメリカ合衆国|米国]]、[[カナダ]]、[[イギリス|英国]]における民間伝承では、[[サンタクロース]]の助手としてエルフが登場する。このエルフは緑色の服を着て、尖った耳と長い鼻を持つ。想像上の彼らはサンタクロースの工場で[[クリスマス]]のプレゼントになるおもちゃを作り、包装している<ref group="段">金光 2007, p. 55</ref>。
=== アイスランドのエルフ ===
[[アイスランド]]でのエルフは、目撃したという人々によると、人間に似ているが、やや小型の外観で、素朴で普段は穏やかな生き物であるとされる<ref name="afpbb20160831"/>。[[2012年]]には、妖精遺産保護法が成立しており、エルフに関係すると言われている岩などが保護指定されている<ref name="afpbb20160831"/>。[[1971年]]には、エルフの家とされる巨大な岩を道路工事に伴って移動させたところ、多くの技術的困難に直面することになった<ref name="afpbb20160831"/>。また[[レイキャビク]]近くの道路工事では、「エルフの岩」とされている岩石を誤って土壌に埋めてしまったところ、道路は冠水したり、負傷する人が出たり、周囲で重機の故障が相次いだ。そのためアイスランド道路管理局はこの岩の原状復帰を決め、掘り出し作業と洗浄作業が行われた<ref name="afpbb20160831"/>。アイスランドでは、エルフたちは日々の生活の一部と考えられており、エルフに配慮するために工事が変更になったり、エルフによる警告を信じる漁師が出漁を見合わせるようなことがある<ref name="afpbb20160831">[https://www.afpbb.com/articles/-/3099233 2016年08月31日 12:19 発信地:レイキャビク/アイスランド AFP BB news] 2016年9月2日閲覧</ref>。
== エルフの登場するおとぎ話 ==
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm121.htm Addlers & Menters]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm124.htm Ainsel & Puck]''
* ''[http://www.authorama.com/english-fairy-tales-24.html Childe Rowland]'' ([http://www.twocrows.co.uk/childe_roland.html also here])
* ''[http://www.rickwalton.com/folktale/brown16.htm The Elf Maiden]'' ([http://www.fairy-tales.org.uk/brown/lang-the-brown-fairy-book-the-elf-maiden.htm also here])
* ''[http://www.viking.ucla.edu/hrolf/ch11.html Elfin Woman & Birth of Skuld]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm022.htm Elle-Maids]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm024.htm Elle-Maid near Ebeltoft]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm025.htm Hans Puntleder]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/eng/efft/efft48.htm Hedley Kow]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm112.htm Luck of Eden Hall]''
* ''[http://www.authorama.com/grimms-fairy-tales-39.html The Shoemaker & the Elves]'' ([http://www.pitt.edu/~dash/grimm039.html also here])
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm021.htm Svend Faelling and the Elle-Maid]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/eng/efft/efft08.htm Wild Edric]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm084.htm The Wild-women]''
* ''[http://www.sacred-texts.com/neu/celt/tfm/tfm020.htm The Young Swain and the Elves]''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
<references />
=== 段落の出典 ===
<references group="段" />
== 参考文献 ==
* Anderson, H. C.. 1842. [http://hca.gilead.org.il/elf_rose.html ''The Elf of the Rose''] (Danish original: [http://www.kb.dk/elib/lit/dan/andersen/eventyr.dsl/hcaev017.htm ''Rosen-Alfen'']).
* Anderson, H. C. 1845. [http://hca.gilead.org.il/elfin_hi.html ''The Elfin Hill''] (Danish original: [http://www.kb.dk/elib/lit/dan/andersen/eventyr.dsl/hcaev028.htm ''Elverhøi'']).
* Coghlan, Ronan. 2002. ''Handbook of Fairies''.
* Lang, Andrew. 1884. ''[http://arthurwendover.com/arthurs/fairy/pnobdy10.html The Princess Nobody]''.
* [[篠崎砂美]] 監修 『妖精事典 異世界からの来訪者』 [[ソニー・マガジンズ]]、2000年。ISBN 4-7897-1586-8
* 健部伸明 監修『知っておきたい伝説の魔族・妖族・神族』西東社、2008年。ISBN 978-4791616077
* 金光仁三郎 監修『知っておきたい伝説の英雄とモンスター』西東社、2007年。ISBN 978-4791614882
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Elf}}
* [[クリスマスのエルフ]]
* [[フェアリー]]
* [[ドワーフ]]
* [[エルフ (トールキン)]]
* [[スラッテンパッテン]]
* [[アルドリア#グローランサにおけるエルフ|グローランサにおけるエルフ]]
* [[いすゞ・エルフ]] - 名前は本項に由来
*[[小人 (伝説の生物)]]
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[[Category:エルフ|*]]
[[Category:北欧神話の生物]]
[[Category:ファンタジー]]
[[Category:小人 (伝説の生物)]]
[[Category:イギリスの伝説の生物]]
[[Category:ゲルマンの伝説の生物]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%95 |
5,003 | 染色体 | 染色体()は、遺伝情報の発現と伝達を担う生体物質である。塩基性の色素でよく染色されることから、1888年にヴィルヘルム・フォン・ヴァルダイヤー(ワルダイエル、Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz)によって Chromosom と名づけられた(英語では chromosome)。Chromo- はギリシア語 χρῶμα (chroma)「色、色素」に、-some は同じく σῶμα (soma)「体」に由来する。
歴史的背景から、染色体という語には複数の定義がある。
染色体の最も基本な構成要素は、DNAとヒストンである。分裂期の染色体は一対の姉妹染色分体から構成され、それぞれの染色分体には長いDNA一分子が含まれている。DNAは酸性であり、塩基性タンパク質のヒストンとの親和性が高い。DNAとヒストンの重量比は、ほぼ1:1である。
染色体の最も基本的な構造はヌクレオソームである(図2)。4種のコアヒストン(H2A, H2B, H3, H4)が2つずつ集まってヒストン8量体を形成し、146塩基対の2重鎖DNAを左巻きに巻きつける(DNA超らせんの項参照)。ヌクレオソームとヌクレオソームをつなぐDNAはリンカーDNAと呼ばれ、そこにはリンカーヒストン(ヒストンH1など)が結合する。ヌクレオソーム構造はさらに凝集して直径30 nmの繊維を形成すると考えられているが、その構造についてはいまだ定説がない。分裂期にはいると、光学顕微鏡下で観察可能な棒状の構造体(第一の定義における染色体)に変換される。この染色体凝縮過程には、コンデンシン複合体やトポイソメラーゼ II が関与する。
クロマチンには、大きく分類してユークロマチン (euchromatin) とヘテロクロマチン (heterochromatin) の二種類がある。ユークロマチンはクロマチン構造がゆるまっており、転写されている遺伝子はこの部分に多く存在する。ヘテロクロマチンは密に凝集しており、この領域ではあまり転写が起きていない。ヘテロクロマチンは更に次の二つに分類することができる。遺伝子の発現はほとんど見られない構成的ヘテロクロマチン (constitutive heterochromatin) と、条件によっては遺伝子の発現が見られる条件的ヘテロクロマチン (facultative heterochromatin) がある。前者は主にセントロメア付近にあり、この領域の DNA は繰り返し配列に富む。
分裂期の染色体は一対の姉妹染色分体からなる(図3)。染色分体どうしがより強固に接着している領域はセントロメアと呼ばれる。分裂期にはセントロメア上に形成されるキネトコアに微小管が結合し、染色分体を両極へ牽引する。セントロメアをはさんで長い側を長腕、短い側を短腕という。染色体の末端部はテロメアと呼ばれる特有の構造をしている。
染色体にはヒストンの他にも多くのタンパク質因子が結合している。RNAポリメラーゼのような基本転写因子と呼ばれるタンパク質複合体や、特定の遺伝子座に結合しその遺伝子の発現を制御するもの、クロマチンの状態を維持または変化させるものなどがある。また、トポイソメラーゼと呼ばれる一群の酵素は、DNA超らせん状態を制御する。染色体の高次構造を制御する因子の中で代表的なものには、染色体凝縮に関わるコンデンシンや姉妹染色分体の接着に関与するコヒーシンがある。
有糸分裂の最初のステージ(前期)では、核膜を保持したまま、クロマチンが凝縮を開始する。前中期では、核膜が崩壊し、染色体凝縮がさらに進行する。凝縮の最も進んだ分裂中期では、二つの染色分体(姉妹染色分体)がセントロメアでより強固に結合した形態をとる。細胞の両極から伸びた長い微小管(紡錘糸)はキネトコアに結合する(図4)。分裂後期にはいると、姉妹染色分体間の接着が解除され、紡錘糸は各染色分体を細胞の両極に向けて引き離す。(染色体分離)。こうして、最終的に各娘細胞は1セットの染色分体を受け継ぐ。細胞分裂が完了すると、染色分体は再び脱凝縮して細胞核内に収納される。
ある生物の染色体を調べたいとき、コルヒチン等の薬剤で細胞を処理し細胞分裂をM期で停止させてからギムザ等の染色を施し、凝縮した染色体の数と形状を観察する。こうして撮影された染色体を並べたものが、核型(karyotype カリオタイプ、karyogram カリオグラム とも呼ばれる)である。これを調べて分類学的検討などを行うことを核型分析という。
カリオタイプは種ごとに一定である。例えば、ヒトの二倍体細胞は、22対の常染色体と1対の性染色体、計46本の染色体を持つ(図5)。性染色体の組み合わせは女性では2本のX染色体、男性ではX染色体とY染色体1本ずつとなっている。女性の2本のX染色体のうちの片方は不活性化されており、顕微鏡下ではバー小体として観察される。
有性生殖を行う多くの種は、二倍体 (2n) の体細胞 と一倍体 (1n) の配偶子を持つ。雄由来の配偶子と雌由来の配偶子が接合(受精)すると、二倍体の接合子(受精卵)となり、体細胞分裂を繰り返して個体をつくりあげる。すなわち、二倍体の体細胞が有する2セットの相同染色体のうち、1セットは父親から、もう1セットは母親から由来する。一倍体の配偶子をつくるための特殊な細胞分裂は、減数分裂と呼ばれる。減数分裂の過程では母親と父親に由来する相同染色体は交叉を起こして遺伝情報を交換する。このように、片親からの染色体をそのまま次の世代に渡すのではなく、世代を経るたびに常に新しい遺伝情報の組み合わせが作られるようになっている。無性生殖で増殖する種の多くは染色体を1セットしか持たない。
なお、男性の持つY染色体はかつて、その大きさや遺伝子の位置などがX染色体と異なることから、減数分裂時の遺伝子の組み換えを起こさない、変異しづらい不活性なものとされてきた。しかし最近では、Y染色体においてもX染色体との交叉による乗り換えが起こっていると考えられている。またY染色体内で、自身の遺伝子の位置が入れ替わっていることが明らかになるなど、実際にはY染色体の変異は比較的頻繁に起きていることがわかっている。
ハエ目昆虫のショウジョウバエやユスリカの幼虫のだ腺染色体(唾液腺細胞中の染色体)は通常の体細胞の染色体とは異なり、多糸染色体とよばれている。この染色体は例外的に、顕微鏡下でよく観察することができる。モーガンらによる初期の遺伝子研究では、主にショウジョウバエのだ腺染色体を材料として染色体上の遺伝子の位置が決定され、染色体地図が作成された。これらの成果は近年のホメオボックス遺伝子などショウジョウバエを材料とした遺伝子研究の基礎をなすものとなったばかりでなく、遺伝学全般の基礎をなしていると言える。 | [
{
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"text": "染色体()は、遺伝情報の発現と伝達を担う生体物質である。塩基性の色素でよく染色されることから、1888年にヴィルヘルム・フォン・ヴァルダイヤー(ワルダイエル、Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz)によって Chromosom と名づけられた(英語では chromosome)。Chromo- はギリシア語 χρῶμα (chroma)「色、色素」に、-some は同じく σῶμα (soma)「体」に由来する。",
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"text": "歴史的背景から、染色体という語には複数の定義がある。",
"title": "染色体の定義"
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"text": "染色体の最も基本な構成要素は、DNAとヒストンである。分裂期の染色体は一対の姉妹染色分体から構成され、それぞれの染色分体には長いDNA一分子が含まれている。DNAは酸性であり、塩基性タンパク質のヒストンとの親和性が高い。DNAとヒストンの重量比は、ほぼ1:1である。",
"title": "染色体の構造"
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"text": "染色体の最も基本的な構造はヌクレオソームである(図2)。4種のコアヒストン(H2A, H2B, H3, H4)が2つずつ集まってヒストン8量体を形成し、146塩基対の2重鎖DNAを左巻きに巻きつける(DNA超らせんの項参照)。ヌクレオソームとヌクレオソームをつなぐDNAはリンカーDNAと呼ばれ、そこにはリンカーヒストン(ヒストンH1など)が結合する。ヌクレオソーム構造はさらに凝集して直径30 nmの繊維を形成すると考えられているが、その構造についてはいまだ定説がない。分裂期にはいると、光学顕微鏡下で観察可能な棒状の構造体(第一の定義における染色体)に変換される。この染色体凝縮過程には、コンデンシン複合体やトポイソメラーゼ II が関与する。",
"title": "染色体の構造"
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"text": "クロマチンには、大きく分類してユークロマチン (euchromatin) とヘテロクロマチン (heterochromatin) の二種類がある。ユークロマチンはクロマチン構造がゆるまっており、転写されている遺伝子はこの部分に多く存在する。ヘテロクロマチンは密に凝集しており、この領域ではあまり転写が起きていない。ヘテロクロマチンは更に次の二つに分類することができる。遺伝子の発現はほとんど見られない構成的ヘテロクロマチン (constitutive heterochromatin) と、条件によっては遺伝子の発現が見られる条件的ヘテロクロマチン (facultative heterochromatin) がある。前者は主にセントロメア付近にあり、この領域の DNA は繰り返し配列に富む。",
"title": "染色体の構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "分裂期の染色体は一対の姉妹染色分体からなる(図3)。染色分体どうしがより強固に接着している領域はセントロメアと呼ばれる。分裂期にはセントロメア上に形成されるキネトコアに微小管が結合し、染色分体を両極へ牽引する。セントロメアをはさんで長い側を長腕、短い側を短腕という。染色体の末端部はテロメアと呼ばれる特有の構造をしている。",
"title": "染色体の各部位の呼称"
},
{
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"tag": "p",
"text": "染色体にはヒストンの他にも多くのタンパク質因子が結合している。RNAポリメラーゼのような基本転写因子と呼ばれるタンパク質複合体や、特定の遺伝子座に結合しその遺伝子の発現を制御するもの、クロマチンの状態を維持または変化させるものなどがある。また、トポイソメラーゼと呼ばれる一群の酵素は、DNA超らせん状態を制御する。染色体の高次構造を制御する因子の中で代表的なものには、染色体凝縮に関わるコンデンシンや姉妹染色分体の接着に関与するコヒーシンがある。",
"title": "染色体を構成するタンパク質因子"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "有糸分裂の最初のステージ(前期)では、核膜を保持したまま、クロマチンが凝縮を開始する。前中期では、核膜が崩壊し、染色体凝縮がさらに進行する。凝縮の最も進んだ分裂中期では、二つの染色分体(姉妹染色分体)がセントロメアでより強固に結合した形態をとる。細胞の両極から伸びた長い微小管(紡錘糸)はキネトコアに結合する(図4)。分裂後期にはいると、姉妹染色分体間の接着が解除され、紡錘糸は各染色分体を細胞の両極に向けて引き離す。(染色体分離)。こうして、最終的に各娘細胞は1セットの染色分体を受け継ぐ。細胞分裂が完了すると、染色分体は再び脱凝縮して細胞核内に収納される。",
"title": "細胞周期における染色体の挙動"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ある生物の染色体を調べたいとき、コルヒチン等の薬剤で細胞を処理し細胞分裂をM期で停止させてからギムザ等の染色を施し、凝縮した染色体の数と形状を観察する。こうして撮影された染色体を並べたものが、核型(karyotype カリオタイプ、karyogram カリオグラム とも呼ばれる)である。これを調べて分類学的検討などを行うことを核型分析という。",
"title": "核型"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "カリオタイプは種ごとに一定である。例えば、ヒトの二倍体細胞は、22対の常染色体と1対の性染色体、計46本の染色体を持つ(図5)。性染色体の組み合わせは女性では2本のX染色体、男性ではX染色体とY染色体1本ずつとなっている。女性の2本のX染色体のうちの片方は不活性化されており、顕微鏡下ではバー小体として観察される。",
"title": "核型"
},
{
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"tag": "p",
"text": "有性生殖を行う多くの種は、二倍体 (2n) の体細胞 と一倍体 (1n) の配偶子を持つ。雄由来の配偶子と雌由来の配偶子が接合(受精)すると、二倍体の接合子(受精卵)となり、体細胞分裂を繰り返して個体をつくりあげる。すなわち、二倍体の体細胞が有する2セットの相同染色体のうち、1セットは父親から、もう1セットは母親から由来する。一倍体の配偶子をつくるための特殊な細胞分裂は、減数分裂と呼ばれる。減数分裂の過程では母親と父親に由来する相同染色体は交叉を起こして遺伝情報を交換する。このように、片親からの染色体をそのまま次の世代に渡すのではなく、世代を経るたびに常に新しい遺伝情報の組み合わせが作られるようになっている。無性生殖で増殖する種の多くは染色体を1セットしか持たない。",
"title": "核型"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、男性の持つY染色体はかつて、その大きさや遺伝子の位置などがX染色体と異なることから、減数分裂時の遺伝子の組み換えを起こさない、変異しづらい不活性なものとされてきた。しかし最近では、Y染色体においてもX染色体との交叉による乗り換えが起こっていると考えられている。またY染色体内で、自身の遺伝子の位置が入れ替わっていることが明らかになるなど、実際にはY染色体の変異は比較的頻繁に起きていることがわかっている。",
"title": "核型"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ハエ目昆虫のショウジョウバエやユスリカの幼虫のだ腺染色体(唾液腺細胞中の染色体)は通常の体細胞の染色体とは異なり、多糸染色体とよばれている。この染色体は例外的に、顕微鏡下でよく観察することができる。モーガンらによる初期の遺伝子研究では、主にショウジョウバエのだ腺染色体を材料として染色体上の遺伝子の位置が決定され、染色体地図が作成された。これらの成果は近年のホメオボックス遺伝子などショウジョウバエを材料とした遺伝子研究の基礎をなすものとなったばかりでなく、遺伝学全般の基礎をなしていると言える。",
"title": "染色体研究の歴史"
}
] | 染色体は、遺伝情報の発現と伝達を担う生体物質である。塩基性の色素でよく染色されることから、1888年にヴィルヘルム・フォン・ヴァルダイヤーによって Chromosom と名づけられた。Chromo- はギリシア語 χρῶμα (chroma)「色、色素」に、-some は同じく σῶμα (soma)「体」に由来する。 | [[File:SisterChromatid1.png|350px|thumb|図1ヒト細胞の分裂期染色体(左)とその拡大図(右)。バーは1 μm。]]
{{読み仮名|'''染色体'''|せんしょくたい}}は、[[遺伝情報]]の発現と伝達を担う[[生体物質]]である。[[塩基]]性の色素でよく染色されることから、1888年にヴィルヘルム・フォン・ヴァルダイヤー(ワルダイエル、[[w:Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz |Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz]])によって '''Chromosom''' と名づけられた(英語では chromosome)。''Chromo-'' は[[ギリシア語]] {{polytonic|χρῶμα}} (''chroma'')「色、色素」に、''-some'' は同じく {{polytonic|σῶμα}} (''soma'')「体」に由来する。
== 染色体の定義 ==
歴史的背景から、染色体という語には複数の定義がある。
#原義では、[[細胞分裂]]期に観察される棒状の構造体を指す。染色体の形態として一般的に認識されている構造は、この分裂期のものである(図1)。
#広義では、形態や細胞周期に関わらず、[[真核細胞]]にあるゲノム[[DNA]]と[[タンパク質]]の巨大な複合体を指す場合がある。
#さらに広義には、[[細菌]]や[[古細菌]]あるいは[[ミトコンドリア]]などの[[細胞小器官]]が持つ[[ゲノム]]を含めて染色体と呼ぶこともある('''[[核様体]]'''の項参照)。[[ウイルス]]のゲノムも染色体と呼ぶ場合がある。
== 染色体の構造 ==
[[ファイル:Nucleosome 1KX5 colour coded.png|thumb|300px|図2 {{color|Gold|H2A}}、{{color|red|H2B}}、{{color|blue|H3}}、{{color|green|H4}}のヒストン8量体とDNAから構成されるヌクレオソーム構造。]]
染色体の最も基本な構成要素は、'''[[デオキシリボ核酸|DNA]]'''と'''[[ヒストン]]'''である。分裂期の染色体は一対の[[姉妹染色分体]]から構成され、それぞれの染色分体には長いDNA一分子が含まれている。DNAは酸性であり、塩基性タンパク質のヒストンとの親和性が高い。DNAとヒストンの重量比は、ほぼ1:1である。
染色体の最も基本的な構造は'''[[ヌクレオソーム]]'''である(図2)。4種の'''コア[[ヒストン]]'''([[ヒストンH2A|H2A]], [[ヒストンH2B|H2B]], [[ヒストンH3|H3]], [[ヒストンH4|H4]])が2つずつ集まって[[ヒストン]]8量体を形成し、146塩基対の2重鎖DNAを[[左巻き]]に巻きつける([[DNA超らせん]]の項参照)。[[ヌクレオソーム]]と[[ヌクレオソーム]]をつなぐDNAはリンカーDNAと呼ばれ、そこには'''リンカーヒストン'''([[ヒストンH1]]など)が結合する。[[ヌクレオソーム]]構造はさらに凝集して直径30 nmの繊維を形成すると考えられているが、その構造についてはいまだ定説がない。分裂期にはいると、光学顕微鏡下で観察可能な棒状の構造体(第一の定義における染色体)に変換される。この[[染色体凝縮]]過程には、[[コンデンシン]]複合体や[[トポイソメラーゼ]] II が関与する。
'''[[クロマチン]]'''には、大きく分類して'''[[ユークロマチン]]''' (euchromatin) と'''[[ヘテロクロマチン]]''' (heterochromatin) の二種類がある。ユークロマチンはクロマチン構造がゆるまっており、[[転写 (生物学)|転写]]されている[[遺伝子]]はこの部分に多く存在する。ヘテロクロマチンは密に凝集しており、この領域ではあまり転写が起きていない。ヘテロクロマチンは更に次の二つに分類することができる。遺伝子の発現はほとんど見られない構成的ヘテロクロマチン (constitutive heterochromatin) と、条件によっては遺伝子の発現が見られる条件的ヘテロクロマチン (facultative heterochromatin) がある。前者は主に[[セントロメア]]付近にあり、この領域の DNA は繰り返し配列に富む。
== 染色体の各部位の呼称 ==
[[File:ChromosomeCartoon1.png|thumb|200px|図3 分裂期染色体の模式図]]
分裂期の染色体は一対の[[姉妹染色分体]]からなる(図3)。染色分体どうしがより強固に接着している領域は'''[[セントロメア]]'''と呼ばれる。分裂期には[[セントロメア]]上に形成されるキネトコアに[[微小管]]が結合し、染色分体を両極へ牽引する。[[セントロメア]]をはさんで長い側を長腕、短い側を短腕という。染色体の末端部は'''[[テロメア]]'''と呼ばれる特有の構造をしている。
== 染色体を構成するタンパク質因子 ==
染色体には'''[[ヒストン]]'''の他にも多くのタンパク質因子が結合している。[[RNAポリメラーゼ]]のような基本転写因子と呼ばれるタンパク質複合体や、特定の遺伝子座に結合しその遺伝子の発現を制御するもの、クロマチンの状態を維持または変化させるものなどがある。また、'''[[トポイソメラーゼ]]'''と呼ばれる一群の酵素は、[[DNA超らせん]]状態を制御する。染色体の高次構造を制御する因子の中で代表的なものには、[[染色体凝縮]]に関わる'''[[コンデンシン]]'''や[[姉妹染色分体]]の接着に関与する'''[[コヒーシン]]'''がある。
== 細胞周期における染色体の挙動 ==
[[ファイル:Mitosis-fluorescent.jpg|thumb|図4 分裂中期の細胞。ほとんどの染色体 (青) が赤道面に配列した状態。緑が紡錘体。]]
[[有糸分裂]]の最初のステージ([[前期 (細胞分裂)|前期]])では、[[核膜]]を保持したまま、クロマチンが凝縮を開始する。[[前中期 (細胞分裂)|前中期]]では、[[核膜]]が崩壊し、'''[[染色体凝縮]]'''がさらに進行する。凝縮の最も進んだ分裂[[中期 (細胞分裂)|中期]]では、二つの染色分体([[姉妹染色分体]])が[[セントロメア]]でより強固に結合した形態をとる。細胞の両極から伸びた長い[[微小管]](紡錘糸)はキネトコアに結合する(図4)。分裂[[後期 (細胞分裂)|後期]]にはいると、[[姉妹染色分体]]間の接着が解除され、紡錘糸は各染色分体を細胞の両極に向けて引き離す。('''染色体分離''')。こうして、最終的に各[[娘細胞]]は1セットの染色分体を受け継ぐ。細胞分裂が完了すると、染色分体は再び脱凝縮して細胞核内に収納される。
== 核型 ==
[[ファイル:Human male karyotype.gif|right|350px|thumb|図5 ヒトのカリオタイプ(男性)。常染色体は大きい順に並べ、番号で呼びあらわす。]]
ある生物の染色体を調べたいとき、[[コルヒチン]]等の薬剤で細胞を処理し細胞分裂をM期で停止させてからギムザ等の染色を施し、凝縮した染色体の数と形状を観察する。こうして撮影された染色体を並べたものが、'''[[核型]]'''('''karyotype''' '''カリオタイプ'''、'''karyogram''' '''カリオグラム''' とも呼ばれる)である。これを調べて分類学的検討などを行うことを[[核型分析]]という。
カリオタイプは種ごとに一定である。例えば、ヒトの二倍体細胞は、22対の[[常染色体]]と1対の[[性染色体]]、計46本の染色体を持つ(図5)。性染色体の組み合わせは女性では2本の[[X染色体]]、男性ではX染色体と[[Y染色体]]1本ずつとなっている。女性の2本のX染色体のうちの片方は不活性化されており、[[顕微鏡]]下では[[X染色体の不活性化|バー小体]]として観察される。
[[有性生殖]]を行う多くの種は、二倍体 (2n) の[[体細胞]] と一倍体 (1n) の[[生殖細胞|配偶子]]を持つ。雄由来の配偶子と雌由来の配偶子が接合([[受精]])すると、二倍体の接合子(受精卵)となり、[[体細胞分裂]]を繰り返して個体をつくりあげる。すなわち、二倍体の体細胞が有する2セットの相同染色体のうち、1セットは父親から、もう1セットは母親から由来する。一倍体の配偶子をつくるための特殊な[[細胞分裂]]は、[[減数分裂]]と呼ばれる。[[減数分裂]]の過程では母親と父親に由来する[[相同染色体]]は交叉を起こして遺伝情報を交換する。このように、片親からの染色体をそのまま次の世代に渡すのではなく、世代を経るたびに常に新しい遺伝情報の組み合わせが作られるようになっている。[[無性生殖]]で増殖する[[種 (分類学)|種]]の多くは染色体を1セットしか持たない。
なお、[[男性]]の持つY染色体はかつて、その大きさや遺伝子の位置などがX染色体と異なることから、[[減数分裂]]時の遺伝子の組み換えを起こさない、変異しづらい不活性なものとされてきた。しかし最近では、Y染色体においてもX染色体との交叉による[[乗り換え (生物学)|乗り換え]]が起こっていると考えられている。またY染色体内で、自身の遺伝子の位置が入れ替わっていることが明らかになるなど、実際にはY染色体の変異は比較的頻繁に起きていることがわかっている。
== 生物種による染色体数の違い ==
{{出典の明記|date=2021年7月|section=1}}
{|
|- valign="top"
|width="50%"|
{| style="border:1px solid gray;" width="100%"
|- style="background-color: #eee;"
!種!!染色体数
|-
|[[ショウジョウバエ]]||8
|-
|[[シロイヌナズナ]]||10
|-
|[[ライムギ|ライ麦]]||14
|-
||[[オオムギ]]||14
|-
||[[エンドウ]]||14
|-
||[[ハト]]||16
|-
||[[タマネギ]]||16
|-
|食用[[カタツムリ]]||24
|-
||[[イネ]]||24
|-
|[[ミミズ]]||32
|-
||[[セイヨウミツバチ]](♀)||32
|-
|[[ネコ]]||38
|-
|[[ブタ]]||38
|-
||[[ハツカネズミ]]||40
|-
|[[コムギ]]||42
|}
|
{| style="border: 1px solid gray;" width="100%"
|- style="background-color: #eee;"
!種!!染色体数
|-
|[[ヒト]]||46
|-
||[[チンパンジー]]||48
|-
|[[類人猿]]||48
|-
||[[タバコ]]||48
|-
|[[ヒツジ]]||54
|-
||[[カイコガ]]||56
|-
||[[ウシ]]||60
|-
|アヒル
|60
|-
||[[テンジクネズミ|モルモット]]||64
|-
|[[ウマ]]||64
|-
|[[イヌ]]||78
|-
|[[ニワトリ]]||78
|-
|[[コイ]]||100
|-
|[[金魚]]||104
|-
|}
|}
== 染色体研究の歴史 ==
* 1842年、[[カール・ネーゲリ|ネーゲリ]]([[w:Carl Nageli|Carl Nageli]])が、染色体を発見。
* 1865年、[[グレゴール・ヨハン・メンデル|メンデル]]([[w:Gregor Mendel|Gregor Mendel]])が'''[[メンデルの法則]]'''を発表。
* 1869年、[[フリードリッヒ・ミーシェル|ミーシャー]]([[w:Friedrich Miescher|Friedrich Miescher]])が、ヌクレイン(今日の[[DNA]])を発見。
* 1882年、[[ヴァルター・フレミング|フレミング]] ([[w:Walther Flemming|Walther Flemming]])が[[有糸分裂]]の詳細を記載<ref name="zellsubstance">{{cite journal | author = Flemming, W | title = Zellsubstantz, Kern und Zelltheilung| year = 1882 | publisher = F.C.W. Vogel, Leipzig, Germany}} </ref>。
* 1888年、ヴァルデヤー ([[w: Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz| H. W. G. von Waldeyer-Hartz]])が「染色体(chromosome)」を命名。
* 1900年、 [[ユーゴー・ド・フリース|ド・フリース]]([[w:Hugo de Vries|Hugo de Vries]])、[[エーリヒ・フォン・チェルマク|チェルマク]]([[w:Erich von Tschermak|Erich von Tschermak]])、[[カール・エーリヒ・コレンス|コレンス]]([[w:Carl Correns|Carl Correns]])による[[メンデルの法則]]の再発見。
* 1902年、[[ウォルター・サットン|サットン]]([[w:Walter Sutton|Walter Sutton]])による'''[[染色体説]]'''の提唱。
* 1920年代、[[トーマス・ハント・モーガン|モーガン]]([[w:Thomas Hunt Morgan|Thomas Hunt Morgan]])らによる[[染色体説]]の実証(下記参照)。
* 1944年、[[オズワルド・アベリー|アベリー]]([[w:Oswald Avery|Oswald Avery]])らによる[[肺炎双球菌]]の[[形質転換]]実験<ref name="pmid 19871359 ">{{cite journal | author = Avery OT, Macleod CM, McCarty M | title = Studies on the chemical nature of the substance inducing transformation of Pneumococcal types: induction of transformation of a deoxyribonucleic acid fraction isolated from Pneumococcus type III| journal = J. Exp. Med.| volume = 79 |pages = 137-158 | year = 1944 | pmid = 19871359 }} </ref>([[アベリー-マクロード-マッカーティの実験]])。
* 1952年、[[アルフレッド・ハーシー|ハーシー]]([[w:Alfred Hershey|Alfred Hershey]])らによるブレンダー実験([[ハーシーとチェイスの実験]])<ref name="pmid 12981234 ">{{cite journal | author = Hershey AD, Chase M | title = Independent functions of viral protein and nucleic acid in growth of bacteriophage | journal = J. Gen. Physiol.| volume = 36 |pages = 39-56 | year = 1952 | pmid = 12981234 }} </ref>。
* 1953年、[[ジェームズ・ワトソン|ワトソン]]([[w:James Watson|James Watson]])、[[フランシス・クリック|クリック]]([[w:Francis Crick|Francis Crick]])による'''[[DNA]][[二重らせん]]モデル'''の提唱<ref name="pmid 13054692">{{cite journal | author = Watson JD, Crick FH | title = Molecular structure of nucleic acids; a structure for deoxyribose nucleic acid | journal = Nature| volume = 171 |pages = 737-738 | year = 1953 | pmid = 13054692 }} </ref>。
* 1956年、[[アーサー・コーンバーグ]]([[w:Arthur Kornberg|Arthur Kornberg]])による[[DNAポリメラーゼ]]の発見。
* 1974年、オリンズ(A. Olins & D. Olins)、[[ロジャー・コーンバーグ|コーンバーグ]]([[w:Roger D. Kornberg|Roger Kornberg]])らによる'''[[ヌクレオソーム]]'''の発見<ref name="pmid4128918">{{cite journal | author = Olins AL, Olins DE | title = Spheroid chromatin units (v bodies) | journal = Science | volume = 183 | pages = 330-332 | year = 1974 | pmid = 4128918}}</ref><ref name="pmid4825889">{{cite journal | author = Kornberg RD | title = Chromatin structure: a repeating unit of histones and DNA | journal = Science | volume = 184 | pages = 868-871 | year = 1974 | pmid = 4825889}}</ref>。
* 1978年、[[エリザベス・ブラックバーン|ブラックバーン]]([[w:Elizabeth Blackburn|Elizabeth Blackburn]])らによる'''[[テロメア]]'''配列の同定<ref name="pmid 642006 ">{{cite journal | author = Blackburn EH, Gall JG | title = A tandemly repeated sequence at the termini of the extrachromosomal ribosomal RNA genes in Tetrahymena | journal = J. Mol. Biol.| volume = 120 |pages = 33-53 | year = 1978 | pmid = 642006 }} </ref>。
* 1980年、カーボン([[w:John Carbon|John Carbon]])らによる機能的'''[[セントロメア]]'''配列の同定<ref name="pmid 6999364 ">{{cite journal | author = Clarke L, Carbon J | title = Isolation of a yeast centromere and construction of functional small circular chromosomes | journal = Nature| volume = 287 |pages = 504-509 | year = 1980 | pmid = 6999364 }} </ref>。
* 1996年、[[チャールズ・デビッド・アリス|アリス]]([[w:Charles David Allis|Charles David Allis]])らによるヒストンアセチル化酵素の同定<ref name="pmid8601308">{{cite journal | author = Brownell JE, Zhou J, Ranalli T, Kobayashi R, Edmondson DG, Roth SY, Allis CD | title = Tetrahymena histone acetyltransferase A: a homolog to yeast Gcn5p linking histone acetylation to gene activation | journal = Cell | volume = 84 | pages = 843-851 | year = 1996 | pmid = 8601308}}</ref>。[[スチュアート・シュライバー|シュライバー]]([[w:Stuart Schreiber|Stuart Schreiber]])らによるヒストン脱アセチル化酵素の同定<ref name="pmid8602529">{{cite journal | author = Taunton J, Hassig CA, Schreiber SL | title = A mammalian histone deacetylase related to the yeast transcriptional regulator Rpd3p | journal = Science | volume = 272 | pages = 408-411 | year = 1996 | pmid = 8602529}}</ref>。
* 1997年、リッチモンド(T. J. Richmond)らによる[[ヌクレオソーム]]の高解像度結晶構造解析<ref name="pmid9305837">{{cite journal | author = Luger K, Mäder AW, Richmond RK, Sargent DF, Richmond TJ | title = Crystal structure of the nucleosome core particle at 2.8 A resolution | journal = Nature | volume = 389 | pages = 251-260 | year = 1997 | pmid = 9305837}}</ref>。
* 2000年、'''[[ヒトゲノム]]'''ドラフト配列の発表。
[[ハエ目]]昆虫の[[ショウジョウバエ]]や[[ユスリカ]]の幼虫のだ腺染色体(唾液腺細胞中の染色体)は通常の体細胞の染色体とは異なり、[[多糸染色体]]とよばれている。この染色体は例外的に、顕微鏡下でよく観察することができる。モーガンらによる初期の遺伝子研究では、主にショウジョウバエのだ腺染色体を材料として染色体上の遺伝子の位置が決定され、[[染色体地図]]が作成された。これらの成果は近年の[[ホメオボックス]]遺伝子などショウジョウバエを材料とした遺伝子研究の基礎をなすものとなったばかりでなく、遺伝学全般の基礎をなしていると言える。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考図書==
{{参照方法|date=2022年3月|section=1}}
* {{Cite book | 和書 | title =細胞の分子生物学 第6版 | author = B. Alberts他 著([[中村桂子]]・[[松原謙一]] 監訳) | year = 2017 | publisher = ニュートンプレス}}
* {{Cite book | 和書 | title =Essential 細胞生物学 第4版 | author = B. Alberts他 著(中村桂子・松原謙一 監訳) | year = 2016 | publisher = 南江堂}}
* {{Cite book | 和書 | title =カラー図説 細胞周期 | author = D. Morgan 著([[中山敬一]]・啓子 翻訳) | year = 2008 | publisher = メディカルサイエンスインターナショナル}}
* {{Cite book | 和書 | title =クロモソーム:構造と機能 | author = A.T. Sumner 著(福井希一・真庭理香 翻訳) | year = 2007 | publisher = 大阪公立大学共同出版会}}
* {{Cite book | 和書 | title =染色体と細胞核のダイナミクス | author = 平岡泰・原口徳子 編 | year = 2013 | publisher = 化学同人}}
* {{Cite book | 和書 | title =実験医学増刊号「教科書を書き換えろ!染色体の新常識」 | author = [[平野達也]]・[[胡桃坂仁志]] 編 | year = 2018 | publisher = 羊土社}}
== 資料 ==
=== ヒトの染色体の情報 ===
{| class="wikitable floatleft" style="text-align:right; margin-right:2em"
|-
! 染色体
番号
! [[遺伝子]]数
(個)
! [[塩基対]]数
(bp)
|-
| [[1番染色体 (ヒト)|1]] || 2,610 || 279,000,000
|-
| {{仮リンク|2番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 2}} || 1,748 || 251,000,000
|-
| {{仮リンク|3番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 3}} || 1,381 || 221,000,000
|-
| {{仮リンク|4番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 4}} || 1,024 || 197,000,000
|-
| {{仮リンク|5番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 5}} || 1,190 || 198,000,000
|-
| {{仮リンク|6番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 6}} || 1,394 || 176,000,000
|-
| {{仮リンク|7番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 7}} || 1,378 || 163,000,000
|-
| {{仮リンク|8番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 8}} || 927 || 148,000,000
|-
| {{仮リンク|9番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 9}} || 1,076 || 140,000,000
|-
| {{仮リンク|10番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 10}} || 983 || 143,000,000
|-
| {{仮リンク|11番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 11}} || 1,692 || 148,000,000
|-
| {{仮リンク|12番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 12}} || 1,268 || 142,000,000
|-
| {{仮リンク|13番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 13}} || 496 || 118,000,000
|-
| {{仮リンク|14番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 14}} || 1,173 || 107,000,000
|-
| {{仮リンク|15番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 15}} || 906 || 100,000,000
|-
| {{仮リンク|16番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 16}} || 1,032 || 104,000,000
|-
| {{仮リンク|17番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 17}} || 1,394 || 88,000,000
|-
| {{仮リンク|18番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 18}} || 400 || 86,000,000
|-
| {{仮リンク|19番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 19}} || 1,592 || 72,000,000
|-
| {{仮リンク|20番染色体 (ヒト)|en|Chromosome 20}} || 710 || 66,000,000
|-
| [[21番染色体 (ヒト)|21]] || 337 || 45,000,000
|-
| [[22番染色体 (ヒト)|22]] || 701 || 48,000,000
|-
| [[X染色体|X]] || 1,098 || 163,000,000
|-
| [[Y染色体|Y]] || 78 || 51,000,000
|}<!--
数値を更新しました。このことについてはノートにお願いします。
-->
*桁数を揃える為に、首位が「0」であっても表示してある。
*月刊科学雑誌[[ニュートン (雑誌)|Newton]][http://www.newtonpress.co.jp/science/newton/back/back06/n0602.html 2006年2月号]『「性」を決めるカラクリ XY染色体』による。(複数の情報を合わせたものであり、[[Wikipedia:中立的な観点|中立的]]なため)
*資料によって値が大きく変わる事もある。(特に、X・Y染色体の遺伝子数)
*日本語の資料は[http://www.lif.kyoto-u.ac.jp/genomemap/ こちら]。(京都大学大学院 生命科学研究科 生命文化学研究室による。上の表とは異なる部分もある。)
*最新の情報は[[NCBI]]の[http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?db=genomeprj&cmd=Retrieve&dopt=Overview&list_uids=9558 サイト](英語)で公開されている。
{{clear}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Chromosomes|染色体}}
*[[常染色体]]・[[性染色体]]([[X染色体]]・[[Y染色体]])
*[[染色体異常]]・[[二重微小染色体]]
*[[染色体説]]
*[[有糸分裂]]・[[体細胞分裂]]・[[減数分裂]]
*[[細胞周期]]
*[[遺伝子]]・[[ゲノム]]
*[[DNA]]・[[クロマチン]]
*[[ヒストン]]・[[コンデンシン]]・[[トポイソメラーゼ]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{染色体遺伝学}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せんしよくたい}}
[[Category:遺伝学]]
[[Category:細胞生物学]]
[[Category:分子生物学]]
[[Category:染色体|*]] | 2003-03-23T13:12:46Z | 2023-09-27T02:55:01Z | false | false | false | [
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"Template:Kotobank"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93 |
5,005 | ナルニア国物語 | 『ナルニア国物語』(ナルニアこくものがたり、原題: The Chronicles of Narnia)は、イギリスの作家、C・S・ルイスの全7巻からなる子供向け小説シリーズ。1950年から1956年にかけて出版された。英米児童文学第3の黄金期というべき1950年代に、イギリスのジョフリー・ブレス(Geoffry Bles)社などからポーリン・ベインズの挿絵をつけて上梓された。
日本では石井桃子、いぬいとみこ、鈴木晋一、瀬田貞二、松居直、渡辺茂男が第二次世界大戦後の児童文学についての研究結果を発表した『子どもと文学』(中央公論社、1960年)の影響もあり、1966年に岩波書店より瀬田貞二の訳で刊行され、現在まで版を重ねている。
出版順に次の7作からなる。
内容は創造主のライオン「アスラン」により開闢された架空の世界ナルニアを舞台に、20世紀のイギリスの少年少女が異世界と往復しながら、与えられた使命を果たす冒険を描いている(『馬と少年』のみナルニアの隣国の少年が主人公)。登場人物に関してはナルニア国ものがたりに登場する人物一覧を参照。
ルイスはアメリカ人の少年から読む順番についての手紙があった際、手紙の送り主がナルニアの始まりから終わりまでの出来事を順番にして読むことを提案した際には、良いものだと返事を書いた。すなわち、年代記(Chronicles)としては
の順となる。
1948年に『ライオンと魔女』を友人のJ・R・R・トールキンの前で読み聞かせたところ酷評され、しばらく原稿には手をつけなかったが、別の友人から勧められて再び書き始めた。緻密に構想を練るトールキンは、ルイスが神話や聖書の存在を混在させ、あまつさえサンタクロースを登場させた点に我慢ができなかったとされる。
1957年に『さいごの戦い』でカーネギー賞を受賞した。
キリスト教弁証家であるC・S・ルイスが子供に向けてキリスト教の基礎を専門用語を使わずに書いた最初で最後の小説であり、自身の最も有名な仕事となった。アメリカの子供たちから「ナルニア国物語はアレゴリーか(ここでは Christian allegory としての意)」という質問があった際に、例えばジョン・バニヤンの『天路歴程』はまさしくアレゴリーだが『ナルニア』は違うと手紙で返事をした。
また『別世界にて』(中村妙子訳/みすず書房)では以下の説明をしている(引用参照)。前述の『子どもと文学』の中で、石井桃子はファンタジーの形式が優れた文学者の哲学を表現するのに適した形式であった点を指摘しているが、ルイスも『別世界にて』の中でフェアリー・テールの効用に発言している。
日本では2013年11月22日をもってC・S・ルイスの作品はパブリックドメインとなったため、多数の出版社から出版されている。ただしポーリン・ベインズが描いた挿絵は未だ保護下にあり、掲載されているのは岩波書店版のみである。
ウォルデン・メディア製作による実写映画化がなされた。Netflix製作でシリーズが再映画化される予定。
1988年にイギリスBBCで制作された(第1章〜第3章)。
Netflixによるドラマシリーズ化がなされる予定。 | [
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"title": "ルイスの観点"
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"title": "ルイスの観点"
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"text": "日本では2013年11月22日をもってC・S・ルイスの作品はパブリックドメインとなったため、多数の出版社から出版されている。ただしポーリン・ベインズが描いた挿絵は未だ保護下にあり、掲載されているのは岩波書店版のみである。",
"title": "日本語訳"
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"text": "ウォルデン・メディア製作による実写映画化がなされた。Netflix製作でシリーズが再映画化される予定。",
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"text": "Netflixによるドラマシリーズ化がなされる予定。",
"title": "TVドラマ"
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] | 『ナルニア国物語』は、イギリスの作家、C・S・ルイスの全7巻からなる子供向け小説シリーズ。1950年から1956年にかけて出版された。英米児童文学第3の黄金期というべき1950年代に、イギリスのジョフリー・ブレス社などからポーリン・ベインズの挿絵をつけて上梓された。 日本では石井桃子、いぬいとみこ、鈴木晋一、瀬田貞二、松居直、渡辺茂男が第二次世界大戦後の児童文学についての研究結果を発表した『子どもと文学』(中央公論社、1960年)の影響もあり、1966年に岩波書店より瀬田貞二の訳で刊行され、現在まで版を重ねている。 | {{Otheruses|シリーズ小説|映画化作品|ナルニア国物語 (映画)}}{{Infobox book series
|name = ナルニア国物語
|books = {{plainlist|
* 『[[ライオンと魔女]]』(1950年)
* 『[[カスピアン王子のつのぶえ]]』(1951年)
* 『[[朝びらき丸 東の海へ]]』(1952年)
* 『[[銀のいす]]』(1953年)
* 『[[馬と少年]]』(1954年)
* 『[[魔術師のおい]]』(1955年)
* 『[[さいごの戦い]]』(1956年)
}}
|image = Books-bookshelf-bookstore-159778.jpg
|caption =
|author = [[C・S・ルイス]]
|illustrator = [[ポーリン・ベインズ]]
|country ={{UK}}
|genre = [[幻想文学|ファンタジー]]<br />[[児童文学]]
|publisher = {{仮リンク| ジェフリー・ブレス |en| Geoffrey Bles}}(1–5巻)<br />{{仮リンク| ボッドリー・ヘッド |en| The Bodley Head}}(6–7巻)<br />[[ハーパーコリンズ]] (現在; 世界中)
|pub_date = 1950年10月16日 – 1956年9月4日
|media_type =
|border=|title_orig=''The Chronicles of Narnia''|editors=|language=英語|number_of_books=7巻|translator=[[瀬田貞二]]|list_books=}}[[File:Narnian.world.map.jpg|thumb|300px|ナルニア国の地図]]
{{Portal|文学}}
『'''ナルニア国物語'''』(ナルニアこくものがたり、原題: ''The Chronicles of Narnia'')は、[[イギリス]]の作家、[[C・S・ルイス]]の全7巻からなる子供向け小説シリーズ。[[1950年]]から[[1956年]]にかけて出版された。英米[[児童文学]]第3の黄金期というべき1950年代に、イギリスのジョフリー・ブレス(Geoffry Bles)社などから[[ポーリン・ベインズ]]の挿絵をつけて上梓された。
日本では[[石井桃子]]、[[いぬいとみこ]]、[[鈴木晋一]]、[[瀬田貞二]]、[[松居直]]、[[渡辺茂男]]が[[第二次世界大戦]]後の児童文学についての研究結果を発表した『子どもと文学』([[中央公論社]]、1960年)の影響もあり、[[1966年]]に[[岩波書店]]より[[瀬田貞二]]の訳で刊行され、現在まで版を重ねている{{Efn2|過去には『ナルニア国ものがたり』の表記が用いられていたが、現在の版では『ナルニア国物語』となっている。}}。
== 構成と執筆の経緯 ==
出版順に次の7作からなる。
# [[ライオンと魔女]](1950年)
# [[カスピアン王子のつのぶえ]](1951年)
# [[朝びらき丸 東の海へ]](1952年)
# [[銀のいす]](1953年)
# [[馬と少年]](1954年)
# [[魔術師のおい]](1955年)
# [[さいごの戦い]](1956年)
内容は創造主のライオン「[[アスラン (ナルニア国ものがたり)|アスラン]]」により開闢された架空の世界[[ナルニア国|ナルニア]]を舞台に、[[20世紀]]のイギリスの少年少女が異世界と往復しながら、与えられた使命を果たす冒険を描いている(『馬と少年』のみナルニアの隣国の少年が主人公)。登場人物に関しては[[ナルニア国ものがたりに登場する人物一覧]]を参照。
ルイスは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人の少年から読む順番についての手紙があった際、手紙の送り主がナルニアの始まりから終わりまでの出来事を順番にして読むことを提案した際には、良いものだと返事を書いた<ref>『子どもたちへの手紙』[[中村妙子]]訳/[[新教出版社]]</ref>。すなわち、[[年代記]](Chronicles)としては
# [[魔術師のおい]]
# [[ライオンと魔女]]
# [[馬と少年]]
# [[カスピアン王子のつのぶえ]]
# [[朝びらき丸 東の海へ]]
# [[銀のいす]]
# [[さいごの戦い]]
の順となる。
[[1948年]]に『[[ライオンと魔女]]』を友人の[[J・R・R・トールキン]]の前で読み聞かせたところ酷評され、しばらく原稿には手をつけなかったが、別の友人から勧められて再び書き始めた。緻密に構想を練るトールキンは、ルイスが神話や聖書の存在を混在させ、あまつさえ[[サンタクロース]]を登場させた点に我慢ができなかったとされる<ref>B・シブリー『ようこそナルニア国へ』中村妙子訳 岩波書店</ref>。
[[1957年]]に『さいごの戦い』で[[カーネギー賞]]を受賞した。
== ルイスの観点 ==
[[キリスト教弁証家]]であるC・S・ルイスが子供に向けてキリスト教の基礎を専門用語を使わずに書いた最初で最後の小説であり、自身の最も有名な仕事となった。アメリカの子供たちから「ナルニア国物語は[[アレゴリー]]か(ここでは Christian allegory としての意)」という質問があった際に、例えば[[ジョン・バニヤン]]の『[[天路歴程]]』はまさしくアレゴリーだが『ナルニア』は違うと手紙で返事をした。
また『別世界にて』([[中村妙子]]訳/[[みすず書房]])では以下の説明をしている(引用参照)。前述の『子どもと文学』の中で、[[石井桃子]]はファンタジーの形式が優れた文学者の哲学を表現するのに適した形式であった点を指摘しているが、ルイスも『別世界にて』の中で[[説話|フェアリー・テール]]の効用に発言している。
{{quotation|Some people seem to think that I began by asking myself how I could say something about Christianity to children; then fixed on the fairy tale as an instrument, then collected information about child psychology and decided what age group I’d write for; then drew up a list of basic Christian truths and hammered out ‘allegories’ to embody them. This is all pure moonshine. I couldn’t write in that way. It all began with images; a faun carrying an umbrella, a queen on a sledge, a magnificent lion. At first there wasn’t anything Christian about them; that element pushed itself in of its own accord.}}
== 日本語訳 ==
日本では2013年11月22日をもってC・S・ルイスの作品はパブリックドメインとなったため、多数の出版社から出版されている。ただしポーリン・ベインズが描いた挿絵は未だ保護下{{Efn2|2022年の著作権法では2078年8月1日まで保護される。}}にあり、掲載されているのは岩波書店版のみである。
*[[瀬田貞二]]訳『ナルニア国ものがたり』(全7巻)、岩波書店、1966年5月-1966年12月。岩波少年文庫、1985年10月-1986年3月。カラー版、2005年5月-2005年11月。
** [[固有名詞]]の訳語選定が独特のスタイルである。
*** Dawn Treader = 朝びらき丸
*** Before you say Jack Robinson = 竹屋の竹右衛門という前に
*** Puddleglum = 泥足にがえもん
*** Turkish delight = [[カスタードプディング|プリン]]{{Efn2|[[ロクム|ターキッシュ・デライト]]とプリンは全く別種の菓子であるが、『ライオンと魔女』の訳者あとがきによると、ターキッシュ・デライトは日本では全く馴染みが無いと判断したために、敢えてプリンと訳したとある。}}
*[[土屋京子]]訳 『ナルニア国物語』(全7巻)、[[光文社古典新訳文庫]]、2016年9月-2018年3月。挿絵:YOUCHAN
** 原作の出版順ではなく、物語の時系列順に並べ替え刊行された。
*[[河合祥一郎]]訳 『ナルニア国物語 新訳』(全7巻)、[[角川つばさ文庫]]、2017年10月-2021年10月。[[角川文庫]]、2020年8月-2023年7月。挿絵:ソノムラ
== 映画化 ==
{{main|ナルニア国物語 (映画)}}
[[ウォルデン・メディア]]製作による実写映画化がなされた。[[Netflix]]製作でシリーズが再映画化される予定<ref>{{Cite news|title=『ナルニア国物語』Netflixが再映像化へ ― シリーズ作品、映画作品の両方を製作予定 {{!}} THE RIVER|date=2018-10-04|url=https://theriver.jp/nirnia-netflix/|accessdate=2018-10-04|language=ja|work=THE RIVER}}</ref>。
* 『[[ナルニア国物語/第1章: ライオンと魔女]]』は2005年12月アメリカ公開。日本公開は[[2006年]][[3月4日]](日本配給:[[ウォルト・ディズニー・ジャパン|ブエナ・ビスタ・インターナショナル・ジャパン]])。2005年[[アカデミーメイクアップ賞]]を受賞。
*『[[ナルニア国物語/第2章: カスピアン王子の角笛]]』は、アメリカで2007年12月<ref>[http://www.walden.com/walden/press/2006/020606_01.php Walden Media — 2006 Press Releases — Walt Disney Pictures and Walden Media Begin Pre-Production on ...] , February 6, 2006.</ref>、日本では2008年5月に公開された。この作品とその後の『[[朝びらき丸 東の海へ]]』、『[[銀のいす]]』とを合わせて3部作として制作する予定もあったが<ref>[http://www.walden.com/walden/press/2006/042806_01.php Walden Media — 2006 Press Releases — The Family Business], ''Entertainment Weekly'', Jeff Jensen, April 28, 2006.</ref>、[[2008年]][[12月24日]]、アメリカの[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]は2010年公開予定だったシリーズ第3作の制作から撤退すると発表した。同社は理由について、予算の都合と他事業の計画を考慮した結果だとしている<ref>ロイター通信社,2008.12.24発信</ref>。
* 『[[ナルニア国物語/第3章: アスラン王と魔法の島]]』が、[[20世紀フォックス]]の配給により[[2010年]][[12月10日]]に全米公開、[[2011年]][[2月25日]]に日本公開された。制作は前2作から引き続き、ウォルデン・メディアが手掛け、主要キャストも続投された。
* 2011年3月22日、次回作は原作第6巻の『[[魔術師のおい]]』を予定していることが明かされた<ref>[http://www.christianpost.com/news/narnia-4-will-be-magicians-nephew-not-silver-chair-49517/ Narnia 4 Will Be 'Magician's Nephew,' Not 'Silver Chair']</ref> が、後に諸々の事情により、原作第4巻の『[[銀のいす]]』に変更になった。
*2018年10月3日、Netflixがシリーズ全作の映像化権を取得し、再映画化およびドラマシリーズ化をすると報じられた<ref name=":0">{{Cite news|title=‘Chronicles of Narnia’ Series, Films in the Works at Netflix|date=2018-10-03|last=Otterson|first=Joe|url=https://variety.com/2018/tv/news/chronicles-of-narnia-series-films-netflix-1202966920/|accessdate=2018-10-04|language=en-US|work=Variety}}</ref>。アニメ映画『[[リメンバー・ミー (2017年の映画)|リメンバー・ミー]]』の脚本家の1人である[[マシュー・オルドリッチ]]が主導する<ref>{{Cite news|url= https://eiga.com/news/20190710/19/ |title= Netflix版「ナルニア国物語」は「リメンバー・ミー」脚本家が主導 |newspaper= 映画.com |publisher= 株式会社エイガ・ドット・コム |date= 2019-07-10 |accessdate= 2020-10-14 }}</ref>。ただし、2020年5月時点で続報はなかった<ref>{{Cite web2|language=en|url=https://screenrant.com/chronicles-narnia-producer-no-netflix-update-episodic-reboot/|title=Narnia Producer Hopes Reboot is Episodic But Hasn't Heard From Netflix|last=Labonte|first=Rachel|date=11 May 2020|website=Screen Rant|access-date=20 May 2023}}</ref>。
*2023年7月4日、Netfllixによる実写化のリメイク企画が始動。『[[バービー (映画)|バービー]]』の監督[[グレタ・ガーウィグ]]が少なくとも2本の長編を監督する。
== TVドラマ ==
1988年にイギリス[[英国放送協会|BBC]]で制作された(第1章〜第3章)。
Netflixによるドラマシリーズ化がなされる予定<ref name=":0" />。
*第一章 ライオンと魔女
*第二章 カスピアン王子のつのぶえ/朝びらき丸、東の海へ
*第三章 銀のいす
== アニメ ==
* 『ナルニア国物語〜ライオンと魔女〜』(原題:『The Lion, the Witch, & the Wardrobe』)。1979年にイギリス・アメリカ合作で制作された。同年[[エミー賞]]を受賞。
== 漫画 ==
* ナルニア国物語([[光文社]]、作画:[[玉樹庵]])既刊5巻 電子書籍のみ
# ナルニア国物語 1 魔術師のおい 1<ref>{{Cite web2 |url=https://www.pixiv.net/artworks/82564276 |title=「ナルニア国物語 1 魔術師のおい 1」発売 |accessdate=2023-07-25}}</ref>
# ナルニア国物語 1 魔術師のおい 2<ref>{{Cite web2 |url=https://www.pixiv.net/artworks/82564343 |title=「ナルニア国物語 1 魔術師のおい 2」発売 |accessdate=2023-07-25}}</ref>
# ナルニア国物語 1 魔術師のおい 3<ref>{{Cite web2 |url=https://www.pixiv.net/artworks/83249197 |title=「ナルニア国物語 1 魔術師のおい 3」発売 |accessdate=2023-07-25}}</ref>
# ナルニア国物語 1 魔術師のおい 4<ref>{{Cite web2 |url=https://www.pixiv.net/artworks/84010483 |title=「ナルニア国物語 1 魔術師のおい 4」発売 |accessdate=2023-07-25}}</ref>
# ナルニア国物語 1 魔術師のおい 5<ref>{{Cite web2 |url=https://www.pixiv.net/artworks/84632431 |title=「ナルニア国物語 1 魔術師のおい 5」発売 |accessdate=2023-07-25}}</ref>
== 関連本 ==
* 『ナルニア国物語解読』[[安藤聡]]、[[彩流社]]([[2006年]])
== 関連項目 ==
* [[ハイ・ファンタジー]]
* [[C・S・ルイス]]
* [[キリスト教会]]
* [[教文館]] - 銀座教文館ビル9階の児童書専門フロアの名称が「子どもの本のみせ ナルニア国」。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
<references />
== 外部リンク ==
* [http://www.narnia.com/ ナルニア国物語(海外) 公式サイト]
* [http://www.disney.co.jp/movies/narnia/shell_content.html ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女 公式サイト]
* [http://www.disney.co.jp/narnia/narnia2/index.html ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛 公式サイト]
* [http://movies.foxjapan.com/narnia3/ ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島 公式サイト]
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[[Category:ナルニア国ものがたり|*]] <!--Category:Narnia books-->
[[Category:イギリスのファンタジー小説]]
[[Category:イギリスの児童文学]]
[[Category:ファンタジー小説のシリーズ]]
[[Category:キリスト教小説]]
[[Category:伝説の生物を題材とした小説]]
[[Category:C・S・ルイス]]
[[Category:教文館]]<!-- ナルニア物語日本語版の発行元 -->
[[Category:架空の国家を舞台とした作品]] | 2003-03-23T14:26:50Z | 2023-09-01T01:29:06Z | false | false | false | [
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5,006 | ニコラス・ケイジ | ニコラス・ケイジ(Nicolas Cage, 1964年1月7日 - )は、アメリカ合衆国の俳優であり、映画監督、映画製作者。1995年の『リービング・ラスベガス』では、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、全米映画俳優組合賞などで主演男優賞を受賞。
カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。父オーガスト・コッポラはイタリア系で大学教授兼作家、母ジョイ・フォーゲルザングはドイツ系のバレエ・ダンサー。兄(マーク・コッポラ、クリストファー・コッポラ)がおり、クリストファーは映画監督をしている。父方の祖父は作曲家のカーマイン・コッポラ、祖母は女優のイタリア・ペニーニ。叔父に映画監督のフランシス・フォード・コッポラ、叔母に女優のタリア・シャイア、いとこにソフィア・コッポラ、ロマン・コッポラがいる。
ビバリーヒルズ高校中退。日本語学校に通っていた経験があるため、日本語がある程度話せる。映画でもしばしば披露する他、来日時には日本語で挨拶することもある。
1981年に『初体験/リッジモント・ハイ』でニコラス・コッポラとしてデビューする。その後、現在の芸名に変更した。芸名の「ケイジ」の由来はマーベル・コミック社のコミック「パワーマン」の主人公ルーク・ケイジから。若い頃はコッポラ監督の甥と呼ばれることを嫌がっていた。オーディションを受けても、製作者たちの浴びせる質問は彼についてではなく、叔父フランシスのことばかりだったという。本名のコッポラを名乗らず、あえて“ケイジ”の芸名を使うことにしたのも、そのためと言われている。
1995年の『リービング・ラスベガス』でアカデミー主演男優賞を受賞。オスカー受賞後は、芸術的な映画に留まらず、大作映画にも積極的に出演した。同業のショーン・ペンはケイジの大作映画出演をいぶかしく思っていると発言した。
サターン・フィルムズ(Saturn Films)という映画制作会社を設立。2000年に『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』に製作者として参加し、2002年には『SONNY ソニー』(Sonny)で監督兼プロデューサーを務めた。その後も、映画制作会社サターン・フィルムズの共同経営者として、いくつかの作品をプロデュースしている。
5度の結婚歴、4度の離婚歴があり、計3人の子供、計1人の孫がいる。
非常に車好きで、フェラーリの現行車種を全車種(限定車のエンツォ等含む)所有している。また、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー元国王が所有していたランボルギーニを所有していたこともある。
アメリカンコミック好きでも知られ、自身の芸名は元より、息子にまでアメコミキャラクターの名を付けるほどである(カルエルはスーパーマンの本名)。彼のコミックコレクションをオークションにかけた際に出品された400品目の中には、『アクションコミック』1号や『ウィズコミック』1号、『ディテクティブコミック』38号、『オールスターコミック』3号等のレアアイテムが目白押しで、総落札額は160万ドルに達した。また、日本の成年コミックに並々ならぬ興味を示しており、「論ずるに値する」と述べている。
しかし一方で、「15歳の頃からコミックは読んでいない」と、コミックオタクという印象を否定する発言がある。
2007年にアメコミ作家デビュー。息子のウェストン君と連名で『Voodoo Child』という漫画を製作し、2007年開催のサンディエゴ・コミコンで初公開。ヴァージン・コミックスから全6巻で刊行された。
また、カルト映画も好きで、同じ趣味のラモーンズのリーダー、ジョーイ・ラモーンとは親友だった。そのため、ケイジは彼が好きだったカルト映画『ウィッカーマン』を自費で2006年にリメイクし、ラストに「ジョーイ・ラモーンに捧ぐ」とクレジットした。しかしそのため、ラジー賞主演男優部門をはじめ5部門にノミネートされる結果となった。
ガレージキットのコレクターでもあり、まんだらけを過去4回訪れている。その度に段ボール数箱分の買い物をするため、ニコラスが来た日は売り上げが跳ね上がるという。過去一番大きな買い物は、高さ1.5メートルのガメラ(40万円)。
『コットンクラブ』(TBS版)以降、大半の作品で大塚明夫が担当し、専属(フィックス)となっている。
大塚自身、数多くの俳優の吹き替えを担当しているが、その中でもケイジは大変気に入っているとのことで「彼の芝居は当てていて楽しいんです」とインタビューで答えている。大塚はケイジについて「ニコラス・ケイジって、なんでも演じるんです。しかも前のめりに一生懸命演じている。彼は作品を、"役がおもしろいか"どうかで選んでいると思います」と分析している。ケイジの吹き替えを長年に渡り演じているために思い入れも強く「一方的に僕は(ケイジが)友人のような気がしているんですよ。彼の呼吸を自分に写しとって芝居をしているものだから、親しみ深い気がしてきましてね。そんな彼が、映画のなかでコミカルな演技をしようと一生懸命もがいている姿を観て、よし、これは僕もやんなきゃなって」と語っており、他人とは思えない存在であると同時に日々勇気付けられていると語っている。また、『オレの獲物はビンラディン』の予告編のナレーションを務め終えた際には、「ニコラス・ケイジは、非常に演じがいのある俳優。『オレの獲物はビンラディン』も、“これはぜひやりたいな”と思っていたので、声優魂に火がつきました!!」とケイジへの強い愛情に満ちたコメントを寄せている。 『マッシブ・タレント』の公開時には「初めてニコラス・ケイジを演じた『コットンクラブ』から30年以上が経ち、彼の芝居を長いことトレースして呼吸を合わせてきたからこそ、どんな仕事でも本気で挑んでいるのが伝わってきます。彼の仕事に対しての姿勢はとても他人事とは思えません」と敬意を表すると同時に、思い入れのあるニコラス・ケイジの作品に『フェイス/オフ』と前述の『オレの獲物はビンラディン』の2作品を挙げ「演じがいがありました」と回想。『シティ・オブ・エンジェル』や『リービング・ラスベガス』など、演じられなかったケイジの作品にも「ぜひ機会があれば挑戦してみたいですね。もう若い頃の声は演じられませんが(笑)」と意欲を見せている。また、100本以上も出演作のある役者であることから、大塚自身はケイジを演じる機会に恵まれたことを嬉しく思っているという。
『スパイダーマン:スパイダーバース』では原語版でケイジが演じたスパイダーマン・ノワール役の吹き替えを担当したが、音響監督の岩浪美和は原語版の声優がケイジであると知らずに大塚を配役したため、偶然の一致であった。このことに関して岩浪は「ああ、やはりみんな考えることは一緒だな、と思いました」と感動を覚えたという。
2023年にはケイジが来日し、小島プロダクションに訪れる出来事があったが、この際大塚は「なんで呼んでくんないのー」と小島を介してケイジと対面するチャンスを逃したことを心残りに思う旨のコメントをしている。
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] | ニコラス・ケイジは、アメリカ合衆国の俳優であり、映画監督、映画製作者。1995年の『リービング・ラスベガス』では、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、全米映画俳優組合賞などで主演男優賞を受賞。 | {{ActorActress
| 芸名 = Nicolas Cage
| ふりがな = ニコラス・ケイジ
| 画像ファイル = Nicolas Cage 2014 (cropped).jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像コメント = 2014年
| 本名 = ニコラス・コッポラ(Nicolas Coppola)
| 別名義 = Nicolas Coppola
| 出生地 = {{USA}}・[[カリフォルニア州]][[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]
| 死没地 =
| 国籍 =
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1964
| 生月 = 1
| 生日 = 7
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = 俳優
| ジャンル = 映画
| 活動期間 = 1980年 -
| 活動内容 = 1980年:デビュー<br/>1996年:[[アカデミー賞]]受賞
| 配偶者 = [[パトリシア・アークエット]](1995年 - 2001年)<br/>[[リサ・マリー・プレスリー]](2002年 - 2004年)<br/>アリス・キム(2004年 - 2016年)<br />エリカ・コイケ(2019年)<br> 芝田璃子(2021年 - )
| 著名な家族 = [[フランシス・フォード・コッポラ]](叔父)<br>[[ソフィア・コッポラ]](いとこ)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''出演'''<br />『[[ランブルフィッシュ (映画)|ランブルフィッシュ]]』『[[コットンクラブ (映画)|コットンクラブ]]』<br />『[[バーディ (映画)|バーディ]]』『[[ペギー・スーの結婚]]』<br />『[[赤ちゃん泥棒]]』『[[月の輝く夜に]]』<br />『[[ワイルド・アット・ハート]]』<br />『[[ハネムーン・イン・ベガス]]』<br />『[[リービング・ラスベガス]]』『[[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]』<br />『[[コン・エアー]]』『[[フェイス/オフ]]』<br />『[[シティ・オブ・エンジェル]]』<br />『[[8mm (映画)|8mm]]』『[[救命士 (映画)|救命士]]』『[[60セカンズ]]』<br />『[[天使のくれた時間]]』『[[アダプテーション]]』<br />『[[マッチスティック・メン]]』<br />『[[ナショナル・トレジャー]]』シリーズ<br />『[[ロード・オブ・ウォー]]』<br />『[[ワールド・トレード・センター (映画)|ワールド・トレード・センター]]』<br />『[[ゴーストライダー (映画)|ゴーストライダー]]』シリーズ<br />『[[NEXT -ネクスト-]]』『[[ノウイング]]』<br />『[[バッド・ルーテナント (映画)|バッド・ルーテナント]]』『[[キック・アス (映画)|キック・アス]]』<br />『[[魔法使いの弟子 (映画)|魔法使いの弟子]]』『[[ゲットバック]]』<br />『[[マンディ 地獄のロード・ウォリアー]]』<br />『[[カラー・アウト・オブ・スペース -遭遇-]]』<br />『[[PIG/ピッグ]]』『[[マッシブ・タレント]]』<hr />'''声の出演'''<br />『[[スパイダーマン:スパイダーバース]]』<hr>'''製作・製作総指揮'''<br />『[[シャドウ・オブ・ヴァンパイア]]』<br />『[[ライフ・オブ・デビッド・ゲイル]]』
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]'''<br/>[[第68回アカデミー賞|1995年]]『[[リービング・ラスベガス]]』
| 全米映画批評家協会賞 = '''[[全米映画批評家協会賞|主演男優賞]]'''<br />[[1995年]]『リービング・ラスベガス』
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第61回ニューヨーク映画批評家協会賞|1995年]]『リービング・ラスベガス』
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第21回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1995年]]『リービング・ラスベガス』
| AFI賞 =
| MTVムービー・アワード = '''[[MTVムービー・アワード|最優秀スクリーン・デュオ]]'''<br />[[1996年]]『[[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]』<br />[[1997年]]『[[フェイス/オフ]]』
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞(ドラマ部門)]]'''<br/>[[第53回ゴールデングローブ賞|1995年]]『リービング・ラスベガス』
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ジェミニ賞 =
| ジニー賞 =
| セザール賞 =
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第2回全米映画俳優組合賞|1995年]]『リービング・ラスベガス』
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 =
| 備考 = [[:en:Coppola family tree|コッポラ家]]
}}
'''ニコラス・ケイジ'''(Nicolas Cage, [[1964年]][[1月7日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[俳優]]であり、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー|映画製作者]]。1995年の『[[リービング・ラスベガス]]』では、[[アカデミー賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]、[[全米映画俳優組合賞]]などで主演男優賞を受賞。
== 生い立ち ==
[[カリフォルニア州]][[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]生まれ。父[[オーガスト・コッポラ]]は[[イタリア系アメリカ人|イタリア系]]で大学教授兼作家、母ジョイ・フォーゲルザングは[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]]のバレエ・ダンサー。兄([[マーク・コッポラ]]、[[クリストファー・コッポラ]])がおり、クリストファーは映画監督をしている。父方の祖父は作曲家の[[カーマイン・コッポラ]]、祖母は女優の[[イタリア・コッポラ|イタリア・ペニーニ]]。叔父に映画監督の[[フランシス・フォード・コッポラ]]、叔母に女優の[[タリア・シャイア]]、いとこに[[ソフィア・コッポラ]]、[[ロマン・コッポラ]]がいる。
ビバリーヒルズ高校中退。日本語学校に通っていた経験があるため、日本語がある程度話せる。映画でもしばしば披露する他、来日時には日本語で挨拶することもある。
== キャリア ==
1981年に『[[初体験/リッジモント・ハイ]]』で'''ニコラス・コッポラ'''としてデビューする。その後、現在の芸名に変更した。芸名の「ケイジ」の由来は[[マーベル・コミック]]社のコミック「パワーマン」の主人公ルーク・ケイジから。若い頃はコッポラ監督の甥と呼ばれることを嫌がっていた。オーディションを受けても、製作者たちの浴びせる質問は彼についてではなく、叔父フランシスのことばかりだったという。本名のコッポラを名乗らず、あえて“ケイジ”の芸名を使うことにしたのも、そのためと言われている。
1995年の『[[リービング・ラスベガス]]』で[[アカデミー主演男優賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://kuruma-news.jp/post/91933|title=豪快に50台もの高級車を盗みまくる 名車からスーパーカーまで続々登場の「60セカンズ」|publisher=くるまのニュース|date=2018-05-25|accessdate=2022-03-29}}</ref>。[[オスカー像|オスカー]]受賞後は、芸術的な映画に留まらず、大作映画にも積極的に出演した。同業の[[ショーン・ペン]]はケイジの大作映画出演をいぶかしく思っていると発言した<ref>{{Cite journal|title=Scoop - Nicolas Cage bites back after Sean Penn ridicules his career|journal=[[ピープル (雑誌)|ピープル]]|volume=Vol. 51|issue=No. 12|date=1999-4-5|publisher=People Weekly|url=http://www.people.com/people/archive/article/0,,20127825,00.html|accessdate=2021-05-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160417075552/http://www.people.com/people/archive/article/0,,20127825,00.html|archivedate=2016-04-17}}{{En icon}}</ref>。
サターン・フィルムズ(Saturn Films)という映画制作会社を設立。2000年に『[[シャドウ・オブ・ヴァンパイア]]』に製作者として参加し、2002年には『SONNY ソニー』(''Sonny'')で監督兼プロデューサーを務めた。その後も、映画制作会社サターン・フィルムズの共同経営者として、いくつかの作品をプロデュースしている。
== 私生活 ==
{{存命人物の出典明記|date=2012年7月}}
=== 家族 ===
5度の結婚歴、4度の離婚歴があり、計3人の子供、計1人の孫がいる。
*1988年に女優の[[:en:Christina Fulton|クリスティーナ・フルトン]]と交際、1990年12月26日に2人の間に生まれたのが後に[[ブラックメタル]]・バンド「アイズ・オブ・ノクターン」のリードボーカルを務めるウェストン・コッポラ・ケイジである。
*1995年4月8日に女優の[[パトリシア・アークエット]]と[[再婚]]したが、2001年5月18日に離婚した。2002年8月10日には[[リサ・マリー・プレスリー]]と再婚したが、同年11月15日に離婚を申請し、2004年5月26日に離婚した<ref name="silverman2004">{{cite web |last=Silverman |first=Stephen M |url=http://www.people.com/people/article/0,,642162,00.html |title=Cage-Presley Union Now a Memory |work=People |date=May 26, 2004 |accessdate=February 14, 2010}}</ref>。ちなみに、ケイジはプレスリーのコレクターでもある。
*2004年7月30日に[[ロサンゼルス]]の寿司店(Kabuki Japanese Restaurant)にてウエイトレスをしていた20歳年下の[[韓国系アメリカ人]]女性アリス・キムと韓国系[[ナイトクラブ]]で出会い、[[再々婚]]した<ref>{{cite web|title=Nicolas Cage and Alice Kim Marriage Profile|url=http://marriage.about.com/od/celebritymarriages/p/nicolascage.htm|work=[[About.com]]|accessdate=October 14, 2012}}</ref>。2005年10月3日に長男カル=エル・コッポラ・ケイジが誕生した。名前のカル=エルとは『[[スーパーマン]]』が生まれた時の名前である。2016年6月24日広報担当者の話として、同年1月にアリスと離婚していたことが発表された[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/06/27/2016062700598.html]。
:2011年4月15日、[[ニューオーリンズ]]・[[フレンチ・クオーター]]で泥酔して、近くにある住宅を自分の借家だと思い込んで妻アリスを引っ張って行こうとし、さらに喚きながらタクシーに乗り込もうとして[[ドメスティックバイオレンス]]、治安妨害、公衆酩酊(日本の「[[酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律]]」違反相当)の容疑で逮捕されたが、日本円で約94万円の保釈金を払い保釈され、仕事を再開した<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0031750|title=ニコラス・ケイジ、逮捕!泥酔状態で妻にドメスティック・バイオレンス|publisher=シネマトゥデイ|date=2011年4月17日|accessdate=2013年3月8日}}</ref>。
:2016年6月、妻の[[wikt:浮気|浮気]]により[[離婚]]していたことが判明<ref>[http://isplus.live.joins.com/news/article/article.asp?total_id=20399133 [할리우드is] 니콜라스 케이지, 한국계 아내 앨리스 킴 ´외도´로 이혼 결심 - 일간스포츠]</ref>。
*2019年3月23日、4度目になる結婚を、[[ロサンゼルス]]のタイ料理レストラン(Jasmine Thai Cuisine)経営者の両親を持つメイク・アップ・アーティストのエリカ・コイケ(父は日本人、母はタイ人。1983年アメリカ生まれ)と行ったが、四日後に無効申請を行った。理由は、両人が泥酔中に行った決定であることや、新婦が飲酒運転で逮捕歴があることなどである<ref>[https://japan.techinsight.jp/2019/03/emma03291435.html 【イタすぎるセレブ達】ニコラス・ケイジ、結婚はやはり“酒の勢い” お相手女性に犯罪歴も | Techinsight]</ref><ref>[https://www.thefamouspeople.com/profiles/erika-koike-44166.php Erika Koike - Bio, Facts, Family Life of Nocolas Cage's Ex-wife]</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/30/kiji/20190329s00041000535000c.html ニコラス・ケイジ、わずか4日で結婚破綻?「婚姻無効を申請」と米メディア報道― スポニチ Sponichi Annex]</ref><ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2019/04130559/?all=1 「ニコラス・ケイジ」が4日で離婚 日本人“エリカ”とは何者か]週刊新潮 2019年4月11日号</ref>。そして5月31日に [[ネバダ州]][[クラーク郡 (ネバダ州)|クラーク郡]]の裁判所により離婚が正式に認められた<ref>[https://www.vogue.co.jp/celebrity/news/2019-06-04/nicholas-cage ニコラス・ケイジと日系人妻エリカ・コイケの離婚が成立。](VOGUE、2019年6月4日)</ref>。
*2021年2月16日、ケイジの亡き父の誕生日の日に5度目の結婚を31歳年下の芝田璃子とラスベガスのウェスティンホテルで行った<ref>{{Cite news|title=Inside Nicolas Cage and Riko Shibata's Las Vegas Wedding: 'We Are Very Happy'|date=2021-03-05|url=https://people.com/movies/inside-nicolas-cage-and-riko-shibatas-las-vegas-wedding-we-are-very-happy/|accessdate=2021-03-07|publisher=people}}</ref><ref>{{Cite news|title=Nicolas Cage Ties the Knot for Fifth Time, Marrying Girlfriend Riko Shibata in 'Intimate' Las Vegas Ceremony|date=2021-03-05|url=https://people.com/movies/nicolas-cage-marries-fifth-time-girlfriend-riko-shibata-las-vegas/|accessdate=2021-03-07|publisher=people}}</ref>。2022年1月妻が妊娠したことを発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202201070000366.html|title=ニコラス・ケイジ 昨年再婚日本人妻リコ・シバタさんとの間に第1子誕生へ|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-07|accessdate=2022-01-07}}</ref>。
=== 趣味 ===
非常に車好きで、[[フェラーリ]]の現行車種を全車種(限定車のエンツォ等含む)所有している。また、[[パフラヴィー朝|イラン]]の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]元国王が所有していた[[ランボルギーニ]]を所有していたこともある。
アメリカンコミック好きでも知られ、自身の芸名は元より、息子にまでアメコミキャラクターの名を付けるほどである(カルエルは[[スーパーマン (架空の人物)|スーパーマン]]の本名)。彼のコミックコレクションをオークションにかけた際に出品された400品目の中には、『アクションコミック』1号や『ウィズコミック』1号、『ディテクティブコミック』38号、『オールスターコミック』3号等のレアアイテムが目白押しで、総落札額は160万ドルに達した。また、日本の[[成年コミック]]に並々ならぬ興味を示しており、「論ずるに値する」と述べている<ref>月刊プレイボーイ誌1996年10月号</ref>。
しかし一方で、「15歳の頃からコミックは読んでいない」と、コミックオタクという印象を否定する発言がある<ref>『[[キック・アス (映画)|キック・アス]]』インタビュー</ref>。
2007年にアメコミ作家デビュー。息子のウェストン君と連名で『[[:en:Voodoo Child (comics)|Voodoo Child]]』という漫画を製作し、2007年開催の[[サンディエゴ・コミコン]]で初公開。ヴァージン・コミックスから全6巻で刊行された。
また、[[カルト映画]]も好きで、同じ趣味の[[ラモーンズ]]のリーダー、[[ジョーイ・ラモーン]]とは親友だった。そのため、ケイジは彼が好きだったカルト映画『[[ウィッカーマン (1973年の映画)|ウィッカーマン]]』を自費で[[2006年]]に[[ウィッカーマン (2006年の映画)|リメイク]]し、ラストに「ジョーイ・ラモーンに捧ぐ」とクレジットした。しかしそのため、[[ゴールデンラズベリー賞|ラジー賞]]主演男優部門をはじめ5部門にノミネートされる結果となった<ref>[http://www.imdb.com/Sections/Awards/Razzie_Awards/2007 Razzie Awards: 2007] - [[インターネット・ムービー・データベース]]{{En icon}}</ref>。
[[ガレージキット]]のコレクターでもあり、[[まんだらけ]]を過去4回訪れている。その度に段ボール数箱分の買い物をするため、ニコラスが来た日は売り上げが跳ね上がるという。過去一番大きな買い物は、高さ1.5メートルの[[ガメラ]](40万円)<ref>2010年12月17日放送『[[この日本人がスゴイらしい。 Brand New Japan|この日本人がスゴイらしい。]]』</ref>。
=== 金銭 ===
*かなりの浪費家として知られ、古城、高級車、恐竜の化石や骨、コミックコレクションなどを派手に購入していたニコラスだが、その浪費癖から資金難になってしまい、2009年8月には200万ドル(日本円で約1億8000万円)の債務不履行で銀行から訴えられているほか、2007年と2008年分の未納分税金や延滞分利子および罰金などで630万ドル(約5億6700万円)を滞納していることが明らかになった。2012年11月現在で約600万ドル(約4億8,000万円)の滞納金があると報道されている<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0047916|title=ニコラス・ケイジ、滞納している税金4,800万円を支払い 残りは4億8,000万円|publisher=シネマトゥデイ|date=2012年11月21日|accessdate=2013年3月8日}}</ref>。ニコラスは元ビジネス・マネージャーのサミュエル・レビンの不適切なアドバイスが財政難の原因と釈明し、彼を相手取って2000万ドル(約18億円)の訴訟をおこしたが示談が成立している<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0027813|title=ニコラス・ケイジ、銀行から2億円以上を返済命令!家は差し押さえで売却も追いつかず|publisher=シネマトゥデイ|date=2010年10月22日|accessdate=2013年3月8日}}</ref>。
*2009年11月、『ピープル』誌によれば、ニコラスがニューオリンズのフレンチ・クォーターの一角に所有していた2軒の家が競売で売られた。この2軒は税金の滞納で差し押さえられていたもので、落札者はニコラスがローンを組んでいるリージョンス銀行。2軒ともこの銀行が落札したが、他に入札者はいなかったという。資産価値は合計で680万ドル(約6億1200万円)だが、落札金額は450万ドル(約4億500万円)とお買い得だったようだ。他にも担保としてラスベガス近郊の高級住宅地のベルエアに所有する[[豪邸]]を1100万ドル、マリブの豪邸を1000万ドルで競売に出したが買い手が付かず、銀行に差し押さえられた<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0023636|title=ニコラス・ケイジ、また不動産を競売にかけられる|publisher=シネマトゥデイ|date=2010年4月9日|accessdate=2013年3月8日}}</ref>。さらにロードアイランドにある豪邸も差し押さえられ、オークションで競売にかけられている。
*先述の通り、かなりの車好きで、フェラーリの現行モデルはほぼ所有しているが、2010年3月に高級車のロールス・ロイスのリースを巡って訴えられた。2007年に55万ドル(約4950万円)相当の1964年型のロールス・ロイスSCを月々7663ドル(約69万円)で5年リースし、その4ヵ月後には24万5000ドル(約2200万円)相当の2002年型も月々3630ドル(約33万円)で5年のリース契約を結んだ。ところが税金滞納などの財政難により、月々の支払いができず、2台とも途中でリース契約を打ち切ることになったため、契約違反でリース会社から合計24万2000ドル(約2180万円)の損害賠償を求める訴えを起こされた。借金返済のために世界各地に所有していた豪邸に続き、ついに高級車を手放さざるを得なくなった。
*財政難で窮地に立たされているニコラスだが、2010年4月、米TMZ.comによれば、アメリカの[[ルイジアナ州]]、[[ニューオーリンズ]]に高さ約2.7メートルの白いピラミッド型の墓を自分用に購入しているようだ。なぜ、ピラミッド型を選んだのかは定かではないが、ニコラスが伝説の秘宝を追う歴史学者兼冒険家に扮したアドベンチャー大作『ナショナル・トレジャー』シリーズにヒントを得たのではないかと言われている。
* なお、前述のように借金返済に苦慮していることから、仕事を選ばずに多くの映画に出演した。数年掛けて46本もの映画に出演したことが功を奏し、現在は全ての借金を完済済みであるという<ref>{{Cite web|和書|title=ニコラス・ケイジ、VOD映画への出演を重ねついに借金完済 数年間で46本に出演 |url=https://realsound.jp/movie/2022/03/post-995169.html |website=Real Sound|リアルサウンド 映画部 |access-date=2022-09-28 |language=ja}}</ref>
== フィルモグラフィー ==
* 役名の太字は主演。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%;"
|-
!公開年 !! 邦題<br />原題 !! 役名 !! 備考 !! 吹き替え
|-
| 1982 || [[初体験/リッジモント・ハイ]]<br />''Fast Times at Ridgemont High'' || ブラッドの友人 || 映画デビュー作<br />ニコラス・コッポラ名義 || (台詞なし)
|-
| rowspan="2" | 1983 || [[ヴァレー・ガール]]<br />''[[:en:Valley Girl (1983 film)|Valley Girl]]'' || '''ランディ''' || 別題『アップタウン・ガール』 || ''TBA''
|-
| [[ランブルフィッシュ (映画)|ランブルフィッシュ]]<br />''Rumble Fish'' || スモーキー || || (吹き替え版なし)
|-
| rowspan="3" | 1984 || [[月を追いかけて]]<br />''[[:en:Racing with the Moon|Racing with the Moon]]'' || ニッキー || || ''TBA''
|-
| [[コットンクラブ (映画)|コットンクラブ]]<br />''The Cotton Club'' || ヴィンセント || || [[相沢まさき|相沢正輝]](ソフト版)<br />[[大塚明夫]]([[TBSテレビ|TBS]]版)
|-
| [[バーディ (映画)|バーディ]]<br />''Birdy'' || アル || || (吹き替え版なし)
|-
| rowspan="2" | 1986 || [[ボーイ・イン・ブルー]]<br />''[[:en:The Boy in Blue (1986 film)|The Boy in Blue]]'' || '''ネド''' || || ''TBA''
|-
| [[ペギー・スーの結婚]]<br />''Peggy Sue Got Married'' || チャーリー || || [[牛山茂]]([[テレビ朝日]]版)
|-
| rowspan="2" | 1987 || [[赤ちゃん泥棒]]<br />''Raising Arizona'' || '''H・I・マクダノー''' || || (吹き替え版なし)
|-
| [[月の輝く夜に]]<br />''Moonstruck'' || '''ロニー''' || [[ゴールデングローブ賞]]主演男優賞ノミネート || [[鈴置洋孝]]([[ANA]]版)<br />[[小室正幸]]([[JAL]]版)
|-
|1988|| [[バンパイア・キッス]]<br />''Vampire's Kiss'' || '''ピーター・ロウ''' || [[インディペンデント・スピリット賞]]主演男優賞ノミネート || ''TBA''
|-
| rowspan="2" |1989
| [[ハートにびんびん火をつけて]]<br />''[[:en:Never on Tuesday|Never on Tuesday]]'' || 赤い[[スポーツカー]]の男 || || ''TBA''
|-
| [[エネミー・ウォー]]<br />''[[:en:Time to Kill (1989 film)|Time to Kill]]'' || '''エンリコ''' || || 大塚明夫(VHS版)<br />[[桐本拓哉|桐本琢也]](DVD版)
|-
| rowspan="2" | 1990 || [[アパッチ (1990年の映画)|アパッチ]]<br />''Wings of the Apache(Fire Birds)'' || '''ジェイク''' || || [[小野健一 (声優)|小野健一]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]版)<br />[[江原正士]](テレビ朝日版)
|-
| [[ワイルド・アット・ハート]]<br />''Wild at Heart'' || '''セーラー''' || || 相沢正輝
|-
| 1991 || [[ザンダリーという女]]<br />''[[:en:Zandalee|Zandalee]]'' || '''ジョニー''' || || (吹き替え版なし)
|-
| 1992 || [[ハネムーン・イン・ベガス]]<br />''Honeymoon in Vegas'' || ジャック || ゴールデングローブ賞主演男優賞ノミネート || [[安原義人]]
|-
| rowspan="3" | 1993 || [[アモス&アンドリュー]]<br />''Amos & Andrew'' || '''アモス''' || || (吹き替え版なし)
|-
| [[レッドロック/裏切りの銃弾]]<br />''Red Rock West'' || '''マイケル''' || || [[田中正彦]]
|-
| [[プロフェッショナル (映画)|プロフェッショナル]]<br />''[[:en:Deadfall (1993 film)|Deadfall]]'' || エディ || || [[大塚芳忠]]
|-
| rowspan="3" | 1994 || [[不機嫌な赤いバラ]]<br />''Guarding Tess'' || ダグ || || rowspan="2" | 江原正士
|-
| [[あなたに降る夢]]<br />''It Could Happen to You'' || '''チャーリー''' ||
|-
| [[パラダイスの逃亡者]]<br />''Trapped in Paradise'' || '''ビル''' || || rowspan="2" | 安原義人
|-
| rowspan="2" | 1995 || [[死の接吻 (1995年の映画)|死の接吻]]<br />''Kiss of Death'' || リトル・ジュニア・ブラウン ||
|-
| [[リービング・ラスベガス]]<br />''Leaving Las Vegas'' || '''ベン・サンダーソン''' || [[アカデミー主演男優賞]]受賞 || [[山寺宏一]]
|-
| 1996 || [[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]]<br />''The Rock'' || '''スタンリー・グッドスピード博士''' || || 大塚明夫(ソフト版)<br />[[小山力也]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版)<br />山寺宏一(テレビ朝日版)
|-
| rowspan="2" | 1997 || [[コン・エアー]]<br />''Con Air'' || '''キャメロン・ポー''' || || 大塚明夫(ソフト版)<br />大塚芳忠(テレビ朝日版)
|-
| [[フェイス/オフ]]<br />''Face/Off'' || キャスター・トロイ || || 大塚明夫(ソフト版、テレビ朝日新版)<br />大塚芳忠(フジテレビ版)<br />[[山路和弘]](テレビ朝日旧版)
|-
| rowspan="2" | 1998 || [[シティ・オブ・エンジェル]]<br />''City of Angels'' || '''セス''' || || 小山力也
|-
| [[スネーク・アイズ (1998年の映画)|スネーク・アイズ]]<br />''Snake Eyes'' || '''リック''' || || 大塚明夫(ソフト版)<br />山路和弘(テレビ朝日版)
|-
| rowspan="2" | 1999 || [[8mm (映画)|8mm]]<br />''8mm'' || '''トム''' || || 江原正士
|-
| [[救命士 (映画)|救命士]]<br />''Bringing Out the Dead'' || '''フランク・ピアース''' || || 大塚明夫
|-
| rowspan="3" | 2000 || [[60セカンズ]]<br />''Gone in Sixty Seconds'' || '''メンフィス・レインズ''' || || 大塚明夫(ソフト版、日本テレビ版)
|-
| [[天使のくれた時間]]<br />''The Family Man'' || '''ジャック・キャンベル''' || || 大塚明夫
|-
| [[シャドウ・オブ・ヴァンパイア]]<br />''Shadow of the Vampire'' ||{{n/a}} || 製作のみ || {{n/a}}
|-
| rowspan="2" | 2001 || [[コレリ大尉のマンドリン]]<br />''Captain Corelli's Mandolin'' || '''コレリ大尉''' || || 大塚明夫
|-
| [[クリスマス・キャロル (2001年の映画)|クリスマス・キャロル]]<br />''Christmas Carol: The Movie'' || ジェイコブ || 声の出演 || [[森田順平]]
|-
| rowspan="3" | 2002 || [[ウインドトーカーズ]]<br />''Windtalkers'' || '''ジョー・エンダーズ''' || || 大塚明夫(ソフト版)<br />小山力也(テレビ朝日版)
|-
| [[アダプテーション]]<br />''Adaptation'' || '''[[チャーリー・カウフマン]]''' / '''ドナルド・カウフマン''' || アカデミー主演男優賞ノミネート || 大塚明夫
|-
| [[SONNY ソニー]]<br />''[[:en:Sonny (2002 film)|Sonny]]'' || アシッド・イエロー || 兼監督・製作 || [[野中秀哲]]
|-
|rowspan="2"| 2003 ||[[ライフ・オブ・デビッド・ゲイル]]<br />''The Life of David Gale'' ||{{n/a}} || 製作のみ || {{n/a}}
|-
| [[マッチスティック・メン]]<br />''Matchstick Men'' || '''ロイ''' || || rowspan="3" | 大塚明夫
|-
| 2004 || [[ナショナル・トレジャー]]<br />''National Treasure'' || '''ベン・ゲイツ''' ||
|-
| rowspan="2" | 2005 || [[ロード・オブ・ウォー]]<br />''Lord of War'' || '''ユーリ・オルロフ''' || 兼製作
|-
| [[ニコラス・ケイジのウェザーマン]]<br />''The Weather Man'' || '''デイヴィッド''' || || (吹き替え版なし)
|-
| rowspan="3" | 2006 || [[アントブリー]]<br />''The Ant Bully'' || ゾック || 声の出演 || 江原正士
|-
| [[ワールド・トレード・センター (映画)|ワールド・トレード・センター]]<br />''World trade center'' || '''ジョン・マクローリン''' || || 山路和弘
|-
| [[ウィッカーマン (2006年の映画)|ウィッカーマン]]<br />''The Wicker Man'' || '''エドワード・メイラス''' || 兼製作<br />[[ゴールデンラズベリー賞 最低主演男優賞]]ノミネート<br />[[ゴールデンラズベリー賞 最低スクリーンカップル賞]]ノミネート || [[大川透]]
|-
| rowspan="4" | 2007 || [[ゴーストライダー (映画)|ゴーストライダー]]<br />''Ghost Rider''|| [[ゴーストライダー|'''ジョニー・ブレイズ''' / '''ゴーストライダー''']] || [[ゴールデンラズベリー賞 最低主演男優賞]]ノミネート || 大塚明夫
|-
| [[グラインドハウス]]<br />''Grindhouse'' || フー・マンチュー || フェイク予告編『ナチ親衛隊の狼女』 || ''TBA''
|-
| [[NEXT -ネクスト-]]<br />''Next'' || '''クリス・ジョンソン''' || 兼製作<br />[[ゴールデンラズベリー賞 最低主演男優賞]]ノミネート || rowspan="4" | 大塚明夫
|-
| [[ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記]]<br />''National Treasure: Book Of Secrets'' || '''ベン・ゲイツ''' ||
|-
| 2008 || [[バンコック・デンジャラス]]<br />''Bangkok Dangerous'' || '''ジョー''' || 兼製作
|-
| rowspan="4" | 2009 || [[ノウイング]]<br />''Knowing'' || '''ジョン・ケストラー''' ||
|-
| [[スパイアニマル・Gフォース]]<br />''G-Force'' || スペックルズ || rowspan="2" | 声の出演 || [[中尾隆聖]]
|-
| [[ATOM (映画)|ATOM]]<br />''Astro Boy'' || テンマ博士 || [[役所広司]]
|-
| [[バッド・ルーテナント (映画)|バッド・ルーテナント]]<br />''Bad Lieutenant: Port of Call New Orleans'' || '''テレンス・マクドノー刑事''' || || 大塚明夫
|-
| rowspan="2" | 2010 || [[キック・アス (映画)|キック・アス]]<br />''Kick-Ass'' || デイモン・マクレディ / ビッグ・ダディ || || [[内田直哉]]
|-
| [[魔法使いの弟子 (映画)|魔法使いの弟子]]<br />''The Sorcerer's Apprentice'' || '''バルサザール・ブレイク''' || 兼製作総指揮 || rowspan="7" | 大塚明夫
|-
| rowspan="4" | 2011 || [[デビルクエスト]]<br />''Season of the Witch'' || '''ベイメン''' || rowspan="3" | [[ゴールデンラズベリー賞 最低主演男優賞]]ノミネート<br />[[ゴールデンラズベリー賞 最低スクリーンカップル賞]]ノミネート
|-
| [[ドライブ・アングリー3D]]<br />''Drive Angry 3D'' || '''ジョン・ミルトン'''
|-
| [[ブレイクアウト (2011年の映画)|ブレイクアウト]]<br />''Trespass'' || '''カイル・ミラー'''
|-
| [[ハングリー・ラビット]]<br />''Seeking Justice'' || '''ウィル・ジェラード''' || rowspan="2" | [[ゴールデンラズベリー賞 最低主演男優賞]]ノミネート
|-
| rowspan="3" | 2012 || [[ゴーストライダー2]]<br />''Ghost Rider: Spirit of Vengeance'' || '''ジョニー・ブレイズ''' / '''ゴーストライダー'''
|-
| [[ゲットバック]]<br />''Stolen'' || '''ウィル・モンゴメリー'''
|-
| [[ジャックはしゃべれま1,000]]<br />''A Thousand Words'' || {{n/a}} || 製作のみ || {{n/a}}
|-
| rowspan="3" | 2013 || [[クルードさんちのはじめての冒険]]<br />''The Croods'' || '''グラグ・クルード''' || 声の出演 || [[てらそままさき]]
|-
| [[フローズン・グラウンド]]<br />''The Frozen Ground'' || '''ジャック・ハルコンベ''' || || 山路和弘
|-
| [[グランド・ジョー]]<br />''[[:en:Joe (2013 film)|Joe]]'' || '''ジョー''' || || [[山野井仁]]
|-
| rowspan="4" | 2014 || [[トカレフ (2014年の映画)|トカレフ]]<br />''Rage'' || '''ポール・マグワイア''' || || てらそままさき
|-
| [[ラスト・リベンジ]]<br />''Dying of the Light'' || '''エヴァン・ルーク''' || || 大塚明夫
|-
| [[レフト・ビハインド (2014年の映画)|レフト・ビハインド]]<br />''Left Behind'' || '''レイフォード・スティール''' || || 小山力也
|-
| [[ザ・レジェンド (映画)|ザ・レジェンド]]<br />''Outcast'' || '''ガレイン''' || || 大塚明夫
|-
| rowspan="2" | 2015 || [[コンテンダー]]<br />''The Runner'' || '''コリン・プライス''' || || [[西垣俊作]]
|-
| [[ペイ・ザ・ゴースト ハロウィンの生贄]]<br />''Pay the Ghost'' || '''マイク・ローフォード''' || || rowspan="8" | 大塚明夫
|-
| rowspan="5" | 2016 || [[ダーティー・コップ]]<br />''The Trust'' || '''ジム・ストーン''' ||
|-
| [[スノーデン (映画)|スノーデン]]<br />''Snowden'' || ハンク・フォレスター || 日本では2017年1月公開<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/201909|title=スノーデンはなぜ告発を決めたのか?オリヴァー・ストーン最新作が公開決定|newspaper=映画ナタリー|date=2016-09-15|accessdate=2016-09-15}}</ref>
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| [[パシフィック・ウォー]]<br />''USS Indianapolis: Men of Courage'' || '''[[チャールズ・B・マクベイ3世]]''' || 日本では2017年1月公開
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| [[ドッグ・イート・ドッグ (2016年の映画)|ドッグ・イート・ドッグ]]<br />''Dog Eat Dog'' || '''トロイ''' ||
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| [[オレの獲物はビンラディン]]<br />''Army of One'' || '''ゲイリー・フォークナー''' ||
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| rowspan="4" | 2017 || [[キング・ホステージ]]<br />''Arsenal'' || '''エディ・キング''' ||
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| [[ヴェンジェンス (2017年の映画)|ヴェンジェンス]]<br />''Vengeance: A Love Story'' || '''ジョン・ドロモア''' ||
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| [[ダブル/フェイス]]<br />''Inconceivable'' || ブライアン || || [[松山鷹志]]
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| [[マッド・ダディ]]<br />''Mom and Dad'' || '''ブレント・ライアン''' || || rowspan="4" | 大塚明夫
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| rowspan="8" | 2018 || [[ダークサイド (2018年の映画)|ダークサイド]]<br />''Looking Glass'' || '''レイ''' ||
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| [[ヒューマン・ハンター]]<br />''The Humanity Bureau'' || '''ノア・クロス''' ||
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| [[コード211]]<br />''[[:en:211 (film)|211]]'' || '''マイク・チャンドラー''' ||
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| <br />''Becoming Iconic'' || 本人 || ドキュメンタリー映画 || {{n/a}}
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| [[ティーン・タイタンズ (アニメ)|ティーン・タイタンズ・ゴー! トゥ・ザ・ムービーズ]]<br />''Teen Titans Go! to the Movies'' || [[スーパーマン|クラーク・ケント / スーパーマン]] || 声の出演 || (吹き替え版なし)
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| [[マンディ 地獄のロード・ウォリアー]]<br />''Mandy'' || '''レッド''' || 名誉俳優賞受賞 || 山路和弘
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| [[スパイダーマン:スパイダーバース]]<br />''Spider-Man: Into the Spider-Verse'' || スパイダーマン・ノワール || 声の出演 || rowspan="2" | 大塚明夫
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| [[トゥ・ヘル]]<br />''[[:en:Between Worlds|Between Worlds]]'' || '''ジョー''' ||
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| rowspan="7" | 2019 || <br />''Love, Antosha'' || ナレーター || || {{n/a}}
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| [[ラスト・パニッシャー]]<br />''[[:en:A Score to Settle|A Score to Settle]]'' || '''フランク・カーバー''' || || rowspan="2" | 大塚明夫
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| [[ドラッグ・チェイサー]]<br />''[[:en:Running with the Devil|Running with the Devil]]'' || '''コック''' ||
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| [[KILLERS/キラーズ 10人の殺し屋たち|KILLERS/キラーズ 〜10人の殺し屋たち〜]]<br />''[[:en:Kill Chain (film)|Kill Chain]]'' || '''アラニャ''' || || [[速水奨]]
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| [[カラー・アウト・オブ・スペース -遭遇-]]<br />''Color Out of Space'' || '''ネイサン・ガードナー''' || || 山路和弘
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| [[ザ・ビースト (映画)|ザ・ビースト]]<br />''[[:en:Primal (2019 film)|Primal]]'' || '''フランク・ウォルシュ''' || || 速水奨
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| [[ナイト・ストーム]]<br />''[[:en:Grand Isle (2019 film)|Grand Isle]]'' || '''ウォルター''' || || 大塚明夫
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| rowspan="2" | 2020 || [[アース・フォール JIU JITSU]]<br />''Jiu Jitsu'' || ワイリー || || 西垣俊作
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| [[クルードさんちのあたらしい冒険]]<br />''The Croods: A New Age'' || '''グラグ・クルード''' || 声の出演 || てらそままさき
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| rowspan="4" | 2021 || [[あなたの知らない卑語の歴史]]<br />''[[:en:History of Swear Words|History of Swear Words]]'' || '''本人(ホスト)''' || ドキュメンタリーシリーズ<br />計6話出演 || rowspan="2" |(吹き替え版なし)
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| [[プリズナーズ・オブ・ゴーストランド]]<br />''Prisoners of the Ghostland'' || '''ヒーロー''' ||
|-
| [[ウィリーズ・ワンダーランド]]<br />''Willy's Wonderland'' || '''掃除人''' || 兼製作 ||(台詞なし)
|-
| [[PIG/ピッグ]]<br />''Pig'' || '''ロビン・“ロブ”・フェルド''' || 兼製作 || rowspan="2" | 大塚明夫
|-
| rowspan="2" | 2022 || [[マッシブ・タレント]]<br />''The Unbearable Weight of Massive Talent''|| '''ニック・ケイジ''' / '''ニッキー・ケイジ'''|| 兼製作
|-
| <br />''Butcher's Crossing'' || '''ミラー''' || ||
|-
| rowspan="6" | 2023 || [[ガンズ・アンド・キラーズ]]<br />''[[:en:The Old Way|The Old Way]]'' || '''コルトン・ブリッグス''' || || rowspan="2" | 大塚明夫
|-
| [[レンフィールド]]<br />''Renfield'' || '''[[ドラキュラ伯爵]]''' || 日本劇場未公開
|-
|[[ザ・フラッシュ (映画)|ザ・フラッシュ]]<br />''The Flash'' || [[スーパーマン (架空の人物)|クラーク・ケント / スーパーマン]] || クレジットなし<br />カメオ出演 ||(吹き替えなし)
|-
| <br />''Sympathy for the Devil'' || '''ザ・パッセンジャー''' || ||
|-
| <br />''The Retirement Plan'' || '''マット''' || ||
|-
| [[ドリーム・シナリオ]](原題)<br />''Dream Scenario'' || '''ポール・マシューズ''' || [[ゴールデングローブ賞]]主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート ||
|-
| rowspan="2" | 2024 ||<br />''Arcadian'' || ポール || ||
|-
| <br />''Longlegs'' || || ||
|}
== 主な受賞 ==
; [[アカデミー賞]]
: 1995年度 [[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]] 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.filmsite.org/aa95.html 1995 Academy Awards Winners and History], filmsite.org{{En icon}}</ref>
; [[ゴールデングローブ賞]]
: 1996年度 [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞]] 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.goldenglobes.org/browse/member/29818 Nicolas Cage] - goldenglobes.org{{En icon}}</ref>
; [[全米映画批評家協会賞]]
: 1996年度 主演男優賞 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.imdb.com/Sections/Awards/National_Society_of_Film_Critics_Awards_USA/1996 National Society of Film Critics Awards, USA: 1996] - [[Internet Movie Database]]{{En icon}}</ref>
; [[ニューヨーク映画批評家協会賞]]
: [[第61回ニューヨーク映画批評家協会賞|1995年度]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]] 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.nyfcc.com/awards.php?year=1995 1995 Awards] - New York Film Critics Circle{{En icon}}</ref>
; [[ロサンゼルス映画批評家協会賞]]
: [[第21回ロサンゼルス映画批評家協会賞|1995年度]] [[ロサンゼルス映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]] 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.lafca.net/years/1995.html PREVIOUS YEARS WINNERS 1995] - The Los Angeles Film Critics Association Awards{{En icon}}</ref>
; [[ボストン映画批評家協会賞]]
: 1995年度 主演男優賞 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.thebsfc.org/PastWin.html#d1995 BSFC Past Winners] - Boston Society of Film Critics{{En icon}}</ref>
; [[シカゴ映画批評家協会賞]]
: 1995年度 主演男優賞 『リービング・ラスベガス』<ref>[http://www.chicagofilmcritics.org/index.php?option=com_content&view=article&id=49&Itemid=59 Chicago Film Critics Awards - 1988-97] - chicagofilmcritics.org{{En icon}}</ref>
; [[MTVムービー・アワード]]
: 1997年度 コンビ賞 『ザ・ロック』([[ショーン・コネリー]]と共に)<ref>[http://www.imdb.com/Sections/Awards/MTV_Movie_Awards/1997 MTV Movie Awards: 1997] - [[Internet Movie Database]]{{En icon}}</ref>
: 1998年度 コンビ賞 『フェイス/オフ』([[ジョン・トラヴォルタ]]と共に)<ref>[http://www.imdb.com/Sections/Awards/MTV_Movie_Awards/1998 MTV Movie Awards: 1998] - [[Internet Movie Database]]{{En icon}}</ref>
; [[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]
: 2018年度 名誉俳優賞 『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』
== 日本との関わり ==
* 2000年頃にパチンコメーカー[[三共 (パチンコ)|三共]]のテレビCMに出演した。[[戸田奈津子]]がニコラス・ケイジの通訳を演じているバージョンもある。
==日本語吹き替え==
『[[コットンクラブ (映画)|コットンクラブ]]』(TBS版)以降、大半の作品で[[大塚明夫]]が担当し、専属([[フィックス]])となっている。
大塚自身、数多くの俳優の吹き替えを担当しているが、その中でもケイジは大変気に入っているとのことで「彼の芝居は当てていて楽しいんです」とインタビューで答えている<ref>[https://www.asahi.co.jp/50th/ootsuka.html 12月7日 ゲスト:大塚明夫さん]([[Earth Dreaming〜ガラスの地球を救え!]])</ref>。大塚はケイジについて「ニコラス・ケイジって、なんでも演じるんです。しかも前のめりに一生懸命演じている。彼は作品を、"役がおもしろいか"どうかで選んでいると思います」と分析している<ref>{{Cite web2|url=https://realsound.jp/movie/2018/12/post-288953.html|title =『マッド・ダディ』Blu-ray&DVD、本日発売 日本語吹替え版・大塚明夫のコメントも|publisher =リアルサウンド映画部|accessdate=2022-09-09}}</ref><ref>{{Cite web2|url=https://horror2.jp/26979|title =ニコラス・ケイジが狂気とユーモアで鬱憤爆発パパを怪演! “子殺し”スリラー『マッド・ダディ』Blu-rayリリース|publisher =ホラー通信|accessdate=2022-09-09}}</ref>。ケイジの吹き替えを長年に渡り演じているために思い入れも強く「一方的に僕は(ケイジが)友人のような気がしているんですよ。彼の呼吸を自分に写しとって芝居をしているものだから、親しみ深い気がしてきましてね。そんな彼が、映画のなかでコミカルな演技をしようと一生懸命もがいている姿を観て、よし、これは僕もやんなきゃなって」と語っており、他人とは思えない存在であると同時に日々勇気付けられていると語っている<ref>{{Cite web2|url=https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201801/special1.html|title =スペシャルインタビュー第2回 大塚明夫さん|publisher =虫ん坊|accessdate=2022-09-09}}</ref>。また、『[[オレの獲物はビンラディン]]』の予告編のナレーションを務め終えた際には、「ニコラス・ケイジは、非常に演じがいのある俳優。『オレの獲物はビンラディン』も、“これはぜひやりたいな”と思っていたので、声優魂に火がつきました!!」とケイジへの強い愛情に満ちたコメントを寄せている<ref>{{Cite web2|url=https://tsutaya.tsite.jp/news/movie/37400026/|title =ニコラス・ケイジ×『ボラット』監督の映画『オレの獲物はビンラディン』予告編がついに解禁!|publisher =TSUTAYA News|accessdate=2022-09-09}}</ref>。
『[[マッシブ・タレント]]』の公開時には「初めてニコラス・ケイジを演じた『[[コットンクラブ]]』から30年以上が経ち、彼の芝居を長いことトレースして呼吸を合わせてきたからこそ、どんな仕事でも本気で挑んでいるのが伝わってきます。彼の仕事に対しての姿勢はとても他人事とは思えません」と敬意を表すると同時に、思い入れのあるニコラス・ケイジの作品に『[[フェイス/オフ]]』と前述の『オレの獲物はビンラディン』の2作品を挙げ「演じがいがありました」と回想。『[[シティ・オブ・エンジェル]]』や『[[リービング・ラスベガス]]』など、演じられなかったケイジの作品にも「ぜひ機会があれば挑戦してみたいですね。もう若い頃の声は演じられませんが(笑)」と意欲を見せている。また、100本以上も出演作のある役者であることから、大塚自身はケイジを演じる機会に恵まれたことを嬉しく思っているという<ref>{{Twitter status|massivetalentjp|1636925395886030851}}</ref>。
『[[スパイダーマン:スパイダーバース]]』では原語版でケイジが演じたスパイダーマン・ノワール役の吹き替えを担当したが、音響監督の[[岩浪美和]]は原語版の声優がケイジであると知らずに大塚を配役したため、偶然の一致であった。このことに関して岩浪は「ああ、やはりみんな考えることは一緒だな、と思いました」と感動を覚えたという<ref>{{Cite web2|url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/001/827/1827670/2/|title =全米のプロたちも評価した、映画『スパイダーバース』のスゴイ音、日本語吹替版の音響監督・岩浪美和氏に聞く|publisher =[[週刊アスキー]]|accessdate=2023-06-26}}</ref>。
2023年にはケイジが来日し、[[小島プロダクション]]に訪れる出来事があったが、この際大塚は「なんで呼んでくんないのー」と小島を介してケイジと対面するチャンスを逃したことを心残りに思う旨のコメントをしている<ref>{{Twitter status|akiootsuka|1669669199596388352}}</ref>。
大塚が専属になるまでは、[[江原正士]]や[[安原義人]]、[[大塚芳忠]]、[[小山力也]]、[[山路和弘]]なども担当していた。
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nicolas Cage}}
* {{allcinema name|39290|ニコラス・ケイジ}}
* {{Kinejun name|2903|ニコラス・ケイジ}}
* {{IMDb name|0000115|Nicolas Cage}}
{{アカデミー賞主演男優賞 1981-2000}}
{{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)}}
{{全米映画俳優組合賞主演男優賞}}
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{{DEFAULTSORT:けいし にこらす}}
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5,009 | 天本英世 | 天本 英世(あまもと ひでよ、1926年〈大正15年〉1月2日 - 2003年〈平成15年〉3月23日)は、日本の俳優。「あまもと えいせい」の通称もある。福岡県若松市(現:北九州市若松区)出身。本籍は佐賀県鳥栖市。身長180cm、体重65kg。
福岡県若松市で住友石炭鉱業で働く父を持ち、裕福な家庭に生まれた。1943年(昭和18年)に旧制若松中学校(現・福岡県立若松高等学校)を卒業し、翌1944年に旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学した。1945年に19歳で学徒出陣で兵役に召集され、5月に久留米の野砲隊(大砲係)に入隊、その後通信兵として宮崎県に送られた。しかし、営内では上官に対抗し、その度に鉄拳制裁を受けた。この経験が自身の反骨志向を育む。
1948年に東京大学法学部政治学科に入学する。大学では国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになった。また、11歳年上の女性との失恋のショックも相まってその後、東京大学を中退して劇団俳優座に所属する。その後は俳優座スタジオ劇団同人会、劇団四季などに所属。1954年に28歳でオペラ『オテロ』において初舞台を踏む。同年に松竹と契約し、『女の園』と『二十四の瞳』 で映画に初出演する。当時は180センチメートルで細身の美男子だったため、しばらくは二枚目俳優として売り出された。『女の園』は、木下恵介監督から哲学者みたいな顔つきを気に入られたことで、哲学の講師役での出演が決まった。『二十四の瞳』では高峰秀子の夫役に抜擢されたが、セリフ覚えが上手くいかず本人の中では大失敗に終わったという。また当初、天本の役は明石潮が演じる予定だった。
1958年に東宝と専属契約を結ぶ。以後、アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役として活躍し、また人間離れした悪役や殺し屋などを数多く演じた。特に岡本喜八が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し、中でも1967年の映画『殺人狂時代』の精神科医・溝呂木博士役が好評を得た。実年齢より上の老け役も多く、監督の本多猪四郎は天本は若いころから雰囲気が変わらない旨を述懐している。
私生活では20代からファルーカ(スペイン音楽の一種)とフラメンコを端緒としてスペイン語を独学で身につけ、スペインに深く傾倒していく(趣味のスペインについて詳しくは後述)。
1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍する。1972年に毎日放送『仮面ライダー』で死神博士を演じ、悪役ながら人気を博した。
1991年(平成3年)からフジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』に「東大出身」の解答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めた。
2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳。カトリック教会の信徒であったため、地元にあるカトリック教会で葬儀が行われた。その後行われた天本の追悼公演には、佐々木剛、辰巳琢郎、黒部進らが参加した。2005年10月25日に遺灰がスペイン・アンダルシア州のグアダルキビール川源流に散骨された。
20代の頃にカント、パスカル、ニーチェなどの哲学書を読み漁り、“自分は何のために生きているのか”を考えるようになった。また、“明日のことは考えず、今日を必死に生きる”という哲学は、大好きなスペインから学んだ。
自由主義者・無政府主義者で、現代の日本に生きる人々に対して急進主義的視点から苦言を呈していた。「国家というものが大嫌い」と述べ、スペインへの移住を熱望し、2000年に発表した著書『日本人への遺書(メメント)』(徳間書店)においても「こんな呆け国家で死にたくない」と記していた。
天皇制と昭和天皇の戦争責任を不問にしようとする勢力(菊タブーを守ろうとする風潮、自民党政権、文部省)を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べている。また学徒出陣の経験は言葉に言い表せないほどのショックを受け、戦後になっても、戦争を賛美するような内容の映画には、依頼を受けても絶対に出演しないという姿勢を貫いた。長身に対するねたみのために将校にいじめられ、軍が嫌いになり、その延長として左翼的になったという。
渋谷区の一戸建てで約30年間一人暮らしをしていたが、家にこだわりがなく修繕をしなかったため、徐々に雨漏りがひどくなり住めなくなった。このため60代後半から公園で寝泊まりし、昼間は近所のファミリーレストランで過ごすようになった。このため、天本に仕事を依頼する時は仕事関係者が同店に電話をかけて取り次いでもらっていた。
天本とは年齢の離れた親友であったという二瓶正也は、東宝の美術や衣装の人間らが天本の自宅や衣服の修繕を行っていたと証言している。
普段着にスカルキャップ・ブーツ・マントを愛用し、その姿のままで出演したドラマも多い。岡本喜八とは風貌が似ており、ロケ先で子供たちから「死神博士が2人いる!」とよく言われ、岡本は機嫌が悪かったという。
趣味は野球観戦。
9代目松本幸四郎(初演当時は6代目市川染五郎、現在の2代目松本白鸚)が主演を務める舞台『ラ・マンチャの男』は、当初は天本が主演を務める予定であったが、東宝の判断で人気のある6代目市川染五郎に変更された。
日本テレビ『星雲仮面マシンマン』出演時に読売新聞のインタビューに答えたコメントの中で、ロケに同行する過保護な子役の母親たちを批判し、「もっと子供は普段から自由に遊ばせるべきだ」と主張していて、子供好きな面をのぞかせている。また「女はめんどくさい」、「今は毎朝、“死”について考えています」などと語っていた。『星雲仮面マシンマン』については雑誌『季刊 宇宙船』のインタビューで「子供番組なのにスタッフが子供を大事にしない」と、当時の撮影現場を批判している。
先述の大学時代に失恋した11歳年上の女性のことを思い続け、生涯独身を貫き、気ままな放浪生活と散歩を楽しんだ。映画監督の金子修介によると、天本は結婚に関して「自分は特別変な人間ではないと思うけど、たまたま結婚する機会や縁がなかった」とも語っていた。
天本のスペイン趣味は1967年に出演した映画『殺人狂時代』にも表れている。天本が演じる溝呂木博士と仲代達矢が演じる桔梗信治との決闘シーンは、互いの左手首を縛って右手のナイフだけで戦うという「スペイン式決闘」で行われ、BGMには天本がレコードを持ち込んだファルーカが用いられた。作中では旧制高校仕込みと自称するドイツ語の会話もこなした。
1968年に公開された映画『クレージーメキシコ大作戦』(東宝 / 渡辺プロ)では山賊の頭領役で出演して、現地人はだしの流暢なスペイン語の台詞を披露している。
1979年3月から7ヶ月間にわたりスペインを旅行し、その旅行記を1980年に『スペイン巡礼:スペイン全土を廻る』(話の特集)という著書として発表する。1982年には『スペイン巡礼』の追想記および後日譚となる『スペイン回想:『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集)という著書を発表した。
俳優としての活動と並行して、フラメンコ・ギターの伴奏や舞踊家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳との両方でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩を朗誦する活動を行っていた。その他にも、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを計画してそれを引率することもあった。
スペインには生涯で20回ほど訪れ、各地を放浪しては流暢なスペイン語で現地の人々と会話して親しくなった。また、スペイン民俗音楽に関しては日本で屈指のレコード・コレクションを持つ存在として知られていた。本人が生前にスペインにて収集したレコードや帽子・杖・皿を含めた工芸品など約5千点余のコレクションは、現在は本人の没後に郷里である北九州市若松区にて設立された「天本英世記念館をつくる会」の有志たちによって保存・管理されている。
1984年には日本テレビ『星雲仮面マシンマン』で敵役「プロフェッサーK」を演じる。この役も天本のスペイン趣味が前面に出た役柄で、衣装は天本の自前によるものだった。また「Kがスペインで撮った」という設定で劇中に登場する写真も、天本が実際にスペイン旅行中に撮ったものだった。そのスペインに対する熱情のあまり、予定していたスペイン旅行の日程が撮影と重なったことを理由に、番組を途中で一時降板したほどである。
2001年に公開された映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』でも、天本が演じる伊佐山教授の衣装の多くで本人がスペインにて購入した自前のものが使用されている。
2002年には『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』(カエルカフェ)という、自身にとって最初で最後となるアルバムを発表する。本人がスペイン人と日本人について思うところを歯に衣着せずに一気に語り、その途中で「ロルカ13のスペイン古謡」全13曲の中から、『セビージャの古いナナ(子守唄)』など6曲の無伴奏による歌唱と各曲解説を披露するという内容だった。
自身の著書『日本人への遺言(メメント)』では「私は、スペインで死にたい。20回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい」と記していたが、それは叶わなかった。先述の通り、本人の生前の意志に基づいて、2005年10月25日に遺族および日本とスペインの友人たちの手によって、スペインのグワダルキビール川源流に遺灰が散骨されている。
『仮面ライダー』で天本が演じた死神博士は仮面ライダーシリーズに登場する悪役の中でも屈指の人気を誇る。天本は、設定から神秘性・怪奇性を強調した大人向けの芝居を行っていたが、怖すぎるとして、演技を子供向けに抑えるよう注文されたという。この役で用いた小道具の指揮棒は、本人がエジプトに旅行した際に購入したもので、「こういう役が多いもので」買い求めておいたものだそうである。
晩年の発言の一部から、死神博士の役を嫌っていたかのように誤解されることがあるが、天本が嫌っていたのは、死神博士のことばかりことさらに強調する一部のファンやマスコミであり、死神博士の役そのものを否定したことはない。子供のファンから請われれば喜んで「死神博士」と似顔絵入りでサインしていたことや、仮面ライダー関連の公式なキャストインタビューには真摯に応じて、衣装や演技のことなどを語っていたのがその証だが、成人後も子供向け特撮番組だけに熱中するオタクには「世の中にはもっと大切なものがある」と厳しい態度を取っていた。
NHK『まんがで読む古典・雨月物語』に上田秋成役で出演した際、「わしも昔死神博士として、ショッカーという妖怪軍団を率いておった」という台詞を述べたこともあり、晩年には新宿駅の地下街で本人とすれ違ったファンが思わず「あ、死神博士だ」と呟いたところ、天本は「左様」と答えて去っていったというエピソードもある。
2005年に公開された『仮面ライダー THE FIRST』では、『仮面ライダー』で使用された死神博士の映像に丸山詠二が新たに声を当て、デジタル出演という形で登場している。
フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』の生徒役(解答者)としてレギュラーで出演し、放映開始から1993年3月の「卒業」までほぼ皆勤であった。国語に関してはずば抜けた好成績を修めていた反面、理数系の問題ではほとんど正解できず、算数の問題になると時に問題文を読むことを放棄し、解答する気がないような態度を示すほどに苦手としていた。国語が得意ということで文学部出身と間違われることも多く、法学部出身の経歴を意外がられることもあった。先生役の北野武が遂に「天本君は算数の問題があと1問でも正解したら、海外留学を差し上げます!」と断言。リーチがかかっていた「たけし落とし」を完成させ、世界一周留学の旅を獲得した。
国語の授業において、「二文字熟語をつくる」というもので「芸文」と解答したが、はじめ正解とされなかった。そこで「『芸文』ってあるんですよ!」と反論し、逸見政孝に辞書を引かせた結果、掲載があったため正解となったことがある。また、出題者側が「あられもない」という解答を想定していた問題で「しどけない」と解答し、一旦不正解となるが、やはり辞書での確認を求め、同義語であることが確認されて正解となったこともある。ほかにも、読み方を答える設問で「模る=かたどる」「具に=つぶさに」と正解を出した唯一の回答者でもあり、スタジオを沸かせた。
番組のオープニングで、勉強小僧が「今日の生徒〜」と出席生徒をテロップ入りで紹介する際、渡嘉敷勝男が「わたしゃもう少し背がほしい」とテロップで紹介された後に、天本が「半分やるから家をくれ」と紹介されたこともあった。他にはうじきつよしが「軽音楽部の部長」と紹介された後、天本が「謎の帰宅部」と紹介されたこともあった。
『平成教育テレビ』でも番組の大部分に出演したが、「先生というのは、『自分は馬鹿です』と言っているようなもの」とつい本音を言ってしまい、北野や逸見、ほかの共演者を慌てさせている。また、一度「卒業」で番組を降板するも、後に卒業生枠ができて1期生も再び番組出演するようになると、天本も番組に登場して笑顔で点呼に応えていた。
しかし、1993年12月に逸見が没したのをきっかけに心境が一変した。逸見の緊急追悼番組にゲスト出演し、「自分の方が生き残ってしまった」「人間は年老いた者から順番に死んでいくものなのに、逸見さんはあまりにも早過ぎた」と、語気強く無念さを語った。さらに、『平成教育委員会』のプロデューサーを担当していたイーストの越真一が同年に自殺したことにも触れ、「逸見さんは(越から数えると)2人目の犠牲者だ。この業界は狂ってる。あんな番組にケラケラ笑って出たくないですよ!!」と激昂して『平成教育委員会』との決別を表明し、その後は宣言通り二度と出演しなくなった。 放送終了後 天本は出演者に謝罪している。
『仮面ライダー』の死神博士役を演じたことから、特撮ファンである漫画家や小説家の作品の中に、親愛と敬意を込めて自作品に天本をモデルとしたと思われるキャラクターが登場している例がある。
また、矢作俊彦はシナリオライター時代にFM番組で何度も天本を起用し、小説家としてもデビュー当時から天本をモデルとするキャラクターを作品に登場させてきた。1997年に発表された『あ・じゃ・ぱん』では「降矢木残轍」こと東大名誉教授「溝呂木省吾」という人物を登場させている。天本の死去の際には一晩泣き明かし、締め切りを3つ落としたと言われる。
旧制第七高等学校野球部を題材とした映画『北辰斜にさすところ』(神山征二郎監督、2007年公開)では、作中の現代(2002年)においてスペイン・アンダルシアに暮らす野球部OB「天本英人」という人物が登場する。 | [
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"text": "天本 英世(あまもと ひでよ、1926年〈大正15年〉1月2日 - 2003年〈平成15年〉3月23日)は、日本の俳優。「あまもと えいせい」の通称もある。福岡県若松市(現:北九州市若松区)出身。本籍は佐賀県鳥栖市。身長180cm、体重65kg。",
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"text": "福岡県若松市で住友石炭鉱業で働く父を持ち、裕福な家庭に生まれた。1943年(昭和18年)に旧制若松中学校(現・福岡県立若松高等学校)を卒業し、翌1944年に旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)に進学した。1945年に19歳で学徒出陣で兵役に召集され、5月に久留米の野砲隊(大砲係)に入隊、その後通信兵として宮崎県に送られた。しかし、営内では上官に対抗し、その度に鉄拳制裁を受けた。この経験が自身の反骨志向を育む。",
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"text": "1948年に東京大学法学部政治学科に入学する。大学では国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになった。また、11歳年上の女性との失恋のショックも相まってその後、東京大学を中退して劇団俳優座に所属する。その後は俳優座スタジオ劇団同人会、劇団四季などに所属。1954年に28歳でオペラ『オテロ』において初舞台を踏む。同年に松竹と契約し、『女の園』と『二十四の瞳』 で映画に初出演する。当時は180センチメートルで細身の美男子だったため、しばらくは二枚目俳優として売り出された。『女の園』は、木下恵介監督から哲学者みたいな顔つきを気に入られたことで、哲学の講師役での出演が決まった。『二十四の瞳』では高峰秀子の夫役に抜擢されたが、セリフ覚えが上手くいかず本人の中では大失敗に終わったという。また当初、天本の役は明石潮が演じる予定だった。",
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"text": "1958年に東宝と専属契約を結ぶ。以後、アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役として活躍し、また人間離れした悪役や殺し屋などを数多く演じた。特に岡本喜八が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し、中でも1967年の映画『殺人狂時代』の精神科医・溝呂木博士役が好評を得た。実年齢より上の老け役も多く、監督の本多猪四郎は天本は若いころから雰囲気が変わらない旨を述懐している。",
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"text": "私生活では20代からファルーカ(スペイン音楽の一種)とフラメンコを端緒としてスペイン語を独学で身につけ、スペインに深く傾倒していく(趣味のスペインについて詳しくは後述)。",
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"text": "1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍する。1972年に毎日放送『仮面ライダー』で死神博士を演じ、悪役ながら人気を博した。",
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"text": "1991年(平成3年)からフジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』に「東大出身」の解答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めた。",
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"text": "2003年3月23日に急性肺炎により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳。カトリック教会の信徒であったため、地元にあるカトリック教会で葬儀が行われた。その後行われた天本の追悼公演には、佐々木剛、辰巳琢郎、黒部進らが参加した。2005年10月25日に遺灰がスペイン・アンダルシア州のグアダルキビール川源流に散骨された。",
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"text": "20代の頃にカント、パスカル、ニーチェなどの哲学書を読み漁り、“自分は何のために生きているのか”を考えるようになった。また、“明日のことは考えず、今日を必死に生きる”という哲学は、大好きなスペインから学んだ。",
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"text": "自由主義者・無政府主義者で、現代の日本に生きる人々に対して急進主義的視点から苦言を呈していた。「国家というものが大嫌い」と述べ、スペインへの移住を熱望し、2000年に発表した著書『日本人への遺書(メメント)』(徳間書店)においても「こんな呆け国家で死にたくない」と記していた。",
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"text": "天皇制と昭和天皇の戦争責任を不問にしようとする勢力(菊タブーを守ろうとする風潮、自民党政権、文部省)を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べている。また学徒出陣の経験は言葉に言い表せないほどのショックを受け、戦後になっても、戦争を賛美するような内容の映画には、依頼を受けても絶対に出演しないという姿勢を貫いた。長身に対するねたみのために将校にいじめられ、軍が嫌いになり、その延長として左翼的になったという。",
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"text": "渋谷区の一戸建てで約30年間一人暮らしをしていたが、家にこだわりがなく修繕をしなかったため、徐々に雨漏りがひどくなり住めなくなった。このため60代後半から公園で寝泊まりし、昼間は近所のファミリーレストランで過ごすようになった。このため、天本に仕事を依頼する時は仕事関係者が同店に電話をかけて取り次いでもらっていた。",
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"text": "天本とは年齢の離れた親友であったという二瓶正也は、東宝の美術や衣装の人間らが天本の自宅や衣服の修繕を行っていたと証言している。",
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"text": "普段着にスカルキャップ・ブーツ・マントを愛用し、その姿のままで出演したドラマも多い。岡本喜八とは風貌が似ており、ロケ先で子供たちから「死神博士が2人いる!」とよく言われ、岡本は機嫌が悪かったという。",
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"text": "趣味は野球観戦。",
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"text": "9代目松本幸四郎(初演当時は6代目市川染五郎、現在の2代目松本白鸚)が主演を務める舞台『ラ・マンチャの男』は、当初は天本が主演を務める予定であったが、東宝の判断で人気のある6代目市川染五郎に変更された。",
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"text": "日本テレビ『星雲仮面マシンマン』出演時に読売新聞のインタビューに答えたコメントの中で、ロケに同行する過保護な子役の母親たちを批判し、「もっと子供は普段から自由に遊ばせるべきだ」と主張していて、子供好きな面をのぞかせている。また「女はめんどくさい」、「今は毎朝、“死”について考えています」などと語っていた。『星雲仮面マシンマン』については雑誌『季刊 宇宙船』のインタビューで「子供番組なのにスタッフが子供を大事にしない」と、当時の撮影現場を批判している。",
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"text": "先述の大学時代に失恋した11歳年上の女性のことを思い続け、生涯独身を貫き、気ままな放浪生活と散歩を楽しんだ。映画監督の金子修介によると、天本は結婚に関して「自分は特別変な人間ではないと思うけど、たまたま結婚する機会や縁がなかった」とも語っていた。",
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"text": "天本のスペイン趣味は1967年に出演した映画『殺人狂時代』にも表れている。天本が演じる溝呂木博士と仲代達矢が演じる桔梗信治との決闘シーンは、互いの左手首を縛って右手のナイフだけで戦うという「スペイン式決闘」で行われ、BGMには天本がレコードを持ち込んだファルーカが用いられた。作中では旧制高校仕込みと自称するドイツ語の会話もこなした。",
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"text": "1968年に公開された映画『クレージーメキシコ大作戦』(東宝 / 渡辺プロ)では山賊の頭領役で出演して、現地人はだしの流暢なスペイン語の台詞を披露している。",
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"text": "1979年3月から7ヶ月間にわたりスペインを旅行し、その旅行記を1980年に『スペイン巡礼:スペイン全土を廻る』(話の特集)という著書として発表する。1982年には『スペイン巡礼』の追想記および後日譚となる『スペイン回想:『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集)という著書を発表した。",
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"text": "俳優としての活動と並行して、フラメンコ・ギターの伴奏や舞踊家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳との両方でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩を朗誦する活動を行っていた。その他にも、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを計画してそれを引率することもあった。",
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"text": "スペインには生涯で20回ほど訪れ、各地を放浪しては流暢なスペイン語で現地の人々と会話して親しくなった。また、スペイン民俗音楽に関しては日本で屈指のレコード・コレクションを持つ存在として知られていた。本人が生前にスペインにて収集したレコードや帽子・杖・皿を含めた工芸品など約5千点余のコレクションは、現在は本人の没後に郷里である北九州市若松区にて設立された「天本英世記念館をつくる会」の有志たちによって保存・管理されている。",
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"text": "1984年には日本テレビ『星雲仮面マシンマン』で敵役「プロフェッサーK」を演じる。この役も天本のスペイン趣味が前面に出た役柄で、衣装は天本の自前によるものだった。また「Kがスペインで撮った」という設定で劇中に登場する写真も、天本が実際にスペイン旅行中に撮ったものだった。そのスペインに対する熱情のあまり、予定していたスペイン旅行の日程が撮影と重なったことを理由に、番組を途中で一時降板したほどである。",
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"text": "2001年に公開された映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』でも、天本が演じる伊佐山教授の衣装の多くで本人がスペインにて購入した自前のものが使用されている。",
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"text": "2002年には『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』(カエルカフェ)という、自身にとって最初で最後となるアルバムを発表する。本人がスペイン人と日本人について思うところを歯に衣着せずに一気に語り、その途中で「ロルカ13のスペイン古謡」全13曲の中から、『セビージャの古いナナ(子守唄)』など6曲の無伴奏による歌唱と各曲解説を披露するという内容だった。",
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"text": "自身の著書『日本人への遺言(メメント)』では「私は、スペインで死にたい。20回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい」と記していたが、それは叶わなかった。先述の通り、本人の生前の意志に基づいて、2005年10月25日に遺族および日本とスペインの友人たちの手によって、スペインのグワダルキビール川源流に遺灰が散骨されている。",
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"text": "『仮面ライダー』で天本が演じた死神博士は仮面ライダーシリーズに登場する悪役の中でも屈指の人気を誇る。天本は、設定から神秘性・怪奇性を強調した大人向けの芝居を行っていたが、怖すぎるとして、演技を子供向けに抑えるよう注文されたという。この役で用いた小道具の指揮棒は、本人がエジプトに旅行した際に購入したもので、「こういう役が多いもので」買い求めておいたものだそうである。",
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"text": "晩年の発言の一部から、死神博士の役を嫌っていたかのように誤解されることがあるが、天本が嫌っていたのは、死神博士のことばかりことさらに強調する一部のファンやマスコミであり、死神博士の役そのものを否定したことはない。子供のファンから請われれば喜んで「死神博士」と似顔絵入りでサインしていたことや、仮面ライダー関連の公式なキャストインタビューには真摯に応じて、衣装や演技のことなどを語っていたのがその証だが、成人後も子供向け特撮番組だけに熱中するオタクには「世の中にはもっと大切なものがある」と厳しい態度を取っていた。",
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"text": "NHK『まんがで読む古典・雨月物語』に上田秋成役で出演した際、「わしも昔死神博士として、ショッカーという妖怪軍団を率いておった」という台詞を述べたこともあり、晩年には新宿駅の地下街で本人とすれ違ったファンが思わず「あ、死神博士だ」と呟いたところ、天本は「左様」と答えて去っていったというエピソードもある。",
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"text": "2005年に公開された『仮面ライダー THE FIRST』では、『仮面ライダー』で使用された死神博士の映像に丸山詠二が新たに声を当て、デジタル出演という形で登場している。",
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"text": "フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』の生徒役(解答者)としてレギュラーで出演し、放映開始から1993年3月の「卒業」までほぼ皆勤であった。国語に関してはずば抜けた好成績を修めていた反面、理数系の問題ではほとんど正解できず、算数の問題になると時に問題文を読むことを放棄し、解答する気がないような態度を示すほどに苦手としていた。国語が得意ということで文学部出身と間違われることも多く、法学部出身の経歴を意外がられることもあった。先生役の北野武が遂に「天本君は算数の問題があと1問でも正解したら、海外留学を差し上げます!」と断言。リーチがかかっていた「たけし落とし」を完成させ、世界一周留学の旅を獲得した。",
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"text": "国語の授業において、「二文字熟語をつくる」というもので「芸文」と解答したが、はじめ正解とされなかった。そこで「『芸文』ってあるんですよ!」と反論し、逸見政孝に辞書を引かせた結果、掲載があったため正解となったことがある。また、出題者側が「あられもない」という解答を想定していた問題で「しどけない」と解答し、一旦不正解となるが、やはり辞書での確認を求め、同義語であることが確認されて正解となったこともある。ほかにも、読み方を答える設問で「模る=かたどる」「具に=つぶさに」と正解を出した唯一の回答者でもあり、スタジオを沸かせた。",
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"text": "番組のオープニングで、勉強小僧が「今日の生徒〜」と出席生徒をテロップ入りで紹介する際、渡嘉敷勝男が「わたしゃもう少し背がほしい」とテロップで紹介された後に、天本が「半分やるから家をくれ」と紹介されたこともあった。他にはうじきつよしが「軽音楽部の部長」と紹介された後、天本が「謎の帰宅部」と紹介されたこともあった。",
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"text": "しかし、1993年12月に逸見が没したのをきっかけに心境が一変した。逸見の緊急追悼番組にゲスト出演し、「自分の方が生き残ってしまった」「人間は年老いた者から順番に死んでいくものなのに、逸見さんはあまりにも早過ぎた」と、語気強く無念さを語った。さらに、『平成教育委員会』のプロデューサーを担当していたイーストの越真一が同年に自殺したことにも触れ、「逸見さんは(越から数えると)2人目の犠牲者だ。この業界は狂ってる。あんな番組にケラケラ笑って出たくないですよ!!」と激昂して『平成教育委員会』との決別を表明し、その後は宣言通り二度と出演しなくなった。 放送終了後 天本は出演者に謝罪している。",
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"text": "また、矢作俊彦はシナリオライター時代にFM番組で何度も天本を起用し、小説家としてもデビュー当時から天本をモデルとするキャラクターを作品に登場させてきた。1997年に発表された『あ・じゃ・ぱん』では「降矢木残轍」こと東大名誉教授「溝呂木省吾」という人物を登場させている。天本の死去の際には一晩泣き明かし、締め切りを3つ落としたと言われる。",
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] | 天本 英世は、日本の俳優。「あまもと えいせい」の通称もある。福岡県若松市出身。本籍は佐賀県鳥栖市。身長180cm、体重65kg。 | {{ActorActress
| 芸名 = 天本 英世
| ふりがな = あまもと ひでよ
| 画像ファイル = Japanese-Edition-of-Alfred-Hitchcocks-Mystery-Magazine-1961-Special-May-Issue-2.jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像コメント = <small>『[[ヒッチコック・マガジン]]』1961年5月増刊号(宝石社)</small>
| 本名 = 天本 英世
| 別名義 = 天本 英世<br />(あまもと えいせい)
| 出生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[若松区|若松市]](現:[[北九州市]][[若松区]])
| 死没地 = 同上
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 = 180 [[センチメートル|cm]]
| 生年 = 1926
| 生月 = 1
| 生日 = 2
| 没年 = 2003
| 没月 = 3
| 没日 = 23
| 職業 = [[俳優]]
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = [[1954年]] - [[2003年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = なし
| 著名な家族 =
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''テレビドラマ'''<br />『[[仮面ライダー]]』<br />『[[星雲仮面マシンマン]]』<hr />'''映画'''<br />『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』<br />『[[殺人狂時代 (1967年の映画)|殺人狂時代]]』<br />『[[大誘拐 RAINBOW KIDS]]』
| 受賞 =
| 備考 = 体重65[[キログラム|kg]]
}}
'''天本 英世'''(あまもと ひでよ{{R|怪人大画報176}}、[[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[1月2日]]{{R|全史527|怪人大画報176}} - [[2003年]]〈[[平成]]15年〉[[3月23日]]{{R|怪人大画報176}})は、[[日本]]の[[俳優]]。「あまもと えいせい」の通称もある{{R|全史527|東宝SF4|大百科MG114}}。[[福岡県]][[若松市]](現:[[北九州市]]{{R|全史527|怪人大画報176}}[[若松区]])出身。[[本籍]]は[[佐賀県]][[鳥栖市]]<ref>{{Cite book |和書 |author=長田渚左|authorlink=長田渚左 |year=1995 |title=フェロモンな男たち 長田渚左のトークフェスタ |publisher=アリアドネ企画 |page=172 |isbn=4384022573}}</ref>。身長180[[センチメートル|cm]]、体重65[[キログラム|kg]]。
== 来歴 ==
[[File:Hideyo Amamoto 1954 Scan10006 160913.jpg|thumb|200px|1954年]]
福岡県若松市で住友石炭鉱業で働く父を持ち、裕福な家庭に生まれた{{R|脇役稼業20220723}}。1943年(昭和18年)に旧制若松中学校(現・[[福岡県立若松高等学校]])を卒業し、翌1944年に[[第七高等学校造士館 (旧制)|旧制第七高等学校]](現・[[鹿児島大学]])に進学した。1945年に19歳で[[学徒出陣]]で兵役に召集され、5月に久留米の野砲隊(大砲係)に入隊、その後通信兵として[[宮崎県]]に送られた{{R|脇役稼業20220723}}。しかし、営内では上官に対抗し、その度に鉄拳制裁を受けた。この経験が自身の反骨志向を育む。
1948年に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]][[政治学部|政治学科]]に入学する。大学では[[国際政治学]]を専攻し、当初は[[外交官]]を目指していたが、当時の政府の政治姿勢に失望し、文学や演劇に没頭するようになった。また、11歳年上の女性との失恋のショックも相まって{{R|脇役稼業20220723}}その後、東京大学を中退して[[劇団俳優座]]に所属する{{R|全史527|怪人大画報176}}。その後は俳優座スタジオ劇団同人会<ref>{{Cite book|和書|author=尾崎宏次|authorlink=尾崎宏次|anchorlink=尾崎宏次|year = 1956|title = 新劇の足音|publisher = [[東京創元社]]|page =196}}</ref>、[[劇団四季]]などに所属{{R|タレント名鑑64}}。1954年に28歳でオペラ『[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]』において初舞台を踏む。同年に[[松竹]]と契約し<ref name="タレント名鑑64">{{Cite book|和書|year = 1964|title = タレント名鑑NO2|publisher = [[芸能春秋社]]|page =7}}</ref>、『女の園』と『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』 で映画に初出演する{{R|全史527|怪人大画報176}}。当時は180センチメートルで細身の美男子だったため、しばらくは二枚目俳優として売り出された{{R|脇役稼業20220723}}。『女の園』は、木下恵介監督から哲学者みたいな顔つきを気に入られたことで、哲学の講師役での出演が決まった{{R|脇役稼業20220723}}。『二十四の瞳』では[[高峰秀子]]の夫役に抜擢されたが、セリフ覚えが上手くいかず本人の中では大失敗に終わったという{{R|脇役稼業20220723}}。また当初、天本の役は[[明石潮]]が演じる予定だった。
1958年に[[東宝]]と専属契約を結ぶ{{R|タレント名鑑64}}。以後、アクション映画や特撮映画などで個性的な脇役として活躍し{{R|怪人大画報176}}、また人間離れした悪役や殺し屋などを数多く演じた{{R|脇役稼業20220723}}。特に[[岡本喜八]]が監督を手掛けた作品にはその大半に出演し{{R|全史527|怪人大画報176}}、中でも1967年の映画『[[殺人狂時代 (1967年の映画)|殺人狂時代]]』の精神科医・溝呂木博士役が好評を得た{{R|脇役稼業20220723}}。実年齢より上の老け役も多く、監督の[[本多猪四郎]]は天本は若いころから雰囲気が変わらない旨を述懐している{{R|東宝SF4}}。
私生活では20代から[[ファルーカ (フラメンコ)|ファルーカ]](スペイン音楽の一種)と[[フラメンコ]]を端緒としてスペイン語を独学で身につけ{{R|脇役稼業20220723}}、[[スペイン]]に深く傾倒していく(趣味のスペインについて詳しくは[[#こよなく愛したスペイン|後述]])。
1970年代からはテレビドラマに活躍の比重を移し、主に不気味な存在感を放つ悪役として活躍する。1972年に[[毎日放送]]『[[仮面ライダー]]』で[[死神博士]]を演じ、悪役ながら人気を博した{{R|全史527|怪人大画報176}}。
1991年(平成3年)から[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[平成教育委員会|たけし・逸見の平成教育委員会]]』に「東大出身」の解答者としてレギュラー出演し、一般的な知名度を一気に高めた。
2003年3月23日に[[肺炎|急性肺炎]]により故郷の福岡県北九州市若松区にて逝去、77歳。[[カトリック教会]]の信徒であったため、地元にある[[カトリック教会]]で葬儀が行われた。その後行われた天本の追悼公演には、[[佐々木剛]]、[[辰巳琢郎]]、[[黒部進]]らが参加した{{R|脇役稼業20220723}}。2005年10月25日に遺灰がスペイン・[[アンダルシア州]]の[[グアダルキビール川]]源流に[[散骨]]された<ref>[http://amamoto.kinnabe.com/spain/index.html 天本英世記念館をつくる会 /「天本英世とスペイン」]</ref>。
== 人物・エピソード ==
20代の頃に[[イマヌエル・カント|カント]]、[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]などの哲学書を読み漁り、“自分は何のために生きているのか”を考えるようになった{{R|脇役稼業20220723}}。また、“明日のことは考えず、今日を必死に生きる”という哲学は、大好きなスペインから学んだ{{R|脇役稼業20220723}}。
[[自由主義]]者・[[無政府主義]]者で{{R|怪人大画報176}}、現代の日本に生きる人々に対して[[急進主義]]的視点から苦言を呈していた。「国家というものが大嫌い」と述べ、スペインへの移住を熱望し、2000年に発表した著書『日本人への遺書(メメント)』([[徳間書店]])においても「こんな呆け国家で死にたくない」と記していた。
[[天皇制]]と[[昭和天皇]]の[[昭和天皇の戦争責任|戦争責任]]を不問にしようとする勢力([[菊タブー]]を守ろうとする風潮、[[自由民主党 (日本)|自民党]]政権、[[文部省]])を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べている<ref>{{ウェブアーカイブ |deadlink=http://www.mammo.tv/interview/archives/no007.html |title=インタビュー第7回 昨日も明日もない。あるのは今日だけ。(考える高校生のためのサイト「マンモTV」) |url=http://www.mammo.tv/interview/archives/no007.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170213012643/www.mammo.tv/interview/archives/no007.html |archiveservice=web.archive.org |archivedate=2017-02-03}}</ref>。また学徒出陣の経験は言葉に言い表せないほどのショックを受け、戦後になっても、戦争を賛美するような内容の映画には、依頼を受けても絶対に出演しないという姿勢を貫いた{{efn|これはあくまで「作品のスタンス」であり、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』では、日本の降伏に反発して[[鈴木貫太郎]]首相邸を襲撃する狂信的な軍人(横浜警備隊の[[佐々木武雄]]大尉)役を演じている。}}。長身に対するねたみのために将校にいじめられ、軍が嫌いになり、その延長として左翼的になったという。
渋谷区の一戸建てで約30年間一人暮らしをしていたが、家にこだわりがなく修繕をしなかったため、徐々に雨漏りがひどくなり住めなくなった{{R|脇役稼業20220723}}。このため60代後半から[[世田谷公園]]で寝泊まりし、昼間は近くの[[ジョナサン (ファミリーレストラン)|ジョナサン]]三軒茶屋店で過ごすようになった。このため、天本に仕事を依頼する時は仕事関係者が同店に電話をかけて取り次いでもらっていた{{R|脇役稼業20220723}}{{efn|一方では、借家が雨漏りして住めなくなって困っていたところ、空き家になっていたクリーニング店の2階を無料で提供され、そこで寝泊りしていた。無料なので遠慮して、昼間で仕事の無い時は公園などで時間を潰していた。この住居には電話も引いていなかったため、仕事の依頼などは近くのあるファミリーレストランに取り次いでもらっていた。その関係もあって天本はそのファミリーレストランに頻繁に来店し、付近の住民にも親しまれていた、とする説もある{{要出典|date=2022年10月}}。}}。
天本とは年齢の離れた親友であったという[[二瓶正也]]は、東宝の美術や衣装の人間らが天本の自宅や衣服の修繕を行っていたと証言している{{R|円谷SF}}。
普段着にスカルキャップ・ブーツ・マントを愛用し、その姿のままで出演したドラマも多い。岡本喜八とは風貌が似ており、ロケ先で子供たちから「死神博士が2人いる!」とよく言われ、岡本は機嫌が悪かったという。
趣味は野球観戦<ref>{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |page=171 |chapter=奇優 天本英世|id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref>。
9代目松本幸四郎(初演当時は6代目市川染五郎、現在の[[松本白鸚 (2代目)|2代目松本白鸚]])が主演を務める舞台『[[ラ・マンチャの男]]』は、当初は天本が主演を務める予定であったが、東宝の判断で人気のある6代目市川染五郎に変更された{{R|円谷SF}}。
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[星雲仮面マシンマン]]』出演時に読売新聞のインタビュー{{Full|date=2017年8月}}に答えたコメントの中で、ロケに同行する過保護な子役の母親たちを批判し、「もっと子供は普段から自由に遊ばせるべきだ」と主張していて、子供好きな面をのぞかせている。また「女はめんどくさい」、「今は毎朝、“死”について考えています」などと語っていた。『星雲仮面マシンマン』については雑誌『[[宇宙船 (雑誌)|季刊 宇宙船]]』のインタビュー{{Full|date=2017年8月}}で「子供番組なのにスタッフが子供を大事にしない」と、当時の撮影現場を批判している。
先述の大学時代に失恋した11歳年上の女性のことを思い続け、生涯独身を貫き、気ままな放浪生活と散歩を楽しんだ{{R|脇役稼業20220723}}。映画監督の[[金子修介]]によると、天本は結婚に関して「自分は特別変な人間ではないと思うけど、たまたま結婚する機会や縁がなかった」とも語っていた{{R|脇役稼業20220723}}。
=== スペイン愛好 ===
天本のスペイン趣味は1967年に出演した映画『[[殺人狂時代 (1967年の映画)|殺人狂時代]]』にも表れている。天本が演じる溝呂木博士と[[仲代達矢]]が演じる桔梗信治との決闘シーンは、互いの左手首を縛って右手のナイフだけで戦うという「スペイン式決闘」で行われ、BGMには天本がレコードを持ち込んだファルーカが用いられた。作中では旧制高校仕込みと自称するドイツ語の会話もこなした。
1968年に公開された映画『[[クレージーメキシコ大作戦]]』(東宝 / [[渡辺プロダクション|渡辺プロ]])では山賊の頭領役で出演して、現地人はだしの流暢なスペイン語の台詞を披露している。
1979年3月から7ヶ月間にわたりスペインを旅行し{{R|全史527}}{{efn|スペイン国内を周った後に、半月間にわたって[[南フランス]]→[[パリ]]へと旅行したため、実際の旅行期間は7ヶ月半となった。なお、スペイン国内を周る中途において[[モロッコ]]・[[ポルトガル]]・[[アンドラ公国]]へも足を運んでいる。}}、その旅行記を1980年に『スペイン巡礼:スペイン全土を廻る』([[話の特集]])という著書として発表する。1982年には『スペイン巡礼』の追想記および後日譚となる『スペイン回想:『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集)という著書を発表した。
俳優としての活動と並行して、[[フラメンコギター|フラメンコ・ギター]]の伴奏や舞踊家によるフラメンコ舞踊を付けた編成で原詩と日本語訳との両方で[[フェデリコ・ガルシーア・ロルカ]]の詩を朗誦する活動を行っていた{{efn|1980年後半から1981年にかけての時期には、自身の著書『スペイン巡礼』発表の反響により、[[テレビ朝日]]『[[徹子の部屋]]』や[[NHK総合]]『[[ばらえてい テレビファソラシド]]』などのテレビ番組に出演し、フラメンコ・ギターの伴奏者やフラメンコの舞踊家を付けた編成でロルカの詩の朗誦を披露した。これらの出演に関しては『スペイン回想』における「テレビ出演あれこれ」という章にて詳細が記述されている。}}。その他にも、旅行社と協力してスペイン方面へのツアーを計画してそれを引率することもあった。
スペインには生涯で20回ほど訪れ、各地を放浪しては流暢なスペイン語で現地の人々と会話して親しくなった{{R|脇役稼業20220723}}。また、スペイン民俗音楽に関しては日本で屈指のレコード・コレクションを持つ存在として知られていた{{R|全史527}}。本人が生前にスペインにて収集したレコードや帽子・杖・皿を含めた工芸品など約5千点余のコレクション{{R|脇役稼業20220723}}は、現在は本人の没後に郷里である北九州市若松区にて設立された「天本英世記念館をつくる会」の有志たちによって保存・管理されている<ref>[http://amamoto.kinnabe.com/about/index.html 天本英世記念館をつくる会 /「記念館をつくる会とは」]</ref>。
1984年には日本テレビ『星雲仮面マシンマン』で敵役「プロフェッサーK」を演じる。この役も天本のスペイン趣味が前面に出た役柄で、衣装は天本の自前によるものだった。また「Kがスペインで撮った」という設定で劇中に登場する写真も、天本が実際にスペイン旅行中に撮ったものだった。そのスペインに対する熱情のあまり、予定していたスペイン旅行の日程が撮影と重なったことを理由に、番組を途中で一時降板したほどである{{efn|『星雲仮面マシンマン』の劇中においても、天本のスペイン渡航に話を合わせるような形で、本人が番組を休業する直前となる第17話にて、プロフェッサーKが自身の腹心である鉄人モンスをマシンマンとの戦闘で失ったことによる傷心を癒すために、日本を離れて南スペインの港町へ旅に出るという展開となった。天本は第33話において作中に復帰している。}}。
2001年に公開された映画『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』でも、天本が演じる伊佐山教授の衣装の多くで本人がスペインにて購入した自前のものが使用されている{{R|脇役稼業20220723}}。
2002年には『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』([[カエルカフェ]])という、自身にとって最初で最後となるアルバムを発表する。本人がスペイン人と日本人について思うところを歯に衣着せずに一気に語り、その途中で「ロルカ13のスペイン古謡」{{efn|ロルカがスペイン各地で採集した民謡に、不明部分の歌詞と旋律をロルカ自身が補作した上でピアノの伴奏用に編曲したもので、[[フィールドワーク]]によりロルカは実際には何百曲という民謡を採集したと言われるものの、現在までにロルカ自身が採譜した形で楽譜として残されているのは13曲のみで、それらが「ロルカのスペイン古謡」や「13のスペイン古謡」などと総称されている<ref>[https://acueducto.jp/musica/garcia-lorca-y-la-musica-3/ スペイン情報誌 acueducto 「ガルシア・ロルカと音楽 その3」[[下山静香]] 2017年2月]</ref>。天本は『スペイン回想』においても「「ロルカの13の民謡」とは……」という章でこれら13曲に関しての詳細な解説を行っている。}}全13曲の中から、『[[セビリア|セビージャ]]の古いナナ(子守唄)』{{efn|日本では一般的に『セビーリャの子守歌』という曲名で表記されることが多いが、本作では“Nana de Sevilla”という原曲名を基に『セビージャの古いナナ(子守唄)』という曲名が用いられている。}}など6曲の無伴奏による歌唱と各曲解説を披露するという内容だった。
自身の著書『日本人への遺言(メメント)』では「私は、スペインで死にたい。20回も訪ねて歩きまわった大好きなスペインで死にたい」と記していたが、それは叶わなかった。先述の通り、本人の生前の意志に基づいて、2005年10月25日に遺族および日本とスペインの友人たちの手によって、スペインのグワダルキビール川源流に遺灰が散骨されている。
=== 死神博士に関するエピソード ===
『仮面ライダー』で天本が演じた[[死神博士]]は[[仮面ライダーシリーズ]]に登場する悪役の中でも屈指の人気を誇る。天本は、設定から神秘性・怪奇性を強調した大人向けの芝居を行っていたが、怖すぎるとして、演技を子供向けに抑えるよう注文されたという{{R|大全集235}}。この役で用いた小道具の指揮棒は、本人がエジプトに旅行した際に購入したもので、「こういう役が多いもので」買い求めておいたものだそうである{{R|大全集235}}。
晩年の発言の一部から、死神博士の役を嫌っていたかのように誤解されることがあるが、天本が嫌っていたのは、死神博士のことばかりことさらに強調する一部のファンやマスコミであり、死神博士の役そのものを否定したことはない。子供のファンから請われれば喜んで「死神博士」と似顔絵入りでサインしていたことや、仮面ライダー関連の公式なキャストインタビューには真摯に応じて、衣装や演技のことなどを語っていたのがその証だが、成人後も子供向け特撮番組だけに熱中する[[おたく|オタク]]には「世の中にはもっと大切なものがある」と厳しい態度を取っていた。
[[日本放送協会|NHK]]『[[まんがで読む古典]]・[[雨月物語]]』に[[上田秋成]]役で出演した際、「わしも昔死神博士として、[[ショッカー]]という妖怪軍団を率いておった」という台詞を述べたこともあり{{出典無効|date=2017年8月}}、晩年には新宿駅の地下街で本人とすれ違ったファンが思わず「あ、死神博士だ」と呟いたところ、天本は「左様」と答えて去っていったというエピソードもある。
2005年に公開された『[[仮面ライダー THE FIRST]]』では、『仮面ライダー』で使用された死神博士の映像に[[丸山詠二]]が新たに声を当て、デジタル出演という形で登場している{{R|怪人大画報176}}。
=== 『平成教育委員会』に関するエピソード ===
フジテレビ『たけし・逸見の平成教育委員会』の生徒役(解答者)としてレギュラーで出演し、放映開始から1993年3月の「卒業」までほぼ皆勤であった{{efn|1992年のOA冒頭で、トイレから帰ってくるのに手間取り「遅刻」扱いになっている。}}。[[国語 (教科)|国語]]に関してはずば抜けた好成績を修めていた反面、理数系の問題ではほとんど正解できず、[[算数]]の問題になると時に問題文を読むことを放棄し、解答する気がないような態度を示すほどに苦手としていた。国語が得意ということで[[文学部]]出身と間違われることも多く、法学部出身の経歴を意外がられることもあった。先生役の[[ビートたけし|北野武]]が遂に「天本君は算数の問題があと1問でも正解したら、海外留学を差し上げます!」と断言。リーチがかかっていた「たけし落とし」を完成させ、世界一周留学の旅を獲得した。
国語の授業において、「二文字[[熟語]]をつくる」というもので「芸文」と解答したが、はじめ正解とされなかった。そこで「『芸文』ってあるんですよ!」と反論し、[[逸見政孝]]に辞書を引かせた結果、掲載があったため正解となったことがある。また、出題者側が「あられもない」という解答を想定していた問題で「しどけない」と解答し、一旦不正解となるが、やはり辞書での確認を求め、同義語であることが確認されて正解となったこともある。ほかにも、読み方を答える設問で「模る=かたどる」「具に=つぶさに」と正解を出した唯一の回答者でもあり、スタジオを沸かせた。
番組のオープニングで、[[平成教育委員会#勉強小僧|勉強小僧]]が「今日の生徒〜」と出席生徒をテロップ入りで紹介する際、[[渡嘉敷勝男]]が「わたしゃもう少し背がほしい」とテロップで紹介された後に、天本が「半分やるから家をくれ」と紹介されたこともあった。他には[[うじきつよし]]が「軽音楽部の部長」と紹介された後、天本が「謎の帰宅部」と紹介されたこともあった{{efn|レギュラー時には、天本が最後に紹介されることが多く、いわゆる『オチ』に使われることが多かった。}}。
『[[平成教育テレビ]]』でも番組の大部分に出演したが、「先生というのは、『自分は馬鹿です』と言っているようなもの」とつい本音を言ってしまい、北野や逸見、ほかの共演者を慌てさせている。また、一度「卒業」で番組を降板するも、後に卒業生枠ができて1期生も再び番組出演するようになると、天本も番組に登場して笑顔で点呼に応えていた。
しかし、1993年12月に逸見が没したのをきっかけに心境が一変した。逸見の緊急追悼番組にゲスト出演し、「自分の方が生き残ってしまった」「人間は年老いた者から順番に死んでいくものなのに、逸見さんはあまりにも早過ぎた」と、語気強く無念さを語った{{出典無効|date=2017年8月}}。さらに、『平成教育委員会』のプロデューサーを担当していた[[イースト・エンタテインメント|イースト]]の越真一が同年に自殺したことにも触れ、「逸見さんは(越から数えると)2人目の犠牲者だ。この業界は狂ってる。あんな番組にケラケラ笑って出たくないですよ!!」と激昂して『平成教育委員会』との決別を表明し、その後は宣言通り二度と出演しなくなった。 放送終了後 天本は出演者に謝罪している。
== 天本英世をモデルとしたキャラクター ==
{{出典の明記|section=1|date=2023-9}}
{{独自研究|section=1|date=2023-9}}
『仮面ライダー』の死神博士役を演じたことから、特撮ファンである漫画家や小説家の作品の中に、親愛と敬意を込めて自作品に天本をモデルとしたと思われるキャラクターが登場している例がある。
* [[ゆうきまさみ]]『[[究極超人あ〜る]]』の毒島
** 天本本人も自身がモデルとなったこのキャラクターを知っており、後に『たけし・逸見の平成教育委員会』にレギュラー出演していた際は、毒島と同じデザインの衣装に竹箒を持って登場していた。
* ゆうきまさみ『[[鉄腕バーディー]]』の県十三
* [[笹本祐一]]『[[ARIEL]]』の天本教授
* [[福本伸行]]『[[アカギ 〜闇に降り立った天才〜|アカギ]]』の市川
* [[RPGマガジン]]巻末コミックのアワモト博士(RPG福袋‘93のオムニバスコミック)
* [[真船一雄]]『[[スーパードクターK]]』の雨本老人(作中で死神博士そのままのコスチュームも着用)
* 藤村緋二『真の安らぎはこの世になく -シン・仮面ライダー SHOCKER SIDE-』のイワン
また、[[矢作俊彦]]はシナリオライター時代にFM番組で何度も天本を起用し、小説家としてもデビュー当時から天本をモデルとするキャラクターを作品に登場させてきた。1997年に発表された『[[あ・じゃ・ぱん]]』では「降矢木残轍」こと東大名誉教授「溝呂木省吾」という人物を登場させている。天本の死去の際には一晩泣き明かし、締め切りを3つ落としたと言われる。
旧制第七高等学校野球部を題材とした映画『[[北辰斜にさすところ]]』(神山征二郎監督、2007年公開)では、作中の現代(2002年)においてスペイン・アンダルシアに暮らす野球部OB「天本英人」という人物が登場する。
== 出演 ==
=== 映画 ===
* [[女の園]](1954年) - 女子大の先生(哲学の講師役){{efn|ノンクレジット。}}
* [[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]](1954年) - 大石先生の夫{{R|全史527}}
* 愛は降る星のかなたに(1956年) - 陳竜成
* [[月蝕 (映画)|月蝕]](1956年) - バンドの高林
* [[デンスケ]]の宣伝狂(1956年) - マナスル広告社の臨時雇いの社員
* 誘惑(1957年) - 池上恭三{{efn|クレジットには「天本英生」と表記されている。}}
* 奴が殺人者だ(1958年) - ヤッパの竜
* 密告者は誰か(1958年) - 中尾
* [[人生劇場#映画|人生劇場 青春篇]](1958年) - 高見剛平
* [[暗黒街の顔役 (1959年の映画)|暗黒街の顔役]](1959年) - 小山
* [[孫悟空 (1959年の映画)|孫悟空]](1959年) - 書記官長
* [[或る剣豪の生涯]](1959年) - 旗本丙山
* 青春を賭けろ(1959年) - 仙坂
* 夜を探がせ(1959年) - 薮原
* [[日本誕生]](1959年) - 大伴の兵{{R|東宝特撮映画大全集39}}
* [[暗黒街の対決]](1960年) - 市野
* [[国定忠治#映画|国定忠治]](1960年) - 富松(忠治の乾分)
* [[電送人間]](1960年) - 海南貿易社員{{R|全史536}}
* 第三波止場の決闘(1960年) - 渡山
* [[男対男]](1960年) - 殺し屋
* [[がめつい奴]](1960年) - 源
* 駄々っ子亭主 続姉さん女房(1960年) - 牧山
* 愚連隊シリーズ
** [[独立愚連隊西へ]](1960年) - ゲリラ隊長
** [[どぶ鼠作戦]](1962年) - 高級参謀A
** [[やま猫作戦]](1962年) - ゲリラA
* [[みな殺しの歌より 拳銃よさらば!]](1960年) - 木谷
* [[大坂城物語]](1961年) - 通訳
* [[暗黒街の弾痕 (1961年の映画)|暗黒街の弾痕]](1961年) - 黒背広の男
* [[用心棒]](1961年) - 弥八
* [[紅の海]](1961年) - 黒眼鏡の男
* [[真紅の男]](1961年) - 画家
* [[野盗風の中を走る]](1961年) - 甚吉
* [[妖星ゴラス]](1962年) - キャバレーの客{{R|全史536}}
* [[紅の空]](1962年) - 竜と呼ぶ男
* [[忠臣蔵 花の巻・雪の巻]](1962年) - 高野中納言
* 暗黒街の牙(1962年) - 周
* [[戦国野郎]](1963年) - 馬借のじごく
* [[国際秘密警察シリーズ]]
** 国際秘密警察 指令第8号(1963年) - 周
** 国際秘密警察 鍵の鍵(1965年) - 沼口
** 国際秘密警察 絶体絶命(1967年) - 殺し屋A
* [[マタンゴ]](1963年) - マタンゴ{{R|全史527}}
* [[秘剣 (映画)|秘剣]](1963年) - 港の浪人乙
* [[大盗賊]](1963年) - 妖婆
* [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]](1963年) - ムウ帝国長老{{R|全史527}}
* [[江分利満氏の優雅な生活]](1963年) - 柳原
* [[ああ爆弾]](1964年) - テツ
* [[クレージー映画]]
** [[無責任遊侠伝]](1964年) - 張の乾分
** [[クレージーメキシコ大作戦]](1968年) - メキシコの山賊
** [[クレージーの殴り込み清水港]](1970年) - 座頭吉
* がらくた(1964年) - 盲人
* [[宇宙大怪獣ドゴラ]](1964年) - ジョー真木{{R|大百科MG114|東宝特撮映画大全集83}}
* [[ゴジラシリーズ]]
** [[三大怪獣 地球最大の決戦]](1964年) - 老臣{{R|大百科MG114|東宝特撮映画大全集87}}
** [[ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘]](1966年) - 船長{{R|全史536}}
** [[ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃]](1969年) - 南信平{{R|全史536|大百科MG114}}
** [[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]](2001年) - 伊佐山嘉利{{R|東宝特撮映画大全集273}}
* [[侍 (映画)|侍]](1965年) - 萩原又三郎
* [[血と砂 (1965年の映画)|血と砂]](1965年) - 志賀一等兵
* [[怪談 (1965年の映画)|怪談]](1965年) - 式部平内の家来3{{R|東宝特撮映画大全集91}}
* [[暴れ豪右衛門]](1966年) - 兵六
* 五匹の紳士(1966年) - 宗
* [[大菩薩峠 (1966年の映画)|大菩薩峠]](1966年) - 神尾主膳
* [[奇巌城の冒険]](1966年) - 不知火のおばば{{R|大百科MG114}}
* [[てなもんや東海道]](1966年) - 権太夫
* [[殺人狂時代 (1967年の映画)|殺人狂時代]](1967年) - 溝呂木省吾博士
* [[佐々木小次郎#映画|佐々木小次郎]](1967年) - 牢人
* [[キングコングの逆襲]](1967年) - ドクター・フー{{R|全史527|大百科MG114}}
* 東宝8.15シリーズ
** [[日本のいちばん長い日]](1967年) - [[佐々木武雄]]
** [[激動の昭和史 軍閥]](1970年) - 冬木先生
** [[激動の昭和史 沖縄決戦]](1971年) - 野田校長{{R|全史536}}
* [[ザ・ドリフターズの映画|ドリフターズですよ!前進前進また前進]](1967年) - 金
* [[斬る (1968年の映画)|斬る]](1968年) - 島田源太夫
* [[肉弾 (映画)|肉弾]](1968年) - あいつの父
* [[ザ・タイガース 世界はボクらを待っている]](1968年) - ヘラクレス
* サラリーマン悪党術(1968年) - 白石
* [[コント55号 世紀の大弱点]](1968年) - 編集長
* [[地獄変#映画|地獄変]](1969年) - 家人
* [[博奕打ち 総長賭博|博奕打ち いのち札]](1970年) - 金原
* [[出所祝い]](1971年) - 竜次
* [[仮面ライダーシリーズ]]
** [[仮面ライダー対ショッカー]](1972年) - [[死神博士]]
** [[仮面ライダー THE FIRST]](2005年) - ショッカー幹部(デジタル出演){{efn|『仮面ライダー』の死神博士の映像を流用したもの。声は[[丸山詠二]]による吹き替え。}}
* [[ルパン三世 念力珍作戦]](1974年) - 孤児院の殺し屋
* [[告訴せず#映画|告訴せず]](1975年) - 神官
* [[吶喊]](1975年) - 与作
* [[ロボコンの大冒険]](1976年) - 妖術師アークマン
* [[ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー]](1978年) - サハラ将軍
* [[宇宙からのメッセージ]](1978年) - 太公母ダーク
* [[ブルークリスマス]](1978年) - 代議士風の男
* [[地獄 (1979年の映画)|地獄]](1979年) - [[荼枳尼天|茶吉尼天]]
* [[ミスター・ミセス・ミス・ロンリー]](1980年) - 下村竜一郎
* [[さらば箱舟]](1984年) - [[鋳掛屋]]
* [[麻雀放浪記#映画(1984年版)|麻雀放浪記]](1984年) - 鉢巻
* アギ・鬼神の怒り(1984年) - [[陰陽師]]
* (金)(び)の[[渡辺和博|金魂巻]](1985年) - 旅館の番頭
* [[紅い眼鏡/The Red Spectacles|紅い眼鏡]](1987年) - 月見の銀二
* フリーター(1987年) - 岩佐亀吉
* [[グリーン・レクイエム]](1988年) - 町田老人
* [[快盗ルビイ]](1988年) - 食料品屋の親父
* シナドシティブルース(1988年)
* [[文学賞殺人事件 大いなる助走]](1989年) - 海牛綿大艦
* 新・童貞物語 ホンコンバージンボーイ(1990年) - 周
* [[香港パラダイス]](1990年) - 郭陽明
* 妖怪天国 ゴースト・ヒーロー(1990年) - 蛇骨斎
* [[浪人街 (1990年の映画)|浪人街]](1990年) - [[琵琶法師]]
* [[パンツの穴|パンツの穴 キラキラ星みつけた!]](1990年) - 蒔田鴨次郎
* [[大誘拐 RAINBOW KIDS]](1991年) - 串田老人
* [[咬みつきたい]](1991年) - 大野
* [[必殺!5 黄金の血]](1991年) - 赤目
* [[病院へ行こう|病は気から 病院へ行こう2]](1992年) - 柏木冬三郎
* [[はいすくーる仁義|はいすくーる仁義2 たいへんよくできました]](1992年) - 権現
* 中指姫 俺たちゃどうなる?(1993年) - 神崎重五郎
* [[SAEKO]](1994年)
* [[押絵と旅する男|押繪と旅する男]](1994年) - 門馬弥三
* [[EAST MEETS WEST]](1995年) - 小栗豊後守
* [[水の中の八月 (映画)|水の中の八月]](1995年) - 堺
* 勝手にしやがれ!! 黄金計画 (1996年) - 波多野睦夫
* [[エコエコアザラク#映画|エコエコアザラクII -BIRTH OF THE WIZARD-]](1996年) - 斎呀一族の長老
* [[お天気お姉さん (漫画)|お天気お姉さん]](1996年) - 島森会長
* 30 thirty(1997年) - 軽トラックの老人
* [[F (エフ)]](1998年) - 荻野源三
* [[ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer]](2000年) - 金魚売りの男
* 押切 OSHIKIRI (2000年) - 押切灰郎
* Sweet Sweet Ghost(2000年) - ヤスリの爺
* [[ちんちろまい]](2000年) - ゴッドコンピューター
* [[助太刀屋助六]](2001年) - カタキウチ
* 龍虎兄弟 BLOOD BROTHERS(2002年) - 漢民街の長老
=== テレビドラマ ===
* [[ナショナル劇場#作品リスト|松本清張シリーズ・黒い断層]]
** 第17・18話「[[顔 (松本清張)#1960年版|顔]]」(1960年)
** 第33話「[[紐 (松本清張)#1962年版|紐]]」(1962年) - 医師
* [[三匹の侍]]
** 第1シリーズ 第6話「江戸無惨」(1963年)
** 第4シリーズ 第7話「刺客」(1966年) - 虚無僧
** 第5シリーズ 第4話「狼が死んだ」(1967年) - 蛭川
* [[ウルトラシリーズ]]
** [[ウルトラQ]] 第28話「あけてくれ!」(1967年) - 友野健二
** [[帰ってきたウルトラマン]] 第23話「暗黒怪獣星を吐け!」(1971年) - 天文台所員
** [[ウルトラマンレオ]] 第24話「美しいおとめ座の少女」(1974年) - ドドル博士
** [[私が愛したウルトラセブン]] (1993年) - 警備員
** [[ウルトラマンコスモス]] 第57話(初回放映時は53話)「雪の扉」(2002年) - 戸間乃老人
* [[快獣ブースカ]] 第10話「あの広場を守れ!」(1967年) - 凸凹不動産社員
* [[眠狂四郎 (1967年のテレビドラマ)|眠狂四郎]] 第1話「おこよ菩薩」(1967年)
* [[マイティジャック]] (1968年) - 村上譲隊員
* [[怪奇大作戦]] 第15話「24年目の復讐」(1968年) - 木村二等水兵
* 孤独のメス 第2話「兄弟仁義」(1969年) - 殺し屋
* [[東京バイパス指令]] 第41話「殺人海流」(1969年)
* [[女殺し屋 花笠お竜]] 第3話「狂犬の歌がきこえる」(1969年) - 刀傷の男
* [[鬼平犯科帳 (松本幸四郎)|鬼平犯科帳]] 第22話「決闘」(1970年) - 三井伝七郎
* [[東京警備指令 ザ・ガードマン|ザ・ガードマン]]
** 第296話「走れ蒸気機関車! 恐怖の逃亡者」(1970年) - 殺し屋
** 第344話「煙突の上で無理心中したヌードの美女」(1971年) - サタン
* [[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]
** [[水戸黄門 (第1-13部)#第2部|第2部]]
*** 第12話「黒い誓約書 -久保田-」(1970年12月14日) - 村上玄蕃
*** 第31話「家宝奪還作戦 -柳河- 」(1971年4月26日) - 山崎無善
** [[水戸黄門 (第1-13部)#第3部|第3部]] 第15話「忍びの掟 -伊賀上野-」(1972年3月6日) - 柘植玄斉
** [[水戸黄門 (第1-13部)#第6部|第6部]] 第8話「孤独の捕縄 -小倉-」(1975年5月19日) - 先生八右衛門
* [[キイハンター]]
** 第155話「殺しの標的は鏡の中の俺」(1971年)
** 第164話「わたしは大空の死刑執行人」(1971年) - 内村
** 第169話「さよなら・美しい眼のない死体」(1971年) - 高石
** 第171話「お化け怪獣大戦争」(1971年) - ファースト博士
** 第182話「秘密指令 あの墓を射て!」(1971年) - 執事
** 第187話「ビキニの殺し屋さん今晩おひま?」(1971年) - エルメスト一ノ瀬
** 第214話「SOS 殺し屋の女王陛下」(1972年)
** 第261話「魔女と黒猫が踊る夜」(1973年)
* [[プレイガール (テレビドラマ)|プレイガール]]
** 第116話「怪談 水晶屋敷の怨霊」(1971年) - 清介
** 第140話「腰の軍刀にしがみつき」(1971年) - 竹村
** 第189話「スリラー 愛する妻は二度死ぬ」(1972年) - 唐沢
** 第208話「高校生芸者殺人事件」(1973年) - 立花雄一郎
** 第222話「怪談 屋根裏の悪霊」(1973年) - 柴田祐造
** 第231話「朝は裸と別れのとき」(1973年) - 中里
** 第272話「怪談 悲恋の亡霊屋敷」(1974年) - 坂野周作
** 第281話「女の夜の腕くらべ」(1974年) - 根津見アキ
* [[大江戸捜査網]]
** 第50話「大暴れ! ろくでなし稼業」(1971年) - 丸目兵庫
** 第115話「隠密同心射たれる!」(1973年) - 明石検校
** 第127話「恐怖の爆破作戦!」(1974年) - 高岡洪庵
** 第145話「無宿者仁義」(1974年) - 村山辰之助
** 第233話「恋に舞う非情の掟」(1976年) - 津島玄章
** 第261話「悲しき泥棒稼業」(1976年) - 細川幽学
* [[大忠臣蔵 (1971年のテレビドラマ)|大忠臣蔵]] 第32話「紅蓮の隅田川密議」(1971年) - 覚雲
* [[徳川おんな絵巻]] 第48話「鬼火ヶ淵の精」(1971年) - 徳丸
* [[仮面ライダーシリーズ]] - [[死神博士]]{{R|全史527|大百科MG114}}
** [[仮面ライダー]] 第40 - 52話、61話、63話、68話(1972年)
** [[仮面ライダーV3]] 第27話「生き返ったゾル・死神・地獄・ブラック」・第28話「5大幹部の総攻撃!!」(1973年)
* [[気になる嫁さん]] 第27話「ただ今撮影中!」(1972年) - 監督
* [[荒野の素浪人]]
** 第18話「みな殺し 棚倉城襲撃」(1972年) - 小笠原周防守
** 第51話「叛乱 100挺のライフル銃」(1972年) - 松永石見守
* [[シークレット部隊]] 第6話「結婚を盗まれた女たち」(1972年) - 麻薬中毒の男
* [[超人バロム・1]] 第20話「魔人サソリルゲが地上を征服する!!」(1972年) - サソリ道人
* [[眠狂四郎 (1972年のテレビドラマ)|眠狂四郎]] 第5話「仇花に露が煌めく」(1972年) - 聾唖の剣客
* [[変身忍者 嵐]] 第40 - 47話(1973年) - 大魔王サタン
* [[長谷川伸シリーズ]] 第17話「越後獅子祭り」(1973年) - 浅井朝之助
* [[荒野の用心棒 (テレビドラマ)|荒野の用心棒]] 第19話「女囚は残酷に沼に沈んで…」(1973年) - 居合いの隼人
* [[ママはライバル]] 第40話「ライバルの子はライバル」(1973年) - 保沢校医
* [[唖侍鬼一法眼|唖侍 鬼一法眼]] 第1話「唇から歌を奪われた男」(1973年) - 祈祷師
* [[水滸伝 (1973年のテレビドラマ)|水滸伝]] 第8話「青州の妖精」(1973年) - 白面郎
* [[狼・無頼控]] 第15話「異聞女人の館」(1974年) - 辻井同順
* [[伝七捕物帳#日本テレビ版|伝七捕物帳]]
** 第31話「島から来た花嫁」(1974年) - 伊勢屋
** 第93話「とかく浮世は色と金」(1975年)- 鉄五郎
* [[バーディー大作戦]] 第9話「怪談 死を招く超能力の女」(1974年)
* [[太陽にほえろ!]] 第116話「マカロニ・ジーパンそしてテキサス」(1974年) - 斉慶徳
* [[非情のライセンス]]
** 第2シリーズ 第1話「兇悪のアリバイ」(1974年) - 安元
** 第2シリーズ 第52話「兇悪の再会」(1975年) - 大和田
** 第2シリーズ 第84話「兇悪の死刑執行人」(1976年) - 飯山(関西連合幹部){{efn|クレジットでは「関西系の男」と表示。}}
* [[傷だらけの天使]] 第24話「渡辺綱に小指の思い出を」(1975年) - 堀源
* [[少年ドラマシリーズ]] / 赤外音楽(1975年) - 火尻所長
* [[影同心]] 第9話「あぶな絵殺し節」(1975年) - 歌川宗春
* [[けんか安兵衛]] 第9話「八丁堀辻占」(1975年) - 近江屋
* [[鬼平犯科帳 (丹波哲郎)|鬼平犯科帳]] 第12話「凄い奴」(1975年) - 凄い奴
* [[特別機動捜査隊]] 第727話「自由への暴走」(1975年) - 金丸
* [[遠山の金さん (テレビ朝日)|遠山の金さん]] 第11話「真昼の仮面を裁け!」(1975年) - 異人の松五郎(偽クリストファ・ヨンストン)
* [[少年探偵団 (BD7)|少年探偵団]] 第11話「地獄のエクソシスト」(1975年) - 鬼崎教授
* [[宇宙鉄人キョーダイン]] (1976年) - 海堂博士
* [[子連れ狼 (萬屋錦之介版)|子連れ狼]] [[子連れ狼 (萬屋錦之介版)#第三部|第3部]] 第1話「狼止メ衆は不死にて候」(1976年) - 針吹きお熊
* [[破れ傘刀舟 悪人狩り]] 第85話「消えた五千両」(1976年) - 戸沢備前守
* [[隠し目付参上]] 第26話「神が仕掛けた大からくりか」(1976年) - 源斎
* [[超神ビビューン]] 第10話「手が出て襲う? 好運の古鞄」(1976年) - 老人(バッグダード)
* [[Gメン'75]] 第84話「三本指の刑事」(1976年) - 生物学者
* [[コードナンバー108 7人のリブ]] 第7話「危険なバカンス」(1976年) - トーマス
* [[怪人二十面相 (1977年のテレビドラマ)|怪人二十面相]] 第4話「危うし! 少年探偵団」(1977年)
* [[快傑ズバット]] 第2話「炎の中の渡り鳥」(1977年) - 風流之介
* [[小さなスーパーマン ガンバロン]] (1977年) - ワルワル博士
* [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]] / [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]] (1977年) - 義助
* [[大鉄人17]] 第32話「ほえろイナズマ! 謎の黄金怪獣」(1977年) - 黒田大介
* [[土曜ワイド劇場]]
** [[幽霊シリーズ|幽霊列車]] (1978年)
** [[結婚案内ミステリー風|結婚案内ミステリー風 略奪された花嫁!]](1987年)
** [[三毛猫ホームズの黄昏ホテル]] 豪華リゾート連続殺人事件! (1998年)
* [[西遊記 (1978年のテレビドラマ)#『西遊記』|西遊記]] 第4話「妖怪夫婦・金角、銀角」(1978年) - 老奶奶
* [[透明ドリちゃん]] 第23話「超能力おじさんの正体」(1978年) - 死神老人
* [[大追跡 (テレビドラマ)|大追跡]] 第5話「潜入刑事」(1978年)
* [[柳生一族の陰謀]] 第28話「闇に光る眼」(1979年) - 風魔鬼藤太
* [[半七捕物帳 (1979年のテレビドラマ)|半七捕物帳]] 第4話「大坂屋花鳥」(1979年) - 磯野小左衛門
* [[探偵物語]] 第24話「ダイヤモンド・パニック」(1980年) - シンジケートの男
* [[プロハンター]] 第9話「怪盗vs探偵」(1981年) - 谷口銀蔵
* [[時代劇スペシャル (フジテレビ)|時代劇スペシャル]] / 着ながし奉行(1981年) - 市川六左衛門
* [[右門捕物帖 (1982年のテレビドラマ)|右門捕物帖]] 第1話「さわやか右門さっそう登場」(1982年) - 山田右衛門
* [[宇宙刑事ギャバン]] 第37話「おてんばひょうきん姫の地球冒険旅行」(1982年) - 大司教(アナホリダブラー)
* [[特捜最前線]] 第317話「掌紋300202!」(1983年) - 北丸忠国(殺し屋マルチュウ)
* [[古谷一行の金田一耕助シリーズ#名探偵・金田一耕助シリーズ(1983年 - 2005年)|金田一耕助の傑作推理]] / ミイラの花嫁 (1983年)
* [[星雲仮面マシンマン]] (1984年) - プロフェッサーK
* [[気分は名探偵]] 第1話「夢野圭介絶体絶命!!」(1984年)
* [[ザ・ハングマン#ザ・ハングマンV|ザ・ハングマンV]] 第1話「人妻がパートでハングマン!?」(1986年) - 兵藤(政治結社 皇国清栄会 会長)
* [[太閤記 (1987年のテレビドラマ)|太閤記]] (1987年) - [[安国寺恵瓊]]
* [[火曜サスペンス劇場]] / [[殺意の団欒]] (1990年)
* [[刑事貴族]] 第31話「刑事たちの忙しい夜」(1991年)
* [[火曜ミステリー劇場]] / [[三毛猫ホームズシリーズ (テレビ朝日系列のテレビドラマ)#石立鉄男版|三毛猫ホームズの駈落ち]](1991年) - 山波幸造
* [[世にも奇妙な物語]] / 海亀のスープ (1991年) - 芝山泰治
* [[誰かが彼女を愛してる]] (1992年)
* [[本当にあった怖い話]] / 午前四時半の侵入者(1992年)
* [[名古屋嫁入り物語]] 第5弾「初孫戦争の巻」(1993年4月2日)
* [[金曜ドラマシアター]] / 嘘 (1993年)
* [[月曜ドラマスペシャル]]
** 精神外科医(2) 失明の外科医が心のメスで病に迫る! (1993年)
** [[浅見光彦シリーズ (TBSのテレビドラマ)|浅見光彦シリーズ]](1) 高千穂伝説殺人事件 (1994年)
** [[西村京太郎]]&[[山村美紗]] 夢の合作サスペンス / 海を渡った愛と殺意 (1997年)
** [[向田邦子]]終戦特別企画(5) あさき夢見し (1999年)
** 目撃者(2) 女探偵vs嘘つき少年 (2000年)
* [[17才-at seventeen-]] (1994年) - 吉永博士
* [[ムーンスパイラル]] (1996年) - 沢尻透
* [[銀狼怪奇ファイル]] (1996年) - 重田(鴻神家 執事)
* [[P.A.|P.A. プライベート・アクトレス]] 第3話「生存率50%の勇気!」(1998年) - 杉浦遊人
* [[天国に一番近い男]] 第9話「中継! 愛の救出大作戦」(1999年) - 黒沢恵介
* [[真夜中は別の顔#NHK版|真夜中は別の顔]] (2002年) - 奥平則和
* [[うきは〜少年たちの夏〜]] (2002年11月22日) - 山岸
=== 劇場アニメ ===
* [[ストリートファイターII MOVIE]](1994年) - 師匠
=== ゲーム ===
* [[ラプラスの魔 (コンピュータゲーム) |ラプラスの魔]](1987年) - 老人
=== WEBドラマ ===
* [[グラウエンの鳥籠]] (1999年) - 横溝菊雄 ※世界初のインターネットドラマ 企画:[[秋元康]] 制作:[[アスキー (企業)|アスキー]]
=== ラジオドラマ ===
* [[宮崎駿の雑想ノート]] 第10話「農夫の眼」(1996年)
=== バラエティ ===
<!-- 単発のゲスト出演などは不要。レギュラー番組のみ。「プロジェクト:芸能人」のガイドラインに基づく -->
* [[平成教育委員会|たけし・逸見の平成教育委員会]] - 生徒(解答者)
*[[たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人伝説]]
=== CM ===
* [[ユニクロ]]
* 『パックスのしわざ、その1』 - [[パックスコーポレーション]]の企業イメージCMと同社の商品である[[パワーグローブ]]を兼ねたCM。
* [[AZITO|AZITO3]] バンプレスト
* [[DION]] (2000) [[KDDI]]
=== その他 ===
* 東映怪人怪獣大百科 怪人篇(東映ビデオ) - 死神博士(ナレーション)
* [[NHKスペシャル]] [[アインシュタインロマン]]特別編 - 20世紀博物館案内人
== 著書 ==
* 『スペイン巡礼 : スペイン全土を廻る』(話の特集、1980年) ISBN 482640039X
* 『スペイン回想 : 『スペイン巡礼』を補遺する』(話の特集、1982年) ISBN 4826400594
* 『天本君、吠える! : 元気と勇気が湧いてくる本』([[ベストセラーズ]]、1993年)ISBN 4584008450
* 『日本人への遺書(メメント)』(徳間書店、2000年) ISBN 4198611246
== CD ==
* 『Spanish Red / The world of HIDEYO AMAMOTO 天本英世の世界』(カエルカフェ、2002年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="全史527">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=527|loc=「怪獣・SF映画俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="全史536">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|pp=536-537|loc=「主要特撮作品配役リスト」}}</ref>
<ref name="東宝SF4">{{Cite book|和書|title=海底軍艦/妖星ゴラス/宇宙大怪獣ドゴラ|date=1985-08-01|publisher=東宝出版事業室|series=東宝SF特撮映画シリーズ VOL.4|pages=201、206|chapter=本多猪四郎監督 長編インタビュー(3)|isbn=4-924609-13-7}}</ref>
<ref name="大全集235">{{Harvnb|仮面ライダー大全集|1986|p=235|loc=「仮面ライダーSTAFF CASTインタビュー 天本英世」}}</ref>
<ref name="大百科MG114">{{Harvnb|ゴジラ大百科|1993|p=114|loc=構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」}}</ref>
<ref name="東宝特撮映画大全集39">{{Harvnb|東宝特撮映画大全集|2012|p=39|loc=「『日本誕生』作品解説/俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="東宝特撮映画大全集83">{{Harvnb|東宝特撮映画大全集|2012|p=83|loc=「『宇宙大怪獣ドゴラ』作品解説/俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="東宝特撮映画大全集87">{{Harvnb|東宝特撮映画大全集|2012|p=87|loc=「『三大怪獣 地球最大の決戦』作品解説/俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="東宝特撮映画大全集91">{{Harvnb|東宝特撮映画大全集|2012|p=91|loc=「『怪談』作品解説/俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="東宝特撮映画大全集273">{{Harvnb|東宝特撮映画大全集|2012|p=273|loc=「『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』作品解説/俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="円谷SF">{{Cite book|和書|title=円谷プロSFドラマ大図鑑|publisher=[[洋泉社]]|series=洋泉社MOOK 別冊[[映画秘宝]]|date=2013|pages=52-53|chapter=Pickup Interview [[二瓶正也]]|isbn=978-4-8003-0209-0 }}</ref>
<ref name="怪人大画報176">{{Harvnb|仮面ライダー怪人大画報|2016|pp=176-177|loc=「仮面ライダー スタッフ・キャスト人名録 2016年版」}}</ref>
<ref name="脇役稼業20220723">週刊現代2022年7月23日・30日号「脇役稼業」第13回・天本英世「天才、そして怪人」p25-32</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}}
* {{Cite book|和書|title=創刊15周年記念 [[テレビマガジン]]特別編集 仮面ライダー大全集|date=1986-05-03|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-178401-3|ref={{SfnRef|仮面ライダー大全集|1986}}}}
* {{Cite book|和書|others=監修 田中友幸、責任編集 [[川北紘一]]|title=ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]|publisher=[[Gakken]]|series=Gakken MOOK|date=1993-12-10|isbn=|ref={{SfnRef|ゴジラ大百科|1993}}}}
* {{Cite book|和書|others=執筆:元山掌 松野本和弘 浅井和康 鈴木宣孝 加藤まさし|title=東宝特撮映画大全集|date=2012-09-28|publisher=[[ヴィレッジブックス]]|isbn=978-4-86491-013-2|ref={{SfnRef|東宝特撮映画大全集|2012}}}}
* {{Cite book|和書|title=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊 [[仮面ライダー]]怪人大画報2016|date=2016-03-28|publisher=[[ホビージャパン]]|series=ホビージャパンMOOK|isbn=978-4-7986-1202-7|ref={{SfnRef|仮面ライダー怪人大画報|2016}}}}
== 関連項目 ==
* [[怪優]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Hideyo Amamoto}}
* {{Tvdrama-db name}}
* {{jmdb name |0290380 }}
* {{allcinema name |113778 }}
* {{kinejun name |85749 }}
* {{Movie Walker name|id=80894|name=天本英世}}
* {{imdb name |id=0023862 |name=Hideyo Amamoto}}
* {{NHK人物録|D0009071247_00000}}
* {{Cite web|和書|url=http://122.200.201.84/interview/archives/no007.html |title=#007 昨日も明日もない。あるのは今日だけ。 天本英世さん(俳優)|publisher=mammo.tv |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071008052947/http://122.200.201.84/interview/archives/no007.html |archivedate=2007-10-08 |accessdate=2014-06-22 }}
* {{Cite web|和書|url=http://www.geocities.jp/takahajime2003/k-hideyo-amamoto.html |title=高樹蓉子との共演者 / 天本英世 |publisher=女優 高樹蓉子の跡 |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100106163225/http://www.geocities.jp/takahajime2003/k-hideyo-amamoto.html |archivedate=2010-01-06 |accessdate=2014-06-22 }}
* [http://amamoto.kinnabe.com/index.html 天本英世記念館をつくる会]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あまもと ひてよ}}
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本の無政府主義者]]
[[Category:剣劇俳優]]
[[Category:東宝の俳優]]
[[Category:仮面ライダー|出演者]]
[[Category:20世紀日本の俳優]]
[[Category:21世紀日本の俳優]]
[[Category:日本のカトリック教会の信者]]
[[Category:旧制第七高等学校造士館出身の人物]]
[[Category:北九州市出身の人物]]
[[Category:1926年生]]
[[Category:2003年没]] | 2003-03-23T15:01:34Z | 2023-12-13T08:20:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%9C%AC%E8%8B%B1%E4%B8%96 |
5,010 | ターリバーン | ターリバーン、タリバーン、タリバン(パシュトー語: طالبان、Ṭālibān、英語: TalibanまたはTaleban、「学生たち」または「神学生、求道者」の意)とは、アフガニスタンを実効支配するイスラム教スンナ派(多数派)諸派デーオバンド派のイスラム主義組織である。
指導部はパキスタンのカラチやカイバル・パクトゥンクワ州のデーオバンド派マドラサで宗教教育を受けたパシュトゥーン人が多数を占める。
1994年にアフガン内戦の有力な派閥の一つとして登場し、伝統的なイスラム教の学校で教育を受け、ソ連・アフガン戦争で戦ったアフガニスタン東部・南部のパシュトゥーン地域の学生(ターリブ)を中心に構成されていた。ムハンマド・オマルによる指導の下、この運動はアフガニスタンの大部分に広がり、抗争に明け暮れていたムジャーヒディーンの軍閥から権力を奪っていった。
1996年にはアフガニスタン・イスラム首長国を建国し、実質的な首都機能をカンダハールに移した。2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件を受けて同年12月にアメリカ合衆国がアフガニスタンに侵攻して来るまでの間、ターリバーンは国内のおよそ4分の3の地域を支配していた。最盛期には、パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3カ国のみがターリバーン政権を正式に認めていた。その後、ターリバーンは反政府運動として再編成され、アメリカの支援を受けたカルザイ政権や北大西洋条約機構(NATO)主導の国際治安支援部隊(ISAF)とアフガニスタン紛争で戦った。
ターリバーン政権は、シャリーア(イスラム法)の厳格な法解釈を施行してきたので、いわゆる西側のキリスト教的・自称「民主主義」的価値観を持つ者たちからは「自国民への人権侵害を行った」と、非難されることがある。1996年から2001年までの統治期間中、ターリバーンとその同盟組織はアフガニスタンの民間人に対して「虐殺」を行い、16万人の飢えた民間人に対する国際連合の食糧供給を拒否し、広範囲の肥沃な土地を焼き、何万もの家屋を破壊する焦土作戦を行ったという。また、凧揚げや鳥類飼育などの一部の趣味活動を禁止し、宗教的・民族的少数派を差別した。国連によると、アフガニスタンの民間人犠牲者の76%(2010年)、80%(2011年)、80%(2012年)がターリバーンとその同盟組織によるものであるという。ターリバーンは護教政策(西側で言うところの「文化浄化」政策)にも熱心で、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群を含むいくつかの史跡を破壊してきた。その厳格な法解釈と適用からターリバーンによる政治が教条的あるいは強権支配のように受け止められることがある。とはいえ、腐敗が少なく、最初の政権時に治安を安定させた実績もあって、アフガニスタンではその政治姿勢を支持する者も多い。
パキスタンの軍統合情報局(ISI)と軍部は、ターリバーンの創設時と政権を握っていた時期に支援を行っていたこと、そして反乱期にも支援を続けていたことが一般に推測されているが、パキスタンは2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、同グループへの支援を全て取り止めたと主張している。2001年には、アルカーイダのリーダーであるウサーマ・ビン・ラーディンの指揮下にある2,500人のアラブ人がターリバーンのために戦ったと言われている。
2021年5月に攻勢を開始し、同年8月15日にはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言。ガニー政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。8月19日にはメディアを通じてアフガニスタン・イスラム首長国の建国を宣言した。
「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(طالب)のパシュトー語における複数形であり、イスラム教神学校(マドラサ)で神学教育・訓練された学生から構成される。厳密にはイスラム神学、イスラム哲学、イスラム法を扱うイスラム教神学校において、イスラーム過激派(イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)となった学生及びその出身者らによる、ジハードや宗教的な社会の建設を目指す学生運動・政治運動ともいえる。
アフガニスタンではソ連(当時)の侵攻にともない、国内において戦乱が続く状態となり、パキスタンへの難民や多くの孤児が発生した。パキスタンの地域社会においても孤児を受入れる余裕がなく、イスラム教寺院などが引取っていった者も多いという。彼らはイスラム教神学校(マドラサ)で学び、その過程で、いわば自然発生的に、現在のような思想や目標を自ら作り上げていったとされる。
ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」(学生)、二人以上なら複数形の「ターリバーン」(学生たち)が用いられる。
国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち、統治機構のようなものを組織している。基本的にその多くが農村出身者であるため、発想が農村的であり、アフガ二スタンでの反政府闘争時においても、必ずしも都会ではその活動基盤をうまく作り上げることが出来なかったといわれ、政権獲得後の政策においても都市の商工業者と軋轢を来たすことが多いともいわれる。
最高指導者の下に指導者評議会(ラフバリ・シューラ、通称:クエッタ・シューラ)があり、その下に各委員会が設置されている。
指導者評議会は委員会を取りまとめる各委員長と有力な軍事司令官や著名な宗教学者で構成されていると言われている。日本のマスメディアは指導者評議会の構成人数を26人と報じている。
委員会は政府における省庁のような役割を与えられている。委員会は軍事、政治、経済、メディア・文化、公共事業、諜報等、分野別に分けられ、これらを合わせて17または18存在する。また、委員会はそれぞれアフガニスタン全国の州・郡・市に各委員会の代表者を設置している。軍事、経済、メディア・文化の3つの委員会は、ターリバーン内で初めて設置された委員会だと言われている。
各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている。なお、州知事と州軍事司令官は軍事委員会から任命される。
アフガニスタン紛争中の2012年、中東のカタールに対外窓口として機能する「外交交渉のための政治事務所(英語版)」を設置した。
上記の各機関に属する役人は、それぞれの役割を担う専門職集団から形成するものとされている。専門家集団は、イスラムに対する揺るぎない信仰・清廉・有能を兼ね備えなければならない。信仰心及び清廉さと能力が背反する場合、信仰心と清廉さが優先される。これらは、「篤信を欠く専門職は行政を腐敗させ、能力を欠く敬虔は行政を弱体化させる」「無能ではあるが敬虔なる者は行政の役割を果たせないだけだが、有能な悪人は多大なる害悪をもたらす」といったターリバーンの考えに基づいている。
国際連合によるとタリバンの総数は約6万5000人から20万人以上である。2021年の攻勢において傘下の戦闘員は10万人とも報道されている。パシュトゥーン人だけでなくタジク人やウズベク人、トルクメン人なども居り、指導部も多様な人種により構成されている。
派閥としてはアフガニスタン東部のペシャーワル派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある。また最強硬派としてハッカーニ・ネットワーク、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会(HCIEA)などがあると言われている。しかし、ハッカーニ・ネットワークのトップとされてきたシラジュディン・ハッカーニは「イスラムの敵による偽情報戦の一部」と発言し、派閥の存在を否定している。HCIEAはマンスール師の第2代最高指導者への就任に反対し、ターリバーン内で反乱を起こしたグループであるが、実質的な中心人物となったアブドゥル・マナン・ニアジが戦死し、息子のハーリド・ニアジがアクンザダ師に忠誠を誓ったため事実上崩壊している。
各省庁の長である大臣(相)は、管轄する省庁の分野に見識のある者ではなく、内戦で立てた武勲や首長であるムハンマド・オマルへの忠誠心の強さに基づき配属されるケースが多かった。
元首
内閣
1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造
その他主要幹部
2021年9月7日発表・9月21日追加発表・10月4日追加発表
1990年代初頭、アフガニスタンはムジャーヒディーンの軍閥によって領地ごとに分裂し、互いに同盟、裏切りを繰り返す激しい内戦の最中であった。ラッバーニー大統領やマスードを中心とするジャミアテ・イスラミのタジク人政権は首都カーブルと国内の北西部を支配し、ヘラート等の西部三州もジャミアテ・イスラミと深い繋がりを持つタジク人軍閥のイスマーイール・ハーンによって支配されていた。東部パキスタン国境地帯はジャララバードを拠点とするジャラルディン・ハッカニ等のパシュトゥーン人軍閥の評議会の手中にあった。また、南部の限られた地域とカーブルの東側はパシュトゥーン人のグルブッディーン・ヘクマティヤールが支配していた。後にタリバン発祥の地となるカンダハールを中心とするアフガニスタン南部の大半は、何十もの旧ムジャーヒディーン軍閥や強盗集団によって分割支配され荒廃していた。カンダハールを支配する数多の武装グループは、活動の資金源になるものは何でも奪った。電話線を引きちぎり、木を切り倒し、工場の機械や道路用のローラーまでもスクラップにしてパキスタンの商人に売った。軍閥は家々や農場に押し入り、住民を強制退去させ支持者達の手に渡した。司令官らは住民を思いのままに虐待し、少女や少年を誘拐して性欲を満たした。バザールの商人から品物を強奪し、街中で武装グループ同士の喧嘩による銃撃戦が頻繁に発生した。カンダハールの住民の大部分を構成するパシュトゥーン人は、隣国パキスタンのクエッタなどの同じくパシュトゥーン人が多数派を占める都市に難民として脱出し始めた。
ターリバーンによると、ムハンマド・オマルが20人の同志とともに運動を始めたという。またターリバーン隊士がイスラム教の聖典『クルアーン』を学んだ場所は、国境付近の難民キャンプの教員が整っていないムハンマド・オマルの開いた神学校であった。この神学校出身者が、結集時のターリバーン隊士になる。
彼らが蜂起したきっかけは軍閥が二人の少女を誘拐したことへの抗議活動であった。彼らは無事少女たちを解放し、この出来事から地元住民らから正義の味方として扱われた。
内戦が続くアフガニスタンにおいて、ターリバーンは1994年頃から台頭し始めた。彼らはイスラム神学校(マドラサ)の学生たちが中心であり、ターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし、治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎した。当時、アフガン市民たちは、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行、略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたため、治安を回復するターリバーンの活躍に期待した。しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになった。
1998年にターリバーンがマザーリシャリーフを制圧した際に、住民の大虐殺を行った。この虐殺は、前年5月にマザーリシャリーフで起こったターリバーン兵大量殺害に対する報復 でもあるのだが、マザーリシャリーフはアフガニスタンの少数民族であるウズベク人やハザーラ人が大きな割合を占め、ターリバーンはこれらの少数民族、特にハザーラ人に対し虐殺を行ったことから、ターリバーンがパシュトゥン人からなり、パシュトゥーン民族運動の性格を併せ持つことを示すエピソードとなったと指摘されている。
ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍の諜報機関であるISI(軍統合情報局)を通してCIAの支援を受けていた。特にISI長官を務めたハミド・グル(英語版)と深く関わり、アメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助をもらっていたという。アメリカが国際連合にハミド・グルのテロリスト指定を迫った際はパキスタンの友好国の中華人民共和国が拒否権を行使している。
パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという。このためそうした要件を満たすターリバーンがパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。
1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。
また、1990年代半ばにはサウジアラビア総合情報庁もパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。
また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジアの石油・天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインでインド洋に輸送することを計画していたが、これはロシアやイランを避けるルートを取っており、米国政府としては好都合であり、このパイプライン建設計画を支持した。このパイプライン計画実現のためにはアフガニスタンの安定が前提条件であり、米国はターリバーンによるアフガニスタン支配に関心を示した。アメリカ合衆国議会関係者やアメリカ合衆国国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。
1996年9月にターリバーンが首都カーブルを制圧し、ナジブラ元大統領を処刑した際、アメリカ国務省の報道官はターリバーンの行為を非難せず、むしろターリバーンによる安定化への期待を示すなどアメリカ政府のターリバーン寄りの姿勢を示した。
ターリバーンによる首都カーブル制圧後、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強めていった。
1999年12月、カシミールの独立を目指すイスラム過激派によりインド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのターリバーンの本拠地だったカンダハルで着陸し、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人を人質に立てこもる事件があった(インディアン航空814便ハイジャック事件)。その際に、ムタワッキル外相などターリバーン政権幹部の仲介により、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(カシミール独立派)の幹部3人を釈放する代わりに乗員155人が解放された。国際的に孤立を深めるタリバン政権が、テロリストの釈放と引き換えにとはいえ、周辺国と連携して人質解放に尽力したことで、日本国内でも、国際社会もターリバーン政権をイスラム原理主義勢力として単純に敵視するのではなく、歩み寄りを行ってもよいのではないかとする論調があった。また、これにはイスラム過激派支援集団とみなされていたタリバーン側の国際社会での汚名返上の思惑もあった。
ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた共産政権時代の元大統領ムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑した。カーブル制圧後、「アフガニスタン・イスラム首長国」を建国したが、すぐにはどの国からも承認されなかった。1997年5月にターリバーンが北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧したのを受け、パキスタンが世界で初めて政府承認し、すぐにサウジアラビア、アラブ首長国連邦が続いた。この三カ国以外からは承認されることはなかった。国際連合の代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下に置いた。
しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。例えば、ターリバーンは殺人を犯した者に対しその犠牲者の遺族による公開処刑を行ったが、これはイスラム法に基づくというより、パシュトゥーンワーリに基づくものである。
また、アルカーイダと接近してからは、その過激主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガニスタン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。
ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動を行なった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口であり、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。
また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、親族男性を伴わなければ外出さえも認められなかった。外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった。
彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。
1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン・ラーディンとアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。
アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンはターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。
1997年5月から、ターリバーンはアブドゥルラシード・ドーストム派の拠点であったマザーリシャリーフを攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。
1998年8月7日、タンザニアとケニアにあったアメリカ大使館が爆破される事件が起きた(前述)。この攻撃をうけてアメリカは報復としてスーダンのハルツームにあった化学工場と、アフガニスタン国内のアルカーイダの訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。
8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上のハザーラ人市民が殺害され、イラン総領事館の外交官10人とジャーナリストが殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯にイラン軍が集結する事態となった。
1998年9月、サウジアラビアはアフガニスタン臨時代理大使の国外退去を求め、かつ、自国の在アフガニスタン臨時代理大使を召還させ、事実上ターリバーンと断交した。これはケニアとタンザニアのテロ事件の首謀者と見られたウサーマ・ビン・ラーディンの扱いをめぐる対立が原因であったといわれている。
1999年、国際連合安全保障理事会においてテロ行為の防止を目的とする国際連合安全保障理事会決議1267 が採択され、ターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には経済制裁が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。
2000年10月、アルカーイダはアメリカのミサイル駆逐艦コールに自爆テロ攻撃を行った(米艦コール襲撃事件)。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333 が採択された。
2001年2月26日、ターリバーン政権は、紛争続きのアフガニスタンにあって、それまで徐々に壊れていたバーミヤーンにある石窟の仏陀の像(バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群)を、ターリバーンが最終的に、爆弾を用いてこれらを徹底的に破壊。しかし、この行為に対しては、非イスラム圏のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった。支持した者は、ごく少数にとどまった。
イランの映画監督モフセン・マフマルバフは、著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』の中で、アフガニスタンで長年続いている人道的危機を無視し続けながら、大仏の破壊を大きく取り上げた欧米のメディアを批判した(詳しくは脚注参照)。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと有志連合諸国は国際連合安全保障理事会決議1368による自衛権の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。その後政権は崩壊し解散した。一連の北部同盟の進撃の中で、ターリバーンはダシュテ・ライリ虐殺(英語版)によって数百から数千人規模の戦闘員を失った。
しかしクンドゥーズ包囲戦のように包囲されてもパキスタンの飛行機で脱出するなどして、ムハンマド・オマルをはじめとする指導部の多くは失われず、2003年以降、アフガニスタン南部及びパキスタンのトライバルエリア、ワズィーリスターンを根拠地に勢力を回復した。
タリバーンには、主にアブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル元外相やアブドゥルサマド・ハクサル元内務次官らで構成されるいわゆる「穏健派タリバン」と呼ばれる勢力も存在する。彼らは武装闘争を放棄し、政治的な方法、すなわち選挙への参加を通じた議会進出によってターリバーンの掲げた理想の実現を図ろうと考えている。ハクサルやムタワッキルが中心となって潜伏している元メンバーや武装闘争を続ける仲間に投降を促すなどして、議会選挙参加を呼びかけた。アフガニスタン政府も同じパシュトゥーン人であるカルザイ大統領がこの動きを歓迎して後押ししたが、かつてターリバーンと戦った旧北部同盟勢力などが「ターリバーンの復権につながる」と猛反発した。また、ターリバーン側でも穏健派を裏切り者だとして暗殺をほのめかした。
2005年の議会選挙では、ムタワッキルやハクサルらは落選したものの、元ターリバーンの中でもムラー・アブドゥル・サラム・ロケッティ元司令官やムハンマド・イスラーム・ムハンマディ元バーミヤン州知事のように下院議員に当選した人物もいる。モハマディ議員は2007年1月に、ハクサル元次官は2006年1月に暗殺された。このようにターリバーンと袂を分かち、当時のハーミド・カルザイ政権に協力することは容易ではない状況にあった。
タリバーンは2006年から南部・南東部・東部を中心に攻撃を増加させ、2007年も手を休めなかった。そのため2008年にはアフガンスタンの治安は著しく悪化した。またタリバーンは南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でも攻撃を行った。2009年、タリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加」し、即席爆発装置(IED)による攻撃を急増させた。
有志連合諸国も反撃を行い、2006年から国際治安支援部隊(ISAF)をアフガニスタン全土に展開させ、チョーラの戦い(ウルズガーン州)やパース作戦(ウルズガーン州)などを行った。また2008年のワナトの戦いの結果などを受けて2009年にはアメリカ軍を倍増させ、オカブ作戦(クンドゥーズ州)やカカラクの戦い(ウズルガーン州)などを行った。
しかしタリバンは2006年中にはアフガニスタン南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のパキスタン政府が深く関与していると見る向きが強く、同年末にはアフガニスタン暫定行政政府の大統領ハーミド・カルザイがパキスタンを名指しで非難する事態に至った。国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等でケシ栽培を禁じられた、あるいは多国籍軍の攻撃で民間人が死亡したなどの理由により、とりわけパシュトゥーン人の間などで、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっているという。
一方、アフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響を受け、パキスタン国内でも過激化した武装勢力(パキスタン・ターリバーン)が誕生した。パキスタン・ターリバーンはアフガニスタンのタリバーンとは別物であり、米軍への攻撃に加え、米国を支援するパキスタン政府に対するジハードも目的としている。2007年12月には、ターリバーンを支持するパキスタン人の武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体してパキスタン・ターリバーン運動が発足した。発足時の最高指導者はバイトゥッラー・マフスード。パキスタン国内ではパキスタン・ターリバーン運動がアメリカ軍による最大の打倒目標になっている(ワジリスタン紛争)。
アフガニスタン南部ではタリバーンが独自の知事や裁判所を設置して完全な支配下に置いている地域がある。ヴァルダク州ではタリバーン独自の州知事、軍司令官、シャリーア法廷の設置やカーディー(シャリーア法廷の裁判長)を任命し、道路税などの税金の徴収、徴兵、学校の閉鎖やマドラサでの教育の強制、シャリーアに基づく刑罰の執行などを行い、完全にタリバーンの統治下にある。ローガル州のバラキー・バラク地区はタリバーンによる制圧後、床屋で髭を剃ることとテレビの視聴を禁じ、従わないものは「異教徒と外国人のスパイ」とみなすと住民に脅迫したという。ヘルマンド州の大部分も中央政府の支配が及ばず、タリバーンの影響下にあり、地元部族長によれば住民も政府を頼りにするのではなく、ターリバーンの"政府"を頼り、90%の住民がカルザイ政権ではなくタリバーンを支持しているという。
また、再起したタリバンは自爆テロや市街地での無差別テロなどイラク戦争で反米武装勢力が用いた戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。またこれらの自爆テロでは米軍の空爆で手足を欠損した身体障害者が6割に上るという調査結果が遺体検分に当たったカーブル大学により2008年明らかにされている。
デビッド・スワンソンは、アフガニスタン国内での米軍の軍需物資の輸送のための運輸業者への支払いが、タリバーン勢力の資金源となっていると主張している。
2011年5月、アメリカ軍がパキスタンでビン・ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。
2015年1月、過激派組織IS(イスラミック・ステート)がKhorasan Province(ホラサン州)の設置を宣言し、最高指導者としてハーフェズ・サイード・ハーンを任命した。ハーフェズはパキスタン・ターリバーン運動の元幹部である。4月、イスラム国とターリバーンはお互いに対するジハードを宣言した。5月、ナンガルハール州やファラー州でISKPとタリバーンの武力衝突が起き、ナンガルハール州の戦いは6月も続いた。同月、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルはイスラム国の最高指導者バグダーディーに書簡を送ったが戦闘は止まらなかった。7月、ヘクマティヤール派がイスラム国への支持を表明した。
2015年5月、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区の首都ウルムチでターリバーンの代表3名(アブドゥル・ジャリル、アブドゥル・ラザク、ハッサン・ラフマニ)とアフガニスタン政府のマスーム・スタネクザイ大統領顧問による秘密協議が行われたと報じられた。前年の2014年にはタリバーンの代表団が訪中したと報じられていた。
2015年7月、パキスタンのイスラマバードでタリバーンとアフガニスタン政府の初の公式和平協議が開催され、オブザーバーとして中国とアメリカも参加した。旧ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルはラマダン明けの声明で「武力によるジハードと同時に、神聖な目標達成のための政治的努力や平和的な道を探ることは正当なイスラムの信条であり、預言者ムハンマドの政見の不可欠な要素だ」と述べ、和平協議に肯定的な態度を示した。そのため第二回の和平協議は中国で行われる予定だった。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は無期限延期になった。一説によるとオマルの病死説は以前から浮上していたがタリバーンやアフガニスタン政府、交渉を仲介したパキスタン政府、アメリカ合衆国や中華人民共和国にとっては生存説の方が都合が良かったため誰も追及しなかった。しかしタリバーン内の和平協議反対派がオマルの病死に気づいた為、7月下旬にオマルの息子のムハンマド・ヤクーブが幹部をクエッタのマドラサに集めて病死を発表した。7月末、2010年から最高指導者を代行していたアフタル・ムハンマド・マンスールが最高指導者に指名され、ジャラールッディーン・ハッカーニーが副指導者に指名された。しかし反対派はムハンマド・ヤクーブの最高指導者就任を求めて納得せず、アフガニスタン北東部のクンドゥーズ州や西部のヘラート州、南部のザブール州などで武力衝突が起きた。一方、アルカーイダはアフタルを支持した。9月、反対派は選挙を要求し、11月に別の最高指導者としてモッラー・モハンマド・ラスール・アーホンドを選出した。モハンマドはターリバーン設立当初からオマルの信任が厚く、ニームルーズ州やファラー州の知事を務めた人物である。
2016年3月、ヘラート州でマンスール派とラスール派が武力衝突し、約150人が死亡した。バードギース州のラスール派の指揮官はマンスール派をパキスタン情報部の走狗と呼んで非難した。2016年5月、アフタル・ムハンマド・マンスールが米軍の無人機攻撃により殺害された。同月ハイバトゥラー・アクンザダが第3代最高指導者に就任した。8月、ザーブル州のターリバーンがダードゥッラー戦線を立ち上げて独立した。ザブール州の司令官ダードゥッラーは前年タリバーン(マンスール派)に攻撃された際にファラー州のISKP軍に援軍を求め、見返りにISKPに忠誠を誓っていた。
2020年2月29日、ターリバーンを代表してアブドゥル・ガニ・バラダル、アメリカ政府を代表してザルメイ・ハリルザドが和平合意に関する文書に署名した(ドーハ合意)。まず135日以内に1万2000人規模のアフガン駐留の米軍を8600人規模に縮小する。そして、アフガン国土をテロ攻撃の拠点にしないなどの和平合意をターリバーンが履行したと判断すれば21年春ごろに完全撤収する予定。なお、アフガニスタン政府の治安部隊は、和平合意の対象外であるとして同年3月2日に攻撃作戦を再開すると発表している。
2020年4月、ターリバーンはサーレポル州の「郡長」にシーア派のハザラ人を任命したと発表した。ターリバーンがシーア派ハザラ人を州知事に任命したのはこれが初である。これは、ターリバーンによるマザーリシャリーフ攻略で悪化した民族対立を緩和させ、国内のハザラコミュニティの支持を集めようとする動きと見なされている。
2020年7月28日イード・アル=アドハーに際して3日間の停戦を発表した。これに引き続き29日最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは純粋なイスラーム政府の樹立と反対勢力にタリバンへの参加を呼び掛けた。
2021年1月、アフガニスタン政府が首都カーブルで武装した中国人集団を逮捕した。一説によると中国人集団は中華人民共和国国家安全部の工作員であり、東トルキスタンイスラム運動に対抗するためにハッカーニ・ネットワークと接触していたと言う。
2021年2月、Pajhwok Afghan Newsの電話調査によると、ターリバーンはアフガニスタンの国土の約5割(52%)を掌握・勢力圏内に収めていると言う。アフガニスタンの388郡のうちターリバーンが郡内を完全に支配しているのは27郡(7%)、政府が完全に支配しているのは67郡(17%)である。またターリンバーンが郡の中心都市を支配しているのは39郡(10%)だと言う。
2021年7月28日、ターリバーンの代表団が訪中し、外交部長(外相)の王毅と会談したアブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた。
2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言(2021年ターリバーン攻勢)。アブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行は、平和裏に権力の移行を進めると表明した。
2021年1月、アフガニスタン北部のファーリヤーブ州でターリバーン内の民族紛争が発生した。著名なウズベク系ターリバーン司令官で、ターリバーン政権樹立以降ファーリヤーブ州の警察署長を務めていたマフドゥーム・アラムが突如、逮捕・解任さる事件が発生した。この事件に対してウズベク系ターリバーン及びウズベク人住民が大規模な抗議活動を行い、複数のパシュトゥーン系ターリバーンが武装解除された。アラムは2018年頃にファーリヤーブ州におけるターリバーン軍事委員会の会長及び「州知事」を務めていた。
ターリバーンのイデオロギーは、デオバンド派原理主義に基づく「革新的な法解釈」で導き出したシャリーアと、ターリバーンのほとんどがパシュトゥーンの部族民であることから「パシュトゥーンワーリー」と呼ばれるパシュトゥーンの社会的・文化的範を組み合わせたイスラム主義だと言われている。
アメリカの研究所の調査によると、調査対象のアフガニスタン人のうち、99%がシャリーア法による国の統治を望み、85%が姦淫者を石打ちすることを望み、81%が泥棒の手を切断する事を望み、50%が背教者の処刑を望んでいる。
イスラム国家においては、近代教育よりも宗教教育が優先され、近代教育は宗教教育の中にあるべきである。 なぜなら、宗教は有益な知識と善行に基づいており、有益な知識と善行は至高なるクルアーンに基づいており、虚偽が存在しないことがすべてのイスラム教徒に証明されているからである。
ターリバーンのメンバーは彼らの教師であったムッラーたちから「女性は誘惑的で、男性をアッラーフへの奉仕から引き離す存在」といった内容の教育を受けていたとされる。1990年代後半に政権の座についた彼らは女性の通学・就労・買い物等含む外出行為や、家族以外の男性が女性と話すことを禁じた。このターリバーンの決定は多くの国際機関や人権擁護団体から、女性への人権侵害とみなされ非難の的となっている。
2021年に政権を奪還してからも、一部地域を除くアフガニスタンのほぼ全土で女子の中等教育を停止させた。教育大臣代行のヌールラ・ムニルは「私は女子教育に反対しない」と述べ、女子中学校(日本では中学・高校)の閉鎖に法的根拠はなく、文化的制限によって閉鎖されているとした。高等教育大臣のアブドゥル・バキ・ハッカーニは「アフガンで教育に反対している人はいない」と述べたが、シャリーアに即した教育環境が整っていない事が原因であると主張し、ムニル教育大臣とは異なる見解を示した。ハッカーニ高等教育大臣は、女子生徒は敬意を払われる存在で、男子生徒のように徒歩や公共交通機関で通学するのではなく、車などの通学手段が確保されるべきだが実現していないと主張した。ザビフラ・ムジャヒド情報・文化副大臣代行はニュースで女子学校がいつ再開されるかを問われ、「私次第ではありません。私たちの長老たちが開校時期を決定します。早く開校し女子が学校に通えるようになることを願っています」と述べ、宗教問題のために閉鎖されているとした。その後、2022年には中等教育7年生以上、高等教育を含む女子教育が事実上中止された。
女性の教育はハラームではないが、道徳退廃を防ぐために教育課程はシャリーアに準拠したものである必要があり、また、不必要に家を離れてはならない。
女性が教育等で外出するときは、非マフラムの男性に身体を見せてはいけないため、合法的な服装(ヒジャブ)でなければならない。合法的な服装とは主に7つ条件があげられる。1除外された部分を除いてヒジャブで全身を覆わなければならない。2ヒジャブはそれ自体が装飾品であってはならない。ジャーヒリーヤの無知な女性のように自らの美しさを男性にひけらかしてはならない。3身体を覆うものが透明だったり透けたりするものではいけない。4ヒジャブは幅が広く、ボディーラインを露出するようなきついものではならない。5外出する際に香水をつけてはならない。美しい服や宝石などと同じで、情欲を刺激することに関係しているからである。例え夫が許可しても、女性が身を飾り外出するのは大きな罪である。6男性と似た服を着用しない。男女共に異性を模倣することは神によって禁じられている。7不信者の服装を模倣しない。男女共に服装や飲食習慣などで不信者を模倣することはシャリーアによって禁じられている。
以下は勧善懲悪省の法令である。
ヒジャブは男性から性的な眼差しを避けるもので、着用する女性自身をそのような視線から守るだけでなく、男性が性的な意識を持つことを防ぐ目的もある。
アフガニスタンでは古くから思春期以前の年齢層の男子が裕福で権勢のある男に買い取られ娯楽もしくは性行為の相手をさせられる、いわゆる児童売買春が行われてきた。ターリバーンは同性愛を非イスラム的でシャリーアと相容れないものとみなしていたため、バッチャ・バーズィーを行った者を死刑に処した。
ターリバーンは音楽の禁止を打ち出している。2021年8月には、北部バグラーン州で民族音楽の歌手を処刑。政権再奪取時には多くの音楽家が迫害を恐れて国外へ逃亡することとなった。2023年7月29日には、西部ヘラート州でギター、ハーモニウム、タブラといった楽器のほか、アンプやスピーカーなどの音響機器を焼却処分にするデモンストレーションが報道された。燃やされた楽器類は、市内の結婚式場から集めたものが大半を占めた。
タリバーンは麻薬や鉱物、石油の販売、外国からの寄付、市民からの徴税により多額の収入を得ている。一説によると2011年の収入は3億~5億米ドルに達し、そのうちケシ栽培による収入は約1億ドルと言われている。タリバーンは2017年頃からヘロインの生産も開始し、現在はタリバーンの収入の半分(4億ドル)が麻薬の生産と輸出によるものという説もある。
初期の段階では、戦闘員の多くはAK-47やRPK、RPG-7を装備し、移動にはテクニカルを利用するなど、民兵然とした装備であったが、アフガニスタン軍から鹵獲したアメリカ製武器のM16、M4カービンや付属する豊富なアクセサリーキット、M240、M249、AT-4、戦闘服・ボディーアーマー・防弾ヘルメット・暗視ゴーグルなどの個人装備、M2などの支援火器、ハンヴィーやMRAP、M1117装甲車、M113などの近代的な装備を利用し始めている。また、BTR-60、BTR-70、BTR-80、BMP-1、T-55などの旧式ながら強力な兵器も入手している。この他にも航空機として、MD-530、UH-60、CH-46、Mi-17、C-208/AC-208、A-29、C-130などを入手しているが、運用能力があるかは不明である。しかし、UH-60やMi-17は飛行している姿が度々撮影されている。
アフガニスタンでは、メソポタミア文明以来、医薬品の抗がん剤やモルヒネ(鎮痛剤)「植物性アルカロイド」の原料であり、麻薬のアヘンやヘロインの原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年7月27日に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では12,600エーカーあったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。
こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年のウズベキスタンやタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは1979年に皆無だった麻薬中毒者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。
アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への死刑適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。
しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはタリバーンが支配するただ一つの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている。
麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる。
この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、国内総生産(GDP)の50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である。
アフガニスタン共和国政府はケシからの転作を進めて、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はタリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにタリバーンに献金を行っているという指摘もある。
ターリバーン政権の成立後に情報文化大臣になる予定とされるザビフラー・ムジャーヒド報道官は、今後アフガニスタンはいかなる種類の麻薬も作らなくなることを明かし、市民が麻薬に代わる作物を栽培できるようになるためには国際的な支援が必要だと指摘した。
ターリバーンは1996年の政権樹立前からパキスタンから支援を受けており、米軍侵攻後はターリバーン高官が潜伏していたパキスタンで当局に逮捕されるなどの事件はあったものの友好関係にあるとされる。
パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという。このためそうした要件を満たすターリバーンはパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。特にISI長官を務めたハミード・グル(英語版)と深く関わり、人権問題を理由にアメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助を受けていたとされる。1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。
米軍侵攻後、ターリバーン指導部の大半はパキスタンに身を隠し、クェッタ・シューラと呼ばる指導部を再編成し国境越しにアフガニスタンでの反撃作戦を指揮していたとされている。
デュアランド・ラインと呼ばれるアフガニスタン-パキスタン間の国境は両国の政府の管理が及ばない地域が多く、政府の管理なしに不特定多数の人々が制限を受けることなく国境間を自由に行き来できた。当該国境はターリバーンの主要民族であるパシュトゥーン人(アフガン人)の居住地帯を跨いでいる。デュアランド・ラインを跨いでパキスタン側のパシュトゥーン人居住地域にはトライバルエリアが広がっており、その地に居留するターリバーン司令官らがマドラサを通じてアフガン人のターリバーン戦闘員の採用していた。トライバル・エリアではパキスタンの憲法上の規定から同国の法律は運用されておらず、また、中央・地方政府の実権が及ばない地域が多かった事からパキスタン政府はターリバーン関係者を追跡しきれなかったと言われている。民族分断や歴史問題を孕むデュアランド・ラインを巡ってはアフガニスタンとパキスタンとの間で長年国境紛争になっている。ターリバーン政権の最高指導者オマル師はパキスタンの政治家からデュアランド・ラインを受け入れたか否かを聞かれた際に憤慨したと伝えられている。
パキスタンはターリバーン最大の後ろ盾と考えられてきたが、2021年11月現在ターリバーンが樹立した「アフガニスタン・イスラム首長国」を国家として承認していない。
1990年代半ばにはサウジアラビアはパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。アメリカとターリバーン政権の関係が悪化し、アメリカがサウジアラビアに対してアフガニスタンにビンラーディンの引渡しをさせるように求めても、サウジアラビアはターリバーンに圧力をかけるのに消極的であった。しかし、1979年から2001年までサウジアラビア総合情報庁の長官だったトゥルキー・ビン・ファイサル・アール・サウード王子は、ターリバーン政権末期のオマル師との対談で、オマル師から「サウジアラビアはビンラーディンと話し合うべきであり、彼と戦うのではなく帝国主義者と戦うべきだ」と言われた。アメリカとの対決を迫られたファイサル王子はファハド国王とアブドゥッラー皇太子にサウジアラビアはターリバーンと断交するべきだと忠告した。ターリバーン政権の崩壊後は、サウジアラビア内からターリバーンに対して多額の寄付を行うイスラム主義者の存在が明らかになっており、国連から制裁を受けているターリバーン構成員の資金洗浄場所となった。サウジアラビアはこれらの対応に消極的だった。
宗教面に関する論争については、サウジアラビアのイスラーム法解釈の主流であるハンバル学派に属するワッハーブ派は、ターリバーンのイデオロギーであるハナフィ―学派に属するデーオバンド派をサラフィーにスーフィズムを融合させたものであると批判している。
シーア派イスラム神権国家のイランはアフガニスタン内戦中にシーア派のハザーラ系武装勢力を支援してきた事から、スンナ派のターリバーンとは不倶戴天の敵同士であった。
1997年には、マザーリシャリーフを攻撃したターリバーンが前年に同勢力3000人をハザーラ・ウズベク民兵に虐殺された報復として、マザーリシャリーフで大虐殺を実施し、同時にマザーリシャリーフ駐在のイラン外交官10人が殺害された。ターリバーンは「殺害されたのは外交官ではなく工作員」と主張したが、後にターリバーン戦闘員の暴走が原因だったとされている。イラン世論はこれによって反タリバン一色となり、イラン軍はターリバーンの総兵力を上回る7万人の部隊をアフガニスタンとの国境沿いに展開した。以後、イランは北部同盟を支援するようになった。
一方で2000年代中頃からはイランとターリバーンは友好関係に近い状態であるとされる。2007年と2011年にアフガニスタンに駐留していた多国籍軍は、イランのターリバーンに対する武器輸送を傍受した。2012年にイランは同国東部のアフガニスタン国境沿いにあるザーヘダンにターリバーン事務所の開設を許可した。2010年代、副指導者のマンスール師はイランとの関係改善に努め、マンスール師自身がイランを訪問した。2015年、ISKPのシーア派殺害に対してターリバーンは「分断・差別・不寛容を生じさせる」として批判を行った。2020年1月、バグダード国際空港攻撃事件でイスラム革命防衛隊「ゴドス軍」の最高司令官ガーセム・ソレイマーニーがアメリカに暗殺された際に、ターリバーンは「私たちは神に、この偉大な戦士に楽園を与え、彼の家族に忍耐を授けるように求めます」と声明で発表した。スンナ派イスラム主義組織がシーア派の要人に対して哀悼の意を表明するのは極めて異例である。また、ターリバーンにハザーラ人司令官が登用されるなど、イランの影響が見られるようになった。
イランはターリバーンに対して親和的になったと考えられてきたが、2021年8月15日のカーブル陥落以後、イランは在アフガニスタン大使館と領事館を閉鎖し、今日に至るまでアフガニスタンのターリバーン政権を国家として承認していない。ただ、2022年1月にはターリバーン政権の外相代行アミール・ハーン・ムッタキーがテヘランを訪問し、イラン外相のホセイン・アミールアブドッラーヒヤーンと会談している。
ターリバーンは創設当初、軍事面および資金面でパキスタンのISIを通じて間接的にCIAの支援を受けていた。強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国政府(クリントン政権)の支持を得ていた。しかし、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国政府もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強め、報復としてアフガニスタンのアルカーイダ基地を巡航ミサイルで爆撃した。以降、米国政府は再三、ターリバーンに対してアルカーイダ指導者の引渡しを求めたがターリバーンが拒否したため関係は悪化の一途を辿った。2001年、アメリカ同時多発テロ事件によりアメリカは、ターリバーンに対し再びアルカーイダ指導者の引渡しを求めたがこれも拒絶されたため、米国はイギリスやドイツ、フランス、カナダ等と共同でアフガニスタンに対し軍事侵攻を開始した。2009年頃から、ターリバーン-米国間で和平交渉の動きが見られるようになった。2015年、ターリバーンの最高指導者マンスール師が米軍の空爆によって暗殺された。2020年、アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)と米国(トランプ政権)の間で和平合意が結ばれ、条件付きで米国及び連合軍がアフガニスタンから撤退する事が決まった。2021年8月、ターリバーンが政権を奪還し、米国(バイデン政権)はアフガニスタンから完全に撤退した。
アメリカは2001年に大統領令でターリバーンをテロ組織として指定したものの、「外国のテロ組織リスト」に記載せず、反乱軍として取り扱ってきた。ターリバーンが樹立したアフガニスタン・イスラム首長国を国家として認めた事はない。
日本は1996年から2001年まで続いたターリバーン政権を国家として承認しなかった。日本はターリバーンに対して2001年の米軍侵攻まで続いたアフガニスタン内戦中、対立する北部同盟との間で和平交渉をするように呼びかけていた。
第一次政権期にはアッバス ・スタネクザイ保険相が度々来日し、医療支援を求めている。このように幹部が来日する事例は政権崩壊後も確認されている。2012年にはターリバーン政治委員会のカーリ・ディン・ハニフ委員(2021年11月時点でターリバーン暫定政権における経済大臣)と元駐パキスタン大使アブドゥル・サラム・ザイーフが、同志社大学におけるアフガニスタンに和平を構築するシンポジウムに出席している。この機会にターリバーン要人の2人は広島の原爆資料館に立ち寄っている。
2001年、ターリバーン政権下のアフガニスタンに入った日本人ジャーナリストによると、ターリバーン兵から日露戦争と当時アメリカに迫っていた経済成長を賞賛され、ターリバーンと同盟を組んでアメリカと戦争する事を勧められたという。ターリバーンは2019年に公開したビデオ「Umari Army (6)」で、アメリカの介入政策を批判し、介入政策で生じた悲劇の一例として第二次世界大戦中に発生した広島への原爆投下を挙げた。
2021年11月現在、ターリバーンは日本との交流に積極的な姿勢を見せているが、日本は慎重な姿勢を崩していない。
2021年8月15日、ターリバーンのカーブル制圧に伴い日本は在アフガニスタン大使館を閉鎖した。同月25に菅義偉首相は「再びテロの温床になることを食い止め、女性などの権利を守っていくために、G7を含む関係国と緊密に連携をしていく」と述べ、テロ支援や人権侵害に関してターリバーンへの不信をあらわにし、欧米諸国と歩調を合わせて対応する方針を示している。ターリバーンのスハイル・シャヒーン報道官は24日、アフガニスタンでの日本の非政府組織(NGO)の活動を高く評価し、大使館やNGOの職員らの「生命と財産」を保証すると強調した。アフガニスタンからの退避が進む25日に、ザビフラ・ムジャヒド報道官はアフガニスタンと日本の歴史的な友好関係について言及し、アフガニスタンに駐留する日本人に対して退避して欲しくない、協力してほしいなどとする趣旨の発言をした。
11月21日から4日間の日程でアフガニスタン入りした岡田隆大使は、ターリバーン政権副首相のバラダル師とカビール師と会談した。11月24日には、ターリバーン政権外務省のカハル・バルヒ報道官は岡田大使が大使館の再開に向け調整を進める意向を示した事を明らかにした上で「日本大使館の安全には特に注意を払う」と発言した。一方で、松野博一官房長官は大使館の再開に関して具体的な予定は無く、「タリバンに対する日本政府の立場を何ら予断するものではない」とした。
1996年にスーダンから追放されたウサーマ・ビン・ラーディンはターリバーン統治下のアフガニスタン・ジャラーラーバードに亡命した。ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築き、ターリバーンの庇護下で反米テロ活動を続けた。この頃からターリバーンはアルカーイダの過激思想の影響を受け、反米感情を抱くようになり、内政においても過激な政策が増加した。
ターリバーンはアルカーイダに軍事や資金面で支援を受けていた。1997年にターリバーンがマザーリシャリーフ攻略に失敗し、捕虜となったターリバーン兵数千人がアブドゥル・マリクによって虐殺された際、ビン・ラーディンはISIと共にターリバーンを強化するために新兵採用の資金と軍用車両などを支援した。また、ターリバーンはアフガニスタン・イスラム首長国の外国人精鋭部隊「055旅団」の育成をアルカーイダに任せた。
1990年代にビン・ラーディンはムハンマド・オマルに忠誠を誓い、アルカーイダは形式的にターリバーン傘下の組織となっている。ビン・ラーディン死後もアルカーイダ2代目最高指導者ザワーヒリーがターリバーン2代目最高指導者アフタル・マンスールや3代目ハイバトゥラー・アクンザダに忠誠を誓っているが、ターリバーンはこれを拒否している。2020年に結ばれたアメリカ合衆国-アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)間の和平合意で、ターリバーンは国際テロ組織(アルカーイダ等)との関係断絶を受け入れた。
パキスタン・ターリバーン運動は、主にアフガニスタンと国境を接するパキスタン領土内の連邦直轄部族地域並びにカイバル・パクトゥンクワ州で活動するパシュトゥーン人のイスラム主義組織である。パシュトゥーン人が多数を占める組織という点でターリバーンと類似しているものの、組織・指揮系統及び活動目的は大きく異なる。
パキスタン・ターリバーン運動は、彼ら自身とは民族の異なるパンジャーブ人が多数を占めるイスラマバード中央政府に対する敵意によって、複数のイスラム主義グループが連合して誕生したものであり、中央指導部の運動全体に対する統制力は低いとされる。ターリバーンは2010年代まで、最高指導者ムハンマド・オマルが絶対的な権威を持っており、オマルの死後には内紛が起きたものの、連合組織であるパキスタン・ターリバーン運動に比して現在でも指導者評議会の組織に対する統制力は強い。活動目的については、タリバーンはアフガニスタンをイスラム国家として復興させることであり、他方、パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府を打倒してイスラム国家に改造することである。
パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府とは強い敵対関係にあるものの、ターリバーンはパキスタンと親密な関係にあるとされている。
2009年、パキスタン・ターリバーン運動の指導者3人がターリバーンの最高指導者オマルの要請を受け、アフガニスタンで協力してジハードを行う事に合意したがすぐに破綻し内紛が起きた。
2013年には、タリバーンとパキスタン・ターリバーン運動が武力衝突して後者の司令官が戦死したとする報道があった。
2014年にパキスタン・ターリバーン運動が実行したペシャーワル軍事学校襲撃事件に対し、タリバーンは「非イスラム的だ」として非難した。
タリバーンはパキスタン・ターリバーン運動との間に何ら関係を持っていないと主張しているが、パキスタン・ダーリバーン運動の報道官は最高指導者マウラナ・ファズルッラーがアフガニスタン東部のクナル州でターリバーンにかくまわれていること、資金面でターリバーンから援助を受けている事を明らかにした。
2021年8月15日のターリバーンのアフガニスタン制圧に伴って、過去にパキスタン・ターリバーン運動の副指導者を務めていたファキール・ムハンマドがアフガニスタンの刑務所から解放された。ファキールがターリバーン又はパキスタン・ターリバーン運動の兵士を連ねてアフガニスタンの市街地を凱旋する映像が公開された。
2021年11月8日、ターリバーン政権の仲介でパキスタン・ターリバーン運動とパキスタン政府は1ヶ月の停戦合意を結んだ。
ISとタリバーンは敵対関係にある。ISのアフガニスタン支部である「イスラム国ホラサン州(ISKP)」はパキスタン・ターリバーン運動から分離して誕生した勢力である。ISKPはウズベキスタン・イスラム運動やターリバーン内の不満分子などを吸収しつつ2016年頃に勢力を拡大し、これまでにタリバーンと200回以上交戦している。ISKPはターリバーンが根付いていないアフガニスタン北部や、パキスタン・ターリバーン運動の影響を受けている東部の山岳地帯を中心に活動していた。
2013年アルカーイダのイラク支部から発展したISは、アルカーイダ本部からの解散命令を無視し、アルカーイダの統制下にあるシリアのアル=ヌスラ戦線とも衝突を繰り返すようになった。ISとアルカーイダ本部は敵対関係に至り、タリバーンはISに対して沈黙していた。ISはアフガニスタンもカリフ制の支配下に入るべきだとし、アフガニスタン紛争へ介入する姿勢を見せた。
2015年にターリバーンの副指導者であったアフタル・マンスールは最高指導者ムハンマド・オマル(2013年に病死)の名義で、IS最高指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディー宛に、アフガニスタン紛争への関与を警告する旨の声明を発表した。同年、ISのアフガニスタン支部であるISKPが同国東部で、共和国政府またはタリバーンに同調する「背教者」とする人質を爆殺し、タリバーンは非難声明を出した。
2017年から2018年にかけてジョウズジャーン州ダルザーブ郡の支配権を巡ってISKP-ターリバーン間で激しい戦いが起きた。残虐な振る舞いを理由にタリバーンから追放されたウズベク系のカーリ・ヘクマトとネマットはISに忠誠を誓い、2016年から2018年にかけて地元のタリバーンを駆逐して実権を握っていた。2018年7月初旬、タリバーンは特殊部隊を投入してISKPを撃破。司令官ネマットはタリバーンから逃れるために共和国政府に降伏する事を決定し、生き残ったIS戦闘員は政府軍のヘリコプターで州都シェベルガーンまで運ばれ、手厚くもてなされた。
2021年4月19日、ISPP(イスラム国パキスタン州)はペシャーワルで、タリバーン司令官のナイク・ムハンマド・ラフバルを暗殺した。ラーバーは、ナンガルハール州における対IS作戦を率いてきたターリバーン司令官の1人であり、ナンガルハール州のホギャニ地区で行われた葬式には大勢の地元住民が参列した。
2021年8月16日、タリバーンは制圧したカーブルの刑務所で、過去にISKPの最高指導者を務めていたZiya ul-Haqを含む約150人のIS収監者を処刑した。
2021年8月26日、タリバーンの支配下にあるカーブル国際空港で自爆テロを行い、タリバーン兵28人を含む182人を殺害した。
2021年10月3日、ISKPはカーブルのイードガーモスクで爆弾テロを発生させ、民間人5人を殺害した。同モスクではタリバーン政権の大臣ザビフラ・ムジャヒドが母親の追悼式を行っていた。翌日、タリバーンはカーブルでISホラサン州の隠れ家を襲撃しその場にいた関係者10人を全員殺害した。
デーオバンド派のタリバーンの一部はサラフィー主義者をISの温床と見なして激しく敵視しており、サラフィー主義者の多いアフガニスタン東部ではターリバーンによるものと推測されるサラフィー派の民間人に対する超法規的処刑が横行している。
2021年9月5日、カーブルでサラフィー主義のウラマー(聖職者)オバイドゥラ・ムタワキルがターリバーンによって殺害された。ムタワキルの教え子の多くはISKPに参加していた。翌日、タリバーンはサラフィー主義のモスクやマドラサを36箇所以上も閉鎖した。
現在、ターリバーンはISKPという名の組織の存在を否定して、単に「裏切り者」「ハワーリジュ派(異端者)」と呼び、一方でISKPはターリバーンに対して米国と取引したことなどを批判し「背教者」と呼んでいる。 | [
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"text": "ターリバーン、タリバーン、タリバン(パシュトー語: طالبان、Ṭālibān、英語: TalibanまたはTaleban、「学生たち」または「神学生、求道者」の意)とは、アフガニスタンを実効支配するイスラム教スンナ派(多数派)諸派デーオバンド派のイスラム主義組織である。",
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"text": "指導部はパキスタンのカラチやカイバル・パクトゥンクワ州のデーオバンド派マドラサで宗教教育を受けたパシュトゥーン人が多数を占める。",
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"text": "1994年にアフガン内戦の有力な派閥の一つとして登場し、伝統的なイスラム教の学校で教育を受け、ソ連・アフガン戦争で戦ったアフガニスタン東部・南部のパシュトゥーン地域の学生(ターリブ)を中心に構成されていた。ムハンマド・オマルによる指導の下、この運動はアフガニスタンの大部分に広がり、抗争に明け暮れていたムジャーヒディーンの軍閥から権力を奪っていった。",
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"text": "1996年にはアフガニスタン・イスラム首長国を建国し、実質的な首都機能をカンダハールに移した。2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件を受けて同年12月にアメリカ合衆国がアフガニスタンに侵攻して来るまでの間、ターリバーンは国内のおよそ4分の3の地域を支配していた。最盛期には、パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3カ国のみがターリバーン政権を正式に認めていた。その後、ターリバーンは反政府運動として再編成され、アメリカの支援を受けたカルザイ政権や北大西洋条約機構(NATO)主導の国際治安支援部隊(ISAF)とアフガニスタン紛争で戦った。",
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"text": "ターリバーン政権は、シャリーア(イスラム法)の厳格な法解釈を施行してきたので、いわゆる西側のキリスト教的・自称「民主主義」的価値観を持つ者たちからは「自国民への人権侵害を行った」と、非難されることがある。1996年から2001年までの統治期間中、ターリバーンとその同盟組織はアフガニスタンの民間人に対して「虐殺」を行い、16万人の飢えた民間人に対する国際連合の食糧供給を拒否し、広範囲の肥沃な土地を焼き、何万もの家屋を破壊する焦土作戦を行ったという。また、凧揚げや鳥類飼育などの一部の趣味活動を禁止し、宗教的・民族的少数派を差別した。国連によると、アフガニスタンの民間人犠牲者の76%(2010年)、80%(2011年)、80%(2012年)がターリバーンとその同盟組織によるものであるという。ターリバーンは護教政策(西側で言うところの「文化浄化」政策)にも熱心で、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群を含むいくつかの史跡を破壊してきた。その厳格な法解釈と適用からターリバーンによる政治が教条的あるいは強権支配のように受け止められることがある。とはいえ、腐敗が少なく、最初の政権時に治安を安定させた実績もあって、アフガニスタンではその政治姿勢を支持する者も多い。",
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"text": "パキスタンの軍統合情報局(ISI)と軍部は、ターリバーンの創設時と政権を握っていた時期に支援を行っていたこと、そして反乱期にも支援を続けていたことが一般に推測されているが、パキスタンは2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、同グループへの支援を全て取り止めたと主張している。2001年には、アルカーイダのリーダーであるウサーマ・ビン・ラーディンの指揮下にある2,500人のアラブ人がターリバーンのために戦ったと言われている。",
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"text": "2021年5月に攻勢を開始し、同年8月15日にはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言。ガニー政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した。8月19日にはメディアを通じてアフガニスタン・イスラム首長国の建国を宣言した。",
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"text": "「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(طالب)のパシュトー語における複数形であり、イスラム教神学校(マドラサ)で神学教育・訓練された学生から構成される。厳密にはイスラム神学、イスラム哲学、イスラム法を扱うイスラム教神学校において、イスラーム過激派(イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)となった学生及びその出身者らによる、ジハードや宗教的な社会の建設を目指す学生運動・政治運動ともいえる。",
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"text": "アフガニスタンではソ連(当時)の侵攻にともない、国内において戦乱が続く状態となり、パキスタンへの難民や多くの孤児が発生した。パキスタンの地域社会においても孤児を受入れる余裕がなく、イスラム教寺院などが引取っていった者も多いという。彼らはイスラム教神学校(マドラサ)で学び、その過程で、いわば自然発生的に、現在のような思想や目標を自ら作り上げていったとされる。",
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"text": "ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」(学生)、二人以上なら複数形の「ターリバーン」(学生たち)が用いられる。",
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"text": "国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち、統治機構のようなものを組織している。基本的にその多くが農村出身者であるため、発想が農村的であり、アフガ二スタンでの反政府闘争時においても、必ずしも都会ではその活動基盤をうまく作り上げることが出来なかったといわれ、政権獲得後の政策においても都市の商工業者と軋轢を来たすことが多いともいわれる。",
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"text": "最高指導者の下に指導者評議会(ラフバリ・シューラ、通称:クエッタ・シューラ)があり、その下に各委員会が設置されている。",
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"text": "指導者評議会は委員会を取りまとめる各委員長と有力な軍事司令官や著名な宗教学者で構成されていると言われている。日本のマスメディアは指導者評議会の構成人数を26人と報じている。",
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"text": "委員会は政府における省庁のような役割を与えられている。委員会は軍事、政治、経済、メディア・文化、公共事業、諜報等、分野別に分けられ、これらを合わせて17または18存在する。また、委員会はそれぞれアフガニスタン全国の州・郡・市に各委員会の代表者を設置している。軍事、経済、メディア・文化の3つの委員会は、ターリバーン内で初めて設置された委員会だと言われている。",
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"text": "各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている。なお、州知事と州軍事司令官は軍事委員会から任命される。",
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"text": "アフガニスタン紛争中の2012年、中東のカタールに対外窓口として機能する「外交交渉のための政治事務所(英語版)」を設置した。",
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"text": "上記の各機関に属する役人は、それぞれの役割を担う専門職集団から形成するものとされている。専門家集団は、イスラムに対する揺るぎない信仰・清廉・有能を兼ね備えなければならない。信仰心及び清廉さと能力が背反する場合、信仰心と清廉さが優先される。これらは、「篤信を欠く専門職は行政を腐敗させ、能力を欠く敬虔は行政を弱体化させる」「無能ではあるが敬虔なる者は行政の役割を果たせないだけだが、有能な悪人は多大なる害悪をもたらす」といったターリバーンの考えに基づいている。",
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"text": "国際連合によるとタリバンの総数は約6万5000人から20万人以上である。2021年の攻勢において傘下の戦闘員は10万人とも報道されている。パシュトゥーン人だけでなくタジク人やウズベク人、トルクメン人なども居り、指導部も多様な人種により構成されている。",
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"text": "派閥としてはアフガニスタン東部のペシャーワル派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある。また最強硬派としてハッカーニ・ネットワーク、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会(HCIEA)などがあると言われている。しかし、ハッカーニ・ネットワークのトップとされてきたシラジュディン・ハッカーニは「イスラムの敵による偽情報戦の一部」と発言し、派閥の存在を否定している。HCIEAはマンスール師の第2代最高指導者への就任に反対し、ターリバーン内で反乱を起こしたグループであるが、実質的な中心人物となったアブドゥル・マナン・ニアジが戦死し、息子のハーリド・ニアジがアクンザダ師に忠誠を誓ったため事実上崩壊している。",
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"text": "各省庁の長である大臣(相)は、管轄する省庁の分野に見識のある者ではなく、内戦で立てた武勲や首長であるムハンマド・オマルへの忠誠心の強さに基づき配属されるケースが多かった。",
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"text": "1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造",
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"text": "その他主要幹部",
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"text": "2021年9月7日発表・9月21日追加発表・10月4日追加発表",
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"text": "1990年代初頭、アフガニスタンはムジャーヒディーンの軍閥によって領地ごとに分裂し、互いに同盟、裏切りを繰り返す激しい内戦の最中であった。ラッバーニー大統領やマスードを中心とするジャミアテ・イスラミのタジク人政権は首都カーブルと国内の北西部を支配し、ヘラート等の西部三州もジャミアテ・イスラミと深い繋がりを持つタジク人軍閥のイスマーイール・ハーンによって支配されていた。東部パキスタン国境地帯はジャララバードを拠点とするジャラルディン・ハッカニ等のパシュトゥーン人軍閥の評議会の手中にあった。また、南部の限られた地域とカーブルの東側はパシュトゥーン人のグルブッディーン・ヘクマティヤールが支配していた。後にタリバン発祥の地となるカンダハールを中心とするアフガニスタン南部の大半は、何十もの旧ムジャーヒディーン軍閥や強盗集団によって分割支配され荒廃していた。カンダハールを支配する数多の武装グループは、活動の資金源になるものは何でも奪った。電話線を引きちぎり、木を切り倒し、工場の機械や道路用のローラーまでもスクラップにしてパキスタンの商人に売った。軍閥は家々や農場に押し入り、住民を強制退去させ支持者達の手に渡した。司令官らは住民を思いのままに虐待し、少女や少年を誘拐して性欲を満たした。バザールの商人から品物を強奪し、街中で武装グループ同士の喧嘩による銃撃戦が頻繁に発生した。カンダハールの住民の大部分を構成するパシュトゥーン人は、隣国パキスタンのクエッタなどの同じくパシュトゥーン人が多数派を占める都市に難民として脱出し始めた。",
"title": "歴史"
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"text": "ターリバーンによると、ムハンマド・オマルが20人の同志とともに運動を始めたという。またターリバーン隊士がイスラム教の聖典『クルアーン』を学んだ場所は、国境付近の難民キャンプの教員が整っていないムハンマド・オマルの開いた神学校であった。この神学校出身者が、結集時のターリバーン隊士になる。",
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"text": "彼らが蜂起したきっかけは軍閥が二人の少女を誘拐したことへの抗議活動であった。彼らは無事少女たちを解放し、この出来事から地元住民らから正義の味方として扱われた。",
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"text": "内戦が続くアフガニスタンにおいて、ターリバーンは1994年頃から台頭し始めた。彼らはイスラム神学校(マドラサ)の学生たちが中心であり、ターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし、治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎した。当時、アフガン市民たちは、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行、略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたため、治安を回復するターリバーンの活躍に期待した。しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "1998年にターリバーンがマザーリシャリーフを制圧した際に、住民の大虐殺を行った。この虐殺は、前年5月にマザーリシャリーフで起こったターリバーン兵大量殺害に対する報復 でもあるのだが、マザーリシャリーフはアフガニスタンの少数民族であるウズベク人やハザーラ人が大きな割合を占め、ターリバーンはこれらの少数民族、特にハザーラ人に対し虐殺を行ったことから、ターリバーンがパシュトゥン人からなり、パシュトゥーン民族運動の性格を併せ持つことを示すエピソードとなったと指摘されている。",
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"text": "ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍の諜報機関であるISI(軍統合情報局)を通してCIAの支援を受けていた。特にISI長官を務めたハミド・グル(英語版)と深く関わり、アメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助をもらっていたという。アメリカが国際連合にハミド・グルのテロリスト指定を迫った際はパキスタンの友好国の中華人民共和国が拒否権を行使している。",
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"text": "パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという。このためそうした要件を満たすターリバーンがパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。",
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"text": "また、1990年代半ばにはサウジアラビア総合情報庁もパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。",
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"text": "また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジアの石油・天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインでインド洋に輸送することを計画していたが、これはロシアやイランを避けるルートを取っており、米国政府としては好都合であり、このパイプライン建設計画を支持した。このパイプライン計画実現のためにはアフガニスタンの安定が前提条件であり、米国はターリバーンによるアフガニスタン支配に関心を示した。アメリカ合衆国議会関係者やアメリカ合衆国国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1996年9月にターリバーンが首都カーブルを制圧し、ナジブラ元大統領を処刑した際、アメリカ国務省の報道官はターリバーンの行為を非難せず、むしろターリバーンによる安定化への期待を示すなどアメリカ政府のターリバーン寄りの姿勢を示した。",
"title": "歴史"
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"text": "ターリバーンによる首都カーブル制圧後、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強めていった。",
"title": "歴史"
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"text": "1999年12月、カシミールの独立を目指すイスラム過激派によりインド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのターリバーンの本拠地だったカンダハルで着陸し、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人を人質に立てこもる事件があった(インディアン航空814便ハイジャック事件)。その際に、ムタワッキル外相などターリバーン政権幹部の仲介により、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(カシミール独立派)の幹部3人を釈放する代わりに乗員155人が解放された。国際的に孤立を深めるタリバン政権が、テロリストの釈放と引き換えにとはいえ、周辺国と連携して人質解放に尽力したことで、日本国内でも、国際社会もターリバーン政権をイスラム原理主義勢力として単純に敵視するのではなく、歩み寄りを行ってもよいのではないかとする論調があった。また、これにはイスラム過激派支援集団とみなされていたタリバーン側の国際社会での汚名返上の思惑もあった。",
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"text": "ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた共産政権時代の元大統領ムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑した。カーブル制圧後、「アフガニスタン・イスラム首長国」を建国したが、すぐにはどの国からも承認されなかった。1997年5月にターリバーンが北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧したのを受け、パキスタンが世界で初めて政府承認し、すぐにサウジアラビア、アラブ首長国連邦が続いた。この三カ国以外からは承認されることはなかった。国際連合の代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下に置いた。",
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"text": "しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。例えば、ターリバーンは殺人を犯した者に対しその犠牲者の遺族による公開処刑を行ったが、これはイスラム法に基づくというより、パシュトゥーンワーリに基づくものである。",
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"text": "また、アルカーイダと接近してからは、その過激主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガニスタン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。",
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"text": "ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動を行なった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口であり、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。",
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},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、親族男性を伴わなければ外出さえも認められなかった。外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン・ラーディンとアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンはターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1997年5月から、ターリバーンはアブドゥルラシード・ドーストム派の拠点であったマザーリシャリーフを攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1998年8月7日、タンザニアとケニアにあったアメリカ大使館が爆破される事件が起きた(前述)。この攻撃をうけてアメリカは報復としてスーダンのハルツームにあった化学工場と、アフガニスタン国内のアルカーイダの訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上のハザーラ人市民が殺害され、イラン総領事館の外交官10人とジャーナリストが殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯にイラン軍が集結する事態となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1998年9月、サウジアラビアはアフガニスタン臨時代理大使の国外退去を求め、かつ、自国の在アフガニスタン臨時代理大使を召還させ、事実上ターリバーンと断交した。これはケニアとタンザニアのテロ事件の首謀者と見られたウサーマ・ビン・ラーディンの扱いをめぐる対立が原因であったといわれている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1999年、国際連合安全保障理事会においてテロ行為の防止を目的とする国際連合安全保障理事会決議1267 が採択され、ターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には経済制裁が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2000年10月、アルカーイダはアメリカのミサイル駆逐艦コールに自爆テロ攻撃を行った(米艦コール襲撃事件)。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333 が採択された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2001年2月26日、ターリバーン政権は、紛争続きのアフガニスタンにあって、それまで徐々に壊れていたバーミヤーンにある石窟の仏陀の像(バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群)を、ターリバーンが最終的に、爆弾を用いてこれらを徹底的に破壊。しかし、この行為に対しては、非イスラム圏のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった。支持した者は、ごく少数にとどまった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "イランの映画監督モフセン・マフマルバフは、著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』の中で、アフガニスタンで長年続いている人道的危機を無視し続けながら、大仏の破壊を大きく取り上げた欧米のメディアを批判した(詳しくは脚注参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと有志連合諸国は国際連合安全保障理事会決議1368による自衛権の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。その後政権は崩壊し解散した。一連の北部同盟の進撃の中で、ターリバーンはダシュテ・ライリ虐殺(英語版)によって数百から数千人規模の戦闘員を失った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかしクンドゥーズ包囲戦のように包囲されてもパキスタンの飛行機で脱出するなどして、ムハンマド・オマルをはじめとする指導部の多くは失われず、2003年以降、アフガニスタン南部及びパキスタンのトライバルエリア、ワズィーリスターンを根拠地に勢力を回復した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "タリバーンには、主にアブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル元外相やアブドゥルサマド・ハクサル元内務次官らで構成されるいわゆる「穏健派タリバン」と呼ばれる勢力も存在する。彼らは武装闘争を放棄し、政治的な方法、すなわち選挙への参加を通じた議会進出によってターリバーンの掲げた理想の実現を図ろうと考えている。ハクサルやムタワッキルが中心となって潜伏している元メンバーや武装闘争を続ける仲間に投降を促すなどして、議会選挙参加を呼びかけた。アフガニスタン政府も同じパシュトゥーン人であるカルザイ大統領がこの動きを歓迎して後押ししたが、かつてターリバーンと戦った旧北部同盟勢力などが「ターリバーンの復権につながる」と猛反発した。また、ターリバーン側でも穏健派を裏切り者だとして暗殺をほのめかした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2005年の議会選挙では、ムタワッキルやハクサルらは落選したものの、元ターリバーンの中でもムラー・アブドゥル・サラム・ロケッティ元司令官やムハンマド・イスラーム・ムハンマディ元バーミヤン州知事のように下院議員に当選した人物もいる。モハマディ議員は2007年1月に、ハクサル元次官は2006年1月に暗殺された。このようにターリバーンと袂を分かち、当時のハーミド・カルザイ政権に協力することは容易ではない状況にあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "タリバーンは2006年から南部・南東部・東部を中心に攻撃を増加させ、2007年も手を休めなかった。そのため2008年にはアフガンスタンの治安は著しく悪化した。またタリバーンは南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でも攻撃を行った。2009年、タリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加」し、即席爆発装置(IED)による攻撃を急増させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "有志連合諸国も反撃を行い、2006年から国際治安支援部隊(ISAF)をアフガニスタン全土に展開させ、チョーラの戦い(ウルズガーン州)やパース作戦(ウルズガーン州)などを行った。また2008年のワナトの戦いの結果などを受けて2009年にはアメリカ軍を倍増させ、オカブ作戦(クンドゥーズ州)やカカラクの戦い(ウズルガーン州)などを行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかしタリバンは2006年中にはアフガニスタン南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のパキスタン政府が深く関与していると見る向きが強く、同年末にはアフガニスタン暫定行政政府の大統領ハーミド・カルザイがパキスタンを名指しで非難する事態に至った。国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等でケシ栽培を禁じられた、あるいは多国籍軍の攻撃で民間人が死亡したなどの理由により、とりわけパシュトゥーン人の間などで、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっているという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一方、アフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響を受け、パキスタン国内でも過激化した武装勢力(パキスタン・ターリバーン)が誕生した。パキスタン・ターリバーンはアフガニスタンのタリバーンとは別物であり、米軍への攻撃に加え、米国を支援するパキスタン政府に対するジハードも目的としている。2007年12月には、ターリバーンを支持するパキスタン人の武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体してパキスタン・ターリバーン運動が発足した。発足時の最高指導者はバイトゥッラー・マフスード。パキスタン国内ではパキスタン・ターリバーン運動がアメリカ軍による最大の打倒目標になっている(ワジリスタン紛争)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタン南部ではタリバーンが独自の知事や裁判所を設置して完全な支配下に置いている地域がある。ヴァルダク州ではタリバーン独自の州知事、軍司令官、シャリーア法廷の設置やカーディー(シャリーア法廷の裁判長)を任命し、道路税などの税金の徴収、徴兵、学校の閉鎖やマドラサでの教育の強制、シャリーアに基づく刑罰の執行などを行い、完全にタリバーンの統治下にある。ローガル州のバラキー・バラク地区はタリバーンによる制圧後、床屋で髭を剃ることとテレビの視聴を禁じ、従わないものは「異教徒と外国人のスパイ」とみなすと住民に脅迫したという。ヘルマンド州の大部分も中央政府の支配が及ばず、タリバーンの影響下にあり、地元部族長によれば住民も政府を頼りにするのではなく、ターリバーンの\"政府\"を頼り、90%の住民がカルザイ政権ではなくタリバーンを支持しているという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、再起したタリバンは自爆テロや市街地での無差別テロなどイラク戦争で反米武装勢力が用いた戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。またこれらの自爆テロでは米軍の空爆で手足を欠損した身体障害者が6割に上るという調査結果が遺体検分に当たったカーブル大学により2008年明らかにされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "デビッド・スワンソンは、アフガニスタン国内での米軍の軍需物資の輸送のための運輸業者への支払いが、タリバーン勢力の資金源となっていると主張している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2011年5月、アメリカ軍がパキスタンでビン・ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2015年1月、過激派組織IS(イスラミック・ステート)がKhorasan Province(ホラサン州)の設置を宣言し、最高指導者としてハーフェズ・サイード・ハーンを任命した。ハーフェズはパキスタン・ターリバーン運動の元幹部である。4月、イスラム国とターリバーンはお互いに対するジハードを宣言した。5月、ナンガルハール州やファラー州でISKPとタリバーンの武力衝突が起き、ナンガルハール州の戦いは6月も続いた。同月、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルはイスラム国の最高指導者バグダーディーに書簡を送ったが戦闘は止まらなかった。7月、ヘクマティヤール派がイスラム国への支持を表明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2015年5月、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区の首都ウルムチでターリバーンの代表3名(アブドゥル・ジャリル、アブドゥル・ラザク、ハッサン・ラフマニ)とアフガニスタン政府のマスーム・スタネクザイ大統領顧問による秘密協議が行われたと報じられた。前年の2014年にはタリバーンの代表団が訪中したと報じられていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2015年7月、パキスタンのイスラマバードでタリバーンとアフガニスタン政府の初の公式和平協議が開催され、オブザーバーとして中国とアメリカも参加した。旧ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルはラマダン明けの声明で「武力によるジハードと同時に、神聖な目標達成のための政治的努力や平和的な道を探ることは正当なイスラムの信条であり、預言者ムハンマドの政見の不可欠な要素だ」と述べ、和平協議に肯定的な態度を示した。そのため第二回の和平協議は中国で行われる予定だった。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は無期限延期になった。一説によるとオマルの病死説は以前から浮上していたがタリバーンやアフガニスタン政府、交渉を仲介したパキスタン政府、アメリカ合衆国や中華人民共和国にとっては生存説の方が都合が良かったため誰も追及しなかった。しかしタリバーン内の和平協議反対派がオマルの病死に気づいた為、7月下旬にオマルの息子のムハンマド・ヤクーブが幹部をクエッタのマドラサに集めて病死を発表した。7月末、2010年から最高指導者を代行していたアフタル・ムハンマド・マンスールが最高指導者に指名され、ジャラールッディーン・ハッカーニーが副指導者に指名された。しかし反対派はムハンマド・ヤクーブの最高指導者就任を求めて納得せず、アフガニスタン北東部のクンドゥーズ州や西部のヘラート州、南部のザブール州などで武力衝突が起きた。一方、アルカーイダはアフタルを支持した。9月、反対派は選挙を要求し、11月に別の最高指導者としてモッラー・モハンマド・ラスール・アーホンドを選出した。モハンマドはターリバーン設立当初からオマルの信任が厚く、ニームルーズ州やファラー州の知事を務めた人物である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2016年3月、ヘラート州でマンスール派とラスール派が武力衝突し、約150人が死亡した。バードギース州のラスール派の指揮官はマンスール派をパキスタン情報部の走狗と呼んで非難した。2016年5月、アフタル・ムハンマド・マンスールが米軍の無人機攻撃により殺害された。同月ハイバトゥラー・アクンザダが第3代最高指導者に就任した。8月、ザーブル州のターリバーンがダードゥッラー戦線を立ち上げて独立した。ザブール州の司令官ダードゥッラーは前年タリバーン(マンスール派)に攻撃された際にファラー州のISKP軍に援軍を求め、見返りにISKPに忠誠を誓っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2020年2月29日、ターリバーンを代表してアブドゥル・ガニ・バラダル、アメリカ政府を代表してザルメイ・ハリルザドが和平合意に関する文書に署名した(ドーハ合意)。まず135日以内に1万2000人規模のアフガン駐留の米軍を8600人規模に縮小する。そして、アフガン国土をテロ攻撃の拠点にしないなどの和平合意をターリバーンが履行したと判断すれば21年春ごろに完全撤収する予定。なお、アフガニスタン政府の治安部隊は、和平合意の対象外であるとして同年3月2日に攻撃作戦を再開すると発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2020年4月、ターリバーンはサーレポル州の「郡長」にシーア派のハザラ人を任命したと発表した。ターリバーンがシーア派ハザラ人を州知事に任命したのはこれが初である。これは、ターリバーンによるマザーリシャリーフ攻略で悪化した民族対立を緩和させ、国内のハザラコミュニティの支持を集めようとする動きと見なされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2020年7月28日イード・アル=アドハーに際して3日間の停戦を発表した。これに引き続き29日最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは純粋なイスラーム政府の樹立と反対勢力にタリバンへの参加を呼び掛けた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2021年1月、アフガニスタン政府が首都カーブルで武装した中国人集団を逮捕した。一説によると中国人集団は中華人民共和国国家安全部の工作員であり、東トルキスタンイスラム運動に対抗するためにハッカーニ・ネットワークと接触していたと言う。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2021年2月、Pajhwok Afghan Newsの電話調査によると、ターリバーンはアフガニスタンの国土の約5割(52%)を掌握・勢力圏内に収めていると言う。アフガニスタンの388郡のうちターリバーンが郡内を完全に支配しているのは27郡(7%)、政府が完全に支配しているのは67郡(17%)である。またターリンバーンが郡の中心都市を支配しているのは39郡(10%)だと言う。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2021年7月28日、ターリバーンの代表団が訪中し、外交部長(外相)の王毅と会談したアブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言(2021年ターリバーン攻勢)。アブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行は、平和裏に権力の移行を進めると表明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2021年1月、アフガニスタン北部のファーリヤーブ州でターリバーン内の民族紛争が発生した。著名なウズベク系ターリバーン司令官で、ターリバーン政権樹立以降ファーリヤーブ州の警察署長を務めていたマフドゥーム・アラムが突如、逮捕・解任さる事件が発生した。この事件に対してウズベク系ターリバーン及びウズベク人住民が大規模な抗議活動を行い、複数のパシュトゥーン系ターリバーンが武装解除された。アラムは2018年頃にファーリヤーブ州におけるターリバーン軍事委員会の会長及び「州知事」を務めていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ターリバーンのイデオロギーは、デオバンド派原理主義に基づく「革新的な法解釈」で導き出したシャリーアと、ターリバーンのほとんどがパシュトゥーンの部族民であることから「パシュトゥーンワーリー」と呼ばれるパシュトゥーンの社会的・文化的範を組み合わせたイスラム主義だと言われている。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "アメリカの研究所の調査によると、調査対象のアフガニスタン人のうち、99%がシャリーア法による国の統治を望み、85%が姦淫者を石打ちすることを望み、81%が泥棒の手を切断する事を望み、50%が背教者の処刑を望んでいる。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "イスラム国家においては、近代教育よりも宗教教育が優先され、近代教育は宗教教育の中にあるべきである。 なぜなら、宗教は有益な知識と善行に基づいており、有益な知識と善行は至高なるクルアーンに基づいており、虚偽が存在しないことがすべてのイスラム教徒に証明されているからである。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ターリバーンのメンバーは彼らの教師であったムッラーたちから「女性は誘惑的で、男性をアッラーフへの奉仕から引き離す存在」といった内容の教育を受けていたとされる。1990年代後半に政権の座についた彼らは女性の通学・就労・買い物等含む外出行為や、家族以外の男性が女性と話すことを禁じた。このターリバーンの決定は多くの国際機関や人権擁護団体から、女性への人権侵害とみなされ非難の的となっている。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2021年に政権を奪還してからも、一部地域を除くアフガニスタンのほぼ全土で女子の中等教育を停止させた。教育大臣代行のヌールラ・ムニルは「私は女子教育に反対しない」と述べ、女子中学校(日本では中学・高校)の閉鎖に法的根拠はなく、文化的制限によって閉鎖されているとした。高等教育大臣のアブドゥル・バキ・ハッカーニは「アフガンで教育に反対している人はいない」と述べたが、シャリーアに即した教育環境が整っていない事が原因であると主張し、ムニル教育大臣とは異なる見解を示した。ハッカーニ高等教育大臣は、女子生徒は敬意を払われる存在で、男子生徒のように徒歩や公共交通機関で通学するのではなく、車などの通学手段が確保されるべきだが実現していないと主張した。ザビフラ・ムジャヒド情報・文化副大臣代行はニュースで女子学校がいつ再開されるかを問われ、「私次第ではありません。私たちの長老たちが開校時期を決定します。早く開校し女子が学校に通えるようになることを願っています」と述べ、宗教問題のために閉鎖されているとした。その後、2022年には中等教育7年生以上、高等教育を含む女子教育が事実上中止された。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "女性の教育はハラームではないが、道徳退廃を防ぐために教育課程はシャリーアに準拠したものである必要があり、また、不必要に家を離れてはならない。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "女性が教育等で外出するときは、非マフラムの男性に身体を見せてはいけないため、合法的な服装(ヒジャブ)でなければならない。合法的な服装とは主に7つ条件があげられる。1除外された部分を除いてヒジャブで全身を覆わなければならない。2ヒジャブはそれ自体が装飾品であってはならない。ジャーヒリーヤの無知な女性のように自らの美しさを男性にひけらかしてはならない。3身体を覆うものが透明だったり透けたりするものではいけない。4ヒジャブは幅が広く、ボディーラインを露出するようなきついものではならない。5外出する際に香水をつけてはならない。美しい服や宝石などと同じで、情欲を刺激することに関係しているからである。例え夫が許可しても、女性が身を飾り外出するのは大きな罪である。6男性と似た服を着用しない。男女共に異性を模倣することは神によって禁じられている。7不信者の服装を模倣しない。男女共に服装や飲食習慣などで不信者を模倣することはシャリーアによって禁じられている。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "以下は勧善懲悪省の法令である。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "ヒジャブは男性から性的な眼差しを避けるもので、着用する女性自身をそのような視線から守るだけでなく、男性が性的な意識を持つことを防ぐ目的もある。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタンでは古くから思春期以前の年齢層の男子が裕福で権勢のある男に買い取られ娯楽もしくは性行為の相手をさせられる、いわゆる児童売買春が行われてきた。ターリバーンは同性愛を非イスラム的でシャリーアと相容れないものとみなしていたため、バッチャ・バーズィーを行った者を死刑に処した。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ターリバーンは音楽の禁止を打ち出している。2021年8月には、北部バグラーン州で民族音楽の歌手を処刑。政権再奪取時には多くの音楽家が迫害を恐れて国外へ逃亡することとなった。2023年7月29日には、西部ヘラート州でギター、ハーモニウム、タブラといった楽器のほか、アンプやスピーカーなどの音響機器を焼却処分にするデモンストレーションが報道された。燃やされた楽器類は、市内の結婚式場から集めたものが大半を占めた。",
"title": "イデオロギー"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "タリバーンは麻薬や鉱物、石油の販売、外国からの寄付、市民からの徴税により多額の収入を得ている。一説によると2011年の収入は3億~5億米ドルに達し、そのうちケシ栽培による収入は約1億ドルと言われている。タリバーンは2017年頃からヘロインの生産も開始し、現在はタリバーンの収入の半分(4億ドル)が麻薬の生産と輸出によるものという説もある。",
"title": "資金"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "初期の段階では、戦闘員の多くはAK-47やRPK、RPG-7を装備し、移動にはテクニカルを利用するなど、民兵然とした装備であったが、アフガニスタン軍から鹵獲したアメリカ製武器のM16、M4カービンや付属する豊富なアクセサリーキット、M240、M249、AT-4、戦闘服・ボディーアーマー・防弾ヘルメット・暗視ゴーグルなどの個人装備、M2などの支援火器、ハンヴィーやMRAP、M1117装甲車、M113などの近代的な装備を利用し始めている。また、BTR-60、BTR-70、BTR-80、BMP-1、T-55などの旧式ながら強力な兵器も入手している。この他にも航空機として、MD-530、UH-60、CH-46、Mi-17、C-208/AC-208、A-29、C-130などを入手しているが、運用能力があるかは不明である。しかし、UH-60やMi-17は飛行している姿が度々撮影されている。",
"title": "装備"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタンでは、メソポタミア文明以来、医薬品の抗がん剤やモルヒネ(鎮痛剤)「植物性アルカロイド」の原料であり、麻薬のアヘンやヘロインの原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年7月27日に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では12,600エーカーあったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。",
"title": "麻薬問題"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年のウズベキスタンやタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは1979年に皆無だった麻薬中毒者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。",
"title": "麻薬問題"
},
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"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への死刑適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。",
"title": "麻薬問題"
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{
"paragraph_id": 94,
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"text": "しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはタリバーンが支配するただ一つの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている。",
"title": "麻薬問題"
},
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"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる。",
"title": "麻薬問題"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、国内総生産(GDP)の50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である。",
"title": "麻薬問題"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "アフガニスタン共和国政府はケシからの転作を進めて、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はタリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにタリバーンに献金を行っているという指摘もある。",
"title": "麻薬問題"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ターリバーン政権の成立後に情報文化大臣になる予定とされるザビフラー・ムジャーヒド報道官は、今後アフガニスタンはいかなる種類の麻薬も作らなくなることを明かし、市民が麻薬に代わる作物を栽培できるようになるためには国際的な支援が必要だと指摘した。",
"title": "麻薬問題"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ターリバーンは1996年の政権樹立前からパキスタンから支援を受けており、米軍侵攻後はターリバーン高官が潜伏していたパキスタンで当局に逮捕されるなどの事件はあったものの友好関係にあるとされる。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという。このためそうした要件を満たすターリバーンはパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。特にISI長官を務めたハミード・グル(英語版)と深く関わり、人権問題を理由にアメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助を受けていたとされる。1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "米軍侵攻後、ターリバーン指導部の大半はパキスタンに身を隠し、クェッタ・シューラと呼ばる指導部を再編成し国境越しにアフガニスタンでの反撃作戦を指揮していたとされている。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "デュアランド・ラインと呼ばれるアフガニスタン-パキスタン間の国境は両国の政府の管理が及ばない地域が多く、政府の管理なしに不特定多数の人々が制限を受けることなく国境間を自由に行き来できた。当該国境はターリバーンの主要民族であるパシュトゥーン人(アフガン人)の居住地帯を跨いでいる。デュアランド・ラインを跨いでパキスタン側のパシュトゥーン人居住地域にはトライバルエリアが広がっており、その地に居留するターリバーン司令官らがマドラサを通じてアフガン人のターリバーン戦闘員の採用していた。トライバル・エリアではパキスタンの憲法上の規定から同国の法律は運用されておらず、また、中央・地方政府の実権が及ばない地域が多かった事からパキスタン政府はターリバーン関係者を追跡しきれなかったと言われている。民族分断や歴史問題を孕むデュアランド・ラインを巡ってはアフガニスタンとパキスタンとの間で長年国境紛争になっている。ターリバーン政権の最高指導者オマル師はパキスタンの政治家からデュアランド・ラインを受け入れたか否かを聞かれた際に憤慨したと伝えられている。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "パキスタンはターリバーン最大の後ろ盾と考えられてきたが、2021年11月現在ターリバーンが樹立した「アフガニスタン・イスラム首長国」を国家として承認していない。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1990年代半ばにはサウジアラビアはパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。アメリカとターリバーン政権の関係が悪化し、アメリカがサウジアラビアに対してアフガニスタンにビンラーディンの引渡しをさせるように求めても、サウジアラビアはターリバーンに圧力をかけるのに消極的であった。しかし、1979年から2001年までサウジアラビア総合情報庁の長官だったトゥルキー・ビン・ファイサル・アール・サウード王子は、ターリバーン政権末期のオマル師との対談で、オマル師から「サウジアラビアはビンラーディンと話し合うべきであり、彼と戦うのではなく帝国主義者と戦うべきだ」と言われた。アメリカとの対決を迫られたファイサル王子はファハド国王とアブドゥッラー皇太子にサウジアラビアはターリバーンと断交するべきだと忠告した。ターリバーン政権の崩壊後は、サウジアラビア内からターリバーンに対して多額の寄付を行うイスラム主義者の存在が明らかになっており、国連から制裁を受けているターリバーン構成員の資金洗浄場所となった。サウジアラビアはこれらの対応に消極的だった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "宗教面に関する論争については、サウジアラビアのイスラーム法解釈の主流であるハンバル学派に属するワッハーブ派は、ターリバーンのイデオロギーであるハナフィ―学派に属するデーオバンド派をサラフィーにスーフィズムを融合させたものであると批判している。",
"title": "対外関係"
},
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"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "シーア派イスラム神権国家のイランはアフガニスタン内戦中にシーア派のハザーラ系武装勢力を支援してきた事から、スンナ派のターリバーンとは不倶戴天の敵同士であった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "1997年には、マザーリシャリーフを攻撃したターリバーンが前年に同勢力3000人をハザーラ・ウズベク民兵に虐殺された報復として、マザーリシャリーフで大虐殺を実施し、同時にマザーリシャリーフ駐在のイラン外交官10人が殺害された。ターリバーンは「殺害されたのは外交官ではなく工作員」と主張したが、後にターリバーン戦闘員の暴走が原因だったとされている。イラン世論はこれによって反タリバン一色となり、イラン軍はターリバーンの総兵力を上回る7万人の部隊をアフガニスタンとの国境沿いに展開した。以後、イランは北部同盟を支援するようになった。",
"title": "対外関係"
},
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"paragraph_id": 108,
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"text": "一方で2000年代中頃からはイランとターリバーンは友好関係に近い状態であるとされる。2007年と2011年にアフガニスタンに駐留していた多国籍軍は、イランのターリバーンに対する武器輸送を傍受した。2012年にイランは同国東部のアフガニスタン国境沿いにあるザーヘダンにターリバーン事務所の開設を許可した。2010年代、副指導者のマンスール師はイランとの関係改善に努め、マンスール師自身がイランを訪問した。2015年、ISKPのシーア派殺害に対してターリバーンは「分断・差別・不寛容を生じさせる」として批判を行った。2020年1月、バグダード国際空港攻撃事件でイスラム革命防衛隊「ゴドス軍」の最高司令官ガーセム・ソレイマーニーがアメリカに暗殺された際に、ターリバーンは「私たちは神に、この偉大な戦士に楽園を与え、彼の家族に忍耐を授けるように求めます」と声明で発表した。スンナ派イスラム主義組織がシーア派の要人に対して哀悼の意を表明するのは極めて異例である。また、ターリバーンにハザーラ人司令官が登用されるなど、イランの影響が見られるようになった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "イランはターリバーンに対して親和的になったと考えられてきたが、2021年8月15日のカーブル陥落以後、イランは在アフガニスタン大使館と領事館を閉鎖し、今日に至るまでアフガニスタンのターリバーン政権を国家として承認していない。ただ、2022年1月にはターリバーン政権の外相代行アミール・ハーン・ムッタキーがテヘランを訪問し、イラン外相のホセイン・アミールアブドッラーヒヤーンと会談している。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ターリバーンは創設当初、軍事面および資金面でパキスタンのISIを通じて間接的にCIAの支援を受けていた。強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国政府(クリントン政権)の支持を得ていた。しかし、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国政府もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強め、報復としてアフガニスタンのアルカーイダ基地を巡航ミサイルで爆撃した。以降、米国政府は再三、ターリバーンに対してアルカーイダ指導者の引渡しを求めたがターリバーンが拒否したため関係は悪化の一途を辿った。2001年、アメリカ同時多発テロ事件によりアメリカは、ターリバーンに対し再びアルカーイダ指導者の引渡しを求めたがこれも拒絶されたため、米国はイギリスやドイツ、フランス、カナダ等と共同でアフガニスタンに対し軍事侵攻を開始した。2009年頃から、ターリバーン-米国間で和平交渉の動きが見られるようになった。2015年、ターリバーンの最高指導者マンスール師が米軍の空爆によって暗殺された。2020年、アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)と米国(トランプ政権)の間で和平合意が結ばれ、条件付きで米国及び連合軍がアフガニスタンから撤退する事が決まった。2021年8月、ターリバーンが政権を奪還し、米国(バイデン政権)はアフガニスタンから完全に撤退した。",
"title": "対外関係"
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"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "アメリカは2001年に大統領令でターリバーンをテロ組織として指定したものの、「外国のテロ組織リスト」に記載せず、反乱軍として取り扱ってきた。ターリバーンが樹立したアフガニスタン・イスラム首長国を国家として認めた事はない。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "日本は1996年から2001年まで続いたターリバーン政権を国家として承認しなかった。日本はターリバーンに対して2001年の米軍侵攻まで続いたアフガニスタン内戦中、対立する北部同盟との間で和平交渉をするように呼びかけていた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "第一次政権期にはアッバス ・スタネクザイ保険相が度々来日し、医療支援を求めている。このように幹部が来日する事例は政権崩壊後も確認されている。2012年にはターリバーン政治委員会のカーリ・ディン・ハニフ委員(2021年11月時点でターリバーン暫定政権における経済大臣)と元駐パキスタン大使アブドゥル・サラム・ザイーフが、同志社大学におけるアフガニスタンに和平を構築するシンポジウムに出席している。この機会にターリバーン要人の2人は広島の原爆資料館に立ち寄っている。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "2001年、ターリバーン政権下のアフガニスタンに入った日本人ジャーナリストによると、ターリバーン兵から日露戦争と当時アメリカに迫っていた経済成長を賞賛され、ターリバーンと同盟を組んでアメリカと戦争する事を勧められたという。ターリバーンは2019年に公開したビデオ「Umari Army (6)」で、アメリカの介入政策を批判し、介入政策で生じた悲劇の一例として第二次世界大戦中に発生した広島への原爆投下を挙げた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "2021年11月現在、ターリバーンは日本との交流に積極的な姿勢を見せているが、日本は慎重な姿勢を崩していない。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "2021年8月15日、ターリバーンのカーブル制圧に伴い日本は在アフガニスタン大使館を閉鎖した。同月25に菅義偉首相は「再びテロの温床になることを食い止め、女性などの権利を守っていくために、G7を含む関係国と緊密に連携をしていく」と述べ、テロ支援や人権侵害に関してターリバーンへの不信をあらわにし、欧米諸国と歩調を合わせて対応する方針を示している。ターリバーンのスハイル・シャヒーン報道官は24日、アフガニスタンでの日本の非政府組織(NGO)の活動を高く評価し、大使館やNGOの職員らの「生命と財産」を保証すると強調した。アフガニスタンからの退避が進む25日に、ザビフラ・ムジャヒド報道官はアフガニスタンと日本の歴史的な友好関係について言及し、アフガニスタンに駐留する日本人に対して退避して欲しくない、協力してほしいなどとする趣旨の発言をした。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "11月21日から4日間の日程でアフガニスタン入りした岡田隆大使は、ターリバーン政権副首相のバラダル師とカビール師と会談した。11月24日には、ターリバーン政権外務省のカハル・バルヒ報道官は岡田大使が大使館の再開に向け調整を進める意向を示した事を明らかにした上で「日本大使館の安全には特に注意を払う」と発言した。一方で、松野博一官房長官は大使館の再開に関して具体的な予定は無く、「タリバンに対する日本政府の立場を何ら予断するものではない」とした。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "1996年にスーダンから追放されたウサーマ・ビン・ラーディンはターリバーン統治下のアフガニスタン・ジャラーラーバードに亡命した。ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築き、ターリバーンの庇護下で反米テロ活動を続けた。この頃からターリバーンはアルカーイダの過激思想の影響を受け、反米感情を抱くようになり、内政においても過激な政策が増加した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "ターリバーンはアルカーイダに軍事や資金面で支援を受けていた。1997年にターリバーンがマザーリシャリーフ攻略に失敗し、捕虜となったターリバーン兵数千人がアブドゥル・マリクによって虐殺された際、ビン・ラーディンはISIと共にターリバーンを強化するために新兵採用の資金と軍用車両などを支援した。また、ターリバーンはアフガニスタン・イスラム首長国の外国人精鋭部隊「055旅団」の育成をアルカーイダに任せた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "1990年代にビン・ラーディンはムハンマド・オマルに忠誠を誓い、アルカーイダは形式的にターリバーン傘下の組織となっている。ビン・ラーディン死後もアルカーイダ2代目最高指導者ザワーヒリーがターリバーン2代目最高指導者アフタル・マンスールや3代目ハイバトゥラー・アクンザダに忠誠を誓っているが、ターリバーンはこれを拒否している。2020年に結ばれたアメリカ合衆国-アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)間の和平合意で、ターリバーンは国際テロ組織(アルカーイダ等)との関係断絶を受け入れた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "パキスタン・ターリバーン運動は、主にアフガニスタンと国境を接するパキスタン領土内の連邦直轄部族地域並びにカイバル・パクトゥンクワ州で活動するパシュトゥーン人のイスラム主義組織である。パシュトゥーン人が多数を占める組織という点でターリバーンと類似しているものの、組織・指揮系統及び活動目的は大きく異なる。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "パキスタン・ターリバーン運動は、彼ら自身とは民族の異なるパンジャーブ人が多数を占めるイスラマバード中央政府に対する敵意によって、複数のイスラム主義グループが連合して誕生したものであり、中央指導部の運動全体に対する統制力は低いとされる。ターリバーンは2010年代まで、最高指導者ムハンマド・オマルが絶対的な権威を持っており、オマルの死後には内紛が起きたものの、連合組織であるパキスタン・ターリバーン運動に比して現在でも指導者評議会の組織に対する統制力は強い。活動目的については、タリバーンはアフガニスタンをイスラム国家として復興させることであり、他方、パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府を打倒してイスラム国家に改造することである。",
"title": "対外関係"
},
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"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府とは強い敵対関係にあるものの、ターリバーンはパキスタンと親密な関係にあるとされている。",
"title": "対外関係"
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{
"paragraph_id": 124,
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"text": "2009年、パキスタン・ターリバーン運動の指導者3人がターリバーンの最高指導者オマルの要請を受け、アフガニスタンで協力してジハードを行う事に合意したがすぐに破綻し内紛が起きた。",
"title": "対外関係"
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"paragraph_id": 125,
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"text": "2013年には、タリバーンとパキスタン・ターリバーン運動が武力衝突して後者の司令官が戦死したとする報道があった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 126,
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"text": "2014年にパキスタン・ターリバーン運動が実行したペシャーワル軍事学校襲撃事件に対し、タリバーンは「非イスラム的だ」として非難した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "タリバーンはパキスタン・ターリバーン運動との間に何ら関係を持っていないと主張しているが、パキスタン・ダーリバーン運動の報道官は最高指導者マウラナ・ファズルッラーがアフガニスタン東部のクナル州でターリバーンにかくまわれていること、資金面でターリバーンから援助を受けている事を明らかにした。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2021年8月15日のターリバーンのアフガニスタン制圧に伴って、過去にパキスタン・ターリバーン運動の副指導者を務めていたファキール・ムハンマドがアフガニスタンの刑務所から解放された。ファキールがターリバーン又はパキスタン・ターリバーン運動の兵士を連ねてアフガニスタンの市街地を凱旋する映像が公開された。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "2021年11月8日、ターリバーン政権の仲介でパキスタン・ターリバーン運動とパキスタン政府は1ヶ月の停戦合意を結んだ。",
"title": "対外関係"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "ISとタリバーンは敵対関係にある。ISのアフガニスタン支部である「イスラム国ホラサン州(ISKP)」はパキスタン・ターリバーン運動から分離して誕生した勢力である。ISKPはウズベキスタン・イスラム運動やターリバーン内の不満分子などを吸収しつつ2016年頃に勢力を拡大し、これまでにタリバーンと200回以上交戦している。ISKPはターリバーンが根付いていないアフガニスタン北部や、パキスタン・ターリバーン運動の影響を受けている東部の山岳地帯を中心に活動していた。",
"title": "対外関係"
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{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "2013年アルカーイダのイラク支部から発展したISは、アルカーイダ本部からの解散命令を無視し、アルカーイダの統制下にあるシリアのアル=ヌスラ戦線とも衝突を繰り返すようになった。ISとアルカーイダ本部は敵対関係に至り、タリバーンはISに対して沈黙していた。ISはアフガニスタンもカリフ制の支配下に入るべきだとし、アフガニスタン紛争へ介入する姿勢を見せた。",
"title": "対外関係"
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{
"paragraph_id": 132,
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"text": "2015年にターリバーンの副指導者であったアフタル・マンスールは最高指導者ムハンマド・オマル(2013年に病死)の名義で、IS最高指導者のアブー・バクル・アル=バグダーディー宛に、アフガニスタン紛争への関与を警告する旨の声明を発表した。同年、ISのアフガニスタン支部であるISKPが同国東部で、共和国政府またはタリバーンに同調する「背教者」とする人質を爆殺し、タリバーンは非難声明を出した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "2017年から2018年にかけてジョウズジャーン州ダルザーブ郡の支配権を巡ってISKP-ターリバーン間で激しい戦いが起きた。残虐な振る舞いを理由にタリバーンから追放されたウズベク系のカーリ・ヘクマトとネマットはISに忠誠を誓い、2016年から2018年にかけて地元のタリバーンを駆逐して実権を握っていた。2018年7月初旬、タリバーンは特殊部隊を投入してISKPを撃破。司令官ネマットはタリバーンから逃れるために共和国政府に降伏する事を決定し、生き残ったIS戦闘員は政府軍のヘリコプターで州都シェベルガーンまで運ばれ、手厚くもてなされた。",
"title": "対外関係"
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{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "2021年4月19日、ISPP(イスラム国パキスタン州)はペシャーワルで、タリバーン司令官のナイク・ムハンマド・ラフバルを暗殺した。ラーバーは、ナンガルハール州における対IS作戦を率いてきたターリバーン司令官の1人であり、ナンガルハール州のホギャニ地区で行われた葬式には大勢の地元住民が参列した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "2021年8月16日、タリバーンは制圧したカーブルの刑務所で、過去にISKPの最高指導者を務めていたZiya ul-Haqを含む約150人のIS収監者を処刑した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "2021年8月26日、タリバーンの支配下にあるカーブル国際空港で自爆テロを行い、タリバーン兵28人を含む182人を殺害した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "2021年10月3日、ISKPはカーブルのイードガーモスクで爆弾テロを発生させ、民間人5人を殺害した。同モスクではタリバーン政権の大臣ザビフラ・ムジャヒドが母親の追悼式を行っていた。翌日、タリバーンはカーブルでISホラサン州の隠れ家を襲撃しその場にいた関係者10人を全員殺害した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "デーオバンド派のタリバーンの一部はサラフィー主義者をISの温床と見なして激しく敵視しており、サラフィー主義者の多いアフガニスタン東部ではターリバーンによるものと推測されるサラフィー派の民間人に対する超法規的処刑が横行している。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "2021年9月5日、カーブルでサラフィー主義のウラマー(聖職者)オバイドゥラ・ムタワキルがターリバーンによって殺害された。ムタワキルの教え子の多くはISKPに参加していた。翌日、タリバーンはサラフィー主義のモスクやマドラサを36箇所以上も閉鎖した。",
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"text": "現在、ターリバーンはISKPという名の組織の存在を否定して、単に「裏切り者」「ハワーリジュ派(異端者)」と呼び、一方でISKPはターリバーンに対して米国と取引したことなどを批判し「背教者」と呼んでいる。",
"title": "対外関係"
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] | ターリバーン、タリバーン、タリバンとは、アフガニスタンを実効支配するイスラム教スンナ派(多数派)諸派デーオバンド派のイスラム主義組織である。 指導部はパキスタンのカラチやカイバル・パクトゥンクワ州のデーオバンド派マドラサで宗教教育を受けたパシュトゥーン人が多数を占める。 | {{Otheruses|アフガニスタンのタリバン|その他}}
{{暴力的}}
{{Infobox War Faction
|name = タリバン/タリバーン <br />{{lang|ps|طالبان}}
|war = [[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]]<br />[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]]<br />[[パンジシール紛争]]
|image = [[ファイル:Flag of the Taliban.svg|border|200px]]
|caption = タリバンの旗
|ideology = {{仮リンク|宗教ナショナリズム|en|Religious nationalism}}<br />[[ハナフィー学派|ハナフィー法学]]<br />[[デーオバンド派|デオバンド・イスラム復興運動]]<br />[[イスラム主義]]<br />[[復古主義]]<br />[[反シオニズム]]<br />{{仮リンク|反西洋主義|en|Anti-Western sentiment}}<br />[[排外主義]]<br />[[反共主義]]<br />[[反議会主義|反民主主義]]<br />[[極右]]
|clans = [[パシュトゥーン人]]、[[タジク人]]、[[ウズベク人]]、[[トルクメン人]]、[[ハザーラ人]]
|active = [[1994年]]-現在
|area = [[アフガニスタン]]全土<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210815091720/https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>
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|allies =
[[File:Flag of al-Qaeda.svg|25px]] [[アルカーイダ]]<br />
[[File:Flag of Turkistan Islamic Party.svg|25px]] [[東トルキスタンイスラム運動]]<br />
[[File:Flag of al-Qaeda.svg|25px]] [[ウズベキスタン・イスラム運動]](反ISIL派)<br />[[File:Flag of Tehrik-i-Taliban.svg|25px]] [[パキスタン・ターリバーン運動]]<br />
[[File:Flag of the Jamiat Ulema-e Islam.svg|25px]] <ref>{{cite web|url=https://www.dawn.com/news/1665313/jui-f-to-support-talibans-govt-in-afghanistan-fazlur-rehman|title=JUI-F to support Taliban’s govt in Afghanistan: Fazlur Rehman|access-date=31 December 2021}}</ref><br />
{{flag|Pakistan}}(-2001年)(2021年-)<ref>{{cite web|url=http://web.stanford.edu/group/mappingmilitants/cgi-bin/groups/view/367|title=The Taliban – Mapping Militant Organizations|website=web.stanford.edu|access-date=20 February 2019}}</ref><ref>{{cite news|work=[[New York Times]]|title=Taliban Leader Feared Pakistan Before He Was Killed
|date=9 August 2017|url=https://www.nytimes.com/2017/08/09/world/asia/taliban-leader-feared-pakistan-before-he-was-killed.html}}</ref><br />
{{flag|Saudi Arabia}} (-2013年)<ref>{{cite web|url=https://thediplomat.com/2017/09/whats-behind-saudi-arabias-turn-away-from-the-taliban/|title=What's Behind Saudi Arabia's Turn Away From the Taliban?|first=Samuel Ramani, The|last=Diplomat|website=The Diplomat|accessdate=2021-08-31}}</ref><ref name="Scroll">{{cite web|url=https://scroll.in/article/862284/why-did-saudi-arabia-and-qatar-allies-of-the-us-continue-to-fund-the-taliban-after-the-2001-war|title=Why did Saudi Arabia and Qatar, allies of the US, continue to fund the Taliban after the 2001 war?|work=scroll.in|access-date=19 April 2018}}</ref><br />[[File:Flag of Chechen Republic of Ichkeria.svg|25px]][[チェチェン・イチケリア共和国]]<br />
{{flag|Turkmenistan}}<br />
{{flag|Qatar}}<ref>{{cite web|title=Qatar's Dirty Hands|url=http://www.nationalreview.com/article/450093/qatar-supports-islamists-threatens-american-middle-east-allies|date=3 August 2017|work=[[National Review]]|accessdate=2021-08-31}}</ref><ref>{{cite news|work=[[Pajhwok Afghan News]]|date=7 August 2017|url=https://www.pajhwok.com/en/2017/08/07/saudi-has-evidence-qatar-supports-taliban-envoy|title=Saudi has evidence Qatar supports Taliban: Envoy}}</ref><ref name="Scroll"/><br />
{{flag|Russia}}<br />
{{flag|Iran}}<ref>{{cite news|work=[[Middle East Institute]]|title=Iranian Support for Taliban Alarms Afghan Officials|date=9 January 2017|url=https://www.mei.edu/publications/iranian-support-taliban-alarms-afghan-officials|quote=Both Tehran and the Taliban denied cooperation during the first decade after the US intervention, but the unholy alliance is no longer a secret and the two sides now unapologetically admit and publicize it.}}</ref><ref name="mansouriran">{{Cite web|url=https://foreignpolicy.com/2016/05/27/mullah-mansour-iran-afghanistan-taliban-drone/|title=What Was Mullah Mansour Doing in Iran?|first=Michael|last=Kugelman|accessdate=2021-08-16|date=2016-5-27}}</ref><ref>{{cite web| title =Iran Backs Taliban With Cash and Arms| url =https://www.wsj.com/articles/iran-backs-taliban-with-cash-and-arms-1434065528| website = The Wall Street Journal | date = 11 June 2015| access-date = 13 June 2015}}</ref><br />
{{flag|China}}<ref>{{cite web|url=https://foreignpolicy.com/2015/08/03/chinas-man-in-the-taliban-mullah-omar/ |title=China's Man in the Taliban |last=Small |first=Andrew |date=23 August 2015 |work=[[Foreign Policy]] Argument |access-date=26 July 2019}}</ref><ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/6975934.stm |title=Taleban 'getting Chinese arms' |last=Danahar |first=Paul |date=3 September 2007 |work=[[BBC]] |access-date=26 July 2019}}</ref> <br />
{{flag|Uzbekistan}}<ref>{{cite web| title =Explained Why Uzbekistan Is Helping Taliban-ruled Afghanistan Reconstruct Balkh Airport| url =https://www.rferl.org/a/uzbekistan-taliban-business-relations/31474600.html| website = Radio Free Europe/Radio Liberty | date = 23 September 2021| access-date = 18 November 2021}}</ref><br />{{USA}}<ref>{{cite web| title =Taliban fought IS with 'limited' US military support, US general reveals | url = https://www.france24.com/en/20200310-taliban-fought-is-with-limited-us-military-support-us-general-reveals | date = 3 October 2020| access-date = 3 October 2020}}</ref>(対[[ISKP]]作戦で限定的に協力)
|opponents=
[[File:Flag of Afghanistan (1992–2001).svg|25px]] [[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]] (-2001年)<br />
{{AFG2013}} (2001-2021年)<br />
{{Flagicon|AFG2013}} [[民族抵抗戦線]] (2021年-)<br />
[[File:Flag of Afghanistan (1978).svg|25px]] [[イスラム民族運動|ジュンビッシュ]]<br />
[[File:Flag of Hezbe Wahdat.svg|25px]] [[アフガニスタン・イスラム統一党]]<br />[[File:Flag of Tehrik-i-Taliban.svg|25px]] パキスタン・ターリバーン運動(時折)<br />
[[File:AQMI Flag asymmetric.svg|25px]] [[ISIL|イスラム国]]<br />
[[File:AQMI Flag asymmetric.svg|25px]] [[ISKP|ホラーサーン州]]<br />
{{TJK}}<br />
{{USA}}<br />
{{UK}}<br />
{{OTAN}}<br />
{{AUS}}<br />
{{ISR}}
|website = [http://alemarahenglish.af/ VOICE OF JIHAD]
|partof={{AFG}}
|leader1_title=最高指導者
|leader1_name=[[ムハンマド・オマル]](1994-2015)<br />[[アフタル・ムハンマド・マンスール]]{{KIA}}(2015-2016)<br />[[ハイバトゥラー・アクンザダ]](2016-)
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|leader2_name=[[シラジュディン・ハッカーニ]]<br />[[ムハンマド・ヤクーブ]]<br />[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]
}}
'''ターリバーン'''、'''タリバーン'''<ref>{{Kotobank|タリバーン}}</ref>、'''タリバン'''<ref>{{Kotobank|タリバン}}</ref>({{lang-ps|طالبان}}、{{transl|ps|Ṭālibān}}、{{lang-en|''Taliban''}}または{{lang|en|''Taleban''}}、「'''学生たち'''」または「'''神学生、求道者'''」の意)<ref>{{Cite web|title=Definition of TALIBAN|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/Taliban|accessdate=2021-07-08|website=www.merriam-webster.com}}</ref>とは、[[アフガニスタン]]を実効支配する[[イスラム教]][[スンナ派]](多数派)諸派[[デーオバンド派]]の[[イスラム主義|イスラム主義組織]]である。
指導部はパキスタンの[[カラチ]]や[[カイバル・パクトゥンクワ州]]のデーオバンド派[[マドラサ]]で宗教教育を受けた[[パシュトゥーン人]]が多数を占める。
== 概要 ==
1994年に[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガン内戦]]の有力な派閥の一つとして登場し<ref>{{Cite web|title=The Taliban|url=http://web.stanford.edu/group/mappingmilitants/cgi-bin/groups/view/367|website=Mapping Militant Organizations|publisher=Stanford University|accessdate=5 June 2016}}</ref>、[[マドラサ|伝統的なイスラム教の学校]]で教育を受け、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連・アフガン戦争]]で戦ったアフガニスタン東部・南部の[[パシュトゥーン人|パシュトゥーン]]地域の学生(ターリブ)を中心に構成されていた<ref name="massacreMazar, II2">{{Cite web|url=https://www.hrw.org/reports98/afghan/Afrepor0-01.htm#P81_13959|title=Afghanistan: The massacre in Mazar-i Sharif. (Chapter II: Background)|publisher=[[Human Rights Watch]]|date=November 1998|accessdate=16 December 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081102042606/http://www.hrw.org/reports98/afghan/Afrepor0-01.htm|archivedate=2 November 2008}}</ref><ref name="Raja20162">{{Cite book|last=Masood Ashraf Raja|title=The Religious Right and the Talibanization of America|url=https://books.google.com/books?id=lusgDAAAQBAJ&pg=PA16|date=6 May 2016|publisher=Springer|isbn=978-1-137-58490-8|pages=16–}}</ref>。[[ムハンマド・オマル]]による指導の下、この運動はアフガニスタンの大部分に広がり、抗争に明け暮れていた[[ムジャーヒディーン]]の[[軍閥]]から権力を奪っていった。
1996年には[[アフガニスタン・イスラム首長国]]を建国し、実質的な首都機能を[[カンダハール]]に移した。2001年9月の[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けて同年12月に[[アメリカ合衆国]]がアフガニスタンに侵攻して来るまでの間、ターリバーンは国内のおよそ4分の3の地域を支配していた{{Sfn|Matinuddin|1999|pp=37, 42–43}}。最盛期には、[[パキスタン]]、[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]の3カ国のみがターリバーン政権を正式に認めていた。その後、ターリバーンは反政府運動として再編成され、アメリカの支援を受けたカルザイ政権や[[北大西洋条約機構]](NATO)主導の[[国際治安支援部隊]](ISAF)と[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]で戦った。
ターリバーン政権は、[[シャリーア]](イスラム法)の厳格な[[法解釈]]を施行してきたので、いわゆる西側のキリスト教的・自称「民主主義」的価値観を持つ者たちからは「自国民への人権侵害を行った」と、非難されることがある<ref name="Skain2">{{Cite book|last=Skain|first=Rosemarie|title=The women of Afghanistan under the Taliban|year=2002|publisher=McFarland|isbn=978-0-7864-1090-3|page=41}}</ref>。1996年から2001年までの統治期間中、ターリバーンとその同盟組織はアフガニスタンの民間人に対して「虐殺」を行い、16万人の飢えた民間人に対する[[国際連合]]の食糧供給を拒否し、広範囲の肥沃な土地を焼き、何万もの家屋を破壊する[[焦土作戦]]を行ったという<ref name="Rashid22">{{Cite book|last=Rashid|first=Ahmed|title=Taliban: Islam, Oil and the New Great Game in Central Asia|year=2002|publisher=I.B.Tauris|isbn=978-1-86064-830-4|page=253}}</ref><ref name="Newsday 20012">{{Cite news|url=http://articles.chicagotribune.com/2001-10-12/news/0110120312_1_taliban-fighters-massacres-in-recent-years-mullah-mohammed-omar|title=Taliban massacres outlined for UN|date=October 2001|newspaper=Chicago Tribune|first=Edward A|last=Gargan}}</ref><ref name="papillonsartpalace.com2">{{Cite web|url=http://www.papillonsartpalace.com/massacre.htm|title=Confidential UN report details mass killings of civilian villagers|accessdate=12 October 2001|website=Newsday|year=2001|publisher=newsday.org|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021118162327/http://www.papillonsartpalace.com/massacre.htm|archivedate=18 November 2002}}</ref><ref>{{Citation|url=http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=NewsLibrary&p_multi=APAB&d_place=APAB&p_theme=newslibrary2&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0F8B4F98500EA0F8&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D&s_trackval=GooglePM|title=U.N. says Taliban starving hungry people for military agenda|date=7 January 1998}}</ref><ref>{{Cite book|last=Goodson|first=Larry P.|title=Afghanistan's Endless War: State Failure, Regional Politics and the Rise of the Taliban|url=https://archive.org/details/afghanistansendl00good|year=2002|publisher=University of Washington Press|isbn=978-0-295-98111-6|page=[https://archive.org/details/afghanistansendl00good/page/121 121]}}</ref><ref name="NPR2">{{Cite news|url=https://www.npr.org/programs/morning/features/2002/aug/afghanistan/|publisher=NPR|title=Re-Creating Afghanistan: Returning to Istalif|date=1 August 2002|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131023072254/http://www.npr.org/programs/morning/features/2002/aug/afghanistan/|archivedate=23 October 2013}}</ref>。また、[[凧]]揚げや鳥類飼育などの一部の趣味活動を禁止し、宗教的・民族的少数派を差別した。国連によると、アフガニスタンの民間人犠牲者の76%(2010年)、80%(2011年)、80%(2012年)がターリバーンとその同盟組織によるものであるという<ref>ISAF has participating forces from 39 countries, including all 26 NATO members.</ref><ref name="Skaine2">{{Cite book|last=Skaine|first=Rosemarie|title=Women of Afghanistan in the Post-Taliban Era: How Lives Have Changed and Where They Stand Today|year=2009|publisher=McFarland|isbn=978-0-7864-3792-4|page=41}}</ref><ref name="Shanty12">{{Cite book|last=Shanty|first=Frank|title=The Nexus: International Terrorism and Drug Trafficking from Afghanistan|year=2011|publisher=Praeger|isbn=978-0-313-38521-6|pages=86–88}}</ref><ref name="UNAMA2">{{Cite news|url=http://unama.unmissions.org/Default.aspx?tabid=1783&ctl=Details&mid=1882&ItemID=12602|newspaper=United Nations Assistance Mission in Afghanistan|title=Citing rising death toll, UN urges better protection of Afghan civilians|date=9 March 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110726085402/http://unama.unmissions.org/Default.aspx?tabid=1783&ctl=Details&mid=1882&ItemID=12602|archivedate=26 July 2011}}</ref><ref name="Haddon2">{{Cite news|url=https://news.yahoo.com/afghanistan-marks-10-years-since-war-started-211711851.html|first=Katherine|last=Haddon|title=Afghanistan marks 10 years since war started|agency=Agence France-Presse|date=6 October 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111010055026/http://news.yahoo.com/afghanistan-marks-10-years-since-war-started-211711851.html|archivedate=10 October 2011}}</ref><ref name="The Weekly Standard2">{{Cite news|url=http://www.weeklystandard.com/blogs/taliban-responsible-76-deaths-afghanistan-un|newspaper=The Weekly Standard|title=UN: Taliban Responsible for 76% of Deaths in Afghanistan|date=10 August 2010}}</ref>。ターリバーンは護教政策(西側で言うところの「[[文化浄化]]」政策)にも熱心で、[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群]]を含むいくつかの史跡を破壊してきた<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=oWpuDQAAQBAJ&q=taliban+cultural+genocide&pg=PA1|title=The Concept of Cultural Genocide: An International Law Perspective|last=Novic|first=Elisa|date=13 October 2016|publisher=Oxford University Press|isbn=9780191090912|pages=1|language=en}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=f9--74QwVTcC&q=taliban+cultural+genocide&pg=PA224|title=Genocide: Approaches, Case Studies, and Responses|last=Kinloch|first=Graham Charles|last2=Mohan|first2=Raj P.|date=2005|publisher=Algora Publishing|isbn=9780875863818|pages=220–229, 313–314|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.un.org/press/en/2001/ga9858.doc.htm|title=GENERAL ASSEMBLY 'APPALLED' BY EDICT ON DESTRUCTION OF AFGHAN SHRINES; STRONGLY URGES TALIBAN TO HALT IMPLEMENTATION {{!}} Meetings Coverage and Press Releases|date=9 March 2001|website=www.un.org|publisher=[[The United Nations]]|language=en|accessdate=2 August 2018}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.japantimes.co.jp/opinion/2001/03/09/commentary/world-commentary/cultural-cleansing-exposes-outrageous-methods-of-taliban/|title=Cultural 'cleansing' exposes outrageous methods of Taliban {{!}} The Japan Times|newspaper=The Japan Times|accessdate=2 August 2018|language=en-US}}</ref>。その厳格な法解釈と適用からターリバーンによる政治が教条的あるいは強権支配のように受け止められることがある。とはいえ、腐敗が少なく、最初の政権時に治安を安定させた実績もあって、アフガニスタンではその政治姿勢を支持する者も多い。
[[パキスタン]]の[[軍統合情報局|軍統合情報局(ISI)]]と[[パキスタン軍|軍部]]は、ターリバーンの創設時と政権を握っていた時期に支援を行っていたこと、そして反乱期にも支援を続けていたことが一般に推測されているが、パキスタンは2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、同グループへの支援を全て取り止めたと主張している<ref name="Giraldo2">{{Cite book|last=Giraldo|first=Jeanne K.|title=Terrorism Financing and State Responses: A Comparative Perspective|url=https://archive.org/details/terrorismfinanci00haro|year=2007|publisher=Stanford University Press|isbn=978-0-8047-5566-5|page=[https://archive.org/details/terrorismfinanci00haro/page/96 96]|quote=Pakistan provided military support, including arms, ammunition, fuel, andExtremist organizations serving as proxies of the government of Pakistan are attacking Afghan troops and civilians as well as US soldiers." Mullen continued: "For example, we believe the Haqqani Network—which has long enjoyed the support and protection of the Pakistani government and is, in many ways, a strategic arm of Pakistan's Inter-Services Intelligence Agency—is responsible military advisers, to the Taliban through its Directorate for Inter-Services Intelligence (ISI)}}</ref><ref name="Human Rights Watch-PST2">{{Cite news|url=https://www.hrw.org/reports/2001/afghan2/Afghan0701-02.htm|title=Pakistan's support of the Taliban|publisher=Human Rights Watch|quote=Of all the foreign powers involved in efforts to sustain and manipulate the ongoing fighting [in Afghanistan], Pakistan is distinguished both by the sweep of its objectives and the scale of its efforts, which include soliciting funding for the Taliban, bankrolling Taliban operations, providing diplomatic support as the Taliban's virtual emissaries abroad, arranging training for Taliban fighters, recruiting skilled and unskilled manpower to serve in Taliban armies, planning and directing offensives, providing and facilitating shipments of ammunition and fuel, and ... directly providing combat support.}}</ref><ref name="longwarjournal1-quote2">{{Cite web|first=Thomas|author=Joscelyn|url=http://www.longwarjournal.org/archives/2011/09/admiral_mullen_pakis.php|title=Admiral Mullen: Pakistani ISI sponsoring Haqqani attacks|website=The Long War Journal|quote=During a Senate Armed Services Committee hearing today, Admiral Michael Mullen, the Chairman of the Joint Chiefs of Staff, highlighted the Pakistani Inter-Services Intelligence Agency's role in sponsoring the Haqqani Network – including attacks on American forces in Afghanistan. "The fact remains that the Quetta Shura [Taliban] and the Haqqani Network operate from Pakistan with impunity," Mullen said in his written testimony. " for the September 13th attacks against the U.S. Embassy in Kabul."|date=22 September 2011|accessdate=1 December 2011}}</ref><ref name="Barnes2">{{Cite news|last=Barnes|first=Julian E.|title=Pakistan Urges On Taliban|url=https://www.wsj.com/articles/SB10001424052748704689804575536241251361592|newspaper=The Wall Street Journal|date=5 October 2010|first2=Matthew|author2=Rosenberg|author3=Habib Khan Totakhil|quote=the ISI wants us to kill everyone—policemen, soldiers, engineers, teachers, civilians—just to intimidate people,}}</ref><ref name="nytimes 2008-09-092">[ US attack on Taliban kills 23 in Pakistan], ''[[The New York Times]]'', 9 September 2008</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.washingtonpost.com/world/karzai-criticizes-pakistan-for-supporting-terrorists/2011/10/03/gIQAWABWIL_story.html|title=Karzai accuses Pakistan of supporting terrorists|first=Joshua|author=Partlow|date=3 October 2011|accessdate=21 January 2018}}</ref>。2001年には、[[アルカーイダ]]のリーダーである[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]の指揮下にある2,500人の[[アラブ人]]がターリバーンのために戦ったと言われている<ref name="Ahmed Rashid/The Telegraph2">{{Cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/afghanistan/1340244/Afghanistan-resistance-leader-feared-dead-in-blast.html|title=Afghanistan resistance leader feared dead in blast|publisher=Ahmed Rashid in the Telegraph|location=London|date=11 September 2001}}</ref>。
2021年5月に[[2021年ターリバーン攻勢|攻勢]]を開始し、同年8月15日にはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210815091720/https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。[[アシュラフ・ガニー|ガニー]]政権側も[[アブドゥル・サタール・ミルザクワル]]内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html|title=タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|work=[[朝日新聞デジタル]]|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。8月19日にはメディアを通じてアフガニスタン・イスラム首長国の建国を宣言した<ref>{{Cite web|title=طالبان نے امارات اسلامیہ افغانستان کا اعلان کردیا|url=https://www.samaa.tv/urdu/international/2021/08/2359454/|website=Samaa TV|accessdate=2021-08-19|language=ur}}</ref>。
== 発生と名前の由来 ==
{{出典の明記|date=2021年8月|section=1}}
「ターリバーン」という語は[[アラビア語]]で「[[学生]]」を意味する「ターリブ」({{lang|ar|طالب}})の[[パシュトー語]]における複数形であり、[[イスラム教]][[神学校]]([[マドラサ]])で神学教育・訓練された学生から構成される。厳密には[[イスラム神学]]、[[イスラム哲学]]、[[イスラム法]]を扱うイスラム教神学校において、[[イスラーム過激派]]([[イスラム法学]]および[[法解釈]]を厳格にするべきとする思想・学派)となった学生及びその出身者らによる、[[ジハード]]や宗教的な社会の建設を目指す[[学生運動]]・政治運動ともいえる。
アフガニスタンではソ連(当時)の侵攻にともない、国内において戦乱が続く状態となり、パキスタンへの難民や多くの孤児が発生した。パキスタンの地域社会においても孤児を受入れる余裕がなく、イスラム教寺院などが引取っていった者も多いという。彼らはイスラム教[[神学校]]([[マドラサ]])で学び、その過程で、いわば自然発生的に、現在のような思想や目標を自ら作り上げていったとされる。
ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」(学生)、二人以上なら複数形の「ターリバーン」(学生たち)が用いられる。
== 組織 ==
国旗や国名([[アフガニスタン・イスラム首長国]])を持ち<ref>{{Cite news|title=US-Taliban Afghanistan peace talks in Qatar cancelled|url=https://www.theguardian.com/world/2013/jun/20/afghanistan-talks-taliban-qatar-cancelled|work=The Guardian|date=2013-06-20|accessdate=2019-12-14|issn=0261-3077|language=en-GB|first=Dan Roberts Emma Graham-Harrison in|last=Kabul|last2=agencies}}</ref>、[[統治機構]]のようなものを組織している。基本的にその多くが農村出身者であるため、発想が農村的であり、アフガ二スタンでの反政府闘争時においても、必ずしも都会ではその活動基盤をうまく作り上げることが出来なかったといわれ、政権獲得後の政策においても都市の商工業者と軋轢を来たすことが多いともいわれる。
最高指導者の下に指導者評議会<ref name="毎日20210819">[https://mainichi.jp/articles/20210819/ddm/002/030/135000c 「タリバン 政権準備着々/複数幹部 首都に戻る/アフガン首都制圧後 初の会見」]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年8月19日(国際面)2021年8月23日閲覧</ref>(ラフバリ・シューラ、通称:[[クエッタ・シューラ]])があり、その下に各委員会が設置されている。
指導者評議会は委員会を取りまとめる各委員長と有力な軍事司令官や著名な宗教学者で構成されていると言われている<ref>{{Cite web|title=Analysis: How Are the Taliban Organized?|url=https://www.voanews.com/a/us-afghanistan-troop-withdrawal_analysis-how-are-taliban-organized/6219266.html|website=VOA|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。日本のマスメディアは指導者評議会の構成人数を26人と報じている<ref name="読売202108203">タリバン「密室体制」維持 アフガン 最高評議会に決定権『[[読売新聞]]』朝刊2021年8月20日(国際面)</ref>。
委員会は政府における省庁のような役割を与えられている。委員会は軍事、政治、経済、メディア・文化、公共事業、諜報等、分野別に分けられ、これらを合わせて17<ref name="読売2021082022">タリバン「密室体制」維持 アフガン 最高評議会に決定権『[[読売新聞]]』朝刊2021年8月20日(国際面)</ref>または18<ref>{{Cite web|title=Analysis: How Are the Taliban Organized?|url=https://www.voanews.com/a/us-afghanistan-troop-withdrawal_analysis-how-are-taliban-organized/6219266.html|website=VOA|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>存在する。また、委員会はそれぞれアフガニスタン全国の州・郡・市に各委員会の代表者を設置している<ref>{{Cite web|title=Analysis: How Are the Taliban Organized?|url=https://www.voanews.com/a/us-afghanistan-troop-withdrawal_analysis-how-are-taliban-organized/6219266.html|website=VOA|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。軍事、経済、メディア・文化の3つの委員会は、ターリバーン内で初めて設置された委員会だと言われている<ref>{{Cite web|title=Analysis: How Are the Taliban Organized?|url=https://www.voanews.com/a/us-afghanistan-troop-withdrawal_analysis-how-are-taliban-organized/6219266.html|website=VOA|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。
各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=タリバン {{!}} 国際テロリズム要覧(Web版) {{!}} 公安調査庁|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/taliban.html|website=www.moj.go.jp|accessdate=2019-12-28}}</ref>。なお、州知事と州軍事司令官は軍事委員会から任命される<ref>{{Cite web|title=What Is the Taliban?|url=https://www.cfr.org/backgrounder/taliban-afghanistan|website=Council on Foreign Relations|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。
アフガニスタン紛争中の2012年、中東の[[カタール]]に対外窓口として機能する「{{仮リンク|タリバン政治事務所|en|Taliban in Qatar|label=外交交渉のための政治事務所}}」を設置した<ref name=":43">{{Cite journal|和書|author=登利谷正人 |year=2016 |url=https://doi.org/10.24765/asiadoukou.2016.0_599 |title=2015年のアフガニスタン ターリバーンとISの攻勢拡大により治安が急速に悪化 |journal=アジア動向年報 |ISSN=09151109 |publisher=独立行政法人 日本貿易振興機構アジア経済研究所 |volume=2016 |pages=599-620 |doi=10.24765/asiadoukou.2016.0_599 |naid=40020872572 |CRID=1390576535082610944}}</ref>。
上記の各機関に属する役人は、それぞれの役割を担う専門職集団から形成するものとされている。専門家集団は、イスラムに対する揺るぎない信仰・清廉・有能を兼ね備えなければならない。信仰心及び清廉さと能力が背反する場合、信仰心と清廉さが優先される。これらは、「篤信を欠く専門職は行政を腐敗させ、能力を欠く敬虔は行政を弱体化させる」「無能ではあるが敬虔なる者は行政の役割を果たせないだけだが、有能な悪人は多大なる害悪をもたらす」といったターリバーンの考えに基づいている<ref>{{Cite book|和書|title=ターリバーンの政治思想と組織 -「アフガニスタン・イスラーム首長国とその成功を収めた行政」「ターリバーンの思想の基礎」翻訳・解説 -|date=2018年7月|publisher=現代政治経済研究社|page=18|author=中田考}}</ref>。[[file:Abdul_Ghani_Baradar_-_2020.jpg|thumb|ターリバーンの政治事務所の長だった[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]<ref>{{Cite web|和書|title=謎に包まれたタリバン 3人の副指導者が集団指導|url=https://www.sankei.com/article/20210819-LIFP7JF57VP7VDSBHMISOR5WXI/|website=産経ニュース|date=2021-08-19|accessdate=2021-11-27|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>]][[国際連合]]によるとタリバンの総数は約6万5000人から20万人以上である<ref name=":0" />。2021年の攻勢において傘下の戦闘員は10万人とも報道されている<ref name="読売20210820">タリバン「密室体制」維持 アフガン 最高評議会に決定権『[[読売新聞]]』朝刊2021年8月20日(国際面)</ref>。[[パシュトゥーン人]]だけでなく[[タジク人]]や[[ウズベク人]]、[[トルクメン人]]なども居り、指導部も多様な人種により構成されている<ref name=":0" />。
派閥としてはアフガニスタン東部のペシャーワル派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある<ref name=":0" />。また最強硬派として[[ハッカーニ・ネットワーク]]、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会(HCIEA)などがあると言われている<ref name=":0" />。しかし、ハッカーニ・ネットワークのトップとされてきたシラジュディン・ハッカーニは「イスラムの敵による[[情報戦|偽情報戦]]の一部」と発言し、派閥の存在を否定している<ref>{{Cite web|title=Taliban again affirms Haqqani Network is an integral part of group {{!}} FDD's Long War Journal|url=https://www.longwarjournal.org/archives/2017/06/taliban-again-affirms-haqqani-network-is-an-integral-part-of-group.php|website=www.longwarjournal.org|date=2017-06-02|accessdate=2021-11-25|language=en-US}}</ref>。HCIEAは[[アフタル・ムハンマド・マンスール|マンスール師]]の第2代最高指導者への就任に反対し、ターリバーン内で反乱を起こしたグループであるが、実質的な中心人物となったアブドゥル・マナン・ニアジが戦死し、息子のハーリド・ニアジが[[ハイバトゥラー・アクンザダ|アクンザダ師]]に忠誠を誓ったため事実上崩壊している。
== 幹部 ==
=== 歴代の最高指導者 ===
{| class="wikitable"
|-
! 代
!名前
! 在任期間
|-
|1
|[[ムハンマド・オマル]]
|[[1994年]] - [[2013年]][[4月30日]]
|-
|2
|[[アフタル・ムハンマド・マンスール]]
|[[2013年]][[4月30日]]? - [[2016年]][[5月20日]]? <ref>[https://www.sankei.com/article/20160523-UB7UYWQLY5KO5LYCWGGSXY3QIA/ 複数のタリバン関係者がマンスール師死亡を「確認」][[産経デジタル|産経ニュース]](2016年5月23日)</ref>
|-
|3
|[[ハイバトゥラー・アクンザダ]]
|2016年[[5月25日]] - 現職<ref>{{Cite news |title=アフガンのタリバンが指導者マンスール師の死亡を確認 新指導者にアクンザダ師 |newspaper= 産経ニュース|date=2016-05-25 |author= |url=https://www.sankei.com/article/20160525-CIIZI5ZJRFNMHLJ6PMLF4HR4VI/ |accessdate=2021-08-16}}</ref>
|-
|}
=== 2001年当時のターリバーン政権の主要幹部 ===
各省庁の長である大臣(相)は、管轄する省庁の分野に見識のある者ではなく、内戦で立てた武勲や首長である[[ムハンマド・オマル]]への忠誠心の強さに基づき配属されるケースが多かった。
'''元首'''
*首長 - [[ムッラー]]・[[ムハンマド・オマル]](2013年4月に死亡)
'''内閣'''
1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造
*統治評議会議長(首相) - {{仮リンク|ムハンマド・ラッバーニー|en|Mohammad Rabbani}}(政権崩壊前の2001年4月に病死)
*統治評議会第一副議長(第一副首相) - [[ハッサン・アフンド]]
*統治評議会第二副議長(第二副首相) - {{仮リンク|アブドゥル・カビール|en|Abdul Kabir}}(議長の死去後、2001年11月の政権崩壊まで議長職を代行)
*外相 - アブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル
*内相 - アブドゥル=ラザン・アフンド
*財務相 - アブドゥル=ワサイ・アガジャン・モタセム
*教育相 - [[アミール・ハーン・ムッタキー]]
*国防相 - ムッラー・ハッジ・[[ウバイドゥッラー・アフンド]]
*[[勧善懲悪省|勧善懲悪相]] - ムハンマド・ワーリ
*航空・観光相 - [[アフタル・ムハンマド・マンスール]](2010年にターリバーンのナンバー2に就任、2015年7月に最高指導者に就任。2016年5月死亡)
*通信・労働相 - アフマドゥッラー・モティ
*情報・文化相 - クトラドゥッラー・ジャマール
*保健相 - ムッラー・ムハンマド・アッバース・アフンド
*司法相 - ムッラー・[[ヌールディン・トゥラビ]]
*軽工業相・食糧相 - ハムドラ・ザーヒド
*鉱工業相 - ムハンマド・イーサー・アフンド
*農業・動物管理相 - アブドゥル=ラティーフ・マンスール
*巡礼寄進相 - サイード・ギアスディン・アガー
*計画相 - サドルッディーン・サイード
*貿易相 - アブドゥル・ラッザーク
*難民相 - アブドゥル・ラキブ
*国境・部族問題相 - {{仮リンク|ジャラールッディーン・ハッカーニー|en|Jalaluddin Haqqani}}
*兵站相 - ヤル・ムハンマド
*保安相 - ムハンマド・ファーズィル
*高等教育相 - カリ・ディーン・ムハンマド
'''その他主要幹部'''
*治安担当内務次官 - アブドゥル=サマード・ハクサル
*中央軍司令官 - ムラー・アブドゥル・ラウフ
*情報文化次官 - アブドゥル=ラフマーン・ハタック
*国防次官 - [[アブドゥル・ガニ・バラダル]]
*最高裁判所長官 - ヌールー・ムハンマド・サキーブ
*アフガニスタン[[中央銀行]]総裁 - [[ムッラー]]・ハッジ・アフマディー
*駐国際連合使節{{efn|ターリバーン政権は国際連合でのアフガニスタン政府としての代表権を主張したが、国際連合は旧政権の北部同盟にアフガンの代表権を引き続き与えたため、ターリバーンは使節(正式な大使ではない)という形式で国連に代表を派遣した。}} - アブドゥル=ハキーム・ムジャーヒド
*欧州連合代表 - ラフマトゥッラー・サフィ
*駐パキスタン大使 - [[アブドゥル=サラーム・ザイーフ]]
*アフガニスタン[[赤新月社]]総裁 - マウラヴィ・エスマトゥッラー・アセム
*アフガニスタン・オリンピック委員会委員長 - マウラヴィ・カラムッディン
=== 2021年のタリバーン暫定政権の主要幹部<ref>{{Cite web|title=Taliban Announces Head of State, Acting Ministers|url=https://tolonews.com/afghanistan-174556|website=TOLOnews|accessdate=2021-09-07|language=en}}</ref> ===
2021年9月7日発表・9月21日追加発表・10月4日追加発表
*首相代行 - ムッラー・[[ハッサン・アフンド|ムハンマド・ハッサン・アフンド]](元・第一副首相、創設メンバー)
*第一副首相代行 - ムッラー・[[アブドゥル・ガニ・バラダル]](副指導者、創設メンバー、元・国防副大臣)
*第二副首相代行 - マウラウィー・[[アブドゥル・サラム・ハナフィー]]([[ウズベク人]]聖職者、元・教育副大臣)
*第三副首相代行 - アブドゥル・カビール(元・首相代行・第二副首相)
*国防大臣代行 - ムッラー・[[ムハンマド・ヤクーブ]](副指導者、ムハンマド・オマルの子)
*内務大臣代行 - [[シラジュディン・ハッカーニ]](副指導者、ジャラールッディーン・ハッカニの子)
*外務大臣代行 - [[アミール・ハーン・ムッタキー]](元・情報文化相・教育相)
*財務大臣代行 - ムラー・ヘダヤトゥッラー・バドリ
*教育大臣代行 - [[シャイフ]]・マウラウィー・ヌールラ・ムニル
*情報・文化大臣代行 - ムッラー・ハイルッラー・ハイルハワー(元・内相)
*経済大臣代行 - カーリ・ディン・ハニフ([[タジク人]]、元・計画相・高等教育相)
*巡礼寄進大臣代行 - マウラウィー・マウラウィー・ムハンマド・サキブ
*法務大臣代行 - [[アブドゥル・ハキム・イシャクザイ|マウラウィー・アブドゥル・ハキム・シャリー]]
*国境・部族問題担当大臣代行 - ムッラー・ヌールラ・ヌーリ(元・バルフ州知事)
*地方リハビリテーション・開発大臣代行 - ムッラー・ムハンマド・ユーヌス・アクンザダ
*公共事業大臣代行- ムッラー・アブドゥル・マナン・オマリ
*鉱物石油大臣代行 - ムッラー・ムハンマド・エサ・アホンド
*水エネルギー大臣代行 -ムッラー・アブドゥル・ラティフ・マンスール(元・農相)
*民間航空・運輸大臣代行 - ムッラー・ハミドゥラ・アクンザダ
*高等教育大臣代行 - アブドゥル・バキ・ハッカーニ
*電気・通信大臣代行 - ナジブッラー・ハッカーニ
*難民大臣代行 - カリル・ユア・ラーマン・ハッカーニ
*[[勧善懲悪省|勧善懲悪]]大臣代行 - {{仮リンク|ムハンマド・ハーリド・ハナフィ―|en|sheikh muhammad khalid}}
*公共保健大臣代行 - カランダル・イバド
*商業・産業大臣代行 - ヌールッディン・アジジ(タジク人、非タリバーン)
*農業・畜産大臣代行 - アブドゥル・ラハマン・ラシド
*殉教者・障害者問題担当大臣代行 - アブドゥル・マジッド・アフンド
*官房長官代行 - アフマド・ヤン・アフマディー
*情報局長官代行 - アブドゥル・ハク・ワシク
*中央銀行総裁代行 - ハジ・ムハンマド・イドリス
*国防副大臣代行 - ムッラー・ムハンマド・ファズィル
*内務副大臣代行 - マウラウィー・ヌール・ジャラル
*外務副大臣代行 - [[シェール・モハンマド・アッバス・スタネクザイ|モハンマド・アッバース・スタネクザイ]](前・カタール政治事務所代表、元・公共保健副大臣)
*情報・文化副大臣代行 - [[ザビフラ・ムジャヒド]](タリバーン報道官)
*公共保健副大臣代行 - モハンマド・ハッサン・ギアシ(ハザラ人、非タリバーン)
*陸軍幕僚長 - カーリ・ファシフディン(タジク人)
*国連大使 - [[スハイル・シャヒーン]](タリバーン報道官、元・駐パキスタン大使館首席公使)
== 歴史 ==
=== 1990年代前半 ===
==== 背景 ====
1990年代初頭、アフガニスタンはムジャーヒディーンの軍閥によって領地ごとに分裂し、互いに同盟、裏切りを繰り返す激しい内戦の最中であった。[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー|ラッバーニー]]大統領や[[アフマド・シャー・マスード|マスード]]を中心とするジャミアテ・イスラミのタジク人政権は首都カーブルと国内の北西部を支配し、ヘラート等の西部三州もジャミアテ・イスラミと深い繋がりを持つタジク人軍閥の[[イスマーイール・ハーン]]によって支配されていた。東部パキスタン国境地帯はジャララバードを拠点とするジャラルディン・ハッカニ等のパシュトゥーン人軍閥の評議会の手中にあった。また、南部の限られた地域とカーブルの東側はパシュトゥーン人の[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]が支配していた。後にタリバン発祥の地となるカンダハールを中心とするアフガニスタン南部の大半は、何十もの旧ムジャーヒディーン軍閥や強盗集団によって分割支配され荒廃していた。カンダハールを支配する数多の武装グループは、活動の資金源になるものは何でも奪った。電話線を引きちぎり、木を切り倒し、工場の機械や道路用のローラーまでもスクラップにしてパキスタンの商人に売った。軍閥は家々や農場に押し入り、住民を強制退去させ支持者達の手に渡した。司令官らは住民を思いのままに虐待し、少女や[[バッチャ・バーズィー|少年を誘拐して性欲を満たした]]。[[バザール]]の商人から品物を強奪し、街中で武装グループ同士の喧嘩による銃撃戦が頻繁に発生した。カンダハールの住民の大部分を構成するパシュトゥーン人は、隣国パキスタンの[[クエッタ]]などの同じくパシュトゥーン人が多数派を占める都市に[[難民]]として脱出し始めた<ref>{{Cite book|和書|title=タリバン: イスラム原理主義の戦士たち|date=2000年10月20日|publisher=講談社|pages=52-54|author=アハメド・ラシッド}}</ref>。
==== 誕生 ====
{{節スタブ}}
ターリバーンによると、ムハンマド・オマルが20人の同志とともに運動を始めたという。またターリバーン隊士が[[イスラム教]]の聖典『[[クルアーン]]』を学んだ場所は、国境付近の難民キャンプの教員が整っていないムハンマド・オマルの開いた神学校であった。この神学校出身者が、結集時のターリバーン隊士になる。
彼らが蜂起したきっかけは軍閥が二人の少女を誘拐したことへの抗議活動であった。彼らは無事少女たちを解放し、この出来事から地元住民らから正義の味方として扱われた。
==== 発展 ====
{{節スタブ}}
{{see|アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)}}
内戦が続くアフガニスタンにおいて、ターリバーンは1994年頃から台頭し始めた。彼らはイスラム神学校(マドラサ)の学生たちが中心であり、ターリバーンが快進撃を続け、軍閥を追い散らし、治安を安定させ秩序を回復するようになったので、住民たちは当初ターリバーンを歓迎した。当時、アフガン市民たちは、長年にわたる内戦とそれに伴う無法状態、軍閥たちによる暴行、略奪などにうんざりし、絶望感を抱いていたため、治安を回復するターリバーンの活躍に期待した。しかしその後、ターリバーンがイスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちはターリバーンに失望するようになった<ref name="ReferenceA">進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社 ISBN 9784763405302</ref>。
1998年にターリバーンが[[マザーリシャリーフ]]を制圧した際に、住民の大虐殺を行った。この[[虐殺]]は、前年5月にマザーリシャリーフで起こったターリバーン兵大量殺害に対する報復<ref>窪田朋子「アフガニスタンにおける周縁民族の統合過程――ハザーラ人を事例に」『アフガニスタン国家再建への展望』鈴木均編([[明石書店]]、2007年)277頁 ISBN 475032549X</ref> でもあるのだが、マザーリシャリーフはアフガニスタンの少数民族であるウズベク人やハザーラ人が大きな割合を占め、ターリバーンはこれらの少数民族、特にハザーラ人に対し虐殺を行ったことから、ターリバーンがパシュトゥン人からなり、パシュトゥーン民族運動の性格を併せ持つことを示すエピソードとなったと指摘されている<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)18-19頁 ISBN 9784763405302</ref>。
==== 外国の関与 ====
ターリバーンは、軍事面および資金面で[[パキスタン軍]]の[[情報機関|諜報機関]]であるISI([[軍統合情報局]])を通してCIAの支援を受けていた。特にISI長官を務めた{{仮リンク|ハミド・グル|en|Hamid Gul}}と深く関わり、アメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助をもらっていたという<ref>{{cite news |url=https://www.dw.com/en/the-godfather-of-the-taliban-hamid-gul-and-his-legacy/a-18652103 |newspaper=[[ドイチェ・ヴェレ]] |title=The godfather of the Taliban: Hamid Gul and his legacy |date=2015-08-16 |accessdate=2019-07-04 }}</ref>。アメリカが国際連合にハミド・グルのテロリスト指定を迫った際はパキスタンの友好国の[[中華人民共和国]]が[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を行使している<ref>"Hamid Gul & LeT's Chachu may get official terrorist tag". The Economic Times. 6 December 2008.</ref><ref>{{cite news |url=https://www.aljazeera.com/focus/2010/02/20102176529736333.html |newspaper=[[アルジャジーラ]] |title=Hamid Gul: Taliban is the future |date=2010-02-17 |accessdate=2019-07-04 }}</ref>。
パキスタン軍にとり、敵対する[[インド]]との対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった<ref name="名前なし-3">進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)39頁 ISBN 9784763405302</ref>。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという<ref name="名前なし-4">進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)39-41頁 ISBN 9784763405302</ref>。このためそうした要件を満たすターリバーンがパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの[[傀儡政権]]が成立することは、[[中央アジア]]における貿易やアフガニスタン経由の[[パイプライン輸送|パイプライン]]を独占するという思惑、またインドとの[[カシミール紛争]]で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。
[[1997年]]にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。[[2000年]]の第二次[[タロカン]]攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個[[旅団]]以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため[[2000年]][[12月]]には[[コフィー・アナン]][[国際連合事務総長|国連事務総長]]がパキスタンを非難する事態となった。
また、1990年代半ばには[[サウジアラビア総合情報庁]]もパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており<ref name="名前なし-5">[http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Mid_e/Afghan/doko/001.html アフガニスタン ムシャラフ辞任後のパキスタン混迷化] [[日本貿易振興機構|JETRO]]新領域研究センター 研究員[[鈴木均]]論文</ref>、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。
また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカの[[ユノカル]]社が[[中央アジア]]の[[石油]]・[[天然ガス]]をアフガニスタンを経由した[[パイプライン輸送|パイプライン]]で[[インド洋]]に輸送することを計画していたが、これは[[ロシア]]や[[イラン]]を避けるルートを取っており、米国政府としては好都合であり、このパイプライン建設計画を支持した。このパイプライン計画実現のためにはアフガニスタンの安定が前提条件であり、米国はターリバーンによるアフガニスタン支配に関心を示した<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)43頁 ISBN 9784763405302</ref>。[[アメリカ合衆国議会]]関係者や[[アメリカ合衆国国務省]]関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。
1996年9月にターリバーンが首都カーブルを制圧し、ナジブラ元大統領を処刑した際、アメリカ国務省の報道官はターリバーンの行為を非難せず、むしろターリバーンによる安定化への期待を示すなどアメリカ政府のターリバーン寄りの姿勢を示した<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)43-44頁 ISBN 9784763405302</ref>。
ターリバーンによる首都カーブル制圧後、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月には[[マデレーン・オルブライト]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件]]が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強めていった<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)44-46頁 ISBN 9784763405302</ref>。
[[1999年]][[12月]]、[[カシミール]]の独立を目指す[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]によりインド航空機がハイジャックされ、アフガニスタンのターリバーンの本拠地だったカンダハルで着陸し、ハイジャックされた飛行機の乗客乗員155人を人質に立てこもる事件があった([[インディアン航空814便ハイジャック事件]])。その際に、ムタワッキル外相などターリバーン政権幹部の仲介により、インド当局が獄中にいるイスラム過激派(カシミール独立派)の幹部3人を釈放する代わりに乗員155人が解放された。国際的に孤立を深めるタリバン政権が、テロリストの釈放と引き換えにとはいえ、周辺国と連携して人質解放に尽力したことで、[[日本]]国内でも、国際社会もターリバーン政権を[[イスラム原理主義]]勢力として単純に敵視するのではなく、歩み寄りを行ってもよいのではないかとする論調があった<ref>『読売新聞』2000年1月5日6面</ref>。また、これにはイスラム過激派支援集団とみなされていたタリバーン側の国際社会での汚名返上の思惑もあった。
=== 1990年代後半 ===
==== 政権掌握 ====
[[File:1996afghan.png|thumb|200px|1996年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が[[アフマド・シャー・マスード]]軍、緑の部分が[[ラシッド・ドスタム]]軍、黄色の部分がターリバーンの支配地域。]]
ターリバーンは1996年9月に首都[[カーブル]]を制圧し、国連施設に幽閉されていた[[アフガニスタン民主共和国|共産政権時代]]の元大統領[[ムハンマド・ナジーブッラー]]を引きずりだして[[公開処刑]]した。カーブル制圧後、'''「[[アフガニスタン・イスラム首長国]]」'''を建国したが、すぐにはどの国からも承認されなかった。1997年5月にターリバーンが北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧したのを受け、パキスタンが世界で初めて[[国家の承認#政府承認|政府承認]]し、すぐに[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]が続いた。この三カ国以外からは承認されることはなかった<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)17頁 ISBN 9784763405302</ref>。国際連合の代表権は[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]を大統領とする[[アフガニスタン・イスラム国]]が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下に置いた。
==== ターリバーンの国内支配 ====
しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなど[[イスラム主義]]に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の[[部族]]掟「[[パシュトゥーンワーリ]]」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。例えば、ターリバーンは殺人を犯した者に対しその犠牲者の遺族による公開処刑を行ったが、これはイスラム法に基づくというより、パシュトゥーンワーリに基づくものである<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)31、34-35頁 ISBN 9784763405302</ref>。
また、[[アルカーイダ]]と接近してからは、その過激主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガニスタン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。
==== 政策 ====
ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動を行なった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口であり、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。
また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、親族男性を伴わなければ外出さえも認められなかった。外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった。
彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。
==== 政 ====
[[1996年]]、ターリバーン政権は[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]とアルカーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の[[反米]]テロの黒幕と推定されており、また[[イスラム世界|イスラム諸国]]からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。
[[アメリカ合衆国大統領]][[ビル・クリントン]]はターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。
1997年5月から、ターリバーンは[[ラシッド・ドスタム|アブドゥルラシード・ドーストム]]派の拠点であった[[マザーリシャリーフ]]を攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。
1998年8月7日、[[タンザニア]]と[[ケニア]]にあった[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館が爆破される事件]]が起きた(前述)。この攻撃をうけてアメリカは報復として[[スーダン]]の[[ハルツーム]]にあった化学工場と、アフガニスタン国内のアルカーイダの訓練キャンプを[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]][[巡航ミサイル]]で攻撃した。
8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上の[[ハザーラ人]]市民が殺害され、[[イラン]]総領事館の[[外交官]]10人と[[ジャーナリスト]]が殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯に[[イラン・イスラム共和国軍|イラン軍]]が集結する事態となった。
1998年9月、サウジアラビアはアフガニスタン臨時代理大使の国外退去を求め、かつ、自国の在アフガニスタン臨時代理大使を召還させ、事実上ターリバーンと断交した。これはケニアとタンザニアのテロ事件の首謀者と見られたウサーマ・ビン・ラーディンの扱いをめぐる対立が原因であったといわれている<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)47-48頁 ISBN 9784763405302</ref>。
1999年、[[国際連合安全保障理事会]]においてテロ行為の防止を目的とする[[国際連合安全保障理事会決議1267]]<ref>[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/terro/anpo_1267.html 安保理決議1267(訳文)][[日本国外務省]]</ref> が採択され、ターリバーン政権に対しビン・ラーディンとアルカーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には[[経済制裁]]が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。
=== 2000年代前半 ===
[[File:Taller Buddha of Bamiyan before and after destruction.jpg|thumb|right|爆破された[[石窟]]の[[仏陀]]の像]]
2000年10月、アルカーイダはアメリカの[[ミサイル駆逐艦]][[コール (ミサイル駆逐艦)|コール]]に自爆テロ攻撃を行った([[米艦コール襲撃事件]])。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた[[国際連合安全保障理事会決議1333]]<ref name="ketsugi1333">[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/terro/anpo_1333.html 安保理決議1333(訳文)]日本国外務省</ref> が採択された。
2001年2月26日、ターリバーン政権は、紛争続きのアフガニスタンにあって、それまで徐々に壊れていた[[バーミヤーン]]にある[[石窟]]の[[仏陀]]の像([[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群]])を、ターリバーンが最終的に、爆弾を用いてこれらを徹底的に破壊。しかし、この行為に対しては、非イスラム圏のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった。支持した者は、ごく少数にとどまった。
イランの映画監督[[モフセン・マフマルバフ]]は、著書『[[アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ]]』の中で、大仏の破壊を大きく取り上げた欧米のメディアを批判した(詳しくは[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群#脚注|脚注]]参照)。
[[2001年]][[9月11日]]、[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと[[有志連合]]諸国は[[国際連合安全保障理事会決議1368]]による[[自衛権]]の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。その後政権は崩壊し解散した。一連の北部同盟の進撃の中で、ターリバーンは{{仮リンク|ダシュテ・ライリ虐殺|en|Dasht-i-Leili massacre}}によって数百から数千人規模の戦闘員を失った。
しかし[[クンドゥーズ包囲戦]]のように包囲されてもパキスタンの飛行機で脱出するなどして、[[ムハンマド・オマル]]をはじめとする指導部の多くは失われず、2003年以降、アフガニスタン南部及びパキスタンの[[連邦直轄部族地域|トライバルエリア]]、[[ワズィーリスターン]]を根拠地に勢力を回復した。
{{main|アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)}}
==== 穏健派タリバン(タリバーン) ====
タリバーンには、主に[[アブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル]]元外相や[[アブドゥルサマド・ハクサル]]元内務次官らで構成されるいわゆる「穏健派タリバン」と呼ばれる勢力も存在する。彼らは[[武装闘争]]を放棄し、政治的な方法、すなわち選挙への参加を通じた議会進出によってターリバーンの掲げた理想の実現を図ろうと考えている。ハクサルやムタワッキルが中心となって潜伏している元メンバーや武装闘争を続ける仲間に投降を促すなどして、議会選挙参加を呼びかけた。アフガニスタン政府も同じパシュトゥーン人であるカルザイ大統領がこの動きを歓迎して後押ししたが、かつてターリバーンと戦った旧北部同盟勢力などが「ターリバーンの復権につながる」と猛反発した。また、ターリバーン側でも穏健派を裏切り者だとして暗殺をほのめかした。
2005年の議会選挙では、ムタワッキルやハクサルらは落選したものの、元ターリバーンの中でもムラー・アブドゥル・サラム・ロケッティ元司令官やムハンマド・イスラーム・ムハンマディ元バーミヤン州知事のように下院議員に当選した人物もいる。モハマディ議員は2007年1月に、ハクサル元次官は2006年1月に暗殺された。このようにターリバーンと袂を分かち、当時の[[ハーミド・カルザイ]]政権に協力することは容易ではない状況にあった<ref>進藤雄介『新生ターリバーン(タリバーン)の復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)151-153頁 ISBN 9784763405302</ref>。
=== 2000年代後半 ===
{{See|ワジリスタン紛争}}
タリバーンは2006年から南部・南東部・東部を中心に攻撃を増加させ<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2007/html/h2/h2_81.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24|title=平成19年版 外交青書 - 第2章 地域別に見た外交|publisher=}}</ref>、2007年も手を休めなかった<ref>{{Cite web|和書|title=3.アフガニスタン {{!}} 【各論】 {{!}} 第6節 中東と北アフリカ {{!}} 第2章 {{!}} 外交青書08本編|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2008/html/h2/h2_24.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。そのため2008年にはアフガンスタンの治安は著しく悪化した。またタリバーンは南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でも攻撃を行った<ref>{{Cite web|和書|title=第6節 中東と北アフリカ(4/8) {{!}} 第2章 {{!}} 外交青書09本編|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2009/html/h2/h2_24.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。2009年、タリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加」し、[[即席爆発装置]](IED)による攻撃を急増させた<ref name=":42">{{Cite web|和書|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2.アフガニスタン/外交青書2010(HTML)目次|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2010/html/chapter2/chapter2_06_02.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。
有志連合諸国も反撃を行い、2006年から[[国際治安支援部隊]](ISAF)をアフガニスタン全土に展開させ<ref name=":2" />、[[チョーラの戦い]](ウルズガーン州)や[[パース作戦]](ウルズガーン州)などを行った。また2008年の[[ワナトの戦い]]の結果などを受けて2009年にはアメリカ軍を倍増させ<ref name=":92">{{Cite web|和書|title=オバマ米大統領、アフガニスタンへ支援部隊1万3000人追加増派|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2652300|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja|publisher=[[フランス通信社]]|date=2009-10-13}}</ref>、[[オカブ作戦]](クンドゥーズ州)や[[カカラクの戦い]](ウズルガーン州)などを行った。
[[File:Pakistan and Waziristan.PNG|250px|thumb|タリバーンが活動している[[ワジリスタン]]地域]]
しかしタリバンは2006年中にはアフガニスタン南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のパキスタン政府が深く関与していると見る向きが強く、同年末には[[アフガニスタン暫定行政政府]]の大統領ハーミド・カルザイがパキスタンを名指しで非難する事態に至った。国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等で[[ケシ]]栽培を禁じられた、あるいは多国籍軍の攻撃で民間人が死亡したなどの理由により、とりわけパシュトゥーン人の間などで、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっているという<ref name="ReferenceA" />。
一方、アフガニスタンから逃れてきたターリバーンの影響を受け、パキスタン国内でも過激化した武装勢力(パキスタン・ターリバーン)が誕生した。パキスタン・ターリバーンはアフガニスタンのタリバーンとは別物であり、米軍への攻撃に加え、米国を支援するパキスタン政府に対するジハードも目的としている<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)221-222頁 ISBN 9784763405302</ref>。2007年12月には、ターリバーンを支持するパキスタン人の武装勢力を統合する目的で、パキスタン国内の13のターリバーン系組織が合体して[[パキスタン・ターリバーン運動]]が発足した。発足時の最高指導者は[[バイトゥッラー・マフスード]]。パキスタン国内ではパキスタン・ターリバーン運動がアメリカ軍による最大の打倒目標になっている([[ワジリスタン紛争]])。
アフガニスタン南部ではタリバーンが独自の知事や裁判所を設置して完全な支配下に置いている地域がある。[[ヴァルダク州]]ではタリバーン独自の州知事、軍司令官、[[シャリーア]]法廷の設置やカーディー(シャリーア法廷の裁判長)を任命し、道路税などの税金の徴収、徴兵、学校の閉鎖やマドラサでの教育の強制、シャリーアに基づく刑罰の執行などを行い、完全にタリバーンの統治下にある。[[ローガル州]]のバラキー・バラク地区はタリバーンによる制圧後、床屋で髭を剃ることとテレビの視聴を禁じ、従わないものは「異教徒と外国人のスパイ」とみなすと住民に脅迫したという。[[ヘルマンド州]]の大部分も中央政府の支配が及ばず、タリバーンの影響下にあり、地元部族長によれば住民も政府を頼りにするのではなく、ターリバーンの"政府"を頼り、90%の住民がカルザイ政権ではなくタリバーンを支持しているという<ref>http://www.newsvine.com/_news/2008/12/27/2250565-as-taliban-nears-kabul-shadow-govt-takes-hold</ref>。
また、再起したタリバンは自爆テロや市街地での無差別テロなど[[イラク戦争]]で反米武装勢力が用いた戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。またこれらの自爆テロでは米軍の空爆で手足を欠損した[[身体障害者]]が6割に上るという調査結果が遺体検分に当たった[[カーブル大学]]により2008年明らかにされている<ref>『毎日新聞』朝刊2008年10月20日1面</ref>。
[[:en:David Swanson|デビッド・スワンソン]]は、アフガニスタン国内での米軍の軍需物資の輸送のための運輸業者への支払いが、タリバーン勢力の資金源となっていると主張している<ref name="david-swanson1">http://www.zcommunications.org/six-facts-no-war-supporter-knows-by-david-swanson</ref><ref>http://www.globalsecurity.org/military/library/congress/2010_rpt/warlord-inc_100622.htm</ref>。
==== 日本人拉致殺人事件 ====
{{Main|アフガニスタン日本人拉致事件}}
*[[非政府組織|NGO]]ボランティアで働いていた[[日本人]]が[[2008年]][[8月26日]]に拉致され殺害される事件が発生。タリバーン広報官は拉致について関与を認め、NHKに対して「たとえ復興支援が目的であっても、アメリカに協力して、アフガニスタンを訪れる外国人はすべて敵だ」と語った。タリバーンはこの他にも多くの外国人NGO関係者の殺害に関与しているとされる。NHK論説委員[[山内聡彦]]の解説によれば、援助関係者を標的にすることでアフガニスタンの復興支援を妨害し、自分たちの武装闘争を有利に運ぶ狙いがある<ref>[[時論公論]][http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/11072.html 「アフガニスタン 日本人誘拐の背景」]NHK解説委員室[[ブログ]](2008年08月27日付記事)</ref>。
*日本は[[テロ対策特別措置法]](時限立法)に基づいて[[インド洋]]において給油活動([[自衛隊インド洋派遣]])を行なっているが、上記NGO職員殺害事件の結果、2008年10月にこれを延長することへの影響が懸念された。
=== 2010年代前半 ===
2011年5月、アメリカ軍がパキスタンで[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ビン・ラーディン]]を殺害した([[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]])<ref name="cnn.com">[http://www.cnn.com./2011/WORLD/asiapcf/05/01/bin.laden.obit/index.html?hpt=T1&iref=BN1 Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT]</ref>。
=== 2010年代後半 ===
2015年1月、過激派組織[[ISIL|IS]](イスラミック・ステート)がKhorasan Province(ホラサン州)の設置を宣言し、最高指導者としてハーフェズ・サイード・ハーンを任命した<ref name=":43"/>。ハーフェズは[[パキスタン・ターリバーン運動]]の元幹部である。4月、イスラム国とターリバーンはお互いに対するジハードを宣言した<ref name=":43" />。5月、[[ナンガルハール州]]や[[ファラー州]]でISKPとタリバーンの武力衝突が起き<ref name=":43" />、ナンガルハール州の戦いは6月も続いた<ref name=":43" />。同月、ターリバーンの最高指導者[[ムハンマド・オマル]]はイスラム国の最高指導者[[アブー・バクル・アル=バグダーディー|バグダーディー]]に書簡を送ったが戦闘は止まらなかった<ref name=":43" />。7月、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティヤール]]派がイスラム国への支持を表明した<ref name=":43" />。
2015年5月、[[中華人民共和国]]の[[新疆ウイグル自治区]]の首都[[ウルムチ]]でターリバーンの代表3名(アブドゥル・ジャリル、アブドゥル・ラザク、ハッサン・ラフマニ)とアフガニスタン政府のマスーム・スタネクザイ大統領顧問による秘密協議が行われたと報じられた<ref>{{cite news|title=Secret Taliban peace talks in China criticized|url=https://www.dw.com/en/secret-taliban-peace-talks-in-china-criticized/a-18478201 |publisher=[[ドイチェ・ヴェレ]] |access-date=2021-08-31 |date=2015-05-27}}</ref><ref>{{cite news|title=Taliban and Afghan Peace Officials Have Secret Talks in China|url=https://www.nytimes.com/2015/05/26/world/asia/taliban-and-afghan-peace-officials-have-secret-talks-in-china.html |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |access-date=2021-08-31 |date=2015-05-25}}</ref>。前年の2014年にはタリバーンの代表団が訪中したと報じられていた<ref>{{cite news|title=Exploring a New Role: Peacemaker in Afghanistan|url=https://www.nytimes.com/2015/01/14/world/asia/exploring-a-new-role-peacemaker-in-afghanistan.html?_r=0 |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |access-date=2021-08-31 |date=2015-01-14}}</ref>。
2015年7月、パキスタンの[[イスラマバード]]でタリバーンとアフガニスタン政府の初の公式和平協議が開催され、オブザーバーとして中国とアメリカも参加した<ref name="reuters2015" />。旧ターリバーンの最高指導者[[ムハンマド・オマル]]はラマダン明けの声明で「武力によるジハードと同時に、神聖な目標達成のための政治的努力や平和的な道を探ることは正当なイスラムの信条であり、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の政見の不可欠な要素だ」と述べ、和平協議に肯定的な態度を示した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバンのオマル師が和平交渉の正当性を表明 「政治努力は不可欠」|url=https://www.sankei.com/article/20150715-5UYSQPTXOBLUFLRXQM5DOGL4EE/|website=産経ニュース|accessdate=2019-12-30|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC|publisher=|date=2015-07-15}}</ref>。そのため第二回の和平協議は中国で行われる予定だった<ref>{{Cite web|和書|title=アフガンへ影響力強める中国、タリバーンとの和平協議、30日に中国で開催|url=https://www.sankei.com/article/20150724-M6PZT5OHGJM2TPN6VSRDIZD4YY/|website=産経ニュース|accessdate=2019-12-30|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC|publisher=|date=2015-07-24}}</ref>。ところがその直後オマルが2013年に病死していたことが明らかとなり交渉は無期限延期になった<ref>{{Cite web|和書|title=オマル師死亡 タリバンも認める 世界欺き死後2年も「偽声明」 後継は序列2位|url=https://www.sankei.com/article/20150730-FTT5YKAGGBMWXNRX2KPKSDLVUE/|website=産経ニュース|accessdate=2019-12-30|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC|publisher=|date=2015-07-30}}</ref>。一説によるとオマルの病死説は以前から浮上していたがタリバーンやアフガニスタン政府、交渉を仲介したパキスタン政府、アメリカ合衆国や中華人民共和国にとっては生存説の方が都合が良かったため誰も追及しなかった。しかしタリバーン内の和平協議反対派がオマルの病死に気づいた為、7月下旬にオマルの息子のムハンマド・ヤクーブが幹部をクエッタのマドラサに集めて病死を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=「オマル師死去」で大困惑する中国 タリバンは分裂不可避か|url=https://www.huffingtonpost.jp/foresight/mohammed-omar_b_8041244.html|website=[[ハフポスト]]|date=2015-08-27|accessdate=2019-12-30|language=ja}}</ref>。7月末、2010年から最高指導者を代行していた[[アフタル・ムハンマド・マンスール]]が最高指導者に指名され、[[ジャラールッディーン・ハッカーニー]]が副指導者に指名された。しかし反対派はムハンマド・ヤクーブの最高指導者就任を求めて納得せず<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン内に亀裂 最高指導者死亡 アフガン和平協議、頓挫も 「ISIL」への流出懸念|url=https://www.sankei.com/article/20150802-Q2AV52PHABMCPLHKTZAYV5PIXY/|website=産経ニュース|accessdate=2019-12-30|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC|publisher=|date=2015-08-02}}</ref>、アフガニスタン北東部の[[クンドゥーズ州]]や西部の[[ヘラート州]]、南部の[[ザーブル州|ザブール州]]などで武力衝突が起きた。一方、アルカーイダはアフタルを支持した<ref>{{Cite web|和書|title=打倒ISISで2大テロ組織が共闘|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/08/isis2.php|website=Newsweek日本版|date=2015-08-31|accessdate=2019-12-30|language=ja}}</ref>。9月、反対派は選挙を要求し、11月に別の最高指導者としてモッラー・モハンマド・ラスール・アーホンドを選出した<ref name=":43" />。モハンマドはターリバーン設立当初からオマルの信任が厚く、[[ニームルーズ州]]や[[ファラー州]]の知事を務めた人物である<ref name=":0" />。
2016年3月、ヘラート州でマンスール派とラスール派が武力衝突し、約150人が死亡した<ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=登利谷正人 |date=2017-05 |url=https://doi.org/10.24765/asiadoukou.2017.0_597 |title=2016年のアフガニスタン ターリバーン指導者殺害と先行きの見えない和平の行方 |journal=アジア動向年報 |ISSN=09151109 |publisher=独立行政法人 日本貿易振興機構アジア経済研究所 |volume=2017 |pages=597-618 |doi=10.24765/asiadoukou.2017.0_597 |naid=40021240167 |CRID=1390296829542485504}}</ref>。バードギース州のラスール派の指揮官はマンスール派をパキスタン情報部の走狗と呼んで非難した。2016年5月、アフタル・ムハンマド・マンスールが米軍の無人機攻撃により殺害された<ref name="newsweek160522">[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/05/post-5138.php 「米軍ドローン空爆でタリバーン指導者マンスール師を殺害か」][[ニューズウィーク]]日本版(2016年5月22日)</ref>。同月ハイバトゥラー・アクンザダが第3代最高指導者に就任した<ref name="sankei160525">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160525-CIIZI5ZJRFNMHLJ6PMLF4HR4VI/|title=アフガンのタリバーンが指導者マンスール師の死亡を確認 新指導者にアクンザダ師|accessdate=2016-05-25|date=2016-05-25|publisher=産経新聞}}</ref>。8月、ザーブル州のターリバーンがダードゥッラー戦線を立ち上げて独立した<ref name=":3" />。ザブール州の司令官ダードゥッラーは前年タリバーン(マンスール派)に攻撃された際にファラー州のISKP軍に援軍を求め、見返りにISKPに忠誠を誓っていた<ref name=":43" />。
=== 2020年代 ===
{{Main|アフガニスタン和平プロセス}}
2020年2月29日、ターリバーンを代表して[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]、アメリカ政府を代表して[[ザルメイ・ハリルザド]]が和平合意に関する文書に署名した([[ドーハ合意]])<ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-29 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3270943 |title=米国とタリバン、アフガンめぐる歴史的な和平合意に署名 |publisher=[[BBC]] |accessdate=2020-12-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米タリバン和平、ドーハで29日署名 米最長の戦争、最終局面|url=https://www.sankei.com/article/20200228-STIQLS6UYZMLNC7Q2QHQYCQ4DI/|website=産経ニュース|date=2020-02-28|accessdate=2020-02-29|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref><ref>{{Cite web|title=Agreement for Bringing Peace to Afghanistan|url=https://www.state.gov/agreement-for-bringing-peace-to-afghanistan/|website=アメリカ合衆国国務省|date=2020-02-29|accessdate=2020-3-1|language=en|first=|last=}}</ref><ref>[https://www.state.gov/wp-content/uploads/2020/02/Agreement-For-Bringing-Peace-to-Afghanistan-02.29.20.pdf Agreement for Bringing Peace to Afghanistan Between the Islamic Emirate of Afghanistan Which Is Not Recognized by the United States as a State and Is Known as the Taliban and the United States of America] - [[アメリカ合衆国国務省]]、2020年3月1日閲覧。</ref>。まず135日以内に1万2000人規模のアフガン駐留の米軍を8600人規模に縮小する。そして、アフガン国土をテロ攻撃の拠点にしないなどの和平合意をターリバーンが履行したと判断すれば21年春ごろに完全撤収する予定<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56243340Z20C20A2MM8000/|title= 米とタリバン、アフガン和平合意に署名 駐留軍、21年春にも完全撤収|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-02-29|accessdate=2020-03-01}}</ref>。なお、アフガニスタン政府の治安部隊は、和平合意の対象外であるとして同年3月2日に攻撃作戦を再開すると発表している<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-02 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3271257?cx_part=top_category&cx_position=1 |title=タリバン、アフガン政府軍への攻撃再開を宣言 |publisher=AFP |accessdate=2020-03-02}}</ref>。
2020年4月、ターリバーンはサーレポル州の「郡長」にシーア派のハザラ人を任命したと発表した。ターリバーンがシーア派ハザラ人を州知事に任命したのはこれが初である。これは、ターリバーンによるマザーリシャリーフ攻略で悪化した民族対立を緩和させ、国内のハザラコミュニティの支持を集めようとする動きと見なされている<ref>{{Cite web |date=2020-4-28 |url=https://www.khaama.com/taliban-appoints-first-shia-hazara-as-shadow-district-chief-of-the-group-04734/ |title=Taliban appoints first Shia Hazara as shadow district chief of the group |publisher=Khaama Press News Agency |accessdate=2020-08-03}}</ref>。
2020年7月28日[[イード・アル=アドハー]]に際して3日間の停戦を発表した<ref>{{Cite web |date=2020-7-28 |url=https://alemarahenglish.net/?p=36061 |title=Statement of Islamic Emirate regarding ceasefire during Eid-ul-Adha |publisher=VOICE OF JIHAD |accessdate=2020-08-03}}</ref>。これに引き続き29日最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは純粋なイスラーム政府の樹立と反対勢力にタリバンへの参加を呼び掛けた<ref>https://{{Cite web |date=2020-7-29 |url=https://alemarahenglish.net/?p=36053 |title=Message of Felicitation of the Esteemed Amir-ul-Mumineen, Sheikh-ul-Hadith Mawlawi Hibatullah Akhundzada (may Allah protect him), on the occasion of Eid-ul-Adha |publisher=VOICE OF JIHAD |accessdate=2020-08-03}}</ref>。
2021年1月、アフガニスタン政府が首都カーブルで武装した中国人集団を逮捕した。一説によると中国人集団は[[中華人民共和国国家安全部]]の工作員であり、[[東トルキスタンイスラム運動]]に対抗するために[[ハッカーニ・ネットワーク]]と接触していたと言う<ref>{{Cite web|和書|title=「中国スパイ集団」異例の摘発 ウイグル独立派対策で活動か―アフガン|url=https://web.archive.org/web/20210111220829/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021011100358&g=int|website=[[時事通信|時事ドットコム]]|accessdate=2021-04-17|language=ja}}</ref>。
2021年2月、Pajhwok Afghan Newsの電話調査によると、ターリバーンはアフガニスタンの国土の約5割(52%)を掌握・勢力圏内に収めていると言う<ref name=":5">{{Cite web|url=https://pajhwok.com/2021/02/12/govt-taliban-make-exaggerated-claims-of-territory-they-control/|title=Govt, Taliban make exaggerated claims of territory they control|accessdate=2021-02-21|date=2021-02-12|publisher=Pajhwok Afghan News}}</ref>。アフガニスタンの388郡のうちターリバーンが郡内を完全に支配しているのは27郡(7%)、政府が完全に支配しているのは67郡(17%)である<ref name=":5" />。またターリンバーンが郡の中心都市を支配しているのは39郡(10%)だと言う<ref name=":5" />。
2021年7月28日、ターリバーンの代表団が訪中し、[[中華人民共和国外交部#歴代外交部長|外交部長]](外相)の[[王毅]]と会談した[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]は「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP7X76B4P7XUHBI021.html|title= 「信頼できる友人」 タリバーン幹部が訪中、王氏と会談|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-07-29|accessdate=2021-08-09}}</ref>。
[[File:Taliban Humvee in Kabul, August 2021.png|thumb|首都[[カーブル]]で警戒任務に当たるターリバーンのハンヴィー]]
2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言([[2021年ターリバーン攻勢]])<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210815091720/https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。[[アブドゥル・サタール・ミルザクワル]]内務相代行は、平和裏に権力の移行を進めると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html|title=タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>。
2021年1月、アフガニスタン北部の[[ファーリヤーブ州]]でターリバーン内の民族紛争が発生した。著名なウズベク系ターリバーン司令官で、ターリバーン政権樹立以降ファーリヤーブ州の警察署長を務めていたマフドゥーム・アラムが突如、逮捕・解任さる事件が発生した。この事件に対してウズベク系ターリバーン及びウズベク人住民が大規模な抗議活動を行い、複数のパシュトゥーン系ターリバーンが武装解除された<ref>{{Cite web|title=What is going on in Faryab province?|url=https://aamajnews24.com/faryab/|website=Aamaj News|date=2022-01-13|accessdate=2022-01-14|language=en-US|first=Aamaj|last=News}}</ref><ref>{{Cite news|title=Taliban commander arrested, hundreds took to street in Faryab province to demand his release|url=https://www.khaama.com/taliban-commander-arrested-hundreds-took-to-street-in-faryab-province-to-demand-his-release-8768767/|work=The Khaama Press News Agency|date=2022-01-13|accessdate=2022-01-14|language=en-US|first=Najibullah|last=Lalzoy}}</ref>。アラムは2018年頃にファーリヤーブ州におけるターリバーン軍事委員会の会長及び「州知事」を務めていた<ref>{{Cite web|title=Database|url=http://www.afghan-bios.info/index.php?option=com_afghanbios&id=5163&task=view&total=821&start=445&Itemid=2|website=www.afghan-bios.info|accessdate=2022-01-14}}</ref>。
== イデオロギー ==
{{節スタブ|date=2021年12月1日 (水) 11:20 (UTC)}}
ターリバーンのイデオロギーは、[[デオバンド派]][[原理主義]]に基づく「革新的な[[法解釈]]」で導き出した''[[シャリーア]]''<ref name="Rashid 2000 132, 139">{{Harvnb|Rashid|2000|pp=132, 139}}</ref>と、ターリバーンのほとんどがパシュトゥーンの部族民<ref name="Shaffer">{{Cite book|last=Shaffer|first=Brenda|title=The limits of culture: Islam and foreign policy|year=2006|publisher=MIT Press|isbn=978-0-262-69321-9|page=[https://archive.org/details/limitsofculturei0000unse/page/277 277]|edition=illustrated|quote=The Taliban's mindset is, however, equally if not more deaned by Pashtunwali|url=https://archive.org/details/limitsofculturei0000unse/page/277}}</ref>であることから「[[パシュトゥーンワーリー]]」と呼ばれるパシュトゥーンの社会的・文化的範を組み合わせた[[イスラム主義]]<ref name="Rashid 2000 132, 1393">{{Harvnb|Rashid|2000|pp=132, 139}}</ref>だと言われている<ref name="Maley2">{{Cite book|last=Maley|first=William|title=The Afghanistan wars|year=2002|publisher=Palgrave Macmillan|isbn=978-0-333-80290-8|page=?}}</ref>。
アメリカの研究所の調査によると、調査対象のアフガニスタン人のうち、99%がシャリーア法による国の統治を望み、85%が[[姦淫]]者を[[石打ち]]することを望み、81%が泥棒の[[ハッド刑|手を切断]]する事を望み、50%が[[背教|背教者]]の処刑を望んでいる<ref>{{Cite web|title=Muslim Beliefs About Sharia|url=https://www.pewforum.org/2013/04/30/the-worlds-muslims-religion-politics-society-beliefs-about-sharia/|website=Pew Research Center's Religion & Public Life Project|date=2013-04-30|accessdate=2021-08-19|language=en-US|first=1615 L. St|last=NW}}</ref>。
=== 近代教育に対する見解 ===
イスラム国家においては、近代教育よりも宗教教育が優先され、近代教育は宗教教育の中にあるべきである<ref>{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |year= |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=242 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。 なぜなら、宗教は有益な知識と善行に基づいており、有益な知識と善行は至高なるクルアーンに基づいており、虚偽が存在しないことがすべてのイスラム教徒に証明されているからである。
=== 女子教育問題 ===
ターリバーンのメンバーは彼らの教師であった[[ムッラー]]たちから「女性は誘惑的で、男性を[[アッラーフ]]への奉仕から引き離す存在」といった内容の教育を受けていたとされる。1990年代後半に政権の座についた彼らは女性の通学・就労・買い物等含む外出行為や、家族以外の男性が女性と話すことを禁じた<ref>{{Cite book|和書|title=タリバン: イスラム原理主義の戦士たち|date=2000年10月20日|publisher=講談社|page=72|author=アハメド・ラシッド}}</ref>。このターリバーンの決定は多くの国際機関や人権擁護団体から、女性への人権侵害とみなされ非難の的となっている。
2021年に政権を奪還してからも、一部地域を除くアフガニスタンのほぼ全土で女子の中等教育を停止させた。教育大臣代行のヌールラ・ムニルは「私は女子教育に反対しない」と述べ、女子中学校(日本では中学・高校)の閉鎖に法的根拠はなく、文化的制限によって閉鎖されているとした<ref>{{Cite web |title=The Ban on Older Girls' Education: Taleban conservatives ascendant and a leadership in disarray |url=https://www.afghanistan-analysts.org/en/reports/rights-freedom/the-ban-on-older-girls-education-taleban-conservatives-ascendant-and-a-leadership-in-disarray/ |website=Afghanistan Analysts Network - English |date=2022-03-29 |access-date=2022-08-18 |language=ps-GB}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/kabulnewstv/status/1559902947458400259 |url=https://twitter.com/kabulnewstv/status/1559902947458400259 |website=Twitter |access-date=2022-08-18 |language=ja |author=Kabul News}}</ref>。高等教育大臣のアブドゥル・バキ・ハッカーニは「アフガンで教育に反対している人はいない」と述べたが、シャリーアに即した教育環境が整っていない事が原因であると主張し、ムニル教育大臣とは異なる見解を示した<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=「教育に反対する人はいない」 タリバン高等教育相インタビュー |url=https://mainichi.jp/articles/20220818/k00/00m/030/123000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-08-18 |language=ja}}</ref>。ハッカーニ高等教育大臣は、女子生徒は敬意を払われる存在で、男子生徒のように徒歩や公共交通機関で通学するのではなく、車などの通学手段が確保されるべきだが実現していないと主張した<ref name=":4" />。ザビフラ・ムジャヒド情報・文化副大臣代行はニュースで女子学校がいつ再開されるかを問われ、「私次第ではありません。私たちの長老たちが開校時期を決定します。早く開校し女子が学校に通えるようになることを願っています」と述べ<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/natiqmalikzada/status/1560004957822078978 |url=https://twitter.com/natiqmalikzada/status/1560004957822078978 |website=Twitter |access-date=2022-08-21 |language=ja |author=Mohammad Natiq}}</ref>、宗教問題のために閉鎖されているとした<ref>{{Cite web |title=مجاهد: مکتبهای دختران در کشور به علت مسایل دینی بسته ماندهاند |url=https://tolonews.com/fa/afghanistan-179342 |website=طلوعنیوز |access-date=2022-08-18 |language=fa}}</ref>。その後、2022年には中等教育7年生以上、高等教育を含む女子教育が事実上中止された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/world/35197676.html |title=タリバン、女性の大学教育を停止 アフガン |publisher=CNN |date=2022-12-21 |accessdate=2022-12-24}}</ref>。
女性の教育は[[ハラーム]]ではないが、道徳退廃を防ぐために教育課程はシャリーアに準拠したものである必要があり、また、不必要に家を離れてはならない。
=== 女性の服装 ===
女性が教育等で外出するときは、非マフラムの男性に身体を見せてはいけないため、合法的な服装([[ヒジャブ]])でなければならない。合法的な服装とは主に7つ条件があげられる。①除外された部分を除いてヒジャブで全身を覆わなければならない<ref>{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=255 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。②ヒジャブはそれ自体が装飾品であってはならない<ref name="名前なし-20231105131018">{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=257 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。[[ジャーヒリーヤ]]の無知な女性のように自らの美しさを男性にひけらかしてはならない<ref name="名前なし-20231105131018"/>。③身体を覆うものが透明だったり透けたりするものではいけない<ref name="名前なし_2-20231105131018">{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=258 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。④ヒジャブは幅が広く、ボディーラインを露出するようなきついものではならない<ref name="名前なし_2-20231105131018"/>。⑤外出する際に[[香水]]をつけてはならない。美しい服や宝石などと同じで、情欲を刺激することに関係しているからである<ref name=":6">{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=259 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。例え夫が許可しても、女性が身を飾り外出するのは大きな罪である<ref name=":6" />。⑥男性と似た服を着用しない。男女共に異性を模倣することは神によって禁じられている<ref>{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=260 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。⑦[[不信者たち (クルアーン)|不信者]]の服装を模倣しない。男女共に服装や飲食習慣などで不信者を模倣することはシャリーアによって禁じられている<ref>{{Cite book|和書 |title=الإمارة الإسلامية ومنظومتها |date=2022年4月 |publisher=ダルル・ウルーム・アル・シャリーア |page=261 |author=アブドゥル・ハキム・イシャクザイ}}</ref>。
以下は勧善懲悪省の法令である<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/MOPVPE1/status/1522882293718818816?t=c7JsWL7PYUTmSrJ0lOsUlg&s=19 |url=https://twitter.com/MOPVPE1/status/1522882293718818816?t=c7JsWL7PYUTmSrJ0lOsUlg&s=19 |website=Twitter |access-date=2023-05-18 |language=ps |author=勧善懲悪省}}</ref>。
* イスラム教徒の女性はヒジャブの着用が義務付けられている。
* 衣服で覆われた身体はヒジャブとみなされるが、身体が見える程薄かったり、タイトであってはならない。
* [[チャードル|チャドル]]([[ブルカ]])はヒジャブの最良の形態である。
* 「ヒジャブ」と呼ばれる黒い服も、きつすぎなければ(ボディーラインが露出しなければ)許容される。
* 幼かったり年老いていない女性は、顔の部分は目の部分を除いて隠さなければならない
* そもそも家から出ないことが、ヒジャブの規定を遵守するという意味において最善である。
ヒジャブは男性から性的な眼差しを避けるもので、着用する女性自身をそのような視線から守るだけでなく、男性が性的な意識を持つことを防ぐ目的もある<ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/MOPVPE1/status/1656379515390644231?t=7WiVNNMeMjr8zamX8uUgSg&s=19 |url=https://twitter.com/MOPVPE1/status/1656379515390644231?t=7WiVNNMeMjr8zamX8uUgSg&s=19 |website=Twitter |access-date=2023-05-18 |language=ps |author=勧善懲悪省}}</ref>。
=== バッチャ・バズィーの抑圧 ===
{{main|バッチャ・バーズィー}}
アフガニスタンでは古くから思春期以前の年齢層の男子が裕福で権勢のある男に買い取られ娯楽もしくは性行為の相手をさせられる、いわゆる児童売買春が行われてきた。ターリバーンは同性愛を非イスラム的でシャリーアと相容れないものとみなしていたため、バッチャ・バーズィーを行った者を死刑に処した<ref>{{Cite web |title=Bacha bazi: Afghanistan’s darkest secret |url=https://humanrights.brightblue.org.uk/blog-1/2017/8/18/bacha-bazi-afghanistans-darkest-secret |website=Human Rights and discrimination |accessdate=2022-02-20 |language=en-US}}</ref>。
=== 音楽の禁止 ===
ターリバーンは[[音楽]]の禁止を打ち出している。2021年8月には、北部[[バグラーン州]]で[[民族音楽]]の[[歌手]]を処刑。政権再奪取時には多くの[[音楽家]]が迫害を恐れて国外へ逃亡することとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-58592627 |title=タリバンから逃れる歌手たち パキスタンに違法入国、隠れて生活 |publisher=BBC |date=2021-09-17 |accessdate=2023-07-31}}</ref>。[[2023年]][[7月29日]]には、西部[[ヘラート州]]で[[ギター]]、[[ハーモニウム]]、[[タブラ]]といった[[楽器]]のほか、アンプや[[スピーカー]]などの音響機器を焼却処分にするデモンストレーションが報道された。燃やされた楽器類は、市内の[[結婚式場]]から集めたものが大半を占めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3474943 |title=タリバン、「不道徳」と楽器焼却 |publisher=AFP |date=2023-07-30 |accessdate=2023-07-31}}</ref>。
== 資金 ==
タリバーンは[[麻薬]]や[[鉱物]]、[[石油]]の販売、外国からの寄付、市民からの徴税により多額の収入を得ている<ref name=":0" />。一説によると2011年の収入は3億~5億米ドルに達し、そのうち[[ケシ]]栽培による収入は約1億ドルと言われている<ref name=":0" />。タリバーンは2017年頃から[[ヘロイン]]の生産も開始し<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ケシからヘロインへ、タリバンが麻薬の生産に進出 アフガニスタン|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3140283|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-12-21|language=ja|publisher=|date=2017-8-27}}</ref>、現在はタリバーンの収入の半分(4億ドル)が麻薬の生産と輸出によるものという説もある<ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=世界テロリスト長者番付金|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/31004|website=[[フォーブス (雑誌)|Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)]]|date=2019-12-10|accessdate=2019-12-21|language=ja}}</ref>。
== 装備 ==
[[File:Taliban-herat-2001.jpg|thumb|150px|[[ヘラート]]でピックアップトラックに乗る武装ターリバーン(2001年)]]
{{main|アフガニスタン軍#ターリバーン政権下}}
初期の段階では、[[戦闘員]]の多くは[[AK-47]]や[[RPK軽機関銃|RPK]]、[[RPG-7]]を装備し、移動には[[テクニカル]]を利用するなど、[[民兵]]然とした装備であったが、[[アフガニスタン軍]]から[[鹵獲]]した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]製武器の[[M16自動小銃|M16]]、[[M4カービン]]や付属する豊富な[[M4カービン#/media/ファイル:SOPMOD 2-2005.jpg|アクセサリーキット]]、[[M240機関銃|M240]]、[[M249軽機関銃|M249]]、[[AT4 (携行対戦車弾)|AT-4]]、[[戦闘服]]・[[ボディアーマー|ボディーアーマー]]・[[戦闘用ヘルメット|防弾ヘルメット]]・[[暗視装置|暗視ゴーグル]]などの個人装備、[[ブローニングM2重機関銃|M2]]などの支援火器、[[ハンヴィー]]や[[MRAP]]、[[M1117装甲警備車|M1117装甲車]]、[[M113装甲兵員輸送車|M113]]などの近代的な装備を利用し始めている。また、[[BTR-60]]、[[BTR-70]]、[[BTR-80]]、[[BMP-1]]、[[T-55]]などの旧式ながら強力な兵器も入手している。この他にも航空機として、[[MD 500|MD-530]]、[[UH-60 ブラックホーク|UH-60]]、[[CH-46 (航空機)|CH-46]]、[[Mi-17 (航空機)|Mi-17]]、[[セスナ 208|C-208/AC-208]]、[[エンブラエル EMB-314|A-29]]、[[C-130 (航空機)|C-130]]などを入手しているが、運用能力があるかは不明である。しかし、UH-60やMi-17は飛行している姿が度々撮影されている。
== 麻薬問題 ==
アフガニスタンでは、[[メソポタミア]]文明以来<ref name="Aniszewski 182">Aniszewski, p. 182</ref>、[[医薬品]]の[[抗がん剤]]や[[モルヒネ]]([[鎮痛剤]])「植物性[[アルカロイド]]」の原料であり、麻薬の[[アヘン]]や[[ヘロイン]]の原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、[[1997年]]終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、[[2000年]]までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年[[7月27日]]に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、[[ナンガルハル州]]では12,600[[エーカー]]あったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした<ref>[http://opioids.com/afghanistan/index.html Afghanistan, Opium and the Taliban]</ref>。
こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。[[2001年]]の国連麻薬取り締まり計画や[[1999年]]の[[ウズベキスタン]]や[[タジキスタン]]の報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは[[1979年]]に皆無だった[[麻薬中毒]]者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。
アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への[[死刑]]適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。
しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはタリバーンが支配するただ一つの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている<ref name="ketsugi1333"/>。
麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる<ref>[http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-1610-5 アフガニスタンの歴史 マーティン・ユアンズ著(明石書店]{{疑問点|date=2009年4月}}</ref>。
この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、[[国内総生産]](GDP)の50%に相当する産業となっている。これは[[2005年]]では全世界の87%に当たる生産量である<ref>「[http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/070221.html 追跡 ヘロイン・コネクション]」BS世界のドキュメンタリー、2/21, 2007 (原題: 「Afghanistan;The Heroin Connection」Ampersand(フランス) 2006年)</ref><ref>[http://www.cbsnews.com/stories/2005/10/14/60minutes/main946648.shtml Afghanistan: Addicted To Heroin]</ref>。
アフガニスタン共和国政府はケシからの転作を進めて、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はタリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている<ref>[http://www.jiji.co.jp/jc/a/reference/policy/a?g=afp_int&k=20080827019107a アフガンのアヘン]<span>生産、3年ぶり減少=干ばつも一因に-国連調査</span>[[時事通信|時事ドットコム]]</ref>。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにタリバーンに献金を行っているという指摘もある<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2512014?pid=3268956 「アフガニスタンのアヘン生産者、社会混乱存続のためタリバンに多額の資金」][[フランス通信社|AFP]]NEWS</ref>。
ターリバーン政権の成立後に情報文化大臣になる予定とされるザビフラー・ムジャーヒド報道官は、今後アフガニスタンはいかなる種類の麻薬も作らなくなることを明かし、市民が麻薬に代わる作物を栽培できるようになるためには国際的な支援が必要だと指摘した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタンは麻薬生産を中止へ タリバン報道官|url=https://sputniknews.jp/20210818/8630115.html|website=jp.sputniknews.com|accessdate=2021-08-18|language=ja}}</ref>。
== 対外関係 ==
=== 主権国家 ===
==== パキスタン ====
ターリバーンは1996年の政権樹立前からパキスタンから支援を受けており、米軍侵攻後はターリバーン高官が潜伏していたパキスタンで当局に逮捕されるなどの事件はあったものの友好関係にあるとされる。
[[パキスタン軍]]にとり、敵対する[[インド]]との対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった<ref name="名前なし-3"/>。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという<ref name="名前なし-4"/>。このためそうした要件を満たすターリバーンはパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの[[傀儡政権]]が成立することは、[[中央アジア]]における貿易やアフガニスタン経由の[[パイプライン輸送|パイプライン]]を独占するという思惑、またインドとの[[カシミール紛争]]で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。特にISI長官を務めた{{仮リンク|ハミード・グル|en|Hamid Gul}}と深く関わり、人権問題を理由にアメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助を受けていたとされる<ref>{{Cite news|url=https://www.dw.com/en/the-godfather-of-the-taliban-hamid-gul-and-his-legacy/a-18652103|newspaper=[[ドイチェ・ヴェレ]]|title=The godfather of the Taliban: Hamid Gul and his legacy|date=2015-08-16|accessdate=2019-07-04}}</ref>。[[1997年]]にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。[[2000年]]の第二次[[タロカン]]攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個[[旅団]]以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため[[2000年]][[12月]]には[[コフィー・アナン]][[国際連合事務総長|国連事務総長]]がパキスタンを非難する事態となった。
米軍侵攻後、ターリバーン指導部の大半はパキスタンに身を隠し、[[クエッタ|クェッタ]]・シューラと呼ばる指導部を再編成し国境越しにアフガニスタンでの反撃作戦を指揮していたとされている<ref>{{Cite news|title=At Border, Signs of Pakistani Role in Taliban Surge|url=https://www.nytimes.com/2007/01/21/world/asia/21quetta.html|work=The New York Times|date=2007-01-21|accessdate=2021-11-25|issn=0362-4331|language=en-US|first=Carlotta|last=Gall}}</ref>。
'''[[デュアランド・ライン]]'''と呼ばれるアフガニスタン-パキスタン間の国境は両国の政府の管理が及ばない地域が多く、政府の管理なしに不特定多数の人々が制限を受けることなく国境間を自由に行き来できた。当該国境はターリバーンの主要民族である[[パシュトゥーン人]](アフガン人)の居住地帯を跨いでいる。デュアランド・ラインを跨いでパキスタン側のパシュトゥーン人居住地域には[[連邦直轄部族地域|トライバルエリア]]が広がっており、その地に居留するターリバーン司令官らが[[マドラサ]]を通じてアフガン人のターリバーン戦闘員の採用していた<ref>{{Cite web|title=Refworld {{!}} Child Soldiers Global Report 2004 - Pakistan|url=https://www.refworld.org/docid/49880639c.html|website=Refworld|accessdate=2021-11-25|language=en|first=United Nations High Commissioner for|last=Refugees}}</ref>。トライバル・エリアではパキスタンの憲法上の規定から同国の法律は運用されておらず、また、中央・地方政府の実権が及ばない地域が多かった事からパキスタン政府はターリバーン関係者を追跡しきれなかったと言われている。民族分断や歴史問題を孕むデュアランド・ラインを巡ってはアフガニスタンとパキスタンとの間で長年国境紛争になっている。ターリバーン政権の最高指導者オマル師はパキスタンの政治家からデュアランド・ラインを受け入れたか否かを聞かれた際に憤慨したと伝えられている<ref>{{Cite web|title=Unbeatable: Social Resources, Military Adaptation, and the Afghan Taliban|url=https://tnsr.org/2018/05/unbeatable-social-resources-military-adaptation-and-the-afghan-taliban/|website=Texas National Security Review|date=2018-05-08|accessdate=2021-11-25|language=en-US}}</ref>。
パキスタンはターリバーン最大の後ろ盾と考えられてきたが、2021年11月現在ターリバーンが樹立した「アフガニスタン・イスラム首長国」を国家として承認していない。
==== サウジアラビア ====
1990年代半ばには[[サウジアラビア]]はパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており<ref name="名前なし-5"/>、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。アメリカとターリバーン政権の関係が悪化し、アメリカがサウジアラビアに対してアフガニスタンにビンラーディンの引渡しをさせるように求めても、サウジアラビアはターリバーンに圧力をかけるのに消極的であった。しかし、1979年から2001年まで[[サウジアラビア総合情報庁]]の長官だったトゥルキー・ビン・ファイサル・アール・サウード王子は、ターリバーン政権末期のオマル師との対談で、オマル師から「サウジアラビアはビンラーディンと話し合うべきであり、彼と戦うのではなく帝国主義者と戦うべきだ」と言われた。アメリカとの対決を迫られたファイサル王子は[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド国王]]と[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドゥッラー皇太子]]にサウジアラビアはターリバーンと断交するべきだと忠告した<ref>{{Cite web|title=Saudi Prince Turki al-Faisal’s new revelations on Afghanistan {{!}}|url=http://thearabweekly.com/saudi-prince-turki-al-faisals-new-revelations-afghanistan|website=AW|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。ターリバーン政権の崩壊後は、サウジアラビア内からターリバーンに対して多額の寄付を行うイスラム主義者の存在が明らかになっており、国連から制裁を受けているターリバーン構成員の資金洗浄場所となった<ref>{{Cite web|title=WikiLeaks cables portray Saudi Arabia as a cash machine for terrorists|url=http://www.theguardian.com/world/2010/dec/05/wikileaks-cables-saudi-terrorist-funding|website=the Guardian|date=2010-12-05|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。サウジアラビアはこれらの対応に消極的だった<ref>{{Cite web|title=WikiLeaks cables portray Saudi Arabia as a cash machine for terrorists|url=http://www.theguardian.com/world/2010/dec/05/wikileaks-cables-saudi-terrorist-funding|website=the Guardian|date=2010-12-05|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。
宗教面に関する論争については、サウジアラビアのイスラーム法解釈の主流である[[ハンバル学派]]に属する[[ワッハーブ派]]は、ターリバーンのイデオロギーであるハナフィ―学派に属する[[デーオバンド派]]を[[サラフィー主義|サラフィー]]に[[スーフィズム]]を融合させたものであると批判している<ref>{{Cite web|title=Saudi Prince Turki al-Faisal’s new revelations on Afghanistan {{!}}|url=http://thearabweekly.com/saudi-prince-turki-al-faisals-new-revelations-afghanistan|website=AW|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。
==== イラン ====
[[シーア派]]イスラム神権国家の[[イラン]]は[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガニスタン内戦]]中にシーア派の[[ハザーラ人|ハザーラ]]系武装勢力を支援してきた事から、[[スンナ派]]のターリバーンとは不倶戴天の敵同士であった。
1997年には、マザーリシャリーフを攻撃したターリバーンが前年に同勢力3000人をハザーラ・ウズベク民兵に虐殺された報復として、マザーリシャリーフで[[大量虐殺|大虐殺]]を実施し、同時にマザーリシャリーフ駐在のイラン外交官10人が殺害された。ターリバーンは「殺害されたのは外交官ではなく工作員」と主張したが、後にターリバーン戦闘員の暴走が原因だったとされている。イラン世論はこれによって反タリバン一色となり、[[イラン・イスラム共和国軍|イラン軍]]はターリバーンの総兵力を上回る7万人の部隊をアフガニスタンとの国境沿いに展開した<ref>{{Cite web|title=United Nations Official Document|url=https://www.un.org/ga/search/view_doc.asp?symbol=S/1998/1109|website=www.un.org|accessdate=2021-11-25}}</ref>。以後、イランは[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]を支援するようになった。
一方で2000年代中頃からはイランとターリバーンは友好関係に近い状態であるとされる。2007年と2011年にアフガニスタンに駐留していた多国籍軍は、イランのターリバーンに対する武器輸送を傍受した<ref>{{Cite web|title=What Was Mullah Mansour Doing in Iran?|url=https://foreignpolicy.com/2016/05/27/mullah-mansour-iran-afghanistan-taliban-drone/|website=Foreign Policy|accessdate=2021-11-25|language=en-US|first=Michael|last=Kugelman}}</ref>。2012年にイランは同国東部のアフガニスタン国境沿いにある[[ザーヘダーン|ザーヘダン]]にターリバーン事務所の開設を許可した<ref>{{Cite web|title=Taliban Opens Office in Zahedan, Iran|url=https://www.washingtonexaminer.com/weekly-standard/taliban-opens-office-in-zahedan-iran|website=Washington Examiner|date=2012-08-02|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。2010年代、副指導者のマンスール師はイランとの関係改善に努め、マンスール師自身がイランを訪問した<ref>{{Cite web|title=What Was Mullah Mansour Doing in Iran?|url=https://foreignpolicy.com/2016/05/27/mullah-mansour-iran-afghanistan-taliban-drone/|website=Foreign Policy|accessdate=2021-11-25|language=en-US|first=Michael|last=Kugelman}}</ref>。2015年、[[ISKP]]のシーア派殺害に対してターリバーンは「分断・差別・不寛容を生じさせる」として批判を行った<ref>{{Cite web|title=Afghan Taliban take apparent dig at IS over Hazara killings|url=http://www.dawn.com/news/1205456|website=DAWN.COM|date=2015-09-07|accessdate=2021-11-25|language=en|last=AFP}}</ref>。2020年1月、[[バグダード国際空港攻撃事件 (2020年)|バグダード国際空港攻撃事件]]で[[イスラム革命防衛隊]]「[[ゴドス軍]]」の最高司令官[[ガーセム・ソレイマーニー]]がアメリカに暗殺された際に、ターリバーンは「私たちは神に、この偉大な戦士に楽園を与え、彼の家族に忍耐を授けるように求めます」と声明で発表した<ref>{{Cite web|title=Taliban condemn killing of Iran’s Qassem Soleimani|url=https://english.alarabiya.net/News/middle-east/2020/01/05/Taliban-condemn-killing-of-Iran-s-Qassem-Soleimani-|website=Al Arabiya English|date=2020-01-05|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。スンナ派イスラム主義組織がシーア派の要人に対して哀悼の意を表明するのは極めて異例である。また、ターリバーンにハザーラ人司令官が登用されるなど、イランの影響が見られるようになった。
イランはターリバーンに対して親和的になったと考えられてきたが、2021年8月15日の[[カーブル陥落 (2021年)|カーブル陥落]]以後、イランは在アフガニスタン大使館と領事館を閉鎖し、今日に至るまで[[アフガニスタン・イスラム首長国|アフガニスタンのターリバーン政権]]を国家として承認していない。ただ、2022年1月にはターリバーン政権の外相代行アミール・ハーン・ムッタキーがテヘランを訪問し、イラン外相の[[ホセイン・アミールアブドッラーヒヤーン]]と会談している<ref>{{Cite news|title=Iran FM, Taliban acting FM discuss bilateral ties in Tehran |url=https://en.mehrnews.com/news/182709/Iran-FM-Taliban-acting-FM-discuss-bilateral-ties-in-Tehran|agency=Mehr News Agency|date=2022-1-9|accessdate=2022-1-15}}</ref>。
==== アメリカ ====
ターリバーンは創設当初、軍事面および資金面でパキスタンのISIを通じて間接的にCIAの支援を受けていた。強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国政府([[ビル・クリントン|クリントン政権]])の支持を得ていた。しかし、ターリバーンによる人権侵害、特に女性の扱いに世界が注目するようになり、米国政府もターリバーンへの姿勢を変化させていった。1997年11月にはマデレーン・オルブライト国務長官がターリバーンの人権侵害を批判し、米国のターリバーンへの反対姿勢を明確にした。1998年8月にケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破テロ事件が発生すると、アメリカは人権問題以上にテロの観点からターリバーンへの敵対姿勢を強め、報復としてアフガニスタンのアルカーイダ基地を巡航ミサイルで爆撃した。以降、米国政府は再三、ターリバーンに対してアルカーイダ指導者の引渡しを求めたがターリバーンが拒否したため関係は悪化の一途を辿った。2001年、アメリカ同時多発テロ事件によりアメリカは、ターリバーンに対し再びアルカーイダ指導者の引渡しを求めたがこれも拒絶されたため、米国はイギリスやドイツ、フランス、カナダ等と共同でアフガニスタンに対し軍事侵攻を開始した。2009年頃から、ターリバーン-米国間で和平交渉の動きが見られるようになった<ref>{{Cite web |title=Pentagon sees reconciliation with Taliban |url=https://www.stuff.co.nz/world/666993/Pentagon-sees-reconciliation-with-Taliban |website=Stuff |date=2009-01-31 |access-date=2022-06-09 |language=en}}</ref>。2015年、ターリバーンの最高指導者マンスール師が米軍の空爆によって暗殺された。2020年、アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)と米国([[ドナルド・トランプ|トランプ政権]])の間で和平合意が結ばれ、条件付きで米国及び連合軍がアフガニスタンから撤退する事が決まった。2021年8月、ターリバーンが政権を奪還し、米国(バイデン政権)はアフガニスタンから完全に撤退した。
アメリカは2001年に大統領令でターリバーンをテロ組織として指定したものの<ref>{{Cite web |title=930 |url=https://home.treasury.gov/policy-issues/financial-sanctions/faqs/930 |website=U.S. Department of the Treasury |access-date=2022-06-09 |language=en}}</ref>、「外国のテロ組織リスト」に記載せず、反乱軍として取り扱ってきた<ref>{{Cite web |title=Why Isn't Afghan Taliban on US List of Foreign Terror Groups? |url=https://www.voanews.com/a/afghan-taliban-us-list-foreign-terror-groups/3732453.html |website=VOA |access-date=2022-06-09 |language=en}}</ref>。ターリバーンが樹立したアフガニスタン・イスラム首長国を国家として認めた事はない。
==== 日本 ====
日本は1996年から2001年まで続いたターリバーン政権を国家として承認しなかった。日本はターリバーンに対して2001年の米軍侵攻まで続いた[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガニスタン内戦]]中、対立する北部同盟との間で和平交渉をするように呼びかけていた。
第一次政権期にはアッバス ・スタネクザイ保険相が度々来日し、医療支援を求めている。このように幹部が来日する事例は政権崩壊後も確認されている。2012年にはターリバーン政治委員会のカーリ・ディン・ハニフ委員(2021年11月時点でターリバーン暫定政権における経済大臣)と元駐パキスタン大使アブドゥル・サラム・ザイーフが、同志社大学におけるアフガニスタンに和平を構築するシンポジウムに出席している。この機会にターリバーン要人の2人は広島の原爆資料館に立ち寄っている<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン高官 資料館を見学 広島|url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=6604|website=中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター|accessdate=2021-11-26|language=ja}}</ref>。
2001年、ターリバーン政権下のアフガニスタンに入った日本人ジャーナリストによると、ターリバーン兵から[[日露戦争]]と当時アメリカに迫っていた経済成長を賞賛され、ターリバーンと同盟を組んでアメリカと戦争する事を勧められたという<ref>{{Cite web|和書|title=“ロシアと戦って勝った日本” タリバン兵が我々メディアに求めてきた驚きの一言とは|url=https://www.fnn.jp/articles/-/7261|website=FNNプライムオンライン|accessdate=2021-11-26}}</ref>。ターリバーンは2019年に公開したビデオ「Umari Army (6)」で、[[アメリカ合衆国の外交政策|アメリカの介入政策]]を批判し<ref>{{Cite web|title=Taliban justifies 9/11 attack, blaming America’s ‘interventionist policies’ {{!}} FDD's Long War Journal|url=https://www.longwarjournal.org/archives/2019/07/taliban-justifies-9-11-attack-blaming-americas-interventionist-policies.php|website=www.longwarjournal.org|date=2019-07-23|accessdate=2021-11-26|language=en-US|first=Shrinivasrao S. Sohoni|last=says}}</ref>、介入政策で生じた悲劇の一例として第二次世界大戦中に発生した[[広島市への原子爆弾投下|広島への原爆投下]]を挙げた。
2021年11月現在、ターリバーンは日本との交流に積極的な姿勢を見せているが、日本は慎重な姿勢を崩していない。
2021年8月15日、ターリバーンのカーブル制圧に伴い日本は在アフガニスタン大使館を閉鎖した。同月25に[[菅義偉]]首相は「再びテロの温床になることを食い止め、女性などの権利を守っていくために、[[G7]]を含む関係国と緊密に連携をしていく」と述べ、テロ支援や人権侵害に関してターリバーンへの不信をあらわにし、欧米諸国と歩調を合わせて対応する方針を示している<ref>{{Cite web|和書|title=テロ温床阻止へ連携 菅首相:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210826064940/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021082501195&g=pol|website=時事ドットコム|accessdate=2021-11-26|language=ja}}</ref>。ターリバーンの[[スハイル・シャヒーン]]報道官は24日、アフガニスタンでの日本の非政府組織(NGO)の活動を高く評価し、大使館やNGOの職員らの「生命と財産」を保証すると強調した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン「日本と良好な関係を」 報道担当者、大使館再開に期待(共同通信)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/b2febea97e17b6de9c01040acea4143bfeff5586|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-11-26|language=ja}}</ref>。アフガニスタンからの退避が進む25日に、[[ザビフラ・ムジャヒド]]報道官は[[日本とアフガニスタンの関係|アフガニスタンと日本の歴史的な友好関係]]について言及し、アフガニスタンに駐留する日本人に対して退避して欲しくない、協力してほしいなどとする趣旨の発言をした<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン報道官「日本人の退避は望んでいない」 タリバンが望む日本との友好【インタビュー全文】|url=https://www.fnn.jp/articles/-/230038|website=FNNプライムオンライン|accessdate=2021-11-26}}</ref>。
11月21日から4日間の日程でアフガニスタン入りした[[岡田隆 (外交官)|岡田隆]]大使は、ターリバーン政権副首相のバラダル師とカビール師と会談した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン大使館再開視野に調整 大使の訪問発表|url=https://www.sankei.com/article/20211125-LZPTQO4RHZMDZGODTMII5I3FQA/|website=産経ニュース|date=2021-11-25|accessdate=2021-11-26|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本のアフガニスタン大使 タリバン幹部とカブールで初会談|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211125/k10013360591000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-11-26|last=日本放送協会}}</ref>。11月24日には、ターリバーン政権外務省のカハル・バルヒ報道官は岡田大使が大使館の再開に向け調整を進める意向を示した事を明らかにした上で「日本大使館の安全には特に注意を払う」と発言した<ref>{{Cite web|和書|title=【独自】タリバン報道官「溝が狭まった」 アフガニスタン 日本大使館の再開は|url=https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4413215.html|website=TBS NEWS|accessdate=2021-11-26}}</ref>。一方で、[[松野博一]]官房長官は大使館の再開に関して具体的な予定は無く、「タリバンに対する日本政府の立場を何ら予断するものではない」とした<ref>{{Cite web|和書|title=【独自】タリバン報道官「溝が狭まった」 アフガニスタン 日本大使館の再開は|url=https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4413215.html|website=TBS NEWS|accessdate=2021-11-26}}</ref>。
=== イスラム主義組織 ===
==== アルカーイダ ====
[[ファイル:Osama_bin_Laden_portrait.jpg|thumb|客人だったウサーマ・ビン・ラーディン]]
1996年にスーダンから追放されたウサーマ・ビン・ラーディンはターリバーン統治下のアフガニスタン・[[ジャラーラーバード]]に亡命した。ビン・ラーディンはターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築き、ターリバーンの庇護下で反米テロ活動を続けた。この頃からターリバーンはアルカーイダの過激思想の影響を受け、反米感情を抱くようになり、内政においても過激な政策が増加した。
ターリバーンはアルカーイダに軍事や資金面で支援を受けていた。1997年にターリバーンがマザーリシャリーフ攻略に失敗し、捕虜となったターリバーン兵数千人が[[アブドゥル・マリク]]によって虐殺された際、ビン・ラーディンはISIと共にターリバーンを強化するために新兵採用の資金と軍用車両などを支援した。また、ターリバーンはアフガニスタン・イスラム首長国の外国人精鋭部隊「055旅団」の育成をアルカーイダに任せた<ref>{{Cite web|title=TIME.com: Secrets Of Brigade 055|url=https://web.archive.org/web/20011103091516/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1101011105-181591,00.html|website=web.archive.org|date=2001-11-03|accessdate=2021-09-08}}</ref>。
1990年代にビン・ラーディンはムハンマド・オマルに忠誠を誓い、アルカーイダは形式的にターリバーン傘下の組織となっている<ref>{{Cite news|title=Afghanistan: The pledge binding al-Qaeda to the Taliban|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-58473574|work=BBC News|date=2021-09-07|accessdate=2021-09-08|language=en-GB}}</ref>。ビン・ラーディン死後もアルカーイダ2代目最高指導者ザワーヒリーがターリバーン2代目最高指導者アフタル・マンスールや3代目ハイバトゥラー・アクンザダに忠誠を誓っているが、ターリバーンはこれを拒否している<ref>{{Cite news|title=Afghanistan: The pledge binding al-Qaeda to the Taliban|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-58473574|work=BBC News|date=2021-09-07|accessdate=2021-09-08|language=en-GB}}</ref>。2020年に結ばれたアメリカ合衆国-アフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン)間の和平合意で、ターリバーンは国際テロ組織(アルカーイダ等)との関係断絶を受け入れた。
==== パキスタン・ターリバーン運動 ====
[[パキスタン・ターリバーン運動]]は、主にアフガニスタンと国境を接するパキスタン領土内の[[連邦直轄部族地域]]並びに[[カイバル・パクトゥンクワ州]]で活動するパシュトゥーン人のイスラム主義組織である。パシュトゥーン人が多数を占める組織という点でターリバーンと類似しているものの、組織・指揮系統及び活動目的は大きく異なる<ref>{{Cite news|title=Insurgents Share a Name, but Pursue Different Goals|url=https://www.nytimes.com/2009/10/23/world/asia/23taliban.html|work=The New York Times|date=2009-10-23|accessdate=2021-09-09|issn=0362-4331|language=en-US|first=Scott|last=Shane}}</ref>。
パキスタン・ターリバーン運動は、彼ら自身とは民族の異なる[[パンジャーブ人]]が多数を占める[[パキスタン・イスラム共和国|イスラマバード中央政府]]に対する敵意によって、複数のイスラム主義グループが連合して誕生したものであり、中央指導部の運動全体に対する統制力は低いとされる<ref>{{Cite news|title=Insurgents Share a Name, but Pursue Different Goals|url=https://www.nytimes.com/2009/10/23/world/asia/23taliban.html|work=The New York Times|date=2009-10-23|accessdate=2021-09-09|issn=0362-4331|language=en-US|first=Scott|last=Shane}}</ref><ref>{{Cite web|title=Wayback Machine|url=https://web.archive.org/web/20101224230305/http://twq.com/11winter/docs/11winter_Siddiqa.pdf|website=web.archive.org|date=2010-12-24|accessdate=2021-09-09}}</ref>。ターリバーンは2010年代まで、最高指導者ムハンマド・オマルが絶対的な権威を持っており、オマルの死後には内紛が起きたものの、連合組織であるパキスタン・ターリバーン運動に比して現在でも指導者評議会の組織に対する統制力は強い。活動目的については、タリバーンはアフガニスタンを[[イスラム国家]]として復興させることであり、他方、パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府を打倒してイスラム国家に改造することである。
パキスタン・ターリバーン運動はパキスタン政府とは強い敵対関係にあるものの、ターリバーンはパキスタンと親密な関係にあるとされている。
2009年、パキスタン・ターリバーン運動の指導者3人がターリバーンの最高指導者オマルの要請を受け、アフガニスタンで協力してジハードを行う事に合意したがすぐに破綻し内紛が起きた。
2013年には、タリバーンとパキスタン・ターリバーン運動が武力衝突して後者の司令官が戦死したとする報道があった<ref>{{Cite web|title=TTP denies Fazlullah killed in clash with Afghan Taliban: report|url=http://www.dawn.com/news/1048794|website=DAWN.COM|date=2013-10-10|accessdate=2021-09-09|language=en|last=Dawn.com}}</ref>。
2014年にパキスタン・ターリバーン運動が実行した[[2014年ペシャーワル学校襲撃事件|ペシャーワル軍事学校襲撃事件]]に対し、タリバーンは「非イスラム的だ」として非難した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタンのタリバン、パキスタンの学校襲撃を非難|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3034560|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-09-09|language=ja}}</ref>。
タリバーンはパキスタン・ターリバーン運動との間に何ら関係を持っていないと主張しているが<ref>{{Cite news|title=Pakistan and Afghan Taliban Close Ranks|url=https://www.nytimes.com/2009/03/27/world/asia/27taliban.html|work=The New York Times|date=2009-03-26|accessdate=2021-09-09|issn=0362-4331|language=en-US|first=Carlotta|last=Gall}}</ref>、パキスタン・ダーリバーン運動の報道官は最高指導者マウラナ・ファズルッラーがアフガニスタン東部の[[クナル州]]でターリバーンにかくまわれていること、資金面でターリバーンから援助を受けている事を明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=パキスタン・タリバン運動(TTP) {{!}} 国際テロリズム要覧2021 {{!}} 公安調査庁|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/TTP.html|website=www.moj.go.jp|accessdate=2021-11-26}}</ref>。
2021年8月15日のターリバーンのアフガニスタン制圧に伴って、過去にパキスタン・ターリバーン運動の副指導者を務めていたファキール・ムハンマドがアフガニスタンの刑務所から解放された。ファキールがターリバーン又はパキスタン・ターリバーン運動の兵士を連ねてアフガニスタンの市街地を凱旋する映像が公開された。
2021年11月8日、ターリバーン政権の仲介でパキスタン・ターリバーン運動とパキスタン政府は1ヶ月の停戦合意を結んだ<ref>{{Cite web|和書|title=パキスタン政府、武装勢力との「全面停戦」で合意|url=https://www.cnn.co.jp/world/35179205.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2021-11-26|language=ja}}</ref>。
==== IS(イスラミック・ステート) ====
ISとタリバーンは敵対関係にある。ISのアフガニスタン支部である「[[ISKP|イスラム国ホラサン州]](ISKP)」はパキスタン・ターリバーン運動から分離して誕生した勢力である。ISKPは[[ウズベキスタン・イスラム運動]]やターリバーン内の不満分子などを吸収しつつ2016年頃に勢力を拡大し、これまでにタリバーンと200回以上交戦している<ref>{{Cite web|和書|title=米、アフガンでのIS系活発化を警戒|url=https://www.sankei.com/article/20210825-KQBBBRGNHFMH7K6FA3ZYH4HKZM/|website=産経ニュース|date=2021-08-25|accessdate=2021-09-10|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。ISKPはターリバーンが根付いていないアフガニスタン北部や、パキスタン・ターリバーン運動の影響を受けている東部の山岳地帯を中心に活動していた。
2013年アルカーイダのイラク支部から発展したISは、アルカーイダ本部からの解散命令を無視し、アルカーイダの統制下にあるシリアの[[アル=ヌスラ戦線|アル=ヌスラ戦線]]とも衝突を繰り返すようになった。ISとアルカーイダ本部は敵対関係に至り、タリバーンはISに対して沈黙していた。ISはアフガニスタンもカリフ制の支配下に入るべきだとし、アフガニスタン紛争へ介入する姿勢を見せた。
2015年にターリバーンの副指導者であったアフタル・マンスールは最高指導者ムハンマド・オマル(2013年に病死)の名義で、IS最高指導者の[[アブー・バクル・アル=バグダーディー]]宛に、アフガニスタン紛争への関与を警告する旨の声明を発表した<ref>{{Cite web|title=Afghan Taliban Warns IS Leader|url=https://www.rferl.org/a/afghanistan-taliban-warns-is-leader/27075813.html|website=RadioFreeEurope/RadioLiberty|accessdate=2021-09-08|language=en}}</ref>。同年、ISのアフガニスタン支部であるISKPが同国東部で、[[アフガニスタン・イスラム共和国|共和国政府]]またはタリバーンに同調する「背教者」とする人質を爆殺し、タリバーンは非難声明を出した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、ISの処刑動画を非難|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3057201|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-09-08|language=ja}}</ref>。
2017年から2018年にかけて[[ジョウズジャーン州]]ダルザーブ郡の支配権を巡ってISKP-ターリバーン間で激しい戦いが起きた。残虐な振る舞いを理由にタリバーンから追放されたウズベク系のカーリ・ヘクマト<ref>{{Cite web|title=Jawzjan elders save woman from Taliban stoning|url=https://pajhwok.com/2015/11/12/jawzjan-elders-save-woman-taliban-stoning/|accessdate=2021-09-10|language=en-GB}}</ref>とネマットはISに忠誠を誓い、2016年から2018年にかけて地元のタリバーンを駆逐して実権を握っていた<ref>{{Cite web|title=Qari Hekmat’s Island: A Daesh enclave in Jawzjan?|url=https://www.afghanistan-analysts.org/en/reports/war-and-peace/qari-hekmats-island-a-daesh-enclave-in-jawzjan/|website=Afghanistan Analysts Network - English|date=2017-11-11|accessdate=2021-09-10|language=ps-GB}}</ref>。2018年7月初旬、タリバーンは特殊部隊を投入してISKPを撃破<ref>{{Cite web|title=Taliban says Islamic State has been ‘completely defeated’ in Jawzjan {{!}} FDD's Long War Journal|url=https://www.longwarjournal.org/archives/2018/08/taliban-says-islamic-state-is-completely-defeated-in-jawzjan.php|website=www.longwarjournal.org|date=2018-08-01|accessdate=2021-09-10|language=en-US|first=pre-Boomer Marine brat|last=says}}</ref>。司令官ネマットはタリバーンから逃れるために[[アフガニスタン・イスラム共和国|共和国政府]]に降伏する事を決定し、生き残ったIS戦闘員は政府軍のヘリコプターで州都[[シェベルガーン]]まで運ばれ、手厚くもてなされた<ref>{{Cite news|title=Are ISIS Fighters Prisoners or Honored Guests of the Afghan Government?|url=https://www.nytimes.com/2018/08/04/world/asia/islamic-state-prisoners-afghanistan.html|work=The New York Times|date=2018-08-04|accessdate=2021-09-10|issn=0362-4331|language=en-US|first=Najim|last=Rahim|first2=Rod|last2=Nordland}}</ref><ref>{{Cite news|title=Taliban Surge Routs ISIS in Northern Afghanistan|url=https://www.nytimes.com/2018/08/01/world/asia/afghanistan-taliban-isis.html|work=The New York Times|date=2018-08-01|accessdate=2021-09-10|issn=0362-4331|language=en-US|first=Najim|last=Rahim|first2=Rod|last2=Nordland}}</ref>。
2021年4月19日、ISPP(イスラム国パキスタン州)は[[ペシャーワル]]で、タリバーン司令官のナイク・ムハンマド・ラフバルを暗殺した<ref>{{Cite web|title=Islamic State Claims Responsibility for Assassination of Taliban Shadow Governor in Peshawar|url=https://jamestown.org/brief/islamic-state-claims-responsibility-for-assassination-of-taliban-shadow-governor-in-peshawar/|website=Jamestown|accessdate=2021-09-10|language=en-US}}</ref>。ラーバーは、ナンガルハール州における対IS作戦を率いてきたターリバーン司令官の1人であり、ナンガルハール州のホギャニ地区で行われた葬式には大勢の地元住民が参列した。
2021年8月16日、タリバーンは制圧したカーブルの刑務所で、過去にISKPの最高指導者を務めていたZiya ul-Haqを含む約150人のIS収監者を処刑した<ref>{{Cite web|title=Afghan chaos mounts as ISIS-K tries to tarnish Taliban triumph|url=https://asia.nikkei.com/Politics/International-relations/Afghanistan-turmoil/Afghan-chaos-mounts-as-ISIS-K-tries-to-tarnish-Taliban-triumph|website=Nikkei Asia|accessdate=2021-10-08|language=en-GB}}</ref>。
2021年8月26日、タリバーンの支配下にある[[カーブル国際空港自爆テロ事件|カーブル国際空港で自爆テロ]]を行い、タリバーン兵28人を含む182人を殺害した<ref>{{Cite web|title=American forces keep up airlift under high threat warnings|url=https://apnews.com/article/bombings-evacuations-kabul-bb32ec2b65b54ec24323e021c9b4a553|website=AP NEWS|date=2021-08-27|accessdate=2021-09-10|language=en}}</ref>。
2021年10月3日、ISKPはカーブルのイードガーモスクで爆弾テロを発生させ、民間人5人を殺害した。同モスクではタリバーン政権の大臣ザビフラ・ムジャヒドが母親の追悼式を行っていた<ref>{{Cite web|title=Bomb at Kabul mosque kills 5 civilians, Taliban say|url=https://apnews.com/article/religion-afghanistan-kabul-taliban-zabihullah-mujahid-c35d601f5d05066a11b0b8978b218643|website=AP NEWS|date=2021-10-03|accessdate=2021-10-08|language=en}}</ref>。翌日、タリバーンはカーブルでISホラサン州の隠れ家を襲撃しその場にいた関係者10人を全員殺害した<ref>{{Cite web|title=منبع: ده عضو یک خانواده وابسته به داعش در کابل کشته شدند|url=https://tolonews.com/fa/afghanistan-174900|website=طلوعنیوز|accessdate=2021-10-08|language=fa}}</ref>。
デーオバンド派のタリバーンの一部は[[サラフィー主義|サラフィー主義者]]をISの温床と見なして激しく敵視しており、サラフィー主義者の多いアフガニスタン東部ではターリバーンによるものと推測されるサラフィー派の民間人に対する[[超法規的措置|超法規的処刑]]が横行している<ref>{{Cite web|title=The Taliban is repeating the US’ counterinsurgency mistakes|url=https://www.trtworld.com/opinion/the-taliban-is-repeating-the-us-counterinsurgency-mistakes-51784|website=The Taliban is repeating the US’ counterinsurgency mistakes|accessdate=2021-11-25|language=en}}</ref>。
2021年9月5日、カーブルでサラフィー主義のウラマー(聖職者)オバイドゥラ・ムタワキルがターリバーンによって殺害された。ムタワキルの教え子の多くはISKPに参加していた。翌日、タリバーンはサラフィー主義のモスクやマドラサを36箇所以上も閉鎖した<ref>{{Cite web|title=Afghan chaos mounts as ISIS-K tries to tarnish Taliban triumph|url=https://asia.nikkei.com/Politics/International-relations/Afghanistan-turmoil/Afghan-chaos-mounts-as-ISIS-K-tries-to-tarnish-Taliban-triumph|website=Nikkei Asia|accessdate=2021-10-08|language=en-GB}}</ref>。
現在、ターリバーンはISKPという名の組織の存在を否定して、単に「裏切り者」「[[ハワーリジュ派]](異端者)」と呼び<ref>{{Cite news|title=The Taliban’s secretive war against IS|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-59080871|work=BBC News|date=2021-10-29|accessdate=2021-11-25|language=en-GB}}</ref>、一方でISKPはターリバーンに対して米国と取引したことなどを批判し「[[背教|背教者]]」と呼んでいる。
== 主要な事件 ==
=== 米軍介入前 ===
* 1994年春、30人のターリバーンが地元[[カンダハール州]]の軍閥を攻撃。これが、ターリバーン初の軍事行動となった。
* 1994年11月、アフガニスタン第二の都市、[[カンダハール|カンダハール市]]を制圧した。
* 1995年2月、首都カーブル周辺に布陣していた軍閥[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティヤール]](元首相)派を破った。
* 1995年3月、[[アフガニスタン・イスラム国]]の[[アフマド・シャー・マスード]]司令官と和平交渉するも、決裂しカーブルで内戦再開。マスードの攻撃を受け、ターリバーンの下に逃れたハザラ系シーア派武装勢力の司令官[[アブドゥルアリー・マザーリー]]が不審死。
* 同月、マスード率いる政府軍がカーブルで市街戦を開始し、ターリバーンは郊外に撤退した。
* 1995年8月、西部[[ヘラート州]]から南部カンダハールに向けて進撃してきた[[イスマーイール・ハーン]]率いる政府派部隊を補足し勝利。追撃を続けたターリバーンはそのままヘラートを占領し、イスマーイール・ハーンはイランに逃亡した。
* 1996年8月、ターリバーンはアフガニスタン東部ジャラーラーバードを攻略。
* 1996年9月、カーブル攻略。[[アフガニスタン民主共和国|共産党政権]]時代の大統領[[ムハンマド・ナジーブッラー]]を処刑。続けて、ドスタム・ラッバーニー・マスードに対し死刑を宣告。
* 1997年5月、ドスタム派の支配下にあった[[バルフ州]]の中心都市[[マザーリシャリーフ]]を攻略中のターリバーンが、ハザーラ人や[[アブドゥル・マリク]]の反乱に遭い敗北。捕虜となった数千人のターリバーンは、ダシュテ・ライリ砂漠にてウズベク系のマリク部隊とハザーラ人の武装勢力によって集団処刑された。
* 1997年7月、ターリバーンはドスタム派の中心地である[[ファーリヤーブ州]]と[[ジョウズジャーン州]]を西方から急襲し素早く攻略。ヘラートから東進してきたターリバーン部隊は前二州に続けてバルフ州のドスタム派を無力化した。
* 1997年8月、マザーリシャリーフを攻略したターリバーンは、前回の復讐のために、何千ものウズベク人やハザラ人を大量虐殺した。バルフ州のターリバーンはシーア派はムスリムではないとして、ハザラ人に改宗か死の決断を迫った。一連の出来事の中でシーア派のイラン外交官10人が殺害された。
* 1998年9月、ターリバーンは[[バーミヤーン州|バーミヤーン]]を攻略した。
* 2001年3月、ターリバーンはムハンマドの偶像破壊に倣って、バーミヤーンの大仏遺跡を爆破した。
* 2001年10月、米国を主導とする不朽の自由作戦が開始された。
* 2001年11月-12月、カーブルやカンダハールといった主要都市が北部同盟軍・地方軍閥・多国籍軍の侵攻で陥落し、ターリバーン政権崩壊。
=== 2000年代 ===
*2001年12月、ドスタム派が数千人規模のターリバーン捕虜を虐殺<ref>{{Cite web|title=The Death Convoy Of Afghanistan|url=https://www.newsweek.com/death-convoy-afghanistan-144273|website=Newsweek|date=2002-08-25|accessdate=2021-12-01|language=en|first=John|last=Barry}}</ref>。後年、米国国務省は、米国の同盟軍によって1500人程の捕虜が死亡したとの見解を公表した<ref>{{Cite web|title=U.S. Inaction Seen After Taliban P.O.W.’s Died - The New York Times|url=https://web.archive.org/web/20190826183349/https://www.nytimes.com/2009/07/11/world/asia/11afghan.html|website=web.archive.org|date=2019-08-26|accessdate=2021-12-01}}</ref>。
*2006年12月、米軍はタリバーンの軍事評議会議長であるムッラー・[[アフタール・ムハンマド・ウスマーニー]]をアフガニスタン南部で殺害したと発表。
*2007年5月、同じく軍事司令官で、ターリバーン政権時代に建設相を務めたムッラー・[[ダードゥッラー・アフンド]]が戦闘で死亡。同年12月、タリバーンのスポークスマンである[[ザビウッラー・ムジャーヒド]]は「ダードゥッラー兄弟はタリバーンの規約に反して活動していたため、運動から除名されていた」と関係を否定する声明を発表。
*2008年2月11日、パキスタン国軍は、同国南西部の[[バローチスターン州]]でダードゥッラーの兄弟である[[マンスール・ダードゥッラー]]を拘束したと発表した。
*2008年2月18日、アフガニスタン駐留する[[北大西洋条約機構|NATO]]傘下の[[国際治安支援部隊]]の発表によると、南部ヘルマンド州でタリバーン同州指導者のムッラー・マティーンとムッラー・カリーム・アガーを殺害したと発表した。
*2008年3月31日、ヘルマンド州の州都[[ラシュカルガー]]における戦闘でタリバーン現地指導者の一人、ムッラー・ナキーブッラーをアフガニスタン警察が拘束した。ナキーブッラーは過去2回拘束されているが、その都度に脱走していた。
*2008年7月17日、アフガニスタン駐留多国籍軍の発表によると、ヘルマンド州におけるタリバーン指揮官、ビスムッラー・アフンドを7月12日に殺害したと発表した。
*2008年8月22日、アフガニスタン国防省報道官の声明によると、[[ヘラート州]]において地元の過激派と会合中だったタリバーン現地指導者、ムッラー・ シッディークをアフガン軍が殺害したと発表した。
*2008年9月28日、アフガン治安当局者は、[[ガズニー州]]にて、同州[[アンダル地区]]のタリバーン指導者アブドゥル=ラヒーム・デーシューワら3人が空爆で死亡したと発表した。
*2008年11月23日、NATO傘下の多国籍軍の発表によると、ヘルマンド州において同月19日に同州におけるタリバーン指導者、ムッラー・アサドを殺害したと発表した。アサドは、同州[[ガルムシール地区]]における攻撃の責任者とされる。
*2009年2月15日、駐留米軍は、[[トルクメニスタン]]との国境近くの民家に潜伏していたタリバーン指導者、ムッラー・ダスタジルを殺害したと発表。ダスタジルは昨年11月にアフガニスタン軍兵士が死亡したゲリラ攻撃を指揮したとされる。ダスタギルは以前、テロ容疑で拘束されていたが、恩赦により出獄していた。
*2009年6月23日、[[ウルーズガーン州]][[タリーン・コート]]近郊で起きた、タリバーンとアフガン・[[国際治安支援部隊|ISAF]]合同軍との戦闘で、同地域のタリバーン指導者ムッラー・イスマーイールが死亡した。
*2009年8月6日、パキスタン・ターリバーン運動の最高指導者[[バイトゥッラー・マフスード]]がアメリカの無人偵察機による空爆で死亡したとパキスタン情報当局が発表した。後任には弟の[[ハキームッラー・マフスード]]が就任。
=== 2010年代前半 ===
*2010年1月18日、首都[[カーブル]]中心部でタリバーンが政府施設や市場などを標的にした自爆や銃などによる攻撃を行った。治安当局と激しい銃撃戦となり、少なくとも一般市民の子ども1人を含む5人が死亡、71人が負傷した。タリバーン側は7人が死亡。
*2010年2月16日、[[ニューヨーク・タイムズ]]が、タリバーンの軍事評議会議長で、最高幹部の一人であるムッラー・アブドゥル・ガニ・バラダルが[[パキスタン]]・[[カラーチー]]で拘束されたと報道。バラダルは、タリバーン創設時からのメンバーで、マンスールやウサーマ・ビン=ラーディンとも近かった人物とされ、ターリバーン政権では、国防次官の地位にあった。アフガニスタンのカルザイ大統領は、和平派と目されていたバラダルとの交渉を企図していたことから、パキスタン政府に同人の釈放を求めるも拒絶されたとされる<ref>{{Cite journal|author=山口純|year=2015|title=対「タリバン」交渉の行方|journal=海外事情|volume=63巻2号|page=83-84頁}}</ref>。
*2011年5月2日(米国現地時間[[5月1日]])、[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]が「[[アメリカ軍]]の[[特殊部隊]]がパキスタンの首都[[イスラマバード]]郊外の[[カイバル・パクトゥンクワ州|アボタバード]]にある邸宅でビン・ラーディンを殺害した」と報道した<ref name="cnn.com"/><ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30002624.html 「ビンラディン容疑者が死亡、米大統領演説へ」]CNN([[2011年]][[5月2日]]日本時間午後12時08分)</ref>。CNNの報道直後にアメリカ合衆国大統領[[バラク・オバマ]]は、アメリカ当局がビン・ラーディンとされる遺体を回収し、[[DNA鑑定]]の結果遺体がビン・ラーディンであることが確認されたとの声明を発表した<ref>[http://edition.cnn.com/video/#/video/politics/2011/05/01/sot.obama.bin.laden.dead.cnn?hpt=C2 President Barack Obama is expected to announce that Osama bin Laden is dead. Movie Stream] 2011/5/1 EDT. CNN.com</ref>。
*2011年9月20日、高等和平評議会の[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー|ラッバーニー]]議長(旧北部同盟政権の大統領)を暗殺<ref>{{Cite journal|author=山口純|year=2015|title=対「タリバン」交渉の行方|journal=海外事情|volume=63巻2号|page=86頁}}</ref>。
*2013年6月18日、タリバーンが[[カタール]]の首都[[ドーハ]]に事務所を開設した<ref>{{cite news|title=US officials to hold talks with Taliban in Doha|newspaper=The Peninsula|date=2013-6-19|url=http://thepeninsulaqatar.com/qatar/241878-us-officials-to-hold-talks-with-taliban-in-doha.html|accessdate=2013-6-20}}</ref>。タリバンとアメリカ政府の間で、和平協議が行われることが発表された<ref>{{cite news|title=タリバンが米国とアフガン和平協議へ、ドーハに事務所開設|newspaper=[[トムソン・ロイター|Reuters]]|date=2013-6-18|url=http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE95I00L20130619|accessdate=2013-6-19}}</ref>。[[アフガニスタン]]政府は、当初、この和平交渉に参加する予定だったが、6月19日、[[ハーミド・カルザイ]]大統領が「事務所の開設の仕方とタリバンの声明は、米国がわれわれに保証していたことに明らかに反する」として、交渉がアフガン主導でなければ交渉に参加しないと表明した<ref>{{cite news|title=和平交渉不参加を表明 アフガン大統領|newspaper=産経新聞|date=2013-6-20|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130620/asi13062000580001-n1.htm|accessdate=2013-6-20}}</ref>。
*2013年6月26日、アメリカは、タリバンとアフガニスタン政府との取りまとめができず、アメリカのアフガニスタン・パキスタン特別代表ジェームズ・ドビンズは、アメリカに帰国した。和平交渉の開始は仕切り直しの必要に迫られている<ref>{{cite news|title=アフガン和平交渉仕切り直し 米の思惑見透かすタリバン|newspaper=産経新聞|date=2013-6-27|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130627/asi13062720160001-n1.htm|accessdate=2013-6-27}}</ref>。
*2013年7月9日、ドーハの連絡事務所の一時閉鎖を発表した<ref>{{cite news|title=タリバン、カタールに開設した対外連絡事務所を一時閉鎖|date=2013-07-10|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2955165?pid=11022619|accessdate=2013-07-10|publisher=AFPBB News}}</ref>。
*2014年6月20日-6月28日、[[ヘルマンド州]]州都[[ラシュカルガー]]北東部のサンギン(Sangin)地区にて、タリバーンの部隊と政府軍が交戦。同地区は、タリバーンの攻勢に圧され2010年には[[イギリス軍]]部隊が撤収する難攻の地であったが、政府軍側が800人以上の戦闘員を投入して制圧。政府側は、6月28日に同地における事実上の勝利宣言を行った。政府側の発表では、政府側の死者28人、タリバーン側の死者およそ260人<ref>{{Cite news|title=「南部でタリバンに勝利」、アフガン治安部隊が発表|date=2014-06-29|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3019108|accessdate=2014-06-29|publisher=フランス通信社|work=AFPBBNews}}</ref>。
=== 2010年代後半 ===
*2015年7月8日、[[イスラマバード]]でアフガニスタン政府がタリバーンと初の直接の公式和平協議。これまで仲介に関与してきた中国と米国のオブザーバーも参加した<ref name=reuters2015>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-taliban-idJPKCN0PI0TA20150708|publisher=[[ロイター]]|author=|title=アフガン代表団とタリバンが初の直接協議、対話継続を確認|date=2015-07-08|accessdate=2018-01-01}}</ref>。
*2015年7月30日、消息が不明だったムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認された。序列2位の[[アフタル・ムハンマド・マンスール]]は死後2年間、オマルの権威を利用してオマルの名前で声明を発表していた。後継の指導者はマンスールとなる<ref name="sankei150730">[https://www.sankei.com/article/20150730-FTT5YKAGGBMWXNRX2KPKSDLVUE/ オマル師死亡 タリバンも認める 世界欺き死後2年も「偽声明」 後継は序列2位] 産経ニュース 2015年7月30日</ref><ref name="nikkei150730">[https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM30H7H_Q5A730C1FF2000/ 「タリバン、新指導者を選出 序列2位マンスール師」]『日本経済新聞』2015年7月30日</ref>。
*2016年1月11日、イスラマバードでパキスタン、アフガニスタン、中国、米国による初の4カ国協議<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20160114/k00/00m/030/115000c|publisher=毎日新聞|author=|title=和平の4カ国協議、定期的に協議継続で合意|date=2016-01-13|accessdate=2018-01-01}}</ref>。タリバーンとの和平を目標に定例会合を行う「4か国調整グループ(QCG)」が設立<ref>{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html|publisher=日本国外務省|author=|title=アフガニスタン基礎データ|date=2017-07-25|accessdate=2018-01-01}}</ref>。
*2016年3月6日、タリバーンが和平交渉を拒否<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM05H8L_V00C16A3FF8000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=アフガン、タリバンが和平交渉拒否|date=2016-03-06|accessdate=2018-01-01}}</ref>。
*2016年5月21日(または5月20日)、アフタル・ムハンマド・マンスールがアメリカ軍の無人機の空爆を受け死亡した<ref name="newsweek160522" /><ref>[https://www.sankei.com/article/20160523-UB7UYWQLY5KO5LYCWGGSXY3QIA/ 複数のタリバン関係者がマンスール師死亡を「確認」]産経ニュース(2016年5月23日)</ref>。
*2016年5月25日、タリバーンがマンスールの死を公式に認め、後継にハイバトゥラー・アクンザダが選ばれたことを発表した<ref name="sankei160525" />。
*2016年11月29日、タリバーンが公式サイトで中国企業の{{仮リンク|中国冶金科工集団|en|China Metallurgical Group Corporation}}が契約した{{仮リンク|メス・アイナク|en|Mes Aynak}}の銅鉱山開発計画などの保護を発表<ref>{{Cite news|url=https://www.epochtimes.jp/2016/12/26569.html|publisher=[[大紀元]]|author=|title=タリバン、中国契約の銅山開発に「ゴー」 仏教遺跡の破壊懸念|date=2016-12-24|accessdate=2019-07-04}}</ref>。
*2017年1月–3月23日、ヘルマンド州州都ラシュカルガ―北東部のサンギン(Sangin)地区がタリバーンに奪還された。特殊部隊を投入しトンネル戦術等を駆使するタリバーンに対し、政府軍は空爆によって対抗したものの攻勢を抑えきれず撤退した<ref>{{Cite news|title=Afghan Taliban capture crucial town of Sangin|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-39365330|work=BBC News|date=2017-03-23|accessdate=2021-07-12|language=en-GB}}</ref>。
*2018年6月、[[ラマダーン]]に合わせて政府側が18日間にわたり停戦。うちラマダーンあけの祭り、[[イド・アル=フィトル]]の3日間は、タリバーン側も停戦に応えてほぼ完全な停戦状態となった。しかし、祭り後はタリバーン側は戦闘を再開。政府軍側も同年6月30日より戦闘を再開している<ref>{{Cite web|和書|date=2018年7月1日|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3180678?cx_part=top_category&cx_position=5|title=アフガン政府がタリバン攻撃再開 大統領は再停戦の「用意」も表明|publisher=AFP|accessdate=2018-07-02}}</ref>。
*2019年1月26日、米アフガン特別代表の[[ザルメイ・ハリルザド]]がカタールでのタリバーンとの6日間にわたる前例のない和平協議で非常に重要な成果を得たと述べた<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3208281|title=米とタリバン、アフガン和平協議で「大きく前進」|publisher=[[AFPBB]]|date=2019-01-26|accessdate=2019-04-28}}</ref>。米軍撤退で大筋合意があったと報じられた<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40533990X20C19A1FF8000/|title=米、アフガン撤収18カ月以内 タリバンと合意か|publisher=日本経済新聞|date=2019-01-27|accessdate=2019-06-25}}</ref>。
*2019年2月5日、タリバーンとアフガニスタンのカルザイ前大統領らによるアフガン和平に関する会議が[[ロシア]]の首都[[モスクワ]]で開かれた。タリバーンの代表は米軍撤退後に単独の政権樹立は目指さないとの姿勢を示したと報じられた<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、単独政権目指さず 米軍撤退後、アフガン和平会議|url=https://www.sankei.com/world/news/190206/wor1902060002-n1.html|website=産経ニュース|date=2019-02-06|accessdate=2019-02-06|publisher=産経新聞社}}</ref>。
*2019年4月26日、米アフガン特別代表のザルメイ・ハリルザドがモスクワを訪問してタリバーンとの和平案で中国やロシアと合意した<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3222885|title=米、アフガンからの外国軍撤退でロシア・中国と合意|publisher=AFPBB|date=2019-04-27|accessdate=2019-04-28}}</ref>。
*2019年、タリバンの勢力が拡大しつつあり、6月時点、アフガニスタンの地区の46.2%を掌握し、または勢力圏内に入っていると報道された<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。
*2019年6月20日、中国政府はタリバーンの代表団が訪中して和平交渉やテロ対策などで意見交換したことを発表した<ref>{{cite news|url=https://www.scmp.com/news/china/diplomacy/article/3015405/china-hosts-taliban-delegation-discuss-afghan-peace-process|title=China hosts Taliban delegation to discuss Afghan peace process, counterterrorism issues|publisher=[[サウスチャイナ・モーニング・ポスト]]|date=2019-06-20|accessdate=2019-06-25}}</ref>。
*2019年9月7日、[[ドナルド・トランプ]]米大統領は、1年近くタリバーンと進めてきた和平交渉を中止することを発表。目前には[[キャンプ・デービッド]]にタリバーン幹部やアシュラフ・ガニ大統領らを招いた極秘会談がセットされていたが、アメリカ兵を目標とした自爆攻撃がやまなかったことが交渉中止の理由とした<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-08|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3243530|title=トランプ氏、タリバンとの和平交渉中止を発表 極秘会談も取りやめ|publisher=AFP|accessdate=2019-09-10}}</ref>。
*2019年9月13日-10月2日、ロシア、イラン、中国、パキスタンをタリバーンの代表団が歴訪した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-03|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3247704|title=タリバン政治部門トップがパキスタンを訪問、米アフガン担当特別代表も滞在中|publisher=AFPBB|accessdate=2019-11-30}}</ref>。
*2019年11月28日、トランプ大統領はアフガニスタンを電撃訪問してタリバーンとの協議を呼びかけ、翌29日にタリバーンは協議再開の受け入れを表明した<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-29|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKBN1Y30Q1|title=タリバン、米と和平協議再開の用意と表明|publisher=[[ロイター]]|accessdate=2019-11-30}}</ref>。
=== 2020年代 ===
* 2021年8月15日、[[2021年ターリバーン攻勢]]によりアフガニスタンの首都カーブルを[[実効支配]]。
* 9月8日、タリバーン暫定政権が発足され[[ハッサン・アフンド|ハサン・アフンド]]を首相とした暫定政権が発足された。
* 2023年12月6日、タリバーン暫定政権は中国が世界で初めて大使を受け入れた国となったと発表した<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM06ES30W3A201C2000000/|title=タリバン「中国が大使受け入れ」 初の承認と主張 |work=[[日本経済新聞]] |date=2023-12-07 |accessdate=2023-12-14}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]]
* [[アフガニスタン紛争 (2001年-)]]
* [[国際連合安全保障理事会決議1267]]
* [[国際連合安全保障理事会決議1333]]
* [[国際連合安全保障理事会決議1368]]
* [[勧善懲悪省]]
* [[イスラム主義]]
* [[イスラム原理主義]]
* [[イスラーム教徒による宗教的迫害]]
* [[中村哲 (医師)]]
* [[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャーリー・ウィルソン]]
* [[タリバン政権下のアフガニスタン軍]]
== 外部サイト ==
*[https://www.fsa.go.jp/news/18/sonota/20061227-6.html タリバーン関係者等と関連すると疑われる取引の届出について] - [[金融庁]]
* {{Kotobank|タリバン}}
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[[Category:極右政党]] | 2003-03-23T15:18:11Z | 2023-12-29T04:03:59Z | false | false | true | [
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲午]]
* [[日本]]
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* [[中国]]
** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]8年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[栄留王]]17年
** [[百済]]:[[武王 (百済)|武王]]35年
** [[新羅]]:(王)[[善徳女王]]3年、(元号)[[仁平 (新羅)|仁平]]元年
** [[檀紀]]2967年
* [[ベトナム]] : 貞観8年
* [[仏滅紀元]] :
* [[ユダヤ暦]] :
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== カレンダー ==
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== できごと ==
== 誕生 ==
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* [[新城公主]]、[[唐]]の太宗[[太宗 (唐)|李世民]]の二十一女(+ [[662年]])
* [[泉男生]]、[[高句麗]]の[[政治家]]、[[軍人]](+ [[679年]])
* [[李福 (唐)|李福]]、唐の太宗[[太宗 (唐)|李世民]]の十三男、趙王(+ [[670年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[8月23日]] - [[アブー・バクル]]、初代[[正統カリフ]](* [[573年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|634}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:634年|*]] | 2003-03-23T15:25:35Z | 2023-09-12T16:38:28Z | false | false | false | [
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5,012 | レーガン | レーガン (Reagan) は、アイルランドで「小さな王」を意味する姓。英語圏では従前Regan姓と同じく「リーガン」と発音していたが、後述のロナルド・レーガンが発音の変更を行ったのを機に「レーガン(より厳密にはレイガン)」姓を名乗る人が増えた。 | [
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] | レーガン (Reagan) は、アイルランドで「小さな王」を意味する姓。英語圏では従前Regan姓と同じく「リーガン」と発音していたが、後述のロナルド・レーガンが発音の変更を行ったのを機に「レーガン(より厳密にはレイガン)」姓を名乗る人が増えた。 | '''レーガン'''(Reagan)は、[[アイルランド]]で「小さな王」を意味する姓。
英語圏では従前'''Regan'''姓と同じく「リーガン」と発音していたが、後述のロナルド・レーガンが発音の変更を行ったのを機に「レーガン(より厳密にはレ'''イ'''ガン)」姓を名乗る人が増えた。
== 人名 ==
* [[ロナルド・レーガン]] - 第40代[[アメリカ合衆国大統領]]。
* [[ナンシー・レーガン]] - ロナルドの妻。
* [[ジョン・レーガン]] - [[南北戦争]]期の[[アメリカ連合国]]郵政長官・財務長官。
* [[トシ・レーガン]] (Toshi Reagon) - アメリカのフォーク/ブルース・ミュージシャン。
== その他 ==
* [[ロナルド・レーガン (空母)]] - [[アメリカ海軍]]の[[ニミッツ級航空母艦]]。
* レーガン - アニメ『[[銀河漂流バイファム]]』に登場する、カールビンソン級宇宙駆逐艦。
* [[レーガン (映画)]] - 2022年公開のロナルド・レーガンの伝記映画。
* reagan high school
== 関連項目 ==
* [[リーガン]] - こちらもアイルランド語に由来するが表記は「Regan」である。
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[[Category:アイルランド語の姓]]
[[Category:英語の姓]] | 2003-03-23T15:31:05Z | 2023-10-22T07:50:33Z | true | false | false | [
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5,013 | ロナルド・レーガン | ロナルド・ウィルソン・レーガン(英語: Ronald Wilson Reagan、1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の政治家、俳優。同国第40代大統領(在任: 1981年1月20日 - 1989年1月20日)。それ以前はカリフォルニア州知事を務めた。選出当時は歴代最高齢で、2022年10月時点でも歴代3位の高齢(69歳349日)で選出された大統領である。また大統領就任ごろまでのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「リーガン」と表記されていた(後述)。対日関係上の愛称は「ロン」。
映画俳優から政治家に転じ、1981年1月21日にアメリカ合衆国大統領に就任した。1期目は経済の回復を最大の目標に掲げ、「レーガノミクス」と呼ばれる大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復と共に双子の赤字をもたらした。外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、「強いアメリカ」を印象付けた。
2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、政権に対して各方面から批判が目立ったものの、レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判した。「力による平和(英語版)」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのサッチャー首相・日本の中曽根康弘首相・西ドイツのコール首相などの同盟国の首脳と密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援し、冷戦の終結に大きく貢献した。
2期目に就任した時点で73歳11ヶ月の高齢であり、暗殺未遂事件にも遭いつつも2期8年の任期を満了。ウィリアム・ハリソンが当選した1840年10月から続いていた「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、「テカムセの呪い」にも終止符が打たれた。
大統領退任から5年後に自らのアルツハイマー病を告白し、公の場には出ず闘病に専念するようになった。11年間の闘病の後、2004年6月5日に93歳で死去した。
1911年2月6日、イリノイ州タンピコにて父のジョン・レーガンと母のネル・ウィルソンの間の次男として誕生した。数年間に渡り町から町へ引っ越した後、1920年12月に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。
アイルランド系の父親はカトリック教会に属していたが、スコットランド系の母親はプロテスタント「主流派」のディサイプル教会の熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。なお兄のニールは父と同じカトリックを選んだ。父はアルコール依存で、母の属する教派は禁酒派だった。幼少のころのレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。父は毎週土曜日に子供たちを映画に連れて行ったが、人種差別を嫌ったため、子供であるレーガンに人気があったものの黒人差別主義の映画(「國民の創生」)を見せなかったと伝えられる。
1924年、ディクソンのディクソン高校に入学した。1926年、ディクソンの北5キロメートルにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでライフガードとして働き、これが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私にありがとうを言わなかった」と語った。
1928年9月にイリノイ州のユーリカ大学(英語版)に入学し、経済学と社会学を専攻して1932年6月に卒業した。
大学卒業後は話術と演技の能力を活かして、イリノイ州シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーの職に就いた。
ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像力と話術の才能を使い実況放送を行った。1934年のセントルイス・カージナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。
その後レーガンはハリウッドに向かい、1937年4月にワーナーブラザースと契約して映画俳優としての経歴を歩み始めた。ちなみにワーナーブラザースがこの時期に若手俳優を急募していた理由は、同年1月に借金苦で自殺した若手俳優ロス・アレクサンダーの代わりになる、長身でハンサムな脇役俳優がどうしても必要であったからである。そういう経緯もあってレーガンがワーナーブラザースに採用された決め手は、アナウンサー上がりのレーガンの声質と物腰が、なんとなく自殺したアレクサンダーと似ていたからであった。映画初出演は『Love is On the Air』(1937年10月公開)で、その後二枚目俳優としての地位を築き上げ1939年末までに19本の映画に出演した。1940年9月には『Knute Rockne All American』で、実在した大学フットボールのスター選手で、主役のヌートの親友でもあったジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じて人気になった。そこからレーガンは「ギッパー」という愛称を得た。このころに『風と共に去りぬ』のオーディションにも参加した。
デビュー後には次代のハリウッドを代表する二枚目スターとしての将来を嘱望されていたが、同時に俳優組合などでも要職に就くなど政治活動に若い時期から携わっていた。なお俳優デビュー直前の1935年2月にアメリカ陸軍の予備役将校になっている。
レーガンの出演作は日本でも数多く公開され、日本でも知られている映画の出演作に『カンサス騎兵隊』(1940年12月)、『殺人者たち』(1964年7月、ドン・シーゲル監督)などがある。レーガン本人によると、自己最高の作品は『嵐の青春(英語版)』(1942年4月公開、原題:Kings Row)であるという。レーガン自身は主演ではなく二番手であるが、映画はアカデミー作品賞にノミネートされ、映画評論家にも高評価を受け実力を認められた作品である。 その他の代表作には、『決闘の町』『海軍のヘルキャット(英語版)』『This Is the Army』『Bedtime for Bonzo』などがある。
ナレーターとしての仕事も多く、アカデミー短編映画賞にノミネートされた『ソード・フィッシング(英語版)』(1939年10月公開)などが代表作である。第二次世界大戦時には、1941年12月8日の真珠湾攻撃を受けたアメリカ参戦の後に招集されたが、視力が弱かったためアメリカ陸軍航空軍第1映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わった。終戦までハリウッドに残り陸軍大尉まで昇進した。
その後1950年代の終わりごろには、映画スターとしての知名度と巧みな話術を生かし、テレビショー『ジェネラル・エレクトリック・シアター』の司会やテレビCMへの出演など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへと活動の場を移していった。なお1955年には、地元のカリフォルニアにオープンしたディズニーランドのオープンを記念したテレビ番組にも出演している。なおテレビでも人気を博し様々な番組に出演したものの、その後政治の世界へと本格的に軸足を移し、『Death Valley Days』の司会がレーガンの俳優としての最後の仕事となった。1960年2月、ロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、テレビ放送業界に貢献したとしてレーガンの名前が刻まれた星形の敷石が設置された。
1940年1月に女優のジェーン・ワイマンと結婚した。ワイマンとの間には長女のモーリーン(1941年1月 - 2001年8月)と養子に迎えた長男のマイケル(1945年3月誕生)がいる。1947年6月にも娘が誕生したが、4ヵ月の早産で翌日に死去している。
妻のジェーンはレーガンとは違って派手さに欠けるが、演技力の高さで着実にキャリアアップを果たしていた。この為、決して演技力が高い訳ではなく、俳優としての人気に陰りが見えて来たレーガンは、演技派女優と呼ばれていたジェーンに対する嫉妬を抱いて夫婦関係が悪化し、1949年3月に妻のジェーンのアカデミー主演女優賞受賞が引き金になり、同年7月に離婚した。なお、レーガンは離婚歴のあるアメリカ史上初の大統領である(2人目はドナルド・トランプ)。
1952年3月には女優のナンシー・デイビスと再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。ナンシー夫人との間には次女のパトリシア・アン(1952年10月誕生)と次男のロン(1958年5月誕生)がいる。1957年5月に公開された『海軍のヘルキャット』では夫婦共演を果たした。
1940年代後半から1950年代にかけてアメリカを吹き荒れた反共産主義・反ソ機運は、レーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンはフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持して、リベラル派としてキャリアを始めたが、のちに保守主義者に転じた。
レーガンは俳優かつ映画俳優組合(SAG)の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーやリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。しかしレーガンは多くの反共主義者と異なり、アメリカ共産党の非合法化には強く反対した。
政府と取り引きが多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリックがスポンサーとなったテレビ番組「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会を務めるきっかけとなったのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。
その後行われた1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。その後レーガンはゼネラル・エレクトリックがタービンを納めているテネシー川流域開発公社に反対して「ジェネラル・エレクトリック・シアター」のパーソナリティーから降板させられた。
その後レーガンはカリフォルニア州知事に出馬・当選し、1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任した。レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。
例えば州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険か分かって乗っているはずだ。ならばヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要は無い」というものだった(カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義務化された)。
また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。レーガンはベトナム戦争終結後の1975年1月までカリフォルニア州知事を務めた。
レーガンは1968年アメリカ合衆国大統領選挙に初出馬したが、同じくカリフォルニア州を地元とする元副大統領リチャード・ニクソン相手に予備選挙の段階で票が伸びず敗退した。その後の1972年アメリカ合衆国大統領選挙では、ベトナム戦争からの撤退に向けて積極的に動いていたニクソンが勢いを保ったこともあり出馬しなかった。
1976年アメリカ合衆国大統領選挙にも出馬した。この時は現職の大統領ジェラルド・フォードに肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票でフォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗した。
しかし満を持して臨んだ1980年アメリカ合衆国大統領選挙では難無く共和党の大統領候補への正式指名を獲得した。選挙活動は民主党選出の現職大統領であるジミー・カーター政権で起きたイランアメリカ大使館人質事件への対応で特徴付けられた。この事件は人質解放に向けた軍事作戦が無残な失敗に終わった後、イラン政府との間で人質の解放に向けた有効な交渉も行われず、打開策が無いまま1年近く未解決になっていたからである。
さらに経済不振から現職のカーターが苦戦を強いられた。また大統領選挙の公開討論ではカーターがアンダーソンとの公開討論を拒否し、カーターとレーガン、レーガンとアンダーソンの間でのみ公開討論会が行われた。
レーガンは、この選挙で「Make America Great Again」(アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)をスローガンとして掲げた。このスローガンは、後年の2016年アメリカ合衆国大統領選挙においてドナルド・トランプにより再び用いられることになる。最終的にレーガンは選挙人投票ではカーターとの間に489対49と大差をつけた上に、一般投票でもカーターに約10パーセントの差(50.7パーセント対41.0パーセント)をつけて当選した。
その後ほとんどのアナリストはカーターのイランのアメリカ大使館人質事件の解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北及びレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。
実際にこの選挙の時には少なくない民主党員までもが現職の大統領カーターを見限り、レーガンに投票する現象が発生した。彼らは俗に「レーガン・デモクラット(en:Reagan Democrat)」と呼ばれるようになる。また俳優時代に培われた演技力・演出力もレーガンの有力な武器の一つだった。
カーターに批判が集まり支持率が落ち続ける中で有利に選挙戦を進めるレーガンに対し、海外の反米そして反共和党的なマスコミは、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営がイラン政府と秘密の取り引きを結んだ」という根拠の無い非難をした。これについては、1980年オクトーバーサプライズ陰謀論(1980_October_Surprise_theory)として知られるようになり、アメリカ議会でも1992年の下院特別調査委員会(House October Surprise Task Force)が設置されるなどして調査されたが、この説は信憑性がないとされた。
1981年1月21日、レーガンは第40代アメリカ合衆国大統領に就任した。なお就任当日にイランのアメリカ大使館人質事件において人質となっていた大使館員らが、444日間ぶりに解放された。
また再選をかけた1984年アメリカ合衆国大統領選挙でも、民主党候補の前副大統領ウォルター・モンデールに空前の地滑り的大勝を果たした。その後1989年1月20日まで在任し、ドワイト・D・アイゼンハワー(在任期間は1953年1月20日から1961年1月20日)以来久々に2期8年の任期を満了したアメリカ合衆国大統領となった。
レーガン政権の船出はイランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。大統領就任から69日後の1981年3月30日にアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)会議での演説を終えてワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出したレーガンをジョン・ヒンクリーが狙撃したのである。
3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェイムズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの3人が被弾してその場に倒れた。
レーガンはシークレットサービスのジェリー・パーによって大統領専用車に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。しかし出血が認められなかったので、車に押し込まれたときの勢いでどこか痛めたのだろうと思ったという。ところがパーとの会話中に不意に咳き込み、泡立った鮮血を吐いた。これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾で肺に穴が開いていると判断し、運転手に最寄りの病院へ急行するよう指示した。実際に弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まり、かなりの内出血を起していた。救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどだった。
それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせている。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものとなった。ただし、手術に際し大統領権限の一時的移譲手続きは行われておらず、事態はそれほど切迫したものであった(権限委譲については「健康」の節を参照)。なお、冷戦下における「国家の安全上の理由」(実際に銃撃事件の直後にソ連の潜水艦がアメリカの大西洋沿岸に集結するなどの不穏な動きが見られた)から、レーガンの詳しい容態が同じく狙撃され重傷を負ったブレイディの代理である副報道官のラリー・スピークスからマスコミに明らかにされたのは、レーガンが退院してからのことである。
レーガンは70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後の4月11日に退院。在職中に銃撃され、銃弾が命中しながら死を免れた最初の大統領となった。
レーガンは入院中にも妻のナンシーに「避けるのを忘れてたよ (Honey, I forgot to duck.)」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」を引用したものである。公務復帰後も、演説中に会場の飾りつけ風船が破裂した際に「しくじったな」と述べて聴衆から喝采を浴びた。
大統領選挙戦のころから見せていたレーガンのこうした機智や茶目っ気は全米を魅了して、史上最大の地滑り的勝利をレーガンにもたらすことに貢献したが、これはこの後8年間の政権を通じて変わることがなかった。政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、レーガンの比較的高い支持率は決して急落することが無かったのも、こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところが極めて大きかった。
なおこの事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際して購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(この法律の名称は重傷を負った報道官に由来する。)である。この法律は2005年に全米ライフル協会などの抵抗により、効力延長手続きがされず失効している。
大統領就任後それまでの需要中心では無く、供給力強化を目的としたサプライサイド経済学に基づくレーガノミクス(レーガノミックスとも)と呼ばれる一連の経済政策を発表した。具体的には軍事支出の拡大のほか、減税による供給の刺激、インフレーションの抑制を掲げた政策であった。また、アメリカにとって初の自由貿易協定である米国・イスラエル自由貿易協定(英語版)をイスラエルと締結し、自由貿易を推し進めた。一方で日米貿易摩擦では保護貿易主義的な姿勢であり、日本製のパーソナルコンピュータとテレビなどに100パーセントの関税を賦課したこともあった。
レーガンの「麻薬との戦争 (War on Drugs)」政策は麻薬犯罪者の投獄を推進した。
人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年には戦後長らく懸案の課題だった第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり2万ドルの損害賠償を行っている。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである(1983年)。
1981年に症例報告された後天性免疫不全症候群 (AIDS) に関して、この新しい感染病の「大流行」が多くの医療専門家から警告されていたにもかかわらず有効な対策を打たなかったため「封じ込め」に失敗した。その結果わずか10年程度で爆発的に感染者が増加して大きな社会問題となった。
1981年8月5日、レーガンは職場復帰命令を無視した1万1359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヵ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。
留まる事なく軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。
その槍玉にあげられたのがデタントだった。レーガン政権は、デタントを「米ソ両国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決には全くならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因」であるとして否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。代わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は以下の通りである。
というシナリオだった。
果たしてその読み通り早くも1980年代中ごろになるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。1984年にはレーガンはソ連とその同盟国を除いた1984年ロサンゼルスオリンピックを挙行して西側諸国の結束を誇示した。また1985年にゴルバチョフが書記長に就任すると、「グラスノスチ」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。西側諸国の一員である日本も防衛費1パーセント枠を1987年より廃止し防衛費を一時的に増額した。
こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは自らも強硬な外交路線を修正し、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。
レーガンはゴルバチョフとジュネーヴ(1985年11月)・レイキャビク(1986年10月)・ワシントンD.C.(1987年12月)・モスクワ(1988年6月)と4度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東ヨーロッパ問題だったが、1回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、2回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは3回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できた。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。
翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です(“I was talking about another time, another era.”)」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフはモスクワ大学で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。
後に回想録『わがアメリカンドリーム レーガン回想録』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、腹を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。また当時、2人の親密な関係を指して「Rega-Chev(レガーチェブ)」と読んだ新聞さえ出現した。また、冗談交じりに宇宙人の襲来を仮定した冷戦終結と米ソ協調の可能性をゴルバチョフと語ることもあり、この比喩は1987年の軍縮のための国連演説でも用いられた。
大統領退任後に「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東ヨーロッパの反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月にハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁制を廃止し、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東ヨーロッパ諸国は雪崩を打って民主化を果たし、レーガンの後任であったジョージ・H・W・ブッシュとゴルバチョフのマルタ会談が行われて冷戦は終結した。ソビエト連邦が解体されたのは、それから2年後のことだった。
1980年に国際連合で採択された特定通常兵器使用禁止制限条約には1982年に署名した。
中南米の社会主義政権に対して寛容な態度を取ったカーター前政権とは対照的に、「レーガン・ドクトリン」によってアメリカは徐々にラテン・アメリカの社会主義政権や反体制ゲリラに対して、タカ派的外交姿勢をとりはじめる。このようにして敵視された政権にはサンディニスタ民族解放戦線などの決してソ連やキューバのような共産主義を掲げる訳ではない政権も多かったが、そのような事情は全て無視され、「反共」の理念の下に叩き潰された。
しかし、これは1960年代から繰り返し批判されてきたアメリカの「ダブルスタンダード」(相手が親米反共か反米・容共かにより外交で正反対の態度を取ったこと)を再び浮き彫りにするものでもあった。
「エルサルバドル死守」を中米外交の基本政策に掲げ、中米紛争ではニカラグアのコントラやエルサルバドル軍、グアテマラ軍、及び極右民兵組織を支援し、CIAを使って各国軍の死の部隊による「汚い戦争」を支え、結果的にニカラグア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦を激化させて当該地域で何十万人という犠牲者と、何百万人もの亡命者を出す要因を作った。このような態度から、「レーガンは公然と反共ゲリラ戦争を支援している」と非難するものもいた。
ニカラグアの指導者であるダニエル・オルテガは、激しさを増す第二次ニカラグア内戦の最中にこう語っている。
その一方で1982年に中米問題や国内の左翼ゲリラへの弾圧などで技術協力していたアルゼンチンの親米軍事政権がフォークランド紛争を引き起こした時はイギリスに全面的に協力した。さらに1983年にレーガンは、カリブ海の小さな島国グレナダで社会主義政権内でのクーデターが起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した(グレナダ侵攻)。このグレナダ侵攻作戦は実は就任当初から周到に準備されており、就任当初からグレナダのニュー・ジュエル運動による人民革命政府を崩壊させようとプエルトリコのビエケス島で軍事演習を繰り返していた。
レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐ホンジュラスアメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。
またレーガンは1973年にアメリカが支援したチリ・クーデターによって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていたチリのアウグスト・ピノチェト将軍を「友人の中の友人」と呼び、カーター政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。
こうした態度を信頼できなくなったラテン・アメリカ諸国はコンタドーラ・グループを結成して独自に中米紛争の解決に取り掛かることになった。この紛争の最中にアメリカ合衆国に抵抗してコントラの一派ARDEの基地を撤去し、特に問題解決に尽力したコスタリカの大統領オスカル・アリアス・サンチェスにはノーベル平和賞が授与された。
その任期の終盤には自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦が終結に向かっていったことにより共産主義の浸透の心配が無くなったラテン・アメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめたが、それでもレーガンの任期中にチリ・エルサルバドル・グアテマラでは、アメリカ合衆国に支援された「反共」を掲げる軍事独裁政権による暴力が止むことは無かった。
1986年にはイラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアのサンディニスタ政権に対する秘密軍事支援のスキャンダル及び調査があった。
1985年8月、アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。人質を救出する為にレーガン政権は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦っていたものの劣勢であったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束した。しかし当時のアメリカは、イラン革命後の1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件によりイランとの国交を断絶しており、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていた上に、政治家・官僚・軍人による同国政府との公式な交渉も禁じられていた。
レーガン直々の承認を受けて極秘裏にイランに対して武器を輸出したばかりか、国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らが、イランに武器を売却したことで得た収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた。
しかしイランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用というそれぞれの行為は、本来なら必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時民主党が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。またこの時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は、レーガン政権において副大統領のブッシュであったとされ、このブッシュの関与が、後の民主党政権下の連邦議会における公聴会で取りあげられた。
しかし最終的に、レーガンには自らのスタッフに対する管理が不十分だった点にのみ罪があるとされ、この事件は終結を迎えた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものだったが、その政治生命へのダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなかったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。
1989年には、手先だったはずの軍最高司令官マヌエル・ノリエガを失脚させるべく、パナマへ軍を進めた。
1982年よりレバノン内戦に対して平和維持軍としてアメリカ海兵隊及びアメリカ海軍をレバノンに派遣した。1983年10月23日には兵舎がイスラム民兵による自爆トラック攻撃を受け、241人の海兵隊員が死亡した。シリア軍に激しい攻撃を行った後、翌1984年2月にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。
レーガンは各国の首脳と軒並み友好関係を持ったが、なかでも西側諸国のサミット国の指導者とは親密な関係を保った。イギリスのマーガレット・サッチャー首相、カナダのブライアン・マルルーニー首相、日本の中曽根康弘首相、イタリアのアミントレ・ファンファーニ首相などとは特に「仲良し」なことを公言して憚らず、大統領の「公式プライベート空間」であるキャンプ・デービッドや、レーガン個人がカリフォルニア州に所有する牧場に彼らを招いてもてなしたりもした。
こうしたファーストネームで呼び合う文化がない同盟国の首脳までとも、親密さを演出するためにお互いにファーストネームの短縮型で呼び合うことを提案して外交プロトコルに革命をもたらしたのも、気さくなレーガンならではのことだった。レーガンと中曽根もお互いに「ロン」「ヤス」と呼び合い、これが先例となって今日まで日米首脳の多くはこの「ファーストネーム ベース」で呼び合うことを踏襲している。
日本はアメリカの同盟国であるだけで無く、世界有数の経済力を持つアジアで唯一の先進国であると同時に、当時のアジアにおいて唯一安定した民主主義政治が確立された国でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営と社会主義陣営の2極化が進むと、アジア太平洋地域においてアメリカ軍の基地を抱え、超大国のソ連を太平洋側から抑える位置にある日本の戦略的な重要性はますます高まった。
1970年代に表面化した日本との貿易摩擦に対しては、アメリカ国内の保守派や大企業・組合などからのプレッシャーを受けて一貫して強硬姿勢をとり続けたが、冷戦に正面から対峙し続けたレーガン政権が、このような日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。
レーガンのソ連への強硬路線は日米関係にも影響を与えた。大韓航空機撃墜事件やレフチェンコ事件など、冷戦下の北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取った他、極東アジアにおける軍事的なプレゼンスを高めるため、青森県の三沢基地に当時最新鋭の戦闘機であったF-16戦闘機の飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸軍・海軍・空軍・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開した。
特に同年代でお互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。そうした背景からレーガンは1983年11月9日から12日・1986年5月4日から・1989年5月2日から7日と、現職のアメリカ合衆国大統領としては最多の3度に渡り日本を公式訪問している。この間に東京をオフショア市場化した。
最初の訪日では昭和天皇(当時の今上天皇)や中曽根と会談した他、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曽根が11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘である「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。日の出山荘を訪れる前日には、明治神宮で流鏑馬を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。国会で、これからの世界平和・日米協力の必要性を説いた時、俳句を引用し(「草いろいろおのおの花の手柄かな」)、これは与野党を問わず大喝采を受けた。2004年のレーガン国葬にも当時86歳の中曽根はたっての願いで参列して故人を惜しんでいる。
大統領就任後間も無く、1981年2月に韓国の大統領全斗煥を最初の国賓としてホワイトハウスに招待し、レーガン同様に反共主義を標榜する全との良好な関係をアピールすることで反共軍事同盟を重視すると意思表示を行うことで、ソ連と北朝鮮に対してプレッシャーを与えた。一方レーガン陣営は政権移行期から軍事独裁政権であった韓国政府に対して慎重に働きかけを行い、死刑宣告を受けていた反政府運動(全斗煥は軍事クーデターにより政権を獲得し、反対派に対し武力による弾圧を行っていた)の指導者・金大中を釈放するよう促しており、村田晃嗣はこれを、レーガンの前任者ジミー・カーターが標榜した人権外交になぞらえ、「レーガン流の静かな人権外交」と評している。
1985年夏にレーガンの大腸にできていたポリープが生体組織検査の結果悪性であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年のアメリカ合衆国憲法修正第25条の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うことを決定した。手術は7月13日の朝方から始まり、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領がこの間約8時間に渡って大統領権限を代行している。
1987年1月5日には前立腺癌の摘出手術も受けているが、この際は局所麻酔で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。
その後は耳が遠くなる、受け答えが鈍くなるなど、老化に特有の現象に見舞われることにはなった。レーガンは以前から難聴ぎみで、就任の翌年には早くも現職大統領として初めて補聴器を着用しはじめていたが、2期目に入ったころからその度合いが進行し、公の席でも傍らにいたナンシー夫人がことあるごとに耳打ちをするようにまでなっていた。この光景をアメリカのメディアは「ファーストレディーの政治へ容喙」などとして取りあげたことから、ナンシー夫人は「ナンシー・レーガン大統領」などといった陰口を後々まで叩かれることになった。ともかくも8年の任期をつとめあげ、1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら3期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈った。
一方で病気が政権運営に支障を来していたとの指摘も多い。レーガンの執務時間は政権末期になると明らかに少なくなっており、特に最後の2年は政策の詳細には関与していなかったという。
1989年1月20日、レーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・H・W・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。2期8年の任期を全うしたのはドワイト・D・アイゼンハワー以来である。同年来日して東京ドームでの1989年の日本シリーズ第3戦で始球式を行っている。
なおレーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章ナイト・グランド・クロス位 (GBE) を受けナイトの称号を許されたが、「アメリカ合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」のポスト・ノミナル・レターズを付けることは一度も無かった。
レーガンはホワイトハウスを去ってから4年後の1993年、アルツハイマー病と診断された。病は年を追う毎に進行し、人前に出ず、静かでプライベートな環境で余生を送らざるを得なくなった。妻のナンシーは自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日数時間行うことによって症状の進行を食い止めたという。1994年4月に死去したニクソンの葬儀に出席したが、これが公の場に姿を現した最後の日となった。同年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。
レーガンの最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.(私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉は、多くの人々に深い感銘を与えた。
2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、健康状態はさらに不安定になった。
レーガンがアルツハイマー病を実際に発病した時期については諸説あり、在任中には既に患っていたとする説もある。次男のロンは2011年出版の回顧録の中で、1984年の前副大統領ウォルター・モンデールとの討論会において父のロナルドの異変に気がついたと指摘している。一方で大統領在任中の主治医や側近、またロナルド・レーガン大統領財団は在任中には病気の兆候は無かったとしている。しかし、相手のモンデールもその時にロン同様に異変を感じたと述懐。またホワイトハウスのスタッフも、あるボヤ騒ぎの際に煙の充満する部屋の中で全く身動きを取ろうとしなかった姿を目撃し、それを「奇行」と捉えていた。
1998年2月6日、ワシントンD.C.のナショナル空港が「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」と改名された。さらにニミッツ級航空母艦の9番艦は2001年3月4日に「ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)」と命名された。2003年7月12日の就役式典には闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー夫人が出席した。
2004年6月5日の午後1時9分に、かねてから自宅で療養中であったレーガンはロサンゼルス近郊の高級住宅街、ベル・エアー (Bel Air) の自宅で肺炎のため死去した。
レーガンは妻のナンシー及び子供のマイケル、パティ・デイビス及びロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて93歳120日の生涯を閉じた。死去時、歴代アメリカ合衆国大統領の中で最長寿だったが、2021年11月現在では存命中であるジミー・カーター(98歳)、2018年11月30日に94歳171日で死去したジョージ・H・W・ブッシュ、2006年12月26日に93歳165日で死去したジェラルド・フォードにつぐ歴代4位の長寿である。
レーガンの葬儀は1973年のリンドン・ジョンソン以来の国葬として2004年6月11日に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬では、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュ、元大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、イギリスの元首相マーガレット・サッチャー、カナダの元首相ブライアン・マルルーニーらが弔辞を述べた。
またレーガンと親交の深かった日本の首相である中曽根康弘や、ソ連の大統領ミハイル・ゴルバチョフら大統領時代に交流のあった現在及び過去の政府トップ多数が世界中から参列し、その光景は各国のテレビや新聞などのマスコミを通じ、全世界で報道された。
葬儀当日の夕方、日没の時刻に地元カリフォルニア州シミバレーにあるロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。
2011年にはレーガンの生誕100周年として ハンガリーのブダペスト、ポーランドのワルシャワ、グダニスク、ジョージアのトビリシなどソ連の衛星国だった旧東ヨーロッパ圏の諸都市でも、冷戦をアメリカの勝利に導いたことで自由を自国に届けたレーガンを讃える銅像の建立ブームが起きている。2017年にはウクライナとルーマニアも自由への意志を込めて、国内にレーガンの銅像建立を推進しているなど評価されている。
英語における「Reagan」の本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選挙の当たりまでは「ロナルド・リーガン」と名乗っていた。しかし共和党から党大統領候補の指名を受けた際に、自分のルーツがアイルランド系であり、アイルランド語では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ[rei]」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レイガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつて無かったため、この件は意外性をもって報じられた。
ただ、多民族国家であるアメリカでは、民族の伝統の継承や自己の歴史に対する誇りに重きを置く。アイルランド系アメリカ人はヨーロッパからアメリカ合衆国へ組織的に移民した古参格で、強い民族意識と横の連帯を武器にアメリカ社会で確固たる地位を築いてきた。その後のヨーロッパからの移民の中には、新天地での暮らしが少しでも容易になるよう、自らの姓を英語風に改める者もいた中で、誇り高いアイルランド系のアメリカ人にはルーツを貫く者が多かった。このような要因から、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の上昇につながった。
もう1つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元メリルリンチ会長のドナルド・リーガン(Donald Regan)の存在であった。リーガンはレーガンの側近ともいえる人物で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実視されていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけである。この二つの名前はいかにも紛らわしいため、アメリカの報道も、こぞってレーガン候補の表明に同調する形で発音を変更し、Reganは従来通りの発音に据え置くことにした。レーガンの名が浸透した今日では、逆に「リーガン」の方が「レーガン」と呼び間違えられることが多いという。
これを受けて、日本のメディア報道においても表記がそれまでの「リーガン」から「レーガン」に変更されたが、一部では大統領選を経て就任式を過ぎてからもしばらく両表記が混在していたため、春ごろアメリカ大使館は日本の報道機関に対して、適切な表記に変更するよう要望する書簡を送付した。外国大使館からのこのような要望は前代未聞であり、この件は日本でも話題性のあるニュースとなった。
レーガンのお気に入りの映画は1985年公開のアメリカ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、ホワイトハウス内の専用上映室で何度も見たという。
この映画にはタイムマシンで30年前の1955年にタイムスリップした主人公のマーティ・マクフライが、そこでこのタイムマシンを作った科学者、若かりしころのエメット・ブラウン博士(ドク)と対面、自分が未来から来たことを告げる。そんなことは全く信じないドクが「1985年におけるアメリカ合衆国大統領は誰だ?」と聞くと、マーティは「ロナルド・レーガン」と答えるが、ドクは(出まかせを言っているものだと判断し)呆れて「ロナルド・レーガン? 俳優の? なら副大統領は誰だ?(コメディアンの)ジェリー・ルイスか?ファーストレディはジェーン・ワイマンで財務長官はジャック・ベニーか?」と、小馬鹿にして笑うシーンがある(その場面の少し前に、出演者として、レーガンの名前がある映画『バッファロー平原(Cattle Queen of Montana)』のポスターが映り込むという伏線がある)。
1986年2月4日の一般教書演説で、レーガンは逆に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の最後に語られる台詞を引用し、
という一節を挿入して、アメリカ合衆国議会で喝采を浴びている。
なお、他にも『レッズ』などがお気に入りで、ホワイトハウス内の上映室で鑑賞していた。
レーガンの茶目っ気と洗練されたジョークはアメリカ合衆国を魅了したが、軽口が災いして、ひとつ間違えば外交問題に発展するか、下手をすれば全面核戦争や第三次世界大戦にもなりかねないような状況を作ってしまったこともあった。
1984年8月8日、定例ラジオ演説の本番前のマイクロフォンテストで、常套句 "Testing, testing, one, two, three." (本日は晴天なり・マイクテスト)を言うかわりに、「国民の皆さま、喜ばしいご報告があります。私はただいまソビエト社会主義共和国連邦を永遠に葬り去る法案に署名しました。爆撃は5分後に始まります(My fellow Americans, I am pleased to tell you I just signed legislation which outlaws Russia forever. The bombing begins in five minutes.)」と言った。このメッセージはその時点で放送されなかったが、その後リークされて物議を醸した。ソ連のタス通信は「アメリカ合衆国大統領の比類無き敵対行動に抗議する」「多くの人の運命を預かる核保有国のトップとして適切な発言では無い」と抗議した。
2011年6月29日、東ヨーロッパの民主化に果たしたレーガンの功績を称え、生誕100年に合わせて、ハンガリーのブダペストでレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはアメリカのコンドリーザ・ライス前国務長官とハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相らが出席した。レーガン像は高さ2.2メートル。旧ソ連記念碑(旧ソ連が1945年の「ハンガリー解放」を誇示するために建立した記念碑)のそばにある。
2011年7月4日、レーガンの生誕100年を記念してイギリスのロンドンでレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはイギリスのウィリアム・ヘイグ外相、アメリカのコンドリーザ・ライス国務長官らが出席。イギリスのマーガレット・サッチャー元首相の祝辞が読み上げられた。 | [
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"text": "ロナルド・ウィルソン・レーガン(英語: Ronald Wilson Reagan、1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の政治家、俳優。同国第40代大統領(在任: 1981年1月20日 - 1989年1月20日)。それ以前はカリフォルニア州知事を務めた。選出当時は歴代最高齢で、2022年10月時点でも歴代3位の高齢(69歳349日)で選出された大統領である。また大統領就任ごろまでのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「リーガン」と表記されていた(後述)。対日関係上の愛称は「ロン」。",
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"text": "映画俳優から政治家に転じ、1981年1月21日にアメリカ合衆国大統領に就任した。1期目は経済の回復を最大の目標に掲げ、「レーガノミクス」と呼ばれる大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復と共に双子の赤字をもたらした。外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行うなど、「強いアメリカ」を印象付けた。",
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"text": "2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、政権に対して各方面から批判が目立ったものの、レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判した。「力による平和(英語版)」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのサッチャー首相・日本の中曽根康弘首相・西ドイツのコール首相などの同盟国の首脳と密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援し、冷戦の終結に大きく貢献した。",
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"text": "2期目に就任した時点で73歳11ヶ月の高齢であり、暗殺未遂事件にも遭いつつも2期8年の任期を満了。ウィリアム・ハリソンが当選した1840年10月から続いていた「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、「テカムセの呪い」にも終止符が打たれた。",
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"text": "大統領退任から5年後に自らのアルツハイマー病を告白し、公の場には出ず闘病に専念するようになった。11年間の闘病の後、2004年6月5日に93歳で死去した。",
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"text": "1911年2月6日、イリノイ州タンピコにて父のジョン・レーガンと母のネル・ウィルソンの間の次男として誕生した。数年間に渡り町から町へ引っ越した後、1920年12月に一家はイリノイ州ディクソンに定住した。",
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"text": "アイルランド系の父親はカトリック教会に属していたが、スコットランド系の母親はプロテスタント「主流派」のディサイプル教会の熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。なお兄のニールは父と同じカトリックを選んだ。父はアルコール依存で、母の属する教派は禁酒派だった。幼少のころのレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。父は毎週土曜日に子供たちを映画に連れて行ったが、人種差別を嫌ったため、子供であるレーガンに人気があったものの黒人差別主義の映画(「國民の創生」)を見せなかったと伝えられる。",
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"text": "1924年、ディクソンのディクソン高校に入学した。1926年、ディクソンの北5キロメートルにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーでライフガードとして働き、これが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私にありがとうを言わなかった」と語った。",
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"text": "1928年9月にイリノイ州のユーリカ大学(英語版)に入学し、経済学と社会学を専攻して1932年6月に卒業した。",
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"text": "大学卒業後は話術と演技の能力を活かして、イリノイ州シカゴの大リーグチーム・シカゴ・カブスのラジオアナウンサーの職に就いた。",
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"text": "ティッカー(ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像力と話術の才能を使い実況放送を行った。1934年のセントルイス・カージナルス戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。",
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"text": "その後レーガンはハリウッドに向かい、1937年4月にワーナーブラザースと契約して映画俳優としての経歴を歩み始めた。ちなみにワーナーブラザースがこの時期に若手俳優を急募していた理由は、同年1月に借金苦で自殺した若手俳優ロス・アレクサンダーの代わりになる、長身でハンサムな脇役俳優がどうしても必要であったからである。そういう経緯もあってレーガンがワーナーブラザースに採用された決め手は、アナウンサー上がりのレーガンの声質と物腰が、なんとなく自殺したアレクサンダーと似ていたからであった。映画初出演は『Love is On the Air』(1937年10月公開)で、その後二枚目俳優としての地位を築き上げ1939年末までに19本の映画に出演した。1940年9月には『Knute Rockne All American』で、実在した大学フットボールのスター選手で、主役のヌートの親友でもあったジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じて人気になった。そこからレーガンは「ギッパー」という愛称を得た。このころに『風と共に去りぬ』のオーディションにも参加した。",
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"text": "デビュー後には次代のハリウッドを代表する二枚目スターとしての将来を嘱望されていたが、同時に俳優組合などでも要職に就くなど政治活動に若い時期から携わっていた。なお俳優デビュー直前の1935年2月にアメリカ陸軍の予備役将校になっている。",
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"text": "レーガンの出演作は日本でも数多く公開され、日本でも知られている映画の出演作に『カンサス騎兵隊』(1940年12月)、『殺人者たち』(1964年7月、ドン・シーゲル監督)などがある。レーガン本人によると、自己最高の作品は『嵐の青春(英語版)』(1942年4月公開、原題:Kings Row)であるという。レーガン自身は主演ではなく二番手であるが、映画はアカデミー作品賞にノミネートされ、映画評論家にも高評価を受け実力を認められた作品である。 その他の代表作には、『決闘の町』『海軍のヘルキャット(英語版)』『This Is the Army』『Bedtime for Bonzo』などがある。",
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"text": "ナレーターとしての仕事も多く、アカデミー短編映画賞にノミネートされた『ソード・フィッシング(英語版)』(1939年10月公開)などが代表作である。第二次世界大戦時には、1941年12月8日の真珠湾攻撃を受けたアメリカ参戦の後に招集されたが、視力が弱かったためアメリカ陸軍航空軍第1映画部隊に配属され、訓練用・教育用の映画やプロパガンダ映画の制作・ナレーションに携わった。終戦までハリウッドに残り陸軍大尉まで昇進した。",
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"text": "その後1950年代の終わりごろには、映画スターとしての知名度と巧みな話術を生かし、テレビショー『ジェネラル・エレクトリック・シアター』の司会やテレビCMへの出演など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへと活動の場を移していった。なお1955年には、地元のカリフォルニアにオープンしたディズニーランドのオープンを記念したテレビ番組にも出演している。なおテレビでも人気を博し様々な番組に出演したものの、その後政治の世界へと本格的に軸足を移し、『Death Valley Days』の司会がレーガンの俳優としての最後の仕事となった。1960年2月、ロサンゼルスのハリウッド大通り6374番のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、テレビ放送業界に貢献したとしてレーガンの名前が刻まれた星形の敷石が設置された。",
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"text": "1940年1月に女優のジェーン・ワイマンと結婚した。ワイマンとの間には長女のモーリーン(1941年1月 - 2001年8月)と養子に迎えた長男のマイケル(1945年3月誕生)がいる。1947年6月にも娘が誕生したが、4ヵ月の早産で翌日に死去している。",
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"text": "妻のジェーンはレーガンとは違って派手さに欠けるが、演技力の高さで着実にキャリアアップを果たしていた。この為、決して演技力が高い訳ではなく、俳優としての人気に陰りが見えて来たレーガンは、演技派女優と呼ばれていたジェーンに対する嫉妬を抱いて夫婦関係が悪化し、1949年3月に妻のジェーンのアカデミー主演女優賞受賞が引き金になり、同年7月に離婚した。なお、レーガンは離婚歴のあるアメリカ史上初の大統領である(2人目はドナルド・トランプ)。",
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"text": "1952年3月には女優のナンシー・デイビスと再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。ナンシー夫人との間には次女のパトリシア・アン(1952年10月誕生)と次男のロン(1958年5月誕生)がいる。1957年5月に公開された『海軍のヘルキャット』では夫婦共演を果たした。",
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"text": "1940年代後半から1950年代にかけてアメリカを吹き荒れた反共産主義・反ソ機運は、レーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンはフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策を支持して、リベラル派としてキャリアを始めたが、のちに保守主義者に転じた。",
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"text": "レーガンは俳優かつ映画俳優組合(SAG)の委員長の立場でありながら上院議員ジョセフ・マッカーシーやリチャード・ニクソン率いる下院非米活動委員会に協力し、「ハリウッドの赤狩り」(=マッカーシズム)に手を貸した。しかしレーガンは多くの反共主義者と異なり、アメリカ共産党の非合法化には強く反対した。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "政府と取り引きが多い電機メーカーのゼネラル・エレクトリックがスポンサーとなったテレビ番組「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会を務めるきっかけとなったのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その後行われた1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、レーガンは小さな政府を唱えるアリゾナ州選出の上院議員バリー・ゴールドウォーターの熱烈な支持者だった。その後レーガンはゼネラル・エレクトリックがタービンを納めているテネシー川流域開発公社に反対して「ジェネラル・エレクトリック・シアター」のパーソナリティーから降板させられた。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "その後レーガンはカリフォルニア州知事に出馬・当選し、1967年1月に第33代カリフォルニア州知事に就任した。レーガンの自由主義者としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "例えば州議会を「バイクに乗る際、ヘルメットの着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険か分かって乗っているはずだ。ならばヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要は無い」というものだった(カリフォルニア州では1992年にヘルメット着用が義務化された)。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また当時激戦を極めていたベトナム戦争に関して「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。レーガンはベトナム戦争終結後の1975年1月までカリフォルニア州知事を務めた。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "レーガンは1968年アメリカ合衆国大統領選挙に初出馬したが、同じくカリフォルニア州を地元とする元副大統領リチャード・ニクソン相手に予備選挙の段階で票が伸びず敗退した。その後の1972年アメリカ合衆国大統領選挙では、ベトナム戦争からの撤退に向けて積極的に動いていたニクソンが勢いを保ったこともあり出馬しなかった。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1976年アメリカ合衆国大統領選挙にも出馬した。この時は現職の大統領ジェラルド・フォードに肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票でフォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗した。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "しかし満を持して臨んだ1980年アメリカ合衆国大統領選挙では難無く共和党の大統領候補への正式指名を獲得した。選挙活動は民主党選出の現職大統領であるジミー・カーター政権で起きたイランアメリカ大使館人質事件への対応で特徴付けられた。この事件は人質解放に向けた軍事作戦が無残な失敗に終わった後、イラン政府との間で人質の解放に向けた有効な交渉も行われず、打開策が無いまま1年近く未解決になっていたからである。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "さらに経済不振から現職のカーターが苦戦を強いられた。また大統領選挙の公開討論ではカーターがアンダーソンとの公開討論を拒否し、カーターとレーガン、レーガンとアンダーソンの間でのみ公開討論会が行われた。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "レーガンは、この選挙で「Make America Great Again」(アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)をスローガンとして掲げた。このスローガンは、後年の2016年アメリカ合衆国大統領選挙においてドナルド・トランプにより再び用いられることになる。最終的にレーガンは選挙人投票ではカーターとの間に489対49と大差をつけた上に、一般投票でもカーターに約10パーセントの差(50.7パーセント対41.0パーセント)をつけて当選した。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "その後ほとんどのアナリストはカーターのイランのアメリカ大使館人質事件の解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北及びレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "実際にこの選挙の時には少なくない民主党員までもが現職の大統領カーターを見限り、レーガンに投票する現象が発生した。彼らは俗に「レーガン・デモクラット(en:Reagan Democrat)」と呼ばれるようになる。また俳優時代に培われた演技力・演出力もレーガンの有力な武器の一つだった。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "カーターに批判が集まり支持率が落ち続ける中で有利に選挙戦を進めるレーガンに対し、海外の反米そして反共和党的なマスコミは、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営がイラン政府と秘密の取り引きを結んだ」という根拠の無い非難をした。これについては、1980年オクトーバーサプライズ陰謀論(1980_October_Surprise_theory)として知られるようになり、アメリカ議会でも1992年の下院特別調査委員会(House October Surprise Task Force)が設置されるなどして調査されたが、この説は信憑性がないとされた。",
"title": "政治経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1981年1月21日、レーガンは第40代アメリカ合衆国大統領に就任した。なお就任当日にイランのアメリカ大使館人質事件において人質となっていた大使館員らが、444日間ぶりに解放された。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また再選をかけた1984年アメリカ合衆国大統領選挙でも、民主党候補の前副大統領ウォルター・モンデールに空前の地滑り的大勝を果たした。その後1989年1月20日まで在任し、ドワイト・D・アイゼンハワー(在任期間は1953年1月20日から1961年1月20日)以来久々に2期8年の任期を満了したアメリカ合衆国大統領となった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "レーガン政権の船出はイランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。大統領就任から69日後の1981年3月30日にアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)会議での演説を終えてワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出したレーガンをジョン・ヒンクリーが狙撃したのである。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェイムズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの3人が被弾してその場に倒れた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "レーガンはシークレットサービスのジェリー・パーによって大統領専用車に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。しかし出血が認められなかったので、車に押し込まれたときの勢いでどこか痛めたのだろうと思ったという。ところがパーとの会話中に不意に咳き込み、泡立った鮮血を吐いた。これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾で肺に穴が開いていると判断し、運転手に最寄りの病院へ急行するよう指示した。実際に弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まり、かなりの内出血を起していた。救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどだった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせている。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものとなった。ただし、手術に際し大統領権限の一時的移譲手続きは行われておらず、事態はそれほど切迫したものであった(権限委譲については「健康」の節を参照)。なお、冷戦下における「国家の安全上の理由」(実際に銃撃事件の直後にソ連の潜水艦がアメリカの大西洋沿岸に集結するなどの不穏な動きが見られた)から、レーガンの詳しい容態が同じく狙撃され重傷を負ったブレイディの代理である副報道官のラリー・スピークスからマスコミに明らかにされたのは、レーガンが退院してからのことである。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "レーガンは70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後の4月11日に退院。在職中に銃撃され、銃弾が命中しながら死を免れた最初の大統領となった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "レーガンは入院中にも妻のナンシーに「避けるのを忘れてたよ (Honey, I forgot to duck.)」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」を引用したものである。公務復帰後も、演説中に会場の飾りつけ風船が破裂した際に「しくじったな」と述べて聴衆から喝采を浴びた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "大統領選挙戦のころから見せていたレーガンのこうした機智や茶目っ気は全米を魅了して、史上最大の地滑り的勝利をレーガンにもたらすことに貢献したが、これはこの後8年間の政権を通じて変わることがなかった。政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、レーガンの比較的高い支持率は決して急落することが無かったのも、こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところが極めて大きかった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "なおこの事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際して購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(この法律の名称は重傷を負った報道官に由来する。)である。この法律は2005年に全米ライフル協会などの抵抗により、効力延長手続きがされず失効している。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "大統領就任後それまでの需要中心では無く、供給力強化を目的としたサプライサイド経済学に基づくレーガノミクス(レーガノミックスとも)と呼ばれる一連の経済政策を発表した。具体的には軍事支出の拡大のほか、減税による供給の刺激、インフレーションの抑制を掲げた政策であった。また、アメリカにとって初の自由貿易協定である米国・イスラエル自由貿易協定(英語版)をイスラエルと締結し、自由貿易を推し進めた。一方で日米貿易摩擦では保護貿易主義的な姿勢であり、日本製のパーソナルコンピュータとテレビなどに100パーセントの関税を賦課したこともあった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "レーガンの「麻薬との戦争 (War on Drugs)」政策は麻薬犯罪者の投獄を推進した。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "人種差別問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、1988年には戦後長らく懸案の課題だった第2次世界大戦中の日系人の強制収容に対して謝罪と1人当たり2万ドルの損害賠償を行っている。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである(1983年)。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1981年に症例報告された後天性免疫不全症候群 (AIDS) に関して、この新しい感染病の「大流行」が多くの医療専門家から警告されていたにもかかわらず有効な対策を打たなかったため「封じ込め」に失敗した。その結果わずか10年程度で爆発的に感染者が増加して大きな社会問題となった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1981年8月5日、レーガンは職場復帰命令を無視した1万1359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヵ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "留まる事なく軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その槍玉にあげられたのがデタントだった。レーガン政権は、デタントを「米ソ両国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決には全くならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因」であるとして否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。代わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は以下の通りである。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "というシナリオだった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "果たしてその読み通り早くも1980年代中ごろになるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。1984年にはレーガンはソ連とその同盟国を除いた1984年ロサンゼルスオリンピックを挙行して西側諸国の結束を誇示した。また1985年にゴルバチョフが書記長に就任すると、「グラスノスチ」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。西側諸国の一員である日本も防衛費1パーセント枠を1987年より廃止し防衛費を一時的に増額した。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは自らも強硬な外交路線を修正し、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "レーガンはゴルバチョフとジュネーヴ(1985年11月)・レイキャビク(1986年10月)・ワシントンD.C.(1987年12月)・モスクワ(1988年6月)と4度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東ヨーロッパ問題だったが、1回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、2回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは3回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できた。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です(“I was talking about another time, another era.”)」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフはモスクワ大学で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "後に回想録『わがアメリカンドリーム レーガン回想録』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、腹を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。また当時、2人の親密な関係を指して「Rega-Chev(レガーチェブ)」と読んだ新聞さえ出現した。また、冗談交じりに宇宙人の襲来を仮定した冷戦終結と米ソ協調の可能性をゴルバチョフと語ることもあり、この比喩は1987年の軍縮のための国連演説でも用いられた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "大統領退任後に「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東ヨーロッパの反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月にハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁制を廃止し、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東ヨーロッパ諸国は雪崩を打って民主化を果たし、レーガンの後任であったジョージ・H・W・ブッシュとゴルバチョフのマルタ会談が行われて冷戦は終結した。ソビエト連邦が解体されたのは、それから2年後のことだった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1980年に国際連合で採択された特定通常兵器使用禁止制限条約には1982年に署名した。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "中南米の社会主義政権に対して寛容な態度を取ったカーター前政権とは対照的に、「レーガン・ドクトリン」によってアメリカは徐々にラテン・アメリカの社会主義政権や反体制ゲリラに対して、タカ派的外交姿勢をとりはじめる。このようにして敵視された政権にはサンディニスタ民族解放戦線などの決してソ連やキューバのような共産主義を掲げる訳ではない政権も多かったが、そのような事情は全て無視され、「反共」の理念の下に叩き潰された。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし、これは1960年代から繰り返し批判されてきたアメリカの「ダブルスタンダード」(相手が親米反共か反米・容共かにより外交で正反対の態度を取ったこと)を再び浮き彫りにするものでもあった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "「エルサルバドル死守」を中米外交の基本政策に掲げ、中米紛争ではニカラグアのコントラやエルサルバドル軍、グアテマラ軍、及び極右民兵組織を支援し、CIAを使って各国軍の死の部隊による「汚い戦争」を支え、結果的にニカラグア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦を激化させて当該地域で何十万人という犠牲者と、何百万人もの亡命者を出す要因を作った。このような態度から、「レーガンは公然と反共ゲリラ戦争を支援している」と非難するものもいた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ニカラグアの指導者であるダニエル・オルテガは、激しさを増す第二次ニカラグア内戦の最中にこう語っている。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "その一方で1982年に中米問題や国内の左翼ゲリラへの弾圧などで技術協力していたアルゼンチンの親米軍事政権がフォークランド紛争を引き起こした時はイギリスに全面的に協力した。さらに1983年にレーガンは、カリブ海の小さな島国グレナダで社会主義政権内でのクーデターが起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した(グレナダ侵攻)。このグレナダ侵攻作戦は実は就任当初から周到に準備されており、就任当初からグレナダのニュー・ジュエル運動による人民革命政府を崩壊させようとプエルトリコのビエケス島で軍事演習を繰り返していた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐ホンジュラスアメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "またレーガンは1973年にアメリカが支援したチリ・クーデターによって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていたチリのアウグスト・ピノチェト将軍を「友人の中の友人」と呼び、カーター政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "こうした態度を信頼できなくなったラテン・アメリカ諸国はコンタドーラ・グループを結成して独自に中米紛争の解決に取り掛かることになった。この紛争の最中にアメリカ合衆国に抵抗してコントラの一派ARDEの基地を撤去し、特に問題解決に尽力したコスタリカの大統領オスカル・アリアス・サンチェスにはノーベル平和賞が授与された。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "その任期の終盤には自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦が終結に向かっていったことにより共産主義の浸透の心配が無くなったラテン・アメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめたが、それでもレーガンの任期中にチリ・エルサルバドル・グアテマラでは、アメリカ合衆国に支援された「反共」を掲げる軍事独裁政権による暴力が止むことは無かった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1986年にはイラン・コントラ事件として知られるイランとニカラグアのサンディニスタ政権に対する秘密軍事支援のスキャンダル及び調査があった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1985年8月、アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。人質を救出する為にレーガン政権は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦っていたものの劣勢であったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束した。しかし当時のアメリカは、イラン革命後の1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件によりイランとの国交を断絶しており、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていた上に、政治家・官僚・軍人による同国政府との公式な交渉も禁じられていた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "レーガン直々の承認を受けて極秘裏にイランに対して武器を輸出したばかりか、国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らが、イランに武器を売却したことで得た収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "しかしイランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用というそれぞれの行為は、本来なら必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時民主党が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。またこの時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は、レーガン政権において副大統領のブッシュであったとされ、このブッシュの関与が、後の民主党政権下の連邦議会における公聴会で取りあげられた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "しかし最終的に、レーガンには自らのスタッフに対する管理が不十分だった点にのみ罪があるとされ、この事件は終結を迎えた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものだったが、その政治生命へのダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなかったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「テフロン大統領」と呼んだ。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1989年には、手先だったはずの軍最高司令官マヌエル・ノリエガを失脚させるべく、パナマへ軍を進めた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1982年よりレバノン内戦に対して平和維持軍としてアメリカ海兵隊及びアメリカ海軍をレバノンに派遣した。1983年10月23日には兵舎がイスラム民兵による自爆トラック攻撃を受け、241人の海兵隊員が死亡した。シリア軍に激しい攻撃を行った後、翌1984年2月にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "レーガンは各国の首脳と軒並み友好関係を持ったが、なかでも西側諸国のサミット国の指導者とは親密な関係を保った。イギリスのマーガレット・サッチャー首相、カナダのブライアン・マルルーニー首相、日本の中曽根康弘首相、イタリアのアミントレ・ファンファーニ首相などとは特に「仲良し」なことを公言して憚らず、大統領の「公式プライベート空間」であるキャンプ・デービッドや、レーガン個人がカリフォルニア州に所有する牧場に彼らを招いてもてなしたりもした。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "こうしたファーストネームで呼び合う文化がない同盟国の首脳までとも、親密さを演出するためにお互いにファーストネームの短縮型で呼び合うことを提案して外交プロトコルに革命をもたらしたのも、気さくなレーガンならではのことだった。レーガンと中曽根もお互いに「ロン」「ヤス」と呼び合い、これが先例となって今日まで日米首脳の多くはこの「ファーストネーム ベース」で呼び合うことを踏襲している。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
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{
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"text": "日本はアメリカの同盟国であるだけで無く、世界有数の経済力を持つアジアで唯一の先進国であると同時に、当時のアジアにおいて唯一安定した民主主義政治が確立された国でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営と社会主義陣営の2極化が進むと、アジア太平洋地域においてアメリカ軍の基地を抱え、超大国のソ連を太平洋側から抑える位置にある日本の戦略的な重要性はますます高まった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
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"paragraph_id": 78,
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"text": "1970年代に表面化した日本との貿易摩擦に対しては、アメリカ国内の保守派や大企業・組合などからのプレッシャーを受けて一貫して強硬姿勢をとり続けたが、冷戦に正面から対峙し続けたレーガン政権が、このような日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
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{
"paragraph_id": 79,
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"text": "レーガンのソ連への強硬路線は日米関係にも影響を与えた。大韓航空機撃墜事件やレフチェンコ事件など、冷戦下の北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取った他、極東アジアにおける軍事的なプレゼンスを高めるため、青森県の三沢基地に当時最新鋭の戦闘機であったF-16戦闘機の飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸軍・海軍・空軍・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開した。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
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"text": "特に同年代でお互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。そうした背景からレーガンは1983年11月9日から12日・1986年5月4日から・1989年5月2日から7日と、現職のアメリカ合衆国大統領としては最多の3度に渡り日本を公式訪問している。この間に東京をオフショア市場化した。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
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"text": "最初の訪日では昭和天皇(当時の今上天皇)や中曽根と会談した他、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曽根が11月11日に東京都西多摩郡日の出町の別荘である「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。日の出山荘を訪れる前日には、明治神宮で流鏑馬を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。国会で、これからの世界平和・日米協力の必要性を説いた時、俳句を引用し(「草いろいろおのおの花の手柄かな」)、これは与野党を問わず大喝采を受けた。2004年のレーガン国葬にも当時86歳の中曽根はたっての願いで参列して故人を惜しんでいる。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "大統領就任後間も無く、1981年2月に韓国の大統領全斗煥を最初の国賓としてホワイトハウスに招待し、レーガン同様に反共主義を標榜する全との良好な関係をアピールすることで反共軍事同盟を重視すると意思表示を行うことで、ソ連と北朝鮮に対してプレッシャーを与えた。一方レーガン陣営は政権移行期から軍事独裁政権であった韓国政府に対して慎重に働きかけを行い、死刑宣告を受けていた反政府運動(全斗煥は軍事クーデターにより政権を獲得し、反対派に対し武力による弾圧を行っていた)の指導者・金大中を釈放するよう促しており、村田晃嗣はこれを、レーガンの前任者ジミー・カーターが標榜した人権外交になぞらえ、「レーガン流の静かな人権外交」と評している。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 83,
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"text": "1985年夏にレーガンの大腸にできていたポリープが生体組織検査の結果悪性であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年のアメリカ合衆国憲法修正第25条の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うことを決定した。手術は7月13日の朝方から始まり、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領がこの間約8時間に渡って大統領権限を代行している。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
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"text": "1987年1月5日には前立腺癌の摘出手術も受けているが、この際は局所麻酔で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
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"text": "その後は耳が遠くなる、受け答えが鈍くなるなど、老化に特有の現象に見舞われることにはなった。レーガンは以前から難聴ぎみで、就任の翌年には早くも現職大統領として初めて補聴器を着用しはじめていたが、2期目に入ったころからその度合いが進行し、公の席でも傍らにいたナンシー夫人がことあるごとに耳打ちをするようにまでなっていた。この光景をアメリカのメディアは「ファーストレディーの政治へ容喙」などとして取りあげたことから、ナンシー夫人は「ナンシー・レーガン大統領」などといった陰口を後々まで叩かれることになった。ともかくも8年の任期をつとめあげ、1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら3期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈った。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 86,
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"text": "一方で病気が政権運営に支障を来していたとの指摘も多い。レーガンの執務時間は政権末期になると明らかに少なくなっており、特に最後の2年は政策の詳細には関与していなかったという。",
"title": "第40代アメリカ合衆国大統領"
},
{
"paragraph_id": 87,
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"text": "1989年1月20日、レーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・H・W・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。2期8年の任期を全うしたのはドワイト・D・アイゼンハワー以来である。同年来日して東京ドームでの1989年の日本シリーズ第3戦で始球式を行っている。",
"title": "引退"
},
{
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"text": "なおレーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスのエリザベス2世女王から大英帝国勲章ナイト・グランド・クロス位 (GBE) を受けナイトの称号を許されたが、「アメリカ合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」のポスト・ノミナル・レターズを付けることは一度も無かった。",
"title": "引退"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "レーガンはホワイトハウスを去ってから4年後の1993年、アルツハイマー病と診断された。病は年を追う毎に進行し、人前に出ず、静かでプライベートな環境で余生を送らざるを得なくなった。妻のナンシーは自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日数時間行うことによって症状の進行を食い止めたという。1994年4月に死去したニクソンの葬儀に出席したが、これが公の場に姿を現した最後の日となった。同年11月5日、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。",
"title": "引退"
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"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "レーガンの最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.(私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉は、多くの人々に深い感銘を与えた。",
"title": "引退"
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{
"paragraph_id": 91,
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"text": "2001年に南カリフォルニアの自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、健康状態はさらに不安定になった。",
"title": "引退"
},
{
"paragraph_id": 92,
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"text": "レーガンがアルツハイマー病を実際に発病した時期については諸説あり、在任中には既に患っていたとする説もある。次男のロンは2011年出版の回顧録の中で、1984年の前副大統領ウォルター・モンデールとの討論会において父のロナルドの異変に気がついたと指摘している。一方で大統領在任中の主治医や側近、またロナルド・レーガン大統領財団は在任中には病気の兆候は無かったとしている。しかし、相手のモンデールもその時にロン同様に異変を感じたと述懐。またホワイトハウスのスタッフも、あるボヤ騒ぎの際に煙の充満する部屋の中で全く身動きを取ろうとしなかった姿を目撃し、それを「奇行」と捉えていた。",
"title": "引退"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "1998年2月6日、ワシントンD.C.のナショナル空港が「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」と改名された。さらにニミッツ級航空母艦の9番艦は2001年3月4日に「ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)」と命名された。2003年7月12日の就役式典には闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー夫人が出席した。",
"title": "引退"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "2004年6月5日の午後1時9分に、かねてから自宅で療養中であったレーガンはロサンゼルス近郊の高級住宅街、ベル・エアー (Bel Air) の自宅で肺炎のため死去した。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "レーガンは妻のナンシー及び子供のマイケル、パティ・デイビス及びロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて93歳120日の生涯を閉じた。死去時、歴代アメリカ合衆国大統領の中で最長寿だったが、2021年11月現在では存命中であるジミー・カーター(98歳)、2018年11月30日に94歳171日で死去したジョージ・H・W・ブッシュ、2006年12月26日に93歳165日で死去したジェラルド・フォードにつぐ歴代4位の長寿である。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "レーガンの葬儀は1973年のリンドン・ジョンソン以来の国葬として2004年6月11日に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬では、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュ、元大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、イギリスの元首相マーガレット・サッチャー、カナダの元首相ブライアン・マルルーニーらが弔辞を述べた。",
"title": "死去"
},
{
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"text": "またレーガンと親交の深かった日本の首相である中曽根康弘や、ソ連の大統領ミハイル・ゴルバチョフら大統領時代に交流のあった現在及び過去の政府トップ多数が世界中から参列し、その光景は各国のテレビや新聞などのマスコミを通じ、全世界で報道された。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "葬儀当日の夕方、日没の時刻に地元カリフォルニア州シミバレーにあるロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2011年にはレーガンの生誕100周年として ハンガリーのブダペスト、ポーランドのワルシャワ、グダニスク、ジョージアのトビリシなどソ連の衛星国だった旧東ヨーロッパ圏の諸都市でも、冷戦をアメリカの勝利に導いたことで自由を自国に届けたレーガンを讃える銅像の建立ブームが起きている。2017年にはウクライナとルーマニアも自由への意志を込めて、国内にレーガンの銅像建立を推進しているなど評価されている。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 100,
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"text": "英語における「Reagan」の本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選挙の当たりまでは「ロナルド・リーガン」と名乗っていた。しかし共和党から党大統領候補の指名を受けた際に、自分のルーツがアイルランド系であり、アイルランド語では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ[rei]」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レイガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつて無かったため、この件は意外性をもって報じられた。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 101,
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"text": "ただ、多民族国家であるアメリカでは、民族の伝統の継承や自己の歴史に対する誇りに重きを置く。アイルランド系アメリカ人はヨーロッパからアメリカ合衆国へ組織的に移民した古参格で、強い民族意識と横の連帯を武器にアメリカ社会で確固たる地位を築いてきた。その後のヨーロッパからの移民の中には、新天地での暮らしが少しでも容易になるよう、自らの姓を英語風に改める者もいた中で、誇り高いアイルランド系のアメリカ人にはルーツを貫く者が多かった。このような要因から、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の上昇につながった。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "もう1つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元メリルリンチ会長のドナルド・リーガン(Donald Regan)の存在であった。リーガンはレーガンの側近ともいえる人物で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実視されていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけである。この二つの名前はいかにも紛らわしいため、アメリカの報道も、こぞってレーガン候補の表明に同調する形で発音を変更し、Reganは従来通りの発音に据え置くことにした。レーガンの名が浸透した今日では、逆に「リーガン」の方が「レーガン」と呼び間違えられることが多いという。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 103,
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"text": "これを受けて、日本のメディア報道においても表記がそれまでの「リーガン」から「レーガン」に変更されたが、一部では大統領選を経て就任式を過ぎてからもしばらく両表記が混在していたため、春ごろアメリカ大使館は日本の報道機関に対して、適切な表記に変更するよう要望する書簡を送付した。外国大使館からのこのような要望は前代未聞であり、この件は日本でも話題性のあるニュースとなった。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "レーガンのお気に入りの映画は1985年公開のアメリカ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、ホワイトハウス内の専用上映室で何度も見たという。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "この映画にはタイムマシンで30年前の1955年にタイムスリップした主人公のマーティ・マクフライが、そこでこのタイムマシンを作った科学者、若かりしころのエメット・ブラウン博士(ドク)と対面、自分が未来から来たことを告げる。そんなことは全く信じないドクが「1985年におけるアメリカ合衆国大統領は誰だ?」と聞くと、マーティは「ロナルド・レーガン」と答えるが、ドクは(出まかせを言っているものだと判断し)呆れて「ロナルド・レーガン? 俳優の? なら副大統領は誰だ?(コメディアンの)ジェリー・ルイスか?ファーストレディはジェーン・ワイマンで財務長官はジャック・ベニーか?」と、小馬鹿にして笑うシーンがある(その場面の少し前に、出演者として、レーガンの名前がある映画『バッファロー平原(Cattle Queen of Montana)』のポスターが映り込むという伏線がある)。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1986年2月4日の一般教書演説で、レーガンは逆に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の最後に語られる台詞を引用し、",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "という一節を挿入して、アメリカ合衆国議会で喝采を浴びている。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 108,
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"text": "なお、他にも『レッズ』などがお気に入りで、ホワイトハウス内の上映室で鑑賞していた。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "レーガンの茶目っ気と洗練されたジョークはアメリカ合衆国を魅了したが、軽口が災いして、ひとつ間違えば外交問題に発展するか、下手をすれば全面核戦争や第三次世界大戦にもなりかねないような状況を作ってしまったこともあった。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 110,
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"text": "1984年8月8日、定例ラジオ演説の本番前のマイクロフォンテストで、常套句 \"Testing, testing, one, two, three.\" (本日は晴天なり・マイクテスト)を言うかわりに、「国民の皆さま、喜ばしいご報告があります。私はただいまソビエト社会主義共和国連邦を永遠に葬り去る法案に署名しました。爆撃は5分後に始まります(My fellow Americans, I am pleased to tell you I just signed legislation which outlaws Russia forever. The bombing begins in five minutes.)」と言った。このメッセージはその時点で放送されなかったが、その後リークされて物議を醸した。ソ連のタス通信は「アメリカ合衆国大統領の比類無き敵対行動に抗議する」「多くの人の運命を預かる核保有国のトップとして適切な発言では無い」と抗議した。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "2011年6月29日、東ヨーロッパの民主化に果たしたレーガンの功績を称え、生誕100年に合わせて、ハンガリーのブダペストでレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはアメリカのコンドリーザ・ライス前国務長官とハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相らが出席した。レーガン像は高さ2.2メートル。旧ソ連記念碑(旧ソ連が1945年の「ハンガリー解放」を誇示するために建立した記念碑)のそばにある。",
"title": "逸話"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "2011年7月4日、レーガンの生誕100年を記念してイギリスのロンドンでレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはイギリスのウィリアム・ヘイグ外相、アメリカのコンドリーザ・ライス国務長官らが出席。イギリスのマーガレット・サッチャー元首相の祝辞が読み上げられた。",
"title": "逸話"
}
] | ロナルド・ウィルソン・レーガンは、アメリカ合衆国の政治家、俳優。同国第40代大統領。それ以前はカリフォルニア州知事を務めた。選出当時は歴代最高齢で、2022年10月時点でも歴代3位の高齢(69歳349日)で選出された大統領である。また大統領就任ごろまでのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「リーガン」と表記されていた(後述)。対日関係上の愛称は「ロン」。 | {{Otheruses||同名の空母|ロナルド・レーガン (空母)}}
{{大統領
| 人名 = ロナルド・レーガン
| 各国語表記 = {{en|Ronald Reagan}}
| 画像 = Ronald Reagan 1981 presidential portrait.jpg
| 画像サイズ =250px
| 画像説明 = 大統領公式肖像(1981年2月7日)
| 国名 = {{USA}}
| 代数 =
| 職名 = [[ファイル:Seal Of The President Of The United States Of America.svg|20px]] 第40代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]
| 就任日 = [[1981年]][[1月20日]]
| 退任日 = [[1989年]][[1月20日]]
| 副大統領 = [[ジョージ・H・W・ブッシュ]]
| 国名2 = {{Flag|California}}
| 代数2 =
| 職名2 = [[ファイル:SEAL gov california.svg|20px]]第33代[[カリフォルニア州知事の一覧|知事]]
| 就任日2 = [[1967年]][[1月2日]]
| 退任日2 = [[1975年]][[1月6日]]
| 副大統領職2 = 副知事
| 副大統領2 = [[ロバート・フィンチ]]<br>エドウィン・ライネッケ<br>ジョン・L・ハーマー
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1911|2|6|no}}
| 生地 = {{USA1908}} [[イリノイ州]][[タンピコ (イリノイ州)|タンピコ]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1911|2|6|2004|6|5}}
| 没地 = {{USA}} [[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]
| 出身校 = {{仮リンク|ユーリカ大学|en|Eureka College}}
| 配偶者 = [[ジェーン・ワイマン]]<br>(1940年1月 - 1949年7月)<br>[[ナンシー・レーガン]]<br>(1952年3月 - 2004年6月)
| 子女 = [[モーリーン・レーガン]]<br>[[マイケル・レーガン]]<br>クリスティン・レーガン<br>[[パティ・デイヴィス|パトリシア・アン・レーガン]]<br>[[ロン・レーガン]]
| 政党 =[[民主党 (アメリカ)|民主党]]( - 1962)<br>[[共和党 (アメリカ)|共和党]](1962 - 2004)
| サイン = Ronald Reagan Signature2.svg
}}
'''ロナルド・ウィルソン・レーガン'''({{lang-en|'''Ronald Wilson Reagan'''}}、[[1911年]][[2月6日]] - [[2004年]][[6月5日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[俳優]]。同国第40代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]](在任: [[1981年]][[1月20日]] - [[1989年]][[1月20日]])。それ以前は[[カリフォルニア州知事]]を務めた。選出当時は歴代最高齢で、2022年10月時点でも歴代3位の高齢(69歳349日)で選出された大統領である<ref group="注釈">2017年1月20日に大統領に就任した[[ドナルド・トランプ]]はそれを越す70歳220日での選出である。2021年1月20日に大統領に就任した[[ジョー・バイデン]]は、それを大きく上回る78歳61日での選出である。</ref>。また大統領就任ごろまでのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「'''リーガン'''」と表記されていた([[#「リーガン」から「レーガン」へ|後述]])。対日関係上の愛称は「ロン」<ref name="shashin">『昭和55年 写真生活』p26-27(2017年、ダイアプレス)</ref>。
==概要==
映画俳優から[[政治家]]に転じ、1981年1月21日に[[アメリカ合衆国大統領]]に就任した。1期目は経済の回復を最大の目標に掲げ、「[[レーガノミクス]]」と呼ばれる大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復と共に[[双子の赤字]]をもたらした。外交面では、[[ジミー・カーター]]前大統領時代に[[イラン革命]]や[[ニカラグア]]での[[サンディニスタ]]政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく強硬策を貫き、[[ベトナム戦争]]以来の本格的な[[グレナダ侵攻|外国への武力侵攻]]を[[グレナダ]]に対して行うなど、「強いアメリカ」を印象付けた<ref name="shashin"/>。
2期目は[[イラン・コントラ事件]]に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、政権に対して各方面から批判が目立ったものの、レーガンは[[デタント]]を否定し、[[ソビエト連邦]]を「[[悪の帝国]]」と批判した。「{{仮リンク|力による平和|en|Peace through strength}}」戦略によってソ連及び[[東側諸国|共産主義陣営]]に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、[[イギリス]]の[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相・[[日本]]の[[中曽根康弘]]首相・[[西ドイツ]]の[[ヘルムート・コール|コール]]首相などの同盟国の首脳と密接な関係を結び世界中の[[反共主義]]運動を支援し、[[冷戦]]の終結に大きく貢献した。
2期目に就任した時点で73歳11ヶ月の高齢であり、暗殺未遂事件にも遭いつつも2期8年の任期を満了。[[ウィリアム・ハリソン]]が当選した[[1840年]]10月から続いていた「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、「[[テカムセの呪い]]」にも終止符が打たれた。
大統領退任から5年後に自らの[[アルツハイマー病]]を告白し、公の場には出ず闘病に専念するようになった。11年間の闘病の後、2004年6月5日に93歳で死去した。
==来歴==
===生い立ち===
[[ファイル:Ronald Reagan with brother Neil 1912.jpg|220px|thumb|兄(左)と]]
1911年2月6日、[[イリノイ州]]タンピコにて父のジョン・レーガンと母のネル・ウィルソンの間の次男として誕生した。数年間に渡り町から町へ引っ越した後、[[1920年]]12月に一家は[[イリノイ州]]ディクソンに定住した<ref>[https://www.reaganlibrary.gov/reagans/ronald-reagan/reagans-pre-presidential-biographical-sketch-timeline-1911-1980 レーガンの大統領前の伝記のスケッチとタイムライン、1911-1980]</ref>。
[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]の父親は[[カトリック教会]]に属していたが、[[スコットランド]]系の母親は[[プロテスタント]]「[[主流派 (キリスト教)|主流派]]」の[[ディサイプルス|ディサイプル教会]]の熱心な信徒で、母の影響を受けたロナルドは11歳のときに同教会で洗礼を受け、プロテスタントとなる。なお兄の[[ニール・レーガン|ニール]]は父と同じカトリックを選んだ。父は[[アルコール依存]]で、母の属する教派は[[禁酒]]派だった。幼少のころのレーガンは教会によく通い、やがて信徒を前に説教をするようになり、後年の彼の演説力が培われた。父は毎週土曜日に子供たちを映画に連れて行ったが、人種差別を嫌ったため、子供であるレーガンに人気があったものの黒人差別主義の映画(「[[國民の創生]]」)を見せなかったと伝えられる<ref>「レーガン」中公新書</ref>。
[[1924年]]、ディクソンのディクソン高校に入学した。[[1926年]]、ディクソンの北5キロメートルにあるローウェル公園に沿って流れるロックリバーで[[ライフガード]]として働き、これが初めての仕事だった。7年間の夏季勤務中、77人を溺死から救ったとのことである。後年レーガンは、「(救助した)彼らのうち9人は私にありがとうを言わなかった」と語った。
[[1928年]]9月にイリノイ州の{{仮リンク|ユーリカ大学|en|Eureka College}}に入学し<ref>[https://www.reaganlibrary.gov/reagans/ronald-reagan/residences-ronald-w-reagan ロナルド・W・レーガンの邸宅]</ref>、経済学と社会学を専攻して[[1932年]]6月に卒業した。
===大学卒業後===
[[ファイル:Ronald Reagan in Cowboy From Brooklyn trailer.jpg|220px|thumb|『Cowboy From Brooklyn』の予告編より(1938年)]]
[[File:Ronald Reagan visiting a General Electric plant in Danville, Illinois.jpg|220px|thumb|『ジェネラル・エレクトリック・シアター』の企画で同社の工場を訪れたレーガン(1955年)]]
大学卒業後は話術と演技の能力を活かして、[[イリノイ州]][[シカゴ]]の[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]チーム・[[シカゴ・カブス]]の[[ラジオ]]アナウンサーの職に就いた。
[[ストックティッカー#その他の使用法|ティッカー]](ニュースなどを紙テープに印字する自動受信機)の紙テープからわかる試合の輪郭だけをもとに、自らの想像力と話術の才能を使い実況放送を行った。[[1934年]]の[[セントルイス・カージナルス]]戦において、カブスの9回の攻撃時に放送回線が故障したが、機器が回復するまで架空の実況放送を即興で滑らかに行った。
===映画俳優===
{{main|{{仮リンク|ロナルド・レーガンのフィルモグラフィー|en|Ronald Reagan filmography}}}}
その後レーガンは[[ハリウッド]]に向かい、1937年4月に[[ワーナーブラザース]]と契約して映画俳優としての経歴を歩み始めた。ちなみにワーナーブラザースがこの時期に若手俳優を急募していた理由は、同年1月に借金苦で自殺した若手俳優ロス・アレクサンダーの代わりになる、長身でハンサムな脇役俳優がどうしても必要であったからである。そういう経緯もあってレーガンがワーナーブラザースに採用された決め手は、アナウンサー上がりのレーガンの声質と物腰が、なんとなく自殺したアレクサンダーと似ていたからであった。映画初出演は{{en|『Love is On the Air』}}(1937年10月公開)で、その後二枚目俳優としての地位を築き上げ1939年末までに19本の映画に出演した。[[1940年]]9月には{{en|『Knute Rockne All American』}}で、実在した大学フットボールのスター選手で、主役のヌートの親友でもあったジョージ・ギップ(愛称:ギッパー)の役を演じて人気になった。そこからレーガンは「ギッパー」という愛称を得た。このころに『[[風と共に去りぬ]]』のオーディションにも参加した。
デビュー後には次代のハリウッドを代表する二枚目スターとしての将来を嘱望されていたが、同時に俳優組合などでも要職に就くなど政治活動に若い時期から携わっていた。なお俳優デビュー直前の[[1935年]]2月に[[アメリカ陸軍]]の予備役将校になっている。
レーガンの出演作は日本でも数多く公開され、日本でも知られている映画の出演作に『[[カンサス騎兵隊]]』(1940年12月)、『[[殺人者たち]]』(1964年7月、[[ドン・シーゲル]]監督)などがある。レーガン本人によると、自己最高の作品は『{{仮リンク|嵐の青春|en|Kings Row}}』(1942年4月公開、原題:{{en|Kings Row}})であるという。レーガン自身は主演ではなく二番手であるが、映画は[[アカデミー作品賞]]にノミネートされ、映画評論家にも高評価を受け実力を認められた作品である。 その他の代表作には、『[[決闘の町 (1953年の映画)|決闘の町]]』『{{仮リンク|海軍のヘルキャット|en|Hellcats of the Navy}}』{{en|『This Is the Army』『Bedtime for Bonzo』}}などがある。
[[ナレーション|ナレーター]]としての仕事も多く、[[アカデミー短編映画賞]]にノミネートされた『{{仮リンク|ソード・フィッシング|en|Sword Fishing}}』(1939年10月公開)などが代表作である。[[第二次世界大戦]]時には、[[1941年]][[12月8日]]の[[真珠湾攻撃]]を受けたアメリカ参戦の後に招集されたが、視力が弱かったため[[アメリカ陸軍航空軍]][[第1映画部隊 (アメリカ軍)|第1映画部隊]]に配属され、訓練用・教育用の映画や[[プロパガンダ]]映画の制作・[[ナレーション]]に携わった。終戦までハリウッドに残り陸軍[[大尉]]まで昇進した。
その後[[1950年代]]の終わりごろには、映画スターとしての知名度と巧みな話術を生かし、[[テレビ]]ショー『ジェネラル・エレクトリック・シアター』の司会やテレビCMへの出演など、当時最新のメディアとして人気を集めていたテレビへと活動の場を移していった。なお[[1955年]]には、地元のカリフォルニアにオープンした[[ディズニーランド]]のオープンを記念したテレビ番組にも出演している。なおテレビでも人気を博し様々な番組に出演したものの、その後政治の世界へと本格的に軸足を移し、{{en|『Death Valley Days』}}の司会がレーガンの俳優としての最後の仕事となった。1960年2月、[[ロサンゼルス]]のハリウッド大通り6374番の[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]には、テレビ放送業界に貢献したとしてレーガンの名前が刻まれた星形の敷石が設置された。
=== 結婚と離婚 ===
[[File:Reagan wedding - Holden - 1952.jpg|220px|thumb|ナンシーとの結婚時の写真]]
1940年1月に[[俳優|女優]]の[[ジェーン・ワイマン]]と[[結婚]]した。ワイマンとの間には長女の[[モーリーン・レーガン|モーリーン]](1941年1月 - 2001年8月)と養子に迎えた長男の[[マイケル・レーガン|マイケル]](1945年3月誕生)がいる。1947年6月にも娘が誕生したが、4ヵ月の早産で翌日に死去している。
妻のジェーンはレーガンとは違って派手さに欠けるが、演技力の高さで着実にキャリアアップを果たしていた。この為、決して演技力が高い訳ではなく、俳優としての人気に陰りが見えて来たレーガンは、演技派女優と呼ばれていたジェーンに対する嫉妬を抱いて夫婦関係が悪化し、1949年3月に妻のジェーンの[[アカデミー主演女優賞]]受賞が引き金になり、同年7月に[[離婚]]した<ref>[https://www.ancientfaces.com/person/jane-wyman-birth-1917-death-2007/88331537 ジェーン・ワイマン]</ref>。なお、レーガンは離婚歴のあるアメリカ史上初の大統領である(2人目は[[ドナルド・トランプ]])。
[[1952年]]3月には女優の[[ナンシー・レーガン|ナンシー・デイビス]]と再婚し、カリフォルニア州のパシフィック・パリセーズに住居を構えた。ナンシー夫人との間には次女の[[パティ・デイヴィス|パトリシア・アン]](1952年10月誕生)と次男の[[ロン・レーガン|ロン]](1958年5月誕生)がいる。1957年5月に公開された『海軍のヘルキャット』では夫婦共演を果たした。
==政治経歴==
===保守主義者===
[[File:Goldwater-Reagan 1964.jpg|220px|thumb|[[バリー・ゴールドウォーター]]とともに(1964年)]]
[[File:Campaign event in California - NARA - 194741.jpg|220px|thumb|[[スピロ・アグニュー]]副大統領夫妻、[[ボブ・ホープ]]夫妻、[[リチャード・ニクソン]]大統領夫妻とともに(1971年)]]
1940年代後半から1950年代にかけてアメリカを吹き荒れた反共産主義・反ソ機運は、レーガンの政治的なイメージを増強した。レーガンは[[フランクリン・ルーズベルト]]と彼の[[ニューディール政策]]を支持して、[[リベラル]]派としてキャリアを始めたが、のちに[[保守主義]]者に転じた。
レーガンは俳優かつ[[映画俳優組合]](SAG)の委員長の立場でありながら上院議員[[ジョセフ・マッカーシー]]や[[リチャード・ニクソン]]率いる[[下院非米活動委員会]]に協力し、「ハリウッドの[[赤狩り]]」(=[[マッカーシズム]])に手を貸した。しかしレーガンは多くの反共主義者と異なり、[[アメリカ共産党]]の非合法化には強く反対した。
政府と取り引きが多い電機メーカーの[[ゼネラル・エレクトリック]]がスポンサーとなったテレビ番組「ジェネラル・エレクトリック・シアター」の司会を務めるきっかけとなったのは、反共産主義のスピーチをラジオ放送上で行ったからであると言われる。
その後行われた[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、レーガンは[[小さな政府]]を唱えるアリゾナ州選出の上院議員[[バリー・ゴールドウォーター]]の熱烈な支持者だった。その後レーガンはゼネラル・エレクトリックがタービンを納めている[[テネシー川流域開発公社]]に反対して「ジェネラル・エレクトリック・シアター」のパーソナリティーから降板させられた。
===カリフォルニア州知事===
その後レーガンはカリフォルニア州知事に出馬・当選し、[[1967年]]1月に第33代カリフォルニア州知事に就任した。レーガンの[[自由主義|自由主義者]]としての顔は、カリフォルニア州知事時代に行った政策にも如実に現れている。
例えば州議会を「[[オートバイ|バイク]]に乗る際、[[ヘルメット]]の着用を義務付ける」という法案が通過した際、レーガンは州知事権限でこれを取り消した。その理由は「バイクに乗る者は、バイクに乗るという行為がどれだけ危険か分かって乗っているはずだ。ならばヘルメットの着用などということは個人に任せるべきであって、それに州政府が関与する必要は無い」というものだった(カリフォルニア州では[[1992年]]にヘルメット着用が義務化された)。
また当時激戦を極めていた[[ベトナム戦争]]に関して「[[ベトナム]]を焼き払って駐車場にすればいい」と発言して批判を浴びたこともある。レーガンはベトナム戦争終結後の[[1975年]]1月までカリフォルニア州知事を務めた。
===アメリカ合衆国大統領選挙===
====過去のアメリカ合衆国大統領選挙====
レーガンは[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙]]に初出馬したが、同じくカリフォルニア州を地元とする元副大統領[[リチャード・ニクソン]]相手に[[予備選#アメリカ合衆国|予備選挙]]の段階で票が伸びず敗退した。その後の[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、[[ベトナム戦争]]からの撤退に向けて積極的に動いていたニクソンが勢いを保ったこともあり出馬しなかった。
[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙]]にも出馬した。この時は現職の大統領[[ジェラルド・フォード]]に肉薄する勢いで善戦したが、夏の全国共和党大会における代議員投票でフォード1187票に対し、レーガン1070票で惜敗した。
====1980年アメリカ合衆国大統領選挙====
[[File:Iran hostage crisis - November 1979.jpg|220px|thumb|イランアメリカ大使館人質事件]]
[[File:Reagan-Bush Nashua 1980 debate.jpg|220px|thumb|大統領予備選挙の討論会に参加したレーガン(1980年)]]
しかし満を持して臨んだ[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙]]では難無く共和党の大統領候補への正式指名を獲得した。選挙活動は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]選出の現職大統領であるジミー・カーター政権で起きた[[イランアメリカ大使館人質事件]]への対応で特徴付けられた。この事件は人質解放に向けた軍事作戦が無残な失敗に終わった後、イラン政府との間で人質の解放に向けた有効な交渉も行われず、打開策が無いまま1年近く未解決になっていたからである。
さらに経済不振から現職のカーターが苦戦を強いられた。また大統領選挙の公開討論ではカーターがアンダーソンとの公開討論を拒否し、カーターとレーガン、レーガンとアンダーソンの間でのみ公開討論会が行われた。
レーガンは、この選挙で「'''[[Make America Great Again]]'''」(アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)を[[スローガン]]として掲げた。このスローガンは、後年の[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙]]において[[ドナルド・トランプ]]により再び用いられることになる。最終的にレーガンは選挙人投票ではカーターとの間に489対49と大差をつけた上に、一般投票でもカーターに約10パーセントの差(50.7パーセント対41.0パーセント)をつけて当選した。
その後ほとんどのアナリストはカーターのイランのアメリカ大使館人質事件の解決に対する無力さと優柔不断さが、カーターの敗北及びレーガンの勝利に大きな役割を果たしたと考えた<ref name="shashin"/>。
実際にこの選挙の時には少なくない民主党員までもが現職の大統領カーターを見限り、レーガンに投票する現象が発生した。彼らは俗に「[[レーガン・デモクラット]]([[:en:Reagan Democrat]])」と呼ばれるようになる。また俳優時代に培われた演技力・演出力もレーガンの有力な武器の一つだった<ref name="shashin"/>。
カーターに批判が集まり支持率が落ち続ける中で有利に選挙戦を進めるレーガンに対し、海外の反米そして反共和党的な[[マスメディア|マスコミ]]は、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営がイラン政府と秘密の取り引きを結んだ」という根拠の無い非難をした。これについては、1980年オクトーバーサプライズ陰謀論([[:en:1980_October_Surprise_theory|1980_October_Surprise_theory]])として知られるようになり、アメリカ議会でも1992年の下院特別調査委員会([[:en:House October Surprise Task Force|House October Surprise Task Force]])が設置されるなどして調査されたが、この説は信憑性がないとされた。
==第40代アメリカ合衆国大統領==
===就任===
[[ファイル:President Ronald Reagan Being Sworn In on Inaugural Day at the United States Capitol.jpg|220px|thumb|[[1981年ロナルド・レーガン大統領就任式|就任式]](中央はナンシー夫人)]]
1981年1月21日、レーガンは第40代アメリカ合衆国大統領に就任した。なお就任当日にイランのアメリカ大使館人質事件において人質となっていた大使館員らが、444日間ぶりに解放された<ref name="shashin"/>。
また再選をかけた[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙]]でも、民主党候補の前副大統領[[ウォルター・モンデール]]に空前の地滑り的大勝を果たした<ref>{{cite web|url=http://uselectionatlas.org/RESULTS/data.php?year=1984&datatype=national&def=1&f=0&off=0&elect=0|title=1984 Presidential General Election Data – National|accessdate=May 7, 2021}}</ref>。その後1989年1月20日まで在任し、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]](在任期間は1953年1月20日から1961年1月20日)以来久々に2期8年の任期を満了したアメリカ合衆国大統領となった<ref name="shashin"/>。
===暗殺未遂事件===
{{main|レーガン大統領暗殺未遂事件}}
レーガン政権の船出はイランのアメリカ大使館人質事件の人質解放に続いて、[[レーガン大統領暗殺未遂事件|暗殺未遂事件]]に見舞われるという衝撃的なものだった。大統領就任から69日後の1981年3月30日に[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議]](AFL-CIO)会議での演説を終えて[[ワシントンD.C.]]の[[ヒルトン|ヒルトンホテル]]を裏口から退出したレーガンを[[ジョン・ヒンクリー]]が狙撃したのである。
[[File:President Ronald Reagan moments before he was shot in an assassination attempt 1981.jpg|right|220px|thumb|銃撃直前に手を振るレーガン]]
[[ファイル:Reagan assassination attempt 2.jpg|right|220px|thumb|銃撃直後。レーガンは右の車に押し込まれている]]
3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官の[[ジェイムズ・ブレイディ]]、[[アメリカ合衆国シークレットサービス|シークレットサービス]]のティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの3人が被弾してその場に倒れた。
レーガンはシークレットサービスのジェリー・パーによって[[大統領専用車 (アメリカ合衆国)|大統領専用車]]に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。しかし出血が認められなかったので、車に押し込まれたときの勢いでどこか痛めたのだろうと思ったという。ところがパーとの会話中に不意に咳き込み、泡立った鮮血を吐いた。これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾で[[肺]]に穴が開いていると判断し、運転手に最寄りの病院へ急行するよう指示した。実際に弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まり、かなりの内出血を起していた。救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、歩いて病院に入ったレーガンは直後に倒れ込んでしまうほどだった。
それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩いた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせている。手術は[[全身麻酔]]を必要とする大掛りなものとなった。ただし、手術に際し[[アメリカ合衆国大統領#大統領権限継承順位|大統領権限の一時的移譲]]手続きは行われておらず、事態はそれほど切迫したものであった(権限委譲については「[[#健康|健康]]」の節を参照)。なお、[[冷戦]]下における「[[国家]]の安全上の理由」(実際に銃撃事件の直後に[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[潜水艦]]がアメリカの[[大西洋]]沿岸に集結するなどの不穏な動きが見られた)から、レーガンの詳しい容態が同じく狙撃され重傷を負ったブレイディの代理である副報道官のラリー・スピークスから[[報道機関|マスコミ]]に明らかにされたのは、レーガンが退院してからのことである。
[[File:Reagans wave after returning from WH 1981.jpg|right|220px|thumb|退院後にホワイトハウスでナンシーと立つレーガン]]
レーガンは70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約10日後の4月11日に退院。在職中に銃撃され、銃弾が命中しながら死を免れた最初の大統領となった。
レーガンは入院中にも妻のナンシーに「避けるのを忘れてたよ ({{en|Honey, I forgot to duck.}})」とジョークを言うなど陽気な一面を見せ続けた。このセリフは1926年、[[ボクシング]][[ヘビー級]]のタイトル戦でチャンピオンの[[ジャック・デンプシー]]が挑戦者[[ジーン・タニー]]に不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」を引用したものである。公務復帰後も、演説中に会場の飾りつけ風船が破裂した際に「しくじったな」と述べて聴衆から喝采を浴びた<ref>{{Cite web |title=Have You Seen This? Throwback to Reagan's perfect response to a balloon popping |url=https://www.ksl.com/article/50388512/have-you-seen-this-throwback-to-reagans-perfect-response-to-a-balloon-popping |website=www.ksl.com |access-date=2023-03-14 |language=en |date=2022-04-16 |author=Martha Ostergar}}</ref>。
大統領選挙戦のころから見せていたレーガンのこうした機智や茶目っ気は全米を魅了して、史上最大の地滑り的勝利をレーガンにもたらすことに貢献したが、これはこの後8年間の政権を通じて変わることがなかった。政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、レーガンの比較的高い支持率は決して急落することが無かったのも、こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところが極めて大きかった<ref name="shashin"/>。
<!--この銃撃事件はレーガンの支持率に大きな影響を与え、それ以前は知識層などからポピュリストかつ右傾的だとして否定的に思われていたが、このような事態においても余裕を失わない精神的な強靭さや人格が評価され支持率が大きく上がった。後の一連の政策を行えたのはこの事件無くしては無理だとするいう意見もある。-->
なおこの事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際して購入者の適性を確認する「[[ブレイディ法]]」(この法律の名称は重傷を負った報道官に由来する。)である。この法律は[[2005年]]に[[全米ライフル協会]]などの抵抗により、効力延長手続きがされず失効している。
===内政===
==== 経済政策 ====
大統領就任後それまでの需要中心では無く、供給力強化を目的とした[[サプライサイド経済学]]に基づく'''レーガノミクス'''(レーガノミックスとも)と呼ばれる一連の[[経済政策]]を発表した。具体的には軍事支出の拡大のほか、減税による供給の刺激、[[インフレーション]]の抑制を掲げた政策であった。また、アメリカにとって初の[[自由貿易協定]]である{{仮リンク|米国・イスラエル自由貿易協定|en|Israel–United States Free Trade Agreement}}を[[イスラエル]]と締結し<ref>{{Cite web|url = https://ustr.gov/trade-agreements/free-trade-agreements/israel-fta|title = Israel Free Trade Agreement|date = |accessdate = 2019-04-02|website = Office of the U.S. Trade Representative|publisher = |last = |first = }}</ref>、[[自由貿易]]を推し進めた。一方で[[日米貿易摩擦]]では[[保護貿易]]主義的な姿勢であり、日本製の[[パーソナルコンピュータ]]と[[テレビ]]などに100パーセントの関税を賦課したこともあった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.sangyo-times.jp/article.aspx?ID=2777|title = 「米中貿易&ハイテク戦争」はどうなる? 「日米半導体摩擦」を振り返る |accessdate = 2019-05-13|date=2018-10-12||publisher = 電子デバイス産業新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.businessinsider.jp/post-190660|title = 【米中貿易戦争】土壇場で中国が強硬に出た2つの理由——中国側は持久戦の構え |accessdate = 2019-05-24|date=2019-05-15|publisher = [[ビジネスインサイダー]]}}</ref>。
{{see|レーガノミクス}}
====麻薬との戦争====
レーガンの「[[麻薬戦争|麻薬との戦争 (War on Drugs)]]」政策は[[麻薬]]犯罪者の投獄を推進した。
====人種差別対策====
[[ファイル:Michael_Jackson_with_the_Reagans.jpg|thumb|220px|[[マイケル・ジャクソン]]とともに(1984年)]]
[[人種差別]]問題の解消に対しては積極的な態度を取り続け、[[1988年]]には戦後長らく懸案の課題だった第2次世界大戦中の[[日系人の強制収容]]に対して謝罪と1人当たり2万ドルの損害賠償を行っている。また、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア]]牧師の誕生日が国の祝日となったのもレーガン政権においてである([[1983年]])。
====エイズ対策====
1981年に症例報告された[[後天性免疫不全症候群]] ({{en|AIDS}}) に関して、この新しい感染病の「大流行」が多くの医療専門家から警告されていたにもかかわらず有効な対策を打たなかったため「封じ込め」に失敗した。その結果わずか10年程度で爆発的に感染者が増加して大きな社会問題となった。
====労組対策====
1981年8月5日、レーガンは職場復帰命令を無視した1万1359人の航空管制官を解雇した。皮肉にもPATCO(航空管制官組合)は9ヵ月前に選挙でレーガンを支持した少数の組合のうちの1つだった。
===外交===
====冷戦の激化と緩和====
[[ファイル:ReaganBerlinWall.jpg|220px|thumb|ベルリンの壁の前で演説するレーガン(1987年)
----
<span style="font-size:90%;">アメリカで政治家になる条件に、「見栄えのする容姿」と、大衆の好感度を引き出す「目には見えない魅力」がある。俳優出身のレーガンにはこの双方を満たして余りあるものがあった。静かな語り口ながら、率直で分りやすく、誰もを納得させてしまう話術は、「グレート・コミュニケーター(偉大なる伝達者)」というレーガンの[[通称|あだ名]]に凝縮されている。1983年にソ連のことを「悪の帝国」と言い切った時も、1987年にベルリンの壁の前で数万人のベルリン市民に向かって「ゴルバチョフさん、[[この壁を壊しなさい!]](“Mr. Gorbachev, tear down this wall!”)」とアピールしたときも、これが単なる演説の一節に終わらず、社会の変革を引き起こす要因の一つとなるほど人々の脳裏に深く刻みこまれたのも、こうしたレーガンの天賦の才があったことがその大きな要因の一つだった。</span>]]
[[ファイル:Reagan_and_Gorbachev_hold_discussions.jpg|220px|thumb|初会合から打ち解けた雰囲気となったジュネーブ会談(1985年11月19日)]]
[[ファイル:Reagan_and_Gorbachev_signing.jpg|220px|thumb|[[中距離核戦力全廃条約|中距離核戦力全廃条約 (INF条約)]]に調印する米ソ両首脳(1987年12月8日・[[ホワイトハウス]])]]
留まる事なく軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。
その槍玉にあげられたのが[[米ソデタント|デタント]]だった。レーガン政権は、デタントを「米ソ両国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決には全くならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因」であるとして否定し、ソ連を「'''[[悪の帝国]]'''」と名指しで非難。代わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は以下の通りである。
# 国防予算を大幅に増額して[[戦略防衛構想|スターウォーズ計画]]を一方的に推進する
# ソ連はこれに追いつこうとするあまり、より一層の無理を強いられる
# その結果[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]の泥沼化でただでさえ逼迫しているソ連の国家財政は破綻し、社会保障制度が麻痺する
# ソ連の国民はそんな共産主義政権を見限りソビエト連邦は崩壊する
というシナリオだった。
果たしてその読み通り早くも1980年代中ごろになるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。1984年にはレーガンはソ連とその同盟国を除いた[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]を挙行して西側諸国の結束を誇示した。また1985年に[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]が書記長に就任すると、「[[グラスノスチ]]」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。西側諸国の一員である日本も[[防衛費1%枠|防衛費1パーセント枠]]を1987年より廃止し防衛費を一時的に増額した。
{{see|中距離核戦力全廃条約}}
こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは自らも強硬な外交路線を修正し、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。
レーガンはゴルバチョフと[[ジュネーヴ]](1985年11月)・[[レイキャビク]](1986年10月)・ワシントンD.C.(1987年12月)・[[モスクワ]](1988年6月)と4度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東ヨーロッパ問題だったが、1回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、2回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは3回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できた。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。
翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です(“I was talking about another time, another era.”)」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフは[[モスクワ大学]]で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。
後に回想録『[[わがアメリカンドリーム レーガン回想録]]』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、腹を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。また当時、2人の親密な関係を指して「{{en|Rega-Chev}}(レガーチェブ)」と読んだ新聞さえ出現した。また、冗談交じりに[[宇宙人]]の襲来を仮定した冷戦終結と米ソ協調の可能性をゴルバチョフと語ることもあり<ref>http://www.dailymail.co.uk/news/article-3045894/How-Ronald-Reagan-asked-Soviet-rival-Mikhail-Gorbachev-help-fighting-alien-invasion.html How Ronald Reagan asked Soviet rival Mikhail Gorbachev for help fighting alien invasion</ref><ref>[http://nsarchive.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB172/]</ref>、この比喩は1987年の軍縮のための国連演説でも用いられた<ref>[http://www.reagan.utexas.edu/archives/speeches/1987/092187b.htm Address to the 42d Session of the United Nations General Assembly in New York, New York]</ref>。
大統領退任後に「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東ヨーロッパの反[[共産主義]]運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月に[[ハンガリー]]政府当局が約1000人の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]国民を自国経由で[[オーストリア]]に脱出する手助けをするという「[[汎ヨーロッパ・ピクニック|ピクニック事件]]」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツで[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁が崩壊]]し、[[チェコスロバキア]]では[[ビロード革命]]が共産党による一党独裁制を廃止し、12月には[[ブルガリア]]の共産党政権が崩壊し、[[ルーマニア]]では[[ニコラエ・チャウシェスク|チャウシェスク]]独裁政権を血祭りにあげるなど、東ヨーロッパ諸国は雪崩を打って民主化を果たし、レーガンの後任であったジョージ・H・W・ブッシュとゴルバチョフの[[マルタ会談]]が行われて冷戦は終結した。[[ソビエト崩壊|ソビエト連邦が解体]]されたのは、それから2年後のことだった。
1980年に[[国際連合]]で採択された[[特定通常兵器使用禁止制限条約]]には1982年に署名した<ref>[http://www.unog.ch/80256EDD006B8954/(httpAssets)/802E3A3F1FA3AD77C1257575002E895D/$file/US+E.pdf The United Nations Office of Geneva>The Convention on Certain Conventional Weapons>States parties and signatories>United States]</ref>。
====対中南米政策====
中南米の社会主義政権に対して寛容な態度を取ったカーター前政権とは対照的に、「レーガン・ドクトリン」によってアメリカは徐々に[[ラテン・アメリカ]]の[[社会主義]]政権や反体制ゲリラに対して、[[タカ派]]的外交姿勢をとりはじめる。このようにして敵視された政権には[[サンディニスタ民族解放戦線]]などの決して[[ソビエト連邦|ソ連]]や[[キューバ]]のような共産主義を掲げる訳ではない政権も多かったが、そのような事情は全て無視され、「[[反共]]」の理念の下に叩き潰された。
しかし、これは[[1960年代]]から繰り返し批判されてきたアメリカの「ダブルスタンダード」(相手が[[親米]][[反共主義|反共]]か[[反米]]・容共かにより外交で正反対の態度を取ったこと)を再び浮き彫りにするものでもあった。
[[ファイル:Ronald Reagan and Henry Kissinger.jpg|thumb|220px|[[ヘンリー・キッシンジャー]]元国務長官とともに]]
[[ファイル:Photograph of President Reagan and Mrs. Reagan attending Memorial Service for Lebanon and Grenada casualty victims... - NARA - 198543.jpg|thumb|220px|グレナダ侵攻の際の負傷兵を見舞うレーガン夫妻]]
「エルサルバドル死守」を[[中央アメリカ|中米]]外交の基本政策に掲げ、[[中米紛争]]ではニカラグアの[[コントラ]]や[[エルサルバドル軍]]、[[グアテマラ軍]]、及び[[極右]][[民兵]]組織を支援し、CIAを使って各国軍の[[死の部隊]]による「[[汚い戦争]]」を支え、結果的に[[ニカラグア内戦]]、[[エルサルバドル内戦]]、[[グアテマラ内戦]]を激化させて当該地域で何十万人という犠牲者と、何百万人もの亡命者を出す要因を作った。このような態度から、「レーガンは公然と反共[[ゲリラ]]戦争を支援している」と非難するものもいた<ref name="shashin"/>。
ニカラグアの指導者である[[ダニエル・オルテガ]]は、激しさを増す[[第二次ニカラグア内戦]]の最中にこう語っている。
{{Quotation|ニカラグアはテロを実行したことも支援したこともない。独立国に干渉したり、政府転覆を図るゲリラ(コントラ)を支援することこそテロではないか。ニカラグアの港湾に機雷を敷設したのは誰か。石油タンクを爆破したのは、空港を爆撃したのは、ゲリラ作戦教本を作ったのは誰か。一体誰が真のテロリストだというのであろうか。<ref>滝本道生『中米ゲリラ戦争』毎日新聞社 1988年 pp.194-195 より引用。</ref>}}
その一方で[[1982年]]に中米問題や国内の左翼ゲリラへの弾圧などで技術協力していた[[アルゼンチン]]の親米軍事政権が[[フォークランド紛争]]を引き起こした時は[[イギリス]]に全面的に協力した。さらに1983年にレーガンは、[[カリブ海]]の小さな島国グレナダで社会主義政権内でのクーデターが起きた後、公式に軍隊の侵攻を命令した([[グレナダ侵攻]])。このグレナダ侵攻作戦は実は就任当初から周到に準備されており、就任当初からグレナダの[[ニュー・ジュエル運動]]による人民革命政府を崩壊させようと[[プエルトリコ]]の[[ビエケス島]]で軍事演習を繰り返していた。
レーガンはグレナダのみならず、「西半球の癌」と呼んでいた容共的なニカラグアのサンディニスタ政権に対して、駐[[ホンジュラス]]アメリカ陸軍を増強し、ニカラグア直接介入(侵攻)をも狙っていたようだが、1984年のレバノン介入の失敗によってニカラグア侵攻は不可能になった。
またレーガンは1973年にアメリカが支援した[[チリ・クーデター]]によって大統領になり、以降軍事独裁政権を保っていた[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]将軍を「友人の中の友人」と呼び、[[ジミー・カーター|カーター]]政権時代に人権問題のためになされていた対チリ経済制裁を解除し、ピノチェト政権の延命を支えた。
こうした態度を信頼できなくなったラテン・アメリカ諸国は[[コンタドーラ・グループ]]を結成して独自に中米紛争の解決に取り掛かることになった。この紛争の最中にアメリカ合衆国に抵抗してコントラの一派ARDEの基地を撤去し、特に問題解決に尽力した[[コスタリカ]]の大統領[[オスカル・アリアス・サンチェス]]には[[ノーベル平和賞]]が授与された。
その任期の終盤には自由選挙を実施している国に経済援助を与えるなど、冷戦が終結に向かっていったことにより共産主義の浸透の心配が無くなったラテン・アメリカ諸国の民主主義への移行を支援しはじめたが、それでもレーガンの任期中に[[チリ]]・[[エルサルバドル]]・[[グアテマラ]]では、アメリカ合衆国に支援された「反共」を掲げる軍事独裁政権による暴力が止むことは無かった。
====イラン・コントラ事件====
[[File:Photograph of President Reagan motioning to Ed Meese during a White House Press Briefing on Iran-Contra - NARA - 198579.tif|220px|right|thumb|ホワイトハウス内で記者会見を行うレーガン]]
[[File:MurphySaddam.jpg|220px|right|thumb|イラクの大統領[[サッダーム・フセイン]]に事件の説明を行うリチャード・マーフィー[[アメリカ合衆国国務次官補|国務次官補]]]]
1986年には[[イラン・コントラ事件]]として知られる[[イラン]]と[[ニカラグア]]のサンディニスタ政権に対する秘密軍事支援のスキャンダル及び調査があった。
[[1985年]]8月、[[アメリカ軍]]の兵士らが[[レバノン]]([[レバノン内戦|内戦中]])での活動中、[[イスラム教]][[シーア派]]系[[過激派]]である[[ヒズボラ]]に拘束され、人質となってしまった。人質を救出する為にレーガン政権は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、[[イラン・イラク戦争]]で[[イラク]]と戦っていたものの劣勢であったイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束した。しかし当時のアメリカは、[[イラン革命]]後の[[1979年]]に発生した[[イランアメリカ大使館人質事件]]によりイランとの国交を断絶しており、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じていた上に、政治家・官僚・軍人による同国政府との公式な交渉も禁じられていた。
レーガン直々の承認を受けて極秘裏にイランに対して武器を輸出したばかりか、国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]軍政部次長でアメリカ海兵隊の[[オリバー・ノース]][[中佐]]らが、イランに武器を売却したことで得た収益を、左傾化が進む[[ニカラグア]]で反政府戦争([[コントラ戦争]])を行う[[反共主義|反共]][[ゲリラ]]「[[コントラ]]」に与えていた。
しかしイランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用というそれぞれの行為は、本来なら必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時[[民主党 (アメリカ)|民主党]]が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。またこの時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は、レーガン政権において副大統領のブッシュであったとされ、このブッシュの関与が、後の民主党政権下の[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]における公聴会で取りあげられた。
しかし最終的に、レーガンには自らのスタッフに対する管理が不十分だった点にのみ罪があるとされ、この事件は終結を迎えた。このスキャンダルはレーガンの在任中最大級のものだったが、その政治生命へのダメージは少ないものに留まった。下院議員のパトリシア・シュローダーは、このスキャンダルでレーガンの評判が傷つかなかったことを揶揄し、レーガンのことを傷のつきにくい鍋に例えて「[[テフロン]]大統領」と呼んだ。
====パナマ侵攻====
[[1989年]]には、手先だったはずの軍最高司令官[[マヌエル・ノリエガ]]を失脚させるべく、[[パナマ]]へ軍を進めた。
{{main|パナマ侵攻}}
====レバノン平和維持軍====
1982年より[[レバノン内戦]]に対して平和維持軍として[[アメリカ海兵隊]]及び[[アメリカ海軍]]をレバノンに派遣した。1983年10月23日には兵舎が[[イスラム]]民兵による[[ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件|自爆トラック攻撃]]を受け、241人の海兵隊員が死亡した。[[シリア]]軍に激しい攻撃を行った後、翌1984年2月にレーガンはレバノンから海兵隊を撤退させた。
====各国首脳との関係====
[[ファイル:G-7 Summit 1983.jpg|220px|thumb|ウィリアムズバーグ・サミット(1983年)]]
レーガンは各国の首脳と軒並み友好関係を持ったが、なかでも[[西側諸国]]のサミット国の指導者とは親密な関係を保った。イギリスの[[マーガレット・サッチャー]]首相、[[カナダ]]の[[ブライアン・マルルーニー]]首相、[[日本]]の[[中曽根康弘]]首相、[[イタリア]]の[[アミントレ・ファンファーニ]]首相などとは特に「仲良し」なことを公言して{{Ruby|憚|はばか}}らず、大統領の「公式プライベート空間」である[[キャンプ・デービッド]]や、レーガン個人がカリフォルニア州に所有する牧場に彼らを招いてもてなしたりもした。
こうした[[ファーストネーム]]で呼び合う文化がない同盟国の首脳までとも、親密さを演出するためにお互いにファーストネームの[[名前の短縮型|短縮型]]で呼び合うことを提案して外交[[プロトコル]]に革命をもたらしたのも、気さくなレーガンならではのことだった。レーガンと中曽根もお互いに「ロン」「ヤス」と呼び合い、これが先例となって今日まで日米首脳の多くはこの「ファーストネーム ベース」で呼び合うことを踏襲している。
====日本との関係====
[[ファイル:Reagan hirohito.jpg|thumb|220px|[[昭和天皇]]と共に(1983年)]]
[[ファイル:President Reagan and Prime Minister Yasuhiro Nakasone.jpg|thumb|220px|[[中曽根康弘]]の私邸にて昼食をともに(1983年)]]
日本はアメリカの同盟国であるだけで無く、世界有数の経済力を持つアジアで唯一の先進国であると同時に、当時のアジアにおいて唯一安定した民主主義政治が確立された国でもあった。そして冷戦下で[[西側諸国|自由主義陣営]]と[[東側諸国|社会主義陣営]]の2極化が進むと、アジア太平洋地域においてアメリカ軍の基地を抱え、超大国のソ連を太平洋側から抑える位置にある日本の戦略的な重要性はますます高まった。
1970年代に表面化した日本との貿易摩擦に対しては、アメリカ国内の保守派や大企業・組合などからのプレッシャーを受けて一貫して強硬姿勢をとり続けたが、冷戦に正面から対峙し続けたレーガン政権が、このような日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。
レーガンのソ連への強硬路線は日米関係にも影響を与えた。[[大韓航空機撃墜事件]]や[[スタニスラフ・レフチェンコ|レフチェンコ事件]]など、冷戦下の北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取った他、極東アジアにおける軍事的なプレゼンスを高めるため、青森県の[[三沢基地]]に当時最新鋭の戦闘機であった[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]の飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸軍・海軍・空軍・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開した。
特に同年代でお互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「'''ロン・ヤス'''」と[[あだ名]]されてお互い交流を結んだ。そうした背景からレーガンは1983年11月9日から12日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202205230000424.html|title=バイデン大統領、ディナーは「八芳園」/歴代大統領初来日時のおもてなし一覧|publisher=日刊スポーツ|date=2022-05-23|accessdate=2022-05-23}}</ref>・1986年5月4日から・1989年5月2日から7日と、現職のアメリカ合衆国大統領としては最多の3度に渡り日本を公式訪問している。この間に東京を[[オフショア市場]]化した。
最初の訪日では[[昭和天皇]](当時の[[今上天皇]])や中曽根と会談した他、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曽根が11月11日に[[東京都]][[西多摩郡]][[日の出町]]の[[別荘]]である「[[日の出山荘]]」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。日の出山荘を訪れる前日には、[[明治神宮]]で[[流鏑馬]]を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。国会で、これからの世界平和・日米協力の必要性を説いた時、俳句を引用し(「草いろいろおのおの花の手柄かな」)、これは与野党を問わず大喝采を受けた<ref>望月明著『句文集 九計』52頁 2007年3月1日発行</ref>。2004年のレーガン国葬にも当時86歳の中曽根はたっての願いで参列して故人を惜しんでいる。
====韓国との関係====
大統領就任後間も無く、1981年2月に韓国の大統領[[全斗煥]]を最初の国賓としてホワイトハウスに招待し、レーガン同様に反共主義を標榜する全との良好な関係をアピールすることで反共軍事同盟を重視すると意思表示を行うことで、ソ連と北朝鮮に対してプレッシャーを与えた。一方レーガン陣営は政権移行期から軍事独裁政権であった韓国政府に対して慎重に働きかけを行い、死刑宣告を受けていた反政府運動(全斗煥は軍事クーデターにより政権を獲得し、反対派に対し武力による弾圧を行っていた)の指導者・[[金大中]]を釈放するよう促しており、[[村田晃嗣]]はこれを、レーガンの前任者ジミー・カーターが標榜した人権外交になぞらえ、「レーガン流の静かな人権外交」と評している<ref>村田晃嗣『レーガン』中公新書 2011年 pp180。</ref>。
===健康===
1985年夏にレーガンの大腸にできていた[[ポリープ]]が[[生体組織検査]]の結果[[悪性腫瘍|悪性]]であることが判明すると、レーガンは直ちにポリープ切除手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするという医師団の診断を受けて、大統領府では1947年の大統領継承法と1967年の[[アメリカ合衆国憲法修正第25条]]の規定に依り、大統領権限の一時的移譲を初めて行うことを決定した。手術は7月13日の朝方から始まり、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領がこの間約8時間に渡って大統領権限を代行している。
1987年1月5日には[[前立腺癌]]の摘出手術も受けているが、この際は[[局所麻酔]]で済ませることができたため権限移譲は行われなかった。しかし当時レーガンは76歳に迫る高齢で、「任期をあと2年も残して果たしてこの先大丈夫なのか」という懸念が全米に広がった。
その後は[[難聴|耳が遠くなる]]、受け答えが鈍くなるなど、老化に特有の現象に見舞われることにはなった。レーガンは以前から難聴ぎみで、就任の翌年には早くも現職大統領として初めて[[補聴器]]を着用しはじめていたが、2期目に入ったころからその度合いが進行し、公の席でも傍らにいたナンシー夫人がことあるごとに耳打ちをするようにまでなっていた。この光景をアメリカのメディアは「[[ファーストレディ#最強のファーストレディ|ファーストレディーの政治へ容喙]]」などとして取りあげたことから、ナンシー夫人は「ナンシー・レーガン大統領」などといった陰口を後々まで叩かれることになった。ともかくも8年の任期をつとめあげ、1989年1月20日に77歳11ヵ月という大統領としては史上最高齢でホワイトハウスを後にしたときには、多くのメディアが「これなら3期目でもいけたかもしれない」などという賛辞を贈った。
一方で病気が政権運営に支障を来していたとの指摘も多い。レーガンの執務時間は政権末期になると明らかに少なくなっており、特に最後の2年は政策の詳細には関与していなかったという<ref>[https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-42661056 トランプ氏の1日の時間割] BBC 2018年1月15日</ref>。
===内閣===
<!-- ミドルネーム、ミドルイニシャル、III世、Jr. などの表記に一貫性がないので、これらを一律に省きます。ただしミドルネームの方を通用名にしている C. William Verity と、息子と同名の George H. W. Bush は例外とします。-->
{|class=wikitable align=left
!職名||氏名||任期
|-
|[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||'''ロナルド・レーガン'''||1981 - 1989
|-
|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||'''[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]'''||1981 - 1989
|-
|rowspan=2|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||'''[[アレクサンダー・ヘイグ]]'''||1981 - 1982
|-
|'''[[ジョージ・シュルツ]]'''||1982 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||ailgn="left"|'''[[ドナルド・リーガン]]'''||1981 - 1985
|-
|'''[[ジェイムズ・ベイカー (国務長官)|ジェームズ・ベイカー]]'''||1985 - 1988
|-
|'''[[ニコラス・ブレイディ]]'''||1988 - 1989
|-
|rowspan=2|[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]||'''[[キャスパー・ワインバーガー]]'''||align="letf"|1981 - 1987
|-
|'''[[フランク・カールッチ]]'''||1987 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||'''{{仮リンク|ウィリアム・F・スミス|label=ウィリアム・スミス|en|William_French_Smith}}'''||1981 - 1985
|-
|'''{{仮リンク|エドウィン・ミース|en|Edwin_Meese}}'''||1985 - 1988
|-
|'''{{仮リンク|リチャード・ソーンバーグ|en|Dick_Thornburgh}}'''||1988 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||'''{{仮リンク|ジェームズ・G・ワット|label=ジェームズ・ワット|en|James_G._Watt}}'''||1981 - 1983
|-
|'''[[ウィリアム・パトリック・クラーク|ウィリアム・クラーク]]'''||1983 - 1985
|-
|'''{{仮リンク|ドナルド・P・ホーデル|label=ドナルド・ホーデル|en|Donald_P._Hodel}}'''||1985 - 1989
|-
|rowspan=2|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]||'''{{仮リンク|マルコム・バルドリッジ|en|Malcolm_Baldrige_Jr.}}'''||1981 - 1987
|-
|'''{{仮リンク|カルヴィン・ウィリアム・ヴェリティ|en|William_Verity_Jr.}}'''||1987 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]||'''{{仮リンク|レイモンド・ドノヴァン|en|Raymond_J._Donovan}}'''||1981 - 1985
|-
|'''{{仮リンク|ウィリアム・ブロック|en|Bill_Brock}}'''||1985 - 1987
|-
|'''{{仮リンク|アン・マクラフリン|en|Ann_McLaughlin_Korologos}}'''||1987 - 1989
|-
|rowspan=2|[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]||'''[[ジョン・ラスリング・ブロック]]'''||1981 - 1986
|-
|'''[[リチャード・エドモンド・リング]]'''||1986 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国保健福祉長官|保健福祉長官]]||'''{{仮リンク|リチャード・シュウェイカー|en|Richard_Schweiker}}'''||1981 - 1983
|-
|'''{{仮リンク|マーガレット・ヘッケラー|en|Margaret_Heckler}}'''||1983 - 1985
|-
|'''{{仮リンク|オーティス・R・ボーウェン|label=オーティス・ボーウェン|en|Otis_Bowen}}'''||1985 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国教育長官|教育長官]]||aling="left"|'''[[テレル・ハワード・ベル]]'''||1981 - 1984
|-
|'''[[ウィリアム・ジョン・ベネット]]'''||1985 - 1988
|-
|'''[[ラウロ・カヴァゾス]]'''||1988 - 1989
|-
|[[アメリカ合衆国住宅都市開発長官|住宅都市開発長官]]||'''{{仮リンク|サミュエル・R・ピアース|label=サミュエル・ピアース|en|Samuel Pierce}}'''||1981 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国運輸長官|運輸長官]]||alogn="left"|'''{{仮リンク|ドリュー・ルイス|en|Andrew_L._Lewis_Jr.}}'''||1981 - 1982
|-
|'''[[エリザベス・ドール]]'''||1983 - 1987
|-
|'''{{仮リンク|ジェームズ・H・バーンリー|label=ジェームズ・バーンリー|en|James_H._Burnley_IV}}'''||1987 - 1989
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国エネルギー長官|エネルギー長官]]||'''{{仮リンク|ジェームズ・W・エドワーズ|label=ジェームズ・エドワーズ|en|James_B._Edwards}}'''||1981 - 1982
|-
|'''{{仮リンク|ドナルド・B・ホーデル|label=ドナルド・ホーデル|en|Donald_P._Hodel}}'''||1982 - 1985
|-
|'''{{仮リンク|ジョン・S・ヘリントン|label=ジョン・ヘリントン|en|John_S._Herrington}}'''||1985 - 1989
|}
[[ファイル:1981 US Cabinet.jpg|thumb|330px|レーガンと最初の閣僚(1981年2月4日)]]
[[ファイル:Reagan cabinet 1989-01-11.jpg|thumb|330px|レーガンと最後の閣僚(1989年1月11日)]]
{{-}}
==引退==
[[ファイル:President Ronald Reagan salutes as he departs aboard a helicopter from the United States Capitol.jpg|220px|thumb|ホワイトハウスを去るレーガン]]
1989年1月20日、レーガンは高い支持率を保ったまま、同じく共和党選出であるジョージ・H・W・ブッシュにその座を譲りホワイトハウスを後にした。2期8年の任期を全うしたのは[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]以来である。同年来日して[[東京ドーム]]での[[1989年の日本シリーズ]]第3戦で[[始球式]]を行っている。
なおレーガンは冷戦終息に対する貢献により、イギリスの[[エリザベス2世]][[女王]]から[[大英帝国勲章]]ナイト・グランド・クロス位 (GBE) を受け[[ナイト]]の称号を許されたが、「アメリカ合衆国市民は外国から栄典を受けることはあっても名乗らない」の慣例に従い、その名前に「GBE」の[[ポスト・ノミナル・レターズ]]を付けることは一度も無かった。
===アルツハイマー病===
レーガンはホワイトハウスを去ってから4年後の1993年、[[アルツハイマー型認知症|アルツハイマー病]]と診断された。病は年を追う毎に進行し、人前に出ず、静かでプライベートな環境で余生を送らざるを得なくなった。妻のナンシーは自宅にホワイトハウスの執務室を再現し、レーガンはそこで新聞を読むなどの「執務」を毎日数時間行うことによって症状の進行を食い止めたという。[[1994年]][[4月]]に死去した[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]の葬儀に出席したが、これが公の場に姿を現した最後の日となった。同年[[11月5日]]、彼は国民にあてた手紙という形で、アルツハイマー病の病状を公表した。
レーガンの最後のメッセージとなった、『{{en|I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.}}(私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉は、多くの人々に深い感銘を与えた。
[[2001年]]に[[南カリフォルニア]]の自宅で転倒した際に腰を骨折してほとんど寝たきりとなってからは、健康状態はさらに不安定になった。
レーガンがアルツハイマー病を実際に発病した時期については諸説あり、在任中には既に患っていたとする説もある。次男のロンは2011年出版の回顧録の中で、1984年の前副大統領[[ウォルター・モンデール]]との討論会において父のロナルドの異変に気がついたと指摘している。一方で大統領在任中の主治医や側近、またロナルド・レーガン大統領財団は在任中には病気の兆候は無かったとしている<ref>{{Cite news
|url=http://www.cnn.co.jp/usa/30001521.html
|title=レーガン元大統領、在任時に認知症の兆候 息子が主張
|work=CNN.co.jp
|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]
|date=2011-01-18
|accessdate=2011-01-18
|language=日本語
}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。しかし、相手のモンデールもその時にロン同様に異変を感じたと述懐。またホワイトハウスのスタッフも、あるボヤ騒ぎの際に煙の充満する部屋の中で全く身動きを取ろうとしなかった姿を目撃し、それを「奇行」と捉えていた<ref>『使用人たちが見たホワイトハウス』ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 [[光文社]] 2016年 p336</ref>。
===空母「ロナルド・レーガン」===
[[ファイル:USS Ronald Reagan (CVN-76).jpg|thumb|CVN-76]]
[[1998年]]2月6日、ワシントンD.C.のナショナル空港が「[[ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港]]」と改名された。さらに[[ニミッツ級航空母艦]]の9番艦は2001年3月4日に「[[ロナルド・レーガン (空母)|ロナルド・レーガン]](USS Ronald Reagan, CVN-76)」と命名された。[[2003年]][[7月12日]]の就役式典には闘病中のレーガン本人に代わり、ナンシー夫人が出席した。
{{-}}
==死去==
[[ファイル:Ronald Reagan casket on caisson during funeral procession.jpg|220px|thumb|ワシントンD.C.内に運ばれる棺]]
[[ファイル:Mulroney Thatcher and Gorbachev at Reagan's funeral.jpg|220px|thumb|葬儀に参列した中曽根、ゴルバチョフ、マルルーニ、サッチャー(左から)]]
===歴代4位の長寿===
2004年6月5日の午後1時9分に、かねてから自宅で療養中であったレーガンはロサンゼルス近郊の高級住宅街、[[ベル・エアー]]{{enlink|Bel Air, Los Angeles, California|Bel Air}}の自宅で[[肺炎]]のため死去した。
レーガンは妻のナンシー及び子供のマイケル、パティ・デイビス及びロンに支えられ闘病生活を続けたが、家族にベッドを囲まれて93歳120日の生涯を閉じた。死去時、歴代アメリカ合衆国大統領の中で最長寿だったが、2021年11月現在では存命中であるジミー・カーター(98歳)、2018年11月30日に94歳171日で死去したジョージ・H・W・ブッシュ、2006年12月26日に93歳165日で死去した[[ジェラルド・R・フォード|ジェラルド・フォード]]につぐ歴代4位の長寿である。
===葬儀===
{{main|ロナルド・レーガンの死と国葬}}
レーガンの葬儀は[[1973年]]の[[リンドン・ジョンソン]]以来の[[国葬]]<ref group="注釈">[[1994年]]に死去した[[リチャード・ニクソン]]は、アメリカの歴史上初となる辞任を行ったことや本人の意志などから国葬は行われなかった。また、前述の通りこのニクソンの葬儀がレーガンが公の場に姿を見せた最後の日となった。</ref>として2004年[[6月11日]]に行われた。ナショナル大聖堂で行われた国葬では、当時の大統領[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]]、元大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、イギリスの元首相マーガレット・サッチャー、カナダの元首相ブライアン・マルルーニーらが弔辞を述べた。
またレーガンと親交の深かった日本の首相である中曽根康弘や、ソ連の大統領ミハイル・ゴルバチョフら大統領時代に交流のあった現在及び過去の政府トップ多数が世界中から参列し、その光景は各国のテレビや新聞などのマスコミを通じ、全世界で報道された。
葬儀当日の夕方、日没の時刻に地元カリフォルニア州[[シミバレー (カリフォルニア州)|シミバレー]]にあるロナルド・レーガン大統領図書館の敷地内にある墓所に遺体が安置された。
=== 旧共産主義国 ===
2011年にはレーガンの生誕100周年として ハンガリーの[[ブダペスト]]、ポーランドの[[ワルシャワ]]、[[グダニスク]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]の[[トビリシ]]などソ連の衛星国だった旧東ヨーロッパ圏の諸都市でも、冷戦をアメリカの勝利に導いたことで自由を自国に届けたレーガンを讃える銅像の建立ブームが起きている。2017年にはウクライナとルーマニアも自由への意志を込めて、国内にレーガンの銅像建立を推進しているなど評価されている<ref>[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/12/01/2017120101766_2.html 【コラム】過ちがある指導者の銅像は建ててはならないのか] 朝鮮日報</ref>。
==逸話==
=== 「リーガン」から「レーガン」へ ===
[[File:Ronald Reagan in Dark Victory trailer.jpg|thumb|220px|「Ronald Reagan」のキャプション。映画『[[愛の勝利 (1939年の映画)|愛の勝利]]』(1939年)より。]]
英語における「Reagan」の本来の発音は「リーガン」が近い。レーガン本人もハリウッド俳優時代から1980年の大統領予備選挙の当たりまでは「ロナルド・<span style="text-decoration:underline;">リー</span>ガン」と名乗っていた。しかし共和党から党大統領候補の指名を受けた際に、自分のルーツが[[アイルランド]]系であり、[[アイルランド語]]では語頭の「Rea」を「リー」ではなく「レイ[rei]」と発音することから、これを機に以後は「ロナルド・レイガン」と名乗ることにすると発表した。選挙中にこのような発表をする大統領候補はかつて無かったため、この件は意外性をもって報じられた。
ただ、多民族国家であるアメリカでは、民族の伝統の継承や自己の歴史に対する誇りに重きを置く{{要検証|date=2015年6月}}。アイルランド系アメリカ人はヨーロッパからアメリカ合衆国へ組織的に移民した古参格で、強い民族意識と横の連帯を武器にアメリカ社会で確固たる地位を築いてきた。その後のヨーロッパからの移民の中には、新天地での暮らしが少しでも容易になるよう、自らの姓を英語風に改める者もいた中で、誇り高いアイルランド系のアメリカ人にはルーツを貫く者が多かった。このような要因から、このレーガンの姿勢は彼に対する好感度の上昇につながった。
もう1つの理由が、レーガン陣営で財政問題の顧問をしていた元[[メリルリンチ]]会長の'''[[ドナルド・リーガン]]'''({{En|Donald Regan}})の存在であった。リーガンはレーガンの側近ともいえる人物で、レーガンが当選すればリーガンが財務長官に指名されるのは確実視されていた。姓の発音が同じで、しかも名の方も頭の一文字が違うだけである。この二つの名前はいかにも紛らわしいため、アメリカの報道も、こぞってレーガン候補の表明に同調する形で発音を変更し、Reganは従来通りの発音に据え置くことにした。{{要出典範囲|date=2015年6月|レーガンの名が浸透した今日では、逆に「リーガン」の方が「レーガン」と呼び間違えられることが多いという。}}
これを受けて、日本のメディア報道においても表記がそれまでの「'''リーガン'''」から「'''レーガン'''<ref group="注釈">日本語においては「エイ[ei]」のような[[二重母音]]表記がしばしば「エー[eː]」と発音される現象([[転呼]])に倣って[[長音]]に置き換える表記が当時の外国語・外来語の音訳では主流であったが、「レーガン」はこれが現在まで定着している一例である。</ref>」に変更されたが、一部では大統領選を経て就任式を過ぎてからもしばらく両表記が混在していたため、{{いつ範囲|date=2020年2月|春ごろアメリカ大使館は日本の報道機関に対して、適切な表記に変更するよう要望する書簡を送付した。外国大使館からのこのような要望は前代未聞であり、この件は日本でも話題性のあるニュースとなった。}}
===バック・トゥ・ザ・フューチャー===
レーガンのお気に入りの映画は[[1985年]]公開の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]』で、[[ホワイトハウス]]内の専用上映室で何度も見たという。
この映画には[[タイムマシン]]で30年前の[[1955年]]に[[タイムスリップ]]した主人公のマーティ・マクフライが、そこでこのタイムマシンを作った科学者、若かりしころのエメット・ブラウン博士(ドク)と対面、自分が未来から来たことを告げる。そんなことは全く信じないドクが「1985年における[[アメリカ合衆国大統領]]は誰だ?」と聞くと、マーティは「ロナルド・レーガン」と答えるが、ドクは(出まかせを言っているものだと判断し)呆れて「ロナルド・レーガン? [[俳優]]の? なら[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]は誰だ?(コメディアンの)[[ジェリー・ルイス]]か?[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]]は[[ジェーン・ワイマン]]<ref group="注釈">ロナルド・レーガンとジェーン・ワイマンはかつて本当に夫婦だったことがあるが、この二人は1948年に離婚しており、若きドクが生きていた1955年の時点では、レーガンは(史実上でもファーストレディとなった)ナンシー・デイビスと再婚している。</ref>で[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]は[[ジャック・ベニー]]か?」と、小[[馬鹿]]にして笑うシーンがある<ref>Dr. Brown:Then tell me, "Future Boy", who's President in the United States in 1985?<br>Marty:Ronald Reagan.<br>Dr. Brown:Ronald Reagan? The actor? Then who's VICE-President? Jerry Lewis??</ref>(その場面の少し前に、出演者として、レーガンの名前がある映画『バッファロー平原([[:en:Cattle Queen of Montana|Cattle Queen of Montana]])』のポスターが映り込むという伏線がある)。
[[1986年]][[2月4日]]の[[一般教書演説]]で、レーガンは逆に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の最後に語られる台詞を引用し、
{{Quote|映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも言っていたように、我々の行き先には、道路が敷かれている必要はないのです。<br/>{{lang-en|As they said in the film "Back to the Future", Where we're going, We don't need roads.}}|ロナルド・レーガン}}という一節を挿入して、[[アメリカ合衆国議会]]で喝采を浴びている。
なお、他にも『[[レッズ (映画)|レッズ]]』などがお気に入りで、ホワイトハウス内の上映室で鑑賞していた。
===爆撃は5分後に始まります===
{{main|我々は5分後に爆撃を開始する}}
レーガンの茶目っ気と洗練されたジョークはアメリカ合衆国を魅了したが、軽口が災いして、ひとつ間違えば外交問題に発展するか、下手をすれば全面[[核戦争]]や[[第三次世界大戦]]にもなりかねないような状況を作ってしまったこともあった。
1984年8月8日、定例ラジオ演説の本番前のマイクロフォンテストで、常套句 {{en|"Testing, testing, one, two, three."}} ([[本日は晴天なり]]・マイクテスト)を言うかわりに、「国民の皆さま、喜ばしいご報告があります。私はただいま[[ソビエト社会主義共和国連邦]]を永遠に葬り去る法案に署名しました。爆撃は5分後に始まります({{en|My fellow Americans, I am pleased to tell you I just signed legislation which outlaws Russia forever. The bombing begins in five minutes.}})」と言った。このメッセージはその時点で放送されなかったが、その後リークされて物議を醸した。ソ連の[[タス通信]]は「アメリカ合衆国大統領の比類無き敵対行動に抗議する」「多くの人の運命を預かる[[核保有国]]のトップとして適切な発言では無い」と抗議した。
===銅像===
[[2011年]]6月29日、東ヨーロッパの民主化に果たしたレーガンの功績を称え、生誕100年に合わせて、ハンガリーの[[ブダペスト]]でレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはアメリカの[[コンドリーザ・ライス]]前[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]とハンガリーの[[オルバーン・ヴィクトル]]首相らが出席した。レーガン像は高さ2.2メートル。旧ソ連記念碑(旧ソ連が[[1945年]]の「ハンガリー解放」を誇示するために建立した記念碑)のそばにある。
2011年7月4日、レーガンの生誕100年を記念してイギリスの[[ロンドン]]でレーガン像の除幕が行われた。除幕式にはイギリスの[[ウィリアム・ヘイグ]]外相、アメリカのコンドリーザ・ライス国務長官らが出席。イギリスの[[マーガレット・サッチャー]]元首相の祝辞が読み上げられた。
== 俳優としての主な出演作品 ==
*[[聖林ホテル]] ''Hollywood Hotel'' (1937) クレジットなし
*犯罪博士 ''The Amazing Dr. Clitterhouse'' (1938) 声のみ、クレジットなし
*[[愛の勝利 (1939年の映画)|愛の勝利]] ''Dark Victory'' (1939)
*[[カンサス騎兵隊]] ''Santa Fe Trail'' (1940)
*荒野の掠奪 ''The Bad Man'' (1941)
*なぐり込み戦闘機隊 ''International Squadron'' (1941)
*嵐の青春 ''Kings Row'' (1942)
*[[戦場を駈ける男]] ''Desperate Journey'' (1942)
*ロナルド・レーガンの 陸軍中尉 ''This Is the Army'' (1943)
*スタリオン街道 ''Stallion Road'' (1947)
*恋の乱戦 ''John Loves Mary'' (1949)
*暗闇の秘密 ''Night Unto Night'' (1949)
*真夏の曲線美 ''The Girl from Jones Beach'' (1949)
*命ある限り ''The Hasty Heart'' (1949)
*目撃者 ''Storm Warning'' (1951)
*最後の砦 ''The Last Outpost'' (1951)
*楽園の死闘 ''Hong Kong'' (1952)
*楽園の決闘 ''Tropic Zone'' (1953)
*[[決闘の町 (1953年の映画)|決闘の町]] ''Law and Order'' (1953)
*フォード・テレビジョン・シアター ''The Ford Television Theatre'' (1953-1954) テレビドラマ
*バファロウ平原 ''Cattle Queen of Montana'' (1954)
*ジェネラル・エレクトリック・シアター ''General Electric Theater'' (1954-1962) テレビドラマ
*対決の一瞬 ''Tennessee's Partner'' (1955)
*勝利への潜航 ''Hellcats of the Navy'' (1957)
*[[殺人者たち]] ''The Killers'' (1964)
*デス・バレー・デイズ ''Death Valley Days'' (1965) テレビドラマ
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*[[伊藤千尋 (ジャーナリスト)|伊藤千尋]] 『燃える中南米―特派員報告』[[岩波書店]]、1988年、ISBN 978-4-00-430023-6
*滝本道生 『中米ゲリラ戦争』[[毎日新聞社]]、1988年、ISBN 4-620-30653-3
*[[後藤政子]] 『新現代のラテンアメリカ』[[時事通信社]]、1993年、ISBN 4-7887-9308-3
*[[村田晃嗣]] 『レーガン いかにして「アメリカの偶像」となったか』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2011年、ISBN 978-4-12-102140-3
==関連項目==
* {{ill2|レーガン主義|en|Political positions of Ronald Reagan}}
* [[1980年アメリカ合衆国大統領選挙]]
* [[1984年アメリカ合衆国大統領選挙]]
* [[反共主義]]
* [[赤狩り]]
* [[ダニエル・イノウエ]]
* [[ロイ・コーン]]
* [[ロナルド・レーガン・ビルディング]]
* [[ワシントン・タイムズ]]
* [[全米ライフル協会]]
* [[テカムセの呪い]]
* [[新自由主義]]
* [[悪の帝国発言]]
* [[中米紛争]]
* [[ロナルド・レーガン自由賞]]
* [[クリスティアーノ・ロナウド]] - 親が「ロナルド・レーガンのような人物になって欲しい」と考え命名した
* [[Make America Great Again]]
* [[ドナルド・トランプ]] - やはり「力による平和」を唱えた
<!-- *『[[運命の瞬間 そしてエイズは蔓延した]]』("[[AND THE BAND PLAYED ON]]") -->
==外部リンク==
{{commons|Ronald Wilson Reagan}}
* [https://www.reagan.com/ RonaldReagan.com - The Official Site]
* [https://web.archive.org/web/20090117204714/http://www.whitehouse.gov/history/presidents/rr40.html White House biography]
* [https://www.reaganfoundation.org/ Ronald Reagan Presidential Library and Foundation]
* [http://www.reaganlegacy.org/ Ronald Reagan Legacy Project]
* [https://www.nndb.com/people/359/000022293/ Ronald Reagan profile at NNDB]
* [https://patriotpost.us/reagan Reagan 2020 - numerous speeches collected]
* [https://lib.msu.edu/search/google/Reagan/ Audio recordings of Reagan's speeches]
* [http://www.governor.ca.gov/govsite/govsgallery/h/biography/governor_33.html Profile, Portrait and Inaugural Addresses as California Governor]
* [http://reason.com/7507/int_reagan.shtml 1980s ''Inside Governor Ronald Reagan''] A 1975 interview with Reason magazine concerning his political philosophy
* State of the Union Addresses:[http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=42687 1982], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=41698 1983], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=40205 1984], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=38069 1985], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=36646 1986], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=34430 1987], [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=36035 1988] at UCSB's American Presidency Project
* [http://www.ronaldreagan.tk/ RonaldReagan.tk - a large Audio & Video archive]
* [http://online.wsj.com/public/page/0,,8_0000-OdcmTo|OCo7sfgXasBkHwZz1i7e5eeS8-HoZ|7u2DwDb7an4fzRzQy5EoTD|wa2KV,00.html?mod=video_center Kudlow & Company - Short clip with Ronald Reagan on government spending]
* [http://www.ge.com/stories/en/20208.html?category=Customer A GE Tribute to Ronald Reagan]
* [http://www.cnn.com/resources/video.almanac/1981/reagan.shot/reagan.lg.mov Public Domain video in Quicktime of CNN reporting attempted assassination of President Reagan (Courtesy of CNN.com)]
* [http://www.posterlovers.com/gallery/showgallery.php/cat/655 Ronald Reagan Image Gallery]
* {{YouTube|c=UCMP5_7v48WfDKfoirLCcNgQ|Reagan Library}}
* [http://www.e-pdc.tv/index.html PDクラシック社:出演映画のDVD(「カンサス騎兵隊」)を販売]
* {{Kotobank|レーガン}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3 |
5,014 | エドガー・ライス・バローズ | エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs, 1875年9月1日 - 1950年3月19日)はアメリカの小説家。「エドガー・ライス・バロウズ」(ハヤカワ文庫SF)、「E・R・バローズ」(創元推理文庫)の表記もある。頭文字で単にERBとも書かれる。
代表作はSF小説『火星のプリンセス』を始めとする火星シリーズと、ターザン・シリーズなどの冒険小説、ペルシダー・シリーズなどの秘境探検小説で、これらは「(バローズの)3大シリーズ」と呼ばれ、創作活動の初期から終期まで継続して書き継がれた(金星シリーズを含めた場合は4大シリーズ)。火星シリーズや金星シリーズは惑星冒険ものや剣と惑星もの、ペルシダーシリーズはロストワールドものにも該当し、それらの代表であるが、しかし最初の作品ではない。
作風としては、恋に彩られた冒険ものが多く、SF小説の多くがそれに当てはまる。ハードSFは「月からの侵略」(月シリーズの第2部)などごく少数に留まる。
刊行年は単行本化のもの。アメリカ版の刊行年は、リチャード・A・ルポフ 『バルスーム』 厚木淳訳、東京創元社、1982年、261-265頁に拠った。
日本語版タイトルは、ターザン・シリーズは早川書房版、それ以外は東京創元社版を表記。両社から出ているものは、それぞれに明記した。
なお、原文は、プロジェクト・グーテンベルクで入手して読むことができる。
『金星の魔法使』は4作を収録した短編集で、金星シリーズは表題作のみ。創元版はカナベラルプレス版を底本としており、他3篇は「5万年前の男」「さいはての星のかなたへ」「タンゴール再登場」。エースブックス版"Wizard on Venus"は、「金星の魔法使」と'Pirates Blood'(未訳)の2作を収録している。
The Moon MenはThe Moon Men、The Red Hawkの2編の合本であり、ムーン・シリーズは全体で3部作の構成である。アメリカ(McClurg.)では、全1巻としてハードカバー版が刊行されているが、第2部と第3部は約1/5が削除されている。エース・ブックスのペーパーブック版は、雑誌掲載版を収録した完全版である。
最終巻は連作中篇である。第4部は早川が版権を独占所有しているため、創元版はダイジェストとなっている。
3部作。東京創元社(とアメリカ版ハードカバー(McClurg.))は全1巻、早川書房(とアメリカのエース・ブックス版ペーパーバック)からは全3巻として刊行されている。
項目(リンク先)のあるものは、そちらを参照。
アメリカ版(McClurg.)は全1巻。
出典のあるもののみ、邦題を記載する。
これにより、冒険ものやSF小説が多く、恋愛小説や現代小説などは少ない 。
バローズのヒーローとヒロインは、どちらか(もしくは両方)が王族や貴族の家系、あるいは名誉ある家系である事が多い。これは、「アメリカ人の、王侯貴族への憧れ」といわれている。
創作については独学で小説を書き始めた、と伝えられる。ただし、バローズは作家として活動する前、シカゴ公共図書館へ通い、様々な書籍に目を通した。また、書き上げるスピードが早かった、といわれる。
作風としては、複数の登場人物(のグループ)が登場し、それぞれの個別の行動を交互に追いながら、彼らがひとつの目標に合流する、という点が特徴。目新しい手法ではないが、バローズの作風には合っていた。また、ヒーローは紳士的で屈強な戦士だが想像力に欠け、ヒロインは美しく貞淑で受動的であり、多くのキャラクターは紋切り型である。
ターザン・シリーズを10冊以上翻訳した高橋豊は、次の点を指摘している。
バローズの作品の内、初期から最終期まで書き続けていたのは火星シリーズ、ターザン・シリーズ、ペルシダー・シリーズの3シリーズである。これらのシリーズには、共通点がある(特に火星とペルシダー)。
バローズの初期作品には、先人の作品を参考にした作品がある。
バローズの作品は、他の作品と関係を持っている場合がある。
なお、構想の段階では、火星シリーズの第4巻に、ターザンが登場する予定があった。
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"text": "3部作。東京創元社(とアメリカ版ハードカバー(McClurg.))は全1巻、早川書房(とアメリカのエース・ブックス版ペーパーバック)からは全3巻として刊行されている。",
"title": "単行本リスト"
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"text": "項目(リンク先)のあるものは、そちらを参照。",
"title": "単行本リスト"
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"text": "アメリカ版(McClurg.)は全1巻。",
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"text": "出典のあるもののみ、邦題を記載する。",
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"text": "これにより、冒険ものやSF小説が多く、恋愛小説や現代小説などは少ない 。",
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"text": "バローズのヒーローとヒロインは、どちらか(もしくは両方)が王族や貴族の家系、あるいは名誉ある家系である事が多い。これは、「アメリカ人の、王侯貴族への憧れ」といわれている。",
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"text": "創作については独学で小説を書き始めた、と伝えられる。ただし、バローズは作家として活動する前、シカゴ公共図書館へ通い、様々な書籍に目を通した。また、書き上げるスピードが早かった、といわれる。",
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"text": "作風としては、複数の登場人物(のグループ)が登場し、それぞれの個別の行動を交互に追いながら、彼らがひとつの目標に合流する、という点が特徴。目新しい手法ではないが、バローズの作風には合っていた。また、ヒーローは紳士的で屈強な戦士だが想像力に欠け、ヒロインは美しく貞淑で受動的であり、多くのキャラクターは紋切り型である。",
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"text": "ターザン・シリーズを10冊以上翻訳した高橋豊は、次の点を指摘している。",
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"text": "バローズの作品の内、初期から最終期まで書き続けていたのは火星シリーズ、ターザン・シリーズ、ペルシダー・シリーズの3シリーズである。これらのシリーズには、共通点がある(特に火星とペルシダー)。",
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"text": "バローズの初期作品には、先人の作品を参考にした作品がある。",
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"text": "バローズの作品は、他の作品と関係を持っている場合がある。",
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"text": "なお、構想の段階では、火星シリーズの第4巻に、ターザンが登場する予定があった。",
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"text": "説明のないものは映画作品。また、アメリカ作品については明記せず。なお、ターザン・シリーズは膨大になるので、ターザン#ターザン映画・TVの一覧を参照。",
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] | エドガー・ライス・バローズはアメリカの小説家。「エドガー・ライス・バロウズ」(ハヤカワ文庫SF)、「E・R・バローズ」(創元推理文庫)の表記もある。頭文字で単にERBとも書かれる。 | {{Infobox 作家
| name = エドガー・ライス・バローズ
| image = E-R-Burroughs.jpg
| birth_date = [[1875年]][[9月1日]]
| birth_place = [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イリノイ州]]
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| death_place = アメリカ・[[カリフォルニア州]]
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}}
'''エドガー・ライス・バローズ'''(Edgar Rice Burroughs, [[1875年]][[9月1日]] - [[1950年]][[3月19日]])は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[小説家]]。「エドガー・ライス・バロ'''ウ'''ズ」([[ハヤカワ文庫|ハヤカワ文庫SF]]<ref>エドガー・ライス・バロウズ 『類猿人ターザン』 [[高橋豊 (翻訳家)|高橋豊]]訳、[[早川書房]]〈[[ハヤカワ文庫|ハヤカワ文庫特別版SF]]〉、[[1971年]]、等。</ref>)、「E・R・バローズ」([[創元SF文庫|創元推理文庫]]<ref>E・R・バローズ 『[[火星のプリンセス]]』 [[厚木淳]]訳、[[東京創元社]]〈[[創元SF文庫|創元推理文庫]]〉、[[1980年]]、等。</ref>)の表記もある。頭文字で単に'''ERB'''とも書かれる。
== 概略 ==
代表作は[[サイエンス・フィクション|SF]]小説『[[火星のプリンセス]]』を始めとする[[火星シリーズ]]と、[[ターザン・シリーズ]]などの[[冒険小説]]、[[ペルシダー・シリーズ]]などの[[秘境探検小説]]で、これらは「(バローズの)3大シリーズ」と呼ばれ、創作活動の初期から終期まで継続して書き継がれた([[金星シリーズ]]を含めた場合は4大シリーズ)。火星シリーズや金星シリーズは[[惑星冒険もの]]や[[剣と惑星]]もの、ペルシダーシリーズは[[ロストワールドもの]]にも該当し、それらの代表であるが、しかし最初の作品ではない。
作風としては、恋に彩られた冒険ものが多く、SF小説の多くがそれに当てはまる。[[ハードSF]]は「月からの侵略」([[月シリーズ]]の第2部)などごく少数に留まる。
=== 生涯と著作===
; [[1875年]][[9月1日]]
: [[アメリカ合衆国]][[イリノイ州]][[シカゴ]]で誕生。4人兄弟の末子。父は工場経営者で、元[[大尉]](旧[[北軍]]に所属)。軍人気質であり、厳しい性格だった<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「史上最大最高の冒険ヒーロー」『類猿人ターザン』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、[[南山宏|森優]]、1971年、385頁。</ref>。
; 少年期
: 父の指示により、軍人養成学校に入学するが、退学する。[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウエストポイント陸軍士官学校]]へも入学できず、軍人になる事を諦める。父の会社の事務員、騎兵隊員、会計係などの職を転々とする<ref name="名前なし-1">「史上最大最高の冒険ヒーロー」『類猿人ターザン』 385頁。</ref>。
: 最終学歴はミシガン・ミリタリー・アカデミー(軍事教育を重視する私立[[高等学校]])。卒業後、[[第7騎兵連隊 (アメリカ軍)|第7騎兵隊]]に入隊し、[[アリゾナ州]]フォート・グラントに配属された<ref>エドガー・ライス・バローズ<!--原文ママ--> 「バローズとウェスタン」『ウォー・チーフ』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1989年]]、329頁。</ref>。
; [[1900年]]
: 10年の交際を経て<ref name="名前なし-1"/>、エマ・ハルバートと結婚する。
: この時期、鉱山師、鉄道保安官、速記屋、セールスマンなどに転職。広告代理店などの事業も行ったが、全て長続きしていない<ref name="名前なし-1"/>。
; [[1911年]]
: オール・ストーリーズ・マガジン社に送った小説原稿『デジャー・ソリス、火星のプリンセス』(''Dejah Thoris, Princess of Mars'')の前半がトーマス・ニューウェル・メトカーフに気に入られ、採用となる。
; [[1912年]]
: 2月から6月にかけて、「[[オールストーリー|オール・ストーリー]]」に処女作『火星の月の下で』(''Under the Moons of Mars''、後に『火星のプリンセス』と改題)が連載される。原稿料は400ドル<!--原稿料記載の理由については、[[#ポリシー]]、もしくは[[ノート:エドガー・ライス・バローズ#原稿料について]]を参照。--><ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」合本版・火星シリーズ第3集『火星の秘密兵器』 厚木淳訳、東京創元社〈創元SF文庫〉、[[2001年]]、915頁。</ref>。
: 第2作『トーンの無法者』 (''The Outlaw of Torn'' 未訳)を書き上げるが、雑誌社に掲載を断られる。この作品は13世紀の[[イギリス]]を舞台にした歴史小説でアクションシーンも多い。なお、グレイストーク卿([[ターザン]]の先祖)が登場するシーンがある<ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『カリグラ帝の野蛮人』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1982年]]、280頁。</ref><ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『ターザン』 厚木淳訳、東京創元社〈創元SF文庫〉、[[1999年]]、394頁。</ref>。
: 10月、第3作『類猿人ターザン』([[ターザン・シリーズ]]の第1作)掲載。原稿料は700ドル<!--原稿料記載の理由については、[[#ポリシー]]、もしくは[[ノート:エドガー・ライス・バローズ#原稿料について]]を参照。-->、とバローズは記憶している<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「帰ってきた英雄」『ターザンの復讐』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、1971年、森優、362頁。</ref>。
; [[1913年]]
: 2月、父が死亡。13日後、第3子が誕生<ref name="名前なし-2">「帰ってきた英雄」『ターザンの復讐』 363頁。</ref>。
: 『ターザンの復讐』(シリーズ第2作)が、オール・ストーリーに掲載を断られる。ライバル誌のニュー・ストーリーに売り込み、1000ドル<!--原稿料記載の理由については、[[#ポリシー]]、もしくは[[ノート:エドガー・ライス・バローズ#原稿料について]]を参照。-->で採用され、6月号から掲載される(全7回)<ref name="名前なし-2"/>。
: これをきっかけに、人気大衆小説家としての地位を確立し、貧困生活から脱出<ref name="名前なし-2"/>。以後、精力的に創作活動に従事する。
; [[1914年]]
: 初の単行本である『類猿人ターザン』が刊行。
; 時期不明
: [[第一次世界大戦]]([[1914年]]-[[1918年]])に[[陸軍]][[少佐]]として応召<ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『金星の海賊』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1967年]]、272頁。</ref>。
; [[1916年]]~[[1924年]]
: 火星シリーズ、ターザン・シリーズなどで成功するも、「荒唐無稽な話しか書けない」と批判される。恋愛小説、現代小説を手がける([[#未訳]])が、売れ行きは芳しくなく、以後は冒険小説・SF小説に絞る<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「ターザン・火星・金星以外のバロウズ作品について」『時に忘れられた世界』 関口幸男訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、野田昌宏、[[1970年]]、198頁。</ref>。
; [[1917年]]
: 『[[火星のプリンセス]]』出版。単行本としては5冊目に当たる。
: [[カリフォルニア州]][[サンフェルナンド (カリフォルニア州)|サンフェルナンド]]谷に土地を購入、豪邸を建ててランチョ・ターザナと命名。後にバローズを称え、この土地は正式に[[ターザナ]]と命名された<ref name="名前なし-3">「史上最大最高の冒険ヒーロー」『類猿人ターザン』 386頁。</ref>。
; [[1930年]]
: 『火星の秘密兵器』がブルー・ブック・マガジンに掲載。火星シリーズ、ターザン・シリーズ、[[ペルシダー・シリーズ]]他の諸作品で流行作家として地位が確立しており、原稿料は8000ドル<!--原稿料記載の理由については、[[#ポリシー]]、もしくは[[ノート:エドガー・ライス・バローズ#原稿料について]]を参照。-->(処女作の20倍)に跳ね上がった<ref>「訳者あとがき」合本版・火星シリーズ第3集『火星の秘密兵器』 914-915頁。</ref>。
; [[1935年]]
: 最初の妻と離婚<ref name="名前なし-3"/>。
; [[1939年]]頃
: [[ハワイ州|ハワイ]]を訪れるようになり、以後、何度も足を運ぶ<ref name="名前なし-3"/>。
; [[1941年]]
: 2番目の妻と離婚<ref name="名前なし-3"/>。
: [[真珠湾攻撃]]を目撃<ref>E・R・バローズ 『月からの侵略』 厚木淳訳、東京創元社〈創元SF文庫〉、[[1978年]]の裏表紙には、真珠湾攻撃当日の風景と、それを双眼鏡で眺めるバローズらの写真が掲載されている(初版)。</ref>。現地の新聞社に何度も投稿した<ref name="名前なし-3"/>。
; [[1944年]]<ref name="名前なし-1"/>頃
: [[従軍記者]]として[[第二次世界大戦]]に参加。以後、創作活動を中断する。
: [[ロサンゼルス・タイムズ]]の特派員に志願。[[B-29 (航空機)|B-29]]の爆撃にも参加<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「バロウズの最高作」『月の地底王国』 関口幸男訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、森優、[[1970年]]、288頁。</ref>。
: マリアナ作戦に特派員として参加<ref>「訳者あとがき」『金星の海賊』 272頁。</ref>。
; [[1950年]][[3月19日]]
: カリフォルニア州エンシーノで心臓病のため死去。この時点での単行本は60冊<ref>リチャード・A・ルポフ 『バルスーム』 厚木淳訳、東京創元社、1982年、264頁。</ref>。
=== 再評価、ロングセラー化 ===
; 1950年 - [[1954年]]頃
: 作品のほとんどが絶版になった<ref>『バルスーム』 9頁。</ref>。
; [[1955年]]
: ファンタジー・プレス社のロイド・アーサー・エシュバッハが、埋もれていた作品群を偶然見つけ、2作(『[[失われた大陸 (E・R・バローズ)|失われた大陸]]』(''The Lost Continent'')と、『マン・イーター』(''Man Eater'' 未訳))を独断でパンフレット版の形態で刊行<ref name="名前なし-4">『バルスーム』 10-11頁。</ref>。
; [[1957年]]
: ブラドフォード・M・デイが、上記2作をクロス装で刊行。タイトルは『失われた大陸とマン・イーター』<ref name="名前なし-5">『バルスーム』 11頁。</ref>。
; [[1959年]]<!--2年後の2年後、つまり1955年からは4年後。-->
: ウィルマ・カンパニーが、『ファリスの店から来た娘』(''The Girl from Farris's'' 未訳)を、ほとんど判読不能な小型本で刊行<ref name="名前なし-5"/>。
; [[1962年]]
: 古書店経営者が、バローズの著作権が切れている事を確認、カナベラル・プレスの名で復刻を開始する<ref>『バルスーム』 12-13頁。</ref>。他社も参入し、ターザンの模倣作品まで発刊されるようになる<ref name="名前なし-6">『バルスーム』 13頁。</ref>。
: ターザン・シリーズの第2次ブームが始まる。この年の売り上げは、1000万部に達したといわれている<ref>「史上最大最高の冒険ヒーロー」『類猿人ターザン』 382-383頁。</ref>(アメリカ国内のみの数字。なお、これはペーパー・バックの総売り上げの1/30に相当する<ref>「訳者あとがき」『ターザン』 397頁。</ref>)。
; 1962年~[[1963年]]
: 訴訟や告訴の応酬が始まる。その後、協定が結ばれ、エース・ブックスが[[ペルシダー・シリーズ]]と金星シリーズ、バランタインは火星シリーズとターザン・シリーズ、カナベラル・プレスはその他すべての作品の権利(未刊行本を含む)を所有することになった<ref name="名前なし-6"/>。
: 未発表原稿が発見される(「野性のペルシダー」(Savage Pellucidar)、「金星の魔法使」(The Wizard of Venus)、「タンゴール再登場」。全て短編)。
; 1963年~[[1965年]]
: 未発表原稿が、順次カナベラル・プレスから刊行される。また、雑誌掲載されながら刊行されていなかった作品も単行本化<ref>『バルスーム』 264頁。</ref>。
:* "''Savage Pellucidar''"(『ペルシダーに還る』<!--創元版は第4部が省略されているため、割愛-->)、1963年。
:* "Tales of the Three Planets" (『金星の魔法使』。「金星の魔法使」(The Wizard of Venus)、「タンゴール再登場」他を収録)、[[1964年]]。
:* "''Tarzan and the Madman''"(『ターザンと狂人』)、1964年。
:* "''John Carter of Mars''"(『火星の巨人ジョーグ』)、1964年。
:* "''Tarzan and the Castaways''"(『勝利者ターザン』)、1965年。
; [[1967年]]
: 69冊目の単行本"''I am a Barbarian''"(『カリグラ帝の野蛮人』)が刊行される<ref>『バルスーム』 265頁。</ref>。
; 時期不明
: 遺稿"''Tarzan: The Lost Adventure''"(未訳)を、中堅作家ジョー・R・ランズデールが完成させる。
; [[1960年代]] - [[1970年代]]
: [[日本]]では、[[早川書房]]と[[東京創元社]]がバローズの作品を刊行した。
== 単行本リスト ==
刊行年は単行本化のもの。アメリカ版の刊行年は、リチャード・A・ルポフ 『バルスーム』 厚木淳訳、東京創元社、1982年、261-265頁に拠った。
日本語版タイトルは、ターザン・シリーズは早川書房版、それ以外は東京創元社版を表記。両社から出ているものは、それぞれに明記した。
なお、原文は、[[プロジェクト・グーテンベルク]]で入手して読むことができる。
=== 火星シリーズ ===
{{see also|火星シリーズ#作品}}
# [[火星のプリンセス]]([[1965年]])(''A Princess of Mars''、1917)
# 火星の女神イサス(1965年)(''The Gods of Mars''、1918)
# 火星の大元帥カーター([[1966年]])(''The Warlord of Mars''、1919)
# 火星の幻兵団(1966年)(''Thuvia, Maid of Mars''、1920)
# 火星のチェス人間(1966年)(''The Chessmen of Mars''、1922)
# 火星の交換頭脳(1966年)(''The Master Mind of Mars''、1928)
# 火星の秘密兵器([[1967年]])(''A Fighting Man of Mars''、1931)
# 火星の透明人間(1967年)(''Swords of Mars''、1936)
# 火星の合成人間([[1968年]])(''Synthetic Men of Mars''、1940)
# 火星の古代帝国(1968年)(''Llana of Gathol''、1948) - 4篇の連作中編集。
## 古代の死者たち
## 火星のブラック・パイレーツ
## 火星の冷凍人間
## 火星の透明人間
# 火星の巨人ジョーグ(1968年)(''John Carter of Mars''、1964) - 2篇を収録。
## 火星の巨人ジョーグ
## 木星の骸骨人間
=== 金星シリーズ ===
{{main|金星シリーズ}}
# 金星の海賊(1967年)(''Pirates of Venus''、1934)
# 金星の死者の国(1968年)(''Lost on Venus''、1935)
# 金星の独裁者([[1969年]])(''Carson of Venus''、1939)
# 金星の火の女神(1969年)(''Escape on Venus''、1946)
# 金星の魔法使([[1970年]])(''Tales of the Three Planets''、1964)
『金星の魔法使』は4作を収録した短編集で、金星シリーズは表題作のみ。創元版はカナベラルプレス版を底本としており、他3篇は「5万年前の男」「さいはての星のかなたへ」「タンゴール再登場」。エースブックス版"Wizard on Venus"は、「金星の魔法使」と'Pirates Blood'(未訳)の2作を収録している。
=== ムーン・シリーズ(月シリーズ) ===
{{main|月シリーズ}}
# 月の地底王国(早川 1970年)/ 月のプリンセス(創元 [[1978年]])(''The Moon Maid''、1926)
# 月人の地球征服(早川 1970年)/ 月からの侵略(創元 1978年)(''The Moon Men'')
''The Moon Men''は''The Moon Men''、''The Red Hawk''の2編の合本であり、ムーン・シリーズは全体で3部作の構成である。アメリカ(McClurg.)では、全1巻としてハードカバー版が刊行されているが、第2部と第3部は約1/5が削除されている。エース・ブックスのペーパーブック版は、雑誌掲載版を収録した完全版である。
=== ターザン・シリーズ ===
{{see also|ターザン・シリーズ#ハヤカワ文庫版}}
# 類猿人ターザン(早川 [[1971年]])/ ターザン(創元 [[1999年]])(''Tarzan of the Apes''、1914)
# ターザンの復讐(早川 1971年)/ ターザンの帰還(創元 [[2000年]])(''The Return of Tarzan''、1915)
# ターザンの凱歌([[1972年]])(''The Beasts of Tarzan''、1916)
# ターザンの逆襲([[1982年]])(''The Son of Tarzan''、1917)
# ターザンとアトランティスの秘宝(1972年)(''Tarzan and the Jewels of Opar''、1918)
# ターザンの密林物語([[1974年]])(''Jungle Tales of Tarzan''、1919)※ターザンの少年期を描く短篇集
# {{仮リンク|野獣王ターザン|en|Tarzan the Untamed}}(1972年)(''Tarzan the Untamed''、1920)
# 恐怖王ターザン(1972年)(''Tarzan the Terrible''、1921)
# ターザンと黄金の獅子([[1973年]])(''Tarzan and the Golden Lion''、1923)
# ターザンと蟻人間(1973年)(''Tarzan and the Ant Men''、1924)
# 密林の王者ターザン('''[[河出書房]]'''、[[1955年]])(''Tarzan, the Lord of the Jungle''、1928)※ハヤカワ文庫からは未刊
# ターザンと失われた帝国(1974年)(''Tarzan and the Lost Empire''、1929)
# 地底世界のターザン(早川 1971年)/ ターザンの世界ペルシダー(創元 [[1976年]])(''Tarzan at the Earth's Core''、1930)※[[ペルシダー・シリーズ]]の第4巻を兼ねる。
# 無敵王ターザン(1974年)(''Tarzan the Invincible''、1931)
# ターザンと呪われた密林([[1980年]])(''Tarzan Triumphant''、1932)
# ターザンと黄金都市(1974年)(''Tarzan and the City of Gold''、1933)
# ターザンとライオン・マン(1980年)(''Tarzan and the Lion Man''、1934)
# ターザンと豹人間(1982年)(''Tarzan and the Leopard Men''、1935)
# (未訳)(''Tarzan's Quest''、1936)
# ターザンと禁じられた都(1980年)(''Tarzan and the Forbidden City''、1938)
# ターザンと女戦士([[1979年]])(''Tarzan the Magnificent''、1939)
# (未訳)(''Tarzan and the Foreign Legion''、1947)
# ターザンと狂人(1976年)(''Tarzan and the Madman''、1964)
# 勝利者ターザン([[1978年]])(''Tarzan and the Castaways''、1965) - 以下の3篇からなる短篇集。
## ターザンと難船者
## ターザンとチャンピオン(''Tarzan and the Champion''、1940)
## ターザンとジャングルの殺人者(''Tarzan and the Junglr Murder''、1940)
# ターザンの双生児(1976年)(''The Tarzan Twins''、1927) - ''Tarzan and The Tarzan Twins with jad-bal-ja the Golden Lion''、1936を含む。
; 番外
: 石器時代から来た男([[1977年]])(''The Eternal Savage''、または''The Eternal Lover''、1925)
: (未訳)(''Tarzan: The Lost Adventure'') - 遺稿を[[ジョー・R・ランズデール]]が完成させた。
=== 地底世界(ペルシダー)シリーズ ===
{{see also|ペルシダー・シリーズ#シリーズ構成}}
# 地底世界ペルシダー(早川 1971年) / 地底の世界ペルシダー(創元 1973年)(''At the Earth's Core''、1922)
# 危機のペルシダー(早川 1971年) / 翼竜の世界ペルシダー(創元 1974年)(''Pellucidar'',1923)
# 戦乱のペルシダー(早川 1971年) / 海賊の世界ペルシダー(創元 1975年)(''Tanar of Pellucidar''、1929)
# 地底世界のターザン(早川 1971年) / ターザンの世界ペルシダー(創元 1976年)(''Tarzan at the Earth's Core''、1930)
# 栄光のペルシダー(早川 1971年) / 石器の世界ペルシダー(創元 1976年)(''Back to the Stone Age''、1937)
# 恐怖のペルシダー(早川 1971年) / 恐怖の世界ペルシダー(創元 1977年)(''Land of Terror''、1944)
# ペルシダーに還る(早川 1972年) / 美女の世界ペルシダー(創元 1977年)(''Savage Pellucidar''、1963)
## ペルシダーに還る(早川) / ペルシダーに帰る(創元)(''The Return to Pellucider'')
## 青銅器時代の男たち(早川) / 青銅器時代の人間 (創元)(''Men of The Bronze Age'')
## 虎の女(早川) / 剣歯虎の女(創元)(''Tiger Girl'')
## 野性のペルシダー(早川)(''Savage Pellucidar'')
最終巻は連作中篇である。第4部は早川が版権を独占所有しているため、創元版はダイジェストとなっている。
=== 太古世界(キャスパック)シリーズ ===
3部作。東京創元社(とアメリカ版ハードカバー(McClurg.))は全1巻、早川書房(とアメリカのエース・ブックス版ペーパーバック)からは全3巻として刊行されている。
* [[時間に忘れられた国]](全)(創元 1971年)(''The Land That Time Forgot''、1924)
# 時に忘れられた世界(早川 1970年)(''The Land That Time Forgot'')
# 時に忘れられた人々(早川 1971年)(''The People That Time Forgot'')
# 時の深き淵より(早川 1971年)(''Out of Time's Abyss'')
=== その他の既訳 ===
項目(リンク先)のあるものは、そちらを参照。
==== マッカー・シリーズ ====
アメリカ版(McClurg.)は全1巻。
# 南海の秘境(1980年)(''The Mucker''、1921)
# 風雲のメキシコ(1980年)(''The Return of the Mucker'')
{{main|バローズのシリーズ外作品#マッカー・シリーズ}}
==== アパッチ・シリーズ ====
# ウォー・チーフ([[1989年]])(''The War Chief''、1927)
# アパッチ・デビル(1989年)(''Apache Devil''、1933)
{{main|バローズのシリーズ外作品#アパッチ・シリーズ}}
==== シリーズ以外 ====
* [[さい果ての星の彼方に]](1970年)(''Beyond the Farthest Star''、1964)(カナベラル社『金星の魔法使』に併録)
* [[石器時代から来た男|5万年前の男]](1970年)(''Beyond the Farthest Star''、1964)(カナベラル社『金星の魔法使』に併録)
* [[失われた大陸 (E・R・バローズ)|失われた大陸]](1971年)(''The Lost Continent''、1957)
* [[石器時代から来た男]](1977年)(''The Eternal Savage''、1925)<!--米国版順-->
* [[石器時代へ行った男]](1977年)(''The Cave Girl''、1925)
* [[ルータ王国の危機]]([[1981年]])(''The Mad King''、1926)
* [[モンスター13号]](創元 1978年) / モンスター・マン(早川 1973年)(''The Monster Man''、1929)
* [[バローズのシリーズ外作品#密林の謎の王国|密林の謎の王国]]([[1979年]])(''The Land of Hidden Men''、1932)
* [[バローズのシリーズ外作品#砂漠のプリンス|砂漠のプリンス]](1980年)(''The Lad and the Lion''、1938)
* [[バローズのシリーズ外作品#カリグラ帝の野蛮人|カリグラ帝の野蛮人]](1982年)(''I am a Barbarian''、1967)
=== 未訳 ===
{{main|バローズのシリーズ外作品#日本語未訳作品}}
出典のあるもののみ、邦題を記載する。
* ''The Girl From Hollywood''、1923
* ''The Bandit of Hell's Bend''、1925
* トーンの無法者<ref>「訳者あとがき」『カリグラ帝の野蛮人』 280頁。</ref><ref> 「訳者あとがき」『ターザン』 394頁。</ref>(''The Outlaw of Torn''、1919)
* ''The Oakdale Affair and the Rider''、1937
* 騎手殿下<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「ターザンと洞窟の女王」『ターザンと蟻人間』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、森優、1973年、302頁。 </ref>(''H.R.H The Rider''、1937)
* ''The Scientists Revolt''、1939(掲載年)
* ''The Dequty Sheriff of Comanche Country''、1940
* マン・イーター<ref name="名前なし-4"/>(''The Man-Eater''、1957)
* ファリスの店から来た娘<ref name="名前なし-5"/>(''The Girl from Farris's''、1959)
* 能率専門家<ref name="名前なし-7">『バルスーム』 14頁。</ref>(''The Efficiency Expert''、1965)
* 海賊の血<ref name="名前なし-7"/>(''Pirate Blood''、1970)
* ''You Lucky Girl!''
== バローズの作風 ==
=== ポリシー ===
# 読者に喜ばれる物を書く。
# 金にならない物は書かない<ref>「帰ってきた英雄」『ターザンの復讐』 361-362頁で、自伝から「金のために書いた」、「貧乏は無能の証明」などと書かれた部分を引用している。</ref>。
これにより、冒険ものやSF小説が多く、恋愛小説や現代小説などは少ない<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「ターザン・火星・金星以外のバロウズ作品について」『時に忘れられた世界』 関口幸男訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、野田昌宏、1970年、198頁。</ref> 。
=== 貴族願望 ===
バローズのヒーローとヒロインは、どちらか(もしくは両方)が王族や貴族の家系<ref>例。『火星のプリンセス』のヒロインはヘリウムの王女。ターザンはイギリス貴族の息子。</ref>、あるいは名誉ある家系<ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『モンスター13号』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1978年]]、242-243頁。ブランは王侯貴族ではないが、名誉ある大財閥の御曹司である(と、バローズが仄めかせている)。</ref>である事が多い。これは、「アメリカ人の、王侯貴族への憧れ」といわれている<ref>[http://www.princess.ne.jp/~erb/crit-a08.htm E・R・バローズ 「訳者あとがき」『砂漠のプリンス』] 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1980年、251頁。</ref><ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『ルータ王国の危機』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1981年]]、368頁。</ref><ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『石器時代へ行った男』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1977年]]、296-297頁。</ref><ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『ターザンの帰還』 厚木淳訳、東京創元社〈創元SF文庫〉、[[2000年]]、363-364頁。</ref>。<!--以下、出典が見つけられないのでコメントアウト
火星シリーズなどの一連のシリーズについては、「神話を持たないアメリカ人が作り出した、合理的な神話」との声がある。-->
=== 独学、自己流 ===
創作については独学で小説を書き始めた、と伝えられる<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「読者が実現させた英雄の再復活」『ターザンの凱歌』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、森優、[[1972年]]、280頁。</ref>。ただし、バローズは作家として活動する前、[[シカゴ]]公共[[図書館]]へ通い、様々な書籍に目を通した<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「ターザンの祖先たち」『ターザンと黄金の獅子』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、森優、[[1973年]]、334頁。</ref>。また、書き上げるスピードが早かった、といわれる<ref name="名前なし-8">「読者が実現させた英雄の再復活」『ターザンの凱歌』 280頁</ref>。
作風としては、複数の登場人物(のグループ)が登場し、それぞれの個別の行動を交互に追いながら、彼らがひとつの目標に合流する、という点が特徴。目新しい手法ではないが、バローズの作風には合っていた<ref name="名前なし-8"/>。また、ヒーローは紳士的で屈強な戦士だが想像力に欠け、ヒロインは美しく貞淑で受動的であり、多くのキャラクターは紋切り型である。
[[ターザン・シリーズ]]を10冊以上翻訳した[[高橋豊 (翻訳家)|高橋豊]]は、次の点を指摘している。
; 初期の作品
: 「語り口は古めかしくて難渋」、「不器用にごてごてと泥絵の具を塗りたくるような」、「やぼったい」(以上、「ターザン物語のスタイル」(『無敵王ターザン』<ref>エドガー・ライス・バロウズ 『無敵王ターザン』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、[[1974年]]、295頁。</ref>より)。
; ターザンの密林物語(雑誌連載、[[1916年]]9月~[[1917年]]8月)
: 「連作短編に初挑戦することで新境地を開いた」、「文体がひきしまり、タッチが軽妙になった」、「小説の幅が広くなった」など、「顕著な変化が見られる」と語っている(「訳者あとがき-ターザンと〈〈大自然〉〉-」<ref>エドガー・ライス・バロウズ 『ターザンの密林物語』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、[974年、287頁。</ref>)。
; 無敵王ターザン(雑誌掲載、[[1930年]]10月)
: こちらに対しては、「洗練されて力強い、独自の文体」、と評価している。
=== 長期シリーズもの ===
バローズの作品の内、初期から最終期まで書き続けていたのは[[火星シリーズ]]、[[ターザン・シリーズ]]、[[ペルシダー・シリーズ]]の3シリーズである。これらのシリーズには、共通点がある(特に火星とペルシダー)。
; 世代交代、主人公交代
: [[1911年]]から[[1944年]]頃まで、30年以上に渡る執筆のため、当然、キャラクターも歳を取る。また、主役は2部(3部)作での冒険を経て結婚し、新たなロマンスは生まれない。
: 火星の場合はジョン・カーターの息子と娘が、それぞれ第4巻と第5巻の主役を務めている。また、ペルシダーではデヴィッドの子供は登場しないが、友人(ガーク)の息子タナーが、第3巻の主役を務めている。
: その後は、他の人物を主役に配置することで、新たなロマンスを読者に提供している(火星シリーズ第6巻~第10巻、ペルシダー・シリーズ第4巻以降)。
: しかし、終盤では、最初のヒーローに主役が戻っている(火星シリーズ第8巻以降、ペルシダー・シリーズ第6巻以降)。
: ターザン・シリーズの場合も、第4巻では息子のジャックが主役を務めている。しかし、第10巻を境に、[[ターザン]]の家庭は影が薄くなり、経年がはっきりしなくなっていく(第7巻では[[第一次世界大戦]]に巻き込まれている)。
; 連作形式
: 火星、ペルシダーとも、終盤は連作短編(中篇)で構成されている(火星シリーズ第10巻、第11巻。ペルシダー・シリーズ第7巻。及び、金星シリーズ第5巻)。これは、まず火星シリーズ第9巻で試された。この方法の採用は、バローズの体力が衰え、長編を書ききることが出来なくなったためである<ref>『バルスーム』 223頁。</ref>。
: ターザン・シリーズにおいても、終期には中篇・短篇が書かれている(『勝利者ターザン』収録の「ターザンと難船者」、「ターザンとチャンピオン」、「ターザンとジャングルの殺人者」)。ただし、初期においても短編集は存在している(『ターザンの密林物語』)。
=== 先人とバローズ ===
{{see also|火星シリーズ#参考作品について|ターザン・シリーズ#参考作品}}
バローズの初期作品には、先人の作品を参考にした作品がある。
; [[ルータ王国の危機]](''The Mad King'')
: [[アンソニー・ホープ]]『[[ゼンダ城の虜]]』<ref>E・R・バローズ 「訳者あとがき」『石器時代から来た男』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1977年、279頁。</ref>
; [[時間に忘れられた国]](''The Land That Time Forgot'')
: [[アーサー・コナン・ドイル]]『[[失われた世界]]』<ref name="名前なし-9">「訳者あとがき」『石器時代から来た男』 279頁。</ref>
; [[石器時代から来た男]](''The Eternal Savage'')
: [[ヘンリー・ライダー・ハガード]]『洞窟の女王』<ref name="名前なし-9"/>
== クロスオーバー ==
バローズの作品は、他の作品と関係を持っている場合がある。
; [[火星シリーズ]]
: 執筆者(発表者)として、最初からバローズの名が掲げられている<ref>E・R・バローズ 『火星のプリンセス』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1980年、12頁。</ref>。
: 第7巻<ref>E・R・バローズ 『火星の秘密兵器』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1967年、8-10頁。</ref>、第9巻<ref>E・R・バローズ 『火星の合成人間』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1968年]]、11-12頁。</ref>にて「グリドリー波(グリドリー波長)」が登場([[ペルシダー・シリーズ]]第3巻<ref>エドガー・ライス・バロウズ 『戦乱のペルシダー』 佐藤高子訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、1971年、13-21頁。</ref><ref>E・R・バローズ 『海賊の世界ペルシダー』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1975年]]、11-19頁。</ref>で発見されたもの)。
; [[ターザン・シリーズ]]
: [[ターザン]]がペルシダーを訪れている。その際、ペルシダーの類人猿・サゴス族の使用する言語が、ターザンを育てた[[アフリカ]]の類人猿の言語と一致する事が判明している<ref>エドガー・ライス・バロウズ 『地底世界のターザン』 佐藤高子訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、1971年、75頁。</ref><ref>E・R・バローズ 『ターザンの世界ペルシダー』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、[[1976年]]、74頁。</ref>。
; [[石器時代から来た男]](''The Eternal Savag'')
: 2部構成。脇役として、グレーストーク<!--創元版での原文ママ-->卿(引退後のターザン<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「読者が実現させた英雄の再復活」『ターザンの凱歌』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫特別版SF〉、森優、[[1972年]]、280-281頁。</ref>)が登場。ターザンシリーズ第2巻と第3巻の間に位置し、ターザンの息子、ジャックが初登場した<ref>『石器時代から来た男』 28頁。</ref>。
: ヒロインはヴィクトリア・カスターだが、その兄のバーニー・カスター(『ルータ王国の危機』の主人公)と、バッツォー中尉も登場。
; [[ルータ王国の危機]](''The Mad King'')
: バーニー・カスターが主人公。バッツォー中尉<ref>E・R・バローズ 『ルータ王国の危機』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1981年では「バッツォウ」。</ref>は友人。
: 第2部冒頭<ref>『ルータ王国の危機』 178-183頁。</ref>において、ヴィクトリア・カスターが登場。
: 本作は2部構成であり、第1部と第2部の間に、『石器時代から来た男』が書かれている。
; [[金星シリーズ]]
: 第1巻の序盤において、ジェイスン・グリドリー(ペルシダー・シリーズ第3巻で初登場。第4巻では主人公を務めた。グリドリー波の発見者)が登場。フォン・ホルスト(ペルシダー・シリーズ第5巻の主人公)発見を連絡してくる<ref>『金星の海賊』 9-11頁。</ref>。
: 第5作の「はしがき」で、バローズの署名が登場。
: 主人公カースン・ネイピアは火星を目指してロケットで出発したが、事故で金星に不時着した。この「火星」は、「生物の存在している可能性がある」というレベルで紹介されており、「バルスーム」などの単語・事象は現れていない<ref>『金星の海賊』 19-40頁。</ref>。
; [[月シリーズ]]
: 火星(バルスーム)、ヘリウム<ref>『月の地底王国』 13頁、他。</ref><ref>E・R・バローズ 『月のプリンセス』 厚木淳訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、1978年、11頁、他。</ref>、ジョン・カーター、第8光線、バルスーム光線<ref>『月の地底王国』 22頁、他。ただし、「バルスーム光線」は「火星光線」と訳されている。</ref><ref>『月のプリンセス』 20頁、他。</ref>といった固有名詞が登場。
: 宇宙船バルスーム号は、地球から火星を目指して出発したが、月に不時着した<ref>『月の地底王国』 37-49頁。</ref><ref>『月のプリンセス』 35-45頁。</ref>。
; [[ペルシダー・シリーズ]]
: 第3巻の冒頭で、バローズが登場(グリドリーと同席)。
: 他は前掲(火星シリーズ、ターザン・シリーズ、金星シリーズ)。
なお、構想の段階では、火星シリーズの第4巻に、ターザンが登場する予定があった<ref>E・R・バローズ 合本版・火星シリーズ第2集『火星の幻兵団』 厚木淳訳、東京創元社〈創元SF文庫〉、[[1999年]]、768頁。</ref>。
; [[バローズのシリーズ外作品#日本語未訳作品|トーンの無法者]]
: 主人公の対戦相手としてグレイストークという騎士が登場する(ターザンの先祖に該当)。
== 映像化作品 ==
説明のないものは映画作品。また、アメリカ作品については明記せず。なお、ターザン・シリーズは膨大になるので、[[ターザン#ターザン映画・TVの一覧]]を参照。<!--項目のないものは出典をつけてください。また、予定については''John Carter''クラスの大作のみにしてください(宣伝に該当します)。ノートにも記載します。-->
; [[砂漠のプリンス]]
: 1917年、セリグ・プロ<ref>エドガー・ライス・バロウズ 「ターザン、フィルムランドへゆく」『ターザンとアトランティスの秘宝』 高橋豊訳、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、1972年、森優、299-300頁。</ref>。
; アミカス・プロダクション製作の[[イギリス]]映画。
: [[恐竜の島]](''The Land That Time Forgot'') - 1975年。原作は『[[時間に忘れられた国|時に忘れられた世界]]』(『[[時間に忘れられた国]]』第1部)。
: [[地底王国]](''At the Earth's Core'') - 1976年。原作は''[[ペルシダー・シリーズ|At the Earth's Core]]''(ハヤカワ版『地底世界ペルシダー』、創元版『地底の世界ペルシダー』)
: [[続・恐竜の島]](''The People That Time Forgot'') - 1977年。原作は『時に忘れられた人々』(『時間に忘れられた国』第2部)だがかなり変更点が多く別の作品に近い。
; [[ランド・オブ・ザ・ロスト]](''The Land That Time Forgot'')<ref>[https://www.allcinema.net/cinema/335539 allcinema『ランド・オブ・ザ・ロスト』]</ref>
: 2009年(ビデオ作品)。原作は『時に忘れられた世界』。大筋は追っているものの、進化の謎は触れられずに終わった。
; [[火星のプリンセス#映画|アバター・オブ・マーズ]](''Princess of Mars'')
: 2009年(ビデオ作品)。原作は『[[火星のプリンセス]]』。
; [[ジョン・カーター (映画)|ジョン・カーター]](''John Carter'')
: 2012年。原作は『火星のプリンセス』。3部作の第1部として製作されたが、続編([[:en:The Gods of Mars|''The Gods of Mars'']](『[[火星の女神イサス]]』)は未定。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 外部リンク ==
* [http://www.tsogen.co.jp/wadai/0105_01.html 武部本一郎が飾る《合本版・火星シリーズ》(東京創元社)]
{{エドガー・ライス・バローズ}}
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[[Category:エドガー・ライス・バローズ|*]] | null | 2022-10-14T07:36:35Z | false | false | false | [
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5,015 | アフガニスタン戦争 | アフガニスタン戦争(アフガニスタンせんそう)は、アフガニスタンを舞台に起こった様々な戦争を指して用いられた呼称である。
かつては、19世紀に起こったイギリスの二次にわたるアフガニスタン侵攻と、1919年のアフガニスタンとイギリスの戦争、すなわち三次にわたるアフガン戦争を指して言うことが多かった。
1978年以来のソビエト連邦軍・アフガニスタン人民民主党政府とムジャーヒディーンとの戦闘、1989年のソビエト連邦軍撤退以降のムジャーヒディーンやターリバーンの戦闘、そして2001年のアメリカ同時多発テロ事件後「対テロ戦争」の名目で始まったNATOおよび北部同盟によるターリバーン攻撃アフガニスタン侵攻に至る紛争は総称してアフガニスタン紛争などと呼ばれるが、このそれぞれの戦争の段階、もしくは統一してアフガニスタン戦争と呼ばれることも多い。 | [
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==概要==
===アフガン戦争===
かつては、[[19世紀]]に起こった[[イギリス]]の二次にわたるアフガニスタン侵攻と、[[1919年]]のアフガニスタンとイギリスの戦争、すなわち三次にわたる[[アフガン戦争]]を指して言うことが多かった。
===アフガニスタン紛争===
[[1978年]]以来の[[ソビエト連邦軍]]・[[アフガニスタン人民民主党]]政府と[[ムジャーヒディーン]]との戦闘、[[1989年]]の[[ソビエト連邦軍]]撤退以降の[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|ムジャーヒディーンやターリバーンの戦闘]]、そして[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]後「[[対テロ戦争]]」の名目で始まった[[北大西洋条約機構|NATO]]および[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]による[[ターリバーン]]攻撃[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]に至る紛争は総称して[[アフガニスタン紛争]]などと呼ばれるが、このそれぞれの戦争の段階、もしくは統一してアフガニスタン戦争と呼ばれることも多い。{{main2|名称に関する詳細は[[アフガニスタン紛争]]を}}
== アフガニスタン戦争と呼ばれることのある戦争 ==
===[[アフガン戦争]]===
*{{仮リンク|第一次アングロ・アフガン戦争 |en|First Anglo-Afghan War|label=第一次アフガン戦争|redirect=1}}、1839年 – 1842年
*{{仮リンク|第二次アングロ・アフガン戦争|en|Second Anglo-Afghan War|label=第二次アフガン戦争|redirect=1}}、1878年 – 1880年
*{{仮リンク|第三次アングロ・アフガン戦争|en|Third Anglo-Afghan War|label=第三次アフガン戦争|redirect=1}}、1919年
===[[アフガニスタン紛争]]===
*[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]]
: [[1978年]]に始まった[[アフガニスタン人民民主党]]政府に対する武装蜂起と1979年から[[1989年]]までの[[ソビエト連邦]]による軍事介入。
*[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]]
: [[1989年]]のソビエト連邦軍撤退以降にアフガニスタン国内で継続された[[内戦]]。
*[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]]
: [[2001年]]からの、[[ターリバーン]]政府と[[アルカーイダ]]等の武装勢力と[[アメリカ合衆国]]をはじめとする[[有志連合]]諸国、[[国際治安支援部隊]]、[[アフガニスタン・イスラム共和国]]政府<ref>2001年は[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]、2001年から2002年までは[[暫定政府]]、2002年から2004年までは[[アフガニスタン・イスラム移行国]]、2004年以降は正式政権であるアフガニスタン・イスラム共和国政府。</ref>による戦闘。
*[[パンジシール紛争]]
: [[2021年]]にターリバーンが再び全土を制圧した後にアフガニスタン・イスラム共和国の残存勢力との間で行われた戦闘。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[グレート・ゲーム]]
*[[ジョン・H・ワトスン]]([[シャーロック・ホームズの冒険]]の登場人物、医師、アフガニスタン戦争に従軍)
*[[セバスチャン・モラン]](シャーロック・ホームズの冒険の登場人物、軍人、アフガニスタン戦争に従軍)
*[[ランボー3/怒りのアフガン]]
*[[ムジャーヒディーン]]
*[[ターリバーン]]
*[[北部同盟 (アフガニスタン)]]
*[[アフガニスタン国際戦犯民衆法廷]]
*[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン]]
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[[Category:アフガニスタンの軍事]]
[[Category:アフガニスタンの戦争]]
[[Category:アフガニスタンの歴史]]
[[Category:19世紀の戦争]]
[[Category:20世紀の戦争]] | 2003-03-23T15:38:35Z | 2023-09-21T02:10:41Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89 |
5,016 | 経済学者 | 経済学者(、英: Economist)とは、経済の研究をしたり、その結果得られた理論やその体系(経済学)を社会に提言・実践したりする経済の専門家のこと。シンクタンクや金融機関などでの研究、官公庁での経済政策の立案、大学での研究など、経済全般に係わる専門的な知識や技能を活用する職業を、英語の原語に応じてエコノミストともいう。
また、経済学の理論や概念を研究、開発、応用し、経済政策について執筆することもある。この分野には、広範な哲学的理論から、特定の市場内の瑣末なことに焦点を当てた研究、マクロ経済学、ミクロ経済学または財務諸表分析まで、多くの下位分野があり、計量経済学、統計、経済モデル、金融経済学、数理ファイナンスおよび数学経済学などの分析手法およびツールが含まれる。
経済学者は、学界、政府、民間企業など多くの分野で活躍しており、経済活動、経済信頼度、消費者態度の傾向を見極めるためにデータや統計を研究する。彼らは、統計分析、数学、コンピュータプログラミングの高度な方法を用いてこれらの情報を評価し、システムの効率を改善したり、トレンドが始まったときにそれを利用する方法について提言する。
政府や大学以外にも、経済学者は銀行、金融、会計、商業、マーケティング、経営、ロビー活動、非営利・非利益団体などで活躍している。
経済学者ニコラス・カルドアは、スミスの『国富論』、リカードの『経済学および課税の原理』、マルクスの『資本論』、マーシャルの『経済学原理』、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』を経済学の五大古典とする。
経済理論を研究する経済学者とは区別されるものとして、一般社会に向けて経済の現状分析や将来動向についての解説、評論を行う人物を経済評論家(英: Economic pundit)という。なお、政治の評論家を政治評論家(Political pundit)という。
主な経済評論家は、Category:日本の経済評論家を参照。 | [
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"text": "経済学者ニコラス・カルドアは、スミスの『国富論』、リカードの『経済学および課税の原理』、マルクスの『資本論』、マーシャルの『経済学原理』、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』を経済学の五大古典とする。",
"title": "著名な経済学者"
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"text": "経済理論を研究する経済学者とは区別されるものとして、一般社会に向けて経済の現状分析や将来動向についての解説、評論を行う人物を経済評論家(英: Economic pundit)という。なお、政治の評論家を政治評論家(Political pundit)という。",
"title": "その他"
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"text": "主な経済評論家は、Category:日本の経済評論家を参照。",
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] | 経済学者(けいざいがくしゃ、とは、経済の研究をしたり、その結果得られた理論やその体系を社会に提言・実践したりする経済の専門家のこと。シンクタンクや金融機関などでの研究、官公庁での経済政策の立案、大学での研究など、経済全般に係わる専門的な知識や技能を活用する職業を、英語の原語に応じてエコノミストともいう。 また、経済学の理論や概念を研究、開発、応用し、経済政策について執筆することもある。この分野には、広範な哲学的理論から、特定の市場内の瑣末なことに焦点を当てた研究、マクロ経済学、ミクロ経済学または財務諸表分析まで、多くの下位分野があり、計量経済学、統計、経済モデル、金融経済学、数理ファイナンスおよび数学経済学などの分析手法およびツールが含まれる。 経済学者は、学界、政府、民間企業など多くの分野で活躍しており、経済活動、経済信頼度、消費者態度の傾向を見極めるためにデータや統計を研究する。彼らは、統計分析、数学、コンピュータプログラミングの高度な方法を用いてこれらの情報を評価し、システムの効率を改善したり、トレンドが始まったときにそれを利用する方法について提言する。 政府や大学以外にも、経済学者は銀行、金融、会計、商業、マーケティング、経営、ロビー活動、非営利・非利益団体などで活躍している。 | {{複数の問題|出典の明記=2013年5月|独自研究=2013年5月}}
{{読み仮名|'''経済学者'''|けいざいがくしゃ|{{Lang-en-short|Economist}}}}とは、[[経済]]の研究をしたり、その結果得られた理論やその体系([[経済学]])を社会に提言・実践したりする経済の専門家のこと。[[シンクタンク]]や金融機関などでの研究、官公庁での経済政策の立案、大学での研究など、経済全般に係わる専門的な知識や技能を活用する職業を、英語の原語に応じて'''エコノミスト'''ともいう<ref>[https://www.nomura.co.jp/terms/japan/e/A03062.html 「エコノミスト」証券用語解説集][[野村證券]]</ref>。
また、経済学の理論や概念を研究、開発、応用し、[[経済政策]]について執筆することもある。この[[分野]]には、広範な哲学的理論から、特定の市場内の瑣末なことに焦点を当てた研究、[[マクロ経済学]]、[[ミクロ経済学]]または[[財務諸表]]分析まで、多くの下位分野があり、[[計量経済学]]、[[統計]]、[[経済モデル]]、[[金融経済学]]、[[数理ファイナンス]]および[[数理経済学|数学経済学]]などの分析手法およびツールが含まれる。
{{要出典範囲|date=2022年10月|経済学者は、[[学界]]、[[政府]]、[[企業|民間企業]]など多くの分野で活躍しており、[[経済活動]]、経済信頼度、消費者態度の傾向を見極めるために[[データ]]や統計を研究する。彼らは、[[分類 (統計学)|統計分析]]、[[数学]]、[[プログラミング|コンピュータプログラミング]]の高度な方法を用いてこれらの情報を評価し、システムの効率を改善したり、トレンドが始まったときにそれを利用する方法について提言する}}。
政府や[[大学]]以外にも、経済学者は[[銀行]]、[[金融]]、[[会計]]、[[商業]]、[[マーケティング]]、[[経営学|経営]]、[[ロビー活動]]、[[非営利団体|非営利]]・非利益団体などで活躍している。<ref>{{Cite web |title=Economics Jobs and Economist Jobs - Econ-Jobs.com |url=https://www.econ-jobs.com/ |website=www.econ-jobs.com |access-date=2022-09-06}}</ref>
== 著名な経済学者 ==
{{See|経済学#歴史|経済学者の一覧}}
経済学者[[ニコラス・カルドア]]は、スミスの『[[国富論]]』、リカードの『[[経済学および課税の原理]]』、マルクスの『[[資本論]]』、マーシャルの『経済学原理』、ケインズの『[[雇用・利子および貨幣の一般理論]]』を経済学の五大古典とする<ref>N.Kaldor, Limitations of the General Theory,1983,p1:根井雅弘「マーシャル 『原理』とケンブリッジ学派」経済学史学会年報29 巻 (1991) 29 号,p. 27-31.</ref>。
*[[トーマス・マン (経済学者)|トマス・マン]](1571年 - 1641年) - [[重商主義]]<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017,p23.</ref>
*[[ジョン・ロー]](1671-1729){{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=159}}
*[[フランソワ・ケネー]] (1694-1774、フランス){{Sfn|池尾|2006|p=20}}{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=96}} - [[重農主義]]。一国の経済システム全体の仕組みの分析の開始<ref name="mit">[[三土修平]]『経済学史』新世社, 1993年、p9-17. </ref>。
*[[アダム・スミス]](1723 - 1790、[[スコットランド]])<ref name="10A">[https://www.investopedia.com/articles/07/economists.asp How 10 Influential Economists Changed America's History]</ref><ref name="UCL">[https://www.ucl.ac.uk/economics/about-department/famous-economists/famous-economists Famous Economists],UCL.</ref>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=27}} - 『[[国富論]]』(1776年)、[[古典派経済学]]<ref name="mit"/>
*[[ジェレミ・ベンサム]](1748 - 1832){{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=134}}
*[[ジャン=バティスト・セイ]] (1767-1832) - [[古典派経済学]]<ref name="mit"/>、[[セイの法則]]<ref>{{コトバンク|セーの法則}}</ref>
*[[デヴィッド・リカード]](1772 - 1823、[[イギリス]])<ref name="10A"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=108}} - [[古典派経済学]]<ref name="mit"/>
*[[トマス・ロバート・マルサス]](1766 - 1834、イギリス)<ref name="UCL"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=121}} -[[古典派経済学]]<ref name="mit"/>
*[[フリードリッヒ・リスト|フリードリヒ・リスト]](1789- 1846) - [[歴史学派]]<ref name="mit"/>
*[[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー]] (1801-1877、フランス) <ref>{{コトバンク|クールノー}}</ref>{{Sfn|池尾|2006|p=20}}{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=301}}
*[[ジョン・スチュアート・ミル]] (1806-1873) -[[古典派経済学]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=147}}
*[[ヘルマン・ハインリヒ・ゴッセン]] (1810 - 1858、[[プロイセン]]) - [[限界効用理論]]・[[ゴッセンの法則]]<ref>{{コトバンク|ゴッセン}}</ref>{{Sfn|池尾|2006|p=85}}
*[[ヴィルヘルム・ロッシャー]](1817 - 94) - [[歴史学派]]<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p.116.</ref>
*[[カール・マルクス]](1818 - 1883、[[プロイセン]]、[[ドイツ]])<ref name="js">J.Schumpeter, Ten great economists, Oxford University Press, 1951 </ref><ref name="UCL"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=14}}
*[[レオン・ワルラス]](1834 - 1910、[[フランス]]) - [[限界効用理論]]<ref name="名前なし-20230316131907">{{コトバンク|限界効用学派}}</ref><ref name="js"/><ref name="20th"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=185}}<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p155.</ref>
*[[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]] (1835-1882、イギリス) - [[限界効用理論]]<ref name="名前なし-20230316131907"/><ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=172}}<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p.146-152.</ref>
*[[グスタフ・フォン・シュモラー]](1838-1917) - [[歴史学派]]<ref name="mit"/>
*[[カール・メンガー]](1840-1921、[[ガリツィア]]、[[オーストリア]]) - [[限界効用理論]]<ref name="名前なし-20230316131907"/><ref name="js"/><ref name="20th"/><ref name="js"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=211}}
*[[アルフレッド・マーシャル]](1842 - 1924、イギリス)<ref name="js"/><ref name="10A"/><ref name="20th"/> - [[ケンブリッジ学派]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=238}}
*[[ゲオルク・フリードリヒ・クナップ]](1842-1926、ドイツ)<ref name="js"/>
*[[フィリップ・ヘンリー・ウィックスティード]](1844-1927) - [[限界生産力]]理論における完全分配の定理<ref name="名前なし-20230316131907-2">柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p.173-4.</ref>
*[[フランシス・イシドロ・エッジワース|F.Y.エッジワース]](1845-1926){{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=263}}
*[[ジョン・ベイツ・クラーク]](1847-1938、アメリカ)<ref name="20th"/>
*[[ヴィルフレド・パレート]](1848 - 1923、イタリア)<ref name="js"/><ref name="20th"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=198}}
*[[クヌート・ヴィクセル]] (1851-1926) - [[スウェーデン学派]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=288}}<ref name="名前なし-20230316131907-2"/>
*[[オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク]](1851 - 1914、オーストリア)<ref name="js"/><ref name="20th"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=224}}
*[[フリードリヒ・フォン・ヴィーザー]](1851-1926、オーストリア)<ref name="js"/>
*[[ソースティン・ヴェブレン]](1857 - 1929) - [[制度学派]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=313}}
*[[フランク・タウシッグ]](1859-1940、アメリカ)<ref name="js"/>
*[[マックス・ヴェーバー]](1864-1920){{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=82}} - 『[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神]]』(1905)、[[歴史学派]]<ref name="mit"/>
*[[グスタフ・カッセル]] (1866-1945、スウェーデン) {{Sfn|池尾|2006|p=52-60}}
*[[アーヴィング・フィッシャー]](1867 - 1947、アメリカ)<ref name="js"/><ref name="20th"/><ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=276}}
*Ladislaus von Bortkiewicz (1868-1931、ロシア)<ref name="js"/>
* Wesley Clair Mitchell (1874-1948、アメリカ)<ref name="js"/>
*[[アーサー・セシル・ピグー]](1877-1959) - [[ケンブリッジ学派]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=250}}
*[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]](1881 - 1973、オーストリア)<ref name="20th"/> - [[オーストリア学派]]
*[[ジョン・メイナード・ケインズ]](1883 - 1946、イギリス)<ref name="js"/><ref name="10A"/><ref name="20th">[https://thebestschools.org/magazine/top-economists-1900-to-present/ The Best Economists of the 20th Century]</ref><ref name="texas">[https://sites.utexas.edu/leverage/2020/12/20/notable-20th-century-economists/ Notable 20th Century Economists],The University of Texas at Austin </ref>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=39}} - ケインズ以前の新古典派では完全雇用国民所得が前提として、個々の市場に着目して競争への障害をとりのぞく[[ミクロ経済学]]的政策に限られていたが、ケインズによって政府による[[マクロ経済学]]的観点からの財政金融政策が創出された<ref name="mit"/>。
*[[ヨーゼフ・シュンペーター]] (1883-1950、オーストリア){{Sfn|池尾|2006|p=20}}<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=52}}
*[[フランク・ナイト]](1885-1972). - [[シカゴ学派 (経済学)|シカゴ学派]]
*[[ラグナル・フリッシュ]](1895-1973、ノルウェー)
*[[ピエロ・スラッファ]](1898-1983) - [[ケンブリッジ学派]]、新リカード学派<ref name="mit"/>
*[[グンナー・ミュルダール|K.G.ミュルダール]] (1898-1987) - 1974年ノーベル経済学賞{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=468}}
*[[フリードリヒ・ハイエク]](1899 - 1992)<ref name="20th"/> - [[オーストリア学派]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=66}}
*エドワード・H・チェンバリン (Edward H. Chamberlin, 1899-1967) - 『独占的競争の理論』 (1933)<ref>{{コトバンク|チェンバリン}}</ref><ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017,p186.</ref>
*[[ロイ・ハロッド]](1900-1978) - [[経済成長理論]]{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=366}}
*[[サイモン・クズネッツ]](1901-85) - 1971年ノーベル経済学賞{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=481}}
*[[カール・メンガー (数学者)]] (1902-1985、数学者){{Sfn|池尾|2006|p=156-158}}
*[[エイブラハム・ウォールド]] (1902-1950、[[数理経済学]]) - [[一般均衡]]の存在問題 {{Sfn|池尾|2006|p=156-158}}
*[[オスカー・モルゲンシュテルン]](1902 - 1977) - [[ゲーム理論]]<ref name="nm"/>
*[[ジョン・フォン・ノイマン]](1903 - 1957) - [[ゲーム理論]]<ref name="nm">酒井泰弘「フォン・ノイマン、モルゲンシュテルンとゲーム理論の世界--ゼロ和ゲームの批判的再評価(1)」2001-01 筑波大学経済学論集45号、p1-42. </ref>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=533}}
*[[ジョーン・ロビンソン]](1903 - 1983、イギリス) - [[ポスト・ケインズ派経済学|ポスト・ケインジアン]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=379}}、『不完全競争の経済学』 (1933)<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017,p183-6.</ref>
*[[ジョン・ヒックス]] (1904-1989){{Sfn|池尾|2006|p=123-9}}{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=355}}
*[[ワシリー・レオンチェフ]](1905 - 1999、ソビエト連邦)<ref name="texas"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=494}} - 投入産出分析<ref name="mit"/>
*[[ジェイムズ・ミード|J.E.ミード]] (1907 - 1995) - 1977年ノーベル経済学賞{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=416}}
*[[ジョン・ケネス・ガルブレイス]](1908 - 2006)- [[制度学派]]<ref name="mit"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=443}}
*[[ミルトン・フリードマン]](1912 - 2006、アメリカ)<ref name="10A"/><ref name="20th"/><ref name="texas"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=341}} - [[マネタリズム]]、[[シカゴ学派]]<ref name="mit"/>
*[[ポール・サミュエルソン]](1915 - 2009、アメリカ)<ref name="texas"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=328}}
*[[フランコ・モディリアーニ]](1918-2003、イタリア)<ref name="texas"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=403}}
*[[ジェームズ・トービン]](1918 - 2002、アメリカ)<ref name="20th"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=391}}
*[[ジェームズ・M・ブキャナン]] (1919-2013) - [[公共選択論]]{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=430}}
*[[ローレンス・クライン]](1920-2013、アメリカ)<ref name="20th"/>{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=506}}
*[[ケネス・アロー]](1921 - 2017、アメリカ)<ref name="texas"/>
*[[マートン・ミラー]](1923 - 2000、アメリカ)<ref name="texas"/>
*[[ロバート・ソロー]](1924-、アメリカ)<ref name="top"/><ref name="texas"/>
*[[アラン・グリーンスパン]](1926-、アメリカ) - [[マネタリスト]],[[連邦準備制度|連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board FRB)]]第13代議長(1987-2006)
*[[ゲーリー・ベッカー]](1930-2014) - [[シカゴ学派 (経済学)|シカゴ学派]]{{Sfn|日本経済新聞社|2014|p=520}}
*[[ロバート・オーマン]](1930-、イスラエル)
*[[エリノア・オストロム]](1933-2012、アメリカ)<ref name="20th"/>
*[[アマルティア・セン]](1933-、[[インド]])<ref name="top"/>
*[[ダニエル・カーネマン]](1934-、イスラエル)<ref name="20th"/> - [[プロスペクト理論]]、[[行動経済学]]
*[[ウィリアム・フォーサイス・シャープ]](1934-、アメリカ)<ref name="20th"/>
*[[ロバート・ルーカス (経済学者)|ロバート・ルーカス]](1937-、アメリカ)<ref name="20th"/><ref name="texas"/>
*[[ジョージ・アカロフ]](1940-、アメリカ)<ref name="top"/>
*[[ジェームズ・ヘックマン]](1944-、アメリカ)
*[[ジョセフ・E・スティグリッツ]](1943-、アメリカ)<ref name="20th"/><ref name="top"/>
*[[ロバート・バロー]](1944-、アメリカ)<ref name="texas"/>
*[[ジャネット・イエレン]](1946-、アメリカ)<ref name="10A"/> - FRB第15代議長(2014-18)
*[[クリストファー・ピサリデス]](1948-、[[キプロス]])<ref name="20th"/>
*[[ポール・クルーグマン]](1953-、アメリカ)<ref name="top">[https://academicinfluence.com/rankings/people/most-influential-economists-today Top Influential Economists Today]</ref>
*[[ベン・バーナンキ]](1953-、アメリカ) FRB第14代議長(2006-2014)、[[大恐慌]]における銀行危機の研究<ref name="aoki"/>
*[[ダグラス・W・ダイアモンド]](1953-) - [[銀行]]の[[満期変換]]機能についてのダイヤモンド・ディビッグ・モデル<ref name="aoki">青木浩介「[https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00351/101700053/ ノーベル経済学賞バーナンキ氏、実証と実行が後の理論を先導]」日経ビジネス2022.10.21 </ref>
*[[ジェフリー・サックス]](1954-、アメリカ)<ref name="top"/>
*[[フィリップ・ディビッグ]](1955-) - ダイヤモンド・ディビッグ・モデル<ref name="aoki"/>
*[[カーメン・ラインハート]](1955-、キューバ、アメリカ)<ref name="20th"/>
*[[ヌリエル・ルービニ]](1958-、トルコ、アメリカ)<ref name="10A"/>
*[[グレゴリー・マンキュー]](1958-、アメリカ)
*[[グレン・ハバード]](1958-、アメリカ)
*[[アビジット・V・バナジー]](1961-、インド)と[[エステル・デュフロ]](1972-、フランス)<ref name="10A"/><ref name="top"/> - [[ランダム化比較試験]]を[[開発経済学]]に応用<ref>[[ニューズウィーク]]2019年10月15日[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/10/3-150.php ノーベル経済学賞は米大教授3氏に 貧困層の子どもたち支援した実践的取り組み評価]</ref>。
*[[トマ・ピケティ]](1971-、フランス)<ref name="top"/>
== 日本の経済学者 ==
{{See|日本の経済学者の一覧}}
{{Main2|近代以前の日本の経済学者|経世論}}
<!-- 日本人経済学者についてはEconometric Societyも参照-->
*[[熊沢蕃山]] (1619-1691)<ref name="ktKei"/>
*[[荻生徂徠]]((1666 - 1728)<ref name="ktKei"/>
*[[太宰春台]] (1680-1747) - 『経済録』<ref name="keizai"/>
*[[中井竹山]] (1730-1804)<ref name="keizai"/><ref name="ktKei"/>
*[[本多利明]] (1743-1821) <ref name="keizai"/><ref name="ktKei"/>
*[[山片蟠桃]] (1748-1821)
*[[海保青陵]] (1755-1817)<ref name="keizai"/><ref name="ktKei"/>
*[[佐藤信淵]] (1769-1850) <ref name="keizai"/><ref name="ktKei"/>
*[[二宮尊徳]] (1787-1856)<ref name="li">リー・サンベック「書評 Aiko Ikeo, A History of Economic Science in Japan:The internationalization of economics in the twentieth century (Routledge,2014)」早稲田商学第 441・442 合併号 2015年3月、p131-6.</ref><ref name="ktKei">{{コトバンク|経世論}}</ref>
*[[福沢諭吉]] (1835-1901)<ref>藤原昭夫「福沢諭吉の経済論」日本経済評論社 (1998)
</ref> <ref name="keizai">{{Cite journal|和書|author=馮天瑜, 呉咏梅 |title=中国語、日本語、西洋語間の相互伝播と翻訳のプロセスにおける「経済」という概念の変遷 |url=https://doi.org/10.15055/00000618 |journal=日本研究 |publisher=国際日本文化研究センター |year=2005 |month=oct |volume=31 |pages=159-190 |naid=120005681573 |doi=10.15055/00000618}}</ref>
*[[高橋是清]] (1854-1936) {{Sfn|池尾|2006|p=68-70,182-4,199-202}}
*[[天野為之]] (1861-1938)<ref name="li"/>
*[[藤沢利喜太郎]](1861-1933){{Sfn|池尾|2006|p=39-42.79}}
*[[山崎覚次郎]] (1868-1945){{Sfn|池尾|2006|p=43-48}}
*[[深井英五]] (1871-1945) {{Sfn|池尾|2006|p=68-70}}
*[[福田徳三]] (1874-1930){{Sfn|池尾|2006|p=76,84}}
*[[神戸正雄]] (1877-1959) {{Sfn|池尾|2006|p=43-48}}
*[[高田保馬]] (1883-1972){{Sfn|池尾|2006|p=76}}
*[[石橋湛山]] (1884-1973) {{Sfn|池尾|2006|p=185-189}}
*[[渡辺孫一郎]] (数学、1885-1955){{Sfn|池尾|2006|p=95-97}}
*[[園正造]] (1886-1969)({{Sfn|池尾|2006|p=76,99,117,131-5}}
*[[土方成美]] (1890- 1975){{Sfn|池尾|2006|p=61-65}}
*成美清松 (1895-1977){{Sfn|池尾|2006|p=95-97}}
*[[水谷一雄]](1897-1981){{Sfn|池尾|2006|p=156-158}}
*[[中山伊知郎]] (1898-1980){{Sfn|池尾|2006|p=11,76,89}}
*[[杉本栄一]] (1901-1952) {{Sfn|池尾|2006|p=92-4}}
*[[柴田敬]] (1902-1986){{Sfn|池尾|2006|p=15,76}}
*[[安井琢磨]] (1909-1995) {{Sfn|池尾|2006|p=76,98-9,103,113,119-122,131-4}}
*[[角谷静夫]] (1911-2004){{Sfn|池尾|2006|p=118}}
* [[森嶋通夫]](1923 - 2004、日本){{Sfn|池尾|2006|p=113,129-130}}
* [[二階堂副包]](1923-2001、日本){{Sfn|池尾|2006|p=107,142-7,165-172}}
* [[市村真一]](1925 - 、日本){{Sfn|池尾|2006|p=20,107}}
*[[稲田献一]](1925-2002、日本){{Sfn|池尾|2006|p=161}}
*[[渡部経彦]](1926-1976、日本)
*[[畠中道雄]](1926-2016、日本)
* [[宇沢弘文]](1928 - 2014、日本){{Sfn|池尾|2006|p=142-7}}
*[[青木正直]](1931-2018、日本)
* [[根岸隆]](1933 -、日本){{Sfn|池尾|2006|p=142-7}}
*[[森口親司]](1933-、日本)
*[[雨宮健]](1935-、日本)
*[[浜田宏一]](1936-、日本)
*[[青木昌彦]](1938-2015、日本)
*[[佐和隆光]](1942-、日本)
*[[藤田昌久]](1943-、日本)
*[[鈴村興太郎]](1944-2020、日本)
*[[西村和雄]](1946-、日本)
*[[森棟公夫]](1946-、日本)
*[[奥野正寛]](1947-、日本)
*[[金子守]](1950-、日本)
*[[伊藤隆敏]](1950-、日本)
*[[竹中平蔵]](1951-、日本)
*[[林文夫]](1952-、日本)
*[[清滝信宏]](1955-、日本)
*[[松山公紀]](1957-、日本)
*[[神取道宏]](1959-、日本)
*[[松島斉]](1960-、日本)
*[[松井彰彦]](1962-、日本)
*[[梶井厚志]](1963-、日本)
*[[北村祐一]](1963-、日本)
*[[小島武仁]](1979-)
*[[高橋悟]](日本)
*[[市村英彦]](日本)
*[[平野敬祐]](日本)
== その他 ==
{{要出典範囲|date=2022年10月|経済理論を研究する経済学者とは区別されるものとして}}、一般社会に向けて経済の現状分析や将来動向についての解説、評論を行う人物を経済評論家({{Lang-en-short|Economic pundit}})という。なお、政治の評論家を[[政治評論家]]([[:en:Pundit (expert)|Political pundit]])という。
主な経済評論家は、[[:Category:日本の経済評論家]]を参照。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{cite book|last=Schumpeter|first=Joseph A.|title=Ten great economists: from Marx to Keynes|publisher=Oxford University Press|location=New York Oxford|year=1951|oclc=166951}}:『十大経済学者:マルクスからケインズまで』[[中山伊知郎]]訳 [[東畑精一]]監修.日本評論社、1952年 - Marx、Walras、Menger、Marshall、Pareto、Böhm-Bawerk、F.Taussig、I.Fisher、W. C. Mitchell、Keynesの10人を選び、付論でG.F. Knapp、F.Wiser. L.Bortkiewiczを選んだ。
*[[三土修平]]『経済学史』新世社, 1993年
* {{Citation| last = 池尾| first = 愛子|authorlink=池尾愛子| year = 2006 | title = 日本の経済学:20世紀における国際化の歴史| publisher = 名古屋大学出版会}}
* {{Citation| editor-last = 日本経済新聞社| = | editor-link=日本経済新聞社| year = 2014 | title =経済学41の巨人 | publisher =日本経済新聞社}}
*柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017
== 関連項目 ==
* [[公認会計士 (日本)]]
* [[税理士]]
* [[中小企業診断士]]
* [[ファイナンシャル・プランナー]]
* [[証券アナリスト]]
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[[Category:経済学者| けいさいかくしや]]
[[Category:経済に関する人物]]
[[Category:研究員]] | 2003-03-23T15:58:16Z | 2023-12-04T12:21:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E8%80%85 |
5,017 | ゲド戦記 | 『ゲド戦記』(ゲドせんき、Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって英語で書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説のシリーズ名である。原題は『アースシー』(Earthsea)あるいは『アースシー・サイクル』(Earthsea Cycle)であるが、日本では岩波書店に所属していた装丁家の田村義也によって「ゲド戦記」と名付けられた。「戦記」とあるが、戦争や戦闘が中心の物語ではない。また、ゲドが主人公として行動するのも最初の1作のみである。全米図書賞児童文学部門、ネビュラ賞長編小説部門、ニューベリー賞受賞。
英語圏におけるファンタジー作品の古典として、しばしば『指輪物語』『オズの魔法使い』と並び称される。文学者マーガレット・アトウッドは『ハリーポッター』や『氷と炎の歌』など近年流行した幻想小説に影響を与えた作品として、『ゲド戦記』第1作の『影との戦い』を挙げている。
日本語版は、清水真砂子の訳により、岩波書店から出版されている。岩波少年文庫、ハードカバー、内容は変わらないが、大人向けにデザインを変えた物語コレクション、映画化の際に発行したソフトカバーの4ヴァージョンが発売されている。
2007年現在、日本語版の発行部数は200万部。
この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島海(アーキペラゴ)、アースシーを舞台とした魔法使いゲドの物語。アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名のみを名乗る。主人公を例に採ればゲドが真の名で、ハイタカが通り名である。
ゲド(ハイタカ)の少年期から青年期の物語。ゲドは才気溢れる少年だったが、ライバルよりも自分が優れていることを証明しようとして、ロークの学院で禁止されていた術を使い、死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。ゲドはその影に脅かされ続けるが、師アイハル(オジオン)の助言により自ら影と対峙することを選択する。クライマックスで、ゲドは「影」が自身の暗黒面であったことに気づく。
アチュアン神殿の大巫女テナー(アルハ)が中心の物語。「名なき者たち」に仕える巫女達によって親から引き離され、名前(自己)を奪われ、地下神殿の闇の中で大巫女として育てられるテナー。そこに、二つに割られ奪われた「エレス・アクベの腕輪」(銀製)を本来あるべき場所に戻し、世界の均衡を回復しようとする大魔法使いゲドが現れる。腕輪奪還と「名なき者たち」との争いの過程で地下神殿も崩壊する。少女の自己の回復と魂の解放の物語でもあり、ゲドとテナーの信頼、そして愛情の物語としても読める。
大賢人となったゲドが登場する。世界の均衡が崩れて魔法使いが次々と力を失う中、エンラッドから急を知らせに来た若き王子レバンネン(アレン)と共にその秩序回復のため、世界の果てまで旅をする。ゲドの留守中に“石垣の向こう側”から“この世”へ侵入があり、学院の守りも破られてしまう。
なお、終焉と世界の変化を暗示する結末から、第4巻が発表されるまでの十数年間、 ゲド戦記は「三部作」とされていた。
ゲド壮年期の物語である。ゲドは先の旅で全ての力を失い、大賢人の地位を自ら降りて故郷の島へ帰ってきた。そこでは、子供たちを産み未亡人となったテナー(ゴハ)が、親に焼き殺されかけた所を危うく救われた少女テハヌー(テルー)と生活していた。ゲドはテナーと生活を始める。ところが元大賢人と元巫女という存在は故郷の一般の魔法使いにとっては目障りでしかなく、3人の「弱き者」たちを容赦なく悪意に満ちた暴力が襲う。魔法の力を失った後に見えて来るアースシーの世界を覆う価値観とは、一体何なのか。それを作者自らが問いかけている作品とも言える。
「さいはての島へ」から本作の発表までに長い期間があり、フェミニズム色の強い本作第に戸惑う読者も、また高く評価する読者も、どちらも少なくないようである。また、「アースシーの風」以降は「9.11」(アメリカ同時多発テロ)後の混沌としたアメリカの世界観が如実に表れている。旧版では“―ゲド戦記最後の書―”という副題が付されていた。
かつてゲドと共に旅をし、アースシーの王となったレバンネン(アレン)や、ゲドの妻となったテナー、その二人の養女となったテハヌー(テルー)が物語の核となっていく。竜や異教徒のカルガド人によって、従来の正義であった「真の名」という魔法の原理への批判が行われ、それまで作り上げられてきたアースシーの価値観を根本から壊していくような物語構造となっている。女の大賢人の可能性や世界の果てにある理想郷、また死生観への再考、長年敵対していたカルガド帝国との和解も暗示される。テハヌーと竜との関わりも明らかにされ、確実に物語の中心はゲドからレバンネン、テハヌーの世代へと移り変わっている。
原題 The Other Wind(別の風、別の思潮)に対し、日本語版の題名は「新しい風」となる予定だったが、「新しいではない」との翻訳者および作者本人の意見を受け、現在のものとなった。
日本語版の初刊時は「ゲド戦記外伝」という題だったが、のちに「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語」へ改題されている。
『アースシーの風』以前に発表された中短編5作品と、著者によるアースシー世界についての解説を収録している。特に「ドラゴンフライ」は「アースシーの風」と深いかかわりがあり、先に書かれたこちらを読むと理解が早い。
ル=グウィンの初期短編集『風の十二方位』(The Winds Twelve Quarters, 1975年)のなかに、
がある。また、未邦訳の短編が2編存在する。
物語が展開するアースシーは、後述のように幾つもの島が集まった海域であり、大陸は存在しない。多島海の外部世界についての知識は作中では知られていない。
羅針盤が機能し、北に行くと気温が下がり、南に行くと気温が上がるなど、地球の北半球に似た世界である。また、南北方向に移動すると見える星座も変化する。地動説を前提にしているともとりうる台詞もある。
人々の大半は赤い肌や浅黒い肌をしており、白い肌を持つのは東海域にあるカルガド帝国の住民のみである。
スタジオジブリ制作、宮崎吾朗監督・脚本。東宝配給で2006年7月29日より、長編アニメーション映画として劇場公開された。なお、この映画の副題として用いられている Tales from Earthsea は、原作「ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)」の原題である。
「さいはての島へ」を中心に、他の巻の要素と宮崎駿の短編「シュナの旅」の要素を加えてストーリーを編集した、独自の脚本である。ル=グウィンの公式コメントで、意に反する内容に改められていたことが明らかになり、論議を呼んでいる。 | [
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] | 『ゲド戦記』(ゲドせんき、Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって英語で書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説のシリーズ名である。原題は『アースシー』(Earthsea)あるいは『アースシー・サイクル』であるが、日本では岩波書店に所属していた装丁家の田村義也によって「ゲド戦記」と名付けられた。「戦記」とあるが、戦争や戦闘が中心の物語ではない。また、ゲドが主人公として行動するのも最初の1作のみである。全米図書賞児童文学部門、ネビュラ賞長編小説部門、ニューベリー賞受賞。 英語圏におけるファンタジー作品の古典として、しばしば『指輪物語』『オズの魔法使い』と並び称される。文学者マーガレット・アトウッドは『ハリーポッター』や『氷と炎の歌』など近年流行した幻想小説に影響を与えた作品として、『ゲド戦記』第1作の『影との戦い』を挙げている。 | {{Otheruses||本作を原作とする映画|ゲド戦記 (映画)}}
{{基礎情報 書籍
| title = ゲド戦記
| orig_title = Earthsea
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| image_caption = 物語の舞台となる多島海(アーキペラゴ)の地図
| author = [[アーシュラ・K・ル=グウィン]]
| translator = [[清水真砂子]]
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| published = {{flagicon|USA}} [[1968年]]-[[2001年]]<br />{{flagicon|JPN}} [[1976年]]-[[2004年]]
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『'''ゲド戦記'''』(ゲドせんき、''Earthsea'')は、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]によって[[英語]]で書かれ、[[1968年]]から[[2001年]]にかけて出版された[[ファンタジー]]小説のシリーズ名である。原題は『アースシー』(''Earthsea'')あるいは『アースシー・サイクル』(''Earthsea Cycle'')であるが、日本では岩波書店に所属していた装丁家の田村義也によって「ゲド戦記」と名付けられた<ref>清水真砂子「訳者あとがき」『帰還:ゲド戦記最後の書』岩波書店1999</ref>。「戦記」とあるが、戦争や戦闘が中心の物語ではない。また、ゲドが主人公として行動するのも最初の1作のみである。[[全米図書賞]]児童文学部門、[[ネビュラ賞 長編小説部門|ネビュラ賞長編小説部門]]、[[ニューベリー賞]]受賞。
英語圏における[[ファンタジー]]作品の古典として、しばしば『[[指輪物語]]』『[[オズの魔法使い]]』と並び称される<ref name="Amanda Craig">Craig, Amanda. [http://www.theguardian.com/books/2003/sep/24/buildingachildrenslibrary.booksforchildrenandteenagers Classic of the month: A Wizard of Earthsea]. ''The Guardian''. September 24, 2003. Accessed November 10, 2014.</ref><ref>[http://www.neabigread.org/books/awizardofearthsea/readers-guide/ A Wizard of Earthsea reader's guide]. The Big Read. National Endowment for the Arts.</ref>。文学者[[マーガレット・アトウッド]]は『[[ハリーポッター]]』や『[[氷と炎の歌]]』など近年流行した幻想小説に影響を与えた作品として、『ゲド戦記』第1作の『[[影との戦い]]』を挙げている<ref>Atwood, Margaret. Quoted in [http://online.wsj.com/articles/wsj-book-club-margaret-atwood-chooses-a-wizard-of-earthsea-1413493430 "Margaret Atwood Chooses ‘A Wizard of Earthsea’"]. ''The Wall Street Journal'', October 16, 2014. Accessed November 10, 2014.</ref>。
== 作品一覧 ==
日本語版は、[[清水真砂子]]の訳により、[[岩波書店]]から出版されている。[[岩波少年文庫]]、ハードカバー、内容は変わらないが、大人向けにデザインを変えた物語コレクション、映画化の際に発行したソフトカバーの4ヴァージョンが発売されている。
:「[[影との戦い]]」のみ、同時代ライブラリー(現在は終刊)から発売されたことがある。
*「影との戦い」''A Wizard of Earthsea''(原語版1968年、日本語版1976年)
*「[[こわれた腕環]]」''The Tombs of Atuan''(原語版1971年、日本語版1976年)
*「さいはての島へ」''The Farthest Shore''(原語版1972年、日本語版1977年)
*「帰還 -ゲド戦記最後の書-」''Tehanu, The Last Book of Earthsea''(原語版1990年、日本語版1993年)
*「アースシーの風」''The Other Wind''(原語版2001年、日本語版2003年)
*「ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)」''Tales from Earthsea''(原語版2001年、日本語版2004年)
2007年現在、日本語版の発行部数は200万部<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070521/125248/?P=2 110万冊無料配布。“ゲドを読む。”の狙いを読む-宮崎吾朗監督作品「ゲド戦記」DVDのユニークなプロモーション(2ページ目)]、日経BP、2007年。閲覧には会員登録(無料)が必要。</ref>。
== あらすじ ==
この世で最初の言葉を話したセゴイによって海中から持ち上げられ創られたと伝えられる、太古の言葉が魔力を発揮する多島海(アーキペラゴ)、アースシーを舞台とした[[魔法使い]]'''[[ゲド]]'''の物語。アースシーのうち、主にハード語圏では森羅万象に、神聖文字で表記される「[[諱|真(まこと)の名前]]」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名のみを名乗る。主人公を例に採れば'''ゲド'''が真の名で、'''ハイタカ'''が通り名である。
=== 影との戦い ===
:原題:''A Wizard of Earthsea''
ゲド(ハイタカ)の少年期から青年期の物語。ゲドは才気溢れる少年だったが、ライバルよりも自分が優れていることを証明しようとして、ロークの学院で禁止されていた術を使い、死者の霊と共に「影」をも呼び出してしまう。ゲドはその影に脅かされ続けるが、師アイハル('''オジオン''')の助言により自ら影と対峙することを選択する。クライマックスで、ゲドは「影」が自身の暗黒面であったことに気づく。
=== こわれた腕環 ===
:原題:''The Tombs of Atuan''
アチュアン神殿の大巫女テナー('''アルハ''')が中心の物語。「名なき者たち」に仕える巫女達によって親から引き離され、名前(自己)を奪われ、地下神殿の闇の中で大巫女として育てられるテナー。そこに、二つに割られ奪われた「エレス・アクベの腕輪」([[銀]]製)を本来あるべき場所に戻し、世界の均衡を回復しようとする大魔法使いゲドが現れる。腕輪奪還と「名なき者たち」との争いの過程で地下神殿も崩壊する。少女の自己の回復と魂の解放の物語でもあり、ゲドとテナーの信頼、そして愛情の物語としても読める。
=== さいはての島へ ===
:原題:''The Farthest Shore''
大賢人となったゲドが登場する。世界の均衡が崩れて魔法使いが次々と力を失う中、エンラッドから急を知らせに来た若き王子レバンネン('''アレン''')と共にその秩序回復のため、世界の果てまで旅をする。ゲドの留守中に“石垣の向こう側”から“この世”へ侵入があり、学院の守りも破られてしまう。
なお、{{要出典|範囲=終焉と世界の変化を暗示する結末から、|date=2022年2月}}第4巻が発表されるまでの十数年間、
{{誰範囲|date=2022年3月|ゲド戦記は「三部作」とされていた。}}<ref>https://www.iwanami.co.jp/book/b269795.html 著者略歴の項参照。</ref>
=== 帰還 ===
:原題:''Tehanu, The Last Book of Earthsea''
ゲド壮年期の物語である。ゲドは先の旅で全ての力を失い、大賢人の地位を自ら降りて故郷の島へ帰ってきた。そこでは、子供たちを産み未亡人となったテナー(ゴハ)が、親に焼き殺されかけた所を危うく救われた少女テハヌー(テルー)と生活していた。ゲドはテナーと生活を始める。ところが元大賢人と元巫女という存在は故郷の一般の魔法使いにとっては目障りでしかなく、3人の「弱き者」たちを容赦なく悪意に満ちた暴力が襲う。魔法の力を失った後に見えて来るアースシーの世界を覆う価値観とは、一体何なのか。それを作者自らが問いかけている作品とも言える。
「さいはての島へ」から本作の発表までに長い期間があり、[[フェミニズム]]色の強い本作第に戸惑う読者も、また高く評価する読者も、どちらも少なくないようである。また、「アースシーの風」以降は「9.11」([[アメリカ同時多発テロ]])後の混沌としたアメリカの[[世界観]]が如実に表れている。旧版では“―ゲド戦記最後の書―”という副題が付されていた。
=== アースシーの風 ===
:原題:''The Other Wind''
かつてゲドと共に旅をし、アースシーの王となったレバンネン(アレン)や、ゲドの妻となったテナー、その二人の養女となったテハヌー(テルー)が物語の核となっていく。竜や異教徒のカルガド人によって、従来の正義であった「真の名」という魔法の原理への批判が行われ、それまで作り上げられてきたアースシーの価値観を根本から壊していくような物語構造となっている。女の大賢人の可能性や世界の果てにある理想郷、また死生観への再考、長年敵対していたカルガド帝国との和解も暗示される。テハヌーと竜との関わりも明らかにされ、確実に物語の中心はゲドからレバンネン、テハヌーの世代へと移り変わっている。
原題 ''The Other Wind''(別の風、別の思潮)に対し、日本語版の題名は「新しい風」となる予定だったが、「'''新しい'''ではない」との翻訳者および作者本人の意見を受け、現在のものとなった。
=== ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 ===
:原題:''Tales from Earthsea''
日本語版の初刊時は「ゲド戦記外伝」という題だったが、のちに「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語」へ改題されている。
『アースシーの風』以前に発表された中短編5作品と、著者によるアースシー世界についての解説を収録している。特に「ドラゴンフライ」は「アースシーの風」と深いかかわりがあり、先に書かれたこちらを読むと理解が早い。
==== 収録作品 ====
;「カワウソ」
:原題:''The Finder''
:ロークの学院開設の功労者にして、初代守りの長、メドラ(カワウソ/アジサシ)の一生を通じて、学院の黎明期を描く。
;「ダークローズとダイヤモンド」
:原題:''Darkrose and Diamond''
:エシーリ(ダイヤモンド)とローズの恋物語(ローズの方は真の名が明かされない)。
;「地の骨」
:原題:''The Bones of the Earth''
:アイハル(ダンマリ、のちにオジオン)がヘレス(ダルス)に師事した時と、二人が協力してゴントの大地震を鎮めた時の顛末。
;「湿原で」
:原題:''On The High Marsh''
:ロークから逃げ出した魔法使いイリオス(オタク)と、彼を匿った未亡人エマー(メグミ)、そしてイリオスを追ってきた大賢人ゲドの物語。
;「ドラゴンフライ」(旧題:トンボ)
:原題:''Dragonfly''
:『アースシーの風』の重要人物オーム・アイリアン(ドラゴンフライ)の幼年期と青春時代、ロークへの旅と呼び出しの長達との対立、竜への覚醒までを描く。
;アースシー解説
:アースシーの設定について、文化や歴史、伝説などの、作者による解説。
=== その他、アースシー世界を舞台とした作品 ===
ル=グウィンの初期短編集『風の十二方位』(''The Winds Twelve Quarters'', 1975年)のなかに、
*「解放の呪文」(''The Word of Unbinding'', 1964年)
*「名前の掟」(''The Rule of Names'', 1964年) イェボーが名前を明かされた顛末。後にゲドがこの経緯をもとにイェボーと取引をした。
がある。また、未邦訳の短編が2編存在する。
*''The Daughter of Odren'', 2014年
*''Firelight'', 2018年
== 世界設定 ==
物語が展開するアースシーは、後述のように幾つもの島が集まった海域であり、大陸は存在しない。多島海の外部世界についての知識は作中では知られていない<ref>『さいはての島へ』第5章におけるゲドの台詞「世界は実に広い。外界は果てしなく続き、とても人間の知識のおよぶところではないわ」</ref>。
[[羅針盤]]が機能し、北に行くと気温が下がり、南に行くと気温が上がるなど、地球の北半球に似た世界である。また、南北方向に移動すると見える星座も変化する<ref>『さいはての島へ』第5章より「ゴバルドンにちがいない。南海域でしか見えない星だ。(略)さらに南下すると、ゴバルドンに続いて、もうあと八つの星が順々に水平線のかなたからあらわれて(後略)」</ref>。[[地動説]]を前提にしているともとりうる台詞もある<ref>『さいはての島へ』第12章より「わしの肉体は太陽のもの、大きく巡る地球の、あのセリダーの浜にあるのだから」</ref>。
人々の大半は赤い肌や浅黒い肌をしており、白い肌を持つのは東海域にあるカルガド帝国の住民のみである。
=== 地名 ===
;アースシー
:物語の舞台である多島海世界。[[魔法]]を受け入れる文化を持つハード語圏と、魔法を嫌うカルガド帝国に大まかに分かれ、前者はさらに中央部の多島海(アーキペラゴ)と東西南北の各辺境海域に区分される。
:ハード語圏において魔法は身近な存在であり、医者にして化学者であり天気さえ変える力のある[[魔法使い]](常に持つ杖が称号保持者の証明となっている」)はもちろん、まじない師の類いであっても町の識者として敬意を集めている。対照的にカルガド帝国では鎧や船などの技術に長け、戦や略奪を好む野蛮さで知られている。
; ハブナー島
:アースシーにおいて、人間が居住しているものとしては最大の島。多島海のさらに中央に所在する。
; ハブナー・グレートポート
:ハブナー島の、そしてアースシー最大の都市。港町。かつてアースシー全てを支配していた王朝の首都であった。「帰還」以降、アースシー王となったレバンネンがここを首都としている。
; ローク島
: 多島海の中海に所在する、魔法使いを養成する学院が存在する島。アースシー世界の中心で、空位が続いているアースシーの王に代わって、秩序を維持するものとしてアースシーに強い影響力を与えている。悪しきものが近づこうとすると、周囲(厳密にはその船の進路前方)に嵐の防護壁「ロークの風」が自動で築かれる。
; ゴント島
: 北海域に位置する小さな島で、ゲドの故郷。ひなびた田舎だが、アイハルや後に「武勲(いさおし)」が作られるゲドなど、高名な魔法使いを何人も輩出し「ゴントの名産品はヤギと魔法使い」と評される。アースシー北東部のカルガド帝国と隣接し、度々侵攻されている。
; エンラッド島
: 北海域に位置する島で、レバンネンの故郷。近隣にあるエア島と共に、アースシーでも歴史の古い島として知られる。
; アチュアン島
: カルガド帝国を構成する島の一つ。ほぼ中部にある。テナーの出身地。太古の力を「名なきもの」としてまつる神殿がある。
; セリダー島
: 西海域のさらに最西端に位置する、アースシーの「さいはての島」。
=== 国、組織、団体など ===
; 学院
: 魔法を正しい方向に導く([[白魔術]]化する)ために設立された学校。男子校。正式な校名はなく、「学院」、または所在地名で「ローク」とのみ呼ばれる。
:魔法を教授する、風・詩・姿かえ・手わざ・名付け・守り・薬草・様式・呼び出し(五十音順)の9人の「長(おさ)」と大賢人、計10人の賢人によって管理される。アースシーにおける'''[[魔法使い]]'''とは、学院卒業者<!--ヒスイのように中退者もいるので-->のことを指す、いわば学位である。「魔法使い」の称号を受けていなければ、いかに優れた技の持ち主でも「まじない師」でしかない(女性の入学は許可されていないため、女性はどれほど魔法の才能があっても「魔法使い」にはなれない)。入学に当たっては別の魔法使いから大賢人に宛てた、本人を魔法使いを目指すにふさわしい者とする[[推薦状]]の[[親書]]が必要。守りの長に自身の真の名を名乗らなければ敷地内には入ることさえ出来ない、どんな扉開け・開錠の術も撥ね返す堅い守りが固められている。逆に卒業し出て行く時には守りの長の真の名を探り当て呼ばないと外に出られない。
: 『ゲド戦記』が用いた概念の中で最も大きな影響があったのは「正しい魔法は学校で学ぶ」というこの制度であり、『[[ハリーポッター]]』を筆頭に多くの現代ファンタジー作品が追随した<ref name="Amanda Craig" />。
; カルガド帝国
: アースシーの東部に位置する小国。ハード語圏とは言語や人種が異なる(ハード語圏の人々は有色、カルガド人は白人)。魔法を忌み嫌い、アチュアンの地に祀られた太古の兄弟神、ウルアーとアトワーを崇めている。近隣のハード語圏の島にたびたび侵攻している。
; [[ドラゴン|竜]]
: アースシーに住む、人間とは異なる知的生物。人間より賢く、遥かに長命で、多くは人間を見下している。いくつかの例外を除き、人間のような通り名は持たず、真の名だけを持つ。また、彼らの使う言葉は魔法に使われる「真のことば」であり、すなわち全ての竜は魔法を使う。真のことばで嘘を言うことさえあり、人間には見抜く方法がないので騙されることになる。
=== その他の用語 ===
; 真の名(まことのな)
: アースシーにおいて、すべてのものを支配できるもの。砂の一粒、水の一滴まで森羅万象が真の名を持っており、真の名を知っていればそれを操ることができる。人間については「本名」とも呼ばれる。学院ではこの全てを覚えることも学業の一環として課される(24時間でページの一覧が消去される魔法仕立ての教科書がある)。魔法使いには真の名を探り出す術をもっているものもおり、ゲドは生まれつき真の名を探り出す術に長けている。
: 人間の場合、成人の儀式の際に、儀式に立ち会う魔法使いやまじない師の口を借りて[[洗礼]]の形で知らされる。通常は一生変わることはないが、強い力を持つ魔法使いであれば、(無理やり)新しくつけかえて相手を生まれ変わらせることもできる。また、自分の真の名を相手に知られると、たとえ魔法使いであってもその相手に対しては完全に無防備になる<ref>「影」がゲドの真の名を知っていたのは自分自身でもあったため</ref>。そのため一般に、よほど信頼できる相手でない限り、真の名を他人に明かすことはない。
; 魔法
: 魔法使いの類によってかけられる。魔法をかけるにはまず相手(または物)の真の名を知らなければならない。その上で神聖文字を唱える。すると相手を操り、更にはそのものの本質を変えることさえできる。しかし本質を変えることは宇宙の規律を一時的にせよ操作することでもあり、濫用は厳しく戒められている。神聖文字とは、太古の昔、セゴイが海中から島々を持ち上げアースシーの世界を創った時に使われ語られた「真のことば」であり、ひいては竜のことばでもある。
;太古の力
: 大地が持つ力であり、アースシー創世から存在するとも言われる。カルガド帝国では信仰の対象ともなっており、その中心がアチュアンの墓所である。
:太古の力は必ずしも魔法と対立するものではなかったが、ロークの学院設立以降、徐々に蔑まれるようになった。しかし、ローク島自体が本来は太古の力の中心であり、物語中でも、竜のカレシンなどに度々言及されている。
; 黄泉の国(よみのくに)
: 死者のゆく世界。仮死状態になると、生者の世界とを分ける石垣まで行くことができる。不毛な乾ききった土地で、そこに暮らす死者はいかなる感情も表さず、かつて親しかった者と会っても、気づくこともない。ハード語圏の人々のみの姿が見られ、輪廻転生を死生観とするカルガドでは「魔法使いたちは死ぬと、生まれ変わることもない、翼があるのに空も飛べない怪物になってしまう」という形で言い伝えられている。物語の要所で度々登場し、最終巻ではアースシーの魔法の原理である「真の名」のメカニズムと、黄泉の国がなぜ生まれたのか、なぜ死者に感情がないのかという謎が明かされる。
== 登場人物 ==
; [[ゲド]] / [[ハイタカ]](原書では''Sparrowhawk'')
: アースシーの魔法使いで大賢人。北海域のゴント島・十本榛の木村の出身。“ロークの学院始まって以来の秀才”と評され、最後の大賢人。ゲドが退いた後、大賢人は選出されていない。また竜と交渉出来る者、竜王でもある。学院生時代に「影」を呼び出し顔に傷を負う。レバンネンと共に最果ての地に赴き世界の均衡を取り戻すが、魔法の力を失う。
; アイハル / オジオン
: ゴント島の南西にある最大の町、ル・アルビに住む魔法使い。別名“沈黙のオジオン”。山羊飼いだったゲドに魔法使いの才能を見出し、彼を魔法学院があるローク島に送り出す。ゴントの大[[地震]]を、S波が来る前に師匠と共に鎮め、被害が出るのを防いだことで島民から敬愛されている。訳者・清水曰く、「オギオン」(Ogion、[[松かさ]])を誤訳してしまい、訂正も出来なかったとのこと<ref>岩波少年文庫版あとがきより</ref>。
; エスタリオル / [[ヤハズエンドウ|カラスノエンドウ]]
: ゲドの同期生。東海域のイフィッシュ島出身。「影」に襲われ重傷を負い、自分さえ信じられなくなっていたゲドを親友と認め、自らの真の名を明かした。ゲドより先に卒業し、やはり魔法使い(ゲドは事件が原因で留年した)。のち、ゲドと共に「影」との対決に臨む。妹のケスト([[セイヨウノコギリソウ|ノコギリソウ]] 真の名は太古の言葉でメダカのこと)、弟の[[ウミガラス]]がいる。ウミガラスの方は真の名は不明。
; ヘレス / [[ダルス]]
: アイハルの師匠。その昔、ゴント大地震が起きた際に、当時第一線の魔法使いだったアイハルと共にゴント山に呼びかけて、被害が出る寸前に揺れを鎮めた。アイハルとゲド、テナー、テハヌーの家の持ち主。
; テナー / アルハ、ゴハ
: かつてカルガド帝国においてアチュアンの墓地の巫女をしていた女。ゲドの活躍により、巫女アルハ(カルガド語で「喰らわれし者」)からテナーに戻る。 後にアイハルの庇護を受け、テハヌーを引き取る。世界の調和を保つエレス・アクベの腕環をカルガド帝国から取り戻した「腕環のテナー」として、真の名を公にしている数少ない存在。
; テハヌー / テルー
: 幼い頃、両親からの虐待により顔の左半分が[[ケロイド]]になってしまった少女。人間の親から生まれた竜の化身でカレシンの娘と言われる。
; レバンネン / アレン
: エンラッドの王子。呼び名はエンラッド語で“剣”。真の名は太古の言葉で[[ナナカマド]]のこと。ゲドと共に最果ての地に赴き、生きて死後の世界から帰り、アースシーの王座に就く。
; カレシン
: 最長老にして竜族の長を務める竜。崩れてしまった世界の均衡を再び正してもらう代わりに、ゲド達を援助する。
; アイリアン / ドラゴンフライ(旧訳:トンボ)
: オーム・アイリアンとも。テハヌーと同じく、人間の親を持ちながら竜である存在。自分の存在を探求していく過程で、女人禁制が徹底されているロークの学院に例外的に招かれ、己の真の姿を見出す。例外的に真の名を2つ持つ。
; イエボー
: 人間の領地に侵入して住み着き、子供を育てていた竜。普段はペンダーにいる。度々人間の船や居住地を襲っていたが、ゲドに真の名を見破られ、調伏される。人の姿に化けることができるという。
; ゲドの外伯母
: ゲドの母の姉で彼の生まれた村の女まじない師。早くに母を亡くしたゲドの母代わりでもあり最初の魔法の師匠でもある。高度な教育は受けておらず、魔法を乱用するような傾向はあったものの、大賢人となったゲドが「かなりの強い力」と評する魔法力を持ち、真っ当と思われる術を選んで甥に教授していくなど教育者としての分別も有していた。
== 映像化作品 ==
=== テレビシリーズ ===
* 米SCI FI Channelが、「影との戦い」「こわれた腕環」のストーリーを ''Earthsea'' のタイトルで実写映像化(ミニシリーズ)、2004年秋に放送された。ゲドの師、オジオン役にベテラン黒人俳優[[ダニー・グローヴァー]]が充てられている<ref>外部リンク:[http://www.scifi.com/earthsea/ SCIFI.COM Earthsea]、および[http://www.slate.com/id/2111107/ このドラマへの原作者ル・グウィンのコメント]</ref>。日本でも『[[ゲド〜戦いのはじまり〜]]』として、DVDが2006年8月4日に発売された([[日活]])。
* [[A24 (企業)|A24]]版。- 2018年、ル=グウィンが他界する前にプロデューサーの{{仮リンク|ジェニファー・フォックス|en|Jennifer Fox (documentary filmmaker)}}が映画化権を取得したことが報じられる<ref>{{Cite web|和書|author=編集部・市川遥|date=2018-05-28|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0101138|title=ファンタジー小説「ゲド戦記」再び映画化へ|website=シネマトゥデイ|publisher=[[シネマトゥデイ|株式会社シネマトゥデイ]]|accessdate=2020-05-03}}</ref>。2019年の時点で映画シリーズの予定を、TVシリーズ化に切り替えて製作は続行。出資・制作するのはインディペンデント系のA24<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-08|url=https://eiga.com/news/20190908/3/|title=「ゲド戦記」をA24がテレビドラマ化|website=映画.com|publisher=[[映画.com|株式会社エイガ・ドット・コム]]|accessdate=2020-05-03}}</ref>。
=== アニメ映画 ===
{{Main|ゲド戦記 (映画)}}
[[スタジオジブリ]]制作、[[宮崎吾朗]]監督・脚本。[[東宝]]配給で[[2006年]][[7月29日]]より、長編[[アニメーション映画]]として劇場公開された。なお、この映画の副題として用いられている ''Tales from Earthsea'' は、原作「ゲド戦記外伝(ドラゴンフライ)」の原題である。
「さいはての島へ」を中心に、他の巻の要素と宮崎駿の短編「[[シュナの旅]]」の要素を加えてストーリーを編集した、独自の脚本である。ル=グウィンの公式コメント<ref>原作者ル=グウィンの公式コメント:[http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html Gedo Senki, a First Response] 日本語訳:[http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文]</ref>で、意に反する内容に改められていたことが明らかになり、論議を呼んでいる。<!--だが最近行われた試写会の評価は控えめに言っても低かったらしい。--><!--原作未読の視聴者からは高い評価を得られたものの、原作ファンや映画評論家の評価は概ね低いとされる。-->
== 関連事項 ==
* [[言霊]]
* [[忌み名]]
* [[通過儀礼]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="脚注"/>
<references />
== 外部リンク ==
* [http://www.iwanami.co.jp/hensyu/jidou/index_ged.html ゲド戦記(岩波書店サイト内)]
* [http://www.ghibliworld.com/news/ GhibliWorld.com]
* [http://www.ursulakleguin.com/ ル=グウィン公式サイト]
* [http://www.ghibli.jp/ged/ (映画)ゲド戦記公式情報]
{{Nebula Award Best Novel}}
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[[Category:ゲド戦記|*]]
[[Category:アメリカ合衆国のファンタジー小説]]
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[[Category:1968年の小説]]
[[Category:ネビュラ賞受賞作]] | 2003-03-23T16:11:35Z | 2023-12-02T14:38:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%89%E6%88%A6%E8%A8%98 |
5,018 | 関心空間 | 関心空間(かんしんくうかん)とはかつてあったインターネットコミュニティサイト。自分が今もっている関心事を登録して、他人の関心事と "つながり" を持たせたり、相互に感想などを書き込むことができた。2012年2月1日以降、株式会社関心空間から事業譲渡を受けた株式会社SIIIS(シーズ)が運営、株式会社SIIISは2014年12月1日に株式会社関心空間と社名変更し、2016年10月31日に関心空間のサービスを終了、さらに株式会社MYオフィスへと社名変更した。
一枚のカード状の画面に、自分の関心の対象である物や人のスペック、自分がどういったところに関心があるのかなどを、簡単な文章で登録する。これをキーワードという。ブログ投稿へのコメントと同じように、他の参加者のキーワードにコメントをつけたり、自分のキーワードにコメントをもらうこともできる。
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簡単なブログ機能。タイトル、日付、本文、画像添付(3ファイルまで)、トラックバックURL追加、下書き保存、RSS出力が可能。あらかじめ連携設定を行うことで、Twitterへの同時投稿も行える。
複数のキーワードを集めて1つのページに表示できる機能。コレクション名として自分でテーマを決め、自分または他のユーザーのキーワードを登録する。「どのコレクションに登録するかはまだ決めていない」という場合、コレクション候補として登録しておくこともできる。
同じ趣味・趣向を持つ他のユーザーと、キーワードを中心に集う機能。各コミュニティに参加したユーザーが、テーマに沿ったキーワード、コレクション、日記を投稿して共有することができる。コミュニティごとのBBS機能もある。
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'''関心空間'''(かんしんくうかん)とはかつてあった[[インターネットコミュニティ]]サイト。自分が今もっている関心事を登録して、他人の関心事と "つながり" を持たせたり、相互に感想などを書き込むことができた。2012年2月1日以降、株式会社関心空間から事業譲渡を受けた株式会社[[SIIIS]](シーズ)が運営、株式会社SIIISは2014年12月1日に株式会社関心空間と社名変更し、2016年10月31日に関心空間のサービスを終了、さらに株式会社MYオフィスへと社名変更した。
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: 例)あるユーザーAの「Xperia」という同じキーワードに、ユーザーBが「Androidつながり」ユーザーCは「スマートフォンつながり」として、それぞれの自分のキーワードをリンクさせることもできる。ユーザーAは、それぞれのキーワードに対して任意の名前で相互リンクをつけることもできる。
== 日記 ==
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== 歴史 ==
*[[2001年]]7月11日 - ベータ版としてスタート
*2001年11月7日 - 正式サービス開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2001/1107/kanshin.htm |title=ユニークアイディ、人の興味を“つなげる”サイト「関心空間」を開始 |accessdate=2016年12月15日 |author= |date=2001年11月7日 |work=[[INTERNET Watch]] |publisher=[[インプレス]] }}</ref>
*[[2002年]]2月7日 - 関心空間Group、関心空間Pro、関心空間SPサービスを発表。それにともない従来サービスを関心空間freeとする<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/329/329097/ |title=ユニークアイディ、コミュニティーエンジン“関心空間”をASPサービスとして提供 |accessdate=2016年12月15日 |author=桑本美鈴 |date=2002年2月7日 |work=[[ASCII.jp]] |publisher=[[アスキー・メディアワークス]] }}</ref>。
*[[2003年]]4月 - 関心空間Proサービス開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2003/0408/kanshin.htm |title=ユニークアイディ、ビジネス用途のコミュニティASP 「関心空間PRO」開始 |accessdate=2016年12月15日 |author= |date=2003年4月8日 |work=INTERNET Watch |publisher=インプレス }}</ref>。
*2003年7月 - 関心空間freeは旧株式会社ユニークアイディから、ボランティア運営組織である「関心空間運営事務局」に運営委託
*[[2004年]]12月 - 日記サービス開始
*[[2005年]]7月11日 旧株式会社ユニークアイディは株式会社関心空間として社名変更
*2005年12月 - トラックバック機能追加
*[[2006年]]4月24日 - デザインを含めた大幅リニューアルを実施
*[[2008年]]7月11日 - iPhone向け「関心空間」サービス開始
*[[2009年]]8月24日 - mixiアプリ「Sesh!(セッシュ)」を公開([[株式会社リクルート]] [[メディアテクノロジーラボ]]の開発協力)
*2009年12月25日 - 「関心空間」Twitterとの連携機能を提供開始
*[[2010年]]1月6日 - iPhoneアプリ「ランブリン(Ramblin)」発売
*[[2012年]]2月1日 - 株式会社SIIISへ事業譲渡、全サービスおよび従業員をSIIISが継承。株式会社関心空間は社名を株式会社ユニークアイディに変更。
*[[2014年]]12月1日 - 株式会社SIIISが株式会社関心空間と社名変更<ref>{{Cite web|和書|url=http://i.sios.com/news/info/20141201-siiis.html|title=連結子会社株式会社SIIIS社名変更のお知らせ|publisher=[[サイオステクノロジー|サイオステクノロジー株式会社]]|date=2014-12-01|accessdate=2014-12-26}}</ref>。
*[[2016年]]10月31日 - サービス終了<ref>{{Cite web|和書|date=2016-07-25|url=http://www.kanshin.com/site/news/1553889|title=サービス終了のお知らせ|publisher=関心空間|accessdate=2016-07-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://corp.kanshin.com/info_20161102.html|title=“関心空間”サービス終了について|date=2016-11-02|accessdate=2016-11-06}}</ref>。株式会社関心空間が株式会社MYオフィスと社名変更<ref>{{Cite web|和書|url=http://corp.kanshin.com/|title=株式会社 MYオフィス|accessdate=2016-11-06}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 外部リンク ==
*[http://www.kanshin.com/ 関心空間]
*[http://iphone.kanshin.com/ 関心空間 iPhone Edition]
*[http://app.rmbl.in/ ランブリン(Ramblin)] - iPhoneアプリ。地域情報とつぶやきを融合させたWebサービス
*[http://sesh.kanshin.com/ 関心空間 Sesh!(セッシュ)] - mixiアプリ。気になる関心ごとにラベルを付けて投稿
*[http://corp.kanshin.com/ 株式会社MYオフィス]
*[http://lab.kanshin.com/ 関心ラボ] - 関心空間の運用開発を通して得た知見・体験を元に、次世代のコミュニティ・デザインについて考察するバーチャルラボ
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[[Category:レビューサイト]]
[[Category:日本のウェブサイト]]
[[Category:2001年開設のウェブサイト]] | 2003-03-23T16:11:45Z | 2023-12-04T06:35:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%BF%83%E7%A9%BA%E9%96%93 |
5,022 | 645年 | 645年(645 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | [
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] | 645年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|645}}
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== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙巳]]
* [[日本]]
** [[斉明天皇|皇極天皇]]4年、[[大化]]元年
** [[皇紀]]1305年
* [[中国]]
** [[唐]] : [[貞観 (唐)|貞観]]19年
* [[朝鮮]]
** [[高句麗]]:[[宝蔵王]]4年
** [[百済]]:[[義慈王]]5年
** [[新羅]]:(王)[[善徳女王]]14年、(元号)[[仁平 (新羅)|仁平]]12年
** [[檀紀]]2978年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 1189年
* [[ユダヤ暦]] : 4405年 - 4406年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=645|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[1月8日]] (貞観18年12月5日) - 唐の仏僧の[[玄奘三蔵]]がインドなどを巡る16年の旅から帰国。
* 唐の[[道宣]]、『[[続高僧伝]]』を撰述。
=== 日本 ===
* [[大化の改新]]{{Sfn|ファータド|2013|p=126|ps=「大化の改新が日本を変える 新たに即位した孝徳天皇は大化の改新を行い、法を成文化し、行政の仕組みを刷新する。」}}
** [[7月10日]]([[斉明天皇|皇極天皇]]4年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[天智天皇|中大兄皇子]]・[[藤原鎌足|中臣鎌足]]らが[[蘇我入鹿]]を宮中で[[暗殺]]([[乙巳の変]])
** [[7月11日]](皇極天皇4年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[蘇我蝦夷]]が自殺し、[[蘇我氏]]滅亡
** [[7月12日]](皇極天皇4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - 皇極天皇が退位し、[[孝徳天皇]]が即位
** [[7月17日]](皇極天皇4年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) - 大槻の樹下の誓約([[飛鳥寺西方遺跡]])
** [[7月29日]]([[大化]]元年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]) - [[日本]]で初めての[[元号]]、「[[大化]]」が実施される
** [[8月]] - 東国に[[国司]]を任命。[[戸籍]]の作成、[[鐘匱の制]]・[[男女良賤の法]]を制定
** [[10月7日]](大化元年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[古人大兄皇子]]を征討。人口調査を実施
** [[12月]] - [[難波長柄豊碕宮]]に遷都
* 孝徳天皇は難波に遷都(難波長柄豊崎宮)
== 誕生 ==
{{see also|Category:645年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[持統天皇]]、第41代[[天皇]](+ [[703年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:645年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[7月10日]](皇極天皇4年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[蘇我入鹿]]、[[大和朝廷]]の[[大臣 (古代日本)|大臣]]、蘇我蝦夷の子(* 生年不詳)
* [[7月11日]](皇極天皇4年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[蘇我蝦夷]]、大和朝廷の大臣(* [[586年]]?)
* [[10月7日]](大化元年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[古人大兄皇子]]、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]、[[舒明天皇]]の第一皇子(* 生年不詳)
* [[顔師古]]、[[唐]]の学者(* [[581年]])
* [[道綽]]、[[唐|唐代]][[浄土教#中国|中国浄土教]]の僧(* [[562年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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[[Category:645年|*]] | 2003-03-23T16:41:59Z | 2023-10-09T13:20:56Z | false | false | false | [
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5,023 | ローミング | ローミング (roaming) は、携帯電話やPHS、またはインターネット接続サービス等において、事業者間の提携により、利用者が契約しているサービス事業者のサービスエリア外であっても、提携先の事業者のエリア内にあれば、元の事業者と同様のサービスを利用できることをいう。
携帯電話やPHSでは、契約するサービスエリア外の国内他地域(または他国)に端末を持ち込んでも、基本的には契約地域と同様に利用できる(ローミング提携事業者のエリア内に限る)。
他国である場合は、特に「国際ローミング」と呼ばれる。
端末に「Rm」と表示される事が多い。
2022年7月に発生したKDDIの通信障害を契機として、総務省は通信障害時でも110番や119番といった緊急通報などが出来るように一時的に他社キャリアの通信網に乗り入れるローミング構想を同年8月に発表した。NTTドコモの親会社である日本電信電話(NTT)やソフトバンクも協力する方針を示しており、2025年度末までに導入することを予定している。
尚、デジタルツーカー各社内でも他エリアではローミング扱いとなり、端末にRm表示がされた。
NTTドコモとauでは国際通話料、国際通信料も原則として無料通信分に含まれる。ソフトバンクモバイルは含まれない。また、ウィルコムはコース・オプションにより無料通話分に充当される場合とされない場合の両方がある。
なお、ローミング等による通話・通信はパケット定額制、音声通話定額制やモバイルデータ通信定額制の対象外、もしくは国内向けとは別の定額プランが用意されている事が多い。NTTドコモのパケットパックは、無料通信分を国際ローミングの通話、通信料に適用することが可能であるが、パケットの割引は適用されない。また同じくNTTドコモの海外パケ・ホーダイは、同サービスの対象通信が無料通信分の適用対象外となる。
イー・モバイルについては、無料通話分自体が存在せず、無料通信分はパケット通信のみで消費されるが、無料通信分はNTTドコモローミング時は適用されず、別料金となる。また、イー・モバイル同士の通話が無料になるオプションを利用した場合において、発信側がローミングエリアにいる場合の通話は無料とはならず、他社宛通話料金も割引されずにローミング体系の通話料がそのまま適用となる。
電話会社各社では、このような自社網での利用との相違や制限について、ウェブページやパンフレットにおいて注意喚起を行なっている。
国際通信事業者間の提携により、事業者によっては、国際ローミング時の通信価格の値下がりが起きている。NTTドコモでは、コネクサス・モバイル・アライアンスというアジア12カ国9キャリアと、国際ローミングや、端末の共同調達などを基にしたアライアンスを結んでおり、アライアンスキャリア他特定のキャリア間での、パケット通信料などが、割引かれるサービスなどを2008年3月より提供している。現在では、欧米豪の事業者も参加している。(参考)特定通信事業者一覧
2009年3月から2016年10月31日までの間、NTTドコモと旧KTF(現・KT)社と共同開発した海外プラスナンバー(韓国)といわれるサービスが提供されていた。これはNTTドコモのFOMAカードにKT社の電話番号を書き込み、韓国内で通常のWORLD WING対応の携帯電話とKTの携帯電話番号によって通話ができるサービスである。このサービスにより通常の国際ローミング通話料金より約27%~60%割引で利用できる。1つのSIMカードに2つのオペレータの電話番号が利用できる初めてのサービスである(ドコモUIMカードあるいは白のFOMAカードの場合はネットワークでの番号投入が可能だが、緑のFOMAカードはショップ等での店舗端末による処理が必要。初代のFOMAカードである青は非対応のため、要交換)。このサービスはNTTドコモと旧KTFが共同で開発した技術で、KTのユーザーが日本で同様のサービスを受けることができる。
インターネットサービスプロバイダによるインターネット接続サービスでは、他国へ出向いた際、日本の契約先プロバイダが提携している現地プロバイダのアクセスポイントへダイヤルアップ接続できる形態を指すことが多い。
他国に滞在中に提携先アクセスポイントにダイヤルアップ接続を行う場合、日本の国内で主流の完全定額制の接続料金と異なり、接続時間に対する従量制の料金が発生する場合が多い。事前に接続先電話番号や接続方法、料金などのデータを入手する必要がある。また、ホテルなどの客室から発信した場合、電話料金が高額になる場合もある。
世界各国の現地プロバイダと提携し、どの国でも同じ手順、同じアカウントで接続できるサービスを提供している例としては、iPass社(日本語サイト)などがある。個人向けのサービスと企業向けのサービス(iPass Corporate Access)がある。
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"text": "世界各国の現地プロバイダと提携し、どの国でも同じ手順、同じアカウントで接続できるサービスを提供している例としては、iPass社(日本語サイト)などがある。個人向けのサービスと企業向けのサービス(iPass Corporate Access)がある。",
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] | ローミング (roaming) は、携帯電話やPHS、またはインターネット接続サービス等において、事業者間の提携により、利用者が契約しているサービス事業者のサービスエリア外であっても、提携先の事業者のエリア内にあれば、元の事業者と同様のサービスを利用できることをいう。 | {{redirectlist|国際ローミング|[[イー・アクセス]]が提供する海外ローミングサービス|国際ローミング (イー・アクセス)|[[ソフトバンクモバイル]]がかつて提供していたサービスブランドの現況|世界対応ケータイ|公衆無線LANのローミング|公衆無線LAN#ローミング|無線LANのローミング|無線LAN}}
'''ローミング''' (roaming) は、[[携帯電話]]や[[PHS]]、または[[インターネット]]接続サービス等において、事業者間の提携により、利用者が契約しているサービス事業者のサービスエリア外であっても、提携先の事業者のエリア内にあれば、元の事業者と同様のサービスを利用できることをいう。
==ローミングの例==
===携帯電話・PHS===
[[携帯電話]]や[[PHS]]では、契約するサービスエリア外の国内他地域(または他国)に端末を持ち込んでも、基本的には契約地域と同様に利用できる(ローミング提携事業者のエリア内に限る)。
他国である場合は、特に「国際ローミング」と呼ばれる。
端末に「Rm」と表示される事が多い。
====アウトローミング====
=====国内自社エリア外のローミングサービス=====
* [[イー・アクセス]]([[EMOBILE LTE]]音声サービス) - [[2013年]][[7月25日]]に開始されたサービスで、自社の音声エリア外となるところにおいては、[[ソフトバンクモバイル]]の3Gエリアのうち、[[2GHz帯]]が利用できるところをカバーする([[1.5GHz帯]]、[[900MHz帯]]のエリアは対象外)。ただし、対応端末が必要。後述する、かつて存在したドコモローミングとは別個のサービス。対象端末は[[GL07S]]のみ。
* [[ワイモバイル]](電話サービス(タイプ2)契約) - [[2014年]][[8月1日]]の[[Y!mobile]]ブランド開始と同時にスタートしたもので、上述の旧イー・アクセス契約同様、旧イー・アクセスの音声網がカバーしていないエリアは、ソフトバンクモバイルの[[2.1GHz帯]]および[[900MHz帯]]ネットワークを利用するもの。なお、着信時に自社音声網をとらえられない場合は、タイプ2契約者あての発信者に聞こえる発呼音がソフトバンクモバイルと同様の作動を行うことがあり、その場合は、ワイモバイルあての通話料ではなく、ソフトバンクモバイルあての通話料が適用される。対象端末は、[[2015年]]3月時点で[[302HW]]がある。
:: なお、ソフトバンクモバイル携帯電話利用者が、LTE通信時にワイモバイル網での通信になることがあるが、画面の事業者表示は「SoftBank」のままで、また、何らかの料金体系に変動が起きることもない(3G音声網は、ワイモバイル回線にローミングインすることはない)。また、同じワイモバイル契約でも、電話サービス(タイプ1)契約の場合は、ソフトバンクモバイルと契約したスマートフォンの場合と同じ挙動をする。
* [[楽天モバイル]] - [[2019年]][[10月1日]]のサービス開始時から、自社のエリア外となるところにおいては、[[KDDI]]の[[au 4G LTE]]エリア([[800MHz帯]])にローミングする。なお、楽天モバイルの自社基地局のによる人口カバー率が70%を上回った時点で、各都道府県単位でローミング提供の継続有無を決定していた。当初のサービス提供期間は[[2026年]][[3月31日]]までを予定していた。
:: 2023年5月11日、楽天モバイルはKDDIと新しい協定を締結した<ref>[https://corp.mobile.rakuten.co.jp/news/press/2023/0511_01/ KDDIと楽天モバイル、新たなローミング協定の締結について]</ref>。これは自社の設備投資を抑えつつ人口カバー率を高めることを目的としており、当初はローミング対象外だった東京23区などが対象に加わる。また提供期間は2026年9月に延長される。
=====国外でのアウトローミング=====
* [[NTTドコモ]] - 「[[WORLD WING]]」。[[2009年]][[3月2日]]から2016年10月31日の間は、韓国[[KTF]](現・[[KT (通信企業)|KT]])の番号を利用したローミング「海外プラスナンバー(韓国)」も存在した。
* [[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]](各[[au (携帯電話)|auブランド]]) - 「[[au世界サービス]](旧・[[グローバルパスポートCDMA]]/[[グローバルパスポートGSM]])」。
* [[ソフトバンク]] - [[SoftBank 3G]]・[[SoftBank X|SoftBank X シリーズ]]([[世界対応ケータイ]])・[[SoftBank スマートフォン]]
* [[イー・アクセス]]([[イー・モバイル]]ブランド) - 「[[国際ローミング (イー・アクセス)|国際ローミング]]」。[[2008年]][[7月29日]]開始。GSMエリアへのローミング。なお、[[S22HT]]の発売に併せ、韓国での3Gローミングサービス開始(ネットワーク上は、[[2008年]][[12月1日]]時点で開始している)。データ端末については、D12HWのみが韓国での3Gローミングに発売と同時に対応していたが、他のD1x以降の'''USB型端末'''についても、2009年6月1日より、端末によってGSM/3Gまたは、3Gのみのデータローミングを開始する(音声端末でのデータ通信は、既に音声端末のローミング開始時に正式に対応済であった)。なお、[[ニュージーランド]]でも3Gローミングのみとなる。ただし、[[EMOBILE 4G-S]]契約の利用者については、ソフトバンクモバイルの[[世界対応ケータイ]]の利用に準じる。
* [[ウィルコム]](PHS) - 日本国外のPHS事業者([[2008年]][[7月23日]]現在は[[台湾]]「[[大衆電信]](FITEL)」と[[タイ王国|タイ]]「[[トゥルー・コーポレーション|TRUE]]」へのローミングに対応(渡航前にサービスセンターへ申し込み、ローミング用電話番号の割り当てを受け、帰国後のサービスセンターでの解約手続きを行う必要がある)。なお、ベトナムローミングについては、VNPTのPHSサービス自体が停波したことに伴い、[[2010年]][[11月30日]]をもって終了している。なお、台湾・タイ王国のサービスは、ウィルコム側の都合により、[[2013年]][[3月31日]]で終了。なお、[[WILLCOM CORE 3G]]端末で利用可能なケースについては、ソフトバンクモバイルの[[世界対応ケータイ]]の利用に準じた提供がなされる。
======MVNO事業者によるアウトローミング======
* [[ディズニー・モバイル]] - [[ソフトバンクモバイル]]と同じ、[[世界対応ケータイ]]の名称でサービスしている。現時点では、[[DM003SH]]~[[DM007SH]]、[[DM009SH]]、[[DM010SH]]、[[DM012SH]]、[[DM014SH]]、[[DM015K]]、[[DM016SH]]利用時に限り、[[ソフトバンクモバイル]]の海外ローミングと同一のエリア・料金体系で利用可能。[[DM008SH]]/[[DM011SH]]/[[DM013SH]]は、3Gエリアに限り、ソフトバンクモバイルと同条件で利用可能。
* [[EMOBILE 4G-S]](イー・アクセス)・電話サービス(タイプ1)([[ワイモバイル]]) - 上述した、自社回線の国際ローミングサービスとは異なり、[[ソフトバンクモバイル]]と同じ、[[世界対応ケータイ]]の名称でサービスしている。[[ソフトバンクモバイル]]の海外ローミングと同一のエリア・料金体系で利用可能。
====== 通信障害・災害などに伴うローミング構想 ======
2022年7月に発生した[[KDDI通信障害 (2022年)|KDDIの通信障害]]を契機として、[[総務省]]は通信障害時でも[[110番]]や[[119番]]といった緊急通報などが出来るように一時的に他社キャリアの通信網に乗り入れるローミング構想を同年8月に発表した<ref>{{Cite web|和書|title=金子総務相、ローミングの本格検討を表明 |url=https://web.archive.org/web/20220803114358/https://nordot.app/927476716015468544 |website=共同通信 |date=2022-08-03 |access-date=2022-08-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「ローミング」導入へ本腰 通信障害、災害に備え検討会―総務省 |url=https://web.archive.org/web/20220803223713/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022080301079&g=eco |website=時事通信 |access-date=2022-08-08 |date=2022-08-04}}</ref>。NTTドコモの親会社である[[日本電信電話]](NTT)やソフトバンクも協力する方針を示しており<ref>{{Cite web|和書|title=ソフトバンク社長 ローミング「本気で考える時期にきた」 |url=https://news.ntv.co.jp/category/economy/fd20fea43fd849fb94f6c489666c5641 |website=日テレNEWS |access-date=2022-08-08 |date=2022-08-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=携帯ローミングに協力 障害対策「事業者の責務」―NTT社長 |url=https://web.archive.org/web/20220804233627/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022080400919&g=eco |website=時事通信 |access-date=2022-08-08 |date=2022-08-05}}</ref>、2025年度末までに導入することを予定している<ref>{{Cite web|和書|title=緊急時に他社回線「ローミング」、スマホに「副回線」サービス…KDDI通信障害1年 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230701-OYT1T50274/ |website=読売新聞 |date=2023-07-02 |access-date=2023-07-02 |author=田島萌}}</ref>。
====インローミング====
=====国外事業者によるインローミング=====
* [[大衆電信]](台湾) - 日本漫遊<ref>[http://www.phs.com.tw/product/roaming/roaming_intro.asp 大衆電信の場合]</ref>で日本のPHS事業者(ウィルコム)へのローミングに対応。
====過去の携帯電話・PHSのローミングサービス====
=====自社エリア外のローミングサービス=====
*[[日本移動通信]](現[[Au (通信)|au]]のうち[[関東地方]]・[[山梨県]]・[[長野県]]・[[東海地方]]の1都12県)
:- ドコモローミング(アナログ/[[HiCAP]])。
::アナログHiCAP契約者が[[日本移動通信|IDO]]営業エリア外で利用する場合はオプション契約で[[NTT]](現[[NTTドコモ]])アナログ網にローミングが可能だった。(日額200円・税別・発着信があった日のみ課金)
:-セルラーローミング(アナログ/[[TACS]])。
::TACS(トーキョーフォン)契約者がIDO営業エリア外で利用する場合はDDIセルラー各社のアナログ網にローミングしていた。1992/12/19開始(月額料金無料)
:-セルラーローミング(デジタル/[[PDC]])。
::デジタルはアナログ時代に2規格の並行運用を強いられたという反省を踏まえDDIセルラー及びNTTドコモと共通の方式で展開することとなり、PDC方式にて開始されたため、DDIセルラーグループのPDCエリアと相互ローミングが月額料金無料で可能だった。
:-ドコモローミング(デジタル/PDC)。
::サービス開始時には自社及びDDIセルラーのPDC網カバーエリアよりNTTドコモ各社の方が広かったことともあり、NTTドコモグループ各社へのローミングも用意された。自社エリアでもNTTドコモ網へのローミングが可能だった。(料金はアナログHiCAPと同じ) 2000年8月1日に新規受付を終了し、既存契約者は同社のPDC停波まで使えた。
:-セルラーローミング(PDC・[[cdmaOne]]以降)。
::PDCとCdmaOne以降は両者共通方式で導入されたこともあり、同契約者はIDO営業エリア外ではセルラー各社網に月額料金無料でローミング可能だった。
*[[DDIセルラーグループ]](現auのうち旧IDO以外の地域)
:-IDOローミング(アナログ/TACS)。
::アナログ契約者はIDOのTACSサービス開始に伴い、同社のTACS網に1992/12/19よりローミング可能になり、念願である全国利用が可能になった。(月額料金無料)
:-ドコモローミング(デジタル/PDC)。
::デジタルはアナログ時代の反省を踏まえIDO/NTTドコモと共通のPDC方式で開始された。サービス開始時には自網及びIDO網のカバーエリアよりNTTドコモの方が広かったこともあり、ドコモグループへのローミングが用意された。自社エリアでもドコモ網へのローミングが可能だった。 (日額200円・税別・発着信があった日のみ課金) 2000年8月1日に新規受付を終了し、既存契約者は同社のPDC停波まで使えた。
:-IDOローミング(PDC・cdmaOne以降)。
::PDCとcdmaOne以降は両者共通方式で導入されたこともあり、同契約者はIDO網に月額料金無料でローミング可能だった。
* [[デジタルホン]] - [[デジタルツーカー]]ローミング。東名阪以外では事業を行っていなかったため、デジタルツーカー網にローミングしていたが、デジタルツーカーとのブランド統一で[[J-フォン]]となったことにより、ローミングではなくグループ会社→一部自社網→会社統一で完全自社網サービスとなった。
* [[デジタルツーカー]] - デジタルホンローミング→J-フォンローミング、ツーカーローミング。東名阪では、端末によって、デジタルホンエリアないしはツーカーエリアでのローミングのいずれかになっていた。デジタルツーカー末期には、J-フォンへのブランド統一を見据えて、ほぼすべての発売端末がJ-フォンローミング仕様となっていた(ツーカーローミングしかなかった三洋端末も、最後のタイプS5はJ-フォンのJ-SA01仕様であった)。なお、ブランド統一後も交換機仕様の都合上、当初はJ-フォンの東北エリアと中四国エリアで一部サービスがしばらく使えず、当該地域では機能制限された端末が発売されたことがある。
尚、デジタルツーカー各社内でも他エリアではローミング扱いとなり、端末にRm表示がされた。
* [[ツーカー]] - 東名阪地区以外では[[SoftBank 6-2|ソフトバンク2G]]にローミング([[デジタルツーカー]]時代の名残)。
* [[イー・モバイル]] - [[2008年]][[3月28日]]の音声サービス開始に伴い、イー・モバイルの音声ネットワークが構築されていない25道県の一部では[[NTTドコモ]]の[[FOMA]]サービスエリア(いわゆる、2.1GHz帯のエリア。800MHz帯を利用した[[FOMAプラスエリア]]は対象外)にローミング。なお、[[2009年]]4月末の[[富山県]]、[[2009年]]9月末の[[佐賀県]]に続き、[[2010年]]10月末を以って、残る23道県のドコモローミングを終了。
* [[アステル]] - 発足当初、電力系という共通項がある以外はほぼ独自の展開を行っており、NTT網活用型と独自網型(系列の[[電力系通信事業者]]の網)の大きく2陣営に分かれることとなり、地域をまたいだ通信は制限がかかるあるいは発着信のいずれかができないことがあった。このため、事実上契約地域外での利用はローミングとなっていた。メールサービスや常時接続通信なども地域によって実施の有無があるなど、この点でも足並みがそろわない状況のまま、全10社とも相次いでサービス停止となり、その途中の[[2004年]][[11月30日]]をもってローミング自体が中止された<ref>この時点で九州・北海道・北陸・関西が既にサービス終了しており、中国もこの直後の同年12月9日にサービス終了した。また、中部・四国・沖縄も新規受付を終了していた。</ref>。
* [[YOZAN]]時代の[[アステル東京]] - アステル他社の相次ぐサービス終了を受け、「全国コールサービス」と称して[[ウィルコム]]網で接続する全国サービスを行っていた時期がある。だがその実態は、アステル端末にウィルコムの番号を投入するというものであり(アステルの自社網が使えない。それ故通話以外のサービスは一切利用できない)、厳密な意味でのローミングとは異なる(どちらかといえば、現在で言う[[仮想移動体通信事業者|MVNO]]に近いサービス。旧番号への着信は1ヶ月間無料で新番号に転送された)。
====無料通話・通信分の適用====
NTTドコモ<ref>[http://www.nttdocomo.co.jp/service/world/roaming/outline/data_packet.html#data00 NTTドコモの場合]</ref>とau<ref>2009年より。</ref>では国際通話料、国際通信料も原則として無料通信分に含まれる。ソフトバンクモバイル<ref>[http://mb.softbank.jp/scripts/japanese/support/3G/contact/faq/detail.jsp?oid=537162104 ソフトバンクモバイルの場合]</ref>は含まれない。また、ウィルコムはコース・オプションにより無料通話分に充当される場合とされない場合の両方がある<ref>[http://www.willcom-inc.com/ja/service/roaming/charge/index.html ウィルコムの場合]</ref>。
なお、ローミング等による通話・通信は[[パケット定額制]]、[[音声通話定額制]]や[[モバイルデータ通信定額制]]の対象外、もしくは国内向けとは別の定額プランが用意されている事が多い。NTTドコモの[[パケットパック]]は、無料通信分を国際ローミングの通話、通信料に適用することが可能であるが、パケットの割引は適用されない。また同じくNTTドコモの[[海外パケ・ホーダイ]]は、同サービスの対象通信が無料通信分の適用対象外となる。
[[イー・モバイル]]については、無料通話分自体が存在せず、無料通信分はパケット通信のみで消費されるが、無料通信分はNTTドコモローミング時は適用されず、別料金となる。また、イー・モバイル同士の通話が無料になるオプションを利用した場合において、発信側がローミングエリアにいる場合の通話は無料とはならず、他社宛通話料金も割引されずにローミング体系の通話料がそのまま適用となる。
電話会社各社では、このような自社網での利用との相違や制限について、ウェブページやパンフレットにおいて注意喚起を行なっている。
====国際ローミングにおける提携====
国際通信事業者間の提携により、事業者によっては、国際ローミング時の通信価格の値下がりが起きている。NTTドコモでは、[[コネクサス・モバイル・アライアンス]]というアジア12カ国9キャリアと、国際ローミングや、端末の共同調達などを基にしたアライアンスを結んでおり、アライアンスキャリア他特定のキャリア間での、パケット通信料などが、割引かれるサービスなどを2008年3月より提供している。<ref>[https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/page/080415_01.html コネクサス・モバイル・アライアンス加盟7事業者がデータローミングの新料金プランを提供開始]
</ref>現在では、欧米豪の事業者も参加している。[http://www.nttdocomo.co.jp/service/world/roaming/outline/data_packet.html#data00 (参考)特定通信事業者一覧]
==== 海外プラスナンバー ====
[[File:Roaming 02.jpg|thumb|KTでの番号を通知するメール]]
2009年3月から2016年10月31日までの間、NTTドコモと旧[[KTF]](現・[[KT (通信企業)|KT]])社と共同開発した[[海外プラスナンバー]]([[大韓民国|韓国]])といわれるサービスが提供されていた。これはNTTドコモのFOMAカードにKT社の電話番号を書き込み、韓国内で通常のWORLD WING対応の携帯電話とKTの携帯電話番号によって通話ができるサービスである。このサービスにより通常の国際ローミング通話料金より約27%~60%割引で利用できる。1つの[[SIMカード]]に2つのオペレータの電話番号が利用できる初めてのサービスである(ドコモUIMカードあるいは白のFOMAカードの場合はネットワークでの番号投入が可能だが、緑のFOMAカードはショップ等での店舗端末による処理が必要。初代のFOMAカードである青は非対応のため、要交換)。このサービスはNTTドコモと旧KTFが共同で開発した技術で、KTのユーザーが日本で同様のサービスを受けることができる。
{{main|海外プラスナンバー}}
===インターネットサービスプロバイダ===
[[インターネットサービスプロバイダ]]によるインターネット接続サービスでは、他国へ出向いた際、日本の契約先プロバイダが提携している現地プロバイダの[[アクセスポイント (ISP)|アクセスポイント]]へ[[ダイヤルアップ接続]]できる形態を指すことが多い。
他国に滞在中に提携先アクセスポイントにダイヤルアップ接続を行う場合、日本の国内で主流の完全定額制の接続料金と異なり、接続時間に対する従量制の料金が発生する場合が多い。事前に接続先電話番号や接続方法、料金などのデータを入手する必要がある。また、[[ホテル]]などの客室から発信した場合、電話料金が高額になる場合もある。
世界各国の現地プロバイダと提携し、どの国でも同じ手順、同じアカウントで接続できるサービスを提供している例としては、[[w:iPass|iPass社]]([http://www.ipass.co.jp/ 日本語サイト])などがある。個人向けのサービスと企業向けのサービス([http://www.nsd.co.jp/service/ipass iPass Corporate Access])がある。
== 関連項目 ==
*[[電力融通]]
*[[共有経済]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.kddi.com/yogo/%E3%83%A2%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AB/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0.html ローミング] - [[KDDI]]用語集
** [http://www.kddi.com/yogo/%E3%83%A2%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AB/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0.html データローミング] - [[KDDI]]用語集
** [http://www.kddi.com/yogo/%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0.html 国際ローミング] - [[KDDI]]用語集
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[[Category:携帯電話]]
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[[ファイル:Gandhara Buddha (tnm).jpeg|right|thumb|240px|[[クシャーナ朝]]の全盛期。[[カニシカ王]]の時代に現在の[[パキスタン]]にある[[ガンダーラ]]で多くの仏像が作られた。画像は[[東京国立博物館]]蔵のガンダーラの仏像。]]
[[File:British Museum Asia 14.jpg|thumb|right|240px|[[デカン高原]]の[[サータヴァーハナ朝]]。ローマ帝国との[[インド洋]]貿易を通じて南インドも活況を呈した。画像はこの王朝で作られた「{{仮リンク|アマラヴァティ・マーブル|en|Amaravati Marbles}}」で[[仏陀]]を記念したもの([[大英博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:Mexico SunMoonPyramid.jpg|right|thumb|270px|[[ティオティワカン]]。[[メキシコシティ]]の北東50キロにある遺跡でこの当時新大陸で最大の宗教都市遺跡であった。1世紀から2世紀半ばまでをツァクアリ相と呼び、画像の「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」はこの時期に建設された。]]
[[ファイル:Wu Family Shrine chariots and horses.jpg|right|thumb|240px|「[[武氏祠]]画像石」。2世紀半ばに建てられた[[山東省]][[嘉祥県]]の武宅山の麓にある豪族武氏一族の石祠の画像石。この時代の人々の世界観が表れている。]]
[[ファイル:Gansu Museum 2007 257.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|銅奔馬|zh|铜奔马}}。西域への通路でもあった[[武威市|武威]]([[甘粛省]])は後漢後期に造営された雷台漢墓で有名である。画像は雷台漢墓から出土した銅奔馬で、その疾走する姿から「馬踏飛燕」の別名がある。]]
[[File:Dahuting tomb banquet scene with jugglers, Eastern Han Dynasty, mural.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|打虎亭漢墓|zh|打虎亭汉墓}}。[[河南省]]密県にある後漢後期の漢弘農郡の太守張徳の墓。画像は色鮮やかに残る祝宴の壁画で、料理や遊興などの風俗に関しても貴重な資料となっている。]]
[[ファイル:YoshinogariIseki.jpg|right|thumb|210px|[[倭国大乱]]。この時代には大規模な[[環濠集落]]が形成され軍事的な緊張があったと考えられる。紀元前3世紀から紀元後3世紀まで継続した[[吉野ヶ里遺跡]]は環濠集落の遺跡の代表である。]]
[[File:Jewelry, Oc Eo culture, glass, precious and semiprecious stone - Museum of Vietnamese History - Ho Chi Minh City - DSC06112.JPG|thumb|right|250px|[[オケオ]]遺跡。[[ベトナム]]南部[[メコンデルタ]]に位置する遺跡で、中国の史書にある「[[扶南]]」の[[港市国家|港市]]と推定されている。画像は[[ホーチミン市]]歴史博物館にあるオケオ出土の宝飾品で、他にもローマ皇帝マルクス・アウレリウス帝の金貨も出土している。]]
[[ファイル:15 colonna traiana da nord 03.jpg|thumb|right|250px|「[[トラヤヌスの記念柱]]」。[[五賢帝時代|五賢帝]]の2人目である[[トラヤヌス]]帝の末年までにローマ帝国の領土は最大に拡がった。画像の記念柱は[[ローマ]]に建立されたもので[[ドナウ川]]北岸の[[ダキア]]人との戦いが詳細にレリーフに刻まれている。]]
[[File:Pantheon (Rome).jpg|right|thumb|220px|[[パンテオン]]。ローマのマルス広場に建てられた神殿で「パンテオン」とは「全ての神」を祀ることに由来する。現在の建物は[[ハドリアヌス]]帝による再建されたもので、ローマ帝国没落後はキリスト教会に転用されたため保存状態が良い。画像はパンテオンの頂上の開口部で[[オクルス]](眼窓)と呼ばれている部位である。]]
[[File:Ephesus Celsus Library Façade.jpg|right|thumb|250px|ケルススの図書館。ローマ皇帝ハドリアヌスの時代に完成した[[エフェソス]]に残るこの図書館は、[[アレクサンドリア図書館]]、[[ペルガモン]]の図書館と並ぶかつての世界三大図書館の一つであった。]]
[[File:Milecastle 39 on Hadrian's Wall 2.jpg|right|thumb|200px|[[ハドリアヌスの長城]]。五賢帝の3人目であるハドリアヌス帝の時代にローマ帝国の範囲は属州[[ブリタニア]]から北方の[[カレドニア]]([[スコットランド]])との国境にまで及んだ。画像は長城に併設された{{仮リンク|マイル・キャッスル|en|Milecastle}}で、1ローマ・マイル(約1480m)ごとに置かれていた砦である。]]
[[ファイル:0 Marcus Aurelius Exedra - Palazzo dei Conservatori - Musei Capitolini (1).jpg|right|thumb|210px|五賢帝時代の終わり。五賢帝時代はローマ帝国の最盛期であり安定した統治が行われていたが、五賢帝最後の[[マルクス・アウレリウス]]帝の時代には帝国周辺の諸民族の動きが慌ただしくなってきた。画像は哲学者としても知られるマルクス・アウレリウス帝の騎馬像([[カピトリーノ美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Fayum-34.jpg|right|thumb|170px|繁栄する[[属州]][[アエギュプトゥス]]。ローマ帝国の穀倉エジプトでは豊かな生活が営まれていた。[[ファイユーム]]で発掘されたいわゆる「[[ミイラ肖像画]]」は多くの絵画作品が失われたこの時代の風俗の貴重な資料となっている。画像は[[ルーヴル美術館]]蔵の女性のミイラ肖像画。]]
[[File:Libya 5453 Leptis Magna Luca Galuzzi 2007.jpg|thumb|right|250px|[[レプティス・マグナ]]。[[193年]]に[[セプティミウス・セウェルス]]がローマ皇帝に選出されるとその故郷であるレプティス・マグナは[[3世紀の危機]]が到来するまで北アフリカ随一の大都市として繁栄した。画像はこの遺跡のローマ式円形劇場。]]
[[File:Gladiators from the Zliten mosaic 3.JPG|thumb|right|300px|「[[パンとサーカス]]」。2世紀初頭のローマの作家[[ユウェナリス]]の著作にこの言葉は怠惰と安逸に流れるローマ市民の生活を風刺するために用いられた。「[[サーカス]](キルケンセス)」とは[[戦車競技]]や[[剣闘士]]の観戦の娯楽を指している。画像は200年ころ[[リビア]]の{{仮リンク|ズリテン・モザイク|en|Zliten mosaic}}に描かれた剣闘士。]]
[[ファイル:Capua Mitra 01.JPG|right|thumb|230px|[[ミトラ教]]の隆盛。ローマ帝国には多くの宗教が混在していたが、イラン起源のミトラ教は軍人などから広範囲に広がった。画像は{{仮リンク|サンタ・マリア・カプア・ヴェーテレのミトラ教神殿|it|mitreo di santa maria capua vetere}}壁画で牡牛を屠る姿の[[ミトラ]]神が描かれている。]]
<!--[[ファイル:Hashihaka_kohun_aerial.jpg|サムネイル|280x280ピクセル|[[箸墓古墳]]。最古の[[前方後円墳]]であり、本古墳の築造をもって[[古墳時代]]の始まりとすることが多い。倭女王[[卑弥呼]]と関連か。]](近年の研究では3世紀建造説が主流。「[[3世紀]]」も見られたい。)-->
'''2世紀'''(にせいき)とは、[[西暦]][[101年]]から西暦[[200年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== できごと ==
* 2世紀初頭
** [[日本]]で石器が消滅し、鉄器が普及する([[弥生時代]]後期)。
** [[ペルー]]で[[ナスカ文化]]がおこる。
** [[メキシコ]]で[[ティオティワカン]]の都市設計が行われる。
*** [[月のピラミッド]]、[[太陽のピラミッド]]、死者の通りが建設される。
** [[スペイン]]の[[ガリシア]]地方にある古代ローマ式灯台「[[ヘラクレスの塔]]」が建設される(21世紀の現在も使用中の最古の灯台)。
=== 100年代 ===
{{main|100年代}}
* [[101年]] - [[安息]]王満屈復([[パルティア]]王パコルス2世)が[[後漢]]に使者を派遣する。
* 103年 - 属州[[パンノニア]]が上パンノニアと下パンノニアに分割される。
* 105年 - 後漢の[[蔡倫]]が製紙法を改良する。
* 106年
** [[ローマ皇帝]][[トラヤヌス]]が[[ダキア戦争]]に勝利し[[ダキア属州|属州ダキア]]を設置。
** ナバテア王ラベル2世死去に伴い、トラヤヌス帝が[[ナバテア王国]]を征服して属州[[アラビア・ペトラエア|アラビア]]を設置。
* 106年頃 - [[ガウタミープトラ・シャータカルニ]]王が即位し、[[サータヴァーハナ朝]]が最盛期を迎える。
* 107年
** [[西域都護]]が廃止される。
** [[倭国]]王[[帥升]]らが[[後漢]]の[[安帝 (漢)|安帝]]に[[生口]]160人を献上する。
*** (後漢・[[永初 (漢)|永初]]元年、丁未;『[[後漢書]]』安帝紀、同東夷伝)。
** この頃、倭は朝鮮の[[弁韓]]・[[辰韓]]の鉄を盛んに輸入する(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書韓伝)。
=== 110年代 ===
{{main|110年代}}
* 112年 - 118年 - [[セゴビア旧市街と水道橋#水道橋|セゴビアの水道橋]] ([[:en:Aqueduct of Segovia|en]])が建設される。
* 113年 - [[トラヤヌスのフォルム]]に[[トラヤヌスの記念柱]]が建設される。
* 114年 - ローマ皇帝トラヤヌスの[[パルティア]]遠征( - 117年)。[[アルメニア属州|属州アルメニア]]を獲得。
* 114年頃 - ローマ帝国の属州[[アシア]]首府[[エフェソス]]に{{仮リンク|ケルススの図書館|en|Library of Celsus}}が建てられる( - 117年頃)。
* 115年 - ローマ皇帝トラヤヌスが[[メソポタミア属州|属州メソポタミア]]を獲得。
* 116年 - ローマ皇帝トラヤヌスが[[アッシュリア属州|属州アッシリア]]を獲得。
* 117年 - この頃までにローマ帝国の領土が最大となる。
** [[キリキア属州|属州キリキア]]のセレヌスにてローマ皇帝トラヤヌスが死去。
** 養子の[[ハドリアヌス]]帝(トラヤヌス帝の従兄弟の子)が即位。
** 先帝の獲得した東方属州(アルメニア・メソポタミア・アッシリア)を放棄。
* 118年
** ハドリアヌス帝側近による四執政官事件。
** [[ティヴォリ]]の[[ヴィッラ・アドリアーナ (ティヴォリ)|ヴィッラ・アドリアーナ]]が着工される。
=== 120年代 ===
{{main|120年代}}
* 121年 - 後漢で鄧太后の死去に伴い、[[安帝 (漢)|安帝]]が鄧騭ら鄧一族を粛清し、蔡倫も連座する。
* 121年頃 - ローマ皇帝ハドリアヌスの帝国巡幸が行われる( - 125年)。
* 122年 - [[ハドリアヌスの長城]]が着工される。
* 124年 - 再建された[[パンテオン]]が完成する。
* 125年
** 後漢で[[少帝懿]]の死去に伴い、孫程らが閻顕ら閻一族を粛清し、[[順帝 (漢)|順帝]]を擁立する。
** ローマ皇帝ハドリアヌスが[[トラキア属州|属州トラキア]]に[[ハドリアノポリス]]を建設。
* 126年 - 西域長史班勇が北匈奴の呼衍王を破る。
* 128年 - ローマ皇帝ハドリアヌスの帝国巡幸が行われる( - 134年)。
=== 130年代 ===
{{main|130年代}}
* 130年 - ローマ皇帝ハドリアヌスが寵愛していた青年[[アンティノウス]]が死去。
** ハドリアヌスは彼を記念してエジプトナイル川中流域に{{仮リンク|アンティノポリス|en|Antinoöpolis}}を建設させる。
* 130年頃 - [[インド]]の[[クシャーナ朝]]で[[カニシカ王]]が即位する( - 170年頃)。
** カニシカ王の統治期間には諸説あるが、近年発見された「[[ラバータク碑文]]」によりその系譜は確定された。
** カニシカ王即位とほぼ同時期に作成されたのが「[[カニシカ王の舎利容器]]([[ペシャーワル]]博物館蔵)」。
* 131年頃
** インドの[[マトゥラー]]で「カニシカ王在位4年」の銘がある「{{仮リンク|キンベルの菩薩坐像|en|Kimbell seated Bodhisattva}}([[キンベル美術館]]蔵)」が作られる。
** ローマ皇帝ハドリアヌスがサルウィウス・ユリアヌスに命じ法典『永久告示録』を編纂させる。
* 132年
** [[アテネ]]に[[ハドリアヌスの図書館]]が建てられる。
** [[後漢]]の[[張衡]]が世界最古の[[地震計]]である[[地動儀]]を発明する。
* 135年
** ローマ帝国が[[ユダヤ人]]の蜂起を鎮圧([[バル・コクバの乱]])。
*** [[エルサレム]]は「[[アエリア・カピトリナ]]」と名前を変えられ、ユダヤ人の立ち入りが禁止される([[ディアスポラ]])。
** [[フォロ・ロマーノ]]東端に帝政ローマ時代最大の神殿である[[ウェヌスとローマ神殿]]が完成する。
* 138年 - [[ナポリ]]近郊の{{仮リンク|バイアエ|en|Baiae}}の別荘にてローマ皇帝ハドリアヌスが死去。
** 後継の[[アントニヌス・ピウス]]帝が即位。
* 139年 - ハドリアヌスの霊廟(現[[サンタンジェロ城]])が完成する([[135年]] - )。
=== 140年代 ===
{{main|140年代}}
* 142年 - [[アントニヌスの長城]]が着工される。
* 144年 - [[マルキオン]]がローマ教会から破門される。
* 146年 - 後漢の[[質帝]]が[[梁冀]]により毒殺される。
* 148年 - パルティア出身の仏教僧[[安世高]]が後漢の洛陽に来訪。
=== 150年代 ===
{{main|150年代}}
* 150年頃 - [[クラウディオス・プトレマイオス]]の『[[アルマゲスト]](天文学大全)』『[[地理学 (プトレマイオス)|ゲオグラフィア(地理学)]]』が完成する。
* 156年 - [[鮮卑]]の[[檀石槐]]が北[[匈奴]]を破り、モンゴル高原を統一する。
* 159年 - 後漢の[[桓帝 (漢)|桓帝]]の命令で外戚の[[梁冀]]が誅殺される。
**桓帝は功労者の宦官[[単超]]らを侯に封じ以後、外戚に代わり宦官が勢力を拡大。
=== 160年代 ===
{{main|160年代}}
* 161年 - ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが死去。[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]が即位。
* 162年 - [[マルコマンニ戦争]]が起こる( - [[180年]])。
* 164年 - ローマ帝国軍がアントニヌスの長城からハドリアヌスの長城まで撤退。
* 165年 - {{仮リンク|アントニヌスの疫病|en|Antonine Plague}}( - [[180年]])。
* 166年
** 後漢で第一次[[党錮の禁]]が起こり、宦官が[[李膺 (後漢)|李膺]]ら清流派の官僚を弾圧する。
** [[日南郡]](後漢)に大秦王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者が到着。
* 169年 - 後漢で第二次党錮の禁が起こる。
=== 170年代 ===
{{main|170年代}}
* 175年
** [[ガイウス・アウィディウス・カッシウス]]の反乱。
** [[洛陽]]太学門外に儒学[[七経]]の石経である「[[熹平石経]]」の設置が始まる( - 183年)
* 177年 - 属州ガリアのルグドゥヌム(現[[リヨン]])でキリスト教迫害が起きる。
* 178年 - 189年 - 洛陽にて[[月氏]]出身の[[支婁迦讖]]による最初の大乗経典の漢訳が行われる。
=== 180年代 ===
{{main|180年代}}
* 180年 - ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが[[ウィンドボナ]]で死去。
** その長男[[コンモドゥス]]が即位。コンモドゥスは[[マルコマンニ戦争]]を終結させ[[ドナウ川]]流域を安定化させる。
* 180年頃 - [[倭国大乱]](5〜6年間継続)
* 180年頃 - 210年頃 - [[三輪山]]の北西麓一帯に[[纒向遺跡]]が出現([[纒向編年|纒向1類]])。
* 184年 - 後漢で[[黄巾の乱]]が起こる。
* 184年頃 - 倭国乱れ、互いに攻伐しあい(倭国大乱)、長い間盟主なし、と伝える(『[[魏志倭人伝]]』)。
** この後、[[卑弥呼]]が共立されて[[王]]となる(『魏志倭人伝』)。
** [[奈良県]][[天理市]]の[[東大寺山古墳]]より、「中平□年」([[中平]]は184年 - 189年)の紀年銘を持つ[[大刀 (中国の武器)|大刀]]が出土している。
* 186年 - 200年頃 - [[トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂、聖母聖堂|トリーア]]の[[ポルタ・ニグラ]](黒い城門)が建設される。
* 188年 - 後漢の[[霊帝 (漢)|霊帝]]が[[西園八校尉]]の設置などの軍制改革を行う。
* 189年 - 後漢で霊帝が死去し、少帝が即位。
** [[何進]]や[[袁紹]]らの宦官粛清の混乱で、[[董卓]]が少帝を廃し[[献帝 (漢)|献帝]]を擁立。
=== 190年代 ===
{{main|190年代}}
* 191年 - [[陽人の戦い]]で反董卓連合軍が董卓に勝利、董卓は洛陽から長安に遷都。
* 192年
** [[董卓]]が[[王允]]と結んだ[[呂布]]に殺される。董卓の配下であった[[郭汜]]・[[李傕]]らが長安を奪取し王允を殺害。
** 後漢の支配下にあった[[日南郡]]の[[区連]]が蜂起し、独立して林邑([[チャンパ王国]])を建国。
** ローマ皇帝コンモドゥスが暗殺され、アントニヌス朝は断絶。
* 193年 - [[ローマ内戦 (192年-197年)|内戦]]からローマで五皇帝が乱立(五皇帝の年)。
** この内戦を鎮圧した[[セプティミウス・セウェルス]]帝が即位し[[セウェルス朝]]が成立。
** セウェルス帝は[[属州アフリカ]]の[[レプティス・マグナ]]出身で、皇帝になると同時にこの都市の大開発を行う。
* 196年
** 後漢の献帝が洛陽に帰還、さらに[[曹操]]の庇護を受け[[許昌市|許]]に遷都する。
*** 曹操が[[韓浩]]・[[棗祗]]らの提言に従って[[屯田制]]を導入する。
** セウェルス帝が反対派についた[[ビュザンティオン]]を征服し破壊する。
* 199年
** ローマで{{仮リンク|カリストゥスのカタコンベ|en|Catacomb of Callixtus}}が造営される。
*** 助祭[[カリストゥス1世 (ローマ教皇)|カリストゥス]](後に[[ローマ教皇]])が[[アッピア街道]]沿いに作らせたもので歴代教皇の墓がある。
=== 200年代 ===
{{main|200年代}}
* 200年 - [[官渡の戦い]]で曹操が[[袁紹]]に勝利する。
* 200年頃 - [[ユダヤ教]][[ラビ]]のイェフダ・ハ・ネスィアにより口伝律法『[[ミシュナ]]』が編纂される。
== 文化 ==
* 105年 - 後漢の[[蔡倫]]が製紙法を改良する。
== 人物 ==
=== 地中海世界 ===
* [[トラヤヌス]]([[53年]] - [[117年]]) - [[ローマ皇帝]]([[五賢帝]]の2人目)(在位[[98年]] - [[117年]])・ローマ帝国の最大版図を実現した
* [[ハドリアヌス]]([[76年]] - [[138年]]) - ローマ皇帝(五賢帝の3人目)(在位[[117年]] - [[138年]])・先帝の領土拡大政策を放棄する
* [[アントニヌス・ピウス]]([[86年]] - [[161年]]) - ローマ皇帝(五賢帝の4人目)(在位[[138年]] - [[161年]])・先帝と同じく国内安定政策を継承
* [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス|マルクス・アウレリウス]]([[121年]] - [[180年]]) - ローマ皇帝(五賢帝の最後)(在位[[161年]] - [[180年]])・哲学者として『[[自省録]]』を残す
* [[コンモドゥス]]([[161年]] - [[192年]]) - ローマ皇帝(在位[[180年]] - [[192年]])・マルクス・アウレリウスの子・暗殺され血統は断絶
* [[セプティミウス・セウェルス]]([[146年]] - [[211年]]) - ローマ皇帝(在位[[193年]] - [[211年]])・[[セウェルス朝]]の創始者
* [[シメオン (クロパの子)|シメオン]](? - [[107年]]) - [[キリスト教]]の2代目[[エルサレム主教]]・イエスの従兄弟・トラヤヌス帝の治世に迫害で殉教したか
* [[デケバルス]](? - [[106年]]) - [[ダキア人|ダキア族]]の王(在位[[87年]] - [[106年]])・[[トラヤヌス]]との[[ダキア戦争]]で敗北し自殺
* [[プルタルコス]]([[46年]]/[[48年]]頃 - [[127年]]頃) - ローマ帝国のギリシア語著述家・著作に『[[対比列伝]](英雄伝)』などがある
* [[エピクテトス]]([[55年]] - [[135年]]) - ローマ帝国のギリシア語著述家・もとは奴隷だったが解放されストア派哲学者となる
* [[タキトゥス]]([[55年]]頃 - [[120年]]頃) - ローマ帝国の政治家・歴史家・『[[ゲルマニア (書物)|ゲルマニア]]』や『同時代史』を著す
* [[アッリアノス]](2世紀前半) - ローマ帝国のギリシア語著述家・政治家・歴史家として『アレクサンドロス東征記』を著す
* [[ユウェナリス]]([[60年]] - [[130年]]) - ローマ帝国の風刺詩人・弁護士・『風刺詩集(サトゥラェ)』の著者
* [[バル・コクバ]](? - [[135年]]) - 属州ユダヤで[[バル・コクバの乱]]を指揮した革命指導者・[[ラビ・アキバ]]に[[救世主]](メシア)とされる
* [[ダマスカスのアポロドーロス|ダマスカスのアポロドロス]](2世紀半ば) - ローマ帝国の建築家・技術者・[[トラヤヌスの記念柱]]のほか[[パンテオン]]改修にも携わる
* [[セクストゥス・ユリウス・セウェルス|ユリウス・セウェルス]](2世紀半ば) - ローマ帝国の政治家・[[ハドリアヌスの長城]]を建設し[[バル・コクバの乱]]を鎮圧
* [[ポリュカルポス]]([[69年]]頃 - [[155年]]頃) - キリスト教神学者・[[アシア属州]]の[[スミルナ]]の主教・殉教者として死ぬ
* [[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]([[70年]]頃 - [[140年]]頃) - ローマ帝国の歴史家・政治家・カエサルからドミティアヌスまでを『皇帝伝』でまとめる
* [[クラウディオス・プトレマイオス]]([[83年]]頃 - [[168年]]頃) - ローマ帝国の天文学者・数学者・地理学者・『[[アルマゲスト]]』の著者
* [[バシレイデース|バシレイデス]]([[85年]]頃 - [[145年]]頃) - 初期[[グノーシス主義]]の教師・アレクサンドリア出身・バシレイデス派の祖
* {{仮リンク|マルクス・コルネリウス・フロント|en|Marcus Cornelius Fronto}}([[100年]]頃 - [[166年]]頃) - ローマ帝国の雄弁家・マルクス・アウレリウス帝の師・皇帝との往復書簡が現存
* [[ユスティノス]]([[100年]]? - [[162年]]?) - キリスト教神学者・ギリシア哲学の概念を用い護教家として『第一弁明』『第二弁明』を執筆
* [[マルキオン]]([[100年]]? - [[160年]]?) - ローマで活躍した属州アシアの[[シノペ]]出身のキリスト教徒・その教説は[[異端]]とされる
* [[ヘロデス・アッティコス]]([[101年]] - [[177年]]) - ローマ帝国の富豪・妻レギッラを追悼するためアテナイにオデイオン(音楽堂)を建設
* [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]([[115年]]頃 - [[180年]]頃) - ローマ帝国のギリシア語著述家・旅行家・地理学者として『ギリシア案内記』を著す
* {{仮リンク|アエリウス・アリスティデス|en|Aelius Aristides}}([[117年]] - [[181年]]) - ローマ帝国のギリシア語著述家・弁論家・「ローマ頌詩」では最盛期のローマ帝国の支配を顕彰している
* [[ルキアノス]]([[120年]]頃 - [[180年]]以後) - ローマ帝国のギリシア語著述家・著作に『[[本当の話]]』『神々の対話』などがある
* [[アプレイウス]]([[123年]]頃 - ?) - 属州[[アフリカ]]・マダウロス出身のラテン語著述家・『変身物語({{仮リンク|黄金のロバ|la|Metamorphoses (Apuleius)|en|The Golden Ass}})』の作者
* [[アウルス・ゲッリウス]]([[125年]]頃 - [[180年]]以降) - ローマ帝国の著作家・主著『{{仮リンク|アッティカ夜話|fr|Nuits attiques}}』では失われた古代の著述を抜粋して記録している
* [[アテナイオス]](? - [[192年]]以降) - 属州エジプト・[[ナウクラティス]]出身のギリシア語著述家・『[[食卓の賢人たち]]』の作者
* モンタヌス(2世紀後半) - キリスト教神学者・[[フリュギア]]でキリスト再臨と世界の終末を唱え禁欲主義を掲げる[[モンタノス派|モンタヌス派]]を形成
* {{仮リンク|ケルソス|en|Celsus}}(2世紀後半) - ローマ帝国の哲学者・著作『真正な教え』でキリスト教批判を行う・[[オリゲネス]]の『{{仮リンク|ケルソス駁論|en|Against Celsus}}』の標的とされる
* [[カルデア人]]ユリアノス(2世紀後半) - 属州アシアで活躍した神秘主義者・降神術を含んだ『カルデア人の神託』を編纂し新プラトン主義に影響
* [[アルテミドロス]](生没年不詳) - 属州アシア・[[エフェソス]]出身のギリシア語著述家・『夢判断の書』『鳥占い』『手相占い』がある
* エフェソスのソラノス(生没年不詳) - ローマ帝国の医師・急性病と慢性病の違いや精神障害についての研究が残る・産婦人科学にも貢献
* [[ガレノス]]([[129年]]頃 - [[200年]]頃) - ローマ帝国の医師・その学説は以後1000年以上にわたりヨーロッパで尊重された
* [[エイレナイオス]]([[130年]]頃 - [[202年]]) - キリスト教神学者(護教家)・属州[[ガリア]]の[[リヨン]]の司教・『異端反駁』の著者
* [[ガイウス (法学者)|ガイウス]]([[130年]]頃 - [[180年]]頃) - ローマ帝国の[[法学者]]で『法学提要』の著者・私法全体を「人・物・訴訟」の3つの体系に分類
* [[イェフーダー・ハン=ナーシー]](ユダ・ハナシー)([[135年]]頃 - [[220年]]頃) - ユダヤ人指導者・[[口伝律法]]を[[ミシュナ]]として編纂させる
* [[アエミリウス・パーピニアーヌス|アエミリウス・パピニアヌス]]([[150年]]頃 - [[212年]]) - ローマ帝国の法学者で『定義録』『解答録』の著者
* [[セクストス・エンペイリコス]]([[160年]]頃 - [[210年]]頃) - 哲学者・医師・『ピュロン主義哲学の概要』で古典古代の[[懐疑論]]を大成する
* [[ロンゴス]](2世紀 - 3世紀) - ローマ帝国のギリシア語著作家・レスボス島を舞台とした[[恋愛小説]]『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』を残す
=== パルティア ===
* [[オスロエス1世]](? - [[129年]]) - [[アルサケス朝パルティア]](西部)の王(在位[[109年]] - [[129年]])・[[トラヤヌス]]に[[バビロニア]]を奪われる
=== インド ===
* [[ガウタミープトラ・シャータカルニ]](生没年不詳) - サータヴァーハナ朝の君主(在位[[106年]]頃 - [[130年]]頃)・王朝の最盛期を現出
* [[カニシカ1世]](生没年不詳) - クシャーナ朝の第4代君主(在位2世紀半ば)・[[仏教]]やその他の宗教を保護し王朝の最盛期を現出
* [[馬鳴|アシュヴァゴーシャ]](馬鳴)([[80年]]頃 - [[150年]]頃) - クシャーナ朝の仏教僧侶・[[カニシカ1世]]に近侍・『ブッダ・チャリタ』の著者
* [[クンダクンダ]](生没年不詳) - [[ジャイナ教]]の[[阿闍梨|アーチャーリャ]]・[[ディガンバラ派]](空衣派)の祖・著作には『サマヤサーラ』他がある
=== 東アジア ===
==== 後漢 ====
* 鄧騭(? - [[121年]]) - 後漢の政治家・妹は鄧太后([[和帝 (漢)|和帝]]皇后)・鄧太后の死に伴う[[安帝 (漢)|安帝]]の親政で一族は滅ぼされる
* [[蔡倫]]([[50年]]? - [[121年]]?) - 後漢の宦官・従来の製紙法を改良して作った「蔡侯紙」を[[和帝 (漢)|和帝]]に献上する
* [[楊震]]([[52年]] - [[124年]]) - 後漢の政治家・「関西の孔子」・諫言が疎まれ讒言で自決・弘農楊氏「四世三公」の祖
* [[孫程]](? - [[132年]]) - 後漢の宦官・[[少帝懿]]の後継者に済陰王を[[順帝]]として擁立し閻顕ら外戚を粛清する
* [[許慎]]([[58年]]? - [[147年]]?) - 後漢の儒学者・文字学者・最古の漢字字典『[[説文解字]]』の著者
* [[張衡 (科学者)|張衡]]([[78年]] - [[139年]]) - 後漢の政治家・天文学者・数学者・地理学者・[[渾天儀]]や[[地動儀]]を発明
* [[馬融]]([[79年]] - [[166年]]) - 後漢の学者・政治家・[[訓詁学]]の立場から経書に注釈をほどこす・[[鄭玄]]は弟子
* [[曹騰]]([[100年]] - [[159年]]) - 後漢の宦官・[[大長秋]]・[[順帝 (漢)|順帝]]から[[質帝]]に仕え宮中を支配・曹操の義理の祖父
* [[梁冀]](? - [[159年]]) - 後漢の政治家・外戚として順帝から[[桓帝 (漢)|桓帝]]までの政治を壟断し「跋扈将軍」と呼ばれる
* [[安世高]](生没年不詳) - 後漢に西域から渡来した訳経僧・パルティアの王子とされる・諸国を遊歴して洛陽に来訪
* [[竇武]](? - [[168年]]) - 後漢の政治家・桓帝の外戚として清流派の[[陳蕃]]らと宦官の粛清を謀るも失敗(建寧の政変)
* [[李膺 (後漢)|李膺]](? - [[169年]]) - 後漢の官僚・将軍・[[宦官]]の専権に対抗し名声を得たが党錮の禁で処刑される
* [[王符]]([[83年]] - [[170年]]) - 後漢の文人・官途には恵まれず隠棲して『潜夫論』を著わし時勢を批判
* [[鄭玄]]([[127年]] - [[200年]]) - 後漢末の学者・官吏・[[馬融]]の弟子・党錮の禁以後は著述に専念
* 魏伯陽(生没年不詳) - 後漢末の道士・最古の[[煉丹術]]の著作『[[周易参同契]]』を著す
* [[張角]](? - [[184年]]) - 後漢末の宗教家・[[太平道]]の教祖・黄巾の乱を起こし後漢を揺るがす
* [[張陵]](生没年不詳) - 後漢末の宗教家・[[五斗米道]](天師道)の教祖・現在も残る[[正一教]]の遠祖
* [[皇甫嵩]](? - [[195年]]) - 後漢末の将軍・黄巾の乱を鎮圧・董卓と対立するが屈服する
* [[蔡邕]]([[132年]]/[[133年]] - [[192年]]) - 後漢末の政治家・儒者・書家として[[熹平石経]]の揮毫で知られる
* [[何進]](? - [[189年]]) - 後漢末の政治家・[[霊帝 (漢)|霊帝]]の外戚・宦官の粛清を謀り地方の将軍たちに上洛を命じるが殺害される
* [[張譲]]([[135年]]? - [[189年]]) - 後漢末の宦官・[[十常侍]]として[[趙忠]]らとともに宮廷で権力を握るが[[袁紹]]に粛清される
* [[董卓]]([[139年]]? - [[192年]]) - 後漢末の武将・政治家・[[少帝弁|少帝]]を廃位し[[献帝 (漢)|献帝]]を擁立して[[長安]]に遷都するなど専権を極める
* [[呂布]](? - [[198年]]) - 後漢末の武将・群雄の一人・董卓に重用され養子になる・後に裏切り董卓を暗殺
* [[王允]]([[137年]] - [[192年]]) - 後漢末の政治家・呂布と共謀して董卓を殺害する・董卓の部下に殺害された
* [[華佗]](? - [[208年]]) - 後漢末の医師・薬学や鍼灸に才能を持ち[[曹操]]に侍医として仕える
* [[張仲景]]([[150年]]? - [[219年]]) - 後漢末の官僚・医師として『[[傷寒論]]』『[[金匱要略方論]]』を著す
* [[袁紹]]([[154年]]? - [[202年]]) - 後漢末の武将・政治家・宮廷の宦官勢力を殲滅・[[官渡の戦い]]で曹操に敗北
* [[曹操]]([[155年]] - [[220年]]) - 後漢末の豪族・献帝を擁立して丞相となり[[魏 (三国)|魏]]の基礎を築く(追号は武帝)
==== 鮮卑 ====
* [[檀石槐]](生没年不詳) - 鮮卑族の大人(部族長)・勢力の衰えた匈奴に代わりモンゴル高原を統一・後漢の懐柔策を拒否し翻弄する
==== 日本 ====
* [[帥升]](生没年不詳) - [[倭国]]の王・中国の史書(『後漢書』)に記載された固有名を持つ最古の日本人
* [[卑弥呼]]([[170年]]頃 - [[248年]]) - [[邪馬台国]]の女王(在位188年頃 - 248年)・倭国大乱の後に女王に推戴される<!-- 鬼道に仕え、夫なく、弟が政治を助けたという。(『魏志』倭人伝)-->
<!-- 壱与は3世紀の人物なので削除。-->
== 架空のできごと ==
* 117年 - この年に[[ブリテン島]]北部にてローマ帝国[[第9軍団ヒスパナ]]が消息を絶った。後年、この謎を探るべく[[ブリトン人]]との戦で傷を負い退役したローマの軍人マーカス・フラヴィアス・アクイラは、奴隷のスコットランド人エスカとともに、かつて父が指揮を執った第9軍団ヒスパナの行方を探る旅に出る([[ローズマリー・サトクリフ]]の小説『[[第九軍団のワシ]]』)。
* 130年代 - ローマ帝国の浴場専門の建築技師であるルシウス・モデストゥスはひょんなことから現代の日本にタイムスリップしてしまう。ルシウスは伊藤温泉の才媛小達さつきらとの交流を深めていく一方で皇帝ハドリアヌスにもその才能を見込まれていく([[ヤマザキマリ]]『[[テルマエ・ロマエ]]』)。
* 161年以降 - エトルリアの貴族に生まれたマリウスはマルクス・アウレリウス帝の秘書官となり、[[アプレイウス]]の小説や[[ヘラクレイトス]]の哲学そして[[ストア派]]哲学から初期キリスト教の様々な思想に触れ、魂の遍歴を重ねていく([[ウォルター・ペイター]]の小説『享楽主義者マリウス』)。
* 180年 - ローマ帝国の将軍マキシマス・デシマス・メレディウスは、マルクス・アウレリウスの息子コンモドゥスによる皇帝暗殺事件に巻き込まれ、家族を殺された上に自らも奴隷の身分に落とされる。武勇に優れたマキシマスは[[剣闘士]](グラディエーター)となり、コモドゥスへの復讐を誓う([[リドリー・スコット]]監督の映画「[[グラディエーター]]」)。
* 192年 - 後漢の政治家[[王允]]は政権を壟断した[[董卓]]を討つため、その部下である[[呂布]]を離反させるべく「中国四大美人」の一人ともされる[[貂蝉]]を送り込んだ。これが「美女[[連環の計]]」である(『[[三国志演義]]』)。
<!--
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
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5,027 | Iモード | iモード(アイモード、i-mode)は、NTTドコモ(以下、ドコモ)の対応携帯電話(フィーチャー・フォン)にてキャリアメール(iモードメール)の送受信やウェブページ閲覧などができる世界初の携帯電話IP接続サービスである。新規受付を2019年9月30日で終了、2026年3月31日のFOMA停波と共にサービスを終了する。
NTTドコモに所属した松永真理・夏野剛・榎啓一・栗田穣崇などが、携帯電話を利用したインターネットビジネスモデルとしてアイディアを生み出した。「iモード」の『i』は、インタラクティブ・インフォメーション・インターネットの頭文字の『i』、そして英語で「私」の意味の『i』であるとされる。
1999年1月25日に発表され、同年2月にサービス開始。サービス開始時に広末涼子(1998年までドコモ中央のポケットベルのキャラクター)をイメージキャラクターに起用。当初からネットバンキング、待受壁紙、着信メロディの配信などのiメニューサイトが立ち上げられ、それを利用する様のテレビコマーシャルが放映された。
メール機能のiモードメールは、ショートメールや10円メールよりも通信料が廉価でインターネットメールとして使えることから、サービス開始当初から爆発的に普及した。1999年7月からiモードの通信が繋がりにくくなる現象が発生するようになり、2000年3月28日にサーバー設定の人為的ミスにより全国で約3時間iモード接続が利用不能となる障害が発生。その後同年6月まで繋がりにくくなるトラブルが頻発し、連日報道されることになった。加入者の急激な増加による通信トラフィックの増加によりiモードセンターの処理能力を超えてダウンしたことが主因とされた。対応策としてiモード関連の広告展開の休止・502iシリーズの出荷台数制限などで新規加入者を抑制させつつ、当時全国1箇所のみであったiモードセンターを早期に増設することを発表。同年8月頃には一通りの対応を完了した。これを教訓に、iモードのゲートウェイシステムGRIMMを破棄し、2003年にCiRCUSに移行した。
iモードの大ヒットにより、サービス開始後にDDIセルラー・IDO(現・au(KDDI・沖縄セルラー電話連合))はそれぞれEZweb・EZaccess(現在はEZwebに統一)、J-フォン(現ソフトバンク)はJ-スカイ(現・Yahoo!ケータイ)といった同業他社も同種サービスの提供でiモードに追従した。
サービス開始当初はデジタル・ムーバの高付加価値サービスという位置付けで、フラッグシップモデルの50Xiシリーズに限定して展開されたが、スーパードッチーモやスタンダードモデルの209iシリーズ以降にもiモードに対応させた。2001年以降に発売されたフィーチャー・フォンは海外メーカー製を除いてほぼ全てがiモード対応となっている。なお、シティフォン・カーフォン・ワイドスターは非対応である。また、1999年末で新規受付を終了した「ドニーチョ」契約(平日夜間と週末・祝日終日のみ利用可能で平日日中は着信も不可)ではiモードを契約することができない。
NTTドコモは2006年1月時点で世界最大(登録者数45,687,117人)のワイヤレスインターネットプロバイダとしてギネス・ワールド・レコーズから認定を受けている。
しかし、専用コンテンツを持たずともPC向けのコンテンツにアクセスできるスマートフォンが登場したことで、代替的存在であったiモードは衰退。スマートフォンへの移行によりiモード契約者が減少したことから、2015年発売のP-01Hを最後に新機種は発売されておらず、2016年11月2日にiモードケータイの出荷を同年中に終了することが発表された。らくらくホンシリーズについては出荷を継続するとしていたが、これについても2017年6月までに販売を終了し、iモード対応携帯電話を新品で購入することは不可能となった。2019年9月30日には新規受付が終了。
iモードボタン(携帯電話端末の『i』ロゴボタン)を押すことでiモードが起動してiメニューが表示され、iモードブラウザ等の各種サービスの項目からコンテンツを選択することで使用することが可能である。iモードブラウザーでは、各種サービスの登録にて有料、無料問わずコンテンツが楽しめるシステムになっている。基本操作は矢印ボタンと決定ボタンで行い、文字入力などは番号ボタンを使用する。メニュー項目選択時に番号ボタンを押すことで直感的な操作も可能である。iアプリについては、『i』ロゴボタンを長押しすることでiアプリメニューが起動し、各種アプリを選択する。
iモードメールを使用する場合は、携帯電話端末の『i』ロゴボタンとは別に独立したメールボタンを押すことでメールブラウザが起動し、文字の入力、iショット画像の添付、メール送信が可能である。受信メールの閲覧はメールブラウザを起動することで可能である。尚、iモードメールのドメインは「○○○○○@docomo.ne.jp」である。
通信はパケット方式(movaではDoPaを使用)で行われ、通信料金は通信時間単位ではなく通信データ量(パケット量)に応じた課金システムとなっている。利用にあたっては、iモード基本料、iモード付加機能使用料、パケット通信料が課金される(→#基本料金)。iモードブラウザではページの更新時に、iモードメールではメールの送受信時及びiショット画像のアップロード時に(iショット画像や他社の画像メールサービスの受信時は、iモードブラウザの通信データ量に準拠)、iアプリでは、アプリにもよるがアプリ側が通信を要求して認可した場合に通信データ量が発生する。
初期の頃は、通信データ量に応じて料金が加算される従量制の課金システムのため、iモードの使用頻度が多くなるにつれて通信データ量が多くなり、結果的に莫大な使用料金となるいわゆる「パケ死」が社会問題となっていた。FOMAでは通信データ量が見直され、後にパケット通信料が定額制の「パケ・ホーダイ」の開始により、パケ死の問題は解消された。
端末がアクセスポイントとして接続するiモードセンターは、閉鎖的な「iモード専用ネットワーク」と外部のインターネットに接続するゲートウェイの役割がある。iモード専用ネットワーク内ではNTTドコモに認可されたコンテンツプロバイダによる各種ウェブサイトがiメニューサイトを介して提供される。情報料を設定することが可能であり、課金する場合はドコモがiモード情報料として課金徴収代行を行う。
また、iモードメールの設定や契約情報の変更(eサイト)なども行える。外部のインターネットからiモード専用ネットワーク内のURLを指定しても403エラー(アクセス拒否)または「お客様のご利用機種には対応しておりません」と応答するなど高セキュリティとなっている。
iモードのシステムは、2003年からNTTデータと日本電気が共同開発したCiRCUSによって運用され、CARNiVALというシステムによって24時間365日有人監視されている。
携帯電話業界の規格であるWAP・HDML・WMLを採用せず、一般的に普及しているHTTPとHTMLを採用したことにより、コンテンツの開発が容易になった。これによって、iモードサービス開始後も、iアプリ、iエリア、デコメール、iモードFelicaなどの派生サービスを投入できた。
ウェブの通信プロトコルおよび記述言語は、HTTPと、Compact HTML(HTMLのサブセット)を採用している。2001年に登場したFOMAではIMT-2000規格のパケット通信によってiモードに接続する。
iモードの正式なコンテンツプロバイダとして承認されていない企業や個人でも Compact HTMLで記述し、インターネットのWebサーバー上に勝手サイトとして公開することでコンテンツを提供することが可能であった。当然ながら、ISPとなるドコモは勝手サイトの内容については一切関知していない。
機種により利用できる機能は異なる。
日本国内でiモードを利用する場合、以下の基本料金と端末別に設定されたパケット利用料金、アクセスするサイトによってはiモード情報料が必要となる。
iモード付加機能使用料は324円(本体価格300円)。2005年11月1日に行われた統一プラン導入以来210円(本体価格200円)で設定されていたが、2008年6月分から315円(本体価格300円)に値上げした。movaサービスが終了した2012年3月31日まではFOMAとmovaで共通だった。2014年4月分からは消費税増税により税込価格が324円となる。
2010年4月よりISPセット割の対象となり、spモードやmoperaと組み合わせて契約することで、300円~450円の割引となる。
日本での発売は FOMA、mova の端末一覧を参照。
spモードは2010年9月1日より提供が開始された、NTTドコモのスマートフォン向けに提供されている携帯電話IP接続サービスである。iモードとは別のインフラを利用しているが、一部重複している。
spモードを契約することにより、通常のiモードメールと同様に@docomo.ne.jp のドメインで、プッシュメール、絵文字、デコメールなどが利用可能となる。iモード解約と同時にspモードを契約すると、従来のiモードメールのアドレスを引き継ぐ形で設定できる。またiモードとspモードを重畳契約すると、docomo.ne.jp のアドレスを2つ持つことになるが、スマートフォンで2つ同時に利用できるわけでなく、1つのアドレスはiモード端末、もうひとつのアドレスはスマートフォンでドコモUIMカードを差し替えることで利用が可能となる。またその2つのアドレスは切り替えることも可能である。
日本国外版iモードでは、iモードメールを「i-mode Mail」や「i-mail」と呼ぶ。画像などを添付するとiMMSという名前になる。
2002年ごろからドコモは諸外国の携帯電話サービス会社に対してiモードの技術と権利を供与し始めたが、様々な原因から日本国外展開は苦戦を強いられた。iモードの国際共通化や事業の多角化のために実施した海外投資で1兆5000億円にも上る損失を計上した。
失敗原因のうち、日本人と諸外国人との携帯電話の使い方の違いが大きな理由として挙げられる。日本ではおサイフケータイなどの多機能化が進んだが、諸外国においては通話とSMSを送受信が中心であり、携帯の使い方そのものが異なっていた。海外ではメールやネットはPCで行うのが一般的であり、携帯でメールを使用するのは BlackBerry などを使用する一部のビジネスマンのみとなっていた。一般のユーザーが携帯でメールやネットブラウズを行うようになるのは、フルブラウズが容易なインタフェースを強みとした iPhone が登場してからである。なお当初ドコモはiPhone販売に消極的で、SIMフリーとなっても販売しないとし、その理由はiPhoneがiモードをサポートしないためだと言明していた。
さらに携帯電話事業者が受け取るiモードの利益は、日本は10%であったのに対し海外では50%に上っていたことが、海外でのiモード不振に繋がったという意見がある。また、海外では日本のパケホーダイのような定額通信料プランが無かったため、「一体この通信で幾ら取られるのかわからない」という拒否感もiモードの発展を妨げた原因となった。
iPhone発表で通信業界に台頭した米Apple社のビジネスモデルは、iモードのものと近いという指摘もある。同社は2000年以降、後にiCloudとなるiToolsという自社製品ユーザー向け電子メールサービスを始め、iPhoneにはモバイルインターネット・コンテンツマーケット・課金徴収代行サービス(App Store)なども組み込んでいる。フルブラウズを可能とし、自前のメールサービスにこだわらず各個人が保有するメールアドレスを使うことも認め、自宅PCの環境をそのまま外に持ち出して使用できるようにしたことがiPhoneの人気の一因とされる。こういう経営判断はデバイスメーカーではないインフラ事業者としての立場をもつドコモには出来ない事であった。例えば、ドコモは通信品質やネットワークへのロードの考慮を最優先にする必要があった反面、アップルはあくまでもフリーライダーの立場であった。iモードの海外展開失敗とスマートフォンの台頭以降、通信キャリアの影響力は世界的に大きく減少している。
ある程度普及した数少ない例としてフランスがある。2002年4月にフランスのブイグテレコムがiモードの導入を発表した。他のiモード導入企業の敗因を分析してNTTドコモを手本としたためシェアが低いキャリアであるにもかかわらず2年で85万契約を達成した。同社のiモード本部長を務めたブノワ・ルヴェは成功の秘訣は「『ドコモに学べ』の一言に尽きる」と語っている。多くの国でi-modeを導入したキャリアは、i-modeで何が出来るのかを消費者に伝え切れていないとブイグテレコムは考えサービス内容を訴求する広告展開を行った事が普及に繋がった。 ブイグテレコムで人気のコンテンツはゲーム、着メロ、壁紙、占い、天気予報、ニュースなどであり、日本と大差が無いことが要因となった。さらに日本とフランスで共通しているのは、WAPが導入されたにもかかわらず失敗して別のサービスを導入しているキャリアが存在することである。i-modeとVodafone live!が競合していたのも日本と重なる。
また、フランス市場にはインデックスやヤマハなどがコンテンツの供給を発表し、日本でいち早くモバイルコンテンツでのノウハウを身につけた日本企業にビジネスチャンスもあった。 | [
{
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"text": "iモード(アイモード、i-mode)は、NTTドコモ(以下、ドコモ)の対応携帯電話(フィーチャー・フォン)にてキャリアメール(iモードメール)の送受信やウェブページ閲覧などができる世界初の携帯電話IP接続サービスである。新規受付を2019年9月30日で終了、2026年3月31日のFOMA停波と共にサービスを終了する。",
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"text": "NTTドコモに所属した松永真理・夏野剛・榎啓一・栗田穣崇などが、携帯電話を利用したインターネットビジネスモデルとしてアイディアを生み出した。「iモード」の『i』は、インタラクティブ・インフォメーション・インターネットの頭文字の『i』、そして英語で「私」の意味の『i』であるとされる。",
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"text": "1999年1月25日に発表され、同年2月にサービス開始。サービス開始時に広末涼子(1998年までドコモ中央のポケットベルのキャラクター)をイメージキャラクターに起用。当初からネットバンキング、待受壁紙、着信メロディの配信などのiメニューサイトが立ち上げられ、それを利用する様のテレビコマーシャルが放映された。",
"title": "概要"
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"text": "メール機能のiモードメールは、ショートメールや10円メールよりも通信料が廉価でインターネットメールとして使えることから、サービス開始当初から爆発的に普及した。1999年7月からiモードの通信が繋がりにくくなる現象が発生するようになり、2000年3月28日にサーバー設定の人為的ミスにより全国で約3時間iモード接続が利用不能となる障害が発生。その後同年6月まで繋がりにくくなるトラブルが頻発し、連日報道されることになった。加入者の急激な増加による通信トラフィックの増加によりiモードセンターの処理能力を超えてダウンしたことが主因とされた。対応策としてiモード関連の広告展開の休止・502iシリーズの出荷台数制限などで新規加入者を抑制させつつ、当時全国1箇所のみであったiモードセンターを早期に増設することを発表。同年8月頃には一通りの対応を完了した。これを教訓に、iモードのゲートウェイシステムGRIMMを破棄し、2003年にCiRCUSに移行した。",
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"text": "iモードの大ヒットにより、サービス開始後にDDIセルラー・IDO(現・au(KDDI・沖縄セルラー電話連合))はそれぞれEZweb・EZaccess(現在はEZwebに統一)、J-フォン(現ソフトバンク)はJ-スカイ(現・Yahoo!ケータイ)といった同業他社も同種サービスの提供でiモードに追従した。",
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"text": "サービス開始当初はデジタル・ムーバの高付加価値サービスという位置付けで、フラッグシップモデルの50Xiシリーズに限定して展開されたが、スーパードッチーモやスタンダードモデルの209iシリーズ以降にもiモードに対応させた。2001年以降に発売されたフィーチャー・フォンは海外メーカー製を除いてほぼ全てがiモード対応となっている。なお、シティフォン・カーフォン・ワイドスターは非対応である。また、1999年末で新規受付を終了した「ドニーチョ」契約(平日夜間と週末・祝日終日のみ利用可能で平日日中は着信も不可)ではiモードを契約することができない。",
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"text": "NTTドコモは2006年1月時点で世界最大(登録者数45,687,117人)のワイヤレスインターネットプロバイダとしてギネス・ワールド・レコーズから認定を受けている。",
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"text": "しかし、専用コンテンツを持たずともPC向けのコンテンツにアクセスできるスマートフォンが登場したことで、代替的存在であったiモードは衰退。スマートフォンへの移行によりiモード契約者が減少したことから、2015年発売のP-01Hを最後に新機種は発売されておらず、2016年11月2日にiモードケータイの出荷を同年中に終了することが発表された。らくらくホンシリーズについては出荷を継続するとしていたが、これについても2017年6月までに販売を終了し、iモード対応携帯電話を新品で購入することは不可能となった。2019年9月30日には新規受付が終了。",
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"text": "iモードボタン(携帯電話端末の『i』ロゴボタン)を押すことでiモードが起動してiメニューが表示され、iモードブラウザ等の各種サービスの項目からコンテンツを選択することで使用することが可能である。iモードブラウザーでは、各種サービスの登録にて有料、無料問わずコンテンツが楽しめるシステムになっている。基本操作は矢印ボタンと決定ボタンで行い、文字入力などは番号ボタンを使用する。メニュー項目選択時に番号ボタンを押すことで直感的な操作も可能である。iアプリについては、『i』ロゴボタンを長押しすることでiアプリメニューが起動し、各種アプリを選択する。",
"title": "特徴"
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"text": "iモードメールを使用する場合は、携帯電話端末の『i』ロゴボタンとは別に独立したメールボタンを押すことでメールブラウザが起動し、文字の入力、iショット画像の添付、メール送信が可能である。受信メールの閲覧はメールブラウザを起動することで可能である。尚、iモードメールのドメインは「○○○○○@docomo.ne.jp」である。",
"title": "特徴"
},
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"text": "通信はパケット方式(movaではDoPaを使用)で行われ、通信料金は通信時間単位ではなく通信データ量(パケット量)に応じた課金システムとなっている。利用にあたっては、iモード基本料、iモード付加機能使用料、パケット通信料が課金される(→#基本料金)。iモードブラウザではページの更新時に、iモードメールではメールの送受信時及びiショット画像のアップロード時に(iショット画像や他社の画像メールサービスの受信時は、iモードブラウザの通信データ量に準拠)、iアプリでは、アプリにもよるがアプリ側が通信を要求して認可した場合に通信データ量が発生する。",
"title": "特徴"
},
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"text": "初期の頃は、通信データ量に応じて料金が加算される従量制の課金システムのため、iモードの使用頻度が多くなるにつれて通信データ量が多くなり、結果的に莫大な使用料金となるいわゆる「パケ死」が社会問題となっていた。FOMAでは通信データ量が見直され、後にパケット通信料が定額制の「パケ・ホーダイ」の開始により、パケ死の問題は解消された。",
"title": "特徴"
},
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"paragraph_id": 12,
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"text": "端末がアクセスポイントとして接続するiモードセンターは、閉鎖的な「iモード専用ネットワーク」と外部のインターネットに接続するゲートウェイの役割がある。iモード専用ネットワーク内ではNTTドコモに認可されたコンテンツプロバイダによる各種ウェブサイトがiメニューサイトを介して提供される。情報料を設定することが可能であり、課金する場合はドコモがiモード情報料として課金徴収代行を行う。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "また、iモードメールの設定や契約情報の変更(eサイト)なども行える。外部のインターネットからiモード専用ネットワーク内のURLを指定しても403エラー(アクセス拒否)または「お客様のご利用機種には対応しておりません」と応答するなど高セキュリティとなっている。",
"title": "特徴"
},
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"text": "iモードのシステムは、2003年からNTTデータと日本電気が共同開発したCiRCUSによって運用され、CARNiVALというシステムによって24時間365日有人監視されている。",
"title": "特徴"
},
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"text": "携帯電話業界の規格であるWAP・HDML・WMLを採用せず、一般的に普及しているHTTPとHTMLを採用したことにより、コンテンツの開発が容易になった。これによって、iモードサービス開始後も、iアプリ、iエリア、デコメール、iモードFelicaなどの派生サービスを投入できた。",
"title": "特徴"
},
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"text": "ウェブの通信プロトコルおよび記述言語は、HTTPと、Compact HTML(HTMLのサブセット)を採用している。2001年に登場したFOMAではIMT-2000規格のパケット通信によってiモードに接続する。",
"title": "特徴"
},
{
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"text": "iモードの正式なコンテンツプロバイダとして承認されていない企業や個人でも Compact HTMLで記述し、インターネットのWebサーバー上に勝手サイトとして公開することでコンテンツを提供することが可能であった。当然ながら、ISPとなるドコモは勝手サイトの内容については一切関知していない。",
"title": "特徴"
},
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"text": "機種により利用できる機能は異なる。",
"title": "機能"
},
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"text": "日本国内でiモードを利用する場合、以下の基本料金と端末別に設定されたパケット利用料金、アクセスするサイトによってはiモード情報料が必要となる。",
"title": "基本料金"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "iモード付加機能使用料は324円(本体価格300円)。2005年11月1日に行われた統一プラン導入以来210円(本体価格200円)で設定されていたが、2008年6月分から315円(本体価格300円)に値上げした。movaサービスが終了した2012年3月31日まではFOMAとmovaで共通だった。2014年4月分からは消費税増税により税込価格が324円となる。",
"title": "基本料金"
},
{
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"text": "2010年4月よりISPセット割の対象となり、spモードやmoperaと組み合わせて契約することで、300円~450円の割引となる。",
"title": "基本料金"
},
{
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"text": "日本での発売は FOMA、mova の端末一覧を参照。",
"title": "iモード端末一覧"
},
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"text": "spモードは2010年9月1日より提供が開始された、NTTドコモのスマートフォン向けに提供されている携帯電話IP接続サービスである。iモードとは別のインフラを利用しているが、一部重複している。",
"title": "spモード"
},
{
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"text": "spモードを契約することにより、通常のiモードメールと同様に@docomo.ne.jp のドメインで、プッシュメール、絵文字、デコメールなどが利用可能となる。iモード解約と同時にspモードを契約すると、従来のiモードメールのアドレスを引き継ぐ形で設定できる。またiモードとspモードを重畳契約すると、docomo.ne.jp のアドレスを2つ持つことになるが、スマートフォンで2つ同時に利用できるわけでなく、1つのアドレスはiモード端末、もうひとつのアドレスはスマートフォンでドコモUIMカードを差し替えることで利用が可能となる。またその2つのアドレスは切り替えることも可能である。",
"title": "spモード"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本国外版iモードでは、iモードメールを「i-mode Mail」や「i-mail」と呼ぶ。画像などを添付するとiMMSという名前になる。",
"title": "海外展開"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2002年ごろからドコモは諸外国の携帯電話サービス会社に対してiモードの技術と権利を供与し始めたが、様々な原因から日本国外展開は苦戦を強いられた。iモードの国際共通化や事業の多角化のために実施した海外投資で1兆5000億円にも上る損失を計上した。",
"title": "海外展開"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "失敗原因のうち、日本人と諸外国人との携帯電話の使い方の違いが大きな理由として挙げられる。日本ではおサイフケータイなどの多機能化が進んだが、諸外国においては通話とSMSを送受信が中心であり、携帯の使い方そのものが異なっていた。海外ではメールやネットはPCで行うのが一般的であり、携帯でメールを使用するのは BlackBerry などを使用する一部のビジネスマンのみとなっていた。一般のユーザーが携帯でメールやネットブラウズを行うようになるのは、フルブラウズが容易なインタフェースを強みとした iPhone が登場してからである。なお当初ドコモはiPhone販売に消極的で、SIMフリーとなっても販売しないとし、その理由はiPhoneがiモードをサポートしないためだと言明していた。",
"title": "海外展開"
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{
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"tag": "p",
"text": "さらに携帯電話事業者が受け取るiモードの利益は、日本は10%であったのに対し海外では50%に上っていたことが、海外でのiモード不振に繋がったという意見がある。また、海外では日本のパケホーダイのような定額通信料プランが無かったため、「一体この通信で幾ら取られるのかわからない」という拒否感もiモードの発展を妨げた原因となった。",
"title": "海外展開"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "iPhone発表で通信業界に台頭した米Apple社のビジネスモデルは、iモードのものと近いという指摘もある。同社は2000年以降、後にiCloudとなるiToolsという自社製品ユーザー向け電子メールサービスを始め、iPhoneにはモバイルインターネット・コンテンツマーケット・課金徴収代行サービス(App Store)なども組み込んでいる。フルブラウズを可能とし、自前のメールサービスにこだわらず各個人が保有するメールアドレスを使うことも認め、自宅PCの環境をそのまま外に持ち出して使用できるようにしたことがiPhoneの人気の一因とされる。こういう経営判断はデバイスメーカーではないインフラ事業者としての立場をもつドコモには出来ない事であった。例えば、ドコモは通信品質やネットワークへのロードの考慮を最優先にする必要があった反面、アップルはあくまでもフリーライダーの立場であった。iモードの海外展開失敗とスマートフォンの台頭以降、通信キャリアの影響力は世界的に大きく減少している。",
"title": "海外展開"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ある程度普及した数少ない例としてフランスがある。2002年4月にフランスのブイグテレコムがiモードの導入を発表した。他のiモード導入企業の敗因を分析してNTTドコモを手本としたためシェアが低いキャリアであるにもかかわらず2年で85万契約を達成した。同社のiモード本部長を務めたブノワ・ルヴェは成功の秘訣は「『ドコモに学べ』の一言に尽きる」と語っている。多くの国でi-modeを導入したキャリアは、i-modeで何が出来るのかを消費者に伝え切れていないとブイグテレコムは考えサービス内容を訴求する広告展開を行った事が普及に繋がった。 ブイグテレコムで人気のコンテンツはゲーム、着メロ、壁紙、占い、天気予報、ニュースなどであり、日本と大差が無いことが要因となった。さらに日本とフランスで共通しているのは、WAPが導入されたにもかかわらず失敗して別のサービスを導入しているキャリアが存在することである。i-modeとVodafone live!が競合していたのも日本と重なる。",
"title": "海外展開"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、フランス市場にはインデックスやヤマハなどがコンテンツの供給を発表し、日本でいち早くモバイルコンテンツでのノウハウを身につけた日本企業にビジネスチャンスもあった。",
"title": "海外展開"
}
] | iモード(アイモード、i-mode)は、NTTドコモ(以下、ドコモ)の対応携帯電話(フィーチャー・フォン)にてキャリアメール(iモードメール)の送受信やウェブページ閲覧などができる世界初の携帯電話IP接続サービスである。新規受付を2019年9月30日で終了、2026年3月31日のFOMA停波と共にサービスを終了する。 | {{出典の明記|date=2023年11月}}
{{小文字}}
'''iモード'''(アイモード、{{lang|en|i-mode}})は、[[NTTドコモ]](以下、ドコモ)の対応[[携帯電話]]([[フィーチャーフォン]])にて[[キャリアメール]]([[iモードメール]])の送受信や[[ウェブページ]]閲覧などができる世界初の[[携帯電話IP接続サービス]]である。新規受付を2019年9月30日で終了<ref>{{Cite web|和書|title=「iモード」新規受付が終了、2019年9月30日で(Impress Watch)|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190415-00000137-impress-sci|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2019-04-15|language=ja}}</ref><ref name=":0" /><ref name=":1" />、2026年3月31日のFOMA[[停波]]と共にサービスを終了する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2019/10/29_00.html |title=「FOMA」および「iモード」のサービス終了について |date=2019-10-29 |accessdate=2020-07-20 |publisher=NTTドコモ}}</ref>。
==概要==
NTTドコモに所属した[[松永真理]]・[[夏野剛]]・[[榎啓一]]・[[栗田穣崇]]などが、携帯電話を利用したインターネット[[ビジネスモデル]]としてアイディアを生み出した。「iモード」の『i』は、[[インタラクティブ]]<ref group=注>{{lang-en-short|interactive}}</ref>・[[インフォメーション]]<ref group=注>{{lang-en-short|information}}</ref>・[[インターネット]]<ref group=注>{{lang-en-short|Internet}}</ref>の頭文字の『i』、そして[[英語]]で「私」<ref group=注>{{lang-en-short|I}}</ref>の意味の『i』であるとされる。
1999年1月25日に発表され、同年2月にサービス開始。サービス開始時に[[広末涼子]](1998年までドコモ中央の[[無線呼び出し|ポケットベル]]のキャラクター)をイメージキャラクターに起用。当初から[[ネットバンキング]]、待受[[壁紙]]、[[着信メロディ]]の配信などの[[公式サイト (携帯電話)|iメニューサイト]]が立ち上げられ、それを利用する様のテレビコマーシャルが放映された。
メール機能の[[iモードメール]]は、[[ショートメール]]や[[10円メール]]よりも通信料が廉価で[[インターネットメール]]として使えることから、サービス開始当初から爆発的に普及した。1999年7月からiモードの通信が繋がりにくくなる現象が発生するようになり、2000年3月28日にサーバー設定の人為的ミスにより全国で約3時間iモード接続が利用不能となる障害が発生。その後同年6月まで繋がりにくくなるトラブルが頻発し、連日報道されることになった。加入者の急激な増加による通信[[トラヒック理論|トラフィック]]の増加によりiモードセンターの処理能力を超えてダウンしたことが主因とされた。対応策としてiモード関連の広告展開の休止・502iシリーズの出荷台数制限などで新規加入者を抑制させつつ、当時全国1箇所のみであったiモードセンターを早期に増設することを発表。同年8月頃には一通りの対応を完了した。これを教訓に、iモードの[[ゲートウェイ]]システムGRIMMを破棄し、2003年に[[CiRCUS]]に移行した。
iモードの大ヒットにより、サービス開始後に[[DDIセルラーグループ|DDIセルラー]]・[[日本移動通信|IDO]](現・[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]]連合))はそれぞれ{{lang|en|[[EZweb]]}}・{{lang|en|[[EZaccess]]}}(現在は{{いつ|date=2023年9月}}{{lang|en|EZweb}}に統一)、J-フォン(現[[ソフトバンク]])はJ-スカイ(現・[[Yahoo!ケータイ]])といった同業他社も同種サービスの提供でiモードに追従した。
サービス開始当初は[[mova|デジタル・ムーバ]]の高付加価値サービスという位置付けで、フラッグシップモデルの50Xiシリーズに限定して展開されたが、[[mova|スーパードッチーモ]]やスタンダードモデルの209iシリーズ以降にもiモードに対応させた。2001年以降に発売された[[フィーチャーフォン]]は海外メーカー製を除いてほぼ全てがiモード対応となっている。なお、[[シティフォン]]・[[自動車電話|カーフォン]]・[[ワイドスター]]は非対応である。また、1999年末で新規受付を終了した「ドニーチョ」契約(平日夜間と週末・祝日終日のみ利用可能で平日日中は着信も不可)ではiモードを契約することができない。
NTTドコモは2006年1月時点で世界最大(登録者数45,687,117人)のワイヤレスインターネットプロバイダとして[[ギネス・ワールド・レコーズ]]から認定を受けている<ref>{{Cite web|url=http://guinnessworldrecords.com/records/science_and_technology/internet/largest_wireless_internet_provider.aspx |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110727143643/https://guinnessworldrecords.com/records/science_and_technology/internet/largest_wireless_internet_provider.aspx |title=Largest Wireless Internet Provider |accessdate=2020-07-20 |archivedate=2011-07-27 |publisher=ギネス・ワールド・レコーズ}}</ref>。
しかし、専用コンテンツを持たずともPC向けのコンテンツにアクセスできる[[スマートフォン]]が登場したことで、代替的存在であったiモードは衰退<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2112/09/news012_3.html 「iモード」とは何だったのか その本質と功績、iPhoneに駆逐された理由(3/3 ページ) - ITmedia NEWS]</ref><ref>[https://www.watch.impress.co.jp/docs/series/nishida/1282177.html iモード公式サイトの終焉とコンテンツビジネス進化の系譜【西田宗千佳のイマトミライ】-Impress Watch]</ref>。スマートフォンへの移行によりiモード契約者が減少したことから、2015年発売の[[P-01H]]を最後に新機種は発売されておらず、2016年11月2日にiモードケータイの出荷を同年中に終了することが発表された<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/161102_00_m.html ドコモ ケータイ(iモード)出荷終了について]</ref>。らくらくホンシリーズについては出荷を継続するとしていたが、これについても2017年6月までに販売を終了し、iモード対応携帯電話を新品で購入することは不可能となった。2019年9月30日には新規受付が終了<ref name=":0">[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2019/04/15_00.html 7. 新規受付終了]</ref><ref name=":1">[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1180203.html 「iモード」新規受付が終了、2019年9月30日で]</ref>。
==特徴==
=== 基本操作 ===
iモードボタン(携帯電話端末の『i』ロゴボタン)を押すことでiモードが起動してiメニューが表示され、iモードブラウザ等の各種サービスの項目からコンテンツを選択することで使用することが可能である。iモードブラウザーでは、各種サービスの登録にて有料、無料問わずコンテンツが楽しめるシステムになっている。基本操作は矢印ボタンと決定ボタンで行い、文字入力などは番号ボタンを使用する。メニュー項目選択時に番号ボタンを押すことで直感的な操作も可能である。iアプリについては、『i』ロゴボタンを長押しすることでiアプリメニューが起動し、各種アプリを選択する。
[[iモードメール]]を使用する場合は、携帯電話端末の『i』ロゴボタンとは別に独立したメールボタンを押すことでメールブラウザが起動し、文字の入力、[[iショット]]画像の添付、メール送信が可能である。受信メールの閲覧はメールブラウザを起動することで可能である。尚、iモードメールのドメインは「○○○○○<code>@docomo.ne.jp</code>」である。
=== 通信 ===
通信は[[パケット通信|パケット]]方式([[mova]]では[[DoPa]]を使用)で行われ、通信料金は通信時間単位ではなく通信データ量(パケット量)に応じた課金システムとなっている。利用にあたっては、iモード基本料、[[iモード付加機能使用料]]、パケット通信料が課金される(→[[#基本料金]])。iモードブラウザではページの更新時に、iモードメールではメールの送受信時及びiショット画像のアップロード時に(iショット画像や他社の画像メールサービスの受信時は、iモードブラウザの通信データ量に準拠)、iアプリでは、アプリにもよるがアプリ側が通信を要求して認可した場合に通信データ量が発生する。
初期の頃は、通信データ量に応じて料金が加算される従量制の課金システムのため、iモードの使用頻度が多くなるにつれて通信データ量が多くなり、結果的に莫大な使用料金となるいわゆる「'''パケ死'''」が社会問題となっていた。FOMAでは通信データ量が見直され、後にパケット通信料が定額制の「[[パケ・ホーダイ]]」の開始により、パケ死の問題は解消された。
=== システム ===
端末が[[アクセスポイント]]として接続する'''iモードセンター'''は、閉鎖的な「iモード専用ネットワーク」と外部の[[インターネット]]に接続する[[ゲートウェイ]]の役割がある。iモード専用ネットワーク内ではNTTドコモに認可された[[コンテンツプロバイダ]]による各種[[ウェブサイト]]が'''[[公式サイト (携帯電話)|iメニューサイト]]'''を介して提供される。情報料を設定することが可能であり、課金する場合はドコモが'''iモード情報料'''として課金徴収代行を行う。
また、iモードメールの設定や契約情報の変更([[My docomo|eサイト]])なども行える。外部のインターネットからiモード専用ネットワーク内のURLを指定しても403エラー(アクセス拒否)または「お客様のご利用機種には対応しておりません」と応答するなど高セキュリティとなっている。
iモードのシステムは、2003年から[[NTTデータ]]と[[日本電気]]が共同開発した'''{{lang|en|[[CiRCUS]]}}'''によって運用され、CARNiVALというシステムによって24時間365日有人監視されている。
=== ウェブの規格 ===
携帯電話業界の規格であるWAP・[[Handheld Device Markup Language|HDML]]・WMLを採用せず、一般的に普及しているHTTPとHTMLを採用したことにより、コンテンツの開発が容易になった。これによって、iモードサービス開始後も、[[iアプリ]]、[[iエリア]]、[[デコメール]]、[[iモードFelica]]などの[[#機能|派生サービス]]を投入できた。
ウェブの[[通信プロトコル]]および記述言語は、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]と、{{lang|en|[[Compact HTML]]}}([[HyperText Markup Language|HTML]]のサブセット)を採用している。2001年に登場した{{lang|en|[[FOMA]]}}では[[IMT-2000]]規格のパケット通信によってiモードに接続する。
iモードの正式なコンテンツプロバイダとして承認されていない企業や個人でも {{lang|en|Compact HTML}}で記述し、インターネットの[[Webサーバー]]上に'''[[勝手サイト]]'''として公開することでコンテンツを提供することが可能であった。当然ながら、[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]となるドコモは勝手サイトの内容については一切関知していない。
==機能==
機種により利用できる機能は異なる。
*'''iモードブラウザ'''([[ウェブブラウザ|ウェブサイトアクセス]])
**iメロディ([[着信メロディ]])
**[[iエリア]]
**[[iモーション]]
**[[フルブラウザ]]
*'''[[iモードメール]]'''([[キャリアメール]])
**[[iショット]]
**[[iモーション|iモーションメール]]
**[[デコメール]]
**チャットメール - 複数のiモード加入者でリアルタイムにメールを送受信し、結果的に[[チャット]]のような機能を提供
**iモードメールplus
***デコメールピクチャ
***タイマーメール - iモード加入者へのメール送信予約機能
***フレンドメール - iモード加入者の[[メーリングリスト]]機能
**[[音声入力メール]]
**[[iモード.net]] - パソコンの {{lang|en|Mydocomo}} のサイトからiモードメールの送受信を行うことができる。新着確認ツールをパソコンにダウンロードをすれば、iモードメールの新着をパソコンで知ることができる。
***[[iモード.net#モバイルモード|iモード.netモバイルモード]]
*'''[[iアプリ]]'''
**[[携帯電話ゲーム]]・[[ソーシャルゲーム]]
**[[電子書籍]]
**[[携帯コミック]]
**[[地図アプリ]]
*'''[[iモードFelica]]'''
**[[トルカ]]
**[[iD (クレジット決済サービス)]]
**[[かざす請求書]] - ドコモの請求書や各種[[ファクタリング#収納代行|収納代行]]業者の払込票の情報を専用iアプリを経由してiモードFelicaに取り込み、対応しているコンビニエンスストアのFelica R/Wにかざすことで支払うことが可能なサービス。2012年3月31日終了。
*[[メロディコール]]([[オプションパック割引]])
*[[マチキャラ]]
*[[iチャネル]]
*[[iコンシェル]]
*[[ドコモ動画]]、<!--勝手サイトのためコメントアウト{{lang|en|[[YouTube]]}}、[[ニコニコ動画]]、-->[[BeeTV]]
*[[音楽配信]] - [[着うた]]・[[着うたフル]]
**[[Music&Videoチャネル|{{lang|en|Music&Video}}チャネル]]
**[[うた・ホーダイ]]
*'''[[dマーケット]]'''
*[[i Bodymo]]
*[[オートGPS]]
*[[iウィジェット]]
*[[ドコモコミュニティ]]([[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]])
*[[ドコモプレミアクラブ]]
*[[My docomo|eサイト]] - iモードのサイト上から料金プラン・割引サービス。オプションサービスの申込・変更・廃止、資料請求、クレジットカード等を使った料金の支払いといった手続きが可能。[[My docomo]]と同様のサービスを利用することができる。
*[[ドコモマイショップ]]
*[[ドコモケータイ払い]]
*[[combien]](コンビエン) - 月々のドコモ利用料金を請求書払いとしている契約者を対象に、請求書に代えて[[QRコード]]をam/pmやミニストップのレジに設置されたリーダーにかざすことで支払うことが可能なサービス。2012年2月29日終了。
*AOLi - 2001年2月から2004年8月まで[[ドコモ・エーオーエル|ドコモAOL]]が提供していた<code>[[AOL|スクリーンネーム]]@aol.com</code> ドメインの[[Webメール]]サービス。25000文字までの送受信に対応。設定により受信メールをiモードメール宛に先頭250文字まで転送することができた。
*[[ドコモWebメール]] - iモードメールとは別に[[goo]]のプラットフォームを利用した<code>xxx@dwmail.jp</code> ドメインのWebメールが利用できる。iモード、iアプリの他にPCからも利用が可能となり、[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]などのメールも統合ができる。
*[[ホームU]]
*[[ポケットU]]
==基本料金==
日本国内でiモードを利用する場合、以下の基本料金と端末別に設定されたパケット利用料金、アクセスするサイトによってはiモード情報料が必要となる。
[[iモード付加機能使用料]]は324円(本体価格300円)。[[2005年]][[11月1日]]に行われた統一プラン導入以来210円(本体価格200円)で設定されていたが、2008年6月分から315円(本体価格300円)に値上げした。movaサービスが終了した2012年3月31日までは{{lang|en|FOMA}}と{{lang|en|mova}}で共通だった。[[2014年]]4月分からは消費税増税により税込価格が324円となる。
[[2010年]]4月より[[ISPセット割]]の対象となり、[[spモード]]や{{lang|en|[[mopera]]}}と組み合わせて契約することで、300円~450円の割引となる。
==iモード端末一覧==
===日本国外発売端末===
*[[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]]
**[[K610im]]
*[[日本電気]]
**[[N223i]]
**[[N341i]]
**[[N411i]]
**[[N600i]]
*[[モトローラ]]
**[[Motorola SLVR L6|SLVR L6 {{lang|en|i-mode}}]]
**[[Motorola SLVR L7|SLVR L7 {{lang|en|i-mode}}]]
**[[Motorola RAZR V3|RAZR V3xx {{lang|en|i-mode}}]]
**[[E378i]]
*[[ノキア]]
**[[6120 classic|6120 {{lang|en|classic}}]]
**[[6124 classic|6124 {{lang|en|classic}}]]
**[[N70 i-mode|N70 {{lang|en|i-mode}}]]
**[[Nokia N73 Music Edition|{{lang|fi|Nokia}} N73 {{lang|en|Music Edition}}]]
**[[Nokia E65|{{lang|fi|Nokia}} E65]]
**2007年9月25日、NTTドコモは[[Series 60|S60]]({{lang|en|3rd Edition}})上で動作するiモード用アプリケーションソフトを開発し、日本国外の提携オペレータへ提供を開始したと発表した<ref>[https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/page/070925_00.html 報道発表資料 :新たな海外iモード対応端末ラインナップの展開について|お知らせ|NTTドコモ]</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0709/25/news084.html ドコモ、「S60」用のiモード環境を海外オペレータに提供 - ITmedia +D モバイル]</ref><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/36408.html ドコモ、ノキア「S60」でiモードが利用できるアプリ]</ref>。iモードブラウザとiモードメール、[[iアプリ]]、[[iモード.net]]、さらに[[iチャネル]]も利用できる。S60 {{lang|en|3rd Edition}} 搭載で、[[ノキア]]の[[NTTドコモ]]向け端末である[[NM705i]]にも搭載された。
*[[LG電子]]
**[[L342i]]
*[[Samsung|{{lang|ko-Latn|Samsung}}]]
**[[S342i]]
**[[S400i]]
**[[S410i]]
**[[S500i]]
**[[Z320i]]
*[[三菱電機]]
**[[M222i]]
日本での発売は {{lang|en|FOMA}}、{{lang|en|mova}} の端末一覧を参照。
==spモード==
{{main|spモード}}
[[spモード]]は2010年[[9月1日]]より提供が開始された、NTTドコモの[[スマートフォン]]向けに提供されている携帯電話IP接続サービスである。iモードとは別のインフラを利用しているが、一部重複している。
spモードを契約することにより、通常のiモードメールと同様に<code>@docomo.ne.jp</code> のドメインで、[[プッシュ型電子メール|プッシュメール]]、[[絵文字]]、[[デコメール]]などが利用可能となる。iモード解約と同時にspモードを契約すると、従来のiモードメールのアドレスを引き継ぐ形で設定できる。またiモードとspモードを重畳契約すると、<code>docomo.ne.jp</code> のアドレスを2つ持つことになるが、スマートフォンで2つ同時に利用できるわけでなく、1つのアドレスはiモード端末、もうひとつのアドレスはスマートフォンで[[ドコモUIMカード]]を差し替えることで利用が可能となる。またその2つのアドレスは切り替えることも可能である。
<!--
==各社インターネット接続サービス==
*{{lang|en|EZweb}} - [[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]] ([[au (携帯電話)|各auブランド]])<ref>かつては同KDDIの[[ツーカー]]ブランドも[[2008年]][[3月31日]]のサービス停波(終了)までこのインターネット接続サービスを展開していた。</ref>
*[[Yahoo!ケータイ|{{lang|en|Yahoo!}}ケータイ]] - [[ソフトバンクモバイル]]
*{{lang|en|[[EMnet]]}} - [[イー・モバイル]]
-->
==海外展開==
[[ファイル:I am faster than wap.jpg|thumb|ロンドン地下鉄に掲出されたキャッチコピー]]
日本国外版iモードでは、iモードメールを「{{lang|en|i-mode Mail}}」や「{{lang|en|i-mail}}」と呼ぶ。画像などを添付するとiMMSという名前になる。
2002年ごろからドコモは諸外国の携帯電話サービス会社に対してiモードの技術と権利を供与し始めたが、様々な原因から日本国外展開は苦戦を強いられた。iモードの国際共通化や事業の多角化のために実施した海外投資で1兆5000億円にも上る損失を計上した。
失敗原因のうち、日本人と諸外国人との携帯電話の使い方の違いが大きな理由として挙げられる。日本ではおサイフケータイなどの多機能化が進んだが、諸外国においては通話と[[ショートメッセージサービス|SMS]]を送受信が中心であり、携帯の使い方そのものが異なっていた。海外ではメールやネットはPCで行うのが一般的であり、携帯でメールを使用するのは {{lang|en|[[BlackBerry]]}} などを使用する一部のビジネスマンのみとなっていた。一般のユーザーが携帯でメールやネットブラウズを行うようになるのは、[[フルブラウザ|フルブラウズ]]が容易なインタフェースを強みとした {{lang|en|[[iPhone]]}} が登場してからである。なお当初ドコモはiPhone販売に消極的で、SIMフリーとなっても販売しないとし、その理由はiPhoneがiモードをサポートしないためだと言明していた<ref>[http://gigazine.net/news/20110617_docomo_iphone/ 【速報】NTTドコモが「{{lang|en|iPhone}}の提供は考えていない」と正式に回答]</ref>。
さらに携帯電話事業者が受け取るiモードの利益は、日本は10%であったのに対し海外では50%に上っていたことが、海外でのiモード不振に繋がったという意見がある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1111/08/news098_3.html 2次創作がコンテンツの寿命を延ばす──角川会長と川上会長が話す、ネット時代の電子書籍 (3/3) - ITmedia ニュース] 「プラットフォーマーはどうしても強くなってしまう。『iモード』モデルを世界に普及させた時、国内のNTTドコモの取り分は10%だったが、海外の事業者は50%取った。それが正しい配分だからだ。だがその結果、携帯コンテンツ文化が花開いたのは日本だけだった」</ref>。また、海外では日本のパケホーダイのような定額通信料プランが無かったため、「一体この通信で幾ら取られるのかわからない」という拒否感もiモードの発展を妨げた原因となった。
{{lang|en|iPhone}}発表で通信業界に台頭した米[[Apple]]社のビジネスモデルは、iモードのものと近いという指摘もある<ref>{{Cite web|和書|title=iPhone登場で僕がドコモでやるべきことは終わった。だから辞めた──ドワンゴ夏野氏|url=https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/17/022400046/042100030/|website=日経クロステック(xTECH)|accessdate=2021-02-03|language=ja|last=日経クロステック(xTECH)}}</ref><ref>{{Cite web|title=Where Are They Now? i-mode|url=https://www.zdnet.com/article/where-are-they-now-i-mode/|website=ZDNet|accessdate=2021-02-03|language=en|first=Diarmuid|last=Mallon}}</ref>。同社は2000年以降、後に[[iCloud]]となる[[MobileMe|iTools]]という自社製品ユーザー向け[[電子メール]]サービスを始め、{{lang|en|iPhone}}にはモバイルインターネット・コンテンツマーケット・課金徴収代行サービス([[App Store]])なども組み込んでいる。フルブラウズを可能とし、自前のメールサービスにこだわらず各個人が保有するメールアドレスを使うことも認め、自宅PCの環境をそのまま外に持ち出して使用できるようにしたことが{{lang|en|iPhone}}の人気の一因とされる。こういう経営判断はデバイスメーカーではないインフラ事業者としての立場をもつドコモには出来ない事であった。例えば、ドコモは通信品質やネットワークへのロードの考慮を最優先にする必要があった反面、アップルはあくまでも[[フリーライダー]]の立場であった。iモードの海外展開失敗とスマートフォンの台頭以降、通信キャリアの影響力は世界的に大きく減少している。
===各国の状況===
{{更新|date=2022-06}}
*[[遠伝電信]] - [[台湾]] サービス終了。
*[[ブイグテレコム]] - [[フランス]]
*[[テレフォニカ]] - [[スペイン]]サービス終了。
*{{lang|it|[[WIND]]}} - [[イタリア]] 同国第三位の携帯ブランドのWindが2003年に着手したが、ユーザーの伸び悩みから2009年12月をもって終了した。
*{{lang|ro|[[COSMOTE]]}} - [[ギリシャ]]、[[ルーマニア]] 2010年4月1日終了。
*[[テルストラ]] - [[オーストラリア]] 2007年終了<ref>[http://jp.reuters.com/article/technologyNews/idJPJAPAN-26921520070718 ドコモのiモード、豪英通信事業者がサービス終了]([[ロイター]]、2007年7月18日)</ref><ref>[https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/page/070717_02.html オーストラリアTelstra社のiモードサービス終了について<2007年7月17日>]</ref>。
*{{lang|en|[[O2 plc]]}} - [[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[ドイツ]] イギリスでは1000万[[スターリング・ポンド|ポンド]](約25億円)の投資に対して利用者はわずか26万人だったという<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/it/internet/66813 英国の「iモード」打ち切り方針 利用者低迷で]([[産経新聞]] 2007年7月18日付)</ref>。
*{{lang|nl|[[KPN]]}} - [[オランダ]] 2007年終了。
*[[スマート コミュニケーションズ]] - [[フィリピン]]
*[[スターハブ]] - [[シンガポール]]
*{{lang|bg|[[GLOBUL]]}} - [[ブルガリア]] 2010年4月1日終了。
*[[セルコム]] - [[イスラエル]]
*{{lang|ru-Latn|[[MTS]]}} - [[ロシア]] サービス終了。
*[[ハチソン・ワンポア|ハチソン]] - [[香港]]
*[[AT&Tモビリティ|AT&Tワイヤレス]] - [[アメリカ]] ドコモが大株主であった事情もあり、{{lang|en|AT&T}}ワイヤレス版のiモードであるm-modeを展開し始めていたが、立ち上がってほどなく{{lang|en|AT&T}}ワイヤレス自体がシンギュラーワイヤレスへの買収により消滅してしまった。
ある程度普及した数少ない例としてフランスがある。2002年4月に[[フランス]]の[[ブイグテレコム]]がiモードの導入を発表した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0204/17/09.html]</ref>。他のiモード導入企業の敗因を分析してNTTドコモを手本としたためシェアが低いキャリアであるにもかかわらず2年で85万契約を達成した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0412/02/news088.html][https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0412/01/news038.html]</ref>。同社のiモード本部長を務めたブノワ・ルヴェは成功の秘訣は「『ドコモに学べ』の一言に尽きる」と語っている。多くの国でi-modeを導入したキャリアは、i-modeで何が出来るのかを消費者に伝え切れていないとブイグテレコムは考えサービス内容を訴求する広告展開を行った事が普及に繋がった<ref>[https://www.icr.co.jp/newsletter/report_tands/2004/s2004TS178_2.html]</ref>。
ブイグテレコムで人気のコンテンツはゲーム、着メロ、壁紙、占い、天気予報、ニュースなどであり、日本と大差が無いことが要因となった。さらに日本とフランスで共通しているのは、[[WAP]]が導入されたにもかかわらず失敗して別のサービスを導入しているキャリアが存在することである。i-modeと[[Vodafone live!]]が競合していたのも日本と重なる。
また、フランス市場には[[インデックス・ホールディングス|インデックス]][http://www.index-hd.com/ir_news/?p=331]や[[ヤマハ]][https://www.itmedia.co.jp/mobile/0308/19/n_yamaha.html]などがコンテンツの供給を発表し、日本でいち早くモバイルコンテンツでのノウハウを身につけた日本企業にビジネスチャンスもあった。
===広告===
*[[ルノーF1]] - [[スペイン]]の[[テレフォニカ]]によって、[[2004年]]から[[2006年]]にかけスポンサーとして参加。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
==関連項目==
*[[携帯電話IP接続サービス]]
*[[フィーチャーフォン]] - [[日本における携帯電話]]
*[[ガラパゴス化]]
*[[ポータルサイト]]
*[[電子メール]]
*[[ウェブディレクトリ]]
*[[iモード絵文字]]
*[[コンテンツ管理システム]] (CMS)
*[[Lモード]]
*[[公式サイト (携帯電話)]]
*[[勝手サイト]]
*[[パケ死]]
*[[CiRCUS]]
*[[モバイルブラウザ]]
*[[iモード.net]]
*[[契約者固有ID]]
== 外部リンク ==
* [https://www.docomo.ne.jp/service/imode/ iモード|サービス・機能|NTTドコモ]
* [https://web.archive.org/web/20010604114011/http://www.nttdocomo.co.jp/i/index.html ドコモネット] - - [[ウェイバックマシン]](2001年6月4日アーカイブ分)
* [https://web.archive.org/web/20160105095409/http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/anohi/CK2008032802099049.html 1999年2月22日 『iモード』サービス開始 膨大な情報手のひらに]([[東京新聞]]、2008年3月28日) - [[ウェイバックマシン]](2016年1月5日アーカイブ分)
{{Docomoのサービス}}
{{DEFAULTSORT:あいもおと}}
[[Category:Iモード|*]]
[[Category:NTTドコモの歴史]]
[[Category:NTTグループの歴史]]
[[Category:携帯電話ブラウジング]]
[[Category:日本のギネス世界記録]]
[[Category:登録商標]] | 2003-03-23T17:38:58Z | 2023-11-04T14:03:31Z | false | false | false | [
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5,028 | ケイト・ブッシュ | ケイト・ブッシュ(Kate Bush、CBE、1958年7月30日 - )は、イングランド出身の女性シンガーソングライター。
同国を代表するアーティストの一人で、「嵐が丘」などの代表曲で知られる。長年の功績を称えられ、2013年に大英帝国勲章を叙勲した。
Q誌が選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第19位。
「ピンク・フロイド」のギタリスト デヴィッド・ギルモアに見出されレコード・デビュー。それ以前に自分で売り込んだ際には、レコード会社から見向きもされなかった。
デビュー当時は19歳ということもありアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開するアーティストとして確固たる評価を得た。英国音楽メディアのNMEやMOJOが「ロック史上、誰よりも大きな影響を与えてきた女性アーティスト」と評するなど、現在に至るまでイギリスを代表する女性アーティストとして活動を続けている。
ステージで歌唱する際はダンスやパントマイムなどの体技を交え、一種のパフォーマンスを展開することが多い(シャイな性格のためと言われる)。早い時期から凝った内容のプロモーション・ビデオも制作しており、音楽とビジュアルの融合にも意欲を見せていた。一方で、完成度の高い作品を志向しているためか、比較的寡作なミュージシャンである。
レコード・ジャケットに東洋風の絵柄を用いるなど、東洋の文化への興味が強いと言われる。1978年の東京音楽祭に出演するため日本を訪れたが、それ以降は来日の経験はない。諸説あるが飛行機による長旅を嫌っていることが一因らしい。
日本ではかつて放送されていた日本テレビのバラエティ番組『恋のから騒ぎ』のオープニング・テーマ曲に彼女の楽曲「嵐が丘」が長年使われていたことから、その歌声は広く知られている。
ケイト・ブッシュ(本名:キャサリン・ブッシュ)は1958年7月30日に英・大ロンドン(Greater London)ベクスレー区のベクスリーヒース(Bexleyheath)の比較的裕福な家庭に生まれた。父親ロバートは医師で、母親ハンナはアイルランド系の元看護師。ピアノが堪能な父、アイリッシュフォークの元ダンサーである母、詩人でありカメラマンでもある長兄ジョン、楽器メーカーに勤めていた次兄パディという音楽一家の中で育つ。兄たちは地元のフォークミュージックシーンに関与していた。なおパディは後にケイトのアルバムにも参加している。
ケイトが音楽に興味を持ち始めたのは1968年頃のこと。5歳の時一家でオーストラリアへ移住したが、1年程で英国へ戻って来た頃から父ロバートにピアノを習い始める。やがてカトリック系女子校のグラマー・スクールへ通う頃には多くの楽曲や詩を書き始め、同時にヴァイオリンや聖歌隊のレッスンにも励み、自らの芸術的な感性を磨いていった。
1974年、本格的に音楽の道へ進むことを決意したケイトは学校を中退し、ビリー・ホリデイやジョニ・ミッチェルなど自分のアイドルへ憧れながら音楽作りに専念。1975年に兄パディ達と共に「KT Bush Band」というバンドを結成し、パブへも出演するようになった。この時期に制作したデモテープが、やがてデヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)に見出される。
1976年、ロンドン郊外のフラットへ移り住んだケイトは、アダム・デューリアスによるマイムを教えるクラスへ入る。後にリンゼイ・ケンプへも弟子入し、約1年に渡りデビューの準備期間を過ごす。1977年に満を持してアーティストとして初の本格的なレコーディングを始める。 また、この時期にマイムのスクールでザイン・グリフやデヴィッド・ボウイらと交流し、その後グリフのアルバムへ参加している。
1977年11月、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』のTVドラマを見て作ったシングル「嵐が丘」 (Wuthering Heights)”でデビュー。いきなり全英4週連続一位を記録、同曲を収録したデビュー・アルバム『天使と小悪魔』 (The Kick Inside)も40万枚というセールスとなり、一躍大きな注目を集めた。
その後1978年に2ndアルバム『ライオンハート』 (Lionheart)を発表するも1枚目と同じく満足のいく仕上がりにはならなかったことから、自らも裏方の仕事であるプロデュースをしなければと決心する。この後、西ヨーロッパでツアーを行い(映像ソフトがその後1981年に発売)、1980年の3rdアルバム『魔物語』 (Never For Ever)では共同プロデュース、1982年に『ドリーミング』では録り直しをして膨大なレコーディング費用が掛かり、レコード会社から煙たがられた事もあったが単独プロデュース、1985年『愛のかたち』 (Hounds Of Love)も自らがプロデュースを行った。
1986年には初のベスト・アルバム『ケイト・ブッシュ・ストーリー』 (The Whole Story)を発表。またこの間にはピーター・ガブリエルやロイ・ハーパーなど英国の奇才ミュージシャンたちとの交流もあった。ベスト盤という区切りの後に彼女の新章を告げた作品が1989年発表の『センシュアル・ワールド』。これで初めてUSAでメジャーになった。ここでケイトはブルガリアン・ヴォイスの一員だった女性アンカ・ラプキーナ率いるトリオ・ブルガルカと共演。ボックス・セットの発売やエルトン・ジョンのトリビュート盤『トゥー・ルームス〜エルトン・ソングス』への参加を経て、次の彼女自身のオリジナル・アルバム『レッド・シューズ』が発表されたのが1993年のこと。ジェフ・ベックやエリック・クラプトン、プリンス(同い年のミュージシャン)などが参加した話題作だったが、母の死によってリリースが1年延びたものでもあった。アルバムは全英2位と好セールスを記録し、シングル・カットされた楽曲もそれぞれヒットした。
しかし、このアルバム以降のケイトはトリビュート作やチャリティ・アルバムへの参加、他アーティストの作品へのゲスト参加などはあるが、自身の作品をリリースすることなく90年代を終えた。
『レッド・シューズ』以降、オリジナルの新作が発表されないまま長い時間が経過し、ファンが待ち望む中で幾度か新作発表の情報が流れては消えた。ようやく新作の2枚組アルバム『エアリアル』が店頭に並んだのは、前作から12年ぶりとなる2005年11月7日(日本発売は11月2日)のことである。第一弾シングル「キング・オブ・ザ・マウンテン」も英チャート4位にランクイン。新作では休止期間中の1998年に生まれた息子アルバート(ケイト達はバーティと呼んでいる)のアートワークをフィーチャーする一方で、これまでになくやわらかい空気にあふれた世界を作り上げている。
2011年5月(日本では7月)には過去のアルバム『センシュアル・ワールド』『レッド・シューズ』の楽曲をセルフカバーした『ディレクターズ・カット』をリリース。前作より6年のブランクがあったものの、本国イギリスではチャート上で2位にランクインを果たした。同年11月23日には、6年ぶりとなる全新曲のアルバム『雪のための50の言葉』をリリース。10枚目のアルバムとなる本作は、全7曲、収録時間は約65分という大作となっている。
2013年4月、大英帝国勲章 CBEを受章する。
2014年8月 - 10月に、ロンドンで22日間に渡るコンサート「Before the Dawn」を開催。過去を含むアルバム11枚が同時に、全英アルバムチャートでTOP50入りする快挙を成し遂げる(女性アーティスト初)。
2016年12月、「Before the Dawn」の模様を収録したライブ・アルバムをリリース。
2022年6月、1985年にリリースされた楽曲「神秘の丘」が、Netflixのドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』で使用されたことを切っ掛けにリバイバル・ヒットし、2022年6月13日付けの全米シングル・チャート(ビルボードHot100)で4位を記録。また本国のイギリスでは、2022年6月17日付けの全英シングル・チャートで1位を記録した。2023年6月には、女性ソロアーティストが80年代にレコーディングした楽曲では初めてサブスクサービスSpotifyで再生回数10億回を突破し、自身のホームページを通じてケイトからリスナーへ向けて感謝のコメントが発表された。
2023年5月3日には、ロックの殿堂の主催者から、パフォーマー部門での殿堂入りが発表された。この出来事を受けて、自身のホームページを通じてケイトから感謝のコメントが発表された。 | [
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"text": "デビュー当時は19歳ということもありアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開するアーティストとして確固たる評価を得た。英国音楽メディアのNMEやMOJOが「ロック史上、誰よりも大きな影響を与えてきた女性アーティスト」と評するなど、現在に至るまでイギリスを代表する女性アーティストとして活動を続けている。",
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"text": "ケイト・ブッシュ(本名:キャサリン・ブッシュ)は1958年7月30日に英・大ロンドン(Greater London)ベクスレー区のベクスリーヒース(Bexleyheath)の比較的裕福な家庭に生まれた。父親ロバートは医師で、母親ハンナはアイルランド系の元看護師。ピアノが堪能な父、アイリッシュフォークの元ダンサーである母、詩人でありカメラマンでもある長兄ジョン、楽器メーカーに勤めていた次兄パディという音楽一家の中で育つ。兄たちは地元のフォークミュージックシーンに関与していた。なおパディは後にケイトのアルバムにも参加している。",
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"text": "1974年、本格的に音楽の道へ進むことを決意したケイトは学校を中退し、ビリー・ホリデイやジョニ・ミッチェルなど自分のアイドルへ憧れながら音楽作りに専念。1975年に兄パディ達と共に「KT Bush Band」というバンドを結成し、パブへも出演するようになった。この時期に制作したデモテープが、やがてデヴィッド・ギルモア(ピンク・フロイド)に見出される。",
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"text": "2023年5月3日には、ロックの殿堂の主催者から、パフォーマー部門での殿堂入りが発表された。この出来事を受けて、自身のホームページを通じてケイトから感謝のコメントが発表された。",
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] | ケイト・ブッシュは、イングランド出身の女性シンガーソングライター。 同国を代表するアーティストの一人で、「嵐が丘」などの代表曲で知られる。長年の功績を称えられ、2013年に大英帝国勲章を叙勲した。 Q誌が選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第19位。 | {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = ケイト・ブッシュ<br />{{lang|en|Kate Bush}}
| Img = Kate Bush 1981.jpg
| Img_size = 220px
| Img_capt = 1981年当時のフォト
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| Background = singer
| Birth_name = Catherine Bush<!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
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| School_background = <!-- 個人のみ -->
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}}
'''ケイト・ブッシュ'''('''Kate Bush'''、[[大英帝国勲章#コマンダー|CBE]]、[[1958年]][[7月30日]] - )は、[[イングランド]]出身の女性[[シンガーソングライター]]。
同国を代表するアーティストの一人で、「[[嵐が丘_(ケイト・ブッシュの曲)|嵐が丘]]」などの代表曲で知られる。長年の功績を称えられ、[[2013年]]に[[大英帝国勲章]]を叙勲した。
[[Q誌]]が選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第19位<ref>{{Cite web |url=http://www.rocklistmusic.co.uk/qlistspage3.htm#100%20Greatest%20Singers |title=Rocklist.net...Q Magazine Lists.. |work=Q - 100 Greatest Singers |date=2007-04 |accessdate=2013-05-21}}</ref>。
== 人物 ==
[[File:David Gilmour and stratocaster.jpg|thumb|left|170px|1970年代頃のデイヴ・ギルモア]]
「[[ピンク・フロイド]]」のギタリスト [[デヴィッド・ギルモア]]に見出されレコード・デビュー<ref>[https://www.universal-music.co.jp/kate-bush/biography/ ケイト・ブッシュBIOGRAPHY] - UNIVERSAL MUSIC JAPAN</ref>。それ以前に自分で売り込んだ際には、[[レコード会社]]から見向きもされなかった。{{要出典|date=2022年12月31日 (土) 20:22 (UTC)}}
デビュー当時は19歳ということもありアイドル的な見方もされたが、高い歌唱力をベースに高音から低音まで様々な声質を使い分け、トータルで独自の世界を展開する[[アーティスト]]として確固たる評価を得た。英国音楽メディアのNMEやMOJOが「'''ロック史上、誰よりも大きな影響を与えてきた女性アーティスト'''」と評するなど、現在に至るまでイギリスを代表する女性アーティストとして活動を続けている。{{要出典|date=2022年12月31日 (土) 20:22 (UTC)}}
ステージで歌唱する際は[[ダンス]]や[[パントマイム]]などの体技を交え、一種の[[パフォーマンス]]を展開することが多い(シャイな性格のためと言われる)。早い時期から凝った内容の[[ミュージック・ビデオ|プロモーション・ビデオ]]も制作しており、音楽とビジュアルの融合にも意欲を見せていた。一方で、完成度の高い作品を志向しているためか、比較的寡作なミュージシャンである。{{要出典|date=2022年12月31日 (土) 20:22 (UTC)}}
レコード・ジャケットに東洋風の絵柄を用いるなど、東洋の文化への興味が強いと言われる。[[1978年]]の[[東京音楽祭]]に出演するため[[日本]]を訪れたが、それ以降は来日の経験はない。諸説あるが[[飛行機]]による長旅を嫌っていることが一因らしい。{{要出典|date=2022年12月31日 (土) 20:22 (UTC)}}
日本ではかつて放送されていた[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のバラエティ番組『[[恋のから騒ぎ]]』のオープニング・テーマ曲に彼女の楽曲「[[嵐が丘_(ケイト・ブッシュの曲)|嵐が丘]]」が長年使われていたことから、その歌声は広く知られている<ref>[http://amass.jp/75519/ ケイト・ブッシュ「嵐が丘」のミュージックビデオを赤いドレスを着た300人のダンサー達が再現するトリビュート・イベントがカナダで開催] - amass</ref>。
== 来歴 ==
=== デビュー前 ===
'''ケイト・ブッシュ'''(本名:'''キャサリン・ブッシュ''')は1958年7月30日に英・[[大ロンドン]](Greater London)ベクスレー区のベクスリーヒース(Bexleyheath)の比較的裕福な家庭に生まれた。父親ロバートは[[医師]]で、母親ハンナは[[アイルランド系]]の元[[看護師]]。[[ピアノ]]が堪能な父、アイリッシュ[[フォークソング|フォーク]]の元ダンサーである母、[[詩人]]であり[[カメラマン]]でもある長兄ジョン、楽器メーカーに勤めていた次兄[[w:Paddy Bush|パディ]]という音楽一家の中で育つ。兄たちは地元の[[フォークミュージック]]シーンに関与していた。なおパディは後にケイトのアルバムにも参加している。
ケイトが[[音楽]]に興味を持ち始めたのは[[1968年]]頃のこと。5歳の時一家で[[オーストラリア]]へ移住したが、1年程で[[イギリス|英国]]へ戻って来た頃から父ロバートにピアノを習い始める。やがて[[カトリック教会|カトリック]]系女子校のグラマー・スクールへ通う頃には多くの楽曲や[[詩]]を書き始め、同時に[[ヴァイオリン]]や[[聖歌隊]]のレッスンにも励み、自らの芸術的な感性を磨いていった。
[[1974年]]、本格的に音楽の道へ進むことを決意したケイトは学校を中退し、[[ビリー・ホリデイ]]や[[ジョニ・ミッチェル]]など自分のアイドルへ憧れながら音楽作りに専念。[[1975年]]に兄パディ達と共に「KT Bush Band」というバンドを結成し、[[パブ]]へも出演するようになった。この時期に制作した[[デモテープ]]が、やがて[[デヴィッド・ギルモア]]([[ピンク・フロイド]])に見出される。
[[1976年]]、[[ロンドン]]郊外の[[集合住宅|フラット]]へ移り住んだケイトは、アダム・デューリアスによる[[パントマイム|マイム]]を教えるクラスへ入る。後に[[w:Lindsay Kemp|リンゼイ・ケンプ]]へも弟子入し、約1年に渡りデビューの準備期間を過ごす。[[1977年]]に満を持してアーティストとして初の本格的なレコーディングを始める。
また、この時期にマイムのスクールで[[ザイン・グリフ]]や[[デヴィッド・ボウイ]]らと交流し、その後グリフのアルバムへ参加している。
=== デビューから1990年代まで ===
1977年11月、[[エミリー・ブロンテ]]の小説『[[嵐が丘]]』のTVドラマを見て作ったシングル「[[嵐が丘 (ケイト・ブッシュの曲)|嵐が丘]]」 (Wuthering Heights)”でデビュー。いきなり全英4週連続一位を記録、同曲を収録したデビュー・アルバム『[[天使と小悪魔]]』 (The Kick Inside)も40万枚というセールスとなり、一躍大きな注目を集めた。
[[File:Kate bush 1978 1 (cropped).png|thumb|right|160px|活動初期(1978年)]]
その後[[1978年]]に2ndアルバム『[[ライオンハート (ケイト・ブッシュのアルバム)|ライオンハート]]』 (Lionheart)を発表するも1枚目と同じく満足のいく仕上がりにはならなかったことから、自らも裏方の仕事であるプロデュースをしなければと決心する。この後、西ヨーロッパでツアーを行い(映像ソフトがその後1981年に発売)、1980年の3rdアルバム『[[魔物語 (アルバム)|魔物語]]』 (Never For Ever)では共同プロデュース、[[1982年]]に『[[ドリーミング (ケイト・ブッシュのアルバム)|ドリーミング]]』では録り直しをして膨大なレコーディング費用が掛かり、レコード会社から煙たがられた事もあったが単独プロデュース、1985年『[[愛のかたち (ケイト・ブッシュのアルバム)|愛のかたち]]』 (Hounds Of Love)も自らがプロデュースを行った。
[[1986年]]には初のベスト・アルバム『ケイト・ブッシュ・ストーリー』 (The Whole Story)を発表。またこの間には[[ピーター・ガブリエル]]や[[ロイ・ハーパー]]など英国の奇才ミュージシャンたちとの交流もあった。ベスト盤という区切りの後に彼女の新章を告げた作品が[[1989年]]発表の『センシュアル・ワールド』。これで初めてUSAでメジャーになった。ここでケイトはブルガリアン・ヴォイスの一員だった女性アンカ・ラプキーナ率いるトリオ・ブルガルカと共演。ボックス・セットの発売や[[エルトン・ジョン]]のトリビュート盤『トゥー・ルームス〜エルトン・ソングス』への参加を経て、次の彼女自身のオリジナル・アルバム『レッド・シューズ』が発表されたのが[[1993年]]のこと。[[ジェフ・ベック]]や[[エリック・クラプトン]]、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]](同い年のミュージシャン)などが参加した話題作だったが、母の死によってリリースが1年延びたものでもあった。アルバムは全英2位と好セールスを記録し、シングル・カットされた楽曲もそれぞれヒットした。
しかし、このアルバム以降のケイトはトリビュート作やチャリティ・アルバムへの参加、他アーティストの作品へのゲスト参加などはあるが、自身の作品をリリースすることなく[[1990年代|90年代]]を終えた。
=== 2000年代以降 ===
『レッド・シューズ』以降、オリジナルの新作が発表されないまま長い時間が経過し、ファンが待ち望む中で幾度か新作発表の情報が流れては消えた。ようやく新作の2枚組アルバム『[[エアリアル (アルバム)|エアリアル]]』が店頭に並んだのは、前作から12年ぶりとなる[[2005年]][[11月7日]](日本発売は[[11月2日]])のことである。第一弾シングル「キング・オブ・ザ・マウンテン」も英チャート4位にランクイン。新作では休止期間中の[[1998年]]に生まれた息子アルバート(ケイト達はバーティと呼んでいる)のアートワークをフィーチャーする一方で、これまでになくやわらかい空気にあふれた世界を作り上げている。
[[2011年]]5月(日本では7月)には過去のアルバム『センシュアル・ワールド』『レッド・シューズ』の楽曲を[[セルフカバー]]した『ディレクターズ・カット』をリリース。前作より6年のブランクがあったものの、本国イギリスではチャート上で2位にランクインを果たした。同年11月23日には、6年ぶりとなる全新曲のアルバム『雪のための50の言葉』をリリース。10枚目のアルバムとなる本作は、全7曲、収録時間は約65分という大作となっている。
[[2013年]]4月、[[大英帝国勲章#コマンダー|大英帝国勲章 CBE]]を受章する<ref>[http://amass.jp/15743/ ケイト・ブッシュが大英帝国勲章CBEを2013年1月に受章] - amass</ref>。
[[File:Kate Bush and Mino Cinelu. BTD, London September 20, 2014.jpg|thumb|right|200px|UK.ロンドン公演(2014年10月)]]
[[2014年]]8月 - 10月に、ロンドンで22日間に渡るコンサート「Before the Dawn」を開催<ref>[http://amass.jp/44593/ ケイト・ブッシュが35年ぶりのライヴをロンドンで開催] - amass</ref>。過去を含むアルバム11枚が同時に、[[全英アルバムチャート]]でTOP50入りする快挙を成し遂げる(女性アーティスト初)<ref>[http://amass.jp/44806/ ケイト・ブッシュのアルバム8枚が英国アルバム・チャートでTOP40入り、女性アーティスト初] - amass</ref>。
[[2016年]]12月、「Before the Dawn」の模様を収録したライブ・アルバムをリリース<ref>[http://amass.jp/78792/ ケイト・ブッシュ 2014年ロンドン公演のライヴ・アルバム『Before The Dawn』をリリースへ] - amass</ref>。
[[2022年]]6月、1985年にリリースされた楽曲「[[神秘の丘]]」が、[[Netflix]]のドラマ『[[ストレンジャー・シングス 未知の世界]]』で使用されたことを切っ掛けにリバイバル・ヒットし、2022年6月13日付けの全米シングル・チャート([[Billboard Hot 100|ビルボードHot100]])で4位を記録<ref>[https://www.billboard.com/music/chart-beat/harry-styles-sixth-week-hot-100-kate-bush-top-five-1235086411/]Harry Styles’ ‘As It Was’ Keeps Atop Billboard Hot 100, Kate Bush’s ‘Running Up That Hill’ Hits Top Five - Billboard 2022/7/3</ref>。また本国のイギリスでは、2022年6月17日付けの全英シングル・チャートで1位を記録した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000221348]全英シングル・チャート、ケイト・ブッシュの「Running Up That Hill」が2週目の1位 BARKS 2022/7/3</ref>。2023年6月には、女性ソロアーティストが80年代にレコーディングした楽曲では初めて[[音楽配信#定額制音楽配信|サブスク]]サービス[[Spotify]]で再生回数10億回を突破し、自身のホームページを通じてケイトからリスナーへ向けて感謝のコメントが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000235954 |title=ケイト・ブッシュ、Spotifyでの記録に「ありがとう!」 |publisher=[[BARKS]] |accessdate=2023-06-23}}</ref>。
[[2023年]][[5月3日]]に[[ロックの殿堂]]パフォーマー部門に選出されことが主催者より発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://amass.jp/166459/ |title=2023年ロックの殿堂入り発表 ケイト・ブッシュ、シェリル・クロウ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ジョージ・マイケル他 |publisher=amass.jp |accessdate=2023-05-04}}</ref>。これを受けてケイトも自身のホームページを通じて、感謝のコメントを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000233583 |title=ケイト・ブッシュ、ロックの殿堂入りにコメント |publisher=[[BARKS]] |accessdate=2023-05-04}}</ref>。ただし、11月3日にアメリカ・ニューヨークで開催されたロックの殿堂の式典には「残念ながら、今夜のセレモニーには出席できない」との声明を発表し欠席した。出席しなかった詳細な理由は明かされていない<ref>{{Cite web |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000241658 |title=ケイト・ブッシュ、ロックの殿堂式典を欠席 |publisher=[[BARKS]] |date=2023-11-06 |accessdate=2023-11-06}}</ref>。
== ディスコグラフィ ==
=== オリジナル・アルバム ===
*『[[天使と小悪魔]]』 - ''The Kick Inside'' (1978年)
*『[[ライオンハート (ケイト・ブッシュのアルバム)|ライオンハート]]』 - ''Lionheart'' (1978年)
*『[[魔物語 (アルバム)|魔物語]]』 - ''Never for Ever'' (1980年)
*『[[ドリーミング (ケイト・ブッシュのアルバム)|ドリーミング]]』 - ''The Dreaming'' (1982年)
*『[[愛のかたち (ケイト・ブッシュのアルバム)|愛のかたち]]』 - ''Hounds Of Love'' (1985年)
*『[[センシュアル・ワールド]]』 - ''The Sensual World'' (1989年)
*『[[レッド・シューズ]]』 - ''The Red Shoes'' (1993年)
*『[[エアリアル (アルバム)|エアリアル]]』 - ''Aerial'' (2005年)
*『[[ディレクターズ・カット (ケイト・ブッシュのアルバム)|ディレクターズ・カット]]』 - ''Director's Cut'' (2011年)
*『[[雪のための50の言葉]]』 - ''50 Words for Snow'' (2011年)
=== ライブ・アルバム ===
*『ライヴ・アット・ハマー・スミス・オデオン』 - ''Live at Hammersmith Odeon'' (1994年) ※映像版がベースだが、CDも発売されている。
*『[[ビフォア・ザ・ドーン - 夜明け前]]』 - ''Before the Dawn'' (2016年)
=== コンピレーション ===
* ''The Single File 1978-1983'' (1984年) ※シングル集。同名の映像版(PV集)もある。
*『[[ケイト・ブッシュ・ストーリー]]』 - ''The Whole Story'' (1986年) ※ベスト盤
=== ボックスセット ===
*『[[ディス・ウーマンズ・ワークス]]』 - ''This Woman's Work: Anthology 1978–1990'' (1990年)
:『センシュアル・ワールド』までのオリジナル・アルバム6枚と『This Woman's Work: Volume One』『This Woman's Work: Volume Two』と題したシングル等のコンピレーション盤2枚をまとめた8枚組ボックス。
* KATE BUSH REMASTERED PART 1(2018年11月16日)
:デビュー作『天使と小悪魔 (The Kick Inside)』~'93年リリース『レッド・シューズ (Red Shoes)』までのオリジナル・アルバムに、ケイト本人とジェームス・ガスリーによる最新リマスタリングを施したCDボックスセット<ref>{{Cite web|和書|url=https://wmg.jp/kate-bush/news/82254/ |title=ケイト・ブッシュのスタジオ・アルバムの初リマスター音源が遂に登場! |publisher=[[ワーナーミュージック・ジャパン]] |accessdate=2018-12-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://wmg.jp/kate-bush/news/82505/ |title=ケイト・ブッシュ リマスター音源リリース第一弾 本日発売! |publisher=[[ワーナーミュージック・ジャパン]] |accessdate=2018-12-10}}</ref>。
* KATE BUSH REMASTERED IN VINYL 1(2018年11月16日)
:上記、最新リマスタリングCDボックスの内、デビュー作『天使と小悪魔 (The Kick Inside)』~『ドリーミング (The Dreaming)』までの作品をアナログLP化し、ボックスとしてリリースしたもの。
* KATE BUSH REMASTERED IN VINYL 2(2018年11月16日)
:上記、最新リマスタリングCDボックスの内、『愛のかたち (Hounds Of Love)』~『レッド・シューズ (Red Shoes)』までの作品をアナログLP化し、セットにしたもの。
* KATE BUSH REMASTERED PART 2(2018年11月30日)
:2000年リリース『エアリアル (Aerial)』~2011年リリース『雪のための50の言葉 (50 Words For Snow)』までのオリジナル・アルバムに加え、最新ライブ・アルバム『BEFORE THE DAWN』、4枚のレア音源集(『12” MIXES』、『THE OTHER SIDE 1』、『THE OTHER SIDE 2』、『IN OTHERS’ WORDS』)がセットになったCDボックスセット。こちらのセットもケイトとジェームス・ガスリーによる最新リマスタリング音源にて収録。また、ライブ・アルバム『BEFORE THE DAWN』はCDボックスのみに収録。
* KATE BUSH REMASTERED IN VINYL 3(2018年11月30日)
:上記、最新リマスタリングCDボックスの内、『エアリアル』~『雪のための50の言葉』をアナログLP化し、セットにしたもの。
* KATE BUSH REMASTERED IN VINYL 4(2018年11月30日)
:上記、最新リマスタリングCDボックスの内、4枚のレア音源集をアナログLP化し、セットにしたもの。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
*[http://www.katebush.com/ 公式サイト]{{en icon}}
*[https://wmg.jp/kate-bush/ ワーナーミュージック・ジャパン|ケイト・ブッシュ]{{ja icon}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふつしゆ けいと}}
[[Category:イングランドのシンガーソングライター]]
[[Category:イングランドのポップ歌手]]
[[Category:イングランドのロック歌手]]
[[Category:女性シンガーソングライター]]
[[Category:女性ロック歌手]]
[[Category:EMIグループのアーティスト]]
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5,030 | フジニュースネットワーク | フジニュースネットワーク(英: Fuji News Network、略称:FNN)は、フジテレビ(CX)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。
なお、一般に本項で解説するFNNと、別項で解説する番組供給ネットワークのFNS(フジネットワーク)とを合わせてフジテレビ系列という(FNN、FNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。
1966年10月3日に発足。初期のネットはフジテレビ、仙台放送、東海テレビ、関西テレビ、テレビ西日本の5局だった。
元々フジテレビのニュースは、共同通信社やフジテレビ、日本教育テレビ(略称NET、現在のテレビ朝日)、中部日本新聞社ならびに地方民放テレビ各局が共同で設立した共同テレビジョンニュース社(現在の共同テレビジョン)から、ニュース番組『共同テレニュース』を購入する事で対処する事となっていた。
まもなくNETが抜け、全国向け発局がフジテレビに決まったため、共同テレニュースは、事実上フジ系のニュース番組としてスタートした。共同テレビがニュースを制作して、放送する各局がその番組を購入することで制作費を回収する方法を採ったが、共同通信社をバックにニュースを取材し制作する共同テレビと、番組を放送し送り出すフジテレビとの間で編集面で対立するなど二元制による弊害が生じることとなり、やがて1960年に共同通信社等が共同テレビから手を引き、フジテレビ傘下となって事実上報道制作部門の一体化が進んだ。
しかしながら、テレビネットワーク政策面でネットワークニュースが重視され、フジテレビ系列各局もネットワークニュースを共同制作することとなり、FNNが結成された。なお、共同テレビニュース社による制作は翌1967年9月、報道部門をフジテレビへ移管するまで続いた。
現在、フルネット局26局、クロスネット局2局(テレビ大分、テレビ宮崎)が加盟している。加盟局数はNNN(日本テレビ系列)、JNN(TBS系列)についで3番目に多い。なお、青森県、山梨県、山口県、徳島県にはFNN(FNS)加盟局が存在しない。
1990年から2005年までの15年間、配信元の系列局名の表記テロップを出していた。なお情報番組では制作協力扱いとなっている。
[凡例] FNN 関西テレビ (1990年〜1997年) 、関西テレビ (上部) FNN Fuji News Network (下部) (1997年〜2005年)
フジテレビの系列新聞である産業経済新聞社(産経新聞社)が、各地方のブロック紙新聞社(北海道新聞社・中日新聞社・西日本新聞社)と取材・紙面の印刷等で提携していることから、FNN(FNS)加盟局にはブロック紙系列の局が多い。
また、現在FNN(FNS)に加盟している放送局は、全てテレビ単営局である。
ちなみに、FNN(FNS)の基幹局はフジテレビ、北海道文化放送、仙台放送、テレビ静岡、東海テレビ、関西テレビ、テレビ新広島、テレビ西日本の8局。
FNN(FNS)加盟局のうち、フジテレビの完全親会社である放送持株会社「フジ・メディア・ホールディングス」の連結子会社として仙台放送が、持分法適用関連会社として、北海道文化放送、岩手めんこいテレビ、秋田テレビ、福島テレビ、NST新潟総合テレビ、長野放送、関西テレビ、岡山放送、テレビ新広島、沖縄テレビの11局がある。
これとは別に、番組供給を目的としたネットワークとしてフジネットワーク(Fuji Network System:FNS)がある。
地上デジタル放送のリモコンキーIDは、東海テレビ・サガテレビ・クロスネット2局を除き、各局「8」で統一されている。東京キー局のフジテレビ、大阪準キー局の関西テレビがともにアナログ親局8chであることに由来する。また、沖縄テレビのアナログ親局も8chである。なお、リモコンキーIDに「8」を使用しない局のうち、「1」の東海テレビのみアナログ親局のチャンネル番号を引き継いだ。
ロゴマークの書体は記事の冒頭に掲載されている斜字風の「FNN」で定まっている反面色は他系列と違って正式には定まっていない。2023年4月時点では灰色(「FNN」)、または水色(「FNN」)で表示されていることが多く見られる。2023年4月現在では黒色と全色で表示されている(「FNN」)。
この表は、地域や都道府県の配列に際し、日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
●印は加盟当時メインネットであった。
2021年7月現在。海外支局は名目上、全支局フジテレビが開設していることになっているが、実際はフジテレビジョンを中心に関西テレビ放送、東海テレビ放送、テレビ静岡、テレビ西日本など基幹局が設置し、ネットワーク基金(「FNN基金」)などを用いて加盟各局で開設・運営を分担している。
記者の派遣は、実際の開設局以外からも行われている。開設局が地方局の場合でも、特派員はフジテレビに出向せず、出身局社員の肩書のままで活動する。名刺を使用する場合はFNNのロゴと出身局名を併記した特注の物を出身局が用意する。
選挙、台風、地震・北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)などのほか、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。
こうした災害に対する対応にフジテレビをはじめとするFNN各局では万一の災害に備え、日頃より首都直下型地震を想定した大規模な災害放送訓練が毎年実施されている。事例として2013年11月9日に関西テレビを発災局とし、南海トラフ巨大地震を想定した疑似特番を編成、系列局との連携や災害時の放送での協力体制の確認、災害時における取材手段、伝送手段などの訓練のほか、取材班と小型衛星伝送装置を搬送道路の遮断を想定した被災地の最寄り地点までヘリコプターで搬送し被害の様相を伝える訓練や、大阪府庁の新災害対策本部からの中継、報道局員による技術スタッフを同伴しない形でのミニ中継車による訓練がそれぞれ行われた。
また、関西テレビでは取材・放送対象地域内にとどまらず被災した放送局への支援や全国放送のサポートにも取り組んでおり、事例として2013年9月6日・7日にはフジテレビとの合同により東京湾で首都直下型地震が発生したことを想定した大規模な災害放送訓練を実施。フジテレビが報道特別番組の放送中に津波などの災害等により同局本社が被災し送出機能を喪失したことでテレビ放送のブラックアウトが発生、関西テレビを発局とした上で全国ネットによる報道特番を継続し、全国ネットでのCMを同局から代替送出した上で全国ネット番組を復帰し、フジテレビ報道センターをはじめ、湾岸スタジオ屋上からの伝送、関西テレビとフジテレビ新宿支局(東京都新宿区)による連絡のやり取りを通じた災害リポートの放送や、関西テレビ内での全国ネット・関東ローカルのタイムテーブルと放送データの作成、それを通じた必要な素材の伝送の手配を行うなど、こうした実際の災害発生を意識した訓練や各地の放送局へのサポートといった施策が行われている。
このほか災害時には前述のフジテレビ・関西テレビのほかNST新潟総合テレビ、長野放送、テレビ新広島、岡山放送、高知さんさんテレビの5局にも参加し、災害時の各局の連携をより円滑に行えるかの検証も実際された。
開票状況を伝える特別番組を放送。
震度3以上を観測した揺れについてはニュース速報(フジテレビでの画面表示では「FNN地震情報」「FNN津波情報」「FNNニュース速報」「特別警報」「【○○五輪速報】」等となる。上下に横線あり)の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える(震度は色分けで表示)。
規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の措置をとる。特に大きい津波が襲来する恐れのある地震の時(について)は、FNN津波情報(緊急地震速報)のテロップが流れる。緊急地震速報や大津波警報、津波警報、津波注意報の地図テロップは、地上波(関東ローカル)・BS・CS全波で同時に表示される。ただし、緊急地震速報は関東地方で強い揺れが予測されない場合はBS・CSのみで表示となる。緊急地震速報のチャイム音は地上波(関東ローカル)・BS・CS全波共通でNHKと同じチャイム音を2回鳴らしている。生放送のニュース番組放送中に緊急地震速報が発表された場合は原則として番組内のテロップで「緊急地震速報発令中」と表示される。
なお、FNN速報テロップの表示は2023年4月現在、関東ローカル地上波(フジテレビ)の他、BSフジ、CS放送のフジテレビONE・TWO・NEXT等の全てにおいて、文字フォントが平成角ゴシック体であり、速報チャイムにおいては、「ポロロロローン...ポロロロローン...」というような独特の音色が使用されている(ただし、CSではニュース・地震を問わず速報チャイムは鳴らしていない)。これはフジテレビの送出マスターが地上波・BS・CSの統合型である為。自局運営(委託分を含む)による地上波・衛星波の全てのチャンネルで速報テロップ表示を行っているのはNHK(緊急地震速報、地震情報のみ国際放送を除く全波で表示)とフジテレビのみである。
速報テロップにおいては、全国規模の状況(地震や津波の被害状況)によってはBSフジ、CS放送のフジテレビONE・TWO・NEXT等でも同時に表示されることがある。なお、フジテレビONE・TWO等では地上波・BSフジよりサイズが小さめである上、表示位置も若干下がっている(スカパー!プレミアムサービスの標準画質放送で4:3サイズに拡大して放送していることに配慮していると見られる)。
ちなみに速報チャイムに関しては、1996年3月以前は「ピピピ...ピピピ...ピピピ...」の3音のチャイムが使用されていた。1996年4月から2011年4月20日までの間は「ポーン ポーン」(デジタル放送受信機の音とほぼ同じ、低音で)の2音のチャイムであった。2010年夏よりNHK・民放共通で使用されているデジタル放送受信機内蔵音における緊急地震速報のチャイム(地上デジタルのみ)と紛らわしいという声があった為、2011年4月21日以降からは現在の速報チャイムに切り替わっている。
気象情報、氾濫危険情報のテロップの時は、かつてはチャイムは鳴らないままテロップだけが表示されていたが、2021年6月に気象庁が顕著な大雨に関する情報を開始して以降はチャイムを鳴らしている。
台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。 | [
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] | フジニュースネットワークは、フジテレビ(CX)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。 なお、一般に本項で解説するFNNと、別項で解説する番組供給ネットワークのFNS(フジネットワーク)とを合わせてフジテレビ系列という(FNN、FNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。 | [[ファイル:FNN logo.svg|230px|thumb|FNNの正式なロゴ(1966年 - )<br />後述の新ロゴマークが登場した後も2021年一杯は日曜朝及びレギュラー番組休止分の「FNNニュース」ではこのロゴが使われた。2023年4月現在もニュース速報(フジテレビやBSフジ及びフジテレビワンツーネクスト(CS)等の場合)と、投稿サイトのFNNビデオPostや、『[[プライムオンラインTODAY]]』の協力クレジット、『[[BSフジLIVE プライムニュース]]』の最新ニュース時の見出し等ではは引き続きこのロゴを使用している。日曜朝のFNNニュースのタイトル差し替えを行う大半の系列局では2022年1月以降も見る事が出来る。|代替文=FNN初代ロゴマーク]]
[[ファイル:FNN logo 2018-.svg|230px|thumb|FNN2代目ロゴマーク。地上波版「プライムニュース」ブランドが展開された2018年度から大半の番組([[めざましテレビ]]や国会記者会館からの中継等初代ロゴと並列で使用)や<br />フジテレビのニュースページ「FNN PRIME→FNNプライムオンライン」に登場。のちにフジテレビニューススタジオのロゴもこれに変更され2021年 - 22年のレギュラー番組冬休み期間に放送のFNNニュースからは番組タイトルロゴにも登場し2022年1月9日から通年放送の日曜朝のFNNニュースのタイトルロゴもこのロゴに変更された。|代替文=FNN2代目ロゴマーク]]
'''フジニュースネットワーク'''({{lang-en-short|''Fuji News Network''}}、略称:'''FNN'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211220-JPO4EAWVCFP7ZJYJPMA45VXUSE/|title=続く内閣の高支持率、弱い野党も後押し|publisher=産経ニュース|date=2021-12-19|accessdate=2021-12-20}}</ref>)<!--この項目自体についてリンクをはるのはおかしいかと。-->は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]](CX)を[[キー局]]<!--冒頭での準キー局・基幹局の記述はいらないかと-->とする、[[日本国|日本]]の[[民間放送|民放テレビ局]]の[[ニュース系列|ニュースネットワーク]]である。
なお、一般に本項で解説するFNNと、別項で解説する[[番組供給系列|番組供給ネットワーク]]の[[フジネットワーク|FNS(フジネットワーク)]]とを合わせて'''[[フジテレビ系列]]'''という(FNN、FNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。
== 概説 ==
[[1966年]][[10月3日]]に発足。初期のネットは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[仙台放送]]、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、[[テレビ西日本]]の5局だった<ref>{{Cite|和書|author=フジ・メディア・ホールディングス|title=フジテレビジョン開局50年史|date=2009|pages=77}}</ref><ref>{{Cite|和書|author=東海テレビ放送/編集|title=東海テレビ放送開局50年史 つたえるつなぐ|date=2009|pages=55}}</ref>。
元々フジテレビのニュースは、[[共同通信社]]やフジテレビ、日本教育テレビ(略称NET、現在の[[テレビ朝日]])、[[中日新聞社|中部日本新聞社]]ならびに地方民放テレビ各局が共同で設立した'''共同テレビジョンニュース社'''(現在の[[共同テレビジョン]])から、ニュース番組『'''[[共同テレニュース]]'''』を購入する事で対処する事となっていた。
まもなくNETが抜け、全国向け発局がフジテレビに決まったため、共同テレニュースは、事実上フジ系のニュース番組としてスタートした。共同テレビがニュースを制作して、放送する各局がその番組を購入することで制作費を回収する方法を採ったが、共同通信社をバックにニュースを取材し制作する共同テレビと、番組を放送し送り出すフジテレビとの間で編集面で対立するなど二元制による弊害が生じることとなり、やがて1960年に共同通信社等が共同テレビから手を引き、フジテレビ傘下となって事実上報道制作部門の一体化が進んだ。
しかしながら、テレビネットワーク政策面でネットワークニュースが重視され、フジテレビ系列各局もネットワークニュースを共同制作することとなり、FNNが結成された。なお、共同テレビニュース社による制作は翌[[1967年]]9月、報道部門をフジテレビへ移管するまで続いた。
現在、[[フルネット局]]26局、[[クロスネット局]]2局([[テレビ大分]]、[[テレビ宮崎]]<ref group="注釈" name="UMK">2023年4月現在のNNN加盟局数は30局で、NNNの一般番組供給ネットワークである「日本テレビネットワーク協議会(NNS)」には29局が加盟している。テレビ宮崎はNNNには加盟しているものの、'''NNSには加盟していない'''。</ref>)が加盟している。加盟局数は[[日本ニュースネットワーク|NNN]](日本テレビ系列)<ref group="注釈" name="UMK"/>、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN(TBS系列)]]についで3番目に多い。なお、[[青森県]]、[[山梨県]]、[[山口県]]、[[徳島県]]にはFNN(FNS)加盟局が存在しない。
[[1990年]]から[[2005年]]までの15年間、配信元の系列局名の表記テロップを出していた。なお情報番組では制作協力扱いとなっている。<ref group="注釈">『[[めざましテレビ]]』シリーズ、『[[情報プレゼンター とくダネ!|とくダネ!]]』等では画面の右上か左下に制作協力の系列局(呼称)を表示。</ref>
[凡例] FNN 関西テレビ (1990年〜1997年) 、関西テレビ (上部) FNN Fuji News Network (下部) (1997年〜2005年)
フジテレビの系列新聞である[[産業経済新聞社]](産経新聞社)が、各地方の[[ブロック紙]]新聞社([[北海道新聞社]]・[[中日新聞社]]・[[西日本新聞社]])と取材・紙面の印刷等で提携していることから、FNN(FNS)加盟局にはブロック紙系列の局が多い。<ref group="注釈">新聞番組表においても、直系メディアである[[産経新聞]]が、[[関東地方]]・[[近畿地方]]・[[九州地方]]・[[山口県]]を除く各地で、民放の最初に掲載している他、[[北海道新聞]]が北海道文化放送、[[西日本新聞]]も各県それぞれのFNS系列局(例・福岡県=テレビ西日本、熊本県=テレビ熊本、大分県=テレビ大分など)を最初に掲載している。例外として、関東広域圏・近畿広域圏は([[地上アナログ放送]])のチャンネル順、(※但し、関東地方の産経新聞では2011年7月24日の地デジ完全移行に伴う番組表刷新で地デジのリモコンキーID順に変更された。)東海地方の中日新聞は中日資本での開局順として[[中部日本放送|CBC]]の次で東海テレビ放送、九州・山口の産経新聞は[[毎日新聞]]に印刷工場での印刷委託を行っていることに配慮するのと、準広域版で掲載しているため[[RKB毎日放送|RKB毎日]]の次にTNCを掲載。TNC以外の九州各系列局はハーフサイズ以下での掲載となっている。但し、「九州版」と「[[北九州都市圏|北九州]]・大分・山口版」では掲載局が異なる場合がある。</ref>
また、現在FNN(FNS)に加盟している放送局は、全てテレビ単営局である。<ref group="注釈">ちなみに、[[ニッポン放送]]はフジテレビ、東海テレビは[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]の元子会社(現在はニッポン放送はフジテレビの兄弟会社、東海テレビは東海ラジオの関連会社)ではあるが、これらのラジオ局とも設立当初からテレビ局とは別法人のため、ラテ兼営局とはみなされていない。ただし、東海ラジオは、社屋の共有や、イベントを共同で協賛・後援している点等から、親子関係ではなくなった今でも東海テレビとの繋がりは強い。</ref><ref group="注釈">また、近畿広域圏には、産経資本のラジオ局・[[大阪放送|ラジオ大阪(OBC)]]が存在するが、同じく産経資本のあるテレビ局・関西テレビとは、こちらも設立当初から別法人のため、ラテ兼営局とはみなされていない。なお、関西テレビとラジオ大阪は、[[上方漫才大賞]]や[[大阪国際女子マラソン]]を共同で主催している。</ref><ref group="注釈">同様に加盟している放送局は、全てテレビ単営局でラテ兼営局が一切存在しないのはほかに[[TXN]]も存在する。</ref>
ちなみに、FNN(FNS)の基幹局はフジテレビ、[[北海道文化放送]]、仙台放送、[[テレビ静岡]]、東海テレビ、関西テレビ、[[テレビ新広島]]、テレビ西日本の8局。
{{色}}
[[ファイル:FNN ID map (ja).png|thumb|right|300px|FNN系列の[[リモコンキーID]]地図 [[水色]]{{color|#08E8E8|■}}:8 [[赤]]{{color|#C7000B|■}}:1 [[紫]]{{color|#AD65A0|■}}:3 [[橙色|橙]]{{color|#EC850E|■}}:4 白{{color|white|■}}:なし]]
FNN(FNS)加盟局のうち、フジテレビの完全親会社である[[放送持株会社]]「[[フジ・メディア・ホールディングス]]」の[[連結子会社]]として仙台放送が、[[持分法適用関連会社]]として、北海道文化放送、[[岩手めんこいテレビ]]、[[秋田テレビ]]、[[福島テレビ]]、[[NST新潟総合テレビ]]、[[長野放送]]、関西テレビ、[[岡山放送]]、テレビ新広島、[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]の11局がある。<ref>[http://www.c-direct.ne.jp/public/japanese/uj/pdf/10114676/20120515204220.pdf フジ・メディア・ホールディングス 平成24年3月期決算資料より]</ref>
これとは別に、番組供給を目的としたネットワークとして[[フジネットワーク|フジネットワーク(Fuji Network System:FNS)]]がある。
[[地上デジタルテレビジョン放送|地上デジタル放送]]の[[リモコンキーID]]は、東海テレビ・サガテレビ・クロスネット2局を除き、各局「'''[[8]]'''」で統一されている。東京キー局のフジテレビ、大阪準キー局の関西テレビがともにアナログ親局'''8ch'''であることに由来する。また、[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]のアナログ親局も'''8ch'''である。なお、リモコンキーIDに「8」を使用しない局のうち、「'''1'''」の東海テレビのみアナログ親局のチャンネル番号を引き継いだ。
ロゴマークの書体は記事の冒頭に掲載されている斜字風の「'''''FNN'''''」で定まっている反面<ref group="注釈">2018年4月以降では、斜体ではない別なロゴが使われるようになった為、現在は正式には定まっていない。</ref>'''色は他系列と違って正式には定まっていない'''。2023年4月時点では灰色(「{{Color|#c0c0c0|'''''FNN'''''}}」)、または水色(「{{Color|#219DDD|'''''FNN'''''}}」)で表示されていることが多く見られる。2023年4月現在では黒色と全色で表示されている(「'''''FNN'''''」)。<ref group="注釈" name="logo">かつて([[1980年代]]後半からフジのお台場移転前後まで)はオレンジ色で「{{Color|#ff9900|'''''FNN'''''}}」と表記していたが、時を同じくして1980年代に同系列で放送されていた「[[FNNスーパータイム]]」の初期から中期にかけてのセットの背景には、赤色の「{{Color|#ff0000|'''''FNN'''''}}」ロゴを掲げていた。フジテレビ社屋のお台場移転後は、報道フロアに白の「'''''FNN'''''」ロゴが5つ程、背景は虹色、天井あたりに18年間貼られていたが、2015年のフロア改装で消滅した。部分に液晶モニターが配置されており、画面に「FUJI NEWS NETWORK」(但し、字体は「フジテレビ」のロゴと同じ)のロゴ、背景は肌色。2018年4月2日以降も液晶モニターを消滅、新ロゴ貼り替えせず引き続きFNNロゴを継続使用されている。
</ref>{{efn|また、公式[[ツイッター]]では、色が付けられていない白黒のロゴを採用している<ref>[http://twitter.com/FNN_News]</ref>。}}
== 加盟局 ==
=== 現在の加盟局 ===
この表は、地域や都道府県の配列に際し、[http://www.j-ba.or.jp/category/references/jba101000 日本民間放送連盟公式サイト「会員社」ページ]の表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
* ○ - 関連会社・子会社にラジオ局を持つ局
* ■ - 自社サイトでのニュースの[[動画]]配信実施局
* △ - 外部サイト(FNNプライムオンライン・[[Yahoo!ニュース]]<ref>[https://news.yahoo.co.jp/media Yahoo!ニュース ニュース提供社]</ref>・[[YouTube]]など)でのニュースの動画配信実施局
* ◆ - 第三セクター局
* ※ - [[ワンセグ]]放送でロゴ([[ウォーターマーク]])を表示しない局<ref group="注釈">地上デジタル放送では2009年までに全ての局が表示を開始した。ちなみに2008年3月まで自局制作番組を除き、使用が禁止されていた。</ref>
{|class="wikitable" border="1" style="width:100%;"
|-
!width="8%"|[[放送対象地域|エリア]]!!width="8%"|略称 / [[リモコンキーID|ID]]!!width="12%"|社名!!width="9%"|開局日!!width="11%"|FNN加盟日!!width="34%"|備考!!width="3%"|記号
|-
|[[北海道]]||'''UHB<!--略称の正式表記は「小文字」ではなく「大文字」--> 8'''||style="font-size:85%;"|[[北海道文化放送]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|[[1972年]][[4月1日]]||style="font-size:85%;"|基幹局 {{efn|[[1966年]][[10月3日]]発足 - [[1970年]][[3月31日]]の間はフジの直接取材地域で、1970年4月1日 - 1972年3月31日の間はフジテレビが[[フジテレビ札幌支局|札幌支局]]を開設して報道取材をしていた。なお、当時、フジの番組を多くネットしていたSTV[[札幌テレビ放送]]はFNSのみに加盟していた<ref>『関西テレビ放送10年史』{{要ページ番号|date=2020年12月}}([[1968年]]刊)、『UHB10年の歩み』{{要ページ番号|date=2020年12月}}([[1982年]]刊)等</ref>。}}||○■△
|-
|[[青森県]]||colspan="4" style="font-size:85%;"|なし||style="font-size:85%;"|[[フジテレビ青森支局]]・岩手めんこいテレビ八戸支局が取材を担当<ref group="注釈">場合により北海道文化放送・秋田テレビ・仙台放送が取材することもある。</ref>。||
|-
|[[岩手県]]||'''mit 8'''||style="font-size:85%;"|[[岩手めんこいテレビ]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|[[1991年]]4月1日||style="font-size:85%;"|青森県[[八戸市]]に八戸支社がある<ref group="注釈">岩手めんこいテレビ八戸支社は、青森県内への取材拠点というよりも、[[二戸市]]及び[[久慈市]]への取材拠点及び岩手県及び青森県南部地方への営業拠点である。青森県南部地方の広い範囲でも岩手めんこいテレビが見られていることが関係している。</ref>。||■△
|-
|[[宮城県]]||'''OX 8'''||[[仙台放送]]||style="font-size:85%;"|[[1962年]]10月1日||style="font-size:85%;"|1966年[[10月3日]]発足時||style="font-size:85%;"|基幹局。<ref group="注釈">1966年10月3日発足 - [[1970年]][[9月30日]]の間はNNN<!--/{{要出典範囲|ANN|date=2010年8月}}--><!--ANNの正式発足は1974年4月1日なのでコメントアウト-->との[[クロスネット局|クロスネット]]だった。</ref>岩手めんこいテレビ開局までは岩手県、1971年10月1日から1983年3月31日までは福島県も取材対象地域だった。||■△※
|-
|[[秋田県]]||'''AKT 8'''||[[秋田テレビ]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|[[1969年]][[10月1日]]||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">[[1981年]]4月1日 - [[1987年]]3月31日の間は[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]とのクロスネットだったが、クロスネット時代もFNNの報道番組を全て放送していたため、事実上FNNフルネット局扱いであった。</ref>||■△
|-
|[[山形県]]||'''SAY 8'''||style="font-size:85%;"|[[さくらんぼテレビジョン]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|[[1997年]]4月1日||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">1993年4月1日 - 1997年3月31日の間は、フジテレビが[[フジテレビ山形支局|山形支局]]を設置して取材を担当。</ref>||■△
|-
|[[福島県]]||'''FTV 8'''||[[福島テレビ]]||style="font-size:85%;"|[[1963年]]4月1日||style="font-size:85%;"|[[1983年]]4月1日||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈" name="B">FTVは、1971年6月1日 - 1983年3月31日の間はJNNに加盟していたため、FNNには非加盟。FNSのみの加盟だった(JNN協定の都合上)。</ref>||■△◆
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]||'''CX 8'''||[[フジテレビジョン]]<ref group="注釈">ここでの会社設立は[[2008年]][[10月1日]]。旧フジテレビである現在の[[フジ・メディア・ホールディングス]]([[フジサンケイグループ]]の統括会社、フジテレビの[[放送持株会社|持株会社]])の設立は[[1957年]][[11月18日]]。</ref>|| style="font-size:85%;" |[[1959年]][[3月1日]]||style="font-size:85%;"|1966年10月3日発足時||style="font-size:85%;"|[[キー局]]、基幹局。災害などの緊急時によるブラックアウト発生時には[[フジテレビ旧本社ビル|フジテレビ新宿支局]]が取材を担当することがある<ref name="kansaitvcsr20140623" /><ref name="kantelecommunication0528" /><ref name="fujitvcsrreport20111117" />。||○■△※<ref group="注釈">ロゴ表示は2008年4月14日開始(6月4日放送の大半の番組では表示が消えていた)。ただし、ワンセグでの表示はなし。</ref>
|-
|[[山梨県]]||colspan="4" style="font-size:85%;"|なし||style="font-size:85%;"|[[フジテレビ甲府支局]]が取材を担当<ref group="注釈">過去<!---1995年5月20日の警視庁による山梨県上九一色村にあるオウム真理教関連施設一斉捜査の時など--->には、テレビ静岡が取材する事もあった。</ref><ref group="注釈">殆どの地域でケーブルテレビにてフジテレビが視聴可能で、直接視聴が可能な地域もあり、実質的に同局の放送対象地域でもある。</ref>。||
|-
|[[新潟県]]||'''NST 8'''|| [[NST新潟総合テレビ]]<ref group="注釈">2019年9月までは新潟総合テレビ、同年10月から現在の社名に変更。</ref> ||colspan="2" style="font-size:85%;"|1968年[[12月16日]]||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">1968年12月16日開局 - [[1981年]]3月31日の間はNNN/[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]/ANNとのクロスネット、1981年4月1日 - 1983年9月30日の間はANNとのクロスネットだった。</ref>||■△
|-
|[[長野県]]||'''NBS 8'''||[[長野放送]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|[[1969年]][[4月1日]]||||■△
|-
|[[静岡県]]||'''SUT 8'''||[[テレビ静岡]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1968年[[11月1日]]||style="font-size:85%;"|基幹局||■△
|-
|[[富山県]]||'''BBT 8'''||[[富山テレビ放送]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||style="font-size:85%;"|旧略称:T34(1993年[[12月31日]]まで)||■△
|-
|[[石川県]]||'''ITC 8'''||[[石川テレビ放送]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||||■△
|-
|[[福井県]]||'''ftb 8'''||style="font-size:85%;"|[[福井テレビジョン放送]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年10月1日||||■△
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]||'''THK 1'''||[[東海テレビ放送]]||style="font-size:85%;"|[[1958年]][[12月25日]]||style="font-size:85%;"|1966年10月3日発足時||style="font-size:85%;"|基幹局||○■△
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]||'''KTV 8'''||[[関西テレビ放送]]||style="font-size:85%;" |1958年[[11月22日]]||style="font-size:85%;"|1966年10月3日発足時||style="font-size:85%;"|[[準キー局]]、基幹局。愛称:カンテレ。大災害等によりフジテレビが機能不能となった場合、当局を発局とした上で[[全国ネット]]や[[関東ローカル]]向けの放送を行うことがある<ref name="kansaitvcsr20140623">[https://www.ktv.jp/resource/sustainability/pdf/csr/140623_csr.pdf CSR Report],2014年6月23日,関西テレビ放送</ref><ref name="kantelecommunication0528">{{Cite web |和書|url=https://www.ktv.jp/tsushin/230528.html |title=5月28日(日) |accessdate=2023-11-12 |website=カンテレ通信 |work= |publisher=関西テレビ放送 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230814011544/https://www.ktv.jp/tsushin/230528.html |archivedate=2023-08-14}}</ref><ref name="fujitvcsrreport20111117">{{Cite web |和書|url=https://www.fujitv.co.jp/csr/activities_report_2011/bangumi/report/0033.html |title=FNN各局も参加 「首都直下型地震」を想定し、大規模な災害放送訓練を実施|accessdate=2023-11-12|website=2011年度活動報告,CSR |publisher=フジテレビジョン |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230814011613/https://www.fujitv.co.jp/csr/activities_report_2011/bangumi/report/0033.html |archivedate=2023-08-14}}</ref>。詳細は[[#報道特別番組・災害発生時の対応|後述]]を参照。[[2007年]][[4月]]、「[[発掘!あるある大事典|発掘!あるある大事典II]]」の捏造(ねつぞう)事件で[[日本民間放送連盟|民放連]]から除名処分を受けた([[2008年]]10月に復帰)<ref group="注釈">本来ならば会員活動停止を受けていたところだが、問題となった番組が[[全国放送]]番組だったことから、「先に受けた[[総務省]]からの警告を、放送した全局が受けたものと認識して再生・信頼回復に努める」という意向もあり、会員資格停止は免れた。2008年4月、条件付きで民放連の再加入が認められ、同年10月には完全に民放連に復帰した。</ref>。||■△
|-
|[[島根県]]||rowspan="2"|'''TSK 8'''||rowspan="2" style="font-size:85%;"|[[山陰中央テレビジョン放送]]||colspan="2" rowspan="2" style="font-size:85%;"|1970年4月1日||rowspan="2" style="font-size:85%;"|[[1972年]][[3月31日]]まで社名は島根放送株式会社。1972年[[9月22日]]より現在の山陰2県広域放送体制となる(それ以前までは島根のみが対象だった)。||rowspan="2"|△
|-
|[[鳥取県]]
|-
|[[岡山県]]||rowspan="2"|'''OHK 8'''||rowspan="2"|[[岡山放送]]||colspan="2" rowspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||rowspan="2" style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">1969年4月1日開局 - 1970年4月1日および1970年10月1日 - [[1979年]]3月31日(岡山・香川相互乗り入れ実施直前の日)の間はANNとのクロスネットであり、なおかつ岡山のみの取材担当だった。翌1979年4月1日より岡山・香川相互乗り入れ開始。</ref>||rowspan="2"|■△
|-
|[[香川県]]
|-
|[[広島県]]||'''tss 8'''||[[テレビ新広島]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|[[1975年]]10月1日||style="font-size:85%;"|基幹局
||■△
|-
|[[山口県]]||colspan="4" style="font-size:85%;"|なし||style="font-size:85%;"|テレビ西日本が大半の地域の取材を担当(広島県に隣接の[[岩国市]]や[[和木町]]は、テレビ新広島が担当)<ref group="注釈">山口県北部([[萩市]]周辺)において、テレビ西日本が取材対応不可の場合は、山陰中央テレビが担当。</ref>。||
|-
|[[徳島県]]||colspan="4" style="font-size:85%;"|なし||style="font-size:85%;"|[[関西テレビ放送徳島支局]]が取材を担当。||
|-
|[[愛媛県]]||'''EBC 8'''||[[テレビ愛媛]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年[[12月10日]]||||△
|-
|[[高知県]]||'''KSS 8'''||style="font-size:85%;"|[[高知さんさんテレビ]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1997年4月1日||||■△※
|-
|[[福岡県]]||'''TNC 8'''||[[テレビ西日本]]||style="font-size:85%;"|1958年[[8月28日]]||style="font-size:85%;"|1966年10月3日発足時||style="font-size:85%;"|基幹局 <ref group="注釈">開局 - 1964年9月30日の間は日本テレビ系列局だったが、この当時の日本テレビ系列については、NNN、NNS共に'''未成立であった'''。</ref>||■△◆
|-
|[[佐賀県]]||'''STS 3'''||[[サガテレビ]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">多くの世帯でテレビ西日本も視聴可能である為、事実上FNN(FNS)系列局が2局存在することになる。</ref>||■△◆※
|-
|[[長崎県]]||'''KTN 8'''||[[テレビ長崎]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">1969年4月1日開局 - [[1990年]]9月30日の間はNNNとのクロスネットだった。</ref>||■△<ref group="注釈">当初、ワンセグでのロゴ表示はなかったが、2009年11月30日より表示されている。</ref>
|-
|[[熊本県]]||'''TKU 8'''||[[テレビ熊本]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">1969年4月1日開局 - [[1982年]]3月31日の間はNNN/ANNとのクロスネット、1982年4月1日 - [[1989年]]9月30日の間はANNとのクロスネットだった。</ref>||■△※
|-
|[[大分県]]||'''TOS 4'''||[[テレビ大分]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1970年4月1日||style="font-size:85%;"|[[日本ニュースネットワーク|NNN]]/[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]とのクロスネット局<ref group="注釈">昼と夕方がFNN。</ref><ref group="注釈">1970年4月1日開局 - [[1993年]]9月30日の間はNNN/NNS/ANNとのクロスネットだった。</ref>。||■△
|-
|[[宮崎県]]||'''UMK 3'''||[[テレビ宮崎]]||style="font-size:85%;"|1970年4月1日||style="font-size:85%;"|[[1973年]][[1月26日]]<ref group="注釈">FNSへは1972年4月1日に加盟</ref>||style="font-size:85%;"|NNN・[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]とのクロスネット局<ref group="注釈">ただし、NNSやANNの番組供給部門には非加盟。</ref>。||■△
|-
|[[鹿児島県]]||'''KTS 8'''||[[鹿児島テレビ放送]]||colspan="2" style="font-size:85%;"|1969年4月1日||style="font-size:85%;"|<ref group="注釈">1969年4月1日開局 - 1982年9月30日の間はNNN/NNS/ANNとのクロスネット、1982年10月1日 - [[1994年]]3月31日の間はNNN/NNSとのクロスネットだった。なお、クロスネット時代FNSには加盟していたが(FNS公式ホームページ「FNSのあゆみ」では当初から参加と記述)、FNS業務協定に参加していたかどうかは未定。</ref>||■△
|-
|[[沖縄県]]||'''OTV 8'''||[[沖縄テレビ放送]]||style="font-size:85%;"|1959年[[11月1日]]||style="font-size:85%;"|1972年[[5月15日]]<ref group="注釈">正式な加盟は沖縄の日本復帰時。ただ、正式ではないものとみなされば、主に1969年10月1日としているケースがある。</ref>||style="font-size:85%;"|NNN/NNSとの提携関係あり<ref group="注釈">1959年11月1日開局 - 1972年[[5月14日]]の間は[[日本放送協会|NHK]]を含めたオープンネットだった。</ref>。
|■△
|}
=== 過去の加盟局 ===
●印は加盟当時メインネットであった。
{|class="wikitable" border="1" style="width:100%;"
|-
!width="5%"|エリア!!width="4%"|略称!!width="12%"|社名!!width="21%"|FNN加盟期間!!width="40%"|備考(脱退の理由など)!!width="6%"|現在の所属系列
|-
|山形県||YTS||[[山形テレビ]]●||style="font-size:85%;"|[[1970年]][[4月1日]]開局 - [[1993年]][[3月31日]]<ref group="注釈" name="d">FNSにも加盟していた。</ref><ref group="注釈">1975年4月1日 - 1979年7月1日までの間はFNN・ANNのクロスネット局でもあった。</ref>||style="font-size:85%;"|経営難の影響とクロスネット編成解消の意向に伴い、ANN系列に[[ネットチェンジ]]<ref group="注釈">当初はNETテレビ(ANN)系列主体で開局する予定で、開局準備期間にNETテレビ(現・テレビ朝日)と協定を結んでいたが、開局直前の1969年10月にフジテレビ(FNN・FNS)系列主体に変更。</ref><ref group="注釈">一説には、山形テレビのFNN・FNS加盟の主導者だった[[服部敬雄]]([[山形新聞]]グループ会長)が1991年3月14日に死去して、FNN・FNS加盟の根拠を失ったためにANN系列へのネットチェンジを決断したとも言われている。</ref><ref group="注釈">その後、1993年4月1日 - 1997年3月31日の間は、フジテレビが[[フジテレビ山形支局|山形支局]]を設置して取材を担当。</ref><ref>「あの番組はどうなっちゃうの!? 山形テレビ 来春キー局を乗り換え 事業の多角化で経営悪化」『[[産経新聞]]』([[産業経済新聞社|産経新聞社]]) 1992年10月6日、朝刊21面。</ref>。||style="font-size:90%;"|ANN
|-
|福島県||FCT||[[福島中央テレビ]]●||style="font-size:85%;"|1970年4月1日開局 - [[1971年]]9月30日<ref group="注釈" name="d"/>||style="font-size:85%;"|新聞資本の意向による<ref group="注釈">日本テレビ(NNN/NNS)と関連の深い[[読売新聞グループ本社|読売新聞社]]と[[福島民友|福島民友新聞社]](読売新聞社系の福島県の[[県紙|県域紙]])の意向による。</ref>ネット整理のため、福島テレビに譲る形で脱退<ref group="注釈" name="B"/>。||style="font-size:90%;"|NNN/NNS
|-
|関東広域圏||CX||フジテレビジョン●||style="font-size:85%;"|[[1966年]][[10月3日]]発足 - [[2008年]][[9月30日]]||style="font-size:85%;"|(旧)フジテレビジョン(移行後は「[[フジ・メディア・ホールディングス]]」)の認定持株会社移行に伴い、現業部門が(新)フジテレビジョンに移行した為。||-
|-
|広島県||HTV||[[広島テレビ放送]]||style="font-size:85%;"|1966年10月3日発足 - [[1975年]][[9月30日]]<ref group="注釈" name="d"/>||style="font-size:85%;"|テレビ新広島開局に伴い脱退。||style="font-size:90%;"|NNN/NNS
|}
=== 現在の主な非加盟局 ===
: ※加盟の意思があった、またはその意思の可能性があったものの、結局加盟しなかった主な局を掲載。
{|class="wikitable" border="1" style="width:100%;"
|-
!width="4%"|エリア!!width="3%"|略称!!width="5%"|社名!!width="40%"|備考(加盟しなかった理由など)!!width="4%"|現在の<br/>所属系列
|-
|北海道
|HTB
|[[北海道テレビ放送]]||style="font-size:85%;"|フジテレビ(FNN・FNS)系列となる事が有力視されていたが、当時NNN・FNSクロスネットの[[札幌テレビ放送]](STV)の反発や、NETテレビ(現・テレビ朝日)の強いバックアップ、そして北海道第4局の割り当ても確定していた事から最終的にテレビ朝日(ANN)系列を選択したため。||style="font-size:90%;"|ANN
|-
|rowspan="2"|青森県<br />(開局順)||ATV||[[青森テレビ]]||style="font-size:85%;"|開局準備期間にフジテレビと協定を結ぶが、開局直前にテレビ朝日(ANN)/TBS(JNN)系列主体に変更。<ref group="注釈">[[1969年]][[12月1日]]にANNとJNN(準系列局扱い)のクロスネット局で開局。[[1975年]][[3月31日]]にJNNフルネット局に[[ネットチェンジ]]。FNN・FNSのネット化(フルネット・クロスネットとも)は実現せず。</ref>||style="font-size:90%;"|JNN
|-
||ABA||[[青森朝日放送]]||style="font-size:85%;"|青森県に民放テレビ第3局の周波数が割り当てられた際はフジテレビがキー局の候補として挙げられていたが、[[1991年]][[10月1日]]にANNフルネット局で開局。FNN・FNSのネット化(フルネット・クロスネットとも)は実現せず。||style="font-size:90%;"|ANN
|-
|山梨県||UTY||[[テレビ山梨]]||style="font-size:85%;"|開局準備期間にフジテレビと協定を結ぶが、開局直前にTBS(JNN)系列主体に変更。<ref group="注釈">[[1970年]][[4月1日]]にJNNフルネット局で開局。FNN・FNSのネット化(フルネット・クロスネットとも)は実現せず。</ref>||style="font-size:90%;"|JNN
|-
|rowspan="2"|山口県<br />(開局順)||KRY||[[山口放送]]||style="font-size:85%;"|かつては系列外ではあるがフジテレビと資本関係があり、[[プロ野球ニュース|スポーツニュース番組]]のネット受けも行うなど関係が深かったため、テレビ山口のフジテレビ系列を脱退に合わせて、山口放送にFNN加盟を打診した事があったという<ref>山口放送三十年史</ref>。||NNN/NNS
|-
||tys||[[テレビ山口]]||style="font-size:85%;"|[[JNN排他協定|JNN協定に抵触する]]ため(FNSには加盟していた)。<ref group="注釈">1970年4月1日にJNN/FNS/ANN(但し一般番組供給部門のみ参加)のクロスネット局として開局。[[1978年]][[10月1日]]にはJNN/FNSのクロスネット局に変更。[[1987年]]9月30日にFNSを脱退し、翌10月1日にJNNフルネット局になる。FNNには開局から一貫して非加盟を継続。FNN・FNSのネット化(フル・クロスとも)は実現せず。</ref>{{efn|1987年3月、フジからFNN加盟を打診されるも、テレビ山口側がJNNの加盟を維持したい意向及び、FNNのニュースを受けるにはJNN脱退しかないというTBSの判断から、FNN加盟を辞退した。2000年3月31日まではFNSと同時ネットを継続していた(一部の〈一般〉番組において)。}}||rowspan="2" style="font-size:90%;"|JNN
|-
|高知県||KUTV||[[テレビ高知]]||style="font-size:85%;"|開局準備期間にフジテレビと協定を結ぶが、開局直前にTBS(JNN)系列主体に変更。<ref group="注釈">1970年4月1日にJNNフルネット局で開局。[[高知放送]](NNN・NNS)のJNNへのネットチェンジとテレビ高知のFNN・FNSのネット化(フルネット・クロスネットとも)は実現せず。その後、[[1997年]]4月1日に高知さんさんテレビが開局したため、テレビ高知はFNN・FNSの非加盟を継続。</ref>
|}
<gallery perrow="4">
ファイル:Fuji TV headquarters and Aqua City Odaiba - 2006-05-03-2009-25-01.jpg|FNNの在京キー局:[[フジテレビジョン]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[お台場|台場]]2丁目、[[FCGビル]])
ファイル:Kansai Telecasting Corporation headquarters in 201909 001.jpg|FNNの在阪準キー局:[[関西テレビ放送]]([[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]扇町、[[扇町キッズパーク]])
ファイル:Toukairaji 0483.jpg|FNNの在名基幹局:[[東海テレビ放送]]([[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]東桜)
ファイル:UHB-Sapporo-hq-01.jpg|FNNの在札基幹局:[[北海道文化放送]]([[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]北1条西)
ファイル:Sendai Television.JPG|FNNの在仙基幹局:[[仙台放送]]([[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]上杉)
ファイル:Shizuoka Telecasting(2017).jpg|FNNの在静基幹局:[[テレビ静岡]]([[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]]栗原)
ファイル:TSS-TV 20200921-1b.JPG|FNNの在広基幹局:[[テレビ新広島]]([[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]出汐)
ファイル:TNCbuilding.jpg|FNNの在福基幹局:[[テレビ西日本]]([[福岡県]][[福岡市]][[早良区]][[シーサイドももち|百道浜]]、[[TNC放送会館]])
</gallery>
== 海外支局 ==
[[2021年]]7月現在。海外支局は名目上、全支局フジテレビが開設していることになっているが、実際はフジテレビジョンを中心に関西テレビ放送、東海テレビ放送、テレビ静岡、テレビ西日本など基幹局が設置し、ネットワーク基金(「FNN基金」)などを用いて加盟各局で開設・運営を分担している。
記者の派遣は、実際の開設局以外からも行われている。開設局が地方局の場合でも、特派員はフジテレビに出向せず、出身局社員の肩書のままで活動する。名刺を使用する場合はFNNのロゴと出身局名を併記した特注の物を出身局が用意する。
{|class="wikitable" border="1" style="width:100%;"
|-
!地域!!海外支局名!!設置・運営加盟局!!備考
|-
|rowspan=3|[[アメリカ合衆国]]||FNN[[ニューヨーク]]支局||フジテレビ||テレビ新広島からも記者を派遣。
|-
|FNN[[ワシントンD.C|ワシントン]]支局||フジテレビ||
|-
|FNN[[ロサンゼルス]]支局||フジテレビ||当初は仙台放送が開設・運営していた。現在はフジテレビの直接運営。
|-
|rowspan=4|[[ヨーロッパ]]・旧[[ソビエト連邦|ソ連]]||FNN[[ロンドン]]支局||フジテレビ||当初はテレビ静岡が開設・運営していた。現在はフジテレビの直接運営。
|-
|FNN[[パリ]]支局||フジテレビ||関西テレビからも記者を派遣。<br />当初は関西テレビが開設・運営していた。現在はフジテレビの直接運営。
|-
|FNN[[モスクワ]]支局||フジテレビ||北海道文化放送からも記者を派遣。
|-
|FNN[[イスタンブール]]支局||フジテレビ||
|-
|rowspan=4|[[アジア]]・[[アフリカ]]||FNN[[北京市|北京]]支局||東海テレビ||
|-
|FNN[[上海市|上海]]支局||関西テレビ||
|-
|FNN[[ソウル特別市|ソウル]]支局||フジテレビ||ソウル[[麻浦区]][[デジタルメディアシティ]]の[[大韓民国|韓国]][[韓国文化放送|MBC]]本社内に設置。仙台放送・テレビ西日本からも記者を派遣。
|-
|FNN[[バンコク]]支局<ref group="注釈">元々は、フジテレビが支局を開設。その後、テレビ西日本がヨーロッパに開設していた支局を閉鎖されたことに伴う代替措置として、支局を運営していた。</ref>||テレビ静岡||フジテレビからも記者を派遣。
|}
=== 過去の海外支局 ===
* FNN[[ベルリン]]支局 ※フジテレビが2000年に開設・運営していた(現在は、事務所を設置)。関西テレビからも記者を派遣。
* FNN[[クアラルンプール]]支局 ※フジテレビが2000年に開設し、2010年3月に閉鎖。関西テレビからも記者を派遣。
* FNN[[サイゴン]]支局 ※フジテレビが開設・運営していた。[[1975年]]に閉鎖。
* FNN[[カイロ]]支局 ※フジテレビが1981年に開設・運営していた。
* FNN[[マニラ]]支局 ※フジテレビが1988年に開設、2002年に閉鎖。
* FNN[[ローマ]]支局 ※関西テレビが1980年に開設、2000年に閉鎖。
* FNN[[シンガポール]]支局 ※関西テレビが1981年に開設、2001年に閉鎖。
* FNN[[ジュネーブ]]支局 ※関西テレビが1982年に開設、2000年に閉鎖。
* FNN[[ウィーン]]支局 ※東海テレビが1991年に開設、1997年に閉鎖。
* FNN[[ジャカルタ]]支局 ※東海テレビが1997年に開設、2003年に閉鎖。
* FNN[[ボン]]支局 ※テレビ西日本が1981年に開設、1997年に閉鎖。
* FNN[[香港]]支局 ※テレビ静岡が1991年4月に開設<ref>{{Cite|和書|author=日本民間放送連盟|title=日本民間放送年鑑1992|date=1992|pages=491}}</ref>、2002年に閉鎖。
* FNN[[シドニー]]支局 ※テレビ新広島が1992年に開設し<ref>{{Cite|和書|author=日本民間放送連盟|title=日本民間放送年鑑1993|date=1993|pages=509}}</ref>、[[2000年]]前半に閉鎖。
* FNN[[ハワイ]]支局 ※フジテレビが開設・運営していた。
== ネットニュース ==
; 随時
* [[FNNニュース]]
; 朝
{{Main|フジテレビ系列朝ニュース枠}}
; 昼
{{Main|フジテレビ系列昼ニュース枠}}
; 午後(平日のみ)
{{Main|フジテレビ系列午後のスポットニュース枠}}
; 夕方
{{Main|フジテレビ系列夕方ニュース枠}}
; <nowiki> 20:54 - 21:00 </nowiki>
* [[FNNニュース・明日の天気]](1968年10月 - 1998年3月29日)
* [[FNNレインボー発]](1998年3月30日 - 2014年3月30日)
* [[FNN NEWS Pick Up]](2014年3月31日 - 2015年3月29日)
* [[こんやのニュース]](2015年3月30日 - 2016年10月2日)
* [[ユアタイム クイック]](2016年10月3日 - 2017年10月1日)
* [[THE NEWSα Pick]](2017年10月2日 - 2018年3月31日)
; 最終版
{{Main|フジテレビ系列深夜ニュース枠}}
== 報道特別番組・災害発生時の対応 ==
選挙、台風、地震・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による[[ミサイル]]発射([[全国瞬時警報システム]]による速報)などのほか、大きな事件・事故の際に特別番組を編成、放送する。
こうした災害に対する対応にフジテレビをはじめとするFNN各局では万一の災害に備え、日頃より[[首都直下型地震]]を想定した大規模な災害放送訓練が毎年実施されている。事例として2013年11月9日に関西テレビを発災局とし、[[南海トラフ巨大地震]]を想定した疑似特番を編成、系列局との連携や災害時の放送での協力体制の確認、災害時における取材手段、伝送手段などの訓練のほか、取材班と小型衛星伝送装置を搬送道路の遮断を想定した被災地の最寄り地点までヘリコプターで搬送し被害の様相を伝える訓練や、大阪府庁の新災害対策本部からの中継、報道局員による技術スタッフを同伴しない形でのミニ中継車による訓練がそれぞれ行われた<ref name="kansaitvcsr20140623" /><ref name="kantelecommunication0528" /><ref name="fujitvcsrreport20111117" />。
また、関西テレビでは取材・放送対象地域内にとどまらず被災した放送局への支援や全国放送のサポートにも取り組んでおり、事例として2013年9月6日・7日にはフジテレビとの合同により[[東京湾]]で首都直下型地震が発生したことを想定した大規模な災害放送訓練を実施。フジテレビが報道特別番組の放送中に津波などの災害等により[[FCGビル|同局本社]]が被災し送出機能を喪失したことでテレビ放送のブラックアウトが発生、関西テレビを発局とした上で全国ネットによる報道特番を継続し、全国ネットでの[[コマーシャルメッセージ|CM]]を同局から代替送出した上で全国ネット番組を復帰し、フジテレビ報道センターをはじめ、[[フジテレビ湾岸スタジオ|湾岸スタジオ]]屋上からの伝送、関西テレビと[[フジテレビ旧本社ビル|フジテレビ新宿支局]](東京都[[新宿区]])による連絡のやり取りを通じた災害リポートの放送や、関西テレビ内での全国ネット・関東ローカルのタイムテーブルと放送データの作成、それを通じた必要な素材の伝送の手配を行うなど、こうした実際の災害発生を意識した訓練や各地の放送局へのサポートといった施策が行われている<ref name="kansaitvcsr20140623" /><ref name="kantelecommunication0528" /><ref name="fujitvcsrreport20111117" />。
このほか災害時には前述のフジテレビ・関西テレビのほかNST新潟総合テレビ、長野放送、テレビ新広島、岡山放送、高知さんさんテレビの5局にも参加し、災害時の各局の連携をより円滑に行えるかの検証も実際された<ref name="fujitvcsrreport20111117" />。
=== 国政選挙 ===
開票状況を伝える特別番組を放送。
* FNN開票速報([[第9回参議院議員通常選挙|1971年参院選]]、[[第33回衆議院議員総選挙|1972年衆院選]])
* [[唄子・啓助のおもろい夫婦|唄子・啓助のおもろい選挙速報]]([[第10回参議院議員通常選挙|1974年参院選]])
* [[パンチDEデート|パンチDEセンキョ]] FNN開票速報([[第34回衆議院議員総選挙|1976年衆院選]])
* 決定版!!オールスターパンチDEセンキョ FNN開票速報([[第11回参議院議員通常選挙|1977年参院選]]、[[第35回衆議院議員総選挙|1979年衆院選]])
* 激動!ダブルDEセンキョ([[第36回衆議院議員総選挙|1980年衆院選]]・[[第12回参議院議員通常選挙|参院選]])
* [[タモリ]]の[[森田一義アワー 笑っていいとも!|選挙でいいとも!]]([[第13回参議院議員通常選挙|1983年参院選]])
* [[愛川欽也|キンキン]]の[[なるほど!ザ・ワールド|なるほど!ザ・選挙]]([[第37回衆議院議員総選挙|1983年衆院選]])
* ダブルマッチ'86ニャンたって16時間ぶっつづけ・FNN開票速報([[第38回衆議院議員総選挙|1986年衆院選]]・[[第14回参議院議員通常選挙|参院選]])
* 参院選開票速報・選挙列島そりゃもう大さわぎ([[第15回参議院議員通常選挙|1989年参院選]])
* スーパータイム選挙スペシャル([[第39回衆議院議員総選挙|1990年衆院選]]、[[第16回参議院議員通常選挙|1992年参院選]]、[[第40回衆議院議員総選挙|1993年衆院選]])
* [[激動待ったなし!! FNN参院選スペシャル]]([[第17回参議院議員通常選挙|1995年参院選]])
* [[FNN選挙特番'96 選挙の鉄人 甦れ!! 日本の政治]]([[第41回衆議院議員総選挙|1996年衆院選]])
* [[FNN選挙スペシャル 激突! 熟女軍団が斬る泣き笑いニッポン列島]]([[第18回参議院議員通常選挙|1998年参院選]])
* [[FNN総選挙スペシャル]]([[第42回衆議院議員総選挙|2000年衆院選]])
* [[聖域なき生直撃 FNN真夏の大変革 小泉維新に骨太審判]]([[第19回参議院議員通常選挙|2001年参院選]])
* [[FNN踊る大選挙戦]]([[第43回衆議院議員総選挙|2003年衆院選]]、[[第20回参議院議員通常選挙|2004年参院選]]、[[第22回参議院議員通常選挙|2010年参院選]])
* [[FNN選挙WARS〜改革の最終審判〜]]([[第44回衆議院議員総選挙|2005年衆院選]])
* [[FNNスーパー選挙王]]([[第21回参議院議員通常選挙|2007年参院選]])
* [[FNNスーパー選挙2009 審判の日]]([[第45回衆議院議員総選挙|2009年衆院選]])
* [[FNN総選挙2012 ニッポンの決意 JAPAN'S DECISION]]([[第46回衆議院議員総選挙|2012年衆院選]])
* [[FNN参院選 真夏の決断2013]]([[第23回参議院議員通常選挙|2013年参院選]])
* [[FNN衆院選2014 THE SENKYO 〜ニッポンをしゃべり倒す!〜]]([[第47回衆議院議員総選挙|2014年衆院選]])
* [[FNN参院選 みんなの選挙2016]]([[第24回参議院議員通常選挙|2016年参院選]])
* [[FNN選挙特番 ニッポンの決断!2017]]([[第48回衆議院議員総選挙|2017年衆院選]])
* [[Live選挙サンデー 令和の大問題追跡SP|Live選挙サンデー]]([[第25回参議院議員通常選挙|2019年参院選]]、[[第49回衆議院議員総選挙|2021年衆院選]]、[[第26回参議院議員通常選挙|2022年参院選]])
=== 地震・津波 ===
震度3以上を観測した揺れについては[[ニュース速報]](フジテレビでの画面表示では「FNN地震情報」「FNN津波情報」「FNNニュース速報」「特別警報」「【○○五輪速報】」等となる。上下に横線あり<ref group="注釈">系列局等によって表示は異なるが、「FNN」部分は各加盟局名が表示される(石川テレビなら「ITC地震情報」、テレビ静岡なら「テレビ静岡地震情報」等、FNNをつける局とつけない局、放送局名を略称で表示する局等様々である)。震度色分けも行う局と行わない局と対応が分かれる</ref>)の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える(震度は色分けで表示)。
規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の措置をとる。特に大きい津波が襲来する恐れのある地震の時(について)は、FNN津波情報([[緊急地震速報]])のテロップが流れる。緊急地震速報や大津波警報、[[津波警報]]、[[津波注意報]]の地図テロップは、地上波(関東ローカル)・BS・CS全波で同時に表示される。ただし、緊急地震速報は関東地方で強い揺れが予測されない場合はBS・CSのみで表示となる。緊急地震速報のチャイム音は地上波(関東ローカル)・BS・CS全波共通で[[日本放送協会|NHK]]と同じチャイム音を2回鳴らしている。生放送のニュース番組放送中に緊急地震速報が発表<!--「発令」は誤記。気象庁は「発表」に表記統一-->された場合は原則として番組内のテロップで「緊急地震速報発令中<!--こちらは「発令」。気象庁の統一表記を認知していないためと思われる-->」と表示される。
なお、FNN速報テロップの表示は[[2023年]][[4月]]現在、関東ローカル地上波(フジテレビ)の他、BSフジ、CS放送のフジテレビONE・TWO・NEXT等の全てにおいて、文字フォントが平成角ゴシック体であり<ref group="注釈"> 2019年のマスター更新以前は[https://www.lambda.co.jp/contents/font_ttf.html マール体]([https://www.lambda.co.jp/ ラムダシステムズ])となっていた。(ただ、地上波は書体に黒縁が太めに付いているのに対して、BS・CSでは黒縁が極細という違いがある)</ref>、速報[[チャイム]]においては、「ポロロロローン…ポロロロローン…」というような独特の音色が使用されている(ただし、CSではニュース・地震を問わず速報チャイムは鳴らしていない)。これはフジテレビの送出マスターが地上波・BS・CSの統合型である為。自局運営(委託分を含む)による地上波・衛星波の全てのチャンネルで速報テロップ表示を行っているのはNHK(緊急地震速報、地震情報のみ国際放送を除く全波で表示)とフジテレビのみである。
速報テロップにおいては、全国規模の状況(地震や津波の被害状況)によってはBSフジ、CS放送のフジテレビONE・TWO・NEXT等でも同時に表示されることがある。なお、フジテレビONE・TWO等では地上波・BSフジよりサイズが小さめである上、表示位置も若干下がっている(スカパー!プレミアムサービスの標準画質放送で4:3サイズに拡大して放送していることに配慮していると見られる)。
ちなみに速報チャイムに関しては、[[1996年]]3月以前は「ピピピ…ピピピ…ピピピ…」の3音のチャイムが使用されていた<ref group="注釈">北海道文化放送では金属音に近い4音のチャイムを2回鳴らしている。</ref><ref group="注釈">石川テレビでは、かつては「ポンポンポーン、ポンポンポーン」というチャイムが使用されていたが、2000年以降からはチャイム自体流れなくなった。</ref>。[[1996年]][[4月]]から[[2011年]][[4月20日]]までの間は「ポーン ポーン」(デジタル放送受信機の音とほぼ同じ、低音で)の2音のチャイムであった。[[2010年]]夏よりNHK・民放共通で使用されているデジタル放送受信機内蔵音における緊急地震速報のチャイム(地上デジタルのみ)と紛らわしいという声があった為、2011年[[4月21日]]以降からは現在の速報チャイムに切り替わっている<ref group="注釈">変更直前の2011年3月以降は[[東日本大震災]]とその余震により緊急地震速報が多発していた。なお、NST新潟総合テレビでは2019年8月5日のマスター更新前まで使用されていた。また、 2023年4月現在では高知さんさんテレビ等でも使用されている。</ref>。
気象情報、氾濫危険情報のテロップ<ref group="注釈">大雨、台風、洪水、[[土砂災害警戒情報]]、[[竜巻|竜巻注意情報]]等。こちらは関東ローカルのみの表示でBS・CSでは一切表示されない。</ref>の時は、かつては[[チャイム]]は鳴らないままテロップだけが表示されていたが、2021年6月に気象庁が[[顕著な大雨に関する情報]]を開始して以降はチャイムを鳴らしている。
=== 台風 ===
台風時は、各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常の[[ニュース]]・[[情報番組]]のなかで、番組の多くを台風情報に充てている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[FNNニュース]]
* [[フジネットワーク]](FNS)
* [[BSフジ]]
* [[ホウドウキョク]]
* [[全国ラジオネットワーク]](NRN)
* [[ニュース系列]]
* [[民放テレビ全国四波化]]
* [[FNSアナウンス大賞]]
* [[産経新聞]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Fuji Network System|FNN}}
* [https://www.fnn.jp/ FNNプライムオンライン] - フジニュースネットワーク公式サイト
* [https://www.fujitv.co.jp/news/ フジテレビ報道ホームページ 公式サイト]
* {{YouTube|user=FNNnewsCH|FNNプライムオンライン}}
* {{Twitter|FNN_News|FNNプライムオンライン}}
* {{Facebook|FNN.jp|FNN(Fuji News Network)}}
* {{TikTok|fnnprime|FNNプライムオンライン}}
{{FNN・FNS}}
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[[Category:フジテレビジョン]]
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[[Category:日本のニュース専門テレビチャンネル]]
[[Category:1966年設立の組織]] | 2003-03-23T18:42:09Z | 2023-12-26T13:18:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF |
5,035 | オールニッポン・ニュースネットワーク | オールニッポン・ニュースネットワーク(英: All-Nippon News Network)は、テレビ朝日(EX)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称としてANN(エーエヌエヌ)が使用される。
本項では、ANNがニュースとは別関係の付帯事業として行っている番組供給組織のテレビ朝日ネットワーク (TV Asahi Network) についても解説する。なお、一般に本項で解説するANNとテレビ朝日ネットワークとを合わせてテレビ朝日系列という。
「ANN」は正式名称の「オールニッポン ニュース ネットワーク」(All-Nippon News Network)を略したものであるが、キー局のテレビ朝日が朝日新聞社の系列企業であるのみならず加盟局の大半も「朝日」を社名に冠していることもあり「“朝日”ニュースネットワーク」(“Asahi” News Network)の略と誤認されることも珍しくない。ただしこれに関して、当初は「朝日ニュースネットワーク」とするつもりだったが、当時、毎日新聞社と関係の深い在阪局の毎日放送(MBSテレビ)がANN加盟局であったことや、メインネットとしていないクロスネット局には朝日新聞との関連性が薄い局もあったことから朝日を名乗ることができず、Aの部分を「オールニッポン」に置き換えたとする説もある。ただし、1970年のANN発足当時の社名は日本教育テレビ(NET)で、当時は新聞社の資本が混在しており(日本経済新聞社も出資)、朝日新聞に資本が統一されたのは1973年のことである。
ANNは付帯事業として一般番組供給系列も兼ねているが、ニュースとは別扱いとしているため、現在はテレビ朝日ネットワーク(通称:「テレ朝ネットワーク」・「テレビ朝日系列」等) の名称を使用し、包括的番組供給については、現在はフルネット局のみをこの対象とし、クロスネット局に対しては最低限のネット保障としている。また、この番組供給系列には、TBS系列でJNNが付帯事業として運営しているTBSネットワーク(用途によってはニュース系列同様JNNの名称を使用することがある)と同様に、日本テレビ系列のNNSやフジテレビ系列のFNSのような独自の略称が定められていない。ただし、九州朝日放送は『九州朝日放送30年史』で、『ANN』のタイトルがニュースネットのタイトル名にとどまらず、系列全体の名称として使われるようになり、実際に系列社長会が1975年9月5日に『ANN社長会』と、営業責任者会議が1976年4月20日に『ANN局長会』と改称されたことにも言及している。
現在の加盟局は、24のフルネット局と、2つのクロスネット局(福井放送〔FBC〕、テレビ宮崎〔UMK〕)の26局で構成されている。基幹局 のうち、九州朝日放送(KBC)のみラテ兼営 で、それ以外は全てテレビ単営である。
ANN加盟局のうち、青森朝日放送、岩手朝日テレビ、東日本放送、秋田朝日放送、山形テレビ、福島放送、新潟テレビ21、長野朝日放送、静岡朝日テレビの9局は、テレビ朝日の放送持株会社「テレビ朝日ホールディングス」の持分法適用関連会社(関連局)である。
ANNニュースサイトの「ANNネットワーク」のリンク にはクロスネット局も含まれているが、テレビ朝日公式サイトの「系列局」のリンク はフルネット局のみとなっている。
ANNニュース協定と、ネットワーク業務協定には26局全てが参加しているが、スポーツニュース制作協定はクロスネット2局以外の24局の参加となっている。
なお、教育・教養分野の番組については、旧:NETテレビの時代に学校放送の全国ネットを受けていた局が存在する関係で、ANNとは別に民間放送教育協会(民教協)が設けられていて、民教協番組は基本的にテレ朝ネットワークに流れない。民教協の加盟局にはその地域の第1局が多いこともあり、TBS系列が全33局 中16局を占める。ANN系列かつ民教協にも加盟している局は、フルネット局はテレビ朝日、朝日放送テレビ(ABCテレビ)、名古屋テレビ放送(メ〜テレ)の3局だけであり、クロスネット局も福井放送だけである。
「ANN」のロゴは、2003年のテレ朝本社の六本木ヒルズ移転に伴い、当記事冒頭に掲載されているロゴデザインに変更している。また、ロゴマークの色は、原則濃い青の背景と白抜き文字で表示するが、2021年5月31日以降、『ANNニュース』のロゴマークは白い背景色に変更となったため、従来から使用していた青い背景色のロゴマークはYouTubeの『ANNnewsCH』のバナー画像など一部での利用に限られている。
地上デジタル放送のリモコンキーIDは、テレビ朝日を始めとして「5」が多いが、北海道テレビ(HTB)・メ〜テレ・朝日放送テレビが「6」、福井放送(FBC)が「7」、九州朝日放送(KBC)が「1」、テレビ宮崎(UMK)が「3」である。なお、リモコンキーIDに「5」を使用しない局のうちでは、ABCとKBCのみ、アナログ親局のチャンネル番号を引き継いだ。
ANNは1970年1月1日に日本教育テレビ(NETテレビ〔NET〕 → 全国朝日放送〔ANB〕→ テレビ朝日〔EX〕)をキー局に発足し、1974年4月1日に各地の系列局とニュース協定を結んだことにより、正式なニュースネットワークとして組織した。
NETテレビのニュースは、当初自ら出資する共同テレビジョンニュース社が制作及び配給を行う『共同テレニュース』を放送する予定であったが、同じ東京地区にあるフジテレビも『共同テレニュース』を放送することになっていたため、重複を避けるべく開局直前にNETテレビの親会社筋である東映が朝日新聞社と提携して朝日テレビニュース社を設立し、同社からニュース提供を受けることに変更。1959年の開局と同時に『NETニュース』が放送されたが、この番組は朝日新聞社の関係で当初から九州朝日放送(KBC) に同時ネットされた。このとき、ANNの骨子が形成されたといえる。
ただし翌1960年3月までは、この番組は関西地区では未放送で、関西地区の取材は東映が契約した地元カメラマン(映画館主等)によって行われていた。同年4月以降関西地区では(毎日新聞社系の)毎日放送 で放送されるが、これは朝日放送が大阪テレビ放送時代よりラジオ東京(現在のTBSテレビ)とニュース協定を結んでいたため、『NETニュース』が放送されなかったからである。なお、MBSテレビはこのネット受けまではニュース番組を自社制作で賄っていた。
その後、(アナログの)UHF局の大量免許・開局に伴い、ネット局が増加したため、1970年1月1日に『NETニュース』を『ANNニュース』に改題したが、相変わらず朝日テレビニュース社が制作した外注ニュース番組をネット各局が購入する形を採っていた。
ちなみに、ANNが発足した1970年当時の加盟局数は19局であったが、このうち、ANN単独加盟(フルネット)局となったのは、キー局のテレビ朝日(当時はNETテレビ)を除けば、北海道テレビ、毎日放送(MBSテレビ)、瀬戸内海放送、九州朝日放送の4局だけであった。また、中京広域圏については、名古屋テレビと中京テレビの2局が重複加盟していたほか、ANN発足直後は岡山・高松両地域が広域圏化する前であったため、岡山放送と瀬戸内海放送がそろって加盟していた(この当時は重複加盟ではなかった)。青森テレビは開局当初ANN単独加盟局だったが、当初からTBS系列の番組を主体とした実質クロスネットで編成していたため、JNN排他協定であるクロスネットの禁止に該当することからJNNの正式加盟を見送った経歴があった。ただし、報道取材に関してはネットチェンジまでANNの報道とは別に、特例としてJNNの取材が別枠で認められていた(JNNに正式加盟(ネットチェンジ)したのは1975年3月31日であると同時に青森県のANN加盟局が青森放送に移行、青森朝日放送開局まで加盟していた)。
1970年3月27日(金曜日)の日本経済新聞(東京版)にNETテレビが出稿した広告では、『ダイナミックにのびるNETネットワーク』の表題で、「北から南まで主要都市を網羅するNETネットワークは更に今年、仙台地区、広島地区の新局誕生を迎え、ネットワークのパワーアップをめざしています」との説明と、4月改編の新番組紹介とともに、北海道テレビ・青森テレビ・テレビ岩手・福島中央テレビ・新潟総合テレビ・NETテレビ・中京テレビ・名古屋テレビ・毎日放送・テレビ山口・瀬戸内海放送・九州朝日放送・テレビ熊本・テレビ大分・鹿児島テレビに加え、後年には独立局として扱われているサンテレビ・近畿放送と、当時正式にキー局との系列関係がなかったテレビ宮崎を記していた。
1972年版『日本民間放送年鑑』に出稿したNETテレビの広告には、『NETラインネットワーク』の名称で、北海道テレビ・青森テレビ・テレビ岩手・ミヤギテレビ・福島中央テレビ・名古屋テレビ・中京テレビ・毎日放送・岡山放送・広島ホームテレビ・テレビ山口・瀬戸内海放送・九州朝日放送・テレビ熊本・テレビ大分・テレビ宮崎・鹿児島テレビの17局が当時の略称で記されていた。
1975年には、朝日新聞社の意向で、新聞社との資本関係を明確にするため(いわゆるネットチェンジ(腸捻転解消政策))、同年3月31日より、準キー局が毎日放送から朝日放送に変更されている。
テレビ放送を主体に行う放送ネットワークとしては、他系列メインのクロスネット局が多い時代が長く続き(特に1970年代以後に開局した新局の多くはUHFであるため、以前から先発VHFで放送していた『モーニングショー』『アフタヌーンショー』や一部のドラマ・バラエティなどの多くのスポンサードネット番組は、ANN系列開局後もサービスエリアがVHFより狭くなることや、中継局が整備されていないことから、視聴者保護の観点であえてUHF新局に移行せず、既存VHFでのネットを維持した例が多数存在した)、1981年開局の福島放送、1982年開局の鹿児島放送のように民放3局目をANNのフルネット局で開局するケースが出てくるものの、1988年末時点でフルネット局はわずか12局のみであった。
その後バブル経済当時に郵政省(現在の総務省)が推進した「全国4局化」 や、1987年にテレビ朝日が「10年間に系列局を10局増やす」を目標とするネットワーク強化政策「完全系列22局体制確立」を策定した ことにより、他系列と比較して大きく出遅れた系列局の整備に取り組み、1989年の熊本朝日放送開局を皮切りに、1996年10月の岩手朝日テレビ開局までフルネット新局が増え、現在のフルネット局24局ネットワークを完成 させて、7年間で文字通り「倍増」した。
岩手朝日テレビの開局に合わせ、系列シンボルマーク(ネットワークシンボル)を制定した(アメリカのグラフィックデザイナー・ティム・ガービンによるもの)。テレビ朝日は制作著作テロップなどでロゴとして使用した(以前より使用されていた赤と緑を用いた「10」マークも併用)。また、各局でも広報等で使用されていたが、2003年10月にテレビ朝日及びANNの新ロゴを制定した後には、使用されなくなった。
なお多局化が進んで以降、一部基幹局はブロックのまとめ役としての役割を担っており、テレビ朝日社長の働きかけにより、東北及び九州地区での経営統合を前提とした放送法の特例が設けられた。
ANNをメインとしないクロスネット局にも、同時または遅れ・先行ネットの番組にもフルネット局と同様のネット保障が受けられ、その保証金が高額だったため、クロスネット局はANNを離れ辛かったという。なお俗に「排他協定」とも言われるJNNのニュース協定との関係上、クロスネット時代のテレビ山口のようにニュース番組をネットせず、一般番組のみのネット保障契約を結んでいた例もあった。ちなみに、現在のJNNでは排他協定の解釈上、他系列とのクロスネットを組むことは一般番組においても不可能である。
この表は、日本民間放送連盟公式サイト「会員社放送局」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)。
●印は加盟当時メインネットであった局。★印は民間放送教育協会加盟局。☆印は過去に民間放送教育協会に加盟していた局。
ここでは報道取材拠点としてのもののみを取り上げる。支局所在地に別途加盟局が存在するものは除く。
取材網充実のため、加盟局のない地域を中心に支局を置いている。これらの支局は地元のケーブルテレビ会社及び技術会社への委託、もしくは駐在カメラマンの派遣により運営されている。ただし、支局管内で大事件、大規模な自然災害が起きたときは本社やキー局、近くの加盟局から取材の応援が来る。
他のニュースネットワークと違い、ANNは全ての加盟局が無い地域に支局を置いており、民放テレビが1局しかない佐賀県(九州朝日放送)は唯一の域外支局となっている。また、大半の域外支局は朝日新聞リアルエステートが管理する物件を利用している。これは、全国紙の朝日新聞の影響とみられる。
ANNニュースにおける関東ローカル枠や土日午後のスポット枠では、関東のニュース・季節の話題に加えて以下のテレビ朝日の5支局からニュース・季節の話題も伝えられる。
以下は各局のWebサイトや会社案内などには書かれていないが、インターネットタウンページや現地での存在が確認出来たもの。
2022年9月現在。海外支局はANN加盟各局がANNの承認を得た上で開設し、運営にはANN基金より費用が補助されている。海外支局はテレビ朝日および朝日放送テレビが分担して運営している。かつては静岡朝日テレビも運営していた時期があり、その他の基幹局も一部支局をかつて運営していた時期がある。2023年10月時点では、朝日放送テレビ以外の基幹局および基幹局に準ずる規模の一部系列局が、既存支局への人員派遣という形で協力を行っている。
運営に際して、朝日放送テレビはかなりの独自性を持っていることが他系列と決定的に異なる。朝日放送テレビの社員は同社が開設した支局のみに派遣され、海外でも同社社員の肩書きと同社から支給された名刺を使用して取材活動を行う。これは重大ニュース発生で他支局の応援に出た場合でも同様である。一方、テレビ朝日・朝日放送テレビ以外の系列局から派遣された特派員は形式上テレビ朝日に出向したものとして取り扱われることがあり、テレビ朝日のプロパー社員に準じながらも出身局名を括弧書きした特注の名刺をテレビ朝日が用意する。
なお、テレビ朝日はアメリカのニュース専門放送局CNNと提携しており、重大事件などの際にはCNNの映像を使用することもある。
選挙、台風、地震、北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)、他に大型の事件・事故の際に報道特別番組が放送される。但し、通常のニュース・情報番組の放送枠拡大などで対応する場合もあり、その場合は「ANN報道特別番組」である旨を示すためにオープニングで画面右上に数秒間、ANNのロゴマークが表示される。
『ANN報道特別番組』としてではなく、各番組の「緊急拡大」で番組をつなぎ、実質の報道特別番組を組むこともある。2022年7月8日の安倍晋三銃撃事件を例にとると、事件発生の11時31分は『大下容子ワイド!スクランブル』放送中であったが、『ANNニュース』終了後の第2部から「緊急拡大」を適用し15時48分まで放送。その後『スーパーJチャンネル』も放送開始を1時間前倒しする形で拡大、18時50分からは『報道ステーション』を緊急拡大した。特に日中帯で有事がある場合に組まれることがある。
出口調査などを利用し、開票状況を伝える特別番組を放送。朝日新聞社と関係が深い局が多い点を生かし、21世紀に入って以降、特に大規模な選挙では朝日新聞社と共同で選挙報道にあたっている。インターネット上の選挙特設サイトも朝日新聞デジタルとANNが共同で開設している。
震度3以上を観測した揺れについてはニュース速報の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える。なお、その際に表示される画面の地名には唯一振り仮名がふってある。
規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の処置をとる。報道特番を組むか否かの判断は、編成局長に一任されている。これは、台風や突発的な事件・事故の場合も同様。
速報チャイムは、2003年9月の六本木ヒルズ移転前までは「ピロリロリーン」だったが、同年10月の移転後からは「ピロリロン ピロリロン」の2音のチャイムに変更された(ただし、新潟テレビ21・山口朝日放送・九州朝日放送・熊本朝日放送・大分朝日放送・鹿児島放送・琉球朝日放送等では現在でも1世代前のチャイムを使用、北海道テレビ・青森朝日放送・東日本放送・静岡朝日テレビ・北陸朝日放送・メ〜テレ・朝日放送テレビ・愛媛朝日テレビ等では独自のチャイムを使用、長野朝日放送では日本テレビ系列が現在使用しているチャイムを使用、福島放送・瀬戸内海放送ではチャイムを使用しない)。
台風時は各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てるなどして対応する。
1970年代に、ANN系列のフルネット各局が共同制作を担当する連続ドラマが制作されたことがある。
その他、1981年から放送されている、全国高等学校野球選手権大会のダイジェスト番組『熱闘甲子園』も、幹事製作は朝日放送テレビ・EXの2社だが、それ以外のANNフルネット各局が「製作協力」という形でクレジットされていた時期があった。
かつてのANNニュース系の番組の多くは共通のテーマ曲を用いていた。 | [
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"text": "オールニッポン・ニュースネットワーク(英: All-Nippon News Network)は、テレビ朝日(EX)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称としてANN(エーエヌエヌ)が使用される。",
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"text": "本項では、ANNがニュースとは別関係の付帯事業として行っている番組供給組織のテレビ朝日ネットワーク (TV Asahi Network) についても解説する。なお、一般に本項で解説するANNとテレビ朝日ネットワークとを合わせてテレビ朝日系列という。",
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"text": "「ANN」は正式名称の「オールニッポン ニュース ネットワーク」(All-Nippon News Network)を略したものであるが、キー局のテレビ朝日が朝日新聞社の系列企業であるのみならず加盟局の大半も「朝日」を社名に冠していることもあり「“朝日”ニュースネットワーク」(“Asahi” News Network)の略と誤認されることも珍しくない。ただしこれに関して、当初は「朝日ニュースネットワーク」とするつもりだったが、当時、毎日新聞社と関係の深い在阪局の毎日放送(MBSテレビ)がANN加盟局であったことや、メインネットとしていないクロスネット局には朝日新聞との関連性が薄い局もあったことから朝日を名乗ることができず、Aの部分を「オールニッポン」に置き換えたとする説もある。ただし、1970年のANN発足当時の社名は日本教育テレビ(NET)で、当時は新聞社の資本が混在しており(日本経済新聞社も出資)、朝日新聞に資本が統一されたのは1973年のことである。",
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"text": "ANNは付帯事業として一般番組供給系列も兼ねているが、ニュースとは別扱いとしているため、現在はテレビ朝日ネットワーク(通称:「テレ朝ネットワーク」・「テレビ朝日系列」等) の名称を使用し、包括的番組供給については、現在はフルネット局のみをこの対象とし、クロスネット局に対しては最低限のネット保障としている。また、この番組供給系列には、TBS系列でJNNが付帯事業として運営しているTBSネットワーク(用途によってはニュース系列同様JNNの名称を使用することがある)と同様に、日本テレビ系列のNNSやフジテレビ系列のFNSのような独自の略称が定められていない。ただし、九州朝日放送は『九州朝日放送30年史』で、『ANN』のタイトルがニュースネットのタイトル名にとどまらず、系列全体の名称として使われるようになり、実際に系列社長会が1975年9月5日に『ANN社長会』と、営業責任者会議が1976年4月20日に『ANN局長会』と改称されたことにも言及している。",
"title": "概説"
},
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"text": "現在の加盟局は、24のフルネット局と、2つのクロスネット局(福井放送〔FBC〕、テレビ宮崎〔UMK〕)の26局で構成されている。基幹局 のうち、九州朝日放送(KBC)のみラテ兼営 で、それ以外は全てテレビ単営である。",
"title": "概説"
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"text": "ANN加盟局のうち、青森朝日放送、岩手朝日テレビ、東日本放送、秋田朝日放送、山形テレビ、福島放送、新潟テレビ21、長野朝日放送、静岡朝日テレビの9局は、テレビ朝日の放送持株会社「テレビ朝日ホールディングス」の持分法適用関連会社(関連局)である。",
"title": "概説"
},
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"text": "ANNニュースサイトの「ANNネットワーク」のリンク にはクロスネット局も含まれているが、テレビ朝日公式サイトの「系列局」のリンク はフルネット局のみとなっている。",
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"text": "ANNニュース協定と、ネットワーク業務協定には26局全てが参加しているが、スポーツニュース制作協定はクロスネット2局以外の24局の参加となっている。",
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"text": "なお、教育・教養分野の番組については、旧:NETテレビの時代に学校放送の全国ネットを受けていた局が存在する関係で、ANNとは別に民間放送教育協会(民教協)が設けられていて、民教協番組は基本的にテレ朝ネットワークに流れない。民教協の加盟局にはその地域の第1局が多いこともあり、TBS系列が全33局 中16局を占める。ANN系列かつ民教協にも加盟している局は、フルネット局はテレビ朝日、朝日放送テレビ(ABCテレビ)、名古屋テレビ放送(メ〜テレ)の3局だけであり、クロスネット局も福井放送だけである。",
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"text": "「ANN」のロゴは、2003年のテレ朝本社の六本木ヒルズ移転に伴い、当記事冒頭に掲載されているロゴデザインに変更している。また、ロゴマークの色は、原則濃い青の背景と白抜き文字で表示するが、2021年5月31日以降、『ANNニュース』のロゴマークは白い背景色に変更となったため、従来から使用していた青い背景色のロゴマークはYouTubeの『ANNnewsCH』のバナー画像など一部での利用に限られている。",
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"text": "地上デジタル放送のリモコンキーIDは、テレビ朝日を始めとして「5」が多いが、北海道テレビ(HTB)・メ〜テレ・朝日放送テレビが「6」、福井放送(FBC)が「7」、九州朝日放送(KBC)が「1」、テレビ宮崎(UMK)が「3」である。なお、リモコンキーIDに「5」を使用しない局のうちでは、ABCとKBCのみ、アナログ親局のチャンネル番号を引き継いだ。",
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"text": "選挙、台風、地震、北朝鮮によるミサイル発射(全国瞬時警報システムによる速報)、他に大型の事件・事故の際に報道特別番組が放送される。但し、通常のニュース・情報番組の放送枠拡大などで対応する場合もあり、その場合は「ANN報道特別番組」である旨を示すためにオープニングで画面右上に数秒間、ANNのロゴマークが表示される。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "『ANN報道特別番組』としてではなく、各番組の「緊急拡大」で番組をつなぎ、実質の報道特別番組を組むこともある。2022年7月8日の安倍晋三銃撃事件を例にとると、事件発生の11時31分は『大下容子ワイド!スクランブル』放送中であったが、『ANNニュース』終了後の第2部から「緊急拡大」を適用し15時48分まで放送。その後『スーパーJチャンネル』も放送開始を1時間前倒しする形で拡大、18時50分からは『報道ステーション』を緊急拡大した。特に日中帯で有事がある場合に組まれることがある。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "出口調査などを利用し、開票状況を伝える特別番組を放送。朝日新聞社と関係が深い局が多い点を生かし、21世紀に入って以降、特に大規模な選挙では朝日新聞社と共同で選挙報道にあたっている。インターネット上の選挙特設サイトも朝日新聞デジタルとANNが共同で開設している。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "震度3以上を観測した揺れについてはニュース速報の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える。なお、その際に表示される画面の地名には唯一振り仮名がふってある。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の処置をとる。報道特番を組むか否かの判断は、編成局長に一任されている。これは、台風や突発的な事件・事故の場合も同様。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "速報チャイムは、2003年9月の六本木ヒルズ移転前までは「ピロリロリーン」だったが、同年10月の移転後からは「ピロリロン ピロリロン」の2音のチャイムに変更された(ただし、新潟テレビ21・山口朝日放送・九州朝日放送・熊本朝日放送・大分朝日放送・鹿児島放送・琉球朝日放送等では現在でも1世代前のチャイムを使用、北海道テレビ・青森朝日放送・東日本放送・静岡朝日テレビ・北陸朝日放送・メ〜テレ・朝日放送テレビ・愛媛朝日テレビ等では独自のチャイムを使用、長野朝日放送では日本テレビ系列が現在使用しているチャイムを使用、福島放送・瀬戸内海放送ではチャイムを使用しない)。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "台風時は各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常のニュース・情報番組のなかで、番組の多くを台風情報に充てるなどして対応する。",
"title": "特別番組"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1970年代に、ANN系列のフルネット各局が共同制作を担当する連続ドラマが制作されたことがある。",
"title": "報道番組以外での系列局共同制作番組"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "その他、1981年から放送されている、全国高等学校野球選手権大会のダイジェスト番組『熱闘甲子園』も、幹事製作は朝日放送テレビ・EXの2社だが、それ以外のANNフルネット各局が「製作協力」という形でクレジットされていた時期があった。",
"title": "報道番組以外での系列局共同制作番組"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "かつてのANNニュース系の番組の多くは共通のテーマ曲を用いていた。",
"title": "テーマ音楽・曲"
}
] | オールニッポン・ニュースネットワークは、テレビ朝日(EX)をキー局とする、日本の民放テレビ局のニュースネットワークである。略称としてANN(エーエヌエヌ)が使用される。 本項では、ANNがニュースとは別関係の付帯事業として行っている番組供給組織のテレビ朝日ネットワーク についても解説する。なお、一般に本項で解説するANNとテレビ朝日ネットワークとを合わせてテレビ朝日系列という。 | {{pathnav|frame=1|テレビネットワーク|日本のテレビネットワーク|this=オールニッポン・ニュースネットワーク(ANN、[[テレビ朝日]]系列)}}
{{混同|x1=[[全日空]]を核とする|ANAグループ|}}
{{混同|x1=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]をキー局とする|日本ニュースネットワーク|x2=[[TBSテレビ]]をキー局とする|ジャパン・ニュース・ネットワーク}}
{{redirect|ANN系列|ラジオ番組「オールナイトニッポン」の放送局|オールナイトニッポン#ネット局}}
{{独自研究|date=2019年10月}}
[[ファイル:ANN logo.svg|thumb|現行ロゴ(2代目、2003年10月 - )]]
[[ファイル:ANN former logo.svg|thumb|初代ロゴ(1970年1月 - 2003年9月)]]
'''オールニッポン・ニュースネットワーク'''({{lang-en-short|''All-Nippon News Network''}})は、[[テレビ朝日]](EX)を[[キー局]]とする、[[日本国|日本]]の[[民間放送|民放テレビ局]]の[[ニュース系列|ニュースネットワーク]]である。略称として'''ANN'''(エーエヌエヌ)が使用される<ref group="PR">[https://www.tv-asahi.co.jp/hai/contents/100/064/ はい! テレビ朝日です](2004年10月17日)</ref>。
本項では、ANNがニュースとは別関係の付帯事業として行っている番組供給組織の'''テレビ朝日ネットワーク''' (''TV Asahi Network'') についても解説する。なお、一般に本項で解説するANNとテレビ朝日ネットワークとを合わせて'''テレビ朝日系列'''という<ref group="注釈">のどちらか一方だけでも通じる場合もある。なお、単にニュースネットワークのANNのみを指す場合は'''ANN系列'''という場合が多い。</ref>。
== 概説 ==
「ANN」は正式名称の「オールニッポン ニュース ネットワーク」('''A'''ll-Nippon '''N'''ews '''N'''etwork)を略したものであるが、キー局のテレビ朝日が[[朝日新聞社]]の系列企業であるのみならず加盟局の大半も「朝日」を社名に冠していることもあり「“朝日”ニュースネットワーク」(“Asahi” News Network)の略と誤認されることも珍しくない。ただしこれに関して、当初は「朝日ニュースネットワーク」とするつもりだったが、当時、[[毎日新聞社]]と関係の深い在阪局の[[毎日放送]](MBSテレビ)がANN加盟局であったことや{{Refnest|group="注釈"|かつて毎日放送がANNに加盟していた頃、MBS側はANNのAを「AsahiのA」と勘違いしていたという<ref>[[毎日放送]]社史『毎日放送四十年史』</ref>。一部書籍でも“ANN”の“A”を「朝日のA」と誤って解説する事例が見られる。}}、メインネットとしていないクロスネット局には朝日新聞との関連性が薄い局もあったことから朝日を名乗ることができず、Aの部分を「オールニッポン」に置き換えたとする説もある。ただし、1970年のANN発足当時の社名は日本教育テレビ(NET)で、当時は新聞社の資本が混在しており([[日本経済新聞社]]も出資)、朝日新聞に資本が統一されたのは1973年のことである。{{main|ネットチェンジ#毎日放送からみた歴史}}
ANNは付帯事業として一般番組供給系列も兼ねているが、ニュースとは別扱いとしているため、現在は'''テレビ朝日ネットワーク'''(通称:「テレ朝ネットワーク」・「テレビ朝日系列」等)<ref group="注釈">[[朝日放送テレビ]](ABCテレビ)発の番組では「ABC・テレビ朝日系列」と表記されることが多い。</ref> の名称を使用し、包括的番組供給については、現在は'''フルネット局のみ'''をこの対象とし、クロスネット局に対しては最低限のネット保障としている。また、この番組供給系列には、[[TBSテレビ|TBS]]系列で[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]が付帯事業として運営しているTBSネットワーク(用途によってはニュース系列同様JNNの名称を使用することがある)と同様に、[[日本テレビ系列]]の[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]や[[フジテレビ系列]]の[[フジネットワーク|FNS]]のような独自の略称が定められていない。ただし、九州朝日放送は『九州朝日放送30年史』で、『ANN』のタイトルがニュースネットのタイトル名にとどまらず、系列全体の名称として使われるようになり、実際に系列社長会が1975年9月5日に『ANN社長会』と、営業責任者会議が1976年4月20日に『ANN局長会』と改称されたことにも言及している。
現在の加盟局は、24の[[フルネット]]局と、2つの[[クロスネット局]]([[福井放送]]〔FBC〕、[[テレビ宮崎]]〔UMK〕<ref group="注釈">2局ともメインネットとしていない。</ref>)の26局で構成されている。[[基幹局]]<ref group="注釈">テレビ朝日(東京)、北海道テレビ放送、東日本放送(宮城)、名古屋テレビ放送、朝日放送テレビ(大阪)、九州朝日放送(福岡)の6局を中心に、業務によっては昭和時代に開局した福島放送、新潟テレビ21、静岡朝日テレビ、瀬戸内海放送(香川・岡山)、広島ホームテレビ、鹿児島放送を含めた12局を指す場合がある。</ref> のうち、[[九州朝日放送]](KBC)のみ[[ラテ兼営]]<ref group="注釈">[[KBCラジオ]]は[[全国ラジオネットワーク|NRN]]の[[シングルネット局]]。</ref><ref group="注釈">[[朝日放送テレビ]]も[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]の[[認定放送持株会社]]化が行われる2018年3月末まではラテ兼営([[朝日放送ラジオ|ラジオ部門]]は[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]と[[全国ラジオネットワーク|NRN]]の[[クロスネット局|クロスネット]]局)。</ref> で、それ以外は全てテレビ単営である<ref group="注釈">基幹局以外には、福井放送もラテ兼営で、JRNとNRNのクロスネット局である。</ref>。
ANN加盟局のうち、[[青森朝日放送]]、[[岩手朝日テレビ]]、[[東日本放送]]、[[秋田朝日放送]]、[[山形テレビ]]、[[福島放送]]、[[新潟テレビ21]]、[[長野朝日放送]]、[[静岡朝日テレビ]]の9局は、テレビ朝日の[[放送持株会社]]「[[テレビ朝日ホールディングス]]」の[[持分法|持分法適用関連会社(関連局)]]である<ref name="tvasahiholdings20171006">[https://www.tv-asahihd.co.jp/ir_setex/data/2017/keiretsutsuikashutoku_20171006.pdf 株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ],2017年10月6日,テレビ朝日ホールディングス</ref><ref name="tvasahiholdings20190301">[https://www.tv-asahihd.co.jp/ir_setex/data/2019/keiretsutsuikashutoku_20190301.pdf 株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ],2019年3月1日,テレビ朝日ホールディングス</ref><ref name="tvasahiholdings20170207">[https://www.tv-asahihd.co.jp/ir_setex/data/2017/1_tsuikashutoku.pdf 株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ],テレビ朝日ホールディングス,2017年2月7日</ref><ref name="tvasahiholdings20180302">[http://www.tv-asahihd.co.jp/ir_setex/data/2018/keiretsutsuikashutoku_20180302.pdf 株式の取得(持分法適用関連会社化)に関するお知らせ],2018年3月2日,テレビ朝日ホールディングス</ref>。
ANNニュースサイトの「'''ANNネットワーク'''」のリンク<ref name="tv-asahi-ann" group="PR">[http://www.tv-asahi.co.jp/ann/index.html テレビ朝日|テレ朝news]</ref> にはクロスネット局も含まれているが、テレビ朝日公式サイトの「'''系列局'''」のリンク<ref name="tv-asahi-network" group="PR">[https://company.tv-asahi.co.jp/corp/network.html ネットワーク(テレビ朝日)]</ref> はフルネット局のみとなっている。
ANNニュース協定と、ネットワーク業務協定には26局全てが参加しているが、スポーツニュース制作協定はクロスネット2局以外の24局の参加となっている<ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf NHK放送文化研究所年報、2010年、第54集]「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」村上聖一、21ページ。</ref>。
なお、教育・教養分野の番組については、旧:NETテレビの時代に[[学校放送]]の全国ネットを受けていた局が存在する関係で、ANNとは別に[[民間放送教育協会]](民教協)が設けられていて、民教協番組は基本的にテレ朝ネットワークに流れない。民教協の加盟局にはその地域の第1局が多いこともあり、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]が全33局<ref group="注釈">ラジオ専業の[[文化放送]](現在非加盟)、賛助会員の[[日本国際放送]]を除く。</ref> 中16局を占める。ANN系列かつ民教協にも加盟している局は、フルネット局はテレビ朝日、[[朝日放送テレビ]](ABCテレビ)、[[名古屋テレビ放送]](メ〜テレ)の3局だけであり、クロスネット局も福井放送だけである。{{main|民間放送教育協会#加盟局|ジャパン・ニュース・ネットワーク#ネットワークの特徴}}
「ANN」のロゴは、[[2003年]]のテレ朝本社の六本木ヒルズ移転に伴い、当記事冒頭に掲載されているロゴデザインに変更している<ref group="注釈">放送ではテロップやCGなどのデザインが完全に新しいものに置き換わっておらず、『[[ANN NEWS&SPORTS]]』日曜日のオープニング、[[BS朝日]]の『[[News Access]]』(730も含む)や[[朝日ニュースター]]で放送されるニュースでの協力クレジット(ともに番組終了時)は現在も[[1970年]]発足当時のロゴが使われている。また一部系列局のニュース用スタジオ、テレビ朝日が[[警視庁]]や[[東京都庁]]などに設置している[[記者クラブ]]の顔出しブースでは、現在でも旧ロゴが描かれたセットを設置している例が見受けられる。</ref>。また、ロゴマークの色は、原則濃い青の背景と白抜き文字で表示するが、2021年5月31日以降、『ANNニュース』のロゴマークは白い背景色に変更となったため、従来から使用していた青い背景色のロゴマークはYouTubeの『ANNnewsCH』のバナー画像など一部での利用に限られている<ref group="注釈">『グッド!モーニング』内のANNニュースや『ANNスーパーJチャンネル』などでは番組のイメージカラーに合わせた色を使用している。</ref>。
{{色}}
[[ファイル:ANN ID map (ja).png|thumb|right|300px|ANN系列の[[日本のリモコンキーID#地上波系統について|リモコンキーID]]地図]]
地上デジタル放送のリモコンキーIDは、テレビ朝日を始めとして「5」が多いが、北海道テレビ(HTB)・メ〜テレ・朝日放送テレビが「6」、福井放送(FBC)が「7」、九州朝日放送(KBC)が「1」、テレビ宮崎(UMK)が「3」である。なお、リモコンキーIDに「5」を使用しない局のうちでは、ABCとKBCのみ、アナログ親局のチャンネル番号を引き継いだ。
=== ネットワークの形成 ===
ANNは[[1970年]][[1月1日]]に日本教育テレビ(NETテレビ〔NET〕 → 全国朝日放送〔ANB〕→ テレビ朝日〔EX〕)をキー局に発足し、[[1974年]][[4月1日]]に各地の系列局とニュース協定を結んだことにより、正式なニュースネットワークとして組織した。
NETテレビのニュースは、当初自ら出資する[[共同テレビジョン]]ニュース社が制作及び配給を行う『共同テレニュース』を放送する予定であったが、同じ東京地区にある[[フジテレビジョン|フジテレビ]]も『共同テレニュース』を放送することになっていたため、重複を避けるべく開局直前にNETテレビの親会社筋である[[東映]]が朝日新聞社と提携して[[テレビ朝日映像|朝日テレビニュース社]]を設立し、同社からニュース提供を受けることに変更。[[1959年]]の開局と同時に『NETニュース』が放送されたが、この番組は朝日新聞社の関係で当初から九州朝日放送(KBC)<ref group="注釈">当時は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列=現:[[フジネットワーク|FNS]]とクロスネットにあり、ニュースと一部教養番組(民教協番組については[[RKB毎日放送]]がネット)以外の一般番組はフジ系が主であった</ref> に同時ネットされた。このとき、ANNの骨子が形成されたといえる<ref group="注釈">[[裏送り]]で[[札幌テレビ放送]](STV)でも放送された。</ref>。{{main|共同テレビジョン#概要|ANNニュース#前史}}
ただし翌[[1960年]]3月までは、この番組は関西地区では未放送で、関西地区の取材は東映が契約した地元カメラマン(映画館主等)によって行われていた。同年4月以降関西地区では([[毎日新聞社]]系の)毎日放送<ref group="注釈">NETテレビ放送開始当初の純粋なフルネット系列は毎日放送のみであった。</ref> で放送されるが、これは朝日放送が[[大阪テレビ放送]]時代よりラジオ東京(現在の[[TBSテレビ]])とニュース協定を結んでいたため、『NETニュース』が放送されなかったからである。なお、MBSテレビはこのネット受けまではニュース番組を自社制作で賄っていた。{{main|MBSニュース#歴史|毎日新聞テレビ夕刊#1965年から1974年}}
その後、[[UHF局#一般放送事業者|(アナログの)UHF局]]の大量免許・開局に伴い、ネット局が増加したため、[[1970年]]1月1日に『NETニュース』を『ANNニュース』に改題したが、相変わらず朝日テレビニュース社が制作した外注ニュース番組<ref group="注釈">朝日テレビニュース社(1977年度よりテレビ朝日映像)は1978年7月までニュース番組を製作していた。</ref>をネット各局が購入する形を採っていた<ref group="注釈">なお、系列各局ではANNニュースに改題する前は『[[朝日新聞ニュース#テレビ|朝日新聞ニュース]]』、『[[HTBニュース]]』、『中京テレビニュース』、『[[MBSニュース]]』、『KBCニュース』など、各局独自のタイトルを付けていた。</ref>。
ちなみに、ANNが発足した1970年当時の加盟局数は19局<!--宮城県については、仙台放送がANNに加盟していたという裏付けがないのでカウントしていない。-->であったが、このうち、ANN単独加盟(フルネット)局となったのは、キー局のテレビ朝日(当時はNETテレビ)を除けば、[[北海道テレビ]]、毎日放送(MBSテレビ)、[[瀬戸内海放送]]、九州朝日放送の4局だけであった。また、中京広域圏については、[[名古屋テレビ]]と[[中京テレビ]]の2局が重複加盟していたほか、ANN発足直後は岡山・高松両地域が広域圏化する前であったため、[[岡山放送]]と瀬戸内海放送がそろって加盟していた(この当時は重複加盟ではなかった)。[[青森テレビ]]は開局当初ANN単独加盟局だったが、当初からTBS系列の番組を主体とした実質[[クロスネット]]で編成していたため、[[JNN排他協定]]であるクロスネットの禁止に該当することからJNNの正式加盟を見送った経歴があった。ただし、報道取材に関してはネットチェンジまでANNの報道とは別に、特例としてJNNの取材が別枠で認められていた(JNNに正式加盟(ネットチェンジ)したのは1975年3月31日であると同時に青森県のANN加盟局が[[青森放送]]に移行、[[青森朝日放送]]開局まで加盟していた)。
1970年3月27日(金曜日)の日本経済新聞(東京版)にNETテレビが出稿した広告では、『ダイナミックにのびるNETネットワーク』の表題で、「北から南まで主要都市を網羅するNETネットワークは更に今年、仙台地区、広島地区の新局<ref group="注釈">ミヤギテレビと広島ホームテレビが該当する。</ref>誕生を迎え、ネットワークのパワーアップをめざしています」との説明と、4月改編の新番組紹介とともに、北海道テレビ・青森テレビ・[[テレビ岩手]]・[[福島中央テレビ]]・[[新潟総合テレビ]]・NETテレビ・中京テレビ・名古屋テレビ・毎日放送・[[テレビ山口]]・瀬戸内海放送・九州朝日放送・[[テレビ熊本]]・[[テレビ大分]]・[[鹿児島テレビ]]に加え、後年には独立局として扱われている[[サンテレビ]]・[[京都放送|近畿放送]]と、当時正式にキー局との系列関係がなかった[[テレビ宮崎]]を記していた。
[[1972年]]版『日本民間放送年鑑』に出稿したNETテレビの広告には、『'''NETラインネットワーク'''』の名称で、北海道テレビ・青森テレビ・テレビ岩手・[[ミヤギテレビ]]・福島中央テレビ・名古屋テレビ・中京テレビ・毎日放送・岡山放送・[[広島ホームテレビ]]・テレビ山口・瀬戸内海放送・九州朝日放送・テレビ熊本・テレビ大分・テレビ宮崎・鹿児島テレビの17局が当時の略称で記されていた。
[[1975年]]には、朝日新聞社の意向で、[[新聞]]社との[[資本]]関係を明確にするため(いわゆる[[ネットチェンジ|ネットチェンジ(腸捻転解消政策)]])、同年[[3月31日]]より、'''準キー局が毎日放送から朝日放送に変更されている。'''{{main|ネットチェンジ#朝日放送から見た歴史|高橋信三#腸捻転解消へ}}{{see also|斎藤守慶#ネットチェンジと新喜劇|ジャパン・ニュース・ネットワーク#沿革}}
テレビ放送を主体に行う放送ネットワークとしては、他系列メインのクロスネット局が多い時代が長く続き(特に1970年代以後に開局した新局の多くは[[極超短波|UHF]]であるため、以前から先発[[超短波|VHF]]で放送していた『[[モーニングショー]]』『[[アフタヌーンショー]]』や一部のドラマ・バラエティなどの多くのスポンサードネット番組は、ANN系列開局後もサービスエリアがVHFより狭くなることや、中継局が整備されていないことから、視聴者保護の観点であえてUHF新局に移行せず、既存VHFでのネットを維持した例が多数存在した<ref group="注釈">実例でもニュースネットワーク上は単独加盟であっても、一般番組等は他系列の番組に傾斜するケース。例えば、[[1975年]]春までの(主にTBS系の番組を主体としていた)青森テレビや、[[テレビ新広島]]開局前に(広島テレビの編成から洩れた)日本テレビ、フジテレビ系の番組を相当数放送していた広島ホームテレビなどがある(このため、[[青森放送]](日本テレビ系)や[[中国放送]](TBS系)でもNET系列の番組が相当数放送されていた)。</ref>)、1981年開局の福島放送、1982年開局の鹿児島放送のように民放3局目をANNのフルネット局で開局するケースが出てくるものの、[[1988年]]末時点でフルネット局はわずか'''12局'''<ref group="注釈">北海道テレビ放送・東日本放送・福島放送・全国朝日放送(現:テレビ朝日)・新潟テレビ21・静岡県民放送(現:静岡朝日テレビ)・名古屋テレビ放送・朝日放送(現:朝日放送テレビ)・瀬戸内海放送・広島ホームテレビ・九州朝日放送・鹿児島放送</ref>のみであった。
その後[[バブル経済]]当時に郵政省(現在の[[総務省]])が推進した「[[民放テレビ全国四波化|全国4局化]]」<ref group="注釈">[[情報格差]]是正を理由に、全国で少なくとも民放4系列が視聴できることを目標とした。いわゆる[[平成新局]]政策とも言われる。</ref> や、[[1987年]]にテレビ朝日が「10年間に系列局を10局増やす」を目標とするネットワーク強化政策「完全系列22局体制確立」を策定した<ref name="22kyoku">『長野朝日放送の20年』(2011年4月1日発行)52ページ</ref> ことにより、他系列と比較して大きく出遅れた系列局の整備に取り組み、1989年の[[熊本朝日放送]]開局を皮切りに、[[1996年]]10月の[[岩手朝日テレビ]]開局までフルネット新局が増え、現在のフルネット局'''24局'''ネットワークを完成<ref group="注釈">この時期に開局した局を中心に、ANN加盟の放送局には○○朝日放送または○○朝日テレビという名前が多い。また、ANN加盟の放送局は開局がその地域で最後だった局も多い。一方、山形テレビは1993年4月にANNに再加入してフルネット局化した。</ref> させて、7年間で文字通り「'''倍増'''」した<ref group="注釈">[[富山県]]、[[福井県]]、[[山梨県]]、[[山陰地方]]([[鳥取県]]・[[島根県]])、[[徳島県]]、[[高知県]]、[[佐賀県]]、[[宮崎県]]には2018年4月現在もフルネット局が存在しない。</ref>。{{see also|平成新局#テレビ局}}
[[ファイル:ANN former logos (1996-2003).svg|サムネイル|1996年から2003年まで使用された系列シンボルマーク]]
岩手朝日テレビの開局に合わせ、系列シンボルマーク(ネットワークシンボル)を制定した(アメリカのグラフィックデザイナー・ティム・ガービンによるもの)<ref>{{Cite web|和書|title=テレビ朝日系列「シンボルマーク」決定! |url=https://web.archive.org/web/19970525011359/http://www.tv-asahi.co.jp/general/symbol/index.html |website=web.archive.org |date=1997-05-25 |access-date=2023-08-11}}</ref>。テレビ朝日は制作著作テロップなどでロゴとして使用した<ref>例(Twitterの投稿より):[https://twitter.com/bluebird_maxima/status/1679985531072155648 1]、[https://twitter.com/isao1965/status/1677964248843177984 2]</ref>(以前より使用されていた赤と緑を用いた「10」マークも併用<ref>[https://twitter.com/chaoswave2012/status/852141853390422017 Twitterの投稿](テレビ朝日の封筒の画像。シンボルマークと「10」マークのどちらも使用)より</ref>)。また、各局でも広報等で使用されていたが<ref>例(Twitterの投稿より):[https://twitter.com/KHT_thames/status/1677939491154305024 1](山形、福島、大分、新潟、長野)、[https://twitter.com/kakka_613/status/1163076053276823552 2](北海道)より</ref>、2003年10月にテレビ朝日及びANNの新ロゴを制定した後には、使用されなくなった。
なお多局化が進んで以降、一部基幹局はブロックのまとめ役としての役割を担っており、テレビ朝日社長の働きかけにより、東北及び九州地区での経営統合を前提とした放送法の特例が設けられた。
ANNをメインとしないクロスネット局にも、同時または遅れ・先行ネットの番組にもフルネット局と同様のネット保障が受けられ、その保証金が高額だったため、クロスネット局はANNを離れ辛かったという<ref group="注釈">かつてクロスネット局だった[[青森放送]]の社史{{要ページ番号|date=2023年8月}}より。</ref>。なお俗に「排他協定」とも言われる[[JNN排他協定|JNNのニュース協定]]との関係上、クロスネット時代の[[テレビ山口]]のようにニュース番組をネットせず、一般番組のみのネット保障契約を結んでいた例もあった。ちなみに、現在のJNNでは排他協定の解釈上、他系列とのクロスネットを組むことは一般番組においても不可能である。{{main|JNN排他協定#概要|民放テレビ全国四波化#3局以下地区の現状}}
== 沿革 ==
* [[1959年]]3月 - 日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)開局と同時に、[[テレビ朝日映像|朝日テレビニュース社]]([[東映]]と[[朝日新聞社]]の合弁会社)制作の『'''NETニュース'''』として放送開始(オープニングには「'''[[朝日新聞]]製作'''」の[[クレジットタイトル|クレジット]]が入っていた)。[[九州朝日放送]]にもネットされる(タイトルは『[[KBCニュース]]』)。
* 1959年5月 - [[読売・朝日・毎日3社ニュース|3社ニュース]]枠向け『[[朝日新聞ニュース#テレビ|朝日新聞ニュース]]』の制作が朝日テレビニュース社に移管され、実質『NETニュース』と同内容となる。
* [[1960年]]4月 - [[毎日放送]]、[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]にもネットされる。前者は『[[MBSニュース]]』、後者は『朝日新聞ニュース』のタイトルで放送。
* [[1962年]]4月 - [[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]にもネットされ、『朝日新聞ニュース』のタイトルで放送。
* [[1967年]]7月 - 日本の民放で初めての深夜の25分[[報道番組|ワイドニュース]]『[[ANN 夜のワイドニュース|NETテレビ(ないしは系列局名) 夜のワイドニュース]]』開始。
* [[1968年]]11月 - [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]にもネットされ、『[[HTBニュース]]』のタイトルで放送。
* [[1969年]]4月 - [[中京テレビ放送|中京(UHF)テレビ]]にもネットされ、『中京テレビニュース』のタイトルで放送<ref group="注釈">当時は名古屋テレビと2局並列加盟の[[クロスネット局|変則クロスネット]]であったが、中京UHFでの[[ニュース]]ネットはNET・朝日新聞配給のみを放送していた。またこれとは別に新聞社資本([[日本経済新聞社]]が出資していたため)や[[テレビ東京|東京12チャンネル]]とのネットの関係上、日本経済新聞社制作の『[[東京12チャンネルニュース]]』も配信していた。</ref>。
* [[1970年]]1月 - '''ANN'''の発足に伴い、『NETニュース』を『'''ANNニュース'''』に改題。ネット局も随時この名称に統一。
* [[1973年]]4月 - [[広域放送|中京広域圏]]のネット局が名古屋テレビに統一。
* [[1974年]]4月 - ANN協定締結。
* [[1975年]][[3月31日]] - [[関西地区]]の[[ネット局]]が[[腸捻転]]解消に伴って、[[毎日放送|MBSテレビ]]から[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]に変更。[[2023年]]現在も[[ネット]]継続中。
* [[1985年]]10月 - テレビ朝日『[[ニュースステーション]]』放送開始。[[オフィス・トゥー・ワン]]が制作プロダクションに導入。制作に全面協力。
* [[1987年]] - テレビ朝日が「10年間に系列局を10局増やす」を目標とするネットワーク強化政策「完全系列22局体制確立」を策定<ref name="22kyoku" />。
* [[1989年]]4月 - テレビ朝日・朝日放送『[[サンデープロジェクト]]』放送開始。制作に全面協力。
* 1989年10月 - 通信衛星を使用して(株)衛星チャンネル(後の[[朝日ニュースター]])を開局。制作に全面協力。
* [[1993年]]4月 - [[山形県]]のネット局が[[山形テレビ]]に変更。
* [[1996年]]10月 - [[岩手朝日テレビ]]開局。現在のフルネット24局体制が完成し<ref group="注釈">これ以後、系列局整備の動きがないため</ref>、上の[[太陽]]や下の太陽の[[影]]、そして『大』の字がモチーフの系列のシンボルマークを制定<ref group="注釈">民間放送のシンボルマークとしては[[フジテレビ]]以来だが系列のシンボルマークとしては最初であり、1996年11月から2003年9月末まで使われた</ref>。
* [[2004年]]3月 - テレビ朝日『ニュースステーション』放送終了。オフィス・トゥー・ワンが撤退。
* 2004年4月 - テレビ朝日『[[報道ステーション]]』放送開始。[[古舘伊知郎]]キャスター出演開始。テレビ朝日『ニュースステーション』放送終了に伴い撤退したオフィス・トゥー・ワンに代わって[[古舘プロジェクト]]が制作プロダクションに導入。制作に全面協力。
* 2012年4月1日 - (株)衛星チャンネルより「朝日ニュースター」の経営権がテレビ朝日に委譲される。(2013年4月、[[テレ朝チャンネル]]<ref group="注釈">「テレ朝ch」としては[[2002年]]にすでに[[スカパー!]]・[[ケーブルテレビ]]向けに「ファボリTV」として開局し、2004年に現チャンネル名となった。朝日ニュースターの経営譲渡を受けたのを機に、既存のテレ朝chは「テレ朝ch1」、朝日ニュースターは「テレ朝ch2」に変更された</ref> にチャンネル名統合)
* [[2014年]]4月1日 - テレビ朝日の放送持株会社移行(社名を[[テレビ朝日ホールディングス]]に変更)に伴い、キー局がテレビ放送事業を旧社から承継する新法人の[[テレビ朝日]]に変更。
* [[2016年]]3月 - テレビ朝日『報道ステーション』古舘伊知郎キャスターが降板。古舘プロジェクトが撤退。これに伴い、テレビ朝日『ニュースステーション』時代から約30年半続いていた制作プロダクションは報道番組から姿を消した。
* 2016年4月 - テレビ朝日『報道ステーション』のスタジオが一新。テレビ朝日単独制作に移行。制作に全面協力。
* [[2017年]]12月28日 - 『[[スーパーJチャンネル|ANNスーパーJチャンネル]]』スタジオ建替え工事のため、テレビ朝日本社のニュースルーム改装となった(ただし、2018年2月18日まで)。
* [[2018年]]2月24日 -『ANNニュース』及び『ANN NEWS&SPORTS』のスタジオが一新。
* [[2018年]]4月1日 - 朝日放送の放送持株会社移行(社名を[[朝日放送グループホールディングス]]に変更)に伴い、テレビ放送事業全般を朝日放送から承継する[[朝日放送テレビ]]に変更。
== 加盟局 ==
=== 現在の加盟局 ===
この表は、日本民間放送連盟公式サイト「会員社放送局」ページの表記に準じて記載している(一部に例外あり)<ref group="PR">{{Cite web|和書|url=https://j-ba.or.jp/mlist/ |title=会員社放送局|publisher=日本民間放送連盟|accessdate=2017-04-09}}</ref>。
* ● - [[中波放送|中波ラジオ]]との兼営局
* ○ - 関連会社・子会社にラジオ局を持つ局
* △ - 外部サイト([[Yahoo!ニュース]]<ref>[https://news.yahoo.co.jp/media Yahoo!ニュース ニュース提供社]</ref>・[[YouTube]]など)でのニュースの[[動画]]配信実施局(自社サイトでは全局実施)
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!style="white-space:nowrap"|[[放送対象地域]]!!略称/[[日本のリモコンキーID#地上波系統について|ID]]!!社名!!開局日または<br />テレビ放送開始日!!ANN加盟日!!備考!!style="white-space:nowrap"|記号
|-
|[[北海道]]||'''HTB 6'''||style="white-space:nowrap"|[[北海道テレビ放送]]||[[1968年]][[11月3日]]||style="white-space:nowrap"|1970年1月1日発足時<ref name=J group="注釈">ANNが正式に発足した日は1974年4月1日。</ref>||基幹局||△
|-
|[[青森県]]||'''ABA 5'''||[[青森朝日放送]]||colspan=2|[[1991年]][[10月1日]]||||△
|-
|[[岩手県]]||'''IAT 5'''||[[岩手朝日テレビ]]||colspan=2|[[1996年]]10月1日||<ref group="注釈">1980年4月1日 - 1996年9月30日の間は[[テレビ朝日盛岡支局]]が取材を担当。</ref>||△
|-
|[[秋田県]]||'''AAB 5'''||[[秋田朝日放送]]||colspan=2|[[1992年]]10月1日|| ||△
|-
|[[山形県]]||'''YTS 5'''||[[山形テレビ]]||[[1970年]]4月1日||1975年4月1日加盟<br />[[1979年]][[7月1日]]脱退<br />[[1993年]][[4月1日]]再加盟<ref group="注釈">1975年4月1日 - 1979年7月1日の間はFNN/FNSとのクロスネットで、1993年4月1日以降はFNN/FNSを脱退し、ANNフルネット局に移行。</ref>||<ref group="注釈">当初はNETテレビ(ANN)系列主体で開局する予定で、開局準備期間にNETテレビと協定を結んでいたが、開局直前の1969年10月にフジテレビ(FNN・FNS)系列主体に変更。1993年4月1日にFNN・FNS系列からANNフルネット局にネットチェンジ。</ref>||△
|-
|[[宮城県]]||'''khb 5'''||[[東日本放送]]||colspan=2|[[1975年]]10月1日||基幹局。2021年9月30日まで、略称表記は大文字の「KHB」
|△
|-
|[[福島県]]||'''KFB 5'''||[[福島放送]]||colspan=2|[[1981年]]10月1日||業務により基幹局扱いの場合あり||△
|-
|[[広域放送#テレビジョン放送|関東広域圏]]||'''EX 5'''||[[テレビ朝日]]||[[1959年]][[2月1日]]||1970年1月1日発足時<ref name=J group="注釈" />||[[キー局]]。基幹局。旧社名:日本教育テレビ(略称:NET、呼称:NETテレビ、1959年2月1日 - [[1977年]]3月31日)→ 全国朝日放送(略称:ANB、愛称:テレビ朝日、1977年4月1日 - [[2003年]][[9月30日]])||△
|-
|[[山梨県]]||colspan=4|なし||[[テレビ朝日甲府支局]]が取材を担当。||
|-
|[[静岡県]]||'''SATV 5'''||[[静岡朝日テレビ]]||colspan=2|[[1978年]][[7月1日]]||業務により基幹局扱いの場合あり。旧社名:静岡県民放送(略称:SKT、愛称:静岡けんみんテレビ、[[1993年]][[9月30日]]まで)<ref group="注釈">1978年7月1日開局 - [[1979年]][[6月30日]]の間は[[日本ニュースネットワーク|NNN]]とのクロスネット(但し、NNSには非加盟)だった。</ref>。||△
|-
|[[長野県]]||'''abn 5'''||[[長野朝日放送]]||colspan=2|1991年4月1日||||
|-
|[[新潟県]]||'''UX 5'''||[[新潟テレビ21]]||colspan=2|[[1983年]]10月1日||業務により基幹局扱いの場合あり。旧略称:NT21(開局 - [[2006年]][[7月31日]])。||△
|-
|[[富山県]]||colspan=4|なし||[[テレビ朝日富山支局]]・北陸朝日放送富山営業支局を富山市に設置。北陸朝日放送の中田絢子支局長が報道番組でリポートしている。||
|-
|[[石川県]]||'''HAB 5'''||[[北陸朝日放送]]||colspan=2|1991年10月1日|| ||△
|-
|[[福井県]]||'''FBC 7'''||[[福井放送]]||[[1960年]][[6月1日]]||[[1989年]]4月1日||NNN/NNSメインの[[クロスネット局]]<ref group="注釈">正式加盟前の1975年4月1日からANNニュースは番組販売扱いでネット、1978年からはANN向けの取材や報道素材交換にも協力。ただし、正式加盟後もANNの一般番組供給部門には非参加。さらに、日本テレビの公式サイト上のネット局一覧ではクロスネット局として扱われていない(NNN指定の報道番組を全てネットしているため。昼の時間帯はNNN→ANNの順で連続放送)。</ref>。||●△
|-
|[[広域放送#テレビジョン放送|中京広域圏]]||'''NBN 6'''||[[名古屋テレビ放送]]||[[1962年]]4月1日||1970年1月1日発足時<ref name=J group="注釈" />||[[基幹局]]。愛称:メ〜テレ。||△
|-
|[[広域放送#テレビジョン放送|近畿広域圏]]||'''ABC 6'''||[[朝日放送テレビ]]||style="white-space:nowrap"|[[1956年]][[12月1日]]<ref group="注釈">[[朝日放送ラジオ|ラジオ]]は[[1951年]][[11月11日]]開局。</ref>||1975年3月31日||[[準キー局]]、基幹局<ref group="注釈">1956年12月1日に OTV 大阪テレビ放送として開局。1959年3月に朝日放送(当時はラジオ部門のみ、現在の[[朝日放送グループホールディングス]])との合併に向けて、ABC-OTV 朝日放送大阪テレビと改称した。同年6月の法人合併後は ABC 朝日放送テレビと改称。2か月後の1959年8月には[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]に加盟し、ネットキー局がラジオ東京(KRT・現:[[TBSテレビ]])だったため、腸捻転が生じていた。1975年3月30日に腸捻転を解消した。詳細は[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]を参照のこと。かつては、[[広域放送|近畿広域圏]]では2004年11月30日までは[[電子番組ガイド|EPG]]のホスト局だったが、システム更新時に[[Gガイド]]の配信を行っているJNN系列局の[[毎日放送]]に一本化され、これにより、現在のGガイド、およびEPGのホスト局は、JNN局が存在しない[[秋田県]]・[[福井県]]・[[徳島県]]・[[佐賀県]]の4県を除き、全てJNN系列局となっていて、現在は、EPGの番組データの配信は行っていない(現在の近畿広域圏のGガイド、およびEPGのホスト局はJNN系列局のMBSテレビのみとなっている)。</ref>。||○△
|-
|[[徳島県]]||colspan=4|なし||[[朝日放送テレビ徳島支局]]が取材を担当<ref group="注釈">2011年3月までJRT[[四国放送]]が番組販売で一部『ANNニュース』をネットしていた。</ref>。||
|-
|[[高知県]]||colspan=4|なし||[[朝日放送テレビ高知支局]]及び[[愛媛朝日テレビ]]が取材を担当。||
|-
|[[愛媛県]]||'''eat 5'''||[[愛媛朝日テレビ]]||colspan=2|[[1995年]]4月1日||ニュース取材は高知県四万十町・宿毛市・四万十市・大月町・黒潮町も含む<ref group="注釈">愛媛朝日テレビ開局まではRNB[[南海放送]]が番組販売で一部『ANNニュース』をネットしていた。</ref>。||△
|-
|[[香川県]]||rowspan=2|'''KSB 5'''||rowspan=2|[[瀬戸内海放送]]||rowspan=2|[[1969年]]4月1日||rowspan=2|1970年1月1日発足時<ref name=J group="注釈" />||rowspan=2|業務により基幹局扱いの場合あり<ref group="注釈">徳島県西部や高知県内、鳥取県の取材も行う場合がある。</ref>||rowspan=2|[[エフエム香川|○]]△
|-
|[[岡山県]]
|-
|[[鳥取県]]||rowspan="2" colspan=4|なし||[[テレビ朝日鳥取支局]]及び[[テレビ朝日米子支局|米子支局]]が取材を担当<ref name=G group="注釈">[[大山町]](旧:[[中山町 (鳥取県)|中山町]])・[[琴浦町]]・[[倉吉市]]以東は鳥取支局が、大山町(旧:大山町・[[名和町]])・[[江府町]]以西は米子支局がそれぞれ取材。</ref>。||
|-
|[[島根県]]||[[テレビ朝日松江支局]]及び広島ホームテレビ、山口朝日放送が取材を担当<ref name=H group="注釈">[[出雲市]]・[[雲南市]]・[[飯南町]]以東は[[テレビ朝日松江支局]]が、[[大田市]]・[[江津市]]・[[美郷町 (島根県)|美郷町]]・[[邑南町]]・[[川本町]]・[[浜田市]]は広島ホームテレビ、[[益田市]]・[[津和野町]]・[[吉賀町]]は山口朝日放送がそれぞれ取材。</ref>。||
|-
|[[広島県]]||style="white-space:nowrap"|'''HOME 5'''||[[広島ホームテレビ]]||colspan=2|1970年12月1日<ref name=J group="注釈" />||業務により基幹局扱いの場合あり。旧略称:UHT(開局から[[1986年]][[3月31日]]まで)。ニュース取材は島根県大田市・江津市・美郷町・邑南町・川本町・浜田市も含む。愛媛朝日テレビ開局までは愛媛県も取材対象地域だった。||△
|-
|[[山口県]]||'''yab 5'''||[[山口朝日放送]]||colspan=2|1993年10月1日||ニュース取材は島根県益田市・津和野町・吉賀町も含む。||△
|-
|[[福岡県]]||'''KBC 1'''||[[九州朝日放送]]||[[1959年]][[3月1日]]<ref group="注釈">[[KBCラジオ|ラジオ]]は[[1954年]]1月1日開局</ref>||1970年1月1日発足時<ref name=J group="注釈" />||基幹局。長崎文化放送開局までは長崎県も取材対象地域だった。<ref group="注釈">1959年3月1日テレビ放送開始 - [[1964年]][[9月30日]]の間は[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]とのクロスネット(当時はFNN・FNS発足前)だった。</ref>||[[KBCラジオ|●]]△
|-
|[[佐賀県]]||colspan=4|なし||[[九州朝日放送佐賀支局]]が取材を担当<ref group="注釈">実質的にKBCの放送エリア。</ref>。||
|-
|[[長崎県]]||'''ncc 5'''||[[長崎文化放送]]||colspan=2|[[1990年]]4月1日||||△
|-
|[[熊本県]]||'''KAB 5'''||[[熊本朝日放送]]||colspan=2|[[1989年]]10月1日||||△
|-
|[[大分県]]||'''OAB 5'''||[[大分朝日放送]]||colspan=2|1993年10月1日||||△
|-
|[[宮崎県]]||'''UMK 3'''||[[テレビ宮崎]]||1970年4月1日||[[1976年]]4月1日||[[フジニュースネットワーク|FNN]]/FNSメインのNNN、ANNの3系列クロスネット局<ref group="注釈">1970年4月の開局時からANNニュースなどはネット。ただしANNの一般番組供給部門とNNSには非参加。</ref>。||△
|-
|[[鹿児島県]]||'''KKB 5'''||[[鹿児島放送]]||colspan=2|[[1982年]]10月1日||業務により基幹局扱いの場合あり||△
|-
|[[沖縄県]]||'''QAB 5'''||[[琉球朝日放送]]||colspan=2|1995年10月1日||<ref group="注釈">[[1995年]](平成7年)9月30日までは[[テレビ朝日那覇支局]]が取材を担当。JNN系列局の[[琉球放送]]による事実上の1局2波体制で行う放送局。報道取材・アナウンス・一部営業関係以外の放送業務を、すべて琉球放送に委託している。</ref>||△
|}
=== 過去の加盟局 ===
●印は加盟当時メインネットであった局。<br />★印は民間放送教育協会加盟局。<br />☆印は過去に民間放送教育協会に加盟していた局。
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!style="min-width:7em;"|放送対象地域
!略称
!style="min-width:7em;"|社名
!style="width:9em;"|ANN加盟期間!!脱退理由
!style="width:6em;"|現在の系列
!脚注
|-
|rowspan=2|青森県<ref name="t" group="注釈">青森県内、及び山口県内の民放3局は、全てが過去にANNに加盟、又は現在も加盟しているという共通点がある。また、先発局がVHF(アナログ)/AM波のラテ兼営でNNN/NNS加盟局、第2局が(UHF波の)テレビ単営でJNN加盟局かつJNN系列局では数少ない、過去にクロスネットであった歴史があり、そして今日に至るまでフジテレビ系列(FNN/FNS加盟局)が存在しないという歴史も偶然ではあるが両県で起きている。</ref>||ATV||[[青森テレビ]]||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - [[1975年]][[3月30日]]||JNN協定に抵触するため。<ref group="注釈">ただし、開局当初からANN脱退までの間も、JNNニュースについては[[番組販売]]購入扱いによりネットを受けており、JNNニュースの青森県内における取材・配信への参加も認めていたため、実質的にはクロスネットであった。</ref>||JNN||<ref group="注釈">JNNへの正式加盟はJNN協定の関係でANN脱退後</ref>
|-
||RAB||[[青森放送]]★||1975年[[3月31日]] - 1991年[[9月30日]]||青森朝日放送開局に伴い脱退。||rowspan=2|NNN/NNS||<ref name="RAB" group="注釈">ANN加盟中もNNNのニュース番組を全て放送していたため、実質上NNNフルネット局扱いであった。</ref>
|-
|岩手県||TVI||[[テレビ岩手]]||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - [[1980年]]3月31日||||<ref name="RAB" group="注釈" /><ref group="注釈">TVIのANN離脱以降は[[テレビ朝日盛岡支局]]が取材を担当(1980年4月1日 - 1996年9月30日)。</ref>
|-
|秋田県||AKT||[[秋田テレビ]]||1981年4月1日<ref name="AKT20th">{{Cite|和書|author=秋田テレビ開局20周年記念行事実行委員会社史編纂小委員会 編|title=AKT秋田テレビ20年のあゆみ|date=1990|publisher=秋田テレビ|pages=22}}</ref> - [[1987年]]3月31日||1987年3月31日の協定期限をもって脱退<ref name="AKT20th" />。||FNN/FNS||<ref group="注釈">但し、ANN加盟後もFNNの報道番組を全て放送していた。AKTのANN離脱からAAB開局までの間は、ANNの報道拠点は置かれず(1987年4月1日 - [[1992年]]9月30日)。</ref>
|-
|山形県||YBC||[[山形放送]]★||[[1980年]]4月1日<ref group="注釈">正式加盟前の1979年4月よりANNニュースを番販扱いでネットし、同年7月にはテレビ朝日とネットワーク業務提携を調印。</ref> - [[1993年]]3月31日||山形テレビのネットチェンジに伴い脱退。||rowspan=3|NNN/NNS||<ref name="RAB" group="注釈" />
|-
|宮城県||MTB → mm34(現:MMT)||[[宮城テレビ放送]]||1970年10月1日開局<ref name=J group="注釈" /> - 1975年9月30日||東日本放送開局に伴い脱退。||
|-
|福島県||FCT||[[福島中央テレビ]]||1970年4月1日開局<ref name=J group="注釈" /> - [[1981年]]9月30日||福島放送開局に伴い脱退。||<ref group="注釈">以前は、FNN/FNS/ANN(クロスネット)→NNN/NNS/ANN(クロスネット)だった。</ref>
|-
|関東広域圏||NET → ANB → EX ||日本教育テレビ → 全国朝日放送 → テレビ朝日●★||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - [[2014年]]3月31日||(旧)テレビ朝日(移行後は『[[テレビ朝日ホールディングス]]』)の認定持株会社移行により、現業部門が(新)テレビ朝日に移行した為。||-||
|-
|長野県||TSB||[[テレビ信州]]||[[1980年]]10月1日開局 - 1991年3月31日||長野朝日放送開局に伴い脱退。||NNN/NNS||<ref group="注釈">クロス時代はNNS非加盟</ref>
|-
|新潟県||NST||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - [[1983年]]9月30日||新潟テレビ21開局に伴い脱退。<br />2019年10月から社名は『[[NST新潟総合テレビ]]』
|FNN/FNS||
|-
|中京広域圏||CUT → CTV||中京ユー・エッチ・エフテレビ放送→[[中京テレビ放送]]●||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - [[1973年]]3月31日||名古屋テレビへの系列一本化のため脱退。||NNN/NNS||<ref group="注釈">1970年1月1日のANN発足から1973年3月31日の間はCTVとメ〜テレの双方が重複加盟。1973年4月1日にNBNがANNフルネット化。そしてCTVがNNN/NNSフルネット化により解消。</ref>
|-
|rowspan=2|近畿広域圏||MBS||[[毎日放送]]●☆||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - 1975年3月30日||腸捻転解消のためのネット再編により脱退。||JNN<ref>1975年3月31日にTBS系列(JNN)にネットチェンジ。</ref>||<ref group="注釈">テレビ朝日が教育専門局・日本教育テレビとして開局していた関係上、毎日放送はテレビ放送開始(1959年3月)当時、準教育局として免許を交付されていた。</ref>
|-
||ABC||朝日放送●★||1975年3月31日 - 2018年3月31日||朝日放送(移行後は『[[朝日放送グループホールディングス]]』)の[[放送持株会社|認定放送持株会社]]移行により、テレビ放送部門が「朝日放送テレビ」に分割されたため。||-||
|-
|岡山県||OHK||[[岡山放送]]||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - 1970年4月1日<br />1970年10月1日 - 1979年3月31日||1970年は系列整理により脱退したものの方針転換し半年後に再加盟。1979年4月1日の岡山・香川地上波相互乗り入れに伴い脱退。テレビ朝日の番組は瀬戸内海放送に1本化。||FNN/FNS||
|-
|rowspan=2|山口県<ref name="t" group="注釈" />||tys||[[テレビ山口]]||1970年4月1日開局<ref name=J group="注釈" /> - [[1978年]]9月30日||JNN協定に抵触するため。||JNN||<ref group="注釈">一般番組供給のみの参加。以前は、JNN・FNS(クロスネット)だった。</ref>
|-
||KRY||[[山口放送]]★||1978年10月1日 - 1993年9月30日||山口朝日放送開局に伴い脱退。||NNN/NNS||<ref group="注釈">当初は一般番組供給とニュースネットのみの参加。末期は正式なクロスネットに。また、日本テレビ『[[NNN日曜夕刊]]』ネット開始後の1979年10月よりNNNのニュース番組を全て放送することにより実質上NNNフルネット局扱いとなった。</ref>
|-
|福岡県||KBC||[[KBCグループホールディングス|九州朝日放送]]●||1970年1月1日発足 - 2023年3月31日||(旧)九州朝日放送(移行後は『[[KBCグループホールディングス]]』)の認定持株会社移行により、現業部門が(新)九州朝日放送に移行したため。||-||
|-
|熊本県||TKU||[[テレビ熊本]]||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - 1989年9月30日||熊本朝日放送開局に伴い脱退。||FNN/FNS||<ref name="bangumi-hikamei" group="注釈">テレビ熊本(TKU)・テレビ大分(TOS)・[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]](KTS)は当時、ANNのニュース番組供給部門のみ加盟。一般番組供給部門は非加盟。</ref>
|-
|大分県||TOS||[[テレビ大分]]||1970年4月1日開局<ref name=J group="注釈" /> - 1993年9月30日||大分朝日放送開局に伴い脱退。||NNN/NNS・FNN/FNS<ref group="注釈">ただし、NNS・FNS共に業務協定非参加(FNSホームページでは加盟局として扱われているほか、1972年版日本民間放送年鑑に掲載のフジテレビ・FNSの広告には既に加盟局として掲載されていた)。</ref><br />(クロスネット)||<ref name="bangumi-hikamei" group="注釈" />
|-
|鹿児島県||KTS||[[鹿児島テレビ放送]]||1970年1月1日発足<ref name=J group="注釈" /> - [[1982年]]9月30日||鹿児島放送開局に伴い脱退。||FNN/FNS||<ref name="bangumi-hikamei" group="注釈" /><ref group="注釈">以前は、FNN/FNS・/NNN/NNSのクロスネットだった。FNSについては1972年版日本民間放送年鑑に掲載のフジテレビ・FNSの広告には加盟局として掲載されていたが、クロス時代の業務協定への参加の有無は不明。</ref>
|}
=== 現在の主な非加盟局 ===
: ※加盟の意思があった、またはその意思の可能性があったものの、結局加盟しなかった主な局を掲載。
: ●は県内第3局
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!style="white-space:nowrap"|放送対象地域!!style="white-space:nowrap"|略称!!社名!!備考(加盟しなかった理由など)!!現在の<br />系列!!脚注
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|岩手県||mit||●[[岩手めんこいテレビ]]||岩手朝日テレビの開局が予定されていたためと、当地を地盤とする[[政治家]][[小沢一郎]]の意向による。||FNN/FNS||<ref group="注釈">[[中川一徳]]著 『メディアの支配者』や、[[2010年]][[4月28日]]発売の[[週刊誌]]・[[週刊文春]](2010年5月6日・13日合併号)によると、岩手県は政治面において、[[小沢佐重喜|小沢系]]と[[椎名悦三郎|椎名系]]との激しい対立があり、テレビ局の誘致においてもこの2陣営をも巻き込んで激しく対立していたという。椎名陣営は民放3局目に朝日(テレ朝)側を支援していたが、小沢陣営は(フジ系列の新聞社)[[産経新聞]]の岩手県内での拡販に協力する見返りに、民放3局目をフジ系列にするよう進めていたという。</ref><ref group="注釈">岩手めんこいテレビ開局直後に、岩手県の第4民放テレビ局の周波数が割り当てられた。</ref>
|-
|富山県||TUT||●[[チューリップテレビ]]||1986年の富山県第3局の周波数割り当て時点ではテレビ朝日系列での開局が有力視されていたが、最終的にTBS系列として開局することが決まったため。||JNN||<ref>『北日本新聞』1986年1月18日付朝刊1面『まず2社が免許申請へ』より。</ref>
|-
|福井県||FTB||style="white-space:nowrap"|[[福井テレビジョン放送]]||開局準備期間にNETテレビとも協定を結ぶが、開局直前の[[1969年]]7月にフジテレビ(FNN・FNS)系列主体に変更。||FNN/FNS||{{Refnest|group="注釈"|1969年10月1日にFNN・FNSフルネット局で開局。ANNとのクロスネット化は実現せず<ref group="PR">『福井テレビひとむかし』(福井テレビジョン放送社史)</ref>}}
|-
|[[岐阜県]]||GBS||[[岐阜放送]]||名古屋テレビ・中京テレビの反対のため。最終的に名古屋テレビが中京広域圏におけるANNフルネット局となった。||[[全国独立放送協議会|JAITS]]||
|-
|近畿広域圏||KTV||[[関西テレビ放送]]||開局準備段階のNETテレビには産経新聞東京本社も関与し、株主の立場で役員を派遣していたが、産経新聞社社長にフジテレビジョンの[[水野成夫]]が就任したことに伴い、開局直前にフジテレビとのネットに変更。また、NETテレビも当初は[[共同テレビジョン]]に出資していたが、開局前に資本撤退をしている。(当時はANN発足前)||FNN/FNS||
|-
|愛媛県||itv||●[[あいテレビ]]||[[JNN排他協定|JNN協定]]に抵触することと、当時愛媛朝日テレビの開局が決まっていたため。||JNN||{{refnest|group="注釈"|あいテレビ開局直後に、愛媛県の第4民放テレビ局の周波数が割り当てられた<ref>[https://web.rnb.co.jp/event/60th/main/ebook1/html5.html#page=212 伊予テレビ・愛媛朝日テレビ開局](『南海放送社史 第一部 夢にはじまる 南海放送五十年史(1953年~2003年)』2005年9月、南海放送発行)</ref>。}}
|-
|高知県||KSS||●[[高知さんさんテレビ]]||高知県に民放テレビ3局目が割り当てられた際はテレビ朝日がキー局の候補として挙げられていたが、高知県の要望などによって[[フジテレビジョン|フジテレビ]]がキー局となったため。<br/>クロスネット局も含めたANNへの加盟はもちろんのこと、ANNフルネット局としての開局も実現しなかった。||FNN/FNS||
|-
|長崎県||KTN||[[テレビ長崎]]||同局設立の際、[[朝日新聞社|朝日新聞]]が資本参加することに難色を示していた一方、[[長崎放送]]に[[朝日新聞]]の資本関係があったため、テレビ朝日系の番組(腸捻転時代の[[毎日放送]]制作分を含む)は、基本的に同局に[[番組販売|番販]](一部の番組は、交渉によりスポンサードネット)という形で放送されていた。ただし、長崎放送はJNN協定の関係で、ANNのニュースをネットすることができなかった。こうした関係から、[[クロスネット局|クロスネット]]も含めたANNへの加盟は意欲的ではなかった。1990年4月に長崎文化放送が開局したため、ANN非加盟を継続。||FNN/FNS||
|-
|熊本県||KKT||●[[熊本県民テレビ]]||1979年2月末の一本化調整の開始当初は「日本テレビとテレビ朝日2系列のクロスネット局」での開局を目指していたが<ref>「熊本の場合は申請40件……」『鹿児島テレビ10年史』鹿児島テレビ放送、1980年 pp.272-273 「県外紙 ラジオ・テレビ本部 副本部長 K・O」からの寄稿として収録。</ref>、在京キー局3社(日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日)による協議の結果、1981年3月24日に熊本県の民放第3局を日本テレビ系列局、鹿児島県の民放第3局をテレビ朝日系列局(鹿児島放送)とし、また、熊本県第4局(テレビ朝日系列局)の早期開局に含みを持たせることを決定したため<ref>{{Cite book|title=テレビ熊本30年史|date=|year=2001|publisher=テレビ熊本|pages=88-89}}</ref>。||NNN/NNS||
|}
<gallery>
ファイル:TV Asahi Headquarters.jpg|ANNの在京キー局:[[テレビ朝日]](EX、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]6丁目9番1号)
ファイル:Asahi Broadcasting Corporation headquarter.JPG|ANNの在阪準キー局:[[朝日放送テレビ]](ABC、[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]]福島1丁目1番30号)
ファイル:Nagoya Broadcasting Network Head Office 2022.jpg|ANNの在名基幹局:[[名古屋テレビ放送]](NBN、メ〜テレ、[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]橘)
ファイル:HTB newbuilding.jpg|ANNの在札基幹局:[[北海道テレビ放送]](HTB、[[北海道]][[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]][[北○条西 (札幌市)|北1条西]]1丁目6番)
ファイル:KBCbuilding.jpg|ANNの在福基幹局:[[九州朝日放送]](KBC、[[福岡県]][[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[長浜 (福岡市)|長浜]])
ファイル:Khb_headoffice202201.jpg|ANNの在仙基幹局:[[東日本放送]](khb、[[宮城県]][[仙台市]][[太白区]]あすと長町)
</gallery>
== 支局 ==
=== 国内 ===
ここでは報道取材拠点としてのもののみを取り上げる。支局所在地に別途加盟局が存在するもの<ref group="注釈">過去にNET→テレビ朝日が設置していた京都支局・神戸支局のように、[[サンテレビジョン]]・近畿放送(現:[[京都放送]])などの独立局への番組販売などの営業関係を主目的に設置されたものなど。</ref>は除く。
取材網充実のため、加盟局のない地域を中心に支局を置いている。これらの支局は地元のケーブルテレビ会社及び技術会社への委託、もしくは駐在カメラマンの派遣により運営されている。ただし、支局管内で大事件、大規模な自然災害が起きたときは本社やキー局、近くの加盟局から取材の応援が来る。
他のニュースネットワークと違い、ANNは全ての加盟局が無い地域に支局を置いており、民放テレビが1局しかない[[佐賀県]](九州朝日放送)は唯一の域外支局となっている。また、大半の域外支局は朝日新聞リアルエステートが管理する物件を利用している。これは、全国紙の朝日新聞の影響とみられる。
ANNニュースにおける関東ローカル枠や土日午後のスポット枠では、関東のニュース・季節の話題に加えて以下のテレビ朝日の5支局からニュース・季節の話題も伝えられる。
以下は各局のWebサイトや会社案内などには書かれていないが、インターネット[[タウンページ]]や現地での存在が確認出来たもの。
* [[テレビ朝日三陸臨時支局]]<ref group="注釈">[[東日本大震災]]被災地の長期的取材体制の現地拠点として、開設された臨時支局である。取材エリアは通常は[[岩手朝日テレビ]]と[[東日本放送]]が担当する、[[岩手県]]から[[宮城県]]にかけての三陸海岸沿いを中心にしたエリアで、テレビ朝日を中心としたANN加盟各局の共同運営という形で設置されている。</ref>
* [[テレビ朝日甲府支局]]
* [[テレビ朝日富山支局]]<ref group="注釈">北陸朝日放送富山営業支局と共同設置。</ref>
* [[テレビ朝日鳥取支局]]<ref group="注釈">[[1989年]]に米子支局から分離・独立。{{要出典範囲|現在も米子支局傘下の支局扱い|date=2015年12月}}。</ref>
* {{要出典範囲|[[テレビ朝日米子支局]]<ref group="注釈">山陰地方の統括支局</ref>|date=2015年12月}}
* [[テレビ朝日松江支局]]<ref group="注釈">[[2005年]]に米子支局から分離・独立。{{要出典範囲|現在も米子支局傘下の支局扱い|date=2015年12月}}。</ref>
* [[朝日放送テレビ徳島支局]]
* [[朝日放送テレビ高知支局]]
* [[九州朝日放送佐賀支局]]
=== 海外 ===
2022年9月現在。海外支局はANN加盟各局がANNの承認を得た上で開設し、運営にはANN基金より費用が補助されている<ref group="注釈">ただし全額ではなく、一部は設置社が負担している。</ref>。海外支局はテレビ朝日および朝日放送テレビが分担して運営している。かつては静岡朝日テレビも運営していた時期があり<ref group="注釈">東名阪福札以外の系列局が海外支局を運営する一例である([[JNN]]では過去に[[RSK山陽放送]]がカイロ支局を、また[[FNN]]では[[テレビ静岡]](FNN/FNS基幹局)が2023年現在も海外支局を運営するなどの例もある)。</ref>、その他の基幹局も一部支局をかつて運営していた時期がある。2023年10月時点では、朝日放送テレビ以外の基幹局および基幹局に準ずる規模の一部系列局が、既存支局への人員派遣という形で協力を行っている。
運営に際して、朝日放送テレビはかなりの独自性を持っていることが他系列と決定的に異なる。朝日放送テレビの社員は同社が開設した支局のみに派遣され、海外でも同社社員の肩書きと同社から支給された名刺を使用して取材活動を行う。これは重大ニュース発生で他支局の応援に出た場合でも同様である。一方、テレビ朝日・朝日放送テレビ以外の系列局から派遣された特派員は形式上テレビ朝日に出向したものとして取り扱われることがあり、テレビ朝日のプロパー社員に準じながらも出身局名を括弧書きした特注の名刺をテレビ朝日が用意する。
なお、テレビ朝日はアメリカの[[ニュース専門放送局]][[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]と提携しており、重大事件などの際にはCNNの映像を使用することもある。
{|class="wikitable"
|-
!地域!!海外支局名!!設置・運営<br />加盟局!!備考
|-
|rowspan=4|[[アメリカ合衆国|アメリカ<br />合衆国]]||ANNアメリカ総局||テレビ朝日||
|-
|style="white-space:nowrap"|ANN[[ニューヨーク]]支局||テレビ朝日||広島ホームテレビからも記者派遣。
|-
|ANN[[ワシントンD.C|ワシントン]]支局||テレビ朝日||
|-
|ANN[[ロサンゼルス]]支局||テレビ朝日||1984年に開設。
|-
|style="white-space:nowrap" rowspan=3|[[ヨーロッパ]]<br />旧[[ソビエト連邦|ソ連]]||ANN[[ロンドン]]支局||テレビ朝日||1973年3月開設<ref group="PR" name="チャレンジ199">{{Cite book|和書|editor=テレビ朝日社史編纂委員会|title=チャレンジの軌跡 : new air, on air.|publisher=テレビ朝日社史編纂委員会|date=2010-01|page=199|id={{NDLJP|22328995}}}}</ref>。北海道テレビからも記者派遣。
|-
|ANN[[パリ]]支局||style="white-space:nowrap"|朝日放送テレビ||支局そのものは朝日放送テレビがJNN加盟時代の[[1969年]]に開設<ref group="PR">{{Cite|和書|author=朝日放送社史編修室(編集)|title=朝日放送の50年 3 資料集|date=2000|pages=304}}</ref>。[[1975年]]の[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|ネットチェンジ]]以降はANNの支局として活動(ネットチェンジまではANNはパリに支局を設置していなかった<ref group="PR">{{Cite book|和書|editor=全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部|title=テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年|publisher=全国朝日放送|date=1984-02-01|pages=253|id={{NDLJP|12276014/335}}}}</ref>)。
|-
|ANN[[モスクワ]]支局||テレビ朝日||1973年10月開設<ref group="PR" name="チャレンジ199" />。
|-
|rowspan=5|[[アジア]]<br />[[アフリカ]]||ANN[[中華人民共和国|中国]]総局||テレビ朝日||1976年8月設置<ref group="PR" name="チャレンジ206">{{Cite book|和書|editor=テレビ朝日社史編纂委員会|title=チャレンジの軌跡 : new air, on air.|publisher=テレビ朝日社史編纂委員会|date=2010-01|page=206|id={{NDLJP|22328995}}}}</ref>。[[北京市|北京]]に設置。九州朝日放送からも記者派遣。
|-
|ANN[[上海市|上海]]支局||朝日放送テレビ||
|-
|ANN[[ソウル特別市|ソウル]]支局||テレビ朝日||1975年4月設置<ref group="PR" name="チャレンジ206" />。九州朝日放送からも記者派遣。
|-
|ANN[[バンコク]]支局||テレビ朝日||1975年6月設置<ref group="PR" name="チャレンジ206" />。静岡朝日テレビからも記者派遣。過去にはメ〜テレからの派遣もあった。
|-
|ANN[[カイロ]]支局||テレビ朝日||1976年11月設置<ref group="PR" name="チャレンジ206" />。
|}
==== 過去の海外支局 ====
* ANN[[ウィーン]]支局 ※九州朝日放送が開設・運営していた。1978年5月設置<ref group="PR" name="チャレンジ206" />。プラハ支局の設置により、1986年に閉鎖<ref>{{Cite book|和書|editor=日本民間放送連盟|title=日本民間放送年鑑 1986|publisher=コーケン出版|date=1986-11|pages=437}}</ref>
* ANN[[メキシコシティ|メキシコ]]支局 ※テレビ朝日が開設・運営していた。1978年12月設置<ref group="PR" name="チャレンジ206" />。
* ANN[[サンパウロ]]支局 ※テレビ朝日が開設・運営していた<ref name="名前なし-1">{{Cite book|和書|editor=全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部|title=テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年|publisher=全国朝日放送|date=1984-02-01|pages=11|id={{NDLJP|12276014/93}}}}</ref>。1984年に閉鎖。
* ANN[[サイゴン]]支局 ※テレビ朝日が1973年6月に開設、1975年5月に閉鎖<ref name="名前なし-1" /><ref group="PR" name="チャレンジ199" />。
* ANN[[ベイルート]]支局 ※テレビ朝日が1974年1月に開設、1976年10月に閉鎖<ref>{{Cite book|和書|editor=全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部|title=テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年|publisher=全国朝日放送|date=1984-02-01|pages=189|id={{NDLJP|12276014/271}}}}</ref><ref group="PR" name="チャレンジ199" />。
* ANN[[ハノイ]]支局 ※テレビ朝日が開設・運営していた<ref>{{Cite |url=http://017.co.jp/hearts/wp-content/uploads/2014/04/tv_asahi.pdf |title=テレビ朝日の空 |publisher=テレビ朝日 |date= |accessdate=2020-06-02 }}</ref>。
* ANN[[ベルリン]]支局 ※[[朝日放送テレビ|朝日放送]]、[[九州朝日放送]]が開設・運営していた<ref>{{Cite |url=https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13200&query=&class=&d=all&page=120 |title=朝日放送(株)『朝日放送の50年. 3 資料集』(2000.03) |publisher=渋沢社史データベース |date= |accessdate=2020-06-02 }}</ref>。
* ANN[[台北]]支局 ※朝日放送が開設・運営していた<ref>{{Cite |url=https://www.asahi.co.jp/shikyoku/old/back.html |title=海外支局通信 |publisher=朝日放送テレビ |date=2009-09-15 |accessdate=2020-06-02 }}</ref>。
* ANN[[シンガポール]]支局 ※[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]が開設・運営していた。
* ANN[[マニラ]]支局 ※[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]が開設・運営していた。1987年開設、1993年閉鎖<ref>{{Cite book|title=ユメミル、チカラHTBの50年|url=https://www.htb.co.jp/htb/50th_b2/HTML5/pc.html#/page/40}}</ref>。
* ANN[[ウラジオストク]]支局 ※北海道テレビが開設・運営していた。1992年開設、2000年閉鎖<ref>{{Cite book|title=ユメミル、チカラHTBの50年|url=https://www.htb.co.jp/htb/50th_b2/HTML5/pc.html#/page/42}}</ref>。
* ANN[[ボン]]支局 ※テレビ朝日が1984年開設。1994年度にウィーンに移した。
* ANN[[プラハ]]支局 ※テレビ朝日が1986年7月10日に開設<ref>{{Cite book|和書|editor=日本民間放送連盟|title=日本民間放送年鑑 1986|publisher=コーケン出版|date=1986-11|pages=437}}</ref>。
== ネットニュース ==
; 随時
* '''[[ANNニュース]]''' - 1969年12月まで『[[朝日新聞ニュース|NETニュース]]』として放送。
; 朝
{{Main|テレビ朝日系列朝ニュース枠}}
; 昼
{{Main|テレビ朝日系列昼ニュース枠}}
; 夕方
{{Main|テレビ朝日系列夕方ニュース枠}}
; 最終版
{{Main|テレビ朝日系列深夜ニュース枠}}
== 特別番組 ==
選挙、台風、地震、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による[[ミサイル]]発射([[全国瞬時警報システム]]による速報)、他に大型の事件・事故の際に[[報道特別番組]]が放送される。但し、通常のニュース・情報番組の放送枠拡大などで対応する場合もあり、その場合は「ANN報道特別番組」である旨を示すためにオープニングで画面右上に数秒間、ANNのロゴマークが表示される。
『ANN報道特別番組』としてではなく、各番組の「'''緊急拡大'''」で番組をつなぎ、実質の報道特別番組を組むこともある。2022年7月8日の[[安倍晋三銃撃事件]]を例にとると、事件発生の11時31分は『[[大下容子ワイド!スクランブル]]』放送中であったが、『[[ANNニュース]]』終了後の第2部から「緊急拡大」を適用し15時48分まで放送。その後『[[スーパーJチャンネル]]』も放送開始を1時間前倒しする形で拡大、18時50分からは『[[報道ステーション]]』を緊急拡大した。特に日中帯で有事がある場合に組まれることがある。
=== 国政選挙 ===
[[出口調査]]などを利用し、開票状況を伝える特別番組を放送。朝日新聞社と関係が深い局が多い点を生かし、21世紀に入って以降、特に大規模な選挙では朝日新聞社と共同で選挙報道にあたっている。インターネット上の選挙特設サイトも[[朝日新聞デジタル]]とANNが共同で開設している。
; 主な選挙番組
* [[ANN選挙開票速報]](1971年参院選 - 1983年衆院選)
* [[選挙ステーション]](1986年衆院選・参院選 - )
* [[朝いち!!やじうま|朝いち!!やじうま開票速報]]
=== 地震・津波 ===
震度3以上を観測した揺れについては[[ニュース速報]]の形式で伝え、場合によっては市町村別震度も伝える<ref group="注釈">ニュース速報で「ANN」と冠しているのはテレビ朝日のみで他のANN各局とBS朝日では放送局名で冠している。</ref>。なお、その際に表示される画面の地名には唯一振り仮名がふってある。
規模が大きな地震については、長時間にわたって伝える。地震に伴う津波に関しても同様の処置をとる。報道特番を組むか否かの判断は、編成局長に一任されている。これは、台風や突発的な事件・事故の場合も同様。
速報チャイムは、2003年9月の六本木ヒルズ移転前までは「ピロリロリーン」だったが、同年10月の移転後からは「ピロリロン ピロリロン」の2音のチャイムに変更された(ただし、新潟テレビ21・山口朝日放送・九州朝日放送・熊本朝日放送・大分朝日放送・鹿児島放送・琉球朝日放送等では現在でも1世代前のチャイムを使用<ref group="注釈">BS朝日は六本木ヒルズ森タワー移転前までは緊急地震速報を含めて使用していたが、移転後の2013年12月のマスター更新より地上波と同じチャイムに切り替わっている。また、2020年4月現在は[[岐阜放送]]で使用されている。</ref>、北海道テレビ・青森朝日放送・東日本放送・静岡朝日テレビ・北陸朝日放送・メ〜テレ・朝日放送テレビ・愛媛朝日テレビ等では独自のチャイムを使用<ref group="注釈">この内、北陸朝日放送・メ〜テレは[[モールス信号]]を使用(かつては岩手朝日テレビ・朝日放送〈当時。2008年5月19日の本社移転前迄〉・九州朝日放送も該当)。</ref>、長野朝日放送では[[日本ニュースネットワーク|日本テレビ系列]]が現在使用しているチャイムを使用、福島放送・瀬戸内海放送ではチャイムを使用しない)。
=== 台風 ===
台風時は各局で編成されるため、すべての加盟局に向けた特別番組の放送は滅多にしない。また、通常のニュース・[[情報番組]]のなかで、番組の多くを台風情報に充てるなどして対応する。
== 報道番組以外での系列局共同制作番組 ==
[[1970年代]]に、ANN系列のフルネット各局が共同制作を担当する連続ドラマが制作されたことがある。
* [[徳川三国志 (テレビドラマ)|徳川三国志]](1975年10月-1976年3月)幹事/発局・NET 放送枠・[[テレビ朝日水曜夜9時枠時代劇|水曜21時台]]<ref group="注釈">この作品のみ、東日本放送がまだ開局したてであり、共同製作には参加していなかった。</ref>
* [[新・二人の事件簿 暁に駆ける]](1976年7月-1977年4月)幹事/発局・朝日放送テレビ<ref group="注釈">第1作『[[TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿]]』は朝日放送テレビ単独製作</ref> 放送枠・[[テレビ朝日火曜8時枠の連続ドラマ|火曜20時台]]
* [[海峡物語]](1977年4月-9月)幹事/発局・ANB 放送枠・[[テレビ朝日木曜10時枠の連続ドラマ|木曜22時台]]
* [[お手々つないで]](1977年11月-1978年3月)幹事/発局・NBN 放送枠・火曜20時台
* [[東京メグレ警視シリーズ]](1978年4月-同年9月)幹事/発局・朝日放送テレビ 放送枠・[[朝日放送・テレビ朝日金曜9時枠の連続ドラマ|金曜21時台]]
* [[亭主の家出]](1978年10月-1979年3月)幹事/発局・KBC 放送枠・[[テレビ朝日月曜9時枠の連続ドラマ|月曜21時台]]
その他、[[1981年]]から放送されている、[[全国高等学校野球選手権大会]]のダイジェスト番組『[[熱闘甲子園]]』も、幹事製作は朝日放送テレビ・EXの2社だが、それ以外のANNフルネット各局が「製作協力」という形でクレジットされていた時期があった。
== テーマ音楽・曲 ==
{{Main|ANNニュース#歴代ANNニュースのテーマソング}}
かつてのANNニュース系の番組の多くは共通のテーマ曲を用いていた。
* 1975年 - 1980年9月頃
: 作曲:[[宮川泰]](別名:パッパヤーのサイケバージョン)
: ただし、朝日放送(当時)では、「[[ABCフラッシュニュース]]」(腸捻転時代より。同心円の映像)。名古屋テレビ(メ〜テレ)では、「[[名古屋テレビニュース]]」の扱いとなって小規模オーケストラベースを採用。
* 1980年10月頃 - 1982年3月頃
: 作曲:宮川泰(別名:パッパヤーのスタジオバージョン、曲のアレンジを変更)ただし、朝日放送(当時)・メ〜テレは以前と同様に扱う。
* 1982年4月頃 - 1984年9月頃
: 作曲:不明
: ピアノと電子音の初期とシンセサイザー系の後期の物とがある。但し、朝日放送(当時)のみ一部異なる。CGグラフィックのオープニングアクションは番組別に異なるものとなった。
* 1984年10月頃 - 1985年9月頃
: 作曲:不明
: 管弦楽系のオーケストラとなっていた。朝日放送(当時)・メ〜テレは、ユーロビート造りとなる。
* 1985年10月 - 1990年9月
: 作曲:[[松岡直也]](別名:青屏風)
: 1985年10月に放映を開始した『[[ニュースステーション]]』にあわせて始まった。番組によって違う仕上がりになっていた。朝日放送(当時)・メ〜テレでは、以前と同様に独自の音楽を使用。広島ホームテレビの5分枠は1988年から独自の音楽となる。
: ただし土曜・日曜の『[[ANNニュースフレッシュ]]』(当時の朝のニュース)では1993年3月まで使われた。
* 1990年10月 - 1993年3月
: 作曲:[[窪田宏]]『ASTINA』(純粋なユーロビート演出が人目を引いた。)朝日放送(当時)のみ「ABCフラッシュニュース」「天気&ニュース」としてサービス区域のテーマ曲(映像もA-SATのパラボラアンテナを使用したCG)を活用。
: 草原を飛行して、水面に変わり、タイトルが出てくるCG。最後にスタジオが映る。別名草原クリスタルとも言われた。
== 関連項目 ==
* [[ANNニュース]]
* [[民間放送教育協会]](民教協)
* [[ADAMS]]
* [[ANNアナウンサー賞]]
* [[ラジオ局ローカルニュースタイトル一覧]]
* [[テレメンタリー]]
* [[全国おもしろニュースグランプリ]] - 年末特番、ANN加盟26局全局参加
* [[27時間チャレンジテレビ]] - 1996年、1997年のみ
* [[パネルクイズ アタック25]] - 毎年、最初の放送で新春女子アナ大会を開催
* [[裏送り]]
* [[ラテ兼営#概要|ラテ兼営]]
* [[ローカルニュース動画配信実施局一覧]]
* [[ニュース系列]]
* [[民放テレビ全国四波化]]
** [[開局を断念した放送局一覧]]
** [[かつて日本に存在した放送局]]
** [[エリアで最初に開局した放送局の一覧 (日本)]]
* [[ウェザーニューズ]] - 系列各局にて天気予報番組の制作に参画、気象予報士の派遣のほか一部情報番組で「ソラをライブ」コーナーを制作協力している。
* [[フォントワークス]] - 同社とテレビ朝日の協業により開発されたオリジナルフォント「テレ朝UD」を、系列各局にて報道・情報番組の標準書体として使用。
=== 衛星デジタル放送・動画配信関連 ===
* [[BS朝日]](アクセントは、丸みを帯びたアルファベットのAだけ。)
* [[テレ朝チャンネル]](旧屋号tv asahi ch.平成25年度にて現屋号に改称。)
* [[朝日ニュースター]] -旧名称衛星チャンネル(2013年4月よりテレ朝チャンネルに移行 )
* [[AbemaTV|AbemaNews]] - ANNが取材した映像は、右下にANNロゴが表示される。
=== 番組販売協力局 ===
以下は加盟系列局がない県を中心に主にEX系列との番組販売によるネットの多い放送局を列記している。
* [[山梨県]]
** [[山梨放送]](YBS) - NNN/NNS:日本テレビ系列
** [[テレビ山梨]](UTY) - JNN:TBS系列<ref group="注釈" name="JNN協定">JNN協定に触れない範囲で一部放送。</ref>
* [[富山県]]
** [[北日本放送]](KNB) - NNN/NNS:日本テレビ系列
** [[チューリップテレビ]](TUT) - JNN:TBS系列<ref group="注釈" name="JNN協定" />
** [[富山テレビ放送]](BBT) - FNN/FNS:フジテレビ系列
* [[福井県]]
** [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]](FTB) - FNN/FNS:フジテレビ系列(福井放送が枠の関係で放送できない一部のテレビ朝日系番組を放送<ref group="注釈">福井放送はNNN/NNS(日本テレビ系列)・ANNとのクロスネット局のため。</ref>)
* 関西広域圏
** [[サンテレビジョン|サンテレビ]](SUN) - 独立放送局(毎日放送→朝日放送が枠の関係で放送できない一部のテレビ朝日系番組を放送。過去には上記の広告のようにNETテレビが系列局とみなしていた事例があった)
** [[京都放送]](KBS) - 独立放送局(同上)
* [[鳥取県]]・[[島根県]]
** [[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]](NKT) - NNN/NNS:日本テレビ系列
** [[山陰放送]](BSS) - JNN:TBS系列<ref group="注釈" name="JNN協定" />
** [[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]](TSK) - FNN/FNS:フジテレビ系列
* [[徳島県]]
** [[四国放送]](JRT) - NNN/NNS:日本テレビ系列
* [[高知県]]
** [[高知放送]](RKC) - NNN/NNS:日本テレビ系列
** [[テレビ高知]](KUTV) - JNN:TBS系列<ref group="注釈" name="JNN協定" />
* [[宮崎県]]
** [[宮崎放送]](mrt) - JNN:TBS系列(テレビ宮崎が枠の関係で放送できない一部のテレビ朝日系番組を放送<ref group="注釈" name="JNN協定" /><ref group="注釈">[[テレビ宮崎]]はFNN/FNS(フジテレビ系列)・NNN(日本テレビ系列)・ANNとのクロスネット局のため。</ref>。また、かつては『[[全国高校野球選手権大会中継#テレビ中継|全国高校野球選手権大会中継]]』(決勝戦)を、宮崎県ではmrtで放送していた。)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 一次資料または記事主題の関係者による情報源 ====
{{Reflist|group="PR"|2}}
{{reflist|group="shashi50"}}
== 外部リンク ==
{{Commons|TV Asahi Network|ANN}}
* [https://news.tv-asahi.co.jp/ テレ朝NEWS] - 事実上のANN公式サイト
* [https://corp.asahi.co.jp/ja/tv/company/network.html テレビ朝日ネットワーク]
* {{YouTube|user=ANNnewsCH|ANNnewsCH}}
* {{Twitter|tv_asahi_news|テレ朝news}}
* {{TikTok|tv_asahi_news|テレ朝news【公式】}}
{{ANN}}
{{テレビ朝日}}
{{朝日放送グループ}}
{{放送ネットワーク}}
{{朝日新聞社}}
{{東映}}
{{デフォルトソート:おおるにつほんにゆうすけつとわあく}}
[[Category:ANN|*]]
[[Category:テレビ朝日]]
[[Category:朝日放送グループ]]
[[Category:朝日新聞社]]
[[Category:東映]]
[[Category:日本の民放ネットワーク]]
[[Category:日本のニュース専門テレビチャンネル]]
[[Category:1970年設立の組織]] | 2003-03-23T19:45:49Z | 2023-12-22T17:38:35Z | false | false | false | [
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5,038 | ニューヨーク (曖昧さ回避) | ニューヨーク (New York、米:[nuː ˈjɔɹk], 英:[njuː ˈjɔːk], ニューヨーク市:[nuː ˈjɔək]、 米発音, ニューヨーク市発音) | [
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== アメリカ合衆国の地名 ==
* [[ニューヨーク州]] ([[:en:New York|The State of New York]])
** [[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]を州都とする合衆国11番目の州。
* [[ニューヨーク都市圏]] ([[:en:New York metropolitan area|The Metropolitan New York]])
** 合衆国国勢調査局が「統計上のニューヨーク・北部ニュージャージー・ロングアイランド都市圏」(New York-Northern New Jersey-Long Island, NY-NJ-PA Metropolitan Statistical Area)と定義する、アメリカ最大の都市圏。英表記にある“PA”は[[ペンシルベニア州]]のことで、これは「北部ニュージャージー」地域には隣接するペンシルベニア州の郡のひとつも含まれているため。「メトロポリタン・エリア」(Metropolitan Area)というとこれを指す。
* [[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|ニューヨーク港湾地域]] ([[:en:Port Authority of New York and New Jersey]])
** 現在では「ニューヨーク・ニュージャージー港湾地域」(New York-New Jersey Port District)と呼ばれる地域の旧称だが、いまだに使われることが多い。[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]から半径{{convert|25|mi|km|}}内に設定された、主に公共輸送インフラの整備や運営を円滑に行うための経済特区で、[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社]]が管轄する。
* [[ニューヨーク|ニューヨーク市]] [[:en:New York City|(The City of New York)]]
** [[マンハッタン]]、[[ブルックリン区|ブルックリン]]、[[ブロンクス区|ブロンクス]]、[[クイーンズ区|クイーンズ]]、[[スタテンアイランド]]の5区で構成される市の名称。「ニューヨーク・シティー」(New York City)というとこれを指す。
* [[マンハッタン|ニューヨーク郡]] ([[:en:Manhattan|New York County]])
** 「マンハッタン区」の行政上の正式名称で、最も狭義のニューヨーク。マンハッタン区はニューヨーク市を構成する5区のひとつだが、それ自体がニューヨーク郡でもあるという、二重の構成になっている。
=== その他のアメリカ合衆国の地名 ===
* {{仮リンク|ニューヨーク・ミルズ (ミネソタ州)|en|New York Mills, Minnesota}} ([[:en:New York Mills, Minnesota]])
** [[ミネソタ州]]にある都市。
* {{仮リンク|ニューヨーク (ケンタッキー州)|en|New York, Kentucky}} ([[:en:New York, Kentucky]])
** [[ケンタッキー州]]にある。
* {{仮リンク|ニューヨーク (テキサス州)|en|New York, Texas}} ([[:en:New York, Texas]])
** [[テキサス州]]にあるコミュニティ市。
* {{仮リンク|ウェスト・ニューヨーク (ニュージャージー州)|en|West New York, New Jersey}} ([[:en:West New York, New Jersey]])
** [[ニュージャージー州]]にあるハドソン川沿いの小さな町。
* {{仮リンク|ニューヨーク (ミズーリ州)|en|New York, Missouri}} ([[:en:New York, Missouri]])
** [[1835年]]から[[1836年]]に存在していた[[ミズーリ州]]の旧コミュニティ。
== イギリスの地名 ==
* {{仮リンク|ニューヨーク (リンカンシャー州)|en|New York, Lincolnshire}}([[:en:New York, Lincolnshire]])
* {{仮リンク|ニューヨーク (ノース・ヨークシャー州)|en|New York, North Yorkshire}}([[:en:New York, North Yorkshire]])
* {{仮リンク|ニューヨーク (タイン・アンド・ウィア州)|en|New York, Tyne and Wear}}([[:en:New York, Tyne and Wear]])
== アメリカ海軍艦艇 ==
*[[ニューヨーク (砲艦)]] - 1776年進水の砲艦
*[[ニューヨーク (フリゲート)]] - 1800年進水の帆装フリゲート
*[[ニューヨーク (戦列艦)]] - 1820年起工の戦列艦。完成せず。
* [[ニューヨーク (装甲巡洋艦)]] - 装甲巡洋艦
* [[ニューヨーク (戦艦)]] - ニューヨーク級戦艦
* [[ニューヨーク (ドック型輸送揚陸艦)]] - サン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦
== 音楽作品 ==
* [[ニューヨーク (THE HIGH-LOWSの曲)]] - [[THE HIGH-LOWS]]のシングル曲。
* [[ニューヨーク (ナイジェル・ヘスの曲)]] - [[ナイジェル・ヘス]]が作曲したオーケストラ楽曲。
* [[NEW YORK (オムニバス・アルバム)]] - [[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]から発売されたオムニバス・アルバム。
== その他 ==
* [[ニューヨーク (カクテル)]] - ウイスキーベースのカクテル。
* ニューヨーク - アメリカ合衆国の雑誌。[[ニューヨーク・マガジン]]を参照。
* {{仮リンク|ニューヨーク (タイプフェース)|en|New York (1983 typeface)}} - [[タイプフェース]]の一種。
* [[ニューヨーク (お笑いコンビ)]] - [[吉本興業]]所属のお笑いコンビ。
* [[New York (2019年の書体)]]
* [[ニューヨーク (ウクライナ)]]
== 関連項目 ==
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5,040 | ニューヨーク州 | ニューヨーク州(ニューヨークしゅう、英: State of New York)は、アメリカ合衆国大西洋岸中部にあり合衆国本土では北東部地域に位置する州。面積では第27位の州でもある。かつては50州で最も人口が多かったが、2020年の国勢調査で、現在はカリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州に次ぐ4位となっている。
南州境はニュージャージー州とペンシルベニア州、東州境はコネチカット州、マサチューセッツ州およびバーモント州に接する。西はカナダとの国境に接し、名所のナイアガラの滝がある。東南端に、アメリカ最大の都市でもあるニューヨーク市があり、州南部は近郊の大都市圏となっている。一方で、州北部の五大湖湖畔には古くからの工業都市であるバッファローとロチェスターがあり、州都は人口10万人弱のオールバニである。2021年以降、州知事は民主党のキャシー・ホウクルが務めている。
17世紀初め、レナペ族、イロコイ族との生皮の取引のために、オランダの交易拠点が造られ、これが発展したのがニューネーデルラント植民地だった。交易拠点としては、1614年に現在のオールバニ市に近くナッソー砦が造られたのが最初だった。1625年にアムステルダム砦が造られ、これがニューアムステルダムとなり、現在のニューヨーク市のはじまりとなった。第二次英蘭戦争の間の1664年にイギリスがニューネーデルラントを占領し、ここをニューヨーク植民地として支配し始めた。オランダは一度は取り返したものの、第三次英蘭戦争を終結させる1674年のウェストミンスター条約で正式にイギリスのものとされた。
1685年に王領植民地 (royal province) となり、1688年にはニューイングランド自治領の一部となり、1691年にニューヨーク植民地に戻った。フレンチ・インディアン戦争(1755年-1763年)のときにはニューヨーク植民地からも多くの者がイギリス軍に徴募された。1765年、イギリスはこの戦争の負債を償還するためにアメリカの植民地に印紙法によって新たな税金を課そうとした。ニューヨーク市の現在はフェデラル・ホールとなっている場所で、いくつかの植民地代表が集まり、対応を協議するための印紙法会議を開いた。それに続く印紙法施行に対する妨害行動が続き、1766年に印紙法は撤廃された。その後もタウンゼンド諸法や茶法などイギリスは新たな政策を実施しようとしたがことごとく失敗し、1774年に耐え難き諸法を制定したことでアメリカは独立への動きを加速させた。1775年10月19日、イギリスから指名されていた知事がニューヨークを離れたことでイギリスの支配は終わった。
アメリカ独立戦争の間の1776年8月、ロングアイランドでこの戦争中最大の戦闘が行われた。9月にイギリス軍はニューヨーク市を占領し、1783年11月の解放の日まで占領を続けた。この間にもニューヨーク市以外の地域で独立のための活動は続けられており、1776年7月9日にニューヨーク邦が創設され、1777年にはニューヨーク憲法が制定された。1779年にはサリバン遠征を行いイロコイ族集落を殲滅した。1787年にアメリカ合衆国憲法が提案されると、ニューヨーク邦でもその批准のための活発な議論が行われた。アレクサンダー・ハミルトンらが『ザ・フェデラリスト』で批准の必要性を訴え続けた結果、1788年7月26日にアメリカ合衆国憲法を批准し、ニューヨーク州は合衆国第11番目の州となり、ニューヨーク市は連邦の首都となった(1790年まで)。1797年にオールバニがニューヨーク州の州都となった。
1825年にエリー運河が完成し、ハドソン川からエリー湖までの水運が可能となった。1853年にニューヨーク・セントラル鉄道が開通し運河との競合が始まった。これら交通の発達でニューヨーク州は産業革命が進展し、一大工業地帯を形成した。19世紀後半にニューヨーク市は世界の金融の中心として頭角を現し、1929年にウォール街大暴落が起こったことで世界恐慌に発展するほどの影響力をつけていた。第二次世界大戦後の好況に続いて世界規模の貿易戦争が起こり、これに敗れたニューヨーク州の工場は次々と操業を停止し、ラストベルトと呼ばれる地帯を形成した。
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大はニューヨーク州にも及び、3月20日午前の段階で州内の感染者数は7000人を超え、死者は35人に上った。アンドリュー・クオモ州知事は、ウイルスの感染拡大を防ぐため、生活に不可欠な業種以外の全労働者に自宅待機を義務づけると発表。不要な個人の集会を禁止し、公共交通機関の利用を控えるよう勧告した。また3月27日、知事はジェイコブ・ジャビッツ・コンベンションセンターに設置された医療施設をモデルに、アケダクト競馬場など大規模施設に医療施設を設置すると発表した。
4月8日、州内の死者数が799人/日を数え直近のピークを迎えた。4月18日、知事は死者数が前日比90人/日減となり、過去2週間で最も少なかったと発表。感染のピークを脱しつつあるとの認識も示した。この時点の州内の死者数は約13000人(疑いのある者を含めると17000人超)。ただし、新規入院者数は依然として約2000人/日台であることを示し、早期の外出制限の緩和などには慎重な姿勢を示した。
形としてはほぼ正三角形をしており最南端に人口880万人の大都市ニューヨーク市と大きな島ロングアイランド島がある。ニューヨーク市を構成する五つの行政区(ニューヨーク行政区)のうち四つは、ハドソン川河口の三つの島にある。すなわちマンハッタン島のマンハッタン区、スタテンアイランド島のスタテンアイランド区、ロングアイランド島のブルックリン区とクィーンズ区である。あとの一つはブロンクス区である。これらの行政区はそれぞれニューヨーク州の郡でもある。ロングアイランドの東ではロードアイランド州と海上の州境がある。
州都オールバニはニューヨーク市からハドソン川を300kmほど北に遡ったところにあり、17世紀にオランダが造った古い港町である。西端近くには人口約30万人の州第2の都市バッファロー市がある。その北東方、オンタリオ湖岸に精密工業で有名なロチェスター市がある。
ニューヨーク都市圏(メトロノース鉄道の範囲)より北方をアップステイトと呼び、アップステイトはニューヨーク都市圏に比べ冬は5度から8度程度寒く、降雪量もやや多い。その東方は大アパラチア渓谷、北方にはセントローレンス川を隔ててカナダとの国境があり、シャンプレーン湖が南北に長く続き、ハドソン川が南に流れて大西洋に至る。オールバニ市の北方には、州内最高峰のマーシー山(標高5,343 フィート、1,629 m)を抱えるアディロンダック山地を含め州の1/5ほどの面積を占める巨大な自然保護区、アディロンダック州立公園がある。南西にはアルゲイニー台地が広がり、その一部であるキャッツキル山地から流れ出る水がニューヨーク都市圏の水需要に供している。西部のアレゲイニー川はオハイオ川の支流であり、サスケハナ川はチェサピーク湾に、デラウェア川はデラウェア湾に注いでいる。
ニューヨーク州の面積は54,556 平方マイル (141,300 km) であり、全米で27位と中程度の大きさの州だが面積は北海道と九州を併せた程度あり、東西最大500km、南北最大450kmに広がっている。最南端の都市ニューヨーク市から第2の都市バッファローまで自動車で行くと約6〜7時間を要する。山がちな地形であり人間の身長から地平線を望めるほどの平原はない。ただし、いわゆる山岳地帯ではなく、高さ数百メートルの小山や丘が点在している。
ニューヨーク州の境界(北西部から時計まわりに)は、五大湖のうちの二つの湖(ナイアガラ川によってつながっているエリー湖およびオンタリオ湖)、カナダのオンタリオ州およびケベック州、三つのニューイングランドの州(バーモント州、マサチューセッツ州およびコネチカット州)並びに二つの中部大西洋岸の州(ニュージャージー州とペンシルベニア州)となっている。
参照:ニューヨーク州の郡一覧
ニューヨーク州は概して湿潤大陸性気候であるが、ニューヨーク市はケッペンの気候区分で温暖湿潤気候にあたる。ニューヨーク市の天候は二つの大陸性気団の影響を強く受ける。すなわち、南西からの暖かく湿った気団と、北西からの冷たく乾燥した気団である。
州内の高原地帯での冬は長く寒い。冬季の大半で、北部高原では気温が −13°F (−25 °C) 以下となり、南西部や東中部の高原では 5°F (−15 °C) 以下となる。
夏の気候はアディロンダック山地、キャッツキル山地および南部の標高が高い地域で冷涼である。ニューヨーク市とロングアイランド地域およびハドソン川下流域では、比較的温暖な夏となり、不快な高湿度の期間もある。ニューヨーク州の残りの地域では快適で温暖な夏だが、時として短期間蒸し暑い期間がある。州の大半で夏の日中の気温は 70°F台〜80°F台 (25°C〜30°C) である。
一人当たりの温室効果ガスの排出量で、ニューヨーク州は50州中46番目である。これは主に公共交通機関の利用率が高いことによる。
ニューヨーク州には多くの州立公園と二つの大きな保護森林がある。アディロンダック公園はバーモント州の大きさにほぼ匹敵し、国内最大の州立公園である。1892年に設立されて州憲法で保護されている。公園とする考えは1864年のジョージ・パーキンス・マーシュの著作『人と自然』で紹介された。マーシュは、地中海のかつては植物が繁茂していた地域を引き合いに出し、「人の営みによって地球の表面を月の表面とそっくりにしてしまう」と言って、森林を取り去ると砂漠化に繋がると主張した。
キャッツキル州立公園は1855年に成立した法律で保護されており、その土地は保護され、決して売却も賃貸もされてはならないと宣言された。面積は70万エーカー (2,800 km) あり、ボブキャット、ミンク、フィッシャーなどが棲んでいる。クロクマの生体数は400頭ほどといわれている。州が運営する多くのキャンプ場があり、総延長300マイル (480 km) 以上の多目的道路が走っている。
モントークポイント州立公園にはジョージ・ワシントン大統領が発注したことで有名なモントーク灯台があり、ロングアイランドの東端、サフォーク郡イーストハンプトンにある。同じくロングアイランドのヒザーヒルズ州立公園にはキャンプ場があり、投げ釣りで人気がある。
アメリカ合衆国統計局によると、2020年4月時点のニューヨーク州の人口は20,201,249人で、カリフォルニア州、テキサス州、およびフロリダ州に続いてアメリカ合衆国で4番目に多い。
ニューヨーク州は土地が開けているにもかかわらず、人口の92%が都市に住んでいる都会型の州である ニューヨーク州は他の州への移住率が高いために人口成長率は低い。2000年と2005年にニューヨーク州からフロリダ州に移転した人口は、他のどの州からも他州へ移転した人口を上回った。しかし、世界的に見れば国外から入る移民が多い州になっており、2008年時点の移民人口は420万人とカリフォルニア州に次ぐ数字になっている。アップステート・ニューヨークがかなりの移民の受け入れ先になっているものの、ニューヨーク市周辺が経済的に活気があり、世界市民的文化を保持しているために、ここに定着する者が多い。
ニューヨーク州の人口重心はディアパークがある、オレンジ郡となっている。ニューヨーク市とその郊外8郡の総人口は13,209,006人であり、州内人口の68.42%を占めている。
ニューヨーク州内で上位5位の祖先グループは黒人 (15.8%)、イタリア系 (14.4%)、アイルランド系 (12.9%) およびドイツ系 (11.1%) である。2004年推計によると、人口の20.4%は外国生まれだった。
この州の人種的な構成は以下の通りである。
ニューヨーク州は南部のジョージア州に次ぐ2位大きいアフリカ系アメリカ人がいる州であり、アジア系アメリカ人も第2位である。他にもプエルトリコ系、ドミニカ系およびジャマイカ系の人口が最大である。ニューヨーク市のハーレム地区は歴史的にサハラ以南のアフリカ人の文化的中心となっており、ベッドフォード・スタイベサント地区が国内でも最大の集中地となっている。
やはりニューヨーク市のクィーンズ区は州内最大のアジア系アメリカ人人口がおり、国内でも最大級に民族的多様性の進んだ地区になっている。アジア系アメリカ人が次に多いのが、マンハッタンのチャイナタウンである。クィーンズ区は他にもアンデス地方(コロンビア、エクアドル、ペルーおよびボリビア)の出身者数が国内最大である。
2000年国勢調査に拠れば、スタテンアイランドとロングアイランドでは、イタリア系アメリカ人が最も多く、次はアイルランド系アメリカ人だった。オールバニや州南東部から中部にかけてもイタリア系やアイルランド系が多い。バッファローや州西部では、ドイツ系アメリカ人が最大である。州北部にはフランス系カナダ人が多い。ニューヨーク州は国内でもイタリア系が最も多い州である。
ニューヨーク州人口の6.5%は5歳未満であり、18歳未満は24.7%、65歳以上は12.9%となっている。女性の構成比は51.8%である。
2000年国勢調査に拠れば、5歳以上の人口の13.61%が家庭でスペイン語を話し、2.04%は中国語(広東語と北京官話を含む)、1.65%はイタリア語、1.23%はロシア語を話している。
2001年時点で、ニューヨーク州における最大宗派はローマ・カトリック (総計州人口の約40%以上) だった。次いでプロテスタントが30%、ユダヤ教8.4%、イスラム教3.5%、仏教1%と続き、無宗派は13%だった。プロテスタントの中ではメソジストが403,362人、バプテストが203,297人、米国聖公会が201,797人という信者数だった。
デラウェア族、エリー族、マヒカン族、モヘガン族、モンタウク族、ニュートラル族、サポニ族、ツテロ族、ワッピンガー族、ウェンローロノン族などのインディアン部族が全域でウィグワムによる移動狩猟採集生活を営んでいた。
イギリス人入植の最初期からこの地は土地をめぐる争いの場とされ、インディアンたちはイギリス・フランス・入植政府の代理戦争を引き受けさせられた。さらに農耕民族のイロコイ族が16世紀に東部から北上してきて、5部族からなる巨大な軍事同盟を組み、周囲のインディアン部族や白人入植者を圧倒した。タスカローラ族は「タスカローラ戦争」(1712〜13年)の後、ノースカロライナ州から北上し、イロコイ連邦に加盟した。17世紀以降、入植者とインディアンの戦いは苛烈を極め、エリー族やウェンローロノン族などが弱体化し、他の部族に吸収され消滅していった。
現在、ニューヨーク州でアメリカ連邦政府が公式認定し、保留地 (Reservation) を領有しているインディアン部族は、「イロコイ連邦」を構成する以下の9部族である。タスカローラ族からカユーガ族までの6部族は連邦制をとっており、「イロコイ連邦」として知られる。
イロコイ連邦はアメリカ連邦内務省の出先機関であるBIA(インディアン管理局)の傀儡である「部族政府」を設置しないことで自治権条約を固持しており、アメリカ・カナダの両連邦政府からもニューヨーク州政府からも直接権限の及ばない、インディアン部族では例外的な中立独立国家の体制を保っている。1794年のジェイ条約に始まる国際協定で、彼らはアメリカ国外とのパスポートを必要としない自由な往来を保証されている。
モホーク族アクエサスネ・バンドは連邦協定に基づき、カナダのオンタリオ州とアメリカ合衆国のニューヨーク州をまたいだ「セントリージス・モホーク族保留地」を領有している。カナダとアメリカを分けるセントローレンス川に架かる「国境交差連絡橋」は、アクエサスネ・モホーク族を記念して2000年に「三国家の交差点 (Three Nations Crossing)」と命名された。
2009年、カナダ政府がアクエサスネ・モホーク族の「セントリージス・モホーク族保留地」に2009年6月1日から国境警察官を軍備配置すると決定したことに抗議し、モホーク族の抗議隊は5月31日、カナダ側の国境通関施設を座り込み占拠した。これに対しカナダ国境サービス庁 (CBSA) は「三国家の交差点」を封鎖し、往来を拒まれたモホーク族は部族カジノや商店の営業が妨害され、多大な経済的損失を被ったとしてこれを提訴。一か月余りにわたる国境閉鎖の末、CBSAは7月13日にこれを橋の封鎖を解除した。
1993年8月25日、セネカ族トナワンダ・バンドはナイアガラ川のグランドアイランド周辺の土地の部族への返還を求め、ニューヨーク州を相手取り、合衆国地方裁判所に提訴した(「グランド・リバー土地係争」)。2002年6月21日にこの訴えは退けられ、部族は即時上告し、2004年9月9日に合衆国控訴裁判所は予審法廷の開廷を決定したが、最高裁判所は2006年6月5日に審理を拒否している。「イロコイ連邦」の6部族は同様にカナダに対してもオンタリオ側のダグラス・クリークの土地の返還訴訟を行っており、激しい抗議デモが年次拡大している。
連邦政府の承認が無い部族は「絶滅した」とみなされ、存在しないことになっていて、多くの部族が自治権限と保留地を求め、連邦認定を要求中である。ロングアイランドにはプースパチュック族とシンネコック族の2部族が州政府から認定を受け、州立の保留地を持つが、連邦の保留地よりも権限は弱く、州の規定で「インディアン・カジノ」を持てないでいる。
シンネコック族は2005年に、サウザンプトンの部族伝来の土地14kmの返還訴訟を起こした。同部族は1978年から連邦公認申請を行っている。
《アメリカ連邦政府が公式認定している部族・団体》
《アメリカ連邦政府に公式認定要求中の部族・団体≫
≪アメリカ連邦政府は公式認定していないが、州政府が認定している部族≫
イロコイ連邦の、連邦条約で保証された連邦・州政府の直接権限の及ばない「主権国家」としての立ち位置は、これを快く思わない州政府との間で、しばしば州税関連での衝突を起こしている。イロコイ連邦部族の販売物は、ニューヨーク州政府の課税対象とならない。これは1838年の「バッファロークリーク条約」の約定によるものである。
1992年7月16日、ニューヨーク州政府はセネカ族が連邦法に基づき保留地で無税販売しているたばことガソリンに対し、州税を課すと決定し、それまでの「未払い分」5000万ドルを要求。セネカ族はカッタラウガス保留地を通る国道438号線一帯を数日にわたり封鎖。州警察部隊と乱闘となった。彼らは「どうしても州が課税するなら、我々から奪った土地を返せ」と主張。州はこれを取り下げたが謝罪はなかった。
1995年に就任したジョージ・パタキ知事は、石油とコンビニエンスストア業界を後ろ盾に、イロコイ族からの州税徴収に固執し、インディアンたちからは、19世紀の対インディアン虐殺者として悪名高い軍人、ジョージ・アームストロング・カスターと引っかけた「ジョージ・カスター・パタキ」 (GEORGE "CUSTER" PATAKI) と呼ばれている。
1997年、パタキ知事はイロコイ族に対する彼らの保留地でのたばこ、ガソリンその他の非課税販売の禁止撤廃を決議し、4月1日よりイロコイ族の各保留地の周りに、数百人の州警察官を配置した。物資輸送トラックの保留地への運行が州警察によって阻止されて、国道沿いのたばこ店やガソリンスタンドは休業を余儀なくされた。1000人以上のインディアンとインディアン以外の従業員が、こうして一時解雇された。
5月18日、オノンダーガ族保留地で課税交渉会議が開かれ、これに反対する部族員のデモを州警察が襲い、この際、老人や児童が警官に暴行を受ける姿が全米で報道された。イロコイ族は彼らの保留地内の国道11、12号線をデモ封鎖してこれに抗議し、非インディアンも含めたデモ隊は州都オールバニまで行進した。ここに至って、内外からの州政府に対しての批判と抗議は全米規模に拡大し、州税部は課税実施を拒否。州裁判所はパタキ知事に対し、課税要求の破棄を命じた。
オノンダーガ族はデモ決起の際に、彼らの保留地内を通る州立高速国道81号線横の案内掲示板に、「ジョージ・カスター・パタキ、ニューヨーク州警官、オノンダーガ市保安官によって、裏切り者、強姦犯と人殺しによる支配が保障されるオノンダーガ国」との文言を掲示した。
2000年8月17日、パタキ知事はイロコイ族のインターネットによるたばこの非課税通販を禁止する法案に署名した。1987年からたばこの通販を開始しているセネカ族は「この決定は保留地で暮らすセネカ族の生活に大打撃を与えるものだ」としてこれに猛反発、バッファロー市で同州の部族の顧問弁護士を務めるジョゼフ・クラングルは、「パタキ知事が1997年の最後の課税抗議の際に、インディアンと交わした約束を破るなどとはとても信じられません」とコメントした。
ニューヨーク州はたばこ1箱1.11ドル(当時)と、全米最高率の税を課している。一方、市価よりはるかに安価でたばこを販売しているインディアンのインターネット・サイトは50を超えている。パタキ知事の署名したこの法案はユナイテッド・パーセル・サービスやフェデックスなどの、州の納税印のないインディアンのたばこの宅配業者も処罰の対象とするものであり、違反者に対しては「E級犯罪」として最高1年、再犯時は最高4年の実刑を課し、州衛生局によって最大5000ドルの罰金を科せられた。さらに州税法改正によってこれに「D級犯罪」が加えられ、最終的に最大7年の実刑が課されるものとなった。
2000年9月28日、連邦司法省はパタキ知事のインディアンの連邦保留地周辺の土地を巡る係争に対する苦情に対し、「元々インディアンから彼らの領土を不法に奪ったのはニューヨーク州であって、州の間違いは州が負うべきである」と回答した。
2003年6月、ニューヨーク州は同州のインディアン部族に対し、数百万ドルの税徴収と、インディアンによるたばこのインターネット通販の禁止を再決議した。セネカ族はこれを9億ドル級の経済的損失として徹底抗戦を宣言。セネカ族のリッキー・アームストロングSrは、「コンビニエンスストアのチェーン事業は、その地元からサイフォン式に金を吸い上げているではないか」とし、「セネカ族のインターネット・ビジネスは何10万ドルもの利益をもたらし、それはこの領土に投資される。我々の主権を踏みつぶし、これを崩壊させるよう州議員を説得した巨大なコンビニエンスストア複合企業体に対して、パタキは同じことを言えるのか」とコメントした。
2006年3月1日、州政府は州税法が実効化されたと発表、税額はひと箱当たり1.50ドルとなった。たばこ業者は同州のインディアン保留地へのたばこの納入を一時見合わせた。パタキ知事と対立するエリオット・スピッツァー司法長官は州税法の実施延期を求め、そのスポークスマンは、「パタキ政権がたばこの卸売業者を脅かし威圧しており、公式の国策を妨げている」との司法長官の意見を伝え、緊張状態が続く中、たばこの値段は上がり続け、部族は悲鳴を上げた。
2006年5月、オノンダーガ族が9年前に立てた保留地案内看板が、何者かによって「贔屓屋のエリオット・スピッツァー、ニューヨーク州警官、オノンダーガ市保安官によって、裏切り者、強姦犯と人殺し、非オノンダーガによる支配が保障されるオノンダーガ国」と書き換えられた。スピッツァー司法長官はオレン・ライオンズらイロコイ族代表と会談を重ね、課税反対を表明。スピッツァーは2007年に退任したパタキに代わって知事に就任し、課税法案を棚上げしたため事態は小康状態となった。しかしスピッツァーが2008年に失脚したため、再びこの州税を巡る争いが再燃、以後もくすぶり続けている。
2008年11月25日、同州のカユーガ郡とセネガ郡の二つの郡が、「カユーガ族が納税印無しでたばこを販売した」として、それぞれユニオンスプリングスとセネカ・フォールズにある部族のたばこ店2軒を急襲し、たばこ1万7600箱を押収してこの二店舗を閉鎖させた。州最高裁判所ケネス・フィッシャー裁判官に対し、部族顧問弁護人のリー・オールコットは50万ドル相当のこの押収物の返還に応じなければ郡を提訴すると述べた。
2009年1月24日、ニューヨーク上訴法廷はこれらのたばこ店が連邦管轄である保留地にあるとして、カユーガ族に対する脱税起訴を却下、この裁決後、1月30日に二店舗は無税販売を再開した。カユーガ族に対する訴追者の一人であるカユーガ郡のジョン・バドルマン弁護士は、「彼らが店を再開したと聞いて卒倒したよ。彼らは臆面もなく法に触れている。同じような問題がある中で、1グループが州の判決に違反できるとしたら、これが何を意味するかわかりますか」と不満を漏らしている。
セネカ族が1794年の「カナンダイグア条約」で連邦政府から保証された1万エーカー(40.47km)の保留地は、1960年に着工し、アレゲニー川を堰き止めた「キンズア・ダム」(1965年より稼働)によって水没した。故郷を奪われた600人のセネカ族は、サラマンカへ強制移住させられたのである。セネカ族のダム建設反対嘆願はアメリカ自由人権協会によって後押しされたが、ジョン・F・ケネディ大統領によって却下され、部族の英雄ハンサム・レイクの墓も水底に沈められた。
20世紀に行われたセネカ族の強制移住は、ロック歌手のジョニー・キャッシュによって「苦い涙:アメリカインディアンのバラード」(作曲はナラガンセット族のピーター・ラ・ファージ)、またクリー族フォーク歌手のバフィー・セント・メリーによって「今、バッファローは去った」 (Now That the Buffalo's Gone)、「わが故郷、わが家族はお前が死なせた」 (My Country 'Tis of Thy People You're Dying) として歌われた。
ニューヨーク州では、イロコイ連邦の3部族が以下のインディアン・カジノを運営している。シンネコック族は2009年度での連邦認定が実現視されており、現在、部族カジノの設営計画に取りかかっている。
2008年1月に、アメリカ連邦政府はキャッツキルにおけるモホーク族のカジノ計画を、保留地から遠いことを理由に不認可とした。現在、モホーク族はオバマ政権によるカジノ開設認可に期待をこめている。
州内で最大都市並びにアメリカ合衆国内で最大人口都市は五つの郡から構成されるニューヨーク市である。ニューヨーク市は州人口の25%以上を占めている。バッファローは州内で2番目に最大な都市である。最小都市はオナイダ郡ヴァーノン郡区の東に位置するシェリル (Sherrill)である。オールバニは州都であり、ロングアイランドにあるヘムステッド町は70万人を超える最大人口の町である。
ニューヨーク州の州内総生産は2007年で1兆1000億ドルであり、カリフォルニア州とテキサス州に次いで国内第3位だった。世界の独立国と比べてもトルコに次いで第16位である。2007年国民総生産州民一人当たり総生産は46,364ドルであり、国内ではメリーランド州に次いで第6位、世界ではアイルランドに次いで第8位である。農業生産物としては、酪農品、牛などの家畜、野菜、苗およびリンゴがある。製造業などでは印刷出版、科学機器、電気機器、機械類、化学品、および観光が挙げられる。
最近の予算政策優先度研究所の調査では、国内の大型州の幾つかを含む13州が2009年会計年度で予算不足に陥っていた。ニューヨーク州は43億ドルの赤字である。ニューヨーク州は食料品、日用雑貨、鉱物、コンピュータ関連商品、ダイヤモンド製品、および自動車部品など多種多様な製品を輸出している。2007年の総輸出高は711億ドルであり、輸出先はカナダ(150億ドル)、イギリス(60億ドル)、スイス(59億ドル)、イスラエル(49億ドル)、香港(34億ドル)の順で多い。輸入品としては石油、金、アルミニウム、天然ガス、電気、ダイヤモンド原石、および木材が多い。
ニューヨーク州にとってカナダは重要な貿易相手である。2007年では輸出品の21%がカナダ向けだった。カナダ人はニューヨーク州を訪れたときに4億8,700万ドルを遣っており(2004年)、観光収入も経済の大きな部分になっている。
ニューヨーク市は銀行、金融および通信分野でも国内の中心であり、世界最大の証券取引所であるニューヨーク証券取引所がある。多くの世界的大企業が市内に拠点を置いている。
州内には大規模な工業集積地があり、印刷出版業、衣類、毛皮、鉄道機器とバス車両の製造が著名である。これらの工場の大部分はアップステートに固まっている。オールバニやハドソン川流域はナノテクノロジーやマイクロチップの製造、ロチェスター地域は写真用機器の製造で重要な拠点である。
ニューヨーク州は農業製品の大生産地でもあり、酪農品、リンゴ、サクランボ、キャベツ、ジャガイモ、タマネギ、メープルシロップなど多くの製品があり、国内でも5傑に入る州である。キャベツの生産高では国内最大である。州内面積の4分の1が農業用地であり、2001年で総生産高は34億ドルだった。オンタリオ湖の南岸はリンゴ、サクランボ、プラムおよびナシの果樹園として土壌と微気候の組み合わせが良い。ハドソン川流域やシャンプレーン湖周辺でもリンゴが栽培されている。
ニューヨーク州は国内第3位のブドウの生産地であり、カリフォルニア州に次いで第2位のワインを生産している。エリー湖の南岸とフィンガー湖群南部の丘陵面には多くのぶどう園がある。さらにロングアイランドのノースフォークには、過去30年間でぶどう園やワイン製造と観光用の施設が造られてきた。州内には3万エーカー (12 km) のぶどう園、212のワイン製造所があり、2004年には2億本のワインを生産した。ニューヨーク州のブドウとワインの製造で60億ドルの売り上げを上げている。
ロングアイランドの大西洋岸にそって中規模の商業用海釣り設備がある。二枚貝、ロブスター、イカおよびヒラメが獲れる。これらの地域では海洋生物の増加に繋がる環境保護によって経済が発展してきている。
ニューヨーク州に拠点を持つ企業には以下のようなものがある。出版会社の本社はニューヨーク市に多い。
ニューヨーク州は国内でも最も広範で最古の交通体系が造られている州である。地形的な難しさや都市の混雑という特有の問題のための工事の難しさを、州ができて以来常に克服しなければならなかった。州内人口は初期にハドソン川と続いてエリー運河という水路に沿って拡大していった。今日鉄道線やニューヨーク・ステート・スルーウェイが概して同じ経路を辿っている。ニューヨーク州交通局は、いかに州内の特定地域の道路を維持するかということと、さらに道路に徴集される通行料が当初の目的を既に過ぎてしまっているという事実について批判されることが多い。2006年まで通行料はバッファロー市内のスルーウェイで徴収されていた。これが2006年後半の知事選挙中に撤廃された(候補者が共にその撤廃を要求した)。
ニューヨーク市とその周辺では鉄道網が発達しており、ニューヨーク市地下鉄による大量輸送に加えて、4社の通勤用鉄道が郊外と市内の間の通勤輸送を担っている。すなわちロングアイランド鉄道、メトロノース鉄道、パストレインおよびニュージャージー・トランジット鉄道線の内の5線である。他の多くの都市は市内と地域の公共輸送機関を運行している。バッファローではナイアガラ・フロンティア交通公社がバッファロー地下鉄ライトレールを運行しており、ロチェスターではロチェスター地下鉄が1927年から1956年まで運行されたが、廃線になった。
交通体系の一部は一つの交通機関から容易に乗り換えられる共同一貫輸送システムを採っている。元も著名な例の一つとして、エアトレインJFKは鉄道の乗客が直接ジョン・F・ケネディ国際空港のターミナルに移動できるようになっている。
2009年5月、交通コミッショナーのジャネット・サディク=カーンが指導するニューヨーク市交通局はタイムズスクエアへの自動車の乗り入れを禁止した。このことは環境汚染と歩行者の事故を減らすために考案され、恒久的に執行される見込みである。
2007年州知事が不法移民にも運転免許証を交付することを検討していると発言した。だが、この案は後日知事自身が撤回した。
1938年に採択された現行のニューヨーク州憲法により、ニューヨーク州でも連邦や他の諸州のそれと同質の三権分立の原則が確立されている。すなわち州知事とその他の個別に選出された行政役人からなる行政府、両院制州議会からなる立法府、州最高裁判所・控訴裁判所・下級裁判所からなる司法府である。
ニューヨーク州からは2011年現在、連邦議会の上院に各州定員の2人の上院議員を、下院には州人口比例で29人の下院議員を選出しており、その合計に等しい31人の大統領選挙人を出している。
ニューヨーク州の州都はオールバニである。州の下の行政区分として62の郡がある。他に公式の行政区分として町、市、および村がある。これらのどれか一つを選ぶ政体は4200以上ある。地方公共団体が集める歳入のうち、約52%はアメリカ合衆国でも最大の市政府であるニューヨーク市単独で集められているが、ニューヨーク市の人口は州全体の42%に過ぎない。 ニューヨーク州は連邦政府と著しい収支不均衡がある。ワシントンの連邦政府に1ドルの税金を納め、そのうち受け取る割り当ては82セントである。この税金当たりで消費される率では最下位に近い42位になっている。 ニューヨーク州の多くの公共サービスは一般に「公社」または「開発法人」と呼ばれる公益法人によって行われている。良く知られた公益法人に、ニューヨーク市の公共交通体系を監督するメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティと、隣接するニュージャージー州に跨る交通機関と港湾・空港インフラを管理運営するニューヨーク・ニュージャージー・ポート・オーソリティーがある。
ニューヨーク州の法体系はイギリスのコモン・ローに基づいている。
死刑制度は1995年にパタキ州知事の下で再導入されたが、2004年にニューヨーク控訴裁判所が「市民対ラバレ事件」判決でニューヨーク州憲法に違背していると裁定した。残っていた死刑宣告者は「市民対ジョン・テイラー事件」判決で終身刑に減刑され、死刑囚監房は2008年にパターソン知事の執行命令で解体された。1963年以来ニューヨーク州で死刑執行は行われていない。法改正を求めた立法府の動きも失敗し、死刑宣告は行われなくなった。
ここ数十年間、ニューヨーク州は概して国政選挙で民主党候補者を支持してきた。2008年の大統領選挙ではバラク・オバマが25%差で制した。これは2004年のジョン・ケリーの時よりも大きな差だった。ニューヨーク市も民主党の強い地盤である。州内のオールバニ、バッファロー、ロチェスター、シラキュースのような都市でも民主党が強い。しかし、アップステートの田園部では都市より保守的な傾向があり、共和党を支持している。ウェストチェスター郡やロングアイランドのような人口の多い郊外部では過去20年間の支持政党が揺れてきたが、どちらかと言えば民主党寄りである。
ニューヨーク市は民主、共和両政党にとって合衆国の中でも政治資金集めの重要な拠点である。国内で政治献金の多い場所を郵便番号で分類した時、上位5位の中にマンハッタンのものが四つ入っている。最大はアッパー・イースト・サイドであり、2000年の大統領選挙では、ジョージ・W・ブッシュ、アル・ゴア共に最大の資金を集めた。
ニューヨーク州大学校(英語版)が州内の初等、中等および高等学校レベルの教育を管理しており、ニューヨーク市教育局がニューヨーク市の公立学校を運営している。
カレッジでは、州内の公立大学システムがニューヨーク州立大学である。ニューヨーク市立大学はニューヨークの公立大学システムである。ニューヨーク州立大学システムには64のコミュニティカレッジ、工科カレッジ、学部カレッジおよび大学から構成されている。オールバニ校、ビンガムトン校、バッファロー校、およびストーニーブルック校の四つが中心になっている。
私立の大学で著名なものも多い。アメリカ合衆国北東部では最古のカトリック系教育機関であるフォーダム大学や、ニューヨーク州にコロンビア大学とコーネル大学があることでアイビーリーグの大学が唯一複数ある州となっている。ウェストポイントすなわち陸軍士官学校はハドソン川のニューヨーク側ニューバーグの直ぐ南にある。 | [
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"text": "ニューヨーク州(ニューヨークしゅう、英: State of New York)は、アメリカ合衆国大西洋岸中部にあり合衆国本土では北東部地域に位置する州。面積では第27位の州でもある。かつては50州で最も人口が多かったが、2020年の国勢調査で、現在はカリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州に次ぐ4位となっている。",
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"text": "南州境はニュージャージー州とペンシルベニア州、東州境はコネチカット州、マサチューセッツ州およびバーモント州に接する。西はカナダとの国境に接し、名所のナイアガラの滝がある。東南端に、アメリカ最大の都市でもあるニューヨーク市があり、州南部は近郊の大都市圏となっている。一方で、州北部の五大湖湖畔には古くからの工業都市であるバッファローとロチェスターがあり、州都は人口10万人弱のオールバニである。2021年以降、州知事は民主党のキャシー・ホウクルが務めている。",
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"text": "17世紀初め、レナペ族、イロコイ族との生皮の取引のために、オランダの交易拠点が造られ、これが発展したのがニューネーデルラント植民地だった。交易拠点としては、1614年に現在のオールバニ市に近くナッソー砦が造られたのが最初だった。1625年にアムステルダム砦が造られ、これがニューアムステルダムとなり、現在のニューヨーク市のはじまりとなった。第二次英蘭戦争の間の1664年にイギリスがニューネーデルラントを占領し、ここをニューヨーク植民地として支配し始めた。オランダは一度は取り返したものの、第三次英蘭戦争を終結させる1674年のウェストミンスター条約で正式にイギリスのものとされた。",
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"text": "1685年に王領植民地 (royal province) となり、1688年にはニューイングランド自治領の一部となり、1691年にニューヨーク植民地に戻った。フレンチ・インディアン戦争(1755年-1763年)のときにはニューヨーク植民地からも多くの者がイギリス軍に徴募された。1765年、イギリスはこの戦争の負債を償還するためにアメリカの植民地に印紙法によって新たな税金を課そうとした。ニューヨーク市の現在はフェデラル・ホールとなっている場所で、いくつかの植民地代表が集まり、対応を協議するための印紙法会議を開いた。それに続く印紙法施行に対する妨害行動が続き、1766年に印紙法は撤廃された。その後もタウンゼンド諸法や茶法などイギリスは新たな政策を実施しようとしたがことごとく失敗し、1774年に耐え難き諸法を制定したことでアメリカは独立への動きを加速させた。1775年10月19日、イギリスから指名されていた知事がニューヨークを離れたことでイギリスの支配は終わった。",
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"text": "アメリカ独立戦争の間の1776年8月、ロングアイランドでこの戦争中最大の戦闘が行われた。9月にイギリス軍はニューヨーク市を占領し、1783年11月の解放の日まで占領を続けた。この間にもニューヨーク市以外の地域で独立のための活動は続けられており、1776年7月9日にニューヨーク邦が創設され、1777年にはニューヨーク憲法が制定された。1779年にはサリバン遠征を行いイロコイ族集落を殲滅した。1787年にアメリカ合衆国憲法が提案されると、ニューヨーク邦でもその批准のための活発な議論が行われた。アレクサンダー・ハミルトンらが『ザ・フェデラリスト』で批准の必要性を訴え続けた結果、1788年7月26日にアメリカ合衆国憲法を批准し、ニューヨーク州は合衆国第11番目の州となり、ニューヨーク市は連邦の首都となった(1790年まで)。1797年にオールバニがニューヨーク州の州都となった。",
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"text": "1825年にエリー運河が完成し、ハドソン川からエリー湖までの水運が可能となった。1853年にニューヨーク・セントラル鉄道が開通し運河との競合が始まった。これら交通の発達でニューヨーク州は産業革命が進展し、一大工業地帯を形成した。19世紀後半にニューヨーク市は世界の金融の中心として頭角を現し、1929年にウォール街大暴落が起こったことで世界恐慌に発展するほどの影響力をつけていた。第二次世界大戦後の好況に続いて世界規模の貿易戦争が起こり、これに敗れたニューヨーク州の工場は次々と操業を停止し、ラストベルトと呼ばれる地帯を形成した。",
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"text": "2020年、新型コロナウイルスの感染拡大はニューヨーク州にも及び、3月20日午前の段階で州内の感染者数は7000人を超え、死者は35人に上った。アンドリュー・クオモ州知事は、ウイルスの感染拡大を防ぐため、生活に不可欠な業種以外の全労働者に自宅待機を義務づけると発表。不要な個人の集会を禁止し、公共交通機関の利用を控えるよう勧告した。また3月27日、知事はジェイコブ・ジャビッツ・コンベンションセンターに設置された医療施設をモデルに、アケダクト競馬場など大規模施設に医療施設を設置すると発表した。",
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"text": "4月8日、州内の死者数が799人/日を数え直近のピークを迎えた。4月18日、知事は死者数が前日比90人/日減となり、過去2週間で最も少なかったと発表。感染のピークを脱しつつあるとの認識も示した。この時点の州内の死者数は約13000人(疑いのある者を含めると17000人超)。ただし、新規入院者数は依然として約2000人/日台であることを示し、早期の外出制限の緩和などには慎重な姿勢を示した。",
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"text": "形としてはほぼ正三角形をしており最南端に人口880万人の大都市ニューヨーク市と大きな島ロングアイランド島がある。ニューヨーク市を構成する五つの行政区(ニューヨーク行政区)のうち四つは、ハドソン川河口の三つの島にある。すなわちマンハッタン島のマンハッタン区、スタテンアイランド島のスタテンアイランド区、ロングアイランド島のブルックリン区とクィーンズ区である。あとの一つはブロンクス区である。これらの行政区はそれぞれニューヨーク州の郡でもある。ロングアイランドの東ではロードアイランド州と海上の州境がある。",
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"text": "州都オールバニはニューヨーク市からハドソン川を300kmほど北に遡ったところにあり、17世紀にオランダが造った古い港町である。西端近くには人口約30万人の州第2の都市バッファロー市がある。その北東方、オンタリオ湖岸に精密工業で有名なロチェスター市がある。",
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"text": "ニューヨーク都市圏(メトロノース鉄道の範囲)より北方をアップステイトと呼び、アップステイトはニューヨーク都市圏に比べ冬は5度から8度程度寒く、降雪量もやや多い。その東方は大アパラチア渓谷、北方にはセントローレンス川を隔ててカナダとの国境があり、シャンプレーン湖が南北に長く続き、ハドソン川が南に流れて大西洋に至る。オールバニ市の北方には、州内最高峰のマーシー山(標高5,343 フィート、1,629 m)を抱えるアディロンダック山地を含め州の1/5ほどの面積を占める巨大な自然保護区、アディロンダック州立公園がある。南西にはアルゲイニー台地が広がり、その一部であるキャッツキル山地から流れ出る水がニューヨーク都市圏の水需要に供している。西部のアレゲイニー川はオハイオ川の支流であり、サスケハナ川はチェサピーク湾に、デラウェア川はデラウェア湾に注いでいる。",
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"text": "ニューヨーク州の面積は54,556 平方マイル (141,300 km) であり、全米で27位と中程度の大きさの州だが面積は北海道と九州を併せた程度あり、東西最大500km、南北最大450kmに広がっている。最南端の都市ニューヨーク市から第2の都市バッファローまで自動車で行くと約6〜7時間を要する。山がちな地形であり人間の身長から地平線を望めるほどの平原はない。ただし、いわゆる山岳地帯ではなく、高さ数百メートルの小山や丘が点在している。",
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"text": "ニューヨーク州の境界(北西部から時計まわりに)は、五大湖のうちの二つの湖(ナイアガラ川によってつながっているエリー湖およびオンタリオ湖)、カナダのオンタリオ州およびケベック州、三つのニューイングランドの州(バーモント州、マサチューセッツ州およびコネチカット州)並びに二つの中部大西洋岸の州(ニュージャージー州とペンシルベニア州)となっている。",
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"text": "参照:ニューヨーク州の郡一覧",
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"text": "ニューヨーク州は概して湿潤大陸性気候であるが、ニューヨーク市はケッペンの気候区分で温暖湿潤気候にあたる。ニューヨーク市の天候は二つの大陸性気団の影響を強く受ける。すなわち、南西からの暖かく湿った気団と、北西からの冷たく乾燥した気団である。",
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"text": "州内の高原地帯での冬は長く寒い。冬季の大半で、北部高原では気温が −13°F (−25 °C) 以下となり、南西部や東中部の高原では 5°F (−15 °C) 以下となる。",
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"text": "夏の気候はアディロンダック山地、キャッツキル山地および南部の標高が高い地域で冷涼である。ニューヨーク市とロングアイランド地域およびハドソン川下流域では、比較的温暖な夏となり、不快な高湿度の期間もある。ニューヨーク州の残りの地域では快適で温暖な夏だが、時として短期間蒸し暑い期間がある。州の大半で夏の日中の気温は 70°F台〜80°F台 (25°C〜30°C) である。",
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"text": "一人当たりの温室効果ガスの排出量で、ニューヨーク州は50州中46番目である。これは主に公共交通機関の利用率が高いことによる。",
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"text": "ニューヨーク州には多くの州立公園と二つの大きな保護森林がある。アディロンダック公園はバーモント州の大きさにほぼ匹敵し、国内最大の州立公園である。1892年に設立されて州憲法で保護されている。公園とする考えは1864年のジョージ・パーキンス・マーシュの著作『人と自然』で紹介された。マーシュは、地中海のかつては植物が繁茂していた地域を引き合いに出し、「人の営みによって地球の表面を月の表面とそっくりにしてしまう」と言って、森林を取り去ると砂漠化に繋がると主張した。",
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"text": "キャッツキル州立公園は1855年に成立した法律で保護されており、その土地は保護され、決して売却も賃貸もされてはならないと宣言された。面積は70万エーカー (2,800 km) あり、ボブキャット、ミンク、フィッシャーなどが棲んでいる。クロクマの生体数は400頭ほどといわれている。州が運営する多くのキャンプ場があり、総延長300マイル (480 km) 以上の多目的道路が走っている。",
"title": "地理"
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"text": "モントークポイント州立公園にはジョージ・ワシントン大統領が発注したことで有名なモントーク灯台があり、ロングアイランドの東端、サフォーク郡イーストハンプトンにある。同じくロングアイランドのヒザーヒルズ州立公園にはキャンプ場があり、投げ釣りで人気がある。",
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"text": "アメリカ合衆国統計局によると、2020年4月時点のニューヨーク州の人口は20,201,249人で、カリフォルニア州、テキサス州、およびフロリダ州に続いてアメリカ合衆国で4番目に多い。",
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"text": "ニューヨーク州は土地が開けているにもかかわらず、人口の92%が都市に住んでいる都会型の州である ニューヨーク州は他の州への移住率が高いために人口成長率は低い。2000年と2005年にニューヨーク州からフロリダ州に移転した人口は、他のどの州からも他州へ移転した人口を上回った。しかし、世界的に見れば国外から入る移民が多い州になっており、2008年時点の移民人口は420万人とカリフォルニア州に次ぐ数字になっている。アップステート・ニューヨークがかなりの移民の受け入れ先になっているものの、ニューヨーク市周辺が経済的に活気があり、世界市民的文化を保持しているために、ここに定着する者が多い。",
"title": "人口動勢"
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"text": "ニューヨーク州の人口重心はディアパークがある、オレンジ郡となっている。ニューヨーク市とその郊外8郡の総人口は13,209,006人であり、州内人口の68.42%を占めている。",
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"text": "ニューヨーク州内で上位5位の祖先グループは黒人 (15.8%)、イタリア系 (14.4%)、アイルランド系 (12.9%) およびドイツ系 (11.1%) である。2004年推計によると、人口の20.4%は外国生まれだった。",
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"text": "この州の人種的な構成は以下の通りである。",
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"text": "ニューヨーク州は南部のジョージア州に次ぐ2位大きいアフリカ系アメリカ人がいる州であり、アジア系アメリカ人も第2位である。他にもプエルトリコ系、ドミニカ系およびジャマイカ系の人口が最大である。ニューヨーク市のハーレム地区は歴史的にサハラ以南のアフリカ人の文化的中心となっており、ベッドフォード・スタイベサント地区が国内でも最大の集中地となっている。",
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"text": "やはりニューヨーク市のクィーンズ区は州内最大のアジア系アメリカ人人口がおり、国内でも最大級に民族的多様性の進んだ地区になっている。アジア系アメリカ人が次に多いのが、マンハッタンのチャイナタウンである。クィーンズ区は他にもアンデス地方(コロンビア、エクアドル、ペルーおよびボリビア)の出身者数が国内最大である。",
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"text": "2000年国勢調査に拠れば、スタテンアイランドとロングアイランドでは、イタリア系アメリカ人が最も多く、次はアイルランド系アメリカ人だった。オールバニや州南東部から中部にかけてもイタリア系やアイルランド系が多い。バッファローや州西部では、ドイツ系アメリカ人が最大である。州北部にはフランス系カナダ人が多い。ニューヨーク州は国内でもイタリア系が最も多い州である。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州人口の6.5%は5歳未満であり、18歳未満は24.7%、65歳以上は12.9%となっている。女性の構成比は51.8%である。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2000年国勢調査に拠れば、5歳以上の人口の13.61%が家庭でスペイン語を話し、2.04%は中国語(広東語と北京官話を含む)、1.65%はイタリア語、1.23%はロシア語を話している。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2001年時点で、ニューヨーク州における最大宗派はローマ・カトリック (総計州人口の約40%以上) だった。次いでプロテスタントが30%、ユダヤ教8.4%、イスラム教3.5%、仏教1%と続き、無宗派は13%だった。プロテスタントの中ではメソジストが403,362人、バプテストが203,297人、米国聖公会が201,797人という信者数だった。",
"title": "人口動勢"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "デラウェア族、エリー族、マヒカン族、モヘガン族、モンタウク族、ニュートラル族、サポニ族、ツテロ族、ワッピンガー族、ウェンローロノン族などのインディアン部族が全域でウィグワムによる移動狩猟採集生活を営んでいた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "イギリス人入植の最初期からこの地は土地をめぐる争いの場とされ、インディアンたちはイギリス・フランス・入植政府の代理戦争を引き受けさせられた。さらに農耕民族のイロコイ族が16世紀に東部から北上してきて、5部族からなる巨大な軍事同盟を組み、周囲のインディアン部族や白人入植者を圧倒した。タスカローラ族は「タスカローラ戦争」(1712〜13年)の後、ノースカロライナ州から北上し、イロコイ連邦に加盟した。17世紀以降、入植者とインディアンの戦いは苛烈を極め、エリー族やウェンローロノン族などが弱体化し、他の部族に吸収され消滅していった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "現在、ニューヨーク州でアメリカ連邦政府が公式認定し、保留地 (Reservation) を領有しているインディアン部族は、「イロコイ連邦」を構成する以下の9部族である。タスカローラ族からカユーガ族までの6部族は連邦制をとっており、「イロコイ連邦」として知られる。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "イロコイ連邦はアメリカ連邦内務省の出先機関であるBIA(インディアン管理局)の傀儡である「部族政府」を設置しないことで自治権条約を固持しており、アメリカ・カナダの両連邦政府からもニューヨーク州政府からも直接権限の及ばない、インディアン部族では例外的な中立独立国家の体制を保っている。1794年のジェイ条約に始まる国際協定で、彼らはアメリカ国外とのパスポートを必要としない自由な往来を保証されている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "モホーク族アクエサスネ・バンドは連邦協定に基づき、カナダのオンタリオ州とアメリカ合衆国のニューヨーク州をまたいだ「セントリージス・モホーク族保留地」を領有している。カナダとアメリカを分けるセントローレンス川に架かる「国境交差連絡橋」は、アクエサスネ・モホーク族を記念して2000年に「三国家の交差点 (Three Nations Crossing)」と命名された。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2009年、カナダ政府がアクエサスネ・モホーク族の「セントリージス・モホーク族保留地」に2009年6月1日から国境警察官を軍備配置すると決定したことに抗議し、モホーク族の抗議隊は5月31日、カナダ側の国境通関施設を座り込み占拠した。これに対しカナダ国境サービス庁 (CBSA) は「三国家の交差点」を封鎖し、往来を拒まれたモホーク族は部族カジノや商店の営業が妨害され、多大な経済的損失を被ったとしてこれを提訴。一か月余りにわたる国境閉鎖の末、CBSAは7月13日にこれを橋の封鎖を解除した。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1993年8月25日、セネカ族トナワンダ・バンドはナイアガラ川のグランドアイランド周辺の土地の部族への返還を求め、ニューヨーク州を相手取り、合衆国地方裁判所に提訴した(「グランド・リバー土地係争」)。2002年6月21日にこの訴えは退けられ、部族は即時上告し、2004年9月9日に合衆国控訴裁判所は予審法廷の開廷を決定したが、最高裁判所は2006年6月5日に審理を拒否している。「イロコイ連邦」の6部族は同様にカナダに対してもオンタリオ側のダグラス・クリークの土地の返還訴訟を行っており、激しい抗議デモが年次拡大している。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "連邦政府の承認が無い部族は「絶滅した」とみなされ、存在しないことになっていて、多くの部族が自治権限と保留地を求め、連邦認定を要求中である。ロングアイランドにはプースパチュック族とシンネコック族の2部族が州政府から認定を受け、州立の保留地を持つが、連邦の保留地よりも権限は弱く、州の規定で「インディアン・カジノ」を持てないでいる。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "シンネコック族は2005年に、サウザンプトンの部族伝来の土地14kmの返還訴訟を起こした。同部族は1978年から連邦公認申請を行っている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "《アメリカ連邦政府が公式認定している部族・団体》",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "《アメリカ連邦政府に公式認定要求中の部族・団体≫",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "≪アメリカ連邦政府は公式認定していないが、州政府が認定している部族≫",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "イロコイ連邦の、連邦条約で保証された連邦・州政府の直接権限の及ばない「主権国家」としての立ち位置は、これを快く思わない州政府との間で、しばしば州税関連での衝突を起こしている。イロコイ連邦部族の販売物は、ニューヨーク州政府の課税対象とならない。これは1838年の「バッファロークリーク条約」の約定によるものである。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1992年7月16日、ニューヨーク州政府はセネカ族が連邦法に基づき保留地で無税販売しているたばことガソリンに対し、州税を課すと決定し、それまでの「未払い分」5000万ドルを要求。セネカ族はカッタラウガス保留地を通る国道438号線一帯を数日にわたり封鎖。州警察部隊と乱闘となった。彼らは「どうしても州が課税するなら、我々から奪った土地を返せ」と主張。州はこれを取り下げたが謝罪はなかった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1995年に就任したジョージ・パタキ知事は、石油とコンビニエンスストア業界を後ろ盾に、イロコイ族からの州税徴収に固執し、インディアンたちからは、19世紀の対インディアン虐殺者として悪名高い軍人、ジョージ・アームストロング・カスターと引っかけた「ジョージ・カスター・パタキ」 (GEORGE \"CUSTER\" PATAKI) と呼ばれている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1997年、パタキ知事はイロコイ族に対する彼らの保留地でのたばこ、ガソリンその他の非課税販売の禁止撤廃を決議し、4月1日よりイロコイ族の各保留地の周りに、数百人の州警察官を配置した。物資輸送トラックの保留地への運行が州警察によって阻止されて、国道沿いのたばこ店やガソリンスタンドは休業を余儀なくされた。1000人以上のインディアンとインディアン以外の従業員が、こうして一時解雇された。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "5月18日、オノンダーガ族保留地で課税交渉会議が開かれ、これに反対する部族員のデモを州警察が襲い、この際、老人や児童が警官に暴行を受ける姿が全米で報道された。イロコイ族は彼らの保留地内の国道11、12号線をデモ封鎖してこれに抗議し、非インディアンも含めたデモ隊は州都オールバニまで行進した。ここに至って、内外からの州政府に対しての批判と抗議は全米規模に拡大し、州税部は課税実施を拒否。州裁判所はパタキ知事に対し、課税要求の破棄を命じた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "オノンダーガ族はデモ決起の際に、彼らの保留地内を通る州立高速国道81号線横の案内掲示板に、「ジョージ・カスター・パタキ、ニューヨーク州警官、オノンダーガ市保安官によって、裏切り者、強姦犯と人殺しによる支配が保障されるオノンダーガ国」との文言を掲示した。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2000年8月17日、パタキ知事はイロコイ族のインターネットによるたばこの非課税通販を禁止する法案に署名した。1987年からたばこの通販を開始しているセネカ族は「この決定は保留地で暮らすセネカ族の生活に大打撃を与えるものだ」としてこれに猛反発、バッファロー市で同州の部族の顧問弁護士を務めるジョゼフ・クラングルは、「パタキ知事が1997年の最後の課税抗議の際に、インディアンと交わした約束を破るなどとはとても信じられません」とコメントした。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州はたばこ1箱1.11ドル(当時)と、全米最高率の税を課している。一方、市価よりはるかに安価でたばこを販売しているインディアンのインターネット・サイトは50を超えている。パタキ知事の署名したこの法案はユナイテッド・パーセル・サービスやフェデックスなどの、州の納税印のないインディアンのたばこの宅配業者も処罰の対象とするものであり、違反者に対しては「E級犯罪」として最高1年、再犯時は最高4年の実刑を課し、州衛生局によって最大5000ドルの罰金を科せられた。さらに州税法改正によってこれに「D級犯罪」が加えられ、最終的に最大7年の実刑が課されるものとなった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2000年9月28日、連邦司法省はパタキ知事のインディアンの連邦保留地周辺の土地を巡る係争に対する苦情に対し、「元々インディアンから彼らの領土を不法に奪ったのはニューヨーク州であって、州の間違いは州が負うべきである」と回答した。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2003年6月、ニューヨーク州は同州のインディアン部族に対し、数百万ドルの税徴収と、インディアンによるたばこのインターネット通販の禁止を再決議した。セネカ族はこれを9億ドル級の経済的損失として徹底抗戦を宣言。セネカ族のリッキー・アームストロングSrは、「コンビニエンスストアのチェーン事業は、その地元からサイフォン式に金を吸い上げているではないか」とし、「セネカ族のインターネット・ビジネスは何10万ドルもの利益をもたらし、それはこの領土に投資される。我々の主権を踏みつぶし、これを崩壊させるよう州議員を説得した巨大なコンビニエンスストア複合企業体に対して、パタキは同じことを言えるのか」とコメントした。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2006年3月1日、州政府は州税法が実効化されたと発表、税額はひと箱当たり1.50ドルとなった。たばこ業者は同州のインディアン保留地へのたばこの納入を一時見合わせた。パタキ知事と対立するエリオット・スピッツァー司法長官は州税法の実施延期を求め、そのスポークスマンは、「パタキ政権がたばこの卸売業者を脅かし威圧しており、公式の国策を妨げている」との司法長官の意見を伝え、緊張状態が続く中、たばこの値段は上がり続け、部族は悲鳴を上げた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2006年5月、オノンダーガ族が9年前に立てた保留地案内看板が、何者かによって「贔屓屋のエリオット・スピッツァー、ニューヨーク州警官、オノンダーガ市保安官によって、裏切り者、強姦犯と人殺し、非オノンダーガによる支配が保障されるオノンダーガ国」と書き換えられた。スピッツァー司法長官はオレン・ライオンズらイロコイ族代表と会談を重ね、課税反対を表明。スピッツァーは2007年に退任したパタキに代わって知事に就任し、課税法案を棚上げしたため事態は小康状態となった。しかしスピッツァーが2008年に失脚したため、再びこの州税を巡る争いが再燃、以後もくすぶり続けている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2008年11月25日、同州のカユーガ郡とセネガ郡の二つの郡が、「カユーガ族が納税印無しでたばこを販売した」として、それぞれユニオンスプリングスとセネカ・フォールズにある部族のたばこ店2軒を急襲し、たばこ1万7600箱を押収してこの二店舗を閉鎖させた。州最高裁判所ケネス・フィッシャー裁判官に対し、部族顧問弁護人のリー・オールコットは50万ドル相当のこの押収物の返還に応じなければ郡を提訴すると述べた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2009年1月24日、ニューヨーク上訴法廷はこれらのたばこ店が連邦管轄である保留地にあるとして、カユーガ族に対する脱税起訴を却下、この裁決後、1月30日に二店舗は無税販売を再開した。カユーガ族に対する訴追者の一人であるカユーガ郡のジョン・バドルマン弁護士は、「彼らが店を再開したと聞いて卒倒したよ。彼らは臆面もなく法に触れている。同じような問題がある中で、1グループが州の判決に違反できるとしたら、これが何を意味するかわかりますか」と不満を漏らしている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "セネカ族が1794年の「カナンダイグア条約」で連邦政府から保証された1万エーカー(40.47km)の保留地は、1960年に着工し、アレゲニー川を堰き止めた「キンズア・ダム」(1965年より稼働)によって水没した。故郷を奪われた600人のセネカ族は、サラマンカへ強制移住させられたのである。セネカ族のダム建設反対嘆願はアメリカ自由人権協会によって後押しされたが、ジョン・F・ケネディ大統領によって却下され、部族の英雄ハンサム・レイクの墓も水底に沈められた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "20世紀に行われたセネカ族の強制移住は、ロック歌手のジョニー・キャッシュによって「苦い涙:アメリカインディアンのバラード」(作曲はナラガンセット族のピーター・ラ・ファージ)、またクリー族フォーク歌手のバフィー・セント・メリーによって「今、バッファローは去った」 (Now That the Buffalo's Gone)、「わが故郷、わが家族はお前が死なせた」 (My Country 'Tis of Thy People You're Dying) として歌われた。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州では、イロコイ連邦の3部族が以下のインディアン・カジノを運営している。シンネコック族は2009年度での連邦認定が実現視されており、現在、部族カジノの設営計画に取りかかっている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2008年1月に、アメリカ連邦政府はキャッツキルにおけるモホーク族のカジノ計画を、保留地から遠いことを理由に不認可とした。現在、モホーク族はオバマ政権によるカジノ開設認可に期待をこめている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "州内で最大都市並びにアメリカ合衆国内で最大人口都市は五つの郡から構成されるニューヨーク市である。ニューヨーク市は州人口の25%以上を占めている。バッファローは州内で2番目に最大な都市である。最小都市はオナイダ郡ヴァーノン郡区の東に位置するシェリル (Sherrill)である。オールバニは州都であり、ロングアイランドにあるヘムステッド町は70万人を超える最大人口の町である。",
"title": "主要な都市および町"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州の州内総生産は2007年で1兆1000億ドルであり、カリフォルニア州とテキサス州に次いで国内第3位だった。世界の独立国と比べてもトルコに次いで第16位である。2007年国民総生産州民一人当たり総生産は46,364ドルであり、国内ではメリーランド州に次いで第6位、世界ではアイルランドに次いで第8位である。農業生産物としては、酪農品、牛などの家畜、野菜、苗およびリンゴがある。製造業などでは印刷出版、科学機器、電気機器、機械類、化学品、および観光が挙げられる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "最近の予算政策優先度研究所の調査では、国内の大型州の幾つかを含む13州が2009年会計年度で予算不足に陥っていた。ニューヨーク州は43億ドルの赤字である。ニューヨーク州は食料品、日用雑貨、鉱物、コンピュータ関連商品、ダイヤモンド製品、および自動車部品など多種多様な製品を輸出している。2007年の総輸出高は711億ドルであり、輸出先はカナダ(150億ドル)、イギリス(60億ドル)、スイス(59億ドル)、イスラエル(49億ドル)、香港(34億ドル)の順で多い。輸入品としては石油、金、アルミニウム、天然ガス、電気、ダイヤモンド原石、および木材が多い。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州にとってカナダは重要な貿易相手である。2007年では輸出品の21%がカナダ向けだった。カナダ人はニューヨーク州を訪れたときに4億8,700万ドルを遣っており(2004年)、観光収入も経済の大きな部分になっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク市は銀行、金融および通信分野でも国内の中心であり、世界最大の証券取引所であるニューヨーク証券取引所がある。多くの世界的大企業が市内に拠点を置いている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "州内には大規模な工業集積地があり、印刷出版業、衣類、毛皮、鉄道機器とバス車両の製造が著名である。これらの工場の大部分はアップステートに固まっている。オールバニやハドソン川流域はナノテクノロジーやマイクロチップの製造、ロチェスター地域は写真用機器の製造で重要な拠点である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州は農業製品の大生産地でもあり、酪農品、リンゴ、サクランボ、キャベツ、ジャガイモ、タマネギ、メープルシロップなど多くの製品があり、国内でも5傑に入る州である。キャベツの生産高では国内最大である。州内面積の4分の1が農業用地であり、2001年で総生産高は34億ドルだった。オンタリオ湖の南岸はリンゴ、サクランボ、プラムおよびナシの果樹園として土壌と微気候の組み合わせが良い。ハドソン川流域やシャンプレーン湖周辺でもリンゴが栽培されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州は国内第3位のブドウの生産地であり、カリフォルニア州に次いで第2位のワインを生産している。エリー湖の南岸とフィンガー湖群南部の丘陵面には多くのぶどう園がある。さらにロングアイランドのノースフォークには、過去30年間でぶどう園やワイン製造と観光用の施設が造られてきた。州内には3万エーカー (12 km) のぶどう園、212のワイン製造所があり、2004年には2億本のワインを生産した。ニューヨーク州のブドウとワインの製造で60億ドルの売り上げを上げている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ロングアイランドの大西洋岸にそって中規模の商業用海釣り設備がある。二枚貝、ロブスター、イカおよびヒラメが獲れる。これらの地域では海洋生物の増加に繋がる環境保護によって経済が発展してきている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州に拠点を持つ企業には以下のようなものがある。出版会社の本社はニューヨーク市に多い。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州は国内でも最も広範で最古の交通体系が造られている州である。地形的な難しさや都市の混雑という特有の問題のための工事の難しさを、州ができて以来常に克服しなければならなかった。州内人口は初期にハドソン川と続いてエリー運河という水路に沿って拡大していった。今日鉄道線やニューヨーク・ステート・スルーウェイが概して同じ経路を辿っている。ニューヨーク州交通局は、いかに州内の特定地域の道路を維持するかということと、さらに道路に徴集される通行料が当初の目的を既に過ぎてしまっているという事実について批判されることが多い。2006年まで通行料はバッファロー市内のスルーウェイで徴収されていた。これが2006年後半の知事選挙中に撤廃された(候補者が共にその撤廃を要求した)。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク市とその周辺では鉄道網が発達しており、ニューヨーク市地下鉄による大量輸送に加えて、4社の通勤用鉄道が郊外と市内の間の通勤輸送を担っている。すなわちロングアイランド鉄道、メトロノース鉄道、パストレインおよびニュージャージー・トランジット鉄道線の内の5線である。他の多くの都市は市内と地域の公共輸送機関を運行している。バッファローではナイアガラ・フロンティア交通公社がバッファロー地下鉄ライトレールを運行しており、ロチェスターではロチェスター地下鉄が1927年から1956年まで運行されたが、廃線になった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "交通体系の一部は一つの交通機関から容易に乗り換えられる共同一貫輸送システムを採っている。元も著名な例の一つとして、エアトレインJFKは鉄道の乗客が直接ジョン・F・ケネディ国際空港のターミナルに移動できるようになっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2009年5月、交通コミッショナーのジャネット・サディク=カーンが指導するニューヨーク市交通局はタイムズスクエアへの自動車の乗り入れを禁止した。このことは環境汚染と歩行者の事故を減らすために考案され、恒久的に執行される見込みである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2007年州知事が不法移民にも運転免許証を交付することを検討していると発言した。だが、この案は後日知事自身が撤回した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1938年に採択された現行のニューヨーク州憲法により、ニューヨーク州でも連邦や他の諸州のそれと同質の三権分立の原則が確立されている。すなわち州知事とその他の個別に選出された行政役人からなる行政府、両院制州議会からなる立法府、州最高裁判所・控訴裁判所・下級裁判所からなる司法府である。",
"title": "政治と政府"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州からは2011年現在、連邦議会の上院に各州定員の2人の上院議員を、下院には州人口比例で29人の下院議員を選出しており、その合計に等しい31人の大統領選挙人を出している。",
"title": "政治と政府"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州の州都はオールバニである。州の下の行政区分として62の郡がある。他に公式の行政区分として町、市、および村がある。これらのどれか一つを選ぶ政体は4200以上ある。地方公共団体が集める歳入のうち、約52%はアメリカ合衆国でも最大の市政府であるニューヨーク市単独で集められているが、ニューヨーク市の人口は州全体の42%に過ぎない。 ニューヨーク州は連邦政府と著しい収支不均衡がある。ワシントンの連邦政府に1ドルの税金を納め、そのうち受け取る割り当ては82セントである。この税金当たりで消費される率では最下位に近い42位になっている。 ニューヨーク州の多くの公共サービスは一般に「公社」または「開発法人」と呼ばれる公益法人によって行われている。良く知られた公益法人に、ニューヨーク市の公共交通体系を監督するメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティと、隣接するニュージャージー州に跨る交通機関と港湾・空港インフラを管理運営するニューヨーク・ニュージャージー・ポート・オーソリティーがある。",
"title": "政治と政府"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク州の法体系はイギリスのコモン・ローに基づいている。",
"title": "政治と政府"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "死刑制度は1995年にパタキ州知事の下で再導入されたが、2004年にニューヨーク控訴裁判所が「市民対ラバレ事件」判決でニューヨーク州憲法に違背していると裁定した。残っていた死刑宣告者は「市民対ジョン・テイラー事件」判決で終身刑に減刑され、死刑囚監房は2008年にパターソン知事の執行命令で解体された。1963年以来ニューヨーク州で死刑執行は行われていない。法改正を求めた立法府の動きも失敗し、死刑宣告は行われなくなった。",
"title": "政治と政府"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ここ数十年間、ニューヨーク州は概して国政選挙で民主党候補者を支持してきた。2008年の大統領選挙ではバラク・オバマが25%差で制した。これは2004年のジョン・ケリーの時よりも大きな差だった。ニューヨーク市も民主党の強い地盤である。州内のオールバニ、バッファロー、ロチェスター、シラキュースのような都市でも民主党が強い。しかし、アップステートの田園部では都市より保守的な傾向があり、共和党を支持している。ウェストチェスター郡やロングアイランドのような人口の多い郊外部では過去20年間の支持政党が揺れてきたが、どちらかと言えば民主党寄りである。",
"title": "政治と政府"
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"text": "ニューヨーク市は民主、共和両政党にとって合衆国の中でも政治資金集めの重要な拠点である。国内で政治献金の多い場所を郵便番号で分類した時、上位5位の中にマンハッタンのものが四つ入っている。最大はアッパー・イースト・サイドであり、2000年の大統領選挙では、ジョージ・W・ブッシュ、アル・ゴア共に最大の資金を集めた。",
"title": "政治と政府"
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"text": "ニューヨーク州大学校(英語版)が州内の初等、中等および高等学校レベルの教育を管理しており、ニューヨーク市教育局がニューヨーク市の公立学校を運営している。",
"title": "教育"
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"text": "カレッジでは、州内の公立大学システムがニューヨーク州立大学である。ニューヨーク市立大学はニューヨークの公立大学システムである。ニューヨーク州立大学システムには64のコミュニティカレッジ、工科カレッジ、学部カレッジおよび大学から構成されている。オールバニ校、ビンガムトン校、バッファロー校、およびストーニーブルック校の四つが中心になっている。",
"title": "教育"
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"text": "私立の大学で著名なものも多い。アメリカ合衆国北東部では最古のカトリック系教育機関であるフォーダム大学や、ニューヨーク州にコロンビア大学とコーネル大学があることでアイビーリーグの大学が唯一複数ある州となっている。ウェストポイントすなわち陸軍士官学校はハドソン川のニューヨーク側ニューバーグの直ぐ南にある。",
"title": "教育"
}
] | ニューヨーク州は、アメリカ合衆国大西洋岸中部にあり合衆国本土では北東部地域に位置する州。面積では第27位の州でもある。かつては50州で最も人口が多かったが、2020年の国勢調査で、現在はカリフォルニア州、テキサス州、フロリダ州に次ぐ4位となっている。 南州境はニュージャージー州とペンシルベニア州、東州境はコネチカット州、マサチューセッツ州およびバーモント州に接する。西はカナダとの国境に接し、名所のナイアガラの滝がある。東南端に、アメリカ最大の都市でもあるニューヨーク市があり、州南部は近郊の大都市圏となっている。一方で、州北部の五大湖湖畔には古くからの工業都市であるバッファローとロチェスターがあり、州都は人口10万人弱のオールバニである。2021年以降、州知事は民主党のキャシー・ホウクルが務めている。 | {{Expand language
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|date=2022-03-29
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{{基礎情報 アメリカ合衆国の州
| 公式名称 = State of New York
| 州旗 = Flag of New York.svg
| 州章 = Seal of New York.svg
| 地図 = New York in United States.svg
| 愛称 = [[エンパイアステート]](直訳すると「[[帝国]]の州」)<br />Empire State
| モットー = さらなる高みへ<br />{{lang-la|Excelsior}}
| 州都 = [[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]
| 最大都市 = [[ニューヨーク]]
| 州知事 = [[キャシー・ホウクル]]
| 公用語 = [[アメリカ英語|英語]](事実上)<br>法的指定なし
| 面積順位 = 27
| 総面積 = 141,299
| 面積大きさ = 1 E11
| 陸地面積 = 122,283
| 水域面積 = 19,016
| 水面積率 = 13.5
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 4
| 人口値 = 20,201,249
| 人口大きさ = 1 E7
| 人口密度 = 165.2
| 加入順 = 11
| 加入日 = [[1788年]][[7月26日]]
| 時間帯 = -5
| 夏時間 = -4
| 緯度 = 40°29' - 45°
| 経度 = 71°47' - 79°45'
| 幅 = 455
| 長さ = 530
| 最高標高 = 1,629
| 平均標高 = 305
| 最低標高 = 0
| ISOコード = US-NY
| Website = www.ny.gov
| 上院議員 = [[チャック・シューマー]]<br />[[カーステン・ギリブランド]]
}}
'''ニューヨーク州'''(ニューヨークしゅう、{{lang-en-short|State of New York}})は、[[アメリカ合衆国]][[大西洋]]岸中部にあり合衆国本土では北東部地域に位置する[[アメリカ合衆国の州|州]]。面積では第27位の州でもある。かつては50州で最も人口が多かったが、2020年の国勢調査で、現在は[[カリフォルニア州]]、[[テキサス州]]、[[フロリダ州]]に次ぐ4位となっている<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。
南州境は[[ニュージャージー州]]と[[ペンシルベニア州]]、東州境は[[コネチカット州]]、[[マサチューセッツ州]]および[[バーモント州]]に接する。西は[[カナダ]]との国境に接し、名所の[[ナイアガラ滝|ナイアガラの滝]]がある。東南端に、アメリカ最大の都市でもある[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]があり、州南部は近郊の大都市圏となっている。一方で、州北部の[[五大湖]]湖畔には古くからの工業都市である[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]と[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]があり、[[州都]]は人口10万人弱<ref group="注">ただし、都市圏人口では約90万人、広域都市圏で約119万人と州内3番目の規模</ref>の[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]である。2021年以降、[[ニューヨーク州知事|州知事]]は[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[キャシー・ホウクル]]が務めている。
{{bar box
|title=家庭で話される言語(ニューヨーク州) 2010<ref>[http://www.mla.org/map_data_results&state_id=23&mode=state_tops MLA Language Map Data Center". Modern Language Association.]</ref>
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|title=人種構成(ニューヨーク州) 2010
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== 歴史 ==
: ''主要記事:[[ニューヨーク州の歴史]]''
=== 連邦に加盟するまで ===
17世紀初め、[[レナペ]]族、[[イロコイ連邦|イロコイ族]]との生皮の取引のために、[[オランダ]]の交易拠点が造られ、これが発展したのが[[ニューネーデルラント]]植民地だった。交易拠点としては、[[1614年]]に現在の[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ市]]に近くナッソー砦が造られたのが最初だった。[[1625年]]に[[フォート・アムステルダム|アムステルダム砦]]が造られ、これが[[ニューアムステルダム]]となり、現在の[[ニューヨーク]]市のはじまりとなった。第二次[[英蘭戦争]]の間の[[1664年]]に[[イギリス]]がニューネーデルラントを占領し、ここを[[ニューヨーク植民地]]として支配し始めた。オランダは一度は取り返したものの、第三次英蘭戦争を終結させる[[1674年]]のウェストミンスター条約で正式にイギリスのものとされた。
[[1685年]]に王領植民地 (royal province) となり、[[1688年]]にはニューイングランド自治領の一部となり、[[1691年]]にニューヨーク植民地に戻った。[[フレンチ・インディアン戦争]](1755年-1763年)のときにはニューヨーク植民地からも多くの者がイギリス軍に徴募された。[[1765年]]、イギリスはこの戦争の負債を償還するためにアメリカの植民地に[[1765年印紙法|印紙法]]によって新たな税金を課そうとした。ニューヨーク市の現在は[[フェデラル・ホール]]となっている場所で、いくつかの植民地代表が集まり、対応を協議するための[[印紙法会議]]を開いた。それに続く印紙法施行に対する妨害行動が続き、[[1766年]]に印紙法は撤廃された。その後も[[タウンゼンド諸法]]や[[茶法]]などイギリスは新たな政策を実施しようとしたがことごとく失敗し、[[1774年]]に[[耐え難き諸法]]を制定したことでアメリカは独立への動きを加速させた。[[1775年]][[10月19日]]、イギリスから指名されていた知事がニューヨークを離れたことでイギリスの支配は終わった。
=== 連邦への加盟 ===
アメリカ独立戦争の間の[[1776年]]8月、[[ロングアイランドの戦い|ロングアイランド]]でこの戦争中最大の戦闘が行われた。9月にイギリス軍はニューヨーク市を占領し、[[1783年]]11月の解放の日まで占領を続けた。この間にもニューヨーク市以外の地域で独立のための活動は続けられており、1776年[[7月9日]]にニューヨーク邦が創設され、[[1777年]]にはニューヨーク憲法が制定された。[[1779年]]には[[サリバン遠征]]を行い[[イロコイ族]]集落を殲滅した。[[1787年]]に[[アメリカ合衆国憲法]]が提案されると、ニューヨーク邦でもその批准のための活発な議論が行われた。[[アレクサンダー・ハミルトン]]らが『[[ザ・フェデラリスト]]』で批准の必要性を訴え続けた結果、[[1788年]][[7月26日]]にアメリカ合衆国憲法を批准し、ニューヨーク州は合衆国第11番目の州となり、ニューヨーク市は連邦の首都となった(1790年まで)。1797年に[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]がニューヨーク州の州都となった。
=== その後の歴史的出来事 ===
[[1825年]]に[[エリー運河]]が完成し、[[ハドソン川]]から[[エリー湖]]までの水運が可能となった。[[1853年]]に[[ニューヨーク・セントラル鉄道]]が開通し運河との競合が始まった。これら交通の発達でニューヨーク州は[[産業革命]]が進展し、一大工業地帯を形成した。19世紀後半にニューヨーク市は世界の金融の中心として頭角を現し、[[1929年]]に[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街大暴落]]が起こったことで[[世界恐慌]]に発展するほどの影響力をつけていた。[[第二次世界大戦]]後の好況に続いて世界規模の貿易戦争が起こり、これに敗れたニューヨーク州の工場は次々と操業を停止し、[[ラストベルト]]と呼ばれる地帯を形成した。
===2020年コロナウイルスの感染拡大===
[[2020年]]、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大はニューヨーク州にも及び、[[3月20日]]午前の段階で州内の感染者数は7000人を超え、死者は35人に上った。[[アンドリュー・クオモ]]州知事は、[[ウイルス]]の感染拡大を防ぐため、生活に不可欠な業種以外の全労働者に自宅待機を義務づけると発表<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-21 |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35151151.html |title=NY州、全労働者に自宅待機を義務づけ 不可欠な業種は除外 |publisher=CNN |accessdate=2020-03-23}}</ref>。不要な個人の集会を禁止し、公共交通機関の利用を控えるよう勧告した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-21 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3274474?cx_part=search |title=NY州、必須でない全事業所を閉鎖 集会を禁止 |publisher=AFP |accessdate=2020-03-23}}</ref>。また3月27日、知事は[[ジェイコブ・ジャビッツ・コンベンションセンター]]に設置された医療施設をモデルに、[[アケダクト競馬場]]など大規模施設に医療施設を設置すると発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-28 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3275750?cx_part=topstory |title=トランプ氏、220兆円の経済対策法案に署名 GMには人工呼吸器製造を命令 |publisher=AFP |accessdate=2020-03-27}}</ref>。
4月8日、州内の死者数が799人/日を数え直近のピークを迎えた。4月18日、知事は死者数が前日比90人/日減となり、過去2週間で最も少なかったと発表。感染のピークを脱しつつあるとの認識も示した。この時点の州内の死者数は約13000人(疑いのある者を含めると17000人超)。ただし、新規入院者数は依然として約2000人/日台であることを示し、早期の外出制限の緩和などには慎重な姿勢を示した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-19 |url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20200419-OYTEW497579/ |title=NY州「ピーク過ぎた可能性」…死者は2週間で最少の540人 |publisher=読売新聞 |accessdate=2020-04-19}}</ref>。
== 地理 ==
形としてはほぼ正三角形をしており最南端に[[人口]]880万人の大都市[[ニューヨーク市]]と大きな島[[ロングアイランド島]]がある。ニューヨーク市を構成する五つの行政区([[行政区 (ニューヨーク市)|ニューヨーク行政区]])のうち四つは、[[ハドソン川]]河口の三つの島にある。すなわちマンハッタン島の[[マンハッタン|マンハッタン区]]、スタテンアイランド島の[[スタテンアイランド|スタテンアイランド区]]、ロングアイランド島の[[ブルックリン区]]と[[クィーンズ区]]である。あとの一つは[[ブロンクス区]]である。これらの行政区はそれぞれニューヨーク州の郡でもある。[[ロングアイランド]]の東では[[ロードアイランド州]]と海上の州境がある。
州都[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]はニューヨーク市から[[ハドソン川]]を300kmほど<ref group="注">[[東京]]〜[[仙台市|仙台]]もしくは愛知東部の距離に相当</ref>北に遡ったところにあり、17世紀に[[オランダ]]が造った古い港町である。西端近くには[[人口]]約30万人の州第2の都市[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー市]]がある。その北東方、[[オンタリオ湖]]岸に精密工業で有名な[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]市がある。
ニューヨーク都市圏([[メトロノース鉄道]]の範囲)より北方を'''[[アップステート・ニューヨーク|アップステイト]]'''と呼び、アップステイトはニューヨーク都市圏に比べ冬は5度から8度程度寒く、降雪量もやや多い。その東方は大アパラチア渓谷、北方には[[セントローレンス川]]を隔てて[[カナダ]]との国境があり、[[シャンプレーン湖]]が南北に長く続き、[[ハドソン川]]が南に流れて大西洋に至る。オールバニ市の北方には、州内最高峰のマーシー山(標高5,343 フィート、1,629 m<ref name=usgs>{{cite web|date=2005-04-29|url=http://erg.usgs.gov/isb/pubs/booklets/elvadist/elvadist.html#Highest|title=Elevations and Distances in the United States|publisher=U.S Geological Survey|accessdate=2006-11-06}}</ref>)を抱えるアディロンダック山地を含め州の1/5ほどの面積を占める巨大な自然保護区、アディロンダック州立公園がある<ref>[http://www.apa.state.ny.us/About_Park/index.html About the Adirondack Park], Adirondack Park Agency. Accessed July 1, 2009.</ref>。南西には[[アルゲイニー台地]]が広がり、その一部であるキャッツキル山地から流れ出る水がニューヨーク都市圏の水需要に供している。西部のアレゲイニー川はオハイオ川の支流であり、[[サスケハナ川]]は[[チェサピーク湾]]に、[[デラウェア川]]はデラウェア湾に注いでいる。
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|caption1 = ニューヨーク州の地勢
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|caption2 = [[ハドソン川]]とモホーク川
}}
ニューヨーク州の面積は54,556 平方マイル (141,300 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]) であり<ref>{{cite web|url=http://www.infoplease.com/ipa/A0108355.html|title=Land and Water Area of States (2000)|publisher=Infoplease.com|accessdate=2010-03-21}}</ref>、全米で27位と中程度の大きさの州だが面積は[[北海道]]と[[九州]]を併せた程度あり、東西最大500km、南北最大450kmに広がっている。最南端の都市ニューヨーク市から第2の都市[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]まで自動車で行くと約6〜7時間を要する。山がちな地形であり人間の身長から地平線を望めるほどの平原はない。ただし、いわゆる山岳地帯ではなく、高さ数百メートルの小山や丘が点在している。
ニューヨーク州の境界(北西部から時計まわりに)は、[[五大湖]]のうちの二つの[[湖]]([[ナイアガラ川]]によってつながっている[[エリー湖]]および[[オンタリオ湖]])、[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]および[[ケベック州]]、三つの[[ニューイングランド]]の州([[バーモント州]]、[[マサチューセッツ州]]および[[コネチカット州]])並びに二つの[[アメリカ合衆国中部大西洋岸|中部大西洋岸]]の州([[ニュージャージー州]]と[[ペンシルベニア州]])となっている。
参照:[[ニューヨーク州の郡一覧]]
=== 気候 ===
[[ファイル:LakeEffectSnowBuffalo101206.gif|thumb|right|250px|[[湖水効果雪]]がニューヨーク州西部に雪を降らす主要因である。]]
ニューヨーク州は概して[[湿潤大陸性気候]]であるが、ニューヨーク市は[[ケッペンの気候区分]]で[[温暖湿潤気候]]にあたる<ref name=NYClimate>{{cite web|url=http://nysc.eas.cornell.edu/climate_of_ny.html|title=Climate of New York|publisher=New York State Climate Office - Cornell University|accessdate=2008-04-10}}</ref>。ニューヨーク市の天候は二つの大陸性気団の影響を強く受ける。すなわち、南西からの暖かく湿った気団と、北西からの冷たく乾燥した気団である。
州内の高原地帯での冬は長く寒い。冬季の大半で、北部高原では気温が −13{{°F}} (−25 ℃) 以下となり、南西部や東中部の高原では 5{{°F}} (−15 ℃) 以下となる。
夏の気候はアディロンダック山地、キャッツキル山地および南部の標高が高い地域で冷涼である。ニューヨーク市とロングアイランド地域およびハドソン川下流域では、比較的温暖な夏となり、不快な高湿度の期間もある。ニューヨーク州の残りの地域では快適で温暖な夏だが、時として短期間蒸し暑い期間がある。州の大半で夏の日中の気温は 70{{°F}}台〜80{{°F}}台 (25℃〜30℃) である。
一人当たりの[[温室効果ガス]]の排出量で、ニューヨーク州は50州中46番目である。これは主に[[公共交通機関]]の利用率が高いことによる。
<center>
{|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:90%;"
|+ '''ニューヨーク州主要市での各月平均最高最低気温'''
|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000" width:10em;|都市
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" abbr="January"|1月
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" abbr="February"|2月
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" abbr="March"|3月
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" abbr="April"|4月
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" abbr="May"|5月
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" abbr="June"|6月
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|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width:180;|[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|-1/-11
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|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|7/-4
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|14/2
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|21/8
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|26/13
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|28/16
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|27/14
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|2/10
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|16/4
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|9/-1
|style="text-align:center;background:#555FFF;color:#000000;"|2/-7
|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width="180;"|[[ビンガムトン]]
|style="text-align:center;background:#C5DFE1;color:#000000;"|-1/-9
|style="text-align:center;background:#C5DFE1;color:#000000;"|-1/-8
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|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width="180;"|[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]
|style="text-align:center;background:#00FFFF;color:#000000;"|-1/-8
|style="text-align:center;background:#00FFFF;color:#000000;"|1/-7
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|style="text-align:center;background:#00FFFF;color:#000000;"|2/-4
|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width="180;"|[[ロングアイランド]]
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|4/-5
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|4/-4
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|9/-1
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|14/4
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|21/9
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|25/16
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|28/19
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|28/18
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|24/14
|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|18/7
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|style="text-align:center;background:#2A8000;color:#000000;"|7/-2
|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width="180;"|[[ニューヨーク]]市
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|3/-3
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|5/-2
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|10/2
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|16/7
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|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|26/17
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|29/21
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|28/20
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|24/16
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|18/10
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|12/5
|style="text-align:center;background:#E34234;color:#000000;"|6/0
|-
! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width="180;"|[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]
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! style="background:#F0F8FF;color:#000000;" width="180;"|[[シラキュース (ニューヨーク州)|シラキュース]]
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|colspan="13" style="text-align:center;font-size:90%;background:#E8EAFA;"|Source:''[http://www.ustravelweather.com/new-york/]''
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=== 州立公園 ===
[[ファイル:Adirondack and Catskill Parks Locator.svg|thumb|right|二つの主要州立公園であるアディロンダック公園とキャッツキル公園]]
ニューヨーク州には多くの州立公園と二つの大きな保護森林がある。アディロンダック公園はバーモント州の大きさにほぼ匹敵し、国内最大の州立公園である。1892年に設立されて州憲法で保護されている。公園とする考えは1864年の[[ジョージ・パーキンス・マーシュ]]の著作『人と自然』で紹介された。マーシュは、地中海のかつては植物が繁茂していた地域を引き合いに出し、「人の営みによって地球の表面を月の表面とそっくりにしてしまう」と言って、森林を取り去ると砂漠化に繋がると主張した。
キャッツキル州立公園は1855年に成立した法律で保護されており、その土地は保護され、決して売却も賃貸もされてはならないと宣言された。面積は70万エーカー (2,800 km<sup>2</sup>) あり、ボブキャット、ミンク、フィッシャーなどが棲んでいる。[[クロクマ]]の生体数は400頭ほどといわれている。州が運営する多くのキャンプ場があり、総延長300マイル (480 km) 以上の多目的道路が走っている。
モントークポイント州立公園には[[ジョージ・ワシントン]]大統領が発注したことで有名なモントーク灯台があり、ロングアイランドの東端、サフォーク郡イーストハンプトンにある。同じくロングアイランドのヒザーヒルズ州立公園にはキャンプ場があり、投げ釣りで人気がある。
== 人口動勢 ==
{{歴史的人口
|[[:en:United States Census, 1790|1790]]|340120
|[[:en:United States Census, 1800|1800]]|589051
|[[:en:United States Census, 1810|1810]]|959049
|[[:en:United States Census, 1820|1820]]|1372851
|[[:en:United States Census, 1830|1830]]|1918608
|[[:en:United States Census, 1840|1840]]|2428921
|[[:en:United States Census, 1850|1850]]|3097394
|[[:en:United States Census, 1860|1860]]|3880735
|[[:en:United States Census, 1870|1870]]|4382759
|[[:en:United States Census, 1880|1880]]|5082871
|[[:en:United States Census, 1890|1890]]|5997853
|[[:en:United States Census, 1900|1900]]|7268894
|[[:en:United States Census, 1910|1910]]|9113614
|[[:en:United States Census, 1920|1920]]|10385227
|[[:en:United States Census, 1930|1930]]|12588066
|[[:en:United States Census, 1940|1940]]|13479142
|[[:en:United States Census, 1950|1950]]|14830192
|[[:en:United States Census, 1960|1960]]|16782304
|[[:en:United States Census, 1970|1970]]|18236967
|[[:en:United States Census, 1980|1980]]|17558072
|[[:en:United States Census, 1990|1990]]|17990455
|[[:en:United States Census, 2000|2000]]|18976457
|[[:en:United States Census, 2010|2010]]|19378102
|[[:en:United States Census, 2020|2020]]|20201249
}}
[[ファイル:New York Population Map.png|thumb|left|ニューヨーク州の人口密度図]]
[[アメリカ合衆国統計局]]によると、2020年4月時点のニューヨーク州の人口は20,201,249人で、[[カリフォルニア州]]、[[テキサス州]]、および[[フロリダ州]]に続いてアメリカ合衆国で4番目に多い<ref name="Census2020_QuickFacts" />。
ニューヨーク州は土地が開けているにもかかわらず、人口の92%が都市に住んでいる都会型の州である<ref>[http://www.ers.usda.gov/StateFacts/NY.htm New York Fact Sheet:NY agriculture income population food education employment farms top commodities exports counties financial indicators poverty organic farming farm income America USDA]</ref>
ニューヨーク州は他の州への移住率が高いために人口成長率は低い。2000年と2005年にニューヨーク州からフロリダ州に移転した人口は、他のどの州からも他州へ移転した人口を上回った<ref>{{cite web|url=http://www.census.gov/acs/www/Downloads/State_Migration_Flows_Paper.doc|title=Domestic Migration Flows for States from the 2005 ACS|accessdate=2007-10-19|format=Microsoft Word}}</ref>。しかし、世界的に見れば国外から入る移民が多い州になっており、2008年時点の移民人口は420万人とカリフォルニア州に次ぐ数字になっている。アップステート・ニューヨークがかなりの移民の受け入れ先になっているものの、ニューヨーク市周辺が経済的に活気があり、世界市民的文化を保持しているために、ここに定着する者が多い。
ニューヨーク州の[[人口重心]]は[[:en:Deerpark, New York|ディアパーク]]がある、[[オレンジ郡 (ニューヨーク州)|オレンジ郡]]となっている<ref>{{cite web|url=http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt|title= Population and Population Centers by State:2000|accessdate=2007-01-05|format= Text }}</ref>。ニューヨーク市とその郊外8郡の総人口は13,209,006人であり、州内人口の68.42%を占めている<ref>{{cite web|url=http://factfinder.census.gov/servlet/QTTable?-geo_id=04000US36&-qr_name=DEC_2000_SF3_U_DP3&-ds_name=DEC_2000_SF3_U
|title= DP-3. Profile of Selected Economic Characteristics:2000, Geographic Area:New York|accessdate=2007-01-05|work=U.S. Census Bureau, Census 2000}}</ref>。
=== 人種構成と出身国 ===
[[ファイル:Ancestry-new-york-by county-2000.PNG|thumb|ニューヨーク州の出身国による構成比率が高い地域の図]]
ニューヨーク州内で上位5位の祖先グループは黒人 (15.8%)、[[イタリア系アメリカ人|イタリア系]] (14.4%)、[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]] (12.9%) および[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]] (11.1%) である<ref>[http://awesomeamerica.com/newyork/ Awesome America:New York]. RetrieveAugust d 18, 2007.</ref>。2004年推計によると、人口の20.4%は外国生まれだった。
この州の人種的な構成は以下の通りである。
* 62.0% ヒスパニック以外の白人
* 15.9% [[アフリカ系アメリカ人|アフリカ系]]
* 15.1% [[ラテン系アメリカ人|ヒスパニック系]]
* 5.5% [[アジア系アメリカ人|アジア系]]
* 0.4% [[ネイティブ・アメリカン]]
* 3.1% 混血
ニューヨーク州は南部のジョージア州に次ぐ2位大きい[[アフリカ系アメリカ人]]がいる州であり、アジア系アメリカ人も第2位である。他にも[[プエルトリコ]]系、[[ドミニカ共和国|ドミニカ]]系および[[ジャマイカ]]系の人口が最大である。ニューヨーク市の[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]地区は歴史的にサハラ以南のアフリカ人の文化的中心となっており、[[ベッドフォード・スタイベサント]]地区が国内でも最大の集中地となっている。
やはりニューヨーク市のクィーンズ区は州内最大のアジア系アメリカ人人口がおり、国内でも最大級に民族的多様性の進んだ地区になっている。アジア系アメリカ人が次に多いのが、マンハッタンのチャイナタウンである。クィーンズ区は他にも[[アンデス山脈|アンデス地方]]([[コロンビア]]、[[エクアドル]]、[[ペルー]]および[[ボリビア]])の出身者数が国内最大である。
2000年国勢調査に拠れば、スタテンアイランドとロングアイランドでは、イタリア系アメリカ人が最も多く、次はアイルランド系アメリカ人だった。オールバニや州南東部から中部にかけてもイタリア系やアイルランド系が多い。バッファローや州西部では、ドイツ系アメリカ人が最大である。州北部には[[フランス系カナダ人]]が多い。ニューヨーク州は国内でもイタリア系が最も多い州である。
ニューヨーク州人口の6.5%は5歳未満であり、18歳未満は24.7%、65歳以上は12.9%となっている。女性の構成比は51.8%である。
2000年国勢調査に拠れば、5歳以上の人口の13.61%が家庭で[[スペイン語]]を話し、2.04%は[[中国語]]([[広東語]]と[[北京官話]]を含む)、1.65%は[[イタリア語]]、1.23%は[[ロシア語]]を話している<ref>[http://www.mla.org/map_data_results&state_id=36&mode=state_tops MLA Language Map Data Center]</ref>。
=== 宗教 ===
2001年時点で、ニューヨーク州における最大宗派は[[アメリカ合衆国のカトリック|ローマ・カトリック]] (総計州人口の約40%以上<ref>{{cite web|url= http://www.gc.cuny.edu/faculty/research_briefs/aris/key_findings.htm
|title=American Religious Identification Survey (Key Findings)|accessdate=2007-01-05|author=Egon Mayer, Ph.D.|coauthors=Barry A. Kosmin, Ph.D, Ariela Keysar, Ph.D.|year=2001|publisher=The City University of New York}}</ref>) だった。次いで[[プロテスタント]]が30%、[[ユダヤ教]]8.4%、[[イスラム教]]3.5%、[[仏教]]1%と続き、無宗派は13%だった。プロテスタントの中では[[メソジスト]]が403,362人、[[バプテスト教会|バプテスト]]が203,297人、[[米国聖公会]]が201,797人という信者数だった<ref>[http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/36_2000.asp The Association of Religion Data Archives|Maps & Reports]</ref>。
== インディアン部族 ==
[[ファイル:Delaware01.png|left|250px|thumb|ニューヨーク州近辺のインディアン部族のかつての分布図]]
[[レナペ|デラウェア族]]、[[エリー族]]、[[モヒカン族|マヒカン族]]、[[モヘガン族]]、[[モンタウク族]]、[[ニュートラル族]]、[[サポニ族]]、[[ツテロ族]]、[[ワッピンガー|ワッピンガー族]]、[[ウェンローロノン族]]などの[[インディアン]]部族が全域で[[ウィグワム]]による移動狩猟採集生活を営んでいた。
イギリス人入植の最初期からこの地は土地をめぐる争いの場とされ、インディアンたちはイギリス・フランス・入植政府の代理戦争を引き受けさせられた。さらに農耕民族の[[イロコイ族]]が16世紀に東部から北上してきて、5部族からなる巨大な軍事同盟を組み、周囲のインディアン部族や白人入植者を圧倒した。タスカローラ族は「[[タスカローラ戦争]]」(1712〜13年)の後、[[ノースカロライナ州]]から北上し、イロコイ連邦に加盟した。17世紀以降、入植者とインディアンの戦いは苛烈を極め、エリー族やウェンローロノン族などが弱体化し、他の部族に吸収され消滅していった。
現在、ニューヨーク州でアメリカ連邦政府が公式認定し、[[インディアン居留地|保留地]] (Reservation) を領有している[[インディアン]]部族は、「イロコイ連邦」を構成する以下の9部族である。タスカローラ族からカユーガ族までの6部族は連邦制をとっており、「[[イロコイ連邦]]」として知られる。
イロコイ連邦はアメリカ連邦内務省の出先機関であるBIA(インディアン管理局)の傀儡である「部族政府」を設置しないことで自治権条約を固持しており、アメリカ・カナダの両連邦政府からもニューヨーク州政府からも直接権限の及ばない、インディアン部族では例外的な中立独立国家の体制を保っている。1794年のジェイ条約に始まる国際協定で、彼らはアメリカ国外とのパスポートを必要としない自由な往来を保証されている。
[[ファイル:Flag of the Iroquois Confederacy.svg|right|200px|thumb|イロコイ連邦の部族国旗]]
<!-- [[ファイル:060420 native protest gal04.jpg|thumb|150px|「イロコイ連邦」によるカナダ・カレドニア側でのダグラス・クリーク土地返還要求デモ。イロコイ族は古タイヤを燃やして抗議した(2006年4月20日)]] -->
[[ファイル:Bandera Oneida.PNG|right|150px|thumb|オナイダ族の部族国旗]]
モホーク族アクエサスネ・バンドは連邦協定に基づき、カナダのオンタリオ州とアメリカ合衆国のニューヨーク州をまたいだ「セントリージス・モホーク族保留地」を領有している。カナダとアメリカを分けるセントローレンス川に架かる「[[:en:Three Nations Crossing|国境交差連絡橋]]」は、アクエサスネ・モホーク族を記念して2000年に「三国家の交差点 (Three Nations Crossing)」と命名された。
2009年、カナダ政府がアクエサスネ・モホーク族の「セントリージス・モホーク族保留地」に2009年6月1日から国境警察官を軍備配置すると決定したことに抗議し、モホーク族の抗議隊は5月31日、カナダ側の国境通関施設を座り込み占拠した。これに対し[[カナダ国境サービス庁]] (CBSA) は「三国家の交差点」を封鎖し、往来を拒まれたモホーク族は部族カジノや商店の営業が妨害され、多大な経済的損失を被ったとしてこれを提訴。一か月余りにわたる国境閉鎖の末、CBSAは7月13日にこれを橋の封鎖を解除した。
1993年8月25日、セネカ族トナワンダ・バンドはナイアガラ川のグランドアイランド周辺の土地の部族への返還を求め、ニューヨーク州を相手取り、合衆国地方裁判所に提訴した(「グランド・リバー土地係争」)。2002年6月21日にこの訴えは退けられ、部族は即時上告し、2004年9月9日に合衆国控訴裁判所は予審法廷の開廷を決定したが、最高裁判所は2006年6月5日に審理を拒否している。「イロコイ連邦」の6部族は同様にカナダに対してもオンタリオ側のダグラス・クリークの土地の返還訴訟を行っており、激しい抗議デモが年次拡大している。
連邦政府の承認が無い部族は「絶滅した」とみなされ、存在しないことになっていて、多くの部族が自治権限と保留地を求め、連邦認定を要求中である。[[ロングアイランド]]にはプースパチュック族とシンネコック族の2部族が州政府から認定を受け、州立の保留地を持つが、連邦の保留地よりも権限は弱く、州の規定で「インディアン・カジノ」を持てないでいる。
シンネコック族は2005年に、サウザンプトンの部族伝来の土地14km<sup>2</sup>の返還訴訟を起こした。同部族は1978年から連邦公認申請を行っている。
《アメリカ連邦政府が公式認定している部族・団体》
* 「イロコイ連邦」
** 「[[タスカローラ族]]」
** 「[[オナイダ族]]」
** 「[[モホーク族]]」
** 「[[オノンダーガ族]]」
** 「[[セネカ族]]」
** 「セネカ族・トナワンダ・バンド」
** 「[[カユーガ族]]」
《アメリカ連邦政府に公式認定要求中の部族・団体≫
* 「[[チェロキー族]]」
** 「チェロキー・[[ブラックフット族]]」
** 「チカマウガ・ノトウェガ・クリーク・バンド」
** 「自由チェロキー族・鹿の会議」
** 「北東チェロキー族」
** 「ヌイ・ケートーワー・チェロキー族」
** 「オハッチー・チェロキー族」
* 「ストックブリッジ・マンシー族([[マヒカン族]])」
** 「コンカポット・バンド」
* 「アクエサスネ・[[モホーク族]]」 ※カナダ連邦政府が公認
* 「[[モンタウク族]](モンタウケット族)」
** 「ロングアイランド・モンタウケット族」
* 「西[[モヘガン族]]」
≪アメリカ連邦政府は公式認定していないが、州政府が認定している部族≫
* 「ニューヨーク・[[シンネコック族]]」
* 「ウンケチャウゲ・[[プースパチュック|プースパチュック族]]」
=== インディアンとニューヨーク州税 ===
イロコイ連邦の、連邦条約で保証された連邦・州政府の直接権限の及ばない「主権国家」としての立ち位置は、これを快く思わない州政府との間で、しばしば州税関連での衝突を起こしている。イロコイ連邦部族の販売物は、ニューヨーク州政府の課税対象とならない。これは1838年の「バッファロークリーク条約」の約定によるものである。
1992年7月16日、ニューヨーク州政府はセネカ族が連邦法に基づき保留地で無税販売している[[タバコ|たばこ]]とガソリンに対し、州税を課すと決定し、それまでの「未払い分」5000万ドルを要求。セネカ族はカッタラウガス保留地を通る国道438号線一帯を数日にわたり封鎖。州警察部隊と乱闘となった。彼らは「どうしても州が課税するなら、我々から奪った土地を返せ」と主張。州はこれを取り下げたが謝罪はなかった。
1995年に就任した[[ジョージ・パタキ]]知事は、石油とコンビニエンスストア業界を後ろ盾に、イロコイ族からの州税徴収に固執し、インディアンたちからは、19世紀の対インディアン虐殺者として悪名高い軍人、[[ジョージ・アームストロング・カスター]]と引っかけた「ジョージ・カスター・パタキ」 (GEORGE "CUSTER" PATAKI) と呼ばれている。
1997年、パタキ知事はイロコイ族に対する彼らの保留地でのたばこ、ガソリンその他の非課税販売の禁止撤廃を決議し、4月1日よりイロコイ族の各保留地の周りに、数百人の州警察官を配置した。物資輸送トラックの保留地への運行が州警察によって阻止されて、国道沿いのたばこ店やガソリンスタンドは休業を余儀なくされた。1000人以上のインディアンとインディアン以外の従業員が、こうして一時解雇された。
5月18日、オノンダーガ族保留地で課税交渉会議が開かれ、これに反対する部族員のデモを州警察が襲い、この際、老人や児童が警官に暴行を受ける姿が全米で報道された。イロコイ族は彼らの保留地内の国道11、12号線をデモ封鎖してこれに抗議し、非インディアンも含めたデモ隊は州都オールバニまで行進した。ここに至って、内外からの州政府に対しての批判と抗議は全米規模に拡大し、州税部は課税実施を拒否。州裁判所はパタキ知事に対し、課税要求の破棄を命じた。
オノンダーガ族はデモ決起の際に、彼らの保留地内を通る州立高速国道81号線横の案内掲示板に、「ジョージ・カスター・パタキ、ニューヨーク州警官、オノンダーガ市保安官によって、裏切り者、強姦犯と人殺しによる支配が保障されるオノンダーガ国」との文言を掲示した。
2000年8月17日、パタキ知事はイロコイ族のインターネットによるたばこの非課税通販を禁止する法案に署名した。1987年からたばこの通販を開始しているセネカ族は「この決定は保留地で暮らすセネカ族の生活に大打撃を与えるものだ」としてこれに猛反発、バッファロー市で同州の部族の顧問[[弁護士]]を務めるジョゼフ・クラングルは、「パタキ知事が1997年の最後の課税抗議の際に、インディアンと交わした約束を破るなどとはとても信じられません」とコメントした。
ニューヨーク州はたばこ1箱1.11ドル(当時)と、全米最高率の税を課している。一方、市価よりはるかに安価でたばこを販売しているインディアンのインターネット・サイトは50を超えている。パタキ知事の署名したこの法案は[[ユナイテッド・パーセル・サービス]]や[[フェデックス]]などの、州の納税印のないインディアンのたばこの宅配業者も処罰の対象とするものであり、違反者に対しては「E級犯罪」として最高1年、再犯時は最高4年の実刑を課し、州衛生局によって最大5000ドルの罰金を科せられた。さらに州税法改正によってこれに「D級犯罪」が加えられ、最終的に最大7年の実刑が課されるものとなった。
2000年9月28日、連邦司法省はパタキ知事のインディアンの連邦保留地周辺の土地を巡る係争に対する苦情に対し、「元々インディアンから彼らの領土を不法に奪ったのはニューヨーク州であって、州の間違いは州が負うべきである」と回答した。
2003年6月、ニューヨーク州は同州のインディアン部族に対し、数百万ドルの税徴収と、インディアンによるたばこのインターネット通販の禁止を再決議した。セネカ族はこれを9億ドル級の経済的損失として徹底抗戦を宣言。セネカ族のリッキー・アームストロングSrは、「コンビニエンスストアのチェーン事業は、その地元からサイフォン式に金を吸い上げているではないか」とし、「セネカ族のインターネット・ビジネスは何10万ドルもの利益をもたらし、それはこの領土に投資される。我々の主権を踏みつぶし、これを崩壊させるよう州議員を説得した巨大なコンビニエンスストア複合企業体に対して、パタキは同じことを言えるのか」とコメントした。
2006年3月1日、州政府は州税法が実効化されたと発表、税額はひと箱当たり1.50ドルとなった。たばこ業者は同州のインディアン保留地へのたばこの納入を一時見合わせた。パタキ知事と対立する[[エリオット・スピッツァー]]司法長官は州税法の実施延期を求め、そのスポークスマンは、「パタキ政権がたばこの卸売業者を脅かし威圧しており、公式の国策を妨げている」との司法長官の意見を伝え、緊張状態が続く中、たばこの値段は上がり続け、部族は悲鳴を上げた。
2006年5月、オノンダーガ族が9年前に立てた保留地案内看板が、何者かによって「贔屓屋のエリオット・スピッツァー、ニューヨーク州警官、オノンダーガ市保安官によって、裏切り者、強姦犯と人殺し、非オノンダーガによる支配が保障されるオノンダーガ国」と書き換えられた。スピッツァー司法長官は[[:en:Oren Lyons|オレン・ライオンズ]]らイロコイ族代表と会談を重ね、課税反対を表明。スピッツァーは2007年に退任したパタキに代わって知事に就任し、課税法案を棚上げしたため事態は小康状態となった。しかしスピッツァーが2008年に失脚したため、再びこの州税を巡る争いが再燃、以後もくすぶり続けている。
2008年11月25日、同州のカユーガ郡とセネガ郡の二つの郡が、「カユーガ族が納税印無しでたばこを販売した」として、それぞれユニオンスプリングスとセネカ・フォールズにある部族のたばこ店2軒を急襲し、たばこ1万7600箱を押収してこの二店舗を閉鎖させた。州最高裁判所ケネス・フィッシャー裁判官に対し、部族顧問弁護人のリー・オールコットは50万ドル相当のこの押収物の返還に応じなければ郡を提訴すると述べた。
2009年1月24日、ニューヨーク上訴法廷はこれらのたばこ店が連邦管轄である保留地にあるとして、カユーガ族に対する脱税起訴を却下、この裁決後、1月30日に二店舗は無税販売を再開した。カユーガ族に対する訴追者の一人であるカユーガ郡のジョン・バドルマン弁護士は、「彼らが店を再開したと聞いて卒倒したよ。彼らは臆面もなく法に触れている。同じような問題がある中で、1グループが州の判決に違反できるとしたら、これが何を意味するかわかりますか」と不満を漏らしている。
[[ファイル:Allegheny National Forest PA Kinzua Dam1.jpg|right|200px|thumb|セネカ族の故郷を沈めた「キンズア・ダム」]]
[[ファイル:DSCN4477 cattaraugusreservationsign e.jpg|right|200px|thumb|「カッタラウガス保留地」セネカ族交流センターのセネカ語看板]]
=== 歌になったセネカ族の強制移住 ===
セネカ族が1794年の「カナンダイグア条約」で連邦政府から保証された1万エーカー(40.47km<sup>2</sup>)の保留地は、1960年に着工し、アレゲニー川を堰き止めた「キンズア・ダム」(1965年より稼働)によって水没した。故郷を奪われた600人のセネカ族は、サラマンカへ強制移住させられたのである。セネカ族のダム建設反対嘆願は[[アメリカ自由人権協会]]によって後押しされたが、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領によって却下され、部族の英雄[[:en:Handsome Lake|ハンサム・レイク]]の墓も水底に沈められた。
20世紀に行われたセネカ族の強制移住は、ロック歌手の[[ジョニー・キャッシュ]]によって「[[:en:Bitter Tears:Ballads of the American Indian|苦い涙:アメリカインディアンのバラード]]」(作曲は[[ナラガンセット族]]の[[:en:Peter La Farge|ピーター・ラ・ファージ]])、また[[クリー族]]フォーク歌手の[[:en:Buffy Sainte-Marie|バフィー・セント・メリー]]によって「今、バッファローは去った」 (Now That the Buffalo's Gone)、「わが故郷、わが家族はお前が死なせた」 (My Country 'Tis of Thy People You're Dying) として歌われた。
=== インディアン・カジノ ===
ニューヨーク州では、イロコイ連邦の3部族が以下の[[インディアン・カジノ]]を運営している。シンネコック族は2009年度での連邦認定が実現視されており、現在、部族カジノの設営計画に取りかかっている。
2008年1月に、アメリカ連邦政府はキャッツキルにおけるモホーク族のカジノ計画を、保留地から遠いことを理由に不認可とした。現在、モホーク族はオバマ政権によるカジノ開設認可に期待をこめている。
* セネカ族
** 「セネカ・アレガニー・カジノ」
** 「セネカ・ゲーミング・エンターテインメント」 - 二か所で営業
** 「セネカ・ナイアガラ・カジノ」
** 「レイクサイド・ゲーミング」
** 「バッファロー渓流カジノ」
* モホーク族
** 「アクウェサスネ・モホーク・カジノ」
** 「モホーク・ビンゴ・パレス」
** 「モホーク・モンチセロ競馬場&カジノ・リゾート」 - 競馬場も併設した一大娯楽リゾート
** 「モホーク・山岳カジノ・リゾート」
* オナイダ族
* 「[[:en:Turning Stone Resort & Casino|曲がり角の石のカジノ・リゾート]]」 ※「曲がり角の石」は、オナイダ族の正式部族名から採ったもの
== 主要な都市および町 ==
: ''ニューヨーク州の都市、町、郡の一覧:[[:en:List of cities in New York|ニューヨーク州の都市一覧]]、[[:en:List of towns in New York|ニューヨーク州の町一覧]]、[[:en:List of villages in New York|ニューヨーク州の村一覧]]、[[ニューヨーク州の郡一覧]]、[[:en:List of census-designated places in New York|ニューヨーク州の国勢調査指定地域一覧]] および [[:en:Administrative divisions of New York|ニューヨーク州の行政区画一覧]]。''
<center><gallery>
ファイル:Albanycapitolbldg.jpg|[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]
ファイル:View of Buffalo City Hall (cropped).jpg|[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]
ファイル:SchenectadyNY-StockadeDistrict.JPG|[[スケネクタディ (ニューヨーク州)|スケネクタディ]]
File:Manhattan in the distance (Unsplash).jpg|[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]
ファイル:Rochester-NY-skyline.JPG|[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]
ファイル:Syracuse Courthouse.jpg|[[シラキューズ (ニューヨーク州)|シラキューズ]]
ファイル:Utica 97 002.jpg|[[ユーティカ (ニューヨーク州)|ユーティカ]]
ファイル:Yonkers train station.JPG|[[ヨンカーズ]]
</gallery></center>
州内で最大都市並びにアメリカ合衆国内で最大人口都市は五つの郡から構成されるニューヨーク市である。ニューヨーク市は州人口の25%以上を占めている。バッファローは州内で2番目に最大な都市である。最小都市は[[オナイダ郡 (ニューヨーク州)|オナイダ郡]][[:en:Vernon (town), New York|ヴァーノン郡区]]の東に位置する[[シェリル (ニューヨーク州)|シェリル]] ([[:en:Sherrill, New York|Sherrill]])である。オールバニは州都であり、ロングアイランドにある[[ヘムステッド (ニューヨーク州)|ヘムステッド町]]は70万人を超える最大人口の町である。
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{{col-2}}
{|class="wikitable"
|人口の多い都市10傑、( )内は[[2020年]][[国勢調査]]時点での人口<ref name="Census2020_QuickFacts" />
# [[ニューヨーク]] (8,804,190)
# [[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]] (278,349)
# [[ヨンカーズ]] (211,569)
# [[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]] (211,328)
# [[シラキュース (ニューヨーク州)|シラキュース]] (148,620)
# [[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]] (99,224)
# [[ニューロシェル]] (79,726)
# [[マウントバーノン (ニューヨーク州)|マウントバーノン]] (67,292)
# [[スケネクタディ (ニューヨーク州)|スケネクタディ]] (66,135)
# [[ユーティカ (ニューヨーク州)|ユーティカ]] (65,283)
|}
{{col-2}}
{|class="wikitable"
|都市圏10傑、( )内は[[2020年]][[国勢調査]]時点での人口<ref name="Census2020_QuickFacts" />
# ニューヨーク都市圏 (20,140,470、州内のみでは12,828,009)
# バッファロー都市圏 (1,166,902)
# ロチェスター都市圏 (1,090,135)
# オールバニー都市圏 (899,262)
# ポキプシー・ニューバーグ・ミドルタウン川都市圏 (697,221)
# シラキュース都市圏 (662,057)
# ユーティカ・ローム都市圏 (292,264)
# ビンガムトン都市圏 (247,138)
# キングストン都市圏 (181,851)
# グレンズフォールズ都市圏 (127,039)
|}
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== 経済 ==
: ''主要記事:[[:en:Economy of New York|ニューヨーク州の経済]]''
[[ファイル:New York quarter, reverse side, 2001.jpg|left|125px]]
[[ファイル:NYC NYSE.jpg|thumb|[[ニューヨーク証券取引所]]、世界最大の[[証券取引所]]]]
[[ファイル:Presidential dollar coin reverse.png|left|125px]]
[[ファイル:View of Empire State Building from Rockefeller Center New York City dllu (cropped).jpg|thumb|[[ニューヨーク]]市の[[ミッドタウン]]、合衆国最大の[[中心業務地区]]]]
[[ファイル:BrunswickAutumn.JPG|thumb|ブランズウィックの[[酪農|酪農場]]]]
ニューヨーク州の州内総生産は2007年で1兆1000億ドルであり、カリフォルニア州とテキサス州に次いで国内第3位だった。世界の独立国と比べても[[トルコ]]に次いで第16位である。2007年国民総生産州民一人当たり総生産は46,364ドルであり、国内では[[メリーランド州]]に次いで第6位、世界では[[アイルランド]]に次いで第8位である。農業生産物としては、酪農品、牛などの家畜、野菜、苗およびリンゴがある。製造業などでは印刷出版、科学機器、電気機器、機械類、化学品、および観光が挙げられる。
最近の予算政策優先度研究所の調査では、国内の大型州の幾つかを含む13州が2009年会計年度で予算不足に陥っていた。ニューヨーク州は43億ドルの赤字である<ref>[http://www.cbpp.org/12-18-07sfp.htm 13 States Face Total Budget Shortfall of at Least $23 Billion in 2009;11 Others Expect Budget Problems, 12/18/07], Center on Budget and Policy Priorities</ref>。ニューヨーク州は食料品、日用雑貨、鉱物、コンピュータ関連商品、ダイヤモンド製品、および自動車部品など多種多様な製品を輸出している。2007年の総輸出高は711億ドルであり、輸出先は[[カナダ]](150億ドル)、[[イギリス]](60億ドル)、[[スイス]](59億ドル)、[[イスラエル]](49億ドル)、[[香港]](34億ドル)の順で多い。輸入品としては石油、金、アルミニウム、天然ガス、電気、ダイヤモンド原石、および木材が多い。
ニューヨーク州にとってカナダは重要な貿易相手である。2007年では輸出品の21%がカナダ向けだった。カナダ人はニューヨーク州を訪れたときに4億8,700万ドルを遣っており(2004年)、観光収入も経済の大きな部分になっている。
ニューヨーク市は銀行、金融および通信分野でも国内の中心であり、世界最大の[[証券取引所]]である[[ニューヨーク証券取引所]]がある。多くの世界的大企業が市内に拠点を置いている。
州内には大規模な工業集積地があり、印刷出版業、衣類、毛皮、鉄道機器とバス車両の製造が著名である。これらの工場の大部分はアップステートに固まっている。オールバニやハドソン川流域はナノテクノロジーやマイクロチップの製造、ロチェスター地域は写真用機器の製造で重要な拠点である。
ニューヨーク州は農業製品の大生産地でもあり、酪農品、リンゴ、サクランボ、キャベツ、ジャガイモ、タマネギ、メープルシロップなど多くの製品があり、国内でも5傑に入る州である。キャベツの生産高では国内最大である。州内面積の4分の1が農業用地であり、2001年で総生産高は34億ドルだった。オンタリオ湖の南岸はリンゴ、サクランボ、プラムおよびナシの果樹園として土壌と微気候の組み合わせが良い。ハドソン川流域やシャンプレーン湖周辺でもリンゴが栽培されている。
ニューヨーク州は国内第3位のブドウの生産地であり、カリフォルニア州に次いで第2位の[[ワイン]]を生産している。エリー湖の南岸とフィンガー湖群南部の丘陵面には多くのぶどう園がある。さらにロングアイランドのノースフォークには、過去30年間でぶどう園やワイン製造と観光用の施設が造られてきた。州内には3万エーカー (12 km<sup>2</sup>) のぶどう園、212のワイン製造所があり、2004年には2億本のワインを生産した。ニューヨーク州のブドウとワインの製造で60億ドルの売り上げを上げている。
ロングアイランドの大西洋岸にそって中規模の商業用海釣り設備がある。二枚貝、ロブスター、イカおよびヒラメが獲れる。これらの地域では海洋生物の増加に繋がる環境保護によって経済が発展してきている。
=== 主な会社など ===
ニューヨーク州に拠点を持つ企業には以下のようなものがある。出版会社の本社はニューヨーク市に多い。
* [[シティグループ]]
* [[CBS]]
* [[IBM]]
* [[GLOBALFOUNDRIES]]
* [[コダック]]
* [[ネイサンズ]]
* [[ティファニー]]
* [[メリルリンチ]]
* [[ダイナソー・バーベキュー]]
* [[L-3 コミュニケーションズ]]
=== 交通 ===
: ''主要記事:[[:en:Transportation in New York|ニューヨーク州の交通]]''
{|class="userboxes" align=left
|[[ファイル:NYS Thruway Sign.svg|90px|link=New York State Thruway|[[ニューヨーク・ステート・スルーウェイ]]]]
|}
[[ファイル:Thaddeus Kosciusko Bridge Albany Summer.jpg|thumb|タデウシュ・コシチュシュコ橋、モホーク川に架かり[[ニューヨーク・ステート・スルーウェイ]](州間高速道路87号線)が通っている]]
[[ファイル:NYCSub 7 Vernon Jackson 3.jpg|thumb|[[ニューヨーク市地下鉄]]、1日500万人以上の利用がある]]
ニューヨーク州は国内でも最も広範で最古の交通体系が造られている州である。地形的な難しさや都市の混雑という特有の問題のための工事の難しさを、州ができて以来常に克服しなければならなかった。州内人口は初期にハドソン川と続いて[[エリー運河]]という水路に沿って拡大していった。今日鉄道線や[[ニューヨーク・ステート・スルーウェイ]]が概して同じ経路を辿っている。ニューヨーク州交通局は、いかに州内の特定地域の道路を維持するかということと、さらに道路に徴集される通行料が当初の目的を既に過ぎてしまっているという事実について批判されることが多い。2006年まで通行料はバッファロー市内のスルーウェイで徴収されていた。これが2006年後半の知事選挙中に撤廃された(候補者が共にその撤廃を要求した)。
ニューヨーク市とその周辺では鉄道網が発達しており、[[ニューヨーク市地下鉄]]による大量輸送に加えて、4社の通勤用鉄道が郊外と市内の間の通勤輸送を担っている。すなわち[[ロングアイランド鉄道]]、[[メトロノース鉄道]]、パストレインおよび[[ニュージャージー・トランジット]]鉄道線の内の5線である。他の多くの都市は市内と地域の公共輸送機関を運行している。バッファローではナイアガラ・フロンティア交通公社がバッファロー地下鉄[[ライトレール]]を運行しており、ロチェスターでは[[ロチェスター地下鉄]]が1927年から1956年まで運行されたが、廃線になった。
交通体系の一部は一つの交通機関から容易に乗り換えられる共同一貫輸送システムを採っている。元も著名な例の一つとして、エアトレインJFKは鉄道の乗客が直接[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]のターミナルに移動できるようになっている。
2009年5月、交通コミッショナーのジャネット・サディク=カーンが指導するニューヨーク市交通局は[[タイムズスクエア]]への自動車の乗り入れを禁止した。このことは環境汚染と歩行者の事故を減らすために考案され、恒久的に執行される見込みである<ref>{{cite web|url=http://www.dailymail.co.uk/news/worldnews/article-1187300/New-York-celebrates-new-era-cars-banished-Times-Square.html|accessdate=2009-05-25|publisher=MailOnline|title=New York celebrates new era as cars are banished from Times Square}}</ref>。
* 州内のおもな空港
** [[ジョン・F・ケネディ国際空港]](JFK)
** [[ラガーディア空港]](LGA)
** [[バッファロー・ナイアガラ国際空港]](BUF)
** [[:en:Albany International Airport|オールバニ国際空港]](ALB)
** [[シラキューズ・ハンコック国際空港]](SYR)
** [[:en:Greater Rochester International Airport|グレーター・ロチェスター国際空港]](ROC)
** [[:en:Westchester County Airport|ウエストチェスター郡空港]](HPN)
** [[ロングアイランド・マッカーサー空港]](ISP)
** [[スチュワート国際空港]](SWF)
[[2007年]]州知事が不法移民にも運転免許証を交付することを検討していると発言した。だが、この案は後日知事自身が撤回した。
== 政治と政府 ==
{{Main|{{仮リンク|ニューヨーク州政府|en|Government of New York (state)}}|ニューヨーク州議会|ニューヨーク州の法}}[[ファイル:NYSCapitolPanorama.jpg|thumb|left|[[ニューヨーク州会議事堂]]]]
1938年に採択された現行のニューヨーク州憲法により、ニューヨーク州でも[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦]]や他の諸州のそれと同質の[[三権分立]]の原則が確立されている。すなわち州知事とその他の個別に選出された行政役人からなる[[行政府]]、両院制州議会からなる[[立法府]]、州最高裁判所・控訴裁判所・下級裁判所からなる[[司法府]]である。
ニューヨーク州からは2011年現在、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]の上院に各州定員の2人の上院議員を、下院には州人口比例で29人の下院議員を選出しており、その合計に等しい31人の大統領選挙人を出している。
ニューヨーク州の州都はオールバニである。州の下の行政区分として62の郡がある。他に公式の行政区分として町、市、および村がある。これらのどれか一つを選ぶ政体は4200以上ある。地方公共団体が集める歳入のうち、約52%はアメリカ合衆国でも最大の市政府であるニューヨーク市単独で集められているが、ニューヨーク市の人口は州全体の42%に過ぎない<ref>{{cite news|title=2006 Annual Report on Local Governments|author=Office of the New York State Comptroller|date=2006-11|url=http://www.osc.state.ny.us/localgov/datanstat/annreport/06annreport.pdf|accessdate=2006-11-14|format=PDF}}</ref>。
ニューヨーク州は連邦政府と著しい収支不均衡がある。ワシントンの連邦政府に1ドルの税金を納め、そのうち受け取る割り当ては82セントである。この税金当たりで消費される率では最下位に近い42位になっている<ref>{{cite web|year=|url=http://www.taxfoundation.org/research/show/266.html|title=Federal Spending in Each State Per Dollar of Federal Taxes FY2005|publisher=Tax Foundation|accessdate=2008-04-12}}</ref>。
ニューヨーク州の多くの公共サービスは一般に「公社」または「開発法人」と呼ばれる公益法人によって行われている。良く知られた公益法人に、ニューヨーク市の公共交通体系を監督する[[メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティ]]と、隣接するニュージャージー州に跨る交通機関と港湾・空港インフラを管理運営する[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|ニューヨーク・ニュージャージー・ポート・オーソリティー]]がある。
ニューヨーク州の法体系はイギリスの[[コモン・ロー]]に基づいている。
[[ファイル:Kathy_Hochul,_November_2017.jpeg|thumb|現職ニューヨーク州知事[[キャシー・ホウクル]]]]
[[ファイル:SUNYAdminBuildingAlbany.jpg|thumb|[[ニューヨーク州立大学オールバニ校]]の管理棟]]
=== 死刑 ===
[[死刑]]制度は1995年にパタキ州知事の下で再導入されたが、2004年にニューヨーク控訴裁判所が「市民対ラバレ事件」判決でニューヨーク州憲法に違背していると裁定した。残っていた死刑宣告者は「市民対ジョン・テイラー事件」判決で終身刑に減刑され、死刑囚監房は2008年にパターソン知事の執行命令で解体された。1963年以来ニューヨーク州で死刑執行は行われていない。法改正を求めた立法府の動きも失敗し、死刑宣告は行われなくなった<ref>{{cite news|url=http://www.nypost.com/seven/07242008/news/regionalnews/gov_pulls_switch_on_death_cell_121295.htm|title=GOV PULLS SWITCH ON DEATH CELL|date=2008-07-24|publisher=New York Post|author=Scott, Brendan|accessdate=2009-04-09}}</ref><ref>{{cite news|author=Powell, Michael|title=In N.Y., Lawmakers Vote Not to Reinstate Capital Punishment|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A47871-2005Apr12.html|publisher=[[The Washington Post]]|date=2005-04-13|accessdate=2008-04-11}}</ref>。
=== 政治 ===
ここ数十年間、ニューヨーク州は概して国政選挙で[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補者を支持してきた。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年の大統領選挙]]では[[バラク・オバマ]]が25%差で制した。これは2004年の[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]の時よりも大きな差だった。ニューヨーク市も民主党の強い地盤である。州内のオールバニ、バッファロー、ロチェスター、シラキュースのような都市でも民主党が強い。しかし、アップステートの田園部では都市より保守的な傾向があり、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]を支持している。ウェストチェスター郡やロングアイランドのような人口の多い郊外部では過去20年間の支持政党が揺れてきたが、どちらかと言えば民主党寄りである。
ニューヨーク市は民主、共和両政党にとって合衆国の中でも政治資金集めの重要な拠点である。国内で政治献金の多い場所を郵便番号で分類した時、上位5位の中にマンハッタンのものが四つ入っている。最大は[[アッパー・イースト・サイド]]であり、[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年の大統領選挙]]では、[[ジョージ・W・ブッシュ]]、[[アル・ゴア]]共に最大の資金を集めた<ref>{{cite news|title=2006 Election Overview:Top Zip codes|author=Opensecrets.org|date=2005-05-16|url=http://www.opensecrets.org/bigpicture/topzips.asp?cycle=2004|accessdate=2006-07-19}}</ref>。
== 教育 ==
{{仮リンク|ニューヨーク州大学校|en|University of the State of New York}}が州内の初等、中等および高等学校レベルの教育を管理しており、ニューヨーク市教育局がニューヨーク市の公立学校を運営している。
=== 大学・短期大学 ===
==== 公立 ====
カレッジでは、州内の公立大学システムがニューヨーク州立大学である。ニューヨーク市立大学はニューヨークの公立大学システムである。ニューヨーク州立大学システムには64のコミュニティカレッジ、工科カレッジ、学部カレッジおよび大学から構成されている。オールバニ校、ビンガムトン校、バッファロー校、およびストーニーブルック校の四つが中心になっている。
{|width="650px"
|- valign=top
|width="50%"|
* [[ニューヨーク州立大学]]
** [[ニューヨーク州立大学オールバニ校]]
** [[ニューヨーク州立大学ジェネセオ校]]
** [[ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校]]
** [[ニューヨーク州立大学バッファロー校]]
** [[ニューヨーク州立大学ビンガムトン校]]
** [[ニューヨーク州立ファッション工科大学]]
** [[ロックランド・コミュニティ・カレッジ]]
|width="50%"|
* [[ニューヨーク市立大学]]
** [[ニューヨーク市立大学クイーンズ校]]
** [[ニューヨーク市立大学スタテンアイランド校]]
** [[ニューヨーク市立大学大学院センター]]
** [[ニューヨーク市立大学バルーク校]]
** [[ニューヨーク市立大学ハンター校]]
** [[ニューヨーク市立大学ブルックリン校]]
** [[ニューヨーク市立大学ヨーク校]]
** [[ニューヨーク市立大学ラガーディアコミュニティ・カレッジ]]
** [[ニューヨーク市立大学リーマン校]]
|}
==== 私立 ====
私立の大学で著名なものも多い。アメリカ合衆国北東部では最古のカトリック系教育機関である[[フォーダム大学]]や、ニューヨーク州に[[コロンビア大学]]と[[コーネル大学]]があることで[[アイビーリーグ]]の大学が唯一複数ある州となっている。[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]すなわち[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]はハドソン川のニューヨーク側[[ニューバーグ]]の直ぐ南にある。
{| class="wikitable sortable mw-collapsible mw-collapsed" width="800px"
|+
|- valign="top"
| width="50%" |
*[[アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク]]
*[[アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ]]
*[[イェシーバー大学]]
*[[イーストマン音楽学校]]
*[[ヴァッサー大学]]
*[[カニシャス大学]]
*[[コーネル大学]]
*[[コルゲート大学]]
*[[コロンビア大学]]
*[[サラ・ローレンス大学]]
*[[ジュリアード音楽院]]
*[[シラキューズ大学]]
*[[セント・ジョーンズ大学]]
| width="50%" |
*[[ニューヨーク大学]]
*[[バークレーカレッジ]]
*[[パーソンズ美術大学]]
*[[バード大学]]
*[[ハミルトン・カレッジ]]
*[[フォーダム大学]]
*[[ホバート&ウィリアムスミス大学]]
*[[マウントサイナイ医科大学]]
*[[マンハッタン音楽学校]]
*[[ユダヤ教神学院]]
*[[ロックフェラー大学]]
*[[ロチェスター大学]]
*[[ロチェスター工科大学]]
**[[国立聾工科大学]]
*[[プラット・インスティテュート]]
|}
== 文化 ==
=== 美術館・博物館 ===
{{colbegin|2}}
* [[メトロポリタン美術館]]
* [[ニューヨーク近代美術館]]
* [[グッゲンハイム美術館]]
* [[アメリカ自然史博物館]]
* [[イントレピッド海上航空宇宙博物館]]
* [[アメリカ野球殿堂|アメリカ野球殿堂博物館]]
{{colend}}
=== オペラ・楽団 ===
{{colbegin|2}}
* {{仮リンク|オールバニー交響楽団|en|Albany Symphony Orchestra}}
* [[アメリカ交響楽団]]
* [[ニューヨーク・フィルハーモニック]]
* [[メトロポリタン・オペラ]]
* [[ニューヨーク・シティ・オペラ]]
* [[ニューヨーク・シティ・バレエ団]]
* [[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]
* [[バッファロー・フィルハーモニー管弦楽団]]
{{colend}}
=== スポーツチーム ===
{{Main|{{仮リンク|ニューヨーク市のスポーツ|en|Sports in the New York metropolitan area}}}}
{|
|- valign=top
|
* [[メジャーリーグサッカー|MLS]]
** [[ニューヨーク・レッドブルズ]]
** [[ニューヨーク・シティFC]]
* {{仮リンク|ナショナル・インデペンデント・サッカー・アソシエーション|label=NISA|en|National Independent Soccer Association}}
** [[ニューヨーク・コスモス]]
* {{仮リンク|MLSネクスト・プロ|en|MLS Next Pro}}
** {{仮リンク|ロチェスター・ニューヨークFC|en|Rochester New York FC}}
* [[NFL]]
** [[バッファロー・ビルズ]]
** [[ニューヨーク・ジェッツ]]
** [[ニューヨーク・ジャイアンツ]]
* [[NBA]]
** [[ニューヨーク・ニックス]]
** [[ブルックリン・ネッツ]]
* [[WNBA]]
** [[ニューヨーク・リバティ]]
* [[コンチネンタル・バスケットボール・アソシエーション|CBA]]
** [[オールバニ・パトルーンズ]]
* [[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]
** [[バッファロー・セイバーズ]]
** [[ニューヨーク・レンジャース]]
** [[ニューヨーク・アイランダース]]
* [[メジャーリーグラグビー|MLR]]
** [[ラグビー・ユナイテッド・ニューヨーク]]
* [[メジャーリーグ・ラクロス|MLL]]
** {{仮リンク|ロングアイランド・リザーズ|en|Long Island Lizards}}
** {{仮リンク|ロチェスター・ラトラーズ|en|Rochester Rattlers}}
* [[ナショナル・ラクロス・リーグ|NLL]]
** {{仮リンク|バッファロー・バンディッツ|en|Buffalo Bandits}}
** {{仮リンク|ロチェスター・ナイトホークス|en|Rochester Knighthawks}}
|
* [[メジャーリーグベースボール|MLB]]
** [[ニューヨーク・メッツ]]
** [[ニューヨーク・ヤンキース]]
** [[トロイ・トロージャンズ]](1879年〜1882年)
** [[シラキュース・スターズ (1879年)|シラキュース・スターズ]](1879年、1890年)
** [[バッファロー・バイソンズ (1879-1885年)|バッファロー・バイソンズ]](1879-1885年、1890年)
** [[バッファロー・ブルース]](1914-1915年)
** [[ロチェスター・ブロンコス]](1890年)
* [[マイナーリーグ]]
** [[ブルックリン・サイクロンズ]] [[:en:Brooklyn Cyclones|Brooklyn Cyclones]]
** [[スタテンアイランド・ヤンキース]] [[:en:Staten Island Yankees|Staten Island Yankees]]
** [[ビンガムトン・メッツ]] [[:en:Binghamton Mets|Binghamton Mets]]
** [[バッファロー・バイソンズ]]
** [[ジェームズタウン・ジャマーズ]] [[:en:Jamestown Jammers|Jamestown Jammers]]
** [[バタヴィア・マックドッグス]] [[:en:Batavia Muckdogs|Batavia Muckdogs]]
** [[ロチェスター・レッドウイングス]]
** [[オーバーン・ダブルデイズ]] [[:en:Auburn Doubledays|Auburn Doubledays]]
** [[シラキュース・チーフス]]
** [[オネオンタ・タイガース]] [[:en:Oneonta Tigers|Oneonta Tigers]]
** [[トライシティ・バレーキャッツ]] [[:en:Tri-City ValleyCats|Tri-City ValleyCats]] ([[トロイ (ニューヨーク州)|トロイ]])
** [[ハドソンバレー・レニゲイズ]] [[:en:Hudson Valley Renegades|Hudson Valley Renegades]] ([[:en:Wappingers Falls, New York|ワッピンガーズ・フォールズ]])
* [[アマチュア野球]]
** [[エルマイラ・パイオニアーズ]]
* [[メジャーリーグクリケット|MLC]]
** [[MIニューヨーク]]
|}
== その他 ==
=== 同州出身の有名人 ===
{{see|ニューヨーク州出身著名人の一覧}}
=== 州の象徴など ===
* 州の動物 - [[ビーバー]]
* 州の鳥 - [[ルリツグミ]]
* 州の木 - [[サトウカエデ]]
* 州の低木 - [[ライラック]]
* 州の昆虫 - [[テントウムシ]]
* 州の蝶 - アメリカアオイチモンジ (''[[:en:Limenitis arthemis]]'' )
* 州の花 - [[バラ]]
* 州の淡水魚 - [[カワマス]]
* 州の海水魚 - [[ストライプドバス]]
* 州のモットー - 「より高くへ!」 (''[[:en:Excelsior|Excelsior!]]'' )
* 州の歌 - 「アイ・ラブ・ニューヨーク」 (''[[:en:I Love New York#New York State Song|I Love New York]]'' )
* 州の色 - 青と金
* 州の化石 - [[ウミサソリ]] (''Eurypterus remipes'')
* 州の宝石 - [[ガーネット]]
* 州の飲料 - [[牛乳]]
* 州のは虫類 - [[カミツキガメ]]
* 州の果実 - [[リンゴ]]
* 州の貝 - [[ホタテガイ]](Bay Scallop, [[イタヤガイ科]])
* 州のマフィン - リンゴの[[マフィン]]
=== 日本の姉妹都市 ===
* [[栃木県]][[那珂川町]](旧[[馬頭町]]) - [[ホースヘッズ (ニューヨーク州)|ホースヘッズ市]]、[[:en:Horseheads (town), New York|Horseheads]]
* [[東京都]] - [[ニューヨーク|ニューヨーク市]]
* [[富山県]][[小杉町]] - [[サリバン (ニューヨーク州)|サリバン]]、[[:en:Sullivan, New York|Sullivan]]
* [[石川県]][[金沢市]] - [[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー市]]
* [[静岡県]][[浜松市]] - [[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター市]]
* 静岡県[[大須賀町]](現[[掛川市]]) - [[コーニング (ニューヨーク州)|コーニング市]]、[[:en:Corning (city), New York|Corning]]
* [[岡山県]][[大佐町]](現[[新見市]]) - [[ニューパルツ・ヴィレッジ (ニューヨーク州)|ニューパルツ・ヴィレッジ市]]、[[:en:New Paltz (village), New York|New Paltz]]
* [[佐賀県]][[佐賀市]] - [[グレンズフォールズ (ニューヨーク州)|グレンズフォールズ市]]、[[:en:Glens Falls, New York|Glens Falls]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ニューヨーク州の都市圏の一覧]]
* [[ニューヨーク州の郡一覧]]
* [[ニューヨーク州知事]]
* [[ニューヨーク州の法]]
* [[アメリカ同時多発テロ事件]] - 同州の[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|世界貿易センター]]が破壊された。
* [[イロコイ連邦]]
* [[アップステート・ニューヨーク]]
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|commons=Category:New York}}
; 概説
* {{Curlie|Regional/North_America/United_States/New_York}}
* [https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ニューヨーク日本国総領事館]
* [https://jaany.org/w/ja/home-jp/ ニューヨーク日系人会]
* [https://www.at-newyork.com/new-york_information/new_york_geograph.htm ニューヨーク州・市・区の地理関係]
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* [https://www.nysenate.gov/ ニューヨーク州上院]
* [https://nyassembly.gov/ ニューヨーク州下院]
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* [https://dos.ny.gov/system/files/documents/2021/09/constitution-january-2018-amd-rev-08-21.pdf ニューヨーク州憲法] (参照[[ファイル:Wikisource-logo.svg|15px]] [[:wikisource:New York Constitution as of 2004|Wikisource]])
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* [https://www.loc.gov/rr/program/bib/states/newyork/ アメリカ議会図書館のニューヨーク州ガイド]
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5,043 | 梶井基次郎 | 梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年〈明治34年〉2月17日 - 1932年〈昭和7年〉3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。
死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。
梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鷗外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。
1901年(明治34年)2月17日、大阪府大阪市西区土佐堀通5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に、父・宗太郎、母・ヒサ(久)の次男として誕生した。両親は2人とも1870年(明治3年)の生まれで当時数え年32歳、共に明治維新後に没落した梶井姓(同じ名字)の刀屋の出であった(ヒサは梶井秀吉の養女)。父親を早くに亡くし第三銀行大阪支店(安田善次郎の経営系列)の丁稚から苦労してきた宗太郎は、貿易会社(海運会社)の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた。
この安田運搬所の西隣りに一家は住んでいた(中から行き来ができた)。宗太郎はヒサとは再婚で、婿養子であった。ヒサは明治の女子教育を受け、幼稚園の保母として勤めに出ていた。同居家族は他に、祖母・スヱ(宗太郎の母)、祖父・秀吉(ヒサの養父)、5歳上の姉・冨士、2歳上の兄・謙一がいた。
基次郎が誕生した同年9月には、父・宗太郎と芸者・磯村ふく(網干出身で生家も網干姓)の間に、異母弟にあたる順三が生まれた。日露戦争の特需により安田運搬所は大砲の輸送で潤い、酒色を好む宗太郎は接待などで茶屋に通っては放蕩な日々を過ごしていた。1905年(明治38年)10月、基次郎が4歳の時に一家は大阪市西区江戸堀南通4丁目29番地(現・江戸堀2丁目8番地)に転居。翌1906年(明治39年)1月17日に弟・芳雄が生まれた。
1907年(明治40年)4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校(現・大阪市立花乃井中学校)に入学。式の時は袴を着け、平素は紺絣の着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った。
しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の文学の話をした(基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった)。
宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島の水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが、1908年(明治41年)1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた。同月21日には次弟・勇が生まれた。
1909年(明治42年)12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店(のち安田商事)への転勤に伴い、一家は祖父・秀吉(大阪残留を希望)を残して上京。品川の旅館・若木屋に数日滞在した後、東京市芝区二本榎西町3番地(現・港区高輪2丁目6番地)の狭い借家に転居した。泉岳寺を見下ろす高台の家で、電灯もなくランプで生活していた。
1910年(明治43年)1月、基次郎は兄・謙一と共に、芝白金(現・港区白金台)の私立頌栄尋常小学校へ転入し、紺絣に袴を穿き下駄で通学した。この学校はプロテスタント系の頌栄女学校の付属校で、ハイカラな気風と西欧的な自由主義教育と英語教育がなされ、巖谷小波がアンデルセンなどのお伽話の講話を行っていた。兄弟は当初「大阪っぺ」とからかわれたが、兄が紙ヒコーキを学校に広め、基次郎も兄と一緒に徐々に東京山の手の校風に馴染んでいった。
父・宗太郎は左遷されたという憤懣もあって酒びたりの日々であったが、やがて基次郎の異母弟・網干順三の親子らも上京させ、別宅で養い始めた。そのため梶井家の家計は質屋に通うほど窮迫し、母・ヒサは内職に励み、高等小学校に通う姉・冨士までレース編みの内職で家計を支えた。祖母・スヱの肺結核も進行していた。この年の9月30日に末弟・良吉が生まれた。
1911年(明治44年)5月、再び父が転勤となり、一家は三重県志摩郡鳥羽町1726番地(現・鳥羽市鳥羽3丁目7番11)の広い社宅に転居した。社宅は漁船が行来する入江近くの高台にあり、日和山が見えた。安田系の鳥羽造船所(現・シンフォニア テクノロジー)の営業部長となった宗太郎は羽振りがよくなり、一家は東京から来た重役の家族として地域の人から敬われた。
漁師の子がみな草履の中、革靴を履いている基次郎は重役の坊ちゃんと呼ばれ、東京の頃と扱いが一変した。基次郎は姉と共に社宅の左隣の鳥羽尋常高等小学校に転入(姉は同校高等科)。兄・謙一は三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に入学して、宇治山田市(現・伊勢市)の寄宿舎生活となった。
基次郎は夏休みで帰省した兄や友だちと海で泳いでサザエを獲ったり、裏山の「おしゃぐりさん」(大山祇神社)や城跡を駆けめぐったりした。自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごし、最も幸福で充実した日々であった。鳥羽の海の景色は遺稿の断片「海」に描かれている。しかし、兄弟たちは祖母がしゃぶっていた飴玉を貰ってなめたりしたため、やがて5人が初期感染することになる。
この年、異母弟・順三の母親・磯村ふくが腎臓病で死去し、順三とその養祖母・きくが梶井一家と同居するようになった。翌1912年(明治45年)4月、基次郎は6年生に進級し級長に選ばれた。同月、大阪時代の江戸堀尋常小学校6年生一行150名が鳥羽に卒業記念旅行に来た。基次郎が彼らのいる旅館を訪れると、かつての同級生と先生らは歓迎し、人気者だった基次郎をたちまち取り囲んだ。
1913年(大正2年)3月、全甲の優秀な成績で小学校を卒業した基次郎は、4月に兄と同じ三重県立第四中学校へ入学し、宇治山田市一志町(現・伊勢市一志町)にある兄の下宿先に同居した。そこは兄の同級生・杉本郁之助の家で、茶人で郷土史家の杉木普斎宅であった。第四中学では、洋楽に造詣の深い音楽の先生に楽譜の読み方を習い、これが音楽愛好の基礎となった。6月5日、64歳の祖母・スヱが肺結核で死去し、祖父・秀吉は数か月前の2月に大阪で死去した。
9月、鳥羽と宇治山田間の鉄道が開通し、新学期から実家の鳥羽より兄と一緒に汽車通学した。この頃、2人は近所の旧城主の老人に剣道を習っていた。10月、第四中学の懸賞短文で「秋の曙」が3等に入選し、校友会誌『校友』に掲載された。同月中旬、父が大阪の安田鉄工所の書記として転勤し、一家は大阪市北区本庄西権現町1191番地(現・北区鶴野町1番地)に転居した。基次郎と兄は再び、宇治山田市一志町の下宿から通学するようになった。
1914年(大正3年)2月、一家は大阪市西区靭南通2丁目35番地(現・西区西本町1丁目8番21号)の借家に移転。4月、兄と共に名門の旧制大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)の学力検定試験(転入試験)を受けて合格し、基次郎は2年生に転入した。学校のある北野芝田町(現・芝田町2丁目)まで30分ほどの道のりを兄と一緒に徒歩通学した。
基次郎は水泳と音楽が好きな少年で、可愛げのある接し方で人気があったが、表面的には比較的大人しく目立たない生徒でもあった。翌1915年(大正4年)8月20日、身体の弱かった9歳の弟・芳雄が脊椎カリエスで死亡した。同月、日本はドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦。安田鉄工所は陸軍・海軍工廠の特別指定を受け、父の仕事は多忙となった。
1916年(大正5年)3月、基次郎は成績上位で3年を修了。異母弟・順三は高等小学校を終えると、北浜の株屋に奉公に出された。道義心の強い基次郎はこれに同情し、北野中学に退学届を出して中退。自分も筋向いのメリヤス問屋の丁稚となった(6月からは西道頓堀の岩橋繁男商店の住込み奉公に変わる)。4月に兄は大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)電気科に入学した。
順三は基次郎に気兼ねし長崎に移っていくが、不憫に思った父が順三を家に連れ戻した。この年、祖父・秀吉の遺した金1,000円を元手に、母は父に勧めて自宅を改装し玉突き屋「信濃クラブ」(信濃橋にちなんだ名称)を開業。店は繁盛した。
1917年(大正6年)2月、基次郎も奉公をやめて家に戻り、母の説得もあって4月から北野中学4年に復学。終生の友となる同級生の宇賀康、畠田敏夫、中出丑三らと親交を持つようになった。彼らの間では基次郎の綽号(渾名)は「熊」であった。またこの頃、同級で野球部の美少年・桐原真二(遊撃手)に惹かれて同性愛的思慕を持った。この年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術を重ねた。
1918年(大正7年)4月、5年生に進級した基次郎も、潜伏していた結核性の病で寝込むようになり、1学期は33日間も欠席した。その時に兄に差し出された森鷗外の『水沫集』(舞姫、うたかたの記、文づかひ、玉を懐いて罪あり、地震を収録)、邦訳『即興詩人』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品に変った。
同年6月頃から兄が兵庫県武庫郡魚埼町野寄(現・神戸市東灘区本山町野寄)の池田鹿三郎(父の取引先の運送会社の人物で友人)宅に書生として寄宿した。基次郎も時々そこに遊びに行き、池田家の神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)に通う保と二郎の兄弟と交流した。健康を取り戻した基次郎は、9月の新学期から平常どおりに通学した。兄が同級・橋田慶蔵から借りた夏目漱石の全集『漱石全集』を基次郎も読んだ。
1919年(大正8年)3月、基次郎は成績中位(席次115番中51番)で大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を卒業。兄も住友電線製造所(現・住友電気工業)に4月から入社が決まった。基次郎も兄と同じ電気エンジニアをめざし、第一志望として兄が卒業した大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)電気科を受験するが、不合格となった。
この頃、父の友人・池田鹿三郎の弟・竹三郎の娘(大阪信愛高等女学校4年生の美少女・池田艶)への恋が募り(初めて会ったのは艶が小学校5年、基次郎が中学2年の時)、彼女への想いを友人らに書き送ったり、兄の同級・橋田慶蔵に打ち明けたりした。この頃、手紙の中に夏目漱石の失恋の英詩を写し書きしたりした。
場所も遠く、学費のかかる第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)への受験を母に懇願し承諾を得た基次郎は、猛勉強に励むと同時にますます漱石に傾倒し、兄が買ってきた再版の漱石全集を手にとり『明暗』を夢中で読んでいた。5月に出した友人の手紙には、漱石の『三四郎』の影響から〈Strey sheep〉と署名し、6月には〈梶井漱石〉と署名した。
7月、基次郎は南禅寺の僧庵に泊って試験に挑み、第三高等学校の理科甲類(英語必修)に無事合格。中学同級の宇賀康、中出丑三、1年上の矢野繁も一緒に合格し、畠田敏夫は神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に進んだ。同月末から8月、兄と富士山登山をし、底倉温泉の「つたや」に1泊した。9月、『大阪毎日新聞』夕刊に連載中の菊池寛の「友と友の間」を愛読。通学のため京都府上京区二条川東大文字町160番(現・左京区二条川端東入ル上ル)の中村金七(祖母・スヱの親類で遠縁にあたる人物)方に下宿した。入学式の後、丸太町通の古書店を歩いた。
1919年(大正8年)9月、三高理科甲類に入学した基次郎は、同校に一緒に進んだ北野中学時代の友人ら(宇賀康、中出丑三、矢野繁)と交遊。彼らの下宿を廻った。矢野が持っていた蓄音機でクラシックレコードをかけてヴァイオリンを弾き、みんなで楽譜を片手にオペラを歌うなど楽しい時を過ごした。
基次郎の下宿は長屋で狭く、重病人の老人がいたため、10月からは寄宿舎北寮第5室に入った。部屋は1階が学習室、2階が寝室となっており、同室には室長でラグビー部の2年生・逸見重雄、文乙(ドイツ語必修)の中谷孝雄(三重県立一中出身)と、文丙(フランス語必修)の飯島正がいて、文丙の浅野晃もしばしば部屋にやって来た。東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)出身の飯島と浅野は同校で回覧雑誌『リラの花』を作っていた文芸仲間であった。
基次郎は中谷孝雄、飯島正、浅野晃の文学談義に耳を傾けていたが、難しくてついていけなかった。この頃、ロシア大歌劇団の来日公演があった。宇賀康は行ったが、券を買う金がない基次郎は仕方なく寮の中で『カルメン』や『ファウスト』を朗々と歌った。しかし11月頃から次第に憂鬱になり、授業に興味を失っていった基次郎は、学校をさぼって銀閣寺を散歩したり、美術展に行ったりする日々を過ごすようになった。
1920年(大正9年)1月に風邪を引いて実家に帰り、39度の高熱で寝込んだ。2月に寮に戻った基次郎は自己改造を決意した。哲学に興味を持ち、寮の友人たちと自己解放について徹夜で議論をした。宇賀や矢野とは雪の積もる東山を散策するなどした。映画マニアで映画雑誌に洋画評を書いていた飯島正の影響から、基次郎は谷崎潤一郎の『女人神聖』や、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』も読んだ。
また、飯島正や浅野晃を通じて、作曲趣味の文丙の小山田嘉一(東京高師附属中出身、陸軍少将小山田勘二の長男)とも親しくなり、音楽にもさらに本格的に傾倒していった。2月には、中谷孝雄が室長の逸見重雄と喧嘩をして寮を出ていき、ほどなくして飯島正も寮を出て、中谷と同じ下宿の向い部屋に移っていった。4月から寮を出た基次郎は、上京区浄土寺小山町小山(現・左京区浄土寺小山町)の赤井方に下宿し、実家から漱石全集を持って来た。漱石に心酔していた基次郎は漱石全集のどこに何が書いてあるかをほぼ暗記していた。
この頃も銀閣寺に行き、熊野若王子神社(哲学の道)を散策した。また、新京極や寺町に行き、「江戸カフェ」の女給・お初に惚れ、煙草を吸って酒もおぼえた。自分が女にもてない「怪異」な顔だということは諦めていたが、科学の才能がなく凡庸であることで天と親を恨んだ。基次郎は、実家の店で慣れていたせいか撞球が得意で素人離れした腕前だった。また日曜毎に宝塚少女歌劇団を観に行っていた。
この頃、中谷孝雄の下宿に行った折に、志賀直哉の短編集『夜の光』を薦められ、飯島正に「肺病になりたい。肺病にならんと、ええ文学はでけへんぞ」と三条大橋の上で叫んで胸を叩いたこともあった。谷崎潤一郎の影響からか、友人への手紙に、〈梶井潤二郎〉などと署名した。
1920年(大正9年)5月に発熱し、肋膜炎の診断を受けた基次郎は大阪の実家へ帰った。4か月の休学届を出し、6月は病床で小説を読み耽った。7月に落第が決定し、8月初旬から姉夫婦(共に小学校教諭)の住む三重県北牟婁郡船津村字上里(現・紀北町)で転地療養し、熊野にも行った。基次郎は、山里の素朴な自然の生活の中で自身の〈町人根性〉を反省したり、寮歌の作詞をしてみたりした。
9月に、馬車で行った尾鷲市の医者に肺尖カタルと診断され、1年休学するように言われたが、重い病状でなく、鮎獲りやメーテルリンクの『貧者の宝』を読んだりした後に実家に帰った。堂島の回生病院でも肺尖カタルと診断され、母からも学問を諦めるように通告された。納得できない基次郎は友人に〈気楽なことでもして、生活の安固をはかれ、といふ母はふんがいに堪えん〉と訴えた。
10月、基次郎は両親の説得で休学を一旦覚悟し、父と一緒に淡路島の岩屋や西宮の海岸の療養地へ下宿先を探しに行くが、両親と意見が合わずに学校に戻りたいと訴えた。11月から思いきって京都に戻った基次郎は、矢野潔の下宿に泊った後、寄宿舎に戻って復学し、日記を書き始めた。哲学者・西田幾多郎を道で見かけたのを機に、図書館で雑誌『藝文』掲載の西田の「マックス・クリンゲルの『絵画と線画』の中から」などを読んだ。
基次郎は、エンジニアや理科の先生になるという初心の目標に立ち返ろうと考え、北野中学時代からの同級の優等生との友情を優先し、文学をやれと勧めていた無頼派の悪友・中谷孝雄と距離を置くようになっていたが、この頃、中谷と街で偶然出くわし、奥村電機商会で働く平林英子を従妹だと紹介された(実際は恋人)。
夏目漱石の『文学論』、西田幾多郎の『善の研究』に関心を寄せ、ウィリアム・ジェームズの心理学に影響を受けたとみられる基次郎は、12月に、自分で自分自身を誇れるような人間になることを決意した。森鷗外が『青年』の中で漱石をエゴイストと批判していたことに憤慨したり、北野中学時代に惹かれた美少年・桐原真二の体に接吻する〈甘美〉な夢を見たことを日記に記したりした。
1921年(大正10年)1月、基次郎は「江戸カフェー」で同志社大学の猛者・渡辺と出くわし、喧嘩を売られる気がしてびくびくし、矢野繁を先に歩かせようと考えた自身の弱小と卑劣さを反省し草稿を書いた(のち習作「卑怯者」などになる)。3月、京都公会堂でエルマンのヴァイオリン演奏を聴いた基次郎は、公演終了後、車で立ち去ろうとするエルマンに駆け寄り、握手してもらい感涙した。
春休みは紀州湯崎温泉(現・白浜温泉)に湯治に行き、偶然再会した同級生・田中吉太郎に誘われ移動した旅館「有田屋」で、西欧絵画や芸術趣味の29歳の未亡人・多田はなと、その取り巻きの学生らと知り合った。基次郎は、その旅館の同じ二階にいた結核療養で休学中の京都帝国大学医学部の学生・近藤直人と特に親しくなった。
この4歳年上の近藤直人に基次郎は敬愛の念を持ち続け、生涯の友人となった。近藤への手紙で、自分を〈貧乏なディレッタント〉と称していた基次郎は、社会的な功利を低俗とみなし、精神の享楽を第一とするダンディズムの発露をみせ、〈偉大〉であることに憧れた。
4月、紀州湯崎温泉から和歌山県和歌山市の近藤直人の実家(医院を開業)に立ち寄り、大阪の実家に帰った基次郎は、父親が、家で経営していた玉突き屋の従業員・豊田(ゲーム係の娘)に手をつけて産ませた赤ん坊・八重子(異母妹)の存在を知り、衝撃を受けた。青年期の自己嫌悪や、俗悪への反発、憂鬱の悩みに、新たな苦悩が加わった。八重子は梶井家が引き取り、母・ヒサが育てて入籍することが決まっていた。
4月中旬、年学制の改革により2年に進級した基次郎は実家からの汽車通学となり、同じく実家通学で高槻駅から乗車する大宅壮一(弁論部)と車中で出会った。基次郎は汽車内で同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)英文科の女学生に一目惚れをし、エリザベス・バレット・ブラウニングやキーツの詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日、「読んでくださいましたか」と問い、「知りません!」と拒絶された。
この時期、中谷孝雄と平林英子が同棲を始めていた京都新一条(現・左京区吉田中達町)の下宿に基次郎は度々訪れ、英子に讃美歌を教えていたが、例の車内で失恋した経験を元にして書いた小説「中谷妙子に捧ぐ」を見せに行った。ちょうどそこに中谷と同級の大宅壮一も来て一読するが、ほとんど問題にされなかったために英子にあげた。その後英子はその原稿を紛失してしまい、基次郎の幻の処女作となった。講演会で活躍していた大宅は文学談義をしに、よく中谷の下宿に来ていた。
6月、再び学校に程近い、上京区吉田中大路町(現・左京区)に下宿。中谷孝雄の郷里の父親が息子の様子を見に来るため、平林英子は3日間ほど基次郎の下宿に身を隠した。中谷は父の手前、体裁を取り繕うために、基次郎所有の田邊元や西田幾多郎の哲学書を借りて自分の本棚に並べた。基次郎の本はそのまま中谷の本棚に置かれ、その後2人の遊蕩費のため質屋に流れた。
夏休みの7月下旬、基次郎は矢野繁と旅行に出た。東京の小山田嘉一と会った後、夜船で伊豆大島に渡り、藤森成吉(『若き日の悩み』を書いた作家)と同じ宿「三原館」に1週間ほど泊った。8月には阪神間の海水浴場・香櫨園に泳ぎに行くなど、基次郎は健康的になったようであった。9月から平林英子が中谷孝雄から離れて信州の郷里に帰ったため、基次郎は中谷と2人で夜飲み歩き(中谷は下戸で和菓子と茶を飲む)、たまに中谷の劇研究会の仲間の津守萬夫も伴った。
9月下旬、父・宗太郎が安田鉄工所を突如退職した。この前後の時期に、経営者の安田善次郎が暴漢の朝日平吾に刺殺された事件があった。宗太郎は退職金でさらに玉突き屋2軒を開店し、1軒の経営を異母弟・順三に任せた。しかし、父は再び別の従業員の若い女と浮気をし、店の経営状態も徐々に悪くなっていった。
1921年(大正10年)10月、賀川豊彦のキリスト教社会運動にうちこむ大宅壮一の態度に脅威を感じた基次郎は、〈天職といふものにぶつからない寂しさが堪らない〉と自身を嘆き、〈自分は大宅の様な男を見るとあせるのである〉と綴った。ある夜、中谷孝雄と津守萬夫と一緒に琵琶湖疎水にボートを浮べ、水際の路に上がって月見をしていると、ボートが下流に押し流され、基次郎は津守と一緒に水中に飛び込み食い止めた。その勢いで2人は競泳を始め、冷えた身体を街の酒場で温めた。
この時に泥酔した基次郎は、八坂神社前の電車道で大の字に寝て、「俺に童貞を捨てさせろ」と大声で叫んだため、中谷孝雄と津守萬夫は基次郎を遊廓に連れて行った。女が来ると基次郎はげろを吐いて女を困らせたが(いくらか故意にやっていたようだったという)、やがておとなしく部屋に入っていった。
支払いのためにウォルサムの銀時計を質に入れた基次郎は、「純粋なものが分らなくなった」「堕落した」と中谷に言った。それまで基次郎は中谷と平林英子の仲を2人の言う通り、ただの友人関係(従妹)と信じていたほど純真なところがあったという。
次第に基次郎の生活は荒れ、享楽的な日々を送るようになっていくが、中出丑三と議論し、今は天職が見出せなくても、〈土台〉を築けばいいという思いに至った。
11月、上京区北白川西町(現・左京区)の澤田三五郎方の下宿に移った。家賃が払えず下宿から逃亡することがしばしばだった。この頃、北野中学時代の友人で神戸にいる畠田敏夫が遊びに来た際に、他の友人らも交えて清滝の「桝屋(ますや)」に行った。酔っぱらった基次郎は、愛宕参りの兵庫県の団体客の部屋に裸で乱入して喧嘩となり、撲られ学帽を取られた(その後、店の主人・森田清次が取り返して戻った)。
この頃、「江戸カフェー」で、例の同志社大学の猛者・渡辺をうまく追っ払った文丙の北川冬彦(本名・田畔忠彦)を見て、基次郎は感激した。北川は柔道をやっていて、その場では文学談義にはならなかった。12月には、北野中学からの仲間への虚栄心から哲学書などを読んでいたことを基次郎は矢野繁や畠田敏夫に告白した。
1922年(大正11年)2月、基次郎は短歌20首を作って畠田敏夫に送った。また、〈創作に於る主観と表現〉の関係を模索し、〈主観の深さと表現の美しさ〉について考察したりした。3月、学期末試験の後、中谷孝雄と和歌山県に旅行した。追試を受けた基次郎は特別及第となり4月に3年に進級したが、中谷孝雄は落第した。
他の北野中学出身の理科の友人や、同年入学の文科の飯島正、浅野晃、大宅壮一、北川冬彦たちは全員卒業し、東京帝国大学へ進んでいった。基次郎と中谷は、三高の中で無頼の年長者として知られるようになっていく。
この頃、三高学内では金子銓太郎校長への反発から生徒間で校長の排斥運動が高まり、基次郎も「先輩大会」に参加。この運動には文甲の外村茂(のちの外村繁)や桑原武夫が活動していた。しかしその運動に深入りしなかった基次郎は〈詩のシンフォニー〉を目指し詩作を始めた。
絵画や音楽、舞台芸術の関心もさらに高まり、大阪の大丸百貨店での現代フランス美術展に行き、京都南座で上演された倉田百三作の『出家とその弟子』を観劇した。4月29日に三高に来校した英国皇太子(ウインザー公)が観戦する神戸外国人チームと三高のラグビー試合を基次郎も昂奮して楽しんだ。この頃、三条麩屋町西入ルにあった丸善書店で長い時間を過ごし、セザンヌ、アングル、ダビンチなどの西洋近代絵画の画集を立ち読みするのが基次郎の楽しみでもあった。
1922年(大正11年)5月、中谷孝雄と夜な夜な街を歩き、質屋で金を作って祇園乙部(祇園東)の遊廓に行ったりする日々の中、高浜虚子の『風流懺法』を好み、中谷から借りた佐藤春夫の『殉情詩集』、島崎藤村の『新生』を感心して読んだ。基次郎は酒びたりや享楽の生活を後悔し、〈自我を統一する事〉〈善の基準を定めよ〉〈目覚めよ、我魂!〉と自戒した。三高劇研究会へ入った基次郎は、ビラ配りなどに勤しみ、外村茂や北神正も入部してきた。
劇研究会では、フランス帰りの折竹錫教授を講師がジャック・コポーの話をし、会員らは日本の戯曲や西欧近代劇の台本読みをし、基次郎は女役を引受けることが多かった。『サロメ』や『鉄道のマリンカ』で女声をしぼり出すため口をつぼめる基次郎の姿はとてもユーモラスだったという。
津守萬夫が会から遠のくと、基次郎と中谷孝雄が中心となり活動していった。6月初旬、戯曲創作の真似ごとをした基次郎は、京都南座で公演中の澤田正二郎の楽屋を外村茂と訪問して講演を依頼し、心身の調子がすぐれないながらも三島章道の講演を聴いたりした。
7月、学期末試験が済んで琵琶湖周航の小旅行をした後、柳宗悦の講演を聴き、大阪の実家での静養中は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、志賀直哉の『暗夜行路』などを読んだ。この頃、戯曲草稿「河岸」に取り組んだと推定されている。8月には、和歌山の近藤直人の家に遊びに行き、近藤の妹婿や子供らと新和歌浦で海水浴をした。基次郎は7メートルほどの高い崖から板を使って飛び込み、海中の岩で鼻を怪我。その傷跡は一生残ることになった。
9月は授業をさぼって、文丙2年の浅見篤(浅見淵の弟)と新京極のカフェーで飲み歩き、遊廓にも行った。この頃、文丙2年の小林馨も劇研究会に入部した。基次郎は6月から9月にかけ、いくつかの草稿を日記に綴った。一個のレモンに慰められる心を歌った詩草稿「秘やかな楽しみ」(檸檬の歌)、「百合の歌」、戯曲草稿「攀じ登る男」、小説草稿「小さき良心」、断片「喧嘩」「鼠」、またニーチェの影響で、断片「永劫回帰」などをこの時期に書いた。
10月、三高文芸部主催の有島武郎と秋田雨雀の講演会を聴いた。信州の平林英子が宮崎県日向の「新しき村」に入るために京都に立ち寄るが、中谷孝雄とよりが戻り、基次郎と3人で嵐山に行って保津川のボート上で上田敏の『牧羊神』の「ちゃるめら」を朗読した。基次郎は微熱があるのに冷たい川で泳いだ。
この頃、基次郎は中谷孝雄への絵はがきに自殺をほのめかす言葉を書いた。基次郎と中谷は、「新しき村」京都支部会員の外山楢夫に依頼され、演劇公演会の宣伝を手伝い、京都に来た武者小路実篤に会いに行った。
11月1日に上京区岡崎(現・左京区)の公会堂で「新しき村」の公演会が上演され、この時に基次郎は北野中学時代の同級生・永見七郎と再会した。永見は『白樺』関連の雑誌『星の群』に詩などを書いていた。同日、三高の寮で臥せっていた友人・青木律が腸チフスで死亡。基次郎は親友がいないと言っていた青木を親身に見舞っていた。同月上旬、来日したピアニスト・ゴドフスキーの演奏会を中谷孝雄と聴きに行った。
この秋、基次郎は酒に酔っての乱行が度を越えることもしばしばとなり、焼き芋・甘栗屋の釜に牛肉を投げ込み、親爺に追い駆けられたり、中華そば屋の屋台をひっくり返したり、乱暴狼藉を起した。放蕩の借金で下宿代も滞り、夕飯も出されなくなった。取り立てに追われて友人の下宿を転々とした。清滝の「桝屋」で泉水に碁盤を放り投げ、自分も飛び込んで鯉を追っかけ、基次郎だけ店から出入り禁止となった。金魚を抱いて寝ていたこともあったという。
基次郎の荒れ方は劇研究会の仲間も引くほどで、中谷はこの頃の基次郎を、「いささか狂気じみて来た」と回想している。そんな基次郎が心を慰められていた檸檬は、寺町二条角の「八百卯」で買っていたものであった。草稿「裸像を盗む男」や「不幸(草稿1)」など書かれたのもこの時期と推定されている。「裸像を盗む男」は、他人から見た自分と、自分の見る自分との分裂が主題となっている。
12月、2度目の落第が確実となり、大阪に帰った基次郎は、退廃的生活を両親に告白して実家で謹慎生活を送ることにし、トルストイを読み耽った。北白川の下宿代は兄が支払いに行った。この頃、草稿「帰宅前後」「洗吉」「不幸(草稿2)」が書かれたと推定されている。同月に兄が結婚し、大阪市西区西島の北港住宅(のち此花区西島町北港住宅163番地の1)に所帯を持った。基次郎は年末、和歌山の近藤直人を訪ね、自画像のデッサンを持参して見せた。
1923年(大正12年)1月、基次郎は小説草稿「卑怯者」断片を書いた。体調の悪化する冬、宇賀康への手紙で前年秋の自身の蛮行を振り返り、〈記憶を再現する時に如実に感覚の上に再現出来ないこと〉が、過ちを繰り返す原因と分析し、〈人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達しえられない最も悲劇的なものは短命だと自分は思ふ〉、〈どうか寿命だけは生き延び度い 短命を考へるとみぢめになつてしまふ〉と語った。
2月、基次郎は、佐藤春夫の『都会の憂鬱』を読んで感銘し、自分の内面の〈惨ましく動乱する心〉を〈見物の心で、追求〉させる技術的方法を探り、本格的な創作への道を歩み出した。また山田耕筰の作品発表コンサートを聴きに行った。
この頃に草稿「彷徨」を書いたと推定されている。いずれ死に至る病を宿命として自覚していた基次郎は、その暗い意識を逆手にとって生きることで、美なるもの、純粋なものをつかみ取ろうとしていた。3月、畠田敏夫と六甲苦楽園で遊び、学期末試験を放棄して再び落第が決定した。
4月、2度目の3年生となり、上京区北白川の下宿に戻った。理科生でありながら、結核持ちの文学青年の基次郎は三高内で有名人となった。破れた学帽に釣鐘マントと下駄ばき、汚れた肩掛けのズックカバンで授業も出ずに、そこいらを歩きまわっている風貌も目を引き、「三高の主」「古狸」などと称される存在だった。同月、近藤直人は京都帝国大学医学部に復学した。劇研究会に文甲2年の浅沼喜実が入部した。
5月、上京区寺町荒神口下ル松蔭町(京都御所の東)の梶川方に下宿を移した(この下宿屋の老婆と30歳の女教師の娘のことが、習作「貧しい生活より」の題材となり、小説「ある心の風景」の舞台部屋となる)。この頃、母への贖罪のための草稿「母親」や、「矛盾のやうな真実」「奎吉」が書かれ、劇研究会の回覧雑誌『真素木(ましろき)』に、瀬山極(ポール・セザンヌをもじった筆名で「奎吉」を発表した。
また、三高校友会・嶽水会の文芸部理事になった外村茂に頼まれ、『嶽水会雑誌』に「矛盾の様な真実」を投稿した。2作とも、内面と外面との落差などを描いた小品であった。この校友会誌に作品を投稿したことのあった文甲1年生の武田麟太郎は、ある日グラウンドで基次郎から突然話しかけられ、「矛盾の様な真実」の感想を求められた後、同号はくだらない作品ばかりだったから、今度君がいいものをきっと書いてくれと丁寧に言われたという。
6月、近藤直人の下宿が左京区南禅寺草川町に変わり、基次郎は頻繁にここを訪ねた。雑誌『改造』に掲載された若山牧水の「みなかみ紀行」を読んで宇賀康に送った。宇賀は5月上旬に幽門閉塞で危篤となり、お茶の水の順天堂病院に入院し手術を受け、病院に駆けつけた基次郎はそこに留まって看病していた。その後基次郎は学期末試験に向けて勉強に励んだ。
7月、有島武郎が軽井沢の別荘で心中した事件を中谷孝雄から聞き、基次郎はしばらくショックで口もきけなくなり考え込んでしまった。同月、「矛盾の様な真実」掲載の『嶽水会雑誌』(第84号)に詩を発表していた文丙3年の丸山薫(東京高等商船学校卒業後に三高に入学したため当時24歳)に基次郎は話しかけて知り合った。四国小松島の三高水泳所に行ったこの頃、八坂神社石段の西北のカフェーを舞台にした草稿「カッフェー・ラーヴェン」が書かれたと推定される。
8月、軍の簡閲点呼を受けるため大阪に帰り、父・宗太郎と別府温泉へ旅行した。ビールを飲みながら、有島武郎の自殺事件について大激論となった。この頃には日向の「新しき村」の武者小路実篤の四角関係も新聞ネタになっていた。別府からの帰路は1人船で帰った基次郎は、トルストイの『戦争と平和』を耽読し、この船旅のことを草稿「瀬戸内海の夜」に書いた。
9月、劇研究会の公演準備(チェホフの『熊』、シングの『鋳掛屋の結婚』の演出担当、山本有三の『海彦山彦』)で、「多青座」を組織し、同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)の女学生2人(石田竹子と梅田アサ子)を加えて、万里小路新一条上ルに部屋を借りて稽古した。しかし、それが不謹慎だという噂が広まり、10月に校長・森外三郎より、関東大震災のあとの自粛という表向きの理由で公演中止命令が出された。
すでに衣裳も準備し前売り券も売っていたため、『日出新聞』に中止の広告を出して、公演当日10月17日には会場で払い戻し作業に追われた。後始末のための金は校長から100円を渡されたが、外村茂や基次郎は公演中止に激しく憤った。これがのち、〈恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ〉と5年後もなお尾を引いて綴られることになった。
基次郎は払い戻しを終えると、祇園神社の石段下の北側にあった「カフェ・レーヴン」で酒を飲んで暴れた。悔し涙で再び基次郎の泥酔の日々が始まり、外村茂や浅見篤、中谷孝雄も付き合った。カフェーには、関東大震災後に大杉栄が官憲に虐殺され(甘粕事件)、京都に逃げてきたアナーキストらが多く出入りしていたため、彼らもその空気に影響された。酔うと基次郎は外村茂を「豪商外村吉太郎商店の御曹司」と揶揄し、4人一緒に大声で「監獄をぶっこわせ」と高吟して夜の街を練り歩き、看板を壊して暴れ回った。
基次郎は、円山公園の湯どうふ屋で騒ぎ、巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた。また、当時京都で有名だった「兵隊竹」という無頼漢ヤクザとカフェーで喧嘩をし、左の頬をビール瓶でなぐられ、怪我をして失神した。その頬の傷痕は生涯残った。11月、北野中学時代からの友人・宇賀康、矢野潔、中出丑三の悪口を綴った葉書をわざと宇賀宛てに出したりした。この頃、「瀬山の話」第2稿を書いていた。
1924年(大正13年)1月、上京区岡崎西福ノ川町(現・左京区岡崎)の大西武二方に下宿を移し、卒業試験に備えた。浅見篤が訪ねると、原稿用紙が部屋中に散らばり、階下の便所に行かずに、ズックカバンの中に小便を溜めてぶら下げていたという。この頃、自分の鬱屈した内面を客観化して書こうとする傾向の草稿(習作「雪の日」「瀬山の話」「汽車――その他」や「過古」などに発展する)をいくつも試みていた。
2月、卒業試験終了後、基次郎は重病を装って人力車で教授宅を廻り、卒業を懇願した。3月、特別及第で卒業。結局5年がかりで三高を卒業した基次郎は、その足で夜汽車に乗って上京し、東京帝国大学文学部英文科に入学の手続きを済ませた(当時は倍率が低ければ無試験で入学可能であった)。同行した中谷孝雄と外村茂も、それぞれ独文科、経済学部経済学科を希望した。
3人は麻布市兵衛町の外村家別宅に泊り、同人雑誌を出すことを語り合い、銀座や神楽坂に繰り出した。中谷孝雄が先に帰郷した後も基次郎はそこに残り、中谷の三重県立一中時代の後輩の新進歌人・稲森宗太郎(早稲田大学国文科)を訪ねたり、すでに東京帝国大学工学部電気科3年になる宇賀康や、東京に帰省していた浅見篤と遊び、東大赤門前のカフェーで客と喧嘩し2階から転落したりした。
京都に戻った基次郎は下宿を引き払った後、三高劇研究会の後輩らと飲み、武田麟太郎に愛用のズックカバンと登山靴をあげた。大阪の実家に帰ると、東京での生活費は自分で稼ぐように通告された。
4月、雑誌『中央公論』に掲載された佐藤春夫の「『風流』論」を読み、自我を追究する近代小説よりも自然と一体化する瞬間の美を描くボードレールや松尾芭蕉の作品を賞揚する佐藤春夫の姿勢に共鳴した。この頃、トルストイの『アンナ・カレーニナ』や若山牧水の『山櫻の歌』も読んだ。
上京した基次郎は数日間、本郷区追分町の矢野潔の下宿に泊った後、本郷区本郷3丁目18番地(現・文京区本郷2丁目39番13号)の蓋平館支店に下宿を決めた。前年の関東大震災で東大の赤レンガも壊れたままのところもあったが、下宿先の町は被害が少ない地域であった。三高の入学式の檀上では、卒業試験後の人力車の挿話を伝え聞いていた森校長が、卒業生の基次郎のことを、病気を親に隠し猛勉強した親孝行者として新入生に紹介した。
先に帝大文学部に進んでいた飯島正、大宅壮一、浅野晃が第七次『新思潮』創刊を計画していたことに刺激された基次郎と中谷孝雄、外村茂は、自分たちも同人誌を作ろうと具体的計画を練り、5月に、三高出身の小林馨(仏文科)と忽那吉之助(独文科)や、稲森宗太郎(早大)を仲間に加えて、誌名の仮称を三高時代によく通った「カフェ・レーヴン」から「鴉」とした。これはエドガー・アラン・ポーの詩に「大鴉」があったことも由来する。だが基次郎はこの「鴉」という名称に不満を持っていた。
6人は5月初旬に、本郷4丁目の食料品店「青木堂」の2階にある喫茶店で第1回同人会を開き、創刊を秋にすることして具体的な日取りを進めた。6月に大宅壮一らの第七次『新思潮』が創刊され、巷の文学青年たちの間で同人誌を創刊する気運が高まっていた。この頃、基次郎は草稿「夕凪橋の狸」「貧しい生活より」を書いたと推定されている。月末、異母妹・八重子の危篤の報を受け、基次郎は大阪の実家へ駆けつけた。基次郎はこの幼い異母妹をとても可愛がっていた。
1924年(大正13年)7月2日、3歳の八重子は家族全員の看病の甲斐なく結核性脳膜炎で急逝した。貧乏で死なせてしまったことを不憫に思ったのか、父・宗太郎は悲しみ酔いつぶれた夢の中でも「南無妙法蓮華経」を唱えて、指の先で畳を擦っていた。落胆や様々な思いが基次郎の胸に去来し、計画していた5幕物の戯曲「浦島太郎」の執筆を断念し、短編小説を書く決意をした。
初七日が済み、若山牧水の『みなかみ紀行』を買って夜の街を散歩した基次郎は、〈綴りの間違つた看板の様な都会の美〉や〈華やかな孤独〉を感じ、〈神経衰弱に非ざればある種の美が把めないと思つてゐる〉として、それを書くためには〈精力〉が必要だという心境を友人らに宛て綴った。
この頃、よく血痰を吐いていた基次郎は、不安定で敏感な感覚の精神状態の中にいたが、その自意識の過剰の惹き起こす苛立ちや、日常の認識から解放された地点で、感覚そのものを見つめ、五感を総動員して「秘かな美」を探ることに次第に意識的になっていった。
また近藤直人と新京極を散歩中に見た蛸薬師の絵馬から、〈表立つた人々には玩賞されないが市井の人や子供に玩賞せられるこの様な派の存在〉に気づかされた。中之島図書館に帝大の角帽を被って行く〈学生時代の特権意識〉と〈軽いロマンティシイズム〉を感じて、〈一面恥かしく、一面軽く許す気〉にもなった。この頃、草稿「犬を売る男」が書かれたと推定されている。
8月、姉夫婦の宮田一家が住む三重県飯南郡松阪町殿町1360番地(現・松阪市殿町)へ養生を兼ねて、母と末弟・良吉を連れて滞在した。基次郎は都会に倦んだ神経を休め、異母妹の死を静かな気持で考えた。母と末弟が先に帰った後も、松阪城跡を歩き、風景のスケッチや草稿ノートを書き留めた。これがのちの「城のある町にて」の素材となる。
9月初旬に京都に行った基次郎は、加茂の河原の風景の中で心を解放し、言葉で風景をスケッチした後、東京の下宿に戻って同人雑誌の創刊のため喫茶店の広告取りをし、掲載する作品創作にも勤しんだ。この頃、初恋の思い出の草稿を宇野浩二の『蔵の中』に影響された饒舌体で書き、草稿「犬を売る男」や「病気」を原稿用紙にまとめ直そうとしていたと推定されている。
この時期、大阪の実家は玉突き屋を閉店し、大阪府東成郡天王寺村大字阿倍野99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に引っ越した。そこで母・ヒサは、羽織の紐などの小物や駄菓子を売る小間物屋を開店した。
1924年(大正13年)10月上旬、本郷菊坂下の中谷孝雄の下宿に集まった基次郎ら同人6人は雑誌の正式名称を何にするか相談した。基次郎は「薊」(あざみ)という名がいいと主張したが、水を揚げない花だと反対する者があり廃案となった。中谷と同棲を再開していた平林英子が、武者小路実篤の詩に「さわぐものはさわげ、俺は青空」というのがあると窓辺で中谷に囁いた。
中谷が快晴の空を見上げながら「青空はいいな」と叫び、即座に基次郎が賛同して「青空」に決定した。中谷と吉祥寺に行って十三夜の月見をした基次郎は、作家として生計を立てる決意を告げたという。
以前から基次郎は、京都での自分の鬱屈した内面を客観化しようとした「瀬山の話」を書き進めていたが完成に至らずに習作どまりで断念していた。その中の「瀬山ナレーション」の断章挿話「檸檬」(一個のレモンと出会ったときのよろこびと、レモンを爆弾に見立て、自分を圧迫する現実を破砕してしまおうという感覚を描いたもの)を独立した作品に仕立て直して、創刊号に発表することにした。
同人らは『青空』創刊号に掲載する原稿を10月末に持ち寄り、帝大前の郁文堂書店に発売を依頼するが印刷代が高額だったため、そこでの印刷は断念し、稲森宗太郎の友人・寺崎浩の父親が岐阜刑務所の所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらうことになった。外村茂と忽那吉之助が帰郷ついでに刑務所に原稿を渡した後、校正などの事務連絡に手間取り、創刊発行は新年になることになった。
11月、中谷夫妻が江戸川区に転居したため、基次郎の下宿が同人の集合する場所になった。この頃、基次郎は武蔵野を散策して、国木田独歩の『武蔵野』のような作品を書きたいと考えていた。フランスと日本の20世紀絵画(林武、黒田清輝)への関心が強まった基次郎は、〈前からもさうでしたが、自分個人的なそしてその場その場の感興に身を委せるといふ様なことに無意識的に移つて来たやうに思ひます〉と近藤直人に書き送り、同人誌創刊号に載せる小説について語った。
12月、宇賀康の家の紹介で、郊外の荏原郡目黒町字中目黒859番地(現・目黒区目黒3丁目4番2号)の八十川方に下宿先を変えた。この家は偶然にも母の若い頃の友人宅であった。27日には、印刷された『青空』300部を受け取りに、中谷、外村と3人で岐阜刑務所作業部に出向いた。
半数を外村茂の実家に送付し、残りを携えて京都に行き、販売協力のため円山公園にある料亭「あけぼの」で待つ劇研究会後輩の浅沼喜実、北神正、新加入の淀野隆三(文甲3年。伏見の鉄商の息子)、龍村謙(文乙2年。西陣織の染織研究・龍村平蔵の長男)に渡した。その夜、基次郎と外村は後輩らと、伏見過書町の淀野隆三の実家に泊り、翌日は先輩の山本修二の家(京都寺町丸太町)に行った。
1925年(大正14年)1月、小説「檸檬」を掲載した同人誌『青空』創刊号が販売されたが、評判にならなかった。雑誌を文壇作家に寄贈しなかったためと思われたが、それは基次郎が「彼らは書店で(30銭を払って)買って読む義務がある」と主張したからだった。先月半ばから取りかかっていた次号作の執筆に取り組む基次郎は下宿の部屋から出なかったので、仲間から「目黒の不動さん」と呼ばれた。
同人間の合評で「檸檬」の評判はあまり好くなかったが、第三高等学校時代の音楽仲間で帝大法学部フランス法の小山田嘉一は、同科で三高出身の北川冬彦に「これはすごいんだ」と推奨していた。稲森宗太郎は健康上の理由もあり、短歌に専念するために創刊号のみで同人を抜けた。
1925年(大正14年)1月末、大雪が止んだ後、床屋に行き散髪するが釜が割れてよく濯いでもらえず、基次郎は石鹸の泡をつけたまま歩いて古書店を回った。銀座でフランスパンを買うが、その散歩中に神経衰弱のような気分で苛立ち、有楽町のプラットホームからガード下の通りに向って小便をかけた(この日のことはのちに「泥濘」に書かれる)。
1925年(大正14年)2月、同人の集会(3号の原稿持ち寄り会)で、印刷の誤植の多い岐阜刑務所作業部から、高額でも東京麻布区六本木町の印刷所・秀巧舎に変更することに決定した。中旬には、「城のある町にて」を掲載した『青空』第2号が発行されたが、この小説もほとんど評価されなかった。基次郎は第3号には作品を投稿せず、稲森宗太郎の代わりに入れた千賀太郎は第3号のみで抜けた。
3月中旬、帝大文学部仏文科に進学する淀野隆三と、法学部に進む浅沼喜実(のちに筆名・湖山貢)が上京し、『青空』同人に加入することになった。基次郎は淀野を通じて、陸軍士官学校中退後に三高に入った1歳上の三好達治と知り合った。春休みも小説創作が進まず苦労していた基次郎は、先月から、「瀬山の話」を元に「雪の日」か「汽車その他――瀬山の話」をまとめ直そうとしていたと推定されている。
4月、麹町区富士見町(現・千代田区)の小山田嘉一(帝大卒業後、住友銀行東京支店に就職)の家で、「檸檬」を褒めていた北川冬彦と再会した。北川は法学部から文学部仏文科に再入学して父親から勘当されたが、詩誌『亜』の同人で、前年の1924年(大正13年)1月に詩集『三半規管喪失』を刊行し、横光利一に認められる詩人となっていた。基次郎は北川を『青空』に誘うが、同人にはまだ加入しなかった。この月、実家の地番が市域に編入されて、住吉区阿倍野町99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に変わった。
5月、銀座で絵画展覧会を観たり、「カフェー・ライオン」でビフテキを食べるなど贅沢をするが倦怠感は晴れず、島崎藤村の『春を待ちつゝ』を読み、机の位置を変えたりした。この頃、「泥濘」執筆に取りかかったと推定されている。月末に麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の堀口庄之助方に下宿を変えた。家主の堀口庄之助は石積みの名人と言われた植木職人で目黒区祐天寺に居て、植木職を継いだ養子・繁蔵と津子の若夫婦が階下に住んでいた。
1925年(大正14年)6月、淀野隆三の意見を聞き入れ、著名作家に『青空』第4号を寄贈することになり、基次郎も宛名書きや喫茶店への広告ビラ書きを手伝った。この頃、淀野や外村と観にいった日仏展覧会でアントワーヌ・ブールデルの彫刻に感心した。7月、「泥濘」を掲載した『青空』第5号を発行した。実家の小間物屋は店を半分に分け、エンジニアの兄・謙一の技術指導を受けた弟・勇がラジオ店を開業した。この前年に大阪のラジオ放送局JOBKが開局していた。
8月の夏休みは、外村茂と一緒に淀野の実家を訪ね、宇治川で舟遊びをし、京都博物館に行った。同月には、神経痛の父を松山の道後温泉へ送った後に船で大阪に戻った。この頃「路上」に取りかかり、下旬に宇賀康と一緒に和歌山の近藤直人も訪ねた。9月中旬に上京する途中に、近藤直人と比叡山や琵琶湖に行き、松尾芭蕉の『奥の細道』について語った。
10月、「路上」を掲載した『青空』第8号を発行し、この号から部数を300から500部にした。この月、基次郎はなけなしの金をはたいて、帝国ホテルで開かれたジル・マルシェックスのピアノ演奏会に6日間通い、瞑想的な気分に浸り感動を味わった(これがのち「器楽的幻想」の題材となる)。同月下旬は、千葉県の陸軍鉄道部に入隊する中出丑三を、矢野繁と一緒に送っていった。
11月、「橡の花」を掲載した『青空』第9号を発行した。北神正(法学部。筆名は金子勝正)と清水芳夫(画家・清水蓼作。淀野隆三の友人)が同人参加するが、北神は第10号だけで抜けた。12月、伏見公会堂と大津の公会堂で『青空』文芸講演会が開かれ、基次郎は大津で「過古」を朗読し、余興として歌も歌った。聴衆は7名(内2人は『真昼』同人)だった。
1926年(大正15年)1月、「過古」を掲載した『青空』第11号を発行。2月、「雑記・講演会其他」を掲載した『青空』第12号を発行した。この号から、基次郎が誘った飯島正が同人参加した。3月中旬、帝大仏文科に入学が決まった後輩の武田麟太郎が上京したため、三好達治と3人で銀座に行くが、飲み屋「プランタン」で明治大学の不良と大喧嘩となり、武田が築地警察署の留置場に入れられた。
4月中旬、基次郎は外村茂と共に飯倉片町の島崎藤村宅を訪問し、5月発売の同人誌『青空』第15号を直接献呈した。「雪後」と「青空同人印象記」を掲載した6月の『青空』第16号から同人に三好達治が参加した。「雪後」は友人・矢野繁をモデルにした小説である。
7月、「川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン」を掲載した『青空』第17号を発行。北神正が同人に復帰した。この号を購入した東京商科大学予科生の田中西二郎(のち中央公論社入社)は基次郎の川端論を読んで感心していた。『青空』は経営難のため、三高劇研究会の同人誌『真昼』との合同が模索されたが、この計画は実現しなかった。
8月、「ある心の風景」を掲載した『青空』第18号を発行した。炎天下、基次郎は微熱が続く中、配本に神楽坂や四谷を歩き回ったり、銀座松屋の広告を取ったりした。中旬、基次郎は激しい疲労で病状が進み血痰を見た。麻布の医者から「右肺尖に水泡音、左右肺尖に病竈あり」と診断された。そして大手出版社の雑誌『新潮』の編集者・楢崎勤から10月新人特集号への執筆依頼を受け、この猛暑の夏、大阪で執筆に取り組むが、書けずに終り、9月に新潮社に詫びに行った(この時に未完の作品が、のち「ある崖上の感情」となる)。
しかしその3日後に、書簡体小説「Kの昇天」を書き上げ、10月、「Kの昇天――或はKの溺死」を『青空』第20号に発表した。この頃、結核の進行にあせっていた基次郎は、毎晩寝床で「お前は天才だぞ」と3度繰り返し自分に暗示をかけていた。月末に三好達治が基次郎からの強い誘いで、飯倉片町の下宿の隣室に入った。心境小説こそが小説の進むべき方向と考えていた基次郎は、三好に志賀直哉の『雨蛙』を勧め、三好から萩原朔太郎の詩を教えられた。2人は松尾芭蕉七部集を注釈書で勉強した。
1926年(大正15年)11月、「『新潮』十月新人号小説評」を掲載した『青空』第21号を発行した。同人に北川冬彦、浅見篤、龍村謙(美術史学科)、英文科で八高出身の阿部知二と古澤安二郎が参加することになり、本郷4丁目の「青木堂」2階で顔合わせ会を開いた。彼らは22号から同人になった。
基次郎は夏からの無理が重なっていて、喀血がひどくなり、「君は一日も早く、君の文筆で生計を立てるより外はない、卒業証書を貰つたつて仕方がないではないか」という三好達治の勧めもあり伊豆で日光療養しようかと考えた。
自分の進学のために苦労した親への申し訳なさから悩んだが、卒業論文提出を断念した基次郎は、昭和と元号が改まった12月の暮、品川駅を発ち、衰弱した身を癒すため伊豆に行った。現地の人から暖かな西伊豆を勧められたが、吉奈で気が変り、基次郎は2歳年上の作家・川端康成のいる湯ヶ島温泉に向った。
宇賀康らが以前宿泊したという「落合楼」に入るが長逗留は断われ、「湯本館」に滞在中の川端を訪ねてみた。『青空』を寄贈されていた川端は、飯島正や北川冬彦の名を知っていた。川端は基次郎と会話中、ちょうど部屋に遊びに来た板前・大川久一に相談し、狩野川の支流・猫越川の崖沿いの宿「湯川屋」を基次郎に紹介した。
1927年(昭和2年)元旦、「落合楼」を出た基次郎は「湯川屋」に移り、宿代も一泊4円のところ、3食付きで半額の2円にしてもらった。川端の宿へそのことを報告に行き、雑誌『文藝戦線』や『辻馬車』の話を聞いていると、岸田国士がやって来たので辞去した。
基次郎はこの地で、これまで書いてきた感覚的な世界を、さらに比喩や象徴を多用し悲しみの詩的世界にした「冬の日」(前篇・後篇)を3月まで執筆した。その間、川端の宿へ通って囲碁を教わり、川端の『伊豆の踊子』の刊行の校正を手伝った。
2月、「冬の日」(前篇)を掲載した『青空』第24号が発行された。この作品は同人に好評で、三好達治はいきなり室生犀星に送り、犀星が褒めた。基次郎は同人たちの思想上の違いを、〈ポルシェビスト〉対〈アナーキスト〉と喩え、自身の立場を〈資本主義的芸術の先端リヤリスチック シンボリズムの刃渡りをやります〉とした。3月から松村一雄(国文科。八高出身)が同人に参加した。川端が散歩の途中に、『伊豆の踊子』の装幀者の吉田謙吉や、『辻馬車』同人の小野勇、藤沢桓夫を連れて「湯川屋」に遊びに来たこともあった。
4月、「冬の日」(後篇)を掲載した『青空』第26号が発行された。この号で小林馨と清水芳夫が抜けた。川端康成は横光利一の結婚式出席を機に湯ヶ島を離れたが基次郎はまだ残った。その後、血痰が続いて長く歩くと高熱が出て、東京に帰れない思いで苦しんだ。この月、『辻馬車』掲載の中野重治の評論に感心した。5月、『青空』27号で浅見篤と忽那吉之助が抜け、三高出身の青木義久(京都府立医大)が加入した。「湯本館」にアナーキストの新居格が宿泊し、藤沢桓夫と一緒に「湯川屋」の基次郎を訪ねてきた。
6月、『青空』28号が発行されたが、この月から北川冬彦、三好達治、淀野隆三が脱退を決めた。同人会で雑誌の終刊が決定され、この号が最後となった。阿部知二、古澤安二郎らが新たに同人誌『糧道時代』を紀伊国屋書店から発刊する計画をし、基次郎も手紙で知らされたが、またいつか『青空』を再興することを考えていた基次郎は誘いを辞退した。
1927年(昭和2年)6月頃、川端康成の勧めで湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎、広津和郎、尾崎士郎、宇野千代、下店静市らと面識を持ち、共に過ごした。7月は、淀野隆三も卒業論文を書くため滞在するようになった。同24日、芥川龍之介の自殺が報じられ、湯ヶ島にも衝撃が走った。
8月、三好達治も卒論執筆のため湯ヶ島に来て、丸山薫も来湯すると、宇野千代や萩原朔太郎も交えて句会が開かれた。三好と基次郎は千代に惹かれた。
9月、尾崎士郎が『新潮』に湯ヶ島を舞台にした「『鶺鴒の巣』そのほか」を載せたが、「鶺鴒の巣」には基次郎が「瀬川君」として登場し、尾崎と千代との夫婦の倦怠を描いた1篇「河鹿」には、梶井が尾崎に教えたと思われる河鹿の交尾の場面が書かれた。基次郎は一旦上京した折に、中谷孝雄と共に東京府荏原郡の馬込文士村にいる尾崎を訪ねて文学談義で意気投合して話し込み、大森駅近くで鰻をおごられた。
10月、京都帝大医学部付属病院の医者に来春まで静養するように診断された後、大阪の実家に立ち寄り、両親の老いを感じて湯ヶ島での創作活動を決意し伊豆に戻った。
10月下旬に川端康成の遠い親戚にあたる北野中学時代の同級生・小西善次郎が『伊豆の踊子』を手に天城越えをするため湯ヶ島に来て、基次郎を訪ねた。11月、天城トンネルを越えて湯ヶ野温泉まで歩いて一泊し、下田港まで回って「湯川屋」に戻ったが、身体を痛めて数日間寝込んだ。
この頃、炭問屋、杉山の屋敷で義太夫の会を聴き、この音と動作の印象が2年前に聴いたジル・マルシェックスのピアノ演奏を呼び起こし、「器楽的幻想」の題材となる。また湯ヶ島を回った大神楽の獅子舞を見て、獅子の仮面が生きているような錯覚を感じた。12月、「『亜』の回想」が詩誌『亜』終刊号に掲載された。『糧道時代』発行計画が同人『文藝都市』となり、浅見淵から誘われ、基次郎は躊躇しながら消極的に参加した。
1928年(昭和3年)1月、再びやって来た小西善次郎と一緒に、熱海の貸別荘に住んでいる川端康成を訪ねて数日泊った。その後、馬込文士村の萩原朔太郎を訪ね。尾崎士郎宅の宇野千代に会いに行った基次郎は、その夜に詩人・衣巻省三の家で開かれたダンス・パーティーに一緒に参加した。千代との恋の噂などをめぐって基次郎と尾崎の間に鬱屈していた「気質の上に絡み合ふ処理できない感情」が爆発する一悶着があった。
基次郎が最初に、「よお、マルクスボーイ」、「おい、尾崎士郎。浪花節みたいな小説書くのん、止めろ」と尾崎を呼んだことが喧嘩の口火だった。尾崎は浪花節的人物であったが、左翼がかったことも口にしていたので、「軽薄な奴」という含意があった。「何をこの小僧」と尾崎が怒り、「足袋をぬげ」と喧嘩の体勢になった。2人は殴り合いの寸前となったが、三井勝人の仲裁により何とか事が収まった。その夜、基次郎は萩原朔太郎の家で一晩中、喀血をした。
湯ヶ島に戻った基次郎は、淀野隆三や清水芳夫、三好達治と過ごした。誕生日の2月17日には、熱海の川端の元を訪れ下旬まで過ごした。ボードレールの『パリの憂鬱』を座右の書としていた基次郎は、前年12月頃に英訳の一部をノートに筆写していたが、そのボードレールに影響され、清澄なニヒリズムを描いた「蒼穹」を3月の『文藝都市』第2号に発表した。
3月中旬頃、再び来湯した藤沢桓夫とバスで下田まで行き、黙って下賀茂に2、3泊したため、宇野千代や「湯川屋」の人たちを心配させ、村中が大騒ぎになった。この時期、千代は湯ヶ島に来て、しばしば基次郎の宿を訪れていた。この3月をもって、授業料未払いで東京帝国大学文学部英文科から除籍された基次郎だが、卒業したとしても、結核の身では就職の当てもなかった。
4月、「筧の話」を北原白秋主宰の雑誌『近代風景』に発表。4月下旬、実家からの送金も絶たれ、宿の借金もあり湯ヶ島を去ることを決意した。
1928年(昭和3年)5月、「器楽的幻覚」を『近代風景』に発表し、雑誌『創作月刊』創刊号には、自分の心の二つの相剋する働きを構造的にとらえた「冬の蠅」を発表した。この作品を阿部知二が『文藝都市』の合評欄で推奨した。
5月上旬、留守の間に北川冬彦に貸していた麻布区飯倉片町の下宿に戻った基次郎は、1階を間借りして「ある崖上の感情」を書いた。この時、北川の部屋には春から上京した伊藤整(東京商科大学)もいて、基次郎から「櫻の樹の下には」の話を聞いた。伊藤は下旬に父親の病気で郷里の北海道に帰ったため、基次郎はまた2階に移った。
基次郎は深川区のスラム街に住みたいと考えて見に行くが、結核の身には酷な場所だと考えて諦めた。同月には、広津和郎の紹介で日本橋で開業している口碑伝承的な漢方医に注射をしてもらった。この頃すでにレントゲンに写った基次郎の左の肺には卵大ほどの穴が開いていた。
7月、実験的な心理小説「ある崖上の感情」を『文藝都市』に発表し、舟橋聖一に激賞された。同人『文藝都市』の批評欄に載せる小説評を依頼され、プロレタリア文学系の雑誌『戦旗』と『文藝戦線』掲載小説の批評を引受けた。基次郎はこの時期、下宿の食事代も払えなくなり、東京府豊多摩郡和田堀町堀ノ内(現・杉並区堀ノ内)の中谷孝雄の借家に身を寄せた。
8月、「『戦旗』『文藝戦線』七月号創作評」において、基次郎はプロレタリア文学の観念性を批判したが、窪川稲子(佐多稲子)や岩藤雪夫は好評した。また、『創作月刊』に掲載の牧野信一の「小川の流れ」にしきりに感心した。中旬に病状が重くなり、淀野隆三からそのことを伝え聞いた川端康成・秀子夫妻が心配して見舞いにきた。
基次郎は毎日のように血痰を吐き、しばしば呼吸困難に陥り歩けなくなるほど体の衰弱が甚だしくなってきた。身体を心配する友人たちの強い説得もあり、9月3日に大阪市住吉区阿倍野町の実家へ帰ることになった。1年ほど静養して再び飯倉片町の下宿に戻るつもりで手荷物以外はそのままにし、基次郎は東京駅で中谷孝雄、淀野隆三、飯島正、北川冬彦に見送られた。これが基次郎の見た最後の東京だった。
ラジオ店をしていた弟・勇が徴兵検査で甲種合格して入営することが決まり、今後の一家の家計の心配があったが、相変わらず基次郎は贅沢を好んだ。実家でも昼は1人だけビフテキやカツレツなどの肉食を食べ、バターは小岩井農場のものにこだわった。12月、北川冬彦の要望で、「櫻の樹の下には」が詩の季刊誌『詩と詩論』に発表され、「器楽的幻覚」も同誌に再掲載された。
1929年(昭和4年)1月、馬込文士村での基次郎との一悶着に触れた尾崎士郎の「悲劇を探す男」が『中央公論』に掲載された。4日未明、59歳の父・宗太郎が心臓麻痺で急逝した。退職金が底をついたことを、前年の暮にヒサから聞いた宗太郎はがっかりし、正月からずっと酒を飲み続けていた。基次郎はこれまでの自分の贅沢(朝食にはパン、バターは小岩井農場製、紅茶はリプトンのグリーン缶、昼食は肉食やまぐろの刺身)による両親への経済的負担を反省し、〈道徳的な呵責〉を痛感した。
同月、中谷孝雄は徴兵猶予が切れて福知山歩兵第20連隊の入営が決まり、基次郎の弟・勇は広島電信隊第7中隊に入営した。ラジオ店の経営は兄・謙一が会社帰りに週に2、3回立ち寄って何とか賄った。この頃から、基次郎は近所の人々の実生活を意識的に見るようになった。
基次郎は新しい社会観の勉強に取り組みはじめ、マルクス『資本論』などの経済学の本を読み、3月、中之島公会堂で行われた河上肇の演説会「同志山本宣治の死の階級的意識」を聴き厳粛な気持になった。後輩で『青空』同人だった浅沼喜実は共産党員となっていたが、この頃に新潟県で逮捕された。4月、三高の後輩で『真昼』同人の土井逸雄の赤ん坊が亡くなり慰めた。
4月中旬、弟・勇が肺尖カタルとの診断により現役免除で帰宅した。基次郎はずいぶん心配したが、実は勇が一家の大黒柱であるという住吉警察署の請願書が認められての取り計らいであった。下旬には、『青空』同人の龍村謙(実家が西陣織)がゴブラン織研究のためにフランスに渡ることになり、神戸港まで見送りに行った基次郎は、「榛名丸」の甲板上で「行きたいなあ」と何度もつぶやき、「僕の代わり見て来てくれ」と泣いた。
7月、弟たちや近所の娘たち(永山家の姉妹の豊子と光子)と浜寺海岸に海水浴によく行った基次郎は、健康のために日焼けをし、帰省していた淀野隆三や武田麟太郎とも会った。8月に町名が住吉区王子町2丁目44番地に変更された。
この頃、基次郎は親しい川端夫人への手紙に、〈小さい町の人達がどんな風に結核にやられてゆくかをいくつも見聞いたしました〉と綴り、命を奪われてゆく貧しい人々のために「プロレタリア結核研究所」が必要だと熱い思いをめぐらした。9月、『新潮』の文藝月評で川端康成が基次郎の作品に触れた。
10月下旬、京都にやって来た宇野千代から連絡を受け、基次郎はすぐに会いに行った。千代の妹・かつ子も伴って京大病院の近藤直人を訪ねるが留守のため、四条通りを散歩し、後日また大阪で千代と2人で会った。
北川冬彦から詩集『戦争』(10月刊行)を送られ、基次郎はその評論を書き、堀辰雄、川端康成と横光利一が参加している雑誌『文學』11月号に発表した。11月、基次郎は体調が思わしくない中、除隊を控えた中谷孝雄のいる福知山歩兵第20連隊に面会に行って一泊するが、帰りの駅の階段で汽車の煤煙を吸い込み呼吸困難となり、数日間寝込んだ。
12月、東京から兵庫県芦屋市に転居した宇野千代が神戸に引っ越したため、基次郎はまた会いに行った。千代が初めて新聞小説を連載することを聞き、基次郎はその題名に「罌粟はなぜ紅い」と付けてやった。神戸に一泊して実家に戻った基次郎は、「のんきな患者」に取りかかり、眠れないほど執筆が進んだ。中旬、淀野隆三の家に清水芳夫と泊ったが、帰りのタクシーで呼吸困難となり、1週間ほど寝込んだ。
1930年(昭和5年)正月、肺炎で2週間寝込み、父の一周忌も参加できなかった。しかし蘆花全集の広告文に書かれていた「未だ世に知られざる作家がその焦燥と苦悶の中に書いたものほど人の心を動かすものはない」という一文をなにげなく読んて奮起した基次郎は、自分のことを言っているように思えて襟を正し、病床でゴーリキーの『アルタモノフの一家の事業』や、ヒルファーディングの『金融資本論』などを盛んに読み、前年暮にもレマルクの『西部戦線異状なし』を読了していた。
基次郎は、父が持っていた『安田善次郎伝』に触発され、客観的な社会的小説を書きたいと思うようになるが、それは流行のプロレタリア文学のようなものでも新感覚派でもなく、人々の生活の実態をとらえたものでなければならないという意気込みを見せ、〈「根の深いもの」が今の文壇には欠けている〉と中谷に書き送った。この時期、ディケンズ、メリメ、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を何度も読んだ。
2月、貴司山治の『忍術武勇伝』に好感を持ち、後輩の武田麟太郎の『ある除夜』に刺激されて井原西鶴を読み始めた基次郎は、自分が〈小説の本領〉に近づきかけていると感じた。母・ヒサが肺炎になり、大阪赤十字病院に一時入院すると、基次郎はほぼ毎日病院に通い看病し、下旬から3月初旬に自分自身も発熱や呼吸困難で寝込んだ。3月中旬に母が再び腎臓炎で入院。姉を呼んで自分もタクシーで母の看護に通い、病院から「闇の絵巻」「のんきな患者」の構想を北川冬彦に手紙で知らせた。
4月下旬に母が無事退院し自宅療養となった。基次郎は痔疾に悩まされた。5月、草稿「猫」から「愛撫」を書き上げた。弟・勇が近所の馴染みの娘・永山豊子と結婚したため、基次郎は母と末弟・良吉と共に兵庫県川辺郡伊丹町堀越町26(現・伊丹市清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住した。その後、母と良吉は大阪市住吉区の家に戻り、基次郎だけ伊丹町に残った。
6月、「愛撫」が北川冬彦と三好達治、淀野隆三らの同人誌『詩・現実』創刊号に発表された。この作品は友人間で評判が良く、川端康成も雑誌『作品』7月号の作品評欄で取り上げ、「気品」さを賞揚した。7月、発熱が続いたため大阪の実家に戻り、診察してもらうと胃炎になっていた。8月、宇野千代が尾崎士郎と正式離婚し、その後千代は東郷青児と再婚した。結婚通知の葉書を受け取った基次郎は、「しようもない奴と結婚しやがって」と吐き捨てるように言ったのを弟嫁・豊子が聞いた。
同8月に「闇の絵巻」を書き上げ、9月初めに伊丹の兄の家に戻った。「闇の絵巻」が『詩・現実』第2冊に掲載され、川端が『読売新聞』の文芸時評でその作品を取り上げ、その「澄んだ心境」を賞揚した。
9月下旬、兄一家が川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に転居し、基次郎もその離れ家(8畳と6畳部屋)に落ちついた。そこは人里離れた土地で家賃も安く、エンジニアの兄の仕事の無線交信実験に適した場所であった。兄の子供らは基次郎になついて、ついつい離れ家に遊びに行った。その後、この家に母と末弟・良吉も同居するようになり、母は基次郎の面倒を見た。
10月、基次郎は後輩の淀野隆三に宛て、〈生活に対する愛着〉を説き、淀野の使用する観念的な言葉遣いを批判的に指摘した。また、辻野久憲が自然主義や私小説の行き詰まりを論じたことを〈紋切型〉だとして反対し、ルソーの『告白録』に連なる島崎藤村の懺悔の系譜、西欧のリアリズムの客観的手法、俳諧写生文の系譜などを考えずに〈一様に〉混同することに異議を唱え、〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉を説いた。
11月、次号の『詩・現実』第3冊に発表する作品原稿が挫折した。この頃、草稿「琴を持つた乞食と舞踏人形」「海」が書かれたと推定されている。12月、『詩・現実』第3冊には「冬の日」が再掲載。見舞いに来た淀野隆三に、「交尾」(その一、その二)の原稿を見せて渡した。基次郎は淀野と近所を散歩中、「東京の横光はどうや?」と質問し、勢いのあった横光利一をライバル視していた。
12月下旬、母が阿倍野の小間物屋(勇の嫁・豊子に任せていた)を手伝うために帰ったため、基次郎は寒い冬を万年床で過ごした。この頃に草稿「温泉」が書かれたと推定されている。野菜や肉など食事は十分に摂り、友人らが手土産に持ってくるいたチーズやバターも食べていた基次郎だったが、身体は随分やせてきていた。北野中学時代からの友人や、元『青空』同人らは、みな社会人となり妻帯していた。結核持ちの基次郎だけが取り残された。
1931年(昭和6年)1月、「交尾」が、小野松二の主宰雑誌『作品』に発表された。井伏鱒二はこの作品を、「神わざの小説」と驚嘆して賞揚した。以前揉めた尾崎士郎からも好評の葉書が来て、基次郎は嬉しさを感じ〈必生〔ママ〕の作品を書き、地球へ痕を残すつもりです〉と返信した。
しかし流感で発熱が続いて寝込む日々が続いた。月末に見舞いに来た三好達治は、痩せて頬のこけた基次郎の衰弱ぶりに驚き、生きているうちに友の創作集の出版を淀野隆三と相談し2人で奔走した。淀野は『詩・現実』の版元の古書店・武蔵野書院から出版できることを基次郎に知らせた。基次郎は、2人が版元に渡すため原稿用紙に写す作業をすることを心苦しく思い、〈僕の本のことで いい時間を使ふことをやめてほしい〉と気づかうが、友の好意を〈涙が出ます〉とありがたく受け取った。
2月中旬にやっと熱は下がるが、基次郎は床に伏したままであった。淀野からの問い合わせに基次郎は答え、作品集のタイトルを『檸檬』に決めて構成などの方針を、母の代筆で書き送った。3月、『作品』の作品評で井伏鱒二が「交尾」を取り上げ、「水際たつてゐる」と高評した。この頃基次郎は、大便を便所に立って行けるようになり、ようやく寝床で起きて食事ができるようになったが、春過ぎまで寝たり起きたりの日々が続き、枕元のラジオをよく聴いていた。
4月、作品集の校正刷りが出来上った時、基次郎は「橡の花」を〈レベル以下〉として削除するように頼んで、淀野らに労を詫びた。川端康成が『読売新聞』に「芸術派・明日の作家――芸術派雑誌同人批評」で基次郎の名前を挙げた。5月、小野松二も『作品』の文芸時評で基次郎の作品に触れた。基次郎は健康になるため、近所の人が殺したというマムシを母に拾ってきてもらい食べた。
5月15日、初の創作集『檸檬』が刊行された。基次郎は18日に届いた本を一日眺め暮し、〈「これからだ」と自分を励まし〉ながらも病気のことを考えて〈絶句〉した。淀野らは『檸檬』を作家らに寄贈した。下旬に、『中央公論』編集部の田中西二郎から作品を見たいと手紙が来た。これは新人作家の八重樫昊が基次郎を推薦したためで、その話を同誌4月号に「北方」が推薦された北川冬彦から伝え聞いた基次郎は文壇の総合文芸誌にデビューできる嬉しさを味わった。
6月、創作集『檸檬』の反響が表われ、『詩・現実』第5号に丸山薫が「『檸檬』に就いて」を載せ、井上良雄も『詩と散文』で激賞した。中旬に紀州の親類(兄嫁の実家)が湯崎で捕まえ送ってくれたマムシの生き肝を飲むが、2、3日後に浮腫となり腎臓炎と診断された。
7月、『新文學研究』第3集で伊藤整が「三つの著書」として百田宗治の『パイプの中の家族』、横光利一の『機械』と共に『檸檬』を好評した。中旬に届いた淀野隆三・佐藤正彰訳のプルースト『失ひし時を索めて』の第1巻『スワン家の方』を基次郎は読み、プルーストを〈狭い世界の大物〉と賞讃した。基次郎は井上良雄の書評を喜んだことを北川冬彦に書き送り、〈僕の観照の仕方に「対象の中へ自己を再生さす」といふ言葉を与へてくれただけでも、僕は非常に有難いことだつた〉と告げた。
8月、創作集の印税75円を受け取った。基次郎は家族からせっつかれ、なかなか入らなかった印税を版元に催促するよう淀野に頼んでいた自分を恥ずかしく感じた。生活費に困り印税をあてにして母は蚊帳を買って布団も作りたいと言い、末弟も参考書をほしがっていた。9月、雑誌『作品』にプルーストの『スワン家の方』の書評「『親近』と『拒絶』」を発表した。基次郎は、〈回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない〉と評価しつつ、プルーストの〈回想の甘美〉を拒否し、自分の〈素朴な経験の世界〉へ就こうとする姿勢を示した。
その頃、家の中では兄嫁・あき江が、子供らが基次郎になついて離れにしばしば遊びに行くことを嫌がり姑のヒサと時々衝突することがあった。そして9月下旬、ヒサの留守中、「そばに寄ったら病気が移る」と子供に注意した一言を聞いて怒った基次郎と揉め、兄嫁は子供2人を連れて実家へ帰ってしまう事件があった。10月、弟・勇が基次郎を引き取りに来て、母と共に大阪市住吉区の実家に戻った。
基次郎は浜寺や畿内に療養地がないかと考えたが、すぐ近くの住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番29号)に空き家があったため、そこに移住した。ボロ家で狭かったが、実家から2分ほどで、食事の面倒も母に見てもらえた。一応は独立した家に「梶井基次郎」と自筆の表札を掲げ1人で住むことに基次郎は感慨を覚えた。千僧からの引っ越し荷物の中に、『中央公論』からの12月号への正式原稿依頼があったのを見つけ、間に合わないために新年号に延期してもらった。
11月下旬、病状が重い中、「のんきな患者」の執筆に懸命に取り組んだ基次郎だが、思うようにならず、12月2日に、冒頭から書き直して9日夕方に完成させ、母の校正で10日の深夜2時にやっと清書が出来た。弟・勇はそれを持ってオートバイで大阪中央郵便局まで飛ばし、航空便で東京の中央公論社に送った。中旬、執筆や転居の無理がたたり、基次郎はカンフル注射や酸素吸入で看護される病床生活になった。
ひと足先に20日に新年号が基次郎の元に届き、24日に原稿料230円が送金されてきた。これが基次郎の初めて手にした「原稿料」であった。基次郎は母に金時計を買ってやると言ったが、「そんなピカピカしたものはいらん」と母は遠慮した。歳末には母と大阪の丸善に出かけて、その原稿料で弟の嫁の3姉妹(豊子・光子・雅子)にショール、自分にはオノトの万年筆を買った。この月、基次郎は『作品』からの依頼原稿のため、草稿「温泉」に取りかかっていた。
1932年(昭和7年)1月、「のんきな患者」が『中央公論』新年号に発表された。この作品は、正宗白鳥が『東京朝日新聞』で褒め、直木三十五が『読売新聞』の文芸時評で取上げ「シャッポをぬいだ」と評して好調であった。しかし7日、体調のすぐれない基次郎は『作品』編集部に宛て、約束が果たせないかもしれないと書いた。中旬、母は基次郎と一緒に落ちついて暮らせる家を住之江区の北島や姫松、田辺方面に探した。絶対安静の床で基次郎は、「のんきな患者」の続篇を考えていた。
2月、小林秀雄が『中央公論』で「檸檬」をはじめとした基次郎の作品を賞讃した。しかし基次郎は嬉しいながらも、小林が「のんきな患者」を論じていなかったことが少し心残りであった。病床で森鷗外の史伝・歴史文学に親しんでいた基次郎だが、次々と友人らが見舞いに来ても、胸の苦しみであまりしゃべれず、次第に本を読むこともできなくなってきた。下旬に往診に医師から心臓嚢炎と診断されて胸を氷で冷やした。
3月3日、一時気分がよくなり頭を洗ったり、髭を剃ったりするが、母は往診の医師の家に行き、今度浮腫が出たらもう永くは持たないと警告され、絶望しながらも覚悟を決めた。滋養のあるバターや刺身や肉類に飽きた基次郎のため、母は旬の野菜や西瓜の奈良漬など欲しがるものを食べさせたが、この頃から基次郎は噛むことも辛くなり流動食になった。
次第に様態悪化し、12日から13日、基次郎は狂人のように肺結核に苦しみ、酸素ボンベ吸入をしてやっと眠った。17日の午後2時頃起きると顔が2倍になるほど浮腫がひどく出て、手も腫れていた。基次郎は手鏡で確かめたがったが、見ない方がいいと言う母に素直に従った。食欲もなくなり、この日で基次郎の日記が途絶えた。
この頃から兄や姉を家に呼んでほしいと寂しさを訴え、19日には、別宅にいる弟・勇と良吉を枕元に呼んで手を握らせた。20日には京都帝大工学部の入学発表から帰った良吉の勇ましい下駄の音で、「良ちゃん、試験はよかったな」と呟き、声を上げて泣く弟を笑顔で祝福した。21日には、ひどい浮腫の手当をする医者に「もうだめでしょう」と何度も訊ね、22日は朝から激しい苦痛で、夜半に母が呼んだ派遣看護婦の荒い応対が気に入らず、「帰して仕舞へ」と言い張った。
23日、基次郎は朝から苦しみ、姉に会いたがり、肝臓の痛みを訴えた。医者の投薬と注射でうつらうつらの状態の夜、基次郎は頓服を要求し、勇がやっとのことで求めてきた薬を飲んだ。酸素吸入も効かずに激しく苦しむ基次郎に母は、「まだ悟りと言ふものが残つてゐる。若し幸いして悟れたら其の苦痛は無くなるだらう」と諭した。
基次郎は死を覚悟し、「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌し、弟に無理を言ったことを詫びて目を閉じた。その頬にひとすじの涙をつたうのを勇の嫁・豊子は見ていた。夕刻前に基次郎は意識不明となり、家族が見守る中、24日の深夜2時に永眠した。31歳没。奈良県高市郡飛鳥村(現・明日香村)の唯称寺の僧職・順誠になっていた異母弟・網干順三が駆けつけ、通夜で読経した。
遺言により棺は茶の葉が詰められ、上部は草花で飾られた。戒名は「泰山院基道居士」。25日の午後2時から王子町2丁目13番地の自宅で告別式が行われ、15時に出棺した。阿倍野葬儀場の荼毘に付された遺骨は、南区中寺町(現・中央区中寺)常国寺2丁目にある菩提寺の日蓮宗常国寺の梶井家代々の墓に納められた。
梶井基次郎の作家生活は実質7年ほどで、そのほとんどが同人時代であまり注目されず、死の前年から認められ出したものの、その真価が本格的に高まり、独特な地位を得たのは死後のことであった。梶井が生存していた時代の文学の潮流は、新現実主義、新感覚派、新興芸術派の一群と、プロレタリア文学であったが、今や梶井の特異な文学はそれらよりも抜きん出て現存しており、「不朽の古典」となっている。
平田次三郎は、梶井の作品は「病める生の表現」であるが、そこに現れているものは、「清澄な生の息吹き」だとし、以下のように評している。
梶井の短編作品群を「およそ類例がない」とし、模倣しようにも我々にはできない独特なものだと位置づける阿部昭は、梶井の「底抜けに子供らしい探究心や、苦もまた楽なりと言いたげな行文の克己の表情」などから、「理科系の青年の資質」がやはり感じられ、「それは言葉の最も純粋な意味で健康ということかもしれない」とし、その「健康」が、「サナトリウム臭い風景」や、病弱な「詩人めかした趣味」と梶井が無縁であった理由だと考察している。淀野隆三も、梶井の作風を「頽廃を描いて清澄、衰弱を描いて健康、焦燥を描いて自若、まことに闊達にして重厚」と評している。
鈴木貞美は、梶井の歩みは死によって途絶えてしまったが、「自らの作品を借りものの意匠で飾らず、自分の内からたち起こってくる表現への欲求にあくまで忠実であろうとし、そうすることではじめて現代の不幸な魂の実相に清冽な表現を与えることの出来た作家」だと位置づけ、諸作品に見られる作品傾向を以下のように解説している。
井上良雄は、梶井の描写感覚や心理構造を「稀有」と評し、その特性を、「見ること――己れを放棄して対象の中に再生すること」と表現して、「自我と世界との分離」という「近代知性の苦悶と敗北」を乗り超える地平を見出している。
横光利一は、梶井について、「静といふものをこれほど見極めて描いた作家は、まだ日本に一人もゐなかった」と賞讃し、「梶井氏の文学は、日本文学から世界文学にかかつてゐる僅かの橋のうちのその一つで、それも腐り落ちる憂ひのない勁力のもの」、「真に逞しい文学だ」と評している。
三島由紀夫は、現代史において小説を純粋な自由意志の産物にするための論考の中で、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、私小説的方法があるとしつつ、「これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に“詩”へ近づくことでなければならない」と考察しながら、以下のように梶井の小説が秘めていた可能性を高く評価している。
梶井基次郎の外見はがっしりした頑丈な体格で顔つきも無骨そうであるが、笑うと目が糸のようになり柔和なイメージになるという。基次郎は自身の顔のまずさを諦めていた。
三高時代に2度落第し、「三高の主」「古狸」と言われていた頃は、破れた学帽に汚れた肩掛けのズックカバン姿で、頭髪にも無頓着だったため、友人らが金を出し合って散髪に行かせたりしていたが、ポケットから鞣皮の袋に入ったドラハムの粉(煙草)を取り出し、パイプでパクパクといい音をさせて吸ったり、巻いて吸ったりと、やることがお洒落だったという。
湯ヶ島滞在から東京に戻った頃は、深みのある顔に変化していたのが、ありありとわかるほどだったという。
基次郎は非常に五感が鋭く、闇夜で一丁離れた花の匂いも判別できるほどの嗅覚であった。耳もよく、別部屋の話し声や、手紙や号外が入った音、外から戻ってくる弟の下駄の音で、その感情も解ったという。味覚も鋭く、平林英子の作った汁物にほんのちょっとだけ砂糖が入っているのも判った。
音楽好きで楽譜も読めた基次郎には、様々な生活音も音楽に聞こえた。
クラシックやオペラが好きで、バッハやヘンデルなどの譜面を所蔵し、宝塚歌劇団にも通っていた。来日したエルマン、ハイフェッツ、ジンバリスト、ゴドフスキーなどの演奏会は、ほぼ全部聴きに行っていた。
演奏会を聴きに行くときにはいつも譜面を携えていた。曲の演奏が終わると同時に、実に巧みなタイミングで先導的に拍手を送る基次郎に、一般客は驚いて感心している様子だったという。客は基次郎の拍手の音で、初めて曲が終わったことを知り、あわてて拍手をした。
自身も歌うことが好きであった基次郎は、三高時代の寮でよく寮歌を歌った。廊下を歩きながら腹から出た野太い声で朗々と怒鳴って、三条大橋や四条大橋などの大きな橋を渡る時も、大きな声で歌いながら闊歩していたという。ベートーヴェンの交響曲なども譜面を見てよく歌っていた。
ミンミンゼミの鳴き真似も巧く、鳴き声の抑揚が真に迫っていた時はまるで本当のミンミンゼミになっているようだったという。法師蝉の鳴き方の微妙な違いを聞き分け、蝉が〈文法のけいこ〉をやっていると基次郎は表現している。
リプトンの紅茶を飲むのが習慣であったが、喫茶店で友人と飲む物も、レモンティーやレモンを浮かべたプレーン・ソーダを非常に好んでいた。レモンは日頃から持っていて、中谷孝雄にも「それ食ったらあかんぜ」と手垢にまみれたレモンをあげることもあった。
レモン以外の果物を眺めるのも好きであった基次郎は、湯ヶ島では川端夫人から貰った林檎を夜通し磨いてピカピカにして床の間に飾っていた。その林檎を見つけた三好達治がかじると、基次郎はいきなり無言のまま三好の頭をなぐった。
食べ物も当時としては贅沢な洋食を好むグルメであった。銀座でフランスパンを買い、「カフェー・ライオン」にビフテキを食べに行っていた。実家で静養中も東京暮しの時のように、昼からカツレツなどの肉食、刺身を食べた。食品のブランドにもこだわり、バターは小岩井農場、紅茶はリプトンのグリーン缶と決まっていた。お茶も、淀野隆三から贈られた高価な玉露をどっさりと惜しみなく急須に入れて飲んだ。
日用品にもこだわりを持ち、丸善や鳩居堂で買った文房具やフランス製の高級石鹸、ウビガンのポマード、古道具屋で見つけた水差し、サモワール、コーヒー挽き、オランダ皿、ブライヤーのパイプなどの西洋雑貨を買って楽しんでいた。
基次郎は長く結核を患い、医師からも養生を警告されていながらも、行動は健康な青年と変わらずに振舞い、他人にそれほど重病だとは思わせないようにしていた。湯ヶ島滞在中も、広津和郎の小学生の子供と一緒に裸で2時間も川に浸かって釣りをしていた(その時期、高熱があったことが後に判明)。
またある日、生汗を滲ませ青白い顔をしていたため、同行していた蔵原伸二郎が無理をしないように助言した時も、「いや無理をしてゐるんではないんですが、寝てゐたつて同じなんです」と基次郎は言ったという。自身が病気なのに、飯島正の病気見舞いに人力車で駆けつけたこともあり、逆に飯島から「養生第一にしろ」と怒られると、素直に何度もうなずいて、苦しそうな息をこらえながら目を細めてニコニコしていたという。
基次郎は、友人が自分の結核が感染することを怖れていることが判るとひどく傷ついた。淀野隆三の下宿に行くと、毎回店屋物が出されるので、自分の結核のためだと気にした。友人らはそれを基次郎の我儘だと感じたが、基次郎にとっては自分にそれを気づかされるようにしてほしくはなかった。
湯ヶ島滞在時に、何人かが集まり西瓜を全員で食べることになった時も、基次郎はそれを半分に割り、自分が使ったスプーンを突っ込んで掬って食べ始めたため、誰も西瓜に手を出せなくなり一座の空気が一瞬凍りついた。しかし基次郎はそれに気づいていながらも、素知らぬ顔でがむしゃらに食べ続けたために、逆に皆の気まずさが救われた。広津和郎は、そんな基次郎に「強靭さ」に感銘し、「これはえらいぞ」と感じたという。
誰かの下宿に、同人らが集合してコーヒーを入れた時に茶碗が足りないと、基次郎は自分が飲んだ茶碗を簡単に拭いただけで、差し出したりした。それは基次郎が無神経でやっているのではなく、病気に抵抗しているんだと忽那吉之助は感じたという。その一方、基次郎の部屋で5日間過ごした北神正が、一つしかない基次郎の茶碗で平気でコーヒーを飲んでいると、「おいお前、そないしたらあかんで」と落ち着いて言い、年下の者には特に優しかった。
しかし、中谷孝雄や三好達治らとは鍋を一緒に囲んだりもしている。中谷孝雄は 後に「俺は結核のことを、よく知らなかったんだよ。若かったね」と回想している。
下宿の隣部屋に三好達治が同居していた時、ある晩基次郎は「葡萄酒を見せてやらうか...美しいだらう...」と三好を呼び、ガラスのコップを電灯にかざし透かして見せた。その美しい鮮明な赤い液体が、基次郎が直前に喀血した血だと言われるまで、三好は気づかなかった。それは茶目っ気混じりの基次郎のブラックユーモアであったが、病気への抵抗と美意識が感じられたという。
そんな強気の基次郎であったが、身体がだいぶ弱ってきて稲野村の千僧にいる頃には、見舞いに来た丸山薫を門で見送る時に、「たとへライオンが追駆けて来たつて、もう僕は二た足と走れないのだ」という悲しげな諧謔を言っていた。
ちなみに、三好達治は基次郎の亡くなる少し前(1931年10月末)に彼の家に泊まったが(その時の帰りのバスで立つのもやっとな基次郎が外まで見送りに来たが、それが三好の見た最後の基次郎であった)、その時に罹患したのか三好はその後に結核になってしまう。病院に入院した三好は、見舞いに来た友人に吐いた血をグラスに入れ「葡萄酒を見せてやらうか...美しいだらう...」といつかの基次郎の真似をして見せた。三好は幸い助かるが基次郎は亡くなってしまった。それについて三好は、基次郎から病気をもらったのだと弟子の石原八束に語っている。
結核のために所帯を持つことを諦めていた基次郎だったが、亡くなる約4か月には、見舞いに来た姉・冨士に、「実はなあ、僕、このごろ結婚しようかと考える時もあるねん」と、誰も当てがないにもかかわらず話したという。「だれもおらんけど、結婚するんやったら看護婦さんとやな」「これ以上、母さんに苦労かけとうないさかいな」という言葉に、冨士が思わず胸をつかれて黙ると、基次郎はあわてて笑い声を立てて冗談めかした。
基次郎は『青空』の同人のまとめ役的な存在で、同人間で仲たがい(中谷孝雄と淀野隆三)があると、2人に手紙を出し、仲良くするように仲裁することにも熱心であった。また、一度知り合い懇意になった人物とは永久的に交友しようとする傾向があったという。
友人想いで、自身が同人となった『文藝都市』に中谷孝雄と淀野隆三を入れることに尽力し、蔵原伸二郎らの同人雑誌『雄鶏』にも、中谷孝雄を入れてほしいと依頼していたこともあった。そして、それに応じた蔵原への謝礼の別の手紙には、自分が頼んでいたことに一切触れずに、蔵原の厚意や力だけを感謝するという繊細な心配りの姿勢があった。
子供にも好かれ、湯ヶ島温泉「湯川屋」の主人の子・安藤公夫(当時小学校3年)がよく基次郎になついていた。夕方や日曜日に公夫を見かけると、「公ちゃんおいで」と自分の部屋に招き、紅茶や駿河屋の羊羹をご馳走し、共同風呂にもよく一緒に行った。公夫の友だち4人も基次郎の部屋に遊びに来ると、夜汽車のトンネルで窓ガラスをひっかく老婆の幽霊の怪談話など、様々な面白い話をしたという。
女性にも紳士で、北川冬彦の妻の仲町貞子が、用事で電話をかけに行かなければならなくなり、その場所が分らず、夫に同行を頼むが北川がぐずぐずしていると、たまたま遊びに来ていて高熱で横になっていた基次郎がすっと立ち上がり、遠慮する貞子を制止し、その電話の場所まで連れていってあれこれ全てやってくれたという。また、貞子が夫に命じられ、自分の着物類を持って質屋に行く時にも、初めてのことで戸惑い恥かしい思いの貞子の気持を察し、代わりに質屋に入ってくれたという。
各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。
小説
習作・試作
遺稿・断片 ☆印は仮題
批評・感想 | [
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"text": "梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年〈明治34年〉2月17日 - 1932年〈昭和7年〉3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。",
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"text": "死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。",
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"text": "梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鷗外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。",
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"text": "1901年(明治34年)2月17日、大阪府大阪市西区土佐堀通5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に、父・宗太郎、母・ヒサ(久)の次男として誕生した。両親は2人とも1870年(明治3年)の生まれで当時数え年32歳、共に明治維新後に没落した梶井姓(同じ名字)の刀屋の出であった(ヒサは梶井秀吉の養女)。父親を早くに亡くし第三銀行大阪支店(安田善次郎の経営系列)の丁稚から苦労してきた宗太郎は、貿易会社(海運会社)の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた。",
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"text": "この安田運搬所の西隣りに一家は住んでいた(中から行き来ができた)。宗太郎はヒサとは再婚で、婿養子であった。ヒサは明治の女子教育を受け、幼稚園の保母として勤めに出ていた。同居家族は他に、祖母・スヱ(宗太郎の母)、祖父・秀吉(ヒサの養父)、5歳上の姉・冨士、2歳上の兄・謙一がいた。",
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"text": "基次郎が誕生した同年9月には、父・宗太郎と芸者・磯村ふく(網干出身で生家も網干姓)の間に、異母弟にあたる順三が生まれた。日露戦争の特需により安田運搬所は大砲の輸送で潤い、酒色を好む宗太郎は接待などで茶屋に通っては放蕩な日々を過ごしていた。1905年(明治38年)10月、基次郎が4歳の時に一家は大阪市西区江戸堀南通4丁目29番地(現・江戸堀2丁目8番地)に転居。翌1906年(明治39年)1月17日に弟・芳雄が生まれた。",
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"text": "1907年(明治40年)4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校(現・大阪市立花乃井中学校)に入学。式の時は袴を着け、平素は紺絣の着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った。",
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"text": "しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の文学の話をした(基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった)。",
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"text": "宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島の水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが、1908年(明治41年)1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた。同月21日には次弟・勇が生まれた。",
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"text": "1909年(明治42年)12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店(のち安田商事)への転勤に伴い、一家は祖父・秀吉(大阪残留を希望)を残して上京。品川の旅館・若木屋に数日滞在した後、東京市芝区二本榎西町3番地(現・港区高輪2丁目6番地)の狭い借家に転居した。泉岳寺を見下ろす高台の家で、電灯もなくランプで生活していた。",
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"text": "1910年(明治43年)1月、基次郎は兄・謙一と共に、芝白金(現・港区白金台)の私立頌栄尋常小学校へ転入し、紺絣に袴を穿き下駄で通学した。この学校はプロテスタント系の頌栄女学校の付属校で、ハイカラな気風と西欧的な自由主義教育と英語教育がなされ、巖谷小波がアンデルセンなどのお伽話の講話を行っていた。兄弟は当初「大阪っぺ」とからかわれたが、兄が紙ヒコーキを学校に広め、基次郎も兄と一緒に徐々に東京山の手の校風に馴染んでいった。",
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"text": "父・宗太郎は左遷されたという憤懣もあって酒びたりの日々であったが、やがて基次郎の異母弟・網干順三の親子らも上京させ、別宅で養い始めた。そのため梶井家の家計は質屋に通うほど窮迫し、母・ヒサは内職に励み、高等小学校に通う姉・冨士までレース編みの内職で家計を支えた。祖母・スヱの肺結核も進行していた。この年の9月30日に末弟・良吉が生まれた。",
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"text": "1911年(明治44年)5月、再び父が転勤となり、一家は三重県志摩郡鳥羽町1726番地(現・鳥羽市鳥羽3丁目7番11)の広い社宅に転居した。社宅は漁船が行来する入江近くの高台にあり、日和山が見えた。安田系の鳥羽造船所(現・シンフォニア テクノロジー)の営業部長となった宗太郎は羽振りがよくなり、一家は東京から来た重役の家族として地域の人から敬われた。",
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"text": "漁師の子がみな草履の中、革靴を履いている基次郎は重役の坊ちゃんと呼ばれ、東京の頃と扱いが一変した。基次郎は姉と共に社宅の左隣の鳥羽尋常高等小学校に転入(姉は同校高等科)。兄・謙一は三重県立第四中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に入学して、宇治山田市(現・伊勢市)の寄宿舎生活となった。",
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"text": "基次郎は夏休みで帰省した兄や友だちと海で泳いでサザエを獲ったり、裏山の「おしゃぐりさん」(大山祇神社)や城跡を駆けめぐったりした。自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごし、最も幸福で充実した日々であった。鳥羽の海の景色は遺稿の断片「海」に描かれている。しかし、兄弟たちは祖母がしゃぶっていた飴玉を貰ってなめたりしたため、やがて5人が初期感染することになる。",
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"text": "この年、異母弟・順三の母親・磯村ふくが腎臓病で死去し、順三とその養祖母・きくが梶井一家と同居するようになった。翌1912年(明治45年)4月、基次郎は6年生に進級し級長に選ばれた。同月、大阪時代の江戸堀尋常小学校6年生一行150名が鳥羽に卒業記念旅行に来た。基次郎が彼らのいる旅館を訪れると、かつての同級生と先生らは歓迎し、人気者だった基次郎をたちまち取り囲んだ。",
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"text": "1913年(大正2年)3月、全甲の優秀な成績で小学校を卒業した基次郎は、4月に兄と同じ三重県立第四中学校へ入学し、宇治山田市一志町(現・伊勢市一志町)にある兄の下宿先に同居した。そこは兄の同級生・杉本郁之助の家で、茶人で郷土史家の杉木普斎宅であった。第四中学では、洋楽に造詣の深い音楽の先生に楽譜の読み方を習い、これが音楽愛好の基礎となった。6月5日、64歳の祖母・スヱが肺結核で死去し、祖父・秀吉は数か月前の2月に大阪で死去した。",
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"text": "9月、鳥羽と宇治山田間の鉄道が開通し、新学期から実家の鳥羽より兄と一緒に汽車通学した。この頃、2人は近所の旧城主の老人に剣道を習っていた。10月、第四中学の懸賞短文で「秋の曙」が3等に入選し、校友会誌『校友』に掲載された。同月中旬、父が大阪の安田鉄工所の書記として転勤し、一家は大阪市北区本庄西権現町1191番地(現・北区鶴野町1番地)に転居した。基次郎と兄は再び、宇治山田市一志町の下宿から通学するようになった。",
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"text": "1914年(大正3年)2月、一家は大阪市西区靭南通2丁目35番地(現・西区西本町1丁目8番21号)の借家に移転。4月、兄と共に名門の旧制大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)の学力検定試験(転入試験)を受けて合格し、基次郎は2年生に転入した。学校のある北野芝田町(現・芝田町2丁目)まで30分ほどの道のりを兄と一緒に徒歩通学した。",
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"text": "基次郎は水泳と音楽が好きな少年で、可愛げのある接し方で人気があったが、表面的には比較的大人しく目立たない生徒でもあった。翌1915年(大正4年)8月20日、身体の弱かった9歳の弟・芳雄が脊椎カリエスで死亡した。同月、日本はドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦。安田鉄工所は陸軍・海軍工廠の特別指定を受け、父の仕事は多忙となった。",
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"text": "1916年(大正5年)3月、基次郎は成績上位で3年を修了。異母弟・順三は高等小学校を終えると、北浜の株屋に奉公に出された。道義心の強い基次郎はこれに同情し、北野中学に退学届を出して中退。自分も筋向いのメリヤス問屋の丁稚となった(6月からは西道頓堀の岩橋繁男商店の住込み奉公に変わる)。4月に兄は大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)電気科に入学した。",
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"text": "順三は基次郎に気兼ねし長崎に移っていくが、不憫に思った父が順三を家に連れ戻した。この年、祖父・秀吉の遺した金1,000円を元手に、母は父に勧めて自宅を改装し玉突き屋「信濃クラブ」(信濃橋にちなんだ名称)を開業。店は繁盛した。",
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"text": "1917年(大正6年)2月、基次郎も奉公をやめて家に戻り、母の説得もあって4月から北野中学4年に復学。終生の友となる同級生の宇賀康、畠田敏夫、中出丑三らと親交を持つようになった。彼らの間では基次郎の綽号(渾名)は「熊」であった。またこの頃、同級で野球部の美少年・桐原真二(遊撃手)に惹かれて同性愛的思慕を持った。この年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術を重ねた。",
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"text": "1918年(大正7年)4月、5年生に進級した基次郎も、潜伏していた結核性の病で寝込むようになり、1学期は33日間も欠席した。その時に兄に差し出された森鷗外の『水沫集』(舞姫、うたかたの記、文づかひ、玉を懐いて罪あり、地震を収録)、邦訳『即興詩人』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品に変った。",
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"text": "同年6月頃から兄が兵庫県武庫郡魚埼町野寄(現・神戸市東灘区本山町野寄)の池田鹿三郎(父の取引先の運送会社の人物で友人)宅に書生として寄宿した。基次郎も時々そこに遊びに行き、池田家の神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)に通う保と二郎の兄弟と交流した。健康を取り戻した基次郎は、9月の新学期から平常どおりに通学した。兄が同級・橋田慶蔵から借りた夏目漱石の全集『漱石全集』を基次郎も読んだ。",
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"text": "1919年(大正8年)3月、基次郎は成績中位(席次115番中51番)で大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を卒業。兄も住友電線製造所(現・住友電気工業)に4月から入社が決まった。基次郎も兄と同じ電気エンジニアをめざし、第一志望として兄が卒業した大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)電気科を受験するが、不合格となった。",
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"text": "この頃、父の友人・池田鹿三郎の弟・竹三郎の娘(大阪信愛高等女学校4年生の美少女・池田艶)への恋が募り(初めて会ったのは艶が小学校5年、基次郎が中学2年の時)、彼女への想いを友人らに書き送ったり、兄の同級・橋田慶蔵に打ち明けたりした。この頃、手紙の中に夏目漱石の失恋の英詩を写し書きしたりした。",
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"text": "場所も遠く、学費のかかる第三高等学校(現・京都大学総合人間学部)への受験を母に懇願し承諾を得た基次郎は、猛勉強に励むと同時にますます漱石に傾倒し、兄が買ってきた再版の漱石全集を手にとり『明暗』を夢中で読んでいた。5月に出した友人の手紙には、漱石の『三四郎』の影響から〈Strey sheep〉と署名し、6月には〈梶井漱石〉と署名した。",
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"text": "7月、基次郎は南禅寺の僧庵に泊って試験に挑み、第三高等学校の理科甲類(英語必修)に無事合格。中学同級の宇賀康、中出丑三、1年上の矢野繁も一緒に合格し、畠田敏夫は神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)に進んだ。同月末から8月、兄と富士山登山をし、底倉温泉の「つたや」に1泊した。9月、『大阪毎日新聞』夕刊に連載中の菊池寛の「友と友の間」を愛読。通学のため京都府上京区二条川東大文字町160番(現・左京区二条川端東入ル上ル)の中村金七(祖母・スヱの親類で遠縁にあたる人物)方に下宿した。入学式の後、丸太町通の古書店を歩いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1919年(大正8年)9月、三高理科甲類に入学した基次郎は、同校に一緒に進んだ北野中学時代の友人ら(宇賀康、中出丑三、矢野繁)と交遊。彼らの下宿を廻った。矢野が持っていた蓄音機でクラシックレコードをかけてヴァイオリンを弾き、みんなで楽譜を片手にオペラを歌うなど楽しい時を過ごした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "基次郎の下宿は長屋で狭く、重病人の老人がいたため、10月からは寄宿舎北寮第5室に入った。部屋は1階が学習室、2階が寝室となっており、同室には室長でラグビー部の2年生・逸見重雄、文乙(ドイツ語必修)の中谷孝雄(三重県立一中出身)と、文丙(フランス語必修)の飯島正がいて、文丙の浅野晃もしばしば部屋にやって来た。東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)出身の飯島と浅野は同校で回覧雑誌『リラの花』を作っていた文芸仲間であった。",
"title": "生涯"
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"text": "基次郎は中谷孝雄、飯島正、浅野晃の文学談義に耳を傾けていたが、難しくてついていけなかった。この頃、ロシア大歌劇団の来日公演があった。宇賀康は行ったが、券を買う金がない基次郎は仕方なく寮の中で『カルメン』や『ファウスト』を朗々と歌った。しかし11月頃から次第に憂鬱になり、授業に興味を失っていった基次郎は、学校をさぼって銀閣寺を散歩したり、美術展に行ったりする日々を過ごすようになった。",
"title": "生涯"
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"text": "1920年(大正9年)1月に風邪を引いて実家に帰り、39度の高熱で寝込んだ。2月に寮に戻った基次郎は自己改造を決意した。哲学に興味を持ち、寮の友人たちと自己解放について徹夜で議論をした。宇賀や矢野とは雪の積もる東山を散策するなどした。映画マニアで映画雑誌に洋画評を書いていた飯島正の影響から、基次郎は谷崎潤一郎の『女人神聖』や、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』も読んだ。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "また、飯島正や浅野晃を通じて、作曲趣味の文丙の小山田嘉一(東京高師附属中出身、陸軍少将小山田勘二の長男)とも親しくなり、音楽にもさらに本格的に傾倒していった。2月には、中谷孝雄が室長の逸見重雄と喧嘩をして寮を出ていき、ほどなくして飯島正も寮を出て、中谷と同じ下宿の向い部屋に移っていった。4月から寮を出た基次郎は、上京区浄土寺小山町小山(現・左京区浄土寺小山町)の赤井方に下宿し、実家から漱石全集を持って来た。漱石に心酔していた基次郎は漱石全集のどこに何が書いてあるかをほぼ暗記していた。",
"title": "生涯"
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"text": "この頃も銀閣寺に行き、熊野若王子神社(哲学の道)を散策した。また、新京極や寺町に行き、「江戸カフェ」の女給・お初に惚れ、煙草を吸って酒もおぼえた。自分が女にもてない「怪異」な顔だということは諦めていたが、科学の才能がなく凡庸であることで天と親を恨んだ。基次郎は、実家の店で慣れていたせいか撞球が得意で素人離れした腕前だった。また日曜毎に宝塚少女歌劇団を観に行っていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "この頃、中谷孝雄の下宿に行った折に、志賀直哉の短編集『夜の光』を薦められ、飯島正に「肺病になりたい。肺病にならんと、ええ文学はでけへんぞ」と三条大橋の上で叫んで胸を叩いたこともあった。谷崎潤一郎の影響からか、友人への手紙に、〈梶井潤二郎〉などと署名した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1920年(大正9年)5月に発熱し、肋膜炎の診断を受けた基次郎は大阪の実家へ帰った。4か月の休学届を出し、6月は病床で小説を読み耽った。7月に落第が決定し、8月初旬から姉夫婦(共に小学校教諭)の住む三重県北牟婁郡船津村字上里(現・紀北町)で転地療養し、熊野にも行った。基次郎は、山里の素朴な自然の生活の中で自身の〈町人根性〉を反省したり、寮歌の作詞をしてみたりした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "9月に、馬車で行った尾鷲市の医者に肺尖カタルと診断され、1年休学するように言われたが、重い病状でなく、鮎獲りやメーテルリンクの『貧者の宝』を読んだりした後に実家に帰った。堂島の回生病院でも肺尖カタルと診断され、母からも学問を諦めるように通告された。納得できない基次郎は友人に〈気楽なことでもして、生活の安固をはかれ、といふ母はふんがいに堪えん〉と訴えた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "10月、基次郎は両親の説得で休学を一旦覚悟し、父と一緒に淡路島の岩屋や西宮の海岸の療養地へ下宿先を探しに行くが、両親と意見が合わずに学校に戻りたいと訴えた。11月から思いきって京都に戻った基次郎は、矢野潔の下宿に泊った後、寄宿舎に戻って復学し、日記を書き始めた。哲学者・西田幾多郎を道で見かけたのを機に、図書館で雑誌『藝文』掲載の西田の「マックス・クリンゲルの『絵画と線画』の中から」などを読んだ。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "基次郎は、エンジニアや理科の先生になるという初心の目標に立ち返ろうと考え、北野中学時代からの同級の優等生との友情を優先し、文学をやれと勧めていた無頼派の悪友・中谷孝雄と距離を置くようになっていたが、この頃、中谷と街で偶然出くわし、奥村電機商会で働く平林英子を従妹だと紹介された(実際は恋人)。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 40,
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"text": "夏目漱石の『文学論』、西田幾多郎の『善の研究』に関心を寄せ、ウィリアム・ジェームズの心理学に影響を受けたとみられる基次郎は、12月に、自分で自分自身を誇れるような人間になることを決意した。森鷗外が『青年』の中で漱石をエゴイストと批判していたことに憤慨したり、北野中学時代に惹かれた美少年・桐原真二の体に接吻する〈甘美〉な夢を見たことを日記に記したりした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "1921年(大正10年)1月、基次郎は「江戸カフェー」で同志社大学の猛者・渡辺と出くわし、喧嘩を売られる気がしてびくびくし、矢野繁を先に歩かせようと考えた自身の弱小と卑劣さを反省し草稿を書いた(のち習作「卑怯者」などになる)。3月、京都公会堂でエルマンのヴァイオリン演奏を聴いた基次郎は、公演終了後、車で立ち去ろうとするエルマンに駆け寄り、握手してもらい感涙した。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 42,
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"text": "春休みは紀州湯崎温泉(現・白浜温泉)に湯治に行き、偶然再会した同級生・田中吉太郎に誘われ移動した旅館「有田屋」で、西欧絵画や芸術趣味の29歳の未亡人・多田はなと、その取り巻きの学生らと知り合った。基次郎は、その旅館の同じ二階にいた結核療養で休学中の京都帝国大学医学部の学生・近藤直人と特に親しくなった。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 43,
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"text": "この4歳年上の近藤直人に基次郎は敬愛の念を持ち続け、生涯の友人となった。近藤への手紙で、自分を〈貧乏なディレッタント〉と称していた基次郎は、社会的な功利を低俗とみなし、精神の享楽を第一とするダンディズムの発露をみせ、〈偉大〉であることに憧れた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "4月、紀州湯崎温泉から和歌山県和歌山市の近藤直人の実家(医院を開業)に立ち寄り、大阪の実家に帰った基次郎は、父親が、家で経営していた玉突き屋の従業員・豊田(ゲーム係の娘)に手をつけて産ませた赤ん坊・八重子(異母妹)の存在を知り、衝撃を受けた。青年期の自己嫌悪や、俗悪への反発、憂鬱の悩みに、新たな苦悩が加わった。八重子は梶井家が引き取り、母・ヒサが育てて入籍することが決まっていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "4月中旬、年学制の改革により2年に進級した基次郎は実家からの汽車通学となり、同じく実家通学で高槻駅から乗車する大宅壮一(弁論部)と車中で出会った。基次郎は汽車内で同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)英文科の女学生に一目惚れをし、エリザベス・バレット・ブラウニングやキーツの詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日、「読んでくださいましたか」と問い、「知りません!」と拒絶された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "この時期、中谷孝雄と平林英子が同棲を始めていた京都新一条(現・左京区吉田中達町)の下宿に基次郎は度々訪れ、英子に讃美歌を教えていたが、例の車内で失恋した経験を元にして書いた小説「中谷妙子に捧ぐ」を見せに行った。ちょうどそこに中谷と同級の大宅壮一も来て一読するが、ほとんど問題にされなかったために英子にあげた。その後英子はその原稿を紛失してしまい、基次郎の幻の処女作となった。講演会で活躍していた大宅は文学談義をしに、よく中谷の下宿に来ていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "6月、再び学校に程近い、上京区吉田中大路町(現・左京区)に下宿。中谷孝雄の郷里の父親が息子の様子を見に来るため、平林英子は3日間ほど基次郎の下宿に身を隠した。中谷は父の手前、体裁を取り繕うために、基次郎所有の田邊元や西田幾多郎の哲学書を借りて自分の本棚に並べた。基次郎の本はそのまま中谷の本棚に置かれ、その後2人の遊蕩費のため質屋に流れた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "夏休みの7月下旬、基次郎は矢野繁と旅行に出た。東京の小山田嘉一と会った後、夜船で伊豆大島に渡り、藤森成吉(『若き日の悩み』を書いた作家)と同じ宿「三原館」に1週間ほど泊った。8月には阪神間の海水浴場・香櫨園に泳ぎに行くなど、基次郎は健康的になったようであった。9月から平林英子が中谷孝雄から離れて信州の郷里に帰ったため、基次郎は中谷と2人で夜飲み歩き(中谷は下戸で和菓子と茶を飲む)、たまに中谷の劇研究会の仲間の津守萬夫も伴った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "9月下旬、父・宗太郎が安田鉄工所を突如退職した。この前後の時期に、経営者の安田善次郎が暴漢の朝日平吾に刺殺された事件があった。宗太郎は退職金でさらに玉突き屋2軒を開店し、1軒の経営を異母弟・順三に任せた。しかし、父は再び別の従業員の若い女と浮気をし、店の経営状態も徐々に悪くなっていった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1921年(大正10年)10月、賀川豊彦のキリスト教社会運動にうちこむ大宅壮一の態度に脅威を感じた基次郎は、〈天職といふものにぶつからない寂しさが堪らない〉と自身を嘆き、〈自分は大宅の様な男を見るとあせるのである〉と綴った。ある夜、中谷孝雄と津守萬夫と一緒に琵琶湖疎水にボートを浮べ、水際の路に上がって月見をしていると、ボートが下流に押し流され、基次郎は津守と一緒に水中に飛び込み食い止めた。その勢いで2人は競泳を始め、冷えた身体を街の酒場で温めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この時に泥酔した基次郎は、八坂神社前の電車道で大の字に寝て、「俺に童貞を捨てさせろ」と大声で叫んだため、中谷孝雄と津守萬夫は基次郎を遊廓に連れて行った。女が来ると基次郎はげろを吐いて女を困らせたが(いくらか故意にやっていたようだったという)、やがておとなしく部屋に入っていった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 52,
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"text": "支払いのためにウォルサムの銀時計を質に入れた基次郎は、「純粋なものが分らなくなった」「堕落した」と中谷に言った。それまで基次郎は中谷と平林英子の仲を2人の言う通り、ただの友人関係(従妹)と信じていたほど純真なところがあったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "次第に基次郎の生活は荒れ、享楽的な日々を送るようになっていくが、中出丑三と議論し、今は天職が見出せなくても、〈土台〉を築けばいいという思いに至った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "11月、上京区北白川西町(現・左京区)の澤田三五郎方の下宿に移った。家賃が払えず下宿から逃亡することがしばしばだった。この頃、北野中学時代の友人で神戸にいる畠田敏夫が遊びに来た際に、他の友人らも交えて清滝の「桝屋(ますや)」に行った。酔っぱらった基次郎は、愛宕参りの兵庫県の団体客の部屋に裸で乱入して喧嘩となり、撲られ学帽を取られた(その後、店の主人・森田清次が取り返して戻った)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この頃、「江戸カフェー」で、例の同志社大学の猛者・渡辺をうまく追っ払った文丙の北川冬彦(本名・田畔忠彦)を見て、基次郎は感激した。北川は柔道をやっていて、その場では文学談義にはならなかった。12月には、北野中学からの仲間への虚栄心から哲学書などを読んでいたことを基次郎は矢野繁や畠田敏夫に告白した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1922年(大正11年)2月、基次郎は短歌20首を作って畠田敏夫に送った。また、〈創作に於る主観と表現〉の関係を模索し、〈主観の深さと表現の美しさ〉について考察したりした。3月、学期末試験の後、中谷孝雄と和歌山県に旅行した。追試を受けた基次郎は特別及第となり4月に3年に進級したが、中谷孝雄は落第した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "他の北野中学出身の理科の友人や、同年入学の文科の飯島正、浅野晃、大宅壮一、北川冬彦たちは全員卒業し、東京帝国大学へ進んでいった。基次郎と中谷は、三高の中で無頼の年長者として知られるようになっていく。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "この頃、三高学内では金子銓太郎校長への反発から生徒間で校長の排斥運動が高まり、基次郎も「先輩大会」に参加。この運動には文甲の外村茂(のちの外村繁)や桑原武夫が活動していた。しかしその運動に深入りしなかった基次郎は〈詩のシンフォニー〉を目指し詩作を始めた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "絵画や音楽、舞台芸術の関心もさらに高まり、大阪の大丸百貨店での現代フランス美術展に行き、京都南座で上演された倉田百三作の『出家とその弟子』を観劇した。4月29日に三高に来校した英国皇太子(ウインザー公)が観戦する神戸外国人チームと三高のラグビー試合を基次郎も昂奮して楽しんだ。この頃、三条麩屋町西入ルにあった丸善書店で長い時間を過ごし、セザンヌ、アングル、ダビンチなどの西洋近代絵画の画集を立ち読みするのが基次郎の楽しみでもあった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1922年(大正11年)5月、中谷孝雄と夜な夜な街を歩き、質屋で金を作って祇園乙部(祇園東)の遊廓に行ったりする日々の中、高浜虚子の『風流懺法』を好み、中谷から借りた佐藤春夫の『殉情詩集』、島崎藤村の『新生』を感心して読んだ。基次郎は酒びたりや享楽の生活を後悔し、〈自我を統一する事〉〈善の基準を定めよ〉〈目覚めよ、我魂!〉と自戒した。三高劇研究会へ入った基次郎は、ビラ配りなどに勤しみ、外村茂や北神正も入部してきた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "劇研究会では、フランス帰りの折竹錫教授を講師がジャック・コポーの話をし、会員らは日本の戯曲や西欧近代劇の台本読みをし、基次郎は女役を引受けることが多かった。『サロメ』や『鉄道のマリンカ』で女声をしぼり出すため口をつぼめる基次郎の姿はとてもユーモラスだったという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "津守萬夫が会から遠のくと、基次郎と中谷孝雄が中心となり活動していった。6月初旬、戯曲創作の真似ごとをした基次郎は、京都南座で公演中の澤田正二郎の楽屋を外村茂と訪問して講演を依頼し、心身の調子がすぐれないながらも三島章道の講演を聴いたりした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "7月、学期末試験が済んで琵琶湖周航の小旅行をした後、柳宗悦の講演を聴き、大阪の実家での静養中は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、志賀直哉の『暗夜行路』などを読んだ。この頃、戯曲草稿「河岸」に取り組んだと推定されている。8月には、和歌山の近藤直人の家に遊びに行き、近藤の妹婿や子供らと新和歌浦で海水浴をした。基次郎は7メートルほどの高い崖から板を使って飛び込み、海中の岩で鼻を怪我。その傷跡は一生残ることになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "9月は授業をさぼって、文丙2年の浅見篤(浅見淵の弟)と新京極のカフェーで飲み歩き、遊廓にも行った。この頃、文丙2年の小林馨も劇研究会に入部した。基次郎は6月から9月にかけ、いくつかの草稿を日記に綴った。一個のレモンに慰められる心を歌った詩草稿「秘やかな楽しみ」(檸檬の歌)、「百合の歌」、戯曲草稿「攀じ登る男」、小説草稿「小さき良心」、断片「喧嘩」「鼠」、またニーチェの影響で、断片「永劫回帰」などをこの時期に書いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "10月、三高文芸部主催の有島武郎と秋田雨雀の講演会を聴いた。信州の平林英子が宮崎県日向の「新しき村」に入るために京都に立ち寄るが、中谷孝雄とよりが戻り、基次郎と3人で嵐山に行って保津川のボート上で上田敏の『牧羊神』の「ちゃるめら」を朗読した。基次郎は微熱があるのに冷たい川で泳いだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "この頃、基次郎は中谷孝雄への絵はがきに自殺をほのめかす言葉を書いた。基次郎と中谷は、「新しき村」京都支部会員の外山楢夫に依頼され、演劇公演会の宣伝を手伝い、京都に来た武者小路実篤に会いに行った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "11月1日に上京区岡崎(現・左京区)の公会堂で「新しき村」の公演会が上演され、この時に基次郎は北野中学時代の同級生・永見七郎と再会した。永見は『白樺』関連の雑誌『星の群』に詩などを書いていた。同日、三高の寮で臥せっていた友人・青木律が腸チフスで死亡。基次郎は親友がいないと言っていた青木を親身に見舞っていた。同月上旬、来日したピアニスト・ゴドフスキーの演奏会を中谷孝雄と聴きに行った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この秋、基次郎は酒に酔っての乱行が度を越えることもしばしばとなり、焼き芋・甘栗屋の釜に牛肉を投げ込み、親爺に追い駆けられたり、中華そば屋の屋台をひっくり返したり、乱暴狼藉を起した。放蕩の借金で下宿代も滞り、夕飯も出されなくなった。取り立てに追われて友人の下宿を転々とした。清滝の「桝屋」で泉水に碁盤を放り投げ、自分も飛び込んで鯉を追っかけ、基次郎だけ店から出入り禁止となった。金魚を抱いて寝ていたこともあったという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "基次郎の荒れ方は劇研究会の仲間も引くほどで、中谷はこの頃の基次郎を、「いささか狂気じみて来た」と回想している。そんな基次郎が心を慰められていた檸檬は、寺町二条角の「八百卯」で買っていたものであった。草稿「裸像を盗む男」や「不幸(草稿1)」など書かれたのもこの時期と推定されている。「裸像を盗む男」は、他人から見た自分と、自分の見る自分との分裂が主題となっている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "12月、2度目の落第が確実となり、大阪に帰った基次郎は、退廃的生活を両親に告白して実家で謹慎生活を送ることにし、トルストイを読み耽った。北白川の下宿代は兄が支払いに行った。この頃、草稿「帰宅前後」「洗吉」「不幸(草稿2)」が書かれたと推定されている。同月に兄が結婚し、大阪市西区西島の北港住宅(のち此花区西島町北港住宅163番地の1)に所帯を持った。基次郎は年末、和歌山の近藤直人を訪ね、自画像のデッサンを持参して見せた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1923年(大正12年)1月、基次郎は小説草稿「卑怯者」断片を書いた。体調の悪化する冬、宇賀康への手紙で前年秋の自身の蛮行を振り返り、〈記憶を再現する時に如実に感覚の上に再現出来ないこと〉が、過ちを繰り返す原因と分析し、〈人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達しえられない最も悲劇的なものは短命だと自分は思ふ〉、〈どうか寿命だけは生き延び度い 短命を考へるとみぢめになつてしまふ〉と語った。",
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"paragraph_id": 72,
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"text": "2月、基次郎は、佐藤春夫の『都会の憂鬱』を読んで感銘し、自分の内面の〈惨ましく動乱する心〉を〈見物の心で、追求〉させる技術的方法を探り、本格的な創作への道を歩み出した。また山田耕筰の作品発表コンサートを聴きに行った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 73,
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"text": "この頃に草稿「彷徨」を書いたと推定されている。いずれ死に至る病を宿命として自覚していた基次郎は、その暗い意識を逆手にとって生きることで、美なるもの、純粋なものをつかみ取ろうとしていた。3月、畠田敏夫と六甲苦楽園で遊び、学期末試験を放棄して再び落第が決定した。",
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"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "4月、2度目の3年生となり、上京区北白川の下宿に戻った。理科生でありながら、結核持ちの文学青年の基次郎は三高内で有名人となった。破れた学帽に釣鐘マントと下駄ばき、汚れた肩掛けのズックカバンで授業も出ずに、そこいらを歩きまわっている風貌も目を引き、「三高の主」「古狸」などと称される存在だった。同月、近藤直人は京都帝国大学医学部に復学した。劇研究会に文甲2年の浅沼喜実が入部した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 75,
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"text": "5月、上京区寺町荒神口下ル松蔭町(京都御所の東)の梶川方に下宿を移した(この下宿屋の老婆と30歳の女教師の娘のことが、習作「貧しい生活より」の題材となり、小説「ある心の風景」の舞台部屋となる)。この頃、母への贖罪のための草稿「母親」や、「矛盾のやうな真実」「奎吉」が書かれ、劇研究会の回覧雑誌『真素木(ましろき)』に、瀬山極(ポール・セザンヌをもじった筆名で「奎吉」を発表した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "また、三高校友会・嶽水会の文芸部理事になった外村茂に頼まれ、『嶽水会雑誌』に「矛盾の様な真実」を投稿した。2作とも、内面と外面との落差などを描いた小品であった。この校友会誌に作品を投稿したことのあった文甲1年生の武田麟太郎は、ある日グラウンドで基次郎から突然話しかけられ、「矛盾の様な真実」の感想を求められた後、同号はくだらない作品ばかりだったから、今度君がいいものをきっと書いてくれと丁寧に言われたという。",
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "6月、近藤直人の下宿が左京区南禅寺草川町に変わり、基次郎は頻繁にここを訪ねた。雑誌『改造』に掲載された若山牧水の「みなかみ紀行」を読んで宇賀康に送った。宇賀は5月上旬に幽門閉塞で危篤となり、お茶の水の順天堂病院に入院し手術を受け、病院に駆けつけた基次郎はそこに留まって看病していた。その後基次郎は学期末試験に向けて勉強に励んだ。",
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "7月、有島武郎が軽井沢の別荘で心中した事件を中谷孝雄から聞き、基次郎はしばらくショックで口もきけなくなり考え込んでしまった。同月、「矛盾の様な真実」掲載の『嶽水会雑誌』(第84号)に詩を発表していた文丙3年の丸山薫(東京高等商船学校卒業後に三高に入学したため当時24歳)に基次郎は話しかけて知り合った。四国小松島の三高水泳所に行ったこの頃、八坂神社石段の西北のカフェーを舞台にした草稿「カッフェー・ラーヴェン」が書かれたと推定される。",
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"paragraph_id": 79,
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"text": "8月、軍の簡閲点呼を受けるため大阪に帰り、父・宗太郎と別府温泉へ旅行した。ビールを飲みながら、有島武郎の自殺事件について大激論となった。この頃には日向の「新しき村」の武者小路実篤の四角関係も新聞ネタになっていた。別府からの帰路は1人船で帰った基次郎は、トルストイの『戦争と平和』を耽読し、この船旅のことを草稿「瀬戸内海の夜」に書いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "9月、劇研究会の公演準備(チェホフの『熊』、シングの『鋳掛屋の結婚』の演出担当、山本有三の『海彦山彦』)で、「多青座」を組織し、同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)の女学生2人(石田竹子と梅田アサ子)を加えて、万里小路新一条上ルに部屋を借りて稽古した。しかし、それが不謹慎だという噂が広まり、10月に校長・森外三郎より、関東大震災のあとの自粛という表向きの理由で公演中止命令が出された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 81,
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"text": "すでに衣裳も準備し前売り券も売っていたため、『日出新聞』に中止の広告を出して、公演当日10月17日には会場で払い戻し作業に追われた。後始末のための金は校長から100円を渡されたが、外村茂や基次郎は公演中止に激しく憤った。これがのち、〈恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ〉と5年後もなお尾を引いて綴られることになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 82,
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"text": "基次郎は払い戻しを終えると、祇園神社の石段下の北側にあった「カフェ・レーヴン」で酒を飲んで暴れた。悔し涙で再び基次郎の泥酔の日々が始まり、外村茂や浅見篤、中谷孝雄も付き合った。カフェーには、関東大震災後に大杉栄が官憲に虐殺され(甘粕事件)、京都に逃げてきたアナーキストらが多く出入りしていたため、彼らもその空気に影響された。酔うと基次郎は外村茂を「豪商外村吉太郎商店の御曹司」と揶揄し、4人一緒に大声で「監獄をぶっこわせ」と高吟して夜の街を練り歩き、看板を壊して暴れ回った。",
"title": "生涯"
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"text": "基次郎は、円山公園の湯どうふ屋で騒ぎ、巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた。また、当時京都で有名だった「兵隊竹」という無頼漢ヤクザとカフェーで喧嘩をし、左の頬をビール瓶でなぐられ、怪我をして失神した。その頬の傷痕は生涯残った。11月、北野中学時代からの友人・宇賀康、矢野潔、中出丑三の悪口を綴った葉書をわざと宇賀宛てに出したりした。この頃、「瀬山の話」第2稿を書いていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 84,
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"text": "1924年(大正13年)1月、上京区岡崎西福ノ川町(現・左京区岡崎)の大西武二方に下宿を移し、卒業試験に備えた。浅見篤が訪ねると、原稿用紙が部屋中に散らばり、階下の便所に行かずに、ズックカバンの中に小便を溜めてぶら下げていたという。この頃、自分の鬱屈した内面を客観化して書こうとする傾向の草稿(習作「雪の日」「瀬山の話」「汽車――その他」や「過古」などに発展する)をいくつも試みていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2月、卒業試験終了後、基次郎は重病を装って人力車で教授宅を廻り、卒業を懇願した。3月、特別及第で卒業。結局5年がかりで三高を卒業した基次郎は、その足で夜汽車に乗って上京し、東京帝国大学文学部英文科に入学の手続きを済ませた(当時は倍率が低ければ無試験で入学可能であった)。同行した中谷孝雄と外村茂も、それぞれ独文科、経済学部経済学科を希望した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "3人は麻布市兵衛町の外村家別宅に泊り、同人雑誌を出すことを語り合い、銀座や神楽坂に繰り出した。中谷孝雄が先に帰郷した後も基次郎はそこに残り、中谷の三重県立一中時代の後輩の新進歌人・稲森宗太郎(早稲田大学国文科)を訪ねたり、すでに東京帝国大学工学部電気科3年になる宇賀康や、東京に帰省していた浅見篤と遊び、東大赤門前のカフェーで客と喧嘩し2階から転落したりした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "京都に戻った基次郎は下宿を引き払った後、三高劇研究会の後輩らと飲み、武田麟太郎に愛用のズックカバンと登山靴をあげた。大阪の実家に帰ると、東京での生活費は自分で稼ぐように通告された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "4月、雑誌『中央公論』に掲載された佐藤春夫の「『風流』論」を読み、自我を追究する近代小説よりも自然と一体化する瞬間の美を描くボードレールや松尾芭蕉の作品を賞揚する佐藤春夫の姿勢に共鳴した。この頃、トルストイの『アンナ・カレーニナ』や若山牧水の『山櫻の歌』も読んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "上京した基次郎は数日間、本郷区追分町の矢野潔の下宿に泊った後、本郷区本郷3丁目18番地(現・文京区本郷2丁目39番13号)の蓋平館支店に下宿を決めた。前年の関東大震災で東大の赤レンガも壊れたままのところもあったが、下宿先の町は被害が少ない地域であった。三高の入学式の檀上では、卒業試験後の人力車の挿話を伝え聞いていた森校長が、卒業生の基次郎のことを、病気を親に隠し猛勉強した親孝行者として新入生に紹介した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "先に帝大文学部に進んでいた飯島正、大宅壮一、浅野晃が第七次『新思潮』創刊を計画していたことに刺激された基次郎と中谷孝雄、外村茂は、自分たちも同人誌を作ろうと具体的計画を練り、5月に、三高出身の小林馨(仏文科)と忽那吉之助(独文科)や、稲森宗太郎(早大)を仲間に加えて、誌名の仮称を三高時代によく通った「カフェ・レーヴン」から「鴉」とした。これはエドガー・アラン・ポーの詩に「大鴉」があったことも由来する。だが基次郎はこの「鴉」という名称に不満を持っていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 91,
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"text": "6人は5月初旬に、本郷4丁目の食料品店「青木堂」の2階にある喫茶店で第1回同人会を開き、創刊を秋にすることして具体的な日取りを進めた。6月に大宅壮一らの第七次『新思潮』が創刊され、巷の文学青年たちの間で同人誌を創刊する気運が高まっていた。この頃、基次郎は草稿「夕凪橋の狸」「貧しい生活より」を書いたと推定されている。月末、異母妹・八重子の危篤の報を受け、基次郎は大阪の実家へ駆けつけた。基次郎はこの幼い異母妹をとても可愛がっていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1924年(大正13年)7月2日、3歳の八重子は家族全員の看病の甲斐なく結核性脳膜炎で急逝した。貧乏で死なせてしまったことを不憫に思ったのか、父・宗太郎は悲しみ酔いつぶれた夢の中でも「南無妙法蓮華経」を唱えて、指の先で畳を擦っていた。落胆や様々な思いが基次郎の胸に去来し、計画していた5幕物の戯曲「浦島太郎」の執筆を断念し、短編小説を書く決意をした。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "初七日が済み、若山牧水の『みなかみ紀行』を買って夜の街を散歩した基次郎は、〈綴りの間違つた看板の様な都会の美〉や〈華やかな孤独〉を感じ、〈神経衰弱に非ざればある種の美が把めないと思つてゐる〉として、それを書くためには〈精力〉が必要だという心境を友人らに宛て綴った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 94,
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"text": "この頃、よく血痰を吐いていた基次郎は、不安定で敏感な感覚の精神状態の中にいたが、その自意識の過剰の惹き起こす苛立ちや、日常の認識から解放された地点で、感覚そのものを見つめ、五感を総動員して「秘かな美」を探ることに次第に意識的になっていった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "また近藤直人と新京極を散歩中に見た蛸薬師の絵馬から、〈表立つた人々には玩賞されないが市井の人や子供に玩賞せられるこの様な派の存在〉に気づかされた。中之島図書館に帝大の角帽を被って行く〈学生時代の特権意識〉と〈軽いロマンティシイズム〉を感じて、〈一面恥かしく、一面軽く許す気〉にもなった。この頃、草稿「犬を売る男」が書かれたと推定されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "8月、姉夫婦の宮田一家が住む三重県飯南郡松阪町殿町1360番地(現・松阪市殿町)へ養生を兼ねて、母と末弟・良吉を連れて滞在した。基次郎は都会に倦んだ神経を休め、異母妹の死を静かな気持で考えた。母と末弟が先に帰った後も、松阪城跡を歩き、風景のスケッチや草稿ノートを書き留めた。これがのちの「城のある町にて」の素材となる。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "9月初旬に京都に行った基次郎は、加茂の河原の風景の中で心を解放し、言葉で風景をスケッチした後、東京の下宿に戻って同人雑誌の創刊のため喫茶店の広告取りをし、掲載する作品創作にも勤しんだ。この頃、初恋の思い出の草稿を宇野浩二の『蔵の中』に影響された饒舌体で書き、草稿「犬を売る男」や「病気」を原稿用紙にまとめ直そうとしていたと推定されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 98,
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"text": "この時期、大阪の実家は玉突き屋を閉店し、大阪府東成郡天王寺村大字阿倍野99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に引っ越した。そこで母・ヒサは、羽織の紐などの小物や駄菓子を売る小間物屋を開店した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 99,
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"text": "1924年(大正13年)10月上旬、本郷菊坂下の中谷孝雄の下宿に集まった基次郎ら同人6人は雑誌の正式名称を何にするか相談した。基次郎は「薊」(あざみ)という名がいいと主張したが、水を揚げない花だと反対する者があり廃案となった。中谷と同棲を再開していた平林英子が、武者小路実篤の詩に「さわぐものはさわげ、俺は青空」というのがあると窓辺で中谷に囁いた。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 100,
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"text": "中谷が快晴の空を見上げながら「青空はいいな」と叫び、即座に基次郎が賛同して「青空」に決定した。中谷と吉祥寺に行って十三夜の月見をした基次郎は、作家として生計を立てる決意を告げたという。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 101,
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"text": "以前から基次郎は、京都での自分の鬱屈した内面を客観化しようとした「瀬山の話」を書き進めていたが完成に至らずに習作どまりで断念していた。その中の「瀬山ナレーション」の断章挿話「檸檬」(一個のレモンと出会ったときのよろこびと、レモンを爆弾に見立て、自分を圧迫する現実を破砕してしまおうという感覚を描いたもの)を独立した作品に仕立て直して、創刊号に発表することにした。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "同人らは『青空』創刊号に掲載する原稿を10月末に持ち寄り、帝大前の郁文堂書店に発売を依頼するが印刷代が高額だったため、そこでの印刷は断念し、稲森宗太郎の友人・寺崎浩の父親が岐阜刑務所の所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらうことになった。外村茂と忽那吉之助が帰郷ついでに刑務所に原稿を渡した後、校正などの事務連絡に手間取り、創刊発行は新年になることになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "11月、中谷夫妻が江戸川区に転居したため、基次郎の下宿が同人の集合する場所になった。この頃、基次郎は武蔵野を散策して、国木田独歩の『武蔵野』のような作品を書きたいと考えていた。フランスと日本の20世紀絵画(林武、黒田清輝)への関心が強まった基次郎は、〈前からもさうでしたが、自分個人的なそしてその場その場の感興に身を委せるといふ様なことに無意識的に移つて来たやうに思ひます〉と近藤直人に書き送り、同人誌創刊号に載せる小説について語った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 104,
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"text": "12月、宇賀康の家の紹介で、郊外の荏原郡目黒町字中目黒859番地(現・目黒区目黒3丁目4番2号)の八十川方に下宿先を変えた。この家は偶然にも母の若い頃の友人宅であった。27日には、印刷された『青空』300部を受け取りに、中谷、外村と3人で岐阜刑務所作業部に出向いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "半数を外村茂の実家に送付し、残りを携えて京都に行き、販売協力のため円山公園にある料亭「あけぼの」で待つ劇研究会後輩の浅沼喜実、北神正、新加入の淀野隆三(文甲3年。伏見の鉄商の息子)、龍村謙(文乙2年。西陣織の染織研究・龍村平蔵の長男)に渡した。その夜、基次郎と外村は後輩らと、伏見過書町の淀野隆三の実家に泊り、翌日は先輩の山本修二の家(京都寺町丸太町)に行った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1925年(大正14年)1月、小説「檸檬」を掲載した同人誌『青空』創刊号が販売されたが、評判にならなかった。雑誌を文壇作家に寄贈しなかったためと思われたが、それは基次郎が「彼らは書店で(30銭を払って)買って読む義務がある」と主張したからだった。先月半ばから取りかかっていた次号作の執筆に取り組む基次郎は下宿の部屋から出なかったので、仲間から「目黒の不動さん」と呼ばれた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "同人間の合評で「檸檬」の評判はあまり好くなかったが、第三高等学校時代の音楽仲間で帝大法学部フランス法の小山田嘉一は、同科で三高出身の北川冬彦に「これはすごいんだ」と推奨していた。稲森宗太郎は健康上の理由もあり、短歌に専念するために創刊号のみで同人を抜けた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "1925年(大正14年)1月末、大雪が止んだ後、床屋に行き散髪するが釜が割れてよく濯いでもらえず、基次郎は石鹸の泡をつけたまま歩いて古書店を回った。銀座でフランスパンを買うが、その散歩中に神経衰弱のような気分で苛立ち、有楽町のプラットホームからガード下の通りに向って小便をかけた(この日のことはのちに「泥濘」に書かれる)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "1925年(大正14年)2月、同人の集会(3号の原稿持ち寄り会)で、印刷の誤植の多い岐阜刑務所作業部から、高額でも東京麻布区六本木町の印刷所・秀巧舎に変更することに決定した。中旬には、「城のある町にて」を掲載した『青空』第2号が発行されたが、この小説もほとんど評価されなかった。基次郎は第3号には作品を投稿せず、稲森宗太郎の代わりに入れた千賀太郎は第3号のみで抜けた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "3月中旬、帝大文学部仏文科に進学する淀野隆三と、法学部に進む浅沼喜実(のちに筆名・湖山貢)が上京し、『青空』同人に加入することになった。基次郎は淀野を通じて、陸軍士官学校中退後に三高に入った1歳上の三好達治と知り合った。春休みも小説創作が進まず苦労していた基次郎は、先月から、「瀬山の話」を元に「雪の日」か「汽車その他――瀬山の話」をまとめ直そうとしていたと推定されている。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "4月、麹町区富士見町(現・千代田区)の小山田嘉一(帝大卒業後、住友銀行東京支店に就職)の家で、「檸檬」を褒めていた北川冬彦と再会した。北川は法学部から文学部仏文科に再入学して父親から勘当されたが、詩誌『亜』の同人で、前年の1924年(大正13年)1月に詩集『三半規管喪失』を刊行し、横光利一に認められる詩人となっていた。基次郎は北川を『青空』に誘うが、同人にはまだ加入しなかった。この月、実家の地番が市域に編入されて、住吉区阿倍野町99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に変わった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "5月、銀座で絵画展覧会を観たり、「カフェー・ライオン」でビフテキを食べるなど贅沢をするが倦怠感は晴れず、島崎藤村の『春を待ちつゝ』を読み、机の位置を変えたりした。この頃、「泥濘」執筆に取りかかったと推定されている。月末に麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の堀口庄之助方に下宿を変えた。家主の堀口庄之助は石積みの名人と言われた植木職人で目黒区祐天寺に居て、植木職を継いだ養子・繁蔵と津子の若夫婦が階下に住んでいた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "1925年(大正14年)6月、淀野隆三の意見を聞き入れ、著名作家に『青空』第4号を寄贈することになり、基次郎も宛名書きや喫茶店への広告ビラ書きを手伝った。この頃、淀野や外村と観にいった日仏展覧会でアントワーヌ・ブールデルの彫刻に感心した。7月、「泥濘」を掲載した『青空』第5号を発行した。実家の小間物屋は店を半分に分け、エンジニアの兄・謙一の技術指導を受けた弟・勇がラジオ店を開業した。この前年に大阪のラジオ放送局JOBKが開局していた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "8月の夏休みは、外村茂と一緒に淀野の実家を訪ね、宇治川で舟遊びをし、京都博物館に行った。同月には、神経痛の父を松山の道後温泉へ送った後に船で大阪に戻った。この頃「路上」に取りかかり、下旬に宇賀康と一緒に和歌山の近藤直人も訪ねた。9月中旬に上京する途中に、近藤直人と比叡山や琵琶湖に行き、松尾芭蕉の『奥の細道』について語った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "10月、「路上」を掲載した『青空』第8号を発行し、この号から部数を300から500部にした。この月、基次郎はなけなしの金をはたいて、帝国ホテルで開かれたジル・マルシェックスのピアノ演奏会に6日間通い、瞑想的な気分に浸り感動を味わった(これがのち「器楽的幻想」の題材となる)。同月下旬は、千葉県の陸軍鉄道部に入隊する中出丑三を、矢野繁と一緒に送っていった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "11月、「橡の花」を掲載した『青空』第9号を発行した。北神正(法学部。筆名は金子勝正)と清水芳夫(画家・清水蓼作。淀野隆三の友人)が同人参加するが、北神は第10号だけで抜けた。12月、伏見公会堂と大津の公会堂で『青空』文芸講演会が開かれ、基次郎は大津で「過古」を朗読し、余興として歌も歌った。聴衆は7名(内2人は『真昼』同人)だった。",
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"paragraph_id": 117,
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"text": "1926年(大正15年)1月、「過古」を掲載した『青空』第11号を発行。2月、「雑記・講演会其他」を掲載した『青空』第12号を発行した。この号から、基次郎が誘った飯島正が同人参加した。3月中旬、帝大仏文科に入学が決まった後輩の武田麟太郎が上京したため、三好達治と3人で銀座に行くが、飲み屋「プランタン」で明治大学の不良と大喧嘩となり、武田が築地警察署の留置場に入れられた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "4月中旬、基次郎は外村茂と共に飯倉片町の島崎藤村宅を訪問し、5月発売の同人誌『青空』第15号を直接献呈した。「雪後」と「青空同人印象記」を掲載した6月の『青空』第16号から同人に三好達治が参加した。「雪後」は友人・矢野繁をモデルにした小説である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "7月、「川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン」を掲載した『青空』第17号を発行。北神正が同人に復帰した。この号を購入した東京商科大学予科生の田中西二郎(のち中央公論社入社)は基次郎の川端論を読んで感心していた。『青空』は経営難のため、三高劇研究会の同人誌『真昼』との合同が模索されたが、この計画は実現しなかった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 120,
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"text": "8月、「ある心の風景」を掲載した『青空』第18号を発行した。炎天下、基次郎は微熱が続く中、配本に神楽坂や四谷を歩き回ったり、銀座松屋の広告を取ったりした。中旬、基次郎は激しい疲労で病状が進み血痰を見た。麻布の医者から「右肺尖に水泡音、左右肺尖に病竈あり」と診断された。そして大手出版社の雑誌『新潮』の編集者・楢崎勤から10月新人特集号への執筆依頼を受け、この猛暑の夏、大阪で執筆に取り組むが、書けずに終り、9月に新潮社に詫びに行った(この時に未完の作品が、のち「ある崖上の感情」となる)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "しかしその3日後に、書簡体小説「Kの昇天」を書き上げ、10月、「Kの昇天――或はKの溺死」を『青空』第20号に発表した。この頃、結核の進行にあせっていた基次郎は、毎晩寝床で「お前は天才だぞ」と3度繰り返し自分に暗示をかけていた。月末に三好達治が基次郎からの強い誘いで、飯倉片町の下宿の隣室に入った。心境小説こそが小説の進むべき方向と考えていた基次郎は、三好に志賀直哉の『雨蛙』を勧め、三好から萩原朔太郎の詩を教えられた。2人は松尾芭蕉七部集を注釈書で勉強した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "1926年(大正15年)11月、「『新潮』十月新人号小説評」を掲載した『青空』第21号を発行した。同人に北川冬彦、浅見篤、龍村謙(美術史学科)、英文科で八高出身の阿部知二と古澤安二郎が参加することになり、本郷4丁目の「青木堂」2階で顔合わせ会を開いた。彼らは22号から同人になった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 123,
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"text": "基次郎は夏からの無理が重なっていて、喀血がひどくなり、「君は一日も早く、君の文筆で生計を立てるより外はない、卒業証書を貰つたつて仕方がないではないか」という三好達治の勧めもあり伊豆で日光療養しようかと考えた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "自分の進学のために苦労した親への申し訳なさから悩んだが、卒業論文提出を断念した基次郎は、昭和と元号が改まった12月の暮、品川駅を発ち、衰弱した身を癒すため伊豆に行った。現地の人から暖かな西伊豆を勧められたが、吉奈で気が変り、基次郎は2歳年上の作家・川端康成のいる湯ヶ島温泉に向った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "宇賀康らが以前宿泊したという「落合楼」に入るが長逗留は断われ、「湯本館」に滞在中の川端を訪ねてみた。『青空』を寄贈されていた川端は、飯島正や北川冬彦の名を知っていた。川端は基次郎と会話中、ちょうど部屋に遊びに来た板前・大川久一に相談し、狩野川の支流・猫越川の崖沿いの宿「湯川屋」を基次郎に紹介した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "1927年(昭和2年)元旦、「落合楼」を出た基次郎は「湯川屋」に移り、宿代も一泊4円のところ、3食付きで半額の2円にしてもらった。川端の宿へそのことを報告に行き、雑誌『文藝戦線』や『辻馬車』の話を聞いていると、岸田国士がやって来たので辞去した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "基次郎はこの地で、これまで書いてきた感覚的な世界を、さらに比喩や象徴を多用し悲しみの詩的世界にした「冬の日」(前篇・後篇)を3月まで執筆した。その間、川端の宿へ通って囲碁を教わり、川端の『伊豆の踊子』の刊行の校正を手伝った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2月、「冬の日」(前篇)を掲載した『青空』第24号が発行された。この作品は同人に好評で、三好達治はいきなり室生犀星に送り、犀星が褒めた。基次郎は同人たちの思想上の違いを、〈ポルシェビスト〉対〈アナーキスト〉と喩え、自身の立場を〈資本主義的芸術の先端リヤリスチック シンボリズムの刃渡りをやります〉とした。3月から松村一雄(国文科。八高出身)が同人に参加した。川端が散歩の途中に、『伊豆の踊子』の装幀者の吉田謙吉や、『辻馬車』同人の小野勇、藤沢桓夫を連れて「湯川屋」に遊びに来たこともあった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "4月、「冬の日」(後篇)を掲載した『青空』第26号が発行された。この号で小林馨と清水芳夫が抜けた。川端康成は横光利一の結婚式出席を機に湯ヶ島を離れたが基次郎はまだ残った。その後、血痰が続いて長く歩くと高熱が出て、東京に帰れない思いで苦しんだ。この月、『辻馬車』掲載の中野重治の評論に感心した。5月、『青空』27号で浅見篤と忽那吉之助が抜け、三高出身の青木義久(京都府立医大)が加入した。「湯本館」にアナーキストの新居格が宿泊し、藤沢桓夫と一緒に「湯川屋」の基次郎を訪ねてきた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 130,
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"text": "6月、『青空』28号が発行されたが、この月から北川冬彦、三好達治、淀野隆三が脱退を決めた。同人会で雑誌の終刊が決定され、この号が最後となった。阿部知二、古澤安二郎らが新たに同人誌『糧道時代』を紀伊国屋書店から発刊する計画をし、基次郎も手紙で知らされたが、またいつか『青空』を再興することを考えていた基次郎は誘いを辞退した。",
"title": "生涯"
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"text": "1927年(昭和2年)6月頃、川端康成の勧めで湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎、広津和郎、尾崎士郎、宇野千代、下店静市らと面識を持ち、共に過ごした。7月は、淀野隆三も卒業論文を書くため滞在するようになった。同24日、芥川龍之介の自殺が報じられ、湯ヶ島にも衝撃が走った。",
"title": "生涯"
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"text": "8月、三好達治も卒論執筆のため湯ヶ島に来て、丸山薫も来湯すると、宇野千代や萩原朔太郎も交えて句会が開かれた。三好と基次郎は千代に惹かれた。",
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"text": "9月、尾崎士郎が『新潮』に湯ヶ島を舞台にした「『鶺鴒の巣』そのほか」を載せたが、「鶺鴒の巣」には基次郎が「瀬川君」として登場し、尾崎と千代との夫婦の倦怠を描いた1篇「河鹿」には、梶井が尾崎に教えたと思われる河鹿の交尾の場面が書かれた。基次郎は一旦上京した折に、中谷孝雄と共に東京府荏原郡の馬込文士村にいる尾崎を訪ねて文学談義で意気投合して話し込み、大森駅近くで鰻をおごられた。",
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"text": "10月、京都帝大医学部付属病院の医者に来春まで静養するように診断された後、大阪の実家に立ち寄り、両親の老いを感じて湯ヶ島での創作活動を決意し伊豆に戻った。",
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"text": "10月下旬に川端康成の遠い親戚にあたる北野中学時代の同級生・小西善次郎が『伊豆の踊子』を手に天城越えをするため湯ヶ島に来て、基次郎を訪ねた。11月、天城トンネルを越えて湯ヶ野温泉まで歩いて一泊し、下田港まで回って「湯川屋」に戻ったが、身体を痛めて数日間寝込んだ。",
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"text": "この頃、炭問屋、杉山の屋敷で義太夫の会を聴き、この音と動作の印象が2年前に聴いたジル・マルシェックスのピアノ演奏を呼び起こし、「器楽的幻想」の題材となる。また湯ヶ島を回った大神楽の獅子舞を見て、獅子の仮面が生きているような錯覚を感じた。12月、「『亜』の回想」が詩誌『亜』終刊号に掲載された。『糧道時代』発行計画が同人『文藝都市』となり、浅見淵から誘われ、基次郎は躊躇しながら消極的に参加した。",
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"text": "1928年(昭和3年)1月、再びやって来た小西善次郎と一緒に、熱海の貸別荘に住んでいる川端康成を訪ねて数日泊った。その後、馬込文士村の萩原朔太郎を訪ね。尾崎士郎宅の宇野千代に会いに行った基次郎は、その夜に詩人・衣巻省三の家で開かれたダンス・パーティーに一緒に参加した。千代との恋の噂などをめぐって基次郎と尾崎の間に鬱屈していた「気質の上に絡み合ふ処理できない感情」が爆発する一悶着があった。",
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"text": "基次郎が最初に、「よお、マルクスボーイ」、「おい、尾崎士郎。浪花節みたいな小説書くのん、止めろ」と尾崎を呼んだことが喧嘩の口火だった。尾崎は浪花節的人物であったが、左翼がかったことも口にしていたので、「軽薄な奴」という含意があった。「何をこの小僧」と尾崎が怒り、「足袋をぬげ」と喧嘩の体勢になった。2人は殴り合いの寸前となったが、三井勝人の仲裁により何とか事が収まった。その夜、基次郎は萩原朔太郎の家で一晩中、喀血をした。",
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"text": "湯ヶ島に戻った基次郎は、淀野隆三や清水芳夫、三好達治と過ごした。誕生日の2月17日には、熱海の川端の元を訪れ下旬まで過ごした。ボードレールの『パリの憂鬱』を座右の書としていた基次郎は、前年12月頃に英訳の一部をノートに筆写していたが、そのボードレールに影響され、清澄なニヒリズムを描いた「蒼穹」を3月の『文藝都市』第2号に発表した。",
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"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "3月中旬頃、再び来湯した藤沢桓夫とバスで下田まで行き、黙って下賀茂に2、3泊したため、宇野千代や「湯川屋」の人たちを心配させ、村中が大騒ぎになった。この時期、千代は湯ヶ島に来て、しばしば基次郎の宿を訪れていた。この3月をもって、授業料未払いで東京帝国大学文学部英文科から除籍された基次郎だが、卒業したとしても、結核の身では就職の当てもなかった。",
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"text": "4月、「筧の話」を北原白秋主宰の雑誌『近代風景』に発表。4月下旬、実家からの送金も絶たれ、宿の借金もあり湯ヶ島を去ることを決意した。",
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"paragraph_id": 142,
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"text": "1928年(昭和3年)5月、「器楽的幻覚」を『近代風景』に発表し、雑誌『創作月刊』創刊号には、自分の心の二つの相剋する働きを構造的にとらえた「冬の蠅」を発表した。この作品を阿部知二が『文藝都市』の合評欄で推奨した。",
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"paragraph_id": 143,
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"text": "5月上旬、留守の間に北川冬彦に貸していた麻布区飯倉片町の下宿に戻った基次郎は、1階を間借りして「ある崖上の感情」を書いた。この時、北川の部屋には春から上京した伊藤整(東京商科大学)もいて、基次郎から「櫻の樹の下には」の話を聞いた。伊藤は下旬に父親の病気で郷里の北海道に帰ったため、基次郎はまた2階に移った。",
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"text": "基次郎は深川区のスラム街に住みたいと考えて見に行くが、結核の身には酷な場所だと考えて諦めた。同月には、広津和郎の紹介で日本橋で開業している口碑伝承的な漢方医に注射をしてもらった。この頃すでにレントゲンに写った基次郎の左の肺には卵大ほどの穴が開いていた。",
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"text": "7月、実験的な心理小説「ある崖上の感情」を『文藝都市』に発表し、舟橋聖一に激賞された。同人『文藝都市』の批評欄に載せる小説評を依頼され、プロレタリア文学系の雑誌『戦旗』と『文藝戦線』掲載小説の批評を引受けた。基次郎はこの時期、下宿の食事代も払えなくなり、東京府豊多摩郡和田堀町堀ノ内(現・杉並区堀ノ内)の中谷孝雄の借家に身を寄せた。",
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"paragraph_id": 146,
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"text": "8月、「『戦旗』『文藝戦線』七月号創作評」において、基次郎はプロレタリア文学の観念性を批判したが、窪川稲子(佐多稲子)や岩藤雪夫は好評した。また、『創作月刊』に掲載の牧野信一の「小川の流れ」にしきりに感心した。中旬に病状が重くなり、淀野隆三からそのことを伝え聞いた川端康成・秀子夫妻が心配して見舞いにきた。",
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"text": "基次郎は毎日のように血痰を吐き、しばしば呼吸困難に陥り歩けなくなるほど体の衰弱が甚だしくなってきた。身体を心配する友人たちの強い説得もあり、9月3日に大阪市住吉区阿倍野町の実家へ帰ることになった。1年ほど静養して再び飯倉片町の下宿に戻るつもりで手荷物以外はそのままにし、基次郎は東京駅で中谷孝雄、淀野隆三、飯島正、北川冬彦に見送られた。これが基次郎の見た最後の東京だった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "ラジオ店をしていた弟・勇が徴兵検査で甲種合格して入営することが決まり、今後の一家の家計の心配があったが、相変わらず基次郎は贅沢を好んだ。実家でも昼は1人だけビフテキやカツレツなどの肉食を食べ、バターは小岩井農場のものにこだわった。12月、北川冬彦の要望で、「櫻の樹の下には」が詩の季刊誌『詩と詩論』に発表され、「器楽的幻覚」も同誌に再掲載された。",
"title": "生涯"
},
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"paragraph_id": 149,
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"text": "1929年(昭和4年)1月、馬込文士村での基次郎との一悶着に触れた尾崎士郎の「悲劇を探す男」が『中央公論』に掲載された。4日未明、59歳の父・宗太郎が心臓麻痺で急逝した。退職金が底をついたことを、前年の暮にヒサから聞いた宗太郎はがっかりし、正月からずっと酒を飲み続けていた。基次郎はこれまでの自分の贅沢(朝食にはパン、バターは小岩井農場製、紅茶はリプトンのグリーン缶、昼食は肉食やまぐろの刺身)による両親への経済的負担を反省し、〈道徳的な呵責〉を痛感した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 150,
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"text": "同月、中谷孝雄は徴兵猶予が切れて福知山歩兵第20連隊の入営が決まり、基次郎の弟・勇は広島電信隊第7中隊に入営した。ラジオ店の経営は兄・謙一が会社帰りに週に2、3回立ち寄って何とか賄った。この頃から、基次郎は近所の人々の実生活を意識的に見るようになった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 151,
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"text": "基次郎は新しい社会観の勉強に取り組みはじめ、マルクス『資本論』などの経済学の本を読み、3月、中之島公会堂で行われた河上肇の演説会「同志山本宣治の死の階級的意識」を聴き厳粛な気持になった。後輩で『青空』同人だった浅沼喜実は共産党員となっていたが、この頃に新潟県で逮捕された。4月、三高の後輩で『真昼』同人の土井逸雄の赤ん坊が亡くなり慰めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "4月中旬、弟・勇が肺尖カタルとの診断により現役免除で帰宅した。基次郎はずいぶん心配したが、実は勇が一家の大黒柱であるという住吉警察署の請願書が認められての取り計らいであった。下旬には、『青空』同人の龍村謙(実家が西陣織)がゴブラン織研究のためにフランスに渡ることになり、神戸港まで見送りに行った基次郎は、「榛名丸」の甲板上で「行きたいなあ」と何度もつぶやき、「僕の代わり見て来てくれ」と泣いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "7月、弟たちや近所の娘たち(永山家の姉妹の豊子と光子)と浜寺海岸に海水浴によく行った基次郎は、健康のために日焼けをし、帰省していた淀野隆三や武田麟太郎とも会った。8月に町名が住吉区王子町2丁目44番地に変更された。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 154,
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"text": "この頃、基次郎は親しい川端夫人への手紙に、〈小さい町の人達がどんな風に結核にやられてゆくかをいくつも見聞いたしました〉と綴り、命を奪われてゆく貧しい人々のために「プロレタリア結核研究所」が必要だと熱い思いをめぐらした。9月、『新潮』の文藝月評で川端康成が基次郎の作品に触れた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 155,
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"text": "10月下旬、京都にやって来た宇野千代から連絡を受け、基次郎はすぐに会いに行った。千代の妹・かつ子も伴って京大病院の近藤直人を訪ねるが留守のため、四条通りを散歩し、後日また大阪で千代と2人で会った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 156,
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"text": "北川冬彦から詩集『戦争』(10月刊行)を送られ、基次郎はその評論を書き、堀辰雄、川端康成と横光利一が参加している雑誌『文學』11月号に発表した。11月、基次郎は体調が思わしくない中、除隊を控えた中谷孝雄のいる福知山歩兵第20連隊に面会に行って一泊するが、帰りの駅の階段で汽車の煤煙を吸い込み呼吸困難となり、数日間寝込んだ。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "12月、東京から兵庫県芦屋市に転居した宇野千代が神戸に引っ越したため、基次郎はまた会いに行った。千代が初めて新聞小説を連載することを聞き、基次郎はその題名に「罌粟はなぜ紅い」と付けてやった。神戸に一泊して実家に戻った基次郎は、「のんきな患者」に取りかかり、眠れないほど執筆が進んだ。中旬、淀野隆三の家に清水芳夫と泊ったが、帰りのタクシーで呼吸困難となり、1週間ほど寝込んだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "1930年(昭和5年)正月、肺炎で2週間寝込み、父の一周忌も参加できなかった。しかし蘆花全集の広告文に書かれていた「未だ世に知られざる作家がその焦燥と苦悶の中に書いたものほど人の心を動かすものはない」という一文をなにげなく読んて奮起した基次郎は、自分のことを言っているように思えて襟を正し、病床でゴーリキーの『アルタモノフの一家の事業』や、ヒルファーディングの『金融資本論』などを盛んに読み、前年暮にもレマルクの『西部戦線異状なし』を読了していた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "基次郎は、父が持っていた『安田善次郎伝』に触発され、客観的な社会的小説を書きたいと思うようになるが、それは流行のプロレタリア文学のようなものでも新感覚派でもなく、人々の生活の実態をとらえたものでなければならないという意気込みを見せ、〈「根の深いもの」が今の文壇には欠けている〉と中谷に書き送った。この時期、ディケンズ、メリメ、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を何度も読んだ。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "2月、貴司山治の『忍術武勇伝』に好感を持ち、後輩の武田麟太郎の『ある除夜』に刺激されて井原西鶴を読み始めた基次郎は、自分が〈小説の本領〉に近づきかけていると感じた。母・ヒサが肺炎になり、大阪赤十字病院に一時入院すると、基次郎はほぼ毎日病院に通い看病し、下旬から3月初旬に自分自身も発熱や呼吸困難で寝込んだ。3月中旬に母が再び腎臓炎で入院。姉を呼んで自分もタクシーで母の看護に通い、病院から「闇の絵巻」「のんきな患者」の構想を北川冬彦に手紙で知らせた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "4月下旬に母が無事退院し自宅療養となった。基次郎は痔疾に悩まされた。5月、草稿「猫」から「愛撫」を書き上げた。弟・勇が近所の馴染みの娘・永山豊子と結婚したため、基次郎は母と末弟・良吉と共に兵庫県川辺郡伊丹町堀越町26(現・伊丹市清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住した。その後、母と良吉は大阪市住吉区の家に戻り、基次郎だけ伊丹町に残った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "6月、「愛撫」が北川冬彦と三好達治、淀野隆三らの同人誌『詩・現実』創刊号に発表された。この作品は友人間で評判が良く、川端康成も雑誌『作品』7月号の作品評欄で取り上げ、「気品」さを賞揚した。7月、発熱が続いたため大阪の実家に戻り、診察してもらうと胃炎になっていた。8月、宇野千代が尾崎士郎と正式離婚し、その後千代は東郷青児と再婚した。結婚通知の葉書を受け取った基次郎は、「しようもない奴と結婚しやがって」と吐き捨てるように言ったのを弟嫁・豊子が聞いた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "同8月に「闇の絵巻」を書き上げ、9月初めに伊丹の兄の家に戻った。「闇の絵巻」が『詩・現実』第2冊に掲載され、川端が『読売新聞』の文芸時評でその作品を取り上げ、その「澄んだ心境」を賞揚した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "9月下旬、兄一家が川辺郡稲野村大字千僧小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に転居し、基次郎もその離れ家(8畳と6畳部屋)に落ちついた。そこは人里離れた土地で家賃も安く、エンジニアの兄の仕事の無線交信実験に適した場所であった。兄の子供らは基次郎になついて、ついつい離れ家に遊びに行った。その後、この家に母と末弟・良吉も同居するようになり、母は基次郎の面倒を見た。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "10月、基次郎は後輩の淀野隆三に宛て、〈生活に対する愛着〉を説き、淀野の使用する観念的な言葉遣いを批判的に指摘した。また、辻野久憲が自然主義や私小説の行き詰まりを論じたことを〈紋切型〉だとして反対し、ルソーの『告白録』に連なる島崎藤村の懺悔の系譜、西欧のリアリズムの客観的手法、俳諧写生文の系譜などを考えずに〈一様に〉混同することに異議を唱え、〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉を説いた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "11月、次号の『詩・現実』第3冊に発表する作品原稿が挫折した。この頃、草稿「琴を持つた乞食と舞踏人形」「海」が書かれたと推定されている。12月、『詩・現実』第3冊には「冬の日」が再掲載。見舞いに来た淀野隆三に、「交尾」(その一、その二)の原稿を見せて渡した。基次郎は淀野と近所を散歩中、「東京の横光はどうや?」と質問し、勢いのあった横光利一をライバル視していた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "12月下旬、母が阿倍野の小間物屋(勇の嫁・豊子に任せていた)を手伝うために帰ったため、基次郎は寒い冬を万年床で過ごした。この頃に草稿「温泉」が書かれたと推定されている。野菜や肉など食事は十分に摂り、友人らが手土産に持ってくるいたチーズやバターも食べていた基次郎だったが、身体は随分やせてきていた。北野中学時代からの友人や、元『青空』同人らは、みな社会人となり妻帯していた。結核持ちの基次郎だけが取り残された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 168,
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"text": "1931年(昭和6年)1月、「交尾」が、小野松二の主宰雑誌『作品』に発表された。井伏鱒二はこの作品を、「神わざの小説」と驚嘆して賞揚した。以前揉めた尾崎士郎からも好評の葉書が来て、基次郎は嬉しさを感じ〈必生〔ママ〕の作品を書き、地球へ痕を残すつもりです〉と返信した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 169,
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"text": "しかし流感で発熱が続いて寝込む日々が続いた。月末に見舞いに来た三好達治は、痩せて頬のこけた基次郎の衰弱ぶりに驚き、生きているうちに友の創作集の出版を淀野隆三と相談し2人で奔走した。淀野は『詩・現実』の版元の古書店・武蔵野書院から出版できることを基次郎に知らせた。基次郎は、2人が版元に渡すため原稿用紙に写す作業をすることを心苦しく思い、〈僕の本のことで いい時間を使ふことをやめてほしい〉と気づかうが、友の好意を〈涙が出ます〉とありがたく受け取った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 170,
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"text": "2月中旬にやっと熱は下がるが、基次郎は床に伏したままであった。淀野からの問い合わせに基次郎は答え、作品集のタイトルを『檸檬』に決めて構成などの方針を、母の代筆で書き送った。3月、『作品』の作品評で井伏鱒二が「交尾」を取り上げ、「水際たつてゐる」と高評した。この頃基次郎は、大便を便所に立って行けるようになり、ようやく寝床で起きて食事ができるようになったが、春過ぎまで寝たり起きたりの日々が続き、枕元のラジオをよく聴いていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 171,
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"text": "4月、作品集の校正刷りが出来上った時、基次郎は「橡の花」を〈レベル以下〉として削除するように頼んで、淀野らに労を詫びた。川端康成が『読売新聞』に「芸術派・明日の作家――芸術派雑誌同人批評」で基次郎の名前を挙げた。5月、小野松二も『作品』の文芸時評で基次郎の作品に触れた。基次郎は健康になるため、近所の人が殺したというマムシを母に拾ってきてもらい食べた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 172,
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"text": "5月15日、初の創作集『檸檬』が刊行された。基次郎は18日に届いた本を一日眺め暮し、〈「これからだ」と自分を励まし〉ながらも病気のことを考えて〈絶句〉した。淀野らは『檸檬』を作家らに寄贈した。下旬に、『中央公論』編集部の田中西二郎から作品を見たいと手紙が来た。これは新人作家の八重樫昊が基次郎を推薦したためで、その話を同誌4月号に「北方」が推薦された北川冬彦から伝え聞いた基次郎は文壇の総合文芸誌にデビューできる嬉しさを味わった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 173,
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"text": "6月、創作集『檸檬』の反響が表われ、『詩・現実』第5号に丸山薫が「『檸檬』に就いて」を載せ、井上良雄も『詩と散文』で激賞した。中旬に紀州の親類(兄嫁の実家)が湯崎で捕まえ送ってくれたマムシの生き肝を飲むが、2、3日後に浮腫となり腎臓炎と診断された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 174,
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"text": "7月、『新文學研究』第3集で伊藤整が「三つの著書」として百田宗治の『パイプの中の家族』、横光利一の『機械』と共に『檸檬』を好評した。中旬に届いた淀野隆三・佐藤正彰訳のプルースト『失ひし時を索めて』の第1巻『スワン家の方』を基次郎は読み、プルーストを〈狭い世界の大物〉と賞讃した。基次郎は井上良雄の書評を喜んだことを北川冬彦に書き送り、〈僕の観照の仕方に「対象の中へ自己を再生さす」といふ言葉を与へてくれただけでも、僕は非常に有難いことだつた〉と告げた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "8月、創作集の印税75円を受け取った。基次郎は家族からせっつかれ、なかなか入らなかった印税を版元に催促するよう淀野に頼んでいた自分を恥ずかしく感じた。生活費に困り印税をあてにして母は蚊帳を買って布団も作りたいと言い、末弟も参考書をほしがっていた。9月、雑誌『作品』にプルーストの『スワン家の方』の書評「『親近』と『拒絶』」を発表した。基次郎は、〈回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない〉と評価しつつ、プルーストの〈回想の甘美〉を拒否し、自分の〈素朴な経験の世界〉へ就こうとする姿勢を示した。",
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"paragraph_id": 176,
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"text": "その頃、家の中では兄嫁・あき江が、子供らが基次郎になついて離れにしばしば遊びに行くことを嫌がり姑のヒサと時々衝突することがあった。そして9月下旬、ヒサの留守中、「そばに寄ったら病気が移る」と子供に注意した一言を聞いて怒った基次郎と揉め、兄嫁は子供2人を連れて実家へ帰ってしまう事件があった。10月、弟・勇が基次郎を引き取りに来て、母と共に大阪市住吉区の実家に戻った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 177,
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"text": "基次郎は浜寺や畿内に療養地がないかと考えたが、すぐ近くの住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番29号)に空き家があったため、そこに移住した。ボロ家で狭かったが、実家から2分ほどで、食事の面倒も母に見てもらえた。一応は独立した家に「梶井基次郎」と自筆の表札を掲げ1人で住むことに基次郎は感慨を覚えた。千僧からの引っ越し荷物の中に、『中央公論』からの12月号への正式原稿依頼があったのを見つけ、間に合わないために新年号に延期してもらった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 178,
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"text": "11月下旬、病状が重い中、「のんきな患者」の執筆に懸命に取り組んだ基次郎だが、思うようにならず、12月2日に、冒頭から書き直して9日夕方に完成させ、母の校正で10日の深夜2時にやっと清書が出来た。弟・勇はそれを持ってオートバイで大阪中央郵便局まで飛ばし、航空便で東京の中央公論社に送った。中旬、執筆や転居の無理がたたり、基次郎はカンフル注射や酸素吸入で看護される病床生活になった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 179,
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"text": "ひと足先に20日に新年号が基次郎の元に届き、24日に原稿料230円が送金されてきた。これが基次郎の初めて手にした「原稿料」であった。基次郎は母に金時計を買ってやると言ったが、「そんなピカピカしたものはいらん」と母は遠慮した。歳末には母と大阪の丸善に出かけて、その原稿料で弟の嫁の3姉妹(豊子・光子・雅子)にショール、自分にはオノトの万年筆を買った。この月、基次郎は『作品』からの依頼原稿のため、草稿「温泉」に取りかかっていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 180,
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"text": "1932年(昭和7年)1月、「のんきな患者」が『中央公論』新年号に発表された。この作品は、正宗白鳥が『東京朝日新聞』で褒め、直木三十五が『読売新聞』の文芸時評で取上げ「シャッポをぬいだ」と評して好調であった。しかし7日、体調のすぐれない基次郎は『作品』編集部に宛て、約束が果たせないかもしれないと書いた。中旬、母は基次郎と一緒に落ちついて暮らせる家を住之江区の北島や姫松、田辺方面に探した。絶対安静の床で基次郎は、「のんきな患者」の続篇を考えていた。",
"title": "生涯"
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"text": "2月、小林秀雄が『中央公論』で「檸檬」をはじめとした基次郎の作品を賞讃した。しかし基次郎は嬉しいながらも、小林が「のんきな患者」を論じていなかったことが少し心残りであった。病床で森鷗外の史伝・歴史文学に親しんでいた基次郎だが、次々と友人らが見舞いに来ても、胸の苦しみであまりしゃべれず、次第に本を読むこともできなくなってきた。下旬に往診に医師から心臓嚢炎と診断されて胸を氷で冷やした。",
"title": "生涯"
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"text": "3月3日、一時気分がよくなり頭を洗ったり、髭を剃ったりするが、母は往診の医師の家に行き、今度浮腫が出たらもう永くは持たないと警告され、絶望しながらも覚悟を決めた。滋養のあるバターや刺身や肉類に飽きた基次郎のため、母は旬の野菜や西瓜の奈良漬など欲しがるものを食べさせたが、この頃から基次郎は噛むことも辛くなり流動食になった。",
"title": "生涯"
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"text": "次第に様態悪化し、12日から13日、基次郎は狂人のように肺結核に苦しみ、酸素ボンベ吸入をしてやっと眠った。17日の午後2時頃起きると顔が2倍になるほど浮腫がひどく出て、手も腫れていた。基次郎は手鏡で確かめたがったが、見ない方がいいと言う母に素直に従った。食欲もなくなり、この日で基次郎の日記が途絶えた。",
"title": "生涯"
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"text": "この頃から兄や姉を家に呼んでほしいと寂しさを訴え、19日には、別宅にいる弟・勇と良吉を枕元に呼んで手を握らせた。20日には京都帝大工学部の入学発表から帰った良吉の勇ましい下駄の音で、「良ちゃん、試験はよかったな」と呟き、声を上げて泣く弟を笑顔で祝福した。21日には、ひどい浮腫の手当をする医者に「もうだめでしょう」と何度も訊ね、22日は朝から激しい苦痛で、夜半に母が呼んだ派遣看護婦の荒い応対が気に入らず、「帰して仕舞へ」と言い張った。",
"title": "生涯"
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"tag": "p",
"text": "23日、基次郎は朝から苦しみ、姉に会いたがり、肝臓の痛みを訴えた。医者の投薬と注射でうつらうつらの状態の夜、基次郎は頓服を要求し、勇がやっとのことで求めてきた薬を飲んだ。酸素吸入も効かずに激しく苦しむ基次郎に母は、「まだ悟りと言ふものが残つてゐる。若し幸いして悟れたら其の苦痛は無くなるだらう」と諭した。",
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"text": "基次郎は死を覚悟し、「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌し、弟に無理を言ったことを詫びて目を閉じた。その頬にひとすじの涙をつたうのを勇の嫁・豊子は見ていた。夕刻前に基次郎は意識不明となり、家族が見守る中、24日の深夜2時に永眠した。31歳没。奈良県高市郡飛鳥村(現・明日香村)の唯称寺の僧職・順誠になっていた異母弟・網干順三が駆けつけ、通夜で読経した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 187,
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"text": "遺言により棺は茶の葉が詰められ、上部は草花で飾られた。戒名は「泰山院基道居士」。25日の午後2時から王子町2丁目13番地の自宅で告別式が行われ、15時に出棺した。阿倍野葬儀場の荼毘に付された遺骨は、南区中寺町(現・中央区中寺)常国寺2丁目にある菩提寺の日蓮宗常国寺の梶井家代々の墓に納められた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 188,
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"text": "梶井基次郎の作家生活は実質7年ほどで、そのほとんどが同人時代であまり注目されず、死の前年から認められ出したものの、その真価が本格的に高まり、独特な地位を得たのは死後のことであった。梶井が生存していた時代の文学の潮流は、新現実主義、新感覚派、新興芸術派の一群と、プロレタリア文学であったが、今や梶井の特異な文学はそれらよりも抜きん出て現存しており、「不朽の古典」となっている。",
"title": "評価"
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"text": "平田次三郎は、梶井の作品は「病める生の表現」であるが、そこに現れているものは、「清澄な生の息吹き」だとし、以下のように評している。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 190,
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"text": "梶井の短編作品群を「およそ類例がない」とし、模倣しようにも我々にはできない独特なものだと位置づける阿部昭は、梶井の「底抜けに子供らしい探究心や、苦もまた楽なりと言いたげな行文の克己の表情」などから、「理科系の青年の資質」がやはり感じられ、「それは言葉の最も純粋な意味で健康ということかもしれない」とし、その「健康」が、「サナトリウム臭い風景」や、病弱な「詩人めかした趣味」と梶井が無縁であった理由だと考察している。淀野隆三も、梶井の作風を「頽廃を描いて清澄、衰弱を描いて健康、焦燥を描いて自若、まことに闊達にして重厚」と評している。",
"title": "評価"
},
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"paragraph_id": 191,
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"text": "鈴木貞美は、梶井の歩みは死によって途絶えてしまったが、「自らの作品を借りものの意匠で飾らず、自分の内からたち起こってくる表現への欲求にあくまで忠実であろうとし、そうすることではじめて現代の不幸な魂の実相に清冽な表現を与えることの出来た作家」だと位置づけ、諸作品に見られる作品傾向を以下のように解説している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 192,
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"text": "井上良雄は、梶井の描写感覚や心理構造を「稀有」と評し、その特性を、「見ること――己れを放棄して対象の中に再生すること」と表現して、「自我と世界との分離」という「近代知性の苦悶と敗北」を乗り超える地平を見出している。",
"title": "評価"
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"text": "横光利一は、梶井について、「静といふものをこれほど見極めて描いた作家は、まだ日本に一人もゐなかった」と賞讃し、「梶井氏の文学は、日本文学から世界文学にかかつてゐる僅かの橋のうちのその一つで、それも腐り落ちる憂ひのない勁力のもの」、「真に逞しい文学だ」と評している。",
"title": "評価"
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"paragraph_id": 194,
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"text": "三島由紀夫は、現代史において小説を純粋な自由意志の産物にするための論考の中で、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、私小説的方法があるとしつつ、「これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に“詩”へ近づくことでなければならない」と考察しながら、以下のように梶井の小説が秘めていた可能性を高く評価している。",
"title": "評価"
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{
"paragraph_id": 195,
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"text": "梶井基次郎の外見はがっしりした頑丈な体格で顔つきも無骨そうであるが、笑うと目が糸のようになり柔和なイメージになるという。基次郎は自身の顔のまずさを諦めていた。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "三高時代に2度落第し、「三高の主」「古狸」と言われていた頃は、破れた学帽に汚れた肩掛けのズックカバン姿で、頭髪にも無頓着だったため、友人らが金を出し合って散髪に行かせたりしていたが、ポケットから鞣皮の袋に入ったドラハムの粉(煙草)を取り出し、パイプでパクパクといい音をさせて吸ったり、巻いて吸ったりと、やることがお洒落だったという。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 197,
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"text": "湯ヶ島滞在から東京に戻った頃は、深みのある顔に変化していたのが、ありありとわかるほどだったという。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 198,
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"text": "基次郎は非常に五感が鋭く、闇夜で一丁離れた花の匂いも判別できるほどの嗅覚であった。耳もよく、別部屋の話し声や、手紙や号外が入った音、外から戻ってくる弟の下駄の音で、その感情も解ったという。味覚も鋭く、平林英子の作った汁物にほんのちょっとだけ砂糖が入っているのも判った。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 199,
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"text": "音楽好きで楽譜も読めた基次郎には、様々な生活音も音楽に聞こえた。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "クラシックやオペラが好きで、バッハやヘンデルなどの譜面を所蔵し、宝塚歌劇団にも通っていた。来日したエルマン、ハイフェッツ、ジンバリスト、ゴドフスキーなどの演奏会は、ほぼ全部聴きに行っていた。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 201,
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"text": "演奏会を聴きに行くときにはいつも譜面を携えていた。曲の演奏が終わると同時に、実に巧みなタイミングで先導的に拍手を送る基次郎に、一般客は驚いて感心している様子だったという。客は基次郎の拍手の音で、初めて曲が終わったことを知り、あわてて拍手をした。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 202,
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"text": "自身も歌うことが好きであった基次郎は、三高時代の寮でよく寮歌を歌った。廊下を歩きながら腹から出た野太い声で朗々と怒鳴って、三条大橋や四条大橋などの大きな橋を渡る時も、大きな声で歌いながら闊歩していたという。ベートーヴェンの交響曲なども譜面を見てよく歌っていた。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 203,
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"text": "ミンミンゼミの鳴き真似も巧く、鳴き声の抑揚が真に迫っていた時はまるで本当のミンミンゼミになっているようだったという。法師蝉の鳴き方の微妙な違いを聞き分け、蝉が〈文法のけいこ〉をやっていると基次郎は表現している。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "リプトンの紅茶を飲むのが習慣であったが、喫茶店で友人と飲む物も、レモンティーやレモンを浮かべたプレーン・ソーダを非常に好んでいた。レモンは日頃から持っていて、中谷孝雄にも「それ食ったらあかんぜ」と手垢にまみれたレモンをあげることもあった。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "レモン以外の果物を眺めるのも好きであった基次郎は、湯ヶ島では川端夫人から貰った林檎を夜通し磨いてピカピカにして床の間に飾っていた。その林檎を見つけた三好達治がかじると、基次郎はいきなり無言のまま三好の頭をなぐった。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 206,
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"text": "食べ物も当時としては贅沢な洋食を好むグルメであった。銀座でフランスパンを買い、「カフェー・ライオン」にビフテキを食べに行っていた。実家で静養中も東京暮しの時のように、昼からカツレツなどの肉食、刺身を食べた。食品のブランドにもこだわり、バターは小岩井農場、紅茶はリプトンのグリーン缶と決まっていた。お茶も、淀野隆三から贈られた高価な玉露をどっさりと惜しみなく急須に入れて飲んだ。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 207,
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"text": "日用品にもこだわりを持ち、丸善や鳩居堂で買った文房具やフランス製の高級石鹸、ウビガンのポマード、古道具屋で見つけた水差し、サモワール、コーヒー挽き、オランダ皿、ブライヤーのパイプなどの西洋雑貨を買って楽しんでいた。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 208,
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"text": "基次郎は長く結核を患い、医師からも養生を警告されていながらも、行動は健康な青年と変わらずに振舞い、他人にそれほど重病だとは思わせないようにしていた。湯ヶ島滞在中も、広津和郎の小学生の子供と一緒に裸で2時間も川に浸かって釣りをしていた(その時期、高熱があったことが後に判明)。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "またある日、生汗を滲ませ青白い顔をしていたため、同行していた蔵原伸二郎が無理をしないように助言した時も、「いや無理をしてゐるんではないんですが、寝てゐたつて同じなんです」と基次郎は言ったという。自身が病気なのに、飯島正の病気見舞いに人力車で駆けつけたこともあり、逆に飯島から「養生第一にしろ」と怒られると、素直に何度もうなずいて、苦しそうな息をこらえながら目を細めてニコニコしていたという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 210,
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"text": "基次郎は、友人が自分の結核が感染することを怖れていることが判るとひどく傷ついた。淀野隆三の下宿に行くと、毎回店屋物が出されるので、自分の結核のためだと気にした。友人らはそれを基次郎の我儘だと感じたが、基次郎にとっては自分にそれを気づかされるようにしてほしくはなかった。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 211,
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"text": "湯ヶ島滞在時に、何人かが集まり西瓜を全員で食べることになった時も、基次郎はそれを半分に割り、自分が使ったスプーンを突っ込んで掬って食べ始めたため、誰も西瓜に手を出せなくなり一座の空気が一瞬凍りついた。しかし基次郎はそれに気づいていながらも、素知らぬ顔でがむしゃらに食べ続けたために、逆に皆の気まずさが救われた。広津和郎は、そんな基次郎に「強靭さ」に感銘し、「これはえらいぞ」と感じたという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 212,
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"text": "誰かの下宿に、同人らが集合してコーヒーを入れた時に茶碗が足りないと、基次郎は自分が飲んだ茶碗を簡単に拭いただけで、差し出したりした。それは基次郎が無神経でやっているのではなく、病気に抵抗しているんだと忽那吉之助は感じたという。その一方、基次郎の部屋で5日間過ごした北神正が、一つしかない基次郎の茶碗で平気でコーヒーを飲んでいると、「おいお前、そないしたらあかんで」と落ち着いて言い、年下の者には特に優しかった。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "しかし、中谷孝雄や三好達治らとは鍋を一緒に囲んだりもしている。中谷孝雄は 後に「俺は結核のことを、よく知らなかったんだよ。若かったね」と回想している。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 214,
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"text": "下宿の隣部屋に三好達治が同居していた時、ある晩基次郎は「葡萄酒を見せてやらうか...美しいだらう...」と三好を呼び、ガラスのコップを電灯にかざし透かして見せた。その美しい鮮明な赤い液体が、基次郎が直前に喀血した血だと言われるまで、三好は気づかなかった。それは茶目っ気混じりの基次郎のブラックユーモアであったが、病気への抵抗と美意識が感じられたという。",
"title": "人物像・エピソード"
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{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "そんな強気の基次郎であったが、身体がだいぶ弱ってきて稲野村の千僧にいる頃には、見舞いに来た丸山薫を門で見送る時に、「たとへライオンが追駆けて来たつて、もう僕は二た足と走れないのだ」という悲しげな諧謔を言っていた。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 216,
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"text": "ちなみに、三好達治は基次郎の亡くなる少し前(1931年10月末)に彼の家に泊まったが(その時の帰りのバスで立つのもやっとな基次郎が外まで見送りに来たが、それが三好の見た最後の基次郎であった)、その時に罹患したのか三好はその後に結核になってしまう。病院に入院した三好は、見舞いに来た友人に吐いた血をグラスに入れ「葡萄酒を見せてやらうか...美しいだらう...」といつかの基次郎の真似をして見せた。三好は幸い助かるが基次郎は亡くなってしまった。それについて三好は、基次郎から病気をもらったのだと弟子の石原八束に語っている。",
"title": "人物像・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "結核のために所帯を持つことを諦めていた基次郎だったが、亡くなる約4か月には、見舞いに来た姉・冨士に、「実はなあ、僕、このごろ結婚しようかと考える時もあるねん」と、誰も当てがないにもかかわらず話したという。「だれもおらんけど、結婚するんやったら看護婦さんとやな」「これ以上、母さんに苦労かけとうないさかいな」という言葉に、冨士が思わず胸をつかれて黙ると、基次郎はあわてて笑い声を立てて冗談めかした。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "基次郎は『青空』の同人のまとめ役的な存在で、同人間で仲たがい(中谷孝雄と淀野隆三)があると、2人に手紙を出し、仲良くするように仲裁することにも熱心であった。また、一度知り合い懇意になった人物とは永久的に交友しようとする傾向があったという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 219,
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"text": "友人想いで、自身が同人となった『文藝都市』に中谷孝雄と淀野隆三を入れることに尽力し、蔵原伸二郎らの同人雑誌『雄鶏』にも、中谷孝雄を入れてほしいと依頼していたこともあった。そして、それに応じた蔵原への謝礼の別の手紙には、自分が頼んでいたことに一切触れずに、蔵原の厚意や力だけを感謝するという繊細な心配りの姿勢があった。",
"title": "人物像・エピソード"
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"paragraph_id": 220,
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"text": "子供にも好かれ、湯ヶ島温泉「湯川屋」の主人の子・安藤公夫(当時小学校3年)がよく基次郎になついていた。夕方や日曜日に公夫を見かけると、「公ちゃんおいで」と自分の部屋に招き、紅茶や駿河屋の羊羹をご馳走し、共同風呂にもよく一緒に行った。公夫の友だち4人も基次郎の部屋に遊びに来ると、夜汽車のトンネルで窓ガラスをひっかく老婆の幽霊の怪談話など、様々な面白い話をしたという。",
"title": "人物像・エピソード"
},
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"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "女性にも紳士で、北川冬彦の妻の仲町貞子が、用事で電話をかけに行かなければならなくなり、その場所が分らず、夫に同行を頼むが北川がぐずぐずしていると、たまたま遊びに来ていて高熱で横になっていた基次郎がすっと立ち上がり、遠慮する貞子を制止し、その電話の場所まで連れていってあれこれ全てやってくれたという。また、貞子が夫に命じられ、自分の着物類を持って質屋に行く時にも、初めてのことで戸惑い恥かしい思いの貞子の気持を察し、代わりに質屋に入ってくれたという。",
"title": "人物像・エピソード"
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"text": "各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。",
"title": "家族・親族"
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"text": "小説",
"title": "作品一覧"
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"text": "習作・試作",
"title": "作品一覧"
},
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"text": "遺稿・断片 ☆印は仮題",
"title": "作品一覧"
},
{
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"text": "批評・感想",
"title": "作品一覧"
}
] | 梶井 基次郎は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。 死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。 梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鷗外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。 | {{Infobox 作家
| name = 梶井 基次郎<br />(かじい もとじろう)
| image = Motojirō Kajii, January 1931.jpg
| image_size = 250px
| caption = 1931年1月2日、29歳の梶井基次郎<br />([[兵庫県]][[川辺郡]][[稲野村]]大字[[千僧]]の庭先にて。兄・謙一撮影)
| pseudonym =
| birth_name = 梶井 基次郎(かじい もとじろう)
| birth_date = [[1901年]][[2月17日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[土佐堀通]]5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1901|2|17|1932|3|24}}
| death_place = {{JPN}}・大阪府大阪市[[住吉区]]王子町2丁目13番地(現・[[阿倍野区]]王子町2丁目17番29号)
| resting_place = 大阪市[[南区 (大阪市)|南区]]中寺町(現・[[中央区 (大阪市)|中央区]]中寺)2丁目の常国寺
| occupation = [[小説家]]、[[詩人]]
| language = [[日本語]]
| nationality = {{JPN}}
| education =
| alma_mater = [[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]](現・[[京都大学]] 総合人間学部)[[理科]]甲類卒業<br />[[東京帝国大学]][[文学部]][[英文科]]中退
| period = [[1923年]] - [[1932年]]
| genre = [[私小説]]・心境小説・[[散文詩]]的[[短編]]
| subject = 孤独感・寂寥感<br />清澄な[[ニヒリズム]]・心の彷徨<br />秘かな[[美]]
| movement = [[新興芸術派]]の傍流
| religion =
| notable_works = 『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』(1925年)<br />『[[城のある町にて]]』(1925年)<br />『[[冬の日 (小説)|冬の日]]』(1927年)<br />『[[冬の蠅]]』(1928年)<br />『[[櫻の樹の下には]]』(1928年)<br />『[[闇の絵巻]]』(1930年)<br />『[[のんきな患者]]』(1932年)
| spouse = 無し
| partner =
| children = 無し
| relations = 宗太郎(父)、ヒサ(母)<br />秀吉(祖父)、スヱ(祖母)<br />冨士(姉)、謙一(兄)<br />芳雄、勇、良吉(弟)<br />網干順三(異母弟)<br />八重子(異母妹)<br />誠、功、清(甥)<br />宮田寿子(姪)、尚(甥)<br />[[網干善教]](甥)
| influences = [[夏目漱石]]、[[森鷗外]]、[[谷崎潤一郎]]<br />[[志賀直哉]]、[[有島武郎]]、[[島崎藤村]]<br />[[武者小路実篤]]、[[上田敏]]、[[佐藤春夫]]<br />[[高浜虚子]]、[[川端康成]]、[[横光利一]]<br />[[井原西鶴]]、[[松尾芭蕉]]、[[西田幾多郎]]<br />[[ミッシャ・エルマン|エルマン]]、[[レオポルド・ゴドフスキー|ゴドフスキー]]<br />[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ドミニク・アングル|アングル]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]<br />[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]<br />[[エーリヒ・マリア・レマルク|レマルク]]、[[カール・マルクス|マルクス]]<br />[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]、[[プロスペル・メリメ|メリメ]]<br />[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]、[[ルドルフ・ヒルファーディング|ヒルファーディング]]<br />[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]、[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]<br />[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[ラファエル・フォン・ケーベル|ケーベル]]
| influenced = [[外村繁]]、[[淀野隆三]]、[[三好達治]]<br />[[北川冬彦]]、[[井伏鱒二]]、[[武田麟太郎]]<br />[[小島信夫]]、[[開高健]]、[[小館善四郎]]<br />[[佐々木基一]]、[[梅崎春生]]<br />[[安岡章太郎]]、[[吉行淳之介]]、[[吉村昭]]<br />[[庄野潤三]]、[[伊東静雄]]、[[三島由紀夫]]、[[村上龍]]
| awards =
| debut_works = 『奎吉』(1923年)<br />『檸檬』(1925年)
| signature =
| website =
<!--| footnotes = -->
}}
'''梶井 基次郎'''(かじい もとじろう、[[1901年]]〈[[明治]]34年〉[[2月17日]] - [[1932年]]〈[[昭和]]7年〉[[3月24日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な[[文体]]で20篇余りの小品を残し、[[文壇]]に認められてまもなく、31歳の若さで[[結核|肺結核]]で没した<ref name="album1">「生い立ち」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=4-15}})</ref><ref name="dokuhon">「[[文章読本]]――短篇小説の文章」([[婦人公論]] 1959年1月号付録)。{{Harvnb|文章読本|2001|pp=61-76}}、{{Harvnb|三島31巻|2003|pp=52-63}}に所収</ref><ref name="taka">[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]「存在の一元性を凝視する」({{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=546-551}})</ref>。
死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている<ref name="hirata">[[平田次三郎]]「解説」(『現代文学代表作全集第1巻』万里閣、1948年6月)。{{Harvnb|新潮文庫|2003|pp=347-349}}</ref><ref name="zanei">「III 反響と残映――資料編」({{Harvnb|別巻|2000|pp=336-453}})</ref>。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、[[自然主義文学#日本|日本的自然主義]]や[[私小説]]の影響を受けながらも、感覚的[[詩人]]的な側面の強い独自の作品を創り出している<ref name="dokuhon"/><ref name="hirata"/><ref>[[久世番子]]『よちよち文藝部』([[文藝春秋]]、2012年10月)p.79</ref>。
梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、[[夏目漱石]]や[[森鷗外]]、[[有島武郎]]や[[志賀直哉]]などの[[白樺派]]、[[大正]]期[[デカダンス]]、[[ヨーロッパ|西欧]]の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち([[井伏鱒二]]、[[埴谷雄高]]、[[吉行淳之介]]、[[伊藤整]]、[[武田泰淳]]、[[中村光夫]]、[[川端康成]]、[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]、[[三島由紀夫]]、[[中村真一郎]]、[[福永武彦]]、[[安岡章太郎]]、[[小島信夫]]、[[庄野潤三]]、[[開高健]]など)から、その魅力を語られ賞讃されている<ref name="album1"/><ref name="zanei"/>。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1901年]](明治34年)[[2月17日]]、[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[土佐堀通]]5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に、父・'''宗太郎'''、母・'''ヒサ'''(久)の次男として誕生した<ref name="otani1">「第一章 生い立ちの風景――小学校まで」({{Harvnb|大谷|2002|pp=12-24}})</ref><ref name="nenpu-b">[[鈴木貞美]]「梶井基次郎年譜」({{Harvnb|別巻|2000|pp=454-503}})</ref>。両親は2人とも[[1870年]](明治3年)の生まれで当時[[数え年]]32歳、共に[[明治維新]]後に没落した'''梶井'''姓(同じ名字)の[[刀]]屋の出であった(ヒサは梶井秀吉の[[養女]])<ref name="album1"/><ref name="otani1"/>。父親を早くに亡くし[[第三銀行]]大阪支店([[安田善次郎]]の経営系列)の[[丁稚]]から苦労してきた宗太郎は、[[貿易会社]]([[海運]]会社)の安田運搬所に勤務し、[[軍需品]]輸送の仕事に就いていた<ref name="otani1"/><ref name="otoken">梶井謙一・小山榮雅(聞き手)「弟 梶井基次郎――兄謙一氏に聞く」([[国文学 解釈と鑑賞]] 1982年4月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=4-21}}に所収</ref>。
この安田運搬所の西隣りに一家は住んでいた(中から行き来ができた)<ref name="album1"/><ref name="otani1"/>。宗太郎はヒサとは[[再婚]]で、[[婿養子]]であった。ヒサは明治の[[女子教育]]を受け、[[幼稚園]]の[[保育士|保母]]として勤めに出ていた<ref name="album1"/><ref name="otani1"/>。同居家族は他に、祖母・'''スヱ'''(宗太郎の母)、祖父・'''秀吉'''(ヒサの養父)、5歳上の姉・'''冨士'''、2歳上の兄・'''謙一'''がいた<ref name="album1"/><ref name="otani1"/>。
基次郎が誕生した同年9月には、父・宗太郎と[[芸者]]・磯村ふく([[網干]]出身で生家も網干姓)の間に、異母弟にあたる'''順三'''が生まれた。[[日露戦争]]の特需により安田運搬所は[[大砲]]の輸送で潤い、酒色を好む宗太郎は接待などで[[お茶屋|茶屋]]に通っては放蕩な日々を過ごしていた<ref name="album1"/><ref name="otani1"/><ref name="fuko">習作「不幸」(1922年6月頃)。{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=279-286}}に所収</ref>。[[1905年]](明治38年)10月、基次郎が4歳の時に一家は大阪市西区[[江戸堀川|江戸堀]]南通4丁目29番地(現・江戸堀2丁目8番地)に転居<ref name="album1"/><ref name="otani1"/>。翌[[1906年]](明治39年)1月17日に弟・'''芳雄'''が生まれた<ref name="otani1"/>。
[[1907年]](明治40年)4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀[[尋常小学校]](現・[[大阪市立花乃井中学校]])に入学<ref name="album1"/><ref name="otani2">「第二章 少年、冬の日――東京二本榎にて」({{Harvnb|大谷|2002|pp=25-36}})</ref>。式の時は[[袴]]を着け、平素は紺[[絣]]の[[着流し]]姿で[[草履]]袋と[[風呂敷]]包みを持って登校した<ref name="otani2"/>。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った<ref name="otani2"/>。
しつけに厳しく教育熱心なヒサは[[オルガン]]を弾きながら歌い、子供らに[[和歌]]の『[[百人一首]]』『[[万葉集]]』や古典の『[[源氏物語]]』『[[平家物語]]』『[[南総里見八犬伝]]』を読み聞かせ、[[与謝野晶子]]や[[岡本かの子]]の文学の話をした(基次郎は成人してからも、[[久野豊彦]]の『ナターシャ夫人の銀[[煙管]]』などを母から勧められたこともあった)<ref name="otani1"/><ref name="yodono">[[淀野隆三]]「解説」({{Harvnb|新潮文庫|2003|pp=325-349}})</ref>。
宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ[[自殺]]しようと思いつめたこともあった<ref name="album1"/><ref name="otani1"/>。基次郎は元気な子供で、夏は兄と[[中之島 (大阪府)|中之島]]の[[水泳]]道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが<ref name="otani2"/>、[[1908年]](明治41年)1月に[[糸球体腎炎|急性腎炎]]に罹り、危うく死にかけた<ref name="otani2"/>。同月21日には次弟・'''勇'''が生まれた<ref name="otani2"/>。
=== 父の転勤――東京~鳥羽 ===
[[1909年]](明治42年)12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店(のち[[安田財閥|安田商事]])への転勤に伴い、一家は祖父・秀吉(大阪残留を希望)を残して上京<ref name="otani2"/>{{refnest|group="注釈"|安田商事合名会社は、安田運搬所も含めた[[安田善次郎]]経営の諸事業を全て引きまとめるために[[1899年]](明治32年)に設立された会社<ref name="otani2"/>。}}。[[品川区|品川]]の旅館・若木屋に数日滞在した後、[[東京市]][[芝区]][[二本榎通り|二本榎]]西町3番地(現・[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]2丁目6番地)の狭い借家に転居した<ref name="album1"/><ref name="otani2"/><ref name="kenichi">梶井謙一「鳥羽での生活」(梶井基次郎文学碑建設記念文集 1974年8月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=21-23}}に所収</ref>。[[泉岳寺]]を見下ろす高台の家で、[[電灯]]もなく[[ランプ (照明器具)|ランプ]]で生活していた<ref name="otoken"/><ref name="otani2"/><ref name="tako">習作「凧」(1925年1月頃)。{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=454-458}}に所収</ref>。
[[1910年]](明治43年)1月、基次郎は兄・謙一と共に、芝白金(現・港区[[白金台]])の私立[[頌栄]]尋常小学校へ転入し、紺絣に袴を穿き[[下駄]]で通学した<ref name="otani2"/>。この学校は[[プロテスタント]]系の[[頌栄女子学院中学校・高等学校|頌栄女学校]]の付属校で、[[ハイカラ]]な気風と西欧的な[[自由主義]]教育と[[英語]]教育がなされ、[[巖谷小波]]が[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]などの[[お伽話]]の講話を行っていた<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani2"/>。兄弟は当初「大阪っぺ」とからかわれたが、兄が[[紙ヒコーキ]]を学校に広め、基次郎も兄と一緒に徐々に東京[[山の手]]の校風に馴染んでいった<ref name="fuko"/><ref name="otani2"/><ref name="tako"/>。
父・宗太郎は左遷されたという憤懣もあって酒びたりの日々であったが、やがて基次郎の異母弟・網干順三の親子らも上京させ、別宅で養い始めた<ref name="otani2"/>。そのため梶井家の家計は[[質屋]]に通うほど窮迫し、母・ヒサは[[内職]]に励み、[[高等小学校]]に通う姉・冨士まで[[レース編み]]の内職で家計を支えた<ref name="otani2"/><ref name="tako"/>。祖母・スヱの[[肺結核]]も進行していた<ref name="otani2"/>。この年の9月30日に末弟・'''良吉'''が生まれた<ref name="otani2"/>。
[[1911年]](明治44年)5月、再び父が転勤となり、一家は[[三重県]][[志摩郡 (三重県)|志摩郡]][[鳥羽町]]1726番地(現・[[鳥羽市]][[鳥羽 (鳥羽市)|鳥羽3丁目]]7番11)の広い[[社宅]]に転居した<ref name="album1"/><ref name="otani3">「第三章 少年、夏の日――鳥羽にて」({{Harvnb|大谷|2002|pp=37-48}})</ref>。社宅は漁船が行来する入江近くの高台にあり、[[日和山 (鳥羽市)|日和山]]が見えた<ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。安田系の[[鳥羽造船所]](現・[[シンフォニア テクノロジー]])の営業部長となった宗太郎は羽振りがよくなり、一家は東京から来た重役の家族として地域の人から敬われた<ref name="otoken"/><ref name="otani3"/>。
[[漁師]]の子がみな[[草履]]の中、[[革靴]]を履いている基次郎は重役の坊ちゃんと呼ばれ、東京の頃と扱いが一変した<ref name="otani3"/>。基次郎は姉と共に社宅の左隣の[[鳥羽市立鳥羽小学校|鳥羽尋常高等小学校]]に転入(姉は同校高等科)。兄・謙一は三重県立第四中学校(現・[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学して、宇治山田市(現・[[伊勢市]])の寄宿舎生活となった<ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。
基次郎は夏休みで帰省した兄や友だちと海で泳いで[[サザエ]]を獲ったり、裏山の「おしゃぐりさん」([[大山祇神社 (鳥羽市)|大山祇神社]])や城跡を駆けめぐったりした<ref name="album1"/><ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごし、最も幸福で充実した日々であった<ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。鳥羽の海の景色は遺稿の断片「海」に描かれている<ref>「海」(遺稿 1930年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=24-28}}、{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=506-509}}に所収</ref>。しかし、兄弟たちは祖母がしゃぶっていた[[飴]]玉を貰ってなめたりしたため、やがて5人が初期感染することになる<ref name="otoken"/><ref name="otani2"/><ref name="kashi11">「第一部 第一章 同人たち」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=9-21}})</ref>。
この年、異母弟・順三の母親・磯村ふくが[[腎臓病]]で死去し、順三とその養祖母・きくが梶井一家と同居するようになった<ref name="otani3"/>。翌[[1912年]](明治45年)4月、基次郎は6年生に進級し級長に選ばれた<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani3"/>。同月、大阪時代の江戸堀尋常小学校6年生一行150名が鳥羽に卒業記念旅行に来た。基次郎が彼らのいる旅館を訪れると、かつての同級生と先生らは歓迎し、人気者だった基次郎をたちまち取り囲んだ<ref name="otani3"/>。
[[1913年]](大正2年)3月、全[[甲]]の優秀な成績で小学校を卒業した基次郎は、4月に兄と同じ三重県立第四中学校へ入学し、宇治山田市一志町(現・伊勢市一志町)にある兄の下宿先に同居した<ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。そこは兄の同級生・杉本郁之助の家で、[[茶人]]で[[郷土史家]]の[[杉木普斎]]宅であった<ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。第四中学では、[[洋楽]]に造詣の深い音楽の先生に[[楽譜]]の読み方を習い、これが音楽愛好の基礎となった<ref name="album1"/><ref name="otani3"/>。6月5日、64歳の祖母・スヱが[[結核|肺結核]]で死去し、祖父・秀吉は数か月前の2月に大阪で死去した<ref name="otani3"/>。
9月、[[鳥羽駅|鳥羽]]と宇治山田<!--山田(現・[[伊勢市駅]])間の[[鉄道]]([[参宮線]]) 参宮線だと開通時期が違うのでコメントアウトにしておきます。-->間の鉄道が開通し、新学期から実家の鳥羽より兄と一緒に汽車通学した<ref name="nenpu-b"/><ref name="kenichi"/><ref name="otani3"/>。この頃、2人は近所の旧城主の老人に[[剣道]]を習っていた<ref name="otani3"/>。10月、第四中学の懸賞短文で「秋の曙」が3等に入選し、校友会誌『校友』に掲載された<ref name="nenpu-b"/>。同月中旬、父が大阪の安田鉄工所の[[書記]]として転勤し、一家は大阪市[[北区 (大阪市)|北区]]本庄西権現町1191番地(現・北区[[鶴野町 (大阪市)|鶴野町]]1番地)に転居した<ref name="otani3"/>。基次郎と兄は再び、宇治山田市一志町の下宿から通学するようになった<ref name="otani3"/>。
=== 再び大阪――北野中学転入 ===
[[1914年]](大正3年)2月、一家は大阪市西区[[靭]]南通2丁目35番地(現・西区西本町1丁目8番21号)の借家に移転<ref name="otani3"/>。4月、兄と共に名門の旧制[[大阪府立北野中学校]](現・[[大阪府立北野高等学校]])の学力[[検定試験]](転入試験)を受けて合格し、基次郎は2年生に転入した<ref name="otani3"/>。学校のある北野芝田町(現・[[芝田 (大阪市)|芝田町]]2丁目)まで30分ほどの道のりを兄と一緒に徒歩通学した<ref name="album1"/><ref name="otoken"/>。
基次郎は水泳と音楽が好きな少年で、可愛げのある接し方で人気があったが、表面的には比較的大人しく目立たない生徒でもあった<ref name="otani4">「第四章 迷える羊――北野中学時代」({{Harvnb|大谷|2002|pp=49-73}})</ref>。翌[[1915年]](大正4年)8月20日、身体の弱かった9歳の弟・芳雄が[[脊椎カリエス]]で死亡した<ref name="otani4"/><ref>「[[冬の日 (小説)|冬の日]]」([[青空 (雑誌)|青空]] 1927年2月・4月号)。{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=139-160}}</ref>。同月、日本は[[ドイツ]]に[[宣戦布告]]し[[第一次世界大戦]]に参戦。安田鉄工所は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]][[工廠]]の特別指定を受け、父の仕事は多忙となった<ref name="otani4"/>。
[[1916年]](大正5年)3月、基次郎は成績上位で3年を修了。異母弟・順三は高等小学校を終えると、[[北浜]]の[[株屋]]に[[丁稚奉公|奉公]]に出された<ref name="nenpu-b"/><ref name="otoken"/><ref name="otani4"/>。道義心の強い基次郎はこれに同情し、北野中学に退学届を出して中退。自分も筋向いの[[メリヤス]][[問屋]]の[[丁稚]]となった(6月からは西[[道頓堀]]の岩橋繁男商店の住込み奉公に変わる)<ref name="nenpu-b"/><ref name="otoken"/><ref name="otani4"/>。4月に兄は[[大阪高等工業学校]](現・[[大阪大学]][[工学部]])[[電気科]]に入学した<ref name="otani4"/>。
順三は基次郎に気兼ねし[[長崎市|長崎]]に移っていくが、不憫に思った父が順三を家に連れ戻した<ref name="otani4"/><ref>習作「奎吉」(真素木 1923年5月号)</ref>。この年、祖父・秀吉の遺した金1,000円を元手に、母は父に勧めて自宅を改装し[[ビリヤード|玉突き屋]]「信濃クラブ」(信濃橋にちなんだ名称)を開業。店は繁盛した<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani4"/>。
[[1917年]](大正6年)2月、基次郎も奉公をやめて家に戻り、母の説得もあって4月から北野中学4年に復学<ref name="otani4"/>。終生の友となる同級生の'''宇賀康'''、'''畠田敏夫'''、'''中出丑三'''らと親交を持つようになった<ref name="otani4"/>。彼らの間では基次郎の綽号(渾名)は「熊」であった<ref name="nakade">中出丑三「梶井基次郎のこと」([[京都帝国大学]]新聞 1942年8月5日)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=23-26}}に所収</ref>。またこの頃、同級で[[野球部]]の[[美少年]]・[[桐原真二]]([[遊撃手]])に惹かれて[[同性愛]]的思慕を持った<ref name="otani4"/><ref name="nikk1">「日記 草稿――第一帖」(大正9年・大正11年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=101-132}}</ref>。この年から兄・謙一は[[結核#結核性リンパ節炎|結核性リンパ腺炎]]で手術を重ねた<ref name="otoken"/><ref name="otani4"/>。
[[1918年]](大正7年)4月、5年生に進級した基次郎も、潜伏していた結核性の病で寝込むようになり、1学期は33日間も欠席した<ref name="kashi11"/><ref name="otani4"/>。その時に兄に差し出された[[森鷗外]]の『水沫集』([[舞姫 (森鷗外)|舞姫]]、[[うたかたの記]]、文づかひ、玉を懐いて罪あり、地震を収録)、邦訳『[[即興詩人]]』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『[[少年倶楽部]]』から文学作品に変った<ref name="album1"/><ref name="otoken"/><ref name="otani4"/>。
同年6月頃から兄が[[兵庫県]][[武庫郡]]魚埼町野寄(現・[[神戸市]][[東灘区]][[本山町 (神戸市)|本山町]]野寄)の池田鹿三郎(父の取引先の運送会社の人物で友人)宅に[[書生]]として寄宿した<ref name="otani4"/>。基次郎も時々そこに遊びに行き、池田家の[[神戸一中]](現・[[兵庫県立神戸高等学校]])に通う保と二郎の兄弟と交流した<ref name="otani4"/>。健康を取り戻した基次郎は、9月の新学期から平常どおりに通学した<ref name="otani4"/>。兄が同級・橋田慶蔵から借りた[[夏目漱石]]の全集『漱石全集』を基次郎も読んだ<ref name="otani4"/>。
=== 第三高等学校理科へ ===
[[1919年]](大正8年)3月、基次郎は成績中位(席次115番中51番)で大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)を卒業<ref name="album1"/><ref name="otani4"/>。兄も住友電線製造所(現・[[住友電気工業]])に4月から入社が決まった<ref name="otani4"/>。基次郎も兄と同じ[[電気]][[エンジニア]]をめざし、第一志望として兄が卒業した[[大阪高等工業学校]](現・[[大阪大学]][[工学部]])[[電気科]]を受験するが、不合格となった<ref name="otani4"/>。
この頃、父の友人・池田鹿三郎の弟・竹三郎の娘([[大阪信愛女学院|大阪信愛高等女学校]]4年生の[[美少女]]・池田艶)への恋が募り(初めて会ったのは艶が小学校5年、基次郎が中学2年の時)<ref name="otoken"/><ref name="otani4"/>、彼女への想いを友人らに書き送ったり、兄の同級・橋田慶蔵に打ち明けたりした<ref name="album1"/><ref name="otani4"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年4月2日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=5-7}}に所収</ref><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年4月4日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=8-9}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|兄の同級・橋田慶蔵は4月から[[大阪高等工業学校]](現・[[大阪大学]][[工学部]])の助教授となり、基次郎はこの学校にいる橋田を訪ねたりした<ref name="nenpu-b"/>。池田艶は女学院を卒業後、他家に嫁ぐが若死にした<ref name="otani4"/>。}}。この頃、手紙の中に[[夏目漱石]]の[[失恋]]の英詩を写し書きしたりした<ref name="otani4"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年4月9日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=9-10}}に所収</ref>。
場所も遠く、学費のかかる[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]](現・[[京都大学]]総合人間学部)への受験を母に懇願し承諾を得た基次郎は、猛勉強に励むと同時にますます漱石に傾倒し、兄が買ってきた再版の漱石全集を手にとり『[[明暗]]』を夢中で読んでいた<ref name="otani4"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年4月)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=10-12}}に所収</ref>。5月に出した友人の手紙には、漱石の『[[三四郎]]』の影響から〈Strey sheep〉と署名し<ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年5月4日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=13-14}}に所収</ref>、6月には〈梶井漱石〉と署名した<ref name="otani4"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年6月21日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=15}}に所収</ref>。
7月、基次郎は[[南禅寺]]の僧庵に泊って試験に挑み、第三高等学校の[[理科]]甲類([[英語]]必修)に無事合格<ref name="nenpu-b"/>。中学同級の宇賀康、中出丑三、1年上の'''矢野繁'''も一緒に合格し、畠田敏夫は[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]](現・[[神戸大学]][[経済学部]])に進んだ<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani4"/>。同月末から8月、兄と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]登山をし、[[底倉温泉]]の「つたや」に1泊した<ref name="album1"/><ref name="otani4"/>。9月、『[[大阪毎日新聞]]』夕刊に連載中の[[菊池寛]]の「友と友の間」を愛読。通学のため[[京都府]][[上京区]][[二条通|二条]]川東[[五山送り火|大文字]]町160番(現・[[左京区]]二条川端東入ル上ル)の中村金七(祖母・スヱの親類で遠縁にあたる人物)方に下宿した<ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年9月6日、7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=16}}に所収</ref><ref name="otani5">「第五章 青春の光と影――三高前期」({{Harvnb|大谷|2002|pp=74-104}})</ref>。入学式の後、[[丸太町通]]の古書店を歩いた<ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年9月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=16-17}}に所収</ref>。
=== 文学青年らとの出会い ===
[[1919年]](大正8年)9月、三高理科甲類に入学した基次郎は、同校に一緒に進んだ北野中学時代の友人ら(宇賀康、中出丑三、矢野繁)と交遊。彼らの下宿を廻った。矢野が持っていた[[蓄音機]]で[[クラシック音楽|クラシック]][[レコード]]をかけて[[ヴァイオリン]]を弾き、みんなで楽譜を片手に[[オペラ]]を歌うなど楽しい時を過ごした<ref name="otani5"/><ref name="album2">「三高時代」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=16-29}})</ref>。
基次郎の下宿は長屋で狭く、重病人の老人がいたため、10月からは[[寄宿舎]]北寮第5室に入った<ref name="otani5"/><ref name="album2"/><ref name="nakakyoto">[[中谷孝雄]]「梶井基次郎――京都時代」(知性 1940年11月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=27-46}}に所収</ref>。部屋は1階が学習室、2階が寝室となっており、同室には室長で[[ラグビーフットボール|ラグビー]]部の2年生・[[逸見重雄]]、[[文科|文]][[乙]]([[ドイツ語]]必修)の[[中谷孝雄]]([[三重県立津高等学校|三重県立一中]]出身)と、文[[丙]]([[フランス語]]必修)の[[飯島正]]がいて、文丙の[[浅野晃]]もしばしば部屋にやって来た<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="iijima">[[飯島正]]「梶井君の思ひ出」(評論 1935年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=52-55}}に所収</ref><ref name="asano">[[浅野晃]]「思い出したことその他」(梶井基次郎文学碑建設記念文集 1974年8月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=158-161}}に所収</ref><ref name="toda">刀田八九郎「梶井のこと」(評論 1935年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=55-57}}に所収</ref>。東京府立一中(現・[[東京都立日比谷高等学校]])出身の飯島と浅野は同校で回覧雑誌『リラの花』を作っていた文芸仲間であった<ref name="otani5"/><ref name="zadan">中谷孝雄・[[北川冬彦]]・飯島正・浅野晃「座談会 梶井基次郎――若き日の燃焼」(浪曼 1974年2月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=217-228}}に所収</ref>。
基次郎は中谷孝雄、飯島正、浅野晃の文学談義に耳を傾けていたが、難しくてついていけなかった<ref name="otani5"/>。この頃、[[ロシア]]大歌劇団の来日公演があった。宇賀康は行ったが、券を買う金がない基次郎は仕方なく寮の中で『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』や『[[ファウスト (グノー)|ファウスト]]』を朗々と歌った<ref name="nenpu-b"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年10月6日、11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=21-23}}に所収</ref>。しかし11月頃から次第に憂鬱になり、授業に興味を失っていった基次郎は、学校をさぼって[[銀閣寺]]を散歩したり、美術展に行ったりする日々を過ごすようになった<ref name="otani5"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正8年11月28日、12月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=23-24}}に所収</ref>。
[[1920年]](大正9年)1月に[[風邪]]を引いて実家に帰り、39度の高熱で寝込んだ<ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年1月16日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=26}}に所収</ref>。2月に寮に戻った基次郎は自己改造を決意した。[[哲学]]に興味を持ち、寮の友人たちと自己解放について徹夜で議論をした。宇賀や矢野とは[[雪]]の積もる[[東山 (京都府)|東山]]を散策するなどした<ref name="otani5"/>。[[映画]][[マニア]]で映画雑誌に洋画評を書いていた飯島正の影響から、基次郎は[[谷崎潤一郎]]の『女人神聖』や、[[ウォルト・ホイットマン]]の『[[ウォルト・ホイットマン#『草の葉』|草の葉]]』も読んだ<ref name="otani5"/><ref name="toda"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年2月12日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=27}}に所収</ref>。
また、飯島正や浅野晃を通じて、[[作曲]]趣味の文丙の小山田嘉一([[筑波大学附属中学校・高等学校|東京高師附属中]]出身、陸軍少将[[小山田勘二]]の長男)とも親しくなり、音楽にもさらに本格的に傾倒していった<ref name="otani5"/>{{refnest|group="注釈"|小山田嘉一は、のちに三高野球部の「勝利の歌」を作曲した<ref name="otani5"/><ref name="nomura">[[野村吉之助]](忽那吉之助)「回想 梶井基次郎」(群女国文 1971年4月号、1972年4月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=162-181}}に所収</ref>。}}。2月には、中谷孝雄が室長の逸見重雄と喧嘩をして寮を出ていき、ほどなくして飯島正も寮を出て、中谷と同じ下宿の向い部屋に移っていった<ref name="nakakyoto"/>。4月から寮を出た基次郎は、[[上京区]][[浄土寺]]小山町小山(現・左京区浄土寺小山町)の赤井方に下宿し、実家から漱石全集を持って来た<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>。漱石に心酔していた基次郎は漱石全集のどこに何が書いてあるかをほぼ暗記していた<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="naka">中谷孝雄「梶井と京都」({{Harvnb|旧2巻|1966}}月報)。</ref>。
この頃も銀閣寺に行き、熊野若王子神社([[哲学の道]])を散策した。また、[[新京極]]や[[寺町通|寺町]]に行き、「江戸[[カフェー (風俗営業)|カフェ]]」の[[ホステス|女給]]・お初に惚れ、[[煙草]]を吸って[[酒]]もおぼえた<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani5"/>。自分が女にもてない「怪異」な顔だということは諦めていたが、[[科学]]の才能がなく凡庸であることで天と親を恨んだ<ref name="nakade"/><ref name="otani5"/>。基次郎は、実家の店で慣れていたせいか[[撞球]]が得意で素人離れした腕前だった<ref name="nakakyoto"/>。また日曜毎に[[宝塚少女歌劇団]]を観に行っていた<ref name="nakakyoto"/>。
この頃、中谷孝雄の下宿に行った折に、[[志賀直哉]]の短編集『夜の光』を薦められ<ref name="nakakyoto"/>、飯島正に「肺病になりたい。肺病にならんと、ええ文学はでけへんぞ」と[[三条大橋]]の上で叫んで胸を叩いたこともあった<ref name="otani5"/><ref name="iijima"/><ref name="iijima2">飯島正「梶井のおもいで」(『現代文学大系 第35巻』月報 [[筑摩書房]]、1964年6月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=153-154}}に所収</ref>。谷崎潤一郎の影響からか、友人への手紙に、〈梶井潤二郎〉などと署名した<ref name="otani5"/><ref name="album2"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年4月28日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=28-29}}に所収</ref>。
=== 結核進行の前兆 ===
[[1920年]](大正9年)5月に発熱し、[[肋膜炎]]の診断を受けた基次郎は大阪の実家へ帰った<ref name="kashi11"/><ref name="otani5"/>。4か月の休学届を出し、6月は病床で小説を読み耽った<ref name="otani5"/><ref>「宇賀康宛て」(大正9年5月、6月4日、8日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=29-30}}に所収</ref>。7月に[[落第]]が決定し、8月初旬から姉夫婦(共に小学校教諭)の住む[[三重県]][[北牟婁郡]][[船津村 (三重県)|船津村]]字上里(現・[[紀北町]])で[[転地療養]]し、[[熊野]]にも行った<ref name="otani5"/><ref name="fujioto">宮田冨士「弟 基次郎の想い出」([[伊勢新聞]] 1957年3月21日号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=65-67}}に所収</ref>。基次郎は、山里の素朴な自然の生活の中で自身の〈[[町人]][[根性]]〉を反省したり、寮歌の作詞をしてみたりした<ref name="otani5"/><ref name="album2"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年8月10日、12日、25日、9月1日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=30-32}}に所収</ref>。
9月に、[[馬車]]で行った[[尾鷲市]]の医者に肺尖[[カタル]]と診断され、1年休学するように言われたが、重い病状でなく、[[鮎]]獲りや[[モーリス・メーテルリンク|メーテルリンク]]の『貧者の宝』を読んだりした後に実家に帰った<ref name="otani5"/><ref>「宇賀康宛て」(大正9年9月6日、8日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=32-33}}に所収</ref><ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年9月8日、9月9日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=33-37}}に所収</ref>。[[堂島]]の回生病院でも肺尖カタルと診断され、母からも[[学問]]を諦めるように通告された<ref name="otani5"/><ref name="uga9930">「宇賀康宛て」(大正9年9月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=38-40}}に所収</ref>。納得できない基次郎は友人に〈気楽なことでもして、生活の安固をはかれ、といふ母はふんがいに堪えん〉と訴えた<ref name="kashi11"/><ref name="otani5"/><ref name="uga9930"/>。
{{Quotation|[[生命]]がある以上は各自の[[天性|天稟]]の仕事がある筈だ それに向つて勇往邁進するのみだ。生命を培ふといふ事が万一仕事を枯らすといふ事を意味するなら死んだ方が優しだ。罪の多い生活をつないで行つて自然に死ぬまで待つ位ならぶつーとやるかずどんとやる方がいい。|梶井基次郎「宇賀康宛ての書簡」(大正9年9月30日付)<ref name="uga9930"/>}}
10月、基次郎は両親の説得で休学を一旦覚悟し、父と一緒に[[淡路島]]の[[岩屋町|岩屋]]や[[西宮市|西宮]]の海岸の療養地へ下宿先を探しに行くが、両親と意見が合わずに学校に戻りたいと訴えた<ref name="otani5"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年10月20日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=41}}に所収</ref><ref>「宇賀康宛て」(大正9年10月20日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=42}}に所収</ref>。11月から思いきって京都に戻った基次郎は、矢野潔の下宿に泊った後、寄宿舎に戻って復学し、日記を書き始めた<ref name="nikk1"/><ref name="otani5"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正9年11月3日、15日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=42-43}}に所収</ref>。[[哲学者]]・[[西田幾多郎]]を道で見かけたのを機に、図書館で雑誌『藝文』掲載の西田の「マックス・クリンゲルの『絵画と線画』の中から」などを読んだ<ref name="nikk1"/><ref name="otani5"/>。
基次郎は、[[エンジニア]]や[[理科]]の先生になるという初心の目標に立ち返ろうと考え、北野中学時代からの同級の優等生との友情を優先し、文学をやれと勧めていた[[無頼]]派の悪友・[[中谷孝雄]]と距離を置くようになっていたが<ref name="nikk1"/><ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>、この頃、中谷と街で偶然出くわし、奥村電機商会で働く[[平林英子]]を[[従妹]]だと紹介された(実際は恋人)<ref name="nenpu-b"/><ref name="zadan2"/>。
[[夏目漱石]]の『文学論』、西田幾多郎の『善の研究』に関心を寄せ、[[ウィリアム・ジェームズ]]の[[心理学]]に影響を受けたとみられる基次郎は、12月に、自分で自分自身を誇れるような人間になることを決意した<ref name="nenpu-b"/><ref name="nikk1"/>。[[森鷗外]]が『[[青年 (小説)|青年]]』の中で漱石を[[エゴイスト]]と批判していたことに憤慨したり、北野中学時代に惹かれた美少年・[[桐原真二]]の体に接吻する〈甘美〉な夢を見たことを日記に記したりした<ref name="nikk1"/><ref name="otani5"/>{{refnest|group="注釈"|1920年(大正9年)12月13日の夜の夢で[[桐原真二]]は登場した。
{{Quotation|教室の中なりき、桐原と我れとは前後の席にありて英語を習ひゐしに、稲津先生の黒板に字をかける間にわれは彼を後ろより抱きて彼の胸に接吻しぬ、彼の体のふるひて又われに熱き接吻をかへせしはその時よ おゝ その[[たまゆら]]よ、おゝ 炎の如きもの我をつゝみしそのたまゆらよ、……今朝の登校の際の爽かなる、甘美なる気持は未だ夢なりしなり|梶井基次郎「日記 草稿――第一帖」(大正9年)<ref name="nikk1"/>}}}}。
=== 拡がる交友 ===
[[1921年]](大正10年)1月、基次郎は「江戸カフェー」で[[同志社大学]]の猛者・渡辺と出くわし、喧嘩を売られる気がしてびくびくし、矢野繁を先に歩かせようと考えた自身の弱小と卑劣さを反省し草稿を書いた(のち習作「卑怯者」などになる)<ref name="nikk1"/><ref name="otani5"/>。3月、京都公会堂で[[ミッシャ・エルマン|エルマン]]の[[ヴァイオリン]]演奏を聴いた基次郎は、公演終了後、車で立ち去ろうとするエルマンに駆け寄り、握手してもらい感涙した<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正10年3月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=44}}に所収</ref>。
春休みは[[紀伊国|紀州]]湯崎温泉(現・[[南紀白浜温泉|白浜温泉]])に湯治に行き<ref name="nikk1"/>、偶然再会した同級生・田中吉太郎に誘われ移動した旅館「有田屋」で、西欧絵画や芸術趣味の29歳の未亡人・多田はなと、その取り巻きの学生らと知り合った<ref name="otani5"/><ref name="uga10328">「宇賀康宛て」(大正10年3月22日、28日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=45}}に所収</ref>。基次郎は、その旅館の同じ二階にいた[[結核]]療養で休学中の[[京都大学|京都帝国大学]][[医学部]]の学生・'''近藤直人'''と特に親しくなった<ref name="otani5"/><ref name="uga10328"/>。
この4歳年上の近藤直人に基次郎は敬愛の念を持ち続け、生涯の友人となった<ref name="kashi11"/><ref name="otani5"/>。近藤への手紙で、自分を〈貧乏な[[好事家|ディレッタント]]〉と称していた基次郎は<ref name="kon11414">「近藤直人宛て」(大正11年4月14日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=57-58}}に所収</ref>、社会的な功利を低俗とみなし、精神の享楽を第一とする[[ダンディズム]]の発露をみせ、〈偉大〉であることに憧れた<ref name="album2"/><ref>「宇賀康宛て」(大正11年7月7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=66-67}}に所収</ref>。
4月、紀州湯崎温泉から[[和歌山県]][[和歌山市]]の近藤直人の実家(医院を開業)に立ち寄り、大阪の実家に帰った基次郎は、父親が、家で経営していた[[ビリヤード|玉突き屋]]の従業員・豊田(ゲーム係の娘)に手をつけて産ませた赤ん坊・八重子(異母妹)の存在を知り、衝撃を受けた<ref name="otani5"/><ref name="album2"/>。青年期の自己嫌悪や、俗悪への反発、憂鬱の悩みに、新たな苦悩が加わった<ref name="otani5"/><ref name="album2"/>。八重子は梶井家が引き取り、母・ヒサが育てて入籍することが決まっていた<ref name="otani5"/>。
4月中旬、年学制の改革により2年に進級した基次郎は実家からの[[汽車]]通学となり、同じく実家通学で[[高槻駅]]から乗車する[[大宅壮一]]([[弁論部]])と車中で出会った<ref name="otani5"/><ref name="ooya">[[大宅壮一]]「三高のころ」(『決定版 梶井基次郎全集』月報[檸檬通信(2)]筑摩書房、1959年2月・5月・7月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=369-371}}に所収</ref>。基次郎は汽車内で同志社女子専門学校(現・[[同志社女子大学]])英文科の女学生に一目惚れをし、[[エリザベス・バレット・ブラウニング]]や[[ジョン・キーツ|キーツ]]の詩集を破いて女学生の膝に叩き付け、後日、「読んでくださいましたか」と問い、「知りません!」と拒絶された<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="hira">平林英子「梶井さんの思ひ出」(評論 1935年9月号)。『「青空」の人たち』(皆美社、1969年12月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=46-52}}に所収</ref>。
この時期、[[中谷孝雄]]と[[平林英子]]が同棲を始めていた京都新一条(現・左京区[[吉田 (京都市)|吉田]]中達町)の下宿に基次郎は度々訪れ、英子に[[讃美歌]]を教えていたが、例の車内で失恋した経験を元にして書いた小説「中谷妙子に捧ぐ」を見せに行った<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>。ちょうどそこに中谷と同級の大宅壮一も来て一読するが、ほとんど問題にされなかったために英子にあげた。その後英子はその原稿を紛失してしまい、基次郎の幻の[[処女作]]となった<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。講演会で活躍していた大宅は文学談義をしに、よく中谷の下宿に来ていた<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。
6月、再び学校に程近い、上京区[[吉田 (京都市)|吉田]]中大路町(現・左京区)に下宿。中谷孝雄の郷里の父親が息子の様子を見に来るため、平林英子は3日間ほど基次郎の下宿に身を隠した<ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。中谷は父の手前、体裁を取り繕うために、基次郎所有の[[田邊元]]や[[西田幾多郎]]の哲学書を借りて自分の本棚に並べた<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。基次郎の本はそのまま中谷の本棚に置かれ、その後2人の遊蕩費のため[[質屋]]に流れた<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>。
夏休みの7月下旬、基次郎は矢野繁と旅行に出た。東京の小山田嘉一と会った後、夜船で[[伊豆大島]]に渡り、[[藤森成吉]](『若き日の悩み』を書いた作家)と同じ宿「三原館」に1週間ほど泊った<ref>「小山田嘉一宛て」(大正10年7月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=45-46}}に所収</ref><ref>「近藤直人宛て」(大正10年7月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=46}}に所収</ref><ref>「宇賀康宛て」(大正10年8月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=46}}に所収</ref>。8月には阪神間の海水浴場・[[香櫨園]]に泳ぎに行くなど、基次郎は健康的になったようであった<ref>「近藤直人宛て」(大正10年8月19日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=46-48}}に所収</ref>。9月から平林英子が中谷孝雄から離れて[[信濃国|信州]]の郷里に帰ったため、基次郎は中谷と2人で夜飲み歩き(中谷は下戸で[[和菓子]]と[[茶]]を飲む)、たまに中谷の劇研究会の仲間の津守萬夫も伴った<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>。
9月下旬、父・宗太郎が安田鉄工所を突如[[退職]]した。この前後の時期に、経営者の[[安田善次郎]]が暴漢の[[朝日平吾]]に刺殺された事件があった<ref name="otani5"/>。宗太郎は退職金でさらに玉突き屋2軒を開店し、1軒の経営を異母弟・順三に任せた。しかし、父は再び別の従業員の若い女と浮気をし、店の経営状態も徐々に悪くなっていった<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani5"/>。
=== 「天職」を求めて ===
[[1921年]](大正10年)10月、[[賀川豊彦]]の[[キリスト教社会主義|キリスト教社会運動]]にうちこむ[[大宅壮一]]の態度に脅威を感じた基次郎は、〈[[天職]]といふものにぶつからない寂しさが堪らない〉と自身を嘆き、〈自分は大宅の様な男を見るとあせるのである〉と綴った<ref name="nikk2">「日記 草稿――第二帖」(大正10年10月・大正13年秋)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=133-152}}に所収</ref>。ある夜、[[中谷孝雄]]と津守萬夫と一緒に[[琵琶湖]]疎水に[[ボート]]を浮べ、水際の路に上がって[[月見]]をしていると、ボートが下流に押し流され、基次郎は津守と一緒に水中に飛び込み食い止めた。その勢いで2人は競泳を始め、冷えた身体を街の酒場で温めた<ref name="yodono"/><ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>。
[[File:JP-Kyoto-yasaka.JPG|thumb|180px|[[八坂神社]]]]
この時に泥酔した基次郎は、[[八坂神社]]前の電車道で大の字に寝て、「俺に[[童貞]]を捨てさせろ」と大声で叫んだため、中谷孝雄と津守萬夫は基次郎を[[遊廓]]に連れて行った<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/>。女が来ると基次郎は[[吐瀉物|げろ]]を吐いて女を困らせたが(いくらか故意にやっていたようだったという)、やがておとなしく部屋に入っていった<ref name="nakakyoto"/>。
支払いのために[[ウォルサム]]の[[銀時計]]を質に入れた基次郎は、「純粋なものが分らなくなった」「堕落した」と中谷に言った<ref name="yodono"/><ref name="nakakyoto"/>。それまで基次郎は中谷と[[平林英子]]の仲を2人の言う通り、ただの友人関係([[従妹]])と信じていたほど純真なところがあったという<ref name="nakakyoto"/><ref name="zadan2"/>。
次第に基次郎の生活は荒れ、享楽的な日々を送るようになっていくが、中出丑三と議論し、今は天職が見出せなくても、〈土台〉を築けばいいという思いに至った<ref name="nikk2"/>。
{{Quotation|昨日は酒をのんだ、そして[[ソドムとゴモラ|ソドム]]の徒となつた。あの寝る時の浅ましい姿。(中略)天職を見出でない男の悲哀は何に由つて希望を見出してゆくことが出来るか。決して空ではない希望。それを土台としてあの壮大な人間建築を建てるための必要なグルンド。自分は頭がよかつた。それこそは必然を導く[[哲学]]考察。これこそは最も根本的な最も必然な仕事だ、大宅は[[社会主義]]を奉じる、彼の哲学は彼の天職の空であつたことを告げるかも知れない。然し自分は土台を築く。|梶井基次郎「日記 草稿――第二帖」(大正10年10月17日)<ref name="nikk2"/>}}
11月、上京区[[北白川]]西町(現・左京区)の澤田三五郎方の下宿に移った<ref name="otani5"/>。家賃が払えず下宿から逃亡することがしばしばだった<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6">「第六章 狂的の時代――三高後期」({{Harvnb|大谷|2002|pp=105-136}})</ref>。この頃、北野中学時代の友人で[[神戸市|神戸]]にいる畠田敏夫が遊びに来た際に、他の友人らも交えて[[清滝 (京都市)|清滝]]の「桝屋(ますや)」に行った<ref name="otani5"/><ref name="nikk2"/>。酔っぱらった基次郎は、[[愛宕神社|愛宕]]参りの[[兵庫県]]の団体客の部屋に裸で乱入して喧嘩となり、撲られ学帽を取られた(その後、店の主人・森田清次が取り返して戻った)<ref name="otani5"/><ref name="nakade2">中出丑三「清滝の打入り」(『決定版 梶井基次郎全集』月報[檸檬通信(2)]筑摩書房、1959年2月・5月・7月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=367-369}}に所収</ref>。
この頃、「江戸カフェー」で、例の[[同志社大学]]の猛者・渡辺をうまく追っ払った文丙の[[北川冬彦]](本名・田畔忠彦)を見て、基次郎は感激した<ref name="otani5"/>。北川は[[柔道]]をやっていて、その場では文学談義にはならなかった<ref name="otani5"/>。12月には、北野中学からの仲間への虚栄心から哲学書などを読んでいたことを基次郎は矢野繁や畠田敏夫に告白した<ref name="otani5"/><ref name="hata10121">「畠田敏夫宛て」(大正10年12月1日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=48-50}}に所収</ref>。
{{Quotation|いやしいものだ、君はこんなことを聞いてあきれるだらう、これが[[町人]]の気質といふものだ、町人の嫌ひな俺は又町人だ、こんなことを打ち明けるのに組織的にうまくかけるはずはない、済まないが判読して呉れ、投函の気持を失はざらん為読返しもしないから、(中略)<br />
これを打ち明けるのも虚栄心より発してゐるかも知れぬ あらゆる行為に虚栄心といふものを懸念してかからねばならぬとは悲しいことではないか、|梶井基次郎「畠田敏夫宛ての書簡」(大正10年12月1日付)<ref name="hata10121"/>}}
[[1922年]](大正11年)2月、基次郎は[[短歌]]20首を作って畠田敏夫に送った<ref name="otani5"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正11年2月11日、12日、13日、14日、15日、16日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=51-52}}に所収</ref>。また、〈創作に於る[[主観]]と[[表現]]〉の関係を模索し、〈主観の深さと表現の美しさ〉について考察したりした<ref name="otani5"/><ref name="nikk2"/>。3月、学期末試験の後、中谷孝雄と[[和歌山県]]に旅行した。追試を受けた基次郎は特別及第となり4月に3年に進級したが、中谷孝雄は落第した<ref name="otani5"/><ref name="otani6"/>。
他の北野中学出身の理科の友人や、同年入学の文科の[[飯島正]]、[[浅野晃]]、[[大宅壮一]]、[[北川冬彦]]たちは全員卒業し、[[東京帝国大学]]へ進んでいった<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani5"/>。基次郎と中谷は、三高の中で無頼の年長者として知られるようになっていく<ref name="otani5"/><ref name="otani6"/>。
この頃、三高学内では[[金子銓太郎]]校長への反発から生徒間で校長の排斥運動が高まり、基次郎も「先輩大会」に参加。この運動には文甲の外村茂(のちの[[外村繁]])や[[桑原武夫]]が活動していた<ref name="otani6"/>。しかしその運動に深入りしなかった基次郎は〈詩のシンフォニー〉を目指し詩作を始めた<ref name="kon11414"/><ref>「宇賀康宛て」(大正11年4月19日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=59-60}}に所収</ref>。
[[絵画]]や[[音楽]]、[[舞台芸術]]の関心もさらに高まり、大阪の[[大丸百貨店]]での現代フランス美術展に行き、[[京都南座]]で上演された[[倉田百三]]作の『[[出家とその弟子]]』を観劇した<ref>「近藤直人宛て」(大正11年4月26日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=62}}に所収</ref>。4月29日に三高に来校した[[プリンス・オブ・ウェールズ|英国皇太子]]([[エドワード8世 (イギリス王)|ウインザー公]])が観戦する神戸外国人チームと三高の[[ラグビーフットボール|ラグビー]]試合を基次郎も昂奮して楽しんだ<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6"/>。この頃、[[三条通|三条]][[麩屋町通|麩屋町]]西入ルにあった[[丸善ジュンク堂書店|丸善書店]]で長い時間を過ごし、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[ドミニク・アングル|アングル]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ|ダビンチ]]などの西洋近代絵画の画集を立ち読みするのが基次郎の楽しみでもあった<ref name="nakade"/><ref name="nakalemon">中谷孝雄「解説」(『檸檬』学生文庫、1951年4月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=130-144}}に所収</ref><ref name="kashi14">「第一部 第四章 『瀬山の話』」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=54-69}})</ref><ref name="sezan">習作「瀬山の話」(1923年1月頃-1924年10月頃)。{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=376-410}}</ref>。
=== 劇研究会と放蕩生活 ===
[[1922年]](大正11年)5月、[[中谷孝雄]]と夜な夜な街を歩き、[[質屋]]で金を作って祇園乙部([[祇園東]])の[[遊廓]]に行ったりする日々の中、[[高浜虚子]]の『風流懺法』を好み、中谷から借りた[[佐藤春夫]]の『殉情詩集』、[[島崎藤村]]の『[[新生 (小説)|新生]]』を感心して読んだ<ref name="nenpu-b"/><ref name="nakakyoto"/>。基次郎は酒びたりや享楽の生活を後悔し、〈[[自我]]を統一する事〉〈[[善]]の基準を定めよ〉〈目覚めよ、我魂!〉と自戒した<ref name="nikk1"/><ref name="otani6"/>。三高劇研究会へ入った基次郎は、ビラ配りなどに勤しみ、[[外村繁|外村茂]]や[[北神正]]も入部してきた<ref name="otani6"/>。
劇研究会では、[[フランス]]帰りの[[折竹錫]]教授を講師が[[ジャック・コポー]]の話をし、会員らは日本の戯曲や西欧近代劇の台本読みをし、基次郎は女役を引受けることが多かった<ref name="nakakyoto"/>。『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』や『鉄道のマリンカ』で女声をしぼり出すため口をつぼめる基次郎の姿はとてもユーモラスだったという<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6"/>。
津守萬夫が会から遠のくと、基次郎と中谷孝雄が中心となり活動していった<ref name="otani6"/>。6月初旬、戯曲創作の真似ごとをした基次郎は、[[京都南座]]で公演中の[[澤田正二郎]]の[[楽屋]]を外村茂と訪問して講演を依頼し、心身の調子がすぐれないながらも[[三島章道]]の講演を聴いたりした<ref name="otani6"/><ref>「近藤直人宛て」(大正11年6月26日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=63-64}}に所収</ref>。
7月、学期末試験が済んで[[琵琶湖]]周航の小旅行をした後、[[柳宗悦]]の講演を聴き、大阪の実家での静養中は、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]の『[[カラマーゾフの兄弟]]』、[[志賀直哉]]の『[[暗夜行路]]』などを読んだ<ref>「近藤直人宛て」(大正11年7月24日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=67-68}}に所収</ref>。この頃、戯曲草稿「河岸」に取り組んだと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。8月には、和歌山の近藤直人の家に遊びに行き、近藤の妹婿や子供らと[[新和歌浦]]で海水浴をした<ref name="otani6"/>。基次郎は7メートルほどの高い[[崖]]から板を使って飛び込み、海中の岩で鼻を怪我。その傷跡は一生残ることになった<ref name="otani6"/>。
[[File:Zitrone.jpg|thumb|150px|基次郎が好きだった[[レモン]]]]
9月は授業をさぼって、文丙2年の浅見篤([[浅見淵]]の弟)と[[新京極通|新京極]]の[[カフェー (風俗営業)|カフェー]]で飲み歩き、[[遊廓]]にも行った。この頃、文丙2年の小林馨も劇研究会に入部した<ref name="nenpu-b"/>。基次郎は6月から9月にかけ、いくつかの草稿を日記に綴った。一個の[[レモン]]に慰められる心を歌った詩草稿「秘やかな楽しみ」(檸檬の歌)、「百合の歌」、戯曲草稿「攀じ登る男」、小説草稿「小さき良心」、断片「喧嘩」「鼠」、また[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]の影響で、断片「永劫回帰」などをこの時期に書いた<ref name="nenpu-b"/><ref name="nikk2"/><ref name="otani6"/><ref name="nikk3"/>。
10月、三高文芸部主催の[[有島武郎]]と[[秋田雨雀]]の講演会を聴いた。信州の[[平林英子]]が[[宮崎県]][[日向市|日向]]の「[[新しき村]]」に入るために京都に立ち寄るが、中谷孝雄とよりが戻り、基次郎と3人で[[嵐山]]に行って[[保津川]]のボート上で[[上田敏]]の『牧羊神』の「ちゃるめら」を朗読した<ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。基次郎は微熱があるのに冷たい川で泳いだ<ref name="hira"/><ref name="otani6"/>。
この頃、基次郎は中谷孝雄への[[絵はがき]]に[[自殺]]をほのめかす言葉を書いた<ref name="nenpu-b"/><ref name="nakakyoto"/><ref>「中谷孝雄宛て」(大正11年10月12日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=69}}に所収</ref>。基次郎と中谷は、「新しき村」京都支部会員の外山楢夫に依頼され、演劇公演会の宣伝を手伝い、京都に来た[[武者小路実篤]]に会いに行った<ref name="otani6"/>。
11月1日に[[上京区]][[岡崎 (京都市)|岡崎]](現・左京区)の公会堂で「新しき村」の公演会が上演され、この時に基次郎は北野中学時代の同級生・[[永見七郎]]と再会した<ref name="otani6"/>。永見は『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』関連の雑誌『星の群』に詩などを書いていた<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani6"/>。同日、三高の寮で臥せっていた友人・青木律が[[腸チフス]]で死亡。基次郎は親友がいないと言っていた青木を親身に見舞っていた<ref name="uga1219">「宇賀康宛て」(大正12年1月9日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=71-75}}に所収</ref>。同月上旬、来日したピアニスト・[[レオポルド・ゴドフスキー|ゴドフスキー]]の演奏会を中谷孝雄と聴きに行った<ref name="otani6"/>。
この秋、基次郎は酒に酔っての乱行が度を越えることもしばしばとなり、[[焼き芋]]・[[甘栗]]屋の釜に[[牛肉]]を投げ込み、親爺に追い駆けられたり、[[ラーメン|中華そば]]屋の[[屋台]]をひっくり返したり、乱暴狼藉を起した<ref name="yodono"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="sotomura">[[外村繁]]「梶井基次郎に就いて」(評論 1935年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=62-63}}に所収</ref>。放蕩の借金で下宿代も滞り、夕飯も出されなくなった。取り立てに追われて友人の下宿を転々とした<ref name="otani6"/><ref name="sezan"/>。[[清滝 (京都市)|清滝]]の「桝屋」で泉水に[[碁盤]]を放り投げ、自分も飛び込んで[[鯉]]を追っかけ、基次郎だけ店から出入り禁止となった<ref name="maru"/>。[[金魚]]を抱いて寝ていたこともあったという<ref name="sotomura"/>。
基次郎の荒れ方は劇研究会の仲間も引くほどで、中谷はこの頃の基次郎を、「いささか狂気じみて来た」と回想している<ref name="album2"/>。そんな基次郎が心を慰められていた[[檸檬]]は、[[寺町通|寺町]]二条角の「八百卯」で買っていたものであった<ref name="kashi14"/><ref name="kashi13">「第一部 第三章 レモン」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=39-53}})</ref>。草稿「裸像を盗む男」や「不幸(草稿1)」など書かれたのもこの時期と推定されている<ref name="nenpu-b"/>。「裸像を盗む男」は、他人から見た自分と、自分の見る自分との分裂が主題となっている<ref name="nenpu-b"/>。
{{Quotation|私は街に出て、とある[[果物]]屋へ入つた。そして何も買はずに唯一顆の檸檬を買つた。そしてそれがその日の私の心を慰める悲しい[[玩具]]になつたのだつた。……その冷たさを頬におし当て、また爪の痕を入れてしみじみその[[香]]を嗅いだりした。……たゞその一顆のレモンが[[五官]]に反響する単純な[[感覚]]のみが紊れからまつた心の焦燥からの唯一の[[鎮静剤]]になつたのだつた。私は傲り驕ぶつて来るのさへ感じた。そしてその末[[丸善ジュンク堂書店|丸善]]へ入つた。|梶井基次郎「日記 草稿――第三帖 大正12年秋」<ref name="nikk3">「日記 草稿――第三帖」(大正11年12月・大正12年秋)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=153-210}}に所収</ref>}}
12月、2度目の[[落第]]が確実となり、大阪に帰った基次郎は、退廃的生活を両親に告白して実家で謹慎生活を送ることにし、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]を読み耽った<ref name="otani6"/><ref name="nikk3"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正11年12月15日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=70}}に所収</ref>。北白川の下宿代は兄が支払いに行った<ref name="otani6"/>。この頃、草稿「帰宅前後」「洗吉」「不幸(草稿2)」が書かれたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。同月に兄が結婚し、大阪市西区西島の北港住宅(のち[[此花区]]西島町北港住宅163番地の1)に所帯を持った<ref name="otani6"/>。基次郎は年末、和歌山の近藤直人を訪ね、[[自画像]]の[[デッサン]]を持参して見せた<ref name="otani6"/>。
=== 心の彷徨――2度の落第 ===
[[1923年]](大正12年)1月、基次郎は小説草稿「卑怯者」断片を書いた。体調の悪化する冬、宇賀康への手紙で前年秋の自身の蛮行を振り返り<ref name="uga1219"/>、〈[[記憶]]を再現する時に如実に感覚の上に再現出来ないこと〉が、過ちを繰り返す原因と分析し、〈人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達しえられない最も[[悲劇]]的なものは短命だと自分は思ふ〉、〈どうか[[寿命]]だけは生き延び度い 短命を考へるとみぢめになつてしまふ〉と語った<ref name="otani6"/><ref name="uga12128">「宇賀康宛て」(大正12年1月28日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=76-79}}に所収</ref>。
2月、基次郎は、[[佐藤春夫]]の『都会の憂鬱』を読んで感銘し、自分の内面の〈惨ましく動乱する心〉を〈見物の心で、追求〉させる技術的方法を探り、本格的な創作への道を歩み出した<ref name="nenpu-b"/><ref name="naka12210">「中谷孝雄宛て」(大正12年2月10日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=79-83}}に所収</ref>。また[[山田耕筰]]の作品発表コンサートを聴きに行った<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani6"/>。
この頃に草稿「彷徨」を書いたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。いずれ死に至る病を[[宿命]]として自覚していた基次郎は、その暗い意識を逆手にとって生きることで、[[美]]なるもの、[[純粋]]なものをつかみ取ろうとしていた<ref name="kashi11"/>。3月、畠田敏夫と[[六甲]][[苦楽園]]で遊び、学期末試験を放棄して再び[[落第]]が決定した<ref name="otani6"/>。
{{Quotation|果なき心の彷徨――これだ、これを続けてゐるにきまつてゐる。それが一つの問題が終らないうちに他へ移る。いやさうではなしに一つの問題を考へると必然次の考へへ移らねばならなくなる、それが燎原の[[火]]の様にひろがつてゆく一方だ。これの連続だ、然しこれも疲れるときが来るのだらう。<br />
おれは今心がかなり楽しい様な工合だからこれがかけるのだが、これも鬼の来ぬ間の洗濯で、あとでこれをかいたことの後悔が来るにきまつてゐるのだが、俺は今何かに甘えてこれをかいてゐるのだ。(中略)この手紙はさばかれるだらうが、さばく奴に権威のある奴はない――かう思つて書きやめる。|梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(大正12年2月10日付)<ref name="naka12210"/>}}
4月、2度目の3年生となり、[[上京区]][[北白川]]の下宿に戻った<ref name="otani6"/>。[[理科]]生でありながら、[[結核]]持ちの文学青年の基次郎は三高内で有名人となった<ref name="nenpu-b"/><ref name="maru">[[丸山薫]]・[[河盛好蔵]]の対談「紅、燃ゆる」(四季 1969年2月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=60-61}}に抜粋所収</ref><ref name="takeda">[[武田麟太郎]]「梶井基次郎の靴と鞄」([[三田新聞]] 1934年4月20日号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=58-60}}に所収</ref>。破れた学帽に釣鐘[[マント]]と[[下駄]]ばき、汚れた肩掛けの[[ズック]][[カバン]]で授業も出ずに、そこいらを歩きまわっている風貌も目を引き、「'''三高の主'''」「'''古狸'''」などと称される存在だった<ref name="otani6"/><ref name="maru"/><ref name="takeda"/>。同月、近藤直人は[[京都帝国大学]][[医学部]]に復学した<ref name="otani6"/>。劇研究会に文甲2年の浅沼喜実が入部した<ref name="otani6"/><ref name="asanuma">[[浅沼喜実]]「梶井基次郎の思い出」([[山陰中央新報]] 1977年6月6日、7日号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=155-158}}に所収</ref>。
5月、上京区[[寺町通|寺町]][[荒神口]]下ル松蔭町([[京都御所]]の東)の梶川方に下宿を移した(この下宿屋の老婆と30歳の女教師の娘のことが、習作「貧しい生活より」の題材となり、小説「ある心の風景」の舞台部屋となる)<ref name="otani6"/><ref name="kashi13"/>。この頃、母への贖罪のための草稿「母親」や、「矛盾のやうな真実」「奎吉」が書かれ、劇研究会の回覧雑誌『真素木(ましろき)』に、瀬山極([[ポール・セザンヌ]]をもじった筆名で「奎吉」を発表した<ref name="otani6"/>{{refnest|group="注釈"|劇研究会の回覧雑誌『真素木』は、のちに『櫻の園』と改称して2回作成された<ref name="otani6"/>。寮歌の「櫻の園の若人が」という一節に由来する<ref name="otani6"/>。}}。
また、三高校友会・嶽水会の文芸部理事になった[[外村繁|外村茂]]に頼まれ、『嶽水会雑誌』に「矛盾の様な真実」を投稿した<ref name="takeda"/>。2作とも、内面と外面との落差などを描いた小品であった<ref name="album2"/>。この校友会誌に作品を投稿したことのあった文甲1年生の[[武田麟太郎]]は、ある日グラウンドで基次郎から突然話しかけられ、「矛盾の様な真実」の感想を求められた後、同号はくだらない作品ばかりだったから、今度君がいいものをきっと書いてくれと丁寧に言われたという<ref name="otani6"/><ref name="takeda"/>。
6月、近藤直人の下宿が左京区[[南禅寺]]草川町に変わり、基次郎は頻繁にここを訪ねた<ref name="otani6"/>。雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』に掲載された[[若山牧水]]の「みなかみ紀行」を読んで宇賀康に送った<ref>「宇賀康宛て」(大正12年6月24日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=87}}に所収</ref>。宇賀は5月上旬に[[幽門]]閉塞で危篤となり、[[お茶の水]]の[[順天堂病院]]に入院し手術を受け、病院に駆けつけた基次郎はそこに留まって看病していた<ref name="nikk2"/><ref name="nikk3"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正12年5月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=86}}に所収</ref>。その後基次郎は学期末試験に向けて勉強に励んだ<ref>「宇賀康宛て」(大正12年6月13日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=87}}に所収</ref>。
7月、[[有島武郎]]が[[軽井沢]]の別荘で[[心中]]した事件を[[中谷孝雄]]から聞き、基次郎はしばらくショックで口もきけなくなり考え込んでしまった<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6"/>。同月、「矛盾の様な真実」掲載の『嶽水会雑誌』(第84号)に詩を発表していた文丙3年の[[丸山薫]]([[東京高等商船学校]]卒業後に三高に入学したため当時24歳)に基次郎は話しかけて知り合った<ref name="otani6"/><ref name="maru"/>。[[四国]][[小松島市|小松島]]の三高水泳所に行ったこの頃、[[八坂神社]]石段の西北のカフェーを舞台にした草稿「カッフェー・ラーヴェン」が書かれたと推定される<ref name="nenpu-b"/>。
8月、軍の[[簡閲点呼]]を受けるため大阪に帰り、父・宗太郎と[[別府温泉]]へ旅行した<ref name="otani6"/>。[[ビール]]を飲みながら、有島武郎の自殺事件について大激論となった<ref name="otani6"/><ref name="新3巻 2000 121-122">「近藤直人宛て」(大正14年8月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=121-122}}に所収</ref>。この頃には[[日向市|日向]]の「[[新しき村]]」の[[武者小路実篤]]の四角関係も新聞ネタになっていた<ref name="nenpu-b"/>。別府からの帰路は1人船で帰った基次郎は、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』を耽読し、この船旅のことを草稿「瀬戸内海の夜」に書いた<ref name="otani6"/>。
9月、劇研究会の公演準備([[アントン・チェーホフ|チェホフ]]の『熊』、[[ジョン・ミリントン・シング|シング]]の『鋳掛屋の結婚』の演出担当、[[山本有三]]の『海彦山彦』)で、「多青座」を組織し、同志社女子専門学校(現・[[同志社女子大学]])の女学生2人(石田竹子と梅田アサ子)を加えて、万里小路新一条上ルに部屋を借りて稽古した<ref name="zadan2">[[浅見淵]]・中谷孝雄・[[外村繁]]・北川冬彦・[[三好達治]]・淀野隆三「座談会 梶井基次郎の思い出」(『決定版 梶井基次郎全集』月報[檸檬通信(1)(2)]筑摩書房、1959年2月・5月・7月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=350-367}}に所収</ref><ref name="otani6"/><ref name="sorakoto">「『青空』のことなど」(嶽水会雑誌百年記念特集号 1928年12月)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=87-91}}に所収</ref><ref name="nikk4">「日記 草稿――第四帖」(大正9年・大正13年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=211-250}}に所収</ref>。しかし、それが不謹慎だという噂が広まり、10月に校長・[[森外三郎]]より、[[関東大震災]]のあとの自粛という表向きの理由で公演中止命令が出された<ref name="nakakyoto"/><ref name="zadan2"/><ref name="otani6"/>。
すでに衣裳も準備し前売り券も売っていたため、『[[日出新聞]]』に中止の広告を出して、公演当日10月17日には会場で払い戻し作業に追われた<ref name="nakakyoto"/>。後始末のための金は校長から100円を渡されたが、[[外村繁|外村茂]]や基次郎は公演中止に激しく憤った<ref name="nakakyoto"/>。これがのち、〈恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の[[魂]]があつたのだ〉と5年後もなお尾を引いて綴られることになった<ref name="yodono"/><ref name="otani6"/><ref name="sorakoto"/>。
基次郎は払い戻しを終えると、[[祇園神社]]の[[祇園石段下|石段下]]の北側にあった「カフェ・レーヴン」で酒を飲んで暴れた。悔し涙で再び基次郎の泥酔の日々が始まり、外村茂や浅見篤、中谷孝雄も付き合った<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6"/>。カフェーには、関東大震災後に[[大杉栄]]が官憲に虐殺され([[甘粕事件]])、京都に逃げてきた[[アナーキスト]]らが多く出入りしていたため、彼らもその空気に影響された<ref name="otani6"/>。酔うと基次郎は外村茂を「豪商外村吉太郎商店の[[御曹司]]」と揶揄し、4人一緒に大声で「監獄をぶっこわせ」と高吟して夜の街を練り歩き、看板を壊して暴れ回った<ref name="otani6"/>。
基次郎は、[[円山公園 (京都府)|円山公園]]の湯どうふ屋で騒ぎ、巡査に捕まり、四つん這いになり犬の鳴き真似をさせられた<ref name="yodono"/><ref name="nakakyoto"/>。また、当時京都で有名だった「兵隊竹」という[[無頼漢]]ヤクザとカフェーで喧嘩をし、左の頬を[[ビール瓶]]でなぐられ、怪我をして[[失神]]した<ref name="yodono"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6"/>。その頬の傷痕は生涯残った<ref name="yodono"/><ref name="nakakyoto"/>。11月、北野中学時代からの友人・宇賀康、矢野潔、中出丑三の悪口を綴った葉書をわざと宇賀宛てに出したりした<ref>「宇賀康宛て」(大正12年11月5日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=88}}に所収</ref>。この頃、「瀬山の話」第2稿を書いていた<ref name="otani15">「梶井基次郎年譜」({{Harvnb|大谷|2002|pp=325-361}})</ref>。
=== 東京帝大文学部入学 ===
[[1924年]](大正13年)1月、上京区岡崎西福ノ川町(現・左京区[[岡崎 (京都市)|岡崎]])の大西武二方に下宿を移し、卒業試験に備えた。浅見篤が訪ねると、原稿用紙が部屋中に散らばり、階下の便所に行かずに、[[ズック]][[カバン]]の中に[[小便]]を溜めてぶら下げていたという<ref name="otani6"/>。この頃、自分の鬱屈した内面を客観化して書こうとする傾向の草稿(習作「雪の日」「瀬山の話」「汽車――その他」や「過古」などに発展する)をいくつも試みていた<ref name="nenpu-b"/><ref name="nikk3"/>。
2月、卒業試験終了後、基次郎は重病を装って[[人力車]]で教授宅を廻り、卒業を懇願した<ref name="yodono"/><ref name="otani6"/><ref name="sotooboe">外村繁「梶井基次郎の覚書 三」(『外村繁全集 第6巻』講談社、1962年8月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=63-65}}に所収</ref>。3月、特別及第で卒業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940328/156 『第三高等学校一覧 大正13年4月起大正14年3月止』第三高等学校、1924年9月、p.(名簿)151]</ref>。結局5年がかりで三高を卒業した基次郎は、その足で[[夜行列車|夜汽車]]に乗って上京し、[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]英文科に入学の手続きを済ませた(当時は倍率が低ければ無試験で入学可能であった)<ref name="nenpu-b"/>。同行した[[中谷孝雄]]と[[外村繁|外村茂]]も、それぞれ[[独文科]]、[[経済学部]]経済学科を希望した<ref name="otani6"/><ref name="sotooboe"/>。
3人は麻布市兵衛町の外村家別宅に泊り、[[同人雑誌]]を出すことを語り合い、[[銀座]]や[[神楽坂]]に繰り出した<ref name="otani6"/>。中谷孝雄が先に帰郷した後も基次郎はそこに残り、中谷の[[三重県立津高等学校|三重県立一中]]時代の後輩の新進[[歌人]]・[[稲森宗太郎]]([[早稲田大学]][[国文科]])を訪ねたり、すでに東京帝国大学工学部[[電気科]]3年になる宇賀康や、東京に帰省していた浅見篤と遊び、[[東京大学の建造物|東大赤門]]前のカフェーで客と喧嘩し2階から転落したりした<ref name="otani6"/>。
京都に戻った基次郎は下宿を引き払った後、三高劇研究会の後輩らと飲み、[[武田麟太郎]]に愛用のズックカバンと[[登山靴]]をあげた<ref name="takeda"/><ref>[[ズック]][[カバン]]の現物写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=52}}</ref>。大阪の実家に帰ると、東京での生活費は自分で稼ぐように通告された<ref name="otani6"/><ref>「中谷孝雄宛て」(大正13年4月4日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=89-90}}に所収</ref>。
4月、雑誌『[[中央公論]]』に掲載された[[佐藤春夫]]の「『風流』論」を読み、[[自我]]を追究する近代小説よりも[[自然]]と一体化する瞬間の美を描く[[ボードレール]]や[[松尾芭蕉]]の作品を賞揚する佐藤春夫の姿勢に共鳴した<ref name="nenpu-b"/>。この頃、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[アンナ・カレーニナ]]』や[[若山牧水]]の『山櫻の歌』も読んだ<ref>「中谷孝雄宛て」(大正13年4月9日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=90-91}}に所収</ref>。
上京した基次郎は数日間、[[本郷区]]追分町の矢野潔の下宿に泊った後、本郷区本郷3丁目18番地(現・文京区[[本郷 (文京区)|本郷]]2丁目39番13号)の蓋平館支店に下宿を決めた<ref name="otani7">「第七章 天に青空、地は泥濘――本郷と目黒にて」({{Harvnb|大谷|2002|pp=137-161}})</ref>。前年の[[関東大震災]]で東大の[[赤レンガ]]も壊れたままのところもあったが、下宿先の町は被害が少ない地域であった<ref name="kashi11"/>。三高の入学式の檀上では、卒業試験後の人力車の挿話を伝え聞いていた森校長が、卒業生の基次郎のことを、病気を親に隠し猛勉強した[[親孝行]]者として新入生に紹介した<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani6"/><ref name="sotooboe"/>。
先に帝大文学部に進んでいた[[飯島正]]、[[大宅壮一]]、[[浅野晃]]が第七次『[[新思潮]]』創刊を計画していたことに刺激された基次郎と中谷孝雄、外村茂は、自分たちも同人誌を作ろうと具体的計画を練り<ref name="zadan"/><ref name="otani7"/>、5月に、三高出身の小林馨(仏文科)と[[忽那吉之助]](独文科)や、稲森宗太郎(早大)を仲間に加えて、誌名の仮称を三高時代によく通った「カフェ・レーヴン」から「'''鴉'''」とした。これは[[エドガー・アラン・ポー]]の詩に「[[大鴉]]」があったことも由来する<ref name="kashi11"/><ref name="otani7"/>。だが基次郎はこの「[[鴉]]」という名称に不満を持っていた<ref name="sotoao">外村繁「『青空』のことなど」(文學集團 1949年8月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=73-74}}に所収</ref>。
6人は5月初旬に、本郷4丁目の食料品店「青木堂」の2階にある喫茶店で第1回同人会を開き、創刊を秋にすることして具体的な日取りを進めた<ref name="otani7"/>。6月に大宅壮一らの第七次『新思潮』が創刊され、巷の文学青年たちの間で同人誌を創刊する気運が高まっていた<ref name="otani7"/>。この頃、基次郎は草稿「夕凪橋の狸」「貧しい生活より」を書いたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。月末、異母妹・八重子の[[危篤]]の報を受け、基次郎は大阪の実家へ駆けつけた<ref name="otani7"/>。基次郎はこの幼い異母妹をとても可愛がっていた<ref name="otoken"/><ref name="fujioto"/><ref name="otani7"/>。
=== 異母妹の死――松阪へ ===
[[1924年]](大正13年)7月2日、3歳の八重子は家族全員の看病の甲斐なく[[結核#結核性髄膜炎|結核性脳膜炎]]で急逝した<ref name="nikk4"/><ref>「宇賀康宛て」(大正13年7月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=91-92}}に所収</ref><ref name="kon1376">「近藤直人宛て」(大正13年7月6日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=94-96}}に所収</ref>。貧乏で死なせてしまったことを不憫に思ったのか、父・宗太郎は悲しみ酔いつぶれた夢の中でも「[[南無妙法蓮華経]]」を唱えて、指の先で[[畳]]を擦っていた<ref name="nikk4"/><ref name="otani7"/>。落胆や様々な思いが基次郎の胸に去来し、計画していた5幕物の戯曲「[[浦島太郎]]」の執筆を断念し、短編小説を書く決意をした<ref name="nenpu-b"/><ref>「外村茂宛て」(大正13年7月5日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=92-93}}に所収</ref>。
{{Quotation|小さな躰が私達の知らないものと一人で闘つてゐる 殆ど知覚を失つた躰にやはり全身的な闘をしてゐる それが随分可哀さうでした、大勢の兄弟に守られて死にました (中略)妹の看病をしてゐる時私はふと大きな[[虫]]がちいさな虫の死ぬのを傍に寄添つてゐる――さういふ風に私達を想像しました それは人間の理智情感を備へてゐる人間達であると私達を思ふよりより[[真実]]な表現である様に思はれました、全く[[感情]]の灰神楽です。<br />
夕立に洗はれた静かな山の木々の中で人間に帰り度いと思ひます。|梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正13年7月6日付)<ref name="kon1376"/>}}
初七日が済み、[[若山牧水]]の『みなかみ紀行』を買って夜の街を散歩した基次郎は、〈綴りの間違つた看板の様な都会の美〉や〈華やかな[[孤独]]〉を感じ、〈[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]に非ざればある種の美が把めないと思つてゐる〉として、それを書くためには〈精力〉が必要だという心境を友人らに宛て綴った<ref name="otani7"/><ref>「宇賀康宛て」(大正13年7月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=96}}に所収</ref><ref>「忽那吉之助宛て」(大正13年7月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=96-97}}に所収</ref><ref name="kashi12">「第一部 第二章 城のある町」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=22-38}})</ref>。
この頃、よく[[血痰]]を吐いていた基次郎は、不安定で敏感な感覚の精神状態の中にいたが、その自意識の過剰の惹き起こす苛立ちや、日常の認識から解放された地点で、感覚そのものを見つめ、[[五感]]を総動員して「秘かな美」を探ることに次第に意識的になっていった<ref name="kashi12"/><ref name="album3">「『青空』と友人たち」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=30-64}})</ref>。
また近藤直人と[[新京極通|新京極]]を散歩中に見た[[蛸薬師]]の[[絵馬]]から、〈表立つた人々には玩賞されないが市井の人や子供に玩賞せられるこの様な派の存在〉に気づかされた<ref name="nenpu-b"/><ref name="nikk4"/>。[[中之島図書館]]に帝大の[[角帽]]を被って行く〈学生時代の特権意識〉と〈軽いロマンティシイズム〉を感じて、〈一面恥かしく、一面軽く許す気〉にもなった<ref name="nikk4"/><ref name="otani7"/>。この頃、草稿「犬を売る男」が書かれたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。
[[File:松坂城1.jpg|thumb|230px|[[松阪城]]跡。「城のある町にて」の題材となった]]
8月、姉夫婦の宮田一家が住む[[三重県]][[飯南郡]]松阪町殿町1360番地(現・[[松阪市]][[殿町 (松阪市)|殿町]])へ養生を兼ねて、母と末弟・良吉を連れて滞在した<ref name="otani7"/><ref name="kashi12"/><ref name="fusa">奥田ふさ「私と城のある町にて」(梶井基次郎文学碑建設記念文集 1974年8月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=71-72}}に所収</ref>。基次郎は都会に倦んだ神経を休め、異母妹の死を静かな気持で考えた<ref name="nikk4"/>。母と末弟が先に帰った後も、[[松阪城]]跡を歩き、風景のスケッチや草稿ノートを書き留めた<ref name="nikk4"/>。これがのちの「[[城のある町にて]]」の素材となる<ref name="otani7"/><ref name="kashi12"/>。
9月初旬に京都に行った基次郎は、[[鴨川 (淀川水系)|加茂]]の河原の風景の中で心を解放し、言葉で風景をスケッチした後<ref name="nenpu-b"/><ref name="nikk4"/>、東京の下宿に戻って同人雑誌の創刊のため喫茶店の広告取りをし、掲載する作品創作にも勤しんだ<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani7"/>。この頃、初恋の思い出の草稿を[[宇野浩二]]の『蔵の中』に影響された饒舌体で書き<ref name="nikk2"/>、草稿「犬を売る男」や「病気」を原稿用紙にまとめ直そうとしていたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。
この時期、大阪の実家は[[ビリヤード|玉突き]]屋を閉店し、大阪府[[東成郡]][[天王寺]]村大字阿倍野99番地(現・[[阿倍野区]]王子町2丁目14番地12号)に引っ越した。そこで母・ヒサは、[[羽織]]の紐などの小物や[[駄菓子]]を売る[[雑貨|小間物]]屋を開店した<ref name="otoken"/><ref name="otani7"/>。
=== 『青空』創刊――檸檬 ===
[[1924年]](大正13年)10月上旬、本郷[[菊坂]]下の[[中谷孝雄]]の下宿に集まった基次郎ら同人6人は雑誌の正式名称を何にするか相談した<ref name="otani7"/><ref name="sotoao"/>。基次郎は「'''薊'''」([[アザミ|あざみ]])という名がいいと主張したが、[[水揚げ|水を揚げない]]花だと反対する者があり廃案となった<ref name="otani7"/>。中谷と同棲を再開していた[[平林英子]]が、[[武者小路実篤]]の詩に「さわぐものはさわげ、俺は青空」というのがあると窓辺で中谷に囁いた<ref name="otani7"/><ref name="hirakaji">平林英子「梶井基次郎」(『青空の人たち』皆美社、1969年12月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=144-153}}に部分所収</ref>。
中谷が快晴の空を見上げながら「青空はいいな」と叫び、即座に基次郎が賛同して「'''青空'''」に決定した<ref name="otani7"/><ref name="hirakaji"/>。中谷と[[吉祥寺]]に行って[[十三夜]]の[[月見]]をした基次郎は、作家として生計を立てる決意を告げたという<ref name="otani7"/>。
以前から基次郎は、京都での自分の鬱屈した内面を客観化しようとした「瀬山の話」を書き進めていたが完成に至らずに習作どまりで断念していた<ref name="otani7"/><ref name="kashi12"/><ref name="album3"/>。その中の「瀬山ナレーション」の断章挿話「檸檬」(一個の[[レモン]]と出会ったときのよろこびと、レモンを[[爆弾]]に見立て、自分を圧迫する現実を破砕してしまおうという感覚を描いたもの)を独立した作品に仕立て直して、創刊号に発表することにした<ref name="kashi14"/><ref name="otani7"/><ref name="album3"/><ref name="kashi15">「第一部 第五章 幻視者」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=70-86}})</ref>。
同人らは『[[青空 (雑誌)|青空]]』創刊号に掲載する原稿を10月末に持ち寄り、帝大前の[[郁文堂]]書店に発売を依頼するが印刷代が高額だったため、そこでの印刷は断念し、[[稲森宗太郎]]の友人・[[寺崎浩]]の父親が[[岐阜刑務所]]の所長をしていた伝手で、刑務所の作業部で印刷してもらうことになった<ref name="otani7"/>。[[外村繁|外村茂]]と忽那吉之助が帰郷ついでに刑務所に原稿を渡した後、[[校正]]などの事務連絡に手間取り、創刊発行は新年になることになった<ref name="otani7"/><ref name="kashi16">「第一部 第六章 『青空』創刊」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=87-110}})</ref>。
11月、中谷夫妻が[[江戸川区]]に転居したため、基次郎の下宿が同人の集合する場所になった<ref name="otani7"/>。この頃、基次郎は[[武蔵野]]を散策して、[[国木田独歩]]の『武蔵野』のような作品を書きたいと考えていた<ref name="otani7"/><ref name="kon131112">「近藤直人宛て」(大正13年11月12日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=98-99}}に所収</ref>。[[フランス]]と日本の20世紀絵画([[林武]]、[[黒田清輝]])への関心が強まった基次郎は、〈前からもさうでしたが、自分個人的なそしてその場その場の感興に身を委せるといふ様なことに無意識的に移つて来たやうに思ひます〉と近藤直人に書き送り、同人誌創刊号に載せる小説について語った<ref name="otani7"/><ref name="kashi15"/><ref name="kon131112"/>。
{{Quotation|創作といつても短いのを一つ――あまり[[魂]]が入つてゐないものを仕上げて此度出す雑誌へ出しました。此度いよいよ雑誌が出るのです、名前は青空――いづれ京都へも出ますが広告しておいて頂きたい様な愧しい様な気持です。(中略)あなたにはお送りいたしますが決して意気込んで送るのではありませんからそのお積りで。然し何年でも私はこれを守り立てゝゆく積りでゐます。その内にみなも段々調子が揃つて来るだらうと思ひます。|梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正13年11月12日付)<ref name="kon131112"/>}}
12月、宇賀康の家の紹介で、郊外の[[荏原郡]][[目黒町 (東京府)|目黒町]]字[[中目黒]]859番地(現・[[目黒区]][[目黒 (目黒区)|目黒]]3丁目4番2号)の八十川方に下宿先を変えた<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。この家は偶然にも母の若い頃の友人宅であった<ref>「近藤直人宛て」(大正13年11月28日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=100}}に所収</ref>。27日には、印刷された『青空』300部を受け取りに、中谷、外村と3人で岐阜刑務所作業部に出向いた<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。
半数を外村茂の実家に送付し、残りを携えて京都に行き、販売協力のため[[円山公園 (京都府)|円山公園]]にある[[料亭]]「あけぼの」で待つ劇研究会後輩の[[浅沼喜実]]、[[北神正]]、新加入の[[淀野隆三]](文甲3年。[[伏見区|伏見]]の鉄商の息子)、龍村謙(文乙2年。[[西陣織]]の染織研究・龍村平蔵の長男)に渡した<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。その夜、基次郎と外村は後輩らと、伏見過書町の淀野隆三の実家に泊り、翌日は先輩の[[山本修二]]の家(京都寺町[[丸太町通|丸太町]])に行った<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。
[[1925年]](大正14年)1月、小説「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」を掲載した同人誌『青空』創刊号が販売されたが、評判にならなかった<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。雑誌を[[文壇]]作家に寄贈しなかったためと思われたが、それは基次郎が「彼らは書店で(30銭を払って)買って読む義務がある」と主張したからだった<ref name="nenpu-b"/><ref name="nomura"/><ref name="otani7"/>。先月半ばから取りかかっていた次号作の執筆に取り組む基次郎は下宿の部屋から出なかったので、仲間から「[[瀧泉寺|目黒の不動]]さん」と呼ばれた<ref name="otani7"/>。
=== 反響の無さ――焦燥 ===
同人間の合評で「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」の評判はあまり好くなかったが<ref name="asanuma"/>、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]時代の音楽仲間で帝大[[法学部]][[フランス法]]の小山田嘉一は、同科で三高出身の[[北川冬彦]]に「これはすごいんだ」と推奨していた<ref name="zadan"/><ref name="otani7"/>。[[稲森宗太郎]]は健康上の理由もあり、[[短歌]]に専念するために創刊号のみで同人を抜けた<ref name="nomura"/>。
[[1925年]](大正14年)1月末、大雪が止んだ後、[[理容所|床屋]]に行き散髪するが[[釜]]が割れてよく濯いでもらえず、基次郎は[[石鹸]]の泡をつけたまま歩いて古書店を回った<ref name="kon14216">「近藤直人宛て」(大正14年2月16日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=105-107}}に所収</ref>。[[銀座]]で[[フランスパン]]を買うが、その散歩中に[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]のような気分で苛立ち、[[有楽町駅|有楽町]]の[[プラットホーム]]から[[高架橋|ガード]]下の通りに向って[[小便]]をかけた<ref name="kon14216"/>(この日のことはのちに「泥濘」に書かれる)<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。
[[1925年]](大正14年)2月、同人の集会(3号の原稿持ち寄り会)で、印刷の[[誤植]]の多い岐阜刑務所作業部から、高額でも東京[[麻布区]][[六本木]]町の印刷所・秀巧舎に変更することに決定した<ref name="otani7"/><ref name="kon14216"/>。中旬には、「[[城のある町にて]]」を掲載した『青空』第2号が発行されたが、この小説もほとんど評価されなかった。基次郎は第3号には作品を投稿せず、稲森宗太郎の代わりに入れた千賀太郎は第3号のみで抜けた<ref name="otani7"/><ref name="kashi16"/>。
3月中旬、帝大文学部[[仏文科]]に進学する[[淀野隆三]]と、[[法学部]]に進む浅沼喜実(のちに筆名・湖山貢)が上京し、『青空』同人に加入することになった<ref name="nenpu-b"/><ref name="yodono"/><ref name="otani7"/><ref name="yodonikki">鈴木貞美編「『青空』の青春――淀野隆三『日記』抄」({{Harvnb|別巻|2000|pp=397-434}})</ref>。基次郎は淀野を通じて、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]中退後に三高に入った1歳上の[[三好達治]]と知り合った<ref name="otani7"/><ref name="kashi21">「第二部 第一章 大学生活」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=111-122}})</ref>。春休みも小説創作が進まず苦労していた基次郎は<ref>「宇賀康宛て」(大正14年3月23日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=108}}に所収</ref>、先月から、「瀬山の話」を元に「雪の日」か「汽車その他――瀬山の話」をまとめ直そうとしていたと推定されている<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani7"/>。
4月、[[麹町区]]富士見町(現・[[千代田区]])の小山田嘉一(帝大卒業後、[[住友銀行]]東京支店に就職)の家で、「檸檬」を褒めていた[[北川冬彦]]と再会した<ref name="otani7"/><ref name="kashi21"/><ref name="kitagakiku">北川冬彦・[[鈴木貞美|鈴木沙那美]]「北川冬彦氏に聞く」([[早稲田文学]] 1981年11月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=106-110}}に抜粋所収</ref>。北川は法学部から文学部仏文科に再入学して父親から勘当されたが、詩誌『[[亞 (雑誌)|亜]]』の同人で、前年の1924年(大正13年)1月に詩集『三半規管喪失』を刊行し、[[横光利一]]に認められる[[詩人]]となっていた<ref name="otani7"/>。基次郎は北川を『青空』に誘うが、同人にはまだ加入しなかった<ref name="otani7"/><ref name="kashi21"/>。この月、実家の地番が市域に編入されて、[[住吉区]]阿倍野町99番地(現・[[阿倍野区]]王子町2丁目14番地12号)に変わった<ref name="nenpu-b"/>。
5月、銀座で絵画展覧会を観たり、「[[カフェー・ライオン]]」で[[ビフテキ]]を食べるなど贅沢をするが倦怠感は晴れず、[[島崎藤村]]の『春を待ちつゝ』を読み、机の位置を変えたりした<ref name="nikk6">「日記 草稿――第六帖」(大正14年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=269-307}}に所収</ref><ref name="otani8">「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」({{Harvnb|大谷|2002|pp=162-195}})</ref>。この頃、「泥濘」執筆に取りかかったと推定されている<ref name="otani7"/><ref name="kashi21"/>。月末に[[麻布区]][[飯倉 (東京都港区)|飯倉片町]]32番地(現・港区[[麻布台]]3丁目4番21号)の堀口庄之助方に下宿を変えた<ref name="yodonikki"/><ref name="nikk6"/><ref name="otani8"/>。家主の堀口庄之助は石積みの名人と言われた[[木|植木]]職人で[[目黒区]][[祐天寺 (目黒区)|祐天寺]]に居て、植木職を継いだ養子・繁蔵と津子の若夫婦が階下に住んでいた<ref name="kashi21"/><ref name="otani8"/><ref name="soto1103">外村繁「十一月三日」([[文學界]] 1954年11月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=77-78}}に所収</ref>。
=== 『青空』の広報活動 ===
[[1925年]](大正14年)6月、[[淀野隆三]]の意見を聞き入れ、著名作家に『青空』第4号を寄贈することになり、基次郎も宛名書きや喫茶店への広告ビラ書きを手伝った<ref name="otani8"/>。この頃、淀野や外村と観にいった日仏展覧会で[[アントワーヌ・ブールデル]]の彫刻に感心した<ref>「近藤直人宛て」(大正14年6月8日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=114}}に所収</ref>。7月、「泥濘」を掲載した『青空』第5号を発行した。実家の小間物屋は店を半分に分け、[[エンジニア]]の兄・謙一の技術指導を受けた弟・勇が[[ラジオ]]店を開業した<ref name="otoken"/>。この前年に大阪のラジオ放送局[[JOBK]]が開局していた<ref name="kashi21"/><ref name="otani8"/><ref>「宇賀康宛て」(大正14年7月6日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=116}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|当時[[ラジオ]]屋は、部品を大阪[[日本橋 (大阪市)|日本橋]]筋で買って、お客の注文に対応して組み立てていた<ref name="otoken"/><ref name="otani8"/>。}}。
8月の夏休みは、[[外村繁|外村茂]]と一緒に淀野の実家を訪ね、[[淀川 (近畿)|宇治川]]で舟遊びをし、[[京都国立博物館|京都博物館]]に行った<ref>「淀野隆三宛て」(大正14年8月9日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=117}}に所収</ref>。同月には、[[神経痛]]の父を[[松山市|松山]]の[[道後温泉]]へ送った後に船で大阪に戻った<ref name="新3巻 2000 121-122"/><ref>「畠田敏夫宛て」(大正14年8月12日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=123}}に所収</ref>。この頃「路上」に取りかかり<ref>「淀野隆三宛て」(大正14年8月16日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=126}}に所収</ref>、下旬に宇賀康と一緒に和歌山の近藤直人も訪ねた<ref name="otani8"/>。9月中旬に上京する途中に、近藤直人と[[比叡山]]や琵琶湖に行き、[[松尾芭蕉]]の『[[奥の細道]]』について語った<ref name="otani8"/><ref name="kashi22">「第二部 第二章 行き悩む創作」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=123-139}})</ref>。
10月、「路上」を掲載した『青空』第8号を発行し、この号から部数を300から500部にした<ref name="nenpu-b"/>。この月、基次郎はなけなしの金をはたいて、[[帝国ホテル]]で開かれた[[アンリ・ジル=マルシェックス|ジル・マルシェックス]]のピアノ演奏会に6日間通い、[[瞑想]]的な気分に浸り感動を味わった(これがのち「器楽的幻想」の題材となる)<ref name="otani8"/><ref name="kashi22"/><ref>「近藤直人宛て」(大正14年10月26日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=128-129}}に所収</ref>。同月下旬は、[[千葉県]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[鉄道]]部に入隊する中出丑三を、矢野繁と一緒に送っていった<ref>「宇賀康宛て」(大正14年11月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=134}}に所収</ref>。
11月、「橡の花」を掲載した『青空』第9号を発行した。北神正(法学部。筆名は金子勝正)と清水芳夫(画家・[[清水蓼作]]。淀野隆三の友人)が同人参加するが、北神は第10号だけで抜けた<ref name="otani8"/><ref name="kashi23">「第二部 第三章 青春賦」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=140-153}})</ref>。12月、[[伏見区|伏見]]公会堂と[[大津市|大津]]の公会堂で『青空』文芸講演会が開かれ、基次郎は大津で「過古」を朗読し、余興として歌も歌った<ref>「雑記・講演会其他」(青空 1926年2月号)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=92-93}}に所収</ref>。聴衆は7名(内2人は『真昼』同人)だった<ref name="otani8"/><ref name="kashi23"/>。
[[1926年]](大正15年)1月、「過古」を掲載した『青空』第11号を発行。2月、「雑記・講演会其他」を掲載した『青空』第12号を発行した。この号から、基次郎が誘った[[飯島正]]が同人参加した<ref name="otani8"/><ref name="kashi23"/>。3月中旬、帝大仏文科に入学が決まった後輩の[[武田麟太郎]]が上京したため、[[三好達治]]と3人で銀座に行くが、飲み屋「[[カフェー・プランタン|プランタン]]」で[[明治大学]]の不良と大喧嘩となり、武田が[[築地警察署]]の留置場に入れられた<ref name="otani8"/><ref name="kashi23"/>。
4月中旬、基次郎は外村茂と共に飯倉片町の[[島崎藤村]]宅を訪問し、5月発売の同人誌『青空』第15号を直接献呈した<ref name="otani8"/><ref name="sotokoto">外村繁「梶井基次郎のこと」(創元 1941年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=74-77}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|基次郎の下宿の植木職人・堀口繁蔵が[[島崎藤村]]の家に出入りしていて、その口利きで訪問が可能になった<ref name="otani8"/>。}}。「雪後」と「青空同人印象記」を掲載した6月の『青空』第16号から同人に[[三好達治]]が参加した<ref name="otani8"/>。「雪後」は友人・矢野繁をモデルにした小説である<ref name="otani8"/><ref name="kashi24">「第二部 第四章 それぞれの道」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=154-173}})</ref>。
7月、「[[川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン]]」を掲載した『青空』第17号を発行。北神正が同人に復帰した<ref name="otani8"/>。この号を購入した[[東京商科大学]][[予科]]生の[[田中西二郎]](のち[[中央公論社]]入社)は基次郎の川端論を読んで感心していた<ref name="otani8"/>。『青空』は経営難のため、三高劇研究会の同人誌『真昼』との合同が模索されたが、この計画は実現しなかった<ref name="otani8"/><ref name="kashi24"/><ref>「淀野隆三宛て」(大正15年7月10日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=141}}に所収</ref>。
8月、「ある心の風景」を掲載した『青空』第18号を発行した。炎天下、基次郎は微熱が続く中、配本に[[神楽坂]]や[[四谷]]を歩き回ったり、[[松屋 (百貨店)|銀座松屋]]の広告を取ったりした<ref name="otani8"/><ref name="sotokoto"/><ref>「淀野隆三宛て」(大正15年8月4日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=148-149}}に所収</ref>。中旬、基次郎は激しい疲労で病状が進み[[血痰]]を見た。麻布の医者から「右肺尖に水泡音、左右肺尖に病竈あり」と診断された<ref name="otani8"/><ref name="kashi26">「第二部 第六章 『新潮』への誘い」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=190-199}})</ref>。そして大手出版社の雑誌『[[新潮]]』の編集者・[[楢崎勤]]から10月新人特集号への執筆依頼を受け、この猛暑の夏、大阪で執筆に取り組むが、書けずに終り、9月に[[新潮社]]に詫びに行った(この時に未完の作品が、のち「ある崖上の感情」となる)<ref name="otani8"/><ref name="kashi26"/><ref name="nikk8">「日記 草稿――第八帖」(大正15年9月)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=358-365}}に所収</ref>。
しかしその3日後に、書簡体小説「[[Kの昇天]]」を書き上げ<ref name="nikk8"/>、10月、「Kの昇天――或はKの溺死」を『青空』第20号に発表した<ref name="kashi27">「第二部 第七章 二重の自我」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=200-214}})</ref>。この頃、[[結核]]の進行にあせっていた基次郎は、毎晩寝床で「お前は[[天才]]だぞ」と3度繰り返し自分に[[暗示]]をかけていた<ref name="otani8"/>。月末に[[三好達治]]が基次郎からの強い誘いで、飯倉片町の下宿の隣室に入った<ref name="otani8"/><ref name="kashi28">「第二部 第八章 大正末」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=215-236}})</ref>。心境小説こそが小説の進むべき方向と考えていた基次郎は、三好に[[志賀直哉]]の『雨蛙』を勧め、三好から[[萩原朔太郎]]の詩を教えられた。2人は[[松尾芭蕉]]七部集を注釈書で勉強した<ref name="otani8"/><ref name="kashi28"/>。
=== 伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊 ===
[[File:Yasunari Kawabata 1938.jpg|thumb|200px|[[川端康成]] 1938年(39歳頃)]]
[[1926年]](大正15年)11月、「『新潮』十月新人号小説評」を掲載した『青空』第21号を発行した。同人に[[北川冬彦]]、浅見篤、龍村謙(美術史学科)、英文科で[[第八高等学校 (旧制)|八高]]出身の[[阿部知二]]と[[古沢安二郎|古澤安二郎]]が参加することになり、本郷4丁目の「青木堂」2階で顔合わせ会を開いた。彼らは22号から同人になった<ref name="otani8"/><ref name="kashi28"/>。
基次郎は夏からの無理が重なっていて、喀血がひどくなり、「君は一日も早く、君の文筆で生計を立てるより外はない、[[卒業証書]]を貰つたつて仕方がないではないか」という[[三好達治]]の勧めもあり[[伊豆市|伊豆]]で日光療養しようかと考えた<ref name="otani8"/><ref name="sotokoto"/><ref name="miyoomo">三好達治「梶井基次郎君の憶出」([[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1934年3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=83-85}}に所収</ref><ref>「宇賀康宛て」(大正15年12月9日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=155-156}}に所収</ref>。
自分の進学のために苦労した親への申し訳なさから悩んだが、[[卒業論文]]提出を断念した基次郎は、[[昭和]]と元号が改まった12月の暮、[[品川駅]]を発ち、衰弱した身を癒すため伊豆に行った<ref name="otani8"/><ref name="kashi28"/><ref name="miyoomo"/><ref name="album4">「湯ヶ島の日々」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=65-83}})</ref>。現地の人から暖かな[[西伊豆町|西伊豆]]を勧められたが、[[吉奈温泉|吉奈]]で気が変り、基次郎は2歳年上の作家・[[川端康成]]のいる[[湯ヶ島温泉]]に向った<ref name="otani8"/><ref name="soto211">「外村茂宛て」(昭和2年1月1日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=158-159}}に所収</ref>。
宇賀康らが以前宿泊したという「落合楼」に入るが長逗留は断われ、「湯本館」に滞在中の川端を訪ねてみた<ref name="soto211"/><ref name="kawaba">「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。{{Harvnb|川端29巻|1982|pp=321-325}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=175-177}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=249-252}}、{{Harvnb|別巻|2000|pp=85-87}}に所収</ref>。『青空』を寄贈されていた川端は、飯島正や北川冬彦の名を知っていた。川端は基次郎と会話中、ちょうど部屋に遊びに来た[[板前]]・大川久一に相談し、[[狩野川]]の支流・猫越川の崖沿いの宿「湯川屋」を基次郎に紹介した<ref name="otani8"/><ref name="kashi28"/><ref name="album4"/><ref name="soto211"/><ref>「北川冬彦宛て」(昭和2年1月2日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=160}}に所収</ref>。
[[1927年]](昭和2年)元旦、「落合楼」を出た基次郎は「湯川屋」に移り、宿代も一泊4円のところ、3食付きで半額の2円にしてもらった<ref name="nenpu-b"/>。川端の宿へそのことを報告に行き、雑誌『[[文藝戦線]]』や『辻馬車』の話を聞いていると、[[岸田国士]]がやって来たので辞去した<ref name="soto211"/><ref name="otani9">「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」({{Harvnb|大谷|2002|pp=196-215}})</ref>。
基次郎はこの地で、これまで書いてきた[[感覚]]的な世界を、さらに[[比喩]]や[[象徴]]を多用し悲しみの[[詩]]的世界にした「[[冬の日 (小説)|冬の日]]」(前篇・後篇)を3月まで執筆した<ref name="otani8"/><ref name="album4"/><ref name="otani9"/><ref name="kashi31">「第三部 第一章 『冬の日』」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=237-244}})</ref>。その間、川端の宿へ通って[[囲碁]]を教わり、川端の『[[伊豆の踊子]]』の刊行の[[校正]]を手伝った<ref name="kawaba"/><ref name="otani9"/><ref name="yodo237">「淀野隆三宛て」(昭和2年3月7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=197-198}}に所収</ref>。
{{Quotation|梶井君は[[大晦日]]の日から湯ヶ島に来てゐる。「[[伊豆の踊子]]」の校正ではずいぶん厄介を掛けた。「[[十六歳の日記]]」を入れることが出来たのは梶井君のお蔭である。私自身が忘れてゐた作を梶井君が思ひ出させてくれた。(中略)梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐しく深い人柄を持つてゐる。[[植物]]や[[動物]]の頓狂な話を私によく同君と取り交した。「青空」の同人が四五人も入れ替り立ち替り梶井君の見舞ひに来て、私はそのみんなに会つた。今は[[三好達治]]君がゐる。[[淀野隆三]]君はいいお[[茶]]を送つてくれた。|[[川端康成]]「『[[伊豆の踊子]]』の装幀その他」<ref name="sonota">「『[[伊豆の踊子]]』の装幀その他」([[文藝時代]] 1927年5月号)。{{Harvnb|川端33巻|1982|pp=29-42}}に所収</ref>}}
2月、「冬の日」(前篇)を掲載した『青空』第24号が発行された。この作品は同人に好評で、三好達治はいきなり[[室生犀星]]に送り、犀星が褒めた<ref name="otani9"/>。基次郎は同人たちの[[思想]]上の違いを、〈[[ボリシェヴィキ|ポルシェビスト]]〉対〈[[アナーキスト]]〉と喩え、自身の立場を〈[[資本主義]]的芸術の先端[[写実主義|リヤリスチック]] [[シンボリズム]]の刃渡りをやります〉とした<ref name="otani9"/><ref>「近藤直人宛て」(昭和2年2月4日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=190-194}}に所収</ref>。3月から松村一雄(国文科。[[第八高等学校 (旧制)|八高]]出身)が同人に参加した<ref name="otani9"/>。川端が散歩の途中に、『伊豆の踊子』の[[装幀]]者の[[吉田謙吉]]や、『辻馬車』同人の[[小野勇]]、[[藤沢桓夫]]を連れて「湯川屋」に遊びに来たこともあった<ref name="yodo237"/><ref name="yodo2317">「淀野隆三宛て」(昭和2年3月17日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=201-202}}に所収</ref><ref name="fujisawa">[[藤沢桓夫]]「梶井基次郎の面影」([[サンケイ新聞]]大阪 1973年7月9日号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=99-102}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|基次郎が夜、「湯本館」に行き、[[吉田謙吉]]の[[望遠鏡]]をのぞいたことから、吉田は『青空』の23号から4冊の表紙の[[装幀]]を担当し、望遠鏡の絵を描いた<ref name="otani9"/>。}}。
4月、「冬の日」(後篇)を掲載した『青空』第26号が発行された。この号で小林馨と清水芳夫が抜けた<ref name="otani9"/>。川端康成は[[横光利一]]の結婚式出席を機に湯ヶ島を離れたが基次郎はまだ残った。その後、血痰が続いて長く歩くと高熱が出て、東京に帰れない思いで苦しんだ<ref name="otani9"/>。この月、『辻馬車』掲載の[[中野重治]]の評論に感心した<ref name="yodo2429">「淀野隆三宛て」(昭和2年4月29日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=214-217}}に所収</ref>。5月、『青空』27号で浅見篤と忽那吉之助が抜け、三高出身の青木義久([[京都府立医科大学|京都府立医大]])が加入した。「湯本館」にアナーキストの[[新居格]]が宿泊し、藤沢桓夫と一緒に「湯川屋」の基次郎を訪ねてきた<ref name="otani9"/>。
6月、『青空』28号が発行されたが、この月から北川冬彦、三好達治、淀野隆三が脱退を決めた。同人会で雑誌の終刊が決定され、この号が最後となった<ref name="nenpu-b"/><ref name="yodonikki"/><ref name="otani9"/>。阿部知二、古澤安二郎らが新たに同人誌『糧道時代』を[[紀伊国屋書店]]から発刊する計画をし、基次郎も手紙で知らされたが、またいつか『青空』を再興することを考えていた基次郎は誘いを辞退した<ref name="otani9"/><ref name="kashi37">「第三部 第七章 湯ヶ島最後の日々」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=300-312}})</ref>。
=== 宇野千代をめぐって ===
[[File:Chiyo Uno.jpg|thumb|left|180px|[[宇野千代]] 1935年前頃]]
[[1927年]](昭和2年)6月頃、[[川端康成]]の勧めで湯ヶ島にやって来た[[萩原朔太郎]]、[[広津和郎]]、[[尾崎士郎]]、[[宇野千代]]、[[下店静市]]らと面識を持ち、共に過ごした<ref name="yodoyuga">淀野隆三「湯ヶ島の思ひ出など」(世紀1935年1月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=89-94}}に部分所収</ref><ref name="chiyo">[[宇野千代]]『私の文学的回想記』(中央公論社、1972年4月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=94-99}}に抜粋所収</ref><ref name="kozu">[[広津和郎]]「年月のあしおと」([[群像]] 1963年2月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=102-104}}に抜粋所収</ref><ref name="otani10">「第十章 冬蠅の恋――湯ヶ島その二」({{Harvnb|大谷|2002|pp=216-242}})</ref>。7月は、[[淀野隆三]]も[[卒業論文]]を書くため滞在するようになった<ref name="album4"/><ref name="otani10"/><ref name="kozu3">広津和郎「梶井君の強靭さ」(『決定版 梶井基次郎全集』月報[檸檬通信(2)]筑摩書房、1959年2月・5月・7月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=374-376}}に所収</ref>。同24日、[[芥川龍之介]]の[[自殺]]が報じられ、湯ヶ島にも衝撃が走った<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani10"/>。
8月、[[三好達治]]も卒論執筆のため湯ヶ島に来て、[[丸山薫]]も来湯すると、宇野千代や萩原朔太郎も交えて[[句会]]が開かれた<ref name="yodoyuga"/><ref name="otani10"/>。三好と基次郎は千代に惹かれた<ref name="kashi37"/><ref name="otani10"/>。
9月、尾崎士郎が『[[新潮]]』に湯ヶ島を舞台にした「『鶺鴒の巣』そのほか」を載せたが、「鶺鴒の巣」には基次郎が「瀬川君」として登場し、尾崎と千代との夫婦の倦怠を描いた1篇「河鹿」には、梶井が尾崎に教えたと思われる[[河鹿]]の[[交尾]]の場面が書かれた<ref name="nenpu-b"/><ref name="sekirei">[[尾崎士郎]]「『鶺鴒の巣』そのほか」([[新潮]] 1927年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=237-246}}</ref>。基次郎は一旦上京した折に、[[中谷孝雄]]と共に[[東京府]][[荏原郡]]の[[馬込文士村]]にいる尾崎を訪ねて文学談義で意気投合して話し込み、[[大森駅 (東京都)|大森駅]]近くで[[鰻]]をおごられた<ref name="kashi37"/><ref name="otani10"/>。
10月、[[京都大学医学部附属病院|京都帝大医学部付属病院]]の医者に来春まで静養するように診断された後、大阪の実家に立ち寄り、両親の老いを感じて湯ヶ島での創作活動を決意し伊豆に戻った<ref name="otani10"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和2年10月19日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=226-227}}に所収</ref>。
10月下旬に川端康成の遠い親戚にあたる[[大阪府立北野中学校|北野中学]]時代の同級生・小西善次郎が『[[伊豆の踊子]]』を手に[[天城越え]]をするため湯ヶ島に来て、基次郎を訪ねた<ref name="hide2117">「[[川端秀子]]宛て」(昭和2年11月7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=234-236}}に所収</ref><ref name="kashi310">「第三部 第十章 昭和三年」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=342-358}})</ref>{{refnest|group="注釈"|小西善次郎は[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]のから帝国大学[[英文科]]に進んだ<ref name="otani10"/><ref name="hide2117"/>。小西は伯父・黒田秀太郎の家で川端と一夏を過ごしたこともあり、川端の短編集『[[掌の小説|感情装飾]]』を読み、文学に興味を持っていた<ref name="hide2117"/><ref name="kashi310"/>。}}。11月、[[天城トンネル]]を越えて[[湯ヶ野温泉]]まで歩いて一泊し、[[下田港]]まで回って「湯川屋」に戻ったが、身体を痛めて数日間寝込んだ<ref name="nenpu-b"/><ref name="yodo21111">「淀野隆三宛て」(昭和2年11月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=236-239}}に所収</ref>。
この頃、[[炭]][[問屋]]、杉山の屋敷で[[義太夫]]の会を聴き、この音と動作の印象が2年前に聴いた[[アンリ・ジル=マルシェックス|ジル・マルシェックス]]のピアノ演奏を呼び起こし、「器楽的幻想」の題材となる<ref name="album4"/><ref name="kashi38">「第三部 第八章 白日のなかの闇」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=313-326}})</ref>。また湯ヶ島を回った[[伊勢大神楽|大神楽]]の[[獅子舞]]を見て、獅子の[[仮面]]が生きているような錯覚を感じた<ref>「淀野隆三宛て」(昭和2年11月26日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=242-243}}に所収</ref><ref name="kashi39">「第三部 第九章 同人誌仲間」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=327-341}})</ref>。12月、「『[[亞 (雑誌)|亜]]』の回想」が詩誌『亜』終刊号に掲載された。『糧道時代』発行計画が同人『文藝都市』となり、[[浅見淵]]から誘われ、基次郎は躊躇しながら消極的に参加した<ref name="kashi39"/><ref>「浅見淵宛て」(昭和2年12月5日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=249-252}}に所収</ref><ref name="nikk11">「日記 草稿――第十一帖」(昭和2年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=410-423}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|『文藝都市』の同人には、[[坪田譲治 (作家)|坪田譲治]]、[[今日出海]]、[[舟橋聖一]]、[[蔵原伸二郎]]、[[尾崎一雄]]、[[浅見淵]]、[[阿部知二]]、[[古沢安二郎|古澤安二郎]]、ほか20人で、その後、[[井伏鱒二]]、[[飯島正]]、[[淀野隆三]]、[[中谷孝雄]]が加わった<ref name="otani10"/>。}}。
[[1928年]](昭和3年)1月、再びやって来た小西善次郎と一緒に、[[熱海市|熱海]]の貸別荘に住んでいる川端康成を訪ねて数日泊った<ref name="otani10"/><ref name="hide3215">「川端秀子宛て」(昭和3年2月15日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=269-271}}に所収</ref>。その後、馬込文士村の萩原朔太郎を訪ね。尾崎士郎宅の宇野千代に会いに行った基次郎は、その夜に[[詩人]]・衣巻省三の家で開かれたダンス・パーティーに一緒に参加した<ref name="otani10"/><ref name="kashi310"/>。千代との恋の噂などをめぐって基次郎と尾崎の間に鬱屈していた「気質の上に絡み合ふ処理できない感情」が爆発する一悶着があった<ref name="otani10"/><ref name="ozaki">尾崎士郎「文学的青春傳」(群像 1951年2月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=209-212}}に部分所収</ref><ref name="ozakihi">尾崎士郎「悲劇を探す男」(中央公論 1929年1月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=252-257}}に部分所収</ref>。
基次郎が最初に、「よお、[[カール・マルクス|マルクス]]ボーイ」、「おい、尾崎士郎。[[浪花節]]みたいな小説書くのん、止めろ」と尾崎を呼んだことが[[喧嘩]]の口火だった<ref name="fujisawa"/><ref name="otani10"/>。尾崎は浪花節的人物であったが、[[左翼]]がかったことも口にしていたので、「軽薄な奴」という含意があった。「何をこの小僧」と尾崎が怒り、「[[足袋]]をぬげ」と喧嘩の体勢になった<ref name="otani10"/>。2人は殴り合いの寸前となったが、三井勝人の仲裁により何とか事が収まった<ref name="otani10"/><ref name="kashi310"/>。その夜、基次郎は萩原朔太郎の家で一晩中、[[喀血]]をした<ref name="album4"/><ref name="otani10"/><ref name="kashi310"/>。
{{Quotation|[[ダンス]]の出来ない梶井と私とは[[ウィスキー]]を呻りつづけた。私たちの感情はぐいぐいと高まり、もはや言葉でゴマ化すことのできないところまで来てゐた。(中略)私はすぐ立ちあがり、右手に握りしめた[[煙草]]を火のついたままふりかざして一気に彼の面上にたたきつけたのである。(中略)それから彼は視線を私の顔から離して、じつと考へ込むやうに眼を瞑ぢた。しかし、すぐ猛然として立ちあがつた。そのときの彼の顔を私は今でもありありと思ひ描くことが出来る。内にひそむ[[本能|野性]]が彼の[[情熱]]をゆすぶり動かしたのである。|[[尾崎士郎]]「文学的青春傳」<ref name="ozaki"/>}}
湯ヶ島に戻った基次郎は、淀野隆三や清水芳夫、三好達治と過ごした<ref name="otani10"/>。誕生日の2月17日には、熱海の川端の元を訪れ下旬まで過ごした<ref name="otani10"/>。[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の『[[パリの憂鬱]]』を[[バイブル|座右の書]]としていた基次郎は、前年12月頃に英訳の一部をノートに筆写していたが、そのボードレールに影響され、清澄な[[ニヒリズム]]を描いた「[[蒼穹 (小説)|蒼穹]]」を3月の『文藝都市』第2号に発表した<ref name="album4"/><ref name="otani10"/><ref name="kashi310"/>。
3月中旬頃、再び来湯した[[藤沢桓夫]]とバスで[[下田市|下田]]まで行き、黙って[[下賀茂温泉|下賀茂]]に2、3泊したため、宇野千代や「湯川屋」の人たちを心配させ、村中が大騒ぎになった<ref name="chiyo"/><ref name="warai">[[宇野千代]]「あの梶井基次郎の笑ひ声」(『私はいつでも忙しい』中央公論社、1984年10月)。{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=533-545}}に所収</ref>。この時期、千代は湯ヶ島に来て、しばしば基次郎の宿を訪れていた<ref name="nenpu-b"/><ref name="新3巻 2000 282-283">「近藤直人宛て」(昭和3年5月20日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=282-283}}に所収</ref>。この3月をもって、授業料未払いで[[東京帝国大学]][[文学部]][[英文科]]から除籍された基次郎だが<ref name="otani10"/><ref name="kashi310"/>、卒業したとしても、結核の身では就職の当てもなかった<ref name="otani10"/>。
4月、「筧の話」を[[北原白秋]]主宰の雑誌『近代風景』に発表<ref name="otani10"/>。4月下旬、実家からの送金も絶たれ、宿の借金もあり湯ヶ島を去ることを決意した<ref name="otani10"/><ref name="kashi310"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和3年4月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=280}}に所収</ref>。
=== 帝大中退後――大阪帰郷へ ===
[[1928年]](昭和3年)5月、「器楽的幻覚」を『近代風景』に発表し、雑誌『創作月刊』創刊号には、自分の心の二つの相剋する働きを構造的にとらえた「[[冬の蠅]]」を発表した<ref name="otani10"/><ref name="otani11">「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」({{Harvnb|大谷|2002|pp=243-258}})</ref><ref name="kashi41">「第四部 第一章 上京」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=359-366}})</ref>。この作品を[[阿部知二]]が『文藝都市』の合評欄で推奨した<ref name="nenpu-b"/>。
5月上旬、留守の間に[[北川冬彦]]に貸していた[[麻布区]]飯倉片町の下宿に戻った基次郎は、1階を間借りして「ある崖上の感情」を書いた。この時、北川の部屋には春から上京した[[伊藤整]]([[東京商科大学]])もいて、基次郎から「[[櫻の樹の下には]]」の話を聞いた<ref name="otani11"/><ref name="itosei">[[伊藤整]]「小説作法(第一話)」(月刊文章 1939年3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=113-117}}に所収</ref><ref name="kashi42">「第四部 第二章 帰阪」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=367-376}})</ref>。伊藤は下旬に父親の病気で郷里の[[北海道]]に帰ったため、基次郎はまた2階に移った<ref name="otani11"/><ref name="itosei"/>。
基次郎は[[深川区]]の[[スラム街]]に住みたいと考えて見に行くが、結核の身には酷な場所だと考えて諦めた<ref name="nakalemon"/><ref name="asami">浅見淵「梶井君について」(評論 1935年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=117-119}}に所収</ref>。同月には、[[広津和郎]]の紹介で[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]で開業している[[口碑伝承]]的な漢方医に注射をしてもらった<ref name="nenpu-b"/><ref name="kozu"/><ref name="新3巻 2000 282-283"/><ref name="otani11"/>。この頃すでに[[レントゲン]]に写った基次郎の左の肺には卵大ほどの穴が開いていた<ref name="otani11"/><ref name="asami2">浅見淵「梶井基次郎君の印象」(文藝都市 1928年7月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=247-250}}に所収</ref>。
7月、実験的な[[心理]]小説「ある崖上の感情」を『文藝都市』に発表し、[[舟橋聖一]]に激賞された<ref name="yodono"/>。同人『文藝都市』の批評欄に載せる小説評を依頼され、[[プロレタリア文学]]系の雑誌『[[戦旗]]』と『[[文藝戦線]]』掲載小説の批評を引受けた<ref name="otani11"/><ref name="kashi42"/>。基次郎はこの時期、下宿の食事代も払えなくなり、東京府[[豊多摩郡]][[和田堀町]]堀ノ内(現・杉並区堀ノ内)の中谷孝雄の借家に身を寄せた<ref name="album4"/><ref name="otani11"/><ref name="kashi42"/><ref>「広津和郎宛て」(昭和3年7月23日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=284}}に所収</ref>。
8月、「『戦旗』『文藝戦線』七月号創作評」において、基次郎はプロレタリア文学の観念性を批判したが、窪川稲子([[佐多稲子]])や[[岩藤雪夫]]は好評した<ref name="otani11"/>。また、『創作月刊』に掲載の[[牧野信一]]の「小川の流れ」にしきりに感心した<ref name="otani11"/>。中旬に病状が重くなり、淀野隆三からそのことを伝え聞いた[[川端康成]]・[[川端秀子|秀子]]夫妻が心配して見舞いにきた<ref name="otani11"/><ref name="kashi42"/>。
基次郎は毎日のように血痰を吐き、しばしば呼吸困難に陥り歩けなくなるほど体の衰弱が甚だしくなってきた。身体を心配する友人たちの強い説得もあり、9月3日に大阪市住吉区阿倍野町の実家へ帰ることになった<ref name="hirakaji"/><ref name="otani11"/><ref name="kashi42"/>。1年ほど静養して再び飯倉片町の下宿に戻るつもりで手荷物以外はそのままにし、基次郎は[[東京駅]]で中谷孝雄、淀野隆三、飯島正、北川冬彦に見送られた<ref name="otani11"/>。これが基次郎の見た最後の東京だった<ref name="otani11"/>。
ラジオ店をしていた弟・勇が[[徴兵検査]]で甲種合格して[[入営]]することが決まり、今後の一家の家計の心配があったが、相変わらず基次郎は贅沢を好んだ。実家でも昼は1人だけ[[ビフテキ]]や[[カツレツ]]などの肉食を食べ、[[バター]]は[[小岩井農場]]のものにこだわった<ref name="otani12">「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」({{Harvnb|大谷|2002|pp=259-282}})</ref>。12月、北川冬彦の要望で、「[[櫻の樹の下には]]」が詩の季刊誌『[[詩と詩論]]』に発表され、「器楽的幻覚」も同誌に再掲載された<ref name="kitagakiku"/><ref name="itosei"/><ref name="kashi42"/><ref name="otani12"/>。
=== 父の死――贅沢を反省 ===
[[1929年]](昭和4年)1月、[[馬込文士村]]での基次郎との一悶着に触れた[[尾崎士郎]]の「悲劇を探す男」が『[[中央公論]]』に掲載された<ref name="ozakihi"/><ref name="otani12"/>。4日未明、59歳の父・宗太郎が[[心臓麻痺]]で急逝した<ref name="kashi42"/><ref name="otani12"/>。退職金が底をついたことを、前年の暮にヒサから聞いた宗太郎はがっかりし、正月からずっと酒を飲み続けていた<ref name="otani12"/>。基次郎はこれまでの自分の贅沢(朝食には[[パン]]、[[バター]]は[[小岩井農場]]製、[[紅茶]]は[[リプトン]]のグリーン缶、昼食は肉食や[[まぐろ]]の[[刺身]])による両親への経済的負担を反省し、〈[[道徳]]的な呵責〉を痛感した<ref name="otani12"/><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和4年1月4日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=287}}に所収</ref><ref name="album5">「途絶」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=84-96}})</ref>。
同月、[[中谷孝雄]]は徴兵猶予が切れて[[福知山市|福知山]][[歩兵第20連隊]]の入営が決まり、基次郎の弟・勇は広島電信隊第7[[中隊]]に入営した<ref name="otani12"/>。ラジオ店の経営は兄・謙一が会社帰りに週に2、3回立ち寄って何とか賄った<ref name="kashi42"/><ref name="otani12"/>。この頃から、基次郎は近所の人々の実生活を意識的に見るようになった<ref name="otani12"/>。
基次郎は新しい社会観の勉強に取り組みはじめ、[[カール・マルクス|マルクス]]『[[資本論]]』などの[[経済学]]の本を読み、3月、[[中之島公会堂]]で行われた[[河上肇]]の演説会「同志[[山本宣治]]の死の階級的意識」を聴き厳粛な気持になった<ref name="kashi42"/><ref name="otani12"/><ref>「近藤直人宛て」(昭和4年2月23日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=290}}に所収</ref><ref>「近藤直人宛て」(昭和4年4月8日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=294-296}}に所収</ref>。後輩で『青空』同人だった浅沼喜実は[[日本共産党|共産党]]員となっていたが、この頃に[[新潟県]]で[[逮捕]]された<ref name="otani12"/>。4月、三高の後輩で『真昼』同人の[[土井逸雄]]の赤ん坊が亡くなり慰めた<ref name="otani12"/>。
4月中旬、弟・勇が肺尖カタルとの診断により現役免除で帰宅した<ref name="otani12"/>。基次郎はずいぶん心配したが、実は勇が一家の[[大黒柱]]であるという[[住吉警察署]]の請願書が認められての取り計らいであった<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani12"/>。下旬には、『青空』同人の龍村謙(実家が[[西陣織]])が[[ゴブラン織]]研究のために[[フランス]]に渡ることになり、[[神戸港]]まで見送りに行った基次郎は、「榛名丸」の甲板上で「行きたいなあ」と何度もつぶやき、「僕の代わり見て来てくれ」と泣いた<ref name="otani12"/><ref name="tatsu">[[龍村謙]]「『青空』のころ」(群像 1962年8月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=78-81}}に所収</ref>。
7月、弟たちや近所の娘たち(永山家の姉妹の豊子と光子)と[[浜寺町|浜寺]]海岸に海水浴によく行った基次郎は、健康のために[[日焼け]]をし、帰省していた[[淀野隆三]]や[[武田麟太郎]]とも会った<ref name="otani12"/><ref>「川端康成宛て」(昭和4年8月7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=299-301}}に所収</ref><ref>「[[仲町貞子]]宛て」(昭和4年8月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=301-303}}に所収</ref>。8月に町名が[[住吉区]]王子町2丁目44番地に変更された<ref name="otani12"/>。
この頃、基次郎は親しい[[川端秀子|川端夫人]]への手紙に、〈小さい町の人達がどんな風に結核にやられてゆくかをいくつも見聞いたしました〉と綴り<ref>「川端秀子宛て」(昭和4年8月20日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=303-304}}に所収</ref>、命を奪われてゆく貧しい人々のために「プロレタリア結核研究所」が必要だと熱い思いをめぐらした<ref name="album5"/>。9月、『[[新潮]]』の文藝月評で[[川端康成]]が基次郎の作品に触れた<ref name="nenpu-b"/>。
10月下旬、京都にやって来た[[宇野千代]]から連絡を受け、基次郎はすぐに会いに行った<ref name="album5"/>。千代の妹・かつ子も伴って[[京都大学医学部附属病院|京大病院]]の近藤直人を訪ねるが留守のため、[[四条通]]りを散歩し、後日また大阪で千代と2人で会った<ref name="warai"/><ref name="otani12"/><ref>「近藤直人宛て」(昭和4年10月28日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=309-310}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|留守だった近藤直人は後日、千代と共に梶井家を訪問した。}}。
{{Quotation|大阪の街で梶井と会ひ、ときには一緒に街を歩いたりした。「宇野さん、僕の病気が悪くなつて、もし、死ぬやうなことがあつたら、僕の家へ来てくれますか」と、例によつて、眼を糸のやうに細くして笑ひながら言つた。<br />
「ええ、行きますとも」と私は答へた。「そして、僕の手を握つてくれますか」と重ねて梶井は言つた。「ええ、握つて上げますとも。」と私も重ねて答へた。(中略)梶井はそれからぢきに死んだ。梶井が死んだと言ふことは、勿論、その家族から私のところへは知らせては来なかつた。家族の私に対する感情は、かうもあらうかと言ふことを私は察してゐた。|[[宇野千代]]「あの梶井基次郎の笑ひ声」<ref name="warai"/>}}
[[北川冬彦]]から詩集『戦争』(10月刊行)を送られ、基次郎はその評論を書き、[[堀辰雄]]、川端康成と[[横光利一]]が参加している雑誌『文學』11月号に発表した<ref name="otani12"/><ref name="kashi43">「第四部 第三章 社会への関心」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=377-385}})</ref>。11月、基次郎は体調が思わしくない中、除隊を控えた中谷孝雄のいる福知山歩兵第20連隊に面会に行って一泊するが、帰りの駅の階段で[[汽車]]の[[煤煙]]を吸い込み呼吸困難となり、数日間寝込んだ<ref name="zadan2"/><ref name="otani12"/><ref name="kashi43"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和4年12月8日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=316-317}}に所収</ref><ref name="kon41218">「近藤直人宛て」(昭和4年12月18日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=318-322}}に所収</ref>。
12月、東京から[[兵庫県]][[芦屋市]]に転居した宇野千代が[[神戸市|神戸]]に引っ越したため、基次郎はまた会いに行った<ref name="otani12"/>。千代が初めて[[新聞小説]]を連載することを聞き、基次郎はその題名に「罌粟はなぜ紅い」と付けてやった<ref name="otani12"/><ref name="kashi43"/>。神戸に一泊して実家に戻った基次郎は、「のんきな患者」に取りかかり、眠れないほど執筆が進んだ<ref name="otani12"/>。中旬、淀野隆三の家に清水芳夫と泊ったが、帰りの[[タクシー]]で呼吸困難となり、1週間ほど寝込んだ<ref name="otani12"/><ref name="kashi43"/><ref name="kon41218"/>。
=== 重くなる病状――生活への愛着 ===
[[1930年]](昭和5年)正月、[[肺炎]]で2週間寝込み、父の[[一周忌]]も参加できなかった<ref name="kashi44">「第四部 第四章 『根の深いもの』」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=386-391}})</ref>。しかし[[徳冨蘆花|蘆花]]全集の広告文に書かれていた「未だ世に知られざる作家がその焦燥と苦悶の中に書いたものほど人の心を動かすものはない」という一文をなにげなく読んて奮起した基次郎は、自分のことを言っているように思えて襟を正し<ref name="otani12"/>、病床で[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の『アルタモノフの一家の事業』や、[[ルドルフ・ヒルファーディング|ヒルファーディング]]の『金融資本論』などを盛んに読み、前年暮にも[[エーリヒ・マリア・レマルク|レマルク]]の『[[西部戦線異状なし]]』を読了していた<ref name="otani12"/><ref>「北川冬彦宛て」(昭和4年12月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=313-315}}に所収</ref><ref>「淀野隆三宛て」(昭和5年1月13日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=325}}に所収</ref><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和5年1月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=327-329}}に所収</ref>。
基次郎は、父が持っていた『[[安田善次郎]]伝』に触発され、客観的な社会的小説を書きたいと思うようになるが、それは流行の[[プロレタリア文学]]のようなものでも[[新感覚派]]でもなく、人々の生活の実態をとらえたものでなければならないという意気込みを見せ、〈「根の深いもの」が今の[[文壇]]には欠けている〉と中谷に書き送った<ref name="otani12"/><ref name="kashi44"/><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和5年1月25日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=325-327}}に所収</ref>。この時期、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]、[[プロスペル・メリメ|メリメ]]、[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]の『[[ドン・キホーテ]]』を何度も読んだ<ref name="otani12"/><ref name="kashi44"/><ref name="otani13">「第十三章 地球の痕を――伊丹から千僧へ」({{Harvnb|大谷|2002|pp=283-304}})</ref>。
2月、[[貴司山治]]の『忍術武勇伝』に好感を持ち、後輩の[[武田麟太郎]]の『ある除夜』に刺激されて[[井原西鶴]]を読み始めた基次郎は、自分が〈小説の本領〉に近づきかけていると感じた<ref name="otani12"/><ref name="kashi44"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和5年2月6日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=329-331}}に所収</ref>。母・ヒサが[[肺炎]]になり、[[大阪赤十字病院]]に一時入院すると、基次郎はほぼ毎日病院に通い看病し、下旬から3月初旬に自分自身も発熱や呼吸困難で寝込んだ<ref name="otani12"/><ref>「近藤直人宛て」(昭和5年3月2日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=332}}に所収</ref><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和5年3月13日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=332-336}}に所収</ref>。3月中旬に母が再び[[腎臓]]炎で入院<ref name="nenpu-b"/>。姉を呼んで自分もタクシーで母の看護に通い<ref>「宮田汎・冨士宛て」(昭和5年3月22日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=340-341}}に所収</ref>、病院から「[[闇の絵巻]]」「[[のんきな患者]]」の構想を北川冬彦に手紙で知らせた<ref name="otani12"/><ref>「北川冬彦宛て」(昭和5年3月22日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=341-345}}に所収</ref>。
4月下旬に母が無事退院し自宅療養となった。基次郎は[[痔疾]]に悩まされた<ref name="otani12"/>。5月、草稿「猫」から「愛撫」を書き上げた<ref name="otani12"/><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和5年5月31日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=358-360}}に所収</ref>。弟・勇が近所の馴染みの娘・永山豊子と結婚したため、基次郎は母と末弟・良吉と共に[[兵庫県]][[川辺郡]]伊丹町堀越町26(現・[[伊丹市]]清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住した<ref name="otoken"/><ref name="otani12"/><ref name="otani13"/>。その後、母と良吉は大阪市住吉区の家に戻り、基次郎だけ伊丹町に残った<ref name="nenpu-b"/>。
6月、「[[愛撫 (小説)|愛撫]]」が北川冬彦と[[三好達治]]、[[淀野隆三]]らの同人誌『[[愛撫 (小説)#「詩・現実」|詩・現実]]』創刊号に発表された。この作品は友人間で評判が良く、川端康成も雑誌『[[作品 (同人誌)|作品]]』7月号の作品評欄で取り上げ、「気品」さを賞揚した<ref name="otani12"/><ref name="kashi45">「第四部 第五章 移転」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=392-403}})</ref>。7月、発熱が続いたため大阪の実家に戻り、診察してもらうと[[胃炎]]になっていた<ref name="otani13"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和5年7月23日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=367-368}}に所収</ref><ref>「仲町貞子宛て」(昭和5年9月27日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=371-373}}に所収</ref>。8月、[[宇野千代]]が[[尾崎士郎]]と正式[[離婚]]し、その後千代は[[東郷青児]]と再婚した<ref name="otani13"/>。結婚通知の葉書を受け取った基次郎は、「しようもない奴と結婚しやがって」と吐き捨てるように言ったのを弟嫁・豊子が聞いた<ref name="otani13"/>。
同8月に「闇の絵巻」を書き上げ、9月初めに伊丹の兄の家に戻った。「[[闇の絵巻]]」が『詩・現実』第2冊に掲載され、川端が『[[読売新聞]]』の文芸時評でその作品を取り上げ、その「澄んだ心境」を賞揚した<ref name="otani13"/><ref name="kashi46">「第四部 第六章 昭和五年秋」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=404-418}})</ref>。
9月下旬、兄一家が川辺郡[[稲野村]]大字[[千僧]]小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に転居し、基次郎もその離れ家(8畳と6畳部屋)に落ちついた<ref name="otoken"/><ref name="otani13"/><ref name="kashi46"/>。そこは人里離れた土地で家賃も安く、エンジニアの兄の仕事の[[無線]]交信実験に適した場所であった。兄の子供らは基次郎になついて、ついつい離れ家に遊びに行った<ref name="otoken"/>。その後、この家に母と末弟・良吉も同居するようになり、母は基次郎の面倒を見た<ref name="otani13"/>。
10月、基次郎は後輩の淀野隆三に宛て、〈生活に対する愛着〉を説き、淀野の使用する観念的な言葉遣いを批判的に指摘した<ref name="otani13"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和5年10月6日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=383-386}}に所収</ref>。また、[[辻野久憲]]が[[自然主義]]や[[私小説]]の行き詰まりを論じたことを〈紋切型〉だとして反対し、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の『告白録』に連なる[[島崎藤村]]の[[懺悔]]の系譜、西欧の[[リアリズム]]の客観的手法、[[俳諧]][[写生文]]の系譜などを考えずに〈一様に〉混同することに異議を唱え、〈自分の経験したことを表現する文学の正道〉を説いた<ref name="nenpu-b"/><ref>「辻野久憲宛て」(昭和5年10月5日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=386-388}}に所収</ref>{{refnest|group="注釈"|この基次郎の信念について[[鈴木貞美]]は、「経験的事実を尊重し、虚構を低く見るのは[[中国]]の詩文に発する伝統的な『文学』理念で、明治期に復活し、[[正岡子規]]の叙事文の提唱などにも流れ込んだ」と補足解説している<ref name="nenpu-b"/>。}}。
{{Quotation|夏 弱つたのは[[胃]]のためだ。暑気と[[解熱剤]]の連用のため胃が働らかなくなつたのだ。大分痩せた。どうもだんだん痩せるやうだ。若し身体が続けば、この秋中に小説を書くつもりだ。題材は[[天下茶屋]]の生活。僕のその日暮しの生活をそのまゝ書いて見たく思つてゐる。|梶井基次郎「中谷孝雄宛て」(昭和5年10月6日付)<ref>「中谷孝雄宛て」(昭和5年10月6日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=388-389}}に所収</ref>}}
11月、次号の『詩・現実』第3冊に発表する作品原稿が挫折した<ref>「淀野隆三宛て」(昭和5年12月10日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=390-391}}に所収</ref>。この頃、草稿「琴を持つた乞食と舞踏人形」「海」が書かれたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。12月、『詩・現実』第3冊には「冬の日」が再掲載。見舞いに来た淀野隆三に、「交尾」(その一、その二)の原稿を見せて渡した<ref name="otani13"/>。基次郎は淀野と近所を散歩中、「東京の横光はどうや?」と質問し、勢いのあった[[横光利一]]を[[ライバル]]視していた<ref name="otani13"/><ref name="yodoyoko">淀野隆三「横光さんと梶井君」(『[[横光利一]]全集 第23巻』月報 [[改造社]]、1950年9月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=121-124}}に所収</ref>。
12月下旬、母が阿倍野の小間物屋(勇の嫁・豊子に任せていた)を手伝うために帰ったため、基次郎は寒い冬を万年床で過ごした<ref name="otani13"/>。この頃に草稿「温泉」が書かれたと推定されている<ref name="nenpu-b"/>。野菜や肉など食事は十分に摂り、友人らが手土産に持ってくるいた[[チーズ]]や[[バター]]も食べていた基次郎だったが、身体は随分やせてきていた<ref name="otani12"/>。北野中学時代からの友人や、元『青空』同人らは、みな[[社会人]]となり妻帯していた<ref name="otani13"/>。結核持ちの基次郎だけが取り残された<ref name="otani13"/>。
=== 仲間らの奔走――創作集刊行 ===
[[1931年]](昭和6年)1月、「[[交尾 (小説)|交尾]]」が、[[小野松二]]の主宰雑誌『[[作品 (同人誌)|作品]]』に発表された。[[井伏鱒二]]はこの作品を、「神わざの小説」と驚嘆して賞揚した<ref name="otani13"/><ref>[[井伏鱒二]]「恍惚なる限り」(『梶井基次郎全集』内容見本 [[六蜂書房]]、1934年3月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=340}}に所収</ref><ref name="kashi51">「第五部 第一章 『檸檬』」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=419-427}})</ref>。以前揉めた[[尾崎士郎]]からも好評の葉書が来て、基次郎は嬉しさを感じ〈必生{{ママ}}の作品を書き、[[地球]]へ痕を残すつもりです〉と返信した<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref name="oza6117">「尾崎士郎宛て」(昭和6年1月17日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=397-398}}に所収</ref>。
しかし[[流感]]で発熱が続いて寝込む日々が続いた。月末に見舞いに来た[[三好達治]]は、痩せて頬のこけた基次郎の衰弱ぶりに驚き、生きているうちに友の創作集の出版を[[淀野隆三]]と相談し2人で奔走した<ref name="otani13"/>。淀野は『詩・現実』の版元の古書店・[[武蔵野書院]]から出版できることを基次郎に知らせた<ref name="zadan2"/><ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref name="sho369">「淀野隆三宛て」(昭和6年2月2日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=398-399}}に所収</ref>。基次郎は、2人が版元に渡すため原稿用紙に写す作業をすることを心苦しく思い、〈僕の本のことで いい時間を使ふことをやめてほしい〉と気づかうが<ref name="sho369"/>、友の好意を〈涙が出ます〉とありがたく受け取った<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref name="sho370">「淀野隆三宛て」(昭和6年2月13日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=399-401}}に所収</ref>。
2月中旬にやっと熱は下がるが、基次郎は床に伏したままであった<ref name="otani13"/>。淀野からの問い合わせに基次郎は答え、作品集のタイトルを『檸檬』に決めて構成などの方針を、母の代筆で書き送った<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref name="sho370"/>。3月、『[[作品 (同人誌)|作品]]』の作品評で[[井伏鱒二]]が「交尾」を取り上げ、「水際たつてゐる」と高評した<ref name="ibuse">井伏鱒二「交尾」(『[[作品 (同人誌)|作品]]』1931年3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=259-260}}に所収</ref>。この頃基次郎は、[[大便]]を便所に立って行けるようになり、ようやく寝床で起きて食事ができるようになったが、春過ぎまで寝たり起きたりの日々が続き、枕元の[[ラジオ]]をよく聴いていた<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和6年3月11日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=402}}に所収</ref><ref name="yodo653">「淀野隆三宛て」(昭和6年5月3日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=406-408}}に所収</ref><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和6年5月5日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=408-409}}に所収</ref>。
4月、作品集の[[校正]]刷りが出来上った時、基次郎は「橡の花」を〈レベル以下〉として削除するように頼んで、淀野らに労を詫びた<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和6年4月6日、12日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=403-406}}に所収</ref>。[[川端康成]]が『[[読売新聞]]』に「芸術派・明日の作家――芸術派雑誌同人批評」で基次郎の名前を挙げた<ref name="nenpu-b"/>。5月、小野松二も『作品』の文芸時評で基次郎の作品に触れた<ref name="nenpu-b"/>。基次郎は健康になるため、近所の人が殺したという[[ニホンマムシ|マムシ]]を母に拾ってきてもらい食べた<ref name="otani13"/><ref name="yodo653"/>。
5月15日、初の創作集『'''檸檬'''』が刊行された。基次郎は18日に届いた本を一日眺め暮し、〈「これからだ」と自分を励まし〉ながらも病気のことを考えて〈絶句〉した<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/><ref>「淀野隆三宛て」(昭和6年5月18日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=410-411}}に所収</ref><ref>「近藤直人宛て」(昭和6年5月18日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=411}}に所収</ref>。淀野らは『檸檬』を作家らに寄贈した<ref name="otani13"/>{{refnest|group="注釈"|『檸檬』送付リストは、[[志賀直哉]]、[[川端康成]]、[[岸田国士]]、[[広津和郎]]、[[宇野浩二]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[萩原朔太郎]]、[[小野松二]]、[[石田幸太郎]]らで、基次郎の要望で、[[十一谷義三郎]]、[[滝井孝作]]、[[斎藤茂吉]]、[[堀辰雄]]、[[浅見淵]]、[[浅見篤]]、[[菱山修三]]、[[蔵原伸二郎]]も追加された<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/>。}}。下旬に、『[[中央公論]]』編集部の[[田中西二郎]]から作品を見たいと手紙が来た<ref name="otani13"/>。これは新人作家の[[八重樫昊]]が基次郎を推薦したためで、その話を同誌4月号に「北方」が推薦された[[北川冬彦]]から伝え聞いた基次郎は[[文壇]]の総合文芸誌にデビューできる嬉しさを味わった<ref name="otani13"/><ref>「[[田中西二郎]]宛て」(昭和6年5月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=418}}に所収</ref><ref name="kashi52">「第五部 第二章 『檸檬』の反響」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=428-437}})</ref>。
6月、創作集『檸檬』の反響が表われ、『詩・現実』第5号に[[丸山薫]]が「『檸檬』に就いて」を載せ<ref>丸山薫「梶井基次郎著『檸檬』に就いて」([[愛撫 (小説)#「詩・現実」|詩・現実]] 1931年6月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=261-262}}に所収</ref>、[[井上良雄]]も『詩と散文』で激賞した<ref name="otani13"/><ref name="inoue">[[井上良雄]]「新刊『檸檬』」(詩と散文 1931年6月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=262-266}}に所収。{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=92}}</ref>。中旬に[[紀伊国|紀州]]の親類(兄嫁の実家)が[[白浜町|湯崎]]で捕まえ送ってくれたマムシの生き[[肝臓|肝]]を飲むが、2、3日後に[[浮腫]]となり[[腎臓]]炎と診断された<ref name="otani13"/><ref name="kashi52"/>。
7月、『新文學研究』第3集で[[伊藤整]]が「三つの著書」として[[百田宗治]]の『パイプの中の家族』、[[横光利一]]の『[[機械 (小説)|機械]]』と共に『檸檬』を好評した<ref name="nenpu-b"/>。中旬に届いた淀野隆三・[[佐藤正彰]]訳の[[マルセル・プルースト|プルースト]]『[[失われた時を求めて|失ひし時を索めて]]』の第1巻『スワン家の方』を基次郎は読み、プルーストを〈狭い世界の大物〉と賞讃した<ref name="otani13"/><ref name="kashi52"/><ref name="sho390">「淀野隆三宛て」(昭和6年7月27日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=420-422}}に所収</ref>。基次郎は[[井上良雄]]の書評を喜んだことを北川冬彦に書き送り、〈僕の観照の仕方に「対象の中へ自己を再生さす」といふ言葉を与へてくれただけでも、僕は非常に有難いことだつた〉と告げた<ref name="album5"/><ref name="otani13"/><ref name="kashi52"/><ref>「北川冬彦宛て」(昭和6年7月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=422-425}}に所収</ref>。
8月、創作集の[[印税]]75円を受け取った。基次郎は家族からせっつかれ、なかなか入らなかった印税を版元に催促するよう淀野に頼んでいた自分を恥ずかしく感じた<ref name="otani13"/><ref name="sho394">「淀野隆三宛て」(昭和6年8月2日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=428-429}}に所収</ref>。生活費に困り印税をあてにして母は[[蚊帳]]を買って布団も作りたいと言い、末弟も参考書をほしがっていた<ref name="sho390"/>。9月、雑誌『[[作品 (同人誌)|作品]]』にプルーストの『[[失われた時を求めて|スワン家の方]]』の書評「『親近』と『拒絶』」を発表した<ref name="otani13"/><ref name="kashi52"/>。基次郎は、〈回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない〉と評価しつつ、プルーストの〈回想の甘美〉を拒否し、自分の〈素朴な経験の世界〉へ就こうとする姿勢を示した<ref name="album5"/>。
その頃、家の中では兄嫁・あき江が、子供らが基次郎になついて離れにしばしば遊びに行くことを嫌がり姑のヒサと時々衝突することがあった。そして9月下旬、ヒサの留守中、「そばに寄ったら病気が移る」と子供に注意した一言を聞いて怒った基次郎と揉め、兄嫁は子供2人を連れて実家へ帰ってしまう事件があった<ref name="otoken"/><ref name="otani13"/><ref name="kashi52"/>。10月、弟・勇が基次郎を引き取りに来て、母と共に大阪市住吉区の実家に戻った<ref name="otani13"/><ref name="kashi52"/>。
基次郎は[[浜寺町|浜寺]]や[[畿内]]に療養地がないかと考えたが、すぐ近くの住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番29号)に空き家があったため、そこに移住した<ref name="nenpu-b"/><ref name="tana61026">「田中西二郎宛て」(昭和6年10月26日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=435-437}}に所収</ref><ref name="otani14">「第十四章 最後の安息――王子町十三番地」({{Harvnb|大谷|2002|pp=305-324}})</ref>。ボロ家で狭かったが、実家から2分ほどで、食事の面倒も母に見てもらえた<ref name="kashi52"/><ref name="otani14"/>。一応は独立した家に「梶井基次郎」と自筆の[[表札]]を掲げ1人で住むことに基次郎は感慨を覚えた<ref name="kashi52"/><ref name="otani14"/><ref>自筆表札の写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=53}}</ref>。千僧からの引っ越し荷物の中に、『[[中央公論]]』からの12月号への正式原稿依頼があったのを見つけ、間に合わないために新年号に延期してもらった<ref name="kashi52"/><ref name="tana61026"/><ref name="otani14"/>。
=== 本格小説家への夢――途絶 ===
11月下旬、病状が重い中、「[[のんきな患者]]」の執筆に懸命に取り組んだ基次郎だが、思うようにならず、12月2日に、冒頭から書き直して9日夕方に完成させ、母の[[校正]]で10日の深夜2時にやっと清書が出来た<ref name="otani14"/>。弟・勇はそれを持って[[オートバイ]]で[[大阪中央郵便局]]まで飛ばし、航空便で東京の[[中央公論社]]に送った<ref name="otoken"/><ref name="otani14"/><ref name="kashi53">「第五部 第三章 『のんきな患者』」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=438-445}})</ref>。中旬、執筆や転居の無理がたたり、基次郎は[[カンフル]]注射や[[酸素吸入]]で看護される病床生活になった<ref name="otani14"/>。
ひと足先に20日に新年号が基次郎の元に届き、24日に原稿料230円が送金されてきた。これが基次郎の初めて手にした「原稿料」であった<ref name="otani14"/><ref>「田中西二郎宛て」(昭和6年12月26日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=447-448}}に所収</ref>。基次郎は母に[[金時計]]を買ってやると言ったが、「そんなピカピカしたものはいらん」と母は遠慮した<ref name="otani14"/><ref name="kashi53"/>。歳末には母と大阪の[[丸善ジュンク堂書店|丸善]]に出かけて、その原稿料で弟の嫁の3姉妹(豊子・光子・雅子)にショール、自分には[[オノト]]の[[万年筆]]を買った<ref name="otani14"/><ref name="kashi53"/><ref>ショールの写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=64}}</ref>。この月、基次郎は『[[作品 (同人誌)|作品]]』からの依頼原稿のため、草稿「温泉」に取りかかっていた<ref name="otani14"/><ref name="kashi54">「第五部 第四章 終焉」({{Harvnb|柏倉|2010|pp=446-454}})</ref>。
[[1932年]](昭和7年)1月、「のんきな患者」が『[[中央公論]]』新年号に発表された。この作品は、[[正宗白鳥]]が『[[東京朝日新聞]]』で褒め、[[直木三十五]]が『[[読売新聞]]』の文芸時評で取上げ「[[帽子|シャッポ]]をぬいだ」と評して好調であった<ref name="otani14"/><ref name="kashi53"/><ref>[[正宗白鳥]]「文藝時評」([[東京朝日新聞]] 1931年12月28日号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=277-278}}に所収</ref>。しかし7日、体調のすぐれない基次郎は『作品』編集部に宛て、約束が果たせないかもしれないと書いた<ref name="kashi54"/><ref>「作品社編集部 佐藤要宛て」(昭和7年1月7日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=452-453}}に所収</ref>。中旬、母は基次郎と一緒に落ちついて暮らせる家を[[住之江区]]の北島や姫松、田辺方面に探した<ref name="otani14"/><ref name="kashi54"/>。絶対安静の床で基次郎は、「のんきな患者」の続篇を考えていた<ref name="otani14"/><ref name="kashi54"/><ref name="iiji721">「飯島正宛て」(昭和7年1月31日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=453-454}}に所収</ref>。
{{Quotation|早く起きて小説が書き度いです、小説のことを考へると昂奮して寝られなくなるので困りました、それがこの頃段々よくなつて来てからは別にさうも考へず夜も昼もよく寝ます、こんどはあれの続きのやうなものをやはり書き度いのです、「のんきな患者」が「のんきな患者」でゐられなくなるとこまで書いてあの題材を大きく完成したいのですが。それが出来たら僕の一つの仕事といへませう。|梶井基次郎「飯島正宛ての書簡」(昭和7年1月31日付)<ref name="iiji721"/>}}
2月、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]が『中央公論』で「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」をはじめとした基次郎の作品を賞讃した<ref name="koba">[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]「文藝時評 梶井基次郎と[[嘉村礒多]]」([[中央公論]] 1932年2月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=278-281}}に部分所収。{{Harvnb|新潮文庫|2003|pp=335-336}}</ref>。しかし基次郎は嬉しいながらも、小林が「のんきな患者」を論じていなかったことが少し心残りであった<ref name="kashi53"/><ref name="iiji721"/>。病床で[[森鷗外]]の史伝・[[歴史小説|歴史文学]]に親しんでいた基次郎だが<ref name="nakade"/><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和7年2月5日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=454-456}}に所収</ref>、次々と友人らが見舞いに来ても、胸の苦しみであまりしゃべれず、次第に本を読むこともできなくなってきた<ref name="otani14"/><ref>「中谷孝雄宛て」(昭和7年2月18日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|p=462}}に所収</ref><ref name="kango">梶井ひさ「看護日記(昭和7年)」({{Harvnb|旧2巻|1966|pp=473-504}})。{{Harvnb|別巻|2000|pp=435-452}}に所収</ref>。下旬に往診に医師から[[心臓]]嚢炎と診断されて胸を氷で冷やした<ref name="otani14"/><ref name="kango"/><ref name="hisa">梶井久「臨終まで」(『[[作品 (同人誌)|作品]]』1932年5月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=124-129}}に所収</ref>。
3月3日、一時気分がよくなり頭を洗ったり、[[髭]]を剃ったりするが<ref name="kango"/>、母は往診の医師の家に行き、今度[[浮腫]]が出たらもう永くは持たないと警告され、絶望しながらも覚悟を決めた<ref name="otani14"/><ref name="hisa"/>。滋養のあるバターや刺身や肉類に飽きた基次郎のため、母は旬の野菜や[[西瓜]]の[[奈良漬]]など欲しがるものを食べさせたが、この頃から基次郎は噛むことも辛くなり[[流動食]]になった<ref name="otani14"/><ref name="hisa"/>。
次第に様態悪化し、12日から13日、基次郎は[[きちがい|狂人]]のように[[結核|肺結核]]に苦しみ、[[酸素ボンベ]]吸入をしてやっと眠った<ref name="kango"/><ref name="nikk16">「日記 草稿――第十六帖」(昭和7年)。{{Harvnb|旧2巻|1966|pp=467-472}}に所収</ref>。17日の午後2時頃起きると顔が2倍になるほど浮腫がひどく出て、手も腫れていた<ref name="kango"/><ref name="hisa"/><ref name="nikk16"/>。基次郎は[[手鏡]]で確かめたがったが、見ない方がいいと言う母に素直に従った<ref name="otani14"/><ref name="hisa"/>。食欲もなくなり、この日で基次郎の[[日記]]が途絶えた<ref name="otani14"/><ref name="kashi54"/><ref name="nikk16"/>。
この頃から兄や姉を家に呼んでほしいと寂しさを訴え、19日には、別宅にいる弟・勇と良吉を枕元に呼んで手を握らせた<ref name="otani14"/><ref name="hisa"/>。20日には[[京都帝大]][[工学部]]の入学発表から帰った良吉の勇ましい[[下駄]]の音で、「良ちゃん、試験はよかったな」と呟き、声を上げて泣く弟を笑顔で祝福した<ref name="otani14"/><ref name="kashi54"/><ref name="kango"/><ref name="hisa"/>。21日には、ひどい浮腫の手当をする医者に「もうだめでしょう」と何度も訊ね、22日は朝から激しい苦痛で、夜半に母が呼んだ派遣[[看護婦]]の荒い応対が気に入らず、「帰して仕舞へ」と言い張った<ref name="otani14"/><ref name="hisa"/>。
23日、基次郎は朝から苦しみ、姉に会いたがり、[[肝臓]]の痛みを訴えた。医者の投薬と注射でうつらうつらの状態の夜、基次郎は頓服を要求し、勇がやっとのことで求めてきた[[薬]]を飲んだ<ref name="otani14"/>。酸素吸入も効かずに激しく苦しむ基次郎に母は、「まだ[[悟り]]と言ふものが残つてゐる。若し幸いして悟れたら其の苦痛は無くなるだらう」と諭した<ref name="hisa"/>。
基次郎は[[死]]を覚悟し、「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と[[合掌]]し、弟に無理を言ったことを詫びて目を閉じた<ref name="kango"/><ref name="hisa"/>。その頬にひとすじの[[涙]]をつたうのを勇の嫁・豊子は見ていた<ref name="otani14"/>。夕刻前に基次郎は[[意識不明]]となり、家族が見守る中、[[3月24日|24日]]の深夜2時に永眠した<ref name="otani14"/><ref name="kango"/><ref name="hisa"/>。{{没年齢|1901|2|17|1932|3|24}}。[[奈良県]][[高市郡]][[飛鳥村 (奈良県)|飛鳥村]](現・[[明日香村]])の唯称寺の[[僧職]]・順誠になっていた異母弟・網干順三が駆けつけ、[[通夜]]で[[読経]]した<ref name="otani14"/><ref name="kashi54"/><ref name="kango"/>。
[[遺言]]により[[棺]]は[[茶]]の葉が詰められ、上部は草花で飾られた<ref name="otani14"/><ref name="kango"/>。[[戒名]]は「'''泰山院基道居士'''」。25日の午後2時から王子町2丁目13番地の自宅で[[告別式]]が行われ、15時に[[出棺]]した<ref name="otani14"/><ref name="kango"/>。阿倍野葬儀場の[[荼毘]]に付された[[遺骨]]は、[[南区 (大阪市)|南区]]中寺町(現・[[中央区 (大阪市)|中央区]]中寺)常国寺2丁目にある[[菩提寺]]の[[日蓮宗]]常国寺の梶井家代々の[[墓]]に納められた<ref name="otoken"/><ref name="otani14"/><ref name="kashi54"/>。
== 評価 ==
梶井基次郎の作家生活は実質7年ほどで、そのほとんどが同人時代であまり注目されず、死の前年から認められ出したものの、その真価が本格的に高まり、独特な地位を得たのは死後のことであった<ref name="hirata"/>。梶井が生存していた時代の文学の潮流は、[[新現実主義]]、[[新感覚派]]、新興芸術派の一群と、[[プロレタリア文学]]であったが、今や梶井の特異な文学はそれらよりも抜きん出て現存しており、「不朽の古典」となっている<ref name="hirata"/><ref name="sasaki">[[佐々木基一]]「解説」({{Harvnb|岩波文庫|1954|pp=203-214}})</ref>。
[[平田次三郎]]は、梶井の作品は「病める[[生命|生]]の表現」であるが、そこに現れているものは、「清澄な生の息吹き」だとし<ref name="hirata"/>、以下のように評している。
{{Quotation|梶井文学が全体としてわれわれに与える印象は、何ものにもくもらされるところなく、己が生を見詰めたものの、静謐にして澄明な生の現実にほかならず、従ってその作品の基調となっている倦怠や[[疲労]]や頽廃はそこで洗い浄められてしまっているとも言えるのである。この逆説的効果にこそ、梶井文学の秘義がひそんでいると言えるのである。|[[平田次三郎]]「解説」<ref name="hirata"/>}}
梶井の短編作品群を「およそ類例がない」とし、模倣しようにも我々にはできない独特なものだと位置づける[[阿部昭]]は、梶井の「底抜けに[[子供]]らしい探究心や、苦もまた楽なりと言いたげな行文の克己の表情」などから、「[[理科系]]の青年の資質」がやはり感じられ、「それは言葉の最も純粋な意味で[[健康]]ということかもしれない」とし<ref name="album6">[[阿部昭]]「一枚の写真――温気と冷気」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=97-103}})</ref>、その「健康」が、「[[サナトリウム]]臭い風景」や、病弱な「[[詩人]]めかした趣味」と梶井が無縁であった理由だと考察している<ref name="album6"/>。[[淀野隆三]]も、梶井の作風を「頽廃を描いて清澄、衰弱を描いて健康、焦燥を描いて自若、まことに闊達にして重厚」と評している<ref name="yodono"/>。
[[鈴木貞美]]は、梶井の歩みは死によって途絶えてしまったが、「自らの作品を借りものの意匠で飾らず、自分の内からたち起こってくる表現への欲求にあくまで忠実であろうとし、そうすることではじめて現代の不幸な魂の実相に清冽な表現を与えることの出来た作家」だと位置づけ<ref name="album5"/>、諸作品に見られる作品傾向を以下のように解説している<ref name="album3"/>。
{{Quotation|大きな社会の営みからみれば全く取るに足らない、そして一人の人間の人生にとってもほとんど意味をもたない、微妙な気分の変化や意識の現象を、ことばに定着することに梶井は腐心した。それらは書かれなければ雲散霧消してしまうものでしかなく、そうであるがゆえに、書くことによってはじめて客観的な形を与えられるものであった。|[[鈴木貞美]]「飯倉片町で」<ref name="album3"/>}}
[[井上良雄]]は、梶井の描写感覚や心理構造を「稀有」と評し、その特性を、「見ること――己れを放棄して対象の中に再生すること」と表現して、「[[自我]]と[[世界]]との分離」という「近代[[知性]]の苦悶と敗北」を乗り超える地平を見出している<ref name="inoue"/>。
{{Quotation|梶井氏にあつては、[[風]]に運ばれてゆく[[新聞紙]]と、それを見てゐる私とは、決して別のものではない。[[対象]]を見るとは、対象の中に生きること以外ではないのだ。(中略)恐らく[[原始人]]だけがこの様な[[風景]]を知つてゐた。[[石]]の中にも、[[樹]]の中にも、己の中と同じ酔うに蠢いてゐる[[精霊]]を感じて、それと闘ひ、怖れ、[[火]]を焚いて祈つた、あの原始人だけがこの様な感覚の初発性を持つてゐた。私が稀有と云ふのは、これを云ふのだ。|[[井上良雄]]「新刊『檸檬』」<ref name="inoue"/>}}
[[横光利一]]は、梶井について、「静といふものをこれほど見極めて描いた作家は、まだ日本に一人もゐなかった」と賞讃し<ref>[[横光利一]]「梶井氏の作品」(『梶井基次郎全集』内容見本 六蜂書房、1934年3月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=339}}に所収</ref>、「梶井氏の文学は、日本文学から世界文学にかかつてゐる僅かの橋のうちのその一つで、それも腐り落ちる憂ひのない勁力のもの」、「真に逞しい文学だ」と評している<ref>横光利一「梶井氏の作品」(『梶井基次郎全集』内容見本 高桐書院、1948年2月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=343}}に所収。{{Harvnb|新潮文庫|2003|pp=345}}</ref>。
[[三島由紀夫]]は、現代史において小説を純粋な自由意志の産物にするための論考の中で、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、[[私小説]]的方法があるとしつつ、「これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、小説ジャンル全体の現代の[[運命]]を負うて、無限に“[[詩]]”へ近づくことでなければならない」と考察しながら、以下のように梶井の小説が秘めていた可能性を高く評価している<ref name="mishima">「現代史としての小説」([[毎日新聞]]夕刊 1962年10月9日 - 10日号)。{{Harvnb|三島32巻|2003|pp=117-122}}に所収</ref>。
{{Quotation|いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的[[結晶]]を成就すれば、立派に現代小説の活路になりうる。|[[三島由紀夫]]「現代史としての小説」<ref name="mishima" />}}
== 人物像・エピソード ==
=== 容貌 ===
梶井基次郎の外見はがっしりした頑丈な体格で顔つきも無骨そうであるが、笑うと[[目]]が糸のようになり柔和なイメージになるという<ref name="chiyoomo">宇野千代「梶井さんの思い出」(『決定版 梶井基次郎全集』月報[檸檬通信(2)]筑摩書房、1959年2月・5月・7月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=371-372}}に所収</ref>。基次郎は自身の顔のまずさを諦めていた<ref name="nakade"/>。
{{Quotation|梶井の容貌は目と[[鼻]]とに際立つた特色があつた。彼の厚ぼつたい[[瞼]]におほはれた細い目は、時に小狡るいやうな感じを与へないではなかつたが、顔の中央に丘のやうに秀でたその鼻は、如何にも頼もしい男らしさを現はしてゐた。それは太い大きい容積をもつた立派な鼻で、彼の容貌全体に力強い[[立体]]感を与へてゐた。|[[中谷孝雄]]「梶井基次郎――京都時代」<ref name="nakakyoto"/>}}
三高時代に2度落第し、「三高の主」「古狸」と言われていた頃は、破れた学帽に汚れた肩掛けの[[ズック]][[カバン]]姿で<ref name="otani6"/><ref name="maru"/><ref name="takeda"/>、頭髪にも無頓着だったため、友人らが金を出し合って散髪に行かせたりしていたが、ポケットから鞣皮の袋に入ったドラハムの粉([[煙草]])を取り出し、[[パイプ (たばこ)|パイプ]]でパクパクといい音をさせて吸ったり、巻いて吸ったりと、やることがお洒落だったという<ref name="maru"/><ref name="maru2">丸山薫「ユーモラスな面影」(『[[作品 (同人誌)|作品]]』1932年5月・追悼特集号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=305-307}}に所収</ref>。
[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]滞在から東京に戻った頃は、深みのある顔に変化していたのが、ありありとわかるほどだったという<ref name="hira"/>。
=== 感覚の鋭さ ===
基次郎は非常に[[五感]]が鋭く、闇夜で一[[町|丁]]離れた花の匂いも判別できるほどの[[嗅覚]]であった<ref name="nakade"/>。耳もよく、別部屋の話し声や、[[手紙]]や[[号外]]が入った音、外から戻ってくる弟の[[下駄]]の音で、その感情も解ったという<ref name="hisa"/>。[[味覚]]も鋭く、[[平林英子]]の作った[[汁物]]にほんのちょっとだけ砂糖が入っているのも判った<ref name="hirakaji"/>。
音楽好きで[[楽譜]]も読めた基次郎には、様々な生活音も音楽に聞こえた<ref name="sotokoto"/>。
{{Quotation|梶井の耳には、汽車の車輪の音も、雨の音も、鉛筆の走る音さへも、楽しい音楽に聞えたり、時には我慢出来ない音楽に聞えたりした。また彼の目は、空の色を、雲の色を、[[シイ|椎]][[茜]]の色を、さうして闇の色さへも見分けられた。さうしていつも楽しさうにそれを話した。|[[外村繁]]「梶井基次郎のこと」<ref name="sotokoto"/>}}
[[クラシック音楽|クラシック]]や[[オペラ]]が好きで、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]や[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]などの譜面を所蔵し、[[宝塚歌劇団]]にも通っていた<ref name="nakakyoto"/><ref name="iijima"/>。来日した[[ミッシャ・エルマン|エルマン]]、[[ヤッシャ・ハイフェッツ|ハイフェッツ]]、[[エフレム・ジンバリスト|ジンバリスト]]、[[レオポルド・ゴドフスキー|ゴドフスキー]]などの演奏会は、ほぼ全部聴きに行っていた<ref name="nakakyoto"/><ref name="otani7"/>。
演奏会を聴きに行くときにはいつも譜面を携えていた。曲の演奏が終わると同時に、実に巧みなタイミングで先導的に拍手を送る基次郎に、一般客は驚いて感心している様子だったという<ref name="asami"/>。客は基次郎の拍手の音で、初めて曲が終わったことを知り、あわてて拍手をした<ref name="asami"/>。
自身も歌うことが好きであった基次郎は、三高時代の寮でよく寮歌を歌った。廊下を歩きながら腹から出た野太い声で朗々と怒鳴って<ref name="iijima"/>、[[三条大橋]]や[[四条大橋]]などの大きな橋を渡る時も、大きな声で歌いながら闊歩していたという<ref name="iijima"/>。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲]]なども譜面を見てよく歌っていた<ref name="iijima2"/>。
[[ミンミンゼミ]]の鳴き真似も巧く、鳴き声の抑揚が真に迫っていた時はまるで本当のミンミンゼミになっているようだったという<ref name="maru2"/>。[[法師蝉]]の鳴き方の微妙な違いを聞き分け、蝉が〈[[文法]]のけいこ〉をやっていると基次郎は表現している<ref name="nikk4"/>。
=== 好み ===
[[リプトン]]の[[紅茶]]を飲むのが習慣であったが、[[喫茶店]]で友人と飲む物も、[[レモンティー]]や[[レモン]]を浮かべた[[炭酸水|プレーン・ソーダ]]を非常に好んでいた<ref name="asami2"/>。レモンは日頃から持っていて、[[中谷孝雄]]にも「それ食ったらあかんぜ」と手垢にまみれたレモンをあげることもあった<ref name="nakalemon"/>。
レモン以外の果物を眺めるのも好きであった基次郎は、湯ヶ島では[[川端秀子|川端夫人]]から貰った[[リンゴ|林檎]]を夜通し磨いてピカピカにして[[床の間]]に飾っていた<ref name="kawaba"/>。その林檎を見つけた[[三好達治]]がかじると、基次郎はいきなり無言のまま三好の頭をなぐった<ref name="kawaba"/>。
食べ物も当時としては贅沢な[[洋食]]を好むグルメであった。銀座で[[フランスパン]]を買い、「[[カフェー・ライオン]]」に[[ビフテキ]]を食べに行っていた<ref name="nikk6"/>。実家で静養中も東京暮しの時のように、昼から[[カツレツ]]などの肉食、刺身を食べた。食品のブランドにもこだわり、[[バター]]は[[小岩井農場]]、紅茶はリプトンのグリーン缶と決まっていた<ref name="otani12"/>。お[[茶]]も、[[淀野隆三]]から贈られた高価な[[玉露]]をどっさりと惜しみなく[[急須]]に入れて飲んだ<ref name="kawaba"/>。
[[日用品]]にもこだわりを持ち、[[丸善ジュンク堂書店|丸善]]や[[鳩居堂]]で買った[[文房具]]や[[フランス]]製の高級[[石鹸]]、[[ウビガン]]の[[ポマード]]、古道具屋で見つけた[[水差し]]、[[サモワール]]、[[コーヒーミル|コーヒー挽き]]、[[オランダ]]皿、[[ブライヤー]]の[[パイプ (たばこ)|パイプ]]などの西洋雑貨を買って楽しんでいた<ref name="nakade"/><ref name="zadan2"/><ref name="asami2"/><ref name="album6"/>。
=== 病気への抵抗 ===
基次郎は長く[[結核]]を患い、医師からも[[養生 (健康)|養生]]を警告されていながらも、行動は健康な青年と変わらずに振舞い、他人にそれほど重病だとは思わせないようにしていた<ref name="kozu2">広津和郎「梶井基次郎君を悼む」(新潮 1932年5月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=290-291}}に所収</ref><ref name="yodomama">淀野隆三「思ひ出すままに」(『[[作品 (同人誌)|作品]]』1932年5月・追悼特集号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=307-311}}に所収</ref>。[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]滞在中も、[[広津和郎]]の小学生の子供と一緒に裸で2時間も川に浸かって釣りをしていた(その時期、高熱があったことが後に判明)<ref name="kozu3"/><ref name="kozu2"/>。
またある日、生汗を滲ませ青白い顔をしていたため、同行していた[[蔵原伸二郎]]が無理をしないように助言した時も、「いや無理をしてゐるんではないんですが、寝てゐたつて同じなんです」と基次郎は言ったという<ref name="kura">[[蔵原伸二郎]]「梶井さんのこと」(評論 1935年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=119-120}}に所収</ref>。自身が病気なのに、[[飯島正]]の病気見舞いに[[人力車]]で駆けつけたこともあり、逆に飯島から「養生第一にしろ」と怒られると、素直に何度もうなずいて、苦しそうな息をこらえながら目を細めてニコニコしていたという<ref name="iijima2"/>。
基次郎は、友人が自分の結核が感染することを怖れていることが判るとひどく傷ついた。[[淀野隆三]]の下宿に行くと、毎回[[出前|店屋物]]が出されるので、自分の結核のためだと気にした<ref name="otani8"/>。友人らはそれを基次郎の我儘だと感じたが、基次郎にとっては自分にそれを気づかされるようにしてほしくはなかった<ref name="otani8"/>。
湯ヶ島滞在時に、何人かが集まり[[西瓜]]を全員で食べることになった時も、基次郎はそれを半分に割り、自分が使った[[スプーン]]を突っ込んで掬って食べ始めたため、誰も西瓜に手を出せなくなり一座の空気が一瞬凍りついた<ref name="kozu3"/>。しかし基次郎はそれに気づいていながらも、素知らぬ顔でがむしゃらに食べ続けたために、逆に皆の気まずさが救われた<ref name="otani10"/><ref name="kozu3"/>。広津和郎は、そんな基次郎に「強靭さ」に感銘し、「これはえらいぞ」と感じたという<ref name="otani10"/>。
誰かの下宿に、同人らが集合して[[コーヒー]]を入れた時に茶碗が足りないと、基次郎は自分が飲んだ茶碗を簡単に拭いただけで、差し出したりした。それは基次郎が無神経でやっているのではなく、病気に抵抗しているんだと忽那吉之助は感じたという<ref name="otani8"/>。その一方、基次郎の部屋で5日間過ごした北神正が、一つしかない基次郎の茶碗で平気でコーヒーを飲んでいると、「おいお前、そないしたらあかんで」と落ち着いて言い、年下の者には特に優しかった<ref name="otani8"/>。
しかし、[[中谷孝雄]]や[[三好達治]]らとは鍋を一緒に囲んだりもしている。[[中谷孝雄]]は 後に「俺は結核のことを、よく知らなかったんだよ。若かったね」と回想している。
下宿の隣部屋に[[三好達治]]が同居していた時、ある晩基次郎は「[[葡萄酒]]を見せてやらうか…美しいだらう…」と三好を呼び、ガラスのコップを電灯にかざし透かして見せた<ref name="miyo">三好達治「梶井基次郎」(文藝 1950年2月号-3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=182-197}}に所収</ref>。その美しい鮮明な赤い液体が、基次郎が直前に[[喀血]]した血だと言われるまで、三好は気づかなかった<ref name="miyo" />。それは茶目っ気混じりの基次郎の[[ブラックユーモア]]であったが、病気への抵抗と美意識が感じられたという<ref name="otani8" /><ref name="miyo" />。
そんな強気の基次郎であったが、身体がだいぶ弱ってきて[[稲野村]]の[[千僧]]にいる頃には、見舞いに来た[[丸山薫]]を門で見送る時に、「たとへ[[ライオン]]が追駆けて来たつて、もう僕は二た足と走れないのだ」という悲しげな[[諧謔]]を言っていた<ref name="maru2"/>。
ちなみに、三好達治は基次郎の亡くなる少し前(1931年10月末)に彼の家に泊まったが(その時の帰りのバスで立つのもやっとな基次郎が外まで見送りに来たが、それが三好の見た最後の基次郎であった)、その時に罹患したのか三好はその後に結核になってしまう<ref name="otani14"/>。病院に入院した三好は、見舞いに来た友人に吐いた血をグラスに入れ「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだらう…」といつかの基次郎の真似をして見せた。三好は幸い助かるが基次郎は亡くなってしまった。それについて三好は、基次郎から病気をもらったのだと弟子の[[石原八束]]に語っている<ref name="otani14"/>。
結核のために所帯を持つことを諦めていた基次郎だったが、亡くなる約4か月には、見舞いに来た姉・冨士に、「実はなあ、僕、このごろ結婚しようかと考える時もあるねん」と、誰も当てがないにもかかわらず話したという<ref name="otani14"/>。「だれもおらんけど、結婚するんやったら[[看護婦]]さんとやな」「これ以上、母さんに苦労かけとうないさかいな」という言葉に、冨士が思わず胸をつかれて黙ると、基次郎はあわてて笑い声を立てて[[ジョーク|冗談]]めかした<ref name="otani14"/>。
=== 人柄 ===
基次郎は『[[青空 (雑誌)|青空]]』の[[同人]]のまとめ役的な存在で、同人間で仲たがい([[中谷孝雄]]と[[淀野隆三]])があると、2人に手紙を出し、仲良くするように仲裁することにも熱心であった<ref name="zadan2"/>。また、一度知り合い懇意になった人物とは永久的に交友しようとする傾向があったという<ref name="zadan2"/>。
友人想いで、自身が同人となった『文藝都市』に中谷孝雄と淀野隆三を入れることに尽力し、[[蔵原伸二郎]]らの同人雑誌『雄鶏』にも、中谷孝雄を入れてほしいと依頼していたこともあった<ref name="otani11"/><ref name="otani13"/><ref name="kura"/>。そして、それに応じた蔵原への謝礼の別の手紙には、自分が頼んでいたことに一切触れずに、蔵原の厚意や力だけを感謝するという繊細な心配りの姿勢があった<ref name="otani13"/><ref name="kura"/>。
子供にも好かれ、湯ヶ島温泉「湯川屋」の主人の子・安藤公夫(当時小学校3年)がよく基次郎になついていた<ref name="ando">安藤公夫「湯ヶ島の梶井さん」(『昭和文学全集7』月報 [[小学館]]、1989年4月)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=87-89}}に所収</ref>。夕方や日曜日に公夫を見かけると、「公ちゃんおいで」と自分の部屋に招き、[[紅茶]]や[[駿河屋]]の[[羊羹]]をご馳走し、共同風呂にもよく一緒に行った<ref name="ando"/>。公夫の友だち4人も基次郎の部屋に遊びに来ると、夜汽車のトンネルで窓ガラスをひっかく老婆の幽霊の[[怪談]]話など、様々な面白い話をしたという<ref name="ando"/>。
女性にも紳士で、[[北川冬彦]]の妻の[[仲町貞子]]が、用事で電話をかけに行かなければならなくなり、その場所が分らず、夫に同行を頼むが北川がぐずぐずしていると、たまたま遊びに来ていて高熱で横になっていた基次郎がすっと立ち上がり、遠慮する貞子を制止し、その電話の場所まで連れていってあれこれ全てやってくれたという<ref name="sadako">[[仲町貞子]]「思ひ出」(評論 1935年9月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=111-113}}に所収</ref>。また、貞子が夫に命じられ、自分の着物類を持って[[質屋]]に行く時にも、初めてのことで戸惑い恥かしい思いの貞子の気持を察し、代わりに質屋に入ってくれたという<ref name="sadako"/>。
== 檸檬忌・文学碑 ==
[[画像:梶井基次郎文学碑.JPG|200px|thumb|[[松阪城]]址の文学碑<br />書は[[中谷孝雄]]]]
*命日の3月24日は、代表作である『[[檸檬 (小説)|檸檬]]』から、「'''檸檬忌'''」(れもんき)と呼ばれる<ref name="otoken"/>。[[1971年]](昭和46年)11月に[[静岡県]][[伊豆市]]の[[湯ヶ島温泉]]の旅館「湯川屋」に文学碑が建立されたのを機に、「湯川屋」主人・安藤公夫(故人)が始めたとされる<ref name="shizu">[http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/364358.html 梶井基次郎しのび「檸檬忌」伊豆・湯ケ島の旅館「湯川屋」]([[静岡新聞]]、2017年5月29日号)</ref>。[[2000年]](平成12年)を最後にイベント的には一旦途絶えていたが、地元の住人たちの間で機運が高まり、[[2016年]](平成28年)7月に「新生檸檬忌」として復活した<ref name="shizu"/>。会合は必ずしも命日に行っているわけではない模様である<ref name="shizu"/>。2017年(平成29年)5月現在は故・安藤公夫の孫の神田航平が実行委員会を主催している<ref name="shizu"/>。
*基次郎の墓は、大阪市[[南区 (大阪市)|南区]]中寺町(現・[[中央区 (大阪市)|中央区]]中寺)常国寺2丁目の常国寺にある<ref name="album3"/><ref>墓の写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=64}}、{{Harvnb|作家読本|1995|p=213}}</ref>。墓文字は[[中谷孝雄]]の書。墓の横には、北神正が建てた梶井基次郎碑がある<ref name="nenpu-b"/>。
*静岡県伊豆市の湯ヶ島温泉の旅館「湯川屋」近くに文学碑がある<ref>「湯川屋」文学碑の写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=62,68}}</ref>。1971年(昭和46年)11月3日に建立(当時・[[田方郡]][[天城湯ケ島町]])。除幕式では、兄・謙一の孫娘の少女が除幕の綱を引いた<ref name="nomura"/>。[[西瀬英行]]制作の碑には、[[川端康成]]に宛てた基次郎筆跡の以下の手紙の文面が刻まれている<ref name="nomura"/><ref name="album4"/>。脇には「梶井基次郎文学碑」という川端康成の書の副碑や、基次郎の[[臍の緒]]を収めた壺が埋められた「檸檬塚」もある<ref name="album4"/><ref>檸檬塚の写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=68}}。[[臍の緒]]を入れた壺の写真は{{Harvnb|作家読本|1995|p=154}}</ref>。碑石は「能勢石」という[[伊丹市]]の[[妙見山 (能勢)|能勢妙見]]峡谷の[[猪名川]]水源の砂に埋もれていた自然石である<ref name="nomura"/>。
{{Quotation|山の便りをお知らせいたします。[[櫻]]は[[ヤエザクラ|八重]]がまだ咲き残つてゐます [[つつじ]]が火がついたやうに咲いて来ました [[石楠花]]は湯本館の玄関のところにあるのが一昨日一輪、今日は[[浄蓮の滝|浄簾の滝]]の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ蕾の紅もさしてゐない位です<br />
げんげん畑は堀り返へされて[[苗代]]田になりました。もう燕が来てその上を飛んでゐます。|梶井基次郎「川端康成宛ての書簡」(昭和2年4月30日付)<ref>「川端康成宛て」(昭和2年4月30日付)。{{Harvnb|新3巻|2000|pp=217-219}}に所収</ref>}}
*[[三重県]][[松阪市]]の[[松阪城]]址に『[[城のある町にて]]』の文学碑がある<ref>[[松阪城]]址にある文学碑の写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=59}}、{{Harvnb|作家読本|1995|p=7}}</ref>。[[1974年]](昭和49年)8月に建立<ref name="nenpu-b"/>。
*三重県[[北牟婁郡]][[海山町]](現・[[紀北町]])の上里小学校(姉・冨士が教鞭をとっていた学校)の校庭内に文学碑がある。[[1978年]](昭和53年)5月14日に建立<ref name="doku0">「はじめに」({{Harvnb|作家読本|1995|pp=1-8}})</ref>。『城のある町にて』の作中で北牟婁郡に言及する〈其処は山のなかの寒村で、…〉の一節が新仮名遣いで刻まれている<ref name="doku0"/><ref>上里小学校にある文学碑の写真は{{Harvnb|作家読本|1995|p=8}}</ref>。
*[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]の[[靱公園]]内に文学碑がある<ref name="album3"/><ref>[[靱公園]]にある文学碑の写真は{{Harvnb|アルバム梶井|1985|p=12,52}}</ref>。[[1981年]](昭和56年)6月に建立<ref name="album3"/>。碑には『檸檬』の一節が刻まれている<ref name="nenpu-b"/>。
*[[兵庫県]][[伊丹市]][[千僧]]3丁目の西善寺公園に文学碑がある。[[1986年]](昭和61年)5月21日に建立<ref name="nenpu-b"/><ref>西善寺公園にある文学碑の写真は{{Harvnb|作家読本|1995|p=8}}</ref>。
== 家族・親族 ==
各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。
;父・梶井宗太郎
:[[1870年]]([[明治]]3年)2月20日生 - [[1929年]]([[昭和]]4年)1月4日没
:[[刀]]屋の大和屋'''伊助'''と'''スヱ'''の長男として誕生。伊助の父は源兵衛、祖父は伊兵衛(1823年7月2日没)で、[[大坂]]南久太郎町1丁目(現・[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]久太郎町)で刀剣商を営み「'''大和屋'''」を名乗っていた。「'''梶井'''」という姓については、[[大和国]]([[奈良県]])[[吉野郡]][[吉野町]]で明治以前から「梶井」と名乗る大[[百姓]]の一族があったとされる<ref name="otani1"/>。
:[[1884年]](明治17年)2月、宗太郎が[[数え年]]15歳の時、伊助が集金に出かけた帰りの[[須磨区|須磨]]の[[鵯越]]えの下で盗賊に遭い、斬られた怪我が元で死去。宗太郎は、[[安田善次郎]]の経営する[[第三銀行]]大阪支店に[[丁稚]]に出る。
:[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]相生町(現・[[都島区]]片町)に移住した宗太郎は、[[1892年]](明治25年)3月9日に'''松田イヱ'''と[[入籍]]。同月に長女・'''コウ'''を儲けるが、翌年に[[離婚]]。娘・コウは宗太郎の母・スヱが育てる。[[1894年]](明治27年)から安田善次郎が創業した安田運搬所に移る。
:[[1895年]](明治28年)12月26日に同姓の'''梶井ヒサ'''と結婚。[[婿養子|養子婿]]となり大阪市北区相生町162番屋敷第6号に同居。[[1896年]](明治29年)12月28日、ヒサとの間に長女・'''冨士'''が誕生。その3か月前の9月17日には、よその女との間に[[非嫡子]]の'''與'''が誕生。この子供は5歳で早世。
:[[1897年]](明治30年)9月、安田運搬所の西隣りの大阪市[[西区 (大阪市)|西区]][[土佐堀通]]5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に転居。[[1899年]](明治32年)にヒサの養母・ナカが死去し、[[1900年]](明治33年)に母・スヱを引き取る。
:ヒサとの間には一女の冨士の他、五男を儲け、[[妾]]の芸者・磯村ふくと間に順三を儲ける。その後、転勤に伴い、一家で[[東京市]][[芝区]][[二本榎通り|二本榎]]や[[三重県]][[志摩郡 (三重県)|志摩郡]][[鳥羽町]]に移住。大阪市に戻って勤めの傍ら、自宅で開業した[[ビリヤード|玉突き屋]]を開業。女性従業員・豊田に手をつけ、産れた八重子を梶井家に引き取る。
:真面目に働きつつも酒色を好んで、妻子を苦労させるが子供思いであった。晩年は、[[退職金]]が底をついたことを知り、がっかりして正月飲酒を続け[[心臓麻痺]]で急逝。59歳没。
;母・ヒサ
:[[1870年]](明治3年)10月25日 – [[1948年]](昭和23年)没
:大阪市[[東区 (大阪市)|東区]][[北浜]]2丁目(現・[[中央区 (大阪市)|中央区]])の辻四郎右衛門の二女として誕生。家は裕福な商家だったが、母を早くに亡くし、家も倒産。そのため、北区網島町の刀屋の'''梶井秀吉'''と'''ナカ'''の夫婦の元へ[[1875年]](明治8年)2月に養女に出される。実兄・貞治郎がいる。
:[[1889年]](明治22年)に養家が相生町122番地屋敷に転居後、町内を3度移転し、162番屋敷第6号に居住。家の店番をしながら、[[火鉢]]の[[灰]]に[[火箸]]で字を書いて学習。[[新聞記者]]を夢みて女学校進学を希望するが、養家の経済状況から叶わず。
:高等小学校を卒業後、[[1890年]](明治23年)4月、市立大阪高等女学校(のち府立大手前高等女学校。現・[[大阪府立大手前高等学校]])の附属保母養成所に入学。[[藤沢南岳]]に[[漢文]]、[[坂正臣]]に[[和歌]]を習う。同年10月に修了し、市内の[[幼稚園]]の[[保母]]となる。
:1895年(明治28年)12月26日に同姓の梶井宗太郎と結婚。[[1901年]](明治34年)5月、大阪市西区[[江戸堀川|江戸堀]]南通2丁目(現・江戸堀)の東江尋常小学校内にあった東江幼稚園に転勤。[[1907年]](明治40年)に退職。一女五男を儲ける。78歳没。
;祖父・秀吉
:[[天保]]14年([[1843年]])6月24日 - [[1913年]](大正2年)2月1日
:ヒサの養父。
:大阪市北区北森町の都築大吉の四男として誕生。[[1973年]](明治6年)10月に、'''梶井ナカ'''と結婚し[[入婿]]となる。梶井ナカ([[1842年]]12月25日-1899年)の祖父・大和屋治兵衛(1854年7月没)は刀屋で、明治に梶井姓を名乗った。
:1875年(明治8年)2月に、辻四郎右衛門の二女・ヒサを養女にもらう。
:大阪[[天王寺]]の[[庚申信仰|庚申堂]]で死去。69歳没。ヒサに1,000円を残す。
;祖母・スヱ
:[[嘉永]]元年([[1848年]])12月25日 - 1913年(大正2年)6月5日没
:宗太郎の実母。
:[[京都府]][[下京区]]七組大黒町(現・[[京都市]]下京区[[黒門通]][[佛光寺|仏光寺]]下ル今大黒町)の大津新八郎の五女として誕生。親類に中村という家あり、京都府[[上京区]][[二条通|二条]]川東大文字町160番(現・[[左京区]]二条川端東入ル上ル)の剣道具を作っていた中村金七の[[長屋]]に、孫の基次郎が下宿したことがある。
:息子・宗太郎と前妻との間の子・コウを育てる。宗太郎が梶井ヒサと再婚し婿入り後、コウを伊兵衛の家の[[相続人]]にするがコウが早世したため、スヱが戸主となる。1900年(明治33年)に宗太郎の一家と同居。保母をしていたヒサの代わりに幼い孫らの面倒をみる。老人性の[[肺結核]]で死去。64歳没。この結核が孫たちに感染することになった。
;姉・冨士
:[[1896年]](明治29年)12月28日 – [[1960年]](昭和35年)没
:宗太郎とヒサの長女。
:[[1910年]](明治43年)1月、東京市[[芝区]]高輪町(現・[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]の飯田家政女学校付属高等小学校へ転入。[[1911年]](明治44年)5月、三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)の鳥羽[[尋常高等小学校]]高等科2年に転入。
:[[1912年]](明治45年)4月、三重県[[鈴鹿郡]][[亀山町]](現・[[亀山市]])の三重県女子[[師範学校]]へ進学。[[1916年]](大正5年)4月、三重県[[北牟婁郡]]長島町の長島小学校の教員となる。体育の研修会で、[[三野瀬村]]三浦小学校の教員・宮田汎と知り合う。
:[[1917年]](大正6年)8月24日、'''宮田汎'''と結婚。汎は三重県[[一志郡]][[八ツ山村]]大字山田野(現・[[津市]][[白山町山田野]])の出身。宮田家は「紀友雄」の末流で代々、八ツ山村の[[庄屋]]だったが、4、5代目で没落。
:[[1918年]](大正7年)に長女・'''寿子'''が誕生。[[1920年]](大正9年)8月、基次郎を転地療養に自宅へ呼ぶ。この頃、冨士は上里小学校に勤務。冨士は受け持ちの生徒に「こんな弟があるのじゃ」と基次郎の写真を見せていたため、川にいる基次郎が宮田先生の弟だとすぐに判った<ref name="otani5"/>。
:[[1924年]](大正13年)に三重県[[飯南郡]]松阪町殿町1360番地(現・[[松阪市]]殿町)に転居。この年の4月、宮田汎は[[三重県立松阪商業高等学校|松阪商業高校]]の体育教師となり、冨士は花岡小学校に転職(その後、松阪第二小学校、第一小学校に転職)。異母妹・八重子の死の後の8月、養生を兼ねて基次郎が滞在した。[[1925年]](大正14年)8月に長男・'''尚'''を儲ける。尚が第一小学校に入学した年に、冨士は同校の教職を辞める。64歳没。
:宮田汎の妹・房子は三重県女子師範学校に入学し寄宿舎に入る。基次郎が淡い恋心を抱いた房子は、基次郎の小説『[[城のある町にて]]』の信子のモデル。房子は、[[三重県立宇治山田中学校]]卒の奥田清生と結婚して[[北海道]]、[[樺太]]に移住。戦時中の[[1944年]](昭和19年)に山田野に1人帰還。戦火に遭った夫も[[1947年]](昭和22年)に引き揚げた。
;兄・謙一
:[[1899年]](明治32年)1月20日 – [[1985年]](昭和60年)
:宗太郎とヒサの長男。
:1910年(明治43年)1月、私立[[頌栄]]尋常小学校5年に転入。1911年(明治44年)5月、三重県立第四中学校(現・[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学。宇治山田市(現・[[伊勢市]])の寄宿舎に入り、その後、宇治山田市一志町(現・伊勢市一志町)の[[茶人]]・[[杉木普斎]]宅に下宿。1914年(大正3年)4月、[[大阪府立北野中学校]](現・[[大阪府立北野高等学校]])に転入。
:1916年(大正5年)4月、[[大阪高等工業学校]](現・[[大阪大学]][[工学部]])[[電気科]]に入学。1917年(大正6年)から翌年にかけ、[[結核#結核性リンパ節炎|結核性リンパ腺炎]]を患い、手術を重ねる。大阪高等工業学校卒業後、1919年(大正8年)住友電線製造所(現・[[住友電気工業]])に入社。
:[[1922年]](大正11年)12月、'''高田あき江'''と結婚。大阪市西区西島の北港住宅(のち[[此花区]]西島町北港住宅163番地の1)に居住。[[ツェッペリン]]が日本へ来た時に一番初めにその無電を傍受した<ref name="zadan2"/>。1924年(大正13年)に長男・'''誠'''、[[1927年]](昭和2年)に次男・'''功'''が誕生。
:[[1930年]](昭和5年)3月18日、三男・'''清'''が誕生。同年に[[兵庫県]][[川辺郡]]伊丹町堀越町26(現・[[伊丹市]]清水町2丁目)に居住。9月28日、川辺郡[[稲野村]]大字[[千僧]]小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に転居。離れ家に基次郎が住む。[[1931年]](昭和6年)1月2日、当時最新の外国製カメラで基次郎の写真を庭先で撮影する。9月、子供への結核感染を怖れたあき江が基次郎と険悪となり、子供を連れて実家に帰る騒ぎがある。
:[[日本アマチュア無線連盟]](JARL)の全国理事長になり、[[1959年]](昭和34年)から[[1968年]](昭和43年)まで会長を務めた。86歳没。
;異母弟・順三
:[[1901年]](明治34年)9月28日生 - [[1963年]](昭和38年)没
:宗太郎と磯村ふくの長男。
:実母・磯村ふくは[[播州]]の[[兵庫県]][[姫路市]][[網干]]の出身の[[芸者]]で、宴席で宗太郎と知り合った。ふくはおとなしい女性であった。順三は、宗太郎にとっては「三男」にあたるために、順三と名付けられた。
:[[1911年]](明治44年)にふくが[[腎臓病]]で死去。養祖母・きくと共に梶井家と同居し、鳥羽[[尋常高等小学校]]4年に転入。きくは元[[置屋]]の[[女将]]で皮肉屋だったため、謙一とそりが合わなかった<ref name="otani4"/>。
:[[1916年]](大正5年)3月、高等小学校を終えて[[北浜]]の[[株屋]]に[[丁稚奉公|奉公]]に出るが、同年に梶井家に戻る。宗太郎が[[1921年]](大正10年)9月に玉突き屋を2軒増やした際に、東区内本町橋詰町の[[生国魂神社]]の御旅所境内に開店した店を任されるが、半年ほどで閉店した。その後、順三は[[天王寺区]]大道3丁目で[[乾物]]屋を営むが失敗。
:[[1924年]](大正13年)9月、[[奈良県]][[磯城郡]]桜井町(現・[[桜井市]])の浄土宗大願寺へ徒弟として入る。その後、[[宇陀]]に住むマサヱと結婚。その際、「梶井」姓にしたいと梶井家の家族に頼むが、姉・冨士の大反対で叶わず。1927年(昭和2年)9月29日に長男・[[網干善教|善教]]が誕生。
:1930年(昭和5年)6月1日、奈良県[[高市郡]][[飛鳥村 (奈良県)|飛鳥村]](現・[[明日香村]])の唯称寺の[[住職]]・純誠となる。基次郎の[[通夜]]で[[読経]]。妾の子という身もあり、冨士や謙一とは距離感があった順三だが、基次郎には親しみを持ち、「やさしい人だった」と語っている<ref name="otani4"/>。62歳没。
;弟・芳雄
:[[1906年]](明治39年)1月17日生 - [[1915年]](大正4年)8月20日没
:宗太郎とヒサの三男。
:身体が弱く、寒い東京に引っ越しした頃は[[霜焼]]けに悩まされ、泣いてばかりいた。1914年(大正3年)頃にはすでに[[脊椎カリエス]]を発病し、翌年に9歳で早世。
;弟・勇
:[[1908年]](明治41年)1月21日生 - [[1977年]](昭和52年)没
:宗太郎とヒサの四男。
:1920年(大正9年)、靭尋常小学校を卒業し、4月に中之島の大阪市立実業学校(現・[[大阪市立淀商業高等学校]])[[機械科]]に入学。1922年(大正11年)4月、日独電気自転車商会に就職。この会社は[[ドイツ]]から[[軽自動車]]を輸入していた。1925年(大正14年)7月、母・ヒサが家で開いていた小間物屋の店を半分に分け、兄・謙一の指導の下で[[ラジオ]]店を開業。
:[[徴兵検査]]で甲種合格し、1929年(昭和4年)1月10日、広島電信隊第7[[中隊]]に入営するが、一家の大黒柱であるという住吉警察署の請願書が認められた取り計らいで、4月14日、肺尖カタルとの診断により現役免除となる。
:1930年(昭和5年)5月31日、近所の永山渞の娘・'''永山豊子'''と結婚。豊子は3姉妹で、妹に光子と雅子がいる。永山家の姉妹と梶井家の兄弟は仲が良かった。病床の基次郎のため、出来上がった原稿を[[オートバイ]]で郵便局まで飛ばした。兄思いで、基次郎のことを「基ちゃん」と呼んでいた<ref name="hisa"/>。69歳没。
;弟・良吉
:[[1910年]](明治43年)9月30日生 - [[1940年]](昭和15年)没
:宗太郎とヒサの五男。
:天王寺中学を卒業後、1929年(昭和4年)4月、[[浪速高等学校 (旧制)|浪速高校]](現・[[大阪大学]])へ入学。[[1932年]](昭和7年)、[[京都帝国大学]][[工学部]]に合格。
:兄・基次郎のことを「[[ライオン]]」とふざけて呼んだり、お互い動物の名前で呼び合っていた<ref name="fusa"/>。基次郎が亡くなった後、精神的におかしくなり、神戸の病院に入院<ref name="otoken"/>。
:兄嫁・豊子の妹・'''永山光子'''と結婚。30歳没。
;異母妹・八重子
:[[1921年]](大正10年)3月15日 - [[1924年]](大正13年)7月2日没
:宗太郎と豊田の長女。
:実母の豊田は、梶井家で営んでいた玉突き屋の従業員で美人だったという。八重子は産れてすぐに梶井家に入籍され、一家に可愛がれて育つ。基次郎も実家に帰るとよく面倒を見て可愛がっていた。八重子は[[西条八十]]の詩を暗誦するほど利口な子供だったが、[[結核#結核性髄膜炎|結核性脳膜炎]]で早世。3歳没。
;甥・[[網干善教]]
:[[1927年]](昭和2年)9月29日 – [[2006年]](平成18年)7月29日没
:順三の長男。
:畝傍中学校(現・[[奈良県立畝傍高等学校]])時代に小説まがいのものを書いた時、父・順三に叱られ、[[小説家]]にだけは絶対になるなと諌められる。順三は善教の将来を思い、よく[[飛鳥]]へ[[発掘]]作業などを見に連れて行った。
:[[考古学]]に関心を持つようになり、[[高松塚古墳]]の発掘で知られる[[考古学者]]となる。[[関西大学]]教授。78歳没。
;姪・宮田寿子
:[[1918年]](大正7年) - [[1956年]](昭和31年)8月没
:冨士の長女。
:基次郎の小説『城のある町にて』の勝子のモデル。38歳没。
;甥・宮田尚
:[[1925年]](大正14年)8月22日 -
:冨士の長男。
:松阪第一小学校を卒業し、[[津市|津]]中学校に進む。中学5年まで松阪で過ごす。父親が三重県女子師範学校に転職したことに伴い、鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)に転居。[[1942年]](昭和17年)2月に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入校し、三重県を離れる。
== 略年譜 ==
{| class="wikitable"
|[[1901年]](明治34年)<br />{{0|0000000000000000}}||2月17日、[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[土佐堀通]]5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に、安田運搬所勤務の父・宗太郎と母・ヒサの次男として生まれる。他の家族は、姉・冨士(5歳上)、兄・謙一(2歳上)、祖母・スヱ(宗太郎の母)、祖父・秀吉(ヒサの養父)。9月28日、異母弟・順三が誕生。順三は実母・磯村ふくの生家の網干姓に入籍。
|-
|[[1904年]](明治37年)||2 - 3歳。安田運搬所が[[日露戦争]]の特需で繁盛。接待で多忙な父・宗太郎はさらに酒色にふける。
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|[[1905年]](明治38年)||3 - 4歳。10月10日、一家は大阪市西区[[江戸堀川|江戸堀]]南通4丁目29番地(現・江戸堀2丁目8番地)に転居。
|-
|[[1906年]](明治39年)||4 - 5歳。1月17日、弟・芳雄が誕生。
|-
|[[1907年]](明治40年)||5 - 6歳。4月1日、大阪市西区の江戸堀[[尋常小学校]](現・[[大阪市立花乃井中学校]])に入学。1年イ組。[[保母]]の母・ヒサが東江幼稚園を退職し家事に専念。母が朗読する[[和歌]]や日本[[古典]]文学、[[オルガン]]演奏の歌に親しむ。父の放蕩と浪費で母の労苦は絶えず。
|-
|[[1908年]](明治41年)||6- 7歳。1月、[[糸球体腎炎|急性腎炎]]を患い死にかける。1月21日、次弟・勇が誕生。4月1日、小学校2年に進級。
|-
|[[1909年]](明治42年)||7 - 8歳。4月1日、小学3年に進級。12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店転勤に伴い、一家は祖父・秀吉を残して[[東京市]][[芝区]][[二本榎通り|二本榎]]西町3番地(現・[[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]2丁目6番地)に転居。
|-
|[[1910年]](明治43年)||8 - 9歳。1月上旬、芝白金(現・港区[[白金台]])の私立[[頌栄]]尋常小学校3年に転入。兄・謙一は同校5年、姉・冨士は飯田家政女学校付属高等小学校へ転入。父は[[妾]]・磯村ふくと順三親子らも上京させ別宅で養い、家計は窮迫。祖母・スヱの老人性[[肺結核]]が進行。4月1日、小学4年に進級。9月30日、末弟・良吉が誕生。
|-
|[[1911年]](明治44年)||9 - 10歳。4月1日、小学5年に進級。5月中旬、父の[[鳥羽造船所]]転勤に伴い、一家は[[三重県]][[志摩郡 (三重県)|志摩郡]][[鳥羽町]]1726番地(現・鳥羽市鳥羽3丁目7番地11)に転居。5月22日、鳥羽[[尋常高等小学校]]5年に転入。姉・冨士は同校高等科2年、兄・謙一は三重県立第四中学校(現・[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学し宇治山田市(現・[[伊勢市]])の寄宿舎に入る。<br />
この年、東京で磯村ふくが[[腎臓病]]で死去し、異母弟・網干順三と養祖母・きくが一家と同居。順三は基次郎の1年下に編入学。
|-
|[[1912年]](明治45年・大正元年)||10 - 11歳。3月、欠席数0、全甲の成績で小学5年を修了。4月、小学6年に進級。級長に選ばれる。姉・冨士は三重県[[鈴鹿郡]][[亀山町]](現・[[亀山市]])の三重県女子[[師範学校]]へ進学し寄宿舎に入る。
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|[[1913年]](大正{{0}}2年)||11 - 12歳。2月1日、祖父・秀吉が大阪[[天王寺]]の[[庚申信仰|庚申堂]]で死去(69歳没)。3月26日、全甲の成績で鳥羽尋常高等小学校を卒業。4月1日、三重県立第四中学校(現・[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学。兄の下宿先の宇治山田市[[一志町]](現・[[津市]])の[[茶人]]・[[杉木普斎]]宅に同居。学校で[[楽譜]]の読み方を習う。6月5日、祖母・スヱが肺結核で死去(64歳没)。
10月、第四中学の懸賞短文で「秋の曙」が3等に入選。校友会誌『校友』に載る。9月、[[鳥羽駅|鳥羽]]と[[宇治山田駅|宇治山田]]間の[[鉄道]]開通に伴い、兄と共に実家から[[汽車]]通学。10月20日、父の大阪の安田鉄工所転勤に伴い、一家は大阪市[[北区 (大阪市)|北区]]本庄西権現町1191番地(現・北区[[鶴野町 (大阪市)|鶴野町]]1番地)に転居。再び兄と共に宇治山田市の下宿から通学。
|-
|[[1914年]](大正{{0}}3年)||12 - 13歳。2月4日、一家は大阪市西区[[靭]]南通2丁目35番地(現・西区西本町1丁目8番21号)に転居。3月、中学1年修了。兄と共に実家に戻る。4月10日-12日、兄と共に[[大阪府立北野中学校]](現・[[大阪府立北野高等学校]])の学力検定試験(転入試験)に合格。4月17日、北区北野芝田町(現・[[芝田 (大阪市)|芝田町]]2丁目)の同校2年に転入。この年、父の取引先の友人の弟・池田竹三郎の1人娘・池田艶(小学校5年)と出会う。
|-
|[[1915年]](大正{{0}}4年)||13 - 14歳。3月23日、130名中60番の成績で中学2年を修了。4月6日、中学3年に進級。8月20日、弟・芳雄が[[脊椎カリエス]]で死去(9歳没)。
|-
|[[1916年]](大正{{0}}5年)||14 - 15歳。3月下旬、127名中35番の成績で中学3年を修了。高等小学校を終えた異母弟・順三が[[北浜]]の[[株屋]]に[[丁稚奉公|奉公]]に出されることに同情。3月25日、退学届を提出。筋向いの[[メリヤス]][[問屋]]の[[丁稚]]となる。4月、姉・冨士は三重県女子師範学校を卒業し、三重県[[北牟婁郡]]長島町の長島小学校の教員となる。兄・謙一は[[大阪高等工業学校]](現・[[大阪大学]][[工学部]])[[電気科]]に入学。<br />
6月、西[[道頓堀]]の岩橋繁男商店の住込み奉公。この年、両親は自宅を改装し[[ビリヤード|玉突き屋]]を開業。
|-
|[[1917年]](大正{{0}}6年)||15 - 16歳。2月、奉公を辞めて家に戻る。4月6日、北野中学4年に復学。同級生の宇賀康、畠田敏夫、中出丑三と知り合う。同級の美少年・[[桐原真二]](野球部)と1年下の安司泰蔵に[[同性愛]]的思慕を抱く。8月24日、姉・冨士が宮田汎([[三野瀬村]]三浦小学校の教員)と結婚。兄・謙一は[[結核#結核性リンパ節炎|結核性リンパ腺炎]]を患い、翌年にかけて何度か手術。
|-
|[[1918年]](大正{{0}}7年)||16 - 17歳。3月下旬、135名中82番の成績で中学4年修了。4月6日、中学5年に進級。結核性の病で寝込み1学期を33日間欠席。兄から借りた[[森鷗外]]の『水沫集』『[[即興詩人]]』を耽読。6月、兄が[[兵庫県]][[武庫郡]]魚埼町野寄(現・[[神戸市]][[東灘区]][[本山町 (神戸市)|本山町]]野寄)の池田鹿三郎(父の取引先の友人)宅に[[書生]]として寄宿。池田家の兄弟(艶の[[従兄弟]])と交流。兄が同級生から借りていた[[夏目漱石]]の全集を読み始める。
|-
|[[1919年]](大正{{0}}8年)||17 - 18歳。3月11日、115名中51番の成績で大阪府立北野中学校を卒業。3月下旬、兄が卒業した[[大阪高等工業学校]](現・[[大阪大学]]工学部)電気科の受験に失敗。池田艶([[大阪信愛女学院|大阪信愛高等女学校]]4年)への恋情が高まるが片恋で諦念。4月上旬、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]](現・[[京都大学]]総合人間学部)の受験を母に懇願し勉学に励む。兄は住友電線製造所(現・[[住友電気工業]])に就職。<br />
7月24日、第三高等学校[[理科]]甲類に合格。7月下旬から8月、兄と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]登山し箱根の[[底倉温泉]]に1泊。9月、[[京都府]][[上京区]][[二条通|二条]]川東大文字町160番(現・[[左京区]]二条川端東入ル上ル)の中村金七方に下宿。第三高等学校に入学し理科甲類1年1組となる。10月2日、寄宿舎北寮第5室へ入る。同室で文科の[[中谷孝雄]]、[[飯島正]]、飯島の友人の[[浅野晃]]と知り合う。11月、理科の授業をさぼり始め[[銀閣寺]]を散策。この年、[[谷崎潤一郎]]を読む。
|-
|[[1920年]](大正{{0}}9年)||18 - 19歳。1月15日、風邪で高熱を出し実家で寝込む。2月上旬、寮に戻る。飯島正や浅野晃の友人・[[小山田嘉一]]と知り合う。3月、池田艶が大阪信愛高等学校を卒業。4月上旬、弟・勇が靭尋常小学校を卒業し、大阪市立実業学校(現・[[大阪市立淀商業高等学校]])[[機械科]]に入学。4月13日、寮を出て上京区浄土寺小山町小山(現・左京区浄土寺小山町)の赤井方に下宿。[[新京極]]や[[寺町通|寺町]]を散策。[[志賀直哉]]などの[[白樺派]]を読む。<br />
5月上旬、発熱し[[肋膜炎]]と診断され実家で療養。高熱や[[痰]]が続き4か月の休学届を提出。7月、[[落第]]が決定。8月初旬、姉夫婦の住む三重県[[北牟婁郡]][[船津村 (三重県)|船津村]]字上里(現・[[紀北町]])で[[転地療養]](9月中旬まで)。医師から肺尖[[カタル]]で長期休学を要すと診断。母から学問の諦めろと通告される。10月中旬、父と[[淡路島]]や[[西宮市|西宮]]の海岸に療養地を探すが意見が合わず復学を希望。11月3日、京都に戻り、矢野繫の下宿の上京区岡崎西福ノ川町(現・左京区[[岡崎 (京都市)|岡崎]])に泊り、その後寄宿舎。理科甲類1年2組に復学。[[日記]]を書き始める。[[西田幾多郎]]の[[哲学]]書を読む。
|-
|[[1921年]](大正10年)||19 - 20歳。3月中旬、学制改革により学年が修了。127名中97番で及第。春休みの3月22日、[[紀伊国|紀州]]湯崎温泉(現・[[南紀白浜温泉|白浜温泉]])に湯治旅行。[[結核]]療養で休学中の[[京都大学|京都帝国大学]][[医学部]]の近藤直人(4歳年上)と知り合う。4月9日、大阪の実家に帰る。父が従業員に産ませた[[赤ん坊]]・八重子(異母妹)の存在を知る。4月中旬、進級し理甲2年1組に入る。微熱が続く中、実家から汽車通学。[[弁論部]]の[[大宅壮一]]と知り合う。<br />
通学中に見かけた同志社女子専門学校(現・[[同志社女子大学]])英文科の女学生に振られた体験を短編にする(幻の[[処女作]])。6月、京都市上京区[[吉田 (京都市)|吉田]]中大路町(現・左京区)に下宿。夏休みの7月27日、矢野繁と船で[[伊豆大島]]に1週間旅行。9月、中谷孝雄の劇研究会の仲間の津守萬夫と知り合う。9月下旬、父が安田鉄工所を突如[[退職]]。[[退職金]]で玉突き屋を2軒増やす。<br />
10月16日、[[祇園東|祇園乙部]]の[[遊廓]]で[[童貞]]を捨てる。11月、上京区[[北白川]]西町(現・左京区)の澤田三五郎方に下宿。[[清滝 (京都市)|清滝]]の「桝屋」で酔ったあげく喧嘩騒動を起こす。
|-
|[[1922年]](大正11年)||20 - 21歳。3月、中谷孝雄と[[和歌山県|和歌山]]に旅行。3月16日、追試を受け、126名中102番の成績で特別及第。4月12日、進級し理甲3年3組に入る。4月、弟・勇が日独電気自転車商会に就職。5月、中谷孝雄の勧めで劇研究会に入部。勧誘して入部してきた[[外村繁|外村茂]]や[[北神正]]と知り合う。この頃、池田艶が結婚。7月、[[琵琶湖]]周航の小旅行。8月、和歌山の近藤直人を訪ね、[[新和歌浦]]の[[崖]]から海に飛び込み鼻を怪我。<br />
9月から10月、微熱が続く中、放蕩や泥酔で乱暴狼藉を起す。下宿代の滞納で食事無しとなり、友人の下宿を転々とする。10月から11月、中谷孝雄の恋人・[[平林英子]]の縁で[[岡崎 (京都市)|岡崎]]での「[[新しき村]]」の公演会準備を手伝う。[[武者小路実篤]]と面会。12月、放蕩を反省し実家に帰り謹慎生活。兄・謙一が高田あき江と結婚し、大阪市西区西島の北港住宅(のち[[此花区]]西島町北港住宅163番地の1)に所帯を持つ。この年、[[佐藤春夫]]、[[島崎藤村]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]などを読む。
|-
|[[1923年]](大正12年)||21 - 22歳。1月から3月、実家で謹慎生活。3月中旬、試験放棄で落第決定。4月10日、北白川の下宿に戻り、再び理甲3年3組。「三高の主」「古狸」と称され校内で有名人となる。5月、上京区[[寺町通|寺町]][[荒神口]]下ル松蔭町([[京都御所]]の東)の梶川方に下宿。[[ポール・セザンヌ]]をもじった筆名・瀬山極で「奎吉」を劇研究会の回覧雑誌『真素木』に発表。<br />
7月、「矛盾の様な真実」を三高校友会の『嶽水会雑誌』に発表。[[丸山薫]]、[[武田麟太郎]]と知り合う。8月2日、大阪で軍の[[簡閲点呼]]を受ける。父と[[別府温泉]]へ旅行。9月、劇研究会で「多青座」を組織。[[ジョン・ミリントン・シング|シング]]の『鋳掛屋の結婚』の演出を担当するが、校長・森外三郎の通告により公演中止。やけ酒を飲んで暴れ、[[ヤクザ]]と喧嘩し左頬に怪我。
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|[[1924年]](大正13年)||22 - 23歳。1月、上京区岡崎西福ノ川町(現・左京区岡崎)の大西武二方に下宿。2月中旬、卒業試験終了後、重病を装い[[人力車]]で教授宅を歴訪し卒業を懇願。3月中旬、117名中108番の成績で特別及第。第三高等学校理科甲類を卒業。即日、上京し[[東京帝国大学]](現・[[東京大学]])[[文学部]]英文科に入学手続き。4月、東京市[[本郷区]]本郷3丁目18番地(現・文京区[[本郷 (文京区)|本郷]]2丁目39番13号)の蓋平館支店に下宿。<br />
5月初旬、[[同人雑誌]]を出す話が具体化し、[[中谷孝雄]]、[[外村繁|外村茂]]、小林馨、忽那吉之助、[[稲森宗太郎]]と第1回同人会を開く。7月2日、異母妹・八重子が[[結核#結核性髄膜炎|結核性脳膜炎]]で死去(3歳没)。8月、姉夫婦のいる三重県[[飯南郡]]松阪町殿町1360番地(現・[[松阪市]]殿町)へ養生滞在。9月、実家の玉突き屋が閉店し大阪府[[東成郡]][[天王寺]]村大字阿倍野99番地(現・[[阿倍野区]]王子町2丁目14番地12号)に転居。母は[[雑貨|小間物]]屋を開店。<br />
10月上旬、同人誌名を「'''青空'''」に決定。習作「瀬山の話」の一部分を独立させ、短編「檸檬」にまとめる。12月3日、[[荏原郡]][[目黒町 (東京府)|目黒町]]字[[中目黒]]859番地(現・[[目黒区]][[目黒 (目黒区)|目黒]]3丁目4番2号)の八十川方に下宿。
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|[[1925年]](大正14年)||23 - 24歳。1月、「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」を掲載した同人誌『[[青空 (雑誌)|青空]]』創刊号を発行。2月20日、「[[城のある町にて]]」を『青空』第2号に発表。3月、[[学年末試験]]を5科目だけ受ける。4月、劇研究会の後輩・[[淀野隆三]]、[[浅沼喜実]]が同人参加。淀野を通じ[[三好達治]]と知り合う。小山田嘉一を通じ[[北川冬彦]]と再会。実家の地番が市域に編入され、大阪府住吉区阿倍野町99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に変更。5月31日、[[麻布区]][[飯倉 (東京都港区)|飯倉片町]]32番地(現・港区[[麻布台]]3丁目4番21号)の堀口庄之助方に下宿。<br />
7月1日、「泥濘」を『青空』第6号に発表。7月、実家の小間物屋は店を半分に分け、弟・勇が[[ラジオ]]店を開業。8月、[[神経痛]]の父を[[松山市|松山]]の[[道後温泉]]に送る。8月17日、軍の簡閲点呼を受ける。9月中旬、近藤直人と[[比叡山]]や琵琶湖に行き、[[松尾芭蕉]]の『[[奥の細道]]』を読む。10月15日、「路上」を『青空』第8号に発表。11月5日、「橡の花」を『青空』第9号に発表。12月、[[大津市|大津]]の公会堂で『青空』文芸講演会を開催。「過古」を朗読。
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|[[1926年]](大正15年・昭和元年)||24 - 25歳。1月1日、「過古」を『青空』第11号に発表。1月下旬、中谷孝雄と[[箱根]]旅行。2月、「雑記・講演会其他」を『青空』第12号に掲載。[[飯島正]]が同人参加。3月1日、『青空』第13号から編集当番。4月29日、外村茂と共に[[島崎藤村]]邸を訪ね、『青空』15号を献呈。「雪後」「青空同人印象記(忽那に就て、飯島に就て)」を掲載した6月の『青空』第16号から三好達治が同人参加。<br />
7月1日、「[[川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン]]」を『青空』第17号に発表。8月1日、「[[ある心の風景]]」を『青空』第18号に発表。炎天下、編集・広告取りに奮闘。麻布の医者から「右肺尖に水泡音、左右肺尖に病竈あり」と診断される。8月17日、軍の簡閲点呼を受ける。雑誌『[[新潮]]』から10月新人特集号の執筆依頼。9月14日、書けずに終り[[新潮社]]に詫びに行く。<br />
10月1日、「[[Kの昇天|Kの昇天――或はKの溺死]]」を『青空』第20号に発表。11月1日、「『新潮』十月新人号小説評」を『青空』第21号に発表。11月初旬、 [[喀血]]がひどくなる。12月、[[伊豆市|伊豆]]での[[転地療養]]を決意。12月31日、[[湯ヶ島温泉]]に行き、西平の「湯本館」に滞在中の[[川端康成]]から「湯川屋」を紹介される。
|-
|[[1927年]](昭和{{0}}2年)||25 - 26歳。1月1日から世古の滝の「湯川屋」に長期滞在。川端康成と交流し、『[[伊豆の踊子]]』の[[校正]]を手伝う。2月1日、「[[冬の日 (小説)|冬の日]]」(前篇)を『青空』第24号に発表。3月、湯治に来た[[藤沢桓夫]]と知り合う。4月、「冬の日」(後篇)を『青空』第26号に発表。6月1日、相次ぐ退会者と経営難により『青空』28号をもって廃刊。湯ヶ島に来た[[萩原朔太郎]]、[[広津和郎]]、[[尾崎士郎]]、[[宇野千代]]、[[下店静市]]らと交流。<br />
10月5日、[[京都大学医学部附属病院|京都帝大医学部付属病院]]の医者から肺結核で来春まで静養を要すと診断。10月16日、湯ヶ島に戻る。宇野千代との噂が[[馬込文士村]]まで広まる。12月、「『[[亞 (雑誌)|亜]]』の回想」を詩誌『亜』終刊号に発表。[[浅見淵]]、[[舟橋聖一]]らの同人『文藝都市』に消極的に参加。
|-
|[[1928年]](昭和{{0}}3年)||26 - 27歳。1月初旬、[[熱海市|熱海]]に滞在中の川端康成を訪問後、[[東京府]][[荏原郡]]の[[馬込文士村]]に行く。宇野千代をめぐり[[尾崎士郎]]と一悶着起こす。3月、「[[蒼穹 (小説)|蒼穹]]」を『文藝都市』第2号に発表。3月中旬、藤沢桓夫と[[下田市|下田]]まで行き、黙って[[下賀茂温泉|下賀茂]]に2、3泊。捜索願が出される。3月31日、授業料未払いで[[東京帝国大学]][[文学部]][[英文科]]を除籍。4月、「筧の話」を『近代風景』に発表。同月、実家からの送金が途絶え、湯ヶ島を去ることを決意。5月、「[[器楽的幻覚]]」を『近代風景』に発表。「[[冬の蠅]]」を『創作月刊』創刊号に発表。<br />
5月上旬、飯倉片町に戻る。留守中の下宿に北川冬彦と同宿していた[[伊藤整]]と知り合う。7月、「[[ある崖上の感情]]」「同人印象記・浅見淵君に就いて」を『文藝都市』に発表。7月23日、下宿代の滞納で食事が出されなくなり、東京府[[東多摩郡]][[和田堀町]]堀ノ内(現・杉並区堀ノ内)の中谷孝雄の借家に寄宿。8月、「『[[戦旗]]』『[[文藝戦線]]』七月号創作評」を『文藝都市』に発表。8月中旬、病状が進行。衰弱が激しくなる。<br />
9月3日、大阪市住吉区阿倍野町99番地の実家に帰郷。12月1日、「『青空』のことなど」が三高校友会の『嶽水会雑誌』第100号記念号に掲載。12月5日、「[[櫻の樹の下には]]」を詩の季刊誌『[[詩と詩論]]』に発表。「器楽的幻覚」も同誌に再掲載。
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|[[1929年]](昭和{{0}}4年)||27 - 28歳。1月4日、父・宗太郎が[[心臓麻痺]]で死去(59歳没)。1月10日、弟・勇が広島電信隊第7[[中隊]]に入営(のち免除)。中谷孝雄も[[福知山市|福知山]][[歩兵第20連隊]]に入営。[[カール・マルクス|マルクス]]『[[資本論]]』を読む。4月上旬、弟・良吉が[[浪速高等学校 (旧制)|浪速高校]](現・[[大阪大学]])に入学。8月20日、町名が大阪市住吉区王子町2丁目44番地に変更。10月下旬と11月上旬、京都に来た宇野千代と会う。<br />
11月23日、福知山歩兵第20連隊の中谷孝雄に面会し一泊。帰りに駅で呼吸困難。12月、「詩集『戦争』」を『文學』11月号に発表。12月2日、[[神戸]]で宇野千代と会う。[[エーリヒ・マリア・レマルク|レマルク]]の『[[西部戦線異状なし]]』を読む。
|-
|[[1930年]](昭和{{0}}5年)||28 - 29歳。1月、病床で[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]の『アルタモノフの一家の事業』や[[ルドルフ・ヒルファーディング|ヒルファーディング]]の『金融資本論』、[[安田善次郎]]伝記を読む。2月、[[井原西鶴]]を読む。2月25日、母が[[肺炎]]で[[大阪赤十字病院]]に一時入院。3月初旬、看病疲れで発熱や呼吸困難。3月下旬、母が再び[[腎臓]]炎で入院。4月25日、母が退院。5月31日、弟・勇が近所の娘・永山豊子(永山渞の娘)と結婚したため、母と末弟・良吉と共に[[兵庫県]][[川辺郡]]伊丹町堀越町26番地(現・[[伊丹市]]清水町2丁目)の兄・謙一の家に移住。<br />
6月1日、異母弟・網干順三が[[奈良県]][[高市郡]][[飛鳥村 (奈良県)|飛鳥村]](現・[[明日香村]])の唯称寺の[[住職]]・純誠となる。6月16日、「[[愛撫 (小説)|愛撫]]」を北川冬彦と[[三好達治]]らの同人誌『[[愛撫 (小説)#「詩・現実」|詩・現実]]』創刊号・第1冊に発表。7月から8月、発熱が続き大阪の実家に帰り、医者から[[胃炎]]と診断。9月1日、伊丹町に戻る。9月22日、「[[闇の絵巻]]」を『詩・現実』第2冊に発表。9月28日、兄一家が川辺郡[[稲野村]]大字[[千僧]]小字池ノ上(現・伊丹市千僧池西)に転居し、その離れ家に住む(母も同居)。12月20日、「冬の日」が『詩・現実』第3冊に再掲載。
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|[[1931年]](昭和{{0}}6年)||29 - 30歳。1月、「[[交尾 (小説)|交尾]]」を[[小野松二]]の主宰雑誌『[[作品 (同人誌)|作品]]』に発表。1月11日、[[流感]]に罹り高熱が続く。1月下旬、三好達治と淀野隆三が創作集刊行を計画。2月、衰弱がひどく絶対安静となる。3月28日、「冬の蠅」が『詩・現実』第4冊に再掲載。5月15日、初の創作集『檸檬』が刊行。8月2日、印税75円を受け取る。9月、「『親近』と『拒絶』」を『作品』に掲載。9月下旬、子供への結核感染を怖れた兄嫁・あき江と衝突。10月、母と共に大阪市住吉区の実家に戻る。<br />
10月25日、近所の住吉区王子町2丁目13番地(現・阿倍野区王子町2丁目17番29号)の空き家に一戸を構える。『[[中央公論]]』11月号の正式原稿依頼を新年号に延期してもらう。12月9日、以前から書いていた「[[のんきな患者]]」を改稿完成。12月中旬、執筆や転居の無理が重なり、病床生活となる。12月24日、初めての原稿料230円を手にする。『作品』から依頼を受け、次作「温泉」に取りかかる。[[森鷗外]]の史伝・[[歴史小説|歴史文学]]を読む。
|-
|[[1932年]](昭和{{0}}7年)||30 - 31歳。1月、「のんきな患者」を『中央公論』新年号に発表。1月10日、病状が重く、『作品』の寄稿を断念。2月、呼吸が苦しく、見舞い客との会話も困難。3月中旬、容態が一層悪化。3月17日、顔や手の[[浮腫]]がひどく、死を悟る。日記が途絶える。3月23日、呼吸困難で[[酸素吸入]]も効かず苦しむ。3月24日、[[意識不明]]となり午前2時に永眠(31歳没)。
|-
|}
== 作品一覧 ==
'''小説'''
{{Columns-list|2|
*[[檸檬 (小説)|檸檬]]([[青空 (雑誌)|青空]] 1925年1月創刊号・通巻1号)
*[[城のある町にて]](青空 1925年2月・通巻2号)
*泥濘(青空 1925年7月・通巻5号)
*路上(青空 1925年10月・通巻8号)
*橡の花(青空 1925年11月・通巻9号)
*過古(青空 1926年1月・通巻11号) - のち「過去」
*雪後(青空 1926年6月・通巻16号)
*[[ある心の風景]](青空 1926年8月・通巻18号)
*[[Kの昇天]](青空 1926年10月・通巻20号)
*[[冬の日 (小説)|冬の日]](青空 1927年2月・通巻24号-4月・通巻26号。[[愛撫 (小説)#「詩・現実」|詩・現実]] 1930年12月号・第3冊に再掲載)
*[[蒼穹 (小説)|蒼穹]]([[文藝都市]] 1928年3月・通巻2号)
*筧の話(近代風景 1928年4月号)
*[[器楽的幻覚]](近代風景 1928年5月号。詩と詩論 1928年12月号・第2冊に再掲載)
*[[冬の蠅]](創刊月刊 1928年5月号。詩・現実 1931年3月号・第4冊に再掲載)
*[[ある崖上の感情]](文藝都市 1928年7月号)
*[[櫻の樹の下には]]([[詩と詩論]] 1928年12月号・第2冊)
*[[愛撫 (小説)|愛撫]](詩・現実 1930年6月創刊号・第1冊)
*[[闇の絵巻]](詩・現実 1930年9月号・第2冊)
*[[交尾 (小説)|交尾]]([[作品 (同人誌)|作品]] 1931年1月号)
*[[のんきな患者]]([[中央公論]] 1932年1月号)
}}
'''習作・試作'''
{{Columns-list|2|
*小さき良心(1922年6月頃)
*不幸(1922年6月頃)
*秘やかな楽しみ〈檸檬の歌〉(1922年6月頃)
*卑怯者(1923年1月頃)
*大蒜(1923年1月頃)
*彷徨(1923年1月頃)
*裸像を盗む男(1923年1月頃)
*鼠(1923年1月頃)
*カッフェー・ラーヴェン(1923年1月頃)
*母親(1923年1月頃)
*瀬山の話(1923年1月-1924年10月頃)
*奎吉(真素木 1923年5月号)
*矛盾の様な真実(嶽水会雑誌第84号 1923年7月号)
*瀬戸内海の夜(1923年7月頃)
*帰宅前後(1924年9月頃)
*太郎と街(1924年9月頃)
*夕凪橋の狸(1924年11月頃)
*貧しい生活より(1924年11月頃)
*犬を売る露店(1924年11月頃)
*雪の日(1925年2月頃)
*汽車その他(1925年2月頃)
*凧(1925年1月頃)
*河岸 一幕(1923年6月頃)
*攀じ登る男 一幕(1924年1月頃)
}}
'''遺稿・断片'''
☆印は仮題
{{Columns-list|2|
*栗鼠は籠にはいつてゐる(1927年10月稿〈推定〉)
*闇の書(1927年12月稿〈推定〉)
*夕焼雲(1928年稿〈推定〉)
*奇妙な手品師(1928年5月稿)
*猫(1929年2月以降の稿)☆
*琴を持つた乞食と舞踏人形(1930年稿)
*海(1930年8月稿)☆
*薬(1930年稿)☆
*交尾 その三(1930年12月稿)
*雲(1931年稿)
*籔熊亭(「雲」と同じ原稿上)
*温泉 第1稿~第3稿(1930年稿、1931年12月稿、1932年1月稿)
}}
'''批評・感想'''
{{Columns-list|2|
*雑記・講演会其他([[青空 (雑誌)|青空]] 1926年2月号・通巻12号)
*編集後記(青空 1926年3月号・通巻13号)
*編集後記(青空 1926年4月号・通巻14号)
*青空同人印象記〈忽那に就て〉〈飯島に就て〉(青空 1926年6月号・通巻16号)
*[[川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴアリエイシヨン]](青空 1926年7月号・通巻17号)
*編集後記(青空 1926年9月号・通巻19号)
*『[[新潮]]』十月新人号小説集(青空 1926年11月号・通巻21号)
*「青空語」に寄せて(青空 1927年1月号・通巻23号)
*編集後記(青空 1927年1月号・通巻23号)
*『[[亞 (雑誌)|亜]]』の回想(亜 1927年10月終刊号)
*[[浅見淵]]君に就いて(文藝都市 1928年7月号)
*『[[戦旗]]』『[[文藝戦線]]』七月号創作評(文藝都市 1928年8月号)
*「青空」のことなど(嶽水会雑誌百年記念特集号 1928年12月)
*詩集「戦争」(文學 1929年12月号)
*「親近」と「拒絶」([[作品 (同人誌)|作品]] 1931年9月号)
}}
== 著作本一覧 ==
=== 単行本 ===
*『檸檬』([[武蔵野書院]]、1931年5月15日)
**題字:梶井基次郎。[[四六判]]。函入。
**収録作品:「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」「[[城のある町にて]]」「泥濘」「路上」「過去」「雪後」「[[ある心の風景]]」「[[Kの昇天|Kの昇天―或はKの溺死]]」「[[冬の日 (小説)|冬の日]]」「[[櫻の樹の下には]]」「[[器楽的幻覚]]」「筧の話」「[[蒼穹 (小説)|蒼穹]]」「[[冬の蠅]]」「[[ある崖上の感情]]」「[[愛撫 (小説)|愛撫]]」「[[闇の絵巻]]」「[[交尾 (小説)|交尾]]」
*『檸檬』〈梶井基次郎創作集〉(武蔵野書院・稲光堂書店、1933年12月1日)
**※ 収録作品は同上。
*『城のある町にて』〈創元選書33〉([[創元社]]、1939年11月29日)
**編集・あとがき:[[三好達治]]。四六判。紙装。
**収録作品:「檸檬」「城のある町にて」「泥濘」「路上」「過去」「雪後」「ある心の風景」「Kの昇天」「冬の日」「櫻の樹の下には」「器楽的幻覚」「蒼穹」「筧の話」「冬の蝿」「ある崖上の感情」「愛撫」「闇の絵巻」「交尾」「[[のんきな患者]]」
*『檸檬』(十字屋書店、1940年12月20日)
**※ 武蔵野書院・稲光堂書店と形態・内容同じ。
*『檸檬』(東京楽譜出版社、1946年11月10日)
**※ 武蔵野書院の普及版。
*『愛撫』〈養徳叢書日本篇40〉(養徳社、1948年6月10日)
**B6判。紙装。
**収録作品:「檸檬」「城のある町にて」「路上」「冬の日」「蒼穹」「筧の話」「冬の蠅」「愛撫」「闇の絵巻」「交尾」
*『城のある町にて』([[むぎ書房|麦書房]]、1969年5月20日)
**監修:[[阿部知二]]、[[小田切秀雄]]、[[佐々木基一]]、[[国分一太郎]]。装幀:[[粟津潔]]。絵:[[久米宏一]]。A5判。
=== 全集 ===
*『梶井基次郎全集』〈上下2巻〉(六蜂書房、1934年3月24日・6月26日)限定530部(上)、500部(下)
**編纂:[[淀野隆三]]、[[中谷孝雄]]。刊行委員:[[宇野浩二]]、[[広津和郎]]、[[川端康成]]、[[横光利一]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[萩原朔太郎]]、[[北川冬彦]]、[[三好達治]]、[[武田麟太郎]]
**題簽:梶井久。装幀:[[清水蓼作]]。染色:[[梅原勝次郎]]。浜紬および[[和紙]]装厚表紙。[[菊判]]変型判。函入。
**上巻(作品・遺稿)、下巻(作品・遺稿・批評・感想・随筆・日記・書簡)
*『梶井基次郎小説全集』〈上下2巻〉([[作品社]]、1936年1月19日・4月5日)
**編纂:淀野隆三。題簽:川端康成。装幀:[[小野松二]]。草入和紙装厚表紙。[[四六判]]。函入。
**上巻(作品・習作)、下巻(作品・遺稿・未発表書簡)
**※ 1937年3月5日に普及版発行。
*『梶井基次郎全集』〈全4巻中2巻〉(高桐書院、1948年2月10日・1947年12月20日)
**編纂:淀野隆三。刊行委員:宇野浩二、広津和郎、川端康成、横光利一、小林秀雄、三好達治、[[浅見淵]]、北川冬彦、中谷孝雄、[[外村繁]]
**装幀:清水蓼作。題簽:川端康成。和紙装厚表紙。B6判。
**1巻(作品・初期習作・日記)、2巻(作品・遺稿・批評・感想・随筆・日記)
**3巻と4巻は組み上がっていたが、出版社の倒産により未刊。
*『決定版 梶井基次郎全集』〈全3巻〉([[筑摩書房]]、1959年2月15日・5月30日・7月25日)
**編纂:淀野隆三、中谷孝雄。題簽:川端康成。綿布装厚表紙。A5変型判。函入。
**1巻(作品・習作)、2巻(遺稿・日記・草稿)、3巻(書簡・年譜・書誌)
**※ 1966年4月20日、5月25日、6月20日再刊。
*『梶井基次郎全集』〈全1巻〉([[ちくま文庫]]、1981年8月26日)
**解説:[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]] 「存在の一元性を凝視する」。[[宇野千代]]「あの梶井基次郎の笑ひ声」。装幀:[[安野光雅]]。A6判。
*『梶井基次郎全集』〈全3巻+別巻〉([[筑摩書房]]、1999年11月10日・12月9日・2000年1月25日・9月25日)
**編纂:[[鈴木貞美]]。題簽:梶井基次郎。布装厚表紙。A5変型判。函入。
=== 選集 ===
*『新日本文学全集4』([[改造社]]、1942年5月4日)
**編纂・解説:淀野隆三。装幀:[[佐藤繁次郎]]。B6判。紙装。
**[[牧野信一]]集、[[嘉村礒多]]集、[[北条民雄]]集と共に「檸檬」「城のある町にて」など9編が収録。
*『現代珠玉集 第1輯』(鳳文書林、1946年11月10日)
**編集:[[掛川長平]]。B6判。紙装。
**[[堀辰雄]]、[[深田久弥]]、[[中河与一]]、[[伊藤佐喜雄]]、[[中谷孝雄]]、[[十一谷義三郎]]、[[石塚友二]]らの作品と共に「雪後」が収録。
*『現代文学代表作全集 第1巻』(萬里閣、1948年7月1日)
**編纂:広津和郎、[[豊島与志雄]]、[[徳永直]]、[[高見順]]、[[林芙美子]]、[[佐多稲子]]。解説:[[平田次三郎]]。
**装幀:[[由良玲吉]]。B6判。紙装
**[[芥川龍之介]]、[[池谷信三郎]]、[[織田作之助]]、[[岡本かの子]]、[[葛西善蔵]]、[[片岡鉄兵]]、[[加能作次郎]]、[[嘉村礒多]]、[[上司小剣]]らの作品と共に「冬の蠅」が収録。
*『現代日本小説大系 第45巻〈モダニズム3〉』([[河出書房]]、1952年5月15日)
**編集:日本近代文学研究会、[[青野季吉]]、[[片岡良一]]、川端康成、[[中野重治]]、[[中島健蔵]]、[[伊藤整]]、[[中村光夫]]、[[荒正人]]
**監修:[[永井荷風]]、[[正宗白鳥]]、[[志賀直哉]]、[[谷崎潤一郎]]。解説:伊藤整
**[[龍胆寺雄]]、[[井伏鱒二]]、堀辰雄、[[阿部知二]]、伊藤整、[[芹沢光治良]]、深田久弥、[[藤沢桓夫]]らの作品と共に「檸檬」「城のある町にて」など7編が収録。
**1956年11月10日にも第47巻として刊行。
*『現代日本文学全集 第43巻』([[筑摩書房]]、1954年5月25日)
**解説:[[山本健吉]]、[[中村真一郎]]。装幀:[[恩地孝四郎]]。[[菊判]]。函入。
**[[三好達治]]集、[[堀辰雄]]集と共に収録。
*『昭和文学全集 第53巻〈昭和短篇集〉』([[角川書店]]、1950年2月15日)
**解説:[[平野謙 (評論家)|平野謙]]。A5判。函入。
**[[安部公房]]など34名の作家の作品と共に「交尾(その一、その二)」が収録。
*『日本国民文学全集 第27巻〈昭和名作集(1)〉』(河出書房、1956年9月20日)
**解説:中村真一郎。装幀:[[原弘]]。A5判。函入。
**[[横光利一]]、川端康成、堀辰雄、伊藤整、[[石川淳]]、岡本かの子、[[中島敦]]らの作品と共に「城のある町にて」が収録。
*『私たちの昭和文学選〈少年少女名作ライブラリー〉』(三十書房、1957年7月31日)
**編集:[[古谷綱武]]。装幀:[[中川幸永]]。挿絵:[[高橋秀]]。A5判。函入。
**14名の作家の作品と共に「Kの昇天」が収録。
*『日本詞華集』([[未来社]]、1958年4月10日)
**編集:[[西郷信綱]]、[[安東次男]]、[[広末保]]。A5判。函入。
**収録作品:「檸檬」「蒼穹」
*『伊豆――日本の風土記』(宝文館、1959年1月5日)
**編集:[[野田宇太郎]]。装絵:[[中川一政]]。B6判。
**[[島崎藤村]]の作品と共に「交尾(その二)」が収録。
*『日本文學全集 34』([[新潮社]]、1962年4月20日)
**編集・解説:[[河上徹太郎]]。B6判。函入。
**嘉村礒多集、中島敦集と共に「檸檬」「城のある町にて」など13編が収録。
*『世界短篇文学全集 17〈日本文学昭和〉』([[集英社]]、1962年12月20日)
**解説:中村光夫。四六判。函入。
**42名の作家の作品と共に「檸檬」が収録。
*『現代文学大系 35』(筑摩書房、1964年6月10日)
**解説:[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]「人と文学」。装幀:[[真鍋博]]。B6判。函入。
**堀辰雄集、中島敦集と共に「檸檬」「城のある町にて」など19編が収録。
*『日本現代文学全集 82』([[講談社]]、1964年10月19日)
**編集:伊藤整、亀井勝一郎、中村光夫、平野謙、山本健吉。A5判。函入。
**解説:伊藤整。[[瀬沼茂樹]]「梶井基次郎入門」
**[[田畑修一郎]]集、中島敦集と共に「檸檬」「城のある町にて」など20編と「書簡」抄が収録。
*『愛と苦悩の手紙』(雪華社、1965年6月20日)
**編集:吉田健一。B6判。
**「女の曲つて以て立つところ」という章内に、姉・宮田富士宛ての書簡(大正14年8月9日付)が収録。
*『日本の文学 36』([[中央公論社]]、1968年4月5日)
**編集委員:谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、[[大岡昇平]]、[[三島由紀夫]]、[[ドナルド・キーン]]
**解説:山本健吉。小B6判。函入。
**[[滝井孝作]]集、中島敦集と共に「檸檬」「城のある町にて」など14編が収録。
*『日本文学全集 37』([[集英社]]、1968年8月12日)
**解説:平野謙。装幀:[[伊藤憲治]]。小B6判。函入。
**牧野信一集と共に「檸檬」「城のある町にて」など20編が収録。
*『現代日本文学館 27』([[文藝春秋]]、1968年11月1日)
**編集:小林秀雄。解説:[[篠田一士]]。装幀:[[杉山寧]]。挿絵:[[池田満寿夫]]
**中島敦集、[[坂口安吾]]集と共に「檸檬」「城のある町にて」など14編が収録。
*『作家の自伝 30 梶井基次郎』([[日本図書センター]]、1997年4月5日)
**編集・解説:[[鈴木貞美]]。装幀:[[高嶋良枝]]。A5判。
**小説7編、日記・書簡、梶井ひさ「看護日記」が収録。
=== 文庫・新書 ===
*『梶井基次郎集』([[新潮文庫]]、1950年11月25日)
**解説:[[淀野隆三]]
**収録作品:「檸檬」「城のある町にて」「泥濘」「路上」「橡の花」「過去」「雪後」「ある心の風景」「Kの昇天」「冬の日」「櫻の樹の下には」「器楽的幻覚」「蒼穹」「筧の話」「冬の蝿」「ある崖上の感情」「愛撫」「闇の絵巻」「交尾」「のんきな患者」
**1967年12月10日に改版し『檸檬』で刊行。
*『城のある町にて』([[角川文庫]]、1951年2月20日)
**解説:淀野隆三
**収録作品:「檸檬」「城のある町にて」「雪後」「Kの昇天」「冬の日」「櫻の樹の下には」「冬の蝿」「ある崖上の感情」「闇の絵巻」「交尾」「のんきな患者」「瀬山の話」「海」「温泉」
**1989年6月10日に改版し『檸檬・城のある町にて』で刊行。
**2013年6月21日に改版し『檸檬』で刊行。
*『檸檬』(酣燈社学生文庫、1951年4月10日) - [[新書]]判
**解説:[[中谷孝雄]]
**収録作品:「檸檬」「太郎と街」「城のある町にて」「泥濘」「路上」「過去」「雪後」「ある心の風景」「Kの昇天」「冬の日」「櫻の樹の下には」「器楽的幻覚」「蒼穹」「筧の話」「冬の蝿」「ある崖上の感情」「愛撫」「闇の絵巻」「交尾」「のんきな患者」
*『檸檬・冬の日 他九篇』([[岩波文庫]]、1954年4月25日)
**解説:[[佐々木基一]]。校訂:淀野隆三
**収録作品:「檸檬」「城のある町にて」「ある心の風景」「冬の日」「筧の話」「冬の蝿」「闇の絵巻」「交尾」「のんきな患者」「瀬山の話」「温泉」
*『若き詩人の手紙』(角川文庫、1955年2月15日)
**収録内容:書簡129通
**編集・あとがき:淀野隆三。解説:[[河上徹太郎]]「書簡から見た梶井基次郎氏」
== 梶井をヒントにした人物が登場する作品 ==
*[[鴨川ホルモー]] - 『[[鴨川ホルモー#ホルモー六景|ホルモー六景]]』の「第三景・もっちゃん」は、基次郎をモデルに描かれている。
*[[文豪ストレイドッグス]] - 28歳の「[[文豪ストレイドッグス#ポートマフィア|ポートマフィア]]」構成員「梶井基次郎」として描かれている。[[中原中也]]の部下。好きなものは[[檸檬]]、[[爆弾]]、[[科学]]、[[オペラ]]、[[酒]]。異能は「檸檬爆弾(レモネード)」。
*[[文豪とアルケミスト]]-「ロマンティックスピリット」を持つ青年。172㎝。川端康成や三好達治と回想がある。
== 関連人物 ==
;[[浅野晃]]
:[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]に同年入学。浅野は[[文科|文]][[丙]]([[フランス語]]必修)。東京一中(現・[[東京都立日比谷高等学校]])時代からの文芸仲間の[[飯島正]]が入った[[寄宿舎]]北寮第5室に遊びにいき、同室の基次郎と知り合う<ref name="asano"/>。三高卒業後は疎遠となったが、[[東京帝国大学]]内の芝生で会うと、基次郎は[[下宿]]の[[地図]]を書いて渡し、「遊びに来てくれ」と誘っていた<ref name="asano"/>。
;[[浅見淵]]
:弟・浅見篤が三高の文丙2年の時に、「江戸[[カフェー (風俗営業)|カフェ]]」や「正宗ホール」で3年の基次郎と親しくなり、「カフェ・レーヴン」や[[遊廓]]、演奏会にも一緒に通った<ref name="otani6"/>。『青空』同人となった篤は基次郎より2歳下。その後、篤を通じて淵と基次郎は[[神楽坂]]の「紅屋」の二階で初対面した。浅見兄弟は西洋人くさい風姿をしていて、篤は[[神戸]]で買った[[ボルサリーノ]]の帽子を被り、基次郎が「ええなあ」と羨ましがった<ref name="otani6"/>。淵が同人参加した『文藝都市』に、基次郎も後から加入した。
;[[飯島正]]
:三高に同年入学。飯島は文丙([[フランス語]]必修)。寄宿舎北寮の同じ第5室に入り、知り合う<ref name="iijima"/>。歳は1歳下。基次郎と「江戸カフェー」に行った時、小さなコップについだ透明な酒を、「とても軽い酒だよ。君に飲める」と基次郎にすすめられ一息に飲んだが、それは実は[[アブサン]]で、咽喉元が焼けるように熱くなり、アブサンはその一回で懲りたという<ref name="iijima"/>。
;[[伊藤整]]
:基次郎が[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]の転地療養から引き上げ、[[麻布区]]飯倉片町の下宿に戻った時に知り合う。留守中の下宿部屋を借りた北川と同居していた伊藤は、[[北海道]][[小樽市|小樽]]出身の[[東京商科大学]]生であった<ref name="itosei"/>。伊藤は北川から度々『青空』を見せられ、「こいつはすごい男ですよ」と基次郎のことを聞かされていた。初対面の時、基次郎は日焼けし真っ黒で、岩のような無骨な顔をほころばせた笑顔は落ち着いた明るさだった<ref name="itoseiden">伊藤整「文学的青春傳(抄)」(群像 1951年3月号)。{{Harvnb|別巻|2000|pp=207-209}}に所収</ref>。ちっとも病人らしくも文学青年めいたところもない基次郎の人柄に、幼児のような[[魂]]を感じたという<ref name="otani11"/><ref name="itoseiden"/>。
;[[宇野千代]]
:湯ヶ島滞在時に知り合う。路上で会い、[[川端康成]]から紹介を受けた基次郎に、骨っぽい精悍な印象を持った<ref name="chiyo"/>。基次郎は自分の名前がよく「墓次郎」と書き間違えられると目を細くして笑った<ref name="chiyo"/>。ある日、皆で散歩中に激しい川の流れを見た誰かが何気なく、こんなところではとても泳げないないな、と呟くと、基次郎は例の笑顔で「泳げますよ、泳いで見せませうか」と言ったとたんに着物を脱いで、いきなり橋の上から飛び込んだという<ref name="chiyo"/>。
;[[大宅壮一]]
:三高に同年入学。大宅は文[[乙]]([[ドイツ語]]必修)。大宅は[[高槻駅]]から[[汽車]]通学していたが、2年に進級した基次郎も4月から大阪の実家から汽車を利用するようになり、車内で知り合う<ref name="ooya"/>。初めて[[遊廓]]で[[女郎]]を買った翌朝の車内で基次郎は、「きみ、[[女]]って実につまらんもんだね」「あんなつまらんものはない」と大宅に話したという。その時に大宅は心の中で、「[[理科]]にしては変わった奴だ」と思ったという<ref name="ooya"/>。
;[[尾崎士郎]]
:宇野千代の元夫。湯ヶ島滞在時にはすでに夫婦関係は冷えていたが、妻と基次郎の関係を疑ったことも離婚の要因の一つとなった<ref name="ozaki"/><ref name="ozakihi"/>。尾崎は基次郎から聞いたと思われる[[河鹿]]の[[交尾]]の話を自作短編『河鹿』に使用し<ref name="nenpu-b"/><ref name="sekirei"/>、その後に基次郎が『[[交尾 (小説)|交尾]]』で河鹿の交尾を題材にしたことで、逆に後書きの自分の方が借用になってしまわないかと基次郎は危惧していたが、尾崎が基次郎の作品を賞讃したことで思い煩いはなくなり、2人の間の長い絶交状態も同時に解けた<ref name="nenpu-b"/><ref name="otani13"/><ref name="oza6117"/>。
;[[川端康成]]
:湯ヶ島に来た基次郎に、長期宿泊可能な「湯川屋」を紹介した。『[[伊豆の踊子]]』刊行時の[[校正]]作業を手伝ってもらった際、「[[十六歳の日記]]」を収録すること基次郎は強く勧めた<ref name="sonota"/>。基次郎の[[大阪府立北野中学校|北野中学]]時代の同級生・小西善次郎が川端の遠い親戚で、同じく同級の黒田伝治が川端の[[従弟]]だったという奇縁もあった<ref name="otani10"/><ref name="hide2117"/>。川端が一足先に湯ヶ島を発った後も交流は続き、川端の[[熱海市|熱海]]の貸別荘も何度か滞在した<ref name="otani10"/>。その際、[[泥棒]]が川端夫妻の部屋に侵入した時、まだ眠ってなかった川端は、二階の基次郎が降りて来たと勘違いし、奇怪なことをするなと思った<ref name="dorobo">「熱海と盗難」([[サンデー毎日]] 1928年2月5日号)。{{Harvnb|川端26巻|1982|pp=140-148}}に所収</ref>。泥棒が寝床の川端と目が合った時、「だめですか」と言って逃げて去ったことと、自分が夫妻の部屋を覗いたと思われた話を、基次郎は友人たちに面白く話してうけた<ref name="otani10"/><ref name="hide3215"/>。
;[[北川冬彦]]
:三高に同年入学。北川は文丙。「江戸カフェー」で [[同志社大学]]の猛者・渡辺を追っ払った北川に基次郎は感動して話しかけた<ref name="otani5"/>。その後、文丙の同級で同じく帝大の[[法学部]]に進んだ小山田嘉一から、『青空』に発表された基次郎の「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」を勧められて読み、小山田の家で基次郎と再会した<ref name="kitagakiku"/>。詩誌『[[亞 (雑誌)|亜]]』の同人。その後『青空』同人となった。
;[[桐原真二]]
:北野中学校時代の同級生。基次郎が1年休学後の同じクラスになり、[[美少年]]で[[野球部]]の花形の桐原に[[同性愛]]的な思慕を覚えた<ref name="otani4"/><ref name="nikk1"/>。基次郎は時々、桐原の家に遊びに行って[[宿題]]の手伝いをした。基次郎は桐原のことを習作の中で、「美しい容姿と、その容姿に相応しい快活な、そして温順な心を持つてゐた。――形も心もそれは可愛らしい生徒であつた」と書いている<ref name="otani4"/><ref name="kitaku">習作「帰宅前後」(1924年9月頃)。{{Harvnb|ちくま全集|1986|pp=355-372}}に所収</ref>。基次郎は三高に進んだ後も、帰省のたびに留守勝ちなのを知りつつ桐原の家を訪ねたり、桐原が登場する夢を見たりした<ref name="otani4"/><ref name="nikk1"/>。友人にも桐原のことを情熱的に語り、いきなり「桐原!」と叫んで友人に抱きつくこともあったという<ref name="otani4"/>。
;[[外村繁]]
:三高の後輩(基次郎は2度落第のため卒業は同年)。外村は文甲。基次郎が入った三高劇研究会にほどなくして入部してきて交流が始まった。『青空』の創刊メンバー。基次郎と一緒に『青空』15号を直に[[島崎藤村]]宅に献呈に行く際に、ふだん制帽を被らない外村が気になった基次郎は、古い友人から制帽をもらい受けてきたが、それを気の強い外村に渡すかどうか迷ってしまった<ref name="otani8"/><ref name="sotokoto"/>。その話をその友人から聞いた外村は急いで基次郎のところに行き帽子をもらった。その時基次郎は、ほっとしたように、大きな手で髪をかき上げたという<ref name="otani8"/><ref name="sotokoto"/>。
;[[武田麟太郎]]
:三高の後輩。武田は文甲。三高校友会誌『嶽水会雑誌』に短編「銅貨」を投稿した武田に、基次郎がグラウンドで声をかけて知り合う<ref name="otani6"/><ref name="takeda"/>。「三高の主」として有名人だった基次郎の無頼な風体におじけている武田に、基次郎は親切で優しい態度で、武田に期待を寄せる言葉を言った<ref name="takeda"/>。それ以来、親しく交流し、基次郎が三高卒業後に愛用の[[ズック]][[カバン]]と[[登山靴]]をもらい受けた<ref name="takeda"/>。
;[[中谷孝雄]]
:三高に同年入学。中谷は文乙。寄宿舎北寮の同じ第5室に入り、知り合う。[[無頼]]な中谷は理科の基次郎に「文学をやれ」と勧めた<ref name="otani5"/><ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。2人とも寄宿舎を出た後、基次郎は中谷と一時期距離を置いたこともあるが、紆余曲折や喧嘩をしつつも友好を温めた。『青空』の創刊メンバー。風貌のタイプが基次郎と似ているため、寄宿舎では、中谷が「大きいゴッチャン」、少し都会的な基次郎が「小さいゴッチャン」と呼ばれ(基次郎の方が背丈も肩幅もあったが)、喫茶店の女性店員などから「邯鄲の兄弟」と呼ばれていた<ref name="nakakyoto"/>。「邯鄲」という名前の坊主枕のような餅菓子が売られていて、酒飲みの辛党ながらも、基次郎は故事の「[[邯鄲の枕|邯鄲夢の枕]]」と呼んで時折り食べていたという<ref name="nakakyoto"/>。中谷は下戸で甘党だった<ref name="nakalemon"/>。
;[[平林英子]]
:中谷孝雄の妻。中谷と同棲中の下宿に基次郎がよく遊びに来ていたが、その頃は中谷の[[従妹]]だと紹介されていた<ref name="nakakyoto"/>。基次郎は楽譜つきの立派な[[讃美歌]]の本を英子にあげて教えていたが、軟弱な音楽に興味のない中谷は2人の合唱が気に入らなくなり、基次郎が帰った後に1人で練習している英子の本を取り上げズタズタに破ってしまった<ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。泣いて怒った英子が後日そのことを基次郎に訴えた時、基次郎はとても不快な顔をしたという<ref name="nakakyoto"/><ref name="hira"/>。
;[[藤沢桓夫]]
:湯ヶ島滞在時に知り合う。身体を悪くした藤沢は「湯本館」の川端康成の元に来て、基次郎と親しくなった。基次郎は高熱がある時にも、「湯本館」に遊びに来て一緒に風呂に入ったりした。川端が東京に帰った後も2人は宿を行き来して交流し、[[下田市|下田]]や[[下賀茂温泉|下賀茂]]に一緒に行ったが、東京では会う機会がないまま終わった<ref name="fujisawa"/><ref name="chiyo"/>。
;[[三好達治]]
:三高後輩の[[淀野隆三]]から紹介されて知り合う。基次郎より1歳上で、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]中退後に三高に入り、帝大文学部[[仏文科]]に進んで『青空』同人となった。湯ヶ島にいる基次郎を見舞って滞在中、共に宇野千代に惹かれて[[三角関係]]めいたこともあり、激しく文学論を戦わすこともあった<ref name="yodoyuga"/><ref name="otani10"/>。「湯川屋」の子供の安藤公夫は、ある早朝、川の中の大きな石の上で基次郎と三好が素っ裸で肩を組んで泣き叫けぶ鬼気迫る情景を見たという<ref name="otani10"/><ref name="ando"/>。
;[[淀野隆三]]
:三高の後輩。淀野は文甲。帝大文学部仏文科に進み、『青空』同人となった<ref name="yodonikki"/>。世に知られない『青空』の宣伝や文壇へのアピールを提起した<ref name="otani8"/>。三好達治と共に、基次郎の処女作品集『檸檬』の出版に奔走し、死後も全集刊行に尽力した<ref name="otani13"/><ref name="kashi51"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|32em}}
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=1966-05|title=梶井基次郎全集第2巻 遺稿・批評感想・日記草稿|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-70402-3|ref={{Harvid|旧2巻|1966}}}}
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=1966-06|title=梶井基次郎全集第3巻 書簡・年譜・書誌|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-70403-0|ref={{Harvid|梶井3巻|1966}}}}
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=2000-01|title=梶井基次郎全集第3巻 書簡|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-70413-9|ref={{Harvid|新3巻|2000}}}}
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|editor=[[鈴木貞美]]|date=2000-09|title=梶井基次郎全集別巻 回想の梶井基次郎|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-70414-6|ref={{Harvid|別巻|2000}}}}
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=2003-10|title=[[檸檬 (小説)|檸檬]]|edition=改版|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-109601-8|ref={{Harvid|新潮文庫|2003}}}} 初版は『梶井基次郎集』として1950年11月。改題『檸檬』の改版は1967年12月から。
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=1954-04|title=檸檬・[[冬の日 (小説)|冬の日]] 他九篇|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=978-4-00-310871-0|ref={{Harvid|岩波文庫|1954}}}} 改版は1985年。
*{{Citation|和書|author=梶井基次郎|date=1986-08|title=梶井基次郎全集 全1巻 |publisher=筑摩書房|series=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4-480-02072-7|ref={{Harvid|ちくま全集|1986}}}}
*{{Citation|和書|author=[[大谷晃一]]|date=2002-11|title=評伝 梶井基次郎|edition=完本|publisher=[[沖積舎]]|isbn=978-4-8060-4681-3|ref={{Harvid|大谷|2002}}}} 初刊([[河出書房新社]])は1978年3月 {{NCID|BN00241217}}。新装版は 1984年1月 {{NCID|BN05506997}}。再・新装版は1989年4月 {{NCID|BN03485353}}
*{{Citation|和書|author=[[柏倉康夫]]|date=2010-08|title=評伝 梶井基次郎――視ること、それはもうなにかなのだ|publisher=[[左右社]]|isbn=978-4-903500-30-0|ref={{Harvid|柏倉|2010}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-04|title=川端康成全集第26巻 随筆1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643826-4|ref={{Harvid|川端26巻|1982}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|川端29巻|1982}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-05|title=川端康成全集第33巻 評論5|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643833-2|ref={{Harvid|川端33巻|1982}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1991-03|title=一草一花|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文芸文庫]]|isbn= 978-4-06-196118-0|ref={{Harvid|一草一花|1991}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2013-12|title=川端康成随筆集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=978-4-00-310815-4|ref={{Harvid|随筆集|2013}}}}
*[[古閑章]] 『梶井基次郎研究』 [[おうふう]]、1994年11月。 {{ISBN2| 4-273-02800-X}}
*古閑章 『梶井基次郎の文学』 おうふう、2006年3月。ISBN 4-273-03399-2
*{{Citation|和書|editor=[[鈴木貞美]]|date=1985-07|title=新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620627-6|ref={{Harvid|アルバム梶井|1985}}}}
*{{Citation|和書|editor=鈴木貞美|date=1995-10|title=梶井基次郎――年表作家読本|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309700564|ref={{Harvid|作家読本|1995}}}}
*鈴木貞美 『梶井基次郎の世界』 [[作品社]]、2001年11月。ISBN 4-87893-431-X
*鈴木沙那美 『転位する魂 梶井基次郎』 社会思想社 1977年5月
*{{Citation|和書|author=[[三島由紀夫]]|date=2003-06|title=決定版 三島由紀夫全集第31巻 評論6|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642571-4|ref={{Harvid|三島31巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2003-07|title=決定版 三島由紀夫全集第32巻 評論7|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642572-1|ref={{Harvid|三島32巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=1974-06|title=作家論|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]] |isbn=978-4-12-200108-4|ref={{Harvid|作家論|1974}}}} ハードカバー原版(中央公論社)は1970年10月 {{NCID|BN0507664X}}、新装版は2016年5月
*{{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2001-01|title=[[文章読本#三島由紀夫|文章読本]]|edition=改|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|isbn=978-4-12-202488-5|ref={{Harvid|文章読本|2001}}}} 初版は1973年8月。ハードカバー原版(中央公論社)は1959年6月 {{NCID|BN05330824}}
== 外部リンク ==
{{Wikiquote|梶井基次郎}}
*{{青空文庫著作者|74}}
*{{青空文庫著作者|244|梶井久(梶井基次郎の母)}}
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5,044 | 直木三十五 | 直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年〈明治24年〉2月12日 - 1934年〈昭和9年〉2月24日)は、日本の小説家である。また脚本家、映画監督でもあった。本名は、植村宗一。現在、エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」)は、彼に由来する。
1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。本名は植村宗一、東洋史学者の植村清二は実弟。
父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。
1920年(大正9年)、里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当。この当時は本名「植村宗一」を使った。
1923年(大正12年)の関東大震災以後は大阪のプラトン社に勤務し、川口松太郎とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、次第に時代小説を書くようになる。
1925年(大正14年)、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成。映画製作にのめりこむ。
1927年(昭和2年)、マキノに出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す」(映画など子供の遊びだ)と捨て台詞を吐いて映画界から撤退。同年、マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』の編集中に失火しマキノ邸が全焼すると、火事場見舞いに訪れた直木はマキノから小遣いを貰ったうえ、「マキノはこれで潰れる」と喧伝。これがマキノのスタア大量脱退の一因となる。
1929年(昭和4年)、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。
代表作となったのは、お由羅騒動を描いた『南国太平記』である。これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。
1934年(昭和9年)2月24日、結核性脳膜炎により東京帝国大学附属病院で永眠。43歳没。
1934年(昭和9年)2月26日、東京・内幸町にあった大阪ビルで神式による葬儀が行われた。喪主は長男の昴生が務める予定であったが病気のため出席できなかった。親族のほかには前夫人の香西おりえ、愛人の真館はな子が出席した。式場には出版関係者をはじめ菊池寛、久米正雄、三上於菟吉、大仏次郎、吉川英治、横光利一などの文士ら約600人が出席して別れを惜しんだ。
没後、菊池寛の発意により大衆文学を対象とする文学賞「直木賞」が創設された。
「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものである。31歳のときに直木三十一の筆名で『時事新報』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに「三十二」、「三十三」と名前を変えていた。
34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いた。しかし、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直木三十三」を使っていた。しかし「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と名を改めた。
それ以降は歳を重ねても改名することはなかった。止めた理由は以下の2説がある。
他に竹林の七賢にちなんだ“竹林賢七”などの筆名もある。
直木の母方の叔父の親友が、相撲界でパトロンを指す「タニマチ」の語源となった医師薄恕一である。 薄の経営する大阪谷町六丁目「薄病院」に、病弱な直木は幼稚園児のころから通院。19歳のころにはアルバイトで学費も稼ぐなど、物心両面で世話になっている。 このため、直木は作家となった後も薄への感謝を忘れず、自叙伝「死までを語る」で、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。」「殆ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と綴っている。 また、薄は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。
直木は三十三と名乗っていたころ、マキノ省三の家に居候していた。当時中学生だったマキノ雅弘は、なぜ直木が家にいるのか分からなかった。マキノ雅弘は、「小学校三年までしか学校に行っていない父が、直木が早稲田中退というだけで、しかも在学中には自分がファンだった澤田正二郎と同級だったということもあり、直木のことをよく聞いて居候させていたのだろう」と語っている。
このころ直木は朝から晩まで着物をぞろりとひっかけるように着て、雅弘をつかまえると「おい、マサ公」と決まって用をいいつけた。金もないのに「スリーキャッスル(煙草)を買ってこい」といい、「おっさん、金がない」と答えると「盗んで来いッ!」と怒鳴るような人物だった。雅弘は「生意気ながら、早稲田大学中退程度で大した人だとは思わなかった」と語っている。
直木は1925年(大正14年)に菊池寛を頭に連合映画芸術家協会を設立して映画製作に乗り出した。資金は全てマキノ省三に出させていた。映画人からは「作家ゴロ」「映画ゴロ」と陰口をたたかれ、雅弘は「直木三十五って男は活動屋(映画制作関係者の蔑称)のブローカーになり下がった奴で、金が欲しいだけで何も書かない作家だ」と人から教えてもらったという。1926年(大正15年)の『山賊』はマキノプロの施設と資金で撮り、直木はただタイトルを出すだけで金を取っていた。雅弘は「文芸作家協会員と言う人達は、恥ずかしいということを知らない人たちばかりだと真面目に思ったものである」とも述べている。
直木はのちに「大衆文芸同人」と名を改め、連合映画芸術家協会と同じ陣容で『野火』を製作。マキノ雅弘は「大衆文芸同人も聯合映画芸術家協会も、相手は活動屋だとタカをくくって食い物にしていたようだ。連中に振り回されて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌屋の宣伝のための映画を客に見せていたのではなかったろうか」としている。
片岡千恵蔵は直木の紹介でマキノに入社するが、直木が初めて脚本を書いたのが千恵蔵主演の『烏組就縛始末記』であり、以来直木と千恵蔵はくっつきすぎていて、マキノ省三は千恵蔵をやや敬遠していた。千恵蔵は翌年マキノを脱退するが、雅弘は「今こそ云えることだが、直木という男は三十五になるまでマキノから銭だけ取って何もしなかった人であり、そんなタカリ専門の男からの個人的な紹介であったことが---当然ながら最初からマキノの不信感を買うことになり---千恵蔵の不幸であった」とこのスタアの脱退について語っている。
マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』は当初直木がどうしても原作を書かせろと云って聞かず、結局は一行も書けなかった。そこでマキノ省三は直木と連合映画芸術家協会からこの作品を切り離すため「實録」と銘打った。直木に反感を持っていたマキノ夫人の知世子もこの「實録」には喜んで協力している。マキノ省三が失火の後病臥しても直木は見舞いもなく、撮影所からぱったり姿を消した。
雅弘は「当時の私たち若いマキノの連中は、とにかく衣笠貞之助、伊藤大輔、二川文太郎、井上金太郎らの先輩に追いつけ、追いつけで、現場で走り回り、がんばったものだった。机の前で字を書いてホンを作り、映画や芝居の河原乞食---つまり私たち---をおだてて金儲けをし、偉くなられた『芸術家』の先生とは同じ志を持たなかった。少なくとも、『芸術』とは読むもんで、見るもんじゃないと私たちは思った」とし、「直木賞ができたときには何やこれと首をかしげた、直木三十三から三十五になってもついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に、いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられないのである」としている。
囲碁・将棋好きで知られた。1932年には日本棋院から初段の免状を受けている。ある日、菊池寛のところへタクシーに乗って借財に行き5円を借りたが、タクシーを待たせたまま菊池との将棋に没頭。料金が借財を上回ったため、そのタクシーに乗って別な場所に再び借財に回る逸話を残した。直木のお通夜の席でも式が終わると会場で菊池寛と山本有三が将棋を、豊島与志雄と平凡社員が囲碁を打ち、別れを惜しんだ。また、これとは別に菊池は芝区の旅館で直木が好きだった麻雀にかこつけて追善麻雀大会を開催。後日、警視庁に賭博容疑で検挙されている。
昭和初年の無声映画時代、直木は京都の映画作家たちと関わり、自らも3年間に9本の映画脚本を執筆し、そのうち1本は監督をした。脚本家デビュー作は、親友菊池寛の小説の翻案『恩讐の彼方に』で、1925年2月5日に、監督デビュー作は、江戸川乱歩原作の翻案『一寸法師』で、1927年3月25日にそれぞれ公開された。脚本・監督作のすべてが無声映画であった。
また、原作については50本近くの作品が挙がり、『南国太平記』だけで10作の映画がつくられている。 | [
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"text": "直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年〈明治24年〉2月12日 - 1934年〈昭和9年〉2月24日)は、日本の小説家である。また脚本家、映画監督でもあった。本名は、植村宗一。現在、エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」)は、彼に由来する。",
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"text": "1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。本名は植村宗一、東洋史学者の植村清二は実弟。",
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"text": "父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。",
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"text": "1920年(大正9年)、里見弴、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当。この当時は本名「植村宗一」を使った。",
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"text": "1923年(大正12年)の関東大震災以後は大阪のプラトン社に勤務し、川口松太郎とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、次第に時代小説を書くようになる。",
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"text": "1925年(大正14年)、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成。映画製作にのめりこむ。",
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"text": "1927年(昭和2年)、マキノに出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す」(映画など子供の遊びだ)と捨て台詞を吐いて映画界から撤退。同年、マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』の編集中に失火しマキノ邸が全焼すると、火事場見舞いに訪れた直木はマキノから小遣いを貰ったうえ、「マキノはこれで潰れる」と喧伝。これがマキノのスタア大量脱退の一因となる。",
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"text": "1929年(昭和4年)、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。",
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"text": "代表作となったのは、お由羅騒動を描いた『南国太平記』である。これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。",
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"text": "1934年(昭和9年)2月26日、東京・内幸町にあった大阪ビルで神式による葬儀が行われた。喪主は長男の昴生が務める予定であったが病気のため出席できなかった。親族のほかには前夫人の香西おりえ、愛人の真館はな子が出席した。式場には出版関係者をはじめ菊池寛、久米正雄、三上於菟吉、大仏次郎、吉川英治、横光利一などの文士ら約600人が出席して別れを惜しんだ。",
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"text": "「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものである。31歳のときに直木三十一の筆名で『時事新報』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに「三十二」、「三十三」と名前を変えていた。",
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"text": "34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いた。しかし、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直木三十三」を使っていた。しかし「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と名を改めた。",
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"text": "直木の母方の叔父の親友が、相撲界でパトロンを指す「タニマチ」の語源となった医師薄恕一である。 薄の経営する大阪谷町六丁目「薄病院」に、病弱な直木は幼稚園児のころから通院。19歳のころにはアルバイトで学費も稼ぐなど、物心両面で世話になっている。 このため、直木は作家となった後も薄への感謝を忘れず、自叙伝「死までを語る」で、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。」「殆ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と綴っている。 また、薄は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。",
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] | 直木 三十五は、日本の小説家である。また脚本家、映画監督でもあった。本名は、植村宗一。現在、エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」)は、彼に由来する。 | {{Infobox 作家
| name = 直木 三十五<br />(なおき さんじゅうご)
| image = Sanjugo Naoki (b).jpg
| image_size = 200px
| caption = 直木三十五
| birth_name = 植村 宗一
| birth_date = [[1891年]][[2月12日]]
| birth_place = {{JPN}} [[大阪府]][[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]]内安堂寺町通2丁目<br />(現・大阪府大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]][[安堂寺町 (大阪市)|安堂寺町]]2丁目)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1891|2|12|1934|2|24}}
| death_place = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[本郷区]]本富士町<br />(現・[[東京都]][[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]])
| resting_place = 長昌寺(横浜市金沢区)
| occupation = [[小説家]]<br />[[脚本家]]
| nationality = {{JPN}}
| period =
| genre = [[大衆小説]]
| subject = [[時代小説]]<br />時局小説
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| notable_works = 『合戦』(1928年)<br />『由比根元大殺記』(1929年)<br />『[[南国太平記]]』(1931年)<br />『楠木正成』(1932年)<br />『[[益満休之助]]』(1932年)
| awards =
| debut_works =
}}
'''直木 三十五'''(なおき さんじゅうご、[[1891年]]〈[[明治]]24年〉[[2月12日]] - [[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[2月24日]])は、[[日本]]の[[小説家]]である。また[[脚本家]]、[[映画監督]]でもあった。本名は、植村宗一。現在、[[エンターテインメント]]系の作品に与えられる[[直木三十五賞]](通称「直木賞」)は、彼に由来する。
== 来歴 ==
[[1891年]](明治24年)[[2月12日]]、現在の[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[安堂寺町 (大阪市)|安堂寺町]]2丁目に生まれる。本名は'''植村宗一'''、東洋史学者の[[植村清二]]は実弟。
父の反対を押して[[早稲田大学]][[英文科]][[大学予科|予科]]を経て、[[早稲田大学高等師範部]][[英語科]]へ進学したが、月謝未納で中退。しかし[[早稲田大学]]へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。
[[1920年]](大正9年)、[[里見弴]]、[[久米正雄]]、[[吉井勇]]、[[田中純 (作家)|田中純]]らによって創刊された『人間』の編集を担当。この当時は本名「植村宗一」を使った。
[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]以後は大阪の[[プラトン社]]に勤務し、[[川口松太郎]]とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、次第に時代小説を書くようになる。
[[1925年]](大正14年)、[[マキノ・プロダクション]]主催の[[マキノ省三]]家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「[[連合映画芸術家協会|聯合映畫藝術家協會]]」を結成。映画製作にのめりこむ。
1927年(昭和2年)、マキノに出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す」(映画など子供の遊びだ)と捨て台詞を吐いて映画界から撤退。同年、マキノプロの大作『[[忠魂義烈 実録忠臣蔵|忠魂義烈 ・實録忠臣蔵]]』の編集中に失火しマキノ邸が全焼すると、火事場見舞いに訪れた直木はマキノから小遣いを貰ったうえ、「マキノはこれで潰れる」と喧伝。これがマキノのスタア大量脱退の一因となる<ref name="tosei">『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』([[マキノ雅弘]]、平凡社)</ref>。
[[1929年]](昭和4年)、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。『黄門廻国記』は[[月形龍之介]]の主演した映画『[[水戸黄門]]』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。
代表作となったのは、[[お由羅騒動]]を描いた『[[南国太平記]]』である。これは[[三田村鳶魚]]が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。{{要出典|範囲=そのため[[海音寺潮五郎]]、[[司馬遼太郎]]、[[永井路子]]など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。|date=2021年4月}}
[[1934年]](昭和9年)[[2月24日]]、結核性脳膜炎により[[東京大学医学部附属病院|東京帝国大学附属病院]]で永眠<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/kusei/kikaku/naoki35/file/naoki-shiryou.pdf 直木三十五 略年表]直木三十五と富岡の家 2014年12月13日閲覧</ref><ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)226頁</ref>。43歳没。
[[ファイル:直木三十五の墓.jpg|サムネイル|横浜市金沢区長昌寺にある直木三十五の墓]]
1934年(昭和9年)[[2月26日]]、東京・内幸町にあった大阪ビルで神式による葬儀が行われた。喪主は長男の昴生が務める予定であったが病気のため出席できなかった。親族のほかには前夫人の香西おりえ、愛人の真館はな子が出席した。式場には出版関係者をはじめ菊池寛、[[久米正雄]]、[[三上於菟吉]]、[[大仏次郎]]、[[吉川英治]]、[[横光利一]]などの文士ら約600人が出席して別れを惜しんだ<ref>各界の知名人参列、盛大な葬儀『東京日日新聞』昭和9年9月27日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p484)</ref>。
没後、菊池寛の発意により大衆文学を対象とする文学賞「[[直木三十五賞|直木賞]]」が創設された。
== 人物像など ==
=== 名前について ===
「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものである。31歳のときに直木三十一の筆名で『[[時事新報]]』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに「三十二」、「三十三」と名前を変えていた。
34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いた。しかし、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直木三十三」を使っていた。しかし「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と名を改めた。
それ以降は歳を重ねても改名することはなかった。止めた理由は以下の2説がある。
#「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だった
#[[菊池寛]]から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告された
他に[[竹林の七賢]]にちなんだ“竹林賢七”などの筆名もある。
=== 直木の「タニマチ」医師、薄恕一 ===
直木の母方の叔父の親友が、[[相撲]]界でパトロンを指す「[[タニマチ]]」の語源となった医師[[薄恕一]]である。
薄の経営する大阪[[谷町]]六丁目「薄病院」に、病弱な直木は幼稚園児のころから通院。19歳のころにはアルバイトで学費も稼ぐなど、物心両面で世話になっている。
このため、直木は作家となった後も薄への感謝を忘れず、自叙伝「死までを語る」で、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。」「殆ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と綴っている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000216/files/1725_26171.html 直木三十五 死までを語る - 青空文庫]</ref>。
また、薄は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。
=== 直木とマキノ省三 ===
直木は三十三と名乗っていたころ、[[マキノ省三]]の家に居候していた。当時中学生だった[[マキノ雅弘]]は、なぜ直木が家にいるのか分からなかった。マキノ雅弘は、「小学校三年までしか学校に行っていない父が、直木が早稲田中退というだけで、しかも在学中には自分がファンだった[[澤田正二郎]]と同級だったということもあり、直木のことをよく聞いて居候させていたのだろう」と語っている。
このころ直木は朝から晩まで着物をぞろりとひっかけるように着て、雅弘をつかまえると「おい、マサ公」と決まって用をいいつけた。金もないのに「スリーキャッスル(煙草)を買ってこい」といい、「おっさん、金がない」と答えると「盗んで来いッ!」と怒鳴るような人物だった。雅弘は「生意気ながら、早稲田大学中退程度で大した人だとは思わなかった」と語っている。
直木は1925年(大正14年)に[[菊池寛]]を頭に[[連合映画芸術家協会]]を設立して映画製作に乗り出した。資金は全てマキノ省三に出させていた。映画人からは「作家ゴロ」「映画ゴロ」と陰口をたたかれ、雅弘は「直木三十五って男は活動屋(映画制作関係者の蔑称)のブローカーになり下がった奴で、金が欲しいだけで何も書かない作家だ」と人から教えてもらったという。1926年(大正15年)の『山賊』はマキノプロの施設と資金で撮り、直木はただタイトルを出すだけで金を取っていた。雅弘は「文芸作家協会員と言う人達は、恥ずかしいということを知らない人たちばかりだと真面目に思ったものである」とも述べている。
直木はのちに「大衆文芸同人」と名を改め、連合映画芸術家協会と同じ陣容で『野火』を製作。マキノ雅弘は「大衆文芸同人も聯合映画芸術家協会も、相手は活動屋だとタカをくくって食い物にしていたようだ。連中に振り回されて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌屋の宣伝のための映画を客に見せていたのではなかったろうか」としている。
[[片岡千恵蔵]]は直木の紹介でマキノに入社するが、直木が初めて脚本を書いたのが千恵蔵主演の『烏組就縛始末記』であり、以来直木と千恵蔵はくっつきすぎていて、マキノ省三は千恵蔵をやや敬遠していた。千恵蔵は翌年マキノを脱退するが、雅弘は「今こそ云えることだが、直木という男は三十五になるまでマキノから銭だけ取って何もしなかった人であり、そんなタカリ専門の男からの個人的な紹介であったことが---当然ながら最初からマキノの不信感を買うことになり---千恵蔵の不幸であった」とこのスタアの脱退について語っている。
マキノプロの大作『[[忠魂義烈 実録忠臣蔵|忠魂義烈 ・實録忠臣蔵]]』は当初直木がどうしても原作を書かせろと云って聞かず、結局は一行も書けなかった。そこでマキノ省三は直木と連合映画芸術家協会からこの作品を切り離すため「實録」と銘打った。直木に反感を持っていたマキノ夫人の知世子もこの「實録」には喜んで協力している。マキノ省三が失火の後病臥しても直木は見舞いもなく、撮影所からぱったり姿を消した。
雅弘は「当時の私たち若いマキノの連中は、とにかく[[衣笠貞之助]]、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[二川文太郎]]、[[井上金太郎]]らの先輩に追いつけ、追いつけで、現場で走り回り、がんばったものだった。机の前で字を書いてホンを作り、映画や芝居の河原乞食---つまり私たち---をおだてて金儲けをし、偉くなられた『芸術家』の先生とは同じ志を持たなかった。少なくとも、『芸術』とは読むもんで、見るもんじゃないと私たちは思った」とし、「直木賞ができたときには何やこれと首をかしげた、直木三十三から三十五になってもついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に、いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられないのである」としている<ref name="tosei" />。
=== 直木と将棋・囲碁・麻雀 ===
[[ファイル:Sanjugo Naoki playing go, 1932.jpg|thumb|自宅の直木、奥には初段免状]]
[[囲碁]]・[[将棋]]好きで知られた。1932年には[[日本棋院]]から[[初段]]の免状を受けている<ref name="東京朝日新聞1934">{{Cite news |和書 |author= |title=文士らしい心やり:碁・将棋で直木氏のお通夜 |newspaper=東京朝日新聞 |date=1934-02-26 |edition=朝刊 |page=11 }}</ref>。ある日、[[菊池寛]]のところへ[[タクシー]]に乗って借財に行き5円を借りたが、タクシーを待たせたまま菊池との将棋に没頭。料金が借財を上回ったため、そのタクシーに乗って別な場所に再び借財に回る逸話を残した<ref>抜群の執筆力、代表作「南国太平記」『中外商業新報』昭和9年9月25日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』毎日コミュニケーションズ、1994年、本編484頁)</ref>。直木の[[お通夜]]の席でも式が終わると会場で菊池寛と[[山本有三]]が将棋を、[[豊島与志雄]]と平凡社員が囲碁を打ち、別れを惜しんだ{{R|東京朝日新聞1934}}。また、これとは別に菊池は芝区の旅館で直木が好きだった[[麻雀]]にかこつけて追善麻雀大会を開催。後日、警視庁に賭博容疑で検挙されている<ref>大御所菊池寛や花形女優ら次々と検挙『東京朝日新聞』昭和9年3月18日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編615頁)</ref>。
== 著作 ==
*心中きらら阪(直木三十三)[[春陽堂書店|春陽堂]] 1924
*仇討十種 (直木三十三)[[プラトン社]] 1924
**[[赤穂事件|元禄赤穂事件]]を扱った「討入り」「寺坂吉右衛門の逃亡」などを含む<ref>『忠臣蔵 傑作コレクション 列伝篇上』([[河出書房新社]]、1989年)解説 305ページ</ref>
*大衆文芸新作仇討全集 第1-2巻(直木三十三)興文社 1925-26
*合戦 [[平凡社]] 1928
*仇討浄瑠璃坂 [[平凡社]] 1929
*正伝荒木又右衛門 先進社 1930
*風流殺法陣 [[平凡社]] 1930
*青春行状記 [[中央公論新社|中央公論社]] 1931
*[[南国太平記]] 誠文堂 1931 のち[[新潮文庫]]、[[角川文庫]]
*:薩摩藩の[[お由羅騒動]]を扱った直木の代表作。何度も映画化されている。
*伝八郎の疑問 [[新潮社]] 1931
*関ケ原 [[早稲田大学]] 1931
*楠木正成 [[中央公論新社|中央公論社]] 1932
*徳川地獄図解 [[改造社]] 1932
*明暗三世相 改造社 1932
*日本の戦慄 上海篇 中央公論社 1932
*[[益満休之助]] [[新潮社]] 1932
*:上記の南国太平記の続編。1935年に[[極東映画]]製作、[[羅門光三郎]]主演で映画化されている。
*'''直木三十五全集''' 全20巻 改造社 1933-35
** 「源九郎義経」「石田三成」「寺坂吉右衛門の逃亡」などを含む
*光・罪と共に 中央公論社 1933
*直木三十五随筆集 中央公論社 1934
== 伝記 ==
*[[植村鞆音]] 『直木三十五伝』 [[文藝春秋]] 2005年、[[文春文庫]] 2008年。[[植村清二]]<ref>弟の植村清二にも直木三十五の回想評伝がある。『歴史と文芸の間』(中央公論社 のち中公文庫)に収録。</ref>の子息で甥にあたる。
*『直木三十五入門』 新風書房、2005年。福山琢磨編・植村鞆音監修
*[[山崎國紀]] 『知られざる文豪 直木三十五』 [[ミネルヴァ書房]]、2014年
== フィルモグラフィ ==
昭和初年の[[無声映画]]時代、直木は[[京都]]の[[映画人|映画作家]]たちと関わり、自らも3年間に9本の映画脚本を執筆し、そのうち1本は監督をした。脚本家デビュー作は、親友菊池寛の小説の翻案『恩讐の彼方に』で、[[1925年]][[2月5日]]に、監督デビュー作は、[[江戸川乱歩]]原作の翻案『一寸法師』で、[[1927年]][[3月25日]]にそれぞれ公開された。脚本・監督作のすべてが無声映画であった。
また、原作については50本近くの作品が挙がり、『南国太平記』だけで10作の映画がつくられている。
* [[恩讐の彼方に]] 1925年 脚本 ※「直木三十三」名義
:監督[[牧野省三]]、原作[[菊池寛]]、撮影持田米三(「持田米彦」名義)、助監督[[二川文太郎]]、主演鬼頭善一郎、中村若之助、久松喜世子、[[沢田正二郎]]、製作[[東亜キネマ|東亜キネマ等持院撮影所]]
* 室町御所 1925年 脚本 ※「直木三十三」名義
:監督[[広瀬五郎]]、原作[[岡本綺堂]]、撮影河上勇喜、指揮[[中川紫郎]]、助監督[[マキノ雅弘]](「マキノ正唯」名義)、主演[[マキノ輝子]]、[[実川延松]]、製作[[中川映画製作所]]、配給[[連合映画芸術家協会]]
* 生玉心中 1925年 脚本 ※「直木三十三」名義
:監督中川紫郎・広瀬五郎、撮影河上勇喜、主演実川延松、春日小夜子、製作中川映画製作所、配給連合映画芸術家協会
* 忠弥召捕 1926年 原作・脚本 ※「直木三十三」名義
:監督マキノ省三・[[沼田紅緑]]、撮影大森伊八、助監督マキノ正唯、主演[[沢村長十郎]]、松本松五郎、[[関操]]、マキノ輝子、製作[[マキノ・プロダクション|マキノ・プロダクション御室撮影所]]
* 天一坊と伊賀亮 1926年 脚本 ※「直木三十三」名義
:監督牧野省三・[[衣笠貞之助]]、原作[[額田六福]]、撮影[[田中十三]]、助監督マキノ正唯、主演[[市川猿翁 (初代)|市川猿之助]]、市川八百蔵、[[市川小太夫]]、沢村源十郎、マキノ輝子、製作連合映画芸術家協会・[[春秋座]]
* 地蔵経由来 1926年 指揮・脚本 ※「直木三十三」名義
:監督深川ひさし、原作[[久米正雄]]、撮影柏田敏雄、字幕稲垣虹二郎、主演金井謹之助、[[高堂国典]]、[[香川良介]](「香川遼」名義)、[[稲垣浩]]、東明二郎、製作連合映画芸術家協会
* [[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]] [[1927年]] '''監督'''・脚本
:共同監督[[志波西果]]、原作[[江戸川乱歩]]、撮影酒井健三、主演[[石井漠]]、白川珠子、栗山茶迷、石井小浪、鈴木芳子、製作連合映画芸術家協会
* 新珠 1927年 脚本
:監督[[鈴木謙作]]、原作菊池寛、撮影柏田敏雄、主演富士龍子、[[東愛子]]、石井小浪、[[梅島昇]]、友成若波、中西近之祐、今井緑郎、製作連合映画芸術家協会
* 炎の空 1927年 脚本
:監督鈴木謙作、原作[[三上於菟吉]]、撮影柏田敏雄、主演梅島昇、[[荒木忍]]、富士龍子、今井緑郎、浅原和夫、東愛子、製作連合映画芸術家協会、配給マキノ・プロダクション
== 音声化作品 ==
*[http://www.pixela.co.jp/psb/detail/binbou.html 「貧乏一期二期三期」PIXELA SOUND BOOK 日本の名著シリーズ]
== 関連項目 ==
*[[直木三十五賞]]
:亡くなった翌年の昭和10年、[[文藝春秋]]社長・[[菊池寛]]により[[直木三十五賞|直木賞]]が設置された。
*「南国忌」
:忌日の2月24日は、代表作『[[南国太平記]]』に因んで「南国忌」と呼ばれる。
*「直木三十五記念館」
:大阪府大阪市中央区谷町6-5-26に所在。
== 脚注 ==
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<references />
== 外部リンク ==
* {{青空文庫著作者|216|直木 三十五}}
* {{imdb name|id=1723236}}
*[https://naoki35.jimdofree.com/ 直木三十五記念館]
* [http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/news/news_121002.html 校友人国記―早稲田と直木三十五:教育×WASEDA ONLINE] - [[読売新聞]]
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5,045 | アカデミー賞 | アカデミー賞(、英: Academy Awards)は、アメリカ映画の健全な発展を目的に、キャスト、スタッフを表彰し、その労と成果を讃えるための映画芸術科学アカデミー(AMPAS)による映画賞で、オスカー(The Oscars)としても知られている。毎年2月末から3月初めにロサンゼルスのドルビー・シアターで授賞式が行われる。
授賞式前年の1年間にアメリカ国内の特定地域で公開された作品を対象に選考され、また映画産業全般に関連した業績に対して贈られる。前年の作品が対象となるため(第7回から)、2012年に開催されたアカデミー賞を2011年度などと表示することが慣例である。第1回アカデミー賞は、1927年1月1日から1928年7月31日までに公開された映画がノミネート対象となっている。なお、テレビ中継はアメリカの放送局、ABCで放送され、日本ではWOWOWで放送される。
「アメリカ映画の祭典」という冠詞を付けられることが多い事からも分かるとおり、基本はアメリカ映画を対象とした映画賞であり、作品の選考対象も「1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品(詳細は後述)」と比較的狭義である。
しかし、その知名度と世界三大映画祭よりも古い歴史を持つ賞であるため、マーケットへの影響力は国際映画祭の各賞以上に大きく、受賞結果が各国の興行成績に多大な影響を与える。
受賞すると、賞の名称を刻印したオスカー像と呼ばれる金メッキの人型の彫像が贈られ、賞金の類は一切付与されない。
毎年11月に予備選考が行われ、翌年の1月にノミネートが発表される。その後、映画芸術科学アカデミー会員の投票が行われ、2月の最終日曜もしくは3月の第一日曜に授賞式が行われることが多い(第92回の開催は2020年2月9日)。
アメリカでは非常に注目度の高いイベントの一つであり、1998年には歴代最高視聴者数5520万人を記録したが、その後は下降線をたどっている。2020年の視聴者数は過去最低の2360万人だった。
もともとアカデミー賞の授賞式は1929年に設立された「映画芸術科学アカデミー」の夕食会の一環として始まった。第1回は1929年5月16日にロサンゼルスにあるルーズベルトホテルで行われた夕食会の際に舞台上で、3カ月前に授賞を通知しておいた受賞者を招待して賞を贈与した。当初はオスカー像ではなく、同様のデザインを施した楯が贈られた。
第1回授賞式で、『第七天国』で女優賞を受賞したジャネット・ゲイナーによれば、「これからも互いにいい仕事をして頑張りましょうという程度の、ちょっとした内輪の集まりだったのよ」と当時の様子を振り返っており、授賞式は5分程度で簡単に済まされていた。
第2回から地元ラジオ局により実況が開始され、第17回から全国放送となった。エンタテインメント色が色濃くなったのはアメリカが第二次世界大戦に参戦した1942年以降で、前線にいた兵士達の耳を喜ばせるためだったという。
テレビ中継が開始されたのは第25回の授賞式から。中継を担当したのはNBCであった。当時の視聴率はNBC開局以来の高記録であった。現在はABCが中継している。
授賞式会場は、2回目以降はロサンゼルス市街のアンバサダー・ホテルやビルトモア・ホテルが使用され、晩餐会形式で執り行われた。回を増すごとにスケールが拡大していき、やがて収容人数の多い映画館で行われるようになった。第74回からは現行のドルビー・シアター(旧コダック・シアター)で行われている。ドルビー・シアターとは10年の契約であり、現在のアカデミー会員数はすでに収容人数の5800人を超えているため、手狭になるのも時間の問題であるといわれている。
「Academy Awards」は日本・アメリカ合衆国他において商標登録されている。
日本において「アカデミー賞」は商標登録が行われているが、登録したのは映画芸術科学アカデミーではない。日本アカデミー賞は映画芸術科学アカデミーから正式な承諾を得ており、「日本アカデミー賞」という表記は商標登録もされている。音楽之友社は「レコード・アカデミー大賞」という名前でレコードの賞を認定している。
選考はアメリカの映画産業従事者の団体、映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の会員の無記名投票が行われ、所定の賞を授与される。
アカデミー賞は、原則として前年の1年間にノミネート条件(ロサンゼルス郡内の映画館で連続7日以上の期間で最低1日に3回以上上映されていて、有料で公開された40分以上の長さの作品で、劇場公開以前にテレビ放送、ネット配信、ビデオ発売などで公開されている作品を除く、など)を満たした映画作品について扱われる。
なお、「劇場公開以前にテレビ放送などで公開されていない」という基準については、かつて『Shall we ダンス?』が米国内での公開前に日本国内で日本テレビ系列でテレビ放映されたことが原因でノミネート対象から外されたことがあるなど、基準が曖昧な時期があったが、現在は米国外ですでに公開されている映画については「映画が最初に公開されてから90日間、劇場公開以外の方法で公開されていない」「ロサンゼルスでの劇場公開の前に米国内で劇場公開以外の方法で公開されていない」の2条件を満たすことが要件とされている。
また、長編アニメ賞、国際長編映画賞、ドキュメンタリー映画賞、短編映画賞など、賞によっては独自のノミネート条件を設けているものがある。詳細はそれぞれの賞の記事を参照のこと。
前述の通り、ロサンゼルス郡内の映画館にて上映をしなかったり、インターネットで配信した作品については選考の対象外であるが、2020年に世界各地で感染が拡大している新型コロナウイルスによる影響で映画館が一時閉鎖になっていることを受けて、2021年4月に開催の第93回についてはロサンゼルス郡に加え、ニューヨーク州ニューヨーク、カリフォルニア州サンフランシスコ/ベイエリア、イリノイ州シカゴ、フロリダ州マイアミ、ジョージア州アトランタの映画館にて上映された作品についてもノミネートの条件にすること、当初劇場での公開が予定されていたが、映画館閉鎖の影響でやむを得ず、ドライブインシアター(前述6都市のうち、いずれか1都市)での上映やビデオ・オン・デマンドなど、インターネットでの配信に切り換えた作品についても特例として選考の対象とすることを2020年4月と同年10月に発表した。
2014年度(第87回)と2015年度(第88回)にノミネートされた演技部門の対象者が全員白人だったことが物議を醸し、「白すぎるオスカー」などと批判された。これらの批判を受けて、2024年度(2025年開催予定の第97回)からは作品賞にノミネートされる条件として、主要出演者にマイノリティーを起用、または出演者・スタッフの3割以上においてマイノリティーを起用するなど、4項目中で最低2項目の基準を満たす作品が対象になることが2020年に発表された。
2024年度(2025年開催予定の第97回)からは作品賞について、ノミネート条件が改正され、初公開から45日以内に全米トップ50都市のうち、10都市の映画館で最低14日間は上映しなければならなくなった。
投票権を持つ映画芸術科学アカデミー会員は、大部分がハリウッドの業界関係者による編成であり、新聞記者や映画評論家など公平な立場で判断できる分野の会員が少ないのが特徴。各賞の投票についても、例えば「アカデミー監督賞」であればハリウッドで働く映画監督の会員がノミネート作品選定に投票するなど、賞に応じた業務に携わる会員が担当する(もっとも、作品賞のノミネートおよび各賞ノミネート発表後の本選の投票は全会員が行うことができるので、最終的には各部門に携わる者以外の意向が結果に反映される)。
最終投票は授賞式の一週間弱前に締め切られ集計されるが、結果は厳重に封印されて、大手会計事務所のプライスウォーターハウスクーパース(PwC)の金庫に保管され、結果書類は当日、事務所の職員2人が授賞式会場に直接持ち込む(生中継では、会場に入っていく会計事務所の職員が映されることもある)。賞の授与担当プレゼンターがステージで開封するまでは、外部へは一切知らされない。
受賞結果について、当初は報道の関係上マスコミには事前通達してあったが、1939年に『風と共に去りぬ』が作品賞を受賞した際に、一部新聞が主宰者との協定を破って前日に抜け駆け報道をしたため、翌年よりPwCの管理するシステムとなり、今日に至る。
アカデミー賞はハリウッドの映画関係者が選考を行うことから、各賞の選出については、アメリカの国情や世相などが色濃く反映され、必ずしも芸術性や作品の完成度の高さでは選ばれない。例えばカンヌ国際映画祭などの著名な国際映画祭で大賞を受賞した作品が、アカデミー賞ではノミネートされないことがある。ゆえに、どうしても選出作品の足並みが揃ってしまう他の国際映画祭では見られない、独特の傾向と盛り上がりを見せる映画賞である。
授賞式は毎年2月の最終もしくは3月の第1日曜日にハリウッドのドルビー・シアターで行われる。会場前を通るハリウッド大通りは、ドルビーシアターを中心に東はカフエンガ通りから西はラ・ブレア通りまで、東西計1マイル(1.6km)程度にわたり、授賞式当日午前からほぼ1日中、招待状を持つ関係者およびロサンゼルス市警察関係以外の車両は一切通行止めとなる。特に会場へ到着するリムジンなどの下車場所となる東側のハイランド通りとの交差点付近からシアター前までの通路は赤い絨毯で装飾されるため、一般に「レッドカーペット」とも呼ばれている。
出席は招待客のみで、チケットの販売は行われておらず、それ以外の客は出席できないので、15時頃までであれば、先述のハイランド通りとの交差点東側まで近寄ることはできるが、交差点手前50m程度の位置で警察官によるセキュリティチェックが行われ、ナイフなど不審物を持つ者は通過が許されない。また交差点付近各方向10m程度の幅はフェンスに設置された黒幕で覆われており、レッドカーペット付近を最短距離で直接見ることは難しい。なお15時以降からは招待客の到着が活発化するため、それ以上の交差点以降の立ち入り自体を一切禁止する。
演技部門のプレゼンター(賞の授与者)は、基本的に前年度の受賞者が反対の性の賞(前年の主演男優賞受賞者が翌年の主演女優賞)に対して行うことが慣例となっている。支払われるギャランティはなく、あくまでも無償奉仕である。
第64回のケビン・コスナー、第66回のクリント・イーストウッド、第67回と第72回のスティーヴン・スピルバーグ、第68回のロバート・ゼメキス、第69回のメル・ギブソン、第80回のマーティン・スコセッシ、第83回のキャサリン・ビグロー、第91回のギレルモ・デル・トロ、第93回のポン・ジュノのように近年は監督賞プレゼンターを前年度の受賞者が担当している。
スピーチは45秒以内と制限されている。これは、第15回に主演女優賞を受賞したグリア・ガースンが自分の生い立ちまで話し始めてしまい、実に5分半もスピーチしたためである。以来、時間制限が導入され、退出を促すBGMも行われているが、第73回のジュリア・ロバーツ、第74回のハル・ベリー、第94回に国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』監督の濱口竜介など、感激のあまり制限を無視する人もいる。第90回ではスピーチが最も短かった人にKAWASAKIのジェットスキーとレイクハバスシティ旅行がプレゼントされた。
受賞者には受賞名が刻印されたオスカー像が贈られる。賞金や副賞はなく名誉のみが与えられる。ただしアカデミー賞効果で受賞作がヒットしロイヤリティ収入が増える、次回作での出演料が増える、といった形で結果的に受賞者の収入に影響が出る場合がある。
逆にノミネートされただけで賞を逃した人物には残念賞として、日本でいうところの福袋のようなものが与えられる。袋の中身は服飾品や旅行券、あるいは洗剤やシロップなど、その年によって異なる雑多な物品が入っており、その総額は数万ドル相当にも及ぶ。
賞はいくつかの部門に分かれている。「大賞」はない。
撮影賞・美術賞(当時の呼称は室内装置賞)・衣裳デザイン賞はカラーと白黒で部門分けされていた時期がある。第30回(1957年度)に一本化されたが、撮影賞は第31回(1958年度)に、美術賞と衣裳デザイン賞は第32回(1959年度)に二分化された。第40回(1967年度)から全てが一本化された。
アカデミー理事会(Board of Governors)から授与される賞。アカデミー会員からの投票で選ばれるノミネート方式とは違い、理事会における投票や裁量、理事会への推薦によって贈与される賞全般を指す。毎年必ず選出されるわけではなく、該当者が存在する場合に設定されている。これらの賞に定まった名称がなかった時代は、単に「特別賞」(Special Award)として贈与されたり、後に「名誉賞」(Honorary Award)として贈与されるようになったものもある。なお、特定の条件を満たした者は、特別賞枠内に設定された下記のような特定の賞が贈与される。
スタント・コーディネーターのジャック・ギルは1991年からスタントマン賞の設立を嘆願しており、ヘレン・ミレンも設立を訴えている。
ほかにキャスティング・ディレクターを表彰するキャスティング部門が提案され、2018年には幅広い映画ファンの人気に応える、ポピュラー映画部門(Best Popular Film)の新設が発表されるが、見送られた。
アカデミー賞は「米映画の祭典」と銘打ってはいるものの、前記ノミネート条件を満たしていれば、英語音声以外で公開される映画(アメリカ以外の国で製作された映画を含む)であっても作品賞を含む本賞にノミネートされたり、あるいは受賞したりということは可能である。(但し実際には、ハリウッドの関係者が選出するというシステム上、純粋な外国映画はノミネートはされても受賞に至ったことは少ない。)
前記ノミネート条件を満たしていないアメリカ国外制作の非英語作品の場合は、各国の映画産業が映画芸術科学アカデミーに推薦する形で「国際長編映画賞」にエントリーされる。
国際長編映画賞の従来の名称は「外国語映画賞」であり、その最初の表彰は、1947年の第20回で「特別賞」に選出されたイタリア映画の『靴みがき』。もっとも、この時点で「外国語映画賞」という賞は存在せず、前述の「特別賞」の一つという扱いであった。ちなみに『靴みがき』の選出理由は、「敗戦国であるイタリアが、創造精神を駆使して、敗戦の逆境を跳ね返す作品を作り出したこと」であった。
翌年の1948年に「この年にアメリカ国内で公開された、最も優れた外国語映画」という理由付けで、フランス映画『聖バンサン』が「特別外国語映画賞」に選出され、外国語映画賞の母体的な選考理由がここに初めて誕生。以後同選考基準によって、米国内で公開された優れた外国語映画が1本、選出されるようになり、1950年からは「名誉外国語映画賞」という名称で授与された。
特別賞や名誉賞の一つとして行われていた外国語映画の表彰が、「外国語映画賞」という独立したカテゴリとなったのは1956年からで(受賞作はイタリア映画『道』)、同年から各国推薦の作品を5本厳選してノミネートし、うち1本に賞を授与するという、現在のスタイルが完成した。
その後、映画製作の国際化や多様化に伴う情勢の変化を考慮して、第92回(2019年)から名称を現行の「国際長編映画賞」に変更している(選考内容に変化はない)。
一方、アニメーション作品など特定ジャンルの作品は、当該ジャンルの規定に沿った賞の対象となる(アニメーション作品で長編のものなど)が、作品賞を含む他の各賞の条件も満たしていればそれら各賞の選考対象にもなりうる。
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"text": "もともとアカデミー賞の授賞式は1929年に設立された「映画芸術科学アカデミー」の夕食会の一環として始まった。第1回は1929年5月16日にロサンゼルスにあるルーズベルトホテルで行われた夕食会の際に舞台上で、3カ月前に授賞を通知しておいた受賞者を招待して賞を贈与した。当初はオスカー像ではなく、同様のデザインを施した楯が贈られた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "第1回授賞式で、『第七天国』で女優賞を受賞したジャネット・ゲイナーによれば、「これからも互いにいい仕事をして頑張りましょうという程度の、ちょっとした内輪の集まりだったのよ」と当時の様子を振り返っており、授賞式は5分程度で簡単に済まされていた。",
"title": "沿革"
},
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"text": "第2回から地元ラジオ局により実況が開始され、第17回から全国放送となった。エンタテインメント色が色濃くなったのはアメリカが第二次世界大戦に参戦した1942年以降で、前線にいた兵士達の耳を喜ばせるためだったという。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 10,
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"text": "テレビ中継が開始されたのは第25回の授賞式から。中継を担当したのはNBCであった。当時の視聴率はNBC開局以来の高記録であった。現在はABCが中継している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "授賞式会場は、2回目以降はロサンゼルス市街のアンバサダー・ホテルやビルトモア・ホテルが使用され、晩餐会形式で執り行われた。回を増すごとにスケールが拡大していき、やがて収容人数の多い映画館で行われるようになった。第74回からは現行のドルビー・シアター(旧コダック・シアター)で行われている。ドルビー・シアターとは10年の契約であり、現在のアカデミー会員数はすでに収容人数の5800人を超えているため、手狭になるのも時間の問題であるといわれている。",
"title": "沿革"
},
{
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"text": "「Academy Awards」は日本・アメリカ合衆国他において商標登録されている。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "日本において「アカデミー賞」は商標登録が行われているが、登録したのは映画芸術科学アカデミーではない。日本アカデミー賞は映画芸術科学アカデミーから正式な承諾を得ており、「日本アカデミー賞」という表記は商標登録もされている。音楽之友社は「レコード・アカデミー大賞」という名前でレコードの賞を認定している。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "選考はアメリカの映画産業従事者の団体、映画芸術科学アカデミー(AMPAS)の会員の無記名投票が行われ、所定の賞を授与される。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "アカデミー賞は、原則として前年の1年間にノミネート条件(ロサンゼルス郡内の映画館で連続7日以上の期間で最低1日に3回以上上映されていて、有料で公開された40分以上の長さの作品で、劇場公開以前にテレビ放送、ネット配信、ビデオ発売などで公開されている作品を除く、など)を満たした映画作品について扱われる。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、「劇場公開以前にテレビ放送などで公開されていない」という基準については、かつて『Shall we ダンス?』が米国内での公開前に日本国内で日本テレビ系列でテレビ放映されたことが原因でノミネート対象から外されたことがあるなど、基準が曖昧な時期があったが、現在は米国外ですでに公開されている映画については「映画が最初に公開されてから90日間、劇場公開以外の方法で公開されていない」「ロサンゼルスでの劇場公開の前に米国内で劇場公開以外の方法で公開されていない」の2条件を満たすことが要件とされている。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "また、長編アニメ賞、国際長編映画賞、ドキュメンタリー映画賞、短編映画賞など、賞によっては独自のノミネート条件を設けているものがある。詳細はそれぞれの賞の記事を参照のこと。",
"title": "選考"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "前述の通り、ロサンゼルス郡内の映画館にて上映をしなかったり、インターネットで配信した作品については選考の対象外であるが、2020年に世界各地で感染が拡大している新型コロナウイルスによる影響で映画館が一時閉鎖になっていることを受けて、2021年4月に開催の第93回についてはロサンゼルス郡に加え、ニューヨーク州ニューヨーク、カリフォルニア州サンフランシスコ/ベイエリア、イリノイ州シカゴ、フロリダ州マイアミ、ジョージア州アトランタの映画館にて上映された作品についてもノミネートの条件にすること、当初劇場での公開が予定されていたが、映画館閉鎖の影響でやむを得ず、ドライブインシアター(前述6都市のうち、いずれか1都市)での上映やビデオ・オン・デマンドなど、インターネットでの配信に切り換えた作品についても特例として選考の対象とすることを2020年4月と同年10月に発表した。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "2014年度(第87回)と2015年度(第88回)にノミネートされた演技部門の対象者が全員白人だったことが物議を醸し、「白すぎるオスカー」などと批判された。これらの批判を受けて、2024年度(2025年開催予定の第97回)からは作品賞にノミネートされる条件として、主要出演者にマイノリティーを起用、または出演者・スタッフの3割以上においてマイノリティーを起用するなど、4項目中で最低2項目の基準を満たす作品が対象になることが2020年に発表された。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "2024年度(2025年開催予定の第97回)からは作品賞について、ノミネート条件が改正され、初公開から45日以内に全米トップ50都市のうち、10都市の映画館で最低14日間は上映しなければならなくなった。",
"title": "選考"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "投票権を持つ映画芸術科学アカデミー会員は、大部分がハリウッドの業界関係者による編成であり、新聞記者や映画評論家など公平な立場で判断できる分野の会員が少ないのが特徴。各賞の投票についても、例えば「アカデミー監督賞」であればハリウッドで働く映画監督の会員がノミネート作品選定に投票するなど、賞に応じた業務に携わる会員が担当する(もっとも、作品賞のノミネートおよび各賞ノミネート発表後の本選の投票は全会員が行うことができるので、最終的には各部門に携わる者以外の意向が結果に反映される)。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "最終投票は授賞式の一週間弱前に締め切られ集計されるが、結果は厳重に封印されて、大手会計事務所のプライスウォーターハウスクーパース(PwC)の金庫に保管され、結果書類は当日、事務所の職員2人が授賞式会場に直接持ち込む(生中継では、会場に入っていく会計事務所の職員が映されることもある)。賞の授与担当プレゼンターがステージで開封するまでは、外部へは一切知らされない。",
"title": "選考"
},
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"text": "受賞結果について、当初は報道の関係上マスコミには事前通達してあったが、1939年に『風と共に去りぬ』が作品賞を受賞した際に、一部新聞が主宰者との協定を破って前日に抜け駆け報道をしたため、翌年よりPwCの管理するシステムとなり、今日に至る。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "アカデミー賞はハリウッドの映画関係者が選考を行うことから、各賞の選出については、アメリカの国情や世相などが色濃く反映され、必ずしも芸術性や作品の完成度の高さでは選ばれない。例えばカンヌ国際映画祭などの著名な国際映画祭で大賞を受賞した作品が、アカデミー賞ではノミネートされないことがある。ゆえに、どうしても選出作品の足並みが揃ってしまう他の国際映画祭では見られない、独特の傾向と盛り上がりを見せる映画賞である。",
"title": "選考"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "授賞式は毎年2月の最終もしくは3月の第1日曜日にハリウッドのドルビー・シアターで行われる。会場前を通るハリウッド大通りは、ドルビーシアターを中心に東はカフエンガ通りから西はラ・ブレア通りまで、東西計1マイル(1.6km)程度にわたり、授賞式当日午前からほぼ1日中、招待状を持つ関係者およびロサンゼルス市警察関係以外の車両は一切通行止めとなる。特に会場へ到着するリムジンなどの下車場所となる東側のハイランド通りとの交差点付近からシアター前までの通路は赤い絨毯で装飾されるため、一般に「レッドカーペット」とも呼ばれている。",
"title": "授賞式"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "出席は招待客のみで、チケットの販売は行われておらず、それ以外の客は出席できないので、15時頃までであれば、先述のハイランド通りとの交差点東側まで近寄ることはできるが、交差点手前50m程度の位置で警察官によるセキュリティチェックが行われ、ナイフなど不審物を持つ者は通過が許されない。また交差点付近各方向10m程度の幅はフェンスに設置された黒幕で覆われており、レッドカーペット付近を最短距離で直接見ることは難しい。なお15時以降からは招待客の到着が活発化するため、それ以上の交差点以降の立ち入り自体を一切禁止する。",
"title": "授賞式"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "演技部門のプレゼンター(賞の授与者)は、基本的に前年度の受賞者が反対の性の賞(前年の主演男優賞受賞者が翌年の主演女優賞)に対して行うことが慣例となっている。支払われるギャランティはなく、あくまでも無償奉仕である。",
"title": "授賞式"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第64回のケビン・コスナー、第66回のクリント・イーストウッド、第67回と第72回のスティーヴン・スピルバーグ、第68回のロバート・ゼメキス、第69回のメル・ギブソン、第80回のマーティン・スコセッシ、第83回のキャサリン・ビグロー、第91回のギレルモ・デル・トロ、第93回のポン・ジュノのように近年は監督賞プレゼンターを前年度の受賞者が担当している。",
"title": "授賞式"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "スピーチは45秒以内と制限されている。これは、第15回に主演女優賞を受賞したグリア・ガースンが自分の生い立ちまで話し始めてしまい、実に5分半もスピーチしたためである。以来、時間制限が導入され、退出を促すBGMも行われているが、第73回のジュリア・ロバーツ、第74回のハル・ベリー、第94回に国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』監督の濱口竜介など、感激のあまり制限を無視する人もいる。第90回ではスピーチが最も短かった人にKAWASAKIのジェットスキーとレイクハバスシティ旅行がプレゼントされた。",
"title": "授賞式"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "受賞者には受賞名が刻印されたオスカー像が贈られる。賞金や副賞はなく名誉のみが与えられる。ただしアカデミー賞効果で受賞作がヒットしロイヤリティ収入が増える、次回作での出演料が増える、といった形で結果的に受賞者の収入に影響が出る場合がある。",
"title": "授賞式"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "逆にノミネートされただけで賞を逃した人物には残念賞として、日本でいうところの福袋のようなものが与えられる。袋の中身は服飾品や旅行券、あるいは洗剤やシロップなど、その年によって異なる雑多な物品が入っており、その総額は数万ドル相当にも及ぶ。",
"title": "授賞式"
},
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"paragraph_id": 32,
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"text": "賞はいくつかの部門に分かれている。「大賞」はない。",
"title": "種類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "撮影賞・美術賞(当時の呼称は室内装置賞)・衣裳デザイン賞はカラーと白黒で部門分けされていた時期がある。第30回(1957年度)に一本化されたが、撮影賞は第31回(1958年度)に、美術賞と衣裳デザイン賞は第32回(1959年度)に二分化された。第40回(1967年度)から全てが一本化された。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アカデミー理事会(Board of Governors)から授与される賞。アカデミー会員からの投票で選ばれるノミネート方式とは違い、理事会における投票や裁量、理事会への推薦によって贈与される賞全般を指す。毎年必ず選出されるわけではなく、該当者が存在する場合に設定されている。これらの賞に定まった名称がなかった時代は、単に「特別賞」(Special Award)として贈与されたり、後に「名誉賞」(Honorary Award)として贈与されるようになったものもある。なお、特定の条件を満たした者は、特別賞枠内に設定された下記のような特定の賞が贈与される。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "スタント・コーディネーターのジャック・ギルは1991年からスタントマン賞の設立を嘆願しており、ヘレン・ミレンも設立を訴えている。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ほかにキャスティング・ディレクターを表彰するキャスティング部門が提案され、2018年には幅広い映画ファンの人気に応える、ポピュラー映画部門(Best Popular Film)の新設が発表されるが、見送られた。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アカデミー賞は「米映画の祭典」と銘打ってはいるものの、前記ノミネート条件を満たしていれば、英語音声以外で公開される映画(アメリカ以外の国で製作された映画を含む)であっても作品賞を含む本賞にノミネートされたり、あるいは受賞したりということは可能である。(但し実際には、ハリウッドの関係者が選出するというシステム上、純粋な外国映画はノミネートはされても受賞に至ったことは少ない。)",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "前記ノミネート条件を満たしていないアメリカ国外制作の非英語作品の場合は、各国の映画産業が映画芸術科学アカデミーに推薦する形で「国際長編映画賞」にエントリーされる。",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "国際長編映画賞の従来の名称は「外国語映画賞」であり、その最初の表彰は、1947年の第20回で「特別賞」に選出されたイタリア映画の『靴みがき』。もっとも、この時点で「外国語映画賞」という賞は存在せず、前述の「特別賞」の一つという扱いであった。ちなみに『靴みがき』の選出理由は、「敗戦国であるイタリアが、創造精神を駆使して、敗戦の逆境を跳ね返す作品を作り出したこと」であった。",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "翌年の1948年に「この年にアメリカ国内で公開された、最も優れた外国語映画」という理由付けで、フランス映画『聖バンサン』が「特別外国語映画賞」に選出され、外国語映画賞の母体的な選考理由がここに初めて誕生。以後同選考基準によって、米国内で公開された優れた外国語映画が1本、選出されるようになり、1950年からは「名誉外国語映画賞」という名称で授与された。",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "特別賞や名誉賞の一つとして行われていた外国語映画の表彰が、「外国語映画賞」という独立したカテゴリとなったのは1956年からで(受賞作はイタリア映画『道』)、同年から各国推薦の作品を5本厳選してノミネートし、うち1本に賞を授与するという、現在のスタイルが完成した。",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "その後、映画製作の国際化や多様化に伴う情勢の変化を考慮して、第92回(2019年)から名称を現行の「国際長編映画賞」に変更している(選考内容に変化はない)。",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一方、アニメーション作品など特定ジャンルの作品は、当該ジャンルの規定に沿った賞の対象となる(アニメーション作品で長編のものなど)が、作品賞を含む他の各賞の条件も満たしていればそれら各賞の選考対象にもなりうる。",
"title": "英語以外の映画の扱い"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "日本関連の授賞式映像"
}
] | アカデミー賞(アカデミーしょう、は、アメリカ映画の健全な発展を目的に、キャスト、スタッフを表彰し、その労と成果を讃えるための映画芸術科学アカデミーによる映画賞で、オスカーとしても知られている。毎年2月末から3月初めにロサンゼルスのドルビー・シアターで授賞式が行われる。 授賞式前年の1年間にアメリカ国内の特定地域で公開された作品を対象に選考され、また映画産業全般に関連した業績に対して贈られる。前年の作品が対象となるため、2012年に開催されたアカデミー賞を2011年度などと表示することが慣例である。第1回アカデミー賞は、1927年1月1日から1928年7月31日までに公開された映画がノミネート対象となっている。なお、テレビ中継はアメリカの放送局、ABCで放送され、日本ではWOWOWで放送される。 | {{Otheruses}}
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{{Infobox Award
| current_awards = 第95回アカデミー賞
| name = アカデミー賞| image =Decorative Trophies.jpg
| description = 優れたアメリカの映画産業
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|winners=|reward=[[オスカー像]]|most_nominations={{flat list |*『[[イヴの総て]]』
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{{読み仮名|'''アカデミー賞'''|アカデミーしょう|{{lang-en-short|Academy Awards}}}}は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[映画]]の健全な発展を目的に、[[キャスト]]、[[スタッフ]]を[[表彰]]し、その労と成果を讃えるための[[映画芸術科学アカデミー]](AMPAS)による[[映画賞]]で、'''オスカー'''(The Oscars)としても知られている。毎年2月末から3月初めに[[ロサンゼルス]]の[[ドルビー・シアター]]で授賞式が行われる。
授賞式前年の1年間にアメリカ国内の特定地域で公開された作品を対象に選考され、また[[映画産業]]全般に関連した業績に対して贈られる。前年の作品が対象となるため(第7回から)、2012年に開催されたアカデミー賞を2011年度などと表示することが慣例である。第1回アカデミー賞は、1927年1月1日から1928年7月31日までに公開された映画がノミネート対象となっている。なお、テレビ中継はアメリカの放送局、[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]で放送され、日本では[[WOWOW]]で放送される。
== 概要 ==
「アメリカ映画の祭典」という冠詞を付けられることが多い事からも分かるとおり、基本はアメリカ映画を対象とした[[映画賞]]であり、作品の選考対象も「1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品(詳細は後述)」と比較的狭義である。
しかし、その知名度と[[映画祭#世界三大映画祭|世界三大映画祭]]よりも古い歴史を持つ賞であるため、{{要出典範囲|date=2023年5月|マーケットへの影響力は国際映画祭の各賞以上に大きく、受賞結果が各国の[[興行成績]]に多大な影響を与える}}。
受賞すると、賞の名称を刻印した[[オスカー像]]と呼ばれる金メッキの人型の彫像が贈られ、賞金の類は一切付与されない。
毎年11月に予備選考が行われ、翌年の1月にノミネートが発表される。その後、[[映画芸術科学アカデミー]]会員の投票が行われ、2月の最終日曜もしくは3月の第一日曜に授賞式が行われることが多い(第92回の開催は2020年2月9日)。
アメリカでは非常に注目度の高いイベントの一つであり、1998年には歴代最高視聴者数5520万人を記録したが、その後は下降線をたどっている。2020年の視聴者数は過去最低の2360万人だった。
== 沿革 ==
[[Image:1stOscars 1929.jpg|thumb|240px|最初の'''アカデミー賞'''の授与(1929)]]
もともとアカデミー賞の授賞式は[[1929年]]に設立された「[[映画芸術科学アカデミー]]」の夕食会の一環として始まった。第1回は[[1929年]]5月16日に[[ロサンゼルス]]にあるルーズベルトホテルで行われた夕食会の際に舞台上で、3カ月前に授賞を通知しておいた受賞者を招待して賞を贈与した。当初はオスカー像ではなく、同様のデザインを施した楯が贈られた。
第1回授賞式で、『[[第七天国 (1927年の映画)|第七天国]]』で女優賞を受賞した[[ジャネット・ゲイナー]]によれば、「これからも互いにいい仕事をして頑張りましょうという程度の、ちょっとした内輪の集まりだったのよ」と当時の様子を振り返っており、授賞式は5分程度で簡単に済まされていた。
[[第2回アカデミー賞|第2回]]から地元ラジオ局により実況が開始され、[[第17回アカデミー賞|第17回]]から全国放送となった。エンタテインメント色が色濃くなったのはアメリカが[[第二次世界大戦]]に参戦した[[1942年]]以降で、前線にいた兵士達の耳を喜ばせるためだったという。
テレビ中継が開始されたのは[[第25回アカデミー賞|第25回]]の授賞式から。中継を担当したのは[[NBC]]であった。当時の視聴率はNBC開局以来の高記録であった。現在は[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]が中継している。
授賞式会場は、2回目以降はロサンゼルス市街のアンバサダー・ホテルやビルトモア・ホテルが使用され、晩餐会形式で執り行われた。回を増すごとにスケールが拡大していき、やがて収容人数の多い映画館で行われるようになった。[[第74回アカデミー賞|第74回]]からは現行の[[ドルビー・シアター]](旧コダック・シアター)で行われている。ドルビー・シアターとは10年の契約であり、現在のアカデミー会員数はすでに収容人数の5800人を超えているため、手狭になるのも時間の問題であるといわれている。
<!-- To qualify, a film had to open in Los Angeles during the twelve months ending on July 31 of the preceding year. The 1934 and later awards have all been based on openings in the previous calendar year. The 1932-33 awards were based on a 17-month qualifying period. The "opened in Los Angeles" clause allowed Charlie Chaplin to win his only voted Oscar for Limelight which was made in 1952, but did not open until 1972. -->
== 名称 ==
「'''Academy Awards'''」は[[日本]]<ref>登録商標 第2720595号及び第4198514号</ref>・[[アメリカ合衆国]]<ref>米国登録商標 第1103859号 第1880473号 第1956313号 及び第2245965号</ref>{{要出典範囲|date=2010年7月|他}}において[[商標]]登録されている。
; 日本
日本において「アカデミー賞」は商標登録が行われているが、登録したのは映画芸術科学アカデミーではない。[[日本アカデミー賞]]は映画芸術科学アカデミーから正式な承諾を得ており、「日本アカデミー賞」という表記は商標登録もされている。[[音楽之友社]]は「[[レコード・アカデミー大賞]]」という名前でレコードの賞を認定している。
== 選考 ==
選考はアメリカの映画産業従事者の団体、[[映画芸術科学アカデミー]](AMPAS)の会員の無記名投票が行われ、所定の賞を授与される。
=== 基準 ===
アカデミー賞は、原則として前年の1年間にノミネート条件('''[[ロサンゼルス]]郡内の映画館で連続7日以上の期間で最低1日に3回以上上映されていて、有料で公開された40分以上の長さの作品で、劇場公開以前にテレビ放送、ネット配信、ビデオ発売などで公開されている作品を除く'''、など)を満たした映画作品について扱われる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=米アカデミー、ネット配信も対象 劇場閉鎖で一時的に特例措置|url=https://web.archive.org/web/20200429050643/https://this.kiji.is/628047936053658721|website=共同通信|date=2020-04-29|accessdate=2020-04-29|publisher=}}</ref>。
なお、「劇場公開以前にテレビ放送などで公開されていない」という基準については、かつて『[[Shall we ダンス?]]』が米国内での公開前に日本国内で[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列でテレビ放映されたことが原因でノミネート対象から外されたことがある<ref>『「Shall we ダンス?」アメリカを行く』([[周防正行]]著、[[太田出版]]、[[1998年]])pp.411 - 412</ref>など、基準が曖昧な時期があったが、現在は米国外ですでに公開されている映画については「映画が最初に公開されてから90日間、劇場公開以外の方法で公開されていない」「ロサンゼルスでの劇場公開の前に米国内で劇場公開以外の方法で公開されていない」の2条件を満たすことが要件とされている<ref>[http://www.oscars.org/awards/academyawards/rules/81aarules.pdf 80th annual Academy Awards of merit]・RULE THREE 'THE AWARDS YEAR and DEADLINES'</ref>。
また、長編アニメ賞、国際長編映画賞、ドキュメンタリー映画賞、短編映画賞など、賞によっては独自のノミネート条件を設けているものがある。詳細はそれぞれの賞の記事を参照のこと。
前述の通り、ロサンゼルス郡内の映画館にて上映をしなかったり、インターネットで配信した作品については選考の対象外であるが、2020年に世界各地で感染が拡大している[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]による影響で映画館が一時閉鎖になっていることを受けて、2021年4月に開催の第93回についてはロサンゼルス郡に加え、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]、[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ・ベイエリア|サンフランシスコ/ベイエリア]]、[[イリノイ州]][[シカゴ]]、[[フロリダ州]][[マイアミ]]、[[ジョージア州]][[アトランタ]]の映画館にて上映された作品についてもノミネートの条件にすること、当初劇場での公開が予定されていたが、映画館閉鎖の影響でやむを得ず、[[ドライブインシアター]](前述6都市のうち、いずれか1都市)での上映や[[ビデオ・オン・デマンド]]など、インターネットでの配信に切り換えた作品についても特例として選考の対象とすることを2020年4月と同年10月に発表した<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アカデミー賞が延期 応募資格も暫定的に一部変更|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202006160000193.html|website=日刊スポーツ|accessdate=2020-06-16|publisher=|date=2020-06-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第93回アカデミー賞、応募条件をさらに緩和 ドライブインシアターで上映の作品も可能に|url=https://www.cinemacafe.net/article/2020/10/08/69341.html|website=cinemacafe.net|accessdate=2020-10-08|publisher=|date=2020-10-08}}</ref>。
2014年度([[第87回アカデミー賞|第87回]])と2015年度([[第88回アカデミー賞|第88回]])にノミネートされた演技部門の対象者が全員[[白人]]だったことが物議を醸し、「白すぎるオスカー」などと批判された<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=米アカデミー賞、作品賞に「多様性」の条件設置へ |url=https://www.bbc.com/japanese/54082958 |website=BBCNEWS JAPAN |date=2020-09-09 |access-date=2023-05-09}}</ref><ref>{{Cite web |title=「白すぎるオスカー」改革、近年は非英語映画のノミネート相次ぐ |url=https://www.sankei.com/article/20220328-TYQADQHDJJJ7ZIKVIR7VWGYFXM/ |website=産経新聞 |date=2022-03-28 |access-date=2023-05-09 |author=水沼啓子}}</ref>。これらの批判を受けて、2024年度(2025年開催予定の第97回)からは作品賞にノミネートされる条件として、主要出演者に[[社会的少数者|マイノリティー]]<ref group="注">女性や[[黒人]]や[[ヒスパニック]]、[[アジア系民族|アジア人]]などの人種・民族的マイノリティー、[[LGBT|LGBTQ+]]などの性的マイノリティー、[[障害者]]を指す。</ref>を起用、または出演者・スタッフの3割以上においてマイノリティーを起用するなど、4項目中で最低2項目の基準を満たす作品が対象になることが2020年に発表された<ref name=":2" /><ref>{{Cite web|和書|title=アカデミー賞の「マイノリティー枠」 ネトフリに危機感 |url=https://www.asahi.com/articles/ASNBG6WKNNBGUEHF00G.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2020-10-19 |access-date=2023-05-09 |author=神田大介、藤えりか}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アカデミー賞の多様性基準に「吐き気がする」、俳優リチャード・ドレイファスが発言 |url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35203511.html |website=CNN.co.jp |access-date=2023-05-09 |date=2023-05-09}}</ref>。
2024年度(2025年開催予定の第97回)からは作品賞について、ノミネート条件が改正され、初公開から45日以内に全米トップ50都市のうち、10都市の映画館で最低14日間は上映しなければならなくなった<ref>{{Cite web|和書|title=アカデミー賞、資格ルールが変更に |url=https://lp.p.pia.jp/article/news/278384/index.html |website=ぴあ |date=2023-06-22 |access-date=2023-07-13 |author=猿渡由紀}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アカデミー賞、「作品賞」ノミネートに関するルールを変更 |url=https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a44486462/oscars-bestpicture-rules-230710-hns/ |website=ELLE |date=2023-07-10 |access-date=2023-07-13 |author=Robert Mann,Ryoko Kiuchi}}</ref>。
=== 選出 ===
投票権を持つ[[映画芸術科学アカデミー]]会員は、大部分が[[アメリカ映画|ハリウッド]]の業界関係者による編成であり、新聞記者や映画評論家など公平な立場で判断できる分野の会員が少ないのが特徴。各賞の投票についても、例えば「アカデミー監督賞」であればハリウッドで働く映画監督の会員がノミネート作品選定に投票するなど、賞に応じた業務に携わる会員が担当する(もっとも、作品賞のノミネートおよび各賞ノミネート発表後の本選の投票は全会員が行うことができるので、最終的には各部門に携わる者以外の意向が結果に反映される)<ref name="oscars.org: VOTING">{{Cite web|url=https://www.oscars.org/oscars/voting|title=VOTING|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2022-01-16}}</ref>。
=== 情報管理 ===
最終投票は授賞式の一週間弱前に締め切られ集計されるが、結果は厳重に封印されて、大手会計事務所の[[プライスウォーターハウスクーパース]](PwC)の金庫に保管され、結果書類は当日、事務所の職員2人が授賞式会場に直接持ち込む(生中継では、会場に入っていく会計事務所の職員が映されることもある)。賞の授与担当プレゼンターがステージで開封するまでは、外部へは一切知らされない{{R|oscars.org: VOTING}}。
受賞結果について、当初は報道の関係上マスコミには事前通達してあったが、[[1939年]]に『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』が作品賞を受賞した際に、一部新聞が主宰者との協定を破って前日に抜け駆け報道をしたため、翌年よりPwCの管理するシステムとなり、今日に至る。
=== 特色と現状 ===
{{要出典範囲|date=2023年5月|アカデミー賞はハリウッドの映画関係者が選考を行うことから、各賞の選出については、アメリカの国情や世相などが色濃く反映され、必ずしも芸術性や作品の完成度の高さでは選ばれない。例えば[[カンヌ国際映画祭]]などの著名な国際映画祭で大賞を受賞した作品が、アカデミー賞ではノミネートされないことがある。ゆえに、どうしても選出作品の足並みが揃ってしまう他の国際映画祭では見られない、独特の傾向と盛り上がりを見せる映画賞である}}。
== 授賞式 ==
[[File:81st Academy Awards Ceremony.JPG|300px|thumb|第81回授賞式]]
=== 式典 ===
授賞式は毎年2月の最終もしくは3月の第1日曜日に[[ハリウッド]]の[[ドルビー・シアター]]で行われる。会場前を通るハリウッド大通りは、ドルビーシアターを中心に東はカフエンガ通りから西はラ・ブレア通りまで、東西計1マイル(1.6km)程度にわたり、授賞式当日午前からほぼ1日中、招待状を持つ関係者および[[ロサンゼルス市警察]]関係以外の車両は一切通行止めとなる。特に会場へ到着する[[リムジン]]などの下車場所となる東側のハイランド通りとの交差点付近からシアター前までの通路は赤い[[絨毯]]で装飾されるため、一般に「[[レッドカーペット]]」とも呼ばれている。
出席は招待客のみで、チケットの販売は行われておらず、それ以外の客は出席できないので、15時頃までであれば、先述のハイランド通りとの交差点東側まで近寄ることはできるが、交差点手前50m程度の位置で警察官による[[セキュリティチェック]]が行われ、[[ナイフ]]など不審物を持つ者は通過が許されない。また交差点付近各方向10m程度の幅はフェンスに設置された黒幕で覆われており、レッドカーペット付近を最短距離で直接見ることは難しい。なお15時以降からは招待客の到着が活発化するため、それ以上の交差点以降の立ち入り自体を一切禁止する。
演技部門のプレゼンター(賞の授与者)は、基本的に前年度の受賞者が反対の性の賞(前年の主演男優賞受賞者が翌年の主演女優賞)に対して行うことが慣例となっている。支払われるギャランティはなく、あくまでも無償奉仕である。
第64回の[[ケビン・コスナー]]、第66回の[[クリント・イーストウッド]]、第67回と第72回の[[スティーヴン・スピルバーグ]]、第68回の[[ロバート・ゼメキス]]、第69回の[[メル・ギブソン]]、第80回の[[マーティン・スコセッシ]]、第83回の[[キャサリン・ビグロー]]、第91回の[[ギレルモ・デル・トロ]]、第93回の[[ポン・ジュノ]]のように近年は監督賞プレゼンターを前年度の受賞者が担当している。
=== 受賞スピーチ ===
スピーチは'''45秒以内'''と制限されている。これは、[[第15回アカデミー賞|第15回]]に主演女優賞を受賞した[[グリア・ガースン]]が自分の生い立ちまで話し始めてしまい、実に5分半もスピーチしたためである。以来、時間制限が導入され、退出を促すBGMも行われているが、[[第73回アカデミー賞|第73回]]の[[ジュリア・ロバーツ]]<ref group="注">4分以上。</ref>、[[第74回アカデミー賞|第74回]]の[[ハル・ベリー]]<ref group="注">約5分。</ref>、[[第94回アカデミー賞|第94回]]に[[アカデミー国際長編映画賞|国際長編映画賞]]を受賞した『[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]』監督の[[濱口竜介]]など、感激のあまり制限を無視する人もいる{{Efn2|ハル・ベリーは後に『[[キャットウーマン (映画)|キャットウーマン]]』で[[ゴールデンラズベリー賞]]を受賞してしまった際、その授賞式でこのアカデミー賞の受賞スピーチのパロディーを演じて喝采を浴びた。}}<ref>{{Cite web|和書|title=【第94回アカデミー賞】濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が国際長編映画賞を受賞! 日本映画13年ぶりの快挙 |url=https://www.cinemacafe.net/article/2022/03/28/78033.html |website=cinemacafe.net |accessdate=2022-03-28 |date=2022-03-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=濱口竜介のスピーチが遮断され、ウィル・スミスは激昂 第94回アカデミー賞で何が起きたのか |url=https://realsound.jp/movie/2022/03/post-996670.html |website=Real Sound |accessdate=2022-03-28 |date=2022-03-28}}</ref>。[[第90回アカデミー賞|第90回]]ではスピーチが最も短かった人に[[川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー|KAWASAKI]]の[[ジェットスキー]]と[[レイクハバスシティ (アリゾナ州)|レイクハバスシティ]]旅行がプレゼントされた。
=== 賞品 ===
受賞者には受賞名が刻印されたオスカー像が贈られる。賞金や副賞はなく名誉のみが与えられる。ただしアカデミー賞効果で受賞作がヒットしロイヤリティ収入が増える、次回作での出演料が増える、といった形で結果的に受賞者の収入に影響が出る場合がある。
逆にノミネートされただけで賞を逃した人物には残念賞として、日本でいうところの[[福袋]]のようなものが与えられる。袋の中身は服飾品や旅行券、あるいは洗剤やシロップなど、その年によって異なる雑多な物品が入っており、その総額は数万ドル相当にも及ぶ。
=== エピソード ===
* 平均的な授賞式の時間は約3時間半。最長記録は[[第72回アカデミー賞|第72回]]の4時間3分。
* 授賞式の延期
** [[第10回アカデミー賞|第10回]] - 大雨と洪水により式典が1週間延期された。
** [[第40回アカデミー賞|第40回]] - [[1968年]][[4月4日]]、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]が暗殺される。式典に出席予定だった[[ルイ・アームストロング]]、[[シドニー・ポワチエ]]らが葬儀に参列するため、2日延期された。
** [[第53回アカデミー賞|第53回]] - [[1981年]][[3月30日]]、[[ロナルド・レーガン|レーガン大統領]]の狙撃事件が発生。式典で大統領のメッセージを流す予定だったため1日延期された。
** 第93回 - 当初は[[2021年]][[2月28日]]に予定していたが、世界規模で感染が拡大している新型コロナウイルスの影響で4月25日に延期することを2020年6月15日に発表した<ref name=":1" />。
* 第10回の授賞式で、舞台公演中だったために式典を欠席していた[[アリス・ブラディ]]が助演女優賞を獲得した際、“代理人”と称する男性が壇上に上がり[[オスカー像]]を受け取ったが、この男性はブラディとは無関係で、そのまま像を持ち去ってしまったという。
* [[第46回アカデミー賞|第46回]]([[1974年]])授賞式の最中、全裸の男が壇上に乱入し、生放送が一時中断されるというハプニングが発生。司会の[[デヴィッド・ニーヴン]]が場を取り成したが、2002年の授賞式で主演男優賞に選ばれた[[エイドリアン・ブロディ]]が、同賞プレゼンターのハル・ベリーと熱烈なキスをする場面が放送されたこと、あるいは2004年2月に[[第38回スーパーボウル]]において[[ジャネット・ジャクソン]]が生放送で歌っている最中に胸を露出する{{Efn2|ただし後に故意であったことが判明した。}}といった不祥事があったため、2005年の中継からは5秒遅らせて放送されている。<!--30年近く特別な措置は取られなかった?-->
*[[第89回アカデミー賞|第89回]]([[2017年]])作品賞の発表の際、作品賞のプレゼンターは『[[俺たちに明日はない]]』の50周年を記念して[[ウォーレン・ベイティ]]と[[フェイ・ダナウェイ]]がプレゼンターを務め、ステージに立った。封筒を開けるとベイティは受賞者の発表をためらい、直後にダナウェイに見せると彼女は『[[ラ・ラ・ランド]]』の勝利を宣言した。しかしながら『ラ・ラ・ランド』のプロデューサーがステージに上がって受賞スピーチを始めると、オスカーのスタッフが駆け寄り、封筒を取り上げて「作品賞はムーンライト、これは演出ではない」と言い、発表に間違いがあったことを説明した。『ラ・ラ・ランド』のプロデューサーの1人である[[フレッド・バーガー (プロデューサー)|フレッド・バーガー]]が「どうやら我々は負けだったようだ」と述べてスピーチを締めくくり、同じくプロデューサーの[[ジョーダン・ホロウィッツ]]にマイクが戻って本当の受賞作が『[[ムーンライト (映画)|ムーンライト]]』であることが発表された。ホロウィッツは正しい受賞作が記されたカードをカメラに示した。そして再びベイティがマイクの前に立ち、誤って『ラ・ラ・ランド』の主演女優賞の[[エマ・ストーン]]のカードを読み上げてしまったと説明した。短い混乱の後、改めて『ムーンライト』のプロデューサーたちが受賞スピーチを行った。
*[[第94回アカデミー賞|第94回]]([[2022年]])授賞式の最中、[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]]のプレゼンターとして登壇した[[コメディアン]]の[[クリス・ロック]]が[[脱毛症]]であることを公表している女優の[[ジェイダ・ピンケット・スミス]]を侮辱する発言をしたため、夫で俳優の[[ウィル・スミス]]が壇上に上がり、ロックに[[平手打ち]]をする騒ぎが発生。アメリカ国内において番組を生中継していたアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)は放送を一時中断する事態になった<ref>{{Cite web|和書|title=ウィル・スミスさん、妻を侮辱されビンタ 主演男優賞スピーチで弁明 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ3X43SVQ3XUHBI00X.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |accessdate=2022-03-28 |date=2022-03-28}}</ref><ref>{{Cite news|title=ウィル・スミス氏、アカデミー賞授賞式でプレゼンターを平手打ち 生放送中に放送禁止語も|url=https://www.bbc.com/japanese/60896996|work=BBCNEWS JAPAN|accessdate=2022-03-28|date=2022-03-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ウィル・スミスさん、アカデミー賞授賞式でプレゼンターに平手打ち…妻への発言で激怒か |url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20220328-OYT1T50133/ |website=読売新聞 |date=2022-03-28 |accessdate=2022-03-29}}</ref>。
== 種類 ==
賞はいくつかの部門に分かれている。「大賞」はない。
=== 部門 ===
* '''[[アカデミー作品賞|作品賞]]''' (Academy Award for best motion picture of the year, [[1928年|1928]] - )
** 初期はドラマ部門、喜劇部門など、現在の[[ゴールデングローブ賞]]のように、内容によって分かれていた。当初はノミネートが10作品選出されたが、第17回(1944年)から5本選考となり、第82回(2009年)からは再び10作品選考となる。その後、第84回(2011年)には会員の投票の5パーセント以上の得票率を得た作品の中から5本から10本の間で選ばれるようルールが変更された。
* '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]''' (Academy Award for Achievement in cinematic direction, [[1928年|1928]] - )
* '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]''' (Academy Award for Performance by an actor in a leading role, [[1928年|1928]] - )
* '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]''' (Academy Award for Performance by an actress in a leading role, [[1928年|1928]] - )
* '''[[アカデミー美術賞|美術賞]]''' (Academy Award for Best Production Design, [[1928年|1928]] - )
* '''[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]''' (Academy Award for Best Cinematography, [[1928年|1928]] - )
* '''[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]''' (Academy Award for Writing Adapted Screenplay, [[1928年|1928]] - )
* '''[[アカデミー録音賞|音響賞]]''' (Academy Award for Best Sound [[1930年|1930]] - )
* '''[[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]]''' (Academy Award for Animated Short Film, [[1931年|1931]] - )
* '''[[アカデミー歌曲賞|歌曲賞]]''' (Academy Award for Best Original Song, [[1934年|1934]] - )
* '''[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]''' (Academy Award for Original Music Score, [[1934年|1934]] - )
* '''[[アカデミー編集賞|編集賞]]''' (Academy Award for Film Editing, [[1935年|1935]] - )
* '''[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]''' (Academy Award for Best Supporting Actor, [[1936年|1936]] - )
* '''[[アカデミー助演女優賞|助演女優賞]]''' (Academy Award for Best Supporting Actress, [[1936年|1936]] - )
* '''[[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]]''' (Academy Award for Visual Effects, [[1939年|1939]] - )
* '''[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]''' (Academy Award for Writing Original Screenplay, [[1940年|1940]] - )
* '''[[アカデミー外国語映画賞|国際長編映画賞]]''' (Academy Award for Best International Feature Film, [[1947年|1947]] - )
* '''[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]''' (Academy Award for Costume Design, [[1948年|1948]] - )
* '''[[アカデミー短編映画賞|短編映画賞]]''' (Academy Award for Best Live Action Short Film, [[1974年|1974]] - )
* '''[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー賞]]''' (Academy Award for Best Documentary Feature, [[1980年|1980]] - )
* '''[[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリー賞]]''' (Academy Award for Best Documentary Short Subject, [[1980年|1980]] - )
* '''[[アカデミーメイクアップ&ヘアスタイリング賞|メイクアップ&ヘアスタイリング賞]]''' (Academy Award for Best Makeup and Hairstyling, [[1981年|1981]] - )
* '''[[アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞]]''' (Academy Award for Best Animated Feature, [[2001年|2001]] - )
撮影賞・美術賞(当時の呼称は室内装置賞)・衣裳デザイン賞はカラーと白黒で部門分けされていた時期がある。[[第30回アカデミー賞|第30回]]([[1957年]]度)に一本化されたが、撮影賞は[[第31回アカデミー賞|第31回]]([[1958年]]度)に、美術賞と衣裳デザイン賞は[[第32回アカデミー賞|第32回]]([[1959年]]度)に二分化された。[[第40回アカデミー賞|第40回]]([[1967年]]度)から全てが一本化された。
=== 特別賞 ===
アカデミー理事会(Board of Governors<ref name="BOARD OF GOVERNORS">{{Cite web|url=https://www.oscars.org/about/board-of-governors|title=BOARD OF GOVERNORS|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2022-01-25}}</ref>)から授与される賞。アカデミー会員からの投票で選ばれるノミネート方式とは違い、理事会における投票や裁量{{Efn2|[[アービング・G・タルバーグ賞]]と[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]は理事会の投票で選ばれ{{R|IRVING G. THALBERG|GOVERNORS AWARDS}}、[[アカデミー名誉賞]]は理事会の裁量により贈られる{{R|HONORARY AWARD}}。}}、理事会への推薦{{Efn2|[[アカデミー科学技術賞]]は、科学技術賞委員会からの推薦を受けて理事会より授与される{{R|Sci-Tech - APPLY}}。}}によって贈与される賞全般を指す。毎年必ず選出されるわけではなく、該当者が存在する場合に設定されている。これらの賞に定まった名称がなかった時代は、単に「[[アカデミー特別賞|特別賞]]」(Special Award)として贈与されたり{{Efn2|1949年度([[第22回アカデミー賞|第22回]])まで授与されていた"特別賞"は<ref>{{Cite web|和書||url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1950/memorable-moments|title=1950年開催(1949年度)第22回アカデミー賞 MEMORABLE MOMENTS…「Special Award(特別賞)」|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2022-01-11}}</ref>、翌1950年度([[第23回アカデミー賞|第23回]])に"[[アカデミー名誉賞]]"へと変更された{{R|oscars.org: 1951}}。}}、後に「名誉賞」(Honorary Award)として贈与されるようになったものもある{{Efn2|1950年度([[第23回アカデミー賞|第23回]])からの[[アカデミー名誉賞]]や<ref name="oscars.org: 1951">{{Cite web|和書|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1951/memorable-moments|title=1951年開催(1950年度)第23回アカデミー賞 MEMORABLE MOMENTS…「Honorary Award(名誉賞)」|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2022-01-11}}</ref>、[[アカデミー科学技術賞]]の式典で授与されるジョン・A・ボナー メダル表彰([[:en:John A. Bonner Medal of Commendation|John A. Bonner Medal of Commendation]])なども"名誉賞"に該当する{{R|HONORARY AWARD}}。}}。なお、特定の条件を満たした者は、特別賞枠内に設定された下記のような特定の賞が贈与される。
* 功労に関わる以下の3賞はアカデミー賞の授賞式からは独立して、2009年より[[ガバナーズ賞]]の式典で表彰が行われる<ref name="GOVERNORS AWARDS">{{Cite web|url=https://www.oscars.org/governors/about|title=GOVERNORS AWARDS - ABOUT|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-12-19}}</ref>{{Efn2|ガバナーズ賞([[:en:Governors Awards|Governors Awards]])の名称は、[[映画芸術科学アカデミー|アカデミー]]の理事会、"ボード・オブ・ガバナーズ"(Board of Governors{{R|BOARD OF GOVERNORS}})によって授与されることから<ref>{{Cite web|author=Daniel Joyaux(ダニエル・ジョヨー)|date=2022-01-20|url=https://www.rogerebert.com/festivals/bring-the-governors-awards-back-to-the-oscars|title=Bring the Governors Awards Back to the Oscars|website=[[:en:RogerEbert.com|RogerEbert.com]]([[ロジャー・イーバート]].com)|publisher=Ebert Digital LLC|accessdate=2022-01-25}}</ref>。}}。
** '''[[アカデミー名誉賞]]''' - 生涯の功労、映画芸術と科学への貢献、アカデミーへの寄与に対して授与される<ref name="HONORARY AWARD">{{Cite web|url=https://www.oscars.org/governors/honorary|title=HONORARY AWARD|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-12-24}}</ref>。
** '''[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]''' - 人道的な活動が映画業界に信用をもたらした人物に贈られる<ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/governors/hersholt|title=JEAN HERSHOLT HUMANITARIAN AWARD|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-12-24}}</ref>。
** '''[[アービング・G・タルバーグ賞]]''' - 品質の高い映画製作を続ける創造的なプロデューサーにブロンズ像が贈られる<ref name="IRVING G. THALBERG">{{Cite web|url=https://www.oscars.org/governors/thalberg|title=IRVING G. THALBERG MEMORIAL AWARD|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-12-24}}</ref>。
* '''[[アカデミー特別業績賞]]'''{{Efn2|2017年には前回から22年振りに授与され、第9回ガバナーズ賞で表彰された。<ref>{{Cite web|和書|date=2017-11-05|url=https://eiga.com/news/20171105/12/|title=イニャリトゥ監督のVR映画、アカデミー賞特別賞を戴冠|website=映画.com|publisher=[[映画.com|株式会社エイガ・ドット・コム]]|accessdate=2020-03-10}}</ref>}}
* '''[[アカデミー科学技術賞]]''' - アカデミー賞の授賞式とは別に開催され、映画芸術への科学と技術的な成果に対して贈られる<ref name="Sci-Tech - APPLY">{{Cite web|url=https://www.oscars.org/sci-tech/apply|title=SCIENTIFIC AND TECHNICAL AWARDS - HOW TO APPLY|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-12-24}}</ref>。
** '''ジョン・A・ボナー賞''' - 科学技術賞の式典で授与される名誉賞で{{R|HONORARY AWARD}}、映画産業への貢献が認められる人物に表彰メダルが贈られる<ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/sci-tech-awards/john-bonner-award|title=JOHN A. BONNER AWARD|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2022-07-06}}</ref>。
** '''[[ゴードン・E・ソーヤー賞]]''' - 映画産業に影響を与える技術的な貢献に対して贈られる名誉賞で、科学技術賞の式典でオスカー像が授与される<ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/scientific-and-technical-awards/gordon-e-sawyer-award|title=SCIENTIFIC AND TECHNICAL AWARDS - GORDON E. SAWYER AWARD|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-12-24}}</ref>。
=== 提案された部門 ===
スタント・コーディネーターのジャック・ギルは[[1991年]]から[[スタントマン]]賞の設立を嘆願しており、[[ヘレン・ミレン]]も設立を訴えている<ref>{{Cite web|和書|date=2012-04-16|url=https://eiga.com/news/20120416/8/|title=米スタントマン、アカデミー賞に新部門設立を嘆願|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|accessdate=2022-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-24|url=https://eiga.com/news/20180424/13/|title=へレン・ミレンが訴え、スタントマンたちにもアカデミー賞を!|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|accessdate=2022-01-13}}</ref>。
ほかにキャスティング・ディレクターを表彰する[[キャスティング]]部門が提案され<ref>{{Cite web|author=Chris O'Falt(クリス・オファルト)|date=2016-11-09|url=https://www.indiewire.com/2016/11/honary-oscar-lynn-stalmaster-casting-directors-1201744901/|title=Casting Directors and the Academy: Why Lynn Stalmaster’s Honorary Oscar Matters|website=[[:en:IndieWire|インディ・ワイヤー]]|publisher=[[:en:Penske Media Corporation|ペンスキー・メディア]]|accessdate=2022-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|author=Kayleigh Donaldson(ケイリー ・ドナルドソン)|date=2021-04-22|url=https://www.ign.com/articles/the-oscars-missing-category-best-casting|title=The Oscars' Missing Category: Best Casting|website=[[IGN]]|publisher=IGN Entertainment|accessdate=2022-01-14}}</ref>、[[2018年]]には幅広い映画ファンの人気に応える、ポピュラー映画部門([[:en:Academy Award for Outstanding Achievement in Popular Film|Best Popular Film]])の新設が発表されるが、見送られた<ref>{{Cite web|和書|date=2018-09-07|url=https://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/40074.html|title=アカデミー賞、大衆向けポピュラー映画部門の新設を見送り! 「さらなる議論が必要」|website=tvgroove|publisher=株式会社TVグルーヴ・ドット・コム|accessdate=2022-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Colin Stevens|date=2018-09-07|url=https://jp.ign.com/academy-awards/28740/news/2019|title=アカデミー賞が2019年授賞式の「人気映画部門」新設を見送りに|website=[[IGN Japan]]|publisher=株式会社[[産経デジタル]]|accessdate=2022-01-14}}</ref>。
== 英語以外の映画の扱い ==
アカデミー賞は「米映画の祭典」と銘打ってはいるものの、前記ノミネート条件を満たしていれば、英語音声以外で公開される映画(アメリカ以外の国で製作された映画を含む)であっても作品賞を含む本賞にノミネートされたり、あるいは受賞したりということは可能である。(但し実際には、ハリウッドの関係者が選出するというシステム上、純粋な外国映画はノミネートはされても受賞に至ったことは少ない。)
前記ノミネート条件を満たしていないアメリカ国外制作の非英語作品の場合は、各国の映画産業が映画芸術科学アカデミーに推薦する形で「[[アカデミー国際長編映画賞|国際長編映画賞]]」にエントリーされる。
国際長編映画賞の従来の名称は「外国語映画賞」であり、その最初の表彰は、1947年の第20回で「特別賞」に選出された[[イタリア映画]]の『靴みがき』。もっとも、この時点で「外国語映画賞」という賞は存在せず、前述の「特別賞」の一つという扱いであった。ちなみに『靴みがき』の選出理由は、「敗戦国であるイタリアが、創造精神を駆使して、敗戦の逆境を跳ね返す作品を作り出したこと」であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1948|title=THE 20TH ACADEMY AWARDS: 1948 ─「Special Award(特別賞)」「Italy – To Shoe-Shine - the high quality of this motion picture, brought to eloquent life in a country scarred by war, is proof to the world that the creative spirit can triumph over adversity. 」|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-06-23}}</ref>。
翌年の1948年に「この年にアメリカ国内で公開された、最も優れた外国語映画」という理由付けで、[[フランス映画]]『聖バンサン』が「特別外国語映画賞」に選出され、外国語映画賞の母体的な選考理由がここに初めて誕生<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1949|title=THE 21ST ACADEMY AWARDS: 1949 ─「Special Foreign Language Film Award(特別外国語映画賞)」「France – To Monsieur Vincent - voted by the Academy Board of Governors as the most outstanding foreign language film released in the United States during 1948.」|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-06-23}}</ref>。以後同選考基準によって、米国内で公開された優れた外国語映画が1本、選出されるようになり、1950年からは「名誉外国語映画賞」という名称で授与された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1951|title=THE 23RD ACADEMY AWARDS: 1951 ─「Honorary Foreign Language Film Award(名誉外国語映画賞)」|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-06-23}}</ref>。
特別賞や[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]の一つとして行われていた外国語映画の表彰が、「外国語映画賞」という独立した[[カテゴリ]]となったのは1956年からで(受賞作はイタリア映画『[[道 (1954年の映画)|道]]』)、同年から各国推薦の作品を5本厳選してノミネートし、うち1本に賞を授与するという、現在のスタイルが完成した<ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1957|title=THE 29TH ACADEMY AWARDS: 1957 ─「For the first time, there was a competitive category for foreign language films. …」|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-06-23}}</ref>。
その後、映画製作の国際化や多様化に伴う情勢の変化を考慮して、第92回(2019年)から名称を現行の「国際長編映画賞」に変更している(選考内容に変化はない)<ref>{{Cite web|和書|author=文/平井伊都子|date=2019-04-27|url=https://moviewalker.jp/news/article/188318/|title=「第92回アカデミー賞の新ルール!外国語映画賞は名称変更、配信作品も引き続き有資格に」…国際長編映画賞に名称変更|website=[[Movie Walker|Movie Walker(ムービー・ウォーカー)]]|publisher=株式会社ムービーウォーカー|accessdate=2019-06-23}}</ref>。
一方、アニメーション作品など特定ジャンルの作品は、当該ジャンルの規定に沿った賞の対象となる(アニメーション作品で長編のものなど)が、作品賞を含む他の各賞の条件も満たしていればそれら各賞の選考対象にもなりうる。
== 日本との関係 ==
{{色|節}}
* この項目では、アカデミー賞において受賞を含めてノミネートされた日本映画や映画に関わった日本人などを主に記している。
* 以下の表では、アカデミー賞を受賞した作品には記号「<sup>(受賞)</sup>」を付しており、ノミネートに留まった作品は記号「<sup>(ノミ)</sup>」を付している。
{| class="wikitable" style=font-size:small
! style="width:5%" | 年(回数)
! style="width:20%" | ノミネートされた各賞
! style="width:35%" | ノミネートされた作品・人物
! style="text-align:left" | 特記事項
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1936年]]<br />([[第9回アカデミー賞|第9回]])||{{nom|[[アカデミー美術賞|美術賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[巨星ジーグフェルド]]』 - 今津やすへい(エディ今津)||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1951年]]<br />([[第24回アカデミー賞|第24回]])||{{won|名誉賞<sup>(受賞)</sup>}}{{Refnest|name="HFLFA"|正式名は[[アカデミー名誉賞#外国語映画の表彰|名誉外国語映画賞]](HONORARY FOREIGN LANGUAGE FILM AWARD)で<ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1952|title=THE 24TH ACADEMY AWARDS: 1952|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-05-20}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1955|title=THE 27TH ACADEMY AWARDS: 1955|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-05-20}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1956|title=THE 28TH ACADEMY AWARDS: 1956|website=oscars.org|publisher=AMPAS|accessdate=2021-05-20}}</ref>、当時の[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画]]は[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]の一つとして表彰された。}}||『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』([[黒澤明]]監督作)||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1952年]]<br />([[第25回アカデミー賞|第25回]])||{{nom|美術賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『羅生門』 - [[松山崇]]、{{仮リンク|松本春造|en|H. Motsumoto}}||当時映画雑誌の編集長を務めていた[[淀川長治]]が日本人として初めて授賞式に正式に招待される。
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1954年]]<br />([[第27回アカデミー賞|第27回]])||{{won|名誉賞<sup>(受賞)</sup>}}{{Refnest|name="HFLFA"}}||『[[地獄門]]』([[衣笠貞之助]]監督作)||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{won|[[アカデミー衣装デザイン賞|衣装デザイン賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||『地獄門』 - [[和田三造]]
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1955年]]<br />([[第28回アカデミー賞|第28回]])||{{won|名誉賞<sup>(受賞)</sup>}}{{Refnest|name="HFLFA"}}||『[[宮本武蔵 (1954年の映画)|宮本武蔵]]』([[稲垣浩]]監督作)||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|衣装デザイン賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』 - [[甲斐庄楠音|甲斐荘楠音]]
|-
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1956年]]<br />([[第29回アカデミー賞|第29回]])||{{nom|衣装賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[七人の侍]]』 - 江崎孝坪||rowspan="4"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|美術賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『七人の侍』- 松山崇
|-
|{{nom|[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[ビルマの竪琴]]』([[市川崑]]監督作)
|-
|{{nom|美術賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[十戒]]』 - アルバート野崎
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1957年]]<br />([[第30回アカデミー賞|第30回]])||{{won|[[アカデミー助演女優賞|助演女優賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||『[[サヨナラ (映画)|サヨナラ]]』 - [[ミヨシ・ウメキ|ナンシー梅木]]||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[戦場にかける橋]]』 - [[早川雪洲]]
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1961年]]<br />([[第34回アカデミー賞|第34回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[永遠の人]]』([[木下惠介]]監督作)||rowspan="2"|三船敏郎主演のメキシコ映画、『[[価値ある男]]』が[[アカデミー外国語映画賞]]にノミネート。
|-
|{{nom|衣装デザイン賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[用心棒]]』 - [[村木与四郎]]
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1963年]]<br />([[第36回アカデミー賞|第36回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[古都 (1963年の映画)|古都]]』([[中村登]]監督作)||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1964年]]<br />([[第37回アカデミー賞|第37回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[砂の女]]』([[勅使河原宏]]監督作)||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1965年]]<br />([[第38回アカデミー賞|第38回]])||{{nom|[[アカデミー監督賞|監督賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『砂の女』 - 勅使河原宏||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[怪談 (小泉八雲)|怪談]]』([[小林正樹]]監督作)
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1966年]]<br />([[第39回アカデミー賞|第39回]])||{{nom|助演男優賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[砲艦サンパブロ]]』 - [[マコ岩松]]||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[天地創造 (映画)|天地創造]]』 - [[黛敏郎]]
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1967年]]<br />([[第40回アカデミー賞|第40回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[智恵子抄]]』(中村登監督作)||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1970年]]<br />([[第43回アカデミー賞|第43回]])||{{nom|[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[トラ・トラ・トラ!]]』 - [[佐藤昌道]]、[[姫田真左久]]、[[古谷伸]]||rowspan="3"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|[[アカデミー編集賞|編集賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『トラ・トラ・トラ!』 - [[井上親弥]]
|-
|{{nom|美術賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『トラ・トラ・トラ!』 - 村木与四郎、[[川島泰造]]
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1971年]]<br />([[第44回アカデミー賞|第44回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[どですかでん]]』(黒澤明監督作)||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1972年]]<br />([[第45回アカデミー賞|第45回]])||{{won|[[アカデミー科学技術賞|科学技術賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||[[キヤノン]]の向井二郎、広瀬隆昌||向井、広瀬の両氏は、映画用マクロズームレンズの開発による受賞。
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1975年]]<br />([[第48回アカデミー賞|第48回]])||{{won|外国語映画賞<sup>(受賞)</sup>}}||『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』(黒澤明監督作)||rowspan="2"|『デルス・ウザーラ』は、[[ソビエト連邦|ソ連]]代表として受賞。登山家の[[三浦雄一郎]]を描いた『[[エベレストを滑った男]]』が、カナダ映画として[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー賞]]を受賞。
|-
|{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[サンダカン八番娼館・望郷]]』([[熊井啓]]監督作)
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1976年]]<br />([[第49回アカデミー賞|第49回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[キヤノン]]の鈴川博||「映画撮影用の超高速レンズ」
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1980年]]<br />([[第53回アカデミー賞|第53回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[影武者 (映画)|影武者]]』(黒澤明監督作)||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|美術賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『影武者』 - 村木与四郎
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1981年]]<br />([[第54回アカデミー賞|第54回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[泥の河]]』([[小栗康平]]監督作)||rowspan="2"|富士写真フイルムの受賞は、映画用高感度カラーネガフィルムの開発による。
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||富士写真フイルム(現在の[[富士フイルムホールディングス]])
|-
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1985年]]<br />([[第58回アカデミー賞|第58回]])||{{won|衣装デザイン賞<sup>(受賞)</sup>}}||『[[乱 (映画)|乱]]』 - [[ワダ・エミ]]||rowspan="4"|『乱』は、衣装デザイン賞の受賞を含めて全4部門で候補になる。
|-
|{{nom|監督賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『乱』 - [[黒澤明]]
|-
|{{nom|撮影賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『乱』 - [[斎藤孝雄]]、[[上田正治]]、[[中井朝一]]
|-
|{{nom|美術賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『乱』 - 村木与四郎、[[村木忍]]
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1987年]]<br />([[第60回アカデミー賞|第60回]])||{{won|[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||『[[ラストエンペラー]]』 - [[坂本龍一]]||坂本は、[[デヴィッド・バーン]]、[[蘇聡|コン・スー]]との共同で受賞。
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1989年]]<br />([[第62回アカデミー賞|第62回]])||{{won|[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||[[黒澤明]]||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1990年]]<br />([[第63回アカデミー賞|第63回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||富士写真フイルム||rowspan="2"|富士写真フイルムは「カラーネガフィルムFシリーズ」。パナビジョンの宮城島卓夫は「映画撮影用の球面プライムレンズ、Primoシリーズ」。
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[パナビジョン (会社)|パナビジョン]]の宮城島卓夫
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1992年]]<br />([[第65回アカデミー賞|第65回]])||{{won|衣装デザイン賞<sup>(受賞)</sup>}}||『[[ドラキュラ (1992年の映画)|ドラキュラ]]』 - [[石岡瑛子]]||<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1995年]]<br />([[第68回アカデミー賞|第68回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[ソニー]]||「デジタルサウンドシステム、[[SDDS]]の設計と開発」
|-
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1998年]]<br />([[第71回アカデミー賞|第71回]])||{{won|[[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリー賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||『パーソナルズ~黄昏のロマンス~』([[伊比恵子]]監督作)||rowspan="3"|宮城島卓夫は「35mm映画用、Primoシリーズのレンズ」及び「アイピース レベラーの設計と開発」
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||rowspan="2"|宮城島卓夫(同時受賞)
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[1999年]]<br />([[第72回アカデミー賞|第72回]])||{{won|[[ジョン・A・ボナー メダル賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||宮城島卓夫||ジョン・A・ボナー メダル賞は[[アカデミー科学技術賞|科学技術賞]]で授与される名誉賞の1つ。
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2001年]]<br />([[第74回アカデミー賞|第74回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||塚田眞人、金子昌司ら[[IMAGICA]]。藤江大二郎 [[Nikon]]。||<!-- 特記事項/エピソード -->「65/35 マルチフォーマット・[[オプチカルプリンター]]」
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2002年]]<br />([[第75回アカデミー賞|第75回]])||{{won|[[アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||[[アニメーション映画|アニメ]]映画『[[千と千尋の神隠し]]』([[宮崎駿]]監督作)||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|[[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[頭山]]』([[山村浩二]]監督作)
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2003年]]<br />([[第76回アカデミー賞|第76回]])||{{nom|助演男優賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[ラスト サムライ]]』 - [[渡辺謙]]||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[たそがれ清兵衛]]』([[山田洋次]]監督作)
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2004年]]<br />([[第77回アカデミー賞|第77回]])||{{won|[[ゴードン・E・ソーヤー賞]]<sup>(受賞)</sup>}}||{{仮リンク|宮城島卓夫|en|Takuo Miyagishima}}||<!-- 特記事項/エピソード -->Takuo "Tak" Miyagishima は[[パナビジョン (会社)|パナビジョン]]社のエンジニア。[[アカデミー科学技術賞|科学技術賞]]で生涯5度目の表彰。
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2005年]]<br />([[第78回アカデミー賞|第78回]])||{{nom|長編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[ハウルの動く城]]』(宮崎駿監督作)||日本人キャストが多く出演している、日本が舞台のアメリカ映画『[[SAYURI]]』が技術部門で三冠を受賞。
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2006年]]<br />([[第79回アカデミー賞|第79回]])||{{nom|助演女優賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[バベル (映画)|バベル]]』 - [[菊地凛子]]||rowspan="2"|[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]ではあるが、日本側の視点で硫黄島の戦いを描いた『硫黄島からの手紙』が音響編集賞の受賞を含め、[[アカデミー作品賞|作品賞]]・監督賞・[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]の4部門にノミネート。また、[[日本語]]による作品が外国語映画賞ではなく、作品賞候補になったのは史上初。
|-
|{{nom|[[アカデミーメイクアップ&ヘアスタイリング賞|メイクアップ賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[もしも昨日が選べたら]]』 - [[辻一弘]]
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2007年]]<br />([[第80回アカデミー賞|第80回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[坂口亮]]||rowspan="2"|坂口は、流体シミュレーション・システムの開発により共同で受賞。辻は、メイクアップ賞を2年連続でノミネート。
|-
|{{nom|メイクアップ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[マッド・ファット・ワイフ]]』 - 辻一弘
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2008年]]<br />([[第81回アカデミー賞|第81回]])||{{won|外国語映画賞<sup>(受賞)</sup>}}||『[[おくりびと]]』([[滝田洋二郎]]監督作)||rowspan="2"|『おくりびと』の受賞は、外国語映画賞が独立した賞となってからの日本映画の受賞として史上初。また、左記の日本の作品のダブル受賞は、実に54年ぶり(第27回以来)の快挙。
|-
|{{won|短編アニメ賞<sup>(受賞)</sup>}}||アニメ映画『[[つみきのいえ]]』([[加藤久仁生]]監督作)
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2009年]]<br />([[第82回アカデミー賞|第82回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[富士フイルム]]の三木正章、西村亮治、細谷陽一。フィルム「ETERNA-RDI」||<!-- 特記事項/エピソード -->「ETERNA-RDI」は映画専用の高性能フィルム。高精細なデジタルマスターの映像を、より忠実にフィルムへ出力が可能に。
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2011年]]<br />([[第84回アカデミー賞|第84回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[富士フイルム]]の大関勝久、平野浩司、白井英行。フィルム「ETERNA-RDS」<ref name="RDS">{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20130917-a286/|title=「フィルムで残すのが一番安全」富士フイルム開発の映画保存フィルム「ETERNA-RDS」がアカデミー科学技術賞に輝く軌跡|newspaper=マイナビ|date=2013-09-17|accessdate=2017-11-11}}</ref>||<!-- 特記事項/エピソード -->「ETERNA-RDS」は、映画を500年間に渡り長期保存を実現する デジタルセパレーション用黒白レコーディングフィルム
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2012年]]<br />([[第85回アカデミー賞|第85回]])||{{nom|衣装デザイン賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[白雪姫と鏡の女王]]』 - [[石岡瑛子]]||石岡は、21年ぶり(第64回の受賞以来)2度目の衣装デザイン賞にノミネート。ノミネート時点で石岡は既に亡くなっていた。
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2013年]]<br />([[第86回アカデミー賞|第86回]])||{{nom|長編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』(宮崎駿監督作)||rowspan="2"|日本人芸術家の[[篠原有司男]]夫妻を描いたアメリカのドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』が長編ドキュメンタリー賞にノミネート。
|-
|{{nom|短編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[SHORT PEACE|九十九]]』([[森田修平]]監督作)
|-
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2014年]]<br />([[第87回アカデミー賞|第87回]])||{{won|名誉賞<sup>(受賞)</sup>}}|| [[宮﨑駿]]||rowspan="4"|<!-- 特記事項/エピソード -->ソニー 業務用HD有機ELマスターモニター(放送・上映前の映像を最終チェックするモニター)
|-
|{{nom|長編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[かぐや姫の物語]]』([[高畑勲]]監督作)
|-
|{{nom|短編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『ダム・キーパー』([[堤大介]]、ロバート・コンドウ共同監督作)
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[ソニー]]の筒井一郎、武昌宏、田村光康、浅野慎。有機ELマスターモニター
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2015年]]<br />([[第88回アカデミー賞|第88回]])||{{nom|長編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[思い出のマーニー#アニメ映画|思い出のマーニー]]』([[米林宏昌]]監督作)||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->「MARI(The Foundry Mari )」は、The Foundry社が提供する3Dペイントソフトウェア。中垣、Jack Greasley、Duncan Hopkins、Carl Randの4名に授与
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||中垣清介「MARI」の開発
|-
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2016年]]<br />([[第89回アカデミー賞|第89回]])||{{nom|長編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[レッドタートル ある島の物語]]』([[マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット]]監督作)||rowspan="3"|<!-- 特記事項/エピソード -->「レッドタートル」は日仏共同制作作品。[[ソニー]]は高画質のイメージセンサーを搭載し、高精細な[[CineAlta#4Kの普及|4K]]をスクリーンで実現した [[CineAlta|CineAlta(シネアルタ)]]「[[CineAlta#CineAltaカメラの一覧|F65]]」の自社開発。並びに[[パナビジョン (会社)|パナビジョン]]と受賞した[[ジェネシス (デジタルシネマカメラ)|ジェネシス]]の共同開発。
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||rowspan="2"|[[ソニー]]。2つの[[デジタル映画カメラ]]で同時受賞<ref name="CineAlta Genesis">{{cite news|url=https://www.sankei.com/smp/photo/story/news/170212/sty1702120015-s.html|title=ソニーに米アカデミー賞 科学技術部門、カメラ評価|newspaper=産経フォト|date=2017-02-12|accessdate=2017-10-26}}</ref>。
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2017年]]<br />([[第90回アカデミー賞|第90回]])||{{won|メイクアップ&ヘアスタイリング賞<sup>(受賞)</sup>}}||『[[ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男]]』 - 辻一弘||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->辻は、[[デヴィッド・マリノフスキ]]、[[ルーシー・シビック]]との共同で受賞。
|-
|{{nom|短編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『Negative Space』(桑畑かほる、マックス・ポーター共同監督作)
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2018年]]<br />([[第91回アカデミー賞|第91回]])||{{nom|外国語映画賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『[[万引き家族]]』 ([[是枝裕和]]監督作) ||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->
|-
|{{nom|長編アニメ賞}}<sup>(ノミ)</sup>||アニメ映画『[[未来のミライ]]』([[細田守]]監督作)
|-
|style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2019年]]<br />([[第92回アカデミー賞|第92回]])||{{won|メイクアップ&ヘアスタイリング賞<sup>(受賞)</sup>}}||『[[スキャンダル (2019年の映画)|スキャンダル]]』 - カズ・ヒロ ||カズ・ヒロ(辻一弘が米国籍に帰化)は2年ぶり2度目の受賞。[[アン・モーガン]]、[[ヴィヴィアン・ベイカー]]との共同で受賞。
|-
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2020年]]<br />([[第93回アカデミー賞|第93回]])||{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[三研マイクロホン]]の小型[[マイクロフォン#ラベリアマイク|ラベリアマイク]] COS-11シリーズ||rowspan="2"|<!-- 特記事項/エピソード -->科学技術賞のEIZOは、[[カラーマネージメントシステム|カラーマネージメント]]モニター「ColorEdge CGシリーズ」の自動キャリブレーション技術。ほかに搭載されたデジタルユニフォミティ補正回路、[[ソフトウェア開発キット|SDK]]の提供など<ref>{{Cite press release|和書|title=「アカデミー科学技術賞」を受賞|publisher=EIZO株式会社 企画部 マーケティングコミュニケーション課|date=2021-02-03|url=https://www.atpress.ne.jp/news/245746|accessdate=2021-02-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-03|url=https://www.eizo.co.jp/eizolibrary/color_management/coloredge-academy/|title=「アカデミー科学技術賞」受賞|website=EIZO|publisher=EIZO株式会社|accessdate=2021-02-03}}</ref>。
|-
|{{won|科学技術賞<sup>(受賞)</sup>}}||[[EIZO]]株式会社の4名。上野幸一、米光潤郎、作田淳治、中島賢人。自動[[キャリブレーション]]技術の開発。
|-
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;text-align:center"|[[2021年]]<br />([[第94回アカデミー賞|第94回]])||{{won|国際長編映画賞}}<sup>(受賞)</sup>||『[[ドライブ・マイ・カー (映画)|ドライブ・マイ・カー]]』([[濱口竜介]]監督作)||rowspan="4"|<!-- 特記事項/エピソード -->『ドライブ・マイ・カー』の作品賞と脚色賞ノミネートは[[日本映画|邦画]]初<ref>{{Cite web|和書|date=2022-02-08|url=https://eiga.com/news/20220208/16/|title=【第94回アカデミー賞】「ドライブ・マイ・カー」4部門ノミネート! 作品賞は日本映画として史上初の快挙|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|accessdate=2022-02-09}}</ref>。複数のノミネート(4部門)は黒澤明監督の『乱』以来<ref>{{Cite web|和書|date=2022-02-08|url=https://www.oricon.co.jp/news/2223947/full/|title=映画『ドライブ・マイ・カー』日本映画初の快挙! 米アカデミー賞作品賞ほか4つのノミネート|website=Drama & Movies(ORICON NEWS)|publisher=株式会社[[オリコン|oricon]] ME|accessdate=2022-02-09}}</ref>。
|-
|{{nom|[[アカデミー作品賞|作品賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『ドライブ・マイ・カー』- [[山本晃久]]
|-
|{{nom|監督賞}}<sup>(ノミ)</sup>||『ドライブ・マイ・カー』 - 濱口竜介
|-
|{{nom|[[アカデミー脚色賞|脚色賞]]}}<sup>(ノミ)</sup>||『ドライブ・マイ・カー』 - 濱口竜介、[[大江崇允]]
|}
== 日本関連の授賞式映像 ==
;[https://www.youtube.com/channel/UCb-vZWBeWA5Q2818JmmJiqQ Oscars 公式映像]
{{right|日本関連の受賞は'''太字'''}}
;授賞式
{| class="wikitable" style="font-size:medium"
|+ style="text-align:left" | {{YouTube|channel=UCb-vZWBeWA5Q2818JmmJiqQ|Oscars}}
|-
! style="width:4em;white-space:nowrap" | 授賞式 !! style="white-space:nowrap" | 映像
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1951年の映画|1951年]]<br />[[第24回アカデミー賞|第24回]]
| {{YouTube|e26B1gnoSk4|'''名誉賞(外国語映画)『羅生門』黒澤明'''}}{{Refnest|name="HFLFA"}}<br /> - 代理出席:吉田健一郎([[日本政府在外事務所|在ロサンゼルス日本政府在外事務所]]){{Efn2|授賞式([[第24回アカデミー賞|第24回]])でプレゼンターが「Japanese Government's Overseas Office will accept the award. ([[日本政府在外事務所]]が賞を受け取ります)」、続くアナウンスで「Mr. Yoshida is coming on stage now…(ミスター吉田がステージに登壇します)」と説明<ref>{{cite video|people=Ken Yoshida(吉田健一郎)|date=2014-04-22|title=Rashomon Receives an Honorary Foreign Language Film Award: 1952 Oscars|url=https://www.youtube.com/watch?v=e26B1gnoSk4#t=1m3s|medium=YouTubeチャンネル|publisher=AMPAS|accessdate=2022-05-24|time=1分3秒後}}</ref>。 - [[日本政府在外事務所|在ロサンゼルス日本政府在外事務所]]は、授賞式翌月の4月に[[在ロサンゼルス日本国総領事館|日本国総領事館]]となり、吉田健一郎はその初代[[総領事]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.la.us.emb-japan.go.jp/itpr_ja/news_info_CGJ100.htm|title=在ロサンゼルス日本国領事館の100年|website=在ロサンゼルス日本国領事館|date=2015-08-15|accessdate=2022-05-24}}</ref>。}}<br /> - プレゼンター:[[レスリー・キャロン]]、[[:en:Charles Brackett|チャールズ・ブラケット]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1954年の映画|1954年]]<br />[[第27回アカデミー賞|第27回]]
| {{YouTube|3cZDapCGZ7o|'''名誉賞(外国語映画)『地獄門』衣笠貞之助'''}}{{Refnest|name="HFLFA"}}<br /> - 出席:'''[[永田雅一]]'''プロデューサー<br />{{YouTube|KACiLwNsTsY|'''衣裳デザイン賞『地獄門』和田三造'''}}<br /> - 代理:永田雅一プロデューサー
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1955年の映画|1955年]]<br />[[第28回アカデミー賞|第28回]]
| {{YouTube|xmHaVjetOeE|'''名誉賞(外国語映画)『宮本武蔵』稲垣浩'''}}{{Refnest|name="HFLFA"}}<br /> - 出席:ジュン・ツチヤ<br /> - プレゼンター:[[クローデット・コルベール]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1957年の映画|1957年]]<br />[[第30回アカデミー賞|第30回]]
| {{YouTube|ftg8Aqjk744|'''助演女優賞『サヨナラ』ナンシー梅木'''}}<br /> - プレゼンター:[[アンソニー・クイン]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1969年の映画|1969年]]<br />[[第42回アカデミー賞|第42回]]
| {{YouTube|Ldg_N_2Nm8w|''“伝説の映画監督の秘密”''}}<br /> - ''ナレーション:[[グレゴリー・ペック]]<br /> - 出演:[[黒澤明]]([https://www.youtube.com/watch?v=Ldg_N_2Nm8w#t=0m26s 0:26~]、[https://www.youtube.com/watch?v=Ldg_N_2Nm8w#t=2m13s 2:13~]、[https://www.youtube.com/watch?v=Ldg_N_2Nm8w#t=3m31s 3:31~]、[https://www.youtube.com/watch?v=Ldg_N_2Nm8w#t=5m19s 5:19~])/[[フェデリコ・フェリーニ]]/[[ビリー・ワイルダー]]/[[イングマール・ベルイマン]]/[[デビッド・リーン]]/[[ジョン・シュレシンジャー]]/[[セルゲイ・ボンダルチュク]]/[[フランコ・ゼフィレッリ]]/[[マイク・ニコルズ]]''
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1975年の映画|1975年]]<br />[[第48回アカデミー賞|第48回]]
| {{YouTube|2niE0pk7d0w|'''外国語映画賞『デルス・ウザーラ』黒澤明'''}}<br /> - 出席:'''[[松江陽一]]'''プロデューサー
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1985年の映画|1985年]]<br />[[第58回アカデミー賞|第58回]]
| {{YouTube|A5JgtJwQUMk|'''衣裳デザイン賞『乱』ワダ・エミ'''}}<br />(黒澤明 [https://www.youtube.com/watch?v=A5JgtJwQUMk#t=3m51s 3:51~]) - プレゼンター:[[オードリー・ヘプバーン]]<br />{{YouTube|vhiISf00efs|監督賞ノミネート『乱』黒澤明}}<br /> - プレゼンター:[[バーブラ・ストライサンド]]<br />{{YouTube|PbX11604bZQ|作品賞プレゼンター:黒澤明、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー ''(受賞『愛と哀しみの果て』)''}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1986?fid=6716 【画像】]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1987年の映画|1987年]]<br />[[第60回アカデミー賞|第60回]]
| {{YouTube|Z1IHDTMtsSY|'''作曲賞『ラストエンペラー』坂本龍一、デヴィッド・バーン、蘇聡'''}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1988?fid=6661 【画像】]<br /> - プレゼンター:[[パトリック・スウェイジ]]、[[ジェニファー・グレイ]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1989年の映画|1989年]]<br />[[第62回アカデミー賞|第62回]]
| {{YouTube|MTs5AVcArMs|'''アカデミー名誉賞 黒澤明'''}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1990?fid=6601 【画像】]<br />([[黒澤和子]]、[[黒澤久雄]]) - プレゼンター:[[スティーヴン・スピルバーグ]]、[[ジョージ・ルーカス]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1992年の映画|1992年]]<br />[[第65回アカデミー賞|第65回]]
| {{YouTube|FmjRRNnY-YA|'''衣裳デザイン賞『ドラキュラ』石岡瑛子'''}}
|-
! style="white-space:nowrap" | [[1998年の映画|1998年]]<br />[[第71回アカデミー賞|第71回]]
| {{YouTube|uF7yw33iENc|'''短編ドキュメンタリー賞『パーソナルズ~黄昏のロマンス~』伊比恵子'''}}<br /> - プレゼンター:[[ベン・アフレック]]、[[マット・デイモン]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2002年の映画|2002年]]<br />[[第75回アカデミー賞|第75回]]
| {{YouTube|qxU6xN8o9r8|'''長編アニメーション賞『千と千尋の神隠し』宮﨑駿'''}}(欠席)<br /> - プレゼンター:[[キャメロン・ディアス]]
|-
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2003年の映画|2003年]]<br />[[第76回アカデミー賞|第76回]]
| {{YouTube|dwpS0Qty-RQ|助演男優賞ノミネート『ラスト サムライ』渡辺謙}}<br /> - プレゼンター:[[キャサリン・ゼタ=ジョーンズ]]
|-
| {{YouTube time|ujsLVgwrL20|外国語映画賞ノミネート『たそがれ清兵衛』山田洋次|time=1m49s}}<br />([[山田洋次]]、[[真田広之]] 1:49~) - プレゼンター:[[シャーリーズ・セロン]]
|-
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2006年の映画|2006年]]<br />[[第79回アカデミー賞|第79回]]
| {{YouTube|IvclyTi6UcA|助演女優賞ノミネート『バベル』菊地凛子}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/79th-academy-awards-memorable-moments?fid=31501 【画像】]<br /> - プレゼンター:[[ジョージ・クルーニー]]<br />{{YouTube time|xLlohmKocK0|作曲賞受賞『バベル』グスターボ・サンタオラヤ|time=1m49s}}<br />([[菊地凛子]] 1:49~、[https://www.youtube.com/watch?v=xLlohmKocK0#t=2m26s 2:26~]) - プレゼンター:[[ペネロペ・クルス]]、[[ヒュー・ジャックマン]]
|-
| {{YouTube time|SjyPAM639-M|音響編集賞受賞『硫黄島からの手紙』バブ・アズマン、アラン・ロバート・マレー|time=2m19s}}<br />([[渡辺謙]]、[[南果歩]] 2:19~)<br />{{YouTube time|WzOWCvw7GlY|授賞式 エンディング|time=3m4s}}<br />(渡辺謙、[[カトリーヌ・ドヌーブ]]:外国語映画賞50周年プレゼンター 3:04~)<ref>{{Cite news|date=2007-02-26|url=https://www.afpbb.com/articles/modepress/2187661?pid=1373293|title=<第79回アカデミー賞>会場に渡辺謙が登場 - 米国|agency=「MODE PRESS」AFPBB News(AFP通信)|publisher=[[フランス通信社]]/株式会社クリエイティヴ・リンク|accessdate=2021-05-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2007-02-26|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0010054|title=外国語映画賞のプレゼンターで、謙さん登場!─ 第79回アカデミー賞|website=[[シネマトゥデイ]]|publisher=株式会社シネマトゥデイ|accessdate=2021-01-07}}</ref>
|-
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2008年の映画|2008年]]<br />[[第81回アカデミー賞|第81回]]
| {{YouTube|3pRF9T3D6Bo|'''外国語映画賞『おくりびと』滝田洋二郎'''}}<br />([[本木雅弘]]、[[広末涼子]]) - プレゼンター:[[リーアム・ニーソン]]、[[フリーダ・ピント]] 司会:[[ヒュー・ジャックマン]]
|-
| {{YouTube|Pf20oFtjYso|'''短編アニメーション賞『つみきのいえ』加藤久仁生'''}}
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2014年の映画|2014年]]<br />[[第87回アカデミー賞|第87回]]
| {{YouTube|9ZIG14mxB9w|'''アカデミー名誉賞 宮﨑駿'''}}[https://www.oscars.org/search/site/MIYAZAKI?fid=67281 【画像】][https://www.oscars.org/governors-awards/ceremonies/2014-governors-awards-memorable-moments 【授賞式画像1】][https://www.oscars.org/events/6th-annual-governors-awards 【授賞式画像2】]<br />{{YouTube|93-gRTUrHa8|プレゼンター:ジョン・ラセター}}<br />('''[[宮﨑駿]]''' [https://www.youtube.com/watch?v=93-gRTUrHa8#t=0m27s 0:27~] [https://www.youtube.com/watch?v=93-gRTUrHa8#t=2m27s 2:27~] [https://www.youtube.com/watch?v=93-gRTUrHa8#t=4m04s 4:04~]、[[鈴木敏夫]] [https://www.youtube.com/watch?v=93-gRTUrHa8#t=4m23s 4:23~])
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2016年の映画|2016年]]<br />[[第89回アカデミー賞|第89回]]
| ノミネートの紹介:渡辺謙<br />{{YouTube|Vz0xLKrt5Ds|外国語映画部門}} / {{YouTube|6hA9K0g0b6g|短編映画部門}}
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2017年の映画|2017年]]<br />[[第90回アカデミー賞|第90回]]
| {{YouTube|PzBv6FikLw4|'''メイクアップ&ヘアスタイリング賞『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』辻一弘'''}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/90th-oscar-winner-portraits?fid=79306 【画像】]<br /> - プレゼンター:[[ガル・ガドット]]、[[アーミー・ハマー]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2019年の映画|2019年]]<br />[[第92回アカデミー賞|第92回]]
| {{YouTube|d6opW1VC8fU|'''メイクアップ&ヘアスタイリング賞『スキャンダル』カズ・ヒロ'''}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/winner-portraits/?fid=81666 【画像】]<br /> - プレゼンター:[[レイ・ロマーノ]]、[[サンドラ・オー]]
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2021年の映画|2021年]]<br />[[第94回アカデミー賞|第94回]]
| {{YouTube|dWwXc0X2H-M|'''国際長編映画賞『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介'''}}[https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/94th-oscars-winner-portraits/?fid=86906 【画像】]<ref>{{Cite web|和書|author=|url=https://eiga.com/news/20220328/34/|title=【第94回アカデミー賞】「ドライブ・マイ・カー」が国際長編映画賞!日本映画の受賞は「おくりびと」以来の快挙|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|date=2022-03-28|accessdate=2022-05-09}}</ref><br />([[西島秀俊]]<ref>{{Cite web|和書|author=フロントロウ編集部|url=https://front-row.jp/_ct/17529032|title=西島秀俊が「満面の笑みになった瞬間」を米TVが映す、『パルプ・フィクション』ユマとトラボルタのダンスで【アカデミー賞】|website=フロントロウ|publisher=株式会社オウトグラフ・プロダクション|date=2022-03-28|accessdate=2022-04-30}}</ref>、[[霧島れいか]]<ref>{{Cite instagram|user=Reika Kirishima 霧島れいか|author=reika_kirishima|postid=CbzcQYTpJJd|title=「Steven Spielberg & Drive My Car」「神様に逢えたような感覚と嬉しさで頭がフワフワ」|date=2022-04-01|access-date=2022-05-07}}<br />{{Cite instagram|user=Reika Kirishima 霧島れいか|author=reika_kirishima|postid=CbphuEqLisV|title=「国際長編映画賞 Drive My Car受賞」「日本の映画が世界に大きく届いた瞬間でした!」|date=2022-03-28|access-date=2022-05-07}}</ref>、[[岡田将生]]、[[山本晃久]]プロデューサー、[[大江崇允]]) - プレゼンター:[[シム・リウ]]<ref name="front-row 2022-03-29">{{Cite web|和書|author=フロントロウ編集部|url=https://front-row.jp/_ct/17529378|title=『ドライブ・マイ・カー』のプレゼンターを務めたシム・リウ、SNSで初めてのアカデミー賞を振り返る|website=フロントロウ|publisher=株式会社オウトグラフ・プロダクション|date=2022-03-29|accessdate=2022-04-29}}</ref>、ティファニー・ハディッシュ{{R|front-row 2022-03-29}}<ref>{{Cite web|和書|author=フロントロウ編集部|url=https://front-row.jp/_ct/17309477|title=ティファニー・ハディッシュ、「日本の芸能界」での野望語る|website=フロントロウ|publisher=株式会社オウトグラフ・プロダクション|date=2020-01-01|accessdate=2022-04-29}}</ref><br />{{YouTube|JX4tMSq95iE|作品賞ノミネート『ドライブ・マイ・カー』山本晃久}}<br />([https://www.youtube.com/watch?v=JX4tMSq95iE#t=0m18s 0:18〜] 西島秀俊、[[濱口竜介]]、岡田将生、霧島れいか) - プレゼンター:[[レディー・ガガ]]、[[ライザ・ミネリ]]<br />{{YouTube time|IapmdXqr_nU|第94回オスカー受賞者のヴィクトリー・ラップ|time=1m33s}}<br />('''濱口竜介''' [https://www.youtube.com/watch?v=IapmdXqr_nU#t=0m04s 0:04~]、1:33〜)
|}
{{Main2|日本関連の[[アカデミー科学技術賞]]や[[ゴードン・E・ソーヤー賞]]の受賞映像については「[[アカデミー科学技術賞#日本関連の授賞式映像]]」を}}
<br />
;オスカー・ノミニーズ・ランチョン(Oscar Nominees Luncheon)
* ノミネートされた候補者が一堂に会する昼食会。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:medium"
|+ style="text-align:left" | {{YouTube|channel=UCb-vZWBeWA5Q2818JmmJiqQ|Oscars}}
|-
! style="white-space:nowrap" | 授賞式 !! style="white-space:nowrap" | 招待者
|-
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2017年の映画|2017年]]<br />[[第90回アカデミー賞|第90回]]
| {{YouTube time|S459TO3JihI|'''メイクアップ&ヘアスタイリング『ウィンストン・チャーチル』辻一弘'''|time=17m05s}}(17:05~)
|-
| {{YouTube time|S459TO3JihI|短編アニメ『ネガティブ・スペース』桑畑かほる|time=26m08s}}(26:08~、[https://www.youtube.com/watch?v=S459TO3JihI#t=34m36s 34:36~])
|-
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2018年の映画|2018年]]<br />[[第91回アカデミー賞|第91回]]
| {{YouTube time|pIoObPOgQYU|外国語映画『万引き家族』是枝裕和|time=7m33s}}(7:33~)
|-
| {{YouTube time|pIoObPOgQYU|長編アニメ『未来のミライ』細田守|time=24m01s}}(24:01~)
|-
! style="white-space:nowrap" | [[2019年の映画|2019年]]<br />[[第92回アカデミー賞|第92回]]
| {{YouTube time|dj9AbQaTrpo|'''メイクアップ&ヘアスタイリング『スキャンダル』カズ・ヒロ(辻一弘)'''|time=14m52s}}(14:52~、[https://www.youtube.com/watch?v=dj9AbQaTrpo#t=15m25s 15:25~])
|}
;オスカー・ウィーク(Oscar Week)
* ノミネートされた候補者を迎えて[[ディスカッション]]が行われるイベント。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:medium"
|+ style="text-align:left" | {{YouTube|channel=UCb-vZWBeWA5Q2818JmmJiqQ|Oscars}}
|-
! style="white-space:nowrap" | 授賞式 !! style="white-space:nowrap" | ディスカッション映像
|-
! rowspan="3" style="white-space:nowrap" | [[2013年の映画|2013年]]<br />[[第86回アカデミー賞|第86回]]
| {{YouTube time|Retti0LEr_A|長編アニメ『風立ちぬ』鈴木敏夫プロデューサー|time=81m28s}}<br />(1:21:28~)[https://www.oscars.org/events/animated-features 【画像】]
|-
| {{YouTube time|PMzbMxNmOTo|短編アニメ『九十九』森田修平|time=7m0s}}<br />(7:00~、[https://www.youtube.com/watch?v=PMzbMxNmOTo#t=23m19s 23:19~])[https://www.oscars.org/events/animated-and-live-action-shorts?fid=31931 【画像1】][https://www.oscars.org/events/animated-and-live-action-shorts?fid=31806 【画像2】]
|-
| {{YouTube time|RzOvPvzm5Zs|長編ドキュメンタリー『キューティー&ボクサー』ザカリー・ヘインザーリング、Lydia Dean Pilcher|time=4m40s}}<br />(4:40~作品紹介 / [[篠原有司男]]、篠原乃り子 夫妻のドキュメンタリー)
|-
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2014年の映画|2014年]]<br />[[第87回アカデミー賞|第87回]]
| {{YouTube time|wZWOOaQFHRk|長編アニメ『かぐや姫の物語』高畑勲、西村義明プロデューサー|time=82m05s}}<br />(1:22:05~)[https://www.oscars.org/events/oscar-week-animated-features?fid=52276 【画像】]
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| {{YouTube time|ychp6QDUp7c|短編アニメ『ダム・キーパー』堤大介、ロバート・コンドウ|time=17m18s}}<br />(17:18~)[https://www.oscars.org/events/oscar-week-shorts?fid=51746 【画像】]
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! style="white-space:nowrap" | [[2015年の映画|2015年]]<br />[[第88回アカデミー賞|第88回]]
| {{YouTube time|vlH2r9N1ld0|長編アニメ『思い出のマーニー』米林宏昌、西村義明プロデューサー|time=68m05s}}<br />(1:08:05~)[https://www.oscars.org/events/oscar-week-feature-animation?fid=65886 【画像】]
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! style="white-space:nowrap" | [[2016年の映画|2016年]]<br />[[第89回アカデミー賞|第89回]]
| {{YouTube time|qvdtzmvwl7c|長編アニメ『レッドタートル』鈴木敏夫プロデューサー|time=86m38s}}<br />(1:26:38~)[https://www.oscars.org/events/89th-oscar-week-feature-animation 【画像】]
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! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2017年の映画|2017年]]<br />[[第90回アカデミー賞|第90回]]
| {{YouTube time|LYCQ8x2rbnQ|短編アニメ『ネガティブ・スペース』桑畑かほる、マックス・ポーター|time=4m19s}}<br />(4:19~)[https://www.oscars.org/events/oscar-week-shorts-1?fid=76151 【画像1】][https://www.oscars.org/events/oscar-week-shorts-1?fid=76156 【画像2】]
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| {{YouTube time|c3E1QxPuW10|'''メイクアップ&ヘアスタイリング『ウィンストン・チャーチル』辻一弘'''|time=14m25s}}<br />(14:25~)[https://www.oscars.org/events/oscar-week-makeup-and-hairstyling-symposium-1 【画像】]
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! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[2018年の映画|2018年]]<br />[[第91回アカデミー賞|第91回]]
| {{YouTube time|eeAFfhRr9Jk|外国語映画『万引き家族』是枝裕和|time=29m34s}}<br />(29:34~、[https://www.youtube.com/watch?v=eeAFfhRr9Jk#t=50m41s 50:41~])
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| {{YouTube time|hOKlWQsq_T0|長編アニメ『未来のミライ』細田守、齋藤優一郎プロデューサー|time=52m18s}}<br />(52:18~、[https://www.youtube.com/watch?v=hOKlWQsq_T0#t=111m59s 1:51:59~])
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! style="white-space:nowrap" | [[2019年の映画|2019年]]<br />[[第92回アカデミー賞|第92回]]
| {{YouTube time|CJZKJkK48kA|'''メイクアップ&ヘアスタイリング『スキャンダル』カズ・ヒロ(辻一弘)'''|time=16m57s}}<br />(16:57~)
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! style="white-space:nowrap" | [[2021年の映画|2021年]]<br />[[第94回アカデミー賞|第94回]]
| {{YouTube time|ozY1yyaU8vk|'''国際長編映画『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介'''|time=41m07s}}<br />(41:07~、[https://www.youtube.com/watch?v=ozY1yyaU8vk#t=42m25s 42:25~]、[https://www.youtube.com/watch?v=ozY1yyaU8vk#t=51m09s 51:09~]、[https://www.youtube.com/watch?v=ozY1yyaU8vk#t=60m48s 1:00:48~]、[https://www.youtube.com/watch?v=ozY1yyaU8vk#t=75m30s 1:15:30~]、[https://www.youtube.com/watch?v=ozY1yyaU8vk#t=82m50s 1:22:50~])
|}
;[[マーク・デイヴィス (アニメーター)|マーク・デイヴィス]] セレブレーション・オブ・アニメーション(Marc Davis Celebration of Animation)
* アカデミーが開催するアニメーションの祝典。
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:medium"
|+ style="text-align:left" | {{YouTube|channel=UCb-vZWBeWA5Q2818JmmJiqQ|Oscars}}
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! style="white-space:nowrap" | 開催年 !! style="white-space:nowrap" | 招待者 / 映像
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| style="white-space:nowrap;text-align:center" | ''[[2009年]]<br />{{fontsize|small|(7月28日)}}'' || <ref>{{cite news|url=https://www.gettyimages.fi/event/14th-annual-marc-davis-celebration-of-animation-88533670#/john-lasseter-chief-creative-officer-of-pixar-and-disney-animation-picture-id89429251|title=AMPAS' 14th Annual Marc Davis Celebration of Animation|newspaper=[[ゲッティイメージズ|Getty Images]]|date=2009-07-28|accessdate=2018-03-17}}</ref>''宮﨑駿、ジョン・ラセター<br /> - Hayao Miyazaki: [https://www.youtube.com/watch?v=Xsxx92lFL1o Developing a Character] ~ [https://www.youtube.com/watch?v=g5Vjd7pCgnI Creating a Villain] ~ [https://www.youtube.com/watch?v=a3PyVS6W-lE Depicting the Environment] ~ [https://www.youtube.com/watch?v=KljpsBOxAdk Developing an Idea] ~ [https://www.youtube.com/watch?v=lKwK_EPCNWM Creating Original Work] ~ [https://www.youtube.com/watch?v=S8zGPcHWoVg Childhood Interests] ~ [https://www.youtube.com/watch?v=UUF9c8oXk08 The Future of Animation] - [[YouTube]]''
|}
== 関連項目 ==
* [[映画芸術科学アカデミー]]
* [[オスカー像]]
* [[ウルフギャング・パック]]
* [[ビリー・クリスタル]]
* [[ハリウッド]]
* [[映画の賞]]
* [[日本アカデミー賞]]
* [[英国アカデミー賞]]
* 台湾の[[金馬奨]](金馬賞)
* [[ゴールデンラズベリー賞]](ラジー賞)
* [[セザール賞]](フランス版アカデミー賞)
* [[アカデミー]]
* [[ドルビー・シアター]]
* [[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]](日本のテレビドラマに関する賞)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
* [https://www.oscars.org/ Academy of Motion Picture Arts and Sciences] - 映画芸術科学アカデミー公式サイト{{en icon}}
* [https://oscar.go.com/ The Oscars] - アカデミー賞授賞式公式サイト{{en icon}}
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* [https://awardsdatabase.oscars.org/ The Official Academy Awards Database] - アカデミー賞公式データベース{{en icon}}
* [https://www.imdb.com/oscars/nominations/ Academy Awards] - [[インターネット・ムービー・データベース]] {{en icon}}
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5,046 | 千と千尋の神隠し | 『千と千尋の神隠し』(せんとちひろのかみかくし)は、2001年に公開された日本の長編アニメーション映画。原作・脚本・監督は宮崎駿。2001年(平成13年)7月20日に日本公開。興行収入は316億8,000万円で、『タイタニック』を抜いて、日本歴代興行収入第1位を達成し、第52回ベルリン国際映画祭では『ブラディ・サンデー』と同時に金熊賞を受賞した。
制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は日本テレビの映画プロデューサー、奥田誠治の娘であり、主人公・千尋のモデルになった。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの子供を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女児に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女らに映画を送り届けたいと思うようになった。
宮崎の友人である映画監督ジョン・ラセターの尽力によって北米で公開され、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した。2017年にはニューヨークタイムズ選定21世紀最高の外国語映画ランキングで2位に選ばれた。
2016年に行われたスタジオジブリ総選挙で1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。2020年6月26日より日本372の劇場で『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『ゲド戦記』とともに再上映され、週末観客動員数で1位となった(#再上映も参照)。2022年に舞台化。
10歳の少女荻野千尋は、両親と共に引越し先のニュータウンへと車で向かう途中、父の思いつきから森の中の不思議なトンネルから通じる無人の町へ迷い込む。そこは八百万の神々が住む、人間が足を踏み入れてはならない世界だった。町の怪しい雰囲気を怖がる千尋をよそに、探検気分の両親は食堂街の中で一軒だけ食べ物が並ぶ無人の飲食店を見つけ、店員が来たら代金を払えばいいと勝手に食べ物を食べ始めてしまう。両親の誘いを断って食堂街を一人で歩く千尋は、旅館のような大きな建物の前の橋に着き、橋の下を走る電車を見ていた。背後からの気配に気づいて振り返ると少年が立っており、彼は強い口調で「すぐに戻れ」と言う。急速に日が暮れる中、両親を探すが、店では両親の服を着た大きなブタが二匹いて、食べ物を食い散らかしていた。千尋の両親は神々に出す食べ物に手をつけた咎で、ブタにされてしまったのだ。夜になり、千尋はトンネルに戻ろうと食堂街の出口に来るが、昼は草原だった場所が大河に変わっており、船から降りてくる怪物のような者達を目にしたことでこれは悪い夢だと思い込む。悪夢が消えることを願って自分が消滅しそうになるが、先程の少年ハクに助けられる。
ハクは、八百万の神々が客として集う「油屋」という名の湯屋で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する恐ろしい魔女の湯婆婆で、仕事を持たない者は動物に変えられてしまうと千尋に教える。千尋は、雇ってくれるよう湯婆婆に懇願し、契約の際に名を奪われ「千」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。ハクは、本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなると忠告する。ハクもまた名を奪われ、自分が何者であったのかを思い出せずにいたのだ。しかし、彼はなぜか千尋を知っており、自分の名前は忘れても千尋のことは覚えているのだという。一方、千尋にはハクの正体に心当たりがない。
ブタにされてしまった両親を助けるため油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるという理由で油屋の者達から嫌われる。おまけに悪臭とひどい汚れの客の相手まで押しつけられるが、彼女の実直な働きにより、客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆に一目置かれる存在になる。千尋は世話をした礼としてその客から不思議な団子を貰う。
翌日の昼、竜の姿のハクは湯婆婆の命令により、彼女と対立している双子の姉の銭婆から、魔女の契約印を盗み飲み込む。強い魔力を持つ銭婆は、ハクに契約印の守りのまじないとヒトガタで重傷を負わせるが、彼は傷つきながらも最上階の湯婆婆の部屋に向かう。傷ついたハクを従業員部屋から見た千尋は、彼を助けようと後をおって、湯婆婆の部屋に入る。その時、千尋の背中にくっついていたヒトガタから銭婆が現れ、千尋の後を追って部屋に入ってきた湯婆婆の息子の坊をネズミに変えてしまう。その隙にハクが尾でヒトガタを叩き破ると銭婆は消える。その後、千尋がハクに不思議な団子の半分を飲み込ませ、体内の契約印と虫を吐き出させ元の姿に戻すが、ハクは衰弱しており気絶する。千尋はハクを助けたい一心で、ボイラー室の老人釜爺から電車の切符を受け取り、危険など顧みずに銭婆の所へ謝りに行く事を決意する。
その頃、客室ではカオナシという化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。カオナシは以前客だと思い込んだ千尋に親切にされ、湯婆婆の部屋に行く途中の彼女と再会した際、砂金で千尋の気を引こうとするが、断られてしまっていた。再び彼女と対面したカオナシは、食べ物で千尋の気を引こうとするが千尋は拒否。逆に千尋は団子の残りの半分を彼に食べさせ、カオナシに飲み込まれた従業員達を吐き出させて助ける。そして千尋は、なぜかついて来た坊と、油屋から誘い出したカオナシを伴って銭婆の家を訪れる。銭婆は千尋を穏やかに受け入れ、千尋は銭婆に魔女の契約印を返しハクの行いを謝る。銭婆は千尋に旅の仲間と協力して作った紫の髪留めを贈り、カオナシは銭婆の家の手伝いに雇われる。
一方、目を覚ましたハクは、坊が銭婆の元へ行っている事を湯婆婆に伝える。ハクは坊を連れ戻す事を条件に千尋と両親を解放するよう迫った後、帰る手段のなかった千尋を竜の姿で迎えにいく。ハクは銭婆から許しを得て、千尋と共に油屋への帰路につく。その途中で、千尋は自分が幼い頃に落ちた「川」がハクの正体である事を思い出し、彼女が川の名前を告げた事でハクは本当の名前を思い出す。ハクは、落とした靴を拾おうとして溺れかけた千尋を、浅瀬に運び助けたのだった。
翌朝、臨時休業をしている油屋に帰ったハク達。ハクが千尋と彼女の両親を解放するよう湯婆婆に要求すると、今や千尋の味方となった従業員達もハクに賛同する。味方がいなくなり怒る湯婆婆は、油屋の前に集めたブタの中から両親を言い当てろと千尋に難題を出す。千尋はブタ達を真剣に見つめると、この中に両親はいないと正解を言い当てる。湯婆婆の目論見は外れ、契約書が消滅した事で千尋は晴れて自由の身となり、従業員達に祝福されながら油屋を去る。
昼になり、異世界と人間界の境界のトンネルに帰るため食堂街の出口に着くと、夜は大河に変わっていた所が草原に戻っていた。見送るために一緒に来たハクは千尋に、この先には一人で行く事、この先の帰り道でトンネルを出るまでは振り返ってはいけない事、湯婆婆の弟子を辞めて自分も元の世界に戻るつもりである事を伝え、再会を約束して別れる。千尋は草原を歩き続けると、人間に戻った両親がトンネルの前で何事もなかったかのように待っていた。千尋は思わず振り返りそうになるがハクとの約束を思いだし必死に我慢して振り返らず、トンネルを抜けて人間界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは最初に来た時とは違う姿に変わり、彼女は異世界の事を忘れる。しかし銭婆から貰った紫の髪留めはトンネルを抜けても残り、輝いていた。その後、再び車に乗って引越し先に向かう所で物語は幕を閉じる。
最後に、幼い千尋が川に落とした桃色の靴の片方が、流れていく様子が映る。
従業員の大半はカエル(男衆)とナメクジ(女衆〔主に江戸時代にいた大湯女〈おおゆな〉に相当する〕)であり、ヘビ(ハク)と合わせて三すくみの関係にある。
神道における八百万神(やおよろずのかみ)で、疲れを癒そうと油屋を訪れる。八百万の名の通り、姿形・性質・性格は様々。ロマンアルバムでは、霊々(かみがみ)と表記。
湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める「油屋」(あぶらや)という屋号の湯屋が舞台。油屋は一見和風建築であるが、土台部分はコンクリートであったり、ボイラーやエレベーターといった近代的な設備が備わっている。
和風に装っているのは表面部分だけであり、宮崎はこうした作りを「俗悪」と言い表す。最下層にボイラー室と機械室、その上に従業員用のスペースがあり、湯婆婆とハク、釜爺以外の従業員達はそこで寝泊りする。上階が男性従業員の部屋、下階が少女と女性従業員の部屋で、大部屋に大勢で寝る。従業員の生活空間は裏側に配置されており、神々の出入りする正面側からは見えない。油屋正面とその上階が営業スペースとなっている。中に大きな吹き抜けがあり、下には様々な種類の風呂が配置され、その上を取り囲むように宴会場や客室が配置されている。さらに、その上には湯婆婆の個人宅があり、その部分は洋風の建築様式となっている。河の神が使った大戸は空を飛べる(上級の)神用の出入り口。一階玄関はその他の客用の出入り口。
千尋達は最初に、トンネルのある時計台のような建物に迷い込む。そこから先は、廃墟が点々とする緩やかな上り坂になった草原がしばらく続く。その後川を渡ると、丘の上の食堂街に出る。時計台と食堂街を区切る川は、昼は小川であるが、夜になり神々が訪れる時間になると草原全体が大河に変わり、そこを船が行き交う。また、夜は遠く対岸にある時計台の周囲に町が現れる。異世界はあらすじ通りに日中の時間の流れ方が人間界と違って早い。また、時計台の文字盤によると異世界は夜が長い模様。その上、一晩ごとに月齢が違い、千尋が河の神の世話をした直後が満月の夜、翌日千尋が銭婆の家から湯屋に帰るのが半月の夜。食堂街を抜けると大きな灯籠のある広場に出、そこから延びる橋が湯屋の正面入り口に繋がる。食堂街の周囲には、両親の収容されている畜舎や冷凍室、花園などが配置されている(花園では季節の異なる花々が同時に咲き乱れている)。湯屋の方から見ると、畜舎は突き出た絶壁の上に建っている事が分かる。湯屋の周囲と湯屋の裏の電車の行き先は大平原になっており、雨が降ると海になる。橋の下には海原電鉄(架線は無い)が走っている。単線の一方通行で、今は行きっ放しである(釜爺によれば、昔は帰りの電車も通っていたという)。千尋が乗る駅は湯屋の裏で建物から離れた位置にある。途中には千尋が降りる「沼の底」駅があり、他に乗客の降りる沼原駅なども出てくる。
英語版はピクサーのジョン・ラセターが製作総指揮を手掛け、4人の翻訳家が英語版台本を作成し、カーク・ワイズが演出を手がけた。
(以上、特に注記のないものはロマンアルバム 2001, pp. 102–103より抜粋)
宮崎駿は信州に山小屋を持っており、毎年夏になるとジブリ関係者の娘たちを招いて合宿を行っていた。宮崎は子どもたちを赤ん坊のころから知っており、「幼いガールフレンド」という言い方もしている。少女たちは宮崎を「お山のおじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは思っていなかった。『もののけ姫』公開直後の1997年8月、制作に疲れ果てた宮崎は山小屋で静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問を楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎に次回作への意欲が灯りはじめる。
山小屋には『りぼん』や『なかよし』といった少女漫画雑誌が残されていた。宮崎は過去にも、山小屋に置かれていた少女漫画誌から映画の原作を見つけ出している(『耳をすませば』や『コクリコ坂から』)。しかし今回は、漫画の内容が恋愛ものばかりであることに不満を抱いた。山小屋に集まる子どもたちと同じ年齢の、10歳の少女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは、別にあるのではないか。美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳の少女を主人公に据え、しかも安易な成長物語に流れないような映画を作ることができるのではないか。少女が世間の荒波に揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力が溢れ出てくるというような、そんな物語が作れるのではないか。このように考えた。当時宮崎は、思春期前後の少女向け映画を作ったことがなかったので、「幼いガールフレンド」たちに向けて映画をプレゼントすることが目標になった。
宮崎は『パンダコパンダ』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませようという動機でアニメーションを制作した。顔の浮かぶ特定の個人に向けて映画を作るという経験はそれ以来のことだった。しかし宮崎駿は、『もののけ姫』の製作中からしきりに監督引退をほのめかしており、1997年6月の完成披露試写会以降、「引退」発言はマスメディアを賑わせていた。当時はまだ引退の心づもりは変わらず、次回作ではシナリオと絵コンテは担当しても、監督は別人を立てるつもりでいた。
1998年3月26日、スタジオジブリの企画検討会議で、柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』(1975年、講談社)が案に挙がる。小学6年生の少女が「霧の谷」を訪れ、魔法使いの末裔たちが営む不思議な商店街で働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作は以前から企画検討にかけられており、1995年の『耳をすませば』では天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を読む場面が組み込まれている。宮崎は、柏葉の原作をもとに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルで企画に取り組む。しかし、これは早々に断念された。
次に、新企画『煙突描きのリン』がはじまった。1998年6月、小金井市梶野町のスタジオジブリ付近に事務所「豚屋」が完成、宮崎の個人事務所二馬力のアトリエとして使われることになった。宮崎はここで新企画に取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京を舞台にした映画で、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった。作品の背景には、現代美術家荒川修作の影響があり、荒川をモデルにした登場人物も用意されていた。宮崎は1998年に養老天命反転地を訪れて気に入り、荒川とも対談して意気投合している。プロデューサーの鈴木敏夫によれば、リンと敵対する集団のボスは宮崎自身が投影された60歳の老人であり、しかもこの老人と18歳の主人公のリンが恋に落ちる展開が用意されていたという。
1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月、突如廃案になった。鈴木敏夫によれば、次のような出来事があったという。鈴木は、1998年に公開されヒットしていた映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』(本広克行監督)を遅れて鑑賞する。若手の監督によって同時代の若者の気分がリアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に、宮崎の描く若い女性が現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか疑問を抱く。鈴木は映画を観たその足で宮崎のアトリエに赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエの壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとはビジュアルのサンプルを集めたもの。しかし鈴木はそれには触れず、『踊る大捜査線』の話をしはじめた。
宮崎はその場ですぐ、「千晶の映画をやろうか」と提案した。「千晶」とは、本作の製作担当である奥田誠治の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治は日本テレビの社員で、宮崎の友人のひとりだった。奥田千晶は毎年夏に宮崎の山小屋に滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台を江戸東京たてもの園にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・高畑勲らの日常的な散歩コースになっていた。身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作るという宮崎の提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった。
ある夏、宮崎らが山小屋の近くの川に沿って散歩をしていると、千晶がピンク色の運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎・鈴木は必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた。このエピソードは宮崎の印象に残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックスの場面で直接的に使われている。幼いころの千尋はハク(コハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのときの運動靴はピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている。企画は当初、「千の神隠し」という仮題でスタートし、主人公の名前もそのまま「千晶」になっていた。しかし、「教育上よくない」という理由で、「千尋」と改められた。
1999年11月2日、企画書が書き上げられた。宮崎は企画書の中で大きく分けて次の3点の意図を掲げている。
「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で、本作を「10歳の女の子達のための映画」と位置づけている。
『千と千尋の神隠し』は、『霧のむこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りのリナ』、『煙突描きのリン』の影響を部分的に受けてはいるが、キャラクターやストーリー展開の面では完全なオリジナルになった。
本作の制作は、12月13日に東宝が公開した配給作品ラインナップで公にされた。
1999年11月8日、宮崎駿はメインスタッフに向けて説明会を行う。11月12日にはジブリ全社員を集めて作品についてレクチャー。翌週から監督は絵コンテ作業に入り、メインスタッフたちも本格的な制作準備に入った。
2000年2月1日、宮崎は社内に打ち入りを宣言、作画打ち合わせがスタートした。
作画監督には安藤雅司が起用された。安藤は『もののけ姫』で26歳にして作画監督に抜擢された。しかし、鈴木敏夫の回想によれば、『もののけ姫』の制作終了後、安藤は一度辞意を示しており、鈴木に慰留されていた。宮崎のアニメーションがキャラクターを理想化・デフォルメする傾向が強いのに対して、安藤はリアリズムを希求し、映像的な快楽を優先して正確さを犠牲にすることを許さなかった。両者の志向は対立していた。
通常のアニメ作品では、原画修正は作画監督が行い、監督は直接関与しない。しかし、宮崎駿監督作品の場合、宮崎がアニメーターの長として全体の作画作業を統括し、原画のデッサン・動き・コマ数などを先に描き直す。このため、作画監督の仕事は宮崎のラフな線を拾い直す作業が主となる。安藤は『もののけ姫』公開後のインタビューで、宮崎の作品では作画監督という肩書で仕事をしたくないと心情を語っている。そこで鈴木は、次回作では「芝居」についても安藤のやり方で制作していいと認めることにした。
宮崎自身も、『もののけ姫』の制作で加齢による体力の低下を痛感し、すでに細かな作画修正作業を担いきれない段階にあると考え、作画の裁量を安藤に委ねる方針を取った。それだけでなく、演出を安藤に任せる案もあった。宮崎が絵コンテを描いた『耳をすませば』で近藤喜文が監督を担当した前例もあり、同様の制作体制が取られる可能性もあった。少なくとも『ゴチャガチャ通りのリナ』の段階では、演出を安藤に任せるつもりでいたという。しかし、当の安藤は宮崎の絵コンテで演出をするつもりはなく、結局は宮崎が監督することになった。
原画は過去最大規模の37人体制になった。しかし、当時ジブリ社内の原画陣は過去に例がないほど脆弱で、特に中堅のアニメーターの層が薄かった。これに加えて、フリーで活躍しているアニメーターを積極的に受け入れ、宮崎駿の中になかった表現を取り入れたいという安藤の意向もあり、大平晋也や山下明彦といった実力派のフリーアニメーターが参加した。
動画チェックチーフは舘野仁美。舘野は『となりのトトロ』から『風立ちぬ』までのすべての宮崎監督作で動画チェックを務めている。動画班は最終的に、国内スタッフが99人、韓国の外注スタッフが27人、計126人が動員された。
宮崎駿は、長編映画制作の際、事前にシナリオを用意しない。絵コンテを描きながらストーリーを構想し、各スタッフは絵コンテがすべて完成する前から作業を進めていく。その間は監督自身でさえも作品の全容を知らない。本作では、絵コンテが40分ほど完成したところで転機が訪れた。2000年のゴールデンウィーク中のある日、その日は休日だったため、多くのスタッフは出勤していなかったが、プロデューサーの鈴木敏夫、作画監督の安藤雅司、美術監督の武重洋二、加えて制作担当者がたまたま居合わせた。宮崎はホワイトボードに図を描きながら、映画後半のストーリーを説明しはじめた。千尋は湯屋で働きながら湯婆婆を打倒する。ところが、湯婆婆の背後には銭婆というさらに強力な黒幕がいたことが判明する。ハクの力を借りて銭婆も倒し、名前を取り返して両親を人間に戻す。このような流れである。
しかし、この案では上映時間が3時間を超えてしまうという意見が出た。鈴木は公開を一年延期しようと提案したが、宮崎と安藤はこれを否定。上記のプロットは破棄されることになった。宮崎はそこでとっさに、千尋が初めて湯屋に入るシーンで欄干のそばに立っていたキャラクターを話題にした。当初カオナシは、「何の予定もなくてただ立たせていただけ」だったが、映像にしたときに奇妙な存在感があり、宮崎にとって気になるキャラクターになっていた。宮崎は即席で、湯屋でカオナシが大暴れするストーリーを語った。これが採用されることになり、絵コンテ執筆は大きく転換した。湯婆婆を退治するという展開は立ち消え、代わりに千尋とカオナシの関係にスポットライトが当たることになった。
当初は予定通り安藤雅司が作画工程を統括し、原画修正を任されていた。鈴木敏夫の約束通り、宮崎駿はタイミングのみをチェックした。しかし、日を追うにつれ、宮崎と安藤の間の溝は次第に深まっていった。宮崎は「どこにでもいる10歳の少女を描く」というコンセプトを掲げた。安藤はこの方針に可能性を感じ、今までの宮崎駿監督作にはなかったような現実的な空間を作り上げることで、ジブリアニメに新しい風を吹きこもうとした。そのような試みのひとつが「子供を生々しく描く」ということだった。安藤が用意した千尋のキャラクター設定は、背中が曲がり、無駄の多い緩慢な動作に満ち、表情はぶうたれていて喜怒哀楽が不鮮明だった。これは従来宮崎が描いてきた少女像からかけ離れたもので、とりわけ、目の描き方が一線を画していた。序盤の絵コンテは、千尋の不機嫌なキャラクター性を反映してゆっくりとした展開となった。しかしながら宮崎は、千尋がグズであるがゆえに先行きの見えてこない物語に苛立った。絵コンテでは、千尋が湯屋で働きはじめるまでの段階で、すでに40分が経っていた。そこで、中盤以降は一気にスペクタルに満ちた展開に舵を切った。千尋も序盤とは打って変わってデフォルメされた豊かな表情を見せ、きびきびと行動するようになった。そこには、旧来通りの、宮崎らしい、理想化されたヒロインがいた。安藤はこの方向転換に「違和感と失望」を抱いたが、それでもなお緻密な修正を続け、作画監督の通常の仕事範囲を超えて動画段階でもチェックを行い、場合によっては動画枚数を足すなど、身を削って作業を進めた。カットの増加・作画作業の遅延によって補助的に作画監督(賀川愛・高坂希太郎)が増員されたが、最終チェックはすべて安藤が担った。結局は宮崎も、当初の予定に反して、レイアウト修正・原画修正を担うようになった。宮崎の提示する演出意図と安藤の指示の食い違いに戸惑うスタッフは多かったという。
安藤は制作終了後のインタビューで、最終的には作品と距離をおいた関わり方になってしまったこと、全体としては宮崎の作品の枠を出ることができなかったこと、当初自分で思い描いていた作品はどうしても実現できなかったことを振り返っている。しかし、宮崎は「安藤の努力と才能がいい形で映画を新鮮にしている」と評価しており、鈴木は宮崎と安藤の緊張関係によって画面に迫力がみなぎるようになったと語る。安藤は本作を最後にジブリを退職したが、『かぐや姫の物語』(2013年)にはメインアニメーターとして、『思い出のマーニー』(2014年)には作画監督および脚本(連名)としてジブリ作品に再び参加している。
2000年9月20日、スタジオジブリ社長、徳間康快が死去。10月16日、新高輪プリンスホテルにてお別れ会。宮崎は会の委員長を務めた。葬儀に出席する喪服の男たちがみなカエルのように見えたと語っており、作中に登場するカエル男たちとの関係をほのめかしている。徳間は作品の完成を見ずにこの世を去ったが、「製作総指揮」としてクレジットされている。
同時期、作画作業の遅延は深刻化していた。前述の通り作画監督が増員されたのはこのころだった。経験の浅い新人アニメーターに対しては「遅くとも1人1週間で1カットあげる」という目標を設定したが、それだけではとても公開に間に合わない計算になり、鈴木は頭を悩ませた。社内で上げたカットは全体の半分程度にとどまり、残りは外注で仕上げた。アニメーターの小西賢一に依頼して実力のあるフリーアニメーターをリストアップしてもらい、支援を要請した。
動画・彩色は、国内の外注スタジオに委託しただけでは間に合わないということが明らかになった。そこで、ジブリ創設以来はじめて、海外スタジオに動画と仕上を外注することを決断。スタジオから4人を韓国に派遣した。韓国のD.R DIGITALは動画・彩色を、JEMは彩色を担当した。両社の仕事は高品質で、納期も遵守された。
美術監督は武重洋二、美術監督補佐は吉田昇。美術班も作画部門と同様新人スタッフが多かったため、武重はほぼすべてのカットの美術ボードを描いた。しかも、用途別に各カットごと3枚の美術ボードを描くほど念入りだった。『となりのトトロ』の作画監督であるベテランの男鹿和雄は、主に不思議の町に入り込む前の世界、冒頭とラストシーンの自然環境の背景を一任され、該当場面のモデルとなった四方津駅周辺を独自に取材した。湯屋の中の巨大な鬼の襖絵は吉田昇が担当した。
宮崎からは「どこか懐かしい風景」「目黒雅叙園のような擬洋風、古伊万里の大きな壺」などの指示があった。色については「とにかく派手に」「下品なほどの赤」という指定があり、随所にちりばめられた赤色と湯屋内部の金色がキーカラーになっている。
2000年3月17日には、江戸東京たてもの園でロケハンが行われた。江戸東京たてもの園は、企画当初から作品の舞台とされていた場所である。油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない。ただし、江戸東京たてもの園の子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、特に千鳥破風の屋根に加えて玄関の上に唐破風(別の屋根の形式)を重ねる趣向、および内部の格天井に描かれた富士山のタイル絵などの「無駄な装飾性」に魅了されたという。また、ジブリの社員旅行で訪れたことのある道後温泉本館も参考にされた。油屋の内装は目黒雅叙園が原形になっており、他に二条城の天井画、日光東照宮の壁面彫刻、広島の遊郭の赤い壁などが参考にされた。釜爺の仕事場にあった薬草箱は江戸東京たてもの園の武居三省堂(文具屋)内部の引出しがモデルになっている。油屋周辺の飲食店街は、新橋の烏森口や有楽町ガード下の歓楽街をイメージして描かれている。従業員の部屋は、1950年代の劣悪な労働環境だった近江紡糸工場の女工たちの部屋や、多磨全生園隣接の国立ハンセン病資料館内に再現された雑居部屋がモデルとなっている。湯婆婆の部屋は、和洋の混じった鹿鳴館や目黒雅叙園がモデルである。
台湾の台北近郊の町九份の一部商店主は宮崎駿が訪れスケッチをしたと主張しているが、宮崎は台湾メディアのインタビューに対して九份を作品の参考にしたことはないと否定している。
スタジオジブリでは『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)よりデジタル彩色が導入されており、本作は宮崎駿監督作品としては初めて、仕上・撮影の工程がデジタル化された。これに伴って宮崎は一部の役職を新しく命名し、CG部チーフだった片塰満則は「デジタル作画監督」に、撮影監督だった奥井敦は「映像演出」になった。『となりの山田くん』では水彩画調の実験的な彩色が行われたため、長編映画でデジタル彩色を用いて従来のセルアニメーションを再現していく作業は、ジブリにおいては実質的に初めての経験といってよかった。この状況を踏まえて、作画・美術・デジタル作画・映像演出の各チーフによって「処理打ち合わせ」という会議が持たれ、各部署間での密接な連携が模索された。たとえば、雨が降ったあとにできた海の描写はデジタル部門や撮影班の上げた成果である。
デジタル作画部門はほぼすべての背景動画を担当した。それ以外に、浮き上がる「荻野千尋」の文字や、川の神のヘドロ、海原電鉄から見た黒い人物の様子などを担当した。
映像演出部門では、現像を手掛けるイマジカと協力して、独自のカラーマネジメントシステムを導入し、デジタルデータをフィルムに変換する際に色調が変化しないよう努めた。また、本作は初期のDLP上映作品であり、本来であればフィルム特有の画面の揺れは抑えられる環境にあったが、映像演出の奥井はあくまでフィルム上映を基本と考え、完成画面の上下左右に1センチの余裕を残して、シーンに応じてデジタルデータにわざとブレを加える工夫をした。
色彩設計は保田道世。宮崎駿・高畑勲とは東映動画に在籍していた1960年代からの知己であり、『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』に至るまで、すべての宮崎駿監督長編作品で色彩設計部門のチーフを務めている。本作ではデジタル化により扱える色の量が飛躍的に増加した。
音楽を担当した久石譲は、『風の谷のナウシカ』以降の宮崎長編作品をすべて手掛けており、『千と千尋の神隠し』で7作目に当たる。公開に先駆け2001年4月にイメージアルバムが発売され、5曲のボーカル曲のすべてを宮崎が作詞した。宮崎はイメージアルバムに収録されたピアノ曲「海」を気に入っており、久石はこの曲が海上を走る電車のシーンにうまく「はまった」ことを喜んだ。
本作ではインドネシアのガムランや琉球音楽、シルクロード、中近東、アフリカなどのエスニックな楽器や現地の人が叩いたリズムのサンプリングがふんだんに採り入れられ、フルオーケストラと融合するアプローチが行われた。久石は前作『もののけ姫』と共に「スタンダードなオーケストラにはない要素を導入しながら、いかに新しいサウンドを生み出していくか、というチャレンジを試みていた時期ですね」と述懐している。
覚和歌子作詞、作曲・歌はソプラノ歌手の木村弓による「いつも何度でも」が主題歌となった。しかし、この曲はもともと『千と千尋』のために書かれたものではない。木村弓と宮崎の交流は、1998年夏ごろに木村が宮崎に書いた手紙に端を発する。木村は前作『もののけ姫』を鑑賞して感銘を受け、自らのCDを添えて手紙を送った。
当時、宮崎は『煙突描きのリン』の企画中だったので、そのあらすじを書き添えたうえで「作品が形になったら連絡するかもしれない」と返事した。木村は『リン』の世界から刺激を受けてメロディを着想。作詞家の覚に持ちかけて曲の制作に入った。こうして、「いつも何度でも」は1999年5月に完成した。しかし宮崎から連絡があり、『リン』の企画自体が没になったので、主題歌には使うことができないと伝えられる。「いつも何度でも」はお蔵入りになりかけた。『千と千尋の神隠し』の主題歌は、宮崎作詞・久石作曲の「あの日の川へ」になる予定だった。
イメージアルバムの1曲目には同名のボーカル曲が収録されている。しかし、宮崎の作詞作業が暗礁に乗り上げ、不採用になった。2001年2月、「いつも何度でも」を聞き直した宮崎は、「ゼロになるからだ」などの歌詞と映画の内容が合致することに驚き、急遽主題歌としての再起用を決める。『千と千尋』を制作するにあたって「いつも何度でも」が潜在的な影響を与えたのかもしれない、と振り返っている。シングル「いつも何度でも」の売上は50万枚以上を記録した。
企画書にある「あいまいになってしまった世の中」、「あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中」の縮図として設定されたのが、湯屋という舞台である。湯屋の勤務形態は夜型だが、スタジオジブリもまた夜型の企業であり、企業組織としての湯屋はスタジオジブリそのものがモデルになっている。宮崎もスタッフに「湯屋はジブリと同じだ」と説明し、ジブリ社内は「10歳の少女には魑魅魍魎の世界に見える」と語った。たとえば、湯婆婆はときどき湯屋から外出してどこか知れぬところへ飛んで行くが、この行動には、会議・出張などで頻繁にジブリからいなくなる鈴木敏夫のイメージが重ねられている。インタビューによれば、宮崎はペルーの少年労働を扱ったドキュメンタリー番組を見たことがあり、子供が労働することが当然である世界の現状を忘れたくなかったので、過酷な環境下で少女が労働を強いられるストーリーを執筆したと説明している。
町山智浩・柳下毅一郎は「湯屋は遊郭である」と指摘し、作品スタッフの舘野仁美(動画チェック)も同様の発言をしている。宮崎自身は、千尋が迷いこむ不思議な世界のイメージを伝える文脈で、学生時代に新宿の赤線地帯付近を通りかかったときに見た「赤いライトの光景」についてスタッフに説明したという。また、雑誌「プレミア日本版」2001年9月号のインタビューでも同様の発言があり、子供のころにはまだ残っていた新宿の「赤いランタン」に触れたうえで、「日本はすべて風俗営業みたいな社会になっている」「いまの世界として描くには何がふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思う」と語っている。湯屋に大浴場がなく、個室に区切られていることについて質問されたときには、「いかがわしいこと」をするためであろうと答えている。かつての日本の湯屋では、湯女による垢すりや性的行為が一般的に行われていた。
そして、鈴木の述懐によれば、企画の原点には鈴木と宮崎の間で交わされた「キャバクラ」についての会話があった。その内容はこうである。鈴木にキャバクラ好きの知人がいた。この知人から聞いた話では、キャバクラで働く女性には、もともとコミュニケーションがうまくできないひとも多い。客としてくる男性も同じようなものである。つまりキャバクラは、コミュニケーションを学ぶ場なのである。異性と会話せざるを得ない環境に放り込まれて働いているうちに、元気を取り戻していく(という従業員もいる)。鈴木によれば、宮崎はこの談話をヒントにして湯屋の物語を構想した。すなわち、千尋が湯屋で神々に接待していくうちに、生きる力を取り戻していくというストーリーである。
「神仏混淆の湯治場」という発想は、「霜月祭」がもとになっている。この祭りは「十二月に神々を招いて湯を浴びさせる」というもので、様々な仮面を被った人々が多種多様な神々を演じて舞う神事である。鈴木と宮崎はNHKドキュメンタリー『ふるさとの伝承』でこの祭りを知り、着想を得た。霜月祭は、長野県下伊那郡天龍村に伝わる「天龍村の霜月神楽」や長野県飯田市の遠山郷(旧南信濃村、旧上村)に伝わる「遠山の霜月祭」など、長野・愛知・静岡の県境にまたがる地域の各地で行われている。また、静岡県静岡市の「清沢神楽」や静岡県御殿場市の「湯立神楽」、愛知県北設楽郡の「花祭り」など「釜で湯を沸かして掛け踊る」という湯立神楽の祭事は、日本各地で行われている。
1994年春頃、宮崎は自宅付近を流れるドブ川を観察する。川の中では、ユスリカの幼虫が大量発生して、汚濁した水の中で懸命に生きていた。宮崎はその様子を見て「今後の人間の運命」を感じる経験をした。後に宮崎は地元有志とドブ川を掃除し、そのときの経験が汚れた河の神の内部から自転車などを引き出すシーンとして活かされた。その後も川掃除は宮崎の習慣になっており、2016年に一般市民が制作したドキュメンタリー作品では、宮崎が川掃除などの地域の清掃活動に取り組む様子が収められている。
千尋が車の後部座席で揺られながら不満を口にしている冒頭の場面について、押井守は、これは宮崎が元々『柳川堀割物語』のオープニングとして検討していたものであり、諦めきれなかったものではないかと推測している。また押井は、千尋とカオナシが路面電車に乗って銭婆に会いに行く場面は、明らかに三途の川をイメージしたものとみており、宮崎も意識しているだろうと述べている。
鈴木敏夫は、宣伝の量と上映館のキャパシティの両方を『もののけ姫』の倍にする計画を立てたと語っている。鈴木を奮起させたのは、宮崎駿の息子、吾朗と、博報堂の藤巻直哉の言葉だった。鈴木は、前作に続いて今作でも大ヒットが続けば、宮崎がおかしくなってしまうのではないかと心配していた。しかし、宮崎吾朗は、当時デザインに取り組んでいた三鷹の森ジブリ美術館の成功を望み、『千と千尋の神隠し』を前作の倍ヒットさせてほしいと言った。のちに『崖の上のポニョ』の主題歌を歌うことになる藤巻直哉は、2000年の秋頃に赤坂でばったり鈴木と出くわした。当時、電通と博報堂は1作ごとに交代で製作委員会に入っていたため、博報堂の担当者である藤巻は関わっていなかった。藤巻はそこで次のようなことを漏らした。次の作品は、『もののけ姫』の半分は行くだろうとみんな言っている。電通がうらやましい、と。鈴木はこの言葉にいきり立ち、必ずや『千と千尋』を大ヒットさせると決意する。
2001年3月26日、江戸東京たてもの園で製作報告会。宮崎は、「幼いガールフレンド」たちが本当に楽める映画を作りたいと制作の動機を語った。徳間書店・スタジオジブリ・日本テレビ・電通・ディズニー・東北新社・三菱商事が製作委員会を組んだ。本作から新たに加わった出資企業は2社。ディズニーは『ホーホケキョ となりの山田くん』から参加していたが、東北新社と三菱商事は初参加だった。電通経由で特別協賛に入ったネスレ日本と、三菱商事系列企業のローソンはタイアップで活躍した。ネスレは本編映像を使用したテレビCMの放映などでキャンペーンを展開した。
コンビニエンスストアとのタイアップはジブリにとって初めての経験だった。それまで鈴木はコンビニを敬遠していたが、ローソンは全国約7000店の店舗で『千尋』を大々的に告知、独自にフィギュアつき前売り券などを用意し、映画館窓口の販売実績を超える32万枚の前売り券を売り上げた。この機にジブリとローソンのタッグは確立され、三鷹の森ジブリ美術館が完成した後にはローソンが唯一のチケット窓口になるなど、関係は続いている。
劇場の本予告・および新聞広告ではカオナシが前面に押し出された。本予告は二種類が作成され、2001年3月から5月までの予告「A」は、千尋が不思議な町に迷いこみ、親が豚になってしまうところまでをホラー映画風にまとめたものだった。対して、6月から流れた予告「B」は、千尋がカオナシを湯屋に招き入れ、カオナシが暴走するところまでをまとめた。
鈴木は、本作を「カオナシの映画」であると考え、カオナシを宣伝の顔として立てることを決めた。その理由として、前述した千尋のキャラクターの極端な変貌を鈴木が感じ取っていたことが挙げられる。不機嫌な千尋の視線に沿ってゆったりとした前半の展開と、中盤以降のきびきびと働く千尋を追いかけるような展開にはギャップがあり、鈴木は本作を「1本で2本分の映画」であるように思った。鈴木の語ったところによれば、宮崎自身も当初は「千尋とハクの話」だと考えており、カオナシ中心に宣伝を行うことに違和感を持っていた。しかし、映画が完成に近づいた段階でラッシュ(完成した素材を荒くつないだ映像)を見て、「千尋とカオナシの話」であることを認めたという。
当初は、糸井重里の書いた「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」という宣伝コピーが使われていた。しかし、宣伝プロデューサーを務めた東宝の市川南の意見で、「〈生きる力〉を呼び醒ませ!」というサブコピーが考案され、新聞広告などではこちらのほうが大きく取り上げられた。
宣伝チームはローラー作戦をかけ、通常であれば行かないような地方の小さな町まで訪れるなど、徹底したキャンペーンを張ったと鈴木は証言する。
2001年7月10日、帝国ホテルで完成披露会見。同日、日比谷スカラ座で完成披露試写会。宮崎は前作の公開時に続いて、またしても長編引退をほのめかした。試写の反応は絶賛一色だった。しかし、作品の完成は公開日の2週間前で、試写にかけられる時間がわずかしかなかったことから、『もののけ姫』ほどの大ヒットにはならないだろうという観測が多勢を占めていた。この日の試写会には千尋のモデルとなった奥田誠治の娘、奥田千晶も現れた。宮崎は鈴木とともに千晶を出迎え、「この映画はおじさんと千晶の勝負だ」と言った。上映後の千晶の反応は上々であり、宮崎と鈴木は喜んだ。「おわり」のカットで描いた不鮮明なイラストについて宮崎が尋ねると、千晶はそれが自分の落とした靴の絵であることを正しく言い当てた。
2001年7月20日公開。すぐさま爆発的なヒットになり、週末映画ランキングでは公開以来26週連続トップ10にランクインした。さらに、公開32週目には前週の18位から一気に4位に浮上した。11月11日までの4か月間で、興行収入262億円、観客動員数2023万人を記録。『タイタニック』が保持していた日本の映画興行記録を塗り替えた。1年以上のロングラン興行になり、最終的には304億円の興行収入を叩き出した(再上映分の収入を含まず)。この記録は2020年まで破られていなかったが、同年公開された「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」によって破られた。宮崎の個人的な友人である千晶を喜ばせたいという動機でスタートしたこの映画は、実にのべ2350万人もの日本人の足を劇場に運ぶに至った。
空前のヒットの興行的な要因としては、まず宮崎の前作『もののけ姫』が1420万人を動員し、新規顧客を開拓したことが挙げられる。また、『もののけ姫』から『千と千尋の神隠し』に至るまでの期間に、シネマコンプレックスが全国的に普及し、人気作品を映画館の複数スクリーンで集中的に上映する体制が整っていたこともある。公開と同時に、他の作品を上映する予定だったスクリーンが『千と千尋の神隠し』に回され、シネコンでの上映を占拠していった。一方、こうした類のない大ヒットは、他の上映作品の興行に悪影響を及ぼした。2001年12月に行われた「大ヒット御礼パーティ」の席上では、興行関係者が困惑を露わにした。興行収入300億という数字は、1年間に公開される邦画のすべてを合わせた量に相当したからである。
本作で行われた大宣伝とは対照的に、次回作『ハウルの動く城』では「宣伝をしない」宣伝方針が取られた。公開前の内容の露出は極端に抑えられることになり、宮崎もメディアから姿を消した。これに関して、鈴木は千と千尋の神隠しがヒットしすぎたことにより、本来ならある程度数字を挙げることができた様々な作品がヒットせず、多方面に迷惑をかけてしまったため、千と千尋がヒットした後に関係者が集まり、二度と千と千尋のような作品を出さないよう、ある程度棲み分けることにしたと語っている。
2016年、スタジオジブリ総選挙で本作が1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。この再上映による興行収入は4.0億円で、累計興行収入は308.0億円となった。
また2020年、新型コロナウイルスの流行によって新作映画の供給が困難になったことを受け、同年6月26日から8月まで全国の映画館で本作の再上映を行った。この再上映による興行収入は8.8億円にのぼり、同年12月15日にこれまでの興行収入(308.0億円)に加算され、本作の正式な興行収入が316.8億円となった。
英語吹替版はピクサー社のジョン・ラセターがエグゼクティブ・プロデューサー(製作総指揮)を担当。配給の優先権を持っていたのはディズニーだったが、2001年8月にディズニーで行われた上映会では、当時CEOだったマイケル・アイズナーの反応は芳しくなかった。宮崎は米国での公開に積極的ではなかったが、鈴木は検討を重ねた末、宮崎の熱烈なファンであるラセターに協力を依頼することにした。1982年、宮崎はアニメ映画『リトル・ニモ』の企画で渡米し、このときにラセターと面識を得ていた。当時まだディズニーに在籍し、不遇の時にあったラセターは、『ルパン三世 カリオストロの城』を鑑賞して衝撃を受け、以来宮崎の熱心なファンとなる。1987年には『となりのトトロ』制作時のジブリを訪れてもいる。その後、ピクサーが創立されるとラセターは移籍し、1995年の『トイ・ストーリー』を皮切りに、ヒット作を送り出していた。
ラセターが説得した結果、ディズニーが北米での配給権を取得。ラセターは『美女と野獣』の監督、カーク・ワイズ(英語版)を英語版監督に、『アラジン』のプロデューサー、ドナルド・W・エルンスト(英語版)を英語版プロデューサーに指名した。英題は Spirited Away に決まった。吹替版は原作に忠実に制作された。しかし、ラストシーンで千尋の父が「New home, new school, must be scaring」(新しい家、新しい学校は怖いだろう)と言い、千尋が「I think I can manage it」(私、きっとやっていけるよ)というシーンが足されている。
2002年9月5日から10日間、宮崎・鈴木らはプロモーションのために米国へ渡った。ラセターは、ピクサー社を案内したり、複葉機による遊覧飛行を用意したりと、ジブリの一行を手厚くもてなした。このときの様子を収めた映像は、DVD『ラセターさん、ありがとう』(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2003年)として発売されている。
9月20日、北米10都市で公開。以後約1年間にわたって小規模ながら興行が続いた。同年12月からは全米で次々と映画賞を受賞した。最終的には約1000万ドルの興行収入を記録した。
日本公開から18年の歳月を経て、2019年6月21日より、およそ9000か所の映画館で初公開された。
2003年1月24日には日本テレビ系列の『金曜ロードショー』でテレビ初放送され、46.9%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)という視聴率を記録した。過去にテレビ放送された劇場映画の最高視聴率である。ビデオリサーチ・関西地区調べでも46.1%の視聴率を記録。日本だけでなく、2004年12月29日にはイギリスで、2006年にはアメリカ合衆国で、2007年9月30日にはカナダでもテレビ放送された(オーストラリアでもテレビ放送実績あり)。
VHS・DVDは2002年7月に発売された。日本国内におけるVHSの出荷本数は250万本、DVDの枚数は300万枚だった。合計550万本の出荷は、やはり新記録だった。
2002年7月に日本で発売された『千と千尋の神隠し』のDVDや、ビデオカセット(VHS)に収録されている本編映像が、劇場公開版や予告編・TVスポットなどと比べて赤みが強いとして、スタジオジブリと発売元のブエナビスタ、消費者センターなどに苦情が寄せられた。
両社は、DVD制作時に用意されたマスターの色調には、意図的な調整を施しているためであり、「このクオリティが最高のものと認識しております」と説明した。映画上映時のTVCMや上映用プリントやDVDに収録された予告編、TVスポットなどにはこの調整は施されていないため、両者の色調が異なっているが、あくまで本編の色調が正しいとした。
2002年11月、この問題で一部ユーザーは、販売元のブエナビスタを相手取り京都地方裁判所に提訴し、正しい色調のDVDとの交換と慰謝料などを請求した。本係争は2004年9月に「ディズニー・ジャパンは購入者に誤解や混乱が生じたことに遺憾の意を表明する」「今後DVD販売に際しデータを調整した時は明記する」「原告らは請求を放棄する」など全5項目の和解が成立し決着した。
その後、北米、ヨーロッパ、韓国では、日本で発売されたものよりも、赤みの強くない映像が収録されたDVDが販売された。
日本テレビでの2003年1月24日の『金曜ロードショー』(開局50周年記念番組)での放送には、DVDと同様のマスターが使用され、以後も使用されるようになった。
2011年1月7日、日本テレビの『金曜ロードショー』で、初めてハイビジョンマスターにより放送。赤みが大幅に軽減され、北米版DVDに近い赤みの強くない映像で放送された。
2014年4月1日、本作のBlu-ray Disc化が正式発表された。発売予定日は2014年7月16日。Blu-ray版ではDVD版のような赤みは無くなり、劇場版と同等の色調で収録された。同時に発売されたデジタルリマスター版DVDも同一の映像マスターを基にしているため、画面の赤みはない。
社会学者の長谷正人は、本作は過去の宮崎作品と比べ、さほど魅惑的ではないと評している。例えば『天空の城ラピュタ』では、はじめ敵として登場する海賊・ドーラ一家が、物語の中盤からは主人公たちの仲間として活躍しはじめる。長谷がいうには、観客はこのとき、彼らに対する見方の転換をせまられる。さらに、海賊船の中で描かれる彼らのリアルな生活に触れ、「「善」とか「悪」とかいったイメージでは割り切れないような不透明な表情を帯びた魅惑的存在」として、ドーラ一家を認識し直すことになるのである。長谷は、同様のことが「ラピュタ」という舞台や、『風の谷のナウシカ』のような作品についてもいえるとし、宮崎は本来、このような「過程」を重視する物語制作を得意としていたと説明する。そして、しかるに本作(や『もののけ姫』)では、宮崎の本来の手法的には「結果」であったはずの「不透明による魅惑」が、最初から提示されてしまっているのだという。例えば湯屋がそうである。湯屋は千尋が成長していく過程で、「悪」なる場所として見えたりすることもなければ、したがって「善」なる場所に変化することもない。長谷は、近年(2010年時点)の宮崎は、空間的な魅力を提示しようとして、物語の中に生まれる魅力を忘却しているようだと嘆じている。
押井守は、本作は宮崎が自分のやりたいシーンを繋いでいったものにすぎないとし、おおむね否定的に評価している。例えば、千尋の両親は千尋が湯屋で働かされる状況を作り出すためだけに豚にさせられているとし、「こういうのをご都合主義と呼びます」と切って捨てている。押井は、本作は要約すれば「都会出身の千尋が重労働して、何かに目覚め」「カオナシを説諭する物語」であるといい、千尋とカオナシの物語になっている点には一定の評価を与えつつも、観客は「この話、どこに行っちゃうの?」という気持ちになったであろうと述べている。ハクからもらったおにぎりをむさぼるシーンなどが好評であったことには頷けるとしつつ、監督の力量が発揮されるのは本来そういった細部の仕事ではなく、実のところ脚本も宮崎が書いたものではないだろうと推測している。 押井は千尋の造形についても難じている。物語で説明されるのは、東京から田舎に転校する千尋が感傷的になっているという状況だけであり、人格が描かれておらず、このことは宮崎が千尋をひとりの人間として描くつもりがなかった証左であると批判している。押井は、宮崎が描き出すレイアウトの魅力についても、全盛期に比べればダイナミズムが消失していると評している。例えば湯屋にはエレベーターがあるが、かつての宮崎なら絶対に階段にしただろうと述べ、これは途中から原画をアニメーターに任せるようになったためではないかと推測している。 問題点が多いにもかかわらず、本作が大ヒットした要因について、押井は「ジブリ映画が大成功しているから」という一点につきると断定し、日本人の国民性があらわれたものと述べている。
精神科医の斎藤環は、少女を風俗店で働かせるという展開を描くような宮崎の倫理性を、「ファシズムへの倒錯的抵抗」として評価するとしつつ、それは同時に、宮崎が「説教好きのロリコン親父」であることの裏返しであるとみなしており、そのために宮崎の意図が、とりわけオタクと呼ばれる男女には正しく伝わらなかったであろうと述べている。「巷間伝え聞くところによれば、男たちは少女・千尋のむき出しの背中を熱く注視し、女たちは美少年・ハクが式神に攻撃された傷にもだえ苦しむ姿にやられたようです。」ただ、「押井守が評価するように、すぐれてエロティックな要素に満ちた作品」である点は認めている。
批評家の東浩紀は、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』以降の宮崎作品の前面に出てくるのは、唯一『もののけ姫』を例外として、すべて能動的に行動できない少女であるという見解を述べている。対談中でなされたそのような東の意見に対し、斎藤が反論しており、以下のように続く。
東は、『トトロ』以前の宮崎作品には、作品内に観客(オタク)が感情移入できる少年がいたと指摘する。ナウシカも理念的には少年と考えられ、『未来少年コナン』『カリオストロの城』『ナウシカ』『ラピュタ』は全て、少年が少女を獲得する構図の物語であったとし、そのような話を描いていたころの宮崎は非常に優秀なストーリーテラーであったと述べている。ところが、オタクを嫌うあまり、観客が同一化する存在を作品世界から消してしまったせいで、宮崎は徐々に単純なファンタジーしか作れなくなってしまったのだという。東によれば本作はその典型であり、「なにも残らない、ただの消費財でしかない映像作品」である。
本作は英語圏で広範な評価を得ている。レビュー集積サイトのRotten Tomatoesでは、178本のレビューが掲載されており、うち97%が肯定的に評価している。平均レートは8.6/10で、掲載されているコンセンサスは次の通り。「『千と千尋の神隠し』は、見事に描き出されたおとぎ話であり、眩惑的、魅惑的だ。この作品を見た観客は、自分たちの住んでいる世界がいつもより少しだけ興味深く、魅力的なものに感じられるだろう」。Metacriticでは41本のレビューをもとに96/100のスコアがついている。シカゴ・サンタイムズのロジャー・イーバートは満点の四つ星をつけ、作品と宮崎の演出を称賛している。また、本作を「今年のベスト映画」のひとつとしている。ニューヨーク・タイムズのエルヴィス・ミッチェルは肯定的なレビューを書き、アニメーションシーケンスを評価している。また、ルイス・キャロルの鏡の国のアリスと好意的な文脈で引き比べており、この映画が「気分としての気まぐれさ (moodiness as mood)」についての作品であり、キャラクターが作品の緊張感を高めていると評している。バラエティ誌のデレク・エリーは、「若者と大人が同じように楽しめる」とし、アニメートと音楽を評価している。ロサンゼルス・タイムズのケネス・タランは吹き替えを評価しており、「荒々しく大胆不敵な想像力の産物であり、こうした創作物はいままでに見たどのような作品にも似ない」としている。また、宮崎の演出も評価している。オーランド・センチネル紙のジェイ・ボイヤーもやはり宮崎の演出を評価し、「引っ越しを終えた子供にとっては最適」の映画だとしている。
2002年2月6日、第52回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品。同映画祭コンペ部門の長編アニメーション映画の出品は初。2月17日、最優秀作品賞である金熊賞を受賞した。ポール・グリーングラス監督『ブラディ・サンデー』と同時受賞だった。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初だった。
2003年2月12日、第75回アカデミー賞長編アニメーション部門へのノミネートが決定。3月23日の授賞式で受賞が発表された。2020年現在に至るまで、同部門を受賞した日本のアニメーションは本作のみである。また手描きのアニメーションとしても唯一の受賞作である。授賞式には宮崎の代理で鈴木敏夫が出席する予定だったが、3月20日に米軍を中心とする有志連合がイラク進攻を開始し、事態が緊迫化したため、断念した。宮崎の受賞コメントは次のようなものになっている。
2009年2月にオリコンがインターネット調査した「日本アカデミー賞 歴代最優秀作品の中で、もう一度観たいと思う作品」で1位に選ばれた。
2016年7月、アメリカの映画サイト・The Playlistが、21世紀に入ってから2016年までに公開されたアニメのベスト50を発表し、本作が第1位に選ばれた。
2016年8月、英BBC企画「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位に選ばれた。
2016年に実施された「スタジオジブリ総選挙」で第1位に選ばれ、2016年9月10日から16日までTOHOシネマズ5スクリーンで再上映された。
2017年4月、映画批評サイト「TSPDT」が発表した「21世紀に公開された映画ベスト1000」にて、第8位に選ばれた。
2017年6月、ニューヨークタイムズ紙が発表した「21世紀のベスト映画25本」で、第2位に選ばれた。
2017年6月、英エンパイア誌が読者投票による「史上最高の映画100本」を発表し、80位にランクインした。
2018年8月、ワシントンポスト紙が発表した「2000年代のベスト映画23本」に選出された。
2018年10月、英BBCが企画・集計した、「非英語映画100選(英語圏にとっての外国語映画100選)」にて、37位に選ばれた。
2019年6月、中国の映画情報サイト「時光網」が発表した、「日本アニメ映画のトップ100」で、第1位に選ばれた。
2019年9月、英インディペンデント紙(デジタル版)が選ぶ、「死ぬ前に観るべき42本の映画」に選出された。
2020年1月、英エンパイア誌が発表した「今世紀最高の映画100選」にて、日本映画で唯一選出された(15位)。
2022年10月、英エンパイア誌が発表した「史上最高の映画100本」にて、第49位に選ばれた。
2022年12月、英国映画協会が発表した「史上最高の映画100」で、第75位に選ばれた。
全て、日本テレビ系『金曜ロードショー』での放送。
1回目の放送はこの年の紅白歌合戦の視聴率(45.9%)を1.0ポイント上回り、2003年の年間視聴率1位を記録し(日本テレビの年間視聴率1位は史上初)、これは2020年現在、民放がスポーツ中継以外で年間視聴率1位を記録した唯一の事例でもある。
演出は『レ・ミゼラブル』などを手掛けたジョン・ケアードが務める。舞台企画が持ち上がったのは2017年で構想から開幕まで5年の歳月を掛けられ、東宝の創立90周年を記念して初の舞台化。2022年の初演では、2月・3月:帝国劇場(東京)、4月:梅田芸術劇場(大阪)、5月:博多座(福岡)、6月:札幌文化芸術劇場(札幌)、6月・7月:御園座(名古屋)にて上演。再演では、2023年8月:御園座(名古屋)、2024年3月:帝国劇場(東京)にて上演予定。
舞台では、油屋に見立てた大型舞台機構を360度回転させながら展開される。軒先、階段、障子と盆(回り舞台)が動く度に見え方が異なるため、移動式の回廊や壁面、天井から上下する屋根などを組み合わせ、湯屋の玄関、釜爺のいるボイラー室、湯婆婆の部屋など映画を彷彿させる空間を表現。セットデザインは英国で活躍するジョン・ボウサーが手掛ける。プロジェクションマッピングなどの技術は敢えて使用せずパペットを用いるなど、全て人力で世界観を表現している。
東京を含む全ての公演のチケットが2022年3月の時点で既に完売していることを受けて、東宝は同年7月3日と4日に御園座にて行われる大千秋楽公演を動画配信サービスのHuluにて有料配信することを同年3月29日に発表したが、一部の出演者において、新型コロナウイルスの感染が相次ぎ、7月3日の上演内容に変更が発生したことを受けて、7月3日の配信分は帝国劇場公演分の収録映像に変更、4日の配信分は予定通り御園座の大千秋楽公演をライブ配信することを同月1日に発表した。
2023年4月28日、再演を発表。千尋役に橋本と上白石が続投する。また、初演の模様を収めたBlu-rayを2023年7月29日に発売すると併せて発表。
2023年8月2日、海外公演を行うことを発表した。2024年4月から約3か月間、舞台版「となりのトトロ」も上演されたイギリス・ロンドンにて行い、主演の千尋役は橋本と上白石のダブルキャストが続投する。
米国ではGKIDSが舞台映像の配給権を所有し、帝国劇場でのダブルキャスト両公演の録画を2023年春に公開した。
2024年公演では、橋本と上白石に加え、オーディションで選ばれた川栄李奈、福地桃子の4人で千尋役を務める。 | [
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"text": "『千と千尋の神隠し』(せんとちひろのかみかくし)は、2001年に公開された日本の長編アニメーション映画。原作・脚本・監督は宮崎駿。2001年(平成13年)7月20日に日本公開。興行収入は316億8,000万円で、『タイタニック』を抜いて、日本歴代興行収入第1位を達成し、第52回ベルリン国際映画祭では『ブラディ・サンデー』と同時に金熊賞を受賞した。",
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"text": "制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は日本テレビの映画プロデューサー、奥田誠治の娘であり、主人公・千尋のモデルになった。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの子供を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女児に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女らに映画を送り届けたいと思うようになった。",
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"text": "宮崎の友人である映画監督ジョン・ラセターの尽力によって北米で公開され、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した。2017年にはニューヨークタイムズ選定21世紀最高の外国語映画ランキングで2位に選ばれた。",
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"text": "2016年に行われたスタジオジブリ総選挙で1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。2020年6月26日より日本372の劇場で『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『ゲド戦記』とともに再上映され、週末観客動員数で1位となった(#再上映も参照)。2022年に舞台化。",
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"text": "10歳の少女荻野千尋は、両親と共に引越し先のニュータウンへと車で向かう途中、父の思いつきから森の中の不思議なトンネルから通じる無人の町へ迷い込む。そこは八百万の神々が住む、人間が足を踏み入れてはならない世界だった。町の怪しい雰囲気を怖がる千尋をよそに、探検気分の両親は食堂街の中で一軒だけ食べ物が並ぶ無人の飲食店を見つけ、店員が来たら代金を払えばいいと勝手に食べ物を食べ始めてしまう。両親の誘いを断って食堂街を一人で歩く千尋は、旅館のような大きな建物の前の橋に着き、橋の下を走る電車を見ていた。背後からの気配に気づいて振り返ると少年が立っており、彼は強い口調で「すぐに戻れ」と言う。急速に日が暮れる中、両親を探すが、店では両親の服を着た大きなブタが二匹いて、食べ物を食い散らかしていた。千尋の両親は神々に出す食べ物に手をつけた咎で、ブタにされてしまったのだ。夜になり、千尋はトンネルに戻ろうと食堂街の出口に来るが、昼は草原だった場所が大河に変わっており、船から降りてくる怪物のような者達を目にしたことでこれは悪い夢だと思い込む。悪夢が消えることを願って自分が消滅しそうになるが、先程の少年ハクに助けられる。",
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"text": "ハクは、八百万の神々が客として集う「油屋」という名の湯屋で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する恐ろしい魔女の湯婆婆で、仕事を持たない者は動物に変えられてしまうと千尋に教える。千尋は、雇ってくれるよう湯婆婆に懇願し、契約の際に名を奪われ「千」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。ハクは、本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなると忠告する。ハクもまた名を奪われ、自分が何者であったのかを思い出せずにいたのだ。しかし、彼はなぜか千尋を知っており、自分の名前は忘れても千尋のことは覚えているのだという。一方、千尋にはハクの正体に心当たりがない。",
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"text": "ブタにされてしまった両親を助けるため油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるという理由で油屋の者達から嫌われる。おまけに悪臭とひどい汚れの客の相手まで押しつけられるが、彼女の実直な働きにより、客から大量の砂金が店にもたらされると、千尋は皆に一目置かれる存在になる。千尋は世話をした礼としてその客から不思議な団子を貰う。",
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"text": "翌日の昼、竜の姿のハクは湯婆婆の命令により、彼女と対立している双子の姉の銭婆から、魔女の契約印を盗み飲み込む。強い魔力を持つ銭婆は、ハクに契約印の守りのまじないとヒトガタで重傷を負わせるが、彼は傷つきながらも最上階の湯婆婆の部屋に向かう。傷ついたハクを従業員部屋から見た千尋は、彼を助けようと後をおって、湯婆婆の部屋に入る。その時、千尋の背中にくっついていたヒトガタから銭婆が現れ、千尋の後を追って部屋に入ってきた湯婆婆の息子の坊をネズミに変えてしまう。その隙にハクが尾でヒトガタを叩き破ると銭婆は消える。その後、千尋がハクに不思議な団子の半分を飲み込ませ、体内の契約印と虫を吐き出させ元の姿に戻すが、ハクは衰弱しており気絶する。千尋はハクを助けたい一心で、ボイラー室の老人釜爺から電車の切符を受け取り、危険など顧みずに銭婆の所へ謝りに行く事を決意する。",
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"text": "その頃、客室ではカオナシという化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。カオナシは以前客だと思い込んだ千尋に親切にされ、湯婆婆の部屋に行く途中の彼女と再会した際、砂金で千尋の気を引こうとするが、断られてしまっていた。再び彼女と対面したカオナシは、食べ物で千尋の気を引こうとするが千尋は拒否。逆に千尋は団子の残りの半分を彼に食べさせ、カオナシに飲み込まれた従業員達を吐き出させて助ける。そして千尋は、なぜかついて来た坊と、油屋から誘い出したカオナシを伴って銭婆の家を訪れる。銭婆は千尋を穏やかに受け入れ、千尋は銭婆に魔女の契約印を返しハクの行いを謝る。銭婆は千尋に旅の仲間と協力して作った紫の髪留めを贈り、カオナシは銭婆の家の手伝いに雇われる。",
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"text": "一方、目を覚ましたハクは、坊が銭婆の元へ行っている事を湯婆婆に伝える。ハクは坊を連れ戻す事を条件に千尋と両親を解放するよう迫った後、帰る手段のなかった千尋を竜の姿で迎えにいく。ハクは銭婆から許しを得て、千尋と共に油屋への帰路につく。その途中で、千尋は自分が幼い頃に落ちた「川」がハクの正体である事を思い出し、彼女が川の名前を告げた事でハクは本当の名前を思い出す。ハクは、落とした靴を拾おうとして溺れかけた千尋を、浅瀬に運び助けたのだった。",
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"text": "翌朝、臨時休業をしている油屋に帰ったハク達。ハクが千尋と彼女の両親を解放するよう湯婆婆に要求すると、今や千尋の味方となった従業員達もハクに賛同する。味方がいなくなり怒る湯婆婆は、油屋の前に集めたブタの中から両親を言い当てろと千尋に難題を出す。千尋はブタ達を真剣に見つめると、この中に両親はいないと正解を言い当てる。湯婆婆の目論見は外れ、契約書が消滅した事で千尋は晴れて自由の身となり、従業員達に祝福されながら油屋を去る。",
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"text": "昼になり、異世界と人間界の境界のトンネルに帰るため食堂街の出口に着くと、夜は大河に変わっていた所が草原に戻っていた。見送るために一緒に来たハクは千尋に、この先には一人で行く事、この先の帰り道でトンネルを出るまでは振り返ってはいけない事、湯婆婆の弟子を辞めて自分も元の世界に戻るつもりである事を伝え、再会を約束して別れる。千尋は草原を歩き続けると、人間に戻った両親がトンネルの前で何事もなかったかのように待っていた。千尋は思わず振り返りそうになるがハクとの約束を思いだし必死に我慢して振り返らず、トンネルを抜けて人間界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは最初に来た時とは違う姿に変わり、彼女は異世界の事を忘れる。しかし銭婆から貰った紫の髪留めはトンネルを抜けても残り、輝いていた。その後、再び車に乗って引越し先に向かう所で物語は幕を閉じる。",
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"text": "最後に、幼い千尋が川に落とした桃色の靴の片方が、流れていく様子が映る。",
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"text": "従業員の大半はカエル(男衆)とナメクジ(女衆〔主に江戸時代にいた大湯女〈おおゆな〉に相当する〕)であり、ヘビ(ハク)と合わせて三すくみの関係にある。",
"title": "登場人物"
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"text": "神道における八百万神(やおよろずのかみ)で、疲れを癒そうと油屋を訪れる。八百万の名の通り、姿形・性質・性格は様々。ロマンアルバムでは、霊々(かみがみ)と表記。",
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"text": "湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める「油屋」(あぶらや)という屋号の湯屋が舞台。油屋は一見和風建築であるが、土台部分はコンクリートであったり、ボイラーやエレベーターといった近代的な設備が備わっている。",
"title": "舞台設定"
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"text": "和風に装っているのは表面部分だけであり、宮崎はこうした作りを「俗悪」と言い表す。最下層にボイラー室と機械室、その上に従業員用のスペースがあり、湯婆婆とハク、釜爺以外の従業員達はそこで寝泊りする。上階が男性従業員の部屋、下階が少女と女性従業員の部屋で、大部屋に大勢で寝る。従業員の生活空間は裏側に配置されており、神々の出入りする正面側からは見えない。油屋正面とその上階が営業スペースとなっている。中に大きな吹き抜けがあり、下には様々な種類の風呂が配置され、その上を取り囲むように宴会場や客室が配置されている。さらに、その上には湯婆婆の個人宅があり、その部分は洋風の建築様式となっている。河の神が使った大戸は空を飛べる(上級の)神用の出入り口。一階玄関はその他の客用の出入り口。",
"title": "舞台設定"
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"text": "千尋達は最初に、トンネルのある時計台のような建物に迷い込む。そこから先は、廃墟が点々とする緩やかな上り坂になった草原がしばらく続く。その後川を渡ると、丘の上の食堂街に出る。時計台と食堂街を区切る川は、昼は小川であるが、夜になり神々が訪れる時間になると草原全体が大河に変わり、そこを船が行き交う。また、夜は遠く対岸にある時計台の周囲に町が現れる。異世界はあらすじ通りに日中の時間の流れ方が人間界と違って早い。また、時計台の文字盤によると異世界は夜が長い模様。その上、一晩ごとに月齢が違い、千尋が河の神の世話をした直後が満月の夜、翌日千尋が銭婆の家から湯屋に帰るのが半月の夜。食堂街を抜けると大きな灯籠のある広場に出、そこから延びる橋が湯屋の正面入り口に繋がる。食堂街の周囲には、両親の収容されている畜舎や冷凍室、花園などが配置されている(花園では季節の異なる花々が同時に咲き乱れている)。湯屋の方から見ると、畜舎は突き出た絶壁の上に建っている事が分かる。湯屋の周囲と湯屋の裏の電車の行き先は大平原になっており、雨が降ると海になる。橋の下には海原電鉄(架線は無い)が走っている。単線の一方通行で、今は行きっ放しである(釜爺によれば、昔は帰りの電車も通っていたという)。千尋が乗る駅は湯屋の裏で建物から離れた位置にある。途中には千尋が降りる「沼の底」駅があり、他に乗客の降りる沼原駅なども出てくる。",
"title": "舞台設定"
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"text": "英語版はピクサーのジョン・ラセターが製作総指揮を手掛け、4人の翻訳家が英語版台本を作成し、カーク・ワイズが演出を手がけた。",
"title": "声の出演"
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"text": "(以上、特に注記のないものはロマンアルバム 2001, pp. 102–103より抜粋)",
"title": "スタッフ"
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"text": "宮崎駿は信州に山小屋を持っており、毎年夏になるとジブリ関係者の娘たちを招いて合宿を行っていた。宮崎は子どもたちを赤ん坊のころから知っており、「幼いガールフレンド」という言い方もしている。少女たちは宮崎を「お山のおじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは思っていなかった。『もののけ姫』公開直後の1997年8月、制作に疲れ果てた宮崎は山小屋で静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問を楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎に次回作への意欲が灯りはじめる。",
"title": "製作"
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"text": "山小屋には『りぼん』や『なかよし』といった少女漫画雑誌が残されていた。宮崎は過去にも、山小屋に置かれていた少女漫画誌から映画の原作を見つけ出している(『耳をすませば』や『コクリコ坂から』)。しかし今回は、漫画の内容が恋愛ものばかりであることに不満を抱いた。山小屋に集まる子どもたちと同じ年齢の、10歳の少女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは、別にあるのではないか。美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳の少女を主人公に据え、しかも安易な成長物語に流れないような映画を作ることができるのではないか。少女が世間の荒波に揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力が溢れ出てくるというような、そんな物語が作れるのではないか。このように考えた。当時宮崎は、思春期前後の少女向け映画を作ったことがなかったので、「幼いガールフレンド」たちに向けて映画をプレゼントすることが目標になった。",
"title": "製作"
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"text": "宮崎は『パンダコパンダ』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませようという動機でアニメーションを制作した。顔の浮かぶ特定の個人に向けて映画を作るという経験はそれ以来のことだった。しかし宮崎駿は、『もののけ姫』の製作中からしきりに監督引退をほのめかしており、1997年6月の完成披露試写会以降、「引退」発言はマスメディアを賑わせていた。当時はまだ引退の心づもりは変わらず、次回作ではシナリオと絵コンテは担当しても、監督は別人を立てるつもりでいた。",
"title": "製作"
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"text": "1998年3月26日、スタジオジブリの企画検討会議で、柏葉幸子『霧のむこうのふしぎな町』(1975年、講談社)が案に挙がる。小学6年生の少女が「霧の谷」を訪れ、魔法使いの末裔たちが営む不思議な商店街で働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作は以前から企画検討にかけられており、1995年の『耳をすませば』では天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を読む場面が組み込まれている。宮崎は、柏葉の原作をもとに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルで企画に取り組む。しかし、これは早々に断念された。",
"title": "製作"
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"text": "次に、新企画『煙突描きのリン』がはじまった。1998年6月、小金井市梶野町のスタジオジブリ付近に事務所「豚屋」が完成、宮崎の個人事務所二馬力のアトリエとして使われることになった。宮崎はここで新企画に取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京を舞台にした映画で、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった。作品の背景には、現代美術家荒川修作の影響があり、荒川をモデルにした登場人物も用意されていた。宮崎は1998年に養老天命反転地を訪れて気に入り、荒川とも対談して意気投合している。プロデューサーの鈴木敏夫によれば、リンと敵対する集団のボスは宮崎自身が投影された60歳の老人であり、しかもこの老人と18歳の主人公のリンが恋に落ちる展開が用意されていたという。",
"title": "製作"
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"text": "1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月、突如廃案になった。鈴木敏夫によれば、次のような出来事があったという。鈴木は、1998年に公開されヒットしていた映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』(本広克行監督)を遅れて鑑賞する。若手の監督によって同時代の若者の気分がリアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に、宮崎の描く若い女性が現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか疑問を抱く。鈴木は映画を観たその足で宮崎のアトリエに赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエの壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとはビジュアルのサンプルを集めたもの。しかし鈴木はそれには触れず、『踊る大捜査線』の話をしはじめた。",
"title": "製作"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "宮崎はその場ですぐ、「千晶の映画をやろうか」と提案した。「千晶」とは、本作の製作担当である奥田誠治の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治は日本テレビの社員で、宮崎の友人のひとりだった。奥田千晶は毎年夏に宮崎の山小屋に滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台を江戸東京たてもの園にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・高畑勲らの日常的な散歩コースになっていた。身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作るという宮崎の提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ある夏、宮崎らが山小屋の近くの川に沿って散歩をしていると、千晶がピンク色の運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎・鈴木は必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた。このエピソードは宮崎の印象に残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックスの場面で直接的に使われている。幼いころの千尋はハク(コハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのときの運動靴はピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている。企画は当初、「千の神隠し」という仮題でスタートし、主人公の名前もそのまま「千晶」になっていた。しかし、「教育上よくない」という理由で、「千尋」と改められた。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "1999年11月2日、企画書が書き上げられた。宮崎は企画書の中で大きく分けて次の3点の意図を掲げている。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で、本作を「10歳の女の子達のための映画」と位置づけている。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "『千と千尋の神隠し』は、『霧のむこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りのリナ』、『煙突描きのリン』の影響を部分的に受けてはいるが、キャラクターやストーリー展開の面では完全なオリジナルになった。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "本作の制作は、12月13日に東宝が公開した配給作品ラインナップで公にされた。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1999年11月8日、宮崎駿はメインスタッフに向けて説明会を行う。11月12日にはジブリ全社員を集めて作品についてレクチャー。翌週から監督は絵コンテ作業に入り、メインスタッフたちも本格的な制作準備に入った。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2000年2月1日、宮崎は社内に打ち入りを宣言、作画打ち合わせがスタートした。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "作画監督には安藤雅司が起用された。安藤は『もののけ姫』で26歳にして作画監督に抜擢された。しかし、鈴木敏夫の回想によれば、『もののけ姫』の制作終了後、安藤は一度辞意を示しており、鈴木に慰留されていた。宮崎のアニメーションがキャラクターを理想化・デフォルメする傾向が強いのに対して、安藤はリアリズムを希求し、映像的な快楽を優先して正確さを犠牲にすることを許さなかった。両者の志向は対立していた。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "通常のアニメ作品では、原画修正は作画監督が行い、監督は直接関与しない。しかし、宮崎駿監督作品の場合、宮崎がアニメーターの長として全体の作画作業を統括し、原画のデッサン・動き・コマ数などを先に描き直す。このため、作画監督の仕事は宮崎のラフな線を拾い直す作業が主となる。安藤は『もののけ姫』公開後のインタビューで、宮崎の作品では作画監督という肩書で仕事をしたくないと心情を語っている。そこで鈴木は、次回作では「芝居」についても安藤のやり方で制作していいと認めることにした。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "宮崎自身も、『もののけ姫』の制作で加齢による体力の低下を痛感し、すでに細かな作画修正作業を担いきれない段階にあると考え、作画の裁量を安藤に委ねる方針を取った。それだけでなく、演出を安藤に任せる案もあった。宮崎が絵コンテを描いた『耳をすませば』で近藤喜文が監督を担当した前例もあり、同様の制作体制が取られる可能性もあった。少なくとも『ゴチャガチャ通りのリナ』の段階では、演出を安藤に任せるつもりでいたという。しかし、当の安藤は宮崎の絵コンテで演出をするつもりはなく、結局は宮崎が監督することになった。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "原画は過去最大規模の37人体制になった。しかし、当時ジブリ社内の原画陣は過去に例がないほど脆弱で、特に中堅のアニメーターの層が薄かった。これに加えて、フリーで活躍しているアニメーターを積極的に受け入れ、宮崎駿の中になかった表現を取り入れたいという安藤の意向もあり、大平晋也や山下明彦といった実力派のフリーアニメーターが参加した。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "動画チェックチーフは舘野仁美。舘野は『となりのトトロ』から『風立ちぬ』までのすべての宮崎監督作で動画チェックを務めている。動画班は最終的に、国内スタッフが99人、韓国の外注スタッフが27人、計126人が動員された。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "宮崎駿は、長編映画制作の際、事前にシナリオを用意しない。絵コンテを描きながらストーリーを構想し、各スタッフは絵コンテがすべて完成する前から作業を進めていく。その間は監督自身でさえも作品の全容を知らない。本作では、絵コンテが40分ほど完成したところで転機が訪れた。2000年のゴールデンウィーク中のある日、その日は休日だったため、多くのスタッフは出勤していなかったが、プロデューサーの鈴木敏夫、作画監督の安藤雅司、美術監督の武重洋二、加えて制作担当者がたまたま居合わせた。宮崎はホワイトボードに図を描きながら、映画後半のストーリーを説明しはじめた。千尋は湯屋で働きながら湯婆婆を打倒する。ところが、湯婆婆の背後には銭婆というさらに強力な黒幕がいたことが判明する。ハクの力を借りて銭婆も倒し、名前を取り返して両親を人間に戻す。このような流れである。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "しかし、この案では上映時間が3時間を超えてしまうという意見が出た。鈴木は公開を一年延期しようと提案したが、宮崎と安藤はこれを否定。上記のプロットは破棄されることになった。宮崎はそこでとっさに、千尋が初めて湯屋に入るシーンで欄干のそばに立っていたキャラクターを話題にした。当初カオナシは、「何の予定もなくてただ立たせていただけ」だったが、映像にしたときに奇妙な存在感があり、宮崎にとって気になるキャラクターになっていた。宮崎は即席で、湯屋でカオナシが大暴れするストーリーを語った。これが採用されることになり、絵コンテ執筆は大きく転換した。湯婆婆を退治するという展開は立ち消え、代わりに千尋とカオナシの関係にスポットライトが当たることになった。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "当初は予定通り安藤雅司が作画工程を統括し、原画修正を任されていた。鈴木敏夫の約束通り、宮崎駿はタイミングのみをチェックした。しかし、日を追うにつれ、宮崎と安藤の間の溝は次第に深まっていった。宮崎は「どこにでもいる10歳の少女を描く」というコンセプトを掲げた。安藤はこの方針に可能性を感じ、今までの宮崎駿監督作にはなかったような現実的な空間を作り上げることで、ジブリアニメに新しい風を吹きこもうとした。そのような試みのひとつが「子供を生々しく描く」ということだった。安藤が用意した千尋のキャラクター設定は、背中が曲がり、無駄の多い緩慢な動作に満ち、表情はぶうたれていて喜怒哀楽が不鮮明だった。これは従来宮崎が描いてきた少女像からかけ離れたもので、とりわけ、目の描き方が一線を画していた。序盤の絵コンテは、千尋の不機嫌なキャラクター性を反映してゆっくりとした展開となった。しかしながら宮崎は、千尋がグズであるがゆえに先行きの見えてこない物語に苛立った。絵コンテでは、千尋が湯屋で働きはじめるまでの段階で、すでに40分が経っていた。そこで、中盤以降は一気にスペクタルに満ちた展開に舵を切った。千尋も序盤とは打って変わってデフォルメされた豊かな表情を見せ、きびきびと行動するようになった。そこには、旧来通りの、宮崎らしい、理想化されたヒロインがいた。安藤はこの方向転換に「違和感と失望」を抱いたが、それでもなお緻密な修正を続け、作画監督の通常の仕事範囲を超えて動画段階でもチェックを行い、場合によっては動画枚数を足すなど、身を削って作業を進めた。カットの増加・作画作業の遅延によって補助的に作画監督(賀川愛・高坂希太郎)が増員されたが、最終チェックはすべて安藤が担った。結局は宮崎も、当初の予定に反して、レイアウト修正・原画修正を担うようになった。宮崎の提示する演出意図と安藤の指示の食い違いに戸惑うスタッフは多かったという。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "安藤は制作終了後のインタビューで、最終的には作品と距離をおいた関わり方になってしまったこと、全体としては宮崎の作品の枠を出ることができなかったこと、当初自分で思い描いていた作品はどうしても実現できなかったことを振り返っている。しかし、宮崎は「安藤の努力と才能がいい形で映画を新鮮にしている」と評価しており、鈴木は宮崎と安藤の緊張関係によって画面に迫力がみなぎるようになったと語る。安藤は本作を最後にジブリを退職したが、『かぐや姫の物語』(2013年)にはメインアニメーターとして、『思い出のマーニー』(2014年)には作画監督および脚本(連名)としてジブリ作品に再び参加している。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2000年9月20日、スタジオジブリ社長、徳間康快が死去。10月16日、新高輪プリンスホテルにてお別れ会。宮崎は会の委員長を務めた。葬儀に出席する喪服の男たちがみなカエルのように見えたと語っており、作中に登場するカエル男たちとの関係をほのめかしている。徳間は作品の完成を見ずにこの世を去ったが、「製作総指揮」としてクレジットされている。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "同時期、作画作業の遅延は深刻化していた。前述の通り作画監督が増員されたのはこのころだった。経験の浅い新人アニメーターに対しては「遅くとも1人1週間で1カットあげる」という目標を設定したが、それだけではとても公開に間に合わない計算になり、鈴木は頭を悩ませた。社内で上げたカットは全体の半分程度にとどまり、残りは外注で仕上げた。アニメーターの小西賢一に依頼して実力のあるフリーアニメーターをリストアップしてもらい、支援を要請した。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "動画・彩色は、国内の外注スタジオに委託しただけでは間に合わないということが明らかになった。そこで、ジブリ創設以来はじめて、海外スタジオに動画と仕上を外注することを決断。スタジオから4人を韓国に派遣した。韓国のD.R DIGITALは動画・彩色を、JEMは彩色を担当した。両社の仕事は高品質で、納期も遵守された。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "美術監督は武重洋二、美術監督補佐は吉田昇。美術班も作画部門と同様新人スタッフが多かったため、武重はほぼすべてのカットの美術ボードを描いた。しかも、用途別に各カットごと3枚の美術ボードを描くほど念入りだった。『となりのトトロ』の作画監督であるベテランの男鹿和雄は、主に不思議の町に入り込む前の世界、冒頭とラストシーンの自然環境の背景を一任され、該当場面のモデルとなった四方津駅周辺を独自に取材した。湯屋の中の巨大な鬼の襖絵は吉田昇が担当した。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "宮崎からは「どこか懐かしい風景」「目黒雅叙園のような擬洋風、古伊万里の大きな壺」などの指示があった。色については「とにかく派手に」「下品なほどの赤」という指定があり、随所にちりばめられた赤色と湯屋内部の金色がキーカラーになっている。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2000年3月17日には、江戸東京たてもの園でロケハンが行われた。江戸東京たてもの園は、企画当初から作品の舞台とされていた場所である。油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない。ただし、江戸東京たてもの園の子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、特に千鳥破風の屋根に加えて玄関の上に唐破風(別の屋根の形式)を重ねる趣向、および内部の格天井に描かれた富士山のタイル絵などの「無駄な装飾性」に魅了されたという。また、ジブリの社員旅行で訪れたことのある道後温泉本館も参考にされた。油屋の内装は目黒雅叙園が原形になっており、他に二条城の天井画、日光東照宮の壁面彫刻、広島の遊郭の赤い壁などが参考にされた。釜爺の仕事場にあった薬草箱は江戸東京たてもの園の武居三省堂(文具屋)内部の引出しがモデルになっている。油屋周辺の飲食店街は、新橋の烏森口や有楽町ガード下の歓楽街をイメージして描かれている。従業員の部屋は、1950年代の劣悪な労働環境だった近江紡糸工場の女工たちの部屋や、多磨全生園隣接の国立ハンセン病資料館内に再現された雑居部屋がモデルとなっている。湯婆婆の部屋は、和洋の混じった鹿鳴館や目黒雅叙園がモデルである。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "台湾の台北近郊の町九份の一部商店主は宮崎駿が訪れスケッチをしたと主張しているが、宮崎は台湾メディアのインタビューに対して九份を作品の参考にしたことはないと否定している。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "スタジオジブリでは『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)よりデジタル彩色が導入されており、本作は宮崎駿監督作品としては初めて、仕上・撮影の工程がデジタル化された。これに伴って宮崎は一部の役職を新しく命名し、CG部チーフだった片塰満則は「デジタル作画監督」に、撮影監督だった奥井敦は「映像演出」になった。『となりの山田くん』では水彩画調の実験的な彩色が行われたため、長編映画でデジタル彩色を用いて従来のセルアニメーションを再現していく作業は、ジブリにおいては実質的に初めての経験といってよかった。この状況を踏まえて、作画・美術・デジタル作画・映像演出の各チーフによって「処理打ち合わせ」という会議が持たれ、各部署間での密接な連携が模索された。たとえば、雨が降ったあとにできた海の描写はデジタル部門や撮影班の上げた成果である。",
"title": "製作"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "デジタル作画部門はほぼすべての背景動画を担当した。それ以外に、浮き上がる「荻野千尋」の文字や、川の神のヘドロ、海原電鉄から見た黒い人物の様子などを担当した。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "映像演出部門では、現像を手掛けるイマジカと協力して、独自のカラーマネジメントシステムを導入し、デジタルデータをフィルムに変換する際に色調が変化しないよう努めた。また、本作は初期のDLP上映作品であり、本来であればフィルム特有の画面の揺れは抑えられる環境にあったが、映像演出の奥井はあくまでフィルム上映を基本と考え、完成画面の上下左右に1センチの余裕を残して、シーンに応じてデジタルデータにわざとブレを加える工夫をした。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "色彩設計は保田道世。宮崎駿・高畑勲とは東映動画に在籍していた1960年代からの知己であり、『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』に至るまで、すべての宮崎駿監督長編作品で色彩設計部門のチーフを務めている。本作ではデジタル化により扱える色の量が飛躍的に増加した。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "音楽を担当した久石譲は、『風の谷のナウシカ』以降の宮崎長編作品をすべて手掛けており、『千と千尋の神隠し』で7作目に当たる。公開に先駆け2001年4月にイメージアルバムが発売され、5曲のボーカル曲のすべてを宮崎が作詞した。宮崎はイメージアルバムに収録されたピアノ曲「海」を気に入っており、久石はこの曲が海上を走る電車のシーンにうまく「はまった」ことを喜んだ。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "本作ではインドネシアのガムランや琉球音楽、シルクロード、中近東、アフリカなどのエスニックな楽器や現地の人が叩いたリズムのサンプリングがふんだんに採り入れられ、フルオーケストラと融合するアプローチが行われた。久石は前作『もののけ姫』と共に「スタンダードなオーケストラにはない要素を導入しながら、いかに新しいサウンドを生み出していくか、というチャレンジを試みていた時期ですね」と述懐している。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "覚和歌子作詞、作曲・歌はソプラノ歌手の木村弓による「いつも何度でも」が主題歌となった。しかし、この曲はもともと『千と千尋』のために書かれたものではない。木村弓と宮崎の交流は、1998年夏ごろに木村が宮崎に書いた手紙に端を発する。木村は前作『もののけ姫』を鑑賞して感銘を受け、自らのCDを添えて手紙を送った。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "当時、宮崎は『煙突描きのリン』の企画中だったので、そのあらすじを書き添えたうえで「作品が形になったら連絡するかもしれない」と返事した。木村は『リン』の世界から刺激を受けてメロディを着想。作詞家の覚に持ちかけて曲の制作に入った。こうして、「いつも何度でも」は1999年5月に完成した。しかし宮崎から連絡があり、『リン』の企画自体が没になったので、主題歌には使うことができないと伝えられる。「いつも何度でも」はお蔵入りになりかけた。『千と千尋の神隠し』の主題歌は、宮崎作詞・久石作曲の「あの日の川へ」になる予定だった。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "イメージアルバムの1曲目には同名のボーカル曲が収録されている。しかし、宮崎の作詞作業が暗礁に乗り上げ、不採用になった。2001年2月、「いつも何度でも」を聞き直した宮崎は、「ゼロになるからだ」などの歌詞と映画の内容が合致することに驚き、急遽主題歌としての再起用を決める。『千と千尋』を制作するにあたって「いつも何度でも」が潜在的な影響を与えたのかもしれない、と振り返っている。シングル「いつも何度でも」の売上は50万枚以上を記録した。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "企画書にある「あいまいになってしまった世の中」、「あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中」の縮図として設定されたのが、湯屋という舞台である。湯屋の勤務形態は夜型だが、スタジオジブリもまた夜型の企業であり、企業組織としての湯屋はスタジオジブリそのものがモデルになっている。宮崎もスタッフに「湯屋はジブリと同じだ」と説明し、ジブリ社内は「10歳の少女には魑魅魍魎の世界に見える」と語った。たとえば、湯婆婆はときどき湯屋から外出してどこか知れぬところへ飛んで行くが、この行動には、会議・出張などで頻繁にジブリからいなくなる鈴木敏夫のイメージが重ねられている。インタビューによれば、宮崎はペルーの少年労働を扱ったドキュメンタリー番組を見たことがあり、子供が労働することが当然である世界の現状を忘れたくなかったので、過酷な環境下で少女が労働を強いられるストーリーを執筆したと説明している。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "町山智浩・柳下毅一郎は「湯屋は遊郭である」と指摘し、作品スタッフの舘野仁美(動画チェック)も同様の発言をしている。宮崎自身は、千尋が迷いこむ不思議な世界のイメージを伝える文脈で、学生時代に新宿の赤線地帯付近を通りかかったときに見た「赤いライトの光景」についてスタッフに説明したという。また、雑誌「プレミア日本版」2001年9月号のインタビューでも同様の発言があり、子供のころにはまだ残っていた新宿の「赤いランタン」に触れたうえで、「日本はすべて風俗営業みたいな社会になっている」「いまの世界として描くには何がふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思う」と語っている。湯屋に大浴場がなく、個室に区切られていることについて質問されたときには、「いかがわしいこと」をするためであろうと答えている。かつての日本の湯屋では、湯女による垢すりや性的行為が一般的に行われていた。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "そして、鈴木の述懐によれば、企画の原点には鈴木と宮崎の間で交わされた「キャバクラ」についての会話があった。その内容はこうである。鈴木にキャバクラ好きの知人がいた。この知人から聞いた話では、キャバクラで働く女性には、もともとコミュニケーションがうまくできないひとも多い。客としてくる男性も同じようなものである。つまりキャバクラは、コミュニケーションを学ぶ場なのである。異性と会話せざるを得ない環境に放り込まれて働いているうちに、元気を取り戻していく(という従業員もいる)。鈴木によれば、宮崎はこの談話をヒントにして湯屋の物語を構想した。すなわち、千尋が湯屋で神々に接待していくうちに、生きる力を取り戻していくというストーリーである。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "「神仏混淆の湯治場」という発想は、「霜月祭」がもとになっている。この祭りは「十二月に神々を招いて湯を浴びさせる」というもので、様々な仮面を被った人々が多種多様な神々を演じて舞う神事である。鈴木と宮崎はNHKドキュメンタリー『ふるさとの伝承』でこの祭りを知り、着想を得た。霜月祭は、長野県下伊那郡天龍村に伝わる「天龍村の霜月神楽」や長野県飯田市の遠山郷(旧南信濃村、旧上村)に伝わる「遠山の霜月祭」など、長野・愛知・静岡の県境にまたがる地域の各地で行われている。また、静岡県静岡市の「清沢神楽」や静岡県御殿場市の「湯立神楽」、愛知県北設楽郡の「花祭り」など「釜で湯を沸かして掛け踊る」という湯立神楽の祭事は、日本各地で行われている。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1994年春頃、宮崎は自宅付近を流れるドブ川を観察する。川の中では、ユスリカの幼虫が大量発生して、汚濁した水の中で懸命に生きていた。宮崎はその様子を見て「今後の人間の運命」を感じる経験をした。後に宮崎は地元有志とドブ川を掃除し、そのときの経験が汚れた河の神の内部から自転車などを引き出すシーンとして活かされた。その後も川掃除は宮崎の習慣になっており、2016年に一般市民が制作したドキュメンタリー作品では、宮崎が川掃除などの地域の清掃活動に取り組む様子が収められている。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "千尋が車の後部座席で揺られながら不満を口にしている冒頭の場面について、押井守は、これは宮崎が元々『柳川堀割物語』のオープニングとして検討していたものであり、諦めきれなかったものではないかと推測している。また押井は、千尋とカオナシが路面電車に乗って銭婆に会いに行く場面は、明らかに三途の川をイメージしたものとみており、宮崎も意識しているだろうと述べている。",
"title": "製作"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "鈴木敏夫は、宣伝の量と上映館のキャパシティの両方を『もののけ姫』の倍にする計画を立てたと語っている。鈴木を奮起させたのは、宮崎駿の息子、吾朗と、博報堂の藤巻直哉の言葉だった。鈴木は、前作に続いて今作でも大ヒットが続けば、宮崎がおかしくなってしまうのではないかと心配していた。しかし、宮崎吾朗は、当時デザインに取り組んでいた三鷹の森ジブリ美術館の成功を望み、『千と千尋の神隠し』を前作の倍ヒットさせてほしいと言った。のちに『崖の上のポニョ』の主題歌を歌うことになる藤巻直哉は、2000年の秋頃に赤坂でばったり鈴木と出くわした。当時、電通と博報堂は1作ごとに交代で製作委員会に入っていたため、博報堂の担当者である藤巻は関わっていなかった。藤巻はそこで次のようなことを漏らした。次の作品は、『もののけ姫』の半分は行くだろうとみんな言っている。電通がうらやましい、と。鈴木はこの言葉にいきり立ち、必ずや『千と千尋』を大ヒットさせると決意する。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2001年3月26日、江戸東京たてもの園で製作報告会。宮崎は、「幼いガールフレンド」たちが本当に楽める映画を作りたいと制作の動機を語った。徳間書店・スタジオジブリ・日本テレビ・電通・ディズニー・東北新社・三菱商事が製作委員会を組んだ。本作から新たに加わった出資企業は2社。ディズニーは『ホーホケキョ となりの山田くん』から参加していたが、東北新社と三菱商事は初参加だった。電通経由で特別協賛に入ったネスレ日本と、三菱商事系列企業のローソンはタイアップで活躍した。ネスレは本編映像を使用したテレビCMの放映などでキャンペーンを展開した。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "コンビニエンスストアとのタイアップはジブリにとって初めての経験だった。それまで鈴木はコンビニを敬遠していたが、ローソンは全国約7000店の店舗で『千尋』を大々的に告知、独自にフィギュアつき前売り券などを用意し、映画館窓口の販売実績を超える32万枚の前売り券を売り上げた。この機にジブリとローソンのタッグは確立され、三鷹の森ジブリ美術館が完成した後にはローソンが唯一のチケット窓口になるなど、関係は続いている。",
"title": "封切り"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "劇場の本予告・および新聞広告ではカオナシが前面に押し出された。本予告は二種類が作成され、2001年3月から5月までの予告「A」は、千尋が不思議な町に迷いこみ、親が豚になってしまうところまでをホラー映画風にまとめたものだった。対して、6月から流れた予告「B」は、千尋がカオナシを湯屋に招き入れ、カオナシが暴走するところまでをまとめた。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "鈴木は、本作を「カオナシの映画」であると考え、カオナシを宣伝の顔として立てることを決めた。その理由として、前述した千尋のキャラクターの極端な変貌を鈴木が感じ取っていたことが挙げられる。不機嫌な千尋の視線に沿ってゆったりとした前半の展開と、中盤以降のきびきびと働く千尋を追いかけるような展開にはギャップがあり、鈴木は本作を「1本で2本分の映画」であるように思った。鈴木の語ったところによれば、宮崎自身も当初は「千尋とハクの話」だと考えており、カオナシ中心に宣伝を行うことに違和感を持っていた。しかし、映画が完成に近づいた段階でラッシュ(完成した素材を荒くつないだ映像)を見て、「千尋とカオナシの話」であることを認めたという。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "当初は、糸井重里の書いた「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」という宣伝コピーが使われていた。しかし、宣伝プロデューサーを務めた東宝の市川南の意見で、「〈生きる力〉を呼び醒ませ!」というサブコピーが考案され、新聞広告などではこちらのほうが大きく取り上げられた。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "宣伝チームはローラー作戦をかけ、通常であれば行かないような地方の小さな町まで訪れるなど、徹底したキャンペーンを張ったと鈴木は証言する。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2001年7月10日、帝国ホテルで完成披露会見。同日、日比谷スカラ座で完成披露試写会。宮崎は前作の公開時に続いて、またしても長編引退をほのめかした。試写の反応は絶賛一色だった。しかし、作品の完成は公開日の2週間前で、試写にかけられる時間がわずかしかなかったことから、『もののけ姫』ほどの大ヒットにはならないだろうという観測が多勢を占めていた。この日の試写会には千尋のモデルとなった奥田誠治の娘、奥田千晶も現れた。宮崎は鈴木とともに千晶を出迎え、「この映画はおじさんと千晶の勝負だ」と言った。上映後の千晶の反応は上々であり、宮崎と鈴木は喜んだ。「おわり」のカットで描いた不鮮明なイラストについて宮崎が尋ねると、千晶はそれが自分の落とした靴の絵であることを正しく言い当てた。",
"title": "封切り"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2001年7月20日公開。すぐさま爆発的なヒットになり、週末映画ランキングでは公開以来26週連続トップ10にランクインした。さらに、公開32週目には前週の18位から一気に4位に浮上した。11月11日までの4か月間で、興行収入262億円、観客動員数2023万人を記録。『タイタニック』が保持していた日本の映画興行記録を塗り替えた。1年以上のロングラン興行になり、最終的には304億円の興行収入を叩き出した(再上映分の収入を含まず)。この記録は2020年まで破られていなかったが、同年公開された「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」によって破られた。宮崎の個人的な友人である千晶を喜ばせたいという動機でスタートしたこの映画は、実にのべ2350万人もの日本人の足を劇場に運ぶに至った。",
"title": "封切り"
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"text": "空前のヒットの興行的な要因としては、まず宮崎の前作『もののけ姫』が1420万人を動員し、新規顧客を開拓したことが挙げられる。また、『もののけ姫』から『千と千尋の神隠し』に至るまでの期間に、シネマコンプレックスが全国的に普及し、人気作品を映画館の複数スクリーンで集中的に上映する体制が整っていたこともある。公開と同時に、他の作品を上映する予定だったスクリーンが『千と千尋の神隠し』に回され、シネコンでの上映を占拠していった。一方、こうした類のない大ヒットは、他の上映作品の興行に悪影響を及ぼした。2001年12月に行われた「大ヒット御礼パーティ」の席上では、興行関係者が困惑を露わにした。興行収入300億という数字は、1年間に公開される邦画のすべてを合わせた量に相当したからである。",
"title": "封切り"
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"text": "本作で行われた大宣伝とは対照的に、次回作『ハウルの動く城』では「宣伝をしない」宣伝方針が取られた。公開前の内容の露出は極端に抑えられることになり、宮崎もメディアから姿を消した。これに関して、鈴木は千と千尋の神隠しがヒットしすぎたことにより、本来ならある程度数字を挙げることができた様々な作品がヒットせず、多方面に迷惑をかけてしまったため、千と千尋がヒットした後に関係者が集まり、二度と千と千尋のような作品を出さないよう、ある程度棲み分けることにしたと語っている。",
"title": "封切り"
},
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"paragraph_id": 76,
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"text": "2016年、スタジオジブリ総選挙で本作が1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。この再上映による興行収入は4.0億円で、累計興行収入は308.0億円となった。",
"title": "封切り"
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"text": "また2020年、新型コロナウイルスの流行によって新作映画の供給が困難になったことを受け、同年6月26日から8月まで全国の映画館で本作の再上映を行った。この再上映による興行収入は8.8億円にのぼり、同年12月15日にこれまでの興行収入(308.0億円)に加算され、本作の正式な興行収入が316.8億円となった。",
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"text": "英語吹替版はピクサー社のジョン・ラセターがエグゼクティブ・プロデューサー(製作総指揮)を担当。配給の優先権を持っていたのはディズニーだったが、2001年8月にディズニーで行われた上映会では、当時CEOだったマイケル・アイズナーの反応は芳しくなかった。宮崎は米国での公開に積極的ではなかったが、鈴木は検討を重ねた末、宮崎の熱烈なファンであるラセターに協力を依頼することにした。1982年、宮崎はアニメ映画『リトル・ニモ』の企画で渡米し、このときにラセターと面識を得ていた。当時まだディズニーに在籍し、不遇の時にあったラセターは、『ルパン三世 カリオストロの城』を鑑賞して衝撃を受け、以来宮崎の熱心なファンとなる。1987年には『となりのトトロ』制作時のジブリを訪れてもいる。その後、ピクサーが創立されるとラセターは移籍し、1995年の『トイ・ストーリー』を皮切りに、ヒット作を送り出していた。",
"title": "封切り"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "ラセターが説得した結果、ディズニーが北米での配給権を取得。ラセターは『美女と野獣』の監督、カーク・ワイズ(英語版)を英語版監督に、『アラジン』のプロデューサー、ドナルド・W・エルンスト(英語版)を英語版プロデューサーに指名した。英題は Spirited Away に決まった。吹替版は原作に忠実に制作された。しかし、ラストシーンで千尋の父が「New home, new school, must be scaring」(新しい家、新しい学校は怖いだろう)と言い、千尋が「I think I can manage it」(私、きっとやっていけるよ)というシーンが足されている。",
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"text": "2002年9月5日から10日間、宮崎・鈴木らはプロモーションのために米国へ渡った。ラセターは、ピクサー社を案内したり、複葉機による遊覧飛行を用意したりと、ジブリの一行を手厚くもてなした。このときの様子を収めた映像は、DVD『ラセターさん、ありがとう』(ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント、2003年)として発売されている。",
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"text": "9月20日、北米10都市で公開。以後約1年間にわたって小規模ながら興行が続いた。同年12月からは全米で次々と映画賞を受賞した。最終的には約1000万ドルの興行収入を記録した。",
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"text": "日本公開から18年の歳月を経て、2019年6月21日より、およそ9000か所の映画館で初公開された。",
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{
"paragraph_id": 83,
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"text": "2003年1月24日には日本テレビ系列の『金曜ロードショー』でテレビ初放送され、46.9%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)という視聴率を記録した。過去にテレビ放送された劇場映画の最高視聴率である。ビデオリサーチ・関西地区調べでも46.1%の視聴率を記録。日本だけでなく、2004年12月29日にはイギリスで、2006年にはアメリカ合衆国で、2007年9月30日にはカナダでもテレビ放送された(オーストラリアでもテレビ放送実績あり)。",
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"paragraph_id": 84,
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"text": "VHS・DVDは2002年7月に発売された。日本国内におけるVHSの出荷本数は250万本、DVDの枚数は300万枚だった。合計550万本の出荷は、やはり新記録だった。",
"title": "封切り"
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{
"paragraph_id": 85,
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"text": "2002年7月に日本で発売された『千と千尋の神隠し』のDVDや、ビデオカセット(VHS)に収録されている本編映像が、劇場公開版や予告編・TVスポットなどと比べて赤みが強いとして、スタジオジブリと発売元のブエナビスタ、消費者センターなどに苦情が寄せられた。",
"title": "封切り"
},
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "両社は、DVD制作時に用意されたマスターの色調には、意図的な調整を施しているためであり、「このクオリティが最高のものと認識しております」と説明した。映画上映時のTVCMや上映用プリントやDVDに収録された予告編、TVスポットなどにはこの調整は施されていないため、両者の色調が異なっているが、あくまで本編の色調が正しいとした。",
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},
{
"paragraph_id": 87,
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"text": "2002年11月、この問題で一部ユーザーは、販売元のブエナビスタを相手取り京都地方裁判所に提訴し、正しい色調のDVDとの交換と慰謝料などを請求した。本係争は2004年9月に「ディズニー・ジャパンは購入者に誤解や混乱が生じたことに遺憾の意を表明する」「今後DVD販売に際しデータを調整した時は明記する」「原告らは請求を放棄する」など全5項目の和解が成立し決着した。",
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"paragraph_id": 88,
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"text": "その後、北米、ヨーロッパ、韓国では、日本で発売されたものよりも、赤みの強くない映像が収録されたDVDが販売された。",
"title": "封切り"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "日本テレビでの2003年1月24日の『金曜ロードショー』(開局50周年記念番組)での放送には、DVDと同様のマスターが使用され、以後も使用されるようになった。",
"title": "封切り"
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{
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"tag": "p",
"text": "2011年1月7日、日本テレビの『金曜ロードショー』で、初めてハイビジョンマスターにより放送。赤みが大幅に軽減され、北米版DVDに近い赤みの強くない映像で放送された。",
"title": "封切り"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2014年4月1日、本作のBlu-ray Disc化が正式発表された。発売予定日は2014年7月16日。Blu-ray版ではDVD版のような赤みは無くなり、劇場版と同等の色調で収録された。同時に発売されたデジタルリマスター版DVDも同一の映像マスターを基にしているため、画面の赤みはない。",
"title": "封切り"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "社会学者の長谷正人は、本作は過去の宮崎作品と比べ、さほど魅惑的ではないと評している。例えば『天空の城ラピュタ』では、はじめ敵として登場する海賊・ドーラ一家が、物語の中盤からは主人公たちの仲間として活躍しはじめる。長谷がいうには、観客はこのとき、彼らに対する見方の転換をせまられる。さらに、海賊船の中で描かれる彼らのリアルな生活に触れ、「「善」とか「悪」とかいったイメージでは割り切れないような不透明な表情を帯びた魅惑的存在」として、ドーラ一家を認識し直すことになるのである。長谷は、同様のことが「ラピュタ」という舞台や、『風の谷のナウシカ』のような作品についてもいえるとし、宮崎は本来、このような「過程」を重視する物語制作を得意としていたと説明する。そして、しかるに本作(や『もののけ姫』)では、宮崎の本来の手法的には「結果」であったはずの「不透明による魅惑」が、最初から提示されてしまっているのだという。例えば湯屋がそうである。湯屋は千尋が成長していく過程で、「悪」なる場所として見えたりすることもなければ、したがって「善」なる場所に変化することもない。長谷は、近年(2010年時点)の宮崎は、空間的な魅力を提示しようとして、物語の中に生まれる魅力を忘却しているようだと嘆じている。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "押井守は、本作は宮崎が自分のやりたいシーンを繋いでいったものにすぎないとし、おおむね否定的に評価している。例えば、千尋の両親は千尋が湯屋で働かされる状況を作り出すためだけに豚にさせられているとし、「こういうのをご都合主義と呼びます」と切って捨てている。押井は、本作は要約すれば「都会出身の千尋が重労働して、何かに目覚め」「カオナシを説諭する物語」であるといい、千尋とカオナシの物語になっている点には一定の評価を与えつつも、観客は「この話、どこに行っちゃうの?」という気持ちになったであろうと述べている。ハクからもらったおにぎりをむさぼるシーンなどが好評であったことには頷けるとしつつ、監督の力量が発揮されるのは本来そういった細部の仕事ではなく、実のところ脚本も宮崎が書いたものではないだろうと推測している。 押井は千尋の造形についても難じている。物語で説明されるのは、東京から田舎に転校する千尋が感傷的になっているという状況だけであり、人格が描かれておらず、このことは宮崎が千尋をひとりの人間として描くつもりがなかった証左であると批判している。押井は、宮崎が描き出すレイアウトの魅力についても、全盛期に比べればダイナミズムが消失していると評している。例えば湯屋にはエレベーターがあるが、かつての宮崎なら絶対に階段にしただろうと述べ、これは途中から原画をアニメーターに任せるようになったためではないかと推測している。 問題点が多いにもかかわらず、本作が大ヒットした要因について、押井は「ジブリ映画が大成功しているから」という一点につきると断定し、日本人の国民性があらわれたものと述べている。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 94,
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"text": "精神科医の斎藤環は、少女を風俗店で働かせるという展開を描くような宮崎の倫理性を、「ファシズムへの倒錯的抵抗」として評価するとしつつ、それは同時に、宮崎が「説教好きのロリコン親父」であることの裏返しであるとみなしており、そのために宮崎の意図が、とりわけオタクと呼ばれる男女には正しく伝わらなかったであろうと述べている。「巷間伝え聞くところによれば、男たちは少女・千尋のむき出しの背中を熱く注視し、女たちは美少年・ハクが式神に攻撃された傷にもだえ苦しむ姿にやられたようです。」ただ、「押井守が評価するように、すぐれてエロティックな要素に満ちた作品」である点は認めている。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 95,
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"text": "批評家の東浩紀は、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』以降の宮崎作品の前面に出てくるのは、唯一『もののけ姫』を例外として、すべて能動的に行動できない少女であるという見解を述べている。対談中でなされたそのような東の意見に対し、斎藤が反論しており、以下のように続く。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 96,
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"text": "東は、『トトロ』以前の宮崎作品には、作品内に観客(オタク)が感情移入できる少年がいたと指摘する。ナウシカも理念的には少年と考えられ、『未来少年コナン』『カリオストロの城』『ナウシカ』『ラピュタ』は全て、少年が少女を獲得する構図の物語であったとし、そのような話を描いていたころの宮崎は非常に優秀なストーリーテラーであったと述べている。ところが、オタクを嫌うあまり、観客が同一化する存在を作品世界から消してしまったせいで、宮崎は徐々に単純なファンタジーしか作れなくなってしまったのだという。東によれば本作はその典型であり、「なにも残らない、ただの消費財でしかない映像作品」である。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 97,
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"text": "本作は英語圏で広範な評価を得ている。レビュー集積サイトのRotten Tomatoesでは、178本のレビューが掲載されており、うち97%が肯定的に評価している。平均レートは8.6/10で、掲載されているコンセンサスは次の通り。「『千と千尋の神隠し』は、見事に描き出されたおとぎ話であり、眩惑的、魅惑的だ。この作品を見た観客は、自分たちの住んでいる世界がいつもより少しだけ興味深く、魅力的なものに感じられるだろう」。Metacriticでは41本のレビューをもとに96/100のスコアがついている。シカゴ・サンタイムズのロジャー・イーバートは満点の四つ星をつけ、作品と宮崎の演出を称賛している。また、本作を「今年のベスト映画」のひとつとしている。ニューヨーク・タイムズのエルヴィス・ミッチェルは肯定的なレビューを書き、アニメーションシーケンスを評価している。また、ルイス・キャロルの鏡の国のアリスと好意的な文脈で引き比べており、この映画が「気分としての気まぐれさ (moodiness as mood)」についての作品であり、キャラクターが作品の緊張感を高めていると評している。バラエティ誌のデレク・エリーは、「若者と大人が同じように楽しめる」とし、アニメートと音楽を評価している。ロサンゼルス・タイムズのケネス・タランは吹き替えを評価しており、「荒々しく大胆不敵な想像力の産物であり、こうした創作物はいままでに見たどのような作品にも似ない」としている。また、宮崎の演出も評価している。オーランド・センチネル紙のジェイ・ボイヤーもやはり宮崎の演出を評価し、「引っ越しを終えた子供にとっては最適」の映画だとしている。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "2002年2月6日、第52回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品。同映画祭コンペ部門の長編アニメーション映画の出品は初。2月17日、最優秀作品賞である金熊賞を受賞した。ポール・グリーングラス監督『ブラディ・サンデー』と同時受賞だった。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初だった。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2003年2月12日、第75回アカデミー賞長編アニメーション部門へのノミネートが決定。3月23日の授賞式で受賞が発表された。2020年現在に至るまで、同部門を受賞した日本のアニメーションは本作のみである。また手描きのアニメーションとしても唯一の受賞作である。授賞式には宮崎の代理で鈴木敏夫が出席する予定だったが、3月20日に米軍を中心とする有志連合がイラク進攻を開始し、事態が緊迫化したため、断念した。宮崎の受賞コメントは次のようなものになっている。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2009年2月にオリコンがインターネット調査した「日本アカデミー賞 歴代最優秀作品の中で、もう一度観たいと思う作品」で1位に選ばれた。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "2016年7月、アメリカの映画サイト・The Playlistが、21世紀に入ってから2016年までに公開されたアニメのベスト50を発表し、本作が第1位に選ばれた。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 102,
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"text": "2016年8月、英BBC企画「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位に選ばれた。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2016年に実施された「スタジオジブリ総選挙」で第1位に選ばれ、2016年9月10日から16日までTOHOシネマズ5スクリーンで再上映された。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 104,
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"text": "2017年4月、映画批評サイト「TSPDT」が発表した「21世紀に公開された映画ベスト1000」にて、第8位に選ばれた。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "2017年6月、ニューヨークタイムズ紙が発表した「21世紀のベスト映画25本」で、第2位に選ばれた。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 106,
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"text": "2017年6月、英エンパイア誌が読者投票による「史上最高の映画100本」を発表し、80位にランクインした。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "2018年8月、ワシントンポスト紙が発表した「2000年代のベスト映画23本」に選出された。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "2018年10月、英BBCが企画・集計した、「非英語映画100選(英語圏にとっての外国語映画100選)」にて、37位に選ばれた。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "2019年6月、中国の映画情報サイト「時光網」が発表した、「日本アニメ映画のトップ100」で、第1位に選ばれた。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "2019年9月、英インディペンデント紙(デジタル版)が選ぶ、「死ぬ前に観るべき42本の映画」に選出された。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "2020年1月、英エンパイア誌が発表した「今世紀最高の映画100選」にて、日本映画で唯一選出された(15位)。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "2022年10月、英エンパイア誌が発表した「史上最高の映画100本」にて、第49位に選ばれた。",
"title": "反響"
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"tag": "p",
"text": "2022年12月、英国映画協会が発表した「史上最高の映画100」で、第75位に選ばれた。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 114,
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"text": "全て、日本テレビ系『金曜ロードショー』での放送。",
"title": "テレビ放送"
},
{
"paragraph_id": 115,
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"text": "1回目の放送はこの年の紅白歌合戦の視聴率(45.9%)を1.0ポイント上回り、2003年の年間視聴率1位を記録し(日本テレビの年間視聴率1位は史上初)、これは2020年現在、民放がスポーツ中継以外で年間視聴率1位を記録した唯一の事例でもある。",
"title": "テレビ放送"
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{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "演出は『レ・ミゼラブル』などを手掛けたジョン・ケアードが務める。舞台企画が持ち上がったのは2017年で構想から開幕まで5年の歳月を掛けられ、東宝の創立90周年を記念して初の舞台化。2022年の初演では、2月・3月:帝国劇場(東京)、4月:梅田芸術劇場(大阪)、5月:博多座(福岡)、6月:札幌文化芸術劇場(札幌)、6月・7月:御園座(名古屋)にて上演。再演では、2023年8月:御園座(名古屋)、2024年3月:帝国劇場(東京)にて上演予定。",
"title": "舞台版"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "舞台では、油屋に見立てた大型舞台機構を360度回転させながら展開される。軒先、階段、障子と盆(回り舞台)が動く度に見え方が異なるため、移動式の回廊や壁面、天井から上下する屋根などを組み合わせ、湯屋の玄関、釜爺のいるボイラー室、湯婆婆の部屋など映画を彷彿させる空間を表現。セットデザインは英国で活躍するジョン・ボウサーが手掛ける。プロジェクションマッピングなどの技術は敢えて使用せずパペットを用いるなど、全て人力で世界観を表現している。",
"title": "舞台版"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "東京を含む全ての公演のチケットが2022年3月の時点で既に完売していることを受けて、東宝は同年7月3日と4日に御園座にて行われる大千秋楽公演を動画配信サービスのHuluにて有料配信することを同年3月29日に発表したが、一部の出演者において、新型コロナウイルスの感染が相次ぎ、7月3日の上演内容に変更が発生したことを受けて、7月3日の配信分は帝国劇場公演分の収録映像に変更、4日の配信分は予定通り御園座の大千秋楽公演をライブ配信することを同月1日に発表した。",
"title": "舞台版"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2023年4月28日、再演を発表。千尋役に橋本と上白石が続投する。また、初演の模様を収めたBlu-rayを2023年7月29日に発売すると併せて発表。",
"title": "舞台版"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "2023年8月2日、海外公演を行うことを発表した。2024年4月から約3か月間、舞台版「となりのトトロ」も上演されたイギリス・ロンドンにて行い、主演の千尋役は橋本と上白石のダブルキャストが続投する。",
"title": "舞台版"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "米国ではGKIDSが舞台映像の配給権を所有し、帝国劇場でのダブルキャスト両公演の録画を2023年春に公開した。",
"title": "舞台版"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "2024年公演では、橋本と上白石に加え、オーディションで選ばれた川栄李奈、福地桃子の4人で千尋役を務める。",
"title": "舞台版"
}
] | 『千と千尋の神隠し』(せんとちひろのかみかくし)は、2001年に公開された日本の長編アニメーション映画。原作・脚本・監督は宮崎駿。2001年(平成13年)7月20日に日本公開。興行収入は316億8,000万円で、『タイタニック』を抜いて、日本歴代興行収入第1位を達成し、第52回ベルリン国際映画祭では『ブラディ・サンデー』と同時に金熊賞を受賞した。 制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は日本テレビの映画プロデューサー、奥田誠治の娘であり、主人公・千尋のモデルになった。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの子供を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女児に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女らに映画を送り届けたいと思うようになった。 宮崎の友人である映画監督ジョン・ラセターの尽力によって北米で公開され、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した。2016年のイギリスBBC主催の投票では、世界の177人の批評家が「21世紀の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した。2017年にはニューヨークタイムズ選定21世紀最高の外国語映画ランキングで2位に選ばれた。 2016年に行われたスタジオジブリ総選挙で1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。2020年6月26日より日本372の劇場で『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『ゲド戦記』とともに再上映され、週末観客動員数で1位となった(#再上映も参照)。2022年に舞台化。 | {{Infobox Film
| 作品名 = 千と千尋の神隠し
| 原題 = Spirited Away
| 画像 = Sen to Chihiro no kamikakushi title.jpg
| 画像サイズ = 260px
| 監督 = [[宮崎駿]]
| 脚本 = 宮崎駿
| 原作 = 宮崎駿
| 製作 = [[鈴木敏夫]]
| 製作総指揮 = [[徳間康快]]
| 出演者 = [[柊瑠美]]<br />[[入野自由]]<br />[[夏木マリ]]<br />[[内藤剛志]]<br />[[沢口靖子]]<br />[[上條恒彦]]<br />[[小野武彦]]<br />[[菅原文太]]<!--【テンプレート解説より引用:主要なキャスト数名を記入します。文末に「ほか」あるいは「他」を付記することは避けて下さい。】--><!-- 参考:https://www.ghibli.jp/works/ -->
| 音楽 = [[久石譲]]
| 主題歌 = [[木村弓]] 「[[いつも何度でも]]」
| 撮影 = [[奥井敦]]
| 編集 = [[瀬山武司]]
| 制作会社 = [[スタジオジブリ]]
| 製作会社 = 「千と千尋の神隠し」 製作委員会
| 配給 = [[東宝]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ghibli.jp/works/#chihiro |title=千と千尋の神隠し - スタジオジブリの作品 |website=スタジオジブリ |accessdate=2022-12-23}}</ref>
| 公開 = {{flagicon|Japan}} [[2001年]][[7月20日]]<br />'''海外''':[[#海外での公開|参照]]
| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]<br />(各言語による吹替・字幕)
| 興行収入 = 316億8,000万円<ref name="興行通信">{{Cite web|和書|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ |title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信 |date=2020-12-15 |accessdate=2020-12-15 |publisher=[[興行通信社]]}}</ref>{{efn2|name="304okuyen"|リバイバル上映(再上映)を含まない場合の興行収入は'''304億円'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ |title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信 |publisher=[[興行通信社]] |date=2016-08-22 |accessdate=2020-12-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160824203420/http://www.kogyotsushin.com:80/archives/alltime/ |archivedate=2016-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0064804|accessdate=2020-12-14|title=『アナ雪』250億円突破!『千と千尋の神隠し』以来13年ぶりの快挙 - シネマトゥデイ|date=2014-07-22}}</ref>。2016年のリバイバル上映により合計'''308億円'''に<ref name="kogyotsushin20160926">{{Cite web|和書|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ |title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信 |publisher=[[興行通信社]] |date=2016-09-26 |accessdate=2020-12-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160926170620/http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ |archivedate=2016-09-26}}</ref>、2020年のリバイバル上映により合計'''316億8,000万円'''になった<ref name="興行通信" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ |title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信 |publisher=[[興行通信社]] |date=2020-12-20 |accessdate=2020-12-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201222070122/http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ |archivedate=2020-12-22}}</ref>。2020年12月15日以降は合計金額の'''316億8,000万円'''を正式な興行収入記録としている<ref name="興行通信" />。}}
| 上映時間 = 124分
| 前作 = <!-- 監督や製作会社が同じだからと言ってシリーズであるとは言いません。 -->
| 次作 = <!-- 監督や製作会社が同じだからと言ってシリーズであるとは言いません。 -->
}}
『'''千と千尋の神隠し'''』(せんとちひろのかみかくし)は、[[2001年]]に公開された[[日本]]の長編[[アニメーション映画]]。原作・脚本・監督は[[宮崎駿]]。2001年([[平成]]13年)[[7月20日]]に[[日本]]公開。興行収入は316億8,000万円で<ref name="興行通信" />、『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』を抜いて、[[日本歴代興行成績上位の映画一覧#日本歴代興行収入ランキング|日本歴代興行収入]]第1位を達成し<ref>{{映連興行収入|2001}}</ref>、[[第52回ベルリン国際映画祭]]では『[[ブラディ・サンデー]]』と同時に[[金熊賞]]を受賞した<ref name="berlinale">{{Cite web |url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/2002/03_preistr_ger_2002/03_Preistraeger_2002.html |title=Prizes & Honours 2002 |publisher=Berlinale |accessdate=9 August 2013}}</ref>。
制作のきっかけは、宮崎駿の個人的な友人である10歳の少女を喜ばせたいというものだった。この少女は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の映画プロデューサー、[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]の娘であり、主人公・千尋のモデルになった<ref>{{Cite video|和書|people=[[砂田麻美]] (監督) |title=[[夢と狂気の王国]]|date=2013年11月16日|publisher=ドワンゴ|location=東京}} [[鈴木敏夫]]へのインタビューで。</ref>。企画当時宮崎は、信州に持っている山小屋にジブリ関係者たちの子供を集め、年に一度合宿を開いていた。宮崎はまだ10歳前後の年齢の女児に向けた映画を作ったことがなく、そのため彼女らに映画を送り届けたいと思うようになった{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=30}}。
宮崎の友人である映画監督[[ジョン・ラセター]]の尽力によって北米で公開され、[[第75回アカデミー賞]]では[[アカデミー長編アニメ映画賞]]を受賞した<ref name="academy2003">{{Cite web |url=http://www.oscars.org/awards/academyawards/legacy/ceremony/75th-winners.html |title=The 75th Academy Awards (2003) Nominees and Winners |publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences |accessdate=2016-11-18}}</ref>{{efn2|name="movie"|{{YouTube|qxU6xN8o9r8|Spirited Away Wins Animated Feature: 2003 Oscars}}<br />[[アカデミー長編アニメ映画賞]] 「千と千尋の神隠し」(受賞映像)}}。2016年の[[イギリス]][[英国放送協会|BBC]]主催の投票では、世界の177人の批評家が「[[21世紀]]の偉大な映画ベスト100」の第4位に選出した<ref>{{Cite news |title=The 21st Century’s 100 greatest films |newspaper=[[BBC]] |date=2016-08-23 |url=http://www.bbc.com/culture/story/20160819-the-21st-centurys-100-greatest-films |accessdate=2016-11-18}}</ref>。2017年にはニューヨークタイムズ選定21世紀最高の外国語映画ランキングで2位に選ばれた<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/interactive/2017/06/09/movies/the-25-best-films-of-the-21st-century.html|title=The 25 Best Films of the 21st Century So Far.|date=9 June 2017|work=The New York Times|access-date=12 June 2017|language=en-US|issn=0362-4331|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20170708065541/https://www.nytimes.com/interactive/2017/06/09/movies/the-25-best-films-of-the-21st-century.html|archive-date=8 July 2017}}</ref>。
2016年に行われたスタジオジブリ総選挙で1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。2020年6月26日より日本372の劇場で『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』『[[もののけ姫]]』『[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]』とともに再上映され<ref name="oricon20200618" />、週末観客動員数で1位となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/topics/t8/202006/29163058.php |title=首位の『千と千尋の神隠し』ほか再上映のジブリ作品3本がTOP3を独占!『ランボー』シリーズ最新作が4位に初登場(6月27日-6月28日)/ニュース - CINEMAランキング通信 |publisher=[[興行通信社]] |quote=6月26日から全国374の劇場で再上映が始まったスタジオジブリ4作品のうち、3作品が1位から3位までを独占する結果となった。 |date=2020-06-29 |accessdate=2020-11-10}}</ref>([[#再上映]]も参照)。2022年に[[#舞台版|舞台]]化。
== あらすじ ==
10歳の少女'''荻野千尋'''は、両親と共に引越し先のニュータウンへと車で向かう途中、父の思いつきから森の中の不思議なトンネルから通じる無人の町へ迷い込む。そこは'''[[神 (神道)#八百万の神|八百万の神々]]'''が住む、人間が足を踏み入れてはならない世界だった。町の怪しい雰囲気を怖がる千尋をよそに、探検気分の両親は食堂街の中で一軒だけ食べ物が並ぶ無人の[[飲食店]]を見つけ、店員が来たら[[代金]]を払えばいいと勝手に食べ物を食べ始めてしまう。両親の誘いを断って食堂街を一人で歩く千尋は、旅館のような大きな建物の前の橋に着き、橋の下を走る電車を見ていた。背後からの気配に気づいて振り返ると少年が立っており、彼は強い口調で「すぐに戻れ」と言う。急速に日が暮れる中{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=55}}{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=40|loc=ストーリーボード}}、両親を探すが、店では両親の服を着た大きなブタが二匹いて、食べ物を食い散らかしていた。千尋の両親は神々に出す食べ物に手をつけた咎で、ブタにされてしまったのだ。夜になり{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=68}}{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=36|loc=ストーリーボード}}{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=70}}、千尋はトンネルに戻ろうと食堂街の出口に来るが、昼は草原だった場所が大河に変わっており、船から降りてくる怪物のような者達を目にしたことでこれは悪い夢だと思い込む。悪夢が消えることを願って自分が消滅しそうになるが、先程の少年'''ハク'''に助けられる。
ハクは、八百万の神々が客として集う「'''油屋'''」という名の'''湯屋'''で働いていた。油屋の主人は、相手の名を奪って支配する恐ろしい魔女の'''湯婆婆'''で、仕事を持たない者は動物に変えられてしまうと千尋に教える。千尋は、雇ってくれるよう湯婆婆に懇願し、契約の際に名を奪われ「'''千'''」と新たに名付けられ、油屋で働くことになる。ハクは、本当の名前を忘れると元の世界に戻れなくなると忠告する。ハクもまた名を奪われ、自分が何者であったのかを思い出せずにいたのだ。しかし、彼はなぜか千尋を知っており、自分の名前は忘れても千尋のことは覚えているのだという。一方、千尋にはハクの正体に心当たりがない。
[[ブタ]]にされてしまった両親を助けるため油屋で働き始めた千尋だったが、彼女は人間であるという理由で油屋の者達から嫌われる。おまけに悪臭とひどい汚れの客の相手まで押しつけられるが、彼女の実直な働きにより、客から大量の[[砂金]]が店にもたらされると、千尋は皆に一目置かれる存在になる。千尋は世話をした礼としてその客から不思議な団子を貰う。
翌日の昼{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=355}}、竜の姿のハクは湯婆婆の命令により、彼女と対立している双子の姉の'''銭婆'''から、魔女の契約印を盗み飲み込む。強い魔力を持つ銭婆は、ハクに契約印の守りのまじないとヒトガタで重傷を負わせるが、彼は傷つきながらも最上階の湯婆婆の部屋に向かう。傷ついたハクを従業員部屋から見た千尋は、彼を助けようと後をおって、湯婆婆の部屋に入る。その時、千尋の背中にくっついていたヒトガタから銭婆が現れ、千尋の後を追って部屋に入ってきた湯婆婆の息子の'''坊'''をネズミに変えてしまう。その隙にハクが尾でヒトガタを叩き破ると銭婆は消える。その後、千尋がハクに不思議な団子の半分を飲み込ませ、体内の契約印と虫を吐き出させ元の姿に戻すが、ハクは衰弱しており気絶する。千尋はハクを助けたい一心で、ボイラー室の老人'''釜爺'''から電車の切符を受け取り、危険など顧みずに銭婆の所へ謝りに行く事を決意する。
その頃、客室では'''カオナシ'''という化け物が従業員を飲み込んで暴れていた。カオナシは以前客だと思い込んだ千尋に親切にされ、湯婆婆の部屋に行く途中の彼女と再会した際、砂金で千尋の気を引こうとするが、断られてしまっていた。再び彼女と対面したカオナシは、食べ物で千尋の気を引こうとするが千尋は拒否。逆に千尋は団子の残りの半分を彼に食べさせ、カオナシに飲み込まれた従業員達を吐き出させて助ける。そして千尋は、なぜかついて来た坊と、油屋から誘い出したカオナシを伴って銭婆の家を訪れる。銭婆は千尋を穏やかに受け入れ、千尋は銭婆に魔女の契約印を返しハクの行いを謝る。銭婆は千尋に旅の仲間と協力して作った紫の髪留めを贈り、カオナシは銭婆の家の手伝いに雇われる。
一方、目を覚ましたハクは、坊が銭婆の元へ行っている事を湯婆婆に伝える。ハクは坊を連れ戻す事を条件に千尋と両親を解放するよう迫った後、帰る手段のなかった千尋を竜の姿で迎えにいく。ハクは銭婆から許しを得て、千尋と共に油屋への帰路につく。その途中で、千尋は自分が幼い頃に落ちた「川」がハクの正体である事を思い出し、彼女が川の名前を告げた事でハクは本当の名前を思い出す。ハクは、落とした靴を拾おうとして溺れかけた千尋を、浅瀬に運び助けたのだった。
翌朝{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=175}}、臨時休業をしている油屋に帰ったハク達。ハクが千尋と彼女の両親を解放するよう湯婆婆に要求すると、今や千尋の味方となった従業員達もハクに賛同する。味方がいなくなり怒る湯婆婆は、油屋の前に集めたブタの中から両親を言い当てろと千尋に難題を出す。千尋はブタ達を真剣に見つめると、この中に両親はいないと正解を言い当てる。湯婆婆の目論見は外れ、契約書が消滅した事で千尋は晴れて自由の身となり、従業員達に祝福されながら油屋を去る。
昼になり{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=617}}、異世界と人間界の境界のトンネルに帰るため食堂街の出口に着くと、夜は大河に変わっていた所が草原に戻っていた。見送るために一緒に来たハクは千尋に、この先には一人で行く事、この先の帰り道でトンネルを出るまでは振り返ってはいけない事、湯婆婆の弟子を辞めて自分も元の世界に戻るつもりである事を伝え、再会を約束して別れる。千尋は草原を歩き続けると、人間に戻った両親がトンネルの前で何事もなかったかのように待っていた。千尋は思わず振り返りそうになるがハクとの約束を思いだし必死に我慢して振り返らず、トンネルを抜けて人間界に戻った千尋が振り返ると、トンネルは最初に来た時とは違う姿に変わり、彼女は異世界の事を忘れる。しかし銭婆から貰った紫の髪留めはトンネルを抜けても残り、輝いていた。その後、再び車に乗って引越し先に向かう所で物語は幕を閉じる。
最後に、幼い千尋が川に落とした桃色の靴の片方が、流れていく様子が映る{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=151}}{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=180}}。
== 登場人物 ==
=== 主要人物 ===
; {{Anchors|荻野千尋|千尋|荻野 千尋|千}}荻野 千尋(おぎの ちひろ) / 千(せん)
: 声 - [[柊瑠美]]
: 本作の主人公である10歳の少女{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=56}}。荻野家の一人娘。すぐいじけて我儘を言ったり両親に頼ろうとする、典型的な都会育ちの一人っ子、現代っ子気質。悪く言えば怖がりだが良く言えば慎重で、家族の中で唯一入る前から異界を怪しんでいた。焦げ茶色の髪を[[ポニーテール]]にしている。私服は白色に黄緑色のラインが入った半袖[[Tシャツ]]に桃色の半ズボン。靴下は白、靴は黄色。一人称は「私」。千尋やリンを含む湯屋の下働きの少女達の制服は、上下共に桃色の[[水干]]{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=67}}{{efn2|『絵コンテ全集』では赤い水干と記述されている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=228}}。}}、裸足、何も被らない(水干の上着が桃色とは違う色の少女や水干の袴が桃色とは違う色の少女もいる) 。ちなみに大人の従業員のナメクジ女の制服は2つあり、1つは[[烏帽子]]を被り、白い着物の上に赤い袴、白い足袋に草履(赤い袴に桃色とは違う色の水干の上着の女性や袴が赤とは違う色の女性もいる)。もう1つは何も被らず、色や柄のついた着物、裸足に草履。千尋やリンを含む従業員の多くが、掃除や調理の時などにたすきをつける。
: 両親と共に新しい町へ引っ越してきた日に[[異界]]へと迷い込んでしまう。彼女の体が消えかけた時、ハクが丸薬を食べさせ元に戻してくれた{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=81}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=15,66}}。神への料理を勝手に口にした罰を受け[[ブタ]]にされてしまった両親を人間に戻し、元の世界に帰る為に湯屋「油屋」の経営者である湯婆婆と契約を交わした事で名前を奪われ、「'''千'''」と名づけられ下働きをし始める。
: 唯一事情を知った上で、味方をしてくれるハクが差し出した「千尋の元気が出るようにまじないをかけて作った」[[おにぎり]](具のない塩むすび)を食べ、ずっと自分を心配してくれていたハクの優しさと思いやりに触れた事で、大粒の涙を流し感情を露わにする。また、ハクが保管してくれていた私服の中に、引っ越しの際に友人から贈られたメッセージカードを見つけ、自身の名前を忘れかけていた事に気づいた。
: 初めは礼儀知らずで仕事の手際も悪かったが、湯屋での経験を通じて適応力や忍耐力を発揮していき、釜爺やリンとも交流を深める。リンによると、兄役から「リンと千、今日から大湯番だ。上役の命令だ」と言われ、二人がさせられた大湯番は本当はカエル男の仕事であり{{efn2|リンは兄役に「あれはカエルの仕事だろう」と言っている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=266}}。}}、大湯は汚れた客専門の風呂{{efn2|千尋と共に風呂釜の中を掃除中にリンが「この風呂はさ、汚れたお客専門なんだよ」と言っている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=272}}。}}。大湯はカエル男達の千尋への嫌がらせで{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=28}}、風呂釜の中も周りも全く掃除されていなかった。だが釜は後でためた薬湯のおかげで綺麗になった。釜の中を掃除中の千尋にカオナシが渡そうとして、彼女が断り、彼が姿を消す時に落とした大量の薬湯の札の中の一枚を、オクサレ様が風呂に入った後千尋が使い、足し湯ができたので、カオナシと廊下で再会した時に「あの時はありがとうございます」と言った{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=36}}。
: オクサレ様を接客した際には、余りの悪臭に鼻を両手で塞いでしまい湯婆婆に叱られたり、ヘドロ塗れ{{efn2|資料によっては(人間の)汚物まみれという記述がある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=297}}。}}の料金を (ロマンアルバムでは小判{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=30}}、絵コンテでは小判と穴あき銭と記述{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=297}}) 、受け取ると悲鳴を上げて身震いしていた。しかし彼の体にトゲのような物が刺さっており苦しんでいる事を確認すると、従業員達と協力して体から大量のごみを引っ張り出し元の河の神の姿に戻す。河の神を送り出した後、ごみに混じって砂金が発見された為湯屋に大きな儲けをもたらし、湯婆婆からよくやったと抱き締められる。この一件から、最初は人間である事から彼女を嫌っていた従業員達からも認められ周囲になじみ始める。
: 物語終盤ではカオナシ{{efn2|千尋が従業員達の前を通り、カオナシに会う為客室に向かう時「神の嫁(つまり生贄(いけにえ))」と記述されている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=496}}。}}にニガダンゴ{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}を食べさせ、飲み込まれた従業員達を助け、魔法で傷ついたハクをダンゴで救い<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535781050379554816 |title=竜という幻想の生物をいかにリアルに動かすか、スタッフたちは当初かなり戸惑ったと言います。実は、ハク竜がニガダンゴを飲んで暴れ苦しむこの動き、絵コンテには「まな板に留められたうなぎ」と描かれていました!確かにうなぎのような動きですね! |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>、銭婆とも和解させ、過保護に育てられた坊の親離れに一役買うなど活躍する。ボイラー室で重い石炭を燃える火の中に投げ入れたり、ダンゴを飲み込ませる為竜の姿のハクの口を力づくでこじ開けるなど、見かけによらずパワフルな面もある。彼女は最初、ダンゴを両親に食べさせようと思い、河の神から貰ったその日に一口味見をし、非常に苦かったのであんまんを猛烈な勢いで食べた{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=341,342}}。就寝時、大量のブタの中の両親を見分けられずダンゴを食べさせられなかったという悪夢を見た。ハクがダンゴにより吐き出した銭婆のハンコに、湯婆婆により彼の体内に入れられた虫がくっついていたが、虫が苦手な千尋が踏み潰した。千尋はその虫が、ハンコの守りのまじないだと思い込み、銭婆に踏み潰した事を謝った。
: 銭婆の家から戻る際に自身とハクの出会いを思い出し、川の名を呼び、ハクに本名を思い出させ、湯婆婆の支配から解放する。湯婆婆からの謎かけに見事正解した事で無事に元の世界に戻れた。見送りに来たハクとは再会を約束して別れた。湯屋を去る時、皆に「みんなありがとう」「お世話になりました」と挨拶をした。
: 宮崎のインタビューでは、千尋が油屋に迷い込んだ期間は3日程度としている(ただし最初に迷い込んできた日を1日目とすると、4日目で元の世界に戻れたという事になる)。
: [[契約書]]に自分の名前を書くシーンでは、「荻」ではなく「{{lang|zh|获}}」と書いている{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=216,217}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=23}}。
: 千尋役のオーディションには女優の[[本仮屋ユイカ]]も参加していた<ref>王様のブランチ 2013年8月10日放送</ref>。
:
; {{Anchors|ハク}}ハク / ニギハヤミコハクヌシ
: 声 - [[入野自由]]
: 油屋で働いている色白の謎の美少年。外見年齢は12歳<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535761675006115840 |title=設定では“外見は12歳ぐらい”とされていますが、その落ち着いた表情や立ち振る舞いは、ずっと大人であるような印象を与えますよね。 |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=57}}。湯屋の男の従業員の中で彼だけが子供に見え、彼の制服の水干は上着が白、袴が青、裸足に草履、何も被らない。緑がかった黒いおかっぱ頭で、常に涼しい顔をしている。湯婆婆の[[師弟|弟子]]であり魔法使いとしては見習いだが{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=57}}、番頭として湯屋の帳簿を預かっている為従業員達から一目置かれている{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=57,67}}。作中で初めて千尋と会った時から人間である彼女を助けており、心の支えにもなっている。一人称は「私」。橋の上で湯屋に向かって自分のうろこを吹き飛ばし、目くらましをかけ、従業員達や客達から千尋の姿を見えなくし{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=60}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=13,68}}、人間の匂いも遮る。だがこの魔法は、千尋が橋を渡り始めた時から渡り終わるまで息をしなかった場合に効く。彼女が息をすると魔法が解け、皆に彼女の姿が見え、人間の匂いを出す(魔法が解けた時、湯屋の従業員達が「匂わぬか。人が入り込んだぞ」「人臭いぞ」と発言{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=107}})。千尋に丸薬を食べさせた後、腰を抜かし立てなくなった彼女の足の上に手をかざし、「そなたの内なる風と水の名において、解き放て」という呪文をかけ、足が動くようにした{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=88}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=15,68}}。食料倉庫の裏口の戸に手をかざして開閉したり、千尋に魔法で湯屋の外階段と[[ボイラー室]]を見せたりした。
: 釜爺によれば、千尋と同様に突然湯屋に現れ、湯婆婆の弟子になる事を懇願したという。釜爺は「魔女の弟子など、ろくな事はない」と反対したが止め切れず、湯婆婆の手足として利用されるようになった。湯婆婆により体内に虫を入れられた時から、湯婆婆が起きている夜は冷たい性格に変わり、彼女が寝ている昼は元の優しく賢い子{{efn2|『絵コンテ全集』では銭婆のハンコを見て、釜爺が千尋に「さすがはハクだ。命令でしかたなく盗んだんだろうが、湯婆婆にハンコを渡さなかったんだからな」と言った{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=484}}。『ロマンアルバム』では釜爺が千尋にハクもここに来た時は優しく賢い子だったと話したという記述がある{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=42}}。『THE ART OF』台本には、ハクが湯婆婆の弟子になった後 (体内に虫を入れられた後) から目つきがきつくなったという釜爺の発言の記述もある{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=226}}。}}に戻る。冷たい性格の時は、「ハク様と呼べ」と命令したりする。また釜爺によると、ハクが湯婆婆の弟子になった後 (体内に虫を入れられた後) から顔色が悪くなったという{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=226}}。
: 物語の中盤では、千尋の元気が出るようにまじないをかけて作ったおにぎりを差し出し、食べながら泣く彼女を慰めた。また、元の世界に戻る時の為に私服も保管していた。ヒトガタにより体の表面が傷つけられた時は、ニガダンゴと釜爺が飲ませてくれた薬湯により治った。
: 中盤以降は白竜{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=363}}{{efn2|絵コンテには、長虫という記載もある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=104}}。}}(たてがみは緑色)の姿でも登場する (幼い千尋も竜の姿のハクに乗った模様{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=40}}{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=455,456,597,599}}{{efn2|『絵コンテ全集』では幼い千尋が川に落ちた描写がある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=598}}。}}) 。正体は、千尋が以前住んでいた家の近くを流れていた「'''コハク川'''」という川(小川)の神だった{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=600,601}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=145}}{{efn2|『ロマンアルバム』では、川の神{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=57}}、彼は小川・コハク川の主という記述がある{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}。}} (現在は小川は埋め立てられマンションが建っている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=600}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=145}}) 。本名は「'''ニギハヤミコハクヌシ'''{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=603,604}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=145}}{{efn2|『絵コンテ』では、「本当に神様なんです」という宮崎監督の言葉が書かれている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=604}}。}}」(英語版では Kohaku River とされている)で、名前の由来は[[ニギハヤヒ|饒速日命(ニギハヤヒノミコト)]] や[[ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ|速秋津彦(ハヤアキツヒコ)]]とされている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}<ref>{{Cite tweet|user=JP_GHIBLI|author=スタジオジブリ|number=1479458378699411458|title=A:設定上はカタカナ表記ですが、「ニギハヤミ」という名前は、飛鳥時代に蘇我氏と争って破れた物部氏の祖先といわれる饒速日命(ニギハヤビノミコト)や、川の神で竜の化身でもある速秋津彦(ハヤアキツヒコ)など複数の神を合成したものだそうです。|date=2022-01-07|accessdate=2022-01-15}}</ref>。ロマンアルバムでは本性は蛇と記載{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}。
: 銭婆の家から戻る際に千尋が語った思い出話により、自分の本当の名前を思い出す。千尋と再会した事で湯婆婆の支配(体内の虫)と銭婆の魔法(ハンコの守りのまじないとヒトガタ)から救われた彼は、湯婆婆の弟子を辞める事を決めた。そして元の世界に戻る千尋との別れ際、いつかまた会いに行くと約束した。
=== 千尋の家族 ===
; {{Anchors|千尋の父|荻野明夫|明夫|荻野 明夫}}荻野 明夫(おぎの あきお)
: 声 - [[内藤剛志]]
: 千尋の父親。38歳{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=56,66}}。建築会社に勤める{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=26}}サラリーマン。作中で名前は明らかになってはいない。
: 愛車は[[アウディ・A4]]([[クワトロ (四輪駆動システム)|クアトロ]]){{sfn|叶|2006|p=244}}。
: 体育会系で{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=22}}、良くも悪くも肝の据わった性格。基本的にどんな事にも物怖じしない反面、後先考えない行動をとってしまいがちな考えの浅い一面も強く、悠子に呆れられている。
: 引っ越しの際、余り道を確認しないまま進んでしまい不思議の町に迷い込む。千尋や悠子の制止を聞かずに面白がって進み続けた挙げ句、町の飲食店で勝手に食事に手をつけてしまい、妻と共にブタの姿に変えられてしまった。
: 千尋のおかげで最終的には元の姿に戻ったが、ブタになっていた時の事は覚えておらず、落ち葉に埋もれた愛車を見つけて驚いていた。
: モデルは日本テレビの[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]で、千尋のモデルとなった奥田千晶の父{{sfn|叶|2006|p=232}}。車の運転や食事シーンに奥田の個性が反映されている{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=47-48}}。
:
; {{Anchors|千尋の母|荻野悠子|悠子|荻野 悠子}}荻野 悠子(おぎの ゆうこ)
: 声 - [[沢口靖子]]
: 千尋の母親。35歳{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=56,66}}。
: 不思議の町に迷い込んだ際、夫より先に勝手に食事をし始めてしまい、共にブタの姿に変えられてしまった。作中で名前は明らかになってはいない。
: やや自分勝手な夫に戸惑いながらも、さり気なく夫に寄り添う。娘の千尋に対してはドライに振る舞う事が多いものの、彼女を心配したり気にかけたりする親らしい一面は持ち合わせている。
: 夫同様、最終的には元の姿に戻ったが、ブタになっていた時の事は覚えていない。
: モデルはジブリ出版部に勤務する女性{{sfn|叶|2006|p=232}}。
: 夫との食事のアフレコは、宮崎駿の用意した[[ケンタッキーフライドチキン]]を実際に食べながら行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/10/17/0015731756.shtml|title=「千と千尋」アフレコはフライドチキン食べながら 沢口靖子「帰れま10」で告白|newspaper=デイリースポーツ online|publisher=神戸新聞社|date=2022-10-17|accessdate=2022-10-17}}</ref>。
=== 湯婆婆とその関係者 ===
; {{Anchors|湯婆婆}}湯婆婆(ゆばーば)
: 声 - [[夏木マリ]]
: 湯屋「油屋」の経営者で正体不明の老[[魔女]]。頭が大きく、二頭身という人間離れした体格。
: 欲深で口うるさく、老獪な人物として描かれている。その一方で息子の坊を溺愛しており、ハクに言われて坊がいなくなった事に気づき、ハクに詰め寄る程に激しく取り乱していた{{efn2|銭婆によってネズミにされた坊に出くわした時には、自分の息子だと気づいていなかった。}}。
: 作中で様々な魔法を使っており、名前を奪って支配する契約や、手を触れずに対象物を動かしたり、鳥に変身して空を飛んだり、光の弾を放ったりしている。
: [[人間]]の世界から迷い込んできた千尋を最初こそ拒否していたが、強引で諦めようとしない彼女に半ば呆れながら雇い、契約の際に名前を奪って「千」と名付ける。名前を奪う前に契約書を見て「贅沢な名だねぇ」と言った{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=216}}。油屋が閉まる明け方になると黒いマントに身を包み、コウモリのような姿になって湯バードと共に遠くへ飛び去っていき、油屋が開く夕方に帰って来る。弟子のハクを体内に忍び込ませた虫([[蛞蝓|ナメクジ]]のような黒い虫(ロマンアルバムなどではタタリ虫{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=377}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=67}}))で操り、銭婆の持つ魔女の契約印を盗ませる{{efn2|絵コンテに収録されている釜爺のセリフによれば、契約印があれば湯屋の労働契約を変えることができ、従業員を奴隷にすることもできる{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=484}}。}}などの悪事をさせている。
: 悪事も辞さない横柄な性格だが、一方で経営者としての度量と心意気も持ち合わせており、河の神の汚れを落とし大量の砂金の儲けをもたらした千尋を褒め、腐れ神に近づく事を嫌がった従業員達に千尋を見習うようたしなめている。普段は最上階の自室に籠っており客の前に姿を見せないが、横暴な態度の客の撃退を試みたり、経営者として腐れ神やカオナシなどの客への対応を自ら行うなど、全てを従業員に任せっ放しという訳でもない。
: 銭婆の元から戻ってきた千尋に対し、「数頭いるブタの中から両親を当てられたら自由にする」という謎かけを提示し、全頭従業員が化けたダミーのブタを用意するが、千尋に正解を言い当てられた事で契約書が消滅した為、負けを認め彼女を人間界へ帰す。千尋に礼を言われた際には顔を背けていたが、湯屋から去っていく姿を静かに見送っていた。
:
; {{Anchors|銭婆}}銭婆(ぜにーば)
: 声 - 夏木マリ
: 湯婆婆の双子の姉で、坊の伯母。声や容姿、服装、髪型まで湯婆婆と瓜二つで、甥の坊が母である湯婆婆と間違えてしまう程{{efn2|自分を母・湯婆婆と間違えた際は、「お母さんと私の区別もつかないのかい」と呆れた様子を見せている。}}。彼女と同様に強い魔力を持つ魔女。
: 紙や[[ランプ (照明器具)#カンテラ|カンテラ]]など無生物に魔力を吹き込んで使いながら「沼の底」という寂れた田舎に一人で住んでいる。本人曰く「私達は二人で一人前」だが、姉妹仲は良好とは言えず、妹からは性悪女呼ばわりされている。
: 口調は湯婆婆と似ており、釜爺にも「あの魔女は怖い」と評されている{{efn2|絵コンテでは「ゼニーバの声 やさしくなりすぎないこと こわいおばあさまです」と注意書きされている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=577}}。}}。
: 自身に害を及ぼす者は許さず、湯婆婆の命令で魔女の契約に用いる[[印章|ハンコ]]を盗み出した竜の姿のハクに、千尋が紙の鳥と呼ぶ物{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=376}}(絵コンテなどには〔紙の〕人形〔ひとがた〕と表記{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=366}}{{efn2|式神(しきがみ)と同様の魔法だろう、とも記述されている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}。}}、絵コンテには紙の依り代(よりしろ)とも表記{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=450}})を差し向けて痛めつけたり、ハンコを盗んだ者は死ぬまで命を食い荒らす守りのまじない{{efn2|このまじないは、千尋が銭婆の元へ届けた頃にはハンコから消えていた。千尋がハンコを返した時「守りのまじないが消えてるねぇ」と言った{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=580}}。}}をかけるなど、評判通り恐ろしい人物であるような印象を見せたが、実際は心優しい性格で、千尋に対しても「助けてやりたい(が、この世界のルール上自分にはどうする事もできない)」と言うなど、欲深な妹より物分かりの良い気質である。
: ハクに代わって謝りに来た千尋を快く家に迎え入れ、カオナシやネズミ、ハエドリ達も同様にもてなした上で優しく接し、彼らと共に紡いだ手製の髪留め<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535791885759946754 |title=この髪留めだけが、千尋が不思議な世界にいたことの証拠になりました。宮崎駿監督は「あの世界は全部夢だったというふうにしたくなかった」と語り、そのために残したのがこの髪留めだったのだと明らかにしています。 |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=117}}を贈る。その時「お守り」と言った{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=588}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=143}}。その後に迎えにやって来たハクの事も快く許し、湯屋へと見送った。また、行くあてのないカオナシを「ここにいて私の手助けをしておくれ」と引き取るなど、面倒見も良い。千尋の本当の名を知り「いい名前だね。これからも自分の名前を大切にね」と言っている。
:
; {{Anchors|坊}}坊(ぼう) / 坊ネズミ
: 声 - [[神木隆之介]]
: 湯婆婆の息子。赤い腹掛けをした巨大な[[赤ちゃん]]で、銭婆に「太り過ぎ」と評される肥満体型。甘やかされて育てられている為、性格はかなり我儘。怒ると暴れ泣きわめき、怪力で部屋を破壊する。ジブリスタッフによると、彼の体が巨大なのは、(心が)子供のまま(体が)大きくなってしまった事を、象徴しているという。
: 湯婆婆から「外に行くと病気になる」としつけられており、過保護のもと、湯婆婆の部屋の隣の自分の部屋から出ずに暮らしていたが、物語中盤で銭婆の魔法によって小太りのネズミ(絵コンテには鼡〔ねずみ〕とも表記{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=608}})に姿を変えられる。ネズミの姿の際の移動は、同じく銭婆に小さなハエドリに姿を変えられ、共に行動する湯バードに運んでもらっているが、湯バードが飛び過ぎて疲れた際は、湯バードを乗せて自分で歩行していた。
: 途中で銭婆の魔法の効力はなくなっていた為自分の意思で元に戻れるようになっていたが、湯屋に戻って千尋と湯婆婆が対面する時までネズミの姿で行動している。ネズミの姿をしていた際に湯婆婆と会っているが、自分だと気づくどころか汚いものを見るような言動をされた事に対し、悲しげな表情を見せた後、怒りを露わにした表情を見せている。
: 湯婆婆の息子だが「お母さん」や「ママ」とは呼ばず、「ばぁば」と呼ぶ。
: 千尋と出会って初めて外界を冒険した事で、終盤で千尋達と共に油屋に戻った際、頑なな態度で千尋と両親を人間の世界に戻す事を拒否する湯婆婆を「ばぁばのケチ、もうやめなよ」といさめる他、笑顔で千尋を見送るなど精神的にも成長した様子。物語序盤では立てない様子だったが、中盤で千尋が湯婆婆の部屋に入った後、彼女の後を追って部屋に入る時に、立って危なっかしくよろめきながら歩いた。終盤で千尋達と共に油屋に帰り元の姿に戻った際は、しっかりと一人で立っていた。
:
; {{Anchors|頭}}頭(かしら)
: 湯婆婆に仕える、緑色の頭だけの怪物。3体いる。中年男性のような顔で、跳ねたり転がったりしながら移動する。
: 言葉は話せず、「オイ」と声をあげるのみだが感情はあるようで、坊が隣の自分の部屋から出てきた際には怖がる姿を見せている。作中では銭婆の魔法によって坊の姿に変えられるが、お菓子をむさぼり食うその姿に違和感を覚えた湯婆婆によって元の姿に戻されてしまい、正体がばれた後はドアを開けて逃亡した。また、ネズミに変えられた坊とハエドリに変えられた湯バードを叩き潰そうとしていた。常に三つ一緒に行動している。坊の遊び相手らしいが、坊の巨大な体と怪力のせいで、彼らにはいじめとしか思えない様子{{efn2|魔法で変身させられた坊を叩き潰そうとする場面で、坊に復讐するという記述がある{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=39}}。『絵コンテ全集』では普段の恨みという記述がある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=447}}。}}。劇中では「頭(かしら)」という名前は呼称されない。
:
; {{Anchors|湯バード}}湯バード(ゆバード) / ハエドリ
: 首から上は湯婆婆と同じ顔(ただし、顔色は黒い)、体はカラスという不気味な姿の人面鳥。常に湯婆婆に付き従っている。言葉は話せず、[[カラス]]のような鳴き声を発する。油屋の見張り鳥{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=60}}。
: 中盤で銭婆の魔法でハエのように小さい鳥(ハエドリ{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=441}})にされ、以降は終始この姿で、坊と共に行動する。ネズミに変えられた坊を足でつかんで飛ぶ事もできる。湯婆婆がネズミにされた坊と会った際、気づかずに汚いものを見るような言動をされた事で、坊と共に信じられないと言いたげな表情を見せている。
: 坊とは違い、元の姿には戻りたくないようで{{efn2|宮崎の演出メモとして「ハエはもどりたくないのです」とある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=608}}。}}、最後までハエドリの姿だった。
: 「湯バード」という名前は劇中では呼称されない。
=== 油屋の従業員 ===
従業員の大半はカエル(男衆){{sfn|叶|2006|p=232}}とナメクジ(女衆〔主に江戸時代にいた大湯女〈おおゆな〉に相当する〕){{sfn|ロマンアルバム|2001|p=69}}であり<ref name="kinro_ntv535777121969262592">{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535777121969262592 |title=油屋の従業員たちの大半が、男はカエル、女はナメクジをモデルにして描かれています。このことついて宮崎駿監督は「僕らの日常ってカエルやナメクジみたいなもんじゃないかと思っているんです… |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>、ヘビ(ハク){{efn2|宮崎は「長虫」という語で竜を指す事があると述べる (ハク{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=104}}) (河の神{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=333}}) 。}}と合わせて[[三すくみ]]の関係にある。
; {{Anchors|釜爺}}釜爺(かまじい)
: 声 - [[菅原文太]]
: 油屋のボイラー室を取り仕切っている黒眼鏡をかけた老人。[[クモ]]のような姿で、伸縮可能な6本の腕を自在に操り{{efn2|着ているシャツの袖も腕の長さに合せて同時に伸縮する。}}、油屋で使われる湯を沸かし、薬湯の[[生薬]]を調合する仕事をしている。休憩時間の際は、リンが運んできた[[漬け物]]つきの[[天丼]]を食べている。湯屋の従業員の中で、彼だけが私服、何も被らない。虫が苦手な為、ハクが吐き出したハンコにくっついていた黒い虫を千尋に追いかけさせた。
: 人間に対する差別意識は無く、突然ボイラー室に現れた千尋に対し厳しめの態度を取りながらも、人間である彼女がいる事に騒ぐリンに「わしの孫だ」とうそをつき、庇うなど彼女を気遣い、リンに湯婆婆の所へ連れていくように頼む時に、イモリの黒焼きを彼女に渡した。その後も傷ついたハクを手当し、銭婆の所へ行こうとする千尋に40年前に自分が使い残した[[電車]]の切符を渡すなど、千尋をサポートする。
: 部下に[[石炭]]を運ぶ[[ススワタリ]]がいる。
: 前述の通り仕事には厳しいが、千尋に対しては本当の孫のように優しい一面も見せる。
:
; {{Anchors|リン}}リン
: 声 - [[玉井夕海]]
: 油屋で下働きをしている少女。外見年齢は14歳<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535767450386591744 |title=イメージボードの段階では「白狐」という表記もされていました。大人びて見えますが、設定上はまだ14歳くらいの女の子なんです! |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=58}}。一人称は「オレ」、もしくは「あたい」。仕事中は腰に前掛けをつける。
: 口調は荒っぽいが性格はサッパリとした姉御肌。人間である千尋を初めて見た時は驚いて戸惑い、少々きつく当たっていたが、彼女の雇用が決まるとハクから半ば押しつけられる形であったとはいえ、雇用してもらえるように頑張った千尋に対し「うまくやったなぁ」と彼女を認め、湯屋の先輩として千尋に仕事を教えて面倒を見る<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535766708036710400 |title=リン「お前、うまくやったナァ お前トロいからさ、心配してたんだ 油断するなよ、判らないことはオレにきけ、な」 |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>。千尋と共に風呂釜の中を掃除中に、千尋に番台から薬湯の札を一枚持って来させ、札と風呂場の壁の仕掛けの使い方を教えた後、湯を釜に入れる為の樋の先端から垂れる綱を、千尋に引かせたりした。
: 出自は不明で{{efn2|最初はイタチかテンが変身した設定だったことと、顔を長くしたのは宮崎監督だという安藤作画監督の発言が記述されている{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=120}}。}}{{efn2|イメージボードでは、リンのイラストの横に「白狐」と記されている{{sfn|『THE ART OF』|2001|p=23}}。}}、不本意ながら湯屋で働く自分の運命を呪っており、いつか湯屋を出て海の向こうの町 (湯屋の裏の電車の行き先の町{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=340}}) に行く事を夢見ている。その為、雇い主である湯婆婆に対する忠誠心や敬愛の念などは無く、湯婆婆やハクの事は呼び捨てで呼び、上司であるはずのハク・父役・兄役らに対してもタメ口で話す。
: 彼女の他にも人間の少女と全く変わらない外見をした下働きの少女(主に江戸時代にいた小湯女〔こゆな〕に相当する{{efn2|主に江戸時代に湯女(ゆな)と呼ばれる従業員がいたこと、大湯女と小湯女がいて、小湯女は入浴の世話番(下働き)、大湯女は湯治に来た男性客向けのサービスを行っていたこと、千尋(リンや他の少女も)は小湯女という記述がある{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=69}}。}})が何人かいる(彼女や他の少女の千尋に対する言動を見る限り、人間ではないと思われる)。他の従業員は人間である千尋を差別的に嫌っているが、彼女にそういった差別意識は無く、千尋に対しても他の従業員と同等に接している。カオナシに対しては「千に何かしたら許さないからな」と叫んでいた。
: 好物は[[アカハライモリ|イモリ]]の黒焼き(油屋では貴重な品で、従業員は皆イモリの黒焼きに目がない){{sfn|ロマンアルバム|2001|p=65}}。
:
; {{Anchors|父役|兄役|番台蛙}}父役(ちちやく)、兄役(あにやく)、番台蛙(ばんだいかえる)
: 声 - [[上條恒彦]](父役)、[[小野武彦]](兄役)、[[大泉洋]](番台蛙)
: それぞれ油屋の従業員達と湯婆婆の間の中間[[管理職]]的役割を担っており、父役はハク以外の従業員の中で最も地位が高く、兄役はその下という位置づけ{{efn2|絵コンテには「部長と課長とおもって下さい」とある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=59}}。}}。
: 番台蛙は番台に座り、様々な薬湯の札を他の従業員に渡す役割を担っている{{efn2|ただし、千尋に対しては差別意識から「そんなもったいない事ができるか」「手でこすればいいんだ」と渡すのを拒否している。}}。いずれも[[カエル|蛙]]の化身<ref name="kinro_ntv535777121969262592" />{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=59}}。この3人の制服は、烏帽子を被り(父役と兄役の烏帽子は黒とは違う色) 、水干の上着には色がつき、父役と兄役は白い袴、白い足袋(橋の上でオクサレ様を止めようとするカエル男達の中で、青蛙の隣の番台蛙の<ref>{{Cite book|和書|title=スタジオジブリ・レイアウト展 図録 |publisher=日本放送網株式会社 |editor=スタジオジブリ|isbn=978-4-8866-0459-0 |date=2008-7-25|page=262}}</ref>、上着とも白とも違う色の袴、裸足、草履がない姿が映る)。ちなみに他のほとんどのカエル男の制服は、上下共に白の水干(上下共に同じ色のついた水干の男性もいる)、裸足に草履、烏帽子を被る。青蛙以外のカエル男は、人間化してジャンプ力を失っている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=185}}。
: それぞれ、上にはへつらい下には威張るような態度を取るキャラクターとして描かれている。下の者を見下しており、特に人間である千尋を嫌っている。兄役は、風呂を掃除中の千尋とリンに「リン、千、一番客が来ちまうぞ」と言って風呂の準備を急がせた。
: 父役は、千尋がカオナシのいる客室に入った直後に千尋を心配するように、湯婆婆に「千、一人で大丈夫でしょうか」と言ったが、湯婆婆から「お前が代わるかい」と言われ、カオナシが怖くて黙ってしまう場面もあった。
: 兄役は、カオナシが客として振る舞っていた時に[[幇間]]もしていた{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=382}}。彼の言葉を誤解して怒ったカオナシに、傍にいたナメクジ女と共に飲み込まれてしまうが、千尋がニガダンゴを食べさせた事で救出される。彼女がカオナシを外に誘い出してからは、父役ともども千尋に対する態度を改め、同じように救出された青蛙と共に湯婆婆から千尋を庇う姿を見せている。
:
; {{Anchors|青蛙}}青蛙(あおがえる)
: 声 - [[我修院達也]]
: 湯屋で下働きをしている[[カエル|蛙]]。カエル男の中で彼だけがカエルそのものの姿。千尋を最初に見た時などにジャンプしている。カエル男の中で彼だけは髪がない為か何も被らず、制服は青い着物、裸足。砂金に目がなくがめつい性格。橋を渡りきる直前に、人間の言葉を話す彼を見て、驚いた千尋が息をして魔法が解け、人間である千尋を最初に見た。橋の上でハクに魔法をかけられ、気絶させられた上に、人間である千尋を見た記憶を消された{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=102,106}}{{efn2|ハクが(青蛙に)呪文をかけたとする資料もある{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=16}}。}}。オクサレ様が湯屋に近づいて来た時に、橋の上で他のカエル男達と一緒に「お帰り下さい」と言った。その直後、青蛙だけがオクサレ様の臭気により気絶した。
: 大湯で砂金探しをしていた所、カオナシの手から出す大量の砂金(土くれ)に目がくらみ、最初に飲み込まれる。その後はカオナシが言葉を発する為に声を借りられていたが、千尋がニガダンゴを食べさせた事で最後には吐き出される。彼女がカオナシを外に誘い出してからは父役、兄役と共に「千のおかげでオレたち、助かったんです」と千尋を庇う様子を見せている。
:
; {{Anchors|ススワタリ}}[[ススワタリ]]
: イガ栗のような形をした黒い体で、その真ん中に二つの目がついている。手足が生えている。釜爺からは「チビ共」と呼ばれている。
: 魔法の力で[[煤|すす]]から生まれたらしく、働いていないとすすに戻ってしまう。
: 釜爺の指示で[[石炭]]を抱えて運び、ボイラー室の[[炉]]に放り込むのが仕事。休憩時間の際は[[金平糖]]を食事として与えられている。千尋の服と靴を預かるなど、釜爺と共に千尋を手助けする。千尋に最初に会った時、一匹が自分の体よりも大きい石炭を運ぼうとして千尋の目の前で潰れてしまい、彼女が代わりに運んであげた。彼女が石炭を持ち上げた時、潰れた一匹は手足のない状態で復活したが、彼女の質問を無視して宙を飛び巣穴に戻ってしまった。
: 『[[となりのトトロ]]』にも同名の生物が登場するが、本作に登場するススワタリと異なり手足がない。
=== その他 ===
[[ファイル:Japan_Touch_Haru_-_Double_Mixte_-_Lyon_-_2014-04-12-_P1810647.jpg|thumb|カオナシのコスプレ]]
; {{Anchors|カオナシ}}カオナシ
: 声 - [[中村彰男]]
: 黒い影のような体にお面をつけたような姿をしている。
: 言葉は話せず「ア」または「エ」といったか細い声を絞り出すのみ。コミュニケーションが取れない為、他人を飲み込んで声を借りる。その際はお面の下にある本物の口から話す。飲食するのもこの口からである。焦げ茶色の短い髪が見える場面がある。
: 普段は直立歩行だが、湯屋の従業員の青蛙達を飲み込み、飲食をして巨大化した後、千尋を追う時に四つん這いで走った。姿を消す力を持つ。
: 相手の欲しい物を手から出す力を持ち、それを手にした瞬間にその人を飲み込んでしまう。ただし、それらは土くれが変化した物に過ぎなかった。
: 橋の欄干で千尋を見かけた時から彼女を求めるようになり、喜んでもらいたい一心で番台から薬湯の札を盗み、千尋に差し出した。雨の夜に、濡れながら湯屋の庭に立っていた彼を見た千尋が客だと思い、戸を開けたままその場を離れた後、彼はその戸から湯屋に入った。
: オクサレ様の一件の後、従業員達の就寝時に、青蛙が大湯で砂金探しをしていた所、砂金をエサに青蛙を丸飲みし、翌日砂金で他の従業員達を丸め込み、大量に料理を作らせて、風呂に入りながら暴飲暴食し巨大化した。千尋にも砂金を差し出したが断られ、兄役がやってきて説明すると誤解して怒り、兄役と傍にいたナメクジ女を飲み込んで肥大化していく。その後、千尋を客室に呼び出し再び対面し、料理を差し出すが彼女に断られ、さらにニガダンゴを食べさせられ、[[嘔吐]]すると同時に怒りで暴走し、千尋を追いかけている途中に飲み込んだ3人を全て吐き出して縮み、元の姿に戻る。戻った後は大人しくなり、千尋について銭婆の所へ行き、銭婆の厚意でそのままそこで暮らす事になる。終盤までは、高い段差を上る時や千尋を追う時に2本足が見えるだけだったが、最後に銭婆の家の前で千尋達を見送る時には、常に見える2本足がついている{{efn2|「カオナシに早くも足があるのはできすぎだが、つけましょう」という宮崎監督の指示が書かれている{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=595}}。}}。
: 英語版での名前は "No-Face"。
: 製作当初は重要キャラではなく、単なる「ハクと千尋が油屋に向かう際、橋の上にただ立っている存在」であったが、結果的に準主役ともいうべきキャラとなった経緯を持つ{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=66}}。
: 鈴木敏夫によって[[米林宏昌]]がモデルであるとされていたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0025267 |title=宮崎駿も感動で涙!ジブリ新作映画『借りぐらしのアリエッティ』が完成!カオナシのモデル米林監督が人生初の囲み取材に! |website=シネマトゥデイ |date=2010-07-01 |accessdate=2022-12-23}}</ref>、のちに米林本人が後づけであると否定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0066254 |title=『思い出のマーニー』米林監督、カオナシのモデル説の真相を明かす! |website=シネマトゥデイ |date=2014-09-11 |accessdate=2022-12-23}}</ref>。
=== {{Anchors|霊々}}霊々(かみがみ) ===
[[神 (神道)|神道]]における[[神 (神道)#八百万の神|八百万神]](やおよろずのかみ<!--※リンク先の「…の神々」は本来の呼称ではなく「八百万神」という。-->)で、疲れを癒そうと油屋を訪れる。八百万の名の通り、姿形・性質・性格は様々。ロマンアルバムでは、霊々(かみがみ)と表記{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=66}}。
; {{Anchors|おしら様|大根の神様}}[[おしら様]](おしらさま){{sfn|ロマンアルバム|2001|p=61}}<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535764470669139971 |title=このまっしろな神様は「おしらさま」といいます。東北地方では、古来「おしら様」という同じ名前の神様が信仰されてきました。そのご神体は桑の木で作った棒の先に男女の顔や馬の顔を彫り、衣を重ねて着せたもので… |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>
: 声 - [[安田顕]]
: 福々しく肥え太った真っ白な[[大根]]の神として描かれている。裏返した[[朱]][[漆]]の[[盃]]のような被り物をしている。
: 見も知らぬ千尋と突然出会う事になったが、驚く事も物怖じする事もなく、付き添えなくなったリンに代わって、湯婆婆の所へ行く千尋に付き添ってくれる。その後は、[[扇子]]を持って[[舞踊]]を楽しんだり、茶色の正装姿で、帰る千尋を見送ったりしている様子が描かれている。ちなみに、霊々が船から降りてくる場面や、千尋が湯屋の外階段を降りる直前に橋を渡る霊々が映る場面でも、正装姿である。2柱(ふたはしら)同時に映るシーンが作中にある。ジブリスタッフによると、この神様(名前の由来になった神様もそうらしい)は、子供が好きなので、千尋に親切にしてくれたという。
:
; [[春日神|春日様]](かすがさま)
: 1柱ではなく、続々と参集する様子が描かれており、少なくとも数十柱が訪れている。
: 人間のような姿をしていながら体は見えず、それでいて物に[[影]]を落とす。見えない体に紫の[[冠]]を被り、[[スカーレット#緋色|深緋]]の官衣を着て、見えない顔には舞楽面の一種である蔵面をつけている。蔵面は[[舞楽]]の曲目ごとに描かれる顔の図柄が異なるが、作中のものは曲目『胡徳楽』などに用いられる蔵面である{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=66}}。移動するのに歩いている様子はなく、空中を浮いて滑るように動く。春日様が列をなして船から降りてくる場面では、宙に浮いた蔵面と体の影が移動しているように見える。その後、陸に上がる直前に蔵面から冠と服が現れる。硫黄の上の湯に入っている。おしら様と連れ立ち、扇子を振って千尋を讃えている様子も描かれている。
:
; [[牛鬼]](うしおに){{sfn|ロマンアルバム|2001|p=65}}
: 大きな頭に[[シカ|鹿]]の[[角]]のような枝角を生やした、ずんぐりむっくりな体形の[[鬼]](牛のような枝分かれしていない二本角の者や、舞楽の曲目『蘇利古』に使われる蔵面をつけ、イカのような手足の者もいる{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=61}})。性格的にも造形的にも、禍々しい[[妖怪]]・牛鬼ではなく、地方祭で親しまれている牛鬼([[牛鬼#祭礼の牛鬼]])の様である。
:
; {{Anchors|オオトリ様}}オオトリ様(オオトリさま)
: 元は食べられてしまったり、卵のまま生まれてこられなかった[[ひよこ]]の神様だともいわれる{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=65}}。空は飛べないが、ジャンプをする場面はある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=335}}。
: 大勢で風呂に入っている。外を歩く時、大きな葉を頭にのせている。
:
; [[なまはげ|おなま様]](おなまさま)
: 牛のような二本角の[[鬼]]の姿、手には[[包丁]]を持ち、[[蓑]]を羽織っているのもなまはげと変わらないが、蓑は[[稲藁]]ではなくくすんだ緑色の木の葉でできている(鹿のような枝角の者もいる{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=61}})。
:
; {{Anchors|一言主様|のの様|あんが様}}[[一言主|一言主様]]、[[のの|のの様]]、あんが様(ひとことぬしさま、ののさま、あんがさま)<ref>千と千尋の神隠し―フィルムコミック(2)(2001年9月10日)ISBN 4-19-770083-0、64頁。</ref>
: 厨房で働く蛙男達のセリフ中に名前が登場する。一言主様に関しては、オクサレ様が来た時に逃げる霊々の中に赤い冠に「言」と書かれた神が登場している。
:
; {{Anchors|オクサレ様|河の神}}オクサレ様(オクサレさま){{sfn|ロマンアルバム|2001|p=61}}<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535774754976698369 |title=自転車に建材からルアーまで、人間が河に投げ捨てた大量のゴミによってこの姿になってしまったオクサレさま。実はこのキャラクターは、宮崎監督が川掃除に参加した時、自転車を引っ張り上げた体験から着想を得たものなのだそうです! |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>/ 河の神(かわのかみ)・河の主(かわのぬし)
: 声 - [[はやし・こば]]
: 水に溶けた流動性の高い[[泥]]が集まって巨大な一塊になったような姿をしていて、這うように移動する。動くたびに泥が体の表面を流動する。その泥は人間が河に捨てた[[ごみ]]と汚れをたっぷり含んだ[[ヘドロ]]で、それゆえにすさまじい[[悪臭]]を放つ。その臭気は朝食としてリンが調達してきたご飯を、少し離れた所からでも一瞬で腐らせる程危険なもので{{efn2|リンは「めしが…」と驚いていた{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=300}}。}}、湯婆婆を始めとする湯屋の者は皆慌てふためきながら迎え入れる事になる。リンがまだ朝食の調達から戻っていなかったので{{sfn|『絵コンテ全集13』|pp=285,299}}、千尋だけが湯婆婆の命令で、彼から料金を受け取り、世話をした。これほどひどい汚れは千尋とリンが、オクサレ様が湯屋に来る直前の風呂の掃除中に、こびりついた汚れを落とそうとしてためた薬湯{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=281}}では落ちなかった。千尋が足し湯をしようと、薬湯の札と風呂場の壁の仕掛けを使った。その後、ヘドロに足を取られながらも釜へ進んでいき{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=30}}、釜の上の綱を右手で引くと同時に、釜の縁をつかんでいた左手が滑り、釜の中に転落し、底にたまっているヘドロに頭から埋まってしまう{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=312}}。逃れようともがく千尋の体を引き抜いて助け出してくれたのはオクサレ様であった。湯屋の者は、彼を本物のオクサレ様、つまり「'''腐れ神'''(くされがみ)」{{efn2|「腐れ神」が何かという疑問の謎解きは作中でなされない。}}だと外見だけで決めつけていて近づかず、リンは釜爺にありったけの薬湯を出すように頼みに行っていて{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=316}}、千尋だけが世話をしていたので、オクサレ様の体に刺さって抜けない[[棘]]のような物に千尋だけが気づき、従業員達と協力して引き抜いた事で、長年にわたってオクサレ様の体の表面についたり、飲み込んでしまったごみや汚れが、堰を切ったように吐き出され流れ落ち、神は本来の姿を取り戻す。湯婆婆曰く、正体は「名のある河の主{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=336}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=33}}([[河川神|河の神]]{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=32,61,66}})」であった。その姿は、河の流れそのものであろう半透明で不定形な長い竜のような体(絵コンテでは白い蛇体{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=332}}、白い竜{{efn2|絵コンテの同じページには、白い長虫という記載もある{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=333}}。}}等と記載。ロマンアルバムでも白蛇の身体と記載{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=32,61}})に、[[能面]]の「[[翁]]」の[[仮面]]の様な顔を持つ{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=32,61}}、優しそうでありながら神々しいものであった。河の神は「よきかな」と言った後、笑い声をあげながら湯屋の高所にある格式高い[[唐破風]]の大戸から飛び去っていくが、去り際には世話になった千尋に謎の[[団子]]「ニガダンゴ」を与え、湯屋には大量の[[砂金]]を残していった。
:
; {{Anchors|お台所さま}}お台所さま(おだいどころさま){{sfn|ロマンアルバム|2001|p=61}}
: 千尋が息を止めてハクと橋を渡る際に登場。頭に大きな笠を被り、笠の縁から包丁や鍋等の台所用品をぶら下げている。
:
; {{Anchors|むすびさま}}むすびさま<ref>『アニメージュ』2001年10月号94頁。</ref>
: 千尋が番台蛙に薬湯の札を貰いに来た時に登場。ピンク色の体で葉団扇を持っている。縁結びの神であり、「むすびさま」の愛称は[[アニメージュ]]誌上にて読者の一般公募で決められた。
:
; [[石神|石神様]](いしがみさま)
: オクサレ様が来た日に、春日様と共に蓬仙湯に予約を入れていた神。名前のみ登場する。
=== 人間 ===
; {{Anchors|理砂}}理砂(りさ)
: 名前のみ登場する。千尋が引っ越す前に通っていた学校の友人。
: 千尋が引っ越す時、「元気でね また会おうね」と書かれたお別れのカードを、スイートピーの花束に添えてプレゼントした{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=8}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=8,68}}。ちなみにスイートピーの花言葉は「出発{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}」。
: 名前を奪われて「千」になってしまった千尋が、お別れのカードに書かれていた「ちひろ」という名前を見て、自分が「千尋」である事を思い出す。
== 舞台設定 ==
[[File:積善館本館 中之条 2013 (9994399714).jpg|thumb|湯屋のモデルの一つとされる[[四万温泉]]「積善館」。]]
[[file:Interior of Takei Sanshodo.jpg|thumb|ボイラー室のモデルとされる武居三省堂の店内(東京都[[小金井市]]・[[江戸東京たてもの園]])。]]
湯婆婆が経営する、八百万の神が体を休める「[[油屋 (千と千尋の神隠し)|油屋]]」(あぶらや)という屋号の湯屋が舞台<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535758257940213761 |title=湯婆婆が経営する湯屋(ゆや)の屋号は「油屋」。「あぶらや」と読みます。つまり“湯屋「油屋」”は「ゆや・あぶらや」と読むのです。。油を商う店のように聞こえますが、現実の世界でも温泉宿や商店で「油屋」の屋号をもつ店は多いのだそうです。 |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref><ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535765299287453696 |title=湯婆婆「ここはね、人間の来るところじゃないんだ八百万の神さま達が疲れを癒しにくるお湯屋なんだよ」 |date=2014-11-21 |accessdate=2022-12-17}}</ref>{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=62-63}}。油屋は一見和風建築であるが、土台部分はコンクリートであったり、[[ボイラー]]や[[エレベーター]]といった近代的な設備が備わっている。
[[和風]]に装っているのは表面部分だけであり、宮崎はこうした作りを「俗悪」と言い表す{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=53}}。最下層にボイラー室{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=63}}と機械室、その上に従業員用のスペースがあり、湯婆婆とハク、釜爺以外の従業員達はそこで寝泊りする。上階が男性従業員の部屋、下階が少女と女性従業員の部屋で、大部屋に大勢で寝る{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=63}}。従業員の生活空間は裏側に配置されており、神々の出入りする正面側からは見えない。油屋正面とその上階が営業スペースとなっている。中に大きな吹き抜けがあり、下には様々な種類の[[風呂]]が配置され、その上を取り囲むように宴会場や客室が配置されている。さらに、その上には湯婆婆の個人宅があり、その部分は洋風の建築様式となっている{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=62-63}}。河の神が使った大戸は空を飛べる(上級の)神用の出入り口{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=62}}。一階玄関はその他の客用の出入り口。
千尋達は最初に、トンネルのある時計台のような建物に迷い込む。そこから先は、廃墟が点々とする緩やかな上り坂になった草原がしばらく続く。その後川を渡ると、丘の上の食堂街に出る。時計台と食堂街を区切る川は、昼は小川であるが、夜になり神々が訪れる時間になると草原全体が大河に変わり、そこを船が行き交う。また、夜は遠く対岸にある時計台の周囲に町が現れる。異世界はあらすじ通りに日中の時間の流れ方が人間界と違って早い。また、時計台の文字盤によると異世界は夜が長い模様{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=37}}{{sfn|『THE ART OF』|2001|pp=66-67}}。その上、一晩ごとに月齢が違い、千尋が河の神の世話をした直後が満月の夜{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=339}}、翌日千尋が銭婆の家から湯屋に帰るのが半月の夜{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=599}}。食堂街を抜けると大きな灯籠のある広場に出、そこから延びる橋が湯屋の正面入り口に繋がる。食堂街の周囲には、両親の収容されている畜舎や冷凍室、花園などが配置されている(花園では季節の異なる花々が同時に咲き乱れている{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=56,64}})。湯屋の方から見ると、畜舎は突き出た絶壁の上に建っている事が分かる。湯屋の周囲と湯屋の裏の電車の行き先は大平原になっており、雨が降ると海になる{{sfn|『絵コンテ全集13』|p=340}}。橋の下には'''海原電鉄'''([[架線#電車の架線|架線]]は無い){{efn2|釜爺の回数券に名が記されている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=65}}。}}が走っている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=64}}。[[単線]]の一方通行で、今は行きっ放しである(釜爺によれば、昔は帰りの電車も通っていたという)。千尋が乗る駅は湯屋の裏で建物から離れた位置にある。途中には千尋が降りる「沼の底」駅があり、他に乗客の降りる沼原駅なども出てくる{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=68}}。
== 声の出演 ==
英語版は[[ピクサー・アニメーション・スタジオ|ピクサー]]の[[ジョン・ラセター]]が製作総指揮を手掛け、4人の翻訳家が英語版台本を作成し、カーク・ワイズが演出を手がけた<ref>以下のリストは{{Harvnb|ロマンアルバム|2001|p=103}}および{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt0245429/fullcredits/ |title=Sen to Chihiro no kamikakushi (2001) - Full Cast & Crew - IMDb |publisher=IMDb |accessdate=2016-11-18}}より作成</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!キャラクター
!日本語版
!英語版
|-
|荻野千尋||[[柊瑠美]]||[[デイヴィ・チェイス]]
|-
|ハク||[[入野自由]]||[[:en:Jason Marsden|ジェイソン・マースデン]]
|-
|湯婆婆||rowspan="2"|[[夏木マリ]]||rowspan="2"|[[スザンヌ・プレシェット]]
|-
||銭婆
|-
|釜爺||[[菅原文太]]||[[デヴィッド・オグデン・スティアーズ]]
|-
|カオナシ||[[中村彰男]]||[[ボブ・バーゲン]]
|-
|リン||[[玉井夕海]]||[[:en:Susan Egan|スーザン・イーガン]]
|-
|坊||[[神木隆之介]]||[[タラ・ストロング]]
|-
|荻野明夫||[[内藤剛志]]||[[マイケル・チクリス]]
|-
|荻野悠子||[[沢口靖子]]||[[ローレン・ホリー]]
|-
|父役||[[上條恒彦]]||[[ポール・エイディング]]
|-
|兄役||[[小野武彦]]||[[ジョン・ラッツェンバーガー]]
|-
|青蛙||[[我修院達也]]||ボブ・バーゲン
|-
|番台蛙||[[大泉洋]]||[[:en:Rodger Bumpass|ロジャー・バンパス]]
|-
|[[おしら様]]||[[安田顕]]||[[ジャック・エンジェル]]
|-
|河の神||[[はやし・こば]]||不明
|-
|役不明||[[脇田茂]]<br />[[斎藤志郎]]<br />[[山本道子 (女優)|山本道子]]<br />[[塚本景子]]<br />[[得丸伸二]]<br />[[山像かおり]]<br />[[香月弥生]]<br />[[浅野雅博]]<br />[[林田一高]]<br />[[山本郁子 (女優)|山本郁子]]<br />[[目黒未奈]]<br />[[石橋徹郎]]<br />[[椎原克知]]<br />[[片渕忍]]<br />[[鬼頭典子]]<br />[[鍛治直人]]<br />[[助川嘉隆]]<br />[[太刀川亞希]]<br />[[山谷典子]]<br />[[松尾勝久]]<br />[[木津誠之]]<br />[[大野容子]]<br />[[東幸枝]]<br />[[戸次重幸|佐藤重幸]](現:戸次重幸)<br />[[佐古真弓]]<br />[[添田園子]]<br />[[冨平晶子]]<br />[[増田美奈子]]<br />[[小野香織]]<br />[[山田里奈]]<br />[[高地美和]]<br />[[竹内裕美]]<br />[[奥真紀子]]||ミッキー・マクガワン<br />[[:en:Sherry Lynn|シェリー・リン]]<br />ジャック・エンジェル<br />[[モナ・マーシャル]]<br />ボブ・バーゲン<br />[[キャンディ・ミロ]]<br />ロジャー・バンパス<br />[[:en:Colleen Villard|コリーン・オショーネシー]]<br />[[:en:Jennifer Darling|ジェニファー・ダーリン]]<br />[[フィリップ・プロクター|フィル・プロクター]]<br />ポール・エイディング<br />[[:en:Jim Ward (voice actor)|ジム・ワード]]
|-
|}
== スタッフ ==
=== 映像制作 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
|colspan="2"|製作||[[徳間康快]](2000年9月20日まで)<br />牧田謙吾(2001年1月17日まで)<br />[[松下武義]](2001年1月18日より)
|-
|rowspan="2"|音楽||音楽<br />[[指揮者|指揮]]<br />ピアノ||'''[[久石譲]]'''
|-
|演奏||[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]
|-
|colspan="2"|作画監督||[[安藤雅司]]、[[高坂希太郎]]、[[賀川愛]]
|-
|colspan="2"|原画||[[稲村武志]]、山田憲一、松瀬勝、芳尾英明、[[山森英司]]、中村勝利、小野田和由、鈴木麻紀子、松尾真理子、田村篤、[[米林宏昌]]、藤井香織、山田珠美、[[二木真希子]]、[[百瀬義行]]<br />[[山下明彦]]、[[武内宣之]]、古屋勝悟、倉田美鈴、山形厚史、君島繁、山川浩臣、[[大杉宜弘]]、[[田中雄一 (アニメーター)|田中雄一]]、[[金子志津枝]]、[[浜洲英喜]]、古川尚哉、[[小西賢一]]、[[大城勝]]、[[大平晋也]]、[[橋本晋治]]<br />[[森久司|中山久司]]、高野登、[[篠原征子]]、石井邦幸、[[山内昇寿郎]]<br />[[テレコム・アニメーションフィルム|テレコム・アニメーション・フィルム]]<br />[[田中敦子 (アニメーター)|田中敦子]]
|-
|colspan="2"|動画チェック||[[舘野仁美]]、鈴木まり子、斎藤昌哉、大橋実
|-
|colspan="2"|動画||手島晶子、中込利恵、野口美律、伊藤望、大西綾、海内努、横田匡史、佐藤雅子、笹川周子、鶴岡耕次郎、片野美桜子、今野史枝、高橋直子、小田剛生、山田伸一郎、[[奥村正志]]<br />島田育子、アレキサンドラ・ワエラウフ、坂野方子、大村あゆみ、北島由美子、真野鈴子<br />東誠子、西戸スミエ、槇田喜代子、富沢恵子、コマサ、土岐弥生、椎名律子、岩柳恵美子、藤森まや、伊藤由美子、鳥羽明子、安達晶彦、松下敦子、梅林由加里、太田久美子、矢地久子<br />宮田知子、大塚美穂<br />山浦由加里、近藤梨恵、辻仁子、岩上由武、谷平久美子、西河広美、大橋雅央、中島弘晶、矢野守彦、藤谷尚子、中本和樹、中野洋平、中里舞、寺田久美子、岡本恭子、小川令人<br />佐伯忍、山田里子、堀元宣、大曲健克、藤木秀人、石井邦俊、阿部真一、大久保千夏、関暁子、井下信重、見陰智史、平井久美、細萱明良、牧野大介、藤井栄美子、渋谷勤<br />服部聡志、斉藤佐保、山田知香子、小松崎純子、榎本花子、田中春香、松林唯人、渡辺秀雄、柴田由香、錦織敦史、丸山友、村田康人、中島由喜、小松田大全、酒井怜子、塩谷直義<br />山下宗幸、森崇、植田和幸、猪股雅美、藤あや子、平川梨絵、杉山了蔵、位下ゆかり、寺田真佐子、後藤奈津子、山本理恵<br />D.R DIGITAL<br />趙鉉美 宋賢珠 金恩寧 徐金淑 安美京 張哲豪 權卜徑 金知恩 全賢珠 許英美 尹美卿 李惠姓 李美玉 片恩美 崔熙恩<br />鄭炫守 成知英 鄭晟姬 朴昭花 俆眞赫 邊恩順 邊惠順 李守相 金貞姬 朴支賢 朴淑和 朴英淑
|-
|colspan="2"|動画協力||アニメトロトロ、[[オープロダクション]]、[[スタジオコクピット]]、[[スタジオたくらんけ]]、グループどんぐり、[[中村プロダクション]]、[[ガイナックス|GAINAX]]、[[動画工房]]、[[スタジオ九魔]]<br />[[プロダクション・アイジー|Production I.G]]、スタジオムサシ、スタジオ・ブーメラン、[[スタジオディーン]]、[[スタジオ雲雀]]、ラジカル・パーティー、キリュウ、[[夢弦館]]、[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]<br />[[シャフト (アニメ制作会社)|SHAFT]]、LIBERTY SHIP、[[マッドハウス|MADHOUSE]]
|-
|colspan="2"|美術監督||[[武重洋二]]
|-
|colspan="2"|美術監督補佐||[[吉田昇]]
|-
|colspan="2"|背景||[[男鹿和雄]]、平原さやか、福留嘉一、[[田中直哉]]、春日井直美、伊奈涼子、長田昌子、石原智恵、矢野きくよ、糸川敬子、[[増山修]]、斎藤久恵、菊地正典、長縄恭子、佐々木洋明、[[山本二三]]<br />[[スタジオ風雅]]<br />永井一男<br />[[小倉工房]]<br />[[小倉宏昌]]、久保田正宏
|-
|colspan="2"|色彩設計||[[保田道世]]
|-
|colspan="2"|色指定||山田和子、野村雪絵
|-
|colspan="2"|仕上検査||守屋加奈子、織田富美子、石井裕章
|-
|colspan="2"|デジタルペイント||森奈緒美、井関真代、杉野亮、大山章博、鵜飼由美子、岡田理恵、柴山智隆<br />高橋プロダクション/T2Studio<br />高橋加奈子、那須亜紀子、南城久美、横山由妃、斉藤美智子、清水亜紀子、大蔵芙美乃、飯島弘志<br />D.R DIGITAL<br />咸善基<br />JEM<br />金炳烈 金泰鍾 李恩暻 李道熙 金美仙 韓今伊 許李慶 安明會 崔順花 朴那珹 金明淑 金明善 尹恵燁 金珍旭
|-
|colspan="2"|デジタル作画監督||[[片塰満則]]
|-
|colspan="2"|デジタル作画||泉津井陽一、軽部優、佐藤美樹、山田裕城、刀根有史
|-
|colspan="2"|CGエンジニア||井上雅史
|-
|colspan="2"|システム・マネージメント||北川内紀幸
|-
|colspan="2"|映像演出||[[奥井敦]]
|-
|colspan="2"|デジタル撮影||藪田順二、高橋わたる、田村淳
|-
|colspan="2"|録音演出||[[林和弘]]
|-
|colspan="2"|整音||井上秀司
|-
|colspan="2"|音響効果制作||[[サウンドリング]]、[[アニメ・サウンド・プロダクション]]
|-
|colspan="2"|音響効果||[[伊藤道廣]]、野口透
|-
|colspan="2"|音響効果助手||村上大輔、古宮理恵
|-
|colspan="2"|音響効果協力||森川永子、上田文子、宮澤麻由加、成田一明、阿部敏昭
|-
|colspan="2"|キャスティング・プロデュース||PUG POINT<br />畠中基博、八木桂子、安直美
|-
|colspan="2"|音楽制作||ワンダーシティ<br />関島雅樹、伊藤聡一郎<br />スタジオジブリ<br />稲城和実、古城環
|-
|colspan="2"|音楽著作権||長井孝
|-
|colspan="2"|音楽ミキサー||大川正義
|-
|colspan="2"|オーケストラレコーディング||田中信一
|-
|colspan="2"|サラウンドミックス||浜田純伸
|-
|colspan="2"|アシスタントエンジニア||秋田裕之
|-
|colspan="2"|CD制作||[[徳間ジャパンコミュニケーションズ]]<br />岡田知子
|-
|rowspan="2"|録音スタジオ||音楽収録||ワンダーステーション、すみだトリフォニーホール
|-
|効果収録||[[東宝サウンドスタジオ]]
|-
|colspan="2"|録音所||[[東京テレビセンター]]<br />高木創 今泉武 佐竹徹也
|-
|colspan="2"|タイトル||真野薫
|-
|colspan="2"|リスマーク||マリンポスト
|-
|colspan="2"|編集||[[瀬山武司]]
|-
|colspan="2"|編集助手||水田経子、内田恵、武宮むつみ
|-
|colspan="2"|編集所||瀬山編集室
|-
|colspan="2"|監督助手||高橋敦史、宮地昌幸
|-
|colspan="2"|制作担当||[[高橋望]]
|-
|colspan="2"|制作デスク||神村篤、望月雄一郎、田中千義
|-
|colspan="2"|制作進行||居村健治、斎藤純也、田代英一郎、伊藤郷平、松原法史
|-
|colspan="2"|制作事務||佐々木千賀子
|-
|colspan="2"|プロデューサー補||石井朋彦
|-
|colspan="2"|制作業務担当||野中晋輔
|-
|colspan="2"|制作業務デスク||[[川端俊之]]、渡辺宏行
|-
|colspan="2"|渉外||荒井章吉
|-
|colspan="2"|キャラクター商品開発||今井知己、浅野宏一 井筒理枝子
|-
|colspan="2"|出版||田居因、筒井亮子、渋谷美音、高畑菜穂
|-
|colspan="2"|管理担当||島宮美幸
|-
|colspan="2"|経理||一村晃夫、伊藤久代、山本珠実
|-
|colspan="2"|総務||石迫太成、洞口朋紀、熱田尚美、藤津英子、駒形正吾、沼沢スエ子、渡辺ミツ
|-
|rowspan="5"|協力||自動車取材||[[アウディジャパン]]、[[アルパイン (企業)|アルパイン]]
|-
|油屋取材||[[草津温泉]]、ホテルヴィレッジ、清重館、阿多良窯
|-
|町取材||[[鹿児島県]][[屋久町]]役場
|-
|農場取材||澤井農場、屋久町養豚家の皆さん
|-
|入浴剤取材||山口雲母工業所
|-
|colspan="2"|海外プロモート担当||スティーブン・アルパート、森吉治予、武田美樹子、網崎直
|-
|colspan="2"|予告篇制作||ガル・エンタープライズ<br />板垣恵一
|-
|rowspan="6"|現像||会社||[[IMAGICA]]
|-
|タイミング||平林弘明
|-
|フィルム・レコーディング||豊谷慎吾、柴田祐男、本間政弘
|-
|カラー・マネージメント||石井亜土、遠藤浩平
|-
|ラボ・コーディネート||西尾洋史朗
|-
|ラボ・マネジメント||川又武久
|-
|rowspan="3"|DOLBY||フィルムコンサルタント||森幹生、[[河東努]]<br />コンチネンタル ファーイースト
|-
|光学録音||上田太士
|-
|デジタル光学録音||[[西尾昇]]
|-
|DTS||マスタリング||津司紀子、相川敦
|-
|colspan="2"|アニメーション制作||[[スタジオジブリ]]
|-
|colspan="2"|プロデューサー||[[鈴木敏夫]]
|-
|colspan="2"|原作<br />[[脚本家|脚本]]<br />[[映画監督|監督]]||'''[[宮崎駿]]'''
|-
|}
=== 製作委員会 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
|-
|colspan="2"|総指揮||[[徳間康快]](2000年9月20日まで)<br />[[氏家齊一郎]](2000年9月21日より)
|-
|colspan="2"|代表||[[松下武義]](2001年1月18日より)、[[氏家齊一郎]](2000年9月20日まで)、[[成田豊]]、[[星野康二]]、[[植村伴次郎]]、[[佐々木幹夫]]、山本哲也
|-
|colspan="2"|代表委員||牧田謙吾、[[桂田光喜]]、[[俣木盾夫]]、[[相原宏徳]]、板橋徹
|-
|colspan="2"|推進指揮||[[間部耕苹]]、[[萩原敏雄]]、林田洋、[[小島順彦]]
|-
|colspan="2"|推進委員||[[岩渕徹]]、[[細川知正]]、植村徹、[[二宮清隆]]
|-
|colspan="2"|広報||西岡純一、長澤美奈子
|-
|colspan="2"|プロデューサー||菊川幸夫、[[中谷敏夫]]、渡辺哲也
|-
|colspan="2"|実行委員{{sfn|叶|2006|p=221}}||style="font-size:smaller;"|[[徳間書店]]<br />秋本一、[[三ツ木早苗]]、伊藤純子、室井實、斎藤信恵<br />[[日本テレビ]]<br />[[佐藤孝吉]]、[[棚次隆]]、戸谷仁、伊藤和明、井上健、[[大塚恭司]]、嵓渕有子、小槌裕子<br />[[電通]]<br />下條俊隆、気賀純夫、遠谷信幸、種村達也、曽我有信<br />[[東北新社]]<br />[[中島信也]]、薬師寺衛、小坂恵一、小西啓介、池田大<br />[[三菱商事]]・[[ディーライツ]]<br />橋本毅、安念彌行、西尾直彦、早川聡子<br />鈴木大三、新井紀乃<br />[[ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン]]
|-
|colspan="2"|製作担当||[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]、福山亮一
|-
|colspan="2"|企画協力||[[アニメージュ]]編集部<br />[[松下俊也]]
|-
|rowspan="3"|宣伝||プロデューサー||[[市川南 (映画プロデューサー)|市川南]]
|-
|係||東宝<br />大垣敦生、菊地裕介<br />メイジャー<br />脇坂守一、岡村尚人、土屋勝、小柳道代、福田のぞみ、菅野泰史、中西藍、原美恵子、細川裕以、折原裕之
|-
|特別顧問||徳山雅也、[[矢部勝]]
|-
|colspan="2"|キャッチコピー||style="font-size:smaller;"|[[糸井重里]]
|-
|colspan="2"|特別協賛||style="font-size:smaller;"|[[日本生命]]
|-
|colspan="2"|CM||[[ローソン]]<br />山﨑文雄
|-
|colspan="2"|特別協力||[[読売新聞]]
|-
|colspan="2"|配給||[[東宝]]
|-
|}
(以上、特に注記のないものは{{Harvnb|ロマンアルバム|2001|pp=102-103}}より抜粋)
== 製作 ==
=== 企画 ===
==== 企画書脱稿までの経緯 ====
宮崎駿は[[長野県|信州]]に山小屋を持っており、毎年夏になるとジブリ関係者の娘たちを招いて合宿を行っていた。宮崎は子どもたちを赤ん坊のころから知っており、「幼いガールフレンド」という言い方もしている{{sfn|叶|2006|p=224}}。少女たちは宮崎を「お山のおじさん」と呼んでおり、その頃はまだ映画監督とは思っていなかった{{sfn|奥田千晶|2016|p=69}}。『[[もののけ姫]]』公開直後の1997年8月、制作に疲れ果てた宮崎は山小屋で静養し、「幼いガールフレンド」たちの訪問を楽しみにしていた。同年9月ごろ、宮崎に次回作への意欲が灯りはじめる{{sfn|叶|2006|p=224}}。
山小屋には『[[りぼん]]』や『[[なかよし]]』といった[[少女漫画]]雑誌が残されていた。宮崎は過去にも、山小屋に置かれていた少女漫画誌から映画の原作を見つけ出している(『[[耳をすませば]]』や『[[コクリコ坂から]]』)。しかし今回は、漫画の内容が恋愛ものばかりであることに不満を抱いた。山小屋に集まる子どもたちと同じ年齢の、10歳の少女たちが心に抱えているものや、本当に必要としているものは、別にあるのではないか。美しく聡明なヒロインではなく、どこにでもいるような10歳の少女を主人公に据え、しかも安易な成長物語に流れないような映画を作ることができるのではないか。少女が世間の荒波に揉まれたときに、もともと隠し持っていた能力が溢れ出てくるというような、そんな物語が作れるのではないか。このように考えた{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=30}}。当時宮崎は、思春期前後の少女向け映画を作ったことがなかったので、「幼いガールフレンド」たちに向けて映画をプレゼントすることが目標になった{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=84-85}}。
宮崎は『[[パンダコパンダ]]』(1972年)のとき、自分の子供を楽しませようという動機でアニメーションを制作した。顔の浮かぶ特定の個人に向けて映画を作るという経験はそれ以来のことだった{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=134}}。しかし宮崎駿は、『もののけ姫』の製作中からしきりに監督引退をほのめかしており、1997年6月の完成披露試写会以降、「引退」発言はマスメディアを賑わせていた{{sfn|叶|2006|p=195}}。当時はまだ引退の心づもりは変わらず、次回作ではシナリオと[[絵コンテ]]は担当しても、監督は別人を立てるつもりでいた{{sfn|叶|2006|p=224}}。
1998年3月26日、スタジオジブリの企画検討会議で、[[柏葉幸子]]『[[霧のむこうのふしぎな町]]』(1975年、講談社)が案に挙がる{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=28}}。小学6年生の少女が「霧の谷」を訪れ、魔法使いの末裔たちが営む不思議な商店街で働きはじめるという筋のファンタジー小説だった。この原作は以前から企画検討にかけられており、1995年の『[[耳をすませば]]』では天沢聖司が『霧のむこうのふしぎな町』を読む場面が組み込まれている。宮崎は、柏葉の原作をもとに『ゴチャガチャ通りのリナ』というタイトルで企画に取り組む。しかし、これは早々に断念された{{sfn|叶|2006|pp=224-225}}。
[[ファイル:Nibariki (Hayao Miyazaki's personal studio, Butaya).jpg|thumb|宮崎の事務所「[[二馬力]]」のアトリエ、および宮崎の愛車[[シトロエン・2CV]](2016年)]]
次に、新企画『煙突描きのリン』がはじまった。1998年6月、[[小金井市]][[梶野町]]のスタジオジブリ付近に事務所「[[豚屋]]」が完成、宮崎の個人事務所[[二馬力]]のアトリエとして使われることになった。宮崎はここで新企画に取り組みはじめた。『煙突描きのリン』は、大地震に見まわれた東京を舞台にした映画で、銭湯の煙突に絵を描く18歳の画学生、リンが、東京を影で支配する集団と戦うという物語であった。作品の背景には、現代美術家[[荒川修作]]の影響があり、荒川をモデルにした登場人物も用意されていた。宮崎は1998年に[[養老天命反転地]]を訪れて気に入り、荒川とも対談して意気投合している{{sfn|叶|2006|p=225}}。プロデューサーの[[鈴木敏夫]]によれば、リンと敵対する集団のボスは宮崎自身が投影された60歳の老人であり、しかもこの老人と18歳の主人公のリンが恋に落ちる展開が用意されていたという{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=54-55}}。
1998年6月から約1年間進められた『煙突描きのリン』の企画は、1999年8月、突如廃案になった{{sfn|叶|2006|p=226}}{{efn2|きっかけとなった宮崎と鈴木の面会は、1999年1月の出来事とする記述もある{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=29}}。}}。鈴木敏夫によれば、次のような出来事があったという。鈴木は、1998年に公開されヒットしていた映画『[[踊る大捜査線 THE MOVIE]]』([[本広克行]]監督)を遅れて鑑賞する。若手の監督によって同時代の若者の気分がリアルに表現されていることに衝撃を受け、同時に、宮崎の描く若い女性が現代の若者像として説得力を持ちえるのかどうか疑問を抱く。鈴木は映画を観たその足で宮崎のアトリエに赴いた。すでに『煙突描きのリン』の企画はかなり進んでおり、アトリエの壁面には数多くのイメージボードが貼りつけられていた。イメージボードとはビジュアルのサンプルを集めたもの。しかし鈴木はそれには触れず、『踊る大捜査線』の話をしはじめた{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=55-56}}。
{{Quotation|宮さんは僕の話を聞きながら、すっと立ち上がり、壁に貼ってあったイメージボードを一枚一枚はがし始めました。そして、全部まとめて、僕の目の前でゴミ箱の中にバサッと捨てたんです。あの光景はいまでも忘れられません。「この企画はだめだってことだろう、鈴木さん」|鈴木敏夫|{{Harvnb|『ジブリの教科書12』|p=56}}}}
宮崎はその場ですぐ、「千晶の映画をやろうか」{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=56}}と提案した。「千晶」とは、本作の製作担当である[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]の娘、奥田千晶のことである。奥田誠治は[[日本テレビ]]の社員で、宮崎の友人のひとりだった。奥田千晶は毎年夏に宮崎の山小屋に滞在する「幼いガールフレンド」のひとりであり、鈴木とも親しかった。さらに宮崎は、作品の舞台を[[江戸東京たてもの園]]にすることを提案した。江戸東京たてもの園はスタジオジブリにほど近い場所にあり、宮崎・鈴木・[[高畑勲]]らの日常的な散歩コースになっていた{{sfn|叶|2006|p=233}}。身近な場所を舞台に、親しい子供のための映画を作るという宮崎の提案に、鈴木は首を縦に振らざるをえなかった{{sfn|ロマンアルバム|2001}}。
ある夏、宮崎らが山小屋の近くの川に沿って散歩をしていると、千晶がピンク色の運動靴を川に落としてしまった。千晶の父と宮崎・鈴木は必死で靴を追いかけ、川から拾い上げた{{sfn|奥田千晶|2016|p=71}}。このエピソードは宮崎の印象に残り、『千と千尋の神隠し』のクライマックスの場面で直接的に使われている。幼いころの千尋はハク(コハク川)から靴を拾おうとして川に落ちたが、そのときの運動靴はピンク色である。また、この靴は、エンドクレジット後の「おわり」のカットでも作画されている{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=75}}。企画は当初、「千の神隠し」という仮題でスタートし、主人公の名前もそのまま「千晶」になっていた。しかし、「教育上よくない」という理由で、「千尋」と改められた{{sfn|奥田誠治|2016|p=48}}。
1999年11月2日、企画書<ref>本文は、{{Cite web|和書|url=https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0223940/img/230-233.pdf |title=不思議の町の千尋 ―― この映画のねらい |format=pdf |publisher=岩波書店 |accessdate=2016-09-13}}</ref>が書き上げられた。宮崎は企画書の中で大きく分けて次の3点の意図を掲げている{{sfn|叶|2006|p=227}}。
# 現代の困難な世の中で危機に直面することで、少女が生きる力を取り戻す姿を描く
# 言葉の力が軽んじられている現代において、「言葉は意志であり、自分であり、力」であることを描く(千尋は湯婆婆に名前を奪われ、支配されてしまう)
# 日本の昔話の「直系の子孫」として、日本を舞台にするファンタジーをつくる
「千尋が主人公である資格は、実は喰い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない」とし、その上で、本作を「10歳の女の子達のための映画」と位置づけている。
『千と千尋の神隠し』は、『霧のむこうのふしぎな町』、『ゴチャガチャ通りのリナ』、『煙突描きのリン』の影響を部分的に受けてはいるが、キャラクターやストーリー展開の面では完全なオリジナルになった{{sfn|叶|2006|p=227}}。
本作の制作は、12月13日に[[東宝]]が公開した配給作品ラインナップで公にされた{{sfn|叶|2006|p=227}}。
=== 制作過程 ===
1999年11月8日、宮崎駿はメインスタッフに向けて説明会を行う{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=30}}。11月12日にはジブリ全社員を集めて作品についてレクチャー{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=70}}。翌週から監督は[[絵コンテ]]作業に入り、メインスタッフたちも本格的な制作準備に入った{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=87}}。
2000年2月1日、宮崎は社内に打ち入りを宣言、作画打ち合わせがスタートした{{sfn|叶|2006|p=227}}。
==== 作画班の体制 ====
[[作画監督]]には[[安藤雅司]]が起用された。安藤は『[[もののけ姫]]』で26歳にして作画監督に抜擢された。しかし、鈴木敏夫の回想によれば、『もののけ姫』の制作終了後、安藤は一度辞意を示しており、鈴木に慰留されていた。宮崎のアニメーションがキャラクターを理想化・デフォルメする傾向が強いのに対して、安藤はリアリズムを希求し、映像的な快楽を優先して正確さを犠牲にすることを許さなかった。両者の志向は対立していた{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=62-63}}。
通常のアニメ作品では、[[原画]]修正は作画監督が行い、監督は直接関与しない。しかし、宮崎駿監督作品の場合、宮崎がアニメーターの長として全体の作画作業を統括し、原画のデッサン・動き・コマ数などを先に描き直す。このため、作画監督の仕事は宮崎のラフな線を拾い直す作業が主となる。安藤は『もののけ姫』公開後のインタビューで、宮崎の作品では作画監督という肩書で仕事をしたくないと心情を語っている<ref>{{Cite journal |author=叶精二|date=1999-03|publisher=[[キネマ旬報社]]|journal=フィルムメーカーズ6/宮崎駿| title=宮崎作品のアニメーション技術考 安藤雅司氏インタビュー|url=http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/gijyutsu_ron.html|accessdate=2016-09-03}}</ref>。そこで鈴木は、次回作では「芝居」についても安藤のやり方で制作していいと認めることにした{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=62-63}}。
宮崎自身も、『もののけ姫』の制作で加齢による体力の低下を痛感し、すでに細かな作画修正作業を担いきれない段階にあると考え、作画の裁量を安藤に委ねる方針を取った<ref>{{Harvnb|ロマンアルバム|2001|p=76}}, 脚注の★1.</ref>。それだけでなく、[[アニメ監督|演出]]を安藤に任せる案もあった。宮崎が絵コンテを描いた『[[耳をすませば]]』で[[近藤喜文]]が監督を担当した前例もあり、同様の制作体制が取られる可能性もあった。少なくとも『ゴチャガチャ通りのリナ』の段階では、演出を安藤に任せるつもりでいたという{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|pp=142-143}}。しかし、当の安藤は宮崎の絵コンテで演出をするつもりはなく{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|pp=91-94}}、結局は宮崎が監督することになった{{sfn|叶|2006|pp=227-228}}。
原画は過去最大規模の37人体制になった{{sfn|叶|2006|p=240}}。しかし、当時ジブリ社内の原画陣は過去に例がないほど脆弱で{{sfn|叶|2006|p=228}}、特に中堅のアニメーターの層が薄かった{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=87}}。これに加えて、フリーで活躍しているアニメーターを積極的に受け入れ、宮崎駿の中になかった表現を取り入れたいという安藤の意向もあり{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=81}}、[[大平晋也]]や[[山下明彦]]といった実力派のフリーアニメーターが参加した{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=33}}。
[[動画 (アニメーション)|動画]]チェックチーフは[[舘野仁美]]。舘野は『[[となりのトトロ]]』から『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』までのすべての宮崎監督作で動画チェックを務めている。動画班は最終的に、国内スタッフが99人、韓国の外注スタッフが27人、計126人が動員された{{sfn|叶|2006|pp=241-242}}。
==== カオナシがメインキャラクターに ====
宮崎駿は、長編映画制作の際、事前にシナリオを用意しない。[[絵コンテ]]を描きながらストーリーを構想し、各スタッフは絵コンテがすべて完成する前から作業を進めていく。その間は監督自身でさえも作品の全容を知らない{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=70}}。本作では、絵コンテが40分ほど完成したところで転機が訪れた。2000年のゴールデンウィーク中のある日{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=58}}、その日は休日だったため、多くのスタッフは出勤していなかったが、プロデューサーの鈴木敏夫、作画監督の安藤雅司、美術監督の武重洋二、加えて制作担当者がたまたま居合わせた{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=87}}。宮崎はホワイトボードに図を描きながら、映画後半のストーリーを説明しはじめた{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=58}}。千尋は湯屋で働きながら湯婆婆を打倒する。ところが、湯婆婆の背後には銭婆というさらに強力な黒幕がいたことが判明する。ハクの力を借りて銭婆も倒し、名前を取り返して両親を人間に戻す。このような流れである{{sfn|叶|2006|p=228}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=58-59}}。
しかし、この案では上映時間が3時間を超えてしまうという意見が出た。鈴木は公開を一年延期しようと提案したが、宮崎と安藤はこれを否定{{sfn|叶|2006|p=228}}{{efn2|公開を1年延期して3時間の映画を作るという提案について、鈴木の真意は不明である。映画公開直前の2001年6月20日のインタビューでは「真剣でした。そういう映画を見たかったし」{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=148}}と語っている。一方、公開から10年余りが経った2016年の聞き書きでは、宮崎の提示したプロットについて「正直にいうと、ちょっとバカバカしいんじゃないかと思った」{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=59}}と語っている。しかし、宮崎の前で正直に不満を述べるわけにはいかない。そこで、上映時間が延びてしまうというプロットの弱点をとっさに指摘した、という説明に変わっている{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=59}}。}}。上記のプロットは破棄されることになった。宮崎はそこでとっさに、千尋が初めて湯屋に入るシーンで欄干のそばに立っていたキャラクターを話題にした。当初カオナシは、「何の予定もなくてただ立たせていただけ」{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=36}}だったが、映像にしたときに奇妙な存在感があり、宮崎にとって気になるキャラクターになっていた。宮崎は即席で、湯屋でカオナシが大暴れするストーリーを語った。これが採用されることになり、絵コンテ執筆は大きく転換した。湯婆婆を退治するという展開は立ち消え、代わりに千尋とカオナシの関係にスポットライトが当たることになった{{sfn|叶|2006|p=228}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=36}}。
==== 安藤と宮崎の緊張関係 ====
当初は予定通り安藤雅司が作画工程を統括し{{sfn|叶|2006|p=228}}、原画修正を任されていた{{sfn|叶|2006|p=237}}。鈴木敏夫の約束通り、宮崎駿はタイミングのみをチェックした{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=87}}。しかし、日を追うにつれ、宮崎と安藤の間の溝は次第に深まっていった{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=63}}。宮崎は「どこにでもいる10歳の少女を描く」というコンセプトを掲げた。安藤はこの方針に可能性を感じ、今までの宮崎駿監督作にはなかったような現実的な空間を作り上げることで、ジブリアニメに新しい風を吹きこもうとした{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=90}}。そのような試みのひとつが「子供を生々しく描く」ということだった{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=76}}{{efn2|安藤は漫画家の[[高野文子]]のファンで、高野のように少ない線のみで人体を生々しく表現することに憧れを持っていた{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=95}}。}}。安藤が用意した千尋のキャラクター設定は、背中が曲がり、無駄の多い緩慢な動作に満ち、表情はぶうたれていて喜怒哀楽が不鮮明だった。これは従来宮崎が描いてきた少女像からかけ離れたもので、とりわけ、目の描き方が一線を画していた{{sfn|叶|2006|p=236}}。序盤の[[絵コンテ]]は、千尋の不機嫌なキャラクター性を反映してゆっくりとした展開となった。しかしながら宮崎は、千尋がグズであるがゆえに先行きの見えてこない物語に苛立った。絵コンテでは、千尋が湯屋で働きはじめるまでの段階で、すでに40分が経っていた{{sfn|叶|2006|p=228}}。そこで、中盤以降は一気にスペクタルに満ちた展開に舵を切った。千尋も序盤とは打って変わってデフォルメされた豊かな表情を見せ、きびきびと行動するようになった。そこには、旧来通りの、宮崎らしい、理想化されたヒロインがいた。安藤はこの方向転換に「違和感と失望」{{sfn|叶|2006|p=237}}を抱いたが、それでもなお緻密な修正を続け{{sfn|叶|2006|p=237}}、作画監督の通常の仕事範囲を超えて[[動画 (アニメーション)|動画]]段階でもチェックを行い、場合によっては動画枚数を足すなど{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=32-33}}、身を削って作業を進めた。カットの増加・作画作業の遅延によって補助的に作画監督([[賀川愛]]・[[高坂希太郎]])が増員されたが{{sfn|叶|2006|p=237}}、最終チェックはすべて安藤が担った{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=84-85}}。結局は宮崎も、当初の予定に反して、[[レイアウトシステム|レイアウト]]修正・原画修正を担うようになった{{sfn|叶|2006|p=228}}。宮崎の提示する演出意図と安藤の指示の食い違いに戸惑うスタッフは多かったという{{sfn|叶|2006|p=237}}。
安藤は制作終了後のインタビューで、最終的には作品と距離をおいた関わり方になってしまったこと、全体としては宮崎の作品の枠を出ることができなかったこと、当初自分で思い描いていた作品はどうしても実現できなかったことを振り返っている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=76}}。しかし、宮崎は「安藤の努力と才能がいい形で映画を新鮮にしている」と評価しており{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=143}}、鈴木は宮崎と安藤の緊張関係によって画面に迫力がみなぎるようになったと語る{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=63}}。安藤は本作を最後にジブリを退職したが{{sfn|叶|2006|p=240}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=64}}、『[[かぐや姫の物語]]』(2013年)にはメインアニメーターとして、『[[思い出のマーニー]]』(2014年)には作画監督および脚本(連名)としてジブリ作品に再び参加している。
==== 作業の遅延 ====
2000年9月20日、スタジオジブリ社長、[[徳間康快]]が死去。10月16日、[[グランドプリンスホテル新高輪|新高輪プリンスホテル]]にてお別れ会。宮崎は会の委員長を務めた{{sfn|叶|2006|p=228}}。葬儀に出席する喪服の男たちがみなカエルのように見えたと語っており、作中に登場するカエル男たちとの関係をほのめかしている{{sfn|叶|2006|p=232}}。徳間は作品の完成を見ずにこの世を去ったが、「製作総指揮」としてクレジットされている。
同時期、作画作業の遅延は深刻化していた。前述の通り作画監督が増員されたのはこのころだった。経験の浅い新人アニメーターに対しては「遅くとも1人1週間で1カットあげる」という目標を設定したが、それだけではとても公開に間に合わない計算になり、鈴木は頭を悩ませた。社内で上げたカットは全体の半分程度にとどまり、残りは外注で仕上げた。アニメーターの[[小西賢一]]に依頼して実力のあるフリーアニメーターをリストアップしてもらい、支援を要請した{{sfn|叶|2006|pp=228-229}}。
動画・彩色は、国内の外注スタジオに委託しただけでは間に合わないということが明らかになった{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=34}}。そこで、ジブリ創設以来はじめて、海外スタジオに動画と仕上を外注することを決断{{sfn|叶|2006|p=229}}。スタジオから4人を韓国に派遣した{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=34-35}}。韓国の[[DR MOVIE|D.R DIGITAL]]は動画・彩色を、[[JEM (企業)|JEM]]は彩色を担当した{{sfn|叶|2006|p=229}}。両社の仕事は高品質で、納期も遵守された{{sfn|叶|2006|p=229}}。
=== 美術 ===
[[ファイル:Kodakara-yu.jpg|thumb|江戸東京たてもの園の子宝湯。]]
美術監督は[[武重洋二]]、美術監督補佐は[[吉田昇]]。美術班も作画部門と同様新人スタッフが多かったため、武重はほぼすべてのカットの美術ボード{{efn2|通常、アニメーションの美術制作は三段階に分けて行われる。背景のイメージをおおまかに描き起こしレイアウト化した美術設定、本番の背景作業に入る前により指針とする絵を描き、色味や物の質感などを詳細に指定する美術ボード、そして実際に撮影に使用される背景素材を各スタッフが分担し描く本番の作業である。『千と千尋の神隠し』では、宮崎が絵コンテで背景を作りこんでいったため、武重は美術設定を制作していない{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=118}}。[[美術監督#アニメーションでの美術監督]]も参照。}}を描いた。しかも、用途別に各カットごと3枚の美術ボードを描くほど念入りだった{{sfn|叶|2006|p=242}}。『[[となりのトトロ]]』の作画監督であるベテランの[[男鹿和雄]]は、主に不思議の町に入り込む前の世界、冒頭とラストシーンの自然環境の背景を一任され{{sfn|叶|2006|p=242}}、該当場面のモデルとなった[[四方津駅]]周辺を独自に取材した{{sfn|叶|2006|p=228}}。湯屋の中の巨大な鬼の襖絵は吉田昇が担当した{{sfn|叶|2006|p=242}}。
宮崎からは「どこか懐かしい風景」「[[目黒雅叙園]]のような擬洋風、[[伊万里焼|古伊万里]]の大きな壺」などの指示があった{{sfn|ロマンアルバム|2001|pp=105-107}}。色については「とにかく派手に」{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=107}}「下品なほどの赤」{{sfn|叶|2006|p=238}}という指定があり、随所にちりばめられた赤色と湯屋内部の金色がキーカラーになっている{{sfn|叶|2006|p=238}}。
2000年3月17日には、[[江戸東京たてもの園]]で[[ロケハン]]が行われた{{sfn|叶|2006|p=228}}。江戸東京たてもの園は、企画当初から作品の舞台とされていた場所である。油屋のデザインについて、モデルとなった特定の温泉宿などは存在しない{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=122}}。ただし、江戸東京たてもの園の子宝湯は宮崎お気に入りの建物で、特に[[破風|千鳥破風]]の屋根に加えて玄関の上に唐破風(別の屋根の形式)を重ねる趣向、および内部の[[天井|格天井]]に描かれた富士山のタイル絵などの「無駄な装飾性」に魅了されたという{{sfn|叶|2006|p=233}}。また、ジブリの社員旅行で訪れたことのある[[道後温泉本館]]も参考にされた{{sfn|叶|2006|p=233}}。油屋の内装は[[目黒雅叙園]]が原形になっており{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=123}}{{efn2|宮崎はアニメーターの[[近藤勝也]]の結婚式で目黒雅叙園を訪れたことがあった{{sfn|叶|2006|p=234}}。}}、他に[[二条城]]の天井画、[[日光東照宮]]の壁面彫刻、広島の遊郭の赤い壁などが参考にされた{{sfn|叶|2006|p=234}}。釜爺の仕事場にあった薬草箱は[[江戸東京たてもの園]]の武居三省堂(文具屋)内部の引出しがモデルになっている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=130}}。油屋周辺の飲食店街は、新橋の烏森口や有楽町ガード下の歓楽街をイメージして描かれている{{sfn|叶|2006|p=234}}{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=132}}。従業員の部屋は、1950年代の劣悪な労働環境だった[[近江絹糸争議|近江紡糸工場]]の女工たちの部屋や、[[国立療養所多磨全生園|多磨全生園]]隣接の[[国立ハンセン病資料館]]内に再現された雑居部屋がモデルとなっている{{sfn|叶|2006|p=234}}。湯婆婆の部屋は、和洋の混じった[[鹿鳴館]]や目黒雅叙園がモデルである{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=115}}。
台湾の台北近郊の町[[九份]]の一部商店主は宮崎駿が訪れスケッチをしたと主張しているが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.taipeinavi.com/food/276/ |title=阿妹茶酒館 (九份)[アーメイ・ツァージョウグァン] | 台湾グルメ・レストラン-台北ナビ |accessdate=2016-09-14}}</ref>、宮崎は台湾メディアのインタビューに対して九份を作品の参考にしたことはないと否定している<ref>{{YouTube time|XJ9BnbkRzOg|title=【FOCUS新聞】TVBS專訪宮崎駿 72歲不老頑童|time=3m20s}} ニュース全体{{zh icon}} / 通訳と宮崎の回答{{ja icon}}</ref>。
=== CG・彩色・撮影 ===
スタジオジブリでは『[[ホーホケキョ となりの山田くん]]』(1999年)よりデジタル彩色が導入されており、本作は宮崎駿監督作品としては初めて、[[色彩設定|仕上]]・撮影の工程がデジタル化された。これに伴って宮崎は一部の役職を新しく命名し、CG部チーフだった片塰満則は「デジタル作画監督」に、撮影監督だった[[奥井敦]]は「映像演出」になった{{sfn|叶|2006|p=228}}。『となりの山田くん』では水彩画調の実験的な彩色が行われたため、長編映画でデジタル彩色を用いて従来のセルアニメーションを再現していく作業は、ジブリにおいては実質的に初めての経験といってよかった{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=34}}。この状況を踏まえて、作画・美術・デジタル作画・映像演出の各チーフによって「処理打ち合わせ」という会議が持たれ、各部署間での密接な連携が模索された。たとえば、雨が降ったあとにできた海の描写はデジタル部門や撮影班の上げた成果である{{sfn|叶|2006|pp=238-239}}。
デジタル作画部門はほぼすべての背景動画を担当した{{efn2|その名の通り動く背景。手書き作画の場合は、通常の人物の動きと同じように、アニメーターが動きを起こす。本作のようにCGで作画される場合もある。}}。それ以外に、浮き上がる「荻野千尋」の文字や、川の神のヘドロ、海原電鉄から見た黒い人物の様子などを担当した{{sfn|叶|2006|p=242}}。
映像演出部門では、現像を手掛ける[[IMAGICA|イマジカ]]と協力して、独自のカラーマネジメントシステムを導入し、デジタルデータをフィルムに変換する際に色調が変化しないよう努めた{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=34}}。また、本作は初期の[[DLP]]上映作品であり、本来であればフィルム特有の画面の揺れは抑えられる環境にあったが、映像演出の奥井はあくまでフィルム上映を基本と考え、完成画面の上下左右に1センチの余裕を残して、シーンに応じてデジタルデータにわざとブレを加える工夫をした{{sfn|叶|2006|p=239}}。
[[色彩設定|色彩設計]]は[[保田道世]]。宮崎駿・[[高畑勲]]とは[[東映アニメーション|東映動画]]に在籍していた1960年代からの知己であり、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』から『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』に至るまで、すべての宮崎駿監督長編作品で色彩設計部門のチーフを務めている。本作ではデジタル化により扱える色の量が飛躍的に増加した{{sfn|叶|2006|pp=242-243}}。
=== 音楽 ===
{{main|千と千尋の神隠し サウンドトラック}}
音楽を担当した[[久石譲]]は、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』以降の宮崎長編作品をすべて手掛けており、『千と千尋の神隠し』で7作目に当たる。公開に先駆け2001年4月にイメージアルバムが発売され、5曲のボーカル曲のすべてを宮崎が作詞した。宮崎はイメージアルバムに収録されたピアノ曲「海」を気に入っており、久石はこの曲が海上を走る電車のシーンにうまく「はまった」ことを喜んだ{{sfn|叶|2006|p=244}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=145-146}}。
本作では[[インドネシア]]の[[ガムラン]]や[[沖縄音楽|琉球音楽]]、[[シルクロード]]、[[中近東]]、[[アフリカ]]などのエスニックな楽器や現地の人が叩いたリズムの[[サンプリング]]がふんだんに採り入れられ、フルオーケストラと融合するアプローチが行われた。久石は前作『[[もののけ姫]]』と共に「スタンダードなオーケストラにはない要素を導入しながら、いかに新しいサウンドを生み出していくか、というチャレンジを試みていた時期ですね」と述懐している<ref>『久石譲in武道館 パンフレット』2008年</ref><ref>『千と千尋の神隠し パンフレット』2001年</ref><ref>『月刊APPEALING 2004年10月号』2004年、フォーサウス、p.10。</ref>。
=== 主題歌 ===
{{Main|いつも何度でも/いのちの名前}}
[[覚和歌子]]作詞、作曲・歌はソプラノ歌手の[[木村弓]]による「いつも何度でも」が主題歌となった。しかし、この曲はもともと『千と千尋』のために書かれたものではない。木村弓と宮崎の交流は、1998年夏ごろに木村が宮崎に書いた手紙に端を発する。木村は前作『[[もののけ姫]]』を鑑賞して感銘を受け、自らのCDを添えて手紙を送った。
当時、宮崎は『煙突描きのリン』の企画中だったので、そのあらすじを書き添えたうえで{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=99}}「作品が形になったら連絡するかもしれない」と返事した。木村は『リン』の世界から刺激を受けてメロディを着想。作詞家の覚に持ちかけて曲の制作に入った。こうして、「いつも何度でも」は1999年5月に完成した。しかし宮崎から連絡があり、『リン』の企画自体が没になったので、主題歌には使うことができないと伝えられる。「いつも何度でも」はお蔵入りになりかけた。『千と千尋の神隠し』の主題歌は、宮崎作詞・久石作曲の「あの日の川へ」になる予定だった。
イメージアルバムの1曲目には同名のボーカル曲が収録されている。しかし、宮崎の作詞作業が暗礁に乗り上げ、不採用になった。2001年2月、「いつも何度でも」を聞き直した宮崎は、「ゼロになるからだ」などの歌詞と映画の内容が合致することに驚き、急遽主題歌としての再起用を決める。『千と千尋』を制作するにあたって「いつも何度でも」が潜在的な影響を与えたのかもしれない、と振り返っている{{sfn|叶|2006|pp=244-245}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=40-42}}。シングル「いつも何度でも」の売上は50万枚以上を記録した{{sfn|叶|2006|p=245}}。
=== 着想の源 ===
企画書にある「あいまいになってしまった世の中」、「あいまいなくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中」の縮図として設定されたのが、湯屋という舞台である{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=31}}。湯屋の勤務形態は夜型だが、スタジオジブリもまた夜型の企業であり、企業組織としての湯屋はスタジオジブリそのものがモデルになっている{{sfn|叶|2006|p=232}}。宮崎もスタッフに「湯屋はジブリと同じだ」{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=95}}と説明し、ジブリ社内は「10歳の少女には魑魅魍魎の世界に見える」{{sfn|叶|2006|p=232}}と語った。たとえば、湯婆婆はときどき湯屋から外出してどこか知れぬところへ飛んで行くが、この行動には、会議・出張などで頻繁にジブリからいなくなる鈴木敏夫のイメージが重ねられている{{sfn|叶|2006|p=232}}。インタビューによれば、宮崎は[[ペルー]]の少年労働を扱ったドキュメンタリー番組を見たことがあり、子供が労働することが当然である世界の現状を忘れたくなかったので、過酷な環境下で少女が労働を強いられるストーリーを執筆したと説明している{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=117}}。
[[町山智浩]]・[[柳下毅一郎]]は「湯屋は[[遊廓|遊郭]]である」と指摘し<ref>{{Cite book|和書|author1=町山智浩|author1-link=町山智浩|author2=柳下毅一郎|author2-link=柳下毅一郎|title=ベスト・オブ・映画欠席裁判|publisher=[[文藝春秋]]|year=2012|pages=176-181|isbn=978-4-16-780170-0}}</ref>、作品スタッフの[[舘野仁美]](動画チェック)も同様の発言をしている{{efn2|以下は舘野の発言の引用。「当初『小さい子供のための映画』と聞いていましたが、あのお風呂屋さんも[[湯女]]がいて、一種の遊郭みたいな場所ですね。昔から宮崎さんが描きたいと思っていて、描けなかった部分だったのかなと思いました。それと、宮崎さんが書いた歌詞に、カオナシが千尋を食べちゃいたいという箇所があるでしょう。[[賀川愛|賀川(愛)]]さんが、『ついにホントのこと言っちゃったねぇ』って、種明かししたみたいに喜んでいました(笑)。」{{sfn|『千尋の大冒険』|2001|p=118}}}}。宮崎自身は、千尋が迷いこむ不思議な世界のイメージを伝える文脈で、学生時代に新宿の[[赤線]]地帯付近を通りかかったときに見た「赤いライトの光景」についてスタッフに説明したという{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=105}}。また、雑誌「プレミア日本版」2001年9月号のインタビューでも同様の発言があり、子供のころにはまだ残っていた[[新宿]]の「赤いランタン」に触れたうえで、「日本はすべて[[風俗営業]]みたいな社会になっている」「いまの世界として描くには何がふさわしいかといえば、それは風俗営業だと思う」<ref>{{Cite journal|和書|date=2001-09-01 |publisher=[[ハースト婦人画報社|アシェット婦人画報社]] |journal=プレミア日本版 |volume=4 |issue=9 |p=70}}</ref>と語っている。湯屋に大浴場がなく、個室に区切られていることについて質問されたときには、「いかがわしいこと」をするためであろうと答えている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=116}}。かつての日本の湯屋では、湯女による垢すりや性的行為が一般的に行われていた<ref>{{Cite book|和書|author=田中香涯 |year=1927|title=江戸時代の男女関係|publisher=有宏社|asin=B00SE2TRUK}}</ref>。
そして、鈴木の述懐によれば、企画の原点には鈴木と宮崎の間で交わされた「[[キャバクラ]]」についての会話があった。その内容はこうである。鈴木にキャバクラ好きの知人がいた。この知人から聞いた話では、キャバクラで働く女性には、もともとコミュニケーションがうまくできないひとも多い。客としてくる男性も同じようなものである。つまりキャバクラは、コミュニケーションを学ぶ場なのである。異性と会話せざるを得ない環境に放り込まれて働いているうちに、元気を取り戻していく(という従業員もいる)。鈴木によれば、宮崎はこの談話をヒントにして湯屋の物語を構想した。すなわち、千尋が湯屋で神々に接待していくうちに、生きる力を取り戻していくというストーリーである<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木敏夫|title=仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場|year=2014|publisher=岩波書店|pages=65-66|isbn=978-4-00-431486-8}}</ref>{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=74-75}}。
「神仏混淆の湯治場」という発想は、「霜月祭」がもとになっている。この祭りは「十二月に神々を招いて湯を浴びさせる」というもので、様々な仮面を被った人々が多種多様な神々を演じて舞う神事である{{sfn|叶|2006|p=234}}。鈴木と宮崎は[[日本放送協会|NHK]][[ドキュメンタリー]]『[[ふるさとの伝承]]』{{efn2|のちに「ジブリ学術ライブラリー」ブランドでブルーレイ化<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk-ep.com/products/detail/h15815A1 |title=NHKふるさとの伝承 ブルーレイBOX 全6枚セット|accessdate=2016-09-15}}</ref>。}}でこの祭りを知り、着想を得た{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=58}}。霜月祭は、[[長野県]][[下伊那郡]][[天龍村]]に伝わる「[[天龍村の霜月神楽]]」や長野県[[飯田市]]の[[遠山郷]](旧[[南信濃村]]、旧[[上村 (長野県)|上村]])に伝わる「遠山の霜月祭」など、長野・愛知・静岡の県境にまたがる地域の各地で行われている{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=128}}。また、[[静岡県]][[静岡市]]の「清沢神楽」や静岡県[[御殿場市]]の「湯立神楽」、愛知県北設楽郡の「花祭り」など「釜で湯を沸かして掛け踊る」という[[湯立神楽]]の祭事は、日本各地で行われている。
1994年春頃、宮崎は自宅付近を流れるドブ川を観察する。川の中では、[[ユスリカ]]の幼虫が大量発生して、汚濁した水の中で懸命に生きていた。宮崎はその様子を見て「今後の人間の運命」を感じる経験をした。後に宮崎は地元有志とドブ川を掃除し、そのときの経験が汚れた河の神の内部から自転車などを引き出すシーンとして活かされた{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=116}}{{sfn|叶|2006|pp=231-232}}。その後も川掃除は宮崎の習慣になっており、2016年に一般市民が制作したドキュメンタリー作品では、宮崎が川掃除などの地域の清掃活動に取り組む様子が収められている<ref>{{YouTube time| Ta6yo-vF2ms |1604372 蘇れ森よ~宮崎駿さんの挑戦~ (TVF2016応募作品) |time=8m05s}}</ref>。
千尋が車の後部座席で揺られながら不満を口にしている冒頭の場面について、[[押井守]]は、これは宮崎が元々『[[柳川堀割物語]]』のオープニングとして検討していたものであり、諦めきれなかったものではないかと推測している{{sfn|押井|2017|pp=95-96}}。また押井は、千尋とカオナシが路面電車に乗って銭婆に会いに行く場面は、明らかに三途の川をイメージしたものとみており、宮崎も意識しているだろうと述べている{{sfn|押井|2017|pp=111-114}}。
== 封切り ==
=== 宣伝 ===
鈴木敏夫は、宣伝の量と上映館のキャパシティの両方を『[[もののけ姫]]』の倍にする計画を立てたと語っている{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=66}}。鈴木を奮起させたのは、宮崎駿の息子、[[宮崎吾朗|吾朗]]と、[[博報堂]]の[[藤巻直哉]]の言葉だった。鈴木は、前作に続いて今作でも大ヒットが続けば、宮崎がおかしくなってしまうのではないかと心配していた。しかし、宮崎吾朗は、当時デザインに取り組んでいた[[三鷹の森ジブリ美術館]]の成功を望み、『千と千尋の神隠し』を前作の倍ヒットさせてほしいと言った。のちに『[[崖の上のポニョ]]』の主題歌を歌うことになる藤巻直哉は、2000年の秋頃に赤坂でばったり鈴木と出くわした<ref name="disney_bd">{{Cite web|和書|title=2014/07/16 ジブリがいっぱいCOLLECTION 『千と千尋の神隠し』ブルーレイディスク 発売!|url=http://www.disney.co.jp/studio/news/20140401_03.html|publisher=[[ディズニー]]|accessdate=2016-09-20}}</ref>。当時、[[電通]]と博報堂は1作ごとに交代で[[製作委員会方式|製作委員会]]に入っていたため、博報堂の担当者である藤巻は関わっていなかった。藤巻はそこで次のようなことを漏らした。次の作品は、『もののけ姫』の半分は行くだろうとみんな言っている。電通がうらやましい、と。鈴木はこの言葉にいきり立ち、必ずや『千と千尋』を大ヒットさせると決意する<ref name="disney_bd" />{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=65}}。
2001年3月26日、江戸東京たてもの園で製作報告会{{sfn|叶|2006|p=229}}。宮崎は、「幼いガールフレンド」たちが本当に楽める映画を作りたいと制作の動機を語った{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=27}}。[[徳間書店]]・[[スタジオジブリ]]・[[日本テレビ]]・[[電通]]・[[ウォルト・ディズニー・ジャパン|ディズニー]]・[[東北新社]]・[[三菱商事]]が製作委員会を組んだ。本作から新たに加わった出資企業は2社。ディズニーは『[[ホーホケキョ となりの山田くん]]』から参加していたが、東北新社と三菱商事は初参加だった。電通経由で特別協賛に入った[[ネスレ日本]]と、三菱商事系列企業の[[ローソン]]はタイアップで活躍した{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=39}}。ネスレは本編映像を使用したテレビCMの放映などでキャンペーンを展開した。
[[コンビニエンスストア]]とのタイアップはジブリにとって初めての経験だった。それまで鈴木はコンビニを敬遠していたが{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=40}}、ローソンは全国約7000店の店舗で『千尋』を大々的に告知、独自にフィギュアつき前売り券などを用意し、映画館窓口の販売実績を超える32万枚の前売り券を売り上げた。この機にジブリとローソンのタッグは確立され、[[三鷹の森ジブリ美術館]]が完成した後にはローソンが唯一のチケット窓口になるなど、関係は続いている{{sfn|叶|2006|p=246}}。
劇場の本予告・および新聞広告ではカオナシが前面に押し出された{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=37-38}}。本予告は二種類が作成され、2001年3月から5月までの予告「A」は、千尋が不思議な町に迷いこみ、親が豚になってしまうところまでを[[ホラー映画]]風にまとめたものだった。対して、6月から流れた予告「B」は、千尋がカオナシを湯屋に招き入れ、カオナシが暴走するところまでをまとめた{{sfn|叶|2006|pp=245-246}}。
鈴木は、本作を「カオナシの映画」であると考え、カオナシを宣伝の顔として立てることを決めた。その理由として、[[#安藤と宮崎の緊張関係|前述した]]千尋のキャラクターの極端な変貌を鈴木が感じ取っていたことが挙げられる。不機嫌な千尋の視線に沿ってゆったりとした前半の展開と、中盤以降のきびきびと働く千尋を追いかけるような展開にはギャップがあり、鈴木は本作を「1本で2本分の映画」であるように思った{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=73}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=38}}。鈴木の語ったところによれば、宮崎自身も当初は「千尋とハクの話」だと考えており、カオナシ中心に宣伝を行うことに違和感を持っていた。しかし、映画が完成に近づいた段階でラッシュ(完成した素材を荒くつないだ映像)を見て、「千尋とカオナシの話」であることを認めたという{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=68}}。
当初は、[[糸井重里]]の書いた「トンネルのむこうは、不思議の町でした。」という[[キャッチコピー|宣伝コピー]]が使われていた。しかし、宣伝プロデューサーを務めた[[東宝]]の[[市川南 (映画プロデューサー)|市川南]]{{efn2|市川がジブリ作品の製作に関わったのは本作のみだった<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木敏夫 |year=2016 |title=ジブリの仲間たち|page=160|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4-10-610674-3}}</ref>。2013年、[[TOHOスタジオ|東宝映画]]社長となった市川が[[ゴジラ]]映画の新しい企画(『[[シン・ゴジラ]]』)を製作した際には、鈴木が[[庵野秀明]]を紹介している<ref>{{Cite news |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/sakaiosamu/20160812-00061026 | title=東宝はなぜ『#シン・ゴジラ』を庵野秀明氏に託したか~東宝 取締役映画調整部長・市川南氏インタビュー~ | author=境治|newspaper=[[Yahoo!ニュース]] |date=2016-08-12 |accessdate=2016-09-21}}</ref>。}}の意見で{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=67}}、「〈生きる力〉を呼び醒ませ!」というサブコピーが考案され、新聞広告などではこちらのほうが大きく取り上げられた{{sfn|叶|2006|p=245}}。
宣伝チームはローラー作戦をかけ、通常であれば行かないような地方の小さな町まで訪れるなど、徹底したキャンペーンを張ったと鈴木は証言する{{sfn|『ジブリの教科書12』|pp=69-70}}。
=== 公開 ===
2001年7月10日、[[帝国ホテル]]で完成披露会見。同日、日比谷[[TOHOシネマズスカラ座|スカラ座]]で完成披露試写会。宮崎は前作の公開時に続いて、またしても長編引退をほのめかした。試写の反応は絶賛一色だった。しかし、作品の完成は公開日の2週間前で{{sfn|ロマンアルバム|2001|p=70}}、試写にかけられる時間がわずかしかなかったことから、『[[もののけ姫]]』ほどの大ヒットにはならないだろうという観測が多勢を占めていた{{sfn|叶|2006|p=229}}。この日の試写会には千尋のモデルとなった[[奥田誠治 (映画プロデューサー)|奥田誠治]]の娘、奥田千晶も現れた{{sfn|叶|2006|p=75}}。宮崎は鈴木とともに千晶を出迎え、「この映画はおじさんと千晶の勝負だ」と言った{{sfn|奥田千晶|2016|p=70}}。上映後の千晶の反応は上々であり、宮崎と鈴木は喜んだ{{sfn|叶|2006|p=232}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=75}}。「おわり」のカットで描いた不鮮明なイラストについて宮崎が尋ねると、千晶はそれが自分の落とした靴の絵であることを正しく言い当てた{{sfn|奥田千晶|2016|p=71}}。
2001年7月20日公開{{sfn|叶|2006|p=229}}。すぐさま爆発的なヒットになり、週末映画ランキングでは公開以来26週連続トップ10にランクインした。さらに、公開32週目には前週の18位から一気に4位に浮上した。11月11日までの4か月間で、興行収入262億円、観客動員数2023万人を記録。『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』が保持していた[[日本歴代興行成績上位の映画一覧|日本の映画興行記録]]を塗り替えた。1年以上のロングラン興行になり、最終的には304億円の興行収入を叩き出した(再上映分の収入を含まず){{efn2|name="304okuyen"}}。この記録は2020年まで破られていなかったが、同年公開された「[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編]]」によって破られた。宮崎の個人的な友人である千晶を喜ばせたいという動機でスタートしたこの映画は、実にのべ2350万人{{sfn|叶|2006|p=248}}もの日本人の足を劇場に運ぶに至った。
空前のヒットの興行的な要因としては、まず宮崎の前作『もののけ姫』が1420万人{{sfn|叶|2006|p=212}}を動員し、新規顧客を開拓したことが挙げられる{{sfn|叶|2006|p=257}}。また、『もののけ姫』から『千と千尋の神隠し』に至るまでの期間に、[[シネマコンプレックス]]が全国的に普及し、人気作品を映画館の複数スクリーンで集中的に上映する体制が整っていたこともある{{sfn|叶|2006|p=257}}。公開と同時に、他の作品を上映する予定だったスクリーンが『千と千尋の神隠し』に回され、シネコンでの上映を占拠していった{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=69}}。一方、こうした類のない大ヒットは、他の上映作品の興行に悪影響を及ぼした{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=70}}。2001年12月に行われた「大ヒット御礼パーティ」の席上では、興行関係者が困惑を露わにした。興行収入300億という数字は、1年間に公開される邦画のすべてを合わせた量に相当したからである{{sfn|叶|2006|p=248}}。
本作で行われた大宣伝とは対照的に、次回作『[[ハウルの動く城]]』では「宣伝をしない」宣伝方針が取られた。公開前の内容の露出は極端に抑えられることになり、宮崎もメディアから姿を消した{{sfn|叶|2006|p=295}}。これに関して、鈴木は千と千尋の神隠しがヒットしすぎたことにより、本来ならある程度数字を挙げることができた様々な作品がヒットせず、多方面に迷惑をかけてしまったため、千と千尋がヒットした後に関係者が集まり、二度と千と千尋のような作品を出さないよう、ある程度棲み分けることにしたと語っている<ref>「東商新聞 Biz Extra」通巻48号 企画1頁 『Interview リーダーに聞く 鈴木敏夫』 [[東京商工会議所]] 2017年3月20日</ref>。
=== 再上映 ===
2016年、スタジオジブリ総選挙で本作が1位に輝き、同年9月10日から19日の10日間、全国5か所の映画館にて再上映された。この再上映による興行収入は4.0億円で、累計興行収入は'''308.0億円'''となった<ref name="kogyotsushin20160926" />。
また2020年、[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルスの流行]]によって新作映画の供給が困難になったことを受け、同年6月26日から8月まで全国の映画館で本作の再上映を行った<ref name="oricon20200618" />。この再上映による興行収入は8.8億円にのぼり、同年12月15日にこれまでの興行収入(308.0億円)に加算され{{efn2|name="kasan"|『[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編]]』が『千と千尋の神隠し』の保持していた日本歴代興行収入記録を更新する目前での加算であったことから、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]や[[電子掲示板]]および報道において波紋を呼んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2020/12/16/0013941602.shtml|title=逃げる千尋、追う鬼滅 「千と千尋-」“最後の一伸び”再上映で8・8億増|date=2020-12-16|accessdate=2020-12-29|publisher=デイリー}}</ref>。}}、本作の正式な興行収入が'''316.8億円'''となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20201215/14/|title=「千と千尋の神隠し」歴代興行収入更新!再上映の8.8億加算で316.8億に|date=2020-12-15|accessdate=2020-12-15|publisher=映画.com}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202012150000520.html|accessdate=2020-12-15|title=「千尋」が「鬼滅」に抜かれる前に興収上乗せ|date=2020-12-15|publisher=日刊スポーツ}}</ref>。
; 2020年の再上映時における週間興行順位の推移
{| class="wikitable" style="text-align:left"|
|-
!上映週!!週末日付!!順位!!備考
|-
|1
|2020年{{0}}6月27日-28日
|rowspan="3" style="text-align:center;background:#ffd700"|1位
|
|-
|2
|2020年{{0}}7月{{0}}4日-{{0}}5日
|
|-
|3
|2020年{{0}}7月11日-12日
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_e23f1e3e-89a0-47b1-ae43-6403e085e924.html |title=『千と千尋の神隠し』他ジブリ作品が動員ランキングTOP3をキープ。『私モテ』初登場4位に |website=ぴあエンタメ情報 |publisher=ぴあ |date=2020-07-13 |accessdate=2022-12-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/weekly/202007/ |title=2020年07月/週間映画ランキング |website=CINEMAランキング通信 |publisher=興行通信社 |accessdate=2022-12-23}}</ref>
|-
|4
|2020年{{0}}7月18日-19日
|style="text-align:center;background:#c0c0c0"|2位
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0117457 |title=『今日から俺は!!劇場版』初登場1位を獲得! |website=シネマトゥデイ |date=2020-07-20 |accessdate=2022-12-23}}
</ref>
|-
|5
|2020年{{0}}7月25日-26日
|rowspan="2" style="text-align:center"|4位
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0117569 |title=『今日から俺は!!』2週連続1位!『コンフィデンスマンJP』新作2位に初登場 |website=シネマトゥデイ |date=2020-07-27 |accessdate=2022-12-23}}
</ref>
|-
|6
|2020年{{0}}8月{{0}}1日-{{0}}2日
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0117727 |title=『今日から俺は!!』3週連続1位『コンフィデンスマンJP』が続く |website=シネマトゥデイ |date=2020-08-03 |accessdate=2022-12-23}}
</ref>
|-
|7
|2020年{{0}}8月{{0}}8日-{{0}}9日
| style="text-align:center"|8位
|<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0117905 |title=『映画ドラえもん のび太の新恐竜』が初登場1位! |website=シネマトゥデイ |date=2020-08-11 |accessdate=2022-12-23}}
</ref>
|}
=== 英語版の公開まで ===
英語吹替版は[[ピクサー・アニメーション・スタジオ|ピクサー]]社の[[ジョン・ラセター]]がエグゼクティブ・プロデューサー(製作総指揮)を担当。配給の優先権を持っていたのは[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]だったが{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=43}}、2001年8月にディズニーで行われた上映会では、当時[[最高経営責任者|CEO]]だった[[マイケル・アイズナー]]の反応は芳しくなかった{{sfn|叶|2006|p=252}}{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=71}}。宮崎は米国での公開に積極的ではなかったが{{sfn|叶|2006|p=252}}、鈴木は検討を重ねた末、宮崎の熱烈なファンであるラセターに協力を依頼することにした{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=43}}。1982年、宮崎はアニメ映画『[[NEMO/ニモ|リトル・ニモ]]』の企画で渡米し、このときにラセターと面識を得ていた。当時まだディズニーに在籍し、不遇の時にあったラセターは、『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』を鑑賞して衝撃を受け、以来宮崎の熱心なファンとなる。1987年には『[[となりのトトロ]]』制作時のジブリを訪れてもいる。その後、ピクサーが創立されるとラセターは移籍し、1995年の『[[トイ・ストーリー]]』を皮切りに、ヒット作を送り出していた{{sfn|『ジブリの教科書12』|p=44}}。
ラセターが説得した結果、ディズニーが北米での配給権を取得。ラセターは『[[美女と野獣 (1991年の映画)|美女と野獣]]』の監督、{{仮リンク|カーク・ワイズ|en|Kirk Wise}}を英語版監督に、『[[アラジン (1992年の映画)|アラジン]]』のプロデューサー、{{仮リンク|ドナルド・W・エルンスト|en|Donald W. Ernst}}を英語版プロデューサーに指名した<ref>{{Cite web |url=http://jimhillmedia.com/blogs/michael_howe/archive/2003/04/16/1393.aspx |title=The Making of Hayao Miyazaki's "Spirited Away" - Part 3 |publisher=Jimhillmedia.com |accessdate=2016-09-11}}</ref>。英題は ''Spirited Away'' に決まった。吹替版は原作に忠実に制作された{{sfn|叶|2006|p=252}}。しかし、ラストシーンで千尋の父が「New home, new school, must be scaring」(新しい家、新しい学校は怖いだろう)と言い、千尋が「I think I can manage it」(私、きっとやっていけるよ)というシーンが足されている<ref>https://bibi-star.jp/posts/13567</ref>。
2002年9月5日から10日間、宮崎・鈴木らはプロモーションのために米国へ渡った。ラセターは、ピクサー社を案内したり、複葉機による遊覧飛行を用意したりと、ジブリの一行を手厚くもてなした{{sfn|叶|2006|p=252}}。このときの様子を収めた映像は、DVD『ラセターさん、ありがとう』([[ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント|ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント]]、2003年)として発売されている。
9月20日、北米10都市で公開。以後約1年間にわたって小規模ながら興行が続いた。同年12月からは全米で次々と映画賞を受賞した{{sfn|叶|2006|p=252}}。最終的には約1000万ドルの興行収入を記録した<ref>{{Cite web|title=Spirited Away (2001) - Rotten Tomatoes|url=https://www.rottentomatoes.com/m/spirited_away|accessdate=2016-09-20}}</ref>。
=== 中国公開 ===
日本公開から18年の歳月を経て、2019年6月21日より<ref>{{Cite web|和書|author=亀沢郁奈|date=2019-06-21|url=https://rocketnews24.com/2019/06/21/1226052/|title=【現地レポ】『千と千尋の神隠し』が中国で18年越しの公開! 初回上映の様子を正直にお伝えするぞ!!|website=[[ロケットニュース24]]|publisher=[[ソシオコーポレーション|株式会社ソシオコーポレーション]]|accessdate=2019-08-16}}</ref>、<ref>{{Cite news|date=2019-07-08|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3234136?cx_amp=all&act=all|title=「千と千尋の神隠し」が中国で大ヒット! 18年前の作品がなぜ?の背景|website=東方新報(日本創刊の中国語新聞)|agency=[[フランス通信社|AFP]]BB News|accessdate=2019-08-16}}</ref>およそ9000か所の映画館で初公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-06-27|url=https://www.bbc.com/japanese/48781995|title=中国で 「千と千尋の神隠し」が大ヒット 18年遅れで初公開|website=[[BBCニュース・オンライン|BBC News Japan]]([[BBCニュース]])|publisher=[[英国放送協会]]|accessdate=2019-08-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=角山奈保子|date=2019-07-26|url=https://ddnavi.com/review/553501/a/|title=ついに4.7億元突破!『千と千尋の神隠し』が中国で大ヒットした理由|website=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]ニュース|publisher=[[KADOKAWA]]|accessdate=2019-08-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-04|url=https://eiga.com/news/20190804/1/|title=【中国映画コラム】「千と千尋の神隠し」中国大ヒットのポイントは“18年前の旧作”という背景|website=[[映画.com]]|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|accessdate=2019-08-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=AU YEUNG YU LEUNG|date=2019-08-04|url=https://jp.ign.com/china-weekly/37434/feature/65181|title=中華娯楽週報 第65回:18年遅れの中国劇場公開でジブリ旧作が興収1位に!宮崎駿の圧倒的人気と海賊版の役割を解説(上)─「映画チケットを買って宮崎駿に恩返し」するチャンスは、ついに訪れた|website=[[IGN]] Japan|accessdate=2019-08-16}}</ref>。
=== テレビ放送、ホームメディア ===
2003年1月24日には[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]の『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』でテレビ初放送され、46.9%([[ビデオリサーチ]]・[[関東]]地区調べ)という視聴率を記録した。過去にテレビ放送された劇場映画の最高[[視聴率]]である<ref name="47news20030127">{{Cite news|title=「千と千尋」が最高視聴率 劇映画として、46・9%|newspaper=47NEWS|date=2003-01-27|url=http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003012701000123.html|agency=共同通信|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121115233335/http://www.47news.jp/CN/200301/CN2003012701000123.html|archivedate=2012-11-15|accessdate=2016-09-20}}</ref><ref name="2003ratedate">{{Cite news|url=http://www.videor.co.jp/data/ratedata/junre/04movie.htm|title=映画高世帯視聴率番組|publisher=ビデオリサーチ|date=2009年1月30日現在|accessdate=2016-09-20}}</ref>{{sfn|叶|2006|p=249}}。ビデオリサーチ・[[関西]]地区調べでも46.1%の視聴率を記録<ref name="47news20030127" />。日本だけでなく、2004年12月29日には[[イギリス]]で、2006年には[[アメリカ合衆国]]で、2007年9月30日には[[カナダ]]でもテレビ放送された([[オーストラリア]]でもテレビ放送実績あり)。
[[VHS]]・[[DVD]]は2002年7月に発売された。日本国内におけるVHSの出荷本数は250万本、DVDの枚数は300万枚だった。合計550万本の出荷は、やはり新記録だった{{sfn|叶|2006|p=250}}。
==== DVD色調問題 ====
2002年7月に日本で発売された『千と千尋の神隠し』の[[DVD]]や、[[磁気テープ|ビデオカセット]]([[VHS]])に収録されている本編映像が、劇場公開版や予告編・TVスポットなどと比べて赤みが強いとして、スタジオジブリと発売元の[[ウォルト・ディズニー・スタジオ|ブエナビスタ]]、消費者センター<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=http://www.47news.jp/CN/200212/CN2002120301000194.html |title=「千と千尋」色違う DVD購入者が提訴 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |publisher=全国新聞ネット |date=2002-12-03 |accessdate=2016-09-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140725053103/http://www.47news.jp/CN/200212/CN2002120301000194.html |archivedate=2014-07-25}}</ref>などに苦情が寄せられた<ref>{{Cite news2 |df=ja |url=http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_07/g2002072310.html |title=色が変…「千と千尋」DVDに苦情殺到! |newspaper=ZAKZAK |publisher=産経デジタル |date=2002-07-23 |accessdate=2016-09-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021003065429/http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_07/g2002072310.html |archivedate=2002-10-03}}</ref>{{sfn|叶|2006|p=249}}。
両社は、DVD制作時に用意されたマスターの色調には、意図的な調整を施しているためであり、「このクオリティが最高のものと認識しております」と説明した{{efn2|その後、「DVD・VHS本編のクオリティは、その色を忠実に再現したものと認識しております」と変更された<ref>{{Cite news2 |df=ja |author=orimoto |title=ブエナ・ビスタ、「千と千尋」の色調について公式見解を公開 |newspaper=AV Watch |publisher=インプレス |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20020723/buena.htm |date=2002-07-24 |accessdate=2023-11-07}}</ref>。}}。映画上映時のTVCMや上映用プリントやDVDに収録された予告編、TVスポットなどにはこの調整は施されていないため、両者の色調が異なっているが、あくまで本編の色調が正しいとした。
2002年11月、この問題で一部ユーザーは、販売元のブエナビスタを相手取り[[京都地方裁判所]]に提訴し、正しい色調のDVDとの交換と慰謝料などを請求した。本係争は2004年9月に「ディズニー・ジャパンは購入者に誤解や混乱が生じたことに遺憾の意を表明する」「今後DVD販売に際しデータを調整した時は明記する」「原告らは請求を放棄する」など全5項目の和解が成立し決着した{{sfn|叶|2006|p=250}}。
その後、北米、ヨーロッパ、韓国では、日本で発売されたものよりも、赤みの強くない映像が収録されたDVDが販売された。
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]での2003年1月24日の『[[金曜ロードSHOW!|金曜ロードショー]]』(開局50周年記念番組)での[[金曜ロードSHOW!#歴代高視聴率獲得作品|放送]]には、DVDと同様のマスターが使用され、以後も使用されるようになった。
2011年1月7日、日本テレビの『金曜ロードショー』で、初めてハイビジョンマスターにより放送。赤みが大幅に軽減され、北米版DVDに近い赤みの強くない映像で放送された。
2014年4月1日、本作の[[Blu-ray Disc]]化が正式発表された<ref>{{Cite news2 |df=ja |author=山崎健太郎 |title=「千と千尋の神隠し」が7月16日にBlu-ray化。7,344円、MGVC対応。 |newspaper=AV Watch |publisher=インプレス |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/641458.html |date=2014-04-01 |accessdate=2023-11-07}}</ref>。発売予定日は2014年7月16日<ref name="disney_bd" />。Blu-ray版ではDVD版のような赤みは無くなり、劇場版と同等の色調で収録された<ref>{{Cite news2 |df=ja |author=山崎健太郎 |title=【買っとけ! Blu-ray/DVD】[BD]「千と千尋の神隠し Blu-ray」 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/series/buy/659084.html |newspaper=AV Watch |publisher=インプレス |date=2014-07-24 |accessdate=2023-11-07}}</ref>。同時に発売されたデジタルリマスター版DVDも同一の映像マスターを基にしているため、画面の赤みはない。
== 海外 ==
{{節スタブ}}
=== 海外での公開 ===
{{Collapsible list|2='''2001年''' :|70={{TUR}}|78={{PHL}}|77='''2012年''' :|76={{VNM}}|75='''2011年''' :|74={{CHE}}|73='''2009年''' :|72={{KWT}}|71='''2005年''' :|60={{BHR}}|80='''2013年''' :|59={{ECU}}|58={{PAN}}|57='''2004年''' :|56={{ISL}}|55={{COL}}|54={{DNK}}|53={{SVK}}|52={{KOR}}|51={{SWE}}|79={{USA2}}|81={{TUR}}|49={{IRL}}|93={{USA2}}|102={{JPN}}<ref name="oricon20200618">{{Cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2164829/ |title=スタジオジブリ4作品、26日から上映 『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』 |newspaper=オリコンニュース|date=2020-06-18 |accessdate=2020-06-18}}</ref>|101={{PHL}}{{efn2|name="web"}}|100={{IND}}{{efn2|name="web"}}|99='''2020年''' :|98={{CHN}}|97='''2019年''' :|96={{RUS}}|95={{SWE}}|94='''2018年''' :|92={{ARG}}|82='''2014年''' :|91={{JPN}}<ref name="kogyotsushin20160926" />|90='''2016年''' :|89={{CHL}}|88={{NOR}}|87={{FIN}}|86={{KOR}}|85='''2015年''' :|84={{USA2}}|83={{ITA}}|50={{MEX}}|48={{GRC}}|3={{HKG}}|14={{FIN}}|22={{AUS}}|21={{CUB}}|20={{GRC}}|19={{MYS}}|18={{ESP}}|17={{HUN}}|16={{BRA}}|15={{BEL}}|13={{CAN}}|24={{CZE}}|12={{RUS}}|11={{KOR}}|10={{USA2}}|9={{FRA}}|8={{DEU}}|7={{PHL}}|6='''2002年''' :|5={{TWN}}|4={{SGP}}|23='''2003年''' :|25={{NOR}}|47={{PER}}|37={{ITA}}|46={{VEN}}|45={{CHL}}|44={{BRA}}|43={{ARG}}|42={{GBR}}|41={{ISR}}|40={{AUT}}|39={{BEL}}|38={{LTU}}|36={{DEU}}|26={{SVK}}|35={{NLD}}|34={{POL}}|33={{CZE}}|32={{USA2}}|31={{CHE}}|30={{EST}}|29={{HUN}}|28={{GUY}}|27={{PRT}}|title=公開データの出典・詳細 {{efn2|name="web"|インターネット<ref>公開データの出典・詳細 : [https://www.imdb.com/title/tt0245429/releaseinfo 千と千尋の神隠し (2001) - Release Info] - [[IMDb]]{{en icon}}</ref>。}} }}
; 日本以外の国での題名
:* 『Spirited Away』(英語)訳:spirit away=「誘拐する、神隠しにする、忽然と連れ去る」<ref>小学館 プログレッシブ英和中辞典 第2版 (小学館 1987) より</ref>
:* 『千与千尋』(中国語、[[簡体字|簡]]:{{lang|zh-hans|千与千寻}}、[[繁体字|繁]]:{{lang|zh-hant|千與千尋}}、[[拼音|ピンイン]]:{{JIS2004フォント|Qiānyǔqiānxún}}、中国大陸と香港の題名)直訳:「千と千尋」<ref>{{Cite news |author=徐淳偉 |title=《千与千寻》:宫崎骏的环保理想 |newspaper=中国作家网 |date=2019-06-22 |url=http://www.chinawriter.com.cn/n1/2019/0622/c404076-31174946.html |accessdate=2021-01-20 |language=zh}}</ref>
:* 『神隠少女』(中国語、簡:{{lang|zh-hans|神隐少女}}、繁:{{lang|zh-hant|神隱少女}}、ピンイン:{{JIS2004フォント|Shēnyǐnshǎonǚ}}、台湾の題名)直訳:「神隠しの少女」
:* 『{{lang|ko|센과 치히로의 행방불명}}』(韓国語、[[文化観光部2000年式|RR式]]:Sen-gwa Chihiroui haengbangbulmyeong)直訳:「千と千尋の行方不明」
:* 『Унесённые призраками』(ロシア語)直訳:「幽霊に連れ去さられた」
:* 『Le Voyage de Chihiro』(フランス語)直訳:「千尋の旅」
:* 『Chihiros Reise ins Zauberland』(ドイツ語)直訳:「千尋の魔法の国の旅」
:* 『El viaje de Chihiro』(スペイン語)直訳:「千尋の旅」
:* 『La città incantata』(イタリア語)直訳:「魔法をかけられた町」
:* 『A Viagem de Chihiro』(ポルトガル語)直訳:「千尋の旅」
== 反響 ==
=== 批評 ===
社会学者の[[長谷正人]]は、本作は過去の宮崎作品と比べ、さほど魅惑的ではないと評している{{sfn|長谷|2010|p=92}}。例えば『天空の城ラピュタ』では、はじめ敵として登場する海賊・ドーラ一家が、物語の中盤からは主人公たちの仲間として活躍しはじめる。長谷がいうには、観客はこのとき、彼らに対する見方の転換をせまられる。さらに、海賊船の中で描かれる彼らのリアルな生活に触れ、「「善」とか「悪」とかいったイメージでは割り切れないような不透明な表情を帯びた魅惑的存在」として、ドーラ一家を認識し直すことになるのである。長谷は、同様のことが「ラピュタ」という舞台や{{sfn|長谷|2010|p=90}}、『風の谷のナウシカ』のような作品についてもいえるとし{{sfn|長谷|2010|pp=90-91}}、宮崎は本来、このような「過程」を重視する物語制作を得意としていたと説明する。そして、しかるに本作(や『もののけ姫』)では、宮崎の本来の手法的には「結果」であったはずの「不透明による魅惑」が、最初から提示されてしまっているのだという{{sfn|長谷|2010|p=91}}。例えば湯屋がそうである。湯屋は千尋が成長していく過程で、「悪」なる場所として見えたりすることもなければ、したがって「善」なる場所に変化することもない{{sfn|長谷|2010|pp=91-92}}。長谷は、近年(2010年時点)の宮崎は、空間的な魅力を提示しようとして、物語の中に生まれる魅力を忘却しているようだと嘆じている{{sfn|長谷|2010|p=92}}。
押井守は、本作は宮崎が自分のやりたいシーンを繋いでいったものにすぎないとし、おおむね否定的に評価している{{sfn|押井|2017|p=96}}。例えば、千尋の両親は千尋が湯屋で働かされる状況を作り出すためだけに豚にさせられているとし、「こういうのをご都合主義と呼びます」と切って捨てている{{sfn|押井|2017|pp=96-97}}。押井は、本作は要約すれば「都会出身の千尋が重労働して、何かに目覚め」{{sfn|押井|2017|p=97}}「カオナシを説諭する物語」{{sfn|押井|2017|p=99}}であるといい、千尋とカオナシの物語になっている点には一定の評価を与えつつも、観客は「この話、どこに行っちゃうの?」という気持ちになったであろうと述べている{{sfn|押井|2017|pp=98-100}}。ハクからもらったおにぎりをむさぼるシーンなどが好評であったことには頷けるとしつつ{{sfn|押井|2017|pp=97, 109-110}}、監督の力量が発揮されるのは本来そういった細部の仕事ではなく、実のところ脚本も宮崎が書いたものではないだろうと推測している{{sfn|押井|2017|pp=97-98}}。
押井は千尋の造形についても難じている。物語で説明されるのは、東京から田舎に転校する千尋が感傷的になっているという状況だけであり、人格が描かれておらず、このことは宮崎が千尋をひとりの人間として描くつもりがなかった証左であると批判している{{sfn|押井|2017|pp=100-101}}。押井は、宮崎が描き出すレイアウトの魅力についても、全盛期に比べればダイナミズムが消失していると評している。例えば湯屋にはエレベーターがあるが、かつての宮崎なら絶対に階段にしただろうと述べ、これは途中から原画をアニメーターに任せるようになったためではないかと推測している{{sfn|押井|2017|p=106}}。
問題点が多いにもかかわらず、本作が大ヒットした要因について、押井は「ジブリ映画が大成功しているから」という一点につきると断定し、日本人の国民性があらわれたものと述べている{{sfn|押井|2017|p=103}}。
精神科医の[[斎藤環]]は、少女を風俗店で働かせるという展開を描くような宮崎の倫理性を、「ファシズムへの倒錯的抵抗」として評価するとしつつ、それは同時に、宮崎が「説教好きのロリコン親父」であることの裏返しであるとみなしており、そのために宮崎の意図が、とりわけオタクと呼ばれる男女には正しく伝わらなかったであろうと述べている。「巷間伝え聞くところによれば、男たちは少女・千尋のむき出しの背中を熱く注視し、女たちは美少年・ハクが式神に攻撃された傷にもだえ苦しむ姿にやられたようです。」ただ、「押井守が評価するように、すぐれてエロティックな要素に満ちた作品」である点は認めている{{sfn|『網状言論F改』|2003|p=63}}。
批評家の[[東浩紀]]は、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』以降の宮崎作品の前面に出てくるのは、唯一『もののけ姫』を例外として、すべて能動的に行動できない少女であるという見解を述べている{{sfn|『網状言論F改』|2003|p=203}}。対談中でなされたそのような東の意見に対し、斎藤が反論しており、以下のように続く。
{{Quotation|'''斎藤''' それは宮崎さんがオタクを嫌い始めたからですよ。{{Interp|……|notooltip=1|和文=1}}<br />'''斎藤''' オタクが大嫌いで、声優演技もいやだから、声優を使わないし。{{Interp|……|notooltip=1|和文=1}}<br />'''小谷''' オタクものが抱え込んでいる性的現象が少女に集中しているとすると、そういうオタクに対して拒否反応が働き出したわけね。<br />'''斎藤''' {{Interp|……|notooltip=1|和文=1}}俺が描くとオタクばっかりしかひっかかってこないから、もっと子供たちのために作ろう、ということにとりあえずした。<br />'''東''' うーん、そういう話はオタクならだれでも知っていることで{{Interp|……|notooltip=1|和文=1}}。いちおう、僕なりの宮崎観を述べておくと、観客が同一化する男の子がいるかいないかという違いが大きいと思うんです。|東=東浩紀、斎藤=斎藤環、小谷=[[小谷真理]]|{{Harvnb|『網状言論F改』|2003|pp=203-204}} }}
東は、『トトロ』以前の宮崎作品には、作品内に観客(オタク)が感情移入できる少年がいたと指摘する{{sfn|『網状言論F改』|2003|p=204}}。ナウシカも理念的には少年と考えられ、『未来少年コナン』『カリオストロの城』『ナウシカ』『ラピュタ』は全て、少年が少女を獲得する構図の物語であったとし、そのような話を描いていたころの宮崎は非常に優秀なストーリーテラーであったと述べている{{sfn|『網状言論F改』|2003|p=204}}。ところが、オタクを嫌うあまり、観客が同一化する存在を作品世界から消してしまったせいで、宮崎は徐々に単純なファンタジーしか作れなくなってしまったのだという{{sfn|『網状言論F改』|2003|p=204}}。東によれば本作はその典型であり、「なにも残らない、ただの消費財でしかない映像作品」である{{sfn|『網状言論F改』|2003|p=204}}。
本作は英語圏で広範な評価を得ている。レビュー集積サイトの[[Rotten Tomatoes]]では、178本のレビューが掲載されており、うち97%が肯定的に評価している。平均レートは8.6/10で、掲載されているコンセンサスは次の通り。「『千と千尋の神隠し』は、見事に描き出されたおとぎ話であり、眩惑的、魅惑的だ。この作品を見た観客は、自分たちの住んでいる世界がいつもより少しだけ興味深く、魅力的なものに感じられるだろう」<ref>{{Cite web|url=http://www.rottentomatoes.com/m/spirited_away/|title=Spirited Away Movie Reviews |work=Rotten Tomatoes|publisher=Flixster|accessdate=2016-09-27}}</ref>。[[Metacritic]]では41本のレビューをもとに96/100のスコアがついている<ref>{{Cite web|url=http://www.metacritic.com/movie/spirited-away |title=Spirited Away|publisher=[[Metacritic]]|accessdate=11 September 2019}}</ref>。[[シカゴ・サンタイムズ]]の[[ロジャー・イーバート]]は満点の四つ星をつけ、作品と宮崎の演出を称賛している。また、本作を「今年のベスト映画」のひとつとしている<ref>{{Cite news|url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20020920/REVIEWS/209200306/1023|title=Spirited Away |last=Ebert|first=Roger|work=Chicago Sun-Times|date=20 September 2002 |accessdate=2 September 2011}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]のエルヴィス・ミッチェルは肯定的なレビューを書き、アニメーションシーケンスを評価している。また、ルイス・キャロルの[[鏡の国のアリス]]と好意的な文脈で引き比べており、この映画が「気分としての気まぐれさ (moodiness as mood)」についての作品であり、キャラクターが作品の緊張感を高めていると評している<ref>{{Cite news|title=Movie Review – Spirited Away|last=Mitchell|first=Elvis|work=The New York Times|date=20 September 2002|accessdate=2 September 2011|url=http://movies.nytimes.com/movie/review?res=9504E0DB1030F933A1575AC0A9649C8B63}}</ref>。[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]誌のデレク・エリーは、「若者と大人が同じように楽しめる」とし、アニメートと音楽を評価している<ref>{{Cite journal|url=http://www.variety.com/review/VE1117917040/|title=Spirited Away Review|last=Elley|first=Derek |journal=Variety|date=18 February 2002 |accessdate=2 September 2011}}</ref>。[[ロサンゼルス・タイムズ]]のケネス・タランは吹き替えを評価しており、「荒々しく大胆不敵な想像力の産物であり、こうした創作物はいままでに見たどのような作品にも似ない」としている。また、宮崎の演出も評価している<ref>{{Cite news|url=http://articles.latimes.com/2002/sep/20/entertainment/et-turan20|title=Under the Spell of 'Spirited Away'|first=Kenneth|last=Turan|work=Los Angeles Times |date=20 September 2002|accessdate=2 September 2011}}</ref>。オーランド・センチネル紙のジェイ・ボイヤーもやはり宮崎の演出を評価し、「引っ越しを終えた子供にとっては最適」の映画だとしている<ref>{{Cite news|url=http://articles.orlandosentinel.com/2002-10-11/entertainment/0210100393_1_chihiro-john-lasseter-sorceress | last=Boyar | first=Jay|title='Spirited Away' – A Magic Carpet Ride | work=Orlando Sentinel|date=11 October 2002|accessdate=1 September 2011}}</ref>。
=== 受賞・ノミネート ===
2002年2月6日、[[第52回ベルリン国際映画祭]]のコンペティション部門に出品。同映画祭コンペ部門の長編アニメーション映画の出品は初。2月17日、最優秀作品賞である[[金熊賞]]を受賞した。[[ポール・グリーングラス]]監督『[[ブラディ・サンデー]]』と同時受賞だった。世界三大映画祭で長編アニメーションが最高賞を獲得するのは史上初だった{{sfn|叶|2006|p=251}}。
2003年2月12日、[[第75回アカデミー賞]][[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメーション部門]]へのノミネートが決定。3月23日の授賞式で受賞が発表された{{efn2|name="movie"}}。2020年現在に至るまで、同部門を受賞した日本のアニメーションは本作のみである。また手描きのアニメーションとしても唯一の受賞作である。授賞式には宮崎の代理で鈴木敏夫が出席する予定だったが、3月20日に米軍を中心とする有志連合が[[イラク戦争|イラク進攻]]を開始し、事態が緊迫化したため、断念した{{sfn|叶|2006|p=253}}。宮崎の受賞コメントは次のようなものになっている。
{{Quotation|いま世界は大変不幸な事態を迎えているので、受賞を素直に喜べないのが悲しいです。しかし、アメリカで『千と千尋』を公開するために努力してくれた友人たち、そして作品を評価してくれた人々に心から感謝します。|宮崎駿|{{Harvnb|『ジブリの教科書12』|p=45}} }}
2009年2月に[[オリコンチャート|オリコン]]がインターネット調査した「[[日本アカデミー賞]] 歴代最優秀作品の中で、もう一度観たいと思う作品」で1位に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|publisher=ORICON STYLE |url=http://contents.oricon.co.jp/music/special/090218_02.html |title=日本アカデミー賞特集『もう一度観たい作品&映画に主演してほしい俳優・女優は!?』 |date=2009-02-19 |accessdate=2016-09-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090223173810/http://contents.oricon.co.jp/music/special/090218_02.html |archivedate=2009-02-23}}</ref>。
2016年7月、アメリカの映画サイト・The Playlistが、21世紀に入ってから2016年までに公開されたアニメのベスト50を発表し、本作が第1位に選ばれた<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20160726/9/|title=米サイト選出「21世紀のアニメ映画ベスト50」 1位にジブリ作品|newspaper=映画.com |date=2016-07-26 |accessdate=2022-12-06}}</ref>。
2016年8月、英BBC企画「21世紀の偉大な映画ベスト100」で第4位に選ばれた<ref>{{Cite news |url=https://eiga.com/news/20160829/3/ |title=映画.com 英BBC企画「21世紀の偉大な映画ベスト100」、第4位に「千と千尋の神隠し」 |newspaper=映画.com |date=2016-08-29 |accessdate=2022-12-06}}</ref>。
2016年に実施された「スタジオジブリ総選挙」で第1位に選ばれ、2016年9月10日から16日まで[[TOHOシネマズ]]5スクリーンで再上映された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/200740|title=「スタジオジブリ総選挙」第1位は「千と千尋の神隠し」、全国5劇場で上映決定 |website=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2016-09-06 |accessdate=2022-12-06}}</ref>。
2017年4月、映画批評サイト「TSPDT」が発表した「21世紀に公開された映画ベスト1000」にて、第8位に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://cinefil.tokyo/_ct/17070378 |title=21世紀に公開された映画のベスト1000からの10本!”何本観てる?何本知ってる?”日本人監督は何人、何作品ランクインしていたのでしょうかー |website=シネフィル |date=2017-04-25 |accessdate=2022-12-06}}</ref>。
2017年6月、ニューヨークタイムズ紙が発表した「21世紀のベスト映画25本」で、第2位に選ばれた<ref>{{Cite web2 |df=ja |first1=Dargis |last1=Manohla |first2=Scott |last2=A.O. |url=https://www.nytimes.com/interactive/2017/06/09/movies/the-25-best-films-of-the-21st-century.html |title=The 25 Best Films of the 21st Century So Far. |website=The New York Times |date=2017-06-09 |accessdate=2022-12-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701011838/https://www.nytimes.com/interactive/2017/06/09/movies/the-25-best-films-of-the-21st-century.html |archivedate=2017-07-01 |url-status=live |language=en-US}}</ref>。
2017年6月、英エンパイア誌が読者投票による「史上最高の映画100本」を発表し、80位にランクインした<ref>{{Cite web |url=http://www.empireonline.com/movies/features/best-movies/ |title=The 100 Greatest Movies, Feature |website=Empire |date=2017-06-12 |accessdate=2017-07-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170701122347/http://www.empireonline.com/movies/features/best-movies/ |archivedate=2017-07-01 |language=en-GB}}</ref>。
2018年8月、ワシントンポスト紙が発表した「2000年代のベスト映画23本」に選出された<ref>{{Cite web |first=Ann |last=Hornaday |url=https://www.washingtonpost.com/news/style/wp/2018/08/17/feature/these-are-the-best-movies-of-the-2000s/ |title=These are the best movies of the 2000s |website=The Washington Post |date=2018-08-17 |accessdate=2022-12-06 |language=en-US}}</ref>。
2018年10月、英BBCが企画・集計した、「非英語映画100選(英語圏にとっての外国語映画100選)」にて、37位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/culture/article/20181029-the-100-greatest-foreign-language-films |title=The 100 greatest foreign-language films |website=BBC Culture |publisher=BBC |date=2018-10-29 |accessdate=2022-12-06 |language=en-GB}}</ref>。
2019年6月、中国の映画情報サイト「時光網」が発表した、「日本アニメ映画のトップ100」で、第1位に選ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.recordchina.co.jp/b724327-s0-c70-d0044.html |title=映画サイトが選ぶ「日本アニメ映画」トップ100、1位は大ヒット公開中の「千と千尋の神隠し」 |website=レコードチャイナ |date=2019-06-26 |accessdate=2022-12-06}}</ref>。
2019年9月、英インディペンデント紙(デジタル版)が選ぶ、「死ぬ前に観るべき42本の映画」に選出された<ref>{{Cite web |first1=Helen |last1=O’Hara |first2=Patrick |last2=Smith |title=42 films to see before you die |url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/films-best-watch-before-you-die-classic-movies-greatest-essential-movies-list-a8670336.html |website=The Independent |date=2019-09-14 |accessdate=2019-10-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200322171332/https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/films-best-watch-before-you-die-classic-movies-greatest-essential-movies-list-a8670336.html |archivedate=2020-03-22 |language=en-GB}}</ref>。
2020年1月、英エンパイア誌が発表した「今世紀最高の映画100選」にて、日本映画で唯一選出された(15位)<ref>{{Cite web |title=The 100 Greatest Movies Of The 21st Century: 20 - 11 |url=https://www.empireonline.com/movies/features/best-movies-century-page-9/ |website=Empire |date=2020-01-23 |accessdate=2022-12-06 |language=en-GB}}</ref>。
2022年10月、英エンパイア誌が発表した「史上最高の映画100本」にて、第49位に選ばれた<ref>{{Cite web |first=James |last=White |url=https://www.empireonline.com/movies/features/best-movies-2/ |title=The 100 Best Movies Of All Time |website=Empire |date=2022-10-24 |accessdate=2022-12-06 |language=en-GB}}</ref>。
2022年12月、英国映画協会が発表した「史上最高の映画100」で、第75位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www.bfi.org.uk/news/revealed-results-2022-sight-sound-greatest-films-all-time-poll |title=Revealed: the results of the 2022 Sight and Sound Greatest Films of All Time poll |website=bfi.org.uk |publisher=BFI |date=2022-12-02 |accessdate=2022-12-06 |language=en-GB |quote=Hayao Miyazaki’s Oscar-winning Spirited Away in 75th place}}</ref>。
==== 賞歴・ノミネート歴 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+ <span style="font-size: 9pt">'''日本国内の賞'''</span>
|-
! 発表年
! 賞
! 部門
! 対象
! 結果
|-
| rowspan="11"|2001
|| 第6回[[アニメーション神戸]]
| [[アニメーション神戸#作品賞・劇場部門|作品賞・劇場部門]]
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/innovation/animation/archive.html |title=アーカイブ - アニメーション神戸 |publisher=[[アニメーション神戸]]実行委員会事務局| accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| [[ブルーリボン賞 (映画)#第44回(2001年度)|第44回ブルーリボン賞]]
| 作品賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/2001/|title=シネマ報知 |ブルーリボン賞ヒストリー|publisher=[[報知新聞社]]| archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075846/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/2001/| archivedate=2009-02-07|deadlinkdate=2016-09-30|accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| rowspan="3"| 第19回[[ゴールデングロス賞]]
| 最優秀金賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="goldengross">{{Cite web|和書| url=http://www.zenkoren.or.jp/zenkoren/goldengross/19_goldengross/ |title=過去のゴールデングロス賞 - ゴールデングロス賞 - 全興連とは |publisher=[[全国興行生活衛生同業組合連合会]]|accessdate=2016-09-27}}</ref>
|-
| マネーメイキング監督賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="goldengross" />
|-
| 特別賞・全興連特別大賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="goldengross" />
|-
| rowspan="4"| [[毎日映画コンクール#第56回(2001年)|第56回毎日映画コンクール]]
| 日本映画大賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="mainichi_eiga">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/mfa/history/056.html|title=毎日映画コンクール 第56回(2001年) - 毎日新聞|publisher=[[毎日新聞社]]|accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| アニメーション映画賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="mainichi_eiga" />
|-
| 監督賞
| [[宮崎駿]]
| {{won}}<ref name="mainichi_eiga" />
|-
| 音楽賞
| [[久石譲]]、[[木村弓]]
| {{won}}<ref name="mainichi_eiga" />
|-
| 第26回[[報知映画賞]]
| 監督賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/hochi_eigashou/history.html |title=報知映画賞 歴代受賞一覧:芸能:スポーツ報知|publisher=[[報知新聞社]] |accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| 第14回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]]
| 作品賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/award/ns-cinema/history/|title=歴代受賞者・作品 - 日刊スポーツ映画大賞 : 日刊スポーツ|publisher=[[日刊スポーツ新聞社]]|accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| rowspan="19"|2002
| rowspan="3"| 第75回[[キネマ旬報#キネマ旬報ベスト・テン|キネマ旬報ベスト・テン]]
| 読者選出日本映画監督賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="kinejun_web">{{Cite web|和書|url=http://www.kinenote.com/main/award/kinejun/y2001.aspx |title=キネマ旬報 ベスト・テン|KINENOTE|publisher=[[キネマ旬報社]]|accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| 日本映画ベスト・テン
| 『千と千尋の神隠し』
| {{nom|3位}}<ref name="kinejun_web" />
|-
| 読者選出日本映画ベスト・テン
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won|1位}}<ref>{{Cite journal|和書|date=2002-02-15|publisher=キネマ旬報社|journal=キネマ旬報 |page=50 |issue=第1350号 通巻2164号}}</ref>
|-
| rowspan="2"|第5回[[文化庁メディア芸術祭]]<br />([[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門|アニメーション部門]])
|大賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<br />([[千年女優]]と同時)<ref name="mediafes">{{Cite web|和書|url=http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2001/ |title=第5回 2001年 - 文化庁メディア芸術祭 歴代受賞作品| accessdate=2022-12-06}}</ref>
|-
|特別賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="mediafes" />
|-
| rowspan="2"|第26回[[エランドール賞]]
| 作品賞 映画部門(児井・田中賞)
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="elandor">{{Cite web|和書|url=http://www.producer.or.jp/elandor/elandor.html|title=エランドール賞歴代受賞者一覧
|publisher=[[日本映画テレビプロデューサー協会|一般社団法人日本映画テレビプロデューサー協会]]|accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| プロデューサー賞(児井・田中賞)
| [[鈴木敏夫]]
| {{won}}<br /> ([[石原隆]]・[[菅康弘]]と同時)<ref name="elandor" />
|-
| 新世紀[[東京国際アニメフェア]]21<br />(コンペティション・アカデミー部門){{efn2|翌年から名称は[[東京国際アニメフェア]]に。コンペティションの名称は途中から「[[東京アニメアワード]]」になった。遅くとも2003年からはこの名前が使われていることが確認できる<ref>{{Cite news |author=高橋洋子 |url=https://ascii.jp/elem/000/000/336/336852/ |title=ASCII.jp:“東京国際アニメフェア2003”が開幕――コンペティションの表彰式に石原都知事登場| date=2003-03-19| publisher=ASCII.jp |accessdate=2016-09-30}}</ref>。2014年、東京国際アニメフェアは[[アニメ コンテンツ エキスポ]]と統合して[[AnimeJapan]]にリニューアル<ref>{{Cite news |title=アニメジャパン:2大アニメイベントが再合流 東京都は不参加|newspaper=毎日新聞デジタル |date=2013-10-09|url=https://mantan-web.jp/article/20131009dog00m200035000c.html |accessdate=2016-09-30}}
</ref>。東京アニメアワードは東京アニメアワードフェスティバルとして独立した<ref>{{Cite web|和書|url=http://animefestival.jp/ja/about/about/|title=TAAFとは? |website=東京アニメアワードフェスティバル2017 |accessdate=2016-09-30}}</ref>。}}
| グランプリ
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="taf2001">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyoanime.jp/taf2006/taf2005/2002/j/vote/index.htm |title=新世紀東京国際アニメフェア21[COMPETITION]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070329040643/http://www.tokyoanime.jp/taf2006/taf2005/2002/j/vote/index.htm |archivedate=2007-03-29 |deadlinkdate=2016-09-30| accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| rowspan="7"| (同・劇場映画部門)
| 優秀作品賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<br />(『[[アリーテ姫]]』・『[[メトロポリス (2001年の映画)|METROPOLIS]]』と同時)<ref name="taf2001" />
|-
| 脚本賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="taf2001" />
|-
| 監督賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="taf2001" />
|-
| ベストキャラクター賞<br />(キャラクターデザイン)
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="taf2001" />
|-
| ベストキャラクター賞<br />(声優)
| [[柊瑠美]](千尋役)
| {{won}}<ref name="taf2001" />
|-
| 美術賞
| [[武重洋二]]
| {{won}}<ref name="taf2001" />
|-
| 音楽賞
| 久石譲
| {{won}}<ref name="taf2001" />
|-
| 第39回[[ゴールデン・アロー賞]]
| 特別賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-magazine.or.jp/doc/golden_list2008.pdf|format=PDF|title=GOLDEN ARROW AWARDS 受賞者一覧|accessdate=2016-09-27}}</ref>
|-
| rowspan="3"| 第25回[[日本アカデミー賞]]
| 最優秀作品賞
| 『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="japanacademy">{{Cite web|和書|url=https://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=25 |title=第25回日本アカデミー賞優秀作品 |accessdate=14 May 2012 |work=日本アカデミー賞協会}}</ref>
|-
| 会長功労賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="japanacademy" />
|-
| 協会特別賞
| 木村弓(主題歌)
| {{won}}<ref name="japanacademy" />
|-
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|+ <span style="font-size: 9pt">'''日本国外の賞'''</span>
|-
! 発表年
! 賞
! 部門
! 対象
! 結果
|-
| rowspan="11"|2002
| 第52回[[ベルリン国際映画祭]]
| [[金熊賞]]
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<br />{{small|(『[[ブラディ・サンデー]]』と同時)}}<ref name="berlinale" />
|-
| シネキッド映画祭
| シネキッド作品賞
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<br />{{small|(''The Little Bird Boy'' と同時)}}<ref>{{Cite news |url=http://variety.com/2002/digital/news/bird-spirited-nab-kid-kudos-1117874673/ |title='Bird,' 'Spirited' nab kid kudos |work=Variety |accessdate=9 August 2013}}</ref>
|-
| 第21回[[香港電影金像奨]]
| 最優秀アジア映画賞
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web |url=http://www.hkfaa.com/winnerlist21.html |title=第21屆香港電影金像獎得獎名單 List of Award Winner of The 21st Hong Kong Film Awards |publisher=Hong Kong Film Awards |accessdate=9 August 2013}}</ref>
|-
| [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー]]
| アニメ部門賞
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web| url=http://www.nationalboardofreview.org/award-years/2002/ |title=2002 Archives - National Board of Review |accessdate=2016-09-30 |publisher=National Board of Review}}</ref>
|-
| [[第68回ニューヨーク映画批評家協会賞]]
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web| url=http://www.nyfcc.com/awards/?awardyear=2002 |title=Awards - New York Film Critics Circle - NYFCC |publisher=New Yorl Film Critics Circle |accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
| [[第28回ロサンゼルス映画批評家協会賞]]
| [[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web |url=http://www.lafca.net/years/2002.html|title=Previous Years Winners 28th Annual |work=LAFCA |publisher=Los Angeles Film Critics Association|accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
|[[ダーバン国際映画祭]]
|最優秀映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=http://www.imdb.com/event/ev0001337/2002/ |title=2002 Archives - Durban International Film Festival |accessdate=2017-12-25 |publisher=Durban International Film Festival}}</ref>
|-
|[[全州国際映画祭]]
|観客賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=http://www.imdb.com/event/ev0001528/2002/ |title=2002 Archives - Jeonju Film Festival |accessdate=2017-12-25 |publisher=Jeonju Film Festival}}</ref>
|-
|[[ニューヨーク映画批評家オンライン賞]]
|アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0001986/2002/1 |title=2002 Archives - New York Film Critics, Online |accessdate=2017-12-25 |publisher=New York Film Critics, Online}}</ref>
|-
|[[サンフランシスコ国際映画祭]]
|「観客賞部門」:最優秀長編映画作品賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000584/2002/1 |title=2002 Archives - San Francisco International Film Festival |accessdate=2017-12-25 |publisher=San Francisco International Film Festival}}</ref>
|-
|[[ユタ映画批評家協会賞]]
|最優秀作品賞・監督賞・脚本賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0002541/2002/1 |title=2002 Archives - Utah Film Critics Association Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Utah Film Critics Association Awards}}</ref>
|-
|rowspan="18"|2003
|第6回[[オンライン映画批評家協会賞]]
| アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web |url=http://www.ofcs.org/awards/2002-awards-6th-annual/|title=2003 Awards (6th Annual) – Online Film Critics Society |publisher=Online Film Critics Society |accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
|[[アムステルダム・ファンタスティック映画祭]]
|観客賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000798/2003/1 |title=2003 Archives - Amsterdam Fantastic Film Festival |accessdate=2017-12-25 |publisher=Amsterdam Fantastic Film Festival}}</ref>
|-
|第29回[[サターン賞]]
| [[サターンアニメ映画賞|アニメ映画賞]]
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000004/2003/1|title=2003 Archives - Saturn Award |accessdate=2017-12-25 |publisher=Saturn Award}}</ref>
|-
|第8回[[クリティクス・チョイス・アワード]]
|長編アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000133/2003/1|title=2003 Archives - Broadcast Film Critics Association Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Broadcast Film Critics Association Awards}}</ref>
|-
|[[フロリダ映画批評家協会|フロリダ映画批評家協会賞]]
|[[フロリダ映画批評家協会賞 アニメーション映画賞|アニメーション映画賞]]
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000256/2003/1 |title=2003 Archives - Florida Film Critics Circle Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Florida Film Critics Circle Awards}}</ref>
|-
|[[ダラス・フォートワース映画批評家協会賞]]
|アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000201/2003/1 |title=2003 Archives - Dallas-Fort Worth Film Critics Association Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Dallas-Fort Worth Film Critics Association Awards}}</ref>
|-
|[[オーストラリア映画批評家サークル賞]]
|外国語映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000061/2003/1 |title=2003 Archives - Film Critics Circle of Australia Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Film Critics Circle of Australia Awards}}</ref>
|-
|[[ゴールドダービー賞]]
|長編アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0003547/2003/1 |title=2003 Archives - Gold Derby Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Gold Derby Awards}}</ref>
|-
|[[ゴールデン・トレーラー賞]]
|ベスト・アニメーション/ファミリー賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000907/2003/1 |title=2003 Archives - Golden Trailer Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Golden Trailer Awards}}</ref>
|-
|[[国際オンライン映画賞]]
|長編アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0003084/2003/1 |title=2003 Archives - International Online Cinema Awards (INOCA) |accessdate=2017-12-25 |publisher=International Online Cinema Awards (INOCA)}}</ref>
|-
|[[フェニックス映画批評家協会賞]]
|アニメ映画賞
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0001104/2003/1 |title=2003 Archives - Phoenix Film Critics Society Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Phoenix Film Critics Society Awards}}</ref>
|-
|[[サテライト賞]]
|[[サテライト賞 アニメーション・ミックスメディア映画賞|アニメーション・ミックスメディア映画賞]]
|『千と千尋の神隠し』
|{{won}}<ref>{{Cite web| url=https://www.imdb.com/event/ev0000296/2003/1 |title=2003 Archives - Satellite Awards |accessdate=2017-12-25 |publisher=Satellite Awards}}</ref>
|-
| rowspan="4"| 第30回[[アニー賞]]
|作品賞
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="Annie">{{Cite web |url=https://www.imdb.com/event/ev0000032/2003/1 |title=30th Annie Awards |publisher=Annie Awards |accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
|監督賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="Annie" />
|-
|脚本賞
| 宮崎駿
| {{won}}<ref name="Annie" />
|-
|音楽賞
| 久石譲
| {{won}}<ref name="Annie" />
|-
| [[第75回アカデミー賞]]
| [[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメ映画賞]]
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref name="academy2003" />
|-
| クリストファー賞
| クリストファー賞
|『千と千尋の神隠し』
| {{won}}<ref>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/event/ev0000169/2003/1 |title=The 54th Annual Christopher Award Winners |publisher=The Christophers, Inc. |accessdate=2016-09-30}}</ref>
|-
||2004
| 第57回[[英国アカデミー賞]]
| [[英国アカデミー賞 非英語作品賞|非英語作品賞]]
|『千と千尋の神隠し』
| {{nom}}<ref>{{Cite web |title=BBC NEWS - Entertainment - Bafta awards 2004: The winners |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3490323.stm |publisher=BBC |date=2004-02-15 |accessdate=2022-12-06 |language=en-GB}}</ref>
|-
|}
=== 売上記録 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;margin-bottom:2em;"
|+ (日本国内)
! 内容 !! 記録 !! 補足
|-
| 興行収入
| 316.8億円<ref name="興行通信" />{{efn2|name="304okuyen"}}
| 再上映含めた2020年12月現在の正式な記録
|-
| 動員
| 2352万人{{sfn|叶|2006|p=248}}<ref>{{Cite web|和書|title=千と千尋の神隠し|url=http://www.ghibli-freak.net/chihiro/index.html|website=ジブリフリーク (www.ghibli-freak.net)|accessdate=2020-12-27}}</ref>
|再上映除く
|-
| 前売り券販売
| 100万枚<ref name="MJ011101">{{Cite journal |和書|journal=[[日経MJ]]|date=2001-11-01|page=3|publisher=[[日本経済新聞社]]}}</ref>
| うち[[ローソン]]販売分が32万枚<ref name="MJ011101" />
|-
| 『イメージアルバム』
| 5万枚出荷(2001年発売のCD){{sfn|叶|2006|p=245}}
|
|-
| 『[[千と千尋の神隠し サウンドトラック|サウンドトラック]]』
| 35万枚出荷(2001年発売のCD){{sfn|叶|2006|p=245}}
|
|-
| 主題歌『いつも何度でも/いのちの名前』
| 51万枚出荷(2001年発売のシングルCD){{sfn|叶|2006|p=245}}
|
|-
| VHS(ブエナビスタ版)
| 250万本出荷{{sfn|叶|2006|p=250}}
| 2005年3月現在
|-
| DVD(ブエナビスタ版、2枚組・特典付)
| 300万枚出荷{{sfn|叶|2006|p=250}}
| 2005年3月現在
|-
| DVDコレクターズ・エディション<br />(ブエナビスタ版、特典付)
| 1万セット限定{{sfn|叶|2006|p=250}}
| 2005年3月現在
|}
== テレビ放送 ==
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ <span style="font-size: 9pt">'''番組平均個人視聴率(関東地区)'''</span>
|-
!回数!!colspan="2"|放送日時 ([[日本標準時|JST]])!!視聴率!!備考
|-
|1
|[[2003年]]{{0}}[[1月24日]]([[金曜日|金]])
|20:30 - 23:09
|46.9%<ref name="2003ratedate" /><ref name="ranking30">{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/before200805/ranking30/index.html |title=金曜ロードショー20周年特別企画 20年のベスト30ランキング |website=金曜ロードショー |publisher=日本テレビ |accessdate=2016-03-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160312143659fw_/http://www.ntv.co.jp/kinro/before200805/ranking30/index.html |archivedate=2016-03-12}}</ref>
|{{efn2|日本テレビ開局50周年記念番組として放送。}}
|-
|2
|[[2004年]][[12月10日]](金)
|20:00 - 22:54
|26.1%<ref name="ranking30" /><ref>{{Cite journal |和書|date=2004-12|publisher=[[ビデオリサーチ]]|page=5|journal=テレビ個人視聴率週報 関東地区 12/6 - 12/12}}</ref>
|
|-
|3
|[[2007年]]{{0}}[[2月2日|2月{{0}}2日]](金)
|21:03 - 23:34
|18.6%<ref>{{Cite journal |和書|date=2007-01|publisher=ビデオリサーチ|page=5|journal=テレビ個人視聴率週報 関東地区 1/29 - 2/4}}</ref>
|
|-
|4
|[[2009年]]{{0}}[[6月5日|6月{{0}}5日]](金)
|rowspan="3"|21:00 - 23:34
|21.4%<ref>{{Cite journal |和書|date=2009-06|publisher=ビデオリサーチ|page=5|journal=テレビ個人視聴率週報 関東地区 6/1 - 6/7 }}</ref>
|
|-
|5
|[[2011年]]{{0}}[[1月7日|1月{{0}}7日]](金)
|16.5%<ref>{{Cite journal |和書|date=2011-01|publisher=ビデオリサーチ|page=5|journal=テレビ個人視聴率週報 関東地区 1/3 - 1/9}}</ref>
|
|-
|6
|[[2012年]]{{0}}[[7月6日|7月{{0}}6日]](金)
|19.2%<ref>{{Cite journal |和書|date=2012-07|publisher=ビデオリサーチ|page=5|journal=テレビ個人視聴率週報 関東地区 7/2 - 7/8 }}</ref>
|
|-
|7
|[[2014年]][[11月21日]](金)
|19:56 - 22:54
|19.6%<ref>{{Cite journal |和書|date=2014-11|publisher=ビデオリサーチ|page=5|journal=テレビ個人視聴率週報 関東地区 11/17 - 11/23 }}</ref>
|{{efn2|宮崎駿監督の[[アカデミー名誉賞]]受賞を記念して放送される。番組序盤には『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』から『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』まで、宮崎駿監督の全11作品の名シーンを振り返る特別企画が放送された<ref>{{Cite tweet |user=kinro_ntv |author=金曜ロードショー公式 |authorlink=金曜ロードショー |number=535234469410902017 |title=明日よる7時56分からは宮崎駿監督アカデミー名誉賞受賞記念、「千と千尋の神隠し」をお届けします☆長編全11作品の名シーンを集めた特別企画もお見逃し無く‼︎放送開始時間にご注意下さいねー(^o^) |date=2014-11-20 |accessdate=2022-12-17}}</ref>。}}
|-
|8
|[[2017年]]{{0}}[[1月20日]](金)
|21:00 - 23:34
|18.5%<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20170123dog00m200000000c.html|title=千と千尋の神隠し:8回目の放送も18.5%と高視聴率|work=まんたんウェブ|publisher=毎日新聞デジタル|date=2017-01-23|accessdate=2017-01-23}}</ref>
|
|-
|9
|[[2019年]]{{0}}[[8月16日]](金)
|19:56 - 22:54
|17.9%<ref>{{Cite web|和書|work=ORICON NEWS|date=2019-08-19|url=https://www.oricon.co.jp/news/2142421/full/|title=『千と千尋の神隠し』9回目放送でも17.9%|accessdate=2019-08-19}}</ref>
|
|-
|10
|[[2022年]]{{0}}[[1月7日|1月{{0}}7日]](金)
|rowspan="2"|21:00 - 23:34
|16.3%<ref>{{Cite news2|title=『千と千尋の神隠し』が『金ロー』で放送 平均世帯視聴率16.3%|url=https://www.oricon.co.jp/news/2220670/full/|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-01-11|accessdate=2022-01-11}}</ref>
|
|-
|11
|[[2024年]]{{0}}[[1月5日|1月{{0}}5日]](金)
|
|
|}
全て、日本テレビ系『[[金曜ロードショー]]』での放送。
1回目の放送は[[第54回NHK紅白歌合戦|この年の紅白歌合戦]]の視聴率(45.9%)を1.0ポイント上回り、2003年の年間視聴率1位を記録し(日本テレビの年間視聴率1位は史上初)、これは2020年現在、民放がスポーツ中継以外で年間視聴率1位を記録した唯一の事例でもある。
== 舞台版 ==
{{イベントインフォメーション
| イベント名称 = 東宝創立90周年記念作品<br />舞台『千と千尋の神隠し』
| 英文表記 = Spirited Away stage
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 種類 = [[舞台芸術]]、[[演劇]]([[ストレートプレイ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/98182|title=舞台「千と千尋−」はミュージカルにしない 名匠ケアード、音楽に頼らず世界観|newspaper=東京新聞|date=2021-04-15|accessdate=2022-05-27}}</ref>)
| 開催時期 = 2022年(初演)<br />2023年・2024年(再演)
| 初回開催 = 2022年2月28日([[帝国劇場]])
| 最終開催 =
| 会場 =
| 主催 =
| 共催 =
| 後援 =
| 協賛 =
| 企画制作 = [[東宝]]
| 協力 = [[スタジオジブリ]]
| 運営 =
| プロデューサー = 尾木晴佳
| 来場者数 =
| URL =
| 特記事項 =
}}
=== 概要 ===
演出は『[[レ・ミゼラブル]]』などを手掛けた[[ジョン・ケアード (演出家)|ジョン・ケアード]]が務める。舞台企画が持ち上がったのは[[2017年]]で構想から開幕まで5年の歳月を掛けられ、東宝の創立90周年を記念して初の舞台化<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/452839|title=舞台「千と千尋」ポスター2種解禁!橋本環奈&上白石萌音がいよいよ実感|newspaper=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-11-10 |accessdate=2022-02-17}}</ref>。2022年の初演では、2月・3月:[[帝国劇場]](東京)、4月:[[梅田芸術劇場]](大阪)、5月:[[博多座]](福岡)、6月:[[札幌文化芸術劇場]](札幌)、6月・7月:[[御園座]](名古屋)にて上演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tohostage.com/spirited_away/ |title=舞台 千と千尋の神隠しSpirited Away |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210301040804/https://www.tohostage.com/spirited_away/ |archivedate=2021-03-14 |accessdate=2021-03-14}}</ref><ref>{{Twitter|sentochihiro_st|舞台『千と千尋の神隠し』}}</ref>。再演では、2023年8月:[[御園座]](名古屋)、2024年3月:[[帝国劇場]](東京)にて上演予定<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/522632|title=舞台「千と千尋の神隠し」再演決定!8月に御園座、来年3月に帝国劇場で|newspaper=コミックナタリー|publisher=株式会社ナターシャ|date=2023-04-28|accessdate=2023-04-29}}</ref>。
舞台では、油屋に見立てた大型[[舞台機構]]を360度回転させながら展開される。軒先、階段、障子と盆(回り舞台)が動く度に見え方が異なるため、移動式の回廊や壁面、天井から上下する屋根などを組み合わせ、湯屋の玄関、釜爺のいるボイラー室、湯婆婆の部屋など映画を彷彿させる空間を表現<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/column/spotlight/20220322-OYT8T50086 |title=「千と千尋の神隠し」世界の英知が総力結集、宮崎アニメを愛と身体表現で舞台化 |author=祐成秀樹 |newspaper=読売新聞オンライン |publisher=読売新聞 |date=2022-03-24 |accessdate=2022-05-27}}</ref>。セットデザインは英国で活躍するジョン・ボウサーが手掛ける。[[プロジェクションマッピング]]などの技術は敢えて使用せず[[パペット]]を用いるなど、全て人力で世界観を表現している。
東京を含む全ての公演のチケットが2022年3月の時点で既に完売していることを受けて、東宝は同年7月3日と4日に御園座にて行われる大千秋楽公演を動画配信サービスの[[Hulu]]にて有料配信することを同年3月29日に発表したが<ref>{{Cite web|和書|title=舞台「千と千尋の神隠し」ライブ配信が決定! 7月2、3日の大千秋楽公演をHuluストアで配信|url=https://hochi.news/articles/20220329-OHT1T51150.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-03-29 |accessdate=2022-03-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=舞台「千と千尋の神隠し」、7月3、4日の名古屋の大千秋楽公演をHuluでライブ配信 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/443624 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |accessdate=2022-03-31 |date=2022-03-30}}</ref>、一部の出演者において、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染が相次ぎ、7月3日の上演内容に変更が発生したことを受けて、7月3日の配信分は帝国劇場公演分の収録映像に変更、4日の配信分は予定通り御園座の大千秋楽公演をライブ配信することを同月1日に発表した<ref>{{Cite web|和書|title=舞台「千と千尋の神隠し」は3日の公演を中止し、4日の大千秋楽は上演…コロナ感染の上白石萌音に代わり橋本環奈が出演 |url=https://hochi.news/articles/20220701-OHT1T51166.html |website=スポーツ報知 |date=2022-07-01 |access-date=2022-07-01}}</ref>。
2023年4月28日、再演を発表<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/522604|title=舞台「千と千尋の神隠し」再演に橋本環奈&上白石萌音が続投、初演のBlu-ray化も決定|newspaper=ステージナタリー|publisher=株式会社ナターシャ|date=2023-04-28|accessdate=2023-04-29}}</ref>。千尋役に橋本と上白石が続投する<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2277115/full/|title=舞台『千と千尋の神隠し』御園座&帝劇で再演決定 “千尋役”橋本環奈&上白石萌音は続投「ご縁を感じます」|newspaper=ORICON NEWS|publisher=株式会社oricon ME|date=2023-04-28|accessdate=2023-04-29}}</ref>。また、初演の模様を収めたBlu-rayを2023年7月29日に発売すると併せて発表<ref>{{Cite news|url=https://mdpr.jp/news/detail/3721894|title=舞台「千と千尋の神隠し」再演決定 千尋役は橋本環奈&上白石萌音が続投|newspaper=モデルプレス|publisher=ネットネイティブ|date=2023-04-28|accessdate=2023-04-29}}</ref>。
2023年8月2日、海外公演を行うことを発表した。2024年4月から約3か月間、舞台版「[[となりのトトロ#ミュージカル|となりのトトロ]]」も上演された[[イギリス]]・[[ロンドン]]にて行い、主演の千尋役は橋本と上白石のダブルキャストが続投する<ref>{{Cite web|和書|title=「千と千尋―」原作舞台 ロンドンの劇場で来年4月から3カ月上演 橋本環奈&上白石萌音ダブル主演 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/08/02/kiji/20230802s00041000426000c.html |website=スポーツニッポン |access-date=2023-08-02 |date=2023-08-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「千と千尋の神隠し」が英国公演 日本の俳優で来年3カ月 |url=https://nordot.app/1059395889102913740 |website=共同通信 |date=2023-08-02 |access-date=2023-08-02}}</ref>。
米国では[[GKIDS]]が舞台映像の配給権を所有し、帝国劇場でのダブルキャスト両公演の録画を2023年春に公開した<ref>[https://gkids.com/films/spirited-away-live-on-stage/ Spirited Away live on stage]Gkids film</ref>。
2024年公演では、橋本と上白石に加え、オーディションで選ばれた[[川栄李奈]]、[[福地桃子]]の4人で千尋役を務める<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/eiga/news/538548 |title= 川栄李奈と福地桃子、舞台「千と千尋の神隠し」橋本環奈・上白石萌音と4人で千尋役 |newspaper= 映画ナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2023-08-28 |accessdate= 2023-08-28 }}</ref>。
=== 受賞 ===
* 『第47回[[菊田一夫演劇賞]]』
** 菊田一夫演劇大賞<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2232957/full/ |title=『第47回菊田一夫演劇賞』大賞に舞台『千と千尋の神隠し』 上演関係者一同で受賞 |newspaper=ORICON NEWS |publisher=oricon ME |date=2022-04-28 |accessdate=2022-05-27}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/475680 |title=第47回菊田一夫演劇大賞は舞台「千と千尋の神隠し」上演関係者一同、特別賞に松本白鸚 |newspaper=ステージナタリー |publisher=ナターシャ |date=2022-04-28 |accessdate=2022-05-27}}</ref>
=== キャスト(初演)===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! 役名
! 演
|-
| 千尋
| [[橋本環奈]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/417833 |title=「千と千尋の神隠し」舞台化、千尋役は橋本環奈と上白石萌音 |newspaper=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-02-26 |accessdate=2022-05-27}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://mdpr.jp/news/detail/2456751 |title=橋本環奈&上白石萌音、Wキャストで「千と千尋の神隠し」舞台化実現 帝国劇場ほか全国4カ所で上演決定 |newspaper=モデルプレス |publisher=ネットネイティブ |date=2021-02-26 |accessdate=2022-05-27}}</ref> / [[上白石萌音]](Wキャスト)
|-
| ハク
| [[醍醐虎汰朗]] / [[三浦宏規]](Wキャスト)
|-
| カオナシ
| [[菅原小春]] / [[辻本知彦]]<ref name="natalie20211110">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/452796 |title=橋本環奈&上白石萌音「千と千尋の神隠し」始動、辻本知彦はカオナシ風パフォーマンス |website=ステージナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-11-10 |accessdate=2022-05-27}}</ref>(Wキャスト)
|-
| リン||rowspan="2"|[[咲妃みゆ]] / [[妃海風]](Wキャスト)
|-
|| 千尋の母
|-
| 釜爺
| [[田口トモロヲ]] / [[橋本さとし]](Wキャスト)
|-
| 湯婆婆||rowspan="2"|[[夏木マリ]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/435959 |title=舞台「千と千尋の神隠し」第2弾キャスト発表、夏木マリは映画に続き湯婆婆に |newspaper=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-07-08 |accessdate=2022-05-27}}</ref> / [[朴璐美]](Wキャスト)
|-
||銭婆
|-
| 兄役||rowspan="2"| [[大澄賢也]]
|-
||千尋の父
|-
| 父役
| 吉村直
|-
| 青蛙
| [[おばたのお兄さん]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/owarai/news/449322 |title=「夢のよう」ジブリ好き・おばたのお兄さんが舞台版「千と千尋の神隠し」で青蛙役 |newspaper=お笑いナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-10-14 |accessdate=2022-05-27}}</ref>
|-
|
| 阿部真理亜<ref name="natalie20211110" />
|-
|
| [[新井海人]]<ref name="natalie20211110" />
|-
|
| 五十嵐結也<ref name="natalie20211110" />
|-
|
| 桜雪陽子<ref name="natalie20211110" />
|-
|
| [[大重わたる]]<ref name="natalie20211110" />
|-
|
| [[折井理子]]<ref name="natalie20211110" />
|-
|
| [[可知寛子]]<ref name="natalie20211110" />
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| 城俊彦<ref name="natalie20211110" />
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| 末冨真由<ref name="natalie20211110" />
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| 田川景一<ref name="natalie20211110" />
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| [[竹廣隼人]]<ref name="natalie20211110" />
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| 知念紗耶<ref name="natalie20211110" />
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| 手代木花野<ref name="natalie20211110" />
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| 中上綾女<ref name="natalie20211110" />
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| 松之木天辺<ref name="natalie20211110" />
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| 武者真由<ref name="natalie20211110" />
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| 八尋雪綺<ref name="natalie20211110" />
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| YAMATO<ref name="natalie20211110" />
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| [[山野光]]<ref name="natalie20211110" />
|}
=== スタッフ ===
* 原作
** [[宮崎駿]]
* 翻案・演出
** [[ジョン・ケアード (演出家)|ジョン・ケアード]]
** 今井麻緒子(共同翻案)
* オリジナルスコア
** [[久石譲]]
* 音楽スーパーヴァイザー・編曲
** ブラッド・ハーク
* オーケストレーション
** ブラッド・ハーク、コナー・キーラン
== 関連商品 ==
=== 作品本編に関するもの ===
; 映像ソフト
:* 千と千尋の神隠し [[VHS]] - [[ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント|ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント]](2002年7月19日)
:* 千と千尋の神隠し DVD ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント(2002年7月19日)
:** DVD(宮崎駿監督作品集) - [[ウォルト・ディズニー・ジャパン|ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン]](2014年7月2日)
:* 千と千尋の神隠し Blu-ray Disc - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2014年7月16日)
:** Blu-ray Disc(宮崎駿監督作品集) - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2014年7月2日)
:
; 出版
:* 千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し〈徹底攻略ガイド〉([[角川書店]]、2001年7月20日){{ISBN2|4-04-853383-5}}
:* キネ旬ムック『千と千尋の神隠し』を読む40の目([[キネマ旬報社]]、2001年8月15日){{ISBN2|4-87376-574-9}}
:* ユリイカ 詩と批評 2001年8月臨時増刊 総特集 宮崎駿「千と千尋の神隠し」の世界 ファンタジーの力([[青土社]]、2001年8月1日){{ISBN2|4-7917-0078-3}}
:* 千と千尋の神隠し(徳間アニメ絵本)(2001年9月1日){{ISBN2|4-19-861406-7}}
:* 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(1)(2001年9月1日){{ISBN2|4-19-770082-2}}
:* 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(2)(2001年9月10日){{ISBN2|4-19-770083-0}}
:* 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(3)(2001年9月30日){{ISBN2|4-19-770084-9}}
:* 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(4)(2001年9月30日){{ISBN2|4-19-770085-7}}
:* 千と千尋の神隠し―フィルムコミック(5)(2001年9月30日){{ISBN2|4-19-770086-5}}。※以上は徳間書店
:* THE ART OF Spirited Away―千と千尋の神隠し(スタジオジブリ、2001年9月10日){{ISBN2|4-19-810006-3}}
:* 千と千尋の神隠し(徳間書店ロマンアルバム、2001年8月1日){{ISBN2|4-19-720169-9}}
:* 千と千尋の神隠し(ジス・イズ・アニメーション:小学館、2001年9月20日){{ISBN2|4-09-101558-1}}
:* 千と千尋の神隠し(スタジオジブリ絵コンテ全集13)(徳間書店、2001年10月31日){{ISBN2|4-19-861439-3}}
:* 「千と千尋の神隠し」の謎(三笠書房、2002年1月20日){{ISBN2|4-8379-6122-3}}
:* アニメーションを展示する―三鷹の森ジブリ美術館企画展示「千と千尋の神隠し」(ジブリTHE ARTシリーズ/徳間書店スタジオジブリ事業本部、2002年9月1日){{ISBN2|4-19-810007-1}}
:* 「千と千尋の神隠し」のことばと謎(佐々木隆/国書刊行会、2003年3月3日){{ISBN2|4-336-04519-4}}
:* 千と千尋の神話学(西条勉/新典社、2009年6月23日){{ISBN2|978-4-7879-6138-9}}
:* 「千と千尋」のスピリチュアルな世界(正木晃/春秋社、2009年7月27日){{ISBN2|978-4-393-20320-0}}
:* アニメに学ぶ心理学 『千と千尋の神隠し』を読む(愛甲修子、2015年10月、増訂版2020年7月){{ISBN2|978-4-86565-185-0}}
:* 千と千尋の神隠し ジブリの教科書〈12〉 文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、スタジオジブリ編(2016年3月){{ISBN2|978-4-16-812011-4}}
:* 千と千尋の神隠し シネマ・コミック〈12〉 文藝春秋〈文春ジブリ文庫〉、スタジオジブリ編(2019年2月){{ISBN2|978-4-16-812110-4}}
:
; 音楽
:* 千と千尋の神隠し イメージアルバム [[徳間ジャパンコミュニケーションズ]](2001年4月4日)TKCA-72100
:* 千と千尋の神隠し サウンドトラック 徳間ジャパンコミュニケーションズ (2001年7月18日)TKCA-72165
:* スタジオジブリ 宮崎駿&久石譲 サントラBOX [Box set, Limited Edition](CD)徳間ジャパンコミュニケーションズ(2014年7月16日)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|20em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=アニメージュ ロマンアルバム編集部 |editor-link=アニメージュ |title=宮崎駿 監督作品 千と千尋の神隠し Spirited away |year=2001 |month=8 |publisher=徳間書店 |series=ロマンアルバム |isbn=978-4-1972-0169-3 |ref={{sfnref|ロマンアルバム|2001}} }}
* {{Cite book|和書|others=アニメージュ編集部 編さん |title=THE ART OF Spirited away 千と千尋の神隠し |year=2001 |month=9 |publisher=徳間書店 |series=ジブリTHE ARTシリーズ |isbn=978-4-1981-0006-3 |ref={{sfnref|『THE ART OF』|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=千と千尋の神隠し |year=2001 |month=10 |publisher=徳間書店 |series=スタジオジブリ絵コンテ全集 13 |isbn=978-4-1986-1439-3 |ref={{sfnref|『絵コンテ全集13』}} }}
* {{Cite journal|和書|author=ふゅーじょんぷろだくと |authorlink=ふゅーじょんぷろだくと |editor=コミックボックス編集部 |title=千と千尋の神隠し 千尋の大冒険 別冊COMIC BOX |year=2001 |publisher=ふゅーじょんぷろだくと |issue=vol.6 |id={{ASIN|B005R4A0V8}} |ref={{sfnref|『千尋の大冒険』|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author1=東浩紀 |author1-link=東浩紀 |author2=永山薫 |author2-link=永山薫 |author3=斎藤環 |author3-link=斎藤環 |author4=伊藤剛 |author4-link=伊藤剛 (評論家) |author5=竹熊健太郎 |author5-link=竹熊健太郎 |author6=小谷真理 |author6-link=小谷真理 |editor1=東浩紀 |title=網状言論F改 ポストモダン・オタク・セクシュアリティ |year=2003 |publisher=[[青土社]] |isbn=978-4-7917-6009-1 |ref={{sfnref|『網状言論F改』|2003}} }}
* {{Cite book|和書|author=叶精二 |authorlink=叶精二 |date=2006-03-29 |title=宮崎駿全書 |publisher=フィルムアート社 |oclc=71254186 |isbn=4-8459-0687-2 |ref={{sfnref|叶|2006}} }}
* {{Cite book|和書|author=長谷正人 |authorlink=長谷正人 |date=2010-11-22 |title=映画というテクノロジー経験 |series=視覚文化叢書 2 |publisher=[[青弓社]] |isbn=978-4-7872-7294-2 |ref={{sfnref|長谷|2010}} }}
* {{Cite book|和書|author=スタジオジブリ |authorlink=スタジオジブリ |editor=文春文庫 |title=ジブリの教科書12 千と千尋の神隠し |date=2016-03-10 |publisher=文藝春秋 |series=文春ジブリ文庫 |isbn=978-4-16-812011-4 |ref={{sfnref|『ジブリの教科書12』}} }}
* 雑誌『熱風』
** {{Cite journal|和書|author=奥田千晶 |title=プロデューサー奥田誠治が語る「もうひとつのジブリ史」(第18回) 千と千尋の神隠し:その後の千晶の物語 |year=2016 |month=5 |publisher=スタジオジブリ |journal=熱風 |volume=14 |issue=5 |naid=40020846793 |pages=48-58 |ref=harv}}
** {{Cite journal|和書|author=奥田誠治 |authorlink=奥田誠治 (映画プロデューサー) |title=プロデューサー奥田誠治が語る「もうひとつのジブリ史」(第19回) あらためて「千と千尋の神隠し」のはなし|year=2016 |month=6 |publisher=スタジオジブリ| journal=熱風 |volume=14 |issue=6 |naid=40020877923 |pages=68-77 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=押井守 |authorlink=押井守 |title=誰も語らなかったジブリを語ろう |series=TOKYO NEWS BOOKS |publisher=[[東京ニュース通信社]] |date=2017-10-20 |isbn=978-4-1986-4502-1 |ref={{sfnref|押井|2017}} }}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Spirited Away}}
{{Wikiquote|en:Spirited Away|千と千尋の神隠し{{en icon}}}}
* [[宮崎駿]]
* [[スタジオジブリ]]
* [[千と千尋の神隠し サウンドトラック]] - [[久石譲]]のアルバム。
* [[油屋 (千と千尋の神隠し)|油屋]]
* [[湯女]]
* [[三鷹の森ジブリ美術館]] - 本作の制作と並行して開館準備が行われた。開館後、最初の企画展示として『千と千尋の神隠し』が取り上げられた。
* [[柏葉幸子]] - デビュー作の『'''霧のむこうのふしぎな町'''』が当作の原型となっている。
** [[耳をすませば]] - 劇中で天沢聖司が読んでいる本が『霧のむこうの不思議な町』である。
== 外部リンク ==
* [https://www.ghibli.jp/works/chihiro/ 千と千尋の神隠し] - [[スタジオジブリ]]
* [https://web.archive.org/web/20011018030336/http://www.ntv.co.jp/ghibli/sennokami/index2.html 千と千尋の神隠し] - [[スタジオジブリ]] ''(2001/10/18 - [[Wayback Machine]])''
* [https://viewer.kintoneapp.com/public/0a3f41a74b8bb9e879c82e5240035410e01df4c27f0dfc1d2ef44495962b1f44#/detail/def50200dd15232eaa93f3fda0f6a8ca9afff1e23a2cc907cb3058e01d68de695a8e1c3c60d82c309eb713f6e17fd5012b1d85a9f33d3c58b73f067bc512e0647f00045fdab55a90bd90ae702a0e96223362278dc5688f511288048626c1054f161a344130db63997a9d5f9b40a61bc7bc5fc2a1328b47e4dcaf30add9e3137eda63da1f48e5680fff834161b4c740074710498ae4e3531601 千と千尋の神隠し] - [[東宝]]・映画資料室
* {{Wayback|url=https://www.toho.co.jp/movie/lineup/sentochihiro2020.html |title=千と千尋の神隠し |date=20200626175506}}(2020年) - [[東宝]]
* [https://www.tohostage.com/spirited_away/ 舞台 千と千尋の神隠し] - [[東宝]]
* {{Twitter|sentochihiro_st|舞台『千と千尋の神隠し』}}
* [https://www.disney.co.jp/studio/ghibli/0252.html 千と千尋の神隠し (ブルーレイ・DVD)] - [[ウォルト・ディズニー・ジャパン|ディズニー]]
* {{JMDb title|2001|dy002010}}
* {{Japanese-cinema-db|745}}
* {{映画.com title|1639}}
* {{Allcinema title|163027}}
* {{Kinejun title|32651}}
* {{Movie Walker|mv32115}}
* {{IMDb title|0245429|Spirited Away (2001)}}
* {{Amg movie|254034|Spirited Away (2001)}}
*{{Mediaarts-db}}
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{{宮崎駿}}
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[[Category:映画を原作とする舞台作品]] | 2003-03-24T02:39:47Z | 2023-12-29T23:04:01Z | false | false | false | [
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5,047 | ホビットの冒険 | 『ホビットの冒険』(ホビットのぼうけん、原題:The Hobbit, or There and Back Again)は、1937年9月21日に出版されたJ・R・R・トールキンによる児童文学、ファンタジー小説。『指輪物語』の前日譚でもある。
ホビットと呼ばれる小人が、魔法使いやドワーフとともに竜に奪われた財宝を取り戻すべく、竜の住む山を目指す冒険譚。
本作が成功したため、出版社はトールキンに続編の執筆を依頼した。これがのちに『指輪物語』となり、この執筆の過程でトールキンは、『指輪物語』との整合性をとるために本書に改訂を行った。1951年の第2版では「くらやみでなぞなぞ問答」(第5章)で重要な改訂がなされた。その後も、ビルボが足を踏み入れた世界に関するトールキンの考えの変遷を反映して、1966年の第3版でさらなる改訂が加えられた。
批評家から広く称賛を受け、カーネギー賞にノミネートされたほか、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)最優秀児童文学賞を受賞。今日に至るまで人気を保ち、児童文学の古典的作品と見なされている。
本作の日本語訳としては、瀬田貞二の訳によるもの(1965年)と山本史郎によるもの(1997年)がある。
ピーター・ジャクソン監督による実写映画化のプロジェクト『ホビット』があり、3部作のうち第1部『ホビット 思いがけない冒険』が2012年11月に、第2部『ホビット 竜に奪われた王国』が2013年12月(日本公開は2014年2月)に、第3部『ホビット 決戦のゆくえ』が2014年12月(日本公開は2014年12月13日)に公開された。
ことの始まりは、ある四月も末の日、ホビット村のビルボを訪ねた魔法使いのガンダルフのたくらみにより、13人のドワーフ達が次々と押しかけて来た、ビルボ宅でのパーティだった。トーリン・オーケンシールド率いるこのドワーフたちは、邪竜スマウグに奪われた父祖の地はなれ山(エレボール(英語版))とその財宝を取り返す遠征を計画しており、ガンダルフの薦めによりビルボを「忍びの者」として雇うつもりでやって来た。何も知らないビルボは右往左往するばかりだったが、ドワーフたちの歌を聞くうち、我知らず冒険を求める「トゥックの血筋」の性向がかき立てられる。しかしそれも束の間、事情を聞くとパニックを起こしてドワーフたちの失笑を買う。ドワーフたちに馬鹿にされて憤然としたビルボは、思わず計画に乗ることを宣言してしまう。ガンダルフがトーリンの父スラインから預かったという「スロールの地図」を披露し、はなれ山の秘密の裏口の存在ゆえに「忍びの者」ビルボの存在が必要だと、ドワーフたちを説得する。こうしてビルボとドワーフ、そしてガンダルフの一行は旅立つこととなり、途上、ガンダルフはトロルからドワーフたちを救い、一行を裂け谷まで連れて来る。裂け谷ではエルロンドが「スロールの地図」の秘密を解明する。霧ふり山脈(英語版)を越える際、一行はゴブリンに囚われ、山の地下深くへと追い立てられる。ガンダルフによって救出されるも、ビルボだけは途中で一行とはぐれてしまう。ゴブリンの地下のトンネルで道に迷ったビルボは、偶然指輪を発見し、ゴクリと遭遇する。ゴクリとビルボのなぞなぞ問答では、ビルボが勝てばゴクリが出口までの道を教えるが、負ければゴクリがビルボを食べるという取り決めだったが、ビルボの「ポケットの中にあるものは何だ?」という問いにゴクリは答えられなかった。指輪がなくなったことに気づいて出口をふさぎにいくゴクリの後を、姿を消す指輪の力を偶然借りたビルボが追い、ビルボは無事ドワーフたちと合流する。この一件でドワーフたちのビルボへの評価は非常に高まるものの、ガンダルフからの何をやっていたかという問いに対してビルボは嘘をついてまで隠したい事があった。つづいて一行はゴブリンとアクマイヌの追撃を受けるが、ワシの王に助けられ、ビヨルンの家では、しばし憩う。
一行は闇の森の黒い森にガンダルフ抜きで入って行く。闇の森では、ビルボは、ドワーフたちをまずは巨大な蜘蛛たちから、次いで森のエルフから救い出す。湖の町(エスガロス(英語版))では、「山の下の王」がスマウグを滅ぼし富をもたらすという、予言の成就を望む人間たちから歓迎を受ける。遠征隊ははなれ山の秘密の裏口を発見し、スマウグの巣の偵察に送り出されたビルボは、財宝の中から大きなカップを盗み出し、またスマウグの急所を発見する。激怒したスマウグは、湖の町の人間たちが侵入者たちの手助けをしたものと推察し、町の破壊に赴く。ビルボがスマウグの急所について報告するのを聞いていたツグミが、弓の名手バルドにこれを伝え、竜はバルドの射た弓で退治される。
スマウグが山を留守にしている間に、ビルボはその財宝の中からトーリンの一族に伝わる家宝であるアーケン石を発見し、ドワーフには内緒で自分のポケットにしまう。森のエルフたちと湖の町の人間たちが山にやって来て、宝の分配を要求すると、トーリンはこれを拒絶し、北方の同胞を呼び寄せて防備を固める。ビルボは盗み出したアーケン石と引き換えに戦いを回避しようとするが、トーリンは憤怒に燃えてビルボを追い出し、さらに態度を硬化させ、戦いは不可避となった。
ガンダルフが現れて、ゴブリンとアクマイヌの接近を知らせると、一転、ドワーフと人間とエルフは、共通の敵を相手に力を合わせて戦うこととなる。この五軍による決戦は、折良くビヨルンとワシたちという援軍を得たドワーフと人間とエルフの連合軍側の勝利に終わる。この戦いで致命傷を負ったトーリンは、いまわの際にビルボと和解する。ビルボは宝の分け前として、小馬一頭で運べる金銀の小箱一つずつ以上は不要だと断ったが、それでもしかし、大変裕福なホビットとしてわが家に戻った。
1930年代初めのトールキンは、学問の世界ではオックスフォード大学においてアングロ・サクソン語の「ローリンソン・アンド・ボズワース教授職」にあり、ペンブルク・コレッジのフェローとして活躍していた。創作に関しては、「ゴブリン・フィート」、およびナーサリーライム (マザー・グース)の「ヘイ・ディドル・ディドル」を語り直した「猫とフィドル—未完のナーサリーライム、その呆れた秘密明らかに」という二つの詩作品をすでに発表していた。この時期の創作活動としては、毎年クリスマスに彼の子供たち宛に送った『サンタ・クロースからの手紙』(“The Father Christmas Letters”)(エルフとゴブリンが争い、北極熊くんが登場する挿絵付きの手書きの物語)の他、トールキンが1917年以来手がけてきたエルフ語とその神話世界の創造の発展がある。これらの作品はすべて彼の死後出版された。
1955年のW・H・オーデン宛の書簡で、トールキンは、『ホビットの冒険』は、1930年代初めのある日、学業修了検定試験の採点をしていた時に始まったと回想している。トールキンは白紙の解答用紙を見ると、ふと思いついてそこに「地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました」と書いた。1932年の末までには物語は完成し、C・S・ルイスを含む数人の友人とトールキンの学生だったエレイン・グリフィズが原稿を読んでいる。1936年、オックスフォードにいるグリフィズのところに出版社ジョージ・アレン・アンド・アンウィンに勤めている友人のスーザン・ダグナルが訪ねて来た時、グリフィズはダグナルに原稿を貸したか、もしくはトールキンから借りるといいと言ったとされている。いずれにせよ、ダグナルは感心し、社長のスタンリー・アンウィンに見せ、彼はそれを息子のレイナーに読ませて書評を書かせた。10歳のレイナーが好意的な短い書評を書くと、トールキンの原稿はアレン・アンド・アンウィンから出版されることになった。
19世紀のアーツ・アンド・クラフツ運動の旗手ウィリアム・モリスは、トールキンに大きな影響を与えた人物の一人である。トールキンはモリスの散文やロマンス詩を模倣し、作品全体のスタイルとアプローチを踏襲している。スマウグの荒らし場で、竜を土地を荒廃させる存在として描いている箇所は、モリスの作品から借用されたわかりやすい例として指摘されている。また、トールキンは、少年の頃にスコットランドの作家サミュエル・ラザフォード・クロケット(英語版)の歴史小説『ブラック・ダグラス(英語版)(The Black Douglas)』に感銘を受け、それに登場する悪役ジル・ド・レを死人占い師(サウロン)のモデルにした、と書き残しており、『ホビットの冒険』と『指輪物語』に登場するいくつかのエピソードは文体や叙述の点でこの作品に共通点があり、作品全体の文体と描写もトールキンに影響を与えたと考えられている。
『ホビット』のゴブリンの描写はジョージ・マクドナルドの『王女とゴブリン(英語版)(The Princess and the Goblin)』に強く影響を受けている。しかし、マクドナルドの影響は単に登場人物の造形にとどまらず、彼の作品は、自分のキリスト教信仰においてファンタジーが果たす役割を考える上で、トールキンにとって大きな助けになった。
トールキンの作品はいずれも北欧神話の影響が強く見られる。これは彼の北欧神話に対する生涯かけての情熱と、大学でのゲルマン語文献学のキャリアを反映している。『ホビットの冒険』も例外ではなく、本作にも北ヨーロッパの文学、神話、言語の影響が見られ、とくに『詩のエッダ』と『散文のエッダ』に多大な影響を受けている。たとえば、13人のドワーフとガンダルフの名前は『詩のエッダ』に登場する小人の名前に由来する。しかし、古ノルド語から名前を借用しているものの、ドワーフのキャラクターはそれよりも『白雪姫』や『白雪と紅薔薇』などといったグリム童話からとられている。『白雪と紅薔薇』はビヨルンの造形にも影響を与えた可能性がある。
"Misty Mountains"(霧ふり山脈)や"Bag End"(袋小路屋敷)といった説明的な名前の付け方は、古ノルド語のサガの命名法を連想させる。ドワーフに味方するカラスの名前は、古ノルド語でカラスを意味する語に由来する。ただし、『ホビット』のカラスの性質は古ノルド語や古英語での「戦死者の屍肉を漁る動物」というものとは異なっている。しかし、トールキンは単に演出として資料の表面を利用しただけではない。言葉の様式、とくに古語と現代語のつながりが物語の重要なテーマの一つになっている。北欧のサガと『ホビット』に共通するもう一つの特徴は、文章入りの地図である。トールキンが描いたドワーフの地図、口絵、ブックカバーなどイラストのいくつかはルーン文字のアングロ・サクソン語のバリエーションが使われている。
古英語の文学作品、とくに『ベーオウルフ』に見られるテーマは、ビルボが足を踏み入れる世界を形作る上で大きな位置を占めている。『ベーオウルフ』の研究者だったトールキンは、この詩を『ホビット』を書く上で「もっとも価値ある資料」の一つだとしている。彼は歴史的価値だけでなく、『ベーオウルフ』の文学的価値を高く評価した最初の学者とされており、トールキンの1934年の講義『ベーオウルフ 怪物と批評家(Beowulf: the Monsters and the Critics)』の講義録は、現在でも古英語の授業で使用されることがある。『ベーオウルフ』には、トールキンが『ホビット』で借用した、知恵を持つ巨大な竜などいくつかの要素が含まれており、たとえば侵入者の臭いをかごうと竜が首を伸ばす描写は、若干の変更を加えているものの『ベーオウルフ』からそのまま使われている。また、ビルボが秘密の通路を通ってスマウグに近づく描写は、『ベーオウルフ』に見られるものを忠実に再現している。他に『ホビット』と『ベーオウルフ』に共通するものとして、ビルボがゴクリや後にスマウグに「泥棒(thief)」と呼ばれていることや、後に湖の町("Lake-town")を破壊するにいたるスマウグの残虐な性格などが挙げられる。宝を盗む泥棒や竜の知性と性格など、トールキンは『ベーオウルフ』のストーリーで十分に描かれていないと彼が感じた部分をより良くなるように書き直している。
もう一つの古英語の資料からの影響は、名前を持つ、ルーン文字の刻まれた名剣の存在である。そのようなエルフの剣を手に、ビルボはやっとのことで最初の英雄的な行動に出る。ビルボがその剣に"Sting"(つらぬき丸)という名前を付けていることは、彼が『ベーオウルフ』からある種の文化的、言語的な風習を受け継ぎ、同時に彼が古代の世界に足を踏み入れていることを表している。このような『ベーオウルフ』とのつながりは、ビルボが竜の洞窟から杯を盗みだし、竜を激怒させる場面でもっとも端的に現れており、この場面は伝統的な叙述パターンに則って書かれている。「......ビルボが竜から盗みを働くというエピソードは、物語の状況から自然に(あるいはしごく当然に)生まれたものである。この場面では、このような書き方以外は考えにくい。『ベーオウルフ』の著者も、私とほとんど同じ書き方をしただろうと思う。」とトールキンは書き記している。
魔法使いラダガストの名前はスラヴ人の神ラデガスト(英語版)(Radegast)からとられていると広く考えられている。
『ホビット』におけるドワーフの描写は、トールキンが好んで読んだユダヤ人とその歴史に関する中世の文書に影響を受けている。大昔にはなれ山の故郷を失い、異国で自らの文化を保持しているという、ドワーフの性質はすべて中世のユダヤ人のイメージに由来し、また、彼らの戦争を好む性格はヘブライ語聖書から来ている。ドワーフの暦は晩秋に一年が始まるユダヤ人の暦を反映している。トールキンは寓意を否定しているが、ビルボをつましい暮らしから引っ張り出すドワーフたちは、「ユダヤ人がいなくなってたちまち困窮してしまった西欧社会」の強烈なメタファーであると見られている。
ロンドンの出版社ジョージ・アレン・アンド・アンウィンは、『ホビットの冒険』を1937年9月21日に出版した。初版印刷部数は1500部で、書評における高評価を受けて同年クリスマスまでには売り切れた。初版にはトールキン自身による白黒の挿絵が多数使われ、表紙デザインもまたトールキンによる。翌1938年ホートン・ミフリン社よりアメリカ版が出版された際には、挿絵のうち四点がカラーとなった。アレン・アンド・アンウィン社も、1937年末に出版された第二刷では、カラーの挿絵を入れた。本の人気にもかかわらず、 第二次世界大戦戦時下による紙の配給制度が1949年まで続いた影響もあり、この時期、本の入手はしばしば困難となった。
英語による改訂版は、1951年、1966年、1978年、1995年に出ており、また数多くの出版社により再版されている。さらに、『ホビットの冒険』は世界40カ国語以上の言語に翻訳されており、複数の翻訳版のある言語もある。
1937年12月、『ホビットの冒険』を出版したスタンリー・アンウィンはトールキンに続編の執筆を依頼した。その返事としてトールキンは『シルマリルの物語』の草稿を送ったが、ジョージ・アレン・アンド・アンウィン社の編集者は、読者は「もっとホビットに関する物語を求めている」だろうとして、『シルマリルの物語』の出版を断った。それからトールキンは「新ホビット(New Hobbit)」の執筆にとりかかり、これが最終的に『指輪物語』になった。その過程でもとの物語の背景設定が変更されただけでなく、ゴクリのキャラクターにも根本的な変更が加えられることになった。
『ホビットの冒険』の初版では、ゴクリは自分から魔法の指輪をなぞなぞの賞品として「贈り物」とし、ビルボとゴクリは仲良く別れることになっていた。改訂版では、指輪の抗しがたい魔力という新しいアイデアを反映し、ゴクリはビルボに対してより攻撃的で、指輪を失くすと大いに取り乱す。ゴクリは別れ際に呪いの言葉「どろぼう!どろぼう!どろぼう!バギンズめ!にくむ、にくむ、いつまでも、にくむぅ!」を浴びせかけ、これが『指輪物語』でのゴクリの描写の伏線になっている。
トールキンはこの「暗闇でのなぞなぞ問答("Riddles in the Dark")」の章の改訂原稿を、『ホビットの冒険』から『指輪物語』に物語をつなぐための変更のサンプルとしてスタンリー・アンウィンに送ったが、何年ものあいだ返事がなかった。トールキンが改訂版のゲラ刷りを受け取ったとき、彼は先に送ったサンプルが本文に組み込まれているを見つけて驚いた。『指輪物語』では、初版のなぞなぞのくだりは指輪の魔力の影響を受けたビルボが作り出した「嘘」とされ、改訂版の『ホビットの冒険』に「本当の」真相が書かれている、ということになった。この改訂版は第2版として1951年にイギリスとアメリカで出版された。
1960年にトールキンは『ホビットの冒険』のトーンを『指輪物語』に合わせるべく、新たな改訂作業に取り掛かった。しかし、第3章までいったところで作業を放棄してしまった。これは、改訂中の版は「ホビットらしくない」という批判を受け取ったからで、そのとき書き直していた文章はそれまでの陽気な雰囲気やテンポのよさの多くが失われていた。
1965年にアメリカのエース・ブックス社が『指輪物語』の海賊版のペーパーバックを販売した後、ホートン・ミフリン社とバランタイン社はトールキンに『ホビットの冒険』の新訂とアメリカでの著作権の更新を打診した。このときのテクストが1966年の第3版になった。トールキンはこれを、『ホビットの冒険』を『指輪物語』や未刊の『シルマリルの物語』の当時の神話体系により近づけるための良い機会と捉えた。この版での変更点は少なく、たとえば初版や第2版の63ページで「いまはノームと呼ばれているエルフ("elves that are now called Gnomes" )」となっている箇所が、第3版では「私の血縁の、西方の上のエルフ("High Elves of the West, my kin")」となっている。トールキンは初期の文章ではノーム(gnome)という語を上のエルフの第二の族、すなわちノルドール(「知識深きエルフ(Deep Elves)」)を指すものとして使っていた。これは、ギリシア語で知識を意味するグノーシス(gnosis)に由来するノームという語は、もっとも賢いエルフであるノルドールにふさわしいと考えたためである。しかし、ノームは16世紀のパラケルススの著作の影響で「庭小人」を指すのが一般的であることから、トールキンはこの語を使うのをやめた。
トールキンの死後、テキストの生成、修正、そして発展に関する注釈を施した2つの特別版が出版された。
ダグラス・アンダーソンの『注釈版ホビット(英語版)(The Annotated Hobbit)』(1988年)は、これまでに出版された『ホビットの冒険』のすべてのテキストが注釈やイラストとともに収録されている。増補改訂版(2002年)では「エレボールの遠征(英語版)」のテキストが追加された。アンダーソンの注は、『ホビット』を執筆する上でトールキンが使用した資料を明らかにしており、トールキンがそれぞれの改訂で施した修正の詳細が記されている。注釈に加え、フィンランド語版のトーベ・ヤンソンのイラストをはじめとする各国語版の挿絵が使用されている。また、トールキンが1923年に書いた詩"Iúmonna Gold Galdre Bewunden"(「古の人間の魔法の黄金」)など、これまでほとんど知られていなかった多くの短いテキストが含まれている。
ジョン・ラトリフによって出された2巻本の『ホビット研究(英語版)(The History of the Hobbit)』(2007年)は、『ホビットの冒険』の初稿や未決定稿が注付きで収録されている。ラトリフの注は、執筆当時とそれ以降のトールキンの学問上の著作と創作作品のつながりを明らかにしている。さらに、未刊のトールキンによる挿絵、および1960年代にトールキンが書きかけて放棄した版が付属されている。ラトリフの解説はトールキンのテキストは別にまとめられており、トールキンの草稿だけを物語として読むこともできる。
トールキンの書簡と出版社の記録によると、トールキンは本全体の挿絵と装丁に関わったことがわかる。トールキンはすべての要素に関して何度もやり取りを行い、こだわり続けた。レイナー・アンウィンは出版回想録の中で次のように言っている:「1937年だけでもトールキンはジョージ・アレン&アンウィン社宛に26通もの手紙を書いている。細部のわたり雄弁で、しばしば辛辣だが非常に丁重で腹立たしいほどに的確なものだったが、今日ではどんなに有名だろうと、あれほどまでに綿密な配慮を受ける作家はいないだろう。」
トールキンは最初5つの地図を提案したが、地図についても検討・議論が行われた。トールキンは、スロールの地図を最初の言及の箇所に付け加え(つまり製本後に糊付けで加え)、その裏面には光にかざして見た時に見えるように月光文字(アングロサクソンルーン文字)を配したいと願った。結局は、費用の問題と、また地図の濃淡が出し難いということで、「スロールの地図」と「荒れ地の国の地図」の2つを、クリーム色の紙に赤と黒のインクで印刷して、見返しに入れることとなった。
元々は、アレン&アンウィン社は本には見返しの地図だけしか挿絵を入れない方針だったが、トールキンが最初に提出したスケッチに出版社のスタッフは魅了され、余分な費用がかかっても本の値段を上げずにスケッチを含めることにした。これに気を良くして、トールキンはまた一連の挿絵を提供した。出版社はこれもすべて使うことに決め、初版には10の白黒の挿絵と、見返しに2つの地図が入ることとなった。挿絵で描かれた場面は次のとおり「お山:流れの向こうのホビット村」、「トロル」、「山の小道」、「ワシの巣からゴブリンの裏門の方角、西に霧降り山脈を臨む」、「ビヨルンの広間」、「闇の森」、「エルフ王の門」、「湖の町」、「表門」。一つを除いてすべての挿絵はページ全面を使っており、「闇の森」の挿絵は、それだけ光沢紙に別刷りされた。
出版社はトールキンの腕前に満足し、本のカバーのデザインも依頼した。この企画でも、繰り返し繰り返しの検討と書簡のやり取りが行われ、トールキンは自分の絵の手腕について常に卑下した態度をとっていた。絵を取り囲むルーン文字は、本の題名と著者や出版社の情報についての英語を音訳したものである。最初のカバー・デザインでは、濃淡の数色が使われていたが、トールキンは何度もやり直し、その度に使用する色の数は減った。最終的なデザインでは、4色が使われている。費用を気にした出版社は、太陽の赤の色をやめ、最終的に白地の紙に黒・青・緑のインクのみを使うことにした。
出版社の制作スタッフが製本デザインをしたが、トールキンはいくつかの点に異議を唱えた。何度か検討を繰り返した結果、最終的なデザインは、ほとんどトールキンのものと言えるものとなった。背表紙にはアングロサクソンルーン文字が見える:"þ"が2つ(ThráinとThrór)と"D"が1つ(Door)である。表紙は表と裏が互いの鏡像になっており、トールキンのスタイルに特徴的な細長いドラゴンが下の縁にそって型押しされ、上の縁にそっては霧降り山脈のスケッチが型押しされている。
トールキンは自分の挿絵が本に使われることになった時、カラーの別刷り図版の提案もした。出版社はこれに関しては折れてくれなかったため、トールキンは6ヶ月ほど後に出版されることになっていたアメリカ版に期待を寄せた。ホウトン・ミフリン社はトールキンの希望に応え、口絵(「お山:流れの向こうのホビット村」)をカラーに差し替えた他、新たなカラー図版を加えた:「裂け谷」、「ビルボ、まぶしい朝日で目覚める」、「ビルボ、筏のエルフの小屋へ到着」、「スマウグとの会話」である。「スマウグとの会話」に描かれた樽には、トールキンが創作したテングワール文字で書かれたドワーフの呪いが見え、2つの"þ"("Th")のルーン文字のサインがある。追加された挿絵は非常に魅力的だったので、ジョージ・アレン&アンウィン社も第二刷りの際には、「ビルボ、まぶしい朝日で目覚める」以外のカラー図版を採用した。
色々な版があり、版によって挿絵もまちまちである。多くはオリジナルの構想に大まかにであれ準じたものであるが、特に多くの翻訳版では、別のアーティストによって挿絵が描かれている。廉価版、特にペーパーバックでは地図以外は挿絵なしのものもある。1942年の「子供ブック・クラブ」の版には、白黒の絵は含まれているが地図がなく、これは例外である。
トールキンによるルーン文字の使用は、装飾意匠としてのものも物語中の魔法の記号としてのものも、ニューエイジや秘教的文学において、ルーン文字が広まった主な原因として引き合いに出されている。ニューエイジも秘教的文学も、1970年代のカウンターカルチャー におけるトールキン人気に端を発したものだからである。
『ホビットの冒険』は、児童文学の叙述モデルからヒントを得ており、そのことは「全知の語り手(omniscent narrator、結末など物語のすべてを知る視点から語られる)」や子供が感情移入しやすいキャラクター(小さくて、食べ物が好きで、モラルが少々ルーズ)といったものに現れている。本作は時間と語りの結びつきが強調されており、加えて「安全」と「危険」が地理的に区分けされている。これらはともに子供向けの作品で鍵となる要素であり、教養小説(ビルドゥングスロマン)に典型的な「ゆきて帰りし("home-away-home")」物語でも同様である。トールキンは後に、読者に直接語りかける語りは好きではないと述べているが、一方でそのような語りは本作の成功に非常によく貢献している。エマー・オサリバンは『比較児童文学(Comparative Children's Literature)』で、文学のメインストリームに受け入れられた数少ない児童書として、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』(1991年)やJ.K.ローリングの『ハリー・ポッターシリーズ』(1997年 - 2007年)とともに『ホビットの冒険』を挙げている。
トールキンは本作を「おとぎ話("fairy-story")」になるよう、子供に読み聞かせるのに適した口調で書いている。しかし後に彼は、本作を特に子供に向けて書いたものでなく、自分の神話伝説に対する関心から生まれたものであると発言している。『ホビット』が発表されて当初の書評の多くは、本作をおとぎ話として批評した。しかし、ジャック・ザイプスは『オックスフォードコンパニオン・トゥー・フェアリーテイルズ(Oxford Companion to Fairy Tales)』で、ビルボはおとぎ話に典型的なキャラクターではないとしている。『ホビットの冒険』は、トールキンが『妖精物語について(英語版)(On Fairy-Stories)』で提示した彼の理想的なおとぎ物語の長さよりもかなり長い。この作品には、ビルボの家やビヨルンの家に着く場面でドワーフたちが同じことが何度も繰り返すことなどの多くのおとぎ話的なモチーフや、あるいは石に変化するトロルなどといった民話的テーマを見つけることができる。
『ホビットの冒険』は一般に(また商業的によく)ファンタジー小説とされるが、ジェームス・マシュー・バリーの『ピーター・パン』やジョージ・マクドナルドの『王女とゴブリン』(両作はともにファンタジーの要素を含み、またトールキンに影響を与えた作品でもある)と同様に、第一に児童文学に分類される。この2つのジャンルは互いに排他的なものではなく、そのためハイ・ファンタジーの定義のいくつかは、ライマン・フランク・ボームやロイド・アリグザンダーの子供向けの作品や、文学の範疇で考えられることが多いジーン・ウルフやジョナサン・スウィフトの作品にも当てはまる。『ホビットの冒険』は「20世紀でもっとも有名な子供向けファンタジー」とされることがある。しかし、ジェーン・チャンスは本作を「大人の読者が考える子供に受ける作品という意味でのみ、子供向けの小説である」としている。C.W.サリバンは、『ホビットの冒険』の出版をハイ・ファンタジーの発展の重要なステップとし、1960年代の『ホビット』と『指輪物語』のペーパーバック化はこのジャンルの市場の形成と現在のファンタジーの地位の確立に不可欠だったとしている。
トールキンの書く文章は気取りなく簡潔である。彼は自分の創りだした架空の世界を当然のものとして扱い、それを冷静な筆致で詳細に描き、風変わりなものが新たに登場する際にはさり気ない書き方で書いている。このような飾り気の無い文体は、リチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』やピーター・ビーグルの『最後のユニコーン』などの以降のファンタジー作品にも見られるもので、読者に架空の世界のリアリティを確信させるというよりもむしろ読者を作品の世界に没入させる効果がある。『ホビットの冒険』はシンプルな親しみやすい言葉で書かれている一方で、登場人物はそれぞれ固有の口調を持っている。語り手は途中でよく余談で話の流れを中断させるが(これは子供向け小説でも古英語の文学でもよく使われる技法である)、固有の語り口を持ち、主要登場人物の口調とは区別されている 。
物語の基本的な構造は探求で、各章で何かしらの探求の話が語られる。多くの章では「荒地のくに("Wilderland")」に住む生き物が登場し、主人公一行の助けになったり、時には敵になったり危険をもたらしたりする。全体のトーンは明るく、歌やユーモアが散りばめられている。トーンを維持するために歌が利用されている例は、トーリンとその従者たちがゴブリンに誘拐されたときの場面(第4章)で、ゴブリンたちは地下を行進しながら次のように歌う。
このオノマトペ(擬声語)を多用した歌により、ゴブリンに連れ去られる危険な場面がユーモアで和らげられている。他の場面では、トロルの訛り(コックニー)や間抜けな言動、ビルボ一行を捕らえたエルフたちの酔っぱらった様子などによって、トールキンはユーモアと危険のバランスをとっている。異国の地での旅を軽い調子で、歌を挿入しながら語るという形式は、トールキンが強い影響を受けたウィリアム・モリスの『アイスランドへの旅』に由来するものと考えられる。
『ホビットの冒険』の日本語訳は、現在大きく分けて岩波書店版と原書房版がある。
書名は『ホビットの冒険』。訳は児童文学者の瀬田貞二、挿絵は寺島竜一による。1965年初版。1951年の第2版を底本としており、トールキンが1966年の第3版で加えた改訂は反映されていない。この瀬田訳は、1978年に英文学者で翻訳家の別宮貞徳に雑誌『翻訳の世界』の連載「欠陥翻訳時評」で取り上げられ、第1章における複数の誤訳を指摘された。ただし、彼が挙げた12の誤訳例のうち、2つは別宮が参考に用いた原書の版(第3版)と瀬田訳が底本にした版(第2版)の違いによる訳のズレを誤訳と勘違いして指摘しているものである。別宮の誤訳批判に対し、瀬田本人は反論しなかったが、瀬田と面識がありトールキンの伝記を翻訳した編集者の菅原啓州は、児童文学者の斎藤惇夫との雑誌『幻想文学』での対談で、瀬田訳を「たしかに問題となる部分がいろいろあるのは事実」としながらも、別宮の批評を「重箱の隅をつつくような粗捜し」「品性下劣というか、非常に不愉快なもの」として強く批判したものの、瀬田貞二本人は岩波書店にたいして『ホビットの冒険』の誤訳に対する後悔の念と翻訳取り下げの意向を伝えたという。
その後、岩波版の『ホビットの冒険』は細かいものを含めて何度も修正が加えられた。大規模な改訂は、1983年の愛蔵版10刷と2000年の岩波少年文庫版の新版での改訂である。1983年の改訂は「欠陥翻訳時評」の後になされたもので、別宮に指摘された箇所を含めて訳文全体が見直された。2000年における改訂では主に「めくら」や「きちがい」などの差別語が改められ、たとえば"warg"(作中でビルボたちを襲う狼に似た猛獣)の訳が「きちがい犬」から「アクマイヌ」に変更された。ただし、これらの修正を経た後も、依然として原書第3版の変更は反映されておらず、たとえば、改訂の項で述べたエルロンドがノルドールに言及する場面(第3章)では、現行の版でも「いまはノウム(土鬼)と呼ばれている昔のあるエルフ族」となっている。
『ホビットの冒険』は様々な装丁、判型で出版されている。愛蔵版(箱入りハードカバー)や岩波少年文庫版のほかに、本文を横組みにし、カバーや挿絵をトールキン直筆のものに差し替えて原書の雰囲気を再現した「オリジナル版」(2002年)などがある。
書名は『ホビット ゆきて帰りし物語 [第四版・注釈版]』。訳者は英文学者の山本史郎。1997年初版。底本はダグラス・アンダーソン校注の『注釈版ホビット(The Annotated Hobbit)』(1988年)。『注釈版ホビット』を底本としているため、初版から第3版までにトールキンが加えた改訂に関する情報やアンダーソンによる注釈が巻末に付されており、また、トールキン直筆のものや岩波書店版の寺島竜一のものを含む各国語版の挿絵がふんだんに使用されている。書名に「第四版・注釈版」とあるが、底本の『注釈版ホビット』で使われている本文は第3版にアンダーソンが校訂を施したものであり、トールキン研究で一般に「第4版(the fourth edition)」と呼ばれているのは、トールキンの死後初めての改訂となった1978年にイギリスで出された版である。アンダーソンは、この第4版は数十のミスが混入しているのであてにならないと『注釈版ホビット』に記しており、このことに言及した箇所はこの本を底本としている本書でも訳出されている。
この原書房版初版は、「ナンタルチア!」「サーラバイバイ」をはじめとする奇抜な訳語や、トールキンの他の作品と整合性がとれなくなる誤訳、「僕チン」などの岩波書店版とイメージの異なる訳語などを理由に、岩波版の瀬田訳に親しんでいた読者には概して不評だった。この訳の底本になった『注釈版ホビット』はアメリカで2002年(イギリスでは2003年)に増補改訂版が出版されたが、そのなかの各国語版の解説のところで「Makoto Takahashiという日本人の意見」として原書房版の日本語訳は"a poor translation"であると書かれている。
原書房版は2012年に実写映画の公開に合わせて新版が出され、新たに文庫版も上下分冊で出版された。新版では2002年の増補改訂版が底本になり、訳文が全面的に見なおされた。地名は岩波版のものをいくつか採用し、普通名詞が地名として使われている場合(Hill、Daleなど)は、初版ではボールド(太字)で表現されていたが新版では山括弧に変更された。人名はBBCラジオドラマ版の発音を参考に変更された。
注釈版第二版を底本にしたことにより、第二版で追加された大量の注および「エレボールの探求(英語版)」が訳出されている。「エレボールの探求」は『ホビット』の内容を要約したもので、『指輪物語』増補編の一部として書かれたが、長すぎることを理由に削除されたものである。「エレボールの探求」は『終わらざりし物語』にも収録されているが、本書に収録されたものとはバージョンが異なっている。また、巻末に訳者による年少読者向けの解説、トールキンと『ホビット』についての解説、原書の英語表現に関する解説が追加されている。
新版では、初版にあった各国版の挿絵がトールキン直筆の挿絵をのぞいてすべて削除され、各版の改訂に関する注が第5章「暗闇(くらやみ)の謎謎合戦」などの差異の大きい箇所を除いで削除された。注釈版序文は本文の後に移動されている。なお、前述の原書房版の評価の記述は訳出されていない。
『The Hobbit』(テレビアニメスペシャル版 日本では公開・ビデオ発売ともになし) 製作:Arthur Rankin Jr. & Jules Bass 1977
映画『ロード・オブ・ザ・リング』3部作を手がけたピーター・ジャクソン監督のもと、3部作3D映画として製作され、第1部『ホビット 思いがけない冒険』は2012年12月14日に、第2部『ホビット 竜に奪われた王国』は2013年12月13日に、第3部『ホビット 決戦のゆくえ』は2014年12月11日に、それぞれ全米ならびに全国公開された。イギリス人俳優のマーティン・フリーマンが主演としてビルボ役を、イアン・マッケランが『ロード・オブ・ザ・リング』に引き続いてガンダルフ役を、そしてリチャード・アーミティッジがトーリン・オーケンシールド役をそれぞれ演じる。 | [
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"text": "『ホビットの冒険』(ホビットのぼうけん、原題:The Hobbit, or There and Back Again)は、1937年9月21日に出版されたJ・R・R・トールキンによる児童文学、ファンタジー小説。『指輪物語』の前日譚でもある。",
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"text": "ホビットと呼ばれる小人が、魔法使いやドワーフとともに竜に奪われた財宝を取り戻すべく、竜の住む山を目指す冒険譚。",
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"text": "本作が成功したため、出版社はトールキンに続編の執筆を依頼した。これがのちに『指輪物語』となり、この執筆の過程でトールキンは、『指輪物語』との整合性をとるために本書に改訂を行った。1951年の第2版では「くらやみでなぞなぞ問答」(第5章)で重要な改訂がなされた。その後も、ビルボが足を踏み入れた世界に関するトールキンの考えの変遷を反映して、1966年の第3版でさらなる改訂が加えられた。",
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"text": "批評家から広く称賛を受け、カーネギー賞にノミネートされたほか、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)最優秀児童文学賞を受賞。今日に至るまで人気を保ち、児童文学の古典的作品と見なされている。",
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"text": "本作の日本語訳としては、瀬田貞二の訳によるもの(1965年)と山本史郎によるもの(1997年)がある。",
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"text": "ピーター・ジャクソン監督による実写映画化のプロジェクト『ホビット』があり、3部作のうち第1部『ホビット 思いがけない冒険』が2012年11月に、第2部『ホビット 竜に奪われた王国』が2013年12月(日本公開は2014年2月)に、第3部『ホビット 決戦のゆくえ』が2014年12月(日本公開は2014年12月13日)に公開された。",
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"text": "ことの始まりは、ある四月も末の日、ホビット村のビルボを訪ねた魔法使いのガンダルフのたくらみにより、13人のドワーフ達が次々と押しかけて来た、ビルボ宅でのパーティだった。トーリン・オーケンシールド率いるこのドワーフたちは、邪竜スマウグに奪われた父祖の地はなれ山(エレボール(英語版))とその財宝を取り返す遠征を計画しており、ガンダルフの薦めによりビルボを「忍びの者」として雇うつもりでやって来た。何も知らないビルボは右往左往するばかりだったが、ドワーフたちの歌を聞くうち、我知らず冒険を求める「トゥックの血筋」の性向がかき立てられる。しかしそれも束の間、事情を聞くとパニックを起こしてドワーフたちの失笑を買う。ドワーフたちに馬鹿にされて憤然としたビルボは、思わず計画に乗ることを宣言してしまう。ガンダルフがトーリンの父スラインから預かったという「スロールの地図」を披露し、はなれ山の秘密の裏口の存在ゆえに「忍びの者」ビルボの存在が必要だと、ドワーフたちを説得する。こうしてビルボとドワーフ、そしてガンダルフの一行は旅立つこととなり、途上、ガンダルフはトロルからドワーフたちを救い、一行を裂け谷まで連れて来る。裂け谷ではエルロンドが「スロールの地図」の秘密を解明する。霧ふり山脈(英語版)を越える際、一行はゴブリンに囚われ、山の地下深くへと追い立てられる。ガンダルフによって救出されるも、ビルボだけは途中で一行とはぐれてしまう。ゴブリンの地下のトンネルで道に迷ったビルボは、偶然指輪を発見し、ゴクリと遭遇する。ゴクリとビルボのなぞなぞ問答では、ビルボが勝てばゴクリが出口までの道を教えるが、負ければゴクリがビルボを食べるという取り決めだったが、ビルボの「ポケットの中にあるものは何だ?」という問いにゴクリは答えられなかった。指輪がなくなったことに気づいて出口をふさぎにいくゴクリの後を、姿を消す指輪の力を偶然借りたビルボが追い、ビルボは無事ドワーフたちと合流する。この一件でドワーフたちのビルボへの評価は非常に高まるものの、ガンダルフからの何をやっていたかという問いに対してビルボは嘘をついてまで隠したい事があった。つづいて一行はゴブリンとアクマイヌの追撃を受けるが、ワシの王に助けられ、ビヨルンの家では、しばし憩う。",
"title": "あらすじ"
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"text": "一行は闇の森の黒い森にガンダルフ抜きで入って行く。闇の森では、ビルボは、ドワーフたちをまずは巨大な蜘蛛たちから、次いで森のエルフから救い出す。湖の町(エスガロス(英語版))では、「山の下の王」がスマウグを滅ぼし富をもたらすという、予言の成就を望む人間たちから歓迎を受ける。遠征隊ははなれ山の秘密の裏口を発見し、スマウグの巣の偵察に送り出されたビルボは、財宝の中から大きなカップを盗み出し、またスマウグの急所を発見する。激怒したスマウグは、湖の町の人間たちが侵入者たちの手助けをしたものと推察し、町の破壊に赴く。ビルボがスマウグの急所について報告するのを聞いていたツグミが、弓の名手バルドにこれを伝え、竜はバルドの射た弓で退治される。",
"title": "あらすじ"
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"text": "スマウグが山を留守にしている間に、ビルボはその財宝の中からトーリンの一族に伝わる家宝であるアーケン石を発見し、ドワーフには内緒で自分のポケットにしまう。森のエルフたちと湖の町の人間たちが山にやって来て、宝の分配を要求すると、トーリンはこれを拒絶し、北方の同胞を呼び寄せて防備を固める。ビルボは盗み出したアーケン石と引き換えに戦いを回避しようとするが、トーリンは憤怒に燃えてビルボを追い出し、さらに態度を硬化させ、戦いは不可避となった。",
"title": "あらすじ"
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{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "ガンダルフが現れて、ゴブリンとアクマイヌの接近を知らせると、一転、ドワーフと人間とエルフは、共通の敵を相手に力を合わせて戦うこととなる。この五軍による決戦は、折良くビヨルンとワシたちという援軍を得たドワーフと人間とエルフの連合軍側の勝利に終わる。この戦いで致命傷を負ったトーリンは、いまわの際にビルボと和解する。ビルボは宝の分け前として、小馬一頭で運べる金銀の小箱一つずつ以上は不要だと断ったが、それでもしかし、大変裕福なホビットとしてわが家に戻った。",
"title": "あらすじ"
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"text": "1930年代初めのトールキンは、学問の世界ではオックスフォード大学においてアングロ・サクソン語の「ローリンソン・アンド・ボズワース教授職」にあり、ペンブルク・コレッジのフェローとして活躍していた。創作に関しては、「ゴブリン・フィート」、およびナーサリーライム (マザー・グース)の「ヘイ・ディドル・ディドル」を語り直した「猫とフィドル—未完のナーサリーライム、その呆れた秘密明らかに」という二つの詩作品をすでに発表していた。この時期の創作活動としては、毎年クリスマスに彼の子供たち宛に送った『サンタ・クロースからの手紙』(“The Father Christmas Letters”)(エルフとゴブリンが争い、北極熊くんが登場する挿絵付きの手書きの物語)の他、トールキンが1917年以来手がけてきたエルフ語とその神話世界の創造の発展がある。これらの作品はすべて彼の死後出版された。",
"title": "構想と創作"
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"text": "1955年のW・H・オーデン宛の書簡で、トールキンは、『ホビットの冒険』は、1930年代初めのある日、学業修了検定試験の採点をしていた時に始まったと回想している。トールキンは白紙の解答用紙を見ると、ふと思いついてそこに「地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました」と書いた。1932年の末までには物語は完成し、C・S・ルイスを含む数人の友人とトールキンの学生だったエレイン・グリフィズが原稿を読んでいる。1936年、オックスフォードにいるグリフィズのところに出版社ジョージ・アレン・アンド・アンウィンに勤めている友人のスーザン・ダグナルが訪ねて来た時、グリフィズはダグナルに原稿を貸したか、もしくはトールキンから借りるといいと言ったとされている。いずれにせよ、ダグナルは感心し、社長のスタンリー・アンウィンに見せ、彼はそれを息子のレイナーに読ませて書評を書かせた。10歳のレイナーが好意的な短い書評を書くと、トールキンの原稿はアレン・アンド・アンウィンから出版されることになった。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "19世紀のアーツ・アンド・クラフツ運動の旗手ウィリアム・モリスは、トールキンに大きな影響を与えた人物の一人である。トールキンはモリスの散文やロマンス詩を模倣し、作品全体のスタイルとアプローチを踏襲している。スマウグの荒らし場で、竜を土地を荒廃させる存在として描いている箇所は、モリスの作品から借用されたわかりやすい例として指摘されている。また、トールキンは、少年の頃にスコットランドの作家サミュエル・ラザフォード・クロケット(英語版)の歴史小説『ブラック・ダグラス(英語版)(The Black Douglas)』に感銘を受け、それに登場する悪役ジル・ド・レを死人占い師(サウロン)のモデルにした、と書き残しており、『ホビットの冒険』と『指輪物語』に登場するいくつかのエピソードは文体や叙述の点でこの作品に共通点があり、作品全体の文体と描写もトールキンに影響を与えたと考えられている。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "『ホビット』のゴブリンの描写はジョージ・マクドナルドの『王女とゴブリン(英語版)(The Princess and the Goblin)』に強く影響を受けている。しかし、マクドナルドの影響は単に登場人物の造形にとどまらず、彼の作品は、自分のキリスト教信仰においてファンタジーが果たす役割を考える上で、トールキンにとって大きな助けになった。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "トールキンの作品はいずれも北欧神話の影響が強く見られる。これは彼の北欧神話に対する生涯かけての情熱と、大学でのゲルマン語文献学のキャリアを反映している。『ホビットの冒険』も例外ではなく、本作にも北ヨーロッパの文学、神話、言語の影響が見られ、とくに『詩のエッダ』と『散文のエッダ』に多大な影響を受けている。たとえば、13人のドワーフとガンダルフの名前は『詩のエッダ』に登場する小人の名前に由来する。しかし、古ノルド語から名前を借用しているものの、ドワーフのキャラクターはそれよりも『白雪姫』や『白雪と紅薔薇』などといったグリム童話からとられている。『白雪と紅薔薇』はビヨルンの造形にも影響を与えた可能性がある。",
"title": "構想と創作"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "\"Misty Mountains\"(霧ふり山脈)や\"Bag End\"(袋小路屋敷)といった説明的な名前の付け方は、古ノルド語のサガの命名法を連想させる。ドワーフに味方するカラスの名前は、古ノルド語でカラスを意味する語に由来する。ただし、『ホビット』のカラスの性質は古ノルド語や古英語での「戦死者の屍肉を漁る動物」というものとは異なっている。しかし、トールキンは単に演出として資料の表面を利用しただけではない。言葉の様式、とくに古語と現代語のつながりが物語の重要なテーマの一つになっている。北欧のサガと『ホビット』に共通するもう一つの特徴は、文章入りの地図である。トールキンが描いたドワーフの地図、口絵、ブックカバーなどイラストのいくつかはルーン文字のアングロ・サクソン語のバリエーションが使われている。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "古英語の文学作品、とくに『ベーオウルフ』に見られるテーマは、ビルボが足を踏み入れる世界を形作る上で大きな位置を占めている。『ベーオウルフ』の研究者だったトールキンは、この詩を『ホビット』を書く上で「もっとも価値ある資料」の一つだとしている。彼は歴史的価値だけでなく、『ベーオウルフ』の文学的価値を高く評価した最初の学者とされており、トールキンの1934年の講義『ベーオウルフ 怪物と批評家(Beowulf: the Monsters and the Critics)』の講義録は、現在でも古英語の授業で使用されることがある。『ベーオウルフ』には、トールキンが『ホビット』で借用した、知恵を持つ巨大な竜などいくつかの要素が含まれており、たとえば侵入者の臭いをかごうと竜が首を伸ばす描写は、若干の変更を加えているものの『ベーオウルフ』からそのまま使われている。また、ビルボが秘密の通路を通ってスマウグに近づく描写は、『ベーオウルフ』に見られるものを忠実に再現している。他に『ホビット』と『ベーオウルフ』に共通するものとして、ビルボがゴクリや後にスマウグに「泥棒(thief)」と呼ばれていることや、後に湖の町(\"Lake-town\")を破壊するにいたるスマウグの残虐な性格などが挙げられる。宝を盗む泥棒や竜の知性と性格など、トールキンは『ベーオウルフ』のストーリーで十分に描かれていないと彼が感じた部分をより良くなるように書き直している。",
"title": "構想と創作"
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"text": "もう一つの古英語の資料からの影響は、名前を持つ、ルーン文字の刻まれた名剣の存在である。そのようなエルフの剣を手に、ビルボはやっとのことで最初の英雄的な行動に出る。ビルボがその剣に\"Sting\"(つらぬき丸)という名前を付けていることは、彼が『ベーオウルフ』からある種の文化的、言語的な風習を受け継ぎ、同時に彼が古代の世界に足を踏み入れていることを表している。このような『ベーオウルフ』とのつながりは、ビルボが竜の洞窟から杯を盗みだし、竜を激怒させる場面でもっとも端的に現れており、この場面は伝統的な叙述パターンに則って書かれている。「......ビルボが竜から盗みを働くというエピソードは、物語の状況から自然に(あるいはしごく当然に)生まれたものである。この場面では、このような書き方以外は考えにくい。『ベーオウルフ』の著者も、私とほとんど同じ書き方をしただろうと思う。」とトールキンは書き記している。",
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"text": "魔法使いラダガストの名前はスラヴ人の神ラデガスト(英語版)(Radegast)からとられていると広く考えられている。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "『ホビット』におけるドワーフの描写は、トールキンが好んで読んだユダヤ人とその歴史に関する中世の文書に影響を受けている。大昔にはなれ山の故郷を失い、異国で自らの文化を保持しているという、ドワーフの性質はすべて中世のユダヤ人のイメージに由来し、また、彼らの戦争を好む性格はヘブライ語聖書から来ている。ドワーフの暦は晩秋に一年が始まるユダヤ人の暦を反映している。トールキンは寓意を否定しているが、ビルボをつましい暮らしから引っ張り出すドワーフたちは、「ユダヤ人がいなくなってたちまち困窮してしまった西欧社会」の強烈なメタファーであると見られている。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "ロンドンの出版社ジョージ・アレン・アンド・アンウィンは、『ホビットの冒険』を1937年9月21日に出版した。初版印刷部数は1500部で、書評における高評価を受けて同年クリスマスまでには売り切れた。初版にはトールキン自身による白黒の挿絵が多数使われ、表紙デザインもまたトールキンによる。翌1938年ホートン・ミフリン社よりアメリカ版が出版された際には、挿絵のうち四点がカラーとなった。アレン・アンド・アンウィン社も、1937年末に出版された第二刷では、カラーの挿絵を入れた。本の人気にもかかわらず、 第二次世界大戦戦時下による紙の配給制度が1949年まで続いた影響もあり、この時期、本の入手はしばしば困難となった。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "英語による改訂版は、1951年、1966年、1978年、1995年に出ており、また数多くの出版社により再版されている。さらに、『ホビットの冒険』は世界40カ国語以上の言語に翻訳されており、複数の翻訳版のある言語もある。",
"title": "構想と創作"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "1937年12月、『ホビットの冒険』を出版したスタンリー・アンウィンはトールキンに続編の執筆を依頼した。その返事としてトールキンは『シルマリルの物語』の草稿を送ったが、ジョージ・アレン・アンド・アンウィン社の編集者は、読者は「もっとホビットに関する物語を求めている」だろうとして、『シルマリルの物語』の出版を断った。それからトールキンは「新ホビット(New Hobbit)」の執筆にとりかかり、これが最終的に『指輪物語』になった。その過程でもとの物語の背景設定が変更されただけでなく、ゴクリのキャラクターにも根本的な変更が加えられることになった。",
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},
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"paragraph_id": 23,
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"text": "『ホビットの冒険』の初版では、ゴクリは自分から魔法の指輪をなぞなぞの賞品として「贈り物」とし、ビルボとゴクリは仲良く別れることになっていた。改訂版では、指輪の抗しがたい魔力という新しいアイデアを反映し、ゴクリはビルボに対してより攻撃的で、指輪を失くすと大いに取り乱す。ゴクリは別れ際に呪いの言葉「どろぼう!どろぼう!どろぼう!バギンズめ!にくむ、にくむ、いつまでも、にくむぅ!」を浴びせかけ、これが『指輪物語』でのゴクリの描写の伏線になっている。",
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"paragraph_id": 24,
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"text": "トールキンはこの「暗闇でのなぞなぞ問答(\"Riddles in the Dark\")」の章の改訂原稿を、『ホビットの冒険』から『指輪物語』に物語をつなぐための変更のサンプルとしてスタンリー・アンウィンに送ったが、何年ものあいだ返事がなかった。トールキンが改訂版のゲラ刷りを受け取ったとき、彼は先に送ったサンプルが本文に組み込まれているを見つけて驚いた。『指輪物語』では、初版のなぞなぞのくだりは指輪の魔力の影響を受けたビルボが作り出した「嘘」とされ、改訂版の『ホビットの冒険』に「本当の」真相が書かれている、ということになった。この改訂版は第2版として1951年にイギリスとアメリカで出版された。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1960年にトールキンは『ホビットの冒険』のトーンを『指輪物語』に合わせるべく、新たな改訂作業に取り掛かった。しかし、第3章までいったところで作業を放棄してしまった。これは、改訂中の版は「ホビットらしくない」という批判を受け取ったからで、そのとき書き直していた文章はそれまでの陽気な雰囲気やテンポのよさの多くが失われていた。",
"title": "構想と創作"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "1965年にアメリカのエース・ブックス社が『指輪物語』の海賊版のペーパーバックを販売した後、ホートン・ミフリン社とバランタイン社はトールキンに『ホビットの冒険』の新訂とアメリカでの著作権の更新を打診した。このときのテクストが1966年の第3版になった。トールキンはこれを、『ホビットの冒険』を『指輪物語』や未刊の『シルマリルの物語』の当時の神話体系により近づけるための良い機会と捉えた。この版での変更点は少なく、たとえば初版や第2版の63ページで「いまはノームと呼ばれているエルフ(\"elves that are now called Gnomes\" )」となっている箇所が、第3版では「私の血縁の、西方の上のエルフ(\"High Elves of the West, my kin\")」となっている。トールキンは初期の文章ではノーム(gnome)という語を上のエルフの第二の族、すなわちノルドール(「知識深きエルフ(Deep Elves)」)を指すものとして使っていた。これは、ギリシア語で知識を意味するグノーシス(gnosis)に由来するノームという語は、もっとも賢いエルフであるノルドールにふさわしいと考えたためである。しかし、ノームは16世紀のパラケルススの著作の影響で「庭小人」を指すのが一般的であることから、トールキンはこの語を使うのをやめた。",
"title": "構想と創作"
},
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "トールキンの死後、テキストの生成、修正、そして発展に関する注釈を施した2つの特別版が出版された。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ダグラス・アンダーソンの『注釈版ホビット(英語版)(The Annotated Hobbit)』(1988年)は、これまでに出版された『ホビットの冒険』のすべてのテキストが注釈やイラストとともに収録されている。増補改訂版(2002年)では「エレボールの遠征(英語版)」のテキストが追加された。アンダーソンの注は、『ホビット』を執筆する上でトールキンが使用した資料を明らかにしており、トールキンがそれぞれの改訂で施した修正の詳細が記されている。注釈に加え、フィンランド語版のトーベ・ヤンソンのイラストをはじめとする各国語版の挿絵が使用されている。また、トールキンが1923年に書いた詩\"Iúmonna Gold Galdre Bewunden\"(「古の人間の魔法の黄金」)など、これまでほとんど知られていなかった多くの短いテキストが含まれている。",
"title": "構想と創作"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ジョン・ラトリフによって出された2巻本の『ホビット研究(英語版)(The History of the Hobbit)』(2007年)は、『ホビットの冒険』の初稿や未決定稿が注付きで収録されている。ラトリフの注は、執筆当時とそれ以降のトールキンの学問上の著作と創作作品のつながりを明らかにしている。さらに、未刊のトールキンによる挿絵、および1960年代にトールキンが書きかけて放棄した版が付属されている。ラトリフの解説はトールキンのテキストは別にまとめられており、トールキンの草稿だけを物語として読むこともできる。",
"title": "構想と創作"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "トールキンの書簡と出版社の記録によると、トールキンは本全体の挿絵と装丁に関わったことがわかる。トールキンはすべての要素に関して何度もやり取りを行い、こだわり続けた。レイナー・アンウィンは出版回想録の中で次のように言っている:「1937年だけでもトールキンはジョージ・アレン&アンウィン社宛に26通もの手紙を書いている。細部のわたり雄弁で、しばしば辛辣だが非常に丁重で腹立たしいほどに的確なものだったが、今日ではどんなに有名だろうと、あれほどまでに綿密な配慮を受ける作家はいないだろう。」",
"title": "構想と創作"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "トールキンは最初5つの地図を提案したが、地図についても検討・議論が行われた。トールキンは、スロールの地図を最初の言及の箇所に付け加え(つまり製本後に糊付けで加え)、その裏面には光にかざして見た時に見えるように月光文字(アングロサクソンルーン文字)を配したいと願った。結局は、費用の問題と、また地図の濃淡が出し難いということで、「スロールの地図」と「荒れ地の国の地図」の2つを、クリーム色の紙に赤と黒のインクで印刷して、見返しに入れることとなった。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "元々は、アレン&アンウィン社は本には見返しの地図だけしか挿絵を入れない方針だったが、トールキンが最初に提出したスケッチに出版社のスタッフは魅了され、余分な費用がかかっても本の値段を上げずにスケッチを含めることにした。これに気を良くして、トールキンはまた一連の挿絵を提供した。出版社はこれもすべて使うことに決め、初版には10の白黒の挿絵と、見返しに2つの地図が入ることとなった。挿絵で描かれた場面は次のとおり「お山:流れの向こうのホビット村」、「トロル」、「山の小道」、「ワシの巣からゴブリンの裏門の方角、西に霧降り山脈を臨む」、「ビヨルンの広間」、「闇の森」、「エルフ王の門」、「湖の町」、「表門」。一つを除いてすべての挿絵はページ全面を使っており、「闇の森」の挿絵は、それだけ光沢紙に別刷りされた。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "出版社はトールキンの腕前に満足し、本のカバーのデザインも依頼した。この企画でも、繰り返し繰り返しの検討と書簡のやり取りが行われ、トールキンは自分の絵の手腕について常に卑下した態度をとっていた。絵を取り囲むルーン文字は、本の題名と著者や出版社の情報についての英語を音訳したものである。最初のカバー・デザインでは、濃淡の数色が使われていたが、トールキンは何度もやり直し、その度に使用する色の数は減った。最終的なデザインでは、4色が使われている。費用を気にした出版社は、太陽の赤の色をやめ、最終的に白地の紙に黒・青・緑のインクのみを使うことにした。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "出版社の制作スタッフが製本デザインをしたが、トールキンはいくつかの点に異議を唱えた。何度か検討を繰り返した結果、最終的なデザインは、ほとんどトールキンのものと言えるものとなった。背表紙にはアングロサクソンルーン文字が見える:\"þ\"が2つ(ThráinとThrór)と\"D\"が1つ(Door)である。表紙は表と裏が互いの鏡像になっており、トールキンのスタイルに特徴的な細長いドラゴンが下の縁にそって型押しされ、上の縁にそっては霧降り山脈のスケッチが型押しされている。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "トールキンは自分の挿絵が本に使われることになった時、カラーの別刷り図版の提案もした。出版社はこれに関しては折れてくれなかったため、トールキンは6ヶ月ほど後に出版されることになっていたアメリカ版に期待を寄せた。ホウトン・ミフリン社はトールキンの希望に応え、口絵(「お山:流れの向こうのホビット村」)をカラーに差し替えた他、新たなカラー図版を加えた:「裂け谷」、「ビルボ、まぶしい朝日で目覚める」、「ビルボ、筏のエルフの小屋へ到着」、「スマウグとの会話」である。「スマウグとの会話」に描かれた樽には、トールキンが創作したテングワール文字で書かれたドワーフの呪いが見え、2つの\"þ\"(\"Th\")のルーン文字のサインがある。追加された挿絵は非常に魅力的だったので、ジョージ・アレン&アンウィン社も第二刷りの際には、「ビルボ、まぶしい朝日で目覚める」以外のカラー図版を採用した。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "色々な版があり、版によって挿絵もまちまちである。多くはオリジナルの構想に大まかにであれ準じたものであるが、特に多くの翻訳版では、別のアーティストによって挿絵が描かれている。廉価版、特にペーパーバックでは地図以外は挿絵なしのものもある。1942年の「子供ブック・クラブ」の版には、白黒の絵は含まれているが地図がなく、これは例外である。",
"title": "構想と創作"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "トールキンによるルーン文字の使用は、装飾意匠としてのものも物語中の魔法の記号としてのものも、ニューエイジや秘教的文学において、ルーン文字が広まった主な原因として引き合いに出されている。ニューエイジも秘教的文学も、1970年代のカウンターカルチャー におけるトールキン人気に端を発したものだからである。",
"title": "構想と創作"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "『ホビットの冒険』は、児童文学の叙述モデルからヒントを得ており、そのことは「全知の語り手(omniscent narrator、結末など物語のすべてを知る視点から語られる)」や子供が感情移入しやすいキャラクター(小さくて、食べ物が好きで、モラルが少々ルーズ)といったものに現れている。本作は時間と語りの結びつきが強調されており、加えて「安全」と「危険」が地理的に区分けされている。これらはともに子供向けの作品で鍵となる要素であり、教養小説(ビルドゥングスロマン)に典型的な「ゆきて帰りし(\"home-away-home\")」物語でも同様である。トールキンは後に、読者に直接語りかける語りは好きではないと述べているが、一方でそのような語りは本作の成功に非常によく貢献している。エマー・オサリバンは『比較児童文学(Comparative Children's Literature)』で、文学のメインストリームに受け入れられた数少ない児童書として、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』(1991年)やJ.K.ローリングの『ハリー・ポッターシリーズ』(1997年 - 2007年)とともに『ホビットの冒険』を挙げている。",
"title": "ジャンル"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "トールキンは本作を「おとぎ話(\"fairy-story\")」になるよう、子供に読み聞かせるのに適した口調で書いている。しかし後に彼は、本作を特に子供に向けて書いたものでなく、自分の神話伝説に対する関心から生まれたものであると発言している。『ホビット』が発表されて当初の書評の多くは、本作をおとぎ話として批評した。しかし、ジャック・ザイプスは『オックスフォードコンパニオン・トゥー・フェアリーテイルズ(Oxford Companion to Fairy Tales)』で、ビルボはおとぎ話に典型的なキャラクターではないとしている。『ホビットの冒険』は、トールキンが『妖精物語について(英語版)(On Fairy-Stories)』で提示した彼の理想的なおとぎ物語の長さよりもかなり長い。この作品には、ビルボの家やビヨルンの家に着く場面でドワーフたちが同じことが何度も繰り返すことなどの多くのおとぎ話的なモチーフや、あるいは石に変化するトロルなどといった民話的テーマを見つけることができる。",
"title": "ジャンル"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "『ホビットの冒険』は一般に(また商業的によく)ファンタジー小説とされるが、ジェームス・マシュー・バリーの『ピーター・パン』やジョージ・マクドナルドの『王女とゴブリン』(両作はともにファンタジーの要素を含み、またトールキンに影響を与えた作品でもある)と同様に、第一に児童文学に分類される。この2つのジャンルは互いに排他的なものではなく、そのためハイ・ファンタジーの定義のいくつかは、ライマン・フランク・ボームやロイド・アリグザンダーの子供向けの作品や、文学の範疇で考えられることが多いジーン・ウルフやジョナサン・スウィフトの作品にも当てはまる。『ホビットの冒険』は「20世紀でもっとも有名な子供向けファンタジー」とされることがある。しかし、ジェーン・チャンスは本作を「大人の読者が考える子供に受ける作品という意味でのみ、子供向けの小説である」としている。C.W.サリバンは、『ホビットの冒険』の出版をハイ・ファンタジーの発展の重要なステップとし、1960年代の『ホビット』と『指輪物語』のペーパーバック化はこのジャンルの市場の形成と現在のファンタジーの地位の確立に不可欠だったとしている。",
"title": "ジャンル"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "トールキンの書く文章は気取りなく簡潔である。彼は自分の創りだした架空の世界を当然のものとして扱い、それを冷静な筆致で詳細に描き、風変わりなものが新たに登場する際にはさり気ない書き方で書いている。このような飾り気の無い文体は、リチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』やピーター・ビーグルの『最後のユニコーン』などの以降のファンタジー作品にも見られるもので、読者に架空の世界のリアリティを確信させるというよりもむしろ読者を作品の世界に没入させる効果がある。『ホビットの冒険』はシンプルな親しみやすい言葉で書かれている一方で、登場人物はそれぞれ固有の口調を持っている。語り手は途中でよく余談で話の流れを中断させるが(これは子供向け小説でも古英語の文学でもよく使われる技法である)、固有の語り口を持ち、主要登場人物の口調とは区別されている 。",
"title": "文体"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "物語の基本的な構造は探求で、各章で何かしらの探求の話が語られる。多くの章では「荒地のくに(\"Wilderland\")」に住む生き物が登場し、主人公一行の助けになったり、時には敵になったり危険をもたらしたりする。全体のトーンは明るく、歌やユーモアが散りばめられている。トーンを維持するために歌が利用されている例は、トーリンとその従者たちがゴブリンに誘拐されたときの場面(第4章)で、ゴブリンたちは地下を行進しながら次のように歌う。",
"title": "文体"
},
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "このオノマトペ(擬声語)を多用した歌により、ゴブリンに連れ去られる危険な場面がユーモアで和らげられている。他の場面では、トロルの訛り(コックニー)や間抜けな言動、ビルボ一行を捕らえたエルフたちの酔っぱらった様子などによって、トールキンはユーモアと危険のバランスをとっている。異国の地での旅を軽い調子で、歌を挿入しながら語るという形式は、トールキンが強い影響を受けたウィリアム・モリスの『アイスランドへの旅』に由来するものと考えられる。",
"title": "文体"
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"text": "『ホビットの冒険』の日本語訳は、現在大きく分けて岩波書店版と原書房版がある。",
"title": "日本語訳"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "書名は『ホビットの冒険』。訳は児童文学者の瀬田貞二、挿絵は寺島竜一による。1965年初版。1951年の第2版を底本としており、トールキンが1966年の第3版で加えた改訂は反映されていない。この瀬田訳は、1978年に英文学者で翻訳家の別宮貞徳に雑誌『翻訳の世界』の連載「欠陥翻訳時評」で取り上げられ、第1章における複数の誤訳を指摘された。ただし、彼が挙げた12の誤訳例のうち、2つは別宮が参考に用いた原書の版(第3版)と瀬田訳が底本にした版(第2版)の違いによる訳のズレを誤訳と勘違いして指摘しているものである。別宮の誤訳批判に対し、瀬田本人は反論しなかったが、瀬田と面識がありトールキンの伝記を翻訳した編集者の菅原啓州は、児童文学者の斎藤惇夫との雑誌『幻想文学』での対談で、瀬田訳を「たしかに問題となる部分がいろいろあるのは事実」としながらも、別宮の批評を「重箱の隅をつつくような粗捜し」「品性下劣というか、非常に不愉快なもの」として強く批判したものの、瀬田貞二本人は岩波書店にたいして『ホビットの冒険』の誤訳に対する後悔の念と翻訳取り下げの意向を伝えたという。",
"title": "日本語訳"
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"text": "その後、岩波版の『ホビットの冒険』は細かいものを含めて何度も修正が加えられた。大規模な改訂は、1983年の愛蔵版10刷と2000年の岩波少年文庫版の新版での改訂である。1983年の改訂は「欠陥翻訳時評」の後になされたもので、別宮に指摘された箇所を含めて訳文全体が見直された。2000年における改訂では主に「めくら」や「きちがい」などの差別語が改められ、たとえば\"warg\"(作中でビルボたちを襲う狼に似た猛獣)の訳が「きちがい犬」から「アクマイヌ」に変更された。ただし、これらの修正を経た後も、依然として原書第3版の変更は反映されておらず、たとえば、改訂の項で述べたエルロンドがノルドールに言及する場面(第3章)では、現行の版でも「いまはノウム(土鬼)と呼ばれている昔のあるエルフ族」となっている。",
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"text": "『ホビットの冒険』は様々な装丁、判型で出版されている。愛蔵版(箱入りハードカバー)や岩波少年文庫版のほかに、本文を横組みにし、カバーや挿絵をトールキン直筆のものに差し替えて原書の雰囲気を再現した「オリジナル版」(2002年)などがある。",
"title": "日本語訳"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "書名は『ホビット ゆきて帰りし物語 [第四版・注釈版]』。訳者は英文学者の山本史郎。1997年初版。底本はダグラス・アンダーソン校注の『注釈版ホビット(The Annotated Hobbit)』(1988年)。『注釈版ホビット』を底本としているため、初版から第3版までにトールキンが加えた改訂に関する情報やアンダーソンによる注釈が巻末に付されており、また、トールキン直筆のものや岩波書店版の寺島竜一のものを含む各国語版の挿絵がふんだんに使用されている。書名に「第四版・注釈版」とあるが、底本の『注釈版ホビット』で使われている本文は第3版にアンダーソンが校訂を施したものであり、トールキン研究で一般に「第4版(the fourth edition)」と呼ばれているのは、トールキンの死後初めての改訂となった1978年にイギリスで出された版である。アンダーソンは、この第4版は数十のミスが混入しているのであてにならないと『注釈版ホビット』に記しており、このことに言及した箇所はこの本を底本としている本書でも訳出されている。",
"title": "日本語訳"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "この原書房版初版は、「ナンタルチア!」「サーラバイバイ」をはじめとする奇抜な訳語や、トールキンの他の作品と整合性がとれなくなる誤訳、「僕チン」などの岩波書店版とイメージの異なる訳語などを理由に、岩波版の瀬田訳に親しんでいた読者には概して不評だった。この訳の底本になった『注釈版ホビット』はアメリカで2002年(イギリスでは2003年)に増補改訂版が出版されたが、そのなかの各国語版の解説のところで「Makoto Takahashiという日本人の意見」として原書房版の日本語訳は\"a poor translation\"であると書かれている。",
"title": "日本語訳"
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"text": "原書房版は2012年に実写映画の公開に合わせて新版が出され、新たに文庫版も上下分冊で出版された。新版では2002年の増補改訂版が底本になり、訳文が全面的に見なおされた。地名は岩波版のものをいくつか採用し、普通名詞が地名として使われている場合(Hill、Daleなど)は、初版ではボールド(太字)で表現されていたが新版では山括弧に変更された。人名はBBCラジオドラマ版の発音を参考に変更された。",
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"text": "注釈版第二版を底本にしたことにより、第二版で追加された大量の注および「エレボールの探求(英語版)」が訳出されている。「エレボールの探求」は『ホビット』の内容を要約したもので、『指輪物語』増補編の一部として書かれたが、長すぎることを理由に削除されたものである。「エレボールの探求」は『終わらざりし物語』にも収録されているが、本書に収録されたものとはバージョンが異なっている。また、巻末に訳者による年少読者向けの解説、トールキンと『ホビット』についての解説、原書の英語表現に関する解説が追加されている。",
"title": "日本語訳"
},
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"text": "新版では、初版にあった各国版の挿絵がトールキン直筆の挿絵をのぞいてすべて削除され、各版の改訂に関する注が第5章「暗闇(くらやみ)の謎謎合戦」などの差異の大きい箇所を除いで削除された。注釈版序文は本文の後に移動されている。なお、前述の原書房版の評価の記述は訳出されていない。",
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"text": "『The Hobbit』(テレビアニメスペシャル版 日本では公開・ビデオ発売ともになし) 製作:Arthur Rankin Jr. & Jules Bass 1977",
"title": "映像作品"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "映画『ロード・オブ・ザ・リング』3部作を手がけたピーター・ジャクソン監督のもと、3部作3D映画として製作され、第1部『ホビット 思いがけない冒険』は2012年12月14日に、第2部『ホビット 竜に奪われた王国』は2013年12月13日に、第3部『ホビット 決戦のゆくえ』は2014年12月11日に、それぞれ全米ならびに全国公開された。イギリス人俳優のマーティン・フリーマンが主演としてビルボ役を、イアン・マッケランが『ロード・オブ・ザ・リング』に引き続いてガンダルフ役を、そしてリチャード・アーミティッジがトーリン・オーケンシールド役をそれぞれ演じる。",
"title": "映像作品"
}
] | 『ホビットの冒険』は、1937年9月21日に出版されたJ・R・R・トールキンによる児童文学、ファンタジー小説。『指輪物語』の前日譚でもある。 | {{基礎情報 書籍
| title = ホビットの冒険
| orig_title = The Hobbit, or There and Back Again
| image = HMCoSecondEdHobbits.jpg
| image_size = 270
| image_caption = A line-up of the American second edition printings of The Hobbit.
| author = [[J・R・R・トールキン]]
| translator =
| illustrator = [[J・R・R・トールキン]]
| published = {{flagicon|GBR}} [[1937年]][[9月21日]]
| publisher = {{flagicon|GBR}} ジョージ・アレン・アンド・アンウィン
| genre = [[ファンタジー]]
| country = {{GBR}}
| language = [[英語]]
| type = [[ハードカバー|上製本]]
| pages = 310
| preceded_by =
| followed_by = [[指輪物語]]
| website =
| id =
| portal1 = 文学
}}
『'''ホビットの冒険'''』(ホビットのぼうけん、原題:''The Hobbit, or There and Back Again'')は、[[1937年]][[9月21日]]に出版された[[J・R・R・トールキン]]による[[児童文学]]、[[ファンタジー]]小説。『[[指輪物語]]』の前日譚でもある。
== 概要 ==
[[ホビット]]と呼ばれる小人が、[[イスタリ|魔法使い]]や[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]とともに[[竜 (トールキン)|竜]]に奪われた財宝を取り戻すべく、竜の住む山を目指す冒険譚。
本作が成功したため、出版社はトールキンに続編の執筆を依頼した。これがのちに『[[指輪物語]]』となり、この執筆の過程でトールキンは、『[[指輪物語]]』との整合性をとるために本書に改訂を行った。1951年の第2版では「くらやみでなぞなぞ問答」(第5章)で重要な改訂がなされた。その後も、ビルボが足を踏み入れた世界に関するトールキンの考えの変遷を反映して、1966年の第3版でさらなる改訂が加えられた。
批評家から広く称賛を受け、[[カーネギー賞]]にノミネートされたほか、{{仮リンク|ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン|en|New York Herald Tribune}}最優秀児童文学賞を受賞。今日に至るまで人気を保ち、児童文学の古典的作品と見なされている。
本作の日本語訳としては、[[瀬田貞二]]の訳によるもの(1965年)と[[山本史郎]]によるもの(1997年)がある。
[[ピーター・ジャクソン]]監督による実写映画化のプロジェクト『[[ホビット (映画)|ホビット]]』があり、3部作のうち第1部『[[ホビット 思いがけない冒険]]』が2012年11月に、第2部『[[ホビット 竜に奪われた王国]]』が2013年12月(日本公開は2014年2月)に、第3部『[[ホビット 決戦のゆくえ]]』が2014年12月(日本公開は2014年12月13日)に公開された。
== あらすじ ==
ことの始まりは、ある四月も末の日、ホビット村のビルボを訪ねた魔法使いの[[ガンダルフ]]のたくらみにより、13人の[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]達が次々と押しかけて来た、ビルボ宅でのパーティだった。[[トーリン・オーケンシールド]]率いるこのドワーフたちは、邪竜[[スマウグ]]に奪われた父祖の地はなれ山({{仮リンク|エレボール|en|Lonely Mountain}})とその財宝を取り返す遠征を計画しており、ガンダルフの薦めによりビルボを「忍びの者」として雇うつもりでやって来た。何も知らないビルボは右往左往するばかりだったが、ドワーフたちの歌を聞くうち、我知らず冒険を求める「トゥックの血筋」の性向がかき立てられる。しかしそれも束の間、事情を聞くとパニックを起こしてドワーフたちの失笑を買う。ドワーフたちに馬鹿にされて憤然としたビルボは、思わず計画に乗ることを宣言してしまう。ガンダルフがトーリンの父スラインから預かったという「スロールの地図」を披露し、はなれ山の秘密の裏口の存在ゆえに「忍びの者」ビルボの存在が必要だと、ドワーフたちを説得する。こうしてビルボとドワーフ、そしてガンダルフの一行は旅立つこととなり、途上、ガンダルフは[[トロル (トールキン)|トロル]]からドワーフたちを救い、一行を[[裂け谷]]まで連れて来る。裂け谷では[[エルロンド]]が「スロールの地図」の秘密を解明する。{{仮リンク|霧ふり山脈|en|Geography of Middle-earth}}を越える際、一行は[[オーク (トールキン)|ゴブリン]]に囚われ、山の地下深くへと追い立てられる。ガンダルフによって救出されるも、ビルボだけは途中で一行とはぐれてしまう。ゴブリンの地下のトンネルで道に迷ったビルボは、偶然[[一つの指輪|指輪]]を発見し、[[ゴクリ]]と遭遇する。ゴクリとビルボのなぞなぞ問答では、ビルボが勝てばゴクリが出口までの道を教えるが、負ければゴクリがビルボを食べるという取り決めだったが、ビルボの「ポケットの中にあるものは何だ?」という問いにゴクリは答えられなかった。指輪がなくなったことに気づいて出口をふさぎにいくゴクリの後を、姿を消す指輪の力を偶然借りたビルボが追い、ビルボは無事ドワーフたちと合流する。この一件でドワーフたちのビルボへの評価は非常に高まるものの、ガンダルフからの何をやっていたかという問いに対してビルボは嘘をついてまで隠したい事があった。つづいて一行はゴブリンと[[ワーグ|アクマイヌ]]の追撃を受けるが、ワシの王に助けられ、[[ビヨルン]]の家では、しばし憩う。
一行は[[闇の森]]の黒い森にガンダルフ抜きで入って行く。闇の森では、ビルボは、ドワーフたちをまずは巨大な蜘蛛たちから、次いで[[シルヴァン・エルフ|森のエルフ]]から救い出す。湖の町({{仮リンク|エスガロス|en|Esgaroth}})では、「山の下の王」がスマウグを滅ぼし富をもたらすという、予言の成就を望む人間たちから歓迎を受ける。遠征隊ははなれ山の秘密の裏口を発見し、スマウグの巣の[[偵察]]に送り出されたビルボは、財宝の中から大きなカップを盗み出し、またスマウグの急所を発見する。激怒したスマウグは、湖の町の人間たちが侵入者たちの手助けをしたものと推察し、町の破壊に赴く。ビルボがスマウグの急所について報告するのを聞いていた[[ツグミ]]が、弓の名手バルドにこれを伝え、竜はバルドの射た弓で退治される。
スマウグが山を留守にしている間に、ビルボはその財宝の中からトーリンの一族に伝わる家宝である[[アーケン石]]を発見し、ドワーフには内緒で自分のポケットにしまう。森のエルフたちと湖の町の人間たちが山にやって来て、宝の分配を要求すると、トーリンはこれを拒絶し、北方の同胞を呼び寄せて防備を固める。ビルボは盗み出したアーケン石と引き換えに戦いを回避しようとするが、トーリンは憤怒に燃えてビルボを追い出し、さらに態度を硬化させ、戦いは不可避となった。
ガンダルフが現れて、ゴブリンとアクマイヌの接近を知らせると、一転、ドワーフと人間とエルフは、共通の敵を相手に力を合わせて戦うこととなる。この五軍による決戦は、折良く[[ビヨルン]]とワシたちという援軍を得たドワーフと人間とエルフの連合軍側の勝利に終わる。この戦いで致命傷を負ったトーリンは、いまわの際にビルボと和解する。ビルボは宝の分け前として、小馬一頭で運べる金銀の小箱一つずつ以上は不要だと断ったが、それでもしかし、大変裕福なホビットとしてわが家に戻った。
== 登場人物 ==
* [[ホビット]](Hobbits)
** [[ビルボ・バギンズ]](Bilbo Baggins) - ホビット族の由緒正しい名家の末裔。ドワーフの冒険に「忍びの者」として強引に参加させられる。旅を重ねるごとにたくましく成長していく。
* [[イスタリ|魔法使い]]
** [[ガンダルフ]](Gandalf) - ビルボの友人の魔法使い。ビルボをドワーフの旅に誘い込んだ張本人。いとこに同じく魔法使いの[[ラダガスト]]がいる。
* [[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]](Dwarves)
** [[トーリン・オーケンシールド]](Thorin Oakenshield) - 13人のドワーフの仲間の長。青空色の頭巾。はなれ山のドワーフの王族の末裔。若い頃スマウグに故郷を追われ、復讐を決意し旅に出る。
** [[バーリン (トールキン)|バーリン]](Balin) - 赤い頭巾。ドワーフではトーリンに次ぐ年長者。見張り役。
** [[ドワーリン]](Dwalin) - 暗緑色の頭巾。バーリンとは兄弟。
** [[オイン]](Oin) - 火起こし名人。茶色の頭巾。グローインと兄弟。
** [[グローイン]](Gloin) - 火起こし名人。白い頭巾。オインと兄弟。のちに[[指輪の仲間]]の一員となる、[[ギムリ]]の父親。
** [[ビフール]](Bifur) - 黄色の頭巾。ボフール・ボンブールとは親戚。
** [[ボフール]](Bofur) - 黄色の頭巾。ビフール・ボンブールと親戚。
** [[ボンブール]](Bombur) - うす緑の頭巾。太っちょ。闇の森で呪いをかけられる。
** [[ドーリ]](Dori) - 紫の頭巾。ビルボに最も積極的に手を貸した紳士。
** [[ノーリ (トールキン)|ノーリ]](Nori) - 紫の頭巾。
** [[オーリ]](Ori) - 灰色の頭巾。
** [[フィーリ]](Fili) - トーリンの甥。青色の頭巾。キーリと並んで最も若い。
** [[キーリ (トールキン)|キーリ]](Kili) - トーリンの甥。青色の頭巾。フィーリと並んで最も若い。
*** 以上13人は、はなれ山への冒険に同行した旅の仲間である。
** [[ダイン2世|鉄の足ダイン]](Dáin Ironfoot) - くろがね連山のドワーフの長。北方からトーリン救援に訪れ、五軍の合戦でドワーフ軍を率いる。
* [[エルフ (トールキン)|エルフ]]
** [[エルロンド]](Elrond) - [[裂け谷]]の領主の[[半エルフ]]。「最後の憩」館を訪れたビルボたちに知恵を授ける。
** [[スランドゥイル|闇の森のエルフ王]](Elvenking of Mirkwood) - 森に迷い込んだビルボたちを捕らえる。名前はスランドゥイル(Thranduil)。
** ガリオン(Galion) - 闇の森のエルフ王に仕える。王の酒蔵の管理人。
* [[人間 (トールキン)|人間]]
** バルド(Bard) - [[谷間の国]]の王ギリオンの子孫。弓の達人であり、五軍の合戦で人間軍を率いて活躍する。
** 湖の町の統領(Master of Lake-town) - 湖の町エスガロスを統べる領主。
* 熊人
** [[ビヨルン]](Beorn) - 大きな体を持つ、気性の荒い熊人。ビルボたちをもてなす。五軍の合戦にも参戦。
* その他の動物
** ワシの王(Lord of the Eagles) ‐大鷲族の長。アクマイヌに追い詰められたビルボたち一行を救出する。五軍の合戦にも参戦。『指輪物語』の[[グワイヒア]]と同一の存在かどうかは明らかにされていない。
** [[ツグミ]](Thrush) - 魔力を持つツグミ族の一匹。重要な局面でビルボやバルドを助ける。
** [[ロアーク]](Roäc) - 言葉を理解する大ガラス族の長。トーリンやダインの伝言役として活躍する。
* [[トロル (トールキン)|トロル]]
** ウイリアム(William) - 旅の途中のビルボたちを捕らえて食料にしようとした3人組のトロルの1匹。
** トム(Tom) - 同上。
** バート(Bert) - 同上。
* [[オーク (トールキン)|ゴブリン]]
** 大ゴブリン(The Great Goblin) - 霧ふり山脈のゴブリン族の王。
** ボルグ(Bolg) - モリアのゴブリン族の長。祖先の復讐を果たすため一族を率いて、五軍の合戦に参上する。
* [[ワーグ|アクマイヌ]](Warg) - ゴブリンの手下の狼のような動物達。五軍のうち敵側の1軍。冒険中の一行を追い詰めたりもした。
* [[ゴクリ]](Gollum) - 霧ふり山脈の深奥の湖に住む奇怪な生物。ビルボになぞなぞ合戦を持ちかける。
* [[スマウグ]](Smaug) - 赤みがかった金色の鱗を持つドラゴン。谷間の町とはなれ山を荒廃させ、そのすべての宝を奪った貪欲な邪竜。
* 死人占い師(Necromancer) - 闇の森に居を構える謎の人物として、作中で言及される。実は[[指輪物語]]の冥王[[サウロン]]。
== 構想と創作 ==
=== 背景 ===
1930年代初めのトールキンは、学問の世界では[[オックスフォード大学]]において[[古英語|アングロ・サクソン語]]の「ローリンソン・アンド・ボズワース教授職」にあり、[[w: Pembroke College, Oxford|ペンブルク・コレッジ]]の[[フェロー]]として活躍していた。創作に関しては、「ゴブリン・フィート」<ref>''Oxford Poetry'' (1915) Blackwells.</ref>、および[[マザー・グース|ナーサリーライム (マザー・グース)]]の[[w:Hey Diddle Diddle|「ヘイ・ディドル・ディドル」]]を語り直した「猫と[[フィドル]]—未完のナーサリーライム、その呆れた秘密明らかに」<ref>''Yorkshire Poetry'', Leeds, vol. 2, no. 19, October–November 1923.</ref>という二つの詩作品をすでに発表していた。この時期の創作活動としては、毎年クリスマスに彼の子供たち宛に送った『サンタ・クロースからの手紙』(“The Father Christmas Letters”)(エルフとゴブリンが争い、北極熊くんが登場する挿絵付きの手書きの物語)<ref>ベイリー・トールキン編 せた ていじ やく『J. R. R. トールキン サンタ・クロースからの手紙』, 評論社, 1976年.</ref>の他、トールキンが1917年以来手がけてきたエルフ語とその神話世界の創造の発展がある。これらの作品はすべて彼の死後出版された<ref>{{harvnb|Rateliff|2007|pages=xxx–xxxi}}</ref>。
1955年の[[W・H・オーデン]]宛の書簡で、トールキンは、『ホビットの冒険』は、1930年代初めのある日、学業修了検定試験の採点をしていた時に始まったと回想している。トールキンは白紙の解答用紙を見ると、ふと思いついてそこに「地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました」と書いた。1932年の末までには物語は完成し、[[C・S・ルイス]]を含む数人の友人<ref>{{harvnb|Carpenter|1977|page=181}}; ハンフリー・カーペンター『J. R. R. トールキン—或る伝記』, 菅原啓州訳, 評論社, 1982年, p. 210.</ref>とトールキンの学生だったエレイン・グリフィズが原稿を読んでいる<ref name="Letter294">{{harvnb|Carpenter|1981|page=294}}. </ref>。1936年、オックスフォードにいるグリフィズのところに出版社ジョージ・アレン・アンド・アンウィンに勤めている友人のスーザン・ダグナルが訪ねて来た時、グリフィズはダグナルに原稿を貸したか<ref name="Letter294" />、もしくはトールキンから借りるといいと言ったとされている<ref>{{harvnb|Carpenter|1977|page=184}}</ref><ref> 『J. R. R. トールキン—或る伝記』, p. 213.</ref>。いずれにせよ、ダグナルは感心し、社長のスタンリー・アンウィンに見せ、彼はそれを息子のレイナーに読ませて書評を書かせた。10歳のレイナーが好意的な短い書評を書くと、トールキンの原稿はアレン・アンド・アンウィンから出版されることになった。
=== 影響 ===
19世紀の[[アーツ・アンド・クラフツ]]運動の旗手[[ウィリアム・モリス]]は、トールキンに大きな影響を与えた人物の一人である。トールキンはモリスの散文やロマンス詩を模倣し、作品全体のスタイルとアプローチを踏襲している<ref name="Carpenter 1981 page=7">{{Harvnb|Carpenter|1981|p=7}}</ref>。スマウグの荒らし場で、竜を土地を荒廃させる存在として描いている箇所は、モリスの作品から借用されたわかりやすい例として指摘されている<ref>{{harvnb|Rateliff|2007|page= vol.2 p.485}}</ref>。また、トールキンは、少年の頃にスコットランドの作家{{仮リンク|サミュエル・ラザフォード・クロケット|en|Samuel Rutherford Crockett}}の歴史小説『{{仮リンク|ブラック・ダグラス|en|The Black Douglas (novel)}}(''The Black Douglas'')』に感銘を受け、それに登場する悪役[[ジル・ド・レ]]を死人占い師(サウロン)のモデルにした、と書き残しており<ref name="Carpenter 1981 page=391">{{Harvnb|Carpenter|1981|p=391, quoted by {{Harvnb|Lobdell|2004|p=6}}}}</ref>、『ホビットの冒険』と『指輪物語』に登場するいくつかのエピソードは文体や叙述の点でこの作品に共通点があり<ref>{{Harvnb|Tolkien|1988|p= 150}}</ref>、作品全体の文体と描写もトールキンに影響を与えたと考えられている<ref>{{Harvnb|Lobdell |2004|pp=6–7}}</ref>。
『ホビット』のゴブリンの描写は[[ジョージ・マクドナルド]]の『{{仮リンク|王女とゴブリン (小説)|en|The Princess and the Goblin|label=王女とゴブリン}}(''The Princess and the Goblin'')』に強く影響を受けている<ref>{{harvnb|Tolkien|2003|pages=108}}</ref>。しかし、マクドナルドの影響は単に登場人物の造形にとどまらず、彼の作品は、自分のキリスト教信仰においてファンタジーが果たす役割を考える上で、トールキンにとって大きな助けになった<ref>{{harvnb|Drout|2007|pages=399–400}}</ref>。
トールキンの作品はいずれも[[北欧神話]]の影響が強く見られる。これは彼の北欧神話に対する生涯かけての情熱と、大学でのゲルマン語[[文献学]]のキャリアを反映している<ref name="LAZO">{{cite book|last=Lazo |first=Andrew |year=2008 |chapter=Gathered Round Northern Fires | pages= 191-226 |editor-last=Chance |editor-first=Jane |title=Tolkien and the Invention of Myth: A Reader |publisher=[[University Press of Kentucky]] |isbn=0-8131-2301-1}}</ref>。『ホビットの冒険』も例外ではなく、本作にも北ヨーロッパの文学、神話、言語の影響が見られ<ref name="Sullivan">{{cite book |title=International Companion Encyclopedia of Children's Literature |editor= Hunt, Peter |last=Sullivan |first=C. W. |coauthors= C. W. Sullivan |year=1996 |publisher=Taylor & Francis |isbn=0-415-08856-9 |pages= 309–310 |chapter= High Fantasy }}</ref>、とくに『[[詩のエッダ]]』と『[[散文のエッダ]]』に多大な影響を受けている。たとえば、13人のドワーフとガンダルフの名前は『詩のエッダ』に登場する小人の名前に由来する<ref name="GMC-HOBBIC">{{Harvnb|Drout|2007|pp=469–479}}</ref>。しかし、[[古ノルド語]]から名前を借用しているものの、ドワーフのキャラクターはそれよりも『[[白雪姫]]』や『[[しらゆき べにばら|白雪と紅薔薇]]』などといった[[グリム童話]]からとられている。『白雪と紅薔薇』はビヨルンの造形にも影響を与えた可能性がある<ref>{{harvnb|Tolkien|2003|pages=78}}</ref>。
"Misty Mountains"(霧ふり山脈)や"Bag End"(袋小路屋敷)といった説明的な名前の付け方は、古ノルド語の[[サガ]]の命名法を連想させる<ref name="Solopova 21-22">{{Harvnb|Solopova|2009|pages=21–22}}</ref>。ドワーフに味方するカラスの名前は、古ノルド語でカラスを意味する語に由来する<ref name="Fisher">{{cite journal | last =Fisher | first =Jason | year =2008 | month =3 | title =The History of the Hobbit (review) | journal=Mythlore | issue =101/102 | url =https://www.mythsoc.org/}}</ref>。ただし、『ホビット』のカラスの性質は古ノルド語や[[古英語]]での「戦死者の屍肉を漁る動物」というものとは異なっている。しかし、トールキンは単に演出として資料の表面を利用しただけではない。言葉の様式、とくに古語と現代語のつながりが物語の重要なテーマの一つになっている<ref name="Shippey_Author">{{cite book|last=Shippey |first=Tom|authorlink=Tom Shippey|title=[[J. R. R. Tolkien: Author of the Century]] |publisher= HarperCollins |year= 2001 |isbn=0-261-10401-2 | page=41 }}</ref>。北欧のサガと『ホビット』に共通するもう一つの特徴は、文章入りの地図である<ref name="Solopova 21-22" />。トールキンが描いたドワーフの地図、口絵、ブックカバーなどイラストのいくつかは[[ルーン文字]]の[[古英語|アングロ・サクソン語]]のバリエーションが使われている。
古英語の文学作品、とくに『[[ベーオウルフ]]』に見られるテーマは、ビルボが足を踏み入れる世界を形作る上で大きな位置を占めている。『ベーオウルフ』の研究者だったトールキンは、この詩を『ホビット』を書く上で「もっとも価値ある資料」の一つだとしている<ref name="Carpenter 1981 page=31">{{harvnb|Carpenter|1981|page=31}}</ref>。彼は歴史的価値だけでなく、『ベーオウルフ』の文学的価値を高く評価した最初の学者とされており、トールキンの1934年の講義『ベーオウルフ 怪物と批評家(''Beowulf: the Monsters and the Critics'')』の講義録は、現在でも古英語の授業で使用されることがある。『ベーオウルフ』には、トールキンが『ホビット』で借用した、知恵を持つ巨大な竜などいくつかの要素が含まれており<ref name="Steele">{{cite journal | last =Steele | first =Felicia Jean | year =2006 | title =Dreaming of dragons: Tolkien's impact on Heaney's Beowulf | journal =Mythlore | issue =95/96 | url =https://www.mythsoc.org/mythlore/95-96/ | archiveurl =https://web.archive.org/web/20121103123557/http://www.mythsoc.org/mythlore/95-96/ | archivedate =2012年11月3日 | deadurldate =2017年9月 }}</ref>、たとえば侵入者の臭いをかごうと竜が首を伸ばす描写は、若干の変更を加えているものの『ベーオウルフ』からそのまま使われている<ref>{{cite book | last=Faraci | first=Mary | editor-first=Jane | editor-last=Chance | title=Tolkien the Medievalist | publisher=Routledge |year=2002 | pages=58–59 | chapter='I wish to speak' (Tolkien's voice in his Beowulf essay) | isbn=0-415-28944-0 | url=https://books.google.co.jp/books?id=sNTI0WTNmw4C&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。また、ビルボが秘密の通路を通ってスマウグに近づく描写は、『ベーオウルフ』に見られるものを忠実に再現している。他に『ホビット』と『ベーオウルフ』に共通するものとして、ビルボがゴクリや後にスマウグに「泥棒(thief)」と呼ばれていることや、後に湖の町("Lake-town")を破壊するにいたるスマウグの残虐な性格などが挙げられる<ref>{{Harvnb|Solopova|2009|page=37}}</ref>。宝を盗む泥棒や竜の知性と性格など、トールキンは『ベーオウルフ』のストーリーで十分に描かれていないと彼が感じた部分をより良くなるように書き直している<ref>{{cite book |last=Purtill | first=Richard L. |authorlink=Richard Purtill | title=Lord of the Elves and Eldils | publisher=Ignatius Press |year=2006 |pages=53–55 | isbn=1-58617-084-8 |url=https://books.google.co.jp/books?id=cbcuwO3bwfgC&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。
もう一つの古英語の資料からの影響は、名前を持つ、ルーン文字の刻まれた名剣の存在である。そのようなエルフの剣を手に、ビルボはやっとのことで最初の英雄的な行動に出る。ビルボがその剣に"Sting"(つらぬき丸)という名前を付けていることは、彼が『ベーオウルフ』からある種の文化的、言語的な風習を受け継ぎ、同時に彼が古代の世界に足を踏み入れていることを表している<ref>{{cite journal | last = McDonald | first = R. Andrew | first2 = K. S. | last2 = Whetter | year = 2006 | title = 'In the hilt is fame': resonances of medieval swords and sword-lore in J. R. R. Tolkien's The Hobbit and The Lord of the Rings | journal = Mythlore | issue = 95/96 | url = https://www.mythsoc.org/mythlore/95-96/ | archiveurl = https://web.archive.org/web/20121103123557/http://www.mythsoc.org/mythlore/95-96/ | archivedate = 2012年11月3日 | deadurldate = 2017年9月 }}</ref>。このような『ベーオウルフ』とのつながりは、ビルボが竜の洞窟から杯を盗みだし、竜を激怒させる場面でもっとも端的に現れており、この場面は伝統的な叙述パターンに則って書かれている。「……ビルボが竜から盗みを働くというエピソードは、物語の状況から自然に(あるいはしごく当然に)生まれたものである。この場面では、このような書き方以外は考えにくい。『ベーオウルフ』の著者も、私とほとんど同じ書き方をしただろうと思う。」とトールキンは書き記している<ref name="Carpenter 1981 page=31" />。
魔法使い[[ラダガスト]]の名前はスラヴ人の神{{仮リンク|ラデガスト|en|Radegast (god)}}(Radegast)からとられていると広く考えられている<ref name="Orr, Robert 1994 p. 23">{{cite journal|last=Orr |first=Robert |title=Some Slavic Echos in J.R.R. Tolkien's Middle-earth |journal=Germano-Slavica |volume=8 |year=1994 |pages=23–34}}</ref>。
『ホビット』におけるドワーフの描写は、トールキンが好んで読んだ[[ユダヤ人]]とその歴史に関する中世の文書に影響を受けている<ref name="Rateliff page=79-80">{{harvnb|Rateliff|2007|pp=79–80}}</ref>。大昔にはなれ山の故郷を失い、異国で自らの文化を保持しているという、ドワーフの性質はすべて中世のユダヤ人のイメージに由来し<ref name="Rateliff page=79-80"/><ref name = "edwards">{{cite book|first=Owen Dudley |last=Edwards |authorlink=Owen Dudley Edwards |title=British Children's Fiction in the Second World War |year=2008 |publisher=[[Edinburgh University Press]] |isbn= 0-7486-1651-9 |page=458}}</ref>、また、彼らの戦争を好む性格は[[ヘブライ語聖書]]から来ている<ref name="Rateliff page=79-80" />。ドワーフの暦は晩秋に一年が始まるユダヤ人の暦を反映している<ref name="Rateliff page=79-80" />。トールキンは寓意を否定しているが、ビルボをつましい暮らしから引っ張り出すドワーフたちは、「ユダヤ人がいなくなってたちまち困窮してしまった西欧社会」の強烈なメタファーであると見られている<ref name = "edwards" />。
=== 出版 ===
ロンドンの出版社ジョージ・アレン・アンド・アンウィンは、『ホビットの冒険』を1937年9月21日に出版した。初版印刷部数は1500部で、書評における高評価を受けて同年クリスマスまでには売り切れた<ref>{{harvnb|Hammond|1993|page=8}}</ref>。初版にはトールキン自身による白黒の挿絵が多数使われ、表紙デザインもまたトールキンによる。翌1938年ホートン・ミフリン社よりアメリカ版が出版された際には、挿絵のうち四点がカラーとなった。アレン・アンド・アンウィン社も、1937年末に出版された第二刷では、カラーの挿絵を入れた<ref>{{harvnb|Hammond|1993|pages=18–23}}</ref>。本の人気にもかかわらず、 [[第二次世界大戦]]戦時下による紙の[[配給_(物資) |配給制度]]が1949年まで続いた影響もあり、この時期、本の入手はしばしば困難となった<ref name="Anderson 2003 page=22">{{harvnb|Anderson|2003|page=22}}</ref>。
英語による改訂版は、1951年、1966年、1978年、1995年に出ており、また数多くの出版社により再版されている<ref>[[:en:English-language_editions_of_The_Hobbit]] (英語版エディション)</ref>。さらに、『ホビットの冒険』は世界40カ国語以上の言語に翻訳されており、複数の翻訳版のある言語もある<ref name="Anderson 2003 page=23">{{harvnb|Anderson|2003|page=23}}</ref>。
==== 改訂 ====
1937年12月、『ホビットの冒険』を出版したスタンリー・アンウィンはトールキンに続編の執筆を依頼した。その返事としてトールキンは『シルマリルの物語』の草稿を送ったが、ジョージ・アレン・アンド・アンウィン社の編集者は、読者は「もっとホビットに関する物語を求めている」だろうとして、『シルマリルの物語』の出版を断った<ref name="Carpenter 1977 page=195">{{harvnb|Carpenter|1977|page=195}}</ref>。それからトールキンは「新ホビット(New Hobbit)」の執筆にとりかかり、これが最終的に『指輪物語』になった<ref name="Carpenter 1977 page=195" />。その過程でもとの物語の背景設定が変更されただけでなく、ゴクリのキャラクターにも根本的な変更が加えられることになった。
『ホビットの冒険』の初版では、ゴクリは自分から魔法の指輪をなぞなぞの賞品として「贈り物」とし、ビルボとゴクリは仲良く別れることになっていた<ref name="Anderson 2003 page=120">{{harvnb|Anderson|2003|page=120}}</ref>。改訂版では、指輪の抗しがたい魔力という新しいアイデアを反映し、ゴクリはビルボに対してより攻撃的で、指輪を失くすと大いに取り乱す。ゴクリは別れ際に呪いの言葉「どろぼう!どろぼう!どろぼう!バギンズめ!にくむ、にくむ、いつまでも、にくむぅ!」を浴びせかけ、これが『指輪物語』でのゴクリの描写の伏線になっている。
トールキンはこの「暗闇でのなぞなぞ問答("Riddles in the Dark")」の章の改訂原稿を、『ホビットの冒険』から『指輪物語』に物語をつなぐための変更のサンプルとしてスタンリー・アンウィンに送ったが、何年ものあいだ返事がなかった。トールキンが改訂版のゲラ刷りを受け取ったとき、彼は先に送ったサンプルが本文に組み込まれているを見つけて驚いた<ref>{{harvnb|Carpenter|1977|page=215}}</ref>。『指輪物語』では、初版のなぞなぞのくだりは指輪の魔力の影響を受けたビルボが作り出した「嘘」とされ、改訂版の『ホビットの冒険』に「本当の」真相が書かれている、ということになった<ref name = "prologue">{{cite book|last=Tolkien |first=J. R. R. |authorlink=J. R. R. Tolkien |origyear=1954 |title=[[The Fellowship of the Ring]] |series=[[The Lord of the Rings]] |location= Boston: [[Houghton Mifflin]] | year=1987|ISBN=0-395-08254-4 |chapter=Prologue}}</ref>。この改訂版は第2版として1951年にイギリスとアメリカで出版された<ref>{{harvnb|Tolkien|2003|pages=18–23}}</ref>。
1960年にトールキンは『ホビットの冒険』のトーンを『指輪物語』に合わせるべく、新たな改訂作業に取り掛かった。しかし、第3章までいったところで作業を放棄してしまった。これは、改訂中の版は「ホビットらしくない」という批判を受け取ったからで、そのとき書き直していた文章はそれまでの陽気な雰囲気やテンポのよさの多くが失われていた<ref>{{harvnb|Rateliff|2007|page=781, 811–12}}</ref>。
1965年にアメリカの[[エース・ブックス]]社が『指輪物語』の海賊版のペーパーバックを販売した後、ホートン・ミフリン社とバランタイン社はトールキンに『ホビットの冒険』の新訂とアメリカでの著作権の更新を打診した<ref>{{harvnb|Rateliff|2007|page=765}}</ref>。このときのテクストが1966年の第3版になった。トールキンはこれを、『ホビットの冒険』を『指輪物語』や未刊の『シルマリルの物語』の当時の神話体系により近づけるための良い機会と捉えた<ref>{{harvnb|Tolkien|2003|page=218}}</ref>。この版での変更点は少なく、たとえば初版や第2版の63ページで「いまはノームと呼ばれているエルフ("elves that are now called Gnomes" )」<ref name="Hobbit first edition">{{cite book | last=Tolkien | first= J. R. R. | title=The Hobbit | publisher=George Allen & Unwin | location=London | year=1937 | page=63}}</ref><ref name="Hobbit second edition">{{cite book | last=Tolkien | first=J. R. R. | title=The Hobbit | publisher=George Allen & Unwin | location=London | year=1951 | page= 63}}</ref>となっている箇所が、第3版では「私の血縁の、西方の上のエルフ("High Elves of the West, my kin")」<ref name="Hobbit third edition">{{cite book | last=Tolkien | first= J. R. R. | title=The Hobbit | publisher=Houghton Mifflin Company | location=Boston | year=1966 | page=62 | isbn=0-395-07122-4}}</ref>となっている。トールキンは初期の文章では[[ノーム (妖精)|ノーム]](gnome)という語を[[上のエルフ]]の第二の族、すなわち[[ノルドール]](「知識深きエルフ(Deep Elves)」)を指すものとして使っていた。これは、[[ギリシア語]]で知識を意味するグノーシス(gnosis)に由来するノームという語は、もっとも賢いエルフであるノルドールにふさわしいと考えたためである。しかし、ノームは16世紀の[[パラケルスス]]の著作の影響で「庭小人」を指すのが一般的であることから、トールキンはこの語を使うのをやめた<ref>{{cite book |title= The History of Middle-earth: Vol 1 "The Book of Lost Tales 1"|last= Tolkien|first= Christopher |coauthors= |year=1983 |publisher=George Allen & Unwin |isbn=0-04-823238-6 |pages= 43–44}}</ref>。
==== 没後に出版されたエディション ====
トールキンの死後、テキストの生成、修正、そして発展に関する注釈を施した2つの特別版が出版された。
ダグラス・アンダーソンの『{{仮リンク|注釈版ホビット|en|The Annotated Hobbit}}(''The Annotated Hobbit'')』(1988年)は、これまでに出版された『ホビットの冒険』のすべてのテキストが注釈やイラストとともに収録されている。増補改訂版(2002年)では「{{仮リンク|エレボールの遠征|en|The Quest of Erebor}}」のテキストが追加された。アンダーソンの注は、『ホビット』を執筆する上でトールキンが使用した資料を明らかにしており、トールキンがそれぞれの改訂で施した修正の詳細が記されている。注釈に加え、[[フィンランド語]]版の[[トーベ・ヤンソン]]のイラストをはじめとする各国語版の挿絵が使用されている<ref>An example, alongside other illustrations can be seen at: [https://www.houghtonmifflinbooks.com/features/lordoftheringstrilogy/hobbit/2_5.shtml Houghton Mifflin]</ref>。また、トールキンが1923年に書いた詩''"Iúmonna Gold Galdre Bewunden"''(「古の人間の魔法の黄金」)など、これまでほとんど知られていなかった多くの短いテキストが含まれている。
ジョン・ラトリフによって出された2巻本の『{{仮リンク|ホビット研究|en|The History of The Hobbit}}(''The History of the Hobbit'')』(2007年)は、『ホビットの冒険』の初稿や未決定稿が注付きで収録されている。ラトリフの注は、執筆当時とそれ以降のトールキンの学問上の著作と創作作品のつながりを明らかにしている。さらに、未刊のトールキンによる挿絵、および1960年代にトールキンが書きかけて放棄した版が付属されている。ラトリフの解説はトールキンのテキストは別にまとめられており、トールキンの草稿だけを物語として読むこともできる<ref name="Fisher" />。
=== 挿絵と装丁 ===
トールキンの書簡と出版社の記録によると、トールキンは本全体の挿絵と装丁に関わったことがわかる。トールキンはすべての要素に関して何度もやり取りを行い、こだわり続けた。レイナー・アンウィンは出版回想録の中で次のように言っている:「1937年だけでもトールキンはジョージ・アレン&アンウィン社宛に26通もの手紙を書いている。細部のわたり雄弁で、しばしば辛辣だが非常に丁重で腹立たしいほどに的確なものだったが、今日ではどんなに有名だろうと、あれほどまでに綿密な配慮を受ける作家はいないだろう。」<ref>{{harvnb|Anderson|2003|page=14}}</ref>
[[Image:Hobbit runes.png|alt=See caption.|right|thumb|[[ルーン文字]]のアルファベットと、それに対応する英語の文字。トールキンが『ホビットの冒険』の挿絵やデザインに用いたもの<ref>{{harvnb|Anderson|2003|pages=378–379}}</ref>]]
トールキンは最初5つの地図を提案したが、地図についても検討・議論が行われた。トールキンは、スロールの地図を最初の言及の箇所に付け加え(つまり製本後に糊付けで加え)、その裏面には光にかざして見た時に見えるように月光文字([[ルーン文字#アングロサクソンルーン文字|アングロサクソンルーン文字]])を配したいと願った<ref name="Anderson 2003 page=22" />。結局は、費用の問題と、また地図の濃淡が出し難いということで、「スロールの地図」と「荒れ地の国の地図」の2つを、クリーム色の紙に赤と黒のインクで印刷して、見返しに入れることとなった<ref>{{harvnb|Hammond|1993|page=18}}</ref>。
元々は、アレン&アンウィン社は本には見返しの地図だけしか挿絵を入れない方針だったが、トールキンが最初に提出したスケッチに出版社のスタッフは魅了され、余分な費用がかかっても本の値段を上げずにスケッチを含めることにした。これに気を良くして、トールキンはまた一連の挿絵を提供した。出版社はこれもすべて使うことに決め、初版には10の白黒の挿絵と、見返しに2つの地図が入ることとなった。挿絵で描かれた場面は次のとおり「お山:流れの向こうのホビット村」、「トロル」、「山の小道」、「ワシの巣からゴブリンの裏門の方角、西に霧降り山脈を臨む」、「ビヨルンの広間」、「闇の森」、「エルフ王の門」、「湖の町」、「表門」。一つを除いてすべての挿絵はページ全面を使っており、「闇の森」の挿絵は、それだけ光沢紙に別刷りされた<ref>{{harvnb|Hammond|1993|page=10~11}}</ref>。
出版社はトールキンの腕前に満足し、本のカバーのデザインも依頼した。この企画でも、繰り返し繰り返しの検討と書簡のやり取りが行われ、トールキンは自分の絵の手腕について常に卑下した態度をとっていた。絵を取り囲むルーン文字は、本の題名と著者や出版社の情報についての英語を音訳したものである<ref>{{cite book | last=Flieger | first=Verlyn | title=Interrupted Music: The Making of Tolkien's Mythology | publisher=Kent State University Press | year= 2005 | isbn=0873388240 | page=67}}</ref>。最初のカバー・デザインでは、濃淡の数色が使われていたが、トールキンは何度もやり直し、その度に使用する色の数は減った。最終的なデザインでは、4色が使われている。費用を気にした出版社は、太陽の赤の色をやめ、最終的に白地の紙に黒・青・緑のインクのみを使うことにした<ref name=Hammond12-13>{{harvnb|Hammond|1993|page=12-13}}</ref>。
出版社の制作スタッフが製本デザインをしたが、トールキンはいくつかの点に異議を唱えた。何度か検討を繰り返した結果、最終的なデザインは、ほとんどトールキンのものと言えるものとなった。背表紙にはアングロサクソンルーン文字が見える:"[[w:Thurisaz (rune)|þ]]"が2つ(ThráinとThrór)と"[[w:Dagaz<!-- [[:ja:ᛞ]] とリンク -->|D]]"が1つ(Door)である。表紙は表と裏が互いの鏡像になっており、トールキンのスタイルに特徴的な細長いドラゴンが下の縁にそって型押しされ、上の縁にそっては霧降り山脈のスケッチが型押しされている<ref name="Hammond 1993 page=14">{{harvnb|Hammond|1993|page=14}}</ref>。
トールキンは自分の挿絵が本に使われることになった時、カラーの別刷り図版の提案もした。出版社はこれに関しては折れてくれなかったため、トールキンは6ヶ月ほど後に出版されることになっていたアメリカ版に期待を寄せた。ホウトン・ミフリン社はトールキンの希望に応え、口絵(「お山:流れの向こうのホビット村」)をカラーに差し替えた他、新たなカラー図版を加えた:「裂け谷」、「ビルボ、まぶしい朝日で目覚める」、「ビルボ、筏のエルフの小屋へ到着」、「スマウグとの会話」である。「スマウグとの会話」に描かれた樽には、トールキンが創作した[[テングワール]]文字で書かれたドワーフの呪いが見え、2つの"þ"("Th")のルーン文字のサインがある<ref>{{harvnb|Rateliff|2007|page=602}}</ref>。追加された挿絵は非常に魅力的だったので、ジョージ・アレン&アンウィン社も第二刷りの際には、「ビルボ、まぶしい朝日で目覚める」以外のカラー図版を採用した<ref name="Hammond 1993 page=20">{{harvnb|Hammond|1993|page=20}}</ref>。
色々な版があり、版によって挿絵もまちまちである。多くはオリジナルの構想に大まかにであれ準じたものであるが、特に多くの翻訳版では、別のアーティストによって挿絵が描かれている。廉価版、特にペーパーバックでは地図以外は挿絵なしのものもある。1942年の「子供ブック・クラブ」の版には、白黒の絵は含まれているが地図がなく、これは例外である<ref name="cbc">{{cite book | last=Tolkien | first=J. R. R. | title=The Hobbit | publisher=The Children's Book Club | location=London | year=1942}}</ref>。
トールキンによるルーン文字の使用は、装飾意匠としてのものも物語中の魔法の記号としてのものも、[[ニューエイジ]]や[[秘教]]的文学において、ルーン文字が広まった主な原因として引き合いに出されている<ref>{{cite book | editor-first = Klaus |editor-last=Duwel | last=Elliot | first=Ralph W. V. | title=Runeninschriften Als Quelle Interdisziplinärer Forschung |chapter='Runes in English Literature' From Cynewulf to Tolkien |language=German and English |publisher=Walter de Gruyter | year=1998 | pages=663–664 |isbn=3110154552}}</ref>。ニューエイジも秘教的文学も、1970年代の[[カウンターカルチャー]] におけるトールキン人気に端を発したものだからである<ref>{{cite book | last=Plowright | first=Sweyn | title=The Rune Primer: A Down-to-Earth Guide to the Runes|publisher=Rune-Net Press| year=2006 | page=137 |isbn=0958043515}}</ref>。
== ジャンル ==
『ホビットの冒険』は、児童文学の叙述モデルからヒントを得ており、そのことは「全知の語り手(omniscent narrator、結末など物語のすべてを知る視点から語られる)」や子供が感情移入しやすいキャラクター(小さくて、食べ物が好きで、モラルが少々ルーズ)といったものに現れている。本作は時間と語りの結びつきが強調されており、加えて「安全」と「危険」が地理的に区分けされている。これらはともに子供向けの作品で鍵となる要素であり<ref name="Poveda">
{{cite journal |last= Poveda |first=Jaume Alberdo |year=2003–2004 |title=Narrative Models in Tolkien's Stories of Middle-earth |journal=Journal of English Studies |volume=4 |pages=7–22 |url=http://dialnet.unirioja.es/servlet/fichero_articulo?codigo=1975822&orden=74928 |format=PDF |accessdate=9 July 2008 }}</ref>、[[教養小説]](ビルドゥングスロマン)に典型的な「ゆきて帰りし("home-away-home")」物語でも同様である<ref>{{cite book |title=Exploring Children's Literature: Teaching the Language and Reading of Fiction|last=Gamble |first=Nikki |coauthors=Yates, Sally |year=2002 |publisher=Sage |url=https://books.google.co.uk/books?id=96t8LdsoVX4C&hl=en |isbn= 0-7619-4046-4 |page=43 }}</ref>。トールキンは後に、読者に直接語りかける語りは好きではないと述べているが<ref name="名前なし-1">{{harvnb|Carpenter|1977|page=193}}</ref>、一方でそのような語りは本作の成功に非常によく貢献している<ref name="名前なし-1"/>。エマー・オサリバンは『比較児童文学(''Comparative Children's Literature'')』で、文学のメインストリームに受け入れられた数少ない児童書として、[[ヨースタイン・ゴルデル]]の『[[ソフィーの世界]]』(1991年)や[[J.K.ローリング]]の『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』(1997年 - 2007年)とともに『ホビットの冒険』を挙げている<ref>{{cite book |title=Comparative Children's Literature |last=O'Sullivan |first=Emer |coauthors= |year=2005 |publisher=Routledge |isbn=0-415-30551-9 |page=20 }}</ref>。
トールキンは本作を「おとぎ話("fairy-story")」になるよう、子供に読み聞かせるのに適した口調で書いている<ref>{{harvnb|Carpenter|1981|page=159}}</ref>。しかし後に彼は、本作を特に子供に向けて書いたものでなく、自分の神話伝説に対する関心から生まれたものであると発言している<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=DBdffA0E6oEC&pg=PA6&dq=&redir_esc=y&hl=ja |title=War of the Fantasy Worlds: C.S. Lewis and J.R.R. Tolkien on Art and Imagination |first=Martha C. |last=Sammons |publisher=Greenwood Publishing Group |year=2010 |isbn=0-313-36282-3 |page=6}}</ref>。『ホビット』が発表されて当初の書評の多くは、本作をおとぎ話として批評した。しかし、ジャック・ザイプスは『オックスフォードコンパニオン・トゥー・フェアリーテイルズ(''Oxford Companion to Fairy Tales'')』で、ビルボはおとぎ話に典型的なキャラクターではないとしている<ref name="zipes">{{cite book |title=The Oxford Companion to Fairy Tales |last=Zipes |first=Jack |authorlink=Jack Zipes |year= 2000|publisher=Oxford University Press |isbn= 0-19-860115-8 |page=525 }}</ref>。『ホビットの冒険』は、トールキンが『{{仮リンク|妖精物語について|en|On Fairy-Stories}}(''On Fairy-Stories'')』で提示した彼の理想的なおとぎ物語の長さよりもかなり長い。この作品には、ビルボの家やビヨルンの家に着く場面でドワーフたちが同じことが何度も繰り返すことなどの多くのおとぎ話的なモチーフや、あるいは石に変化するトロルなどといった民話的テーマを見つけることができる<ref name="St.Clair">{{cite web |url=http://shelf1.library.cmu.edu/books/gloriana/ |title=Tolkien's Cauldron: Northern Literature and The Lord of the Rings |accessdate=9 July 2008 |author=St. Clair, Gloriana |publisher=Carnegie Mellon }}</ref>。
『ホビットの冒険』は一般に(また商業的によく)ファンタジー小説とされるが、[[ジェームス・マシュー・バリー]]の『[[ピーター・パン]]』やジョージ・マクドナルドの『王女とゴブリン』(両作はともにファンタジーの要素を含み、またトールキンに影響を与えた作品でもある)と同様に、第一に児童文学に分類される<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=BDqCtqCW3PcC&pg=PA174&dq=&redir_esc=y&hl=ja |page=173 et seq. |title=Children's Literature |first=Peter |last=Hunt |first2=Tristram |last2=Hunt |publisher=John Wiley & Sons |year=2000 |isbn=0-631-21141-1}}</ref><ref>{{cite book|title=Klassiker der Kinder- und Jugendliteratur [The Classics of Children's and Juvenile Literature]|first=Bettina |last=Kümmerling-Meibauer |language=German |publisher=Metzler |year=1999 |isbn=3-476-01235-2 |pages=1078–1079 |volume=2 volumes set}}</ref>。この2つのジャンルは互いに排他的なものではなく、そのため[[ハイ・ファンタジー]]の定義のいくつかは、[[ライマン・フランク・ボーム]]や[[ロイド・アリグザンダー]]の子供向けの作品や、文学の範疇で考えられることが多い[[ジーン・ウルフ]]や[[ジョナサン・スウィフト]]の作品にも当てはまる。『ホビットの冒険』は「20世紀でもっとも有名な子供向けファンタジー」とされることがある<ref name="名前なし-2">{{cite book|url=https://books.google.de/books?id=8GUNHGutszEC&pg=PA448&dq=&hl=de |title=The Essential Guide to Children's Books and Their Creators |first=Anita |last=Silvey |publisher=Houghton Mifflin |year=2002 |isbn=0-618-19082-1 |page=448}}</ref>。しかし、ジェーン・チャンスは本作を「大人の読者が考える子供に受ける作品という意味でのみ、子供向けの小説である」としている<ref name="名前なし-2"/>。C.W.サリバンは、『ホビットの冒険』の出版をハイ・ファンタジーの発展の重要なステップとし、1960年代の『ホビット』と『指輪物語』の[[ペーパーバック]]化はこのジャンルの市場の形成と現在のファンタジーの地位の確立に不可欠だったとしている<ref name="Sullivan" /><!-- p.311 -->。
== 文体 ==
トールキンの書く文章は気取りなく簡潔である。彼は自分の創りだした架空の世界を当然のものとして扱い、それを冷静な筆致で詳細に描き、風変わりなものが新たに登場する際にはさり気ない書き方で書いている。このような飾り気の無い文体は、[[リチャード・アダムズ]]の『[[ウォーターシップ・ダウンのウサギたち]]』や[[ピーター・S・ビーグル|ピーター・ビーグル]]の『最後のユニコーン』などの以降のファンタジー作品にも見られるもので、読者に架空の世界のリアリティを確信させるというよりもむしろ読者を作品の世界に没入させる効果がある<ref>{{cite book |title=Other Worlds |last=Timmerman |first=John |year=1983 |publisher=Popular Press |isbn=0-87972-241-X |page=52 }}</ref>。『ホビットの冒険』はシンプルな親しみやすい言葉で書かれている一方で、登場人物はそれぞれ固有の口調を持っている。語り手は途中でよく余談で話の流れを中断させるが(これは子供向け小説でも古英語の文学でもよく使われる技法である)<ref name="Sullivan"/>、固有の語り口を持ち、主要登場人物の口調とは区別されている<ref>{{cite book |title=Book Notes: "The Hobbit"|last=Pienciak |first=Anne |year=1986 |publisher=Barron's Educational Series |isbn=0-8120-3523-2 |pages=36–39 }}</ref>
。
物語の基本的な構造は探求で<ref>{{cite book |last=Auden |first=W. H. |authorlink=W. H. Auden |editor= Rose A. Zimbardo and Neil D. Isaaca, |title=Understanding the Lord of the Rings: The Best of Tolkien Criticism |year=2004 |publisher=Houghton Mifflin |isbn= 0-618-42251-X |pages=31–51 |chapter=The Quest Hero }}</ref>、各章で何かしらの探求の話が語られる。多くの章では「荒地のくに("Wilderland")」に住む生き物が登場し、主人公一行の助けになったり、時には敵になったり危険をもたらしたりする。全体のトーンは明るく、歌やユーモアが散りばめられている。トーンを維持するために歌が利用されている例は、トーリンとその従者たちがゴブリンに誘拐されたときの場面(第4章)で、ゴブリンたちは地下を行進しながら次のように歌う。
{{Multicol}}<blockquote>原文(1995年第5版<ref>{{Harvnb|Tolkien|1995|p=72}}</ref>)<br />
Clap! Snap! the black crack!<br />
Grip, grab! Pinch, nab!<br />
And down down to Goblin-town<br />
You go, my lad!</blockquote>
{{Multicol-break}}<blockquote>日本語訳1(瀬田貞二訳<ref>{{Harvnb|トールキン|2000|pp=124-125(上)}}</ref>)<br />
バタン、ドシン、黒い穴とじろ!<br />
ギュウギュウねじれ、つかまえろ!<br />
地下へどしどし、おりていけえ!<br />
ゴブリン町へ つれていけえ!</blockquote>
{{Multicol-break}}<blockquote>日本語訳2(山本史郎訳<ref>{{Harvnb|トールキン|2012|p=73}}</ref>)<br />
パチーン、ポリーン、パリーン!<br />
つかんで、つねれ! グイッ、グリッ!<br />
下って下ってゴブリン街(まち)へ<br />
走らねえかい、野郎ども</blockquote>
{{Multicol-end}}
この[[オノマトペ]](擬声語)を多用した歌により、ゴブリンに連れ去られる危険な場面がユーモアで和らげられている。他の場面では、トロルの訛り([[コックニー]])や間抜けな言動、ビルボ一行を捕らえたエルフたちの酔っぱらった様子などによって、トールキンはユーモアと危険のバランスをとっている<ref name="randel">{{cite book |last=Helms |first=Randel |title=Myth, Magic and Meaning in Tolkien's World|year= 1976 |publisher=Granada|pages=45–55|isbn=0-415-92150-3}}</ref>。異国の地での旅を軽い調子で、歌を挿入しながら語るという形式は、トールキンが強い影響を受けたウィリアム・モリスの『アイスランドへの旅』に由来するものと考えられる<ref>{{cite journal | last =Amison | first =Anne | year =2006 | month =7 | title =An unexpected Guest. influence of William Morris on J. R. R. Tolkien's works | journal =Mythlore | issue =95/96 | url =https://www.mythsoc.org/mythlore/95-96/ | archiveurl =https://web.archive.org/web/20121103123557/http://www.mythsoc.org/mythlore/95-96/ | archivedate =2012年11月3日 | deadurldate =2017年9月 }}</ref>。
== 日本語訳 ==
『ホビットの冒険』の日本語訳は、現在大きく分けて[[岩波書店]]版と[[原書房]]版がある。
=== 岩波書店版 ===
書名は『ホビットの冒険』。訳は児童文学者の[[瀬田貞二]]、挿絵は[[寺島龍一|寺島竜一]]による。1965年初版。1951年の第2版を底本としており、トールキンが1966年の第3版で加えた改訂は反映されていない。この瀬田訳は、1978年に英文学者で翻訳家の[[別宮貞徳]]に雑誌『[[翻訳の世界]]』の連載「欠陥翻訳時評」で取り上げられ、第1章における複数の誤訳を指摘された<ref>『[[翻訳の世界]]』1978年12月号、[[バベル・プレス]]。なお、この批評文は別宮の『誤訳迷訳欠陥翻訳』([[文藝春秋]]、1983年)に収録されている(pp. 50-62)。</ref>。ただし、彼が挙げた12の誤訳例のうち、2つは別宮が参考に用いた原書の版(第3版)と瀬田訳が底本にした版(第2版)の違いによる訳のズレを誤訳と勘違いして指摘しているものである。別宮の誤訳批判に対し、瀬田本人は反論しなかったが、瀬田と面識がありトールキンの伝記を翻訳した編集者の[[菅原啓州]]は、児童文学者の[[斎藤惇夫]]との雑誌『[[幻想文学]]』での対談で、瀬田訳を「たしかに問題となる部分がいろいろあるのは事実」としながらも、別宮の批評を「重箱の隅をつつくような粗捜し」「品性下劣というか、非常に不愉快なもの」として強く批判した<ref>「特集=インクリングズ 回想の瀬田貞二」『幻想文学』12号(1983年9月)、幻想文学会出版局 pp. 112-119</ref>ものの、瀬田貞二本人は岩波書店にたいして『ホビットの冒険』の誤訳に対する後悔の念と翻訳取り下げの意向を伝えたという。
その後、岩波版の『ホビットの冒険』は細かいものを含めて何度も修正が加えられた。大規模な改訂は、1983年の愛蔵版10刷と2000年の岩波少年文庫版の新版での改訂である。1983年の改訂は「欠陥翻訳時評」の後になされたもので、別宮に指摘された箇所を含めて訳文全体が見直された。2000年における改訂では主に「めくら」や「きちがい」などの差別語が改められ、たとえば"warg"(作中でビルボたちを襲う狼に似た猛獣)の訳が「きちがい犬」から「アクマイヌ」に変更された<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.cityfujisawa.ne.jp/~norite/IWANAMIH.htm |title = 岩波書店「ホビットの冒険」各版翻訳比較 |publisher = J・R・R・トールキン研究会 白の乗手 |accessdate = 2013-01-20 }}</ref>。ただし、これらの修正を経た後も、依然として原書第3版の変更は反映されておらず、たとえば、改訂の項で述べた[[エルロンド]]が[[ノルドール]]に言及する場面(第3章)では、現行の版でも「いまはノウム(土鬼)と呼ばれている昔のあるエルフ族」<ref>{{Harvnb|トールキン|2000|p=108(上)}} なお、日本語で読める『ホビットの冒険』の改訂に関する情報として、「『ホビットの冒険』改訂の歴史」(『指輪物語完全ガイド J. R. R. トールキン 赤表紙本の世界』河出書房新社、2002年、pp. 28-29)がある。</ref>となっている。
『ホビットの冒険』は様々な装丁、判型で出版されている。愛蔵版(箱入りハードカバー)や岩波少年文庫版のほかに、本文を横組みにし、カバーや挿絵をトールキン直筆のものに差し替えて原書の雰囲気を再現した「オリジナル版」(2002年)などがある。
* 愛蔵版(改版) 瀬田貞二訳 寺島竜一挿絵 岩波書店 1983年(1965年)ISBN 4-00-110983-2
* 少年文庫版(新版) 瀬田貞二訳 寺島竜一挿絵 斎藤惇夫解説 岩波書店 2000年(1979年)上 ISBN 4-00-114058-6 下 ISBN 4-00-114059-4
* 物語コレクション版 瀬田貞二訳 [[加納光於]]装画 寺島竜一挿絵 [[猪熊葉子]]解説 岩波書店 1999年 上 ISBN 4-00-026463-X 下 ISBN 4-00-026464-8
* オリジナル版 瀬田貞二訳 トールキン挿絵・挿画 横書き 岩波書店 2002年 ISBN 4-00-115679-2
=== 原書房版 ===
書名は『ホビット ゆきて帰りし物語 [第四版・注釈版]』。訳者は英文学者の[[山本史郎]]。1997年初版。底本はダグラス・アンダーソン校注の『注釈版ホビット(''The Annotated Hobbit'')』(1988年)。『注釈版ホビット』を底本としているため、初版から第3版までにトールキンが加えた改訂に関する情報やアンダーソンによる注釈が巻末に付されており、また、トールキン直筆のものや岩波書店版の寺島竜一のものを含む各国語版の挿絵がふんだんに使用されている。書名に「第四版・注釈版」とあるが、底本の『注釈版ホビット』で使われている本文は第3版にアンダーソンが校訂を施したものであり、トールキン研究で一般に「第4版(the fourth edition)」と呼ばれているのは、トールキンの死後初めての改訂となった1978年にイギリスで出された版である。アンダーソンは、この第4版は数十のミスが混入しているのであてにならないと『注釈版ホビット』に記しており、このことに言及した箇所はこの本を底本としている本書でも訳出されている<ref>{{Harvnb|トールキン|1997|p=379}}</ref><ref>{{Harvnb|トールキン|2012|pages=482-483}}</ref>。
この原書房版初版は、「ナンタルチア!<ref>{{Harvnb|トールキン|1997|p=52}}</ref>」「サーラバイバイ<ref>{{Harvnb|トールキン|1997|p=131}}</ref>」をはじめとする奇抜な訳語や、トールキンの他の作品と整合性がとれなくなる誤訳<ref>{{Harvnb|トールキン|1997|p=81}} "High Elves of the West"を「西の高地の妖精(エルフ)」と訳しているが、ここでの"High"は「高地」ではなく「高貴な、上位の」の意味であり、"High Elves"は[[二本の木の時代]]に西方の[[アマン (トールキン)|アマン]]に移住した3つのエルフの種族([[ヴァンヤール]]、[[ノルドール]]および、[[テレリ]]の一部)を指す。なお、『指輪物語』、『シルマリルの物語』の日本語訳では「上のエルフ」と訳されている。</ref>、「僕チン<ref>{{Harvnb|トールキン|1997|p=106}}"my precious"に対する訳。岩波版では「いとしいしと」と訳されている。</ref>」などの岩波書店版とイメージの異なる訳語などを理由に、岩波版の瀬田訳に親しんでいた読者には概して不評だった<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.br4.fiberbit.net/hobbit/tolkien/hara.html
|title = 原書房版『ホビット』について
|publisher = 赤龍館
|accessdate = 2013-01-20 }}
</ref>。この訳の底本になった『注釈版ホビット』はアメリカで2002年(イギリスでは2003年)に増補改訂版が出版されたが、そのなかの各国語版の解説のところで「Makoto Takahashiという日本人の意見」として原書房版の日本語訳は"a poor translation"であると書かれている<ref>{{Harvnb|Tolkien|2003}}</ref>。
原書房版は2012年に実写映画の公開に合わせて新版が出され、新たに文庫版も上下分冊で出版された。新版では2002年の増補改訂版が底本になり、訳文が全面的に見なおされた<ref>なお、前述の「ナンタルチア!」は「こりゃ、おどろき、ももの木、バナナの木じゃね!({{Harvnb|トールキン|2012|p=15}})」に、「僕チン」は「愛シ子チャン({{Harvnb|トールキン|2012|p=83}})」に変更になった。「サーラバイバイ!」は変更されていない({{Harvnb|トールキン|2012|pages= 15, 112, 180}})。エルフの誤訳は修正された({{Harvnb|トールキン|2012|p= 62}})。</ref>。地名は岩波版のものをいくつか採用し、普通名詞が地名として使われている場合(Hill、Daleなど)は、初版ではボールド(太字)で表現されていたが新版では山括弧に変更された。人名はBBCラジオドラマ版の発音を参考に変更された<ref>詳細は訳者あとがき({{Harvnb|トールキン|2012|pages= 509–514}})、「解説(その2)―トールキンの英語表現を知ることで、物語をより深く理解したい方々のために({{Harvnb|トールキン|2012|pages= 496-508}})を参照。</ref>。
注釈版第二版を底本にしたことにより、第二版で追加された大量の注および「{{仮リンク|エレボールの探求|en|The Quest of Erebor}}」が訳出されている<ref>{{Harvnb|トールキン|2012|pages= 432-447}}</ref>。「エレボールの探求」は『ホビット』の内容を要約したもので、『指輪物語』増補編の一部として書かれたが、長すぎることを理由に削除されたものである。「エレボールの探求」は『終わらざりし物語』にも収録されているが、本書に収録されたものとはバージョンが異なっている<ref>{{Harvnb|トールキン|2012|p= 481}}</ref>。また、巻末に訳者による年少読者向けの解説<ref>「はじめて『ホビット』を読まれる少年少女のみなさんへ」({{Harvnb|トールキン|2012|pages= 485-489}})</ref>、トールキンと『ホビット』についての解説<ref>「解説(その1)―作者トールキン、そして『ホビット』という物語」({{Harvnb|トールキン|2012|pages= 490-495}})</ref>、原書の英語表現に関する解説<ref>「解説(その2)―トールキンの英語表現を知ることで、物語をより深く理解したい方々のために({{Harvnb|トールキン|2012|pages= 496-508}})</ref>が追加されている。
新版では、初版にあった各国版の挿絵がトールキン直筆の挿絵をのぞいてすべて削除され、各版の改訂に関する注が第5章「暗闇(くらやみ)の謎謎合戦」などの差異の大きい箇所を除いで削除された。注釈版序文は本文の後に移動されている。なお、前述の原書房版の評価の記述は訳出されていない。
* ハードカバー版(新版) ダグラス・A・アンダーソン注 山本史郎訳 原書房 2012年(1997年)ISBN 978-4562048663
* 文庫版 ダグラス・A・アンダーソン注 山本史郎訳 原書房 2012年 上 ISBN 978-4562070008 下 ISBN 978-4562070015
=== その他 ===
* 岩波書店版の翻訳を批判した別宮貞徳は、『達人に挑戦 実況翻訳教室』(『[[英語青年]]』での翻訳コラムをまとめた物)で、翻訳入門者向けのテキストとして第1章のビルボとガンダルフの出会いのシーンを扱っており、該当部分の解説と試訳を掲載している<ref>別宮貞徳『達人に挑戦 実況翻訳教室』[[ちくま学芸文庫]]、2007年 pp. 11-22</ref>。
* 原書房版の訳者である山本史郎は、その著書や共著書で『ホビット』について度々触れている。『英語の教え方 学び方』では、物語最後のビルボとガンダルフの会話シーンを取り上げ、その解釈について岩波書店版の訳を参考に引きながら解説している<ref>[[斎藤兆史]]編集『英語の教え方 学び方』[[東京大学出版会]]、2003年、pp. 9-32</ref>。『東大の教室で『赤毛のアン』を読む』と『名作英文学を読み直す』では、『ホビット』に見られるトールキンのユーモアとそのレトリックについて解説している<ref>山本史郎『東大の教室で『赤毛のアン』を読む 英文学で遊ぶ9章』東京大学出版会、2008年、pp. 21-60</ref><ref>山本史郎『名作英文学を読み直す』[[講談社選書メチエ]]、2011年、pp. 80-124</ref>。
== 映像作品 ==
=== テレビアニメ ===
『[[:en:The Hobbit (1977 film)|The Hobbit]]』(テレビアニメスペシャル版 日本では公開・ビデオ発売ともになし)
製作:Arthur Rankin Jr. & Jules Bass 1977
=== 映画 ===
{{main|ホビット (映画)}}
[[ロード・オブ・ザ・リング (映画シリーズ)|映画『ロード・オブ・ザ・リング』3部作]]を手がけた[[ピーター・ジャクソン]]監督のもと、3部作[[立体映画|3D映画]]として製作され、第1部『[[ホビット 思いがけない冒険]]』は2012年12月14日に、第2部『[[ホビット 竜に奪われた王国]]』は2013年12月13日に、第3部『[[ホビット 決戦のゆくえ]]』は2014年12月11日に、それぞれ全米ならびに全国公開された。イギリス人俳優の[[マーティン・フリーマン]]が主演としてビルボ役を、[[イアン・マッケラン]]が『ロード・オブ・ザ・リング』に引き続いてガンダルフ役を、そして[[リチャード・アーミティッジ]]が[[トーリン・オーケンシールド]]役をそれぞれ演じる。
== 脚注 ==
{{Reflist|colwidth=30em}}
== 参考文献 ==
{{Reflist|colwidth=30em}}
* {{Cite book |title= Tolkien: A Biography|last= Carpenter|first= Humphrey|author= Humphrey Carpenter|year= 1977|publisher=Ballantine Books|location= New York|isbn= 0-04-928037-6|ref=harv}}
** {{Cite |和書
|last = カーペンター
|first = ハンフリー
|translator = 菅原啓州
|title = J. R. R. トールキン 或る伝記
|date = 1982
|publisher = 評論社
|isbn= 4-566-02064-9
|ref = harv }}
* {{Cite book |title= The Letters of J. R. R. Tolkien|last= Carpenter|first= Humphrey|year= 1981|publisher=Houghton Mifflin|location= Boston|isbn= 0-395-31555-7|ref=harv}}
* {{cite book | last = Chance | first = Jane | year = 2001 |title =Tolkien's Art | publisher=Kentucky University Press | isbn=0-618-47885-X| pages = |url=https://books.google.co.jp/books?id=xvGLsT_dP_YC&redir_esc=y&hl=ja |ref=harv}}
* {{cite book|last=Drout |first=Michael D. C. |author=Michael D. C. Drout |year=2007 |title=J. R. R. Tolkien Encyclopedia: Scholarship and Critical Assessment |publisher=CRC Press |isbn=0-4159-6942-5 |ref=harv}}
* {{cite book | last = Grenby | first = Matthew | year = 2008 |title =Children's Literature | publisher=Edinburgh University Press | isbn=0-618-47885-X|ref=harv}}
* {{Cite book | last=Hammond | first=Wayne |author=Wayne Hammond | coauthors=Douglas A. Anderson | title=J. R. R. Tolkien: A Descriptive Bibliography | publisher=Oak Knoll Press | location=New Castle, Delaware | year=1993 | isbn=0-938768-42-5|ref=harv}}
* {{Cite book | ref = harv | last = Lobdell | first = Jared C. | year = 2004 | title = The World of the Rings: Language, Religion, and Adventure in Tolkien | publisher = Open Court Publishing Company | isbn = 0-8126-9569-0}}
* {{Cite book |title= The History of the Hobbit|last= Rateliff|first= John D.|year= 2007 |publisher=HarperCollins|location= London|isbn= 978-0-00-723555-1|ref=harv}}
* {{cite book|last=Solopova |first=Elizabeth |year=2009 |title= Languages, Myths and History: An Introduction to the Linguistic and Literary Background of J.R.R. Tolkien's Fiction |location=New York City |publisher=North Landing Books |ISBN=0-9816607-1-1|ref=harv}}
* {{Cite book
|last = Tolkien
|first = J. R. R.
|authorlink = J・R・R・トールキン
|title = '''The Hobbit or There and Back Again'''
|date = 1995
|origyear = 1937
|edition = 5th, Paperback
|publisher = HarperCollins
|location = London
|isbn=978-0-261-10221-7
|ref = harv }}
** {{Cite |和書
|last = トールキン
|first = J. R. R.
|authorlink = J・R・R・トールキン
|translator = 瀬田貞二
|title = ホビットの冒険
|date = 2000
|origyear = 1979
|edition = 新
|series = 岩波少年文庫
|publisher = 岩波書店
|ref = harv }}上 ISBN 4-00-114058-6、下 ISBN 4-00-114059-4。
* {{cite book|last=Tolkien |first=J. R. R. |author=J. R. R. Tolkien |editor-last= Anderson |editor-first= Douglas A.|editor= Douglas A. Anderson |title=The Annotated Hobbit |year= 1988 |origyear=1937 |publisher=Houghton Mifflin Harcourt|Houghton Mifflin Company |isbn=0-3954-7690-9 |ref=harv}}
** {{Cite |和書
|last = トールキン
|first = J. R. R.
|authorlink = J・R・R・トールキン
|others=ダグラス・A・アンダーソン 注釈、
|translator = 山本史郎
|title = ホビット ゆきて帰りし物語 [第四版・注釈版]
|date = 1997
|publisher = 原書房
|isbn= 4-56-203023-2
|ref = harv }}
* {{Cite book |last=Tolkien |first=J. R. R. |editor-last= Anderson |editor-first= Douglas A. |title= The Annotated Hobbit |year= 2003 |origyear=1937 |publisher=HarperCollins |location= London|isbn= 0-00-713727-3 |ref=harv}}
** {{Cite |和書
|last = トールキン
|first = J. R. R.
|authorlink = J・R・R・トールキン
|others=ダグラス・A・アンダーソン 注釈、
|translator = 山本史郎
|title = ホビット ゆきて帰りし物語 [第四版・注釈版]
|date = 2012
|origyear = 1999
|edition = 新
|publisher = 原書房
|isbn=978-4562048663
|ref = harv }}
== 外部リンク ==
* [https://harpercollins.co.uk/pages/tolkien The official Harper-Collins Tolkien website]
* [http://www.hobbit.ca/Library.html Collection of edition covers, 1937–2007]
* [https://tolkienlibrary.com/translations/hobbits/index.htm ''The Hobbit'' covers around the globe – gallery]
* [https://tolkienbooks.net/html/the_hobbit.htm Every UK edition of ''The Hobbit'']
{{ホビットの冒険}}
{{Middle-earth}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ほひつとのほうけん}}
[[Category:中つ国の本]]
[[Category:1937年の小説]]
[[Category:イギリスのファンタジー小説]]
[[Category:ハイファンタジー小説]]
[[Category:小人を題材にした作品]] | 2003-03-24T03:46:25Z | 2023-10-30T06:24:53Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E5%86%92%E9%99%BA |
5,049 | 1795年 | 1795年(1795 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | [
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] | 1795年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1795}}
{{year-definition|1795}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛政]]7年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2455年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]60年
*** [[陳周全]] : [[天運 (陳周全)|天運]]元年3月
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]19年
** [[檀君紀元|檀紀]]4128年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[西山朝]]:[[景盛]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2337年 - 2338年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1209年 - 1210年
* [[ユダヤ暦]] : 5555年 - 5556年
* [[ユリウス暦]] : 1794年12月21日 - 1795年12月20日
* [[フランス革命暦]] : III年雪月12日 - IV年雪月10日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1795}}
== できごと ==
* [[1月19日]] - [[File:Flag of the navy of the Batavian Republic.svg|border|25x20px]][[バタヴィア共和国]]が成立{{要出典|date=2021-03}}。
* [[4月5日]] - [[フランス革命戦争]]:[[バーゼルの和約]]
* [[10月24日]] - [[第三次ポーランド分割]]、[[ポーランド]]国家消滅。
* [[11月2日]] - フランス革命: 総裁政府が発足。
* [[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]、[[最小二乗法]]発見。
* [[File:Plain Yellow Banner.svg|border|25x20px]][[清]]の[[乾隆帝]]、[[嘉慶帝]]に譲位
* [[File:Flag of Hawaii (1816).svg|border|25x20px]][[ハワイ王国]]が成立。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1795年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月18日]] - [[アンナ・パヴロヴナ]]、[[ウィレム2世 (オランダ王)|オランダ王ヴィレム2世]]の妃(+ [[1865年]])
* [[2月3日]] - [[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]、[[ベネズエラ]]の革命指導者、大将および政治家(+ [[1830年]])
* [[2月10日]] - [[アリ・シェフェール]]、[[画家]](+ [[1858年]])
* [[3月26日]]([[寛政]]7年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]])- [[黒田斉清]]、第10代[[福岡藩|福岡藩主]](+ [[1856年]])
* [[4月19日]] - [[クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルク]]、[[博物学者]]・[[科学者]](+ [[1876年]])
* [[5月23日]] - [[チャールズ・バリー]]、英国の建築家(+ [[1860年]])
* [[6月24日]] - [[エルンスト・ヴェーバー]]、[[生理学|生理学者]](+ [[1878年]])
* [[8月11日]](寛政7年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]])- [[林玄仲]]、医師・役人(+ [[1878年]]<ref>磯部郷土史刊行会 編(1963):263ページ</ref>)
* [[8月24日]](寛政7年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]])- [[蜂須賀斉昌]]、第12代[[徳島藩|徳島藩主]](+ [[1859年]])
* [[9月16日]] - [[サヴェリオ・メルカダンテ]]、イタリアの作曲家(+ [[1870年]])
* [[10月15日]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]、[[プロイセン王国|プロイセン王]](+ [[1861年]])
* [[10月31日]] - [[ジョン・キーツ]]、英国の詩人(+ [[1821年]])
* [[11月2日]] - [[ジェームズ・ポーク]]、第11代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1849年]])
* [[11月12日]] - [[タダイ・ウィリアム・ハリス]]、アメリカの博物学者(+ [[1856年]])
* [[12月10日]] - [[マッテヤ・ボールドウィン]]、アメリカの機関車製造業者(+ [[1866年]])
* [[12月17日]] - [[ベンジャミン・フランクリン・バトラー (司法長官)|ベンジャミン・フランクリン・バトラー]]、[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1858年]])
* [[12月21日]] - [[レオポルト・フォン・ランケ]]、[[歴史家]](+ [[1886年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1795年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月3日]] - [[ジョサイア・ウェッジウッド]]、[[陶芸|陶芸家]]・[[ウェッジウッド]]創業者(* [[1730年]])
* [[1月21日]] - [[ミシェル・コレット]]、[[作曲家]](* [[1707年]])
* [[1月26日]] - [[ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ]]、作曲家(* [[1732年]])
* [[2月27日]] - [[フランシス・マリオン (軍人)|フランシス・マリオン]]、[[アメリカ独立戦争]]期の[[サウスカロライナ州|サウスカロライナ]][[民兵]][[准将]](* [[1732年]])
* 2月27日([[寛政]]7年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]])- [[谷風梶之助 (2代)]]、[[大相撲]]第4代[[横綱]](* [[1750年]])
* [[3月9日]] - [[ジョン・アームストロング (大陸軍少将)|ジョン・アームストロング]]、アメリカ独立戦争期の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[少将]](* [[1717年]])
* [[5月7日]] - [[アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル]]、[[フランス革命]]期の[[法律家]](* [[1746年]])
* [[5月19日]] - [[ジェイムズ・ボズウェル]]、作家(* [[1740年]])
* [[5月19日]] - [[ジョサイア・バートレット]]、政治家、医師(* [[1729年]])
* [[6月8日]] - [[ルイ17世]]、[[フランス王国|フランス王太子]](* [[1785年]])
* [[6月26日]](寛政7年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[長谷川宣以]]、江戸時代の役人(火付盗賊改方)(* [[1745年]])
* [[7月3日]] - [[アントニオ・デ・ウジョーア]]、[[探検家]]・[[天文学者]](* [[1716年]])
* [[7月31日]] - [[グリゴリー・シェリホフ]]、探検家(* [[1747年]])
* [[8月7日]](寛政7年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]])- [[黒田斉隆]]、第9代[[福岡藩|福岡藩主]](* [[1777年]])
* [[8月22日]](寛政7年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]])- [[徳川重好]]、[[清水徳川家]]初代当主(* [[1745年]])
* [[8月26日]] - [[カリオストロ]]、[[詐欺|詐欺師]]・[[錬金術|錬金術師]](* [[1743年]])
* [[8月31日]] - [[フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール]]、作曲家・[[チェス]]選手(* [[1726年]])
* 8月31日(寛政7年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]])- [[円山応挙]]、[[絵師]](* [[1733年]])
* [[10月8日]](寛政7年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]])- [[河野元虎]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1761年]])
* [[11月6日]] - [[ゲオルク・ベンダ]]、作曲家(* [[1722年]])
* [[12月23日]] - [[ヘンリー・クリントン]]、アメリカ独立戦争期の[[イギリス軍]]北アメリカ総司令官(* [[1738年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1795}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
{{デフォルトソート:1795ねん}}
[[Category:1795年|*]] | 2003-03-24T06:59:04Z | 2023-10-24T08:34:50Z | false | false | false | [
"Template:年代ナビ",
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:他の紀年法",
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"Template:十年紀と各年"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1795%E5%B9%B4 |
5,050 | 1796年 | 1796年(1796 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。 | [
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] | 1796年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。 | {{年代ナビ|1796}}
{{year-definition|1796}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛政]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2456年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]20年
** [[檀君紀元|檀紀]]4129年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[西山朝]] : [[景盛]]4年
* [[仏滅紀元]] : 2338年 - 2339年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1210年 - 1211年
* [[ユダヤ暦]] : 5556年 - 5557年
* [[ユリウス暦]] : 1795年12月21日 - 1796年12月20日
* [[フランス革命暦]] : IV年雪月11日 - V年雪月11日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1796}}
== できごと ==
* [[3月9日]] - [[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]が[[ナポレオン・ボナパルト]]と結婚
* [[3月27日]] - ナポレオンが[[イタリア]]遠征の司令官に任命される
* [[3月30日]] - [[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]による、[[十七角形|正十七角形]]が[[定規とコンパスによる作図|定規とコンパスで作図可能]]であることの発見
* [[4月12日]] - [[フランス革命戦争]]([[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]]): [[モンテノッテの戦い]]
* [[5月10日]]
** フランス革命戦争(イタリア戦役): [[ロディの戦い]]
** [[フランス]]政府転覆を計画した[[フランソワ・ノエル・バブーフ]]らが逮捕される([[バブーフの陰謀]])
* [[5月14日]] - [[エドワード・ジェンナー]]が初めて[[牛痘]]の接種を試みる
* [[5月25日]]-[[6月29日]] - イギリスで[[1796年イギリス総選挙|総選挙]]。小ピット内閣の与党の勝利。
* [[6月1日]] - 米国で[[テネシー州|テネシー]]が16番目に州となる
* [[11月17日]] - フランス革命戦争(イタリア戦役): [[アルコレの戦い]]
=== 日付不詳 ===
* [[清]]で[[白蓮教徒の乱]]が起こる
* ガウスによる[[平方剰余の相互法則]]の最初の証明
* イギリスが[[オランダ領セイロン]]を占領
== 誕生 ==
{{see also|Category:1796年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月6日]] - [[ジョン・スティーブンス・ヘンズロー]]、[[植物学者]]・[[地質学者]](+ [[1861年]])
* [[2月17日]] - [[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]、[[医師]]・[[博物学者]](+ [[1866年]])
* [[6月1日]] - [[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー]]、[[数学者]]・[[物理学者]](+ [[1832年]])
* [[7月6日]] - [[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]、[[ロマノフ朝]]第11代[[ロシア皇帝]](+ [[1855年]])
* [[7月17日]] - [[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]、[[画家]](+ [[1875年]])
* [[9月15日]] - [[ヘルマン・アーダム・フォン・カンプ]]、[[教育学者]]・[[作家]]・[[作詞家]](+ [[1867年]])
* [[12月9日]] - [[エミーリエ・ツムシュテーク]]、[[音楽家]](+ [[1857年]])
* [[12月22日]](寛政8年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[鳥居耀蔵]]、[[幕臣]](+ [[1873年]])
* [[12月29日]] - [[フェルディナント・フォン・ウランゲル]]、[[軍人]]・[[探検家]](+ [[1870年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1796年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月4日]]([[寛政]]7年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[岡部長修]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第7代藩主(* [[1746年]])
* [[9月22日]](寛政8年) - [[田沼意明]]、[[陸奥下村藩]]初代藩主(* [[1773年]])
* [[3月8日]] - [[ウィリアム・チェンバーズ (建築家)|ウィリアム・チェンバーズ]]、[[建築家]](* [[1723年]])
* [[10月16日]] - [[ヴィットーリオ・アメデーオ3世]]、[[サルデーニャ君主一覧|サルデーニャ王]](* [[1726年]])
* [[11月6日]] - [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]、ロシア女帝(* [[1728年]])
* [[12月11日]] - [[ヨハン・ティティウス]]、[[科学者]](* [[1729年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1796}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
{{デフォルトソート:1796ねん}}
[[Category:1796年|*]] | null | 2022-04-16T13:09:56Z | false | false | false | [
"Template:Year-definition",
"Template:他の紀年法",
"Template:年間カレンダー",
"Template:See also",
"Template:Commonscat",
"Template:十年紀と各年",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1796%E5%B9%B4 |
5,051 | 1801年 | 1801年(1801 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。19世紀最初の年である。 | [
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"text": "1801年(1801 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。19世紀最初の年である。",
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] | 1801年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。19世紀最初の年である。 | {{年代ナビ|1801}}
{{year-definition|1801}}[[19世紀]]最初の年である。
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[寛政]]13年、[[享和]]元年2月5日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2461年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]6年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]4134年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[西山朝]] : [[景盛]]9年、[[宝興]]元年5月 -
* [[仏滅紀元]] : 2343年 - 2344年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1215年8月15日 - 1216年8月25日
* [[ユダヤ暦]] : 5561年4月16日 - 5562年4月26日
* [[ユリウス暦]] : 1800年12月20日 - 1801年12月19日
* [[フランス革命暦]] : IX年雪月11日 - X年雪月10日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -21139 - -20775
* [[リリウス日]](LD) : 79702 - 80066
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1801}}
== できごと ==
* [[1月1日]]
** [[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]成立([[ユニオン・ジャック]]制定){{要出典|date=2021-03}}。
** [[ジュゼッペ・ピアッツィ]]が最初の[[小惑星]][[ケレス (準惑星)|ケレス]]を発見(ケレスは[[2006年]]に[[準惑星]]に分類変更)。
* [[2月9日]] - [[リュネヴィルの和約]]。
* [[3月4日]] - [[トーマス・ジェファーソン]]、第3代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。
* [[3月14日]] - イギリスで[[ヘンリー・アディントン]]内閣が成立(-[[1804年]])
* [[3月19日]] - [[日本]]、[[改元]]して[[享和]]元年。
* [[3月21日]] - フランス、旧[[トスカーナ大公国]]の継承国として[[エトルリア王国]]創設。
* [[3月23日]] - {{仮リンク|パーヴェル1世暗殺事件|ru|Убийство Павла I|label}}
* [[3月23日]] - ロシアで[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]が皇帝に即位。
* [[12月24日]] - [[リチャード・トレビシック]]が[[蒸気自動車]]「パフィング・デヴィル号」を公開。
* [[カール・フリードリヒ・ガウス]]、『整数論の研究』出版。[[複素数]]表記の導入。
* [[高田屋嘉兵衛]]、[[国後]]航路の発見・[[択捉島]]開拓。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1801年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月21日]] - [[ジョン・バットマン]]<ref>{{cite web
|url = http://www.parliament.vic.gov.au/onthisday/decade.cfm?d=1830
|title = On These Days - Parliament of Victoria
|publisher = www.parliament.vic.gov.au
|accessdate = 2021-05-01
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090608213733/http://www.parliament.vic.gov.au/onthisday/decade.cfm?d=1830
|archivedate = 2009年6月8日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、[[農家]]・[[探検家]](+ [[1839年]])
* [[2月11日]]([[寛政]]12年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]])- [[伊東玄朴]]、[[蘭方医]](+ [[1871年]])
* [[2月21日]] - [[ジョン・ヘンリー・ニューマン|ニューマン]]、[[イギリス]]の[[神学者]]・[[枢機卿]](+ [[1890年]])
* [[4月12日]] - [[ヨーゼフ・ランナー]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1843年]])
* [[4月28日]] - [[アントニー・アシュリー=クーパー (第7代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ(7代伯)]]、イギリスの[[政治家]](+ [[1885年]])
* [[6月6日]]([[享和]]元年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[川路聖謨]]、[[幕臣]]・[[旗本]](+ [[1868年]])
* [[6月22日]] - {{仮リンク|エドゥアルト・ゲルトナー|de|Eduard Gaertner}}、[[画家]](+ [[1877年]])
* [[6月23日]]([[享和]]元年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[江川英龍]]、[[幕臣]]・[[代官]](+ [[1855年]])
* [[8月3日]]([[享和]]元年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[色川三中]]、[[国学者]](+ [[1855年]])
* [[8月28日]] - [[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー|クールノー]]、[[哲学者]]・[[数学者]]・[[経済学者]](+ [[1877年]])
* [[11月3日]] - [[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]、作曲家(+ [[1835年]])
* [[11月21日]](享和元年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[大原重徳]]、[[公家]](+[[1879年]])
*(享和元年) - [[生田万]]、[[国学者]](+[[1837年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1801年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月21日]] - [[アンドレア・ルケージ]]、作曲家(* [[1741年]])
* [[3月25日]] - [[ノヴァーリス]]、[[詩人]](* [[1772年]]<!--[[5月2日]]-->)
* [[7月11日]](享和元年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[本間光丘]]、出羽[[酒田]]の豪商(*[[1732年]])
* [[8月8日]](享和元年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[細井平洲]]、[[儒学者]](*[[1728年]])
* [[8月31日]](享和元年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[長久保赤水]]、[[地理学]]者・[[漢学者]](*[[1717年]])
* [[11月5日]](享和元年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[本居宣長]]、[[国学]]者・[[文献学]]者・[[医師]](*[[1730年]])
* [[11月26日]] - [[デオダ・ドゥ・ドロミュー]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](* [[1750年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1801}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1801ねん}}
[[Category:1801年|*]] | null | 2023-02-12T20:41:27Z | false | false | false | [
"Template:年間カレンダー",
"Template:要出典",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:Year-definition",
"Template:他の紀年法",
"Template:Cite web",
"Template:十年紀と各年",
"Template:Commonscat",
"Template:年代ナビ",
"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1801%E5%B9%B4 |
5,052 | 1811年 | 1811年(1811 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | [
{
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"text": "1811年(1811 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。",
"title": null
}
] | 1811年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1811}}
{{year-definition|1811}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[文化 (元号)|文化]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2471年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]16年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]11年
** [[檀君紀元|檀紀]]4144年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[嘉隆]]10年
* [[仏滅紀元]] : 2353年 - 2354年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1225年12月5日 - 1226年12月15日
* [[ユダヤ暦]] : 5571年4月5日 - 5572年4月15日
* [[ユリウス暦]] : 1810年12月20日 - 1811年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -17487 - -17123
* [[リリウス日]](LD) : 83354 - 83718
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1811}}
== できごと ==
* [[1月27日]] - [[三宅島]]で火山噴火による地震発生{{要出典|date=2021-03}}。
* [[5月14日]] - [[パラグアイ]]が[[スペイン]]から独立。
* [[イギリス]]で[[ラッダイト運動]]が勃発(~[[1817年]]頃)。
* [[アボガドロの法則]]が発表される。
* [[ヴァシーリー・ゴロヴニーン|ゴローニン]]が[[国後島]]に上陸し、[[松前]]に監禁される([[ゴローニン事件]])。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1811年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月22日]] - [[ウィリアム・バーンズ (言語学者)|ウィリアム・バーンズ]]、[[言語学者]](+ [[1886年]])
* [[3月5日]]([[文化 (元号)|文化]]8年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[松平斉承]]、[[福井藩|福井藩主]](+ [[1835年]])
* [[3月11日]] - [[ユルバン・ルヴェリエ]]、[[天文学者]](+ [[1877年]])
* [[3月20日]] - [[ナポレオン2世]]、ライヒシュタット公(+ [[1832年]])
* [[3月22日]](文化8年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[佐久間象山]]、兵学者(+ [[1864年]])
* [[3月31日]] - [[ロベルト・ブンゼン|ブンゼン]]、ドイツの[[化学者]](+ [[1899年]])
* [[4月23日]](文化8年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]])- [[黒田長溥]]、[[福岡藩|福岡藩主]](+ [[1887年]])
* [[5月11日]] - [[チャン&エン・ブンカー兄弟]]、[[結合双生児]]として知られる人物(+ [[1874年]])
* [[5月24日]](文化8年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]])- [[土井利忠]]、[[大名]]、越前[[大野藩]]第7代藩主(+ [[1868年]])
* [[5月29日]](文化8年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]])- [[池田斉敏]]、[[岡山藩|岡山藩主]](+ [[1842年]])
* [[6月11日]] - [[ヴィッサリオン・ベリンスキー]]、文芸評論家(+ [[1848年]])
* [[6月14日]] - [[ハリエット・ビーチャー・ストウ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[奴隷制]]廃止論者・作家(+ [[1896年]])
* [[7月18日]] - [[ウィリアム・メイクピース・サッカレー|サッカレー]]、イギリスの[[小説家]](+ [[1863年]])
* [[7月20日]] - [[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|エルギン]]、イギリスの[[政治家]]・全権使節として[[天津条約]]及び[[日英修好通商条約|日英通商条約]]並びに[[北京条約]]締結(+ [[1863年]])
* [[8月3日]] - [[エリシャ・オーチス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Elisha-Otis Elisha Otis American inventor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[発明家]](+ [[1861年]])
* [[8月5日]] - [[アンブロワーズ・トマ]]、[[作曲家]](+ [[1896年]])
* [[8月21日]] - [[ジョゼフ・ドランブール]]、[[言語学者]](+ [[1895年]])
* [[8月28日]](文化8年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]])- [[前田斉泰]]、[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1884年]])
* [[8月30日]] - [[テオフィル・ゴーティエ|ゴーティエ]]、フランスの作家(+ [[1872年]])
* [[9月12日]] - [[ジェームズ・ホール (古生物学者)|ジェームズ・ホール]]、[[地質学者]]・[[古生物学者]](+ [[1898年]])
* [[10月22日]] - [[フランツ・リスト]]、[[ハンガリー]]の作曲家・ピアニスト(+ [[1886年]])
* [[10月25日]] - [[エヴァリスト・ガロア]]、[[数学者]](+ [[1832年]])
* [[10月27日]] - [[アイザック・メリット・シンガー]]、発明家(+ [[1875年]])
* [[10月29日]] - [[ルイ・ブラン|ブラン]]、フランスの[[社会主義]]者(+ [[1882年]])
* [[11月16日]] - [[ジョン・ブライト|ブライト]]、イギリスの[[政治家]]・[[自由貿易]]主義者(+ [[1889年]])
* [[11月26日]]([[嘉慶 (清)|嘉慶]]16年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]])- [[曽国藩]]、清国の[[軍人]]・[[政治家]](+ [[1872年]])
* [[11月28日]] - [[マクシミリアン2世 (バイエルン王)|マクシミリアン2世]]、バイエルン王(+ [[1864年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1811年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月21日]](文化7年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]) - 初代[[立川談笑]]、[[落語家]](* 生年不詳)
* [[2月9日]](文化8年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]) - [[稲村三伯]]、[[蘭学者]](* [[1758年]])
* [[3月7日]](文化8年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[村田春海]]、[[国学者]]・[[歌人]](* [[1746年]])
* [[7月29日]] - [[リチャード・バチェ]]、第2代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1737年]])
* [[8月31日]] - [[ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル]]、[[探検家]]・[[数学者]]・[[軍人]](* [[1729年]])
* [[9月4日]](文化8年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[呉春]]、[[画家]](* [[1752年]])
* [[10月31日]] - [[クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン]]、[[牧師]]・[[教育者]](* [[1744年]])
* [[11月21日]] - [[ハインリヒ・フォン・クライスト]]、[[劇作家]]・[[ジャーナリスト]](* [[1777年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1811}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1811%E5%B9%B4 |
5,053 | 1725年 | 1725年(1725 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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] | 1725年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1725}}
{{year-definition|1725}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[享保]]10年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2385年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[雍正]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]元年
** [[檀君紀元|檀紀]]4058年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]6年
* [[仏滅紀元]] : 2267年 - 2268年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1137年 - 1138年
* [[ユダヤ暦]] : 5485年 - 5486年
* [[ユリウス暦]] : 1724年12月21日 - 1725年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1725}}
== できごと ==
* 1月25日、スペインの私掠船[[アマロ・ロドリゲス・フェリペ|アマロ・パルゴ]]がイダルゴ(貴族)の称号を授与されました。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1725年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月14日]]([[享保]]9年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[木内石亭]]、[[博物学|本草学者]](+ [[1808年]])
* [[2月26日]] - [[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー]]、[[技術者]](+ [[1804年]])
* [[3月11日]] - [[ヘンリー・ベネディクト・ステュアート]]、[[ジャコバイト]]が支持する[[イングランド王国|イングランド]]の王位請求者(+ [[1807年]])
* [[3月20日]] - [[アブデュルハミト1世]]、第27代[[オスマン帝国]][[スルタン]](+ [[1789年]])
* [[4月2日]] - [[ジャコモ・カサノヴァ]]、術策家・作家(+ [[1798年]])
* [[4月6日]] - [[パスカル・パオリ]]、[[コルシカ独立戦争]]指導者(+ [[1807年]])
* [[5月12日]] - [[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]、[[オルレアン公]](+ [[1785年]])
* [[6月5日]](享保10年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[前田宗辰]]、第6代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1747年]])
* [[6月21日]](享保10年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[伊達村候]]、第5代[[宇和島藩|宇和島藩主]](+ [[1794年]])
* [[7月1日]] - [[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー]]、[[フランス軍]][[元帥]](+ [[1807年]])
* [[8月21日]] - [[ジャン=バティスト・グルーズ]]、[[画家]](+ [[1805年]])
* [[9月12日]] - [[ギヨーム・ル・ジャンティ]]、[[天文学者]](+ [[1792年]])
* [[9月22日]] - [[ジョゼフ・デュプレシ]]、画家(+ [[1802年]])
* [[9月29日]] - [[ロバート・クライブ]]、イギリスの[[将軍]](+ [[1774年]])
* [[10月15日]](享保10年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[毛利重就]]、第7代[[長州藩|長州藩主]](+ [[1789年]])
* [[12月1日]] - [[ジョージ・メイソン (4世)|ジョージ・メイソン]]、アメリカ合衆国の[[政治家]](+ [[1792年]])
* 月日不詳 - [[鈴木春信]]、[[浮世絵|浮世絵師]](+ [[1770年]])
* 月日不詳 - [[山県大弐]]、[[儒学者]](+ [[1767年]])
* 月日不詳 - [[フランシス・コベントリ]]、イギリスの作家(+ 1754年 または 1759年)
== 死去 ==
{{see also|Category:1725年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月6日]]([[享保]]9年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[近松門左衛門]]、[[歌舞伎]]・[[人形浄瑠璃]]の[[劇作家]](* [[1653年]])
* [[2月6日]] - [[ヨハン・フィリップ・クリーガー]]、[[作曲家]](* [[1649年]])
* [[2月8日]] - [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]、[[ロシア帝国]]の[[ツァーリ]](* [[1671年]])
* [[5月24日]] - [[ジョナサン・ワイルド]]、泥棒の元締・盗品故買師(* [[1683年]])
* [[6月29日]](享保10年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[新井白石]]、[[江戸幕府]]の将軍侍講・[[儒学者]](* [[1657年]])
* [[7月13日]](享保10年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[南部利幹]]、第6代[[盛岡藩|盛岡藩主]](* [[1689年]])
* [[8月14日]](享保10年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[孝子内親王]]、[[江戸時代]]の[[皇族]](* [[1650年]])
* [[10月7日]](享保10年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[山内豊常]]、第7代[[土佐藩|土佐藩主]](* [[1711年]])
* [[10月24日]] - [[アレッサンドロ・スカルラッティ]]、作曲家(* [[1660年]])
* [[12月24日]](享保10年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[鷹司兼熙]]、江戸時代の[[公卿]](* [[1660年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1725}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1725%E5%B9%B4 |
5,054 | 1737年 | 1737年(1737 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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] | 1737年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1737}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元文]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2397年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]4070年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永佑]]3年
* [[仏滅紀元]] : 2279年 - 2280年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1149年 - 1150年
* [[ユダヤ暦]] : 5497年 - 5498年
* [[ユリウス暦]] : 1736年12月21日 - 1737年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1737}}
== できごと ==
* [[7月2日]] - [[オーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)|オーストリア・ロシア・トルコ戦争]]:{{仮リンク|オチャコフ包囲戦 (1737年)|en|Siege of Ochakov (1737)|label=オチャコフ包囲戦}}においてロシア軍がオスマン軍に勝利。
* [[9月17日]] - [[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー]][[選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ゲオルク・アウグスト]]によって[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン]]が創設。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1737年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月2日]] - 第2代シェルバーン伯[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](在任:1782年 - 83年)(+ [[1805年]])
* [[5月8日]] - [[エドワード・ギボン]]、[[イギリス]]の[[歴史家]](+ [[1794年]])
* [[6月20日]]([[元文]]2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[徳川家治]]、[[江戸幕府]]第10代[[将軍]](+ [[1786年]])
* [[9月9日]] - [[ルイージ・ガルヴァーニ]]、[[医学者]]・[[物理学者]](+ [[1798年]])
* [[9月12日]] - [[リチャード・バチェ]]、第2代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1811年]])
* [[11月8日]] - [[アントワーヌ・ブリュニー・ダントルカストー]]、[[探検家]](+ [[1793年]])
== 崩御・死去 ==
{{see also|Category:1737年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[5月10日]](元文2年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[中御門天皇]]、第114代[[天皇]](* [[1702年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1737}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
{{デフォルトソート:1737ねん}}
[[Category:1737年|*]] | null | 2021-04-14T13:14:41Z | false | false | false | [
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"Template:See also",
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"Template:十年紀と各年",
"Template:他の紀年法"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1737%E5%B9%B4 |
5,055 | 1770年 | 1770年(1770 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 | [
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] | 1770年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1770}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明和]]7年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2430年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]35年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]46年
** [[檀君紀元|檀紀]]4103年
* [[ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]31年
* [[仏滅紀元]] : 2312年 - 2313年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1183年 - 1184年
* [[ユダヤ暦]] : 5530年 - 5531年
* [[ユリウス暦]] : 1769年12月21日 - 1770年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1770}}
== できごと ==
* [[1月28日]]、イギリスで[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]を首相とする[[ノース卿内閣|内閣]]が成立(-[[1782年]])
* [[3月5日]]、[[ボストン虐殺]]事件が起こり、五人が亡くなる。
* 4月 - [[徒党強訴逃散の高札]]、密告者を褒賞する。
* [[4月20日]]、[[ジェームズ・クック]]らが[[オーストラリア]]東岸に到達。
* [[4月29日]]、ジェームズ・クック一行がオーストラリア東岸に上陸。[[イギリス]]領と宣言。
* [[5月23日]]([[明和]]7年[[4月28日]]) - [[後桜町天皇]]が譲位し、第118代[[後桃園天皇]]が即位。
* [[8月21日]] - [[ジェームズ・クック]]がオーストラリア東部に対するイギリス領有権を正式に主張。ニューサウスウェールズと命名。
* [[9月17日]]([[明和]]7年[[7月28日]]) - 日本各地で[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が目撃される。
* イギリス、[[イラク]]の[[バスラ]]に拠点を置く。
* [[フランス東インド会社]]解散。
* [[レクセル彗星]]が観測される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1770年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月10日]] - [[シャルル・アンドレ・メルダ]]、[[フランス革命]]・[[フランス第一帝政|第一帝政]]期の軍人(+ [[1812年]])
* [[1月25日]] - [[フランシス・バーデット]]、[[イギリス]]の政治家(+ [[1844年]])
* [[2月22日]]([[明和]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[鈴木牧之]]、[[随筆家]](+ [[1842年]])
* [[3月2日]] - [[ルイ=ガブリエル・スーシェ]]、[[ナポレオン戦争]]期のフランス軍[[元帥]](+ [[1826年]])
* [[3月20日]] - [[フリードリヒ・ヘルダーリン]]、[[詩人]](+ [[1843年]])
* [[4月2日]] - [[アレクサンドル・ペション]]、[[ハイチ]]大統領(+ [[1818年]])
* [[4月7日]] - [[ウィリアム・ワーズワース]]、詩人(+ [[1850年]])
* [[4月9日]] - [[トーマス・ゼーベック]]、[[物理学者]](+ [[1831年]])
* [[4月11日]] - [[ジョージ・カニング]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1827年]])
* [[4月17日]] - [[マーロン・ディカーソン (ニュージャージー州の政治家)|マーロン・ディカーソン]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]](+ [[1853年]])
* [[5月10日]] - [[ルイ=ニコラ・ダヴー]]、フランス軍元帥(+ [[1823年]])
* [[6月3日]] - [[マヌエル・ベルグラーノ]]、アルゼンチンの政治家(+ [[1820年]])
* [[6月7日]] - 第2代[[リヴァプール伯爵]][[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|ロバート・バンクス・ジェンキンソン]]、イギリス首相(+ [[1828年]])
* [[6月24日]] - [[アルプレヒト・ベルブリンガー]]、[[発明家]]・航空研究家(+ [[1829年]])
* [[8月1日]] - [[ウィリアム・クラーク (探検家)|ウィリアム・クラーク]]、[[探検家]](+ [[1838年]])
* [[8月3日]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Frederick-William-III Frederick William III king of Prussia] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[プロイセン王国|プロイセン王]](+ [[1840年]])
* [[8月27日]] - [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Georg-Wilhelm-Friedrich-Hegel Georg Wilhelm Friedrich Hegel German philosopher] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[哲学|哲学者]](+ [[1831年]])
* [[10月22日]](明和7年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[小笠原忠固]]、第6代[[小倉藩|小倉藩主]](+ [[1843年]])
* [[11月16日]] - [[エティエンヌ・ピヴェール・ド・セナンクール]]、[[小説家]](+ [[1846年]])
* [[11月19日]] - [[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]、[[ロシア海軍]]の[[提督]](+ [[1846年]])
* [[12月16日]]頃 - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]、[[作曲家]](+ [[1827年]])
* [[12月26日]] - [[ピエール・カンブロンヌ]]、フランス革命・[[ナポレオン戦争]]期の軍人(+ [[1842年]])
* 月日不詳 - [[永樂了全]]、[[陶芸家]](+ [[1841年]])
* 月日不詳 - [[リュシル・デュプレシ]]、[[カミーユ・デムーラン]]の妻(+ [[1794年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1770年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月12日]] - [[クリストファー・ミドルトン]]、航海者・[[探検家]](* [[17世紀]]末)
* [[2月26日]] - [[ジュゼッペ・タルティーニ]]、[[作曲家]](* [[1692年]])
* [[3月11日]]([[明和]]7年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[大石大三郎]]、[[広島藩|広島藩士]](* [[1702年]])
* [[3月27日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]、[[画家]](* [[1696年]])
* [[4月28日]] - [[マリー・カマルゴ]]、[[バレエ]][[ダンサー]](* [[1710年]])
* [[5月9日]] - [[チャールズ・エイヴィソン]]、作曲家(* [[1709年]])
* [[5月22日]] - [[ゾフィー・マグダレーネ・フォン・ブランデンブルク=クルムバッハ]]、[[クリスチャン6世 (デンマーク王)|デンマーク王クリスチャン6世]]の妃(* [[1700年]])
* [[5月30日]] - [[フランソワ・ブーシェ]]、画家(* [[1703年]])
* [[6月21日]] - [[ウィリアム・ベックフォード (政治家)|ウィリアム・ベックフォード]]、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]](* [[1709年]])
* [[7月2日]](明和7年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[鍋島重茂]]、第7代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1733年]])
* [[7月7日]](明和7年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[鈴木春信]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1725年]])
* [[7月14日]](明和7年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[京極宮公仁親王]]、日本の[[皇族]](* [[1733年]])
* [[7月24日]](明和7年[[閏]][[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[藤堂高悠]]、第8代[[津藩|津藩主]](* [[1751年]])
* [[8月24日]] - [[トーマス・チャタートン]]、[[詩人]](* [[1752年]])
* [[9月30日]] - [[ジョージ・ホウィットフィールド]]、[[イングランド国教会]]の[[牧師]](* [[1714年]])
* [[10月18日]](明和7年[[8月30日 (旧暦)|8月30日]]) - [[朽木玄綱]]、[[江戸幕府]][[寺社奉行]]・第5代[[福知山藩|福知山藩主]](* [[1709年]])
* [[11月13日]] - [[ジョージ・グレンヴィル]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1712年]])
* 月日不詳 - [[ロバート・ピトケアン]]、[[ピトケアン島]]発見者(* [[1752年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1770}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
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5,056 | 1710年 | 1710年(1710 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[宝永]]7年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2370年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]49年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]36年
** [[檀君紀元|檀紀]]4043年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[永盛 (黎朝)|永盛]]6年
* [[仏滅紀元]] : 2252年 - 2253年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1121年 - 1122年
* [[ユダヤ暦]] : 5470年 - 5471年
* [[ユリウス暦]] : 1709年12月21日 - 1710年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1710}}
== できごと ==
* [[9月4日]] - (宝永7年8月11日) - 新宮家・閑院宮を創設。
* [[10月2日]]-[[11月16日]] - イギリスで[[1710年イギリス総選挙|総選挙]]。[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の圧勝。以降[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]系閣僚の辞職相次ぐ。
* [[10月5日]]-13日 - [[ポートロワイヤルの戦い (1710年)|ポートロワイヤルの戦い]]が行われ[[イギリス]]が勝利、[[アカディア]]半島部を領有。
* [[セント・ポール大聖堂]]完成
== 誕生 ==
{{see also|Category:1710年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月4日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]、[[イタリア]]の[[作曲家]](+ [[1736年]])
* [[2月15日]] - [[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]、[[フランス王国|フランス]][[国王]](+ [[1774年]])
* [[4月15日]] - [[マリー・カマルゴ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1770年]])
* [[9月12日]](宝永7年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[藤堂高治]]、[[伊勢国]][[津藩]]の第6代藩主・津藩の支藩である[[久居藩]]の第4代藩主(+ [[1735年]])
* [[11月22日]] - [[ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ]]、[[ドイツ]]の作曲家(+ [[1784年]])
== 崩御・死去 ==
{{see also|Category:1710年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月16日]](宝永6年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[東山天皇]]、第113代[[天皇]](* [[1675年]])
* [[9月15日]](宝永7年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[片桐貞房]]、[[小泉藩]]第三代藩主(* [[1672年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1710}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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5,057 | 1736年 | 1736年(1736 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
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] | 1736年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。 | {{年代ナビ|1736}}
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丙辰]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
**[[享保]]21年、[[元文]]元年4月28日 -
**[[神武天皇即位紀元|皇紀]]2396年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
**[[清]] : [[乾隆]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
**[[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]12年
**[[檀君紀元|檀紀]]4069年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
**[[黎朝|後黎朝]] : [[永佑]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2278年 - 2279年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1148年 - 1149年
* [[ユダヤ暦]] : 5496年 - 5497年
* [[ユリウス暦]] : 1735年12月21日 - 1736年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1736}}
== できごと ==
* [[イギリス]]の{{仮リンク|ジョシュア・ウォード|en|Joshua Ward}}が全工程に[[ガラス容器]]を用い、[[ヨハン・ルドルフ・グラウバー|グラウバー]]の製法を用いて[[硫酸]]の生産規模を拡大した。
* [[2月12日]] - [[ロレーヌ公]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランソワ3世]](のちの[[神聖ローマ皇帝]]フランツ1世)と[[マリア・テレジア]]が結婚。
* [[6月19日]] - [[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の命により、[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]が[[緯度]]差1[[度 (角度)|度]]に相当する[[子午線弧]]長を測定するために、[[ピエール・ルイ・モーペルテュイ]]を長とする[[測量]]隊を[[ラップランド]]の[[トルネ谷]]に派遣し、この日に一隊が[[トルニオ]]の現地に到着した。一隊は翌年6月10日に[[フランス]]への帰路に発つまで滞在し、持ち帰られた測量結果は別途[[ペルー]](現在の[[エクアドル]])で実施された測量結果と比較され、[[地球]]が極方向に扁平している[[扁球]]であることを証明した。
=== 日本 ===
* [[6月7日]](享保21年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[改元]]して[[元文]]元年。
* [[6月21日]](元文元年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[江戸幕府]]が金銀吹き替え(改鋳)を布告。([[元文丁銀#略史|元文改鋳]])
* [[7月23日]](元文元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - 元文改鋳: [[元文小判]]・[[元文丁銀]]の通用はじまる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1736年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月19日]] - [[ジェームズ・ワット]]、[[数学者]]、[[エンジニア]](+ [[1819年]])
* [[1月25日]] - [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]](+ [[1813年]])
* [[6月14日]] - [[シャルル・ド・クーロン]]、[[物理学者]](+ [[1806年]])
* [[12月29日]]([[元文]]元年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]])- [[木村蒹葭堂]]、[[文人]]・[[文人画|文人画家]](+ [[1802年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1736年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月31日]] - [[フィリッポ・ユヴァラ]]、[[建築家]](* [[1678年]])
* [[2月4日]]([[享保]]20年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]])- [[細井広沢]]、[[書道|書家]]・[[篆刻|篆刻家]](* [[1658年]])
* [[3月16日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]、[[作曲家]](* [[1710年]])
* [[4月24日]] - [[オイゲン・フォン・ザヴォイエン]](プリンツ・オイゲン)、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の[[軍人]]・[[貴族]](* [[1663年]])
* [[7月1日]] - [[アフメト3世]]、[[オスマン帝国]][[スルタン]](* [[1673年]])
* [[7月12日]]([[元文]]元年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]])- [[井伊直惟]]、[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1700年]])
* [[8月8日]](元文元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[荷田春満]]、[[国学者]](* [[1669年]])
* [[8月21日]] - [[エマヌエーレ・ダストルガ]]、作曲家(* [[1681年]])
* [[8月23日]](元文元年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[伊藤東涯]]、[[京都]]の[[儒者]](* [[1670年]])
* [[9月16日]] - [[ガブリエル・ファーレンハイト]]、[[発明家]]・[[物理学者]](* [[1686年]])
* [[11月5日]](元文元年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]])- [[近衛家熙]]、[[江戸時代]]の[[公卿]](* [[1667年]])
* [[12月10日]](元文元年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])- [[香林院]]、[[大石良雄]]の妻(* [[1669年]])
* [[12月28日]] - [[アントニオ・カルダーラ]]、作曲家(* [[1670年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1736}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
{{デフォルトソート:1736ねん}}
[[Category:1736年|*]] | null | 2021-05-03T12:52:40Z | false | false | false | [
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"Template:仮リンク"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1736%E5%B9%B4 |
5,058 | 1825年 | 1825年(1825 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | [
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] | 1825年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1825}}
{{year-definition|1825}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[文政]]8年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2485年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[道光]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]25年
** [[檀君紀元|檀紀]]4158年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[明命]]6年
* [[仏滅紀元]] : 2367年 - 2368年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1240年5月11日 - 1241年5月20日
* [[ユダヤ暦]] : 5585年4月11日 - 5586年4月21日
* [[ユリウス暦]] : 1824年12月20日 - 1825年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -12373 - -12009
* [[リリウス日]](LD) : 88468 - 88832
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1825}}
== できごと ==
* [[8月6日]] - [[ボリビア]]が[[スペイン]]から独立する。
* [[9月27日]] - [[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]が開業。
* [[10月26日]] - [[エリー運河]]が全通。
* [[12月26日]](ユリウス暦12月14日) - [[デカブリストの乱]](ロシアの青年将校の反乱)
* 文政の[[異国船打払令]]。
* [[ブラジル]]、[[ウルグアイ]][[独立]]を承認
* 南米で[[シスプラティーナ戦争]]が起きる(-[[1828年]])
* [[ジャワ戦争]]([[ディポヌゴロ]]の乱)起こる(-[[1830年]])
* [[琉球王国]]([[沖縄本島]])で前年からの[[旱魃]]と[[台風]]襲来で[[飢饉]]が深刻化。1825年までに餓死者3358人<ref>中塚武 監修「一八二四年から二五年における旱魃。台風被害」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p29 2020年11月30日 臨川書店 {{全国書誌番号|23471480}}</ref>。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1825年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月16日]] - [[カール・アブラハム・ピル]]、鉄道技術者(+ [[1897年]])
* [[1月18日]] - [[エドワード・フランクランド]]、[[化学者]](+ [[1899年]])
* [[2月8日]] - [[ヘンリー・ウォルター・ベイツ]]、[[博物学者]]・[[昆虫学者]]・[[探検家]](+ [[1892年]])
* [[4月11日]] - [[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]、ドイツの[[政治学|政治学者]]・[[社会主義|社会主義者]](+ [[1864年]])
* [[4月23日]]([[文政]]8年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]])- [[松島剛蔵]]、[[甲子殉難十一烈士]]のひとりとして知られる[[長州藩|長州藩士]](+ [[1865年]])
* [[5月4日]] - [[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]、イギリスの[[生物学者]](+ [[1895年]])
* [[5月20日]] - [[ジョージ・フィリップス・ボンド]]、[[天文学者]](+ [[1865年]])
* [[6月7日]] - [[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]、フランスの[[法学者]]・[[お雇い外国人]](+ [[1910年]])
* [[6月12日]](文政8年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]])- [[郷純造]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]・[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(+ [[1910年]])
* [[7月11日]](文政8年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])- [[頼三樹三郎]]、[[儒学者]](+ [[1859年]])
* [[8月16日]](文政8年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]])- [[松平武成]]、第3代[[浜田藩|浜田藩主]](+ [[1847年]])
* [[9月6日]] - [[ジョヴァンニ・ファットーリ]]、[[画家]]・[[版画家]](+ [[1908年]])
* [[9月9日]](文政8年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]])- [[佐竹義堯]]、第12代[[秋田藩|秋田藩主]](+ [[1884年]])
* [[9月11日]] - [[エドゥアルト・ハンスリック]]、[[クラシック音楽]][[評論家]](+ [[1904年]])
* [[9月12日]] - [[カール・ドップラー]]、[[指揮者]]・[[作曲家]]・[[フルート奏者]](+ [[1900年]])
* [[9月19日]](文政8年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]])- [[松平忠恕 (小幡藩主)|松平忠恕]]、第4代[[小幡藩|小幡藩主]](+ [[1902年]])
* [[10月2日]] - [[マーシャル・ジュウェル]]、第29代および第31代[[オハイオ州知事]]、第28代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1883年]])
* [[10月9日]](文政8年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[松前昌広]]、[[蝦夷地]][[松前藩]]第11代藩主(+[[1853年]])
* [[10月10日]] - [[ポール・クリューガー|クリューガー]]、[[トランスヴァール共和国]]の[[大統領]](+ [[1899年]])
* [[10月17日]](文政8年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]])- [[伊達慶邦]]、第13代[[仙台藩|仙台藩主]](+ [[1874年]])
* [[10月25日]] - [[ヨハン・シュトラウス2世]]、オーストリアの作曲家(+ [[1899年]])
* 10月25日(文政8年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[竹崎順子]]、教育家 (+ [[1905年]])
* [[10月26日]](文政8年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])- [[岩倉具視]]、[[明治維新]]の元勲(+ [[1883年]])
* [[11月30日]] - [[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]、[[画家]](+ [[1905年]])
* [[12月2日]] - [[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]、[[ブラジル]]第二代皇帝(+[[1891年]])
* [[12月12日]](文政8年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]])- [[江馬天江]]、[[私塾立命館]]塾長・[[書家]]・[[漢詩人]]・[[医師]](+ [[1901年]])
* [[12月26日]](文政8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]])- [[渡会喬久]]、[[芝村藩]][[家老]](+ [[1896年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1825年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月4日]] - [[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド1世]]、[[両シチリア王国|両シチリア王]](* [[1751年]])
* [[1月8日]] - [[イーライ・ホイットニー]]、[[発明家]](* [[1765年]])
* [[2月24日]]([[文政]]8年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]])- [[歌川豊国]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1769年]])
* [[3月10日]] - [[カール・モルワイデ]]、[[モルワイデ図法]]発案者(* [[1774年]])
* [[4月9日]]([[文政]]8年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]])- [[雷電爲右エ門]]、[[江戸時代]]の[[大関]](* [[1767年]])
* [[4月16日]] - [[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]、[[画家]](* [[1741年]])
* [[5月7日]] - [[アントニオ・サリエリ]]、[[作曲家]](* [[1750年]])
* [[6月11日]] - [[ダニエル・トンプキンズ]]、[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1774年]])
* [[6月14日]] - [[ピエール・シャルル・ランファン]]、[[建築家]]・[[都市計画家]](* [[1754年]])
* [[8月10日]](文政8年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]])- [[只野真葛]]、[[国学|国学者]]・文筆家(* [[1763年]])
* [[10月13日]] - [[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]、[[バイエルン王国|バイエルン王]](* [[1756年]])
* [[11月14日]] - [[ジャン・パウル]]、[[小説家]](* 1763年)
* [[12月1日]] - [[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]、ロシア皇帝(* [[1777年]])
* [[12月29日]] - [[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]、画家(* [[1748年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1825}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1825ねん}}
[[Category:1825年]] | null | 2021-09-10T01:30:05Z | false | false | false | [
"Template:年代ナビ",
"Template:Year-definition",
"Template:Reflist",
"Template:十年紀と各年",
"Template:他の紀年法",
"Template:年間カレンダー",
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:全国書誌番号",
"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1825%E5%B9%B4 |
5,059 | 1729年 | 1729年(1729 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
| [
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"title": "死去"
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] | 1729年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1729}}
{{year-definition|1729}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[享保]]14年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2389年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[雍正]]7年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]5年
** [[檀君紀元|檀紀]]4062年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]10年、[[永慶]]元年4月 -
* [[仏滅紀元]] : 2271年 - 2272年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1141年 - 1142年
* [[ユダヤ暦]] : 5489年 - 5490年
* [[ユリウス暦]] : 1728年12月21日 - 1729年12月20日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1729}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:1729年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月2日]] - [[ヨハン・ティティウス]]、[[科学者]](+ [[1796年]])
* [[1月12日]] - [[ラザロ・スパランツァーニ]]、イタリアの[[博物学者]](+ [[1799年]])
* [[1月22日]] - [[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]、[[詩人]]・[[劇作家]](+ [[1781年]])
* [[5月2日]] - [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]、[[ロシア帝国]][[ロシア皇帝|女帝]](+[[1796年]])
* [[8月15日]](享保14年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[井伊直幸]]、[[大老]]、[[近江国|近江]][[彦根藩]]第10代藩主(+ [[1789年]])
* [[9月6日]] - [[モーゼス・メンデルスゾーン]]、[[哲学者]]・[[啓蒙思想]]家(+ [[1786年]])
* [[9月13日]]([[享保]]14年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[小野蘭山]]、[[本草学]]者(+ [[1810年]])
* [[11月11日]] - [[ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル]]、[[探検家]]・[[数学者]]・[[軍人]](+ [[1811年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1729年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[8月22日]]([[享保]]14年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]) - [[鳥居清信]]、[[浮世絵師]](* [[1664年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1729}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
{{デフォルトソート:1729ねん}}
[[Category:1729年|*]] | null | 2021-06-13T05:36:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1729%E5%B9%B4 |
5,060 | 1860年 | 1860年(1860 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。 | [
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] | 1860年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。 | {{年代ナビ|1860}}
{{year-definition|1860}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[庚申]]
* [[日本]]([[天保暦]])
** [[安政]]6年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]] - 安政7年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]、[[万延]]元年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]] - 万延元年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]
** [[皇紀]]2520年
* [[清]]
** [[咸豊]]9年12月9日 - 咸豊10年11月20日
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]4193年
<!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし-->
** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]11年
* [[阮朝]]([[ベトナム]])
** [[嗣徳]]13年
* [[仏滅紀元]]:2402年 - 2403年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1276年6月7日 - 1277年6月17日
* [[ユダヤ暦]]:5620年4月6日 - 5621年4月18日
* [[修正ユリウス日]](MJD):410 - 775
* [[リリウス日]](LD):101251 - 101616
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1860}}
== できごと ==
=== 1月 ===
=== 2月 ===
* [[2月9日]] - [[万延元年遣米使節]]
* [[2月10日]] - [[咸臨丸]]、太平洋横断航行。37日後の3月17日、[[サンフランシスコ]]へ到着。
* [[2月26日]]([[安政]]7年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - 午後7 - 8時頃 横浜の本町通り(現在の中区本町)で、オランダ人船長のW・デ・フォス(Wessel de Vos)と、N・デッケル(Jasper Nanning Dekker)が攘夷派により斬殺される。
=== 3月 ===
* [[3月]] - [[サルデーニャ王国]]が、[[フランス]]への[[サヴォイア]]・[[ニース]]割譲と引き換えに、[[中央統合諸州|中部イタリア諸国]]([[パルマ公国|パルマ]]・[[モデナ公国|モデナ]]・[[トスカーナ大公国|トスカーナ]]・[[ロマーニャ]])を併合。
* [[3月24日]](安政7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[桜田門外の変]]で、[[大老]][[井伊直弼]]が暗殺される。
=== 4月 ===
* [[4月8日]]([[万延]]元年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[元号]]が安政から万延に[[改元]]
* [[4月9日]] (万延元年[[3月19日]]) - [[レオン・スコット]]が世界で初めて音を記録することに成功した。([[フォノトグラフ]])
=== 5月 ===
* [[5月17日]] - ドイツのサッカークラブ、[[TSV1860ミュンヘン]]が設立される。
=== 6月 ===
*[[6月28日]]~[[6月30日|30日]](万延元年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]~[[5月12日 (旧暦)|12日]]) - [[近畿]]から[[中部地方|中部]]・[[関東]]・[[東北]]で連日[[暴風雨]]となり、[[伊勢湾]]で[[高潮]]が発生するなどして、[[東海地方]]を中心に各地で[[洪水]]が起こった<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈3〉[[安土桃山時代]]~[[江戸時代]]|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33703-8|author=[[伊藤和明]]|page=38}}</ref>。
=== 7月 ===
* [[7月2日]]([[ユリウス暦]]6月20日) - [[ロシア帝国]]の輸送船「マンジュール号」が[[金角湾 (ウラジオストク)|金角湾]]に到達、湾の北岸に砦の建設を開始、[[ウラジオストク]]開基の日とされる。
=== 8月 ===
=== 9月 ===
* [[9月7日]] - [[ジュゼッペ・ガリバルディ]]、[[両シチリア王国]]の首都、[[ナポリ]]に入城。翌10月両シチリア王国の版図であるシチリアを含む南イタリアをサルデーニャ王国国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]に献上。
* [[9月21日]] - [[アロー戦争]]: [[八里橋の戦い]]
* [[9月28日]] - [[孝明天皇]]の第二皇子の祐宮(後の[[明治天皇]])が[[親王宣下]] を受け「睦仁」と諱名を賜る。
=== 10月 ===
* [[10月13日]] - アロー戦争: [[イギリス]]・[[フランス]]連合軍により[[北京市|北京]]が陥落。
* [[10月17日]] - 第1回[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープンゴルフ]]開催。
* [[10月18日]] - アロー戦争: イギリス・フランス連合軍により[[円明園]]が破壊される。
* [[10月24日]] - アロー戦争: [[清]]とイギリスによる[[北京条約]]が締結。
* [[10月25日]] - アロー戦争: 清とフランスによる北京条約が締結。
=== 11月 ===
* [[11月6日]] - [[エイブラハム・リンカーン]]が[[アメリカ合衆国大統領]]に当選。
* [[11月24日]] - 清とロシアによる北京条約が締結。
=== 12月 ===
* 12月よりアメリカ南部諸州が合衆国からの離脱を宣言。
=== その他 ===
* この年、サルデーニャ王国国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、[[ローマ]][[教皇領]]および[[オーストリア]]領ヴェネト地方を除き、イタリアを支配下に収める。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1860年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月25日]](安政7年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[加藤高明]]、[[外交官]]・第24代[[内閣総理大臣]](+ [[1926年]])
* 1月25日 - [[チャールズ・カーティス]]、第31代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1936年]])
* [[1月29日]] - [[アントン・チェーホフ]]、[[劇作家]]、[[小説家]](+ [[1904年]])
* [[2月18日]] - [[アンデシュ・ソーン]]、[[画家]]・[[版画家]]・[[彫刻家]](+ [[1920年]])
* [[2月29日]] - [[ハーマン・ホレリス]]、統計機械[[タビュレーティングマシン]]の発明者(+ [[1929年]])
* [[3月3日]] - [[モンテ・ウォード]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1925年]])
* [[3月5日]] - [[サム・トンプソン]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(+ [[1922年]])
* [[3月13日]] - [[フーゴー・ヴォルフ]]、[[作曲家]](+ [[1903年]])
* [[3月15日]] - [[ウォルター・ウェルドン]]、[[生物学者]](+ [[1906年]])
* [[3月17日]](安政7年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[穂積八束]]、[[法学者]](+ [[1912年]])
* [[3月20日]](安政7年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[岡市之助]]、第23代[[陸軍大臣]](+ [[1916年]])
* [[3月27日]](安政7年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[中村鴈治郎 (初代)]]、[[歌舞伎|歌舞伎役者]](+ [[1935年]])
* [[3月28日]](安政7年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[宮部金吾]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1951年]])
* [[4月4日]](安政7年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[高田早苗]]、[[文部大臣]]・[[教育者]](+ [[1938年]])
* [[4月6日]] - [[ルネ・ラリック]]、[[フランス]]のガラス工芸家・宝飾デザイナー(+ [[1945年]])
* [[4月13日]] - [[ジェームズ・アンソール]]、画家(+ [[1949年]])
* [[5月2日]] - [[テオドール・ヘルツル]]、[[シオニズム]]運動指導者(+ [[1904年]])
* [[5月9日]] - [[ジェームス・マシュー・バリー]]、劇作家、[[童話]]作家、[[ピーター・パン]]の作者(+ [[1937年]])
* [[5月14日]] - [[ブルーノ・リリエフォッシュ]]、画家(+ [[1939年]])
* [[5月20日]] - [[エドゥアルト・ブフナー]]、[[化学者]](+ [[1917年]])
* [[5月21日]] - [[ウィレム・アイントホーフェン]]、[[医学者]](+ [[1927年]])
* [[5月25日]] - [[ダニエル・モロー・バリンジャー]]、[[地質学者]](+ [[1929年]])
* [[5月29日]] - [[イサーク・アルベニス]]、作曲家(+ [[1909年]])
* [[6月25日]] - [[ギュスターヴ・シャルパンティエ]]、[[オペラ]]作曲家(+ [[1956年]])
* [[7月7日]] - [[グスタフ・マーラー]]、作曲家(+ [[1911年]])
* 7月7日(万延元年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[三宅雪嶺]]、[[哲学|哲学者]]・[[評論家]](+ [[1945年]])
* [[7月16日]] - [[オットー・イェスペルセン]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1943年]])
* [[7月24日]] - [[アルフォンス・ミュシャ]]、[[グラフィックデザイナー]](+ [[1939年]])
* [[8月1日]](万延元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - 初代[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]、[[実業家]]・[[東武鉄道]]社長(+ [[1940年]])
* [[8月3日]] - [[ウィリアム・K・L・ディクソン]]、[[発明家]](+ [[1935年]])
* [[8月5日]] - [[ルイス・ウェイン]]、[[画家]](+ [[1939年]])
* [[8月13日]] - [[アニー・オークレイ]]、[[射撃|射手]](+ [[1926年]])
* [[8月14日]] - [[アーネスト・トンプソン・シートン]]、[[博物学者]](+ [[1946年]])
* [[8月16日]] - [[ジュール・ラフォルグ]]、[[詩人]](+ [[1887年]])
* [[8月20日]] - [[レイモン・ポアンカレ]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]](+ [[1934年]])
* [[8月30日]] - [[イサーク・レヴィタン]]、画家(+ [[1900年]])
* [[9月6日]] - [[ジェーン・アダムズ]]、[[社会福祉援助技術|ソーシャルワーク]]の先駆者(+ [[1935年]])
* [[9月13日]] - [[ジョン・パーシング]]、[[アメリカ陸軍]]の[[元帥 (アメリカ合衆国)#陸軍大元帥|大元帥]](+ [[1948年]])
* [[9月20日]] - [[ヘンリー・ボイル (野球)|ヘンリー・ボイル]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1932年]])
* [[10月28日]] - [[フーゴー・プロイス]]、[[法学者]](+ [[1925年]])
* [[10月31日]] - [[ジュリエット・ロー]]、[[アメリカ合衆国]]に[[ガールスカウト]]を伝えた人物(+ [[1927年]])
* [[11月6日]] - [[イグナツィ・パデレフスキ]]、[[ポーランド]]首相・[[ピアニスト]](+ [[1941年]])
* [[11月23日]] - [[ビリー・ザ・キッド]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]]・[[アウトロー]](+ [[1881年]])
* [[12月10日]](万延元年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[嘉納治五郎]]、[[柔道家]]、[[教育者]](+ [[1938年]])
* [[12月15日]] - [[ニールス・フィンセン]]、医学者(+ [[1904年]])
* [[12月18日]] - [[エドワード・マクダウェル]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](+ [[1908年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1860年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月18日]] - [[ジョン・ネルソン (司法長官)|ジョン・ネルソン]]、第17代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1794年]])
* [[1月27日]] - [[トーマス・ブリスベーン]]、[[植民地]]行政官・[[天文学者の一覧|天文学者]](* [[1773年]])
* 1月27日 - [[ボーヤイ・ヤーノシュ]]、[[数学者]](* [[1802年]])
* [[1月29日]] - [[エルンスト・アルント]]、作家・[[フランクフルト国民議会]]議員(* [[1769年]])
* 1月29日 - [[ステファニー・ド・ボアルネ]]、[[カール (バーデン大公)|バーデン大公カール]]の妃(* [[1789年]])
* 1月29日 - [[ヘンリー・ギルピン]]、第14代アメリカ合衆国司法長官(* [[1801年]])
* [[2月18日]] - [[ヤーコフ・ロストフツェフ]]、[[ロシア帝国]]の政治家(* [[1804年]])
* [[3月24日]](安政7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[井伊直弼]]、[[江戸幕府]][[大老]](* [[1815年]])
* 3月24日(安政7年3月3日) - [[有村次左衛門]]、[[尊皇攘夷|尊皇攘夷派]][[志士]](* [[1838年]])
* [[4月6日]] - [[ジェイムズ・ポールディング]]、第11代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1778年]])
* [[4月8日]] - [[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]、[[ハンガリー王国]]の政治家(* [[1791年]])
* [[6月5日]] - [[サミュエル・インガム (財務長官)|サミュエル・インガム]]、第9代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1779年]])
* [[6月6日]](万延元年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[細川斉護]]、第10代[[熊本藩|熊本藩主]](* [[1804年]])
* [[6月24日]] - [[ジェローム・ボナパルト]]、[[ヴェストファーレン王国|ヴェストファーレン王]](* [[1784年]])
* [[7月1日]] - [[チャールズ・グッドイヤー]]、[[発明家]](* 1800年)
* [[7月18日]](万延元年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[森の石松]]、[[侠客]]
* [[7月25日]] - [[ネイサン・クリフォード]]、第19代アメリカ合衆国司法長官(* [[1794年]])
* [[8月13日]](万延元年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[佐久良東雄]]、[[国学|国学者]](* [[1811年]])
* [[8月22日]] - [[アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン]]、[[画家]](* [[1803年]])
* [[9月21日]] - [[アルトゥル・ショーペンハウアー]]、[[哲学|哲学者]](* [[1788年]])
* [[9月29日]](万延元年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[徳川斉昭]]、第9代[[水戸藩|水戸藩主]]・[[徳川慶喜]]の父(* [[1800年]])
* [[10月31日]] - [[トマス・コクラン]]、[[イギリス海軍]]の[[少将]](* [[1775年]])
* [[11月1日]] - [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]、ロシア皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の皇后(* [[1798年]])
* [[11月22日]] - [[イザーク・ヨースト]]、[[歴史家]](* [[1793年]])
* [[12月2日]] - [[ハインリヒ・バンド]]、発明家(* [[1821年]])
* [[12月14日]] - [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|ジョージ・ハミルトン=ゴードン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1784年]])
* [[12月17日]] - [[デジレ・クラリー]]、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]][[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]の妃(* [[1777年]])
* [[12月19日]] - [[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ジェイムズ・ラムゼイ]]、[[インドの総督|インド総督]](* [[1812年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1860}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1860ねん}}
[[Category:1860年|*]] | null | 2022-12-08T13:57:50Z | false | false | false | [
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"Template:十年紀と各年",
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"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1860%E5%B9%B4 |
5,061 | 1813年 | 1813年(1813 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
| [
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] | 1813年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1813}}
{{year-definition|1813}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸酉]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[文化 (元号)|文化]]10年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2473年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]18年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]4146年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[嘉隆]]12年
* [[仏滅紀元]] : 2355年 - 2356年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1227年12月27日 - 1229年1月8日
* [[ユダヤ暦]] : 5573年4月29日 - 5574年4月8日
* [[ユリウス暦]] : 1812年12月20日 - 1813年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -16756 - -16392
* [[リリウス日]](LD) : 84085 - 84449
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1813}}
== できごと ==
* [[1月24日]] - [[ロンドン]]でフィルハーモニック協会(現・[[ロイヤル・フィルハーモニック協会]])発足。
* [[1月28日]] - [[ジェーン・オースティン]]の小説「[[高慢と偏見]]」が出版。
* [[6月6日]] - [[米英戦争]]: [[ストーニー・クリークの戦い]]でイギリス軍が勝利。
* [[6月21日]] - [[スペイン独立戦争]]: [[ビトリアの戦い]]で[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン]]率いる英西葡三カ国連合軍が勝利。
* [[6月24日]] - [[米英戦争]]: [[ビーバー・ダムズの戦い]]でイギリス軍が勝利。
* [[8月26日]] - [[ナポレオン戦争]]: [[ドレスデンの戦い]]がはじまる。
* [[9月10日]] - [[米英戦争]]: [[エリー湖の湖上戦]]で米軍勝利。
* [[10月5日]] - 米英戦争: [[テムズの戦い]]で米軍勝利。
* [[10月16日]] - ナポレオン戦争: [[ライプツィヒの戦い]]がはじまる。
* [[10月24日]] - [[ロシア帝国]]と[[ガージャール朝]]が[[ゴレスターン条約]]を締結。
* [[11月11日]] - 米英戦争: [[クライスラー農園の戦い]]で英国カナダ軍が勝利。
== 芸術・文化 ==
=== 1813年の音楽 ===
* [[12月8日]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]]初演
== 誕生 ==
{{see also|Category:1813年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月4日]] - [[アレクサンダー・フォン・バッハ]]、[[政治家]](+ [[1893年]])
* [[1月19日]] - [[ヘンリー・ベッセマー|ベッセマー]]、イギリスの[[発明家]](+ [[1898年]])
* [[1月21日]] - [[ジョン・C・フレモント]]、[[探検家]](+ [[1890年]])
* [[2月12日]] - [[ジェームズ・デーナ]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](+ [[1895年]])
* [[2月14日]] - [[アレクサンドル・ダルゴムイシスキー]]、[[作曲家]](+ [[1869年]])
* [[3月11日]]([[文化 (元号)|文化]]10年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]])- [[藤堂高猷]]、第11代[[津藩|津藩主]](+ [[1895年]])
* [[3月17日]] - [[カメハメハ3世]]、[[ハワイ王国|ハワイ王]](+ [[1854年]])
* [[3月18日]] - [[フリードリヒ・ヘッベル]]、作家(+ [[1863年]])
* [[3月19日]] - [[デイヴィッド・リヴィングストン|リヴィングストン]]、イギリスの探検家・[[宣教師]](+ [[1873年]])
* [[4月7日]](文化10年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]])- [[真木保臣]]、[[尊皇攘夷]]派[[志士]](+ [[1864年]])
* [[4月23日]] - [[スティーブン・ダグラス]]、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](+ [[1861年]])
* [[4月27日]](文化10年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]])- [[溶姫]]、第13代[[加賀藩|加賀藩主]][[前田斉泰]]の[[正室]](+ [[1868年]])
* [[5月5日]] - [[セーレン・キェルケゴール|キェルケゴール]]、[[デンマーク]]の哲学者(+ [[1855年]])
* [[5月10日]] - [[モンゴメリー・ブレア]]、[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1883年]])
* [[5月13日]] - [[ロト・モリル]]、第31代[[アメリカ合衆国財務長官]](+ [[1883年]])
* [[5月22日]] - [[リヒャルト・ワーグナー|リヒャルト・ヴァーグナー]]、ドイツの[[歌劇]]作曲家(+ [[1883年]])
* [[7月12日]] - [[クロード・ベルナール]]、[[生理学|生理学者]](+ [[1878年]])
* [[8月4日]](文化10年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]])- [[酒井忠義 (小浜藩主)|酒井忠義]]、[[大名]]、[[小浜藩]]第12代藩主(+ [[1873年]])
* [[8月5日]] - [[イーヴァル・オーセン]]、[[言語学者]]・[[文献学者]]・[[詩人]](+ [[1896年]])
* [[8月18日]](文化10年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]])- [[池田草庵]]、[[儒学者]](+ [[1878年]])
* [[9月19日]] - [[クリスチャン・H・F・ピーターズ]]、[[天文学者]](+ [[1890年]])
* [[10月2日]](文化10年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]])- [[伴林光平]]、[[国学者]]・[[歌人]](+ [[1864年]])
* [[10月5日]] - [[エルンスト・ハーベルビアー]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](+ [[1869年]])
* [[10月10日]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]、イタリアの作曲家(+ [[1901年]])
* [[10月17日]] - [[ゲオルク・ビュヒナー]]、[[劇作家]](+ [[1837年]])
* [[11月15日]] - [[ジョン・オサリヴァン]]、[[コラムニスト]](+ [[1895年]])
* [[11月29日]] - [[フランツ・ミクロシッチ]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1881年]])
* [[11月30日]] - [[シャルル=ヴァランタン・アルカン]]、作曲家(+ [[1888年]])
* [[12月5日]] - [[ゲンナジー・ネヴェリスコイ]]、航海者(+ [[1876年]])
* [[12月19日]] - [[トーマス・アンドリューズ (科学者)|トーマス・アンドリューズ]]、[[化学者]](+ [[1885年]])
* [[12月29日]] - [[カレル・サビナ]]、作家、ジャーナリスト(+ [[1877年]])
* 月日不明 - [[スティーヴン・マロリー]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]](+ [[1873年]])
* 月日不明 - [[月照]]、幕末の[[僧]]・[[尊皇攘夷]]派(+ [[1858年]])
== 崩御・死去 ==
{{see also|Category:1813年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月10日]] - [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]](* [[1736年]])
* [[4月27日]] - [[ゼブロン・パイク]]、[[軍人]]・[[探検家]](* [[1779年]])
* [[7月31日]](文化10年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[蒲生君平]]、[[儒学者]](*[[1768年]])
* [[8月12日]] - [[サミュエル・オズグッド]]、第4代[[アメリカ合衆国郵政長官]](*[[1748年]])
* [[10月19日]] - [[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ]]、[[ポーランド]]出身の[[フランス]]の[[軍人]]・[[元帥]](* [[1763年]])
* [[12月24日]](文化10年閏[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[後桜町天皇]]、第117代[[天皇]](*[[1740年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1813}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1813ねん}}
[[Category:1813年|*]] | null | 2021-06-12T11:19:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1813%E5%B9%B4 |
5,062 | 1862年 | 1862年(1862 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。 | [
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] | 1862年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1862}}
{{year-definition|1862}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[壬戌]]
* [[日本]]([[天保暦]])
** [[文久]]元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]] - 文久2年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]
** [[皇紀]]2522年
* [[清]]
** [[咸豊]]11年12月2日 - 12月30日、[[同治]]元年1月1日 - 11月11日
* [[朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]4195年
<!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし-->
* [[阮朝]]([[ベトナム]])
** [[嗣徳]]15年
* [[仏滅紀元]]:2404年 - 2405年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1278年6月29日 - 1279年7月9日
* [[ユダヤ暦]]:5622年4月29日 - 5623年4月9日
* [[修正ユリウス日]](MJD):1141 - 1505
* [[リリウス日]](LD):101982 - 102346
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1862}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月6日]] - [[メキシコ出兵]]: [[フランス]],[[スペイン]]および[[英国]]軍が[[ベラクルス]]に至る
* [[1月21日]] - [[文久遣欧使節]]出発
* [[1月24日]] - [[ブカレスト]]が[[ルーマニア公国]]の首都となる
* [[1月30日]] - 米海軍初の[[装甲艦]]「[[モニター (装甲艦)|モニター]]」進水
* [[1月31日]] - [[アルヴァン・グラハム・クラーク]]が[[シリウス]]伴星(シリウスB)を発見(初の[[白色矮星]])
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - 軍歌「[[リパブリック讃歌]]」([[:en:The Battle Hymn of the Republic|The Battle Hymn of the Republic]])発表
* [[2月6日]] - [[南北戦争]]: [[ヘンリー砦の戦い]]
* [[2月13日]](文久2年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[坂下門外の変]]
* [[2月20日]] - [[南北戦争]]: [[ヴァルヴァードの戦い]]
* [[2月22日]] - [[南北戦争]]: [[ジェファーソン・デイヴィス]]が[[南部連合国]]大統領に就任
* [[イワン・ツルゲーネフ]]小説『父と子』発表
=== 3月 ===
* [[3月6日]] - [[プロイセン衆議院]]、予算細目化を求める決議を可決。プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]、衆議院自由主義派との対決姿勢を深める。
* [[3月7日]] - [[南北戦争]]: [[ピーリッジの戦い]]
* [[3月8日]] - [[南北戦争]]: [[ハンプトン・ローズ海戦]]
* [[3月11日]](文久2年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]])
** [[徳川家茂]]と[[和宮親子内親王]]の婚儀
** プロイセン王ヴィルヘルム1世が衆議院を解散。選挙戦へ突入。
* [[3月17日]] - プロイセン王ヴィルヘルム1世、{{仮リンク|新時代 (プロイセン)|de|Neue Ära|label=新時代}}内閣を更迭。[[アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲン]]を首相に。
* [[3月28日]] - [[南北戦争]]: [[グロリエタの戦い]]
=== 4月 ===
* [[4月3日]] - [[ヴィクトル・ユゴー]]小説『[[レ・ミゼラブル]]』発表
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]が開幕する
* [[5月5日]] - [[ポステ・イタリアーネ]]が開業する
* [[5月5日]] - [[メキシコ出兵]]: [[プエブラの会戦]]
* [[5月6日]] - プロイセン衆議院総選挙。自由主義派さらに躍進。政府派さらに議席減。
* [[5月20日]] - 米国で[[ホームステッド法]]成立
* [[5月21日]](文久2年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[寺田屋事件]]
* 雑誌「[[ジャパン・パンチ]]」創刊([[チャールズ・ワーグマン]])
=== 6月 ===
* [[6月5日]] - [[フランス]]が南[[ベトナム]]3省([[交趾支那]])を獲得([[第一次サイゴン条約]]締結)
* [[6月6日]] - [[南北戦争]]: [[メンフィスの戦い]]
* [[6月19日]] - アメリカ合衆国議会がドレッド・スコット対サンフォード事件の判決を破棄して、アメリカ合衆国の領域内での奴隷制を禁止。
* [[6月25日]](文久2年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[東禅寺事件#第二次東禅寺事件|第二次東禅寺事件]]
=== 7月 ===
* [[7月1日]]
** [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]がユダヤ人に出版を許可
** [[ロシア国立図書館 (モスクワ)|ロシア国立図書館]]設立
* [[7月4日]] - [[ルイス・キャロル]]が[[アリス・リデル]]らに『[[不思議の国のアリス]]』を即興で語る
* [[7月12日]] - 米国で[[名誉勲章]]制定
=== 8月 ===
* [[8月9日]] - [[南北戦争]]: [[シーダー山の戦い]]
* [[8月17日]] - [[ダコタ戦争]]勃発: [[スー族]]と白人の間に紛争が生じる
* [[8月21日]] - [[ウィーン市民公園]]([[:de:Wiener Stadtpark|Wiener Stadtpark]])開園
* [[8月30日]] - 南北戦争: [[第二次ブルランの戦い]]が[[アメリカ連合国|南軍]]の勝利で終わる。
=== 9月 ===
* [[9月11日]] - プロイセン議会召集。衆議院自由主義派、国王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]の軍制改革予算案を拒否する構え。
* [[9月14日]](文久2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[生麦事件]]
* [[9月17日]]
** [[南北戦争]]: [[アンティータムの戦い]]
** プロイセン王ヴィルヘルム1世、御前会議で衆議院自由主義派の一部議員が提出した軍制改革法案の妥協案を拒否する宣言。
* [[9月22日]]
** [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]が[[奴隷解放宣言|奴隷解放]]を宣言
** プロイセン王ヴィルヘルム1世、無予算統治派の[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]を首相に任命。
* [[9月30日]] - ビスマルクが[[鉄血演説]]を行う
=== 10月 ===
* [[10月8日]] - [[南北戦争]]: [[ペリービルの戦い]]
* [[10月13日]] - プロイセン議会閉会。衆議院との妥結ができなかったビスマルク、国王勅語を通じて無予算統治を宣言。
* [[10月30日]] - [[リチャード・ジョーダン・ガトリング]]が[[ガトリング砲]]の米国特許を取得
=== 11月 ===
* [[11月2日]](文久2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - 幕府が派遣する第1回留学生が長崎を出帆([[榎本武揚]]、[[赤松則良]]、[[西周 (啓蒙家)|西周]]ら15名)
* [[11月5日]] - [[南北戦争]]: [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]が[[ジョージ・マクレラン]]総司令官を解任
* [[11月10日]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]歌劇「[[運命の力]]」初演([[マリインスキー劇場]])
=== 12月 ===
* [[12月6日]] - [[ダコタ戦争]]: [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]が[[スー族]]39名の処刑を命ず
* [[12月11日]] - [[南北戦争]]: [[フレデリックスバーグの戦い]]
* [[12月26日]] - [[ダコタ戦争#ダコタ族に対する一斉絞首刑]]: [[スー族]]38名が絞首刑となる('''米国史上最多の同時処刑''')
=== 日付不詳 ===
* [[日本]]では近代競馬が横浜で誕生。これが後の[[中央競馬]]へと成長して行く。
* 第三次[[コレラ]]が日本にて大流行
* [[幕府陸軍]]が創設される。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1862年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月23日]] - [[ダフィット・ヒルベルト]]、[[数学者]](+ [[1943年]])
* [[1月29日]] - [[フレデリック・ディーリアス]]、[[作曲家]](+ [[1934年]])
* [[2月17日]](文久2年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[森鷗外]]、小説家(+ [[1922年]])
* [[2月22日]] - [[フルダ・ガルボルグ]]、[[作家]]・[[舞踏家]](+ [[1934年]])
* [[2月25日]] - [[ヘレン・バンナーマン]]、[[児童文学作家]](+ [[1946年]])
* [[3月9日]] - [[ニコライ・ピモネンコ]]、[[画家]](+ [[1912年]])
* [[4月4日]] - [[レオニード・パステルナーク]]、画家(+ [[1945年]])
* [[4月5日]] - [[レオ・スターン]]、[[チェリスト]](+ [[1904年]])
* [[5月5日]] - [[ジークベルト・タラッシュ]]、[[チェス]]プレーヤー(+ [[1934年]])
* [[5月22日]](文久2年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[牧野富太郎]]、[[植物学者]](+ [[1957年]])
* [[5月23日]] - [[ダミー・ホイ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1961年]])
* [[6月26日]](文久2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[箕作元八]]、[[歴史家]](+ [[1919年]])
* [[7月8日]] - [[ハンク・オーデイ]]、メジャーリーガー(+ [[1935年]])
* [[7月14日]] - [[グスタフ・クリムト]]、[[画家]](+ [[1918年]])
* [[7月21日]] - [[野村萬斎|初世野村萬斎]]、[[狂言師|狂言方]](+ [[1938年]])
* [[8月22日]] - [[クロード・ドビュッシー]]、作曲家(+ [[1918年]])
* [[8月29日]] - [[モーリス・メーテルリンク]]、詩人・劇作家(+ [[1949年]])
* [[9月1日]](文久2年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[新渡戸稲造]]、[[農学者]]・教育者(+ [[1933年]])
* [[9月11日]] - [[オー・ヘンリー]]、小説家(+ [[1910年]])
* [[10月8日]] - [[エミール・フォン・ザウアー]]、[[音楽家]](+ [[1942年]])
* [[11月11日]] - [[エマニュエル・デュ・マルゲリー]]、[[地質学者]]・[[地球物理学者]](+ [[1953年]])
* [[11月15日]] - [[ゲルハルト・ハウプトマン]]、劇作家・小説家(+ [[1946年]])
* [[11月20日]] - [[ジョルジュ・パラント]]、[[思想家]]・[[哲学者]](+ [[1925年]])
* [[11月21日]] - [[ジョン・ポール・グード]]、[[地理学者]](+ [[1932年]])
* [[11月24日]] - [[ベルンハルト・シュターフェンハーゲン]]、[[音楽家]](+ [[1914年]])
* [[11月26日]] - [[オーレル・スタイン]]、[[探検家]](+ [[1943年]])
* [[12月4日]] - [[コンスタン・モンタルド]]、[[美術家]](+ [[1944年]])
* [[11月20日]] - [[ダン・ケイシー]]、メジャーリーガー(+ [[1943年]])
* [[12月12日]] - [[ジョセフ・ブルース・イズメイ]] 実業家(+ [[1937年]])
* [[12月22日]] - [[コニー・マック]]、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]チーム監督(+ [[1956年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1862年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月10日]] - [[サミュエル・コルト]]、[[コルト・ファイヤーアームズ]]創立者(* [[1814年]])
* [[1月18日]] - [[ジョン・タイラー]]、第10代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1790年]])
* [[2月3日]] - [[ジャン=バティスト・ビオ]]、[[物理学者]](* [[1774年]])
* [[2月20日]] - [[ウィリー・リンカーン]]、[[エイブラハム・リンカーン]]の三男(* [[1850年]])
* [[3月23日]] - [[カール・ロベルト・ネッセルローデ]]、[[ロシア帝国]]外相(* [[1780年]])
* [[5月6日]](文久2年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[吉田東洋]]、土佐藩士(* [[1816年]])
* 5月6日 - [[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]、作家(* [[1817年]])
* [[5月7日]](文久2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]])- [[大槻俊斎]]、[[蘭学|蘭方医]](* [[1806年]])
* [[5月21日]](文久2年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]])- [[有馬新七]]、[[尊皇攘夷]]派[[志士]](* [[1825年]])
* [[5月29日]] - [[ヘンリー・バックル]]、[[歴史学者]](* [[1821年]])
* [[6月16日]](文久2年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]])- [[秀ノ山雷五郎]]、[[大相撲]]第9代[[横綱]](* [[1808年]])
* [[7月24日]] - [[マーティン・ヴァン・ビューレン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Martin-Van-Buren Martin Van Buren president of United States] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第8代アメリカ合衆国大統領(* [[1782年]])
* [[9月1日]] - [[フィリップ・カーニー]]、[[アメリカ陸軍]]の軍人(* [[1815年]])
* [[9月3日]](文久2年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]])- [[本因坊秀策]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1829年]])
* [[9月5日]](文久2年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]])- [[三遊亭圓生 (2代目)]]、[[落語家]](* [[1806年]])
* [[9月20日]](文久2年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]])- [[長野主膳]]、[[国学|国学者]]・[[井伊直弼]]の謀臣(* [[1815年]])
* [[10月17日]](文久2年[[閏]][[8月24日 (旧暦)|8月24日]])- [[小田海僊]]、[[南画|南画家]](* [[1785年]])
* [[11月7日]] - [[バハードゥル・シャー2世]]、第17代[[ムガル帝国|ムガル皇帝]](* [[1775年]])
* [[11月11日]] - [[ジェイムズ・マディソン・ポーター]]、第18代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1793年]])
* [[11月16日]] - [[ウィリアム・プレストン (海軍長官)|ウィリアム・プレストン]]、第19代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1805年]])
* [[12月5日]](文久2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[津軽信順]]、第10代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1800年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1862}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1862ねん}}
[[Category:1862年|*]] | null | 2023-03-19T11:00:24Z | false | false | false | [
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"Template:Year-definition",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:十年紀と各年",
"Template:年間カレンダー",
"Template:仮リンク",
"Template:See also",
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"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1862%E5%B9%B4 |
5,063 | 1857年 | 1857年(1857 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
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] | 1857年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1857}}
{{year-definition|1857}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[丁巳]]
* 日本([[天保暦]])
** [[安政]]3年12月6日 - 安政4年11月16日
** [[皇紀]]2517年
* [[清]]
** [[咸豊]]6年12月6日 - 咸豊7年11月16日
* [[朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]8年
** [[檀君紀元|檀紀]]4190年
<!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし-->
* [[阮朝]]([[ベトナム]])
** [[嗣徳]]10年
* [[仏滅紀元]]:2399年 - 2400年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1273年5月5日 - 1274年5月14日
* [[ユダヤ暦]]:5617年4月5日 - 5618年4月14日
* [[修正ユリウス日]](MJD):-685 - -321
* [[リリウス日]](LD):100156 - 100520
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1857}}
== できごと ==
[[ファイル:Taking of Sai-Lau, Canton River, 1858.jpg|thumb|right|240px|イギリス軍は広州へ侵攻した([[広州の戦い (1857年)|広州の戦い]])]]
* 正月 - [[甲斐国]]・[[甲府]]で[[博徒]]の[[三井卯吉]]が、敵対する博徒集団に襲撃され死亡。
* [[3月6日]] - [[合衆国最高裁判所]]が[[ドレッド・スコット対サンフォード事件]]の判決を下す。
* [[3月27日]]-[[4月24日]] - [[イギリス]]で[[アロー戦争]]の是非をめぐって{{仮リンク|1857年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1857}}。戦争支持の与党[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の勝利。
* [[5月10日]] - [[インド]]で[[第一次インド独立戦争|セポイの乱]]起こる。
* [[6月17日]] -([[安政]]4年5月26日) - [[日米追加条約]]
* 夏ごろ - [[アメリカ合衆国]]で[[1857年恐慌]]が広がり始める
* [[9月11日]] - [[モルモン教]]徒と[[アメリカ陸軍]]による[[ユタ戦争]]が起こる。
* 秋ごろ - [[赤松宗旦]]が『[[利根川図志]]』を刊行する。
* [[10月12日]]([[安政]]4年8月25日) - [[日露追加条約]]
* [[10月16日]]([[安政]]4年8月29日) - [[日蘭追加条約]]
* [[12月7日]]([[安政]]4年10月21日) - 初代駐日米国大使[[タウンゼント・ハリス]]、将軍[[徳川家定]]謁見し、米国大統領の国書を渡す。
* [[12月28日]] - [[アロー戦争]]: [[広州の戦い (1857年)|広州の戦い]]はじまる。
* [[渋染一揆]]が起こる
== 誕生 ==
{{see also|Category:1857年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月1日]] - [[ティム・キーフ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1933年]])
* [[1月12日]] - [[クヌート・オングストローム]]、[[物理学者]](+ [[1910年]])
* [[1月17日]] - [[ジョアンナ・ブーイソン]]、[[長寿]]世界最高齢の人物、[[南アフリカ共和国]]最長寿記録保持者。(+ [[1968年]])
* [[1月19日]]([[安政]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[珍田捨巳]]、日本の[[皇室]][[侍従長]](+ [[1928年]])
* [[2月14日]](安政4年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[植木枝盛]]、[[自由民権運動]]指導者・[[衆議院議員]](+ [[1892年]])
* [[2月22日]] - [[ベーデン・パウエル]]、[[ボーイスカウト]]創立者(+ [[1941年]])
* 2月22日 - [[ハインリヒ・ヘルツ]]、[[物理学者]](+ [[1894年]])
* [[3月7日]] - [[ユリウス・ワーグナー=ヤウレック]]、[[医学者]](+ [[1940年]])
* [[3月8日]] - [[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ]]、[[作曲家]](+ [[1919年]])
* [[3月27日]] - [[カール・ピアソン]]、[[統計学者]](+ [[1936年]])
* [[4月5日]] - [[アレクサンダル (ブルガリア公)|アレクサンダル]]、[[ブルガリア]]公(+ [[1893年]])
* [[4月8日]](安政4年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[藤岡市助]]、[[技術者]]・[[実業家]](+ [[1918年]])
* [[4月10日]] - [[リュシアン・レヴィ=ブリュール]]、[[哲学者]]・[[社会学者]]・[[文化人類学|文化人類学者]](+ [[1939年]])
* [[4月14日]] - [[ベアトリス (イギリス王女)|ベアトリス]]、[[イギリス]]王女(+ [[1944年]])
* [[4月27日]] - [[テオドール・キッテルセン]]、[[画家]]・[[芸術家]](+ [[1914年]])
* [[4月29日]] - [[フランティシェク・オンドジーチェク]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1922年]])
* [[5月3日]] - [[ジョージ・ゴア]]、メジャーリーガー(+ [[1933年]])
* [[5月5日]] - [[リー・リッチモンド]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(+ [[1929年]])
* [[5月11日]] - [[三浦守治]]、[[東京帝国大学]][[医科大学]]、初代[[病理学]][[教授]](+ [[1916年]])
* [[5月13日]] - [[ロナルド・ロス]]、内科医、[[1902年]][[ノーベル生理学・医学賞]](+ [[1932年]])
* [[5月15日]] - [[ウィリアミーナ・フレミング]]、[[天文学者]](+ [[1911年]])
* [[5月22日]] - [[ポール・モートン]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]](+ [[1911年]])
* [[5月23日]] - [[アルフォンス・オスベール]]、[[画家]](+ [[1939年]])
* [[5月29日]](安政4年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[伊東巳代治]]、[[工部省|工部]]官僚・政治家(+ [[1934年]])
* [[5月31日]] - [[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピウス11世]]、第259代[[ローマ教皇]](+ [[1939年]])
* [[6月2日]] - [[エドワード・エルガー]]、作曲家(+ [[1934年]])
* 6月2日 - [[カール・ギェレルプ]]、[[詩人]]・[[小説家]](+ [[1919年]])
* [[6月6日]] - [[アレクサンドル・リャプノフ]]、[[数学者]](+ [[1918年]])
* [[6月11日]] - [[ジョゼフ・ラーモア]]、物理学者(+ [[1942年]])
* [[7月1日]] - [[ロジャー・コナー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1931年]])
* [[7月6日]] - [[ジョージ・ダービー]]、メジャーリーガー(+ [[1925年]])
* [[7月8日]] - [[アルフレッド・ビネー]]、[[心理学者]](+ [[1911年]])
* [[7月22日]] - [[ジャック・グラスコック]]、メジャーリーガー(+ [[1947年]])
* [[7月24日]](安政4年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[後藤新平]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[帝都復興院]]総裁(+ [[1929年]])
* 7月24日 - [[ヘンリク・ポントピダン]]、小説家(+ [[1943年]])
* [[7月25日]] - [[フランク・スプレイグ]]、[[発明家]](+ [[1934年]])
* [[7月30日]] - [[ソースティン・ヴェブレン]]、[[経済学者]](+ [[1929年]])
* [[8月5日]] - [[ギュスターヴ・ランソン]]、[[文芸評論|文芸評論家]](+ [[1934年]])
* [[8月8日]] - [[セシル・シャミナード]]、作曲家(+ [[1944年]])
* 8月8日 - [[ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン]]、[[古生物学者]]・[[地質学者]](+ [[1935年]])
* [[8月22日]] - [[ネッド・ハンロン]]、メジャーリーガー(+ [[1937年]])
* [[9月8日]] - [[ゲオルク・ミヒャエリス]]、第6代[[ドイツ国首相]](+ [[1936年]])
* [[9月9日]] - [[アブナー・ダルリンプル]]、メジャーリーガー(+ [[1939年]])
* [[9月10日]] - [[ジェームズ・エドワード・キーラー]]、天文学者(+ [[1900年]])
* [[9月15日]] - [[ウィリアム・タフト]]、第27代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1930年]])
* [[9月17日]] - [[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]、[[宇宙工学|宇宙工学者]](+ [[1935年]])
* 9月17日 - [[リリアン・ワトソン]]、[[テニス]]選手(+ [[1918年]])
* [[11月5日]] - [[イーダ・ターベル]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1944年]])
* [[11月10日]] - [[ジム・ホイットニー]]、メジャーリーガー(+ [[1891年]])
* [[11月17日]] - [[ジョゼフ・ババンスキー]]、[[医学者]](+ [[1932年]])
* [[11月21日]] - [[マヌエル・ホセ・エストラーダ・カブレーラ]]、[[グアテマラ]]大統領(+ [[1923年]])
* [[11月22日]] - [[ジョージ・ギッシング]]、小説家(+ [[1903年]])
* [[11月25日]] - [[フィリッポ・トゥラーティ]]、[[社会主義]]運動家(+ [[1932年]])
* [[11月26日]] - [[フェルディナン・ド・ソシュール]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1913年]])
* [[11月27日]] - [[チャールズ・シェリントン]]、[[生理学|生理学者]](+ [[1952年]])
* [[11月28日]] - [[アルフォンソ12世 (スペイン王)|アルフォンソ12世]]、[[スペイン|スペイン王]](+ [[1885年]])
* [[11月30日]](安政4年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[陸羯南]]、ジャーナリスト(+ [[1907年]])
* [[12月3日]] - [[ジョゼフ・コンラッド]]、小説家(+ [[1924年]])
* [[12月16日]] - [[エドワード・エマーソン・バーナード]]、天文学者(+ [[1923年]])
* [[12月31日]] - [[キング・ケリー]]、メジャーリーガー(+ [[1894年]])
* 久保豊三郎-二本松少年隊士12歳で戦死
== 死去 ==
{{see also|Category:1857年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月21日]]([[安政]]3年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]])- [[古今亭志ん生 (初代)]]、[[落語家]](* [[1809年]])
* [[2月15日]] - [[ミハイル・グリンカ]]、[[ロシア]]の[[作曲家]](* [[1804年]])
* [[3月20日]] - [[アルマン・デュフレノア]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](* [[1792年]])
* [[5月2日]] - [[アルフレッド・ド・ミュッセ]]、[[フランス]]の[[ロマン主義]]の[[作家]](* [[1810年]])
* [[5月11日]] - [[フランソワ・ヴィドック]]、[[アウトロー]]・パリ警察の密偵(* [[1775年]])
* [[5月17日]] - [[ミール・ファーカンダ・アリ・カーン・ナイザー-ウッドゥ-ラ]]、[[ニザーム藩王国|ニザーム藩王]](* [[1794年]])
* [[5月23日]] - [[オーギュスタン=ルイ・コーシー]]、フランスの[[数学者]](* [[1789年]])
* [[6月21日]] - [[ルイ・テナール]]、[[化学者]](* [[1777年]])
* [[7月4日]] - [[ウィリアム・マーシー]]、第21代[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1786年]])
* [[7月15日]] - [[カール・チェルニー]]、[[オーストリア]]の[[ピアニスト]]、作曲家(* [[1791年]])
* [[7月16日]] - [[ピエール=ジャン・ド・ベランジェ]]、フランスの[[抒情詩]]人、[[シャンソン]]作者(* [[1780年]])
* [[7月29日]] - [[ジェームズ・ホルマン]]、[[探検家]](* [[1768年]])
* [[8月1日]] - [[エミーリエ・ツムシュテーク]]、[[音楽家]](* [[1796年]])
* [[8月3日]] - [[ウージェーヌ・シュー]]、フランスの小説家(* [[1804年]])
* [[8月4日]] - [[ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)|ジェイムズ・コクラン・ドビン]]、第22代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1814年]])
* [[8月6日]](安政4年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[阿部正弘]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1819年]])
* [[8月13日]](安政4年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[加納諸平]]、[[国学者]](* [[1806年]])
* [[8月20日]](安政4年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]) - [[佐竹義睦]]、第11代[[久保田藩|久保田藩主]](* [[1839年]])
* [[8月26日]] - [[アドルフ・シュラーギントヴァイト]]、[[植物学者]]・[[探検家]](* [[1829年]])
* [[9月5日]] - [[オーギュスト・コント]]、フランスの[[哲学]]者・[[社会学]]者(* [[1798年]])
* [[9月22日]] - [[ダニエーレ・マニン]]、[[民族主義]]運動指導者(* [[1804年]])
* [[9月27日]](安政4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[鳥居忠挙]]、[[江戸幕府]][[若年寄]]・[[壬生藩|壬生藩主]](* [[1815年]])
* [[10月7日]] - [[ルイス・マクレーン]]、第10代アメリカ合衆国国務長官(* [[1786年]])
* [[10月18日]] - [[アストルフ・ド・キュスティーヌ]]、[[外交官]]・[[紀行|紀行文作家]](* [[1790年]])
* [[10月28日]] - [[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]、フランスの行政長官(* [[1802年]])
* [[11月17日]] - [[ベイミドルトン]]、[[競走馬]]・[[種牡馬]](* [[1833年]])
* [[11月26日]] - [[ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ]]、ドイツの[[詩人]]・[[小説家]](* [[1788年]])
* [[12月15日]] - [[ジョージ・ケイリー]]、[[航空]]エンジニア(* [[1773年]])
* 月日不詳 - [[アウグスティノス・カポディストリアス]]、[[ギリシャの大統領|ギリシャ大統領]](* [[1778年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1857}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1857ねん}}
[[Category:1857年|*]] | 2003-03-24T07:08:44Z | 2023-11-12T14:55:10Z | false | false | false | [
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"Template:十年紀と各年",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1857%E5%B9%B4 |
5,064 | 1803年 | 1803年(1803 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | [
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] | 1803年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1803}}
{{year-definition|1803}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸亥]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[享和]]3年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2463年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]8年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]3年
** [[檀君紀元|檀紀]]4136年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[嘉隆]]2年
* [[仏滅紀元]] : 2345年 - 2346年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1217年9月7日 - 1218年9月17日
* [[ユダヤ暦]] : 5563年4月7日 - 5564年4月16日
* [[ユリウス暦]] : 1802年12月20日 - 1803年12月19日
* [[フランス革命暦]] : XI年雪月11日 - XII年雪月9日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -20409 - -20045
* [[リリウス日]](LD) : 80432 - 80796
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1803}}
== できごと ==
* [[2月24日]] - [[合衆国最高裁判所|米国最高裁]]が[[マーベリー対マディソン事件]]で[[違憲審査制]]を確立{{要出典|date=2021-03}}
* [[2月25日]] - [[帝国代表者会議主要決議]]{{要出典|date=2021-03}}
* [[4月30日]] - 米国が[[ルイジアナ買収]]を行い国土を2倍とする{{要出典|date=2021-03}}
* [[5月1日]] - 米国で[[オハイオ州|オハイオ]]が17番目の州となる
* [[8月8日]]-[[8月12日]] - [[アフマドナガル包囲戦]]。この戦いにより[[第二次マラーター戦争]]開戦( - 1805年)
* [[9月3日]] - [[イギリス帝国]]が[[タスマニア]]に植民を開始
* [[9月11日]] - 第二次マラーター戦争: [[デリーの戦い (1803年)|デリーの戦い]]。イギリス帝国、[[インド]]・[[デリー]]を占領。
=== 日付不詳 ===
* アメリカ船、[[長崎港|長崎]]に来航し通商を要求する。
* 越南(ベトナム)の国号成立
== 誕生 ==
{{see also|Category:1803年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月6日]] - [[アンリ・エルツ]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1888年]])
* [[2月18日]](享和3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]、[[理学博士]](+ [[1901年]])
* [[3月3日]] - [[アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン]]、[[画家]](+ [[1860年]])
* [[4月29日]] - [[ジェームズ・ブルック|ブルック]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Brooke-Raj Brooke Raj British dynasty of Sarawak] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、イギリスの[[探検家]](+ [[1868年]])
* [[4月30日]] - [[アルブレヒト・フォン・ローン|ローン]]、[[プロイセン]]の[[軍人]]・[[政治家]](+ [[1879年]])
* [[5月12日]] - [[ユストゥス・フォン・リービッヒ|リービッヒ]]、ドイツの[[化学者]](+ [[1873年]])
* [[5月25日]] - [[ラルフ・ワルド・エマーソン|エマーソン]]、アメリカの[[思想家]](+ [[1882年]])
* [[7月25日]] - [[フェルディナント・バイエル]]、作曲家・ピアニスト(+ [[1863年]])
* [[9月13日]] - [[J・J・グランヴィル]]、[[風刺画]]家(+ [[1847年]])
* [[9月28日]] - [[プロスペル・メリメ]]、[[作家]](+ [[1870年]])
* [[10月6日]] - [[ロバート・スチーブンソン]]、[[技術者]](+ [[1859年]])
* [[11月8日]] - [[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]、[[ロシア帝国]][[軍人]](+ [[1883年]])
* [[11月29日]] - [[クリスチャン・ドップラー|ドップラー]]、[[オーストリア]]の[[物理学者]](+ [[1853年]])
* [[12月5日]] - [[フョードル・チュッチェフ|チュッチェフ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Fyodor-Tyutchev Fyodor Tyutchev Russian writer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、ロシアの[[詩人]]・[[外交官]](+ [[1873年]])
* [[12月11日]] - [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]、フランスの[[ロマン派]][[作曲家]](+ [[1869年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1803年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月24日]] - [[アデライド・ラビーユ=ギアール]]、[[画家]](* [[1749年]])
* [[7月29日]](享和3年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]) - [[中沢道二]]、石門心学者(* [[1725年]])
* [[9月16日]] - [[ニコラ・ボーダン]]、[[探検家]](* [[1754年]])
* [[12月8日]]([[享和]]3年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[岡部長備]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第8代藩主(* [[1763年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1803}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1803ねん}}
[[Category:1803年|*]] | null | 2021-05-16T16:26:27Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:十年紀と各年"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1803%E5%B9%B4 |
5,065 | 1833年 | 1833年(1833 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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"title": "死去"
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] | 1833年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1833}}
{{year-definition|1833}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[癸巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[天保]]3年[[閏]][[11月11日 (旧暦)|11月11日]] - 天保4年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2493年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[道光]]12年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]] - 道光13年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]
*** [[張丙]]{{Sup|*}} : [[天運 (張丙)|天運]]2年(旧正月まで)
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]33年
** [[檀君紀元|檀紀]]4166年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[明命]]14年
* [[仏滅紀元]] : 2375年 - 2376年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1248年8月9日 - 1249年8月18日
* [[ユダヤ暦]] : 5593年4月10日 - 5594年4月19日
* [[ユリウス暦]] : 1832年12月20日 - 1833年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -9451 - -9087
* [[リリウス日]](LD) : 91390 - 91754
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1833}}
== できごと ==
* [[1月3日]] - イギリス軍、[[フォークランド諸島]]を再占領{{要出典|date=2021-02}}。
* [[1月10日]] - [[フェリックス・メンデルスゾーン]]の[[カンタータ]]「[[最初のワルプルギスの夜]]」が初演{{要出典|date=2021-03}}。
* [[3月22日]] - [[ドイツ]]諸邦国が[[ドイツ関税同盟]]締結、施行は翌年元日より。
* [[4月29日]] - [[チューリッヒ大学]]創立。
* [[5月6日]] - [[カール・フリードリヒ・ガウス]]と[[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]が[[ゲッティンゲン]]に[[電信]]機を設置。
* [[5月13日]] - [[交響曲第4番 (メンデルスゾーン)|メンデルスゾーンの交響曲第4番]]が[[ロンドン]]で作曲者自身の指揮により初演。
* [[5月17日]] - [[アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ]]が[[メキシコの大統領|メキシコ大統領]]に就任。
* [[7月8日]] - [[オスマン帝国]]と[[ロシア]]が[[ウンキャル・スケレッシ条約]]を締結。
* [[9月29日]] - [[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]が[[スペイン]]女王に即位。
* [[12月7日]] - [[庄内沖地震]]発生。
* 日付不明 - [[歌川広重]]が『[[東海道五十三次]]絵』を描く。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1833年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月21日]] - [[エドアルド・キヨッソーネ|キヨッソーネ]]、[[イタリア]]の版画家・画家・[[お雇い外国人]](+ [[1898年]])
* [[1月28日]] - [[チャールズ・ゴードン]]、英国の[[軍人]](+ [[1885年]])
* [[2月28日]] - [[アルフレート・フォン・シュリーフェン|シュリーフェン]]、[[ドイツ]]の[[軍人]](+ [[1913年]])
* [[4月14日]](天保4年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[大鳥圭介]]、[[幕臣]]・[[官僚]](+ [[1911年]])
* [[4月17日]] - [[ジャン=バティスト・アッコーライ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]]・[[作曲家]](+ [[1900年]])
* [[5月3日]] - [[フィリップ・ハモジェニーズ・コールドロン]]、[[画家]](+ [[1898年]])
* [[5月5日]] - [[フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン]]、ドイツの[[探検家]]・[[地理学者]](+ [[1905年]])
* [[5月7日]] - [[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、ドイツの[[作曲家]](+ [[1897年]])
* [[5月14日]] - [[ジェイムズ・ドナルド・キャメロン]]、第32代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1918年]])
* [[6月11日]](天保4年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[矢嶋楫子]]、[[女子]][[教育者]]、[[社会事業]]家(+ [[1925年]])
* [[6月15日]](天保4年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[岸田吟香]]、[[新聞記者]]、[[実業家]](+ [[1905年]])
* [[6月20日]] - [[レオン・ボナ]]、画家(+ [[1922年]])
* [[7月7日]] - [[フェリシアン・ロップス]]、画家・[[版画家]](+ [[1898年]])
* [[7月23日]] - [[スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)|第8代デヴォンシャー公爵スペンサー・キャヴェンディッシュ]]、英国の[[政治家]]・[[貴族]](+ [[1908年]])
* [[8月11日]](天保4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[木戸孝允]]、政治家(+ [[1877年]])
* [[8月20日]] - [[ベンジャミン・ハリソン]]、第23代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1901年]])
* [[8月28日]] - [[エドワード・バーン=ジョーンズ]]、[[美術家]](+ [[1898年]])
* [[10月21日]] - [[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]、[[スウェーデン]]の[[化学者]]、[[ノーベル賞]]提唱者(+ [[1896年]])
* [[11月12日]] - [[アレクサンドル・ボロディン]]、ロシアの作曲家(+ [[1887年]])
* [[11月19日]] - [[ヴィルヘルム・ディルタイ|ディルタイ]]、ドイツの[[哲学者]](+ [[1911年]])
* [[11月23日]](天保4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[土方久元]]、[[土佐藩]]士、政治家(+ [[1918年]])
* [[12月2日]] - [[エドゥアール・リウー]]、[[イラストレーター]]・画家(+ [[1900年]])
* [[12月13日]](天保4年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]])- [[山田信道]]、[[熊本藩]]士・[[官僚]]・政治家(+ [[1900年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1833年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月10日]] - [[アドリアン=マリ・ルジャンドル]]、[[数学者]](* [[1752年]])
* [[1月12日]] - [[アントナン・カレーム]]、[[フランス料理]]のシェフ(* [[1784年]])
* [[1月19日]] - [[フェルディナン・エロルド]]、[[作曲家]](* [[1791年]])
* [[1月24日]]([[天保]]3年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]])- [[谷紅藍]]、[[絵師]](* [[1780年]])
* [[1月25日]] - [[バナスター・タールトン]]、[[イギリス陸軍]]の[[大将]](* [[1754年]])
* [[2月6日]] - [[ファウスト・デ・エルヤル]]、[[化学者]](* [[1755年]])
* [[3月6日]](天保4年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]])- [[島津重豪]]、第8代[[薩摩藩|薩摩藩主]](* [[1745年]])
* [[3月29日]](天保4年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]])- [[鯱和三郎]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1772年]])
* [[4月22日]] - [[リチャード・トレビシック]]、[[蒸気機関車]]開発者(* [[1771年]])
* [[5月13日]] - [[ヨハン・フォン・ゾルトナー]]、[[物理学者]]・[[数学者]]・[[天文学者]](* [[1776年]])
* [[5月15日]] - [[エドマンド・キーン]]、[[俳優]](* [[1787年]])
* [[5月29日]] - [[アンゼルム・フォイエルバッハ]]、[[法学者]](* [[1775年]])
* [[6月1日]] - [[オリヴァー・ウォルコット (財務長官)|オリヴァー・ウォルコット]]、[[アメリカ合衆国財務長官]]・[[コネチカット州]][[知事]](* [[1760年]])
* [[7月2日]](天保4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]])- [[青木木米]]、[[陶芸家]]・絵師(* [[1767年]])
* [[7月5日]] - [[ニセフォール・ニエプス]]、[[発明家]](* [[1765年]])
* [[7月10日]](天保4年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]])- [[益田勤斎]]、[[篆刻|篆刻家]](* [[1764年]])
* [[7月29日]] - [[ウィリアム・ウィルバーフォース]]、[[イギリス]]の[[政治家]]・[[奴隷]]制廃止論者(* [[1759年]])
* [[7月30日]](天保4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]])- [[津軽寧親]]、第9代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1765年]])
* [[8月11日]](天保4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]])- [[池田斉政]]、第6代[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1773年]])
* [[8月12日]](天保4年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]])- [[市河恭斎]]、篆刻家(* [[1796年]])
* [[9月8日]](天保4年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[松前章広]]、[[蝦夷地]][[松前藩]]第9代藩主(*[[1775年]])
* [[9月29日]] - [[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]、[[スペイン]]王(* [[1784年]])
* [[10月23日]](天保4年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]])- [[本居大平]]、[[国学|国学者]](* [[1756年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1833}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
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[[Category:1833年|*]] | null | 2021-03-18T09:45:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1833%E5%B9%B4 |
5,066 | 1869年 | 1869年(1869 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令の制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。 | [
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"title": "他の紀年法"
}
] | 1869年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1869}}
{{year-definition|1869}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[己巳]]
* [[日本]]([[天保暦]])
** [[明治]]元年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]] - 明治2年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2529年
* [[清]]:[[同治]]7年11月19日 - 同治8年11月29日
* [[朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]6年
** [[檀君紀元|檀紀]]4202年
* [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]21年11月19日 - 嗣徳22年11月29日
* [[仏滅紀元]]:2411年 - 2412年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1285年9月17日 - 1286年9月27日
* [[ユダヤ暦]]:5629年4月18日 - 5630年4月27日
* [[ユリウス通日|修正ユリウス日]](MJD):3698 - 4062
* [[リリウス日]](LD):104539 - 104903
<div style="font-size:smaller">
※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br />
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令の制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1869}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月27日]]([[明治元年]][[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[日本]]で、[[江戸幕府|旧幕府]]軍が「[[蝦夷共和国]]」を樹立 :[[戊辰戦争]]の一局面{{要出典|date=2021-03}}。
=== 2月 ===
* [[2月11日]]([[明治]]2年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[観音埼灯台|観音埼燈台]](日本初の西洋式灯台)が初点灯。
* [[2月19日]](明治2年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]) - [[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]、第14代藩主[[松前修広]]が襲封。
* [[2月23日]](明治2年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - 日本で、[[小菅県]]が設置される。
* [[2月26日]] - [[アメリカ合衆国]]で[[アメリカ合衆国憲法修正第15条|憲法修正第15条]]が提案される([[批准]]・成立は[[1870年]])。
=== 3月 ===
* [[3月4日]] - [[ユリシーズ・グラント]]が第18代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。
* [[3月6日]] - [[ドミトリ・メンデレーエフ]]が元素の[[周期表|周期律表]]を発表。
* 3月6日(明治2年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - 日本で[[歌会始]]が復興。
* [[3月19日]](明治2年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - 日本で[[公議所]]が開所。
* [[3月20日]](明治2年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - 日本で、[[新聞紙]]の刊行が許可される。
* [[3月21日]](明治2年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - 日本で、[[品川県]]が設置される。
* [[3月24日]](明治2年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - 日本で[[金座]]・[[銀座 (歴史)|銀座]]が廃止される。
* [[3月25日]](明治2年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - 日本の[[東京府]]で朱引内市街地(開墾禁止)と朱引外郷村(開墾奨励)が設定される。
=== 4月 ===
* [[4月8日]] - [[アメリカ自然史博物館]]、設立。
* [[4月13日]] - [[ジョージ・ウェスティングハウス]]が[[空気ブレーキ]]の[[アメリカ合衆国|米国]]における[[特許]]を取得。
* [[4月18日]](明治2年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - 日本にて
** [[東京奠都]]のため、[[明治天皇]]が[[京都]]を出発。
** [[公議所]]が開所。
* [[4月26日]](明治2年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - 日本で、[[天文方]]および[[浅草]]・[[九段]]の[[天文台]]が廃止される。
=== 5月 ===
* [[5月9日]](明治2年[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]) - [[東京奠都]] :[[明治天皇]]が東京に到着。
* [[5月10日]] - [[アメリカ合衆国]]で[[最初の大陸横断鉄道]]が開通。
* [[5月20日]](明治2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]) - 日本で[[箱館湾海戦]]が勃発 :[[戊辰戦争]]の一局面。
=== 6月 ===
* [[6月15日]] - {{仮リンク|ジョン・ハイアット|en|John Wesley Hyatt}}が[[セルロイド]]の[[アメリカ合衆国|米国]]における[[特許]]を取得。
* [[6月27日]](明治2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - 日本で[[箱館戦争]]が終結 :[[戊辰戦争]]の終結。
=== 7月 ===
* [[7月1日]](明治2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - 日本で、[[弾正台]]が設置される。
* [[7月3日]](明治2年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - 日本で、[[為替会社]]が設立される。
* [[7月15日]] - {{仮リンク|イポリット・メージュ=ムーリエ|en|Hippolyte Mège-Mouriés}}が[[マーガリン]]の[[フランス]]における[[特許]]を取得。
* [[7月25日]](明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - 日本で、[[版籍奉還]]が成る。同日、[[華族]]制度が発足。
* [[7月30日]](明治2年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - 日本で[[海軍操錬所]]([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の前身)が設立される。
=== 8月 ===
* [[8月6日]](明治2年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - 日本で、[[戊辰戦争]]の[[官軍]]側戦死者を祀る[[神社]]として、東京招魂社(のちの[[靖国神社]])が創建される。
* [[8月15日]](明治2年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - 日本にて
** [[明治政府]]が[[太政官|太政官制]]を導入(職員令により、[[民部省]]・[[大蔵省]]・[[兵部省]]・[[刑部省]]・[[宮内省]]・[[外務省]]の二官六省制を採用)。
***大蔵省は[[2001年]]([[平成]]13年)の[[中央省庁再編]]により[[財務省]]となり、ほとんど現存しないが、外務省は現在も改称せずに現存。
** 明治政府が[[開拓使]]を設置。
** [[大学校 (1869年)|大学校]]の設立。
* [[8月29日]](明治2年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]) - [[エディンバラ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド王子]]が[[来日]](外国王族の初来日)。
=== 9月 ===
* [[9月5日]] - [[バイエルン王国]]で[[ノイシュヴァンシュタイン城]]が起工。
* [[9月11日]] - [[ナショナル・ウォレス・モニュメント]]が完成。
* [[9月20日]](明治2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[蝦夷地]]を[[北海道 (令制)|北海道]]と改称し、11国86郡を設置。
* [[9月22日]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]の歌劇「[[ラインの黄金]]」の初演(ドイツ、[[ミュンヘン]])。
* [[9月24日]] - [[アメリカ合衆国]]で[[金融危機]]「{{仮リンク|暗黒の金曜日 (1869年)|en|Black Friday (1869)}}」が発生。
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[オーストリア=ハンガリー帝国]]で世界初の[[はがき#無地はがきと絵はがき|絵はがき]]が発行される。
* [[10月16日]] - [[イギリス]]で[[ガートン・カレッジ]]が創設される(イギリス初の全寮制女子カレッジ)。
* [[10月22日]](明治2年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - 日本の[[築地]]に[[海軍操練習所]]([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の前身)が設置される。
* [[10月27日]](明治2年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - 日本にて
** [[西園寺公望]]が[[私塾立命館]]を創設。
** [[ジョン・ウィリアム・フェントン]]が[[妙香寺]]で[[薩摩藩]]兵に[[軍楽隊]]の指導を開始。
=== 11月 ===
* [[11月4日]] - 雑誌『[[ネイチャー]]』の創刊。
* [[11月7日]] - 世界初の[[自転車競技|自転車ロードレース]]が{{仮リンク|パリ〜ルーアン|en|Paris–Rouen}}間で開催される。
* [[11月17日]] - [[スエズ運河]]、開通。
* [[11月22日]] - [[イギリス]]の{{仮リンク|ダンバートン|en|Dumbarton|preserve=1}}で帆船「[[カティーサーク]]」が[[進水式|進水]]。
* [[11月27日]](明治2年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - 日本で、[[昭憲皇太后|皇后]]が東京に到着。''cf.'' [[東京奠都]]。
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[ルパート・ランド]]が[[ハドソン湾会社]]から自治領[[カナダ]]に譲渡。
* [[12月8日]] - [[第1バチカン公会議]]、開催(- [[1870年]])。
* [[12月25日]](明治2年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]) - 日本で公衆[[電報]]の取り扱いが開始される(東京 - 横浜間)。
=== 日付不詳 ===
* 日本で[[関所]]が廃止される。
* 日本で、京橋の[[風月堂|凮月堂]]が[[パン]]の販売を始める。
* [[ハインリヒ・フォン・シーボルト]]が[[来日]]。
* [[ドミトリ・メンデレーエフ]]が、元素の[[周期律表]]を作成。
* [[フリードリッヒ・ミーシェル]]が細胞核中に[[核酸]]を発見してヌクレインと命名した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1869年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月3日]]([[明治]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[梅若万三郎 (初世)|梅若万三郎(初世)]]、[[観世流]][[能楽師]](- [[1946年]])
* [[1月6日]](明治元年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]])- [[高野房太郎]]、[[労働運動家]](+ [[1904年]])
* [[1月9日]] - [[リヒャルト・アベッグ]]、[[化学者]](- [[1910年]])
* [[1月10日]](明治元年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[月亭小文都]]、[[落語家]](- [[1902年]])
* [[1月20日]] - [[フレデリック・マサイアス・アレクサンダー]]、[[俳優]](- [[1955年]])
* [[1月24日]](明治元年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]) - [[白川義則]]、[[陸軍軍人]](+ [[1932年]])
* [[1月31日]] - [[アンリ・カルトン・ドゥ・ヴィアール]]、[[ベルギー]]の[[首相]](- [[1951年]])
* [[2月3日]](明治元年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[各務鎌吉]]、[[実業家]](+ [[1939年]])
* [[2月11日]] - [[エルゼ・ラスカー=シューラー]]、[[詩人]](- [[1945年]])
* [[2月14日]] - [[チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]、[[物理学者]](- [[1959年]])
* [[2月22日]](明治2年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[岡田三郎助]]、[[画家]](- [[1939年]])
* [[2月26日]] - [[ナデジダ・クルプスカヤ]]、[[ロシア革命]]指導者[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の妻(- [[1939年]])
* [[3月3日]] - [[ヘンリー・ウッド]]、[[指揮者]](- [[1944年]])
* [[3月6日]](明治2年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[大町桂月]]、詩人・[[随筆家]](- [[1925年]])
* [[3月7日]] - [[バーサ・タウンゼント]]、[[テニス]]選手(- [[1909年]])
* [[3月14日]] - [[アルジャーノン・ブラックウッド]]、[[ホラー小説|ホラー小説家]](- [[1951年]])
* [[3月16日]] - [[ウィリー・ブルメスター]]、[[ヴァイオリニスト]](- [[1933年]])
* [[3月18日]] - [[ネヴィル・チェンバレン]]、[[イギリスの首相]](- [[1940年]])
* 3月18日(明治2年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[談洲楼燕枝 (2代目)|2代目 談洲楼燕枝]]、落語家(- [[1935年]])
* [[3月29日]] - [[エドウィン・ラッチェンス]]、[[建築家]](- [[1944年]])
* [[3月30日]] - [[エミリオ・アギナルド]]、[[フィリピン]]初代大統領(- [[1964年]])
* [[4月2日]] - [[ヒューイー・ジェニングス]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1928年]])
* [[4月5日]] - [[アルベール・ルーセル]]、[[作曲家]](- [[1937年]])
* [[4月9日]] - [[エリ・カルタン]]、[[数学者]](- [[1951年]])
* [[4月16日]](明治2年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]])- [[川上眉山]]、[[小説家]](+ [[1908年]])
* [[4月21日]] - [[フィリップ・フルトヴェングラー]]、数学者(- [[1940年]])
* [[4月30日]] - [[ハンス・ペルツィヒ]]、建築家(- [[1936年]])
* 4月30日 - [[フィリップ・ド・ラースロー]]、[[画家]](- [[1937年]])
* [[5月5日]] - [[ハンス・プフィッツナー]]、作曲家(- [[1949年]])
* [[5月6日]](明治2年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[井上準之助]]、[[日本銀行]]総裁(- [[1932年]])
* [[5月18日]] - [[ループレヒト (バイエルン王太子)|ループレヒト]]、[[バイエルン王国]]の最後の王太子(- [[1955年]])
* [[5月20日]] - [[ジョシュア・ピム]]、[[テニス]]選手(- [[1942年]])
* [[5月30日]] - [[ジュリオ・ドゥーエ]]、イタリアの[[軍人]]・[[軍事学者]](- [[1930年]])
* [[6月3日]] - [[野口孫市]]、[[建築家]](- [[1915年]])
* [[6月12日]](明治2年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[岩元禎]]、[[哲学|哲学者]](- [[1941年]])
* [[6月26日]] - [[ジョン・スミス・フレット]]、[[地質学者]](- [[1947年]])
* [[6月27日]] - [[エマ・ゴールドマン]]、[[アナキズム|アナキスト]]・[[フェミニスト]](- [[1940年]])
* [[7月2日]] - [[リアーヌ・ド・プジー]]、[[ダンサー]](- [[1950年]])
* [[7月10日]](明治2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[大橋乙羽]]、[[小説家]]・[[編集者]](- [[1901年]])
* [[7月11日]](明治2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[松平容大]]、[[会津藩#斗南藩|斗南藩主]](- [[1910年]])
* [[7月12日]](明治2年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[久原房之助]]、[[実業家]](- [[1965年]])
* [[7月18日]] - [[エミリエンヌ・ダランソン]]、[[俳優|女優]]・ダンサー(- [[1946年]])
* [[7月24日]](明治2年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[東儀鉄笛]]、[[作曲家]]・[[俳優|男優]](- [[1925年]])
* [[7月25日]](明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[島津源蔵 (2代目)|2代目 島津源蔵]]、[[発明家]](- [[1951年]])
* 7月25日(明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[藤原銀次郎]]、実業家・[[政治家]](+ [[1960年]])
* [[8月13日]] - [[トニー・ガルニエ]]、[[都市計画家]]・[[建築家]](- [[1948年]])
* [[8月14日]] - [[アルマス・ヤルネフェルト]]、指揮者・作曲家(- [[1958年]])
* [[8月24日]] - [[ルイ・フィリップ・ロベール (オルレアン公)|ルイ・フィリップ・ロベール]]、オルレアン公(- [[1926年]])
* [[8月27日]] - [[カール・ハウスホーファー]]、[[地政学|地政学者]](- [[1946年]])
* [[9月14日]] - [[キッド・ニコルズ]]、[[野球選手]]([[メジャーリーグベースボール]])(- [[1953年]])
* [[9月17日]] - [[クリスティアン・ランゲ]]、[[列国議会同盟]]事務局長(- [[1938年]])
* [[9月17日]](明治2年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]])- [[江見水蔭]]、[[小説家]](- [[1934年]])
* [[9月23日]] - [[メアリー・マローン]]、世界初の[[サルモネラ|チフス菌]]の健康保菌者(- [[1938年]])
* [[9月25日]] - [[ルドルフ・オットー]]、[[哲学|哲学者]](- [[1937年]])
* [[9月28日]] - [[エレン・ハンセル]]、[[テニス]]選手(- [[1937年]])
* [[10月2日]] - [[マハトマ・ガンディー]]、[[インド]]の政治指導者(- [[1948年]])
* [[10月12日]](明治2年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[木下尚江]]、[[社会主義]]運動家・[[作家]](+ [[1937年]])
* 10月12日 - [[マラカイ・キットリッジ]]、メジャーリーガー(+ [[1928年]])
* [[10月14日]] - [[アリス・ケッペル]]、[[イギリス|イギリス王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の愛妾(- [[1947年]])
* [[10月17日]] - {{仮リンク|ロバート・ウッドワース|en|Robert S. Woodworth|preserve=1}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[心理学者]](- [[1962年]])
* [[10月18日]] - [[ヨハンネス・リンナンコスキ]]、[[フィンランド]]の[[小説家]](- [[1913年]])
* [[11月8日]] - [[フェリックス・ハウスドルフ]]、[[数学者]](- [[1942年]])
* [[11月10日]] - [[レオン・ブランシュヴィック]]、[[思想家]](- [[1944年]])
* [[11月11日]] - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、[[イタリア王国|イタリア王]](- [[1947年]])
* 11月11日 - [[ガエタノ・ブレーシ]]、イタリア王[[ウンベルト1世]]の[[暗殺|暗殺者]](- [[1901年]])
* [[11月13日]](明治2年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]])- [[池貝庄太郎]]、[[発明家]]・[[実業家]]([[池貝]]創業者)(- [[1934年]])
* [[11月15日]] - [[ワシーリィ・バルトリド]]、[[歴史家|歴史学者]](- [[1930年]])
* [[11月20日]](明治2年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[岩崎卓爾]]、[[民俗学|民俗学者]]・[[気象観測]]技術者(- [[1937年]])
* 11月20日 - [[クラーク・グリフィス]]、メジャーリーガー(+ [[1955年]])
* [[11月22日]] - [[アンドレ・ジッド]]、[[小説家]](- [[1951年]])
* [[11月24日]] - [[アントニオ・オスカル・カルモナ]]、[[ポルトガル]]大統領(- [[1951年]])
* [[11月26日]] - [[モード (ノルウェー王妃)|モード]]、[[ノルウェー]]王[[ホーコン7世]]の王妃(- [[1938年]])
* [[11月30日]] - [[ニルス・グスタフ・ダレーン]]、[[技術者]](- [[1937年]])
* 11月30日 - [[コンスタンチン・ソモフ]]、[[画家]](- [[1939年]])
* [[12月5日]](明治2年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[森下博]]、[[実業家]]、[[森下仁丹]]創業者(+ [[1943年]])
* [[12月10日]](明治2年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]])- [[馬場孤蝶]]、[[英文学者]]・[[評論家]](+ [[1940年]])
* [[12月30日]](明治2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]])- [[大砲万右エ門]]、[[大相撲]]第18代[[横綱]](- [[1918年]])
* [[12月31日]] - [[アンリ・マティス]]、画家(- [[1954年]])
* '''小山豊太郎-日本のテロリスト'''
== 死去 ==
{{see also|Category:1869年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月11日]]([[明治]]元年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[松前徳広]]、[[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]第13代藩主([[1844年]] -)
* [[2月15日]](明治2年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[横井小楠]]、[[儒学者]]・[[思想家]]([[1809年]] -)
* [[2月28日]] - [[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]、[[作家]]([[1790年]] -)
* [[3月3日]] - [[ジェイムズ・ガスリー (政治家)|ジェイムズ・ガスリー]]、第21代[[アメリカ合衆国財務長官]]([[1792年]] -)
* [[3月8日]] - [[エクトル・ベルリオーズ]]、[[作曲家]]([[1803年]] -)
* [[3月12日]] - [[エルンスト・ハーベルビアー]]、作曲家・[[ピアニスト]]([[1813年]] -)
* [[3月24日]] - [[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]、[[軍事学者]]([[1779年]] -)
* [[3月25日]] - [[エドワード・ベイツ]]、第26代[[アメリカ合衆国司法長官]]([[1793年]] -)
* [[3月31日]] - [[アラン・カルデ]]、[[教育学|教育学者]]([[1804年]] -)
* [[4月20日]] - [[カール・レーヴェ]]、作曲家([[1796年]] -)
* [[5月6日]](明治2年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[甲賀源吾]]、[[幕臣]]、[[回天丸]]艦長([[1839年]] -)
* [[6月6日]](明治2年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]) - [[井上伝]]、[[久留米絣]]の創始者(* [[1788年]] -)
* [[6月20日]](明治2年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[土方歳三]]、[[新選組]]副長([[1835年]] -)
* [[6月26日]](明治2年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[伊庭八郎]]、幕臣([[1844年]] -)
* [[7月18日]] - [[ローラン・クレーク]]、[[教育者]]([[1785年]] -)
* [[7月30日]] - [[アイザック・トウシー]]、第20代[[アメリカ合衆国司法長官]]、第23代[[アメリカ合衆国海軍長官]]([[1792年]] -)
* [[7月31日]](明治2年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[楢山佐渡]]、[[盛岡藩]][[家老]]([[1831年]] -)
* [[8月2日]](明治2年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[鳥居三十郎]]、[[村上藩]]家老([[1841年]] -)
* [[9月6日]] - [[ジョン・アーロン・ローリンズ]]、第29代[[アメリカ合衆国陸軍長官]]([[1831年]] -)
* [[9月8日]] - [[ウィリアム・フェッセンデン]]、第26代[[アメリカ合衆国財務長官]]([[1806年]] -)
* [[9月10日]] - [[ジョン・ベル (陸軍長官)|ジョン・ベル]]、第16代[[アメリカ合衆国陸軍長官]]([[1797年]] -)
* [[10月8日]] - [[フランクリン・ピアース]]、第11代[[アメリカ合衆国大統領]]([[1804年]] -)
* [[10月13日]] - [[シャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ]]、[[文芸評論|文芸評論家]]([[1804年]] -)
* [[10月23日]] - [[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]、[[イギリスの首相]]([[1799年]] -)
* [[10月31日]] - [[チャールズ・アンダーソン・ウィックリフ]]、第14代[[アメリカ合衆国郵政長官]]([[1788年]] -)
* [[11月11日]] - [[ロバート・ウォーカー (財務長官)|ロバート・ウォーカー]]、第18代[[アメリカ合衆国財務長官]]([[1801年]] -)
* [[11月12日]] - [[エイモス・ケンドール]]、第11代[[アメリカ合衆国郵政長官]]([[1789年]] -)
* 11月12日 - [[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]]、[[画家]](1789年 -)
* [[11月21日]](明治2年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[新見正興]]、[[江戸幕府]][[外国奉行]]([[1822年]] -)
* 11月21日(明治2年10月18日) - [[真田幸教]]、第9代[[松代藩|松代藩主]]([[1835年]] -)
* [[12月4日]](明治2年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[小谷田勝五郎]]、[[農家]]([[1814年]] -)
* [[12月7日]](明治2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[大村益次郎]]、[[兵学者]]([[1824年]] -)
* [[12月23日]] - [[ユリアン・フォンタナ]]、[[作曲家]]([[1810年]] -)
* [[12月26日]] - [[ジャン・ポアズイユ]]、[[物理学者]]([[1797年]] -)
== フィクションのできごと ==
* ゲルスによる幽霊騒動が[[カーディフ]]で起こる。9代目ドクターは故郷を失ったゲルスの拠り所とするために人間の死体を譲ろうとする。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vap.co.jp/doctorwho/chronological.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200628235553/https://www.vap.co.jp/doctorwho/chronological.html |archivedate=2020-06-28 |accessdate=2021-01-23 |publisher=[[バップ]] |title=ドクター・フー世界年表}}</ref>
* ジャック・ハークネスがこの時代に到着する。時空操作機が故障したためこの時代で生きてゆく。(ドラマ『[[秘密情報部トーチウッド]]』)
* モノマキアが地上に落下する。(アニメ『[[BRIGADOON まりんとメラン]]』)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1869}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1869ねん}}
[[Category:1869年|*]] | 2003-03-24T07:20:30Z | 2023-09-16T22:41:34Z | false | false | false | [
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"Template:See also",
"Template:Cite web",
"Template:十年紀と各年"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1869%E5%B9%B4 |
5,067 | 1834年 | 1834年(1834 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。 | [
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] | 1834年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1834}}
{{year-definition|1834}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲午]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[天保]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2494年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[道光]]14年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]34年
** [[檀君紀元|檀紀]]4167年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[明命]]15年
* [[仏滅紀元]] : 2376年 - 2377年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1249年8月19日 - 1250年8月29日
* [[ユダヤ暦]] : 5594年4月20日 - 5595年3月29日
* [[ユリウス暦]] : 1833年12月20日 - 1834年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -9086 - -8722
* [[リリウス日]](LD) : 91755 - 92119
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1834}}
== できごと ==
* [[富士山]]で[[富士山の大規模雪代災害|大規模な雪代災害]]が発生<ref>[https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/315/ 富士山の大規模雪代災害] - Yahoo</ref>。
* [[甲午火事]]が発生。
* [[ドイツ関税同盟]]発足。
* [[フランス]]、[[アルジェリア]]併合。
* [[ヒラム・ムーア]]が[[コンバインハーベスター|コンバイン収穫機]]を製作した{{Sfn|チャロナー|2011|p=302|ps=「コンバイン収穫機 ムーアが、穀物生産のスピードをアップする。」}}。
=== イギリス ===
* [[イギリスの首相|イギリス首相]][[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]の主導で新[[救貧法]]制定。「院外救済」(救貧院に入れずに現金支給)が労働意欲を削ぐとされて廃止。
* [[7月16日]]、グレイ伯爵の辞職に伴い、第一次[[ウィリアム・ラム|メルバーン子爵]]内閣([[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]政権)成立
* 11月14日、メルバーン卿が国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]に罷免され、暫定政権として第二次[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]内閣([[保守党 (イギリス)|保守党]]政権)成立
* 12月10日、第一次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣(保守党政権)成立(-[[1835年]])
* イギリス、東インド会社中国貿易独占権廃止。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1834年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月1日]](天保4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[東久世通禧]]、[[公卿]]・[[政治家]](+ [[1912年]])
* [[2月7日]](天保4年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]])- [[広沢真臣]]、[[長州藩]]士・政治家(+ [[1871年]])
* [[2月8日]]([[ユリウス暦]][[1月27日]]) - [[ドミトリ・メンデレーエフ|メンデレーエフ]]、[[ロシア]]の[[化学者]]・[[元素]]の[[周期律]]の発見者(+ [[1907年]])
* [[2月16日]] - [[エルンスト・ヘッケル]]、[[生物学者]]・[[哲学者]](+ [[1919年]])
* [[3月17日]] - [[ゴットリープ・ダイムラー|ダイムラー]]、ドイツの[[技術者]](+ [[1900年]])
* [[3月18日]](天保5年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[江藤新平]]、政治家(+ [[1874年]])
* [[3月23日]] - [[ユリウス・ロイプケ]]、[[音楽家]](+ [[1858年]])
* [[3月24日]] - [[ウィリアム・モリス]]、[[詩人]]・[[デザイナー]](+ [[1896年]])
* 4月19日(天保5年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]])- [[橋本左内]]、[[福井藩]]士(+ [[1859年]])
* [[4月21日]] - [[ヘンリー・スペンサー・アシュビー]]、[[実業家]]・[[書誌学]]者(+ [[1900年]])
* [[4月28日]](天保5年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]])- [[前原一誠]]、長州藩士(+ [[1876年]])
* [[4月30日]] - [[ジョン・ラボック]]、[[銀行家]]・[[政治家]]・[[生物学者]]・[[考古学者]](+ [[1913年]])
* [[5月23日]] - [[カール・ハインリッヒ・ブロッホ]]、[[画家]](+ [[1890年]])
* [[6月17日]](天保5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[川路利良]]、[[薩摩藩]]士・[[陸軍軍人]]・[[警察官僚]](+ [[1879年]])
* [[7月2日]](天保5年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])- [[稲葉正邦]]、[[老中]]、山城国[[淀藩]]の第12代藩主(+ [[1898年]])
* [[7月10日]](天保5年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]])- [[澤太郎左衛門]]、[[幕臣]]・開拓奉行・技術者(+ [[1898年]])
* 7月10日 - [[ジェームズ・マクニール・ホイッスラー|ホイッスラー]]、アメリカ人の画家・[[版画家]](+ [[1903年]])
* [[7月19日]] - [[エドガー・ドガ|ドガ]]、フランスの画家(+ [[1917年]])
* [[8月2日]] - [[フレデリク・バルトルディ]]、[[彫刻家]](+ [[1904年]])
* [[8月4日]] - [[ジョン・ベン]]、[[数学者]](+ [[1923年]])
* [[8月22日]] - [[サミュエル・ラングレー]]、[[天文学者]]・航空パイオニア(+ [[1906年]])
* [[8月31日]] - [[アミルカレ・ポンキエッリ]]、[[オペラ]]作曲家(+ [[1886年]])
* [[9月15日]] - [[ハインリヒ・フォン・トライチュケ|トライチュケ]]、ドイツの[[歴史家]](+ [[1896年]])
* [[9月28日]] - [[シャルル・ラムルー]]、[[指揮者]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1899年]])
* [[10月23日]](天保5年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]) - [[岡部長発]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第11代藩主(+[[1855年]])
* [[11月5日]](天保5年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[近藤勇]]、[[新選組]]局長(+ [[1868年]])
* [[11月15日]](天保5年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[宇都宮三郎]]、[[蘭学者]](+ [[1902年]])
* [[12月18日]] - [[ヘルマン・ロエスレル|ロエスレル]]、ドイツの[[法学者]]・[[お雇い外国人]](+ [[1894年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1834年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月12日]] - [[フリードリヒ・シュライアマハー]]、[[神学者]]・[[哲学者]]・[[文献学者]](* [[1768年]])
* [[2月26日]] - [[アロイス・ゼネフェルダー]]、[[俳優]]・[[劇作家]](* [[1771年]])
* [[9月24日]] - [[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]、初代[[ブラジル帝国|ブラジル]]皇帝(* [[1798年]])
* [[12月27日]] - [[チャールズ・ラム]]、[[児童文学作家]](* [[1775年]])
<!-- == 注釈 ==
{{Reflist|group="注"}} -->
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1834}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}}
{{デフォルトソート:1834ねん}}
[[Category:1834年|*]] | null | 2022-08-03T05:15:25Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1834%E5%B9%B4 |
5,068 | 1768年 | 1768年(1768 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。 | [
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] | 1768年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。 | {{年代ナビ|1768}}
{{year-definition|1768}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[戊子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[明和]]5年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2428年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[乾隆]]33年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]44年
** [[檀君紀元|檀紀]]4101年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]29年
* [[仏滅紀元]] : 2310年 - 2311年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1181年 - 1182年
* [[ユダヤ暦]] : 5528年 - 5529年
* [[ユリウス暦]] : 1767年12月21日 - 1768年12月20日
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1768}}
== できごと ==
* [[3月16日]]-[[5月6日]] - イギリスで[[1768年イギリス総選挙|総選挙]]{{要出典|date=2021-03}}。
* [[5月24日]](明和5年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]])- 伊藤屋が[[上野松坂屋]]を買収、「いとう松坂屋」と改め、江戸へ進出。<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.daimaru-matsuzakaya.com/company/chronology.html |title=沿革・歴史 |publisher=大丸松坂屋百貨店コーポレートサイト |accessdate=2022-07-16}}</ref>
* [[8月8日]] - [[太平洋]]探検の第一回航海のため、[[ジェームス・クック|キャプテン・クック]]率いる[[エンデバー (帆船)|エンデバー号]]が[[プリマス]]から出航{{要出典|date=2021-04}}。
* [[10月14日]] - イギリスで第3代[[グラフトン公爵]][[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|オーガスタス・フィッツロイ]]内閣が成立(-[[1770年]])。
*タイのトンブリー王朝初代国王タークシンが戴冠。
* [[露土戦争 (1768年-1774年)|露土戦争]]開戦。(-[[1774年]])
* [[ネパール]]統一。
* [[12月6日]] - [[ブリタニカ百科事典]]の発行が始まる。
* [[ステラーカイギュウ]]が[[絶滅]]。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1768年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[ジョゼフ・ボナパルト]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]の兄、[[スペイン]][[国王|王]](+ [[1844年]])
* [[1月28日]] - [[フレデリク6世 (デンマーク王)|フレデリク6世]]、[[デンマーク]]王、[[ノルウェー]]王(+ [[1839年]])
* [[2月12日]] - [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Francis-II-Holy-Roman-emperor Francis II Holy Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[神聖ローマ皇帝]]、[[オーストリア帝国]][[皇帝]](+ [[1835年]])
* [[3月17日]] - [[カアフマヌ]]、[[ハワイ王国]][[王妃]](+ [[1832年]])
* [[3月21日]] - [[ジョゼフ・フーリエ]]、[[数学者]]、[[物理学者]](+ [[1830年]])
* [[5月20日]] - [[ドリー・マディソン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](+ [[1849年]]<ref>{{Cite web|url=http://www.firstladies.org/biographies/firstladies.aspx?biography=4|title=First Lady Biography: Dolley Madison|publisher=National First Ladies' Library|language=英語|accessdate=2021年3月14日}}</ref>)
* [[5月25日]](明和5年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]])- [[香川景樹]]、[[歌人]](+ [[1843年]])
* [[6月22日]](明和5年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[青山忠裕]]、[[老中]](+ [[1836年]])
* [[6月30日]] - [[エリザベス・モンロー]]、アメリカ合衆国のファーストレディ(+ [[1830年]])
* [[7月27日]] - [[シャルロット・コルデー]]、[[ジロンド派]]支持者、[[暗殺|暗殺者]](+ [[1793年]])
* [[8月5日]](明和5年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[林述斎]]、[[儒学者]](+ [[1841年]])
* [[9月4日]] - [[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]、[[政治家]]・[[作家]](+ [[1848年]])
* [[10月15日]] - [[ジェームズ・ホルマン]]、[[探検家]](+ [[1857年]])
* [[11月21日]] - [[フリードリッヒ・シュライエルマッハー]]、[[神学者]](+ [[1834年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1768年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月3日]] - [[ニコラ・ポルポラ]]、[[作曲家]]、[[声楽]]教師(* [[1686年]])
* [[3月18日]] - [[ローレンス・スターン]]、[[小説家]](* [[1713年]])
* [[4月19日]] - [[カナレット]]、[[画家]]・[[版画家]](* [[1697年]])
* [[4月29日]] - [[イェオリ・ブラント]]、[[化学者]]、[[鉱物]]学者(* [[1694年]])
* [[6月8日]] - [[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]、[[美術史]]家(* [[1717年]])
* [[10月31日]] - [[フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニ]]、作曲家、[[ヴァイオリニスト]](* [[1690年]])
* [[11月17日]] - ニューカッスル公[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1693年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1768}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}}
{{デフォルトソート:1768ねん}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1768%E5%B9%B4 |
5,069 | 1830年 | 1830年(1830 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。 | [
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] | 1830年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1830}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[庚寅]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]])
** [[文政]]13年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2490年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[道光]]10年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]30年
** [[檀君紀元|檀紀]]4163年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[阮朝]] : [[明命]]11年
* [[仏滅紀元]] : 2372年 - 2373年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1245年7月6日 - 1246年7月16日
* [[ユダヤ暦]] : 5590年4月6日 - 5591年4月15日
* [[ユリウス暦]] : 1829年12月20日 - 1830年12月19日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : -10547 - -10183
* [[リリウス日]](LD) : 90294 - 90658
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1830}}
== できごと ==
* [[1月14日]] - [[徳島藩]]沖合に[[イギリス]]の[[黒船]]が出没([[牟岐浦異国船漂着事件]]){{要出典|date=2021-03}}。
* [[4月6日]] - [[ジョセフ・スミス・ジュニア]]が[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク州]]で[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]の設立を発表した。{{Sfn|ファータド|2013|p=503|ps=「ジョセフ・スミス、モルモン教会を設立」}}
* [[5月28日]] - [[アンドリュー・ジャクソン]]大統領の署名により[[インディアン強制移住法]]成立{{要出典|date=2021-03}}。
* [[7月27日]] - [[フランス7月革命]]が勃発。
* [[7月29日]]-9月1日 - イギリスで{{仮リンク|1830年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1830}}。[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]内閣の与党[[保守党 (イギリス)|保守党]]が多数派を得る。
* [[8月19日]](文政13年7月2日) - [[京都地震|文政京都地震]]発生。
* [[8月25日]] - ベルギー独立革命勃発。
* [[9月15日]] - [[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]が開業。
* [[9月22日]] - 大コロンビアからベネズエラが独立。
* 11月16日、[[イギリス]]でウェリントン公爵内閣が総辞職。
* [[11月22日]] - イギリスで[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣([[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]政権)が成立。
* [[11月29日]] - [[ロシア帝国]]支配下の[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]・[[ワルシャワ]]で[[11月蜂起]]が起こる。
* [[セルビア公国]]が完全な自治権を獲得。
* [[ベネズエラ]]と[[エクアドル]]の分離独立による[[大コロンビア]]の解体。
* [[王立地理学会]]設立。
== 芸術・文化 ==
* [[12月5日]] - [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の[[幻想交響曲]]初演。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1830年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[アルバート・ビアスタット]]、[[画家]](+ [[1902年]])
* [[1月17日]] - [[エドゥアルト・レメーニ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1898年]])
* [[1月23日]] - [[グイド・フルベッキ|フルベッキ]]、[[アメリカ合衆国]]の[[法学者]]・[[神学者]](+ [[1898年]])
* [[2月3日]] - [[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー]]、[[イギリス首相]]・[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首(+ [[1903年]])
* [[2月18日]] - [[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇帝(+ [[1916年]])
* [[3月15日]] - [[ジョン・モーズビー]]、[[軍人]]・[[探検家]](+ [[1922年]])
* [[3月18日]] - [[フュステル・ド・クーランジュ]]、[[フランス]]の[[歴史家]](+ [[1889年]])
* [[5月16日]]([[文化 (元号)|文化]]13年[[閏]][[3月24日 (旧暦)|3月24日]]) - [[西郷頼母]]、[[幕末]]期[[会津藩]]の[[家老]](+ [[1903年]])
* [[6月22日]] - [[テオドル・レシェティツキ]]、ピアノ教師・[[作曲家]]・[[ピアニスト]](+ [[1915年]])
* [[7月8日]] - [[フレデリック・ウィリアム・スワード]]、第6代[[アメリカ合衆国国務次官補]](+ 1915年)
* [[7月10日]] - [[カミーユ・ピサロ]]、フランスの[[印象派]]画家(+ [[1903年]])
* [[8月1日]]([[文政]]13年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[川田甕江]]、[[漢学者]](+ [[1896年]])
* [[8月13日]] - [[グスタフ・ランゲ]]、作曲家・ピアニスト(+ [[1889年]])
* [[9月15日]] - [[ポルフィリオ・ディアス]]、[[メキシコ]]の[[大統領]](+ [[1915年]])
* [[9月20日]](文政13年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]) - [[吉田松陰]]、[[思想家]](+ [[1859年]])
* [[9月26日]](文政13年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[大久保利通]]、[[政治家]](+ [[1878年]]<ref>遠矢浩規『利通暗殺 紀尾井町事件の基礎的研究』(行人社、1986年)</ref>)
* [[10月10日]] - [[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]、[[スペイン]][[女王]](+ [[1904年]])
* [[10月15日]] - [[ダビッド・モルレー|モルレー]]、アメリカ合衆国の[[教育者]]・[[お雇い外国人]](+ [[1905年]])
* [[10月31日]](文政13年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[神田孝平]]、[[洋学者]]・[[官僚]](+ [[1898年]])
* 10月31日 - [[ロベルト・ラデッケ]]、[[音楽家]](+ [[1911年]])
* [[11月26日]](文政13年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[佐々木高行]]、[[土佐藩]]士・[[政治家]](+ [[1910年]])
* [[12月3日]] - [[フレデリック・レイトン]]、画家・[[彫刻家]](+ [[1896年]])
* [[12月17日]] - [[ジュール・ド・ゴンクール]]、フランスの[[小説家]]・[[美術評論家]](+ [[1870年]])
* [[12月31日]] - [[イスマーイール・パシャ]]、[[ムハンマド・アリー朝]]の副王(+ [[1895年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1830年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月7日]] - [[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]、[[画家]](* [[1769年]])
* [[2月23日]] - [[ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](* [[1745年]])
* [[5月16日]] - [[ジョゼフ・フーリエ]]、[[数学者]](* [[1768年]])
* 5月16日([[文政]]13年閏[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]) - [[石川雅望]]、狂歌師・[[国学者]](* [[1754年]])
* [[9月23日]] - [[エリザベス・モンロー]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1768年]])
* [[11月25日]] - [[ピエール・ロード]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1774年]])
* [[12月17日]] - [[シモン・ボリバル]]、政治家(* [[1783年]])
== フィクションのできごと ==
* 王立地理学会設立の際、ドクターも立ち会う。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
<!-- == 注釈 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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5,071 | 植物 | 植物(しょくぶつ、英: plant)とは、生物区分のひとつ。
広辞苑の第5版によると「植物」は、草や木などのように、根があって場所が固定されて生きているような生物のことで、動物と対比させられた生物区分である。
それに対し、生物学にも歴史があり、二界説ないし五界説のような分類法が採用されていた時代があった。そこでは菌類(キノコやカビ)、褐藻(ワカメなど)なども植物と見なしていた。対してここ数十年の生物学では、分類群としての名称はあくまで「植物界」である為、現在も定義がひとつに定まっていない。陸上植物を含む単系統群として植物を定義するが、どの単系統を選ぶかにより複数の定義が並立している。狭い定義では陸上植物のみを植物として認めるが、より広い定義では緑色植物全体を植物としたり、紅色植物、灰色植物をも植物に含めたりする。また、「植物」と「植物界」という言葉の違いについても、乱暴に『「植物」は植物界のシノニムだ』と言ってしまう人と、『そうではない』という人など、生物学者たちの中でも意見は分かれている。古い二界説や五界説では植物とみなされていた菌類や褐藻や光合成原生動物(ミドリムシや珪藻など)は、「系統が異なる」として、現在(2012年)では生物分類学上は植物とみなされていない。だが、さらにややこしいことに、生態学的には、こういう分類法では無い。例えば生態学では「光合成を行うワカメや珪藻は、植物(生産者)」とする。
アリストテレスは、植物を、代謝と生殖はするが移動せず感覚はないものと定義した。代謝と生殖をしないものは無生物であり、移動し感覚のあるものは動物である。ただしこれは、リンネ以来の近代的な分類学のように、生物を分類群にカテゴライズするのとは異なり、無生物から生物を経て人間へ至る「自然の連続」の中に区切りを設けたものである。たとえばカイメンなどは、植物と動物の中間的な生物と考えられた。
カール・フォン・リンネは、すべての生物をベシタブリア Vegetabilia 界と動物 Animalia 界に分けた。これが二界説である。
当時の植物には、現在は植物に含められない褐藻や真菌類を含んでいた。ただし、微生物についてはまだほとんど知られていなかった。
微生物が発見されてくると、次のような植物的特徴を多く持つものは植物に、そうではないものは動物に分類された。
こうして拡大してきた植物には、現在から見れば次のような雑多な生物が含まれていた。
しかし、これらのうち一部しか当てはまらない生物が多いことが認識されてくると、二界説を捨て新たな界を作る動きが現れた。
まず1860年、ジョン・ホッグが微生物など原始的な生物を Primigenum にまとめ、1866年にはエルンスト・ヘッケルがそのグループに原生生物 (プロチスタ) Protista 界と命名した。これにより、微生物や真菌は植物から外された。また、ヘッケルは同時に現在の植物 Plantae 界という名を命名した。ただしのちに真菌は、かつては光合成をしていたが光合成能力を失ったとして再び植物に戻された。
1937年にはバークリーが、植物種の過半を占める菌類がクロロフィルを欠いている点を重視して、動物・菌類・植物に分ける三界説を提唱した。
次いで1969年、ロバート・ホイッタカーが五界説を唱え、光合成をする高等生物を植物と位置づけた。表面栄養摂取をする高等生物、つまり真菌は菌界として独立した。この段階では、藍藻類を含めた光合成生物が一つの系統的なまとまりを形成するという考えは暗に認められていた。
しかし、分子遺伝学的情報が利用可能になったこと、原生生物各群の研究、特に微細構造の解明が進んだことから、光合成生物の単系統性は疑わしくなってきた。また、1967年、リン・マーギュリスの細胞内共生説は、同じ葉緑素を持っているからといって同系統とは言えないことを示した。
たとえば、ミドリムシ類は緑藻類と同じ光合成色素を持っている。したがって系統上は近いものと考えることができた。しかし、近年の考えでは、これは全く系統の異なった原生生物が緑藻類を取り込み、自らの葉緑体としたものだと考えられている。つまり、光合成能力は、その生物の系統とは関係なく得られると考えられる。したがって、現代では、藻類というまとまりに分類学的意味を見いだすことはできなくなってしまった。
これを受け植物界の範囲はさらに限定的なものへと変化していく。1981年、マーギュリスは五界説を修正し、陸上植物を植物界とした。
同じ1981年、トーマス・キャバリエ=スミスは、八界説を唱えた。緑色植物と紅色植物と灰色植物は、葉緑体の唯一の一次共生を起こした生物を共通祖先とする単系統であるとして、これを植物界とした。ただしこの単系統性には疑問があるなどの理由で、新しい植物界の定義はあまり広まらなかった。一方、それまで植物に含まれていたが別系統である褐藻などは、単細胞藻類の大部分やいくつかの原生動物と共にクロミスタ Chromista 界として独立させた。
2005年には、アドルらによって、「キャバリエ=スミスの植物界」がアーケプラスチダと命名され、この呼称が専門分野では一般的となる。アドルらはまったく新しい枠組みで生物界全体を見直すことを意図し、界などリンネ式の階級を使わなかったが、リンネ式の階級システムではアーケプラスチダを界とすることが多い。
本節では、2012年現在における植物の複数の定義と、それらの定義が提案がされるに至った背景を説明する。
「かつて「植物」という単語は、広く光合成をする生物一般、すなわち光合成生物全般を指していた」だが、生物に関する科学的知見が深まるにつれ、この素朴な定義は大きく修正されることになった。
修正された理由は主に3つある。第一の理由として、生物全体が細菌、古細菌、真核生物の3つのドメインに分かれることが分子系統解析によりわかったことが挙げられる。これは細菌に属する光合成細菌は真核生物である陸上植物とは異なる系統であることを意味する。したがって陸上植物を含む単系統群として植物を定義するのであれば、植物を真核生物に属するものに限定しなければならない。」と誰は指摘した。
第二の理由は真核生物がいくつかのスーパーグループに分類できることが分子系統解析によりわかったことである。この分類に真核光合成生物を当てはめてみると、下記のように多系統であることがわかる:
第三の理由は葉緑体の起源がわかったことである。真核光合成生物は、シアノバクテリアに類似した原核生物を真核生物が取り込んだことにより誕生した(一次共生)。そしてこのようにして誕生した真核光合成生物をさらに別の真核生物が取り込むことで新たな真核光合成生物も誕生した(二次共生)。二次共生は生物の歴史で何度も起こった事が知られており、これが真核生物の様々なスーパーグループに光合成生物が属している理由である。それに対し、一次共生が起こり二次共生が起こっていない生物群はスーパーグループのアーケプラスチダと一致する事が知られている。
『何を持って植物と呼ぶべきかという問いに対する一つの答えは「アーケプラスチダに属すること」という事になる。』 『2012年現在提案されている植物の定義の多くは、アーケプラスチダもしくはそこに属する単系統部分群だ』と誰は言った。
この他、非主流の系統仮説をもとに、アーケプラスチダより広い範囲を「超植物界」とする提案がされたこともあるが、有力な説となってはいない。
アーケプラスチダの系統樹は以下のようになる:
2012年現在、植物界の定義として以下のものがある:
植物という語には、現代でもアリストテレスが意図したような「動かない生物が植物」という意味合いがあり、植物状態という表現もある。
動物の中にも植物的な性質を認める、植物性器官・植物極などの語がある。
生物学のうち植物を研究対象とする分野を植物学と呼ぶ。これは本来は、分類学的な植物を研究対象とするものではない。具体的には、陸上植物および全ての藻類を対象とする。植物の学名の命名規約は以前は国際植物命名規約であったが、これも正確に訳せば国際「植物学」命名規約で、分類学的な植物ではなく、植物学の対象を指していた。現在は国際藻類・菌類・植物命名規約 となって、「植物学」の語はなくなった。
生態系において、植物は大きな部分を占めている。緑藻を含む緑色植物は光合成によって有機物を生産するが、これ以外の一次生産者は化学合成を行う一部の細菌類のみであり、事実上地球上のほとんどの有機物生産は植物によって行われている。植物によって生産された有機物は、捕食-被食関係などを通じて一次消費者である草食動物、二次・三次消費者である肉食動物、そしてそれらの分解者へとつながっていき、食物連鎖を形成する。また植物は各地の気候などによって特徴的な植生を形成し、それを基盤とした生物群系を各地に成立させる。植物の光合成は、大気中の酸素濃度および二酸化炭素濃度を安定化させることに大きく貢献している。
植物と動物は捕食-被食関係のほかに、しばしば共生関係を構築する。例えば顕花植物には昆虫や鳥などの動物を媒介して受粉を行う動物媒のものが数多く存在し、なかでも媒介動物の多い熱帯の樹木においては95%が動物媒によるものである。
人と植物の関係は実に多様である。人間と植物の関係は、生物学で言う食物連鎖上の《消費者と生産者》の関係にとどまらず、人は植物を原料や材料として利用したり、観賞するなど文化や心の豊かさのためにも用いている。人間以外にも巣などを作る材料として植物を利用している生物がいるが、人間の植物の利用の仕方の方がはるかに多様である。生物学上の植物のうち、基本的には樹木や草花が対象になることが多いが、藻類や菌類も含まれる。
人類は雑食であり、植物は食糧源として極めて重要である。植物の葉・茎・根・果実は穀物・野菜・果物として、そのまま、あるいは調理加工して摂取される。当初は採集によって植物性食糧を確保していたものの、約12000年前に一部の植物の栽培が始まり、農業によって植物性食糧が大量に生産されるようになった。世界で食用に栽培されている植物はおよそ2300種ほどとされている。また、植物を飼料として家畜を飼育することにより、動物性食品の大量供給も行われている。直接的な食糧だけでなく、糖や蜜といった甘味料や、油糧作物から取れる植物油も重要である。植物からはタバコやコーヒー、茶といった嗜好品も生産され、換金作物として広く栽培されている。微生物を利用した発酵食品も各種存在し、穀物や果物からは、ビールやワインといった酒も作られる。
植物の中には薬効を示すものがあり、人類は有史以前から健康のために薬用植物を摂取し、またそこから薬を製造して患者に投与してきた。植物由来の医薬品は現代でも盛んに使用され、さらに植物の薬効成分の研究によってあらたな薬が開発されることもある。
食糧以外にも、植物は工業原料や材料としてさまざまに利用される。こうした工芸原料はしばしば農作物として栽培され、工芸作物と総称される。
森林から生産される木材は工業原料・資材として非常に重要であり、狭義の林業は森林からの木材生産と定義されている。生産された木材の用途は多様である。建築用材料としての材木のほか、木材を加工した合板も近代以降は重要な工業原料となっている。木材は工芸材料としても重要で、タンスなどの家具や指物、食器などさまざまな木工品が製作されている。工芸材料としては、東アジアから東南アジアにかけては竹も広く使用され、竹細工などの各種生活工芸品が制作されてきた。このほかにも、籐家具等々さまざまな植物が工芸材料とされている。
植物の繊維質は、被服の重要な原料となっており、亜麻や麻、そして綿花などから衣服が作られている。紙も植物繊維からつくられており、古くは麻やぼろ布、和紙の場合はコウゾやミツマタなどを主原料としていたが、19世紀中盤以降木材からパルプを製造し製紙を行う方法が主流となって、ほとんどの紙が木材から製造されるようになった。マニラ麻やサイザル麻といった硬質繊維は、紐や縄の材料として20世紀半ばまでは重要な地位を占めていた。このほかの植物繊維質利用としては、畳やわらじ等々がある。
植物は燃料としても重要である。薪や木炭は最も基本的な燃料として世界中で使用され、産業革命後に先進国のエネルギー生産が化石燃料主体へと移行したのちも発展途上国においては燃料の主力であり続け、2005年時点で世界の木材生産の47%が薪炭用に使用されている。また、21世紀に入り化石燃料使用の削減が叫ばれるようになると、サトウキビやトウモロコシなどを原料としたバイオマスエタノールなど、植物性バイオマスエネルギーの活用が盛んとなってきている。
樹液を固めた樹脂も、原料として広く利用されてきた。こうした天然樹脂の中でもっとも重要なものはゴムであり、防水性や絶縁性、弾力性に優れることからタイヤや電化製品、靴や手袋などの日用品に至るまで幅広く利用されている。また同じく樹脂である漆は塗料として優れ、日本ではこれを利用した多くの漆器が生み出されてきた。このほか、糊や化粧品や香水等々、植物を原料としてさまざまなものが生み出されてきた。
生活空間のなかに樹木や草花を植栽することは広く行われている。個人宅には庭が設置され樹木や芝生が植えられるほか、塀の代わりに庭木を密生して植えることで自宅と外部とを区画する生垣も利用されている。道路には街路樹や並木が植えられ、美観や緑陰を向上させる。都市には市民の休養や美観、防災を目的として公園や緑地が造園され、さまざまな植物が植栽される。観賞用の花や樹木を植えた庭園は古代より世界各地に存在し、現地の文化に基づいたさまざまなスタイルを発展させてきた。
災害の防止や資源の保護のために植生を利用することも広く行われている。例としては、森林の高い表層土壌侵食保護能力を利用した山地での森林造成や、強風を防ぐための防風林の造成などである。こうした公益的機能の高い森林は世界各地で保護されており、日本では保安林として整備・保護されている。
20世紀末以降、地球温暖化が進み対策が求められるなかで、植物、特に森林の二酸化炭素吸収機能が注目されている。
実用以外にも、植物は人類の文化において大きな部分を占めている。宗教の多くでは一部の植物に聖性を与えており、また各地の文化はさまざまなイメージを植物へと投影してきた。葬儀の際に花が飾られたり墓前に花が捧げられるように、儀式の際に花を用いることは珍しくない。
園芸は趣味として一般的なものであり、自宅に観葉植物や盆栽などの鉢植えをおいたり、庭がある場合は花壇などに草花を地植えし、または自宅や周辺で家庭菜園を営むなど、さまざまなガーデニングが楽しまれている。鉢植えや切り花などの観賞用植物は巨大な市場規模を持っており、園芸農家で栽培された植物は卸売市場で取引され、花屋などで消費者に購入される。花はドライフラワーや押し花などに加工される。植物は絵画や彫刻・文芸の対象として一般的なものであり、例えばアールヌーボーでは植物は主要なモチーフとなっている。華道のように、植物の飾り方そのものが芸術となることもある。
人間は緑の多い風景を良好な環境や景観と見なすことが多く、癒やしを求めるため森林浴を行うこともある。
人類は植物を利用する過程において、自らの望む特質を持った個体を選抜し育成することで、より有益な種を作り出してきた。こうした品種改良において最も古いものは穀物の栽培初期であり、栽培化の過程で穀物は種子の非脱落性や可食部の増大といった、人類の利用に有益な形質を持つ種が選抜されていった。生物工学の発展に伴い、遺伝子操作によって栄養価の改善や耐病性の強化などを改善した遺伝子組み換え作物が開発され栽培が行われているものの、安全性などの面から根強い反対運動が起こっている。こうした品種改良や遺伝子操作は食用作物に限ったことではなく、観賞用の作物である花でも選別や人工交配によって新品種が作り出され、遺伝子技術も取り入れられている。
植物が人間や生態系に害をなすこともある。スギやヒノキ・イネ科植物やブタクサ・シラカバなどが飛ばす花粉は、一部の人間に花粉症と呼ばれるアレルギー症状を引き起こす。また、本来その土地になかった人為的な外来種が帰化植物として地域の生態系に根付くことがあるが、一部の帰化植物は従来の生態系に悪影響を及ぼすことがあり、日本では外来生物法によって規制されている。 | [
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "本節では、2012年現在における植物の複数の定義と、それらの定義が提案がされるに至った背景を説明する。",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "「かつて「植物」という単語は、広く光合成をする生物一般、すなわち光合成生物全般を指していた」だが、生物に関する科学的知見が深まるにつれ、この素朴な定義は大きく修正されることになった。",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "修正された理由は主に3つある。第一の理由として、生物全体が細菌、古細菌、真核生物の3つのドメインに分かれることが分子系統解析によりわかったことが挙げられる。これは細菌に属する光合成細菌は真核生物である陸上植物とは異なる系統であることを意味する。したがって陸上植物を含む単系統群として植物を定義するのであれば、植物を真核生物に属するものに限定しなければならない。」と誰は指摘した。",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "第二の理由は真核生物がいくつかのスーパーグループに分類できることが分子系統解析によりわかったことである。この分類に真核光合成生物を当てはめてみると、下記のように多系統であることがわかる:",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "第三の理由は葉緑体の起源がわかったことである。真核光合成生物は、シアノバクテリアに類似した原核生物を真核生物が取り込んだことにより誕生した(一次共生)。そしてこのようにして誕生した真核光合成生物をさらに別の真核生物が取り込むことで新たな真核光合成生物も誕生した(二次共生)。二次共生は生物の歴史で何度も起こった事が知られており、これが真核生物の様々なスーパーグループに光合成生物が属している理由である。それに対し、一次共生が起こり二次共生が起こっていない生物群はスーパーグループのアーケプラスチダと一致する事が知られている。",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "『何を持って植物と呼ぶべきかという問いに対する一つの答えは「アーケプラスチダに属すること」という事になる。』 『2012年現在提案されている植物の定義の多くは、アーケプラスチダもしくはそこに属する単系統部分群だ』と誰は言った。",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この他、非主流の系統仮説をもとに、アーケプラスチダより広い範囲を「超植物界」とする提案がされたこともあるが、有力な説となってはいない。",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アーケプラスチダの系統樹は以下のようになる:",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2012年現在、植物界の定義として以下のものがある:",
"title": "現在の植物の定義"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "植物という語には、現代でもアリストテレスが意図したような「動かない生物が植物」という意味合いがあり、植物状態という表現もある。",
"title": "分類学以外の用語"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "動物の中にも植物的な性質を認める、植物性器官・植物極などの語がある。",
"title": "分類学以外の用語"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "生物学のうち植物を研究対象とする分野を植物学と呼ぶ。これは本来は、分類学的な植物を研究対象とするものではない。具体的には、陸上植物および全ての藻類を対象とする。植物の学名の命名規約は以前は国際植物命名規約であったが、これも正確に訳せば国際「植物学」命名規約で、分類学的な植物ではなく、植物学の対象を指していた。現在は国際藻類・菌類・植物命名規約 となって、「植物学」の語はなくなった。",
"title": "分類学以外の用語"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "生態系において、植物は大きな部分を占めている。緑藻を含む緑色植物は光合成によって有機物を生産するが、これ以外の一次生産者は化学合成を行う一部の細菌類のみであり、事実上地球上のほとんどの有機物生産は植物によって行われている。植物によって生産された有機物は、捕食-被食関係などを通じて一次消費者である草食動物、二次・三次消費者である肉食動物、そしてそれらの分解者へとつながっていき、食物連鎖を形成する。また植物は各地の気候などによって特徴的な植生を形成し、それを基盤とした生物群系を各地に成立させる。植物の光合成は、大気中の酸素濃度および二酸化炭素濃度を安定化させることに大きく貢献している。",
"title": "植物と生態系"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "植物と動物は捕食-被食関係のほかに、しばしば共生関係を構築する。例えば顕花植物には昆虫や鳥などの動物を媒介して受粉を行う動物媒のものが数多く存在し、なかでも媒介動物の多い熱帯の樹木においては95%が動物媒によるものである。",
"title": "植物と生態系"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "人と植物の関係は実に多様である。人間と植物の関係は、生物学で言う食物連鎖上の《消費者と生産者》の関係にとどまらず、人は植物を原料や材料として利用したり、観賞するなど文化や心の豊かさのためにも用いている。人間以外にも巣などを作る材料として植物を利用している生物がいるが、人間の植物の利用の仕方の方がはるかに多様である。生物学上の植物のうち、基本的には樹木や草花が対象になることが多いが、藻類や菌類も含まれる。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "人類は雑食であり、植物は食糧源として極めて重要である。植物の葉・茎・根・果実は穀物・野菜・果物として、そのまま、あるいは調理加工して摂取される。当初は採集によって植物性食糧を確保していたものの、約12000年前に一部の植物の栽培が始まり、農業によって植物性食糧が大量に生産されるようになった。世界で食用に栽培されている植物はおよそ2300種ほどとされている。また、植物を飼料として家畜を飼育することにより、動物性食品の大量供給も行われている。直接的な食糧だけでなく、糖や蜜といった甘味料や、油糧作物から取れる植物油も重要である。植物からはタバコやコーヒー、茶といった嗜好品も生産され、換金作物として広く栽培されている。微生物を利用した発酵食品も各種存在し、穀物や果物からは、ビールやワインといった酒も作られる。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "植物の中には薬効を示すものがあり、人類は有史以前から健康のために薬用植物を摂取し、またそこから薬を製造して患者に投与してきた。植物由来の医薬品は現代でも盛んに使用され、さらに植物の薬効成分の研究によってあらたな薬が開発されることもある。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "食糧以外にも、植物は工業原料や材料としてさまざまに利用される。こうした工芸原料はしばしば農作物として栽培され、工芸作物と総称される。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "森林から生産される木材は工業原料・資材として非常に重要であり、狭義の林業は森林からの木材生産と定義されている。生産された木材の用途は多様である。建築用材料としての材木のほか、木材を加工した合板も近代以降は重要な工業原料となっている。木材は工芸材料としても重要で、タンスなどの家具や指物、食器などさまざまな木工品が製作されている。工芸材料としては、東アジアから東南アジアにかけては竹も広く使用され、竹細工などの各種生活工芸品が制作されてきた。このほかにも、籐家具等々さまざまな植物が工芸材料とされている。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "植物の繊維質は、被服の重要な原料となっており、亜麻や麻、そして綿花などから衣服が作られている。紙も植物繊維からつくられており、古くは麻やぼろ布、和紙の場合はコウゾやミツマタなどを主原料としていたが、19世紀中盤以降木材からパルプを製造し製紙を行う方法が主流となって、ほとんどの紙が木材から製造されるようになった。マニラ麻やサイザル麻といった硬質繊維は、紐や縄の材料として20世紀半ばまでは重要な地位を占めていた。このほかの植物繊維質利用としては、畳やわらじ等々がある。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "植物は燃料としても重要である。薪や木炭は最も基本的な燃料として世界中で使用され、産業革命後に先進国のエネルギー生産が化石燃料主体へと移行したのちも発展途上国においては燃料の主力であり続け、2005年時点で世界の木材生産の47%が薪炭用に使用されている。また、21世紀に入り化石燃料使用の削減が叫ばれるようになると、サトウキビやトウモロコシなどを原料としたバイオマスエタノールなど、植物性バイオマスエネルギーの活用が盛んとなってきている。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "樹液を固めた樹脂も、原料として広く利用されてきた。こうした天然樹脂の中でもっとも重要なものはゴムであり、防水性や絶縁性、弾力性に優れることからタイヤや電化製品、靴や手袋などの日用品に至るまで幅広く利用されている。また同じく樹脂である漆は塗料として優れ、日本ではこれを利用した多くの漆器が生み出されてきた。このほか、糊や化粧品や香水等々、植物を原料としてさまざまなものが生み出されてきた。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "生活空間のなかに樹木や草花を植栽することは広く行われている。個人宅には庭が設置され樹木や芝生が植えられるほか、塀の代わりに庭木を密生して植えることで自宅と外部とを区画する生垣も利用されている。道路には街路樹や並木が植えられ、美観や緑陰を向上させる。都市には市民の休養や美観、防災を目的として公園や緑地が造園され、さまざまな植物が植栽される。観賞用の花や樹木を植えた庭園は古代より世界各地に存在し、現地の文化に基づいたさまざまなスタイルを発展させてきた。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "災害の防止や資源の保護のために植生を利用することも広く行われている。例としては、森林の高い表層土壌侵食保護能力を利用した山地での森林造成や、強風を防ぐための防風林の造成などである。こうした公益的機能の高い森林は世界各地で保護されており、日本では保安林として整備・保護されている。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "20世紀末以降、地球温暖化が進み対策が求められるなかで、植物、特に森林の二酸化炭素吸収機能が注目されている。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "実用以外にも、植物は人類の文化において大きな部分を占めている。宗教の多くでは一部の植物に聖性を与えており、また各地の文化はさまざまなイメージを植物へと投影してきた。葬儀の際に花が飾られたり墓前に花が捧げられるように、儀式の際に花を用いることは珍しくない。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "園芸は趣味として一般的なものであり、自宅に観葉植物や盆栽などの鉢植えをおいたり、庭がある場合は花壇などに草花を地植えし、または自宅や周辺で家庭菜園を営むなど、さまざまなガーデニングが楽しまれている。鉢植えや切り花などの観賞用植物は巨大な市場規模を持っており、園芸農家で栽培された植物は卸売市場で取引され、花屋などで消費者に購入される。花はドライフラワーや押し花などに加工される。植物は絵画や彫刻・文芸の対象として一般的なものであり、例えばアールヌーボーでは植物は主要なモチーフとなっている。華道のように、植物の飾り方そのものが芸術となることもある。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "人間は緑の多い風景を良好な環境や景観と見なすことが多く、癒やしを求めるため森林浴を行うこともある。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "人類は植物を利用する過程において、自らの望む特質を持った個体を選抜し育成することで、より有益な種を作り出してきた。こうした品種改良において最も古いものは穀物の栽培初期であり、栽培化の過程で穀物は種子の非脱落性や可食部の増大といった、人類の利用に有益な形質を持つ種が選抜されていった。生物工学の発展に伴い、遺伝子操作によって栄養価の改善や耐病性の強化などを改善した遺伝子組み換え作物が開発され栽培が行われているものの、安全性などの面から根強い反対運動が起こっている。こうした品種改良や遺伝子操作は食用作物に限ったことではなく、観賞用の作物である花でも選別や人工交配によって新品種が作り出され、遺伝子技術も取り入れられている。",
"title": "人間と植物"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "植物が人間や生態系に害をなすこともある。スギやヒノキ・イネ科植物やブタクサ・シラカバなどが飛ばす花粉は、一部の人間に花粉症と呼ばれるアレルギー症状を引き起こす。また、本来その土地になかった人為的な外来種が帰化植物として地域の生態系に根付くことがあるが、一部の帰化植物は従来の生態系に悪影響を及ぼすことがあり、日本では外来生物法によって規制されている。",
"title": "人間と植物"
}
] | 植物とは、生物区分のひとつ。 広辞苑の第5版によると「植物」は、草や木などのように、根があって場所が固定されて生きているような生物のことで、動物と対比させられた生物区分である。 それに対し、生物学にも歴史があり、二界説ないし五界説のような分類法が採用されていた時代があった。そこでは菌類(キノコやカビ)、褐藻(ワカメなど)なども植物と見なしていた。対してここ数十年の生物学では、分類群としての名称はあくまで「植物界」である為、現在も定義がひとつに定まっていない。陸上植物を含む単系統群として植物を定義するが、どの単系統を選ぶかにより複数の定義が並立している。狭い定義では陸上植物のみを植物として認めるが、より広い定義では緑色植物全体を植物としたり、紅色植物、灰色植物をも植物に含めたりする。また、「植物」と「植物界」という言葉の違いについても、乱暴に『「植物」は植物界のシノニムだ』と言ってしまう人と、『そうではない』という人など、生物学者たちの中でも意見は分かれている。古い二界説や五界説では植物とみなされていた菌類や褐藻や光合成原生動物(ミドリムシや珪藻など)は、「系統が異なる」として、現在(2012年)では生物分類学上は植物とみなされていない。だが、さらにややこしいことに、生態学的には、こういう分類法では無い。例えば生態学では「光合成を行うワカメや珪藻は、植物(生産者)」とする。 | {{生物分類表
| 名称 = '''植物界'''
| 色 = lightgreen
| fossil_range = {{long fossil range|Mesoproterozoic|present}}
| 画像 = [[ファイル:Diversity of plants (Streptophyta) version 2.png|thumb|250px]]
| 画像キャプション = 異なる種と特性のいくつかの植物
| ドメイン = [[真核生物]] {{sname||Eukaryota}}
| ドメイン階級なし = {{efn|「植物界」の定義によって上位分類は異なる。}}<!-- Diaphoretickes -->
| 界 = '''植物界''' {{sname||Plantae}}
| シノニム = Plantae ''[[sensu]] lato'' = [[アーケプラスチダ|Archaeplastida]]<br />Plantae ''sensu stricto'' = [[緑色植物亜界|Viridiplantae]]<br />Plantae ''sensu'' Margulis 1981 = [[陸上植物|Embryophyta]]
| 学名 = Plantae {{AU|Haeckel|1866}}
| 下位分類名 = 広義の植物界の下位系統(一部)
| 下位分類 =
'''[[アーケプラスチダ]]''' {{sname||Archeplastida}}<br/>(広義の植物界)
* '''[[緑色植物亜界|緑色植物]]''' {{sname||Viridiplantae}} {{nobr|(狭義の植物界)}}
** [[緑藻植物]] {{sname||Chlorophyta}}
** [[ストレプト植物]] {{sname||Streptophyta}}
*** [[接合藻]] {{sname||Zygnematophyceae}}
*** [[車軸藻]] {{sname||Charophyceae}}
*** '''[[陸上植物]]''' {{sname||Embryophyta}}<br/>(マーギュリスの植物)
* [[紅色植物]] {{sname||Rhodophyta}}
* [[灰色植物]] {{sname||Glaucophyta}}
}}
'''植物'''(しょくぶつ、{{Lang-en-short|plant}})とは、[[生物]]区分のひとつ。
[[広辞苑]]の第5版によると「植物」は、[[草本|草]]や[[木]]などのように、[[根]]があって場所が固定されて生きているような生物のことで、[[動物]]と対比させられた生物区分である<ref>広辞苑第五版</ref>。
それに対し、[[生物学史|生物学にも歴史]]があり、[[生物の分類|二界説]]ないし[[生物の分類|五界説]]のような分類法が採用されていた時代があった。そこでは[[菌類]](キノコやカビ)、[[褐藻]]([[ワカメ]]など)なども植物と見なしていた。対してここ数十年の[[生物学]]では、[[分類群]]としての名称はあくまで「[[植物界]]」である為、現在も定義がひとつに定まっていない。[[陸上植物]]を含む[[単系統群]]として植物を定義するが、どの単系統を選ぶかにより複数の定義が並立している。狭い定義では陸上植物のみを植物として認めるが、より広い定義では[[緑色植物亜界|緑色植物]]全体を植物としたり、[[紅色植物]]、[[灰色植物]]をも植物に含めたりする。また、「植物」と「植物界」という言葉の違いについても、乱暴に『「植物」は植物界のシノニムだ』と言ってしまう人と、『そうではない』という人<ref>生物学の文脈であっても、「植物界」の定義 と 「植物」という言葉の用法 では違う、と指摘する人がいる。</ref>など、生物学者たちの中でも意見は分かれている。古い二界説や五界説では植物とみなされていた菌類や[[褐藻]]や光合成原生動物([[ミドリムシ]]や[[珪藻]]など)は、「系統が異なる」として、現在(2012年)では生物分類学上は植物とみなされていない。だが、さらにややこしいことに、[[生態学]]的には、こういう分類法では無い。例えば生態学では「光合成を行う[[ワカメ]]や[[珪藻]]は、植物([[生産者]])」とする。
== 研究の歴史 ==
=== リンネ以前 ===
[[アリストテレス]]は、植物を、[[代謝]]と[[生殖]]はするが[[移動]]せず[[感覚]]はないものと定義した。代謝と生殖をしないものは無生物であり、移動し感覚のあるものは[[動物]]である。ただしこれは、リンネ以来の近代的な分類学のように、生物を分類群にカテゴライズするのとは異なり、無生物から生物を経て[[人間]]へ至る「自然の連続」の中に区切りを設けたものである。たとえば[[海綿動物|カイメン]]などは、植物と動物の中間的な生物と考えられた。
=== リンネ以降 ===
[[File:Plant phylogeny.png|thumb|植物系統図の一例]]
[[カール・フォン・リンネ]]は、すべての生物をベシタブリア {{sname|Vegetabilia}} 界と動物 {{sname|Animalia}} 界に分けた。これが[[二界説]]である。
当時の植物には、現在は植物に含められない[[褐藻]]や[[真菌]]類を含んでいた。ただし、[[微生物]]についてはまだほとんど知られていなかった。
微生物が発見されてくると、次のような植物的特徴を多く持つものは植物に、そうではないものは動物に分類された。
* [[光合成]]をする。
* [[細胞壁]]をもち、多細胞のものは[[先端成長]]をする。
* 非運動性。
こうして拡大してきた植物には、現在から見れば次のような雑多な生物が含まれていた。
* 陸上植物・多細胞藻類 - 緑色植物、紅藻など。典型的な植物。
* 単細胞藻類 - 光合成をするが、細胞壁のないものや運動性のものもいる。
* [[真菌]] - 光合成はしないが、細胞壁を持ち、非運動性。
* [[細菌]]・[[古細菌]] - 一部は光合成を行うが、しないものの方が多い。細胞壁を持つ。運動性のものも多い。
しかし、これらのうち一部しか当てはまらない生物が多いことが認識されてくると、二界説を捨て新たな界を作る動きが現れた。
まず[[1860年]]、[[ジョン・ホッグ (博物学者)|ジョン・ホッグ]]が微生物など原始的な生物を Primigenum にまとめ、[[1866年]]には[[エルンスト・ヘッケル]]がそのグループに[[原生生物]] (プロチスタ) Protista 界と命名した。これにより、微生物や真菌は植物から外された。また、ヘッケルは同時に現在の植物 {{sname|Plantae}} 界という名を命名した。ただしのちに真菌は、かつては光合成をしていたが光合成能力を失ったとして再び植物に戻された。<!--原核生物の扱いは植物と直接関係しないので省略-->
1937年にはバークリーが、植物種の過半を占める[[菌類]]が[[クロロフィル]]を欠いている点を重視して、動物・菌類・植物に分ける[[三界説]]を提唱した<ref>岩波『生物学事典』【植物】</ref>。
次いで[[1969年]]、[[ロバート・ホイッタカー]]が[[五界説]]を唱え、光合成をする高等生物を植物と位置づけた。表面栄養摂取をする高等生物、つまり真菌は菌界として独立した。この段階では、藍藻類を含めた光合成生物が一つの系統的なまとまりを形成するという考えは暗に認められていた。
=== 系統分類へ ===
しかし、分子遺伝学的情報が利用可能になったこと、原生生物各群の研究、特に微細構造の解明が進んだことから、光合成生物の単系統性は疑わしくなってきた。また、[[1967年]]、[[リン・マーギュリス]]の[[細胞内共生説]]は、同じ葉緑素を持っているからといって同系統とは言えないことを示した。
たとえば、[[ミドリムシ]]類は[[緑藻]]類と同じ光合成色素を持っている。したがって系統上は近いものと考えることができた。しかし、近年の考えでは、これは全く系統の異なった原生生物が緑藻類を取り込み、自らの[[葉緑体]]としたものだと考えられている。つまり、光合成能力は、その生物の系統とは関係なく得られると考えられる。したがって、現代では、藻類というまとまりに分類学的意味を見いだすことはできなくなってしまった。
これを受け植物界の範囲はさらに限定的なものへと変化していく。[[1981年]]、マーギュリスは五界説を修正し、[[陸上植物]]を植物界とした。
同じ1981年、[[トーマス・キャバリエ=スミス]]は、[[八界説]]を唱えた。緑色植物と[[紅色植物]]と[[灰色植物]]は、葉緑体の唯一の一次共生を起こした生物を共通祖先とする単系統であるとして、これを植物界とした。ただしこの単系統性には疑問があるなどの理由で、新しい植物界の定義はあまり広まらなかった。一方、それまで植物に含まれていたが別系統である褐藻などは、単細胞藻類の大部分やいくつかの原生動物と共に[[クロミスタ]] {{sname||Chromista}} 界として独立させた。
[[2005年]]には、アドルらによって、「キャバリエ=スミスの植物界」が[[アーケプラスチダ]]と命名され、この呼称が専門分野では一般的となる。アドルらはまったく新しい枠組みで生物界全体を見直すことを意図し、界などリンネ式の階級を使わなかったが、リンネ式の階級システムではアーケプラスチダを界とすることが多い。
== 現在の植物の定義 ==
本節では、2012年現在における植物の複数の定義と、それらの定義が提案がされるに至った背景を説明する。
===背景===
{{正確性|section=1|date=2022年3月}}
[[File:Euryops daisy01.jpg|thumb|250px|[[ユリオプス属|ユーリオプス]]の[[キク科|デージー]]。]]
「かつて{{いつ|date=2022年3月}}{{要出典範囲|「植物」という単語は、広く[[光合成]]をする生物一般、すなわち[[光栄養生物|光合成生物]]全般を指していた|date=2022年3月}}」{{要出典範囲|だが、生物に関する科学的知見が深まるにつれ、この素朴な定義は大きく修正されることになった。|date=2022年3月}}
修正された理由は主に3つある。第一の理由として、生物全体が[[細菌]]、[[古細菌]]、[[真核生物]]の3つのドメインに分かれることが分子系統解析によりわかったことが挙げられる。これは[[細菌]]に属する[[光合成細菌]]は[[真核生物]]である陸上植物とは異なる系統であることを意味する<ref>[[#伊藤12|伊藤12]] pp 3-6.</ref>。{{要出典範囲|したがって陸上植物を含む単系統群として植物を定義するのであれば、植物を真核生物に属するものに限定しなければならない。|date=2022年3月}}」と誰{{誰|date=2022年3月}}は指摘した。
第二の理由は真核生物がいくつかのスーパーグループに分類できることが分子系統解析によりわかったことである<ref>[[#伊藤12|伊藤12]] p 6.</ref>。この分類に真核光合成生物を当てはめてみると、下記のように[[多系統]]であることがわかる:
{| class="wikitable" style="background-color:#fff; margin:0 auto"
|+真核生物の系統樹<ref>[[植物#伊藤12|伊藤12]] p7</ref><ref name="Adl">{{cite|journal=J. Eukaryot. Microbiol.|volume=59|issue=5|year=2012|pages=429–493|title=The Revised Classification of Eukaryotes|first=Sina M.|last=Adl|first2=Alastair G. B.|last2=Simpson|last3=''et al.''|url=http://www.paru.cas.cz/docs/documents/93-Adl-JEM-2012.pdf}}</ref>
! colspan="2" |スーパーグループ
!具体例
|-
| colspan="2" |[[オピストコンタ]]
|[[動物|(後生)動物]]・[[襟鞭毛虫]]・[[菌類]]
|-
| colspan="2" |[[アメーボゾア]]
|[[粘菌]]・[[アメーバ]]
|-
| colspan="2" |[[エクスカバータ]]
|[[ユーグレノゾア]]・[[ディプロモナス]]類
|-
| colspan="2" |[[アーケプラスチダ]]
|[[緑色植物亜界|緑色植物]]・[[紅色植物]]・[[灰色植物]]
|-
| colspan="1" rowspan="3" |[[SARスーパーグループ|SAR]]
|[[ストラメノパイル]]
|[[不等毛藻|不等毛植物]]([[褐藻]]・[[珪藻]]・[[黄金色藻]]<!-- ・[[ラフィド藻]]・[[黄緑藻]] -->など)、
[[卵菌]]・[[ラビリンチュラ|ラビリンチュラ類]]
|-
|[[アルベオラータ]]
|[[渦鞭毛藻|渦鞭毛植物]]・[[アピコンプレックス門|アピコンプレクサ]]・[[繊毛虫]]
|-
|[[リザリア]]
|[[放散虫]]・[[有孔虫]]
|-
| colspan="2" |[[ハクロビア]]{{Refnest|2012年2月時点で、このグループが単系統群であるか否かは分かっていないが<ref name=Burki2012>{{cite journal|last1=Burki |first1=F. |last2=Okamoto |first2=N. |last3=Pombert |first3= J.F. |last4=Keeling |first4=P.J. |year=2012 |title=The evolutionary history of haptophytes and cryptophytes: phylogenomic evidence for separate origins |journal=Proc. Biol. Sci. |doi=10.1098/rspb.2011.2301 |name-list-style=amp}}</ref><ref name=ZhaoBurkBratKeel12>{{Cite journal |last=Zhao |first=Sen |last2=Burki |first2=Fabien |last3=Bråte |first3=Jon |last4=Keeling |first4=Patrick J. |last5=Klaveness |first5=Dag |last6=Shalchian-Tabrizi |first6=Kamran |year=2012 |title=Collodictyon—An Ancient Lineage in the Tree of Eukaryotes |journal=Molecular Biology and Evolution |accessdate=2012-03-02 |doi=10.1093/molbev/mss001 |pmid=22319147 |pmc=3351787 |volume=29 |issue=6 |pages=1557–68}}</ref>、本項では[[#伊藤12|伊藤12]]に従い、ハクロビアを分類群として記述した|group="注釈"}}
|[[ハプト植物]]・[[太陽虫]]
|}
第三の理由は[[葉緑体]]の起源がわかったことである。真核光合成生物は、[[藍藻|シアノバクテリア]]に類似した原核生物を[[細胞内共生説|真核生物が取り込んだ]]ことにより誕生した(一次共生)<ref name=":0">[[#伊藤12|伊藤12]] pp. 6-8</ref>。そしてこのようにして誕生した真核光合成生物をさらに別の真核生物が取り込むことで新たな真核光合成生物も誕生した(二次共生)<ref name=":0" />。二次共生は生物の歴史で何度も起こった事が知られており<ref name=":0" />、これが真核生物の様々なスーパーグループに光合成生物が属している理由である。それに対し、一次共生が起こり二次共生が起こっていない生物群はスーパーグループの[[アーケプラスチダ]]と一致する事が知られている<ref name=":0" />。
『{{要出典範囲|何を持って植物と呼ぶべきかという問いに対する一つの答えは「[[アーケプラスチダ]]に属すること」という事になる。|date=2022年3月}}』
『{{要出典範囲|2012年現在提案されている植物の定義の多くは、アーケプラスチダもしくはそこに属する単系統部分群だ|date=2022年3月}}』と誰{{誰|date=2022年3月}}は言った{{いつ|date=2022年3月}}。
この他、非主流の系統仮説をもとに、アーケプラスチダより広い範囲を「超植物界」とする提案がされたこともあるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2007/09.html|title=植物の出生20億年の秘密を解き明かす “超”植物界 (“Super” Plant Kingdom) の復権|accessdate=2018/08/01|author=野崎久義|date=2007/6/12|publisher=[[東京大学]]東京大学大学院理学系研究科}}</ref>、有力な説となってはいない。
アーケプラスチダの系統樹は以下のようになる:
{| class="wikitable" style="background-color:#fff; margin:0 auto"
|+アーケプラスチダの系統樹<ref name=":1">{{Cite journal|last=Adl|first=Sina M.|last2=Bass|first2=David|last3=Lane|first3=Christopher E.|last4=Lukeš|first4=Julius|last5=Schoch|first5=Conrad L.|last6=Smirnov|first6=Alexey|last7=Agatha|first7=Sabine|last8=Berney|first8=Cedric|last9=Brown|first9=Matthew W.|date=2018-09-26|title=Revisions to the Classification, Nomenclature, and Diversity of Eukaryotes|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/jeu.12691|journal=Journal of Eukaryotic Microbiology|language=en|ref=Adl(2019)|doi=10.1111/jeu.12691|issn=1066-5234|pmid=30257078|pmc=6492006}}</ref>
|-
| colspan="4" |[[灰色植物]] {{sname||Glaucophyta}}
|-
| colspan="4" |[[紅色植物]] {{sname||Rhodophyta}}
|-
| rowspan="8" |[[緑色植物亜界|緑色植物]]<br> {{sname||Viridiplantae}}<br />
([[クロロフィル]]bの獲得)
| colspan="2" rowspan="3" |[[緑藻植物門|緑藻植物]] {{sname||Chlorophyta}}<br />
<!-- ([[フラグモプラスト]]型細胞分裂、 MLS型鞭毛など)
緑藻植物のところに書いてあるが、これはフラグモプラスト植物の特徴では? -->
|[[アオサ藻綱]] {{sname||Ulvophyceae}}
|-
|[[トレボウクシア藻綱]] {{sname||Trebouxiophyceae}}
|-
|…
|-
| rowspan="5" |[[ストレプト植物]]<br> {{sname||Streptophyta}}<!-- <br />(多細胞化) ? -->
| colspan="2" |[[クロロキブス藻綱|クロロキブス藻]] {{Sname||Chlorokybus}}、[[メソスティグマ藻綱|メソスティグマ藻]] {{Sname||Mesostigma}}、[[クレブソルミディウム藻綱|クレブソルミディウム藻類]] {{Sname||Klebsormidiophyceae}}
|-
| rowspan="4" |フラグモプラスト植物<br> {{Sname||Phragmoplastophyta}}
|[[接合藻類]] {{Sname||Zygnematophyceae}}
|-
|[[コレオケーテ類]] {{Sname||Coleochaetophyceae}}
|-
|[[車軸藻類|シャジクモ類]] {{sname||Charophyceae}}
|-
|[[陸上植物]] {{sname||Embryophyta}}<br />([[胞子体]]の獲得)
|}
===定義===
{{出典の明記|section=1|date=2021年8月}}
2012年現在、植物界の定義として以下のものがある:
;[[アーケプラスチダ]]
: 緑色植物、[[紅色植物]]、[[灰色植物]]からなる単系統群。葉緑体膜が2重である。[[シアノバクテリア]]を細胞内に共生させた生物を共通祖先とする単系統群であるという仮説に基づき、[[トーマス・キャバリエ=スミス]]がこの系統を植物界と定義した。単に「広義の植物界 ({{sname|Plantae ''sensu lato''}})」と言った場合、これを意味することが多い。ただし、より広義の意味と対比させ、「狭義の植物界」と呼ぶこともある。<ref>井上勲著『藻類30億年の自然史 第2版』、東海大学出版会、ISBN 978-4-486-01777-6</ref><ref>渡邉信 ・西村和子等編『微生物の事典』、朝倉書店、ISBN 978-4-254-17136-5 C3545</ref>
;[[緑色植物亜界|緑色植物]]
: [[葉緑体]]が[[クロロフィル]] a/b をもつ事で特徴づけられる単系統群で<ref>[[#伊藤12|伊藤12]] p 9.</ref>、葉緑体膜が2重である。「狭義の植物界 ({{sname|Plantae ''sensu stricto''}})」と言った場合、これを意味することがある。
;[[陸上植物]]
: [[コケ植物]]、[[シダ植物]]、[[種子植物]]からなる単系統群。古くは後生植物ともいい、陸上で進化し、高度な多細胞体制を持つ。この群を植物界とする分類は[[リン・マーギュリス]]が唱え、マーギュリスにより改訂された[[五界説]]と共に広まった。
== 分類学以外の用語 ==
植物という語には、現代でもアリストテレスが意図したような「動かない生物が植物」という意味合いがあり、[[植物状態]]という表現もある。
動物の中にも植物的な性質を認める、[[植物性]]器官・[[植物極]]などの語がある。
生物学のうち植物を研究対象とする分野を[[植物学]]と呼ぶ。これは本来は、分類学的な植物を研究対象とするものではない。具体的には、陸上植物および全ての藻類を対象とする。植物の学名の命名規約は以前は国際植物命名規約であったが、これも正確に訳せば国際「植物学」命名規約で、分類学的な植物ではなく、植物学の対象を指していた。現在は[[国際藻類・菌類・植物命名規約]] となって、「植物学」の語はなくなった。
== 植物の進化 ==
{{リンクのみの節}}
* [[植物の進化]]を参照。
== 植物の知覚 ==
{{リンクのみの節}}
* [[植物の知覚]]を参照。
== 植物と生態系 ==
生態系において、植物は大きな部分を占めている。[[緑藻]]を含む[[緑色植物亜界|緑色植物]]は[[光合成]]によって[[有機化合物|有機物]]を生産するが、これ以外の[[基礎生産|一次生産者]]は[[化学合成 (生命科学)|化学合成]]を行う一部の[[細菌]]類のみであり<ref>https://www.nies.go.jp/kanko/news/32/32-5/32-5-03.html 「一次生産を測る -魚と人の暮らしを支えるもの-」広木幹也 国立環境研究所 2013年12月28日 2022年4月3日閲覧</ref>、事実上地球上のほとんどの有機物生産は植物によって行われている<ref>「地球環境論 緑の地球と共に生きる」p26 山田悦編著 電気書院 2014年4月10日第1版第1刷発行</ref>。植物によって生産された有機物は、[[捕食-被食関係]]などを通じて一次消費者である[[草食動物]]、二次・三次消費者である[[肉食動物]]、そしてそれらの[[分解者]]へとつながっていき、[[食物連鎖]]を形成する<ref>「地球環境論 緑の地球と共に生きる」p27 山田悦編著 電気書院 2014年4月10日第1版第1刷発行</ref>。また植物は各地の[[気候]]などによって特徴的な[[植生]]を形成し、それを基盤とした[[生物群系]]を各地に成立させる<ref>「地球環境論 緑の地球と共に生きる」p28 山田悦編著 電気書院 2014年4月10日第1版第1刷発行</ref>。植物の光合成は、大気中の酸素濃度および二酸化炭素濃度を安定化させることに大きく貢献している<ref>「生物多様性」p34-35 本川達雄 中公新書 2015年2月25日発行</ref>。
植物と動物は捕食-被食関係のほかに、しばしば[[共生]]関係を構築する。例えば[[種子植物|顕花植物]]には[[昆虫]]や[[鳥類|鳥]]などの動物を媒介して[[受粉]]を行う[[動物媒]]のものが数多く存在し、なかでも媒介動物の多い[[熱帯]]の樹木においては95%が動物媒によるものである<ref>「樹木学」p105 ピーター・トーマス 築地書館 2001年7月30日初版発行</ref>。
== 人間と植物 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2018年3月}}
人と植物の関係は実に多様である。人間と植物の関係は、生物学で言う食物連鎖上の《消費者と生産者》の関係にとどまらず、人は植物を原料や材料として利用したり、観賞するなど[[文化 (代表的なトピック)|文化]]や[[心]]の豊かさのためにも用いている。人間以外にも[[巣]]などを作る材料として植物を利用している生物がいるが、人間の植物の利用の仕方の方がはるかに多様である。生物学上の植物のうち、基本的には樹木や草花が対象になることが多いが、藻類や菌類も含まれる。
=== 食糧・薬品 ===
人類は[[雑食]]であり、植物は[[食糧]]源として極めて重要である。植物の[[葉]]・[[茎]]・[[根]]・[[果実]]は[[穀物]]・[[野菜]]・[[果物]]として、そのまま、あるいは[[調理]][[加工食品|加工]]して摂取される。当初は[[狩猟採集社会|採集]]によって植物性食糧を確保していたものの、約12000年前に一部の植物の[[栽培]]が始まり、[[農業]]によって植物性食糧が大量に生産されるようになった<ref>「世界の食用植物文化図鑑 起源・歴史・分布・栽培・料理」p14-17 バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアント著 山本紀夫監訳 柊風舎 2010年1月20日第1刷</ref>。世界で食用に栽培されている植物はおよそ2300種ほどとされている<ref>「新訂 食用作物」p7 国分牧衛 養賢堂 2010年8月10日第1版発行</ref>。また、植物を[[飼料]]として[[家畜]]を飼育することにより、動物性食品の大量供給も行われている<ref>「新訂 食用作物」p8-9 国分牧衛 養賢堂 2010年8月10日第1版発行</ref>。直接的な食糧だけでなく、[[糖]]や[[蜜]]といった[[甘味料]]や、[[油糧作物]]から取れる[[植物油]]も重要である<ref>「世界の食用植物文化図鑑 起源・歴史・分布・栽培・料理」p324-325 バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアント著 山本紀夫監訳 柊風舎 2010年1月20日第1刷</ref>。植物からは[[タバコ]]や[[コーヒー]]、[[茶]]といった[[嗜好品]]も生産され、[[商品作物|換金作物]]として広く栽培されている<ref>「ビジュアル版 世界有用植物誌 人類の暮らしを変えた驚異の植物」p132-133 ヘレン&ウィリアム・バイナム著 栗山節子訳 柊風舎 2015年9月22日第1刷</ref>。[[微生物]]を利用した[[発酵食品]]も各種存在し、穀物や果物からは、[[ビール]]や[[ワイン]]といった[[酒]]も作られる<ref>「世界の食用植物文化図鑑 起源・歴史・分布・栽培・料理」p304-305 バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアント著 山本紀夫監訳 柊風舎 2010年1月20日第1刷</ref>。
植物の中には[[薬効]]を示すものがあり、人類は有史以前から[[健康]]のために[[薬用植物]]を摂取し、またそこから[[薬]]を製造して患者に投与してきた。植物由来の医薬品は現代でも盛んに使用され、さらに植物の薬効成分の研究によってあらたな薬が開発されることもある<ref>「ビジュアル版 世界有用植物誌 人類の暮らしを変えた驚異の植物」p82-83 ヘレン&ウィリアム・バイナム著 栗山節子訳 柊風舎 2015年9月22日第1刷</ref>。
=== 素材・原料 ===
食糧以外にも、植物は工業原料や材料としてさまざまに利用される。こうした工芸原料はしばしば農作物として栽培され、[[工芸作物]]と総称される<ref>https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/2003/02.html 「農作物には工芸作物というものがあると聞きました。工芸作物とはどのようなものを言うのですか?」日本国農林水産省 令和2年3月 2022年7月14日閲覧</ref>。
森林から生産される[[木材]]は工業原料・資材として非常に重要であり、狭義の[[林業]]は森林からの木材生産と定義されている<ref>https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E6%A5%AD-150288 「林業」コトバンク 2022年7月16日閲覧</ref>。生産された木材の用途は多様である。建築用材料としての[[材木]]のほか、木材を加工した[[合板]]も近代以降は重要な工業原料となっている<ref>「木材と文明」p260-270 ヨアヒム・ラートカウ著 山縣光晶訳 築地書館 2013年12月10日初版発行</ref>。木材は工芸材料としても重要で、[[箪笥|タンス]]などの家具や[[指物]]、[[食器]]などさまざまな[[木工]]品が製作されている<ref>「森林と木材を活かす事典 地球環境と経済の両立の為の情報集大成」p472-473 産調出版 2007年1月30日発行</ref>。工芸材料としては、[[東アジア]]から[[東南アジア]]にかけては[[竹]]も広く使用され、[[竹細工]]などの各種生活工芸品が制作されてきた<ref>「地域資源を活かす 生活工芸双書 竹」p46-50 内村悦三・近藤幸男・大塚清史・紀州製竿組合・前島美江・田邊松司著 農山漁村文化協会 2019年1月20日第1刷発行</ref>。このほかにも、[[トウ#利用|籐家具]]等々さまざまな植物が工芸材料とされている。
植物の[[繊維]]質は、[[被服]]の重要な原料となっており、[[アマ (植物)|亜麻]]や[[アサ|麻]]、そして[[木綿|綿花]]などから衣服が作られている<ref>「ビジュアル版 世界有用植物誌 人類の暮らしを変えた驚異の植物」p120-126 ヘレン&ウィリアム・バイナム著 栗山節子訳 柊風舎 2015年9月22日第1刷</ref>。[[紙]]も植物繊維からつくられており、古くは麻やぼろ布、[[和紙]]の場合は[[コウゾ]]や[[ミツマタ]]などを主原料としていたが、19世紀中盤以降木材から[[パルプ]]を製造し[[製紙業|製紙]]を行う方法が主流となって、ほとんどの紙が木材から製造されるようになった<ref>「トコトンやさしい紙と印刷の本」(今日からモノ知りシリーズ)p10-15 前田秀一 日刊工業新聞社 2018年12月19日初版1刷発行</ref>。[[マニラ麻]]や[[サイザル麻]]といった硬質繊維は、[[紐]]や[[縄]]の材料として20世紀半ばまでは重要な地位を占めていた<ref>「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p251-254 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>。このほかの植物繊維質利用としては、[[畳]]や[[わらじ]]等々がある。
植物は[[燃料]]としても重要である。[[薪]]や[[木炭]]は最も基本的な燃料として世界中で使用され、[[産業革命]]後に先進国の[[エネルギー]]生産が[[化石燃料]]主体へと移行したのちも発展途上国においては燃料の主力であり続け、2005年時点で世界の木材生産の47%が薪炭用に使用されている<ref>「自然環境学の創る世界」p157 東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学研究系編 朝倉書店 2011年3月20日書版第1刷</ref>。また、21世紀に入り化石燃料使用の削減が叫ばれるようになると、[[サトウキビ]]や[[トウモロコシ]]などを原料とした[[バイオマスエタノール]]など、植物性[[バイオマス|バイオマスエネルギー]]の活用が盛んとなってきている<ref>「エネルギー資源の世界史 利用の起源から技術の進歩と人口・経済の拡大」p343-347 松島潤編著 一色出版 2019年4月20日初版第1刷</ref>。
[[樹液]]を固めた[[天然樹脂|樹脂]]も、原料として広く利用されてきた。こうした[[天然樹脂]]の中でもっとも重要なものは[[ゴム]]であり、[[防水性]]や[[絶縁性]]、[[弾力性]]に優れることから[[タイヤ]]や[[電化製品]]、[[靴]]や[[手袋]]などの日用品に至るまで幅広く利用されている<ref>「ビジュアル版 世界有用植物誌 人類の暮らしを変えた驚異の植物」p156-159 ヘレン&ウィリアム・バイナム著 栗山節子訳 柊風舎 2015年9月22日第1刷</ref>。また同じく樹脂である[[漆]]は[[塗料]]として優れ、日本ではこれを利用した多くの[[漆器]]が生み出されてきた<ref>https://www.pref.kagawa.lg.jp/shitsugei/sitsugei/history/urushi.html 「漆とは」香川県漆芸研究所 2020年12月10日 2022年7月17日閲覧</ref>。このほか、[[糊]]や[[化粧品]]や[[香水]]等々、植物を原料としてさまざまなものが生み出されてきた。
=== 環境 ===
生活空間のなかに樹木や草花を[[植栽]]することは広く行われている。個人宅には[[庭園|庭]]が設置され樹木や[[芝|芝生]]が植えられるほか、[[塀]]の代わりに[[庭木]]を密生して植えることで自宅と外部とを区画する[[生垣]]も利用されている<ref>「緑の環境デザイン 庭から国立公園まで」p38-41 斉藤一雄・田端貞寿編著 日本放送出版協会 昭和60年4月20日第1刷発行</ref>。[[道路]]には[[街路樹]]や[[並木]]が植えられ、美観や緑陰を向上させる<ref>「緑の環境デザイン 庭から国立公園まで」p42 斉藤一雄・田端貞寿編著 日本放送出版協会 昭和60年4月20日第1刷発行</ref>。[[都市]]には市民の休養や美観、防災を目的として[[公園]]や[[緑地]]が[[造園]]され、さまざまな植物が植栽される<ref>「造園学概論」p60-61 亀山彰監修 小野良平・一ノ瀬友博編 朝倉書店 2021年9月1日初版第1刷</ref>。観賞用の花や樹木を植えた[[庭園]]は古代より世界各地に存在し、現地の文化に基づいたさまざまなスタイルを発展させてきた<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p100-123 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。
災害の防止や資源の保護のために植生を利用することも広く行われている。例としては、森林の高い表層[[土壌侵食]]保護能力<ref>「流域学事典 人間による川と大地の変貌」p61-62 新谷融・黒木幹男編著 北海道大学出版会 2006年7月25日第1刷発行</ref>を利用した山地での森林造成や、強風を防ぐための[[防風林]]の造成などである<ref>「森と人間の物語」p90-92 小澤普照 KKベストセラーズ 1991年8月5日初版発行</ref>。こうした公益的機能の高い森林は世界各地で保護されており、日本では[[保安林]]として整備・保護されている<ref>「現代森林政策学」p107 遠藤日雄編著 日本林業調査会 2008年3月16日初版第1刷発行</ref>。
20世紀末以降、[[地球温暖化]]が進み対策が求められるなかで、植物、特に森林の二酸化炭素吸収機能が注目されている<ref>「図解 知識ゼロからの林業入門」p176-179 関岡東生監修 家の光協会 2016年11月1日第1版発行</ref>。
=== 文化 ===
実用以外にも、植物は人類の文化において大きな部分を占めている。宗教の多くでは一部の植物に[[聖性]]を与えており、また各地の文化はさまざまなイメージを植物へと投影してきた<ref>「ビジュアル版 世界有用植物誌 人類の暮らしを変えた驚異の植物」p180-181 ヘレン&ウィリアム・バイナム著 栗山節子訳 柊風舎 2015年9月22日第1刷</ref>。[[葬儀]]の際に花が飾られたり[[墓]]前に花が捧げられるように、儀式の際に花を用いることは珍しくない<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p136-147 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。
[[園芸]]は趣味として一般的なものであり、自宅に[[観葉植物]]や[[盆栽]]などの[[鉢植え]]をおいたり、庭がある場合は[[花壇]]などに草花を地植えし、または自宅や周辺で家庭菜園を営むなど、さまざまな[[ガーデニング]]が楽しまれている。鉢植えや切り花などの観賞用植物は巨大な市場規模を持っており、[[園芸農業|園芸農家]]で栽培された植物は[[卸売市場]]で取引され、[[花屋]]などで消費者に購入される<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p181-192 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。花は[[ドライフラワー]]や[[押し花]]などに加工される。植物は[[絵画]]や[[彫刻]]・[[文芸]]の対象として一般的なものであり、例えば[[アールヌーボー]]では植物は主要なモチーフとなっている。[[華道]]のように、植物の飾り方そのものが芸術となることもある。
人間は緑の多い風景を良好な[[環境]]や[[景観]]と見なすことが多く、癒やしを求めるため[[森林浴]]を行うこともある<ref>「森と人間の物語」p105 小澤普照 KKベストセラーズ 1991年8月5日初版発行</ref>。
=== 品種改良と遺伝子操作 ===
人類は植物を利用する過程において、自らの望む特質を持った個体を選抜し育成することで、より有益な種を作り出してきた。こうした[[品種改良]]において最も古いものは穀物の栽培初期であり、[[栽培化]]の過程で穀物は種子の非脱落性や可食部の増大といった、人類の利用に有益な形質を持つ種が選抜されていった<ref>国分牧衛『新訂 食用作物』(養賢堂 2010年8月10日第1版)p.5</ref>。[[生物工学]]の発展に伴い、[[遺伝子]]操作によって栄養価の改善や耐病性の強化などを改善した[[遺伝子組み換え作物]]が開発され栽培が行われているものの、安全性などの面から根強い反対運動が起こっている<ref>「世界の食用植物文化図鑑 起源・歴史・分布・栽培・料理」p54-55 バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアント著 山本紀夫監訳 柊風舎 2010年1月20日第1刷</ref>。こうした品種改良や遺伝子操作は食用作物に限ったことではなく、観賞用の作物である花でも選別や[[人工交配]]によって新品種が作り出され、遺伝子技術も取り入れられている<ref>「考える花 進化・園芸・生殖戦略」p167-170 スティーブン・バックマン 片岡夏実訳 築地書館 2017年8月21日初版発行</ref>。
=== 害 ===
植物が人間や生態系に害をなすこともある。[[スギ]]や[[ヒノキ]]・[[イネ科]]植物や[[ブタクサ]]・[[シラカバ]]などが飛ばす[[花粉]]は、一部の人間に[[花粉症]]と呼ばれる[[アレルギー]]症状を引き起こす<ref>「植物気候学」p36-37 福岡義隆編 古今書院 2010年3月10日初版第1刷発行</ref>。また、本来その土地になかった人為的な[[外来種]]が[[帰化植物]]として地域の[[生態系]]に根付くことがあるが、一部の帰化植物は従来の生態系に悪影響を及ぼすことがあり<ref>https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/invasive.html 「侵略的な外来種」日本国環境省自然環境局 2022年7月19日閲覧</ref>、日本では[[外来生物法]]によって規制されている<ref>https://www.env.go.jp/nature/intro/1law/outline.html 「どんな法律なの?」日本国環境省自然環境局 2022年7月19日閲覧</ref>。
=== その他 ===
* (存在を特に望んでいない場合は人は植物を勝手に)[[雑草]]や[[雑木]]などと呼ぶこともある。
* 植物の例えとして、[[脳幹]]のみによって生きている人間を[[遷延性意識障害|植物人間]]と呼ぶのは、20世紀初頭の[[生理学]]において「意識がなくても維持される生理機能」を植物的性質と称したことによるもので、生物としての植物には何ら関連がない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|ref=伊藤12|author=[[伊藤元己]]|editor=太田次郎、赤坂甲治、浅島 誠、長田敏行|title=植物の系統と進化|series=新・生命科学シリーズ|date=2012/5/1|year=|accessdate=|publisher=裳華房|isbn=978-4785358525|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Plantae}}
{{Wikispecies|Plantae}}
{{ウィキポータルリンク|植物}}
* [[樹木]] - [[草本]]
* [[花]] - [[葉]] - [[根]] - [[茎]]
* [[生物の分類]]
* [[木]]、[[木の一覧]]
* [[花卉]]
* {{ill2|植物図|en|Botanical illustration}} - 植物の特徴をとらえた詳細な図
== 外部リンク ==
* [http://bean.bio.chiba-u.jp/bgplants/ BG Plants 日本植物学名検索システム](日本に自生、帰化している全ての維管束植物と主な栽培植物について和名、学名などを検索できる)
* [http://foj.c.u-tokyo.ac.jp/gbif/ja/ Flora of Japan] - 日本植物分類学会
* {{Kotobank}}
{{植物学}}
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{{DEFAULTSORT:しよくふつ}}
[[Category:植物|*]]
[[Category:植物相]] | 2003-03-24T07:52:48Z | 2023-11-25T20:45:55Z | false | false | false | [
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5,073 | 6月10日 | 6月10日(ろくがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から161日目(閏年では162日目)にあたり、年末まであと204日ある。
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== できごと ==
<!-- 記事に日付のないもの:高麗郡, 承久の乱, アルベルト・フジモリ, -->
<!-- 英語版記事にのみ日付のあるもの:義和団の乱, 北見市(日本の街なのに…), ポル・ポト, -->
[[Image:Joseph_Albert_-_Ludwig_und_Malwine_Schnorr_von_Carolsfeld_-_Tristan_und_Isolde%2C_1865f.jpg|thumb|楽劇『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』初演(1865)]] <!-- 音声ないです残念 -->
[[Image:Interior of Fort McKee., 06-1871 - NARA - 559259.tif|thumb|アメリカ合衆国による朝鮮攻撃、[[辛未洋擾]](1871)]]
[[Image:BoxerJapaneseMarines.jpg|thumb|[[義和団の乱]]、列国第2次出兵(1900)。画像は日本の海軍陸戦隊]]
[[Image:USPatent701839-CallahanAmericus-WindowedEnvelope.gif|thumb|{{仮リンク|窓付き封筒|en|Windowed envelope}}の特許(1902)]] <!-- TODO: 記事訳出 -->
<!-- [[Image:DIN_lang_-_Letter_Window.JPG|thumb|[[:en:Windowed envelope]]]] -->
<!-- [[Image:Affondamento_Santo_Stefano.jpg|thumb|戦艦[[セント・イシュトヴァーン (戦艦)|]](1918)撃沈]] -->
<!-- [[Image:Affiche_%C3%A9migration_JP_au_BR-d%C3%A9b._XXe_s..jpg|thumb|日本の[[拓務省]]設置(1929)。画像は[[ブラジル]]移民を募るポスター]] -->
[[Image:Bundesarchiv_Bild_146-1993-020-26A%2C_Lidice%2C_Ort_nach_Zerst%C3%B6rung.jpg|thumb|[[リディツェ#第二次大戦中]](1942)]]
<!-- [[Image:Oradour-sur-Glane-Hardware-1406.jpg|thumb|[[オラドゥール=シュル=グラヌ]]の虐殺(1944)]] -->
[[Image:National_museum_of_western_art05s3200.jpg|thumb|[[国立西洋美術館]]の開館式(1959)。本館の設計は[[ル・コルビュジエ]]]]
<!-- [[Image:%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%A6%8F%E7%AB%9C%E4%B8%B8_%E8%88%B9%E5%B0%BEl.jpg|thumb|upright|[[東京都立第五福竜丸展示館]](1976)開館]] -->
[[Image:NASA_Mars_Rover.jpg|thumb|火星探査機[[スピリット (探査機)|スピリット]]打ち上げ(2003)]]
<!-- [[Image:Lancement_Spirit_fusee_Delta_IIs_10062003.jpg|thumb|火星探査機[[スピリット (探査機)|]]打ち上げ(2003)]] 打ち上げの画像 -->
<!-- グレゴリオ暦換算。ユリウス暦では6月7日 * [[671年]]([[天智天皇]]10年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - 漏刻([[水時計]])と鐘鼓による[[時報]]を開始。([[時の記念日]]) -->
* [[716年]]([[霊亀]]2年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[高句麗]]の遺民1,799名を[[武蔵国]]に移し[[高麗郡]]を設置{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1221年]]([[承久]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[承久の乱]]: [[北条義時]]追討を命ずる[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の[[院宣]]を受けて[[北条政子]]が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。
* [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]) - 倒幕挙兵討伐のために丹波に入っていた[[足利尊氏]]が、[[後醍醐天皇]]に応じて倒幕を決意し挙兵。
* [[1338年]]([[延元]]3年/[[暦応]]元年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[石津の戦い]]。南朝方の[[北畠顕家]]が北朝方の[[高師直]]に敗れ戦死。
* [[1786年]] - 10日前の地震で中国[[四川省]]の[[大渡河]]にできた[[天然ダム]]が崩壊。10万人が死亡。<!-- enより。暦法要確認 -->
* [[1794年]]([[フランス革命暦]]II年プレリアール22日) - [[フランス革命]]:[[プレリアール22日法]]が制定される。
* [[1805年]] - [[第一次バーバリ戦争]]が終結。
* [[1829年]] - [[テムズ川]]で[[オックスフォード大学]]・[[ケンブリッジ大学]]間初の[[ザ・ボート・レース|ボート・レース]]が行われ、オックスフォードが優勝。<!-- enより。『雑学366日 今日は何の日か事典』(大泉書店)にも記載 -->
<!-- * [[1846年]] - [[カリフォルニア共和国]]が[[メキシコ]]から分離独立。{{要検証|date=2010年6月|title=英西仏独版など全て14日となっています}} -->
* [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[ブライス交差点の戦い]]が行われる。
* [[1865年]] - [[リヒャルト・ワーグナー]]の歌劇『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』がミュンヘンで初演。
* [[1871年]] - [[辛未洋擾]]
* [[1886年]] - [[ニュージーランド]]の[[タラウェラ山]]が大噴火。飛び散った噴石により153人が死亡。
* [[1900年]] - [[義和団の乱]]鎮圧のため、日米英独仏伊墺露の8か国連合軍が北京へ侵攻開始。(列国第2次出兵)<!-- 『決定版20世紀年表』(小学館)に記載 -->
* [[1902年]] - アメリカのA.キャラハンが、窓付き[[封筒]] ([[:en:Windowed envelope]]) の[[特許]]を取得。
* [[1903年]] - [[東京大学|東京帝国大学]]・[[学習院]]の教授7名が日本政府に対露強硬外交を迫る[[七博士意見書]]を提出。
* [[1907年]] - [[日仏協約]]が調印される。清の独立・領土保全が約束され、清国内の両国の勢力範囲が確認される。
* [[1913年]] - [[森永ミルクキャラメル]]が発売。
* [[1917年]] - [[第一次世界大戦]]: [[オルティガーラ山の戦い]]が起こる。
* [[1918年]] - 第一次世界大戦: [[オーストリア=ハンガリー帝国海軍]]の戦艦「[[セント・イシュトヴァーン (戦艦)|セント・イシュトヴァーン]]」が[[イタリア海軍]]の[[MAS (魚雷艇)|魚雷艇MAS-15]]に撃沈される。
* [[1924年]] - [[イタリア]]の社会主義の指導者・[[ジャコモ・マッテオッティ]]が[[ファシズム|ファシスト]]により暗殺される。
* [[1925年]] - [[カナダ]]で、[[長老派教会]]・[[メソジスト]]教会・[[会衆派教会]]の合併により[[カナダ連合教会]]が発足。
* [[1926年]] - [[朝鮮半島]]で、[[6・10万歳運動]]が起こる。
* [[1929年]] - 日本の植民地行政の中心機関・[[拓務省]]を設置。<!-- 『決定版20世紀年表』(小学館)に記載 -->
* [[1935年]] - [[アルコホーリクス・アノニマス]]発足。
* [[1939年]] - [[南京総領事館毒酒事件]]。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[イタリア]]が[[イギリス]]・[[フランス]]に宣戦布告。
* 1940年 - [[北欧侵攻]]: [[ノルウェー]]軍が[[ナチス・ドイツ]]に降伏。政府、国王は亡命政権として抗戦継続。
* [[1942年]] - 第二次世界大戦: ナチス・ドイツが[[ラインハルト・ハイドリヒ]]暗殺の報復として[[チェコ]]の[[リディツェ]]で住民を虐殺。
* 1942年 - 北海道[[北見市]]が市制施行。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: ナチス・ドイツの[[武装親衛隊]]が[[フランス]]の[[オラドゥール=シュル=グラヌ]]で住民642人を虐殺。
* 1944年 - 第二次世界大戦: [[ディストモの大虐殺]]。ナチス・ドイツのSS警察部隊が[[第二次世界大戦時のギリシャ|ギリシャ]]の[[ディストモ]]で住民218人を殺害。
* 1944年 - [[シンシナティ・レッズ]]の[[ジョー・ナックスホール]]がメジャーデビュー。15歳10か月11日の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]史上最年少記録。
* 1945年 - 米軍が[[君原村]]・[[阿見町]]・[[土浦市]]一帯の海軍航空隊施設などを爆撃、軍民合せて300人以上が死亡。
* [[1949年]] - [[社会教育法]]公布。
* [[1955年]] - [[日本電信電話公社|電電公社]]の[[時報]]サービスが[[東京]]で始まる。
* [[1959年]] - [[国立西洋美術館]]で開館式。
* 1959年 - [[東京高速道路]]・[[土橋入口|土橋]] - 城辺橋が開通。日本初の高架式高速道路。
* [[1960年]] - [[安保闘争]]: [[東京国際空港]]で[[ジェイムズ・ハガティ]]米大統領報道官の一行が[[デモ活動|デモ]]隊に包囲され、[[アメリカ海兵隊]]のヘリに救助。(ハガチー事件)
* [[1962年]] - [[北陸本線]][[北陸トンネル]]が開通。当時日本最長。
* [[1965年]] - [[青年海外協力隊]]の前身の「協力隊協議会」が発足。
* [[1967年]] - [[第三次中東戦争]]([[6月5日]] - )が終結。空軍による6日間の電撃作戦で[[イスラエル]]の占領地域は戦前の4倍以上に拡大し、現在まで[[中東]]の[[地政学]]に影響している。
* [[1968年]] - [[大気汚染防止法]]・[[騒音規制法]]公布。
* [[1969年]] - [[国鉄バス]]が[[東名ハイウェイバス]]および日本初の[[夜行高速バス]]「[[ドリーム号 (高速バス)|ドリーム号]]」の運行を開始。
* 1969年 - 日本の[[経済企画庁]]が、日本の[[国民総生産]] (GNP) が[[西ドイツ]]を抜いて世界第2位となったと発表。
* [[1976年]] - [[札幌市営地下鉄東西線]]の最初の開業区間、[[琴似駅 (札幌市営地下鉄)|琴似駅]] - [[白石駅 (札幌市営地下鉄)|白石駅]]間が開業。
* 1976年 - [[東京都立第五福竜丸展示館]]が開館。
* [[1987年]] - [[大韓民国|韓国]]で[[6月民主抗争]]起きる。憲法を改正して大統領を直接選挙で選ぶよう求めた在野勢力が、要求を拒んだ軍事政権に対し、全土で激しい抗議デモを行った。政権は屈服し、6月29日にいたって要求を全面的に受け入れる[[民主化宣言]]を発した。
* [[1990年]] - [[ペルーの大統領|ペルー大統領]]選挙の決選投票で[[アルベルト・フジモリ]]が当選。
* [[1997年]] - カンボジアの元独裁者[[ポル・ポト]]が[[ソン・セン]]や国防相とその家族の殺害を命令。
* [[1998年]] - [[1998 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ フランス大会]]が開幕。[[7月12日]]まで。
* [[1999年]] - [[日本標準時]]を送信する無線局[[JJY]]の[[おおたかどや山標準電波送信所]]が運用開始。
* [[2000年]] - [[群馬県]][[新田郡]][[尾島町]]安養寺(現:[[太田市]]安養寺町)の化学工場・[[日進化工|日進化工群馬工場]]で爆発事故が発生。爆音が30kmほど離れた[[前橋市]]や[[高崎市]]まで響き、死者4名、けが人多数という大事故であった。
* [[2003年]] - [[ハマース]]報道官[[アブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィー]]が[[イスラエル]]軍ヘリの空爆を受ける。
* 2003年 - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[火星探査機]]「[[スピリット (探査機)|スピリット]]」が打ち上げられる。
* [[2007年]] - [[ピッツバーグ・パイレーツ]]の[[桑田真澄]]投手が[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]初登板。
* [[2010年]] - [[大韓民国|韓国]]のロケット「[[羅老 (ロケット)|羅老]] (KSLV-1)」2号機が打上げられるが、発射137秒後に爆発し、1号機に続けて打上げ失敗<ref>{{Cite web|和書|date=2010年6月10日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2735212 |title=韓国、ロケット打ち上げに失敗 137秒後に通信途絶 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-09-30}}</ref>。
* [[2012年]] - [[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]東心斎橋の路上で通り魔殺人事件が発生。[[南野信吾]]ら男女2人が殺害される<ref>{{Cite web|和書|date=2015年6月26日 |url=https://www.sankei.com/article/20150626-PUL4NUQCLZPFRIPTRKTT7XSDQE/2/ |title=【心斎橋通り魔】無差別に2人殺害「極めて残虐」死刑判決 大阪地裁(2/2ページ) |work=産経WEST |publisher=産経デジタル |accessdate=2018-09-30}}</ref>。
* [[2018年]] - [[ミヤコ蝶々]]記念館閉館<ref>{{Cite news |title=ミヤコ蝶々記念館が閉館 生前の台本や愛用品展示 |newspaper=日刊スポーツ |date=2018-06-05 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201806050000380.html |accessdate=2018-06-05}}</ref><ref>{{Cite news |title=ミヤコ蝶々記念が閉館 遺品など展示、「入館者減」 |newspaper=毎日新聞 |date=2018-06-05 |url=https://mainichi.jp/articles/20180605/k00/00e/040/224000c |accessdate=2018-06-05}}</ref>。
{{-}}
== 誕生日 ==
<!-- あまりない -->
=== 人物 ===
* [[867年]]([[貞観 (日本)|貞観]]9年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[宇多天皇]]、第59代[[天皇]](+ [[931年]])
* [[1688年]] - [[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]、[[イギリス]]の[[王族]](+ [[1766年]])
* [[1706年]] - [[ジョン・ドロンド]]、[[光学|光学者]](+ [[1761年]])
* [[1804年]] - [[ヘルマン・シュレーゲル]]、[[鳥類学|鳥類学者]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1884年]])
* [[1819年]] - [[ギュスターヴ・クールベ]]、[[画家]](+ [[1877年]])[[Image:Courbet_LAtelier_du_peintre.jpg|thumb|300px|画家[[ギュスターヴ・クールベ]](1819-1877)誕生。画像は『画家のアトリエ』(1854-55)]]
* [[1832年]] - [[ニコラウス・オットー]]、[[発明家]](+ [[1891年]])
* [[1835年]] - [[フェルディナンド4世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド4世]]、[[トスカーナ大公]](+ [[1908年]])
* [[1861年]] - [[ピエール・デュエム]]、[[物理学者]]、[[科学哲学|科学哲学者]](+ [[1916年]])
* [[1865年]] - [[フレデリック・クック]]、[[探検家]](+ [[1940年]])
* 1865年([[慶応]]元年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[小泉又次郎]]、[[政治家]](+ [[1951年]])
* 1865年(慶応元年5月17日) - [[村上鬼城]]、[[俳人]](+ [[1938年]])
* [[1880年]] - [[アンドレ・ドラン]]、画家(+ [[1954年]])
* [[1882年]] - [[長谷部言人]]、[[人類学|人類学者]](+ [[1969年]])
* [[1886年]] - [[早川雪洲]]、[[俳優]](+ [[1973年]])
* [[1893年]] - [[酒井忠正]]、政治家(+ [[1971年]])
* [[1895年]] - [[ハティ・マクダニエル]]、女優(+ [[1952年]])
* 1895年 - [[イマヌエル・ヴェリコフスキー]]、[[科学者]]、[[精神分析家]](+ [[1979年]])
* [[1897年]] - [[タチアナ・ニコラエヴナ]]、[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の第二皇女、[[新致命者]](+ [[1918年]])
* [[ファイル:Grand Duchess Tatiana Nikolaevna, 1914.png|サムネイル|230x230px|[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の第二皇女、[[新致命者]][[タチアナ・ニコラエヴナ]](1897-1918)誕生]][[1901年]] - [[赤星六郎]]、[[ゴルフ|ゴルファー]](+ [[1944年]])
* [[1902年]] - [[斎藤達雄 (俳優)|斎藤達雄]]、俳優(+ [[1968年]])
* [[1904年]] - [[城昌幸]]、[[推理作家]](+ [[1976年]])
* 1904年 - [[土家由岐雄]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[1999年]])
* [[1906年]] - [[筑波雪子]]、女優(+ [[1977年]])
* [[1907年]] - [[瀬長亀次郎]]、政治家(+ [[2001年]])
* [[Image:Yukiko_Tsukuba.jpg|thumb|upright|[[サイレント映画]]時代のスター、女優[[筑波雪子]](1906-1977)誕生]][[1910年]] - [[久野収]]、[[思想家]](+ [[1999年]])
* 1910年 - [[アルメン・タハタジャン]]、[[植物学|植物学者]](+ [[2009年]])
* 1910年 - [[ハウリン・ウルフ]]、[[ブルース]][[歌手]](+ [[1976年]])
* 1910年 - [[青木幸造]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不詳)
* [[1911年]] - [[ラルフ・カークパトリック]]、[[チェンバロ]]奏者、[[音楽学者]](+ [[1984年]])
* 1911年 - [[テレンス・ラティガン]]、[[劇作家]](+ [[1977年]])
* [[1913年]] - [[ティホン・フレンニコフ]]、[[作曲家]](+ [[2007年]])
* [[1914年]] - [[黒沢俊夫]]、プロ野球選手(+ [[1947年]])[[Image:Prince_Philip_NASA_cropped.jpg|thumb|upright|イギリス王配[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]](1921-2021)誕生]]
* [[1915年]] - [[ソール・ベロー]]、[[作家]](+ [[2005年]])
* [[1918年]] - [[鶴見和子]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[2006年]])
* [[1920年]] - [[泉田喜義]]、元プロ野球選手
* [[1921年]] - [[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公フィリップ]]、[[エリザベス2世]]の夫(+ [[2021年]])
* [[1922年]] - [[あした順子・ひろし|あしたひろし]]、漫才師(+ [[2015年]])
* 1922年 - [[亀山龍樹]]、作家、[[翻訳家]](+ [[1980年]])
* 1922年 - [[ジュディ・ガーランド]]、女優(+ [[1969年]])
* [[Image:Judy_Garland_in_The_Wizard_of_Oz_trailer_2.jpg|thumb|upright|女優[[ジュディ・ガーランド]](1922-1969)]][[1924年]] - [[磯田憲一]]、プロ野球選手(+ [[2002年]])
* [[1925年]] - [[池田力]]、元プロ野球選手
* [[1926年]] - [[佐野實]]、[[実業家]](+ [[2012年]])
* [[1927年]] - [[ラディスラオ・クバラ]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者(+ [[2002年]])
* [[1928年]] - [[モーリス・センダック]]、[[絵本作家]](+ [[2012年]])
* [[1929年]] - [[一条さゆり|一条さゆり(初代)]]、[[ストリップティーズ|ストリッパー]](+ [[1997年]])
* 1929年 - [[エドワード・オズボーン・ウィルソン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[2021年]])
* [[1930年]] - [[上坂冬子]]、[[ノンフィクション作家]](+ [[2009年]])
* [[1931年]] - [[ジョアン・ジルベルト]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2019年]])
* [[Image:João Gilberto.jpg|thumb|upright|歌手・ギタリスト、「[[ボサノヴァ]]の父」[[ジョアン・ジルベルト]](1931-2019)]][[1932年]] - [[東郷健]]、[[社会運動家一覧|社会運動家]]、[[政治活動家]]([[雑民党]]代表)(+ [[2012年]])
* 1932年 - [[ヘドリー・ブル]]、[[国際関係論]]教授(+ [[1985年]])
* [[1933年]] - [[土井淳]]、元プロ野球選手
* [[1934年]] - [[浅香春彦]]、俳優
* 1934年 - [[野村吉三郎 (経営者)|野村吉三郎]]、実業家
* 1934年 - [[若杉輝明]]、元プロ野球選手
* [[1935年]] - [[ジェームス三木]]、[[脚本家]]
* 1935年 - [[志賀貢]]、医師、作家
* 1935年 - [[小玉明利]]、プロ野球選手(+ [[2019年]])
* 1935年 - [[高橋幸治]]、俳優
* 1935年 - [[辰巳ヨシヒロ]]、[[漫画家]](+ [[2015年]])
* [[1937年]] - [[稲尾和久]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督]](+ [[2007年]])
* [[1941年]] - [[ユルゲン・プロホノフ]]、俳優
* [[1942年]] - [[中井洽]]、政治家(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H65_U7A420C1CZ8000/|title=中井洽氏が死去 元国家公安委員長|publisher=日本経済新聞|date=2017-04-24|accessdate=2020-11-17}}</ref>)
* [[1943年]] - [[米長邦雄]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](+ [[2012年]])
* [[1945年]] - [[滝崎武光]]、実業家
* [[1947年]] - [[ひし美ゆり子]]、女優
* 1947年 - [[かざま鋭二]]、漫画家(+ [[2022年]])
* 1947年 - [[くず哲也]]、タレント、ラジオパーソナリティ(+ [[2021年]])
* [[1948年]] - [[岸信行 (空手家)|岸信行]]、[[空手道|空手家]](+ [[2018年]])
* 1948年 - [[喜納昌吉]]、音楽家
* [[1949年]] - [[河原明]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[鎌田幸雄]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[中川正春]]、政治家
* [[1953年]] - [[石井和義]]、[[空手家]]、[[正道会館]]宗師
* [[1954年]] - [[小嶋正宣]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[フロイド・バニスター]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[小山田いく]]、漫画家(+ [[2016年]])
* 1956年 - [[杉浦ひとみ]]、[[弁護士]]
* 1956年 - [[堂園喜義]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[木之内みどり]]、元[[歌手]]、元女優
* 1957年 - [[アンドレイ・ブキン]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1958年]] - [[新沢基栄]]、漫画家
* 1958年 - [[鈴木裕]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1958年 - [[三浦和人]]、[[シンガーソングライター]](元[[雅夢]])
* [[1959年]] - [[寺沢大介]]、漫画家
* 1959年 - [[カルロ・アンチェロッティ]]、元サッカー選手、指導者
* [[1960年]] - [[戸舘新吾]]、漫画家
* 1960年 - [[森下直人]]、[[ドリームステージエンターテインメント]]社長(+ [[2003年]])
* [[1961年]] - [[岡本吉起]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1961年 - [[長冨浩志]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[マキシ・プリースト]]、[[レゲエ]]歌手
* 1961年 - [[ケリー・ディール]]、ミュージシャン
* 1961年 - [[キム・ディール]]、ミュージシャン
* [[1962年]] - [[安倍昭恵]]、[[安倍晋三]]夫人
* 1962年 - [[ウォン・カークイ|黄家駒]]、ミュージシャン([[BEYOND]])(+ [[1993年]])
* 1962年 - [[ジーナ・ガーション]]、女優
* 1962年 - [[田中政志]]、漫画家
* [[1963年]] - [[緒方禎己]]、警察官僚
* 1963年 - [[レネ・ノヴォトニー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1964年]] - [[達増拓也]]、政治家
* 1964年 - [[ジミー・チェンバレン]]、ミュージシャン
* [[1965年]] - [[朝川ひろこ]]、歌手
* 1965年 - [[アンドレィ・コピィロフ]]、[[総合格闘家]]
* 1965年 - [[エリザベス・ハーレイ]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優
* 1965年 - [[幸山政史]]、政治家
* 1965年 - [[ジョーイ・サンティアゴ]]、ミュージシャン
* [[1966年]] - [[デビッド・プラット]]、元サッカー選手、指導者
* [[1967年]] - [[山田花子 (漫画家)|山田花子]]、漫画家(+ [[1992年]])
* 1967年 - [[鈴木健 (アナウンサー)|鈴木健]]、[[アナウンサー]]
* [[1968年]] - [[神奈延年]]、[[声優]]
* 1968年 - [[沼田祐介]]、声優
* [[1969年]] - [[大神いずみ]]、フリーアナウンサー、タレント
* [[1970年]] - [[いとうあさこ]]、お笑いタレント
* [[1971年]] - [[登坂淳一]]、アナウンサー
* [[1972年]] - [[藤田正大]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[フェイス・エヴァンス]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]歌手
* [[1974年]] - [[篠原麗雄]]、ワイナリーオーナー
* [[1975年]] - [[川畑聡一郎]]、漫画家(+ [[2005年]])
* [[1976年]] - [[一の谷崇帥]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1976年 - [[ゲオルク・フリードリヒ・フォン・プロイセン]]、[[ホーエンツォレルン家|プロイセン王家]]家長、[[ドイツ帝位継承順位|ドイツ帝位・プロイセン]][[王位請求者]]
* 1976年 - [[斉藤宜之]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[ビリー・マーチン (外野手)|ビリー・マーチン]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[相川梨絵]]、元アナウンサー
* 1977年 - [[松たか子]]、女優
* 1977年 - [[吉田正紀]]、漫画家
* [[1978年]] - [[角田裕育]]、ジャーナリスト
* [[1979年]] - [[ビクトル・モレノ]]、プロ野球選手
* [[1980年]] - [[中島俊哉]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[西尾太作]]、バレーボール選手
* 1982年 - [[タラ・リピンスキー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1982年 - [[花清まゆこ]]、タレント
* [[1983年]] - [[松室麻衣]]、歌手
* 1983年 - [[井上涼]]、[[アーティスト]]
* 1983年 - [[青山ゆり華]]、声優
* [[1984年]] - [[長田昌浩]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[ジェームズ・エイブリー]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[寺田紳一]]、プロサッカー選手
* 1985年 - [[アンディ・シュレク]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手
* 1985年 - [[カイア・カネピ]]、[[テニス選手一覧 (女子)|テニス選手]]
* [[1986年]] - [[本橋麻里]]、[[カーリング]]選手
* 1986年 - [[細貝萌]]、サッカー選手
* [[1988年]] - [[山本大明]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[ガラニン・ヤン]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[ジャイール・エドワルド・ブリト・ダ・シルバ|ジャイール]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[若葉竜也]]、俳優
* 1989年 - [[北田真沙子]]、[[ローカルアイドル]](元[[サンフラワー (アイドルグループ)|サンフラワー]])
* [[1990年]] - [[尾崎彩香]]、ファッションモデル、アイドル、タレント
* 1990年 - [[ルイス・ピターソン]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[サウリウス・アンブルレヴィチウス]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1992年 - [[小俣彩織]]、ファッションモデル、ローカルタレント
* 1992年 - [[山縣亮太]]、陸上競技選手
* 1992年 - かなで、お笑い芸人([[3時のヒロイン]])
* [[1993年]] - [[戸田隆矢]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[高宗歩未]]、タレント、女優
* [[1996年]] - [[文俊輝]]、アイドル、ダンサー、歌手([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]])
* [[1997年]] - [[嶋田ココ]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[1999年]] - [[西川愛也]]、プロ野球選手
* [[2008年]] - [[寺田心]]、子役
* 生年不明 - [[相原実貴]]、漫画家
* 生年不明 - [[石井利奈]]、声優
* 生年不明 - [[花藤蓮]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1990年]] - [[ナリタタイシン]]、[[競走馬]](+ [[2020年]])
{{-}}
== 忌日 ==
<!-- [[Image:BattleofIssus333BC-mosaic-detail1.jpg|thumb|upright|[[アレクサンドロス3世]](BC356-BC323)急逝]] -->
[[Image:MakedonischesReich.jpg|thumb|200px|[[アレクサンドロス3世]](BC356-BC323)急逝。画像は[[アレクサンドロス帝国]]の最大領域。]]
[[Image:Liu_Bei_Tang.jpg|thumb|100px|[[蜀漢]]の初代皇帝、[[劉備]](161-223)没]]
[[Image:Emporer_Frederic_I_death.jpg|thumb|upright|神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]](1123-1190)、沐浴中に溺死]]
[[Image:Ampere grave.jpg|thumb|100px|物理学者[[アンドレ=マリ・アンペール]](1775-1836)没。電流の単位[[アンペア]]に名を残す]]
[[Image:Sagradafamilia-overview.jpg|thumb|upright|[[アントニ・ガウディ]](1852-1926)、路面電車に轢かれ没。遺体は画像の[[サグラダ・ファミリア]]に埋葬]]
<!-- [[Image:Marcus_Garvey_1924-08-05.jpg|thumb|upright|黒人民族主義の指導者、[[マーカス・ガーベイ]](1887-1940)]] -->
<!-- [[Image:Johnson_jeff.jpg|thumb|upright|黒人初の世界ヘビー級王者、ボクサー[[ジャック・ジョンソン (ボクサー)|]](右; 1878-1946)没]] -->
<!-- [[Image:Sigrid_Undset_crop.jpg|thumb|upright|小説家[[シグリ・ウンセット]](1882-1949)]] -->
<!-- [[Image:Syria_Damascus_cult_of_personality.jpg|thumb|upright|[[シリア・アラブ共和国|シリア]]の第9代大統領[[ハーフェズ・アル=アサド]](1930-2000)]] -->
* [[紀元前323年]] - [[アレクサンドロス3世]]、[[マケドニア王国|マケドニア王]](* [[紀元前356年]])
* [[223年]]([[章武]]3年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[劉備]]、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の群雄(* [[161年]]?)
* [[1190年]] - [[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1123年]])
* [[1338年]]([[暦応]]元年/[[延元]]3年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[北畠顕家]]、[[公家]](* [[1318年]])
* [[1580年]] - [[ルイス・デ・カモンイス]]、[[詩人]](* [[1524年]]頃)
* [[1583年]]([[天正]]11年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[中川清秀]]、[[戦国時代 (日本)|戦国]]武将(* [[1542年]])<!-- ja:6/10, en:6/6 となっています。謎 -->
* [[1630年]]([[寛永]]7年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]) - [[織田信雄]]、武将(* [[1558年]])
* [[1654年]] - [[アレッサンドロ・アルガルディ]]、[[彫刻家]]、[[建築家]](* [[1595年]])
* [[1694年]]([[元禄]]7年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[伏見宮貞致親王]]、[[皇族]](* [[1632年]])
* 1694年(元禄7年5月18日) - [[京極高豊]]、第2代[[丸亀藩|丸亀藩主]](* [[1655年]])
* [[1718年]]([[享保]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[立花北枝]]、[[俳人]](* 生年不詳)
* [[1836年]] - [[アンドレ=マリ・アンペール]]、[[物理学者]](* [[1775年]])
* [[1849年]] - [[トマ・ロベール・ブジョー]]、軍人(* [[1784年]])
* 1849年 - [[フリードリヒ・カルクブレンナー]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1785年]])<!-- [[:en:Friedrich Kalkbrenner]] 8/10…ja,deは6/10 -->
* [[1858年]] - [[ロバート・ブラウン]]、植物学者(* [[1773年]])
* [[1899年]] - [[エルネスト・ショーソン]]、作曲家(* [[1855年]])
* [[1918年]] - [[アッリーゴ・ボーイト]]、[[オペラ]][[台本]]作家、作曲家(* [[1842年]])
* [[1924年]] - [[ジャコモ・マッテオッティ]]、社会主義の指導者(* [[1885年]])
* [[1925年]] - [[大町桂月]]、[[詩人]]、[[随筆家]](* [[1869年]])
* [[1926年]] - [[アントニ・ガウディ]]、[[建築家]](* [[1852年]])
* [[1934年]] - [[フレデリック・ディーリアス]]、作曲家(* [[1862年]])
* [[1940年]] - [[マーカス・ガーベイ]]、民族主義運動家(* [[1887年]])
* [[1945年]] - [[桐原眞二]]、[[野球選手]](* [[1901年]])
* [[1946年]] - [[ジャック・ジョンソン (ボクサー)|ジャック・ジョンソン]]、[[プロボクサー]](* [[1878年]])
* [[1949年]] - [[シグリ・ウンセット]]、[[小説家]](* [[1882年]])
* [[1951年]] - [[アンシ]]、[[絵本作家]]、[[画家]](* [[1873年]])
* [[1953年]] - [[グジェゴシュ・フィテルベルク]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](* [[1879年]])
* [[1960年]] - [[吉成武雄]]、[[プロ野球選手]](* [[1932年]])
* [[1967年]] - [[スペンサー・トレイシー]]、[[俳優]](* [[1900年]])
* [[1973年]] - [[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の[[元帥]](* [[1887年]])<!-- [[:en:Erich_von_Manstein]] 6/9. ja,de:6/10 -->
* [[1974年]] - [[ヘンリー (グロスター公)]]、[[イギリス]]の[[王族]](* [[1900年]])
* [[1976年]] - [[佐野誠三]]、[[プロ野球選手]](* [[1920年]])
* [[1982年]] - [[ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー]]、[[映画監督]](* [[1946年]])
* [[1991年]] - [[ディック・ミネ]]、[[歌手]](* [[1908年]])
* [[1992年]] - [[中村八大]]、作曲家(* [[1931年]])
* [[1993年]] - [[猪俣公章]]、作曲家、[[作詞家]](* [[1938年]])
* [[1995年]] - [[神楽坂はん子]]、[[うぐいす芸者歌手|芸者歌手]](* [[1931年]])
* [[1996年]] - [[宇野千代]]、小説家(* [[1897年]])
* 1996年 - [[ジョー・ヴァン・フリート]]、女優(* [[1914年]])
* 1996年 - [[フランキー堺]]、俳優(* [[1929年]])
* [[1997年]] - [[金基洙 (ボクサー)|金基洙]]、プロボクサー(* [[1939年]])
* [[1998年]] - [[吉田正]]、作曲家(* [[1921年]])
* 1998年 - [[塚本幸一]]、[[実業家]]、[[ワコール]]創業者(* [[1920年]])
* [[2000年]] - [[ハーフィズ・アル=アサド]]、第4代[[シリアの大統領|シリア大統領]](* [[1930年]])
* [[2001年]] - [[マイク・メンツァー]]、[[ボディビル|ボディビルダー]](* [[1951年]])
* [[2002年]] - [[ジョン・ゴッティ]]、[[ガンビーノ一家]]の幹部(* [[1940年]])
* 2002年 - [[近藤和彦]]、プロ野球選手(* [[1936年]])
* [[2003年]] - [[ドナルド・リーガン]]、政治家(* [[1918年]])
* [[2004年]] - [[野村万之丞 (5世)|野村万之丞]]、[[狂言師]](* [[1959年]])
* 2004年 - [[レイ・チャールズ]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1930年]])
* [[2005年]] - [[倉橋由美子]]、小説家(* [[1935年]])
* 2005年 - [[永島慎二]]、[[漫画家]](* [[1937年]])
* [[2007年]] - [[横山泰三]]、漫画家(* [[1917年]])
* [[2008年]] - [[櫟信平]]、プロ野球選手(* [[1925年]])
* 2008年 - [[チンギス・アイトマートフ]]、小説家(* [[1928年]])
* 2008年 - [[水野晴郎]]、[[映画評論家]](* [[1931年]])
* [[2010年]] - [[ジグマー・ポルケ]]、[[画家]](* [[1941年]])
* [[2012年]] - [[南野信吾]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1970年]])
* [[2016年]] - [[ゴーディ・ハウ]]、[[アイスホッケー]]選手(* [[1928年]])
* 2016年 - [[クリスティーナ・グリミー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/06/13/adam-levine_n_10449356.html|title=凶弾に倒れた歌姫クリスティーナ・グリミーさん、葬儀代の負担を申し出たロックスターは...|publisher=ハフポスト|date=2016-06-14|accessdate=2020-11-14}}</ref>、シンガーソングライター(* [[1994年]])
* [[2017年]] - {{仮リンク|ジュリア・ペレス|en|Julia Perez}}、女優(* [[1980年]])
* [[2019年]] - [[藤本譲]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2019/06/17/46241.html|title=声優・藤本譲さん、心不全のため死去 「ミスター味っ子」味皇役や「犬夜叉」夢心和尚役など|publisher=アニメ!アニメ!|date=2019-06-17|accessdate=2020-11-01}}</ref>、[[声優]](* [[1935年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Toki_no_kinenbi_Poster.jpeg|thumb|upright|[[時の記念日]]。画像は戦前の[[ポスター]]]]
[[Image:Seitakashigi 06f7682v.jpg|thumb|[[谷津干潟]]の日。画像は[[セイタカシギ]]]]
[[Image:Tram in sapporocity-A1200.JPG|thumb|[[路面電車]]の日。画像は日本の車両]] <!-- 路面電車に轢かれたガウディの忌日だったりもします -->
<!-- [[Image:Morinaga Milk Caramel (Morinaga).jpg|thumb|240px|ミルクキャラメルの日]] too commercial -->
* [[時の記念日]]({{JPN}})
*:東京天文台(現 [[国立天文台]])と生活改善同盟会が[[1920年]]に制定。[[日本書紀]]の天智天皇10年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[グレゴリオ暦]]6月10日)の項に、「漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。」とあることから。
* {{仮リンク|ポルトガルの日|en|Portugal Day}}({{PRT}})
*: ポルトガルの大詩人[[ルイス・デ・カモンイス|カモンイス]]が亡くなった日。
* 国民最高会議記念日({{COG}})
* [[路面電車]]の日({{JPN}})
*: [[1995年]]のこの日に[[交通]]事業者と支援団体が、広島市で開催した「路面電車サミット」で制定。[[公共交通機関]]としての路面電車事業について、より理解を深めてもらうことを目的に制定。路(6)と、電が英語のテン(10)に近いことから。
* [[商工会]]の日({{JPN}})
*: [[全国商工会連合会]]が[[1985年]]に制定。[[1960年]]のこの日に「商工会組織等に関する法律」が施行されたことを記念。
* 谷津干潟の日({{JPN}})
*: [[1993年]]のこの日に、水鳥にとって重要な湿地に関する国際的な取り決めを定めた「ラムサール条約」の登録湿地に[[谷津干潟]]が認定されたことを記念し、谷津干潟のある[[千葉県]][[習志野市]]が[[1997年]]に制定。
* [[緑豆]]の日({{JPN}})
*: 「りょく(6)とう(十)」の語呂合せで緑豆再発見委員会が制定。
* ミルクキャラメルの日({{JPN}})
*: [[1913年]]に[[森永製菓]]が発売する「森永キャラメル」の商品名が「[[森永ミルクキャラメル]]」に変更されたことから、ミルクキャラメルを通じ、懐かしい思い出を語り合う日として命名された。
* 無糖茶飲料の日({{JPN}})
*: 「む(6)とう(10)」の語呂合せで[[伊藤園]]が制定。
* [[歩行者天国]]の日({{JPN}})
*: [[1973年]]のこの日に、日本で初めて大規模な歩行者天国が実施されたことにちなんで制定された記念日。
*: この時行われたのは、東京・銀座〜上野までの5.5kmで、当時は 日曜遊歩道 とも呼ばれていた。
* [[入梅]]({{JPN}} 2012年) <!-- 11日が多い -->
*: [[雑節]]の一つで、太陽が黄経80度の点を通過する日。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0610|date=2011年6月}}
* [[1945年]] - [[野比のび助]]、[[疎開]]地で「白百合のような女の子」(実は息子の[[野比のび太|のび太]])からチョコレートをもらう。(漫画『[[ドラえもん]]』)
* [[2021年]] - リック・デッカードと共に逃亡していたレプリカント、レイチェルが出産時の合併症により死亡。(『[[ブレードランナー2049]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1917年]] - ミラ・バークタイン、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=73|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 樹多村光、漫画・アニメ『[[クロスゲーム]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/contents/crossgame/chara/index.html |title=喜多村 光 |access-date=2022-10-25 |publisher=[[あだち充]]・[[小学館]]/月島バッティングセンター・[[テレビ東京]] |work=クロスゲーム}}</ref>
* 生年不明 - 貴月イチカ、アニメ『[[あの夏で待ってる]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ichika-ichika.com/character.html |title=貴月 イチカ |access-date=2022-10-25 |publisher=I*Chi*Ka/なつまち製作委員会 |work=あの夏で待ってる}}</ref>
* 生年不明 - 薬師寺さあや、アニメ『[[HUGっと!プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.co.jp/precure/hugtto/character/cureange.html |title=キュアアンジュ(薬師寺さあや) |work=HUGっと!プリキュア |accessdate=2022-10-25 |publisher=朝日放送テレビ}}</ref>
* 生年不明 - 上原美来、特撮映画『[[仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー|仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー EPISODE BLUE 派遣イマジンはNEWトラル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kamen-rider-official.com/zukan/characters/780 |title=上原美来 |access-date=2022-10-25 |publisher=[[石森プロ]]・[[テレビ朝日]]・ADK EM・[[東映]]・[[東映ビデオ]] |website=仮面ライダーWEB}}</ref>
* 生年不明 - 木吉鉄平、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>[https://twitter.com/kurobasanime/status/608287558083026944 アニメ公式Twitter:2015年6月10日のつぶやき]</ref>
* 生年不明 - 岩泉一、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-haikyu.com/anime/chara.html |title=アニメ『ハイキュー!!』 CHARACTER |publisher=アニメ『ハイキュー!!』公式サイト|accessdate=2014-09-09}}</ref>
* 生年不明 - オールマイト、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://mhaoj2.bn-ent.net/character/allmight.php |title=オールマイト |access-date=2022-10-25 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 [[バンダイナムコエンターテインメント|BANDAI NAMCO Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - 永近英良、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2016|title=東京喰種トーキョーグール:re|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-890411-5|date=|volume=7巻|quote=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - 月島若葉、漫画・アニメ『[[クロスゲーム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/contents/crossgame/chara/index.html |title=月島 若葉 |access-date=2022-10-25 |publisher=[[あだち充]]・[[小学館]]/月島バッティングセンター・[[テレビ東京]] |work=クロスゲーム}}</ref>
* 生年不明 - 宮永界、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=宮永 界(みやなが かい) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=2022-10-25 |publisher=小林立公式サイト |work=咲-Saki-}}</ref>
* 生年不明 - 藤吉雅夫、アニメ『[[熱血最強ゴウザウラー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eldran.net/gosaurar/chara/index.html |title=ザウラーズ 藤吉雅夫 |access-date=2022-10-25 |publisher=SUNRISE |work=熱血最強ゴウザウラー}}</ref>
* 生年不明 - 三原色みずき、アニメ『[[せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ|せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|seizei_kurumi|1402822831474233345}}</ref>
* 生年不明 - 栗橋みなみ、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tateishi_aoba|1507131143132311556}}</ref>
* 生年不明 - 桂木綾音、ゲーム『[[トゥルー・ラブストーリー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.enterbrain.co.jp/game_site/tls/ |title=トゥルーラブシリーズ♡>トゥルーラブストーリー>桂木綾音 |publisher=夏ドキ 放課後通信 |accessdate=2022-10-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070206063912/http://www.enterbrain.co.jp/game_site/tls/ |archivedate=2007-02-06 |work=トゥルー・ラブストーリー}}</ref>
* 生年不明 - ベン、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m06.html |title=住民名簿 6月 ベン |access-date=2022-10-25 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref>
* 生年不明 - 華織こよみ、ゲーム『[[Beside 〜幸せはかたわらに〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://fandc.co.jp/dreamsoft/beside/beside_koyomi.html |title=華織こより |access-date=2022-10-25 |publisher=F&C FC03/Dreamsoft inc. |work=Beside 〜幸せはかたわらに〜}}</ref>
* 生年不明 - 南条伊吹、ゲーム『[[秋色恋華]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.purplesoftware.jp/products/akiiro/chara.html |title=南条 伊吹 |access-date=2022-10-25 |publisher=Purple software |work=秋色恋華}}</ref>
* 生年不明 - ティア、ゲーム『[[ノストラダムスに聞いてみろ♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.project-lime.com/nostradamus/characters/ |title=ノストラダムスに聞いてみろ♪ オフィシャルウェブサイト |publisher=[[Navel|Omegavision]] |accessdate=2014-06-08}}{{出典無効|date=2022-10-25 |title=Wayback Machineを使ってもサイトの閲覧にはFlash Playerが必要。}} </ref>
* 生年不明 - 蛍、ゲーム『[[だっこしてぎゅっ! 〜オレの嫁は抱き枕〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tactics.nexton-net.jp/tactics_latte/001_dakko/ |title=蛍 HOTARU |access-date=2022-10-25 |publisher=Tactics*Latte |work=だっこしてぎゅっ!~オレの嫁は抱き枕~}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#トレーナー|トレーナー(青木明)]]、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 池袋晶葉、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20017 |title=池袋 晶葉(いけぶくろ あきは) |access-date=2022-10-25 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 螺子川来夢、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130617_178845/ |title=【ガールフレンド(仮)通信60】天才ロボットマイスター 螺子川来夢ちゃん(CV:豊崎愛生) |access-date=2022-10-25 |publisher=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - 白取叶、ゲーム『[[妹のおかげでモテすぎてヤバい。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://hulotte.jp/product/moteyaba/char/kanae/ |title=白取叶 |publisher=HULOTTE |accessdate=2022-10-25 |work=妹のおかげでモテすぎてヤバい。}}</ref>
* 生年不明 - ペルラ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=145&cate=name&cont=Perla |title=ペルラ |access-date=2022-10-25 |publisher=G CREST |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 柊琴葉、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/hiiragi |publisher=Akatsuki Inc. |title=柊 琴葉 |accessdate=2022-10-25 |work=八月のシンデレラナイン}}</ref>
<!--
* [[1872年]] - 神崎重樹、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦]]』シリーズに登場するキャラクター
* [[1966年]] - 柏木晴、漫画『[[すくらっぷ・ブック]]』([[小山田いく]])に登場するキャラクター
* [[1979年]] - 佐藤かおり、ゲーム『[[ルームメイトW 〜ふたり〜]]』に登場するキャラクター
* [[1983年]] - 船橋ちとせ、[[メディアミックス]]企画『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター
* [[1986年]] - 笹原恵子、漫画・アニメ『[[げんしけん]]』に登場するキャラクター
* [[2045年]] - 蒼井ミナモ、アニメ『[[RD 潜脳調査室]]』に登場するキャラクター
* [[5千年紀|4981年]] - ジェシー・ガートランド、アニメ『[[バトルアスリーテス 大運動会]]』に登場するキャラクター
* ネットワーク12年 - 光熱斗、光彩斗、ゲーム・アニメ『[[ロックマンエグゼシリーズ|ロックマンエグゼ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鋼野剣、漫画『[[ぼくのわたしの勇者学]]』の主人公<ref>2078年現在で存在している3体の[[クローン]]も同じかは不明。</ref>
* 生年不明 - 津多茜、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 市川歌子、漫画・アニメ『[[怪物くん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 風真宙人、漫画・アニメ『[[きらりん☆レボリューション]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 一条薫子&菫子([[双生児|双子]])、『[[電撃G's magazine]]』の[[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]『[[双恋]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ハルナ、漫画『[[TATTOO HEARTS]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - エア、ゲーム『ジルオール』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 日宮月美、ゲーム『[[晴れのち胸さわぎ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 水矢摩子、ゲーム『[[ファイアーウーマン纏組]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 南景子、ゲーム『[[ずっといっしょ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 佐藤久美子、ゲーム『[[ありす in Cyberland]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 桂聖奈、メディアミックス企画『[[極上生徒会]]』に登場するキャラクター
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== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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5,074 | 6月11日 | 6月11日(ろくがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から162日目(閏年では163日目)にあたり、年末まであと203日ある。
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'''6月11日'''(ろくがつじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から162日目([[閏年]]では163日目)にあたり、年末まであと203日ある。
== できごと ==
[[ファイル:Battle of Jargeau Martial d'Auvergne (1508).jpg|thumb|[[ジャルジョーの戦い]](1429)はじまる|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Henry VIII Catherine of Aragon coronation woodcut.jpg|thumb|[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]、[[キャサリン・オブ・アラゴン]]と最初の結婚(1509)|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Missouri post refit.JPG|thumb|アメリカ合衆国の戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]就役(1944)|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Le Mans Memorial.JPG|thumb|[[1955年のル・マン24時間レース]]で82名が死亡|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Dummy_head.jpg|thumb|[[アルカトラズ刑務所]]から[[フランク・モリス]]とアングリン兄弟が脱獄(1962)。画像はベッドに置かれていたモリスの人形|180x180ピクセル]]
* [[紀元前12世紀|紀元前1184年]] - [[イリオス|トロイア]]が滅亡し[[トロイア戦争]]が終結。([[エラトステネス]]の計算による)
* [[1173年]]([[承安 (日本)|承安]]3年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]) - 京都・[[神護寺]]の再興を[[後白河天皇|後白河法皇]]に[[強訴]]した僧・[[文覚]]が捕縛。後に伊豆へ流刑になる。
* [[1429年]] - [[ジャルジョーの戦い]]が始まる。
* [[1509年]] - イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が[[キャサリン・オブ・アラゴン]]と結婚。6人の妻のうち、最初の妻<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/henry-viii-marries-first-wife |title=Henry VIII marries his first wife, Catherine of Aragon |access-date=31 Mar 2023 |publisher=THE ARENA Group}}</ref>。
* [[1583年]]([[天正]]11年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]) - [[賤ヶ岳の戦い]]: [[柴田勝家]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗北し越前[[福井城|北ノ庄城]]に敗走。
* [[1742年]] - [[オーストリア継承戦争]]: [[ブレスラウ条約]]の締結によって[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]が講和。
* [[1800年]]([[寛政]]12年[[4月19日 (旧暦)|閏4月19日]]) - [[伊能忠敬]]が[[日本地図]]作成に備えた第一次測量のため[[蝦夷地]]に向けて出発。
* [[1868年]]([[明治]]元年[[4月21日 (旧暦)|閏4月21日]]) - 明治新政府が[[政体書]]を発布。
* [[1870年]](明治3年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[庚午事変]]。[[徳島藩|徳島本藩]]からの分離を求めていた淡路[[洲本城]]代の稲田家を、本藩側の過激派藩士が襲撃。
* [[1873年]] - [[渋沢栄一]]が、日本初の銀行、[[第一銀行|第一国立銀行]](現在の[[みずほ銀行]])を設立<ref>{{Cite web|和書 |url=https://smart-flash.jp/sociopolitics/144828/1/1/ |title=渋沢栄一、日本で初めて銀行を作る…本店は建物保存活動の走りに/6月11日の話 |access-date=19 Sep 2023 |publisher=[[光文社]] |date=11 Jun 2021 |website=Smart FLASH}}</ref>。
* [[1898年]]([[光緒]]24年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - 中国[[清]]朝で、政治改革運動「[[戊戌の変法]]」が始まる。
* [[1900年]] - [[義和団の乱]]: 義和団に呼応した清国軍の[[董福祥]]配下の兵士が北京の日本大使館員・杉山彬を殺害。
* [[1901年]] - [[クック諸島]]が[[ニュージーランド]]の属領となる<ref>{{Cite web |url=https://www.legislation.govt.nz/regulation/imperial/1901/0531/4.0/DLM1101.html |title=Cook, etc, Islands Boundaries and Inclusion in New Zealand Proclamation 1901 |access-date=30 Mar 2023 |publisher=New Zealand Legislation}}</ref>。
* [[1903年]] - [[セルビア王国 (近代)|セルビア]]で[[クーデター]]。国王[[アレクサンダル1世 (セルビア王)|アレクサンダル1世]]と王妃ドラガが[[暗殺]]される。
* [[1906年]] - 官設鉄道・[[岡谷駅|岡谷]] - [[辰野駅|辰野]] - [[塩尻駅|塩尻]](現在の[[中央本線]])が延伸開業し、[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]から塩尻までが開通。[[飯田橋駅|飯田橋]] - 長野で直通運転開始。
* [[1917年]] - [[ギリシャ]]で、国王[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]が退位し亡命。代わって次男の[[アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)|アレクサンドロス1世]]が国王に即位。
* 1917年 - 日本海軍の[[榊 (樺型駆逐艦)|駆逐艦「榊」]]が地中海でオーストリア潜水艦に雷撃され艦首を切断、艦長以下59人が戦死。
* [[1919年]] - アメリカの競走馬[[サーバートン]]が[[ベルモントステークス]]で勝利し、史上初の[[アメリカクラシック三冠]]を達成<ref>{{Cite web |url=https://www.baltimoresun.com/features/retro-baltimore/bs-md-retro-sir-barton-20190519-story.html |title=In 1919, Maryland-trained Sir Barton became first Triple Crown winner |access-date=30 Mar 2023 |publisher=The BALTIMORE SUN |date=6 Jun 2019}}</ref>。
* [[1924年]] - 日本で[[加藤高明]]が第24代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[加藤高明内閣]]が発足。[[護憲三派]]の連立内閣。
* [[1926年]] - [[近鉄あやめ池遊園地]]開業。2004年に閉園。
* [[1935年]] - [[ニュージャージー州]]で、[[エドウィン・アームストロング]]が自身が発明した[[周波数変調|FM]]方式による放送の初の公開実験を行う<ref>{{Cite web |url=https://www.peoplesworld.org/article/today-in-labor-history-inventor-gives-first-public-demo-of-fm-broadcasting/ |title=Today in labor history: Inventor gives first public demo of FM broadcasting |access-date=30 Mar 2023 |publisher=PEOPLE’S WORLD |date=11 jun 2014}}</ref>。
* [[1937年]] - [[ヨシフ・スターリン]]が軍参謀部長[[ミハイル・トゥハチェフスキー]]ら[[大粛清#赤軍大粛清|赤軍首脳8人を粛清]]。
* [[1938年]] - [[日中戦争]]: [[武漢作戦]]が始まる。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: アメリカ合衆国と[[ソビエト連邦]]が、米国の[[レンドリース法]]に基づく軍需物資の供給に関する経済協定について合意<ref>{{Cite web |url=https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1948v04/d640 |title=United States Minutes of Third Combined Meeting on Lend-Lease Settlement Negotiations1 |access-date=30 Mar 2023 |publisher=OFFICE OF THE HISTORIAN}}</ref>。
* 1942年 - [[関門トンネル (山陽本線)|関門鉄道トンネル]]が単線で暫定開通。
* [[1944年]] - アメリカ海軍の戦艦「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」が就役。
* [[1945年]] - [[シカゴ大学]]の科学者が原子力の社会的、政治的影響を検討し「政治ならびに社会問題に関する委員会報告」([[フランクレポート]])を大統領の諮問委員会に提出。
* [[1948年]] - [[ヴァンデンバーグ決議]]: アメリカ上院が、共和党の[[アーサー・ヴァンデンバーグ|ヴァンデンバーグ]]上院議員の提案による地域的・集団的防衛協定の推進などを[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領に勧告。
* [[1949年]] - 東京都が失業対策事業の日当を245円に決定。日当の給付金額から失対労働者は「ニコヨン」と呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://showa.mainichi.jp/news/1949/06/245-9bb1.html |title=昭和毎日:失業対策事業の日当245円 |access-date=30 Mar 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20090501142030/http://showa.mainichi.jp/news/1949/06/245-9bb1.html |archive-date=1 May 2009}}</ref>。
* [[1951年]] - [[産業教育振興法]]公布。
* [[1955年]] - [[1955年のル・マン24時間レース|ル・マン24時間レース]]で接触事故により車が爆発炎上。ドライバーと観客82人が死亡する、モータースポーツ史上最悪の事故となる<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/this-day-in-history/tragedy-at-le-mans |title=Race car at Le Mans crashes into spectators, killing 82 |access-date=31 Mar 2023 |publisher=THE ARENA Group |date=9 Jun 2020}}</ref>。
* [[1959年]] - イギリスで初の実用型[[ホバークラフト]]・[[サンダース・ロー SR.N1]]が初航行。
* [[1962年]] - アメリカ・[[アルカトラズ連邦刑務所]]から[[フランク・モリス]]とアングリン兄弟が脱獄<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/news/escape-from-alcatraz-june-11-1962 |title=Escape From Alcatraz: June 11, 1962 |access-date=31 Mar 2023 |publisher=THE ARENA Group}}</ref>。
* [[1963年]] - [[ベトナム]]の[[僧]][[ティック・クアン・ドック]]が当局の[[仏教徒危機|仏教弾圧]]に抗議して焼身自殺。
* [[1972年]] - 通産大臣の[[田中角栄]]が『[[日本列島改造論]]』を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://smbiz.asahi.com/article/14604855 |title=【6月11日は何の日】50年前、田中角栄氏が「日本列島改造論」を発表 |access-date=30 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞]] |work=ツギノジダイ}}</ref>。
* [[1981年]] - [[イラン]]・ゴルバフ地方で[[マグニチュード]]6.7の地震。死者約3000人。
* [[1983年]] - インドネシアで[[1983年6月11日の日食|皆既日食]]。
* [[1985年]] - ソ連の金星・ハレー彗星探査機「[[ベガ1号]]」の降下船が[[金星]]表面に着陸。
* [[1992年]] - [[コロンビア]]の[[歌手]]・[[ラファエル・オロスコ・マエストレ]]が[[暗殺]]される。
* [[2001年]] - [[任天堂]]が[[北米]]で[[ゲームボーイアドバンス]]を発売。
* 2001年 - [[オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件]]の主犯[[ティモシー・マクベイ]]の死刑執行。
* [[2002年]] - [[アメリカ合衆国議会]]が決議案269によって[[アントニオ・メウッチ]]を[[電話]]の発明者と認める。
* [[2004年]] - 北都プロレスが[[北海道]][[空知郡]][[北村 (北海道)|北村]](現[[岩見沢市]]北村)にて旗揚げ。
* [[2009年]] - 日本の月周回衛星「[[かぐや]]」が運用終了。
* [[2010年]] - [[2010 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ南アフリカ大会]]が開幕。
* 2010年 - [[特命担当大臣]](金融・郵政改革担当)の[[亀井静香]]が、[[菅直人内閣|菅内閣]]の郵政改革法案への対応に抗議して辞意を表明。(菅内閣では4日間の在籍)
* [[2013年]] - 2011年より[[日本プロ野球]]で使用されている[[統一球]]が、同年よりやや飛びやすく仕様が調整されていたことが判明<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDH1201S_S3A610C1UU8000/ |title=統一球変更「隠すつもりなかった」 コミッショナー、辞任否定 |access-date=30 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=12 Jun 2023}}</ref>。日本プロ野球機構の事務局が統一球を製造するミズノ社に対し「調整したことを公表しないように」と要請していた<ref>朝日新聞2013年6月12日</ref>。
* [[2014年]] - [[イラク]]の[[モースル]]にあった[[トルコ]]領事館にいた49人が、[[ISIL]]によって[[拉致]]された。同年9月20日までに解放される<ref>{{Cite web|和書|title=イスラム国が拉致のトルコ総領事ら46人、無事解放 イラク |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3026570 |website=AFP BB News |access-date=31 Mar 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |date=21 Swp 2021}}</ref>。
== 誕生日 ==
[[ファイル:Tokugawa Ienobu.jpg|thumb|[[江戸幕府]]第6代将軍、[[徳川家宣]](1662-1712)誕生|180x180ピクセル]]
[[ファイル:John Constable The Hay Wain.jpg|thumb|画家[[ジョン・コンスタブル]](1776-1837)誕生。画像は『[[乾草の車]]』(1821)|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Somers, Lord - Porträt Julia Margaret Cameron (Zeno Fotografie).jpg|thumb|写真家[[ジュリア・マーガレット・カメロン]](1815-1879)。画像はセルフポートレート|237x237ピクセル]]
[[ファイル:I_Wait%2C_by_Julia_Margaret_Cameron.jpg|thumb|写真家[[ジュリア・マーガレット・カメロン]](1815-1879)。画像は『私は待つ』(1872)|231x231ピクセル]]
[[ファイル:Richard Strauss 20OCT1886 (cropped).jpg|thumb|作曲家[[リヒャルト・シュトラウス]](1864-1949)誕生|228x228ピクセル]]
[[ファイル:JoseBoveAtParis2005.jpg|thumb|[[アルテルモンディアリスム]]の運動家、[[ジョゼ・ボヴェ]](1953-)|180x180ピクセル]]
* [[1403年]] - [[ジャン4世 (ブラバント公)]]、[[ブラバント公]](在位:[[1415年]] - 1427年)。(+ [[1427年]])
* [[1456年]] - [[アン・ネヴィル]]、[[ヨーク朝]]の[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]][[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の王妃。(+ [[1485年]])
* [[1572年]] - [[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]、[[劇作家]]、[[詩人]](+ [[1637年]])
* [[1637年]]([[寛永]]14年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[田村宗良]]、初代[[岩沼藩|岩沼藩主]](+ [[1678年]])
* [[1662年]]([[寛文]]2年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[徳川家宣]]、[[江戸幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1712年]])
* [[1776年]] - [[ジョン・コンスタブル]]、[[画家]](+ [[1837年]])
* [[1778年]]([[安永 (元号)|安永]]7年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[溝口直侯]]<ref>{{cite Kotobank|title=溝口直候|word=溝口直侯-1112538|accessdate=31 Mar 2023}}</ref>、第9代[[新発田藩|新発田藩主]](+ [[1802年]])
* [[1781年]]([[天明]]元年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[小笠原長禎]]、初代[[安志藩|安志藩主]](+ [[1825年]])
* [[1788年]](天明8年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[渡辺則綱]]、第7代伯方藩主(+ [[1832年]])
* [[1815年]] - [[ジュリア・マーガレット・カメロン]]、[[写真家]](+ [[1879年]])
* [[1839年]]([[天保]]10年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[九条道孝]] 、[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]の[[公卿]]、[[華族]](+ [[1906年]])
* 1839年(天保10年5月1日) - [[板倉勝達]]、第10代[[福島藩|福島藩主]]・[[子爵]](+ [[1913年]])
* [[1864年]] - [[リヒャルト・シュトラウス]]、[[作曲家]](+ [[1949年]])
* [[1879年]] - [[櫻井忠温]]、軍人、[[作家]](+ [[1965年]])
* 1879年 - [[ロジャー・ブレスナハン]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1944年]])
* [[1880年]] - [[ジャネット・ランキン]]、[[政治家]](+ [[1973年]])
* [[1983年]] - [[高坂朝人]]、ボランティア活動家
* [[1884年]] - [[ダイ・バーノン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[1992年]])
* [[1894年]] - [[豊田喜一郎]]、[[トヨタ自動車]]創業者(+ [[1952年]])
* [[1895年]] - [[ニコライ・ブルガーニン]]、[[ソビエト連邦]]首相(+ [[1975年]])
* [[1910年]] - [[ジャック=イヴ・クストー]]、[[海洋学者]](+ [[1997年]])
* 1910年 - [[カーマイン・コッポラ]]、[[音楽家]](+ [[1991年]])
* [[1913年]] - [[ヴィンス・ロンバルディ]]、[[アメリカンフットボール]]コーチ(+ [[1970年]])
* [[1919年]] - [[宮澤章二]]、[[詩人]]、[[作詞家]](+ [[2005年]])
* [[1922年]] - [[アーヴィング・ゴッフマン]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[1982年]])
* [[1930年]] - [[阿部進]]、[[教育関係人物一覧|教育評論家]](+ [[2017年]])
* [[1933年]] - [[阿部百合子]]、[[俳優|女優]]
* 1933年 - [[大石雅昭]]、元プロ野球選手
* [[1934年]] - [[杉田弘子]]、元女優(+ [[1992年]])
* 1934年 - [[原ひろ子]]、人類学者(+ [[2019年]])
* 1934年 - [[石田泰三]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]])
* [[1936年]] - [[野田弘志]]、[[画家]]
* [[1937年]] - [[ロビン・ウォレン]]、[[病理学者]]
* 1937年 - [[山口千嶺]]、将棋棋士(+[[2004年]])
* 1937年 - [[ジョニー・ブラウン (俳優)|ジョニー・ブラウン]]、俳優(+ [[2022年]])
* [[1947年]] - [[林家小染 (4代目)]]、[[落語家]](+ [[1984年]])
* 1947年 - [[鳥谷元]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[ちあき哲也]]、[[作詞家]](+ [[2015年]])
* [[1949年]] - [[佐川一政]]、[[小説家]]、[[パリ人肉事件]]の犯人(+ [[2022年]])
* [[1951年]] - [[森村泰昌]]、[[近代美術と現代美術|現代美術家]]
* [[1953年]] - [[ジョゼ・ボヴェ]]、酪農家
* [[1956年]] - [[ジョー・モンタナ]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1957年]] - [[中本茂樹]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[バリー・アダムソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1959年]] - [[屋鋪要]]、元プロ野球選手
* 1959年 - [[アラン・モウルダー]]、[[音楽プロデューサー]]
* 1959年 - [[一ノ瀬康子]] - 女優
* [[1960年]] - [[鈴木由美子]]、[[漫画家]]
* [[1961年]] - [[吉田康夫]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[関俊彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=314 |title=関俊彦|アニメキャラ・プロフィール・出演情報・最新情報まとめ |access-date=31 Mar 2023 |publisher=animate Times}}</ref><ref name="meikan">{{Cite book|和書|chapter=男性篇|title=声優名鑑|publisher=成美堂出版|date=1999-08-10|isbn=4-415-00878-X|page=498}}</ref>、[[声優]]
* [[1964年]] - [[ジャン・アレジ]]、レーシングドライバー
* 1964年 - [[畠山準]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[畑山俊二]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[沢口靖子]]、女優
* 1965年 - [[浜崎貴司]]、ミュージシャン、俳優([[FLYING KIDS]])
* 1965年 - [[古賀慎明]]、[[調教師]]
* [[1966年]] - [[笠原栄一]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[アロイス・フォン・リヒテンシュタイン (1968-)|アロイス・リテンシュタイン]]、[[リヒテンシュタイン]]皇太子
* [[1969年]] - [[島津健太郎]]、[[俳優]]
* 1969年 - [[シャドウWX]]、[[プロレスラー]]
* 1969年 - [[ピーター・ディンクレイジ]]、俳優
* [[1970年]] - [[ビル・セルビー]]、元プロ野球選手
* 1970年 - 守屋寿恵、[[アイドル]](元[[おニャン子クラブ]])
* [[1971年]] - [[かねさだ雪緒]]、漫画家
* 1971年 - [[三五美奈子]]、声優
* 1971年 - [[鈴木健仁]]、元[[サッカー選手]]
* 1971年 - [[津田健次郎]]、声優
* [[1972年]] - [[米正秀]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[寺島淳司]]、[[アナウンサー]]
* 1973年 - [[宮城麻里子]]、アナウンサー
* 1973年 - [[羽村英]]、俳優
* [[1975年]] - [[北川えり]]、[[タレント]]
* 1975年 - [[鈴木信也]]、漫画家
* 1975年 - [[茅野佐智恵]]、元女優、元モデル
* 1975年 - [[チェ・ジウ]]、女優
* 1975年 - [[デニス・マツーエフ]]、[[ピアニスト]]
* [[1976年]] - [[栗林みな実]]、[[歌手]]、声優
* 1976年 - [[坂井久太]]、[[アニメーター]]
* 1976年 - [[横山竜士]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[森井智恵]]、元バスケットボール選手
* 1976年 - [[土佐礼子]]、元陸上競技選手
* [[1977年]] - [[東山麻美]]、タレント
* 1977年 - [[山口もえ]]、タレント
* 1977年 - [[梅宮万紗子]]、女優
* 1977年 - [[オダリス・ペレス]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* [[1979年]] - [[高橋めぐみ (バレーボール)|高橋めぐみ]]、[[バレーボール]]選手
* 1979年 - [[ダニロ・ガブリエル・デ・アンドラーデ|ダニーロ]]、元サッカー選手
* 1979年 - [[李運飛]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1980年]] - [[ムーディ勝山]]、お笑いタレント(元[[アイスクリーム (お笑いコンビ)|アイスクリーム]])
* 1980年 - [[ヤンシー・ブラゾバン]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[宮本崇弘]]、声優
* [[1981年]] - [[朝倉健太]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[KMC]]、[[ラッパー]]、歌手
* [[1982年]] - [[平原康多]]、[[競輪選手]]
* [[1982年]] - [[ダイアナ・トーラジ]]、バスケットボール選手
* 1982年 - [[永井流奈]]、元タレント
* 1982年 - [[小島心二郎]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[ボビー・ケッペル]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[アンディ・オロゴン]]、[[格闘技|格闘家]]
* 1983年 - [[ホセ・レイエス]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[陳瑋]]、プロ野球選手
* 1983年 - [[丸山敦史]]、俳優
* 1983年 - [[太田吉彰]]、サッカー選手
* [[1984年]] - [[ヴァグネル・ラヴ]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[鈴木美園]]、女優
* 1985年 - [[SNoW]]、歌手
* 1985年 - [[関塚真美]]、[[アルペンスキー]]選手
* 1985年 - 山添寛、お笑いタレント([[相席スタート]])
* [[1986年]] - [[亜沙美 (グラビアアイドル)|亜沙美]]、元グラビアアイドル
* 1986年 - [[児玉明日美]]、声優
* 1986年 - [[藤森由香]]、[[スノーボードクロス]]選手
* 1986年 - [[シャイア・ラブーフ]]、俳優
* 1986年 - [[難波サキ]]、ファッションモデル
* [[1987年]] - [[田中理恵 (体操選手)|田中理恵]]、元[[体操選手]]
* 1987年 - [[TiA]]、[[シンガーソングライター]]
* 1987年 - [[高堀和也]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[田川義浩]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1987年 - [[エセキエル・カレーラ]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[新垣結衣]]、女優、[[ファッションモデル]]、タレント、歌手
* 1988年 - [[木村文子]]、陸上選手
* 1988年 - [[関根龍一]]、[[プロレスラー]]
* 1988年 - [[マルコス・アントニオ・ナシメント・サントス|マルコス・アントニオ]]、サッカー選手
* 1988年 - [[三澤慶一]]、サッカー選手
* 1988年 - [[志田光]]、プロレスラー
* [[1989年]] - [[清原大貴]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[英乃海拓也]]、大相撲力士
* [[1990年]] - ケツ、お笑いタレント([[ニッポンの社長]])
* 1990年 - [[Yes!アキト]]、お笑いタレント
* 1990年 - [[クリストフ・ルメートル]]、陸上競技選手
* 1990年 - [[黒木ななみ]]、グラビアアイドル
* [[1991年]] - 滝田和貴、お笑いタレント([[サメゾンビ]])
* 1991年 - [[渡嘉敷来夢]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://basket-count.com/article/detail/1471 |title=渡嘉敷来夢が語るバスケ部時代vol.4「最高のチームメートがいたことで、『負けない』と信じて戦うことができた」 |access-date=31 Mar 2023 |publisher=BASKET COUNT |date=2 Jan 2017}}</ref>、バスケットボール選手
* 1991年 - [[外岡えりか]]、タレント、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]6号)
* [[1992年]] - [[寺田御子]]、タレント、声優
* 1992年 - [[十枝梨菜]]、グラビアアイドル
* [[1993年]] - [[泉澤祐希]]、俳優
* 1993年 - [[大坪由佳]]、声優
* 1993年 - [[ジェームス・ムーア (ラグビー選手)|ジェームス・ムーア]]、[[ラグビーユニオン]]選手
* 1993年 - [[滝菜月]]、アナウンサー
* 1993年 - [[ホルヘ・アルファーロ]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[間宮祥太朗]]、俳優
* 1993年 - [[りょう (東海オンエア)|りょう]]、YouTuber([[東海オンエア]])
* [[1994年]] - [[片岡涼乃]]、タレント
* [[1995年]] - [[脇坂泰斗]]、サッカー選手
* 1995年 - [[鈴木健吾 (陸上選手)|鈴木健吾]]、陸上選手
* [[1996年]] - [[佐々木彩夏]]、アイドル([[ももいろクローバーZ]])
* 1996年 - [[ジェシー (アイドル)|ジェシー]]、アイドル([[SixTONES]])
* 1996年 - [[佐藤友祐]]、歌手([[lol (音楽ユニット)|lol-エルオーエル-]])、俳優、モデル
* 1996年 - [[前田尚輝]]、サッカー選手
* [[1997年]] - 岡本真依、アイドル(元[[ひめキュンフルーツ缶]]、元[[トライシグナル]])
* 1997年 - [[ウナイ・シモン]]、サッカー選手
* 1997年 - [[影山拓也]]、俳優、歌手(元[[IMPACTors]])
* [[1998年]] - [[岩崎悠人]]、サッカー選手
* 1998年 - [[小沼健太]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[中谷雄飛]]、陸上選手
* 1999年 - [[石黒貴美子]]、野球選手
* [[2002年]] - [[南沙良]]、ファッションモデル、女優
* [[2003年]] - [[加部亜門]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M09-0605 |title=加部 亜門 |publisher=[[日本タレント名鑑]] |accessdate=31 Mar 2023}}</ref>、俳優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
[[ファイル:CambuskennethGrave.jpg|thumb|スコットランド王[[ジェームズ3世 (スコットランド王)|ジェームズ3世]](1451?-1488)、戦死|180x180ピクセル]]
[[ファイル:Franklinexpeditionnote.jpg|thumb|286x286px|北極探検家[[ジョン・フランクリン]](1786-1847)、遭難死。画像は隊員が残したメモ]]
[[ファイル:Theodore Dubois.jpg|thumb|253x253px|作曲家[[テオドール・デュボワ]](1837-1924)]]
[[ファイル:Robert_E_Howard_family_headstone.jpg|thumb|[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[ファンタジー]]作家、[[ロバート・E・ハワード]](1906-1936)|180x180ピクセル]]
* [[840年]]([[承和 (日本)|承和]]7年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[淳和天皇]]、第53代[[天皇]](* [[786年]])
* [[1488年]] - [[ジェームズ3世 (スコットランド王)|ジェームズ3世]]、[[スコットランド王国|スコットランド王]](* [[1451年]]頃)
* [[1557年]] - [[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]<ref>{{Cite web |title=John III {{!}} king of Portugal |url=https://www.britannica.com/biography/John-III-king-of-Portugal |website=Britannica |access-date=31 Mar 2023}}</ref>、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1502年]])
* 1587年(天正15年5月6日) - [[北条綱成]]、[[武将|戦国武将]](* [[1515年]])
* [[1591年]](天正19年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[津田宗及]]、[[安土桃山時代]]の[[堺市|堺]][[商人]]
* [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[長宗我部盛親]]、[[土佐国]]の[[大名]](* [[1575年]])
* [[1661年]] - [[ゲオルク2世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ゲオルク2世]]、[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯]](* [[1605年]])
* [[1749年]] - [[ヨハン・ベルンハルト・バッハ]]、[[作曲家]](* [[1676年]])
* [[1778年]]([[安永 (元号)|安永]]7年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[永谷宗円]]、[[庄屋]]、[[青製煎茶製法]]開発者(* [[1681年]])
* [[1817年]] - [[ウィリアム・グレゴール]]、[[鉱物学|鉱物学者]](* [[1761年]])
* [[1825年]] - [[ダニエル・トンプキンス]]、第6代[[アメリカ合衆国副大統領]]・第5代[[ニューヨーク州知事]](* [[1774年]])
* [[1847年]] - [[ジョン・フランクリン]]、[[探検家]](* [[1786年]])
* [[1859年]] - [[クレメンス・メッテルニヒ]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]][[宰相]](* [[1773年]])
* [[1895年]] - [[ダニエル・カークウッド]]、[[天文学者]](* [[1814年]])
* [[1903年]] - [[アレクサンダル1世 (セルビア王)|アレクサンダル1世]]、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王]](* [[1876年]])
* [[1909年]] - [[ヤコブ・ゴルディン]]、[[劇作家]](* [[1853年]])
* [[1910年]] - [[松平容大]]、[[会津藩#斗南藩|斗南藩主]](* [[1869年]])
* [[1914年]] - [[アドルフ・フリードリヒ5世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|アドルフ・フリードリヒ5世]]、[[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]大公国大公(* [[1848年]])
* [[1923年]] - [[ジョージ・ホール (野球)|ジョージ・ホール]]、元プロ野球選手(* [[1849年]])
* [[1924年]] - [[テオドール・デュボワ]]、作曲家(* [[1837年]])
* [[1928年]] - [[アウグスト・フォン・ハイエク]]、[[医師]]、[[植物学|植物学者]](* [[1871年]])
* [[1929年]] - [[アンドラーシ・ジュラ (子)]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]外相(* [[1860年]])
* [[1934年]] - [[レフ・ヴィゴツキー]]、[[心理学者]](* [[1896年]])
* [[1936年]] - [[ロバート・E・ハワード]]、[[SF作家]](* [[1906年]])
* [[1937年]] - [[ミハイル・トハチェフスキー]]、[[ソ連邦元帥]](* [[1893年]])
* 1937年 - [[イオナ・ヤキール]]、[[ソビエト連邦軍]]一等軍司令官(* [[1896年]])
* [[1956年]] - [[梁瀬長太郎]]、[[実業家]]、[[ヤナセ]]創業者(* [[1879年]])
* 1956年 - フランキー・トランバウアー ([[:en:Frankie Trumbauer]])、[[ジャズ]][[サクソフォーン|サキソフォン]]奏者(* [[1900年]])
* [[1962年]] - [[バート・アッベイ]]、元プロ野球選手(* [[1869年]])
* [[1963年]] - [[ティック・クアン・ドック]]、[[南ベトナム]]に抗議して[[自殺#自殺の手法|焼身自殺]]した[[僧]](* [[1897年]])
* 1963年 - [[チャールズ・ソーンスウェイト]]、[[アメリカ合衆国]]の[[地理学者]](* [[1899年]])
* 1963年 - [[長谷川伸]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1884年]])
* [[1964年]] - [[プレーク・ピブーンソンクラーム]]、[[タイ王国|タイ]]首相(* [[1887年]])
* [[1965年]] - [[ジョゼ・メンデス・カベサダス]]、ポルトガル大統領・首相(* [[1883年]])
* [[1966年]] - [[熊沢寛道]](熊沢天皇)、日本の[[皇位]]請求者(* [[1889年]])
* [[1967年]] - [[ヴォルフガング・ケーラー]]、心理学者(* [[1887年]])
* 1967年 - [[高柳賢三]]、[[法学者]](* 1887年)
* [[1970年]] - [[アレクサンドル・ケレンスキー]]、[[ロシア臨時政府]]首相(* [[1881年]])
* [[1972年]] - [[ヨアキム・ボニエ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1930年]])
* [[1976年]] - [[ジム・コンスタンティー]]、元プロ野球選手(* [[1917年]])
* [[1979年]] - [[ジョン・ウェイン]]、[[俳優]](* [[1907年]])
* 1979年 - [[中島健蔵]]、[[フランス文学者]]、文芸評論家(* [[1903年]])
* [[1984年]] - [[エンリコ・ベルリンゲル]]、[[イタリア共産党]][[書記長]](* [[1922年]])
* [[1985年]] - [[カレン・クィンラン]]、[[尊厳死]]問題の重要ケースとして知られる人物(* [[1954年]])
* 1985年 - [[中島啓之]]、[[騎手]](* [[1943年]])
* [[1986年]] - [[雷門福助 (初代)]]、[[落語家]](* [[1900年]])
* [[1988年]] - [[ジュゼッペ・サーラガト]]、第5代[[共和国大統領 (イタリア)|イタリア大統領]](* [[1898年]])
* [[1990年]] - [[オルドリッヒ・ネイエドリー]]、[[サッカー]]選手(* [[1909年]])
* [[1993年]] - [[レイ・シャーキー]]、[[俳優]](* [[1952年]])
* [[1995年]] - [[円谷皐]]、[[テレビプロデューサー]](* [[1935年]])
* [[1996年]] - [[ブリギッテ・ヘルム]]、女優(* [[1908年]])
* [[1999年]] - [[デフォレスト・ケリー]]、俳優(* [[1920年]])
* [[2001年]] - [[布施正]]、[[調教師]](* [[1914年]])
* 2001年 - [[ティモシー・マクベイ]]、[[オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件]]の主犯(* [[1968年]])
* [[2006年]] - [[スザンヌ・モロー]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1930年]])
* 2006年 - [[内埜則之]]、声優(* [[1977年]])
* [[2007年]] - [[江村哲二]]、[[作曲家]](* [[1960年]])
* [[2008年]] - [[オベ・アンダーソン]]、[[ラリー]]ドライバー(* [[1938年]])
* [[2009年]] - [[純恋]]、ファッションモデル(* [[1987年]])
* 2009年 - [[西尾裕]]、元[[プロ野球選手]](* [[1937年]])
* [[2012年]] - [[原田正純]]、医学者、[[水俣病]]研究者(* [[1934年]])
* [[2013年]] - [[ロバート・フォーゲル]]、[[経済学者]](* [[1926年]])
* [[2014年]] - [[岩橋邦枝]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG13041_T10C14A6CZ8000/ |title=岩橋邦枝さんが死去 作家 |access-date=31 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=13 Jun 2014}}</ref>、作家(* [[1934年]])
* [[2015年]] - [[オーネット・コールマン]]、[[ジャズ]]・[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1930年]])
* [[2020年]] - [[服部克久]]<ref>{{Cite web|和書|title=作曲家の服部克久さん死去 83歳 テレビ創生期から活躍「ミュージックフェア」など手掛ける|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/06/11/kiji/20200611s00041000300000c.html|website=Sponichi Annex|date=11 Jun 2020|accessdate=31 Mar 2023}}</ref>、[[作曲家]]、[[編曲家]](* [[1936年]])
* [[2022年]] - [[滝沢久美子]]、声優(* [[1952年]])
* [[2023年]] - [[青木幹雄]]、[[政治家]](* [[1934年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2014年]] - [[コディーノ]]、[[競走馬]](* [[2010年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[ファイル:MaayanUmbrella.jpg|thumb|180x180px|[[入梅]](11日頃)、[[傘]]の日]]
[[ファイル:Rain on grass2.jpg|thumb|180x180px|[[入梅]](11日頃)]] cf. [[commons:Category:Umbrellas]]
* [[入梅]]({{JPN}} 2010年・2011年・2013年)
*: [[雑節]]の一つで、太陽が黄経80度の点を通過する日。
* [[傘]]の日({{JPN}})
*: 日本洋傘振興協議会が[[1989年]]に制定。この日が「入梅」になることが多いことから。
* [[雨漏り]]の点検の日({{JPN}})
*: 全国雨漏検査協会が[[1997年]]4月に制定。この日が「入梅」になることが多いことから。
* [[学校図書館法|学校図書館の日]]({{JPN}})
*: 全国学校図書館協議会が1997年に制定。
* [[国立銀行条例|国立銀行設立の日]]({{JPN}})
*: [[1873年]]、[[日本]]初の[[銀行]]である[[第一国立銀行]]を設立した。
* [[カメハメハ・デー]]({{USA}} [[ハワイ州]])
*: [[1810年]]のこの日に[[カメハメハ1世]]が[[ハワイ諸島]]全島を統一したことを記念。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0611|date=2023年3月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1994年]] - 川渡瞬己、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2014|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-880275-6|quote=|date=|volume=14巻|page=26}}</ref>
* [[1996年]] - 岩崎志保、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://wakeupgirls.jp/character10.html |title=岩崎 志保 |access-date=1 Apr 2023 |publisher=Green Leaves / Wake Up, Girls!製作委員会 |work=『Wake Up, Girls!』}}</ref>
* 生年不明 - 琴爪ゆかり(キュアマカロン)、アニメ『[[キラキラ☆プリキュアアラモード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.co.jp/precure/kirakira/character/curemacaron.html#category |title=キュアマカロン(琴爪ゆかり) |work=『キラキラ☆プリキュアアラモード』 |accessdate=1 Apr 2023 |publisher=[[朝日放送テレビ|ABC-A]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 奥飛騨五十鈴、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/okuhida_isuzu |title=岐阜 奥飛騨 五十鈴 |access-date=1 Apr 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref>
* 生年不明 - 夕日紅、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史 |authorlink=岸本斉史 |year=2002 |title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page=132 |publisher=[[集英社]] |series=[[ジャンプ・コミックス]] |isbn=4-08-873288-X}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史 |title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |publisher=集英社 |series=ジャンプ・コミックス |year=2005 |page=163 |isbn=4-08-873734-2}}</ref>
* 生年不明 - 夢原知予、漫画・アニメ『[[斉木楠雄のΨ難]]』に登場するキャラクター <ref>{{Twitter status|saikikusuo_PR|1006063427440164864}}</ref>
* 生年不明 - 天究星ナスの冥闘士ベロニカ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1535456754527780866}}</ref>
* 生年不明 - ルクリリ、アニメ・ゲーム『[[ガールズ&パンツァー|ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1667547172009648129}}</ref>
* 生年不明 - 春原芽衣、ゲーム・アニメ『[[CLANNAD (ゲーム)|CLANNAD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|visualantena|1403004029991407617}}</ref>
* 生年不明 - 浅間、ゲーム『[[片恋いの月]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.game-style.jp/special/200809/26/04kex_sr.php?permission=true |title=キャラクター紹介vol.2 浅間 |work=『片恋いの月えくすとら』 |publisher=Game-Style |accessdate=1 Apr 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304064944/http://www.game-style.jp/special/200809/26/04kex_sr.php?permission=true |archivedate=4 Mar 2016}}</ref>
* 生年不明 - グレース・ルミアウラ、ゲーム『[[冬のロンド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2008-10 |publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |journal = [[DENGEKI HIME]] |page = 151}}</ref>
* 生年不明 - 寺小尾響紀、ゲーム『[[L@ve once]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/122/G012285/20101025025/ |title=PS3でも“一度きりの恋”を。「L@ve once -mermaid's tears-」,新規ヒロインやアフターストーリーを追加して2011年2月24日に発売 |access-date=1 Apr 2023 |publisher=Aetas, |website=4Gamer.net |date=25 Oct 2010}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=2011-01|journal=[[コンプティーク]]|page=280|publisher=[[角川書店]]}}</ref>
* 生年不明 - [[緒方智絵里]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20037 |title=緒方 智絵里(おがた ちえり) |access-date=30 Mar 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 新条ひなき、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aikatsu.net/03/character/03.html |title=新条 ひなき |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツ!』}}</ref>
* 生年不明 - 直江悠、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1403004032734547983}}</ref>
* 生年不明 - 無量塔姫子、ゲーム『[[崩壊3rd]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.houkai3rd.com/valkyries/110727/110769 |title=無量塔姫子 |access-date=19 Sep 2023 |publisher=[[miHoYo]]}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|June 11|11 June}}
{{新暦365日|6|10|6|12|[[5月11日]]|[[7月11日]]|[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]|0611|6|11}}
{{1年の月と日}} | 2003-03-24T10:04:03Z | 2023-12-12T22:38:49Z | false | false | false | [
"Template:Cite Kotobank",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8811%E6%97%A5 |
5,075 | 6月12日 | 6月12日(ろくがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から163日目(閏年では164日目)にあたり、年末まであと202日ある。
2002年 - 戸澤正宇、ピアノ奏者 | [
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] | 6月12日(ろくがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から163日目(閏年では164日目)にあたり、年末まであと202日ある。 | {{カレンダー 6月}}
'''6月12日'''(ろくがつじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から163日目([[閏年]]では164日目)にあたり、年末まであと202日ある。
== できごと ==
<!-- 記事に日付のないもの:杉本京太, 邦文タイプライター, チャコ戦争, 雪国 (小説), デビッド・バーコウィッツ{以上注記あり}, ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国, -->
<!-- 画像のデフォルトサイズが変わってしまいました…過去の分も含めレイアウトが心配 -->
[[Image:ColdHarborBattlefield1864crop1.jpg|thumb|[[南北戦争]]、[[コールドハーバーの戦い]]終結(1864)]]
<!-- [[バージニア権利章典]]は画像なしのSquoteのみでも掲載していいかも -->
[[Image:Lee-richmond-perfect-game-scorecard-2.jpeg|thumb|[[リー・リッチモンド]]、[[メジャーリーグベースボール]]史上初の[[完全試合]]達成(1880)。画像はスコアカード]]
<!-- [[Image:USS_Pennsy_BB-38_1934.jpg|thumb|300px|戦艦[[ペンシルベニア (戦艦)|]]就役(1916)]] -->
[[Image:Baseball Hall of Fame and Museum (Japan) Entrance.jpg|thumb|日本の[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]]と[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]創立(1959)]]
[[Image:Nelson_Mandela%27s_prison_cell%2C_Robben_Island%2C_South_Africa.jpg|thumb|[[ネルソン・マンデラ]]に終身刑(1964)。画像はマンデラの監房]]
<!-- [[Image:Venera_4.jpg|thumb|upright|[[金星探査機]][[ベネラ4号]]打ち上げ(1967)]] -->
<!-- [[乙巳の変]](蘇我入鹿暗殺事件)のことを指していると思われるが、これは旧暦 * [[645年]] - [[大化の改新]]。 -->
* [[1550年]] - [[フィンランド]]の首都[[ヘルシンキ]]が、スウェーデン王[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ 1 世]]によって建設される<ref>{{Cite web |date=2016-06-12 |url=https://planyourescapetravel.com/destination/helsinki|title=Helsinki |publisher=Plan Your Escape Travel |accessdate=2023-01-23|language=en}}</ref>。
* [[1560年]]([[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[桶狭間の戦い]]。[[織田信長]]が桶狭間山附近で[[今川義元]]を討ち取る{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1583年]]([[天正]]11年[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]) - [[賤ヶ岳の戦い]]: [[柴田勝家]]側についていた[[前田利家]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に降伏。
* [[1592年]]([[文禄]]元年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[文禄・慶長の役|文禄の役]]: 朝鮮の首都・漢城(現在の[[ソウル特別市|ソウル]])が陥落し、[[小西行長]]・[[加藤清正]]が入城。
* [[1771年]] - [[ジェームズ・クック]]が[[南太平洋]]諸島の探検を終え3年ぶりにイギリスに帰国。
* [[1776年]] - [[バージニア権利章典]]が採択。
* [[1859年]] - パーマストン子爵[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・ジョン・テンプル]]がイギリスの第37代首相に就任。
* [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[コールドハーバーの戦い]]が終結。
* [[1872年]]([[明治]]5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[品川駅]] - 横浜駅(現:[[桜木町駅]])間で日本初の[[鉄道]]が仮営業を開始。
* [[1880年]] - [[リー・リッチモンド]]が[[メジャーリーグベースボール]]史上初の[[完全試合]]を達成。
* [[1886年]] - [[静岡事件]]。[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]員による、[[7月10日]]の箱根離宮落成式襲撃・閣僚暗殺計画が発覚。<!-- 『366日の事典』(東陽出版)に記載 -->
* 1886年 - 雨宮製糸争議。甲府・雨宮製糸場の女工が日本初の[[ストライキ]]を決行。
* [[1898年]] - [[フィリピン]]の独立運動指導者[[エミリオ・アギナルド]]がフィリピンの[[スペイン]]からの[[フィリピン独立宣言|独立を宣言]]。
* [[1906年]] - 日本で最初の[[エスペラント]]団体である[[日本エスペラント協会]](現在の[[日本エスペラント学会|財団法人日本エスペラント学会]])が設立。
* [[1910年]] - 国鉄[[宇高連絡船]]が運行開始。
* [[1915年]] - [[杉本京太]]が[[和文タイプライター|邦文タイプライター]]の[[特許]]を獲得。<!-- 『366日の事典』(東陽出版)に記載 -->
* [[1916年]] - [[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」が就役。
* [[1922年]] - 日本で[[加藤友三郎]]が第21代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[加藤友三郎内閣]]が発足。
* [[1935年]] - [[ボリビア]]と[[パラグアイ]]の間の[[チャコ戦争]]が終結。<!-- enより -->
* [[1937年]] - [[川端康成]]の小説『[[雪国 (小説)|雪国]]』が刊行。<!-- 『雑学366日 今日は何の日事典』(大泉出版)に記載 -->
* [[1940年]] - 友好関係ノ存続及相互ノ領土尊重ニ関スル日本国「タイ」国間条約(日本・タイ友好条約)調印。<!-- 『決定版20世紀年表』(小学館)に記載 -->
* [[1942年]] - [[ホロコースト]]: [[アンネ・フランク]]が13歳の誕生日プレゼントとして日記帳をもらう。『[[アンネの日記]]』の書き始め。
* [[1952年]] - [[長期信用銀行法]]公布・施行。
* [[1958年]] - [[岸信介]]が57代内閣総理大臣に就任し、[[第2次岸内閣]]が発足。
* [[1959年]] - 東京の[[後楽園球場]]横に[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]]が開館。[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]を創設。
* [[1961年]] - [[農業基本法]]公布。
* 1961年 - [[マン島TTレース]]で[[本田技研工業]]チームが125cc・250ccの2クラスで初優勝。「ホンダ」の名をヨーロッパに広める。<!-- 『雑学366日 今日は何の日事典』(大泉出版)、『決定版20世紀年表』(小学館)に記載 -->
* [[1963年]] - [[ミシシッピ州]]の[[公民権運動]]指導者[[メドガー・エバース]]が[[クー・クラックス・クラン]]メンバーにより殺害される。<!-- enより -->
* [[1964年]] - [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の反[[アパルトヘイト]]運動家[[ネルソン・マンデラ]]に対し国家反逆罪による[[終身刑]]の判決。<!-- enより -->
* [[1965年]] - [[家永教科書裁判]]。東京教育大教授・[[家永三郎]]が自著の高校日本史教科書の[[教科用図書検定|検定]]を違憲として国に損害賠償請求。終結まで32年。
* 1965年 - 新潟大学教授の植木幸明らが、新潟県[[阿賀野川]]流域で[[水俣病]]に似た有機水銀中毒の患者が発生と発表。([[第二水俣病]])
* [[1967年]] - ソ連が金星探査機「[[ベネラ4号]]」を打ち上げ。
* 1967年 - 新潟の第二水俣病の患者13人が、原因企業の[[昭和電工|鹿瀬電工]]を相手に損害賠償請求。
* [[1969年]] - 日本初の原子力船「[[むつ (原子力船)|むつ]]」が進水。
* [[1978年]] - [[宮城県沖地震 (1978年)|1978年宮城県沖地震]]発生。
* 1978年 - [[ニューヨーク]]で[[連続殺人]]を犯した"Son of Sam"こと[[デビッド・バーコウィッツ]]に懲役365年の判決が下る。<!-- enより -->
* [[1979年]] - [[元号法]]公布・施行。
* [[1980年]] - [[衆参同日選挙]]中に首相の[[大平正芳]]が急死。
* [[1981年]] - メジャーリーグベースボールで選手がストライキ突入。8月9日のMLBオールスターゲーム直前まで継続、年間試合数の3分の1以上が中止となる。
* [[1990年]] - [[ソビエト連邦の崩壊]]: [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア連邦共和国]]が主権宣言を採択。ソ連崩壊への動きが加速。(ロシアの日)
* [[1991年]] - [[1991年ロシア大統領選挙|ロシア共和国大統領選挙]]で[[ボリス・エリツィン]]が当選。
* [[1992年]] - [[コロンビア]]の[[歌手]]・[[ラファエル・オロスコ・マエストレ]]の[[葬儀]]。
* [[1994年]] - [[O・J・シンプソン事件]]: [[O・J・シンプソン]]の元妻とその友人が自宅で殺害される。
* [[2006年]] - [[大分県西部地震]]発生。[[呉市|広島県呉市]]・[[今治市|愛媛県今治市]]・[[佐伯市|大分県佐伯市]]等で震度5弱を記録。
* [[2009年]] - [[2009年新型インフルエンザの世界的流行]]: [[世界保健機関|WHO]]が[[新型インフルエンザ]]の警戒水準をフェーズ6に引き上げ、[[パンデミック]]を宣言。
* 2009年 - [[総務大臣]]の[[鳩山邦夫]]が、[[日本郵政]]社長の[[西川善文]]の続投に反対し辞任。
* 2009年 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]でアナログテレビ放送が終了し、デジタル放送へ完全移行。
* [[2016年]] - [[オーランド銃乱射事件]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-12 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFK12H0Z_S6A610C1000000/ |title=米フロリダで銃乱射、約50人死亡 史上最悪の犠牲 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-02-23}}</ref>。容疑者1人を含む50人が死亡<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-13 |url=https://www.sankei.com/article/20160613-IP5YDUJA3BOXTNOBIPKWHCI5GM/ |title=【フロリダ銃乱射】死者50人 オバマ大統領「米史上最悪の銃撃」「憎悪に基づくテロだ」 容疑者はISに忠誠か |work=産経ニュース |publisher=産業経済新聞社 |accessdate=2018-02-23}}</ref>。
* [[2018年]] - [[2018年米朝首脳会談|米朝首脳会談]]が[[シンガポール]]で開催<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL6C7WWDL6CUHBI04T.html|title=米朝首脳、一対一で38分間 トランプ氏「光栄に思う」|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2018-06-12|accessdate=2018-06-13}}</ref>。
* 2018年 - [[マケドニア共和国|マケドニア]]・[[ギリシャ]]両国政府はマケドニアの国名を「北マケドニア共和国」に変更することで合意<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL6F4K4XL6FUHBI02F.html|title=マケドニア改め…北マケドニアに 隣のギリシャと合意|newspaper=朝日新聞社|date=2018-06-13|accessdate=2018-06-21}}</ref>。
* [[2023年]] - [[UBS]]による[[クレディ・スイス]]の救済買収の完了が発表され、1856年から続いたクレディ・スイスは167年の歴史に幕を下ろす<ref>{{Cite web|和書|title=UBS、クレディ買収完了 167年の歴史に幕 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023061200847&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2023-06-14 |language=ja}}</ref>。
<!-- [[2017年]] - [[恩賜上野動物園]]のパンダ・リーリーが第2子を出産。[[9月25日]]に「シャンシャン」と命名。 -->
== 誕生日 ==
[[Image:Quatrain_on_Heavenly_Mountain.jpg|thumb|upright|[[南宋]]の初代皇帝、[[高宗 (宋)|高宗]](1107-1187)誕生。書家でもあった(画像)]]
[[Image:Takano_Tyouei.jpg|thumb|100px|[[蘭学]]者[[高野長英]](1804-1850)誕生]]
[[Image:%C3%84ngs%C3%A4lvor_-_Nils_Blomm%C3%A9r_1850.jpg|thumb|upright|画家[[ニルス・ブロメール]](1816-1853)誕生。画像は『草原のエルフたち』(1850)]]
<!-- [[Image:Johanna-spyri.jpg|thumb|upright|『[[アルプスの少女ハイジ]]』の著者、作家[[ヨハンナ・シュピリ]](1827-1901)]] -->
[[Image:Egon_Schiele_073.jpg|thumb|90px|画家[[エゴン・シーレ]](1890-1918)。画像は自画像『自慰』(1911)]]
<!-- [[Image:Egon_Schiele_079.jpg|thumb|upright|画家[[エゴン・シーレ]](1890-1918)。画像は自画像(1912)]] -->
[[Image:Djunabarnes.jpg|thumb|120px|作家[[ジューナ・バーンズ]](1892-1982)。{{Squote|人生とは語られるものではない。好きなだけ大声で呼びなさい、人生が自らを語ることはないでしょうから。――『夜の森』(1936)}}]]
[[Image:George_H_W_Bush_at_Age_One_and_One-Half%2C_ca_1925.gif|thumb|100px|アメリカ合衆国第41代大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]](1924-2018)誕生<!--。{{Squote|大統領は王子でも教皇でもなく、私は人々の魂に覗き窓を探したりはしない。事実、私はより一層の寛大さ、互いの姿勢や生き方への鷹揚さを熱望する。――就任演説(1989)}}-->]] <!-- パパの方 -->
[[Image:Chickcorea19.JPG|thumb|100px|[[ジャズピアノ|ジャズピアニスト]]、[[チック・コリア]](1941-2021)<!--。{{Squote|私は人生を祝うために曲を書く。表現の仕方はどうあれ、ほとんどのアーティストはそうだと思う。それは創造の喜びであり、生き方なんだ。}}-->]]
* [[1108年]]([[大観 (宋)|大観]]2年5月2日) - [[高宗 (宋)|高宗]]{{要出典|date=2021-03}}、[[南宋]]初代[[皇帝]](+ [[1187年]])
* [[1577年]] - [[パウル・ギュルダン]]、[[数学者]](+ [[1643年]])
* [[1605年]]([[慶長]]10年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]])- [[一条昭良]]<ref>{{Kotobank|一条昭良}}</ref>、[[江戸時代]]初期の[[公卿]](+ [[1672年]])
* [[1606年]]([[慶長]]11年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[徳川忠長]]、[[駿府藩|駿府藩主]](+ [[1634年]])※諸説あり
* [[1662年]]([[寛文]]2年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]) - [[鍋島元武]]、[[小城藩|小城藩主]](+ [[1713年]])
* [[1679年]]([[延宝]]7年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]])- [[醍醐冬熙]]、[[江戸時代]]前期の[[公卿]](+ [[1756年]])
* [[1695年]]([[元禄]]8年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[京極高長]]、[[峰山藩|峰山藩主]](+ [[1769年]])
* [[1718年]]([[享保]]3年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[手島堵庵]]、[[石門心学|心学者]](+ [[1786年]])
* [[1733年]](享保18年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[円山応挙]]、[[絵師]](+ [[1795年]])
* [[1746年]]([[延享]]3年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[阿部正賀]]、[[佐貫藩|佐貫藩主]](+ [[1780年]])
* [[1786年]]([[天明]]6年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[亀井茲尚]]、[[津和野藩|津和野藩主]](+ [[1831年]])
* [[1802年]] - {{仮リンク|ハリエット・マーティノー|en|Harriet Martineau}}、[[作家]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[1876年]])
* [[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[高野長英]]、[[蘭学者]](+ [[1850年]])
* [[1816年]] - [[ニルス・ブロメール]]、[[画家]](+ [[1853年]])
* [[1827年]] - [[ヨハンナ・シュピリ]]、[[作家]](+ [[1901年]])<!-- [[:en:Johanna_Spyri]] 7/12:enが誤りか -->
* [[1848年]] - [[フリードリヒ・ザイツ]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1918年]])
* [[1855年]]([[安政]]2年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]) - [[田口卯吉]]、[[経済学者]]、[[政治家]](+ [[1905年]])
* [[1868年]] - [[ソル・ホワイト]]、[[野球選手]](+ [[1955年]])
* [[1870年]] - [[エルンスト・シュトローマー]]、[[古生物学|古生物学者]](+ [[1952年]])
* [[1878年]] - [[下中弥三郎]]、[[平凡社]]創業者(+ [[1961年]])
* [[1886年]] - [[伊藤忠兵衛 (二代)|伊藤忠兵衛]]、[[実業家]](+ [[1973年]])
* [[1890年]] - [[エゴン・シーレ]]、[[画家]](+ [[1918年]])
* [[1892年]] - [[ジューナ・バーンズ]]、[[作家]]、[[詩人]]、[[脚本家]](+ [[1982年]])
* [[1897年]] - [[アンソニー・イーデン]]、第64代[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1977年]])
* [[1903年]] - [[奥田良三 (歌手)|奥田良三]]、[[テノール]]歌手(+ [[1993年]])
* [[1915年]] - [[デイヴィッド・ロックフェラー]]、銀行家、実業家、ロックフェラー家当主(+ [[2017年]]<ref name="obituary">[https://www.nytimes.com/2017/03/20/business/david-rockefeller-dead-chase-manhattan-banker.html David Rockefeller, Philanthropist and Head of Chase Manhattan, Dies at 101 - The New York Times] {{en icon}} - 2017年3月20日</ref>)
* [[1920年]] - [[ハインリヒ・シュトルム]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1944年]])
* [[1924年]] - [[ジョージ・H・W・ブッシュ]]、第41代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite news|title=ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去 94歳|newspaper=朝日新聞|date=2018年12月1日14時9分|url=https://www.asahi.com/articles/ASLD14KGGLD1UHBI00P.html|accessdate=2020-11-07}}</ref>)
* [[1926年]] - [[茨木のり子]]、[[詩人]](+ [[2006年]])
* [[1929年]] - [[アンネ・フランク]]、[[ユダヤ人]]の少女(+ [[1945年]])
* [[1932年]] - [[船村徹]]、[[作曲家]](+ [[2017年]]<ref name="Mainichi">[https://mainichi.jp/articles/20170217/k00/00e/040/191000c 訃報 船村徹さん84歳=作曲家、文化勲章受章] 毎日新聞 2017年2月17日付</ref>)
* [[1936年]] - [[江副浩正]]、[[リクルートホールディングス|リクルート]]創業者(+ [[2013年]])
*[[1937年]] - [[ウラジーミル・アーノルド]]、[[数学者]](+ [[2010年]])
* [[1938年]] - [[東田巍]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1941年]] - [[チック・コリア]]、[[ピアニスト]](+ [[2021年]])
* [[1943年]] - [[槌田誠]]、元プロ野球選手(+ [[1999年]])
* [[1949年]] - [[ジョン・ウェットン]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2017年]])
* [[1952年]] - [[沖雅也]]、[[俳優]](+ [[1983年]])
* 1952年 - [[魁輝薫秀]]、元大相撲力士、年寄10代・12代[[友綱]]
<!-- 特筆性は? * [[1953年]] - [[NSP (バンド)|中村貴之]]、ミュージシャン([[NSP (バンド)|NSP]]) -->
* [[1953年]] - [[峯本達雄]]、元プロ野球選手
* [[1955年]] - [[柳原隆弘]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[青木智仁]]、[[ベーシスト]](+ [[2006年]])
* [[1959年]] - [[桑沢篤夫]]、[[漫画家]]
* 1959年 - [[篠原敬介]]、[[作曲家]](+ [[2011年]])
* [[1960年]] - [[稲田博|イナダ]]、[[演出家]]
* [[1961年]] - [[高橋一彦]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[アトランティス (プロレスラー)|アトランティス]]、プロレスラー
* [[1963年]] - [[塩原恒夫]]、[[アナウンサー]]
* [[1964年]] - [[山崎貴]]、映画監督
* 1964年 - [[広瀬健一]]、[[オウム真理教]]元幹部、元[[日本における死刑囚|死刑囚]](+ [[2018年]])
* [[1965年]] - [[岩井理江]]、アナウンサー
* [[1966年]] - [[宮本浩次 (エレファントカシマシ)|宮本浩次]]、ミュージシャン([[エレファントカシマシ]])
* 1966年 - [[藤本健治]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[有倉雅史]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[池上誠一]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[白石麻子]]、元[[アイドル]](元[[おニャン子クラブ]])
* [[1971年]] - [[厳斗一]]、[[テコンドー]]師範
* 1971年 - [[石川哲彦]]、音楽[[アーティスト]]、[[作曲家]]
* 1971年 - [[岩出和也]]、歌手
* 1971年 - [[中村綾]]、[[俳優|女優]]
* 1971年 - [[花田勝彦]]、元[[陸上競技]]選手、元[[上武大学]]駅伝部駅伝監督、[[早稲田大学]]男子競走部駅伝監督
* [[1972年]] - [[岩槻里子]]、アナウンサー、
<!-- 特筆性は? * 1972年 - [[羽鳥貴夫]]、株式会社[[ガリバーインターナショナル]]代表取締役社長 -->
* 1972年 - [[七瀬葵]]、漫画家、[[イラストレーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]]
* [[1973年]] - [[斎賀みつき]]、[[声優]]
* 1974年 - [[松井秀喜]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[デーモン・ホリンズ]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[星山忠弘]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[あゆかわ華]]、漫画家
* 1975年 - [[佐藤誠 (野球)|佐藤誠]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[里谷多英]]、元[[モーグル]]スキーヤー
* 1976年 - [[池田知聡]]、声優
* 1976年 - [[トーマス・セーレンセン]]、[[サッカー選手]]
* [[1977年]] - [[江花正直]]、元野球選手
* 1977年 - [[小針清允]]、サッカー選手
* [[1978年]] - [[釈由美子]]、[[タレント]]、女優
* 1978年 - [[佐藤和俊]]、将棋棋士
* [[1979年]] - [[石川瞳 (女性タレント)|石川瞳]]、タレント
* 1979年 - [[越谷章]]、バレーボール選手
* 1979年 - [[田中祐貴]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[辻武史]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[涌井リョウ]]、ミュージシャン([[せきずい]])
* 1979年 - [[山崎芳仁]]、競輪選手
* 1979年 - [[〆野潤子]]、声優
* 1979年 - [[ディエゴ・ミリート]]、サッカー選手
* 1979年 - [[キム・ヨンスク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1981年]] - [[岩田ゆり]]、タレント(+ [[2006年]])
* 1981年 - [[アドリアナ・リマ]]、ファッションモデル
* 1981年 - [[グロリア・アゴリアーティ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1981年 - [[リカルド・ナニータ]]、プロ野球選手
* [[1982年]] - [[小穴浩司]]、元アナウンサー
* 1982年 - [[ロイック・デュバル]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* 1982年 - [[宮瀬茉祐子]]、アナウンサー
* 1982年 - [[アンディ・サモラ]]、野球選手
* 1982年 - [[杉原杏璃]]、タレント、元[[グラビアアイドル]]
* 1983年 - [[上原厚治郎]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[三上陽永]]、俳優
* 1983年 - [[アンジャ・ルービック]]、ファッションモデル
* 1983年 - [[ブライアン・ハバナ]]、ラグビー選手
* [[1984年]] - [[川島茉樹代]]、歌手
* 1984年 - [[今野陽佳]]、タレント、グラビアアイドル
* 1984年 - [[桂亜沙美]]、タレント
* 1984年 - [[秦れい]]、ファッションモデル
* 1984年 - [[鈴木理香子]]、アナウンサー
* 1984年 - [[杉山恭子]]、元モデル
* 1984年 - [[ロジャー・バーナディーナ]]、プロ野球選手
* [[1985年]] - [[金澤翔子]]、書道家
* [[1986年]] - [[神尾真由子]]、ヴァイオリニスト
* 1986年 - [[スタニスラワ・コマロワ]]、競泳選手
* 1986年 - [[森田甘路]]、俳優
* [[1987年]] - [[加登脇卓真]]、警察官、元プロ野球選手
* 1987年 - [[市川葵]]、タレント
* 1987年 - 菊田竜大、お笑いタレント([[ハナコ (お笑いトリオ)|ハナコ]])
* 1987年 - [[クリスティアン・ランド]]、フィギュアスケート選手
* 1987年 - [[栗山拓也]]、声優
* 1987年 - [[高野人母美]]、プロボクサー、ファッションモデル
* [[1988年]] - [[マティアス・ルピイェ]]、サッカー選手
* 1988年 - [[林﨑遼]]、元プロ野球選手
* [[1989年]] - [[立石諒]]、元競泳選手
* 1989年 - [[今井ひろの]]、元AV女優
* [[1990年]] - 岩瀬佑美子、元アイドル(元[[乃木坂46]])
* 1990年 - [[丸高愛実]]、タレント、元グラビアアイドル
* 1990年 - [[三幣恵理愛]]、タレント
* 1990年 - [[二階堂裕太]]、タレント
* 1990年 - [[KevJumba]]、コメディアン
* 1990年 - [[ドリュー・ホリデー]]、バスケットボール選手
* [[1991年]] - [[吉井彩実]]、元声優
* 1991年 - [[アビサイル・ガルシア]]、プロ野球選手
* 1991年 - 松前吏紗、アイドル([[まなみのりさ]])
* 1991年 - [[五十幡裕介]]、アナウンサー
* 1991年 - [[グレート-O-カーン]]、プロレスラー
* [[1992年]] - [[フィリペ・コウチーニョ]]、サッカー選手
* 1992年 - [[岡崎静夏]]、[[ロードレース (オートバイ)|オートバイレーサー]]
* 1992年 - [[永嶋柊吾]]、俳優
* 1992年 - 一平、お笑いタレント([[Gパンパンダ]])
* [[1993年]] - [[後藤夕貴]]、アイドル(元[[チャオ ベッラ チンクエッティ]])
* 1993年 - [[塩見泰隆]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[加藤将太]]、俳優
* 1994年 - [[田原啓吾]]、元プロ野球選手
* 1994年 - [[森本龍弥]]、元プロ野球選手
* [[1995年]] - [[ストロングマシン2号]]、[[ダンサー]]
* [[1997年]] - [[勝野昌慶]]、プロ野球選手
* 1997年 - 瀧原光、歌手、タレント([[NORD (アイドルグループ)|NORD]])
<!-- 特筆性は? * [[1997年]] - [[ゆりか]]、[[とちおとめ25]]、[[やまけん]] -->
* [[1998年]] - [[室田瑞希]]、元アイドル(元[[アンジュルム]])
* [[2000年]] - [[小林歌穂]]、アイドル([[私立恵比寿中学]])
[[2002年]] - [[戸澤正宇]]、ピアノ奏者
* [[2002年]] - [[森山瑛]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.spicepower.jp/aki/ |title=PROFILE|森山 瑛 |publisher=SPICE POWER |accessdate=2021-01-09}}</ref>、俳優
* 生年不明 - [[岡本仁志]]、[[ギタリスト]]([[GARNET CROW]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2017年]] - [[シャンシャン (ジャイアントパンダ)|シャンシャン]]、[[ジャイアントパンダ]]
== 忌日 ==
[[Image:Imagawa-Yoshimoto-Ukiyo-e.jpg|thumb|100px|[[桶狭間の戦い]](1560)、[[今川義元]](1519-1560)戦死]]
<!-- [[Image:The_grave_of_Yoshimoto_Imagawa_in_Okehazama.jpg|thumb|upright|[[桶狭間の戦い]](1560)、[[今川義元]](1519-1560)戦死]] 墓-->
<!-- [[Image:SCHERCHEN.jpg|thumb|upright|指揮者[[ヘルマン・シェルヘン]](1891-1966)]] -->
<!-- [[Image:Guo_Moruo_stone_monument.JPG|thumb|upright|中国の著述家、[[郭沫若]](1892-1978)]] -->
<!-- [[Image:MedgarEvers headstone.jpg|thumb|100px|[[公民権運動]]指導者{{仮リンク|メドガー・エバース|en|Medgar Evers}}(1925-1963)、[[クー・クラックス・クラン|KKK]]により暗殺]] -->
[[Image:Masayoshi_Ohira_at_Andrews_AFB_1_Jan_1980_cropped_2.jpg|thumb|100px|第68・69代日本国内閣総理大臣[[大平正芳]](1910-1980)、在任中に急死。画像は1980年1月の大平]]
[[File:Sugishita_Shigeru_1955.JPG |thumb|100px|元プロ野球選手[[杉下茂]](1925-2023)、画像は1955年の杉下]]
[[ファイル:Silvio Berlusconi (2010) cropped.jpg|thumb|100px|イタリア首相[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]](1936-2023)]]
* [[1560年]]([[永禄]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[今川義元]]、戦国[[武将]](* [[1519年]])
* [[1728年]]([[享保]]13年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[丹羽秀延]]、第7代[[二本松藩|二本松藩主]] (+ [[1690年]])
* [[1772年]] - [[マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ]]、[[軍人]]、[[探検家]](* [[1724年]])
* [[1912年]] - [[フレデリック・パシー]]、経済学者、国際平和連盟設立(* [[1822年]])
* 1912年 - [[フェルディナント・ツィルケル]]、[[地質学者]](* [[1838年]])
* [[1919年]] - [[ヘルマン・リーツ]]、[[教育関係人物一覧|教育学者]](* [[1868年]])
* [[1966年]] - [[ヘルマン・シェルヘン]]、指揮者、作曲家(* [[1891年]])
* [[1972年]] - [[エドマンド・ウィルソン]]、[[文芸評論|文芸評論家]](* [[1895年]])
* 1972年 - [[ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](* [[1901年]])
* [[1978年]] - [[郭沫若]]、[[政治家]]、[[文学者]]、[[詩人]]、[[歴史家]](* [[1892年]])
* [[1980年]] - [[大平正芳]]、[[政治家]]、第68・69代[[内閣総理大臣]](* [[1910年]])
* [[1982年]] - [[カール・フォン・フリッシュ]]、[[動物行動学|動物行動学者]](* [[1886年]])
* 1982年 - [[マリー・ランバート]]、[[舞踏家]](* [[1888年]])
* [[1985年]] - [[華羅庚]]、[[数学者]](* [[1910年]])
* 1985年 - [[ヘルムート・プレスナー]]、[[哲学|哲学者]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1892年]])
* [[1994年]] - [[西田稔 (野球)|西田稔]]、元[[プロ野球選手]](* [[1935年]])
* [[1998年]] - [[レオ・ブスカーリア]]、教育学者(* [[1924年]])
* [[1999年]] - [[芦部信喜]]、[[憲法|憲法学者]](* [[1923年]])
* [[2002年]] - [[ナンシー関]]、消しゴム版画家、[[コラムニスト]](* [[1962年]])
* [[2003年]] - [[グレゴリー・ペック]]、[[俳優]](* [[1916年]])
* [[2006年]] - [[ジェルジ・リゲティ]]、[[作曲家]](* [[1923年]])
* 2006年 - [[青木智仁]]、[[ベーシスト]](* [[1957年]])
* [[2013年]] - [[木村次郎右衛門]]、男性世界最[[長寿]]記録保持者(* [[1897年]])
* [[2014年]] - [[永谷脩]]、[[スポーツライター]](* [[1946年]])
* [[2017年]] - [[大田昌秀]]<ref name="ASK5Z4Q7GK5ZTIPE026">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASK5Z4Q7GK5ZTIPE026.html|title=米軍基地問題訴え続けた大田昌秀さん死去 元沖縄県知事|date=2017-06-12|publisher=朝日新聞社|accessdate=2020-11-14}}</ref>、[[社会学者]]、[[歴史学者]]、政治家(* [[1925年]])
* [[2023年]] - [[杉下茂]]、プロ野球選手、監督(* [[1925年]])
* 2023年 - [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]、第50・56・57・59代イタリア閣僚評議会議長(首相)(* [[1936年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Philippine_independence.jpg|thumb|[[フィリピン独立宣言]](1898)]]
<!-- [[Image:Young garbage recycler in Saigon.jpg|thumb|240px|[[児童労働]]反対世界デー。画像はベトナムで廃品回収に従事する児童]] ごみを出しているだけに見えてしまう? -->
[[Image:Coaltub.png|thumb|300px|[[児童労働]]反対世界デー。画像は18世紀イギリスで炭鉱労働に従事する児童]]
* {{仮リンク|児童労働反対世界デー|en|World Day Against Child Labour}}({{World}})
*:「[[児童労働]]をなくすことを世界に呼びかける日」として[[国際労働機関]]が[[2002年]]に制定。最悪の形態の[[児童労働]]の撤廃を呼びかけるため毎年世界各地でさまざまな活動が展開されている。
* [[独立記念日]]({{PHL}})
*: [[1898年]]6月12日に、革命軍の最高指導者[[エミリオ・アギナルド|アギナルド]]将軍が独立を宣言。
* {{仮リンク|ロシアの日|en|Russia Day}}({{RUS}})
*: [[1990年]]のこの日、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]で国家主権宣言が採択されたことを記念。1994年からロシアの祝日となった。日本では「[[独立記念日]]」と書かれることもある。1998年6月12日にエリツィン大統領が「主権宣言採択の日」から「ロシアの日」への改称を提案<ref>{{Cite web|和書|date=2017-06-12 |url=https://sputniknews.jp/20170612/3748352.html |title=ロシア人は「ロシアの日」を祝っている【動画】 |publisher=スプートニク |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* チャコ休戦の日({{PRY}})
*: [[1935年]]のこの日、[[ボリビア]]とパラグアイの間の[[チャコ戦争]]が終結したことを記念。
* [[恋人]]の日(Dia dos Namorados)({{BRA}}・{{JPN}})
*: ブラジルにおいて縁結びの聖人とされる[[パドヴァのアントニオ|アントニオ]]の命日の前日であり、当国では恋人同士でフォトフレームを贈り合う習慣がある。日本でも普及を狙い[[1988年]]に全国額縁組合連合会によって制定。
*[[エスペラント]]の日({{JPN}})
*:[[日本エスペラント学会]]が、[[1906年]]のこの日に日本エスペラント協会が設立されたことを記念して制定。
* [[宮城県]]民[[防災]]の日({{JPN}} [[宮城県]])
*: [[1978年]]6月12日に宮城県沖地震が発生したことにちなむ。県民の防災意識を高めるため、宮城県各地で防災訓練が行われる。
* [[日記]]の日({{JPN}})
*: [[1942年]]6月12日に[[ポーランド]]系[[ユダヤ人]]の[[アンネ・フランク]]によって『[[アンネの日記]]』が書き始められたことにちなむ。
* [[バザー]]記念日({{JPN}})
*: [[1884年]]6月12日に[[鹿鳴館]]で日本初のバザーが開催。
<!-- 毎月同じこと書くわけにもいかんが、どこに書けば良いものか。:12回掲載するのはよろしくないですね。[[1日]]…[[31日]]という記事を作ってしまう、[[`毎月ある記念日の一覧]]を作る、など?
*[[パン]]の日(毎月)
*: [[1842年]][[4月12日]]に初めて「兵糧パン」が製造された。[[1983年]]に[[パン食普及協会]]によって制定。各月12日。
*[[豆腐]]の日(毎月)
*:語呂合わせ。各月12日。
-->
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0612|date=2011年6月}}
* [[2003年]] - 【6.12】事件、東京[[新宿]]の上空から巨大な「母体」と赤い竜が出現する。(ゲーム『[[ニーア ゲシュタルト/レプリカント]]』『[[ドラッグオンドラグーン]]』)
* [[2016年]] - レプリカントのゾーラが製造される。(映画『[[ブレードランナー]]』)
* [[2019年]] -ロンドンに巨大生物襲来。(ゲーム『[[THE 地球防衛軍2]]』)
* [[2102年]] - OCUアロルデシュ人民共和国でクーデターが発生する。(ゲーム『[[FRONT MISSION 2]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1974年]] - [[ピノ (ゲームキャラクター)|ピノ]]、ゲーム『[[ファミスタシリーズ]]』に登場するプロ野球選手<ref>『[[ファミスタ64]]』及び同作品ガイドブックでの設定。</ref>
* [[1979年]] - 沢邑森、アニメ『[[勇者指令ダグオン]]』に登場するキャラクター
* [[1983年]] - 大嶋つむぎ、ゲーム『[[まぼろし月夜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sims.co.jp/maboroshi/soukanzu/oos.gif |title=大嶋 つむぎ |work=まぼろし月夜 |accessdate=2022-09-03}}</ref>
* [[1990年]] - [[東京卍リベンジャーズ#三ツ谷 隆|三ツ谷隆]]、漫画・アニメ・映画『[[東京卍リベンジャーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=東京卍リベンジャーズ キャラクターブック 天上天下|date=2021年04月16日|publisher=[[講談社]]|page=044|editor1=週刊少年マガジン|editor1-link=週刊少年マガジン|editor2=和久井健|editor2-link=和久井健|isbn=978-4-06-522988-0|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000350955}}</ref>
* [[2001年]] - 沙布、小説・アニメ『[[NO.6]]』に登場するキャラクター
* 2001年 - マルコ、ゲーム『[[どうぶつの森の登場キャラクター一覧|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター
* [[コズミック・イラ|C.E.]]57年 - [[機動戦士ガンダムSEED DESTINYの登場人物#メイリン・ホーク|メイリン・ホーク]]、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』に登場するキャラクター
* 神世紀286年 - 三好夏凜、アニメ『[[結城友奈は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yuyuyu.tv/season1/character/#karin |title=キャラクター - 三好夏凜 |work=TVアニメ「結城友奈は勇者である」公式サイト |accessdate=2022-09-03}}</ref><ref>第3話で登場した勇者部への入部届にある生年月日欄の日付から。</ref>
* 生年不明 - 三条海里 、漫画・アニメ『[[しゅごキャラ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 朝日奈みらい、アニメ『[[魔法つかいプリキュア!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.co.jp/precure/maho/character/index.html |title=キュアミラクル / 朝日奈みらい |work=魔法つかいプリキュア! |accessdate=2022-09-03 |publisher=朝日放送}}</ref>
* 生年不明 - エリザベス・リオネス、漫画・アニメ『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://2nd.7-taizai.net/special/birthday/elizabeth0612.html |title=HAPPY BIRTHDAY TO エリザベス!! |access-date=2022-09-03 |publisher=七つの大罪 戒めの復活}}</ref>
* 生年不明 - 小鳥遊六花、小説・アニメ『[[中二病でも恋がしたい!]]』のヒロイン
* 生年不明 - 結城瑞穂、ゲーム『[[下級生 (ゲーム)|下級生]]』に登場するメインヒロイン
* 生年不明 - フィロメール・アルトゥング、ゲーム『[[マナケミア 〜学園の錬金術士たち〜]]』のヒロイン
* 生年不明 - 越後湯沢かすみ、地域活性プロジェクト『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/echigo-yuzawa_kasumi |title=越後湯沢かすみ |access-date=2022-09-03 |publisher=温泉むすめ}}</ref>
* 生年不明 - 香山ミキ、[[着せ替え人形]]玩具『[[リカちゃん]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://licca.takaratomy.co.jp/profile/index.html |title=ふたごのいもうと ミキちゃん・マキちゃん |access-date=2022-09-03 |publisher=[[タカラトミー]] |work=リカちゃん}}</ref>
* 生年不明 - 香山マキ、着せ替え人形玩具『リカちゃん』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - セニョール・ピンク、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/senor_pink.html |title=セニョール・ピンク |access-date=2022-12-10 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - ディスコ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Mr_Disco.html |title=ディスコ |access-date=2022-12-10 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - ドス・キヌタ、漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=83|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=4-08-873288-X}}</ref>
* 生年不明 - ヒュース、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1403367695182176259}}</ref>
* 生年不明 - 回原旋、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-09/ |title=回原旋 |access-date=2022-12-10 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 天草シノ、漫画・アニメ『[[生徒会役員共]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ルーザー、漫画『[[南国少年パプワくん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 昴・ハーネスト、漫画『[[わたしの狼さん。]]』『わたしの狼さん。THE OTHER SIDE OF LYCANTHROPE』『[[dear (漫画)|dear]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|year=2005|title=dear|volume=第6巻|page=358|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[月刊ガンガンWING#ガンガンウイングコミックス|ガンガンウイングコミックス]]|isbn=4-7575-1416-6}}表紙カバー下。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=藤原ここあ|year=2011|title=dear新装版|volume=第3巻|publisher=スクウェア・エニックス|series=[[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]]|isbn=978-4-7575-3372-1}}</ref>
* 生年不明 - 柊みき、漫画・アニメ『[[らき☆すた]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=コンプティーク|editor-link=コンプティーク|year=2009|title=らき☆すた おきらく公式ガイドブック こなたは俺をヨメ!!|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-854420-7}}</ref>
* 生年不明 - 香宮小牧、漫画『[[紳士同盟クロス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 犬神鏡子、漫画・アニメ『[[少女ファイト]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ユリー、漫画『[[SERVAMP-サーヴァンプ-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - マリー、漫画『SERVAMP-サーヴァンプ-』に登場するキャラクター
* 生年不明 - キチャ、漫画・アニメ『[[クジラの子らは砂上に歌う]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ふくまる、漫画『[[おじさまと猫]]』に登場するキャラクター<ref name=":1">{{Twitter status|sakurai_umi_|1271262800032096260}}</ref>
* 生年不明 - マリン、漫画・アニメ『おじさまと猫』に登場するキャラクター<ref name=":1" />
* 生年不明 - レン・ミヤザワ、小説・漫画・アニメ『[[銃皇無尽のファフニール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|uchi_2323|874251712072044544}}</ref>
* 生年不明 - 鈴木美玲、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_eupho|1403547605561331712}}</ref>
* 生年不明 - 東雲心菜、日記体小説『[[ひなビタ♪]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 東雲夏陽、日記体小説『ひなビタ♪』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 立花真白、[[読者参加企画]]『[[Milky Season]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - イワン・パホーフ、アニメ『[[爆転シュート ベイブレード]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - フロイ・ギリカナン、アニメ『[[イナズマイレブン オリオンの刻印]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=2022-09-03}}</ref>
* 生年不明 - モリッツ・コルマール、ゲーム『[[エーベルージュ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - マドンナっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>[[講談社]](編)『Tamagotchi iD L ぴかぴか育て方ガイド』講談社、2011年、88頁。{{ISBN2|978-4-06-364876-8}}</ref><ref>[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修)『テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん』[[小学館]]、2011年、35頁。{{ISBN2|978-4-09-751048-2}}</ref>
* 生年不明 - ディアーナ・レイニー、ゲーム『[[悠久幻想曲|悠久幻想曲 2nd Album]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 霧島佳乃、ゲーム・アニメ『[[AIR (ゲーム)|AIR]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 篠崎千夏、ゲーム『[[てんたま]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 汐里みさき、ゲーム『[[Let's! 浜茶屋|Let's! 浜茶屋 恋のBattle Beach]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - シンシア・マルグリット 、ゲーム・アニメ『[[夜明け前より瑠璃色な]]』に登場するキャラクター<ref>『夜明け前より瑠璃色な -Moonlight Cradle-』小冊子「Moonlight Chronicle」[[オーガスト (ブランド)|オーガスト]]、2009年、32頁。</ref>
* 生年不明 - 深町つぐみ、ゲーム『[[夏めろ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 能美クドリャフカ、ゲーム『[[リトルバスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>『クドわふたー』オフィシャルガイドブック 6頁。</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#奥山沙織|奥山沙織]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20038 |title=奥山 沙織(おくやま さおり) |access-date=2022-12-10 |publisher=THE IDOLM@STERアイドル名鑑窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]]}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#馬場このみ|馬場このみ]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30028 |title=馬場 このみ(ばば このみ) |access-date=2022-12-10 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 松平ユリア、ゲーム『[[アイドルクロニクル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://ichro.jp/ |title=アーティスト/ARTIST ユリア |publisher=[[TAITO]] |work=『アイドルクロニクル』 |accessdate=2022-12-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141218084833/http://ichro.jp/ |archivedate=2014-12-18}}</ref>
* 生年不明 - ネオ、メディアミックス『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|June 12|12 June}}
{{新暦365日|6|11|6|13|[[5月12日]]|[[7月12日]]|[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]|0612|6|12}}
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5,076 | 6月13日 | 6月13日(ろくがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から164日目(閏年では165日目)にあたり、年末まであと201日ある。 | [
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'''6月13日'''(ろくがつじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から164日目([[閏年]]では165日目)にあたり、年末まであと201日ある。
== できごと ==
[[Image:14th_Amendment_Pg1of2_AC.jpg|thumb|140px|[[アメリカ合衆国憲法修正第14条]]の提案(1866)]]
[[Image:Berliner_kongress.jpg|thumb|140px|[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]開催(1878)]]
[[Image:Tsukiji Little Theater.JPG|thumb|140px|[[築地小劇場]]開場(1924)]]
{{multiple image
| caption1 = 戦艦[[ノースカロライナ (戦艦)|ノースカロライナ]]進水(1940)
| image1 = USS_North_Carolina_BB-55.jpg
| width1 = 140
| alt1 = ノースカロライナ級戦艦
| caption2 = CIAの前身[[Office of Strategic Services]]設立(1942)。画像は1945年のもの
| image2 = Donovan_reviews_OGs.jpg
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| alt2 = Office of Strategic Services
}}
{{multiple image
| caption1 = [[第二次世界大戦]]、[[ヴィレル・ボカージュの戦い]](1944)
| image1 = Bundesarchiv_Bild_101I-738-0276-25A%2C_Villers-Bocage%2C_zerst%C3%B6rter_Cromwell-Panzer.jpg
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| alt1 = ヴィレル・ボカージュの戦い
| caption2 = [[第二次世界大戦]]、[[V1飛行爆弾]]によるイギリス攻撃を開始(1944)
| image2 = V-1_cutaway.jpg
| width2 = 140
| alt2 = V1飛行爆弾
}}
[[Image:Thurgoodmarshall1967.jpg|thumb|140px|[[サーグッド・マーシャル]]、黒人初のアメリカ合衆国最高裁判所判事(1967)]]
[[File:Hayabusa reentry from Ames Research 2010-06-13 25seconds.png|thumb|140px|2013小惑星探査機[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]が地球に帰還(2010)]]
* [[1373年]] - [[イングランド王国|イングランド]](後に[[イギリス]]が継承)と[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の間で[[英葡永久同盟]]が結ばれる。現在まで続く世界最古の[[同盟]]。
* [[1525年]] - [[マルティン・ルター]]が、[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]が[[聖職者]]や[[修道士|修道女]]に課した独身主義に反して元修道女の[[カタリナ・ルター|カタリナ]]と結婚。
* [[1587年]]([[天正]]15年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[九州征伐]]: [[島津義久]]が[[豊臣秀吉]]に降伏。
* [[1625年]] - イングランドのチャールズ王太子(後のイングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]])がフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]と結婚。
* [[1774年]] - [[ロードアイランド州|ロードアイランド]]が[[13植民地|イギリス北米植民地]]で初めて[[奴隷]]の輸入を禁止。
* [[1858年]] - [[清]]と[[ロシア帝国|ロシア]]が[[天津条約 (1858年)|天津条約]]に調印。同月中に米英仏も調印。
* [[1863年]] - [[南北戦争]]: [[第二次ウィンチェスターの戦い]]が始まる。
* [[1866年]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第14条]]が提案される。
* [[1878年]] - [[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]開幕。
* [[1886年]] - [[シュタルンベルク湖]]で、前日に廃位させられた[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|バイエルン王ルートヴィヒ2世]]の水死体が発見される。
* [[1898年]] - [[カナダ]]で[[ユーコン準州]]が発足する。
* [[1913年]] - 陸海軍省官制改正により、[[軍部大臣現役武官制]]を廃し、大臣・次官の任用資格を[[予備役]]まで拡大。
* [[1916年]] - 初の日本製戦闘機である[[会式七号小型飛行機]]が初飛行。
* [[1917年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ドイツ軍]]航空隊[[ゴータ G.IV]]爆撃機による[[ドイツによる戦略爆撃 (第一次世界大戦)|ロンドン空襲]]で、小学生18名を含む162名が死亡し、432名が負傷した<ref>{{Cite web|url=https://www.telegraph.co.uk/history/world-war-one/10430627/Rare-charts-show-WW1-German-air-raids-on-Britain.html|title=Rare charts show WW1 German air raids on Britain|publisher= Telegraph|accessdate=2020-08-19}}</ref>。
* [[1924年]] - [[ガストン・ドゥメルグ]]が[[フランス第三共和政]]の第12代大統領に就任する。
* 1924年 - [[土方与志]]・[[小山内薫]]らが[[築地小劇場]]を開く。
* [[1931年]] - [[ポール・ドゥメール]]がフランス第三共和政の第13代大統領に就任する。
* [[1934年]] - [[アドルフ・ヒトラー]]と[[ベニート・ムッソリーニ]]が[[ヴェネツィア|ベニス]]で初の会談を行う。
* [[1935年]] - [[ジェームス・J・ブラドック]]が[[ボクシング]][[ヘビー級]]の世界王者になる。
* [[1940年]] - アメリカ海軍の戦艦「[[ノースカロライナ (戦艦)|ノースカロライナ]]」が進水する。
* 1940年 - 第二次世界大戦: パリが[[無防備都市宣言|非武装都市を宣言]]<ref>パリ、非武装都市を宣言(『東京朝日新聞』昭和15年6月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p372 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>(翌日、ドイツ軍が無血入城)。
* [[1942年]] - アメリカで、[[Office of Strategic Services|戦略事務局]]([[アメリカ中央情報局]]〈CIA〉の前身)と[[戦争情報局]]が発足。
* [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ヴィレル・ボカージュの戦い]]。
* 1944年 - 第二次世界大戦: [[ナチス・ドイツ]]が[[V1飛行爆弾]]による[[イギリス]]攻撃を開始する。
* [[1948年]] - [[太宰治]]が愛人[[山崎富栄]]と[[玉川上水]]へ[[入水]]。[[6月19日]]に遺体発見。
* [[1952年]] - [[カタリナ事件]]: [[スウェーデン]]軍の[[ダグラス DC-3|DC-3]]が[[ソビエト連邦]]の[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]に撃墜される。
* [[1953年]] - [[内灘闘争]]。[[石川県]][[内灘町|内灘村]]の米軍試射場の無期限使用に反対して村民と支援団体が坐り込み。
* 1953年 - [[コロンビア]]で[[クーデター]]。[[コロンビア陸軍]]の[[グスタボ・ロハス・ピニージャ]]将軍が[[軍事政権]]を樹立。
* [[1955年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ダイヤモンド]]鉱山[[ミール鉱山]]が、地質学者ユーリ・ハバルディンによって発見される。
* [[1963年]] - [[小さな親切運動|「小さな親切」運動]]本部が発足する。
* [[1966年]] - [[合衆国最高裁判所|アメリカ合衆国最高裁判所]]が[[ミランダ対アリゾナ州事件]]の判決中で、後に[[ミランダ警告]]と呼ばれる告知を逮捕時に行うことを警察に義務付ける。
* [[1967年]] - [[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]大統領が[[サーグッド・マーシャル]]をアフリカ系黒人で初のアメリカ合衆国最高裁判所[[判事]]に任命。
* [[1971年]] - [[ベトナム戦争]]: [[ニューヨーク・タイムズ]]が[[ペンタゴン・ペーパーズ]]を掲載。
* [[1982年]] - [[サウジアラビア]]国王[[ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ|ハーリド]]が死去し、弟の[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]]が第5代国王として即位。
* [[1983年]] - [[戸塚ヨットスクール事件]]で校長の[[戸塚宏]]が傷害致死容疑で逮捕。
* 1983年 - [[パイオニア10号]]が[[海王星]]の軌道を横断し、[[太陽系]]を脱出した初の人工物となる。
* [[1987年]] - [[広島東洋カープ]]の[[衣笠祥雄]]が2,131試合連続出場を記録。[[ルー・ゲーリッグ]]の世界記録を更新。
* [[1996年]] - [[福岡空港ガルーダ航空機離陸事故]]。
* [[2000年]] - [[朝鮮半島]]の分断後55年で初の[[南北首脳会談]]。
* [[2002年]] - [[アメリカ合衆国]]が[[弾道弾迎撃ミサイル制限条約]]を脱退する。
* 2002年 - [[議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件]]。
* [[2004年]] - [[日本経済新聞]]でプロ野球球団[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]と[[大阪近鉄バファローズ]]の合併が報じられる。[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]の発端。
* [[2005年]] - 少年に対する[[性的虐待]]疑惑で裁判にかけられていた[[マイケル・ジャクソン]]に全面無罪の判決が下る。
* [[2010年]] - 小惑星探査機「[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]」が7年ぶりに地球に帰還<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-14 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2735646 |title=はやぶさ帰還、カプセル回収へ |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2020-08-19}}</ref>。
*
== 誕生日 ==
[[Image:Thomas Young by Thomas Lawrence.jpg|thumb|100px|[[エネルギー]]の概念を定義した物理学者[[トマス・ヤング]](1773-1829)誕生。[[ヤング率]]などに名を残す]]
[[Image:YoungJamesClerkMaxwell.jpg|thumb|100px|古典[[電磁気学]]を確立した物理学者[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]](1831-1879)誕生]]
[[Image:William_Butler_Yeat_by_George_Charles_Beresford.jpg|thumb|120px|詩人[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]](1865-1939)。{{Squote|私達は他人との口論から[[修辞学|レトリック]]を作り出すが、自分自身との口論から[[詩]]を作り出す。――『Per Amica Silentia Lunae』(1918)}}]]
[[Image:Jules_Bordet_pi.png|thumb|100px|[[免疫]]を研究した細菌学者、[[ジュール・ボルデ]](1870-1961)]]
[[Image:John_f_nash_20061102_2.jpg|thumb|100px|[[ゲーム理論]]などを専門とする数学者[[ジョン・フォーブス・ナッシュ]](1928-)]]
[[Image:Samak_Sundaravej.JPG|thumb|100px|[[タイ王国]]第34代首相[[サマック・スントラウェート]](1935-2009)]]
[[ファイル:Keisuke-Honda-Japan-2010.jpg|代替文=|サムネイル|210x210ピクセル|[[プロサッカー選手]]、[[本田圭佑]](1986-)]]
=== 人物 ===
* [[1718年]]([[享保]]3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[秋月種美]]、第6代[[日向国]][[高鍋藩]]主(+ [[1787年]])
* [[1766年]]([[明和]]3年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[鍋島直温]]、第7代[[肥前国]][[蓮池藩]]主(+ [[1825年]])
* [[1773年]] - [[トマス・ヤング]]、[[科学者]]、[[考古学|考古学者]](+ [[1829年]])
* [[1831年]] - [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]、[[物理学者]](+ [[1879年]])
* [[1851年]] - [[ジム・マトリー]]、[[メジャーリーグ]]監督(+ [[1938年]])
* 1851年([[嘉永]]4年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[久留島通靖]]、第12代[[豊後国]][[森藩]]主(+ [[1879年]])
* [[1863年]] - [[ルーシー・ダフ=ゴードン]]、ファッションデザイナー(+ [[1935年]])
* [[1865年]] - [[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1939年]])
* 1865年 - [[カール・ブロスフェルト]]、[[写真家]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1932年]])
* [[1870年]] - [[ジュール・ボルデ]]、[[細菌学|細菌学者]](+ [[1961年]])
* [[1893年]] - [[ドロシー・L・セイヤーズ]]、[[作家]](+ [[1957年]])
* [[1894年]] - [[レオ・カナー]]、[[児童精神医学|児童精神科医]](+ [[1981年]])
* [[1897年]] - [[パーヴォ・ヌルミ]]、中長距離走者(+ [[1973年]])
* [[1899年]] - [[カルロス・チャベス]]、[[作曲家]](+ [[1978年]])
* [[1900年]] - [[二村定一]]、[[歌手]](+ [[1948年]])
* [[1917年]] - [[アウグスト・ロア=バストス]]、小説家(+ [[2005年]])
* [[1920年]] - [[梅棹忠夫]]、[[生態学|生態学者]]、[[民族学|民族学者]](+ [[2010年]])
* 1920年 - [[岡田英次]]、[[俳優]](+ [[1995年]])
* [[1923年]] - [[船田譲]]、政治家(+ [[1985年]])
* [[1928年]] - [[ジョン・フォーブス・ナッシュ]]、[[数学者]](+ [[2015年]])
* [[1935年]] - [[クリストとジャンヌ=クロード|フリスト・ヴラディミロフ・ヤヴァシェフ]]、[[美術家]](+ [[2020年]])
* 1935年 - [[サマック・スントラウェート]]、政治家、第34代タイ[[タイの首相|首相]](+ [[2009年]])
* [[1936年]] - [[岡部征純]]、俳優
* 1936年 - [[井上美代]]、政治家(+ [[2022年]])
* 1936年 - [[大工勝]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1937年]] - [[ラジ・レディ]]、[[工学者]]
* [[1938年]] - [[中本富士雄]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[桂菊丸]]、[[タレント]]
* 1941年 - [[松村明仁]]、[[医師]]、元[[厚生省]]官僚
* [[1944年]] - [[潘基文]]、政治家、第8代[[国際連合事務総長|国連事務総長]]
* [[1947年]] - [[木樽正明]]、元プロ野球選手
* 1947年 - ジョセフ・ジャニアック、[[タクシー#乗務員|タクシードライバー]]、[[調教師]]、[[馬主]]
* 1947年 - [[佐藤竹秀]]、元プロ野球選手(+ [[2001年]])
* 1949年 - [[榊原良行]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* [[1950年]] - [[石川清 (坂戸市長)|石川清]]、政治家
* [[1951年]] - [[林俊典]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[月光恵亮]]、[[音楽プロデューサー]]
* 1952年 - [[市場博己]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[ティム・アレン]]、俳優
* [[1954年]] - [[山田栄子]]、[[声優]]
* 1954年 - [[清水有生]]、[[脚本家]]
* [[1956年]] - [[里見桂]]、[[漫画家]]
* 1956年 - [[水岡俊一]]、政治家
* 1956年 - [[吉川祐二]]、元警察官、防犯コンサルタント
* [[1957年]] - [[リナト・ダサエフ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]
* [[1958年]] - [[岸野靖之]]、元サッカー選手、指導者
* [[1959年]] - [[六月十三]]、脚本家
* [[1960年]] - [[山田邦子]]、タレント
* [[1961年]] - [[宮脇康之]]、俳優
* 1961年 - [[辻丸耕平]]、AV男優
* [[1962年]] - [[シジマール・アントニオ・マルチンス]]、元サッカー選手、指導者
* [[1963年]] - [[大江光]]、作曲家
* [[1964年]] - [[水島かおり]]、女優
* [[1965年]] - [[安藤尋]]、映画監督
* 1965年 - [[今中麻貴]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1965年 - [[岡本透]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[宍戸美和公]]、女優
* [[1966年]] - [[グリゴリー・ペレルマン]]、数学者
* 1966年 - [[スコット・クールボー]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[服部尚貴]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* 1966年 - [[藤原芳秀]]、漫画家
* [[1968年]] - [[森口博子]]、[[歌手]]、タレント
* 1968年 - [[河合美智子]]、[[俳優|女優]]
* [[1970年]] - [[リヴァース・クオモ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ウィーザー]])
* [[1971年]] - [[柘植恵水]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* 1971年 - [[ジェイソン・トンプソン (1971年生の内野手)|ジェイソン・トンプソン]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[石本美穂]]、漫画家
* 1972年 - [[ダレル・メイ]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[川本ゆかり]]、[[新体操]]選手
* [[1974年]] - [[櫻井孝宏]]<ref name="アニメイトタイムズ">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=799|title=櫻井孝宏のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-04}}</ref>、声優
* 1974年 - [[ブライアン・スウィーニー]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[乾貴美子]]、タレント
* 1975年 - [[面出哲志]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[玉木朋孝]]、元プロ野球選手
* [[1976年]] - [[CHANNEL]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]]
* 1976年 - [[池田明美]]、元[[競艇選手]]
* 1976年 - [[池田浩美 (競艇選手)|池田浩美]]、競艇選手
* 1976年 - [[宮下芳明]]、[[明治大学]]教授
* [[1977年]] - [[ホセ・オーティズ]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[市川実日子]]、女優
* 1978年 - [[佐藤友亮]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[小山伸一郎]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[藤田瞳子]]、女優、歌手
* 1978年 - [[リチャード・キングソン]]、サッカー選手
* [[1979年]] - [[ジャスティン・キング]]、ギタリスト
* [[1980年]] - [[マルクス・ヴィンケルホック]]、レーサー
* 1980年 - [[VOFAN]]、[[イラストレーター]]、漫画家
* 1980年 - [[甲斐まり恵]]、女優
* [[1981年]] - [[クリス・エヴァンス]]、俳優
* [[1982年]] - [[杉本恵太]]、[[サッカー選手]]
* 1982年 - [[寺田礼子]]、元アナウンサー
* 1982年 - [[鬼嵐力]]、元大相撲力士
* 1982年 - 山﨑ケイ、お笑い芸人([[相席スタート]])
* [[1983年]] - [[金村大裕]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[山本一徳]]、元プロ野球選手
* [[1984年]] - [[伊調馨]]、レスリング選手
* 1984年 - 桜瀬みつな、漫画家
* 1984年 - GORI、ミュージシャン(元[[BACK-ON]])
* 1984年 - [[松木里菜]]、モデル、女優
* 1984年 - [[山本匠晃]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー
* [[1985年]] - [[TAKAYO]]、ミュージシャン(元[[ZONE (バンド)|ZONE]])
* 1985年 - [[南知里]]、元グラビアアイドル、元タレント
* 1985年 - [[ペドロ・ストロップ]]、プロ野球選手
* 1985年 - 鈴木貴雄、ミュージシャン([[UNISON SQUARE GARDEN]])
* [[1986年]] - [[家長昭博]]、サッカー選手
* 1986年 - [[本田圭佑]]、サッカー選手
* 1986年 - [[メアリー・ケイト・オルセン]]、女優
* 1986年 - [[アシュレー・オルセン]]、女優
* 1986年 - [[ジョナサン・ルクロイ]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[モンス・セルメルロー]]、歌手、俳優
* [[1987年]] - [[加賀美セイラ]]、女優、歌手、ファッションモデル
* 1987年 - [[菊地瞳]]<ref>{{Twitter status2|i_mo_ti|212575260476837888|2012年6月13日|accessdate=2021-12-09}}</ref><ref>{{Twitter status2|i_mo_ti|14273970713|2010年5月19日|accessdate=2021-12-09}}</ref>、声優
* 1987年 - [[ジャスティン・ミラー (1987年生の投手)|ジャスティン・ミラー]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[古屋敬多]]、ミュージシャン([[Lead (音楽グループ)|Lead]])
* 1988年 - [[林慧]]、元サッカー選手
* 1988年 - [[生田竜聖]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー
* [[1990年]] - [[篠原慎平]]、元プロ野球選手
* 1990年 - [[小西つどい]]、元[[野球選手]]
* 1990年 - [[柳家平和 (2代目)|二代目柳家平和]]、[[落語家]]
* 1990年 - [[アーロン・テイラー=ジョンソン]]、俳優
* [[1992年]] - [[原優子]]、声優
* [[1993年]] - [[デニス・テン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2018年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33240870Q8A720C1CC1000/|title=フィギュア・テン選手刺殺、容疑の2人拘束 カザフ |publisher=日本経済新聞|date=2018-07-20|accessdate=2020-12-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=フィギュア五輪銅のデニス・テン選手、強盗に襲われ死亡:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASL7M76KCL7MULZU01D.html|website=朝日新聞デジタル(2018年7月19日)|accessdate=2020-11-13|language=ja|publisher=}}</ref>)
* 1993年 - [[阪本奨悟]]、俳優
* 1993年 - [[ゴンサロ・ニコラス・マルティネス]]、サッカー選手
* 1993年 - [[青山ひかる (タレント)|青山ひかる]]、グラビアアイドル
* 1993年 - [[高田康暉]]、陸上選手
* [[1994年]] - [[矢神久美]]、元アイドル(元[[SKE48]])
* 1994年 - [[犬飼貴丈]]、俳優
* [[1995年]] - [[金子栞]]、タレント、元アイドル(元SKE48)
* 1995年 - [[小森隼]]、[[パフォーマー]]([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* [[1997年]] - [[渡辺勇大]]、[[バドミントン]]選手
* [[1998年]] - [[齊藤伸治]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[キム・ドンヒ]]、俳優
* [[2000年]] - [[田宮裕涼]]、プロ野球選手
* 2000年 - [[坂口風詩]]、グラビアアイドル
* 2000年 - [[菊地吏玖]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - ソン・ハンビン、アイドル([[ZEROBASEONE]])
* 2001年 - [[友恵温香]]、タレント
* [[2004年]] - [[荒井悠汰]]、サッカー選手
* 生年不明 - [[田辺イエロウ]]、漫画家
* 生年不明 - [[石桃子]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1972年]] - [[カブラヤオー]]、[[競走馬]](+ [[2003年]])
{{-}}
== 忌日 ==
[[Image:Sanjusangendo_Thousand-armed_Kannon.JPG|thumb|100px|仏師[[湛慶]](1173-1256)没。画像は[[妙法院]]の千手観音像]]
{{multiple image
| footer = 剣豪[[宮本武蔵]](1584-1645)没。書画にも優れる。画像は『枯木鳴鵙図』
| image1 = Miyamoto Musashi Self-Portrait.jpg
| width1 = 120
| alt1 = 宮本武蔵
| image2 = Kobokumeigekizu.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 枯木鳴鵙図
}}
[[Image:Ludwig II of Bavaria.jpg|thumb|100px|バイエルン王[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]](1845-1886)]]
{{multiple image
| caption1 = 日本の細菌学の父[[北里柴三郎]](1853-1931)
| image1 = Kitasato_Shibasaburo.jpg
| width1 = 100
| alt1 = 北里柴三郎
| caption2 = 作家[[太宰治]](1909-1948)
| image2 = Osamu Dazai.jpg
| width2 = 100
| alt2 = 太宰治
}}
{{multiple image
| caption1 = [[ジャズ]]・[[クラリネット]]奏者[[ベニー・グッドマン]](1909-1986)
| image1 = Benny_Goodman1.1971.JPG
| width1 = 90
| alt1 = ベニー・グッドマン
| caption2 = プロレスラー[[三沢光晴]](1962-2009)
| image2 = Mitsuharu_Misawa_and_Go_Shiozaki_on_May_6%2C_2009.jpg
| width2 = 110
| alt2 = 三沢光晴
}}
* [[220年]]([[延康 (漢)|延康]]元年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[夏侯惇]]、[[魏 (三国)|魏]]の武将(* 生年不詳)
* [[1231年]] - [[パドヴァのアントニオ]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1195年]]頃)
* [[1256年]]([[建長]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[湛慶]]、[[仏師]](* [[1173年]])
* [[1273年]]([[文永]]10年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[北条政村]]、第7代[[鎌倉幕府]][[執権]](* [[1205年]])
* [[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[本因坊算砂]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1559年]])
* [[1645年]]([[正保]]2年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[宮本武蔵]]、[[剣術|剣術家]](* [[1584年]]頃)
* [[1784年]] - [[ヘンリー・ミドルトン]]、[[大陸会議]]議長(* [[1717年]])
* [[1817年]] - [[エベニーザー・ハザード]]、第3代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1744年]])
* [[1871年]] - [[ジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダン|ロベール・ウーダン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](* [[1805年]])
* [[1886年]] - [[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]、[[バイエルン王国|バイエルン]]王(* [[1845年]])
* [[1911年]] - [[篠原泰之進]]、[[新選組|新撰組]]諸士調役兼監察(* [[1828年]])
* [[1928年]] - [[モーリス・ブルームフィールド]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](* [[1855年]])
* [[1931年]] - [[北里柴三郎]]、[[医学者]](* [[1853年]])
* 1931年 - [[サンティアゴ・ルシニョール]]、[[画家]](* [[1861年]])
* [[1942年|1945年]] - [[大田実|大田實]]、[[大日本帝国海軍]][[中将]](*[[1891年]])
* [[1948年]] - [[太宰治]]、[[小説家]](* [[1919年]])
* [[1962年]] - [[ユージン・グーセンス]]、[[指揮者]](* [[1893年]])
* [[1965年]] - [[マルティン・ブーバー]]、[[哲学|哲学者]](* [[1878年]])
* [[1966年]] - [[山田守]]、[[建築家]](* [[1894年]])
* [[1971年]] - [[日夏耿之介]]、[[詩人]]、[[イギリス文学者]](* [[1890年]])
* 1971年 - [[海沼實]]、[[童謡]][[作曲家]](* [[1909年]])
* [[1972年]] - [[ゲオルク・フォン・ベーケーシ]]、[[生物学|生物学者]](* [[1899年]])
* [[1977年]] - [[トール・ベルシェロン]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](* [[1891年]])
* 1977年 - [[マシュウ・ガーバー]]、[[俳優]](* [[1956年]])
* [[1981年]] - [[菅原通済]]、[[実業家]](* [[1894年]])
* [[1982年]] - [[ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ]]、[[サウジアラビアの国王一覧|サウジアラビア王]](* [[1912年]])
* 1982年 - [[リカルド・パレッティ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1958年]])
* [[1986年]] - [[ベニー・グッドマン]]、[[ジャズ]]クラリネット奏者(* [[1909年]])
* [[1987年]] - [[ジェラルディン・ペイジ]]、[[俳優|女優]](* [[1924年]])
* [[1989年]] - [[スコット・ロス]]、[[チェンバロ]]奏者(* [[1951年]])
* [[1990年]] - [[木暮実千代]]、女優(* [[1918年]])
* 1990年 - [[冨士井金雪]]、高校野球指導者(* [[1943年]])
* [[1998年]] - [[ビルゲル・ルート]]、[[スキー]]選手(* [[1911年]])
* [[2001年]] - [[蔵忠芳]]、俳優(* [[1955年]])
* [[2002年]] - [[村田英雄]]、[[歌手]](* [[1929年]])
* [[2005年]] - [[デイヴィッド・ダイアモンド]]、[[作曲家]](* [[1915年]])
* [[2006年]] - [[チャールズ・ホーヒー]]、[[アイルランドの首相|アイルランド首相]](* [[1925年]])
* 2006年 - [[岩城宏之]]、指揮者(* [[1932年]])
* [[2007年]] - [[オスカル・モラヴェッツ]]、作曲家(* [[1917年]])
* 2007年 - [[近藤玲子 (声優)|近藤玲子]]、声優(* [[1959年]])
* [[2008年]] - [[古賀雷四郎]]、[[北海道開発庁]]・[[沖縄開発庁]]長官(* [[1915年]])
* [[2009年]] - [[三沢光晴]]、[[プロレスラー]](* [[1962年]])
* [[2012年]] - [[畑中純]]、[[漫画家]](* [[1950年]])
* [[2013年]] - [[内海賢二]]、[[声優]](* [[1937年]])
* 2013年 - [[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1944年]])
* [[2017年]] - [[野際陽子]]、[[俳優#性別での分類|女優]](* [[1936年]])
* 2017年 - [[多田護]]、[[アナウンサー]](* [[1941年]])
* [[2019年]] - [[千家和也]]、作詞家(* [[1946年]])
* 2019年 - [[石田信之]]<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2019/08/03/0012575371.shtml|title= 「ミラーマン」石田信之さん「5年3カ月で大手術10回以上」長女が壮絶闘病明かす|newspaper= デイリースポーツ online |agency= 神戸新聞社 |date= 2019-08-03 |accessdate= 2020-12-18 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2137789/full/ |title=『ミラーマン』鏡京太郎役・石田信之さん死去 68歳 14年からがん闘病 |work=ORICON NEWS |publisher=[[オリコン]] |accessdate=2020-11-14}}</ref>、俳優(* [[1950年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1988年]] - [[サーブ (盲導犬)|サーブ]]、[[盲導犬]](* [[1977年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑01.JPG|thumb|200px|[[衣笠祥雄]]の連続試合出場世界記録の記念碑]]
[[File:Hayabusa restoration model.jpg|thumb|200px|はやぶさの日。画像は[[国立科学博物館]]に展示されているはやぶさの実物大模型(映画『[[はやぶさ 遥かなる帰還]]』の撮影用に製作されたもの)]]
* 小さな親切運動スタートの日({{JPN}})
*:[[1963年]]のこの日に[[小さな親切運動]]本部が発足したことを記念。その年の[[東京大学]]の卒業式の告辞の中で、総長の[[茅誠司]]が「小さな親切を勇気をもってやってほしい」と言ったことがきっかけとなり、6月13日に茅ほか8名の提唱者でこの運動を発足させた。
* 鉄人の日({{JPN}})
*:[[1987年]]のこの日、「鉄人」と呼ばれた[[衣笠祥雄]]が連続試合出場の世界記録を更新したことを記念。
* FMの日({{JPN}})
*:F・Mがそれぞれアルファベットの6番目と13番目であることから。[[超短波放送|FM放送]]とは何の関係もなく、また制定者も不明。
* はやぶさの日({{JPN}})
*:[[2010年]]のこの日、世界初の小惑星[[サンプルリターン]]などを成し遂げた宇宙探査機[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]が地球に帰還したことを記念<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120616060123/http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120613-OYT1T00992.htm|url=http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120613-OYT1T00992.htm|archivedate=2012-06-16|title=帰還した6月13日を「はやぶさの日」に認定 |work=YOMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞]] |date=2012-06-13|accessdate=2020-08-19|deadlinkdate=2014-06}}</ref>。
* いいみょうがの日({{JPN}})
*:みょうがの全国第1位の産地である[[高知県]]の高知県農業協同組合が制定。「高知県産のみょうが」をより広くPRするのが目的。日付は6月は「みょうが」の旬の時期であることと、13日を「いい(1)みょうが(3)」と読む語呂合わせから。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0613|date=2011年6月}}
* 年不明 - 麦わらの一味の日、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』で、麦わらの一味が再集結した日<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Mugiwarano_itimi.html|title=麦わらの一味の日|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-08-19}}</ref>
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1946年]] - [[ジェイソン・ボーヒーズ]]、ホラー映画『[[13日の金曜日]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://screenrant.com/friday-the-13th-jason-anatomy-hidden-trivia/ |title=Friday the 13th: 20 Strange Details About Jason's Anatomy 『11. Jason's Birthdate Changes Throughout the Movies』 |work=SCREEN RANT |accessdate=2022-09-28}}</ref>
* [[1962年]] - [[おっさんずラブ|黒澤武蔵]]、テレビドラマ『[[おっさんずラブ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author = 監修・テレビ朝日|year = 2018|title = 土曜ナイトドラマ「おっさんずラブ」公式ブック|page =17|publisher = 文藝春秋|isbn = 978-4-16-390880-9}}</ref>
* [[1978年]] - 井上ゆか、特撮『[[電光超人グリッドマン]]』の登場人物
* [[1994年]] - 菅原孝支、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyu.jp/chara/karasuno/2.html |title=烏野高校 菅原孝支 CV:入野自由 |work=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]] |accessdate=2022-09-28}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870453-1|quote=|date=|volume=第1巻|page=170}}</ref>
* 生年不明 - 木ノ幡みら、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書|title=Character 木ノ幡みら |url=http://koiastv.com/chara.html |website=TVアニメ「恋する小惑星」公式サイト |accessdate=2022-09-28 |publisher=Quro・[[芳文社]]/星咲高校地学部}}</ref>
* 生年不明 - 死を司る神タナトス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=98 |title=死を司る神タナトス |work=『聖闘士星矢』 |accessdate=2023-01-21 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |author=[[車田正美]]}}</ref>
* 生年不明 - リッパー中佐、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Ripper.html |title=リッパー中佐 |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-28 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - プランス・ルドヴィック・シャルダール、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1536001637281570820}}</ref>
* 生年不明 - コムイ・リー、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|year=2004|title=D.Gray-man|volume=第1巻|page=144|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=4-08-873691-5}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|year=2008|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|page=94|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=87|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref>
* 生年不明 - トイフェル・ディアボロス(執事長)、漫画・アニメ『[[戦勇。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|author=[[春原ロビンソン]] |date=2013-04-06 |url=https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im2998883?manga_user |title=戦勇キャラの誕生日 |work=[[ニコニコ静画]] |publisher=ニワンゴ |accessdate=2022-09-28}}</ref>
* 生年不明 - [[GetBackers-奪還屋-の登場人物|春青龍]]、漫画・アニメ『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 虎金井天々、漫画・アニメ『[[すもももももも 地上最強のヨメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2006|title=すもももももも 〜地上最強のヨメ〜 GUIDE BOOK|page=144|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=ガイドブック|isbn=4-7575-1771-8}}</ref>
* 生年不明 - 叶屋夢蔵、漫画・ドラマCD『俺たちのステップ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wonderfarm.co.jp/index_ore.html |title=キャラクター 登場人物-その1- 叶家夢蔵(カノウヤ ユメゾウ) |access-date=2022-09-28 |publisher=ワンダーファーム |website=俺たちのステップ公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 横縞、漫画・アニメ『[[ディーふらぐ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 坂東洋平、漫画・アニメ『[[ケンガンアシュラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kengankai|1006822658774896646}}</ref>
* 生年不明 - 市杵島瑞葉、小説・ゲーム・アニメ『[[Re:ステージ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=市杵島 瑞葉 |url=http://rst-project.com/character/ |website=Re:ステージ!公式サイト |accessdate=2022-09-28 |publisher=Re:STAGE! PROJECT}}</ref>
* 生年不明 - 結城奈緒、アニメ・漫画『[[舞-HiME]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sunrise-inc.co.jp/my-hime/web/character/chara/nao.html |title=結城 奈緒 |access-date=2022-09-28 |publisher=SUNRISE |website=[舞-HiME] 風華学園オフィシャルWeb}}</ref>
* 生年不明 - 長谷川泰三、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 吉田麻子、アニメ『[[セイレン (アニメ)|セイレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/yoshida_mako.html |title=吉田麻子 |access-date=2022-09-28 |publisher=高山箕犀/セイレン製作委員会 TBS}}</ref>
* 生年不明 - 折神紫、アニメ『[[刀使ノ巫女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tojinomiko.jp/chara/07.html |title=折神 紫(おりがみゆかり) |access-date=2022-09-28 |publisher=伍箇伝計画/刀使ノ巫女製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - ストラゴス・マゴス、ゲーム『[[ファイナルファンタジーVI]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ファイナルファンタジーVI ザ・コンプリート|publisher=[[NTT出版]]|year=1994|page=172|ISBN=4-87188-303-5}}</ref>
* 生年不明 - [[ときめきメモリアルの登場人物#古式ゆかり|古式ゆかり]]、ゲーム『[[ときめきメモリアル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=1996|title=ときめきメモリアル オフィシャルイラスト集|page=46|publisher=[[徳間書店インターメディア]]|isbn=978-4-19-825112-3}}</ref>
* 生年不明 - キム・ドンファン、ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.garou15th.com/character/dong-hwan.php |title=キム・ドンファン |publisher=SNK PLAYMORE |accessdate=2022-09-28 |website=餓狼伝説総合公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - ペコ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=142&cate=name&cont=Peco |title=ペコ |access-date=2023-01-21 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 小水流ミカ、ゲーム・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/koduru-mika/ |title=鹿児島県 小水流 ミカ |access-date=2022-09-28 |publisher=MAGES. アイドル事変製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - [[ラブライブ!サンシャイン!!#小原鞠莉|小原鞠莉]]、メディアミックス『[[ラブライブ!サンシャイン!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/member.php |title=メンバー紹介 小原鞠莉 |publisher=プロジェクトラブライブ!サンシャイン!! |accessdate=2022-09-28}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* 没年不明 - ジョン・エドワード・ハンブルビー[[医学博士]]、小説『[[殺人は容易だ]]』の登場人物<ref>第2章の[[タイムズ]]の死亡欄</ref>
* 1942年 - [[ハリー・ポッターシリーズの登場人物一覧#嘆きのマートル|嘆きのマートル]]、小説[[ハリーポッターシリーズ]]に登場する女子学生<ref>第2巻のリドルの日記帳の日付より</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|June 13|13 June}}
{{新暦365日|6|12|6|14|[[5月13日]]|[[7月13日]]|[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]|0613|6|13}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8813%E6%97%A5 |
5,077 | 6月14日 | 6月14日(ろくがつじゅうよっか、ろくがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から165日目(閏年では166日目)にあたり、年末まであと200日ある。
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'''6月14日'''(ろくがつじゅうよっか、ろくがつじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から165日目([[閏年]]では166日目)にあたり、年末まであと200日ある。
== できごと ==
<!-- 記事に日付のないもの:エライジャ・クレイグ, バーボン・ウイスキー, チャールズ・バベッジ, 遠野物語, クーベルタン男爵, オリンピックシンボル, 映画倫理委員会, 東京都議会, -->
[[Image:Battle_of_Naseby.jpg|thumb|[[イングランド内戦]]、[[ネイズビーの戦い]](1645)]]
<!-- [[Image:Infantry%2C_Continental_Army%2C_1779-1783.jpg|thumb|upright|[[アメリカ独立戦争]]、[[大陸軍 (アメリカ)|]]発足(1775)。画像は1779-83年の軍装]] -->
[[Image:Lejeune_-_Bataille_de_Marengo.jpg|thumb|[[フランス革命戦争]]、[[マレンゴの戦い]](1800)]]
<!-- [[Image:Napoleon_friedland.jpg|thumb|[[ナポレオン戦争]]、[[フリートラントの戦い]](1807)]] -->
[[Image:Babbage_Difference_Engine.jpg|thumb|[[計算機]]「[[階差機関]]」の論文が[[王立天文学会]]に送付される(1786)。画像は論文に基づき実作された階差機関]]
<!-- [[Image:Firstbearflag.jpg|thumb|140px|[[カリフォルニア共和国]]が[[メキシコ]]から独立(1846)]] -->
<!-- [[Image:Alcockandbrown_takeoff1919.jpg|thumb|[[ジョン・オールコック|オールコック]]と[[アーサー・ブラウン|ブラウン]]、世界初の[[大西洋横断飛行]]に出発(1919)]] -->
<!-- [[Image:Tsukiji_buildings.jpg|thumb|[[勝鬨橋]]完成(1940)]] -->
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-L05487, Paris, Avenue Foch, Siegesparade.jpg|thumb|[[第二次世界大戦]]、ドイツ軍による[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|パリ占領]]]]
<!-- [[Image:Bundesarchiv Bild 101I-126-0347-09A, Paris, Deutsche Truppen am Arc de Triomphe.jpg|thumb|[[第二次世界大戦]]、ドイツ軍による[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|パリ占領]]]] -->
<!-- [[Image:Latvia_deportation_1941.jpg|thumb|ソ連によるバルト三国民の国外追放はじまる(1941)]] -->
[[Image:UNIVAC_1_demo.jpg|thumb|140px|世界初の商用[[コンピュータ]][[UNIVAC I]]の1号機、[[アメリカ合衆国国勢調査局]]に納入(1951)]]
[[Image:Malvimasmemorial.jpg|thumb|140px|[[フォークランド紛争]]終結(1982)。画像は[[ブエノスアイレス]]にあるモニュメント]]
<!-- [[Image:Matsurube_Ohashi%28bridge%29.JPG|thumb|[[岩手・宮城内陸地震]](2008)]] -->
* [[889年]]([[寛平]]元年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[桓武天皇]]の曾孫で[[平高望|高望王]]が[[平氏|平姓]]を賜り上総介に任じられる{{要出典|date=2021-04}}。[[坂東平氏]]の祖{{要出典|date=2021-04}}。
* [[1235年]]([[文暦]]2年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[藤原定家]]が古今の和歌百首を書写する([[百人一首]]の原型とされる)。
* [[1572年]]([[元亀]]3年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[木崎原の戦い]]。300人の[[島津義弘]]軍が3,000人の[[伊東祐安]]軍を破る。
* [[1583年]]([[天正]]11年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[福井城|北ノ庄城]]で[[柴田勝家]]・[[お市の方]]が自害する。
* [[1645年]] - [[イングランド内戦]]: [[ネイズビーの戦い]]。
* [[1775年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[第2次大陸会議]]の決議により[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]が発足。
* [[1777年]] - 星条旗が[[アメリカ合衆国の国旗]]に制定される。
* [[1789年]] - [[バウンティ号の反乱]]: [[バウンティ (帆船)|バウンティ号]]を追い出された[[ウィリアム・ブライ]]艦長以下19人の乗った救命艇が41日かけて[[ティモール島]]に到着。<!-- enより -->
* 1789年 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ケンタッキー州]]の牧師[[エライジャ・クレイグ]]によって[[バーボン・ウイスキー]]が初めて作られる。<!-- enより -->
* [[1800年]] - [[フランス革命戦争]]: [[マレンゴの戦い]]。
* [[1807年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[フリートラントの戦い]]。
* [[1822年]] - [[チャールズ・バベッジ]]が[[階差機関]]についての論文を[[王立天文学会]]に送る。<!-- enより -->
* [[1846年]] - [[メキシコ]]から分離独立して[[カリフォルニア共和国]]が成立。同年[[7月9日]]に[[アメリカ合衆国]]に吸収され消滅。
* [[1910年]] - 聚精堂から、[[柳田國男]]の『[[遠野物語]]』初版350部が刊行。<!-- http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767944 (66/71頁)で確認 -->
* [[1914年]] - [[ピエール・ド・クーベルタン]]が考案した五輪のマーク([[オリンピックシンボル]])がオリンピック大会旗として制定される。
* [[1919年]] - [[ジョン・オールコック]]と[[アーサー・ブラウン]]が世界初の[[大西洋横断飛行|大西洋無着陸横断飛行]]のため[[カナダ]]を出発。16時間12分かけて翌日[[アイルランド]]に到着。 ([[:en:Alcock and Brown]])
* [[1920年]] - [[北海道]]の[[夕張炭鉱]]で爆発事故。死者209人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p337 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
* [[1926年]] - [[ブラジル]]が[[国際連盟]]を脱退<ref>ブラジルが脱退を通告『中外商業新報』大正15年6月15日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p189 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1938年]] - 『[[スーパーマン]]』などが掲載されたアメリカの漫画雑誌『[[アクション・コミックス]]』が創刊。<!-- enより -->
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]: [[ドイツ軍]]によって[[パリ]]が占領される。
* 1940年 - 第二次世界大戦・[[バルト諸国占領]]: [[ソビエト連邦]]が[[バルト三国]]への侵攻を開始。
* 1940年 - [[隅田川]]にかかる[[可動橋]]・[[勝鬨橋]]が完成。<!-- 詳細はリンク先で -->
* [[1941年]] - 第二次世界大戦・バルト諸国占領: バルト三国でソビエト連邦による大規模な国民の[[シベリア]]などへの国外追放 ([[:en:June deportation]]) が開始される。<!-- [[エストニアの歴史]]に日附の記載あり -->
<!-- [[アンネの日記]]には6月12日とある * [[1942年]] - [[アムステルダム]]の[[アンネ・フランクの家|隠れ家]]で[[アンネ・フランク]]が[[日記]]を付け始める([[アンネの日記]])。 -->
* [[1949年]] - 映画倫理規定管理委員会(現 [[映画倫理委員会]])が発足。
* [[1951年]] - 世界初の商用[[コンピュータ]][[UNIVAC I]]の1号機が[[アメリカ合衆国国勢調査局]]に納入される。<!-- enより -->
* [[1952年]] - 世界初の[[原子力潜水艦]]となる[[アメリカ海軍]]の「[[ノーチラス (原子力潜水艦)|ノーチラス]]」が起工。
* [[1954年]] - [[カービン銃ギャング事件]]。
* [[1962年]] - パリで[[欧州宇宙研究機構]](ESRO、[[欧州宇宙機関]]の前身の一つ)が発足。
* 1962年 - [[徳島県]][[阿南市]][[長生町]]の明谷トンネルの建設現場で落盤。作業員16人が生き埋めとなり7人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=160 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1965年]] - [[東京都議会]]が自主解散。都道府県議会の解散は現行の日本国憲法下では初。
* [[1966年]] - [[結社の自由及び団結権の保護に関する条約]](ILO87号条約)が日本に対して発効。条約自体の発効日は1950年7月4日。
* 1966年 - [[アジア太平洋協議会]] (ASPAC) 設立。
* 1966年 - [[カトリック教会]]が[[1557年]]からあった[[禁書目録]]を公式に廃止。
* [[1967年]] - アメリカの[[金星]]探査機「[[マリナー5号]]」が打ち上げ。
* [[1972年]] - [[榎美沙子]]ら「[[中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合]]」(中ピ連)を結成。
* 1972年 - [[日本航空]]471便[[ダグラス DC-8|DC-8-53]]型 (JA8012) が、[[ニューデリー]]のパラム空港への着陸進入中に空港手前のジャムナ河畔に墜落、搭乗員89名中86名と地上の工事作業員4名が死亡。([[日本航空ニューデリー墜落事故]])
* [[1982年]] - [[フォークランド紛争]]終結。
* [[1984年]] - [[蔵前国技館]]での[[IWGPリーグ戦]]優勝戦の[[アントニオ猪木]]vs[[ハルク・ホーガン]]戦に[[長州力]]が乱入して[[暴動]]状態となり、[[蔵前警察署]]が出動する。
* [[1985年]] - [[ベルギー]]・[[フランス]]・[[西ドイツ]]・[[ルクセンブルク]]・[[オランダ]]の5カ国が[[シェンゲン協定]]に調印する。
* 1985年 - [[トランス・ワールド航空847便テロ事件]]発生。
* [[1987年]] - [[マドンナ (歌手)|マドンナ]]の初来日公演が[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[難波]]の[[大阪スタヂアム|大阪球場]]からスタート。
* [[1992年]] - [[環境と開発に関する国際連合会議]]が、[[環境と開発に関するリオ宣言]]などを採択して閉幕。<!-- enより -->
<!-- * 1992年 - プロ野球[[阪神タイガース]]の[[湯舟敏郎]]投手が広島戦でチームとしては1973年の[[江夏豊]]以来19年ぶりとなる[[ノーヒットノーラン]]を達成。 -->
* [[1998年]] - [[バスケットボール]]の[[マイケル・ジョーダン]]が[[シカゴ・ブルズ]]で2度目の[[NBA]]3連覇を達成。ジョーダンのブルズ時代最後の試合を優勝で飾る。
* 1998年 - [[サッカー日本代表]]が[[FIFAワールドカップ]]で初めて試合を行う(対[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]戦)。
* [[1999年]] - 南アフリカ大統領に[[タボ・ムベキ]]が選出される。
* [[2002年]] - [[2002 FIFAワールドカップ]]で、サッカー日本代表が、[[長居陸上競技場|大阪市長居陸上競技場]]で[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]を2-0で下し、グループHを2勝1引分の1位で通過、日本代表が初めてノックアウトステージ進出を決める。
* [[2003年]] - [[八尾市ヤミ金心中事件]]。
<!-- * [[2005年]] - [[ジャマイカ]]の[[アサファ・パウエル]]が陸上のスーパーグランプリ (GP) アテネ大会の男子[[100メートル競走|100メートル]]決勝で9秒77の世界新記録を樹立した。<!- 記録更新を一々書いてたらキリがないような。「何十年ぶりの更新」ならともかく。(これは6年ぶりの更新) -->
* [[2008年]] - [[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ副都心線|副都心線]]の[[池袋駅|池袋]] - [[渋谷駅|渋谷]]間が開業し、全線開通。
* 2008年 - [[東武鉄道]][[東武東上本線|東上線]]で座席定員制列車[[TJライナー]]が運行を開始。
* 2008年 - [[岩手・宮城内陸地震]]が発生。
* [[2010年]] - [[読売新聞]]の四コマ漫画『[[コボちゃん]]』(作:[[植田まさし]])が連載10,000回に到達。
* [[2017年]] - [[ロンドン]]西部にある公営住宅、グレンフェル・タワーで大規模火災"<ref>{{Cite news|url=http://www.bbc.com/japanese/40269857 |title=ロンドン西部の高層公営住宅が炎上、少なくとも12人死亡 |publisher=BBCニュース |date=2017-06-15 |accessdate=2020-09-30}}</ref>。79人以上が死亡。([[グレンフェル・タワー火災]])
* [[2022年]] - [[ウイスキー戦争]]終結。
{{-}}
== 誕生日 ==
[[Image:Charles de Coulomb.png|thumb|100px|物理学者[[シャルル・クーロン]](1736-1806)誕生。[[電荷]]の単位[[クーロン]]などに名を残す]]
[[File:YamagataAritomo.png|thumb|100px|第3・9代日本国内閣総理大臣、[[山縣有朋]](1838-1922)]]
<!-- [[Image:Kawabata_yasunari_birth.jpg|thumb|100px|小説家[[川端康成]](1899-1972)]] 石碑しかない… -->
[[Image:Che_Guevara_-_ca._1945.jpg|thumb|120px|[[キューバ]]の革命家、[[チェ・ゲバラ]](1928-1967) {{Squote|私は解放者ではない。解放者など存在しない。民衆が自身を解放するのだ。――メキシコでの声明(1958)}}]] <!-- 若き日の写真 -->
<!-- [[Image:GuerrilleroHeroico.jpg|thumb|100px|[[チェ・ゲバラ]](1928-1967)]] 典型的な肖像写真 -->
[[Image:Donald Trump August 19, 2015 (cropped).jpg|thumb|100px|第45代アメリカ合衆国大統領、[[ドナルド・トランプ]](1946-)]]
* [[1588年]]([[天正]]16年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[保科正貞]]、[[飯野藩|飯野藩主]](+ [[1661年]])
* [[1679年]]([[延宝]]7年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[徳川徳松]]、[[徳川綱吉]]長男、[[館林藩|館林藩主]](+ [[1683年]])
* [[1732年]] - [[ルイジ・ランツィ]]、考古学者(+ [[1810年]])
* [[1736年]] - [[シャルル・クーロン]]、[[物理学者]](+ [[1806年]])
* [[1763年]] - [[ジモン・マイール]]、[[作曲家]](+ [[1845年]])
* [[1811年]] - [[ハリエット・ビーチャー・ストウ]]、[[作家]](+ [[1896年]])
* [[1816年]]([[文化 (元号)|文化]]13年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[伊東長裕]]、[[岡田藩|岡田藩主]](+ [[1860年]])
* [[1838年]]([[天保]]9年[[4月22日 (旧暦)|閏4月22日]]) - [[山縣有朋]]、政治家、第3代・第9代[[内閣総理大臣]](+ [[1922年]])
* [[1856年]] - [[アンドレイ・マルコフ]]、[[数学者]](+ [[1922年]])
* [[1864年]] - [[アロイス・アルツハイマー]]、[[医学|医学者]]、[[精神科医]](+ [[1915年]])
* [[1868年]] - [[カール・ラントシュタイナー]]、[[病理学|病理学者]](+ [[1943年]])
* [[1870年]] - [[今村明恒]]、[[地震学|地震学者]](+ [[1948年]])
* 1870年 - [[イヴァン・ハリトーノフ]]、[[コック (家事使用人)|料理人]](+ [[1918年]])
* [[1887年]] - [[山脇敏子]]、洋画家、[[服飾]][[手芸]]家、[[教育関係人物一覧|教育者]](+ [[1960年]])
* [[1899年]] - [[川端康成]]、作家(+ [[1972年]])
* [[1910年]] - [[ルドルフ・ケンペ]]、[[指揮者]](+ [[1976年]])
* [[1913年]] - [[スタンリー・ブラック]]、[[音楽家]](+ [[2002年]])
* [[1916年]] - [[岩本徹三]]、[[大日本帝国海軍]]戦闘機搭乗員、80機以上撃墜の[[エース・パイロット]](+ [[1955年]])
* [[1917年]] - [[アトル・セルバーグ]]、[[数学者]](+ [[2007年]])
* [[1920年]] - [[駒井哲郎]]、[[版画家]](+ [[1976年]])
* [[1924年]] - [[長島甲子男]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1925年]] - [[藤沢秀行]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[2009年]])
* [[1926年]] - [[ドン・ニューカム]]、元プロ野球選手(+ [[2019年]])
* [[1928年]] - [[チェ・ゲバラ]]、革命家、[[ゲリラ]]の指導者、医師(+ [[1967年]])
* [[1929年]] - [[日野啓三]]、[[小説家]](+ [[2002年]])
* [[1935年]] - [[飽本唯徳]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳)
* 1936年 - [[村上豊]]、画家(+ [[2022年]])
* [[1936年]] - [[山根成之]]、[[映画監督]](+ [[1991年]])
* [[1937年]] - [[杉原輝雄]]、[[プロゴルファー]](+ [[2011年]])
* [[1944年]] - [[椎名誠]]、作家
* 1944年 - [[中野孝征]]、元プロ野球選手
* [[1946年]] - [[ドナルド・トランプ]]、[[実業家]]、政治家、第45代[[アメリカ合衆国大統領]]
* [[1947年]] - [[三田明]]、[[歌手]]、[[俳優]]
* 1947年 - [[宮内洋]]、俳優
* [[1948年]] - [[椎橋重]]、俳優、[[声優]](+ [[1998年]])
* 1948年 - [[ローレンス・イェップ]]、[[小説家]]
* 1948年 - [[吉江喜一]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]])
* [[1949年]] - [[ボブ・フランクストン]]、[[計算機科学|コンピュータ科学者]]
* [[1950年]] - [[上田容三]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[北川裕司]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[根本隆]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[ジャンナ・ナンニーニ]]、[[ロック (音楽)|ロック]]歌手
* 1958年 - [[エリック・ハイデン]]、[[スピードスケート]]選手
* 1958年 - [[オラフ・ショルツ]]、政治家、9代[[ドイツの首相|ドイツ首相]]
* [[1960年]] - [[マイク・ラガ]]、元プロ野球選手
* [[1961年]] - [[原秀則]]、[[漫画家]]
* 1961年 - [[ボーイ・ジョージ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1963年]] - [[菊地成孔]]、[[ジャズ]]ミュージシャン
* [[1964年]] - [[三波伸介 (2代目)|2代目三波伸介]]、[[コメディアン|喜劇役者]]
* [[1965年]] - [[木幡初広]]、[[騎手]]
* 1965年 - [[永井美奈子]]、[[アナウンサー]]
* 1965年 - [[加藤正樹]]、元プロ野球選手
* 1965年 - [[藤尾益雄]]、実業家
* [[1966年]] - [[平本淳也]]、元タレント
* [[1967年]] - [[吉田直喜]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[大塚寧々]]、[[俳優|女優]]
* 1968年 - [[中島史恵]]、[[タレント]]([[シェイプUPガールズ]])
* 1968年 - [[小坂勝仁]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[シュテフィ・グラフ]]、[[テニス]]選手
* [[1970年]] - [[原田哲也]]、[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]ライダー
* 1970年 - [[佐藤まさよし]]、声優
* [[1971年]] - [[高橋貢]]、オートレーサー
* 1971年 - [[前田健 (タレント)|前田健]]、[[お笑い芸人]]、[[ものまねタレント]](+ [[2016年]])
* 1971年 - [[前田智徳]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[中島忠幸]]、お笑い芸人([[カンニング (お笑いコンビ)|カンニング]])(+ [[2006年]])
* [[1972年]] - [[ダリル・ホランド]]、[[騎手]]
* [[1973年]] - [[常世晶子]]、アナウンサー、タレント
* [[1976年]] - [[津川友美]]、女優
* 1976年 - [[マッシモ・オッド]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]
* 1976年 - [[水島大宙]]、声優
* 1976年 - [[目黒三吉]]、漫画家
* 1976年 - [[山﨑勝之]]、俳優
* [[1977年]] - [[栃不動周二]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1977年 - [[川崎泰央]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[エドガー・ゴンザレス (内野手)|エドガー・ゴンザレス]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[ボンざわーるど]]、お笑いタレント(元[[カナリア (お笑いコンビ)|カナリア]])
* 1979年 - [[パラドーン・スリチャパン]]、テニス選手
* 1979年 - [[酒井潤]]、投資家、YouTuber
* [[1980年]] - [[岡田ひかり]]、タレント
* [[1982年]] - [[ラン・ラン]]、[[ピアニスト]]
* [[1983年]] - [[新木宏典]]、俳優
* 1983年 - [[別府あゆみ]]、女優、タレント
* [[1984年]] - [[吉村裕基]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[平野由実]]、ファッションモデル
* 1984年 - [[ヘスス・グスマン]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[バカムスコ翔]]、歌手
* [[1986年]] - [[比嘉愛未]]、女優
* 1986年 - [[ティム・スミス (野球)|ティム・スミス]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[森辰夫]]、元プロ野球選手
* 1988年 - [[濱田恵理子]]、ミュージカル俳優、元バレエダンサー
* 1988年 - [[ケヴィン・マクヘイル (俳優)|ケヴィン・マクヘイル]]、俳優
* [[1989年]] - [[溝端淳平]]、俳優、タレント
* 1989年 - [[武藤祐太]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[ルーシー・ヘイル]]、女優、歌手
* 1989年 - [[チェイス・ウィットリー]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[ヘクター・ネリス]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[中溝雄也]]、元プロ野球選手
* [[1990年]] - [[池ヶ谷夏美]]、サッカー選手
* 1990年 - [[藤井将貴]]、[[空手家]]
* [[1991年]] - [[遠藤瞳]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1991年 - [[ちゃんもも◎]]、タレント
* 1991年 - [[河野元貴]]、元プロ野球選手
* [[1992年]] - [[世永聖奈]]、アナウンサー
* [[1993年]] - [[スヴェトラーナ・イサコワ]]、フィギュアスケート選手
* 1993年 - [[南波志帆]]、歌手
* 1993年 - [[大城滉二]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[ムン・テイル|テイル]]、[[アイドル]]([[NCT (音楽グループ)|NCT]])
* [[1995年]] - [[西井幸人]]、俳優
* 1995年 - [[松浦雅]]、女優
* [[1996年]] - [[関根梓]]、アイドル([[アップアップガールズ(仮)]])
* 1996年 - 富永美杜、アイドル([[kolme]])
* 1996年 - [[森真奈美]]、アナウンサー
* [[1997年]] - [[井上直樹 (格闘家)|井上直樹]]、[[総合格闘家]]
* 1997年 - [[藤井風]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1998年]] - [[中川大志 (俳優)|中川大志]]、俳優
* 1998年 - [[黒後愛]]、[[バレーボール選手]]
* 1998年 - [[濱大耀]]、サッカー選手
* [[1999年]] - [[ツウィ]]、アイドル([[TWICE (韓国の音楽グループ)|TWICE]])
* 1999年 - [[尾崎匠海]]、アイドル([[INI]]、元kansai Boys Project、α-X's、Jump up Joy)
* [[2001年]] - SOLI、アイドル([[ミームトーキョー]])
* [[2003年]] - [[染谷莉亜奈]]、ファッションモデル
* [[2004年]] - [[吉田爽葉香]]、アイドル([[@onefive]])
* [[2005年]] - [[天翔天音]]、女優
* 生年不明 - [[後藤羽矢子]]、漫画家
* 生年不明 - [[新山たかし]]、漫画家
* 生年不明 - [[MINCE PIE]]、漫画家
* 生年不明 - [[亥野麻紀]]、声優
* 生年不明 - [[立花日菜]]、声優
== 忌日 ==
[[Image:Songqinzong.jpg|thumb|100px|[[北宋]]最後の皇帝、[[欽宗]](1100-1161)没]]
{{multiple image
| footer = 戦国武将[[柴田勝家]](1522-1583)、[[お市の方]](1547?-1583)と共に自害
| image1 = Shibata_katsuie.png
| width1 = 120
| alt1 = 柴田勝家
| width2 = 104
| image2 = Oichinokata.jpg
| alt2 = お市の方
}}
<!-- [[Image:Orlande_de_Lassus.jpg|thumb|100px|[[フランドル楽派]]の作曲家、[[オルランド・ディ・ラッソ]](1532-1594)没。{{audio|ResonetInLaudibus.ogg|『Resonet in laudibus』を聴く}}]] -->
<!-- [[Image:JeffersonDavisBenedictArnoldTreasonCartoon1865.jpg|thumb|upright|[[アメリカ独立戦争]]でイギリス側に寝返った[[大陸軍 (アメリカ)|]]将軍[[ベネディクト・アーノルド]](1741-1801)没。画像は地獄に堕ちたアーノルドの風刺画(左; 1865)]] -->
<!-- [[Image:L%27Enfant_plan.jpg|thumb|upright|[[都市計画]]家[[ピエール・シャルル・ランファン]](1754-1825)没。画像は[[ワシントンD.C.]]の計画案]] -->
<!-- [[Image:Matsudaira_Sadanobu.jpg|thumb|100px|[[寛政の改革]]を行った政治家、[[松平定信]](1758-1829)没]] -->
[[Image:Max_Weber_June_14_1920.jpg|thumb|upright|社会学者[[マックス・ヴェーバー]](1864-1920)。{{Squote|真実は真実だ。――最期の言葉}}]]
[[Image:BASA-950K-3-110-1-Aleksandar Stamboliyski in Paris, 1921 (cropped).jpg|thumb|100px|[[ブルガリア]]首相[[アレクサンドル・スタンボリスキ]](1879-1923)、クーデターで殺害]]
<!-- [[Image:Cassat_CupOfTea.jpg|thumb|180px|画家[[メアリー・カサット]](1844-1926)。画像は『お茶』(1880)]] -->
<!-- [[Image:John_Logie_Baird%2C_Bust.jpg|thumb|100px|[[テレビ]]の遠距離送受信を成功させた技術者[[ジョン・ロジー・ベアード]](1888-1946)]] -->
* [[1161年]]([[紹興 (宋)|紹興]]31年5月19日) - [[欽宗]]、[[中国]][[北宋]]第9代[[皇帝]](* [[1100年]])
* [[1433年]]([[永享]]5年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[今川範政]]、[[室町時代]]の[[守護大名]](* [[1364年]])
* [[1440年]](永享12年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[一色義貫]]、室町時代の守護大名(* [[1400年]])
* [[1486年]]([[文明 (日本)|文明]]18年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[願阿弥]]、[[時宗]]の[[僧]]
* [[1497年]] - [[フアン・ボルジア]]、[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の息子(* [[1474年]]?)
* [[1516年]] - [[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]、[[ナバラ王国|ナバラ王]](* [[1469年]])
* [[1544年]] - [[アントワーヌ (ロレーヌ公)|アントワーヌ]]、[[ロレーヌ公]](* [[1489年]])
* [[1583年]]([[天正]]11年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[柴田勝家]]{{Sfn|高柳|2001|pp=232-233}}、[[武将]](* [[1522年]])
* 1583年(天正11年4月24日) - [[お市の方]](小谷の方)、[[織田信長]]の妹、[[浅井長政]]・柴田勝家の妻(* [[1548年]])
* [[1594年]] - [[オルランド・ディ・ラッソ]]、[[作曲家]](* [[1532年]]頃)
* [[1694年]]([[元禄]]7年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[常如]]、[[東本願寺]]第15世[[法主]](* [[1641年]])
* [[1734年]]([[享保]]19年5月13日) - [[上杉宗憲]]、第6代[[米沢藩|米沢藩主]](* [[1714年]])
* [[1800年]] - [[ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー]]、[[ナポレオン戦争]]期のフランス軍指導者(* [[1768年]])
* [[1801年]] - [[ベネディクト・アーノルド]]、[[アメリカ独立戦争]]期の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[将軍]](* [[1741年]])
* [[1825年]] - [[ピエール・シャルル・ランファン]]、[[建築家]]、[[都市計画家]](* [[1754年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年5月13日) - [[松平定信]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[白河藩|白河藩主]](* [[1759年]])
* [[1832年]]([[天保]]3年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[谷舜媖]]、[[絵師]](* [[1772年]])
* [[1856年]]([[安政]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[小笠原忠徴]]、第7代[[小倉藩|小倉藩主]](* [[1808年]])
* [[1864年]] - [[レオニダス・ポーク]]、[[アメリカ連合国]]陸軍の[[中将]](* [[1806年]])
* [[1868年]] - [[クロード・プイエ]]、[[物理学者]](* [[1791年]])
* [[1875年]] - [[ハインリヒ・ダレスト]]、[[天文学者]](* [[1822年]])
* [[1897年]] - [[薩埵正邦]]、東京法学社(現:[[法政大学]])共同創始者(* [[1856年]])
* [[1911年]] - [[ヨハン・スヴェンセン]]、作曲家(* [[1840年]])
* [[1914年]] - [[アドレー・E・スティーブンソン]]、第23代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1835年]])
* [[1920年]] - [[マックス・ヴェーバー]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1864年]])
* [[1923年]] - [[ラファエル・フォン・ケーベル]]、[[哲学|哲学者]](* [[1848年]])
* 1923年 - [[アレクサンドル・スタンボリスキー]]、[[ブルガリアの首相|ブルガリア首相]](* [[1879年]])
* [[1926年]] - [[メアリー・カサット]]、[[画家]]、[[版画家]](* [[1844年]])
* [[1927年]] - [[オッタビオ・ボテッキア]]、[[自転車#スポーツ利用および競技利用|自転車]]選手(* [[1894年]])
* [[1928年]] - [[エメリン・パンクハースト]]、[[婦人参政権]]運動家(* [[1858年]])
* [[1936年]] - [[ギルバート・ケイス・チェスタートン]]、[[推理作家]](* [[1874年]])
* 1936年 - [[章炳麟]]、[[革命]]運動家、[[思想家]](* [[1869年]])
* [[1937年]] - [[石井亮一]]、[[福祉]]活動家(* [[1867年]])
* [[1938年]] - [[ウィリアム・ウォレス・キャンベル]]、天文学者(* [[1862年]])
* [[1939年]] - [[ジョージ・アーノルド・エッセル]]、[[明治]]期の[[お雇い外国人]](* [[1843年]])
* [[1946年]] - [[ホルヘ・ウビコ]]、[[グアテマラ]]大統領(* [[1878年]])
* 1946年 - [[ジョン・ロジー・ベアード]]、電気技術者、[[発明家]](* [[1888年]])
* 1946年 - [[幸田延]]、[[音楽家]](* [[1870年]])
* [[1949年]] - [[川島浪速]]、[[アジア主義]]運動家(* [[1866年]])
* [[1967年]] - [[エディー・イーガン]]、[[スポーツ選手]](* [[1897年]])
* 1967年 - [[横路節雄]]、[[政治家]](* [[1911年]])
* [[1972年]] - [[宮崎松記]]、医師(* [[1900年]])
* [[1976年]] - [[アンダ・ゲーザ]]、[[ピアニスト]](* [[1921年]])
* [[1979年]] - [[アレクサンドル・モロゾフ]]、[[戦車]]設計技師(* [[1904年]])
* [[1983年]] - [[大邱山高祥]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1907年]])
* [[1986年]] - [[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ホルヘ・ルイス+ボルヘス-1632389 |title = 20世紀西洋人名事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-02-09 }}</ref>、[[小説家]](* [[1899年]])
* [[1987年]] - [[中川平太夫]]、政治家、第4代[[福井県知事一覧|福井県知事]](* [[1915年]])
* [[1989年]] - [[森はな]]、[[児童文学|児童文学作家]](* [[1909年]])
* [[1994年]] - [[ヘンリー・マンシーニ]]、作曲家(* [[1924年]])
* 1994年 - [[柳川福三]]、元[[プロ野球選手]](* [[1936年]])
* [[1995年]] - [[ロジャー・ゼラズニイ]]、小説家(* [[1937年]])
* 1995年 - [[ソニー・ラブ=タンシ]]、[[作家]](* [[1947年]])
* [[1996年]] - [[保坂誠]]、[[実業家]](* [[1910年]])
* [[2002年]] - [[大谷光照]](勝如)、[[浄土真宗本願寺派]]第23世宗主(* [[1911年]])
* 2002年 - [[文部おさむ]]、[[声優]](* [[1932年]])
* [[2004年]] - [[湯浅憲明]]、[[映画監督]](* [[1933年]])
* [[2005年]] - [[カルロ・マリア・ジュリーニ]]、[[指揮者]](* [[1914年]])
* [[2007年]] - [[クルト・ヴァルトハイム]]、第4代[[国際連合事務総長]]、第6代[[連邦大統領 (オーストリア)|オーストリア大統領]](* [[1918年]])
* 2007年 - [[鈴木悳夫]]、元プロ野球選手(* [[1940年]])
* [[2009年]] - [[ボブ・ボーグル]]、[[ベーシスト]]([[ザ・ベンチャーズ]])(* [[1934年]])
* [[2015年]] - [[ワルター・ウェラー]]、[[音楽家]](* [[1939年]])
* [[2016年]] - [[白川由美]]、女優(* [[1936年]])
* [[2020年]] - [[加藤茂雄]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200618-WURONIGGAVIYJAAFA5RJSEMZQU/|title=俳優の加藤茂雄さん死去 「七人の侍」「ゴジラ」などに出演 |publisher=産経ニュース|date=2020-06-18|accessdate=2020-11-14}}</ref>、俳優(* [[1925年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:US_flag_13_stars_%E2%80%93_Betsy_Ross.svg|thumb|240px|星条旗が[[アメリカ合衆国の国旗]]となる(1777)。[[13植民地]]を象徴し当初の星の数は13であった。]]
[[Image:LandsteinerWS.jpg|thumb|100px|[[ABO式血液型]]を発見した生物学者[[カール・ラントシュタイナー]](1868-1943)。当人はO型であった。]]
* [[世界献血者デー]]({{World}})
*: [[ABO式血液型]]を発見した生物学者・[[カール・ラントシュタイナー]]の[[1868年]]の誕生日を記念して、[[国際赤十字・赤新月社連盟]]、世界献血団体連盟、国際輸血学会が[[2004年]]に制定。
* {{仮リンク|フラッグデー|en|Flag Day (United States)}}({{USA}})
*: 1777年のこの日、星条旗が正式に[[アメリカ合衆国の国旗]]に定められたことを記念。第28代大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]がこの日を国民の祝日とした。
* 五輪旗制定記念日
*: [[1914年]]のこの日、[[オリンピックシンボル|オリンピック大会旗]]が制定されたことを記念。
* [[手羽先唐揚げ|手羽先]]記念日({{JPN}})
*:名古屋市で手羽先店チェーン「世界の山ちゃん」を展開する株式会社[[エスワイフード]]が制定。[[1981年]]の「世界の山ちゃん」の創業記念日。
* [[キスデー]]({{KOR}})
<!--
* [[プログラミングツール|開発支援ツール]]の日({{JPN}}) 日本記念日協会登録はあるようですがgoogle46件。単なる自社製品の記念日とすると公共性に疑問が残ります
*:株式会社[[AHotDocument]]が[[2007年]]に制定。同社の開発支援ツールAHotDocumentの[[1996年]]の発売日。 -->
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0614|date=2011年6月}}
* [[2008年]] - 上城睦月が企業の入社試験(面接)を受ける。(映画『[[劇場版 仮面ライダー剣 MISSING ACE]]』)
* 年不明 - [[三宅しのぶ]]、純情ギツネと出会う。(漫画・アニメ『[[うる星やつら]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 乾凛子、漫画『[[アホガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author= ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|year = 2013 |title = アホガール |volume = 2巻 |page = 114 |publisher = [[講談社]] |series = [[講談社コミックス]] |isbn = 978-4-06-394954-4 }}</ref>
* 生年不明 - 京羅樹崇志、ゲーム『[[転生學園幻蒼録]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |date= |url = http://www.tensho-go.com/gensouroku/chara.html#kyouragi |title = 『転生學園幻蒼録』 |publisher = [[アスミック・エース エンタテインメント]] |accessdate=2014-06-12}}</ref>
* 生年不明 - 楠原尋乃、漫画『[[お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年6月13日 (木) 19:20 (UTC)}}
* 生年不明 - 御代柊花、ゲーム『[[青空の見える丘]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date= |url = http://www.feng.jp/aozora/chara.html#tohka |title = feng - 青空の見える丘公式ページ |publisher = [[feng]] |accessdate=2014-06-12}}</ref>
* 生年不明 - 反ノ塚連勝、漫画『[[妖狐×僕SS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ |year = 2011 |title = 妖狐×僕SS |volume = 第4巻 |page = 212 |publisher = [[スクウェア・エニックス]] |series = [[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]] |isbn = 978-4-7575-3146-8 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = 妖狐×僕SS オフィシャルガイド 0 |page = 48 |publisher = スクウェア・エニックス |series = ガンガンコミックスJOKER |isbn = 978-4-7575-3500-8 }}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#高垣楓|高垣楓]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>ゲーム内のプロフィールより。</ref>
* 生年不明 - 九十九坂クロエ、漫画『[[学園ナイトメア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author= 方條ゆとり|authorlink=方條ゆとり |year = 2010 |title = 学園ナイトメア |volume = 第1巻 |page = 177 |publisher = スクウェア・エニックス |series = [[ガンガンONLINE#ガンガンコミックスONLINE|ガンガンコミックスONLINE]] |isbn = 978-4-7575-2802-4 }}</ref>
* 生年不明 - 双子玉川哲也、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22|url=https://corocoro.jp/special/68074/|title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!!|website=コロコロオンライン|publisher=[[小学館]]|page=1|accessdate=2022-05-05}}</ref>
* 生年不明 - 八日市ゆかり、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>ゲーム内のプロフィールより</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|June 14|14 June}}
{{新暦365日|6|13|6|15|[[5月14日]]|[[7月14日]]|[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]|0614|6|14}}
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5,078 | 6月15日 | 6月15日(ろくがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から166日目(閏年では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。 | [
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'''6月15日'''(ろくがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から166日目([[閏年]]では167日目)にあたり、年末まであと199日ある。
== できごと ==
<!-- 記事に日付のないもの:en:Jean-Baptiste Denys, デラウェア植民地, 特別急行列車, ナンガ・パルバット, 夏のおたより郵便葉書, 棟方志功, パリ人肉事件, 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律, -->
[[Image:King John signing the Great Charter (Magna Carta) by English School.png|thumb|upright|[[マグナ・カルタ]]制定(1215)。画像は署名する[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]王。[[法の支配]]の土台となった]] <!-- TODO: Squote (clause 39あたり?) -->
[[Image:Facial Chronicle - b.10, p.299 - Battle of Kosovo (1389).png|thumb|upright|[[コソボの戦い]](1389)]]
<!-- [[Image:BullExurgeDomine.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|エクスルゲ・ドミネ|en|Exsurge Domine}}発布(1520)]] -->
[[Image:Washington_Crossing_the_Delaware_by_Emanuel_Leutze,_MMA-NYC,_1851.jpg|thumb|[[ジョージ・ワシントン]]、[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]総司令官に任命(1775)]]
[[Image:Graves_at_Arlington_on_Memorial_Day.JPG|thumb|upright|[[アメリカ合衆国]]の[[アーリントン国立墓地]]開園(1864)]]
[[Image:Sanriku_Great_Tsunami.JPG|thumb|[[明治三陸地震]](1896)。大津波が発生し死者は2万人を超えた]]
<!-- [[Image:General_slocum_burning.jpg|thumb|upright|遊覧船[[ジェネラル・スローカム]](1904)火災]] -->
[[Image:Alcock-Brown-Clifden.jpg|thumb|[[ジョン・オールコック|オールコック]]と[[アーサー・ブラウン|ブラウン]]、世界初の[[大西洋横断飛行]]を達成(1919)]]
[[Image:Cades_Cove_Panorama.JPG|thumb|350px|[[グレート・スモーキー山脈国立公園]]発足(1934)]]
[[Image:LVTs move toward Saipan, past bombarding cruisers, on 15 June 1944 (80-G-231838).jpg|thumb|[[第二次世界大戦]]、[[サイパンの戦い]]はじまる(1944)]]
<!-- [[Image:Chlamydosaurus_kingii.jpg|thumb|250px|[[エリマキトカゲ]]初来日(1984)]] -->
* [[745年]]([[天平]]17年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[聖武天皇]]が都を[[難波京]]から[[平城京]]に戻す。
* [[1189年]]([[文治]]5年[[4月30日 (旧暦)|閏4月30日]]) - [[衣川の戦い]]。[[源義経]]追捕の宣旨により[[藤原泰衡]]が[[衣川館]]を襲う。源義経は自害。
* [[1215年]] - [[イングランド王国|イングランド]]王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]が、自身の権限を限定する[[マグナ・カルタ]]を認める。
* [[1389年]] - [[コソボの戦い]]。[[セルビア王国 (中世)|セルビア]]・[[ボスニア]]など[[バルカン半島]]の諸侯軍が[[オスマン帝国]]に敗北。
* [[1520年]] - ローマ教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]が[[大勅書]]『{{仮リンク|エクスルゲ・ドミネ|en|Exsurge Domine}}』を発布し、[[マルティン・ルター]]に対し自説を撤回しなければ[[破門]]すると警告。<!-- enより -->
* [[1586年]]([[天正]]14年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[豊臣秀吉]]の妹・[[朝日姫]]が[[徳川家康]]に嫁ぐ。
* [[1667年]] - フランスの医師{{仮リンク|ジャン=バティスト・ドニー|en|Jean-Baptiste Denys}}が、世界初の人間の間での[[輸血]]を行う。
* [[1752年]] - [[ベンジャミン・フランクリン]]が、[[凧]]を用いた実験で[[雷]]が[[電気]]であることを証明する。<!-- enより -->
* [[1775年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ジョージ・ワシントン]]が[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]の総司令官に任命される。[[7月3日]]に就任。
* [[1776年]] - [[デラウェア植民地]]がイギリスと[[ペンシルベニア植民地]]の支配からの離別を宣言。
* [[1804年]] - [[ニューハンプシャー州]]が[[アメリカ合衆国憲法修正第12条]]に[[批准]]し、承認に必要な13州の批准が集まる。
* [[1827年]]([[文政]]10年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[頼山陽]]が元老中・[[松平定信]]に『[[日本外史]]』22巻を献呈。
* [[1836年]] - [[アーカンソー準州]]が州に昇格して、[[アメリカ合衆国]]26番目の州・[[アーカンソー州]]となる。
* [[1844年]] - [[チャールズ・グッドイヤー]]が[[ゴム]]の強化のための[[加硫]]についての特許を取得。
* [[1846年]] - [[オレゴン条約]]が締結され、オレゴン国境紛争が終結する。
* [[1859年]] - サンフアン諸島国境紛争: オレゴン条約のあいまいさに起因する、[[ブタ戦争 (サンフアン諸島)|ブタ戦争]]のきっかけとなる[[ブタ]]の射殺事件が起こる。
* [[1862年]]([[文久]]2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[蕃書調所]]を一橋門外に移し洋書調所と改称。
* [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦]]が始まる。
* 1864年 - [[アーリントン国立墓地]]が開園する。
* [[1866年]] - [[プロイセン王国]]が[[オーストリア帝国]]に宣戦布告。[[普墺戦争]]が開戦。<!-- en:Austro-Prussian_War 6/14、要チェック -->
* [[1888年]] - [[ドイツ帝国|ドイツ]]皇帝・[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]が死去し、長男の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]がドイツ皇帝・プロイセン王に即位。
* [[1896年]] - [[明治三陸地震]]([[マグニチュード|M]]8)が発生。大津波により甚大な被害。死者22,000 - 27,000人。日本最大の[[津波]]被害。
* [[1899年]] - [[福岡県]]の[[豊国炭鉱]]でガス爆発事故が発生。死者210名。
* [[1904年]] - [[日露戦争]]: [[常陸丸事件]]が起こる。
* 1904年 - [[ニューヨーク]]の遊覧船[[ジェネラル・スローカム]]が[[イースト川]]で火災。1,031人が死亡。
* [[1907年]] - 第2回[[万国平和会議]]が開催される。[[大韓帝国|韓国]]が[[デン・ハーグ|ハーグ]]に密使を送る。([[ハーグ密使事件]])
* [[1909年]] - [[イングランド]]・[[オーストラリア]]・[[南アフリカ]]の代表が[[ローズ・クリケット・グラウンド]]で会談し、[[国際クリケット評議会]]を設立。
* [[1911年]] - ニューヨーク州でザ・コンピューター・タビュレーティング・レコーディング・カンパニー(C-T-R、後の[[IBM]])が設立。
* 1911年 - [[喜界島地震]]発生、12名が犠牲となる。
* [[1912年]] - [[新橋駅|新橋]] - [[下関駅|下関]]間に日本初の[[特別急行列車#戦前特別急行列車の創始とその終焉|特別急行列車]]の運転が開始。
* [[1919年]] - [[ジョン・オールコック]]とアーサー・ブラウンが初の[[大西洋横断飛行]]に成功。
* [[1934年]] - [[グレート・スモーキー山脈国立公園]]が発足する。<!-- enより -->
* [[1937年]] - 世界第9位の高峰[[ナンガ・パルバット]]登頂に挑戦中のカール・ウィーン率いるドイツ隊が、[[雪崩]]により16人のメンバーを失う。[[8000メートル峰]]で発生した史上最悪の被害。<!-- enより -->
* [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[アメリカ合衆国]]軍が[[サイパン島]]への上陸を開始し、[[サイパンの戦い]]が始まる。
* [[1948年]] - 中国[[湖北省]]で『[[人民日報]]』創刊。
* [[1950年]] - [[郵政省]]が初めて[[夏のおたより郵便葉書|暑中見舞用郵便葉書]]を発売。
* [[1951年]] - [[信用金庫法]]公布・施行。
* [[1952年]] - メキシコの考古学者[[アルベルト・ルス]]が[[ユカタン半島]]・[[パレンケ]]の「碑文の神殿」で石室墳墓を発見。
* [[1954年]] - [[欧州サッカー連盟]] (UEFA) が[[スイス]]・[[バーゼル]]で発足。
* [[1956年]] - [[棟方志功]]が[[ヴェネツィア・ビエンナーレ]]版画部門でグランプリを受賞。<!-- 『決定版20世紀年表』(小学館)に記載 -->
* [[1958年]] - 16歳と13歳の姉妹が酒乱の父親を殺害する事件が発生、[[1961年]]に[[酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律]]が制定されるきっかけとなる。
* [[1960年]] - [[安保闘争]]: 新安保条約批准阻止の第2次実力行使で[[全日本学生自治会総連合|全学連]]7,000人が国会議事堂に突入を図り警官隊と衝突。東大生[[樺美智子]]が死亡。
* [[1963年]] - [[坂本九]]の「[[上を向いて歩こう]] (SUKIYAKI)」がアメリカのヒットチャート[[ビルボード]]の週間ランキングで1位を獲得。
* [[1968年]] - [[東大紛争]]・[[東大安田講堂事件]]: [[東京大学]]医学部学生自治会が登録医制度に反対して[[安田講堂]]を占拠しストに突入。翌年1月に解除。
* 1968年 - [[文化庁]]が発足。
* [[1978年]] - [[ヨルダン]]国王[[フセイン1世]]がアメリカ人の[[ヌール (ヨルダン王妃)|リサ・ナジーブ・ハラビー]]と結婚。4人目の妃となる。
* [[1981年]] - [[パリ人肉事件]]の実行犯の日本人留学生が逮捕される。
* [[1983年]] - [[名人戦 (将棋)|名人戦]]で[[谷川浩司]]が[[加藤一二三]]に勝利し、史上最年少名人が誕生。
* [[1984年]] - CMに登場して日本で大人気となっていた[[エリマキトカゲ]]が初来日。
* [[1985年]] - [[スタジオジブリ]]設立。
* [[1985年]] - [[国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW]]開催。
* [[1991年]] - [[イギリス]]・[[バーミンガム]]で開催された第97回[[国際オリンピック委員会総会|IOC総会]]で、[[1998年]]の[[冬季オリンピック]]開催地が長野に決定。
* [[1992年]] - [[PKO国会]]: [[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO協力法]]が成立。
* [[1994年]] - [[西日本旅客鉄道]][[関西空港線]]・[[南海電気鉄道]][[南海空港線|空港線]]が[[関西国際空港]]の従業員輸送のため先行開業。
* 1994年 - [[イスラエル]]と[[バチカン市国]]が国交を樹立。
* [[1996年]] - [[IRA暫定派]]が[[イギリス]]・[[マンチェスター]]で[[車爆弾]]を爆破。212人が負傷。 ([[:en:1996 Manchester bombing]])
* [[1999年]] - [[第1延坪海戦]]。[[黄海]]の[[北方限界線]]に侵犯した[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]艦艇と[[大韓民国|韓国]]艦艇とが銃撃戦。
* [[2001年]] - [[中華人民共和国]]・[[ロシア]]・[[カザフスタン]]・[[キルギス]]・[[タジキスタン]]・[[ウズベキスタン]]の6か国により[[上海協力機構]] (SCO) が発足。
* [[2003年]] - [[ウィキペディア日本語版]]が[[Wikipedia:発表/10000ページ達成|10000ページ達成]]。
* [[2005年]] - [[野茂英雄]]が日米通算200勝を達成。
* [[2007年]] - [[ひまわり5号]]による観測が困難になった2003年から2005年まで代わりに観測を行ったアメリカの気象衛星[[GOES|GOES9号]]が運用終了。
* [[2012年]] - [[オウム真理教事件]]: [[高橋克也 (オウム真理教)|高橋克也]]が[[東京都]][[大田区]][[西蒲田]]の[[漫画喫茶]]で身柄を確保され、逮捕。オウム真理教事件における指名手配被疑者の全員が検挙される<ref>{{Cite web|和書|date=2012-06-15 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNNSE2INK02_V10C12A6000000/ |title=オウム高橋克也容疑者を逮捕 逃亡生活17年 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-05-02}}</ref>。
* 2012年 - [[臓器の移植に関する法律|改正臓器移植法]]施行後初めて6歳未満の男児が脳死と判定され、臓器移植手術が行われる<ref>{{Cite web|和書|date=2012-06-16 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1600P_W2A610C1CC0000/ |title=肝臓・腎臓も手術終了 6歳未満の脳死移植 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-05-02}}</ref>。
<!-- 「6月15日」に特記すべき情報ですか? * [[2013年]] - [[1988年]]から続いた[[劇団四季]]のミュージカル『[[オペラ座の怪人 (1986年のミュージカル)|オペラ座の怪人]]』が、この日をもって千秋楽。 -->
* [[2016年]] - [[マイアミ・マーリンズ]]外野手の[[イチロー]]が、日米通算[[安打]]数4257安打とし、生涯[[プロ野球|職業野球]]一軍安打数新記録を達成<!--(現地時間)--><ref>{{Cite web|和書|url=https://sports.yahoo.co.jp/m/column/detail/201610030010-spnavi|title=イチローの2016年を振り返る――2つの大記録とチームの失速、9月の不幸|publisher=スポーツナビ|date=2016-10-04|accessdate=2020-10-15}}</ref>。
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1873年]] - [[印旛県]]と[[木更津県]]が統合され[[千葉県]]が成立する。
* 1873年 - [[宇都宮県]]と[[栃木県]]の統合により今日の栃木県の県域がほぼ確定する。
* [[1950年]] - 兵庫県[[加古川市]]が市制施行。
{{-}}
== 誕生日 ==
[[Image:Edward_the_Black_Prince_-_Illustration_from_Cassell%27s_History_of_England_-_Century_Edition_-_published_circa_1902.jpg|thumb|100px|[[エドワード黒太子]](1330-1376)誕生。[[百年戦争]]前期の優秀な軍人であった]]
[[Image:Nicolas_Poussin_078.jpg|thumb|140px|画家[[ニコラ・プッサン]](1594-1665)誕生。画像は自画像(1650)]]
[[Image:Kobayashi_Issa-Portrait.jpg|thumb|140px|俳諧師、[[小林一茶]](1763-1828)。{{Squote|痩蛙まけるな一茶これにあり――『七番日記』}}]] <!-- 記事寂しい… -->
[[Image:Franz_Danzi.JPG|thumb|100px|作曲家[[フランツ・ダンツィ]](1763-1826)。{{audio|Franz Danzi - Wind Quintet Op. 67 No. 2 in E minor - 1. Allegro vivo.ogg|管楽四重奏曲作品67-2ホ長調より第1楽章を聴く}}]]
[[Image:Eilif_Peterssen-Edvard_Grieg_1891.jpg|thumb|100px|作曲家[[エドヴァルド・グリーグ]](1843-1907)。{{audio|Edvard Grieg - Concerto in A minor, 1st movement.ogg|ピアノ協奏曲ト短調作品16より第1楽章を聴く}}]]
[[Image:Osami_Nagano.jpg|thumb|100px|[[大日本帝国海軍]]の軍人、[[永野修身]](1880-1947)]]
[[Image:Erik_Erikson.png|thumb|100px|[[自己同一性|アイデンティティ]]の概念を確立した[[発達心理学]]者、[[エリク・H・エリクソン]](1902-1994)]]
[[Image:Xi Jinping 2016.jpg|thumb|100px|[[中国共産党中央委員会総書記]]、[[習近平]](1953-)]]
<!-- * [[774年]]([[宝亀]]5年) - [[空海]](弘法大師)、[[真言宗]]開祖(+ [[835年]]) -->
* [[1330年]] - [[エドワード黒太子]]、[[イングランド王国|イングランド王]][[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の世子(+ [[1376年]])
* [[1594年]] - [[ニコラ・プッサン]]、[[画家]](+ [[1665年]])
* [[1623年]] - [[コルネリス・デ・ウィット]]、[[政治家]](+ [[1672年]])
* [[1658年]]([[明暦]]4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[秋月種政]]、[[高鍋藩|高鍋藩主]](+ [[1716年]])
* [[1664年]]([[寛文]]4年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[土井利意]]、[[西尾藩|西尾藩主]](+ [[1724年]])
* [[1670年]](寛文10年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[伊藤東涯]]、[[儒学者]](+ [[1736年]])
* [[1747年]]([[延享]]4年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[高山彦九郎]]、尊皇思想家(+ [[1793年]])
* [[1754年]] - [[ファン・ホセ・デ・エルヤル]]、[[化学者]]、[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[1796年]])
* [[1756年]] ([[宝暦]]6年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[丹羽長貴]]、第10代[[二本松藩|二本松藩主]] (+ [[1796年]])
* [[1763年]](宝暦13年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[小林一茶]]、[[俳人]](+ [[1828年]])
* 1763年 - [[フランツ・ダンツィ]]、[[チェロ奏者]]、[[指揮者]]、[[作曲家]](+ [[1826年]])
* [[1767年]] - [[レイチェル・ジャクソン]]、[[アンドリュー・ジャクソン]]夫人(+ [[1828年]])
* [[1789年]]([[寛政]]元年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[土井利位]]、[[古河藩|古河藩主]](+ [[1848年]])
* [[1833年]]([[天保]]4年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[岸田吟香]]、[[ジャーナリスト]]、[[実業家]](+ [[1905年]])
* [[1843年]] - [[エドヴァルド・グリーグ]]、作曲家(+ [[1907年]])
* [[1850年]]([[嘉永]]3年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[大浦兼武]]、政治家(+ [[1918年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[青山胤通]]、[[医学|医学者]](+ [[1917年]])
* [[1861年]] - [[エルネスティーネ・シューマン=ハインク]]、[[アルト]]歌手(+ [[1936年]])
* [[1864年]] - [[ギィ・ロパルツ]]、作曲家(+ [[1955年]])
* [[1867年]] - [[コンスタンチン・バリモント]]、[[詩人]]、[[翻訳家]](+ [[1942年]])
* [[1871年]]([[明治]]4年4月28日) - [[河井荃廬]]、[[篆刻|篆刻家]](+ [[1945年]])
* [[1879年]] - [[小野葉桜]]、[[歌人]](+ [[1942年]])
* 1879年 - [[アンリ・ワロン]]、[[フランス]]の[[心理学]]者(+ [[1962年]])
* [[1880年]] - [[永野修身]]、[[海軍大臣]]、[[連合艦隊司令長官]]、[[軍令部|軍令部総長]](+ [[1947年]])
* [[1881年]] - [[井上正夫]]、[[俳優]](+ [[1950年]])
* [[1886年]] - [[山崎猛 (政治家)|山崎猛]]、政治家(+ [[1957年]])
* [[1890年]] - [[宇都宮新八郎]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1952年]])
* [[1891年]] - [[古畑種基]]、[[法医学|法医学者]](+ [[1975年]])
* [[1891年]] - [[山本卯太郎]]、[[橋梁]]技術者(+ [[1934年]])
* [[1902年]] - [[エリク・H・エリクソン]]、[[心理学者]](+ [[1994年]])
* [[1903年]] - [[岡田桑三]](山内光)、俳優、[[映画プロデューサー]](+ [[1983年]])
* [[1908年]] - [[サム・ジアンカーナ]]、[[マフィア]](+ [[1975年]])
* [[1911年]] - [[ウィルバート・オードリー]]、『[[汽車のえほん]]』作者(+ [[1997年]])
* [[1913年]] - [[小篠綾子]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2006年]])
* [[1914年]] - [[ユーリ・アンドロポフ]]、[[ソビエト連邦]]の指導者(+ [[1984年]])
* 1914年 - [[ソール・スタインバーグ]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]](+ [[1999年]])
* [[1915年]] - [[山本夏彦]]、[[随筆家]](+ [[2002年]])
* 1915年 - [[トーマス・ハックル・ウェーラー]]、[[ウイルス学|ウイルス学者]](+ [[2008年]])
* [[1916年]] - [[ハーバート・サイモン]]、[[経済学者]](+ [[2001年]])
* 1916年 - [[オラシオ・サルガン]]、[[タンゴ]][[音楽家]](+ [[2016年]])
* [[1917年]] - [[ジョン・フェン]]、[[化学者]](+ [[2010年]])
* [[1918年]] - [[フランソワ・トンバルバイ]]、初代[[チャドの大統領一覧|チャド大統領]](+ [[1975年]])
* [[1919年]] - [[川口敬次郎]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1991年]])
* [[1920年]] - [[ジミー・ツトム・ミリキタニ]]、[[画家]](+ [[2012年]])
* 1920年 - [[アルベルト・ソルディ]]、[[俳優]]、[[映画監督]](+ [[2003年]])
* [[1921年]] - [[エロル・ガーナー]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[1977年]])
* [[1922年]] - [[ジャッキー・バイアード]]、ジャズピアニスト(+ [[1999年]])
* [[1924年]] - [[エゼル・ヴァイツマン]]、[[軍人]]、[[政治家]](+ [[2005年]])
* [[1926年]] - [[萱野茂]]、アイヌ文化研究者、政治家(+ [[2006年]])
* [[1927年]] - [[ジョージ川口]]、[[ドラマー|ドラム奏者]](+ [[2003年]])
* [[1928年]] - [[金田龍之介]]、俳優(+ [[2009年]])
* 1928年 - [[原田孝一]]、元プロ野球選手(+ [[2019年]])
* 1928年 - [[イレネウス・アイブル=アイベスフェルト]]、[[動物行動学|動物行動学者]] (+ [[2018年]])
* [[1929年]] - [[藤山寛美]]、[[コメディアン|喜劇俳優]](+ [[1990年]])
* [[1930年]] - [[平山郁夫]]、[[日本画家]](+ [[2009年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=2049|title=平山郁夫氏が死去 文化勲章 日本画の重鎮 79歳 シルクロード主題|publisher=ヒロシマ平和メディアセンター|date=2009-12-05|accessdate=2020-11-06}}</ref>)
* 1930年 - [[マゴメダリ・マゴメードフ]]、政治家(+ [[2022年]])
* [[1932年]] - [[マリオ・クオモ]]、政治家、第56代[[ニューヨーク州知事]](+ [[2015年]])
* 1932年 - [[稲垣人司]]、高校野球指導者(+ [[2000年]])
* [[1935年]] - [[横手文雄]]、政治家(+ [[2021年]])
* 1935年 - [[加地健太郎]]、俳優
* [[1936年]] - [[片岡宏雄]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]])
* 1936年 - [[クロード・ブラッスール]]、俳優(+ [[2020年]])
* [[1937年]] - [[伊東四朗]]、[[コメディアン]]、俳優、[[タレント]]、[[司会|司会者]]
* 1937年 - [[カール・ライスター]]、[[クラリネット]]奏者
* [[1940年]] - [[シルヴァーナ・ガンドルフィ]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]]
* 1940年 - [[羽根章悦]]、[[アニメーター]]
* 1940年 - [[黒田能弘]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[ハリー・ニルソン]]、ソングライター、[[歌手]](+ [[1994年]])
* [[1942年]] - [[舞原俊憲]]、[[天文学者]]
* 1942年 - [[ピーター・ノーマン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[2006年]])
* [[1943年]] - [[ジョニー・アリディ]]、歌手、俳優(+ [[2017年]])
* [[1945年]] - [[寺本勇 (1945年生の外野手)|寺本勇]]、元プロ野球選手(+ [[1980年]])
* [[1946年]] - [[ブリジット・フォッセー]]、女優
* [[1948年]] - 大倉正丈、元[[アニメソング歌手]](元[[こおろぎ'73]])
* 1948年 - [[斉藤清六]]、タレント
* [[1949年]] - [[ダスティ・ベイカー]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]]
* 1949年 - [[サイモン・キャロウ]]、俳優
* [[1950年]] - [[細川たかし]]、歌手
* 1950年 - [[ラクシュミー・ミッタル]]、[[実業家]]
* 1950年 - [[村上義則]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[八重樫幸雄]]、元プロ野球選手
* 1951年 - [[垣野多鶴]]、元野球選手(+ [[2021年]])
* 1951年 - [[岩崎清隆 (野球)|岩崎清隆]]、元プロ野球選手
* [[1952年]] - [[柏原純一]]、元プロ野球選手
* 1952年 - [[高木孝治]]、元プロ野球選手
* [[1953年]] - [[習近平]]、[[中国共産党中央委員会総書記]]
* [[1954年]] - [[ジェームズ・ベルーシ]]、俳優
* [[1955年]] - [[大島保彦]]、[[翻訳家]]、[[哲学|哲学者]]、[[予備校]]講師
* [[1956年]] - [[横山宏]]、[[イラストレーター]]
* 1956年 - [[ランス・パリッシュ]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[めるへんめーかー]]、[[漫画家]]、イラストレーター
* 1957年 - [[大野治夫]]、[[気象予報士]]
* 1957年 - [[俵英三]]、[[フラメンコ]][[ギタリスト]]
* [[1958年]] - [[ウェイド・ボッグス]]、元プロ野球選手
* [[1959年]] - [[遊人]]、漫画家
* [[1960年]] - [[金田進]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[永江孝子]]、政治家
* [[1961年]] - [[岩崎良美]]、歌手、[[俳優|女優]]
* 1961年 - [[江川ほーじん]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[爆風スランプ]])
* 1961年 - [[春やすこ]]、[[漫才師]]、女優
* 1961年 - [[スコット・ノートン]]、[[プロレスラー]]
* 1961年 - [[田鎖博美]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[吉永和生]]、[[厚生労働省|厚生労働]][[官僚]]
* [[1963年]] - [[ラッシャー板前]]、[[お笑い芸人]]
* 1963年 - [[ヘレン・ハント]]、女優
* [[1964年]] - [[ミカエル・ラウドルップ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者
* 1964年 - [[コートニー・コックス]]、女優
* 1964年 - [[ゾマホン・ルフィン]]、タレント
* [[1965年]] - [[誰なんだ吉武]]、元お笑いタレント
* [[1966年]] - [[うたたねひろゆき]]、漫画家、イラストレーター
* [[1967年]] - [[うえだゆうじ]]、[[声優]]
* 1967年 - [[大林素子]]、タレント、元[[バレーボール]]選手
* 1967年 - [[おかざき真里]]、漫画家
* [[1969年]] - [[アイス・キューブ]]、[[ラッパー]]、俳優
* 1969年 - [[安彦麻理絵]]、漫画家
* 1969年 - [[オリバー・カーン]]、元サッカー選手
* 1969年 - [[セドリック・ピオリーン]]、[[テニス]]選手
* 1969年 - [[村山聖]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](+ [[1998年]])
* 1969年 - [[市川翔子]]、元女優
* [[1970年]] - [[太田剣]]、[[ジャズ]][[音楽家|ミュージシャン]]
* 1970年 - [[吉岡稔真]]、[[競輪選手]]、[[競輪]]解説者、評論家
* [[1971年]] - [[フランチ・ペテク]]、[[地理学者]]
* 1971年 - [[安田史生]]、音楽プロデューサー、作曲家、作詞家
* 1971年 - [[林博康]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[アンディ・ペティット]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[ラミロ・メンドーサ]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[ジャスティン・レナード]]、[[プロゴルファー]]
* [[1974年]] - [[麻田華子]]、元タレント、元歌手
* 1974年 - [[アンドレイ・ウラシェンコ]]、[[フィギュアスケート選手]]
* 1974年 - [[栗山聡]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[城平京]]、[[推理作家]]
* 1974年 - [[橋詰優子]]、[[朝日放送テレビ]][[アナウンサー]]
* 1974年 - [[村井研次郎]]、[[ベーシスト]]
* [[1976年]] - [[ぎぼりつこ]]、イラストレーター
* 1976年 - [[矢野英司]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[深澤岳大]]、元[[クイズ]]作家
* 1977年 - [[若兎馬裕三]]、元大相撲力士
* [[1978年]] - [[佐々木匡哉]]、朝日放送テレビ[[テレビディレクター|ディレクター]]
* 1978年 - [[成瀬ちさと]]、[[イラストレーター]]
* 1978年 - [[歌藤達夫]]、元プロ野球選手
* [[1979年]] - [[映美くらら]]、女優、元[[宝塚歌劇団]][[月組 (宝塚歌劇)|月組]]トップ娘役
* 1979年 - [[山田真介]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[ユリヤ・ネステレンコ]]、陸上競技選手
* [[1980年]] - [[マイク・ザンビディス]]、[[キックボクサー]]
* 1980年 - [[エリック・クラッツ]]、プロ野球選手
* 1980年 - [[チャンカワイ]]、お笑い芸人([[Wエンジン]])
* [[1981年]] - [[大島裕行]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[風花 (お笑い芸人)|風花]]、お笑いタレント(元[[トリコロール (お笑いトリオ)|トリコロール]])
* 1981年 - [[ジョン・ペイントシル]]、元サッカー選手、指導者
* 1981年 - [[久保田悠来]]、俳優
* [[1982年]] - [[桑原義行]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[クレイトン・ハミルトン]]、プロ野球選手
* [[1983年]] - [[武田光兵]]、元俳優
* [[1984年]] - [[美村里江]]、女優
* [[1984年]] - [[汐崎アイル]]、俳優、モデル
* 1984年 - [[ティム・リンスカム]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[クリフ・ペニントン (野球)|クリフ・ペニントン]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[マイク・ファイヤーズ]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[ネイディーン・コイル]]、ミュージシャン([[ガールズ・アラウド]])
* 1985年 - [[笹本玲奈]]、ミュージカル女優
* [[1986年]] - [[上田桃子]]、[[プロゴルファー]]
* 1986年 - [[トレバー・プルーフ]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[野上亮磨]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[ジョシュ・リンドブロム]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[エドゥアルド・ヌニェス]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[石田未来]]、元歌手、元女優
* 1988年 - [[平繁龍一]]、元サッカー選手
* [[1989年]] - [[大江翔萌美]]、女優、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1989年 - [[今野杏南]]、女優、[[グラビアアイドル]]、タレント
* 1989年 - [[東明大貴]]、元プロ野球選手
* 1989年 - [[鎌田翔雅]]、元サッカー選手
* 1989年 - [[スティーブン・キャリエール]]、元[[フィギュアスケート]]選手
* 1989年 - [[寺尾裕道]]、プロアイスホッケー選手
* [[1990年]] - [[miwa]]、[[シンガーソングライター]]
* 1990年 - [[南沢奈央]]、女優
* 1990年 - [[脇沢佳奈]]、元女優
* [[1991年]] - [[武田梨奈]]、女優
* 1991年 - [[長谷川潤 (野球)|長谷川潤]]、元プロ野球選手
* [[1992年]] - [[ダフネ・シパーズ]]、陸上競技選手
* 1992年 - [[中島彰吾]]、元プロ野球選手
* 1992年 - [[福田真未]]、プロゴルファー
* [[1993年]] - [[栞菜]]、歌手(元[[℃-ute]])
* 1993年 - [[カロリーナ・マリン]]、バドミントン選手
* [[1994年]] - [[日高里菜]]、女優、声優
* 1994年 - [[木浪聖也]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[田中恒成]]、プロボクサー
* 1995年 - [[田中樹]]、アイドル、俳優([[SixTONES]])
* [[1996年]] - [[西本銀二郎]]、俳優
* 1996年 - ホシ、アイドル([[SEVENTEEN]])
* 1996年 - [[石川夏海]]、YouTuber、元[[アキシブproject]]
* [[1997年]] - [[村山彩希]]、アイドル([[AKB48]])
* [[1998年]] - [[山﨑颯一郎]]、プロ野球選手
* 1998年 - [[井川翔]]、プロ野球選手
* 1998年 - [[タイシンガーブランドン大河]]、プロ野球選手
* [[2001年]] - [[武藤敦貴]]、プロ野球選手
* [[2002年]] - [[長﨑美柚]]、卓球選手
* 2002年 - [[古市尊]]、プロ野球選手
* [[2004年]] - [[夏目璃乃]]、ファッションモデル
* [[2006年]] - [[君野夢真]]、元[[子役]]
* 生年不明 - [[神村ひな]]、声優
* 生年不明 - [[カトウコトノ]]、漫画家
== 忌日 ==
<!-- [[Image:Robert_I_de_France.jpg|thumb|100px|西フランク王[[ロベール1世 (西フランク王)|]](865頃-923)戦死]] -->
[[Image:Shirahata shrine's Main hall, Fujisawa, Kanagawa.jpg|thumb|upright|[[源義経]](1159-1189)、[[藤原泰衡]]に襲われ自害。画像は源義経が祀られている[[白旗神社 (藤沢市)|白旗神社(藤沢市)]]]]
[[Image:DeathWatTyler.jpg|thumb|100px|[[ワット・タイラーの乱]]の指導者[[ワット・タイラー]](-1381)、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]に斬殺される]]
<!-- [[Image:Ary Scheffer - Francesca da Rimini en Paolo Malatesta aanschouwd door Dante en Vergilius 1854.jpg|thumb|240px|画家[[アリ・シェフェール]](1795-1858)没。画像は『ダンテとヴェルギリウスの前に現れるパウロとフランチェスカ』(1854)]] -->
<!-- [[Image:Asta_Norregaard_Kristian_Birkeland_1900.jpg|thumb|100px|[[オーロラ]]の研究者[[クリスチャン・ビルケランド]](1867-1917)、東京のホテルで[[睡眠薬]]を過剰摂取し没]] -->
[[Image:Birkeland.jpg|thumb|100px|[[オーロラ]]の研究者[[クリスチャン・ビルケランド]](1867-1917)、東京のホテルで[[睡眠薬]]を過剰摂取し没]]
[[Image:Kirchner_-_Selbstbildnis_als_Soldat.jpg|thumb|upright|[[表現主義|ドイツ表現派]]の画家[[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]](1880-1938)、拳銃で自殺。画像は『兵士としての自画像』(1915)]]
<!-- WANTED: 樺美智子 -->
<!-- [[Image:Alfred_Cortot_01.jpg|thumb|100px|ピアニスト、[[アルフレッド・コルトー]](1877-1962)]] -->
[[Image:Ella_Fitzgerald_1968.jpg|thumb|100px|[[ジャズ]]歌手、[[エラ・フィッツジェラルド]](1917-1996)]]
* [[923年]] - [[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール1世]]、[[西フランク王国|西フランク王]](* [[865年]]頃)
* [[991年]] - [[テオファヌ]]、[[神聖ローマ皇帝]][[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]の皇后(* [[960年]])
* [[1136年]]([[保延]]2年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[藤原家忠]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[1062年]])
* [[1189年]]([[文治]]5年[[4月30日 (旧暦)|閏4月30日]]) - [[源義経]](牛若丸)、[[武将]](* [[1159年]])
* [[1073年]]([[延久]]5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[後三条天皇]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Go-Sanjo Go-Sanjō emperor of Japan] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第71代[[天皇]](* [[1034年]])
* [[1341年]] - [[アンドロニコス3世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]](* [[1297年]])
* [[1381年]] - [[ワット・タイラー]]、[[ワット・タイラーの乱]]の指導者として知られる農夫
* [[1383年]] - [[ヨハネス6世カンタクゼノス]]、[[東ローマ帝国]]皇帝(* [[1295年]])
* [[1467年]] - [[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1396年]])
* [[1579年]]([[天正]]7年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[久武親信]]、[[長宗我部氏]]の家臣
* [[1768年]] - [[ジェームズ・ショート]]、[[天体望遠鏡]]製作者、[[天文学者]]、[[数学者]](* [[1710年]])
* [[1772年]] - [[ルイ=クロード・ダカン]]、[[作曲家]](* [[1694年]])
* [[1849年]] - [[ジェームズ・ポーク]]、第11代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1795年]])
* [[1858年]] - [[アリ・シェフェール]]、[[画家]](* [[1795年]])
* [[1888年]] - [[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]王、[[ドイツ皇帝]](* [[1831年]])
* [[1908年]] - [[川上眉山]]、[[小説家]](* [[1869年]])
* [[1911年]] - [[大鳥圭介]]、幕臣、[[元老院議官]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]](* [[1833年]])
* [[1915年]] - [[コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ]]、ロシアの皇族、[[劇作家]](* [[1858年]])
* [[1917年]] - [[クリスチャン・ビルケランド]]、[[物理学者]](* [[1867年]])
* [[1928年]] - [[梅ヶ谷藤太郎 (初代)]]、[[大相撲]]第15代[[横綱]](* [[1845年]])
* [[1931年]] - [[平林初之輔]]、[[作家]](* [[1892年]])
* [[1934年]] - [[アルフレッド・ブリュノー]]、作曲家(* [[1857年]])
* [[1938年]] - [[エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー]]、[[画家]](* [[1880年]])
* [[1959年]] - [[カジミエシュ・バイン]]、[[エスペラント]]運動家(* [[1872年]])
* 1959年 - [[助川良平]]、[[政治家]](* [[1921年]])
* [[1960年]] - [[樺美智子]]、[[日本の新左翼]]運動家(* [[1937年]])
* [[1962年]] - [[アルフレッド・コルトー]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]](* [[1877年]])
* [[1965年]] - [[大賀一郎]]、[[植物学|植物学者]](* [[1883年]])
* [[1968年]] - [[サム・クロフォード]]、[[プロ野球選手]](* [[1880年]])
* 1968年 - 3代目[[林家染丸]]、[[落語家]](* [[1906年]])
* 1968年 - [[ウェス・モンゴメリー]]、[[ジャズ]][[ギタリスト]](* [[1923年]])
* [[1971年]] - [[ウェンデル・スタンリー]]、[[生化学|生化学者]](* [[1904年]])
* [[1974年]] - [[窪川鶴次郎]]、[[文芸評論家]](* [[1903年]])
* [[1982年]] - [[久松保夫]]、[[俳優]]、[[声優]](* [[1919年]])
* [[1984年]] - [[メレディス・ウィルソン]]、作曲家(* [[1902年]])
* 1984年 - [[山田潔]]、[[プロ野球選手]](* [[1921年]])
* 1984年 - [[竹山道雄]]、[[評論家]]、[[ドイツ文学者]](* [[1903年]])
* 1984年 - [[内田良平 (俳優)|内田良平]]、[[俳優]](* [[1924年]])
* [[1986年]] - [[松田権六]]、[[漆工|漆芸家]](* [[1896年]])
* [[1989年]] - [[ジュディ・ジョンソン]]、野球選手(* [[1900年]])
* [[1991年]] - [[アーサー・ルイス]]、[[経済学者]](* [[1915年]])
* 1991年 - [[虫明亜呂無]]、[[作家]]、評論家(* [[1923年]])
* 1991年 - [[ハッピー・チャンドラー]]、MLB[[コミッショナー]](* [[1898年]])
* [[1992年]] - [[今西錦司]]、生態学者、人類学者(* [[1902年]])
* [[1993年]] - [[ジョン・コナリー]]、政治家、[[テキサス州]]知事、第61代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1917年]])
* 1993年 - [[沖克己]]、プロ野球選手、[[審判員 (野球)|審判員]](* [[1918年]])
* 1993年 - [[ジェームス・ハント]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1947年]])
* [[1995年]] - [[ジョン・アタナソフ]]、[[アタナソフ&ベリー・コンピュータ]]の開発者(* [[1903年]])
* [[1996年]] - [[エラ・フィッツジェラルド]]、[[ジャズ]]歌手(* [[1917年]])
* 1996年 - [[ディック・マードック]]、[[プロレスラー]](* [[1946年]])
* [[2000年]] - [[松鶴家千代若]]、夫婦漫才コンビ(* [[1908年]])
* [[2002年]] - [[室田日出男]]、俳優(* [[1937年]])
* [[2003年]] - [[ヒューム・クローニン]]、俳優(* [[1911年]])
* 2003年 - [[高山登久太郎]]、[[暴力団]][[会津小鉄会]]第4代会長(* [[1928年]])
* [[2004年]] - [[佐藤照子]]、教育者(* [[1939年]])
* [[2006年]] - [[レーモン・ドゥヴォス]]、道化師(* [[1922年]])
* [[2007年]] - [[白鳥映雪]]、[[日本画家]](* [[1912年]])
* 2007年 - [[ウーゴ・コーロ]]、[[プロボクサー]](* [[1953年]])
* [[2008年]] - [[岸由一郎]]、[[学芸員]]、交通史研究家(* [[1972年]]) ※死亡確認日。死亡は6月14日の可能性あり。
* [[2009年]] - [[テッド・タナベ]]、[[リングアナウンサー]]兼[[レフェリー (プロレス)|レフェリー]](* [[1962年]])
* [[2010年]] - [[河島正]]、[[漫画家]]、[[漫画原作者]](* [[1969年]])
* [[2012年]] - [[伊藤エミ]]、歌手([[ザ・ピーナッツ]])(* [[1941年]])
* [[2013年]] - [[酒井田柿右衛門 (14代目)|14代目酒井田柿右衛門]]、[[陶芸家]](* [[1934年]])
* [[2014年]] - [[ダニエル・キイス]]、[[作家]](* [[1927年]])
* [[2015年]] - [[切通猛]]、元プロ野球選手(* [[1944年]])
* [[2019年]] - [[フランコ・ゼフィレッリ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM6H7613M6HUHBI027.html|title=フランコ・ゼフィレッリさん死去 映画監督やオペラ演出|publisher=朝日新聞デジタル|date=2019-06-16|accessdate=2020-11-14}}</ref>、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[オペラ]][[演出家]]、[[政治家]](* [[1923年]])
* [[2022年]] - [[チョ・ミンホ (アイスホッケー)|チョ・ミンホ]]、プロアイスホッケー選手(+ [[1987年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Cacatua galerita -perching on branch -crest-8a-2c.jpg|thumb|240px|[[オウム]]と[[インコ]]の日]]
[[File:Kome Hyappyo Statues 20051120.jpg|thumb|240px|[[米百俵]]デー(新潟県長岡市千秋に建つ「米百俵の群像」)]]
* 国家救済の日({{AZE}})
*: [[1993年]]のこの日、[[ヘイダル・アリエフ]]が最高会議議長に選出されたことを記念。
* [[信用金庫]]の日({{JPN}})
*: 全国信用金庫協会が制定。[[1951年]]のこの日に[[信用金庫法]]が公布されたことを記念。
* [[暑中見舞い]]の日({{JPN}})
*: [[1950年]]のこの日、[[郵政省]]が初めて「[[夏のおたより郵便葉書|暑中見舞用郵便葉書]]」を発売した。
* [[オウム]]と[[インコ]]の日({{JPN}})
*: 鳥類を飼養する人たちへの啓蒙活動などを行う団体「TSUBASA」が制定。「オウム(06)インコ(15)」の語呂合せ。
* [[米百俵]]デー({{JPN}})
*: [[新潟県]][[長岡市]]が[[1996年]]に制定。[[1870年]]のこの日(旧暦・[[グレゴリオ暦]]では[[7月13日]])、[[越後長岡藩|長岡藩]]へ支藩三根山藩から贈られた米百俵の代金で「国漢学校」が開校したことを記念。
* [[千葉県民の日]]({{flagcountry|千葉県}})
*: 千葉県が[[1984年]]に制定。[[1873年]]のこの日、[[印旛県]]と木更津県が合併して千葉県が誕生したことを記念。
* 栃木県民の日({{flagcountry|栃木県}})
*: 栃木県が[[1986年]]に制定。1873年のこの日、栃木県と[[宇都宮県]]が合併して栃木県がほぼ現在の県域となったことを記念。
* [[北海道神宮]]例大祭({{JPN}} [[札幌市]])
* [[生姜]]の日({{JPN}})
*: 古来優れた調味料として生活に取り入れられてきた生姜は、[[奈良時代]]から神様への供物として献じられ、6月15日には感謝のお祭りも行われてきた。この生姜の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけの日にしようと、生姜の研究、開発を行う[[永谷園]]が制定<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=204|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0615|date=2011年6月}}
* [[1995年]] - 首都圏対凶悪犯罪特殊武装機動特捜班、警視庁通達第209号によって解体を決定。(映画『[[紅い眼鏡/The Red Spectacles]]』)
* [[コズミック・イラ|C.E]]71年 - [[コズミック・イラ#オーブ解放作戦|オーブ解放作戦]]発動。(アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』シリーズ)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1964年]]<ref group="注">以前の設定では[[1962年]]生まれ。</ref> - [[剛田武]](ジャイアン)、漫画・アニメ『[[ドラえもん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://post.tv-asahi.co.jp/post-187772/ |title=ついに本日放送!「ジャイアン誕生日SP」新曲MVに“3DCGジャイアン”登場|date=2022-06-11 |accessdate=2022-06-11|work=[[テレビ朝日]]}}</ref><ref>てんとう虫コミックス23巻収録「ハッピー・ジャイアン」での描写から。</ref>
* [[1975年]] - ソフィー・アムンセン、小説『[[ソフィーの世界]]』の主人公
* 1975年 - ヒルデ・ムーレル=クナーグ、小説『ソフィーの世界』に登場するキャラクター
* 1991年 - ジョーイ、アニメ「[[オギー&コックローチ]]」に登場するキャラクター
* [[22世紀|2130年]] - 将陵僚、アニメ『[[蒼穹のファフナー RIGHT OF LEFT]]』の主人公
* 生年不明 - 大和凛子、漫画・アニメ・実写映画『[[俺物語!!]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|han_meg_han|1008344855867584512}}</ref>
* 生年不明 - [[サザエさんの登場人物#磯野ワカメ|磯野ワカメ]]、アニメ『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - あろえ、漫画・アニメ『[[びんちょうタン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[王城ホワイトナイツ#大田原誠|大田原誠]]、漫画・アニメ『[[アイシールド21]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - よっちゃん、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[音の五人衆#君麻呂|君麻呂]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2005|page=79|isbn=4-08-873734-2}}</ref>
* 生年不明 - 福士ミチル、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/tenipuri_staff/status/1404454852462264325 |url=https://twitter.com/tenipuri_staff/status/1404454852462264325 |website=Twitter |access-date=2022-07-08 |language=ja}}</ref>
* 生年不明 - 小野寺小咲、漫画・アニメ『[[ニセコイ]]』に登場するキャラクター<ref>[https://twitter.com/nisekoi_k/status/610321602568306688 アニメ公式Twitter:2015年6月15日のつぶやき]</ref>
* 生年不明 - 片岡メグ、漫画・アニメ『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 穂刈篤、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1536726906766172161}}</ref>
* 生年不明 - 村上鋼、漫画・アニメ『ワールドトリガー』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1536726404238147584}}</ref>
* 生年不明 - 諏佐佳典、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>[https://twitter.com/kurobasanime/status/610100097959903232 アニメ公式Twitter:2015年6月15日のつぶやき]</ref>
* 生年不明 - 沢田家光、漫画・アニメ『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 環水郎、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|title=東京喰種トーキョーグール:re|volume=3巻|publisher=集英社|year=2015|isbn=978-4-08-890211-1}}</ref>
* 生年不明 - 木津千里、漫画・アニメ『[[さよなら絶望先生]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 間中要、漫画・アニメ『[[ダイヤのA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|diaace_official|610388345626058752}}</ref> >
* 生年不明 - 金持詩織、漫画『[[男子高校生を養いたいお姉さんの話]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 河合和己、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2008 |title = PASH!アニメーションファイル01「おおきく振りかぶって」 |page = 53 |publisher = [[主婦と生活社]] |isbn = 978-4-391-62643-8 }}</ref>
* 生年不明 - 宮河ひなた、漫画・アニメ『[[らき☆すた]]』『[[宮河家の空腹]]』に登場するキャラクター<ref> {{Cite journal|和書|date=2007-09|title=ら・ら・ら らき☆すた ファンブック|journal=[[月刊コンプエース]](付録)|page=10|publisher=[[角川書店]]}}</ref>
* 生年不明 - ヒロ、漫画・アニメ『[[ひだまりスケッチ]]』に発場するキャラクター
* 生年不明 - 新免那岐、漫画・アニメ『[[咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=新免 那岐(しんめん なぎ) |accessdate=2023-01-16 |publisher=小林立公式サイト |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 神沙夏明、漫画『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 神沙映月、漫画『ご注文はうさぎですか?』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 兆野綴、漫画『[[スロウスタート]]』に登場するキャラクター<ref>『[[まんがタイムきらら]]』2023年10月号、[[芳文社]]、31頁。</ref>
* 生年不明 - 日影美花、漫画『声がだせない少女は『彼女が優しすぎる』と思っている』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ヤン・ヤンヤン、ゲーム『[[ティンクルスタースプライツ]]』シリーズに登場するキャラクター
* 生年不明 - リュウ・ハヤブサ、ゲーム『[[忍者龍剣伝]]』シリーズに登場するキャラクター
* 生年不明 - ザッパ、ゲーム『[[ギルティギアシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.guiltygearx.com/ggxxacpr/character/ |title=Character ZAPPA ザッパ |access-date=2023-01-16 |publisher=ARC SYSTEM WORKS |work=『GUILTY GEAR XX ACCENT CORE PLUS R A』}}</ref>
* 生年不明 - NICKEY(ニッキー)、ゲーム『[[pop'n music]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - リアン・エル・アトワリア・クリエール、ゲーム『[[まじかる☆アンティーク]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - メープル、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m06.html |title=住民名簿 6月 メープル |access-date=2023-01-16 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - おりょう、ゲーム『[[機動新撰組 萌えよ剣]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 新田亜希、ゲーム・アニメ『[[Soul Link]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[ソウルキャリバーの登場人物#タリム|タリム]]、ゲーム『[[ソウルシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/list/ps2_soulcalibur3/character/talim.php |title=ソウルキャリバーIII | キャラクター | タリム | バンダイナムコゲームス公式サイト |publisher=[[バンダイナムコゲームス]] |accessdate=2014-06-13}}</ref>
* 生年不明 - 諏訪ののか、ゲーム『[[青空の見える丘]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.feng.jp/aozora/ |title=Character 諏訪 ののか |work=『青空の見える丘』 |publisher=[[feng]] |accessdate=2023-01-16}}</ref>
* 生年不明 - シルヴィア・ファン・ホッセン、ゲーム・アニメ『[[プリンセスラバー!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 朝里利奈、ゲーム『[[Canvas3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://fandc.co.jp/canvas/c3/character.html |title=朝里利奈 |access-date=2023-01-16 |publisher=FC01/HQ |work=『Canvas3 ~白銀のポートレート』}}</ref>
* 生年不明 - 上條元親、ゲーム『[[VitaminZ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.d3p.co.jp/vitamin_z/ |title=CHARACTER 上條元親 |access-date=2023-01-16 |publisher=HuneX D3 PUBLISHER |work=『VitaminZ』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#藤原肇|藤原肇]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20139 |title=藤原 肇(ふじわら はじめ) |access-date=2023-01-16 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 卯月歩鳥、ゲーム『[[さくら、咲きました。]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 峰山しおん 、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|875203161811595265}}</ref>
* 生年不明 - 南雲鉄虎、ゲーム『あんさんぶるスターズ!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/nagumo_tetora/ |title=南雲 鉄虎 |accessdate=2023-01-16 |publisher=Happy Elements |work=『あんさんぶるスターズ!!』}}</ref>
* 生年不明 - 月島美奈都、ゲーム『[[ときめきアイドル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.konami.com/games/tokimeki-idol/chara.php#chara/1 |title=月島 美奈都 |website=「ときめきアイドル」公式サイト |publisher=[[コナミデジタルエンタテインメント]] |accessdate=2018-06-15}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* [[コズミック・イラ|C.E]]71年 - [[機動戦士ガンダムSEED DESTINYの登場人物#マユ・アスカ|マユ・アスカ]]、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』に登場するキャラクター<ref group="注">第1話での描写から。上記オーブ解放作戦にて戦闘に巻き込まれ両親とともに死亡している。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|June 15|15 June}}
{{新暦365日|6|14|6|16|[[5月15日]]|[[7月15日]]|[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]|0615|6|15}}
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5,080 | 6月17日 | 6月17日(ろくがつじゅうななにち、ろくがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から168日目(閏年では169日目)にあたり、年末まであと197日ある。 | [
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'''6月17日'''(ろくがつじゅうななにち、ろくがつじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から168日目([[閏年]]では169日目)にあたり、年末まであと197日ある。
== できごと ==
[[Image:The_death_of_general_warren_at_the_battle_of_bunker_hill.jpg|thumb|[[アメリカ独立戦争]]、[[バンカーヒルの戦い]](1775)|180x180ピクセル]]
[[Image:Statue of Liberty Arrives in New York Harbor.jpg|thumb|[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]、ニューヨークに到着(1885)|180x180ピクセル]]
[[Image:Evictbonusarmy.jpg|thumb|アメリカ合衆国の復員軍人らによるデモ行進、[[ボーナスアーミー]](1932)|180x180ピクセル]]
[[Image:Bundesarchiv_Bild_175-14676%2C_Leipzig%2C_Reichsgericht%2C_russischer_Panzer.jpg|thumb|[[東ベルリン暴動]](1953)|180x180ピクセル]]
[[Image:WatergateFromAir.JPG|thumb|[[ウォーターゲート事件]]発覚(1972)。画像は舞台となったウォーターゲート・コンプレックス|180x180ピクセル]]
* [[362年]] - ローマ皇帝[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]が[[キリスト教徒]]を教師・高官などの職から追放。
* [[1565年]]([[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[三好三人衆]]らが[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]を襲撃し殺害([[永禄の変]])。
* [[1631年]] - [[ムガル帝国]]の第一皇妃[[ムムターズ・マハル]]が産褥死。夫の皇帝[[シャー・ジャハーン]]は彼女のために22年かけて[[タージ・マハル]]を建てる。
* [[1775年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[バンカーヒルの戦い]]。
* [[1789年]] - [[フランス革命]]: [[三部会]]から離脱した第三身分代表が[[憲法制定国民議会|国民議会]]の成立を宣言。
* [[1857年]]([[安政]]4年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[下田奉行]]とアメリカ総領事[[タウンゼント・ハリス]]が[[日米和親条約]]を修補する9か条の下田協約を締結。
* [[1858年]](安政5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[伊東玄朴]]ら[[江戸]]の蘭方医が、[[上野]]にお玉ヶ池[[種痘所]]を設立。
* [[1864年]]([[元治]]元年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[江戸幕府]]が[[神戸海軍操練所]]を開設。
* [[1876年]] - [[ブラックヒルズ戦争]]: [[ブラックヒルズ戦争#ローズバッドの戦い|ローズバッドの戦い]]。
* [[1885年]] - [[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]がフランスから[[ニューヨーク]]に届く<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/47856 |title=建てられた当時は銅色に輝いていた? 自由の女神がNYに届いた日|6月17日 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=Forbes JAPAN |date=17 Jun 2022}}</ref>。
* [[1885年]] - [[明治十八年の淀川洪水]]。[[淀川 (近畿)|淀川]]支流[[天野川 (大阪府)|天野川]]決壊、以後7月にかけて[[大阪府]]淀川流域に洪水被害。
* [[1892年]] - [[スイス]]で[[ブリエンツ・ロートホルン鉄道]]開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://grandtourofswitzerland.jp/cms/782/ |title=Oigawa Railway ― Brienz Rothorn Bahn (1977) |access-date=31 Jul 2023 |publisher=Embassy of Switzerland in Japan}}</ref>。
* [[1897年]] - [[神奈川県]]の船大工360名が同盟罷工。
* [[1901年]] - アメリカでカレッジボード(The College Board)による最初の大学入試試験が実施される<ref>{{Cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/sats/where/1901.html |title=The 1901 College Board (the first) |access-date=31 Jul 2023 |publisher=WGBH educational foundation}}</ref>。
* [[1918年]] - 帝国人造絹糸(現在の[[帝人]])設立。
* [[1930年]] - [[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ハーバート・フーヴァー]]が[[スムート・ホーリー法]]に署名し法律が成立。2万品目以上のアメリカへの輸入品に高い[[関税]]をかける。
* [[1932年]] - [[ボーナスアーミー]]。[[第一次世界大戦]]の復員軍人とその家族など約31,000人が支給の繰り上げ支払いを求めて、[[ワシントンD.C.]]へ行進。
* [[1933年]] - [[ゴーストップ事件]]。陸軍と警察の大規模な抗争に発展。
* 1933年 - [[阪神本線]]の神戸側を地下新線([[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]] - [[三宮駅]]間)に切り換え。岩屋駅 - 神戸(滝道)駅の地上線を廃止。
* [[1939年]] - [[フランス]]で[[ジュール=アンリ・デフルノー]]により殺人犯[[オイゲン・ヴァイトマン]]の[[ギロチン]]による処刑が行われる。フランスで史上最後の[[公開処刑]]となる。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]のフランスからの撤退作戦・[[エアリアル作戦]]が開始される。
* 1940年 - 第二次世界大戦: エアリアル作戦に使用されていた客船「[[ランカストリア (客船)|ランカストリア]]」が[[ドイツ国防軍]]の[[Ju 88 (航空機)|Ju 88]]爆撃機の攻撃を受け沈没。約4,000人が死亡。
* [[1944年]] - [[アイスランド]]が[[デンマーク]]から独立し、アイスランド共和国が成立。
* 1944年 - [[アメリカ海軍]]の大型巡洋艦「[[アラスカ (大型巡洋艦)|アラスカ]]」が就役。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: 日本本土空襲: [[鹿児島大空襲]]。
* [[1951年]] - {{仮リンク|1951年フランス議会総選挙|en|French legislative election, 1951|label=フランス総選挙}}でシャルル・ド・ゴールの[[フランス国民連合]]が第一党となる。
* [[1953年]] - [[東ベルリン暴動]]: 前日からの労働者の[[ストライキ]]が[[暴動]]化。[[ドイツ駐留ソ連軍]]が出動して鎮圧。
* [[1954年]] - [[中華人民共和国]]と[[イギリス]]が[[国交]]樹立<ref>{{Cite journal|和書|author=三宅康之 |date=2007 |url=https://doi.org/10.15088/00000862 |title=中国の「国交樹立外交」、1949~1957年 |journal=紀要. 地域研究・国際学編 |ISSN=13420992 |publisher=愛知県立大学 |volume=39 |doi=10.15088/00000862 |id={{CRID|1390853649552400896}} |access-date=2023-08-17 |page=174}}</ref>。
* [[1959年]] - [[首都高速道路公団]]が発足。
* [[1963年]] - [[アメリカ合衆国最高裁判所|アメリカ最高裁]]が8対1で公立学校で行われていた[[聖書]]の朗読や[[主の祈り]]が[[アメリカ合衆国憲法]]に抵触するとの判決を出す。 ([[:en:Abington School District v. Schempp]])
* 1963年 - 京阪神急行電鉄京都本線(現:[[阪急京都本線]])・[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]] - 河原町駅(現:[[京都河原町駅]])間が延伸開業。
* [[1967年]] - 中華人民共和国が初の[[水素爆弾|水爆]][[核実験|実験]]を実施。
* [[1971年]] - [[沖縄返還協定]]に調印。衛星中継によりワシントンと[[沖縄県|沖縄]]で同時に行われる。
* 1971年 - [[明治公園爆弾事件]]。37人の[[機動隊|機動隊員]]が重軽傷を負う。
* [[1972年]] - [[ウォーターゲート事件]]が発覚。
* [[1973年]] - [[根室半島沖地震#1973年と同型の巨大地震|根室半島沖地震]]([[マグニチュード|M]] 7.4)発生。
* [[1980年]] - [[釧路湿原]]が日本で初めて[[ラムサール条約]]の登録湿地になる。
* [[1981年]] - [[東京都]][[江東区]]で[[覚醒剤]]を常用した男が主婦や幼児ら4人を殺害([[深川通り魔殺人事件]])。
* [[1982年]] - 「教皇の銀行家」と呼ばれた[[イタリア]]の銀行家[[ロベルト・カルヴィ]]が、[[ロンドン]]のブラックフライアーズ橋の下で、首を吊った状態で発見される。
* [[1985年]] - [[柔道]][[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]金メダリストの[[山下泰裕]]が現役引退。
* [[1987年]] - [[ハマヒメドリ]]の亜種[[:en:Dusky Seaside Sparrow|Dusky Seaside Sparrow]]の最後の個体が死亡し[[絶滅]]。
* [[1991年]] - [[南アフリカ共和国]]議会で[[人口登録法]]廃止法案が可決。[[アパルトヘイト]]が終結。
* [[1994年]] - [[O・J・シンプソン事件]]: [[O・J・シンプソン]]が2時間のカーチェイスの末、元妻の殺害容疑で逮捕。
* [[1994年]] - [[国連砂漠化対処条約]]が[[パリ]]にて採択される。
* [[1997年]] - [[臓器移植法]]成立。
* [[2008年]] - [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の犯人、[[宮崎勤]]の[[日本における死刑|死刑]]を執行<ref>{{Cite web|和書|date=19 Jun 2008 |url=http://japanese.joins.com/article/476/101476.html |title=日本政府、凶悪犯罪に厳しく対応 |publisher=[[中央日報]] |accessdate=31 Jul 2023}}</ref> 。
* [[2015年]] - 日本で[[公職選挙法]]改正案が可決成立<ref name="nikkeiDGXLZO88207810Y5A610C1EA2000">{{Cite web|和書|date=18 Jun 2015 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO88207810Y5A610C1EA2000/ |title=18歳選挙権、高齢化に一石 16年夏参院選、有権者240万人増 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=31 Jul 2023}}</ref>。[[選挙権]]年齢が20歳以上から18歳以上へと引き下げられた。翌年[[6月19日]]施行<ref>{{Cite web|和書|date=20 Jun 2016 |url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00389528 |title=改正公選法が施行−選挙権年齢「18歳以上」に |publisher=[[日刊工業新聞]] |accessdate=31 Jul 2023}}</ref>。([[18歳選挙権]])
* [[2017年]] - [[西日本旅客鉄道]]の超豪華クルーズトレイン、「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]」が運行を開始<ref>{{Cite web|和書|date=18 Jun 2018 |url=http://www.epochtimes.jp/2017/06/27730.html |title=「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」が運行開始、初列車が大阪・京都を出発 |publisher=[[大紀元時報|大紀元・エポックタイムズ]] |accessdate=31 Jul 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - [[トヨタ自動車|トヨタ]]が[[ル・マン24時間レース]]を優勝。日本車としては1991年の[[マツダ]]以来、27年ぶりの制覇<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ、ついに悲願のル・マン24時間初優勝! 中嶋一貴が日本車+日本人での初制覇を達成 |url=https://www.as-web.jp/sports-car/380961 |website=AUTO SPORT web |date=18 Jun 2018 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=SAN-EI Co.,Ltd.}}</ref>。
*[[2021年]] - [[香港の警察|香港警察]]が、香港国家安全維持法(国安法)に違反したとして、[[蘋果日報 (香港)|蘋果日報]](アップルデイリー)の編集局長と幹部4人を逮捕した。また、編集局を家宅捜索し、コンピューターやハードディスクを押収し、同紙に関連する企業3社の資産を凍結した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/57536244 |title=香港市民、「アップルデイリー」を「爆買い」 編集幹部の逮捕受け大増刷 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=19 Jun 2021}}</ref>。
{{-}}
== 誕生日 ==
[[Image:Gal_nations_edward_i.jpg|thumb|276x276px|イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]](1239-1307)誕生]]
[[Image:Ca' Rezzonico - Interno della basilica di San Pietro a Roma - Giampaolo Pannini.jpg|thumb|180x180px|画家・建築家、[[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]](1691-1765)。画像は『[[サン・ピエトロ大聖堂]]』]]
[[Image:Pirata_Cofresi.jpg|thumb|248x248px|[[プエルトリコ]]の[[海賊]]、[[ロベルト・コフレシ]](1791-1825)]]
[[Image:William_Parsons%2C_3rd_Earl_of_Rosse.jpg|thumb|212x212px|天文学者、ロス卿[[ウィリアム・パーソンズ]](1800-1867)]]
[[Image:Charles Gounod (1890) by Nadar.jpg|thumb|264x264px|作曲家[[シャルル・グノー]](1818-1893)。{{audio|Caruso, Journet, Charles Gounod's Faust, 'O merveille! ... A moi les plaisirs'.ogg|歌劇『ファウスト』(1859)より「ああ、すばらしい!」を聴く}}]]
[[Image:Crookes_William.jpg|thumb|274x274px|化学者[[ウィリアム・クルックス]](1832-1919)。[[タリウム]]を発見]]
[[Image:Igor_Stravinsky_Essays.jpg|thumb|235x235px|作曲家[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]](1882-1971)]]
[[Image:Bundesarchiv_Bild_101I-139-1112-17%2C_Russland-Mitte%2C_Heinz_Guderian.jpg|thumb|180x180px|[[電撃作戦]]を発案した[[ドイツ第三帝国]]の軍人[[ハインツ・グデーリアン]](右; 1888-1954)]]
* [[1239年]] - [[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1307年]])
* [[1611年]]([[慶長]]16年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[保科正之]]、[[徳川秀忠]]の四男、[[会津藩|会津藩主]](+ [[1673年]])
* [[1628年]]([[寛永]]5年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[黒田光之]]、第3代[[福岡藩|福岡藩主]](+ [[1707年]])
* [[1682年]] - [[カール12世]](カルル12世)、[[スウェーデン]]王(+ [[1718年]])
* [[1687年]]([[貞享]]4年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[近衛家久]]、[[公卿]](+ [[1737年]])
* [[1691年]] - [[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]]、[[画家]]、[[建築家]](+ [[1765年]])
* [[1700年]]([[元禄]]13年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[井伊直惟]]、第9代[[彦根藩|彦根藩主]](+ [[1736年]])
* [[1785年]]([[天明]]13年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[松平親明]]、第8代[[杵築藩|杵築藩主]](+ [[1825年]])
* [[1791年]] - [[ロベルト・コフレシ]]、[[海賊]](+ [[1825年]])
* [[1800年]] - [[ウィリアム・パーソンズ (第3代ロス伯爵)|ウィリアム・パーソンズ]]、[[天文学者]](+ [[1867年]])
* [[1802年]] - [[ヘルマン・ゴルトシュミット]]、天文学者(+ [[1866年]])
* [[1811年]] - [[ヨン・シグルズソン]]、アイスランド独立運動の指導者
* [[1818年]] - [[シャルル・グノー]]、[[作曲家]](+ [[1893年]])
* [[1832年]] - [[ウィリアム・クルックス]]、[[化学者]]、[[物理学者]](+ [[1919年]])
* 1832年([[天保]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[牧野誠成]]、第9代[[丹後田辺藩|田辺藩主]](+ [[1869年]])
* [[1834年]](天保5年5月11日) - [[川路利良]]、[[警視庁]]大警視(+ [[1879年]])
* 1834年(天保5年5月11日) - [[九鬼隆備]]、第10代[[綾部藩|綾部藩主]]、[[子爵]](+ [[1897年]])
* [[1841年]] - [[アントニオ・パチノッティ]]、物理学者(+ [[1912年]])
* [[1844年]] - [[アルトヴィグ・ドランブール]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1908年]])
* [[1850年]] - [[ラファエル・コラン]]、画家(+ [[1916年]])
* [[1861年]] - [[ピート・ブラウニング]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1905年]])
* [[1870年]] - [[西田幾多郎]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1945年]])
* [[1878年]] - [[ポール・ペリオ]]、[[探検家]](+ 1945年)
* [[1880年]] - [[カール・ヴァン・ヴェクテン]]、[[写真家]](+ [[1964年]])
* [[1881年]] - [[トミー・バーンズ]]、[[プロボクサー]](+ [[1955年]])
* [[1882年]](ユリウス暦6月5日) - [[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]、作曲家(+ [[1971年]])
* 1882年 - [[アドルフ・フリードリヒ6世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|アドルフ・フリードリヒ6世]]、[[メクレンブルク=シュトレーリッツ]]大公(+ [[1918年]])
* [[1888年]] - [[ハインツ・グデーリアン]]、軍人(+ [[1954年]])
* [[1889年]] - [[大沼哲]]、作曲家(+ [[1944年]])
* [[1892年]] - [[三谷隆信]]、官僚、外交官、教育者(+[[1985年]])
* [[1898年]] - [[マウリッツ・エッシャー]]、[[画家]](+ [[1972年]])
* [[1905年]] - [[臼井吉見]]、編集者、評論家、小説家(+[[1987年]])
* [[1906年]] - [[トーマス・カウリング]]、[[天文学者]](+ [[1990年]])
* [[1910年]] - [[志賀暁子]]、女優(+[[1990年]])
* 1910年 - [[高橋竹山]]、[[津軽三味線]]奏者(+ [[1998年]])
* 1910年 - [[ハーバート・オーエン・リード]]、作曲家、指揮者(+ [[2014年]])
* [[1914年]] - [[鹿子木健日子]]、バスケットボール指導者(+[[1992年]])
* 1914年 - [[ジョン・ハーシー]]、[[ジャーナリスト]]、[[小説家]](+ [[1993年]])
* [[1918年]] - [[村松定孝]]、[[日本文学研究者|国文学者]](+ [[2007年]])
* [[1919年]] - [[ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ]]、作曲家(+ [[2006年]])
* [[1920年]] - [[原節子]]、[[俳優|女優]](+ [[2015年]])
* 1920年 - [[フランソワ・ジャコブ]]、[[生物学|生物学者]](+ [[2013年]])
* [[1924年]] - [[阪田清春]]、元プロ野球選手(+ [[1987年]])
* [[1925年]] - [[有川貞昌]]、[[特撮監督]](+ [[2005年]])
* [[1926年]] - [[加藤六月]]、[[政治家]](+ [[2006年]])
* [[1927年]] - [[ルチオ・フルチ]]、[[映画監督]](+ [[1996年]])
* [[1928年]] - [[白柳誠一]]、[[司祭]]([[枢機卿]])(+ [[2009年]])
* [[1929年]] - [[チグラン・ワルタノビッチ・ペトロシアン]]、[[チェス]]の選手(+ [[1984年]])
* [[1933年]] - [[クリスチャン・フェラス]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1982年]])
* 1933年 - [[ジェームズ・シゲタ]]、[[歌手]]、[[俳優]](+ [[2014年]])
* 1933年 - [[魚住純子]]、女優(+ [[2015年]])
* 1933年 - [[山田清三郎 (野球)|山田清三郎]]、元プロ野球選手 (+ [[2023年]])
* [[1936年]] - [[ケン・ローチ]]、映画監督
* [[1939年]] - [[三井康壽]]、官僚
* 1939年 - [[加藤紘一]]、政治家(+ [[2016年]])
* 1939年 - [[クシシュトフ・ザヌッシ]]、映画監督
* [[1940年]] - [[ジョージ・アカロフ]]、[[経済学者]]
* 1940年 - [[高木喬]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* [[1941年]] - [[長沢純]]、実業家、タレント(元[[スリーファンキーズ]])
* [[1942年]] - [[佐護彰]]、実業家
* 1942年 - [[篠田荘平]]、元プロ野球選手(+ [[2004年]])
* 1942年 - [[モハメド・エルバラダイ]]、元[[国際原子力機関]]事務局長
* [[1943年]] - [[バリー・マニロウ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* 1943年 - [[ニュート・ギングリッチ]]、元アメリカ合衆国下院議長
* [[1944年]] - [[田中調]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[エディ・メルクス]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手
* 1945年 - [[ケン・リヴィングストン]]、政治家、初代[[ロンドン]]市長
* 1945年 - [[金井克子]]、[[バレエ]]ダンサー、[[歌手]]
* 1945年 - [[雨宮捷年]]、元プロ野球選手
* [[1946年]] - [[岩阪恵子]]、小説家
* 1947年 - [[奈良橋陽子]]、[[作詞家]]
* 1947年 - [[水谷公生]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]
* 1947年 - [[和田正道]]、元[[調教師]]
* 1947年 - 今くるよ、[[漫才師]]([[今いくよ・くるよ]])
* [[1948年]] - [[三津原博]]、実業家、薬剤師
* 1948年 - [[ショー・コスギ]]、俳優
* 1948年 - [[デーブ・コンセプシオン]]、元プロ野球選手
* 1948年 - [[深沢修一]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[山本鈴美香]]、[[漫画家]]
* 1949年 - [[妹尾隆一郎]]、[[ハーモニカ|ブルースハープ]]奏者 (+ [[2017年]])
* [[1950年]] - [[豊留悦男]]、政治家
* 1950年 - [[緒方修]]、元プロ野球選手
* 1950年 - [[山路芳久]]、[[テノール]]歌手(+ [[1988年]])
* [[1954年]] - [[楠見尚己]]、[[声優]]、俳優
* [[1955年]] - [[高杉正彦]]、[[プロレスラー]]
* 1955年 - [[ジョー・シャボニュー]]、元プロ野球選手
* 1956年 - [[浜名敏幸]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[中原理恵]]、女優
* 1958年 - [[ジェロ・ビアフラ]]、ミュージシャン
* [[1959年]] - [[山崎徹]]、実業家
* 1959年 - [[矢尾一樹]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20191006131150/https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E7%9F%A2%E5%B0%BE%E4%B8%80%E6%A8%B9/ |title=矢尾一樹 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |work=goo 人名辞典}}</ref><ref>{{Cite book|和書|year=2004|title=日本音声製作者名鑑2004|volume=Vol.1|page=112|publisher=[[小学館]]|ISBN=978-4-09-526301-4}}</ref>、声優
* [[1960年]] - [[内海英華]]、三味線奏者、落語家
* 1960年 - [[伊藤伸平]]、漫画家
* [[1961年]] - [[山寺宏一]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=M93-3481 |title=山寺宏一 |work=日本タレント名鑑 |publisher=[[VIPタイムズ社]] |accessdate=31 Jul 2023}}</ref>、声優、俳優
* 1961年 - [[ミッキー・ブラントリー]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[青木秀夫 (野球)|青木秀夫]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[ドリアン助川]]、[[ボーカリスト]]、[[作家]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1962年 - [[マイケル・モンロー]]、[[歌手]]([[ハノイ・ロックス]])
* [[1963年]] - [[松本侑子]]、小説家
* [[1964年]] - [[ミヒャエル・グロス]]、[[水泳]]選手
* [[1965年]] - [[高橋靖]]、政治家
* 1965年 - [[名越稔洋]]、[[ゲームクリエイター]]
* 1965年 - [[満田拓也]]、漫画家
* 1965年 - [[ダン・ジャンセン]]、[[スピードスケート]]選手
* [[1966年]] - [[セドリック・カーン]]、映画監督
* 1966年 - [[ショーン・エイブナー]]、元プロ野球選手
* [[1967年]] - [[西尾拓美]]、[[コック (職業)|料理人]]、元タレント
* 1967年 - [[大島公一]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[佐野まり]]、[[シンガーソングライター]]、チャランゴ奏者
* 1968年 - [[財前恵一]]、サッカー指導者、元サッカー選手
* 1968年 - [[鈴木みのる]]、[[プロレスラー]]
* 1968年 - [[原井和也]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[入江秀忠]]、[[総合格闘家]]
* 1969年 - [[ヴィクトール・ペトレンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1970年]] - [[早川英樹]]、実業家
* 1970年 - [[古河有一]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[長谷川咲恵]]、元プロレスラー
* [[1971年]] - [[大田祐樹]]、アナウンサー
* [[1972年]] - [[川中子雅人]]、声優
* [[1973年]] - [[尾崎準]]、声優
* 1973年 - [[中井多賀宏]]、詩人、社会活動家
* 1973年 - [[菊池利三]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者
* 1973年 - [[山田博士]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[リアム・カイル・サリヴァン]]、[[コメディアン]]
* 1973年 - [[リーンダー・パエス]]、[[テニス選手一覧 (男子)|テニス選手]]
* [[1974年]] - [[白井博幸]]、元サッカー選手
* 1974年 - [[小倉理恵]]、アナウンサー
* 1974年 - [[大野幹代]]、歌手、[[アイドル]]、[[タレント]](元[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]])
* [[1975年]] - [[ILMARI]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]]([[RIP SLYME]])
* 1975年 - [[城彰二]]、元サッカー選手
* 1975年 - [[田中由基]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[吉村洋文]]、政治家、弁護士、[[大阪府知事]]
* 1975年 - [[ファン・カルロス・バレロン]]、サッカー選手
* [[1976年]] - [[山口雅史]]、実況アナウンサー、リポーター
* 1976年 - [[勝村周一朗]]、総合格闘家
* 1976年 - [[高橋和]]、将棋棋士
* [[1977年]] - [[柳沢正和]]、実業家
* 1977年 - [[中村公平]]、俳優、演出家
* 1977年 - [[坂本真]]、俳優
* 1977年 - [[的場寛一]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[アンドレイ・シモノフ]]、総合格闘家
* [[1978年]] - [[イザベル・ドロベル]]、フィギュアスケート選手
* 1978年 - [[麻生久美子]]、女優
* 1978年 - [[内柴正人]]、元[[柔道]]選手
* 1978年 - [[島田朋尚]]、声優
* [[1979年]] - [[中澤達也]]、俳優、格闘家
* [[1980年]] - [[ヴィーナス・ウィリアムズ]]、[[テニス]]選手
* 1980年 - [[川井雄太]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[中瀬奏]]、元アイドル、タレント
* 1980年 - [[柏原麻実]]、漫画家、イラストレーター
* 1980年 - [[KIMERU]]、歌手
* [[1981年]] - [[西脇万里子]]、元バレーボール選手
* 1981年 - [[琴禮巨樹]]、元大相撲力士
* [[1982年]] - [[西川雅人]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[兼松由香]]、ラグビーユニオン選手
* [[1983年]] - [[二宮和也]]、[[タレント]]、俳優、歌手([[嵐 (グループ)|嵐]])
* 1983年 - [[風間俊介]]、タレント、俳優
* 1983年 - [[リー・ライアン]]、ミュージシャン([[ブルー (ボーカルグループ)|ブルー]])
* 1983年 - [[橋本歩]]、[[陸上競技]]選手
* 1983年 - [[デービッド・ポーリー]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[石川綾子]]、[[ヴァイオリニスト]]
* 1984年 - [[丹黒香奈子]]、フリーアナウンサー
* 1984年 - [[小山田壮平]]、ミュージシャン
* [[1985年]] - [[五関晃一]]、アイドル([[A.B.C-Z]])
* 1985年 - [[露木麻土香]]、ラジオパーソナリティ
* 1985年 - [[マルコス・バグダティス]]、テニス選手
* [[1986年]] - [[アルフレド・デスパイネ]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[椎名鯛造]]、俳優
* [[1987年]] - [[辻希美|{{JIS90フォント|辻}}希美]]、歌手、タレント(元[[モーニング娘。]]、元[[W (ハロー!プロジェクト)|W]])
* 1987年 - [[津田朱里]]、歌手
* 1987年 - [[ケンドリック・ラマー]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]
* [[1988年]] - [[岩田正太]]、サッカー選手
* 1988年 - [[馬場徹]]、[[俳優]]
* [[1989年]] - [[大橋健典]]、元プロボクサー
* [[1990年]] - [[中村悠平]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[アンドリュー・チェイフィン]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[アラン・ジャゴエフ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ジョーダン・ヘンダーソン]]、サッカー選手
* 1990年 - [[アブドゥル・ナザ・アルハサン]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[菊池雄星]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[大瀬良大地]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[梅野隆太郎]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[ティム・コレト]]、フィギュアスケート選手
* 1991年 - [[波瑠]]、女優
* [[1992年]] - [[雨宮悠香]]、タレント
* 1992年 - 山下大車輪、お笑いタレント([[ぶたマンモス]])
* 1992年 - [[山口竜之介]]、声優
* 1992年 - [[加部未蘭]]、フットサル選手、元サッカー選手
* 1992年 - [[神崎紗衣]]、元タレント
* [[1993年]] - [[野田愛実]]、歌手
* 1993年 - [[相葉香凛]]、元女優、モデル
* [[1994年]] - [[白井那奈]]、元タレント
* 1994年 - [[春瀬なつみ]]、声優
* 1994年 - [[岡山天音]]、俳優
* 1994年 - [[雪平莉左]]、グラビアアイドル
* 1994年 - [[高山奈々]]、気象キャスター
* 1994年 - [[アマリ・クーパー]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* 1994年 - [[アレックス・ラウター]]、プロアイスホッケー選手
* [[1995年]] - [[森川葵]]、タレント、ファッションモデル、女優
* 1995年 - [[塩見彩]]、[[AV女優]]
* [[1996年]] - [[上野一舞]]、女優、声優
* [[1997年]] - [[橋本耀]]、元女優、元アイドル([[AKB48]])
* [[1998年]] - 武部柚那、ボーカル、[[ダンサー|パフォーマー]](元[[E-girls]])
* 1998年 - [[高柳光希]]、[[TBSのアナウンサー一覧|TBSアナウンサー]]
* [[1999年]] - [[シェーン・バズ]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[金城妃呂]]、元女子プロ野球選手
* [[2000年]] - [[増田陸]]、プロ野球選手
* 2000年 - [[佐藤祐羅]]、グラビアアイドル、女優
* [[2002年]] - [[由良ゆら]]、グラビアアイドル
* [[2003年]] - [[千葉寛汰]]、サッカー選手
* [[2004年]] - [[鈴木福]]、俳優
* [[2005年]] - [[中山楓奈]]、[[スケートボーダー]]
* [[2007年]] - [[河村果歩]]、アイドル、ファッションモデル([[SUPER☆GiRLS]])
* 生年不明 - [[仲村佳樹]]、[[漫画家]]
* 生年不明 - [[杉原涼子]]、漫画家
* 生年不明 - [[大和八重子]]、漫画家
* 生年不明 - [[藤田まり子]]、[[アニメーター]]
* 生年不明 - [[北村謙次]]、声優
* 生年不明 - [[幸本たつと]]、声優
* 生年不明 - [[槇原千夏]]、声優
* 生年不明 - [[中村颯希]]、ライトノベル作家
== 忌日 ==
[[Image:Sakanoue_Tamuramaro.jpg|thumb|200x200px|[[武官]][[坂上田村麻呂]](758-811)没]]
[[Image:Boles%C5%82aw_Chrobry.PNG|thumb|226x226px|「勇敢王」[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](967?-1025)没。死の直前にポーランド王となった]]
[[Image:Ashikaga_yoshiteru2.jpg|thumb|208x208px|[[室町幕府]]第13代将軍[[足利義輝]](1536-1565)、[[永禄の変]]で討死。]]
[[Image:Mohammad_Khan_Qajar.jpg|thumb|236x236px|[[カージャール朝]]初代皇帝[[アーガー・モハンマド・シャー]](1742-1797)暗殺される]]
[[Image:Roberto_Calvi.jpg|thumb|207x207px|[[イタリア]]の銀行家[[ロベルト・カルヴィ]](1920-1982)]]
* [[811年]]([[弘仁]]2年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[坂上田村麻呂]]、[[征夷大将軍]](* [[758年]])
* [[850年]]([[嘉祥]]3年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[橘嘉智子]]、[[嵯峨天皇]]の皇后(* [[786年]])
* [[1025年]] - [[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[967年]]?)
* [[1564年]]([[永禄]]7年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - [[安宅冬康]]、[[戦国武将]]、[[三好長慶]]の弟(* [[1528年]])
* [[1565年]]([[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[足利義輝]]、[[室町幕府]]13代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1536年]])
* [[1631年]]([[寛永]]8年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[埋忠明寿]]、[[刀工]](* [[1558年]])
* 1631年 - [[ムムターズ・マハル]]、[[ムガル帝国|ムガル皇帝]][[シャー・ジャハーン]]の皇后(* [[1595年]])
* [[1696年]] - [[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]、ポーランド王(* [[1629年]])
* [[1775年]] - [[ジョン・ピトケアン]]、[[イギリス海兵隊]][[少佐]](* [[1722年]])
* 1775年 - [[ジョセフ・ウォーレン]]、[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立]]の[[積極行動主義|運動家]](* [[1741年]])
* [[1797年]] - [[アーガー・モハンマド・シャー]]、[[ペルシャ]]の[[シャー]](* [[1742年]])
* [[1806年]] - [[ヘンリー・ホランド (建築家)|ヘンリー・ホランド]]、[[建築家]](* [[1745年]])
* [[1817年]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[古賀精里]]、[[儒学者]](* [[1750年]])
* [[1839年]] - [[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (インド総督)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]、[[インドの総督|インド総督]](* [[1774年]])
* [[1866年]] - [[ルイス・カス]]、第22代[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1782年]])
* [[1887年]] - [[ヒューゴ・ビルイェル]]、[[画家]](* [[1854年]])
* [[1898年]] - [[エドワード・バーン=ジョーンズ]]、[[美術家]](* [[1833年]])
* [[1901年]] - [[コルネリウス・グルリット]]、[[作曲家]](* [[1820年]])
* [[1904年]] - [[ニコライ・ボブリコフ]]、[[フィンランド大公国|フィンランド総督]](* [[1839年]])
* 1904年 - [[キッド・カーリー]]、[[ガンマン]]、[[アウトロー]](* [[1865年]])
* [[1932年]] - [[三升家紋右衛門]]、[[落語家]](* [[1880年]])
* [[1939年]] - [[酒井忠克]]、政治家(* [[1883年]])
* [[1940年]] - [[アーサー・ハーデン]]、[[化学者]](* [[1865年]])
* [[1944年]] - [[俵孫一]]、元[[商工大臣]](* [[1869年]])
* [[1956年]] - [[ヤン・イングル]]、[[チェコスロバキア]]亡命政府国防相(* [[1894年]])
* [[1957年]] - [[ドロシー・リチャードソン]]、[[小説家]](* [[1882年]])
* [[1965年]] - [[宮崎要]]、元[[プロ野球選手]](* [[1916年]])
* [[1968年]] - [[ホセ・ナサシ]]、[[サッカー選手]](* [[1901年]])
* 1968年 - [[アドルフ・ムーロン・カッサンドル]]、[[グラフィックデザイナー]](* [[1901年]])
* [[1979年]] - [[ダフィー・ルイス]]、元プロ野球選手(* [[1888年]])
* [[1982年]] - [[ロベルト・カルヴィ]]、[[銀行|銀行家]](* [[1920年]])
* [[1983年]] - [[ピーター・メニン]]、作曲家(* [[1923年]])
* [[1984年]] - [[中川信夫]]、[[映画監督]](* [[1905年]])
* [[1985年]] - [[加藤泰]]、映画監督(* [[1916年]])
* 1985年 - [[谷口雅春]]、[[宗教家]](* [[1893年]])
* [[1987年]] - [[ディック・ハウザー]]、元プロ野球選手(* [[1936年]])
* 1987年 - [[高田博厚]]、[[彫刻家]](* [[1900年]])
* [[1988年]] - [[西村省一郎]]、元プロ野球選手(* [[1941年]])
* [[1989年]] - [[平澤興]]、[[医学者]]、[[京都大学]]第16代総長(* [[1900年]])
* [[1990年]] - [[出門英]]、歌手([[ヒデとロザンナ]])、[[俳優]](* [[1942年]])
* [[1991年]] - [[永井智雄]]、俳優(* [[1914年]])
* [[1994年]] - [[村山リウ]]、[[評論家]](* [[1903年]])
* [[1996年]] - [[トーマス・クーン]]、[[科学哲学|科学哲学者]](* [[1922年]])
* 1996年 - [[安藤元博]]、元プロ野球選手(* [[1939年]])
* [[2001年]] - [[ドナルド・クラム]]、化学者(* [[1919年]])
* 2001年 - [[金井大]]、俳優(* [[1927年]])
* 2001年 - [[青山正明]]、編集者、ライター(* [[1960年]])
* [[2002年]] - [[ドブリ・ジュロフ]]、軍人(* [[1916年]])
* 2002年 - [[フリッツ・ヴァルター]]、サッカー選手(* [[1920年]])
* [[2003年]] - [[ポール・ハースト]]、[[社会学者]](* [[1947年]])
* 2003年 - [[山本廉]]、俳優(* [[1930年]])
* [[2006年]] - [[宿澤広朗]]、元[[ラグビーユニオン]]選手、ラグビーユニオン監督(* [[1950年]])
* 2006年 - [[宮部昭夫]]、俳優、[[声優]](* [[1931年]])
* 2006年 - [[北村昌士]]、[[ミュージシャン]]、[[音楽評論家]]、[[編集者]](* [[1956年]])
* 2006年 - [[アブドゥル=ハリーム・サドゥラエフ]]、[[チェチェン・イチケリア共和国大統領|チェチェン共和国独立派政権大統領]](* [[1967年]])
* 2006年 - [[堀部秀郎]]、[[イラストレーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]](* [[1969年]])
* 2006年 - [[佐藤功]]、[[法学者]](* [[1915年]])
* [[2007年]] - [[樋笠一夫]]、元プロ野球選手(* [[1920年]])
* 2007年 - [[ジャンフランコ・フェレ]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1944年]])
* [[2008年]] - [[シド・チャリシー]]、女優、[[ダンサー]](* [[1921年]])
* 2008年 - [[宮崎勤]]、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の犯人(* [[1962年]])
* [[2009年]] - [[ラルフ・ダーレンドルフ]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[政治家]](* [[1929年]])
* [[2011年]] - [[藤井繁克]]、実業家、[[がまかつ]]創業者(* [[1926年]])
* 2011年 - [[森田斌]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/18/kiji/K20110618001038660.html |title=元大洋投手コーチの森田斌氏が白血病で死去 |website=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=31 Jul 2023 |date=18 Jun 2011}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1935年]])
* [[2015年]] - [[ジェラレアン・タリー]]<ref>{{Cite web|和書|title=世界最高齢の米国人女性が死去、19世紀生まれの116歳 |url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0OY31S20150618 |accessdate=31 Jul 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=19 Jun 2015}}</ref>、世界最長寿の女性(* [[1899年]])
* 2015年 - [[スュレイマン・デミレル]]、政治家、トルコ首相、大統領(* [[1924年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:ShrinkingLakeChad-1973-1997-EO.jpg|thumb|189x189px|[[砂漠化および干ばつと闘う世界デー]]]]
[[Image:Festival procession in Reykjavik.jpg|thumb|[[アイスランド]]の独立記念日|264x264ピクセル]]
* 三枝祭([[大神神社]]摂社の[[率川神社]]の例祭)({{JPN}})
*: [[飛鳥時代]]から続く日本最古のお祭りの1つ。ゆりまつりとも呼ばれ、本社である大神神社で行われる鎮花祭と共に、疫病を鎮めることを祈る。三輪山に咲くゆりの花で飾った酒樽で、お酒を神前に供えた後、4人の巫女が三枝のゆりを手に持ち、神楽舞を奉納する。また、午後には奈良市内を巡行する七媛女(ななおとめ)・ゆり姫・稚児行列も行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://narashikanko.or.jp/event/saikusamatsuri_isagawajinjya/ |title=笹ゆりの花をお供えする「ゆりまつり」。三枝祭/率川神社 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=公益社団法人 奈良市観光協会}}</ref>。
* 興教大師降誕会({{JPN}})
*: 嘉保2年6月17日([[1095年]][[7月21日]])、[[真言宗]]中興の祖にして[[新義真言宗]]始祖でもある興教大師[[覚鑁]]が、肥前国藤津庄(現:[[佐賀県]][[鹿島市]]納富分)で生誕された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.buzan.or.jp/shingonshu_buzan/kogyodaishi/ |title=興教大師 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[真言宗豊山派]]}}</ref>。これを記念し、興教大師ゆかりの寺院で降誕会が催される。
* 身延山開闢の日({{JPN}})
*: 文永11年(1274年)5月、鎌倉で[[日蓮]]の辻説法を聞いて深く感銘した地頭の[[南部実長]]は、日蓮を波木井郷へと招いた。[[5月17日]]、日蓮は身延山に入山し、6月17日より鷹取山のふもとの西谷に構えた草庵を住処とした。このことから、6月17日は身延山開闢(かいびゃく)の日とされ、[[久遠寺]]では毎年法要が営まれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kuonji.jp/history/ |title=久遠寺の歴史 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=日蓮宗総本山 身延山久遠寺}}</ref>。
* [[砂漠化および干ばつと闘う世界デー]]({{world}})
*: [[国際デー]]の一つ。[[1994年]]のこの日のに「国連砂漠化防止条約」が採択されたことを記念し、[[1995年]]の国連総会で制定された。
* 独立記念日({{ISL}})
*: [[1944年]]のこの日に[[デンマーク]]から独立。
* [[ドイツ統一の日]]({{FRG}})
*: [[1953年]]の[[東ベルリン暴動]]を記念(1990年の再統一以降は[[10月3日]]({{DEU}})。
* [[ゼムラ蜂起]]記念日({{SADR}})
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0617|date=Jul 2023}}
* [[2003年]] - 日本本土にバンパイアウィルスを保菌した無数の蚊が放たれ、日本が滅亡して吸血鬼の国になる。(『彼岸島 最後の47日間』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1968年]] - [[桐生一馬]]、ゲーム『[[龍が如く]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://ryu-ga-gotoku.com/one/cast.html |title=主要登場人物紹介 桐生一馬 |publisher=[[セガ]] |accessdate=31 Jul 2023 |work=『龍が如く』}}</ref>
* [[1992年]] - 鈴木ソラ、漫画『[[魔法遣いに大切なこと#夏のソラ|魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |author=山田典枝・よしづきくみち |year = 2008 |title = 魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~ |volume = 1巻 |page = 50 |publisher = [[角川書店]] |isbn = 978-4-04-715073-7 }}</ref>
* [[2002年]] - 神代フラウ(古郡こな)、ゲーム・アニメ『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams |page = 76 |publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |isbn = 978-4-04-886756-6 }}</ref>
* [[2038年]] - [[D.C. 〜ダ・カーポ〜シリーズの登場人物#『D.C.II』より攻略可能|朝倉音姫]]、ゲーム『[[D.C.II 〜ダ・カーポII〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/dc2ps/character/otome.html |title=キャラクター 朝倉 音姫 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[角川書店]]/[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.II P.S.~ダ・カーポII~プラスシチュエーション』}}</ref><ref>{{Cite book|和書|year=2008|title=D.C.II P.S. 〜ダ・カーポII〜 プラスシチュエーション公式ビジュアルガイド|page=16|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-707242-8}}</ref>
* 生年不明 - よしだけんた、絵本『ぼくのニセモノをつくるには』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=ヨシタケシンスケ|authorlink=ヨシタケシンスケ|title=ぼくのニセモノをつくるには|publisher=[[ブロンズ新社]]|year=2014|isbn=978-4-89309-591-6}}</ref>
* 生年不明 - 天角星ゴーレムのロック、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=79 |title=天角星(てんかくせい)ゴーレムのロック |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - トト、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Toh_Toh.html |title=トト |accessdate=31 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - ゲンゾウ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Genzo.html |title=ゲンゾウ |accessdate=31 Jul 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#白浜元次|白浜元次]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|year=2014|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書|page=30|publisher=[[小学館]]|series=[[少年サンデーコミックス]]|isbn=978-4-09-125016-2}}</ref>
* 生年不明 - 若菜四季、アニメ『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/member/ |title=メンバー紹介|若菜 四季 |access-date=31 Jul 2023 |publisher=プロジェクトラブライブ!スーパースター!! |work=『ラブライブ!スーパースター‼︎』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター SideM#神楽麗|神楽麗]]、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/40014 |title=神楽 麗(かぐら れい) |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]]|work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 香椎結衣、漫画・アニメ『[[はじめてのギャル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://hajimete-no-gal.jp/character/ |title=CHARACTER 香椎結衣 |publisher=植野メグル/[[KADOKAWA]]/「はじギャル」製作委員会 |work=『はじめてのギャル』 |accessdate=31 Jul 2023}}</ref>
* 生年不明 - グレイ、小説・漫画・アニメ『[[ロード・エルメロイII世の事件簿]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite |和書 |author = 三田誠 / 坂本みねぢ |title = ロード・エルメロイII世の事件簿 material |pages = 33 |date = 2020 |publisher = TYPE-MOON}}</ref>
* 生年不明 - 桧森誓子、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=桧森 誓子(ひもり ちかこ) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - 木村日菜、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=木村 日菜(きむら ひな) |access-date=31 Jul 2023 |publisher=[[小林立]] |work=『咲-Saki-』}}</ref>
* 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#匙元士郎|匙元士郎]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|1002757018363387906}}</ref>
* 生年不明 - アイスランド、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWERS ヘタリア2 |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=19 |author=[[日丸屋秀和]] |isbn=978-4-344-81514-8}}</ref>
*生年不明 - 雪船エリザ、ゲーム『[[アイ・アム・マジカミ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.magicami.net/character/8/ |title=雪船 エリザ |access-date=31 Jul 2023 |publisher=Studio MGCM |work=『アイ・アム・マジカミ』}}</ref>
*生年不明 - アリサ、ゲーム・アニメ『[[Shadowverse]]』および『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1669887588226990087}}</ref>
=== 忌日(フィクション) ===
* 没年不明 - 黒崎真咲、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人 |year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |pages = 51,261 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-04-886756-6 }}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|6|16|6|18|[[5月17日]]|[[7月17日]]|[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]|0617|6|17}}
* [[6月17日通り]]
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5,082 | 共有結合 | 共有結合(、英: covalent bond)は、原子間での電子対の共有をともなう化学結合である。結合は非常に強い。ほとんどの分子は共有結合によって形成される。また、共有結合によって形成される結晶が共有結合結晶である。配位結合も共有結合の一種である。
この結合は非金属元素間で生じる場合が多いが、金属錯体中の配位結合の場合など例外もある。
共有結合はσ結合性、π結合性、金属-金属結合性、アゴスティック相互作用、曲がった結合、三中心二電子結合を含む多くの種類の相互作用を含む。英語のcovalent bondという用語は1939年に遡る。接頭辞のco- は「共同」「共通」などを意味する。ゆえに、「co-valent bond」は本質的に、原子価結合法において議論されているような「原子価」(valence)を原子が共有していることを意味する。
H2分子中で、水素原子は共有結合を介して2つの電子を共有している。共有結合性は似た電気陰性度の原子間で最大となる。ゆえに、共有結合は必ずしも同種元素の原子の間だけに生じるわけではなく、電気陰性度が同程度であればよい。3つ以上の原子にわたる電子の共有を伴う共有結合は非局在化していると言われる。
結合に関する英語の「covalence」という用語は1919年にアーヴィング・ラングミュアが米国化学会誌に発表した『The Arrangement of Electrons in Atoms and Molecules』と題された論文で初めて使用された。
共有結合の着想は1919年の数年前のギルバート・N・ルイスに遡ることができる。ルイスは1916年に原子間の電子対の共有について記述した。ルイスは、外殻の価電子が原子記号の周りの点で表現される「ルイス式」を発表した。原子間に位置する電子の対は共有結合を表わす。複数の電子対は二重結合や三重結合といった多重結合を表わす。
ルイスは、原子が十分な共有結合を形成すると外殻が満たされる(閉じる)、と提唱した。ここに示しているメタンの概略図では、炭素原子は4の原子価を持ち、したがって、自分自身からの4電子と結合した水素原子からの4電子の計8電子に囲まれている(オクテット則)。それぞれの水素は1の原子価を持ち、2つの電子によって囲まれている(デュエット則)。電子の数は原子の量子論における満たされた殻に対応する。炭素原子の外殻は n=2殻であり、8電子を収容できる。しかし水素原子の外殻(唯一の殻)はn=1殻であり、2電子しか収容できない。
電子対が共有されるという考え方は共有結合に効果的な定性的描像を与えたものの、これらの結合の性質を理解し、単純な分子の構造および特性を予測するには量子力学の確立を待たねばならなかった。ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンは1927年に化学結合(水素分子)の量子力学的説明に初めて成功したことで高い評価を得ている。彼らの研究は原子価結合モデルに基いている。このモデルは、関与する原子の原子軌道の間に十分な重なりが存在する時に化学結合が形成されると想定する。
s軌道を除く原子軌道は特有の方向特性を持つため、異なる種類の共有結合がもたらされる。σ結合は最も強い共有結合であり、2つの異なる原子上の軌道の正面からの重なり合いによって形成される。単結合は通常σ結合である。π結合はσ結合より弱く、p(あるいはd)軌道間の側面からの重なり合いによって形成される。2つの任意の原子間の二重結合は1つのσ結合と1つのπ結合から成り、三重結合は1つのσ結合と2つのπ結合から成る。
共有結合は連結した原子の電気陰性度によっても影響され、これが結合の極性を決定する。等しい電気陰性度を持つ2つの原子は非極性共有結合を作る(例えばH-H)。電気陰性度に差がある場合、 極性共有結合が作られる(例えばH-Cl)。
一般に、π結合はσ結合より結合エンタルピーがやや低い。また、σ結合は結合軸に対して電子軌道が回転対称を持つため、立体配座が結合軸で自由回転できる。一方、π結合は回転対称を持たないため、結合軸で自由回転することが出来ず、立体配座は固定的となり立体異性体を生じることがある。
共有結合性物質の構造には、個別の分子、分子の構造、高分子構造、巨大な共有結合構造などいくつかの種類が存在する。個別の分子では原子間に強い結合力がはたらいているが、分子間の引力は無視できる程度である。この種の共有結合性物質は大抵気体(例えばHCl、SO2、CO2、CH4)である。分子の構造では弱い分子間引力が存在する。この種の共有結合性物質は(エタノールといった)低沸点液体や(ヨウ素、固体二酸化炭素といった)低融点固体である。高分子構造の中では多数の原子が共有結合で連結して鎖状構造を取っている。高分子構造の例は、ポリエチレンやナイロンといった合成高分子、タンパク質やでんぷんといった生体高分子である。ネットワーク共有結合構造(巨大な共有結合構造)は(グラファイトといった)シート状、あるいは(ダイヤモンドや水晶といった)3次元構造状に連結した多くの原子を含む。これらの物質は高い融点と沸点を有し、砕けやすく、高い電気抵抗率を持つ傾向がある。高い電気陰性度と3あるいは4つの電子対結合を形成する能力のある元素は、しばしば大きな高分子構造を形成する。
1あるいは3電子を持つ結合はラジカル種において見ることができる。1電子結合の最も単純な例は、水素分子イオン(H2)において見られる。1電子結合はしばしば2電子結合のおよそ半分の結合エネルギーを持ち、したがって「半結合」と呼ばれる。しかしながら、例外も存在する。二リチウムの場合は、2電子結合のLi2よりも1電子結合のLi2 の方が実際に結合は強い。この例外は混成と内殻効果の観点から説明することができる。
3電子結合の最も単純な例は、ヘリウム二量体カチオン(He2)において見ることができる。これは(2つではなく)1つの共有電子のみからなるため「半結合」と考えられる。分子軌道の観点では、3つ目の電子は反結合性軌道中にあり、その他2つの電子によって形成された結合の半分を打ち消している。3電子結合を含む分子のもう一つの例 は一酸化窒素(NO)である 。酸素分子(O2)も2つの3電子結合と1つの2電子結合を有していると見なすことができる。これが酸素原子の常磁性と2の形式結合次数の主要な原因である。二酸化塩素とその類似物質二酸化臭素と二酸化ヨウ素も3電子結合を含む。
奇数電子結合を持つ分子は大抵反応性が高い。これらの種類の結合は似た電気陰性度を持つ原子間でのみ安定である。
分子における電子配置を説明するために単一のルイス構造では不十分な状況があるため、複数の構造の重ね合わせが必要となる。重ね合わされるそれぞれの構造では、原子が共有結合を形成する相手がそれぞれ異っているため、非整数の結合次数が生じる。硝酸イオンは3つの等価な構造を持つこういった一例である。窒素原子とそれぞれの酸素原子間の結合は1つの構造では二重結合でその他2つでは単結合のため、それぞれのN-O相互作用についての平均結合次数は (2 + 1 + 1)/3 = 4/3である。
有機化学において、平面の環を持つ分子がヒュッケル則(π電子の数が4n +2; nは整数)に従う時、分子は追加の安定性と対称性を獲得する。原型的な芳香族化合物であるベンゼンでは、6つのπ結合性電子が存在する(n = 1, 4n + 2 = 6)。これら6つの電子は3つの非局在化π分子軌道を占有(分子軌道理論)、または線型結合した2つの共鳴構造における共役π結合を形成(原子価結合理論)し、仮想的な1,3,5-シクロヘキサトリエンよりも高い安定性を示す正六角形を作る。
複素環式芳香族ならびに置換ベンゼンの場合は、環の異なる部位間での電気陰性度の差が芳香環結合の化学的挙動を支配する。
四フッ化キセノンや六フッ化硫黄といった特定の分子は、オクテット則に従う厳密な共有結合によって可能な数よりも高い配位数を有する。これは分子軌道理論における三中心四電子結合(3c-4e)モデルならびに原子価結合理論におけるイオン性-共有結合性共鳴によって説明される。
三中心四電子結合(3c-4e)では、3つの原子が2つの電子を結合で共有する。この種の結合はジボランといった電子不足化合物で起こる。こういった結合のそれぞれは、ホウ素原子を互いに結び付ける電子対を含む。この結合はプロトン(水素原子核)が結合の中央に位置し、両側のホウ素原子と電子を共有したバナナ型をしている。特定のクラスター化合物では、いわゆる四中心二電子結合も仮定されている。
量子力学の発展後、化学結合の量子力学的描写を与える2つの基本理論、原子価結合 (VB) 理論と分子軌道 (MO) 理論が提唱された。より最近の量子力学的描写は、電子密度の状態への原子の寄与の観点で与えられる(密度汎関数理論)。
1927年、原子価結合理論が定式化された。原子価結合理論は、それぞれの原子軌道中の2つの価電子が2つの核を結び付けるように機能し、系のエネルギーを低下させる時に共有結合が形成される、と主張する。この理論を基に、化学者ライナス・ポーリングは1931年に化学の歴史上最も重要な論文の一つであると見なされている『On the Nature of the Chemical Bond』を発表した。ルイスの研究、ハイトラーとロンドンの原子価結合理論、自身の以前の研究を詳述したこの論文において、ポーリングは共有電子結合について6つの規則を提示した。そのうち最初の3つは既に一般的に知られていたものである。
ポーリングの後半の3つの規則は新しいものであった。
この論文に基づいた、ポーリングの1939年の教科書『On the Nature of the Chemical Bond』は現代化学の「バイブル」とも呼ばれるものとなった。この本は実験化学者が化学への量子論の影響を理解するための助けとなった。しかしながら、1959年の改訂版は分子軌道理論によってより良く理解できるように見える問題に適切に対処することに失敗した。分子軌道理論が大型デジタルコンピュータプログラムに実装され有用性を増した1960年代、1970年代に原子価結合理論の影響力は低下した。1980年代以降、原子価結合理論をコンピュータプログラムへと実装するより困難な問題が大部分解決され、原子価結合理論が復活を果たした。
分子軌道はフリードリッヒ・フントとロバート・S・マリケンによって1927年および1928年に初めて発表された。分子軌道に対する原子軌道の線形結合(LCAO)近似は1929年にジョン・レナード=ジョーンズによって発表された。原子軌道の線形結合(LCAO)は分子の構成原子間の結合の上に形成される分子軌道を推定するために使うことができる。原子軌道と同様に、電子の挙動を記述するシュレーディンガー方程式は分子軌道についても構築することができる。原子軌道の線形結合、あるいは原子波動関数の和および差は、分子のシュレーディンガー方程式の独立粒子近似に対応するハートリー=フォック方程式への近似解を与える。
原子軌道が相互作用する時、得られる分子軌道は、結合性、反結合性、非結合性の3種類のどれかである。
2つの理論は、分子の電子配置を作り上げる順序が異なっている。原子価結合理論では、原子の混成軌道が最初に埋められ、結合性電子対と孤立電子対の完全原子価配置が作られる。もしいくつかのそういった配置が存在するならば、これらの配置の重み付けされた重ね合わせが次に適用される。対照的に、分子軌道理論では、原子軌道の重み付けされた重ね合わせが最初に実行され、次に得られた分子軌道を増成原理によって電子で埋めていく。
どちらの理論も利点と用途を持つ。原子価結合理論は局在化した結合の分子波動関数を構築するため、結合エネルギーの計算と反応機構の理解のためにより適している。特に、原子価結合理論は等核二原子分子の個別の原子への解離を正しく予測するのに対して、単純な分子軌道理論は原子とイオンの混合状態への解離を予測する。分子の対称性に従う非局在化軌道を持つ分子軌道理論は、イオン化エネルギーの計算やスペクトルの吸収バンドの理解により適している。分子軌道は直交しているため、直交していない原子価結合軌道と比較してコンピュータによる計算の実現可能性と速度を大いに高める。
両方の理論によって生成された波動関数は一致せず、また実験による安定化エネルギーとはどちらも一致しないが、配置間相互作用によって補正することができる。これは、原子価結合共有結合性関数と全ての可能なイオン性配置を記述する関数とを混合することによって、あるいは分子軌道基底状態関数と非占有軌道を使った全ての可能な励起状態を記述する関数とを混合することによって行われる。単純な分子軌道手法はイオン性構造に重きを置き過ぎているのに対して、単純な原子価結合手法は軽んじ過ぎている。これは、分子軌道法が電子相関を無視しているのに対して、原子価結合法は過大評価していると説明することもできる。
現在これら2つの手法は相補的であると見なされており、それぞれが化学結合の問題を理解する上での独自の手掛かりとなっている。量子化学における現代の計算は大抵は原子価結合の手法ではなく分子軌道の手法から始まる(しかし最終的には分子軌道法から大きくそれる)。これは後者の手法がそれ自体優れているためではなく、単に分子軌道法の方が数値計算に適用しやすいためである。しかしながら、現在ではより良い原子価結合プログラムも利用できるようになっている。 | [
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"text": "共有結合(、英: covalent bond)は、原子間での電子対の共有をともなう化学結合である。結合は非常に強い。ほとんどの分子は共有結合によって形成される。また、共有結合によって形成される結晶が共有結合結晶である。配位結合も共有結合の一種である。",
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"text": "この結合は非金属元素間で生じる場合が多いが、金属錯体中の配位結合の場合など例外もある。",
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"text": "共有結合はσ結合性、π結合性、金属-金属結合性、アゴスティック相互作用、曲がった結合、三中心二電子結合を含む多くの種類の相互作用を含む。英語のcovalent bondという用語は1939年に遡る。接頭辞のco- は「共同」「共通」などを意味する。ゆえに、「co-valent bond」は本質的に、原子価結合法において議論されているような「原子価」(valence)を原子が共有していることを意味する。",
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"text": "H2分子中で、水素原子は共有結合を介して2つの電子を共有している。共有結合性は似た電気陰性度の原子間で最大となる。ゆえに、共有結合は必ずしも同種元素の原子の間だけに生じるわけではなく、電気陰性度が同程度であればよい。3つ以上の原子にわたる電子の共有を伴う共有結合は非局在化していると言われる。",
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"text": "結合に関する英語の「covalence」という用語は1919年にアーヴィング・ラングミュアが米国化学会誌に発表した『The Arrangement of Electrons in Atoms and Molecules』と題された論文で初めて使用された。",
"title": "歴史"
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"text": "共有結合の着想は1919年の数年前のギルバート・N・ルイスに遡ることができる。ルイスは1916年に原子間の電子対の共有について記述した。ルイスは、外殻の価電子が原子記号の周りの点で表現される「ルイス式」を発表した。原子間に位置する電子の対は共有結合を表わす。複数の電子対は二重結合や三重結合といった多重結合を表わす。",
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"text": "ルイスは、原子が十分な共有結合を形成すると外殻が満たされる(閉じる)、と提唱した。ここに示しているメタンの概略図では、炭素原子は4の原子価を持ち、したがって、自分自身からの4電子と結合した水素原子からの4電子の計8電子に囲まれている(オクテット則)。それぞれの水素は1の原子価を持ち、2つの電子によって囲まれている(デュエット則)。電子の数は原子の量子論における満たされた殻に対応する。炭素原子の外殻は n=2殻であり、8電子を収容できる。しかし水素原子の外殻(唯一の殻)はn=1殻であり、2電子しか収容できない。",
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"text": "電子対が共有されるという考え方は共有結合に効果的な定性的描像を与えたものの、これらの結合の性質を理解し、単純な分子の構造および特性を予測するには量子力学の確立を待たねばならなかった。ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンは1927年に化学結合(水素分子)の量子力学的説明に初めて成功したことで高い評価を得ている。彼らの研究は原子価結合モデルに基いている。このモデルは、関与する原子の原子軌道の間に十分な重なりが存在する時に化学結合が形成されると想定する。",
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"text": "s軌道を除く原子軌道は特有の方向特性を持つため、異なる種類の共有結合がもたらされる。σ結合は最も強い共有結合であり、2つの異なる原子上の軌道の正面からの重なり合いによって形成される。単結合は通常σ結合である。π結合はσ結合より弱く、p(あるいはd)軌道間の側面からの重なり合いによって形成される。2つの任意の原子間の二重結合は1つのσ結合と1つのπ結合から成り、三重結合は1つのσ結合と2つのπ結合から成る。",
"title": "共有結合の種類"
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"text": "共有結合は連結した原子の電気陰性度によっても影響され、これが結合の極性を決定する。等しい電気陰性度を持つ2つの原子は非極性共有結合を作る(例えばH-H)。電気陰性度に差がある場合、 極性共有結合が作られる(例えばH-Cl)。",
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"text": "一般に、π結合はσ結合より結合エンタルピーがやや低い。また、σ結合は結合軸に対して電子軌道が回転対称を持つため、立体配座が結合軸で自由回転できる。一方、π結合は回転対称を持たないため、結合軸で自由回転することが出来ず、立体配座は固定的となり立体異性体を生じることがある。",
"title": "共有結合の種類"
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"text": "共有結合性物質の構造には、個別の分子、分子の構造、高分子構造、巨大な共有結合構造などいくつかの種類が存在する。個別の分子では原子間に強い結合力がはたらいているが、分子間の引力は無視できる程度である。この種の共有結合性物質は大抵気体(例えばHCl、SO2、CO2、CH4)である。分子の構造では弱い分子間引力が存在する。この種の共有結合性物質は(エタノールといった)低沸点液体や(ヨウ素、固体二酸化炭素といった)低融点固体である。高分子構造の中では多数の原子が共有結合で連結して鎖状構造を取っている。高分子構造の例は、ポリエチレンやナイロンといった合成高分子、タンパク質やでんぷんといった生体高分子である。ネットワーク共有結合構造(巨大な共有結合構造)は(グラファイトといった)シート状、あるいは(ダイヤモンドや水晶といった)3次元構造状に連結した多くの原子を含む。これらの物質は高い融点と沸点を有し、砕けやすく、高い電気抵抗率を持つ傾向がある。高い電気陰性度と3あるいは4つの電子対結合を形成する能力のある元素は、しばしば大きな高分子構造を形成する。",
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"text": "1あるいは3電子を持つ結合はラジカル種において見ることができる。1電子結合の最も単純な例は、水素分子イオン(H2)において見られる。1電子結合はしばしば2電子結合のおよそ半分の結合エネルギーを持ち、したがって「半結合」と呼ばれる。しかしながら、例外も存在する。二リチウムの場合は、2電子結合のLi2よりも1電子結合のLi2 の方が実際に結合は強い。この例外は混成と内殻効果の観点から説明することができる。",
"title": "1電子結合と3電子結合"
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"text": "3電子結合の最も単純な例は、ヘリウム二量体カチオン(He2)において見ることができる。これは(2つではなく)1つの共有電子のみからなるため「半結合」と考えられる。分子軌道の観点では、3つ目の電子は反結合性軌道中にあり、その他2つの電子によって形成された結合の半分を打ち消している。3電子結合を含む分子のもう一つの例 は一酸化窒素(NO)である 。酸素分子(O2)も2つの3電子結合と1つの2電子結合を有していると見なすことができる。これが酸素原子の常磁性と2の形式結合次数の主要な原因である。二酸化塩素とその類似物質二酸化臭素と二酸化ヨウ素も3電子結合を含む。",
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"text": "奇数電子結合を持つ分子は大抵反応性が高い。これらの種類の結合は似た電気陰性度を持つ原子間でのみ安定である。",
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"text": "分子における電子配置を説明するために単一のルイス構造では不十分な状況があるため、複数の構造の重ね合わせが必要となる。重ね合わされるそれぞれの構造では、原子が共有結合を形成する相手がそれぞれ異っているため、非整数の結合次数が生じる。硝酸イオンは3つの等価な構造を持つこういった一例である。窒素原子とそれぞれの酸素原子間の結合は1つの構造では二重結合でその他2つでは単結合のため、それぞれのN-O相互作用についての平均結合次数は (2 + 1 + 1)/3 = 4/3である。",
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"text": "有機化学において、平面の環を持つ分子がヒュッケル則(π電子の数が4n +2; nは整数)に従う時、分子は追加の安定性と対称性を獲得する。原型的な芳香族化合物であるベンゼンでは、6つのπ結合性電子が存在する(n = 1, 4n + 2 = 6)。これら6つの電子は3つの非局在化π分子軌道を占有(分子軌道理論)、または線型結合した2つの共鳴構造における共役π結合を形成(原子価結合理論)し、仮想的な1,3,5-シクロヘキサトリエンよりも高い安定性を示す正六角形を作る。",
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"text": "複素環式芳香族ならびに置換ベンゼンの場合は、環の異なる部位間での電気陰性度の差が芳香環結合の化学的挙動を支配する。",
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"text": "四フッ化キセノンや六フッ化硫黄といった特定の分子は、オクテット則に従う厳密な共有結合によって可能な数よりも高い配位数を有する。これは分子軌道理論における三中心四電子結合(3c-4e)モデルならびに原子価結合理論におけるイオン性-共有結合性共鳴によって説明される。",
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"text": "三中心四電子結合(3c-4e)では、3つの原子が2つの電子を結合で共有する。この種の結合はジボランといった電子不足化合物で起こる。こういった結合のそれぞれは、ホウ素原子を互いに結び付ける電子対を含む。この結合はプロトン(水素原子核)が結合の中央に位置し、両側のホウ素原子と電子を共有したバナナ型をしている。特定のクラスター化合物では、いわゆる四中心二電子結合も仮定されている。",
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"text": "量子力学の発展後、化学結合の量子力学的描写を与える2つの基本理論、原子価結合 (VB) 理論と分子軌道 (MO) 理論が提唱された。より最近の量子力学的描写は、電子密度の状態への原子の寄与の観点で与えられる(密度汎関数理論)。",
"title": "量子力学的描写"
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"text": "1927年、原子価結合理論が定式化された。原子価結合理論は、それぞれの原子軌道中の2つの価電子が2つの核を結び付けるように機能し、系のエネルギーを低下させる時に共有結合が形成される、と主張する。この理論を基に、化学者ライナス・ポーリングは1931年に化学の歴史上最も重要な論文の一つであると見なされている『On the Nature of the Chemical Bond』を発表した。ルイスの研究、ハイトラーとロンドンの原子価結合理論、自身の以前の研究を詳述したこの論文において、ポーリングは共有電子結合について6つの規則を提示した。そのうち最初の3つは既に一般的に知られていたものである。",
"title": "量子力学的描写"
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"text": "ポーリングの後半の3つの規則は新しいものであった。",
"title": "量子力学的描写"
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"text": "この論文に基づいた、ポーリングの1939年の教科書『On the Nature of the Chemical Bond』は現代化学の「バイブル」とも呼ばれるものとなった。この本は実験化学者が化学への量子論の影響を理解するための助けとなった。しかしながら、1959年の改訂版は分子軌道理論によってより良く理解できるように見える問題に適切に対処することに失敗した。分子軌道理論が大型デジタルコンピュータプログラムに実装され有用性を増した1960年代、1970年代に原子価結合理論の影響力は低下した。1980年代以降、原子価結合理論をコンピュータプログラムへと実装するより困難な問題が大部分解決され、原子価結合理論が復活を果たした。",
"title": "量子力学的描写"
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"text": "分子軌道はフリードリッヒ・フントとロバート・S・マリケンによって1927年および1928年に初めて発表された。分子軌道に対する原子軌道の線形結合(LCAO)近似は1929年にジョン・レナード=ジョーンズによって発表された。原子軌道の線形結合(LCAO)は分子の構成原子間の結合の上に形成される分子軌道を推定するために使うことができる。原子軌道と同様に、電子の挙動を記述するシュレーディンガー方程式は分子軌道についても構築することができる。原子軌道の線形結合、あるいは原子波動関数の和および差は、分子のシュレーディンガー方程式の独立粒子近似に対応するハートリー=フォック方程式への近似解を与える。",
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"text": "原子軌道が相互作用する時、得られる分子軌道は、結合性、反結合性、非結合性の3種類のどれかである。",
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"text": "2つの理論は、分子の電子配置を作り上げる順序が異なっている。原子価結合理論では、原子の混成軌道が最初に埋められ、結合性電子対と孤立電子対の完全原子価配置が作られる。もしいくつかのそういった配置が存在するならば、これらの配置の重み付けされた重ね合わせが次に適用される。対照的に、分子軌道理論では、原子軌道の重み付けされた重ね合わせが最初に実行され、次に得られた分子軌道を増成原理によって電子で埋めていく。",
"title": "量子力学的描写"
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"text": "どちらの理論も利点と用途を持つ。原子価結合理論は局在化した結合の分子波動関数を構築するため、結合エネルギーの計算と反応機構の理解のためにより適している。特に、原子価結合理論は等核二原子分子の個別の原子への解離を正しく予測するのに対して、単純な分子軌道理論は原子とイオンの混合状態への解離を予測する。分子の対称性に従う非局在化軌道を持つ分子軌道理論は、イオン化エネルギーの計算やスペクトルの吸収バンドの理解により適している。分子軌道は直交しているため、直交していない原子価結合軌道と比較してコンピュータによる計算の実現可能性と速度を大いに高める。",
"title": "量子力学的描写"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "両方の理論によって生成された波動関数は一致せず、また実験による安定化エネルギーとはどちらも一致しないが、配置間相互作用によって補正することができる。これは、原子価結合共有結合性関数と全ての可能なイオン性配置を記述する関数とを混合することによって、あるいは分子軌道基底状態関数と非占有軌道を使った全ての可能な励起状態を記述する関数とを混合することによって行われる。単純な分子軌道手法はイオン性構造に重きを置き過ぎているのに対して、単純な原子価結合手法は軽んじ過ぎている。これは、分子軌道法が電子相関を無視しているのに対して、原子価結合法は過大評価していると説明することもできる。",
"title": "量子力学的描写"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "現在これら2つの手法は相補的であると見なされており、それぞれが化学結合の問題を理解する上での独自の手掛かりとなっている。量子化学における現代の計算は大抵は原子価結合の手法ではなく分子軌道の手法から始まる(しかし最終的には分子軌道法から大きくそれる)。これは後者の手法がそれ自体優れているためではなく、単に分子軌道法の方が数値計算に適用しやすいためである。しかしながら、現在ではより良い原子価結合プログラムも利用できるようになっている。",
"title": "量子力学的描写"
}
] | 共有結合(きょうゆうけつごう、は、原子間での電子対の共有をともなう化学結合である。結合は非常に強い。ほとんどの分子は共有結合によって形成される。また、共有結合によって形成される結晶が共有結合結晶である。配位結合も共有結合の一種である。 この結合は非金属元素間で生じる場合が多いが、金属錯体中の配位結合の場合など例外もある。 共有結合はσ結合性、π結合性、金属-金属結合性、アゴスティック相互作用、曲がった結合、三中心二電子結合を含む多くの種類の相互作用を含む。英語のcovalent bondという用語は1939年に遡る。接頭辞のco- は「共同」「共通」などを意味する。ゆえに、「co-valent bond」は本質的に、原子価結合法において議論されているような「原子価」を原子が共有していることを意味する。 H2分子中で、水素原子は共有結合を介して2つの電子を共有している。共有結合性は似た電気陰性度の原子間で最大となる。ゆえに、共有結合は必ずしも同種元素の原子の間だけに生じるわけではなく、電気陰性度が同程度であればよい。3つ以上の原子にわたる電子の共有を伴う共有結合は非局在化していると言われる。 | [[ファイル:Covalent bond hydrogen.svg|thumb|400px|H<sub>2</sub>(右)を形成している共有結合。2つの[[水素]]原子が2つの[[電子]]を共有している。]]
{{読み仮名|'''共有結合'''|きょうゆうけつごう|{{lang-en-short|covalent bond}}}}<ref group="注釈">{{読み仮名|'''等極結合'''|とうきょくけつごう|{{lang-en-short|homopolar bond}}}}ともいう。</ref>は、[[原子]]間での[[電子対]]の共有をともなう[[化学結合]]である<ref>covalent bond - IUPAC. Compendium of Chemical Terminology, 2nd ed. (the "Gold Book"). Compiled by A. D. McNaught and A. Wilkinson. Blackwell Scientific Publications, Oxford (1997). XML on-line corrected version: http://goldbook.iupac.org (2006-) created by M. Nic, J. Jirat, B. Kosata; updates compiled by A. Jenkins. ISBN 0-9678550-9-8. {{DOI|10.1351/goldbook.C01384}}. </ref>。結合は非常に強い。ほとんどの[[分子]]は共有結合によって形成される。また、共有結合によって形成される結晶が[[共有結合結晶]]である。[[配位結合]]も共有結合の一種である。
この結合は[[非金属]]元素間で生じる場合が多いが、金属錯体中の配位結合の場合など例外もある。
共有結合は[[σ結合|σ結合性]]、[[π結合|π結合性]]、[[金属結合|金属-金属結合性]]、[[アゴスティック相互作用]]、[[曲がった結合]]、[[三中心二電子結合]]を含む多くの種類の相互作用を含む<ref>{{cite book| last = March| first = Jerry| title = Advanced organic chemistry: reactions, mechanisms, and structure| year = 1992| publisher = John Wiley & Sons| isbn = 0-471-60180-2 }}</ref><ref>{{cite book| author = Gary L. Miessler|author2=Donald Arthur Tarr| title = Inorganic chemistry| year = 2004| publisher = Prentice Hall| isbn = 0-13-035471-6 }}</ref>。英語の''covalent bond''という用語は1939年に遡る<ref>[[Merriam-Webster]] – Collegiate Dictionary (2000).</ref>。接頭辞の''co-'' は「共同」「共通」などを意味する。ゆえに、「co-valent bond」は本質的に、[[原子価結合法]]において議論されているような「[[原子価]]」(valence)を原子が共有していることを意味する。
{{chem|H|2}}分子中で、水素原子は共有結合を介して2つの電子を共有している<ref>{{cite web|url=http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/chemical/bond.html |title=Chemical Bonds |publisher=Hyperphysics.phy-astr.gsu.edu |accessdate=2013-06-09}}</ref>。共有結合性は似た[[電気陰性度]]の原子間で最大となる。ゆえに、共有結合は必ずしも同種元素の原子の間だけに生じるわけではなく、電気陰性度が同程度であればよい。3つ以上の原子にわたる電子の共有を伴う共有結合は[[非局在化電子|非局在化]]していると言われる。
== 歴史 ==
[[ファイル:covalent.svg|thumb|200px|共有結合の初期の概念は[[メタン]]分子のこの種の想像図から生まれた。共有結合は原子間で共有される電子を示すことによって[[電子式|ルイス構造]]において示唆されている。]]
結合に関する英語の「covalence」という用語は1919年に[[アーヴィング・ラングミュア]]が[[米国化学会誌]]に発表した『''The Arrangement of Electrons in Atoms and Molecules''』と題された論文で初めて使用された<ref>{{cite journal|doi=10.1021/ja02227a002|volume=41|issue=6|pages=868–934|last=Langmuir|first=Irving|title=The Arrangement of Electrons in Atoms and Molecules|journal=Journal of the American Chemical Society|date=1919-06-01}}</ref>。
共有結合の着想は1919年の数年前の[[ギルバート・ルイス|ギルバート・N・ルイス]]に遡ることができる。ルイスは1916年に原子間の電子対の共有について記述した<ref>{{cite journal|doi=10.1021/ja02261a002|volume=38|issue=4|pages=762–785|last=Lewis|first=Gilbert N.|title=The atom and the molecule|journal=Journal of the American Chemical Society|date=1916-04-01}}</ref>。ルイスは、外殻の価電子が原子記号の周りの点で表現される「ルイス式」を発表した。原子間に位置する電子の対は共有結合を表わす。複数の電子対は[[二重結合]]や[[三重結合]]といった多重結合を表わす。
ルイスは、原子が十分な共有結合を形成すると外殻が満たされる(閉じる)、と提唱した。ここに示しているメタンの概略図では、炭素原子は4の原子価を持ち、したがって、自分自身からの4電子と結合した水素原子からの4電子の計8電子に囲まれている([[オクテット則]])。それぞれの水素は1の原子価を持ち、2つの電子によって囲まれている(デュエット則)。電子の数は原子の量子論における満たされた殻に対応する。炭素原子の外殻は n=2殻であり、8電子を収容できる。しかし水素原子の外殻(唯一の殻)はn=1殻であり、2電子しか収容できない。
電子対が共有されるという考え方は共有結合に効果的な定性的描像を与えたものの、これらの結合の性質を理解し、単純な分子の構造および特性を予測するには[[量子力学]]の確立を待たねばならなかった。[[ヴァルター・ハイトラー]]と[[フリッツ・ロンドン]]は1927年に化学結合(水素分子)の量子力学的説明に初めて成功したことで高い評価を得ている<ref>W. Heitler and F. London, Zeitschrift für Physik, vol. 44, p. 455 (1927). English translation in {{cite book| last = Hettema| first = H.| title = Quantum chemistry: classic scientific papers| url = https://books.google.com/?id=qsidHRJmUoIC| accessdate = 2012-02-05| year = 2000| publisher = World Scientific| isbn = 978-981-02-2771-5| pages = 140– }}</ref>。彼らの研究は原子価結合モデルに基いている。このモデルは、関与する原子の[[原子軌道]]の間に十分な重なりが存在する時に化学結合が形成されると想定する。
==共有結合の種類==
s軌道を除く原子軌道は特有の方向特性を持つため、異なる種類の共有結合がもたらされる。[[σ結合]]は最も強い共有結合であり、2つの異なる原子上の軌道の正面からの重なり合いによって形成される。[[単結合]]は通常σ結合である。[[π結合]]はσ結合より弱く、p(あるいはd)軌道間の側面からの重なり合いによって形成される。2つの任意の原子間の[[二重結合]]は1つのσ結合と1つのπ結合から成り、[[三重結合]]は1つのσ結合と2つのπ結合から成る。
共有結合は連結した原子の電気陰性度によっても影響され、これが結合の[[極性分子|極性]]を決定する。等しい電気陰性度を持つ2つの原子は非極性共有結合を作る(例えばH-H)。電気陰性度に差がある場合、 極性共有結合が作られる(例えばH-Cl)。
一般に、π結合はσ結合より[[結合エンタルピー]]がやや低い。また、σ結合は結合軸に対して電子軌道が回転対称を持つため、[[立体配座]]が結合軸で自由回転できる。一方、π結合は回転対称を持たないため、結合軸で自由回転することが出来ず、[[立体配座]]は固定的となり[[立体異性体]]を生じることがある。
== 共有結合構造 ==
共有結合性物質の構造には、個別の分子、分子の構造、[[高分子]]構造、巨大な共有結合構造などいくつかの種類が存在する。個別の分子では原子間に強い結合力がはたらいているが、分子間の引力は無視できる程度である。この種の共有結合性物質は大抵気体(例えば[[塩化水素|HCl]]、[[二酸化硫黄|SO<sub>2</sub>]]、[[二酸化炭素|CO<sub>2</sub>]]、[[メタン|CH<sub>4</sub>]])である。分子の構造では弱い分子間引力が存在する。この種の共有結合性物質は([[エタノール]]といった)低沸点液体や([[ヨウ素]]、固体[[二酸化炭素]]といった)低融点固体である。高分子構造の中では多数の原子が共有結合で連結して鎖状構造を取っている。高分子構造の例は、[[ポリエチレン]]や[[ナイロン]]といった合成高分子、[[タンパク質]]や[[でんぷん]]といった生体高分子である。ネットワーク共有結合構造(巨大な共有結合構造)は([[グラファイト]]といった)シート状、あるいは([[ダイヤモンド]]や[[水晶]]といった)3次元構造状に連結した多くの原子を含む。これらの物質は高い融点と沸点を有し、砕けやすく、高い[[電気抵抗率]]を持つ傾向がある。高い電気陰性度と3あるいは4つの電子対結合を形成する能力のある元素は、しばしば大きな高分子構造を形成する<ref name="StranksEtAl1970">{{cite book |last1=Stranks |first1=D. R. |last2=Heffernan |first2=M. L. |last3=Lee Dow |first3=K. C. |last4=McTigue |first4=P. T. |last5=Withers |first5=G. R. A. |title=Chemistry: A structural view |year=1970 |publisher=Melbourne University Press |location=[[Carlton, Victoria]] |isbn=0-522-83988-6 |page=184}}</ref>。
== 1電子結合と3電子結合 ==
[[ファイル:Graphical comparison of bonds.svg|150px|thumb|通常の共有結合結合と3電子結合の電子構造の比較]]
1あるいは3電子を持つ結合は[[ラジカル (化学)|ラジカル]]種において見ることができる。1電子結合の最も単純な例は、[[水素分子イオン]](H<sub>2</sub><sup>+</sup>)において見られる。1電子結合はしばしば2電子結合のおよそ半分の結合エネルギーを持ち、したがって「半結合」と呼ばれる。しかしながら、例外も存在する。[[二リチウム]]の場合は、2電子結合のLi<sub>2</sub>よりも1電子結合のLi<sub>2</sub><sup>+</sup> の方が実際に結合は強い。この例外は混成と内殻効果の観点から説明することができる<ref>{{cite book | title=Valency and bonding| publisher=Cambridge | year=2005 |pages=96–100 | author=Weinhold, F. and Landis, C. | isbn=0-521-83128-8}}</ref>。
3電子結合の最も単純な例は、[[ヘリウム二量体]]カチオン(He<sub>2</sub><sup>+</sup>)において見ることができる。これは(2つではなく)1つの共有電子のみからなるため「半結合」と考えられる。分子軌道の観点では、3つ目の電子は[[反結合性軌道]]中にあり、その他2つの電子によって形成された結合の半分を打ち消している。3電子結合を含む分子のもう一つの例 は[[一酸化窒素]](NO)である 。酸素分子(O<sub>2</sub>)も2つの3電子結合と1つの2電子結合を有していると見なすことができる。これが酸素原子の[[常磁性]]と2の形式結合次数の主要な原因である<ref name="pauling">Pauling, L. (1960) ''The Nature of the Chemical Bond''. Cornell University Press. p.340-354</ref>。[[二酸化塩素]]とその類似物質[[二酸化臭素]]と二酸化ヨウ素も3電子結合を含む。
奇数電子結合を持つ分子は大抵反応性が高い。これらの種類の結合は似た電気陰性度を持つ原子間でのみ安定である<ref name="pauling" />。
== 共鳴 ==
{{Main|共鳴理論}}
分子における電子配置を説明するために単一のルイス構造では不十分な状況があるため、複数の構造の重ね合わせが必要となる。重ね合わされるそれぞれの構造では、原子が共有結合を形成する相手がそれぞれ異っているため、非整数の[[結合次数]]が生じる。[[硝酸]]イオンは3つの等価な構造を持つこういった一例である。窒素原子とそれぞれの酸素原子間の結合は1つの構造では二重結合でその他2つでは単結合のため、それぞれのN-O相互作用についての平均結合次数は (2 + 1 + 1)/3 = 4/3である。
[[File:Nitrate-ion-resonance-2D.png|400px|Canonical resonance structures for the nitrate ion]]
=== 芳香族性 ===
{{Main|芳香族性}}
[[有機化学]]において、平面の環を持つ分子が[[ヒュッケル則]]([[π電子]]の数が4n +2; nは整数)に従う時、分子は追加の安定性と[[分子対称性|対称性]]を獲得する。原型的な芳香族化合物である[[ベンゼン]]では、6つのπ結合性電子が存在する(n = 1, 4n + 2 = 6)。これら6つの電子は3つの非局在化π分子軌道を占有([[分子軌道法|分子軌道理論]])、または線型結合した2つの共鳴構造における共役π結合を形成([[原子価結合法|原子価結合理論]])し、仮想的な1,3,5-シクロヘキサトリエンよりも高い安定性を示す正六角形を作る。
[[複素環]]式芳香族ならびに置換[[ベンゼン]]の場合は、環の異なる部位間での電気陰性度の差が芳香環結合の化学的挙動を支配する。
=== 超原子価 ===
{{Main|超原子価}}
[[四フッ化キセノン]]や[[六フッ化硫黄]]といった特定の分子は、[[オクテット則]]に従う厳密な共有結合によって可能な数よりも高い配位数を有する。これは分子軌道理論における[[三中心四電子結合]](3c-4e)モデルならびに原子価結合理論におけるイオン性-共有結合性[[共鳴理論|共鳴]]によって説明される。
===電子不足 ===
{{Main|電子不足}}
[[三中心四電子結合]](3c-4e)では、3つの原子が2つの電子を結合で共有する。この種の結合は[[ジボラン]]といった電子不足化合物で起こる。こういった結合のそれぞれは、ホウ素原子を互いに結び付ける電子対を含む。この結合はプロトン(水素原子核)が結合の中央に位置し、両側のホウ素原子と電子を共有したバナナ型をしている。特定の[[クラスター化学|クラスター化合物]]では、いわゆる[[四中心二電子結合]]も仮定されている。
== 量子力学的描写 ==
量子力学の発展後、化学結合の量子力学的描写を与える2つの基本理論、原子価結合 (VB) 理論と分子軌道 (MO) 理論が提唱された。より最近の量子力学的描写<ref>{{cite journal|last1=Cammarata|first1=Antonio|last2=Rondinelli|first2=James M.|title=Covalent dependence of octahedral rotations in orthorhombic perovskite oxides|journal=The Journal of Chemical Physics|date=21 September 2014|volume=141|issue=11|pages=114704|doi=10.1063/1.4895967}}</ref>は、電子密度の状態への原子の寄与の観点で与えられる([[密度汎関数法|密度汎関数理論]])。
=== 原子価結合理論===
{{unreferenced section|date=January 2014}}
{{Main|原子価結合法}}
1927年、原子価結合理論が定式化された。原子価結合理論は、それぞれの[[原子軌道]]中の2つの[[価電子]]が2つの核を結び付けるように機能し、系のエネルギーを低下させる時に共有結合が形成される、と主張する。この理論を基に、化学者[[ライナス・ポーリング]]は1931年に化学の歴史上最も重要な論文の一つであると見なされている『On the Nature of the Chemical Bond』を発表した。ルイスの研究、ハイトラーとロンドンの原子価結合理論、自身の以前の研究を詳述したこの論文において、ポーリングは共有電子結合について6つの規則を提示した。そのうち最初の3つは既に一般的に知られていたものである。
*'''1.''' 電子対結合は、2つ原子のそれぞれの上の不対電子の相互作用によって形成される。
*'''2.''' 電子のスピンは逆向きでなければならない。
*'''3.''' 対を作ると、2つの電子はさらなる結合に関与できない。
ポーリングの後半の3つの規則は新しいものであった。
*'''4.''' 結合についての電子交換項はそれぞれの原子からの1つの波動関数のみを含む。
*'''5.''' 最も低いエネルギー準位にある利用可能な電子が最も強い結合を形成する。
*'''6.''' 原子中の2つの軌道のうち、もう一つの原子からの軌道と最も重なることができる軌道が最も強い結合を形成し、この結合は集中した軌道の方向へ広がる傾向にある。
この論文に基づいた、ポーリングの1939年の教科書『On the Nature of the Chemical Bond』は現代化学の「バイブル」とも呼ばれるものとなった。この本は実験化学者が化学への量子論の影響を理解するための助けとなった。しかしながら、1959年の改訂版は分子軌道理論によってより良く理解できるように見える問題に適切に対処することに失敗した。分子軌道理論が大型[[コンピュータ|デジタルコンピュータ]]プログラムに実装され有用性を増した1960年代、1970年代に原子価結合理論の影響力は低下した。1980年代以降、原子価結合理論をコンピュータプログラムへと実装するより困難な問題が大部分解決され、原子価結合理論が復活を果たした。
===分子軌道理論 ===
{{Main|分子軌道法}}
[[分子軌道]]は[[フリードリッヒ・フント]]<ref>{{cite journal|author=F. Hund|title=Zur Deutung einiger Erscheinungen in den Molekelspektren" [On the interpretation of some phenomena in molecular spectra] |journal=Zeitschrift für Physik|volume= 36| pages= 657-674|year=1926}}</ref><ref>{{cite journal|author=F. Hund|title=Zur Deutung der Molekelspektren: Part I|journal=Zeitschrift für Physik|volume=40| pages =742-764 |year=1927}}; Part II, (1927) 42, 93–120; Part III, (1927), 43, 805-826; Part IV, (1928), 51, 759-795; Part V, (1930), 63, 719-751.</ref>と[[ロバート・マリケン|ロバート・S・マリケン]]<ref>{{cite journal|author=R. S. Mulliken|title=Electronic states. IV. Hund's theory; second positive nitrogen and Swan bands; alternate intensities|journal=Physical Review|volume= 29| pages= 637–649 |year=1927|doi=10.1103/PhysRev.29.637}}</ref><ref>{{cite journal|author=R. S. Mulliken|title=The assignment of quantum numbers for electrons in molecules|journal=Physical Review|volume= 32| pages =186–222 |year=1928|doi=10.1103/PhysRev.32.186}}</ref>によって1927年および1928年に初めて発表された<ref>{{cite journal|title=Friedrich Hund and Chemistry|author=Werner Kutzelnigg| journal=[[アンゲヴァンテ・ケミー|Angewandte Chemie International Edition]]|volume= 35|pages= 573–586|year=1996|doi=10.1002/anie.199605721}}</ref><ref>{{cite journal|title=Spectroscopy, Molecular Orbitals, and Chemical Bonding|journal=Science |year= 1967|volume= 157|issue= 3784|pages=13-24|doi= 10.1126/science.157.3784.13|url=https://web.archive.org/web/20141112210044/http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1966/mulliken-lecture.pdf |author=Mulliken, Robert S.}}</ref>。分子軌道に対する[[LCAO法|原子軌道の線形結合]](LCAO)近似は1929年に[[ジョン・レナード=ジョーンズ]]によって発表された<ref>{{cite journal|author=Lennard-Jones. J. E.|title=The electronic structure of some diatomic molecules|journal=Transactions of the Faraday Society|volume=25| pages= 668-686 |year=1929|doi=10.1039/TF9292500668}}</ref>。原子軌道の線形結合(LCAO)は分子の構成原子間の結合の上に形成される分子軌道を推定するために使うことができる。原子軌道と同様に、電子の挙動を記述するシュレーディンガー方程式は分子軌道についても構築することができる。原子軌道の線形結合、あるいは原子波動関数の和および差は、分子のシュレーディンガー方程式の独立粒子近似に対応する[[ハートリー=フォック方程式]]への近似解を与える。
原子軌道が相互作用する時、得られる分子軌道は、結合性、[[反結合性]]、[[非結合性軌道|非結合性]]の3種類のどれかである。
;結合性MO
:* 原子軌道間の結合性相互作用は構成的(同相)な相互作用である。
:* 結合性MOはそれらを生成するために混合される原子軌道よりもエネルギー的に低い。
;反結合性MO
:* 原子軌道間の反結合性相互作用は破壊的(異相)な相互作用であり、2つの相互作用している原子間に反結合性軌道の波動関数がゼロになる[[節 (物理学)|節面]]を持つ。
:*反結合性MOはそれらを生成するために混合される原子軌道よりもエネルギー的に高い。
;非結合性MO
:* 非結合性MOは適合対称性の欠如のために原子軌道間の相互作用が起こらないことの結果である。
:* 非結合性MOは分子内の原子の1つの原子軌道と同じエネルギーを持つ。
=== 比較 ===
2つの理論は、分子の[[電子配置]]を作り上げる順序が異なっている<ref name="Quanta">{{cite book | title=Quanta: A Handbook of Concepts| publisher=Oxford University Press | year=1974 |pages=147–148 | author=P.W. Atkins | isbn=0-19-855493-1}}</ref>。原子価結合理論では、原子の[[混成軌道]]が最初に埋められ、結合性電子対と孤立電子対の完全原子価配置が作られる。もしいくつかのそういった配置が存在するならば、[[共鳴理論|これらの配置の重み付けされた重ね合わせ]]が次に適用される。対照的に、分子軌道理論では、[[LCAO法|原子軌道の重み付けされた重ね合わせ]]が最初に実行され、次に得られた分子軌道を[[構造原理|増成原理]]によって電子で埋めていく。
どちらの理論も利点と用途を持つ。原子価結合理論は局在化した結合の分子波動関数を構築するため、[[結合エネルギー]]の計算と[[反応機構]]の理解のためにより適している。特に、原子価結合理論は等核二原子分子の個別の原子への解離を正しく予測するのに対して、単純な分子軌道理論は原子とイオンの混合状態への解離を予測する。分子の対称性に従う非局在化軌道を持つ分子軌道理論は、[[イオン化エネルギー]]の計算やスペクトルの吸収バンドの理解により適している。分子軌道は直交しているため、直交していない原子価結合軌道と比較してコンピュータによる計算の実現可能性と速度を大いに高める。
両方の理論によって生成された波動関数は一致せず、また実験による安定化エネルギーとはどちらも一致しないが、[[配置間相互作用]]によって補正することができる<ref name="Quanta"/>。これは、原子価結合共有結合性関数と全ての可能なイオン性配置を記述する関数とを混合することによって、あるいは分子軌道基底状態関数と非占有軌道を使った全ての可能な励起状態を記述する関数とを混合することによって行われる。単純な分子軌道手法はイオン性構造に重きを置き過ぎているのに対して、単純な原子価結合手法は軽んじ過ぎている。これは、分子軌道法が[[電子相関]]を無視しているのに対して、原子価結合法は過大評価していると説明することもできる<ref name="Quanta"/>。
現在これら2つの手法は相補的であると見なされており、それぞれが化学結合の問題を理解する上での独自の手掛かりとなっている。[[量子化学]]における現代の計算は大抵は原子価結合の手法ではなく分子軌道の手法から始まる(しかし最終的には分子軌道法から大きくそれる)。これは後者の手法がそれ自体優れているためではなく、単に分子軌道法の方が数値計算に適用しやすいためである。しかしながら、現在ではより良い原子価結合プログラムも利用できるようになっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite web|url=http://www.chemguide.co.uk/atoms/bonding/covalent.html|title=Covalent bonding — Single bonds|publisher=chemguide|year=2000|accessdate=2012-02-05}}
* {{cite web|url=http://www.chem.ox.ac.uk/vrchemistry/electronsandbonds/intro1.htm|title=Electron Sharing and Covalent Bonds|publisher=Department of Chemistry University of Oxford|accessdate=2012-02-05}}
* {{cite web|url=http://hyperphysics.phy-astr.gsu.edu/hbase/chemical/bond.html#c5|title=Chemical Bonds|publisher=Department of Physics and Astronomy, Georgia State University|accessdate=2012-02-05}}
==関連項目==
*[[共有結合半径]]
*[[価標]]
* [[固体中の結合]]
* [[結合次数]]
* [[配位結合]]
* [[共有結合の分類法]](LXZ表記法)
* [[ジスルフィド結合]]
* [[混成軌道]]
* [[イオン結合]]
* [[LCAO法]]
* [[非共有結合性相互作用]]
* [[共鳴理論]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{化学結合}}
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[[Category:化学結合]]
[[Category:電子軌道]] | null | 2022-11-24T13:35:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%9C%89%E7%B5%90%E5%90%88 |
5,083 | 結合 | 結合(けつごう)は2つ以上のものが結び合わさること。 | [
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] | 結合(けつごう)は2つ以上のものが結び合わさること。 化学における化学結合。
物理において2つの系の間で相互作用があること。カップリングとも呼ばれる。
数学において二項演算の同義語として用いられることがある。
プログラミングにおいて文字列をつなげること。文字列結合を参照。
関係データベースの関係モデルにおける関係代数の結合演算。
電気工学 - 変圧器において、励磁インダクタンスに比べて漏洩インダクタンスが小さいほど結合が強いという。結合係数も参照。
配管の施工において液体や気体の配管などを接続して結び合わせること。 | {{Wiktionary|結合}}
'''結合'''(けつごう)は2つ以上のものが結び合わさること。
*[[化学]]における[[化学結合]]。
*[[物理]]において2つの系の間で相互作用があること。[[カップリング]]とも呼ばれる。
*[[数学]]において[[二項演算]]の同義語として用いられることがある。
*[[プログラミング]]において[[文字列]]をつなげること。[[文字列結合]]を参照。
*[[関係データベース]]の[[関係モデル]]における[[関係代数 (関係モデル)#結合|関係代数の結合演算]]。
*[[電気工学]] - [[変圧器]]において、[[励磁インダクタンス]]に比べて[[漏れインダクタンス|漏洩インダクタンス]]が小さいほど結合が強いという。[[結合係数]]も参照。
*[[配管]]の施工において[[液体]]や[[気体]]の[[配管]]などを接続して結び合わせること。
== 関連項目 ==
* [[カップリング]]
* [[結合度]]
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{{デフォルトソート:けつこう}} | null | 2016-04-04T08:05:17Z | true | false | false | [
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5,084 | 水素結合結晶 | 水素結合結晶()とは、結晶のうち、分子同士の親和力として主に水素結合を利用して形成されているもののこと。水素結合性結晶とも呼ばれる。もっとも身近で代表的な水素結合結晶は氷である。
通常の水素結合はファン・デル・ワールス力よりも強いため、同程度の分子量の化合物で比べた場合、水素結合結晶のほうがファンデルワールス結晶よりも格子エネルギーが大きい、すなわち融点が高いことが多い。例えば近い分子量を持つ、メタン (CH4、分子量 16.04) と水 (H2O、分子量 18.02) について、融点はメタンが −162 °C、水が 0 °Cと、水の結晶のほうがより高い温度まで安定に存在する。これは、メタンの結晶が分子性結晶であり分子間にはたらく親和力が比較的弱いのに対し、水の結晶(= 氷)は水素結合結晶でありその中で水分子同士がより強く結びついているためである。
1970年代を端緒とする結晶工学 (crystal engineering) の分野では、さまざまな高次構造、機能を持つ結晶を作るための技術開発が行われている。その中において水素結合は、結晶の材料となる有機分子を必要な位置に必要な向きで配列させて多彩な水素結合結晶を得る上で、重要な親和力として利用されている。 | [
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通常の水素結合は[[ファン・デル・ワールス力]]よりも強いため、同程度の分子量の化合物で比べた場合、水素結合結晶のほうが[[ファンデルワールス結晶]]よりも[[格子エネルギー]]が大きい、すなわち[[融点]]が高いことが多い。例えば近い分子量を持つ、[[メタン]] (CH<sub>4</sub>、分子量 16.04) と[[水]] (H<sub>2</sub>O、分子量 18.02) について、融点はメタンが −162 ℃、水が 0 ℃と、水の結晶のほうがより高い温度まで安定に存在する。これは、メタンの結晶が分子性結晶であり分子間にはたらく親和力が比較的弱いのに対し、水の結晶(= 氷)は水素結合結晶でありその中で水分子同士がより強く結びついているためである。
1970年代を端緒とする[[結晶工学]] (crystal engineering) の分野では、さまざまな高次構造、機能を持つ結晶を作るための技術開発が行われている。その中において水素結合は、結晶の材料となる有機分子を必要な位置に必要な向きで配列させて多彩な水素結合結晶を得る上で、重要な親和力として利用されている。
== 関連項目 ==
* [[物性物理]]
* [[結晶学]]
[[Category:結晶|すいそけつこうけつしよう]] | null | 2021-08-26T02:54:59Z | false | false | false | [
"Template:読み仮名"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E7%B5%90%E5%90%88%E7%B5%90%E6%99%B6 |
5,085 | 光子 | 光子(、記号: γ)またはフォトン(英語: photon)とは、光の粒子である。物理学における素粒子の一つであり、光を含む全ての電磁波の量子かつ電磁力の媒介粒子(英語版)である。光量子(、英語: light quantum)とも呼ばれる。
古代から、光の本性については「光の波動説」と「光の粒子説」の2つが存在し、長い間にわたって対立していた。19世紀末ごろに電磁場に対するマックスウェルの理論がハインリヒ・ヘルツによって検証され、光の波動説は確立された。しかし、光の波動性は黒体放射のエネルギー分布を説明することができなかった。そのため、マックス・プランクは物質のエネルギー吸収・放出の性質としてエネルギー量子の概念を発表した。
ドイツの物理学者のアルベルト・アインシュタインは、光の波動説を支持しつつ、新しい光の粒子説(光量子仮説)を主張した。
アメリカの物理化学者ギルバート・ニュートン・ルイスは古典的な光の粒子説を採用した上で、アインシュタインと同種の領域で内容的に異なる具体的な研究成果を上記研究に1年遅れて発表した。
それぞれ微妙に異なる光の本性に関する研究が平行していたが、第一次世界大戦を経た1920年代に入ると、アーサー・コンプトンによるコンプトン効果の研究に端を発して、1926年から1927年頃にかけて、それら二つの系統は光子(photon)という名称で一応の統一がなされた。
量子論では光子は「ボース粒子」と呼ばれる分類の量子である。
マイケルソン・モーリーの実験によれば、真空中の光速は c である。電磁波の放射圧は、単位時間単位面積当たりの光子の運動量の転移に由来する。
光子は常に真空中の光の速度と同じ速度で動く。
光線中の振動数 ν の光子に対して、以下のようにエネルギー ε と運動量 p を定義することができる。これは、外部光電効果とコンプトン効果の実験結果により確認されている。
またルイスによれば、光子の静止質量 mrestは0である。
光子は電荷を持たない。質量はゼロであり、寿命は無い。光子は2次元の偏光状態を持つ。波数ベクトルの成分は、波長λとその伝播方向を決定する。光子は電磁気のゲージ粒子であり、そのため光子のその他の量子数(レプトン数、バリオン数、フレーバー量子数)はゼロである。
光子は様々な自然過程で放出される。例えば、あらゆる物体は熱放射により、常に光子を放出し続けている。また、電荷が加速されるとシンクロトロン放射を発する。分子、原子、原子核が低いエネルギー準位に遷移すると、赤外線からガンマ線まで様々なエネルギーの光子が放出される。粒子とその反粒子が対消滅する時にも光子が発生する(例えば電子-陽電子対消滅)。
光子は、周波数とは独立なスピン角運動量も運ぶ。スピンの大きさは 2 ħ {\displaystyle \scriptstyle {{\sqrt {2}}\hbar }} で、運動の方向に沿って測定される成分であるヘリシティーは±ħである。二つのヘリシティーの値は右巻き、左巻きと呼ばれ、光子の2つの円偏光の状態に対応する。
空間で粒子と反粒子が対消滅すると、少なくとも二つの光子が生成される。別の見方をした場合、光子は自身の反粒子と考えることもできる。逆過程の対生成は、ガンマ線等の高エネルギーの光子が物質の中を進む間にエネルギーを失う過程である。この過程は、原子核の電磁場で「一つの光子を生み出す対消滅」の逆過程である。
光子は、現在では厳密に質量ゼロと理解されているが、ごくわずかな質量をもつ可能性は残されている。もし光子の質量が厳密にゼロでなければ、光の速さは光速cよりも少しだけ遅くなるはずである。この場合、光速cは、全ての物体が理論的に超えられない最高速度ということになるが、相対性理論は影響されない。
光子に質量があると仮定すると、クーロンの法則が修正され、電磁場は余分な物理学的自由度を持つことになる。クーロンの法則が完全な真でなければ、外部電磁場に晒される中空導体の内部に電磁場が発生することになる。ただし、クーロンの法則は非常に高い確度を持つことが確認されており、もし光子に質量があるとしても、その上限は m ≲ 10 eV/cの範囲である。
銀河の磁位ベクトルの効果を検出することで、さらに精度の良い上限値を得ることができる。銀河の磁場は非常に遠くまで届くため、その磁位ベクトルは巨大であるが、光子の質量がゼロであれば磁場のみが観測される。もし光子が質量を持てば、質量項は銀河のプラズマに影響を与えるはずである。そのような効果は検出されていないことから、光子の質量の上限はm < 3×10 eV/cと示唆される。銀河の磁位ベクトルは、帯磁環のトルクを測定することで直接検出することが可能である。そのような方法を用いて、パーティクルデータグループにより10 eV/c(原子質量単位の1.07×10倍に相当)という上限値が得られた。
銀河の磁位ベクトルを用いた質量上限の推定は、モデルに依存することが示されている。光子の質量がヒッグス機構によって生み出される場合は、クーロンの法則が正当化され、上限値はm ≲ 10 eV/cとなる。
超伝導体中の光子は、ゼロではない有効質量を持ち、その結果、電磁力の届く範囲は超伝導体中の短い範囲になる。
古代・中世を通して光は哲学者や自然を研究する学者にとって関心の的であった。光の本性についての研究は、大きく「光の波動説」と「光の粒子説」の二つが存在しておりそれぞれ歴史的に対立をしていた。
ニュートン力学を完成させたアイザック・ニュートンなどは粒子説に基づくモデルを提案していたことから、18世紀までは光の粒子説が優勢に立っていた。ところが、19世紀初頭、トーマス・ヤングとオーギュスタン・ジャン・フレネルが光の干渉と回折を明確に示したことから、19世紀中頃には光の波動説が優勢に立つこととなった。さらに、1865年には、ジェームズ・クラーク・マクスウェルは光は電磁波の一種であると予測し、それを1888年にハインリヒ・ヘルツが実験的に確かめたことから、光の本性としての光の波動説は確定されたかのようにみなされた。
ところが、19世紀末ごろになると、黒体輻射のエネルギー分布式を理論的に求めるにあたって、光の波動説を代表するマックスウェル方程式などでは説明しきれないことが問題となり始めた。
1900年、マックス・プランクは黒体輻射のエネルギー分布式の問題点を解決するにあたって、物質が放出または吸収するエネルギーは連続量とするのではなく振動数 ν に比例した有限の大きさ E =hν をもつ塊と考えるとうまく実験結果と合うと発表し、この最小エネルギー単位をエネルギー要素(energy element)と呼んだ。これはあくまで光の波動説に立ったもので、あくまで物質的な制約だと考えられた。
1905年、アルベルト・アインシュタインは、電磁波が広がる際のエネルギー配分は空間的に連続的に行われないと主張し、そのエネルギー量子の大きさはその振動数に比例すると仮定すると、(外部)光電効果などをうまく説明することができることを示した。アインシュタインはこれを光量子(light quantum)と呼び、さらにプランクが導入した仮説を光量子仮説と名付けた。
1908年、アメリカの物理化学者のギルバート・ニュートン・ルイスは、アインシュタインの1905年に発表した特殊相対性理論の論文を参照してはいるものの特殊相対性原理を無視して、代わりに光量子仮説とも異なる完全な光の粒子説(光の粒子が光速で運動するとき、エネルギー、質量そして運動量をもつ)を前提とし、物体の質量はその速度に依存するという公理を持つ非ニュートン力学の体系を発表した(ルイスの非ニュートン力学)。この体系によれば、静止質量(rest mass)と呼ばれる質量概念を定義した上で、光の粒子はもし光速よりもわずかに遅くなったとするとその質量は0になると結論した。
1909年、アインシュタインは光の波動説の前提であるエーテル概念を放棄の上、光の波動説と光の粒子説を融合させることが必要であると主張した。
1916年、アインシュタインは輻射による吸収や放出の際には運動量の付与も起こると述べ、光量子仮説に実質的な変更が加えられた(光量子仮説はエネルギーに関するもので、1909年の論文でわずかに触れてはいたものの、運動量については何も述べていなかった)。
1918年頃から現在コンプトン効果と呼ばれる現象に、古典的な理論で説明を与えることに取り組んでいたアーサー・コンプトンは、1922年に至って古典的理論ではこの現象は説明できないと結論し、光量子仮説とルイスらの理論を組み合わせるようにX線はエネルギー hν、運動量 hν/c をもつ粒子とみなした上で、「光の粒子と自由電子が弾性衝突する」というモデルでコンプトン効果を説明し、このときのアインシュタインの光量子仮説の正当性を立証する形で1923年春に最終的な報告を提出した。この影響を受けるような形で、1922年11月に、光電効果の法則の発見によって、変則的に一年遡って1921年分のノーベル物理学賞がアインシュタインに与えられることが決定した。
1926年、もともと光の粒子は運動量を持つということを主張していたギルバート・ルイスは、ギリシア語で「光」を意味するφῶςを由来にこの光の粒子をphoton(フォトン、光子)と名付けた。翌1927年10月には、コンプトンの提案で開催された第5回ソルベー会議では主題が"Electrons et photons (電子と光子)"と、早速 "photon" の用語が取り入れられることとなった。同年1927年にはアーサー・コンプトンがコンプトン効果の研究でノーベル物理学賞を受賞すると、多くの科学者が光の量子化の正当性を受け入れ、光量子を表すルイスのphotonという用語を受け入れた。
量子論では、光子はボース粒子であり、標準模型ではさらにゲージ粒子に分類されている。電荷、質量、スピン角運動量等の光子に固有の性質はゲージ理論から決定される。光子の概念は、レーザー、ボーズ・アインシュタイン凝縮、量子場理論、量子力学の確率振幅等、実験物理学及び理論物理学に重大な進歩をもたらし、光化学、2光子励起顕微鏡、蛍光共鳴エネルギー移動等といった応用がある。また、光コンピューティングや、量子コンピュータの提案のうちのいくつかは光子を利用する。
湯川秀樹は、この電磁気力の媒介粒子としての光子のモデルを根拠に、原子の安定性をもたらす原子核を構成する力(核力)の媒介粒子として中間子と呼ばれる粒子が存在する、という理論を1935年(昭和10年)に提出した(中間子論)。これは現代の素粒子論の契機となった。
その他全ての素粒子と同様に、現在のところ光子は量子力学で最も良く説明され、粒子と波動の二重性を示す。例えば、一つの光子はレンズで屈折し、また自身と干渉するが、位置が明確に測定できる等、粒子としての振舞いも見せる。
アインシュタインの1905年の予測は、ロバート・ミリカンのノーベル・レクチャーでも詳しく語られたように、20世紀の最初の20年間で様々な実験によって実証された。しかし、1922年にコンプトンの実験で光子が波数に比例した角運動量を運ぶことが示されるまでは、ほとんどの物理学者は電磁放射自体が粒子であることを信じられなかった(例えば、ヴィルヘルム・ヴィーン、マックス・プランク、ミリカンのノーベルレクチャー)。その代わり、エネルギーの量子化は物質の未知の制約に由来するという考えが広く信じられた。しかし、量子化を光自身に帰さなければ解釈の難しいコンプトン効果の実験等で、徐々に態度が変わっていった。
コンプトンの実験の後でも、ニールス・ボーア、ヘンリク・アンソニー・クラマース、ジョン・クラーク・スレイターらは、マクスウェルの連続電磁場モデル、いわゆるBKSモデルを最後まで守り続けた。当時得られていたデータを説明するため、2つの過激な仮説が作り出された。
しかし、改良されたコンプトン効果の実験で、エネルギー-運動量は非常に良く保存されることが示され、またコンプトン散乱における電子の振動と新しい光子の生成は、10ピコ秒以内で因果律に従った。その結果、ボーアらは彼らのモデルに「できるだけ立派な葬式」を挙げることにした。BKSモデルは頓挫したものの、ヴェルナー・ハイゼンベルクに行列力学の着想を与えることとなった。
それでも少数の物理学者は、電磁放射を量子化せず、物質のみが量子力学の法則に従うという半古典的モデルを発展させることに固執した。1970年代には化学実験や物理実験から光子の存在の証拠が圧倒的になるものの、光と物質の相互作用に依っていたために、完全に決定的なものとは見なされなかった。1970年代から1980年代には、全ての半古典的理論が決定的に否定され、量子化は光自体の性質だとするアインシュタインの仮説は証明されたとみなされた。 | [
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"text": "光子(、記号: γ)またはフォトン(英語: photon)とは、光の粒子である。物理学における素粒子の一つであり、光を含む全ての電磁波の量子かつ電磁力の媒介粒子(英語版)である。光量子(、英語: light quantum)とも呼ばれる。",
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"text": "古代から、光の本性については「光の波動説」と「光の粒子説」の2つが存在し、長い間にわたって対立していた。19世紀末ごろに電磁場に対するマックスウェルの理論がハインリヒ・ヘルツによって検証され、光の波動説は確立された。しかし、光の波動性は黒体放射のエネルギー分布を説明することができなかった。そのため、マックス・プランクは物質のエネルギー吸収・放出の性質としてエネルギー量子の概念を発表した。",
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"text": "アメリカの物理化学者ギルバート・ニュートン・ルイスは古典的な光の粒子説を採用した上で、アインシュタインと同種の領域で内容的に異なる具体的な研究成果を上記研究に1年遅れて発表した。",
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"text": "それぞれ微妙に異なる光の本性に関する研究が平行していたが、第一次世界大戦を経た1920年代に入ると、アーサー・コンプトンによるコンプトン効果の研究に端を発して、1926年から1927年頃にかけて、それら二つの系統は光子(photon)という名称で一応の統一がなされた。",
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"text": "量子論では光子は「ボース粒子」と呼ばれる分類の量子である。",
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"text": "マイケルソン・モーリーの実験によれば、真空中の光速は c である。電磁波の放射圧は、単位時間単位面積当たりの光子の運動量の転移に由来する。",
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"text": "光子は常に真空中の光の速度と同じ速度で動く。",
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"text": "光線中の振動数 ν の光子に対して、以下のようにエネルギー ε と運動量 p を定義することができる。これは、外部光電効果とコンプトン効果の実験結果により確認されている。",
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"text": "またルイスによれば、光子の静止質量 mrestは0である。",
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"text": "光子は電荷を持たない。質量はゼロであり、寿命は無い。光子は2次元の偏光状態を持つ。波数ベクトルの成分は、波長λとその伝播方向を決定する。光子は電磁気のゲージ粒子であり、そのため光子のその他の量子数(レプトン数、バリオン数、フレーバー量子数)はゼロである。",
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"text": "光子は様々な自然過程で放出される。例えば、あらゆる物体は熱放射により、常に光子を放出し続けている。また、電荷が加速されるとシンクロトロン放射を発する。分子、原子、原子核が低いエネルギー準位に遷移すると、赤外線からガンマ線まで様々なエネルギーの光子が放出される。粒子とその反粒子が対消滅する時にも光子が発生する(例えば電子-陽電子対消滅)。",
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"text": "光子は、周波数とは独立なスピン角運動量も運ぶ。スピンの大きさは 2 ħ {\\displaystyle \\scriptstyle {{\\sqrt {2}}\\hbar }} で、運動の方向に沿って測定される成分であるヘリシティーは±ħである。二つのヘリシティーの値は右巻き、左巻きと呼ばれ、光子の2つの円偏光の状態に対応する。",
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"text": "空間で粒子と反粒子が対消滅すると、少なくとも二つの光子が生成される。別の見方をした場合、光子は自身の反粒子と考えることもできる。逆過程の対生成は、ガンマ線等の高エネルギーの光子が物質の中を進む間にエネルギーを失う過程である。この過程は、原子核の電磁場で「一つの光子を生み出す対消滅」の逆過程である。",
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"text": "光子は、現在では厳密に質量ゼロと理解されているが、ごくわずかな質量をもつ可能性は残されている。もし光子の質量が厳密にゼロでなければ、光の速さは光速cよりも少しだけ遅くなるはずである。この場合、光速cは、全ての物体が理論的に超えられない最高速度ということになるが、相対性理論は影響されない。",
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"text": "光子に質量があると仮定すると、クーロンの法則が修正され、電磁場は余分な物理学的自由度を持つことになる。クーロンの法則が完全な真でなければ、外部電磁場に晒される中空導体の内部に電磁場が発生することになる。ただし、クーロンの法則は非常に高い確度を持つことが確認されており、もし光子に質量があるとしても、その上限は m ≲ 10 eV/cの範囲である。",
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"text": "銀河の磁位ベクトルの効果を検出することで、さらに精度の良い上限値を得ることができる。銀河の磁場は非常に遠くまで届くため、その磁位ベクトルは巨大であるが、光子の質量がゼロであれば磁場のみが観測される。もし光子が質量を持てば、質量項は銀河のプラズマに影響を与えるはずである。そのような効果は検出されていないことから、光子の質量の上限はm < 3×10 eV/cと示唆される。銀河の磁位ベクトルは、帯磁環のトルクを測定することで直接検出することが可能である。そのような方法を用いて、パーティクルデータグループにより10 eV/c(原子質量単位の1.07×10倍に相当)という上限値が得られた。",
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"text": "銀河の磁位ベクトルを用いた質量上限の推定は、モデルに依存することが示されている。光子の質量がヒッグス機構によって生み出される場合は、クーロンの法則が正当化され、上限値はm ≲ 10 eV/cとなる。",
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"text": "超伝導体中の光子は、ゼロではない有効質量を持ち、その結果、電磁力の届く範囲は超伝導体中の短い範囲になる。",
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"text": "古代・中世を通して光は哲学者や自然を研究する学者にとって関心の的であった。光の本性についての研究は、大きく「光の波動説」と「光の粒子説」の二つが存在しておりそれぞれ歴史的に対立をしていた。",
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"text": "ニュートン力学を完成させたアイザック・ニュートンなどは粒子説に基づくモデルを提案していたことから、18世紀までは光の粒子説が優勢に立っていた。ところが、19世紀初頭、トーマス・ヤングとオーギュスタン・ジャン・フレネルが光の干渉と回折を明確に示したことから、19世紀中頃には光の波動説が優勢に立つこととなった。さらに、1865年には、ジェームズ・クラーク・マクスウェルは光は電磁波の一種であると予測し、それを1888年にハインリヒ・ヘルツが実験的に確かめたことから、光の本性としての光の波動説は確定されたかのようにみなされた。",
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"text": "ところが、19世紀末ごろになると、黒体輻射のエネルギー分布式を理論的に求めるにあたって、光の波動説を代表するマックスウェル方程式などでは説明しきれないことが問題となり始めた。",
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"text": "1900年、マックス・プランクは黒体輻射のエネルギー分布式の問題点を解決するにあたって、物質が放出または吸収するエネルギーは連続量とするのではなく振動数 ν に比例した有限の大きさ E =hν をもつ塊と考えるとうまく実験結果と合うと発表し、この最小エネルギー単位をエネルギー要素(energy element)と呼んだ。これはあくまで光の波動説に立ったもので、あくまで物質的な制約だと考えられた。",
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"text": "1905年、アルベルト・アインシュタインは、電磁波が広がる際のエネルギー配分は空間的に連続的に行われないと主張し、そのエネルギー量子の大きさはその振動数に比例すると仮定すると、(外部)光電効果などをうまく説明することができることを示した。アインシュタインはこれを光量子(light quantum)と呼び、さらにプランクが導入した仮説を光量子仮説と名付けた。",
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"text": "1908年、アメリカの物理化学者のギルバート・ニュートン・ルイスは、アインシュタインの1905年に発表した特殊相対性理論の論文を参照してはいるものの特殊相対性原理を無視して、代わりに光量子仮説とも異なる完全な光の粒子説(光の粒子が光速で運動するとき、エネルギー、質量そして運動量をもつ)を前提とし、物体の質量はその速度に依存するという公理を持つ非ニュートン力学の体系を発表した(ルイスの非ニュートン力学)。この体系によれば、静止質量(rest mass)と呼ばれる質量概念を定義した上で、光の粒子はもし光速よりもわずかに遅くなったとするとその質量は0になると結論した。",
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"text": "1909年、アインシュタインは光の波動説の前提であるエーテル概念を放棄の上、光の波動説と光の粒子説を融合させることが必要であると主張した。",
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"text": "1918年頃から現在コンプトン効果と呼ばれる現象に、古典的な理論で説明を与えることに取り組んでいたアーサー・コンプトンは、1922年に至って古典的理論ではこの現象は説明できないと結論し、光量子仮説とルイスらの理論を組み合わせるようにX線はエネルギー hν、運動量 hν/c をもつ粒子とみなした上で、「光の粒子と自由電子が弾性衝突する」というモデルでコンプトン効果を説明し、このときのアインシュタインの光量子仮説の正当性を立証する形で1923年春に最終的な報告を提出した。この影響を受けるような形で、1922年11月に、光電効果の法則の発見によって、変則的に一年遡って1921年分のノーベル物理学賞がアインシュタインに与えられることが決定した。",
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"text": "1926年、もともと光の粒子は運動量を持つということを主張していたギルバート・ルイスは、ギリシア語で「光」を意味するφῶςを由来にこの光の粒子をphoton(フォトン、光子)と名付けた。翌1927年10月には、コンプトンの提案で開催された第5回ソルベー会議では主題が\"Electrons et photons (電子と光子)\"と、早速 \"photon\" の用語が取り入れられることとなった。同年1927年にはアーサー・コンプトンがコンプトン効果の研究でノーベル物理学賞を受賞すると、多くの科学者が光の量子化の正当性を受け入れ、光量子を表すルイスのphotonという用語を受け入れた。",
"title": "歴史的発展"
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"text": "量子論では、光子はボース粒子であり、標準模型ではさらにゲージ粒子に分類されている。電荷、質量、スピン角運動量等の光子に固有の性質はゲージ理論から決定される。光子の概念は、レーザー、ボーズ・アインシュタイン凝縮、量子場理論、量子力学の確率振幅等、実験物理学及び理論物理学に重大な進歩をもたらし、光化学、2光子励起顕微鏡、蛍光共鳴エネルギー移動等といった応用がある。また、光コンピューティングや、量子コンピュータの提案のうちのいくつかは光子を利用する。",
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"text": "湯川秀樹は、この電磁気力の媒介粒子としての光子のモデルを根拠に、原子の安定性をもたらす原子核を構成する力(核力)の媒介粒子として中間子と呼ばれる粒子が存在する、という理論を1935年(昭和10年)に提出した(中間子論)。これは現代の素粒子論の契機となった。",
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"text": "その他全ての素粒子と同様に、現在のところ光子は量子力学で最も良く説明され、粒子と波動の二重性を示す。例えば、一つの光子はレンズで屈折し、また自身と干渉するが、位置が明確に測定できる等、粒子としての振舞いも見せる。",
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"text": "アインシュタインの1905年の予測は、ロバート・ミリカンのノーベル・レクチャーでも詳しく語られたように、20世紀の最初の20年間で様々な実験によって実証された。しかし、1922年にコンプトンの実験で光子が波数に比例した角運動量を運ぶことが示されるまでは、ほとんどの物理学者は電磁放射自体が粒子であることを信じられなかった(例えば、ヴィルヘルム・ヴィーン、マックス・プランク、ミリカンのノーベルレクチャー)。その代わり、エネルギーの量子化は物質の未知の制約に由来するという考えが広く信じられた。しかし、量子化を光自身に帰さなければ解釈の難しいコンプトン効果の実験等で、徐々に態度が変わっていった。",
"title": "初期の反対論"
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"text": "コンプトンの実験の後でも、ニールス・ボーア、ヘンリク・アンソニー・クラマース、ジョン・クラーク・スレイターらは、マクスウェルの連続電磁場モデル、いわゆるBKSモデルを最後まで守り続けた。当時得られていたデータを説明するため、2つの過激な仮説が作り出された。",
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"text": "しかし、改良されたコンプトン効果の実験で、エネルギー-運動量は非常に良く保存されることが示され、またコンプトン散乱における電子の振動と新しい光子の生成は、10ピコ秒以内で因果律に従った。その結果、ボーアらは彼らのモデルに「できるだけ立派な葬式」を挙げることにした。BKSモデルは頓挫したものの、ヴェルナー・ハイゼンベルクに行列力学の着想を与えることとなった。",
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"text": "それでも少数の物理学者は、電磁放射を量子化せず、物質のみが量子力学の法則に従うという半古典的モデルを発展させることに固執した。1970年代には化学実験や物理実験から光子の存在の証拠が圧倒的になるものの、光と物質の相互作用に依っていたために、完全に決定的なものとは見なされなかった。1970年代から1980年代には、全ての半古典的理論が決定的に否定され、量子化は光自体の性質だとするアインシュタインの仮説は証明されたとみなされた。",
"title": "初期の反対論"
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] | 光子(こうし、またはフォトンとは、光の粒子である。物理学における素粒子の一つであり、光を含む全ての電磁波の量子かつ電磁力の媒介粒子である。光量子(こうりょうし、とも呼ばれる。 | {{Infobox particle
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|caption=[[レーザー]]からの[[コヒーレント]]ビームで放出される光子
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}}
{{読み仮名|'''光子'''|こうし|記号: γ<ref group="注">この記号はおそらく[[ガンマ線]]に由来する。なお、化学や[[光工学]]では、光子は通常''hν''の記号で光子のエネルギーとして表される。ここで、''h''は[[プランク定数]]、''ν''は周波数である。また稀に周波数を''f''として''hf''で表されることもある。</ref>}}または'''フォトン'''({{lang-en|photon}})とは、光の粒子である。物理学における[[素粒子]]の一つであり、[[光]]を含む全ての[[電磁波]]の[[量子]]かつ[[電磁力]]の{{仮リンク|媒介粒子|en|force carrier}}である。{{読み仮名|'''光量子'''|こうりょうし|{{lang-en|light quantum|links=no}}}}とも呼ばれる<ref group="注">波動の側面を強調する場合、現代でも光量子の用語を使うことがある。[[光子#水島(1994)|水島(1994)]] pp.32-33</ref>。
== 概要 ==
古代から、光の本性については「光の波動説」と「光の粒子説」の2つが存在し、長い間にわたって対立していた。19世紀末ごろに[[マックスウェル方程式|電磁場に対するマックスウェルの理論]]が[[ハインリヒ・ヘルツ]]によって検証され、光の波動説は確立された。しかし、光の波動性は[[黒体放射]]のエネルギー分布を説明することができなかった。そのため、[[マックス・プランク]]は物質のエネルギー吸収・放出の性質としてエネルギー量子の概念を発表した。
ドイツの物理学者の[[アルベルト・アインシュタイン]]は、光の波動説を支持しつつ、新しい光の粒子説(光量子仮説)を主張した<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=148}}</ref>。
アメリカの物理化学者[[ギルバート・ルイス|ギルバート・ニュートン・ルイス]]は古典的な光の粒子説を採用した上で、アインシュタインと同種の領域で内容的に異なる具体的な研究成果を上記研究に1年遅れて発表した。
それぞれ微妙に異なる光の本性に関する研究が平行していたが、[[第一次世界大戦]]を経た1920年代に入ると、[[アーサー・コンプトン]]による[[コンプトン効果]]の研究に端を発して、1926年から1927年頃にかけて、それら二つの系統は光子(photon)という名称で一応の統一がなされた<ref group="注">2人の研究成果は互いに補うものようなものであり、光の本性の研究に対する貢献の大きさとしてはどちらに帰属するかどうかは確定が難しいものである。</ref><ref group="注">
なお、アインシュタインの残りの人生の大半を占めた統一場理論の探求の目的は、如何にしてマクスウェルの波の理論と実験で観測される粒子としての性質を統合するかであったと言われる。{{cite book|last=Pais|first=A.|year=1982|title=Subtle is the Lord: The Science and the Life of Albert Einstein|url=http://www.questia.com/PM.qst?a=o&d=74596612|publisher=Oxford University Press|isbn=0-19-853907-X}}</ref>。
量子論では光子は「[[ボース粒子]]」と呼ばれる分類の量子である。
==物理的性質==
[[マイケルソン・モーリーの実験]]によれば、[[真空中の光速]]は c である。電磁波の[[放射圧]]は、単位時間単位面積当たりの光子の[[運動量]]の転移に由来する<ref>E.g., Appendix XXXII in {{Cite book|last=Born|first=M.|title=Atomic Physics|publisher=Blackie & Son|year=1962|isbn=0-486-65984-4}}
</ref>。
光子は常に真空中の光の速度と同じ速度で動く。
光線中の[[振動数]] ν の光子に対して、以下のように[[エネルギー]] ε と運動量 p を定義することができる。これは、[[外部光電効果]]と[[コンプトン効果]]の実験結果により確認されている。
:<math>\epsilon = h\nu \; \; , \; \; p = \frac{h\nu}{c}</math>
またルイスによれば、光子の[[静止質量]] m<sub>rest</sub>は0である。
;素粒子論における物理的性質
光子は電荷を持たない<ref name="chargeless">{{cite journal|last=Kobychev|first=V.V.|coauthors=Popov, S.B.|year=2005|title=Constraints on the photon charge from observations of extragalactic sources|journal=Astronomy Letters|volume=31|pages=147-151|doi=10.1134/1.1883345|arxiv=hep-ph/0411398|bibcode=2005AstL...31..147K|issue=3 }}
</ref>。質量はゼロであり、寿命は無い。光子は2次元の[[偏光]]状態を持つ。[[波数ベクトル]]の成分は、[[波長]]λとその伝播方向を決定する。光子は電磁気の[[ゲージ粒子]]であり<ref>Role as gauge boson and polarization section 5.1 in{{Cite book|last=Aitchison|first=I.J.R.|last2=Hey|first2=A.J.G.|title=Gauge Theories in Particle Physics|publisher=IOP Publishing|year=1993|isbn=0-85274-328-9|url=https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/50883 |doi=10.1201/9781315275253}}</ref>、そのため光子のその他の[[量子数]]([[レプトン数]]、[[バリオン数]]、[[フレーバー (素粒子)|フレーバー量子数]])はゼロである<ref>See p.31 in{{Cite journal|doi=10.1016/j.physletb.2008.07.018|last=Amsler|first=C.|coauthors=et al.|title=Review of Particle Physics|journal=Physics Letters B|volume=667|pages=1-1340|year=2008|bibcode=2008PhLB..667....1P}}</ref>。
光子は様々な自然過程で放出される。例えば、あらゆる物体は[[熱放射]]により、常に光子を放出し続けている。また、電荷が加速されると[[シンクロトロン放射]]を発する。[[分子]]、[[原子]]、[[原子核]]が低い[[エネルギー準位]]に遷移すると、[[赤外線]]から[[ガンマ線]]まで様々なエネルギーの光子が放出される。粒子とその[[反粒子]]が[[対消滅]]する時にも光子が発生する(例えば[[電子-陽電子対消滅]])。
光子は、[[周波数]]とは独立な[[スピン角運動量]]も運ぶ<ref name="spin">{{Cite journal|author=Raman, Chandrasekhara Venkata |author2=Bhagavantam, S |year=1931 |title=Experimental proof of the spin of the photon |url=http://dspace.rri.res.in/bitstream/2289/2123/1/1931 IJP V6 p353.pdf |format=PDF |publisher=Indian Association for the Cultivation of Science}}</ref>。スピンの大きさは<math>\scriptstyle{\sqrt{2} \hbar}</math>で、運動の方向に沿って測定される成分である[[ヘリシティー (素粒子)|ヘリシティー]]は±''ħ''である。二つのヘリシティーの値は右巻き、左巻きと呼ばれ、光子の2つの[[円偏光]]の状態に対応する<ref>E.g., section 1.3.3.2 in {{Cite book|last=Burgess|first=C.|url=https://books.google.co.jp/books?id=PLYECqs2geEC&pg=PA27&redir_esc=y&hl=ja|last2=Moore|first2=G.|title=The Standard Model. A Primer|publisher=Cambridge University Press|year=2007|isbn=0-521-86036-9}}</ref>。
空間で粒子と反粒子が[[対消滅]]すると、少なくとも二つの光子が生成される<ref group="注">なぜならば、[[基準系]]の[[重心]]では、衝突した反粒子は正味の運動量を持たないのに対して単一の光子は(周波数や波長がゼロにはならないため)常に運動量を持つ。そのため、[[運動量保存則]]を満たすために、正味の運動量がゼロとなる少なくとも二つの光子が生成される必要がある(ただし、陽電子が原子核中の陽子と対消滅する場合等、系が別の粒子や場と相互作用している場合は、[[クーロン力]]が並進対称性を破るため、一つの光子が生成することが可能である)。二つの光子のエネルギー(周波数)は、運動量保存則で決定される。</ref>。別の見方をした場合、光子は自身の[[反粒子]]と考えることもできる。逆過程の[[対生成]]は、ガンマ線等の高エネルギーの光子が物質の中を進む間にエネルギーを失う過程である<ref>E.g., section 9.3 in {{Cite book|last=Alonso|first=M.|last2=Finn|first2=E.J.|title=Fundamental University Physics Volume III: Quantum and Statistical Physics|publisher=Addison-Wesley|year=1968}}</ref>。この過程は、原子核の電磁場で「一つの光子を生み出す対消滅」の逆過程である。
===光子の質量に関する仮説===
光子は、現在では厳密に質量ゼロと理解されているが、ごくわずかな質量をもつ可能性は残されている。もし光子の質量が厳密にゼロでなければ、光の速さは光速cよりも少しだけ遅くなるはずである。この場合、光速''c''は、全ての物体が理論的に超えられない最高速度ということになるが、相対性理論は影響されない<ref>{{cite journal|author=Mermin, David|title=Relativity without light|doi=10.1119/1.13917|journal=American Journal of Physics|date=February 1984|volume=52|issue=2|pages=119-124|bibcode=1984AmJPh..52..119M }}</ref>。
光子に質量があると仮定すると、[[クーロンの法則]]が修正され、電磁場は余分な物理学的自由度を持つことになる。クーロンの法則が完全な真でなければ、外部電磁場に晒される中空導体の内部に電磁場が発生することになる<ref>{{cite journal|last1=Plimpton|first1=S.|last2=Lawton|first2=W.|title=A Very Accurate Test of Coulomb's Law of Force Between Charges|journal=Physical Review|volume=50|page=1066|year=1936|doi=10.1103/PhysRev.50.1066|bibcode=1936PhRv...50.1066P|issue=11 }}</ref>。ただし、クーロンの法則は非常に高い確度を持つことが確認されており、もし光子に質量があるとしても、その上限は {{nowrap|''m'' ≲ {{val|e=-14|u=eV/c2}}}}の範囲である<ref>{{cite journal|last1=Williams|first1=E.|last2=Faller|first2=J.|last3=Hill|first3=H.|title=New Experimental Test of Coulomb's Law: A Laboratory Upper Limit on the Photon Rest Mass|journal=Physical Review Letters|volume=26|page=721|year=1971|doi=10.1103/PhysRevLett.26.721|bibcode=1971PhRvL..26..721W|issue=12}}</ref>。
銀河の[[磁位]]ベクトルの効果を検出することで、さらに精度の良い上限値を得ることができる。銀河の磁場は非常に遠くまで届くため、その磁位ベクトルは巨大であるが、光子の質量がゼロであれば磁場のみが観測される。もし光子が質量を持てば、質量項は銀河のプラズマに影響を与えるはずである。そのような効果は検出されていないことから、光子の質量の上限は''m'' < {{val|3|e=-27|u=eV/c<sup>2</sup>}}と示唆される<ref>{{cite journal|last1=Chibisov|first1=G V|title=Astrophysical upper limits on the photon rest mass|journal=Soviet Physics Uspekhi|volume=19|page=624|year=1976|doi=10.1070/PU1976v019n07ABEH005277|bibcode=1976SvPhU..19..624C|issue=7 }}</ref>。銀河の磁位ベクトルは、帯磁環のトルクを測定することで直接検出することが可能である<ref>{{cite journal|last1=Lakes|first1=Roderic|title=Experimental Limits on the Photon Mass and Cosmic Magnetic Vector Potential|journal=Physical Review Letters|volume=80|page=1826|year=1998|doi=10.1103/PhysRevLett.80.1826|bibcode=1998PhRvL..80.1826L|issue=9}}</ref>。そのような方法を用いて、[[パーティクルデータグループ]]により{{val|e=-18|u=eV/c2}}(原子質量単位の1.07×10<sup>-27</sup>倍に相当)という上限値が得られた<ref name=amsler>{{cite journal|last1=Amsler|first1=C|last2=Doser|first2=M|last3=Antonelli|first3=M|last4=Asner|first4=D|last5=Babu|first5=K|last6=Baer|first6=H|last7=Band|first7=H|last8=Barnett|first8=R|last9=Bergren|first9=E|title=Review of Particle Physics?|journal=Physics Letters B|volume=667|page=1|year=2008|doi=10.1016/j.physletb.2008.07.018|bibcode=2008PhLB..667....1P}} [http://pdg.lbl.gov/2009/tables/contents_tables.html Summary Table]</ref>。
銀河の磁位ベクトルを用いた質量上限の推定は、モデルに依存することが示されている<ref>{{cite journal|last1=Adelberger|first1=Eric|last2=Dvali|first2=Gia|last3=Gruzinov|first3=Andrei|title=Photon-Mass Bound Destroyed by Vortices|journal=Physical Review Letters|volume=98|issue=1|page=010402|year=2007|pmid=17358459|doi=10.1103/PhysRevLett.98.010402|bibcode=2007PhRvL..98a0402A|arxiv=hep-ph/0306245 }} [http://arxiv.org/abs/hep-ph/0306245 preprint]</ref>。光子の質量が[[ヒッグス機構]]によって生み出される場合は、クーロンの法則が正当化され、上限値は{{nowrap|''m'' ≲ {{val|e=-14|u=eV/c2}}}}となる。
[[超伝導体]]中の光子は、ゼロではない[[有効質量]]を持ち、その結果、電磁力の届く範囲は超伝導体中の短い範囲になる<ref>{{cite book
|last=Wilczek |first=Frank
|title=The Lightness of Being: Mass, Ether, and the Unification of Forces
|year=2010
|publisher=Basic Books
|page=212
|isbn=9780465018956
|url=https://books.google.nl/books?id=22Z36Qoz664C&pg=PA212}}</ref>。
{{see also|超新星/加速探査機}}
== 歴史的発展 ==
[[ファイル:Young Diffraction.png|thumb|200px|left|1805年に行われた[[ヤングの実験|トーマス・ヤングの二重スリット実験]]は、光は波として振る舞うことを示し、初期の光の粒子説を打破した。]]
古代・中世を通して光は哲学者や自然を研究する学者にとって関心の的であった。光の本性についての研究は、大きく「光の波動説」と「光の粒子説」の二つが存在しておりそれぞれ歴史的に対立をしていた。
{{details|光}}
ニュートン力学を完成させた[[アイザック・ニュートン]]などは粒子説に基づくモデルを提案していたことから、18世紀までは光の粒子説が優勢に立っていた。ところが、19世紀初頭、[[トーマス・ヤング]]と[[オーギュスタン・ジャン・フレネル]]が光の干渉と回折を明確に示したことから、19世紀中頃には光の波動説が優勢に立つこととなった<ref>{{cite book|last=Buchwald|first=J.Z.|year=1989|title=The Rise of the Wave Theory of Light: Optical Theory and Experiment in the Early Nineteenth Century|publisher=University of Chicago Press|isbn=0-226-07886-8|oclc=18069573}}</ref>。さらに、1865年には、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]は光は電磁波の一種であると予測し、それを1888年に[[ハインリヒ・ヘルツ]]が実験的に確かめたことから、光の本性としての光の波動説は確定されたかのようにみなされた。
[[ファイル:Light-wave.svg|thumb|340px|right|1900年、光を電磁波の振動と考えるマクスウェルの光のモデルの理論は完成したように見えた。しかし、波のモデルでは説明できないいくつかの現象が観測され、光エネルギーを量子化することによる説明に繋がった。レーザー実験は、これらの光量子が運動量も運び、粒子としても考えられることを示した。これにより「光子」という概念が生まれ、電磁場自体の理解に繋がった。]]
ところが、19世紀末ごろになると、黒体輻射のエネルギー分布式を理論的に求めるにあたって、光の波動説を代表する[[マックスウェル方程式]]などでは説明しきれないことが問題となり始めた。
1900年、[[マックス・プランク]]は黒体輻射のエネルギー分布式の問題点<ref name="Wien1911">{{cite web|last=Wien|first=W.|year=1911|url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1911/wien/lecture/|title=Wilhelm Wien Nobel Lecture|accessdate=2012-12-8}}</ref>を解決するにあたって、物質が放出または吸収するエネルギーは連続量とするのではなく振動数 ν に比例した有限の大きさ E =hν をもつ塊と考えるとうまく実験結果と合うと発表し<ref name="Planck1901"/><ref name="Planck1918">
{{cite web|last=Planck|first=M.|year=1920|url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1918/planck/lecture/|title=Max Planck's Nobel Lecture|accessdate=2012-12-8}}</ref>、この最小エネルギー単位をエネルギー要素(energy element)と呼んだ<ref name="Planck1901">{{cite journal|last=Planck|first=M.|year=1901|title=On the Law of Distribution of Energy in the Normal Spectrum|url=http://dbhs.wvusd.k12.ca.us/webdocs/Chem-History/Planck-1901/Planck-1901.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080418002757/http://dbhs.wvusd.k12.ca.us/webdocs/Chem-History/Planck-1901/Planck-1901.html|archivedate=2008年4月18日|journal=Annalen der Physik|volume=4|pages=553-563|doi=10.1002/andp.19013090310|issue=3|bibcode=1901AnP...309..553P|deadlinkdate=2017年9月}}
</ref>。これはあくまで光の波動説に立ったもので、あくまで物質的な制約だと考えられた。
1905年、[[アルベルト・アインシュタイン]]は、電磁波が広がる際のエネルギー配分は空間的に連続的に行われないと主張し<ref group="注">マクスウェル方程式は電磁波の可能なすべてのエネルギーを対象とするものであったので、ほとんどの物理学者は当初、プランクのエネルギーの量子化は、放射を吸収、放出する物質の未知の制約に由来すると考えていた。しかし、アインシュタインはこのとき初めて、エネルギーの量子化は電磁放射自体の性質として提案した。
</ref>、そのエネルギー量子の大きさはその振動数に比例すると仮定すると<ref group="注">特に光子モデルでは光の[[エネルギー]]は[[周波数]]に依存するとし、物質と放射としての振舞いを熱平衡で説明する。また、[[マックス・プランク]]が半古典モデルで説明しようとした[[黒体放射]]の性質も説明できる。半古典モデルは量子力学の発展に貢献した。{{cite journal|author=Kimble, H.J.; Dagenais, M.; Mandel, L.|title=Photon Anti-bunching in Resonance Fluorescence|journal=Physical Review Letters|volume=39|issue=11|pages=691-695|year=1977|doi=10.1103/PhysRevLett.39.691|bibcode=1977PhRvL..39..691K}}
</ref>、(外部)[[光電効果]]<ref group="注">光電効果は、1887年に[[ハインリヒ・ヘルツ|ヘルツ]]及び翌1888年にドイツの物理学者ヴィルヘルム・ハルヴァックス(Wilhelm Hallwachs)によって発見された
。</ref>などをうまく説明することができることを示した<ref name="Einstein1905">{{cite journal|last=Einstein|first=A.|year=1905|title=Uber einen die Erzeugung und Verwandlung des Lichtes betreffenden heuristischen Gesichtspunkt|url=http://www.physik.uni-augsburg.de/annalen/history/einstein-papers/1905_17_132-148.pdf|journal=Annalen der Physik|volume=17|pages=132-148|doi=10.1002/andp.19053220607|bibcode=1905AnP...322..132E|issue=6}}(光の発生と変脱とに関するひとつの発見的方法について) [[#光量子論(1969)|光量子論(1969)]]収録
</ref><ref>{{cite journal|author=Grangier, P.; Roger, G.; Aspect, A.|title=Experimental Evidence for a Photon Anticorrelation Effect on a Beam Splitter: A New Light on Single-Photon Interferences|journal=Europhysics Letters|volume=1|issue=4|pages=173-179|year=1986|doi=10.1209/0295-5075/1/4/004|bibcode=1986EL......1..173G}}
</ref>。アインシュタインはこれを光量子(light quantum)と呼び<ref group="注">''quanta''(量子)という用語は1900年以前から、電気を含む離散量を表す用語として使われていたことから、これは次第にエネルギー量子(energy quantum)と呼ばれるようになっていた。
</ref>、さらにプランクが導入した仮説を'''光量子仮説'''と名付けた<ref name="Einstein1906">
{{citation | author=A.Einstein | title=Zur Theorie der Lichterzeugung und Lichtabsorption | year=1906 | journal Ann.d. Phys. | volume=20 | pages=199-206 }}(光の発生と光の吸収の理論について)[[#光量子論(1969)|光量子論(1969)]]収録
</ref>。
:<math>\epsilon = h\nu</math> (h : プランク定数、 ν : 光の振動数、 ε : 振動数 ν の光の中の光量子のエネルギー)
1908年、アメリカの物理化学者の[[ギルバート・ルイス|ギルバート・ニュートン・ルイス]]は、アインシュタインの1905年に発表した特殊相対性理論の論文を参照してはいるものの特殊相対性原理を無視して、代わりに光量子仮説とも異なる完全な光の粒子説('''光の粒子が光速で運動するとき'''、エネルギー、質量そして'''運動量をもつ''')を前提とし、物体の質量はその速度に依存するという公理を持つ非ニュートン力学の体系を発表した(ルイスの非ニュートン力学)<ref name="Lewis(1908)">{{citation | author=Gilbert N. Lewis | title=A Revision of the Fundamental Laws of Matter and Energy | year=1908 | journal=Philosophical Magazine | series=6th series | volume 18 | pages=510-523 }}(物質とエネルギーに関する基本法則の一修正) [[#相対論(1969)|相対論(1969)]] 収録</ref><ref>{{Cite journal |author=Gilbert N. Lewis |year=1908 |title=LIX. A revision of the fundamental laws of matter and energy |journal=The London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science |volume=16 |issue=95 |pages=705-717 |publisher=Taylor & Francis |doi=10.1080/14786441108636549 |url=https://doi.org/10.1080/14786441108636549}}</ref>。この体系によれば、静止質量(rest mass)と呼ばれる質量概念を定義した上で、光の粒子はもし光速よりもわずかに遅くなったとするとその質量は0になると結論した<ref group="注">他にもアインシュタインが近似式としてしか得ていなかった公式 E=mc<sup>2</sup> を精確な結果として導出することができた。</ref>。
:<math>m_{rest} = 0</math> (m<sub>rest</sub> : 光の粒子の静止質量)
1909年、アインシュタインは光の波動説の前提である[[エーテル (物理)|エーテル]]概念を放棄の上、光の波動説と光の粒子説を融合させることが必要であると主張した<ref name="Einstein1909">{{cite journal|last=Einstein|first=A.|year=1909|title=Uber die Entwicklung unserer Anschauungen uber das Wesen und die Konstitution der Strahlung|url=http://www.ekkehard-friebe.de/EINSTEIN-1909-P.pdf|journal=Physikalische Zeitschrift|volume=10|pages=817-825}}[[#光量子論(1969)|光量子論(1969)]]収録
</ref>。
1916年、アインシュタインは輻射による吸収や放出の際には運動量の付与も起こると述べ<ref name="Einstein1916b">{{cite journal|last=Einstein|first=A.|year=1916|title=Zur Quantentheorie der Strahlung|journal=Mitteilungen der Physikalischen Gesellschaft zu Zurich|volume=16|page=47}} Also ''Physikalische Zeitschrift'', '''18''', 121-128 (1917). (輻射の量子論) [[#光量子論(1969)|光量子論(1969)]]収録</ref>、光量子仮説に実質的な変更が加えられた(光量子仮説はエネルギーに関するもので、1909年の論文でわずかに触れてはいたものの<ref name="Einstein1909" />、運動量については何も述べていなかった)。
1918年頃から現在[[コンプトン効果]]と呼ばれる現象に、古典的な理論で説明を与えることに取り組んでいた[[アーサー・コンプトン]]は、1922年に至って古典的理論ではこの現象は説明できないと結論し、光量子仮説とルイスらの理論を組み合わせるようにX線はエネルギー hν、運動量 hν/c をもつ粒子とみなした上で、「光の粒子と自由電子が弾性衝突する」というモデルでコンプトン効果を説明し、このときのアインシュタインの光量子仮説の正当性を立証する形で1923年春に最終的な報告を提出した<ref group="注">
なお、"輻射の量子がエネルギーとともに方向をもった運動量を運ぶことをきわめて説得的に示す"というコンプトンの結論に対して、当初は強い反対があったが、1924年には完全に受け入れられるようになったということである。<br />
[[#物理学史II(1968)|物理学史II(1968)]] pp.183-184
</ref><ref name="Compton1923">{{cite journal|last=Compton|first=A.|year=1923|title=A Quantum Theory of the Scattering of X-rays by Light Elements|url=http://www.aip.org/history/gap/Compton/01_Compton.html|journal=Physical Review|volume=21|pages=483-502|doi=10.1103/PhysRev.21.483|bibcode=1923PhRv...21..483C|issue=5}}</ref><ref>[[アイザック・アシモフ]]は、アーサー・コンプトンが1923年に光子としてのエネルギーの量子化を定義したと記している。{{cite book|title=The Neutrino, Ghost Particle of the Atom|first=I.|last=Asimov|location=Garden City (NY)|publisher=Doubleday|year=1966|isbn=0-380-00483-6|lccn=6603}}、{{cite book|title=The Universe From Flat Earth To Quasar|first=I.|last=Asimov|location=New York (NY)|publisher=Walker|year=1966|isbn=0-8027-0316-X|lccn=6605}}</ref>。この影響を受けるような形で、1922年11月に、光電効果の法則の発見によって、変則的に一年遡って1921年分のノーベル物理学賞がアインシュタインに与えられることが決定した<ref>
{{cite book| 和書 | author=C・ゼーリッヒ | title=アインシュタインの生涯 | editor=広重 徹(訳) | year=1974 | ref=ゼーリッヒ広重訳(1974) }} p.152 の訳注<br />
なお、アインシュタインはこの決定を、たまたま旅行中の船の上で聞いたと言われる。</ref><ref>Presentation speech by Svante Arrhenius for the 1921 Nobel Prize in Physics, December 10, 1922. [https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1921/ceremony-speech/ Online text] from [nobelprize.org], The Nobel Foundation 2008. Access date 2008-12-05.</ref>。
:<math>p = \frac{\epsilon}{c} = \frac{h\nu}{c}</math> (ν : 光の振動数、 p : 振動数 ν の光の中の光量子の運動量)
1926年、もともと光の粒子は運動量を持つということを主張していた[[ギルバート・ルイス]]は、ギリシア語で「光」を意味するφῶςを由来にこの光の粒子を''photon''(フォトン、光子)と名付けた<ref name="Lewis1926">{{cite journal|last=Lewis|first=G.N.|title=The conservation of photons|journal=Nature|year=1926|volume=118|pages=874-875|doi=10.1038/118874a0|bibcode=1926Natur.118..874L|issue=2981}}, [http://www.nobeliefs.com/photon.htm The origin of the word "photon"]
</ref><ref group="注">ただし、ルイスの光の粒子の概念は生成も破壊もされない光の原子に相当するもので、アインシュタインの光量子概念とは異なっていた。</ref>。翌1927年10月には、コンプトンの提案<ref>:"At Compton's suggestion, the Fifth Solvey Conference on Physics in 1927 adopted Lewis's term "photon" for the particle that carried radiation, but as used it did not signify Lewis's atom of radiation but rather Einstein's quantum."<br />
[[#Coffey(2008)|Coffey(2008)]] pp.182-183から引用。なおコンプトン兄弟([[アーサー・コンプトン]]、[[カール・コンプトン]])の内どちらの提案であるかは記載がない。</ref>で開催された第5回[[ソルベー会議]]では主題が"Electrons et photons (電子と光子)"と、早速 "photon" の用語が取り入れられることとなった<ref group="注">この定式化されたばかりの量子力学が議論されたこの第5回はソルベー会議全体の中でももっとも有名な会議である。しかしながら、主題にあげられた光子(photon)の命名を前年に行ったばかりの[[ギルバート・ルイス|ルイス]]自身は会議に招待されなかった。代わりにルイス=ラングミュアの原理で知られるアメリカの物理化学者の[[アーヴィング・ラングミュア]]が、主題の量子力学への貢献は何もないのになぜか招待された。<br />
[[#Coffey(2008) |Coffey(2008)]] p.188</ref>。同年1927年には[[アーサー・コンプトン]]が[[コンプトン効果]]の研究で[[ノーベル物理学賞]]を受賞すると、多くの科学者が光の量子化の正当性を受け入れ、光量子を表すルイスの''photon''という用語を受け入れた。
量子論では、光子は[[ボース粒子]]であり、[[標準模型]]ではさらに[[ゲージ粒子]]に分類されている。[[電荷]]、[[質量]]、[[スピン角運動量]]等の光子に固有の性質は[[ゲージ理論]]から決定される。光子の概念は、[[レーザー]]、[[ボーズ・アインシュタイン凝縮]]、[[量子場理論]]、量子力学の[[確率振幅]]等、実験物理学及び理論物理学に重大な進歩をもたらし、[[光化学]]、[[2光子励起顕微鏡]]、[[蛍光共鳴エネルギー移動]]等といった応用がある。また、[[光コンピューティング]]や、[[量子コンピュータ]]の提案のうちのいくつかは光子を利用する。
[[湯川秀樹]]は、この電磁気力の媒介粒子としての光子のモデルを根拠に、原子の安定性をもたらす原子核を構成する力(核力)の媒介粒子として[[中間子]]と呼ばれる粒子が存在する、という理論を[[1935年]](昭和10年)に提出した([[中間子論]])<ref>
{{cite book | 和書 | title=湯川秀樹と朝永振一郎 | author=中村誠太郎 | publisher=読売新聞社 | year=1992 | ref=中村(1992) }} p.28、
{{cite book | 和書 | title=湯川秀樹とアインシュタイン | author=田中正 | publisher=岩波書店 | year=2008 | ref=田中(2008) }} p.103
</ref><ref group="注">現代物理学において、原子に対してどのような操作を加えても変化せず安定的である根拠は、この湯川の中間子論に求められる。</ref>。これは現代の素粒子論の契機となった。
その他全ての素粒子と同様に、現在のところ光子は[[量子力学]]で最も良く説明され、[[粒子と波動の二重性]]を示す。例えば、一つの光子は[[レンズ]]で[[屈折]]し、また自身と[[干渉 (物理学)|干渉]]するが、[[位置]]が明確に測定できる等、粒子としての振舞い<ref>この直接的証拠とされる写真とその考え方については、[[#有馬(1994)|有馬(1994)]] p.2,4 参照。</ref>も見せる。
==初期の反対論==
[[ファイル:Bohr atom model.svg|thumb|250px|1923年まで、ほとんどの物理学者は光自体が量子化されるという考え方を受け入れなかった。その代わり、彼らは光子の振舞いを、ここに示した[[水素]]原子の[[ボーア模型]]のように物質のみの量子化で説明しようとした。このような半古典的モデルは一次近似であったが、量子力学に繋がった。]]
アインシュタインの1905年の予測は、[[ロバート・ミリカン]]のノーベル・レクチャーでも詳しく語られたように、20世紀の最初の20年間で様々な実験によって実証された<ref name="Millikan1923">{{cite web|last=Millikan|first=R.A|year=1924|url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1923/millikan/lecture/|title=Robert A. Millikan's Nobel Lecture|accessdate=2012-12-8}}</ref>。しかし、1922年にコンプトンの実験で<ref name="Compton1923" />光子が[[波数]]に比例した角運動量を運ぶことが示されるまでは、ほとんどの物理学者は電磁放射自体が粒子であることを信じられなかった(例えば、[[ヴィルヘルム・ヴィーン]]<ref name="Wien1911" />、マックス・プランク<ref name="Planck1918" />、ミリカン<ref name="Millikan1923" />のノーベルレクチャー)。その代わり、エネルギーの量子化は物質の未知の制約に由来するという考えが広く信じられた。しかし、量子化を光自身に帰さなければ解釈の難しいコンプトン効果の実験等で、徐々に態度が変わっていった<ref>{{Cite journal|last=Hendry|first=J.|year=1980|title=The development of attitudes to the wave-particle duality of light and quantum theory, 1900-1920|journal=Annals of Science|volume=37|issue=1|pages=59-79|doi=10.1080/00033798000200121}}</ref>。
コンプトンの実験の後でも、[[ニールス・ボーア]]、[[ヘンリク・アンソニー・クラマース]]、[[ジョン・クラーク・スレイター]]らは、マクスウェルの連続電磁場モデル、いわゆるBKSモデルを最後まで守り続けた<ref name="Bohr1924">{{cite journal|last=Bohr|first=N.|coauthors=Hendrik Anthony Kramers; John C. Slater|year=1924|title=The Quantum Theory of Radiation|journal=Philosophical Magazine|volume=47|pages=785-802}} Also ''Zeitschrift fur Physik'', '''24''', 69 (1924).</ref>。当時得られていたデータを説明するため、2つの過激な仮説が作り出された。
#エネルギーと運動量は、物質と放射の相互作用で平均でしか保存されず、吸収や放出のような本質的な過程では保存されない。
#因果律を放棄する。
しかし、改良されたコンプトン効果の実験で、エネルギー-運動量は非常に良く保存されることが示され、またコンプトン散乱における電子の振動と新しい光子の生成は、10ピコ秒以内で因果律に従った。その結果、ボーアらは彼らのモデルに「できるだけ立派な葬式」を挙げることにした<ref name="Pais1982">{{cite book|last=Pais|first=A.|year=1982|title=Subtle is the Lord: The Science and the Life of Albert Einstein|url=http://www.questia.com/PM.qst?a=o&d=74596612|publisher=Oxford University Press|isbn=0-19-853907-X}}</ref>。BKSモデルは頓挫したものの、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]に[[行列力学]]の着想を与えることとなった<ref name="Heisenberg1932">{{cite web|last=Heisenberg|first=W.|url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1932/heisenberg/lecture/|title=Heisenberg Nobel lecture|year=1933|accessdate=2012-12-8}}</ref>。
それでも少数の物理学者は、電磁放射を量子化せず、物質のみが量子力学の法則に従うという半古典的モデルを発展させることに固執した<ref name="Mandel1976">
{{cite journal|last=Mandel|first=L.|year=1976|doi=10.1016/S0079-6638(08)70018-0|title=The case for and against semiclassical radiation theory|journal=Progress in Optics|editor=E. Wolf|publisher=North-Holland|volume=13|pages=27-69|series=Progress in Optics|isbn=978-0-444-10806-7}}</ref>。1970年代には化学実験や物理実験から光子の存在の証拠が圧倒的になるものの、[[光と物質の相互作用]]に依っていたために、完全に決定的なものとは見なされなかった。1970年代から1980年代には、全ての半古典的理論が決定的に否定され、量子化は光自体の性質だとするアインシュタインの仮説は証明されたとみなされた。
== 関連項目 ==
* [[光]]
* [[光学]] - [[分光学]]
* [[相補性|ボーアの相補性原理]] - [[ハイゼンベルクの不確定性原理]] - [[素粒子物理学]]
* [[ソリトン]]
* [[ソルベー会議]]
* [[アルベルト・アインシュタイン]]
* [[ギルバート・ルイス]]
* [[ルイス=トルマンの非ニュートン力学]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book | author=Patrick Coffey | title=Cathedrals of Science | publisher=Oxford University Press | year=2008 | ref=Coffey(2008) |date=|ASIN=B01FKWEK8U}}
* {{cite book | 和書 | title=物理学史II | author=広重 徹 | publisher=培風館 | series=新物理学シリーズ | year=1968 | ref=物理学史II(1968) }}
* {{cite book | 和書 | title=光量子論 | editor=物理学史研究刊行会 | series=物理学古典論文叢書 | volume=2 | year=1969 | ref=光量子論(1969) }}
* {{cite book | 和書 | title=相対論 | editor=物理学史研究刊行会 | series=物理学古典論文叢書 | volume=4 | year=1969 | ref=相対論(1969) }}
* {{cite book | 和書 | author=有馬 朗人 | title=量子力学 | series=朝倉現代物理学講座 | volume=4 | publisher=朝倉書店 | year=1994 | ref=有馬(1994) }}
* {{cite book | 和書 | author=水島 宣彦 | title=フォトンの謎 ー光科学の最前線ー | publisher=裳華房 | series=ポピュラーサイエンス | year=1994 | ref=水島(1994) |date=|isbn=4785386053}}
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== できごと ==
[[Image:Patay.JPG|thumb|180px|[[1429年]]、[[パテーの戦い]]]]
[[Image:Battle of Waterloo 1815.PNG|thumb|180px|[[1815年]]、[[ワーテルローの戦い]]]]
[[Image:Carter_Brezhnev_sign_SALT_II.jpg|thumb|180px|[[1979年]]、[[第二次戦略兵器制限交渉|第二次戦略兵器制限条約]]調印]]
* [[618年]]([[義寧]]2年/[[武徳]]元年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[李淵]](高祖)が[[恭帝侑|恭帝]]から帝位を[[禅譲]]されて[[皇帝]]に即位。[[隋]]が滅亡し[[唐]]を建国。
* [[1186年]]([[文治]]2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[源頼朝]]が、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)で荒廃した社寺の復興を命じる。
* [[1429年]] - [[百年戦争]]: [[パテーの戦い]]。
* [[1597年]]([[慶長]]2年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[伏見城]]の[[天守]]が完成し[[豊臣秀吉]]・[[豊臣秀頼]]らが移る。
* [[1757年]] - [[七年戦争]]: [[コリンの戦い]]。
* [[1767年]] - イギリスの[[サミュエル・ウォリス]]が{{仮リンク|ドルフィン号|en|HMS Dolphin (1751)}}の航海でヨーロッパ人で初めて[[タヒチ島]]に到達。
* [[1779年]] - [[サリバン遠征]]により[[イロコイ族]]を[[ニューヨーク]]から殲滅する。
* [[1812年]] - [[アメリカ合衆国]]が[[イギリス]]に[[宣戦布告]]し、[[米英戦争]]が勃発。
* [[1815年]] - [[ワーテルローの戦い]]: ベルギーのワーテルロー近郊で、[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]率いる英国連合軍と交戦した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍が、交戦中にプロイセン軍の側面攻撃を受けて大敗。[[百日天下]]が終了した。ナポレオンこの戦いの4日後の[[6月22日]]に退位し、英国領[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]へ流され、そこで生涯を終えた<ref>{{Cite web |url=https://www.history.com/topics/european-history/battle-of-waterloo |title=Battle of Waterloo |access-date=17 Aug 2023 |publisher=A&E Television Networks, LLC. |date=JULY 29, 2022}}</ref>。
* [[1873年]] - [[女性参政権|婦人参政権]]運動家[[スーザン・B・アンソニー]]が[[1872年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]で投票を試みた罪で100ドルの罰金刑に。
* [[1877年]] - アメリカの動物学者[[エドワード・S・モース]]が来日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.niigata.lg.jp/m/sec/syogaigakushu/1295470871013.html |title=■6月18日【考古学出発の日】古代へのロマンは、今に生きる! |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[新潟県]]}}</ref>。文部省へ向かうため横浜駅から新橋駅へ汽車で向かっていたときに、車窓から[[大森貝塚]]を発見した。
* [[1881年]] - [[ドイツ帝国]]・[[オーストリア=ハンガリー帝国]]・[[ロシア帝国]]の[[三帝同盟#三帝協商|三帝協商]](新三帝同盟)が成立。
* [[1887年]] - [[ビスマルク体制]]: ドイツ帝国とロシア帝国が[[独露再保障条約]]を締結。
* [[1897年]] - 京都帝国大学(現 [[京都大学]])創設。
* 1897年 - [[利根川]]と[[江戸川]]を結ぶ全長8・5キロの[[利根運河]]が竣工<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150618-THDKJU3XKBNSZK64ZDSVDFRWIQ/ |title=利根運河きょう竣工125周年 「水運」に果たした役割再注目 千葉 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=18 Jun 2015}}</ref>。
* [[1902年]] - [[万国郵便連合]]加盟二十五周年を記念して日本初の官製絵[[はがき]]が発売される。
* [[1908年]] - 日本からの本格的な[[移民|海外移住]]の第一陣781人を乗せた[[笠戸丸]]が、[[ブラジル]]のサントス港に到着。(海外移住の日)
* 1908年 - [[フィリピン大学]]が設立。
* [[1928年]] - {{仮リンク|ウィルマー・スタールズ|en|Wilmer Stultz}}が操縦し[[アメリア・イアハート]]が乗った飛行機が[[大西洋横断飛行]]に成功。イアハートは女性初の大西洋横断飛行達成者となる。
* [[1938年]] - [[福岡県]]の[[春日市|春日原]]競馬場で販売された焼餅を食べた客が[[食中毒]]により15人以上死亡。原因は[[米粉]]と[[亜ヒ酸]]を誤認によるもの<ref>「焼餅で集団食中毒、三十七人が死亡・重体」『福岡日日新聞』1938年6月20日(昭和ニュース事典編纂委員会『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p.634 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
* [[1940年]] - イギリスに亡命した[[シャルル・ド・ゴール]]がラジオを通じて[[ナチス・ドイツ]]への徹底抗戦を呼びかける。 ([[:en:Appeal of June 18]])
* 1940年 - イギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]が"{{仮リンク|Their finest hour|en|This was their finest hour}}"演説を行う。
* [[1945年]] - イギリスのファシスト・“ホーホー卿”[[ウィリアム・ジョイス]]が[[大逆罪]]で告発される。
* 1945年 - [[第二次世界大戦]]・[[沖縄戦]]: [[ひめゆり学徒隊]]に解散命令<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1515138 |title=ひめゆり学徒隊を引率した元福井高等女学校教師 91歳教え子が語る別れの15分間、沖縄戦動員77年 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[福井新聞]] |date=20 Mar 2022}}</ref>。
* [[1946年]] - [[極東国際軍事裁判]]のアメリカ側主席検事[[ジョセフ・キーナン]]が、「[[天皇]]を[[戦争犯罪|戦争犯罪人]]として裁判しない」と言明。
* [[1948年]] - [[福岡県]][[宇美町]]の勝田[[炭鉱]]で坑内爆発。死者58人(54人とする記述もあり)、負傷10人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=70 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1951年]] - [[モーターボート競走法]]公布。
* [[1952年]] - [[日本の鉄道事故_(1950年から1999年)#日暮里駅構内乗客転落事故|日暮里駅構内乗客転落事故]]。国鉄[[日暮里駅]]で跨線橋の羽目板が破れて乗客が落下したところに電車が進入し、8人が死亡。
* [[1953年]] - [[エジプト]]で[[王制]]の廃止が宣言され、エジプト共和国が成立。
* 1953年 - [[アメリカ空軍]]の[[C-124 (航空機)|C-124]][[輸送機]]が[[東京都]][[小平市]]小川地内に墜落<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=92|isbn=9784816922749}}</ref>、129名の死者を出す(立川基地グローブマスター機墜落事故)。
* [[1954年]] - [[ピエール・マンデス=フランス]]が[[フランスの首相]]に就任。
* [[1955年]] - [[式場精神病院火災]]。
* [[1959年]] - [[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸信介改造内閣]]が発足。
* [[1965年]] - [[ベトナム戦争]]: [[アメリカ合衆国]]が[[南ベトナム]]の[[南ベトナム解放民族戦線]](ベトコン)の[[ゲリラ]]を攻撃するために[[B-52 (航空機)|B-52]]爆撃機を使用する。
* [[1967年]] - [[山陽電鉄爆破事件]]。死者2人、重軽傷者29人を出す。
* [[1972年]] - [[英国欧州航空548便墜落事故]]。
* [[1979年]] - [[第二次戦略兵器制限交渉]] (SALT II): [[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]により第二次戦略兵器制限条約が調印される。
* [[1983年]] - [[STS-7]]で[[スペースシャトル]][[スペースシャトル・チャレンジャー|チャレンジャー]]が打ち上げ。[[サリー・ライド]]が世界で3人目、アメリカ人では初の女性[[宇宙飛行士]]となる。
* 1983年 - [[李先念]]が[[中華人民共和国主席]]に就任。
* [[1985年]] - [[豊田商事]]会長の[[永野一男]]がマスコミが取り囲む自宅マンションで刺殺される。([[豊田商事会長刺殺事件]])
* [[1988年]] - [[リクルート事件]]: [[朝日新聞]]が[[神奈川県]][[川崎市]]助役への[[コスモスイニシア|リクルートコスモス]][[未公開株]]譲渡疑惑をスクープ。以後、大物政治家にも譲渡されていたことが相次いで発覚し、当時においての日本最大級の[[汚職]]事件へと発展する。
* [[1989年]] - [[ビルマ]]の[[軍事政権]]が同国の国号を[[ミャンマー]]に改称。
* [[1993年]] - [[宮澤内閣]][[内閣不信任決議案]]が自民党内の造反議員の賛成により可決され衆議院が解散される。([[嘘つき解散]])
* [[1996年]] - [[ベンヤミン・ネタニヤフ]]が[[イスラエルの首相|イスラエル首相]]に就任<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Benjamin-Netanyahu |title=Benjamin Netanyahu|prime minister of Israel |access-date=17 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。
* [[2006年]] - [[カザフスタン]]初の[[人工衛星]]「[[KazSat]]」が打ち上げ。
* [[2018年]] - [[大阪府北部地震]]が発生。大阪府で震度6弱を観測。大阪府で震度6以上の地震は、1923年以降観測史上初めて<ref>{{Cite web|和書|date=19 Jun 2018 |url=https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=242383 |title=<大阪地震>震度6に大騒ぎになったが…日本、歯車のように動いた |publisher=[[中央日報]] |accessdate=17 Aug 2023}}</ref>。
* [[2019年]] - 22時22分頃、[[山形県沖地震|山形県沖を震源とする地震]]が発生。マグニチュード6.7、深さ14km。[[新潟県]][[村上市]]で震度6強を観測<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gsj.jp/hazards/earthquake/yamagata2019/index.html |title=令和元年(2019年)6月18日に山形県沖で発生した地震の関連情報 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=産業技術総合研究所 |date=10 Jul 2019}}</ref>。
* [[2020年]] - [[特別捜査部|東京地検特捜部]]は、2019年7月の参院選で、広島の地元議員ら計94人に約2570万円を配って買収したとして、前法相の[[河井克行]]容疑者と妻で参院議員の[[河井案里|案里]]容疑者を公職選挙法違反(買収)容疑で逮捕した。現職国会議員夫妻の逮捕は初めて<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO60494720Y0A610C2MM8000/ |title=河井夫妻を逮捕 検察、昨夏参院選で買収容疑 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=19 Jun 2020}}</ref>。
* 2020年 - [[ニュージーランド]]付近([[ケルマデック諸島]]南方)で[[マグニチュード]]7.4の地震が発生。
* [[2023年]] - [[潜水艇タイタン沈没事故]]。乗客乗員5人全員が死亡。
{{-}}
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Emperor_Ogimachi_cropped.jpg|thumb|182x182px|[[正親町天皇]](1517-1593)]]
[[Image:AlphonseLaveran.jpg|thumb|270x270px|[[シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン|ラヴラン]](1845-1922)]]
[[Image:Yahya Muhammad Hamid ed-Din.jpg|thumb|225x225px|[[ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン]](1869-1948)]]
[[Image:YemenAhmad.jpg|thumb|284x284px|[[アフマド・ビン=ヤフヤ・ハミードゥッディーン]](1891-1962)]]
[[File:Anastasia in court gown 1910.2.jpg|thumb|320x320px|[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]](1901-1918)]]
[[Image:Donald Keene.jpg|thumb|180x180px|[[ドナルド・キーン]](1922-2019)]]
[[Image:SthAfrica.ThaboMbeki.01.jpg|thumb|280x280px|[[タボ・ムベキ]](1942-)]]
[[File:Isabella Rossellini.jpg|thumb|189x189px|[[イザベラ・ロッセリーニ]](1952-)]]
[[File:Marie Gillain.jpg|thumb|227x227px|[[マリー・ジラン]](1975-)]]
[[ファイル:Paul McCartney & Bono Live8.jpg|代替文=|サムネイル|180x180px|[[ポール・マッカートニー]](1942-)]]
* [[1511年]] - [[バルトロメオ・アンマナーティ]]、[[建築家]](+ [[1592年]])
* [[1517年]]([[永正]]14年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[正親町天皇]]、第106代[[天皇]](+ [[1593年]])
* [[1552年]] - [[ガブリエッロ・キアブレーラ]]、[[詩人]](+ [[1637年]])
* [[1666年]]([[寛文]]6年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[間部詮房]]、[[越後]][[村上藩]]初代藩主、[[側用人]](+ [[1720年]])
* [[1673年]] - [[アントニオ・リテレス]]、[[作曲家]](+ [[1747年]])
* [[1716年]] - [[ジョゼフ=マリー・ヴィアン]]、画家(+ [[1809年]])
* [[1732年]]([[享保]]17年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[中井履軒]]、[[儒学者]](+ [[1817年]])
* [[1754年]]([[宝暦]]4年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[松平直義]]、[[広瀬藩]]7代藩主、(+ [[1803年]])
* [[1771年]]([[明和]]8年[[5月6日 (旧暦)|5月16日]]) - [[松平忠馮]]、[[島原藩]]2代藩主、(+ [[1819年]])
* [[1799年]] - [[ウィリアム・ラッセル (天文学者)|ウィリアム・ラッセル]]、[[天文学者]](+ [[1880年]])
* [[1812年]] - [[イワン・ゴンチャロフ]]、[[作家]](+ [[1891年]])
* [[1838年]] - [[エドワード・S・モース|エドワード・モース]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1925年]])
* [[1845年]] - [[シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン]]、[[病理学|病理学者]](+ [[1922年]])
* [[1865年]] - [[フリードリッヒ・ポッケルス]]、[[物理学者]](+ [[1913年]])
* [[1868年]] - [[ホルティ・ミクローシュ]]、[[軍人]]、[[摂政]](+ [[1957年]])
* [[1869年]] - [[ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン]]、[[イエメン]]の[[国王]](+ [[1948年]])
* [[1877年]] - [[島田俊雄]]、[[政治家]]、第36代[[衆議院議長]](+ [[1947年]])
* 1877年 - [[ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ]]、[[画家]]、[[イラストレーター]](+ [[1960年]])
* [[1882年]] - [[ゲオルギ・ディミトロフ]]、[[ブルガリア]]の指導者(+ [[1949年]])
* 1882年 - [[リカルト・ヨハンソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1952年]])
* [[1985年]] - [[古賀春江]]、洋画家(+[[1933年]])
* [[1886年]] - [[ジョージ・マロリー]]、[[登山家]](+ [[1924年]])
* 1886年 - [[デービッド・M・S・ワトソン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[1973年]])
* [[1887年]] - [[岩崎輝弥]]、[[実業家]]、[[鉄道ファン]](+ [[1956年]])
* 1887年 - [[松本治一郎]]、政治家、実業家、[[部落解放運動|解放運動家]](+ [[1966年]])
* [[1888年]] - [[佐藤垢石]]、[[随筆家]](+ [[1956年]])
* [[1891年]] - [[アフマド・ビン=ヤフヤ・ハミードゥッディーン]]、イエメンの国王(+ [[1962年]])
* [[1901年]] - [[アナスタシア・ニコラエヴナ]]、[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の第4皇女(+ [[1918年]]?)
* [[1903年]] - [[レイモン・ラディゲ]]、[[小説家]]、[[詩人]](+ [[1923年]])
* 1903年 - [[ジャネット・マクドナルド]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](+ [[1965年]])
* [[1905年]] - [[エドゥアルド・トゥビン]]、作曲家、[[指揮者]](+ [[1982年]])
* [[1906年]] - [[神崎武雄]]、小説家(+ [[1944年]])
* [[1910年]] - [[高橋竹山|高橋竹山 (初代)]]、三味線奏者(+[[1988年]])
* [[1913年]] - [[後藤正夫]]、政治家(+ [[2000年]])
* [[1918年]] - [[ジェローム・カール]]、[[物理化学|物理化学者]](+ [[2013年]])
* 1918年 - [[フランコ・モディリアーニ]]、[[経済学者]](+ [[2003年]])
* [[1922年]] - [[ドナルド・キーン]]、[[日本文学]]研究家(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2S35KFM2SUCLV003.html |title=日本文学研究者のドナルド・キーンさん死去 96歳 |access-date=14 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=24 Feb 2019}}</ref>)
* 1922年 - [[クロード・エルフェ]]、[[ピアニスト]](+ [[2004年]])
* [[1923年]] - [[ヘルマン・クレバース|ヘルマン・クレッバース]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2018年]])
* [[1924年]] - [[芦野宏]]、[[シャンソン]]歌手(+ [[2012年]])
* 1924年 - [[姫野好治]]、元[[プロ野球選手]]
* [[1925年]] - [[ジョニー・ピアソン]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[2011年]])
* [[1926年]] - [[アラン・サンデージ]]、[[天文学者]](+ [[2010年]])
* [[1929年]] - [[ユルゲン・ハーバーマス]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[哲学|哲学者]]
* [[1932年]] - [[小鹿番]]、[[俳優]](+ [[2004年]])
* 1932年 - [[ダドリー・ハーシュバック]]、[[化学者]]
* 1932年 - [[ロン・ネッチアイ]]、元プロ野球選手
* [[1933年]] - [[三上瓔子]]、女優
* [[1934年]] - [[横山光輝]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://yokoyama-mitsuteru.com/profile.html |title=横山光輝 profile |access-date=17 Aug 2023 |publisher=光プロダクション |website=横山光輝 Official Web}}</ref>、[[漫画家]](+ [[2004年]])
* 1934年 - [[中村大成]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]])
* [[1936年]] - [[大槻義彦]]、[[物理学者]]
* 1936年 - [[デニス・ハルム]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(+ [[1992年]])
* [[1938年]] - [[マイケル・シェアード]]、[[俳優]](+ [[2005年]])
* 1938年 - [[岡田彬]]、アマチュア野球指導者
* 1938年 - [[山崎正之]]、元プロ野球選手(+ [[1991年]])
* 1938年 - [[中島淳一 (野球)|中島淳一]]、元プロ野球選手
* [[1939年]] - [[ルー・ブロック]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]])
* [[1941年]] - [[沢光幸夫]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1941年 - [[山本秀一]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]])
* [[1942年]] - [[ポール・マッカートニー]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ビートルズ]])
* 1942年 - [[ロジャー・イーバート]]、[[映画評論家]](+ [[2013年]])
* 1942年 - [[タボ・ムベキ]]、政治家、[[南アフリカ共和国の大統領|南アフリカ共和国大統領]]
* 1942年 - [[辻恭彦]]、元プロ野球選手
* [[1943年]] - [[福澤幸雄]]、[[自動車競技|レーサー]](+ [[1969年]])
* 1943年 - [[竹野吉郎]]、元プロ野球選手
* [[1944年]] - [[畠山麦]]、俳優(+ [[1978年]])
* [[1946年]] - [[大谷和夫]]、[[作曲家]]、[[編曲家]](+ [[2008年]])
* 1946年 - [[中沢伸二]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[後藤清]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[ファビオ・カペッロ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者
* 1946年 - [[ブルーザー・ブロディ]]、[[プロレスラー]](+ [[1988年]])
* [[1947年]] - [[中西輝政]]、[[国際政治学者]]
* 1947年 - [[城正憲]]、元弁護士、元検察官
* [[1948年]] - [[八木橋孝男]]、実業家
* 1948年 - [[三田誠広]]、[[小説家]]
* [[1949年]] - [[クリス・ヴァン・オールズバーグ]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]]
* 1949年 - [[レフ・カチンスキ]]、政治家(+ [[2010年]])
* 1949年 - [[水島総]]、[[日本文化チャンネル桜]]社長、政治活動家
* [[1952年]] - [[イザベラ・ロッセリーニ]]、女優
* 1952年 - [[キャロル・ケイン]]、女優
* [[1953年]] - [[三村孝仁]]、実業家
* 1953年 - [[ピーター・ドノホー]]、[[ピアニスト]]
* 1953年 - [[ペマ・ギャルポ]]、[[政治学者]]
* [[1954年]] - [[野中ともよ]]、[[ジャーナリスト]]
* [[1955年]] - [[藤真利子]]、女優
* [[1956年]] - [[ユ・ドングン]]、俳優
* 1956年 - [[長崎俊一]]、[[映画監督]]
* [[1957年]] - [[野田稔]]、経営学者
* [[1961年]] - [[逆鉾昭廣]]、元大相撲[[力士]]、年寄14代[[井筒 (相撲)|井筒]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|title=初金星に禁断の日本人初ガッツポーズ/井筒親方悼む |url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201909170000003.html |access-date=2023-02-14 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=17 Sep 2019}}</ref>)
* 1961年 - [[アンドレス・ガララーガ]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[タージン]]、[[お笑いタレント]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1962年 - [[三沢光晴]]、プロレスラー(+ [[2009年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/f-bt-tp0-20090614-506275.html |title=ノア三沢光晴さん急死、試合中に頭を強打 |access-date=14 Feb 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=14 Jun 2009}}</ref>)
* 1962年 - [[リサ・ランドール]]、[[物理学者]]
* [[1963年]] - [[吉住渉]]、漫画家
* 1963年 - [[森田豊]]、医師、ジャーナリスト
* 1963年 - [[竹下浩二]]、元プロ野球選手
* [[1964年]] - [[楊逸]]、作家
* 1964年 - [[長沢千和子]]、[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]
* [[1965年]] - [[右田雅彦]]、元プロ野球選手
* [[1966年]] - [[蓮田健]]、医師
* 1966年 - [[サンディー・アロマー・ジュニア]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[カート・ブラウニング]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1967年]] - 渡辺道子<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/1000067615/ |title=渡辺道子 |access-date=7 May 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=[[WEBザテレビジョン]]}}</ref>、女優
* 1967年 - [[楠野一郎]]、[[放送作家]]、[[脚本家]]
* 1967年 - [[ケン・アンドリュース]]、ミュージシャン、[[音楽プロデューサー]]
* [[1968年]] - [[後藤仁]]、[[日本画]]家、[[絵本]]画家、[[金唐革紙]]製作技術保持者
* [[1968年]] - [[曽田正人]]、漫画家
* [[1970年]] - [[神尾純子]]、元[[アナウンサー]]
* 1970年 - [[鈴村展弘]]、[[演出家]]
* [[1971年]] - [[仁平馨]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[岡本貴也]]、[[劇作家]]、[[演出家]]、[[音楽家]]
* 1972年 - [[石田宏樹]]、実業家
* 1972年 - [[中村亀鶴 (2代目)]]、歌舞伎役者
* [[1973年]] - [[石川知裕]]、政治家
* 1973年 - [[かかずゆみ]]、[[声優]]
* 1973年 - [[栗本法子]]、アナウンサー
* 1973年 - [[東風平千香]]、女優
* 1973年 - [[ジュリー・ドパルデュー]]、女優
* 1973年 - [[芳野史明]]、俳優
* [[1974年]] - [[後藤輝基]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[フットボールアワー]])
* 1974年 - [[細川直美]]、女優
* 1974年 - [[長江もみ]]、タレント
* 1974年 - [[中西美恵子]]、元アナウンサー
* 1974年 - [[雷人]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]
* 1974年 - [[大友進]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[星野順治]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[庄司大介]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[大山妙子]]、元バスケットボール選手
* 1974年 - [[ヴィンチェンツォ・モンテッラ]]、元サッカー選手
* [[1975年]] - [[江尻立真]]、漫画家
* 1975年 - [[マリー・ジラン]]、女優
* 1975年 - [[秋鹿真人]]、アナウンサー
* [[1976年]] - [[ジェレミー・パウエル]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[藤井彰人]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[久保竜彦]]、サッカー選手
* 1976年 - [[西澤明訓]]、元サッカー選手
* 1976年 - [[KREVA]]、[[歌手]]
* 1976年 - [[高山麻美]]、女優、[[タレント]]
* 1976年 - [[隆の鶴伸一]]、元大相撲力士、年寄16代[[田子ノ浦 (相撲)|田子ノ浦]]
* 1976年 - [[ブレイク・シェルトン]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー]]歌手
* 1976年 - [[新垣樽助]]、声優
* [[1977年]] - [[琉鵬正吉]]、元大相撲力士
* 1977年 - [[柴田大知]]、[[騎手]]
* 1977年 - [[柴田未崎]]、騎手
* [[1978年]] - [[王励勤]]、[[卓球]]選手
* [[1979年]] - 加藤缶、漫画家([[加藤山羊]])
* 1979年 - [[小林由美子]]、声優
* 1979年 - [[立川只四楼]]、落語家
* 1979年 - [[藤原通]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[松田次生]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* [[1980年]] - [[黒乃奈々絵]]、漫画家
* 1980年 - [[福原慶匡]]、アニメプロデューサー、実業家
* 1981年 - [[渡邊美香 (女優)|渡邊美香]]、女優、声優
* 1981年 - [[ユリン千晶]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/2000065724/ |title=ユリン千晶 |access-date=7 May 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=[[WEBザテレビジョン]]}}</ref>、声優、ナレーター
* 1981年 - [[宮平鷹志]]、騎手
* 1981年 - [[宮崎郁美]]、スノーボーダー
* [[1982年]] - [[佐田樹理]]、元バレーボール選手
* 1982年 - [[マルコ・ボリエッロ]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[後藤理沙]]、女優
* 1983年 - [[石井舞]]、女優
* 1983年 - [[平井まりあ]]、元AV女優
* [[1984年]] - [[ケイティー・オーシャー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1984年 - [[フェルナンド・ロドリゲス]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[今村翔吾]]、作家
* 1984年 - 櫻井健一朗、お笑い芸人([[祇園 (お笑いコンビ)|祇園]])
* 1984年 - [[辻あゆみ]]、声優
* [[1985年]] - [[松長朋恵]]、元サッカー選手、指導者
* 1985年 - [[松長佳恵]]、元サッカー選手、指導者
* 1985年 - [[クリス・コグラン]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[三遊亭好一郎]]、落語家
* [[1986年]] - [[リシャール・ガスケ]]、テニス選手
* 1986年 - [[スティーブ・シシェック]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[西川周作]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[ジェイソン・カストロ (野球)|ジェイソン・カストロ]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[ジェレミー・ブライヒ]]、プロ野球選手
* [[1988年]] - [[ジョシュ・ダン]]、[[ドラマー]]([[トゥエンティ・ワン・パイロッツ]])
* [[1989年]] - [[マット・ムーア (野球)|マット・ムーア]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[ピエール=エメリク・オーバメヤン]]、サッカー選手
* 1989年 - キム・テホン、アイドル([[ZE:A]])
* [[1990年]] - [[谷村美月]]、女優
* 1990年 - [[安田裕希]]、野球選手
* 1990年 - [[法月康平]]、俳優
* 1990年 - [[平賀三恵]]、元声優
* 1990年 - [[ルカーシュ・チェーレイ]]、アイスダンス選手
* 1990年 - [[スフィアン・ダッダ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[岡本玲]]、[[モデル (職業)|モデル]]、女優
* 1991年 - [[クセニア・クラシルニコワ]]、フィギュアスケート選手
* [[1992年]] - [[岡本拓也]]、サッカー選手
* 1992年 - ショヌ、アイドル([[MONSTA X]])
* [[1993年]] - [[清里千聖]]、[[ラジオパーソナリティ]]、タレント(元[[OS☆U]])
* 1993年 - [[近藤亜紀]]、女優
* 1993年 - [[中塚智実]]、タレント(元[[AKB48]])
* 1993年 - [[松井さやか]]、[[ファッションモデル]]、タレント
* [[1994年]] - [[岩波拓也]]、サッカー選手
* 1994年 - コーイチ、歌手(元[[超特急 (音楽グループ)|超特急]])
* [[1995年]] - [[松村北斗]]、アイドル、俳優([[SixTONES]])
* [[1996年]] - [[阿部華也子]]、タレント、[[ニュースキャスター|キャスター]]
* 1996年 - [[アレン・ハリロヴィッチ]]、サッカー選手
* 1996年 - [[三吉彩花]]、ファッションモデル、女優
* 1996年 - [[幸山一大]]、元プロ野球選手
* [[1997年]] - [[河村説人]]、プロ野球選手
* [[1999年]] - [[砂川リチャード]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[古市梨乃]]、バレーボール選手
* 1999年 - [[チェ・イェウォン|アリン]]、アイドル、女優([[OH MY GIRL]])
* [[2000年]] - [[松井義弥]]、元プロ野球選手
* [[2001年]] - [[矢吹奈子]]、女優、元アイドル(元[[HKT48]]、元[[IZ*ONE]])
* [[2003年]] - [[高橋萌衣]]、タレント、女優
* 2003年 - [[広本瑠璃]]、アイドル([[OCHA NORMA]])
* 生年不明 - [[小沢和之]]、声優
* 生年不明 - [[若菜よう子]]、声優
* 生年不明 - [[南雲希美]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1987年]] - [[アグネスフローラ]]、[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]](+ [[2005年]])
== 忌日 ==
[[File:King Taejo Yi 02.jpg|thumb|257x257px|[[李成桂]](1335-1408)]]
[[File:Nlc amundsen.jpg|thumb|253x253px|[[ロアール・アムンセン]](1872-1928)]]
* [[1234年]]([[天福 (日本)|天福]]2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[仲恭天皇]]、第85代[[天皇]](* [[1218年]])
* [[1291年]] - [[アルフォンソ3世 (アラゴン王)|アルフォンソ3世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]](* [[1265年]])
* [[1464年]] - [[ロヒール・ファン・デル・ウェイデン]]、[[画家]](* [[1400年]]頃)
* [[1634年]]([[寛永]]11年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[豪姫]]、[[宇喜多秀家]]の[[正室]](* [[1574年]])
* [[1672年]]([[寛文]]12年5月23日) - [[石川丈山]]、[[漢詩|漢詩人]]、[[造園|造園家]]、[[書家]](* [[1583年]])
* [[1710年]]([[宝永]]7年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[河合曾良]]、[[俳諧|俳諧師]](* [[1649年]])
* [[1726年]] - [[ミシェル=リシャール・ドラランド]]、[[作曲家]](* [[1657年]])
* [[1741年]] - [[フランソワ・プルフール・デュ・プチ]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[医者]](* [[1664年]])
* [[1753年]] - [[クロード・F・ジョフロア]]、[[化学者]](* [[1729年]]頃)
* [[1794年]] - [[フランソワ・ビュゾー]]、[[フランス革命]]期の[[ジロンド派]]指導者(* [[1760年]])
* [[1824年]] - [[フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド3世]]、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](* [[1769年]])
* [[1858年]] - [[ラクシュミー・バーイー]]、[[ジャーンシー|ジャーンシー藩王国]]王妃(* [[1820年代]]~[[1830年代]])
* [[1865年]] - [[アントワーヌ・ヴィールツ]]、画家、[[彫刻家]](* [[1806年]])
* [[1880年]] - [[ジョン・サッター]]、[[西部開拓時代|カリフォルニアの開拓者]](* [[1803年]])
* [[1902年]] - [[サミュエル・バトラー]]、[[小説家]](* [[1835年]])
* [[1905年]] - [[ペール・テオドール・クレーベ]]、[[化学者]]、[[地質学|地質学者]](* [[1840年]])
* [[1916年]] - [[ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ]](小モルトケ)、[[プロイセン参謀本部|ドイツ陸軍参謀総長]](* [[1848年]])
* 1916年 - [[マックス・インメルマン]]、ドイツの[[エース・パイロット]](* [[1890年]])
* [[1922年]] - [[ヤコブス・カプタイン]]、天文学者(* [[1851年]])
* [[1926年]] - [[オルガ (ギリシャ王妃)|オルガ・コンスタンチノヴナ]]、[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ギリシャ王ゲオルギオス1世]]の妃(* [[1851年]])
* [[1928年]] - [[ロアール・アムンセン]]、[[探検家]](* [[1872年]])
* [[1931年]] - [[矢野龍渓]]、[[著作家]](* [[1851年]])
* [[1934年]] - [[古在由直]]、[[農学|農学者]](* [[1864年]])
* [[1935年]] - [[瞿秋白]]、[[散文|散文家]]、[[文学評論|文学評論家]]、革命家(* [[1899年]])
* [[1936年]] - [[マクシム・ゴーリキー]]、[[作家]](* [[1868年]])
* [[1942年]] - {{仮リンク|アーサー・プライヤー|en|Arthur Pryor}}、[[トロンボーン]]奏者、[[バンドリーダー]](* [[1870年]])
* [[1944年]] - [[高木正雄 (野球)|高木正雄]]、[[野球選手]](* [[1916年]])
* [[1953年]] - [[小室達]]、彫刻家(* [[1899年]])
* [[1955年]] - [[豊島与志雄]]、小説家、[[翻訳家]](* [[1890年]])
* [[1959年]] - [[エセル・バリモア]]、[[俳優|女優]](* [[1879年]])
* 1962年 - [[アレクセイ・アントーノフ]]、[[ソ連軍参謀本部|ソ連軍参謀総長]](* [[1896年]])
* [[1964年]] - [[ジョルジョ・モランディ]]、画家(* [[1890年]])
* [[1971年]] - [[パウル・カラー]]、化学者(* [[1889年]])
* [[1972年]] - [[ミルトン・ヒューメイソン]]、天文学者(* [[1891年]])
* [[1974年]] - [[ゲオルギー・ジューコフ]]、[[ソ連邦元帥]](* [[1896年]])
* [[1979年]] - [[ロドルフォ・ウシグリ]]、[[劇作家]]、[[脚本家]]、[[小説家]](* [[1905年]])
* [[1980年]] - [[カジミェシュ・クラトフスキ]]、[[数学者]](* [[1896年]])
* 1980年 - [[テレンス・フィッシャー]]、[[映画監督]](* [[1904年]])
* 1980年 - [[アンドレ・ルデュック]]、[[自転車競技]]選手(* 1904年)
* [[1982年]] - [[クルト・ユルゲンス]]、俳優(* [[1915年]])
* 1982年 - [[ジューナ・バーンズ]]、作家、詩人、[[脚本家]](* [[1892年]])
* 1982年 - [[ジョン・チーヴァー]]、作家(* [[1912年]])
* [[1988年]] - [[E・ホフマン・プライス]]、小説家(* [[1898年]])
* 1988年 - [[楠瀬常猪]]、政治家、元[[広島県知事一覧|広島県知事]](* [[1899年]])
* 1988年 - [[閑院宮春仁王|閑院純仁]]、元[[皇族]](* [[1902年]])
* [[1989年]] - [[風早八十二]]、[[法学者]](* [[1899年]])
* [[1992年]] - [[斎藤邦吉]]、政治家、[[厚生省|厚生大臣]](* [[1909年]])
* 1992年 - [[ピーター・アレン]]、[[シンガーソングライター]](* [[1944年]])
* [[1995年]] - [[香月熊雄]]、政治家、元[[佐賀県知事一覧|佐賀県知事]](* [[1916年]])
* [[1999年]] - [[正田英三郎]]、[[実業家]](* [[1903年]])
* [[2002年]] - [[山本直純]]、作曲家、指揮者(* [[1932年]])
* [[2003年]] - [[ラリー・ドビー]]、元プロ野球選手(* [[1923年]])
* [[2004年]] - [[杉浦幸雄]]、[[漫画家]](* [[1911年]])
* [[2005年]] - [[松村達雄]]、俳優(* [[1914年]])
* [[2008年]] - [[ターシャ・テューダー]]、[[絵本作家]]、[[挿絵]]画家(* [[1915年]])
* 2008年 - [[神戸みゆき]]、[[タレント]](* [[1984年]])
* [[2009年]] - [[ジョヴァンニ・アリギ]]、[[社会学者]](* [[1937年]])
* [[2010年]] - [[ジョゼ・サラマーゴ]]、作家、ジャーナリスト(* [[1922年]])
* 2010年 - [[マルセル・ビジャール]]、[[軍人]](* [[1916年]])
* [[2014年]] - [[ホレス・シルバー]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* [[1928年]])
* [[2014年]] - [[摩利按世]]、声優(* [[1946年]])
* [[2015年]] - [[たてかべ和也]]、声優(* [[1934年]])
* [[2016年]] - [[秋草直之]]、元[[富士通]]社長(* [[1938年]])
* [[2018年]] - [[加藤剛]]、[[俳優]](* [[1938年]])
* 2018年 - [[ビッグバン・ベイダー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/201806210000029.html |title=プロレスラーのビッグバン・ベイダーさん死去 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2018-06-21 |accessdate=14 Feb 2023}}</ref>、[[プロレスラー]](* [[1955年]])
* 2018年 - [[XXXテンタシオン]]、ラッパー(* [[1998年]])
* [[2021年]] - [[寺内タケシ]]、[[ギタリスト]](* [[1939年]])
{{-}}
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Kasato Maru Postal Card.jpg|thumb|180x180px|海外移住の日。画像はサントス港に到着した[[笠戸丸]](1908)]]
[[Image:EdwardSMorse.jpg|thumb|動物学者[[エドワード・モース]](1838-1925)誕生。[[お雇い外国人]]として来日し、[[大森貝塚]]を発掘|218x218ピクセル]]
[[Image:Omori Shell Mounds Park.jpg|thumb|180x180px|[[大森貝塚]]遺跡公園]]
* {{仮リンク|自閉症プライドデー|en|Autistic Pride Day}}({{World}})
* 国際寿司の日 (International Sushi Day)({{World}})
*: [[Facebook]]において寿司ページを開設していたクリス・デメイが2009年に制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.takaokaya.com/2022/06/6%E6%9C%8818%E6%97%A5%EF%BC%88%E5%9C%9F%EF%BC%89%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E3%81%8A%E3%81%AB%E3%81%8E%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%8D%E5%8F%8A%E3%81%B3%E3%80%8C%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AF%BF/|title=6月18日(土)は、「おにぎりの日」及び「国際寿司の日」|publisher=髙岡屋|accessdate=2023-06-19}}</ref>。
* [[憲法記念日]]({{SYC}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.arukikata.co.jp/country/SC/info/holiday.html |title=セイシェルの祝日・休日 |access-date=14 Feb 2023 |publisher=Globe-Trotter T & E Inc. © Diamond-BigCo., Ltd. All |archive-url=https://web.archive.org/web/20170722191503/https://www.arukikata.co.jp/country/SC/info/holiday.html |archive-date=22 Jul 2017 |work=地球の歩き方}}</ref>
* モニク前王妃誕生日({{KHM}})
*: [[ノロドム・シハモニ|シハモニ]]国王の母([[ノロドム・シハヌーク|シハヌーク]]前国王の妃)・{{仮リンク|ノロドム・モニニヤット|en|Norodom Monineath}}(モニク妃)の誕生日。
* 海外移住の日({{JPN}})
*: [[国際協力事業団]]が[[1966年]]に制定。[[1908年]]のこの日、本格的な海外[[移住]]の第一陣781人を乗せた[[笠戸丸]]が、[[ブラジル]]のサントス港に到着したことを記念<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/jomm/events/reference/ku57pq00000lx5iz-att/20160617_01.pdf |title=「6月18日は海外移住の日」 |accessdate=14 Feb 2023 |publisher=JICA 横浜海外移住資料館 |format=PDF}}</ref>。
* 考古学出発の日({{JPN}})
*: [[1877年]]のこの日、[[大森貝塚]]を発見・発掘したアメリカの動物学者[[エドワード・S・モース]]が来日したことを記念<ref>{{Cite web|和書|url=https://today.smartnews.com/20190618 |title=考古学出発の日 |access-date=14 Feb 2023 |publisher=SmartNews 今日は何の日 |date=18 Jun 2019}}</ref>。[[6月20日]]、モースが汽車で横浜から新橋へ向かう途中、[[大森駅 (東京都)|大森駅]]を過ぎてすぐの崖に貝殻が堆積しているのを発見し、まもなく発掘調査が行われた。これが日本初の科学的な発掘調査で、日本の[[考古学]]の出発点となった。
* おにぎりの日({{JPN}})
*: [[石川県]][[鹿島郡]][[鹿西町]](現:[[中能登町]])にある[[中能登町#名所・旧跡|杉谷チャノバタケ遺跡]]から、日本最古とされる[[弥生時代]]の[[おにぎり]]の化石が発見されたことから、鹿西町が「おにぎりの里」としての[[地域おこし|町興し]]のために制定。鹿西のろく(6)と、毎月18日の「米食の日」から6月18日が選ばれた<ref>{{Cite news|和書 |title=[ふるさと地慢]日本一を訪ねる(5)中能登町 “おにぎり”(連載)=石川 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2007-02-15 |edition=東京朝刊 石川3面29頁 |agency=読売新聞社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.nakanoto.ishikawa.jp/soshiki/kikaku/5/2/2/1389.html |title=6月18日はおにぎりの日です。 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[中能登町]] |date=15 Jun 2022}}</ref>。
* 地蔵流し({{JPN}})
*: [[栃木県]][[日光市]]の[[中禅寺湖]]で、毎年この日に行われる先祖供養の行事。地蔵流しは、もともと中禅寺湖で亡くなった人の慰霊のため、大正時代に[[輪王寺]]の別院、[[中禅寺 (日光市)|中禅寺]]で始まった。参加者は、中禅寺で慰霊の法要が営まれた後、フェリーに乗って中禅寺湖上へ行き、お地蔵様が描かれた御札を湖に投げいれ、亡くなった人の冥福を祈る<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/utsunomiya/20230619/1090015162.html |title=栃木 日光 中禅寺湖で「地蔵流し」先祖の霊を供養 4年ぶり |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] 栃木 NWES WEB |date=19 Jun 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180619-6NGABTY2JBM27OEERPCE4R7YKQ/ |title=500人参列し冥福祈る 中禅寺湖で「地蔵流し」 栃木 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=19 Jun 2018}}</ref>。
* 618商戦({{CHN}})
*: [[京東商城|京東集団]]が同社の創立記念日を祝して2008年に始めた割引セール。6月1から18日までの開催期間における2021年の京東の流通総額は、楽天の日本国内での年間EC流通総額を上回る。京東以外にも中国EC最大手のアリババ等も同イベントに参加している<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/596418 |title=中国の「巨大EC商戦」に参戦する日本勢の深刻問題 |access-date=14 Feb 2023 |publisher=[[東洋経済オンライン|東洋経済オONLINE]] |date=14 Jun 2022}}</ref>。
*食文化の日({{World}})
*: 国連は前年2015年SDGsを含んだ「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の採決の後、2016年に6月18日を“Sustainable Gastronomy Day”(持続可能な食文化の日)とした<ref>{{Cite web |url=https://www.un.org/en/observances/sustainable-gastronomy-day |title=Sustainable Gastronomy Day 18 June |accessdate=14 Feb 2023 |publisher=United Nations}}</ref>。
{{-}}
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0618|date=2023年5月}}
* [[1815年]] - ワーテルローの戦いが終わった夜、ジョルジュ・ポンメルシー[[少佐]]が[[軍曹]]こと「落伍兵」のテナルディエに命を救われる。(『[[レ・ミゼラブル]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1815年]] - コゼット・ポンメルシー、小説『[[コゼット (小説)|コゼット]]』に登場するキャラクター<ref group="注">[[戸籍]]上の誕生日。実際の誕生日は不明。</ref>
* [[1933年]] - 志村貴文、ゲーム『[[SIREN]]』に登場するキャラクター
* [[1962年]] - 土門薫、ドラマ『[[科捜研の女]]』に登場するキャラクター
* [[1964年]] - [[冷越豪]]、漫画・アニメ『[[ハイスクール!奇面組]]』に登場するキャラクター
* [[1965年]] - たまちゃん、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tweet_maruko|1405691735787855879}}</ref>
* [[1984年]] - 平丸一也、漫画『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=小畑健|authorlink1=小畑健|author2=大場つぐみ|authorlink2=大場つぐみ|date=2010-12-29 |title = バクマン。キャラクターブック キャラマン。 |page = 62 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4088748498 }}</ref>
* [[1989年]] - 夜神粧裕、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|coauthors = [[小畑健]] |date=2006-10-13|title = DEATH NOTE |volume =(13)|page=24|publisher = [[集英社]] |isbn =978-4088740959 |series=[[ジャンプコミックス]]}}</ref>
* [[2024年]] - サリー・セイント・フォード、アニメ『[[マクロス7]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 河合砂沙美、小説・アニメ『[[魔法少女プリティサミー]]』の主人公
*生年不明 - 室崎みよ、漫画・アニメ『[[お兄ちゃんはおしまい!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onimai.jp/character/miyo.html|title=室崎みよ |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[ねことうふ]]・[[一迅社]]/「おにまい」製作委員会 |work=『お兄ちゃんはおしまい!』}}</ref>
* 生年不明 - エリー(エルフィール・トラウム)、ゲーム『[[アトリエシリーズ (ザールブルグ)#エリーのアトリエ 〜ザールブルグの錬金術士2〜|エリーのアトリエ 〜ザールブルグの錬金術士2〜]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.salburg.com/products/A3/history/elie.html |title=エルフィール・トラウム(エリー) Elfir-Traum |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[ガスト (ゲームブランド)|GUST CO.]] |work=『エリーのアトリエ』}}</ref>
* 生年不明 - [[リトルフォレストフェロォ]](めろぉ)、 [[サンリオ]]のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=リトルフォレストフェロォ |url=https://www.sanrio.co.jp/character/littleforestfellow/ |accessdate=17 Aug 2023 |publisher=[[サンリオ]]}}</ref>
* 生年不明 - アナ・コッポラ、漫画・アニメ『[[苺ましまろ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - リカ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Rika.html |title=リカ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=17 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - マヒル、漫画『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=27|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref><ref>{{Twitter status|narucole_jp|1140635219457802240}}</ref>
* 生年不明 - シホ、漫画『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1140635218476318721}}</ref>
* 生年不明 - 黄瀬涼太、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|743826544376713217}}</ref>
* 生年不明 - ジェニュイン、漫画・アニメ『[[魔人探偵脳噛ネウロ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ansatsu_k|1537812320616955907}}</ref>
* 生年不明 - 鉄平、漫画・アニメ『[[トリコ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 灰呂杵志、漫画・アニメ『[[斉木楠雄のΨ難]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Hino_Satoshi_84|1405857378604523520}}</ref>
* 生年不明 - 小島良由起、漫画・アニメ『[[ちょびっツ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 山口大介、漫画・アニメ『[[咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=山口 大介(やまぐち だいすけ) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=17 Aug 2023 |publisher=[[小林立]]}}</ref>
* 生年不明 - 柚木梓馬、漫画・ゲーム・アニメ『[[金色のコルダ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|corda_official|1537993754438664192}}</ref>
* 生年不明 - アオギリ、漫画・アニメ『[[くノ一ツバキの胸の内]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://gekkansunday.net/tsubaki-character/ |title=キャラクター紹介 アオギリ |access-date=17 Aug 2023 |publisher=ゲッサン 月刊少年サンデー |work=『くノ一ツバキの胸の内』}}</ref>
* 生年不明 - 横澤隆史、小説・アニメ『[[世界一初恋]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|animatehirosima|478429162818924545}}</ref>
* 生年不明 - 由比ヶ浜結衣、小説・アニメ『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/oregairu/news/news20200618_01.html |title=ハッピーバースデー結衣! |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[渡航|渡 航]]、[[小学館]]/やはりこの製作委員会はまちがっている。完 |date=2020-06-18}}</ref>
* 生年不明 - 浜木綿えびの、[[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]『[[マリッジロワイヤル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://marriageroyale.com/charactor/ebino.html |title=浜木綿 えびの |access-date=17 Aug 2023 |publisher=Omegavision, Inc./[[アスキーメディアワークス|ASCII MEDIA WORKS]] {{!}} ウェットティッシュノベルティ |work=『Marriage Royale』}}</ref>
* 生年不明 - 守野くるみ、ゲーム『[[infinity (ゲーム)|infinity]]』『Never7 -the end of infinty-』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.success-corp.co.jp/software/sl2000/never7/kyara04.html |title=キャラクター紹介 森野 くるみ |publisher=[[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]] |accessdate=17 Aug 2023|work=『Never 7 ~the end of infinity〜』}}</ref>
* 生年不明 - ペリーヌ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m06.html |title=住民名簿 6月 ペリーヌ |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 二見真魚、ゲーム『[[21-Two One-]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - みかん、ゲーム『[[わんことくらそう]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[このは (ゲームキャラクター)|このは]]、ゲーム『[[アルカナハート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.arcsystemworks.jp/ah3/c_konoha.html |title=このは |work=『アルカナハート3』 |accessdate=17 Aug 2023 |publisher=[[エクサム|EXAMU Inc.]]/[[アークシステムワークス|ARC SYSTEM WORKS]]}}</ref><ref>{{Cite book |和書|date=2011-03-29|title=アルカナハート3 は~とふるファンブック|series=ホビージャパンMOOK 388|publisher=[[ホビージャパン]] |isbn=978-4798602073}}</ref>
* 生年不明 - 森下聖子、ゲーム『[[ほしうた]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://frontwing.jp/product/hoshiutass/character_seiko.html |title=登場人物紹介 森下 聖子 |publisher=[[フロントウイング]] |accessdate=17 Aug 2023 |work=『ほしうた starlight serenade』}}</ref>
* 生年不明 - 葉山鷹子、ゲーム『[[てとてトライオン!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pulltop.com/gp07/02_chara06-01.html |title=葉山 鷹子 VOICE:自己紹介 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[PULLTOP]] |work=『てとてトライオン!』}}</ref>
* 生年不明 - 葉山鳩子、ゲーム『てとてトライオン!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pulltop.com/gp07/02_chara09-01.html |title=葉山 鳩子 VOICE:自己紹介 |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[PULLTOP]] |work=『てとてトライオン!』}}</ref>
* 生年不明 - 古谷朱里、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130514_163076/ |title=【ガールフレンド(仮)通信36】自由気ままな発掘ガール 古谷朱里ちゃん(CV:小清水亜美) |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]]|work=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - 榊夏来、ゲーム『[[アイドルマスター SideM]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/search/detail/40025 |title=榊 夏来(さかき なつき) |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - ダヤン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=94&cate=name&cont=Dayang |title=ダヤン |access-date=17 Aug 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - タリシャ、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kings-raid.com/characters/#character-3147 |title=タリシャ |publisher=『キングスレイド』 |accessdate=17 Aug 2023|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104190459/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=3147 |archivedate=4 Nov 2021}}</ref>
* 生年不明 - 蔵里見、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/30g/kura-satomi/ |title=蔵里見 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=17 Aug 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref>
* 生年不明 - [[富士葵]]、[[バーチャルYouTuber]]<ref>{{YouTube|clSv-V4MyxA|【アコースティックライブ】2020年も誕生日が、来たーーー!!! #富士葵生誕祭2020 生放送}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|6|17|6|19|[[5月18日]]|[[7月18日]]|[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]|0618|6|18}}
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