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6月19日
6月19日(ろくがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から170日目(閏年では171日目)にあたり、年末まであと195日ある。
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{{カレンダー 6月}} '''6月19日'''(ろくがつじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から170日目([[閏年]]では171日目)にあたり、年末まであと195日ある。 == できごと == [[Image:The_Fight_at_Seven_Oaks.jpg|thumb|[[カナダ]]の[[毛皮]]利権を争う[[セブン・オークスの戦い]](1816)]] [[Image:Sacred band dragatsani battle.jpg|thumb|upright|[[ドラガシャニの戦い]](1821)]] [[Image:Emancipation_Day_celebration_-_1900-06-19.jpg|thumb|[[奴隷]]制度の残る最後の州であった[[テキサス州]]で奴隷が解放される(1865)。画像は1900年の[[:en:Juneteenth]]]] [[Image:Fighter_plane_contrails_in_the_sky.jpg|thumb|[[第二次世界大戦]]、[[マリアナ沖海戦]](1944)。日本は「マリアナの七面鳥撃ち」と呼ばれるほどの一方的な大敗を喫した]] [[Image:Shizuoka_after_the_1945_air_raid.JPG|thumb|[[静岡大空襲]]・[[福岡大空襲]](1945)。画像は空襲後の静岡]] <!-- [[Image:Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG|thumb|210px|[[名古屋テレビ塔]]竣工(1954)]] --> * [[325年]] - [[第1ニカイア公会議]]で[[ニカイア信条]]が採択される<ref>{{cite book|author=Karl Joseph von Hefele|title=A History of the Councils of the Church: To the close of the Council of Nicea, A.D. 325|url=https://archive.org/details/ahistorycouncil01hefegoog|year=1871|publisher=T. & T. Clark|pages=[https://archive.org/details/ahistorycouncil01hefegoog/page/n289 275]–}}</ref>。以後[[第1コンスタンティノポリス公会議]]([[381年]])などで増補を見る。 * [[1179年]] - {{仮リンク|ノルウェー内戦時代|en|Civil war era in Norway}}:[[ノルウェー]]の[[トロンハイム]]近郊(旧称[[:en:Kalvskinnet|Kalvskinnet]])で戦闘が起こり、[[アーリン・スカッケ]]([[:en:Erling Skakke|Erling Skakke]])が戦死。 * [[1306年]] - {{仮リンク|メスヴェンの戦い|en|Battle of Methven}}。[[ペンブルック伯]]の軍が[[スコットランド王]]の[[ロバート・ブルース]]を破る。 * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - 倒幕に転じた[[足利尊氏|足利高氏]]らの攻撃により[[六波羅探題]]が陥落{{要出典|date=2021-04}}。 * [[1419年]] - [[応永の外寇]]。[[李氏朝鮮]]軍が[[対馬]]に上陸。 * [[1586年]] - [[ロアノーク植民地]]の確立に失敗したイングランド人たちが[[ロアノーク島]]を去る。 * [[1718年]] - 地滑りにより{{仮リンク|通渭・甘粛地震|en|1718 Tongwei–Gansu earthquake}}が発生し、中国(当時[[清]])で73000人が死亡<ref name="NGDC">{{citation|title=Significant Earthquake Database|author=National Geophysical Data Center / World Data Service (NGDC/WDS)|year=1972|type=Data Set|url=https://www.ngdc.noaa.gov/hazel/view/hazards/earthquake/event-more-info/1138|publisher=[[National Geophysical Data Center]], [[National Oceanic and Atmospheric Administration|NOAA]]|doi=10.7289/V5TD9V7K}}</ref>。 * [[1754年]] - [[オールバニ会議]]がはじまり、同年[[7月11日]]まで[[13植民地]]と[[インディアン]]の代表者が会議を行う。 * [[1800年]] - [[フランス革命戦争]]([[第二次対仏大同盟]]):{{仮リンク|ヘヒシュテットの戦い (1800年)|en|Battle of Höchstädt (1800)|label=ヘヒシュテットの戦い}} * [[1816年]] - [[セブン・オークスの戦い]]。カナダで、毛皮交易をめぐり交易会社2社が戦闘。 * [[1821年]] - [[ギリシャ独立戦争]]: [[ドラガシャニの戦い]]。[[フィリキ・エテリア]]が[[オスマン帝国]]に敗れ壊滅。 * [[1846年]] - 公式な記録に残る史上初の[[野球]]の試合が[[ニュージャージー州]][[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]のエリシアン球場で行われる。ニューヨークベースボールクラブがニッカーボッカーズを23–1で勝利。<!-- enより --> * [[1850年]] - [[ルイーゼ・ファン・オラニエ=ナッサウ]]が[[スウェーデン=ノルウェー]]王太子[[カール15世 (スウェーデン王)|カール]]と[[ストックホルム]]で結婚。 * [[1862年]] - [[アメリカ合衆国議会]]が[[ドレッド・スコット対サンフォード事件]]の判決を破棄して、アメリカ合衆国の領域内での[[奴隷制]]を禁止。 * [[1865年]] - [[奴隷解放宣言]]の2年後、[[アメリカ合衆国]]で最も遅く[[テキサス州]][[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン]]の[[奴隷]]に自身が自由になったことが知らされる(1866年以降現在までにテキサス州ほか36州で'''[[ジューンティーンス]]'''として祝われ、[[2021年]][[6月17日]]には正式な祝日となった)。 * [[1867年]] - [[メキシコ]]の[[自由主義]]勢力が[[ケレタロ]]で[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|メキシコ皇帝マクシミリアン]]を処刑。 * [[1868年]] - [[ヨハン・シュトラウス2世]]のワルツ『[[ウィーンの森の物語]]』が初演される。 * [[1875年]] - 反[[オスマン帝国]]を掲げた[[ヘルツェゴヴィナ蜂起 (1875年-1877年)|ヘルツェゴヴィナ蜂起]]が勃発。 <!-- enにあるが、[[アメリカ連合国]]によれば最後のジョージア州の再加入は7月15日 * [[1870年]] - [[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]の[[アメリカ連合国]]諸州が公式に[[アメリカ合衆国]]に再加入し、アメリカ連合国が消滅。 --> * [[1890年]] - [[北十津川村]]廃村。 * [[1903年]] - [[ベニート・ムッソリーニ]]が[[ベルン]]警察に逮捕される。 * [[1910年]] - [[ワシントン州]][[スポケーン]]で初の[[父の日]]が祝われる。<!-- enより --> * [[1913年]] - [[南アフリカ]]で1913年先住民土地法([[:en:Natives Land Act, 1913|Natives Land Act, 1913]])が施行される。 * [[1915年]] - [[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]「[[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]」が進水。 * [[1927年]] - [[新潟県]][[見附市|見附町]]で大火。家屋150戸、織物工場23棟が全焼。隣接する[[葛巻村]]にも延焼<ref>烈風下の見附町で大火、全半焼二百戸『新潟日報』昭和2年6月20日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p553 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1932年]] - [[広野ゴルフ倶楽部|廣野ゴルフ倶楽部]]開場。<!-- 特筆性? : 名門ではあるらしいですが、どうなんでしょう… --> * [[1933年]] - [[オーストリア]]がナチス([[国家社会主義ドイツ労働者党]])を非合法化。 * 1933年 - [[丹那トンネル]]が貫通。<!-- 開業は11月30日 --> * [[1934年]] - アメリカで、{{仮リンク|1934年通信法|en|Communications Act of 1934}}が施行され、[[連邦通信委員会]](FCC)が発足。 * [[1937年]] - [[黒河市|黒河]]下流の乾岔子島と金阿穆河島で[[ソビエト連邦]]・[[満州国]]両軍が衝突([[乾岔子島事件]])。 * [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]による選手不足のため、[[NFL]]の[[フィラデルフィア・イーグルス]]と[[ピッツバーグ・スティーラーズ]]が1シーズン合併し「スティーグルス([[:en:Steagles|Steagles]])」を結成。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]・[[マリアナ・パラオ諸島の戦い]]: [[マリアナ沖海戦]]。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[静岡大空襲]]・[[福岡大空襲]]。 * [[1947年]] - パン・アメリカン航空121便墜落事故([[:en:Pan Am Flight 121|Pan Am Flight 121]])。 * [[1948年]] - [[玉川上水]]で[[太宰治]]と[[山崎富栄]]の心中遺体が発見される。 * 1948年 - [[衆議院]]で「[[教育勅語]]等排除に関する決議」が、[[参議院]]で「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ可決。 * [[1951年]] - [[読売ジャイアンツ]]が米[[マイナーリーグ]]から[[スカウト (勧誘)|スカウト]]した[[ハワイにおける日本人移民|ハワイ移民]][[二世 (日系人)|2世]]の[[与那嶺要]](ウォーリー与那嶺)が公式戦初登場。戦後初の外国人選手。 * [[1953年]] - [[ローゼンバーグ事件]]: ローゼンバーグ夫妻が処刑。 * [[1954年]] - [[名古屋テレビ塔]]が竣工。 * 1954年 - 琉球政府計画移民第一陣269人がボリビアへ出発<ref>https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/5804</ref> * [[1955年]] - [[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]の[[武智文雄]]が[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]では初、日本[[プロ野球]]史上2人目の[[完全試合]]を達成。 *[[1959年]] - アメリカ軍の那覇サイト(現・[[那覇空港]])で[[核ミサイル]]の誤射事故。死者1人、負傷者6人。 * [[1960年]] - [[安保闘争]]: デモ隊33万人が徹夜で国会を包囲する中、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|新日米安保条約]]が[[参議院]]の議決がないまま午前零時に自然成立。<!-- 発効および旧条約の失効は6月23日 --> * 1960年 - 初となる[[NASCAR]]のレースが[[シャーロット・モーター・スピードウェイ|シャーロットモータースピードウェイ]]で開催。 * [[1961年]] - [[クウェート]]が[[イギリス]]保護領から独立。 * [[1964年]] - 初の日米間[[太平洋]]横断[[海底ケーブル]]TPC-1が開通。 * 1964年 - [[1964年公民権法]]が[[米国上院]]で83日間の[[議事妨害]]の末に成立。 * [[1965年]] - [[アルジェリア]]大統領[[ベン・ベラ]]が軍事[[クーデター]]で失脚、{{仮リンク|ウアリ・ブーメディエン|en|Houari Boumediene}}が後任となる。 * 1965年 - [[グエン・カオ・キ]]が[[南ベトナム]]の[[南ベトナムの指導者|首相]]に就任。 * [[1970年]] - [[特許協力条約]]調印。 * 1970年 - [[エドワード・ヒース]]がイギリスの第68代首相に就任。 * 1970年 - [[下関市|下関]] - 韓国・[[釜山広域市|釜山]]の[[関釜フェリー]]が運航開始。 * [[1976年]] - [[カール16世グスタフ (スウェーデン王)|スウェーデン王カール16世グスタフ]]がドイツ人女性[[シルヴィア (スウェーデン王妃)|ジルフィア・レナーテ・ゾマラート]]と結婚。 * [[1978年]] - アメリカで新聞漫画『[[ガーフィールド (漫画)|ガーフィールド]]』の連載が開始。 * [[1984年]] - [[デンマーク]]政府が、この年に亡くなった[[植村直己]]が1978年の[[グリーンランド]]縦断の際の到達点とした「ヌナタック峰」を「ヌナタック・ウエムラ峰」と呼称することを決定。 * [[1985年]] - [[投資ジャーナル事件]]で、投資顧問会社・投資ジャーナルの元会長[[中江滋樹]]らが詐欺罪で逮捕。 * 1985年 - [[エルサルバドル]]で中米労働者革命党([[:en:Revolutionary_Party_of_Central_American_Workers]])の兵士によるゾナ・ロサ攻撃([[:en:1985 Zona Rosa attacks|1985_Zona_Rosa_attacks]])が発生。 * [[1986年]] - ベトナムの二重体児[[ベトちゃんドクちゃん]]が[[急性脳症]]の治療のため東京で手術。 * [[1987年]] - [[バスク地方]]の分離独立を掲げる[[バスク祖国と自由]](ETA)が[[バルセロナ]]のショッピングセンターで[[車爆弾]]によるテロ。45名の死者を出す([[:en:1987 Hipercor bombing]])。<!-- enより --> * [[1988年]] - [[ローマ法王]]の[[ヨハネ・パウロ2世]]が117名のベトナム殉教者([[:en:Vietnamese Martyrs|Vietnamese Martyrs]])を列聖。 * [[1990年]] - 先住民及び部族民条約([[:en:Indigenous and Tribal Peoples Convention|Indigenous and Tribal Peoples Convention]])を[[ノルウェー]]が世界で初めて批准。 * 1990年 - [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党]]が設立。 * [[2000年]] - [[大阪証券取引所]]で株式市場[[ナスダック]]・ジャパン(現・[[ヘラクレス (有価証券市場)|ヘラクレス]])が取引開始。 * [[2002年]] - [[アフガニスタン]]の[[ロヤ・ジルガ]](大会議)により[[アフガニスタン・イスラム移行国]]が成立。アフガニスタン暫定行政機構の[[ハーミド・カルザイ]]議長が大統領に就任。 * 2002年 - [[鈴木宗男事件]]: [[衆議院議員]]の[[鈴木宗男]]が[[斡旋収賄]]の容疑で逮捕。 * [[2005年]] - [[JR福知山線脱線事故|脱線事故]]で[[4月25日]]以来不通となっていた[[福知山線]](JR宝塚線)[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]] - [[宝塚駅]]間が運転再開。 * 2005年 - 韓国で[[漣川軍部隊銃乱射事件]]が起こる。 * 2005年 - この年の[[2005年アメリカグランプリ|アメリカグランプリ]]にて出走したカートのうち、安全性に懸念のあるミシュランタイヤを装着した14台がフォーメーションラップを終えた時点でリタイアし、[[ブリヂストン]]タイヤの3チーム6台だけがレースに出場することに。 * [[2007年]] - [[東京都]][[渋谷区]]の女性専用会員制温泉施設「[[松濤温泉シエスパ]]」で[[渋谷温泉施設爆発事故|ガス爆発事故]]発生。女性従業員3名が死亡。 * 2007年 - [[バグダッド]]でアル=キラニ・モスク爆撃([[:en:2007 al-Khilani Mosque bombing|2007_al-Khilani_Mosque_bombing]]) * 2007年 - [[YouTube]]のインターフェース等が日本語・フランス語版を含めた10か国語に対応<ref name="cnet20070619">{{Cite web|和書|url=https://japan.cnet.com/article/20351120/ |title=YouTube Japanがスタート--日本語をはじめ多言語化 |work=CNET Japan |publisher=朝日インタラクティブ |date=2007-06-19 |accessdate=2021-11-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211124093633/https://japan.cnet.com/article/20351120/ |archivedate=2021-11-24}}</ref>。 * [[2009年]] - 石首事件([[:en:Shishou incident|Shishou incident]])が勃発。 * 2009年 - [[タリバン]]やイスラム反政府勢力の連邦直轄部族地域に対し[[パキスタン]]がラー=エ=ニジャット作戦([[:en:Operation Rah-e-Nijat|Operation_Rah-e-Nijat]])を行う * [[2012年]] - 有料放送が無料で視聴できるよう、[[B-CASカード]]を不正改造して販売していた[[東京都]]在住の男が[[不正競争防止法]]違反容疑で[[京都府警察|京都府警]]に[[逮捕]](B-CASカード不正で初の[[立件]])<ref>{{Cite web|和書|date=2012年6月19日 |url=https://japan.cnet.com/article/35018334/ |title=B-CASカード不正改造で全国初の逮捕者 |publisher=CNET Japan |accessdate=2018-04-05}}</ref>。 * [[2016年]] - 日本で改正[[公職選挙法]]施行<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-20 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFD19H06_Z10C16A6CN8000/ |title=奨学金の充実、高校生ら要求 2000人が名古屋・栄を行進 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-04-05}}</ref>。[[選挙権]]年齢が20歳以上から18歳以上に引き下げられる。 * [[2018年]] - 史上10,000,000番目の[[アメリカ合衆国特許商標庁|アメリカ合衆国特許]]が発行<ref>{{cite patent|country=US|number=10,000,000|status=patent|title=COHERENT LADAR USING INTRA-PIXEL QUADRATURE DETECTION|gdate=Jun. 19, 2018|inventor=Joseph Marron|assign1=Raytheon Company|url=https://10millionpatents.uspto.gov/docs/patent10million.pdf}}</ref>。 * 2018年 - アントワン・ローズ2世([[:en:Shooting_of_Antwon_Rose_Jr.|Antwon Rose II]])がイースト・ピッツバーグで車上荒らしに遭い、同地の警察のマイケル・ロスフェルド(Michael Rosfeld)巡査に撃たれて死亡<ref>{{Cite web |last=Silverman |first=Darran Simon Hollie |title=East Pittsburgh police officer fatally shot 17-year-old Antwon Rose fleeing traffic stop |url=https://www.phillytrib.com/news/east-pittsburgh-police-officer-fatally-shot-17-year-old-antwon-rose-fleeing-traffic-stop/article_bd4e3718-754a-11e8-a039-dba5899b0f90.html |access-date=2020-08-24 |website=The Philadelphia Tribune |language=en}}</ref>。 * [[2021年]] - [[ビックカメラ]]と[[ユニクロ]]のコラボ店舗「ビックロ」からユニクロが撤退、6月20日よりビックカメラ 新宿東口店となる。 * [[2022年]] - [[コロンビア]]大統領選挙で[[中道左派]]の[[グスタボ・ペトロ]]が当選。史上初の左派政権が誕生。 {{-}} == 誕生日 == [[Image:King_James_I_of_England_and_VI_of_Scotland_by_Arnold_van_Brounckhorst.jpg|thumb|100px|イングランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]](1566-1625)誕生]] [[Image:Blaise_pascal.jpg|thumb|upright|科学者・哲学者、[[ブレーズ・パスカル]](1623-1662)誕生。{{Squote|好奇心は虚栄でしかない。大概は、人が何かを知ろうとするのはそれを喋りたいがためだけである。――『[[パンセ]]』}}]] <!-- {{Squote|[[人間]]は考える芦である。――『[[パンセ]]』}}{{Squote|[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]の鼻がもう少し低かったなら、地球の表面は全然違ったものになっていたであろう。――『[[パンセ]]』}} 有名どころ。[[モラリスト]]はどこを引いてもquoteになります --> [[Image:Jose Rizal full.jpg|thumb|100px|[[フィリピン]]の独立運動家、[[ホセ・リサール]](1861-1896)。{{Squote|西洋文明が太平洋にもたらされる時、その最初に現れる兆候はいつも[[死]]であった。}}<!--{{Squote|誰もが自分の都合に合わせて歴史を書く。――1886年の書簡}}-->]] [[Image:GehrigCU.jpg|thumb|100px|[[メジャーリーグベースボール|大リーガー]]、「鉄の馬」[[ルー・ゲーリッグ]](1903-1941)]] <!-- WANTED:オーゲ・ニールス・ボーア -->[[ファイル:Chris Holmes and Boris Johnson (cropped).ipg.jpg|代替文=|サムネイル|103x103ピクセル|第77代[[イギリスの首相|イギリス首相]]、[[ボリス・ジョンソン]](1964-)]] * [[1301年]]([[正安]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[守邦親王]]、[[鎌倉幕府]]第9代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1333年]]) * [[1417年]] - {{仮リンク|シギズモンド・パンドルフォ・マラテスタ|en|Sigismondo Pandolfo Malatesta|it|Sigismondo Pandolfo Malatesta}}、[[コンドッティエーレ]](+ [[1468年]]) * [[1566年]] - [[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[イングランド王国|イングランド]]国王(+ [[1625年]]) * [[1590年]] - {{仮リンク|フィリップ・ベル (植民地総督)|en|Philip Bell (colonial administrator)|label=フィリップ・ベル}}、[[植民地]]総督(+ [[1678年]]) * [[1595年]] - [[グル・ハルゴービンド]]、[[シク教]]の第6代[[グル]](+ [[1645年]]) * [[1598年]] - {{仮リンク|ギルバート・シェルドン|en|Gilbert Sheldon}}、[[カンタベリー大主教]](+ [[1677年]]) * [[1606年]] - [[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]、初代[[ハミルトン公爵]](+ [[1649年]]) * [[1623年]] - [[ブレーズ・パスカル]]、[[哲学者]]、[[数学者]]、[[物理学者]](+ [[1662年]]) * [[1633年]] - フィリップ・ファン・リンボルヒ([[:en:Philipp van Limborch|Philipp van Limborch]])、[[神学者]](+ [[1712年]]) * [[1698年]]([[元禄]]11年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[青木昆陽]]、[[蘭学者]](+ [[1769年]]) * [[1701年]] - {{仮リンク|フランソワ・レベウ|fr|François Rebel}}、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1775年]]) * [[1731年]] - {{仮リンク|マシャドゥ・デ・カストロ|pt|Machado de Castro}}、[[彫刻家]](+ [[1822年]]) * [[1763年]] - [[ヨハン・アルガイエル]]、[[チェス]]プレイヤー(+ [[1823年]]) * [[1764年]] - [[ホセ・ヘルバシオ・アルティガス]]([[:en:José Gervasio Artigas|José Gervasio Artigas]])、[[ウルグアイ]]の[[独立運動]]指導者(+ [[1850年]]) * [[1771年]] - {{仮リンク|ジョセフ・ディエス・ゲルゴンヌ|en|Joseph Diez Gergonne|fr|Joseph Diez Gergonne}}、[[数学者]](+ [[1859年]]) * [[1776年]] - {{仮リンク|フランシス・ジョンソン (下院議員)|en|Francis Johnson (congressman)|label=フランシス・ジョンソン}}、政治家(+ [[1842年]]) * [[1782年]] - [[フェリシテ・ド・ラムネー]]、[[キリスト教]][[社会主義]][[思想|思想家]](+ [[1854年]]) * [[1783年]] - [[フリードリヒ・ゼルチュルナー]]、[[薬剤師]](+ [[1841年]]) * [[1793年]] - {{仮リンク|ジョセフ・アール・シェフィールド|en|Joseph Earl Sheffield}}、[[実業家]]、[[慈善家]](+ [[1882年]]) * [[1795年]] - [[ジェイムズ・ブレイド]]、[[外科医]]・[[催眠]][[研究者]](+ [[1860年]]) * [[1797年]] - {{仮リンク|ハミルトン・ヒューム|en|Hamilton Hume}}、[[探検家]](+ [[1873年]]) * [[1806年]] - [[ヨハン・ネポムク・ホーフツィンザー]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[1875年]]) * [[1815年]] - {{仮リンク|コーネリアス・クリーゴフ|en|Cornelius Krieghoff}}、[[画家]](+ [[1872年]]) * [[1816年]] - {{仮リンク|ウィリアム・ヘンリー・ウェブ|en|William H. Webb}}、実業家(+ [[1899年]]) * [[1833年]] - {{仮リンク|メアリー・テニー・グレイ|en|Mary Tenney Gray}}、慈善家、社会活動家(+ [[1904年]]) * [[1834年]] - [[チャールズ・スポルジョン]]、[[バプテスト派]]の[[牧師]]・[[伝道者]](+ [[1892年]]) * [[1840年]] - {{仮リンク|ゲオルク・カール・マリア・ザイトリッツ|de|Georg Carl Maria von Seidlitz}}、[[昆虫学者]](+ [[1917年]]) * [[1843年]] - {{仮リンク|メアリー・シベット・コプリー|en|Mary Sibbet Copley}}、慈善家(+ [[1929年]]) * [[1846年]] - [[アントニオ・アベッティ]]、[[天文学者]](+ [[1928年]]) * [[1850年]] - [[デイヴィッド・ジェイン・ヒル]]、政治家、[[外交官]]、[[歴史家]]、第24代[[アメリカ合衆国国務次官補]](+ [[1932年]]) * [[1851年]] - {{仮リンク|スィルヴァナス・フィリップス・トンプソン|en|Silvanus P. Thompson}}、[[物理学者]]、エンジニア(+ [[1916年]]) * [[1854年]] - [[アルフレード・カタラーニ]]、[[作曲家]](+ [[1893年]]) * 1854年 - [[:en:Hjalmar_Mellin|Hjalmar Mellin]]、[[数学者]](+ [[1933年]]) * [[1855年]] - {{仮リンク|ジョージ・F・ロッシュ|en|George F. Roesch}}、政治家(+ [[1917年]]) * [[1858年]] - {{仮リンク|サム・ウォルター・フォス|en|Sam Walter Foss}}、[[詩人]](+ [[1911年]]) * [[1861年]] - [[ホセ・リサール]]、[[フィリピン]]独立の英雄(+ [[1896年]]) * 1861年 - [[ダグラス・ヘイグ]]、初代{{仮リンク|ヘイグ伯爵|en|Earl Haig}}(+ [[1928年]]) * [[1865年]] - [[メイ・ウィッティ]]、[[俳優|女優]](+ [[1948年]]) * [[1868年]] - [[ハインリヒ・シェンカー]]、[[音楽学者]](+ [[1935年]]) * [[1872年]] - {{仮リンク|セオドア・ペイン|en|Theodore Payne}}、庭師、生物学者(+ [[1963年]]) * [[1874年]] - [[久留島武彦]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](+ [[1960年]]) * 1874年 - {{仮リンク|ペーデル・オラフ・ペデルセン|da|P.O. Pedersen (ingeniør)}}、[[物理学者]](+ [[1941年]]) * [[1876年]] - [[ナイジェル・グレズリー]]、[[蒸気機関車]]技術者(+ [[1941年]]) * [[1877年]] - [[チャールズ・コバーン]]、[[俳優]](+ [[1961年]]) * 1877年 - {{仮リンク|マギネル・ライト・エンライト|en|Maginel Wright Enright}}、[[イラストレーター]](+ [[1966年]]) * [[1878年]] - [[ヤコフ・ユロフスキー]]、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]殺害の銃殺隊を指揮(+ [[1938年]]) * [[1880年]] - [[山崎達之輔]]、[[政治家]](+ [[1948年]]) * [[1883年]] - {{仮リンク|グラディス・ミルズ・フィップス|en|Gladys Mills Phipps}}、馬主(+ [[1970年]]) * [[1884年]] - [[エディ・シーコット]]、[[プロ野球選手]](+ [[1969年]]) * 1884年 - {{仮リンク|ジョルジュ・リブモン=デサイニュ|fr|Georges Ribemont-Dessaignes}}、[[画家]]、歴史家(+ [[1974年]]) * [[1888年]] - {{仮リンク|アーサー・マッセイ・ベリー|en|Arthur Massey Berry}}、[[軍人]](+ [[1970年]]) * [[1891年]] - [[ジョン・ハートフィールド]]、[[写真家]]、[[ダダイスム|ダダイスト]](+ [[1968年]]) * [[1896年]] - [[ウォリス・シンプソン]]、[[エドワード8世 (イギリス王)|ウィンザー公エドワード]]の妻(+ [[1986年]]) * 1896年 - {{仮リンク|ラジャニ・パルメ・ダット|en|Rajani Palme Dutt}}、[[ジャーナリスト]](+ [[1974年]]) * [[1897年]] - [[シリル・ヒンシェルウッド]]、[[化学者]](+ [[1967年]]) * 1897年 - [[モー・ハワード]]、[[コメディアン]]、俳優、[[映画監督]](+ [[1975年]]) * [[1902年]] - {{仮リンク|ガイ・ロンバード|en|Guy Lombardo}}、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1977年]]) * [[1903年]] - [[ルー・ゲーリッグ]]、プロ野球選手(+ [[1941年]]) * 1903年 - {{仮リンク|メアリー・キャラリー|en|Mary Callery}}、彫刻家(+ 1977年) * 1903年 - [[ウォーリー・ハモンド]]、[[クリケット]]選手(+ [[1965年]]) * 1903年 - {{仮リンク|ハンス・リッテン|en|Hans Litten|de|Hans Litten}}、弁護士(+ [[1938年]]) * [[1905年]] - [[ミルドレッド・ナトウィック]]、[[俳優|女優]](+ [[1994年]]) * [[1906年]] - [[エルンスト・ボリス・チェーン]]、[[生化学|生化学者]](+ [[1979年]]) * 1906年 - {{仮リンク|クヌトゥ・クローン|sv|Knut Kroon}}、[[サッカー選手]](+ [[1975年]]) * 1906年 - [[ヴァルター・ラウフ]]、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]の将校(+ [[1984年]]) * [[1907年]] - {{仮リンク|クラレンス・ワイズマン|en|Clarence Wiseman}}、第10代[[救世軍]]万国総督<!-- 「General」の訳語。「ja:救世軍」の記述に依った -->(+ [[1985年]]) * [[1909年]] - [[太宰治]]、[[作家]](+ [[1948年]]) * 1909年 - [[村山古郷]]、[[俳人]](+ [[1986年]]) * 1909年 - [[仲みどり]]、女優(+ [[1945年]]) * 1909年 - [[大石武一]]、政治家(+ [[2003年]]) * [[1910年]] - [[ポール・フローリー]]、化学者(+ [[1985年]]) * 1910年 - {{仮リンク|シドニー・アラード|en|Sydney Allard}}、[[ラリードライバー]]、[[実業家]](+ [[1966年]]) * 1910年 - {{仮リンク|エイブ・フォータス|en|Abe Fortas}}、弁護士(+ [[1982年]]) * [[1912年]] - [[和田信賢]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]](+ [[1952年]]) * 1912年 - {{仮リンク|ドン・ガタリッジ|en|Don Gutteridge}}、[[野球選手]](+ [[2008年]]) * 1912年 - {{仮リンク|ヴァージニア・マクワッターズ|en|Virginia MacWatters}}、歌手(+ [[2005年]]) * * [[1913年]] - [[斎藤栄三郎]]、政治家、[[経済評論家]](+ [[2000年]]) * 1913年 - [[ヘレン・マディソン]]、競泳選手(+ [[1970年]]) * [[1914年]] - {{仮リンク|アラン・クランストン|en|Alan Cranston}}、政治家、ジャーナリスト(+ [[2000年]]) * 1914年 - [[レスター・フラット]]、[[ブルーグラス]]歌手(+ [[1979年]]) * [[1915年]] - {{仮リンク|パット・バトラム|en|Pat Buttram}}、俳優(+ [[1994年]]) * [[1917年]] - {{仮リンク|ジョシュア・ンコモ|en|Joshua Nkomo}}、初代[[ジンバブエの副大統領|ジンバブエ副大統領]](+ [[1999年]]) * [[1919年]] - [[ポーリン・ケイル]]、[[映画批評家]](+ [[2001年]]) * [[1920年]] - [[イヴ・ロベール]]、俳優、脚本家(+ [[2002年]]) * [[1921年]] - [[パトリシア・ライトソン]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2010年]]) * 1921年 - [[ルイ・ジュールダン]]、俳優(+ [[2015年]]) * 1921年 - [[津田延代]]、[[声優]](+ [[2018年]]) * [[1922年]] - [[オーゲ・ニールス・ボーア]]、[[物理学者]](+ [[2009年]]) * 1922年 - {{仮リンク|マリリン・P・ジョンソン|en|Marilyn P. Johnson}}、外交官(+ [[2022年]]) * [[1923年]] - {{仮リンク|ボブ・ハンク|en|Bob Hank}}、[[オーストラリアンフットボール]]選手(+ [[2012年]]) * [[1924年]] - [[レオ・ノメリーニ]]、[[プロレスラー]]、[[アメリカン・フットボール]]選手(+ [[2000年]]) * [[1926年]] - [[大内山平吉]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1985年]]) * 1926年 - [[アンネリーゼ・ローテンベルガー]]、[[ソプラノ]]歌手(+ [[2010年]]) * 1926年 - {{仮リンク|エルナ・シュナイダー・フーヴァー|en|Erna Schneider Hoover}}、[[数学者]] * [[1927年]] - [[藤岡豊]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]][[プロデューサー]](+ [[1996年]]) * 1927年 - {{仮リンク|ルシアーノ・ベンジャミン・メネンデス|en|Luciano Benjamín Menéndez}}、軍人(+ [[2018年]]) * [[1928年]] - [[長谷川龍生]]、[[詩人]](+ [[2019年]]) * 1928年 - [[トミー・デヴィート (ミュージシャン)|トミー・デヴィート]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2020年]]) * 1928年 - [[ガブリエル・バンサン]]、[[絵本作家]](+ [[2000年]]) * 1928年 - [[ナンシー・マーシャン]]、女優(+ 2000年) * [[1929年]] - [[日下隆]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]]) * [[1930年]] - [[ジーナ・ローランズ]]、女優 * [[1932年]] - [[ピア・アンジェリ]]、女優(+ [[1971年]]) * 1932年 - [[マリサ・パヴァン]]、女優(+ [[2023年]]) * 1932年 - {{仮リンク|ホセ・サンチス・グラウ|en|José Sanchis Grau}}、漫画家(+ [[2011年]]) * [[1933年]] - [[和田功]]、元プロ野球選手 * 1933年 - [[ビクトル・パツァーエフ]]、[[宇宙飛行士]](+ [[1971年]]) * 1933年 - {{仮リンク|マイケル・M・エイムズ|en|Michael M. Ames}}、[[人類学者]]、社会学者(+ [[2006年]]) * [[1934年]] - [[横山ホットブラザーズ#メンバー|横山マコト]]、[[お笑いタレント]]([[横山ホットブラザーズ]])(+ [[2022年]]) * 1934年 - [[ジェラール・ラトルチュ]]、政治家・第12代[[ハイチの首相|ハイチ共和国首相]](+ [[2023年]]) * [[1936年]] - [[青野武]]、声優(+ [[2012年]]<ref>{{Cite news|title=まる子祖父役 青野武さん、9日に永眠 死因は解離性胸部大動脈瘤術のあとの多発性脳梗塞|publisher=シネマトゥデイ|date=2012-04-10|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0041115|accessdate=2020-11-10}}</ref>) * 1936年 - [[木村汎]]、[[政治学者]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52197350V11C19A1000000/|title=木村汎氏が死去 ロシア研究家|publisher=日本経済新聞|date=2019-11-15|accessdate=2020-12-23}}</ref><ref>{{Cite news2 |url= https://www.sankei.com/article/20191114-PFTZNYIRLZOIVMA3DYELMUKHLQ/|title=木村汎さん死去、83歳 ロシア研究、正論大賞|newspaper= 産経ニュース |date= 2019-11-14 |agency=産業経済新聞社|accessdate= 2020-11-03}}</ref>) * 1936年 - {{仮リンク|マリサ・ガルヴァニー|en|Marisa Galvany}}、歌手 * [[1937年]] - [[アンドレ・グリュックスマン]]、[[政治哲学|政治哲学者]](+ [[2015年]]) * [[1938年]] - [[ワフー・マクダニエル]]、[[プロレスラー]]、[[アメリカンフットボール]]選手(+ [[2002年]]) * 1938年 - {{仮リンク|イアン・スミス (俳優)|en|Ian Smith (actor)|label=イアン・スミス}}、俳優 * [[1939年]] - [[ジョン・F・マッカーサーJr]]、牧師 * 1939年 - {{仮リンク|アル・ウィルソン (歌手)|en|Al Wilson (singer)|label=アル・ウィルソン}}、歌手(+ [[2008年]]) * [[1940年]] - [[田中直紀]]、政治家 * 1940年 - [[張本勲]]、元プロ野球選手 * 1940年 - [[寺田典城]]、元政治家、14-16代[[秋田県知事一覧|秋田県知事]] * [[1941年]] - [[丸山正雄]]、アニメプロデューサー * 1941年 - [[やまさき十三]]、[[漫画原作者]] * 1941年 - [[ヴァーツラフ・クラウス]]、[[チェコ|チェコ共和国]]第2代[[大統領]] * [[1942年]] - {{仮リンク|メラタ・ミタ|en|Merata Mita}}、映画プロデューサー(+ [[2010年]]) * [[1944年]] - [[伊藤久敏]]、元プロ野球選手 * 1944年 - [[シコ・ブアルキ]]、[[詩人]]、[[歌手]]、[[音楽家]]、[[作曲家]] * 1944年 - {{仮リンク|リチャード・モネット|en|Richard Monette}}、俳優(+ 2008年) * 1944年 - [[ピーター・バーデンス]]、キーボード奏者(+ 2002年) * [[1945年]] - [[アウンサンスーチー]]、[[ミャンマー]]の民主化指導者 * 1945年 - [[ラドヴァン・カラジッチ]]、政治家 * 1945年 - [[トバイアス・ウルフ]]、[[小説家]] * 1945年 - [[半沢士郎]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[北山修]]、ミュージシャン、[[精神科医]] * 1946年 - {{仮リンク|ジミー・グリーンホフ|en|Jimmy Greenhoff}}、サッカー選手 * [[1947年]] - [[フレディ・ヘッド]]、[[騎手]]、[[調教師]] * 1947年 - [[サルマン・ラシュディ]]、[[小説家]] * 1947年 - [[ジョン・ラルストン・ソウル]]、作家 * [[1948年]] - [[あべ弘士]]、[[絵本作家]] * 1948年 - [[ニック・ドレイク]]、[[シンガーソングライター]](+ [[1974年]]) * 1948年 - {{仮リンク|フィリシャ・ラシャド|en|Phylicia Rashad}}、女優 * [[1949年]] - [[川辺真]]、[[作曲家]]、[[編曲家]] * 1949年 - [[ジェリー・ロイス]]、元プロ野球選手 * 1949年 - [[フィリップ・デスコーラ]]、[[人類学者]] * 1950年 - [[アン・ウィルソン]]、[[リードボーカル]] * 1950年 - {{仮リンク|ネイル・アッシャー・スィルバーマン|en|Neil Asher Silberman}}、考古学者 * [[1951年]] - [[森田浩康]]、アナウンサー * 1951年 - [[フランチェスコ・モゼール]]、[[自転車競技]]選手 * 1951年 - [[アイマン・ザワヒリ]]、[[アルカイダ]]の幹部、[[外科医]] * [[1952年]] - {{仮リンク|ボブ・エインズウォース|en|Bob Ainsworth}}、政治家 * [[1953年]] - [[羽田耕一]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[キャスリーン・ターナー]]、女優 * 1954年 - [[大宮龍男]]、元プロ野球選手 * 1954年 - {{仮リンク|マイク・オブライエン (イギリスの政治家)|en|Mike O'Brien (British politician)|label=マイク・オブライエン}}、政治家 * 1954年 - {{仮リンク|ロウ・パールマン|en|Lou Pearlman}}、音楽プロデューサー * 1955年 - {{仮リンク|メアリー・シャピロ|en|Mary Schapiro}}、政治家 * [[1957年]] - [[ボブ・ギブソン (1957年生の投手)|ロバート・ギブソン]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[イレーナ・グラフェナウアー]]、[[フルート奏者]] * 1957年 - [[アンナ・リンド]]、スウェーデン環境大臣・外務大臣(+ [[2003年]]) * 1958年 - {{仮リンク|セルゲイ・マカロフ (アイスホッケー選手)|en|Sergei Makarov (ice hockey)|label=セルゲイ・マカロフ}}、アイスホッケー選手 * 1959年 - {{仮リンク|マーク・ディバージ|en|Mark DeBarge}}、歌手 * 1959年 - [[クリスティアン・ヴルフ]]、第10代[[連邦大統領 (ドイツ)|ドイツ連邦大統領]] * [[1960年]] - [[浦口直樹]]、アナウンサー * 1960年 - {{仮リンク|アンドリュー・ディルノット|en|Andrew Dilnot}}、経済学者 * 1960年 - {{仮リンク|ジョニー・グレイ (陸上選手)|en|Johnny Gray|label=ジョニー・グレイ}}、陸上選手 * 1960年 - [[ルーク・モーリー]]、[[ギタリスト]] * 1960年 - {{仮リンク|パッティ・リッツォ|en|Patti Rizzo}}、ゴルフ選手 * [[1961年]] - [[神谷万丈]]、[[国際政治学者]] * [[1962年]] - [[小沢仁志]]、俳優 * 1962年 - [[千倉真理]]、[[タレント]] * 1962年 - [[西本和人]]、元プロ野球選手 * 1962年 - [[ポーラ・アブドゥル]]、歌手、[[ダンサー]] * 1962年 - [[山下規介]]、俳優 * [[1964年]] - [[温水洋一]]、俳優 * 1964年 - [[ケビン・シュワンツ]]、[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]ライダー * 1964年 - [[ボリス・ジョンソン]]、政治家、第77代イギリス[[イギリスの首相|首相]] * 1964年 - [[石原宏高]]、政治家 * [[1965年]] - [[ザビーネ・ブラウン]]、[[陸上競技]]選手 * [[1965年]] - [[フランティシェク・ミスリヴィエチェク]]、[[サッカー選手]] * [[1967年]] - [[宮内仁一]]、プロ野球選手 * 1967年 - [[ビョルン・ダーリ]]、[[クロスカントリースキー]]選手 * [[1968年]] - [[中村良二]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[KABA.ちゃん]]、振り付け師、タレント * 1969年 - [[木多康昭]]、[[漫画家]] * [[1971年]] - [[アンドレア・サルトレッティ]]、[[バレーボール]]選手 * 1971年 - [[DAITA]]、[[ギタリスト]] * [[1972年]] - [[和田一浩]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[ロビン・タニー]]、女優 * [[1973年]] - [[中澤裕子]]、タレント、歌手(元[[モーニング娘。]]) * 1973年 - [[城井朋子]]、[[フリーアナウンサー]] * 1973年 - [[薮田安彦]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[杉本友]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[村上知奈美]]、フリーアナウンサー * 1974年 - [[ダグ・ミントケイビッチ]]、元プロ野球選手 * [[1976年]] - [[福井博章]]、俳優 * 1976年 - 内間政成、お笑いタレント([[スリムクラブ]]) * [[1977年]] - [[矢野了平]]、構成作家 * 1977年 - [[マリア・チオンカン]]、陸上競技選手(+ [[2007年]]) * 1977年 - [[ブルース・チェン]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[ダーク・ノヴィツキー]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * 1978年 - [[ゾーイ・サルダナ]]、女優 * 1978年 - [[中橋愛生]]、作曲家 * [[1980年]] - [[酒井大輔]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[宮里優作]]、プロゴルファー * 1981年 - [[加藤浩晃]]、医師、経営者 * [[1982年]] - [[佐咲紗花]]、歌手 * [[1983年]] - [[北尾一人]]、[[ドラマー]] * 1983年 - [[前田章宏]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[マックルモアー]]、[[MC (ヒップホップ)|ヒップホップMC]] * [[1984年]] - [[大山加奈]]、元バレーボール選手 * 1984年 - [[早坂圭介]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[ユリア・オベルタス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1985年]] - [[増田誓志]]、サッカー選手 * 1985年 - [[AKINA (1985年生の歌手)|AKINA]]、タレント、歌手(元[[Folder5]]) * 1985年 - [[宮里藍]]、[[プロゴルファー]] * 1985年 - [[藍川美聖]]、[[イベントコンパニオン]] * 1985年 - [[ブレイク・パーカー]]、プロ野球選手 * [[1986年]] - [[田中翔大]]、[[スキージャンプ]]選手 * 1986年 - [[王晨 (フィギュアスケート選手)|王晨]]、フィギュアスケート選手 * 1986年 - [[碧山亘右]]、大相撲力士 * 1986年 - [[マーヴィン・ウィリアムス]]、バスケットボール選手 * [[1987年]] - [[田村睦心]]、声優 * 1987年 - [[福原美穂]]、歌手 * 1987年 - 杉浦大毅、お笑いタレント(元[[ブリリアン]]) * 1987年 - [[コリン・マクヒュー]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[小堀正博]]、俳優 * 1988年 - [[ジェイコブ・デグロム]]、プロ野球選手 * [[1989年]] - [[山本健太 (アナウンサー)|山本健太]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * [[1990年]] - [[松原夏海]]、タレント(元[[AKB48]]) * 1990年 - [[如月なつき]]、音楽家 * 1990年 - [[赤沼杏奈]]、歌手、タレント * 1990年 - [[加藤紗里]]、タレント * 1990年 - [[島井寛仁]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[加戸由佳]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[クリスチャン・ビヤヌエバ]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[岩崎優]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[鬼屋敷正人]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[竹澤汀]]、シンガーソングライター(元[[Goosehouse]]) * 1991年 - 仁木恭平、お笑いタレント([[ケビンス]]、元[[ひみつスナイパー健]]) * 1991年 - [[藍ゆうり]]、グラビアアイドル * [[1992年]] - [[唐沢もえ]]、[[ジュニアアイドル]] * 1992年 - [[吉村大輝]]、陸上選手 * [[1993年]] - [[岡田怜子]]、モデル * [[1994年]] - [[今井金太]]、元プロ野球選手 * [[1995年]] - [[余正麒]]、囲碁棋士 * [[1996年]] - [[ラリサ・ヨルダケ]]、体操選手 * 1996年 - [[火将ロシエル]]、コスプレイヤー、グラビアアイドル * [[1997年]] - [[ACE COLLECTION#メンバー|LIKI]]、ミュージシャン ([[ACE COLLECTION]]) * [[1998年]] - [[広瀬すず]]<ref name="2014-12-05">{{Cite press release |和書 |title= いちごすずなり~静岡いちご紅ほっぺ広告に広瀬すずさん起用 |publisher= 静岡県いちご協議会 |date= 2014-12-05 |url= https://kyodonewsprwire.jp/release/201412046073 |accessdate=2020-11-13 }}</ref>、女優 * 1998年 - [[羽瀬川なぎ]]、女優 * 1998年 - [[古川裕大]]、プロ野球選手 * 生年不明 - [[Revo]]([[Sound Horizon]]、[[Linked Horizon]]) * 生年不明 - [[蛭川将旨]]、声優 == 忌日 == [[Image:Julius_and_Ethel_Rosenberg_NYWTS.jpg|thumb|100px|[[ローゼンバーグ事件|ローゼンバーグ夫妻]]処刑(1953)]] [[Image:TokugawaIetsugu_grave.JPG|thumb|100px|[[江戸幕府]]第7代将軍、[[徳川家継]](1709-1716)没。享年8]] [[Image:Sir_Joseph_Banks_%281812%29.jpg|thumb|100px|博物学者[[ジョゼフ・バンクス]](1743-1820)]] [[Image:Edouard_Manet_022.jpg|thumb|upright|メキシコ皇帝[[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]](1832-1867)銃殺。画像は[[エドゥアール・マネ|マネ]]画『皇帝マクシミリアンの処刑』(1868)<!--。{{Squote|メキシコ人たちよ!私は正当な大義……メキシコの独立と自由のために死ぬ。私の血が、この地のために長される最後のものになるように。メキシコ万歳!――最期の言葉}}-->]] [[Image:FBaracca_1.jpg|thumb|100px|[[イタリア空軍]]のエースパイロット、[[フランチェスコ・バラッカ]](1888-1918)戦死]] <!-- [[Image:James_Matthew_Barrie00.jpg|thumb|100px|『[[ピーター・パン]]』の作者、[[ジェームス・マシュー・バリー]](1860-1937)。{{Squote|年とともに変化することのない人間は役立たずだ。――『小牧師』(1891)}}]] --> <!-- {{Squote|私はもうあらゆることを知ることができるほど若くはない。――『あっぱれクライトン』(1903)}} --> * [[626年]]([[推古天皇]]34年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[蘇我馬子]]、[[飛鳥時代]]の[[政治家]]、[[貴族]] * [[1053年]]([[天喜]]元年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[源倫子]]、[[藤原道長]]の[[正室]](* [[964年]]) * [[1505年]]([[弘治 (明)|弘治]]18年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[弘治帝]]、[[明]]第10代[[皇帝]](* [[1470年]])<!-- ja:日付なし zh,en: 6/8 --> * [[1606年]]([[慶長]]11年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[榊原康政]]、[[武将|戦国武将]](* [[1548年]]) * [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[豊臣国松]]、[[豊臣秀頼]]の子(* [[1608年]]) * [[1650年]] - [[マテウス・メーリアン]]、[[版画家]](* [[1593年]]) * [[1716年]]([[享保]]元年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]) - [[徳川家継]]、[[江戸幕府]]第7代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1709年]]) * [[1747年]] - [[アレッサンドロ・マルチェッロ]]、[[作曲家]](* [[1669年]]) * [[1786年]] - [[ナサニエル・グリーン (軍人)|ナサニエル・グリーン]]、[[アメリカ独立戦争]]時の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]の[[少将]](* [[1742年]]) * [[1787年]] - [[ソフィー・ド・フランス (1786-1787)|マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス]](* 1786年) * [[1789年]]([[寛政]]10年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[池田治道]]、第6代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* [[1768年]]) * [[1794年]] - [[リチャード・ヘンリー・リー]]、[[連合会議]]議長(* [[1732年]]) * [[1820年]] - [[ジョゼフ・バンクス]]、[[博物学|博物学者]]、[[植物学|植物学者]](* [[1743年]]) * [[1844年]] - [[エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール]]、[[博物学|博物学者]](* [[1772年]]) * [[1847年]]([[弘化]]4年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[徳川慶壽]]、第7代[[一橋徳川家]]当主(* [[1823年]]) * [[1867年]] - [[マクシミリアン (メキシコ皇帝)|マクシミリアン]]、[[メキシコ帝国]]皇帝(* [[1832年]]) * [[1902年]] - [[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]、[[ザクセン王国]]第5代国王(* [[1828年]]) * 1902年 - [[ジョン・アクトン]]、[[歴史家]](* [[1834年]]) * [[1918年]] - [[フランチェスコ・バラッカ]]、[[エース・パイロット]](* [[1888年]]) * [[1922年]] - [[常陸山谷右エ門]]、[[大相撲]]第19代[[横綱]](* [[1874年]]) * [[1937年]] - [[ジェームス・マシュー・バリー]]、[[劇作家]]、[[小説家]](* [[1860年]]) * [[1940年]] - [[モーリス・ジョベール]]、[[作曲家]](* [[1900年]]) * [[1942年]] - [[ヘンリー・フーパー・ブラッド]]、[[ユタ州]]知事(* [[1872年]]) <!-- en:6/1, ja,de,po:6/19 --> * [[1947年]] - [[阿部孝壮]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]](* [[1892年]]) * [[1953年]] - ジュリアス・ローゼンバーグ、[[ローゼンバーグ事件]]で処刑された夫妻の夫(* [[1918年]]) * 1953年 - エセル・ローゼンバーグ、ローゼンバーグ事件で処刑された夫妻の妻(* [[1915年]]) * [[1956年]] - [[トーマス・J・ワトソン]]、[[IBM]]初代社長(* [[1874年]]) * [[1961年]] - [[フランク・ボーゼイジ]]、[[映画監督]](* [[1893年]]) * [[1962年]] - [[フォルクマール・アンドレーエ]]、[[指揮者]](* [[1879年]]) * [[1975年]] - [[サム・ジアンカーナ]]、[[マフィア]]のボス(* [[1908年]]) * [[1977年]] - [[オレブ・ベーデン=パウエル]]、[[ボーイスカウト]]創始者[[ロバート・ベーデン=パウエル]]の妻(* [[1889年]]) * [[1980年]] - [[木下郁]]、政治家、[[大分県知事一覧|大分県知事]](* [[1894年]]) * [[1984年]] - [[浅見緑蔵]]、[[ゴルフ|プロゴルファー]](* [[1908年]]) * 1984年 - [[松原操|松原操(初代ミス・コロムビア)]]、歌手(* [[1911年]]) * [[1986年]] - [[コリューシュ]]、[[俳優]](* [[1944年]]) * [[1991年]] - [[ジーン・アーサー]]、[[俳優|女優]](* [[1900年]]) * [[1992年]] - [[キャスリーン・マッケイン・ゴッドフリー]]、[[テニス]]選手(* [[1896年]]) * [[1993年]] - [[ウィリアム・ゴールディング]]、[[作家]](* [[1911年]]) * [[1994年]] - [[加藤一郎 (ロボット研究者)|加藤一郎]]、[[ロボット工学|ロボット工学者]](* [[1925年]]) * [[1995年]] - [[森本孝順]]、[[律宗]]の[[僧]](* [[1902年]]) * [[1996年]] - [[エドヴィン・ヴィーデ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1896年]]) * 1996年 - [[ミヤコ (お笑い芸人)|ミヤコ]]、[[漫才師]]、[[非常階段 (お笑いコンビ)|非常階段]](* [[1958年]]) * [[1997年]] - [[磯崎叡]]、[[日本国有鉄道|国鉄]]総裁、[[サンシャインシティ]]相談役(* [[1912年]]) * [[1998年]] - 堀内俊宏、[[二見書房]]社長(* [[1931年]]) * [[2000年]] - [[竹下登]]、政治家、第74代[[内閣総理大臣]](* [[1924年]]) * 2000年 - [[飯田徳治]]、元[[プロ野球選手]](* [[1924年]]) * [[2004年]] - [[芦ヶ原伸之]]、[[パズル]]作家(* [[1936年]]) * [[2005年]] - [[福田治郎]]、[[数学者]](* [[1913年]]) * [[2006年]] - [[森塚敏]]、[[俳優]](* [[1926年]]) * 2006年 - [[沼田哲]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1942年]]) * 2006年 - [[宮本四郎]]、元プロ野球選手(* [[1952年]]) * [[2008年]] - [[佐々木洋興]]、[[化学者]](* [[1911年]]) * 2008年 - [[宮迫千鶴]]、[[画家]]、[[エッセイスト]](* [[1947年]]) * 2008年 - [[キヨノサチコ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/60955/full/|title=絵本作家キヨノサチコさんが6月に死去 『ノンタン』の作者|publisher=オリコンニュース|date=2008-12-09|accessdate=2020-11-21}}</ref>、[[絵本作家]](* [[1947年]]) * [[2013年]] - [[ジェームズ・ガンドルフィーニ]]<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0054056|title=「ザ・ソプラノズ」主演ジェームズ・ガンドルフィーニさん急逝 享年51歳|publisher=シネマトゥデイ|date=2013-06-20}}</ref>、俳優(* [[1961年]]) * [[2016年]] - [[アントン・イェルチン]]<ref>{{Cite web|和書|work=シネマトゥデイ|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0083821|title=『スター・トレック』アントン・イェルチン死去、27歳…愛車に押し潰され|date=2016-06-20|accessdate=2020-10-29}}</ref>、俳優(* [[1989年]]) * [[2017年]] - [[オットー・ワームビア]]<ref name=":0">{{Cite news|title=北朝鮮解放後死亡した米学生、両親は「組織的な拷問」だったと|url=https://www.bbc.com/japanese/41410847|date=2017-09-27|accessdate=2020-10-30|language=en-GB}}</ref>、北朝鮮に拘束されていたアメリカ人大学生(* [[1994年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Osamu_Dazai_in_High_School.jpg|thumb|upright|作家[[太宰治]](1909-1948)誕生/遺体発見。{{Squote|アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。――『右大臣実朝』(1943)}}]] [[Image:Subway Series 2008.jpg|thumb|240px|[[野球|ベースボール]]記念日]] {{listen|filename=The Waste Land.ogg|title=朗読の日|description=[[T・S・エリオット]]『荒地』(1922)の朗読([[:wikisource:The Waste Land|→テクスト]])}} <!-- WANTED: (上手い人による)日本の詩か散文の朗読。太宰だと気が利いてる? --> * 世界[[鎌状赤血球症]]デー({{World}}) * {{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティガス|en|José Gervasio Artigas}}生誕の日({{URY}}) * 労働者の日({{TTO}}) *[[ジューンティーンス]]({{USA}}) *: [[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]によって[[2021年]]によって正式な祝日として制定。[[1865年]]同日、[[北軍]]将軍[[ゴードン・グレンジャー]]が[[テキサス州|テキサス]]において{{仮リンク|一般号令第3号|en|General Order No. 3}}を布告し、同地で奴隷であった[[アフリカ系アメリカ人]]の奴隷身分からの解放を命令したことを記念。 * [[京都府]]開庁記念日({{JPN}}) *: 京都府が[[1985年]]に制定。[[慶応]]4年閏[[4月29日 (旧暦)|4月29日]](新暦[[1868年]]6月19日)に京都府が開設されたことを記念。 * [[朗読]]の日({{JPN}}) *: 日本朗読文化協会が[[2001年]]に制定。「ろう(6)ど(十)く(9)」の語呂合せ。 * 桜桃忌、太宰治生誕祭({{JPN}}) *: [[1948年]]のこの日、[[6月13日]]に自殺した作家・[[太宰治]]の遺体が発見されたことから。「桜桃忌」の名前は[[桜桃]]の時期であることと晩年の作品『桜桃』にちなむ。またこの日は太宰治の誕生日でもあり、太宰治の出身地・[[青森県]][[金木町]]では、生誕90周年となる[[1999年]]から、この日に行う行事の名称を「生誕祭」に改めた。 * [[ロマンス]]の日({{JPN}}) *: [[日本ロマンチスト協会]]が制定。「本当に大切な人と極上の1日を過ごす」ことを推奨している。「ロマン(6)チッ(1)ク(9)」の語呂合せ。 * [[対馬島の日]]({{KOR}}) *: [[2005年]]に[[大韓民国]][[馬山市]]議会が[[条例]]により制定。[[対馬市]]議会などから猛抗議を受けるも、市町村合併時も合併先の[[昌原市]]が同条例を継承し、毎年行事を続けている<ref>[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/03/31/2017033101116.html 「対馬は韓国領」昌原市議会が政府支援を要請]朝鮮日報オンライン(2017年3月30日)2017年4月2日閲覧</ref>。 *プログラミング教育の日({{JPN}}) *: 2022年に株式会社ロジカ・エデュケーションが制定し、一般社団法人日本記念日協会<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kinenbi.gr.jp/ |title=6月19日 |access-date=2022-06-07 |publisher=一般社団法人日本記念日協会}}</ref>により登録された。6月19日は[[プログラミング]]に不可欠な「[[論理プログラミング|論理]]」を意味する「logic(ロジック→6.10.9)」の語呂合わせ。プログラミング教育の躍進に繋がることを目的として正しい知識の発信や、実際にプログラミングに触れる機会を設けるなどの活動につながるよう制定された。 <!-- 以下、制定者が不明 --> * [[野球|ベースボール]]記念日 *: [[1846年]]のこの日、公式な記録に残る史上初の野球の試合が[[ニュージャージー州]][[ホーボーケン (ニュージャージー州)|ホーボーケン]]のエリシアン球場で行われたことを記念。 * [[理化学研究所]]創設の日({{JPN}}) *: [[1917年]]のこの日、理化学研究所が東京都文京区本駒込に設立された。 * [[元号]]の日({{JPN}}) *: [[645年]][[6月19日 (旧暦)|6月19日]](旧暦)、日本初の元号「[[大化]]」が定められた。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0619|date=2011年6月}} * [[1971年]] - 人類初の有人[[月面着陸|月着陸]][[宇宙船|船]]「スターダスト」がネヴァダ基地より打ち上げられる。(小説『[[宇宙英雄ペリー・ローダン]]』) * [[1983年]] - その年の「[[ひぐらしのなく頃に|綿流し]]」が行われる。(ゲーム・アニメ・漫画『[[ひぐらしのなく頃に]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1903年]] - [[帝国華撃団#花組|マリア・タチバナ]]、ゲーム『[[サクラ大戦シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakura-taisen.com/archives/game/psp/chara_maria.html |title=マリア・タチバナ |access-date=2023-01-14 |publisher=SEGA RED |work=『サクラ大戦 1&2』}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]488年 - ダリル・カミューズ、ゲーム『[[スターオーシャン5 -Integrity and Faithlessness-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=83|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - 砂藤力道、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-19/ |title=砂藤力道 |access-date=2023-01-14 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 部長、漫画・アニメ『[[イジらないで、長瀞さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|nagatoro_tv|1406084325112696832}}</ref> * 生年不明 - 紀田正臣、小説・アニメ『[[デュラララ!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|drrr_game|611549645068570625}}</ref> * 生年不明 - 諸橋翔介、小説・アニメ『[[無彩限のファントム・ワールド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://phantom-world.com/sp/character/shosuke/ |title=諸橋 翔介 |access-date=2023-01-14 |publisher=[[秦野宗一郎]]・[[京都アニメーション]]/無彩限の製作委員会 |work=『無彩限のファントム・ワールド』}}</ref> * 生年不明 - ライアン・ゴールドスミス、アニメ『[[TIGER & BUNNY]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tigerandbunny.net/TB2/character/people.php?id=3 |title=ライアン・ゴールドスミス |access-date=2023-01-14 |publisher=BNP/T&B2 PARTNERS |work=『TIGER&BUNNY2』}}</ref> * 生年不明 - ララミー、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m06.html |title=住民名簿 6月 ララミー |access-date=2023-01-14 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - 逢坂紘夢、ゲーム『[[ボーイフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|boykiraofficial|1141148594013011968}}</ref> * 生年不明 - ナターシャ・キオラ(ワタリガラス)、ゲーム『[[崩壊3rd]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|houkai3rd|1538174697547763712}}</ref> * 生年不明 - 太宰治、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1273631602539737088}}</ref> <!--* 生年不明 - オロチ、ゲーム『[[ファイアーエムブレムif]]』に登場するキャラクター--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 19|19 June}} {{新暦365日|6|18|6|20|[[5月19日]]|[[7月19日]]|[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]|0619|6|19}} {{1年の月と日}}
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6月20日
6月20日(ろくがつはつか、ろくがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から171日目(閏年では172日目)にあたり、年末まであと194日ある。
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{{カレンダー 6月}} '''6月20日'''(ろくがつはつか、ろくがつにじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から171日目([[閏年]]では172日目)にあたり、年末まであと194日ある。 == できごと == [[Image:De Neuville - The Huns at the Battle of Chalons.jpg|thumb|140px|[[カタラウヌムの戦い]](451)]] [[Image:Le_Serment_du_Jeu_de_paume.jpg|thumb|300px|[[フランス革命]]前夜、憲法制定まで三部会を解散せぬことを誓い合った[[球戯場の誓い]](1789)]] [[Image:FlighttoVarennesKingLouisXVI.jpg|thumb|300px|[[ヴァレンヌ事件]](1791)、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]が国外脱出を試みる]] [[Image:Dronning_victoria.jpg|thumb|100px|イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]即位(1837)。その輝かしい治世は[[ヴィクトリア朝]]と呼ばれる]] * [[451年]] - [[カタラウヌムの戦い]]。[[アッティラ]]率いる[[フン族]]と西欧諸民族連合軍の会戦{{要出典|date=2021-03}}。 * [[686年]](天武天皇15年5月24日) - [[天武天皇]]重態。川原寺で薬師経を説かせ、僧を宮中に安居。 * [[1180年]]([[治承]]4年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[以仁王の挙兵]]: 宇治平等院の戦いで[[源頼政]]と[[以仁王]]が敗死。 * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[新田義貞]]が[[上野国]]で北条氏討伐の旗揚げ。 * [[1602年]]([[慶長]]7年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[徳川家康]]が諸[[大名]]に[[二条城]]造営を命じる。 * [[1703年]]([[元禄]]16年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - 大坂・竹本座で[[近松門左衛門]]作の人形浄瑠璃『[[曽根崎心中]]』が初演。 * [[1782年]] - [[アメリカ合衆国議会]]が[[アメリカ合衆国の国章|グレートシール]]([[国璽]])を決定。 * [[1789年]] - [[球戯場の誓い]](テニスコートの誓い)。フランスで、第三身分議員らが議事堂内のテニスコートで憲法制定までの不解散を誓う。 * [[1791年]] - [[フランス革命]]: [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]一家が[[オーストリア]]への逃亡を企てる。([[ヴァレンヌ事件]]) * [[1810年]] - [[スウェーデン]]貴族で、[[マリー・アントワネット]]の愛人であった[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン|フェルセン]]が民衆により惨殺される。 * [[1819年]] - アメリカの[[蒸気船]]「[[サヴァンナ (蒸気船)|サヴァンナ]]」が、世界初の蒸気船による[[大西洋]]横断を経て[[イギリス]]・[[リバプール]]に到着。 * [[1837年]] - イギリスで[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]が国王に即位。 * [[1862年]] - [[ルーマニア]]の[[ラスカル・カタルジュ]]首相が暗殺される<ref>{{Cite web|url=https://books.google.co.jp/books?id=F4-dAwAAQBAJ&pg=PA83&lpg=PA83&dq=barbu+catargiu+assassination&source=bl&ots=upa28fFlLL&sig=ACfU3U0FMT645aV-BsxJ2uuDldIe0DkWBQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjvk-KB95HqAhVHUd4KHc2ZDlEQ6AEwBXoECBMQAQ#v=onepage&q=barbu%20catargiu%20assassination&f=false|title=Famous Assassinations in World History: An Encyclopedia [2 volumes]|accessdate=2020-06-21|publisher=[[Google Books]]}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.historia.ro/sectiune/general/articol/enigma-unui-atentat-moartea-lui-barbu-catargiu|title=Enigma unui atentat: moartea lui Barbu Catargiu|accessdate=2020-06-21|publisher=Historia|language=ro}}</ref>。<!-- enより(2020/06/21追記 このコメント時と前後のenの編集履歴を確認したが、ラスカル・カタルジュ暗殺の記述はなく、 Barbu Catargiu, the Prime Minister of Romania, is assassinated.としか書いていなかった。 --> * [[1863年]] - [[バージニア州]]から分離した[[ウェストバージニア州|ウェストバージニア]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]35番目の[[アメリカ合衆国の州|州]]となる。 * [[1887年]] - [[二葉亭四迷]]の長篇小説『[[浮雲 (二葉亭四迷の小説)|浮雲]]』の第一篇が刊行。初の[[言文一致]]体小説。<!-- 『雑学366日 今日は何の日事典』(大泉出版)に記載 --> * [[1893年]] - 父と継母の殺害容疑で起訴されていた[[リジー・ボーデン]]に無罪判決。 * [[1894年]] - [[明治東京地震]]。 * [[1900年]] - [[義和団の乱]]発生。 * [[1927年]] - [[日本]]・[[アメリカ合衆国]]・イギリスの3か国による[[ジュネーブ海軍軍縮会議]]が始まる。[[8月4日]]まで。 * [[1931年]] - [[ハーバート・フーヴァー]]米大統領が、[[ドイツ]]の第一次大戦賠償金の支払いを1年間猶予することを宣言。([[フーヴァーモラトリアム]]) * [[1935年]] - [[富士通]]の前身である富士通信機製造株式会社が設立される。 * [[1939年]] - ドイツの[[He 176 (航空機)|He 176]]が初飛行。世界初の有人[[ロケット]]機となる。 * [[1940年]] - 東京都下で[[落雷]]が相次いだ。[[大手町 (千代田区)|大手町]]では落雷により[[逓信省]]航空局新館から出火。[[大蔵省]]など10官庁が焼失する大火となった<ref>大蔵省、企画院など十官庁焼く(昭和15年6月21日 東京朝日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p79 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1948年]] - アメリカ[[CBS]]でバラエティ番組『トースト・オブ・ザ・タウン』(後の『[[エド・サリヴァン・ショー]]』)が放送開始。 * [[1949年]] - [[鹿児島県]][[鹿児島市]]に[[デラ台風]]が上陸。死者行方不明者468人。 * [[1954年]] - 三重県[[尾鷲市]]が市制施行。 * 1954年 - [[名古屋テレビ塔]]が開業。 * [[1960年]] - [[マリ連邦]](現在の[[マリ共和国|マリ]]と[[セネガル]])が[[フランス]]から独立。 * [[1963年]] - 米ソ間に[[ホットライン]]を開設する協定に調印。 * 1963年 - [[観光立国推進基本法|観光基本法]]公布。 * [[1968年]] - 全米陸上選手権の男子[[100メートル競走|100m競走]]で、[[ジム・ハインズ]]、ロニー・レイ・スミス、[[チャールズ・エドワード・グリーン]]が手動計時により9秒9を記録。初めて[[10秒の壁]]を破る。 * 1968年 - [[東大紛争]]: [[東京大学]]の法学部以外の9学部の学生が一斉に1日[[ストライキ]]。 * [[1969年]] - [[ジョルジュ・ポンピドゥ]]が[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]に就任。 * [[1973年]] - 東京・渋谷の[[NHKホール]]が開館。 * [[1988年]] - 牛肉・オレンジ輸入自由化の日米貿易交渉で1991年からの輸入枠撤廃が決定。 * [[1990年]] - [[小惑星]]「[[エウレカ (小惑星)|エウレカ]]」を発見。[[火星]]の[[トロヤ群]]で初めて発見された小惑星。 <!--* 1990年 - [[イラン]]北西部で[[マグニチュード]]7.4の地震、42,000人が死亡した。日付はUTC--> * [[1991年]] - [[ドイツ連邦議会]]が、首都を[[ボン]]から[[ベルリン]]に戻すことを決定。 * 1991年 - [[東北新幹線]]の[[上野駅]] - [[東京駅]]間が開業。 * [[2001年]] - [[パルヴェーズ・ムシャラフ]]が[[パキスタン]]大統領に就任。 * [[2003年]] - [[福岡一家4人殺害事件]]発生。[[中国人]]3人らによる犯行。 * 2003年 - [[ウィキメディア財団]]が[[フロリダ州]][[セントピーターズバーグ (フロリダ州)|セントピーターズバーグ]]に設立。 * [[2004年]] - [[フォーミュラ1|F1]][[アメリカグランプリ|アメリカGP]]で[[佐藤琢磨]]が日本人最高位タイの3位。日本人がF1の表彰台に上るのは2人目。 * [[2005年]] - [[シンガポール]]で第1回「アジア・中東対話」 (AMED) が開催。[[6月22日]]まで。 * [[2012年]] - [[世界ボクシング評議会|WBC]]世界ミニマム級王者[[井岡一翔]]と、[[世界ボクシング協会|WBA]]世界ミニマム級王者[[八重樫東]]の間で、日本人同士による初の世界王座統一戦が行われる。 == 誕生日 == [[Image:Sigismund III of Poland-Lithuania and Sweden (Martin Kober).jpg|thumb|upright|スウェーデン王・ポーランド王、[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]](1566-1632)誕生]] [[Image:Tokugawa_Ieharu.jpg|thumb|upright|[[江戸幕府]]第10代将軍、[[徳川家治]](1737-1786)誕生。[[田沼意次]]を重用した]] [[Image:Young_Offenbach.jpg|thumb|upright|作曲家[[ジャック・オッフェンバック]](1819-1880)]] [[Image:Léon Bonat - Roman Girl at a Fountain.jpg|thumb|upright|画家[[レオン・ボナ]](1833-1922)。画像は『噴水盤のローマ人少女』(1875)]] [[Image:Kurt_Schwitters.JPG|thumb|upright|前衛芸術家[[クルト・シュヴィッタース]](1887-1948)]] [[Image:Castellanomug.jpg|thumb|upright|[[アメリカ合衆国]]の[[マフィア]]、[[ポール・カステラーノ]](1915-1985)]] [[Image:Brian_Wilson_Jan_2007.jpg|thumb|upright|シンガーソングライター、[[ブライアン・ウィルソン]](1942-)]] [[Image:President_gusmao.jpg|thumb|upright|[[東ティモール]]の初代大統領、[[シャナナ・グスマン]](1946-)]] [[Image:Nouri_al-Maliki_with_Bush%2C_June_2006%2C_cropped.jpg|thumb|upright|[[イラク]]第4共和制初代首相、[[ヌーリー・マーリキー]](1950-)]] * [[1469年]] - [[ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ]]、[[ミラノ公]](+ [[1494年]]) * [[1566年]] - [[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ジグムント3世ワーザ-72868 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-05-01 }}</ref>、[[ポーランド王国|ポーランド王]](+ [[1632年]]) * [[1634年]] - [[カルロ・エマヌエーレ2世]]、[[サヴォイア公]](+ [[1675年]]) * [[1647年]] - [[ヨハン・ゲオルク3世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク3世]]、[[ザクセン公国|ザクセン]][[選帝侯]](+ [[1691年]]) * [[1691年]]([[元禄]]4年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[板倉重泰]]、第2代[[福島藩|福島藩主]](+ [[1718年]]) * [[1715年]]([[正徳 (日本)|正徳]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[榊原政岑]]、第3代[[姫路藩|姫路藩主]](+ [[1743年]]) * [[1726年]] - [[ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティ]]、[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の妃(+ [[1759年]]) * [[1737年]]([[天文 (元号)|天文]]2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[徳川家治]]、[[江戸幕府]]第10代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1786年]]) * [[1764年]]([[宝暦]]14年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[土岐頼寛]]、第4代[[沼田藩|沼田藩主]](+ [[1782年]]) * [[1774年]]([[安永 (元号)|安永]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[仙石久道]]、第5代[[出石藩|出石藩主]](+ [[1834年]]) * [[1819年]] - [[ジャック・オッフェンバック]]、[[作曲家]](+ [[1880年]]) * [[1820年]]([[文政]]13年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[上杉斉憲]]、第12代[[米沢藩|米沢藩主]](+ [[1889年]]) * [[1831年]]([[天保]]2年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[戸田氏彬]]、第10代[[大垣藩|大垣藩主]](+ [[1865年]]) * [[1833年]] - [[レオン・ボナ]]、[[画家]](+ [[1922年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[上村彦之丞]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]軍人、大将(+ [[1916年]]) * [[1861年]] - [[フレデリック・ホプキンズ]]、[[生化学|生化学者]](+ [[1947年]]) * [[1875年]] - [[オテニオ・アーベル]]、[[古生物学|古生物学者]](+ [[1946年]]) * [[1887年]] - [[クルト・シュヴィッタース]]、[[芸術家]]、画家(+ [[1948年]]) * [[1892年]] - [[式守伊之助 (16代)]]、[[大相撲]][[立行司]](+ 1948年) * [[1894年]] - [[竹鶴政孝]]、[[ニッカウヰスキー]]創業者、[[実業家]](+ [[1979年]]) * [[1895年]] - [[菅野和太郎]]、[[政治家]](+ [[1976年]]) * [[1899年]] - [[ジャン・ムーラン]]、政治家、[[レジスタンス運動]]の指導者(+ [[1943年]]) * [[1901年]] - [[丸木位里]]、[[日本画家]](+ [[1995年]]) * [[1903年]] - [[レオ・ブルース]]、[[推理作家]](+ [[1979年]]) * [[1904年]] - [[フランシス・ペティジョン]]、[[地質学|地質学者]](+ [[1999年]]) * [[1905年]] - [[リリアン・ヘルマン]]、[[劇作家]]、[[脚本家]](+ [[1984年]]) * [[1908年]] - [[黒柳守綱]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1983年]]) * [[1909年]] - [[エロール・フリン]]、[[俳優]](+ [[1959年]]) * [[1913年]] - [[リリアン・J・ブラウン]]、[[推理作家]](+ [[2011年]]) * [[1914年]] - [[島本虎三]]、[[政治家]](+ [[1989年]]) * [[1915年]] - [[テレンス・ヤング]]、[[映画監督]](+ [[1994年]]) * 1915年 - [[ポール・カステラーノ]]、[[マフィア]][[ガンビーノ一家]]のボス(+ [[1985年]])<!-- en,es:6/26, ja,it,fr,de:6/20 要チェック --> * [[1917年]] - [[奈良友夫]]、元[[プロ野球選手]] * [[1918年]] - [[松尾幸造]]、元プロ野球選手 * [[1920年]] - [[ハンス・ゲルシュビラー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2017年]]) <!-- en,fr,ru,no:6/21 ja,de,fi:6/20 要チェック--> * [[1921年]] - [[三ヶ月章]]、[[法務大臣]]、[[法学者]](+ [[2010年]]) * [[1923年]] - [[広島清美]]、元プロ野球選手 * [[1924年]] - [[ライナー・バルツェル]]、政治家(+ [[2006年]]) * 1924年 - [[チェット・アトキンス]]、[[ギタリスト]](+ [[2001年]]) * [[1928年]] - [[エリック・ドルフィー]]、[[ジャズ]]ミュージシャン(+ [[1964年]]) * [[1929年]] - [[ショパン猪狩]]、[[コメディアン]](東京コミックショウ)(+ [[2005年]]) * [[1930年]] - [[近藤元次]]、政治家(+ [[1994年]]) * 1930年 - [[橋本嘉幸]]、[[薬学者]](+ [[2008年]]) * [[1931年]] - [[オリンピア・デュカキス]]、女優(+ [[2021年]]) * 1931年 - [[マーティン・ランドー]]、俳優(+ [[2017年]]) * 1931年 - [[岡田功]]、元プロ野球選手、[[プロ野球審判員]] * 1931年 - [[ジェームズ・トールカン]]、俳優 * [[1932年]] - [[勝目梓]]、[[小説家]](+ [[2020年]]) * 1932年 - [[田中一朗]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]]) * [[1934年]] - [[川田順造]]、[[文化人類学者]] * 1934年 - [[リウス]]、[[イラストレーター]]、[[漫画家]](+ [[2017年]]) * [[1935年]] - [[田中収 (映画プロデューサー)|田中収]]、[[映画プロデューサー]] * 1935年 - [[日置達郎]]、実業家、[[札幌かに本家]]代表取締役会長 * 1935年 - [[ホアン・コ・ミン]]、[[南ベトナム]]の[[軍人]]、[[革命家]](+ [[1987年]]) * [[1938年]] - [[ミッキー・モスト]]、[[音楽プロデューサー]](+ [[2003年]]) * 1938年 - [[斎藤達雄 (野球)|斎藤達雄]]、元プロ野球選手 * [[1939年]] - [[鈴木忠志]]、[[劇作家]]、[[演出家]] * 1939年 - [[井出正一]]、第83代[[厚生大臣]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/politics/news/180902/plt1809020020-n1.html|title= 井出正一氏が死去 元厚相、79歳 |publisher=産経ニュース|date=2018-09-02|accessdate=2020-11-26}}</ref>) * [[1940年]] - [[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]、[[プロレスラー]](+ [[2011年]]) * 1940年 - [[斎藤惇夫]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]] * [[1941年]] - [[石坂浩二]]、俳優 * [[1942年]] - [[ブライアン・ウィルソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1942年 - [[大麒麟將能]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄17代[[押尾川]](+ [[2010年]]) * 1942年 - [[ダン・スペルベル]]、[[人類学|人類学者]]、[[言語学者の一覧|言語学者]]、[[認知科学|認知科学者]] * [[1943年]] - [[上村雅之]]、[[ハードウェア]]開発者(+ [[2021年]]) * [[1945年]] - [[橘家二三蔵]]、[[落語家]](+ [[2023年]]) * 1945年 - [[アン・マレー]]、[[歌手]] * [[1946年]] - [[シャナナ・グスマン]]、政治家、初代[[東ティモール]][[東ティモールの大統領|大統領]] * [[1949年]] - [[ライオネル・リッチー]]、ミュージシャン * 1949年 - [[荒勢永英]]、元大相撲力士、[[タレント]](+ [[2008年]]) * [[1950年]] - [[ヌーリー・マーリキー]]、政治家、[[イラクの首相|イラク首相]] * [[1952年]] - [[中村誠 (空手家)|中村誠]]、[[空手道|空手家]] * 1952年 - [[ベニー・ユキーデ]]、[[マーシャルアーツ#日本における「マーシャルアーツ」に対する認識|全米プロ空手選手]] * 1952年 - [[ゼンジー・一億]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * 1952年 - [[ジョン・グッドマン]]、俳優 * [[1953年]] - [[純アリス]]、女優(+ [[2019年]]) * 1953年 - [[ウルリッヒ・ミューエ]]、俳優(+ [[2007年]]) * 1953年 - [[ラウル・ラミレス]]、[[テニス]]選手 * 1953年 - [[谷博]]、元プロ野球審判員 * [[1954年]] - [[青木実]]、元プロ野球選手 * 1954年 - [[マイケル・アンソニー]]、ミュージシャン([[ヴァン・ヘイレン]]) * 1954年 - [[星正人]]、元俳優 * [[1955年]] - [[平野謙 (野球)|平野謙]]、元プロ野球選手 * 1955年 - [[安部龍太郎]]、[[小説家]] * [[1956年]] - [[趙治勲]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]] * 1956年 - [[土居正史]]、元プロ野球選手 * [[1957年]] - [[ココ・B・ウェア]]、[[プロレスラー]] * [[1958年]] - [[橋本敬司]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[ディッキー・ソン]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[一龍斎貞友]]、[[講談|講談師]]、声優、女優 * [[1960年]] - [[デュラン・デュラン|ジョン・テイラー]]、ミュージシャン([[デュラン・デュラン]]) * 1960年 - [[花田裕之]]、ミュージシャン * [[1963年]] - [[逢坂浩司]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]](+ [[2007年]]) * 1963年 - [[浜田一夫]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[宮路一昭]]、[[ギタリスト]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[プロデューサー]] * [[1964年]] - [[山下隆一]]、[[官僚]] * [[1965年]] - [[河合その子]]、元タレント * [[1966年]] - [[大坪千夏]]、[[アナウンサー]] * 1966年 - [[堀義貴]]、[[芸能プロモーター]] * [[1967年]] - [[ニコール・キッドマン]]、女優 * [[1968年]] - [[鷺沢萠]]、[[作家]](+ [[2004年]]) * 1968年 - [[ロバート・ロドリゲス]]、[[映画監督]] * [[1969年]] - [[マラビーヤ・ワシントン]]、テニス選手 * 1969年 - [[岩崎達也]]、空手家 * [[1970年]] - [[パンドラ (歌手)|パンドラ]]、歌手 * [[1971年]] - [[田吹昭博]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[岡崎淳二]]、元野球選手 * 1972年 - [[フアン・カストロ]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[チノ・モレノ]]、ミュージシャン([[デフトーンズ]]) * [[1974年]] - [[黒木純司]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[酒井一圭]]、俳優 * [[1976年]] - [[稲垣理一郎]]、[[漫画家]]、[[漫画]]原作者 * 1976年 - [[ジュリアーノ・ベレッチ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]] * 1976年 - [[カルロス・リー]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[小林泉美 (棋士)|小林泉美]]、[[女流棋士 (囲碁)|女流囲碁棋士]] * 1977年 - [[辻田摂]]、元プロ野球選手 * 1977年 - [[末広五大]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[尚玄]]、[[ファッションモデル]]、俳優 * 1978年 - [[ケビン・グレッグ]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[フランク・ランパード]]、元サッカー選手 * 1978年 - [[クイントン・ジャクソン|クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン]]、[[総合格闘家]] * [[1979年]] - [[岩水嘉孝]]、元[[陸上競技選手一覧|陸上選手]] * 1979年 - [[本山雅志]]、サッカー選手 * 1979年 - [[カエル・サンダーソン]]、[[アマチュアレスリング]]選手 * 1979年 - [[シドニー・ボーゲル]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1980年]] - [[ユリエスキ・ゴンサレス]]、野球選手 * 1980年 - 文田大介、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[囲碁将棋 (お笑いコンビ)|囲碁将棋]]) * 1980年 - [[鈴木章太]]、元プロ野球審判員 * [[1981年]] - [[山田麻衣子]]、元女優 * 1981年 - [[飯作あゆり]]、元[[新体操]]選手 * 1981年 - [[竹内沙帆]]、歌手 * [[1982年]] - [[アレクセイ・ベレズツキ]]、元サッカー選手 * 1982年 - [[ヴァシリ・ベレズツキ]]、元サッカー選手 * [[1983年]] - [[三上真史]]、俳優 * 1983年 - [[ケンドリス・モラレス]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[ヒライハルキ]]、ミュージシャン([[The Birthday]]) * 1983年 - [[岡﨑太一]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[佐藤吉宏]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[花田有衣]]、元[[バスケットボール選手]] * [[1984年]] - [[鬼龍院翔]]、歌手([[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]]) * 1984年 - 三谷忠照、[[三谷産業|三谷産業株式会社]] 代表取締役社長 * [[1985年]] - [[相武紗季]]、女優、タレント * 1985年 - [[ブルックス・ブラウン]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[鄭智媛]]、アナウンサー * 1985年 - [[佐藤誠太]]、アナウンサー * [[1986年]] - [[宇賀なつみ]]、アナウンサー * 1986年 - [[富田晋伍]]、サッカー選手 * [[1987年]] - [[齊藤悠葵]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[比屋根渉]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[アスミル・ベゴヴィッチ]]、サッカー選手 * 1987年 - [[マリエ (モデル)|マリエ]]、[[ファッションモデル]]、タレント * [[1988年]] - [[May J.]]、歌手 * [[1989年]] - [[滝口ミラ]]、タレント、元[[アイドル]](元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]5号) * 1989年 - [[寺田龍平]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[富永一]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[ハビエル・パストーレ]]、サッカー選手 * [[1990年]] - [[東浜巨]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[染谷早紀]]、ミュージカル俳優 * 1990年 - [[丁寧 (卓球選手)|丁寧]]、[[卓球選手]] * [[1991年]] - [[鈴木昂平]]、元プロ野球選手 * [[1992年]] - [[渡辺梨夏子]]、元[[モデル (職業)|モデル]] * 1992年 - [[内野泰輔]]、アナウンサー * [[1993年]] - [[ジャンナ・プガチャ]]、フィギュアスケート選手 * 1993年 - [[平田雄也]]、俳優 * [[1994年]] - [[鮎川穂乃果]]、モデル、タレント、女優 * 1994年 - [[山形純菜]]、アナウンサー * 1994年 - [[戴資穎]]、バドミントン選手 * [[1995年]] - [[山下耀子]]、タレント * [[1997年]] - [[藍 (モデル)|藍]]、モデル * 1997年 - [[吉田凌]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[椎橋慧也]]、サッカー選手 * [[1998年]] - [[山内ともな]]、モデル、タレント * [[1999年]] - [[水野由結]]、歌手、ダンサー(元[[さくら学院]]、元[[BABYMETAL]]) * [[2000年]] - [[内村莉彩]]、元[[アイドル]](元[[SUPER☆GiRLS]]) * 2000年 - [[直江大輔]]、プロ野球選手 * [[2001年]] - [[笹生優花]]、[[プロゴルファー]] * [[2002年]] - [[畠山彩奈]]、女優 * [[2003年]] - AYAKA、アイドル([[NiziU]]) * [[2008年]] - [[川島夕空]]、子役 {{-}} == 忌日 == [[Image:Byodo-In-08.jpg|thumb|100px|武将[[源頼政]](1104-1180)、[[以仁王の挙兵]]で自害。{{Squote|埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりけり――[[辞世の句]]}}]] <!-- [[Image:Yorimasa_shooting_at_the_monsterous_nue.jpg|thumb|100px|[[源頼政]](1104-1180)]] 縦長のため断念--> [[Image:Hans_Axel_von_Fersen2.jpg|thumb|100px|[[マリー・アントワネット]]の愛人[[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]](1755-1810)、群集に惨殺される]] <!-- [[Image:Redoute_flowers01.jpg|thumb|100px|「[[バラ|薔薇]]の画家」[[ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ]](1759-1840)。画像は薔薇の絵の1枚]] --> [[Image:%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%AD%B3%E4%B8%89%E6%9C%80%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%A2%91.jpg|thumb|100px|[[新撰組]]副長[[土方歳三]](1835-1869)、[[箱館戦争]]で戦死。{{Squote|よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ――辞世の句}}]] <!-- [[Image:Clz.jpg|thumb|100px|「[[女性解放運動]]の母」、[[クララ・ツェトキン]](1857-1933)]] --> <!-- [[Image:Bugsy_Siegel_Crypt.jpg|thumb|100px|アメリカ合衆国のギャング、[[ベンジャミン・シーゲル]](1906-1947)射殺される]] --> <!-- [[Image:Hitoshi_Ashida.jpg|thumb|100px|第47代日本国内閣総理大臣、[[芦田均]](1887-1959)]] --> [[Image:Cioran_tombe.jpg|thumb|100px|思想家[[エミール・シオラン]](1911-1995)。{{Squote|他人の名の下に語る者は常に詐欺師である。――『崩壊概論』(1949)}}]] * [[840年]] - [[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]、[[フランク王国|フランク王]](* [[778年]]) * [[1180年]]([[治承]]4年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[源頼政]]、[[武将]]、[[歌人]](* [[1104年]]) * 1180年(治承4年5月26日) - [[以仁王]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* [[1151年]]) * [[1186年]]([[文治]]2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[平頼盛]]、武将(* [[1131年]]) * [[1512年]]([[永正]]9年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[後藤祐乗]]、装剣金工(* [[1440年]]) * [[1560年]]([[永禄]]3年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[足利晴氏]]、[[古河公方]](* [[1508年]]) * [[1586年]]([[天正]]14年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[荒木村重]]、[[武将]](* [[1535年]]) * [[1810年]] - [[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]]、[[スウェーデン]][[貴族]](* [[1755年]]) * [[1818年]] - [[ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ|ヘートヴィヒ・エリーザベト]]、スウェーデン王[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]の妃(* [[1759年]]) * [[1827年]] - [[トーマス・ワージントン]]、第6代[[オハイオ州知事]](* [[1773年]]) * [[1837年]] - [[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]、[[イギリス|イギリス王]](* [[1765年]]) * [[1840年]] - [[ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ]]、[[画家]](* [[1759年]]) * [[1866年]]([[慶応]]2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[市川小團次 (4代目)]]、[[歌舞伎|歌舞伎役者]](* [[1812年]]) * [[1867年]](慶応3年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[太田資始]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[掛川藩|掛川藩主]](* [[1799年]]) * [[1869年]]([[明治]]2年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[土方歳三]]、[[新選組]]副長(* [[1835年]]) * [[1870年]] - [[ジュール・ド・ゴンクール]]、小説家、美術評論家(* [[1830年]]) * [[1913年]] - [[松本重太郎]]、実業家(* [[1844年]]) * [[1917年]] - [[ジェームス・クラフツ]]、[[化学者]](* [[1839年]]) * [[1922年]] - [[饗庭篁村]]、[[小説家]]、[[演劇]][[評論家]](* [[1855年]]) * 1922年 - [[ヴィットーリオ・モンティ]]、[[作曲家]](* [[1868年]]) * [[1933年]] - [[クララ・ツェトキン]]、[[フェミニズム]]運動家、[[ドイツ共産党]]の政治家(* [[1857年]]) * [[1940年]] - [[ジャン・アラン]]、[[オルガニスト]]、[[作曲家]](* [[1911年]]) * [[1944年]] - [[村松長太郎]]、[[プロ野球選手]](* [[1921年]]) * [[1945年]] - [[ブルーノ・フランク]]、小説家、[[詩人]](* [[1887年]]) * [[1947年]] - [[ベンジャミン・シーゲル]]、ギャング(* [[1906年]]) * [[1951年]] - [[トキノミノル]]、[[競走馬]](* [[1948年]]) * [[1952年]] - [[ルイジ・ファジオーリ]]、[[自動車競技|レーシング・ドライバー]](* [[1898年]]) * [[1953年]] - [[フセボロド・プドフキン]]、[[映画監督]](* [[1893年]]) * [[1958年]] - [[クルト・アルダー]]、化学者(* [[1902年]]) * [[1959年]] - [[芦田均]]、政治家、第47代[[内閣総理大臣]](* [[1887年]]) * [[1964年]] - [[野村秀雄]]、第8代[[日本放送協会|NHK]]会長、[[朝日新聞社]]社長(* [[1888年]]) * [[1966年]] - [[ジョルジュ・ルメートル]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]、[[天文学者]](* [[1894年]]) * [[1968年]] - [[容国団]]、[[卓球]]選手(* [[1937年]]) * [[1971年]] - [[曽我量深]]、[[仏教]][[思想家]](* [[1875年]]) * 1971年 - [[市川中車 (8代目)]]、歌舞伎役者(* [[1896年]]) * [[1977年]] - [[大熊信行]]、[[経済学者]](* [[1893年]]) * [[1978年]] - [[尾上多賀之丞 (3代目)]]、歌舞伎役者(* [[1889年]]) * 1978年 - [[マーク・ロブソン]]、映画監督(* [[1913年]]) * [[1980年]] - [[アラン・ペッタション]]、作曲家(* [[1911年]]) * [[1987年]] - [[嵯峨浩]]、[[満州国]]皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]の弟[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]の妻(* [[1914年]]) * [[1991年]] - [[古屋亨]]、第33代[[自治大臣]](* [[1909年]]) * [[1992年]] - [[チャールズ・グローヴズ]]、[[指揮者]](* [[1915年]]) * [[1993年]] - 早瀬日慈、僧侶、大石寺68世[[日如]]の父(* [[1887年]]) * [[1995年]] - [[エミール・シオラン]]、[[思想家]](* [[1911年]]) * [[1996年]] - [[ミシェル・ルブラン]]、[[推理作家]](* [[1930年]]) * [[1997年]] - [[ジョン・アキ=ブア]]、[[陸上競技]]選手(* [[1949年]]) * [[2001年]] - [[エルネスト・ブール]]、指揮者(* [[1913年]]) * [[2002年]] - [[エルヴィン・シャルガフ]]、[[生化学|生化学者]](* [[1905年]]) * [[2004年]] - [[早坂茂三]]、[[政治]][[評論家]](* [[1930年]]) * [[2005年]] - [[ジャック・キルビー]]、電子技術者、[[集積回路]]開発者(* [[1923年]]) * [[2006年]] - [[河野一之]]、[[大蔵省]][[事務次官]]、[[実業家]](* [[1907年]]) * 2006年 - [[宗左近]]、[[詩人]]、[[評論家]]、[[フランス文学者]]、[[翻訳家]](* [[1919年]]) * [[2007年]] - [[谷伍平]]、第2 - 6代[[北九州市|北九州市長]](* [[1916年]]) * [[2013年]] - [[ジャン=ルイ・シェレル]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1935年]]) * [[2014年]] - [[横山あきお]]、[[漫才師]]、俳優(* [[1930年]]) * [[2015年]] - [[貴ノ浪貞博]]、元大相撲力士、元[[大関]](* [[1971年]]) * [[2016年]] - [[瀬川昌治]]、映画監督(* [[1925年]]) * 2016年 - 佐々木行、歌手([[ダークダックス]])(* [[1932年]]) * [[2020年]] - [[柳家三寿]]<ref>{{Cite web|和書|title=柳家三壽 訃報 {{!}} 一般社団法人 落語協会|url=https://rakugo-kyokai.jp/news/3863/|website=rakugo-kyokai.jp|accessdate=2020-12-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200623-J5DMGAS2RNI5RLHINHVJDYQMHE/|title=柳家三寿氏が死去 落語家|publisher=産経ニュース|date=2020-06-23|accessdate=2020-11-14}}</ref>、落語家(* [[1946年]]) * [[2023年]] - [[佐藤剛 (音楽プロデューサー)|佐藤剛]]<ref>{{Cite web|和書|title=ご報告 |url=https://twitter.com/gosan5553/status/1673077953008394241?t=4OZga009DykHcTjZyhj5hQ&s=19 |website=https://twitter.com/gosan5553/ |accessdate=2023-06-26 |publisher=Twitter}}</ref>、[[音楽プロデューサー]]、[[ノンフィクション作家]](* [[1952年]]) * 2023年 - [[小林信夫 (イラストレーター)|小林信夫]]、イラストレーター(* 不明) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[File:Bundesarchiv Bild 183-J19568, Bei Stalingrad, russische Flüchtlinge.jpg|thumb|280px|[[世界難民の日]]]] [[File:Peppermint closeup.jpg|thumb|240px|[[ペパーミント]]の日]] * [[世界難民の日]]({{World}}) *: [[2000年]]12月4日、[[国際連合総会]]で、[[1974年]]に[[アフリカ統一機構]]難民条約が発効したことによる「アフリカ[[難民]]の日」を改称した。 * 戦没者追悼記念日({{ERI}}) * ペパーミントの日({{JPN}}) *: [[ミント|ハッカ]]が特産品の[[北海道]][[北見市]]まちづくり研究会が[[1987年]]に制定。「はっか(20日)」の語呂合せ。6月は、この月の北海道の爽やかさがハッカそのものであるとのことから。 * 健康住宅の日({{JPN}}) *: 健康住宅推進協議会(現在の日本健康住宅協会)が制定。 * 国際日系デー *: [[1868年]]6月20日に、最初の日本発移民がハワイに到着したことに因む。[[2018年]]開催の第59回海外日系人大会で制定された。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0620|date=2011年6月}} * [[2003年]] - 麻帆良祭が開催される。(漫画『[[魔法先生ネギま!]]』) * [[2000年代|200X年]] - [[海上自衛隊]]の[[輸送艦]]「[[おおすみ型輸送艦 (2代)|おおすみ]]」および[[アメリカ海軍]]の[[強襲揚陸艦]]「[[エセックス (強襲揚陸艦)|エセックス]]」が[[1600年]]に[[タイムトラベル|タイムスリップ]]する。(漫画・小説『[[戦国自衛隊 (劇画)|続・戦国自衛隊]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1849年]]([[嘉永]]2年) - [[緋村剣心]]、漫画・アニメ『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』の主人公<ref>{{Twitter status|ruroken_movie|478741280290512897}}</ref> * [[1928年]]([[昭和]]3年) - [[岡倉大吉]]、ドラマ『[[渡る世間は鬼ばかり]]』に登場するキャラクター *[[1934年]]([[昭和]]9年) - [[さくらひろし]]、アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター * [[1986年]]([[昭和]]61年)- [[白河ことり]]、ゲーム・アニメ『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite journal |和書 |date = 2003-11 |publisher = [[角川書店]] |journal = [[コンプティーク]] |page = 24 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc_heroine_details.html#ktr |title=白河 ことり |access-date=2022-12-31 |publisher=CIRCUS |work=『D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ I&II~ プラスシチュエーション』}}</ref> * [[2004年]]([[平成]]16年)- 乃木若葉、小説・漫画『[[乃木若葉は勇者である]]』の主人公<ref>{{Twitter status|yyyi_game|1538537090295599105}}</ref> * [[2081年]] - リムル・レムリ・ファイ、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=64|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - 浅羽祐希、漫画・アニメ『[[君と僕。]]』の主人公のひとり<ref name="kimitoboku">{{Cite book |和書 |author=堀田きいち(原作)|authorlink=堀田きいち|year = 2011 |title = 堀田きいち OFFICIAL FANBOOK 君と僕。-AFTER SCHOOL- |pages=66,68|publisher = [[スクウェア・エニックス]] |isbn = 978-4-7575-3383-7 }}</ref> * 生年不明 - 浅羽悠太、漫画・アニメ『君と僕。』の主人公のひとり<ref name="kimitoboku" /><ref>{{Cite book |和書 |year = 2012 |title = アニメ「君と僕。」公式ファンブック |pages = 6 |publisher = [[主婦と生活社]] |series = 生活シリーズ |isbn = 978-4-391-63375-7 }}</ref> * 生年不明 - 春菜来華、漫画『[[らいか・デイズ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|RaikaDays_mtg|1540235525751439360}}</ref> * 生年不明 - ミルキー・ミルマン、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1538538363367706624}}</ref> * 生年不明 - 右近、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref name="tou">{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|pages=86,87|isbn=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - 左近、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref name="tou" /> * 生年不明 - 香燐、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|page=67|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref> * 生年不明 - ロード・キャメロット、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|year=2008|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|page=140|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=120|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref> * 生年不明 - 骨抜柔造、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=骨抜柔造 |url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-05/ |accessdate=2022-12-31 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 小静麗、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種トーキョーグール:re]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2016|title=東京喰種トーキョーグール:re|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-890376-7|date=|volume=6巻|quote=カバー裏}}</ref> * 生年不明 - シナモン=メイユール、漫画・アニメ『[[シュガシュガルーン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160807232024/https://lineblog.me/annomoyoco/archives/1058595746.html |title=今日はショコラの母・シナモンの誕生日 |access-date=2022-12-31 |publisher=安野モヨコ |date=2016-06-20}}</ref> * 生年不明 - 十倉栄依子、漫画・アニメ『[[スロウスタート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://slow-start.com/#character |title=Character 十倉栄依子 |publisher=[[篤見唯子]]・[[芳文社]]/スロウスタート製作委員会 |accessdate=2022-12-31 |work=『スロウスタート』}}</ref> * 生年不明 - 菅原千一、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|tsurune_anime|1406446714098176004}}</ref> * 生年不明 - 菅原万次、小説・アニメ『ツルネ -風舞高校弓道部-』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 鳴子郁、ボカロ歌唱・アニメ『[[ACTORS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://actorsmusic.jp/character/narugo/ |title=鳴子 郁 |access-date=2022-12-31 |publisher=EXIT TUNES |work=『ACTORS』}}</ref> * 生年不明 - 鷹野三四、ゲーム・アニメ『[[ひぐらしのなく頃に]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|higurashi_mei|1406461807846436864}}</ref> * 生年不明 - 梅木音葉、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20025 |title=梅木 音葉(うめき おとは) |access-date=2022-12-31 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 穂仁原翔、ゲーム『[[学☆王 -THE ROYAL SEVEN STARS-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lumpofsugar.co.jp/product/gackoh/character/char05.php |title=穂仁原 翔 |publisher=[[Lump of Sugar]] |accessdate=2022-12-31 |work=『学☆王- THE ROYAL SEVEN STARS -』}}</ref> * 生年不明 - アルフレッド、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=13&cate=name&cont=Alfred |title=アルフレッド |access-date=2022-12-31 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - マルタン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『夢王国と眠れる100人の王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=150&cate=name&cont=Martin2 |title=マルタン |access-date=2022-12-31 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 六弥ナギ、ゲーム『[[アイドリッシュセブン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idolish7.com/wp-content/themes/idolish/profile/rokuya.html |title=六弥ナギ |access-date=2022-12-31 |work=『アイドリッシュセブン』}}</ref> <!--* 生年不明 - レムオン・リューガ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年6月19日 (水) 14:21 (UTC)}} 2022年12月、3年半以上要出典のためコメントアウト--> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 20|20 June}} {{新暦365日|6|19|6|21|[[5月20日]]|[[7月20日]]|[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]|0620|6|20}} {{1年の月と日}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8820%E6%97%A5
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6月21日
6月21日(ろくがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から172日目(閏年では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。
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6月21日(ろくがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から172日目(閏年では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。
{{カレンダー 6月}} '''6月21日'''(ろくがつにじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から172日目([[閏年]]では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。 == できごと == [[File:Battle of Laupen.jpg|thumb|180px|[[:en:Battle of Laupen|ラウペンの戦い]](1339)]] {{multiple image | direction = vertical | footer = [[本能寺の変]](1582)。画像の寺院は現在の[[本能寺]] | image1 = Honnoj.jpg | width1 = 180 | alt1 = 本能寺の変 | image2 = 本能寺本堂.jpg | width2 = 180 | alt2 = 本能寺 }} [[ファイル:Ja-hokkaido-shakushain-zou.jpg|thumb|180px|[[シャクシャインの戦い]](1669)]] [[ファイル:United_States_Constitution.jpg|thumb|180px|[[アメリカ合衆国憲法]]が成立(1788)。画像は原本]] [[ファイル:Vitoria_-_Museo_de_Armeria_06.JPG|thumb|180px|[[スペイン独立戦争]]、[[ビトリアの戦い]](1813)]] [[ファイル:Vitoria_-_Museo_de_Armeria_09.JPG|thumb|180px|[[半島戦争]]、[[ビトリアの戦い]](1813)。画像は連合軍側の戦利品の展示]] [[ファイル:IJN sroop of war SEIKI around 1878.jpg|thumb|180px|[[清輝]]竣工(1876)]] [[File:Bundesarchiv Bild 183-M1112-500, Waffenstillstand von Compiègne, Hitler, Göring.jpg|thumb|right|180px|フランス代表との降伏調印式に出席した[[ヒトラー]](1940)]] * [[紀元前216年]] - [[第二次ポエニ戦争]]: [[トラシメヌス湖畔の戦い]]が起こり、[[カルタゴ|カルタゴ軍]]が[[ローマ軍]]に勝利{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1307年]] - [[カイシャン]]が[[モンゴル帝国]]の第7代[[皇帝]]として即位{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1339年]] - {{仮リンク|ラウペンの戦い|en|Battle of Laupen}}が起こり、[[都市国家]][[ベルン]]が[[貴族]]に勝利。 * [[1467年]]([[応仁]]元年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[応仁の乱]]:[[山名宗全|山名持豊(宗全)]]、[[畠山義就]]らが挙兵。 * [[1582年]]([[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[本能寺の変]]。[[明智光秀]]が[[京都]]の[[本能寺]]に滞在中の[[織田信長]]を襲撃し、織田信長は自害{{Sfn|池上裕子|2012|p=219}}。 * [[1593年]]([[文禄]]2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[文禄・慶長の役|文禄の役]]:[[晋州城攻防戦#第二次攻防戦|第二次晋州城の戦い]]が始まる。 * [[1669年]]([[寛文]]9年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[シャクシャインの戦い]]:[[アイヌ民族]]が一斉[[反乱|蜂起]]。 * [[1685年]] - [[イングランド]]で[[モンマスの反乱]]起こる。 * [[1711年]] - [[アン女王戦争]]: [[ブラッディクリークの戦い (1711年)|ブラッディクリークの戦い]]で[[アベナキ族]]が勝利。 * [[1736年]]([[元文]]元年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[江戸幕府]]が金銀吹き替え(改鋳)を布告([[元文丁銀#略史|元文改鋳]])。 * [[1752年]] - [[ベンジャミン・フランクリン]]が、[[ライデン瓶]]による[[積乱雲]]の帯電を証明する実験を行う。 * [[1788年]] - [[ニューハンプシャー州|ニューハンプシャー邦]]が[[アメリカ合衆国憲法]]を批准。所定の9邦の批准により、アメリカ合衆国憲法が発効。 * [[1798年]] - {{仮リンク|ヴィネガー・ヒルの戦い|en|Battle of Vinegar Hill}}が起こり、[[イギリス]]が{{仮リンク|アイルランド連合|en|Society of United Irishmen}}に勝利。 * [[1807年]] - [[ナポレオン戦争]]:[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[プロイセン]]の3か国間で[[休戦協定]]が締結。 * [[1813年]] - [[スペイン独立戦争]]:[[ビトリアの戦い]]。 * [[1824年]] - [[ギリシャ独立戦争]]:[[エジプト]]が[[エーゲ海]]の[[プサラ島]]を占領。 * [[1826年]] - ギリシャ独立戦争:{{仮リンク|バルガスの戦い|en|Ottoman–Egyptian Invasion of Mani}}。 * [[1863年]] - [[南北戦争]]:[[ゲティスバーグ方面作戦#戦闘|アッパービルの戦い]]。 * [[1868年]]([[明治]]元年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) - [[明治政府]]が[[大阪府]]を設置。 * [[1870年]] - [[中国]][[天津]]で、民衆が[[フランス]][[領事館]]や[[教会 (キリスト教)|教会]]を襲撃し、修道女、神父、領事館員などの外国人20余名、中国人信者30名余名が惨殺された。([[天津教案]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20080621007/|title=【今日は何の日】1870年:天津教案が起こる|publisher=exciteニュース|date=2008-06-21|accessdate=2020-08-12}}</ref>。 * [[1876年]] - [[横須賀造船所]]で日本初の[[軍艦]]「[[清輝]]」が竣工。 * [[1892年]] - [[鉄道敷設法]]公布。 * [[1895年]] - [[キール運河]]が運用開始。 * 1898年 - [[パリ条約 (1898年)|パリ条約]]により、[[グアム]]が[[スペイン]]から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に割譲される。[[1668年]]から、230年に及ぶ[[スペイン]]の支配に終止符。 * [[1900年]] - [[義和団の乱]]: [[清国]]が[[日本|日]][[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]][[ドイツ|独]][[フランス|仏]][[イタリア|伊]][[オーストリア|墺]][[ロシア|露]]の8か国に[[宣戦布告]]。 * [[1901年]] - 元[[衆議院議長]]・[[逓信大臣]]で[[東京市会]]議長の[[星亨]]が、[[伊庭想太郎]]に[[刺殺]]される。 * [[1908年]] - [[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国|グレートブリテン]]で、女性の参政権を認めさせるため、25万人以上の市民が[[デモ活動]]を実施。 * [[1915年]] - [[無線電信法]]公布。 * [[1919年]] - [[第一次世界大戦]]: [[スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈]]。[[第一次世界大戦]]における最後の[[戦死|戦死者]]が出る。 * [[1931年]] - [[ドイツ]]の[[鉄道車両]]、[[シーネンツェッペリン]]が、230[[キロメートル毎時|km/h]]を達成。 * [[1934年]] - [[東京地下鉄道]]・[[銀座駅|銀座]] - [[新橋駅|新橋]](現在の[[東京メトロ銀座線]])が延伸開業し、東京地下鉄道線が全線開通。 * [[1939年]] - [[メジャーリーグベースボールの選手一覧|メジャーリーガー]]の[[ルー・ゲーリッグ]]が引退。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: フランスがドイツに降伏。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦: [[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]の[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル将軍]]が[[北アフリカ]]の[[トブルク]]でイギリス軍に歴史的勝利を収める。 * 1942年 - 第二次世界大戦・[[アメリカ本土砲撃]]: [[フォート・スティーブンス砲撃]]。[[オレゴン州]][[コロンビア川]]河口近くを航行中の[[日本]]の[[伊号第二五潜水艦]]から行われた複数発の砲撃が{{仮リンク|フォート・スティーブンス (オレゴン州)|label=フォート・スティーブンス|en|Fort Stevens (Oregon)}}陸軍基地近くに着弾。日本軍による数少ない[[アメリカ本土攻撃]]の一つ。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[沖縄戦]]: [[菊水作戦|菊水十号作戦]]。事実上最後の[[沖縄本島]]での[[日本軍]]による組織的抵抗。 * [[1948年]] - [[ドイツマルク]]が[[西ドイツ]]の正式な[[通貨]]となる。 * 1948年 - [[コロムビア・レコード]]が国共内戦LPレコードをニューヨークの[[ウォルドルフ=アストリア]]ホテルで発表。 * 1948年 - 世界初の[[ノイマン型|プログラム内蔵式コンピュータ]][[Manchester Small-Scale Experimental Machine]] (SSEM) が初稼動。 * [[1949年]] - 川崎汽船の旅客船「青葉丸」が[[デラ台風]]により大分県沖で[[デラ台風#青葉丸転覆事故|転覆]]。死者・行方不明者141人。 * [[1951年]] - 日本が[[国際連合教育科学文化機関]] (UNESCO) の加盟が承認される。なお、加盟日は同年7月2日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s26_1951_02.html|title=昭和26年(1951)7月 ユネスコに加盟する件|publisher=公文書に見る日本のあゆみ|accessdate=2020-08-12}}</ref>。 * 1951年 - 日本の[[国際労働機関]] (ILO) 第34回総会で、日本の復帰(再加盟)が承認された<ref name=nippon>{{Cite web|和書|url=https://www.nippon.com/ja/japan-topics/today0621/|title=今日は何の日:6月21日|publisher=nippon.com|accessdate=2020-08-12}}</ref>。 * [[1956年]] - 各地で降[[雹]]。[[愛知県]]で27人が負傷、[[岐阜県]]で48人が負傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=113 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1957年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[スパイ]]、[[ルドルフ・アベル]]が[[連邦捜査局|FBI]]に逮捕される。 * [[1957年]] - Ellen Faircloughが、[[カナダ]]で女性として初の[[大臣]]に就任。 * [[1957年]] - [[近畿日本鉄道]]が初の冷房特急の運転開始。 * [[1960年]] - 西ドイツの[[アルミン・ハリー]]が陸上[[100メートル競走|100m走]]で[[10秒の壁|10秒0を記録]]。 * [[1961年]] - [[国際オリンピック委員会]] (IOC) が、[[1964年東京オリンピック]]から[[柔道]](無差別級含む4階級)と[[バレーボール]]を正式種目に採用することを決定<ref name=nippon/>。 * [[1962年]] - [[産経新聞]]で、[[司馬遼太郎]]の小説『[[竜馬がゆく]]』の連載が始まる。 * [[1963年]] - [[パウロ6世]]が262代[[ローマ教皇]]に就任。 * [[1964年]] - {{仮リンク|ミシシッピ州公民権活動家殺害事件|en|Murders of Chaney, Goodman, and Schwerner}}:[[ミシシッピ州]][[フィラデルフィア]]近郊で地元警察と[[白人至上主義]]者が結託し、[[アフリカ系アメリカ人公民権運動|公民権活動]]家3人が殺害される。 * [[1968年]] - 東京・都営地下鉄1号線(現在の[[都営地下鉄浅草線|浅草線]])、[[大門駅 (東京都)|大門駅]] - [[泉岳寺駅]]間が開業する。同時に[[京急本線]]の泉岳寺駅 - [[品川駅]]間も開業し、[[京成電鉄]]も含めた3社[[相互直通運転]]を開始。 *1968年 - [[名神高速道路]]で[[日産カーレンタルソリューション|日産観光サービス]]所有の[[日産・シビリアン#エコー(2代目 1966年 - 1971年)|日産エコーロング]]が、[[共振]]による[[プロペラシャフト]]の破損から横転。1人死亡・9人が負傷し、[[欠陥車]]問題がクローズアップされる切っ掛けの一つとなる。 * [[1970年]] - [[ヨット]]「サナトス号」で[[メキシコ]]・[[エンセナダ]]から日本を目指していた牛島竜介が[[博多港]]に到着。前年の博多港から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]までの航海と合わせ、史上初のヨットによる[[太平洋]]往復単独横断航海に成功。 * [[1982年]] - [[レーガン大統領暗殺未遂事件]]の犯人、[[ジョン・ヒンクリー]]に[[無罪]]判決。 * [[1985年]] - [[グリーンランドの旗]]が制定。 * [[1988年]] - [[ミャンマー]]の首都[[ヤンゴン]]で、反政府学生数千人によるデモ隊が警官隊と衝突。 * [[1990年]] - [[イラン北西部ルードバール地震|マンジール・ルードバル地震]]。[[イラン]]の首都[[テヘラン]]の約200km北西で、[[マグニチュード]]7.4の地震が発生。 * [[1993年]] - [[新党さきがけ]]が結党。 * [[1994年]] - [[ニューヨーク金融市場|ニューヨーク外為市場]]で、[[円相場]]が初めて1ドル=100円を突破<ref>{{Cite web|url=https://www.reuters.com/article/us-yen-idUSTRE49Q1AN20081027|title=TIMELINE: Milestones in the yen's history|publisher= Reuters|accessdate=2020-08-12}}</ref>。 * [[1995年]] - [[東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード]]が終了。 * 1995年 - 羽田発函館行きの[[全日本空輸|全日空機]](ANA-857便)が[[ハイジャック]]される([[全日空857便ハイジャック事件]])。 * [[1996年]] - [[名護市女子中学生拉致殺害事件]]が発生。 * [[2000年]] - [[岡山金属バット母親殺害事件]]が発生。 * [[2000年]] - イギリスの同性愛を禁止する法律「{{仮リンク|セクション28|en|Section 28}}」が[[スコットランド]]で廃止。 * [[2002年]] - [[鈴木宗男事件|やまりん事件]]で逮捕された[[鈴木宗男]]に対して衆議院本会議で[[辞職勧告決議|議員辞職勧告決議]]が可決。日本国憲法下で衆議院議員への議員辞職勧告決議が初の可決。 * [[2004年]] - [[スケールド・コンポジッツ|スケールド・コンポジッツ社]]の[[スペースシップワン]]によって、[[民間企業]]による[[有人宇宙飛行]]としては世界で初めて高度100km(10万メートル)を達成。 * [[2006年]] - [[2005年]]に新たに発見された[[冥王星]]の2つの[[衛星]]に、それぞれ正式に「[[ニクス (衛星)|ニクス]]」「[[ヒドラ (衛星)|ヒドラ]]」と名付けられる。 * [[2008年]] - [[フィリピン]]で大型[[フェリー]]「[[プリンセス・オブ・ザ・スターズ]]」が沈没<ref>{{Cite web|和書|date=2008年12月24日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552332 |title=2008年、世界を襲った大災害や事故 |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2020-08-13}}</ref>。死者700人以上。 {{-}} == 誕生日 == [[ファイル:PopeleoIX.jpg|thumb|180px|第152代ローマ教皇[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]](1002-1054)。教会改革に尽力。[[東西教会の分裂]]を解決しようとした。]] [[ファイル:Abraham_Mignon_002.jpg|thumb|180px|画家[[アブラハム・ミグノン]](1640-1679)。画像は『静物』]] [[ファイル:Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg|thumb|180px|哲学者[[ゴットフリート・ライプニッツ]](1646-1716)。[[モナド論]]、[[微積分法]]、[[微積分記号]]の考案など数多くの功績を残した。]] [[ファイル:Motoori Norinaga.jpg|thumb|180px|「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月<br />賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」<ref group="注"> 宣長にとってこの歌は自身の心とも言える特別なものだったらしく、自選歌集『鈴屋集』には載せず、人から乞われた時のみ染筆している(『心力をつくして ─本居宣長の生涯─』pp.70-72)</ref>]] [[ファイル:Sir_William_Sidney_Smith.jpg|thumb|180px|イギリスの提督、[[シドニー・スミス (軍人)|シドニー・スミス]](1764-1840)。{{Squote|あの男が我が命運を失わしめた。――[[ナポレオン・ボナパルト]]}}]] [[ファイル:Simeon_Poisson.jpg|thumb|180px|数学者[[シメオン・ドニ・ポアソン]](1781-1840)。[[ポアソン分布]]・[[ポアソン方程式]]などを考案。]] [[ファイル:Moses Hess.jpg|thumb|180px|哲学者[[モーゼス・ヘス]](1812-1875)。[[社会主義者]]でもあり[[シオニズム]]の創始者。]] [[ファイル:Max_Wolf.jpg|thumb|180px|天文学者[[マックス・ヴォルフ]](1863-1932)。[[天体写真]]を用いて248個の[[小惑星]]を発見した。]] [[ファイル:SCHERCHEN.jpg|thumb|180px|指揮者[[ヘルマン・シェルヘン]](1891-1966)。[[現代音楽]]の推進者として知られた。]] [[ファイル:Norfolk_Scope2.JPG|thumb|180px|建築家[[ピエール・ルイージ・ネルヴィ]](1891-1979)。画像は『ノーフォーク・スコープ』(1971)]] [[ファイル:Jean-Paul_Sartre_FP.JPG|thumb|180px|[[実存主義]]哲学者[[ジャン=ポール・サルトル]](1905-1980)。{{Squote|[[想像力]]は[[意識]]の経験的もしくは追加的な力ではなく、それ自身の[[自由]]を実現する意識そのもの全体なのである。――『想像力』(1936)}}]] [[ファイル:Jane_Russell_in_Gentlemen_Prefer_Blondes_trailer_3.jpg|thumb|180px|女優[[ジェーン・ラッセル]](1921-2011)]] [[ファイル:Benazir Bhutto.jpg|thumb|180px|政治家[[ベーナズィール・ブットー]](1953-2007)。[[パキスタン]]の元[[首相]]。[[イスラム世界|イスラム諸国家]]で初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]であったが、[[暗殺]]された。]] [[ファイル:Pomidyarji (cropped).jpg|thumb|180px|世界最大の[[インターネットオークション]]『[[eBay]]』の創設者[[ピエール・オミダイア]](1967-)]] * [[1002年]] - [[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]、第152代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1054年]]) * [[1007年]] - [[欧陽脩]]、[[政治家]]、[[詩人]](+ [[1072年]]) * [[1226年]] - [[ボレスワフ5世]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]](+ [[1279年]]) * [[1528年]] - [[マリア・デ・アブスブルゴ]]、[[神聖ローマ皇帝]]の[[皇后]](+ [[1603年]]) * [[1639年]] - {{仮リンク|インクリース・マザー|en|Increase Mather}}、[[政治家]](+ [[1723年]]) * [[1640年]] - [[アブラハム・ミグノン]]、[[画家]](+ [[1679年]]) * 1646年 - [[マリー・フランソワーズ・ド・サヴォワ=ヌムール|マリー・フランソワーズ・ド・ヌムール]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[王妃]](+ [[1683年]]) * [[1676年]] - {{仮リンク|アンソニー・コリンズ (哲学者)|en|Anthony Collins (philosopher)|label=アンソニー・コリンズ}}、哲学者(+ [[1729年]]) * [[1710年]] - [[ジェームズ・ショート]]、[[望遠鏡]]製作者、[[天文学者]](+ [[1768年]]) * [[1730年]]([[享保]]15年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[本居宣長]]、[[国学|国学者]](+ [[1801年]]) * [[1732年]] - [[ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ]]、[[作曲家]](+ [[1795年]]) * [[1736年]] - {{仮リンク|イーノック・プーア|en|Enoch Poor}}、[[アメリカ陸軍]]の[[司令官]](+ [[1780年]]) * [[1741年]] - {{仮リンク|ベネデッド王子|en|Prince Benedetto, Duke of Chablais}}、[[イタリア]]の[[司令官]](+ [[1808年]]) * [[1759年]] - [[アレクサンダー・ダラス (政治家)|アレクサンダー・ダラス]]、[[アメリカ合衆国財務長官]](+ [[1817年]]) * [[1763年]] - {{仮リンク|ピアー・ポール|en|Pierre Paul Royer-Collard}}、哲学者(+ [[1845年]]) * [[1764年]] - [[シドニー・スミス (軍人)|シドニー・スミス]]、軍人(+ [[1840年]]) * [[1774年]] - [[ダニエル・トンプキンス]]、第5代[[ニューヨーク州知事]]、第6代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1825年]]) * [[1781年]] - [[シメオン・ドニ・ポアソン]]、[[数学者]]、[[物理学者]](+ [[1840年]]) * [[1786年]] - [[チャールズ・エドワード・ホーン]]、[[作曲家]](+ [[1849年]]) * [[1788年]] - [[アウグステ・フォン・バイエルン]]、[[フランス第一帝政|フランス]]の[[皇族]](+ [[1851年]]) * [[1791年]] - {{仮リンク|ロバート・ネイピア|en|Robert Napier (engineer)}}、[[技術者]](+ [[1876年]]) * [[1792年]] - [[フェルディナンド・クリスチャン・バウアー]]、[[神学者]](+ [[1860年]]) * [[1805年]] - {{仮リンク|チャールズ・トーマス・ジャクソン|en|Charles Thomas Jackson}}、[[博学者]](+ [[1880年]]) * [[1811年]] - [[カルロ・マテウッチ]]、[[物理学者]](+ [[1868年]]) * [[1812年]] - [[モーゼス・ヘス]]、哲学者、[[社会主義|社会主義者]](+ [[1875年]]) * [[1825年]] - {{仮リンク|ウィリアム・スタブス|en|William Stubbs}}、[[歴史家]](+ [[1901年]]) * [[1832年]]([[天保]]3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[寺島宗則]]、外交官(+ [[1893年]]) * [[1839年]] - [[マシャード・デ・アシス]]、[[小説家]](+ [[1908年]]) * [[1850年]] - {{仮リンク|ダニエル・カーター・ベアード|en|Daniel Carter Beard}}、アメリカ[[ボーイスカウト]]の創設者(+ [[1941年]]) * 1850年 - [[エンリコ・チェケッティ]]、[[バレエダンサー]]、[[教育関係人物一覧|教育者]](+ [[1928年]]) * 1850年([[嘉永]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[柴田承桂]]、[[薬学|薬学者]](+ [[1910年]]) * [[1859年]] - {{仮リンク|ヘンリー・オッサワ・タナー|en|Henry Ossawa Tanner}}、[[画家]](+ [[1937年]]) * [[1862年]] - [[ダムロンラーチャーヌパープ]]、政治家(+ [[1943年]]) * [[1863年]] - [[マックス・ヴォルフ]]、天文学者(+ [[1932年]]) * [[1864年]] - [[ハインリヒ・ヴェルフリン]]、[[美術史|美術史家]](+ [[1945年]]) * [[1868年]] - {{仮リンク|エドウィン・スティーブン・グッドリッチ|en|Edwin Stephen Goodrich}}、[[動物学|動物学者]](+ [[1946年]]) * [[1876年]] - [[ウィレム・ヘンドリック・ケーソン]]、[[物理学者]](+ [[1956年]]) * [[1880年]] - [[アーノルド・ゲゼル]]、[[心理学者]](+ [[1961年]]) * [[1882年]] - [[リュイス・クンパニィス]]、政治家(+ [[1940年]]) * 1882年 - [[ロックウェル・ケント]]、[[画家]](+ [[1971年]]) * [[1883年]] - [[フョードル・グラトコフ]]、[[作家]](+ [[1958年]]) * [[1884年]] - [[大妻コタカ]]、教育者(+ [[1970年]]) * [[1887年]] - [[ノーマン・ボウエン]]、[[岩石学|岩石学者]](+ [[1956年]]) * [[1889年]] - [[ラルフ・クレイグ]]、[[陸上競技選手一覧|陸上選手]](+ [[1972年]]) * [[1891年]] - [[ヘルマン・シェルヘン]]、[[指揮者]]、[[作曲家]](+ [[1966年]]) * 1891年 - [[ピエール・ルイージ・ネルヴィ]]、[[建築家]]、[[構造家]](+ [[1979年]]) * [[1892年]] - [[ラインホルド・ニーバー]]、[[神学者]]、[[政治学者]](+ [[1971年]]) * [[1893年]] - [[村岡花子]]、[[翻訳家]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](+ [[1968年]]) * [[1896年]] - {{仮リンク|チャールズ・モンセン|en|Charles Momsen}}、[[アメリカ海軍]]の[[中将]](+ [[1967年]]) * [[1898年]] - [[渋沢信雄]]、[[実業家]]、(+ [[1967年]]) * [[1903年]] - [[ルイス・クラスナー]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1995年]]) * 1903年 - [[アルフ・シェーベルイ]]、[[映画監督]](+ [[1980年]]) * [[1905年]] - [[ジャン=ポール・サルトル]]、哲学者(+ [[1980年]]) * [[1908年]] - [[島秀之助]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球審判員]](+ [[1995年]]) * 1908年 - [[尹奉吉]]、[[独立運動|独立活動]]家(+ [[1932年]]) * 1908年 - {{仮リンク|ウィリアム・フランケナ|en|William Frankena}}、[[倫理学|倫理学者]](+ [[1994年]]) * [[1909年]] - [[大杉久雄]]、[[編集者]](+ [[1995年]]) * 1909年 - [[クルト・シュヴァーエン]]、作曲家(+ [[2007年]]) * [[1912年]] - [[メアリー・マッカーシー]]、作家(+ [[1989年]]) * [[1914年]] - [[ウィリアム・ヴィックリー]]、[[経済学者]](+ [[1996年]]) * [[1916年]] - [[ハーバート・フリードマン]]、[[物理学者]](+ [[2000年]]) * [[1920年]] - [[楠安夫]]、元プロ野球選手(+ [[2000年]]) * [[1921年]] - [[ジェーン・ラッセル]]、[[俳優|女優]](+ [[2011年]]) * 1921年 - [[ジュディ・ホリデイ]]、女優(+ [[1965年]]) * [[1924年]] - [[ジャン・ラプランシュ]]、[[精神分析家|精神分析医]](+ [[2012年]]) * [[1925年]] - [[ジョヴァンニ・スパドリーニ]]、政治家(+ [[1994年]]) * 1925年 - [[モーリン・ステイプルトン]]、女優(+ [[2006年]]) * [[1926年]] - [[相沢忠洋]]、[[考古学|考古学者]](+ [[1989年]]) * 1926年 - [[コンラッド・L・ホール]]、[[撮影監督]](+ [[2003年]]) * [[1927年]] - {{仮リンク|カール・バートン|en|Carl Stokes}}、政治家(+ [[1996年]]) * [[1932年]] - [[ラロ・シフリン]]、作曲家 * [[1935年]] - [[フランソワーズ・サガン]]、[[小説家]](+ [[2004年]]) * [[1936年]] - [[市川治]]、[[声優]](+ [[2009年]]) * [[1938年]] - [[ジョン・ダワー]]、[[歴史家|歴史学者]] * 1938年 - [[芝野忠男]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[マイケル・ルース]]、[[科学哲学|科学哲学者]] * 1940年 - [[緒方勝]]、元プロ野球選手 * 1940年 - [[重松森雄]]、元[[陸上競技]]選手 * [[1941年]] - [[長山藍子]]、女優 * 1941年 - [[荻野一雄]]、元プロ野球選手 * [[1942年]] - [[トーゴー・D・ウェスト・ジュニア]]、軍人、政治家(+ [[2018年]]) * [[1944年]] - [[堀晃]]、[[SF作家]] * 1944年 - [[レイ・デイヴィス]]、[[ミュージシャン]]([[キンクス]]) * [[1946年]] - [[鈴木ヒロミツ]]、歌手、[[俳優]](+ [[2007年]]) * 1946年 - [[芝池博明]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[秋元順子]]、歌手 * 1947年 - [[マイケル・グロス]]、俳優 * 1947年 - [[シーリーン・エバーディー]]、[[弁護士]]、[[人権擁護者|人権活動家]] * 1947年 - [[落合勤一]]、プロ野球選手(+ [[2011年]]) * [[1948年]] - [[都倉俊一]]、作曲家 * 1948年 - [[イアン・マキューアン]]、小説家 * 1948年 - [[ティモシー・ウッド]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1948年 - [[ライオネル・ローズ]]、[[プロボクサー]](+ [[2011年]]) * [[1949年]] - [[牧れい]]、女優、歌手 * [[1950年]] - [[ジョーイ・クレイマー (ドラマー)|ジョーイ・クレイマー]]、[[ドラマー]]([[エアロスミス]]) * 1950年 - [[ジェラール・ランヴァン]]、俳優 * [[1951年]] - [[市地洋子]]、女優 * 1951年 - [[住田裕子]]、弁護士 * [[1952年]] - [[真下耕一]]、[[アニメ監督]] * [[1953年]] - [[ベーナズィール・ブットー]]、政治家、[[パキスタンの首相|パキスタン首相]](+ [[2007年]]) * 1953年 - [[ガボール・ゲルゲリー]]、卓球選手 * 1953年 - [[奥田直也]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[ミシェル・プラティニ]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]] * 1955年 - [[長谷川初範]]、俳優 * 1955年 - [[大木ひびき]]、[[漫才師]] * 1955年 - [[山本寿宣]]、[[東ソー]]代表取締役社長 * 1955年 - [[イワン・プロホロフ (外交官)|イワン・プロホロフ]]、外交官 * [[1958年]] - [[ゲンナジー・パダルカ]]、軍人、[[宇宙飛行士]] * [[1959年]] - [[トム・チェンバース]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1961年]] - [[マヌ・チャオ]]、歌手、[[政治活動家]] * 1961年 - [[ジョコ・ウィドド]]、政治家、第7代[[インドネシアの大統領一覧|インドネシア大統領]] * 1961年 - [[ジョン・ムウェテ・ムルアカ]]、タレント(+ [[2023年]]) * [[1962年]] - [[ピピロッティ・リスト]]、[[ビデオ・アート|ビデオ・アーティスト]] * [[1963年]] - [[青山剛昌]]、[[漫画家]] * 1963年 - [[羽原信義]]、[[アニメ監督]] * 1963年 - [[長谷部徹 (ドラマー)|長谷部徹]]、[[ドラマー]](元[[T-SQUARE]]) * 1963年 - [[ダリオ・マリアネッリ]]、作曲家 * [[1964年]] - [[石井浩郎]]、元プロ野球選手 * 1964年 - [[畝龍実]]、元プロ野球選手 * 1964年 - [[大熊清]]、元サッカー選手、指導者 * 1964年 - [[片岡K]]、テレビ演出家、映画監督、脚本家 * 1964年 - [[デビッド・モリシー]]、俳優 * 1964年 - [[ダグ・サヴァント]]、俳優 * [[1965年]] - [[山岡均]]、[[天文学者]] * 1965年 - [[松本伊代]]、[[タレント]] * 1965年 - [[安達俊也]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[ウォシャウスキー姉妹|ラナ・ウォシャウスキー]]、映画監督([[ウォシャウスキー姉妹]]) * 1965年 - [[楊利偉]]、軍人、宇宙飛行士 * [[1966年]] - [[神田勝夫]]、元サッカー選手 * 1966年 - [[吉田伸]]、脚本家 * [[1967年]] - [[デリック・コールマン]]、バスケットボール選手 * 1967年 - [[ピエール・オミダイア]]、実業家、[[eBay]]創設者 * [[1969年]] - [[ガブリエラ・パルッツィ]]、[[クロスカントリースキー]]選手 * 1969年 - [[コーリー・ポール]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[酒井忠晴]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[ピート・ロック]]、[[ラッパー]]、[[音楽プロデューサー]] * [[1971年]] - [[アネット・オルゾン]]、歌手 * [[1972年]] - [[朝原宣治]]、[[陸上競技選手一覧|陸上選手]] * [[1973年]] - [[ジュリエット・ルイス]]、女優 * 1973年 - [[宮部和裕]]、アナウンサー * [[1974年]] - [[久藤清一]]、元サッカー選手 * [[1975年]] - [[関暁夫]]、作家、元[[お笑いタレント|お笑い芸人]](元[[ハローバイバイ]]) * [[1976年]] - [[サンキュータツオ]]、お笑い芸人([[米粒写経]]) * [[1977年]] - [[マイケル・ゴメス]]、プロボクサー * [[1978年]] - [[アンソニー・タウンズ|アンソニー・タウンズ、]] コンピュータープログラマー * [[1979年]] - [[笛木優子]]、女優 * 1979年 - [[豪風旭]]、元大相撲力士、年寄22代[[押尾川]] * 1979年 - [[コンスタンティノス・カツラニス]]、サッカー選手 * 1979年 - [[クリス・プラット]]、俳優 * [[1980年]] - [[リチャード・ジェファーソン]]、バスケットボール選手 * 1980年 - [[センディ・レーアル]]、プロ野球選手 * [[1981年]] - [[ブランドン・フラワーズ]]、ミュージシャン([[ザ・キラーズ]]) * 1981年 - [[ギャレット・ジョーンズ]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|プリンス・オブ・ウェールズ・ウィリアム]]、イギリス皇太子 * 1982年 - [[染田賢作]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[李大浩]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[ロマン・アダモフ]]、サッカー選手 * 1982年 - [[土居愛実]]、ミュージカル俳優 * 1982年 - [[渡辺淳 (俳優)|渡辺淳]]、俳優、アクション監督 * [[1983年]] - DJカツノリ、ラジオDJ、司会者 * 1983年 - [[宮崎瑠依]]、女優、タレント * 1983年 - [[ユリーカ (企業家・タレント)|ユリーカ]]、企業家、タレント * [[1985年]] - [[マリナ・アガニナ]]、フィギュアスケート選手 * 1985年 - [[クリス・アレン]]、歌手 * 1985年 - [[荒木治丞]]、元[[野球選手]] * 1985年 - [[千葉和彦]]、[[サッカー]]選手 * 1985年 - [[ラナ・デル・レイ]]、歌手 * 1985年 - [[奈良岡希実子]]、気象予報士 * [[1986年]] - [[涌井秀章]]、プロ野球選手 * 1986年 - [[松本寛也]]、俳優 * 1986年 - [[ロックニ・ブルーベイカー]]、フィギュアスケート選手 * 1986年 - [[センス爆発女]]、お笑い芸人 * [[1987年]] - [[手嶌葵]]、歌手 * 1987年 - [[田中靖洋]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[セバスティアン・プリョードル]]、サッカー選手 * 1987年 - [[草場有輝]]、ミュージカル俳優、元バレエダンサー * [[1989年]] - [[江里夏]]、[[声優]] * 1989年 - [[須崎恭平]]、元サッカー選手 * 1989年 - [[アブベイカー・カキ・カーミス]]、[[陸上競技|陸上]]選手 * [[1990年]] - [[鈴木かすみ]]、女優 * 1990年 - [[宇佐美えりな]]、元タレント * 1990年 - [[伊東拓馬]]、キックボクサー * 1990年 - [[福地元春]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[サンドラ・ペルコビッチ]]、陸上競技選手 * 1990年 - [[ホーヴァル・ノルトヴェイト]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[王月人]]、フィギュアスケート選手 * 1991年 - [[ガエル・カクタ]]、サッカー選手 * 1991年 - [[庄司隼人]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[おかゆ (歌手)|おかゆ]]、流し、歌手、シンガーソングライター * 1991年 - [[ジェフリー・マルテ]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[伊藤沙月]]、プロボクサー * [[1992年]] - [[岡本あずさ]]、モデル、女優 * 1992年 - [[ムラムラタムラ]]、お笑い芸人 * [[1993年]] - [[高城れに]]、アイドル([[ももいろクローバーZ]]) * 1993年 - [[北川倫太郎]]、元プロ野球選手 * 1993年 - [[戸田雅稀]]、陸上選手 * [[1994年]] - [[岡井千聖]]、元歌手(元[[℃-ute]]) * 1994年 - [[向井康二]]、アイドル ([[Snow Man]]) * [[1995年]] - [[阿久津愼太郎]]、元俳優 * 1995年 - [[馬場ふみか]]、[[ファッションモデル]]、女優 * [[1996年]] - [[淺間大基]]、プロ野球選手 * 1996年 - ツリメ、[[YouTuber]]( [[アバンティーズ]]) * [[1997年]] - [[レベッカ・ブラック]]、[[ポップ・ミュージック|ポップ]]歌手 * 1997年 - [[高橋樹也]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[フェルディナント・ズヴォニミル・ハプスブルク=ロートリンゲン]]、レースドライバー * [[1998年]] - [[河野ひより]]、声優 * [[2000年]] - [[箭内夢菜]]、モデル、女優 * 2000年 - MEW、アイドル([[ミームトーキョー]]、[[ヒルネ逃避行]]、元[[BiS]]) * 2001年 - [[エブラヒミ椎菜]]、タレント * [[2003年]] - [[前野えま]]、女優、アイドル(元[[FAVO|FAVO♡]]) * [[2005年]] - [[デヨン]]、歌手([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * [[2011年]] - [[佐々木みゆ]]、[[子役]] * 生年不明 - [[えばら渋子]]、漫画家 * 生年不明 - [[伊藤麻衣 (声優)|伊藤麻衣]]、声優 * 生年不明 - [[藤吉浩二]]、声優 * 生年不明 - [[山田唯菜]]、声優 == 忌日 == [[ファイル:The_Great_Seal_of_Edward_III.JPG|thumb|150px|イングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]] (1312-1377)。]] [[ファイル:Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait.jpg|thumb|150px|政治思想家[[ニッコロ・マキャヴェッリ]](1469-1527)。]] [[ファイル:Martirio de Santa Águeda, por Sebastiano del Piombo.jpg|thumb|150px|画家[[セバスティアーノ・デル・ピオンボ]](1485頃-1547)。画像は『聖アガタの受難』(1520)]] [[ファイル:Odanobunaga.jpg|thumb|150px|[[戦国大名]][[織田信長]](1534-1582)。天下布武による[[天下統一]]を目指した。]] [[ファイル:Landscape_by_Nukina_Kaioku.jpg|thumb|150px|儒学者・文人画家[[貫名菘翁]](1778-1863)。画像は『雲仙秋景図』]] {{multiple image | caption1 = 物理学者・天文学者[[アンデルス・オングストローム]](1814-1874) | image1 = A%C3%85ngstr%C3%B6m.jpg | width1 = 100 | alt1 = アンデルス・オングストローム | caption2 = [[スタンフォード大学]]の創立者、実業家[[リーランド・スタンフォード]](1824-1893) | image2 = LelandStanford1890.JPG | width2 = 100 | alt2 = リーランド・スタンフォード }} {{multiple image | caption1 = [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]](1844-1908)。{{audio|Rimsky-Korsakov - Vasa Prihoda (1929) Chant Hindou.ogg|歌劇『サトコ』より「インドの歌」(1929)を聴く}} | image1 = Nikolay A Rimsky Korsakov 1897.jpg | width1 = 100 | alt1 = ニコライ・リムスキー=コルサコフ | caption2 = 作家[[ベルタ・フォン・ズットナー]](1843-1914)。女性初の[[ノーベル平和賞]]受賞者 | image2 = Bertha von Suttner nobel.jpg | width2 = 100 | alt2 = ベルタ・フォン・ズットナー }} {{multiple image | caption1 = 政治家[[スカルノ]](1901-1970)。[[インドネシア]]の初代[[大統領]] | image1 = Presiden_Sukarno.jpg | width1 = 100 | alt1 = スカルノインドネシア大統領 | caption2 = 俳優[[勝新太郎]](1931-1997) | image2 = Shintar%C5%8D_Katsu_in_Hatsu-haru_Tanuki_Goten_1959.jpg | width2 = 100 | alt2 = 勝新太郎 }} * [[1205年]] - [[エンリコ・ダンドロ]]、[[ヴェネツィア共和国]]の第41代元首(* [[1107年]]?) * [[1208年]] - [[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ・フォン・シュヴァーベン]]、[[ローマ王]](* [[1178年]]) * [[1305年]] - [[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]、[[ボヘミア]]・[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1271年]]) * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[5月9日]]) - [[北条仲時]]、[[六波羅探題]]北方(* [[1306年]]) * [[1353年]]([[正平 (日本)|正平]]8年/[[文和]]2年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[北条時行]]、[[北条高時]]の次男 * [[1377年]] - [[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]{{sfn|森護|1986|p=137}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=224}}、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1312年]]) * [[1521年]] - [[レオナルド・ロレダン]]、ヴェネツィア共和国の[[ドージェ]](* [[1436年]]) * [[1527年]] - [[ニッコロ・マキャヴェッリ]]、政治思想家(* [[1469年]]) * [[1547年]] - [[セバスティアーノ・デル・ピオンボ]]、[[画家]](* [[1485年]]頃) * [[1582年]]([[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[織田信長]]{{Sfn|池上裕子|2012|p=219}}、[[織田政権]]を率いた[[戦国大名]](* [[1534年]]) * 1582年(天正10年6月2日) - [[穴山信君]]、[[戦国武将]](* [[1541年]]) * 1582年(天正10年6月2日) - [[斎藤利治]]、戦国武将(* 1541年?) * 1582年(天正10年6月2日) - [[湯浅直宗]]、戦国武将(* [[1545年]]) * 1582年(天正10年6月2日) - [[織田信忠]]、戦国武将(* [[1557年]]) * 1582年(天正10年6月2日) - [[金森長則]]、戦国武将(* [[1564年]]) * 1582年(天正10年6月2日) - [[森成利]]、戦国武将(* [[1565年]]) * 1582年(天正10年6月2日) - [[織田勝長]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[織田長利]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[菅屋長頼]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[団忠正]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[野々村正成]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[福富秀勝]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[松野一忠]]、戦国武将 * 1582年(天正10年6月2日) - [[村井貞勝]]、[[京都所司代]] * 1582年(天正10年6月2日) - [[毛利良勝]]、戦国武将 * [[1591年]] - [[アロイシウス・ゴンザーガ]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1568年]]) * 1591年(天正19年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[浜田景隆]]、戦国武将(* [[1554年]]) * [[1597年]]([[慶長]]2年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[矢沢頼綱]]、戦国武将(* [[1518年]]) * [[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[問田大方]]、戦国武将[[小早川隆景]]の[[正室]] * [[1621年]] - [[クリシュトフ・ハラント]]、[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝ルドルフ2世]]の側近、[[作曲家]](* [[1564年]]) * [[1631年]] - [[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]]、[[イギリス]]の[[軍人]]、[[探検家]](* [[1580年]]) * [[1652年]] - [[イニゴー・ジョーンズ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography//Inigo-Jones Inigo Jones English architect and artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[建築家]](* [[1573年]]) * [[1730年]]([[享保]]15年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[川勝雲堂]]、[[俳諧|俳諧師]](* [[1661年]]) * [[1756年]]([[宝暦]]6年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]、第6代[[仙台藩|仙台藩主]](* [[1718年]]) * [[1762年]](宝暦12年[[4月29日 (旧暦)|閏4月29日]]) - [[松平長孝]]、第4代[[津山藩|津山藩主]](* [[1725年]]) * [[1770年]] - [[ウィリアム・ベックフォード (政治家)|ウィリアム・ベックフォード]]、[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]](* [[1709年]]) * [[1788年]] - [[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]、[[哲学|哲学者]](* [[1730年]]) * [[1796年]] - [[リチャード・グリドリー]]、[[アメリカ独立戦争]]時の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]技師長(* [[1710年]]) * [[1807年]]([[文化 (元号)|文化]]4年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[皆川淇園]]、[[儒学者]](* [[1735年]]) * [[1810年]]([[文化 (元号)|文化]]7年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[香琳院]]、[[江戸幕府]]第11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]の[[側室]] * [[1852年]] - [[フリードリヒ・フレーベル]]、教育者(* [[1782年]]) * [[1857年]] - [[ルイ・テナール]]、[[化学者]](* [[1777年]]) * [[1863年]]([[文久]]3年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[貫名菘翁]]、儒学者、[[書家]]、[[文人画|文人画家]](* [[1778年]]) * [[1874年]] - [[アンデルス・オングストローム]]、[[天文学者]]、[[物理学者]](* [[1814年]]) * [[1876年]] - [[アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ]]、[[軍人]]、[[政治家]](* [[1794年]]) * [[1893年]] - [[リーランド・スタンフォード]]、[[実業家]]、[[スタンフォード大学]]創設者(* [[1824年]]) * [[1900年]] - ミハイル・ムラヴィヨフ ([[:en:Mikhail Nikolayevich Muravyov|Mikhail Nikolayevich Muravyov]])、[[政治家]](* [[1845年]]) * [[1901年]] - [[星亨]]、第2代[[衆議院議長]](* [[1850年]]) * [[1908年]] - [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]、作曲家(* [[1844年]]) * [[1911年]] - [[ロベルト・ラデッケ]]、[[音楽家]](* [[1830年]]) * [[1914年]] - [[ベルタ・フォン・ズットナー]]、[[作家]](* [[1843年]]) * [[1919年]] - [[フランツ・フォン・リスト]]、[[刑法]]学者(* [[1851年]]) * [[1920年]] - [[ジョサイア・コンドル]]、建築家(* [[1852年]]) * [[1926年]] - [[フィリップ・バーン=ジョーンズ]]、[[画家]](* [[1861年]]) * [[1928年]] - [[エレン・テリー]]、[[俳優|女優]](* [[1848年]]) * [[1929年]] - [[レオナルド・ホブハウス]]、学者、[[ジャーナリスト]](* [[1864年]]) * [[1940年]] - [[エドゥアール・ヴュイヤール]]、画家(* [[1868年]]) * [[1946年]] - [[ハインリヒ・カミンスキ]]、作曲家(* [[1886年]]) * [[1949年]] - [[矢野庄太郎]]、政治家(* [[1886年]]) * [[1951年]] - [[チャールズ・パーライン]]、天文学者(* [[1867年]]) * [[1954年]] - [[ギデオン・サンドバック]]、[[電気]][[技師]]、[[発明家]](* [[1880年]]) * [[1957年]] - [[ヨハネス・シュタルク]]、物理学者(* [[1874年]]) * 1957年 - [[川田晴久]]、[[俳優]]、[[コメディアン]](* [[1907年]]) * [[1958年]] - [[ロバート・L・ゴームレー]]、[[アメリカ海軍]]の[[中将]](* [[1883年]]) * [[1967年]] - [[飛沢栄三]]、高校野球指導者(* [[1903年]]) * [[1969年]] - [[モーリーン・コノリー]]、[[テニス]]選手(* [[1934年]]) * [[1970年]] - [[スカルノ]]、初代[[インドネシアの大統領一覧|インドネシア大統領]](* [[1901年]]) * [[1973年]] - [[加賀大介]]、[[作詞家]](* [[1914年]]) * [[1974年]] - [[小唄勝太郎]]、[[歌手]](* [[1904年]]) * [[1977年]] - [[ブルース・C・ヘーゼン (海洋学者)|ブルース・C・ヘーゼン]]、[[海洋学者]](* [[1924年]]) * [[1980年]] - [[ベルト・ケンプフェルト]]、[[イージーリスニング]][[指揮者]]、作曲家、[[音楽プロデューサー]](* [[1923年]]) * [[1992年]] - [[李先念]]、[[中華人民共和国主席]]、[[中国人民政治協商会議]]主席(* [[1909年]]) * [[1994年]] - [[ウィリアム・ウィルソン・モーガン]]、天文学者(* [[1906年]]) * 1994年 - [[岡田誠三]]、[[小説家]](* [[1913年]]) * [[1995年]] - [[浜村純]]、俳優(* [[1906年]]) * [[1997年]] - [[勝新太郎]]、俳優(* [[1931年]]) * [[1998年]] - [[アル・キャンパニス]]、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]ゼネラルマネージャー (* [[1916年]]) * [[1999年]] - [[Kami (ミュージシャン)|Kami]]、[[ドラマー]]([[MALICE MIZER]]) * [[2000年]] - [[アラン・ホヴァネス]]、作曲家(* [[1911年]]) * [[2001年]] - [[ジョン・リー・フッカー]]、[[ブルース]]歌手、[[ギタリスト]](* [[1917年]]) * [[2003年]] - [[レオン・ユリス]]、作家、[[脚本家]](* [[1924年]]) * [[2004年]] - [[八匠衆一]]、作家(* [[1917年]]) * [[2005年]] - [[ハイメ・シン]]、[[カトリック教会]]の[[枢機卿]](* [[1928年]]) * [[2006年]] - [[近藤芳美]]、[[歌人]](* [[1913年]]) * 2006年 - [[松平千秋]]、古代[[ギリシア文学]]者(* [[1915年]]) * [[2007年]] - [[増田通二]]、元[[パルコ]]会長(* [[1926年]]) * [[2008年]] - [[千葉馨]]、[[ホルン]]奏者(* [[1928年]]) * 2008年 - [[グレート草津]]、[[プロレスラー]](* [[1942年]]) * [[2010年]] - [[赤桐操]]、政治家(* [[1920年]]) * [[2016年]] - [[鳩山邦夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160622-UCJ7ZOVREJI7JBB4AW3FNGMKWQ/|title=鳩山邦夫元総務相が死去 67歳|publisher=産経ニュース|date=2016-06-22|accessdate=2020-11-14}}</ref>、政治家(* [[1948年]]) * [[2019年]] - [[ディミトリス・フリストフィアス]]、政治家、[[キプロス]]第6代[[キプロスの大統領|大統領]](* [[1946年]]) * [[2023年]] - [[夏まゆみ]]、振付師(* [[1962年]]) == 記念日・年中行事 == [[ファイル:Earth-lighting-summer-solstice EN.png|thumb|150px|[[夏至]]]] * [[夏至]]({{JPN}} 2008年-2010年・2012年-2014年・2016年-2018年・2020年-) *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が90度の時で、一年中で一番昼が長い日。 * {{仮リンク|世界音楽の日|en|Fête de la Musique}}(Fête de la Musique)({{World}}) *: [[1976年]]に、当時フランスの放送局に雇用されていたアメリカのミュージシャン{{仮リンク|ジョエル・コーエン (ミュージシャン)|en|Joel Cohen (musician)|label=ジョエル・コーエン}}が提唱した、夏至の日を音楽で祝う音楽祭。 * 殉教者の日({{TGO}}) * [[冷蔵庫]]の日({{JPN}})※夏至の日 *:[[1985年]][[日本電機工業会]]により、暑い夏が来る前に冷蔵庫を点検して欲しいという趣旨で毎年[[夏至]]の日に設定。 * えびフライの日({{JPN}}) *: [[香川県]][[三豊市]]に本社を置く株式会社「味のちぬや」が制定。おいしいえびフライをもっと食べてもらうことが目的。日付は曲がったえびの形が6に見えることと、21をフ(2)ライ(1)と読む語呂合わせから。 * キャンドルナイトの日({{JPN}}) *: アメリカのブッシュ政権のエネルギー政策に抗議してカナダで2001年に始まった自主停電運動に呼応して日本でも2002年から「キャンドルナイトの日」が行われている。「キャンドルの灯りのもと、豊かな時間を過ごそう」と、いっせいに電気を消す日としてさまざまなイベントが開かれる。「100万人のキャンドルナイト事務局」が制定。 * 太陽の子保育の日({{JPN}}) *: HITOWAキッズライフ株式会社が制定。太陽のように明るくすくすく、心の温かい子に育って欲しいとの願いが込められている。日付は6月21日が昼の時間がいちばん長く、太陽の光がいちばん降り注ぐ夏至の日になることが多いことから。 * [[スナック菓子|スナック]]の日({{JPN}}) *: [[スナック菓子]]の[[メーカー]]が[[夏至]]を記念して提唱したことが始まりといわれている。[[夏至]]の日に、[[餅]]を固くして食べる「歯固」という[[習慣]]があったことに由来。 * 世界[[筋萎縮性側索硬化症|ALS]]/[[運動ニューロン病|MND]]デー(ALS/MND Global Day)({{World}}) *: 難病である[[筋萎縮性側索硬化症]](ALS)および[[運動ニューロン病]](MND)への関心を喚起するイベントが世界各地で行われる。 * がん支え合いの日({{JPN}}) *: [[がん]]患者や家族を支援するNPO法人キャンサーリボンズが制定。夏至になることの多いこの日を記念日とした。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0621|date=2011年6月}} * [[1805年]] - アルファ号進水。(特撮映画『[[緯度0大作戦]]』) * [[1924年]] - 名も無き村で夏至祭が行われる。(小説・アニメ『[[GOSICK -ゴシック-]]』) * [[1983年]] - 深夜から翌[[6月22日|22日]]未明にかけて、火山性ガス噴出により2000人弱の[[雛見沢村]]住民がほぼ全滅状態となる。(ゲーム・漫画・アニメ『[[ひぐらしのなく頃に]]』<ref>『[[ひぐらしのなく頃に 綿流し編|綿流し編]]』・『[[ひぐらしのなく頃に解 目明し編|目明し編]]』は除く。</ref>) * [[1994年]] - 氷室将介のプロデビュー戦で武者小路和清と対局。(漫画『[[月下の棋士]]』) * [[2003年]] - 麻帆良祭2日目。まほら武道会が開催される。(漫画『[[魔法先生ネギま!]]』) * [[2005年]] - 首都島地震発生。首都島は崩壊後完全に水没。(ゲーム『[[絶体絶命都市]]』) * [[宇宙世紀|U.C.]]0153年 - [[ザンスカール戦争]]終結。(アニメ『[[機動戦士Vガンダム]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1489年]] - ピエトロ・コンティー、ゲーム『[[大航海時代II]]』に登場するキャラクター<ref>フクザワ・エイジ編、[[シブサワ・コウ]]監修 『大航海時代IIハンドブック』 (光栄(現:[[コーエーテクモホールディングス]]))、1993年、165頁、{{ISBN2|4-87719-011-2}}。</ref> * [[1911年]] - ジェミニ・サンライズ、ゲーム『[[サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜]]』に登場するキャラクター * [[1946年]] - 犀賀省悟、ゲーム『[[SIREN:New Translation]]』に登場するキャラクター * [[1952年]] - 待田謙次、テレビドラマ『[[純と愛]]』に登場するキャラクター * [[1955年]] - [[ナインチェ・プラウス]](ミッフィー、うさこちゃん)、子ウサギの女の子のキャラクター * [[1965年]] - 前田ひろみ、アニメ・漫画・ドラマ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター * [[1967年]] - カフラー・プリツ、アニメ・漫画『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター * [[1976年]] - マリオ・ズッケェロ、漫画『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』に登場するキャラクター * [[1988年]] - [[瀬川虎鉄]]&[[瀬川泉]]([[双生児|双子]])、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター * 1988年 - 福井雄太、漫画・アニメ『[[ヒカルの碁]]』に登場するキャラクター * [[1989年]] - 矢島いぶき、ゲーム 『[[Gift 〜ギフト〜]]』に登場キャラクター * [[1992年]] - 西條拓巳、ゲーム・アニメ『[[CHAOS;HEAD]]』に登場するキャラクター * [[1993年]] - 水樹結、ゲーム『[[悠久ノ桜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.otomate.jp/towano/chara.html |title = 悠久ノ桜 |publisher = [[アイディアファクトリー]] |accessdate=2014-06-20}}</ref> * [[1996年]] - [[日向翔陽]]、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyu.jp/chara/karasuno/10.html|title=烏野高校 日向 翔陽 CV:村瀬 歩 |work=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]]|accessdate=2020-08-12}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870453-1|quote=|date=|volume=1巻|page=86}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]754年 - タイネーブ、ゲーム『[[スターオーシャン Till the End of Time]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=59|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - うわさっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |editor=講談社|editor-link=講談社|date=2010-01-20|title =Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド|publisher = [[講談社]] |isbn =978-4-06-364814-0|page =52 }}</ref><ref>{{Cite book |和書|date=2011-11-01|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|page=22|publisher=[[小学館]]|series=テレビ超ひゃっか|editor=[[ウィズ (玩具)|ウィズ]](監修)、[[バンダイ]]|isbn=978-4097510482}}</ref> * 生年不明 - [[黒羽快斗]]、漫画・アニメ『[[まじっく快斗]]』の主人公 * 生年不明 - 篠原さつき、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/shinohara.html |title=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』公式サイト|登場キャラクター|篠原さつき |accessdate=2021-10-29}}</ref> * 生年不明 - 皇天馬、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.a3-liber.jp/character/|title=キャラクター|accessdate=2020年1月20日|publisher=|website=【公式】A3!(エースリー)}}</ref> * 生年不明 - 西垣奈々、漫画・アニメ『[[ゆるゆり]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2011 |title = TVアニメーション ゆるゆり公式ファンブック |page = 42 |publisher = [[一迅社]] |isbn = 978-4-7580-1248-5 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=なもり|authorlink=なもり|year = 2013 |title = ゆるゆりファンブック |page = 47 |publisher = 一迅社 |series = [[コミック百合姫#百合姫コミックス|百合姫コミックス]] |isbn = 978-4-7580-7258-8 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = なもり |year = 2013 |title = なもり画集 ゆるなもり |page = 7 |publisher = 一迅社 |isbn = 978-4-7580-7260-1 }}</ref> * 生年不明 - 花小町ももか、アニメ・ゲーム『[[だぁ!だぁ!だぁ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 羽山海己、ゲーム・アニメ『[[この青空に約束を―]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 日永梨枝子、漫画『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=若木民喜|authorlink=若木民喜|year = 2013 |title = 神のみぞ知るセカイ 神ヒロイン完全攻略ブック |page = 72 |publisher = [[小学館]] |isbn = 978-4-09-124451-2 }}</ref> * 生年不明 - 日向朱里、漫画『[[やがて君になる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=やがて君になる|date=2018|year=|publisher=KADOKAWA|author=仲谷鳰|authorlink=仲谷鳰|series=電撃コミックスNEXT|isbn=978-4-04-912047-9|quote=カバー下|volume=第6巻}}</ref> * 生年不明 - 毒島メイソン理鶯、メディアミックス『[[ヒプノシスマイク|ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hypnosismic.com/character/yokohama/crazy_m/|title=CHARACTER|accessdate=2019年12月30日|publisher=|website=音楽原作キャラクターラッププロジェクト『ヒプノシスマイク』オフィシャルサイト}}</ref> * 生年不明 - 星庭宙、ゲーム『[[77 〜And, two stars meet again〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.piacci.co.jp/sevens/chara01.html |title = 77 ~beyond the Milky Way~ |publisher = [[Whirlpool (ゲームブランド)|Whirlpool]]・PIACCI |accessdate=2014-06-20}}</ref> * 生年不明 - 星野明日香、ゲーム『[[センチメンタルグラフティ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - マコ、ゲーム『[[おしえて Re:メイド]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[松山光]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 46 }}</ref> * 生年不明 - ミコ、ゲーム『おしえて Re:メイド』に登場するキャラクター * 生年不明 - 水樹結、ゲーム『[[悠久ノ桜]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 水奈瀬ゆか、ゲーム『[[11eyes -罪と罰と贖いの少女-]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 武藤日向、漫画『[[ココにいるよ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 八乙女梓乃、ゲーム『[[遥かに仰ぎ、麗しの]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#夢大路栞|夢大路栞]]、ゲーム『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status2|starlightrelive|1141722378675732480|accessdate=2020-04-06}}</ref> * 生年不明 - 四葉、読者参加企画『[[シスター・プリンセス]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - べウル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=140&cate=name&cont=Beul |title=べウル |access-date=2022-08-17 |publisher=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref> <!-- * 生年不明<ref>アニメ版『ef - a tale of melodies.』では[[1982年]]生まれ。</ref> - 雨宮優子、ゲーム『[[ef - a fairy tale of the two.]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - [[黒羽快斗]](怪盗キッド)、漫画・アニメ『[[まじっく快斗]]』『[[名探偵コナン]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - カエルのルル、アニメ『[[おとぎストーリー 天使のしっぽ]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 花子、アニメ・漫画『[[銀魂]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 風杜海菜、漫画・小説『[[タウンメモリー]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 櫻井雪乃・奏(双子)、アニメ『[[Candy☆Boy]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 皐月千史、漫画・アニメ『[[まりあ†ほりっく]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 西野理沙、ゲーム『[[全国制服美少女グランプリ|全国制服美少女グランプリファインドラブ]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 瀬名蘭華、ゲーム『[[ましろ色シンフォニー]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} * 生年不明 - 高島緑咲、[[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]『[[からふる☆エデュケーション]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2020年1月}} 2022年8月時点で、2年半以上要出典のためコメントアウト --> === 忌日(フィクション) === * [[1924年]] - ハーマイニア、小説・アニメ『[[GOSICK -ゴシック-]]』に登場するキャラクター * [[1983年]] - 入江京介、ゲーム・漫画・アニメ『[[ひぐらしのなく頃に]]』に登場するキャラクター * 1983年 - [[古手梨花]]、ゲーム・漫画・アニメ『ひぐらしのなく頃に』に登場するキャラクター == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} === 参考文献 === * {{Cite book ja-jp |author=[[池上裕子]]|year=2012|title=織田信長|series=[[人物叢書]]|publisher=吉川弘文館 |isbn=9784642052658 |ref={{SfnRef|池上裕子|2012}}}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 21|21 June}} {{新暦365日|6|20|6|22|[[5月21日]]|[[7月21日]]|[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]|0621|6|21}} {{1年の月と日}}
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6月22日
6月22日(ろくがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。
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6月22日(ろくがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。
{{カレンダー 6月}} '''6月22日'''(ろくがつにじゅうににち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から173日目([[閏年]]では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。 == できごと == <!-- 記事に日付のないもの:相国寺, 魚津城の戦い, 備中高松城の戦い, 本能寺の変, 荒畑寒村, 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定, 岩木山神社, 衣笠祥雄, オスマン帝国, ガリレオ・ガリレイ, ル・アーヴル, マハラシュトラ州, プラカード事件, 飯米獲得人民大会, カヤホガ川, アメリカ合衆国環境保護庁, --> [[Image:Sziszeki_csata_%281593%29.JPG|thumb|1593年、{{仮リンク|シサクの戦い|en|Battle of Sisak}}、[[オスマン帝国]]初の敗退]] <!-- [[Image:HMSVictoriasinking1893.jpg|thumb|イギリスの戦艦[[ヴィクトリア (戦艦)|]]、衝突事故を起こし沈没(1893)]] --> [[Image:Flag_of_Sweden.svg|thumb|168px|[[スウェーデンの国旗]]制定(1906)]] <!-- [[Image:F%C3%A1mjin.flag.jpg|thumb|[[フェロー諸島の旗]]がはじめて掲げられる(1919)]] --> [[Image:Bundesarchiv B 145 Bild-P50284, Compiègne, Waffenstillstandvertrag, Huntziger.jpg|thumb|[[独仏休戦協定]]の調印(1940)]] <!-- [[Image:Eastern Front 1941-06 to 1941-09.png|thumb|240px|[[バルバロッサ作戦]](1941)]] 地図 --> [[Image:Bundesarchiv_Bild_146-1982-077-11%2C_Russland%2C_Minsk%2C_gefangene_sowjetische_Soldaten.jpg|thumb|[[第二次世界大戦]]、[[バルバロッサ作戦]]開始(1941)。画像は捕虜となった[[赤軍]]([[7月2日]]のもの)]] [[Image:BagrationMap2.jpg|thumb|[[第二次世界大戦]]のソ連の反攻、[[バグラチオン作戦]](1944)]] [[Image:Berlin-checkpoint-charlie.jpg|thumb|1990年、[[ベルリン]]の[[チェックポイント・チャーリー]]撤去。現在は復元され観光名所となっている(画像)]] <!-- File:Hand of God goal.jpg : [[神の手]]…jaでは使えません--> <!-- [[Image:Maradonahand3.jpg|thumb|[[1986 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップメキシコ大会]]、[[ディエゴ・マラドーナ]]の「[[神の手]]ゴール」(1986)]] --> * [[紀元前217年]] - 第4次シリア戦争: [[ラフィアの戦い]]。[[プトレマイオス4世]]が[[セレウコス朝]]の[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]を打ち破る。 * [[紀元前168年]] - [[第三次マケドニア戦争]]: [[ピュドナの戦い (紀元前168年)|ピュドナの戦い]]。 * [[802年]]([[延暦]]21年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]噴火で陥没した[[足柄路]]の代わりに筥荷路([[箱根峠|箱根路]])が開通。 * [[1360年]]([[延文]]5年/[[正平 (日本)|正平]]15年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - 北朝方の[[畠山国清]]により[[楠木正儀]]の[[上赤坂城|赤坂城]]が落城。 * [[1377年]] - 前日の[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の死去に伴い、孫の[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]が即位。 * [[1403年]]([[応永]]10年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[相国寺]]の七重塔が落雷のため焼失。 <!--* 象の日本初上陸の日付 応永15年6月22日は「旧暦」なので注意!--> * [[1582年]]([[天正]]10年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[魚津城の戦い]]: [[魚津城]]にこもっていた[[中条景泰]]らが切腹して魚津城を[[開城]]し、戦いが終結。[[柴田勝家]]ら織田軍・北陸担当部門が北陸を制圧。 * 1582年(天正10年6月3日) - 夜、[[備中高松城の戦い]]で[[備中国|備中]]在陣中の[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]のもとに[[本能寺の変]]の知らせが届く。 * [[1593年]] - {{仮リンク|シサクの戦い|en|Battle of Sisak}}。[[クロアチア]]軍が[[オスマン帝国]]に勝利。不敗とされたオスマン陸軍の初の敗退。 * [[1633年]] - [[ローマ教皇庁]]の検邪聖省の裁判で[[ガリレオ・ガリレイ]]に有罪判決が下り、自説の[[地動説]]を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる。<!-- enより --> * [[1636年]]([[寛永]]13年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - 江戸幕府が[[鎖国|第四次鎖国令]]を布告。通商に無関係なポルトガル人の追放など。 * [[1783年]] - [[アイスランド]]・[[ラキ火山]]の噴火により発生した有毒ガスがフランス・[[ル・アーヴル]]に到達。 * [[1815年]] - [[ワーテルローの戦い]]で敗れた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]が[[セントヘレナ]]に流されフランス皇帝を{{仮リンク|ナポレオンの退位 (1815年)|en|Abdication of Napoleon, 1815|label=退位}}。[[百日天下]]が終了。 * [[1868年]]([[慶応]]4年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[戊辰戦争]]: [[奥羽越列藩同盟|奥羽列藩同盟]]が成立。 * [[1893年]] - [[レバノン]]の[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]沖で[[イギリス海軍]]の戦艦[[キャンパーダウン (戦艦)|キャンパーダウン]]と[[ヴィクトリア (戦艦)|ヴィクトリア]]が衝突事故を起こしヴィクトリアが沈没、358名の死者を出す。 * [[1897年]] - [[インド]]・[[マハラシュトラ州]][[プネー|プーナ]]で、Chapekar兄弟 ([[:en:Chapekar brothers]]) らがイギリス植民地政府の役人を暗殺。彼らは後に処刑され、インド独立運動の最初の犠牲者とみなされている。 * [[1898年]] - [[憲政党]]結成。 * [[1906年]] - [[スウェーデンの国旗]]が制定される。 * [[1907年]] - [[東北大学|東北帝国大学]]が創設される。 * [[1908年]] - [[赤旗事件]](錦輝館事件)。[[荒畑寒村]]ら社会主義運動の指導者層が一挙に逮捕される。 * [[1911年]] - イギリス国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が戴冠。 * [[1919年]] - [[フェロー諸島の旗]]が初めて掲げられる。 * [[1931年]] - 福岡県で[[日本航空輸送]]機が墜落。乗員2名乗客1名人全員死亡。[[日本の航空事故|日本初の商業定期便の事故]]。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]: フランス首相の[[フィリップ・ペタン]]がドイツと[[独仏休戦協定]]に調印。フランスがドイツに[[降伏]]。 * [[1941年]] - 第二次世界大戦・[[独ソ戦]]: [[ドイツ軍]]の[[ソビエト連邦]]への侵攻作戦・[[バルバロッサ作戦]]が開始。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦・独ソ戦: ソ連[[赤軍]]のドイツ軍に対する反撃作戦・[[バグラチオン作戦]]が開始。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[昭和天皇]]が[[最高戦争指導会議]]で初めて終戦の意図を示す。 * 1945年 - 第二次世界大戦: [[戦時緊急措置法]]公布。 * [[1946年]] - [[プラカード事件]]: [[飯米獲得人民大会|食糧メーデー]]で「朕はタラフク食ってるぞ」のプラカードを掲げた[[松島松太郎]]が[[不敬罪]]で起訴される。 * [[1955年]] - [[三鷹事件]]の上告審で、最高裁判所が[[竹内景助]]被告に対して死刑判決を確定。 * [[1957年]] - [[反党グループ事件]]。[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]第一書記を解任しようとした[[ゲオルギー・マレンコフ|マレンコフ]]ら党保守派幹部が党役職を解任される。 * [[1960年]] - [[日本航空]]が[[東京国際空港]](羽田空港) - [[福岡空港]](板付空港)間に[[終夜運転|深夜割引便]]ムーンライト号の運航開始。 * [[1962年]] - [[グアドループ]]・[[ポワンタピートル国際空港]]で[[エールフランス]]機が悪天候のため墜落。113人全員死亡。([[:en:Air France Flight 117]]) * [[1965年]] - [[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]及び[[財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定|日韓請求権並びに経済協力協定]]締結。 * [[1966年]] - [[千葉県]]三里塚地区での新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])建設案が初めて公にされる([[成田空港問題]])。 * [[1969年]] - [[オハイオ州]][[カヤホガ川]]で沿岸の工場から排出された大量の廃油などが燃え火事に。[[タイム (雑誌)|タイム]]誌に大きく取り上げられ、[[アメリカ合衆国環境保護庁]] (EPA) 設立のきっかけとなる。<!-- enより --> <!-- 重文指定を一々書いていたらキリがない。 * [[1971年]] - [[岩木山神社]]が[[重要文化財]]建造物に指定。 --> * [[1972年]] - [[自然環境保全法]]公布。 * 1972年 - [[四畳半襖の下張事件]]: 『[[四畳半襖の下張]]』を掲載した月刊誌『[[面白半分]]』が[[わいせつ物頒布等の罪|猥褻文書販売]]の疑いで発売禁止。 * [[1976年]] - この日発売の[[週刊少年ジャンプ]]にて『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』([[秋本治|山止たつひこ→秋本治]]作)が読み切り掲載され、42号で連載が開始。 * [[1978年]] - [[ジェームズ・クリスティー]]が[[冥王星]]の[[衛星]][[カロン (衛星)|カロン]]を発見。 * [[1980年]] - 初の[[衆参同日選挙]]([[第36回衆議院議員総選挙|第36回衆院選]]、[[第12回参議院議員通常選挙|第12回参院選]])。 * [[1982年]] - [[IBM産業スパイ事件]]: [[連邦捜査局|FBI]]が囮捜査により[[日立製作所]]・[[三菱電機]]の社員6人を[[IBM]]への[[産業スパイ]]容疑で逮捕。 * [[1984年]] - [[ヴァージン・アトランティック航空]]の運航が開始される。 * [[1986年]] - [[1986 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップメキシコ大会]]準々決勝で、[[ディエゴ・マラドーナ]]の「[[神の手 (サッカー)|神の手]]ゴール」と5人抜きの「世紀のゴール」により2対1で[[アルゼンチン]]が[[イングランド]]に勝利。([[:en:Argentina v England (1986 FIFA World Cup quarter-final)]]) * [[1987年]] - プロ野球選手の[[衣笠祥雄]]に[[国民栄誉賞]]が贈られる。 * [[1990年]] - [[ベルリン]]の[[チェックポイント・チャーリー|チャーリー検問所]]が撤去。 * [[1998年]] - [[総理府]]の外局として[[金融監督庁]](現 [[金融庁]])を設置。 * [[2000年]] - [[デルタ航空]]、[[アエロメヒコ航空]]、[[エールフランス]]、[[大韓航空]]により、[[スカイチーム]]が設立。 * [[2004年]] - 集団[[強姦]]事件[[スーパーフリー事件]]の舞台となった[[早稲田大学]]のイベント[[クラブ活動|サークル]]スーパーフリーが解散。 * [[2008年]] - [[東急目黒線]][[武蔵小杉駅]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]間が延伸開業。 * [[2009年]] - [[2009年ワシントンメトロ列車衝突事故|ワシントンメトロ列車衝突事故]]。9人死亡。 * 2009年 - [[コダック|イーストマン・コダック]]が、[[リバーサルフィルム]]・[[リバーサルフィルム#コダクローム|コダクローム]]の製造打ち切りを発表。 * [[2010年]] - [[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]にある[[マツダ本社工場|マツダ宇品工場]]で、自動車による無差別殺傷事件発生。([[マツダ本社工場連続殺傷事件]]) * [[2013年]] - [[カンボジア]]の[[プノンペン]]で開催されていた[[世界遺産委員会]]にて、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]が[[三保松原]]をはじめとする構成資産群とともに「[[富士山-信仰の対象と芸術の源泉|富士山と信仰・芸術の関連遺産群]]」として[[世界文化遺産]]に登録される<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/international/230964 “三保松原逆転登録”日本のロビー活動実る] 日テレNEWS24 (2013年6月23日) 2021年2月13日閲覧。</ref><ref>[http://j.people.com.cn/94473/8298676.html 富士山が世界遺産に、静岡に中国人観光客が注目] 人民網日本語版--人民日報 (2013年6月25日) 2021年2月13日閲覧。</ref>。 * [[2015年]] - 閉鎖されたナトゥ・ラ峠の通行が可能となる<ref>[http://jp.xinhuanet.com/2015-06/23/c_134346252.htm 中国、インドの巡礼者にチベット・ナトゥラ峠開放] 新華網日本語(2015年6月23日)2020年10月21日閲覧</ref>。 * [[2022年]] - [[アフガニスタン東部地震]]が発生。 {{-}} == 誕生日 == [[Image:WilhelmvonHumboldt.jpg|thumb|100px|言語学者[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]](1767-1835)誕生。[[フンボルト大学ベルリン]]を創設<!-- 。{{Squote|いかに運命を克服するかが、運命がどのようであるかよりも重要である。}}-->]][[Image:Tokugawa_Ieyoshi.JPG|thumb|100px|[[江戸幕府]]第12代将軍、[[徳川家慶]](1793-1853)誕生。[[天保の改革]]を行わせた]] [[Image:Giuseppemazzini.jpg|thumb|100px|[[イタリア統一運動]]時代の政治家、[[ジュゼッペ・マッツィーニ]](1805-1872)]] [[Image:Shoyo_Tsubouchi_cropped.jpg|thumb|upright|作家[[坪内逍遥]](1859-1935)。{{Squote|<!--小説すなはちノベルに至りては之れと異なり、-->([[小説]]は)世の人情と風俗をば写すを以て主脳となし、平常世間にあるべきやうなる事柄をもて材料として而して趣向を設くるものなり。――『[[小説神髄]]』(1885)}}]] [[Image:De_Raum_zeit_Minkowski_Bild.jpg|thumb|100px|[[数学]]者[[ヘルマン・ミンコフスキー]](1864-1909)。[[ミンコフスキー空間]]を考案し[[相対性理論]]に数学的基礎を与えた]] <!-- [[Image:Erich_Maria_Remarque1.jpg|thumb|100px|作家[[エーリヒ・マリア・レマルク]](1898-1970)。代表作『[[西部戦線異状なし]]』(1929)]] --> <!-- WANTED: 山本周五郎 --> <!-- [[Image:Cindy_Lauper.jpg|thumb|100px|歌手・女優、[[シンディ・ローパー]](1953-)]] --> * [[1647年]]([[正保]]4年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[小笠原忠雄]]、第2代[[豊前国]][[小倉藩]]主(+ [[1725年]]) * [[1669年]]([[寛文]]9年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[津軽信寿]]、第5代[[陸奥国]][[弘前藩]]主(+ [[1746年]]) * [[1684年]] - [[フランチェスコ・マンフレディーニ]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1762年]]) * [[1686年]]([[貞享]]3年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[小笠原貞通]]、第2代[[豊前国]][[小倉新田藩]]主(+ [[1747年]]) * [[1753年]]([[宝暦]]3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[植村家長]]、第9代[[大和国]][[高取藩]]主(+ [[1828年]]) * [[1762年]]([[宝暦]]12年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[松平直恒]]、第2代[[武蔵国]][[川越藩]]主(+ [[1810年]]) * [[1767年]] - [[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]、[[言語学者の一覧|言語学者]](+ [[1835年]]) * [[1768年]]([[明和]]5年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[青山忠裕]]、第4代[[丹波国]][[篠山藩]]主(+ [[1836年]]) * [[1793年]]([[寛政]]5年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[徳川家慶]]、[[江戸幕府]]第12代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1853年]]) * [[1805年]] - [[ジュゼッペ・マッツィーニ]]、革命家(+ [[1872年]]) * [[1830年]] - [[テオドル・レシェティツキ]]、ピアノ教師、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1915年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[毛利元敏]]、第14代[[長門国]][[長府藩]]主、[[華族]](+ [[1908年]]) * [[1851年]](嘉永4年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[滝脇信敏]]、第11代[[駿河国]][[小島藩]]主、[[華族]](+ [[1887年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[南部信方]]、第4代[[陸奥国]][[七戸藩]]主、[[華族]](+ [[1923年]]) * [[1859年]]([[安政]]6年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[坪内逍遥]]、[[作家]](+ [[1935年]]) * [[1864年]] - [[ヘルマン・ミンコフスキー]]、[[数学者]](+ [[1909年]]) <!-- 7月22日へ移動* [[1887年]] - [[グスタフ・ヘルツ]]、[[物理学者]](+ [[1975年]])--> * [[1887年]] - [[ジュリアン・ハクスリー]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[1975年]]) * [[1897年]] - [[ノルベルト・エリアス]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[哲学|哲学者]]、[[詩人]](+ [[1990年]]) * [[1898年]] - [[エーリヒ・マリア・レマルク]]、[[小説家]](+ [[1970年]]) * 1898年 - [[ハロルド・J・ティンパーリ]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1954年]]) * [[1899年]] - [[ミハウ・カレツキ]]、[[経済学者]](+ [[1970年]]) * [[1903年]] - [[山本周五郎]]、作家(+ [[1967年]]) * 1903年 - [[カール・ハッベル]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1988年]]) * [[1906年]] - [[ビリー・ワイルダー]]、[[映画監督]](+ [[2002年]]) * [[1907年]] - [[ジョコンダ・デ・ヴィート]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1994年]]) * [[1910年]] - [[ピーター・ピアーズ]]、[[テノール]]歌手(+ [[1986年]]) * [[1911年]] - [[河本敏夫]]、[[政治家]](+ [[2001年]]) * [[1919年]] - [[青池良正]]、元プロ野球選手 * [[1921年]] - [[松本利一]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳) * [[1922年]] - [[新津義雄]]、実業家(+ [[2011年]]) * [[1923年]] - [[木村功]]、[[俳優]](+ [[1981年]]) * [[1925年]] - [[櫟信平]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]]) * [[1928年]] - [[佐々木すみ江]]、[[俳優|女優]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM2M6FB8M2MUCLV00S.html|title=俳優・佐々木すみ江さんが死去 脇役として活躍 90歳 |publisher=朝日新聞デジタル|date=2019-02-19|accessdate=2020-11-19}}</ref>) * 1928年 - [[中山茂]]、[[科学史家]](+ [[2014年]]) * [[1930年]] - [[初岡栄治]]、元プロ野球選手(+ [[2015年]]) * 1930年 - [[太田敏行]]、元プロ野球選手 * [[1932年]] - [[拝藤聖雄]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]]) * [[1940年]] - [[アッバス・キアロスタミ]]、映画監督(+ [[2016年]]) * [[1942年]] - [[秋山豊寛]]、ジャーナリスト、[[宇宙飛行士]] * 1942年 - [[高橋紀世子]]、政治家(+ [[2020年]]) * [[1943年]] - [[中島隆利]]、政治家 * [[1945年]] - [[白川勝彦]]、[[弁護士]](+ [[2019年]]) * [[1947年]] - [[ピート・マラビッチ]]、[[バスケットボール]]選手(+ [[1988年]]) * [[1948年]] - [[トッド・ラングレン]]、[[ミュージシャン]] * 1948年 - [[笹野高史]]、俳優 * [[1949年]] - [[メリル・ストリープ]]、女優 * 1949年 - [[リンゼイ・ワグナー]]、女優 * 1949年 - [[飯尾尊雄]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[池田幸博]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[シンディ・ローパー]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[1956年]] - [[ロン・ハスラム]]、ライダー * [[1957年]] - [[福井烈]]、プロテニス選手 * [[1959年]] - [[マイケル・キネーン]]、[[騎手]] * 1959年 - [[志州山真国]]、元[[大相撲]][[力士]] * 1959年 - [[鎌田正彦]]、実業家、[[SBSホールディングス]]代表取締役社長 * [[1960年]] - [[石川広志]]、ミュージシャン * [[1961年]] - [[今村豊]]、[[競艇選手]] * 1961年 - [[大坪幸夫]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[チャウ・シンチー]](周星馳)、映画監督、[[映画俳優]] * 1962年 - [[クライド・ドレクスラー]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1963年]] - [[ジョン・テンタ]]、[[大相撲力士]]、[[プロレスラー]](+ [[2006年]]) * 1963年 - [[北勝海信芳]]、[[大相撲]]第61代[[横綱]]、年寄8代[[八角 (相撲)|八角]]、[[日本相撲協会]]第13代理事長 * 1963年 - [[藤野正剛]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[小田英明]]、元プロ野球選手 * 1963年 - 松本等しい、ものまねタレント([[ダウソタウソ]]) * [[1964年]] - [[阿部寛]]、俳優 * 1964年 - [[ダン・ブラウン]]、小説家、[[推理作家]] * 1964年 - [[笘篠誠治]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[武田一浩]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[小此木八郎]]、[[政治家]] * 1965年 - [[松田明彦]]、元[[バレーボール選手一覧|バレーボール選手]] * [[1966年]] - [[斉藤和義]]、ミュージシャン * 1966年 - [[ロブ・ネイヤー]]、[[スポーツライター]] * [[1967年]] - [[玉袋筋太郎]]、[[お笑いタレント]]([[浅草キッド (お笑いコンビ)|浅草キッド]]) * 1967年 - [[川畑泰史]]、お笑いタレント * [[1968年]] - [[柳美里]]、小説家 * 1968年 - [[中村日出夫 (野球)|中村日出夫]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[西山喜久恵]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] * 1969年 - [[日月鉄二]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[先崎学]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * 1970年 - [[一木美名子]]、[[声優]] * 1970年 - [[新井昌和]]、俳優 * [[1971年]] - [[藤立次郎]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[カート・ワーナー]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 * 1971年 - [[村田正幸]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[土門仁]]、声優 * 1972年 - [[松元秀一郎]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[ミゲール・デルトロ]]、プロ野球選手(+ [[2001年]]) * 1972年 - [[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア (1972-)|エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア]]、ピエモンテ=ヴェネツィア公財団理事、ヴェネツィア公 * 1972年 - [[岡部たかし]]、俳優 * [[1973年]] - [[徳本政敬]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[関裕通]]、政治家 * [[1974年]] - [[葉山拓亮]]、ミュージシャン * 1974年 - [[内藤玲]]、声優 * 1974年 - [[池田郁夫]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[阿久根鋼吉]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[室井市衛]]、元[[サッカー選手]] * [[1975年]] - [[板谷由夏]]、女優 * 1975年 - [[川上憲伸]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[平野啓一郎]]、小説家 * 1975年 - [[エステバン・ジャン]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[永山奈々]]、声優、[[歌手]] * 1977年 - [[小野涼子]]、声優 * 1977年 - [[中須賀諭]]、元野球選手 * [[1978年]] - [[ホンデル・マルティネス]]、野球選手 * 1978年 - [[真山景子]]、ファッションモデル * 1978年 - [[ウィリー・ハリス]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[新沼慎二]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[ブラッド・ホープ]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[徳本一善]]、[[陸上選手]]、指導者 * 1979年 - [[山本浩司 (お笑い芸人)|山本浩司]]、お笑い芸人([[タイムマシーン3号]]) * 1979年 - [[ジョーイ・チーク]]、[[スピードスケート]]選手 * [[1980年]] - [[金森久朋]]、元プロ野球選手 * 1980年 - KUMI、ミュージシャン([[Yum!Yum!ORANGE]]) * 1980年 - [[ルイス・マザ]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[天野洋一]]、漫画家 * [[1982年]] - [[内藤哲也]]、プロレスラー * 1982年 - [[イアン・キンズラー]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[川上洋平]]、ミュージシャン([[[Alexandros]]]) * [[1983年]] - [[川田裕美]]、アナウンサー * 1983年 - [[櫻本のん]]、元グラビアアイドル * 1983年 - [[ディアナ・ステラート]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1984年]] - [[武山真吾]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[小野友樹]]、声優 * 1984年 - [[シーザー・ラモス]]、プロ野球選手 * [[1985年]] - [[加藤ローサ]]、タレント * 1985年 - [[伊志嶺忠]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[ファンタジスタさくらだ]]、タレント、[[実業家]](元[[あやまんJAPAN]]) * 1985年 - [[ルーク・ゾマー]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[中村光雄]]、元野球選手 * [[1986年]] - [[山本拓弥]]、元サッカー選手 * 1986年 - わた・ナッツ、お笑いタレント(元[[コブラナッツ]]) * [[1987年]] - [[イ・ミンホ]]、俳優 * 1987年 - [[ジョン・ナス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1987年 - [[ファイ・パプ月瑠]]、バスケットボール選手 <!-- 特筆性 * 1988年 - [[ゲームセンターCXの登場人物#サポートAD|伊東篤志]]、[[ゲームセンターCX]]の11代目AD --> * [[1988年]] - [[植原卓也]]、俳優 * 1988年 - [[加藤ミリヤ]]、ミュージシャン * 1988年 - [[山中亮平]]、ラグビー選手 * 1988年 - [[小林亮太]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[小谷野顕治]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[森カンナ]]、[[ファッションモデル]]、女優 * [[1989年]] - [[ライアン・サール]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[伊野尾慧]]、タレント、歌手、俳優([[Hey! Say! JUMP]]) * 1990年 - [[ダレル・セシリアーニ]]、プロ野球選手 * [[1992年]] - [[宇良和輝]]、大相撲力士 * 1992年 - [[鈴木絵理]]、声優 * [[1993年]] - [[川島麻利]]、元ファッションモデル * 1993年 - [[愛菜]]、タレント * 1993年 - [[ブラダ・ロマノヴァ]]、モデル * [[1994年]] - [[山本里菜]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー * [[1995年]] - [[サラ・コラク]]、陸上競技選手<ref>{{cite web|url=http://www.all-athletics.com/node/349998|title=Profile of Sara KOLAK|work=all-athletics.com|accessdate=2016-08-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160825085131/http://www.all-athletics.com/node/349998|archivedate=2016-08-25}}</ref> * 1995年 - [[タイラー・オニール]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[大坪奈津子]]、アナウンサー * 1996年 - [[楢﨑智亜]]、[[スポーツクライミング|スポーツクライマー]] * 1996年 - [[ロドリゴ・エルナンデス|ロドリ]]、サッカー選手[[Image:UEFA EURO qualifiers Sweden vs Spain 20191015 123 (cropped).jpg |thumb|168px|[[サッカースペイン代表]]での[[ロドリゴ・エルナンデス|ロドリ]]]] * 1996年 - [[ジェフェルソン・ジ・アラウージョ・ジ・カルヴァーリョ]]、サッカー選手 * [[1997年]] - [[向田真優]]、レスリング選手 * 1997年 - [[ジョシュ・ネイラー]]、プロ野球選手 * [[1998年]] - [[池田耀平]]、陸上選手 * [[2000年]] - 角ゆりあ、元アイドル(元[[NGT48]]) * 2000年 - [[団野大成]]、騎手 * [[2001年]] - 出口結菜、アイドル([[NMB48]]) * [[2003年]] - [[吉瀬真珠]]、アイドル([[いぎなり東北産]]) * [[2004年]] - [[内川蓮生]]、元俳優 * 生年不明<!--1997年?--> - [[神谷早矢佳]]、声優 * 生年不明 - [[中山真吾]]、声優 == 忌日 == === 人物 === [[Image:IshibutaiBlueStairsScan3.jpg|thumb|100px|[[飛鳥時代]]の貴族、[[蘇我馬子]](551?-626)没。画像は馬子が眠るとされる[[石舞台古墳]]]][[Image:%E9%BD%8B%E8%97%A4%E5%AF%A6%E7%9B%9B.jpg|thumb|upright|武将[[斎藤実盛]](1111-1183)、[[篠原の戦い]]で討死]] [[Image:George_I_Quarter_Guinea_641648.jpg|thumb|upright|イギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]](1660-1727)没]] {{multiple image | footer = [[蘭学]]者[[宇田川榕菴]](1798-1846)没。「[[酸素]]」「[[元素]]」「[[細胞]]」など多数の学術用語を造語した。右画像は[[ボルタ電池]]の解説 | image1 = UtagawaYoan.jpg | width1 = 100 | alt1 = 宇田川榕菴 | image2 = Seimikaisou.jpg | width2 = 100 | alt2 = ボルタ電池 }} {{multiple image | footer = 数学者[[フェリックス・クライン]](1849-1925)。[[クラインの壺]]の考案者 | image1 = Felix_Christian_Klein.jpg | width1 = 100 | alt1 = フェリックス・クライン | image2 = KleinBottle-01.png | width2 = 100 | alt2 = クラインの壺 }} {{multiple image | footer = [[早稲田大学]][[建築]]学科の創始者、建築家[[佐藤功一]](1878-1941)没。右画像は[[大隈講堂]](1927) | image1 = %E4%BD%90%E8%97%A4%E5%8A%9F%E4%B8%80.jpg | width1 = 100 | alt1 = 佐藤功一 | image2 = Okuma_Auditorium.jpg | width2 = 100 | alt2 = 大隈講堂 }} <!-- [[Image:Ilya_Frank.jpg|thumb|upright|[[チェレンコフ効果]]を解明した物理学者[[イリヤ・フランク]](1908-1990)]] --> * [[626年]]([[推古天皇]]34年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[蘇我馬子]]、[[飛鳥時代]]の政治家(* [[551年]]?)<ref name="seinengappi">『[[扶桑略記]]』の享年76から逆算すると[[欽明天皇]]13年([[551年]])にあたる。名前の「馬子」は[[午]]年生まれであることに因む可能性もあり、『[[公卿補任]]』に「在官五十五年」とあることから、{{要出典範囲|[[550年]]の[[庚午]]年前後であろうと推定する人もいる|date=2023年1月}}。</ref> * [[900年]]([[昌泰]]3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[藤原明子 (染殿后)|藤原明子]]、[[文徳天皇]]の[[女御]](* [[829年]]) * [[1183年]]([[寿永]]2年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[斎藤実盛]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1111年]]) * [[1352年]]([[正平 (日本)|正平]]7年/[[観応]]3年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[四条隆資]]、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[公卿]](* [[1292年]]) * [[1406年]]([[応永]]13年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[一色詮範]]、[[室町時代]]の武将(* [[1340年]]?) * [[1535年]] - [[ジョン・フィッシャー]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1469年]]) * [[1611年]]([[慶長]]16年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[甘糟景継]]、[[武将|戦国武将]](* [[1550年]]) * [[1727年]] - [[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]、[[イギリス|イギリス王]](* [[1660年]]) * [[1741年]] - [[ジョゼフ=エクトル・フィオッコ]]、[[作曲家]](* [[1703年]]) * [[1784年]]([[天明]]4年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[南部利正]]、第9代[[盛岡藩|盛岡藩主]](* [[1751年]]) * [[1775年]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[秋元凉朝]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[川越藩|川越藩主]]、[[山形藩|山形藩主]](* [[1717年]]) * [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2年5月25日) - [[一条実通]]、[[江戸時代]]の公卿(* [[1788年]]) * [[1830年]]([[文政]]13年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) - [[池田斉稷]]、第8代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* 1788年) * [[1846年]]([[弘化]]3年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[宇田川榕菴]]、蘭学者(* [[1798年]]) * [[1888年]] - [[エドムント・ノイペルト]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1842年]]) * [[1889年]] - [[蝶花楼馬楽 (2代目)]]、[[落語家]](* [[1833年]]) * [[1896年]] - [[ベンジャミン・ブリストウ]]、[[アメリカ合衆国財務長官]]・[[アメリカ合衆国訟務長官|訟務長官]](* [[1832年]]) * 1896年 - [[オーガスタス・ハリス]]、[[俳優]]、興行主、劇作家(* [[1852年]]) * [[1923年]] - [[松本楓湖]]、[[日本画家]](* [[1840年]]) * 1923年 - [[モリス・ローゼンフェルド]]、[[イディッシュ語]][[詩人]](* [[1862年]]) * [[1928年]] - [[阿武天風]]、[[小説家]](* [[1882年]]) * [[1925年]] - [[フェリックス・クライン]]、[[数学者]](* [[1849年]]) * [[1935年]] - [[シモン・アシュケナージ]]、[[歴史家]](* [[1866年]]) * [[1936年]] - [[南部修太郎]]、小説家(* [[1892年]]) * [[1941年]] - [[佐藤功一]]、[[建築家]](* [[1878年]]) * [[1945年]] - [[相田二郎]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1897年]]) * [[1956年]] - [[ウォルター・デ・ラ・メア]]、小説家、[[詩人]](* [[1873年]]) * [[1961年]] - [[マリア (ユーゴスラビア王妃)|マリア]]、[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|ユーゴスラビア王アレクサンダル1世]]の妃(* [[1901年]]) * [[1965年]] - [[デヴィッド・O・セルズニック]]、[[映画プロデューサー]](* [[1902年]]) * [[1966年]] - [[仁井田陞]]、[[中国法制史]]研究者(* [[1904年]]) * [[1967年]] - [[李立三]]、[[中国共産党]]の指導者(* [[1899年]]) * [[1969年]] - [[ジュディ・ガーランド]]、[[俳優|女優]](* [[1922年]]) * [[1970年]] - [[宗像誠也]]、[[教育学者]](* [[1908年]]) * [[1974年]] - [[ダリウス・ミヨー]]、[[作曲家]](* [[1892年]]) * [[1976年]] - [[野口晴哉]]、[[整体|整体指導者]](* [[1911年]]) * 1976年 - [[ポール・ピムスラー]]、言語学者(* [[1927年]]) * [[1981年]] - [[加藤喜作]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](* [[1908年]]) * [[1984年]] - [[ジョゼフ・ロージー]]、[[映画監督]](* [[1909年]]) * [[1987年]] - [[フレッド・アステア]]、[[俳優]](* [[1899年]]) * [[1989年]] - [[アンリ・ソーゲ]]、作曲家(* [[1901年]]) * [[1990年]] - [[イリヤ・フランク]]、[[物理学者]](* [[1908年]]) * [[1993年]] - [[パット・ニクソン]]、[[リチャード・ニクソン]]夫人(* [[1912年]]) * [[1994年]] - [[石橋エータロー]]、[[コメディアン]]、[[料理研究家]](* [[1927年]]) * [[1995年]] - [[イヴ・コンガール]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]](* [[1908年]]) * [[1997年]] - [[増田四郎]]、歴史学者(* [[1908年]]) * [[1998年]] - [[高田好胤]]、[[法相宗]]の[[僧]](* [[1924年]]) * [[2000年]] - [[滝沢修]]、俳優(* [[1906年]]) * [[2002年]] - [[チャン・チェ]]、映画監督(* [[1923年]]) * [[2004年]] - [[トーマス・ゴールド]]、[[天体物理学|天体物理学者]](* [[1920年]]) * 2004年 - [[ボブ・バーマー]]、[[情報工学|情報工学者]](* [[1920年]])<!-- [[:en:Bob Bemer]]6/24. ja,de,fr,es:6/22. enの方が誤記? --> * 2004年 - [[海法秀一]]、[[画家]](* [[1925年]]) * 2004年 - [[篠田昇]]、[[撮影監督]](* [[1952年]]) * [[2006年]] - [[星野紗一]]、[[俳人]](* [[1921年]]) * [[2008年]] - [[井上裕]]、第24・25代[[参議院議長]](* [[1927年]]) * 2008年 - [[ジョージ・カーリン]]、[[コメディアン]](* [[1937年]]) * [[2009年]] - [[和田博実]]、元プロ野球選手(* 1937年) * [[2010年]] - [[木村京太郎 (プロデューサー)|木村京太郎]]、[[テレビプロデューサー]](* [[1952年]]) * [[2013年]] - [[渡辺誠太郎]]、元[[プロ野球選手]](* [[1922年]]) * [[2015年]] - [[ジェームズ・ホーナー]]、[[作曲家]](* [[1953年]]) * [[2017年]] - [[小林麻央]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASK4B62D0K4BUCLV01B.html|title=小林麻央さん死去 乳がんで闘病、34歳|publisher=朝日新聞デジタル|date=2017-06-23|accessdate=2020-11-14}}</ref>、[[ニュースキャスター|キャスター]]、女優(* [[1982年]]) * [[2020年]] - [[ピエリーノ・プラティ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/prati-milan-202006231200/6zowbupe3ycb1uhwh3xcrpslv|title=ミランのレジェンド、セリエA得点王プラティが73歳で他界…68-69シーズンのCC決勝では3得点|newspaper=GOAL.com|date=2020-06-23|accessdate=2020-12-18}}</ref>、サッカー選手(* [[1946年]]) === 人物以外(動物など) === * 2009年 - [[アグネスタキオン]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](* [[1998年]]) * 2015年 - [[たま (猫の駅長)|たま]]、[[和歌山電鐵]][[貴志川線]][[貴志駅]]名誉永久[[駅長]](* [[1999年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Bowlerbowling.JPG|thumb|[[ボウリング]]の日]] [[Image:Erimacrus isenbeckii.jpg|thumb|[[カニ|かに]]の日]] <!-- 暫定:より重要な記念日があればそちらを --> * [[夏至]]({{JPN}} 2007年、2011年、2015年、2019年) * {{仮リンク|反ファシスト闘争記念日|en|Anti-Fascist Struggle Day}}({{HRV}}) *: [[1941年]]のこの日、ドイツ・イタリアによる占領下のクロアチア・[[シサク]]近郊で反ファシスト[[パルチザン]]の反乱が始まったことを記念。 * [[教師の日]]({{SLV}}) * 日韓条約調印記念日({{JPN}}) *: [[1965年]]のこの日、「日韓基本条約」等の調印式が行われたことを記念。 * [[ボウリング]]の日({{JPN}}) *: [[1861年]](文久元年)6月22日付の英字新聞「ザ・ナガサキ・ショッピングリスト・アンド・アドバタイザー」にボウリング場オープンの広告が掲載されたことにちなんだもの。[[日本ボウリング場協会]]が[[1972年]]に制定。 * [[カニ|かに]]の日({{JPN}}) *:[[五十音順]]で「[[か]]」の文字が6番目、「[[に]]」の文字が22番目に登場することに加え、一般的な[[星座占い]]で[[巨蟹宮|かに座]]がこの日に始まることにちなんだもの。[[かに道楽]]を運営するJRI株式会社かに道楽が[[1990年]]に制定。 * [[らい予防法]]による被害者の名誉回復及び追悼の日({{JPN}}) *:[[2009年]]より実施。[[2001年]]のこの日にハンセン病補償法が公布・施行されたことにちなみ、[[厚生労働省]]主催による追悼・慰霊等の行事が行われる。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0622|date=2011年6月}} * [[2003年]] - 麻帆良祭最終日。火星ロボ軍団VS学園防衛魔法騎士団が催される。ネギ・スプリングフィールドと超鈴音、最終決戦。(漫画『[[魔法先生ネギま!]]』) <!--* [[2015年]] - 第三使徒サキエル襲来。(『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』)(出典があるなら提示を)--> * [[2052年]] - ジョン・フォード、永久凍結されていたCF-345 ブラックフライを強奪し、ネメシス攻撃のため出撃。(ゲーム『[[メタルブラック]]』) * [[2090年代|2097年]] - O.C.U.軍のカンボジア侵攻に対し、U.S.N.軍による武力介入が行われる。(ゲーム『[[FRONT MISSION5 Scars of the War]]』) === 誕生日(フィクション) === * 1800年代 - アナ王女、映画『[[アナと雪の女王]]』他に登場するキャラクター <!-- * [[1872年]] - [[黒河内夢路]]、ゲーム『[[サムライスピリッツ]]』に登場するキャラクター ( http://samuraianiv.snkplaymore.co.jp/character/yumeji/index.php には「明和五年六月二十二日」とあるが、[[明和]]の項目ではグレゴリオ暦換算で1768年とある。換算ミスか? それと明らかに陰暦ですよね、これ) * 1936年 - パラメディック、ゲーム『メタルギアソリッド』シリーズに登場するキャラクター * [[1979年]] - 元木早苗、ゲーム『[[アパシー・シリーズ]]』に登場するキャラクター * [[1994年]] - 花村陽介、ゲーム『[[ペルソナ4]]』に登場するキャラクター * [[1995年]] - ホリンガーZ、ゲーム『[[ミスタードリラー]]』に登場するキャラクター --> * 生年不明 - 赤土晴絵、漫画・アニメ『[[咲-Saki-|咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|author = [[小林立]] |url= http://sciasta.com/characters.html |title = 咲-Saki- Characters |publisher = 小林立公式サイト |accessdate=2014-06-21}}</ref> *生年不明 - 明星スバル、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/akehoshi_subaru/|title=明星 スバル {{!}} CHARACTER {{!}} あんさんぶるスターズ!!|accessdate=2019年12月29日|publisher=}}</ref> *生年不明 - 伊弉冉一二三<!-- いざなみ ひふみ -->、メディアミックス『[[ヒプノシスマイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hypnosismic.com/character/shinjuku/gigolo/|title=CHARACTER {{!}} 音楽原作キャラクターラッププロジェクト『ヒプノシスマイク』オフィシャルサイト|accessdate=2019年12月30日|publisher=}}</ref> * 生年不明 - 武部沙織、アニメ『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 2013 |title = ガルパン・アルティメット・ガイド〜ガールズ&パンツァーを100倍楽しむ本〜 |page = 52 |publisher = [[廣済堂出版]] |isbn = 978-4-331-25286-4 }}</ref> * 生年不明 - 橘美也、ゲーム・アニメ『[[アマガミ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.amagami.info/sub_chara.html |title = アマガミ 公式サイト |publisher = [[エンターブレイン]] |accessdate=2014-06-21}}</ref> <!-- * 生年不明 - 叢雨十瑚、漫画・アニメ『[[裏切りは僕の名前を知っている]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - パンテーラ、漫画『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[徳川茂茂]]、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - けろっぺ、『[[けろけろけろっぴ]]』のキャラクター * 生年不明 - 山口ツトム、漫画『[[ご近所物語]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 上野彩雲、漫画『[[スケッチブック (漫画)|スケッチブック]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 宮藤一郎、イラストコラム企画『[[ストライクウィッチーズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ステラ・ブレーメル、[[小説]]『[[マブラヴ オルタネイティヴ トータル・イクリプス]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 青野月音、漫画・アニメ『[[ロザリオとバンパイア]]』『ロザリオとバンパイア season.II』の主人公 --> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 22|22 June}} {{新暦365日|6|21|6|23|[[5月22日]]|[[7月22日]]|[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]|0622|6|22}} {{1年の月と日}}
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6月23日
6月23日(ろくがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から174日目(閏年では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。
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6月23日(ろくがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から174日目(閏年では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。
{{カレンダー 6月}} '''6月23日'''(ろくがつにじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から174日目([[閏年]]では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。 == できごと == <!-- 記事に日付のないもの:弘安の役,ボニファティウス7世,虞美人草,MK磁石鋼,マツダ・787,ヘンリー・ハドソン,ウィリアム・ペン,レナペ,七年戦争,MK鋼,バルト諸国占領,リトアニア,下筌ダム,宇宙開発事業団, --> [[Image:Battle from Holkham Bible.jpg|thumb|upright|[[第一次スコットランド独立戦争]]、[[バノックバーンの戦い]](1314)でスコットランドが決定的勝利]] [[ファイル:Siege of malta 2.jpg|thumb|[[マルタ包囲戦 (1565年)|マルタ包囲戦]]、聖エルモ砦陥落するも{{仮リンク|トゥルグト・レイス|en|Turgut Reis}}戦死(1565)]] [[Image:Clive.jpg|thumb|[[プラッシーの戦い]](1757)、[[イギリス]]による[[インド]]支配が確立]] <!-- [[Image:Battle_of_Springfield_NJ_1780.jpg|thumb|[[アメリカ独立戦争]]、[[スプリングフィールドの戦い (1780年)|スプリングフィールドの戦い]](1780)]] --> [[ファイル:Sholes typewriter.jpg|thumb|upright|[[クリストファー・レイサム・ショールズ]]、[[タイプライター]]の特許を取得(1868)。画像は1873年の[[ショールズ・アンド・グリデン・タイプライター|ショールズ・タイプライター]]]] <!-- [[Image:Canada_35_bg_061904.jpg|thumb|[[カナダ]]初の国立公園、[[バンフ国立公園]]設置(1887)]] --> <!-- [[Image:Siege_cio.jpg|thumb|[[国際オリンピック委員会]]設立(1894)。画像は現在のIOC本部]] --> <!-- [[Image:Bundesarchiv_Bild_102-11928%2C_Ozeanflieger_Wiley_Post_und_Harold_Gatty.jpg|thumb|[[ウィリー・ポスト]]と[[ハロルド・ガティ]]、[[世界一周飛行]]に出発(1931)]] --> <!-- [[Image:Sch%C3%BCtzengraben_im_Karst.jpg|thumb|100px|[[第一次世界大戦]]、[[第一次イゾンツォの戦い]]はじまる(1915)]] --> [[ファイル:Mount Showa-shinzan 01.jpg|thumb|[[昭和新山]]誕生(1943)]] {{multiple image | footer = [[沖縄戦]]の終結。沖縄守備軍司令官の[[牛島満]](画像左)と米兵の市民への攻撃(画像中央)、「降伏」する住民(画像右)。 | image1 = Mitsuru Ushijima.jpg | width1 = 50 | alt1 = 牛島満 | image2 = Okinawa flamethrower.jpg | width2 = 60 | alt2 = 火炎放射器を使う米兵 |image3=Overcoming the last resistance.jpg |width=140 |alt3=「降伏」する住民 }} <!-- WANTED: 安保関係の画像 --> [[ファイル:Shinkansen 200kei G45.jpg|thumb|[[東北新幹線]]開業(1982)。画像は開業時の車両である[[新幹線200系電車|200系]]]] <!-- [[Image:Plaqueinbantry.jpg|thumb|240px|[[インド航空182便爆破事件]](1985)]] --> <!-- [[Image:N64.jpg|thumb|200px|[[NINTENDO64]]発売(1996)]] 画像掲載するほど画期的でもないか --> * [[1281年]]([[弘安]]4年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[弘安の役]]。[[元 (王朝)|元]]軍が九州に再襲来。 <!-- 要確認。ボニファティウス7世は985年没。8世の誤り? * [[1295年]] - [[教皇]][[ボニファティウス7世 (対立教皇)|ボニファティウス7世]]が[[ローマ]]入り。 --> * [[1565年]] - [[マルタ包囲戦 (1565年)|マルタ包囲戦]]: [[オスマン帝国海軍]]の{{仮リンク|トゥルグト・レイス|en|Turgut Reis}}が戦死{{要出典|date=2021-03}}。<!-- enより --> * [[1611年]] - カナダ北東部を探検中の[[ヘンリー・ハドソン]]の船で反乱が起き、ハドソンとその息子、6人の部下が本船から下ろされて小船に置き去りにされる。以降の消息は不明。<!-- enより --> * [[1683年]] - [[ウィリアム・ペン]]が[[ペンシルベニア植民地|ペンシルベニア]]の[[レナペ|レナペ族]]と友好協定を結ぶ。<!-- enより --> * [[1757年]] - [[プラッシーの戦い]]。イギリス・[[イギリス東インド会社]]軍がフランスのベンガル土侯連合軍を破る。[[インド]]のイギリス支配が決定。 * [[1758年]] - [[七年戦争]]: [[クレーフェルトの戦い]]。 * [[1760年]] - 七年戦争: [[ランデスフートの戦い (1760年)|ランデスフートの戦い]]。 * [[1780年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[スプリングフィールドの戦い (1780年)|スプリングフィールドの戦い]]。 * [[1810年]] - [[ジョン・ジェイコブ・アスター]]が{{仮リンク|太平洋毛皮会社|en|Pacific Fur Company}}を設立。 * [[1812年]] - [[ナポレオン戦争]]: [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[ロシア帝国|ロシア]]に侵攻、[[1812年ロシア戦役]]が始まる。 * [[1860年]] - [[アメリカ合衆国議会]]が[[合衆国政府印刷局]]を設置。 * [[1868年]] - 新聞編集者[[クリストファー・レイサム・ショールズ]]が[[タイプライター]]の特許を取得。<!-- enより --> * [[1885年]] - [[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル]]がイギリスの第44代首相に就任。 * [[1887年]] - [[カナダ]]初の[[国立公園]]・[[バンフ国立公園]]設置。 * [[1894年]] - [[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]が[[ピエール・ド・クーベルタン]]男爵の先導によって[[パリ]]・ソルボンヌで設立。 * [[1907年]] - 『[[朝日新聞]]』で[[夏目漱石]]の『[[虞美人草]]』が連載開始。 * [[1909年]] - [[スリ]]の大親分・富田銀次郎([[仕立屋銀次]])を[[日暮里]]で逮捕。<!-- 『366日の事典』(東洋出版)に記載 --> * [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]: [[第一次イゾンツォの戦い]] * [[1919年]] - {{仮リンク|エストニア独立戦争|en|Estonian War of Independence}}: {{仮リンク|ヴェンデンの戦い|en|Battle of Wenden (1919)}}が終結。エストニア軍が[[バルト連合公国]]軍に勝利。(エストニアの戦勝記念日)<!-- enより --> * [[1925年]] - [[沙基事件]]。中国の[[広州市]]沙基で[[五・三〇事件]]に刺激された反英デモが起こり、イギリス兵が発砲して多数の中国人が死傷。 * [[1931年]] - [[ウィリー・ポスト]]と{{仮リンク|ハロルド・ガティ|en|Harold Gatty}}が[[世界一周飛行]]に出発。[[7月1日]]に帰着し、8日間15時間51分の記録を樹立。 * [[1932年]] - [[三島徳七]]が[[MK鋼]]の[[特許]]を取得。<!-- 『366日の事典』(東洋出版)に記載 --> * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]・[[バルト諸国占領]]: ドイツのソ連侵攻に乗じて[[リトアニア]]が[[ソビエト連邦]]からの独立を宣言。 * [[1944年]] - [[北海道]][[壮瞥町]]の[[有珠山]]東麓の畑地が噴火。[[昭和新山]]が誕生。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: 沖縄守備軍司令官[[牛島満]]が摩文仁司令部で自決(前日〈22日〉との異説あり)。[[沖縄戦]]の組織的抵抗が終結したとされる。 * 1945年 - [[国民義勇隊|国民義勇兵役法]]公布。 * 1945年 - [[千葉県]]で撃墜された戦闘機から脱出した[[アメリカ兵]]が住民に殺害される事件が発生([[能崎事件]])。 * [[1947年]] - [[神奈川税務署員殉職事件]]。戦後の混乱期に密造酒の販売を行っていた[[在日韓国・朝鮮人]]集落を取り締まった税務署の職員が税務署からの帰宅途中に在日朝鮮人数名に囲まれ暴行を受け殉職。 * [[1948年]] - [[昭和電工事件]]: [[昭和電工]]社長の[[日野原節三]]が逮捕される。 * [[1953年]] - [[山口県]][[角島]]の西16kmの海域に[[アメリカ軍]]の[[輸送機]]が墜落。死者・行方不明者7人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=92|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1959年]] - [[イギリス]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[原子爆弾]]開発に貢献する一方、[[ソビエト連邦|ソ連]]に機密情報を流していた物理学者[[クラウス・フックス]]が、9年間の収監の後に釈放される。 * [[1960年]] - [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]と[[日米地位協定]]発効。同時に[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]と[[日米行政協定]]が失効。 * [[1961年]] - [[南極条約]]が発効。 * [[1964年]] - 熊本県・[[下筌ダム]]の建設反対派の拠点「蜂ノ巣城」が強制撤去される。<!-- 『366日の事典』(東洋出版)に記載 --> * [[1967年]] - [[冷戦]]: アメリカ大統領[[リンドン・ジョンソン]]とソ連首相[[アレクセイ・コスイギン]]が[[ニュージャージー州]][[グラスボロ]]で会見。({{仮リンク|グラスボロ・サミット会議|en|Glassboro Summit Conference}}) * [[1969年]] - [[宇宙開発事業団|宇宙開発事業団法]]公布。 * [[1970年]] - 午前0時に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]が自動延長。反対する学生デモの一部が暴徒化し、[[麻布警察署]]などに[[火炎瓶]]が投擲される<ref>法大など10ヵ所捜索 火炎ビン・投石事件『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月26日夕刊 3版 11面</ref>。 * [[1973年]] - [[自衛隊機乗り逃げ事件]]発生。 * [[1982年]] - [[東北新幹線]]の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[盛岡駅]]間が開業。 * [[1985年]] - [[インド航空182便爆破事件]]。[[成田空港手荷物爆発事件]]。 * [[1989年]] - [[中国共産党]]の[[中国共産党第十三期中央委員会第四回全体会議|第13期4中全会]]で総書記の[[趙紫陽]]が全職務を解任され、以降自宅軟禁下に置かれる。 * [[1991年]] - [[ル・マン24時間レース]]にて、[[マツダ・787|マツダ・787B]]が日本車及び[[ロータリーエンジン]]搭載車として初優勝。 * [[1993年]] - [[小沢一郎]]・[[羽田孜]]らが[[新生党]]を結成。 * [[1995年]] - 沖縄県の[[沖縄戦跡国定公園#沖縄平和祈念公園|平和祈念公園]]に戦没者23万4千名の氏名を刻んだ[[沖縄戦跡国定公園#平和の礎|平和の礎]]を建立。 * [[1996年]] - [[任天堂]]が[[NINTENDO64]]を発売。 * [[1999年]] - [[男女共同参画社会基本法]]公布・施行。 * [[2001年]] - [[ペルー]]南方沖で[[マグニチュード|Mw]] 8.4の地震発生。139人が死亡。 * [[2002年]] - [[岡山県]][[新見市]]で初の[[電子投票]]による市議会議員・市長選挙。 * [[2004年]] - [[東京メトロ半蔵門線]]の[[渋谷駅]]で[[渋谷駅駅員銃撃事件]]が発生<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/national/update/0623/016.html |title=発砲音に駆け上がる客、同僚も動転 ラッシュの渋谷騒然 |access-date=2023-06-25 |date=2004-06-23 |publisher=朝日新聞社 |website=asahi.com |archive-url=https://web.archive.org/web/20040626071455/http://www.asahi.com/national/update/0623/016.html |archive-date=2004-06-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/national/update/0623/005.html |title=東京・渋谷駅で発砲、駅員重傷 中年男が逃走 |access-date=2023-06-25 |date=2004-06-23 |publisher=朝日新聞社 |website=asahi.com |archive-date=2004-06-26 |archive-url=https://web.archive.org/web/20040625222452/http://www.asahi.com/national/update/0623/005.html}}</ref>。犯人は同月26日に[[出頭]]し逮捕された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040626i313.htm |title=拳銃所持の64歳男が自首、逮捕…渋谷駅発砲事件 |access-date=2023-06-25 |date=2004-06-27 |publisher=読売新聞社 |website=YOMIURI ON-LINE |archive-url=https://web.archive.org/web/20040626181819/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040626i313.htm |archive-date=2004-06-27}}</ref>。 <!-- * [[2005年]] - [[広島東洋カープ]]の[[野村謙二郎]]選手が対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])で史上33人目の2000本安打を達成。 --> * [[2008年]] - 朝日放送(ABC、テレビは現・[[朝日放送テレビ]]、ラジオは現・[[朝日放送ラジオ]])が[[大阪市]][[福島区]]福島の新社屋から放送開始。 * 2008年 - [[東京メトロポリタンテレビジョン]](TOKYO MX)が[[ワンセグ2サービス]]放送開始。 * [[2009年]] - [[東京高等裁判所|東京高裁]]が[[足利事件]]の[[再審]]開始を決定。 * [[2014年]] - [[日本学術会議]]が、提言「[[男女共同参画]]社会の形成に向けた[[民法]]改正」において選択的[[夫婦別姓]]制度の導入を提言<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t193-5.pdf |title=提言 男女共同参画社会の形成に向けた民法改正 |access-date=2023-06-25 |date=2014-06-23 |website=日本学術会議 (scj.go.jp) |archive-url=https://web.archive.org/web/20230624160434/https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t193-5.pdf |archive-date=2023-06-25 |format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20140630/k10015622451000.html |title=日本学術会議が民法改正を提言 |access-date=2023-06-25 |publisher=NHK |date=2014-06-30 |website=NHKニュース |archive-url=https://megalodon.jp/2014-0630-2248-23/www3.nhk.or.jp/news/html/20140630/k10015622451000.html |archive-date=2014-06-30}}</ref>。 * [[2016年]] - 改正[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]が施行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG22HBZ_T20C16A6CR0000/ |title=クラブ夜通し営業OK 改正風営法、23日施行 |access-date=2023-06-25 |date=2016-06-23 |publisher=日本経済新聞社 |website=日本経済新聞 (nikkei.com) |archive-date=2023-06-25 |archive-url=https://megalodon.jp/2023-0625-0113-49/https://www.nikkei.com:443/article/DGXLASDG22HBZ_T20C16A6CR0000/}}</ref>。[[社交ダンス]]や[[ディスコ]]が原則として[[風俗営業]]から除外された。 * 2016年 - [[イギリス]]で[[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票|欧州連合 (EU) 離脱の是非を問う国民投票]]が執行<ref name=TDT22FebEURWIIAWII>[http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/eureferendum/11324069/What-is-the-EU-referendum-and-when-is-it.html EU referendum: What is it and when is it?] M. Wilkinson, The Daily Telegraph, 22 Feb 2016</ref>。 {{-}} == 誕生日 == [[Image:Odanobunaga.jpg|thumb|upright|武将、[[織田信長]](1534-1582)誕生。{{Squote|なかぬなら殺してしまへ時鳥――信長の性格を詠んだ詠み人知らずの句}}]] [[ファイル:Josephine de Beauharnais, Keizerin der Fransen.jpg|thumb|100px|[[ナポレオン・ボナパルト]]の妻、フランス皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]](1763-1814)誕生]] [[ファイル:Reinecke (young).jpg|thumb|100px|作曲家[[カール・ライネッケ]](1824-1910)誕生。{{audio|Carl Reinecke - Wind Octet Op. 216 - 1. Allegro moderato.ogg|管楽八重奏曲作品216より第1楽章を聴く}}]] <!-- [[Image:%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%8A%89%E7%94%9F%E3%83%BB%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F.jpg|thumb|100px|洋画家[[岸田劉生]](1891-1929)。画像は自画像(1914)]] --> [[ファイル:Kishida Ryusei Young Girl Standing.jpg|thumb|100px|洋画家[[岸田劉生]](1891-1929)誕生。画像は『麗子立像』(1923)]] <!-- [[Image:Jorge_v%2C_esposa_e_filho_eduardo.jpg|thumb|100px|イギリス王[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]](1894-1972)。[[ウォリス・シンプソン]]との「世紀の恋」で王位を1年で擲った。画像は生後間もないエドワード]] --> [[ファイル:Alan Turing Memorial 2.JPG|thumb|100px|「[[計算機科学]]の父」、数学者[[アラン・チューリング]](1912-1954)。{{Squote|我々には少し先までしか見えないが、そこになすべきことをたっぷりと見付けることができる。――『計算機と知能』(1950)}}]] <!-- [[Image:Richard-bah-07.jpg|thumb|100px|作家[[リチャード・バック]](1936-)。代表作『[[かもめのジョナサン]]』(1970)。{{Squote|知られていないということは、真実が真実であることを妨げない。――『There's No Such Place As Far Away』(1978)}}]] --> <!-- [[Image:Zinedine Zidane 2008.jpg|thumb|100px|[[サッカー]]選手、[[ジネディーヌ・ジダン]](1972-)]] --> * [[紀元前47年]] - [[カエサリオン]]、[[プトレマイオス朝]]最後の[[ファラオ]](+ [[紀元前30年]]) * [[1534年]]([[天文 (元号)|天文]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[織田信長]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将(+ [[1582年]]) * [[1612年]] - [[ユーストゥス・ゲオルク・ショッテル]]、[[文法]]学者(+ [[1676年]]) * [[1746年]]([[延享]]3年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[塙保己一]]、[[国学|国学者]](+ [[1821年]]) * [[1763年]] - [[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の妻(+ [[1814年]]) * [[1803年]]([[享和]]3年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[松平斉韶]]、第7代[[明石藩|明石藩主]](+ [[1868年]]) * [[1810年]] - [[ファニー・エルスラー]]、[[バレリーナ|バレエダンサー]](+ [[1884年]]) * [[1824年]] - [[カール・ライネッケ]]、[[作曲家]](+ [[1910年]]) * [[1834年]]([[天保]]5年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[内田正縄]]、第9代[[小見川藩|小見川藩主]](+ [[1864年]]) * [[1839年]](天保10年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[松平乗秩]]、第5代[[西尾藩|西尾藩主]](+ [[1873年]]) * [[1843年]] - [[ポール・ハインリッヒ・フォン・グロート]]、[[鉱物学者]] (+ [[1927年]]) * [[1852年]] - [[ラウール・プーニョ]]、音楽教師、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1914年]]) * [[1864年]] - [[ヘルマン・ホフマン]]、カトリック教会司祭、[[上智大学]]初代学長(+ [[1937年]]) * [[1887年]] - [[ラインハルト・ゲーリング]]、[[劇作家]](+ [[1936年]]) * [[1889年]] - [[三木露風]]、[[詩人]](+ [[1964年]]) * [[1891年]] - [[岸田劉生]]、[[洋画家]](+ [[1929年]]) * [[1892年]] - [[ミェチスワフ・ホルショフスキ]]、[[ピアニスト]](+ [[1993年]]) * [[1894年]] - [[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]](ウィンザー公)、[[イギリス]]王(+ [[1972年]]) * 1894年 - [[アルフレッド・キンゼイ]]、性科学者、[[動物学|動物学者]](+ [[1956年]]) * [[1897年]] - [[末永雅雄]]、[[考古学|考古学者]](+ [[1991年]]) * [[1912年]] - [[アラン・チューリング]]、[[数学者]](+ [[1954年]]) <!-- 特筆性は? * [[1913年]] - [[門脇俊一]]、画家(+ [[2006年]]) --> * [[1917年]] - [[溝部武夫]]、元[[プロ野球選手]] * [[1920年]] - [[国枝利通]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]]) * [[1922年]] - [[阿部文男]]、[[政治家]](+ [[2006年]]) * [[1925年]] - [[サヒブ・シハブ]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者、[[フルート奏者]](+ [[1989年]]) * [[1926年]] - [[榎本和平]]、政治家(+ [[2006年]]) * [[1927年]] - [[ボブ・フォッシー]]、[[映画監督]](+ [[1987年]]) * [[1928年]] - [[河合隼雄]]、[[心理学者]](+ [[2007年]]) * [[1930年]] - [[妹尾河童]]、舞台美術家、[[エッセイスト]] * [[1931年]] - [[二葉百合子]]、[[演歌歌手]]、[[浪曲師]] * 1931年 - [[カール・スプーナー]]、元プロ野球選手(+ [[1984年]]) * [[1935年]] - [[浅井信雄]]、[[国際政治学者]](+ [[2015年]]) * 1935年 - [[筑紫哲也]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2008年]]) * [[1936年]] - [[リチャード・バック]]、[[作家]] * [[1937年]] - [[ニコラス・シャックルトン]]、[[地質学|地質学者]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](+ [[2006年]]) * [[1943年]] - [[ゲイリー・タナカ]]、[[馬主]] * 1943年 - [[佐伯チズ]]、美容アドバイザー(+ [[2020年]]) * 1943年 - [[ジェームズ・レヴァイン]]、[[指揮者]]、[[ピアニスト]](+ [[2021年]]) * 1943年 - [[ヴィントン・サーフ]]、[[計算機科学|計算機科学者]] * 1943年 - [[デヴィッド・ガイラー]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]](+ [[2020年]]) <!-- 特筆性は? * [[1944年]] - [[名波弘彰]]、[[筑波大学]]名誉教授 --> * [[1946年]] - [[吉田孝司]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[二宮さよ子]]、[[俳優|女優]]、日本舞踊家 * 1948年 - [[新井昌則]]、元プロ野球選手 * 1948年 - [[大場隆広]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]]<ref>{{Cite news|title=大場隆広さん死去 中日、近鉄、南海でプレー|newspaper=日刊スポーツ|date=2016-7-17|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1680104.html|accessdate=2020-12-1}}</ref>) * [[1949年]] - [[服部妙子]]、女優 * [[1950年]] - [[我喜屋優]]、高校野球指導者 * [[1952年]] - [[筧文夫]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[佐々木淳子]]、[[漫画家]] * 1955年 - [[白岩久弥]]、[[テレビプロデューサー]]、[[映画プロデューサー]]、映画監督 * [[1956年]] - [[永川英植]]、プロ野球選手(+ [[1991年]]) * [[1957年]] - [[古村敏比古]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1957年 - [[安藤さと子]]、[[キーボード奏者]]、[[シンガーソングライター]] * [[1958年]] - [[ジョージ高野]]、[[プロレスラー]] * [[1960年]] - [[高田みづえ]]、[[歌手]] * [[1961年]] - [[みのや雅彦]]、歌手 * 1961年 - [[小松崎善久]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[風野潮]]、[[児童文学作家]] * 1962年 - [[マイケル・トンプソン (格闘家)|マイケル・トンプソン]]、[[空手道|空手家]] * 1962年 - [[一力敦彦]]、実業家、[[東北放送]]代表取締役社長 * [[1963年]] - [[コリン・モンゴメリー]]、[[プロゴルファー]] * 1963年 - [[堀江さゆみ]]、[[アナウンサー]] * [[1964年]] - [[茅原ますみ]]、アナウンサー * 1964年 - [[小山薫堂]]、[[放送作家]] * 1964年 - [[智ノ花伸哉]]、元大相撲[[力士]]、年寄18代[[玉垣 (年寄名跡)|玉垣]] * 1964年 - [[古久保健二]]、元プロ野球選手 * 1964年 - [[森士]]、高校野球指導者 * 1964年 - [[本並健治]]、[[サッカー選手]]、[[スポーツ解説者|解説者]] * [[1965年]] - [[香川久]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]] * [[1967年]] - [[南野陽子]]、女優、[[タレント]]、歌手 * 1967年 - [[永田ルリ子]]、元[[アイドル]] * 1967年 - [[渡辺智男]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[ヘンスリー・ミューレンス]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[龍興山一人]]、大相撲力士(+ [[1990年]]) * [[1968年]] - [[西尾鉄也]]、[[アニメーター]] * 1968年 - [[山本英夫]]、[[漫画家]] * 1968年 - [[姜光会]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[愛知治郎]]、政治家 * [[1970年]] - [[藤井一子]]、歌手、女優 * 1970年 - [[池田有希子]]、女優 * [[1971年]] - [[前田勝宏]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[大岩剛]]、元サッカー選手 * 1972年 - [[ジネディーヌ・ジダン]]、元サッカー選手 * [[1973年]] - [[中西永輔]]、元サッカー選手 * 1973年 - [[城井崇]]、政治家 * 1973年 - [[木村一基]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * [[1974年]] - [[レティシア・ユベール]]、フィギュアスケート選手 <!-- 出典不明 * 1974年 - [[厳星燮]]、放送記者 --> * [[1975年]] - [[マイク・ジェームス]]、バスケット選手 * 1975年 - [[寺田周平]]、元サッカー選手 * [[1976年]] - [[パトリック・ヴィエラ]]、元サッカー選手、mockey(思想家) * [[1977年]] - [[藤本景子]]、アナウンサー * 1977年 - [[和田竜二]]、[[騎手]] * 1977年 - [[原田友貴]]、声優 * 1977年 - [[ジェイソン・ムラーズ]]、シンガーソングライター * [[1978年]] - [[石橋けい]]、女優 * [[1979年]] - [[酒井博史]]、アクション俳優 * 1979年 - [[坂本頼光]]、[[活動弁士]] * 1979年 - [[荒木美和]]、元アナウンサー * 1979年 - [[ラダニアン・トムリンソン]]、アメリカンフットボール選手 * [[1980年]] - [[浅田若菜]]、元アナウンサー * 1980年 - [[高宮悠子]]、タレント * 1980年 - [[フランチェスカ・スキアボーネ]]、テニス選手 * [[1981年]] - [[菊地浩輔]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[チーモンチョーチュウ]]) * 1981年 - [[大橋正博]]、元サッカー選手 * 1981年 - [[熊林親吾]]、元サッカー選手 * 1981年 - [[戸川健太]]、元サッカー選手 * 1981年 - [[Ni〜ya]]、ミュージシャン * 1981年 - [[アントニー・コスタ]]、ミュージシャン * [[1983年]] - [[山田憲]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[松田丈志]]、[[競泳]]選手 * 1984年 - [[ダフィー (歌手)|ダフィー]]、歌手 * [[1985年]] - [[シシド・カフカ]]、ドラマー、女優 * 1985年 - [[呉家亮]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * [[1986年]] - [[Me ho|ハルカミホ]]、歌手 * 1986年 - [[藤本京太郎|京太郎]]、[[キックボクサー]]、元[[プロボクサー]] * 1986年 - [[髙木裕平]]、声優 * [[1987年]] - [[今井麻夏]]、声優 * 1987年 - [[小堀慎平]]、俳優 * 1987年 - [[多々良敦斗]]、サッカー選手 * 1987年 - [[前田裕二]]、実業家、[[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]]創業者 * [[1989年]] - [[木村隼人 (ボクサー)|木村隼人]]、元プロボクサー * 1989年 - [[佐藤瀬奈]]、ファッションモデル、タレント * 1989年 - [[竹達彩奈]]、声優 * 1989年 - [[オーウェン・オーザニッチ]]、野球選手 * [[1990年]] - [[阿部まみ]]、元チアリーダー、フィールドキャスター * 1990年 - [[野寺和音]]、元サッカー選手 * 1990年 - [[本田慎之介]]、元サッカー選手 * 1990年 - [[クロックス・アクーニャ]]、競泳選手 * 1990年 - [[高源浚]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[バセク・ポシュピシル]]、テニス選手 * [[1992年]] - [[谷野欧太]]、俳優 * [[1993年]] - [[志朗]]、キックボクサー * 1993年 - [[森和樹]]、元プロ野球選手 * 1993年 - [[ティム・アンダーソン (野球)|ティム・アンダーソン]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[七五三掛龍也]]、アイドル([[Travis Japan]]) * 1995年 - [[ななもり。]]、配信者、歌い手([[すとぷり]]) * 1995年 - [[ジョシュ・ホーキンソン]]、[[バスケットボール男子日本代表|バスケットボール]]選手 * [[1996年]] - [[安田聖愛]]、ファッションモデル、女優 * [[1997年]] - [[東留伽]]、アナウンサー * [[1998年]] - [[街山みほ]]、グラビアアイドル * [[1999年]] - [[川西拓実]]、アイドル([[JO1]]) * [[2000年]] - [[松山晋也]]、プロ野球選手<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/players/61865157.html |title=松山 晋也(中日ドラゴンズ) {{!}} 個人年度別成績 |access-date=2023-06-25 |publisher=NPB.jp 日本野球機構}}</ref> * [[2002年]] - [[前田こころ]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]]) * [[2004年]] - [[芦田愛菜]]、女優、タレント == 忌日 == [[ファイル:Vespasianus01 pushkin edit.png|thumb|100px|[[ローマ皇帝]][[ウェスパシアヌス]](9-79){{Squote|我は既に[[神]]となった!――最期の言葉<!-- 最期のジョーク -->}}]] [[ファイル:Zheng Chenggong.JPG|thumb|100px|台湾の[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]の祖、[[鄭成功]](1624-1662)]] [[ファイル:Wilhelm Eduard Weber II.jpg|thumb|100px|物理学者[[ヴィルヘルム・ヴェーバー]](1804-1891)。[[磁束]]の単位[[ウェーバ]]に名を残す]] [[ファイル:Kunikida Doppo.jpg|thumb|100px|作家[[国木田独歩]](1871-1908)]] <!-- TODO:Squote --> <!-- [[Image:Vasnetsov_Acrobats.jpg|thumb|100px|画家[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]](1848-1926)。画像は『パリ郊外の軽業師』(1877)]] --> <!-- [[Image:Harriet_sticking_out_her_tounge.jpg|thumb|100px|175年生きたと推測される[[ガラパゴスゾウガメ]]、[[ハリエット (ゾウガメ)|ハリエット]](1830頃-2006)]]--> [[ファイル:Sakae Tsuboi 02.jpg|thumb|100px|作家[[壺井栄]](1899-1967)]] [[Image:Kim Jong-pil 1999.png|thumb|100px|大韓民国国務総理、[[金鍾泌]](1926-2018)]] === 人物 === * [[79年]] - [[ウェスパシアヌス]]、第9代[[ローマ皇帝]] (* [[9年]]) * [[1545年]]([[天文 (元号)|天文]]14年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[畠山稙長]]、[[守護大名]](* [[1504年]]) * [[1561年]]([[永禄]]4年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]])- [[斎藤義龍]]、[[美濃国]]の[[戦国大名]](* [[1527年]]) * [[1582年]]([[天正]]10年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]])- [[清水宗治]]、[[武将|戦国武将]](* [[1537年]]) * [[1587年]](天正15年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[大村純忠]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[キリシタン大名]](* [[1533年]]) * [[1611年]] - [[クリスティアン2世 (ザクセン選帝侯)|クリスティアン2世]]、[[ザクセン公国|ザクセン選帝侯]](* [[1583年]]) * [[1615年]] ([[元和 (日本)|元和]]元年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]])- [[増田長盛]]、[[安土桃山時代]]の[[大名]](* [[1545年]]) * [[1662年]]([[永暦 (南明)|永暦]]16年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]])- [[鄭成功]]、[[明]]の[[武将]]、[[台湾]]の指導者(* [[1624年]]) * [[1677年]] - [[ヴィルヘルム・ルートヴィヒ (ヴュルテンベルク公)|ヴィルヘルム・ルートヴィヒ]]、[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク公]](* [[1647年]]) * [[1691年]] - [[スレイマン2世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Suleyman-II-Ottoman-sultan Süleyman II Ottoman sultan] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第20代[[オスマン帝国]][[スルターン]](* [[1642年]])<!-- en,fr,pl:6/22 ja,de,it:6/23 要チェック --> * [[1836年]] - [[ジェームズ・ミル]]、[[歴史家]]、[[哲学|哲学者]]、[[経済学者]](* [[1773年]]) * [[1842年]]([[天保]]13年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[鈴木牧之]]、[[商人]]、[[随筆家]](* [[1770年]]) * [[1852年]] - [[カール・ブリューロフ]]、[[画家]](* [[1799年]]) * [[1859年]] - [[マリア・パヴロヴナ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃)|マリア・パヴロヴナ]]、[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公]][[カール・フリードリヒ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・フリードリヒ]]の妃(* [[1786年]]) * [[1881年]] - [[マティアス・ヤーコプ・シュライデン]]、[[植物学|植物学者]](* [[1804年]]) * [[1890年]] - [[ジョージ・ワシントン・マクラリー]]、第33代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1835年]]) * [[1891年]] - [[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]、[[物理学者]](* [[1804年]]) * 1891年 - [[ノーマン・ポグソン]]、[[天文学者]](* [[1829年]]) * [[1896年]] - [[ジョゼフ・プレストウィッチ]]、[[地質学|地質学者]]、[[実業家]](* [[1812年]]) * [[1908年]] - [[国木田独歩]]、[[小説家]]、[[詩人]](* [[1871年]]) * [[1926年]] - [[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]、[[画家]](* [[1848年]]) * [[1928年]] - [[マラカイ・キットリッジ]]、プロ野球選手(* [[1869年]]) * [[1945年]] - [[牛島満]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[大将]]、第32軍司令官(* [[1887年]]) * [[1945年]] - [[長勇]]、日本陸軍の[[中将]]、第32軍参謀長(* [[1895年]]) * [[1947年]] - [[黒沢俊夫]]、[[プロ野球選手]](* [[1914年]]) * [[1953年]] - [[アルベール・グレーズ]]、[[画家]](* [[1881年]]) * [[1956年]] - [[レインゴリト・グリエール]]、[[作曲家]](* [[1875年]]) * [[1959年]] - [[ジャン・ギャロン]]、作曲家(* [[1878年]]) * 1959年 - [[ボリス・ヴィアン]]、[[作家]]、[[ジャズ]][[トランペット]]奏者(* [[1920年]]) * [[1961年]] - [[青野季吉]]、[[文芸評論家]](* [[1890年]]) * [[1964年]] - [[市岡忠男]]、[[野球選手]](* [[1891年]]) * [[1967年]] - [[壺井栄]]、作家(* [[1899年]]) * [[1969年]] - [[ボルマリ・イソ=ホロ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1907年]]) * 1969年 - [[矢部長克]]、[[地球科学者]](* [[1878年]]) * [[1970年]] - [[ロスコー・ターナー]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1885年]]) * [[1974年]] - [[岡田光玉]]、[[世界真光文明教団]]の[[教祖]](* [[1901年]]) * [[1975年]] - [[林武]]、[[洋画家]](* [[1896年]]) * [[1983年]] - [[神東山忠也]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1913年]]) * [[1986年]] - [[桜田一郎]]、[[化学者]](* [[1904年]]) * [[1989年]] - [[ヴェルナー・ベスト]]、[[ナチス・ドイツ]][[デンマーク]]総督(* [[1903年]]) * [[1994年]] - [[ペーター佐藤]]、[[イラストレーター]](* [[1945年]]) * 1994年 - [[常書鴻]]、[[画家]](* [[1904年]]) * [[1995年]] - [[ジョナス・ソーク]]、[[医学者]](* [[1914年]]) * [[1997年]] - [[ヘルマン・フローン]]、[[地理学者]]、[[気象学者の一覧|気候学者]](* [[1912年]]) * 1997年 - [[有村家斉]]、元プロ野球選手(* 1914年) * [[1998年]] - [[モーリン・オサリヴァン]]、[[俳優|女優]](* [[1911年]]) * 1998年 - [[加倉井実]]、元プロ野球選手(* [[1934年]]) * [[1999年]] - [[引地信之]]、元プロ野球選手(* [[1930年]]) * 1999年 - [[長沢節]]、[[水彩画]]家、[[デザイナー]]、[[エッセイスト]]、ファッション評論家、映画評論家(* [[1917年]]) * [[2001年]] - イヴォンヌ・ディオンヌ、[[ディオンヌ家の五つ子姉妹]]の1人(* [[1934年]]) * 2006年 - [[北天佑勝彦]]、元大相撲力士、年寄13代[[二十山]](* [[1960年]]) * [[2011年]] - [[ピーター・フォーク]]、[[俳優]](* [[1927年]]) * [[2013年]] - [[諸橋晋六]]、実業家、[[三菱商事]]会長(* [[1922年]]) <!-- 特筆性は? * 2013年 - [[小笠原金悦]]、実業家、[[函館新聞|函館新聞社]]会長、[[テーオー小笠原]]主要株主(* [[1926年]]) --> * 2013年 - [[リチャード・マシスン]]、作家(* [[1926年]]) <!-- 特筆性は? * 2013年 - [[宮越郷平]]、作家(* [[1927年]]) --> * 2013年 - [[ボビー・ブランド]]、[[ブルース]]歌手(* [[1930年]]) * 2013年 - [[吉永祐介]]、[[検察官]]、第18代[[検事総長]](* [[1932年]]) * 2013年 - {{仮リンク|ゲイリー・デヴィッド・ゴールドバーグ|en|Gary David Goldberg}}、脚本家(* [[1944年]]) * [[2015年]] - [[長岡秀星]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|url = https://www.sankei.com/article/20150627-XOV24TGFRFLJ7AMSD3BKU55AZQ/|title = イラストレーター、長岡秀星さん死去、78歳|accessdate = 2020-11-14|publisher = 産経ニュース|date = 2015-06-27}}</ref>、[[イラストレーター]](* [[1936年]]) * [[2018年]] - [[金鍾泌]]<ref>[http://m.yna.co.kr/kr/contents/?cid=AKR20180623022600001 김종필 전 국무총리 별세…향년 92세]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180623-O3TT26VXFBIIRKPEVMUI2PUL74/|title=韓国の金鍾泌元首相が死去 92歳 日韓国交正常化の立役者|publisher=産経ニュース|date=2018-06-23|accessdate=2020-11-03}}</ref>、政治家、元[[大韓民国国務総理]](* [[1926年]]) * [[2022年]] - [[渡辺宙明]]、[[作曲家]](* [[1925年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2006年]] - [[ハリエット (ゾウガメ)|ハリエット]]、世界最長寿の[[ガラパゴスゾウガメ]](* [[1830年]]頃) <!-- en:6/23 ja:6/22 --> == 記念日・年中行事 == [[ファイル:Okinawa prefectural Peace memorial Museum-2007-06-27 4.jpg|thumb|300px|沖縄[[慰霊の日]]。画像は1995年同日に建立された「[[沖縄戦跡国定公園#平和の礎|平和の礎]]」]] <!-- {{multiple image | footer = 沖縄守備軍司令官[[牛島満]](1887-1945)と参謀長[[長勇]](1895-1945)が自決、[[沖縄戦]]終結(22日とも)。{{Squote|矢弾尽き天地染めて散るとても魂還り魂還りつつ皇国護らん――牛島満の[[辞世の句]]}} | image1 = Mitsuru_Ushijima.jpg | width1 = 110 | alt1 = 牛島満 | image2 = Cho_Isamu.jpg | width2 = 90 | alt2 = 長勇 }} --> {{listen|filename=Modest Mussorgsky - night on bald mountain.ogg|title=ムソルグスキー『禿山の一夜』(1886)|description=Courtesy of Musopen}} * [[慰霊の日]]({{JPN}} [[沖縄県]]) *: [[1945年]]6月23日に[[沖縄戦]]における組織的な戦闘が終結したことから。 * {{仮リンク|国連パブリック・サービス・デー|en|United Nations Public Service Awards}}({{World}}) *: [[国際デー]]の一つ。[[2002年]]の国連総会で制定。国連加盟各国に対し、この日には[[公共サービス]]が開発に果たす役割を周知するよう求めている。 * {{仮リンク|大公誕生日|en|Grand Duke's Official Birthday}}({{LUX}}) *: ルクセンブルクの国家元首である[[ルクセンブルク大公]]の誕生日を公式に祝う日。大公[[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ]]の実際の誕生日は[[4月16日]]であるが、誕生日の祝日は6月23日になっている。 * 戦勝記念日({{EST}}) *: 1919年のこの日、エストニア独立戦争でエストニア軍が[[バルト連合公国]]軍に勝利したことを記念。 * オリンピックデー *: [[1894年]]6月23日に[[国際オリンピック委員会]]が設立されたことに由来。 * [[禿山の一夜]]({{RUS}}の民話) *: 禿山に地霊チェルノボグが現れ、手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去る。[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]の[[交響詩]]で名高い。 * [[父の日]]({{POL}}、{{NIC}}) {{Clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0623|date=2011年6月}} * 1967年(昭和42年)- 磯川[[警部]]が[[倉敷]]の[[金田一耕助]]の宿を訪れる。(小説『[[悪霊島]]』第2章) * 年不明(作品内での6年前) - [[UPI通信社]]が藤崎ら自衛隊青年将校のクーデター計画「ブループラン」の発覚を報じる。(映画『[[皇帝のいない八月#映画|皇帝のいない八月]]』) * [[24世紀|2357年]] - ジェネシス・ミッション。(アニメ『[[宇宙のステルヴィア]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[2001年]] - [[擬宝珠蜜柑]]、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=|こち亀年表|2001年 6月23日出産予定通りに擬宝珠蜜柑誕生 |url=http://www.j-kochikame.com/special/history/photo_mikanbirth/ |website=こち亀.com |access-date=2023-01-18 |publisher=[[集英社]] こちら葛飾区亀有公園前派出所公式サイト}}</ref> * 2171年 - 銀朔夜、ゲーム・漫画『[[はーとふる彼氏]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=はーとふる彼氏 公式ファンブック|publisher=[[一迅社]]|date=2012-10-05|isbn=978-4-7580-1280-5}}</ref> * 生年不明 - [[ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]、ゲーム『[[ソニックシリーズ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|sonicofficialjp|745632725902594048}}</ref> * 生年不明 - [[三杉淳]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year=2003|title=キャプテン翼 3109日全記録|publisher=集英社|isbn=4-08-782789-5|page=42}}</ref> * 生年不明 - ケビン・イエーガー、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author= 星野桂|authorlink=星野桂 |year = 2008 |title = D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page = 55 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874248-9 }}</ref> * 生年不明 - 田中千春、漫画・アニメ『[[ラブ★コン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/lovecom/characters.html |title=登場人物 田中 千春 |publisher=[[TBSテレビ|TBS]]・集英社・[[東映アニメーション]] |accessdate=2023-01-18 |work=『ラブ★コン』}}</ref> * 生年不明 - 中川夏紀、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_eupho|1539805450723418112}}</ref> * 生年不明 - 本条笑、ゲーム『[[トゥルー・ラブストーリー|トゥルー・ラブストーリー3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.enterbrain.co.jp/game_site/tls/tls_series/tls3/chara/09_emi.htm |title= TLS公式サイト □夏ドキッ!放課後通信□ |publisher= [[アスキー (企業)|アスキー]]・[[エンターブレイン]] |accessdate=2023-01-18|archiveurl= https://web.archive.org/web/20050407010129/http://www.enterbrain.co.jp/game_site/tls/tls_series/tls3/chara/09_emi.htm |archivedate=2005-04-07}}{{出典無効|date=2023-01-18}}</ref> * 生年不明 - ゴルドー、ゲーム『[[UNDER NIGHT IN-BIRTH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://inbirth.info/chr_gor.html |title=ゴルドー |publisher=[[エコールソフトウェア]]・[[フランスパン (同人サークル)|フランスパン]] |accessdate=2023-01-18 |work=『UNDER NIGHT IN-BIRTH』}}</ref> * 生年不明 - 神凪文、ゲーム『[[私立アキハバラ学園]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://frontwing.jp/product/akigaku/chara_aya.html |title=神凪文 |publisher=[[フロントウイング|Frontwing]] |accessdate=2023-01-18 |work=『私立アキハバラ学園』}}</ref> * 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#秋月 律子(あきづき りつこ)|秋月律子]]、ゲーム『[[THE IDOLM@STER]]』・アニメ『[[アイドルマスター XENOGLOSSIA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/10001 |title=秋月 律子(あきづき りつこ) |access-date=2023-01-18 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=2010-11|journal=[[電撃G's magazine]]|page=108|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sunrise-inc.co.jp/idolmaster/chara/#06 |title=秋月律子 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]・[[バンダイビジュアル]] |accessdate=2023-01-18 |work=『アイドルマスター XENOGLOSSIA』}}</ref> * 生年不明 - 西明寺美湖、ゲーム『[[Piaキャロットへようこそ!!G.O. 〜グランド・オープン〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://fandc.co.jp/pia/characters10.html#rightside |title=西明寺 美湖 |publisher=[[カクテル・ソフト]]・[[フランスパン (同人サークル)|フランスパン]] |accessdate=2023-01-18 |work=『Piaキャロットへようこそ!!G.O.SE』}}</ref> * 生年不明 - 天条院柚菜、ゲーム『[[いちゃぷり! 〜お嬢さまとイチャラブえっちな毎日〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.moon-stone.jp/product/ms09/character.html#yuzuna |title=天条院 柚菜 |publisher=[[MOONSTONE]] |accessdate=2023-01-18 |work=『いちゃぷり!』}}</ref> * 生年不明 - 新居浜ありす、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1010334121565048832}}</ref> * 生年不明 - 藤目(フジメ)、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=132&cate=name&cont=Fujime |title=藤目(フジメ) |access-date=2023-01-18 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 二階堂ゆず、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |editor=バンダイナムコピクチャーズ |title=アイカツスターズ!アイドル名かん(テレビ超ひゃっか ぷっちぐみ |publisher=小学館 |year=2016 |pages=26-27 |isbn=978-4-09-750418-4}}</ref> * 生年不明 - ニッキー、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://kings-raid.com/characters/#character-185 |title=ニッキー|publisher= 【公式】キングスレイド|超本格リアルタイム3DバトルRPG |accessdate=2023-01-18|archiveurl= https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=185|archivedate=2022-07-24}}</ref> * 生年不明 - 葵、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/tokohana/aoi/ |title=葵 |access-date=2023-01-18 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> * 生年不明 - 九条むつみ、メディアミックス『[[舞-HiME]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/maihime_pc/character/chara_mutsumi.html |title=九条むつみ |access-date=2023-01-18 |publisher=[[サンライズ]] [[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『舞-HiME』}}</ref> <!-- * 1906年 - ラチェット・アルタイル、ゲーム『[[サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜]]』に登場するキャラクター * 1967年 - イタハシ・ミツオ、特撮『[[ウルトラマンティガ]]』に登場するキャラクター * 1978年 - 吉田幸司、漫画・アニメ『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター * 1986年 - 本条勝、特撮『[[仮面ライダー電王]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ディアーナ・エル・サークリッド、ゲーム『[[ファンタスティックフォーチュン]]』の主人公のひとり * 生年不明 - 田ボ、漫画・アニメ『[[ボボボーボ・ボーボボ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 猫湖檜、漫画『[[Mr.FULLSWING]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 藍澤渚、漫画『[[実は私は]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 有馬葉桐、ゲーム『[[月陽炎]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - アイオーン・カルコス(リザードマン)、ゲーム、『[[ソウルシリーズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 白石果鈴、ゲーム・アニメ『[[北へ。|北へ。〜Diamond Dust〜]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - スヴェン=ボルフィード、漫画・アニメ『[[BLACK CAT]]』に登場するキャラクター --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons|Category:23 June}} {{新暦365日|6|22|6|24|[[5月23日]]|[[7月23日]]|[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]|0623|6|23}} {{1年の月と日}}
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5,100
6月24日
6月24日(ろくがつにじゅうよっか、ろくがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から175日目(閏年では176日目)にあたり、年末まであと190日ある。
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{{カレンダー 6月}} '''6月24日'''(ろくがつにじゅうよっか、ろくがつにじゅうよんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から175日目([[閏年]]では176日目)にあたり、年末まであと190日ある。 == できごと == [[Image:BattleofSluys.jpeg|thumb|[[スロイスの海戦]](1340)|180x180ピクセル]] [[Image:The_Siege_and_Relief_of_Gibraltar_(2).jpg|thumb|[[アメリカ独立戦争]]、[[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル包囲戦]]はじまる(1779)。画像は9月の様子|180x180ピクセル]] [[Image:Napol%C3%A9on_III_%C3%A0_la_bataille_de_Solf%C3%A9rino..jpg|thumb|[[イタリア統一戦争]]、[[ソルフェリーノの戦い]](1859)|180x180ピクセル]] {{multiple image | footer = [[ソルフェリーノの戦い]](1859)を契機に[[アンリ・デュナン]](左画像)が[[赤十字社|赤十字]]活動を開始。右画像は記念碑. | image1 = Henry_Dunant-young.jpg | width1 = 70 | alt1 = アンリ・デュナン | image2 = Red_Cross_Memorial_in_Solferino.jpg | width2 = 110 | alt2 = 記念碑 }} [[Image:Custozza1866.jpg|thumb|[[普墺戦争]]、{{仮リンク|クストーツァの戦い (1866年)|en|Battle of Custoza (1866)|label=クストーツァの戦い}}(1866)|180x180ピクセル]] {{multiple image | caption1 = シャムの[[立憲革命 (タイ)|立憲革命]](1932) | image1 =%E0%B8%A5%E0%B8%B2%E0%B8%99%E0%B8%9E%E0%B8%A3%E0%B8%B0%E0%B8%9A%E0%B8%A3%E0%B8%A1%E0%B8%A3%E0%B8%B9%E0%B8%9B%E0%B8%97%E0%B8%A3%E0%B8%87%E0%B8%A1%E0%B9%89%E0%B8%B2_24-6-2475_.jpg | width1 = 90 | alt1 = シャムの立憲革命 | caption2 = [[ベルリン封鎖]]はじまる(1948) | image2 = Germans-airlift-1948.jpg | width2 = 90 | alt2 = ベルリン封鎖 }} {{multiple image | caption1 = 反戦デモによる[[吹田事件]](1952) | image1 = Suita_Incident.jpg | width1 = 70 | alt1 = 吹田事件 | caption2 = [[1994年のフェアチャイルド空軍基地でのB-52機の墜落事故|フェアチャイルド空軍基地でのB-52墜落事故(1994)]] | image2 = FairchildB52Crash.jpg | width2 = 110 | alt2 = 墜落するB-52 }} * [[79年]] - 前日に死去したローマ皇帝[[ウェスパシアヌス]]の息子[[ティトゥス]]がローマ皇帝に即位。 * [[109年]] - [[古代ローマ]]、第13代皇帝[[トラヤヌス]]が[[トライアーナ水道]]を完成させる。 * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[久米川の戦い]]。[[新田義貞]]軍が[[武蔵国]]久米川で[[鎌倉幕府]]の軍勢を破る。 * [[1340年]] - [[スロイスの海戦]]。英海軍が仏海軍を破り、[[ドーバー海峡]]の制海権を握る。 * [[1348年]] - [[イングランド]]の[[ドーセット]]地方に[[ペスト]]が上陸。 * [[1401年]]([[応永]]8年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[日明貿易]]: [[足利義満]]が最初の[[遣明使]]を派遣。 * [[1497年]] - [[ジョン・カボット]]が[[ヴァイキング]]以降ヨーロッパ人で初めて[[北アメリカ大陸]]に到達。 * [[1509年]] - イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が戴冠。 * [[1534年]] - [[ジャック・カルティエ]]がヨーロッパ人として初めて[[プリンス・エドワード島]]を発見。 * [[1535年]] - [[ミュンスターの反乱]]: [[アナバプテスト|再洗礼派]]の都市[[ミュンスター]]が帝国諸侯軍により陥落。 * [[1571年]] - [[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]が[[マニラ]]に市役所を設置。 * [[1605年]]([[慶長]]10年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[織田秀信]]が[[高野山]]から追放される。 * [[1597年]] - 東インドへの航海に向かった[[オランダ]]船が[[ジャワ島]]の{{仮リンク|バンテン (インドネシア)|en|Banten (town)|label=バンテン}}に到達。 * [[1662年]] - [[オランダ]]が[[マカオ]]の獲得に失敗する。 * [[1664年]] - [[ニュージャージー州|ニュージャージー]]植民地設立。 * [[1779年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ジブラルタル包囲戦 (1779年-1783年)|ジブラルタル包囲戦]]が始まる。 * [[1793年]] - [[フランス革命]]: [[フランス]]で共和政初となる[[1793年憲法]](ジャコバン憲法)が採択される。 * [[1813年]] - [[米英戦争]]: [[ビーバー・ダムズの戦い]]。 * [[1821年]] - [[ベネズエラ独立戦争]]: {{仮リンク|カラボボの戦い (1821年)|en|Battle of Carabobo}}。[[シモン・ボリバル]]率いる革命軍が[[スペイン]]軍に勝利し、[[ベネズエラ]]独立が決定。 * [[1839年]]([[天保]]10年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[蛮社の獄]]。[[渡辺崋山]]や[[高野長英]]らが逮捕される。 * [[1859年]] - [[イタリア統一戦争]]: [[ソルフェリーノの戦い]]。[[アンリ・デュナン]]が戦場の惨状に衝撃を受け、後の[[赤十字社|赤十字]]活動につながる。 * [[1866年]] - [[普墺戦争]]: クストーツァの戦い。 * [[1880年]] - 後に[[カナダ]]の[[国歌]]となる『[[オー・カナダ]]』が初めて歌われる。 * [[1885年]] - [[坪内逍遥]]の小説『[[当世書生気質]]』が刊行。 * [[1894年]] - [[国際オリンピック委員会]](IOC)が[[近代オリンピック|オリンピック]]の開催周期を4年とすることに決定。 * 1894年 - [[フランスの大統領|フランス大統領]][[マリー・フランソワ・サディ・カルノー]]が{{仮リンク|サディ・カルノー暗殺事件|fr|Assassinat de Sadi Carnot|label=暗殺}}される。 * [[1910年]] - [[日本]]政府が[[大韓帝国|韓国]]の警察権を剥奪。 * [[1913年]] - [[第二次バルカン戦争]]: [[ギリシャ]]と[[セルビア]]が[[ブルガリア]]との同盟を破棄。 * [[1922年]] - ドイツ外相の[[ヴァルター・ラーテナウ]]が極右[[テロリズム|テロ]]組織により暗殺される。 * 1922年 - アメリカのプロ[[アメリカンフットボール|フットボール]]リーグ American Professional Football Association (APFA) が [[NFL|National Football League]]に名称を変更<ref>{{Cite web |url=https://www.profootballhof.com/football-history/football-history/1869-1939/1922/ |title=1922 - American Professional Football Association Changes Name to National Football League |access-date=1 Apr 2023 |publisher=FOOTBALL HALL OF FAME}}</ref>。 * [[1927年]] - [[新潟県]][[大河津分水]]の[[堰#可動堰|可動堰]]が決壊。[[新潟市]]など[[信濃川]]下流一帯が数年間にわたり水不足に陥る。 * [[1932年]] - シャム(現在の[[タイ王国|タイ]])で人民党及び軍部による[[立憲革命 (タイ)|立憲革命]]。 * [[1939年]] - 第3代首相[[プレーク・ピブーンソンクラーム]]により、サヤーム(シャム)からタイに国号を変更。 * [[1940年]] - [[フランス]]と[[イタリア]]が休戦協定を締結。 * [[1941年]] - [[ナチス・ドイツ]]軍がビルニュス、ブレスト=リトフスク、[[カウナス]]を占領。 * [[1942年]] - ナチス・ドイツが[[ラインハルト・ハイドリヒ]]暗殺の報復として[[チェコ]]の[[レジャーキ]]で住民を虐殺。 * [[1947年]] - [[ケネス・アーノルド事件]]: アメリカの実業家[[ケネス・アーノルド]]が自家用機を操縦中に[[空飛ぶ円盤]]を目撃。 * [[1948年]] - [[ベルリン封鎖]]始まる。[[ソビエト連邦|ソ連]]が西[[ベルリン]]への通行を禁止。 * [[1949年]] - アメリカ[[NBC]]テレビで、初のテレビ[[西部劇]]『[[ホパロング・キャシディ]]』が放送開始。 * 1949年 - 改正[[母体保護法|優生保護法]]公布<ref>{{Cite web|和書|url=https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000041613&current=-1 |title=優生保護法の一部を改正する法律 |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref>。[[人工妊娠中絶]]の対象範囲が拡大された<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11233894_po_081602.pdf?contentNo=1 |title=旧優生保護法の歴史と問題 ―強制不妊手術問題を中心として― |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[国立国会図書館]] |page=7(6/25) |work=レファレンス 816号 2019.1 |format=[[PDF]]}}</ref>。 * 1949年 - [[昭和電工]]川崎工場で爆発事故。死者17人、重軽傷者50余人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=72|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1950年]] - [[1950 FIFAワールドカップ|第4回サッカー・ワールドカップ]]開催。[[7月16日]]まで。 * [[1952年]] - [[吹田事件]]・[[枚方事件]]。 * [[1954年]] - 日本がアジア極東経済委員会(ECAFE〈Economic Commission for Asia and the Far East〉、現在の[[アジア太平洋経済社会委員会]]〈ESCAP〉)に加盟<ref>{{Cite web |url=https://tind-customer-undl.s3.amazonaws.com/7651df49-e681-464a-9d3c-6657fb9a4711?response-content-disposition=attachment%3B%20filename%2A%3DUTF-8%27%27E_2712%2526E_CN-11_407-EN.pdf&response-content-type=application%2Fpdf&X-Amz-Algorithm=AWS4-HMAC-SHA256&X-Amz-Expires=86400&X-Amz-Credential=AKIAXL7W7Q3XFWDGQKBB%2F20230401%2Feu-west-1%2Fs3%2Faws4_request&X-Amz-SignedHeaders=host&X-Amz-Date=20230401T090148Z&X-Amz-Signature=01d46b46728ad1866927c6ffa13886a3149a042fe793edd296a2ed30d31920eb |title=ECONOMIC COMMISSION FOR ASIA AND THE FAR EAST |access-date=1 Apr 2023 |publisher=United Nations |format=[[PDF]] |page=1(3/49)}}</ref>。 * [[1963年]] - [[ザンジバル]]の自主政府が[[イギリス]]により[[国家の承認|承認]]される。 * [[1970年]] - [[八幡製鉄事件]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁]][[大法廷]]判決。 * [[1982年]] - [[ブリティッシュ・エアウェイズ9便エンジン故障事故]]。 * [[1983年]] - [[パレスチナ解放機構|PLO]]議長[[ヤーセル・アラファート]]が[[ダマスカス]]から追放される。 * [[1985年]] - [[三郷浄水場]]通水。 * [[1991年]] - [[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]設立。 * [[1992年]] - [[イスラエル]]総選挙で15年ぶりに左派勢力圧勝。 * [[1994年]] - [[1994年のフェアチャイルド空軍基地でのB-52機の墜落事故|フェアチャイルド空軍基地でアメリカ空軍のB-52が墜落]]。搭乗者4名全員が死亡した<ref>{{Cite web |url=https://www.airforcetimes.com/news/your-air-force/2015/01/20/michael-bay-film-angers-families-of-b-52-crash-victims/ |title=Michael Bay film angers families of B-52 crash victims |access-date=1 April 2023 |publisher=Air Force Times |date=20 Jan 2015}}</ref>。 * [[2001年]] - [[京福電気鉄道越前本線列車衝突事故]]([[勝山市]])。前年の[[12月17日]]に起こった事故に引き続いて2回目となり、翌日から京福電鉄の福井地区全線で運行中止。 * [[2016年]] - 前日に行われた[[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票]]で、[[欧州連合]] (EU) 離脱支持票が[[過半数]]を上回り、[[デーヴィッド・キャメロン]]首相が辞意を表明<ref>{{Cite web|和書|date=25 Jun 2016 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM24H8L_U6A620C1FF1000/ |title=英のEU離脱派、悲願達成に喝采 優位の残留派は暗転 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=1 Apr 2023}}</ref>。 * [[2019年]] - [[スイス]]の[[ローザンヌ]]で開催された第134次[[国際オリンピック委員会総会|IOC総会]]にて、[[2026年]][[冬季オリンピック]]の開催地が[[イタリア]]の[[ミラノ県|ミラノ]]と[[コルティーナ・ダンペッツォ|コルティナ・ダンペッツォ]]に決定<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/ja/news/2026年冬季五輪はミラノとコルティナタンヘッツォて開催-決定の瞬間会場はイタリアコ-ル |title=2026年冬季五輪はミラノとコルティナダンペッツォで開催。決定の瞬間会場はイタリアコール |access-date=1 Apr 2023 |publisher=国際オリンピック委員会 |date=27 Jun 2019}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == {{multiple image | caption1 = 発明家[[アルプレヒト・ベルブリンガー]](1770-1829)誕生 | image1 = Gleiter_von_Ulm.jpg | width1 = 90 | alt1 = アルプレヒト・ベルブリンガー | caption2 = 歴史画家[[ヤン・マテイコ]](1838-1893)誕生。画像は『スタンチクとガムラト』(1873-78) | image2 = Matejko-Gamrat_i_Sta%C5%84czyk.jpg | width2 = 90 | alt2 = ヤン・マテイコ }} {{multiple image | caption1 = 作家[[アンブローズ・ビアス]](1842-1914) | image1 = Ambrose_Bierce.jpg | width1 = 90 | alt1 = アンブローズ・ビアス | caption2 = [[象徴主義]]の画家[[ヒューゴ・シンベリ]](1873-1917)誕生。画像は『傷ついた天使』(1903) | image2 = The_Wounded_Angel_-_Hugo_Simberg.jpg | width2 = 90 | alt2 = ヒューゴ・シンベリ }} {{multiple image | caption1 = ボクサー「マナッサの巨人殺し」[[ジャック・デンプシー]](1895-1983) | image1 = Jack_Dempsey_1.jpg | width1 = 90 | alt1 = ジャック・デンプシー | caption2 = チェロ奏者[[ピエール・フルニエ]](1906-1986) | image2 = Pierre_Fournier.jpg | width2 = 90 | alt2 = ピエール・フルニエ }} {{multiple image | caption1 = [[プロ野球]]選手[[与那嶺要]](1925-2011)。[[野球殿堂 (日本)|日本の野球殿堂]]入りを果たした唯一のアメリカ人選手。 | image1 = Wally_Yonamine_1951_cropped.jpg | width1 = 90 | alt1 = 与那嶺要 | caption2 = 哲学者[[ジュリア・クリステヴァ]](1941-) | image2 = Julia_Kristeva_%C3%A0_Paris_en_2008.jpg | width2 = 90 | alt2 = ジュリア・クリステヴァ }} {{multiple image | caption1 = ギタリスト[[ジェフ・ベック]](1944-2023) | image1 = Jeff_Beck.jpg | width1 = 90 | alt1 = ジェフ・ベック | caption2 = 日系人初の宇宙飛行士[[エリソン・オニヅカ]](1946-1986) | image2 = Ellison_Shoji_Onizuka_%28NASA%29.jpg | width2 = 90 | alt2 = エリソン・オニヅカ }} * [[1519年]] - [[テオドール・ド・ベーズ]]、[[神学者]](+ [[1605年]]) * [[1599年]]([[慶長]]4年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]])- [[近衛信尋]]、[[江戸時代]]初期の[[公卿]](+ [[1649年]]) * [[1664年]] - [[フランソワ・プルフール・デュ・プチ]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[医者]](+ [[1741年]]) * [[1750年]] - [[デオダ・ドゥ・ドロミュー]]、[[地質学|地質学者]]、[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[1801年]]) * [[1777年]] - [[ジョン・ロス (北極探検家)|ジョン・ロス]]、[[探検家]](+ [[1856年]]) * [[1783年]] - [[アルプレヒト・ベルブリンガー]]、[[発明家]]、航空研究家(+ [[1829年]]) * 1783年 - [[ヨハン・ハインリヒ・フォン・チューネン]]、[[経済学者]](+ [[1850年]]) * [[1793年]]([[寛政]]5年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[山内豊興]]、第11代[[土佐藩|土佐藩主]](+ [[1809年]]) * [[1795年]] - [[エルンスト・ヴェーバー]]、[[生理学者]]、解剖学者(+ [[1878年]]) * [[1832年]]([[天保]]3年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - [[中村正直]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]](+ [[1891年]]) * [[1838年]] - [[ヤン・マテイコ]]、[[画家]](+ [[1893年]]) * [[1840年]] - [[ルイ・ブラッサン]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1884年]]) * [[1842年]] - [[アンブローズ・ビアス]]、作家(+ [[1914年]]〈推測〉) * [[1850年]]([[嘉永]]3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[馬場辰猪]]、[[自由民権運動]]の政論家(+ [[1888年]]) * [[1873年]] - [[ヒューゴ・シンベリ]]、画家(+ [[1917年]]) * [[1874年]] - [[本因坊秀哉]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[1940年]]) * [[1878年]] - [[木見金治郎]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](+ [[1951年]]) * [[1880年]] - [[オズワルド・ヴェブレン]]、[[数学者]](+ [[1960年]]) * [[1883年]] - [[ジャン・メッツァンジェ]]、画家(+ [[1956年]]) * [[1890年]] - [[三上英夫]]、官僚、実業家(+[[1982年]]) * [[1895年]] - [[ジャック・デンプシー]]、[[プロボクサー]](+ [[1983年]]) * [[1904年]] - フィル・ハリス([[:en:Phil Harris|Phil Harris]])、歌手(+ [[1995年]]) * 1904年 - [[谷口吉郎]]、[[建築家]](+ [[1979年]]) * [[1906年]] - [[ピエール・フルニエ]]、[[チェリスト|チェロ奏者]](+ [[1986年]]) * [[1907年]] - [[靉光]]、[[洋画家]](+ [[1946年]]) * [[1909年]] - [[秋田貞夫]]、[[実業家|出版実業家]]、[[秋田書店]]創立者(+ [[1996年]]) * [[1910年]] - [[千葉泰樹]]、[[映画監督]](+ [[1985年]]) * [[1911年]] - [[ファン・マヌエル・ファンジオ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(+ [[1995年]]) * [[1913年]] - [[永田武]]、[[地球化学者]](+ [[1991年]]) * [[1915年]] - [[バスター・アダムズ]]、[[野球選手]](+ [[1990年]]) * [[1919年]] - [[中村覚之助 (競馬)|中村覚之助]]、[[調教師]](+ [[2009年]]) * [[1925年]] - [[与那嶺要]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](+ [[2011年]]) * 1925年 - [[筒井敬三]]、元プロ野球選手(+ [[1959年]]) * 1925年 - [[鴇田正憲]]、元サッカー選手(+[[2004年]]) * [[1930年]] - [[クロード・シャブロル]]、映画監督(+ [[2010年]]) * 1930年 - [[香川秀光]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[今泉喜一郎]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[ヴィットリオ・ストラーロ]]、映画カメラマン * 1940年 - [[加賀美幸子]]、[[アナウンサー]] * 1940年 - [[野崎靖博]]、[[ジャーナリスト]] * 1940年 - [[倉島今朝徳]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * [[1941年]] - [[ジュリア・クリステヴァ]]、[[文学理論|文学理論家]] * [[1942年]] - [[赤岡功]]、[[経営学者]] * [[1943年]] - [[後藤竜二]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2010年]]) * 1943年 - [[中井悦雄]]、元プロ野球選手(+ [[1979年]]) * [[1944年]] - [[ジェフ・ベック]]、[[ギタリスト]](+ [[2023年]]) * 1944年 - [[菅原功一]]、政治家、第13-15代[[旭川市]]長 * 1944年 - [[藤本英男]]、元レスリング選手 * [[1945年]] - [[西田健]]、[[俳優]] * [[1946年]] - [[エリソン・オニヅカ]]、[[宇宙飛行士]](+ [[1986年]]) * [[1947年]] - [[上甲正典]]、[[高校野球]]指導者(+ [[2014年]]) * 1947年 - [[川崎義通]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[中条博]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[三井三太郎]]、芸能リポーター、タレント * [[1950年]] - [[ナンシー・アレン]]、[[俳優|女優]] * 1950年 - [[西浦秋夫]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[大島郁将]]、元プロ野球選手 * [[1952年]] - [[パルト小石]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[2021年]]) * [[1953年]] - [[康珍化]]、[[作詞家]] * [[1955年]] - [[藤岡貞明]]、元プロ野球選手 * 1955年 - [[清滝信宏]]、経済学者 * [[1956年]] - [[ジョージ・ブコビッチ]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[塩屋翼]]、[[声優]] * 1958年 - [[タイニー・リスター・Jr.]]、俳優、[[プロレスラー]](+ [[2020年]]) * [[1959年]] - [[エフゲーニ・ザラフィアンツ]]、[[ピアニスト]] * [[1960年]] - [[岡野玲子]]、[[漫画家]] * 1960年 - [[犬童一心]]、映画監督 * 1960年 - [[神長英一]]、アマチュア野球指導者 * [[1961年]] - [[井上由美子 (脚本家)|井上由美子]]、[[脚本家]] * 1961年 - [[清水圭]]、実業家、元[[タレント]] * 1961年 - [[ナタリア・シャポシュニコワ]]、体操選手 * 1961年 - [[レベッカ・ソルニット]]、女流作家 * 1961年 - [[カート・スミス]]、ミュージシャン([[ティアーズ・フォー・フィアーズ]]) * [[1962年]] - [[六角精児]]、俳優 * [[1963年]] - [[バーバラ・アンダーヒル]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1963年 - [[山原義人]]、漫画家 * [[1964年]] - [[野々村真]]、タレント * 1964年 - [[高橋昭一]]、政治家、メディアプランナー * 1964年 - [[陸奥北海勝昭]]、元大相撲力士 * [[1965年]] - [[八木亜希子]]、アナウンサー * 1965年 - [[椎名高志]]<ref>{{Cite web |url=https://natalie.mu/comic/artist/2272 |title=椎名高志 |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナターシャ]] |work=コミックナタリー}}</ref>、漫画家 * [[1966年]] - [[山口重幸]]、元プロ野球選手 * 1966年 - [[エイドリアン・シェリー]]、女優、[[映画監督]]、[[脚本家]](+ [[2006年]]) * [[1967年]] - [[くぼたまこと]]、漫画家 * [[1968年]] - [[安井まみ子]]、アナウンサー * [[1969年]] - [[中井広恵]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]] * 1969年 - [[シセル]]、歌手 * [[1970年]] - [[岩永哲哉]]、声優 * [[1971年]] - [[野口寿浩]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[ロビー・マキュアン]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * [[1973年]] - [[お宮の松 (お笑い芸人)|お宮の松]]、タレント * 1973年 - [[トッド・ベッツ]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[ケビン・ホッジス]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[春香]]、[[ファッションモデル]] * 1975年 - [[高橋冬樹]]、元プロレスラー * [[1976年]] - [[大塚由美]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[ラジオパーソナリティ]] * 1976年 - [[高橋薫]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[三遊亭歌橘]]、[[落語家]] * [[1978年]] - [[中村俊輔]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/world-j/wj_nakamura_p.html |title=中村俊輔:セルティック(スコットランドリーグ) |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]]}}</ref>、[[サッカー選手]] * 1978年 - [[フアン・ロマン・リケルメ]]、元サッカー選手 * 1978年 - [[ルイス・ハビエル・ガルシア・サンス]]、元サッカー選手 * 1978年 - [[エンプ・ヴオリネン]]、[[ギタリスト]] * [[1979年]] - [[清水清人]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[住吉ちほ]]、女優 * [[1980年]] - [[中山功太]]、[[お笑いタレント]] * 1980年 - [[恩田祐一]]、スキー選手 * 1980年 - [[ファン・デレオン]]、プロ野球選手 * [[1982年]] - [[伊織]]、元[[グラビアアイドル]] * 1982年 - [[阿久津主税]]、将棋棋士 * 1982年 - [[郭焱]]、[[卓球]]選手 * [[1983年]] - 秋山賢太、お笑いタレント([[アキナ (お笑いコンビ)|アキナ]]) * 1983年 - [[ソフィア・ムラノビッチ]]、[[サーファー]] * [[1984年]] - [[スチュアート・ブロード]]、[[クリケット]]選手 * 1984年 - [[J.J.レディック]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1985年]] - [[浜口順子]]、タレント * 1985年 - [[白川ゆきな]]、グラビアアイドル * 1985年 - [[高崎健太郎]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[田川惠理|瑛莉]]、タレント * 1985年 - [[北神朋美]]、元タレント * 1985年 - [[アユミカトリーナ]]、ファッションモデル * 1985年 - 斎藤宏介、ミュージシャン([[UNISON SQUARE GARDEN]]) * 1985年 - [[森倫太郎]]、元プロ野球選手 * [[1986年]] - [[松本啓二朗]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[佐藤実絵子]]、タレント、元アイドル(元[[SKE48]]) * 1986年 - [[フィル・ヒューズ]]、プロ野球選手 * 1986年 - [[ソランジュ]] 、歌手 * 1986年 - [[安藤寛明]]、サッカー選手 * [[1987年]] - [[リオネル・メッシ]]、サッカー選手 * 1987年 - [[大橋基史]]、サッカー選手 * 1987年 - [[フアン・フランシスコ]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[サム・フリーマン]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[池田夏希]]、タレント * 1987年 - [[LiSA]]、歌手 * [[1988年]] - [[緑川静香]]、タレント * 1988年 - [[小池翔大]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[マイカ・リチャーズ]]、サッカー選手 * 1988年 - [[ミチェレ・カントゥ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1989年]] - [[安部友裕]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[野村祐輔]]、プロ野球選手 * [[1989年]] - [[三浦修]]、元サッカー選手 * 1989年 - [[萬歳光恵]]、女優 * 1989年 - [[高谷恵倫]]、女優、元アナウンサー * 1989年 - [[南條有香]]、ファッションモデル * [[1990年]] - [[朝木智美]]、グラビアアイドル * 1990年 - [[リヒャルト・スクタ=パス]]、サッカー選手 * 1990年 - [[ケルヴィン・レールダム]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[山口百恵 (1991年生)|山口百恵]]、[[タレント]] * 1991年 - [[北原里英]]、[[アイドル]](元[[NGT48]]) * 1991年 - [[桑原由気]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=3944 |title=桑原 由気のアニメキャラ・最新情報まとめ |accessdate=1 Apr 2023 |publisher=animate Times}}</ref>、声優 * [[1992年]] - [[ダヴィド・アラバ]]、サッカー選手 * 1992年 - [[石野由加莉]]、元プロレスラー * 1992年 - [[鮫島晃太]]、サッカー選手 * 1992年 - [[真山れみ]]、元女優 * [[1993年]] - [[福田真依]]、女優 * [[1994年]] - [[遠藤ゆりか]]、元声優、元歌手 * [[1995年]] - [[峯田大夢]]、声優 * 1995年 - [[佐々木舞]]、タレント * 1995年 - [[杉浦佑成]]、バスケットボール選手 * [[1996年]] - [[多田修平]]、[[陸上競技選手]] * 1996年 - [[高橋汰地]]、ラグビー選手 * 1996年 - [[山邊未夢]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/606329/ |title=山邊未夢(東京女子流) |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、歌手([[東京女子流]]) * 1996年 - [[花岡なつみ]]、歌手 * [[1997年]] - 小山ひな、アイドル([[神宿]]) * 1997年 - [[裂固]]、ラッパー * [[1999年]] - 安田愛里、タレント、アイドル(元[[ラストアイドル]]) * 1999年 - [[紺野彩夏]]、タレント、ファッションモデル * 1999年 - [[飯田貴之]]、陸上選手 * 1999年 - [[ダルウィン・ヌニェス]]、サッカー選手 * [[2000年]] - [[沼田翔平]]、プロ野球選手 * 2000年 - [[アオイヤマダ]]、ダンサー、モデル * [[2001年]] - [[栗原舞優]]、アイドル([[虹のコンキスタドール]]予科生) * [[2002年]] - [[新嘉喜由芽]]、女優 * [[2003年]] - [[石川古都]]、女優、アイドル(元[[FAVO|FAVO♡]]) * 2003年 - [[阪口樂]]、プロ野球選手 * 2003年 - ソヌ、アイドル([[ENHYPEN]]) * [[2004年]] - 佐藤綺星、アイドル([[AKB48]]) * [[2008年]] - [[鎌田美礼]]、女流棋士 * 生年不明 - [[那須文恵]]、声優 == 忌日 == === 人物 === {{multiple image | footer = | caption1 = [[明]]の初代皇帝[[朱元璋]](1328-1398) | image1 = Zhu_Yuanzhang.png | width1 = 90 | alt1 = 朱元璋 | caption2 = ローマ教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の庶子[[ルクレツィア・ボルジア]](1480-1519) | image2 = Bartolomeo_Veneto_001.jpg | width2 = 90 | alt2 = ルクレツィア・ボルジア }} {{multiple image | footer = 建築家[[アンリ・ラブルースト]](1801-1875)没。右画像はサント・ジュヌヴィエーヴ図書館(1843) | image1 = Labroustehenri.jpg | width1 = 70 | alt1 = アンリ・ラブルースト | image2 = Biblioth%C3%A8que_St_Genevi%C3%A8ve_Paris.jpg | width2 = 110 | alt2 = サント・ジュヌヴィエーヴ図書館 }} {{multiple image | caption1 = [[フランス第三共和政]]第4代大統領[[マリー・フランソワ・サディ・カルノー]](1837-1894)暗殺 | image1 = Portrait officiel de Sadi Carnot.jpg | width1 = 90 | alt1 = マリー・フランソワ・サディ・カルノー | caption2 = ドイツの実業家・政治家[[ヴァルター・ラーテナウ]](1867-1922)暗殺 | image2 = Bundesarchiv_Bild_183-L40010%2C_Walter_Rathenau.jpg | width2 = 90 | alt2 = ヴァルター・ラーテナウ }} {{multiple image | caption1 = 「昭和の歌姫」歌手[[美空ひばり]](1937-1989) | image1 = Misora_hibari.jpg | width1 = 90 | alt1 = マリー・フランソワ・サディ・カルノー | caption2 = 経済学者[[レオニード・ハーヴィッツ]](1917-2008) | image2 = Leonid_Hurwicz.jpg | width2 = 90 | alt2 = レオニード・ハーヴィッツ }} * [[970年]]([[天禄]]元年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[藤原実頼]]、[[公卿]]、[[関白]](* [[900年]]) * [[1398年]]([[洪武]]31年[[閏]][[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[朱元璋]](洪武帝)、[[明]]の太祖(* [[1328年]]) * [[1407年]] - [[テオドロス1世パレオロゴス]]、[[モレアス専制公領|モレアス専制公]](* [[1355年]]) * [[1519年]] - [[ルクレツィア・ボルジア]]、[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|ローマ教皇アレクサンデル6世]]の娘(* [[1480年]]) * [[1520年]]([[永正]]17年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[細川澄元]]、[[武将]](* [[1489年]]) * [[1605年]]([[慶長]]10年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[織田秀信]]、[[織田信長]]の孫(* [[1580年]]) * [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[片桐且元]]、[[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]の1人(* [[1556年]]) * [[1637年]] - [[ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク]]、[[天文学者]](* [[1580年]]) * [[1798年]] - [[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]、[[南ネーデルラント|ネーデルラント]]総督、[[チェシン公国|テシェン女公]](* [[1742年]]) * [[1803年]] - [[マシュー・ソーントン]]、[[アメリカ独立宣言]]署名者(* [[1714年]]) * [[1815年]] - [[チャールズ・リー (司法長官)|チャールズ・リー]]、第3代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1758年]]) * [[1817年]] - [[トマス・マッキーン]]、[[連合会議]]議長、[[ペンシルベニア州知事]](* [[1734年]]) * [[1818年]] - [[アレクサンドル・クラーキン]]、[[ロシア帝国]]の枢密顧問官(* [[1752年]]) * [[1835年]]([[天保]]6年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[松平定通]]、第11代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1805年]]) * [[1850年]]([[嘉永]]3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[谷文二]]、[[日本画家]](* [[1812年]]) * [[1860年]] - [[ジェローム・ボナパルト]]、[[ヴェストファーレン王国|ヴェストファーレン王]](* [[1784年]]) * [[1875年]] - [[アンリ・ラブルースト]]、[[建築家]](* [[1801年]]) * [[1890年]] - [[日霑]]、[[僧|僧侶]](* [[1817年]]) * [[1894年]] - [[マリー・フランソワ・サディ・カルノー]]、[[フランス第三共和政]]第4代[[フランス大統領の一覧|大統領]](* [[1837年]]) * [[1908年]] - [[グロバー・クリーブランド]]、第22代・24代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1837年]]) * [[1922年]] - [[ヴァルター・ラーテナウ]]、[[ドイツ]]外相(* [[1867年]]) * [[1935年]] - [[カルロス・ガルデル]]、[[タンゴ]]歌手(* [[1890年]]?) * [[1940年]] - [[鈴木喜三郎]]、[[法務大臣|司法大臣]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](* [[1867年]]) * [[1950年]] - [[松方幸次郎]]、[[実業家]]、[[川崎造船所]]初代社長(* [[1866年]]) * 1950年 - [[松井房吉]]、実業家、松井商店(現在の[[松井証券]])創業者(* [[1871年]]) * [[1957年]] - [[フランティセック・クプカ]]、[[画家]](* 1871年) * [[1958年]] - [[三神吾朗]]、元[[プロ野球選手]](* [[1889年]]) * [[1966年]] - [[長谷川繁雄]]、元プロ野球選手(* [[1932年]]) * [[1969年]] - [[高野悦子 (大学生)|高野悦子]]、遺稿『[[二十歳の原点]]』で知られる[[立命館大学|立命館大生]](* [[1949年]]) * [[1976年]] - [[イモージン・カニンガム]]、[[写真家]](* [[1883年]]) * 1976年 - [[サミュエル・ドゥシュキン]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1891年]]) * [[1977年]] - [[森茂雄]]、元プロ野球選手(* [[1906年]]) * [[1980年]] - [[早川徳次 (シャープ)|早川徳次]]、早川電機工業(現:[[シャープ]])創業者(* [[1893年]]) * 1980年 - [[ボリス・カウフマン]]、[[撮影監督]](* [[1897年]]) * [[1982年]] - [[フローレンス・アンリ]]、写真家(* [[1893年]]) * [[1989年]] - [[美空ひばり]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://smbiz.asahi.com/article/14604810 |title=【6月24日は何の日】33年前、歌手の美空ひばりさんが死去 |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞]] |work=ツギノジダイ |date=24 Jun 2022}}</ref>、歌手(* [[1937年]]) * [[1990年]] - [[浜野清吾]]、政治家(* [[1898年]]) * [[1991年]] - [[京山幸枝若 (初代)]]、[[浪曲|浪曲師]](* [[1926年]]) * [[1993年]] - [[手銭弘喜]]、[[映画監督]](* [[1932年]]) * 1999年 - [[村下孝蔵]]、歌手、シンガーソングライター(* [[1953年]]) * 1999年 - [[別所毅彦]]、プロ野球選手、監督(* [[1922年]]) * [[2003年]] - [[名古屋章]]、[[俳優]](* [[1930年]]) * 2003年 - [[山根赤鬼]]、[[漫画家]](* [[1935年]]) * 2003年 - [[久保亘]]、[[政治家]](* [[1929年]]) * [[2004年]] - [[李在田]]、[[大韓民国|韓国]]の[[軍人]](* [[1926年]]) * [[2005年]] - [[潮錦義秋]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1924年]]) * [[2006年]] - [[川合伸旺]]、俳優、[[声優]](* [[1932年]]) * [[2007年]] - [[桶谷顕]]、[[脚本家]](* [[1959年]]) * 2007年 - [[クリス・ベノワ]]、[[プロレスラー]](* [[1967年]]) * [[2008年]] - [[永田禎彌]]、[[画家]](* [[1916年]]) * 2008年 - [[レオニード・ハーヴィッツ]]、[[経済学者]](* [[1917年]]) * 2008年 - [[森清 (愛媛県の政治家)|森清]]、政治家(* [[1925年]]) * 2008年 - [[土本典昭]]、[[映像作家]](* [[1928年]]) * [[2010年]] - [[エリース・ボールディング]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1920年]]) * [[2013年]] - [[エミリオ・コロンボ]]、政治家(* 1920年) * [[2014年]] - [[イーライ・ウォラック]]、[[俳優]](* [[1915年]]) * [[2017年]] - [[永射保]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/06/25/kiji/20170624s00001173449000c.html |title=永射保さん死去 “左殺し”先駆者、あのヒット曲のモデルに |access-date=1 Apr 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1953年]]) * [[2021年]] - [[ベニグノ・アキノ3世]]、政治家、第15代[[フィリピン共和国大統領]](* [[1960年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2012年]] - [[ロンサム・ジョージ]]、純粋な[[ピンタゾウガメ]]の最後の生き残り {{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Trevisani baptism christ.JPG|thumb|[[洗礼者ヨハネ|聖ヨハネ]]祭。画像は[[フランチェスコ・トレヴィザーニ]]画『キリストに洗礼を施すヨハネ』(1723)|237x237ピクセル]] [[Image:BatallaCarabobo01.JPG|thumb|{{仮リンク|カラボボの戦い (1821年)|en|Battle of Carabobo}}で反乱軍がスペイン軍に勝利し[[ベネズエラ]]の独立が決定。|180x180ピクセル]] [[Image:TriangleBelgium1990.jpg|thumb|[[未確認飛行物体|UFO]]記念日|180x180ピクセル]] * [[洗礼者ヨハネ|聖ヨハネ]]祭([[キリスト教]]) *: [[洗礼者ヨハネ|バプテスマのヨハネ]]の生誕祭。ヨハネは祭司ザカリヤとエリサベツの子としてイエス・キリストより6ヵ月早く生まれ([[ルカによる福音書|ルカの福音書]]1:5~36)、キリストに洗礼を施した([[マタイによる福音書|マタイの福音書]]3:13~16)。そのため、クリスマスが12月25日に定められると、彼の誕生日は6月24日の夏至の日になった。 ** {{仮リンク|聖ヨハネ祭 (エストニア)|en|St John's Day (Estonia)|label=聖ヨハネ祭}} (Jaanipäev)({{EST}}) ** {{仮リンク|聖ヨハネ祭 (ラトビア)|en|Jāņi|label=聖ヨハネ祭}} (Jāņi)({{LVA}}) ** [[ラーソース|聖ヨハネ祭]]({{LTU}}) * [[革命記念日]]({{THA}}) *: [[1932年]]のこの日の[[立憲革命 (タイ)|立憲革命]]を記念。 * カラボボ戦勝記念日({{VEN}}) *: [[1821年]]のこの日、[[ベネズエラ独立戦争]]・{{仮リンク|カラボボの戦い (1821年)|en|Battle of Carabobo}}で[[シモン・ボリバル]]率いる反乱軍がスペイン軍に勝利し、ベネズエラ独立が決定した。 * ドレミの日 *:[[1024年]]のこの日、イタリアの[[修道士]][[グイード・ダレッツォ]]が「ドレミファソラシ」を利用した[[音名・階名表記|階名唱法]]を考案した。 * 空飛ぶ円盤記念日・[[未確認飛行物体|UFO]]記念日({{World}}) *:[[1947年]]のこの日、アメリカの[[実業家]][[ケネス・アーノルド]]が[[ワシントン州]][[レーニア山]]付近で強い閃光を目撃([[ケネス・アーノルド事件]])。これが初の[[未確認飛行物体|UFO]]の目撃談とされている。 * UFOキャッチャーの日({{JPN}}) *: [[1985年]]から発売されているクレーンゲーム機「[[UFOキャッチャー]]」を国内外の多くの人に楽しんでもらおうと製造者の[[セガ・インタラクティブ]]が制定。日付は上記のUFO記念日から<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=211|isbn=978-4422021140 }}</ref>。 * 林檎忌・麦の日({{JPN}}) *: 歌手[[美空ひばり]]の忌日。ヒット曲「[[リンゴ追分]]」から「林檎忌」、「ひばり」という名前にちなみ、麦畑が鳥の[[ヒバリ]]の住処となることが多いことから「麦の日」と呼ばれている。 * 五月雨忌({{JPN}}) *: 歌手[[村下孝蔵]]の忌日。ヒット曲「[[初恋 (村下孝蔵の曲)|初恋]]」の歌詞と、五月雨([[梅雨]])の時期であることから「五月雨忌」と呼ばれる。 * 伊雑宮 御田植祭({{JPN}}) *: [[三重県]][[志摩市]]の[[伊雑宮]]に隣接する御神田で執り行われる[[伊雑宮#御田植式|御田植祭]]。毎年この日に行われ、「磯部の御神田(いそべのおみた)」の名で国の重要無形民俗文化財に登録されており、日本三大田植祭の一つとされている<ref>{{Cite web |url=https://www.iseshima-kanko.jp/spot/2238 |title=日本三大御田植祭 伊雑宮 御田植祭 |access-date=9 Nov 2023 |publisher=伊勢志摩観光ナビ}}</ref>。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0624|date=Apr 2023}} * [[16世紀]] - [[ニュルンベルク]]の河原にて歌合戦が開催。([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の[[オペラ#ヴァーグナー|楽劇]]『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1964年]] - [[ホア・ジャイ]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|snk_enter|878626761231056898}}</ref> * [[1980年]] - 横島忠夫、漫画・アニメ『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=GS美神 極楽大作戦!! |date=15 Nov 1997 |publisher=[[小学館]] |page=40 |volume=28 |isbn=4-09-125008-4 |author=[[椎名高志]]}}</ref> * [[1998年]] - 天田乾、ゲーム『[[ペルソナ3]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1539986644245291009}}</ref> * 生年不明 - [[ロック・ハワード]]、ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.garou15th.com/character/rock.php |title=ロック・ハワード |publisher=[[SNK (2001年設立の企業)|SNKプレイモア]] |accessdate=9 Nov 2023 |work=『餓狼伝説』}}</ref> * 生年不明 - カタリナ・クラエス、小説・アニメ『[[乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…]]』の主人公<ref>{{Twitter status|hamehura|1275443505066725386}}</ref> * 生年不明 - 茅森月歌、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/31a/kayamori-ruka/ |title=茅森月歌 |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=9 Nov 2023}}</ref> * 生年不明 - 蟹座のデスマスク、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=32 |title=蟹座(キャンサー)のデスマスク |access-date=9 Nov 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM聖闘士博物館}}</ref> * 生年不明 - 陸奥悠馬、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1539987910241517570}}</ref> * 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#雨野狭霧|雨野狭霧]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year = 2020 |title = ゆらぎ荘の幽奈さん |volume = 24巻 |page = 131 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-882496-3 }}</ref> * 生年不明 - 久場遙、漫画『[[ハリガネサービス|ハリガネサービスACE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ハリガネサービスACE|date=2019-10-15|publisher=[[秋田書店]]|page=192|author=荒達哉|isbn=978-4-253-22468-0|volume=4}}</ref> * 生年不明 - 鳥飼ひばり、漫画『[[犬神さんと猫山さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=くずしろ|authorlink=くずしろ|year=2013|title=犬神さんと猫山さん|volume=第2巻|page=77|publisher=[[一迅社]]|series=[[コミック百合姫#百合姫コミックス|百合姫コミックス]]|isbn=978-4-7580-7279-3}}</ref> * 生年不明 - 園田優、漫画・アニメ『[[桜Trick]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author = タチ |year = 2012 |title = 桜Trick |volume = 第1巻 |page = 2 |publisher = [[芳文社]] |series = [[まんがタイムきらら#まんがタイムKRコミックス|まんがタイムKRコミックス]] |isbn = 978-4-8322-4187-9 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |editor=まんがタイムきらら編集部|editor-link=まんがタイムきらら |year = 2014 |title = 桜Trick TVアニメ公式ガイドブック 〜ヒミツのシラバス〜 |page = 16 |publisher = [[芳文社]] |series = [[まんがタイムきらら#まんがタイムKRコミックス|まんがタイムKRコミックス]] |isbn = 978-4-8322-4438-2 }}</ref> * 生年不明 - 紺田ホウジ、漫画・アニメ『[[ベイブレードバースト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.beyblade-fc.com/posts/beybladeburst-chara/fopbut |title=紺田ホウジ |access-date=9 Nov 2023 |publisher=[[青木たかお]]・BB3プロジェクト・[[テレビ東京]] [[トミー (企業)|TOMY]] ROM SHARING |work=『BEYBLADE WORLD』}}</ref> * 生年不明 - 湯浅比呂美、アニメ『[[True tears (アニメ)|true tears]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=湯浅比呂美 |url=http://www.truetears.jp/character/chara_03.html |website=『true tears』 |access-date=9 Nov 2023 |publisher=true tears製作委員会}}</ref> * 生年不明 - [[北条沙都子]]、ゲーム・アニメ『[[ひぐらしのなく頃に]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|higu_anime|1407715068041699330}}</ref> * 生年不明 - 川田知子、ゲーム・アニメ『[[キミキス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kimikiss-pure-rouge.jp/chara_tomoko.html |title=川田知子 |publisher=[[エンターブレイン]]/ 「キミキス」製作委員会 |accessdate=9 Nov 2023 |work=『キミキス pure rouge』}}</ref> * 生年不明 - 東方天乙統女、キャラクターCD・ゲーム・アニメ『[[ヒプノシスマイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hypnosismic.com/character/others/otome_tohoten/ |title=東方天 乙統女 |access-date=9 Nov 2023 |publisher=[[キングレコード|King Record Co., Ltd.]] |work=『ヒプノシスマイク』}}</ref> * 生年不明 - 神代類、ゲーム『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://pjsekai.sega.jp/character/unite04/rui/index.html |title=神代 類 |access-date=9 Nov 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] / Colorful Palette Inc. / [[クリプトン・フューチャー・メディア|Crypton Future Media, INC.]] [[ピアプロ|piapro]] |work=『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 24|24 June}} {{新暦365日|6|23|6|25|[[5月24日]]|[[7月24日]]|[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]|0624|6|24}} {{1年の月と日}}
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6月25日
6月25日(ろくがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から176日目(閏年では177日目)にあたり、年末まであと189日ある。
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{{カレンダー 6月}} '''6月25日'''(ろくがつにじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から176日目([[閏年]]では177日目)にあたり、年末まであと189日ある。 == できごと == [[Image:Verlesung der Confessio Augustana.jpg|thumb|[[アウクスブルク信仰告白]]が[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に捧げられる(1530)]] [[Image:Coronationmariatheresiaaustria.jpg|thumb|upright|[[マリア・テレジア]]、ハンガリー王として戴冠(1741)]] [[Image:Fontenoy_en_puisaye.JPG|thumb|upright|[[フォントノワの戦い]](841)。[[フランク王国]]を分裂へと導いた]] [[Image:Custer_Massacre_At_Big_Horn%2C_Montana_June_25_1876.jpg|thumb|[[リトルビッグホーンの戦い]](1876)、[[ジョージ・アームストロング・カスター|カスター隊]]全滅]] [[Image:L%C3%A9on_Bakst_001.jpg|thumb|100px|[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の[[バレエ]]『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』初演(1910)]] [[Image:155mm-SPGs-north-of-seoul-195105.jpg|thumb|[[朝鮮戦争]]勃発(1950)。画像は1951年のもの]] * [[841年]] - [[フォントノワの戦い]]が行われる<ref>{{Cite web |url=https://www.oxfordreference.com/display/10.1093/oi/authority.20110803095826939;jsessionid=1C48C5839711D603AF6112FB5A96EA26 |title=OVERVIEW battle of Fontenay (Fontenoy) |access-date=2023-02-08 |publisher=Oxford Reference |language=en}}</ref>。 * [[1530年]] - [[アウクスブルク信仰告白]]が[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に捧げられる。[[ルター派]]の信条書の範に。 * [[1641年]]([[寛永]]18年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[江戸幕府]]が[[平戸]]のオランダ人を長崎の[[出島]]に移住させる。 * [[1741年]] - [[マリア・テレジア]]が[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王として戴冠。 * [[1788年]] - [[バージニア州|バージニア]]が[[アメリカ合衆国憲法]]を批准し、[[アメリカ合衆国]]10番目の州となる。 * [[1863年]]([[文久]]3年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[下関戦争]]: [[長州藩]]が下関海峡に碇泊中の米商船に砲撃。 * [[1866年]]([[慶応]]2年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - 江戸幕府が英仏米蘭と[[改税約書]]を締結。 * [[1876年]] - [[リトルビッグホーンの戦い]]。[[ジョージ・アームストロング・カスター|カスター将軍]]率いる騎兵隊が全滅。 * [[1882年]] - 日本初の[[馬車鉄道]]・[[東京馬車鉄道]]が新橋 - 日本橋で開業。 * [[1884年]] - [[上野駅]]で[[日本鉄道]]・上野 - 高崎(現在の[[東北本線]]の一部と[[高崎線]])の開業式を挙行。 * [[1894年]] - 愛知馬車鉄道(後の[[名古屋電気鉄道]])設立。 * 1894年 - [[高等学校令]]公布。[[高等中学校]]を[[旧制高等学校|高等学校]]に改組。 * [[1895年]] - [[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル]]がイギリスの第49代首相に就任。 * [[1910年]] - パリ・[[ガルニエ宮|オペラ座]]で[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]のバレエ『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』が初演。 * [[1920年]] - [[松竹蒲田撮影所]]が開所。 * [[1921年]] - 三菱内燃機神戸工場の職工が[[団体交渉権]]などを求め[[ストライキ]]に突入。 * [[1924年]] - 第49特別議会召集。 * [[1929年]] - [[長崎県]]の[[三井松島ホールディングス|松島炭鉱]]の坑道が水没(鉱区は海底下に広がっていた)。42人死亡<ref>三井・松島炭坑に出水、五十四人絶望『大阪毎日新聞』昭和9年11月26日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p485 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1934年]] - [[本願寺築地別院|築地本願寺]]が竣工。 * [[1938年]] - [[ダグラス・ハイド]]が初代[[アイルランドの大統領|アイルランド大統領]]に就任。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: 大本営・政府連絡会議で[[仏印進駐]]などの「南方政策促進に関する件」を決定。 * [[1943年]] - 第二次世界大戦: 「[[学徒勤労動員|学徒戦時動員]]体制要綱」を閣議決定。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦・[[継続戦争]]: [[タリ=イハンタラの戦い]]が始まる。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[太平洋戦争]]: [[大本営]]が[[沖縄戦|沖縄での作戦]]の終結を発表。 * [[1946年]] - [[国際復興開発銀行]](世界銀行)設立。 * [[1947年]] - 『[[アンネの日記]]』が出版される。 * [[1950年]] - 北朝鮮軍が38度線を越えて南に進攻し、[[朝鮮戦争]]が勃発。 * [[1953年]] - [[昭和28年西日本水害]]。[[九州地方]]北部を中心に[[6月29日]]まで[[集中豪雨]]になり、死者758名を出す。 * 1953年 - [[岡山県]][[新加茂町]][[加茂町倉見|倉見]]の加茂小学校分校で開かれた映画会で、上映中のフィルムが発火。木造藁葺の校舎が全焼して死者14人、重軽傷者23人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=92|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1959年]] - プロ野球初の[[天覧試合]]。[[読売ジャイアンツ|巨人]]・[[長嶋茂雄]]が[[阪神タイガース|阪神]]・[[村山実]]から[[サヨナラ本塁打]]。 * [[1960年]] - [[道路交通法]]公布。 * [[1961年]] - [[熱帯低気圧]]が近づき[[梅雨前線]]が活発化、[[昭和36年梅雨前線豪雨|集中豪雨]]になり[[7月10日]]までに死者302人・行方不明者55人を出す。 * [[1966年]] - [[国民の祝日に関する法律|祝日法]]改正。[[敬老の日]]・[[体育の日]]・[[建国記念の日]]を新設。 * [[1967年]] - [[世界協定時|UTC]]18時55分から21時ごろにかけて、世界初の衛星中継テレビ番組『[[われらの世界]]』が放送される(日本では[[6月26日]]朝3:55から6時ごろ)。 * [[1972年]] - [[沖縄県]]で日本復帰後初の知事・県会議員選挙。[[沖縄県知事]]に[[屋良朝苗]]が当選。 * [[1973年]] - [[予後不良 (競馬)|予後不良]]となった[[競走馬]]・[[ハマノパレード]]が[[屠殺]]処分。[[馬肉]]として食肉市場に流通したことから、[[動物愛護]]からの批判を浴びる。 * [[1974年]] - [[ミヤコタナゴ]]と[[イタセンパラ]]が[[淡水魚]]として初の種指定[[天然記念物]]となる。 * [[1975年]] - [[モザンビーク]]が[[ポルトガル]]から独立。 * [[1976年]] - [[捕鯨問題]]: [[国際捕鯨委員会]]が[[シロナガスクジラ]]捕獲禁止を含む[[捕鯨]]枠の大幅減少を決定。 * 1976年 - [[河野洋平]]らが[[新自由クラブ]]を結成。 * [[1978年]] - [[サザンオールスターズ]]が『[[勝手にシンドバッド]]』でデビュー。 * [[1991年]] - [[ユーゴスラビア紛争]]: [[クロアチア]]と[[スロベニア]]が[[ユーゴスラビア|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]からの独立を宣言。 * [[1993年]] - [[キム・キャンベル]]が[[カナダ進歩保守党]]党首に選出され、[[カナダ]]史上初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]となる。 * 1993年 - [[ウィーン宣言及び行動計画]]が[[世界人権会議]]により採択される。 * [[1997年]] - [[ロシア]]の[[プログレス補給船]][[プログレスM-34|M-34]]と[[宇宙ステーション]][[ミール]]が衝突する事故。 * [[2000年]] - [[第42回衆議院議員総選挙]]。初めて有権者が1億人を越える。 * [[2006年]] - [[ガザ地区]]で[[イスラエル国防軍]]の兵士[[ギルアド・シャリート]]が[[パレスチナ]]の[[テロリスト|テロ]]組織に誘拐される。 * [[2017年]] - [[パキスタン]]、[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]][[バハーワルプル]]でタンクローリーが横転し、漏れ出た[[石油]]を求めて多くの人が殺到した中で引火し爆発<ref>{{Cite web|和書|date=2017-06-26 |url=https://www.cnn.co.jp/world/35103280.html |title=タンクローリーが横転・爆発、死者140人 パキスタン |publisher=CNN |accessdate=2020-04-16}}</ref>。200人以上が死亡<ref>{{Cite web |date=2017-07-11 |url=http://www.business-standard.com/article/news-ians/death-toll-in-pakistan-tanker-fire-reaches-219-117071100591_1.html |title=Death toll in Pakistan tanker fire reaches 219 |publisher=Business Standard News |accessdate=2020-04-16}}</ref>。([[2017年バハワルプル爆発]]) * [[2021年]] - [[日本]]、[[鹿児島県]]の[[種子島]]沖で旧[[大日本帝国海軍]]の[[九七式艦上攻撃機]]の一部が引き上げられる。 * [[2022年]] - [[群馬県]]・[[伊勢崎市]]で[[最高気温]]40.1度を記録。[[6月]]での40度超えは観測史上全国初<ref>{{Cite web|和書|title=群馬・伊勢崎市で最高気温40度超 6月で40度は全国含め観測史上初 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/22396183/ |website=ライブドアニュース |access-date=2022-07-02 |language=ja}}</ref>。 == 誕生日 == [[Image:Fra_Juan_S%C3%A1nchez_Cot%C3%A1n_001.jpg|thumb|upright|[[バロック]]期の[[写実主義]]画家[[フアン・サンチェス・コターン]](1560-1627)誕生。画像は『マルメロの実、キャベツ、メロン、胡瓜』(1602)]] [[Image:Walther_Nernst.jpg|thumb|100px|[[熱力学第三法則]]を確立した化学者[[ヴァルター・ネルンスト]](1864-1941)]] <!-- [[Image:Empress_Sadako.jpg|thumb|100px|[[大正天皇]]の皇后、[[貞明皇后]](1884-1951)]] --> [[Image:George_Orwell_press_photo.jpg|thumb|120px|作家[[ジョージ・オーウェル]](1903-1950)。{{Squote|全ての[[動物]]は[[平等]]である。ただし、一部の動物は他の動物よりもさらに平等である。――『[[動物農場]]』(1944)}}]] <!-- ALL ANIMALS ARE EQUAL / BUT SOME ANIMALS ARE MORE EQUAL THAN OTHERS. --> {{multiple image | footer = 物理学者[[ヨハネス・ハンス・イェンゼン]](1907-1973)。[[殻模型]]を提案。右画像は[[ホウ素]]の殻模型 | image1 = Johannes Hans Daniel Jensen (1907–1973).jpg | width1 = 100 | alt1 = | image2 = Electron shell 005 Boron.png | width2 = 100 | alt2 = ホウ素の殻模型 <!-- | image3 = Shells.png | width3 = 100 | alt3 = シェルモデル --> }} <!-- [[Image:Sydneylumet.jpg|thumb|100px|社会派の映画監督、[[シドニー・ルメット]](1924-)]] --> <!-- [[Image:National_Gallery_London_Sainsbury_Wing_2006-04-17.jpg|thumb|upright|建築家[[ロバート・ヴェンチューリ]](1925-)誕生。画像は[[ナショナルギャラリー]]のセインズベリ棟]] --> <!-- [[Image:Bacharuddin_Jusuf_Habibie_official_portrait.jpg|thumb|100px|[[インドネシア]]第3代大統領、[[ユスフ・ハビビ]](1936-)]] --> <!-- [[Image:Keizo_Obuchi.jpg|thumb|100px|日本国第84代内閣総理大臣[[小渕恵三]](1937-2000)]] --> * [[1560年]] - [[フアン・サンチェス・コターン]]、[[画家]](+ [[1627年]]) * [[1612年]] - [[ヤン・アルベルト・ヴァザ]]、[[枢機卿]](+ [[1634年]]) * [[1698年]]([[元禄]]11年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[松平宣維]]、第5代[[松江藩|松江藩主]](+ [[1731年]]) * [[1718年]]([[享保]]3年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]、第6代[[仙台藩|仙台藩主]](+ [[1756年]]) * [[1755年]] - [[ナターリア・アレクセーエヴナ]]、[[ロシア帝国|ロシア皇太子]][[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル]]の妃(+ [[1776年]]) * [[1814年]] - [[ガブリエル・オーギュスト・ドブレ]]、[[地質学者]](+ [[1896年]]) * [[1852年]] - [[アントニ・ガウディ]]、[[建築家]](+ [[1926年]]) * [[1860年]] - [[ギュスターヴ・シャルパンティエ]]、[[作曲家]](+ [[1956年]]) * [[1864年]] - [[ヴァルター・ネルンスト]]、[[化学者]](+ [[1941年]]) * [[1866年]] - [[ラルフ・サムプソン]]、[[天文学者]](+ [[1939年]]) * [[1884年]] - [[貞明皇后]]、[[皇族]]、[[大正天皇]]の后(+ [[1951年]]) * [[1887年]] - [[カリンティ・フリジェシュ]]、[[作家]]、[[翻訳家]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1938年]]) * [[1894年]] - [[武井武雄]]、[[童画|童画家]](+ [[1983年]]) * [[1896年]] - [[長崎惣之助]]、第3代[[日本国有鉄道]]総裁(+ [[1962年]]) * [[1900年]] - [[ルイス・マウントバッテン]]、[[軍人]](+ [[1979年]]) * 1900年 - [[山野忠彦]]、樹医(+ [[1998年]]) * [[1902年]] - [[秩父宮雍仁親王]]、皇族、大正天皇の第二皇子(+ [[1953年]]) * [[1903年]] - [[ジョージ・オーウェル]]、作家(+ [[1950年]]) * [[1905年]] - [[ルーペルト・ヴィルト]]、天文学者(+ [[1976年]]) * 1905年 - [[与田凖一]]、[[児童文学者]]、[[詩人]](+ [[1997年]]、戸籍上は[[8月2日]]生) * [[1907年]] - [[ヨハネス・ハンス・イェンゼン]]、[[物理学者]](+ [[1973年]]) * [[1908年]] - [[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]]、論理学者(+ [[2000年]]) * [[1911年]] - [[杉浦幸雄]]、[[漫画家]](+ [[2004年]]) * [[1919年]] - [[中林仁良]]、[[丸物]]社長、[[近鉄百貨店]]取締役(+ [[2007年]]) * 1919年 - [[丸谷金保]]、[[政治家]](+ [[2014年]]) * [[1920年]] - [[津田清子]]、[[俳句|俳人]](+ [[2015年]]) * [[1921年]] - [[大橋智干]]、元[[プロ野球選手]](+ 没年不詳) * [[1922年]] - [[鶴見俊輔]]、[[評論家]]、[[哲学者]](+ [[2015年]]) * [[1923年]] - [[サム・フランシス]]、[[画家]](+ [[1994年]]) * [[1924年]] - 獅子てんや、[[漫才師]]([[獅子てんや・瀬戸わんや]])(+ [[2014年]]) * 1924年 - [[シドニー・ルメット]]、[[映画監督]](+ [[2011年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0031567|title=巨匠シドニー・ルメット監督、86歳で死去 『十二人の怒れる男』『狼たちの午後』など社会派ドラマで高い評価|publisher=シネマトゥデイ|date=2011-04-10|accessdate=2020-11-17}}</ref>) * 1924年 - [[丹阿弥谷津子]]、[[俳優|女優]] * [[1925年]] - [[加藤芳郎]]、漫画家(+ [[2006年]]) * 1925年 - [[ロバート・ヴェンチューリ]]、建築家(+ [[2018年]]) * [[1926年]] - [[ブライアン・R・ウィルソン]]、[[社会学者]](+ [[2004年]]) * [[1929年]] - [[エリック・カール]]、[[絵本作家]](+ [[2021年]]) * [[1929年]] - [[ヘルムート・ザイブト]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1992年]]) * 1929年 - [[入部久男]]、元プロ野球選手 * [[1930年]] - [[早坂茂三]]、政治評論家(+ [[2004年]]) * [[1931年]] - [[松原英多]]、[[医学博士]]・[[日本]][[東洋医学]]界専門医(+ [[2022年]]) * [[1932年]] - [[宇井純]]、環境学者・公害問題研究家(+ [[2006年]]) * [[1933年]] - [[ジェームズ・メレディス]]、[[公民権運動]]家 * [[1934年]] - [[愛川欽也]]、[[俳優]]、[[司会|司会者]](+ [[2015年]]) * 1934年 - [[矢頭高雄]]、元プロ野球選手(+ [[2003年]]) * [[1935年]] - [[小川紳介]]、[[ドキュメンタリー]][[映画監督]](+ [[1992年]]) * [[1936年]] - [[ユスフ・ハビビ]]、第3代[[インドネシアの大統領一覧|インドネシア大統領]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49701050R10C19A9910M00/|title=インドネシアのハビビ元大統領死去 83歳、工業化に貢献|newspaper=日本経済新聞|date=2019-09-11|accessdate=2020-11-26}}</ref>) * [[1937年]] - [[小渕恵三]]、政治家、第84代[[内閣総理大臣]](+ [[2000年]]) * [[1940年]] - [[日根紘三]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[ドゥニ・アルカン]]、映画監督 * 1941年 - [[山崎武昭]]、元プロ野球選手(+ [[1995年]]) * [[1945年]] - [[カーリー・サイモン]]、[[シンガーソングライター]] * 1945年 - [[佐野勝稔]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[新藤宗幸]]、[[政治学者]] (+ [[2022年]]) * 1946年 - [[頭師孝雄]]、[[俳優]](+ [[2005年]]) * 1946年 - [[イアン・マクドナルド (ミュージシャン)|イアン・マクドナルド]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[キング・クリムゾン]])(+ [[2022年]]) * [[1947年]] - [[本宮ひろ志]]、漫画家 * 1947年 - [[豊田周平]]、実業家 * [[1948年]] - [[沢田研二]]、[[歌手]] * 1948年 - [[高田文夫]]、[[放送作家]] * 1948年 - [[誠直也]]、俳優 * 1948年 - [[荒川俊三]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[山崎直樹]]、[[実業家|芸能プロモーター]]、株式会社[[アップフロントグループ]][[代表取締役]][[会長]] * 1949年 - [[三平孝広]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[工藤正司]]、[[政治家]] * [[1951年]] - [[中山俊之]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[森川正太]]、俳優(+ [[2020年]]) * [[1954年]] - [[デヴィッド・ペイチ]]、ミュージシャン([[TOTO (バンド)|TOTO]]) * [[1955年]] - [[石井邦彦]]、元プロ野球選手 * 1955年 - [[金煥珍]]、[[プロボクサー]] * 1955年 - [[曽野恵子]]、演歌歌手 * [[1956年]] - [[原田末記]]、元プロ野球選手 * [[1957年]] - [[松居一代]]、女優 * 1957年 - [[長田克史]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[石井まゆみ (歌手)|石井まゆみ]]、歌手 * 1957年 - [[土手本勝次]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[猿渡哲也]]、漫画家 * [[1960年]] - [[菊池幸見]]、[[アナウンサー]] * [[1961年]] - [[リッキー・ジャーヴェイス]]、俳優 * [[1963年]] - [[ジョージ・マイケル]]、[[歌手]](+ [[2016年]]) * 1963年 - [[西本ひろ子]]、元女優 * [[1964年]] - [[猪俣隆]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[スタン・ザ・マン (キックボクサー)|スタン・ザ・マン]]、[[キックボクサー]] * 1965年 - [[松井達徳]]、元プロ野球選手 * [[1967年]] - [[松井みどり]]、アナウンサー * [[1969年]] - [[本田泰人]]、元[[サッカー選手]] * [[1970年]] - [[エルキ・ノール]]、十種競技選手 * 1970年 - [[ローペ・ラトヴァラ]]、ミュージシャン * 1970年 - [[各務立基]]、声優 * [[1971年]] - [[クリス・ロバーツ]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[カルロス・デルガド]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[マルセロ・シルバ・ラモス]]、サッカー選手 * 1973年 - [[中條誠子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * [[1974年]] - [[矢口健一]]、元野球選手 * 1974年 - 岩見真利、お笑い芸人([[チキチキジョニー]]) * [[1975年]] - [[ウラジーミル・クラムニク]]、[[チェス]]選手 * [[1976年]] - [[リュー・チェン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[1977年]] - [[MEGWIN]]、[[Youtuber]]、実業家 * [[1978年]] - [[好川菜々]]、プロボクサー * [[1979年]] - [[後藤洋央紀]]、[[プロレスラー]] * 1979年 - [[澤井道久]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[シルヴァナ・ティリンツォーニ]]、[[カーリング]]選手 * [[1980年]] - [[竹内のぞみ]]、タレント * [[1981年]] - [[シモン・アマン]]、スキージャンプ選手 * [[1982年]] - [[ミハイル・ユージニー]]、テニス選手 * [[1984年]] - [[高井雄平]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[米元響子]]、バイオリン奏者 * 1984年 - [[ローレン・ブッシュ]]、[[モデル (職業)|モデル]] * 1984年 - [[蟹沢可名]]、フードファイター、[[グラビアアイドル]] * [[1986年]] - [[松浦亜弥]]、歌手、元アイドル * [[1987年]] - [[岸本早未]]、元歌手 * 1987年 - [[大道広幸]]、元サッカー選手 * 1987年 - [[アリッサ・シズニー]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * 1987年 - [[藤ヶ谷太輔]]、歌手、俳優、タレント([[Kis-My-Ft2]]) * 1987年 - [[なもり]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]] * [[1988年]] - [[齊藤夢愛]]、タレント、元グラビアアイドル * 1988年 - [[YOH (プロレスラー)|YOH]]、プロレスラー * 1988年 - [[三村翔子]]、元[[AV女優]]、元クラビアアイドル * 1988年 - [[守岡未央]]、トランペット奏者 * [[1990年]] - [[杏菜]]、モデル * 1990年 - [[花乃由布莉]]、タレント * [[1991年]] - [[浜尾京介]]、元俳優 * 1991年 - [[飯塚翔太]]、陸上競技選手 * 1991年 - [[白井ゆかり (気象キャスター)|白井ゆかり]]、気象キャスター * [[1992年]] - [[石橋菜津美]]、女優 * 1992年 - [[ケルシー・ロビンソン]]、[[バレーボール]]選手 * 1993年 - [[渡大生]]、サッカー選手 * [[1994年]] - [[麻倉もも]]、声優 * 1994年 - [[山地まり]]、元クラビアアイドル、元タレント * 1994年 - [[高良一輝]]、元プロ野球選手 * [[1996年]] - [[田中菜々]]、グラビアアイドル * [[1997年]] - [[アロンソ・テンヤ]]、元野球選手 * [[1998年]] - [[村上頌樹]]、プロ野球選手 * [[1999年]] - [[水映]]、女優(元[[ukka]]) * 1999年 - [[櫻井周斗]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[小島健 (アイドル)|小島健]]、アイドル([[Aぇ! group]]、関西ジャニーズJr.) * [[2000年]] - [[柿木蓮]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/players/71575138.html|title=個人年度別成績 柿木蓮|publisher=NPB.jp 日本野球機構|accessdate=2021-01-09}}</ref>、プロ野球選手 * 2000年 - [[黒木ひかり]]、タレント * [[2001年]] - [[平手友梨奈]]、女優(元[[欅坂46]]) * 2001年 - 小高実優、女優 {{-}} == 忌日 == [[Image:Georg Philipp Telemann by Georg Lichtensteger.jpg|thumb|100px|[[バロック]]期の作曲家[[ゲオルク・フィリップ・テレマン]](1681-1767)没。{{audio|Telemann - Viola Concerto Gmaj - 1. Largo.ogg|ビオラ協奏曲ト長調より第1楽章を聴く}}]] [[Image:Barbaroux.jpg|thumb|100px|[[ジロンド派]]の政治家[[シャルル・バルバルー]](1767-1794)、[[ギロチン]]で処刑]] [[Image:Stamps_of_Germany_%28Berlin%29_1972%2C_MiNr_426.jpg|thumb|100px|作家・芸術家、[[E.T.A.ホフマン]](1776-1822)没]] <!-- [[Image:Lawrence_Alma-Tadema_edit.jpg|thumb|100px|[[ローレンス・アルマ=タデマ]](1836-1912)]] --> <!-- [[Image:A_coign_of_vantage.jpg|thumb|upright|画家[[ローレンス・アルマ=タデマ]](1836-1912)没。画像は『見晴らしのよい場所』(1895)]] --> <!-- [[Image:Tepidarium_Lawrence_Alma-Tadema_%281836-1912%29.jpg|thumb|100px|画家[[ローレンス・アルマ=タデマ]](1836-1912)没。画像は『テピダリウム』(1881)]] --> <!-- [[Image:Eakins_selfportrait.jpg|thumb|100px|画家[[トマス・エイキンズ]](1844-1916)没。画像は自画像(1902)]] --> <!-- [[Image:EakinsTheGrossClinic.jpg|thumb|upright|画家[[トマス・エイキンズ]](1844-1916)没。画像は『[[グロス・クリニック]]』(1875)]] --> <!-- WANTED: ミシェル・フーコー --> <!-- [[Image:Ernest_Walton.jpg|thumb|100px|人類初の[[原子核]]変換を実現させた物理学者[[アーネスト・ウォルトン]](1903-1995)]] --> {{multiple image | footer = ミュージシャン・歌手・ダンサー、[[マイケル・ジャクソン]](1958-2009)急死 | image1 = Michael_Jackson_The_Way_You_Make_Me_Feel.jpg | width1 = 70 | alt1 = マイケル・ジャクソン | image2 = Michael_Jackson_Star_on_Hollywood_Blvd_%28cropped%29.jpg | width2 = 120 | alt2 = ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのマイケルの星 }} * [[635年]]([[貞観 (唐)|貞観]]9年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[李淵]]、[[唐]]の初代[[皇帝]](* [[566年]]) * [[1332年]]([[元弘]]2年/[[正慶]]元年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[日野資朝]]、[[公卿]](* [[1290年]]) * [[1533年]] - [[メアリー・テューダー (フランス王妃)|メアリー・テューダー]]、[[フランス王国|フランス王]][[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]の妃(* [[1496年]]) * [[1579年]]([[天正]]7年6月2日)- [[波多野秀治]]、[[武将]](* [[?]]) * [[1618年]]([[元和 (日本)|元和]]4年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[雲谷等顔]]、[[画家]](* [[1547年]]) * [[1671年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ]]、[[天文学者]](* [[1598年]]) * [[1767年]] - [[ゲオルク・フィリップ・テレマン]]、[[作曲家]](* [[1681年]]) * [[1794年]] - [[シャルル・バルバルー]]、[[フランス革命]]期の政治家(* [[1767年]]) * [[1799年]]([[寛政]]11年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[麻田剛立]]、天文学者(* [[1734年]]) * [[1822年]]([[文政]]5年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[亜欧堂田善]]、[[版画|銅版画家]](* [[1748年]]) * 1822年 - [[E.T.A.ホフマン|エルンスト・ホフマン]]、[[小説家]](* [[1776年]]) * [[1835年]] - [[アントワーヌ=ジャン・グロ]]、[[画家]](* [[1771年]]) * [[1842年]] - [[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ]]、[[経済学者]](* [[1773年]]) * [[1861年]] - [[アブデュルメジト1世]]、[[オスマン帝国]]第31代[[スルタン]](* [[1823年]]) * [[1864年]] - [[ヴィルヘルム1世 (ヴュルテンベルク王)|ヴィルヘルム1世]]、第2代[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王]](* [[1781年]]) * [[1868年]] - [[カルロ・マテウッチ]]、[[物理学者]](* [[1811年]]) * [[1876年]] - [[ジョージ・アームストロング・カスター]]、軍人(* [[1839年]]) * [[1884年]] - [[ハンス・ロット]]、作曲家(* [[1858年]]) * [[1912年]] - [[ローレンス・アルマ=タデマ]]、[[画家]](* [[1836年]]) * [[1913年]] - [[沢辺琢磨]]、[[日本ハリストス正教会]]の[[司祭]](* [[1834年]]) * [[1916年]] - [[トマス・エイキンズ]]、[[画家]](* [[1844年]]) * [[1918年]] - [[ジェイク・ベックリー]]、[[プロ野球選手]](* [[1867年]]) * [[1919年]] - [[今井信郎]]、[[京都見廻組]](* [[1841年]]) * [[1935年]] - [[竹内勝太郎]]、[[詩人]](* [[1894年]]) * [[1938年]] - [[ニコライ・トルベツコイ]]、[[言語学|言語学者]](* [[1890年]]) * [[1945年]] - [[横河民輔]]、[[実業家]]、[[建築家]]、[[横河グループ]]創業者(* [[1864年]]) <!-- 特筆性は? * [[1950年]] - 5代目[[柳亭燕路]]、[[落語家]](* [[1886年]]) --> * [[1956年]] - [[アーネスト・キング]]、[[アメリカ海軍]]の[[元帥]](* [[1878年]]) * 1956年 - [[宮城道雄]]、[[箏|箏曲家]](* [[1894年]]) * [[1960年]] - [[ウォルター・バーデ]]、天文学者(* [[1893年]]) * [[1965年]] - [[ベルティル・リンドブラッド]]、天文学者(* [[1895年]]) * [[1976年]] - [[高橋信次 (宗教家)|高橋信次]]、[[宗教家]](* [[1927年]]) * [[1977年]] - [[セルヴァーンスキ・エンドレ]]、作曲家(* [[1911年]]) * [[1980年]] - [[井上佳明]]、元プロ野球選手(* [[1932年]]) * [[1982年]] - [[青木一男]]、[[政治家]](* [[1889年]]) * [[1983年]] - [[アルベルト・ヒナステラ]]、作曲家(* [[1916年]]) * [[1984年]] - [[ミシェル・フーコー]]、[[哲学|哲学者]](* [[1926年]]) * [[1988年]] - [[ヒレル・スロヴァク]]、ギタリスト([[レッド・ホット・チリ・ペッパーズ]])(* [[1962年]]) * [[1989年]] - [[尾上松緑 (2代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1913年]]) * [[1990年]] - [[おのちゅうこう]]、[[児童文学作家]]、[[詩人]](* [[1908年]]) * [[1992年]] - [[ジェームズ・スターリング (建築家)|ジェームス・スターリング]]、[[建築家]](* [[1924年]]) * [[1993年]] - [[市川好郎]]、俳優(* [[1948年]]) * [[1995年]] - [[アーネスト・ウォルトン]]、物理学者(* [[1903年]]) * [[1997年]] - [[ジャック=イヴ・クストー]]、[[海洋学|海洋学者]](* [[1910年]]) * [[1998年]] - [[高木俊朗]]、[[ノンフィクション作家]](* [[1908年]]) * [[1999年]] - [[衆樹資宏]]、元プロ野球選手(* [[1934年]]) * [[1999年]] - [[村下孝蔵]]、フォークシンガー(* [[1953年]]) * [[2003年]] - [[八代駿]]、[[俳優]]、[[声優]](* [[1933年]]) * [[2004年]] - [[キャロル・ケネディ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1932年]]) * [[2005年]] - [[長新太]]、[[絵本作家]](* [[1927年]]) * [[2007年]] - [[河西俊雄]]、元プロ野球選手、スカウト(* [[1920年]]) * 2007年 - [[谷幹一]]、俳優、[[コメディアン]](* [[1932年]]) * [[2008年]] - [[ライアル・ワトソン]]、[[生命科学|生命科学者]](* [[1939年]]) * [[2009年]] - [[ファラ・フォーセット]]、[[俳優|女優]](* [[1947年]]) * 2009年 - [[マイケル・ジャクソン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、[[歌手]]、[[ダンサー]](* [[1958年]]) * [[2012年]] - [[団藤重光]]、[[法学者]](* [[1913年]]) * [[2014年]] - [[小川文明]]、ミュージシャン(* [[1960年]]) * [[2016年]] - [[藤森昭一]]、[[内閣官房副長官]]、[[昭和天皇]]崩御時の[[宮内庁長官]]、[[日本赤十字社]]社長(* [[1926年]]) * [[2017年]] - [[アラン・サンドランス]]、シェフ(* [[1939年]]) * [[2018年]] - [[長野祐也]]<ref name="nikkei">{{Cite web|和書|title=長野祐也氏が死去 元衆院議員|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32206010V20C18A6CZ8000/|work=日本経済新聞|date=2018-6-25|accessdate=2020-11-14}}</ref>、[[政治家]](* [[1939年]]) * [[2023年]] - [[木村守男]]、政治家(* [[1938年]]) == 記念日・年中行事 == {{multiple image | footer = 建築家[[アントニ・ガウディ]](1852-1926)誕生。右の画像は[[カサ・ミラ]](1905-07) | image1 = Antoni_gaudi.jpg | width1 = 80 | alt1 = アントニ・ガウディ | image2 = Casa_Mil%C3%A0_-_Barcelona%2C_Spain_-_Jan_2007.jpg | width2 = 180 | alt2 = カサ・ミラ }} [[Image:Ilha de Moçambique.jpg|thumb|240px|[[モザンビーク]]の独立記念日。画像はモザンビーク島]] * [[独立記念日]]({{MOZ}}) *: [[1975年]]のこの日、モザンビークがポルトガルから独立した。 * {{仮リンク|国家の日 (クロアチア)|en|Statehood Day (Croatia)|label=国家の日}}({{HRV}}) * {{仮リンク|国家の日 (スロベニア)|en|Statehood Day (Slovenia)|label=国家の日}}({{SVN}}) *: [[1991年]]のこの日にクロアチアとスロベニアが[[ユーゴスラビア]]からの独立を宣言したことを記念。 * 祖国解放記念日({{DPRK}}) * [[土地]]の日({{PRC}}) *: [[1991年]][[5月24日]]、[[中華人民共和国国務院]]の第83回常務会は、毎年6月25日を土地の日とすることを決定しました。 当日は全国各地で「中華人民共和国土地管理法」の広報活動や耕作地の保護・保護活動が行われる。 * 住宅デー({{JPN}}) *: [[全国建設労働組合総連合]]が[[1978年]]に制定。スペインの建築家[[アントニオ・ガウディ]]の誕生日を記念。 * 救[[ハンセン病|癩]]の日({{JPN}}、1931年 - 1963年) *: 癩病(ハンセン病)の予防と患者の救済に深い関心をよせていた[[大正天皇]]の后・[[貞明皇后]]の誕生日を記念。[[1964年]]からは、6月25日を含む1週間の「ハンセン病を正しく理解する週間」に移行した。 * 指定自動車教習所の日({{JPN}}) *: 全日本指定自動車教習所協会連合会が制定。[[1960年]]のこの日、[[道路交通法]]改正により[[指定自動車教習所]]制度が始まったことを記念。 * 天覧試合の日({{JPN}}) *: [[1959年]]のこの日、初のプロ野球の[[天覧試合]]が行われたことを記念。 * 浜木綿忌({{JPN}}) *: 作曲家・[[宮城道雄]]の忌日。「浜木綿忌」の名前は遺作の歌曲「浜木綿」にちなむ。 * サザンの日({{JPN}}) *:[[1978年]]のこの日、 [[サザンオールスターズ]]がシングル「[[勝手にシンドバッド]]」でメジャーデビューしたことに由来する。 * 生酒の日({{JPN}}) *: 従来、蔵元でしか味わえなかった生酒が、[[月桂冠 (企業)|月桂冠]]の超精密ろ過技術の応用で常温流通出来るようになった。その歴史を伝え、多くの人に生酒の魅力を知ってもらうことが目的。日付は[[1984年]]の同日に本格的な生酒が販売されたことから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=211|isbn=978-4422021140 }}</ref>。 {{Clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0625|date=2011年6月}} * 昭和2×年 - 寺田辰也が森美也子と八つ墓村へ向けて出発。(小説『[[八つ墓村]]』第2章) * 2005年 - アルマジロイマジンが現れる。(特撮『[[仮面ライダー電王]]』) * 2010年 - [[エイミー・ポンド]]が11代目ドクターと旅を始める。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1983年]] - [[ときめきメモリアル2の登場人物#メインキャラクター|陽ノ下光]]、ゲーム『[[ときめきメモリアル2]]』に登場するキャラクター * [[1985年]] - 神代剣、特撮『[[仮面ライダーカブト]]』に登場するキャラクター<ref>21話より</ref> * [[1990年]] - [[MAJORの登場人物#佐藤家|佐藤美穂]]、漫画・アニメ『[[MAJOR]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=満田拓也|authorlink=満田拓也|title=Major―Dramatic baseball comic|volume=59巻|publisher=[[小学館]]|year=2006|page=178|isbn=978-4-09-120416-5}}</ref> * [[1991年]] - [[東京卍リベンジャーズ#花垣 武道|花垣武道]]、漫画・アニメ・映画『[[東京卍リベンジャーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=東京卍リベンジャーズ キャラクターブック 天上天下|date=2021年04月16日|publisher=[[講談社]]|page=014|editors=編集:[[週刊少年マガジン]]編集部/監修:[[和久井健]]|isbn=978-4-06-522988-0|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000350955}}</ref> * 生年不明 - パディントン・ブラウン、児童文学『[[くまのパディントン]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://hugkum.sho.jp/28672 |title=実はクリスマスが誕生日!イギリス生まれの「くまのパディントン」の魅力って? |access-date=2023-02-08 |publisher=HugKum(はぐくむ)・[[小学館]] |date=2018-11-27}}</ref><ref group="注">誕生日は、6月25日と12月25日の2回ある。</ref> * 生年不明 - シャーロット・プリン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/anime/character/characters/Charlotte_Prin.html |title=シャーロット・プリン |access-date=2023-02-08 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref> * 生年不明 - 陸奥悠歩、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1275807159410921472}}</ref> * 生年不明 - 車谷善之助、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|title=BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|year=2006|page=65|isbn=4-08-874079-3}}</ref> * 生年不明 - 見吉香耶(高木香耶)、漫画・アニメ『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 柏木渚、漫画『[[かぐや様は告らせたい]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 犬、漫画・ドラマ『[[ワイルドライフ (漫画)|ワイルドライフ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ビビアン、漫画・アニメ『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://2nd.7-taizai.net/special/keyword.html |title=SPECIAL これだけはおさえておきたいキーワード集 ビビアン |access-date=2023-02-08 |publisher=[[鈴木央]]・[[講談社]]/「七つの大罪 戒めの復活」製作委員会・MBS |work=『七つの大罪 戒めの復活』}}</ref> * 生年不明 - パンドラ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1540530544056086530}}</ref> * 生年不明 - 高梨奈緒、漫画・アニメ『[[お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20101207-a001/ |title=『お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!』、放送情報 |access-date=2022-08-16 |publisher=マイナビニュース |date=2010-12-07}}</ref> * 生年不明 - 黒崎ほのか、漫画・アニメ『[[ヤマノススメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamanosusume|1143324175693520896}}</ref> * 生年不明 - 蒼井結衣、漫画・アニメ『[[12歳。]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 神山亜哉、漫画・アニメ『[[春待つ僕ら]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 棗ニナ、漫画・アニメ『[[うらら迷路帖]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/urara/chara/nina.html |publisher=[[はりかも]]・[[芳文社]]/うらら迷路帖製作委員会 |work=『うらら迷路帖』製作委員会 |title=ニナ |accessdate=2023-02-08}}</ref> * 生年不明 - 海城あかね、漫画『[[ニチアサ以外はやってます!]]』の主人公 * 生年不明 - 都合マキナ、漫画『[[ちかのこ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ejx_mizuta|1011101768099303424}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8254669 |title=都合マキナの誕生日 |publisher=ニコニコ静画 |work=らぐほのえりか(作者) |accessdate=2023-02-08}}</ref> * 生年不明 - 犬束秀、漫画・アニメ『[[可愛いだけじゃない式守さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shikimori_off|1351454500955934721}}</ref> * 生年不明 - 照瀬結乃、キャラクターCD『[[ツキウタ。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://tsukino-pro.com/talent_artist/talent_artist-cat2/tsukiuta-ta/terase-yuno-ta/ |title=照瀬結乃 |access-date=2023-02-08 |publisher=TSUKIPRO TSUKIUTA. [[ユニバーサルミュージック|UNIVERSAL MUSIC LLC]] ALTAIR |work=『ツキノ芸能プロダクション』}}</ref> * 生年不明 - 小渕みなみ、ゲーム・アニメ『[[School Days]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 亜麻音(あまね)、ゲーム『[[ドリームクラブ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ドリームクラブ ビジュアルファンブック|publisher=[[ソフトバンク クリエイティブ]]|year=2009|page=10|isbn=978-4-7973-5652-6}}</ref> * 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#日高愛|日高愛]]、ゲーム『[[THE IDOLM@STER Dearly Stars]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/210001 |title=日高 愛(ひだか あい) |access-date=2023-02-08 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 三好紗南、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20163 |title=三好 紗南(みよし さな) |access-date=2023-02-08 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - みるく、ゲーム『[[maimai]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://maimai.sega.jp/maimai_finale/chara/ |accessdate=2023-02-08 |title=キャラクター紹介 みるく |publisher=SEGA |work=『maimai FiNALE』}}</ref> * 生年不明 - カヤ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1540515145339719680}}</ref> * 生年不明 - カリム・アルアジーム、ゲーム『[[ディズニー ツイステッドワンダーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://twisted-wonderland.aniplex.co.jp/character/kalim |title=カリム・アルアジーム |access-date=2023-02-08 |publisher=Disney. Aniplex |work=『ディズニー ツイステッドワンダーランド』}}</ref> * 生年不明 - [[曙涼]]、メディアミックス『[[From ARGONAVIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ARGONAVIS_info|1540349033561985024}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 25|25 June}} {{新暦365日|6|24|6|26|[[5月25日]]|[[7月25日]]|[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]|0625|6|25}} {{1年の月と日}}
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6月26日
6月26日(ろくがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から177日目(閏年では178日目)にあたり、年末まであと188日ある。
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6月26日(ろくがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から177日目(閏年では178日目)にあたり、年末まであと188日ある。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{カレンダー 6月}} '''6月26日'''(ろくがつにじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から177日目([[閏年]]では178日目)にあたり、年末まであと188日ある。 == できごと == [[Image:Pied_piper.jpg|thumb|180x180px|[[ハーメルン]]で子供が集団失踪(1284)、「[[ハーメルンの笛吹き男]]」の伝承となる。]] [[Image:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot.jpg|thumb|[[パリ]]の[[六月蜂起]]終結(1848)|180x180ピクセル]] [[File:Fw 61 V.JPG|thumb|世界初の実用[[ヘリコプター]]、[[Fw 61 (航空機)|Fw 61]]の初飛行(1936)|180x180ピクセル]] {{multiple image | caption1 = [[ウィリアム・ショックレー]]、[[トランジスタ]]の特許を取得(1948)。画像は1947年のトランジスタのレプリカ | image1 = Replica-of-first-transistor.jpg | width1 = 100 | alt1 = 1947年のトランジスタのレプリカ | caption2 = [[ベルリン封鎖]]を受けベルリン空輸はじまる(1948) | image2 = Berlin_Blockade_Milk.jpg | width2 = 80 | alt2 = ベルリン空輸 }} {{multiple image | footer = [[ジョン・F・ケネディ]]、[[ベルリン]]で"[[Ich bin ein Berliner]]"の演説を行う(1963)。{{audio|Jfk berlin address high.ogg|聴く}} | image1 = JFK speech Ich bin ein berliner 1.jpg | width1 = 100 | alt1 = 演説風景 | image2 = Tafel_Kennedy.JPG | width2 = 80 | alt2 = シェーネベルク市庁舎の飾り額 }} [[Image:Toronto%27s_CN_Tower.jpg|thumb|[[トロント]]の[[CNタワー]]竣工(1976)|135x135px]] * [[699年]]([[文武天皇]]3年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[役小角]](役行者)が弟子の讒言により伊豆に流罪。 * [[1180年]]([[治承]]4年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[平清盛]]が[[安徳天皇]]を奉じて[[福原京]]に遷都。 * [[1243年]] - {{仮リンク|モンゴルによるアナトリア侵攻|label=モンゴルのアナトリア侵攻戦争|en| Mongol invasions of Anatolia}}: [[キョセ・ダグの戦い]]が勃発。[[ルーム・セルジューク朝]]・[[トレビゾンド帝国]]・[[ニケーア帝国]]連合軍が[[バイジュ (モンゴル部)|バイジュ]]率いる[[モンゴル帝国]]に完敗。アナトリア半島がモンゴルの支配下に置かれた。 * [[1284年]] - [[ドイツ]]・[[ハーメルン]]で130人の子供が集団[[失踪]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/2697 |title=伝染病?子供十字軍?「ハーメルンの笛吹き男」で130人の子どもが消えた理由 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[中央公論社]] |date=18 Oct 2020 |website=[[婦人公論|婦人公論.jp]]}}</ref>。([[ハーメルンの笛吹き男]]の起源) * [[1483年]] - [[イングランド]]議会が[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]の王位継承無効を宣言、[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]が国王に即位。 * [[1541年]] - [[フランシスコ・ピサロ]]が、1538年に処刑された[[ディエゴ・デ・アルマグロ]]の遺児一派により[[リマ]]で暗殺される。 * [[1777年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ショートヒルズの戦い]]が行われる。 * [[1788年]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]が[[ウィーン]]で[[交響曲第39番 (モーツァルト)|交響曲第39番]]を完成<ref>{{Twitter status|Baerenreiter|1143780784714784768}}</ref>。 * [[1830年]]([[文政]]13年/[[天保]]元年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[ナサニエル・セイヴァリー]]ら20数名が[[小笠原諸島]][[父島]]に入植<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline_development/ |title=沿革 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[小笠原村]]}}</ref>。 * [[1843年]] - [[香港の歴史]]: ヘンリー・ポッティンジャーが初代[[香港総督]]に着任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.drsgate.com/company/c00071/32.php |title=香港株式市場の黎明期 南京条約と初代香港総督 |publisher=LinkStaff Co.,Ltd. |date=5 Sep 2019 |accessdate=3 Apr 2023 |work=Doctor’s Gate}}</ref>。 * [[1848年]] - パリの[[六月蜂起]]が終結。 * [[1862年]]([[文久]]2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[東禅寺事件#第二次東禅寺事件|第二次東禅寺事件]]。江戸・[[東禅寺 (東京都港区)|東禅寺]]のイギリス仮公使館に警備の松本藩士が侵入しイギリス人水兵2人を殺害。 * [[1870年]] - [[バイエルン]]宮廷歌劇場にて[[フランツ・ヴュルナー]]の指揮で[[リヒャルト・ワーグナー]]の楽劇『[[ワルキューレ (楽劇)|ヴァルキューレ]]』が単独初演。 * [[1886年]] - [[アンリ・モアッサン]]が初めて[[フッ素]]の[[単離]]に成功。 * [[1900年]] - [[桂太郎]]が[[台湾協会学校]](後の[[拓殖大学]])を設立<ref>{{Cite journal|和書|author=工一仁 |date=2020-03 |url=https://takushoku-u.repo.nii.ac.jp/records/328 |title=満洲の開拓と拓殖大学 |journal=拓殖大学論集. 政治・経済・法律研究 |ISSN=13446630 |publisher=拓殖大学政治経済研究所 |volume=22 |issue=2 |page=185 |CRID=1050848249730606592 |access-date=2023-08-31}}</ref>。 * [[1907年]] - [[ボリシェヴィキ]]がチフリス([[トビリシ]])で現金輸送車を襲撃、40名の死者を出す。([[1907年チフリス銀行強盗事件]]) * [[1912年]] - [[ウィーン]]にて[[ブルーノ・ワルター]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]で[[グスタフ・マーラー]]の[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]が初演。 * [[1918年]] - [[第一次世界大戦]]: {{仮リンク|ベロー・ウッドの戦い|en|Battle of Belleau Wood}}が終結。 * [[1933年]] - [[NHK大阪放送局]]、[[NHK名古屋放送局]]が開局。 * [[1936年]] - 世界初の実用[[ヘリコプター]]、[[Fw 61 (航空機)|Fw61]]が初飛行。 * [[1942年]] - [[ホーリネス弾圧事件]]: 日本の[[ホーリネス教会]]の聖職者96名が逮捕。 * [[1945年]] - [[国際連合憲章]]が加盟51ヶ国により調印。 * 1945年 - [[日本本土空襲]]: 京都市上京区の西陣にB29が空襲。死者43人、重軽傷者66人、家屋損壊292戸の被害が出た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ritsumeikan-wp-museum.jp/wp-content/uploads/2019/03/19_4西陣空襲における記憶の継承-2.pdf |title=「西陣空襲」における記憶の承継 |access-date=3 Apr 2023 |page=31(3/7) |publisher=[[立命館大学]]国際平和ミュージアム}}</ref>。 * 1945年 - [[ドイツキリスト教民主同盟]] (CDU) が結党。 * [[1946年]] - 首相の[[吉田茂]]が衆議院で[[日本国憲法第9条|日本国憲法9条]]について、「自衛権は否定はされないが、交戦権を進んで放棄する」旨説明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aiben.jp/about/library/2019-02-constitution-history.html |title=特集 憲法改正問題を考える 憲法9条の歴史2 憲法9条に関する歴史 (1)帝国議会審議―吉田答弁 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[愛知県弁護士会]]}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date= 2001-05-01|editor1-first=文人|editor1-last=神田|editor2-first=英夫|editor2-last=小林|title =決定版 20世紀年表 |publisher = [[小学館 ]] |isbn =978-4-09-626074-6}}</ref>。 * [[1948年]] - [[ベルリン封鎖]]: [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[西ベルリン]]封鎖を受け、西側諸国による[[西ドイツ]]から[[西ベルリン]]への物資の空輸([[ベルリン封鎖#「ベルリン大空輸」開始|ベルリン大空輸]])が開始。 * 1948年 - [[ウィリアム・ショックレー]]が[[トランジスタ]]の特許を取得。 * [[1949年]] - 同月29日にかけて[[熊本県]]と[[鹿児島県]]で集中豪雨。死者42人、負傷61人、家屋全壊119戸、床上浸水9658戸など<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=73|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1950年]] - [[文化自由会議]]が創設される。 * 1950年 - [[レッドパージ]]: [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が、[[日本共産党]]機関紙『[[しんぶん赤旗|アカハタ]]』の30日間の発刊停止を指令。7月18日に無期限停刊に変更。 * [[1954年]] - [[モスクワ]]近郊[[オブニンスク]]で世界初の商用[[原子力発電所]]である[[オブニンスク原子力発電所]]が運転を開始。 * [[1960年]] - イギリス領[[ソマリランド]]が独立。5日後にイタリア領[[ソマリア]]と合併。 * 1960年 - [[マダガスカル]]が[[フランス]]より独立。 * [[1963年]] - [[アメリカ合衆国大統領]]の[[ジョン・F・ケネディ]]が西ベルリンで[[Ich bin ein Berliner]]の一節で知られる演説を行う。 * [[1966年]] - 健康・体力づくりができる野外活動として、[[東京都]]の[[高尾山]]において日本で初めて[[オリエンテーリング]]が行われる。 * [[1968年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の統治下にあった[[小笠原支庁|小笠原諸島]]が日本に返還される。 * [[1973年]] - ソ連の[[プレセツク宇宙基地]]で[[コスモス衛星|コスモス3Mロケット]]が爆発、9名の死者を出す。 * [[1974年]] - [[オハイオ州]]の[[スーパーマーケット]]で[[バーコード#統一商品コード|統一商品コードの読み取り]]による初の商品会計が行われる。 * 1974年 - [[国土庁]]が設置される。 * [[1976年]] - [[アントニオ猪木対モハメド・アリ]]の[[異種格闘技戦]]が行われる。 * 1976年 - [[カナダ]]・[[トロント]]で[[CNタワー]]が開場する。当時世界一の高さの自立式構造物。 * [[1977年]] - [[イギリス]]・[[ウェスト・ヨークシャー]]で、[[ピーター・サトクリフ]]が店員の女性を殺害。サトクリフは以前から[[売春婦]]に対する[[連続殺人]]を犯していたが、売春婦以外の女性が殺害されたことで世間の関心が集まり、「ヨークシャーの切り裂き魔」と呼ばれるようになる。 * [[1983年]] - [[第13回参議院議員通常選挙]]。日本の選挙制度で初めて[[比例代表制]]を導入。 * [[1986年]] - [[ランディ・バース]]が[[江川卓 (野球)|江川卓]]から本塁打を放ち、7試合連続本塁打を達成。 * [[1989年]] - [[東芝]]が世界初となるA4型ノートパソコン「[[J-3100シリーズ|DynaBook J-3100SS]]」を発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.global.toshiba/jp/news/corporate/1999/06/pr2801.html |title=「DynaBook」誕生10周年記念モデルの発売について |access-date=14 Aug 2023 |publisher=東芝 |date=28 Jun 1999}}</ref>。 * [[1987年]] - [[拷問等禁止条約]]が発効する。 * [[1994年]] - [[マイクロソフト]]が[[MS-DOS]]の販売中止を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fbc.jp/tv/ojama/happy/backnumber/ojama_happy_1403708400 |title=バックナンバー 2014年6月26日のHappyBirthday |accessdate=3 Apr 2023 |publisher=[[福井放送]]}}</ref>。 * [[1995年]] - [[カタール]]で[[ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー]]皇太子を中心とする[[クーデター]]が起き、[[スイス]]滞在中の[[アミール]]が廃位される。 * [[1996年]] - 日本で、全文改正した[[民事訴訟法]]が公布。 * [[2003年]] - アメリカの[[合衆国最高裁判所]]が[[テキサス州]]の同性愛処罰法を憲法違反と判断。 * [[2006年]] - [[ガザ地区]]でイスラエル軍兵士[[ギルアド・シャリート]]がパレスチナ人テロ組織に誘拐される。 * [[2007年]] - [[時津風部屋力士暴行死事件]]:[[時津風部屋]]に入門した当時17歳の新弟子が稽古時間中に心肺停止状態となり、搬送先の犬山中央病院で死亡。 * [[2010年]] - JRグループの[[在来線]]としては史上初となる可動式ホームドアが[[山手線]][[恵比寿駅]]で導入される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2009/20100307.pdf |title=山手線恵比寿駅、目黒駅のホームドア使用開始日について |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[東日本旅客鉄道株式会社]] |date=4 Mar 2010 |format=[[PDF]]}}</ref>。 * [[2012年]] - [[消費税]]増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連法案が[[衆議院]][[本会議]]で採決され、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]・[[国民新党]]・[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[公明党]]の賛成多数で可決<ref>{{Cite web|和書|date=26 Jun 2012 |url=https://jp.reuters.com/article/t9e8gp038-jp-social-security-passe-idJPTYE85P03J20120626 |title=一体改革関連8法案が衆院通過、消費増税法案への民主反対57票 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |accessdate=3 Apr 2023}}</ref>。 * [[2015年]] - [[オーバーグフェル対ホッジス裁判]]: 合衆国最高裁判所の判決により、[[アメリカ合衆国の州|アメリカの全州]]で[[同性結婚]]が合法化され、異性[[結婚]]カップルと同等の権利を享受することが可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/7676054 |title=「同性婚は合憲」アメリカ、全ての州で合法に ホワイトハウスもレインボーに染まる |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[HUFFPOST]] |date=26 Jun 2015}}</ref>。 * 2015年 - [[2015年クウェート市モスク自爆テロ|クウェート市モスク自爆テロ]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=27 Jun 2015 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3052935 |title=クウェートで自爆攻撃、死傷者254人 IS関連組織が犯行声明 |work=AFP BB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=3 Apr 2023}}</ref>。 * [[2017年]] - プロ[[将棋棋士]][[藤井聡太]]四段が、公式戦史上最多の29連勝を達成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match_news/2017/06/29.html |title=藤井聡太四段29連勝、歴代単独トップ |publisher=[[日本将棋連盟]] |date=26 Jun 2017 |accessdate=3 Apr 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://hi-in.facebook.com/YomiuriOnline/videos/1326536077394510/ |title=藤井聡太、29連勝達成!! 大盤解説会 |accessdate=3 Apr 2023 |publisher=[[読売新聞]] ONLINE}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13877386.html |title=(大志 藤井聡太のいる時代)飛躍編:9 異様な興奮と静寂、そして29連勝 |date=3 Feb 2019 |accessdate=3 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017-06-26 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFG26HBA_W7A620C1MM8000/ |title=藤井四段が29連勝 将棋公式戦、30年ぶり新記録 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=3 Apr 2023}}</ref>。 * [[2020年]] - 囲碁の[[芝野虎丸]]名人が、第58期[[十段戦 (囲碁)|十段戦]]五番勝負の第4局で[[村川大介]]十段に勝利し、タイトルを獲得。名人、王座と合わせて三冠を達成。20歳7カ月、プロ入りから5年9カ月での三冠達成で、史上最年少、史上最速記録を大幅に更新した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/photo/story/news/200626/sty2006260012-n1.html |title=芝野が最年少最速三冠 囲碁十段戦、村川を破る |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=26 Jun 2020}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nihonkiin.or.jp/match_news/match_info/58judan4_3.html |title=芝野が奪取!史上最年少・プロ入り最短で三冠獲得!【第58期十段戦挑戦手合五番勝負第4局】 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[日本棋院]] |date=26 Jun 2020}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == {{multiple image | footer = 『[[メシエカタログ]]』を作成した天文学者、「[[彗星]]の狩人」[[シャルル・メシエ]](1730-1817)誕生。右画像はメシエによるM31=[[アンドロメダ銀河]]のスケッチ | image1 = Charles_Messier.jpg | width1 = 80 | alt1 = シャルル・メシエ | image2 = M31 by Messier.jpg | width2 = 100 | alt2 = M31/M32/M110 }} {{multiple image | caption1 = 物理学者「ケルヴィン卿」[[ウィリアム・トムソン]](1824-1907)誕生 | image1 = Kelvin-1200-scale1000.jpg | width1 = 90 | alt1 = ケルヴィン卿ウィリアム・トムソン | caption2 = 作家[[パール・S・バック]](賽珍珠; 1892-1973)誕生 | image2 = Pearl Buck.jpg | width2 = 90 | alt2 = パール・S・バック }} {{multiple image | footer = [[ドイツ]]の[[航空機]]設計者、[[ウィリー・メッサーシュミット]](1898-1978)。右画像の戦闘機[[メッサーシュミット Bf109]]は35,000機生産された | image1 = Bundesarchiv_Bild_146-1969-169-19%2C_Willy_Messerschmitt.jpg | width1 = 80 | alt1 = ウィリー・メッサーシュミット | image2 = Bundesarchiv Bild 101I-337-0036-02A, Im Westen, Feldflugplatz mit Me 109.jpg | width2 = 100 | alt2 = メッサーシュミット Bf109 }} [[Image:Colin_Wilson.jpg|thumb|90px|小説家[[コリン・ウィルソン]](1931-2013)]] * [[1659年]]([[万治]]2年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[松平正久]]、[[上総国]]大喜多藩主(+ [[1720年]]) * [[1668年]]([[寛文]]8年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[雨森芳洲]]、[[儒学者]](+ [[1755年]]) * [[1730年]] - [[シャルル・メシエ]]、[[天文学者]](+ [[1817年]]) * [[1740年]]([[元文]]5年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[岡部長住]]、[[和泉国]][[岡部藩]]主(+ [[1809年]]) * [[1742年]] - [[アーサー・ミドルトン]]、[[アメリカ独立宣言]]署名者(+ [[1787年]]) * [[1744年]]([[延享]]元年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[水野忠鼎]]、[[肥前国]][[唐津藩]]主(+ [[1818年]]) * [[1824年]] - [[ウィリアム・トムソン]](ケルビン卿)、[[物理学者]](+ [[1907年]]) * [[1835年]](天保6年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[三島通庸]]、[[薩摩藩]]士、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]](+ [[1888年]]) * [[1842年]](天保13年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[松村淳蔵]]、[[軍人]](+ [[1919年]]) * [[1862年]]([[文久]]2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[箕作元八]]、[[歴史家]](+ [[1919年]]) * [[1869年]] - [[ジョン・スミス・フレット]]、[[地質学者]](+ [[1947年]]) * [[1892年]] - [[高橋貞太郎]]、建築家(+[[1970年]]) * 1892年 - [[パール・S・バック|パール・バック]]、[[小説家]](+ [[1973年]]) * [[1895年]] - [[御橋公]]、俳優(+[[1962年]]) * [[1898年]] - [[落合英二 (薬学者)|落合英二]]、[[薬学者]](+ [[1974年]]) * 1898年 - [[南部彰三]]、俳優(+没年不詳) * 1898年 - [[ウィリー・メッサーシュミット]]、[[航空機]]技術者(+ [[1978年]]) * [[1900年]] - [[小笠原明峰]]、映画監督(+[[1946年]]) * [[1903年]] - [[阿部知二]]、[[小説家]]、[[イギリス文学者|英文学者]](+ [[1973年]]) * [[1904年]] - [[柴生田稔]]、歌人、国文学者(+[[1991年]]) * [[1911年]] - [[松平晃]]、[[歌手]](+ [[1961年]]) * [[1912年]] - [[高山辰雄]]、[[画家]](+ [[2007年]]) * [[1913年]] - [[井尻正二]]、地球科学者、古生物学者・地質学者(+[[1999年]]) * [[1913年]] - [[モーリス・ウィルクス]]、[[計算機科学]]者(+[[2010年]]) * [[1914年]] - [[ヴォルフガング・ヴィントガッセン]]、[[テノール]][[歌手]](+ [[1974年]]) * [[1916年]] - [[武田隆夫]]、[[経済学者]](+ [[1986年]]) * [[1921年]] - [[新堀通也]]、教育学者、[[広島大学]]名誉教授、[[武庫川女子大学]]名誉教授(+[[2014年]]) * [[1923年]] - [[景浦賢一]]、元[[プロ野球選手]](+ 没年不詳) * [[1924年]] - [[三木鮎郎]]、[[ジャズ]]評論家、[[司会者]](+ [[1997年]]) * [[1925年]] - [[パーヴェル・ベリャーエフ]]、[[宇宙飛行士]](+ [[1970年]]) * 1925年 - [[杉本苑子]]、小説家(+ [[2017年]]) * [[1927年]] - [[中村竜三郎]]、俳優 * [[1928年]] - [[中松義郎]](ドクター中松)、[[発明家]] * 1928年 - [[カムプーン・ブンタウィー]]、小説家(+ [[2003年]]) * [[1929年]] - [[ジューン・ブロンヒル]]、[[ソプラノ歌手]](+ [[2005年]]) * [[1930年]] - [[森本三男]]、経営学者、[[青山学院大学]]名誉教授 * [[1931年]] - [[鈴木保巳]]、競輪評論家(+[[2008年]]) * 1931年 - [[コリン・ウィルソン]]、[[作家]](+ [[2013年]]) * [[1932年]] - [[村上幹夫]]、俳優(+[[2018年]]) * 1932年 - [[石井連藏]]、アマチュア野球指導者(+[[2015年]]) * [[1933年]] - [[クラウディオ・アバド]]、[[指揮者]](+ [[2014年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3006920 |title=イタリアの名指揮者、クラウディオ・アバド氏死去 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |date=21 Jan 2014 |website=AFP BB News}}</ref>) * [[1935年]] - [[白川澄子]]、[[声優]](+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/11/27/0008601526.shtml |title=白川澄子さん 死因はくも膜下出血 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[デイリースポーツ]] |date=27 Nov 2015}}</ref>) * [[1936年]] - [[津久井督六]]、実業家 * [[1937年]] - [[レジー・ワークマン]]、[[ジャズ]][[ベーシスト]] * [[1940年]] - [[宮地正介]]、政治家 * 1940年 - [[出崎哲]]、[[アニメーション]]監督 * 1940年 - [[大山うさぎ]]、[[俳優#性別での分類|女優]] * 1940年 - [[扇田昭彦]]、[[演劇]][[評論家]]、記者(+ [[2015年]]) * 1940年 - [[ジェリー藤尾]]、[[歌手]]、[[俳優]](+ [[2021年]]) * [[1941年]] - [[酒井清孝]]、理工学者、[[早稲田大学]][[名誉教授]] * 1941年 - [[渡辺茂夫]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1999年]]) * 1941年 - [[タマラ・モスクビナ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1942年]] - [[斎藤努]]、[[アナウンサー]] * 1942年 - [[三好守]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]]) * [[1943年]] - [[山田満知子]]、元フィギュアスケート選手 * 1943年 - [[ワレン・ファレル]]、[[社会学者]] * [[1946年]] - [[菊池夏樹]]、雑誌編集者 * [[1947年]] - [[梅田穰]]、[[政治家]] * 1947年 - [[加賀城みゆき]]、歌手(+[[1991年]]) * [[1949年]] - [[マーゴット・グロクシュバー]]、フィギュアスケート選手 * [[1950年]] - [[小堀勝啓]]、アナウンサー * 1950年 - [[松井優典]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[太田房江]]、政治家、第50・51代[[大阪府知事一覧|大阪府知事]] * 1951年 - [[猿丸雅之]]、実業家 * [[1952年]] - [[松久三四彦]]、法学者、[[北海道大学]][[名誉教授]] * [[1953年]] - [[伊藤俊治]]、美術評論家 * [[1955年]] - [[松岡裕紀]]<ref>{{Cite book|和書 |title=日本音声製作者名鑑2007 |page=294 |publisher=[[小学館]] |year=2007 |isbn=978-4-09-526302-1}}</ref>、音響監督 * 1955年 - [[具志堅用高]]、元[[プロボクサー]] * 1955年 - [[堀場秀孝]]、元プロ野球選手 * 1955年 - [[フィリップ・ストレイフ]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](+ [[2022年]]) * [[1956年]] - [[角盈男]]、元プロ野球選手、[[タレント]] * 1956年 - [[阿久津幸彦]]、政治家 * 1956年 - [[クリス・アイザック]]、[[歌手]] *[[1957年]] - [[あたか誠]]、[[声優]] *1957年 - [[田口洋美]]、民俗学者 *[[1960年]] - [[高橋彩夏]]、女優 *[[1961年]] - [[桂三風]]、落語家 * 1961年 - [[鍋屋道夫]]、元プロ野球選手 * 1961年 - [[グレッグ・レモン]]、自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * [[1962年]] - [[藤田勉]]、ドラマー([[PERSONZ]]) * [[1963年]] - [[村岡克彦]]、映画プロデューサー * 1963年 - [[ファルフ・ルジマートフ]]、[[バレエ]]ダンサー * [[1964年]] - [[橋本哲也]]、高校野球指導者 * 1964年 - [[寺西睦]]、政治家 * 1964年 - [[松吉ゆかり]]、報道記者、元アナウンサー * 1964年 - [[森田宏幸]]、[[アニメーション]]監督 * 1964年 - [[トミ・マキネン]]、[[ラリー]]ドライバー * [[1965年]] - [[甲本雅裕]]、俳優 * 1965年 - [[脇坂真人]]、ミュージカル俳優 * 1965年 - [[廣田直敬]]、アナウンサー * 1965年 - [[黒田雅史]]、実業家 * 1965年 - [[比嘉良智]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[エマヌエーレ・クリアレーゼ]]、[[脚本家]]、[[映画監督]] * [[1966年]] - [[山本スーザン久美子]]、元アイドル * 1966年 - [[皆口裕子]]、声優 * [[1967年]] - [[河村亮]]、アナウンサー(+ [[2022年]]) * 1967年 - [[麻生かほ里]]、声優 * 1967年 - [[ランコ・ポポヴィッチ]]、元サッカー選手、指導者 * [[1968年]] - [[千葉一伸]]、声優 * 1968年 - [[パオロ・マルディーニ]]、元[[サッカー選手]] * [[1969年]] - [[鳥越規央]]、統計学者 * 1969年 - [[コリン・グリーンウッド]]、ミュージシャン([[レディオヘッド]]) * 1969年 - [[ロドニー・マイヤーズ]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[許斐剛]]、[[漫画家]] * 1970年 - [[奥井隆一]]、俳優 * [[1971年]] - [[仲村知夏]]、元[[歌手]] * [[1971年]] - [[青野慶久]]、実業家 * 1971年 - [[本多洋]]、元バレーボール選手 * 1971年 - [[マックス・ビアッジ]]、元[[オートバイ]]レーサー * 1971年 - [[グレッグ・ブロッサー]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[多治見麻子]]、[[バレーボール]]選手 * 1972年 - [[一ノ瀬響]]、作曲家 * 1972年 - [[南竜次]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[養父鐵]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[植木紀世彦]]、俳優 * 1974年 - [[杉山裕太郎]]、歌手 * 1974年 - [[有村國知]]、政治家 * 1974年 - [[デレク・ジーター]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[ジェイソン・ケンドール]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[小柳洋子]]、女優、声優 * [[1977年]] - [[久保帯人]]、漫画家 * 1977年 - [[小林美幸]]、アナウンサー * [[1978年]] - 溝口亜紀、女優 * 1978年 - [[ニール・ウィルソン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1979年]] - [[神崎ちろ]]、声優、プロ雀士 * 1979年 - [[道端カレン]]、[[ファッションモデル]] * 1979年 - [[佐藤友紀 (野球)|佐藤友紀]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[相澤国之]]、元プロボクサー * 1979年 - [[ルイス・ゴンザレス (内野手)|ルイス・ゴンザレス]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[アウデス・デ・レオン]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[ライアン・テダー]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ワンリパブリック|ワン・リパブリック]]) * [[1980年]] - [[熊本梨佳]]、[[ローカルアイドル]](元[[サンフラワー (アイドルグループ)|サンフラワー]]) * 1980年 - [[マイケル・ヴィック]]、[[NFL]]選手 * [[1981年]] - [[鳥谷敬]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[杉山哲]]、サッカー選手 * 1981年 - [[パオロ・カンナヴァーロ]]、サッカー選手 * 1981年 - [[井本みさお]]、元タレント * 1981年 - [[近藤佳奈子]]、声優、歌手 * 1981年 - [[金熙虎]]、サッカー指導者(+ [[2021年]]) * [[1982年]] - [[塩地美澄]]、[[フリーアナウンサー]]、[[グラビアアイドル]] * 1982年 - [[関口美穂]]、競輪選手 * 1982年 - [[近澤昌志]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[倉石圭二]]、元サッカー選手 * [[1983年]] - [[豊ノ島大樹]]、元大相撲力士、[[年寄]]16代[[井筒 (相撲)|井筒]] * [[1984年]] - [[橋本ありす]]、アナウンサー * 1984年 - [[巻佑樹]]、サッカー選手 * 1984年 - [[横山徹也]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[大原淳也]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[増井浩俊]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[ユリヤ・テプリヒ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1985年]] - [[明日海りお]]、女優、元[[宝塚歌劇団]][[花組]]トップスター * 1985年 - [[雨宮俊介]]、元ラグビー選手 * 1985年 - [[平石健太]]、元サッカー選手 * 1985年 - [[近森裕佳]]、元バスケットボール選手 * 1985年 - [[福見友子]]、元柔道家 * [[1986年]] - [[三木秀甫]]、俳優 * 1986年 - [[マイケル・コーン]]、プロ野球選手 * [[1987年]] - [[澤本幸秀]]、ファッションモデル * 1987年 - [[五十嵐希 (モデル)|五十嵐希]]、ファッションモデル * 1987年 - [[蔦宗正人]]、スタントマン、俳優、スーツアクター * 1987年 - [[サミル・ナスリ]]、サッカー選手 * [[1988年]] - [[中西里菜]]、元アイドル(元[[AKB48]]) * 1988年 - [[田代真一]]、サッカー選手 * 1988年 - [[春野恵]]、タレント、グラビアアイドル * 1988年 - [[りんごちゃん (ものまねタレント)|りんごちゃん]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20191227-OHT1T50209.html?page=1 |title=りんごちゃん、「りんご31個分」と表現の年齢聞かれ「88年生まれってことでいいですよ~」 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[スポーツ報知]] |date=27 Dec 2019}}</ref>、[[ものまねタレント]] * [[1989年]] - [[上鶴徹]]、俳優 * 1989年 - [[初原千絵]]、声優 * 1989年 - [[横江千秋]]、バレーボール選手 * [[1990年]] - [[松原稜典]]、アナウンサー * 1990年 - [[郡司恭子]]、アナウンサー * 1990年 - [[高橋春花]]、アナウンサー * 1990年 - [[小林太郎]]、[[シンガーソングライター]] * 1990年 - 加賀谷秀明、お笑いタレント([[フタリシズカ (お笑いコンビ)|フタリシズカ]]) * 1990年 - [[戸狩聡希]]、元野球選手 * 1990年 - [[イリナ・モウチャン]]、フィギュアスケート選手 * [[1991年]] - [[花江夏樹]]、声優 * 1991年 - [[当麻創太]]、俳優、モデル * 1991年 - [[熊本秀生]]、囲碁棋士 * [[1992年]] - [[松岡千夏]]、女優、声優 * 1992年 - [[内藤惟人]]、ミュージシャン、元[[子役]] * 1992年 - 秋本麗奈、元アイドル([[Prism (アリスプロジェクト)|Prism]]) * 1992年 - [[ジェネット・マッカーディ]]、女優 * [[1993年]] - [[佐藤美希]]、ファッションモデル、タレント * 1993年 - [[中島ヨシキ]]、声優 * 1993年 - [[渡部愛]]、将棋棋士 * 1993年 - [[渡邊翔太]]、プロバスケットボール選手 * 1993年 - [[郡司英里沙]]、元モデル * 1993年 - [[吉本祥二]]、元プロ野球選手 * 1993年 - [[アリアナ・グランデ]]、歌手、女優 * [[1994年]] - [[山田義貴]]、野球選手 * [[1995年]] - [[松村芽久未]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mittma.com/profile/megumi_matsumura/ |title=松村芽久未 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=MITT MANAGEMENT}}</ref>、女優、声優(元[[NMB48]]) * [[1996年]] - [[及川真夢]]、バレーボール選手 * 1996年 - 児玉せりか、女優、元アイドル(元Jewel Kiss、元[[Momograci|桃色革命]]) * [[1997年]] - [[武藤弘樹]]、[[アーチェリー]]選手 * 1997年 - 畠山智輝、ボウリング選手 * 1997年 - [[伊藤達哉]]、サッカー選手 * 1997年 - 岡田栞奈、アイドル(元[[HKT48]]) * 1997年 - 田口未彩、アイドル ([[アキシブproject]]) * [[1998年]] - [[田中有紀]]、声優 * 1998年 - [[村川凪]]、プロ野球選手 * 1998年 - [[上田航平]]、サッカー選手 * 1998年 - [[中上海輔]]、元子役 * 1998年 - 歩弓、元アイドル([[NICE GIRL プロジェクト!]]) * 1998年 - [[島孝明]]、元プロ野球選手 * 1998年 - [[パウロ・エンヒキ・ペレイラ・ダ・シウヴァ]]、サッカー選手 * [[1999年]] - [[加藤小夏]]、女優 * 1999年 - [[伊藤洸貴]]、バレーボール選手 * [[2000年]] - [[野村佑希]]、プロ野球選手 * 2000年 - [[野寄和哉]]、サッカー選手 * 2000年 - [[折原裕香]]、フィギュアスケート選手 * [[2001年]] - [[大友海]]、俳優 * 2001年 - [[高橋真広]]、サッカー選手 * [[2002年]] - 一ノ瀬広乃、アイドル([[令和☆フェアリー]]) * [[2004年]] - [[髙野秀哉]]、サッカー選手 * 2004年 - 三宅龍人、サッカー選手 * 2004年 - 小越春花、アイドル([[NGT48]]) * [[2005年]] - [[アレクシア・ファン・オラニエ=ナッサウ]]、[[オランダ]]の王族 * 生年不明 - [[未涼亜希]]、女優 * 生年不明 - [[妃華ゆきの]]、女優 * 生年不明 - [[中村理恵 (ピアニスト)|中村理恵]]、ピア二スト * 生年不明 - [[山崎千裕]]、トランペット奏者 * 生年不明 - [[Shima-chang]]、ベーシスト([[すかんち]]) * 生年不明 - [[山口つばさ]]、漫画家 * 生年不明 - [[千晶まひろ]]、声優 * 生年不明 - [[水原薫]]、声優 == 忌日 == {{multiple image | footer = [[天台宗]]開祖、[[最澄]](767-822)没。[[書]]にも優れた | image1 = %E6%9C%80%E6%BE%84%E5%83%8F_%E4%B8%80%E4%B9%97%E5%AF%BA%E8%94%B5_%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3.jpg | width1 = 80 | alt1 = 最澄 | image2 = Jyodoinn5799.jpg | width2 = 100 | alt2 = 浄土院、伝教大師の廟所、滋賀県大津市比叡山延暦寺 }} {{multiple image | footer = [[インカ帝国]]を征服した[[コンキスタドール]]、[[フランシスコ・ピサロ]](-1541)暗殺 | image1 = Francisco-Pizarro-um1540.png | width1 = 85 | alt1 = フランシスコ・ピサロ | image2 = Pizarro_tomb.jpg | width2 = 95 | alt2 = リマ大聖堂にある棺 }} {{multiple image | caption1 = 画家[[アルマン・ギヨマン]](1841-1927) | image1 = Armand_Guillaumin%2C_selfportrait%2C_1878.jpg | width1 = 90 | alt1 = 画家アルマン・ギヨマン | caption2 = 韓国の独立運動家[[金九]](1876-1949)、[[安斗煕]]にピストルで射殺 | image2 = Kim_Gu_in_1949.jpg | width2 = 90 | alt2 = 韓国の独立運動家金九 }} * [[822年]]([[弘仁]]13年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[最澄]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tendai.or.jp/rekishi/sou-hito.php |title=宗祖伝教大師 最澄 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=一隅を照らす 天台宗}}</ref>、日本[[天台宗]]開祖(* [[767年]]) * [[1332年]]([[元弘]]2年/[[正慶]]元年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[日野俊基]]、[[公家]] * [[1536年]]([[天文 (元号)|天文]]5年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[福島正成]]、[[北条綱成]]の父(* [[1492年]]) * [[1541年]] - [[フランシスコ・ピサロ]]、[[コンキスタドール]](* [[1471年]]) * [[1785年]] - [[ヨハン・ゲルハルト・ケーニヒ]]、[[医師]]、[[植物学者]](* [[1728年]]) * [[1793年]] - [[ギルバート・ホワイト]]、[[博物学者]](* [[1720年]]) * [[1795年]]([[寛政]]7年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]])- [[長谷川宣以]](長谷川平蔵)、[[旗本]](* [[1745年]]) * [[1830年]] - [[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]、[[イギリス]]王(* [[1782年]]) * [[1877年]] - [[山田方谷]]、[[儒家]]、[[陽明学|陽明学者]](* [[1805年]]) * [[1899年]] - [[大木喬任]]、政治家(* [[1832年]]) * [[1919年]] - [[ミハイル・ツヴェット]]、植物学者(* [[1872年]]) * [[1927年]] - [[アルマン・ギヨマン]]、[[画家]]、[[版画家]](* [[1841年]]) * [[1934年]] - [[内藤湖南]]、[[歴史家]](* [[1866年]]) * [[1943年]] - [[カール・ラントシュタイナー]]、病理学者(* [[1868年]]) * [[1949年]] - [[金九]]、[[朝鮮]]の独立運動家(* [[1876年]]) * [[1952年]] - [[福田正夫]]、[[詩人]](* [[1893年]]) * [[1954年]] - [[福井英一]]、[[漫画家]](* [[1921年]]) * [[1956年]] - [[クリフォード・ブラウン]]、[[ジャズ]]ミュージシャン(* [[1930年]]) * [[1967年]] - [[フランソワーズ・ドルレアック]]、[[俳優|女優]](* [[1942年]]) * [[1971年]] - [[フアン・マネン]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1883年]]) * [[1982年]] - [[アンジェイ・チャイコフスキ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1935年]]) * [[1986年]] - [[前川國男]]、[[建築家]](* [[1905年]]) * [[1993年]] - [[ロイ・キャンパネラ]]、元プロ野球選手(* [[1921年]]) * [[1997年]] - [[イズラエル・カマカヴィヴォオレ]]、ハワイアンシンガー(* [[1959年]]) * [[2003年]] - [[マルク=ヴィヴィアン・フォエ]]、[[サッカー選手]](* [[1975年]]) * 2003年 - [[ストロム・サーモンド]]、[[サウスカロライナ州知事]](* [[1902年]]) * [[2005年]] - [[林由美香]]、[[AV女優]](* [[1970年]]) * [[2006年]] - [[フレデリック・マイヤー]]、[[教育学者]]、[[哲学者]](* [[1921年]]) * [[2012年]] - [[塚越孝]]、[[アナウンサー]](* [[1955年]]) * [[2013年]] - [[ジャスティン・ミラー (1977年生の投手)|ジャスティン・ミラー]]、プロ野球選手(* [[1977年]]) * [[2014年]] - [[ハワード・H・ベーカー・ジュニア]]、政治家(* [[1925年]]) * [[2016年]] - [[菅原チネ子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2074175/full/ |title=女優の菅原チネ子さん死去 『渡る世間は鬼ばかり』などに出演 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=28 Jun 2016 |accessdate=3 Apr 2023}}</ref>、女優(* [[1938年]]) * [[2019年]] - [[菅原喜重郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46659600X20C19A6CZ8000/ |title=菅原喜重郎氏が死去 元衆院議員 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=27 Jun 2019 |accessdate=3 Apr 2023}}</ref>、政治家(* [[1926年]]) * 2019年 - [[高島忠夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM6X3WJVM6XUTFL008.html?iref=comtop_8_01 |title=俳優の高島忠夫さん、老衰で死去 88歳 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=28 Jun 2019}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201906280000267.html |title=高島忠夫さん死去 老衰88歳 家族のみで密葬 |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=28 Jun 2019}}</ref>、俳優(* [[1930年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Lightning over Oradea Romania 2.jpg|thumb|[[雷]]記念日|270x270ピクセル]] [[Image:Compasses orienteering.jpg|thumb|180x180px|[[オリエンテーリング]]の日]] [[Image:Abu Ghraib 17a.jpg|thumb|180x180px|拷問の犠牲者を支援する国際デー。画像は[[アブグレイブ刑務所]]での米軍によるイラク兵の[[拷問]](2003)]] [[Image:Diverse torture instruments.jpg|thumb|229x229px|拷問の犠牲者を支援する国際デー。画像は[[ ニュルンベルク]]で用いられた[[拷問]]道具]] * [[雷]]記念日({{JPN}}) *: [[930年]](延長8年)[[6月26日 (旧暦)|6月26日]](旧暦)、平安京の[[清涼殿]]に落雷があり、大納言・[[藤原清貫]]他朝廷の要人に多くの死傷者が出た([[清涼殿落雷事件]])。そして落雷を目撃した[[醍醐天皇]]も体調を崩し、3ヶ月後に崩御。この事件を目撃した人々は、[[藤原時平]]の策略によって太宰府に左遷され亡くなった[[菅原道真]]の[[祟り]]と信じ、人々は菅原道真を手厚く祀って怒りを鎮めることにした。そして947(天暦元)年、菅原道真は北野社に[[天満大自在天神|天神]](雷神)として祀られることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/48423 |title=菅原道真はなぜ「天神様」と呼ばれるようになったのか? 雷記念日 {{!}} 6月26日 |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]] JAPAN |date=26 Jun 2022}}</ref>。 * [[オリエンテーリング]]の日({{JPN}}) *: [[1966年]]のこの日、東京・[[高尾山]]で日本初のオリエンテーリングが行われたことを記念。 * 世界格闘技の日({{JPN}}) *: 格闘技の魅力をより多くの人に知らせるため、総合格闘技団体[[イノキ・ゲノム・フェデレーション]]が制定。日付は、[[1976年]]6月26日、[[アントニオ猪木]]VS[[モハメド・アリ]]の格闘技戦が行われたことにちなむ<ref>{{Cite book|和書 |editor=加瀬清志 |title=366日記念日事典 上 |publisher=[[創元社]] |year=2020 |page=212 |isbn=978-4422021140}}</ref>。 * [[露天風呂]]の日({{JPN}}) *: [[1987年]](昭和62年)6月26日に[[岡山県]]の[[湯原温泉]]が制定。「ろ(6)てん(・)ぶ(2)ろ(6)」という語呂合わせ。 * スティッチの日({{JPN}}) *: [[2002年]]に公開されたアニメーション映画『[[リロ・アンド・スティッチ]]』の主人公「スティッチ」の記念日。[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]株式会社が制定。作中でスティッチが「エイリアンの試作品'''626号'''」とされていることから6月26日を記念日とした。 * [[黒部ダム]]観光放水開始({{JPN}}) *: [[富山県]][[立山町]]の黒部ダムでは、[[黒部峡谷]]の景観維持を目的に、毎年この日からから[[10月15日]]まで観光放水を実施する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kurobe-dam.com/kankou/housui.html |title=黒部ダム観光放水について |access-date=14 Aug 2023 |publisher=[[関西電力]]}}</ref>。 *国連憲章調印記念日({{World}}) *: 日本国際連合協会が制定。[[1945年]]のこの日、[[国際連合憲章]]に50か国以上が調印し、国際連合の設立が決定したことを記念。国連憲章が発効し国連が発足した[[10月24日]]は「国連の日」となっている。 *[[独立記念日]]({{MDG}}) *: [[1960年]]のこの日、マダガスカルが[[フランス]]から独立したことを記念。 * [[国際麻薬乱用・不正取引防止デー]]({{World}}) *: [[1987年]]12月の国連総会で制定された[[国際デー]]の一つ。1987年のこの日、薬物乱用・不正取引防止に関する国際会議で「薬物乱用統制における将来の活動の包括的多面的概要」が採択されたことを記念。 *{{仮リンク|拷問の犠牲者を支援する国際デー|en|International Day in Support of Victims of Torture}}({{World}}) *: [[1997年]]12月の国連総会で制定された国際デーの一つ。[[1984年]]のこの日、[[拷問等禁止条約]]が発効したことを記念。 {{Clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0626|date=2023年4月}} * [[2010年]] - リバー・ソングが[[エイミー・ポンド]]の家に降り立つ。パンドリカ及びローマ兵がエイミーの記憶から作り出されたものであると判明する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - 網野解音、アニメ『[[ナゾトキネ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|nazotokine|1408701195103858688}}</ref> * 生年不明 - 地劣星エルフのミルズ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|saintseiya_rc|1540711422623191041}}</ref> * 生年不明 - ゼウス、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Zeus.html |title=ゼウス |work=『ONE PIECE』 |accessdate=3 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 次郎坊、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=99|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-873734-8}}</ref> * 生年不明 - 桂小太郎、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20210626-1910593/ |title=「銀魂」桂仕様のバースデーテディベア登場、小さなエリザベスも誕生日をお祝い |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[マイナビニュース]] |date=26 Jun 2021}}</ref> * 生年不明 - 木虎藍、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|746719859157962753}}</ref> * 生年不明 - ピクシーボブ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-17/ |title=ピクシーボブ |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=3 Apr 2023 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 藤原萌葉、漫画・アニメ『[[かぐや様は告らせたい]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 三橋瑠里、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oofuri.com/1st/chara/mihoshi.html |title=三星学園|三橋 瑠里 |publisher=[[ひぐちアサ]]・[[講談社]]/おお振り製作委員会 [[アニプレックス|Aniplex Inc.]] |accessdate=3 Apr 2023 |work=『おおきく振りかぶって』}}</ref> * 生年不明 - 闇雲那魅、漫画・アニメ『[[サイレントメビウス]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 黒崎朝美、漫画・アニメ『[[まほらば]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 伊集院運子、漫画・アニメ『[[ひめゴト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=佃煮のりお|authorlink=佃煮のりお|date=2014-04-19|title=ひめゴト|volume=2|series=IDコミックス わぁい!コミックス|pages=138|publisher=[[一迅社]]|isbn=978-4-7580-1368-0}}</ref> * 生年不明 - 相模南、小説・アニメ『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_oregairu|1541302096875909120}}</ref> * 生年不明 - 由多次人、アニメ・漫画『[[キズナイーバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kiznaiver.jp/character/yuta.html |title=由多次人 |accessdate=3 Apr 2023 |publisher=[[トリガー (アニメ制作会社)|TRIGGER]]・[[岡田麿里]]/キズナイーバー製作委員会 |work=『キズナイーバー』}}</ref> * 生年不明 - 神楽マキ、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof2003/character/boss_maki.html |title=神楽マキ |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[SNK (1978年設立の企業)|PLAYMORE]] |work=『THE KING OF FIGHTERS 2003』}}</ref> * 生年不明 - 神楽ちづる、ゲーム『ザ・キング・オブ・ファイターズ』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.snk-corp.co.jp/official/kof-xv/characters/characters_chizuru.php |title=神楽ちづる |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[SNK (1978年設立の企業)|SNK CORPORATION]] |work=『THE KING OF FIGHTERS XV』}}</ref> * 生年不明 - ククル・リル・ワイト、ゲーム・アニメ『[[アークザラッド]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - エリュマルク・ディンガル、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ウィーズ先生、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|qma_staff|614259301650071552}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=207 |title=ウィーズ |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[コナミグループ|KONAMI]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref> * 生年不明 - 有坂秋桜里、ゲーム・漫画・アニメ『[[グリザイア|グリザイア:ファントムトリガー THE ANIMATION]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://grisaia-pt.com/gptanime/character/arisaka |title=有坂秋桜里 CV:井澤美香子 |publisher=Frontwing |accessdate=3 Apr 2023 |work=『グリザイア:ファントムトリガー THE ANIMATION』}}</ref> * 生年不明 - 戸村美知留、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130502_160182/ |title=【ガールフレンド(仮)通信30】茶目っ気たっぷりコスプレ少女 戸村美知留ちゃん(CV:阿澄佳奈) |access-date=3 Apr 2023 |publisher=ファミ通App |date=2013-05-02}}</ref> * 生年不明 - ハンドレッコ、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://showbyrock-anime-s.com/character/32.php |title=ハンドレッコ |access-date=3 Apr 2023 |publisher=[[サンリオ|SANRIO CO., LTD.]] SHOWBYROCK!!製作委員会M |work=『SHOW BY ROCK!! 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6月27日
6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。
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{{カレンダー 6月}} '''6月27日'''(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から178日目([[閏年]]では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。 == できごと == <!-- 記事に日付のないもの:来目皇子,新羅,鹿ケ谷事件,藤原成親,俊寛,ヌーベルフランス,日本銀行, --> [[Image:George_II_at_Dettingen.jpg|thumb|[[デッティンゲンの戦い]](1743)。イギリス国王(画像の[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]])が自ら戦闘に参加した史上最後の例]] <!-- [[Image:%E7%AE%B1%E9%A4%A8%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BE%9B%E9%A4%8A%E5%A1%94.jpg|thumb|upright|[[箱館戦争]]終結(1869)]] --> [[Image:1yenM4.jpg|thumb|[[新貨条例]]制定(1871)。画像は1円金貨]] <!-- [[Image:Obninsk-AES.jpg|thumb|[[オブニンスク]]で世界初の商用[[原子力発電所]]が運転開始(1956)]] --> * [[602年]]([[推古天皇]]10年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[来目皇子]]の病により[[新羅]]征討が中止。 * [[678年]] - [[アガト (ローマ教皇)|聖アガト]]が[[ローマ教皇]]に即位。 * [[1177年]]([[治承]]元年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[鹿ケ谷の陰謀]]で[[藤原成親]]・[[俊寛]]らが[[流罪]]になる。 * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]] - [[元弘の乱]]: [[分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い]]。 * [[1743年]] - [[オーストリア継承戦争]]: [[デッティンゲンの戦い]]。史上最後のイギリス国王が自ら戦闘に参加した戦い。 * [[1759年]] - [[七年戦争]]: [[ジェームズ・ウルフ]]率いるイギリス軍が[[ヌーベルフランス]]の首府[[ケベック・シティー|ケベック]]の包囲を開始。 * [[1787年]]([[天明]]7年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]] - [[天明の大飢饉]]: 天明の[[打ちこわし]]。大坂の庶民が米屋を襲撃。 * [[1841年]]([[天保]]12年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]] - 幕命により江戸・徳丸原で砲術家・[[高島秋帆]]が洋式軍事演習を行う。 * [[1844年]] - [[末日聖徒イエス・キリスト教会]]創始者の[[ジョセフ・スミス・ジュニア]]が[[イリノイ州]][[カーセッジ (イリノイ州)|カーセッジ]]で暴徒との銃撃戦により死亡。 ([[:en:Death of Joseph Smith, Jr.]]) * [[1863年]]([[文久]]3年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]] - [[伊藤博文]]・[[井上馨]]ら長州藩士5人が英国留学のため密出国。 * [[1869年]]([[明治]]2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[戊辰戦争]]: [[箱館戦争]]終結。新政府軍と旧幕府軍との戦いが終わる。 * [[1871年]](明治4年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[新貨条例]]公布。貨幣の名称を「[[円 (通貨)|円]]・[[銭]]・[[厘]]」とし十進法を採用。旧1両を1円とする。 * [[1882年]] - 「[[日本銀行]]条例」公布。 * [[1894年]] - [[ジャン・カジミール=ペリエ]]が[[フランス第三共和政]]の第5代[[フランスの大統領|大統領]]に就任。 * [[1898年]] - {{仮リンク|ジョシュア・スローカム|en|Joshua Slocum}}が史上初の単独[[世界一周]]を達成。 * [[1905年]](ユリウス暦[[6月14日]]) - ロシアで[[ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)|戦艦ポチョムキン]]の水兵が蜂起する。 * [[1927年]] - [[東方会議 (1927年)|東方会議]]開催([[7月7日]]まで)。政府が中国関連の外交官・軍当局者らを東京に招集し、対中国政策についての方針を決定。 * [[1931年]] - [[中村大尉事件]]が起こる。 * [[1949年]] - [[秋田県]][[脇本村]]の海岸に漂着した[[機雷]]が爆発。死亡8人、重軽傷4人、家屋全壊10戸<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=72 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1950年]] - [[朝鮮戦争]]: [[保導連盟事件]]。[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]弾劾決議案が可決される。 * 1950年 - 朝鮮戦争: [[ハリー・S・トルーマン]]米大統領が議会の議決を経ずに北朝鮮に[[宣戦布告]]し、陸海軍に出動を命令。 * [[1961年]] - [[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]からの第4次集団引揚げ船[[上海丸]]が元軍人5名を乗せて[[ハイフォン]]より[[北九州港|門司港]]へ入港する。最後の集団引揚げが終焉する。 * [[1967年]] - [[ロンドン]]のバークレー銀行に世界初の[[現金自動預け払い機|ATM]]が設置。 * [[1968年]] - [[チェコスロバキア]]で[[二千語宣言]]が公表される。 * [[1971年]] - [[第9回参議院議員通常選挙]]。 * [[1974年]] - アメリカ大統領[[リチャード・ニクソン]]がソ連を訪問。 * [[1976年]] - テルアビブ発パリ行きの[[エールフランス]]機が[[ハイジャック]]され、[[ウガンダ]]の[[エンテベ国際空港]]に強制着陸。[[7月3日]]の[[エンテベ空港奇襲作戦]]により人質を救出。 * [[1977年]] - [[ジブチ]]が[[フランス]]から独立。[[ハッサン・グレド・アプティドン]]が大統領に就任。 * [[1980年]] - [[イタリア]]・[[シチリア島]]近海で[[イタビア航空870便事件|イタビア航空機が墜落]]。 * [[1983年]] - [[練馬一家5人殺害事件]]。 * [[1985年]] - [[恩賜上野動物園|上野動物園]]の[[ジャイアントパンダ]]・ホアンホアンが人工受精で第一子を出産。初初(チュチュ)と命名されるが、29日に母親の下敷きになって死亡。 * [[1990年]] - [[スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律]]が公布・施行。 * [[1991年]] - [[ユーゴスラビア紛争]]: 2日前の[[スロベニア]]の[[ユーゴスラビア]]からの独立宣言により、[[十日間戦争]]が勃発。 * [[1992年]] - [[朝日新聞]]夕刊で連載されていた[[4コマ漫画]]『[[ペエスケ]]』が、作者・[[園山俊二]]の病気療養によりこの日を最後に休載、そのまま打ち切りとなる。 <!-- 列車の引退をいちいち書いていたらキリがないような * [[1993年]] - [[京成電鉄]]の[[京成AE形電車 (初代)|AE車(初代スカイライナー)]]の運転をこの日の[[さよなら運転]]を持って終了する。 --> * [[1994年]] - [[長野県]][[松本市]]で[[サリン]]ガスによる中毒事件、死者7人・重軽症者144人。([[松本サリン事件]]) <!-- 27日は保健所に通報された日。発生は25日 * [[2000年]] - [[大阪市]][[都島区]]の[[雪印乳業]]大阪工場で生産された[[乳製品|乳製品(低脂肪乳)]]による集団食中毒発生([[雪印集団食中毒事件]])。 --> * [[2001年]] - [[国際司法裁判所]]が[[1999年]]に米・[[アリゾナ州]]で行われたドイツ人の処刑は「裁判所の処刑延期判決を無視したものであり不当である」とする判決を下す。 * [[2005年]] - [[上皇明仁|天皇]]と[[上皇后美智子|皇后]]が[[太平洋戦争]]の激戦地[[サイパン島]]を訪問<ref>{{Cite web|和書|date=2005-06-28 |url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/287825/1 |title=日王、戦争責任に沈黙…追悼を前面に |publisher=東亜日報 |accessdate=2020-06-27}}</ref>。 * [[2018年]] - 小惑星探査機[[はやぶさ2]]が小惑星[[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]上空に到着<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180628/k00/00m/040/114000c|title=はやぶさ2リュウグウ到着「これから人類未踏の探査に」|newspaper=毎日新聞社|date=2018-06-27|accessdate=2020-06-27}}</ref>。 * 2018年 - [[FIFAワールドカップ]]: [[サッカードイツ代表]]がグループリーグ方式が導入されて以降初のグループリーグ敗退<ref>{{Cite web|和書|title=3大会連続の「前回王者グループリーグ敗退」。14年覇者ドイツもW杯の魔物に呑まれる【ロシアW杯|url=https://www.footballchannel.jp/2018/06/28/post278115/|website=フットボールチャンネル|date=2018-06-28|accessdate=2020-06-27|language=ja}}</ref>。 * [[2020年]] - 囲碁の[[芝野虎丸]]棋士が、史上最年少の20歳7ヶ月で3冠(名人・王座・十段)に就任する<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200627003813/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020062601009&g=soc|title=芝野が史上最年少三冠 十段奪取、20歳7カ月―囲碁|publisher=[[時事通信社]]|date=2020-06-26|accessdate=2020-06-27}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == [[Image:Louis_XII_de_France.jpg|thumb|100px|フランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]](1462-1515)誕生]] [[Image:Fran%C3%A7ois_Clouet_005.jpg|thumb|100px|フランス王[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]](1550-1574)誕生]] [[Image:AugustusDeMorgan.png|thumb|100px|数学者[[オーガスタス・ド・モルガン]](1806-1871)誕生。[[ド・モルガンの法則]]の発案者]] [[Image:Lafcadio Hearn portrait.jpg|thumb|upright|200px|作家・日本研究家、[[小泉八雲]](1850-1904)誕生。{{Squote|[[日本人]]の[[愛|愛情]]は言葉としては発されない。口調に現れることすら稀である。それは緻密な親切と思いやりの行為という形で主に現れる。――『東の国より/心』(1895)}}]] [[Image:Helen_KellerA.jpg|thumb|upright|三重苦の社会福祉事業家、[[ヘレン・ケラー]](1880-1968)誕生。{{Squote|幸福への1つの扉が閉じる時、別の扉が開きます。けれども私達はしばしば閉じた扉をいつまでも見ているので、開かれた扉が目に入らないのです。――『We Bereaved』(1929)}}]] [[Image:Portrait_Emma_Goldman.jpg|thumb|100px|[[アナキスト]]・[[フェミニスト]]、[[エマ・ゴールドマン]](1869-1940)。{{Squote|夢と希望の自由な表現は、正気な社会における最大かつ唯一の安全装置である。――『自分の人生を生きる』(1931)}}]] [[Image:James_P._Hogan_2005.JPG|thumb|100px|[[サイエンス・フィクション|SF]]作家、[[ジェイムズ・P・ホーガン]](1941-2010)]] [[Image:Mary_McAleese.jpg|thumb|100px|[[アイルランド]]第8代大統領[[メアリー・マッカリース]](1951-)]] * [[1462年]] - [[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Louis-XII Louis XII king of France] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[フランス王国|フランス王]](+ [[1515年]]) * [[1550年]] - [[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]、フランス王(+ [[1574年]]) * [[1698年]]([[元禄]]11年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[宇野明霞]]、[[儒学者]](+ [[1745年]]) * [[1736年]]([[元文]]元年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]])- [[伊東長詮]]、第7代[[岡田藩|岡田藩主]](+ [[1778年]]) * [[1806年]] - [[オーガスタス・ド・モルガン]]、[[数学者]](+ [[1871年]]) * [[1850年]] - [[小泉八雲]]、[[小説家]](+ [[1904年]]) * [[1852年]]([[嘉永]]5年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]])- [[内藤政挙]]、第8代[[延岡藩|延岡藩主]]・[[子爵]](+ [[1927年]]) * [[1869年]] - [[エマ・ゴールドマン]]、[[アナキズム|アナキスト]]、[[フェミニスト]](+ [[1940年]]) * 1869年 - [[ハンス・シュペーマン]]、[[発生生物学|発生生物学者]](+ [[1941年]]) * [[1880年]] - [[ヘレン・ケラー]]、[[教育|教育家]]、[[社会福祉事業|社会福祉事業家]](+ [[1968年]]) * [[1882年]] - [[エドゥアルト・シュプランガー]]、[[哲学|哲学者]]、[[心理学者]](+ [[1963年]]) * [[1888年]] - [[ルイス・バーンスタイン・ネイミア]]、[[歴史学者]](+ [[1960年]]) * [[1892年]] - [[木内克]]、[[彫刻家]](+ [[1977年]]) * [[1914年]] - [[霧島昇]]、[[歌手]](+ [[1984年]]) * 1914年 - [[ウィリアム・フート・ホワイト]]、[[社会学者]](+ [[2000年]]) * [[1918年]] - [[亀田敏夫]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2001年]]) * [[1919年]] - [[陳建民]]、[[コック (職業)|料理人]](+ [[1990年]]) * [[1921年]] - [[菊池徹]]、[[地質学|地質学者]](+ [[2006年]]) * [[1923年]] - [[石風呂良一]]、元プロ野球選手(+ [[1985年]]) * [[1925年]] - [[清村耕次]]、[[俳優]](+ [[1966年]]) * [[1929年]] - [[伊佐千尋]]、[[ノンフィクション作家]](+ [[2018年]]) * 1929年 - [[谷沢永一]]、[[書誌学者]](+ [[2011年]]) * [[1930年]] - [[ロス・ペロー]]、[[実業家]]、[[政治家]](+ [[2019年]]) * [[1931年]] - [[マルティヌス・フェルトマン]]、[[物理学者]](+ [[2021年]]) * [[1934年]] - [[ロバート・ローゼン]]、[[理論生物学|理論生物学者]](+ [[1998年]]) * 1934年 - [[田代照勝]]、元プロ野球選手(+ [[2003年]]) * [[1935年]] - [[レオナルド熊]]、[[コメディアン]](+ [[1994年]]) * 1935年 - [[荒井良雄 (英米文学者)|荒井良雄]]、英米文学者、[[駒澤大学]]名誉教授(+ [[2015年]]) * [[1936年]] - [[横尾忠則]]、[[美術家]] * 1936年 - [[川田幸夫]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]]) * [[1939年]] - [[長野祐也]]、政治家(+ [[2018年]]<ref name="nikkei">{{Cite web|和書|title=長野祐也氏が死去 元衆院議員|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32206010V20C18A6CZ8000/|work=日本経済新聞|date=2018-6-25|accessdate=2020-11-14}}</ref>) * 1939年 - [[佐伯胖]]、[[認知心理学|認知心理学者]] * 1939年 - [[内山和巳]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[オイゲン・キケロ]]、[[ピアニスト]](+ [[1997年]]) * [[1941年]] - [[前島秀行]]、政治家(+ [[2000年]]) * [[1942年]] - [[ブルース・ジョンストン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ザ・ビーチ・ボーイズ]]) * 1942年 - [[フランク・ミルズ]]、ピアニスト、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[指揮者]]、[[音楽プロデューサー]] * [[1943年]] - [[高橋勝]]、[[映画監督]](+ 没年不詳) * 1943年 - [[高田斉|髙田齋]]、[[気象予報士]] * [[1945年]] - [[カトリーヌ・ラコスト]]、[[ゴルファー]] * [[1947年]] - [[ハンス・オフト]]、元[[サッカー]]選手、監督 * [[1949年]] - [[ヴェラ・ウォン]]、[[ファッションデザイナー]] * [[1950年]] - [[久保俊巳]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[メアリー・マッカリース]]、政治家、第8代[[アイルランドの大統領|アイルランド大統領]] * [[1954年]] - [[藤井眞吾]]、[[ギタリスト]]、作曲家、指揮者 * 1954年 - [[松原正樹]]、ギタリスト、音楽プロデューサー(+ [[2016年]]) * [[1955年]] - [[イザベル・アジャーニ]]、[[俳優|女優]] * [[1956年]] - [[西本聖]]、元プロ野球選手 * [[1957年]] - [[矢萩渉]]、ギタリスト、[[音楽家]]([[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]) * [[1958年]] - [[伊藤克信]]、俳優、[[タレント]] * [[1959年]] - [[ツートン青木]]、歌手、ものまねタレント * 1959年 - [[大高洋夫]]、俳優 * 1959年 - [[鈴木伸良]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - ジャッキー・グティエレス、元プロ野球選手<ref>{{Cite web|url=https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=gutier002joa|title=Jackie Gutiérrez|publisher=BASEBALL REFERENCE|accessdate=2020-06-27}}</ref> * [[1961年]] - [[益荒雄広生]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄12代[[阿武松 (相撲)|阿武松]] * [[1962年]] - [[サトウタツヤ|佐藤達哉]]、[[心理学者]] * 1962年 - [[梁朝偉]]、俳優、歌手 * 1962年 - [[パトリック・シャナハン]]、元[[ボーイング]]社幹部、アメリカ合衆国国防副長官 * [[1963年]] - [[徳永久志]]、政治家 * 1963年 - [[酒井勉]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[阪本成一]]、[[天文学者]] * [[1966年]] - [[市原由美]]、[[声優]] * 1966年 - [[立川談春]]、[[落語家]] * 1966年 - [[嶋田章弘]]、元プロ野球選手 * 1966年 - [[ジェフ・コーナイン]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[渡辺真理]]、[[フリーアナウンサー]] * 1967年 - [[植本純米]]、俳優 * 1967年 - [[長野洋 (バスケットボール)|長野洋]]、元[[バスケットボール選手]] * 1967年 - [[剣晃敏志]]、元大相撲力士(+ [[1998年]]) * 1967年 - [[インガ・ババコワ]]、[[陸上競技]]選手 * [[1968年]] - [[国岡真由美]]、歌手 * [[1969年]] - [[片岡篤史]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[ヴィクトール・ペトレンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1970年]] - [[能田達規]]、[[漫画家]] * [[1971年]] - [[越智静香]]、女優、タレント * 1971年 - [[セルジオ・クラウディオ・ドス・サントス|セルジーニョ]]、元サッカー選手 * [[1972年]] - [[六角慎司]]、俳優 * 1972年 - 甲谷洋祐、トレーナー<ref>{{Cite web|和書|url=http://vital-strength.com/staff/%E7%94%B2%E8%B0%B7%E6%B4%8B%E7%A5%90/|title=スタッフ 甲谷洋祐|publisher=Vital Strength|accessdate=2020-06-27}}</ref> * 1972年 - [[近堂かおり]]、元キャスター * 1972年 - 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[[白崎あゆみ]]、元アナウンサー * 1981年 - [[秦賢二]]、サッカー選手 * [[1982年]] - [[柴木丈瑠]]、俳優 * 1982年 - [[菊地和正]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[李漢宰]]、サッカー選手 * 1982年 - [[岸佳宏]]、ミュージカル俳優 * [[1983年]] - [[ジム・ジョンソン]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[内林広高]]、元サッカー選手 * 1983年 - [[加藤優里]]、声優 * [[1984年]] - [[澤本華世子]]、女優 * 1984年 - [[小川友佳]]、元アナウンサー * 1984年 - [[クロエ・カーダシアン]]、[[ソーシャライト]]、[[起業家]] * [[1985年]] - [[佐倉真衣]]、タレント * 1985年 - [[小阪由佳]]、実業家、元グラビアアイドル * 1985年 - [[樋田かおり]]、アナウンサー * 1985年 - [[トーマスサリー]]、アナウンサー * 1985年 - [[大場翔太]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[谷口博之]]、元サッカー選手 * 1985年 - [[スベトラーナ・クズネツォワ]]、[[テニス]]選手 * 1985年 - [[ニコ・ロズベルグ]]、元[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * [[1986年]] - [[竹内渉]]、歌手、タレント * 1986年 - [[大寺祐恵]]、元[[ファッションモデル]]、元女優 * 1986年 - [[柚木涼太]]、漫画家 * 1986年 - [[プシェミスワフ・ドマンスキー]]、フィギュアスケート選手 * 1986年 - [[ラショーン・メリット]]、陸上競技選手 * [[1987年]] - Tomoya、ドラマー([[ONE OK ROCK]]) * [[1988年]] - [[金泰橪]]、サッカー選手 * 1988年 - [[ZAZY]]、お笑いタレント * 1988年 - [[久冨慶子]]、[[テレビ朝日]]アナウンサー * 1988年 - [[福島千里]]、陸上競技選手 * [[1989年]] - [[宮田由佳里]]、元[[バレーボール]]選手 * 1989年 - [[冨森ジャスティン]]、元俳優、元モデル * 1989年 - [[マシュー・ルイス (俳優)|マシュー・ルイス]]、俳優 * [[1990年]] - [[深野羅定咲]]、バスケットボール選手 * 1990年 - [[アゼリン・デビソン]]、シンガーソングライター * 1990年 - [[テイラー・フィニー]]、自転車競技選手 * [[1991年]] - [[山崎はるか]]、声優 * [[1992年]] - [[本田翼]]、女優、ファッションモデル * [[1993年]] - [[野田昇吾]]、元プロ野球選手 * [[1994年]] - [[若月佑美]]、女優、モデル、元アイドル(元[[乃木坂46]]) * 1994年 - [[具聖潤]]、サッカー選手 * 1994年 - [[深見利佐子]]、柔道家<ref>{{Cite web|和書|url=https://olympics.com/tokyo-2020/olympic-games/ja/results/judo/athlete-profile-n1345152-warasiha-kachakorn.htm|title=カチャコーン・ワラシハ - 柔道|work=東京2020オリンピック競技大会|publisher=[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]|accessdate=2021-08-01}}</ref> * [[1996年]] - [[矢口蒼依]]、女優 * 1996年 - [[本城雄太郎]]、声優、俳優 * [[1997年]] - [[長野佑紀]]、声優 * 1997年 - [[德田聡一朗|徳田聡一郎]]、アナウンサー * 1997年 - [[土方英和]]、[[陸上競技]]選手 * [[1998年]] - [[安本彩花]]、アイドル([[私立恵比寿中学]]) * 1998年 - [[竹俣紅]]、アナウンサー、元[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]、元タレント * [[1999年]] - [[チャンドラー・リッグス]]、俳優 * [[2001年]] - [[蒼波純]]、女優、モデル * [[2003年]] - [[張本智和]]、卓球選手 * 2003年 - [[ラウール (アイドル)|ラウール]]、アイドル([[Snow Man]]) * [[2007年]] - 小川彩、アイドル(乃木坂46) * 生年不明 - KENSAKU、ミュージシャン([[GLORY HILL]]) * 生年不明 - [[野中“まさ”雄一]]、作編曲家、ミュージシャン * 生年不明 - [[内野恵理子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://remax-web.jp/talent/uchino-e/|title=内野恵理子 +-- REMAX --+|accessdate=2021-01-10}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[岡村紀央美]]、声優 * 生年不明 - はなあられ、イラストレーター(AiceClass) == 忌日 == [[Image:The Mutilation of Uranus by Saturn.jpg|thumb|300px|[[マニエリスム]]の芸術家、[[ジョルジョ・ヴァザーリ]](1511-1574)没。画像は『ウラヌスの去勢』(1560頃)]] [[Image:Date_Masamune_Heiwazo.jpg|thumb|220px|武将[[伊達政宗]](1567-1636)没。{{Squote|曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行(辞世の句)}}]] [[Image:Burning_of_the_Temple_by_C.C.A._Christensen.png|thumb|180px|[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]創始者の[[ジョセフ・スミス・ジュニア]]、暴徒に襲撃され死亡(1844)]] {{multiple image | footer = [[末日聖徒イエス・キリスト教会]]創始者[[ジョセフ・スミス・ジュニア]](1805-1844)、暴徒に襲撃され死亡 | image1 = Joseph_Smith%2C_Jr._portrait_owned_by_Joseph_Smith_III.jpg | width1 = 80 | alt1 = ジョセフ・スミス・ジュニア | image2 = G._W._Fasel_-_Charles_G._Crehen_-_Nagel_&_Weingaertner_-_Martyrdom_of_Joseph_and_Hiram_Smith_in_Carthage_jail,_June_27th,_1844.jpg | width2 = 160 | alt2 = 殺害の様子 }} {{multiple image | footer = 『[[赤い鳥]]』主宰、[[児童文学]]者[[鈴木三重吉]](1882-1936)没 | image1 = SuzukiMiekichiMemorial.jpg | width1 = 120 | alt1 = 鈴木三重吉 | image2 = Akai-Tori first issue.jpg | width2 = 80 | alt2 = 赤い鳥 }} [[Image:Y%C5%8Dsuke_Matsuoka.jpg|thumb|140px|外交官、[[松岡洋右]](1880-1946)]] [[Image:Tove_Jansson_1956.jpg|thumb|180px|作家[[トーベ・ヤンソン]](1914-2001)。代表作『[[ムーミン]]』シリーズ]] [[Image:John_Entwistle-1.jpg|thumb|180px|[[ベーシスト]][[ジョン・エントウィッスル]](1944-2002)]] * [[1458年]] - [[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]](* [[1396年]]) * [[1574年]] - [[ジョルジョ・ヴァザーリ]]、[[画家]]、[[建築家]](* [[1511年]]) * [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[海北友松]]、[[絵師]](* [[1533年]]) * [[1636年]]([[寛永]]13年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[伊達政宗]]、[[陸奥国]]の[[戦国大名]]、初代[[仙台藩|仙台藩主]](* [[1567年]]) * [[1655年]] - [[エレオノーラ・ゴンザーガ]]、[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝フェルディナント2世]]の皇后(* [[1598年]]) * [[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[池田光政]]、初代[[岡山藩|岡山藩主]](* [[1609年]]) * [[1794年]] - [[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ]]、[[ハプスブルク君主国]]宰相(* [[1711年]]) * [[1876年]] - {{仮リンク|ハリエット・マーティノー|en|Harriet Martineau}}、[[作家]]、[[社会学者]](* [[1802年]]) * [[1831年]] - [[ソフィ・ジェルマン]]、[[数学者]](* [[1776年]]) * [[1839年]]([[天保]]10年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[小関三英]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1787年]]) * [[1844年]] - [[ジョセフ・スミス・ジュニア]]、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]設立者(* [[1805年]]) * [[1865年]]([[慶応]]元年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[飯沼慾斎]]、[[博物学|本草学者]](* [[1783年]]) * [[1876年]] - [[クリスチャン・ゴットフリート・エーレンベルク]]、[[博物学者]]、[[科学者]](* [[1795年]]) * [[1905年]] - [[グリゴリー・ヴァクレンチュク]]、[[軍人|海軍軍人]]、[[革命家]](* [[1877年]]) * [[1910年]] - [[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]、[[法学者]](* [[1825年]]) * [[1921年]] - [[ヒュー・ニコル]]、[[プロ野球選手]](* [[1858年]]) * [[1922年]] - [[東伏見宮依仁親王]]、[[皇族]](* [[1867年]]) * [[1927年]] - [[小山作之助]]、[[作曲家]]、[[教育者]](* [[1864年]]) * [[1930年]] - [[加茂川緋佐子]]、[[子役]](* [[1923年]]) * [[1936年]] - [[鈴木三重吉]]、[[児童文学]]作家(* [[1882年]]) * [[1940年]] - [[呉建]]、[[内科学|内科学者]]、[[画家]](* [[1883年]]) * [[1946年]] - [[松岡洋右]]、外交官、政治家(* [[1880年]]) * [[1954年]] - [[マクシミリアン・フォン・ヴァイクス]]、軍人(* [[1881年]])<!-- 没年を1954年6月27日としているものと9月27日としているものがあり。 --> * [[1960年]] - [[ロッティ・ドッド]]、[[テニス]]選手(* [[1871年]]) * 1960年 - [[久留島武彦]]、[[児童文学|児童文学者]](* [[1874年]]) * [[1962年]] - [[永利勇吉]]、[[プロ野球選手]](* [[1920年]]) * [[1966年]] - [[アーサー・ウェイリー]]、[[東洋学]]者(* [[1889年]]) * [[1967年]] - [[清瀬一郎]]、[[政治家]]、第49・50代[[衆議院議長]](* [[1884年]]) * [[1970年]] - [[ダニエル・キンゼイ]]、[[陸上競技]]選手(* [[1902年]]) * [[1971年]] - [[林弘高]]、元[[吉本興業ホールディングス|吉本興業]]社長、芸能プロモーター(* [[1907年]]) * [[1989年]] - [[アルフレッド・エイヤー]]、[[哲学|哲学者]](* [[1910年]]) * [[1996年]] - [[アルバート・R・ブロッコリ]]、[[映画プロデューサー]](* [[1909年]]) * [[1999年]] - [[ゲオルギオス・パパドプロス]]、[[ギリシャ]]の指導者(* [[1919年]]) * 1999年 - [[水野良一]]、元プロ野球選手(* [[1917年]]) * [[2001年]] - [[トーベ・ヤンソン]]、児童文学作家(* [[1914年]]) * 2001年 - [[ジャック・レモン]]、[[俳優]](* [[1925年]]) * [[2002年]] - [[ジョン・エントウィッスル]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ザ・フー]])(* [[1944年]]) * [[2004年]] - [[鈴木武]]、元プロ野球選手(* [[1932年]]) * [[2005年]] - [[遠井吾郎]]、元プロ野球選手(* [[1939年]]) * 2005年 - [[ドミノ・ハーヴェイ]]、[[バウンティハンター]](* [[1969年]]) * [[2008年]] - [[小口大八]]、[[和太鼓]]奏者(* [[1924年]]) * 2008年 - [[レナード・ペナリオ]]、[[ピアニスト]](* 1924年) * 2008年 - [[レイモン・ルフェーブル]]、[[イージーリスニング]]の[[音楽家]](* [[1929年]]) * [[2012年]] - [[高村章子]]、[[声優]](* [[1922年]]) * [[2014年]] - [[斎藤晴彦]]、俳優(* [[1940年]]) * 2014年 - [[ボビー・ウーマック]]、[[シンガーソングライター]]、[[ギタリスト]](* [[1944年]]) * [[2015年]] - [[クリス・スクワイア]]、ミュージシャン([[イエス (バンド)|イエス]])(* [[1948年]]) * [[2016年]] - [[アルビン・トフラー]]、[[評論家]]、[[作家]]、[[未来学者]](* [[1928年]]) * [[2017年]] - [[金原まさ子]]、[[俳人]] (* [[1911年]]) * 2017年 - [[マイケル・ボンド]]<ref name="asahi20170628">{{Cite news|title=「くまのパディントン」作者、マイケル・ボンドさん死去|newspaper=朝日新聞|date=2017年6月28日22時32分|url=http://www.asahi.com/articles/ASK6X75B1K6XUHBI03G.html|accessdate=2020-11-14}}</ref>、[[児童文学作家]](* [[1926年]]) * [[2018年]] - [[ジョセフ・ジャクソン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cdjournal.com/i/artist/joseph-jackson---joe-jackson/904197|title=ジョセフ・ジャクソン(ジョー・ジャクソン)|publisher=CDJournal|accessdate=2020-12-18}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASL6X2VDGL6XUHBI00L.html |title=マイケルさんの父、ジョセフ・ジャクソンさんが死去|newspaper=朝日新聞|date=2018-06-28|accessdate=2020-10-30}}</ref>、[[ジャクソン5]] マネージャー (*[[1928年]]) * [[2022年]] - [[葛城ユキ]]、[[歌手]](* [[1949年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Maccari-Cicero.jpg|thumb|300px|[[演説]]の日。画像はチェザーレ・マッカーリ画『カティリナを糾弾する[[キケロ]]』(1882-88)]] * [[独立記念日]]({{DJI}}) *: 1977年のこの日、ジブチがフランスから独立した。 * [[メディア・リテラシー]]の日({{JPN}})<ref name="東京新聞20210627">『[[東京新聞]]』2021年6月27日朝刊一面1頁「きょうは何の日 メディア・リテラシーの日」([[中日新聞東京本社]])</ref> *: [[テレビ信州]]がメディア・リテラシーについて理解を深める日として制定<ref name="東京新聞20210627"/>。[[1994年]]のこの日に発生した[[松本サリン事件]]で、事件現場近くに住む無実の男性([[河野義行]])が[[マスメディア|マスコミ]]により犯人扱いされる[[報道被害]]があったことから。 * [[日照権]]の日({{JPN}}) *: [[1972年]]のこの日、違法建築の隣家によって日照を奪われた問題で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]が「日照権と通風権が法的に保護するのに値する」という初めての判決をしたことを記念。 * [[演説]]の日({{JPN}}) *: [[1874年]]のこの日、[[慶應義塾]]の三田演説館で日本初の演説会が行われたことを記念。 * [[ちらし寿司]]の日({{JPN}}) *: 株式会社[[あじかん]]が制定。岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・[[池田光政]]の命日。<ref>{{Cite web|和書|url=https://senjp.com/mitsumasa/|title=池田光政「仁政」の心を忘れなかった生まれながらの藩主|publisher=戦国武将列伝Ω1100記事|accessdate=2020-06-27}}</ref><ref group="注">旧暦天和2年5月22日(1682年6月27日)</ref> {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0627|date=2011年6月}} * [[1994年]] - [[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]が[[三重県]]・[[滋賀県]]、[[京都府]]・[[大阪府]]に侵攻。[[国際連合|国連]][[東宝特撮映画の怪獣対策組織#Gフォース|Gフォース]] (G-FORCE) が、[[メカゴジラ (平成VSシリーズ)|メカゴジラ]]を主に迎撃するも、侵攻防げず。このゴジラ侵攻による死傷者数は1万人以上。(映画『[[ゴジラvsメカゴジラ]]』) * [[2120年]] - 異層次元探査艇「フォアランナ」、[[R-TYPE#バイド|バイド]]の切れ端である超束積高エネルギー生命体を採集し、地球へと帰還。(ゲーム『[[R-TYPE]]』シリーズ) * 西暦不明 - 全国高校総体バスケットボール男子神奈川県予選の決勝リーグにおいて「湘北高校」と「陵南高校」が全国大会出場をかけて対戦。(漫画『[[SLAM DUNK]]』) === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - 神山高志、漫画・アニメ・映画『[[魁!!クロマティ高校]]』の主人公 * 生年不明 - カプチーノ、キャラクターコンテンツ『[[シナモロール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanrio.co.jp/characters/cinnamon/ |title=おともだち カプチーノ |access-date=2022-09-04 |publisher=[[サンリオ]] |work=シナモロール}}</ref> * 生年不明 - アレクサー、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=107 |title=アレクサー |access-date=2023-01-14 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |work=『聖闘士星矢』 |author=[[車田正美]]}}</ref> * 生年不明 - リク・ドルド3世、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/riku_dold_III.html |title=リク・ドルド3世 |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-04 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 烈斗、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場する初代風影<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1011625549633064960}}</ref> * 生年不明 - フィンドール・キャリアス、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/findorr.html |title=フィンドール・キャリアス |access-date=2022-09-04 |publisher=[[久保帯人]]/[[集英社]] |work=BLEACH.com}}</ref> * 生年不明 - 堀井佳奈子、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 白馬芽生、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-882053-8|date=|volume=39巻|page=46}}</ref> * 生年不明 - ゴーシュ・アドレイ、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bclover.jp/character/ |title=黒の暴牛 ゴーシュ・アドレイ |work=テレビアニメ『ブラッククローバー』 |accessdate=2022-09-04 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会}}</ref> * 生年不明 - ルビシア・クロナ・D・ケールシウス、漫画『カオス・ウィザードと悪魔のしもべ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=山本アリフレッド|title=カオス・ウィザードと悪魔のしもべ|volume=2巻|publisher=[[講談社]]|series=[[週刊少年マガジン#講談社コミックスマガジン|講談社コミックスマガジン]]|year=2013|pages=153-154|isbn=978-4-06-394902-5}}</ref> * 生年不明 - 土田さつき、漫画・アニメ『[[はなまる幼稚園]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 渋谷、漫画・アニメ『[[CODE:BREAKER]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 宮村レオナ、漫画・アニメ『[[山田くんと7人の魔女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamajo_anime|482444647818485761}}</ref> * 生年不明 - 馬狼照英、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bluelock_wm|1541282486227210240}}</ref> * 生年不明 - 征陸智己、アニメ『[[PSYCHO-PASS サイコパス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.noitamina-shop.com/event/id/652 |title=『PSYCHO-PASS サイコパス SS』須郷徹平&征陸智己バースデーキャンペーン |access-date=2022-09-04 |publisher=ノイタミナショップ}}</ref> * 生年不明 - 東海寺阿修羅、小説・アニメ『[[黒魔女さんが通る!!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 神前みーこ、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tateishi_aoba|1541194599158280192}}</ref> * 生年不明 - 裏嶋千鶴、ゲーム『[[PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2023年8月}} * 生年不明 - 山本美月、ゲーム・アニメ『[[コープスパーティー BloodCovered]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 金子綾乃、ゲーム・アニメ『[[プリンセスラバー!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 仙崎恵磨、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20096 |title=仙崎 恵磨(せんざき えま) |access-date=2022-09-04 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - プリトヴェン、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=134&cate=name&cont=Prytwen |title=プリトヴェン |access-date=2022-09-04 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 小泉八雲、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bunal_pr|1276530683687600129}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#白瀬咲耶|白瀬咲耶]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinycolors.idolmaster.jp/idol/lantica/sakuya.html |title=白瀬 咲耶(しらせ さくや) |website=アイドルマスター シャイニーカラーズ(シャニマス) |accessdate=2022-09-04 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 西城いつき、ゲーム・アニメ『[[新サクラ大戦]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 榎本夏樹、メディアミックス『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://honeyworks.jp/special/#character |title=Character 榎本夏樹 |publisher=[[HoneyWorks]] |accessdate=2022-09-04 |work=告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜}}</ref> * 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#Pastel*Palettes|若宮イヴ]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/wakamiya-eve/ |title=若宮 イヴ |website=BanG Dream!(バンドリ!)ガールズバンドパーティ! 公式サイト |publisher=[[ブシロード]] |accessdate=2022-09-04}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 27|27 June}} {{新暦365日|6|26|6|28|[[5月27日]]|[[7月27日]]|[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]|0627|6|27}} {{1年の月と日}}
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6月28日
6月28日(ろくがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から179日目(閏年では180日目)にあたり、年末まであと186日ある。
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{{カレンダー 6月}} '''6月28日'''(ろくがつにじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から179日目([[閏年]]では180日目)にあたり、年末まであと186日ある。 == できごと == [[Image:BitvaAntiochie.jpg|thumb|[[アンティオキア攻囲戦]]、[[第1回十字軍]]の勝利に終わる(1098)|180x180ピクセル]] [[Image:BattleofMonmouth.jpg|thumb|[[アメリカ独立戦争]]、[[モンマスの戦い]](1778)|180x180ピクセル]] [[Image:Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg|thumb|242x242px|[[ロマンティック・バレエ]]の代表的作品、『[[ジゼル]]』初演(1841)]] [[Image:Canadian_Pacific_First_Train.jpg|thumb|[[カナダ太平洋鉄道]]の営業開始(1881)。画像は30日にポート・アーサーに到着した大陸横断列車|180x180ピクセル]] {{multiple image | footer = [[ヴェルサイユ宮殿]]の{{仮リンク|鏡の間|fr|Galerie des Glaces}}にて[[ヴェルサイユ条約]]締結(1919) | image = William_Orpen_-_The_Signing_of_Peace_in_the_Hall_of_Mirrors%2C_Versailles.jpg | image1 = Treaty_of_Versailles_Signing,_Hall_of_Mirrors.jpg | width1 = 120 | alt1 = 調印風景。William Orpen画 | image2 = Treaty_of_Versailles%2C_English_version.jpg | width2 = 60 | alt2 = 文書の英語版表紙 }} [[Image:Poznan_1956.jpg|thumb|[[ポーランド]]で大衆暴動、[[ポズナン暴動]](1956)。画像中の文字は「パンを要求する」|180x180ピクセル]] * [[1098年]] - [[第一次十字軍]]が[[アンティオキア攻囲戦]]で[[モスル]]の[[ケルボガ]]を破る。 * [[1177年]]([[安元]]3年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[俊寛]]らの平家打倒の謀議([[鹿ケ谷の陰謀]])が密通され、一味が逮捕される。 * [[1193年]]([[建久]]4年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[曾我兄弟の仇討ち]]。 * [[1536年]]([[天文 (元号)|天文]]5年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - 栴岳承芳(後の[[今川義元]])が義兄・[[玄広恵探]]の[[花倉城]]を攻め落とす。敗走した恵探はその後自害。([[花倉の乱]]) * [[1778年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[モンマスの戦い]]。 * [[1838年]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の戴冠式が行われる。 * [[1841年]] - パリ・[[パリ国立オペラ|オペラ座]]でバレエ『[[ジゼル]]』が初演<ref>{{Cite web |url=https://konomanga.jp/guide/36404-2 |title=6月28日はバレエ『ジゼル』の初演日 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[宝島社]] |date=28 Jun 2015 |website=このマンガがすごい!WEB}}</ref>。 * [[1859年]]([[安政]]6年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - 江戸幕府が、[[アメリカ合衆国|米]]・[[イギリス|英]]・[[オランダ|蘭]]・[[フランス|仏]]・[[ロシア帝国|露]]に対し、[[横浜港|神奈川]]・[[長崎港|長崎]]・[[函館港|箱館]]で自由貿易を許可する布告を出す。 * [[1866年]] - [[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]が[[イギリスの首相]]に就任、3度目の組閣。 * [[1875年]] - [[新聞紙条例]]・[[讒謗律]]を布告。 * [[1881年]] - [[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]]と[[セルビア]]が密約を結び、セルビアはオーストリアの保護国化される。 * [[1886年]] - [[カナダ太平洋鉄道]]の営業が開始され、初の大陸横断列車が[[モントリオール]]を出発。 * [[1894年]] - [[労働者の日]]がアメリカ合衆国の公式の祝日(9月の第1月曜日)に制定される。 * [[1895年]] - [[エルサルバドル]]・[[ホンジュラス]]・[[ニカラグア]]が[[中央アメリカ大共和国]]を結成。 * [[1900年]] - オーストリア皇太子[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]が[[ゾフィー・ホテク|ゾフィー]]と結婚<ref name="marriage">{{Cite web |url=https://www.newsweekjapan.jp/mobile/stories/world/2016/07/1-17_2.php |title=テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1) |date=8 Jul 2016 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=[[ニューズウィーク|NEWSWEEK]]日本版}}</ref>。 * [[1914年]] - [[サラエボ事件]]。オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーが[[サラエボ]]で暗殺される。[[第一次世界大戦]]のきっかけになった<ref>{{Kotobank|サラエボ事件}}</ref>。 * [[1919年]] - ドイツが[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と第一次世界大戦の講和条約「[[ヴェルサイユ条約]]」を締結する。 * [[1922年]] - [[アイルランド自由国]]軍が[[ダブリン]]の[[フォー・コーツ]]を砲撃、[[アイルランド内戦]]が勃発。 * [[1926年]] - ダイムラー・ベンツ社設立(ダイムラー社とベンツ社が合併) * [[1940年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]が[[ルーマニア]]に対し[[ベッサラビア]]・北[[ブコビナ]]の割譲を要求。 * [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: ドイツ軍が[[ブラウ作戦]]を発動する。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[佐世保大空襲]]。 * [[1948年]] - [[福井地震]]。死者・行方不明者3,769名。 * 1948年 - [[ユーゴスラビア]]が[[コミンフォルム]]から除名される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.magichour.co.jp/syakunetsu/background/background1.html |title=1.クロアチア人とセルビア人の対立はなぜ起こったのか?(1)ユーゴスラビアの成立 |work=映画『灼熱』の歴史的・社会的背景について |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=Kinorama, Gustav film, SEE Film Pro}}</ref>。 * [[1950年]] - [[朝鮮戦争]]: [[ソウル会戦 (第一次)|第一次ソウル会戦]]が終結。[[ソウル特別市|ソウル]]が陥落、撤退する韓国軍による[[漢江人道橋爆破事件]]。 * 1950年 - [[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[藤本英雄]]が[[日本プロ野球]]史上初の[[完全試合]]を達成。 * [[1956年]] - [[ポーランド]]の[[ポズナン]]で労働者による暴動([[ポズナン暴動]])。 * [[1967年]] - [[イスラエル]]が、前日に可決された法案に基づき、東[[エルサレム]]地域を併合<ref>{{Cite web |url=https://jcpa.org/the-status-of-jerusalem-in-international-and-israeli-law/ |title=The Status of Jerusalem in International and Israeli Law |access-date=16 Oct 2023 |publisher=Jerusalem Center for Public Affairs}}</ref><ref>{{Cite report|author=三浦 勉|title =エルサレムの法的地位|page=159}}</ref>。 * [[1969年]] - ニューヨークで[[ストーンウォールの反乱]]が起きる。 * 1969年 - [[新宿駅西口地下広場]]で開かれていた[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]による反戦フォーク集会が暴動化し機動隊と衝突。64名が逮捕された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://natalie.mu/music/column/377766 |title=“抗議の歌”の誕生と1960年代学生運動 |work=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |date=3 May 2020 |accessdate=16 Oct 2023}}</ref>。 * [[1979年]] - [[第5回先進国首脳会議]]が東京で開催される。初めて日本で開催。 * [[1987年]] - [[イラン・イラク戦争]]を遂行中の[[イラク軍]]が[[化学兵器]]を用いて[[クルド人]]を攻撃。化学兵器で市街地の市民を狙った初のケース<ref>{{Cite web|和書 |date=2020-09-23 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3305889?cx_part=top_category&cx_position=3 |title=イラン・イラク戦争開戦から40年、生存者が語る毒ガス攻撃の恐怖 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |accessdate=16 Oct 2023}}</ref>。 * [[1991年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]と[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国で構成する[[経済相互援助会議]] (COMECON) が解散。 * [[1992年]] - 登山家の[[田部井淳子]]が、オセアニア最高峰、[[インドネシア]]の[[プンチャック・ジャヤ|カルステンツ・ピラミッド]]の登頂に成功し、女性として世界初の7大陸最高峰登頂者になる<ref>{{Cite web |url=https://www.minyu-net.com/serial/heisei/FM20190108-340337.php |title=【平成4年】登山家・田部井淳子さん 女性で世界初!7大陸最高峰登頂 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[福島民友新聞]] |date=8 Jan 2019}}</ref>。 * 1992年 - [[エストニア]]の憲法が採択される。 *1992年 - JR伊東線来宮駅構内で、貨物列車と東海道線の回送電車が接触し脱線<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.shizuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/029/862/r4accident.pdf |title=静岡県地域防災計画 大事故-45 |work=静岡県防災会議 |accessdate=16 Oct 2023 |page=43(49/68)}}</ref>。 * [[1996年]] - [[ウクライナ憲法|ウクライナの憲法]]が採択される。 * [[1997年]] - [[神戸連続児童殺傷事件]]で14歳の少年を逮捕。 * 1997年 - ボクシングの[[マイク・タイソン]]対[[イベンダー・ホリフィールド]]戦。第3ラウンドでタイソンがホリフィールドの耳を噛み切り反則負けに。 * [[1999年]] - [[坂本龍一]]の「energy flow」を収録したシングル『[[ウラBTTB]]』が[[器楽曲|インストゥルメンタル曲]]で初の[[オリコンチャート|オリコン週間シングルチャート]]1位を記録<ref>{{Cite web|和書 |url=https://news.1242.com/article/100477 |title=わずか5分で仕上げたCM音楽作家、坂本龍一の矜持。「energy flow」がインスト曲初のオリコン1位に。 |date=12 Jan 2020 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=[[ニッポン放送]]}}</ref>。 * [[2004年]] - [[連合国暫定当局]]から[[イラク暫定政権]]へ主権が移譲され、連合国暫定当局が解散。 * [[2005年]] - 運輸多目的衛星[[MTSAT|MTSAT-1R]]([[ひまわり (気象衛星)|ひまわり6号]])が気象観測機能の本格的運用を開始。 * 2005年 - [[カナダ]]で、異性間の結婚と[[同性結婚|同性間の結婚]]を法的に同一のものとする「市民結婚法」が可決。 * [[2006年]] - [[モンテネグロ]]が[[国際連合]]に加盟。同年[[6月22日]]に採択された[[国際連合安全保障理事会決議1691|安保理決議1691号]]による。 * [[2010年]] - [[日本の高速道路]]37路線50区間1626kmで、[[高速道路無料化#高速道路無料化社会実験|高速道路無料化社会実験]]が開始。 * [[2013年]] - アメリカの[[アリゾナ州]]のヤーネルヒル近辺で[[山火事]]が発生([[ヤーネルヒル火災]])。 * [[2014年]] - [[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)の[[相模原愛川インターチェンジ|相模原愛川IC]] - [[高尾山インターチェンジ|高尾山IC]]間が開通。[[東名高速道路]]・[[中央自動車道]]・[[関越自動車道]]と繋がる。 * [[2018年]] - [[週刊少年チャンピオン]]の野球マンガ『[[ドカベン]]』が連載を終了、46年の歴史に幕を下ろす<ref>{{Cite web |title=「ドカベン」最後の打席 最終回、46年の歴史に幕 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=28 Jun 2018 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO32342430Y8A620C1CR0000/ |accessdate=16 Oct 2023}}</ref>。  *[[2019年]] - [[G20]]首脳会合(G20サミット)を[[大阪府]]で開催。 *[[2021年]] - [[千葉県]][[八街市]]で、市立朝陽小学校から下校中の児童に、飲酒運転の大型トラックが突っ込み、児童5人が死傷する事故が発生<ref>{{Cite web |url=https://www.chibanippo.co.jp/news/national/919618 |title=【速報】八街児童5人死傷事故 梅沢被告に懲役14年 トラック飲酒運転、裁判長「態度は最悪。結果は重大」 千葉地裁 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[千葉日報]] |date=25 Mar 2022}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == [[Image:HenryVIII_1509.jpg|thumb|274x274px|イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]](1491-1547)誕生。[[イングランド国教会]]をローマ・カトリック教会から離脱させた]] {{multiple image | footer = 画家[[ピーテル・パウル・ルーベンス]](1577-1640)誕生。左画像は自画像、右は『[[鏡を見るヴィーナス (ルーベンス)|鏡のヴィーナス]]』(1615頃) | image3 = Rubens_self_portrait.jpg | width3 = 85 | alt3 = ルーベンスの自画像 | image4 = Rubens Venus at a Mirror c1615.jpg | width4 = 95 | alt4 = 『鏡のヴィーナス』(1615頃) }} {{multiple image | footer = 哲学者[[ジャン=ジャック・ルソー]](1712-1778)誕生。右画像は生家。 | image1 = Jean-Jacques_Rousseau_%28painted_portrait%29.jpg | width1 = 90 | alt1 = ジャン=ジャック・ルソー | image2 = Rousseau_Geneve_House.JPG | width2 = 90 | alt2 = ルソーの生家 }} {{multiple image | caption1 = [[歌曲|リート]]作曲家[[ローベルト・フランツ]](1815-1892) | image1 = Robert_Franz.jpg | width1 = 90 | alt1 = 作曲家ローベルト・フランツ | caption2 = ヴァイオリニスト、[[ヨーゼフ・ヨアヒム]](1831-1907) | image2 = Joseph Joachim.jpg | width2 = 90 | alt2 = ヴァイオリニストヨーゼフ・ヨアヒム }} {{multiple image | caption1 = [[フランス]]の極右政治家[[ジャン=マリー・ル・ペン]](1928-) | image1 = Jean-Marie_Le_Pen_479834203_5030701e77_o.jpg | width1 = 90 | alt1 = 政治家ジャン=マリー・ル・ペン | caption2 = [[スペースX]]社CEO、[[イーロン・マスク]](1971-) | image2 = Elon_Musk_2015.jpg | width2 = 90 | alt2 = イーロン・マスク }} * [[1243年]]([[寛元]]元年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[後深草天皇]]、第89代[[天皇]](+ [[1304年]]) * [[1491年]] - [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1547年]]) * [[1577年]] - [[ピーテル・パウル・ルーベンス]]、[[画家]](+ [[1640年]]) * [[1644年]]([[正保]]元年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[徳川綱重]]、[[徳川家光]]の三男、[[甲府藩|甲府藩主]](+ [[1678年]]) * [[1712年]] - [[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[思想家]](+ [[1778年]]) * [[1786年]] ([[天明]]3年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]])- [[分部光邦]]、第9代[[大溝藩|大溝藩主]] (+ [[1810年]]) * [[1791年]] ([[寛政]]3年[[5月27日 (旧暦)|11月29日]])- [[大久保忠保]]、第6代[[烏山藩|烏山藩主]] (+ [[1848年]]) * [[1815年]] - [[ローベルト・フランツ]]、[[作曲家]](+ [[1892年]]) * 1815年 ([[文化 (元号)|文化]]12年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]])- [[牧野貞一]]、第5代[[笠間藩|笠間藩主]] (+ [[1840年]]) * [[1818年]] - [[アンジェロ・セッキ]]、[[天文学者]](+ [[1878年]]) * [[1824年]] - [[ピエール・ポール・ブローカ]]、[[医学者]](+ [[1880年]]) * [[1825年]] - [[エミール・エルレンマイヤー]]、[[化学者]](+ [[1909年]]) * [[1831年]] - [[ヨーゼフ・ヨアヒム]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[指揮者]]、作曲家(+ [[1907年]]) * [[1867年]] - [[ルイジ・ピランデルロ]]、[[劇作家]]、[[小説家]]、[[詩人]](+ [[1936年]]) * [[1869年]] - [[磯田粂三郎]]、衆議院議員、弁護士(+ [[1934年]]) * [[1875年]] - [[アンリ・ルベーグ]]、[[数学者]](+ [[1941年]]) * [[1882年]] - [[滝田樗陰]]、[[編集者]](+ [[1925年]]) * [[1886年]] - [[アロイーズ・コルバス]]、[[画家]](+ [[1964年]]) * [[1888年]] - [[シュテフィ・ゲイエル]]、ヴァイオリニスト(+ [[1956年]]) * [[1890年]] - 5代目[[古今亭志ん生 (5代目)|古今亭志ん生]]、[[落語家]](+ [[1973年]]) * [[1893年]] - [[榊原郁三]]、実業家(+ [[1974年]]) * [[1895年]] - [[シシリー・メアリー・バーカー]]、[[挿絵]][[画家]]、[[児童文学作家]](+ [[1973年]]) * [[1902年]] - [[ピエール・ブリュネ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1991年]]) * [[1906年]] - [[植田義巳]]、バスケットボール指導者(+ [[1996年]]) * 1906年 - [[マリア・ゲッパート=メイヤー]]、[[物理学者]] (+ [[1985年]]) * [[1909年]] - [[中島治康]]、元[[プロ野球選手]]、[[プロ野球監督|監督]](+ [[1987年]]) * [[1912年]] - [[セルジュ・チェリビダッケ]]、[[指揮者]](+ [[1996年]]) * [[1913年]] - [[ジョージ・ロイド]]、[[作曲家]](+ [[1998年]]) * [[1916年]] - [[呉昌征]]、元プロ野球選手(+ [[1987年]]) * [[1919年]] - [[野間千代三]]、政治家、[[衆議院]]議員(+ [[1977年]]) * [[1921年]] - [[ナラシンハ・ラーオ]]、政治家、第12代[[インドの歴代首相|インド首相]](+ [[2004年]]) * [[1928年]] - [[ハンス・ブリックス]]、政治家 * 1928年 - [[ジャン=マリー・ル・ペン]]、政治家 * 1928年 - [[ジョン・スチュワート・ベル]]、物理学者(+[[1990年]]) * [[1930年]] - [[三波伸介 (初代)|三波伸介]]、喜劇俳優、[[コメディアン]](+ [[1982年]]) * 1930年 - [[イタマール・フランコ]]、政治家、第33代[[ブラジル|ブラジル連邦共和国]][[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]](+ [[2011年]]) * [[1932年]] - [[パット・モリタ]]、俳優 (+ [[2005年]]) * [[1935年]] - [[安藤順三]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[野口武彦]]、日本文学者、文芸批評家、神戸大名誉教授 * [[1938年]] - [[佐野洋子]]、[[作家]]、[[エッセイスト]](+ [[2010年]]) * [[1941年]] - [[上久雄]]、[[サッカー選手]]、指導者 * [[1942年]] - [[土井正三]]、元プロ野球選手、監督(+ [[2009年]]) * 1942年 - [[中村豪 (野球)|中村豪]]、高校野球指導者 * [[1943年]] - [[千田啓介]]、元プロ野球選手 * 1943年 - [[鳩山幸]]、[[鳩山由紀夫]]夫人 * 1943年 - [[作道烝]]、元プロ野球選手 * [[1944年]] - [[ハル・ブリーデン]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]]) * 1944年 - [[山本忠男]]、元プロ野球選手 * [[1945年]] - [[山原玲子]]、アナウンサー * [[1946年]] - [[ロバート・アスプリン]]、[[SF作家]](+ [[2008年]]) * 1946年 - [[ブルース・デイヴィソン]]、俳優 * [[1947年]] - [[ロビン・ダンバー]]、[[人類学者]]、[[進化生物学者]] * 1947年 - [[ドロシー・アンステット]]、[[1968年]][[ミスUSA]] * 1947年 - [[小池光]]、[[歌人]] * [[1948年]] - [[石川賢 (漫画家)|石川賢]]、[[漫画家]](+ [[2006年]]) * 1948年 - [[鈴木弘 (野球)|鈴木弘]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[佐藤洋二郎]]、小説家 * 1949年 - [[ドン・ベイラー]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]]) * [[1951年]] - [[あや秀夫]]、漫画家 * [[1952年]] - [[池谷公二郎]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[福田功]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[アリス・クリーグ]]、女優 * [[1955年]] - [[金子吉延]]、俳優 * [[1956年]] - [[李来発]]、元プロ野球選手 * [[1957年]] - [[青山久人]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[菊地幸夫]]、[[弁護士]] * [[1958年]] - [[弓岡敬二郎]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[セルゲイ・シャフライ (フィギュアスケート選手)|セルゲイ・シャフライ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1958年 - [[根本敬]]、漫画家 * [[1959年]] - [[ジョン・シェリー]]、画家 * 1959年 - [[田渕久美子]]、[[脚本家]] * 1959年 - [[渡辺和昭]]、[[アナウンサー]] * [[1960年]] - [[福良淳一]]、元プロ野球選手、監督 * 1960年 - [[ジョン・エルウェイ]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 * [[1961年]] - [[西岡良洋]]、元プロ野球選手 * 1961年 - [[遠藤憲一]]、俳優、ナレーター * 1961年 - [[上野敬三 (野球)|上野敬三]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[松林和雄]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[長峰由紀]]、[[アナウンサー]] * 1963年 - [[高橋幹夫 (美唄市長)|高橋幹夫]]、政治家 * 1963年 - [[田子譲治]]、元プロ野球選手 * [[1964年]] - [[ケビン・ライマー]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[赤土眞弓]]、[[声優]] * [[1966年]] - [[田島裕和]]、元[[騎手]] * 1966年 - [[フランク・ボーリック]]、元プロ野球選手 * 1966年 - [[中村あゆみ]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1966年 - [[メアリー・スチュアート・マスターソン]]、女優 * [[1967年]] - [[きたがわ翔]]、漫画家 * [[1968年]] - [[重松花鳥]]、女優、声優、ナレーター * 1968年 - [[三浦隆志]]、元[[アナウンサー]] * [[1969年]] - [[橋本剛]]、政治家、農水官僚 * 1969年 - [[矢部敬三]]、俳優 * 1969年 - [[アイェレット・ゾラー]]、女優 * 1969年 - [[ステファヌ・シャピュイサ]]、元サッカー選手 * [[1971年]] - [[木村亜希子]]、声優 * 1971年 - [[藤原紀香]]、タレント * 1971年 - [[ファビアン・バルテズ]]、元[[サッカー選手]] * 1971年 - [[イーロン・マスク]]、[[起業家]]、[[スペースX]]社[[CEO]] * [[1972年]] - [[マリア・ブッテルスカヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1973年]] - [[瀧口修央]]、俳優 * 1973年 - [[萬木善之]]、[[フラワーデザイナー]] * 1973年 - [[フロスト (ミュージシャン)|フロスト]]、ミュージシャン * [[1974年]] - [[水野美紀]]、女優 * 1974年 - [[有坂美香]]、[[歌手]] * [[1975年]] - [[ジョン・ノトヴェイト]]、ミュージシャン(+ [[2006年]]) * [[1976年]] - [[三谷英弘]]、政治家、弁護士 * 1976年 - [[川口憲史]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[浅越しのぶ]]、元[[テニス]]選手 * 1976年 - [[遠藤良平]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[セス・ウェスコット]]、スノーボーダー * [[1977年]] - [[DJ KOHNO]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]([[ケツメイシ]]) * 1977年 - [[田村幸士]]、俳優 * 1977年 - [[隅田かずあさ]]、漫画家、イラストレーター * [[1978年]] - [[ハ・ジウォン]]、女優 * 1978年 - [[ネゴシックス]]、お笑い芸人 * [[1979年]] - [[フェリシア・デイ]]、女優 * [[1981年]] - [[杉田尚]]、漫画家 * 1981年 - [[齋藤めぐみ (タレント)|齋藤めぐみ]]、タレント * 1981年 - [[清水智信]]、元プロボクサー * 1981年 - [[ブランドン・フィリップス]]、プロ野球選手 * 1981年 - [[マラ・サンタンジェロ]]、テニス選手 * 1981年 - [[ヴァシル・キリエンカ]]、自転車競技選手 * [[1982年]] - [[渡邊奈央]]、[[シンガーソングライター]] * 1982年 - [[松波太郎]]、小説家 * 1982年 - [[椿隆之]]、俳優 * 1982年 - [[早坂ひとみ]]、タレント、元[[AV女優]] * [[1983年]] - [[フレンズ (バンド)|三浦太郎]]、ギター奏者([[フレンズ (バンド)|フレンズ]]) * 1983年 - [[平野将光]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[金永光]]、サッカー選手 * [[1985年]] - [[山本隆弥]]、讀賣テレビ放送アナウンサー * 1985年 - [[中村中]]、シンガーソングライター * [[1986年]] - [[丸山貴史]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[三森すずこ]]、声優([[ミルキィホームズ (声優ユニット)|ミルキィホームズ]]、[[μ's]]) * 1986年 - [[辻岡義堂]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * [[1987年]] - [[日向葵 (モデル)|日向葵]]、[[グラビアアイドル]] * 1987年 - [[工藤大輝]]、歌手、[[ダンサー]]([[Da-iCE]]) * 1987年 - [[菊池彩花]]、元[[スピードスケート]]選手 * 1987年 - [[麻生知史]]、元プロ野球選手 * [[1988年]] - [[近藤唯]]、声優 * 1988年 - [[分島花音]]、歌手、チェリスト * 1988年 - [[濱田岳]]、俳優 * 1988年 - [[ニコライ・ミハイロフ]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[梅田尚通]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[水口大地]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[木暮郁哉]]、サッカー選手 * 1989年 - [[宮澤裕樹]]、サッカー選手 * [[1990年]] - [[尾高杏奈]]、元女優 * 1990年 - [[松原汐織]]、ファッションモデル * 1990年 - [[井上はるか]]、フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[浅野優貴]]、歌手、俳優 * 1990年 - [[ドーグラス・マラドーナ・カンポス・ダンギ]]、サッカー選手 * 1990年 - [[トーマス・パルマー]]、自転車競技選手 * [[1991年]] - [[カン・ミンヒョク]]、歌手([[CNBLUE]]) * 1991年 - [[小山ひかる]]、ファッションモデル、歌手(元[[HINOIチーム]]) * 1991年 - [[アンジェリカ・シドロワ]]<ref>{{Cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/authorised-neutral-athlete/anzhelika-sidorova-14299350 |title=Anzhelika SIDOROVA |access-date=16 Oct 2023 |publisher=World Athletics.}}</ref>、陸上競技選手 * 1991年 - [[ソヒョン]]、歌手([[少女時代 (音楽グループ)|少女時代]]) * 1991年 - [[昆夏美]]、女優、歌手 * [[1992年]] - [[三樹加奈]]、ラグビーユニオン選手 * 1992年 - [[小原好美]]、声優 * 1992年 - [[エレイン・トンプソン]]<ref>{{Cite web |url=https://worldathletics.org/athletes/jamaica/elaine-thompson-herah-14285956 |title=Elaine THOMPSON-HERAH |access-date=16 Oct 2023 |publisher=World Athletics.}}</ref>、陸上競技選手 * 1992年 - [[オスカル・ヒリェマルク]]、サッカー選手 * [[1993年]] - [[ブラッドリー・ビール]]、バスケットボール選手 * [[1994年]] - [[斉藤真木子]]、アイドル([[SKE48]]) * 1994年 - [[柚木亜里紗]]、ローカルタレント、女優 * [[1995年]] - [[関根大気]]、プロ野球選手 * 1995年 - [[武蔵龍也]]、プロレスラー * [[1996年]] - [[中野拓夢]]、プロ野球選手 * [[1997年]] - [[中江友梨]]、歌手([[東京女子流]]) * [[1998年]] - [[星川あかり]]、野球選手 * [[1999年]] - [[尾本侑樹奈]]、女優 * [[2003年]] - 長瀬結星、アイドル(ジャニーズJr.、少年忍者) * 2003年 - [[橋本桃呼]]、アイドル([[高嶺のなでしこ]]) * 2003年 - [[前田陸|リク]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * [[2004年]] - [[平美乃理]]、ファッションモデル * [[2005年]] - [[山﨑愛生]]、歌手([[モーニング娘。]]) * 2005年 - 倉島杏実、アイドル(SKE48) * [[2013年]] - [[鈴木楽]]、子役 * 生年不詳 - [[にしむらともこ]]、漫画家 * 生年不詳 - [[柴田容子]]、シンガーソングライター、ラジオパーソナリティ {{-}} == 忌日 == {{multiple image | caption1 = [[後漢]]末期の武将[[袁紹]](?-202)、[[官渡の戦い]]敗北後病没。 | image1 = Yuan_Shao_Portrait.jpg | width1 = 60 | alt1 = 袁紹 | caption2 = 第4代アメリカ合衆国大統領[[ジェームズ・マディソン]](1751-1836) | image2 = James Madison Presidential $1 Coin obverse.png | width2 = 120 | alt2 = ジェームズ・マディソン }} {{multiple image | footer = [[浮世絵]]師[[鳥居清長]](1752-1815)没。左画像は『美南見十二候 九月 漁火(いざよう月)』、右画像は『濱屋 川岸の涼み』。 | image1 = Kiyonaga Le neuvième mois (Minami juni ko).JPG | width1 = 90 | alt1 = 鳥居清長画、美南見十二候 九月 漁火(いざよう月) | image2 = Kiyonaga_Riverside01.JPG | width2 = 90 | alt2 = 鳥居清長画、濱屋 川岸の涼み }} {{multiple image | footer = [[サラエボ事件]]:[[オーストリア]]大公[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]](1863-1914)と妻[[ゾフィー・ホテク]](1863-1914)、[[セルビア]]人[[ガヴリロ・プリンツィプ]]により暗殺。左画像は逮捕されるプリンツィプ、右はフランツ・フェルディナントの着ていた制服 | image1 =Gavrilo_Princip_captured_in_Sarajevo_1914.jpg | width1 = 120 | alt1 = 逮捕されるガヴリロ・プリンツィプ | image2 = Uniform worn by Ferdinand when he was assassinated in Sarajevo.jpg | width2 = 60 | alt2 = フランツの着ていた制服 }} {{multiple image | footer = [[マンセル・カラー・システム]]の発案者、[[アルバート・マンセル]](1858-1918)没。右画像はマンセルの色相環 | image1 = Albert-munsell.jpg | width1 = 90 | alt1 = アルバート・マンセル | image2 = MunsellColorCircle.png | width2 = 90 | alt2 = マンセルの色相環 }} * [[202年]]([[建安 (漢)|建安]]7年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[袁紹]]、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将 * [[548年]] - [[テオドラ (ユスティニアヌスの皇后)|テオドラ]]、[[ユスティニアヌス1世]]の皇后(* [[500年]]頃) * [[1031年]]([[長元]]4年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[平忠常]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[975年]]?) * [[1193年]]([[建久]]4年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[曾我祐成]]、[[鎌倉時代]]の武将(* [[1172年]]) * 1193年(建久4年5月28日) - [[工藤祐経]]、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]] * [[1194年]]([[紹熙]]5年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[孝宗 (宋)|孝宗]]、第2代[[南宋]][[皇帝]](* [[1127年]]) * [[1385年]] - [[アンドロニコス4世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]](* [[1348年]]) * [[1389年]] - [[ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)|ラザル・フレベリャノヴィチ]]、[[セルビア公国 (中世)|セルビア侯]](* [[1329年]]) * [[1590年]]([[天正]]18年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[堀秀政]]、[[武将|戦国武将]](* [[1553年]]) * [[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[下間仲孝]]、[[本願寺氏]]の坊官(* [[1551年]]) * [[1813年]] - [[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[参謀本部|参謀総長]](* [[1755年]]) * [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[鳥居清長]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1752年]]) * [[1836年]] - [[ジェームズ・マディソン]]、第4代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1751年]]) * [[1852年]] - [[ウィルヘルム・ヒージンガー]]、[[化学者]](* [[1766年]]) * [[1889年]] - [[マリア・ミッチェル]]、[[天文学者]](* [[1818年]]) * [[1914年]] - [[フランツ・フェルディナント大公]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア]][[皇太子]](* [[1863年]]) * 1914年 - [[ゾフィー・ホテク]]、フランツ・フェルディナント大公夫人(* [[1868年]]) * [[1918年]] - [[アルバート・マンセル]]、[[マンセル・カラー・システム|マンセル表色系]]の発案者(* [[1858年]]) * [[1919年]] - [[ペトロー・ボルボチャーン]]、[[ウクライナ・コサック]]の[[アタマン|オタマーン]](* [[1883年]]) * [[1934年]] - [[田島錦治]]、[[経済学者]](* [[1867年]]) * [[1940年]] - [[イタロ・バルボ]]、[[イタリア]]空軍大臣(* [[1896年]]) * [[1945年]] - [[ジョニー・ハイケンス]]、作曲家(* [[1884年]]) * [[1951年]] - [[林芙美子]]<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASN76759VN6ZTGPB005.html?iref=pc_photo_gallery_bottom |title=福岡)「放浪記」の林芙美子 ゆかりの直方に銅像建立へ |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=7 Jul 2020}}</ref>、[[小説家]](* [[1903年]]) * [[1962年]] - [[ミッキー・カクレーン]]、元プロ野球選手(* [[1903年]]) * [[1963年]] - [[フランク・ベーカー (1886年生の内野手)|フランク・ベーカー]]、元プロ野球選手(* [[1886年]]) * [[1966年]] - [[デイビッド・カーティス・スティーブンソン]]、[[クー・クラックス・クラン]]幹部(* [[1891年]]) * [[1971年]] - [[フランツ・シュタングル]]、[[ナチス・ドイツ]]の[[絶滅収容所]]所長(* [[1908年]]) * [[1975年]] - [[コンスタンティノス・ドクシアディス]]、[[都市計画|都市計画家]](* [[1913年]]) * 1975年 - [[ロッド・サーリング]]、[[テレビ]][[脚本家]](* [[1924年]]) * [[1976年]] - [[ヤコフ・ザーク ]]、[[ピアニスト]](* [[1913年]]) * [[1981年]] - [[テリー・フォックス]]、[[カナダ]]の国民的英雄として知られる人物(* [[1958年]]) * [[1983年]] - [[沖雅也]]、[[俳優]](* [[1952年]]) * [[1984年]] - [[クロード・シュヴァレー]]、[[数学者]](* [[1909年]]) * [[1989年]] - [[ヨリス・イヴェンス]]、[[映画監督]](* [[1898年]]) * [[1992年]] - [[ミハイル・タリ]]、第10代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの世界チャンピオン]](* [[1936年]]) * [[1993年]] - [[GGアリン]]、[[パンク・ロック]][[歌手]](* [[1956年]]) * [[1996年]] - [[山形勲]]、俳優(* [[1915年]]) * [[1997年]] - [[佐貫亦男]]、航空宇宙評論家(* [[1908年]]) * [[1999年]] - [[ヴェア・バード]]、[[アンティグア・バーブーダの首相一覧|アンティグア・バーブーダ首相]](* [[1910年]]) * 1999年 - [[田中千代 (教育者)|田中千代]]、[[教育者]]、服飾[[デザイナー]](* [[1906年]]) * [[2003年]] - [[ヴィム・スライクハイス]]、[[陸上競技]]選手(* [[1923年]]) * [[2004年]] - [[野沢尚]]、[[脚本家]]、小説家(* [[1960年]]) * [[2007年]] - [[宮澤喜一]]、[[政治家]]、第78代[[内閣総理大臣]](* [[1919年]]) * 2007年 - [[中江真司]]、[[声優]]、[[ナレーター]](* [[1935年]]) * [[2008年]] - [[佐々木久子]]、[[随筆家]](* [[1927年]]) * 2008年 - [[ルスラナ・コルシュノワ]]、[[ファッションモデル]](* [[1987年]]) * 2008年 - [[嘉藤栄吉]]、元[[野球選手]](* [[1917年]]) * [[2010年]] - [[佃公彦]]、[[漫画家]](* [[1930年]]) * [[2011年]] - [[渡辺長助]]、元プロ野球選手(* [[1956年]]) * 2011年 - [[セーラ・ロウエル]]、タレント、モデル(* [[1960年]]) * [[2012年]] - [[小野ヤスシ]]、[[タレント]]、[[俳優]](* [[1940年]]) * [[2017年]] - [[森慎二]]、元プロ野球選手(* [[1974年]]) * 2017年 - [[佐々木正美]]、[[児童精神科医]](* [[1935年]]) * [[2018年]] - [[坂本廣子]]、[[料理研究家]](* [[1946年]]) * 2018年 - [[ハーラン・エリスン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0101911 |title=「世界の中心で愛を叫んだけもの」作家ハーラン・エリスンさん死去 84歳 |publisher=[[シネマトゥデイ (企業)|株式会社シネマトゥデイ]] |date=29 Jun 2018 |accessdate=16 Oct 2023}}</ref>、[[SF作家]]、[[脚本家]] (*[[1937年]]) * [[2019年]] - [[上田閑照]]、哲学者、京都大学名誉教授(* [[1926年]]) * [[2020年]] - [[ウイリー沖山]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202007050000689.html |title=ウイリー沖山さん、老衰で亡くなっていた 87歳 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=6 Jul 2020}}</ref><ref>{{Cite web |title=キング・オブ・ヨーデルウイリー沖山さん死去、87歳 「ひょうきん族」などでも活躍 |url=https://www.sanspo.com/article/20200706-3J3E5XBY35LVZAZIF3WJDDLYJQ/ |date=6 Jul 2020 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[サンケイスポーツ]]}}</ref>、歌手 (*[[1933年]]) * 2020年 - [[申紀蘭]]<ref>{{Cite web |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3292564 |title=第1回全人代から代表を務めた申紀蘭さんが死去 「生きた化石」が遺したメッセージは |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[フランス通信社|AFP]] BB News |date=12 Jul 2020}}</ref>、政治家(中華人民共和国)、[[全国人民代表大会|全国人民代表大会代表]](13期)(* [[1929年]]) * [[2022年]] - [[佐野浅夫]]、俳優(* [[1925年]]) * 2022年 - [[笹木竜三]]、政治家、元衆議院議員(* [[1956年]]) * [[2023年]] - [[嶺井政治]]、実業家、元[[副知事|沖縄県副知事]]、元[[沖縄電力]]社長(* [[1922年]]) * 2023年 - [[小森香子]]、[[詩人]]、[[社会運動|社会運動家]](* [[1930年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2018年]] - [[カイくん]]、[[北海道犬]]、[[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]CM[[タレント]](* [[2002年]]?) {{-}} == 記念日・年中行事 == {{Double image stack|right|Dromader caravan.jpg|Canal de Panamá Mayo 2008 342.jpg|180|[[貿易]]の日。画像は[[アフリカ]]の[[キャラバン]]|[[パナマ運河]]を通過する[[コンテナ船]]}} * 貿易記念日({{JPN}}) *:[[安政]]6年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]](新暦1859年6月28日)、江戸(徳川)幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの五か国との間に結んだ友好通商条約に基づき、横浜・長崎・箱館(函館)の各航で自由貿易の開始を布告したことにちなみ、1963年の閣議決定で制定。 * [[パフェ]]の日({{JPN}}) *: [[1950年]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[藤本英雄]]が日本プロ野球史上初のパーフェクトゲーム([[完全試合]])を達成したことにちなみ、「パフェ(parfait)」がフランス語で「完全な(パーフェクト)」という意味であることから。ちなみに、6と28という数字は共に[[完全数]]である。 * {{仮リンク|憲法記念日(ウクライナ)|en|Constitution Day (Ukraine)}}({{UKR}}) *:1996年の6月28日に[[ウクライナ憲法]]が可決されたことにちなみ、ウクライナで祝日に指定されている。 * JAZZりんごの日({{JPN}}) *: ニュージーランド産のJAZZりんごの美味しさを広めることを目的にT&GJAPAN株式会社が制定。日付はJAZZりんごが初めて日本に輸入された2011年6月28日から<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=213|isbn=978-4422021140 }}</ref>。 *那須波切不動尊火まつり(大柴燈護摩祈願祭)({{JPN}}) *: [[栃木県]][[那須塩原市]]の金乗院で、毎年行われる火祭り。金乗院は、関東三霊場のひとつに数えられる[[高野山真言宗]]の寺院。火祭りは、波切不動尊の大祭で、「松明行」「湯加持」「火渡り」の荒行が行われれ、家内安全や無病息災が祈願される<ref>{{Cite web |url=https://tabi-mag.jp/konjyoin-himatsuri/ |title=那須波切不動尊火まつり|那須塩原市 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=一般社団法人プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0628|date=Oct 2023}} * [[1985年]] - 大和小学校が未来に転送される。(漫画『[[漂流教室]]』) * [[1998年]] - [[桜庭裕一郎]]がシングル「HERE I AM」で歌手デビュー。(テレビドラマ『[[ムコ殿]]』〈2001年版〉<ref>『桜庭裕一郎 写真集』(2001年、角川書店、{{ISBN2|978-4-04-853371-3}})の記述より。</ref>) * [[2025年]] - 地底に潜伏していた巨大生物が地上に出現。地球外生命体フォーリナー、再度の地球侵攻開始。(ゲーム『[[地球防衛軍4]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1974年]] - [[柏木雪乃]]、テレビドラマ・映画『[[踊る大捜査線]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - タマ、キャラクターコンテンツ『[[タマ&フレンズ うちのタマ知りませんか?]]』のメインキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://blog.tamaandfriends.jp/412 |title=タマ誕生日おめでとう! |work=『うちのタマ知りませんか? タマ&フレンズ』 |date=28 Jun 2016 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=[[ソニー・クリエイティブプロダクツ|Sony Creative Products Inc.]]}}</ref><ref>{{Twitter_status|tama_friends|736135261348712448}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://uchitama.com/character/#1 |title=岡本 タマ |work=『うちタマ?! ~うちのタマ知りませんか?~』 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=[[ソニー・クリエイティブプロダクツ]]/「うちタマ?!」製作委員会 Sony Creative Products Inc.}}</ref> * 生年不明 - 蒼月潮、漫画・アニメ『[[うしおととら]]』の主人公 * 生年不明 - 小野田優良、漫画・アニメ・映画『[[ふたりエッチ]]』のヒロイン * 生年不明 - 春日珠紀、ゲーム・アニメ『[[緋色の欠片]]』の主人公<ref>{{Cite web |url=https://v-storage.bnarts.jp/sp-site/hiiro-no-kakera/sp/chara/00.html |title=春日珠紀 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=IF・DF/「緋色の欠片」製作委員会 |work=『緋色の欠片』}}</ref> * 生年不明 - 榊秀平、漫画・ドラマ『[[男水!]]』の主人公 * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#春日未来|春日未来]]、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』の主人公<ref>{{Cite web |url=https://millionlive-anime.idolmaster-official.jp/character/mirai/ |title=春日未来 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER MILLION LIVE!』}}</ref> * 生年不明 - 白河月愛、小説・アニメ『[[経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。|経験済みなキミと、 経験ゼロなオレが、 お付き合いする話。]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|kimizero_anime|1673707766496612354}}</ref> * 生年不明 - 十津川飛香、地域活性プロジェクト『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/totsukawa_asuka |title=奈良 十津川飛香 |work=『温泉むすめ』 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - 温泉津佐間、地域活性プロジェクト『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/yunotsu_sama |title=島根 温泉津佐間 |work=『温泉むすめ』 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - [[ニパ子]]、ニッパー擬人化キャラクター<ref>{{Cite web |title=ニパ子 |url=http://285ch.godhandtool.com/#howtonipako |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=Project NIPAKO -プロジェクトニパコ- |work=『ニパ子ちゃん』}}</ref> * 生年不明 - 蝶野爆爵、漫画・アニメ『[[武装錬金]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ロズワード聖、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Saint_Roswald.html |title=ロズワード聖 |work=『ONE PIECE』 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 都忍、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1276894330251337728}}</ref> * 生年不明 - 牛頭丸、漫画・アニメ『[[ぬらりひょんの孫]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 真城昌弘、漫画・アニメ『[[バクマン。]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 谷垣源次郎、漫画・アニメ『[[ゴールデンカムイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|satorunoda|1409423376544792578}}</ref> * 生年不明 - 冬月あずさ、漫画・ドラマ・アニメ『[[GTO (漫画)|GTO]]』に登場するキャラクター<ref>[[GTO (1998年のテレビドラマ)|ドラマ版第1作]]では[[1973年]]生まれに設定。</ref> * 生年不明 - 源しずな、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 賢木修二、漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|SundayWebry|1541442419526635521}}</ref> * 生年不明 - 東雲柳太郎、漫画『[[姉ログ 靄子姉さんの止まらないモノローグ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 藤沢凛久、漫画『[[かけあうつきひ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=福井セイ |authorlink=福井セイ |year=2021 |title=かけあうつきひ |volume=第2巻 |page=113 |publisher=[[小学館]] |series=[[少年サンデーコミックス]] |isbn=978-4-09-850724-5}}</ref> * 生年不明 - 鬼宿、漫画・アニメ『[[ふしぎ遊戯]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|fushigiyugi_30|1673707758363746308}}</ref> * 生年不明 - 毛利亜子、漫画・アニメ『[[神様はじめました]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 火山洋二、アニメ『[[熱血最強ゴウザウラー]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Cite web |url=https://sunrise-world.net/titles/birthday_06.php |title=キャラクター 誕生日 6月 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Filmworks Inc.]] |website=サンライズワールド}}</ref> * 生年不明 - 水前寺小百合、アニメ『[[出撃!マシンロボレスキュー]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 栗本雪菜、[[読者参加型ゲーム|読者参加企画]]・アニメ『[[セラフィムコール]]』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - [[ドビー]]、小説・映画『[[ハリー・ポッターシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|wizardingwst_jp|1673888960160882688}}</ref> * 生年不明 - リィズ・ホーエンシュタイン、小説・アニメ『[[シュヴァルツェスマーケン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|Muvluv_DMS|1673888954385600512}}</ref> * 生年不明 - 遠藤梨乃、小説・アニメ『[[人生 (小説)|人生]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 加澄有子、小説・漫画・アニメ『[[メルヘン・メドヘン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://maerchen-anime.com/chara/ariko.html |title=加澄有子 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=MMM/メルヘン・メドヘン製作委員会 |work=『メルヘン・メドヘン』}}</ref> * 生年不明 - 黒瀬海愛、小説・アニメ『[[経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。|経験済みなキミと、 経験ゼロなオレが、 お付き合いする話。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|fantasia_bunko|1673707760418971649}}</ref> * 生年不明 - 源泉水、ゲーム・アニメ『[[遙かなる時空の中で]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 霧島あかり、ゲーム『[[つよきす|つよきす 2学期]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.candysoft.jp/ohp/01_products/tsuyokiss2/chara.html |title=CHARACTERS 霧島 あかり |work=『つよきす 2学期』 |accessdate=16 Oct 2023 |publisher=[[CandySoft]]/竜鳴館生徒会執行部}}</ref> * 生年不明 - 林田美咲、ゲーム・アニメ『[[俺たちに翼はない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://game.mages.co.jp/oretsuba/character05.html |title=林田 美咲 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=Omegavision, Inc. [[MAGES.]] [[5pb.]] |work=『俺たちに翼はない』}}</ref> * 生年不明 - 柚ノ木梨奈、ゲーム・アニメ『[[フォトカノ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://photokano.jp/maincharacter06.html |title=柚ノ木梨奈 |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[エンターブレイン]] |work=『フォトカノ』}}</ref> * 生年不明 - イラ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=20&cate=name&cont=Ira |title=イラ |access-date=16 Oct 2023 |publisher=[[ジークレスト|GCREST, Inc.]] [[マイネット|Mynet Games Inc.]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 28|28 June}} {{新暦365日|6|27|6|29|[[5月28日]]|[[7月28日]]|[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]|0628|6|28}} {{1年の月と日}}
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6月29日
6月29日(ろくがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から180日目(閏年では181日目)にあたり、年末まであと185日ある。
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{{Otheruses||[[フレンチ・キス (アイドルユニット)|フレンチ・キス]]の楽曲|思い出せない花}} {{カレンダー 6月}} '''6月29日'''(ろくがつにじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から180日目([[閏年]]では181日目)にあたり、年末まであと185日ある。 == できごと == [[Image:Battle-of-Nagashino-Map-Folding-Screen-1575.png|thumb|300px|[[長篠の戦い]](1575)、[[織田信長]]・[[徳川家康]]連合軍が[[武田勝頼]]を破る]] [[Image:Konotop_coin.jpg|thumb|250px|[[ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)|ロシア・ポーランド戦争]]、[[コノトプの戦い]](1659)。画像は[[ウクライナ]]の記念硬貨]] [[Image:Kikosamagoseikon.jpg|thumb|100px|[[礼宮文仁親王]]が[[文仁親王妃紀子|川嶋紀子]](画像)と結婚、[[秋篠宮家]]創設(1990)]] * [[1028年]]([[長元]]元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[平忠常の乱]]。 * [[1194年]] - [[ノルウェー]]王[[スヴェレ・シグルツソン]]が戴冠。 * [[1575年]]([[天正]]3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[長篠の戦い]]。 * [[1613年]] - [[ロンドン]]の[[グローブ座]]が焼失。翌年再建。 * [[1607年]]([[慶長]]12年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[朝鮮通信使]]が初めて[[江戸]]を訪問し、将軍[[徳川秀忠]]と会見。 * [[1659年]] - [[コノトプの戦い]]が終結。[[ロシア・ツァーリ国]]軍が[[ウクライナ・コサック]]軍に敗れる。{{要検証|date=2010年6月|title=en,pt,roは6月29日としています}} * [[1689年]]([[元禄]]2年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[松尾芭蕉]]が[[おくのほそ道]]の旅で[[平泉]]の[[奥州藤原氏]]3代の跡を訪ねる。 * [[1797年]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]が[[チザルピーナ共和国]]を建国。 * [[1880年]] - [[タヒチ島]]が[[フランス]]の領土となる。 * [[1900年]] - [[ノーベル財団]]設立。 * [[1913年]] - [[セルビア]]・[[ギリシャ]]などと[[ブルガリア]]の間で[[第二次バルカン戦争]]が勃発。{{要検証|date=2010年6月|title='en:Balkan Wars'では"The Second Balkan War broke out on 16 June 1913"とあり、日本語版の記述と矛盾しています}} * [[1928年]] - [[治安維持法]]改正。反[[国体]]の[[結社]]行為に[[死刑]]・[[無期刑]]を追加。 * [[1932年]] - [[警視庁]]が[[特別高等警察]](特高)課を部に昇格。 * [[1935年]] - [[京都大水害]]。[[京都市]]内では前日からの[[集中豪雨]]のため[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]が増水。二条大橋や[[五条大橋]]など多くの橋が流失するとともに市内の大部分が冠水した<ref>「京都二条、五条の大橋流失」『大阪毎日新聞』1935年(昭和10年)6月29日号外(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.206-207 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1938年]] - 翌日にかけて[[関東地方]]で[[集中豪雨]]。東京都下では約15万戸が浸水するなどの被害<ref>「雨量新記録、東京の浸水十戸万戸に」『東京日日新聞』1935年(昭和13年)6月30日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p.220 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[日本本土空襲]]: [[岡山空襲]]。[[岡山城]]が焼失。 * [[1947年]] - [[前田山英五郎]]が第39代[[横綱]]に昇進。 * [[1956年]] - [[アメリカ合衆国]]で[[連邦補助高速道路法]]が施行される。 * 1956年 - [[北海道]][[釧路市]]で火災現場に向かう[[消防車]]が通行人17人をはねる事故。児童6人が即死、2人が重体、9人が重傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=112 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1958年]] - [[1958 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・スウェーデン大会]]の決勝戦で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]を5-2で破り初優勝。 * [[1961年]] - 北海道美唄市[[美唄炭鉱|三菱美唄炭鉱]]でガス爆発事故が発生、一時、坑内に40人が取り残された。8人が死亡、11人が重軽傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=153 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1962年]] - [[北海道]]の[[十勝岳]]で[[水蒸気爆発]]。翌日未明に[[噴火]]が発生。[[硫黄]]鉱山作業員の死者・行方不明者5人、気象台の観測員2人を含む負傷者12名<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=161 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1966年]] - [[ビートルズ]]が初来日。 * [[1976年]] - [[セーシェル]]が[[イギリス]]から独立。 * [[1981年]] - [[中国共産党]]第11期6中[[総会]]で[[文化大革命]]を全面否定する「[[建国以来の党の若干の歴史問題についての決議|歴史決議]]」を採択。 * [[1982年]] - [[アメリカ合衆国|米]][[ソビエト連邦|ソ]]首脳が[[第一次戦略兵器削減条約|戦略兵器削減交渉]] (START I) を開始。<!-- 『決定版20世紀年表』(小学館)に記載あり --> * [[1987年]] - [[6月民主抗争]]:[[大韓民国|韓国]]で[[ノ・テウ]]が[[民主化宣言]]を発した。 * [[1990年]] - [[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]が[[文仁親王妃紀子|川嶋紀子]]と結婚、[[秋篠宮家]]を創設。 * [[1993年]] - [[ゼネコン汚職事件]]: [[東京地検]]が[[石井亨]]仙台市長を収賄容疑で逮捕。 * [[1995年]] - 韓国[[ソウル特別市|ソウル]]の[[三豊百貨店]]がほぼ全壊し、512人が死亡。 * 1995年 - [[スペースシャトル]][[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス]]が[[ロシア]]の[[宇宙ステーション]][[ミール]]と[[ドッキング]]。[[ミール]]と[[スペースシャトル]]のドッキングは初。<!-- 打ち上げは6月27日 --> * [[1999年]] - [[広島県]]を中心とした[[中国地方]]を[[集中豪雨]]([[6.29豪雨災害]])が襲い、各地で起こった[[土砂崩れ]]等により36人が死亡。 * [[2002年]] - [[第2延坪海戦]]。[[黄海]]上で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と[[大韓民国|韓国]]の[[艦艇]]による銃撃戦。合わせて19人が死亡。 * [[2007年]] - 初代[[iPhone]]が[[アメリカ]]で販売開始。 * [[2023年]] - [[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[ドミンゴ・ヘルマン]]が[[メジャーリーグベースボール|MLB]]史上24人目の[[完全試合]]達成。 == 誕生日 == [[Image:H%C5%8Dj%C5%8D_Tokiyori.jpg|thumb|160px|[[鎌倉幕府]]第5代[[執権]]、[[北条時頼]](1227-1263)誕生]] [[Image:Emperor_Go-Mizunoo2.jpg|thumb|160px|[[後水尾天皇]](1596-1680)誕生]] [[Image:Setoguchi_Toukichi.jpg|thumb|120px|海軍軍楽師、[[瀬戸口藤吉]](1868-1941)。『[[軍艦行進曲|軍艦マーチ]]』の作曲者]] <!-- [[Image:Antoine de Saint-Exupéry.jpg|thumb|240px|作家・飛行士、[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]](1900-1944)誕生。{{Squote|大人たちは[[数字]]が大好き。新しい友達の話をしても、大人たちは大事なことは絶対に訊いてこない。「どんな声してる?どんな遊びが好き?蝶は集めてる?」とは訊かないで、「何歳?兄弟は何人?体重は?父親の年収は?」と訊いて、それでその子が分かったつもりになる。――『[[星の王子さま]]』(1943)}}]] --> {{multiple image | footer = 作家・飛行士、[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]](1900-1944)誕生。{{Squote|大人たちは[[数字]]が大好き。新しい友達の話をしても、大人たちは大事なことは絶対に訊いてこない。「どんな声してる?どんな遊びが好き?蝶は集めてる?」とは訊かないで、「何歳?兄弟は何人?体重は?父親の年収は?」と訊いて、それでその子が分かったつもりになる。――『[[星の王子さま]]』(1943)}} <!-- {{Squote|秘密はこうさ。とても簡単なこと……ものは心でしかちゃんと見えない。大事なことは目には見えないんだ。――『[[星の王子さま]]』(1943)}} --> | image1 = Antoine de Saint-Exupéry.jpg | width1 = 140 | alt1 = アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ | image2 = StExStatueBellecourS.jpg | width2 = 100 | alt2 = リヨンにあるサンテックスと星の王子さま像 }} [[Image:Sori_Yanagi_Backrest_supporter.JPG|thumb|120px|[[プロダクトデザイナー]]、[[柳宗理]](1915-2011)誕生。画像は背もたれサポーター]] * [[1227年]]([[安貞]]元年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[北条時頼]]<ref>{{Harvnb|北条氏研究会|2001|p=280}}</ref>、[[鎌倉幕府]]第5代[[執権]](+ [[1263年]]) * [[1517年]] - [[レンベルト・ドドエンス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Rembert-Dodoens Rembert Dodoens Flemish physician and botanist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[医師]]、[[植物学者]] (+ [[1585年]]) * [[1596年]]([[慶長]]元年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[後水尾天皇]]、第108代[[天皇]](+ [[1680年]]) * [[1798年]] - [[ジャコモ・レオパルディ]]、[[詩人]]、[[哲学者]]、[[文献学者]] (+ [[1837年]]) * [[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[稲葉正則]]、[[老中]]、[[小田原藩]]第2代[[藩主]](+ [[1696年]]) * [[1802年]]([[享和]]2年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]) - [[片桐貞信]]、[[小泉藩]]第8代[[藩主]](+ [[1848年]]) * [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[浅田宗伯]]、[[漢方医]](+ [[1894年]]) * [[1842年]] - [[ヨーゼフ・ラーボア]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1924年]]) * [[1863年]] - [[ウィルバート・ロビンソン]]、[[プロ野球選手]](+ [[1934年]]) * [[1866年]](慶応2年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[高楠順次郎]]、[[仏教学者]](+ [[1945年]]) * [[1868年]]([[慶応]]4年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[瀬戸口藤吉]]、[[音楽家]](+ [[1941年]]) <!-- [[瀬戸口藤吉]]に6/28とありますが、そちらが換算ミス? --> * [[1880年]] - [[ハリー・フレイジー]]、[[メジャーリーグ]]球団オーナー(+ [[1929年]]) * [[1897年]] - [[土浦亀城]]、[[建築家]](+ [[1996年]]) * [[1900年]] - [[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]、[[作家]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](+ [[1944年]]) * [[1904年]] - [[内田鐡衛]]、[[コロナ (住宅関連機器メーカー)|株式会社コロナ]]創業者、[[実業家]](+ [[1996年]]) * [[1905年]] - [[入江相政]]、[[侍従|侍従長]]、[[随筆家|エッセイスト]](+ [[1985年]]) * [[1906年]] - [[朱牟田夏雄]]、[[イギリス文学者]](+ [[1987年]]) * [[1908年]] - [[ルロイ・アンダーソン]]、[[作曲家]](+ [[1975年]]) * [[1909年]] - [[伏見康治]]、[[理論物理学者]](+ [[2008年]]) * [[1911年]] - [[バーナード・ハーマン]]、作曲家(+ 1975年) * [[1914年]] - [[ラファエル・クーベリック]]、[[指揮者]]、作曲家(+ [[1996年]]) * [[1915年]] - [[柳宗理]]、[[インダストリアルデザイナー]](+ [[2011年]]) * [[1916年]] - [[小山正孝]]、[[詩人]](+ [[2002年]]) * [[1920年]] - [[アーミン・ホフマン]]、[[グラフィックデザイナー]]、[[タイポグラファー]](+ [[2020年]]) * [[1922年]] - [[清岡卓行]]、[[詩人]]、[[小説家]](+ [[2006年]]) * [[1928年]] - [[松尾浩也]]、[[法学者]](+ [[2017年]]) * [[1929年]] - [[間宮芳生]]、作曲家 * [[1930年]] - [[左幸子]]、[[俳優|女優]](+ [[2001年]]) * 1930年 - [[小田切みき]]、女優(+ [[2006年]]) * [[1932年]] - [[伊東絹子]]、[[ファッションモデル]]、[[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]](+ [[2023年]]) * [[1933年]] - [[冲永荘一]]、[[帝京大学]]創設者(+ [[2008年]]) * 1933年 - [[久松夕子]]、[[声優]] * [[1934年]] - [[吉川元忠]]、[[経済学者]](+ [[2005年]]) * 1934年 - [[加倉井実]]、プロ野球選手(+ [[1998年]]) * [[1935年]] - [[野村克也]]、プロ野球選手、[[監督]](+ [[2020年]]<ref>{{Citenews|title=野村氏の息子・克則氏は涙 「急すぎて受け入れられない」 死因は妻と同じ「虚血性心不全」|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2020/02/11/0013107305.shtml|newspaper=デイリー|date=2020-02-11|accessdate=2020-10-24}}</ref>) * [[1936年]] - [[ハーモン・キルブルー]]、プロ野球選手(+ [[2011年]]) * 1936年 - [[デヴィッド・ジェンキンス (フィギュアスケート選手)|デヴィッド・ジェンキンス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1936年 - [[冬柴鐵三]]、政治家(+ [[2011年]]) * [[1939年]] - [[植田征作]]、元プロ野球選手 * 1939年 - [[一龍斎貞水#6代目|6代目一龍斎貞水]]、[[講談師]](+ [[2020年]]) * [[1940年]] - [[朝間義隆]]、[[脚本家]]、[[映画監督]] * [[1941年]] - [[倍賞千恵子]]、女優、[[歌手]] * 1941年 - [[北川公一]]、元プロ野球選手 * [[1945年]] - [[中塚政幸]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[姜大衛]]、[[俳優]]、映画監督 * [[1948年]] - [[イアン・ペイス]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * 1948年 - [[成田春男]]、[[調教師]] * 1948年 - [[矢部徳美]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[中田カウス]]、[[漫才師]] * [[1950年]] - [[服部信治]]、[[実業家]] * [[1954年]] - [[清水アキラ]]、[[お笑いタレント]]、[[ものまね]]タレント * [[1955年]] - [[森マリア]]、元歌手、元女優 * 1955年 - [[西村泰彦]]、[[警察官僚]]、元[[警視総監]]、[[内閣危機管理監]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/kanbu/2014/nishimura_yasuhiko.html|title=内閣危機管理監|publisher=[[内閣官房]]|accessdate=2016年5月29日|archiveurl=https://archive.is/cLLVf/image|archivedate=2014年12月22日}}</ref> * [[1956年]] - [[ニック・フライ]]、[[ブラウンGP]]最高経営責任者 * 1956年 - 二代目[[引田天功 (2代目)|引田天功]](プリンセス・テンコー)、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[1958年]] - [[ロザ・モタ]]、元[[マラソン]]選手 * 1959年 - [[後藤雄一]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - [[清水よし子]]、お笑いタレント([[ピンクの電話]]) * [[1963年]] - [[アンネ=ゾフィー・ムター]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1964年]] - [[御子柴進]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[藤原英昭]]、調教師 * [[1966年]] - [[神尾葉子]]、[[漫画家]] * 1966年 - [[パパイヤ鈴木]]、[[振り付け師]]、タレント * 1966年 - [[エドツワキ]]、[[画家]]、[[デザイナー]]、[[アートディレクター]] * [[1968年]] - [[中村良二]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[松本志のぶ]]、[[アナウンサー]] * 1969年 - [[橋下徹]]、[[弁護士]]、政治家、元[[大阪府知事一覧|大阪府知事]]、元[[大阪市]]長 * [[1970年]] - [[渡邉博幸]]、元プロ野球選手 * [[1971年]] - [[野田順子]]、声優 * 1971年 - [[原正俊]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[真木ことみ]]、[[演歌歌手]] * 1972年 - [[サマンサ・スミス]]、[[親善大使]](+ 1985年) * [[1973年]] - [[塩崎真]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[福嶋晃子]]、プロ[[ゴルフ|ゴルファー]] * 1973年 - [[ペドロ・バルデス]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[朴賛浩]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[森徹 (スキー選手)|森徹]]、[[スキー]]選手(+ 1998年) * 1973年 - [[中華首藤]]、[[ローカルタレント]] * [[1975年]] - [[高木郁乃]]、ミュージシャン、[[ボーカリスト]] * 1975年 - [[マシュー・ゲイツ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1976年]] - [[井川遥]]、女優、タレント * 1976年 - [[松田直樹 (ボクサー)|松田直樹]]、[[プロボクサー]] * 1976年 - [[オスマニー・ウルティア]]、元[[野球選手]] <!-- 特筆性は? * [[1977年]] - 菊池健一、お笑い芸人([[ギンナナ]]) --> * [[1977年]] - [[ウィル・ケンプ]]、[[ダンサー]]、俳優 * [[1978年]] - [[吉川昌宏]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[トレイ・ホッジス]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[浅井雄一]]、[[モデル (職業)|モデル]]、俳優 * 1979年 - [[谷口邦幸]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[酒井友之]]、元[[サッカー選手]] * 1979年 - [[美元]]、女優、モデル * 1979年 - [[平川博晶]]、俳優 * [[1980年]] - [[キャサリン・ジェンキンス]]、[[メゾソプラノ|メッゾ・ソプラノ]][[歌手]] * 1980年 - [[川瀬晶子 (声優)|川瀬晶子]]、声優 * [[1981年]] - [[咲人]]、ミュージシャン、[[ギタリスト]]([[ナイトメア (バンド)|ナイトメア]]) * 1981年 - [[小林よしひさ]]、タレント * [[1982年]] - [[金子麻美]]、歌手 * 1982年 - [[土屋千明]]、[[競艇選手]] * [[1983年]] - [[あぢゃ]]、タレント * 1983年 - [[小川摩起]]、女優 * [[1984年]] - [[大引啓次]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[西京舞]]、[[グラビアアイドル]] * [[1986年]] - [[塚田祥雄]]、元[[騎手]] * 1986年 - [[ホセ・マヌエル・フラド]]、サッカー選手 * 1986年 - [[松村未央]]、[[アナウンサー]] * [[1987年]] - [[齋藤ヤスカ]]、元俳優 * 1987年 - [[大友歩]]、元女優 * [[1988年]] - [[ブルックス・ラリー]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[エベル・バネガ]]、サッカー選手 * 1988年 - [[村井良大]]、俳優 * [[1989年]] - [[余佩詩]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1990年]] - [[木村昴]]、声優、タレント * 1990年 - [[大西礼芳]]、女優 * 1990年 - [[THE SxPLAY]]、歌手 * 1990年 - [[岡本知剛]]、サッカー選手 * 1990年 - [[ヤン・エムヴィラ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[田中萌 (アナウンサー)|田中萌]]、アナウンサー * [[1992年]] - [[矢方美紀]]、タレント(元[[SKE48]]) * 1992年 - [[ヨルマー・サンチェス]]、プロ野球選手 * [[1993年]] - [[小野塚勇人]]、俳優([[劇団EXILE]]) * 1993年 - [[佐藤優 (野球)|佐藤優]]、元プロ野球選手 * [[1995年]] - [[菅原梨央]]、[[アイドル]](元[[テクプリ]]) * 1995年 - [[大竹耕太郎]]、プロ野球選手 * 1995年 - [[山下諒]]、[[映像作家]]、[[クリエイター]] * 1995年 - [[ティム・シュープ]]、プロアイスホッケー選手 * [[1996年]] - [[森永悠希]]、俳優 * 1996年 - [[森田歩希]]、陸上選手 * [[1998年]] - [[関有美子]]、元アイドル(元[[櫻坂46|欅坂46、櫻坂46]]) * 1998年 - [[鈴木大河 (ジャニーズ)|鈴木大河]]、俳優、歌手(元[[IMPACTors]]) * 1998年 - [[田中志歩]]、柔道選手 * 1998年 - FUMA、アイドル([[&TEAM]]) * [[1999年]] - [[翁田大勢|大勢]]、プロ野球選手 * [[2000年]] - [[赤羽由紘]]、プロ野球選手 * [[2002年]] - [[海老野心]]、モデル、タレント * 生年不明 - [[さいとうちほ]]、漫画家 * 生年不明 - [[中原新]]、声優 * 生年不明 - [[志村貴博]]<ref>[https://www.bloomz.com.mx/shimuratakahiro/ 志村貴博のプロフィール]</ref>、声優 {{-}} == 忌日 == [[Image:Arai_Hakuseki_-_Japanischer_Gelehrter.jpg|thumb|100px|[[正徳の治]]を行った学者・政治家、[[新井白石]](1657-1725)没<!--。{{Squote|近き比ほいより、商人たてものと名づけて、その事の大小にしたがひて、或は百金、或は千金をまず奉行にいれて、「此事某に仰付られむには、公より其価を下し賜らむ時に、またいくばくか金を進らすべし」といふ。これをば礼物といふなり。<!- [[wikiquote:ja:新井白石]]より。要は汚職です ->――『[[折たく柴の記]]』(1716)}}-->]] [[Image:Sogakudo07s750.jpg|thumb|80px|作曲家、[[瀧廉太郎]](1879-1903)]] <!-- WANTED: audio. [[荒城の月]]など… --> <!-- [[Image:Uchida-Roan.jpg|thumb|100px|作家[[内田魯庵]](1868-1929)]] --> {{multiple image | footer = 画家[[パウル・クレー]](1879-1940)没。左画像は自画像(1911)、右は『ホフマンへの物語』(1921) | image1 = Paul Klee Self Portrait 1911.jpg | width1 = 120 | alt1 = クレーの自画像(1911) | image2 = Tale à la Hoffmann MET DT1768.jpg | width2 = 140 | alt2 = ホフマンへの物語(1921) }} [[Image:IgnacyJanPaderewski.jpg|thumb|100px|ピアニスト・[[ポーランド]]首相、[[イグナツィ・パデレフスキ]](1860-1941)]] <!-- {{multiple image | footer = 建築家、[[遠藤新]](1889-1951)。右画像は自由学園目白講堂 | image1 = Arata_Endo.jpg | width1 = 80 | alt1 = 遠藤新 | image2 = Auditorium_of_Jiyu_Gakuen.jpg | width2 = 140 | alt2 = 自由学園目白講堂 }} --> * [[226年]](黄初7年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[曹丕]]、[[魏 (三国)|魏]]の初代皇帝(* [[187年]]) * [[979年]]([[天元 (日本)|天元]]2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]])- [[藤原媓子]]、[[円融天皇]]の皇后、関白[[藤原兼通]]の長女(* [[947年]]) * [[1252年]] - [[アーベル (デンマーク王)|アーベル]]、[[デンマーク]]王(* [[1218年]]) * [[1418年]]([[応永]]25年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]])- [[足利満詮]]、[[室町時代]]の[[武将]]、[[大納言|権大納言]](* [[1364年]]) * [[1575年]]([[天正]]3年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - [[内藤昌豊]]、[[武将|戦国武将]](* [[1522年]]) * 1575年(天正3年5月21日) - [[馬場信春]]、戦国武将(* [[1515年]]) * 1575年(天正3年5月21日) - [[山県昌景]]、戦国武将(* [[1529年]]) * 1575年(天正3年5月21日) - [[土屋昌続]]、戦国武将(* [[1544年]])<!-- [[土屋昌次]]には7/9とあり…グレゴリオ暦か? --> * [[1724年]]([[享保]]9年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - [[前田綱紀]]、第5代[[加賀藩|加賀藩主]](* [[1643年]]) * [[1725年]](享保10年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[新井白石]]、江戸幕府[[老中]]、[[儒学者]](* [[1657年]]) * [[1744年]] - [[アンドレ・カンプラ]]、[[作曲家]](* [[1660年]]) * [[1875年]] - [[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]、[[オーストリア皇帝]](* [[1793年]]) * [[1895年]] - [[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]、[[生物学者]](* [[1825年]]) * [[1903年]] - [[瀧廉太郎]]、作曲家(* [[1879年]]) * [[1929年]] - [[内田魯庵]]、[[小説家]]、[[文芸評論家]]、[[翻訳家]](* [[1868年]]) * [[1933年]] - [[ロスコー・アーバックル]]、[[俳優]](* [[1887年]]) * [[1935年]] - [[橘ノ圓 (初代)]]、[[落語家]](* [[1868年]]) * 1935年 - [[長谷川海太郎]]、小説家(* [[1900年]]) * [[1940年]] - [[パウル・クレー]]、[[画家]](* [[1879年]]) * [[1941年]] - [[イグナツィ・パデレフスキ]]、[[ピアニスト]]、作曲家、[[ポーランド]]第二共和制第3代[[ポーランドの首相一覧|首相]](* [[1860年]]) * [[1951年]] - [[遠藤新]]、[[建築家]](* [[1889年]]) * [[1953年]] - [[幣原坦]]、[[歴史学者]]、[[教育者]]、[[官僚]](* [[1870年]]) * [[1957年]] - [[橋本欣五郎]]、[[軍人]]、[[右翼]]活動家、[[衆議院議員]](* [[1890年]]) * [[1964年]] - [[エリック・ドルフィー]]、ジャズミュージシャン(* [[1928年]]) * [[1965年]] - [[沢本頼雄]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[軍人]](* [[1886年]]) * [[1967年]] - [[プリモ・カルネラ]]、[[プロボクサー]](* [[1906年]]) * 1967年 - [[ジェーン・マンスフィールド]]、[[俳優|女優]](* [[1933年]]) * [[1974年]] - [[結城哀草果]]、[[歌人]]、[[随筆家]](* [[1893年]]) * [[1994年]] - [[クルト・アイヒホルン]]、[[指揮者]](* [[1908年]]) * [[1995年]] - [[ラナ・ターナー]]、女優(* [[1921年]]) * [[1997年]] - [[大村雅朗]]、作曲家、[[編曲家|アレンジャー]](* [[1951年]]) * [[2000年]] - [[ヴィットリオ・ガスマン]]、俳優(* [[1922年]]) * 2000年 - [[服部孝宏]]、[[陸上競技]]選手(* [[1971年]]) * [[2002年]] - [[オルヨハン・ダール]]、計算機科学者(* [[1931年]]) * [[2003年]] - [[キャサリン・ヘプバーン]]、女優(* [[1907年]]) * [[2006年]] - [[ロイド・リチャーズ]]、俳優(* [[1919年]]) * 2006年 - [[松本きょうじ]]、俳優(* [[1954年]]) * 2006年 - [[ファビアン・ビーリンスキー]]、[[映画監督]](* [[1959年]]) * [[2007年]] - [[フレッド・セイバーヘーゲン]]、[[SF作家]](* [[1930年]]) * 2007年 - [[エドワード・ヤン]]、映画監督(* [[1947年]]) * [[2012年]] - [[地井武男]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/06/29/kiji/K20120629003570760.html|title=地井武男さん死去、70歳…「北の国から」「ちい散歩」|publisher=スポニチ Sponichi Annex 芸能|date=2012-06-29|accessdate=2020-11-21}}</ref>、俳優(* [[1942年]]) * [[2013年]] - [[中村隆太郎]]<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.cinematoday.jp/news/N0055083 | title = アニメ監督・中村隆太郎さんが死去 58歳 代表作に「lain」「サクラ大戦」など | publisher = シネマトゥデイ | date = 2013-07-26 | accessdate = 2020-11-14 }}</ref>、[[アニメ監督]]、[[演出家]](* [[1955年]]) * [[2016年]] - [[古川麒一郎]]、[[天文学者]](* [[1929年]]) * [[2017年]] - [[阿部良男]]、プロ野球選手(* [[1946年]]) * [[2022年]] - [[野村昭子]]、女優(* [[1927年]]) * 2022年 - [[エーレス・ランドストレム]]、陸上競技選手、政治家、国会議員(* [[1932年]]) * 2022年 - [[ソニー・バージャー]]、俳優、作家(* [[1938年]]) * 2022年 - [[井上まなぶ|井上学]]、アナウンサー(* [[1969年]]) * [[2023年]] - 堀忠雄、政治家、[[和束町]]長(* [[1945年]]) * 2023年 - [[クラレンス・バーロウ]]、作曲家(* [[1945年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Michelangelo_Caravaggio_038.jpg|thumb|[[キリスト教]]、[[ペテロ|聖ペテロ]]の祝日。画像は[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジォ]]画『聖ペトロの逆さ磔』(1600-01)]] * [[独立記念日]]({{SYC}}) *: [[1976年]]のこの日、セーシェルがイギリスから独立した<ref>{{Cite web|和書|date=2018年1月31日 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/seychelles/data.html |title=セーシェル基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2018-03-21}}</ref>。 * [[佃煮]]の日({{JPN}}) *: 全国調理食品工業協同組合が[[2004年]]に制定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0629.html |title=6月29日  佃煮(つくだに)の日 |work=なるほど統計学園 |publisher=総務省統計局 |accessdate=2018-03-21}}</ref>。佃煮の発祥の地である東京・[[佃島]]の氏神・[[住吉神社 (東京都中央区)|住吉神社]]が創建されたのが[[1646年]]([[正保]]3年)6月29日であることから。 * [[ビートルズ]]記念日({{JPN}}) *: [[1966年]]のこの日、ビートルズが初来日したことを記念。 <!-- いつ誰が制定したのか不明 * [[星の王子さま]]の日({{JPN}}) *: フランスの作家・飛行士の[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]の誕生日。 --> * {{仮リンク|聖ペテロと聖パウロの祝日|en|Feast of Saints Peter and Paul}}([[キリスト教]]) *: 聖[[ペテロ]]のと聖[[パウロ]]の[[聖名祝日]]。ともに殉教日は特定されていないが、6月29日([[正教会]]では[[7月12日]])が祝日とされている。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0629|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - 昼神夜空、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/hirugami_yozora |title=長野 昼神夜空 |access-date=2023-02-04 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 上鳴電気、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-11/ |title=上鳴電気 |access-date=2023-02-04 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - セーシェル、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=AXIS POWESヘタリア2 |date=2008-12-31 |publisher=[[幻冬舎]] |page=22 |author=日丸屋秀和}}</ref> * 生年不明 - 四ノ宮しおり、アニメ『[[サクラクエスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=四ノ宮しおり |url=http://sakura-quest.com/ |website=『サクラクエスト』 |access-date=2023-02-04 |publisher=サクラクエスト製作委員会}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#ナターリア|ナターリア]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20113 |title=ナターリア(なたーりあ) |access-date=2023-02-04 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - [[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル#朝香果林|朝香果林]]、ゲーム『[[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://lovelive-as.bushimo.jp/member/karin/ |title=朝香 果林 |accessdate=2023-02-04 |publisher=プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 [[ブシロード]] [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] |work=『ラブライブ! スクールアイドルフェスティバルALL STARS』}}</ref> * 生年不明 - シュテル、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=78&cate=name&cont=Ster |title=シュテル |access-date=2023-02-04 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 天国獄、ゲーム・アニメ『[[ヒプノシスマイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hypnosismic.com/character/nagoya/heaven_and_hell/ |title=天国 獄 / MC NAMEHeaven |accessdate=2023-02-04 |publisher=[[キングレコード|King Record Co., Ltd.]] |work=『ヒプノシスマイク』}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#その他のキャラクター|青羽美咲]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|imasml_theater|1012349913995317249}}</ref> <!--* 1963年 - エリザ・ファウスト、漫画『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 霧隠才蔵、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|June 29|29 June}} {{新暦365日|6|28|6|30|[[5月29日]]|[[7月29日]]|[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]|0629|6|29}} {{1年の月と日}}
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6月30日
6月30日(ろくがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から181日目(閏年では182日目)にあたり、年末まであと184日ある。6月の最終日である。
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6月30日(ろくがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から181日目(閏年では182日目)にあたり、年末まであと184日ある。6月の最終日である。
{{カレンダー 6月}} '''6月30日'''(ろくがつさんじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から181日目([[閏年]]では182日目)にあたり、年末まであと184日ある。6月の[[月末|最終日]]である。 == できごと == <!-- 記事に日付のないもの:[[紀古佐美]], [[阿弖流爲]], [[特殊相対性理論]], [[オーバーロード作戦]], [[学童疎開]], [[佐藤栄作]], [[おサル電車]], [[バージニア・ウェード]], [[仁堀連絡船]], [[興浜北線]], [[岩内線]], [[みよし (列車)]], --> [[Image:Микола Івасюк. Богун на переправі.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|ベレステーチュコの戦い|en|Battle of Berestechko}}終結(1651)]] [[Image:Tower_bridge_London_Twilight_-_November_2006.jpg|thumb|ロンドンの[[タワーブリッジ]](1894)供用開始]] <!-- [[Image:London_Thames_Sunset_panorama_-_Feb_2008.jpg|thumb|700px|[[タワーブリッジ]](1894)]] --> <!-- [[Image:Shigenobu_Okuma_5.jpg|thumb|upright|日本初の政党内閣、[[第1次大隈内閣]]発足(1898)]] <!- 大隈に限らず、内閣発足の画像があまりありません。1956までに公開されたものはPDなのですが… -> --> [[Image:Tunguska_Ereignis.jpg|thumb|[[シベリア]]で半径25kmの樹木を薙ぎ倒し炎上させた原因不明の[[ツングースカ大爆発]](1908)]] [[Image:Bundesarchiv Bild 146-1982-159-21A, Nürnberg, Reichsparteitag, Hitler und Röhm.jpg |thumb|upright|[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]による粛清事件、「[[長いナイフの夜]]」(1934)。画像は1933年、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]と、粛清された[[突撃隊]]幹部[[エルンスト・レーム]](右)]] {{multiple image | footer = [[長いナイフの夜]]はじまる(1934)。[[クルト・フォン・シュライヒャー]](左; 1882-1934)と[[グレゴール・シュトラッサー]](右; 1892-1934)らが30日のうちに殺害された | image1 = Bundesarchiv_Bild_183-B0527-0001-020%2C_Kurt_von_Schleicher.jpg | width1 = 110 | alt1 = クルト・フォン・シュライヒャー | image2 = | width2 = 90 | alt2 = [[グレゴール・シュトラッサー]](1892-1934) }} [[Image:Germanprisonerscherbourg.jpg|thumb|[[シェルブールの戦い]]終結(1944)。画像は捕虜となったドイツ兵]] [[Image:Taira_Incident.JPG|thumb|231人が検挙された公安事件、[[平事件]](1949)]] [[Image:Nakayoshi-Jizo.jpg|thumb|100px|[[宮森小学校米軍機墜落事故]](1959)。画像は慰霊碑「仲良し地蔵」]] [[Image:The Soviet Union 1971 CPA 4060 stamp (Cosmonauts Georgy Dobrovolsky, Vladislav Volkov and Viktor Patsayev).jpg|thumb|[[ソユーズ11号]]帰還時の事故で宇宙飛行士3名死亡(1971)]] [[Image:President Trump Meets with Chairman Kim Jong Un (48164732841).jpg|thumb|[[2019年6月米朝首脳会談|板門店での米朝首脳会談]]におけるアメリカの[[ドナルド・トランプ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と北朝鮮の[[金正恩]][[朝鮮労働党委員長]](2019)]] * [[789年]]([[延暦]]8年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[征東将軍]][[紀古佐美]]の軍が[[蝦夷]]の頭領・[[アテルイ|阿弖流爲]]の軍に敗退。 * [[1333年]]([[元弘]]3年/[[正慶]]2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[元弘の乱]]: [[鎌倉幕府]]軍と[[新田義貞]]率いる反幕府軍の合戦・[[鎌倉の戦い]]が始まる。 * [[1643年]] - [[イングランド内戦]]: [[アドウォルトン・ムーアの戦い]]。 * [[1651年]] - [[大洪水時代]]・[[フメリニツキーの乱]]: {{仮リンク|ベレステーチュコの戦い|en|Battle of Berestechko}}が終結。 * [[1688年]](グレゴリオ暦[[7月10日]]) - [[名誉革命]]: [[オランダ総督|オランダ統領]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|オラニエ公ウィレム3世]](後のイングランド王ウィリアム3世)のもとにイングランド議会からのイングランド王即位要請の手紙が届く。 ([[:en:Invitation to William]]) * [[1805年]] - [[アメリカ合衆国議会]]で[[ミシガン準州]]が発足。 * [[1846年]] - [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]がイギリスの32代首相に就任。 * [[1868年]]([[明治]]元年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - 明治新政府が、元・[[江戸町奉行]]支配地域を管轄する[[江戸府]](後の[[東京府]])を設置。 * [[1876年]] - イギリス人の手により、[[中華人民共和国の鉄道|中国初の鉄道]]が[[上海市|上海]]・[[呉淞区|呉淞]]間に開通。<!-- 現存せず --> * [[1882年]] - 米大統領[[ジェームズ・ガーフィールド]]を[[ガーフィールド大統領暗殺事件|暗殺]]した[[チャールズ・J・ギトー]]が絞首刑に処せられる。 <!-- * [[1886年]] - カナダを横断する[[大陸横断鉄道]]の最初の列車が[[モントリオール]]を出発。{{要検証|date=2010年6月|title=同様の記述が'6月28日'にもあります。'en:Canadian_Pacific_Railway'も6月28日としています。}} --> * [[1894年]] - [[ロンドン]]の[[タワーブリッジ]]が使用開始。 * [[1898年]] - 日本で[[大隈重信]]が第8代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次大隈内閣]](隈板内閣)が発足。日本初の[[政党内閣]]。 * [[1905年]] - [[アルベルト・アインシュタイン]]が[[特殊相対性理論]]の最初の論文を物理雑誌に提出。 * [[1908年]] - [[シベリア]]で[[ツングースカ大爆発]]が起こる。 * [[1909年]] - 京成電気軌道(現在の[[京成電鉄]])設立。 * [[1917年]] - [[アメリカ海軍]]の戦艦「[[アイダホ (戦艦)|アイダホ]]」が進水。 * [[1934年]] - [[長いナイフの夜]]事件(レーム事件)。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が[[突撃隊]]幹部などの政敵を粛清。 * [[1936年]] - [[マーガレット・ミッチェル]]の小説『[[風と共に去りぬ]]』が発刊。 * [[1940年]] - [[沖縄県]][[平良港]](現[[宮古島市]])から[[伊良部島]]に向かう連絡船が沈没。75人が死亡・行方不明<ref>伊良部島通いの連絡船が転覆(昭和15年7月2日 福岡日日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p59 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]・[[オーバーロード作戦]]: [[シェルブールの戦い]]が終結。 * 1944年 - 第二次世界大戦: [[国民学校]]初等科の[[学童疎開]]促進要綱を閣議決定。 * [[1948年]] - AT&T[[ベル研究所]]が[[トランジスタ]]の発明を発表。 * [[1949年]] - [[平事件]]。[[福島県]][[平 (いわき市)|平市]](現在の[[いわき市]])で[[日本共産党]]の宣伝用掲示板の設置許可の取消しをめぐり、共産党員と[[平市警察]]が衝突。 * [[1951年]] - [[覚醒剤取締法]]公布。 * [[1955年]] - 自治体警察全廃。 * [[1956年]] - [[グランドキャニオン空中衝突事故]]。 * [[1959年]] - [[宮森小学校米軍機墜落事故]]。[[在日米軍|米軍]][[嘉手納町|嘉手納]]空軍基地を離陸したF-100D戦闘機が[[石川市]]宮森小学校に墜落、給食準備中の児童ら17人が死亡。 * [[1960年]] - [[ベルギー領コンゴ]]が独立してコンゴ共和国(後のザイール、現在の[[コンゴ民主共和国]])となる<ref>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/world/1960/jul/01/congo|title=Marred|publisher=London: Guardian Unlimited|language=英語|accessdate=2014年9月18日}}</ref>。 * [[1966年]] - [[ビートルズ]]の日本公演初日が[[日本武道館]]で行われる。 * [[1967年]] - [[ケネディ・ラウンド]]最終文書に53か国が調印。 * 1967年 - [[佐藤栄作]]首相が[[朴正煕]]大統領就任式出席のために[[大韓民国|韓国]]を訪問。初の首相訪韓。<!-- 『決定版20世紀年表』(小学館)に記載 --> * [[1971年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ソユーズ11号]]が帰還時の事故で宇宙飛行士3名死亡。 * 1971年 - [[イタイイタイ病]]訴訟で[[富山地方裁判所|富山地裁]]が原告住民勝訴の判決を下す。被告の[[三井金属鉱業]]は即日[[控訴]]。 * 1971年 - [[九州自動車道]]が九州縦貫自動車道として[[植木インターチェンジ|植木IC]]-[[熊本インターチェンジ|熊本IC]]間で開通。 * [[1970年]] - トミー、トミカ発売。 * [[1972年]] - 初の[[閏秒]]による[[世界協定時]] (UTC) 調整が行われる。 * [[1974年]] - [[恩賜上野動物園|上野動物園]]の[[おサル電車]]が廃止。 * [[1977年]] - [[イギリス]]の女子[[テニス]]選手[[バージニア・ウェード]]が[[ウィンブルドン選手権]]初優勝。 * [[1978年]] - 1969年に発生した[[東大安田講堂事件]]の裁判が全て終了。最終的に607人が起訴されて590人が有罪になった<ref>東大事件 十年裁判にケリ 最高裁十一被告の上告棄却『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月1日朝刊、13版、23面</ref>。 * [[1982年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]][[仁堀連絡船]]がこの日限りで廃止。<!-- 最終運航日記載。廃止は翌日付け --> * [[1985年]] - [[北海道]]の国鉄[[興浜北線]]・[[岩内線]]がこの日限りで廃止。<!-- 最終運転日記載。廃止は翌日付け --> * [[1987年]] - [[第四次全国総合開発計画]](四全総)が決定。 * [[1989年]] - [[スーダン]]で無血{{仮リンク|1989年スーダンクーデター|label=クーデター|en|1989 Sudanese coup d'état}}。[[オマル・アル=バシール]]が実権を掌握。 * 1989年 - [[CD-ROM]]を媒体とした世界初の[[コンピュータRPG|RPG]]『[[天外魔境 ZIRIA]]』が発売される。 * [[1991年]] - [[同和鉱業片上鉄道]]がこの日限りで全線廃止。<!-- 最終運転日記載。廃止は翌日付け --> * [[1992年]] - カナダ造幣局が{{仮リンク|1カナダドル硬貨|en|Canadian 1 dollar coin}}を発行。 * [[1994年]] - [[日本社会党]]の[[村山富市]]委員長が首相に就任し、47年ぶりの社会党首相が誕生。[[自由民主党 (日本)|自民]]・社会・[[新党さきがけ|さきがけ]]の連立による[[村山内閣|村山富市内閣]]が発足。 * [[1996年]] - [[松竹歌劇団]](SKD)が解散。68年の歴史に幕を下ろす。 * [[1999年]] - 韓国の京畿道華城で[[シーランド火災事故]]が発生。幼稚園生と引率教師ら23人死亡、5人が重軽傷。 * [[2002年]] - [[5月31日]]から行われていた[[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ 日本・韓国大会]]決勝戦が[[横浜国際総合競技場]]で行われ、[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が[[サッカードイツ代表|ドイツ]]を2-0で下し、史上最多の5回目の優勝を果たす。 * [[2003年]] - 日本の[[アマチュア衛星]]「XI-IV」および「CUTE-I」打ち上げ。 * [[2004年]] - [[NTTドコモ]]が[[無線呼び出し|ポケットベル]]の新規契約の受付を停止。 * [[2005年]] - [[スペイン]]で[[同性結婚|同性婚]]法成立。 * [[2009年]] - [[イエメニア626便墜落事故]]。 * [[2013年]] - 銀座[[松坂屋]]が閉店<ref>{{Cite web|和書|date=2013-06-30 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDD3001T_Q3A630C1TJC000/ |title=松坂屋銀座店、88年の歴史にひとまず幕 最終日7万人が来店 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-02-18}}</ref>。1928年から続いた歴史に幕を下ろす。 * [[2015年]] - [[東海道新幹線火災事件]]発生<ref>{{Cite web|和書|date=2015-06-30 |url=http://www.sankei.com/affairs/news/150630/afr1506300036-n1.html |title=【東海道新幹線火災】男がライターで火をつける? 2人死亡、4人が重傷 |work=産経ニュース |publisher=産業経済新聞社 |accessdate=2018-02-18}}</ref>。 * [[2018年]] - [[第42回世界遺産委員会]]で[[長崎の教会群とキリスト教関連遺産]]が[[世界遺産]]([[文化遺産]])に登録<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL6T7HJ2L6TUCVL054.html|title=「潜伏キリシタン」世界遺産に登録決定 国内22件目|newspaper=朝日新聞社|date=2018-06-30|accessdate=2018-07-08}}</ref>。 * 2018年 - [[名古屋市]]の百貨店、[[丸栄]]が閉店。403年の歴史に幕を下ろす<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL6Z5665L6ZOIPE01V.html 名古屋の百貨店・丸栄が閉店 403年の歴史に幕下ろす] 朝日新聞 2018年6月30日</ref>。 * [[2019年]] - [[日本]]が[[国際捕鯨委員会|国際捕鯨委員会(IWC)]]から脱退<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/whale/iwc.html 国際捕鯨委員会(International Whaling Commission : IWC)] 外務省 (2019年9月27日) 2021年4月19日閲覧。</ref><ref>[https://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_thinking/ 捕鯨を取り巻く状況] 水産庁 2021年4月19日閲覧。</ref>。 * 2019年 - [[板門店]]で[[2019年6月米朝首脳会談|米朝首脳会談]]を開催<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46780880Q9A630C1MM8000/ 米朝首脳、非核化交渉再開へ 板門店で3回目会談] 日本経済新聞 (2019年6月30日) 2021年4月19日閲覧。</ref>。 * [[2020年]] - [[香港]]で[[中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法|国家安全維持法]]が公布、即日施行される<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3320813 香港で言論の自由が死んだ2020年、国安法施行から半年] AFPBB News (2020年12月31日) 2021年4月19日閲覧。</ref>。 * 2020年 - この日を以て[[新潟県民エフエム放送]]と[[Radio NEO]]が閉局<ref>[https://www.sankei.com/article/20200731-UOMKOBMF3BO67JVDK4YHF36DUY/ 閉局相次いだ地方ラジオ局 ネット台頭、地殻変動の予兆か] 産経ニュース (2020年7月31日) 2021年4月19日閲覧。</ref>。 * [[2022年]] - [[ペルー]]で大規模な[[地すべり]]が発生。 == 誕生日 == [[Image:Charles_VIII_Ecole_Francaise_16th_century_Musee_de_Conde_Chantilly.jpg|thumb|100px|フランス王「温情王」[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]](1470-1498)誕生]] [[Image:Paul_barras.jpg|thumb|100px|[[テルミドールのクーデター]]の首謀者の1人、政治家[[ポール・バラス]](1755-1829)]] [[Image:YoungSatow.jpg|thumb|100px|イギリスの外交官・[[日本学]]者、[[アーネスト・サトウ]](1843-1929)]][[Image:Georges_Duhamel_1930.jpg|thumb|100px|作家[[ジョルジュ・デュアメル]](1884-1966)]] [[Image:Harold_Laski_1936.JPG|thumb|80px|政治学者[[ハロルド・ラスキ]](1893-1950)]] [[Image:Mike_Tyson.jpg|thumb|80px|[[プロボクサー]]、[[マイク・タイソン]](1966-)]] * [[1470年]] - [[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]、[[フランス王国|フランス]]王(+ [[1498年]]) * [[1656年]]([[明暦]]2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[田村建顕]]、初代[[一関藩|一関藩主]](+ [[1708年]]) * [[1685年]] - [[ジョン・ゲイ]]、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1732年]]) * [[1716年]]([[正徳 (日本)|正徳]]6年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]) - [[井伊直員]]、第3代[[与板藩|与板藩主]](+ [[1735年]]) * [[1751年]]([[寛延]]4年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[藤堂高悠]]、第8代[[津藩|津藩主]](+ [[1770年]]) * [[1755年]] - [[ポール・バラス]]、[[フランス革命]]期の政治家(+ [[1829年]]) * [[1768年]] - [[エリザベス・モンロー]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](+ [[1830年]]) * [[1814年]] - [[フランツ・フォン・ディンゲルシュテット]]、[[詩人]]、[[劇作家]]、劇場支配人(+ [[1881年]]) * [[1817年]] - [[ジョセフ・ダルトン・フッカー]]、[[植物学者]](+ [[1911年]]) * [[1826年]]([[文政]]9年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[鍋島直紀]]、第9代[[蓮池藩|蓮池藩主]](+ [[1891年]]) * [[1841年]]([[天保]]12年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[相良頼基]]、第15代[[人吉藩|人吉藩主]](+ [[1885年]]) * [[1843年]] - [[アーネスト・サトウ]]、[[外交官]](+ [[1929年]]) * [[1851年]]([[嘉永]]4年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[伊沢修二]]、[[教育者]](+ [[1917年]]) * [[1853年]]([[嘉永]]6年5月24日)- [[飯村丈三郎]]、[[政治家]]、[[教育者]]、[[実業家]] * [[1877年]] - [[東くめ]]、[[童謡]]作詞家(+ [[1969年]]) * [[1881年]] - [[ニール・ボール]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1957年]]) * [[1884年]] - [[ジョルジュ・デュアメル]]、作家、詩人(+ [[1966年]]) * [[1893年]] - [[ハロルド・ラスキ]]、[[政治学者]](+ [[1950年]]) * [[1898年]] - [[ヤン・ダーメン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1957年]]) * [[1900年]] - [[ベアトリクス・ローラン]]、フィギュアスケート選手(+ [[1975年]]) * [[1903年]] - [[石田英一郎]]、[[文化人類学者]]、[[民族学者]](+ [[1968年]]) * [[1907年]] - [[内田常雄]]、[[政治家]](+ [[1977年]]) * [[1916年]] - [[西川辰美]]、[[漫画家]](+ [[1971年]]) * [[1917年]] - [[スーザン・ヘイワード]]、[[俳優|女優]](+ [[1975年]]) * [[1920年]] - [[三村正]]、元プロ野球選手 * [[1921年]] - [[伊勢川真澄]]、元プロ野球選手(+ [[1996年]]) * [[1925年]] - [[ミシュリーヌ・ラノア]]、フィギュアスケート選手 * [[1926年]] - [[ニコライ・ザテエフ]]、ソビエト連邦海軍の軍人(+ [[1998年]]) * [[1929年]] - [[滝良彦]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]]) * [[1933年]] - [[デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)|デーヴ・ロバーツ]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]]) * [[1934年]] - [[西澤暲]]、[[アナウンサー]] * [[1935年]] - [[秋本祐作]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]]) * [[1941年]] - [[ラッシャー木村]]、[[プロレスラー]](+ [[2010年]]) * [[1943年]] - [[篠原良昭]]、元プロ野球選手 * [[1944年]] - [[上垣内誠]]、元プロ野球選手 * 1944年 - [[テリー・ファンク]]、プロレスラー(+ [[2023年]]) * [[1945年]] - [[脇坂隆志]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[羽黒岩智一]]、元大相撲力士、年寄14代[[雷 (相撲)|雷]](+ [[2016年]]<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1728713.html 元小結羽黒岩さん死去 大相撲中継は欠かさず観戦] 日刊スポーツ 2016年10月24日14時40分</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1728694.html 元小結羽黒岩さん死去 「世紀の大誤審」で有名に] 日刊スポーツ 2016年10月24日11時57分</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/161024/lif1610240028-s1.html|title=【大相撲】元小結羽黒岩が死去 大鵬の連勝を45で止める|publisher=産経ニュース|date=2016-10-24|accessdate=2020-12-24}}</ref>) * [[1947年]] - [[マーティン・ショー]]、大学教授 * 1947年 - [[南伸坊]]、[[イラストレーター]] * 1947年 - [[岡正光]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[山本和行]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[岩崎透]]、[[実業家]](+ [[2023年]]) * [[1951年]] - [[田中昌之]]、[[歌手]]([[クリスタルキング]]) * 1951年 - [[中村武義]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[村上信夫 (アナウンサー)|村上信夫]]、アナウンサー * [[1954年]] - [[石井隆夫]]、[[声優]](+ [[2018年]]) * [[1955年]] - [[土居孝幸]]、[[イラストレーター]]、[[キャラクターデザイナー]]、[[漫画家]] * [[1958年]] - [[エサ=ペッカ・サロネン]]、作曲家、指揮者 * [[1960年]] - [[塀内夏子]]、漫画家 * [[1961年]] - [[河野正美]]、政治家 * [[1962年]] - [[トニー・フェルナンデス]]、元プロ野球選手(+ [[2020年]]<ref>{{Cite news2 |date= 2020-02-15|url=https://www.lonestarball.com/2020/2/15/21139556/tony-fernandez-died-major-league-baseball-shortstop |title=Tony Fernandez has died at 57 |newspaper=SBNATION | agency=VOXMEDIA|accessdate=2020-10-27}}</ref>) * [[1963年]] - [[イングヴェイ・マルムスティーン]]、[[ギタリスト]] * [[1964年]] - [[千代信人]]、[[政治活動家]] * 1964年 - [[柳川ヨシヒロ]]、漫画家 * [[1965年]] - [[ナース井手]]、元[[タレント]] * [[1966年]] - [[マイク・タイソン]]、[[プロボクサー]] * [[1967年]] - [[森井和美]]、[[野球選手]] * [[1968年]] - [[山下真]]、弁護士、政治家、第10代[[奈良県]][[生駒市|生駒市長]] * [[1969年]] - [[野村弘樹]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[伊東かなえ]]、元アナウンサー * [[1972年]] - [[ギャレット・アンダーソン]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[甲賀瑞穂]]、タレント * 1973年 - [[中川申也]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[フランク・ロスト]]、元サッカー選手 * [[1974年]] - [[エフゲニー・プリウタ]]、フィギュアスケート選手 * [[1975年]] - [[ラルフ・シューマッハ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー * [[1977年]] - [[矢部太郎]]、お笑いタレント、漫画家([[カラテカ (お笑いコンビ)|カラテカ]]) * 1977年 - [[北郷三穂子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * 1977年 - [[タチアナ・ガルビン]]、プロ[[テニス選手]] * [[1979年]] - [[吉村民]]、タレント * 1979年 - [[大石普人]]、漫画家 * [[1980年]] - [[トッド・リンデン]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[二木あい]]、水中表現家 * 1980年 - [[佐々木正詞]]、元野球選手 * 1980年 - [[鈴木磨人]]、[[フットサル]]選手 * 1980年 - [[麻衣 (モデル)|麻衣]]、モデル * [[1981年]] - [[中野謙吾]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー * 1981年 - [[鈴木亮]]、野球選手 * [[1982年]] - [[斎藤桃子]]、声優 * 1982年 - [[ジャ・ジャ]]、歌手 * [[1983年]] - [[越智大祐]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[青木秀加]]、タレント * 1983年 - [[シェリル・コール]]、ミュージシャン([[ガールズ・アラウド]]) * [[1984年]] - [[上園啓史]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[越川優]]、バレーボール選手 * 1984年 - [[エカテリーナ・コステンコ]]、フィギュアスケート選手 * 1984年 - [[西村真二]]、お笑いタレント、元アナウンサー([[コットン (お笑いコンビ)|コットン]]) * [[1985年]] - [[大原慎司]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[嶋田歩]]、元[[グラビアアイドル]] * 1985年 - [[春田なな]]、漫画家 * 1985年 - [[マイケル・フェルプス]]、[[競泳]]選手 * 1985年 - [[ラファウ・ブレハッチ]]、[[ピアニスト]] * 1985年 - [[パット・ベンディット]]、プロ野球選手 * [[1986年]] - {{仮リンク|洪秀兒|en|Hong Soo-ah}}、女優 * 1986年 - [[フレディ・グアリン]]、[[サッカー選手]] * 1986年 - [[雨宮萌果]]、アナウンサー * [[1987年]] - [[金子恭平]]、歌手(元[[FLAME]]) * 1987年 - [[武田洋平]]、サッカー選手 * 1987年 - [[ハファエル・ドス・サントス・デ・オリベイラ|ラフィーニャ]]、サッカー選手 * 1987年 - [[高見侑里]]、キャスター、タレント * 1987年 - [[コール・フィゲロア]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[中尾明慶]]、俳優 * 1988年 - [[白川大輔]]、元プロ野球選手 * [[1989年]] - [[岡田雅利]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[未来弥]]、俳優、モデル * [[1990年]] - [[タカオユキ]]、ミュージシャン、元声優([[みみめめMIMI]]) * 1990年 - [[コディ・アッシー]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[ヘスス・アギラル]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[マテイ・ドボウシェク]]、スキージャンプ選手 * 1990年 - [[ファクンド・ベルトリオ]]、サッカー選手 * 1990年 - [[かとう唯]]、ミュージカル女優 * [[1991年]] - [[夏帆]]、タレント、女優 * 1991年 - [[皆川玲奈]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー * [[1993年]] - [[川越誠司]]、プロ野球選手 * 1993年 - [[菊地あやか]]、元ファッションモデル、元アイドル(元[[AKB48]]) * [[1994年]] - [[雨宮夕夏]]、声優 * [[1995年]] - [[peco (モデル)|peco]]、[[ファッションモデル]] * 1995年 - [[春日望]]、声優 * [[1996年]] - [[岡本和真]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[LUHICA]]、歌手 * 1996年 - [[山本大貴 (アナウンサー)|山本大貴]]、アナウンサー * [[1997年]] - [[伊藤健太郎 (俳優)|伊藤健太郎]]、俳優 * [[1998年]] - [[葵わかな]]、女優 * [[1999年]] - [[草本夏明]]、声優、女優 * 1999年 - [[須崎優衣]]、[[アマチュアレスリング|レスリング]]選手 * 1999年 - [[横田真悠]]、タレント、ファッションモデル * 1999年 - [[小川千奈]]、気象キャスター * 1999年 - [[畑めい]]、AV女優 * [[2001年]] - [[西田ひらり]]、歌手、元アイドル(元[[ONE CHANCE]]、元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]]) * [[2002年]] - [[古田愛理]]、ファッションモデル * 2002年 - [[髙村栞里]]、タレント * 2007年 - [[近藤藍月]]、ファッションモデル * 生年不明 - [[中島麻実]]、声優 == 忌日 == [[Image:Suzaki_kosenjyou01.JPG|thumb|100px|[[鎌倉幕府]]最後の執権、[[北条守時]](1295-1333)自刃]] <!-- [[Image:Guiteau_cartoon2.jpg|thumb|100px|[[ガーフィールド大統領暗殺事件]]の犯人{{仮リンク||en|Charles J. Guiteau}}(1841-1882)、絞首刑に]] --> [[Image:John_William_Strutt.jpg|thumb|100px|物理学者、「レイリー卿」[[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|ジョン・ウィリアム・ストラット]](1842-1919)没。[[レイリー散乱]]、[[レイリー波]]、[[レイリー数]]などに名を残す]] <!-- WANTED: 金子光晴 --> * [[1333年]]([[元弘]]3年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[北条守時]]、[[鎌倉幕府]]第16代[[執権]](* [[1295年]]) * [[1488年]] - [[アンドレア・デル・ヴェロッキオ]]、画家、彫刻家、建築家、版画家(* [[1435年]]頃) * [[1496年]]([[明応]]5年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[日野富子]]、[[足利義政]]の正室、[[足利義尚]]の母(* [[1440年]]) * [[1522年]] - [[ヨハネス・ロイヒリン]]、古典学者、人文学者(* [[1455年]]) * [[1666年]] - [[アダム・クリーガー]]、[[作曲家]](* [[1634年]]) * [[1817年]] - [[アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー]]、[[地質学|地質学者]](* [[1749年]]) * [[1919年]] - [[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|ジョン・ウィリアム・ストラット]]、[[物理学者]](* [[1842年]]) * [[1934年]] - [[クルト・フォン・シュライヒャー]]、[[ドイツの首相|ドイツ首相]](* [[1882年]]) * 1934年 - [[グレゴール・シュトラッサー]]、[[ナチス左派]]の指導者(* [[1892年]]) * [[1954年]] - [[三宅克己]]、[[画家]](* [[1874年]]) * [[1957年]] - [[川合玉堂]]、画家(* [[1873年]]) * [[1961年]] - [[リー・ド・フォレスト]]、[[発明家]]、技術者(* [[1873年]]) * [[1966年]] - [[マージェリー・アリンガム]]、[[推理作家]](* [[1904年]]) * 1966年 - [[ジュゼッペ・ファリーナ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1906年]]) * [[1974年]] - [[ヴァネヴァー・ブッシュ]]、[[アナログコンピュータ]][[技術者]](* [[1890年]]) * [[1975年]] - [[金子光晴]]、[[詩人]](* [[1895年]]) * 1975年 - [[朝比奈泰彦]]、[[薬学者]](* [[1881年]]) * [[1978年]] - [[柴田錬三郎]]、[[小説家]](* [[1917年]]) * [[1984年]] - [[リリアン・ヘルマン]]、[[劇作家]](* [[1905年]]) * [[1993年]] - [[ウォン・カークイ]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1962年]]) * [[1994年]] - [[八島太郎]]、[[画家]]、[[絵本作家]](* [[1908年]]) * [[1996年]] - [[坂本新兵]]、[[俳優]](* [[1935年]]) * [[1999年]] - [[石井藤吉郎]]、[[野球選手]](* [[1924年]]) * [[2001年]] - [[チェット・アトキンス]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー]][[ギタリスト]](* [[1924年]]) * 2001年 - [[ジョー・ヘンダーソン]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(* [[1937年]]) * [[2005年]] - [[小倉昌男]]、[[ヤマト運輸]]社長(* [[1924年]]) * 2005年 - [[アレクセイ・スルタノフ]]、[[ピアニスト]](* [[1969年]]) * [[2006年]] - [[山内弘]]、[[日本社会党]][[衆議院|衆議院議員]](* [[1929年]]) * 2006年 - [[ローベルト・ゲルンハルト]]、作家、画家(* [[1937年]]) * 2006年 - [[ジョイス・ハット]]、[[ピアニスト]](* [[1928年]]) * [[2008年]] - [[はす池均|𨂊池均]]、[[プロ野球審判員]](* [[1945年]]) * [[2010年]] - [[パク・ヨンハ]]、俳優、歌手(* [[1977年]]) * [[2012年]] - [[イツハク・シャミル]]、政治家(* [[1915年]]) * [[2014年]] - [[ポール・マザースキー]]、[[映画監督]]、俳優(* [[1930年]]) * [[2016年]] - [[渡海昇二]]、元[[プロ野球選手]](* [[1938年]]) * [[2017年]] - [[シモーヌ・ヴェイユ (政治家)|シモーヌ・ヴェイユ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASK6Z660HK6ZUHBI01Z.html|title=シモーヌ・ベイユさんが死去 アウシュビッツの生存者|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞社]]|date=2017-06-30|accessdate=2020-12-18}}</ref>、政治家(* [[1927年]]) * [[2020年]] - [[もりしげ]]<ref name="natalie20200703">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/386185 |title=「花右京メイド隊」のもりしげが死去 |accessdate=2020-11-14 |date=2020-7-3 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]}}</ref>、漫画家(生年不明) * [[2021年]] - [[大島康徳]]、元プロ野球選手、監督(* [[1950年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Ohyamato-jinja02s3200.jpg|thumb|240px|[[大祓]]。画像は[[大和神社]]]] <!-- [[Image:Evacuation_of_Schoolchildren_in_Japan.JPG|thumb|200px|[[学童疎開]](1944)]] 日付要確認 --> [[Image:Replica-of-first-transistor.jpg|thumb|240px|[[トランジスタ]]の日。画像は1947年<!--12月23日-->の世界初のトランジスタのレプリカ]] <!-- XXX 6/26にも使った画像 --> * [[大祓]](夏越の祓)([[神道]]) * [[独立記念日]]({{COD}}) *: [[1960年]]のこの日、[[ベルギー領コンゴ]]が独立してコンゴ共和国(後のザイール、現在のコンゴ民主共和国)となった。 * 軍隊記念日({{GTM}}) <!-- [[:en:Armed_Forces_Day#Guatemala]]によれば、1871年に何かがあった日らしい。訳そうとして挫折。[[グアテマラの歴史]]によればこの年に内戦があったようだが詳しく書かれていない。 --> * {{仮リンク|祈祷日 (中央アフリカ)|en|General Prayer Day|label=祈祷日}}({{CAF}})<!-- [[:en:General Prayer Day]]は[[:en:Store Bededag]]へのリダイレクトだが、本来は別の物と思われる --> * [[トランジスタ]]の日 *: [[1948年]]のこの日、[[ウィリアム・ショックレー]]、[[ジョン・バーディーン]]、[[ウォルター・ブラッテン]]が発明したトランジスタが初めて公開されたことを記念。 * アインシュタイン記念日 *: [[1905年]]のこの日、[[アルベルト・アインシュタイン]]が[[相対性理論]]に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌『[[アナーレン・デア・フィジーク]]』に提出した。 * [[疎開|集団疎開]]の日 *: [[1944年]]のこの日、東条英機内閣が集団疎開の促進要綱を閣議決定した。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0630|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * [[1971年]] - 間柴了、漫画『[[はじめの一歩]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ippo_fs|1325377523262185475}}</ref> * [[1979年]] - 山野純、アニメ『[[鎧伝サムライトルーパー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |date=1989-01-01|editor=アニメック編集部|title=鎧伝サムライトルーパー大事典 |page=48|publisher=[[ラポート]]|series=ラポートデラックス }}</ref> * [[2016年]] - [[キズナアイ]]、[[YouTube]]チャンネル「A.I.Channel」の動画に登場する[[バーチャルYouTuber]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000072.000033882.html |title=キズナアイ、誕生日を迎え3歳に!新たな一歩を踏み出すチャレンジを見せた「A.I.Party! 2019 〜hello, how r u?〜」 |work=PR TIMES |date=2019-07-01 |accessdate=2022-09-21}}</ref> * [[2020年]] - R. B. ブッコロー、[[有隣堂]]のYouTubeチャンネル「[[有隣堂#有隣堂しか知らない世界|有隣堂しか知らない世界]]」のMC<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurindo.co.jp/storeguide/youtube-yuseka |title=<nowiki>有隣堂しか知らない世界 | 公式YouTubeチャンネル概要 | 有隣堂</nowiki> |access-date=2023-07-08 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230708042540/https://www.yurindo.co.jp/storeguide/youtube-yuseka |archive-date=2023-07-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=a_fciyziJBg |title=<nowiki>【届いたお花154!】チャンネル3周年!ありがとう生配信 ~有隣堂しか知らない世界195~ - YouTube</nowiki> |access-date=2023-07-08 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230708042856/https://www.youtube.com/watch?v=a_fciyziJBg |archive-date=2023-07-08}}</ref>。 * 生年不明 - [[月野うさぎ]]、漫画・アニメ『[[美少女戦士セーラームーン]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://sailormoon-official.com/world/moon.php |title=月野うさぎ セーラームーン |publisher=美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト |accessdate=2022-09-21}}</ref> * 生年不明 - [[ちびうさ]]、漫画・アニメ『美少女戦士セーラームーン』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sailormoon-official.com/world/chibi_moon.php |title=ちびうさ セーラーちびムーン |publisher=美少女戦士セーラームーン 30周年プロジェクト公式サイト |accessdate=2022-09-21}}</ref> * 生年不明 - ソルティ・レヴァント、漫画・アニメ『[[SoltyRei]]』の主人公 * 生年不明 - 七瀬遙、小説・アニメ『[[ハイ☆スピード!|ハイ☆スピード!(Free!)]]』の主人公<ref>{{Twitter status|iwatobi_sc|1277799015208419329}}</ref> * 生年不明 - キュアラメール/ローラ、アニメ『[[トロピカル〜ジュ!プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/tropical-rouge_precure/character/chara5.php |title=キュアラメール/ローラ |access-date=2023-01-19 |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |work=『トロピカルージュ プリキュア』}}</ref> * 生年不明 - エルミー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Elmy.html |title=エルミー |work=ONE PIECE.com |accessdate=2020-09-21 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - ドンドチャッカ・ビルスタン、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/dondochakka.html |title=ドンドチャッカ・ビルスタン |access-date=2022-09-21 |publisher=[[久保帯人]]/[[集英社]] |website=BLEACH.com}}</ref> * 生年不明 - 古橋康次郎、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1542168017731461120}}</ref> * 生年不明 - フォイフォイ、漫画・アニメ『[[戦勇。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|author=[[春原ロビンソン]] |date=2013-04-06 |url=https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im2998883?manga_user |title=戦勇キャラの誕生日 |publisher=[[ニコニコ静画]] |accessdate=2022-09-21}}</ref> * 生年不明 - 蹉跎桜、漫画・アニメ『[[双星の陰陽師]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sousei_pr|880694922537553920}}</ref> * 生年不明 - 千値キロ、漫画『[[ハイファイクラスタ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 難波江優、漫画・アニメ『[[ベイビーステップ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 薊清良、漫画『[[國崎出雲の事情]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 二階堂由梨、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - オリヴァ・愛空、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 黒峰朝陽、漫画『[[実は私は]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 近藤ゲン、漫画・アニメ『[[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鈴木葵、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 乙宮樹、漫画・アニメ『[[紳士同盟†]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 小田切学、漫画・アニメ『[[少女ファイト]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - セセリ、漫画・アニメ『[[カーニヴァル (漫画)|カーニヴァル]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 上月由貴、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://7o3x.com/char/profiles.html#15 |title=上月 由貴 |work=アニメ『ナナマル サンバツ』 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2023-01-19}}</ref> * 生年不明 - 神戸あさひ、漫画・アニメ『[[ハッピーシュガーライフ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 吉永恋、漫画・アニメ『[[スローループ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://slowlooptv.com/chara3.html |title=吉永 恋 |access-date=2022-09-24 |publisher=うちのまいこ・[[芳文社]]/スローループ製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 剣崎梨々花、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_eupho|1542342166583713793}}</ref> * 生年不明 - 梶原秋人、小説・アニメ『[[京都寺町三条のホームズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 羽田あいる、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 二宮タカヒ、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.valvrave.com/character/#c11 |title=二宮タカヒ |access-date=2022-09-21 |publisher=SUNRISE/VVV Committee, MBS |work=TVアニメ『革命機ヴァルヴレイヴ』}}</ref> * 生年不明 - 横溝真琴、アニメ『[[AKB0048]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://akb0048.jp/character/makoto.html |title=キャラ紹介&キャスト|横溝真琴 |access-date=2022-09-24 |publisher=AKB0048 公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 白河静流、ゲーム・アニメ『[[Memories Off|Memories Off 2nd]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://memoriesoff.jp/psp/2nd/chara.html |title=白河静流(C.V:菊池志穂) |access-date=2022-09-21 |publisher=Memories Off 2nd}}</ref> * 生年不明 - アーネスト・サトウ、ゲーム・漫画『[[遙かなる時空の中で|遙かなる時空の中で5]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 辺古山ペコ、ゲーム・アニメ『[[ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sp_kiboukoubai|1410075767925477380}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#多田李衣菜|多田李衣菜]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20103 |title=多田 李衣菜(ただ りいな) |access-date=2022-09-21 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 緑ヒスイ、ゲーム・アニメ『[[ガイストクラッシャー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|capcom_gcg|483450055349653504}}</ref> * 生年不明 - 愛本りんく、ゲーム・アニメ『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://d4dj.bushimo.jp/unit/aimoto-rinku/ |title=愛本 りんく |access-date=2022-09-24 |website=D4DJ PORTAL WEBSITE |publisher=[[ブシロード]]}}</ref> * 生年不明 - アルマ、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/houndsweeper/alma/ |title=アルマ |access-date=2023-01-19 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == {{Commons&cat|June 30|30 June}} {{新暦365日|6|29|7|1|[[5月30日]]|[[7月30日]]|[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]|0630|6|30}} {{1年の月と日}}
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5,110
7月4日
7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。
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7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。
{{カレンダー 7月}} '''7月4日'''(しちがつよっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から185日目([[閏年]]では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。 == できごと == {{multiple image | caption1 = [[ヒッティーンの戦い]](1187) | image1 = Hattin_Estoire_d%27Eracles.jpg | width1 = 90 | alt1 = ヒッティーンの戦い | caption2 = [[ベオグラード包囲戦 (1456年)|ベオグラード攻城戦]]はじまる(1456) | image2 = Siegebelgrade.jpg | width2 = 90 | alt2 = ベオグラード包囲戦 }} [[ファイル:RMS_Britannia_1840_paddlewheel.jpg|thumb|180px|蒸気船[[ブリタニア (蒸気船)|ブリタニア]]就航(1840)]] {{multiple image | footer = 1862年、[[ルイス・キャロル]]、[[アリス・リデル|リデル]]家の三姉妹とのピクニックへ行く。『[[不思議の国のアリス]]』(1865)刊行のきっかけ。 | image1 = Alice_Liddell_with_sisters.jpg | width1 = 90 | alt1 = リデル家の三姉妹 | image2 = Alice_par_John_Tenniel_25.png | width2 = 90 | alt2 = 不思議の国のアリス }} {{multiple image | caption1 = [[南北戦争]]、[[ビックスバーグの包囲戦]]終結(1863)。画像は北軍の[[ユリシーズ・グラント|グラント]](左)と南軍の[[ジョン・C・ペンバートン|ペンバートン]] | image1 = Grant_and_Pemberton_-_Harper%27s_Pictorial_History.jpg | width1 = 90 | alt1 = ビックスバーグの包囲戦終結 | caption2 = [[国際日付変更線]]が[[西サモア]]内で変更(1892)。画像は1888年の日付変更線 | image2 = Datumsgrenze_MK1888.png | width2 = 90 | alt2 = 国際日付変更線の変更 }} {{multiple image | caption1 = ロッキードベガ初飛行(1927) | image1 = Lockheed_Vega_5b_Smithsonian.jpg | width1 = 90 | alt1 = ロッキードベガ初飛行 | caption2 = [[新東京国際空港]]の建設予定地を[[宮内庁下総御料牧場]]付近と決定(1966) | image2 = Shimofusa_Imperial_Stock_Farm.JPG | width2 = 90 | alt2 = 新東京国際空港の建設予定地決定 }} {{multiple image | caption1 = [[火星探査機]][[マーズ・パスファインダー]]、[[火星]]に着陸(1997)画像は探査車「ソジャーナ」 | image1 = Mars Pathfinder Lander preparations.jpg | width1 = 90 | alt1 = ビックスバーグの包囲戦終結 | caption2 = 探査機[[ディープ・インパクト (探査機)|ディープ・インパクト]]、[[テンペル第1彗星]]への衝突体撃ち込みに成功(2005) | image2 = HRIV Impact.gif | width2 = 90 | alt2 = 探査機ディープ・インパクト }} * [[993年]] - {{仮リンク|アウクスブルクのウルリッヒ|en|Ulrich of Augsburg|label=聖ウルリッヒ}}が[[列聖]]される。 * [[1054年]] - この日から数ヶ月にわたり[[超新星]][[SN 1054]]が観測され、日中でも確認できるほどの光を放つ。その残滓が現在の[[かに星雲]]<ref>{{Twitter status|JPNatArchives|749799979682791428}}</ref>。 * [[1187年]] - [[ヒッティーンの戦い]]。[[サラーフッディーン]]により[[エルサレム王国]]の[[十字軍]]が壊滅。 * [[1333年]]([[正慶]]2年/[[元弘]]3年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[鎌倉幕府]]が滅亡。[[新田義貞]]が鎌倉に攻め込み[[北条高時]]ら一族約800人が自刃([[東勝寺合戦]])。 * [[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[湊川の戦い]]が行われる。 * [[1456年]] - オスマン・ハンガリー戦争: [[ベオグラード包囲戦 (1456年)|ベオグラード攻城戦]]が始まる。 * [[1635年]]([[寛永]]12年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - 江戸幕府が[[鎖国|第3次鎖国令]]を発布。日本人の東南アジア方面への海外渡航・渡航者の帰国・長崎以外への外国商船入港を禁止。 * [[1776年]] - [[アメリカ独立宣言]]公布。[[アメリカ合衆国]]が[[イギリス]]からの独立を宣言。[[1783年]]に承認される。 * [[1782年]] - 第2代シェルバーン伯[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]が[[イギリス]]の14代[[イギリスの首相|首相]]に就任。 * [[1802年]] - [[ニューヨーク州]][[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国陸軍士官学校]]開校<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/United-States-Military-Academy |title=United States Military Academy|school, New York, United States |publisher=Britannica |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>。 * [[1817年]] - 米国で[[エリー運河]]建設開始。 * [[1834年]] - [[ウィスコンシン準州]]から分離して[[アイオワ準州]]を設置。 * [[1840年]] - [[キュナード・ライン]]の客船[[ブリタニア (蒸気船)|ブリタニア]]が就役。 * [[1862年]] - チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン([[ルイス・キャロル]])が[[ヘンリー・ジョージ・リデル]]の娘3人と川遊びをする。その時にリデルの次女[[アリス・リデル|アリス]]の求めに応じドジソンの話した話が、後に手書き本『地下の国のアリス』(『[[不思議の国のアリス]]』の原型)となる。 * [[1863年]] - [[南北戦争]]: [[南軍]]の降伏により[[ビックスバーグの包囲戦]]が終結。 * [[1865年]] - ルイス・キャロルの『[[不思議の国のアリス]]』が刊行される<ref>{{Cite web|和書|url=http://kumonoue-lib.jp/index.php/kyono-issatsu/908-7-46 |title=7月4日は「不思議の国のアリス」が刊行された日 |access-date=16 Sep 2023 |publisher=ゆすはら雲の上の図書館 |date=4 Jul 2021}}</ref>。 * [[1868年]]([[明治]]元年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[戊辰戦争]]: [[上野戦争]]。 * [[1872年]](明治5年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - 東京[[東京高等師範学校|師範学校]]設置。 * [[1892年]] - [[国際日付変更線]]が[[サモア|西サモア]]の東から西へ変更される。この年の西サモアでは7月4日が2日間続いた。 * [[1894年]] - [[サンフォード・ドール]]が[[サンフォード・ドール#ハワイ共和国|ハワイ共和国]]の建国を宣言。 * [[1910年]] - [[日露協約#第二次日露協約|第二次日露協約]]調印。日露両国の[[満洲]]での権益の確保を確認。 * [[1918年]] - [[メフメト6世]]が[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]に即位。 * [[1919年]] - [[ジャック・デンプシー]]が[[ボクシング]]世界[[ヘビー級]]王者[[ジェス・ウィラード]]を3ラウンド[[ノックアウト|TKO]]で破る(トレドの惨劇)。 * [[1927年]] - [[インドネシア]]で[[スカルノ]]らが[[闘争民主党|インドネシア国民党]]を結成する。 * 1927年 - [[ロッキード ベガ]]が初飛行。 * [[1934年]] - [[ヘビー級]][[プロボクサー]][[ジョー・ルイス]]がプロデビュー。 * [[1939年]] - [[米大リーグ]]で[[ニューヨーク・ヤンキース]][[ルー・ゲーリッグ]]の引退試合。 * [[1941年]] - [[帝都高速度交通営団]]設立。[[9月1日]]に営業開始。 * [[1945年]] - [[太平洋戦争]]。米軍による高松、徳島、高知の各市に対する無差別爆撃<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN7373FXN6YPTLC01L.html |title=忘れない、空襲の惨禍 新型コロナで規模縮小避けられず |publisher=[[朝日新聞]] |date=4 Jul 2020 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>。 * [[1946年]] - 第三次[[フィリピン]]共和国がアメリカ合衆国より独立。 * 1946年 - [[ポーランド]]の[[キェルツェ]]で[[ホロコースト]]生還者への[[ポグロム]]が起こる。{{仮リンク|キェルツェ・ポグロム|en|Kielce pogrom}}。 * [[1949年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]]が第一次[[整理解雇|人員整理]]30,700人を発表。[[国鉄三大ミステリー事件]]の引き金とされる。 * 1949年 - [[物価統制令]]・[[銀行法]]違反の容疑で金融業「[[光クラブ]]」を手入れ。経営者の[[山崎晃嗣]]を逮捕。 * [[1950年]] - [[結社の自由及び団結権の保護に関する条約]](ILO87号条約)が発効。日本に対する発効日は1966年6月14日。 * 1950年 - [[新潟県]][[堀之内町 (新潟県)|堀之内町]](現[[魚沼市]])の[[魚野川]]にて[[渡し船|渡し舟]]が転覆。学生ら20人以上が投げ出され5人が死亡<ref>「渡船が転覆」『日本経済新聞』昭和25年7月5日</ref>。 * [[1951年]] - [[1951年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|第1回プロ野球オールスターゲーム]]が開催される([[阪神甲子園球場]])。第1戦は[[セントラル・リーグ|オール・セントラル]]が2-1で勝ち、[[川上哲治]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])がMVP。 * [[1954年]] - [[1954 FIFAワールドカップ|サッカー・ワールドカップ]]で、[[西ドイツ]]が[[ハンガリー]]を3-2で下し初優勝。 * 1954年 - [[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で、のちにドラマ『[[逃亡者 (1963年のテレビドラマ)|逃亡者]]』の原案となる、シェパード夫人殺害事件。 * [[1965年]] - 2年前に発生した[[吉展ちゃん誘拐殺人事件|吉展ちゃん誘拐事件]]の犯人が営利誘拐罪と恐喝罪容疑で逮捕。 * 1965年 - [[第7回参議院議員通常選挙]]。 * [[1966年]] - [[成田国際空港|新東京国際空港]]の建設予定地を千葉県成田市三里塚の[[宮内庁下総御料牧場]]付近とすることを閣議決定([[s:新東京国際空港の位置及び規模について]])。 * [[1967年]] - [[首都高速都心環状線]]が全通。 * [[1971年]] - 濃霧の[[熊野灘]]で海難事故が続出。[[貨物船]]同士の衝突7件、沈没2隻。一連の事故の死者・行方不明者は11人。これとは別に[[姫路港]]と[[小豆島]]を結ぶ[[フェリー]]と貨物船が家島沖合で衝突、乗客12人が重軽傷<ref>「濃霧の熊野灘 貨物船の事故続出」『中國新聞』昭和46年7月5日14面</ref>。 * [[1973年]] - [[カリブ共同体]]が設立される。 * 1976年 - [[山口県]][[柳井市]]との[[瀬戸内海]]の[[屋代島]]を結ぶ[[大島大橋 (山口県)|大島大橋]]が開通。 * [[1984年]] - 外相の[[安倍晋太郎]]が[[外務省]]に、[[中国人]]・[[大韓民国#国民|韓国人]]の名前を現地読みにするよう指示<ref name="昭和・平成史年表">{{Cite book |和書|editor=平凡社|editor-link=平凡社|date=2019-07-26|title=完全版 昭和・平成史年表: 1926-2019|publisher =[[平凡社]]|isbn=978-4582485424}}</ref>。 * [[1987年]] - フランスで、「リヨンの虐殺者」と呼ばれた元ナチス[[親衛隊大尉]]・[[クラウス・バルビー]]に対し終身禁固刑の判決。 * 1987年 - [[日本放送協会|NHK]]が[[NHK衛星第1テレビジョン|衛星第1テレビ]]で世界初の衛星テレビの24時間放送を開始<ref name="昭和・平成史年表"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO46894480T00C19A7EAC000/ |title=7月4日 NHKが世界初24時間衛星放送 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=3 Jul 2019 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>。 * 1987年 - [[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[竹下登]]幹事長が[[平成研究会|経世会(竹下派)]]を発足。 * [[1991年]] - 「[[ブルーインパルス|T-2ブルーインパルス]]」2機が[[宮城県]][[金華山 (宮城県)|金華山]]沖に墜落<ref>{{Cite web|和書|url=http://kochikenroren.littlestar.jp/housin/inparusu-mousiire-kyoudo20180704.pdf |title=ブルーインパルス展示飛行の中止を求める要請書 |format=[[PDF]] |publisher=郷土の軍事化に反対する高知県連絡会 |date=4 Jul 2018 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>。 * [[1993年]] - 愛媛県[[新居浜市]]の[[住友化学|住友化学工業]]愛媛工場で爆発事故。1人死亡。 * [[1997年]] - アメリカの[[火星探査機]]「[[マーズ・パスファインダー]]」が火星に着陸。 * [[1998年]] - 日本初の火星探査機「[[のぞみ (探査機)|のぞみ]]」が打ち上げられる。 * [[2000年]] - [[第2次森内閣|第二次森喜朗内閣]]が発足。 * 2000年 - 「[[ブルーインパルス|T-4ブルーインパルス]]」2機が[[宮城県]][[牡鹿半島]]山中に墜落<ref>{{Twitter status|dantokyoshibu|1530862822082883584}}</ref>。 * [[2004年]] - ニューヨークの[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]跡地で[[1 ワールドトレードセンター]]の起工式。 * 2004年 - [[UEFA欧州選手権2004|ユーロ2004]]で[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]が開催国の[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]を破り、優勝(1-0)。 * [[2005年]] - アメリカの彗星探査機「[[ディープ・インパクト (探査機)|ディープ・インパクト]]」が発射した衝突体が[[テンペル第1彗星]]に衝突。 * [[2007年]] - [[グアテマラシティ]]で開かれていた第119次[[国際オリンピック委員会|IOC]]総会において[[2014年]][[冬季オリンピック]]の開催地が[[ロシア]]の[[ソチ]]に決定。 * [[2009年]] - [[アメリカ同時多発テロ事件]]以来中止されていた[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]の[[展望台]]の一般公開が再開された<ref>{{Cite web|和書|date=5 Jul 2009 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2618165 |title=自由の女神、頭頂部の展望台が再開 |accessdate=16 Sep 2023 |website=[[フランス通信社|AFP]] BB News}}</ref>。 * [[2010年]] - 全国の[[日本放送協会]](NHK)と[[民放]]で全国一斉地デジ化テストが午後5時59分から1分間同時放送される<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/politics/160752 |title=来月4日同時放送の地デジPR番組を収録 |publisher=[[日テレNEWS24]] |date=9 Jun 2010 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>。 * [[2012年]] - [[欧州原子核研究機構]]が「新しい粒子([[ヒッグス粒子]])」の存在を確認したと発表。 * [[2018年]] - 米国・エゼル・アヴィエーション社所有の、現存する唯一の[[F4U (航空機)|F3A コルセア戦闘機]]が1944年の墜落以来、実に74年ぶりに飛行した。 * 2018年 - [[文部科学省]]の私立大学支援事業にからみ、有利な取り計らいをする見返りに、我が子を入試で合格させてもらったとして、文科省科学技術・学術政策局長を受託収賄容疑で逮捕される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL745GM8L74UTIL01X.html |title=文科省局長を受託収賄容疑で逮捕 見返りは我が子の合格 |access-date=16 Sep 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=4 Jul 2018}}</ref>。 * [[2020年]] - 3日夜から4日にかけて[[熊本県]]で[[線状降水帯]]が発生し豪雨に見舞われる。[[球磨川]]が氾濫したほか土砂崩れが多発。九州5県で災害関連死2人を含む79人が亡くなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/951332/ |title=熊本豪雨2年、亡き人に祈り 千寿園の犠牲者14人に献花 |access-date=16 Sep 2023 |publisher=[[西日本新聞]] |date=5 Jul 2022}}</ref>。 * [[2022年]] - アメリカの[[イリノイ州]]で、[[独立記念日 (アメリカ合衆国)|独立記念日]]祝賀パレードを標的とした[[ハイランド・パーク銃乱射事件 (2022年)|ハイランド・パーク銃乱射事件]]が発生。7人が死亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35190025.html |title=米シカゴ郊外の銃乱射、死者7人に 容疑者についてわかったこと |publisher=[[CNN]] |date=6 Jul 2022 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>。 * [[2023年]] - 中国とロシアが主導する「[[上海協力機構]]」の首脳会議がオンラインで行われ、[[イラン]]の正式加盟が承認された<ref>{{Cite web |url=https://www.nhk.jp/p/kokusaihoudou/ts/8M689W8RVX/blog/bl/pNjPgEOXyv/bp/poY55r8Jqo/ |title=「上海協力機構」にイラン加盟へ ロシアの狙いとは(油井’s VIEW) |access-date=22 Dec 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=5 Jul 2023}}</ref>。 == 誕生日 == [[Image:Ashikaga_Yoshiakira.jpg|thumb|294x294px|[[室町幕府]]第2代将軍、[[足利義詮]](1330-1367)誕生]] [[Image:Kyokutei_Bakin.jpg|thumb|[[読本]]作者、[[曲亭馬琴]](1767-1848)誕生。日本初の職業作家ともされる。|213x213ピクセル]] [[Image:Friedrich_Overbeck_011.jpg|thumb|[[ナザレ派]]の画家[[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]](1789-1869)誕生|230x230ピクセル]] [[Image:GeorgeEverest.jpeg|thumb|探検家[[ジョージ・エベレスト]](1790-1866)。[[エベレスト]]山に名が残る|221x221ピクセル]] [[Image:Nathaniel_Hawthorne.jpg|thumb|203x203px|作家[[ナサニエル・ホーソーン]](1804-1864)]] [[Image:Giuseppe_Garibaldi_portrait2.jpg|thumb|275x275px|「[[イタリア]]統一の三傑」の1人、軍人[[ジュゼッペ・ガリバルディ]](1807-1882)]] {{multiple image | caption1 = 「[[アメリカ合衆国の音楽|アメリカ音楽]]の父」、作曲家[[スティーブン・フォスター]](1826-1864) | image1 = StephenFoster.jpeg | width1 = 90 | alt1 = スティーブン・フォスター | caption2 = ピアニスト、作曲家[[アルフレート・グリュンフェルト]](1852-1924) | image2 = Alfred_Grünfeld_Austrian_pianist_1906.jpg | width2 = 90 | alt2 = アルフレート・グリュンフェルト }} [[Image:Sazanami_Iwaya.jpg|thumb|256x256px|[[児童文学]]者、[[巖谷小波]](1870-1933)]] [[Image:CoolidgeAmherst.png|thumb|239x239px|第30代アメリカ合衆国大統領、[[カルビン・クーリッジ]](1872-1933)]] [[Image:Maoduntouxiang.JPG|thumb|240x240px|作家、[[茅盾]](1896-1981)]] [[Image:%C3%81lvaro_Uribe_%28cropped%29.jpg|thumb|237x237px|[[コロンビア]]第56代大統領、[[アルバロ・ウリベ]](1952-)]] * [[1330年]]([[元徳]]2年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[足利義詮]]、[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]](+ [[1367年]]) * [[1643年]]([[寛永]]20年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[朽木稙昌]]、[[肥後国]][[福知山藩]]初代藩主(+ [[1714年]]) * [[1676年]]([[延宝]]4年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[細川有孝]]、[[肥後国]][[宇土藩]]2代藩主(+ [[1733年]]) * [[1685年]]([[貞享]]2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[有馬頼旨]]、[[筑後国]][[久留米藩]]5代藩主(+ [[1706年]]) * [[1735年]]([[享保]]20年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[遠山友清]]、[[美濃国]][[苗木藩]]9代藩主(+ [[1781年]]) * [[1767年]]([[明和]]4年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[曲亭馬琴]]、[[読本]]作者(+ [[1848年]]) * [[1789年]] - [[ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック]]、[[画家]](+ [[1869年]]) * [[1790年]] - [[ジョージ・エベレスト]]、[[探検家]]、[[地理学者]](+ [[1866年]]) * [[1799年]] - [[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](+ [[1859年]]) * [[1804年]] - [[ナサニエル・ホーソーン]]、作家(+ [[1864年]]) * [[1805年]] - [[ルートヴィヒ・カール・ゲオルク・プファイファー]]、[[医師]]、[[植物学者]]、貝類学者(+ [[1877年]]) * [[1807年]] - [[ジュゼッペ・ガリバルディ]]、[[イタリア王国]]の英雄(+ [[1882年]]) * [[1826年]] - [[スティーブン・フォスター]]、[[作曲家]](+ [[1864年]]) * [[1834年]]([[天保]]5年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[松平定猷]]、[[伊勢国]][[桑名藩]]3代藩主(+ [[1859年]]) * [[1852年]] - [[アルフレート・グリュンフェルト]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1924年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[徳川義宜]]、第16代[[尾張藩|尾張藩主]](+ [[1875年]]) * [[1859年]] - [[ミッキー・ウェルチ]]、[[プロ野球選手]](+ [[1941年]]) * [[1868年]] - [[ヘンリエッタ・スワン・リービット]]、[[天文学者]](+ [[1921年]]) * [[1870年]]([[明治]]3年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[巖谷小波]]、[[作家]](+ [[1933年]]) * [[1872年]] - [[カルビン・クーリッジ]]、[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1933年]]) * [[1880年]] - [[ジョージ・マリン]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1944年]]) * [[1881年]] - [[ナターリヤ・ゴンチャローワ]]、[[美術家]]・[[デザイナー]](+ [[1962年]]) * [[1896年]] - [[茅盾]]、[[作家]]・社会活動家(+ [[1981年]]) * [[1898年]] - [[ガートルード・ウィーバー]]、元世界最高齢者(+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040006_X00C15A4000000/ |title=世界最高齢の米女性死去、116歳 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=7 Apr 2015 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref>) * [[1900年]] - [[中谷宇吉郎]]、[[物理学者]]、随筆家(+ [[1962年]]) * [[1902年]] - [[マイヤー・ランスキー]]、ギャング(+ [[1983年]]) * [[1906年]] - [[ヴェロ・コプナー・ウィン=エドワーズ]]、[[動物行動学|動物行動学者]](+ [[1997年]]) * [[1910年]] - [[グロリア・スチュアート]]、[[俳優|女優]](+ [[2010年]]) * [[1912年]] - [[佐藤忠良]]、[[彫刻家]](+ [[2011年]]) * [[1916年]] - [[東京ローズ|アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノ]]、[[アナウンサー]](+ [[2006年]]) * [[1919年]] - [[相澤英之]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[政治家]]、[[弁護士]](* [[2019年]]) * [[1920年]] - [[嘉手苅林昌]]、[[琉球民謡]]歌手(+ [[1999年]]) * [[1921年]] - [[ティボール・ヴァルガ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](+ [[2003年]]) * [[1924年]] - [[浅井守]]、元プロ野球選手 * [[1926年]] - [[アルフレッド・ディ・ステファノ]]、[[サッカー選手]](+ [[2014年]]) * [[1927年]] - [[ニール・サイモン]]、[[劇作家]]、[[脚本家]](+ [[2018年]]) * 1927年 - [[ジーナ・ロロブリジーダ]]、女優 (+ [[2023年]]) * 1927年 - [[若山彰]]、歌手(+ [[1998年]]) * [[1928年]] - [[ジャンピエロ・ボニペルティ]]、[[サッカー選手]](+ [[2021年]]) * [[1929年]] - [[ピーター・アンジェロス]]、[[メジャーリーグベースボール]]の[[オーナー]] * 1929年 - [[アル・デービス]]、[[アメリカンフットボール]]の元オーナー(+ [[2011年]]) * [[1930年]] - [[岩崎寛弥]]、[[実業家]](+ [[2008年]]) * 1930年 - [[ジョニー・サクストン]]、[[プロボクサー]](+ [[2008年]]) * [[1933年]] - [[篠原大作]]、[[俳優]]、[[声優]]、[[ナレーター]](+ [[2016年]]) * 1938年 - [[杉本公孝]]、元プロ野球選手 * 1938年 - [[ビル・ウィザース]]、[[シンガーソングライター]](+ [[2020年]]) * 1938年 - [[宮本征勝]]、元サッカー選手、指導者(+ [[2002年]]) * [[1939年]] - [[三谷英夫]]、歯科医師 * [[1940年]] - [[篠田勇]]、元プロ野球選手 * 1940年 - [[渡辺博文 (野球)|渡辺博文]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[杉山隆一]]、元サッカー選手、指導者 * [[1942年]] - [[フロイド・リトル]]、[[アメリカンフットボール選手]](+ [[2021年]]) * [[1943年]] - [[ジェラルド・リベラ]]<ref>{{cite web |url=http://www.biography.com/people/geraldo-rivera-9459468 |title=Geraldo Rivera Biography |website=Bio.TURE STORY. |access-date=16 Sep 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140313140923/http://www.biography.com/people/geraldo-rivera-9459468 |archive-date=March 13, 2014 |url-status=dead |publisher=A+E Television Networks, LLC.}}</ref>、[[ジャーナリスト]]、[[弁護士]] * [[1945年]] - [[湯口栄蔵]]、元サッカー選手(+ [[2003年]]) * [[1946年]] - [[三浦真一郎]]、[[プロ野球審判員]](+ [[2000年]]) * [[1949年]] - [[飯森広一]]、[[漫画家]](+ [[2008年]]) * [[1950年]] - [[竹田和史]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[清水透]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[吉村健二 (内野手)|吉村健二]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[赤羽博]]、TVディレクター、演出家 * [[1952年]] - [[アルバロ・ウリベ]]、政治家、第58代[[コロンビア]][[大統領]] * [[1953年]] - [[おりも政夫]]、タレント([[フォーリーブス]]) * [[1956年]] - [[デヴィッド・ニューマン (地理学者)|デヴィッド・ニューマン]]、[[地理学者]] * [[1957年]] - [[眞野あずさ]]、女優 * [[1958年]] - [[あいざわ元気]]、[[タレント]]、[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]] * 1958年 - [[上野克二]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[続木敏之]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[春やすこ・けいこ|春けいこ]]、[[漫才師]] * [[1959年]] - [[杉谷実]]、元プロボクサー * [[1960年]] - [[みず谷なおき]]、漫画家(+ [[1999年]]) * 1960年 - [[吉満寛人]]、俳優 * [[1961年]] - [[マーガレット・エドソン]]、[[劇作家]] * 1961年 - [[板沢峰生]]、プロ野球選手(+ [[1980年]]) * [[1962年]] - [[真山仁]]、[[作家]] * 1962年 - [[MAX渡辺]]、プロ[[モデラー]]、実業家、[[マックスファクトリー]]代表 * [[1963年]] - [[大杉君枝]]、アナウンサー(+ [[2007年]]) * 1963年 - [[ウテ・レンパー]]、[[シャンソン]]歌手 * [[1964年]] - [[西川浩幸]]、俳優 * [[1965年]] - [[エリック・ヨーンセン]]、[[スキージャンプ]]選手 * 1965年 - [[田村智子]]、政治家 * 1965年 - [[ホーレス・グラント]]、バスケットボール選手 * [[1967年]] - [[ビニー・カスティーヤ]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[ひかわ博一]]、漫画家 * [[1968年]] - [[清水直子]]、ヴィオラ奏者 * [[1969年]] - [[ヒロコ・グレース]]、女優 * 1969年 - [[三村智保]]、 囲碁棋士 * [[1970年]] - [[原崎智仁|原﨑智仁]]、政治家 * 1970年 - [[宮本愛子 (NHK)|宮本愛子]]、元アナウンサー * [[1971年]] - [[中原果南]]、女優 * [[1972年]] - [[トミオ・オカムラ]]、実業家、政治家 * 1972年 - [[ケンドーコバヤシ]]、[[お笑いタレント]] * 1972年 - [[清水久詞]]、[[調教師]] * [[1973年]] - [[井原慶子]]、レーサー * 1973年 - [[アンジェリカ・クリロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1973年 - [[野月浩貴]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * 1973年 - [[GACKT]]、[[音楽家|ミュージシャン]]、俳優 * [[1974年]] - [[闘牙進]]、元大相撲[[力士]]、年寄20代[[千田川 (相撲)|千田川]] * 1974年 - [[田野瀬太道]]、政治家 * 1974年 - [[アンソニー・リュウ]]、フィギュアスケート選手 * [[1975年]] - [[中川貴志]]、お笑いタレント * 1975年 - [[平馬淳]]、元野球選手 * 1975年 - [[かわむら拓央]]、声優 * [[1976年]] - [[伊澤一葉]]、[[ピアニスト]] * 1976年 - [[竹内幸輔]]、声優(+ [[2022年]]) * 1976年 - [[加藤大治郎]]、レーサー(+ [[2003年]]) * [[1977年]] - [[ヨナス・キェルグレン]]、ミュージシャン、[[音楽プロデューサー]]、[[レコーディング・エンジニア]] * 1977年 - [[中村由利 (歌手)|中村由利]]、アーティスト、作曲家([[GARNET CROW]]) * [[1978年]] - [[村田雄介]]、漫画家 * 1978年 - [[ユーキあきら]]、漫画家 * 1978年 - [[安井正規]]、[[電子オルガン]]奏者、作編曲家 * 1978年 - [[小坂流加]]、小説家(+[[2017年]]) * [[1980年]] - [[新井里美]]、声優 * 1980年 - [[炭竃智弘]]、編曲家、作曲家 * 1980年 - [[前山田健一]](ヒャダイン)、ミュージシャン、音楽プロデューサー * [[1981年]] - [[石井裕也 (野球)|石井裕也]]、元プロ野球選手 * [[1983年]] - [[アーニャ・スパソイエビッチ]]、[[バレーボール]]選手 * 1983年 - [[ヴラディーミル・ベロモイン]]、フィギュアスケート選手 * 1983年 - [[セルジオ・サントス (野球)|セルジオ・サントス]]、プロ野球選手 * [[1984年]] - [[赤西仁]]、歌手、タレント、俳優 * 1984年 - [[イ・ジェフン]]、俳優 * 1984年 - [[カズレーザー]]、お笑いタレント([[メイプル超合金]]) * 1984年 - [[仲川希良]]、ファッションモデル * 1984年 - [[吉田圭]]、元プロ野球選手 * [[1985年]] - [[扇愛奈]]、[[シンガーソングライター]] * 1985年 - [[賈徳龍]]、野球選手 * 1985年 - [[塚本泰史]]、元サッカー選手 * 1985年 - [[森善十朗]]、空手家 * [[1986年]] - [[増田貴久]]、アイドル([[NEWS (ジャニーズ)|NEWS]]) * 1986年 - [[あびる優]]、タレント * 1986年 - [[上本博紀]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[内田好治]]、元プロ野球選手 * [[1987年]] - [[松井絵里奈]]、タレント * 1987年 - [[小池由]]、モデル、女優 * [[1989年]] - [[竹原三貴]]、プロボウリング選手 * 1989年 - [[石田良輔]]、元サッカー選手 * 1989年 - [[ジャバリ・ブラッシュ]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[ユン・ドゥジュン]]、歌手 * [[1990年]] - [[清浦夏実]]、女優、歌手([[TWEEDEES]]) * 1990年 - [[咲世子]]、女優、ファッションモデル、タレント * 1990年 - [[町田啓太]]、俳優([[劇団EXILE]]) * 1990年 - [[山田直輝]]、サッカー選手 * 1990年 - [[岡田愛マリー]]、アナウンサー * 1990年 - [[ダフィット・クロス]]、俳優 * 1990年 - [[ガブリエル・リマ・オリヴェイラ]]、サッカー選手 * [[1991年]] - [[倉田みな]]、グラビアアイドル、歌手 * 1991年 - [[森山るり]]、タレント、[[ニュースキャスター|キャスター]] * [[1992年]] - 星野光樹、お笑いタレント([[Gパンパンダ]]) * 1992年 - [[前野るみえ]]、タレント * [[1994年]] - [[樋口龍之介]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[ポスト・マローン]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]] * [[1996年]] - [[高杉真宙]]、俳優 * 1996年 - [[阿武咲奎也]]、大相撲力士 * 1996年 - [[桒原樹]]、元プロ野球選手 * 1996年 - [[栗原陵矢]]、プロ野球選手 * [[1997年]] - [[石原める]]、AV女優、元アイドル * 1997年 - 高萩千夏、アイドル([[アップアップガールズ(2)]]) * [[1998年]] - [[髙田萌生]]、プロ野球選手 * 1998年 - [[京山将弥]]、プロ野球選手 * [[1999年]] - [[菊地最愛]]、アイドル、歌手([[BABYMETAL]]、元[[さくら学院]]) * 1999年 - [[小珠ひかる]]、声優([[アース・スター ドリーム]]) * 1999年 - [[松﨑涼佳]]、フジテレビアナウンサー * [[2000年]] - [[池江璃花子]]、競泳選手 * 2000年 - [[ジェニス・オープラサート|ジェニス]]、アイドル([[BNK48]]) * 2000年 - [[嶺百花]]、元フリーアナウンサー * [[2002年]] - ジッブ、アイドル(BNK48) * [[2004年]] - [[大友樹乃]]、ファッションモデル * [[2006年]] - [[服部樹咲]]、女優 * 生年不明 - [[有栖妃華]]、女優、[[宝塚歌劇団102期生]] * 生年不明 - [[深野香]]、作詞家 == 忌日 == {{multiple image | caption1 = [[武将]][[楠木正成]](1294?-1336) | image1 = Kusunoki_Masashige_statue.jpg | width1 = 90 | alt1 = 楠木正成 | caption2 = [[コンキスタドール]]の[[ペドロ・デ・アルバラード]](1485-1541) | image2 = Pedro_de_alvarado_telleriano_remensis.jpg | width2 = 90 | alt2 = ペドロ・デ・アルバラード }} {{multiple image | caption1 = 作曲家[[ウィリアム・バード]](1540?-1623)没 | image1 = William_Byrd.jpg | width1 = 90 | alt1 = ウィリアム・バード | caption2 = 英国近代小説の父、作家[[サミュエル・リチャードソン]](1689-1761) | image2 = Samuel_Richardson_by_Mason_Chamberlin.jpg | width2 = 100 | alt2 = サミュエル・リチャードソン }} {{multiple image | footer = フランスの政治家・[[ロマン主義]]の作家、[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]](1768-1848)没 | image1 = Anne-Louis_Girodet-Trioson_006.jpg | width1 = 80 | alt1 = フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン | image2 = Tombe_Chateaubriand.jpg | width2 = 100 | alt2 = サン・マロ沖のグラン・ベ島の墓地 }} [[Image:Theodor_Storm_1886.JPG|thumb|180px|作家[[テオドール・シュトルム]](1817-1888)]] {{multiple image | footer = [[ラーマクリシュナ僧院]]と[[ラーマクリシュナ・ミッション]]の創始者、宗教家[[ヴィヴェーカーナンダ]](1863-1902)没。右画像はヴィヴェーカーナンダが荼毘に付された寺院 | image1 = Swami Vivekananda 1896.jpg | width1 = 80 | alt1 = ヴィヴェーカーナンダ | image2 = Swami_Vivekananda_temple_Belur_Math.jpg | width2 = 100 | alt2 = The Swami Vivekananda temple }} {{multiple image | caption1 = [[タンゴ]]作曲家・[[バンドネオン]]奏者、[[アストル・ピアソラ]](1921-1992) | image1 = Astor_Piazzolla.jpg | width1 = 90 | alt1 = アストル・ピアソラ | caption2 = [[超関数]]の理論を構築した[[数学者]]、[[ローラン・シュヴァルツ]](1915-2002) | image2 = LaurentSchwartz.jpg | width2 = 90 | alt2 = ローラン・シュヴァルツ }} {{multiple image | footer = 独立宣言に深く関わった2人のアメリカ合衆国大統領、第2代[[ジョン・アダムズ]](左; 1735-1826)と第3代[[トーマス・ジェファーソン]](1743-1826) | image1 = Gilbert Stuart John Adams.jpg | width1 = 90 | alt1 = ジョン・アダムズ | image2 = Rembrandt_Peale-Thomas_Jefferson.jpg | width2 = 90 | alt2 = トーマス・ジェファーソン }} * [[966年]] - [[ベネディクトゥス5世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス5世]]、第132代[[教皇|ローマ教皇]] * [[1187年]] - [[ルノー・ド・シャティヨン]]、[[十字軍]]の[[騎士]](* [[1125年]]頃) * [[1333年]]([[正慶]]2年/[[元弘]]3年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[北条基時]]、[[鎌倉幕府]]第13代[[執権]](* [[1286年]]) * 1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) - [[北条高時]]、鎌倉幕府第14代執権(* [[1303年]]) * 1333年(正慶2年/元弘3年5月22日) - [[北条貞顕]]、鎌倉幕府第15代執権(* [[1278年]]) * [[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年/[[延元]]元年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[楠木正成]]、[[武将]](* [[1294年]]) * 1336年(建武3年/延元元年5月25日) - [[楠木正季]]、武将 * [[1541年]] - [[ペドロ・デ・アルバラード]]、[[探検家]](* [[1485年]]) * [[1582年]]([[天正]]10年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]])- [[明智秀満]]、[[武将|戦国武将]](* [[1536年]]?) * [[1603年]] - [[フィリップ・デ・モンテ]]、[[作曲家]](* [[1521年]]) * [[1609年]]([[慶長]]14年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - [[板部岡江雪斎]]、武将(* [[1537年]]) * [[1623年]] - [[ウィリアム・バード]]、作曲家(* [[1540年]]?) * [[1639年]] - [[ペトロ岐部|ペトロ・カスイ・岐部]]、カトリック[[司祭]]、[[イエズス会|イエズス会士]] * [[1696年]]([[元禄]]9年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[稲葉正則]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[小田原藩|小田原藩主]](* [[1623年]]) * [[1755年]]([[宝暦]]5年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[平田靱負]]、[[薩摩藩]][[家老]](* [[1704年]]) * [[1761年]] - [[サミュエル・リチャードソン]]<ref>{{Cite web |title=Samuel Richardson|English novelist |url=https://www.britannica.com/biography/Samuel-Richardson |access-date=16 Sep 2023 |website=Britannica}}</ref>、[[小説家]](* [[1689年]]) * [[1780年]] - [[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]、[[南ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント総督]](* [[1712年]]) * [[1826年]] - [[ジョン・アダムズ]]、第2代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1735年]]) * 1826年 - [[トーマス・ジェファーソン]]、第3代アメリカ合衆国大統領(* [[1743年]]) * [[1831年]] - [[ジェームズ・モンロー]]、第5代アメリカ合衆国大統領(* [[1758年]]) * 1831年([[天保]]2年5月25日) - [[井伊直中]]、第14代[[彦根藩|彦根藩主]](* [[1766年]]) * [[1841年]](天保12年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[池田斉訓]]、第9代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* [[1820年]]) * [[1848年]] - [[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]、作家・政治家(* [[1768年]]) * [[1861年]]([[文久]]元年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[阿部正教]]、第8代[[備後福山藩|備後福山藩主]](* [[1840年]]) * [[1883年]] - [[ジョン・スペンサー=チャーチル (第7代マールバラ公)|第7代マールバラ公ジョン・スペンサー=チャーチル]]、[[イギリス]]の[[政治家]]・[[貴族]](* [[1822年]]) * [[1888年]] - [[テオドール・シュトルム]]、小説家(* [[1817年]]) * [[1891年]] - [[ハンニバル・ハムリン]]、第15代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1809年]]) * [[1901年]] - [[ヨハネス・シュミット]]、[[言語学者]](* [[1843年]]) * [[1902年]] - [[エルヴェ・フェイ]]、[[天文学者]](* [[1814年]]) * 1902年 - [[ヴィヴェーカーナンダ]]、[[ヨーガ]]・[[ヴェーダーンタ学派]]指導者(* [[1862年]]) * [[1903年]] - [[響舛市太郎]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1859年]]) * [[1910年]] - [[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]、[[天文学者]](* [[1835年]]) * [[1922年]] - [[ロタール・フォン・リヒトホーフェン]]、[[エース・パイロット]](* [[1894年]]) * [[1925年]] - [[ジョージ・ダービー]]、元プロ野球選手(* [[1857年]]) * [[1926年]] - [[シャルル・ルルー]]、[[作曲家]](* [[1851年]]) * [[1931年]] - [[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア=アオスタ]]、イタリア王族(* [[1869年]]) * [[1934年]] - [[マリ・キュリー]]、[[化学者]](* [[1867年]]) * 1934年 - [[ハイム・ナフマン・ビアリク]]、[[ヘブライ語]][[詩人]](* [[1873年]]) * [[1938年]] - [[スザンヌ・ランラン]]、[[テニス]]選手(* [[1899年]]) * 1938年 - [[オットー・バウアー]]、[[政治家]]、[[社会学者]]、[[哲学者]](* [[1881年]]) * [[1939年]] - [[ルイス・ウェイン]]、[[画家]](* [[1860年]]) * [[1943年]] - [[ヴワディスワフ・シコルスキ]]、[[ポーランド]]亡命政府首相(* [[1881年]]) * [[1956年]] - [[三木武吉]]、[[政治家]](* [[1884年]]) * 1956年 - [[佐藤垢石]]、[[随筆家]](* [[1888年]]) * [[1962年]] - [[トーマス・シー]]、[[天文学者]](* [[1866年]]) * [[1969年]] - [[アーウィン・ブルーメンフェルド]]、[[写真家]](* [[1897年]]) * [[1970年]] - [[バーネット・ニューマン]]、美術家(* [[1905年]]) * [[1971年]] - [[オーガスト・ダーレス]]、[[小説家]](* [[1909年]]) * [[1976年]] - [[石原謙]]、[[キリスト教]][[神学|神学者]](* [[1882年]]) * 1976年 - [[ヨナタン・ネタニヤフ]]、[[イスラエル]]の[[軍人]](* [[1946年]]) * [[1980年]] - [[グレゴリー・ベイトソン]]、[[人類学]]、[[言語学]]、[[社会学]]、[[サイバネティックス]]研究者(* [[1904年]]) * [[1981年]] - [[木村功]]、[[俳優]](* [[1923年]]) * [[1987年]] - [[ベンクト・ストレームグレン]]、[[天体物理学|天体物理学者]](* [[1908年]]) * [[1988年]] - [[アドリアン・アドニス]]、[[プロレスラー]](* [[1953年]]) * [[1992年]] - [[アストル・ピアソラ]]、[[バンドネオン]]奏者<ref>{{Cite web|和書|url=https://jazztokyo.org/news/post-17607/ |title=7/4 アストル・ピアソラ没25年追悼企画〜UHQCD『タンゴ・ゼロ・アワー』他 |date=5 Jul 2017 |accessdate=16 Sep 2023 |publisher=JazzTokyo}}</ref> (* [[1921年]]) * [[1993年]] - [[ロマン・カチャーノフ]]、[[アニメーション]]監督(* [[1921年]]) * [[1994年]] - [[中山正嘉]]、元[[プロ野球選手]](* [[1917年]]) * [[1995年]] - [[ボブ・ロス]]、画家(* [[1942年]])  * [[1997年]] - [[堀内平八郎]]、[[浜松ホトニクス]]創業者 (* [[1915年]]) * [[1998年]] - [[森徹 (スキー選手)|森徹]]、[[スキー]]選手(* [[1973年]]) * [[1999年]] - [[土田國保]]、[[警視総監]](* [[1922年]]) * [[2000年]] - [[植田正治]]、[[写真家]](* [[1913年]]) * [[2001年]] - [[江川卓 (ロシア文学者)|江川卓]]、[[ロシア文学者]](* [[1927年]]) * [[2002年]] - [[ローラン・シュヴァルツ]]、[[数学者]](* [[1915年]]) * 2002年 - [[伊東一雄|伊東一雄(パンチョ伊東)]]、[[パシフィック・リーグ]]広報部長、[[野球解説者]](* [[1934年]]) * 2002年 - [[鈴木正 (野球)|鈴木正]]、元プロ野球選手(* [[1941年]]) * [[2003年]] - [[アルミン・モーラー]]、[[評論家]]、[[思想史|思想史家]](* [[1920年]]) * 2003年 - [[バリー・ホワイト]]、[[ソウルミュージック]][[歌手]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1944年]]) * [[2005年]] - [[トーマス・カクシュカ]]、[[ヴィオラ]]奏者(* [[1940年]]) * [[2006年]] - [[和田耕作]]、政治家(* [[1907年]]) * 2006年 - [[ラーシュ・コルヴァール]]、政治家、[[ノルウェー]]首相(* [[1916年]]) * [[2007年]] - [[飯田深雪]]、[[料理研究家]](* [[1903年]]) * 2007年 - [[児玉幸多]]、[[歴史学者]](* [[1909年]]) * [[2008年]] - [[小池欣一]]、[[内閣官房副長官]](* [[1919年]]) * 2008年 - [[ジェシー・ヘルムズ]]、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](* [[1921年]]) * 2008年 - [[トマス・M・ディッシュ]]、[[SF作家]](* [[1940年]]) * [[2009年]] - [[スティーブ・マクネア]]、[[アメリカンフットボール]]選手 (* [[1973年]]) * 2011年 - [[オットー・フォン・ハプスブルク]] 、欧州議会議員(* [[1912年]]) * [[2016年]] - [[アッバス・キアロスタミ]]、映画監督(* [[1940年]]) * [[2017年]] - [[ジーン・コンリー]]、元プロ野球選手、元プロバスケットボール選手(* [[1930年]]) * 2017年 - [[くりた陸]]、漫画家(* [[1962年]]) * [[2022年]] - [[山本コウタロー]]、歌手(* [[1948年]]) * 2022年 - [[嵐ヨシユキ]]、音楽プロデューサー、歌手、ドラマー([[横浜銀蝿]])(* [[1955年]]) == 記念日・年中行事 == {{multiple image | footer = [[アメリカ独立宣言]]採択(1776)。左画像は[[ジョン・トランブル]]画『[[独立宣言 (絵画)|独立宣言]]』 | image1 = Declaration of Independence (1819), by John Trumbull.jpg | width1 = 115 | alt1 = アメリカ独立宣言採択 | image2 = Us_declaration_independence.jpg | width2 = 65 | alt2 = 独立宣言 }} * [[独立記念日 (アメリカ合衆国)|独立記念日]]({{USA}}) *: [[1776年]]のこの日、[[アメリカ独立宣言]]が公布され、アメリカ合衆国が誕生した。[[1818年]]以降、過去1年間に州の数が増えた場合には、この日に[[アメリカ合衆国の国旗|アメリカ国旗(星条旗)]]の星の数が増やされている。 ** [[ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権]]({{USA}}) **: 毎年アメリカ独立記念日にちなんで開催される[[ホットドッグ]]の[[早食い]]大会。 * フィリピン・アメリカ友好記念日({{PHL}}、1964年 - ) *: [[1946年]]のこの日、フィリピン共和国がアメリカから独立した。当初はこの日を[[独立記念日]]としていたが、[[1964年]]から独立記念日は[[1898年]]に[[フィリピン革命軍]]の最高指導者[[エミリオ・アギナルド]]将軍が[[フィリピン第一共和国]]の独立を宣言した[[6月12日]]となり、7月4日は比米友好記念日となった。 * 自由の日({{RWA}}) * [[ナシ|梨]]の日({{JPN}}) *: 「な(7)し(4)」の語呂合せ。 * 恩納もずくの日({{JPN}}) *: [[恩納村]]漁業協同組合と株式会社井ゲタ竹内([[鳥取県]][[境港市]])が制定。恩納村でしか取れない「恩納もずく」のおいしさを多くの人に知ってもらうことが目的。日付は[[2011年]]のこの日、「恩納もずく」が[[農林水産省]]で褐藻類として初めて品種登録されたことから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=11|isbn=978-4422021157 }}</ref>。 {{-}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0704|date=Sep 2023}} * 1949年(昭和24年)- 太陽クラブの隅田光一と木島良助が[[物価統制令]]違反で[[逮捕]]される。(小説『[[白昼の死角]]』第3章) * 1996年 - 2日前にアメリカ上空に現れた異星人の超大型円盤艇を[[アメリカ空軍]]などが[[撃墜]]する。(映画『[[インデペンデンス・デイ]]』) * 1997年 - 成瀬領(真中友雄)の弟(真中英雄)が殺された。(テレビドラマ『[[魔王 (2008年のテレビドラマ)|魔王]]』) * [[2005年]] - 花垣武道が2017年7月4日から2005年7月4日に初めてタイムリープする。(漫画・アニメ『[[東京卍リベンジャーズ]]』<ref>{{Cite book|和書 |author=[[和久井健]] |title=東京卍リベンジャーズ |publisher=講談社 |date=2017-05-17 |isbn=978-4063959383 |page=17 |volume=1}}</ref>) * [[2076年]] - 月が地球政府からの独立を宣言。(小説『[[月は無慈悲な夜の女王]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[138年]] - [[ふなっしー]]、[[千葉県]][[船橋市]]の「梨の妖精」という設定の非公認キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iza.ne.jp/article/20220704-MS3OOAFDBBE6ZCGBJGFIOQBOJY/ |title=ふなっしー、1884歳の誕生日に祝福相次ぐ “地上降臨”10周年で「ほんとすごい」「いつも以上におめでとう」 |access-date=16 Sep 2023 |publisher=[[産経デジタル]] |date=4 Jul 2022 |website=iza}}</ref> * [[1973年]] - サラ・ブライアント、ゲーム『[[バーチャファイター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vf_official|1676063281897963520}}</ref> * [[2035年]] - ドン、漫画・アニメ『[[約束のネバーランド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=白井カイウ|authorlink1=白井カイウ|author2=出水ぽすか|authorlink2=出水ぽすか|year=2020 |title=シークレットバイブル 約束のネバーランド 0 MYSTIC CODE |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|page=50|isbn=978-4-08-882462-8}}</ref> * 生年不明 - スティーブ・ロジャース(Steve Rogers:Captain America)、[[マーベル・コミック]]『[[キャプテン・アメリカ]]』の主人公<ref>生年については諸説あり</ref> * 生年不明 - 天野舞耶、ゲーム『[[ペルソナ2|ペルソナ2 罰]]』の主人公<ref>{{Twitter status|p_kouhou|1543610524528771072}}</ref> * 生年不明 - 植木耕助、漫画・アニメ『[[うえきの法則]]』の主人公 * 生年不明 - 日向アキト、アニメ『[[コードギアス 亡国のアキト]]』の主人公<ref>{{Twitter status|geass_gr|1543610523073257474}}</ref> * 生年不明 - 宮園かをり、漫画・アニメ『[[四月は君の嘘]]』のヒロイン<ref>TVアニメ『四月は君の嘘』op曲CD「光るなら」に付属した生徒証明書に記載。</ref> * 生年不明 - はわい東郷浮乃、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/hawaitogo_ukino |title=鳥取 はわい東郷浮乃 |access-date=16 Sep 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 剣崎順、漫画・アニメ『[[リングにかけろ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 岸田猛、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[カール・ハインツ・シュナイダー]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|date=2003-05-20|title=キャプテン翼 3109日全記録 (愛蔵版コミックス) |publisher =[[集英社]]|isbn=978-4087827897|page=158}}</ref> * 生年不明 - カリブー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Caribou.html |title=カリブー |work=『ONE PIECE』 |accessdate=16 Sep 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 平等院鳳凰、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1411340215457927176}}</ref> * 生年不明 - 無梨甚八(むなしじんぱち)、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1279067389796048896}}</ref> * 生年不明 - バキ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=90|publisher= [[集英社]]〈ジャンプ・コミックス〉|isbn=978-4088732886}}</ref> * 生年不明 - 楯山千歳、漫画・アニメ『[[武装錬金]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ボンレス、漫画・アニメ『[[トリコ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 志摩廉造、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aoex_official|1411339197277872129}}</ref> * 生年不明 - 霧嶋絢都(アヤト)、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|date=2013-07-19|title=東京喰種トーキョーグール(ヤングジャンプコミックス)|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4088796130|volume=8|quote=カバー裏表紙折返し}}</ref> * 生年不明 - 女木島冬輔、漫画・アニメ『[[食戟のソーマ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ラドロス、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 緑谷引子、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref name="heroaca2">{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group12/12-04/ |title=緑谷引子 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=16 Sep 2023 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - ウォルフラム、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - キャプテン・セレブリティ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 加護小鳥、漫画『[[左門くんはサモナー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 和泉許子、漫画・アニメ『[[可愛いだけじゃない式守さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shikimori_off|1352179265693880322}}</ref> * 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#白浜ほのか|白浜ほのか]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書(少年サンデーコミックススペシャル)|page=29|publisher=[[小学館]]|date=2014-05-16|isbn=978-4091250162}}</ref> * 生年不明 - 冴木氷室、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - クーロン・リュー、漫画『[[市場クロガネは稼ぎたい]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ヴィーヴルのガーネット、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1543791752691302400}}</ref> * 生年不明 - 藤咲なでしこ、漫画・アニメ『[[しゅごキャラ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 代々木哲、漫画・ドラマCD『[[うわさの翠くん!!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - アメリカ、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=Axis powers ヘタリア |publisher=[[幻冬舎]] |author=[[日丸屋秀和]] |date=2008-12-31 |page=14 |volume=2}}</ref> * 生年不明 - 佐田恭也、漫画・アニメ『[[オオカミ少女と黒王子]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 安藤夏希、漫画・アニメ『[[帰宅部活動記録]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=くろは|authorlink=くろは|date=2013-12-21|title=帰宅部活動記録|page=95|publisher= [[ガンガンコミックスONLINE]]|isbn=978-4757541726}}</ref> * 生年不明 - なすの “父”、漫画・アニメ『[[てーきゅう]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鳩谷こはね、漫画・アニメ『[[アニマエール!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ジャッキー・トノムラ、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 深優・グリーア、アニメ・漫画『[[舞-HiME]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sunrise-inc.co.jp/my-hime/web/character/chara/miyu.html |title=深優・グリーア |access-date=16 Sep 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|SUNRISE]] |work=『〔舞-HiME〕風華学園』}}</ref> * 生年不明 - デラックスファイター、アニメ『[[秘密結社 鷹の爪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://鷹の爪.jp/about/ |title=CHARACTER デラックスファイター(本名:アンソニー・ファイター・デラクシス・ショスタコヴィッチ) |access-date=16 Sep 2023 |publisher=DLE Inc. |work=『秘密結社 鷹の爪』}}</ref> * 生年不明 - 金城剛士、アニメ・ゲーム『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://bpro-official.com/artists/thrive/ |title=THRIVE 金城剛士 |accessdate=16 Sep 2023 |publisher=[[MAGES.]] |work=『B-PROJECT』}}</ref> * 生年不明 - 丘野康介、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=22 Aug 2019 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref> * 生年不明 - 桜瀬ちなみ、読者参加企画『[[セラフィムコール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ナッジ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - アポロ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m07.html |title=住民名簿 7月 アポロ |access-date=16 Sep 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#木下ひなた|木下ひなた]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30007 |title=木下 ひなた(きのした ひなた) |publisher=[[窪岡俊之]]・[[バンダイナムコゲームス]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref> * 生年不明 - 居吹イミナ、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/imina.html |title=居吹イミナ |publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX CO.]] |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate=16 Sep 2023}}</ref> * 生年不明 - 乙坂シオン、ゲーム・アニメ『[[シャドウバース]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shadowverse_anm|1675882088883720192}}</ref> * 生年不明 - マリー、ゲーム・アニメ『[[キラッとプリ☆チャン]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 颯田佳月、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://posweb.jp/pos/character/tsubakimachi/02.html |title=颯田佳月 |access-date=16 Sep 2023 |publisher=|work=『プリンス・オブ・ストライド』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|July 4|4 July}} {{新暦365日|7|3|7|5|[[6月4日]]|[[8月4日]]|[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]|0704|7|04}} * [[7月4日に生まれて]] {{1年の月と日}}
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国際連合総会
国際連合総会(、英語: United Nations General Assembly)は、国際連合の主要機関の一つ。基本的に全ての国際連合加盟国が参加する。 国際連合総会の第1回は、1946年1月にイギリスロンドンのメソジスト中央公会堂で開催された。その後、第3回は1948年9月にフランスパリのシャイヨ宮で開催されている。第7回の1952年より現在のアメリカニューヨークの国際連合本部で開催されて現在に至る。 ヒュgygygyg77yg「「 国際連合憲章に定められた問題を討議して加盟国・安全保障理事会に対して勧告することができる。しかし、加盟国への拘束力が生じるのは、国際連合安全保障理事会決議のみで、国際連合総会決議は勧告的効力に留まる。(憲章第10条)国際連合内部における事項に関しては、法的拘束力を有する。 具体的には以下の5つが挙げられる。 193の国際連合加盟国全てが参加となり、議決においては各国がそれぞれ1票ずつの投票権を有している。またバチカン市国とパレスチナ自治政府(パレスチナ国)はオブザーバー参加とされている。過去には、ソビエト連邦が崩壊するまではソビエト連邦構成共和国であるウクライナ・ソビエト社会主義共和国と白ロシア・ソビエト社会主義共和国にもソビエト連邦政府とは別枠で1票が与えられていた。 議決は出席して投票した加盟国の過半数の賛否によって決定される。ただし、重要案件に関しては、3分の2以上の多数が必要となる。1960年代以降にはコンセンサス方式も導入されている(憲章第18条)。 総会開幕時には、各国首脳による一般討論演説が行われ、各国首脳が順に登壇し一人15分以内で演説を行う。演説の順序は、一番目がブラジル、二番目がアメリカ合衆国となることが慣例となっている。一番目がブラジルとなる理由としては、国際連合安全保障理事会常任理事国の地位を断念した代償とする説や、かつて各国が忌避した1番目をブラジルが引き受けてくれたからとする説など、諸説唱えられている。二番目がアメリカになるのは、国際連合総会がニューヨーク州ニューヨークの国際連合本部ビルにある専用会議場で開催され、アメリカがホスト国を務めるためである。 三番目以降は演説者の地位により国際連合事務局が決定するため、毎回順序が変動する。外交プロトコルに則って国家元首など地位が上の者から順に演説することになるが、各国から演説日時について第一希望から第三希望まで提示されるため、それらも考慮されたうえで順序が決められる。 毎年9月の第3火曜日から「通常会期(regular session)」が開かれる。会期開始日はその60日以上前に事務総長から各加盟国に通達される。毎年の慣例として2クールに分けられて、前半はクリスマス前までで、後半は年明けで開催されている。 会期終了日は各会期の初めに設定される。前の総会での決定あるいは加盟国過半数の要請に従って別の場所で開かれている場合を除き、国連本部( the Headquarters of the United Nations )で開かれる。総会は、総会を一時的に休会したり後日再開したりすることを、いかなる総会においても決定できる。 憲章第20条に基づき、安全保障理事会の要請、または、国際連合加盟国の過半数の要請により、事務総長が各加盟国を招集し「特別会期(special session)」を開くことができる。これまでに「国際連合軍縮特別総会」が1978年、1982年、1988年に、「国際連合経済特別総会」が1974年、1975年、1980年、1990年に、「国際連合環境開発特別総会」が1997年に開かれた。 1950年の「平和のための結集決議」(総会決議377)に基づき、安全保障理事会の9か国の賛成投票による要請、または、加盟国の過半数の要請により、事務総長が各加盟国を招集し24時間以内に「緊急特別会期(emergency special session )」を開くことができる。これは、総会が開かれていない時期に「平和に対する脅威」、「平和の破壊」、または、「侵略行為」が発生し、かつ、それにもかかわらず安全保障理事会がその責務を果たしていない場合(e.g. ある常任理事国が自国や同盟国の擁護のため拒否権を発動し適切な安保理決議が不可能に見える場合)において要請できるものである。これまでに、11回の緊急特別会期が設定されている。 国際連合総会は様々な機関の選出を行い、最も重要な選出事案に以下がある。 以下の分科組織がある。各委員会には全国際連合加盟国のメンバーが在籍し、各会期始めに議長1名と副議長3名、報告者1名が選出される。また招待を受けた国際連合総会オブザーバーも参加することができる。 主な委員会(Committee)として以下の6つがある。 また以下がある。 その他委員会(Commission)として以下がある。 各機関の最高執行役員会(Executive Board)として以下がある。 各機関の執行役員会(Board)として以下がある。
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国際連合総会(こくさいれんごうそうかい、は、国際連合の主要機関の一つ。基本的に全ての国際連合加盟国が参加する。
{{Infobox UN |name = 国際連合総会 |en name = United Nations General Assembly |fr name = Assemblée générale des Nations unies |ru name = Генеральная Ассамблея Организация Объединённых Наций |zh name = 联合国大会 |es name = Asamblea General de las Naciones Unidas |ar name = الجمعية العامة للأمم المتحدة |image = UN General Assembly hall.jpg |image size = 250px |caption = 国際連合総会会議場 |type = 主要機関 |acronyms = GA、UNGA |head = [[国際連合総会議長]]<br />{{ill2|デニス・フランシス (外交官)|en|Dennis Francis (diplomat)|label=デニス・フランシス}}<br/>({{flag|TTO}}) |status = 活動中 |resolution = |established = [[1945年]] |ended = |headquarters = |location = |parent = |subsidiaries = |website = [http://www.un.org/ga www.un.org/ga] |commons = United Nations General Assembly |footnotes = }} {{読み仮名|'''国際連合総会'''|こくさいれんごうそうかい|{{lang-en|United Nations General Assembly}}}}は、[[国際連合]]の[[国際連合機関|主要機関]]の一つ。基本的に全ての[[国際連合加盟国]]が参加する。 [[File:Mahathir Mohamad addressing the United Nations General Assembly (September 25 2003).jpg|thumb|国際連合総会で演説するマレーシアの[[マハティール・ビン・モハマド]]首相]] == 沿革 == 国際連合総会の第1回は、[[1946年]]1月に[[イギリス]][[ロンドン]]の[[メソジスト]]中央公会堂で開催された。その後、第3回は[[1948年]]9月に[[フランス]][[パリ]]の[[シャイヨ宮]]で開催されている。第7回の[[1952年]]より現在の[[アメリカ]][[ニューヨーク]]の[[国際連合本部]]で開催されて現在に至る。 == 機能 == [[国際連合憲章]]に定められた問題を討議して加盟国・[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]に対して勧告することができる。しかし、加盟国への拘束力が生じるのは、[[国際連合安全保障理事会決議]]のみで、[[国際連合総会決議]]は勧告的効力に留まる。([[s:国際連合憲章#10|憲章第10条]])国際連合内部における事項に関しては、法的拘束力を有する。 具体的には以下の5つが挙げられる。 *平和と安全の維持に関する一般原則の審議と勧告([[s:国際連合憲章#11|憲章第11条]]) *政治的、経済的、社会的、文化的、教育的及び保健的分野において国際協力を促進すること。([[s:国際連合憲章#13|憲章第13条]](1)a,b) *国際法の漸進的発達及び法典化を奨励すること。(憲章第13条(1)a) *人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を実現するように援助すること。(憲章第13条(1)b) *国際連合の予算を審議・承認し、加盟国への各種負担金の割当て、専門機関の財政上・予算上の取極めの審議・承認と勧告目的の専門機関の行政的予算の検査([[s:国際連合憲章#17|憲章第17条]]) == 構成 == 193の[[国際連合加盟国]]全てが参加となり、議決においては各国がそれぞれ1票ずつの投票権を有している。また[[バチカン市国]]と[[パレスチナ自治政府]]([[パレスチナ国]])は[[国際連合総会オブザーバー|オブザーバー]]参加とされている。過去には、[[ソビエト連邦]]が[[ソビエト連邦の崩壊|崩壊]]するまでは[[ソビエト連邦構成共和国]]である[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]と[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]にもソビエト連邦政府とは別枠で1票が与えられていた。 議決は出席して投票した加盟国の過半数の賛否によって決定される。ただし、重要案件に関しては、3分の2以上の多数が必要となる。[[1960年代]]以降にはコンセンサス方式も導入されている([[s:国際連合憲章#18|憲章第18条]])。 総会開幕時には、各国首脳による一般討論演説が行われ、各国首脳が順に登壇し一人15分以内で演説を行う。演説の順序は、一番目が[[ブラジル]]、二番目が[[アメリカ合衆国]]となることが慣例となっている<ref name="matsushita20090919">松下佳世「ニュースがわからん!――鳩山首相国連演説するんだって?――米ロ韓大統領も初登場各国の発言に注目だね」『[[朝日新聞]]』44329号、14版、[[朝日新聞東京本社]]、[[2009年]][[9月19日]]、2面。</ref>。一番目がブラジルとなる理由としては、[[国際連合安全保障理事会常任理事国]]の地位を断念した代償とする説や、かつて各国が忌避した1番目をブラジルが引き受けてくれたからとする説など、諸説唱えられている<ref name="matsushita20090919"/>。二番目がアメリカになるのは、国際連合総会が[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]の[[国際連合本部ビル]]にある専用会議場で開催され、アメリカがホスト国を務めるためである<ref name="matsushita20090919"/>。 三番目以降は演説者の地位により[[国際連合事務局]]が決定するため、毎回順序が変動する<ref name="matsushita20090919"/>。[[外交プロトコル]]に則って[[国家元首]]など地位が上の者から順に演説することになるが、各国から演説日時について第一希望から第三希望まで提示されるため、それらも考慮されたうえで順序が決められる<ref name="matsushita20090919"/>。 == 会期 == === 通常会 === 毎年9月の第3火曜日から「通常会期(regular session)」が開かれる。会期開始日はその60日以上前に事務総長から各加盟国に通達される。毎年の慣例として2クールに分けられて、前半はクリスマス前までで、後半は年明けで開催されている。 会期終了日は各会期の初めに設定される。前の総会での決定あるいは加盟国過半数の要請に従って別の場所で開かれている場合を除き、国連本部( the Headquarters of the United Nations )で開かれる。総会は、総会を一時的に休会したり後日再開したりすることを、いかなる総会においても決定できる。 === 特別会 === {{main|国際連合特別総会}} [[s:国際連合憲章#20|憲章第20条]]に基づき、安全保障理事会の要請、または、国際連合加盟国の過半数の要請により、事務総長が各加盟国を招集し「特別会期(special session)」を開くことができる<ref name="GA_Rules_of_Procedure_Rule08a">{{ cite web | title = Rules of procedure | url = http://www.un.org/en/ga/about/ropga/sessions.shtml | publisher = [http://www.un.org/en/index.shtml United Nations] | accessdate = 2014-09-22 | quote = '''Rules of procedure''' <br /> '''Rule 8''' <br /> (a) Special sessions of the General Assembly shall be convened within fifteen days of the receipt by the Secretary-General of a request for such a session from the Security Council or from a majority of the Members of the United Nations or of the concurrence of a majority of Members as provided in rule 9. }}</ref>。これまでに「国際連合軍縮特別総会」が[[1978年]]、[[1982年]]、[[1988年]]に、「国際連合経済特別総会」が[[1974年]]、[[1975年]]、[[1980年]]、[[1990年]]に、「国際連合環境開発特別総会」が[[1997年]]に開かれた。 === 緊急特別会 === {{main|国際連合緊急特別総会}} [[1950年]]の「[[平和のための結集決議]]」(総会決議377)に基づき、[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]の9か国の賛成投票による要請、または、加盟国の過半数の要請により、事務総長が各加盟国を招集し24時間以内に「緊急特別会期(emergency special session )」を開くことができる<ref name="GA_Rules_of_Procedure_Rule08b">{{ cite web | title = Rules of procedure | url = http://www.un.org/en/ga/about/ropga/sessions.shtml | publisher = [http://www.un.org/en/index.shtml United Nations] | accessdate = 2014-09-22 | quote = '''Rules of procedure''' <br /> '''Rule 8''' <br /> (b) Emergency special sessions pursuant to General Assembly resolution 377 A (V) shall be convened within twenty-four hours of the receipt by the Secretary-General of a request for such a session from the Security Council, on the vote of any nine members thereof, or of a request from a majority of the Members of the United Nations expressed by vote in the Interim Committee or otherwise, or of the concurrence of a majority of Members as provided in rule 9. }}</ref>。これは、総会が開かれていない時期に[[s:国際連合憲章#第7章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動|「平和に対する脅威」、「平和の破壊」、または、「侵略行為」]]が発生し、かつ、それにもかかわらず安全保障理事会がその責務を果たしていない場合(e.g. ある[[常任理事国]]が自国や同盟国の擁護のため[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動し適切な安保理決議が不可能に見える場合)において要請できるものである。これまでに、11回の緊急特別会期が設定されている。 == 選出 == [[File:United National General Assembly.svg|thumb|[[地域グループ (国際連合)|地域グループ]]による総会の構成 {{legend|#0000ff|アフリカグループ}} {{legend|#339900|アジア太平洋グループ}} {{legend|#cc0000|東ヨーロッパグループ}} {{legend|#cc3399|ラテンアメリカ・カリブ海グループ}} {{legend|#cc9900|西ヨーロッパ・その他グループ}} {{legend|#708090|その他}}]] 国際連合総会は様々な機関の選出を行い、最も重要な選出事案に以下がある。 *[[国際連合総会議長]]の選出 *[[国際連合安全保障理事会]]の非常任理事国の選出 *[[国際連合経済社会理事会]]の理事国の選出 *[[国際連合信託統治理事会]]の理事国の選出 *[[国際連合人権理事会]]の理事国の選出 *[[国際司法裁判所]]の[[判事]]の選出([[国際連合安全保障理事会]]と共同選出) == 組織 == 以下の分科組織がある。各委員会には全[[国際連合加盟国]]のメンバーが在籍し、各会期始めに議長1名と副議長3名、報告者1名が選出される<ref>国際連合「[http://www.unic.or.jp/files/a_520_rev17.pdf 総会手続規則]」規則103、国連文書番号A/520/Rev.17、[[2007年]]。国連広報センター。</ref>。また招待を受けた[[国際連合総会オブザーバー]]も参加することができる。 === 主な委員会 === 主な委員会(Committee)として以下の6つがある。 *第1委員会:The 1st Committee (DISEC, Disarmament and International Security):軍縮・国際安全保障 *第2委員会:The 2nd Committee (ECOFIN, Economic and Financial):経済財政 *第3委員会:The 3rd Committee (SOCHUM, Social, Cultural, and Humanitarian):社会人道文化 *第4委員会:The 4th Committee (SPECPOL, Special Political and Decolonisation):特別政治・非植民地化 *第5委員会:The 5th Committee (Administrative and Budgetary and general):行政予算 *[[国際連合総会第6委員会|第6委員会]]:The 6th Committee (Legal):法律 また以下がある。 *信任委員会 (Credentials Committee) *一般委員会(General Committee) === その他委員会 === その他委員会(Commission)として以下がある。 *国際連合軍縮委員会(United Nations Disarmament Commission) *国際公務員委員会(International Civil Service Commission) *[[国際法委員会]](International Law Commission) *[[国際連合国際商取引法委員会]](United Nations Commission on International Trade Law:UNCITRAL) *国際連合調停委員会(United Nations Conciliation Commission) *国際連合平和構築委員会(United Nations Peacebuilding Commission) === 執行役員会 === 各機関の最高執行役員会(Executive Board)として以下がある。 *[[国際連合児童基金]]最高執行役員会(Executive Board of the United Nations Children's Fund) *[[国際連合開発計画]]・[[国際連合人口基金]]最高執行役員会(Executive Board of the United Nations Development Programme and of the United Nations Population Fund) *[[国際連合世界食糧計画]]最高執行役員会(Executive Board of the World Food Programme) 各機関の執行役員会(Board)として以下がある。 *監査執行役員会(Board of Auditors) *貿易開発執行役員会(Trade and Development Board) *国際連合統合執行役員会(United Nations Joint Staff Pension Board) *軍縮問題顧問役員会(Advisory Board on Disarmament Matters) === その他 === *[[国際連合人権理事会]](United Nations Human Rights Council:UNHRC) :[[2006年]]6月に「Council(理事会)」を称する機関として設立され、形式上は「国際連合総会」の下部組織とされている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 ===--> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:United Nations General Assembly}} * [[国際連合]] * [[国際連合機関]] == 外部リンク == * [http://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/ga/ 国際連合広報センター|総会] *[http://www.unic.or.jp/files/a_520_rev17.pdf 総会手続規則] {{国際連合総会の会期}} {{国際連合}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくさいれんこうそうかい}} [[Category:国際連合の組織|そうかい]] [[Category:国際連合総会|*そうかい]]
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国際連合安全保障理事会
国際連合安全保障理事会(こくさいれんごうあんぜんほしょうりじかい、英語: United Nations Security Council、UNSC)は、国際連合の主要機関の1つ。世界の平和と安全の維持に主要な責任を負っており、国際連合の6つの主要機関の中で最も大きな権限を持ち、法的に国連加盟国に拘束力を持つ決議を行うことができる、事実上の最高意思決定機関である。 日本語では安全保障理事会・国連安保理・安保理(あんぽり)とも略称される。 安保理が機能しなくなった場合、国連総会が「平和のための結集」決議に基づき、軍事的措置を含む行動を加盟国に対し勧告することができる。 5ヶ国の常任理事国(Permanent members 5, P5)と、加盟国の中から総会で選ばれる10ヶ国の「非常任理事国(Non-Permanent members)」の計15ヶ国から構成されている(国連憲章第23条1項)。1965年の改革以前は、非常任理事国は6ヶ国で、計11ヶ国であった。 非常任理事国の任期は2年(国連憲章第23条2項)。現在は地域グループによって西欧その他2、東欧1、アジア太平洋2、中南米2、アフリカ3の配分になっている。 非常任理事国の選出は総会における選挙で行われる。毎年半数を改選し、投票は国連加盟国の無記名投票による。選出には2/3の賛成が必要で(国連憲章第18条2項)、どの国々も条件を満たさない場合は何度でも再投票を行う。日本は非常任理事国として11期務め、延べ22年間に渡って非常任理事国を務めたことになり、世界最多である。 各理事国の代表は、国連本部に常駐することが国連憲章で義務づけられている(国連憲章第28条1項)。これは緊急事態に際して迅速に集まって会合を開くことができるようにするためである。国際連盟がしばしば緊急時に素早い対応ができず、結果的に第二次世界大戦の勃発を防げなかったことへの反省からであった。 安保理常任理事国は、アメリカ、フランス、イギリス、中国、ロシアの5ヶ国である。1945年10月24日の国際連合設立当時の安保理常任理事国はアメリカ、フランス、イギリス、中華民国、ソ連で、いずれも第二次世界大戦に勝利した連合国である。その後1971年10月25日にそれまで中華民国(台湾)が持っていた代表権が中華人民共和国(中国)に与えられたこと(アルバニア決議)により安保理常任理事国に移動が発生した。1991年12月25日にソ連崩壊に伴って同国が持っていた国連代表権がロシアへと引き継がれた。ただし、常任理事国の国名が明記されている国連憲章第5章第23条そのものは2022年現在も改正されていない。英語の「Permanent members」から「P5」と呼ばれる。 非常任理事国は再任出来ず、必ず退任する。選出の手順はまず各地域グループが候補を選び、国連総会で承認される。 意思決定は9ヶ国の理事国以上の賛成票による。ただし、重要問題である実質事項の決定においては、安保理常任理事国は拒否権を有し、1ヶ国でも反対すると成立しない(大国一致の原則と言う、ただし紛争の平和的解決及び地域的取極又は地域的機関による地方的紛争の平和的解決に基く決定については、紛争当事国は投票を棄権しなければならない)。これを国家主権の平等に反しているとして疑問視する声も多いが、5ヶ国の一致により決議の実効性を保ち、かつ安保理常任理事国が世界の安全保障に関して重大な責任を負う為、このような制度が設けられている。しかし、現実には国益偏重の拒否権行使が横行している。 世界の安全保障にとって脅威となる存在・国家が現れた場合、理事会で対応が議論されてしかるべき対応がなされる事になっている。これは、拒否権との矛盾が生じないように安全保障に関して理事国間で見解が決裂することはあり得ないという前提に基づくものである。しかし、実際には冷戦当初から安保理常任理事国で特にアメリカとソ連の対立により、意思決定が成されない事態が多く発生した(詳しくは、国際連合の歴史を参照)。 このため1950年に「平和のための結集決議」が採択されて、安全保障理事会が決定を下すことができない場合は緊急特別総会を開いて問題解決を行うことができるようになり、安全保障に関する一定の権限が総会にも付与された。 安保理議長国は構成国の英語名でアルファベット順・1ヶ月単位で交代する持ち回り制となっている。 安全保障理事会の補助機関として以下のようなものがある。 ほか
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国際連合安全保障理事会は、国際連合の主要機関の1つ。世界の平和と安全の維持に主要な責任を負っており、国際連合の6つの主要機関の中で最も大きな権限を持ち、法的に国連加盟国に拘束力を持つ決議を行うことができる、事実上の最高意思決定機関である。
{{複数の問題 |出典の明記=2018年4月 |独自研究=2018年4月}} {{Infobox UN |name = 国際連合安全保障理事会 |en name = United Nations Security Council |fr name = Conseil de sécurité des Nations unies |zh name = 联合国安全理事会 |ru name = Совет Безопасности Организации Объединённых Наций |es name = Consejo de Seguridad de las Naciones Unidas |ar name = مجلس أمن الأمم المتحد |image = UN security council 2005.jpg |image size = 250px |caption = 国際連合安全保障理事会会議場(2005年1月) |type = 主要機関 |acronyms = UNSC |head = {{FRA}}(議長国)<ref name="gichokoki">{{Cite web |title=Security Council Presidency |url=https://www.un.org/securitycouncil/content/presidency |website=[[国際連合]] |access-date=2024-01-01 |language=en}}</ref> |status = 活動中 |resolution = |established = [[1946年]] |ended = |headquarters = [[国際連合本部ビル|国連本部ビル]]<br/>([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニューヨーク州]]の[[ニューヨーク]]) |location = |parent = |subsidiaries = |website = [http://www.un.org/sc/ UNSC] |commons = United Nations Security Council |footnotes = }} '''国際連合安全保障理事会'''(こくさいれんごうあんぜんほしょうりじかい、{{lang-en|United Nations Security Council、UNSC}})は、[[国際連合]]の[[国際連合機関#主要機関|主要機関]]の1つ。世界の平和と安全の維持に主要な責任を負っており、国際連合の6つの主要機関の中で最も大きな権限を持ち、法的に[[国際連合加盟国|国連加盟国]]に拘束力を持つ決議を行うことができる、事実上の最高意思決定機関である。 == 特徴 == 日本語では'''安全保障理事会'''・'''国連安保理'''・'''安保理'''(あんぽり)<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E7%90%86/|title=安保理(あんぽり)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-10-20}}</ref>とも略称される。 安保理が機能しなくなった場合、国連総会が[[平和のための結集決議|「平和のための結集」決議]]に基づき、軍事的措置を含む行動を加盟国に対し勧告することができる。 == 構成 == 5ヶ国の[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]({{en|Permanent members 5, P5}})と、[[国際連合加盟国|加盟国]]の中から[[国際連合総会|総会]]で選ばれる10ヶ国の「非常任理事国({{en|Non-Permanent members}})」の計15ヶ国から構成されている([[s:国際連合憲章#23|国連憲章第23条]]1項)。[[1965年]]の改革以前は、非常任理事国は6ヶ国で、計11ヶ国であった<ref name=weiss>Weiss, Thomas G. {{PDFlink|[https://csis-website-prod.s3.amazonaws.com/s3fs-public/legacy_files/files/publication/twq03autumnweiss.pdf The Illusion of UN Security Council Reform]}}, Washington Quarterly, Autumn 2003</ref>。 非常任理事国の任期は2年(国連憲章第23条2項)。現在は[[地域グループ (国際連合)|地域グループ]]によって[[西ヨーロッパ・その他グループ|西欧その他]]2、[[東ヨーロッパグループ|東欧]]1、[[アジア太平洋グループ|アジア太平洋]]2、[[ラテンアメリカ・カリブ海グループ|中南米]]2、[[アフリカグループ|アフリカ]]3の配分になっている。 非常任理事国の選出は総会における[[選挙]]で行われる。毎年半数を改選し、投票は国連加盟国の無記名投票による。選出には{{sfrac|2|3}}の賛成が必要で([[s:国際連合憲章#18|国連憲章第18条]]2項)、どの国々も条件を満たさない場合は何度でも再投票を行う。日本は非常任理事国として11期務め、延べ22年間に渡って非常任理事国を務めたことになり、世界最多である。 [[国連大使|各理事国の代表]]は、[[国際連合本部|国連本部]]に常駐することが国連憲章で義務づけられている([[s:国際連合憲章#28|国連憲章第28条]]1項)。これは緊急事態に際して迅速に集まって会合を開くことができるようにするためである。[[国際連盟]]がしばしば緊急時に素早い対応ができず、結果的に[[第二次世界大戦]]の勃発を防げなかったことへの反省からであった。 == 理事国 == {{Main|国際連合安全保障理事会理事国の一覧}} [[File:UNSC 2023.svg|thumb|right|300px|{{legend|#2172FF|安保理常任理事国}} {{legend|#007500|2023年の非常任理事国}}]] === 常任理事国 === {{main|国際連合安全保障理事会常任理事国}} 安保理常任理事国は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]<ref group="注釈">正式名称はグレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国である</ref>、[[中華人民共和国|中国]]、[[ロシア]]の5ヶ国である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/sc/|title=安全保障理事会|accessdate=2021-02-20}}</ref>。1945年10月24日の国際連合設立当時の安保理常任理事国は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[中華民国]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]<ref group="注釈">正式名称はソヴィエト社会主義共和国連邦である</ref>で、いずれも[[第二次世界大戦]]に勝利した[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]である。その後1971年10月25日にそれまで中華民国(台湾)が持っていた代表権が中華人民共和国(中国)に与えられたこと([[アルバニア決議]])により安保理常任理事国に移動が発生した。1991年12月25日にソ連崩壊に伴って同国が持っていた国連代表権がロシアへと引き継がれた。ただし、常任理事国の国名が明記されている[[国際連合憲章|国連憲章]]第5章第23条そのものは2022年現在も改正されていない<ref>{{Cite news|author=[[高橋洋一]]|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20220318-4DMC4RCJFJLILJULEZ54HHQLNQ/|title=国連安保理、常任理事国からロシアを外すだけでは不十分…改革に限界も G7中心の〝世界平和〟体制を|newspaper=[[夕刊フジ]]|date=2022-03-18|accessdate=2022-07-14}}</ref>。英語の「{{lang|en|'''P'''ermanent members}}」から「P5」と呼ばれる。 == 現在の首脳 == <gallery class="center" widths="145px"> ファイル:Joe Biden presidential portrait.jpg|{{flagicon|USA}} '''[[アメリカ合衆国|アメリカ]]''' <br />[[ジョー・バイデン]] ([[アメリカ合衆国大統領|大統領]]) ファイル:Emmanuel Macron 2023 (cropped).jpg| {{flagicon|France}} '''[[フランス]]''' <br />[[エマニュエル・マクロン]]([[共和国大統領 (フランス)|大統領]]) ファイル:Portrait of Prime Minister Rishi Sunak (cropped).jpg| {{flagicon|UK}} '''[[イギリス]]''' <br/>[[リシ・スナク]]([[イギリスの首相|首相]]) ファイル:Xi Jinping with Macron and Von der Leyen 2023.jpg|'''{{CHN}}'''<br/>[[習近平]]([[中華人民共和国主席|国家主席]]) ファイル:Владимир Путин (10-01-2022) (cropped).jpg|'''{{RUS}}'''<br />[[ウラジーミル・プーチン]]([[ロシア連邦大統領|大統領]]) </gallery> === 非常任理事国 === 非常任理事国は再任出来ず、必ず退任する。選出の手順はまず各[[地域グループ (国際連合)|地域グループ]]が候補を選び、[[国際連合総会|国連総会]]で承認される。 ; 非常任理事国一覧(公式サイト記載順) {| class="wikitable" !国!!地域グループ!!任期 |- | {{ALB}} || [[東ヨーロッパグループ|EEG]] || [[2022年]]1月1日 - [[2023年]]12月31日 |- | {{BRA}} || [[ラテンアメリカ・カリブ海グループ|GRULAC]] || 2022年1月1日 - 2023年12月31日 |- | {{ECU}} || GRULAC || 2023年1月1日 - [[2024年]]12月31日 |- | {{GAB}} || [[アフリカグループ|アフリカ]] || 2022年1月1日 - 2023年12月31日 |- | {{GHA}} || アフリカ || 2022年1月1日 - 2023年12月31日 |- | {{JPN}} || [[アジア太平洋グループ|アジア太平洋]] || 2023年1月1日 - 2024年12月31日 |- | {{MLT}} || [[西ヨーロッパ・その他グループ|WEOG]] || 2023年1月1日 - 2024年12月31日 |- | {{MOZ}} || アフリカ || 2023年1月1日 - 2024年12月31日 |- | {{CHE}} || WEOG || 2023年1月1日 - 2024年12月31日 |- | {{ARE}} || アジア太平洋 || 2022年1月1日 - 2023年12月31日 |} ; 日本の非常任理事国入り : 2022年現在、日本は13回非常任理事国選挙に立候補して、1978年に辞退した1度<ref group="注釈">バングラデシュが当選。</ref>を除いて12回当選しており<ref>{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000020589.pdf 我が国の過去の選挙結果]}} - 外務省</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本の国連安保理非常任理事国への選出について(外務大臣談話)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/unp/page1_001200.html|website=Ministry of Foreign Affairs of Japan|access-date=2022-06-09}}</ref>、加盟国の中で最多となっている<ref name="jiji220610">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220610114035/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022061000699&g=int|title=日本、問われる外交手腕 12回目の非常任理事国―国連安保理改選|publisher=時事通信社|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-10}}</ref><ref name="nhk220610">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220610/k10013665271000.html|title=日本が国連安保理の非常任理事国に当選 加盟国中最多の12回目|publisher=日本放送協会|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-10}}</ref>。1958年-1959年、1966年-1967年、1971年-1972年、1975年-1976年、1981年-1982年、1987年-1988年、1992年-1993年、1997年-1998年、2005年-2006年、2009年-2010年、2016年-2017年に理事国を務めたほか、2023年-2024年の理事国に選出されている{{R|jiji220610|nhk220610}}。2018年現在の通算の期間は22年となった。日本が12回当選する一方、140ヶ国は1度だけの選出か未選出である。2008年10月17日に実施された2009-10年の改選に当たっては、アジア・グループ枠では日本の他に[[イラン]]が立候補していた。 ; サウジアラビアの辞退 : サウジアラビアは2013年10月17日に一度は当選したが、翌18日に安保理のメカニズム・二重基準が国際紛争への適切な対応を不可能にしていると批判して、非常任理事国入りを辞退するとの声明を行った<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1804O_Y3A011C1FF1000/|title=サウジ、安保理非常任理事国を辞退|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2013-10-18|accessdate=2013-10-20}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20131019ddm007030031000c.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20131020093246/http://mainichi.jp/select/news/20131019ddm007030031000c.html|title=サウジアラビア:国連安保理「非常任」辞退 「二重基準」を批判|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2013-10-19|archive-date=2013-10-20|accessdate=2022-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/international/update/1019/TKY201310180542.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20131019145855/http://www.asahi.com/international/update/1019/TKY201310180542.html|title=サウジアラビア、安保理の非常任理事国ポストを辞退|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2013-10-19|archive-date=2013-10-19|accessdate=2022-06-10}}</ref>。このため、サウジアラビアの代わりとなる非常任理事国を選ぶやり直しの投票が12月6日に行われ、ヨルダンが選出された<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/TKY201312070072.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20131207112544/http://www.asahi.com/articles/TKY201312070072.html|title=非常任理事国にヨルダン サウジ辞退を受け選出|newspaper=朝日新聞|date=2013-12-07|archive-date=2013-12-07|accessdate=2022-06-10}}</ref>。 == 決議 == {{Seealso|国際連合安全保障理事会における拒否権}} 意思決定は9ヶ国の理事国以上の賛成票による。ただし、重要問題である[[実質事項]]の決定においては、安保理常任理事国は[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を有し、1ヶ国でも反対すると成立しない(大国一致の原則と言う、ただし[[国際紛争の平和的解決|紛争の平和的解決]]及び地域的取極又は地域的機関による地方的紛争の平和的解決に基く決定については、紛争当事国は投票を棄権しなければならない)。これを[[国家主権]]の平等に反しているとして疑問視する声も多いが、5ヶ国の一致により決議の実効性を保ち、かつ安保理常任理事国が世界の安全保障に関して重大な責任を負う為、このような制度が設けられている。しかし、現実には国益偏重の拒否権行使が横行している。 世界の安全保障にとって脅威となる存在・国家が現れた場合、理事会で対応が議論されてしかるべき対応がなされる事になっている。これは、拒否権との矛盾が生じないように安全保障に関して理事国間で見解が決裂することはあり得ないという前提に基づくものである。しかし、実際には[[冷戦]]当初から安保理常任理事国で特にアメリカとソ連の対立により、意思決定が成されない事態が多く発生した(詳しくは、[[国際連合#活動内容|国際連合の歴史]]を参照)。 このため[[1950年]]に「[[平和のための結集決議]]」が採択されて、安全保障理事会が決定を下すことができない場合は[[国際連合緊急特別総会|緊急特別総会]]を開いて問題解決を行うことができるようになり、安全保障に関する一定の権限が総会にも付与された。 == 議長国 == {{main|{{仮リンク|国際連合安全保障理事会議長国|en|Presidency of the United Nations Security Council}}}} 安保理議長国は構成国の英語名で[[アルファベット]]順・1ヶ月単位で交代する持ち回り制となっている<ref name="gichokoki" />。 {| class="wikitable" |+2024年の安保理議長国 |- style="background:#ccc;" !width=300|国 !width=55|月 |- |{{FRA}}<br/>(France) |1月 |- |{{GUY}}<br/> (Guyana) |2月 |- |{{JPN}}<br/>(Japan) |3月 |- |{{MLT}}<br/>(Malta) |4月 |- |{{MOZ}}<br/> (Mozanbique) |5月 |- |{{KOR}}<br/>(Republic of Korea) |6月 |- |{{RUS}}<br/>(Russian Federation) |7月 |- |{{SLE}}<br/>(Sierra Leone) |8月 |- |{{SVN}}<br/>(Slovenia) |9月 |- |{{CHE}}<br/>(Switzerland) |10月 |- |{{GBR}}<br/>(United Kingdom) |11月 |- |{{USA}}<br/>(United States) |12月 |- |} == 補助機関 == 安全保障理事会の補助機関として以下のようなものがある。 * [[軍事参謀委員会]] * 平和構築委員会 ほか == 常任理事国改革 == {{main|国際連合安全保障理事会改革}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[国際連合安全保障理事会理事国の一覧]] * [[国際連合安全保障理事会決議]] * [[安全保障]] * [[大国]] * [[アルバニア決議]] * [[国際連合安全保障理事会改革]] * [[敵国条項]] == 外部リンク == {{wikisource|国際連合憲章}} {{commonscat|United Nations Security Council}} * [http://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/sc/ 安全保障理事会](国際連合広報センター) * [http://www.un.org/en/sc/ {{lang|en|UN Security Council}}] - 国連安全保障理事会 公式サイト:英語版。他に5つの言語で利用できる。国連決議、各種報告書、会議のビデオなどが公開されている。 * [https://www.un.org/securitycouncil/content/provisional-rules-procedure {{lang|en|United Nations (1983). Provisional Rules of Procedure of the Security Council, New York, United Nations. (S/96/Rev7)}}] - 国連安保理の会議の手続きなどについて定めた文書。 {{国際連合}} {{国連安全保障理事会理事国}} {{国際連合安全保障理事会常任理事国の首脳}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こくさいれんこうあんせんほしようりしかい}} [[Category:国際連合安全保障理事会|*]] [[Category:国際連合の組織|あんせんほしようりしかい]] [[Category:1946年設立の組織]]
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ナイジェリア
ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく、英語: Federal Republic of Nigeria)、通称ナイジェリアは、アフリカ大陸西南部に位置する連邦制共和国。首都はアブジャ。1991年まではラゴスが首都だったが、一極集中などの理由により首都を移転した。西にベナン、北をニジェール、北東がチャド、東はカメルーンとそれぞれ国境を接し、南はギニア湾に面し大西洋に通ずる。 ナイジェリアは西アフリカに存在する国家である。人口は2022年現在で2億1,140万人で世界第7位であり、アフリカ州最大の規模でもある。さらに民主的な世俗国家であることが憲法上で規定されている。イギリス連邦加盟国の1国でもある。行政区分は、36の州および首都アブジャ市を擁する連邦首都地区からなる。 ナイジェリアの地には過去数千年間に多数の王国や部族国家が存在してきた。現在のナイジェリア連邦共和国の源流は、19世紀以来の英国による植民地支配と、1914年の南部ナイジェリア保護領(英語版)と北部ナイジェリア保護領の合併にもとめられる。英国は行政システムと法制度を設置した上で伝統的な首長制を通じた間接統治を行った。ナイジェリアは1960年に正式に独立し、1967年から1970年にかけて内戦に陥った。以来、選挙に基づく民主政権と軍事独裁政権が交互に続いたが、1999年に安定した民主政権が成立し、2011年の大統領選挙は同国では初めて比較的自由かつ公平に行われた選挙であるとされる。 若年人口(英語版)は世界でも非常に多い。同国は多民族国家とみなされており、500を超えるエスニック・グループを擁する。そのうち3大エスニック・グループがハウサ人、イボ人、ヨルバ人である。同国のエスニック・グループが用いる言語は500を超え、文化の違いも多岐にわたり、それにより互いに区別される。ナイジェリア連邦共和国の公用語は英語である。宗教はおおまかに南部のキリスト教と北部のイスラム教に二分される。少数はナイジェリア土着の宗教を信奉しており、たとえばイボ人やヨルバ人の伝統宗教などがこれにあたる。 ナイジェリアは人口と経済規模から「アフリカの巨人」と称されることが多い。2015年時点でナイジェリアの経済規模は世界第20位であり、名目GDPは5,000億ドル、購買力平価は1兆ドルをそれぞれ上回る。2014年には南アフリカを抜きアフリカ最大の経済大国となった。また、GDPに対する国債の割合は2013年で11パーセントに過ぎず、2012年にくらべても8ポイント低い。 ナイジェリアは世界銀行からエマージング・マーケットとみなされているほか、アフリカ大陸における地域大国、国際政治におけるミドルパワー、世界規模でのエマージング・パワー(英語版)ともみなされている。ナイジェリアは、広く第2のBRICsと目されるMINT(英語版)の1か国であり、世界最大クラスの経済大国になると考えられているネクスト11にも含まれる。ナイジェリアは英連邦創設当初からの加盟国であるほか、アフリカ連合、OPEC、国際連合といった国際機関のメンバーでもある。 2014年に西アフリカでエボラ出血熱が流行した際には、この伝染病はナイジェリア以外の3つの国では猛威を振るったが、ナイジェリアでは各国に先駆けて効果的に封じ込めと除去が行われた。また同国独自の保菌容疑者の追跡法は有効性を買われ、のちに各国で用いられることになった。たとえばアメリカでエボラ出血熱の感染が確認された際にもこの方法が採用されている。 同国の正式名称は英語のFederal Republic of Nigeriaで、通称はNigeria [naɪˈdʒɪərɪə; naɪˈdʒiːərɪə]である。日本語での表記はナイジェリア連邦共和国であり、通称はナイジェリアである。 ナイジェリア(Nigeria)という名は同国を流れるニジェール川(Niger River)から採られている。ナイジェリアという名前は19世紀後半に英国のジャーナリストであるフローラ・ショー(英語版)によって使い始められたともいわれるが、真偽は定かではない。Nigerという言葉は、もとはニジェール川の中流域のみを指したが、語源は不詳である。おそらく、19世紀に欧州植民地主義が入り込む以前にトンブクトゥ周辺のニジェール川中流域に沿って暮らしていた遊牧民のトゥアレグ人がこの川を指して呼んだegerew n-igerewenの変化したものらしい。また、民間語源としてラテン語のniger (黒)に結びつけられることがままあるが、これは正しくない。ただし、綴りには影響を与えている可能性がある。 また、ニジェール川の名前の由来は、トゥアレグ人がこの川を指して呼んだ、「川」を意味する「ニエジーレン(n'egiren)」ないし「エジーレン(egiren)」という言葉であるという説もある。この名がフランス人に伝わり、「黒」を意味するラテン語のnigerとの連想からNigerないしNigeriaが生じたという。 なお、ニジェール(Niger)とナイジェリア(Nigeria)は本来同じ地域を指すが、宗主国を異にする両地域が別々に独立したため、現在のように別の国を指すことになった。 紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。 9世紀ごろ、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴う王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。10世紀 - 15世紀ごろ、国土の南西部には、青銅製などの優れた彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻はのちに19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。 密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビールで改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国、フラニ帝国)を建国した。 ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点としたときから始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。1884年にはオイルリバーズ保護領(英語: Oil Rivers Protectorate)が成立した。1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされ、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護領)。en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年、王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領と南部ナイジェリア保護領(英語版)の2つの保護領に再編成され、1914年に英領ナイジェリア植民地(英語版)(1914年 - 1954年)に統合された。 留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始した。 1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。 この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺され、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は、1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国の独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。 1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムルタラ・ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。1976年にムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定した。 1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。 1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。1985年に再度クーデターが起き、イブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。 1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。 その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振る舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待した者もいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ1人だけであった。しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。 かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で大統領に当選。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。 2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決された。2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。 グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年に再び大統領選挙が実施された。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設などへの襲撃が発生し、多数の死者や避難民が生じた。2015年3月の大統領選挙でジョナサンを破り、ブハリ大統領が誕生。 ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いている。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部のイスラム教徒が握っている。票数を是正するための人口調査は1962年に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、ビアフラ戦争へとつながっていった。3州の政治対立を緩和するために政府は州を細分化し、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であったハウサ人・ヨルバ人・イボ人の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。一方で各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である。 1967年に起こったクーデターでヤクブ・ゴウォンが政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、イブラヒム・ババンギダ時代には大統領選の再選挙や無効、サニ・アバチャ時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。 1999年に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法へのシャリーアの導入を北部各州が相次いで可決した。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部のニジェール・デルタでは、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し(en:Conflict in the Niger Delta、大宇建設社員拉致事件)、ニジェール・デルタ解放運動やデルタ人民志願軍などいくつもの反政府組織やテロ組織(ボコ・ハラム)が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。 潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく。2009年の腐敗認識指数は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。 大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。 大統領は行政府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。 立法府である国民議会は、二院制。上院である元老院(英語版)は全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。下院である代議院(英語版)は、小選挙区制で346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。 司法権は最高裁判所に属している。 サハラ砂漠以南のブラックアフリカの中では南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍などの活躍に期待が寄せられている。 ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419メートルである。国土は多様で、南部は年間約2,000ミリの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500ミリのサバナが広がっている。 ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州(state)と連邦首都地区(Federal Capital Territory)によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。 主要な都市はアブジャ(首都)、ラゴス、イバダン、ベニンシティ、カノ、ポートハーコート、カドゥナ、アバ、マイドゥグリ、イロリンがある。 ナイジェリアはアフリカ屈指の経済大国であり、アフリカ経済の4分の1を占める規模を持つ。 ナイジェリア統計局の発表によると、2013年のナイジェリアのGDPは約5,100億ドルであり、日本の大阪府に兵庫県を加えたのとほぼ同じ経済規模である。1人あたりのGDPは3,082ドルで、世界平均のおよそ30パーセントの水準である。サハラ以南アフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトとともにNEXT11にも数えられており、世界7位という人口の多さも相まってアフリカ最大の規模である。このGDPの規模は世界24位であり、G20のすぐ下に付けている。 石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国である。かつては石油・ガス産業がGDPの4割を占めるなど、原油収入に依存した経済構造であったが、2013年現在ではGDPの14.4パーセントへと低下しており、経済の多角化が進んでいる。石油以外の産業としては、流通・小売などのサービス業がGDPの17.5パーセントを、金融・不動産業が14.6パーセントを占めており、また2008年時点ではGDPの3パーセント未満であったIT産業や製造業も、2013年にはそれぞれ12.2パーセントと6.8パーセントへ拡大を続けている。しかしながら、徴税機構の不備から、今日でも政府の歳入の7 - 8割を石油産業に依存した状態にある。多角化の一方、国民の半分は農林水産業に従事しており、中でも主食であるキャッサバやヤムイモの生産量は世界一である。また輸出作物としては、カカオや天然ゴム、ゴマの栽培が盛んである。トウモロコシの生産も行われているが収量はヘクタールあたり2トンと著しく低い。 国内の市場そのものは大きいが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループのひとつであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブスの長者番付にランクインした。 最大都市であるラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。 地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網(ナイジェリアの鉄道)が機能していたが、インフラの維持に手が回らず荒廃し、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向はラゴスをはじめとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手した。 中国からの借款により資金を融通し、中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島にレッキー自由貿易区を設置、現在建設を行っている。2006年からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。 ナイジェリアはアフリカ最大級の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の5分の1から4分の1がナイジェリアに居住する。250以上の民族・部族が居住しており、北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29パーセント、南西部のヨルバ人が21パーセント、南東部のイボ人が18パーセント。 以下、イジョ人 10パーセント、カヌリ人(英語版) 4パーセント、イビビオ人(英語版) 3.5パーセント、ティブ人 2.5パーセント、ほかにエド人(英語版)、エビラ人(英語版)、ヌペ人(英語版)、グバギ人(英語版)、イツェキリ人(英語版)、ジュクン人(英語版)、ウルホボ人(英語版)、イガラ人、イドマ人(英語版)、コフィヤル人(英語版)、オゴニ、アンガス人らがいる。 民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。 最近の研究(Haber et al. 2019)から、ハプログループDのもっとも古くに分岐した系統(D2系統)が、ナイジェリア人の3サンプルから見つかった。この系統は、ハプログループEの持たないSNPを、D1-M174と7つ共有している。このことから、ハプログループDはアフリカですでに誕生していたと推定されている。D2は、西アジア(サウジアラビア、シリア)でも見つかっている。 ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁でおもに使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であるが、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用が認められている(ナイジェリア連邦共和国憲法・第55条)。初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用しており、言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。 伝統的には結婚時に女性が改姓するが、法的にはどのような姓に改姓することも(しないことも)可能で、改姓しない夫婦別姓や複合姓も近年増えている。 おもに北部ではイスラム教が、南部ではキリスト教が信仰され、そのほか土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんどいなかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する。北部のマイドゥグリは、イスラム過激派組織「ボコ・ハラム」結成の地である。 独立後、キリスト教とイスラム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドゥナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドゥナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25パーセント以上がキリスト教であるカドゥナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた。 2010年3月にはベロムでイスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数か月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1,500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある。 アメリカの国務省は、2020年12月、世界で最も信教の自由が侵害されている国の一覧を公表した。その一覧の中で、ナイジェリアは「特に懸念のある国」に分類された。国際キリスト教人権監視機構(英語版)の報告によれば、「ナイジェリアでは2000年以降、5~7万人のキリスト教徒が殺害されており、キリスト教徒にとって地球上で最も過酷な場所の一つ」としている。その後、2021年11月に、国務省が更新した国の一覧では、ナイジェリアは「特に懸念のある国」から外れた。しかし、人権団体やキリスト教団体は、ナイジェリアの状況に改善は見られないとして、アメリカの決定を批判している。 学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。しかし、貧困などの理由で学校に通えない子供も多い。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60 - 70パーセントと低い。 2018年の15歳以上の人口の識字率は約62パーセント(男性:71.3パーセント、女性:52.7パーセント)であると見積もられている。 おもな高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。 衛生状態が宜しくない現状が続いている。ナイジェリアでは、人口の約4分の1に当たる約4600万人が屋外排泄を余儀なくされている。政府は2019年より、屋外での排便の撲滅キャンペーンを宣言し、公共の場へのトイレ設置を進めている。 2002年以降、ナイジェリア北東部では、世俗の統治機構を廃しシャリーア法の設立を目指すイスラム教の過激派組織ボコ・ハラムによる暴力に見舞われている。 2013年時点で犯罪が多い順に、詐欺、麻薬取引、人身売買が挙げられる。詐欺が多い要因として、ナイジェリアの教育水準が比較的高く、電子機器やプログラミングなどのIT教育も盛んであるが、国内にはスキルを生かせる企業が少ないため、高度な教育を受けた者の多くが雇用のミスマッチにより失業や低賃金の単純労働で働く状態にあるため、インターネットカフェから世界中にスパムを配信するインターネット詐欺(ナイジェリアの手紙)に手を染める事情がある。また、失業した若者が不法移民や麻薬を輸送する犯罪に関わることもある。 暴力犯罪はヨハネスブルグ、ナイロビなどとならび評判が悪い。誘拐も犯罪ビジネスの一つとして繰り返されており、事態はかなり酷いものへと変わりつつある。 加えて、児童への性的虐待が深刻となっている。 2014年3月、当時の大統領グッドラック・ジョナサンは声明を発し、ボコ・ハラムの度重なる攻撃により1万2,000人が死亡、8,000人が身体に障害を負ったことを述べた。同時に、ベナン、チャド、カメルーン、ニジェールとナイジェリアが協働してボコ・ハラムを掃討することを明らかにしたが、これは女子生徒276人が拉致された事件が国際的な注目を集めたことと、ボコ・ハラムの攻撃がナイジェリア周辺諸国に広がったことを受けたものである。 アフリカにおける汚職が続く国家の一つに数えられるほど、不正行為が全域に蔓延している状態となっている。 ナイジェリアでは行政機関のみならず、警察の腐敗も深刻である。国内各地に設けられている検問所では、警官が職権を濫用して賄賂を巻き上げることが常態化し、要求が認められない場合は市民へ危害を加えることも珍しくない。 抗議の声の高まりを受けて2020年10月、政府は特に綱紀の弛緩が指摘されていた警察の特別強盗対策部隊の解散を発表した。 人身売買が常態化している。中絶が違法であることや不妊に悩む夫婦の需要などから、望まない妊娠をした女性が出産した新生児を売却する犯罪ビジネスがある為で、これが人身売買に拍車を掛けてしまっている。 ナイジェリアの料理は、同国を構成する何百もの民族集団の伝統料理(英語版)(または伝統食品)で形成されている面を持っている。 ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である。 文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったイボ人オラウダ・イクイアーノ(英語版)が英語で書いた『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』(1789年)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている。『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。 現代の代表的な作家としては、40か国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958年)のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。その他にも、ケン・サロ=ウィワやフェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。 クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。さらに19世紀に西アフリカよりラゴスに伝わった「パームワイン音楽(英語版)」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ(英語版)」が成立、音楽は発展を続け、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。 また、イスラム文化の影響を受けたヨルバ人のサカラドラム(英語版)により、20世紀初めごろに「サカラ(英語版)」が成立、1940年代に流行。対抗するようにトーキングドラム(ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「アパラ(英語版)」も発生した。ラマダーンの時期に目覚ましとして使われていた音楽は「ウェレ(英語版)(アジサーリ(英語版))」へと発展し、1960年代にはシキル・アインデ・バリスター(ヨルバ語版、スペイン語版)により「フジ(英語版)」が生まれた(フジの名称は日本の富士山に由来している)。 1950年代にガーナより伝わった「ハイライフ」や、アメリカ合衆国のジェームス・ブラウンらのファンクなどの影響を受けた「アフロ・ビート」は、1960年代後半にフェラ・クティらにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、フェミ・クティやシェウン・クティらに引き継がれている。 ビデオ機材の大衆的普及により1990年代からビデオ文化が盛んになり、2010年ころにはビデオ映画の年間製作数は2,400本を数え、インドに続き世界2位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されていることから、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界1位である。ナイジェリア全土で作られる映画は「ノリウッド」とも総称され、ナイジェリアの3大言語であるヨルバ語、ハウサ語、イボ語、そして英語で作られている。製作される映画は英語のものと現地語のものがほぼ半分ずつと言われている。 ナイジェリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。 ※この他には、イスラム教における移動祝日が存在している。 ナイジェリア国内でも他のアフリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1972年にサッカーリーグのナイジェリア・プレミアリーグが創設された。ナイジェリアサッカー協会(NFF)によって構成されるサッカーナイジェリア代表は、アフリカ屈指の強豪国として世界中に知られており、「スーパーイーグルス (Super Eagles)」の愛称で国民からも絶大な支持を集めている。 FIFAワールドカップには1994年大会で初出場して以降、これまでに6度の出場経験をもつ。アフリカネイションズカップでは1980年大会、1994年大会、2013年大会と3度の優勝を飾っており、オリンピックでも1996年アトランタ大会にて、悲願の金メダルを獲得している。 ナイジェリアには、世界的に著名なサッカー選手も数多く存在している。1990年代にはジェイ=ジェイ・オコチャやヌワンコ・カヌ、2000年代にはオバフェミ・マルティンス、2010年代にはアーメド・ムサ、そして2020年以降はヴィクター・オシムヘンが知られる。いずれの選手もアフリカ特有の身体能力と、爆発的なスピードを武器にしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく、英語: Federal Republic of Nigeria)、通称ナイジェリアは、アフリカ大陸西南部に位置する連邦制共和国。首都はアブジャ。1991年まではラゴスが首都だったが、一極集中などの理由により首都を移転した。西にベナン、北をニジェール、北東がチャド、東はカメルーンとそれぞれ国境を接し、南はギニア湾に面し大西洋に通ずる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ナイジェリアは西アフリカに存在する国家である。人口は2022年現在で2億1,140万人で世界第7位であり、アフリカ州最大の規模でもある。さらに民主的な世俗国家であることが憲法上で規定されている。イギリス連邦加盟国の1国でもある。行政区分は、36の州および首都アブジャ市を擁する連邦首都地区からなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ナイジェリアの地には過去数千年間に多数の王国や部族国家が存在してきた。現在のナイジェリア連邦共和国の源流は、19世紀以来の英国による植民地支配と、1914年の南部ナイジェリア保護領(英語版)と北部ナイジェリア保護領の合併にもとめられる。英国は行政システムと法制度を設置した上で伝統的な首長制を通じた間接統治を行った。ナイジェリアは1960年に正式に独立し、1967年から1970年にかけて内戦に陥った。以来、選挙に基づく民主政権と軍事独裁政権が交互に続いたが、1999年に安定した民主政権が成立し、2011年の大統領選挙は同国では初めて比較的自由かつ公平に行われた選挙であるとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "若年人口(英語版)は世界でも非常に多い。同国は多民族国家とみなされており、500を超えるエスニック・グループを擁する。そのうち3大エスニック・グループがハウサ人、イボ人、ヨルバ人である。同国のエスニック・グループが用いる言語は500を超え、文化の違いも多岐にわたり、それにより互いに区別される。ナイジェリア連邦共和国の公用語は英語である。宗教はおおまかに南部のキリスト教と北部のイスラム教に二分される。少数はナイジェリア土着の宗教を信奉しており、たとえばイボ人やヨルバ人の伝統宗教などがこれにあたる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ナイジェリアは人口と経済規模から「アフリカの巨人」と称されることが多い。2015年時点でナイジェリアの経済規模は世界第20位であり、名目GDPは5,000億ドル、購買力平価は1兆ドルをそれぞれ上回る。2014年には南アフリカを抜きアフリカ最大の経済大国となった。また、GDPに対する国債の割合は2013年で11パーセントに過ぎず、2012年にくらべても8ポイント低い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ナイジェリアは世界銀行からエマージング・マーケットとみなされているほか、アフリカ大陸における地域大国、国際政治におけるミドルパワー、世界規模でのエマージング・パワー(英語版)ともみなされている。ナイジェリアは、広く第2のBRICsと目されるMINT(英語版)の1か国であり、世界最大クラスの経済大国になると考えられているネクスト11にも含まれる。ナイジェリアは英連邦創設当初からの加盟国であるほか、アフリカ連合、OPEC、国際連合といった国際機関のメンバーでもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2014年に西アフリカでエボラ出血熱が流行した際には、この伝染病はナイジェリア以外の3つの国では猛威を振るったが、ナイジェリアでは各国に先駆けて効果的に封じ込めと除去が行われた。また同国独自の保菌容疑者の追跡法は有効性を買われ、のちに各国で用いられることになった。たとえばアメリカでエボラ出血熱の感染が確認された際にもこの方法が採用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "同国の正式名称は英語のFederal Republic of Nigeriaで、通称はNigeria [naɪˈdʒɪərɪə; naɪˈdʒiːərɪə]である。日本語での表記はナイジェリア連邦共和国であり、通称はナイジェリアである。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ナイジェリア(Nigeria)という名は同国を流れるニジェール川(Niger River)から採られている。ナイジェリアという名前は19世紀後半に英国のジャーナリストであるフローラ・ショー(英語版)によって使い始められたともいわれるが、真偽は定かではない。Nigerという言葉は、もとはニジェール川の中流域のみを指したが、語源は不詳である。おそらく、19世紀に欧州植民地主義が入り込む以前にトンブクトゥ周辺のニジェール川中流域に沿って暮らしていた遊牧民のトゥアレグ人がこの川を指して呼んだegerew n-igerewenの変化したものらしい。また、民間語源としてラテン語のniger (黒)に結びつけられることがままあるが、これは正しくない。ただし、綴りには影響を与えている可能性がある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、ニジェール川の名前の由来は、トゥアレグ人がこの川を指して呼んだ、「川」を意味する「ニエジーレン(n'egiren)」ないし「エジーレン(egiren)」という言葉であるという説もある。この名がフランス人に伝わり、「黒」を意味するラテン語のnigerとの連想からNigerないしNigeriaが生じたという。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、ニジェール(Niger)とナイジェリア(Nigeria)は本来同じ地域を指すが、宗主国を異にする両地域が別々に独立したため、現在のように別の国を指すことになった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "紀元前5世紀から2世紀にかけて、国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "9世紀ごろ、国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥ(英語版)において青銅器製品を多量に伴う王墓が造られた(en:Archaeology of Igbo-Ukwu、イボ文化(英語版))。この地方では、イボ族その他イビビオ族(英語版)のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。10世紀 - 15世紀ごろ、国土の南西部には、青銅製などの優れた彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーン(英語版)の塑像で知られるヨルバ人の文化がエシエ(英語版)で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻はのちに19世紀ヨーロッパに紹介され、20世紀美術に多大な影響を与えた。14世紀から18世紀にわたって南部にベニン王国が繁栄した。彼らは15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易(サハラ交易)を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。また同じくチャド湖の西方にハウサ諸王国・都市国家群が繁栄し、なかでも19世紀にはフラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビールで改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし(フラニ戦争(英語版), 1804年 – 1808年)、ソコトの街を首都に、北部一帯にソコト帝国(ソコト・カリフ国、フラニ帝国)を建国した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点としたときから始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。19世紀にはイギリス軍が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。1884年にはオイルリバーズ保護領(英語: Oil Rivers Protectorate)が成立した。1886年にイギリス政府はジョージ・トーブマン・ゴールディ卿らによる貿易会社を「王立ニジェール会社(英語版)」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。19世紀末にベニン王国は周囲のフラニ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされ、ナイジェリアは植民地化された(ニジェール海岸保護領)。en:Anglo-Aro War(1901年 - 1902年)。1903年にはソコト帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年、王立ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領と南部ナイジェリア保護領(英語版)の2つの保護領に再編成され、1914年に英領ナイジェリア植民地(英語版)(1914年 - 1954年)に統合された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、自治領(1954年 - 1960年)となった。1956年、シェルはオゴニ(ポートハーコートを中心とするニジェール・デルタにある)で原油採掘を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1960年、第一次大戦後旧ドイツ帝国植民地でイギリスの信託統治領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この混乱の結果、1966年1月15日、イボ族のジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍によるクーデターが勃発し、イロンシが大統領に就任した。1966年7月28日、イロンシ大統領が暗殺され、ヤクブ・ゴウォン軍事政権が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への中央集権化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は、1967年、東部州の有力民族であるイボ族を中心にビアフラ共和国の独立を宣言した。これによって内戦(ビアフラ戦争)になるが、1970年、イボ族の敗北で終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1975年、軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムルタラ・ムハンマド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。1976年にムハンマド大統領は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1983年の次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。1985年に再度クーデターが起き、イブラヒム・ババンギダ将軍が実権を掌握。彼は最初人権を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、為替自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1990年の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。1993年6月の再選挙で実業家モシュード・アビオラ(英語版)が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが8月に引退し、文民出身の側近アーネスト・ショネカン(英語版)にいったん政権を任せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その3か月後の1993年11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられるサニ・アバチャ将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で政党や集会・出版を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や政敵を牢獄に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振る舞うべく、リベリアの長い内戦を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待した者もいたが、1998年やっと約束どおり告示された大統領選挙では、候補者はアバチャ1人だけであった。しかし、選挙直前の6月8日にアバチャが心臓麻痺で死去し、7月7日にモシュード・アビオラ(英語版)が死去した。後を継いだアブドゥルサラミ・アブバカールの政権のもと、1999年に新憲法が制定され、民政へ移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で大統領に当選。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲ(英語版)が2001年に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの頭脳流出を招いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2006年、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決された。2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、ナイジェリア中央銀行のen:Charles Chukwuma Soludo総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとするデノミネーションを実施することを発表した。2009年6月3日、ナイジェリア中央銀行の新総裁にサヌシ・ラミド・サヌシ(英語版)が就任。2009年7月26日、ボコ・ハラムのボコ・ハラム蜂起(英語版)が勃発(en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria)。2010年5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年に再び大統領選挙が実施された。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設などへの襲撃が発生し、多数の死者や避難民が生じた。2015年3月の大統領選挙でジョナサンを破り、ブハリ大統領が誕生。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いている。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部のイスラム教徒が握っている。票数を是正するための人口調査は1962年に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、ビアフラ戦争へとつながっていった。3州の政治対立を緩和するために政府は州を細分化し、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であったハウサ人・ヨルバ人・イボ人の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。一方で各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1967年に起こったクーデターでヤクブ・ゴウォンが政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、イブラヒム・ババンギダ時代には大統領選の再選挙や無効、サニ・アバチャ時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1999年に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法へのシャリーアの導入を北部各州が相次いで可決した。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部のニジェール・デルタでは、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し(en:Conflict in the Niger Delta、大宇建設社員拉致事件)、ニジェール・デルタ解放運動やデルタ人民志願軍などいくつもの反政府組織やテロ組織(ボコ・ハラム)が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく。2009年の腐敗認識指数は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "大統領を国家元首とする連邦共和制国家である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大統領は行政府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "立法府である国民議会は、二院制。上院である元老院(英語版)は全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。下院である代議院(英語版)は、小選挙区制で346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "サハラ砂漠以南のブラックアフリカの中では南アフリカ共和国に並ぶ軍事大国であり、現在では平和維持軍などの活躍に期待が寄せられている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワッディ山の2,419メートルである。国土は多様で、南部は年間約2,000ミリの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルであるドリルの唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部はサヘルと呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しいチャド湖がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500ミリのサバナが広がっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ナイジェリアは連邦制を採用しており、36の州(state)と連邦首都地区(Federal Capital Territory)によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "主要な都市はアブジャ(首都)、ラゴス、イバダン、ベニンシティ、カノ、ポートハーコート、カドゥナ、アバ、マイドゥグリ、イロリンがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ナイジェリアはアフリカ屈指の経済大国であり、アフリカ経済の4分の1を占める規模を持つ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ナイジェリア統計局の発表によると、2013年のナイジェリアのGDPは約5,100億ドルであり、日本の大阪府に兵庫県を加えたのとほぼ同じ経済規模である。1人あたりのGDPは3,082ドルで、世界平均のおよそ30パーセントの水準である。サハラ以南アフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトとともにNEXT11にも数えられており、世界7位という人口の多さも相まってアフリカ最大の規模である。このGDPの規模は世界24位であり、G20のすぐ下に付けている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国である。かつては石油・ガス産業がGDPの4割を占めるなど、原油収入に依存した経済構造であったが、2013年現在ではGDPの14.4パーセントへと低下しており、経済の多角化が進んでいる。石油以外の産業としては、流通・小売などのサービス業がGDPの17.5パーセントを、金融・不動産業が14.6パーセントを占めており、また2008年時点ではGDPの3パーセント未満であったIT産業や製造業も、2013年にはそれぞれ12.2パーセントと6.8パーセントへ拡大を続けている。しかしながら、徴税機構の不備から、今日でも政府の歳入の7 - 8割を石油産業に依存した状態にある。多角化の一方、国民の半分は農林水産業に従事しており、中でも主食であるキャッサバやヤムイモの生産量は世界一である。また輸出作物としては、カカオや天然ゴム、ゴマの栽培が盛んである。トウモロコシの生産も行われているが収量はヘクタールあたり2トンと著しく低い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "国内の市場そのものは大きいが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。2008年には、食品工業やセメント製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループのひとつであるダンゴート・グループ総帥アリコ・ダンゴートが、ブラックアフリカで初めてフォーブスの長者番付にランクインした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "最大都市であるラゴスはアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、渋滞によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網(ナイジェリアの鉄道)が機能していたが、インフラの維持に手が回らず荒廃し、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向はラゴスをはじめとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "中国からの借款により資金を融通し、中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島にレッキー自由貿易区を設置、現在建設を行っている。2006年からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ナイジェリアはアフリカ最大級の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の5分の1から4分の1がナイジェリアに居住する。250以上の民族・部族が居住しており、北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29パーセント、南西部のヨルバ人が21パーセント、南東部のイボ人が18パーセント。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "以下、イジョ人 10パーセント、カヌリ人(英語版) 4パーセント、イビビオ人(英語版) 3.5パーセント、ティブ人 2.5パーセント、ほかにエド人(英語版)、エビラ人(英語版)、ヌペ人(英語版)、グバギ人(英語版)、イツェキリ人(英語版)、ジュクン人(英語版)、ウルホボ人(英語版)、イガラ人、イドマ人(英語版)、コフィヤル人(英語版)、オゴニ、アンガス人らがいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "最近の研究(Haber et al. 2019)から、ハプログループDのもっとも古くに分岐した系統(D2系統)が、ナイジェリア人の3サンプルから見つかった。この系統は、ハプログループEの持たないSNPを、D1-M174と7つ共有している。このことから、ハプログループDはアフリカですでに誕生していたと推定されている。D2は、西アジア(サウジアラビア、シリア)でも見つかっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁でおもに使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であるが、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用が認められている(ナイジェリア連邦共和国憲法・第55条)。初等教育では母語によって授業が行われるが、高等教育においては英語のみを使用しており、言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "伝統的には結婚時に女性が改姓するが、法的にはどのような姓に改姓することも(しないことも)可能で、改姓しない夫婦別姓や複合姓も近年増えている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "おもに北部ではイスラム教が、南部ではキリスト教が信仰され、そのほか土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんどいなかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する。北部のマイドゥグリは、イスラム過激派組織「ボコ・ハラム」結成の地である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "独立後、キリスト教とイスラム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノでモスクの近くに大聖堂を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権がイスラム諸国会議機構の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドゥナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドゥナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25パーセント以上がキリスト教であるカドゥナ州でシャリーアを導入するか否かで抗争が起きた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2010年3月にはベロムでイスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数か月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によるとジョス周辺だけで1,500人が殺害されているとされる。教会の建物もその際に破壊されるケースがある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "アメリカの国務省は、2020年12月、世界で最も信教の自由が侵害されている国の一覧を公表した。その一覧の中で、ナイジェリアは「特に懸念のある国」に分類された。国際キリスト教人権監視機構(英語版)の報告によれば、「ナイジェリアでは2000年以降、5~7万人のキリスト教徒が殺害されており、キリスト教徒にとって地球上で最も過酷な場所の一つ」としている。その後、2021年11月に、国務省が更新した国の一覧では、ナイジェリアは「特に懸念のある国」から外れた。しかし、人権団体やキリスト教団体は、ナイジェリアの状況に改善は見られないとして、アメリカの決定を批判している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。しかし、貧困などの理由で学校に通えない子供も多い。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60 - 70パーセントと低い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2018年の15歳以上の人口の識字率は約62パーセント(男性:71.3パーセント、女性:52.7パーセント)であると見積もられている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "おもな高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "衛生状態が宜しくない現状が続いている。ナイジェリアでは、人口の約4分の1に当たる約4600万人が屋外排泄を余儀なくされている。政府は2019年より、屋外での排便の撲滅キャンペーンを宣言し、公共の場へのトイレ設置を進めている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2002年以降、ナイジェリア北東部では、世俗の統治機構を廃しシャリーア法の設立を目指すイスラム教の過激派組織ボコ・ハラムによる暴力に見舞われている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2013年時点で犯罪が多い順に、詐欺、麻薬取引、人身売買が挙げられる。詐欺が多い要因として、ナイジェリアの教育水準が比較的高く、電子機器やプログラミングなどのIT教育も盛んであるが、国内にはスキルを生かせる企業が少ないため、高度な教育を受けた者の多くが雇用のミスマッチにより失業や低賃金の単純労働で働く状態にあるため、インターネットカフェから世界中にスパムを配信するインターネット詐欺(ナイジェリアの手紙)に手を染める事情がある。また、失業した若者が不法移民や麻薬を輸送する犯罪に関わることもある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "暴力犯罪はヨハネスブルグ、ナイロビなどとならび評判が悪い。誘拐も犯罪ビジネスの一つとして繰り返されており、事態はかなり酷いものへと変わりつつある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "加えて、児童への性的虐待が深刻となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2014年3月、当時の大統領グッドラック・ジョナサンは声明を発し、ボコ・ハラムの度重なる攻撃により1万2,000人が死亡、8,000人が身体に障害を負ったことを述べた。同時に、ベナン、チャド、カメルーン、ニジェールとナイジェリアが協働してボコ・ハラムを掃討することを明らかにしたが、これは女子生徒276人が拉致された事件が国際的な注目を集めたことと、ボコ・ハラムの攻撃がナイジェリア周辺諸国に広がったことを受けたものである。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アフリカにおける汚職が続く国家の一つに数えられるほど、不正行為が全域に蔓延している状態となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ナイジェリアでは行政機関のみならず、警察の腐敗も深刻である。国内各地に設けられている検問所では、警官が職権を濫用して賄賂を巻き上げることが常態化し、要求が認められない場合は市民へ危害を加えることも珍しくない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "抗議の声の高まりを受けて2020年10月、政府は特に綱紀の弛緩が指摘されていた警察の特別強盗対策部隊の解散を発表した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "人身売買が常態化している。中絶が違法であることや不妊に悩む夫婦の需要などから、望まない妊娠をした女性が出産した新生児を売却する犯罪ビジネスがある為で、これが人身売買に拍車を掛けてしまっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ナイジェリアの料理は、同国を構成する何百もの民族集団の伝統料理(英語版)(または伝統食品)で形成されている面を持っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったイボ人オラウダ・イクイアーノ(英語版)が英語で書いた『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』(1789年)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている。『死と王の先導者』で知られるヨルバ人のウォーレ・ショインカは、アフリカ初のノーベル文学賞(1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人のエイモス・チュツオーラは、『やし酒飲み(英語版)』で知られる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "現代の代表的な作家としては、40か国語以上に翻訳された『崩れゆく絆(英語版)』(1958年)のイボ人のチヌア・アチェベ、ビアフラ戦争をテーマとした『半分のぼった黄色い太陽(英語版)』のイボ人のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが知られている。その他にも、ケン・サロ=ウィワやフェスタス・イヤイ(英語版)などの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。さらに19世紀に西アフリカよりラゴスに伝わった「パームワイン音楽(英語版)」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ(英語版)」が成立、音楽は発展を続け、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また、イスラム文化の影響を受けたヨルバ人のサカラドラム(英語版)により、20世紀初めごろに「サカラ(英語版)」が成立、1940年代に流行。対抗するようにトーキングドラム(ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「アパラ(英語版)」も発生した。ラマダーンの時期に目覚ましとして使われていた音楽は「ウェレ(英語版)(アジサーリ(英語版))」へと発展し、1960年代にはシキル・アインデ・バリスター(ヨルバ語版、スペイン語版)により「フジ(英語版)」が生まれた(フジの名称は日本の富士山に由来している)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1950年代にガーナより伝わった「ハイライフ」や、アメリカ合衆国のジェームス・ブラウンらのファンクなどの影響を受けた「アフロ・ビート」は、1960年代後半にフェラ・クティらにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、フェミ・クティやシェウン・クティらに引き継がれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ビデオ機材の大衆的普及により1990年代からビデオ文化が盛んになり、2010年ころにはビデオ映画の年間製作数は2,400本を数え、インドに続き世界2位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されていることから、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界1位である。ナイジェリア全土で作られる映画は「ノリウッド」とも総称され、ナイジェリアの3大言語であるヨルバ語、ハウサ語、イボ語、そして英語で作られている。製作される映画は英語のものと現地語のものがほぼ半分ずつと言われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ナイジェリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "※この他には、イスラム教における移動祝日が存在している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ナイジェリア国内でも他のアフリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1972年にサッカーリーグのナイジェリア・プレミアリーグが創設された。ナイジェリアサッカー協会(NFF)によって構成されるサッカーナイジェリア代表は、アフリカ屈指の強豪国として世界中に知られており、「スーパーイーグルス (Super Eagles)」の愛称で国民からも絶大な支持を集めている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "FIFAワールドカップには1994年大会で初出場して以降、これまでに6度の出場経験をもつ。アフリカネイションズカップでは1980年大会、1994年大会、2013年大会と3度の優勝を飾っており、オリンピックでも1996年アトランタ大会にて、悲願の金メダルを獲得している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ナイジェリアには、世界的に著名なサッカー選手も数多く存在している。1990年代にはジェイ=ジェイ・オコチャやヌワンコ・カヌ、2000年代にはオバフェミ・マルティンス、2010年代にはアーメド・ムサ、そして2020年以降はヴィクター・オシムヘンが知られる。いずれの選手もアフリカ特有の身体能力と、爆発的なスピードを武器にしている。", "title": "スポーツ" } ]
ナイジェリア連邦共和国、通称ナイジェリアは、アフリカ大陸西南部に位置する連邦制共和国。首都はアブジャ。1991年まではラゴスが首都だったが、一極集中などの理由により首都を移転した。西にベナン、北をニジェール、北東がチャド、東はカメルーンとそれぞれ国境を接し、南はギニア湾に面し大西洋に通ずる。
{{独自研究|date=2012年8月}} {{基礎情報 国 | 略名 =ナイジェリア | 日本語国名 =ナイジェリア連邦共和国 | 公式国名 ='''{{Lang|en|Federal Republic of Nigeria}}''' | 国旗画像 = Flag of Nigeria.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Nigeria.svg|100px|ナイジェリアの国章]] | 国章リンク =([[ナイジェリアの国章|国章]]) | 標語 =''{{Lang|en|Unity and Faith, Peace and Progress}}''<br/> (英語: 統一と信頼、平和と前進) | 位置画像 =Nigeria (orthographic projection).svg | 公用語 =[[英語]] | 首都 =[[アブジャ]] | 最大都市 =[[ラゴス]] | 元首等肩書 =[[ナイジェリアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[ボラ・ティヌブ]] | 首相等肩書 ={{仮リンク|ナイジェリアの副大統領|label=副大統領|en|Vice President of Nigeria}} | 首相等氏名 ={{仮リンク|カシム・シェッティマ|en|Kashim Shettima}} | 面積順位 =31 | 面積大きさ =1 E11 | 面積値 =923,768 | 水面積率 =1.4% | 人口統計年 =2021 | 人口順位 =7 | 人口大きさ =1 E7 | 人口値 =211,401,000<ref name=population>{{citation|url=http://data.un.org/en/iso/ng.html|title=UNData|website=国連|accessdate=2022年8月1日}}</ref> | 人口密度値 =232.1<ref name=population/> | GDP統計年元 =2020 | GDP値元 =154兆2523億2000万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=694,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-2}}</ref> | GDP統計年MER =2020 | GDP順位MER =26 | GDP値MER =4294億2300万<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 =2,083.162(推定)<ref name="imf202110" /> | GDP統計年 =2020 | GDP順位 =23 | GDP値 =1兆690億3600万<ref name="imf202110" /> | GDP/人 =5,185.972(推定)<ref name="imf202110" /> | 建国形態 =[[独立]]<br/>&nbsp;- 日付 | 建国年月日 =[[イギリス]]より<br/>[[1960年]][[10月1日]] | 通貨 =[[ナイラ]] (₦) | 通貨コード =NGN | 時間帯 =+1 | 夏時間 =なし | 国歌 =[[起て同胞、ナイジェリアの呼び出しに遵って|{{lang|en|Arise, O Compatriots}}]]{{en icon}}<br>起て同胞、ナイジェリアの呼び出しに遵って<br><center>[[ファイル:National anthem of Nigeria.oga]] | ISO 3166-1 = NG / NGA | ccTLD =[[.ng]] | 国際電話番号 =234 | 注記 = }} '''ナイジェリア連邦共和国'''(ナイジェリアれんぽうきょうわこく、{{Lang-en|Federal Republic of Nigeria}})、通称'''ナイジェリア'''は、[[アフリカ大陸]]西南部に位置する[[連邦制]][[共和国]]。[[首都]]は[[アブジャ]]。[[1991年]]までは[[ラゴス]]が首都だったが、一極集中などの理由により首都を移転した<ref>https://www.spjd.or.jp/?page_id=4571#:~:text=%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%97%EF%BC%90%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%80%81%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE,%E3%81%8C%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82</ref>。西に[[ベナン]]、北を[[ニジェール]]、北東が[[チャド]]、東は[[カメルーン]]とそれぞれ国境を接し、南は[[ギニア湾]]に面し[[大西洋]]に通ずる。 == 概要 == ナイジェリアは[[西アフリカ]]に存在する国家である。人口は[[2022年]]現在で2億1,140万人<ref>{{Cite web|和書|url=http://ecodb.net/ranking/imf_lp.html|title=世界の人口ランキング - 世界経済のネタ帳|accessdate=2022-07-04|website=ecodb.net|language=ja}}</ref>で[[国の人口順リスト|世界第7位]]であり、[[アフリカ州]]最大の規模でもある。さらに[[民主主義|民主的]]な[[世俗国家]]であることが憲法上で規定されている<ref>{{cite web|url=http://www.nigeria-law.org/ConstitutionOfTheFederalRepublicOfNigeria.htm#Powers_of_Federal_Republic_of_Nigeria|title=Nigerian Constitution|work=Nigeria Law|accessdate=17 July 2015}}</ref>。[[イギリス連邦]]加盟国の1国でもある。行政区分は、36の州および首都[[アブジャ]]市を擁する[[連邦首都地区 (ナイジェリア)|連邦首都地区]]からなる。 ナイジェリアの地には過去数千年間に多数の[[王国]]や[[部族]]国家が存在してきた。現在のナイジェリア連邦共和国の源流は、19世紀以来の英国による植民地支配と、1914年の{{仮リンク|南部ナイジェリア保護領|en|Southern Nigeria Protectorate}}と[[北部ナイジェリア保護領]]の合併にもとめられる。英国は行政システムと法制度を設置した上で伝統的な首長制を通じた{{仮リンク|間接統治|en|Indirect rule}}を行った。ナイジェリアは1960年に正式に独立し、1967年から1970年にかけて[[ビアフラ戦争|内戦]]に陥った。以来、選挙に基づく民主政権と軍事独裁政権が交互に続いたが、1999年に安定した民主政権が成立し、2011年の大統領選挙は同国では初めて比較的自由かつ公平に行われた選挙であるとされる<ref name="New York">{{cite news|last=Nossiter|first=Adam|title=Nigerians Vote in Presidential Election|url=http://www.nytimes.com/2011/04/17/world/africa/17nigeria.html?pagewanted=1&_r=1&hp|accessdate=17 April 2011|newspaper=The New York Times|date=16 April 2011}}</ref>。 {{仮リンク|ナイジェリアの若年人口|en|Youth in Nigeria|label=若年人口}}は世界でも非常に多い<ref>{{cite book|title=The CIAWorld Fact Book 2014|date=2013|publisher=Skyhorse Publishing, Inc|isbn=9781626360730}}</ref><ref name=Profile>{{cite journal|last=Library of Congress – Federal Research Division|title= Country profile: Nigeria|date=July 2008|page=9|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/profiles/Nigeria.pdf|accessdate=28 December 2011}}</ref>。同国は[[多民族国家]]とみなされており、500を超えるエスニック・グループを擁する。そのうち3大エスニック・グループが[[ハウサ人]]、[[イボ人]]、[[ヨルバ人]]である。同国のエスニック・グループが用いる言語は500を超え、文化の違いも多岐にわたり、それにより互いに区別される<ref>{{cite web | url=http://www.pbs.org/newshour/updates/africa-jan-june07-ethnic_04-05/ | title=Ethnicity in Nigeria | publisher=PBS | date=5 April 2007 | accessdate=9 May 2015}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.onlinenigeria.com/tribes/tribes.asp | title=Nigeria's Identifiable Ethnic Groups | publisher=OnlineNigeria | date=Otite, O. | accessdate=9 May 2015}}</ref>。ナイジェリア連邦共和国の[[公用語]]は[[英語]]である。宗教はおおまかに南部の[[キリスト教]]と北部の[[イスラム教]]に二分される。少数はナイジェリア土着の宗教を信奉しており、たとえばイボ人やヨルバ人の伝統宗教などがこれにあたる。 ナイジェリアは人口と経済規模から「アフリカの巨人」と称されることが多い<ref name =giant>''Nigeria: Giant of Africa,'' by Peter Holmes 1987</ref>。2015年時点でナイジェリアの経済規模は[[国の国内総生産順リスト (購買力平価)|世界第20位]]であり、[[国内総生産|名目GDP]]は5,000億ドル、[[購買力平価]]は1兆ドルをそれぞれ上回る。2014年には[[南アフリカ]]を抜きアフリカ最大の経済大国となった<ref>{{cite web|title=Nigeria becomes Africa's largest economy|url=http://www.aljazeera.com/news/africa/2014/04/nigeria-becomes-africa-largest-economy-20144618190520102.html|accessdate=5 April 2014}}</ref><ref>{{cite web|title=Nigerian Economy Overtakes South Africa's on Rebased GDP|url=http://www.bloomberg.com/news/2014-04-06/nigerian-economy-overtakes-south-africa-s-on-rebased-gdp.html|accessdate=20 April 2014}}</ref>。また、GDPに対する[[国債]]の割合は2013年で11パーセントに過ぎず、2012年にくらべても8ポイント低い<ref>{{cite web |url=http://www.reuters.com/article/2014/04/06/nigeria-gdp-idUSL6N0MY0LT20140406 |title=UPDATE 2-Nigeria surpasses South Africa as continent's biggest economy |accessdate=April 26, 2014}}</ref><ref name=NigeriaTradesmark>{{cite web|title=Nigeria is poised to become Africa's most powerful nation|url=http://www.trademarksa.org/news/nigeria-poised-become-africa-s-most-powerful-nation|accessdate=28 November 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131203012707/http://www.trademarksa.org/news/nigeria-poised-become-africa-s-most-powerful-nation|archivedate=2013年12月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ナイジェリアは[[世界銀行]]から[[エマージング・マーケット]]とみなされているほか<ref>{{cite web|url=http://data.worldbank.org/country/nigeria|title=Nigeria |publisher=World Bank |accessdate=28 November 2013}}</ref>、アフリカ大陸における[[地域大国]]<ref name=NigeriaTradesmark/><ref>{{cite web|title=Nigeria|url=http://www.westafricagateway.org/west-africa/country-profiles/nigeria|accessdate=25 August 2013|publisher=West Africa Gateway|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131203055729/http://www.westafricagateway.org/west-africa/country-profiles/nigeria|archivedate=2013年12月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|title=Nigeria|url=http://library.fes.de/pdf-files/bueros/nigeria/09372.pdf|accessdate=28 November 2013}}</ref>、国際政治における[[ミドルパワー]]<ref name="Cooper et al">Andrew F. Cooper, Agata Antkiewicz and Timothy M. Shaw, 'Lessons from/for BRICSAM about South-North Relations at the Start of the 21st Century: Economic Size Trumps All Else?', ''International Studies Review'', Vol. 9, No. 4 (Winter, 2007), pp. 675, 687.</ref><ref>Meltem Myftyler and Myberra Yyksel, 'Turkey: A Middle Power in the New Order', in ''Niche Diplomacy: Middle Powers After the Cold War'', edited by Andrew F. Cooper (London: Macmillan, 1997).</ref><ref name="Mace-Belanger">Mace G, Belanger L (1999) [https://books.google.com/books?id=kZlDRD2vL6IC The Americas in Transition: The Contours of Regionalism] (p 153)</ref><ref name="Solomon">Solomon S (1997) [http://www.issafrica.org/Pubs/Monographs/No13/Solomon.html South African Foreign Policy and Middle Power Leadership] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150426220103/http://www.issafrica.org/Pubs/Monographs/No13/Solomon.html |date=2015年4月26日 }}, ''ISS''</ref>、世界規模での{{仮リンク|エマージング・パワー|en|Emerging power}}ともみなされている<ref>{{cite web | url=http://www.bet.com/news/global/2011/07/20/nigeria-an-emerging-african-power.html | title=Nigeria, an Emerging African Power | publisher=BET | date=20 July 2011 | accessdate=27 April 2015}}</ref><ref>{{cite web | url=http://thestreetjournal.org/2014/01/mint-countries-nigeria-now-listed-among-emerging-world-economic-powers/ | title=MINT Countries: Nigeria Now Listed Among Emerging World Economic Powers! | publisher=The Street Journal | date=7 January 2014 | accessdate=27 April 2015}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.bbc.com/news/magazine-25548060 | title=The Mint countries: Next economic giants? | publisher=BBC | date=6 January 2014 | accessdate=27 April 2015}}</ref>。ナイジェリアは、広く第2の[[BRICs]]と目される{{仮リンク|MINT (経済)|en|MINT (economics)|label=MINT}}の1か国であり、世界最大クラスの経済大国になると考えられている[[ネクスト11]]にも含まれる。ナイジェリアは[[英連邦]]創設当初からの加盟国であるほか、[[アフリカ連合]]、[[石油輸出国機構|OPEC]]、[[国際連合]]といった国際機関のメンバーでもある。 [[2014年の西アフリカエボラ出血熱流行|2014年に西アフリカでエボラ出血熱が流行した際]]には、この伝染病はナイジェリア以外の3つの国では猛威を振るったが、ナイジェリアでは各国に先駆けて効果的に封じ込めと除去が行われた。また同国独自の保菌容疑者の追跡法は有効性を買われ、のちに各国で用いられることになった。たとえばアメリカでエボラ出血熱の感染が確認された際にもこの方法が採用されている<ref name="Matt Schiavenza">{{cite web|url=http://www.theatlantic.com/international/archive/2014/10/why-nigeria-stopped-ebola-but-not-boko-haram/381442/|title=Why Nigeria Was Able to Beat Ebola, but Not Boko Haram|author=Matt Schiavenza|date=14 October 2014|work=The Atlantic|accessdate=17 April 2015}}</ref><ref name="The Punch">{{cite web | url=http://www.punchng.com/news/us-sends-medical-experts-to-study-how-nigeria-contained-ebola/ | title=US sends experts to study Nigeria’s anti-Ebola strategies | publisher=The Punch | date=3 October 2014 | accessdate=8 May 2015 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20141205124719/http://www.punchng.com/news/us-sends-medical-experts-to-study-how-nigeria-contained-ebola/ | archivedate=2014年12月5日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name="Vanguard">{{cite web | url=http://www.vanguardngr.com/2014/10/us-sends-medical-experts-study-nigeria-tamed-ebola/ | title=US sends medical experts to study how Nigeria tamed Ebola | publisher=Vanguard | date=2 October 2014 | accessdate=8 May 2015}}</ref>。 == 国名 == 同国の正式名称は英語の'''Federal Republic of Nigeria'''で、通称は'''Nigeria''' {{IPA-en|naɪˈdʒɪ''ə''rɪə; naɪˈdʒiː''ə''rɪə|}}である。日本語での表記は'''ナイジェリア連邦共和国'''であり、通称は'''ナイジェリア'''である。 ナイジェリア(Nigeria)という名は同国を流れる[[ニジェール川]](Niger River)から採られている。ナイジェリアという名前は19世紀後半に英国のジャーナリストである{{仮リンク|フローラ・ショー|en|Flora Shaw, Lady Lugard}}によって使い始められたともいわれるが、真偽は定かではない。Nigerという言葉は、もとはニジェール川の中流域のみを指したが、語源は不詳である。おそらく、19世紀に欧州植民地主義が入り込む以前に[[トンブクトゥ]]周辺のニジェール川中流域に沿って暮らしていた遊牧民の[[トゥアレグ人]]がこの川を指して呼んだegerew <u>n-iger</u>ewenの変化したものらしい。また、民間語源としてラテン語のniger (黒)に結びつけられることがままあるが、これは正しくない。ただし、綴りには影響を与えている可能性がある<ref>The Arabic name ''nahr al-anhur'' is a direct translation of the Tuareg.</ref><ref>{{cite web|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=Niger |title='&#39;Online Etymological Dictionary'&#39; |publisher=Etymonline.com |date= |accessdate=2014-07-28}}</ref>。 また、ニジェール川の名前の由来は、トゥアレグ人がこの川を指して呼んだ、「川」を意味する「ニエジーレン(n'egiren)」ないし「エジーレン(egiren)」という言葉であるという説もある。この名がフランス人に伝わり、「黒」を意味するラテン語のnigerとの連想からNigerないしNigeriaが生じたという。 なお、[[ニジェール]](Niger)とナイジェリア(Nigeria)は本来同じ地域を指すが、宗主国を異にする両地域が別々に独立したため、現在のように別の国を指すことになった。 == 歴史 == [[ファイル:Queen Mother Pendant Mask- Iyoba MET DP231460.jpg|180px|thumb|left|16世紀の[[ベニン王国]]の象牙のマスク]] {{main|{{仮リンク|ナイジェリアの歴史|en|History of Nigeria|preserve=1}}}} [[紀元前5世紀]]から[[2世紀]]にかけて、国土の中央部のジョス高原において[[土偶]]で知られる初期[[鉄器]]文化である[[ノク文化]]が繁栄した。 [[9世紀]]ごろ、国土の南東部、[[ニジェール川]]の[[三角州]]の付け根付近にあたる{{仮リンク|イボ=ウクゥ|en|Igbo-Ukwu}}において[[青銅器]]製品を多量に伴う王墓が造られた([[:en:Archaeology of Igbo-Ukwu]]、{{仮リンク|イボ文化|en|Igbo culture}})。この地方では、[[イボ族]]その他{{仮リンク|イビビオ人|en|Ibibio people|label=イビビオ族}}のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の[[平等主義]]と[[民主主義]]の概念によって管理されていた。[[10世紀]] - [[15世紀]]ごろ、国土の南西部には、青銅製などの優れた彫刻で知られる[[イフェ]]王国と、{{仮リンク|ソープストーン|en|Soapstone}}の塑像で知られる[[ヨルバ人]]の文化が{{仮リンク|エシエ|en|Esiẹ}}で栄えた。これらの大胆なフォルムの彫刻はのちに[[19世紀]]ヨーロッパに紹介され、[[20世紀美術]]に多大な影響を与えた。[[14世紀]]から[[18世紀]]にわたって南部に[[ベニン王国]]が繁栄した。彼らは[[15世紀]]末に来航した[[ポルトガル]]人から銃を取り入れ軍事力と[[王権]]を強化した。 密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部では[[キャラバン]]交易([[サハラ交易]])を通じ[[北アフリカ]]から物資や文化の伝播があり、[[イスラム教]]を受容した。[[チャド湖]]周辺には[[12世紀]]から[[13世紀]]ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力で[[カネム・ボルヌ帝国]]が全盛を迎えた。この王家は[[19世紀]]まで続いた。また同じくチャド湖の西方に[[ハウサ諸王国]]・[[都市国家]]群が繁栄し、なかでも[[19世紀]]には[[フラニ族]]の[[イスラム神学者]][[ウスマン・ダン・フォディオ]]が都市国家[[ゴビール]]で改革運動を開始したが、国から追い出されると[[遊牧]]生活の[[フラニ族]]たちと協力して[[ジハード]]を起こし({{仮リンク|フラニ戦争|en|Fulani War}}, [[1804年]] – [[1808年]])、[[ソコト]]の街を首都に、北部一帯に[[ソコト帝国]](ソコト・カリフ国、フラニ帝国)を建国した。 {{Clearleft}} === 植民地時代 === [[ファイル:Drawing of Benin City made by an English officer 1897.jpg|thumb|240px|[[1897年]]の[[ベニンシティ]]]] {{main|{{仮リンク|イギリス保護領ナイジェリア|en|Colonial Nigeria}}}} ナイジェリアの植民地化は、1472年に[[ポルトガル人]]が[[ラゴス]]を建設し、[[奴隷貿易]]の拠点としたときから始まった。[[17世紀]]から[[19世紀]]を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とする[[ヨーロッパ]]の貿易商人たちが、南北[[アメリカ大陸]]へ送る[[奴隷]]の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「[[奴隷海岸]]」と呼んだ。[[19世紀]]には[[イギリス軍]]が奴隷売買を禁止し、商品貿易に取ってかわられた。[[1884年]]には[[ニジェール海岸保護領|オイルリバーズ保護領]]({{lang-en|Oil Rivers Protectorate}})が成立した。[[1886年]]にイギリス政府は[[ジョージ・トーブマン・ゴールディ]]卿らによる貿易会社を「{{仮リンク|王立ニジェール会社|en|Royal Niger Company}}」とし諸特権を与え、ナイジェリア一帯の支配を開始した。[[19世紀]]末に[[ベニン王国]]は周囲の[[フラニ人]]の[[ソコト帝国]]、[[ヨルバ人]]の[[オヨ王国]]もろともイギリスに滅ぼされ、ナイジェリアは植民地化された([[ニジェール海岸保護領]])。[[:en:Anglo-Aro War]]([[1901年]] - [[1902年]])。[[1903年]]には[[ソコト帝国]]も滅亡し、イギリスと[[フランス]]に分割された。[[1901年]]、王立ニジェール会社は[[北部ナイジェリア保護領]]と{{仮リンク|南部ナイジェリア保護領|en|Southern Nigeria Protectorate}}の2つの[[保護領]]に再編成され、[[1914年]]に{{仮リンク|イギリス保護領ナイジェリア|en|Colonial Nigeria|label=英領ナイジェリア植民地}}([[1914年]] - [[1954年]])に統合された。 === 自治領 === [[留学生]]たちを中心に[[第二次世界大戦]]前から独立への動きはあったが、第二次大戦後[[ナショナリズム]]が高まり、自治領([[1954年]] - [[1960年]])となった。[[1956年]]、[[ロイヤル・ダッチ・シェル|シェル]]は[[オゴニ]]([[ポートハーコート]]を中心とする[[ニジェール・デルタ]]にある)で原油採掘を開始した。 === 独立・第一共和政 === {{main|{{仮リンク|ナイジェリア第一共和国|en|First Nigerian Republic}}|{{仮リンク|ナイジェリア・シャリーア紛争|en|Nigerian Sharia conflict}}}} [[1960年]]、[[第一次世界大戦|第一次大戦後]]旧[[ドイツ帝国]]植民地でイギリスの[[信託統治]]領となっていた西カメルーンの北部を編入して、それぞれが広範な[[自治権]]を有する[[北部州 (ナイジェリア)|北部州]]・[[西部州 (ナイジェリア)|西部州]]・[[東部州 (ナイジェリア)|東部州]]の3地域の[[連邦制]]国家として完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を[[国家元首]]として頂く[[英連邦王国]]であったが、[[1963年]]に連邦共和国憲法を制定し、[[大統領制]]に移行した。それと同時に、西部州から[[中西部州 (ナイジェリア)|中西部州]]を分割し、全4地域になる。しかし、議会では3地域の代表が激しく対立しあい、人口の多い北部優位は動かず、それが東部との対立を深め、内政は混迷を深めていった。 === 第一次軍政 === [[ファイル:Biafra independent state map-en.svg|thumb|240px|[[ビアフラ共和国]]の領域。[[ビアフラ戦争]]では100万人以上の死傷者が出た]] {{main|ビアフラ戦争}} この混乱の結果、[[1966年]][[1月15日]]、[[イボ族]]の[[ジョンソン・アグイイ=イロンシ]]将軍による[[クーデター]]が勃発し、イロンシが大統領に就任した。[[1966年]][[7月28日]]、イロンシ大統領が暗殺され、[[ヤクブ・ゴウォン]][[軍事政権]]が樹立された。ゴウォン政権は連邦政府への[[中央集権]]化を図るため、地方を12州に再編したが、これに反発した東部州は、[[1967年]]、東部州の有力民族である[[イボ人|イボ族]]を中心に[[ビアフラ共和国]]の独立を宣言した。これによって内戦([[ビアフラ戦争]])になるが、[[1970年]]、イボ族の敗北で終結した。 [[1975年]]、軍の民政移行派([[オルシェグン・オバサンジョ]]、[[ムルタラ・ムハンマド]]将軍らを含む)によるクーデターが成功し、ムハンマドが大統領に就任した。[[1976年]]にムハンマド大統領は暗殺され、[[1977年]]、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定した。 === 第二共和政 === {{main|{{仮リンク|ナイジェリア第二共和国|en|Second Nigerian Republic}}}} [[1979年]]、大統領選挙で[[シェフ・シャガリ]]が当選し、[[文民]]大統領が誕生した。しかし、多くの国民は民政化後かえって汚職や経済が悪化したと感じた。 === 第二次軍政 === [[1983年]]の次回選挙で[[オバフェミ・アウォロウォ]]が勝ったにもかかわらず、[[ムハンマド・ブハリ]][[将軍]]ら[[軍政]]派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷いたため、経済はかえって悪化した。[[1985年]]に再度クーデターが起き、[[イブラヒム・ババンギダ]]将軍が実権を掌握。彼は最初[[人権]]を重視すると約束したが、次第に圧制に移行した。また、[[為替]]自由化などの経済改革はナイジェリアの通貨暴落を招き、何度もクーデター未遂を引き起こした。 === 第三共和政 === {{main|{{仮リンク|ナイジェリア第三共和国|en|Third Nigerian Republic}}}} [[1990年]]の新憲法で1992年の大統領選挙が約束され、疑問視されつつも実現したが、ババンギダは不正があったと主張し、やり直させた。[[1993年]]6月の再選挙で[[実業家]]{{仮リンク|モシュード・アビオラ|en|Moshood Kashimawo Olawale Abiola}}が勝利し、ババンギダはまたも不正を主張したが8月に引退し、文民出身の[[側近]]{{仮リンク|アーネスト・ショネカン|en|Ernest Shonekan}}にいったん政権を任せた。 === 第三次軍政 === その3か月後の[[1993年]]11月、1980年代の2回のクーデターにも関わったとみられる[[サニ・アバチャ]]将軍が実権を掌握した。サニ・アバチャは1998年の民政移管を約束したが、その一方で[[政党]]や[[集会]]・[[出版]]を弾圧し、多くの政治家や民主運動家や[[政敵]]を[[牢獄]]に送り、ナイジェリアに圧政を敷き、新憲法制定を延ばし続けた。彼はアフリカ随一の地域大国らしく振る舞うべく、[[リベリア]]の長い[[リベリア内戦|内戦]]を終わらせ民政移管するプロセスに参加し、軍によるクーデターが起こった際はただちにリベリアに軍を派遣し、文民政権を守った。これによって、アバチャにナイジェリアの民政移管を期待した者もいたが、[[1998年]]やっと約束どおり[[告示]]された大統領選挙では、候補者はアバチャ1人だけであった。しかし、選挙直前の[[6月8日]]にアバチャが[[心臓麻痺]]で死去し、[[7月7日]]に{{仮リンク|モシュード・アビオラ|en|Moshood Kashimawo Olawale Abiola}}が死去した。後を継いだ[[アブドゥルサラミ・アブバカール]]の政権のもと、[[1999年]]に新憲法が制定され、民政へ移行した。 === 第四共和政 === [[ファイル:Olusegun Obasanjo (Brasilia 6 September 2005).jpg|thumb|200px|第5代・12代大統領[[オルシェグン・オバサンジョ]]]] {{main|{{仮リンク|ナイジェリア第四共和国|en|Fourth Nigerian Republic}}}} かつてのクーデター軍人[[オルシェグン・オバサンジョ]]が、初の民主的選挙で大統領に当選。[[2003年]]の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官{{仮リンク|ボラ・イゲ|en|Bola Ige}}が[[2001年]]に暗殺された件に関わったといわれるほか、ナイジェリアの[[汚職]]と[[腐敗]]が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。オバサンジョは腐敗政治家を次々逮捕しているが依然政府の腐敗は深刻で、多くの[[頭脳流出]]を招いている。 [[2006年]]、オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決された。[[2007年]]2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党の[[ウマル・ヤラドゥア]]が当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。2007年8月14日、[[ナイジェリア中央銀行]]の[[:en:Charles Chukwuma Soludo]]総裁は2008年の8月から100ナイラを1ナイラとする[[デノミネーション]]を実施することを発表した。[[2009年]][[6月3日]]、ナイジェリア中央銀行の新総裁に{{仮リンク|サヌシ・ラミド・サヌシ|en|Sanusi Lamido Sanusi}}が就任。[[2009年]][[7月26日]]、[[ボコ・ハラム]]の{{仮リンク|ボコ・ハラム蜂起|en|2009 Boko Haram Uprising}}が勃発([[:en:Timeline of Boko Haram attacks in Nigeria]])。[[2010年]]5月5日、ヤラドゥアが病死し、副大統領の[[グッドラック・ジョナサン]]が大統領に就任した。 グッドラック・ジョナサンの就任期間は、ヤラドゥアの任期の残り1年を受けてのものであったため、2011年に再び大統領選挙が実施された。グッドラック・ジョナサンは、イスラム教徒が多い北部出身のムハンマド・ブハリ元最高軍事評議会議長を下して再選を果たした。しかし、この選挙結果を受けてカドゥナ州など北部地域で暴動やキリスト教施設などへの襲撃が発生し、多数の死者や避難民が生じた<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2796944?pid=7119678 ナイジェリア大統領選めぐる暴動、死者500人超か(AFP.BB.NEWS)2011年04月25日13:53]</ref>。2015年3月の大統領選挙でジョナサンを破り、ブハリ大統領が誕生。 == 政治 == [[ファイル:Asiwaju Bola Ahmed Tinubu (5980497975) (cropped).jpg|thumb|200px|第16代大統領[[ボラ・ティヌブ]]]] === 政府 === {{see|{{仮リンク|ナイジェリア連邦政府|en|Federal government of Nigeria}}}} ナイジェリアの政治は独立以来混乱が続いている。独立時の北部・東部・西部の3州制以来、政治の実権は人口の多い北部の[[イスラム教徒]]が握っている。票数を是正するための人口調査は[[1962年]]に行われたものの、各民族の対立により失敗に終わり、以後人口調査は行われていない。この人口調査の失敗は各民族の対立をより先鋭化させ、[[ビアフラ戦争]]へとつながっていった<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p501</ref>。3州の政治対立を緩和するために政府は州を細分化し、州の数は1967年には12州、1976年には19州、1996年には36州となっていた。この州の細分化により、旧各州の中心であった[[ハウサ人]]・[[ヨルバ人]]・[[イボ人]]の3民族の求心力は衰え、新設された州で最大規模となった中小規模の民族の発言権が増大した。一方で各民族ごとに投票行動を行う傾向は変わらず、いまだに正確な人口調査を行うことができない状況である<ref>「アフリカ 苦悩する大陸」ロバート・ゲスト著 伊藤真訳 2008年5月15日 東洋経済新報社 p136</ref>。 [[1967年]]に起こった[[クーデター]]で[[ヤクブ・ゴウォン]]が政権を握って以降、軍の政治的発言権は増大した。ナイジェリアでは軍事政権が民主化の意向を示さないことは少なく、政権を奪取すると数年後の民政移管を公約するのが常であったが、この公約が守られることは少なく、[[イブラヒム・ババンギダ]]時代には大統領選の再選挙や無効、[[サニ・アバチャ]]時代には対立候補のいない大統領選などが行われ、軍は長期にわたってナイジェリア政治を支配してきた。 [[1999年]]に民主化が行われると、これまで政権を握ってきた北部が中央への反発などから急進化し、州法への[[シャリーア]]の導入を北部各州が相次いで可決した。これに反対する中央政府との対立が暴動に発展し、北部各地で暴動が頻発する状況となった。南部の[[ニジェール・デルタ]]では、石油生産に伴う環境汚染などから不満を持った地域住民が急進化し([[:en:Conflict in the Niger Delta]]、[[大宇建設社員拉致事件]])、[[ニジェール・デルタ解放運動]]や[[デルタ人民志願軍]]などいくつもの[[反政府組織]]や[[テロ組織]]([[ボコ・ハラム]])が武装闘争を行うようになり、治安が悪化している。 潤沢な石油収入があるものの、政府の統治能力の未熟さと腐敗により、国民の生活には還元されていない。石油収入150億ドルのうち100億ドルが使途不明のまま消えていく<ref>松本仁一『カラシニコフI』朝日新聞出版、2008年7月30日 p.177</ref>。2009年の[[腐敗認識指数]]は2.5で、2003年の1.4よりやや改善したものの、それでも世界130位と下位にあることに違いはない。 === 元首 === [[大統領]]を[[元首|国家元首]]とする[[連邦]][[共和制]][[国家]]である。 === 行政 === [[ナイジェリアの大統領|大統領]]は[[行政]]府の長として実権を有する。大統領は民選で任期4年。三選禁止。 === 立法 === 立法府である[[国民議会 (ナイジェリア)|国民議会]]は、[[二院制]]。[[上院]]である{{仮リンク|元老院 (ナイジェリア)|label=元老院|en|Senate of Nigeria}}は全109議席。各州3議席、連邦首都地域から1議席。[[下院]]である{{仮リンク|代議院 (ナイジェリア)|label=代議院|en|House of Representatives (Nigeria)}}は、[[小選挙区制]]で346議席。任期はいずれも4年で、両院同日選挙。 === 政党 === {{see|ナイジェリアの政党}} === 司法 === [[司法権]]は最高裁判所に属している。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリア最高裁判所|en|Supreme Court of Nigeria}}|{{仮リンク|ナイジェリアの憲法|en|Constitution of Nigeria}}}} ==== 法律 ==== {{see|{{仮リンク|ナイジェリアの法律|en|Law of Nigeria}}}} {{節スタブ}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ナイジェリアの国際関係|en|Foreign relations of Nigeria}}}} {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{see|日本とナイジェリアの関係}} * 在留日本人数 - 145人(2021年1月現在)<ref name="外務省 ナイジェリア基礎データ">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nigeria/data.html#section6 外務省 ナイジェリア基礎データ]</ref> * 在日ナイジェリア人数 - 3,315人(2020 年12月現在)<ref name="外務省 ナイジェリア基礎データ"/> * ナイジェリア男性の[[Y染色体]]から、日本人固有のY染色体系統である[[ハプログループD (Y染色体)|ハプログループD]]に属する「BY22527.2」をはじめとする多数の[[一塩基多型]]が見つかったことにより、Y染色体の系統樹が根底から更新される結果となった<ref>これらのブランチは、[[2019年]][[6月12日]]に国際的に承認され登録されている。{{cite web|url=https://docs.google.com/spreadsheets/d/1QBUFZl03X92qNN61lQ8VtIKwbBMeuBzvqXQ47IQPBps/edit|title=Y-DNA Haplogroup D and its Subclades - 2019 |publisher=ISOGG |date=2019-10-10 |accessdate=2019-10-11}}</ref>。これにより、日本人の男系祖先のルーツは、[[チベット]]、[[アンダマン諸島]]([[ジャラワ族]]、[[オンゲ族]])、[[フィリピン]]([[マクタン島]])に続き、ナイジェリア人に近いことが[[分子生物学]]によって明らかとなった。 == 軍事 == {{main|ナイジェリア軍}} [[サハラ砂漠]]以南の[[ブラックアフリカ]]の中では[[南アフリカ共和国]]に並ぶ[[軍事大国]]であり、現在では[[平和維持軍]]などの活躍に期待が寄せられている。 {{節スタブ}} == 地理 == [[ファイル:Ni-map.png|thumb|300px|ナイジェリアの地図]] {{main|{{仮リンク|ナイジェリアの地理|en|Geography of Nigeria}}}} ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋の[[ギニア湾]]に面する。西を[[ベナン]]、北を[[ニジェール]]、北東を[[チャド]]、東を[[カメルーン]]に囲まれる。同国の二大河川である[[ニジェール川]]と[[ベヌエ川]]は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタである[[ニジェールデルタ]]を形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原の[[チャパル・ワッディ山]]の2,419メートルである。国土は多様で、南部は年間約2,000ミリの降雨がある熱帯雨林で、広大なマングローブが分布している。カメルーンにかけて中型のサルである[[ドリル (動物)|ドリル]]の唯一の生息域であり、世界でも顕著な多種の蝶が見られるなど生物多様性の場所である。北部は[[サヘル]]と呼ばれる半砂漠で湖水面積縮小の著しい[[チャド湖]]がある。北の国境、南の沿岸沿いを除いた地域には年間降水量500 - 1,500ミリの[[サバナ]]が広がっている。 == 地方行政区分 == {{main|ナイジェリアの州}} [[ファイル:NigeriaNumbered.png|thumb|300px|ナイジェリアの州]] ナイジェリアは[[連邦制]]を採用しており、36の州(state)と連邦首都地区(Federal Capital Territory)によって構成される。州はさらに774の地方行政区域に分割されている。独立時は北部州、東部州、西部州の3州体制であったが、民族対立の先鋭化を招いたため、徐々に細分化されていった。 {{Colbegin|4}} * 1.[[アビア州]] (Abia) * 2.[[アダマワ州 (ナイジェリア)|アダマワ州]] (Adamawa) * 3.[[アクワ・イボム州]](Akwa Ibom) * 4.[[アナンブラ州]](Anambra) * 5.[[バウチ州]] (Bauchi) * 6.[[バイエルサ州]] (Bayelsa) * 7.[[ベヌエ州]] (Benue) * 8.[[ボルノ州]](Borno) * 9.[[クロスリバー州]] (Cross River) * 10.[[デルタ州]] (Delta) * 11.[[エボニ州]](Ebonyi) * 12.[[エド州]](Edo) * 13.[[エキティ州]] (Ekiti) * 14.[[エヌグ州]] (Enugu) * 15.[[ゴンベ州]] (Gombe) * 16.[[イモ州]](Imo) * 17.[[ジガワ州]] (Jigawa) * 18.[[カドゥナ州]] (Kaduna) * 19.[[カノ州]] (Kano) * 20.[[カツィナ州]] (Katsina) * 21.[[ケビ州]] (Kebbi) * 22.[[コギ州]] (Kogi) * 23.[[クワラ州]](Kwara) * 24.[[ラゴス州]] (Lagos) * 25.[[ナサラワ州]] (Nassarawa) * 26.[[ナイジャ州]] (Niger) * 27.[[オグン州]] (Ogun) * 28.[[オンド州]] (Ondo) * 29.[[オスン州|オシュン州]] (Osun) * 30.[[オヨ州]] (Oyo) * 31.[[プラトー州]] (Plateau) * 32.[[リヴァーズ州]] (Rivers) * 33.[[ソコト州]] (Sokoto) * 34.[[タラバ州]] (Taraba) * 35.[[ヨベ州]] (Yobe) * 36.[[ザムファラ州]] (Zamfara) * 37.[[連邦首都地区 (ナイジェリア)|連邦首都地区]] (Federal Capital Territory) {{Colend}} === 主要都市 === {{Main|ナイジェリアの都市の一覧}} 主要な都市は[[アブジャ]](首都)、[[ラゴス]]、[[イバダン]]、[[ベニンシティ]]、[[カノ]]、[[ポートハーコート]]、[[カドゥナ]]、[[アバ (ナイジェリア)|アバ]]、[[マイドゥグリ]]、[[イロリン]]がある。 == 経済 == [[ファイル:Lagos Island.jpg|thumb|left|250px|[[ラゴス]]はナイジェリア最大の経済都市であり、世界有数の[[メガシティ]]である]] {{main|{{仮リンク|ナイジェリアの経済|en|Economy of Nigeria}}}} ナイジェリアは[[アフリカ]]屈指の[[経済大国]]であり、アフリカ経済の4分の1を占める規模を持つ<ref name="wsjSB10001424052702304126604579512462977743586">{{cite news |title=【オピニオン】南アを超えたナイジェリア―資源だけでない成長の原動力 |newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2014-4-20 |url=http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304126604579512462977743586 |accessdate=2015-9-23|author= IAN BIRRELL }}</ref>。 ナイジェリア統計局の発表によると、2013年のナイジェリアの[[国内総生産|GDP]]は約5,100億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N3N6LU6JTSEF01.html|title=ナイジェリア経済規模、南ア抜きアフリカ首位に-統計見直し|date=2014-04-07|accessdate=2014-04-07|publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]}}</ref>、日本の[[大阪府]]に[[兵庫県]]を加えたのとほぼ同じ経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/toukei.html#kenmin 国民経済計算] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100210185302/http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/toukei.html |date=2010年2月10日 }}</ref>。1人あたりのGDPは3,082ドルで、世界平均のおよそ30パーセントの水準である<ref name="imf201410" />。[[サブサハラアフリカ|サハラ以南アフリカ]]で最初に[[石油輸出国機構|OPEC]]に加盟を果たし、アフリカ大陸では[[エジプト]]とともに[[NEXT11]]にも数えられており、世界7位という人口の多さも相まってアフリカ最大の規模である。このGDPの規模は世界24位であり、[[G20]]のすぐ下に付けている<ref name="wsjSB10001424052702304126604579512462977743586" />。 [[ファイル:Nigeria treemap.png|thumb|色と面積で示したナイジェリアの輸出品目]] 石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の[[産油国]]である。かつては石油・ガス産業がGDPの4割を占めるなど、原油収入に依存した経済構造であったが、[[2013年]]現在ではGDPの14.4パーセントへと低下しており、経済の多角化が進んでいる。石油以外の産業としては、[[流通]]・[[小売]]などの[[サービス|サービス業]]がGDPの17.5パーセントを、[[金融]]・[[不動産会社|不動産業]]が14.6パーセントを占めており、また[[2008年]]時点ではGDPの3パーセント未満であった[[情報技術|IT産業]]や[[製造業]]も、2013年にはそれぞれ12.2パーセントと6.8パーセントへ拡大を続けている。しかしながら、[[租税|徴税]]機構の不備から、今日でも政府の歳入の7 - 8割を[[石油産業]]に依存した状態にある。<ref name="fsight20141120">{{Cite web|和書|url=http://www.fsight.jp/30665|title=晴れてアフリカ1の経済大国「ナイジェリア」の現在|publisher=[[フォーサイト (雑誌)|フォーサイト]]|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-22}}</ref>多角化の一方、国民の半分は農林水産業に従事しており、中でも主食である[[キャッサバ]]や[[ヤム|ヤムイモ]]の生産量は世界一である。また輸出作物としては、[[カカオ]]や[[ゴム#天然ゴム|天然ゴム]]、[[ゴマ]]の栽培が盛んである。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/k_gaikyo/nig.html|title=ナイジェリアの農林水産業概況|publisher=農林水産省|date=2014-09-01|accessdate=2014-11-22}}</ref>[[トウモロコシ]]の生産も行われているが収量はヘクタールあたり2トンと著しく低い<ref>{{Cite web|和書|date= 2012.09.13|url=https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20120905/163101/ |title= 国際アグリバイオ事業団(ISAAA)アグリバイオ最新情報【2012年8月31日】|publisher= 日経バイオテクオンライン|accessdate=2018-04-13}}</ref>。 国内の市場そのものは大きいが、国民の大多数が貧困に苦しんでいるため、[[購買力]]が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。[[2008年]]には、[[食品工業]]や[[セメント]]製造を中核とするナイジェリア国内最大の企業グループのひとつである[[ダンゴート・グループ]]総帥アリコ・ダンゴートが、[[ブラックアフリカ]]で初めて[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]の長者番付にランクインした<ref>「アフリカ 動き出す9億人市場」ヴィジャイ・マハジャン著 松本裕訳 英治出版 p108-110 2009年7月20日発行</ref>。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|ナイジェリアの交通|en|Transport in Nigeria}}}} 最大都市である[[ラゴス]]はアフリカ最大級の大都市だが、集まる人口に既存の都市機能が追いつかず、[[渋滞]]によりバス・タクシーなど交通機能は麻痺寸前になっている。 地方との交通網は、1980年代以前は、かつての宗主国であるイギリスが敷設した鉄道網([[ナイジェリアの鉄道]])が機能していたが、[[インフラ]]の維持に手が回らず荒廃し、多くは自動車やトラック輸送に転換されている。こうした傾向はラゴスをはじめとした都市の渋滞に拍車をかけることから、政府は鉄道の近代化プロジェクトに着手した。 中国からの借款により資金を融通し、中国企業との協力で、ラゴス州レッキー半島に[[レッキー自由貿易区]]を設置、現在建設を行っている。[[2006年]]からは、ラゴスやポートハーコートから各都市への鉄道網の再整備に乗り出している。 {{節スタブ}} {{See also|ナイジェリアの鉄道|ナイジェリアの空港の一覧}} {{See also|{{仮リンク|連邦道路安全隊 (ナイジェリア)|en|Federal Road Safety Corps (Nigeria)}}}} == 国民 == [[ファイル:Nigeria Benin Cameroon languages.png|thumb|400px|ナイジェリア、カメルーン、ベナンの民族分布]] {{main|{{仮リンク|ナイジェリアの人口統計|en|Demographics of Nigeria}}}} === 民族 === ナイジェリアはアフリカ最大級の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の5分の1から4分の1がナイジェリアに居住する。250以上の[[民族]]・[[部族]]が居住しており、北部の[[ハウサ人]]および[[フラニ人]]が全人口の29パーセント、南西部の[[ヨルバ人]]が21パーセント、南東部の[[イボ人]]が18パーセント。 以下、[[イジョ|イジョ人]] 10パーセント、{{仮リンク|カヌリ人|en|Kanuri people}} 4パーセント、{{仮リンク|イビビオ人|en|Ibibio people}} 3.5パーセント、[[ティブ族|ティブ人]] 2.5パーセント、ほかに{{仮リンク|エド人|en|Edo people}}、{{仮リンク|エビラ人|en|Ebira people}}、{{仮リンク|ヌペ人|en|Nupe people}}、{{仮リンク|グバギ人|en|Gbagyi people}}、{{仮リンク|イツェキリ人|en|Itsekiri people}}、{{仮リンク|ジュクン人|en|Jukun people (West Africa)}}、{{仮リンク|ウルホボ人|en|Urhobo people}}、[[イガラ族|イガラ人]]、{{仮リンク|イドマ人|en|Idoma people|Idoma}}、{{仮リンク|コフィヤル人|en|Kofyar people}}、[[オゴニ]]、[[アンガス族|アンガス人]]らがいる。 民族紛争が相次いできたため現在では州が細分化されている。これにより中規模民族の発言権が増大したが、これにより3大民族によって抑えられてきた各州の主導権争いが本格化し、民族紛争は減少しないままで、少数民族には苦難が続いている。 ; 分子生物学の見地から見た民族の起源 最近の研究(Haber et al. 2019)から、[[ハプログループD (Y染色体)|ハプログループD]]のもっとも古くに分岐した系統(D2系統)が、ナイジェリア人の3サンプルから見つかった。この系統は、[[ハプログループE (Y染色体)|ハプログループE]]の持たないSNPを、D1-M174と7つ共有している。このことから、ハプログループDはアフリカですでに誕生していたと推定されている<ref name = Africa>{{Cite journal|last=Tyler-Smith|first=Chris|last2=Xue|first2=Yali|last3=Thomas|first3=Mark G.|last4=Yang|first4=Huanming|last5=Arciero|first5=Elena|last6=Asan|last7=Connell|first7=Bruce A.|last8=Jones|first8=Abigail L.|last9=Haber|first9=Marc|date=2019-06-13|title=A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa|url=https://www.genetics.org/content/early/2019/06/13/genetics.119.302368|journal=Genetics|language=en|pages=genetics.302368.2019|doi=10.1534/genetics.119.302368|issn=0016-6731|pmid=31196864}}</ref>。D2は、[[西アジア]]([[サウジアラビア]]、[[シリア]])でも見つかっている<ref name=WestAsia>{{Cite web|url=https://dna-explained.com/2019/06/21/exciting-new-y-dna-haplogroup-d-discoveries/|title=Exciting New Y DNA Haplogroup D Discoveries!|last=Estes|first=Roberta|date=2019-06-21|website=DNAeXplained - Genetic Genealogy|language=en-US|access-date=2019-07-08}}</ref>。 === 言語 === {{see|{{仮リンク|ナイジェリアの言語|en|Languages of Nigeria}}}} ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁でおもに使用される事実上の[[公用語]]は旧支配者の言語である[[英語]]であるが、議会では多数派である[[ハウサ語]]、[[ヨルバ語]]、[[イボ語]]の使用が認められている(ナイジェリア連邦共和国憲法・第55条)。[[初等教育]]では母語によって授業が行われるが、[[高等教育]]においては英語のみを使用しており、言語の面でも少数民族の権利が侵される事態となっている<ref>E・カリ「[http://www.aa.tufs.ac.jp/~tagengo/nigeria.html 多言語状況データベース ナイジェリア]」、〈アジア・アフリカの多言語状況データベース〉[[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]]</ref><ref>中村博一「[http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/kyouken/kyoukasho2006/kyoukasho.html 第13回「世界の教科書展」特集「ナイジェリアの教育と教科書」]」文教大学教育研究所</ref>。 === 婚姻 === 伝統的には結婚時に女性が改姓するが、法的にはどのような姓に改姓することも(しないことも)可能で、改姓しない[[夫婦別姓]]や複合姓も近年増えている<ref>[https://www.legit.ng/1007366-dear-nigerian-men-will-feel-wife-refuses-take-surname.html Choosing between your maiden name and your ‘marriage name’]、NAIJ.com</ref><ref>[https://www.dailytrust.com.ng/why-do-women-adopt-their-spouses-names.html Why do women adopt their spouse’s names?], Sep 7, 2018, Daily Trust.</ref>。 === 宗教 === {{see|{{仮リンク|ナイジェリアの宗教|en|Religion in Nigeria}}}} おもに北部では[[イスラーム教|イスラム教]]が、南部では[[キリスト教]]が信仰され、そのほか土着の[[アニミズム]]宗教も勢力を保っており、内訳はイスラム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nigeria/data.html 外務省]</ref>。北部は[[ムスリム]]地区である。[[スンナ派]]ムスリムが主流で、[[シーア派]]ムスリムはほとんどいなかったが、[[イラン]]がナイジェリアで支持団体を通じてシーア派と[[イスラーム革命|イスラム革命]]思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する<ref>[[NHK衛星第1テレビジョン|NHK-BS1]]「[[きょうの世界]]」[[2月10日]]放送回より</ref>。北部の[[マイドゥグリ]]は、[[イスラム過激派]]組織「[[ボコ・ハラム]]」結成の地である。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアのイスラム教|en|Islam in Nigeria}}|{{仮リンク|ナイジェリアのシャリーア|en|Sharia in Nigeria}}}} 独立後、キリスト教とイスラム教が対立する宗教間紛争が多く起こった。1982年にはカノで[[モスク]]の近くに[[大聖堂]]を建てる計画に反対して暴動が、1986年にはババンギダ軍事政権が[[イスラム諸国会議機構]]の正式メンバーになることを秘密に決定していたことが発覚し、教会やモスクの破壊が続いた。さらに、1987年のカドゥナ州の暴動では19人の死者、数千人の負傷者が出た。また1990年にはクーデター未遂が起こり、1991年にはカツィーナ、バウチで暴動、1992年カドゥナ州ザンゴン・カタフで暴動が起こった。2002年は25パーセント以上がキリスト教であるカドゥナ州で[[シャリーア]]を導入するか否かで抗争が起きた<ref>戸田真紀子『アフリカと政治』、第5章「ナイジェリアの宗教紛争」</ref>。 2010年3月には[[ベロム]]でイスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生し、500人以上が殺害された。2010年7月にかけての数か月間に同様の事件が複数起きており、地元の人権団体によると[[ジョス (ナイジェリア)|ジョス]]周辺だけで1,500人が殺害されているとされる。[[教会 (キリスト教)|教会]]の建物もその際に破壊されるケースがある<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2741480?pid=5980483 イスラム教徒らがキリスト教徒の村を襲撃、8人死亡 ナイジェリア] 2010年07月18日 10:44 [[AFPBB]]</ref>。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]は、2020年12月、世界で最も信教の自由が侵害されている国の一覧を公表した。その一覧の中で、ナイジェリアは「特に懸念のある国」に分類された。{{仮リンク|国際キリスト教人権監視機構|en|International Christian Concern}}の報告によれば、「ナイジェリアでは2000年以降、5~7万人のキリスト教徒が殺害されており、キリスト教徒にとって地球上で最も過酷な場所の一つ」としている。その後、2021年11月に、国務省が更新した国の一覧では、ナイジェリアは「特に懸念のある国」から外れた。しかし、人権団体やキリスト教団体は、ナイジェリアの状況に改善は見られないとして、アメリカの決定を批判している<ref>{{cite news |title=バイデン政権、ナイジェリアを信教の自由侵害国から除外 諸団体が相次いで非難声明 |newspaper=[[クリスチャントゥデイ]]|date=2021-11-24 |url=https://www.christiantoday.co.jp/articles/30248/20211124/biden-admin-criticized-for-removing-nigeria-from-cpc.htm | accessdate=2021-11-27 }}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアにおける宗教的暴力|en|Religious violence in Nigeria}}}} === 教育 === {{see|{{仮リンク|ナイジェリアの教育|en|Education in Nigeria}}}} 学制は[[初等教育]]6年、初期[[中等教育]]3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。[[義務教育]]は初等教育の6年間のみ。しかし、[[貧困]]などの理由で学校に通えない子供も多い。[[教育言語]]は英語である。[[就学率]]は初等教育で60 - 70パーセントと低い。 2018年の15歳以上の人口の[[識字率]]は約62パーセント(男性:71.3パーセント、女性:52.7パーセント)であると見積もられている<ref>{{Cite web|author=CIA|authorlink=中央情報局|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/nigeria/#people-and-society|title=THE WORLD FACTBOOK Nigeria>People and Society>Literacy|date=2023|accessdate=2023-07-19}}</ref>。 おもな[[高等教育]]機関としては[[ナイジェリア大学]](1955年)、[[イバダン大学]](1948年)、[[ラゴス大学]](1962年)などが挙げられる。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|ナイジェリアの保健|en|Health in Nigeria}}}} 衛生状態が宜しくない現状が続いている。ナイジェリアでは、人口の約4分の1に当たる約4600万人が[[屋外排泄]]を余儀なくされている。政府は[[2019年]]より、屋外での排便の撲滅キャンペーンを宣言し、公共の場への[[トイレ]]設置を進めている<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-23 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3256295?cx_part=top_latest |title=ナイジェリア、屋外での排便撲滅キャンペーンを開始 4600万人が屋外で排せつ |publisher=AFP |accessdate=2019-11-23}}</ref>。 ==== 医療 ==== {{see|{{仮リンク|ナイジェリアの医療|en|Healthcare in Nigeria}}}} {{節スタブ}} == 治安 == 2002年以降、ナイジェリア北東部では、世俗の統治機構を廃し[[シャリーア|シャリーア法]]の設立を目指すイスラム教の過激派組織[[ボコ・ハラム]]による暴力に見舞われている<ref name="AJAN">{{cite web|url=http://www.aljazeera.com/news/africa/2011/12/20111224124241652788.html|title=Dozens killed in Nigeria clashes|publisher=Al Jazeera|date=24 December 2011|accessdate=24 December 2011}}</ref><ref name="Olugbode">{{cite news|url=http://allafrica.com/stories/201102030036.html|title=Nigeria: We Are Responsible for Borno Killings, Says Boko Haram|work= allAfrica.com|date=2 February 2011|accessdate=31 January 2012|last=Olugbode|first=Michael|quote=The sect in posters written in Hausa and pasted across the length and breadth of Maiduguri Wednesday morning signed by the Warriors of Jamaatu Ahlis Sunna Liddaawati Wal Jihad led by Imam Abu Muhammed Abubakar Bi Muhammed a .k .a Shehu claimed they embarked on the killings in Borno "in an effort to establish Sharia system of government in the country".}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ボコ・ハラムによる反乱の時系列|en|Timeline of the Boko Haram insurgency}}}} 2013年時点で犯罪が多い順に、[[詐欺]]、[[違法薬物取引|麻薬取引]]、[[人身売買]]が挙げられる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ナイジェリア、「赤ちゃん製造工場」の実態と背景|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2970000|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-12-20|language=ja}}</ref>。詐欺が多い要因として、ナイジェリアの教育水準が比較的高く、電子機器や[[プログラミング]]などのIT教育も盛んであるが、国内にはスキルを生かせる企業が少ないため、高度な教育を受けた者の多くが雇用のミスマッチにより[[失業]]や低賃金の単純労働で働く状態にあるため、[[インターネットカフェ]]から世界中に[[スパム (メール)|スパム]]を配信する[[インターネット]][[詐欺]]([[ナイジェリアの手紙]])に手を染める事情がある。また、失業した[[若者]]が[[不法移民]]や麻薬を輸送する犯罪に関わることもある。 暴力犯罪は[[ヨハネスブルグ]]、[[ナイロビ]]などとならび評判が悪い。[[誘拐]]も犯罪ビジネスの一つとして繰り返されており、事態はかなり酷いものへと変わりつつある。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアにおける犯罪|en|Crime in Nigeria}}|{{仮リンク|ナイジェリアの組織犯罪|en|Organized crime in Nigeria}}|{{仮リンク|ナイジェリアにおける誘拐|en|Kidnapping in Nigeria}}}} 加えて、[[児童]]への[[性的虐待]]が深刻となっている。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアにおける児童の性的虐待|en|Child sexual abuse in Nigeria}}}} 2014年3月、当時の大統領[[グッドラック・ジョナサン]]は声明を発し、ボコ・ハラムの度重なる攻撃により1万2,000人が死亡、8,000人が身体に障害を負ったことを述べた<ref name="17 May 2014">{{cite web|url=http://www.premiumtimesng.com/news/160942-boko-haram-killed-12000-nigerians-plans-take-country-jonathan-says.html |title=Boko Haram has killed over 12,000 Nigerians, plans to take over country, Jonathan says – Premium Times Nigeria |publisher=Premiumtimesng.com |date=2014-05-17 |accessdate=2014-06-04}}</ref>。同時に、ベナン、チャド、カメルーン、ニジェールとナイジェリアが協働してボコ・ハラムを掃討することを明らかにしたが、これは[[ナイジェリア生徒拉致事件|女子生徒276人が拉致された事件]]が国際的な注目を集めたことと、ボコ・ハラムの攻撃がナイジェリア周辺諸国に広がったことを受けたものである<ref name="AfricaUnited">{{cite news|title=Boko Haram to be fought on all sides|url=http://www.nigeriannews.net/index.php/sid/222083321/scat/8db1f72cde37faf3/ht/Boko-Haram-to-be-fought-on-all-sides|accessdate=18 May 2014|publisher=''Nigerian News.Net''}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアにおける虐殺の一覧|en|List of massacres in Nigeria}}}} アフリカにおける[[汚職]]が続く国家の一つに数えられるほど、[[不正]]行為が全域に蔓延している状態となっている。 {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアにおける汚職|en|Corruption in Nigeria}}}} === 警察 === {{main|{{仮リンク|ナイジェリア警察|en|Nigeria Police Force}}}} ナイジェリアでは行政機関のみならず、[[警察]]の腐敗も深刻である。国内各地に設けられている検問所では、警官が[[職権]]を濫用して[[賄賂]]を巻き上げることが常態化し、要求が認められない場合は市民へ危害を加えることも珍しくない<ref>[https://www.hrw.org/ja/news/2010/08/17/240448 「ナイジェリア:警察の汚職で人権侵害が拡大 ナイジェリア政府は恐喝、横領などの人権侵害を封じ込めるため、行動を」] ヒューマンライツウォッチ 2010年8月17日 2021年3月9日閲覧</ref>。 抗議の声の高まりを受けて2020年10月、政府は特に綱紀の弛緩が指摘されていた警察の特別強盗対策部隊の解散を発表した<ref>[https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/10/a2624848f87f411b.html 「警察の特別強盗対策部隊の解散発表するも、抗議活動が激化、市民生活にも影響」](ナイジェリア)JETRO 2020年10月15日 2021年3月9日閲覧</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ナイジェリアにおける人権|en|Human rights in Nigeria}}}} {{節スタブ}} 人身売買が常態化している。[[中絶]]が違法であることや不妊に悩む夫婦の需要などから、望まない[[妊娠]]をした女性が出産した[[新生児]]を売却する犯罪ビジネスがある為で、これが人身売買に拍車を掛けてしまっている<ref name=":0" />。 {{see also|{{仮リンク|ナイジェリアにおける人身売買|en|Human trafficking in Nigeria}}}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|ナイジェリアのメディア|en|Mass media in Nigeria}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ナイジェリアの通信|en|Telecommunications in Nigeria}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ナイジェリアの文化|en|Culture of Nigeria}}}} === 食文化 === {{Main|{{仮リンク|ナイジェリア料理|en|Nigerian cuisine}}}} ナイジェリアの料理は、同国を構成する何百もの民族集団の{{仮リンク|伝統料理|en|Traditional food}}(または伝統食品)で形成されている面を持っている。 {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|ナイジェリア文学|アフリカ文学}} [[ファイル:Soyinka, Wole (1934).jpg|thumb|180px|[[ノーベル文学賞]]の[[作家]]、[[ウォーレ・ショインカ]]]] ナイジェリアは[[南アフリカ共和国]]と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である{{sfn|『ハンドブック現代アフリカ』|loc=砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」}}。 [[文字]]による文学は、最初期のものとして、奴隷となった[[イボ人]]{{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}が英語で書いた『[[アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語]]』(1789年)が挙げられ、イクイアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている<ref name=kobayashi2002>{{harvnb|『ハンドブック現代アフリカ』|loc=小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」}}</ref>。『[[死と王の先導者]]』で知られる[[ヨルバ人]]の[[ウォーレ・ショインカ]]は、アフリカ初の[[ノーベル文学賞]](1986年受賞)受賞作家となった。ヨルバ人の[[エイモス・チュツオーラ]]は、『{{仮リンク|やし酒飲み (小説)|en|The Palm-Wine Drinkard|label=やし酒飲み}}』で知られる。 現代の代表的な作家としては、40か国語以上に翻訳された『{{仮リンク|崩れゆく絆 (小説)|en|Things Fall Apart|label=崩れゆく絆}}』(1958年)<ref name=kobayashi2002/>の[[イボ人]]の[[チヌア・アチェベ]]、[[ビアフラ戦争]]をテーマとした『{{仮リンク|半分のぼった黄色い太陽|en|Half of a Yellow Sun}}』の[[イボ人]]の[[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]]が知られている。その他にも、[[ケン・サロ=ウィワ]]や{{仮リンク|フェスタス・イヤイ|en|Festus Iyayi}}などの名が挙げられる。 === 音楽 === {{Main|[[ナイジェリアの音楽]]}} [[クラシック音楽]]においては、植民地時代から独立後にかけて活躍した[[フェラ・ソワンデ]]の名が特筆される。さらに19世紀に西アフリカより[[ラゴス]]に伝わった「{{仮リンク|パームワイン音楽|en|Palm-wine music}}」は、1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「{{仮リンク|ジュジュ音楽|en|Jùjú music|label=ジュジュ}}」が成立、音楽は発展を続け、1980年代に[[キング・サニー・アデ]]により隆盛期を迎えた。 また、[[イスラム文化]]の影響を受けた[[ヨルバ人]]の{{仮リンク|サカラドラム|en|Sakara drum}}により、20世紀初めごろに「{{仮リンク|サカラ音楽|en|Sakara music|label=サカラ}}」が成立、1940年代に流行。対抗するように[[トーキングドラム]](ドゥンドゥン)のアンサンブルによる「{{仮リンク|アパラ|en|Apala}}」も発生した。[[ラマダーン]]の時期に目覚ましとして使われていた音楽は「{{仮リンク|ウェレ音楽|en|Were music|label=ウェレ}}({{仮リンク|アジサーリ|en|Ajisari}})」へと発展し、1960年代には{{仮リンク|シキル・アインデ・バリスター|yo|Sikiru Ayinde Barrister|es|Alhaji Sikiru Ayinde Barrister}}により「{{仮リンク|フジ音楽|en|Fuji music|label=フジ}}」が生まれた(フジの名称は日本の[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]に由来している)。 1950年代に[[ガーナ]]より伝わった「[[ハイライフ]]」や、[[アメリカ合衆国]]のジェームス・ブラウンらの[[ファンク]]などの影響を受けた「[[アフロ・ビート]]」は、1960年代後半に[[フェラ・クティ]]らにより生まれた。アフロビートはフェラの死後も、[[フェミ・クティ]]や[[シェウン・クティ]]らに引き継がれている。 === 映画 === {{Main|{{仮リンク|ナイジェリアの映画|en|Cinema of Nigeria}}}} ビデオ機材の大衆的普及により1990年代からビデオ文化が盛んになり、2010年ころにはビデオ映画の年間製作数は2,400本を数え、[[インド]]に続き世界2位である<ref name="nakamura">{{Cite journal|和書|author=中村博一 |date=2011-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1351/00000909/ |title=忍者表象のグローカリゼーション : ナリウッドにおけるソッコト忍者 |journal=言語と文化 |ISSN=0914-7977 |publisher=文教大学大学院言語文化研究科付属言語文化研究所 |volume=23 |pages=256-271 |CRID=1050001338025192832}}</ref>。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されていることから、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界1位である。ナイジェリア全土で作られる映画は「[[ノリウッド]]」とも総称され、ナイジェリアの3大言語であるヨルバ語、ハウサ語、イボ語、そして英語で作られている<ref name=nakamura/>。製作される映画は英語のものと現地語のものがほぼ半分ずつと言われている。 {{See also|アフリカ映画|ノリウッド}} === 世界遺産 === {{Main|ナイジェリアの世界遺産}} ナイジェリア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件存在する。 <gallery> ファイル:Sukur2.jpg|[[スクルの文化的景観]] - (1999年、文化遺産) ファイル:Templo Osun5.jpg|[[オシュン=オショグボの聖なる木立]] - (2005年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|ナイジェリアの祝日}} {| class="wikitable" ! 日付 !! 祝日 !! 内容 |- | 1月1日 || [[元日]] || |- | 3月8日 || [[国際女性デー|女性の日]] || |- | 5月1日 || [[メーデー#祝日|労働者の日]]|| |- | 5月27日 || [[子供の日]] || |- | 5月29日 || {{仮リンク|民主の日 (ナイジェリア)|en|Democracy Day (Nigeria)|label=民主の日}} || 1999年、[[オルシェグン・オバサンジョ]]の大統領就任により[[民主主義]]がナイジェリアで再び施行されることを記念する。 |- | 10月1日 || [[独立記念日]] || イギリスからの独立を記念する。 |- | 12月25日 || [[クリスマス]] || |- | 12月26日 || [[ボクシング・デー]] || |} ※この他には、イスラム教における移動祝日が存在している。 == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ナイジェリアのスポーツ|en|Sport in Nigeria}}}} {{See also|オリンピックのナイジェリア選手団}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|ナイジェリアのサッカー|en|Football in Nigeria}}}} ナイジェリア国内でも他の[[アフリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1972年]]にサッカーリーグの[[ナイジェリア・プロフェッショナル・フットボールリーグ|ナイジェリア・プレミアリーグ]]が創設された。[[ナイジェリアサッカー協会]](NFF)によって構成される[[サッカーナイジェリア代表]]は、アフリカ屈指の強豪国として世界中に知られており、「'''スーパーイーグルス''' (Super Eagles)」の愛称で国民からも絶大な支持を集めている。 [[FIFAワールドカップ]]には[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]で初出場して以降、これまでに6度の出場経験をもつ。[[アフリカネイションズカップ]]では[[アフリカネイションズカップ1980|1980年大会]]、[[アフリカネイションズカップ1994|1994年大会]]、[[アフリカネイションズカップ2013|2013年大会]]と3度の優勝を飾っており、[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]でも[[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|1996年アトランタ大会]]にて、悲願の[[金メダル]]を獲得している。 ナイジェリアには、世界的に著名な[[プロサッカー選手|サッカー選手]]も数多く存在している。[[1990年代]]には[[オーガスティン・オコチャ|ジェイ=ジェイ・オコチャ]]や[[ヌワンコ・カヌ]]、[[2000年代]]には[[オバフェミ・マルティンス]]、[[2010年代]]には[[アーメド・ムサ]]、そして[[2020年]]以降は[[ヴィクター・オシムヘン]]が知られる。いずれの選手もアフリカ特有の身体能力と、爆発的なスピードを武器にしている。 == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|ナイジェリア人の一覧|en|List of Nigerians}}}} <!-- [[{人名}]] - [[{職業}]]のように記載して下さい。なお著名な人物に限ります。むやみにリストを増やさないこと --> {{colbegin|2}} * [[ハウワ・イブラヒム]] - [[弁護士]]([[サハロフ賞]]受賞) * [[イブラヒム・アッボーラ・ガンバリ]] - [[国際連合事務次長]] * [[ンゴジ・オコンジョ・イウェアラ]] - [[世界貿易機関]]事務局長 * [[フェラ・クティ]] - [[ミュージシャン]]、[[アフリカ系アメリカ人公民権運動|黒人解放運動家]] * [[キザイア・ジョーンズ]] - [[シンガーソングライター]]兼[[ギタリスト]] * [[シャーデー・アデュ]] - シンガーソングライター * [[オーガスティン・オコチャ|ジェイ=ジェイ・オコチャ]] - 元[[プロサッカー選手|サッカー選手]] * [[ヌワンコ・カヌ]] - 元サッカー選手 * [[オバフェミ・マルティンス]] - 元サッカー選手 * [[アーメド・ムサ]] - サッカー選手 * [[ヴィクター・オシムヘン]] - サッカー選手 * [[アキーム・オラジュワン]] - 元[[バスケットボール]]選手 * [[ホーガン・バッセイ]] - 元[[プロボクサー]] * [[ディック・タイガー]] - 元プロボクサー * [[サミュエル・ピーター]] - 元プロボクサー * [[イスラエル・アデサンヤ]] - [[総合格闘家]]([[UFC]]・現[[ミドル級]]王者) * [[カマル・ウスマン]] - 総合格闘家(UFC・元[[ウェルター級]]王者) {{colend}} <!-- 在日ナイジェリア人はリストに含めないこと。削除します --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === --> {{Reflist|2|refs= <ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=694&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr1.x=44&pr1.y=12|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-12}}</ref> }} == 参考文献 == 執筆者名順 * {{Cite book|和書|others=[[岡倉登志]] (編)|title=ハンドブック現代アフリカ|publisher=[[明石書店]]|date= 2002-12|isbn=4750316547|ncid=BA60148499 |ref={{harvid|『ハンドブック現代アフリカ』}}}} * {{cite journal|first1=Andrew F. |last1=Cooper|first2= Agata |last2=Antkiewicz |first3= Timothy M. |last3=Shaw |title=Lessons from/for BRICSAM about South-North Relations at the Start of the 21st Century: Economic Size Trumps All Else? |journal=International Studies Review|volume= 9|number= 4 |date=2007-12-01|issn= 1521-9488|language=en|oclc= 7831301450}} * {{Cite book|和書|author=戸田真紀子|title=アフリカと政治 : 紛争と貧困とジェンダー|publisher=[[御茶の水書房]]|year=2008|ncid= BA87239529|isbn= 9784275005892}} * {{Cite book|和書|牧英夫|title=世界地名ルーツ辞典 : 歴史があり物語がある |publisher=創拓社|date=1989-12|ncid= BN04237765|isbn=4871380769}} * {{Cite book|和書|title=アフリカ 動き出す9億人市場|author=ヴィジャイ・マハジャン (Mahajan, Vijay)|authorlink=:en:Vijay Mahajan (academic)|others= 松本裕 (訳)|publisher=[[英治出版]]|date=2009年7月20日|isbn= 978-4-86276-053-1|id={{全国書誌番号|21631531}}}} 原題『Africa rising』 * {{Cite book|和書|author=松本仁一|authorlink=松本仁一|title=カラシニコフ|volume=I|publisher=[[朝日新聞出版]]|date=2008年7月30日|ncid= BA86746634|isbn= 9784022615749}} * {{cite journal|first1=Meltem |last1=Müftüler |first2= Müberra |last2= Yüksel |title=Turkey: A Middle Power in the New Order|journal=Niche Diplomacy: Middle Powers After the Cold War|others= Andrew F. Cooper (ed)|location= London|publisher= [[マクミラン]]|year= 1997|isbn=978-1-349-25904-5|oclc=6685155821|doi=10.1007/978-1-349-25902-1_10|website=[[スプリンガー]]}} * {{Cite book|和書|title=新書アフリカ史|edition=8|others=[[宮本正興]]・[[松田素二]] (編)|date=2003年2月20日|series=[[講談社現代新書]]|ncid=BA3133791X|isbn=4061493663}} * {{Cite book|和書|title=[[アフリカ 苦悩する大陸]]|author=ロバート・ゲスト|others= 伊藤真 (訳) |date=2008年5月15日|publisher=[[東洋経済新報社]]|ncid= BA85746242|isbn= 9784492211779}} == 関連項目 == * [[ナイジェリア関係記事の一覧]] * {{仮リンク|キスラー伝説|en|Kisra legend}} - ナイジェリアとベナンとカメルーンの3ヶ国において共有されている[[伝説]]の一つで、移民に関連する内容のものとして知られている。 * [[バティーン王]] * [[バカシ半島領有権問題]] * [[ナイジェリアの手紙]] * [[ポング語]] * [[ニジェール・デルタ解放運動]] * [[国務会議 (ナイジェリア)]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Nigeria|Nigeria}} {{wikivoyage|en:Nigeria|ナイジェリア{{en icon}}}} ; 政府 * [http://www.nigeria.gov.ng/ ナイジェリア連邦共和国政府] {{en icon}} * [http://www.nigeriaembassy.jp/ 在日ナイジェリア大使館] {{ja icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nigeria/ 日本外務省 - ナイジェリア] {{ja icon}} ; 観光その他 *[https://www.excelman.com/ja/galerie/afrique/nigeria/nigeria.html ナイジェリア:ラゴス,ノリウッド,マココ,ファッション,等:コーディネーターのロケ現場からの写真] * [http://www.nigeriatourism.net/ ナイジェリア政府観光局] {{en icon}} * [https://www.jetro.go.jp/world/africa/ng/ JETRO - ナイジェリア] * {{Kotobank}} * {{Wikiatlas|Nigeria}} {{en icon}} * {{OSM relation|192787}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{OIC}} {{OPEC}} {{Normdaten}} {{coord|6|27|N|3|23|E|display=title}} {{DEFAULTSORT:ないしえりあ}} [[Category:ナイジェリア|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
2003-03-24T15:03:08Z
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華氏
カ氏度、華氏度(かしど、英語: degree Fahrenheit、記号: °F)は、数種ある温度のうちのひとつであり、1度の温度間隔がケルビンの1.8分の1(9分の5) である。真水の凝固点を32 カ氏温度、沸点を212 カ氏温度とし、その間を180等分して1 カ氏度としたものである。 ドイツの物理学者ガブリエル・ファーレンハイトが1724年に提唱した。 カ氏度は他の温度と同様「度」の単位がつけられ、他の温度による値と区別するためにファーレンハイトの頭文字を取って“°F”と書き表される。 「32 °F」は日本語では「華氏32度」、「32 カ氏度」、英語では“32 degrees Fahrenheit”または“32 °F”と表現される。 考案者のガブリエル・ファーレンハイトにちなむ。ファーレンハイト度、華氏度(かしど)ともいう。華氏の語源は、ファーレンハイトの中国音訳「華倫海特」(ファルンハイトゥ、繁体字: 華倫海特; 簡体字: 华伦海特; 拼音: Huálúnhǎitè)から「華」+人名に付ける接尾辞「氏」で、「華氏」「温度」になった。 「セルシウス度(degree Celsius)」と「セルシウス温度(Celsius temperature)」が異なる概念であるのと同様に、「カ氏度(degree Fahrenheit)」と「カ氏温度(Fahrenheit temperature)」とは異なる概念である。すなわち、計量単位令の別表第7 項番3が定義しているように、カ氏度は温度間隔を指し、カ氏温度はカ氏度で表される温度を指す。しかし一般にはこの違いは意識されず混同されることが多い。 日本の計量法では、ヤード・ポンド法の一つとして、例外的に限定した取引又は証明(ヤード・ポンド法#日本における使用を参照)に用いる場合にあっては「当分の間、法定計量単位とみなす。」こととされている(計量法附則第5条第2項)。 その計量単位は「カ氏度」と定められている。したがって、計量法上は、「ファーレンハイト度」や「華氏度」を使用することは禁止されている(詳細は、セルシウス度#用法を参照)。 カ氏度とカ氏温度の定義は次の通りである。計量法上は、カ氏度・カ氏温度は、セルシウス度・セルシウス温度から定義されているのではなく、SI基本単位であるケルビンとケルビンで表した熱力学温度の値によって直接に定義されている。 カ氏温度の定義:カ氏度で表される温度 カ氏温度の値の定義:ケルビンで表した熱力学温度の値の1.8倍から459.67を減じたもの カ氏度は温度間隔であるから、単に「ケルビンの1.8分の1」と定義される。これに対して、カ氏温度は、温度の高さであるから、「熱力学温度の値の1.8倍 - 459.67」とやや複雑である。 なお、上記の定義中の数値、459.67 = 273.15 × 1.8 - 32 の関係がある。 セルシウス温度をカ氏温度で表すと「セルシウス温度の値の1.8倍に32を加えたもの」となる。 カ氏度の単位記号は、「°F」である。国際単位系国際文書では、数値と単位記号の間には1字分の空白を挿入すること(セルシウス温度の表記も同じ)になっており(国際単位系#量の値の形式)、カ氏度の表記においても数値と「°F」の間に1字分の空白を挿入する。 カ氏度による温度目盛では水の融点を32 °F、沸点を212 °Fとする。水の氷点と沸点の間は180度に分割される。カ氏温度Fは、ケルビンKやセルシウス度Cと以下の関係にある。 計量法では、一番上の式によって、ケルビンからカ氏温度が定義されている。 カ氏温度とセルシウス温度との間の変換において、おおよそ「61 °F → 16 °C」「82 °F → 28 °C」の関係(一の位と十の位の交換)がある。これは、温帯における気温の範囲にあり、大雑把な変換の目安としてしばしば用いられる。 セルシウス温度にケルビンが対応するのと同様、絶対零度を0としてカ氏温度に相当する目盛りを振ったランキン度がある。 ファーレンハイトがこの温度目盛を作った時の話には、いくつかの説がある。 日本では1と2を合わせたものがよく知られているがアメリカでは3、欧州では4が有名である。 ファーレンハイトの計測は完全に正確ではなかった。彼が作ったオリジナルの目盛によって計った水の氷点・沸点は32度・212度とは異なっていた。彼の死後、その値が32度・212度となるように調整された。その結果、人の体温は96度ではなく98.6度となった。 1960年代まで、多くの英語圏の国で、カ氏度(およびカ氏温度)は気候・産業・医療における温度の基準となっていた。1960年代後半から1970年代にかけて、メートル法への切り換えの一環としてセルシウス度(およびセルシウス温度)の導入が政府によって行われた。しかし切り換えのための努力にもかかわらず、現在でも一部の英語圏の国では非科学分野での温度計測にカ氏度が使用されている。アイザック・アシモフは、西欧の通常の気温が0 °Fから100 °Fの範囲に収まるのに対し、セルシウス温度ではとくに異常がなくても気温がマイナスの数字になりうることを指摘している。 カ氏度の支持者は、これはカ氏度が利用者にとって親しみやすいからだと主張している。地球上の居住可能地域の大部分で気温変化は0 °F (−17.8 °C) から100 °F (37.8 °C) の範囲に収まる。 またカ氏温度での人間の平熱が98.6 °F (37.0 °C) であることはよく知られていて、体温が100 °F (37.8 °C) 以上になると治療が必要とされるなど、カ氏度(およびカ氏温度)は生活感覚に直結した温度目盛であると主張している。 別の例では、カ氏度は人間の温度感覚に適合しているとも考えられる。例えば、日本産のカーエアコンの設定温度は日本仕様ではセルシウス温度で0.5 °C刻みが多いが、同じ機種でもアメリカ仕様は1 °F刻みで小数を使わない。 アメリカ合衆国・ジャマイカではメートル法への置き換えが生産者側・消費者側の両方で大きな抵抗に遭っているため、カ氏度は様々な分野で広く使われ続けている。同様にイギリスの一部では低い温度はセルシウス温度で表されるが、日常的に使われる温度はカ氏温度で測定されている。 カナダの天気予報や報道機関は全てセルシウス度を使い、日常でもセルシウス度が使われているが、カナダのキッチンオーブンや一部のエアコンは、カ氏度で利用されることがある。これは、アメリカ向けの家電製品を使う機会が多いため、カ氏度が初期設定としてセットされているためである。最近は、アナログ表示が減り、デジタル表示の製品が増え、簡単にカ氏温度とセルシウス温度との切り替えが可能になっているため、カ氏温度のみを表示する製品は減少している。 ニュージーランドやオーストラリアでは完全にセルシウス度(およびセルシウス温度)への移行が完了している。 平賀源内が1765年に作った温度計「日本創製寒熱昇降器」には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた。 Unicodeのカ氏度の記号(文字様記号)は、既存の文字コードとの互換性のために用意されている互換文字である。Unicode標準では、カ氏度の記号はU+00B0 ° degree sign(度)とU+0046 F capital letter f(大文字のF)を組み合わせて使用し、検索の際はこれと一文字のU+2109 °F degree fahrenheitを同一視することを推奨している。
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カ氏度、華氏度は、数種ある温度のうちのひとつであり、1度の温度間隔がケルビンの1.8分の1(9分の5) である。真水の凝固点を32 カ氏温度、沸点を212 カ氏温度とし、その間を180等分して1 カ氏度としたものである。
{{Otheruseslist|温度|これを提唱した人物|ガブリエル・ファーレンハイト|「華」姓の人物や家系|華 (姓)}} {{特殊文字}} {{単位 |名称=カ氏度(ファーレンハイト度、華氏度) |フランス語={{Lang|fr|degré Fahrenheit}} |英語={{Lang|en|degree Fahrenheit}} |記号={{°F}} |単位系= [[ヤード・ポンド法]] |種類= |物理量=[[温度]](温度間隔) |定義=[[ケルビン]]の1/1.8 |由来=[[水]]の[[凝固点]]を32度、[[沸点]]を212度とする温度目盛り }} {{単位 |名称=カ氏'''温度'''(ファーレンハイト温度、華氏温度) |フランス語={{Lang|fr|Fahrenheit température }} |英語={{Lang|en|Fahrenheit temperature}} |記号={{°F}} |単位系= [[ヤード・ポンド法]] |種類= |物理量=[[温度]](カ氏度で表される温度) |定義=[[ケルビン]]で表した[[熱力学温度]]の値の1.8倍から459.67を減じたもの |由来=[[水]]の[[凝固点]]を32度、[[沸点]]を212度とする温度 |語源=[[ガブリエル・ファーレンハイト]] |画像=[[ファイル:Barthermometer Fahrenheit+Celsius.jpg|300px|カ氏度目盛り付きの棒温度計]] }} [[File:Countries that use Fahrenheit.svg|thumb|350px|{{legend|#339933|カ氏度を使用する国}} {{legend|#66cc99|カ氏度・セルシウス度の両方を使用する国}} {{legend|#cccccc|セルシウス度を使用する国}}]] '''カ氏度'''、'''華氏度'''(かしど、{{Lang-en|degree Fahrenheit}}、記号: '''{{°F}}''')は、数種ある[[温度]]のうちのひとつであり、1度の温度間隔が[[ケルビン]]の1.8分の1(9分の5) である。[[真水]]の[[凝固点]]を32 カ氏温度、[[沸点]]を212 カ氏温度とし、その間を180等分して1 カ氏度としたものである。 ==概要== [[ドイツ]]の物理学者[[ガブリエル・ファーレンハイト]]が[[1724年]]に提唱した。 カ氏度は他の温度と同様「[[度 (温度)|度]]」の単位がつけられ、他の温度による値と区別するためにファーレンハイトの頭文字を取って“&deg;F”と書き表される。 「32 &deg;F」は日本語では「華氏32度」、「32 カ氏度」、英語では“32 degrees Fahrenheit”または“32 &deg;F”と表現される。 == 語源 == 考案者の[[ガブリエル・ファーレンハイト]]にちなむ。ファーレンハイト度、華氏度(かしど)ともいう。華氏の語源は、ファーレンハイトの中国音訳「華倫海特」(ファルンハイトゥ、{{Lang-zh|t=華倫海特|s=华伦海特|hp=Huálúnhǎitè|first=t}})から「'''華'''」+人名に付ける接尾辞「'''氏'''」で、「'''華氏'''」「'''温度'''」になった。 == カ氏度とカ氏温度 == 「[[セルシウス度]](degree Celsius)」と「セルシウス温度(Celsius temperature)」が異なる概念であるのと同様に、「カ氏度(degree Fahrenheit)」と「カ氏温度(Fahrenheit temperature)」とは異なる概念である。すなわち、計量単位令の別表第7 項番3が定義しているように、カ氏度は'''温度間隔'''を指し、カ氏温度はカ氏度で表される'''温度'''を指す。しかし一般にはこの違いは意識されず混同されることが多い。 == 計量法における位置づけ == 日本の[[計量法]]では、[[ヤード・ポンド法]]の一つとして、例外的に限定した取引又は証明([[ヤード・ポンド法#日本における使用]]を参照)に用いる場合にあっては「当分の間、法定[[計量単位]]とみなす。」こととされている(計量法附則第5条第2項)。 その計量単位は「カ氏度」と定められている<ref name="名前なし-pa_p-1">[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第7、項番3、温度の欄</ref>。したがって、計量法上は、「ファーレンハイト度」や「華氏度」を使用することは禁止されている(詳細は、[[セルシウス度#用法]]を参照)。 カ氏度とカ氏温度の定義は次の通りである<ref name="名前なし-pa_p-1"/>。[[計量法]]上は、カ氏度・カ氏温度は、[[セルシウス度]]・セルシウス温度から定義されているのではなく、[[SI基本単位]]である[[ケルビン]]とケルビンで表した[[熱力学温度]]の値によって直接に定義されている。 {{Quotation|カ氏度の定義:ケルビンの1.8分の1 カ氏温度の定義:カ氏度で表される温度 カ氏温度の値の定義:ケルビンで表した熱力学温度の値の1.8倍から459.67を減じたもの }} カ氏'''度'''は温度間隔であるから、単に「ケルビンの1.8分の1」と定義される。これに対して、カ氏'''温度'''は、温度の高さであるから、「熱力学温度の値の1.8倍 - 459.67」とやや複雑である。 なお、上記の定義中の数値、459.67 = 273.15 × 1.8 - 32 の関係がある。 セルシウス'''温度'''をカ氏温度で表すと「セルシウス温度の値の1.8倍に32を加えたもの」となる。 カ氏度の単位[[記号]]は、「{{°F}}」である<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#32] 計量単位規則 別表第6 「温度」の欄</ref>。[[国際単位系国際文書]]では、数値と単位記号の間には1字分の空白を挿入すること(セルシウス温度の表記も同じ)になっており([[国際単位系#量の値の形式]])、カ氏度の表記においても数値と「{{°F}}」の間に1字分の空白を挿入する。 == 他の単位との換算 == {{temperature}} カ氏度による温度目盛では[[水]]の[[融点]]を32 &deg;F、[[沸点]]を212 &deg;Fとする。水の氷点と沸点の間は180度に分割される。カ氏温度''F''は、ケルビン'''K'''や[[セルシウス度]]''C''と以下の関係にある。 : <math>F = \frac{9}{5}K - 459.67</math> : <math>F = \frac{9}{5}C + 32</math> : <math>C = \frac{5}{9}(F - 32)</math> 計量法では、一番上の式によって、ケルビンからカ氏温度が定義されている<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357#38] 計量単位令 別表7 項番3</ref>。 {| |+カ氏温度⇔セルシウス温度 早見表 |style="vertical-align:top"| {| class="wikitable" style="text-align:right" !&deg;F!!&deg;C |- |−40.0||−40.0 |- |−30.0||−34.4 |- |−22.0||−30.0 |- |−20.0||−28.9 |- |−10.0||−23.3 |- |−4.0||−20.0 |- |0.0||−17.8 |- |10.0||−12.2 |- |14.0||−10.0 |- |20.0||−6.7 |- |30.0||−1.1 |- |32.0|| 0.0 |- |40.0||4.4 |- |50.0||10.0 |} |style="vertical-align:top"| {| class="wikitable" style="text-align:right" !&deg;F!!&deg;C |- |50.0||10.0 |- |60.0||15.6 |- |68.0||20.0 |- |70.0||21.1 |- |80.0||26.7 |- |86.0||30.0 |- |90.0||32.2 |- |100.0||37.8 |- |104.0||40.0 |- |110.0||43.3 |- |120.0||48.9 |- |122.0||50.0 |- |130.0||54.4 |- |140.0||60.0 |} |style="vertical-align:top"| {| class="wikitable" style="text-align:right" !&deg;F!!&deg;C |- |140.0||60.0 |- |150.0||65.6 |- |158.0||70.0 |- |160.0||71.1 |- |170.0||76.7 |- |176.0||80.0 |- |180.0||82.2 |- |190.0||87.8 |- |194.0||90.0 |- |200.0||93.3 |- |210.0||98.9 |- |212.0||100.0 |- |220.0||104.4 |- |230.0||110.0 |} |} カ氏温度とセルシウス温度との間の変換において、おおよそ「61 &deg;F → 16 &deg;C」「82 &deg;F → 28 &deg;C」の関係(一の位と十の位の交換)がある。これは、温帯における気温の範囲にあり、大雑把な変換の目安としてしばしば用いられる。 セルシウス温度に[[ケルビン]]が対応するのと同様、[[絶対零度]]を0としてカ氏温度に相当する目盛りを振った[[ランキン度]]がある。 == 歴史 == === ファーレンハイトによる考案 === ファーレンハイトがこの温度目盛を作った時の話には、いくつかの説がある。 # ファーレンハイトは最初、彼が測ることのできた最も低い室外の温度を0度、彼自身の[[体温]]を100度としようとしたと述べている。彼は[[1708年]]か[[1709年]]の冬の大変寒い日に、[[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]郊外の彼の自宅において「0度」を計測した(これは−17.8 {{℃}}である)。後に同じ温度を[[氷]]・[[塩化アンモニウム]]・[[水]]を混ぜることで実験室環境で作り出している。当時使われていた[[レーマー度|レーマー温度]]目盛では、日常的に使われる温度にマイナスの値が出てきてしまっていて不便であったので、彼はこれを避けたかった。彼の体温(彼は37.8 {{℃}}と計測したが、正確には37 {{℃}}であった)を「100度」と固定した。この元の目盛を12等分し、さらに8等分して96度の目盛を作った。これにより水の氷点が32度、沸点が212度になりその間が正確に180度に区切られることになる。 # 「0度」を同量の氷・塩の混合物([[寒剤]])によって得られる温度(この温度が人類が作り出せる最も低い温度であるとファーレンハイトが思っていたともいう)としたとしている。そして血液の温度を96度とした(彼が温度目盛を調整するときは馬の血液を使った)。当初は12等分しかしていなかったが、後にそれぞれを8等分して96度とした。彼はこの目盛によって純水が32度で凍り、212度で沸騰することを観測した(それまでは、物質が凍ったり沸騰したりする温度は一定であるとは思われていなかった)。 # レーマー温度目盛で水が凍る温度が7.5度、沸騰する温度が60度であることから小数をなくしスケールを大きくするためにそれぞれを4倍して30と240にしたというものである。それから、水の氷点と人の体温(彼はこれを96度とした)の間が、64度となるように再調整した(2の6乗=64になるのが理由)。その結果、水の氷点は32度になった。 # 温度の基準となっているのは、氷枕の温度と、人間の体温と、羊の直腸温度である。人間の肌で感じる温度感覚を基準にすれば万人の目安となる温度の定義ができると彼は考えた。最初は氷枕を0度、人の体温を時計と同じように12等分して12度、羊の直腸温度を12. 5度として12等分した人の体温のさらに半分の温度までの精密な測定基準としてみるよう提案した。しかし、学術上は100に近い数字のほうがより精密な測定が可能であるので、これらを8倍して華氏温度に定めた。人間の体温である96度は1から9までの整数のうち7と9以外で割り切ることができることから、計算に便利であること。もともとは96ではなく12であったが100に近い整数のほうが学術上便利であるから、12を8倍して96とした。華氏100度は風邪で発熱したときの人間の体温であるが、その温度は体温の高い動物と知られる[[羊]]の肛門の温度と同じ温度である。ヨーロッパの昔からの言い伝えで「人は、風邪をひくと羊さんになる」と言われている。これは、悪寒があると厚着をして羊のような外見になるし、発熱のため体温も上昇して羊の体温と一緒になるからである。華氏0度はファーレンハイトが風邪をひいたとき、彼の母親が氷枕を作ったその氷枕の温度である。 日本では1と2を合わせたものがよく知られているがアメリカでは3、欧州では4が有名である。 ファーレンハイトの計測は完全に正確ではなかった。彼が作ったオリジナルの目盛によって計った水の氷点・沸点は32度・212度とは異なっていた。彼の死後、その値が32度・212度となるように調整された。その結果、人の体温は96度ではなく98.6度となった。 === 英語圏での歴史 === [[1960年代]]まで、多くの英語圏の国で、カ氏度(およびカ氏温度)は気候・産業・医療における温度の基準となっていた。1960年代後半から[[1970年代]]にかけて、[[メートル法]]への切り換えの一環としてセルシウス度(およびセルシウス温度)の導入が政府によって行われた。しかし切り換えのための努力にもかかわらず、現在でも一部の英語圏の国では非科学分野での温度計測にカ氏度が使用されている。[[アイザック・アシモフ]]は、西欧の通常の気温が0 °Fから100 °Fの範囲に収まるのに対し、セルシウス温度ではとくに異常がなくても気温がマイナスの数字になりうることを指摘している<ref>{{Cite book|和書 |author = アイザック・アシモフ |authorlink = アイザック・アシモフ |translator = 小尾信彌、山高昭 |title = 空想自然科学入門 |origyear = 1963 |year = 1978 |publisher = 早川書房 |series = ハヤカワ文庫 |isbn = 4-15-050021-5 |pages = 219-227 |chapter = 12 上はどこまで高いか }}</ref>。 <!-- ここから 要出典 --> カ氏度の支持者は、これはカ氏度が利用者にとって親しみやすいからだと主張している。地球上の居住可能地域の大部分で気温変化は0 {{°F}} (&minus;17.8 &deg;C) から100 {{°F}} (37.8 &deg;C) の範囲に収まる。 * 〜20 &deg;F (〜&minus;6.7 &deg;C) - 厚い霜が降りる。即座に凍え死ぬ寒さ。 * 20 &deg;F〜 (&minus;6.7 &deg;C〜) - 薄い霜が降りる。 * 30 &deg;F〜 (&minus;1.1 &deg;C〜) - 寒い。氷点に近い。極寒。 * 40 &deg;F〜 (4.4 &deg;C〜) - 寒い。厚い衣服が必要。 * 50 &deg;F〜 (10.0 &deg;C〜) - 涼しい。適度な厚さの衣服で十分。運動には適温。 * 60 &deg;F〜 (15.6 &deg;C〜) - 暖かい。薄手の衣服が必要。 * 70 &deg;F〜 (21.1 &deg;C〜) - 適度に暑い。夏服が必要。 * 80 &deg;F〜 (26.7 &deg;C〜) - 暑いが耐えられる。少なめの衣服。猛烈な暑気。 * 90 &deg;F〜 (32.2 &deg;C〜) - とても暑い。過熱に対する予防措置が必要。 * 100 &deg;F〜 (37.8 &deg;C〜) - 危険なほど暑い。生存には危険な酷暑。 またカ氏温度での人間の平熱が98.6 &deg;F (37.0 &deg;C) であることはよく知られていて、体温が100 &deg;F (37.8 &deg;C) 以上になると治療が必要とされるなど、カ氏度(およびカ氏温度)は生活感覚に直結した温度目盛であると主張している。 別の例では、カ氏度は人間の温度感覚に適合しているとも考えられる。例えば、日本産の[[カーエアコン]]の設定温度は日本仕様ではセルシウス温度で0.5 {{℃}}刻みが多い{{要出典|date=2022年3月}}が、同じ機種でもアメリカ仕様は1 °F刻みで小数を使わない。 [[アメリカ合衆国]]・[[ジャマイカ]]ではメートル法への置き換えが生産者側・消費者側の両方で大きな抵抗に遭っているため、カ氏度は様々な分野で広く使われ続けている。同様に[[イギリス]]の一部では低い温度はセルシウス温度で表されるが、日常的に使われる温度はカ氏温度で測定されている。 [[カナダ]]の天気予報や報道機関は全てセルシウス度を使い、日常でもセルシウス度が使われているが、カナダのキッチンオーブンや一部のエアコンは、カ氏度で利用されることがある。これは、アメリカ向けの家電製品を使う機会が多いため、カ氏度が初期設定としてセットされているためである。最近は、アナログ表示が減り、デジタル表示の製品が増え、簡単にカ氏温度とセルシウス温度との切り替えが可能になっているため、カ氏温度のみを表示する製品は減少している。 [[ニュージーランド]]や[[オーストラリア]]では完全にセルシウス度(およびセルシウス温度)への移行が完了している。 === 日本での歴史 === [[平賀源内]]が[[1765年]]に作った温度計「日本創製寒熱昇降器」には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた<ref>{{Cite web|和書|author=高田誠二 |url=http://www.netsu.org/JSCTANetsuSokutei/pdfs/32/32-4-162.pdf |title=温度概念と温度計の歴史 |publisher= 日本熱測定学会 |accessdate=2019-11-22}}</ref>。 == 参考 == * [[SF作家]][[レイ・ブラッドベリ]]の『[[華氏451度]]』 - 華氏451度(摂氏233度)は紙の[[燃焼点]](または[[引火点]])である。未来世界で本が規制され[[焚書]]されているという設定から来ている。 * キースの「[[98.6]]」 - 人間の平熱とされる華氏98.6度を、歌手のキースはそのままタイトルにして1966年に発表。本国やイギリスなどでヒットした。 * [[アメリカ合衆国]]の[[ロックバンド]]、[[ボン・ジョヴィ]]の『[[7800°ファーレンハイト]](7800° Fahrenheit)』 - 華氏7800度は岩(ロック)を溶かす温度である。 * [[マイケル・ムーア]]監督の映画『[[華氏911]]』 - 『華氏451度』と[[9月11日]]([[アメリカ同時多発テロ事件]])をかけたもの。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|8457|2109|&#45;|カ氏度記号|font=MacJapanese}} |} Unicodeのカ氏度の記号([[文字様記号]])は、既存の文字コードとの互換性のために用意されている[[Unicodeの互換文字|互換文字]]である。Unicode標準では、カ氏度の記号は{{unichar|00B0|degree sign}}([[°|度]])と{{unichar|0046|capital letter f}}(大文字の[[F]])を組み合わせて使用し、検索の際はこれと一文字の{{unichar|2109|degree fahrenheit}}を同一視することを推奨している<ref>{{cite book|title=The Unicode Standard, Version 8.0|date=August 2015|publisher=The Unicode Consortium|location=Mountain View, CA, USA|isbn=978-1-936213-10-8 |section=22.2|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0/ch22.pdf|accessdate=6 September 2015}}</ref>。 == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国際単位系]] *[[単位の換算]] ** [[単位の換算一覧]] *[[温度の単位の換算]] * [[ケルビン]] *[[セルシウス度]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20220421210114/http://unit-converter.org/UnitConverter/convert/commit/Convert/uc_cat/all/uc_class/14/uc_sigdigits/5/uc_unit/292/uc_value/1?&sf_culture=jp 温度の他のユニットに華氏温度の変換] {{Punctuation marks}} {{温度の単位の比較}} {{DEFAULTSORT:かし}} [[Category:温度の単位]] [[Category:エポニム]]
2003-03-24T15:12:46Z
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中山みき
中山 みき(なかやま みき、寛政10年4月18日〈1798年6月2日〉- 明治20年〈1887年〉2月18日〉)は、日本の宗教家、天理教教祖。明治21年(1888年)11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初版では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。 寛政10年4月18日(1798年6月2日)朝に、津藩領の大和国山辺郡三昧田村(正確には西三昧田村、当時三昧田村は東西に分割され、東は柳本藩領、西が津藩領だった。現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋・前川(まえがわ)半七正信の家に生まれる。『稿本天理教教祖伝』などによると、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多い。前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な信者となった。浄土宗の尼僧になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける。 文化7年9月15日(1810年10月13日)に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・中山善兵衛に嫁ぐ。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいる。 天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「てんしょうこう」「大神宮」とこたえたなど、諸説ある。とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神(おやがみ)・転輪王命(てんりんおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば世の人々を救済するが、拒めば人の世を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている。みきの孫で後の初代真柱・中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた。 こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている。 その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。 みきは41歳で「月日のやしろ」に定まったが、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあった。その後、内蔵に篭ることもなくなったものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払ったと言われる。母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年(1842年)には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている。 この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年(1853年)に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに浪速(現在の大阪)・道頓堀へ神名を流させに行かせた。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の毒忌みや凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとしてみきの評判や教えは広がっていた。 元治元年(1864年)ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である飯降伊蔵夫妻が入信している。しかし、天理教への信仰さえあれば、信者らはみきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために大和神社の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年(1874年)に教部省から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年(1880年)に制定され、翌年から施行された当時の大阪府の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも慶応2年(1866年)、『あしきをはらひて たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、同年に長男・秀司が京都神祇管領吉田家に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは神命に従い、明治元年(1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年(1869年)正月から『おふでさき』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。 しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける。こうした弾圧を避ける為に眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開するが教祖中山みきは、教会設立に強く反対し続け、翌年2月18日(旧暦1月26日)午後2時ごろに満88歳(享年90)で現身を隠した(死去)。 みきは生前に神の啓示によって『おふでさき』第三号に「このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ」と記したように、神にもたれかかって心を澄み切って生きるならば人間の寿命は115歳と説いていた。みきがその寿命を25年も縮めて他界したことは、当時の信者らに多くの動揺を与えた。翌3月25日に飯降伊蔵がみきの後継者・本席となり神の言葉を取り次いだ。その『おさしづ』の中で伊蔵は「子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。」と説明し、子供(=人間)の心の成人(心が澄み陽気ずくめになること)がをや(神)の思惑通りに運ばないから、人々に心の成人を促したのであると教示している。また同時にみきは「現身(うつしみ)を隠した」のであり、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」という教祖存命の理が誕生し、現在の天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている。そのため、天理教本部では、みきの魂は教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事や着替えが運ばれるなど、いろいろな世話がなされている。 その後、本席となり神の言葉を取り次いだ飯降伊蔵は、自身の後継に幼少の頃より教祖に側仕えをしていた上田ナライトを指名したが、上田は、本席ではなく中山家当主を今後の主体として教団を運営管理していきたいとする派閥の、教会内部の権力争いに巻き込まれ失脚することになり、神の言葉を取り次いだ本席の立場は廃止された(なお当の上田ナライトは「ひとつ意思の下で進むことが教祖の望み」として、権力争いについては全く意に介さず、すんなり受け入れたとされる)。 天理教は「神道直轄天理教会」として東京府より認可を受け『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・飯降伊蔵の下、『おさしづ』に基づき天理教として布教が行われた。また教祖年祭として、没後翌年に教祖1年祭を開催(最終的に中止)、5年祭、10年祭と続き、以後10年ごとに執行され、2016年1月には教祖130年祭が執り行れた。1934年(昭和10年)からはみきの誕生を記念して教祖誕生祭が毎年、4月18日に開催されている。1956年(昭和31年)3月8日から、午後2時のサイレンがはじまり、現在に至っている。 一部省略している。 夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる。後の中山家家督で初代真柱の中山眞之亮ははるの三男である。 現在の宗教法人天理教教会本部と中山みきの教えは明らかな違いがあるという指摘は多くあり、明治期の「応法の道」と呼ばれる諸改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張は歪曲され権力に迎合したが、それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っているという研究もある。そもそもみきは教会公認および設置運動に否定的であったと宗教学者の島田裕巳やライターの早川和広らが批判している。 天理教教会本部が編纂した『稿本天理教教祖伝』においては、立教以後のみきは神性が強調され、人間性は問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々を救済する活動のさまざまな現れでしかなかったとする批判があり、ジャーナリストの青地晨は著書『天理教 百三十年目の信仰革命』の中で、神がかりの時点からのみきが既に神だと見られ、苦悩や希望などの人間的感情が伴わないという教義の解釈は、みきは自己判断の能力を失い、神に操られる人形に等しいというふうに述べている。同様の指摘では、天理大学付属おやさと研究所教授の幡鎌一弘が、『稿本天理教教祖伝の成立(教祖伝の脱構築,パネル,<特集>第六十八回学術大会紀要)』において、教祖の50年の「ひながた」と中山みきの現前性(存在証明)の二つに支えられて、教祖死去の明治20年で終わる『稿本天理教教祖伝』の枠組みそのものが、中山みきの物語を狭めているのではないかと述べている。 教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長の八島英雄が1970年代後半に教団批判を展開しており、1979年には櫟本分署跡保存会を発足させ代表となっている。1985年12月に教会の機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し、教祖が教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱したため、翌年に教会長職を罷免されている。その後、八島が教会から立ち退かなかったために、八島と宗教法人天理教との間で裁判が行われている。この裁判の中では1991年5月31日に東京地方裁判所にて、元天理教表統領清水国雄が「八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。また、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない。」という内容の証言を述べている。八島教学とは八島の著書『中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々の逸話が否定されている。この八島の異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部の機関紙『あらきとうりょう』149号で、唯物論的で教祖の実在からかけ離れていると批判し、史料と合わせて反駁しているほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘は多数の著書の中で、現在の教団の原典に対する態度を批判している。 特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を歪曲して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。 また、これに関連して嘉永6年(1853年)、みきの五女・こかんの「浪速(現在の大阪)での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾が生じている。 また天理教との関わりが深かった小説家の芹沢光治良は著書『教祖伝』にて、教団成立を認めず、真の信仰世界を求めている教祖中山みきと教団を作ろうとする弟子との理念の衝突に関する描写によって、教団批判の立場が見られる。また「教団というものは、神の教えにも、人間の信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている。1987年に発表された『神の慈愛』でも、天理教で教祖中山みきの死後、「をや」の言葉を取り次いだ人が本席と呼ばれる飯降伊蔵のみであることに触れ、飯降の死後、存命の教祖は教祖殿に納まり、教祖の言葉を取り次ぐ者も天啓者も現れないとして、天理教の指導者である真柱がは神の代理者となり、真柱が中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会に公布した、という内容を述べている。 宗教学者の弓山達也はこのことに関連して著書『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』でほんみちやほんぶしん、おうかんみちなどの宗教団体が天理教から分立したことについて、特に飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ、中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している。 天理教を研究する宗教学者の中でも、村上重良は著書『近代民衆宗教史の研究』の中で、このみきの立教に至る「神がかり」を準備したものは、夫婦の不和や子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩・生理的苦痛にあるとして、みきにとって「月日のやしろ」となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味したと論じている。この考察は後に島薗進の「突発説」の否定や、笠原一男、小栗純子らに受け継がれている。島薗はこの村上の考察について『天理教研究史試論』の中で「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた」功績は大きいと評価している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中山 みき(なかやま みき、寛政10年4月18日〈1798年6月2日〉- 明治20年〈1887年〉2月18日〉)は、日本の宗教家、天理教教祖。明治21年(1888年)11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初版では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "寛政10年4月18日(1798年6月2日)朝に、津藩領の大和国山辺郡三昧田村(正確には西三昧田村、当時三昧田村は東西に分割され、東は柳本藩領、西が津藩領だった。現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋・前川(まえがわ)半七正信の家に生まれる。『稿本天理教教祖伝』などによると、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多い。前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な信者となった。浄土宗の尼僧になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "文化7年9月15日(1810年10月13日)に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・中山善兵衛に嫁ぐ。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「てんしょうこう」「大神宮」とこたえたなど、諸説ある。とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。」と語り、親神(おやがみ)・転輪王命(てんりんおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば世の人々を救済するが、拒めば人の世を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている。みきの孫で後の初代真柱・中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた。", 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"その後、本席となり神の言葉を取り次いだ飯降伊蔵は、自身の後継に幼少の頃より教祖に側仕えをしていた上田ナライトを指名したが、上田は、本席ではなく中山家当主を今後の主体として教団を運営管理していきたいとする派閥の、教会内部の権力争いに巻き込まれ失脚することになり、神の言葉を取り次いだ本席の立場は廃止された(なお当の上田ナライトは「ひとつ意思の下で進むことが教祖の望み」として、権力争いについては全く意に介さず、すんなり受け入れたとされる)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "天理教は「神道直轄天理教会」として東京府より認可を受け『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・飯降伊蔵の下、『おさしづ』に基づき天理教として布教が行われた。また教祖年祭として、没後翌年に教祖1年祭を開催(最終的に中止)、5年祭、10年祭と続き、以後10年ごとに執行され、2016年1月には教祖130年祭が執り行れた。1934年(昭和10年)からはみきの誕生を記念して教祖誕生祭が毎年、4月18日に開催されている。1956年(昭和31年)3月8日から、午後2時のサイレンがはじまり、現在に至っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一部省略している。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる。後の中山家家督で初代真柱の中山眞之亮ははるの三男である。", "title": "家族" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在の宗教法人天理教教会本部と中山みきの教えは明らかな違いがあるという指摘は多くあり、明治期の「応法の道」と呼ばれる諸改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張は歪曲され権力に迎合したが、それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っているという研究もある。そもそもみきは教会公認および設置運動に否定的であったと宗教学者の島田裕巳やライターの早川和広らが批判している。", "title": "教団への指摘" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "天理教教会本部が編纂した『稿本天理教教祖伝』においては、立教以後のみきは神性が強調され、人間性は問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々を救済する活動のさまざまな現れでしかなかったとする批判があり、ジャーナリストの青地晨は著書『天理教 百三十年目の信仰革命』の中で、神がかりの時点からのみきが既に神だと見られ、苦悩や希望などの人間的感情が伴わないという教義の解釈は、みきは自己判断の能力を失い、神に操られる人形に等しいというふうに述べている。同様の指摘では、天理大学付属おやさと研究所教授の幡鎌一弘が、『稿本天理教教祖伝の成立(教祖伝の脱構築,パネル,<特集>第六十八回学術大会紀要)』において、教祖の50年の「ひながた」と中山みきの現前性(存在証明)の二つに支えられて、教祖死去の明治20年で終わる『稿本天理教教祖伝』の枠組みそのものが、中山みきの物語を狭めているのではないかと述べている。", "title": "教団への指摘" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長の八島英雄が1970年代後半に教団批判を展開しており、1979年には櫟本分署跡保存会を発足させ代表となっている。1985年12月に教会の機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し、教祖が教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱したため、翌年に教会長職を罷免されている。その後、八島が教会から立ち退かなかったために、八島と宗教法人天理教との間で裁判が行われている。この裁判の中では1991年5月31日に東京地方裁判所にて、元天理教表統領清水国雄が「八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。また、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない。」という内容の証言を述べている。八島教学とは八島の著書『中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々の逸話が否定されている。この八島の異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部の機関紙『あらきとうりょう』149号で、唯物論的で教祖の実在からかけ離れていると批判し、史料と合わせて反駁しているほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘は多数の著書の中で、現在の教団の原典に対する態度を批判している。", "title": "教団への指摘" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を歪曲して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。 また、これに関連して嘉永6年(1853年)、みきの五女・こかんの「浪速(現在の大阪)での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾が生じている。", "title": "教団への指摘" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また天理教との関わりが深かった小説家の芹沢光治良は著書『教祖伝』にて、教団成立を認めず、真の信仰世界を求めている教祖中山みきと教団を作ろうとする弟子との理念の衝突に関する描写によって、教団批判の立場が見られる。また「教団というものは、神の教えにも、人間の信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている。1987年に発表された『神の慈愛』でも、天理教で教祖中山みきの死後、「をや」の言葉を取り次いだ人が本席と呼ばれる飯降伊蔵のみであることに触れ、飯降の死後、存命の教祖は教祖殿に納まり、教祖の言葉を取り次ぐ者も天啓者も現れないとして、天理教の指導者である真柱がは神の代理者となり、真柱が中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会に公布した、という内容を述べている。 宗教学者の弓山達也はこのことに関連して著書『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』でほんみちやほんぶしん、おうかんみちなどの宗教団体が天理教から分立したことについて、特に飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ、中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している。", "title": "教団への指摘" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "天理教を研究する宗教学者の中でも、村上重良は著書『近代民衆宗教史の研究』の中で、このみきの立教に至る「神がかり」を準備したものは、夫婦の不和や子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩・生理的苦痛にあるとして、みきにとって「月日のやしろ」となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味したと論じている。この考察は後に島薗進の「突発説」の否定や、笠原一男、小栗純子らに受け継がれている。島薗はこの村上の考察について『天理教研究史試論』の中で「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた」功績は大きいと評価している。", "title": "教団への指摘" } ]
中山 みきは、日本の宗教家、天理教教祖。明治21年(1888年)11月1日に天理教教会本部より出版された「みかぐらうた」複製本の初版では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる。天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。
{{Infobox religious biography |名前=中山みき |画像=Miki Nakayama.JPG |画像サイズ=200px |画像説明= |宗教=([[浄土宗]]→)<br />[[天理教]] |宗派= |寺院= |後の教祖(おやさま) |戒名= |法名= |筆名= |諡号= |出生名=前川 美支(まえがわ みき) |生年月日=[[寛政]]10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1798年]][[6月2日]]) |出生地=[[大和国]][[山辺郡]]西三昧田村(現在の[[奈良県]][[天理市]]三昧田町) |没年月日=[[明治]]20年([[1887年]])[[2月18日]] |死没地=大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町) |墓所=奈良県天理市豊田町豊田山墓地 |墓所座標= |両親=父:[[前川半七]]、母:[[前川きぬ]] |配偶者=[[中山善兵衛]] |子供=[[中山秀司|秀司]]、まさ、やす、はる、つね、こかん |本拠地= |任期=1838年 - 1887年 |就任日= 天保9年(1838) |先代= |次代= [[中山眞之亮]] |退任理由= 現身をお隠しになされた(逝去)為。 |階級= |師= |転生= |弟子= |著作= |出家= |入門= |地位=天理教開祖 |署名= }} '''中山 みき'''(なかやま みき、[[寛政]]10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]〈[[1798年]][[6月2日]]〉- [[明治]]20年〈[[1887年]]〉[[2月18日]]〉)は、[[日本]]の[[宗教家]]、[[天理教]][[教祖]]。[[明治]]21年([[1888年]])[[11月1日]]に天理教教会本部より出版された「[[みかぐらうた]]」複製本の初版では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっているが<ref>[https://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/KGTU/KGTU-00557/KGTU-00557-03.jpg 国文学研究資料館 画像データベース]</ref>、現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされる<ref>{{Cite news |title=親のいます里・天理 人間創造の元なる「ぢば」 |newspaper=天理教公式サイト |url=http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/tenri/oyasato/ |accessdate=2015-8-1}}</ref>。天理教では、「教祖」と書いて「'''おやさま'''」と呼称している。 == 生涯 == [[寛政]]10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]([[1798年]][[6月2日]])朝に、[[津藩]]領の[[大和国]][[山辺郡]]三昧田村(正確には西三昧田村、当時三昧田村は東西に分割され、東は柳本藩領、西が津藩領だった。現在の[[奈良県]][[天理市]]三昧田町)の庄屋・前川(まえがわ)半七正信の家に生まれる。『稿本天理教教祖伝』などによると、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多い<ref name="名前なし-1">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 492 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。前川家は[[浄土宗]]の[[檀家]]であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な[[信者]]となった。浄土宗の[[尼|尼僧]]になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける<ref name="名前なし-1"/>。 [[文化 (元号)|文化]]7年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[1810年]][[10月13日]])に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・[[中山善兵衛]]に嫁ぐ。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいる。 [[天保]]9年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]([[1838年]][[12月9日]])の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、[[修験道]][[当山派]][[内山永久寺]]の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した<ref group="注釈">中野市兵衛の天理教との関わりは、秀司の足の病の祈祷のために天保8年(1837年)10月に寄加持を行ったのがはじめてで、その後は秀司の症状が悪化するたびに中山家で寄加持が行われていた。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 39,146,147,690-695,810 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った<ref name="kazi">{{Cite web|和書|date=2008 |url=http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/publication/bulletin1_10.pdf |title=民俗宗教における柱の信仰と儀礼 |format=PDF |publisher=[[宮家 準]] |accessdate=2015-08-10}}</ref>。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる<ref group="注釈">「月日」とは天理教主神・天理王命をあらわすことばであり、天理教では人間にとって身近な存在である月日のように親しみを感じやすくさせるために「月日」と呼ぶとされる。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 549 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「'''我は天の将軍なり'''」あるいは「てんしょうこう」「大神宮」とこたえたなど、諸説ある。<ref name="syoya" /><ref name="tenri">{{Cite news | title = 天理教 | newspaper = [[国民新聞]]『月曜静観』 | date = 1935-06-03 |author = [[五来欣造]] |url = {{新聞記事文庫|url|0100283743|title=天理教 : 月曜静観|oldmeta=10067494}}}}</ref>とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「'''我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。'''<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 147 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。<ref name="tenri" />」と語り、親神(おやがみ)・転輪王命(てんりんおうのみこと)がみきに[[憑依]]し[[啓示|天啓]]を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり<ref name="syoya">{{Cite journal|和書|author=池田士郎 |date=2006-03 |url=https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2466/ |title=庄屋善兵衞とその妻 : 天理教立教当時の精神史点描 |journal=天理大学人権問題研究室紀要 |ISSN=1344-0802 |publisher=天理大学人権問題研究室 |volume=9 |pages=1-17 |CRID=1050001338429408256 |accessdate =2023-12-21}}</ref>、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば世の人々を救済するが、拒めば人の世を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、[[10月26日 (旧暦)|10月26日]](同年[[12月12日]])になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した<ref name="kazi" /><ref name="syoya" /><ref name="tenri" />。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている<ref name="syoya" />。みきの孫で後の初代[[真柱]]・[[中山眞之亮]]の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた<ref name="syoya" /><ref>『教祖様御伝』(中山新治郎『復元』33号、天理教教義及史料集成部、1958年4月)</ref>。 こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった<ref name="syoya" />。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は[[天保]]10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている<ref name="syoya" />。 その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の[[貧民]]に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。 ===布教活動=== みきは41歳で「月日のやしろ」に定まったが、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあった<ref name="nen">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 971-984 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。その後、内蔵に篭ることもなくなったものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払ったと言われる。母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年([[1842年]])には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている<ref name="nen" />。 この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年([[1853年]])に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに[[浪速]](現在の[[大阪]])・[[道頓堀]]へ神名を流させに行かせた。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の[[毒忌み]]や凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとしてみきの評判や教えは広がっていた<ref name="nen" />。 [[元治]]元年([[1864年]])ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始<ref group="注釈">「扇のさずけ」はみき死後に飯降伊蔵による「おさしづ(御指図)」で禁じられている。</ref>、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である[[飯降伊蔵]]夫妻が入信している。しかし、天理教への信仰さえあれば、信者らはみきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために[[大和神社]]の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年([[1874年]])に[[教部省]]から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年([[1880年]])に制定され、翌年から施行された当時の[[大阪府]]の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった<ref name="his">{{Cite journal|和書|author = 島田裕巳 |date = 2008-09 |title = 新宗教批判の歴史的変遷 : 天理教、創価学会、オウム真理教を事例に(<特集>宗教批判の諸相) |journal = 宗教研究 |publisher = 日本宗教学会 |issn = 03873293 |url = https://doi.org/10.20716/rsjars.82.2_293 |accessdate=2015-09-01}}</ref><ref name="femi">{{Cite journal |author = 福島ひとみ, 金子珠理ほか |date = 1998-09 |title = Womanspirit : フェミニズム・宗教・平和の会 : 26号 (1998.9) / 天理教とフェミニズム |journal = Womansprit |volume = 26 |publisher = フェミニズム・宗教・平和の会 |url = http://id.nii.ac.jp/1243/00016189/ |accessdate=2015-09-01}}</ref>。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも[[慶応]]2年([[1866年]])、『あしきをはらひて たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、同年に長男・秀司が[[神祇管領長上|京都神祇管領]][[吉田家]]に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは神命に従い、明治元年([[1868年]])には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年([[1869年]])正月から『[[おふでさき]]』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。 しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、[[1875年]](明治8年)には[[奈良県庁]]より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される<ref name="nen" />。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、[[1886年]](明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける<ref name="nen" />。こうした弾圧を避ける為に眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開するが教祖中山みきは、教会設立に強く反対し続け、翌年2月18日(旧暦1月26日)午後2時ごろに満88歳(享年90)で現身を隠した(死去)。 ===死後=== [[ファイル:Oyasama's Residence.jpg|thumbnail|250px|教祖殿。天理教では、現在もここで生活しているとされる。]] みきは生前に神の啓示によって『おふでさき』第三号に「このたすけ百十五才ぢよみよと さだめつけたい神の一ぢよ」と記したように<ref name="hyaku">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 777 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>、神にもたれかかって心を澄み切って生きるならば人間の寿命は115歳と説いていた。みきがその寿命を25年も縮めて他界したことは、当時の信者らに多くの動揺を与えた<ref name="his" />。翌3月25日に飯降伊蔵がみきの後継者・本席となり神の言葉を取り次いだ。その『おさしづ』の中で伊蔵は「子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。<ref name="hyaku" />」と説明し、子供(=人間)の心の成人(心が澄み陽気ずくめになること)がをや(神)の思惑通りに運ばないから、人々に心の成人を促したのであると教示している。また同時にみきは「現身(うつしみ)を隠した」のであり、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」<ref>「ようこそおかえり」 ([[1985年]]4月、[[天理教道友社]])</ref>という教祖存命の理が誕生し、現在の天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている。そのため、天理教本部では、みきの魂は教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事や着替えが運ばれるなど、いろいろな世話がなされている。 その後、本席となり神の言葉を取り次いだ飯降伊蔵は、自身の後継に幼少の頃より教祖に側仕えをしていた上田ナライトを指名したが、上田は、本席ではなく中山家当主を今後の主体として教団を運営管理していきたいとする派閥の、教会内部の権力争いに巻き込まれ失脚することになり、神の言葉を取り次いだ本席の立場は廃止された(なお当の上田ナライトは「ひとつ意思の下で進むことが教祖の望み」として、権力争いについては全く意に介さず、すんなり受け入れたとされる)。 天理教は「神道直轄天理教会」として東京府より認可を受け『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』は天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席・[[飯降伊蔵]]の下、『おさしづ』に基づき[[天理教]]として布教が行われた。また教祖年祭として、没後翌年に教祖1年祭を開催(最終的に中止)、5年祭、10年祭と続き、以後10年ごとに執行され、2016年1月には教祖130年祭が執り行れた。[[1934年]](昭和10年)からはみきの誕生を記念して教祖誕生祭が毎年、4月18日に開催されている。1956年(昭和31年)3月8日から、午後2時のサイレンがはじまり、現在に至っている<ref group="注釈">午後二時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7月7日から[[ミュージックホーン|サイレン]]が現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている。</ref>。 == 略歴 == *1798年(寛政10年)6月2日(陰暦4月18日)- [[大和国]][[山辺郡]]西三昧田村で前川家に誕生。 *1806年(文化4年)- この頃から[[寺子屋]]に通う。信仰熱心で12歳のころには[[尼]]になることを志望している。 *1810年(文化7年)10月13日 - 山辺郡庄屋敷村の中山家に嫁ぐ。夫・善兵衛は23歳、みきは13歳。 *1816年(文化13年)4月12日 - 勾田村善福寺にて[[五重相伝]]をうける。 *1838年(天保9年)12月9日(陰暦10月23日)- 長男・秀司の加持祈祷のためにみきが加持台になったところ、憑依状態になる。 *1838年(天保9年)12月12日(陰暦10月26日)- '''みきが「月日のやしろ」に定まる'''。天理教では立教の日とされる。みきは40歳。 *1854年(嘉永6年)- 中山家の母屋が売り払われる。 *1855年(安政1年)- をびや許しの開始。 *1865年(慶応元年)- このころよりみきへの参詣者が増加。7月26日、飯降伊蔵夫妻に扇の伺い、10月26日、つとめ場所が棟上される。 *1866年(慶応2年)- 信者に「あしきはらひたすけたまえ」の歌と手振りを教える。6月19日、初代真柱・[[中山眞之亮]]誕生。 *1867年(慶応3年)- 以後3年間にわたり、みかぐらうた「十二下り」を教える。7月23日に京都[[吉田神祇管領]]より認可。 *1869年(明治2年)- 「おふでさき」の執筆を開始。翌年から「ちよとはなし」と「よろづよ八首」を指導。 *1874年(明治7年)- 前川家から神楽面を受け取る。12月26日ごろから赤衣を着るようになる。このころより奈良警察ほか官憲の取締りが活発化。 *1875年(明治8年)6月29日 - ぢば定めを行う。この年「いちれつすますかんろだい」の歌と手振り、また「十一通りのつとめ」を教える。9月には[[奈良県庁]]より呼出状、翌日出頭し留置。 *1882年(明治15年)- 5月12日、かんろだい石、赤衣が警察より没収、同時期にみかぐらうたの一部が改変される。翌年11月には、晩年の住まい場所となった御休息所が落成。またこのころ警察からの取調べが活発化し、奈良監獄などに度々拘留。 *1886年(明治19年)2月18日 - みき最後の拘留でみき、眞之亮らが聴取を受ける。以後12日間、櫟本分署に引致。天理教では「最後の御苦労」と称している。 *1887年(明治20年)- 1月上旬にみきの容態が急変する。'''2月18日(旧暦正月26日)、午後2時ごろ中山みき死去。満88歳没(享年90)。'''2月23日、葬儀が教会本部にて執り行われる。火葬後、善福寺に埋葬される。3月25日、飯降伊蔵が本席に就任。 ==家族== {{familytree/start|style=font-size:80%}} 一部省略している。 {{familytree | | | | | GRM |y| GRP | | GRM=(前川)きぬ|GRP=中山善右衛門}} {{familytree | | | | | | | |!| }} {{familytree | | | MOM |y| DAD|MOM='''美支(みき)'''|DAD=[[中山善兵衛]]}} {{familytree | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| }} {{familytree | SIS1 | | SIS2 | | SIS3 |y| STR | | SIS4 | | ME | | JOE |y| MAT|MAT=(小東)まつゑ|JOE=秀司|ME=まさ|SIS1=こかん|SIS2=つね(夭)|SIS3=はる|STR=梶本惣治郎|SIS4=やす(夭)}} {{familytree | | | | | | | | | |,|-|^|-|.| | | | | | | | | | | | | |!| }} {{familytree | | | | | | | | | NARA | | SIN | | | | | | | | | | | | TAM | | |NARA=楢治郎|SIN=[[中山眞之亮|眞之亮]]|TAM=たまへ}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | |L|~|~|~|~|~|~|y|~|~|~|~|~|~|J| }} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|-|^|-|-|.| | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | SYO | | | | TAMA | | | | | | | | | | | | | |SYO=[[中山正善|正善]]|TAMA=玉千代}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | SZENE | | | | | | | | | | | | | | | | | |SZENE=[[中山善衛|善衛]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | ZEN | | | | | | | | | | | | | | | | | |ZEN=[[中山善司|善司]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | DAI | | | | | | | | | | | | | | | | | |DAI=[[中山大亮|大亮]]<ref group="注釈">養子。善司の実弟である中田善亮の長男</ref>}} {{familytree/end}} 夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる。後の中山家家督で初代真柱の[[中山眞之亮]]ははるの三男である。 == 教団への指摘 == 現在の宗教法人天理教教会本部と中山みきの教えは明らかな違いがあるという指摘は多くあり、明治期の「応法の道」と呼ばれる諸改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張は歪曲され権力に迎合したが、それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っているという研究もある<ref name="sano">{{Cite journal|和書|author=佐野智規 |date=2008-02 |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1496 |title=<慈悲>と資本主義 -二〇世紀最初期における天理教教祖伝の分析(上)- |journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要 第3分冊 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 日本語日本文化 |ISSN=1341-7533 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |volume=53 |pages=197-208 |hdl=2065/31902 |CRID=1050001202458831744}}<br />{{Cite journal|和書|author=佐野智規 |date=2009-02 |url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/1522 |title=〈慈悲〉と資本主義(承前) : 二〇世紀最初期における天理教教祖伝の分析(下) |journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第3分冊 日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化 |ISSN=1341-7533 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |volume=54 |issue=3 |pages=163-171 |hdl=2065/32269 |CRID=1050001202458835072 |accessdate=2023-12-21}}<!--タイトルとファイルのリンク先が混同しおり、"二〇世紀最初期における天理教教祖伝の分析(上/下)"のどちらを参照したのか不明のため、両方を記載した--></ref>。そもそもみきは教会公認および設置運動に否定的であったと宗教学者の[[島田裕巳]]やライターの早川和広らが批判している<ref name="his" />。 天理教教会本部が編纂した『稿本天理教教祖伝』においては、立教以後のみきは神性が強調され、人間性は問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々を救済する活動のさまざまな現れでしかなかったとする批判があり<ref name="ou">{{Cite journal|和書|author=黄耀儀 |date=2009-03 |url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/10060 |title=芹沢光治良の作品に現れた中山みき像を通して彼の宗教観をみる―ニューエイジ運動との接点― |journal=多元文化 |ISSN=13463462 |publisher=名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |volume=9 |pages=215-229 |doi=10.18999/muls.9.215 |hdl=2237/11871 |CRID=1390009224655845888 |accessdate =2023-12-21}}</ref>、ジャーナリストの[[青地晨]]は著書『天理教 百三十年目の信仰革命』の中で、神がかりの時点からのみきが既に神だと見られ、苦悩や希望などの人間的感情が伴わないという教義の解釈は、みきは自己判断の能力を失い、神に操られる人形に等しいというふうに述べている<ref name="ou" />。同様の指摘では、[[天理大学]]付属おやさと研究所教授の幡鎌一弘が、『稿本天理教教祖伝の成立(教祖伝の脱構築,パネル,<特集>第六十八回学術大会紀要)』において、教祖の50年の「ひながた<ref group="注釈">論文内では『稿本天理教教祖伝』の編纂当初では「ひながた」について、当時の『天理教教典』に準じてみき誕生からの90年と、立教後の50年の二つの「ひながた」の見方があったものの、第五稿以降は後者の意味に限定されていることも指摘している。</ref>」と中山みきの現前性(存在証明)の二つに支えられて、教祖死去の明治20年で終わる『稿本天理教教祖伝』の枠組みそのものが、中山みきの物語を狭めているのではないかと述べている<ref name=rsjars.83.4_1292>{{Cite journal|和書|author = 幡鎌一弘 |date = 2010-03 |title = 稿本天理教教祖伝の成立(教祖伝の脱構築,パネル,<特集>第六十八回学術大会紀要) |journal = 宗教研究 |publisher = 日本宗教学会 |url = https://doi.org/10.20716/rsjars.83.4_1292 |doi=10.20716/rsjars.83.4_1292 |accessdate = 2015-08-23}}</ref>。 教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長の八島英雄が1970年代後半に教団批判を展開しており、1979年には櫟本分署跡保存会を発足させ代表となっている<ref>[http://www.tenri.info/ 櫟本分署跡講座]</ref>。1985年12月に教会の機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し、教祖が教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱したため、翌年に教会長職を罷免されている<ref group="注釈">おなじく櫟本分署跡保存会の事務局長川本しづ子が教会長をつとめる天理教本常一分教会も、審判会も行なわずに罷免して裁判になっている。その後、和解し現在は天理教から独立している。</ref>。その後、八島が教会から立ち退かなかったために、八島と宗教法人天理教との間で裁判が行われている。この裁判の中では[[1991年]][[5月31日]]に[[東京地方裁判所]]にて、元天理教[[表統領]]清水国雄が「'''八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。また、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない。'''」という内容の証言を述べている<ref>[http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/top2.html 天理教豊文教会公式サイト - 「元表統領 『ほんあづま』誌の八島教学は異端でも異説でもないと正式に発言」]</ref>。八島教学とは八島の著書『中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々の逸話が否定されている。この八島の異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部の機関紙『あらきとうりょう』149号で、唯物論的で教祖の実在からかけ離れていると批判し、史料と合わせて反駁しているほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘は多数の著書の中で、現在の教団の原典に対する態度を批判している<ref group="注釈">ただし、植田は八島の考察を「教祖の天啓やひながたを人間的なレベルの思想や行動と受け取り、霊魂や転生を否定し、心身を唯物的に認識していることには同意できない」としている(天理教みさとブログ<原典からの出発>「5/25月例会報告」)。</ref>。 特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述<ref>[http://shikidai24.com/essay_H15/essay_38.html 天理教敷大大教会「湧き立つよろこびを求めて」第38回]</ref>は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を歪曲して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。 また、これに関連して嘉永6年(1853年)、みきの五女・こかんの「[[浪速]](現在の[[大阪]])での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ<ref name="his" /><ref>[http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_32kokannonioigakeco.htm 天理教教祖中山みきの研究【こかんの大坂布教】]</ref>、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾が生じている<ref group="注釈">『改訂天理教事典』の「中山こかん」の説明には、嘉永6年(1853年)に「天理王命」の神名を伝えに行った、とあるが、「てんりんおうのみこと」の説明では、32年後の明治18年の公認運動の頃から「天理王命」の字に一定した、との記述がある。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 662 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。 また天理教との関わりが深かった小説家の[[芹沢光治良]]は著書『教祖伝』<ref group="注釈">この本は天理教の機関紙『[[天理時報]]』に1950年10月29日から1957年9月8日までの7年間、338 回に渡って連載された長編伝記小説。</ref>にて、教団成立を認めず、真の信仰世界を求めている教祖中山みきと教団を作ろうとする弟子との理念の衝突に関する描写によって、教団批判の立場が見られる<ref name="ou2">{{Cite journal|和書|author=黄耀儀 |date=2015-02 |url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/19254 |title=『秘蹟-母の肖像』にあらわれた芹沢光治良の信者像 : スピリチュアリティの視点からの分析 |journal=多元文化 |ISSN=13463462 |publisher=名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |volume=15 |pages=1-14 |doi=10.18999/muls.15.1 |hdl=2237/21357 |CRID=1390009224655853824 |accessdate =2023-12-21}}</ref>。また「教団というものは、神の教えにも、人間の信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている<ref name="ou" /><ref name="ou2" />。1987年に発表された『神の慈愛』でも、天理教で教祖中山みきの死後、「をや」の言葉を取り次いだ人が本席と呼ばれる[[飯降伊蔵]]のみであることに触れ、飯降の死後、存命の教祖は教祖殿に納まり、教祖の言葉を取り次ぐ者も天啓者も現れないとして、天理教の指導者である真柱がは神の代理者となり、真柱が中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会に公布した、という内容を述べている<ref name="ou" />。 宗教学者の[[弓山達也]]はこのことに関連して著書『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』で[[ほんみち]]や[[ほんぶしん]]、[[おうかんみち]]などの宗教団体が天理教から分立したことについて、特に飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ、中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している<ref name="ou" />。 ===学者による考察=== 天理教を研究する宗教学者の中でも、[[村上重良]]は著書『近代民衆宗教史の研究』の中で、このみきの立教に至る「神がかり」を準備したものは、夫婦の不和や子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩・生理的苦痛にあるとして、みきにとって「月日のやしろ」となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味したと論じている。この考察は後に[[島薗進]]の「突発説」の否定や、[[笠原一男]]、[[小栗純子]]らに受け継がれている。島薗はこの村上の考察について『天理教研究史試論』の中で「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた」功績は大きいと評価している<ref name="sawa">{{Cite journal |author = 澤井治郎 |date = 2015-02 |title = 天理教の立教をめぐって(第七部会,<特集>第72回学術大会紀要) |journal = 宗教研究 |publisher = 日本宗教学会 |issn = 21883858 |url = https://doi.org/10.20716/rsjars.87.Suppl_304 |doi=10.20716/rsjars.87.Suppl_304 |accessdate = 2015-08-23}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 971-984 |isbn = 4-8073-0412-7}} *{{Cite book|author = [[天理大学]]付属おやさと研究所|authorlink =|coauthors =|date = 1997年11月24日|title = 改訂 天理教事典|publisher = 天理教道友社|page = 39,146,147,690-695,810|isbn = 4-8073-0412-7}} *『教祖様御伝稿案』(山澤為治『復元』2,3,5,6,11,12,13,14号、天理教教義及史料集成部、1946年4月) *『教祖様御伝』(中山新治郎『復元』33号、天理教教義及史料集成部、1946年4月) *『古老聞書』(上田嘉成『復元』創刊号、天理教教義及史料集成部、1946年4月) *『稿本天理教教祖伝』 - 伝記資料(天理教教会本部編纂、昭和31年10月26日) *[[芹沢光治良|芹沢光治郎]]『教祖様』(新潮社刊) ==関連項目== *[[井出国子]](朝日神社) *[[天理教]] ==外部リンク== *[https://www.tenrikyo.or.jp/jpn/ 天理教公式サイト はじめての方へ] {{天理教}} {{Tenrikyo-stub}} {{Reli-bio-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なかやま みき}} [[Category:18世紀日本の女性]] [[Category:19世紀日本の女性]] [[Category:日本の宗教家]] [[Category:江戸時代の女性]] [[Category:幕末の女性]] [[Category:明治時代の人物]] [[Category:戦前日本の女性]] [[Category:大和国の人物]] [[Category:女性神秘思想家]] [[Category:天理教の人物|*]] [[Category:新宗教の開祖]] [[Category:女性の宗教指導者]] [[Category:天理市の歴史]] [[Category:1798年生]] [[Category:1887年没]]
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5,123
1895年
1895年(1895 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。明治28年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1895年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。明治28年。
{{年代ナビ|1895}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 19 | 年代 = 1890 | 年 = 1895 }} {{year-definition|1895}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[乙未]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]28年 ** [[皇紀]]2555年 * [[清]]:[[光緒]]20年12月6日 - 光緒21年11月16日 * [[朝鮮]] ** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]503年12月6日 - 開国504年11月16日  ** [[檀君紀元|檀紀]]4228年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[成泰]]6年12月6日 - 成泰7年11月16日 * [[仏滅紀元]]:2437年 - 2438年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1312年7月4日 - 1313年7月14日 * [[ユダヤ暦]]:5655年4月5日 - 5656年4月14日 * [[修正ユリウス日]](MJD):13194 - 13558 * [[リリウス日]](LD):114035 - 114399 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1895}} == できごと == === 1月 === * [[1月]] - [[樋口一葉]]が雑誌「[[文学界 (明治)|文学界]]」に小説「[[たけくらべ]]」の連載を開始。 === 3月 === * [[イタリア]]による[[エチオピア]]侵入始まる === 4月 === * [[4月17日]] - 日清講和条約([[下関条約]])調印。 === 5月 === * [[5月26日]] - [[ウィリアム・ラムゼー]]卿が[[ヘリウム]]の単離に成功。 === 6月 === * [[6月17日]] - [[台湾総督府]]開庁、この日を台湾始政記念日とする。 === 9月 === * [[9月4日]] - [[救世軍]]の[[エドワード・ライト]]大佐以下14名が来日(同月22日に[[東京キリスト教青年会会館|東京基督青年会館]]で宣戦式を行う)。 === 10月 === * [[10月8日]] - [[乙未事変]]。 * [[10月22日]] - [[パリ]]・[[モンパルナス駅]]で列車がブレーキ故障のため減速しないまま駅に進入し、車止めを乗り越えて駅舎を突き破る。 * [[李氏朝鮮]]の行政区画の改編、[[道 (行政区画)|道]]、[[県]]、[[都護府]]を廃止して観察府と郡にする === 11月 === * [[11月12日]] - 日本聖公会宣教師[[ハンナ・リデル]]、[[グレース・ノット]]が、[[熊本市]]に[[ハンセン病]]患者療養施設「回春病院」を開設する。 * [[11月27日]] - [[アルフレッド・ノーベル]]が[[ノーベル賞]]設立のもととなる遺言状に署名。 === 12月 === * [[12月25日]] - [[帝国議会|第9議会]]召集。 * [[12月28日]] - パリの[[ホテル・スクリーブ・パリ]]において、[[リュミエール兄弟]]が[[シネマトグラフ]]を用いた有料の[[映画]]上映を行う。映画[[興行]]の始まり。 == 誕生 == {{see also|Category:1895年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 1月 === * [[1月1日]] - [[ジョン・エドガー・フーヴァー]]、米[[連邦捜査局]]長官(+ [[1972年]]) * [[1月2日]] - [[フォルケ・ベルナドッテ]]、[[スウェーデン]]の[[外交官]](+ [[1948年]]) * [[1月6日]] - [[堀口捨己]]、[[建築家]](+ [[1984年]]) * 1月6日 - [[下田喜久三]]、[[博士(農学)|農学博士]] (+ [[1970年]]) * [[1月7日]] - [[クララ・ハスキル]]、[[ピアニスト]](+ [[1960年]]) * [[1月8日]] - [[北村寿夫]]、[[脚本家]]・[[児童文学作家]](+ [[1982年]]) * [[1月9日]] - [[増本量]]、金属[[物理学者]](+ [[1987年]]) * [[1月11日]] - [[きだみのる]]、[[小説家]](+ [[1975年]]) * 1月11日 - [[加藤厚太郎]]、[[実業家]](+ [[1959年]]) * [[1月15日]] - [[重政庸徳]]、[[政治家]](+ [[1977年]]) * [[1月19日]] - [[長勇]]、[[陸軍]][[軍人]] (+ [[1945年]]) * [[1月21日]] - [[伊藤野枝]]、婦人解放運動家・[[アナキスト]](+ [[1923年]]) * 1月21日 - [[クリストバル・バレンシアガ]]、[[ファッションデザイナー]](+ 1972年) * [[1月24日]] - [[オイゲン・ロート]]、[[詩人]](+ [[1976年]]) * [[1月27日]] - [[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]、[[指揮者]](+ [[1985年]]) * [[1月30日]] - [[ヴィルヘルム・グストロフ]]、スイス・ナチスの指導者(+ [[1936年]]) === 2月 === * [[2月2日]] - [[ジョージ・ハラス]]、[[シカゴ・ベアーズ]]創設者(+ [[1983年]]) * [[2月6日]] - [[ベーブ・ルース]]、[[プロ野球選手]](+ 1948年) * [[2月14日]] - [[マックス・ホルクハイマー]]、[[哲学|哲学者]]・[[社会学|社会学者]](+ [[1973年]]) * [[2月15日]] - [[アール・トムソン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1971年]]) * [[2月21日]] - [[カール・ピーター・ヘンリク・ダム]]、[[生化学|生化学者]]・[[生理学|生理学者]](+ [[1976年]]) * [[2月25日]] - [[バート・ベル]]、[[アメリカンフットボール]]コーチ(+ [[1959年]]) * [[2月27日]] - [[宮城山福松]]、[[大相撲]]第29代[[横綱]](+ [[1943年]]) * [[2月28日]] - [[ギオマール・ノヴァエス]]、[[ピアニスト]](+ [[1979年]]) * 2月28日 - [[マルセル・パニョル]]、[[小説家]]・[[劇作家]]・[[映画監督]](+ [[1974年]]) === 3月 === * [[3月1日]] - [[小倉遊亀]]、[[日本画家]](+ [[2000年]]) * [[3月3日]] - [[ラグナル・フリッシュ]]、[[経済学者]](+ [[1973年]]) * 3月3日 - [[マシュー・リッジウェイ]]、[[アメリカ陸軍]]の[[大将]](+ [[1993年]]) * [[3月10日]] - [[山本懸蔵]]、[[労働運動|労働運動家]]・戦前期の[[日本共産党]]党員(+ [[1939年]]) * [[3月20日]] - [[チャールズ・ワグナー]]、[[電気工学]]研究者(+ [[1970年]]) * [[3月26日]] - [[素木しづ]]、小説家(+ [[1918年]]) * [[3月29日]] - [[エルンスト・ユンガー]]、小説家、[[思想家]] (+ [[1998年]]) * [[3月30日]] - [[ヨーゼフ・ビュルケル]]、[[ナチ党]]ヴェストマルク[[大管区]]指導者 (+ [[1944年]]) === 4月 === * [[4月3日]] - [[マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ]]、[[作曲家]](+ [[1968年]]) * [[4月10日]] - [[川上澄生]]、[[版画家]](+ [[1972年]]) * [[4月14日]] - [[相良守峯]]、[[ドイツ文学者]](+ [[1989年]]) * [[4月15日]] - [[広瀬謙三]]、プロ野球公式記録員(+ [[1970年]]) * [[4月18日]] - [[大木惇夫]]、詩人(+ [[1977年]]) * [[4月23日]] - [[ジョン・エインズワース=デービス]]、陸上競技選手(+ [[1976年]]) * 4月23日 - [[ナイオ・マーシュ]]、[[推理作家]](+ [[1982年]]) * [[4月24日]] - [[船田中]]、[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]・政治家・第51・56代衆議院議長(+ [[1979年]]) * [[4月29日]] - [[マルコム・サージェント]]、指揮者(+ [[1967年]]) === 5月 === * [[5月1日]] - [[ニコライ・エジョフ]]、[[ソビエト連邦]]の[[秘密警察]]指導者(+ [[1940年]]) * [[5月2日]] - [[ヴィルム・ホーゼンフェルト]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の[[大尉]](+ [[1952年]]) * [[5月3日]] - [[辻本史邑]]、[[書家]](+ [[1957年]]) * 5月3日 - [[多忠亮]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1929年]]) * [[5月6日]] - [[ルドルフ・ヴァレンティノ]]、[[俳優]](+ [[1926年]]) * [[5月8日]] - [[エドマンド・ウィルソン]]、[[作家]]・[[文芸評論家]](+ [[1972年]]) * [[5月10日]] - [[知念カマ]]、元[[長寿#歴代の長寿世界一記録者(1955年以降)|世界最高齢者]]、1895年生まれの最後の生き残り(+ [[2010年]]) * [[5月12日]] - [[ジッドゥ・クリシュナムルティ]]、近代インドの宗教的哲人、教育者(+ [[1986年]]) * [[5月13日]] - [[芹沢銈介]]、[[染色|染色工芸家]](+ [[1984年]]) * 5月13日 - [[ハインリヒ45世・ロイス・ツー・シュライツ]]、[[ロイス家]]家長(+ [[1945年]]?) * [[5月16日]] - [[林家彦六]]、[[落語家]](+ [[1982年]]) * [[5月18日]] - [[アウグスト・セサル・サンディーノ]]、[[ニカラグア]]の[[革命家]](+ [[1934年]]) * [[5月26日]] - [[ドロシア・ラング]]、[[写真家]](+ [[1965年]]) * 5月26日 - [[谷川徹三]]、[[哲学者]]・[[法政大学]]総長(+ [[1989年]]) * [[5月28日]] - [[ルドルフ・ミンコフスキー]]、[[天文学者]](+ [[1976年]]) * [[5月30日]] - [[深沢豊太郎]]、政治家(+ [[1944年]]) === 6月 === * [[6月1日]] - [[佐藤賢了]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[軍人]](+ [[1975年]]) * [[6月3日]] - [[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]、フランス文学者(+ [[1970年]]) * [[6月11日]] - [[ニコライ・ブルガーニン]]、ソビエト連邦首相(+ 1975年) * [[6月12日]] - [[原乙未生]]、日本陸軍の軍人(+ [[1990年]]) * [[6月14日]] - [[クリフ・エドワーズ]]、歌手・声優(+ [[1971年]]) * [[6月18日]] - [[古賀春江]]、[[洋画家]](+ [[1933年]]) * [[6月24日]] - [[ジャック・デンプシー]]、[[プロボクサー]](+ [[1983年]]) * [[6月28日]] - [[シシリー・メアリー・バーカー]]、[[挿絵]][[画家]]・[[児童文学作家]](+ [[1973年]]) === 7月 === * [[7月5日]] - [[小田富弥]]、日本画家(+ 1990年) * 7月5日 - [[ゴードン・ジェイコブ]]、[[作曲家]](+ 1984年) * [[7月7日]] - [[南条徳男]]、[[弁護士]]・政治家(+ [[1974年]]) * [[7月8日]] - [[イゴール・タム]]、[[物理学者]](+ [[1971年]]) * [[7月10日]] - [[カール・オルフ]]、作曲家(+ [[1982年]]) * [[7月12日]] - [[オスカー・ハマースタイン2世]]、[[ミュージカル]]の[[脚本家]]・[[作詞家]](+ [[1960年]]) * 7月12日 - [[キルステン・フラグスタート]]、[[ソプラノ]][[歌手]](+ [[1962年]]) * 7月12日 - [[バックミンスター・フラー]]、[[建築家]](+ 1983年) * [[7月22日]] - [[ハンス・ロスバウト]]、指揮者(+ 1962年) * [[7月24日]] - [[ロバート・グレーヴス]]、[[詩人]]・[[小説家]](+ [[1985年]]) * [[7月30日]] - [[中河幹子]]、[[歌人]]・[[国文学者]](+ [[1980年]]) === 8月 === * [[8月9日]] - [[レオニード・マシーン]]、[[バレエ]][[ダンサー]](+ [[1979年]]) * [[8月16日]] - [[鈴木信太郎 (洋画家)|鈴木信太郎]]、[[洋画家]](+ [[1989年]]) * [[8月26日]] - [[斎藤三郎 (文学・野球研究者)|斎藤三郎]]、[[野球の歴史|野球史]]と[[石川啄木]]の研究者(+ [[1960年]]) === 9月 === * [[9月10日]] - [[ジョージ・ケリー (野球)|ジョージ・ケリー]]、[[メジャーリーガー]](+ 1984年) * [[9月15日]] - [[ヴァルター・シュピース]]、[[画家]](+ [[1942年]]) * [[9月18日]] - [[田鍋友時]]、元[[長寿#歴代の男性長寿世界一記録者|男性世界最高齢者]](+ [[2009年]]) * [[9月21日]] - [[フアン・デ・ラ・シエルバ]]、[[航空機|航空]][[技術者|エンジニア]](+ [[1936年]]) * [[9月22日]] - [[ポール・ムニ]]、俳優(+ [[1967年]]) * [[9月24日]] - [[アンドレ・フレデリック・クルナン]]、[[医学者]]・[[生理学|生理学者]](+ [[1988年]]) * [[9月29日]] - [[J・B・ライン]]、[[心理学者]](+ 1980年) * [[9月30日]] - [[高田雅夫]]、[[舞踏家]](+ [[1929年]]) * 9月30日 - [[ルイス・マイルストン]]、映画監督(+ 1980年) === 10月 === * [[10月3日]] - [[セルゲイ・エセーニン]]、詩人(+ [[1925年]]) * [[10月4日]] - [[バスター・キートン]]、俳優・映画監督(+ [[1966年]]) * [[10月5日]] - [[スベア・ノーレン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1985年]]) * [[10月8日]] - [[ゾグー1世]]、[[アルバニア|アルバニア王]](+ [[1961年]]) * 10月8日 - [[フアン・ペロン]]、[[アルゼンチン]]大統領(+ [[1974年]]) * [[10月10日]] - [[ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[元帥]](+ [[1945年]]) * 10月10日 - [[林語堂]]、[[文学者]]・[[言語学者]]・[[評論家]](+ [[1976年]]) * [[10月13日]] - [[クルト・シューマッハー]]、[[ドイツ社会民主党]]の指導者(+ [[1952年]]) * [[10月14日]] - [[サイラス・シモンズ]]、[[ニグロリーグ]]の野球選手(+ [[2006年]]) * [[10月17日]] - [[川田芳子]]、女優(+ [[1970年]]) * [[10月21日]] - [[エドナ・パーヴァイアンス]]、女優(+ [[1958年]]) * 10月21日 - [[箕作秋吉]]、作曲家・[[化学者]](+ [[1971年]]) * [[10月22日]] - [[ロルフ・ネヴァンリンナ]]、[[数学者]](+ [[1980年]]) * [[10月24日]] - [[奥むめお]]、婦人運動家・[[政治家]](+ [[1997年]]) * [[10月25日]] - [[レヴィ・エシュコル]]、[[イスラエルの首相|イスラエル首相]](+ [[1969年]]) * [[10月30日]] - [[ゲルハルト・ドーマク]]、生化学者(+ [[1964年]]) * 10月30日 - [[ディキソン・W・リチャーズ]]、医学者・生理学者(+ [[1973年]]) * [[10月31日]] - [[ベイジル・リデル=ハート]]、軍事史家・戦略思想家(+ [[1970年]]) === 11月 === * [[11月1日]] - [[池田遙邨]]、[[画家]](+ [[1988年]]) * [[11月4日]] - [[ベン・シャープスティーン]]、[[映画監督]](+ [[1980年]]) * [[11月5日]] - [[ヴァルター・ギーゼキング]]、[[ピアニスト]](+ [[1956年]]) * [[11月10日]] - [[ジャック・ノースロップ]]、[[ノースロップ]]創業者(+ [[1981年]]) * [[11月14日]] - [[杉本勝次]]、[[政治家]](+ [[1987年]]) * [[11月15日]] - [[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ・ニコラエヴナ]]、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の第一皇女、新致命者(+ [[1918年]]) * [[11月16日]] - [[パウル・ヒンデミット]]、作曲家(+ [[1963年]]) * 11月16日 - [[中西悟堂]]、野鳥研究家・[[歌人]]・[[詩人]](+ [[1984年]]) * [[11月17日]] - [[ミハイル・バフチン]]、哲学者・[[文芸評論|文芸評論家]](+ [[1975年]]) * [[11月24日]] - [[ルドヴィーク・スヴォボダ]]、[[チェコスロバキア]]大統領(+ [[1979年]]) * [[11月25日]] - [[ヴィルヘルム・ケンプ]]、ピアニスト(+ [[1991年]]) * 11月25日 - [[アナスタス・ミコヤン]]、ソビエト連邦首相(+ [[1978年]]) === 12月 === * [[12月1日]] - [[山田恵諦]]、[[天台宗]]の[[僧侶]]、第253世[[天台座主]](+ [[1994年]]) * [[12月2日]] - [[ハリエット・コーエン]]、ピアニスト(+ [[1967年]]) * [[12月3日]] - [[アンナ・フロイト]]、[[精神分析学|精神分析学者]](+ [[1982年]]) * [[12月9日]] - [[ランスロット・ホグベン]]、[[動物学|動物学者]]・[[遺伝学|遺伝学者]](+ 1975年) * [[12月14日]] - [[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]、[[イギリス|イギリス王]](+ [[1952年]]) * 12月14日 - [[ポール・エリュアール]]、詩人(+ 1952年) * [[12月25日]] - [[金子光晴]]、詩人(+ 1975年) == 死去 == {{see also|Category:1895年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]]、[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]](* [[1849年]]) * [[3月1日]] - [[ポーリン・マスターズ]]、世界一身長の低い成人女性(* [[1876年]]) * [[3月2日]] - [[ベルト・モリゾ]]、[[画家]](* [[1841年]]) * [[3月17日]] - [[井上毅]]、[[政治家]](* [[1844年]]) * [[4月14日]] - [[ジェームズ・デーナ]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](* [[1813年]]) * [[5月21日]] - [[フランツ・フォン・スッペ]]、[[作曲家]](* [[1819年]]) * [[6月29日]] - [[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]、[[生物学者]](* [[1825年]]) * [[7月29日]] - [[ジョゼフ・ドランブール]]、[[言語学者]](* [[1811年]]) * [[9月14日]] - [[チャールズ・バレンタイン・ライリー]]、[[昆虫学者]](* [[1843年]]) * [[10月3日]] - [[ハリー・ライト]]、元[[メジャーリーガー]](* [[1835年]]) * [[10月25日]] - [[チャールズ・ハレ]]、[[ピアニスト]]・[[指揮者]](* [[1819年]]) * [[11月2日]] - [[ジョルジュ・ダンテス]]、[[元老院 (フランス)|元老院]]議員(* [[1812年]]) * [[11月27日]] - [[アレクサンドル・デュマ・フィス]]、作家(* [[1824年]]) * [[11月30日]] - [[酒井忠績]]、[[江戸幕府]]最後の[[大老]]、[[男爵]](* [[1827年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1895}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1895ねん}} [[Category:1895年|*]]
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5,125
1316年
1316年(1316 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1316年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1316}} {{year-definition|1316}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[正和]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]] : 1976年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[延祐]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠粛王]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3649年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[大慶 (陳朝)|大慶]]3年 * [[仏滅紀元]] : 1858年 - 1859年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 715年 - 716年 * [[ユダヤ暦]] : 5076年 - 5077年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1316|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 旧暦5月 - [[鎌倉幕府]]が[[鎮西探題]]欠員中の[[鎮西警固]]を[[少弐氏]]や[[大友氏]]に委ねる命令を出す。 * 7月10日 - [[北条高時]]が[[鎌倉幕府]]第十四代[[執権]]に就任。 == 誕生 == {{see also|Category:1316年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月2日]] - [[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]、[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](+ [[1390年]]) * [[5月14日]] - [[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]、[[ルクセンブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]]、[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]](+ [[1378年]]) * [[11月15日]] - [[ジャン1世 (フランス王)|ジャン1世]]、[[フランス王国]][[カペー朝]]の第13代[[フランス君主一覧|国王]](+ 1316年) * [[今川範氏]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[守護大名]]、[[駿河国|駿河]][[今川氏]]の第2代当主(+ [[1365年]]) * [[今出川実尹]]、鎌倉時代、[[建武の新政|建武新政]]期の[[公卿]](+ [[1342年]]) * [[崔瑩]]、[[高麗]]の[[武将]](+ [[1388年]]) * [[セミョーン (モスクワ大公)|セミョーン]]、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]]、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国|ウラジーミル大公]](+ [[1353年]]) * [[マグヌス4世 (スウェーデン王)|マグヌス4世]]、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]]、[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王]](+ [[1374年]]) == 死去 == {{see also|Category:1316年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月20日]](正和5年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[信空 (真言律宗)|信空]]、[[鎌倉時代]]の[[真言律宗]]の[[僧]](* [[1231年]]) * [[6月5日]] - [[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]、[[フランス王国]][[カペー朝]]の第12代国王(* [[1289年]]) * [[8月13日]](正和5年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[宇都宮貞綱]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[宇都宮氏]]第8代当主(* [[1266年]]) * [[11月5日]](正和5年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[高峰顕日]]、鎌倉時代の[[臨済宗]]の僧(* [[1241年]]) * [[11月19日]] - [[ジャン1世 (フランス王)|ジャン1世]]、[[フランス王国]][[カペー朝]]の第13代国王(* 1316年) * [[アラー・ウッディーン・ハルジー]]、[[ハルジー朝]]の第2代[[スルターン]](* [[1266年]]?) * [[ヴィテニス]]、[[リトアニア大公国|リトアニア公]](* 生年未詳) * [[オルジェイトゥ]]、[[イルハン朝]]の第8代君主(* [[1281年]]) * [[郭守敬]]、[[元 (王朝)|元]]の[[天文学者]]、[[暦学|暦学者]](* [[1231年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1316}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1316ねん}} [[Category:1316年|*]]
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5,126
1390年
1390年(1390 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1390年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1390}} {{year-definition|1390}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[庚午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[南朝 (日本)|南朝]] : [[元中]]7年 ** [[北朝 (日本)|北朝]] : [[康応]]2年、[[明徳]]元年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2050年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]]:[[洪武]]23年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]]:[[恭譲王]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3723年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]]:[[光泰]]3年 * [[仏滅紀元]]:1932年 - 1933年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:792年 - 793年 * [[ユダヤ暦]]:5150年 - 5151年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1390|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1390年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[10月3日]] - [[ハンフリー・オブ・ランカスター]]、[[グロスター公]](+ [[1447年]]) * [[エリーザベト・フォン・ゲルリッツ]]、[[ルクセンブルク君主一覧|ルクセンブルク女公]](+ [[1451年]]) * [[熊谷信直 (美濃守)|熊谷信直]]、[[室町時代]]の[[武将]](+ [[1438年]]) * [[ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコ]]、[[ポルトガル]]の[[航海者]]、[[探検家]](+ [[1470年]]?) * [[渋川満直]]、室町時代の武将、[[九州探題]](+ [[1434年]]) * [[ジャン・ポトン・ド・ザントライユ]]、[[フランス王国]]の軍人(+ [[1461年]]) * [[成身院光宣]]、室町時代の[[僧]]、武将(+ [[1470年]]) * [[武田信繁 (安芸武田氏)|武田信繁]]、室町時代の武将(+ [[1465年]]) * [[ナースィル・ファラジュ]]、[[マムルーク朝|ブルジー・マムルーク朝]]の第2代・第4代[[スルターン|スルタン]](+ [[1412年]]) * [[庭田幸子]]、[[伏見宮貞成親王]]の[[女房]](+ [[1448年]]) * [[ヤン・ファン・エイク]]、[[初期フランドル派]]の[[画家]](+ [[1441年]]) * [[町藤光]]、室町時代の[[公卿]](+ [[1469年]]) == 死去 == {{see also|Category:1390年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月16日]] - [[ループレヒト1世 (プファルツ選帝侯)|ループレヒト1世]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1309年]]) * [[4月19日]] - [[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]、[[スコットランド王]](* [[1316年]]) * [[5月7日]](明徳元年/元中7年[[3月22日 (旧暦)|閏3月22日]]) - [[無文元選]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1323年]]) * [[8月25日]](明徳元年/元中7年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]) - [[西園寺公永]]、南北朝時代の[[公卿]](* [[1353年]]) * [[10月9日]] - [[フアン1世 (カスティーリャ王)|フアン1世]]、[[カスティーリャ王国]][[トラスタマラ家|トラスタマラ朝]]の[[カスティーリャ君主一覧|国王]](* [[1358年]]) * [[阿答阿者]]、[[チャンパ王国]]の[[チャンパ王の一覧|国王]](* 生年未詳) * [[キラツァ・マリア]]、[[東ローマ帝国]]皇帝[[アンドロニコス4世パレオロゴス]]の皇后(* [[1348年]]) * [[サーリフ・ハーッジー]]、[[マムルーク朝|バフリー・マムルーク朝]]の第28代・第30代[[スルターン|スルタン]](* 生年未詳) * [[曹敏修|曺敏修]]、[[高麗]]の武官(* 生年未詳) * [[山吉長盛]]、南北朝時代、室町時代の武将(* [[1323年]]) * [[李善長]]、[[明]]の政治家(* [[1314年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1390}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1390ねん}} [[Category:1390年|*]]
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5,127
1779年
1779年(1779 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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1779年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1779}} {{year-definition|1779}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[安永]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2439年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]44年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4112年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]40年 ** [[西山朝]] : [[泰徳]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2321年 - 2322年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1192年 - 1193年 * [[ユダヤ暦]] : 5539年 - 5540年 * [[ユリウス暦]] : 1778年12月21日 - 1779年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1779}} == できごと == * [[6月18日]] - [[サリバン遠征]] * [[イギリス帝国]]、[[サミュエル・クロンプトン]]が[[ミュール紡績機]]を発明。 * [[フランス王国]]、農奴廃止令。 *翌年にかけて、記録されている中で最初の[[デング熱]]流行が[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[北アメリカ]]で起こった。 === 日本 === * [[11月8日]](安永8年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]) - [[桜島]]の大噴火([[安永大噴火]]) * [[12月16日]](安永8年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[後桃園天皇]]が崩御、第119代[[天皇]]・[[光格天皇]]が即位。 * [[松前藩]]、[[ロシア帝国]]の通商要求を拒否。 * [[江戸幕府]]の裁定により、[[富士山本宮浅間大社]]が[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]の8合目以上を支配することが認められる。 == 誕生 == {{see also|Category:1779年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]] - [[ゼブロン・パイク]]、[[軍人]]・[[探検家]](+ [[1813年]]) * [[2月21日]] - [[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]]、[[ローマ法]]学者(+ [[1861年]]) * [[3月11日]]([[安永]]8年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[欣子内親王]]、[[光格天皇]]の[[中宮]](+ [[1846年]]) * [[3月15日]] - 第2代[[メルバーン子爵]][[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|ウィリアム・ラム]] - [[イギリスの首相]](+ [[1848年]]) * [[6月3日]](安永8年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[徳川斉匡]]、[[田安徳川家]]第3代当主(+ [[1848年]]) * [[8月1日]] - [[フランシス・スコット・キー]]、[[弁護士]]、[[詩人]](+ [[1843年]]) * [[8月7日]] - [[カール・リッター]]、[[地理学者]](+ [[1859年]]) * [[8月20日]] - [[イェンス・ベルセリウス]]、[[化学者]](+ [[1848年]]) * [[9月8日]] - [[ムスタファ4世]]、[[オスマン帝国]]第29代[[スルタン]](+ [[1808年]]) * [[10月25日]](安永8年[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]) - [[市河米庵]]、[[書家]]・[[漢詩人]](+ [[1858年]]) == 崩御・死去 == {{see also|Category:1779年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月14日]] - [[ジェームズ・クック]]、[[軍人]]、[[探検家]](* [[1728年]]) * [[4月6日]] - [[トンマーゾ・トラエッタ]]、[[作曲家]](* [[1727年]]) * [[11月9日]](安永8年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[富士谷成章]]、[[京都]]の[[国学者]](* [[1738年]]) * [[12月6日]] - [[ジャン・シメオン・シャルダン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jean-Baptiste-Simeon-Chardin Jean-Baptiste-Siméon Chardin French painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](* [[1699年]]) * [[12月16日]](安永8年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[後桃園天皇]]、第118代[[天皇]](* [[1758年]]) == フィクションのできごと == * 加音町に楽器作りが盛んになり、音楽が住人にとって身近なものとなる切っ掛けとなった楽器職人の調辺音衛門が住み着く。(アニメ『[[スイートプリキュア♪]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|1779}} * {{Cite web |author= CDC |url= http://www.cdc.gov/ncidod/dvbid/dengue/index.htm |title= Dengue Fever Fact Sheet – CDC Division of Vector-Borne Infections Diseases(DVBID) |language=英語 |accessdate=2008年3月8日 }} {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1779ねん}} [[Category:1779年|*]]
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5,128
1771年
1771年(1771 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1771年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1771}} {{year-definition|1771}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明和]]8年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2431年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]36年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]47年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4104年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]32年 * [[仏滅紀元]] : 2313年 - 2314年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1184年 - 1185年 * [[ユダヤ暦]] : 5531年 - 5532年 * [[ユリウス暦]] : 1770年12月21日 - 1771年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1771}} == できごと == * [[4月24日]](明和8年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]])- [[八重山地震]]発生、[[津波]]により12,000人の死者・行方不明者。 * [[ベトナム]]南部で、[[西山朝|西山(タイソン)の反乱]]おきる。 * 明和8年 - 「[[択捉島]]の[[アイヌ]]」と「[[羅処和島]]のアイヌ」が団結し、[[得撫島]]と[[磨勘留島]]でロシア人を数十人殺害する事件が発生。 == 誕生 == {{see also|Category:1771年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月17日]] - [[チャールズ・ブロックデン・ブラウン]]、[[小説家]]・[[歴史家]](+ [[1810年]]) * [[3月16日]] - [[アントワーヌ=ジャン・グロ]]、[[画家]](+ [[1835年]]) * [[4月13日]] - [[リチャード・トレビシック]]、[[蒸気機関車]]開発者(+ [[1833年]]) * [[5月14日]] - [[ロバート・オウエン]]、[[空想的社会主義|空想的社会主義者]](+ [[1858年]]) * [[5月26日]] - [[ラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ]]、[[著作家]](+ [[1833年]]) * [[6月1日]] - [[フェルディナンド・パエール]]、[[作曲家]](+ [[1839年]]) * [[6月5日]] - [[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]]、[[ハノーファー王国|ハノーファー王]](+ [[1851年]]) * [[7月29日]](明和8年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[徳川治寶]]、第10代[[紀州藩|紀州藩主]](+ [[1853年]]) * [[8月14日]] - [[ウォルター・スコット]]、[[詩人]]・[[作家]](+ [[1832年]]) * [[9月5日]] - [[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン]]、[[オーストリア帝国|オーストリア]]の皇族(+ [[1847年]]) * [[9月23日]](明和8年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[光格天皇]]、第119代[[天皇]](+ [[1840年]]) * [[10月1日]] - [[ピエール・バイヨ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1842年]]) * [[10月6日]] - [[ジェレマイア・モロー]]、[[オハイオ州知事]](+ [[1852年]]) * [[10月23日]] - [[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]、[[ナポレオン戦争]]期の[[フランス帝国|フランス]]軍人(+ [[1813年]]) * [[11月5日]](明和8年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[松崎慊堂]]、[[儒学者]](+ [[1844年]]) * [[11月6日]] - [[アロイス・ゼネフェルダー]]、[[俳優]]・[[劇作家]](+ [[1834年]]) * [[11月14日]] - [[マリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャ]]、[[解剖学者]]・[[生理学者]](+ [[1802年]]) == 死去 == {{see also|Category:1771年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月12日]] - [[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]、[[スウェーデン|スウェーデン王]](* [[1710年]]) * [[4月29日]] - [[バルトロメオ・ラストレッリ]]、[[建築家]](* [[1700年]]) * [[5月13日]]([[明和]]8年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]])- [[冨士田吉次]]、[[長唄]]の唄方(* [[1714年]]?) * [[7月15日]](明和8年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]])- [[徳川宗武]]、[[田安徳川家]]初代当主(* [[1716年]]) * [[8月28日]](明和8年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]])- [[松平頼恭]]、第5代[[高松藩|高松藩主]](* [[1711年]]) * [[9月17日]](明和8年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[炭太祇]]、[[俳人]](* [[1709年]]) * [[9月28日]](明和8年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]])- [[倫子女王]]、[[江戸幕府]]10代将軍[[徳川家治]]の[[正室]](* [[1738年]]) * [[10月14日]] - [[フランティシェク・クサヴェル・ブリクシ]]、[[作曲家]](* [[1732年]]) * [[10月27日]] - [[ヨハン・ゴットリープ・グラウン]]、作曲家(* [[1703年]]) * [[11月4日]](明和8年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]])- [[稲葉正益]]、江戸幕府[[奏者番]]・[[寺社奉行]]・[[淀藩|淀藩主]](* [[1718年]]) * [[11月6日]] - [[ジョン・ベヴィス]]、[[天文学者]](* [[1693年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1771}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1771ねん}} [[Category:1771年|*]]
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5,129
1829年
1829年(1829 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1829年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1829}} {{year-definition|1829}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文政]]12年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2489年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[道光]]9年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]29年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4162年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[明命]]10年  * [[仏滅紀元]] : 2371年 - 2372年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1244年6月24日 - 1245年7月5日 * [[ユダヤ暦]] : 5589年4月26日 - 5590年4月5日 * [[ユリウス暦]] : 1828年12月20日 - 1829年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -10912 - -10548 * [[リリウス日]](LD) : 89929 - 90293 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1829}} == できごと == * [[3月4日]] - [[アンドリュー・ジャクソン]]、第7代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。 * [[4月24日]] - [[文政の大火]]が発生。 * [[6月10日]] - [[テムズ川]]で[[オックスフォード大学]]・[[ケンブリッジ大学]]間初の[[ザ・ボート・レース|ボート・レース]]が行われ、オックスフォードが優勝。 * [[9月29日]] - イギリスの首都警察スコットランドヤードが発足。 * [[アドリアノープル]]条約で[[ギリシャ]]の[[自治国]]としての独立が承認される。 * イギリスで[[カトリック教徒解放令]]が成立。 == 誕生 == {{see also|Category:1829年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]] - [[アドルフ・シュラーギントヴァイト]]、[[植物学者]]・[[探検家]](+ [[1857年]]) * [[2月9日]](文政12年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]])- [[仮名垣魯文]]、[[戯作者]]・[[新聞記者]](+ [[1894年]]) * [[2月26日]] - [[リーバイ・ストラウス]]、[[リーバイス]]創設者(+ [[1902年]]) * [[3月7日]](文政12年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[西周 (啓蒙家)|西周]]、啓蒙運動家・[[哲学者]](+ [[1897年]]) * [[3月19日]](文政12年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]])- [[瓜生岩子]]、社会事業家(+ [[1897年]]) * [[4月10日]] - [[ウィリアム・ブース]]、[[メソジスト]]説教者、[[救世軍]]の創設者(+ [[1912年]]) * [[6月4日]](文政12年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[陣幕久五郎]]、[[大相撲]]第12代横綱(+ [[1903年]]) * [[6月6日]](文政12年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[本因坊秀策]]、[[囲碁棋士]](+ [[1862年]]) * [[6月8日]] - [[ジョン・エヴァレット・ミレー]]、イギリスの[[画家]]・[[ラファエル前派]](+ [[1896年]]) * [[6月9日]] - [[ガエターノ・ブラーガ]]、[[作曲家]]・[[チェリスト]](+ [[1907年]]) * [[6月16日]] - [[ジェロニモ]]、アメリカ[[インディアン]]・[[アパッチ族]]の[[シャーマニズム|シャーマン]](+ [[1909年]]) * [[7月25日]](文政12年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]) - [[津田真道]]、[[幕臣]]・[[官僚]]・啓蒙学者(+ [[1903年]]) * [[9月7日]] - [[アウグスト・ケクレ]]、ドイツの有機化学者(+ [[1896年]]) * [[9月12日]] - [[アンゼルム・フォイエルバッハ (画家)|アンゼルム・フォイエルバッハ]]、画家(+ [[1880年]]) * [[9月22日]] - [[ウィリアム・ワース・ベルナップ]]、第30代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1890年]]) * [[10月14日]] - [[アーギュスト・マルムストレム]]、[[画家]](+ [[1901年]]) * [[10月24日]](文政12年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[武市瑞山]]、[[志士]]、土佐勤王党の盟主(+ [[1865年]]) * [[11月14日]] - [[カール・ヴィルヘルム・フォン・クッパー]]、[[解剖学者]](+ [[1902年]]) * [[11月28日]] - [[アントン・ルビンシテイン]]、[[音楽家]](+ [[1894年]]) * [[12月6日]](文政12年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[由利公正]]、[[福井藩]]士・[[政治家]]・[[実業家]](+ [[1909年]]) * [[12月10日]](文政12年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[松前崇広]]、[[老中]]、[[蝦夷地]][[松前藩]]第12代藩主(+ [[1866年]]) == 死去 == {{see also|Category:1829年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月4日]]([[文政]]11年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]])- [[酒井抱一]]、[[絵師]](* [[1761年]]) * [[1月11日]] - [[フリードリヒ・シュレーゲル]]、[[思想家]](* [[1772年]]) * [[1月29日]] - [[ティモシー・ピカリング]]、第3代[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1745年]]) * 1月29日 - [[ポール・バラス]]、[[フランス革命]]期の政治家(* [[1755年]]) * [[2月10日]] - [[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]]、第252代[[ローマ教皇]](* [[1760年]]) * [[2月16日]] - [[フランソワ=ジョセフ・ゴセック]]、[[作曲家]](* [[1734年]]) * [[3月19日]] - [[ジョン・テイラー (ニューヨーク州知事)|ジョン・テイラー]]、[[ニューヨーク州]]知事(* [[1742年]]) * [[3月20日]](文政12年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]])- [[高橋景保]]、[[天文学者]] (* [[1785年]]) * [[4月6日]] - [[ニールス・アーベル]]、[[数学者]](* [[1802年]]) * [[4月20日]](文政12年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]])- [[伊沢蘭軒]]、[[医師]](* [[1777年]]) * [[5月10日]] - [[トマス・ヤング]]、[[考古学者]]・[[科学者]](* [[1773年]]) * [[5月15日]] - [[ジョン・ジェイ]]、[[合衆国最高裁判所|アメリカ合衆国最高裁判所]]長官(* [[1745年]]) * [[5月21日]] - [[ミール・アクバール・アリ・カーン]]、[[ニザーム藩王国|ニザーム藩王]](* [[1768年]]) * [[6月14日]](文政12年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]] - [[松平定信]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1758年]]) * [[7月2日]](文政12年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]])- [[徳川重倫]]、第8代[[紀州藩|紀州藩主]](* [[1746年]]) * [[7月6日]](文政12年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]])- [[鹿津部真顔]]、[[狂歌|狂歌師]]・[[戯作|戯作者]](* [[1753年]]) * [[7月16日]](文政12年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[近藤重蔵]]、[[幕臣]]・[[探検家]](* [[1771年]]) * [[8月1日]](文政12年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]])- [[鳥文斎栄之]]、[[浮世絵師]]・[[旗本]](*[[1756年]]) * [[8月18日]](文政12年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]])- [[菅江真澄]]、[[旅行|旅行家]]・[[博物学|博物学者]](* [[1754年]]) * [[9月8日]](文政12年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]])- [[鏡岩濱之助]]、[[大相撲]]の[[力士]](* [[1769年]]) * [[9月22日]](文政12年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]])- [[松平頼儀]]、第8代[[高松藩|高松藩主]](* [[1775年]]) * [[10月2日]](文政12年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]])- [[堀田仁助]]、天文学者(* [[1747年]]) * [[10月29日]] - [[マリア・アンナ・モーツァルト]]、作曲家[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の姉(* [[1751年]]) * [[10月31日]](文政12年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]])- [[徳川斉脩]]、第8代[[水戸藩|水戸藩主]](* [[1797年]]) * [[11月14日]] - [[ルイ=ニコラ・ヴォークラン]]、[[化学者]](* [[1763年]]) * [[12月22日]](文政12年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[鶴屋南北 (4代目)|鶴屋南北]]、[[狂言]]作家(* [[1755年]]) * [[12月28日]] - [[ジャン=バティスト・ラマルク]]、[[生物学|生物学者]](* [[1744年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1829}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1829ねん}} [[Category:1829年]]
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5,130
1846年
1846年(1846 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1846年(1846 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "崩御・死去" } ]
1846年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1846}} {{year-definition|1846}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[天保暦]]) ** [[弘化]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2506年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[道光]]26年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4179年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[紹治]]6年  * [[仏滅紀元]] : 2388年 - 2389年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1262年1月3日 - 1263年1月12日 * [[ユダヤ暦]] : 5606年4月3日 - 5607年4月12日 * [[ユリウス暦]] : 1845年12月20日 - 1846年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -4703 - -4339 * [[リリウス日]](LD) : 96138 - 96502 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1846}} == できごと == * [[3月10日]]([[弘化]]3年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[孝明天皇]]即位{{要出典|date=2021-03}} * [[4月25日]] - [[米墨戦争]]勃発{{要出典|date=2021-04}} * [[5月8日]] - 米墨戦争:[[パロ・アルトの戦い]] * [[5月13日]] - 米墨戦争:米国が[[メキシコ]]に宣戦布告 * [[5月16日]] - 英国で首相[[ロバート・ピール|ピール]]の主導により[[穀物法]]廃止([[自由貿易]]体制確立) * [[5月17日]] - [[アドルフ・サックス]]が[[サクソフォーン]]の特許を取得 * [[6月10日]] - 米墨戦争:[[カリフォルニア共和国]]がメキシコに宣戦布告 * [[6月15日]] - 英国・米国間で[[オレゴン条約]]締結(北緯49度線) * [[6月16日]] - [[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が第255代[[教皇|ローマ教皇]]に就任 * [[6月19日]] - 公式な記録に残る史上初の野球の試合がニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン球場で行われる。 * [[6月25日]] - 英国で[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]ら保守党保護貿易派と野党[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の共闘でアイルランド強圧法案が否決。ピール内閣総辞職不可避に。 * [[6月30日]] - [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]がイギリスの32代首相に就任。 * [[7月6日]] - 英国で第1次[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ラッセル]]内閣(ホイッグ党政権)成立 * [[7月19日]](弘化3年閏5月27日) - [[ジェームズ・ビドル]]提督率いる米国軍艦2隻が[[浦賀水道]]に来航し通商を打診 * [[7月27日]](弘化3年6月5日) - [[浦賀奉行]]が通商拒否・退去通告 * [[7月29日]](弘化3年6月7日) - 仏国インドシナ艦隊司令官セシュ長崎来航。 * [[9月23日]] - ベルリン天文台のJ・ガレが天文学者U・ルベリエの計算に基づき、[[海王星]]を発見 * [[12月28日]] - 米国で[[アイオワ州|アイオワ]]が29番目に州となる === 日付不詳 === * [[輪転印刷機]]が発明される。 == 誕生 == {{see also|Category:1846年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]] - [[ルドルフ・クリストフ・オイケン]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1926年]]) * [[2月9日]] - [[ヴィルヘルム・マイバッハ]]、[[自動車]]技術者(+ [[1929年]]) * 2月9日 - [[レオポルト・フォン・バイエルン]](+ [[1930年]]) * [[2月11日]]([[弘化]]3年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]])- [[小松宮彰仁親王]]、日本の[[皇族]](+ [[1903年]]) * [[2月22日]] - [[エラ・アダイェフスカヤ]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]]・[[民族音楽学]]研究家(+ [[1926年]]) * [[2月24日]] - [[ルイージ・デンツァ]]、[[作曲家]](+ [[1922年]]) * [[2月26日]] - [[バッファロー・ビル]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](+ [[1917年]]) * [[2月27日]] - [[フランツ・メーリング]]、[[社会主義]]思想家・運動家(+ [[1919年]]) * [[3月9日]] - [[エミール・ワールブルク]]、[[物理学者]](+ [[1931年]]) * [[3月10日]] - [[エディ・リンカーン]]、[[エイブラハム・リンカーン]]の次男(+ [[1850年]]) * [[3月17日]] - [[ケイト・グリーナウェイ]]、[[挿絵]][[画家]]・[[絵本作家]](+ [[1901年]]) * [[3月22日]] - [[ランドルフ・コールデコット]]、[[イラストレーター]]・[[美術家]](+ [[1886年]]) * [[4月4日]] - [[ロートレアモン伯爵]]、[[詩人]](+ [[1870年]]) * [[4月5日]](弘化3年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[西寛二郎]]、[[陸軍軍人]](+ [[1912年]]) * [[4月9日]] - [[フランチェスコ・パオロ・トスティ]]、[[作曲家]](+ [[1916年]]) * [[4月20日]] - [[ヴャチェスラフ・プレーヴェ]]、[[ロシア帝国]]内相(+ [[1904年]]) * [[4月28日]] - [[オスカル・バックルンド]]、[[天文学者]](+ 1916年) * [[5月4日]] - [[エミール・ガレ]]、ガラス工芸家(+ [[1904年]]) * [[5月5日]] - [[ヘンリク・シェンキェヴィチ]]、[[小説家]](+ [[1916年]]) * [[5月12日]](弘化3年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]])- [[山内豊範]]、第16代[[土佐藩|土佐藩主]](+ [[1886年]]) * [[5月16日]] - [[オットマール・アンシュッツ]]、[[発明家]](+ [[1907年]]) * [[5月25日]] - [[ヘレナ (イギリス王女)|ヘレナ]]、[[イギリス]]女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の第3王女(+ [[1923年]]) * [[6月19日]] - [[エドワード・ピッカリング]]、[[天文学者]](+ [[1919年]]) * [[7月3日]](弘化3年[[閏]][[5月10日 (旧暦)|5月10日]])- [[和宮親子内親王]]、[[孝明天皇]]の妹宮・徳川家茂の妻(+ [[1877年]]) * [[7月10日]] - [[エリーザベト・フェルスター=ニーチェ]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]の妹(+ [[1935年]]) * [[7月17日]](弘化3年閏[[5月24日 (旧暦)|5月24日]])- [[徳川家茂]]、[[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1866年]]) * [[7月29日]] - [[ゾフィー・メンター]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1918年]]) * [[8月21日]] - [[ヤーコプ・ハイルマン]]、[[実業家]](+ [[1927年]]) * [[9月4日]] - [[ダニエル・バーナム]]、[[建築家]](+ [[1912年]]) * [[9月16日]] - [[セス・チャンドラー]]、[[天文学者]](+ [[1913年]]) * [[9月19日]](弘化3年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]])- [[箕作麟祥]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]](+ [[1897年]]) * [[9月25日]] - [[ウラジミール・ペーター・ケッペン]]、[[気象学|気象学者]](+ [[1940年]]) * [[9月28日]](弘化3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]])- [[蜂須賀茂韶]]、第14代[[徳島藩|徳島藩主]](+ [[1918年]]) * 9月28日(弘化3年8月8日)- [[内藤魯一]]、[[立憲政友会]][[衆議院議員]](+ [[1911年]]) * [[10月5日]](弘化3年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])- [[中島信行]]、初代[[衆議院議長]](+ [[1899年]]) * [[10月21日]] - [[エドモンド・デ・アミーチス]]、小説家(+ [[1908年]]) * [[10月24日]](弘化3年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[雨宮敬次郎]]、明治の大実業家<!-- 項目内で述べれば十分では? 。[[大日本軌道]]を設立。[[甲武鉄道]](現JR[[中央本線|中央線]])、[[江ノ島電鉄]]、[[京浜急行電鉄|京浜電鉄]]等の多くの鉄道会社の経営に携わった[[鉄道資本家]]。[[泰靖社]](日本製粉の前身)、[[雨宮製作所]]の設立。[[軽井沢]]の開墾・植林事業。熱海別荘(現[[熱海梅園]])にて逝去-->(+ [[1911年]]) * [[10月26日]] - [[ルイス・ボス]]、天文学者(+ [[1912年]]) * [[10月28日]] - [[オーギュスト・エスコフィエ]]、[[シェフ]](+ [[1935年]]) * [[11月7日]] - [[イグナーツ・ブリュル]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1907年]]) * [[12月13日]] - [[ニコライ・ヤロシェンコ]]、[[画家]](+ [[1898年]]) == 崩御・死去 == {{see also|Category:1846年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月15日]] - [[オットー・フォン・コツェブー]]、航海士・[[探検家]](* [[1787年]]) * [[2月21日]]([[弘化]]3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]])- [[仁孝天皇]]、日本の[[天皇]](* [[1800年]]) * [[3月17日]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]、[[数学者]]・[[天文学者]](* [[1784年]]) * [[4月16日]] - [[ドメニコ・ドラゴネッティ]]、[[コントラバス]]奏者・[[作曲家]](* [[1763年]]) * [[6月1日]] - [[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]]、[[教皇|ローマ教皇]](* [[1765年]]) * 6月1日(弘化3年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[徳川斉順]]、[[紀州藩|紀州藩主]](* [[1801年]]) * [[6月8日]] - [[ロドルフ・テプフェール]]、[[画家]]・[[漫画家]](* [[1799年]]) * [[6月16日]](弘化3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]])- [[浦上春琴]]、[[文人画|文人画家]](* [[1779年]]) * [[6月22日]](弘化3年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]])- [[宇田川榕菴]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1798年]]) * [[8月24日]] - [[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]、[[軍人]]・[[探検家]](* [[1770年]]) * [[9月26日]] - [[トマス・クラークソン]]、[[奴隷]]制反対運動指導者(* [[1760年]]) * [[11月30日]] - [[フリードリッヒ・リスト]]、[[経済学者]]・[[歴史学者]](* [[1789年]]) * [[12月2日]](弘化3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])- [[伴信友]]、[[国学|国学者]](* [[1773年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1846}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1846ねん}} [[Category:1846年]]
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5,131
1836年
1836年(1836 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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1836年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1836}} {{year-definition|1836}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[天保]]7年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2496年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[道光]]16年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4169年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[明命]]17年 * [[仏滅紀元]] : 2378年 - 2379年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1251年9月12日 - 1252年9月22日 * [[ユダヤ暦]] : 5596年4月11日 - 5597年4月23日 * [[ユリウス暦]] : 1835年12月20日 - 1836年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -8356 - -7991 * [[リリウス日]](LD) : 92485 - 92850 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1836}} == できごと == * [[2月14日]](天保6年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]) - [[井伊直亮]]が[[大老]]に就任{{要出典|date=2021-03}}。 * [[2月23日]] - [[テキサス革命|テキサス独立戦争]]: [[アラモの戦い]](〜3月6日) * [[3月2日]] - [[テキサス州|テキサス]]が[[メキシコ]]から独立を[[テキサス独立宣言|宣言]]([[テキサス共和国]]) * [[4月21日]] - [[テキサス革命|テキサス独立戦争]]: [[サンジャシントの戦い]] * [[6月15日]] - 米国で[[アーカンソー州|アーカンソー]]が25番目に州となる * [[7月29日]] - パリで[[エトワール凱旋門]]竣工 * [[9月5日]] - テキサス共和国で[[サミュエル・ヒューストン]]が初代大統領に選出 * [[10月2日]] - [[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が調査を終えて[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]でファルマス港に帰港 * [[10月22日]] - サミュエル・ヒューストンがテキサス共和国初代大統領に選出される。 * [[12月7日]] - [[1836年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選挙]]で[[マーティン・ヴァン・ビューレン]]が勝利 === 日付不詳 === * [[斎藤月岑]]『[[江戸名所図会]]』全巻刊行 * [[:Category:アンデルセン童話|アンデルセン童話]]『[[人魚姫]]』発表 == 誕生 == {{see also|Category:1836年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]](天保6年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[坂本龍馬]]、[[海援隊]]隊長(+ [[1867年]]) * [[1月8日]] - [[ローレンス・アルマ=タデマ]]、[[画家]](+ [[1912年]]) * [[1月14日]] - [[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、画家・[[版画家]](+ [[1904年]]) * [[1月16日]](天保6年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]])- [[井上馨]]、[[政治家]](+ [[1915年]]) * [[2月5日]](天保6年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]])- [[天璋院]]、[[徳川家定]][[正室]](+ [[1883年]]) * 2月5日 - [[ニコライ・ドブロリューボフ|ドブロリューボフ]]、[[ロシア]]の[[文芸]][[評論家]]・[[社会]][[批評家]](+ [[1861年]]) * [[2月9日]](天保6年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]])- [[澤宣嘉]]、[[公家]](+ [[1873年]]) * [[2月12日]](天保6年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[五代友厚]]、[[薩摩藩]]士・実業家(+ [[1885年]]) * [[2月15日]](天保6年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]])- [[松平容保]]、[[会津藩]]主(+ [[1893年]]) * [[2月18日]] - [[シュリ・ラーマクリシュナ|ラーマクリシュナ]]、[[インド]]の宗教家(+ [[1886年]]) * [[2月21日]] - [[レオ・ドリーブ]]、[[作曲家]](+ [[1891年]]) * [[2月29日]]―[[加屋霽堅]]、・[[敬神党]]党首・[[神風連]]参謀(+[[1876年]]) * [[3月12日]] - [[ビートン夫人]]、[[家政|家政書]][[著作家]](+ [[1865年]]) * [[3月14日]] - [[ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル]]、画家(+ [[1911年]]) * [[3月20日]] - [[エドワード・ポインター]]、画家・[[デザイナー]](+ [[1919年]]) * [[4月7日]] - [[トーマス・ヒル・グリーン]]、[[哲学者]](+ [[1882年]]) * [[4月24日]] - [[ウィンスロー・ホーマー]]、画家(+ [[1910年]]) * [[6月12日]](天保7年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]])- [[荒井郁之助]]、幕臣・官僚(+ [[1909年]]) * [[7月8日]] - [[ジョゼフ・チェンバレン]]、イギリス植民地大臣(+ [[1914年]]) * [[7月23日]](天保7年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]])- [[山岡鉄舟]]、幕臣・[[幕末の三舟]]の一人(+ [[1888年]]) * [[8月5日]](天保7年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[加藤弘之]]、[[政治学者]]・教育家(+ [[1916年]]) * [[8月13日]] - [[ニコライ・カサートキン]]、[[ロシア正教会]][[大主教]]、[[日本正教会]]の創建者(+ [[1912年]]) * [[9月7日]] - [[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]、[[イギリスの首相]](+ [[1908年]]) * [[9月8日]](天保7年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]])- [[高崎正風]]、[[志士]]・[[歌人]](+ [[1912年]]) * [[10月4日]](天保7年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[川田小一郎]]、[[実業家]]・政治家(+ [[1896年]]) * [[10月5日]](天保7年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]])- [[榎本武揚]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Enomoto-Takeaki Enomoto Takeaki Japanese naval officer and statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、政治家(+ [[1908年]]) * [[12月18日]](天保7年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]])- [[川村純義]]、軍人・薩摩藩士・[[海軍大将]](+ [[1904年]]) == 死去 == {{see also|Category:1836年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月6日]] - [[デイヴィッド・クロケット|デヴィー・クロケット]]、[[軍人]]、政治家(* [[1786年]]) * [[5月7日]] - [[ノルベルト・ブルグミュラー]]、作曲家(* [[1810年]]) * [[5月28日]] - [[アントニーン・レイハ]]、作曲家(* [[1770年]]) * [[6月6日]] - [[アントン (ザクセン王)|アントン]]、[[ザクセン王国|ザクセン]][[国王|王]](* [[1755年]]) * [[6月28日]] - [[ジェームズ・マディソン]]、第4代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1751年]]) * [[7月28日]] - [[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]、銀行家(* [[1777年]]) * [[9月17日]] - [[アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー]]、[[植物学者]](* [[1748年]]) * [[10月10日]] - [[マーサ・ワシントン・ジェファーソン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1772年]]) * [[10月14日]](天保7年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[最上徳内]]、[[探検家]](* [[1754年]]) * [[11月6日]] - [[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]、[[フランス王国|フランス]]王(* [[1757年]]) * [[11月26日]] - {{仮リンク|ジョン・ロウドン・マカダム|en|John Loudon McAdam}}、道路建設技術者(* [[1756年]]) * [[12月24日]](天保7年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[飯塚伊賀七]]、[[発明家]](* [[1762年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1836}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1836ねん}} [[Category:1836年|*]]
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1808年
1808年(1808 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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1808年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1808}} {{year-definition|1808}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2468年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]13年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4141年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]7年  * [[仏滅紀元]] : 2350年 - 2351年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1222年11月2日 - 1223年11月13日 * [[ユダヤ暦]] : 5568年4月1日 - 5569年4月12日 * [[ユリウス暦]] : 1807年12月20日 - 1808年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -18583 - -18218 * [[リリウス日]](LD) : 82258 - 82623 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1808}} == できごと == [[ファイル:El Tres de Mayo, by Francisco de Goya, from Prado in Google Earth.jpg|thumb|200px|イベリア半島戦争中の出来事を描いた[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]『[[マドリード、1808年5月3日]]』]] * 1月 - [[ブラガンサ王朝]]、[[ブラジル]]に到着 * 3月 - ブラガンサ王朝、[[リオデジャネイロ]]を首都と定める * [[6月6日]] - [[ジョゼフ・ボナパルト]]、[[スペイン]]王となる * [[10月4日]]([[文化 (元号)|文化]]5年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])- [[フェートン号事件]] * [[イベリア半島戦争]](-[[1813年]]) * [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』第1部出版 * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[奴隷]]貿易を禁止 * [[間宮林蔵]]、[[樺太]]を探検。 * [[ゲイ=リュサック]]、[[気体反応の法則]]を発見。 == 芸術・文化 == * [[12月22日]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]](運命)と[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」]]が[[オーストリア]][[ウィーン]]近郊アン・デア・ヴィーン劇場にて初演 == 誕生 == {{see also|Category:1808年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月26日]] - [[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]、フランスの[[画家]](+ [[1879年]]) * [[4月6日]] - [[ケイレブ・ブラッド・スミス]]、第6代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1864年]]) * [[4月10日]] - [[オーギュスト・フランショーム]]、[[チェリスト]]・[[作曲家]](+ [[1884年]]) * [[4月20日]] - [[ナポレオン3世]]、[[フランス第二帝政]]の[[皇帝]](+ [[1873年]]) * [[5月22日]] - [[ジェラール・ド・ネルヴァル]]、[[詩人]](+ [[1855年]]) * [[6月3日]] - [[ジェファーソン・デイヴィス]]、アメリカの[[政治家]]・[[南北戦争]]の[[南部連合]]の大統領(+ [[1889年]]) * [[7月6日]] - [[ヨハン・グスタフ・ドロイゼン|ドロイゼン]]、ドイツの[[歴史家]](+ [[1884年]]) * [[7月13日]] - [[パトリス・ド・マクマオン|マクマオン]]、フランスの[[軍人]](+ [[1898年]]) * [[9月6日]] - [[アブド・アルカーディル]]、[[アルジェリア]]の反仏運動指導者(+ [[1883年]]) * [[10月5日]] - [[ヴィルヘルム・ヴァイトリング|ヴァイトリング]]、ドイツの[[社会主義者]](+ [[1871年]]) * [[11月22日]] - [[トーマス・クック]]、イギリスの[[旅行業]]者(+ [[1892年]]) * [[12月29日]] - [[アンドリュー・ジョンソン]]、第17代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1875年]]) == 死去 == {{see also|Category:1808年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月13日]] - [[クリスチャン7世 (デンマーク王)|クリスチャン7世]]、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]([[デンマーク=ノルウェー]])の[[王]](* [[1749年]]) * [[4月19日]](寛元元年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]])- [[松平康英 (長崎奉行)|松平康英]]、[[長崎奉行]]、フェートン号事件の責任を取って[[切腹]](* [[1768年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1808}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1808ねん}} [[Category:1808年|*]]
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5,133
1812年
1812年(1812 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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1812年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
{{otheruses||[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の管弦楽曲|1812年 (序曲)}} {{年代ナビ|1812}} {{year-definition|1812}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2472年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]17年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4145年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]11年  * [[仏滅紀元]] : 2354年 - 2355年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1226年12月16日 - 1227年12月26日 * [[ユダヤ暦]] : 5572年4月16日 - 5573年4月28日 * [[ユリウス暦]] : 1811年12月20日 - 1812年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -17122 - -16757 * [[リリウス日]](LD) : 83719 - 84084 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1812}} == できごと == * [[2月11日]] - 米国でマサチューセッツ州知事[[エルブリッジ・ゲリー]]が[[ゲリマンダー]]を考案 * [[2月27日]] - [[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン卿]]が[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員として[[ラッダイト運動]]弾圧反対の演説を行う * [[3月26日]] - [[ベネズエラ]]で[[地震]](死者2万人) * [[4月4日]] - 米[[ジェームズ・マディソン|マディソン]]大統領が英国と90日間の[[禁輸]]を命令 * [[4月30日]] - 米国で[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]が18番目に州となる * [[5月11日]] - 英[[スペンサー・パーシヴァル|パーシヴァル]]首相が暗殺される * [[5月28日]] - [[露土戦争 (1806年)|露土戦争]] : [[ブカレスト条約 (1812年)]]調印により終結 * [[6月1日]] - [[米英戦争]]: 米[[ジェームズ・マディソン|マディソン]]大統領が英国への宣戦を[[アメリカ合衆国議会|議会]]に諮問 * [[6月8日]] - 第2代[[リヴァプール伯爵]][[ロバート・ジェンキンソン (第2代リヴァプール伯爵)|ロバート・ジェンキンソン]]内閣が成立(-[[1827年]]) * [[6月18日]] - 米英戦争: 米国が英国に宣戦布告 *[[6月23日]] - [[1812年ロシア戦役]]: ナポレオン率いる[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]が[[ネマン川]]を渡河 * [[7月12日]] - 米英戦争: 米軍が[[ウィンザー (オンタリオ州)]]に侵攻 * [[8月19日]] - 米英戦争: 米艦[[コンスティチューション (フリゲート)|コンスティチューション]]が英艦ゲリエールを破壊 * [[9月7日]] - 1812年ロシア戦役: [[ボロジノの戦い]] * [[9月14日]] - 1812年ロシア戦役: ナポレオン軍が空の[[モスクワ]]に入城 * [[10月5日]]-[[11月10日]] - イギリスで{{仮リンク|1812年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1812}}。 * [[10月13日]] - 米英戦争: 米軍が[[クィーンストン・ハイツの戦い]]で英国カナダ軍に敗北 * [[10月18日]] - 1812年ロシア戦役: [[ポロツクの戦い]] * [[10月19日]] - 1812年ロシア戦役: ナポレオン軍がモスクワからの撤退を開始 * [[10月24日]] - 1812年ロシア戦役: [[マロヤロスラベツの戦い]] * [[11月3日]] - 1812年ロシア戦役: [[ビャジマの戦い]] * [[11月5日]] - [[1812年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選挙]]で[[ジェームズ・マディソン]]が再選 * [[11月15日]] - 1812年ロシア戦役: [[クラスノイの戦い]](〜11月18日) * [[11月26日]] - 1812年ロシア戦役: [[ベレジナ川の戦い]](〜11月29日) * [[12月20日]] - [[グリム兄弟]]「[[グリム童話]]」第1巻出版 === 日付不詳 === * [[朝鮮]]:[[洪景来の乱]]([[1811年]]-)鎮圧。 == 誕生 == {{see also|Category:1812年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月12日]] - [[エルコレ・デンボウスキー]]、[[天文学者]](+ [[1881年]]) * [[2月5日]] - [[ジョルジュ・ダンテス]]、[[元老院 (フランス)|元老院]]議員(+ [[1895年]]) * [[2月7日]] - [[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]、イギリスの[[小説家]](+ [[1870年]]) * [[2月16日]] - [[ヘンリー・ウィルソン]] - 第18代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1875年]]) * [[2月17日]](文化9年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]) - [[有栖川宮幟仁親王]]、[[皇族]](+ [[1886年]]) * [[3月12日]] - [[ジョゼフ・プレストウィッチ]]、[[地質学者]]・[[実業家]](+ [[1896年]]) * [[4月6日]] - [[アレクサンドル・ゲルツェン|ゲルツェン]]、ロシアの[[文学者]]、[[革命]][[思想家]](+ [[1870年]]) * [[4月15日]] - [[テオドール・ルソー]]、フランスの[[バルビゾン派]][[画家]](+ [[1867年]]) * [[4月18日]](文化9年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[白石正一郎]]、豪商(+ [[1880年]]) * [[4月27日]] - [[フリードリッヒ・フォン・フロトー]]、[[作曲家]](+ [[1883年]]) * [[5月7日]] - [[ロバート・ブラウニング]]、詩人(+ [[1889年]]) * [[5月12日]] - [[エドワード・リア]]、[[画家]]・[[詩人]](+ [[1888年]]) * [[6月9日]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]、天文学者(+ [[1910年]]) * [[6月18日]] - [[イワン・ゴンチャロフ]]、ロシアの作家(+ [[1891年]]) * [[6月21日]] - [[モーゼス・ヘス]]、[[哲学者]](+ [[1875年]]) * [[8月17日]](文化9年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[松平忠固]]、[[老中]](+ [[1859年]]) * [[9月25日]] - [[ジャン=バティスト・サンジュレー]]、作曲家・指揮者(+ [[1875年]]) * [[12月23日]] - [[左宗棠]]、[[清]]末の[[政治家]](+ [[1885年]]) * [[12月23日]] - [[サミュエル・スマイルズ|スマイルズ]]、[[スコットランド]]生まれのイギリスの[[作家]]、[[医師]](+ [[1904年]]) * [[12月28日]] - [[ユリウス・リーツ]]<ref>{{cite journal|title=Dr. Julius Rietz.|journal=Dwight's Journal of Music: A Paper of Art and Literature|pages=113|date=October 27, 1877|volume=37|issue=15|last=Dwight|first=John Sullivan |url=https://books.google.co.jp/books?id=anE_AAAAMAAJ&pg=PA113&dq=%22julius+rietz%22+dwight+john&ei=pk8RR5ySH4P06wLBq-XQBw&redir_esc=y&hl=ja}}(『[[ミュージカル・タイムズ|ロンドン・ミュージカル・タイムズ]]』誌の訃報欄からの抜粋)</ref>、[[指揮者]]・[[チェリスト]]・[[作曲家]](+ [[1877年]]) * 日付不明 - [[橘曙覧]]、[[歌人]](+ [[1868年]]) == 死去 == {{see also|Category:1812年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月20日]] - [[ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jan-Ladislav-Dussek Jan Ladislav Dussek Bohemian pianist and composer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、作曲家、[[ピアニスト]](* [[1760年]]) * [[4月20日]] - [[ジョージ・クリントン]]、第4代アメリカ合衆国副大統領(* [[1739年]]) * [[5月13日]] - [[ヨハン・マティーアス・シュペルガー]]、作曲家、[[コントラバス]]奏者(* [[1750年]]) * [[6月]] - [[リチャード・カーワン]]、[[科学者]](* [[1733年]]) * [[7月25日]](文化9年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[諏訪忠厚]]、[[信濃国]][[諏訪藩]][[藩主]](* [[1746年]]) * [[9月12日]] - [[ピョートル・イワノヴィッチ・バグラチオン]]、[[ロシア]]の[[将軍]](* [[1765年]]) * [[9月21日]] - [[エマヌエル・シカネーダー]]、[[劇作家]]、[[俳優]](* [[1751年]]) * 日付不明 - [[趙翼]]、[[考証学|考証学者]](* [[1727年]]) * 日付不明 - [[マリー・アレル]]、[[カマンベールチーズ]]発明者(* [[1761年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1812}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] * [[1812年 (序曲)]] - [[1812年ロシア戦役]]をテーマとした[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の管弦楽曲 <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1812ねん}} [[Category:1812年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4
5,134
1817年
1817年(1817 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1817年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1817}} {{year-definition|1817}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]14年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2477年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]22年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]17年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4150年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]16年  * [[仏滅紀元]] : 2359年 - 2360年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1232年2月12日 - 1233年2月21日 * [[ユダヤ暦]] : 5577年4月13日 - 5578年4月22日 * [[ユリウス暦]] : 1816年12月20日 - 1817年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -15295 - -14931 * [[リリウス日]](LD) : 85546 - 85910 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1817}} == できごと == * [[3月4日]] - [[ジェームズ・モンロー]]が第5代[[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]]に就任{{要出典|date=2021-04}} * [[3月8日]] - [[ニューヨーク証券取引所]]が発足する。 * [[7月4日]] - 米国で[[エリー運河]]建設開始 * [[10月31日]](文化14年9月21日) - 第120代[[仁孝天皇]]が即位 * [[12月10日]] - 米国で[[ミシシッピ州|ミシシッピ]]が20番目に州となる === 日付不詳 === * [[リチウム]]の発見(J・A・アルフェドソン) * [[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]が成立。 == 誕生 == {{see also|Category:1817年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月15日]] - [[シャルル=フランソワ・ドービニー]]、[[画家]](+ [[1878年]]) * [[2月23日]] - [[ジョージ・フレデリック・ワッツ]]、画家・[[彫刻家]](+ [[1904年]]) * [[3月4日]] - [[エドワーズ・ピアポント]]、第33代[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1892年]]) * [[3月27日]] - [[カール・ネーゲリ]]、[[植物学者]](+ [[1891年]]) * [[5月11日]] - [[ファニー・チェッリート]]、[[バレエ]]ダンサー・[[振付師]](+ [[1909年]]) * [[6月30日]] - [[ジョセフ・ダルトン・フッカー]]、[[植物学者]](+ [[1911年]]) * [[7月12日]] - [[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー|ソロー]]、アメリカの[[思想家]]・[[詩人]](+ [[1862年]]) * [[7月29日]] - [[イヴァン・アイヴァゾフスキー]]、画家(+ [[1900年]]) * [[8月1日]] - [[リチャード・ダッド]]、画家(+ [[1886年]]) * [[8月4日]] - [[フレデリック・セオドア・フリーリングハイゼン]]、第29代[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1885年]]) * [[9月5日]] - [[アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ]]、[[詩人]]・[[小説家]]・[[劇作家]](+ [[1875年]]) * [[9月14日]] - [[テオドール・シュトルム]]、[[法律家]]・[[小説家]](+ [[1888年]]) * [[10月7日]] - [[サイイド・アフマド・ハーン]]、インドの[[ムスリム]][[思想家]](+ [[1898年]]) * [[11月10日]] - [[トーマス・ウィリアム・キンダー|キンダ―]]、イギリスの[[技師]]・[[お雇い外国人]]([[造幣寮]]首長)(+ [[1884年]]) * [[11月30日]] - [[テオドール・モムゼン|モムゼン]]、ドイツの[[歴史家]]・[[ノーベル文学賞]]受賞者(+ [[1903年]]) * [[12月2日]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]])- [[島津久光]]、[[薩摩国]]の藩政家(+ [[1887年]]) * [[12月19日]] - [[シャルル・ダンクラ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1907年]]) * [[12月22日]] - [[トゥイスコン・ツィラー]]、[[文献学者]]・[[教育学者]](+ [[1882年]]) == 死去 == {{see also|Category:1817年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月1日]](文化14年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[中井履軒]]、[[儒学者]](* [[1732年]]) * [[4月12日]] - [[シャルル・メシエ]]、[[天文学者]](* [[1730年]]) * [[6月1日]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[杉田玄白]]、蘭方医・「[[解体新書]]」翻訳者(* [[1733年]]) * [[6月13日]] - [[エベニーザー・ハザード]]、第3代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1744年]]) * [[6月17日]](文化14年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[古賀精里]]、儒学者(* [[1750年]]) * [[7月13日]](文化14年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[海保青陵]]、儒学者・[[経世家]](* [[1755年]])  * [[7月14日]] - [[アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール]]、[[批評家]]・[[小説家]](* [[1766年]]) * [[7月18日]] - [[ジェーン・オースティン]]、小説家(* [[1775年]]) * [[9月26日]](文化14年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]) - [[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]、[[老中]]首座、三河[[三河吉田藩|吉田藩]]第4代藩主(* [[1763年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1817}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]]<!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1817ねん}} [[Category:1817年|*]]
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5,135
1780年
1780年(1780 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
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1780年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1780}} {{year-definition|1780}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[安永 (元号)|安永]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2440年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]45年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]4年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4113年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]41年 ** [[西山朝]] : [[泰徳]]3年 * [[仏滅紀元]] : 2322年 - 2323年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1193年 - 1195年 * [[ユダヤ暦]] : 5540年 - 5541年 * [[ユリウス暦]] : 1779年12月21日 - 1780年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1780}} == できごと == * [[3月8日]] - [[ヨーロッパ]]にて[[武装中立同盟]]結成 :[[ロシア帝国]]皇帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の提唱による。 * [[4月17日]] - [[マルティニーク島の海戦]]の勃発 * [[5月19日]] - [[ニューイングランドの暗黒日]]<ref name=:01>{{cite news |title= Ten Notable Apocalypses that (Obviously) Didn't Happen |url= http://www.smithsonianmag.com/history-archaeology/Ten-Notable-Apocalypses-That-Obviously-Didnt-Happen.html|work= [[スミソニアン (雑誌)|Smithsonian]] |date= November 12, 2009 |access-date= November 14, 2009 }}</ref> * [[5月29日]] - [[ワックスホーの虐殺]]([[アメリカ独立戦争]]中の一戦) * [[8月16日]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[キャムデンの戦い]] * [[9月9日]]-[[10月18日]] - イギリスで[[1780年イギリス総選挙|総選挙]]。 * [[9月10日]] - 第2次[[マイソール戦争]]の勃発( - [[1784年]]) == 誕生 == {{see also|Category:1780年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月7日]] - [[アレクサンドル・デシャペル]]、非公式の[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの世界チャンピオン]](+ [[1847年]]) * [[4月4日]] - [[エドワード・ヒックス]]、[[画家]](+ [[1849年]]) * [[4月29日]] - [[シャルル・ノディエ]]、[[小説家]](+ [[1844年]]) * [[5月1日]] - [[フィリップ・マールハイネッケ]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1846年]]) * [[5月5日]] - [[ミケーレ・テノーレ]]、[[植物学者]](+ [[1861年]]) * [[5月9日]] - [[ウィリアム・デュアン (政治家)|ウィリアム・ドウェイン]]、第11代[[アメリカ合衆国財務長官]](+ [[1865年]]) * [[5月14日]] - [[ジュール・ド・ポリニャック]]、[[フランスの首相|フランス首相]](+ [[1847年]]) * [[5月29日]] - [[アンリ・ブラコノー]]、[[化学者]](+ [[1855年]]) * [[7月1日]] - [[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]、[[軍事学者]](+ [[1831年]]) * [[8月20日]] - [[ポーリーヌ・ボナパルト]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]の妹(+ [[1825年]]) * [[8月29日]] - [[ドミニク・アングル]]、画家(+ [[1867年]]) * 8月29日 - [[リチャード・ラッシュ (政治家)|リチャード・ラッシュ]]、[[アメリカ合衆国司法長官]]・財務長官(+ [[1859年]]) * [[9月3日]] - [[ハインリッヒ・シューマッハ]]、[[天文学者]](+ [[1850年]]) * [[10月17日]] - [[リチャード・メンター・ジョンソン]]、第9代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1850年]]) * [[10月20日]](安永9年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - [[鍋島斉直]]、第9代[[佐賀藩|佐賀藩主]](+ [[1839年]]) * [[10月22日]] - [[ジョン・フォーサイス (政治家)|ジョン・フォーサイス]]、第13代[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1841年]]) * [[12月13日]] - [[ヨハン・デーベライナー]]、[[化学者]](+ [[1849年]]) * [[12月16日]](安永9年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[徳川斉敦]]、第3代[[一橋徳川家]]当主(+ [[1816年]]) * [[12月21日]](安永9年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]) - [[黒住宗忠]]、[[神官]]・[[黒住教]]教祖(+ [[1850年]]) == 死去 == {{see also|Category:1780年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 人物 === * [[1月1日]] - [[ヨハン・ルートヴィヒ・クレープス]]、[[作曲家]](* [[1713年]]) * [[1月24日]]([[安永 (元号)|安永]]8年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[平賀源内]]、[[本草学者]]・[[発明家]]・[[作家]](* [[1728年]]) * [[2月14日]] - [[ウィリアム・ブラックストン]]、[[法学者]](* [[1723年]]) * [[2月22日]] - [[フランチェスコ3世・デステ]]、[[フェラーラとモデナの君主一覧|モデナ公]](* [[1698年]]) * [[3月7日]](安永9年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[鍋島宗教]]、第6代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1718年]]) * [[3月26日]] - [[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|カール1世]]、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク]]公(* [[1713年]]) * [[4月9日]](安永9年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[松平頼真]]、第6代[[高松藩|高松藩主]](* [[1743年]]) * [[4月16日]](安永9年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) - [[中山高陽]]、[[南画|南画家]](* [[1717年]]) * [[6月19日]](安永9年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[小田野直武]]、[[秋田蘭画]]の[[画家]](* [[1750年]]) * [[6月30日]](安永9年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[板倉勝清]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1706年]]) * [[7月4日]] - [[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン]]、[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント総督]](* [[1712年]]) * [[7月25日]](安永9年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]) - [[松宮観山]]、[[儒学者]](* [[1686年]]) * [[8月24日]](安永9年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[奥平昌鹿]]、第3代[[中津藩|中津藩主]](* [[1744年]]) * [[9月25日]](安永9年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[蜂須賀宗鎮]]、第8代[[徳島藩|徳島藩主]](* [[1721年]]) * [[10月1日]](安永9年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[溝口直温]]、第7代[[新発田藩|新発田藩主]](* [[1716年]]) * [[10月17日]] - [[ベルナルド・ベッロット]]、画家(* [[1720年]]) * [[11月15日]](安永9年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[山岡浚明]]、[[国学者]](* [[1726年]]) * [[11月29日]] - [[マリア・テレジア]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]の皇后(* [[1717年]]) * [[12月19日]](安永9年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[阿部正允]]、江戸幕府老中(* [[1716年]]) === 人物以外(動物など) === * [[5月12日]] - [[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[競走馬]]・[[種牡馬]](* [[1758年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1780}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1780ねん}} [[Category:1780年|*]]
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5,136
1816年
1816年(1816 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
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1816年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1816}} {{year-definition|1816}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2476年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]21年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]16年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4149年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]15年  * [[仏滅紀元]] : 2358年 - 2359年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1231年1月30日 - 1232年2月11日 * [[ユダヤ暦]] : 5576年3月30日 - 5577年4月12日 * [[ユリウス暦]] : 1815年12月20日 - 1816年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -15661 - -15296 * [[リリウス日]](LD) : 85180 - 85545 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1816}} == できごと == * 前年に[[タンボラ山|タンボラ火山]]([[インドネシア]])が[[1815年のタンボラ山噴火|噴火]]した影響で寒冷化。「[[夏のない年]]」といわれる。[[7月4日]]には、[[アメリカ合衆国|米国]]東海岸で降雪が確認された。 * [[1月9日]] - [[ハンフリー・デービー]]が[[ヘバーン]]炭鉱で[[デービー灯]]を実験 * [[2月20日]] - [[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]] 『[[セビリアの理髪師]]』初演 * [[3月23日]] - [[エストニア]]で[[農奴]]解放 * [[6月19日]] - [[セブン・オークスの戦い]] * [[6月22日]] - 英国における[[金本位制]]の実施 * [[6月26日]] - [[File:Flag of Moresnet.svg|border|25x20px]][[中立モレネ]]の成立。 * [[7月9日]] - リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合(後の[[アルゼンチン]])が [[スペイン]]から独立を宣言 * [[8月27日]] - [[アルジェ砲撃]] <!--* [[10月22日]] - [[ゴロンゴロ (西部開拓者)|ゴロンゴロ]] ソルトレイクシティーで暗殺される。--> <!--上の人物の記述が見つからない。--> * [[12月4日]] - [[1816年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選挙]]で[[ジェームズ・モンロー]]が勝利 * [[12月11日]] - 米国で[[インディアナ州|インディアナ]]が19番目に州となる * [[シチリア王国]]滅亡 *<!-- 日付を特定しない(または不明)のできごととして、箇条書きを分けた --> * 英使節[[ウィリアム・アマースト (初代アマースト伯爵)|アマースト]]が[[清]]に来航 * [[スコットランド人]]牧師の[[ロバート・スターリング]]が[[スターリング・エンジン]]を開発した。{{Sfn|チャロナー|2011|p=267|ps=「スターリングが、蒸気にかわる運転音の静かなエンジンを作る。」}} * [[琉球諸島]]で干ばつと台風により飢饉が発生。宮古島で餓死者1563人<ref>中塚武 監修「一八一六年の宮古島における台風・旱魃被害」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p29 2020年11月30日 臨川書店 {{全国書誌番号|23471480}}</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1816年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月16日]] - [[ジョン・パーマー・アッシャー]]、第7代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1889年]]) * [[3月1日]](文化13年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[河竹黙阿弥]]、[[歌舞伎]]狂言作者(+ [[1893年]]) * [[6月12日]] - [[ニルス・ブロメール]]、[[画家]](+ [[1853年]]) * [[7月16日]] - [[アントワーヌ・マルモンテル]]、[[ピアニスト]]・[[教育者]]・[[著述家]](+ [[1898年]]) * [[7月21日]] - [[パウル・ロイター]]、[[ロイター]]通信社創立者(+ [[1899年]]) * [[8月13日]] - [[ルドルフ・フォン・グナイスト|グナイスト]]、ドイツの[[国法学]]者・政治家(+ [[1895年]]) * [[8月21日]] - [[シャルル・ジェラール]]、[[化学者]](+ [[1856年]]) * [[10月22日]] - [[山階宮晃親王]]、日本の[[皇族]](+ [[1898年]]) * [[12月16日]] - [[ヴェルナー・フォン・ジーメンス|ジーメンス]]、ドイツの電気技術者・[[発明家]]・実業家(+ [[1892年]]) * [[12月21日]](文化13年[[11月3日 (旧暦)|11月3日]]) - [[永井尚志]]、[[幕臣]]・[[外国奉行]]・[[軍艦奉行]]・[[箱館奉行]](+ [[1891年]]) *(月日不明)- [[吉田東洋]]、[[武士]]、[[土佐藩|土佐]][[藩士]](+ [[1862年]]) == 死去 == {{see also|Category:1816年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月20日]] - [[マリア1世 (ポルトガル女王)|マリア1世]]、[[ポルトガル]]女王(* [[1734年]]) * [[6月30日]] - [[ポール・ハミルトン (政治家)|ポール・ハミルトン]]、第42代[[サウスカロライナ州知事]](* [[1762年]]) * [[7月7日]] - [[リチャード・ブリンズリー・シェリダン]]、[[劇作家]]・[[政治家]]( [[1751年]]) * [[8月31日]]([[文化 (元号)|文化]]13年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[岡田寒泉]]、[[儒学者]](* [[1740年]]) * [[10月27日]](文化13年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]) - [[山東京伝]]、[[浮世絵師]]・[[戯作者]](* [[1761年]]) <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1816}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1816ねん}} [[Category:1816年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1816%E5%B9%B4
5,137
1730年
1730年(1730 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1730年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1730}} {{year-definition|1730}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]15年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2390年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]8年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4063年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永慶]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2272年 - 2273年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1142年 - 1143年 * [[ユダヤ暦]] : 5490年 - 5491年 * [[ユリウス暦]] : 1729年12月21日 - 1730年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1730}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1730年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月14日]] - [[ウィリアム・ホィップル]]、[[アメリカ合衆国]][[ニューハンプシャー州]]の政治家、商人。[[アメリカ合衆国建国の父]]の一人(+ [[1785年]]) * [[1月23日]] - [[ジョセフ・ヒューズ]]、アメリカ合衆国[[ニュージャージー州]]の政治家、商人。アメリカ合衆国建国の父の一人(+ [[1779年]]) * [[5月10日]] - [[ジョージ・ロス]]、アメリカ合衆国[[ペンシルベニア州]]の政治家、商人。アメリカ合衆国建国の父の一人(+ [[1779年]]) * [[5月13日]] - [[ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワース|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]、[[イギリス]]の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[政治家]]、[[イギリスの首相|首相]](+ [[1782年]]) * [[6月21日]]([[享保]]15年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[本居宣長]]、[[国学|国学者]]、文献学者、[[医師]](+ [[1801年]]) * [[6月26日]] - [[シャルル・メシエ]]、[[フランス]]の[[天文学者]](+ [[1817年]]) * [[7月12日]] - [[ジョサイア・ウェッジウッド]]、[[イギリス]]の陶芸家、事業家。[[ウェッジウッド|ウェッジウッド社]]の創設者(+ [[1795年]]) * [[7月22日]] - [[ダニエル・キャロル]]、アメリカ合衆国[[メリーランド州]]の政治家。アメリカ合衆国建国の父の一人(+ [[1796年]]) * [[8月27日]] - [[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]、[[ドイツ]]の[[哲学者]]、[[文学者]](+ [[1788年]]) * [[9月17日]] - [[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン]]、[[プロイセン王国]]の軍人。[[アメリカ独立戦争]]時の[[大陸軍 (アメリカ)|アメリカ大陸軍]]を養成(+ [[1794年]]) * [[10月1日]] - [[リチャード・ストックトン]]、アメリカ合衆国ニュージャージー州の弁護士、法学者、政治家。アメリカ合衆国建国の父の一人(+ [[1781年]]) * [[11月3日]] - [[ダリヤ・サルトゥイコヴァ]]、[[ロシア帝国]]の貴族、[[連続殺人|連続殺人犯]](+ [[1801年]]) * [[12月20日]]([[享保]]15年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[狩野典信]]、木挽町家[[狩野派]]6代目の[[絵師]](+ [[1790年]]) * [[市川八百蔵 (初代)|市川八百蔵]]、[[歌舞伎役者]](+ [[1759年]]) * [[曾我蕭白]]、[[江戸時代]]の絵師(+ [[1781年]]) * [[畢沅]]、[[清]]の官僚、歴史家(+ [[1797年]]) == 死去 == {{see also|Category:1730年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月30日]] - [[ピョートル2世 (ロシア皇帝)|ピョートル2世]]、[[ロマノフ朝]]第7代の君主、第3代[[ロシア皇帝]](* [[1715年]]) * [[2月9日]]([[享保]]14年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[田中丘隅]]、[[農政家]]、[[経世家]](* [[1662年]]) * [[2月21日]] - [[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]]、第245代目[[教皇|ローマ教皇]](* [[1649年]]) * [[3月10日]] - [[テレサ・クネグンダ・ソビエスカ]]、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]の2度目の妃(* [[1676年]]) * [[3月20日]] - [[アドリエンヌ・ルクヴルール]]、[[コメディ・フランセーズ]]の[[俳優|女優]](* [[1692年]]) * [[5月30日]] - [[アラベラ・チャーチル]]、[[イングランド王国|イングランド]]・[[スコットランド王国|スコットランド]]国王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の愛妾(* [[1692年]]) * [[10月12日]] - [[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]の[[国王]](* [[1671年]]) * [[11月6日]] - [[ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ]]、[[プロイセン王国]]の[[軍人]](* [[1704年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1730}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1730ねん}} [[Category:1730年|*]]
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5,138
1798年
1798年(1798 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1798年(1798 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。", "title": null } ]
1798年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1798}} {{year-definition|1798}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[寛政]]10年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2458年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]22年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4131年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[西山朝]] : [[景盛]]6年 * [[仏滅紀元]] : 2340年 - 2341年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1212年 - 1213年 * [[ユダヤ暦]] : 5558年 - 5559年 * [[ユリウス暦]] : 1797年12月21日 - 1798年12月20日 * [[フランス革命暦]] : VI年雪月12日 - VII年雪月11日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1798}} == できごと == [[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])が落雷による火災で焼失。画像は[[エンゲルベルト・ケンペル]]による大仏のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。]] * [[4月21日]] - フランス革命戦争: [[ラ・ド・サンの海戦]]でイギリスが勝利{{要出典|date=2021-02}}。 * [[5月24日]] - {{仮リンク|1798年アイルランドの反乱|en|Irish Rebellion of 1798}} * [[8月1日]] - [[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]、[[ナイルの海戦]]にて[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]率いるイギリス海軍に大敗 * [[8月13日]] - 当時日本一の高さを誇っていた京都の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])が落雷で焼失する(旧暦では寛政10年7月2日) * [[12月24日]] - [[第二次対仏大同盟]]の核が成立 * [[トマス・ロバート・マルサス]]が『[[人口論]]』を著す * [[本居宣長]]『[[古事記伝]]』が完成 * [[近藤重蔵]]が[[択捉島]]に「大日本恵土呂府」の標柱を立てる == 誕生 == {{see also|Category:1798年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]](寛政9年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[歌川国芳]]、[[浮世絵師]](+ [[1861年]]) * [[1月19日]] - [[オーギュスト・コント]]、[[哲学者]](+ [[1857年]]) * [[2月4日]]([[寛政]]10年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[男谷信友]]、[[剣術|剣客]](+ [[1864年]]) * [[2月28日]](寛政10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[斎藤弥九郎]]、剣客(+ [[1871年]]) * [[3月9日]](寛政10年[[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[宇田川榕菴]]、[[蘭学|蘭学者]](+ [[1846年]]) * [[4月11日]] - [[マセドニオ・メローニ]]、[[物理学者]](+ [[1854年]]) * [[4月22日]](寛政10年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[伊達斉義]]、第11代[[仙台藩|仙台藩主]](+ [[1828年]]) * [[4月26日]] - [[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[画家]](+ [[1863年]]) * [[5月28日]] - [[ヨーゼフ・デッサウアー]]、[[作曲家]](+ [[1876年]]) * [[6月2日]](寛政10年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]) - [[中山みき]]、[[天理教]]教祖(+ [[1887年]]) * [[6月6日]](寛政10年[[4月22日 (旧暦)|4月22日]]) - [[六人部是香]]、[[国学|国学者]](+ [[1864年]]) * [[6月13日]] - [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]、[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ロシア皇帝ニコライ1世]]の皇后(+ [[1860年]]) * [[6月15日]] - [[アレクサンドル・ゴルチャコフ]]、[[ロシア帝国|ロシア]]外相(+ [[1883年]]) * [[7月24日]] - [[ジョン・アダムズ・ディクス]]、[[アメリカ合衆国財務長官]](+ [[1890年]]) * [[8月4日]](寛政10年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[松平頼恕]]、第9代[[高松藩|高松藩主]](+ [[1842年]]) * [[8月5日]] - [[ジョン・ロッテスリー]]、[[天文学者]](+ [[1867年]]) * [[8月21日]] - [[ジュール・ミシュレ]]、[[歴史家]](+ [[1874年]]) * [[9月5日]](寛政10年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[九条尚忠]]、[[江戸時代]]の[[公卿]](+ [[1871年]]) * [[9月11日]] - [[フランツ・エルンスト・ノイマン]]、物理学者・[[鉱物学|鉱物学者]](+ [[1895年]]) * [[9月24日]](寛政10年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]) - [[高島秋帆]]、砲術家(+ [[1866年]]) * [[10月2日]] - [[カルロ・アルベルト]]、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]](+ [[1849年]]) * [[10月12日]] - [[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]、初代[[ブラジル帝国|ブラジル]]皇帝(+ [[1834年]]) * [[11月18日]](寛政10年[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]) - [[呉北渚]]、[[書道|書家]]・[[篆刻|篆刻家]](+ [[1863年]]) * [[12月10日]] - [[ジョージ・フレッチャー・モー]]、[[探検家]]・[[著述家]](+ [[1886年]]) * [[12月22日]] - [[ジョージ・ウォーカー・クロウフォード]]、[[アメリカ合衆国陸軍長官]](+ [[1872年]]) * [[12月28日]] - [[トーマス・ヘンダーソン]]、天文学者(+ [[1844年]]) * 12月28日(寛政10年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[海保漁村]]、[[儒学者]](+ [[1866年]]) * 月日不詳 - [[原采蘋]]、[[漢詩|漢詩人]](+ [[1859年]]) == 死去 == {{see also|Category:1798年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]](嘉慶2年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[袁枚]]、詩人(* [[1716年]]) * [[1月25日]]([[寛政]]9年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[立花鑑通]]、第7代[[柳河藩|柳河藩主]](* [[1730年]]) * [[1月28日]] - [[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]]、[[作曲家]]・[[指揮者]]・[[オルガニスト]](* [[1748年]]) * [[2月3日]](寛政9年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[宇田川玄随]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1755年]]) * [[5月11日]](寛政10年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]) - [[上杉重定]]、第8代[[米沢藩|米沢藩主]](* [[1720年]]) * [[5月12日]] - [[ジョージ・バンクーバー]]、[[探検家]](* [[1757年]]) * [[6月4日]] - [[ジャコモ・カサノヴァ]]、術策家・作家(* [[1725年]]) * [[6月15日]](寛政10年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) - [[澄月]]、[[僧]]・[[歌人]](* [[1714年]]) * [[6月19日]](寛政10年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[池田治道]]、第6代[[鳥取藩|鳥取藩主]](* [[1768年]]) * [[7月15日]] - [[ガエターノ・プニャーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1731年]]) * [[8月11日]] - [[ジョシュア・クレイトン]]、[[医師]]・[[政治家]](* [[1744年]]) * [[8月21日]] - [[ジェイムズ・ウィルソン (独立宣言署名者)|ジェイムズ・ウィルソン]]、[[合衆国最高裁判所|アメリカ最高裁判所]][[判事]](* [[1742年]]) * [[9月21日]] - [[ジョージ・リード (アメリカの政治家)|ジョージ・リード]]、[[デラウェア州知事]](* [[1733年]]) * [[11月14日]](寛政10年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]) - [[安島直円]]、[[数学者]](* [[1732年]]) * [[12月4日]] - [[ルイージ・ガルヴァーニ]]、[[医学者]]・[[物理学者]](* [[1737年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1798}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1798ねん}} [[Category:1798年|*]]
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5,139
1733年
1733年(1733 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1733年(1733 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。", "title": null } ]
1733年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1733}} {{year-definition|1733}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]18年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2393年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]11年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]9年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4066年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[龍徳 (黎朝)|龍徳]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2275年 - 2276年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1145年 - 1146年 * [[ユダヤ暦]] : 5493年 - 5494年 * [[ユリウス暦]] : 1732年12月21日 - 1733年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1733}} == できごと == * [[ポーランド継承戦争]]勃発。(-[[1738年]]) * [[隅田川花火大会]]が始まる。 * 3月-4月、イングランドでタバコ消費税法案が挫折、[[ロバート・ウォルポール]]政権に打撃。 * [[4月24日]]、アメリカの[[ペンシルベニア植民地]]で初めて[[ショーニー族]]の団体、"ショーニー・インディアン"による[[禁酒運動]]が起きる<ref>著者:[[トーマス・W.アルフォード]] 訳者:[[中田佳昭]]、[[村田信行]] 「インディアンの「文明化」 ショーニー族の物語」[[刀水書房]] 2018年12月7日初版1刷印刷 6章 「部族の政治と組織」62頁より引用</ref>。 * イギリス人[[ジョン・ケイ (飛び杼)|ジョン・ケイ]]が飛び杼を発明。 * 10月14日 - 28日:[[ケール包囲戦 (1733年)|ケール包囲戦]](ポーランド継承戦争の一部) == 誕生 == {{see also|Category:1733年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月24日]] - [[ジョゼフ・プリーストリー]]、イギリスの化学者、[[酸素]]や[[二酸化炭素]]の発見者(+ [[1804年]]) * [[4月27日]] - [[ヨーゼフ・ゴットリープ・ケールロイター]]、[[植物学者]](+ [[1806年]]) * [[6月12日]]([[享保]]18年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[円山応挙]]、[[絵師]](+ [[1795年]]) * [[10月20日]](享保18年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[杉田玄白]]、蘭方医・「[[解体新書]]」翻訳者(+ [[1817年]]) == 死去 == {{see also|Category:1733年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[12月14日]]([[享保]]18年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[九鬼隆抵]]、[[摂津国|摂津]][[三田藩]]の第6代藩主(* [[1690年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1733}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1733ねん}} [[Category:1733年|*]]
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5,140
1193年
1193年(1193 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1193年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1193}} {{year-definition|1193}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[建久]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1853年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[紹熙]]4年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[明昌 (金)|明昌]]4年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]16年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[乾祐 (西夏)|乾祐]]24年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[明宗 (高麗王)|明宗]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3526年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天資嘉瑞]]8年 * [[仏滅紀元]] : 1735年 - 1736年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 588年 - 590年 * [[ユダヤ暦]] : 4953年 - 4954年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1193|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[6月28日]](建久4年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[曾我兄弟の仇討ち]]、日本三大[[仇討ち]]の一つ == 誕生 == {{see also|Category:1193年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[九条道家]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1252年]]) * [[陳守度]]、[[ベトナム]]の[[陳朝]]の実質的な創始者(+ [[1264年]]) * [[ベアトリス2世 (ブルゴーニュ女伯)|ベアトリス2世]]、[[ブルゴーニュ伯|ブルゴーニュ女伯]](+ [[1231年]]) * [[北条朝時]]、鎌倉時代の[[武将]](+ [[1245年]]) * [[西八条禅尼]]、[[源実朝]]の[[正室]](+ [[1274年]]) * [[松殿忠房]]、鎌倉時代の公卿(+ 没年未詳) * [[三善康連]]、鎌倉時代の[[御家人]]、[[法曹]][[官僚]](+ [[1256年]]) * [[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]、[[ニカイア帝国]]の第2代[[皇帝]](+ [[1254年]]) == 死去 == {{see also|Category:1193年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月4日]] - [[サラーフッディーン]]、[[アイユーブ朝]]の始祖(* 1137年/[[1138年]]) * [[4月19日]](建久4年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]) - [[藤原実家]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](* [[1145年]]) * [[6月10日]](建久4年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[平時家]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]]、[[公家]](* 生年未詳) * [[6月13日]](建久4年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - [[五条局]]、平安時代、鎌倉時代の[[女房]]、歌人(* 生年未詳) * [[6月28日]](建久4年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[工藤祐経]]、平安時代、鎌倉時代の武将、[[御家人]](* 生年未詳) * 6月28日(建久4年5月28日) - [[曾我祐成]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1172年]]) * 6月28日(建久4年5月28日) - [[吉川経義]]、平安時代、鎌倉時代の武将、御家人(* [[1132年]]) * [[6月29日]](建久4年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[曾我時致]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1174年]]) * [[9月14日]](建久4年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[源範頼]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[9月23日]](建久4年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]) - [[藤原忠雅]]、平安時代、鎌倉時代の公卿(* [[1124年]]) * [[10月16日]](乾祐24年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]) - [[仁宗 (西夏)|仁宗]]、[[西夏]]王朝の第5代[[皇帝]](* [[1124年]]) * [[12月24日]] - [[ルッジェーロ3世]]、シチリア王国ノルマン朝の共同統治王(* [[1175年]]) * [[范成大]]、[[南宋]]の[[政治家]]、[[詩人]](* [[1126年]]) ==フィクションのできごと== {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1193|date=2011年7月}} *「[[saku saku]]」の舞台「エスポワ~ル横浜第2」が完成。 <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1193}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1193ねん}} [[Category:1193年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1193%E5%B9%B4
5,141
1763年
1763年(1763 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1763年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1763}} {{year-definition|1763}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[宝暦]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2423年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]28年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]39年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4096年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]24年 * [[仏滅紀元]] : 2305年 - 2306年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1176年 - 1177年 * [[ユダヤ暦]] : 5523年 - 5524年 * [[ユリウス暦]] : 1762年12月21日 - 1763年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1763}} == できごと == * [[2月10日]] - 英仏間で[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]の締結、[[七年戦争]]終結。 * [[2月15日]] - プロイセンとオーストリアなどが七年戦争の講和条約であるフベルトゥスブルク条約を締結。 * [[4月16日]] - イギリスで[[ジョージ・グレンヴィル]]内閣が成立(-[[1765年]])。 * [[本居宣長]]、[[賀茂真淵]]に出会い、『[[古事記]]』研究に進むことを決意([[松阪の一夜]])。 * [[フベルトゥスブルク条約]]締結、[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[シュレージエン]]領有確定。 * [[青の洞門]]が貫通する == 誕生 == {{see also|Category:1763年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月24日]](宝暦13年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]])- [[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]、老中首座、[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]第4代藩主(+ [[1817年]]) * [[4月16日]]([[宝暦]]13年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]])- [[岡部長備]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第8代藩主(+ [[1803年]]) * [[6月15日]] - [[フランツ・ダンツィ]]、[[チェリスト]]・[[指揮者]]・[[作曲家]](+ [[1826年]]) * 6月15日([[宝暦]]13年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]])- [[小林一茶]]、[[俳諧師]](+ [[1827年]]) * [[6月19日]] - [[ヨハン・アルガイエル]]、[[チェス]]プレイヤー(+ [[1823年]]) * [[6月23日]] - [[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]、[[フランス]][[皇后]](+ [[1814年]]) * [[10月15日]](宝暦13年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]])- [[谷文晁]]、[[画家]](+ [[1841年]]) == 死去 == {{see also|Category:1763年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月16日]] - [[ジャック・オトテール]]、[[作曲家]]・[[フルート奏者]](* [[1674年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1763}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1763ねん}} [[Category:1763年|*]]
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5,142
1785年
1785年(1785 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1785年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1785}} {{year-definition|1785}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天明]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2445年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]50年 *** [[陳周全]]{{Sup|*}} : [[天運 (陳周全)|天運]]元年3月 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]9年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4118年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]46年 ** [[西山朝]] : [[泰徳]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2327年 - 2328年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1199年 - 1200年 * [[ユダヤ暦]] : 5545年 - 5546年 * [[ユリウス暦]] : 1784年12月21日 - 1785年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1785}} == できごと == * [[1月1日]] -[[イギリス]]で世界最古の日刊[[新聞]]『[[タイムズ]]』創刊{{要出典|date=2021-03}} * [[1月8日]](天明4年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[井伊直幸]]が[[大老]]に就任{{要出典|date=2021-04}}。 * [[1月27日]] - [[アメリカ合衆国]]初の公立大学、[[ジョージア大学]]が開学。 * [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]、[[水素]]と[[酸素]]を燃焼させ、水の合成に成功 * [[天明の大飢饉]] == 誕生 == {{see also|Category:1785年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ジョン・オクスリー]]、[[探検家]](+ [[1828年]]) * [[1月4日]] - [[ヤーコプ・グリム]]、言語学者・辞書編纂者、[[グリム童話]]採録者(+ [[1863年]]) * [[3月11日]] - [[ジョン・マクレーン (郵政長官)|ジョン・マクレーン]]、第9代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1861年]]) * [[4月4日]] - [[ベッティーナ・フォン・アルニム]]、作家(+ [[1859年]]) * [[4月26日]] - [[ジョン・ジェームズ・オーデュボン]]、[[画家]]・[[鳥類]]研究家(+ [[1851年]]) * [[8月3日]]([[天明]]5年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[鷹見泉石]]、[[蘭学者]]・[[古河藩]]家老(+ [[1858年]]) * [[8月18日]] - [[フリードリヒ・ヴィーク]]、[[音楽家]](+ [[1873年]]) == 死去 == {{see also|Category:1785年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月26日]] - [[ヨハン・ゲルハルト・ケーニヒ]]、[[医師]]・[[植物学者]](* [[1728年]]) * [[11月27日]]([[天明]]5年[[10月26日 (旧暦)|10月26日]]) - [[細川重賢]]、[[熊本藩|熊本藩主]](* [[1721年]]) == 在位・在職 == * 天皇 - [[光格天皇]] * 征夷大将軍 - [[徳川家治]] * 大老 - [[井伊直幸]] <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1785}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1785ねん}} [[Category:1785年|*]]
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5,143
1782年
1782年(1782 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1782年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1782}} {{year-definition|1782}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天明]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2442年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]47年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4115年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]43年 ** [[西山朝]] : [[泰徳]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2324年 - 2325年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1196年 - 1197年 * [[ユダヤ暦]] : 5542年 - 5543年 * [[ユリウス暦]] : 1781年12月21日 - 1782年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1782}} == できごと == * [[3月27日]] - イギリスで第2代[[ロッキンガム侯爵]][[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]内閣が成立。 * [[4月6日]] - [[タイ王国]]、[[ラーマ1世]]即位、[[バンコク]]に遷都 * 7月1日 - ロッキンガム侯が首相在職のまま死去。第2代[[シェルバーン伯爵]][[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|ウィリアム・ペティ]]内閣が成立(-[[1783年]])。 * 日本で[[天明の大飢饉]]が始まる(-[[1787年]])。 * [[アメリカ合衆国]]で、現在の[[アメリカ合衆国の国章]]の使用が開始される == 誕生 == {{see also|Category:1782年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月18日]] - [[ダニエル・ウェブスター]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Daniel-Webster Jules Daniel Webster American politician] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[アメリカ合衆国国務長官]](+ [[1852年]]) * [[1月29日]] - [[ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール]]、[[作曲家]](+ [[1871年]]) * [[3月4日]] - [[ヨハン・ルドルフ・ウィース]]、[[編集者]](+ [[1830年]]) * [[3月18日]] - [[ジョン・カルフーン]]、第7代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1850年]]) * [[3月19日]] - [[ヴィルヘルム・フォン・ビーラ]]、[[天文学者]](+ [[1856年]]) * [[3月21日]]([[天明]]2年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[熊谷直好]]、[[歌人]](+ [[1862年]]) * [[3月29日]] - [[ジョン・ディキンソン (発明家)|ジョン・ディキンソン]]、[[発明家]](+ [[1869年]]) * [[4月21日]] - [[フリードリヒ・フレーベル]]、[[教育者]](+ [[1852年]]) * [[5月22日]](天明2年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[広瀬淡窓]]、[[儒学者]]・[[漢詩|漢詩人]](+ [[1856年]]) * [[6月19日]] - [[フェリシテ・ド・ラムネー]]、[[キリスト教]][[社会主義]][[思想|思想家]](+ [[1854年]]) * [[6月21日]] - [[マリア・アウグスタ・フォン・ザクセン]]、ザクセン王族(+ [[1863年]]) * [[7月5日]](天明2年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]) - [[会沢正志斎]]、[[水戸藩|水戸藩士]]・儒学者・[[経世論|経世家]](+ [[1863年]]) * [[7月26日]] - [[ジョン・フィールド]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/John-Field-Irish-composer John Field Irish composer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、作曲家(+ [[1837年]]) * [[8月10日]](天明2年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[松平宗発]]、[[江戸幕府]][[老中]]・[[宮津藩|宮津藩主]](+ [[1840年]]) * [[9月5日]](天明2年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]) - [[前田斉広]]、第11代[[加賀藩|加賀藩主]](+ [[1824年]]) * [[9月16日]]([[乾隆]]47年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[道光帝]]、第8代[[清]][[皇帝]](+ [[1850年]]) * [[10月9日]] - [[ルイス・カス]]、アメリカ合衆国国務長官(+ [[1866年]]) * [[10月25日]] - [[レヴィ・リンカーン (2世)|レヴィ・リンカーン]]、[[マサチューセッツ州]]知事・[[アメリカ合衆国下院]]議員(+ [[1868年]]) * [[10月27日]] - [[ニコロ・パガニーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]、作曲家(+ [[1840年]]) * [[11月1日]] - [[ゴドリッチ子爵]][[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|フレデリック・ジョン・ロビンソン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1859年]]) * [[11月4日]](天明2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) - [[南部利敬]]、第10代[[盛岡藩|盛岡藩主]](+ [[1820年]]) * [[11月14日]] - [[ジョン・ブランチ]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]](+ [[1863年]]) * [[12月5日]] - [[マーティン・ヴァン・ビューレン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Martin-Van-Buren Martin Van Buren president of United States] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第8代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1862年]]) * [[12月24日]](天明2年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[毛利斉房]]、第10代[[長州藩|長州藩主]](+ [[1809年]]) * 月日不詳 - [[仁阿弥道八]]、[[陶芸|陶芸家]](+ [[1855年]]) == 死去 == {{see also|Category:1782年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ヨハン・クリスティアン・バッハ]]、[[作曲家]](* [[1735年]]) * [[1月18日]] - [[ジョン・プリングル]]、[[医師]]・元[[王立協会]]会長(* [[1707年]]) * [[3月17日]] - [[ダニエル・ベルヌーイ]]、[[数学者]]・[[物理学者]](* [[1700年]]) * [[4月17日]] - [[タークシン]]、[[タイ王国|タイ王]](* [[1734年]]) * [[4月17日]]([[天明]]2年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]) - [[加藤文麗]]、[[狩野派]]の[[画家]](* [[1706年]]) * [[4月20日]](天明2年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]) - [[建部清庵]]、医師(* [[1712年]]) * [[4月22日]] - [[ヨゼフ・フェルディナンド・ゼゲル]]、作曲家(* [[1716年]]) * [[5月5日]](天明2年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]]) - [[楫取魚彦]]、[[国学者]]・[[歌人]](* [[1723年]]) * [[5月15日]] - [[ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]宰相(* [[1699年]]) * [[5月16日]] - [[ダニエル・ソランダー]]、[[植物学|植物学者]](* [[1733年]]) * [[6月11日]] - [[ウィリアム・クロウフォード (軍人)|ウィリアム・クロウフォード]]、[[アメリカ独立戦争]]時の軍人(* [[1732年]]) * [[6月16日]](天明2年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[細井九皋]]、[[書道|書家]]・[[篆刻|篆刻家]](* [[1711年]]) * [[7月1日]] - ロッキンガム侯[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1730年]]) * [[7月16日]] - [[ルイーゼ・ウルリーケ・フォン・プロイセン|ロヴィーサ・ウルリカ]]、[[スウェーデン]]王[[アドルフ・フレドリク (スウェーデン王)|アドルフ・フレドリク]]の妃(* [[1720年]]) * [[8月6日]] - [[ニコラ・シェドヴィル]]、作曲家(* [[1705年]]) * [[9月6日]] - [[マーサ・ジェファーソン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1748年]]) * [[9月16日]] - [[ファリネッリ]]、[[カストラート]][[歌手]](* [[1705年]]) * [[9月27日]](天明2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]) - [[黒田治高]]、第8代[[福岡藩|福岡藩主]](* [[1754年]]) * [[10月1日]](天明2年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]) - [[市村羽左衛門 (9代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1724年]]) * [[10月2日]] - [[チャールズ・リー (軍人)|チャールズ・リー]]、アメリカ独立戦争時の[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]][[少将]](* [[1732年]]) * [[10月8日]](天明2年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[牧庵鞭牛]]、[[僧]]・宮古街道開削者(* [[1710年]]) * [[11月8日]](天明2年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[松平宗衍]]、第6代[[松江藩|松江藩主]](* [[1729年]]) * 月日不詳 - [[デギュイヨン公爵エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー]]、[[フランス王国|フランス]]外相・陸相(* [[1720年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1782}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1782ねん}} [[Category:1782年|*]]
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5,144
1772年
1772年(1772 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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1772年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1772}} {{year-definition|1772}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明和]]9年、[[安永 (元号)|安永]]元年11月16日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2432年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]37年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]48年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4105年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]33年 * [[仏滅紀元]] : 2314年 - 2315年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1185年 - 1186年 * [[ユダヤ暦]] : 5532年 - 5533年 * [[ユリウス暦]] : 1771年12月21日 - 1772年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1772}} == できごと == * [[4月1日]](明和9年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]) - [[明和の大火|目黒行人坂大火]]{{要出典|date=2021-03}} * [[7月13日]] - [[ジェームズ・クック|キャプテン・クック]]率いる[[レゾリューション (帆船)|レゾリューション]]号が、僚船[[アドヴェンチャー (帆船)|アドヴェンチャー]]号を従えて、[[南太平洋]]探検の第二回航海のため[[プリマス]]を出港。 * [[8月5日]] - [[第一次ポーランド分割]] * [[12月10日]](明和9年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]]) - 日本、[[改元]]して[[安永 (元号)|安永]]元年 * [[ダニエル・ラザフォード]]が[[窒素]]を発見。 * [[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]と[[レオンハルト・オイラー]]が[[ラグランジュ点]]及びトロヤ点の存在を確認。 == 誕生 == {{see also|Category:1772年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]] - [[バルタザール・カンペンガウゼン]]、[[政治家]](+ [[1823年]]) * [[4月15日]] - [[エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール]]、[[博物学者]](+ [[1844年]]) * [[4月19日]] - [[デヴィッド・リカード]]、[[経済学者]](+ [[1823年]]) * [[5月2日]] - [[ノヴァーリス]]、[[詩人]]・[[小説家]](+ [[1801年]]) * [[9月27日]] - [[マーサ・ワシントン・ジェファーソン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](+ [[1836年]]) * [[11月14日]]([[明和]]9年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]])- [[佐藤一斎]]、[[儒学者]](+ [[1859年]]) * 月日不詳 - [[斎藤墨湖]]、[[画家]]・[[茶人]](+ [[1874年]]) == 死去 == {{see also|Category:1772年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月29日]] - [[エマヌエル・スヴェーデンボリ]]、思想家(* [[1688年]]) * [[6月12日]] - [[マルク=ジョゼフ・マリオン・デュフレーヌ]]、[[軍人]]・[[探検家]](* [[1724年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1772}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1772ねん}} [[Category:1772年|*]]
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5,145
1769年
1769年(1769 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1769年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1769}} {{year-definition|1769}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明和]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2429年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]34年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]45年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4102年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]30年 * [[仏滅紀元]] : 2311年 - 2312年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1182年 - 1183年 * [[ユダヤ暦]] : 5529年 - 5530年 * [[ユリウス暦]] : 1768年12月21日 - 1769年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1769}} == できごと == * [[6月3日]]・[[6月4日|4日]] - 地球上からの[[金星の太陽面通過]]が起こった<ref>{{Cite web |url=http://astro.ukho.gov.uk/nao/transit/V_1769/index.html |title=1769 June 3rd-4th Transit of Venus |publisher=HM Nautical Almanac Office |accessdate=2017-09-16}}</ref>。 * [[ジェームズ・ワット]]が[[蒸気機関]]を改良(シリンダーと冷却器の分離、ピストン運動を円運動に変換)。 * [[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー]]が[[キュニョーの砲車]]([[蒸気自動車]])を製作。 * [[イングランド]][[ランカシャー|ランカシャー州]][[プレストン (イングランド)|プレストン]]のかつら製造業者[[リチャード・アークライト]]が[[水力紡績機]]の[[特許]]を取得した。この水力紡績機は産業革命の飛躍的な進歩に貢献した。{{Sfn|チャロナー|2011|p=208|loc=アークライトの新技術が、布地の大量生産を加速させる。}} == 誕生 == {{see also|Category:1769年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月10日]] - [[ミシェル・ネイ]]、[[フランス元帥]](+ [[1815年]]) * [[2月7日]](明和6年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[高田屋嘉兵衛]]、[[江戸時代]]後期の廻船業者、[[海商]](+ [[1827年]]) * [[2月13日]] - [[イヴァン・クルィロフ]]、[[劇作家]]・[[文学者]](+ [[1844年]]) * [[3月2日]] - [[ムハンマド・アリー]]、 [[ムハンマド・アリー朝]]の初代[[ワーリー]](+ [[1849年]]) * [[3月23日]] - [[ウィリアム・スミス (地質学者)|ウィリアム・スミス]]、[[地質学者]](+ [[1839年]]) * [[3月29日]] - [[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]、[[フランス元帥]]・[[フランス大元帥]](+ [[1851年]]) * [[4月10日]] - [[ジャン・ランヌ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jean-Lannes-duc-de-Montebello Jean Lannes, duc de Montebello French general] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[フランス元帥]](+ [[1809年]]) * [[4月13日]] - [[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]、[[画家]](+ [[1830年]]) * [[4月30日]] - 初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]、[[ワーテルローの戦い]]でナポレオン1世に勝利、[[イギリスの首相]](+ [[1852年]]) * [[7月18日]](明和6年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[佐藤信淵]]、[[思想家]]・[[経世家]](+ [[1850年]]) * [[8月15日]] - [[ナポレオン・ボナパルト]](ナポレオン1世)、フランスに帝政を敷いた(+ [[1821年]]) * [[8月23日]] - [[ジョルジュ・キュヴィエ]]、フランスの[[博物学者]](+ [[1832年]]) * [[9月14日]] - [[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]、博物学者・[[探検家]]・[[地理学者]](+ [[1859年]]) == 死去 == {{see also|Category:1769年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[11月9日]](明和6年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[青木昆陽]]、[[蘭学|蘭学者]](* [[1698年]]) <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=ジャック・チャロナー |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |date=2011-01-31 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}} == 関連項目 == {{Commonscat|1769}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1769ねん}} [[Category:1769年|*]]
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テキサス州
テキサス州(テキサスしゅう、英: State of Texas)は、アメリカ合衆国の州。略称はTX。合衆国本土南部にあり、メキシコと国境を接している。 人口ではカリフォルニア州、面積ではアラスカ州に次いで全米第2位の州でもある。「テキサス」は、インディアン部族のハシーナイ連合(英語版)(カドー族)のカドー語で「友人」または「同盟者」を意味する「テイシャ(Teja=táyshaʔ)」に由来し、スペイン人がカドー族そのものと東テキサスにおけるその入植地域の名前にあてたものである。テキサス共和国時代から使用されている、白い星を一つあしらった州旗から「ローン・スター・ステイト (Lone Star State) 」という愛称もよく知られている。 テキサス州は南にメキシコ、西にニューメキシコ州、北にオクラホマ州、北東にアーカンソー州、東にルイジアナ州と境を接している。面積は696,241 km、人口は約2,915万人で現在も増加しつつある。人口ではヒューストンが州内で最大かつ全米でも第4位の都市であり、サンアントニオが州内第2位、全米で第7位となっている。ダラス・フォートワース都市圏とヒューストン大都市圏は全米でそれぞれ第4位と第5位の都市圏である。その他の主要な都市としては、州西部のエルパソと州都のオースティンがある。 テキサス州はその大きさやバルコンズ断層のような地質特性の故に、アメリカ合衆国南部と南西部の双方に似通った多様な地理的景観がある。砂漠地の面積は、10%足らずである。人口集中地の大半は元のプレーリー、草原、森林および海岸にある。東から西に移動すると、海岸の湿地と松林に始まり、うねりのあるプレーリと岩の多い丘が続き、最後は砂漠とビッグベンドの山脈になる。 「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉は、テキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインだった。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有したが、1835年に独立してテキサス共和国となった。1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが理由でメキシコとの関係が悪化し1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となった。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国(南軍)に加盟していた。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごした。 南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスは、カウボーイのイメージと結び付けられることが多い。1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では50以上で全米のどの州よりも多い。各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。所得税や法人税がかからないといった税制優遇や賃金・土地の安さといったビジネス環境の良さから、トヨタ自動車北米本社やテスラ、オラクル、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ(HPE)など、西部のカリフォルニア州などからテキサス州に移転する企業がさらに他の企業の移転を呼び込んでいる。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)はカリフォルニア州に次いで国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。テキサス州はもともとカウボーイなどのイメージ通り共和党が強い保守的な州(赤い州)であったが、リベラル色の強いカリフォルニア州(青い州)などから多く人の移住したことから、スイング・ステート(激戦州)に移行しつつある。 先コロンブス期のこの地にはインディアンの諸部族が居住していたが、1492年にアメリカ大陸がクリストファー・コロンブスによって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。 16世紀以来、スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領(「新しいスペイン」)に属し、1821年メキシコがスペインから独立すると、メキシコ領コアウイラ・イ・テハス州の一部となった。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為1830年にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した。 奴隷制を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちはテキサス革命を決心し、1835年にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし、1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅した(アラモの戦い)。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」("Remember the Alamo")を合言葉に、メキシコ軍と対峙、メキシコのカウディーリョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサンジャシントの戦いで撃破した。司令官のサンタ・アナが捕らえられ、テキサス共和国の成立を認めるベラスコ条約(英語版)に署名した。 テキサスの独立後、アングロ・サクソンが主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した黒人奴隷制が復活した。 1845年にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として併合されたため、翌1846年テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し米墨戦争が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、1848年アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現カリフォルニア州、アリゾナ州などの現南西部をメキシコから得た。 1861年の南北戦争ではアメリカ連合国に属し、戦後1870年に合衆国への復帰が認められた。 テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の三方が川で規定されている。西部でニューメキシコ州、北部はレッド川を挟んでオクラホマ州に、及び東部はサビン川(英語版)を挟んでルイジアナ州、およびアーカンソー州に接している。南西部においてはリオ・グランデ川を国境として、メキシコのチワワ、コアウイラ、ヌエボレオン、及びタマウリパスの各州と接している。パンハンドル(州北部をなす長方形の)地域とオクラホマ州との東部州境は西経100度線、北部州境は北緯36度30分線、ニューメキシコ州との西部州境は西経103度線となっている。エルパソ市は州の西端にあり、北緯32度線とリオ・グランデ川に接している。テキサス州の南東部においてはメキシコ湾が展開し、バイユーの流れる湿地が多い。最高地点は、州西部のグアダルーペ山脈国立公園内にある標高2,667mのグアダルーペ峰。北西部にはラノ・エスタカドと呼ばれる平原が広がる。 国立公園、州立公園、その他の保護区には、以下のようなものがある。西部の他州に比べ、公有地の面積比率が低い。 テキサス州の面積は696,241 kmで、アラスカ州に次いで全米第2位の広さがある。これは日本の面積の約2倍である。テキサス州を独立国と仮定すると、チリやザンビアに続いて40番目に大きな国となる。 テキサス州はケッペンの気候区分では10の地域、土壌区では14の地域、また生態地域では11の地域に区分されるほど、土壌、地勢、地質および植物相や動物相における違いで地域を分類するのが大変なところである。一つの区分法として南東部から西に向って、メキシコ湾海岸平原、内陸低地、グレートプレーンズおよび盆地と山脈地帯に分類する方法がある。メキシコ湾海岸平原は州南東部でメキシコ湾を包み込むようにしている。この地域の植生は密な松林である。内陸低地はなだらかにうねる丘の森林地帯であり、大きな松硬材林の一部である。州中央部のグレートプレーンズはパンハンドル地域やリャノ・エスタカードからオースティンに近いテキサス・ヒル・カントリーに跨っている。この地域はプレーリー(丈の高い草原)やステップ(丈の低い草原)が大半を占めている。テキサス州最西部すなわち「トランス・ペコス」(ペコス川より向こうの地域)は盆地と山脈地帯である。この地域は最も変化が激しく、サンド・ヒルズ(砂丘)、ストックトン高原、砂漠の渓谷、樹木のある山岳斜面および砂漠の草地がある。 テキサス州には名前の付いた水流だけで3,700、主要河川は15ある。最大の川はリオ・グランデ川である。その他の主要河川としては、ペコス川、ブラゾス川、コロラド川およびオクラホマ州との州境になっているレッド川がある。テキサス州には大きな天然湖が無いので、100以上の人口湖を造成してきた。 テキサス州のその大きさと特徴ある歴史のためにアメリカ合衆国のどの地域に属するかは議論のあるところである。文献によってアメリカ合衆国南部あるいは南西部のどちらかあるいは双方に入ると考えられることが多い。州内の幅広い地形、経済および文化の多様性のために州全体を一つの地域に含めることは危険である。州の東部、中央部および北部は南西部よりも南部との結び付きが強く、一方最西部や南部はアメリカ合衆国南部よりも南西部との類似性が強い。 テキサス州はグレートプレーンズの最南端にあり、その南は褶曲したメキシコ・東シエラマドレ山脈で終わる。大陸地殻が安定した中原生代クラトン(剛塊)を形成し、幅広い大陸縁辺と遷移地殻へ変化し、メキシコ湾近くに達する。テキサス州最古の岩石は中原生代の約16億年前のものとされている。これら先カンブリア時代の火成岩や変成岩が州内の大半に横たわっており、リャノ隆起、ヴァンホーンおよびエルパソに近いフランクリン山脈の3か所で露出している。堆積岩がこれら古期岩石の大半を覆う。最古の堆積岩層は断層ができた大陸縁辺、すなわちカンブリア紀に発達した地質学上のパッシブ・マージンに堆積した。この縁辺はペンシルベニア紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が衝突し、パンゲア大陸が形成されるまで存在した。ペンシルベニア紀の大陸衝突でアパラチア山脈とウォシタ山地を形成した地殻である。この造山運動地殻は今日ダラス-ウェーコ-オースティン-アントニオ構造線の下にある。 古生代後期の山脈はジュラ紀断層がメキシコ湾を開き始めたときに崩壊した。パンゲア大陸が三畳紀に分裂し始めたが、海洋底拡大によるメキシコ湾の形成がジュラ紀中期と後期に起こった。海岸線がテキサス州の東縁に再度移り、メキシコ湾のパッシブ・マージンを形成し始めた。 今日、9~12マイル (14 – 19 km) の堆積層がテキサス州の大陸棚の下にあり、アメリカ合衆国の石油埋蔵量のかなりの部分がある。初期のメキシコ湾盆地は形成の初めは限られていて、海水が完全に蒸発することが多く、ジュラ紀の厚い蒸発岩を形成した。これら岩塩堆積物はドーム状ダイアピルを形成しており、東テキサスのメキシコ湾岸地下に見ることができる。 東テキサスの露頭は白亜紀や古第三紀の堆積物であり、始新世褐炭の重要鉱床である。北部のミシシッピー紀やペンシルベニア紀の堆積物、西部の二畳紀の堆積物、および東部のメキシコ湾海岸沿いとテキサス州大陸棚の白亜紀堆積物には石油が含まれる。漸新世火山岩がテキサス州最西部ビッグベンド地域に見られる。西部高原地域のオガララ帯水層と呼ばれる中新世堆積物層は重要な帯水層である。テキサスは活動的なプレートテクトニクス境界から遠く、火山が無く、地震もほとんど無い。 東部は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分:Cfa)、西部はステップ気候(北部はBSk、南西部はBSh)。南西部にチワワ砂漠の北東部が含まれる。州南部では亜熱帯性の気候が見られる。複数の気候区が交っているため、動植物相は多様である。乾燥した西部では、湿地や河川、泉に生息する動植物の中に絶滅危惧種が多い。 テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象である。州のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖である。降水量についても地域での変化が大きい。州最西端のエルパソでは年間降水量が8インチ (200 mm) にしかならないが、南東部のヒューストンでは54インチ (1,370 mm) にも達する。北中部のダラスでは年間降水量37インチ (940 mm) とそこそこの量である。 パンハンドル地域や州西部の山岳部では舞冬雪が何度も降るが、州北部では年に1・2度、中部と東部では数年に1度しか降らない。サンアントニオより南、すなわち海岸部では極少数の例外を除いて降雪は稀である。最近の降雪例としては2004年のクリスマスイブにヒューストンでは初めてのホワイトクリスマスを記録し、12月の平均最高気温が 65°F(18°C) である南のキングズビルでも6インチ (15 cm) の降雪があった。 夏の最高気温は西部山岳部やメキシコ湾のガルベストン島で 80°F(26°C) 台、リオ・グランデ渓谷で 100°F(38°C) 近辺となるが、テキサス州の大半の地域は 90°F(32°C) 程度である。 夏の夜の気温は西部山岳地での50°F(14°C) 台後半から、ガルベストンでの80°F(26°C) まで変化する。 雷雨は特に州東部と北部で多い。竜巻道がテキサス州北部を通っている。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっている。竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生している。年間では4月、5月および6月に発生回数が多い。 アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンの幾つかがテキサスを襲った。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっている。このためにガルベストンが主要港湾市の地位を引き継いだ。1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっている。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1915年のガルベストン・ハリケーン、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリー、1961年のハリケーン・カーラ、1967年のハリケーン・ビューラ、1983年のハリケーン・アリシア、2005年のハリケーン・リタ、および2008年のハリケーン・アイクがある。熱帯低気圧も大きな被害を出すことがあり、1989年と2001年のアリソンと1979年のクローデットが特に大きなものである。 テキサス州はアメリカ合衆国で最大の温室効果ガスを排出している。毎年の二酸化炭素排出量は1.5兆ポンド(6.8億トン)近くに上っている。世界の国と比較したとき、テキサス州は第7位の排出量となる。この膨大な排出量の原因は、多くの石炭焚き火力発電所があることと、石油精製業があることである。 テキサス州民を指す英語の呼称は「テクサン」(Texan)であるが、かつてはテクシャン(Texian)と呼ばれていた。スペイン語ではテハーノ(Tejano)といい、英会話ではヒスパニック系のテキサス州民のことを指す。 2009年現在、テキサス州は人口24,782,406人である。前年より1.97%、2000年より16.1%増加した。2000年と比較して出生数から死亡数を引いた自然増では1,389,275人が増加し、国外からの移民で801,576人、国内移動で451,910人が増加した。2004年時点で350万人の外国出身者がおり(州人口の15.6%に相当)、このうち120万人が不法在留外国人 (不法在留外国人はテキサス州内の外国生まれの3分の1以上及び総計州人口の5.4%と計算する) であると見込まれる。2000年から2006年の間の不法移民増加率では国内最大である。2010年、不法移民は州人口の6.0%となっている。これは国内の50州では5番目に高い数字となっている。 テキサス州の人口密度は1平方kmあたり34.8人であり、全国平均の31人より幾らか高くなっている。テキサス州とフランスは国土の大きさが接近しているが、フランスの人口密度は1平方kmあたり110人とかなり高くなっている。 テキサス州民のうち3分の2はヒューストンのような主要都市圏に住んでいる。テキサス州ではダラス・フォートワース都市圏が最大である。ヒューストンがテキサス州最大、かつアメリカ合衆国で第4位であるが、ダラス・フォートワース都市圏はヒューストン都市圏よりかなり大きくなっている。 すべてのデータはアメリカ合衆国統計局 州人口見込みからの情報である。 テキサス州内で祖先グループと報告された最大の民族は:メキシコ人 (24.3%)、アフリカ系アメリカ人 (11.5%)、ドイツ系アメリカ人 (9.9%)、アメリカ白人 (7.2%)、及びアイルランド系アメリカ人 (7.2%)。 国勢調査データはテキサス州の人口の7.8%が5歳以下、28.2%が18歳以下および9.9%が65歳以上と報告している。女性はおおよそ人口の50.4%である。 ドイツ人の子孫は州中部と南東部に多い。テキサス州民の3分の1以上がヒスパニック系であり、最近入ってきた者が多いが、テハーノの中には18世紀のテキサスから数世代を経る者もいる。アフリカ系アメリカ人の場合、元奴隷の子孫に加えて最近の新大移動によって州内に仕事を求めてきた学卒者も多い。最近は特にヒューストンとダラスでアジア系アメリカ人の人口が増加している。その他の都市ではオースティン、コーパスクリスティおよびマッカレンに近いシャリーランドでアジア系アメリカ人の人口がかなり増加している。 テキサス州の住人の信仰する宗教および宗派は: 2000年時点で最大の宗教会派はローマ・カトリック教会で4,368,969人、次に南部バプテスト協議会3,519,459人、合同メソジスト教会1,022,342人となっている。 テキサス州東部はバイブル・ベルトの「バックル」部と呼ばれ、社会的に保守的である。ダラス・フォートワース都市圏には3つの福音主義者神学校と1つの男子修道院があり、カトリック系神学校であり歴史的建造物のダラス大学もある。ヒューストンのレイクウッド教会は毎週43,000以上の信徒が礼拝することでは国内最大である。地元の伝承ではラボックの一人当たりの教会の数では国内最大と言われる。 非キリスト教宗教の信者はテキサス州の都心部に多い。イスラム教徒は約40万人がいる。ユダヤ教徒は約128,000人である。ヒンドゥー教やシーク教などの信者は146,000人である。 5歳以上の全人口の66.35%が英語を、29.09%がスペイン語を話す。英語はテキサス独特の訛りが強い南部アメリカ英語である。スペイン語話者数はカリフォルニア州に次ぐ。 アコキサ族(英語版)、アラバマ族、アナダルコ族、アパッチ族、アラナマ族、アタカパン族、ビダイ族(英語版)、ビロキシー族(英語版)、カドー族、チェロキー族、チョクトー族、コアユルテカン族(英語版)、コマンチ族、クリーク族、デアドーズ族(英語版)、アイッシュ族(英語版)、グアスコ族、ハイナイ族(英語版)、ハシナイ連邦、ナベダチェ族(英語版)、ナソニ族(英語版)、イスレタ族、ヒカリア・アパッチ族、カドハダチョ連邦(英語版)、カランカワ族、キチャイ族(英語版)、カイオワ族、コウシャッタ、リパン・アパッチ族、ムスコギー連合、パカナ族、パスカゴーラ族、プエブロ族、パチリ族、クアポー族、ショーニー族、シュマン族、ソアカチノ族、タワコニ族(英語版)、トンカワ族(英語版)、ワコ族(英語版)、ウィチタ族といったインディアン部族が、広大な同州の沿岸部から大平原部まで、狩猟民、農耕民取り混ぜて先住していた。 カイオワ族やコマンチ族は18世紀にメキシコ経由で馬を手に入れ、一大騎馬狩猟民となった。遠征隊を組んで、遠く中南米まで足を延ばした記録も残っている。1847年の「和平会談」で、コマンチ族が3000ドル相当の「贈り物」と引き換えに彼らの領土内での白人の通行を認めた。こうして入植白人の幌馬車隊は、この「テキサス道」と呼ばれる入植経路を使ってインディアンの土地に一気に押し寄せた。命の糧のバッファローを虐殺し、勝手に農地を拓く白人の狼藉に怒った略奪狩猟民のカイオワ族やコマンチ族は同盟を組んで、これら入植白人に対して全面的に戦いを挑んだ(「テキサスのインディアン戦争」)。 「開拓者を襲う恐ろしいインディアン」は、20世紀になって西部劇映画の題材として繰り返し描かれた。コマンチ族やカイオワ族、アパッチ族は「悪いインディアン」としてこういった西部劇映画に、デタラメな姿で登場する常連悪役部族となった。 彼らの他に、カランカワ族やトンカワ族、アタカパン族など、多様な部族集団が先住したが、「テキサス・インディアン戦争」の末に、すべて19世紀にオクラホマ州へ強制移住させられた。 全域にかつて先住した一大部族集団コアユルテカン族(英語版)」は、19世紀中に白人牧場主による「インディアン狩り」によってほぼ絶滅させられた。インディアンを追い払った後の広大な土地は、「一番遠くまで馬で駆けた者が、そこまでの土地を貰う」というような「賭けごと」によって、日本の市町村級の規模面積で白人個人入植者に分配された。 現在、アメリカ連邦政府から公式認定され、「保留地(Reservation)」を領有する部族はキカプー族、ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族の3つ。キカプー族は、19世紀に5大湖地方から白人の侵入を嫌って南下、この地までやってきた。 ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は、一部がニューメキシコ州からの「飛び地」のような場所に存在し、テキサスに「ティグア保留地」を領有している。アラバマ族とコウシャッタ族は長らく絶滅部族の扱いだったが、近縁の両部族は提携結集し、1987年にアメリカ連邦政府からインディアン部族として公式認定され、「復活」した。 他のインディアンたちは、部族単位では認定されていない。「チェロキー族」や「セミノール族」、「クリーク族」は19世紀に東部から大陸を横断して強制移住させられた末裔だが、現在公式認定を抹消され、部族として存在しないことになっている。 2009年、テキサス州議会は、「リパン・アパッチ族」を部族認定した。以後、連邦認定と併せて、州議会に部族認定を要求する部族が増えている。 ≪アメリカ連邦政府が公式認定している部族≫ ≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族・団体≫ ≪アメリカ連邦政府は公認していないが、テキサス州議会が公認している部族≫ 合衆国でのインディアンの宗教は、1881年にすべて非合法化された。以後、儀式の話をしただけで、彼らは白人に逮捕される状況となった。1940年代になり、フランクリン・ルーズベルト大統領が一部合法化したものの、自傷行為を伴う苦行などは、「レッド・パワー運動」が高まった1970年代までなお禁止弾圧され続けた。 19世紀末に同州で発祥したネイティブ・アメリカン・チャーチが行う「ペヨーテの儀式」は、フェネチルアミン系の幻覚剤であるメスカリンを成分として含むペヨーテを摂取して治癒を行う宗教であるが、このペヨーテは、アメリカ国内では同州にしか自生しない。このため、現在ではペヨーテの採集のために全米からインディアンが集まることとなっている。ペヨーテの採集は、現在インディアンにのみ合法とされる行為である。 1884年からインディアンの同化政策として始まった「インディアン寄宿学校」は、インディアン児童を同化政策の目的をもって、彼らの言語・宗教・習慣を根こそぎ奪い、キリスト教化させた私立の「教育」機関である。本来インディアンにとって髪の毛は神聖なものであり、これを切るのは家族が亡くなったときだけであるが、インディアン寄宿学校はこれを無視して入学時に強制的に彼らの髪を切らせた。インディアン児童が一般公立学校に通学させられるようになったのは20世紀後半からであるが、ここでもなお彼らの宗教習慣は、白人のキリスト教規範に従わせるものだった。保留地を領有する部族は「部族学校」を開設してこれに対抗しているが、領土を持たない「非公認部族」の児童は、現在も白人の学校への通学を余儀なくされている。 1978年、「アメリカ・インディアンの宗教の自由法(AIRFA)」が制定され、絶滅危惧種であるワシなどの羽や骨の使用や、麻薬であるメスカリンを含むペヨーテの宗教儀式での使用を例外的に認められた。 同州フォート・ベント郡ニードヴィルの幼稚園に通うリパン・アパッチ族インディアンの少年アドリエル・アロチャ(Adriel Arocha)は、インディアンの宗教習慣に従って、長い髪を伸ばしている。 2008年夏、「ニードヴィルISD」(独立学校区)と学校当局は、アドリエル(当時5歳)の長髪を、テキサス学区での通例である学則に従い短く切るよう両親に通告し、「従わない場合は退学させる」とした。これに対し、父親ケニー・アロチャと母親ミッシェル・ベテンボーはこの処置を「インディアンの宗教に対する侵害である」とし、「アメリカ市民自由連合(ACLU)」の後押しを受けて法廷闘争に持ち込み、「髪を伸ばしているのは(ケニーは12年間、アドリエルは生まれてから一度も髪を切っていない)宗教の自由のための闘いだ」として徹底抗戦の構えをとった。 以後、このインディアン児童の処遇を巡ったテキサス州での係争は、「アドリエル・アロチャ対ニードヴィル法廷戦(A.A. v. Needville Case)」と名付けられ、全米が注目する裁判となった。 この際、ニードヴィルISD監督官のカーチス・ロードスはアドリエルの両親が校区の服装規定に対し、宗教的理由による免除を求めたことを受けて両親の態度を批判し、「彼らは宗教の自由と言うが、それがどんな宗教かわかりますか?」と述べ、「あなたがイスラム教徒とか言うんなら、それはよく知られてますからわかりますよ。でもあなたの宗教とやらには、どれほどの信仰心が伴うものだと言うんですか」と問題発言を行った。9月3日からは、同校校長がアドリエルを髪を切るまで校内謹慎処分とし、級友たちとは別室で、退職教員による特別授業を受けるよう指示した。 この訴訟では、地区の判断が合衆国憲法の修正第1条と第14条、また「テキサス宗教の自由復活法」下での権利に違反すると述べられた。2008年10月に学区の処置に対し差し止め命令が下されたのち、2009年2月、連邦裁判所のキース・P・エリソン裁判官は学校側の強制を「憲法違反」と判定、差し止めを恒久的なものとした。しかし学校側は裁決を不服とし、「三つ編みにした髪を襟に入れるなら登校しても良い」と裁決に逆らって条件を出した。 現在アドリエルは三つ編みを外に垂らして通学し、あくまで学校の条件に抗っている。アドリエルと両親に対しては、「ACLU(アメリカ市民自由連合)」のほかに、同州の「リパン・アパッチ族」、同州のインディアン学者のK・ツィアニナ・ロマワイマとスザンヌ・クロス、「州の政教分離のためのアメリカ人連合」、「反名誉棄損同盟」、「バージニア・ナンセモンド族・インディアン部族協会」、「アメリカ・ユダヤ人協会」、「アメリカ・ヒンズー教徒財団」、「異教徒間同盟」、「シーク教徒連合」と「連合シーク」が支援を表明しており、全米をあげた大論争となっている。 インディアン部族が運営する「インディアン・カジノ」は、産業を持てず貧困にあえぐ全米のインディアン部族にとっての最後の切り札であり、「現代のバッファロー」と呼ばれるビジネス・モデルである。 フロリダ州のセミノール族やカリフォルニア州のミッション・インディアン・カバゾン・バンドの相次ぐカジノ運営の合法裁定勝訴を受け、1987年、米国最高裁判所は、アメリカ連邦政府が公認したインディアン部族にのみ、州の管区外でのカジノ所有権を認める裁決を下した。これを受けて、1988年に「インディアン賭博規制法(IGRA)」が制定された。 これを受け、テキサス州ではキカプー族のみがカジノの所有権を得たが、1987年の「インディアン復活法」制定後にアメリカ連邦政府から公認を受け「復活」したティグア族(イスレタ・プエブロ族)とアラバマ・コウシャッタ族は、法の対象外としてカジノ運営を禁じられた。 1996年、テキサス・キカプー族は同州イーグル・パスに「幸運な鷲のカジノ」を開設した。しかしテキサス州司法庁はIGRAの認可に逆らい、これを違法として提訴した。現在、このカジノの運営の法的可否は米国最高裁判所に持ち込まれており、成り行きが注目されている。 1992年、テキサス・ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は彼らの保留地(Reservation)内でのカジノ開設許可をアン・リチャーズ知事(当時)に請願したが、知事はこの要請を拒否した。ティグア族はこれを連邦法に基づく彼らの権利の侵害であるとして、1993年に州の承認無しで「喋る岩のカジノ」を開設した。以後、このカジノの合法性は10年に渡って法廷で争われることとなった。 ジョージ・W・ブッシュ知事(当時)は、ティグア族のカジノが高額賭け率の博打を禁止した「テキサス州反ギャンブル法」を犯していると主張したが、ティグア族は「われわれのカジノのスロットマシンのコンピューターの乱数度は、テキサス州営宝くじと同じ程度のものだ」と反論。2002年1月、第5巡回控訴裁判所でアメリカ連邦政府はティグア族が1987年の「インディアン復活法」に違反しているとし、閉鎖勧告した。ティグア族はこれに対し、2007年に「喋る岩のカジノ」を再開したため、2008年3月に州司法長官事務所はティグア族に対し「法廷侮辱罪」を申し立てた。 2001年、テキサス・アラバマ・コウシャッタ族は、同州リビングストンに部族カジノを開いた。9ヵ月運営された後に、第5巡回控訴裁判所は、同部族が1987年の「インディアン復活法」に違反しているとしてこのカジノの営業停止命令を勧告した。 2009年5月、テキサス州は同州でのカジノ賭博を非合法と決定(白人の経営する船上カジノ「テキサス宝のカジノ・クルーズ」は営業中である)。ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族のカジノ再開は非常に難しくなっている。「インディアン・カジノ」の閉鎖はインディアンのみならず、インディアン以外の従業員の失業をも生んでいる。カジノ再開を求める抗議運動には、インディアン以外の人々も多数参加するものとなっている。 2009年9月、隣州オクラホマ州のチカソー族は、テキサス州グランドプレーリーの破産した競馬場、「ローンスターパーク」(Lone Star Park)の買収計画を発表、2700万ドルを提示した。テキサス賭博協会ほか、ギャンブル業界筋は、チカソー族の目的は競馬より賭博にあると伝えている。オクラホマ・チカソー族は、カジノ事業を拡大しており、 テキサスとオクラホマの州境を含め、現在15の賭博施設を所有運営している。同競馬場での賭博運営の合法化のためには、州憲法改正を含めた賭博法案を可決しなければならず、最短で2011年での可決が予定されている。 ≪テキサス州のインディアン・カジノ≫ 2020年の国勢調査によると、州内にはヒューストン、サンアントニオ、およびダラスと、人口が100万人を超える都市が3つある。この3都市は全米上位10位以内にも入っている。この3都市にオースティン、フォートワースおよびエルパソを加えた6都市が人口50万人を超え、全米でも上位25位以内に入っている。 これら都市部とは対照的に、コロニアと呼ばれる未編入田園部は、基本的なインフラが無いことが多く、貧困が特徴である。2007年時点で、少なくとも2,294カ所のコロニアがあり、主にメキシコとの1,248マイル (2,000 km) に及ぶ国境近くにある。約40万人がコロニアに住んでいる。 テキサス州はアメリカ合衆国国勢調査局およびアメリカ合衆国行政管理予算局によって定義された25ヶ所の都市圏(MSA)がある。そのうち、最も大きな2つは全米でも上位10位以内に入る。2003年、アメリカの国勢調査はいくつかの大都市圏内部に "大都市区分 (metropolitan divisions)" を採用した。テキサス州はダラス・フォートワース・アーリントンMSA内部に2つの大都市区分を持っている。 人口100万人以上の都市圏としては、ダラス・フォートワース都市圏、ヒューストン大都市圏、サンアントニオ・ニューブローンフェルズ都市圏およびオースティン・ラウンドロック・ジョージタウン都市圏の4つがある。ダラス・フォートワース都市圏は7,637,387人(全米4位)、ヒューストン都市圏は7,122,240人(全米5位)である。州西部の州間高速道路35号線(ダラス・フォートワース都市圏からオースティンを経てサンアントニオ)、東部の州間高速道路45号線(ダラスからヒューストン)および南部の州間高速道路10号線(サンアントニオからヒューストン)がテキサス州都市部三角形を形成している。この6万平方マイル (155,000 km) の地域に州内の大都市と都市圏の大半が入り、その人口は1,700万人を数え、州人口の3/4近くにのぼる。 現在のテキサス州憲法は1876年に採択されたものである。他の州と同様に明確に権力の分立を図っている。州の権利章典はアメリカ合衆国憲法よりも広い範囲に及び、テキサス州独自の規定を含んでいる。 テキサス州は複数の行政府を持ち、州知事の権限を制限している。州務長官を除き州行政役人をそれぞれ有権者が選挙することで、役人候補者達は知事にではなく大衆に直接責任を負うことになる。この選挙制度では行政府が複数の政党支持者で埋められることになる。共和党の大統領ジョージ・W・ブッシュがテキサス州知事を務めたとき、民主党のボブ・バロックが副知事を務めた。行政府の役職は州知事、副知事、財務官、土地コミッショナー、検事総長、農業コミッショナー、鉄道委員会の3人の委員、教育委員長および州務長官である。 両院制のテキサス州議会は、150人の議員からなる下院と、31人の議員からなる上院がある。下院議長が下院を采配し、副知事が上院を采配する。議会は2年に1回定例議会を開くことになっているが、知事は望む時にはいつでも特別会期を招集できる。州の会計年度は9月1日から翌年の8月31日までである。 テキサス州の司法府は合衆国の中でも複雑な仕組みを採用しており、多くの層と重複する司法権がある。最終審に相当するのが2つあり、テキサス州最高裁判所は民事事件を、テキサス州刑事控訴裁判所は刑事事件を扱う。自治体にある司法府の幾らかを除き、あらゆる司法府の裁判官は政党制選挙で選出される。州知事は空席になった裁判官を指名できる。 全米一古い地方警察組織の一つであるテキサス・レンジャー(現在の正式名称は州公安局テキサス・レンジャー部)がある。テキサス・レンジャーは長年にわたって、殺人から政治的汚職まで犯罪の捜査を行ってきた。機動隊としても刑事としても行動し、州知事を護衛し、逃亡者を追跡し、民衆に対しても州に対しても準軍事的組織として機能する。元々スティーブン・オースティンが1823年に非公式に創設したものが、1835年に制度化された。テキサス州の歴史における重要事件や西部開拓時代の良く知られた犯罪事件に関与してきた。 題材にしたTVドラマに『炎のテキサス・レンジャー』(1993年 - 2001年)がある。全米で大ヒットを記録し、CBSのトップショーとして、1994年 - 1995年のピーク時には1940万人もの聴衆を獲得した。その後、現在でも世界80カ国以上の国で放送されており、全世界で約10億人もの視聴者を獲得している。番組の大ヒットで実際のテキサス・レンジャーの評判が上がったとして、州知事リック・ペリーより主演俳優のチャック・ノリスに名誉会員(殿堂入り)の栄誉が贈られた。 過去にアメリカ連合国に所属して黒人の奴隷解放に反対していた事もあり、レコンストラクション時代の終わりから20世紀終盤まで民主党が比較的強い州だった。保守本流が圧倒的な同州では公民権運動の影響で、1968年アメリカ合衆国大統領選挙を機に共和党支持に鞍替えする人々が増えた。1964年の公民権法に署名したリンドン・B・ジョンソン大統領は、「我々は一世代にわたって南部を失った」と語ったと言われている。ロナルド・レーガン政権以降、財政的にも社会的にも保守色が濃くなった。その後は、州知事も共和党出身者が続いており、またジョージ・H・W・ブッシュやジョージ・W・ブッシュといった共和党出身の大統領も輩出している。2008年アメリカ大統領選挙においても同州では、共和党候補のジョン・マケインが勝っている。 州内では、州都オースティンや都市部、またヒスパニック系人口の多いエルパソやラレドなどの州南部では、民主党支持が強くなっているのに対し、コーパスクリスティやサンアントニオ以北の農村部では、共和党支持が優勢である。 2003年に共和党のトム・ディレイが指導したテキサス州におけるアメリカ合衆国下院選挙区再割付は、「ニューヨーク・タイムズ」紙によってゲリマンダー(自党に有利な選挙区操作)の最悪のケースと名指された。「テキサス・イレブン」と呼ばれる民主党議員の集団が定数不足になることを見越してテキサス州から逃げ出した。このような動きがあったにも拘らず、州議会は共和党有利な選挙区割りを採択した。これを不満とした訴訟が「統合ラテンアメリカ市民連盟対ペリー事件」で、合衆国最高裁判所まで持ち上げられたが、裁決は共和党有利となった。 2012年総選挙の時点でテキサス州選出のアメリカ合衆国議会議員は下院、上院共に共和党が多数派である。第113アメリカ合衆国議会では、テキサス州選出下院議員36人のうち24人が共和党員、12人が民主党員となっている。また、上院議員のジョン・コーニン(英語版)とテッド・クルーズは共に共和党員である。1994年以降州全体の選挙で民主党員は選ばれていない。 テキサス州は全米で最も死刑執行数が多い州である。アメリカでは近年、死刑を撤廃する州や執行数を減らす州が増えてきたため、全米におけるテキサス州の死刑執行数の割合が高くなってきている。但し、2005年に絶対的終身刑を導入したことにより、執行数は2016年以降2018年を除いて1桁執行であり、判決に関しては、2008年以降2014年を除いて1桁で推移している。 2007年3月30日、自宅や職場への侵入者を銃で撃っても正当防衛とみなす州法にペリー知事が署名。同年9月1日施行。 同法により、自宅や職場や車の中に押し入ろうとした侵入者を「致死力のある銃」で撃つことが可能となった(これらの場所から引きずり出されそうになった場合に銃を使用しても、自衛とみなされる)。自宅や車は自分の「城」であり、守る権利があるとの考えに基づいた同法は「キャッスル・ドクトリン」(城の原則)と呼ばれ、銃規制に反対する全米ライフル協会が法制定を後押ししてきた。尚、テキサス州以外にも15州が同様の法律を持つ。同州では拳銃を容易に購入でき、許可を得れば持ち歩くことができる。 一方、テキサス州では2018年にサンタフェ高校銃乱射事件(10人死亡)、2019年にエルパソ銃乱射事件(22人死亡)、ミッドランド銃乱射事件(死者7人)など立て続けに多数の死傷者が伴う銃乱射事件が発生している。 テキサス州の場合、これまで自動車の運転中の携帯電話の使用はまったく禁止されていなかった。そのため、公共交通機関の未発達による車社会もあいまって、携帯電話で通話やメールをしながら運転するドライバーがとても多く、これによって引き起こされる事故が後を絶たなかった。しかし2009年9月より18歳未満のドライバーは運転中の携帯電話の使用が禁止となり、それ以外のドライバーもスクールゾーンでは使用できなくなった。 テキサス州の郡は254あり、全米の州の中で最大である。各郡は4人の選挙で選ばれたコミッショナー(人口に応じて分割された4つの選挙区の代表)から成るコミッショナーズ・コートによって運営されている。郡判事は郡全体の選挙で選ばれる。郡政府は「弱い」市長・市政委員会制度に近い形で運営されている。郡判事には拒否権が無いが、他のコミッショナーと共に投票に参加している。 テキサス州は市や郡にそのサービスを共有する「地方間協定」を結ぶことを認めているが、市と郡の統合政府を認めていない。また都市圏政府も認めていない。郡は「独自法」の郡を認められず、その権限は州法によって厳密に定義されている。テキサス州には編入済みにしろ未編入にしろ、郡内にタウンシップが無い。編入済み地域は自治体の一部である。郡は未編入地域に対して限られたサービスを提供する。自治体は「一般法」の市か、「独自法」の市かに区分されている。自治体は人口が5,000人を超えたときに有権者の投票により独自法の自治体かを選択できる。この住民投票は教育委員会やコミュニティ・カレッジの地区と同様、無党派で行われる。 2008年時点で、テキサス州は州総生産が1兆2,240億ドルであり、アメリカ合衆国の州では第2位である。世界の国と比較すると第11のカナダや第12位のインドに匹敵している。世界に国の地方区分では、カリフォルニア州と東京都に次いで第3位である。2007年の一人当たりGDPは37,083ドルであり、国内第22位だった。テキサス州は人口が多く、天然資源が豊富であり、多様な民族と多様な地形があることで、大きくまた多様な経済になってきた。石油が発見されて以来、州経済は石油産業の状況に大きく依存してきた。近年、都市部のサイズが大きくなり、2005年時点では人口の3分の2がそこに集中している。州経済の発展は都市スプロール現象とそれに付随する兆候を生んできた。 2010年1月時点での州内失業率は8.2%である。 テキサス州は「低い税、低いサービス」の定評がある。シンクタンクのタックス・ファンデーションに拠れば、テキサス州民の州税と地方税負担率は国内最低レベルの下から7番目であり、一人当たり3,580ドル、収入の8.7%である。州税の中に所得税が無い7州の1つである。その代わりに6.25%の消費税を徴収するが、地方課税地区(市、郡、特殊目的課税区および公共交通機関管理所)も2%までの消費税を課すので、トータルは最大8.25%となる。テキサス州は「税寄贈州」である。2005年時点で連邦政府に所得税として払った1ドルにつき、約0.94ドルがテキサスに返ってくる。 2004年、「サイト・セレクション・マガジン」がテキサス州を企業に最も優しい州に位置付けた。これにはテキサス州の運営する30億ドルのテキサス起業基金があることが貢献している。フォーチュン500に入っている企業の本社がある数では合衆国の州で最大である。 2010年時点で、州内には346,000人の100万長者がおり、合衆国の州ではカリフォルニア州に次いで第2位である。 2020年代に入ってから、シリコンバレーなどにある企業が住宅価格の高騰などによる環境悪化を理由にテキサス州へ本社を移転する動きがある。移転企業にはテスラ、オラクル、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ、トヨタ北米本社などがある。 歴史的に農業及び牧畜業が主要産業であったが、1901年にスピンドルトップでの油田が発見されて以来、エネルギー産業の比重が急激に高まり、以後エネルギー産業とともに歩んできた。こうしたことから従来、州の産業はCotton、Cattle、Crude のいわゆる「3C」に代表されるといわれてきた。しかし、80年代以降は、エネルギー産業に加えハイテク産業も成長するなどサンベルトの一大中心州として急速な発展を遂げてきている。 メキシコ湾や内陸部に油田が多く、石油資源が豊富であり、エクソンモービルやヴァレロなどの石油会社が多い。カウボーイ文化に象徴される放牧業も盛んである。 テキサス州には合衆国の州の中で最大の農場数と最高の農場面積を持っている。家畜生産量でも国内で最大級であり、牛が最も収益を上げる生産物である。また羊とヤギの生産量も国内では高いほうである。農産物では綿花の生産量が高い。またかなりの量の穀物や農生産物も生産している。商業漁業も盛んである。鉱物資源についてはセメント、砕石、石灰、砂、砂利の生産量が大きい。 スピンドルトップで石油が発見されて以来、エネルギーは州内の政治と経済を牽引する存在になってきた。エネルギー情報管理局に拠れば、テキサス州一人当たりエネルギー消費量および全消費量で国内最大である。国内の他の州とは異なり、テキサス州は交流配電網であるテキサス・インターコネクションが送電を行っている。カリフォルニアの発電危機はあったが、テキサス州は電力供給の規制を緩和したままである。 テキサス州鉄道委員会は、その名前とは裏腹に州内の石油とガス産業、ガス公益事業、パイプラインの安全性、液化石油ガス産業の安全性、および石炭とウラニウムの採掘を管理している。1970年代まではテキサス州の原油埋蔵量を管理できる故に石油価格を制御していた。石油輸出国機構(OPEC)の設立者がテキサスの機関を石油価格管理のモデルに使った。 テキサス州には約50億バーレル (790,000,000 m)1 の石油確認埋蔵量があり、合衆国全体の約4分の1に相当する。州内の石油精製所は1日に460万バーレル (730,000 m) の石油を精製できる。ヒューストン地域のベイタウン製油所はアメリカ合衆国最大の精製所である。天然ガスの生産量も高く、国内供給量の4分の1に相当している。コノコフィリップス、エクソンモービル、ハリバートン、バレロおよびマラソン・オイルなど幾つかの石油会社がテキサスに本社を置いている。 21世紀に入るとシェールオイル採掘の技術が進歩し、内陸部を中心に石油生産量が増加した。HSBCはテキサス州を国として見た場合、2018年にはロシア、サウジアラビアに次ぐ世界第三位の石油産出国になると予想している。 再生可能エネルギー資源についてもテキサスは先進的な存在であり、風力発電量では国内最大である。テイラー郡とノーラン郡のホースホロー・風力エネルギーセンターは2008年11月時点で世界最大の風力発電量、735.5 メガワット(MW) の能力がある。エネルギー情報管理局は州内の大きな農業と林業でバイオ燃料用バイオマスを大量に供給できると述べている。また太陽光発電に付いても国内最大の開発可能性を有している。 テキサス州の温室効果ガス排出量は全米50州中1位であり、2003年の1年間では約6億7000万トンの二酸化炭素を排出している。この内、運輸部門による排出量が28%を占めている。 仮に、テキサス州を1つの国に置き換えたとすると、世界7位の排出量であり、フランス、イギリス、カナダのそれぞれの1国の排出量をも上回り、また排出量全米2位のカリフォルニア州と3位のペンシルベニア州の排出量の合計を超えている。 この原因には、19の石炭による火力発電所がある事、化学工場が多い事が挙げられる。さらに、公共交通機関が少なく、燃費の悪いフルサイズSUVやピックアップトラックが多い事、夏の暑さが厳しくエアコンによる電力消費量が高い事が挙げられる。そして、前知事のリック・ペリーはアル・ゴアを批判しており、地球温暖化問題に対して懐疑的である。ハイブリッド車も増えてきてはいるが、州内で登録されている2000万台以上の車のうちの約1%にとどまっている。また、2007年の調査では、全米で半数近い人々が地球温暖化が最も深刻な問題であると回答したのに対し、テキサス州ではイラク戦争が最も深刻な問題であると答えた人々が最も多く、地球温暖化を最も深刻な問題と回答したのは約4%の人々だけであった。 テキサス州では、轟音を立てて走るピックアップトラックを頻繁に目にする。「land of pickup trucks」と呼ばれるこのテキサス州は、全米の約14%のピックアップトラックが売れている最大の市場である。テキサス州内では登録されている乗用車の約4分の1、特に農村部では車両の約半分がピックアップトラックである。 とりわけ、ビッグスリーが発売する、フルサイズのフォード・Fシリーズ、シボレー・シルバラード、ダッジ・ラムなどが非常に多く、数年前に比べてガソリン価格が高騰している現在でも、根強い人気を誇る。さらに、各メーカーは「テキサス・エディション」や「ローンスター・エディション」などという、地域限定仕様も発売している。2006年に操業開始した、トヨタ自動車の北米向けフルサイズピックアップトラック「タンドラ」の工場も、ここテキサス州のサンアントニオに立地する。なお、テキサス州のトラックの自動車税は、その他のタイプの車の自動車税よりも安い。 また、日本では安全性の問題から近年は急激に減った、金属製のグリルガードを付けたピックアップトラックも多い。 テキサス州には大きな大学システムがあり、テキサス企業基金やテキサス新技術基金のような指導機関と組み合わされて、幅広いハイテク産業が育ってきた。オースティン地域は「シリコンヒルズ」と呼ばれ、ダラス北部地域は「シリコンプレーリー」と呼ばれている。デル、テキサス・インスツルメンツ(TI)、ペロー・システムズ、AT&Tなど多くのハイテク企業の本社がテキサス州にある。また、コンパック・コンピュータの元本社は、カリフォルニア州に本社を置くヒューレット・パッカード(HP)による買収後も同社の最大拠点として現存しているほか、同様にHPが2008年8月に買収して傘下に収めた旧Electronic Data Systems(EDS、現在は「HPエンタープライズサービス」として事業を継続)もテキサスで創業し、成長した。 アメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターはヒューストン南東部にあり、テキサス州の宇宙航空産業の至宝になっている。フォートワースにはロッキード・マーティンの宇宙航空事業部とベル・ヘリコプター・テキストロンがある。ロッキードはF-16戦闘機ファルコンを製造しており、その後継機F-35ライトニング IIをフォートワースで製作している。 テキサス州の豊かさは、小売、卸、金融と保険および建設の各産業からなる強い商業分野を活気づかせている。フォーチュン500に入るテキサス州を本拠とする会社でテキサス州の伝統的産業ではないものとしては、AT&T、メンズ・ウェアハウス、ランドリーズ・レストラン、キンバリー・クラーク、ブロックバスター、ホールフーズ・マーケット、およびテネット・ヘルスケアがある。アメリカ合衆国で第2のショッピングセンターがあるダラス・フォートワース地域は、合衆国の都市圏で一人当たりのショッピングセンターの数が1番多い。 北米自由貿易協定 (NAFTA) によってメキシコがテキサス州にとって最大の貿易相手国となり、州輸出額の3分の1に相当する輸入額がある。テキサスとメキシコの国境には議論の多いマキラドーラの形成をNAFTAが奨励してきた。 同州の白人系カジノは、船上ホテル・カジノの「テキサス・宝のクルーズ・カジノ」の一軒のみ。アランサス港に停泊する豪華客船「テキサス・トレジャー号」内にあり、湾内を周遊しながらスロットマシン500台、ブラックジャック、カリビアンスタッド、クラップス、レットイットライド、スリーカード・ポーカー、ルーレット&ポーカーの24のテーブル・ゲーム、ルーレット、および100台のビンゴ遊技機を楽しめる、一大娯楽施設である。2009年5月、テキサス州は同州でのカジノ賭博を非合法としているが、このカジノはとくに営業上の影響は受けていない。 テキサス州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。 テキサス人は歴史的に州の大きさと荒い地形のために旅行する難しさを味わってきた。その総延長でアメリカ合衆国最長となる高規格道路と鉄道のシステムと最大数の空港を作り上げることでこれを補ってきた。交通規制当局であるテキサス州交通局は州内の広大な高規格道路システムを維持し、航空と公的輸送システムを管制している。テキサス州は北アメリカ大陸の中央に位置しており、重要な交通の中継点になっている。ダラス・フォートワース地域からトラックが出発して48時間以内に国土の93%の地域まで到着でき、24時間以内であれば37%となる。テキサス州には33の外国貿易ゾーンがあり、国内最高である。2004年この外国貿易ゾーンを経由して2,980億ドルの商品が取引された。 テキサス人は1948年のヒューストンにおけるガルフ・フリーウェイ開通以来、フリーウェイを使うことが多い。2005年時点でテキサス中を走る79,535マイル (127,000 km) の公設高規格道路がある(1984年の71,000マイル (113,000 km) から増加した)。州内後期各道路の最近の成長にあてた資金のために17の有料道路があり、幾つか追加される提案もある。西テキサスで州間高速道路10号線も同20号線も最高制限速度が80マイル/時 (129 km/h) となっており、国内最高である。国道も州道も高規格道路は全て舗装されている。 テキサス州には国内のどの州よりも多くの空港がある。最大のものはダラス・フォートワース国際空港であり、国内では第2位、世界でも第4位である。AMRコーポレーションのアメリカン航空とアメリカン・イーグル航空は旅客輸送距離と旅客搭乗数で世界最大の航空会社であり、ダラス・フォートワース国際空港をその最大かつ主要中継点に使っている。サウスウエスト航空もダラスに本社があり、ダラス・ラブフィールド空港で運行している。サウスウェスト航空は国内年間旅客数では国内最大であり、旅客数では世界最大である。 テキサス州で2番目に大きな空港はヒューストンのジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港である。ヒューストンを本拠にするユナイテッド航空(旧・コンチネンタル航空)の最大中継点である。アメリカの空港から来るメキシコ行き航空路の大半が利用している。 テキサス州の海岸と1,000マイル (1,600 km) 以上に及ぶ水路には1,000以上の海港が点在する。港では100万人近くを雇用し、毎年3億1,700万トンの荷を取り扱っている。大西洋岸内陸大水路のメキシコ湾部を通って合衆国大西洋岸の他の部分とを繋いでいる。今日のヒューストン港は外国貿易高で国内最大、全体では第2位であり、世界の港と比較しても第10位である。ヒューストン船舶水路は幅530フィート (161 m)、深さ45フィート (14 m)、長さ50マイル (80 km) ある。 テキサス州の伝統の一部はカウボーイ達がカンザスの鉄道まで牛を追っていった牛追いから派生している。テキサス州で初めて開通した鉄道は1853年8月のバッファローバイユー・ブラゾス・アンド・コロラド鉄道だった。北部から初めてテキサス州内に入ってきた鉄道は1872年完工のミズーリ・カンザス・テキサス鉄道だった。1911年以降テキサス州の鉄道総営業キロ数は全国一であり、最高時の1932年には17,078マイル (27,000 km) あったが、2000年までに14,006マイル (24,000 km) まで減った。テキサス州鉄道委員会は当初鉄道を規制するために作られたが、この任務は2005年にTxDOTに移された。 ダラスとヒューストンはライトレール・システムを使っている。ダラス地域高速輸送(DART)は米国南西部では初となるライトレールを建設した。フォートワースとダラスを結ぶ通勤鉄道、「トリニティ・レールウェイ・エクスプレス(TRE)」はフォートワース交通局とDARTが共同運行している。オースティン地域ではキャピタル・メトロポリタン交通局が「キャピタル・メトロレール」と呼ばれる通勤鉄道を運行しており、北西部郊外とを繋いでいる。ハリス郡都市圏交通局はヒューストン地域のライトレールを運行している。 アムトラックが都市間限定乗客輸送を担当しており、その輸送量も頻度も大きい。定期便は3ルート有り、毎日のテキサス・イーグル(ロサンゼルス - シカゴ)、州3便のサンセット・リミテッド(ロサンゼルス - オーランド。但しニューオーリンズ以東の区間は運休中)は州内に幾つか停車駅があり、毎日のハートランド・フライアーはフォートワースからオクラホマシティまで直行である。 民間資本のテキサス・セントラル・レイルウェイは2021年までにダラスとヒューストンを90分で結ぶ高速鉄道を計画している。 テキサス共和国第2代大統領ミラボー・B・ラマーが「テキサス教育の父」と言われている。その任期中に、各郡あたり3平方リーグ (70 km) の土地を公立学校建設のために取って置かせた。さらに2つの大学がテキサスの恒久的大学基金の基盤になるものとして、そのために50平方リーグ (1,200 km) の土地を別に確保させた。ラマーによってテキサス全体の公共教育体系の基盤が造られた。テキサス州はアメリカ議会交流懇談会の教育に関するレポートで26位に位置付けられた。テキサス州の学生は数学で平均より上だが、読むことでは平均以下だった。2005年から2006年に掛けて、テキサス州は生徒一人あたり7,854ドルを使っており、全国平均の9,295ドルを下回っている。また生徒と教師の比率が15.0であり、これも全国平均を僅かに下回っている。教師に対する報酬は38,130ドルであり、全国平均以下である。教育予算の89.2%を州が拠出し、10.8%を連邦政府が負担している。 テキサス教育機関が州内の公共教育制度を管理している。州内には1,000以上の教育学区があり、スタッフォード教育学区を除き自治対政府とは独立しており、多くは市境を跨っている。教育学区はその住民に課税し、私有資産に対しても土地収用を行使する権限がある。教育学区については予算を平衡化する裁判所指示があるために、「ロビンフッド計画」と呼ばれる州による再配分制度があるが、議論もある。この計画は裕福な教育学区から貧しい教育学区へ資産税を移動させるものである。テキサス教育機関は私立学校や家庭教育活動に関する権限を持たない。 テキサス州の生徒は初等学校と中等学校でテキサス州知識能力評価を受ける。これによって、テキサス教育標準と落ち零れ防止法で要求される読み、書き、数学、科学および社会研究の能力を評価される。2007年春、州議会は2011年から2012年の学校年から中核となる高校の新入生用知識能力評価を学年末試験で置き換えることにした。 テキサスで議論のある代替的アファーマティブ・アクション計画であるテキサス・ハウス法案588は、高校卒業時の上位10%に入った生徒に州立の大学入学を自動的に認めることを保証している。この方は「ホップウッド対テキサス州事件」で持ち上がった問題を避けるために民族の多様性を促進している。 テキサス州には6つの州立大学システムと4つの独立公立大学がある。恒久的大学基金の土地で鉱物、特に石油が発見され州立最大の大学システムであるテキサス大学とテキサスA&M大学の急速な発展に貢献した。2005年秋の恒久的大学基金の資金は約150億ドルであり、ハーバード大学に続いて第2位である。その他の4つの大学システムは、ヒューストン大学(英語版)、北テキサス大学、テキサス州立大学、およびテキサス工科大学(英語版)である。 テキサス大学オースティン校とテキサスA&M大学はテキサス州の旗艦大学である。どちらもテキサス州憲法で設立され、恒久的大学基金の枠を持っている。州は新しい7つの研究大学のうち幾つかを格上げすることで旗艦大学の数を増やそうとしている。ヒューストン大学、テキサス工科大学およびテキサス大学ダラス校は一般に上位のクラスにあるものと考えられており、そこから次の研究型旗艦大学が現れるものと見なされている。 テキサス州には教養課程カレッジから全国的に認められた研究型一流大学まで私立教育機関が多くある。ヒューストンのライス大学はアメリカ合衆国の中でも先進的教育と研究の大学であり、「USニューズ&ワールド・レポート」によれば全米大学ランクで17位となっている。 同様に、サンアントニオにある比較的小さなトリニティ大学はその優秀な学術分野で認められてきた。「U.S.ニューズ・アンド・ワールド・リポート」の「アメリカの最良カレッジ」ランキングでは、17年間連続してアメリカ合衆国西部の第1位に挙げてきた。 テキサス州北部にあるフォートワースのテキサスクリスチャン大学とダラスの南メソジスト大学は「U.S.ニューズ・アンド・ワールド・リポート」から一流大学と認められてきた。この2校は地域が近いことなど類似性もあって、学術とスポーツの分野でライバル関係を発展させてきた。 元は公立でチャーター校でもあった私立大学のベイラー大学とサウスウェスタン大学がある。 テキサスA&M大学にあるジョージ・ブッシュ大統領図書館とテキサス大学オースティン校にあるリンドン・ベインズ・ジョンソン図書館・博物館という2つの大統領図書館がある。サザン・メソジスト大学に3番目のジョージ・W・ブッシュ大統領図書館を創設する合意ができた。 歴史的にテキサスの文化は南西部(メキシコ)南部(ディキシー)および西部辺境の影響が混ざり合ったものである。人気のある料理のブレックファスト・ブリートはこれら3つの影響を受けたものであり、柔らかい小麦粉のトルティーヤにベーコンやスクランブルエッグなど熱く調理されたものを包み込んだものである。18世紀から19世紀に掛けて作られてきたテキサスの伝統的な文化に加えて、移民の流入によって世界中の文化の坩堝になってきた。 西部開拓時代や郷愁の雰囲気から、古くからカントリー・ミュージックの人気が高い。同州は多くの著名なカントリー・ミュージック歌手を輩出している。また、テキサスをテーマにしたカントリーソングも多い。地元のファーストフードチェーンなどのローカルCMでも非常によく使われる。 テハーノがテキサスで育んできたラテン系の音楽はテクス・メクス・ミュージックまたはテハーノ・ミュージックと呼ばれ、スペイン語で歌われる。テハーノ・ミュージックはヒスパニック系アメリカ人のコミュニティのみならず海外でも人気が高い。著名なテハーノのミュージシャンにセレーナがいる。 ヒューストンは、ヒューストン・グランドオペラ、ヒューストン交響楽団、ヒューストン・バレーおよびアレー劇団というふうに主要な芸術分野の全てに恒久的かつ職業的団体があることでは、アメリカに5つしかない都市の1つである。ヒューストン中心街の真ん中17ブロックであるヒューストン劇場地区は視覚芸術と舞台芸術の活力で知られ、劇場の観客席12,948と映画観客席1,480が集中してあることでは全米第2位にランクされている。ヒューストンには、ドン・ロービーのデューク、ピーコックというレコード・レーベルが存在した。 1892年に設立されたフォートワース現代美術館は「ザ・モダン」とも呼ばれ、テキサス州最古の美術館である。フォートワースにはキンベル美術館、アモン・カーター博物館、ナショナル・カウガール博物館と殿堂、ウィル・ロジャーズ記念センターおよびバス芸術劇場もある。ダラス中心街の芸術地区にはダラス美術館、モートン・H・メイアーソン・シンフォニー・センター、マーゴット・アンド・ビル・ウィンスピア・オペラハウス、トラメル・アンド・マーガレット・クロウ・アジア美術コレクション、およびネイシャー彫刻センターといった芸術のための施設がある。 ダラス市内にあるディープ・エラム地区は1920年代と1930年代にアメリカ合衆国南部のジャズとブルースのホットスポットとして人気があった。ディープ・エラムという名前は地元の人が「ディープ・エルム」と「ディープ・エラム」と発音したことに拠っている。ブラインド・レモン・ジェファーソン、ロバート・ジョンソン、ハディー・"レッドベリー"・レッドベターおよびベッシー・スミスなどのアーティストが初期ディープ・エラムのクラブで演奏した。また、ジャニス・ジョプリンやジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーンといったロック、ブルース・ロックのミュージシャンも、テキサス州出身である。 オースティンはライブ・ショウが盛んなことで知られ、一人当たりのライブミュージックの会場数が、ナッシュビル、メンフィス、ロサンゼルス、ニューヨーク市よりも多いことを誇っている。オースティンの音楽は6番通りのナイトクラブを中心に回っている。映画、音楽およびマルチメディアの祭であるサウス・バイ・サウスウェスト、アメリカのテレビで長寿番組である「オースティン・シティ・リミッツ」およびジルカー公園で行われるオースティン・シティ・リミッツ音楽祭などの行事がある。 1980年以降、サンアントニオは「世界のテハーノ音楽の首都」として展開してきた。テハーノ音楽と文化に大きな注目を集め好評を博した公開番組にテハーノ音楽賞が与えられている。 ラウンドロックにおいては、毎年2月の頭に〔ウシコン〕というアニメコンベンションが開催されている。 牛の放牧業が重要な産業の一つであることから牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどの人気が高い。タコスやブリート、ナチョス、チリコンカーン、フリホレスをはじめとしたテクス・メクス料理は郷土料理の一つであり、テクス・メクス料理専門のレストランもとても多い。州東部の食文化は南部料理との共通点が多く、ルイジアナ州と接する地域はケイジャン料理の影響を受ける。 テキサス州はダラス・カウボーイズやテキサス大学オースティン校などの強豪アメリカンフットボールチームが多く、アメリカンフットボールの人気が際立って高い。また、これらのチームのTシャツなどのグッズを身に着けて歩いている人も多い。 テキサス人は数多いプロスポーツ・チームを応援している。「ビッグフォー」と呼ばれるプロスポーツではアメリカフットボールとメジャーリーグベースボールで各2チーム、バスケットボールで3チーム、アイスホッケーで1チームがある。ダラス・フォートワース都市圏は「ビッグフォー」の全てを持つアメリカ合衆国の都市圏13か所の1つである。「ビッグフォー」以外にも女子バスケットボール協会やメジャーリーグサッカーやメジャーリーグラグビーやメジャーリーグクリケットなどに加盟するチームがある。 カレッジスポーツはテキサスの文化、特にアメリカンフットボールで深い重要性がある。ディビジョンI-FBSに所属するカレッジが10校あるのは全米最大である。大学スポーツチームのベイラー・ベアーズ、テキサス・ロングホーンズ、テキサスA&M・アギーズおよびテキサス・テック・レッドレイダーズはビッグ12カンファレンスで競っている。またテキサス・ロングホーンズ、テキサスA&M・アギーズ、TCUホーンドフロッグズおよびSMUマスタングスは少なくとも一度は全国チャンピオンになった。 ディビジョンI-Aのコーチによる調査では、オクラホマ大学とテキサス大学の対校戦であるレッド・リバー・シュートアウトは国内でも第3位にランクされている。州内での活発な対校戦であるローンスター・ショウダウンはテキサスA&M大学とテキサス大学という2つの最大規模大学で争われている。TCUホーンドフロッグズとSMUマスタングスも対校戦を行っており、毎年バトル・フォー・ザ・アイアン・スキレットを競っている。 ユニバーシティ・インタースコラスティック・リーグは大半の初等および中等学校の競技会を組織している。行事としては運動競技会(高校フットボールが人気)や芸術と学問の競技会もある。 テキサス人はロデオも楽しむ。世界で初のロデオはテキサス州ペコスで開催された。毎年開催されるヒューストン家畜ショーとロデオは世界最大のロデオ大会である。州内の数カ所から出発してリライアント公園に集まるトレイル・ライド(長距離騎旅)から始まった。フォートワースで開催されるサウスウェスタン・イクスポジション・アンド・ライブストックショーは、最古の連続して開催されているロデオであり、州内の歴史ある伝統を毎年の行事に取り込んできた。ダラスでは毎年フェア・パークでテキサス州祭を開催している。 オースティンでは2012年からフォーミュラ1ワールド・チャンピオンシップの1戦を行うことになった。アメリカ合衆国では2007年のインディアナポリス・モーター・スピードウェイでのグランプリ以来のことになる。 テキサスを拠点としていたヒューストン・オイラーズはメンフィス、更に ナッシュビルへ移転、現在は テネシー・タイタンズとなっている。ヒューストンには他にAFLチームのヒューストン・サンダーベアーズ、及びマイナーリーグのサッカークラブヒューストン・ホットショッツがある。 2004年にはエルパソにテキサスマイナーリーグのエルパソ・ディアブロズがあったがスプリングフィールドに移転、現在はスプリングフィールド・カージナルスとなっている。 歴史的にテキサス共和国として独立していた事もあり、テキサスでは州に対して強い愛着を持っている人々が多い。現在の州旗になっているテキサス共和国時代の旗は、学校や店、ピックアップトラックのリアウインドウなど、至る所で見かけられる。また、「NATIVE TEXAN」(生まれつきのテキサス人)というステッカーを張り付けている車もよく見られる。 ザ・コモンウェルス・ファンドに拠れば、テキサス州の健康管理システムは国内の悪い方から3番目ということである。医療の受けやすさ、治療の質、回避できる入院費用、および様々な集団間の公平性といった指標で最下位の方にある。この厳しい評価の原因には、政治、高い貧困率および国内最大の不法移民数率が挙げられる。2006年5月、州内人口の25.1%は健康保険を持っていないという国内最大の比率が報告があったことに反応して「レッドコード」計画を始めた。また「増え続ける医療ミス保険料を抑制し、上昇する医療費を管理する」ために、医療ミス訴訟の非経済損害上限額を25万ドルに設定して議論を呼んでもいる。 アメリカ人の健康トラストは、テキサス人の27.2%が肥満と判定されたことで、成人の肥満度15位にランク付けた。2008年の「メンズヘルス」誌の肥満度調査では、アメリカ合衆国の肥満率の高い25都市の中にテキサス州の都市が4つ入っており、ヒューストンは6位、ダラスが7位、エルパソが8位、アーリントンが14位となっている。同じく「健康率の高い25都市」にはオースティンが唯一21位で入っている。 テキサス州内には多くの優れた医療研究所がある。9つの医学校、3つの歯科学校、1つの眼科学校がある。バイオセーフティーレベル4の研究室は、ガルベストンのテキサス大学医学部に1つと、サンアントニオにある全米で初の民間バイオセーフティー・レベル4の研究室であるサウスウェストバイオ医療研究基金のもの3つ、合計4つがある。 ヒューストンにあるテキサス医療センターは47の会員団体を有する世界最大の研究と医療の集中機関である。心臓移植手術の数でも世界一である。テキサス大学M・D・アンダーソンがんセンターは癌患者の治療、研究、教育および予防を行う高度に尊重される学術機関である。 サンアントニオのサウステキサス医療センターは臨床医学研究分野でアメリカ合衆国第6位に位置付けられる機関である。やはりサンアントニオのテキサス大学健康科学センターも高い評価を受ける研究と教育の機関である。 アメリカ心臓協会とテキサス大学サウスウェスタン医療センターがダラスを本拠地にしている。サウスウェスタン医療センターは「世界の学術的医療センター上位」の中に位置付けられている。このセンターは世界でも最も多いノーベル生理学・医学賞受賞者を雇用している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "テキサス州(テキサスしゅう、英: State of Texas)は、アメリカ合衆国の州。略称はTX。合衆国本土南部にあり、メキシコと国境を接している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人口ではカリフォルニア州、面積ではアラスカ州に次いで全米第2位の州でもある。「テキサス」は、インディアン部族のハシーナイ連合(英語版)(カドー族)のカドー語で「友人」または「同盟者」を意味する「テイシャ(Teja=táyshaʔ)」に由来し、スペイン人がカドー族そのものと東テキサスにおけるその入植地域の名前にあてたものである。テキサス共和国時代から使用されている、白い星を一つあしらった州旗から「ローン・スター・ステイト (Lone Star State) 」という愛称もよく知られている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "テキサス州は南にメキシコ、西にニューメキシコ州、北にオクラホマ州、北東にアーカンソー州、東にルイジアナ州と境を接している。面積は696,241 km、人口は約2,915万人で現在も増加しつつある。人口ではヒューストンが州内で最大かつ全米でも第4位の都市であり、サンアントニオが州内第2位、全米で第7位となっている。ダラス・フォートワース都市圏とヒューストン大都市圏は全米でそれぞれ第4位と第5位の都市圏である。その他の主要な都市としては、州西部のエルパソと州都のオースティンがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "テキサス州はその大きさやバルコンズ断層のような地質特性の故に、アメリカ合衆国南部と南西部の双方に似通った多様な地理的景観がある。砂漠地の面積は、10%足らずである。人口集中地の大半は元のプレーリー、草原、森林および海岸にある。東から西に移動すると、海岸の湿地と松林に始まり、うねりのあるプレーリと岩の多い丘が続き、最後は砂漠とビッグベンドの山脈になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉は、テキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインだった。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有したが、1835年に独立してテキサス共和国となった。1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが理由でメキシコとの関係が悪化し1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となった。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国(南軍)に加盟していた。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスは、カウボーイのイメージと結び付けられることが多い。1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では50以上で全米のどの州よりも多い。各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。所得税や法人税がかからないといった税制優遇や賃金・土地の安さといったビジネス環境の良さから、トヨタ自動車北米本社やテスラ、オラクル、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ(HPE)など、西部のカリフォルニア州などからテキサス州に移転する企業がさらに他の企業の移転を呼び込んでいる。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)はカリフォルニア州に次いで国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。テキサス州はもともとカウボーイなどのイメージ通り共和党が強い保守的な州(赤い州)であったが、リベラル色の強いカリフォルニア州(青い州)などから多く人の移住したことから、スイング・ステート(激戦州)に移行しつつある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "先コロンブス期のこの地にはインディアンの諸部族が居住していたが、1492年にアメリカ大陸がクリストファー・コロンブスによって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "16世紀以来、スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領(「新しいスペイン」)に属し、1821年メキシコがスペインから独立すると、メキシコ領コアウイラ・イ・テハス州の一部となった。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為1830年にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "奴隷制を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちはテキサス革命を決心し、1835年にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし、1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅した(アラモの戦い)。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」(\"Remember the Alamo\")を合言葉に、メキシコ軍と対峙、メキシコのカウディーリョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサンジャシントの戦いで撃破した。司令官のサンタ・アナが捕らえられ、テキサス共和国の成立を認めるベラスコ条約(英語版)に署名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "テキサスの独立後、アングロ・サクソンが主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した黒人奴隷制が復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1845年にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として併合されたため、翌1846年テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し米墨戦争が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、1848年アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現カリフォルニア州、アリゾナ州などの現南西部をメキシコから得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1861年の南北戦争ではアメリカ連合国に属し、戦後1870年に合衆国への復帰が認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の三方が川で規定されている。西部でニューメキシコ州、北部はレッド川を挟んでオクラホマ州に、及び東部はサビン川(英語版)を挟んでルイジアナ州、およびアーカンソー州に接している。南西部においてはリオ・グランデ川を国境として、メキシコのチワワ、コアウイラ、ヌエボレオン、及びタマウリパスの各州と接している。パンハンドル(州北部をなす長方形の)地域とオクラホマ州との東部州境は西経100度線、北部州境は北緯36度30分線、ニューメキシコ州との西部州境は西経103度線となっている。エルパソ市は州の西端にあり、北緯32度線とリオ・グランデ川に接している。テキサス州の南東部においてはメキシコ湾が展開し、バイユーの流れる湿地が多い。最高地点は、州西部のグアダルーペ山脈国立公園内にある標高2,667mのグアダルーペ峰。北西部にはラノ・エスタカドと呼ばれる平原が広がる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "国立公園、州立公園、その他の保護区には、以下のようなものがある。西部の他州に比べ、公有地の面積比率が低い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "テキサス州の面積は696,241 kmで、アラスカ州に次いで全米第2位の広さがある。これは日本の面積の約2倍である。テキサス州を独立国と仮定すると、チリやザンビアに続いて40番目に大きな国となる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "テキサス州はケッペンの気候区分では10の地域、土壌区では14の地域、また生態地域では11の地域に区分されるほど、土壌、地勢、地質および植物相や動物相における違いで地域を分類するのが大変なところである。一つの区分法として南東部から西に向って、メキシコ湾海岸平原、内陸低地、グレートプレーンズおよび盆地と山脈地帯に分類する方法がある。メキシコ湾海岸平原は州南東部でメキシコ湾を包み込むようにしている。この地域の植生は密な松林である。内陸低地はなだらかにうねる丘の森林地帯であり、大きな松硬材林の一部である。州中央部のグレートプレーンズはパンハンドル地域やリャノ・エスタカードからオースティンに近いテキサス・ヒル・カントリーに跨っている。この地域はプレーリー(丈の高い草原)やステップ(丈の低い草原)が大半を占めている。テキサス州最西部すなわち「トランス・ペコス」(ペコス川より向こうの地域)は盆地と山脈地帯である。この地域は最も変化が激しく、サンド・ヒルズ(砂丘)、ストックトン高原、砂漠の渓谷、樹木のある山岳斜面および砂漠の草地がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "テキサス州には名前の付いた水流だけで3,700、主要河川は15ある。最大の川はリオ・グランデ川である。その他の主要河川としては、ペコス川、ブラゾス川、コロラド川およびオクラホマ州との州境になっているレッド川がある。テキサス州には大きな天然湖が無いので、100以上の人口湖を造成してきた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "テキサス州のその大きさと特徴ある歴史のためにアメリカ合衆国のどの地域に属するかは議論のあるところである。文献によってアメリカ合衆国南部あるいは南西部のどちらかあるいは双方に入ると考えられることが多い。州内の幅広い地形、経済および文化の多様性のために州全体を一つの地域に含めることは危険である。州の東部、中央部および北部は南西部よりも南部との結び付きが強く、一方最西部や南部はアメリカ合衆国南部よりも南西部との類似性が強い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "テキサス州はグレートプレーンズの最南端にあり、その南は褶曲したメキシコ・東シエラマドレ山脈で終わる。大陸地殻が安定した中原生代クラトン(剛塊)を形成し、幅広い大陸縁辺と遷移地殻へ変化し、メキシコ湾近くに達する。テキサス州最古の岩石は中原生代の約16億年前のものとされている。これら先カンブリア時代の火成岩や変成岩が州内の大半に横たわっており、リャノ隆起、ヴァンホーンおよびエルパソに近いフランクリン山脈の3か所で露出している。堆積岩がこれら古期岩石の大半を覆う。最古の堆積岩層は断層ができた大陸縁辺、すなわちカンブリア紀に発達した地質学上のパッシブ・マージンに堆積した。この縁辺はペンシルベニア紀にローラシア大陸とゴンドワナ大陸が衝突し、パンゲア大陸が形成されるまで存在した。ペンシルベニア紀の大陸衝突でアパラチア山脈とウォシタ山地を形成した地殻である。この造山運動地殻は今日ダラス-ウェーコ-オースティン-アントニオ構造線の下にある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "古生代後期の山脈はジュラ紀断層がメキシコ湾を開き始めたときに崩壊した。パンゲア大陸が三畳紀に分裂し始めたが、海洋底拡大によるメキシコ湾の形成がジュラ紀中期と後期に起こった。海岸線がテキサス州の東縁に再度移り、メキシコ湾のパッシブ・マージンを形成し始めた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "今日、9~12マイル (14 – 19 km) の堆積層がテキサス州の大陸棚の下にあり、アメリカ合衆国の石油埋蔵量のかなりの部分がある。初期のメキシコ湾盆地は形成の初めは限られていて、海水が完全に蒸発することが多く、ジュラ紀の厚い蒸発岩を形成した。これら岩塩堆積物はドーム状ダイアピルを形成しており、東テキサスのメキシコ湾岸地下に見ることができる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東テキサスの露頭は白亜紀や古第三紀の堆積物であり、始新世褐炭の重要鉱床である。北部のミシシッピー紀やペンシルベニア紀の堆積物、西部の二畳紀の堆積物、および東部のメキシコ湾海岸沿いとテキサス州大陸棚の白亜紀堆積物には石油が含まれる。漸新世火山岩がテキサス州最西部ビッグベンド地域に見られる。西部高原地域のオガララ帯水層と呼ばれる中新世堆積物層は重要な帯水層である。テキサスは活動的なプレートテクトニクス境界から遠く、火山が無く、地震もほとんど無い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "東部は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分:Cfa)、西部はステップ気候(北部はBSk、南西部はBSh)。南西部にチワワ砂漠の北東部が含まれる。州南部では亜熱帯性の気候が見られる。複数の気候区が交っているため、動植物相は多様である。乾燥した西部では、湿地や河川、泉に生息する動植物の中に絶滅危惧種が多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象である。州のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖である。降水量についても地域での変化が大きい。州最西端のエルパソでは年間降水量が8インチ (200 mm) にしかならないが、南東部のヒューストンでは54インチ (1,370 mm) にも達する。北中部のダラスでは年間降水量37インチ (940 mm) とそこそこの量である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "パンハンドル地域や州西部の山岳部では舞冬雪が何度も降るが、州北部では年に1・2度、中部と東部では数年に1度しか降らない。サンアントニオより南、すなわち海岸部では極少数の例外を除いて降雪は稀である。最近の降雪例としては2004年のクリスマスイブにヒューストンでは初めてのホワイトクリスマスを記録し、12月の平均最高気温が 65°F(18°C) である南のキングズビルでも6インチ (15 cm) の降雪があった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "夏の最高気温は西部山岳部やメキシコ湾のガルベストン島で 80°F(26°C) 台、リオ・グランデ渓谷で 100°F(38°C) 近辺となるが、テキサス州の大半の地域は 90°F(32°C) 程度である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "夏の夜の気温は西部山岳地での50°F(14°C) 台後半から、ガルベストンでの80°F(26°C) まで変化する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "雷雨は特に州東部と北部で多い。竜巻道がテキサス州北部を通っている。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっている。竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生している。年間では4月、5月および6月に発生回数が多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンの幾つかがテキサスを襲った。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっている。このためにガルベストンが主要港湾市の地位を引き継いだ。1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっている。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1915年のガルベストン・ハリケーン、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリー、1961年のハリケーン・カーラ、1967年のハリケーン・ビューラ、1983年のハリケーン・アリシア、2005年のハリケーン・リタ、および2008年のハリケーン・アイクがある。熱帯低気圧も大きな被害を出すことがあり、1989年と2001年のアリソンと1979年のクローデットが特に大きなものである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "テキサス州はアメリカ合衆国で最大の温室効果ガスを排出している。毎年の二酸化炭素排出量は1.5兆ポンド(6.8億トン)近くに上っている。世界の国と比較したとき、テキサス州は第7位の排出量となる。この膨大な排出量の原因は、多くの石炭焚き火力発電所があることと、石油精製業があることである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "テキサス州民を指す英語の呼称は「テクサン」(Texan)であるが、かつてはテクシャン(Texian)と呼ばれていた。スペイン語ではテハーノ(Tejano)といい、英会話ではヒスパニック系のテキサス州民のことを指す。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2009年現在、テキサス州は人口24,782,406人である。前年より1.97%、2000年より16.1%増加した。2000年と比較して出生数から死亡数を引いた自然増では1,389,275人が増加し、国外からの移民で801,576人、国内移動で451,910人が増加した。2004年時点で350万人の外国出身者がおり(州人口の15.6%に相当)、このうち120万人が不法在留外国人 (不法在留外国人はテキサス州内の外国生まれの3分の1以上及び総計州人口の5.4%と計算する) であると見込まれる。2000年から2006年の間の不法移民増加率では国内最大である。2010年、不法移民は州人口の6.0%となっている。これは国内の50州では5番目に高い数字となっている。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "テキサス州の人口密度は1平方kmあたり34.8人であり、全国平均の31人より幾らか高くなっている。テキサス州とフランスは国土の大きさが接近しているが、フランスの人口密度は1平方kmあたり110人とかなり高くなっている。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "テキサス州民のうち3分の2はヒューストンのような主要都市圏に住んでいる。テキサス州ではダラス・フォートワース都市圏が最大である。ヒューストンがテキサス州最大、かつアメリカ合衆国で第4位であるが、ダラス・フォートワース都市圏はヒューストン都市圏よりかなり大きくなっている。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "すべてのデータはアメリカ合衆国統計局 州人口見込みからの情報である。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "テキサス州内で祖先グループと報告された最大の民族は:メキシコ人 (24.3%)、アフリカ系アメリカ人 (11.5%)、ドイツ系アメリカ人 (9.9%)、アメリカ白人 (7.2%)、及びアイルランド系アメリカ人 (7.2%)。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "国勢調査データはテキサス州の人口の7.8%が5歳以下、28.2%が18歳以下および9.9%が65歳以上と報告している。女性はおおよそ人口の50.4%である。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ドイツ人の子孫は州中部と南東部に多い。テキサス州民の3分の1以上がヒスパニック系であり、最近入ってきた者が多いが、テハーノの中には18世紀のテキサスから数世代を経る者もいる。アフリカ系アメリカ人の場合、元奴隷の子孫に加えて最近の新大移動によって州内に仕事を求めてきた学卒者も多い。最近は特にヒューストンとダラスでアジア系アメリカ人の人口が増加している。その他の都市ではオースティン、コーパスクリスティおよびマッカレンに近いシャリーランドでアジア系アメリカ人の人口がかなり増加している。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "テキサス州の住人の信仰する宗教および宗派は:", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2000年時点で最大の宗教会派はローマ・カトリック教会で4,368,969人、次に南部バプテスト協議会3,519,459人、合同メソジスト教会1,022,342人となっている。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "テキサス州東部はバイブル・ベルトの「バックル」部と呼ばれ、社会的に保守的である。ダラス・フォートワース都市圏には3つの福音主義者神学校と1つの男子修道院があり、カトリック系神学校であり歴史的建造物のダラス大学もある。ヒューストンのレイクウッド教会は毎週43,000以上の信徒が礼拝することでは国内最大である。地元の伝承ではラボックの一人当たりの教会の数では国内最大と言われる。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "非キリスト教宗教の信者はテキサス州の都心部に多い。イスラム教徒は約40万人がいる。ユダヤ教徒は約128,000人である。ヒンドゥー教やシーク教などの信者は146,000人である。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "5歳以上の全人口の66.35%が英語を、29.09%がスペイン語を話す。英語はテキサス独特の訛りが強い南部アメリカ英語である。スペイン語話者数はカリフォルニア州に次ぐ。", "title": "人口動勢" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アコキサ族(英語版)、アラバマ族、アナダルコ族、アパッチ族、アラナマ族、アタカパン族、ビダイ族(英語版)、ビロキシー族(英語版)、カドー族、チェロキー族、チョクトー族、コアユルテカン族(英語版)、コマンチ族、クリーク族、デアドーズ族(英語版)、アイッシュ族(英語版)、グアスコ族、ハイナイ族(英語版)、ハシナイ連邦、ナベダチェ族(英語版)、ナソニ族(英語版)、イスレタ族、ヒカリア・アパッチ族、カドハダチョ連邦(英語版)、カランカワ族、キチャイ族(英語版)、カイオワ族、コウシャッタ、リパン・アパッチ族、ムスコギー連合、パカナ族、パスカゴーラ族、プエブロ族、パチリ族、クアポー族、ショーニー族、シュマン族、ソアカチノ族、タワコニ族(英語版)、トンカワ族(英語版)、ワコ族(英語版)、ウィチタ族といったインディアン部族が、広大な同州の沿岸部から大平原部まで、狩猟民、農耕民取り混ぜて先住していた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "カイオワ族やコマンチ族は18世紀にメキシコ経由で馬を手に入れ、一大騎馬狩猟民となった。遠征隊を組んで、遠く中南米まで足を延ばした記録も残っている。1847年の「和平会談」で、コマンチ族が3000ドル相当の「贈り物」と引き換えに彼らの領土内での白人の通行を認めた。こうして入植白人の幌馬車隊は、この「テキサス道」と呼ばれる入植経路を使ってインディアンの土地に一気に押し寄せた。命の糧のバッファローを虐殺し、勝手に農地を拓く白人の狼藉に怒った略奪狩猟民のカイオワ族やコマンチ族は同盟を組んで、これら入植白人に対して全面的に戦いを挑んだ(「テキサスのインディアン戦争」)。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「開拓者を襲う恐ろしいインディアン」は、20世紀になって西部劇映画の題材として繰り返し描かれた。コマンチ族やカイオワ族、アパッチ族は「悪いインディアン」としてこういった西部劇映画に、デタラメな姿で登場する常連悪役部族となった。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "彼らの他に、カランカワ族やトンカワ族、アタカパン族など、多様な部族集団が先住したが、「テキサス・インディアン戦争」の末に、すべて19世紀にオクラホマ州へ強制移住させられた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "全域にかつて先住した一大部族集団コアユルテカン族(英語版)」は、19世紀中に白人牧場主による「インディアン狩り」によってほぼ絶滅させられた。インディアンを追い払った後の広大な土地は、「一番遠くまで馬で駆けた者が、そこまでの土地を貰う」というような「賭けごと」によって、日本の市町村級の規模面積で白人個人入植者に分配された。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "現在、アメリカ連邦政府から公式認定され、「保留地(Reservation)」を領有する部族はキカプー族、ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族の3つ。キカプー族は、19世紀に5大湖地方から白人の侵入を嫌って南下、この地までやってきた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は、一部がニューメキシコ州からの「飛び地」のような場所に存在し、テキサスに「ティグア保留地」を領有している。アラバマ族とコウシャッタ族は長らく絶滅部族の扱いだったが、近縁の両部族は提携結集し、1987年にアメリカ連邦政府からインディアン部族として公式認定され、「復活」した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "他のインディアンたちは、部族単位では認定されていない。「チェロキー族」や「セミノール族」、「クリーク族」は19世紀に東部から大陸を横断して強制移住させられた末裔だが、現在公式認定を抹消され、部族として存在しないことになっている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2009年、テキサス州議会は、「リパン・アパッチ族」を部族認定した。以後、連邦認定と併せて、州議会に部族認定を要求する部族が増えている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "≪アメリカ連邦政府が公式認定している部族≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族・団体≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "≪アメリカ連邦政府は公認していないが、テキサス州議会が公認している部族≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "合衆国でのインディアンの宗教は、1881年にすべて非合法化された。以後、儀式の話をしただけで、彼らは白人に逮捕される状況となった。1940年代になり、フランクリン・ルーズベルト大統領が一部合法化したものの、自傷行為を伴う苦行などは、「レッド・パワー運動」が高まった1970年代までなお禁止弾圧され続けた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "19世紀末に同州で発祥したネイティブ・アメリカン・チャーチが行う「ペヨーテの儀式」は、フェネチルアミン系の幻覚剤であるメスカリンを成分として含むペヨーテを摂取して治癒を行う宗教であるが、このペヨーテは、アメリカ国内では同州にしか自生しない。このため、現在ではペヨーテの採集のために全米からインディアンが集まることとなっている。ペヨーテの採集は、現在インディアンにのみ合法とされる行為である。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1884年からインディアンの同化政策として始まった「インディアン寄宿学校」は、インディアン児童を同化政策の目的をもって、彼らの言語・宗教・習慣を根こそぎ奪い、キリスト教化させた私立の「教育」機関である。本来インディアンにとって髪の毛は神聖なものであり、これを切るのは家族が亡くなったときだけであるが、インディアン寄宿学校はこれを無視して入学時に強制的に彼らの髪を切らせた。インディアン児童が一般公立学校に通学させられるようになったのは20世紀後半からであるが、ここでもなお彼らの宗教習慣は、白人のキリスト教規範に従わせるものだった。保留地を領有する部族は「部族学校」を開設してこれに対抗しているが、領土を持たない「非公認部族」の児童は、現在も白人の学校への通学を余儀なくされている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1978年、「アメリカ・インディアンの宗教の自由法(AIRFA)」が制定され、絶滅危惧種であるワシなどの羽や骨の使用や、麻薬であるメスカリンを含むペヨーテの宗教儀式での使用を例外的に認められた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "同州フォート・ベント郡ニードヴィルの幼稚園に通うリパン・アパッチ族インディアンの少年アドリエル・アロチャ(Adriel Arocha)は、インディアンの宗教習慣に従って、長い髪を伸ばしている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2008年夏、「ニードヴィルISD」(独立学校区)と学校当局は、アドリエル(当時5歳)の長髪を、テキサス学区での通例である学則に従い短く切るよう両親に通告し、「従わない場合は退学させる」とした。これに対し、父親ケニー・アロチャと母親ミッシェル・ベテンボーはこの処置を「インディアンの宗教に対する侵害である」とし、「アメリカ市民自由連合(ACLU)」の後押しを受けて法廷闘争に持ち込み、「髪を伸ばしているのは(ケニーは12年間、アドリエルは生まれてから一度も髪を切っていない)宗教の自由のための闘いだ」として徹底抗戦の構えをとった。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "以後、このインディアン児童の処遇を巡ったテキサス州での係争は、「アドリエル・アロチャ対ニードヴィル法廷戦(A.A. v. Needville Case)」と名付けられ、全米が注目する裁判となった。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "この際、ニードヴィルISD監督官のカーチス・ロードスはアドリエルの両親が校区の服装規定に対し、宗教的理由による免除を求めたことを受けて両親の態度を批判し、「彼らは宗教の自由と言うが、それがどんな宗教かわかりますか?」と述べ、「あなたがイスラム教徒とか言うんなら、それはよく知られてますからわかりますよ。でもあなたの宗教とやらには、どれほどの信仰心が伴うものだと言うんですか」と問題発言を行った。9月3日からは、同校校長がアドリエルを髪を切るまで校内謹慎処分とし、級友たちとは別室で、退職教員による特別授業を受けるよう指示した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "この訴訟では、地区の判断が合衆国憲法の修正第1条と第14条、また「テキサス宗教の自由復活法」下での権利に違反すると述べられた。2008年10月に学区の処置に対し差し止め命令が下されたのち、2009年2月、連邦裁判所のキース・P・エリソン裁判官は学校側の強制を「憲法違反」と判定、差し止めを恒久的なものとした。しかし学校側は裁決を不服とし、「三つ編みにした髪を襟に入れるなら登校しても良い」と裁決に逆らって条件を出した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "現在アドリエルは三つ編みを外に垂らして通学し、あくまで学校の条件に抗っている。アドリエルと両親に対しては、「ACLU(アメリカ市民自由連合)」のほかに、同州の「リパン・アパッチ族」、同州のインディアン学者のK・ツィアニナ・ロマワイマとスザンヌ・クロス、「州の政教分離のためのアメリカ人連合」、「反名誉棄損同盟」、「バージニア・ナンセモンド族・インディアン部族協会」、「アメリカ・ユダヤ人協会」、「アメリカ・ヒンズー教徒財団」、「異教徒間同盟」、「シーク教徒連合」と「連合シーク」が支援を表明しており、全米をあげた大論争となっている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "インディアン部族が運営する「インディアン・カジノ」は、産業を持てず貧困にあえぐ全米のインディアン部族にとっての最後の切り札であり、「現代のバッファロー」と呼ばれるビジネス・モデルである。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "フロリダ州のセミノール族やカリフォルニア州のミッション・インディアン・カバゾン・バンドの相次ぐカジノ運営の合法裁定勝訴を受け、1987年、米国最高裁判所は、アメリカ連邦政府が公認したインディアン部族にのみ、州の管区外でのカジノ所有権を認める裁決を下した。これを受けて、1988年に「インディアン賭博規制法(IGRA)」が制定された。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "これを受け、テキサス州ではキカプー族のみがカジノの所有権を得たが、1987年の「インディアン復活法」制定後にアメリカ連邦政府から公認を受け「復活」したティグア族(イスレタ・プエブロ族)とアラバマ・コウシャッタ族は、法の対象外としてカジノ運営を禁じられた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1996年、テキサス・キカプー族は同州イーグル・パスに「幸運な鷲のカジノ」を開設した。しかしテキサス州司法庁はIGRAの認可に逆らい、これを違法として提訴した。現在、このカジノの運営の法的可否は米国最高裁判所に持ち込まれており、成り行きが注目されている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1992年、テキサス・ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は彼らの保留地(Reservation)内でのカジノ開設許可をアン・リチャーズ知事(当時)に請願したが、知事はこの要請を拒否した。ティグア族はこれを連邦法に基づく彼らの権利の侵害であるとして、1993年に州の承認無しで「喋る岩のカジノ」を開設した。以後、このカジノの合法性は10年に渡って法廷で争われることとなった。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ジョージ・W・ブッシュ知事(当時)は、ティグア族のカジノが高額賭け率の博打を禁止した「テキサス州反ギャンブル法」を犯していると主張したが、ティグア族は「われわれのカジノのスロットマシンのコンピューターの乱数度は、テキサス州営宝くじと同じ程度のものだ」と反論。2002年1月、第5巡回控訴裁判所でアメリカ連邦政府はティグア族が1987年の「インディアン復活法」に違反しているとし、閉鎖勧告した。ティグア族はこれに対し、2007年に「喋る岩のカジノ」を再開したため、2008年3月に州司法長官事務所はティグア族に対し「法廷侮辱罪」を申し立てた。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2001年、テキサス・アラバマ・コウシャッタ族は、同州リビングストンに部族カジノを開いた。9ヵ月運営された後に、第5巡回控訴裁判所は、同部族が1987年の「インディアン復活法」に違反しているとしてこのカジノの営業停止命令を勧告した。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2009年5月、テキサス州は同州でのカジノ賭博を非合法と決定(白人の経営する船上カジノ「テキサス宝のカジノ・クルーズ」は営業中である)。ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族のカジノ再開は非常に難しくなっている。「インディアン・カジノ」の閉鎖はインディアンのみならず、インディアン以外の従業員の失業をも生んでいる。カジノ再開を求める抗議運動には、インディアン以外の人々も多数参加するものとなっている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2009年9月、隣州オクラホマ州のチカソー族は、テキサス州グランドプレーリーの破産した競馬場、「ローンスターパーク」(Lone Star Park)の買収計画を発表、2700万ドルを提示した。テキサス賭博協会ほか、ギャンブル業界筋は、チカソー族の目的は競馬より賭博にあると伝えている。オクラホマ・チカソー族は、カジノ事業を拡大しており、 テキサスとオクラホマの州境を含め、現在15の賭博施設を所有運営している。同競馬場での賭博運営の合法化のためには、州憲法改正を含めた賭博法案を可決しなければならず、最短で2011年での可決が予定されている。", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "≪テキサス州のインディアン・カジノ≫", "title": "インディアン部族" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2020年の国勢調査によると、州内にはヒューストン、サンアントニオ、およびダラスと、人口が100万人を超える都市が3つある。この3都市は全米上位10位以内にも入っている。この3都市にオースティン、フォートワースおよびエルパソを加えた6都市が人口50万人を超え、全米でも上位25位以内に入っている。", "title": "都市及び大都市圏" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "これら都市部とは対照的に、コロニアと呼ばれる未編入田園部は、基本的なインフラが無いことが多く、貧困が特徴である。2007年時点で、少なくとも2,294カ所のコロニアがあり、主にメキシコとの1,248マイル (2,000 km) に及ぶ国境近くにある。約40万人がコロニアに住んでいる。", "title": "都市及び大都市圏" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "テキサス州はアメリカ合衆国国勢調査局およびアメリカ合衆国行政管理予算局によって定義された25ヶ所の都市圏(MSA)がある。そのうち、最も大きな2つは全米でも上位10位以内に入る。2003年、アメリカの国勢調査はいくつかの大都市圏内部に \"大都市区分 (metropolitan divisions)\" を採用した。テキサス州はダラス・フォートワース・アーリントンMSA内部に2つの大都市区分を持っている。", "title": "都市及び大都市圏" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "人口100万人以上の都市圏としては、ダラス・フォートワース都市圏、ヒューストン大都市圏、サンアントニオ・ニューブローンフェルズ都市圏およびオースティン・ラウンドロック・ジョージタウン都市圏の4つがある。ダラス・フォートワース都市圏は7,637,387人(全米4位)、ヒューストン都市圏は7,122,240人(全米5位)である。州西部の州間高速道路35号線(ダラス・フォートワース都市圏からオースティンを経てサンアントニオ)、東部の州間高速道路45号線(ダラスからヒューストン)および南部の州間高速道路10号線(サンアントニオからヒューストン)がテキサス州都市部三角形を形成している。この6万平方マイル (155,000 km) の地域に州内の大都市と都市圏の大半が入り、その人口は1,700万人を数え、州人口の3/4近くにのぼる。", "title": "都市及び大都市圏" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "現在のテキサス州憲法は1876年に採択されたものである。他の州と同様に明確に権力の分立を図っている。州の権利章典はアメリカ合衆国憲法よりも広い範囲に及び、テキサス州独自の規定を含んでいる。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "テキサス州は複数の行政府を持ち、州知事の権限を制限している。州務長官を除き州行政役人をそれぞれ有権者が選挙することで、役人候補者達は知事にではなく大衆に直接責任を負うことになる。この選挙制度では行政府が複数の政党支持者で埋められることになる。共和党の大統領ジョージ・W・ブッシュがテキサス州知事を務めたとき、民主党のボブ・バロックが副知事を務めた。行政府の役職は州知事、副知事、財務官、土地コミッショナー、検事総長、農業コミッショナー、鉄道委員会の3人の委員、教育委員長および州務長官である。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "両院制のテキサス州議会は、150人の議員からなる下院と、31人の議員からなる上院がある。下院議長が下院を采配し、副知事が上院を采配する。議会は2年に1回定例議会を開くことになっているが、知事は望む時にはいつでも特別会期を招集できる。州の会計年度は9月1日から翌年の8月31日までである。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "テキサス州の司法府は合衆国の中でも複雑な仕組みを採用しており、多くの層と重複する司法権がある。最終審に相当するのが2つあり、テキサス州最高裁判所は民事事件を、テキサス州刑事控訴裁判所は刑事事件を扱う。自治体にある司法府の幾らかを除き、あらゆる司法府の裁判官は政党制選挙で選出される。州知事は空席になった裁判官を指名できる。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "全米一古い地方警察組織の一つであるテキサス・レンジャー(現在の正式名称は州公安局テキサス・レンジャー部)がある。テキサス・レンジャーは長年にわたって、殺人から政治的汚職まで犯罪の捜査を行ってきた。機動隊としても刑事としても行動し、州知事を護衛し、逃亡者を追跡し、民衆に対しても州に対しても準軍事的組織として機能する。元々スティーブン・オースティンが1823年に非公式に創設したものが、1835年に制度化された。テキサス州の歴史における重要事件や西部開拓時代の良く知られた犯罪事件に関与してきた。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "題材にしたTVドラマに『炎のテキサス・レンジャー』(1993年 - 2001年)がある。全米で大ヒットを記録し、CBSのトップショーとして、1994年 - 1995年のピーク時には1940万人もの聴衆を獲得した。その後、現在でも世界80カ国以上の国で放送されており、全世界で約10億人もの視聴者を獲得している。番組の大ヒットで実際のテキサス・レンジャーの評判が上がったとして、州知事リック・ペリーより主演俳優のチャック・ノリスに名誉会員(殿堂入り)の栄誉が贈られた。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "過去にアメリカ連合国に所属して黒人の奴隷解放に反対していた事もあり、レコンストラクション時代の終わりから20世紀終盤まで民主党が比較的強い州だった。保守本流が圧倒的な同州では公民権運動の影響で、1968年アメリカ合衆国大統領選挙を機に共和党支持に鞍替えする人々が増えた。1964年の公民権法に署名したリンドン・B・ジョンソン大統領は、「我々は一世代にわたって南部を失った」と語ったと言われている。ロナルド・レーガン政権以降、財政的にも社会的にも保守色が濃くなった。その後は、州知事も共和党出身者が続いており、またジョージ・H・W・ブッシュやジョージ・W・ブッシュといった共和党出身の大統領も輩出している。2008年アメリカ大統領選挙においても同州では、共和党候補のジョン・マケインが勝っている。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "州内では、州都オースティンや都市部、またヒスパニック系人口の多いエルパソやラレドなどの州南部では、民主党支持が強くなっているのに対し、コーパスクリスティやサンアントニオ以北の農村部では、共和党支持が優勢である。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2003年に共和党のトム・ディレイが指導したテキサス州におけるアメリカ合衆国下院選挙区再割付は、「ニューヨーク・タイムズ」紙によってゲリマンダー(自党に有利な選挙区操作)の最悪のケースと名指された。「テキサス・イレブン」と呼ばれる民主党議員の集団が定数不足になることを見越してテキサス州から逃げ出した。このような動きがあったにも拘らず、州議会は共和党有利な選挙区割りを採択した。これを不満とした訴訟が「統合ラテンアメリカ市民連盟対ペリー事件」で、合衆国最高裁判所まで持ち上げられたが、裁決は共和党有利となった。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2012年総選挙の時点でテキサス州選出のアメリカ合衆国議会議員は下院、上院共に共和党が多数派である。第113アメリカ合衆国議会では、テキサス州選出下院議員36人のうち24人が共和党員、12人が民主党員となっている。また、上院議員のジョン・コーニン(英語版)とテッド・クルーズは共に共和党員である。1994年以降州全体の選挙で民主党員は選ばれていない。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "テキサス州は全米で最も死刑執行数が多い州である。アメリカでは近年、死刑を撤廃する州や執行数を減らす州が増えてきたため、全米におけるテキサス州の死刑執行数の割合が高くなってきている。但し、2005年に絶対的終身刑を導入したことにより、執行数は2016年以降2018年を除いて1桁執行であり、判決に関しては、2008年以降2014年を除いて1桁で推移している。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2007年3月30日、自宅や職場への侵入者を銃で撃っても正当防衛とみなす州法にペリー知事が署名。同年9月1日施行。 同法により、自宅や職場や車の中に押し入ろうとした侵入者を「致死力のある銃」で撃つことが可能となった(これらの場所から引きずり出されそうになった場合に銃を使用しても、自衛とみなされる)。自宅や車は自分の「城」であり、守る権利があるとの考えに基づいた同法は「キャッスル・ドクトリン」(城の原則)と呼ばれ、銃規制に反対する全米ライフル協会が法制定を後押ししてきた。尚、テキサス州以外にも15州が同様の法律を持つ。同州では拳銃を容易に購入でき、許可を得れば持ち歩くことができる。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "一方、テキサス州では2018年にサンタフェ高校銃乱射事件(10人死亡)、2019年にエルパソ銃乱射事件(22人死亡)、ミッドランド銃乱射事件(死者7人)など立て続けに多数の死傷者が伴う銃乱射事件が発生している。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "テキサス州の場合、これまで自動車の運転中の携帯電話の使用はまったく禁止されていなかった。そのため、公共交通機関の未発達による車社会もあいまって、携帯電話で通話やメールをしながら運転するドライバーがとても多く、これによって引き起こされる事故が後を絶たなかった。しかし2009年9月より18歳未満のドライバーは運転中の携帯電話の使用が禁止となり、それ以外のドライバーもスクールゾーンでは使用できなくなった。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "テキサス州の郡は254あり、全米の州の中で最大である。各郡は4人の選挙で選ばれたコミッショナー(人口に応じて分割された4つの選挙区の代表)から成るコミッショナーズ・コートによって運営されている。郡判事は郡全体の選挙で選ばれる。郡政府は「弱い」市長・市政委員会制度に近い形で運営されている。郡判事には拒否権が無いが、他のコミッショナーと共に投票に参加している。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "テキサス州は市や郡にそのサービスを共有する「地方間協定」を結ぶことを認めているが、市と郡の統合政府を認めていない。また都市圏政府も認めていない。郡は「独自法」の郡を認められず、その権限は州法によって厳密に定義されている。テキサス州には編入済みにしろ未編入にしろ、郡内にタウンシップが無い。編入済み地域は自治体の一部である。郡は未編入地域に対して限られたサービスを提供する。自治体は「一般法」の市か、「独自法」の市かに区分されている。自治体は人口が5,000人を超えたときに有権者の投票により独自法の自治体かを選択できる。この住民投票は教育委員会やコミュニティ・カレッジの地区と同様、無党派で行われる。", "title": "政府と政治" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2008年時点で、テキサス州は州総生産が1兆2,240億ドルであり、アメリカ合衆国の州では第2位である。世界の国と比較すると第11のカナダや第12位のインドに匹敵している。世界に国の地方区分では、カリフォルニア州と東京都に次いで第3位である。2007年の一人当たりGDPは37,083ドルであり、国内第22位だった。テキサス州は人口が多く、天然資源が豊富であり、多様な民族と多様な地形があることで、大きくまた多様な経済になってきた。石油が発見されて以来、州経済は石油産業の状況に大きく依存してきた。近年、都市部のサイズが大きくなり、2005年時点では人口の3分の2がそこに集中している。州経済の発展は都市スプロール現象とそれに付随する兆候を生んできた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2010年1月時点での州内失業率は8.2%である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "テキサス州は「低い税、低いサービス」の定評がある。シンクタンクのタックス・ファンデーションに拠れば、テキサス州民の州税と地方税負担率は国内最低レベルの下から7番目であり、一人当たり3,580ドル、収入の8.7%である。州税の中に所得税が無い7州の1つである。その代わりに6.25%の消費税を徴収するが、地方課税地区(市、郡、特殊目的課税区および公共交通機関管理所)も2%までの消費税を課すので、トータルは最大8.25%となる。テキサス州は「税寄贈州」である。2005年時点で連邦政府に所得税として払った1ドルにつき、約0.94ドルがテキサスに返ってくる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2004年、「サイト・セレクション・マガジン」がテキサス州を企業に最も優しい州に位置付けた。これにはテキサス州の運営する30億ドルのテキサス起業基金があることが貢献している。フォーチュン500に入っている企業の本社がある数では合衆国の州で最大である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2010年時点で、州内には346,000人の100万長者がおり、合衆国の州ではカリフォルニア州に次いで第2位である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2020年代に入ってから、シリコンバレーなどにある企業が住宅価格の高騰などによる環境悪化を理由にテキサス州へ本社を移転する動きがある。移転企業にはテスラ、オラクル、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ、トヨタ北米本社などがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "歴史的に農業及び牧畜業が主要産業であったが、1901年にスピンドルトップでの油田が発見されて以来、エネルギー産業の比重が急激に高まり、以後エネルギー産業とともに歩んできた。こうしたことから従来、州の産業はCotton、Cattle、Crude のいわゆる「3C」に代表されるといわれてきた。しかし、80年代以降は、エネルギー産業に加えハイテク産業も成長するなどサンベルトの一大中心州として急速な発展を遂げてきている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "メキシコ湾や内陸部に油田が多く、石油資源が豊富であり、エクソンモービルやヴァレロなどの石油会社が多い。カウボーイ文化に象徴される放牧業も盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "テキサス州には合衆国の州の中で最大の農場数と最高の農場面積を持っている。家畜生産量でも国内で最大級であり、牛が最も収益を上げる生産物である。また羊とヤギの生産量も国内では高いほうである。農産物では綿花の生産量が高い。またかなりの量の穀物や農生産物も生産している。商業漁業も盛んである。鉱物資源についてはセメント、砕石、石灰、砂、砂利の生産量が大きい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "スピンドルトップで石油が発見されて以来、エネルギーは州内の政治と経済を牽引する存在になってきた。エネルギー情報管理局に拠れば、テキサス州一人当たりエネルギー消費量および全消費量で国内最大である。国内の他の州とは異なり、テキサス州は交流配電網であるテキサス・インターコネクションが送電を行っている。カリフォルニアの発電危機はあったが、テキサス州は電力供給の規制を緩和したままである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "テキサス州鉄道委員会は、その名前とは裏腹に州内の石油とガス産業、ガス公益事業、パイプラインの安全性、液化石油ガス産業の安全性、および石炭とウラニウムの採掘を管理している。1970年代まではテキサス州の原油埋蔵量を管理できる故に石油価格を制御していた。石油輸出国機構(OPEC)の設立者がテキサスの機関を石油価格管理のモデルに使った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "テキサス州には約50億バーレル (790,000,000 m)1 の石油確認埋蔵量があり、合衆国全体の約4分の1に相当する。州内の石油精製所は1日に460万バーレル (730,000 m) の石油を精製できる。ヒューストン地域のベイタウン製油所はアメリカ合衆国最大の精製所である。天然ガスの生産量も高く、国内供給量の4分の1に相当している。コノコフィリップス、エクソンモービル、ハリバートン、バレロおよびマラソン・オイルなど幾つかの石油会社がテキサスに本社を置いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "21世紀に入るとシェールオイル採掘の技術が進歩し、内陸部を中心に石油生産量が増加した。HSBCはテキサス州を国として見た場合、2018年にはロシア、サウジアラビアに次ぐ世界第三位の石油産出国になると予想している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "再生可能エネルギー資源についてもテキサスは先進的な存在であり、風力発電量では国内最大である。テイラー郡とノーラン郡のホースホロー・風力エネルギーセンターは2008年11月時点で世界最大の風力発電量、735.5 メガワット(MW) の能力がある。エネルギー情報管理局は州内の大きな農業と林業でバイオ燃料用バイオマスを大量に供給できると述べている。また太陽光発電に付いても国内最大の開発可能性を有している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "テキサス州の温室効果ガス排出量は全米50州中1位であり、2003年の1年間では約6億7000万トンの二酸化炭素を排出している。この内、運輸部門による排出量が28%を占めている。 仮に、テキサス州を1つの国に置き換えたとすると、世界7位の排出量であり、フランス、イギリス、カナダのそれぞれの1国の排出量をも上回り、また排出量全米2位のカリフォルニア州と3位のペンシルベニア州の排出量の合計を超えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "この原因には、19の石炭による火力発電所がある事、化学工場が多い事が挙げられる。さらに、公共交通機関が少なく、燃費の悪いフルサイズSUVやピックアップトラックが多い事、夏の暑さが厳しくエアコンによる電力消費量が高い事が挙げられる。そして、前知事のリック・ペリーはアル・ゴアを批判しており、地球温暖化問題に対して懐疑的である。ハイブリッド車も増えてきてはいるが、州内で登録されている2000万台以上の車のうちの約1%にとどまっている。また、2007年の調査では、全米で半数近い人々が地球温暖化が最も深刻な問題であると回答したのに対し、テキサス州ではイラク戦争が最も深刻な問題であると答えた人々が最も多く、地球温暖化を最も深刻な問題と回答したのは約4%の人々だけであった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "テキサス州では、轟音を立てて走るピックアップトラックを頻繁に目にする。「land of pickup trucks」と呼ばれるこのテキサス州は、全米の約14%のピックアップトラックが売れている最大の市場である。テキサス州内では登録されている乗用車の約4分の1、特に農村部では車両の約半分がピックアップトラックである。 とりわけ、ビッグスリーが発売する、フルサイズのフォード・Fシリーズ、シボレー・シルバラード、ダッジ・ラムなどが非常に多く、数年前に比べてガソリン価格が高騰している現在でも、根強い人気を誇る。さらに、各メーカーは「テキサス・エディション」や「ローンスター・エディション」などという、地域限定仕様も発売している。2006年に操業開始した、トヨタ自動車の北米向けフルサイズピックアップトラック「タンドラ」の工場も、ここテキサス州のサンアントニオに立地する。なお、テキサス州のトラックの自動車税は、その他のタイプの車の自動車税よりも安い。 また、日本では安全性の問題から近年は急激に減った、金属製のグリルガードを付けたピックアップトラックも多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "テキサス州には大きな大学システムがあり、テキサス企業基金やテキサス新技術基金のような指導機関と組み合わされて、幅広いハイテク産業が育ってきた。オースティン地域は「シリコンヒルズ」と呼ばれ、ダラス北部地域は「シリコンプレーリー」と呼ばれている。デル、テキサス・インスツルメンツ(TI)、ペロー・システムズ、AT&Tなど多くのハイテク企業の本社がテキサス州にある。また、コンパック・コンピュータの元本社は、カリフォルニア州に本社を置くヒューレット・パッカード(HP)による買収後も同社の最大拠点として現存しているほか、同様にHPが2008年8月に買収して傘下に収めた旧Electronic Data Systems(EDS、現在は「HPエンタープライズサービス」として事業を継続)もテキサスで創業し、成長した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "アメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターはヒューストン南東部にあり、テキサス州の宇宙航空産業の至宝になっている。フォートワースにはロッキード・マーティンの宇宙航空事業部とベル・ヘリコプター・テキストロンがある。ロッキードはF-16戦闘機ファルコンを製造しており、その後継機F-35ライトニング IIをフォートワースで製作している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "テキサス州の豊かさは、小売、卸、金融と保険および建設の各産業からなる強い商業分野を活気づかせている。フォーチュン500に入るテキサス州を本拠とする会社でテキサス州の伝統的産業ではないものとしては、AT&T、メンズ・ウェアハウス、ランドリーズ・レストラン、キンバリー・クラーク、ブロックバスター、ホールフーズ・マーケット、およびテネット・ヘルスケアがある。アメリカ合衆国で第2のショッピングセンターがあるダラス・フォートワース地域は、合衆国の都市圏で一人当たりのショッピングセンターの数が1番多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "北米自由貿易協定 (NAFTA) によってメキシコがテキサス州にとって最大の貿易相手国となり、州輸出額の3分の1に相当する輸入額がある。テキサスとメキシコの国境には議論の多いマキラドーラの形成をNAFTAが奨励してきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "同州の白人系カジノは、船上ホテル・カジノの「テキサス・宝のクルーズ・カジノ」の一軒のみ。アランサス港に停泊する豪華客船「テキサス・トレジャー号」内にあり、湾内を周遊しながらスロットマシン500台、ブラックジャック、カリビアンスタッド、クラップス、レットイットライド、スリーカード・ポーカー、ルーレット&ポーカーの24のテーブル・ゲーム、ルーレット、および100台のビンゴ遊技機を楽しめる、一大娯楽施設である。2009年5月、テキサス州は同州でのカジノ賭博を非合法としているが、このカジノはとくに営業上の影響は受けていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "テキサス州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "テキサス人は歴史的に州の大きさと荒い地形のために旅行する難しさを味わってきた。その総延長でアメリカ合衆国最長となる高規格道路と鉄道のシステムと最大数の空港を作り上げることでこれを補ってきた。交通規制当局であるテキサス州交通局は州内の広大な高規格道路システムを維持し、航空と公的輸送システムを管制している。テキサス州は北アメリカ大陸の中央に位置しており、重要な交通の中継点になっている。ダラス・フォートワース地域からトラックが出発して48時間以内に国土の93%の地域まで到着でき、24時間以内であれば37%となる。テキサス州には33の外国貿易ゾーンがあり、国内最高である。2004年この外国貿易ゾーンを経由して2,980億ドルの商品が取引された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "テキサス人は1948年のヒューストンにおけるガルフ・フリーウェイ開通以来、フリーウェイを使うことが多い。2005年時点でテキサス中を走る79,535マイル (127,000 km) の公設高規格道路がある(1984年の71,000マイル (113,000 km) から増加した)。州内後期各道路の最近の成長にあてた資金のために17の有料道路があり、幾つか追加される提案もある。西テキサスで州間高速道路10号線も同20号線も最高制限速度が80マイル/時 (129 km/h) となっており、国内最高である。国道も州道も高規格道路は全て舗装されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "テキサス州には国内のどの州よりも多くの空港がある。最大のものはダラス・フォートワース国際空港であり、国内では第2位、世界でも第4位である。AMRコーポレーションのアメリカン航空とアメリカン・イーグル航空は旅客輸送距離と旅客搭乗数で世界最大の航空会社であり、ダラス・フォートワース国際空港をその最大かつ主要中継点に使っている。サウスウエスト航空もダラスに本社があり、ダラス・ラブフィールド空港で運行している。サウスウェスト航空は国内年間旅客数では国内最大であり、旅客数では世界最大である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "テキサス州で2番目に大きな空港はヒューストンのジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港である。ヒューストンを本拠にするユナイテッド航空(旧・コンチネンタル航空)の最大中継点である。アメリカの空港から来るメキシコ行き航空路の大半が利用している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "テキサス州の海岸と1,000マイル (1,600 km) 以上に及ぶ水路には1,000以上の海港が点在する。港では100万人近くを雇用し、毎年3億1,700万トンの荷を取り扱っている。大西洋岸内陸大水路のメキシコ湾部を通って合衆国大西洋岸の他の部分とを繋いでいる。今日のヒューストン港は外国貿易高で国内最大、全体では第2位であり、世界の港と比較しても第10位である。ヒューストン船舶水路は幅530フィート (161 m)、深さ45フィート (14 m)、長さ50マイル (80 km) ある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "テキサス州の伝統の一部はカウボーイ達がカンザスの鉄道まで牛を追っていった牛追いから派生している。テキサス州で初めて開通した鉄道は1853年8月のバッファローバイユー・ブラゾス・アンド・コロラド鉄道だった。北部から初めてテキサス州内に入ってきた鉄道は1872年完工のミズーリ・カンザス・テキサス鉄道だった。1911年以降テキサス州の鉄道総営業キロ数は全国一であり、最高時の1932年には17,078マイル (27,000 km) あったが、2000年までに14,006マイル (24,000 km) まで減った。テキサス州鉄道委員会は当初鉄道を規制するために作られたが、この任務は2005年にTxDOTに移された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "ダラスとヒューストンはライトレール・システムを使っている。ダラス地域高速輸送(DART)は米国南西部では初となるライトレールを建設した。フォートワースとダラスを結ぶ通勤鉄道、「トリニティ・レールウェイ・エクスプレス(TRE)」はフォートワース交通局とDARTが共同運行している。オースティン地域ではキャピタル・メトロポリタン交通局が「キャピタル・メトロレール」と呼ばれる通勤鉄道を運行しており、北西部郊外とを繋いでいる。ハリス郡都市圏交通局はヒューストン地域のライトレールを運行している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "アムトラックが都市間限定乗客輸送を担当しており、その輸送量も頻度も大きい。定期便は3ルート有り、毎日のテキサス・イーグル(ロサンゼルス - シカゴ)、州3便のサンセット・リミテッド(ロサンゼルス - オーランド。但しニューオーリンズ以東の区間は運休中)は州内に幾つか停車駅があり、毎日のハートランド・フライアーはフォートワースからオクラホマシティまで直行である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "民間資本のテキサス・セントラル・レイルウェイは2021年までにダラスとヒューストンを90分で結ぶ高速鉄道を計画している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "テキサス共和国第2代大統領ミラボー・B・ラマーが「テキサス教育の父」と言われている。その任期中に、各郡あたり3平方リーグ (70 km) の土地を公立学校建設のために取って置かせた。さらに2つの大学がテキサスの恒久的大学基金の基盤になるものとして、そのために50平方リーグ (1,200 km) の土地を別に確保させた。ラマーによってテキサス全体の公共教育体系の基盤が造られた。テキサス州はアメリカ議会交流懇談会の教育に関するレポートで26位に位置付けられた。テキサス州の学生は数学で平均より上だが、読むことでは平均以下だった。2005年から2006年に掛けて、テキサス州は生徒一人あたり7,854ドルを使っており、全国平均の9,295ドルを下回っている。また生徒と教師の比率が15.0であり、これも全国平均を僅かに下回っている。教師に対する報酬は38,130ドルであり、全国平均以下である。教育予算の89.2%を州が拠出し、10.8%を連邦政府が負担している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "テキサス教育機関が州内の公共教育制度を管理している。州内には1,000以上の教育学区があり、スタッフォード教育学区を除き自治対政府とは独立しており、多くは市境を跨っている。教育学区はその住民に課税し、私有資産に対しても土地収用を行使する権限がある。教育学区については予算を平衡化する裁判所指示があるために、「ロビンフッド計画」と呼ばれる州による再配分制度があるが、議論もある。この計画は裕福な教育学区から貧しい教育学区へ資産税を移動させるものである。テキサス教育機関は私立学校や家庭教育活動に関する権限を持たない。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "テキサス州の生徒は初等学校と中等学校でテキサス州知識能力評価を受ける。これによって、テキサス教育標準と落ち零れ防止法で要求される読み、書き、数学、科学および社会研究の能力を評価される。2007年春、州議会は2011年から2012年の学校年から中核となる高校の新入生用知識能力評価を学年末試験で置き換えることにした。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "テキサスで議論のある代替的アファーマティブ・アクション計画であるテキサス・ハウス法案588は、高校卒業時の上位10%に入った生徒に州立の大学入学を自動的に認めることを保証している。この方は「ホップウッド対テキサス州事件」で持ち上がった問題を避けるために民族の多様性を促進している。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "テキサス州には6つの州立大学システムと4つの独立公立大学がある。恒久的大学基金の土地で鉱物、特に石油が発見され州立最大の大学システムであるテキサス大学とテキサスA&M大学の急速な発展に貢献した。2005年秋の恒久的大学基金の資金は約150億ドルであり、ハーバード大学に続いて第2位である。その他の4つの大学システムは、ヒューストン大学(英語版)、北テキサス大学、テキサス州立大学、およびテキサス工科大学(英語版)である。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "テキサス大学オースティン校とテキサスA&M大学はテキサス州の旗艦大学である。どちらもテキサス州憲法で設立され、恒久的大学基金の枠を持っている。州は新しい7つの研究大学のうち幾つかを格上げすることで旗艦大学の数を増やそうとしている。ヒューストン大学、テキサス工科大学およびテキサス大学ダラス校は一般に上位のクラスにあるものと考えられており、そこから次の研究型旗艦大学が現れるものと見なされている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "テキサス州には教養課程カレッジから全国的に認められた研究型一流大学まで私立教育機関が多くある。ヒューストンのライス大学はアメリカ合衆国の中でも先進的教育と研究の大学であり、「USニューズ&ワールド・レポート」によれば全米大学ランクで17位となっている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "同様に、サンアントニオにある比較的小さなトリニティ大学はその優秀な学術分野で認められてきた。「U.S.ニューズ・アンド・ワールド・リポート」の「アメリカの最良カレッジ」ランキングでは、17年間連続してアメリカ合衆国西部の第1位に挙げてきた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "テキサス州北部にあるフォートワースのテキサスクリスチャン大学とダラスの南メソジスト大学は「U.S.ニューズ・アンド・ワールド・リポート」から一流大学と認められてきた。この2校は地域が近いことなど類似性もあって、学術とスポーツの分野でライバル関係を発展させてきた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "元は公立でチャーター校でもあった私立大学のベイラー大学とサウスウェスタン大学がある。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "テキサスA&M大学にあるジョージ・ブッシュ大統領図書館とテキサス大学オースティン校にあるリンドン・ベインズ・ジョンソン図書館・博物館という2つの大統領図書館がある。サザン・メソジスト大学に3番目のジョージ・W・ブッシュ大統領図書館を創設する合意ができた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "歴史的にテキサスの文化は南西部(メキシコ)南部(ディキシー)および西部辺境の影響が混ざり合ったものである。人気のある料理のブレックファスト・ブリートはこれら3つの影響を受けたものであり、柔らかい小麦粉のトルティーヤにベーコンやスクランブルエッグなど熱く調理されたものを包み込んだものである。18世紀から19世紀に掛けて作られてきたテキサスの伝統的な文化に加えて、移民の流入によって世界中の文化の坩堝になってきた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "西部開拓時代や郷愁の雰囲気から、古くからカントリー・ミュージックの人気が高い。同州は多くの著名なカントリー・ミュージック歌手を輩出している。また、テキサスをテーマにしたカントリーソングも多い。地元のファーストフードチェーンなどのローカルCMでも非常によく使われる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "テハーノがテキサスで育んできたラテン系の音楽はテクス・メクス・ミュージックまたはテハーノ・ミュージックと呼ばれ、スペイン語で歌われる。テハーノ・ミュージックはヒスパニック系アメリカ人のコミュニティのみならず海外でも人気が高い。著名なテハーノのミュージシャンにセレーナがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "ヒューストンは、ヒューストン・グランドオペラ、ヒューストン交響楽団、ヒューストン・バレーおよびアレー劇団というふうに主要な芸術分野の全てに恒久的かつ職業的団体があることでは、アメリカに5つしかない都市の1つである。ヒューストン中心街の真ん中17ブロックであるヒューストン劇場地区は視覚芸術と舞台芸術の活力で知られ、劇場の観客席12,948と映画観客席1,480が集中してあることでは全米第2位にランクされている。ヒューストンには、ドン・ロービーのデューク、ピーコックというレコード・レーベルが存在した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "1892年に設立されたフォートワース現代美術館は「ザ・モダン」とも呼ばれ、テキサス州最古の美術館である。フォートワースにはキンベル美術館、アモン・カーター博物館、ナショナル・カウガール博物館と殿堂、ウィル・ロジャーズ記念センターおよびバス芸術劇場もある。ダラス中心街の芸術地区にはダラス美術館、モートン・H・メイアーソン・シンフォニー・センター、マーゴット・アンド・ビル・ウィンスピア・オペラハウス、トラメル・アンド・マーガレット・クロウ・アジア美術コレクション、およびネイシャー彫刻センターといった芸術のための施設がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "ダラス市内にあるディープ・エラム地区は1920年代と1930年代にアメリカ合衆国南部のジャズとブルースのホットスポットとして人気があった。ディープ・エラムという名前は地元の人が「ディープ・エルム」と「ディープ・エラム」と発音したことに拠っている。ブラインド・レモン・ジェファーソン、ロバート・ジョンソン、ハディー・\"レッドベリー\"・レッドベターおよびベッシー・スミスなどのアーティストが初期ディープ・エラムのクラブで演奏した。また、ジャニス・ジョプリンやジョニー・ウィンター、スティーヴィー・レイ・ヴォーンといったロック、ブルース・ロックのミュージシャンも、テキサス州出身である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "オースティンはライブ・ショウが盛んなことで知られ、一人当たりのライブミュージックの会場数が、ナッシュビル、メンフィス、ロサンゼルス、ニューヨーク市よりも多いことを誇っている。オースティンの音楽は6番通りのナイトクラブを中心に回っている。映画、音楽およびマルチメディアの祭であるサウス・バイ・サウスウェスト、アメリカのテレビで長寿番組である「オースティン・シティ・リミッツ」およびジルカー公園で行われるオースティン・シティ・リミッツ音楽祭などの行事がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "1980年以降、サンアントニオは「世界のテハーノ音楽の首都」として展開してきた。テハーノ音楽と文化に大きな注目を集め好評を博した公開番組にテハーノ音楽賞が与えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "ラウンドロックにおいては、毎年2月の頭に〔ウシコン〕というアニメコンベンションが開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "牛の放牧業が重要な産業の一つであることから牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどの人気が高い。タコスやブリート、ナチョス、チリコンカーン、フリホレスをはじめとしたテクス・メクス料理は郷土料理の一つであり、テクス・メクス料理専門のレストランもとても多い。州東部の食文化は南部料理との共通点が多く、ルイジアナ州と接する地域はケイジャン料理の影響を受ける。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "テキサス州はダラス・カウボーイズやテキサス大学オースティン校などの強豪アメリカンフットボールチームが多く、アメリカンフットボールの人気が際立って高い。また、これらのチームのTシャツなどのグッズを身に着けて歩いている人も多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "テキサス人は数多いプロスポーツ・チームを応援している。「ビッグフォー」と呼ばれるプロスポーツではアメリカフットボールとメジャーリーグベースボールで各2チーム、バスケットボールで3チーム、アイスホッケーで1チームがある。ダラス・フォートワース都市圏は「ビッグフォー」の全てを持つアメリカ合衆国の都市圏13か所の1つである。「ビッグフォー」以外にも女子バスケットボール協会やメジャーリーグサッカーやメジャーリーグラグビーやメジャーリーグクリケットなどに加盟するチームがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "カレッジスポーツはテキサスの文化、特にアメリカンフットボールで深い重要性がある。ディビジョンI-FBSに所属するカレッジが10校あるのは全米最大である。大学スポーツチームのベイラー・ベアーズ、テキサス・ロングホーンズ、テキサスA&M・アギーズおよびテキサス・テック・レッドレイダーズはビッグ12カンファレンスで競っている。またテキサス・ロングホーンズ、テキサスA&M・アギーズ、TCUホーンドフロッグズおよびSMUマスタングスは少なくとも一度は全国チャンピオンになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "ディビジョンI-Aのコーチによる調査では、オクラホマ大学とテキサス大学の対校戦であるレッド・リバー・シュートアウトは国内でも第3位にランクされている。州内での活発な対校戦であるローンスター・ショウダウンはテキサスA&M大学とテキサス大学という2つの最大規模大学で争われている。TCUホーンドフロッグズとSMUマスタングスも対校戦を行っており、毎年バトル・フォー・ザ・アイアン・スキレットを競っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "ユニバーシティ・インタースコラスティック・リーグは大半の初等および中等学校の競技会を組織している。行事としては運動競技会(高校フットボールが人気)や芸術と学問の競技会もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "テキサス人はロデオも楽しむ。世界で初のロデオはテキサス州ペコスで開催された。毎年開催されるヒューストン家畜ショーとロデオは世界最大のロデオ大会である。州内の数カ所から出発してリライアント公園に集まるトレイル・ライド(長距離騎旅)から始まった。フォートワースで開催されるサウスウェスタン・イクスポジション・アンド・ライブストックショーは、最古の連続して開催されているロデオであり、州内の歴史ある伝統を毎年の行事に取り込んできた。ダラスでは毎年フェア・パークでテキサス州祭を開催している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "オースティンでは2012年からフォーミュラ1ワールド・チャンピオンシップの1戦を行うことになった。アメリカ合衆国では2007年のインディアナポリス・モーター・スピードウェイでのグランプリ以来のことになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "テキサスを拠点としていたヒューストン・オイラーズはメンフィス、更に ナッシュビルへ移転、現在は テネシー・タイタンズとなっている。ヒューストンには他にAFLチームのヒューストン・サンダーベアーズ、及びマイナーリーグのサッカークラブヒューストン・ホットショッツがある。 2004年にはエルパソにテキサスマイナーリーグのエルパソ・ディアブロズがあったがスプリングフィールドに移転、現在はスプリングフィールド・カージナルスとなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "歴史的にテキサス共和国として独立していた事もあり、テキサスでは州に対して強い愛着を持っている人々が多い。現在の州旗になっているテキサス共和国時代の旗は、学校や店、ピックアップトラックのリアウインドウなど、至る所で見かけられる。また、「NATIVE TEXAN」(生まれつきのテキサス人)というステッカーを張り付けている車もよく見られる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "ザ・コモンウェルス・ファンドに拠れば、テキサス州の健康管理システムは国内の悪い方から3番目ということである。医療の受けやすさ、治療の質、回避できる入院費用、および様々な集団間の公平性といった指標で最下位の方にある。この厳しい評価の原因には、政治、高い貧困率および国内最大の不法移民数率が挙げられる。2006年5月、州内人口の25.1%は健康保険を持っていないという国内最大の比率が報告があったことに反応して「レッドコード」計画を始めた。また「増え続ける医療ミス保険料を抑制し、上昇する医療費を管理する」ために、医療ミス訴訟の非経済損害上限額を25万ドルに設定して議論を呼んでもいる。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "アメリカ人の健康トラストは、テキサス人の27.2%が肥満と判定されたことで、成人の肥満度15位にランク付けた。2008年の「メンズヘルス」誌の肥満度調査では、アメリカ合衆国の肥満率の高い25都市の中にテキサス州の都市が4つ入っており、ヒューストンは6位、ダラスが7位、エルパソが8位、アーリントンが14位となっている。同じく「健康率の高い25都市」にはオースティンが唯一21位で入っている。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "テキサス州内には多くの優れた医療研究所がある。9つの医学校、3つの歯科学校、1つの眼科学校がある。バイオセーフティーレベル4の研究室は、ガルベストンのテキサス大学医学部に1つと、サンアントニオにある全米で初の民間バイオセーフティー・レベル4の研究室であるサウスウェストバイオ医療研究基金のもの3つ、合計4つがある。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "ヒューストンにあるテキサス医療センターは47の会員団体を有する世界最大の研究と医療の集中機関である。心臓移植手術の数でも世界一である。テキサス大学M・D・アンダーソンがんセンターは癌患者の治療、研究、教育および予防を行う高度に尊重される学術機関である。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "サンアントニオのサウステキサス医療センターは臨床医学研究分野でアメリカ合衆国第6位に位置付けられる機関である。やはりサンアントニオのテキサス大学健康科学センターも高い評価を受ける研究と教育の機関である。", "title": "医療" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "アメリカ心臓協会とテキサス大学サウスウェスタン医療センターがダラスを本拠地にしている。サウスウェスタン医療センターは「世界の学術的医療センター上位」の中に位置付けられている。このセンターは世界でも最も多いノーベル生理学・医学賞受賞者を雇用している。", "title": "医療" } ]
テキサス州は、アメリカ合衆国の州。略称はTX。合衆国本土南部にあり、メキシコと国境を接している。
{{redirect|テキサス}} {{基礎情報 アメリカ合衆国の州 |公式名称 = State of Texas<br />Estate de Texas |州旗 = Flag of Texas.svg |州章 = Seal of Texas.svg |地図 = Texas in United States.svg |愛称 = ひとつ星の州<br>Lone Star State |モットー = 友情<br>Friendship |州都 = [[オースティン (テキサス州)|オースティン]] |最大都市 = [[ヒューストン]] |州知事 = [[グレッグ・アボット]] |公用語 = [[南部アメリカ英語|英語]](事実上)<br>法的指定なし |面積順位 = 2 |総面積 = 696,241 |面積大きさ = 1 E11 |陸地面積 = 678,051 |水域面積 = 17,574 |水面積率 = 2.5 |人口統計年 = 2020 |人口順位 = 2 |人口値 = 29,145,505 |人口大きさ = 1 E7 |人口密度 = 43.0 |加入順 = 28 |加入日 = [[1845年]][[12月29日]] |時間帯 = -6, -7 |夏時間 = -5, -6 |緯度 = 25°50' - 36°30' |経度 = 93°31' - 106°38' |幅 = 1,244 |長さ = 1,270 |最高標高 = 2,667 |平均標高 = 520 |最低標高 = 0 |ISOコード = US-TX |Website = www.texas.gov |上院議員 = [[:en:John Cornyn|ジョン・コーニン]]<br>[[テッド・クルーズ]] }} '''テキサス州'''(テキサスしゅう、{{lang-en-short|State of Texas}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[州]]。略称は'''TX'''。[[アメリカ合衆国本土|合衆国本土]]南部にあり、[[メキシコ]]と[[アメリカ=メキシコ国境|国境]]を接している。 {{bar box |title=家庭で話される言語(テキサス州) 2010年 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[英語]]|red|65.8}} {{bar percent|[[スペイン語]]|Purple|29.21}} }} {{bar box |title=人種構成(テキサス州) 2010年 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[白人]]|blue|45.3}} {{bar percent|[[ヒスパニック]]|pink|37.6}} {{bar percent|[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]|Purple|11.8}} {{bar percent|[[アジア系アメリカ人|アジア系]]|brown|3.8}} {{bar percent|[[インディアン]]|orange|0.7}} {{bar percent|[[混血]]|yellow|2.7}} }} ==概要== 人口<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>では[[カリフォルニア州]]、面積<ref name="facts">{{cite web|year=2008|title=Facts|edition =2008-2009|publisher=Texas Almanac|url=http://www.texasalmanac.com/facts/|accessdate=2008-04-29}}</ref>では[[アラスカ州]]に次いで全米第2位の州でもある。「テキサス」は、[[インディアン]]部族の{{仮リンク|ハシーナイ連合|en|Hasinai}}([[カド|カドー族]])の[[カドー語]]で「友人」または「同盟者」を意味する「テイシャ(Teja=táyshaʔ)」に由来し<ref>{{Handbook of Texas|id=pft04|name=TEXAS, ORIGIN OF NAME}}</ref>、スペイン人がカドー族そのものと東テキサスにおけるその入植地域の名前にあてたものである。テキサス共和国時代から使用されている、白い星を一つあしらった州旗から「ローン・スター・ステイト (Lone Star State) 」という愛称もよく知られている<ref>{{cite web|url=http://www.netstate.com/states/intro/tx_intro.htm|title=Introduction to Texas|publisher=Netstate.com|date=|accessdate=2010-04-11}}</ref>。 テキサス州は南にメキシコ、西に[[ニューメキシコ州]]、北に[[オクラホマ州]]、北東に[[アーカンソー州]]、東に[[ルイジアナ州]]と境を接している。面積は696,241&nbsp;km<sup>2</sup>、人口は約2,915万人で現在も増加しつつある。人口では[[ヒューストン]]が州内で最大かつ全米でも第4位の都市であり、[[サンアントニオ]]が州内第2位、全米で第7位となっている。[[ダラス]]・[[フォートワース]]都市圏とヒューストン大都市圏は全米でそれぞれ第4位と第5位の都市圏である。その他の主要な都市としては、州西部の[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]と[[州都]]の[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]がある。 テキサス州はその大きさやバルコンズ断層のような地質特性の故に、[[アメリカ合衆国南部]]と[[アメリカ合衆国南西部|南西部]]の双方に似通った多様な地理的景観がある<ref>Sansom, Andrew:''[https://books.google.co.jp/books?id=LEHH7ovVVDgC&redir_esc=y&hl=ja Water in Texas:An Introduction]'', University of Texas Press, 2008, pg. 25</ref>。[[砂漠]]地の面積は、10%足らずである<ref>Dingus, Anne:''The dictionary of Texas misinformation'', Gulf Publishing Company, 1987</ref>。人口集中地の大半は元の[[プレーリー]]、[[草原]]、森林および海岸にある。東から西に移動すると、海岸の[[沼地|湿地]]と松林に始まり、うねりのあるプレーリと岩の多い丘が続き、最後は砂漠とビッグベンドの山脈になる。 「[[シックス・フラッグス・オーバー・テキサス]]」という言葉は、テキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国は[[スペイン領テキサス|スペイン]]だった。[[フランス]]が短期間の[[フランス領テキサス|植民地]]を保持した。続いてメキシコが領有したが、1835年に独立して[[テキサス共和国]]となった。1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが理由でメキシコとの関係が悪化し1846年に[[米墨戦争]]を引き起こす一連の出来事となった。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、[[南北戦争]]の間は[[アメリカ連合国]](南軍)に加盟していた。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごした。 南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は[[ウシ|牛]]の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスは、[[カウボーイ]]のイメージと結び付けられることが多い。[[1900年代]]初期に[[油田]]が発見されて[[テキサス州の石油ブーム|州の経済が成長し]]、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くの[[ハイテク]]企業を含む多様な経済に発展した。今日、[[フォーチュン500]]に入る企業の数では50以上で全米のどの州よりも多い<ref>{{Cite web|url=http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2009/states/TX.html|title=Fortune 500 2009:Our annual ranking of America's largest corporations|publisher=CNNMoney.com|accessdate=August 2009}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.rickperry.org/media/texas-passes-new-york-fortune-500-list|title=Texas passes New York on Fortune 500 list|publisher=RickPerry.Org|accessdate=Aug. 2009}}</ref>。各産業は成長を続けており、[[農業]]、[[石油化学]]、[[エネルギー]]、[[コンピュータ]]と[[電子工学]]、[[宇宙工学]]および[[バイオテクノロジー]]の分野で先頭を走っている。所得税や法人税がかからないといった税制優遇や賃金・土地の安さといったビジネス環境の良さから<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/_Reports/02/2022/a9be6751c4bbdfb9/Texas_202204.pdf |title=テキサス州 ビジネスの魅力ガイド |access-date=2023/08/31 |publisher=JETRO}}</ref>、[[トヨタ自動車]]北米本社<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ、北米本社機能をテキサス州ダラス北部に集約 {{!}} トヨタ自動車株式会社 公式企業サイト |url=https://global.toyota/jp/detail/2350970 |website=global.toyota |access-date=2023-08-31}}</ref>や[[テスラ (会社)|テスラ]]、[[オラクル (企業)|オラクル]]、[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]](HPE)など<ref>{{Cite web|和書|title=テスラ、本社をテキサス州に移転 マスクCEOが表明 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN0805M0Y1A001C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-10-08 |access-date=2023-08-31 |language=ja}}</ref>、西部の[[カリフォルニア州]]などからテキサス州に移転する企業がさらに他の企業の移転を呼び込んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=テキサス州、テスラも魅了 先進企業流入で産業地図変貌 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA27CI90X20C21A9000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-10-12 |access-date=2023-06-12 |language=ja}}</ref>。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、[[国内総生産|州総生産]]([[:en:Gross state product|Gross state product]])はカリフォルニア州に次いで国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。テキサス州はもともと[[カウボーイ]]などのイメージ通り[[共和党 (アメリカ)|共和党]]が強い[[保守]]的な州([[赤い州・青い州|赤い州]])であったが、[[リベラル]]色の強い[[カリフォルニア州]](青い州)などから多く人の移住したことから、[[スイング・ステート]](激戦州)に移行しつつある<ref>{{Cite web|和書|title=「テキサス=共和党」もう古い 人口2位の巨大州に何が:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASNC244Y1NBWUHBI00R.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2020-11-02 |access-date=2023-08-31 |language=ja}}</ref>。 ==歴史== {{main|テキサス州の歴史}} {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化|メキシコ独立革命|テキサス革命}} [[ファイル:Wpdms republic of texas.png|200px|right|thumb|[[テキサス共和国]]の領土]] [[ファイル:Mission San Antonio aka Alamo.jpg|200px|left|thumb|アラモ伝道所]] [[先コロンブス期]]のこの地には[[インディアン]]の諸部族が居住していたが、1492年に[[アメリカ大陸]]が[[クリストファー・コロンブス]]によって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。 [[16世紀]]以来、[[スペイン帝国]]領[[ヌエバ・エスパーニャ|ヌエバ・エスパーニャ副王領]](「新しいスペイン」)に属し、[[1821年]][[メキシコ]]がスペインから独立すると、メキシコ領[[コアウイラ・イ・テハス州]]の一部となった<ref name="weber300">Weber (1992), p. 300.</ref><ref name=manchaca162>Manchaca (2001), p. 162.</ref>。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め<ref name=manchaca164>Manchaca (2001), p. 164.</ref>、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為[[1830年]]にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した<ref name="edmondson78">Edmondson (2000), p. 78.</ref>。 [[奴隷制]]を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちは[[テキサス革命]]を決心し、[[1835年]]にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし<ref name="hardin12">Hardin (1994), p. 12.</ref>、[[1836年]]に[[テキサス共和国]]として一方的に独立を[[テキサス独立宣言|宣言]]した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていた[[サンアントニオ]]の[[アラモ伝道所]]の砦が陥落し、守備隊は全滅した([[アラモの戦い]])。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」("Remember the Alamo")を合言葉に、[[メキシコ軍]]と対峙、メキシコの[[カウディーリョ]] [[アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ]]将軍率いるメキシコ軍を[[サンジャシントの戦い]]で撃破した<ref name=todish69>Todish ''et al.'' (1998), p. 69.</ref>。司令官のサンタ・アナが捕らえられ、テキサス共和国の成立を認める{{仮リンク|ベラスコ条約|en|Treaties of Velasco}}に署名した。 テキサスの独立後、[[アングロ・サクソン]]が主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した[[黒人]][[奴隷制]]が復活した。 [[1845年]]にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として[[テキサス併合|併合]]された<ref name="TAnnexation">{{Handbook of Texas|id=mga02|name=Annexation}}</ref>ため、翌[[1846年]]テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し[[米墨戦争]]が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、[[1848年]]アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現[[カリフォルニア州]]、[[アリゾナ州]]などの現[[アメリカ合衆国南西部|南西部]]をメキシコから得た。 [[1861年]]の[[南北戦争]]では[[アメリカ連合国]]に属し<ref name="facts"/><ref name="SecessionConvention">{{Handbook of Texas|id=mjs01|name=Secession Convention}}</ref>、戦後[[1870年]]に合衆国への復帰が認められた。 ==地理== [[ファイル:Guadalupe_Mountains_and_El_Capitan_2006.jpg|thumb|left|グアダルーペ山脈]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の地理|en|Geography of Texas}}}} テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の三方が川で規定されている。西部で[[ニューメキシコ州]]、北部は[[レッド川 (ミシシッピ川水系)|レッド川]]を挟んで[[オクラホマ州]]に、及び東部は{{仮リンク|サビン川|en|Sabine River (Texas-Louisiana)}}を挟んで[[ルイジアナ州]]、および[[アーカンソー州]]に接している。南西部においては[[リオ・グランデ川]]を国境として、[[メキシコ]]の[[チワワ州|チワワ]]、[[コアウイラ州|コアウイラ]]、[[ヌエボ・レオン州|ヌエボレオン]]、及び[[タマウリパス州|タマウリパス]]の各州と接している。パンハンドル(州北部をなす長方形の)地域とオクラホマ州との東部州境は[[西経100度線]]、北部州境は[[北緯36度30分線]]、ニューメキシコ州との西部州境は[[西経103度線]]となっている。[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ市]]は州の西端にあり、[[北緯32度線]]とリオ・グランデ川に接している<ref name="comp1850">{{Handbook of Texas|id=nbc02|name=Compromise of 1850}}</ref>。テキサス州の南東部においては[[メキシコ湾]]が展開し、[[バイユー (地形)|バイユー]]の流れる湿地が多い。最高地点は、州西部のグアダルーペ山脈国立公園内にある標高2,667mの[[グアダルーペ峰]]。北西部には[[ラノ・エスタカド]]と呼ばれる平原が広がる。 [[ファイル:USA Santa Elena Canyon pano TX.jpg|thumb|right|300px|サンタ・エレナ・キャニオンを貫くリオ・グランデ、ビッグ・ベンド国立公園。キャニオンの左側はメキシコ、右側は米国]] 国立公園、州立公園、その他の保護区には、以下のようなものがある。西部の他州に比べ、公有地の面積比率が低い。 *[[ビッグ・ベンド国立公園]] *[[グアダルーペ山脈国立公園]] *[[アラモ伝道所]]([[アメリカ国定歴史建造物]]) *[[パロ・アルト戦場国立史跡]] テキサス州の面積は696,241&nbsp;km<sup>2</sup>で、アラスカ州に次いで全米第2位の広さがある。これは[[日本]]の面積の約2倍である。テキサス州を独立国と仮定すると、[[チリ]]や[[ザンビア]]に続いて40番目に大きな国となる。 [[ファイル:Texas Hill Country 187N-2.JPG|thumb|[[テキサス・ヒル・カントリー]]]] テキサス州は[[ケッペンの気候区分]]では10の地域、土壌区では14の地域、また[[エコリージョン|生態地域]]では11の地域に区分されるほど、土壌、地勢、地質および植物相や動物相における違いで地域を分類するのが大変なところである<ref name="Tx eco regions">{{cite web|url= http://www.texasep.org/html/lnd/lnd_1reg.html|title= Tx Envionmental Profiles|accessdate= 2006-07-14|archivedate=}}</ref>。一つの区分法として南東部から西に向って、[[メキシコ湾]]海岸平原、内陸低地、[[グレートプレーンズ]]および盆地と山脈地帯に分類する方法がある。メキシコ湾海岸平原は州南東部でメキシコ湾を包み込むようにしている。この地域の植生は密な松林である。内陸低地はなだらかにうねる丘の森林地帯であり、大きな松硬材林の一部である。州中央部のグレートプレーンズはパンハンドル地域や[[リャノ・エスタカード]]からオースティンに近い[[テキサス・ヒル・カントリー]]に跨っている。この地域はプレーリー(丈の高い草原)や[[ステップ (植生)|ステップ]](丈の低い草原)が大半を占めている。テキサス州最西部すなわち「トランス・ペコス」([[ペコス川]]より向こうの地域)は盆地と山脈地帯である。この地域は最も変化が激しく、サンド・ヒルズ(砂丘)、ストックトン高原、砂漠の渓谷、樹木のある山岳斜面および砂漠の草地がある。 テキサス州には名前の付いた水流だけで3,700、主要河川は15ある<ref>{{cite web|url=http://www.tpwd.state.tx.us/landwater/water/habitats/rivers/|title=Rivers in Texas|publisher=Tpwd.state.tx.us|date=2007-11-16|accessdate=2010-04-11}}</ref><ref>{{cite web|author=Hal P. Bybee|url=http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/rnr07|title=Handbook of Texas Rivers|publisher=Tshaonline.org|date=|accessdate=2010-04-11}}</ref>。最大の川はリオ・グランデ川である。その他の主要河川としては、[[ペコス川]]、[[ブラゾス川]]、コロラド川およびオクラホマ州との州境になっている[[レッド川 (ミシシッピ川水系)|レッド川]]がある。テキサス州には大きな天然湖が無いので、100以上の人口湖を造成してきた<ref>{{cite web|url=http://www.tpwd.state.tx.us/fishboat/fish/recreational/lakes/lakelist.phtml|title=Alphabetical List of Texas Lakes|publisher=Tpwd.state.tx.us|date=2010-01-28|accessdate=2010-04-11}}</ref>。 テキサス州のその大きさと特徴ある歴史のためにアメリカ合衆国のどの地域に属するかは議論のあるところである。文献によってアメリカ合衆国南部あるいは南西部のどちらかあるいは双方に入ると考えられることが多い。州内の幅広い地形、経済および文化の多様性のために州全体を一つの地域に含めることは危険である。州の東部、中央部および北部は南西部よりも南部との結び付きが強く、一方最西部や南部はアメリカ合衆国南部よりも南西部との類似性が強い。 ===地質=== {{main|{{仮リンク|テキサス州の地質|en|Geology of Texas}}}} [[ファイル:LlanoEstacadoShadedRelief.jpg|thumb|right|[[リャノ・エスタカード]]の立体地図]] テキサス州はグレートプレーンズの最南端にあり、その南は褶曲したメキシコ・東[[シエラマドレ山脈]]で終わる。[[地殻|大陸地殻]]が安定した[[中原生代]][[クラトン]](剛塊)を形成し、幅広い大陸縁辺と遷移地殻へ変化し、メキシコ湾近くに達する。テキサス州最古の岩石は中原生代の約16億年前のものとされている。これら[[先カンブリア時代]]の[[火成岩]]や[[変成岩]]が州内の大半に横たわっており、リャノ隆起、ヴァンホーンおよびエルパソに近いフランクリン山脈の3か所で露出している。[[堆積岩]]がこれら古期岩石の大半を覆う。最古の堆積岩層は断層ができた大陸縁辺、すなわち[[カンブリア紀]]に発達した地質学上の[[パッシブ・マージン]]に堆積した。この縁辺は[[ペンシルベニア紀]]に[[ローラシア大陸]]と[[ゴンドワナ大陸]]が衝突し、[[パンゲア大陸]]が形成されるまで存在した。ペンシルベニア紀の大陸衝突で[[アパラチア山脈]]と[[ウォシタ山地]]を形成した地殻である。この造山運動地殻は今日ダラス-ウェーコ-オースティン-アントニオ構造線の下にある。 [[古生代]]後期の山脈は[[ジュラ紀]]断層がメキシコ湾を開き始めたときに崩壊した。パンゲア大陸が[[三畳紀]]に分裂し始めたが、[[海洋底拡大説|海洋底拡大]]によるメキシコ湾の形成がジュラ紀中期と後期に起こった。海岸線がテキサス州の東縁に再度移り、メキシコ湾のパッシブ・マージンを形成し始めた。 [[ファイル:Palo Duro 2002.jpg|thumb|left|パロデュロ・キャニオン]] 今日、9~12マイル (14 – 19&nbsp;km) の堆積層がテキサス州の[[大陸棚]]の下にあり、アメリカ合衆国の石油埋蔵量のかなりの部分がある。初期のメキシコ湾盆地は形成の初めは限られていて、海水が完全に蒸発することが多く、[[ジュラ紀]]の厚い[[蒸発岩]]を形成した。これら[[岩塩]]堆積物は[[岩塩ドーム|ドーム状ダイアピル]]を形成しており、東テキサスのメキシコ湾岸地下に見ることができる<ref name="DiaperGrowth">{{cite web|author=Muzzafar, Asif|title=Timing of Diapir Growth and Cap Rock Formation, Davis Hill Salt Dome, Coastal Texas|url=http://gsa.confex.com/gsa/2001AM/finalprogram/abstract_24852.htm|publisher=The Geological Society of America|accessdate=July 22, 2008}}</ref>。 東テキサスの露頭は[[白亜紀]]や[[古第三紀]]の堆積物であり、[[始新世]][[褐炭]]の重要鉱床である。北部の[[ミシシッピー紀]]やペンシルベニア紀の堆積物、西部の[[ペルム紀|二畳紀]]の堆積物、および東部のメキシコ湾海岸沿いとテキサス州大陸棚の[[白亜紀]]堆積物には石油が含まれる。[[漸新世]][[火山岩]]がテキサス州最西部ビッグベンド地域に見られる。西部高原地域の[[オガララ帯水層]]と呼ばれる[[中新世]]堆積物層は重要な[[帯水層]]である<ref name="Ogallala">{{cite web|url=http://www.npwd.org/new_page_2.htm|title=Ogallala Aquifer|accessdate=2008-07-23|publisher=North Plains Groundwater Conservation District}}</ref>。テキサスは活動的な[[プレートテクトニクス]]境界から遠く、[[火山]]が無く、[[地震]]もほとんど無い。 ===気候=== {{main|{{仮リンク|テキサス州の気候|en|Climate of Texas}}}} 東部は[[温暖湿潤気候]](ケッペンの気候区分:''Cfa'')、西部は[[ステップ気候]](北部は''BSk''、南西部は''BSh'')。南西部に[[チワワ砂漠]]の北東部が含まれる。州南部では亜熱帯性の気候が見られる。複数の気候区が交っているため、動植物相は多様である。乾燥した西部では、湿地や河川、泉に生息する動植物の中に[[絶滅危惧種]]が多い。 テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象である。州のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖である。降水量についても地域での変化が大きい。州最西端のエルパソでは年間降水量が8インチ (200&nbsp;mm) にしかならないが、南東部のヒューストンでは54インチ (1,370&nbsp;mm) にも達する。北中部のダラスでは年間降水量37インチ (940&nbsp;mm) とそこそこの量である。 パンハンドル地域や州西部の山岳部では舞冬雪が何度も降るが、州北部では年に1・2度、中部と東部では数年に1度しか降らない。[[サンアントニオ]]より南、すなわち海岸部では極少数の例外を除いて降雪は稀である。最近の降雪例としては2004年のクリスマスイブに[[ヒューストン]]では初めてのホワイトクリスマスを記録し、12月の平均最高気温が 65{{°F}}(18℃) である南のキングズビルでも6インチ (15&nbsp;cm) の降雪があった<ref>{{cite web|url=http://www.wunderground.com/history/airport/KNQI/2008/12/24/DailyHistory.html?req_city=NA&req_state=NA&req_statename=NA|title=History :Weather Underground|publisher=Wunderground.com|date=2008-12-24|accessdate=2010-04-11}}</ref>。 夏の最高気温は西部山岳部やメキシコ湾の[[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン島]]で 80{{°F}}(26℃) 台、リオ・グランデ渓谷で 100{{°F}}(38℃) 近辺となるが、テキサス州の大半の地域は 90{{°F}}(32℃) 程度である。 夏の夜の気温は西部山岳地での50{{°F}}(14℃) 台後半<ref name="weather2">{{cite web|title = Monthly Averages for Marfa, Texas|publisher = The Weather Channel|url =http://www.weather.com/outlook/recreation/outdoors/wxclimatology/monthly/graph/USTX0830?from=search|accessdate = 2008-10-15}}</ref>から、ガルベストンでの80{{°F}}(26℃) まで変化する<ref name="weather3">{{cite web|title = Monthly Averages for Galveston, Texas|publisher = The Weather Channel|url = http://www.weather.com/outlook/recreation/outdoors/wxclimatology/monthly/graph/USTX0499?from=search|accessdate = 2008-10-15}}</ref>。 [[雷雨]]は特に州東部と北部で多い。[[竜巻]]道がテキサス州北部を通っている。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっている。竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生している<ref name="Annual average number of tornadoes">{{Cite web|url=http://www.ncdc.noaa.gov/img/climate/research/tornado/small/avgt5304.gif|title=NOAA.gov|publisher=National Climatic Data Center|accessdate=October 24, 2006}}</ref>。年間では4月、5月および6月に発生回数が多い<ref name="TexasWeather">{{Handbook of Texas|id=yzw01|name=Weather}}. 2008年7月22日閲覧。</ref>。 アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きい[[ハリケーン]]の幾つかがテキサスを襲った。[[1875年]]のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、[[1886年]]にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在は[[ゴーストタウン]]になっている。このために[[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン]]が主要港湾市の地位を引き継いだ。[[1900年]]の[[ハリケーン・ガルベストン|ガルベストン・ハリケーン]]では、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の[[自然災害]]になっている。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、[[1915年]]のガルベストン・ハリケーン、[[1957年]]に死者600人以上を出したハリケーン・オードリー、[[1961年]]の[[ハリケーン・カーラ]]、[[1967年]]のハリケーン・ビューラ、[[1983年]]のハリケーン・アリシア、[[2005年]]の[[ハリケーン・リタ]]、および[[2008年]]の[[ハリケーン・アイク]]がある<ref name="deadhurr">{{cite web|last = Blake|first = Eric S.|coauthors = Rappaport, Edward N., Landsea, Christopher W.|title = The Deadliest, Costliest, and Most Intense United States Tropical Cyclones From 1851 to 2006|publisher = National Weather Service:National Hurricane Center|date = 2007-04-15|url = http://www.nhc.noaa.gov/pdf/NWS-TPC-5.pdf|format = PDF|accessdate = 2008-10-02}}</ref>。[[熱帯低気圧]]も大きな被害を出すことがあり、[[1989年]]と[[2001年]]のアリソンと[[1979年]]の[[トロピカル・ストーム・クローデット (1979年)|クローデット]]が特に大きなものである。 テキサス州はアメリカ合衆国で最大の[[温室効果ガス]]を排出している<ref name="GH1">{{cite news|title=Blame Coal:Texas Leads in Overall Emissions|author=Borenstein, Seth|publisher=USA Today|date=2007-06-04|url=http://www.usatoday.com/tech/news/2007-06-04-state-emissions_N.htm|accessdate=2007-06-06}}</ref><ref name="GH2">{{cite news|title=Texas No. 1 producer of greenhouse gases|url=http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/news/texassouthwest/stories/060307dnnatemissions.3c1df3a.html|agency=Associated Press|publisher=Dallas Morning News|date=2007-06-03|accessdate=2008-06-11}}</ref><ref name="GH3">{{cite news|title=Texas Is No. 1 Carbon Polluter In U.S.|agency=Associated Press|date=2008-01-16|url=http://www.cbsnews.com/stories/2008/01/16/tech/main3720823.shtml?source=RSSattr=SciTech_3720823}}</ref>。毎年の[[二酸化炭素]]排出量は1.5兆ポンド(6.8億トン)近くに上っている。世界の国と比較したとき、テキサス州は第7位の排出量となる<ref name="GH2"/>。この膨大な排出量の原因は、多くの石炭焚き[[火力発電所]]があることと、[[石油精製|石油精製業]]があることである<ref name="GH2"/>。 ==人口動勢== [[ファイル:Texas population map.png|thumb|300px|テキサス州の人口密度マップ]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の人口動態|en|Demographics of Texas}}}} テキサス州民を指す英語の呼称は「テクサン」(''Texan'')であるが、かつては[[テクシャン]](''Texian'')と呼ばれていた。スペイン語では[[テハーノ]](''Tejano'')といい、英会話ではヒスパニック系のテキサス州民のことを指す。 [[2009年]]現在、テキサス州は人口24,782,406人である。前年より1.97%、2000年より16.1%増加した<ref>{{cite web|url=http://www.census.gov/popest/states/states.html|title=Population Estimates|date=December 23, 2009|work=Population Estimates Program|publisher=U.S. Census Bureau|accessdate=2009-12-30}}</ref>。2000年と比較して出生数から死亡数を引いた自然増では1,389,275人が増加し、国外からの移民で801,576人、国内移動で451,910人が増加した<ref name="facts"/>。2004年時点で350万人の外国出身者がおり(州人口の15.6%に相当)、このうち120万人が不法在留外国人 (不法在留外国人はテキサス州内の外国生まれの3分の1以上及び総計州人口の5.4%と計算する) であると見込まれる。2000年から2006年の間の不法移民増加率では国内最大である<ref name="CausesHealthcare">{{cite web|last=Roberson|first=Jason|title=Politics, poverty, immigration entangle Texas health care|work =Dallas Morning News|year=2007|accessdate=2008-12-04|url=http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/bus/stories/120407dnbustexashealth.29ab7e6.html}}</ref>。2010年、不法移民は州人口の6.0%となっている。これは国内の50州では5番目に高い数字となっている<ref>{{Cite news|first=Peter|last=Slevin|title=New Arizona law puts police in 'tenuous' spot|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/04/29/AR2010042904970.html?sid=ST2010042905051|work=|publisher=Washington Post|location=Washington, DC|pages= A4|date=30 April 2010|id=|accessdate=2010-06-21}}</ref><ref group="注">上位にあるのはネバダ州、アリゾナ州、カリフォルニア州およびニュージャージー州である</ref>。 テキサス州の人口密度は1平方kmあたり34.8人であり、全国平均の31人より幾らか高くなっている。テキサス州とフランスは国土の大きさが接近しているが、フランスの人口密度は1平方kmあたり110人とかなり高くなっている。 テキサス州民のうち3分の2はヒューストンのような主要都市圏に住んでいる。テキサス州ではダラス・フォートワース都市圏が最大である。ヒューストンがテキサス州最大、かつアメリカ合衆国で第4位であるが、ダラス・フォートワース都市圏はヒューストン都市圏よりかなり大きくなっている。 ===人種構成=== {|border="1" cellpadding="4" cellspacing="0" style="margin:1em 1em 1em 0;background:#FFFFEC;border:1px #aaa solid;border-collapse:collapse;font-size:95%;" |- |'''テキサス州の人口動勢''' |[[2004年]] |[[2003年]] |[[2002年]] |[[2001年]] |[[2000年]] |- |総計 |22,490,022人 |22,103,374人 |21,723,220人 |21,334,855人 |20,851,790人 |- |[[白人]] (ヒスパニック以外) |10,986,937人 |11,049,172人 |11,094,951人 |11,138,076人 |11,190,222人 |- | |49.8% |50.4% |51.1% |51.8% |52.7% |- |[[ヒスパニック]] (民族問わず) |7,781,211人 |7,519,603人 |7,258,302人 |6,993,458人 |6,669,666人 |- | |34.6% |34.0% |33.4% |32.8% |32.0% |- |[[黒人]] (ヒスパニック以外) |2,535,285人 |2,500,125人 |2,463,047人 |2,426,088人 |2,378,444人 |- | |11.3% |11.3% |11.3% |11.4% |11.4% |- |アジア系 (ヒスパニック以外) |695,293人 |666,261人 |636,223人 |604,846人 |567,526人 |- | |3.1% |3.0% |2.9% |2.8% |2.7% |- |[[インディアン]] |77,662人 |76,071人 |74,538人 |72,762人 |70,405人 |- | |0.3% |0.3% |0.3% |0.3% |0.3% |- |混血/他 |210,349人 |203,238人 |196,159人 |188,529人 |178,812人 |- | |0.9% |0.9% |0.9% |0.9% |0.9% |} <small>すべてのデータは[[アメリカ合衆国統計局]] 州人口見込みからの情報である<ref>[http://www.census.gov/popest/states/asrh/SC-EST2004-03.html census]</ref>。 </small> テキサス州内で祖先グループと報告された最大の民族は:[[メキシコ|メキシコ人]] (24.3%)、[[アフリカ系アメリカ人]] (11.5%)、[[ドイツ系アメリカ人]] (9.9%)、[[アメリカ合衆国|アメリカ白人]] (7.2%)、及び[[アイルランド系アメリカ人]] (7.2%)。 国勢調査データはテキサス州の人口の7.8%が5歳以下、28.2%が18歳以下および9.9%が65歳以上と報告している。女性はおおよそ人口の50.4%である。 ドイツ人の子孫は州中部と南東部に多い。テキサス州民の3分の1以上がヒスパニック系であり<ref name="Census2">{{cite web|year=2006|title=Texas QuickFacts from the US Census Bureau|location =US Census |url=http://factfinder.census.gov/servlet/ACSSAFFFacts?_event=&geo_id=04000US48&_geoContext=01000US%7C04000US48&_street=&_county=&_cityTown=&_state=04000US48&_zip=&_lang=en&_sse=on&ActiveGeoDiv=&_useEV=&pctxt=fph&pgsl=040&_submenuId=factsheet_1&ds_name=DEC_2000_SAFF&_ci_nbr=null&qr_name=null&reg=null%3Anull&_keyword=&_industry=|accessdate=2007-04-28}}</ref>、最近入ってきた者が多いが、テハーノの中には18世紀のテキサスから数世代を経る者もいる。アフリカ系アメリカ人の場合、元奴隷の子孫に加えて最近の新大移動によって州内に仕事を求めてきた学卒者も多い<ref name="blackmigration">[http://www.brookings.edu/urban/pubs/20040524_Frey.pdf William H. Frey, "The New Great Migration:Black Americans' Return to the South, 1965-2000", May 2004, The Brookings Institution, p.1] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20040702085924/http://www.brookings.edu/urban/pubs/20040524_Frey.pdf |date=2004年7月2日 }}. 2008年3月19日閲覧。</ref>。最近は特にヒューストンとダラスでアジア系アメリカ人の人口が増加している。その他の都市ではオースティン、[[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]および[[マッカレン (テキサス州)|マッカレン]]に近いシャリーランドでアジア系アメリカ人の人口がかなり増加している。 ===宗教=== テキサス州の住人の信仰する宗教および宗派は: *[[キリスト教]] – 87% **[[プロテスタント]] – 57% ***[[バプテスト教会|バプテスト]] – 22% ***[[メソジスト]] – 8% ***[[ルーテル教会]] – 3% ***[[ペンテコステ運動]] – 3% ***[[長老派教会]] – 2% ***[[キリスト連合教会]] – 2% ***他のプロテスタントまたは一般的プロテスタント – 17% **[[カトリック教会|ローマ・カトリック]] – 29% **他のキリスト教 – 1% *他の宗教 – 1% *無宗教 – 12% [[ファイル:Lakewood1.jpg|thumb|right|レイクウッド教会内部]] 2000年時点で最大の宗教会派はローマ・カトリック教会で4,368,969人、次に南部バプテスト協議会3,519,459人、合同メソジスト教会1,022,342人となっている<ref name="religion">{{cite web|url=http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/48_2000.asp|title=State Membership Report - Texas|publisher=Association of Religion Data Archives|accessdate=2008-02-12}}</ref>。 テキサス州東部は[[バイブル・ベルト]]の「バックル」部と呼ばれ、社会的に保守的である<ref name="abstinence">{{cite web|last=Connolly|first=Ceci|date=2003-01-21|title=Texas Teaches Abstinence, With Mixed Grades|publisher=Washington Post|url=http://portal.unesco.org/education/en/ev.php-URL_ID=12589&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html|accessdate=2008-04-28|pages=A01}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。ダラス・フォートワース都市圏には3つの福音主義者神学校と1つの男子修道院があり、カトリック系神学校であり歴史的建造物のダラス大学もある。ヒューストンの[[レイクウッド教会]]は毎週43,000以上の信徒が礼拝することでは国内最大である<ref>{{cite web|url=http://www.sermoncentral.com/articleb.asp?article=Top-100-Largest-Churches|title=Top 100 Largest Churches in America|publisher=SermonCentral.com|date=2009-04-13|accessdate=2010-04-11}}</ref>。地元の伝承では[[ラボック (テキサス州)|ラボック]]の一人当たりの教会の数では国内最大と言われる<ref name="abstinence"/>。 非キリスト教宗教の信者はテキサス州の都心部に多い。[[イスラム教]]徒は約40万人がいる<ref name="MuslimPopulation">{{cite web|title=Turning Muslim in Texas|work=Faith and Belief|publisher=Channel4.com|url=http://www.channel4.com/culture/microsites/C/can_you_believe_it/debates/texas1.html|accessdate=2008-04-28}}</ref>。[[ユダヤ教]]徒は約128,000人である<ref>{{cite book|title=Twentieth-century Texas:a social and cultural history|author=Storey, John Woodrow;Kelley;Mary L.|publisher=University of North Texas Press|year=2008|page=145}}</ref>。[[ヒンドゥー教]]や[[シーク教]]などの信者は146,000人である<ref>Lindsey, William D.;Silk, Mark :''[https://books.google.co.jp/books?id=NjdrZ4m_BK8C&redir_esc=y&hl=ja Religion and public life in the southern crossroads:showdown states]'', Altamira Press, 2004, pg. 48</ref>。 ===言語=== 5歳以上の全人口の66.35%が英語を、29.09%がスペイン語を話す<ref>2005 American Community Survey, as reported by the [http://www.mla.org/map_data_results&SRVY_YEAR=2005&geo=state&state_id=48&mode=geographic MLA Data Center]. 2008年10月16日閲覧。</ref>。英語はテキサス独特の訛りが強い[[南部アメリカ英語]]である。スペイン語話者数は[[カリフォルニア州]]に次ぐ。 ==インディアン部族== [[ファイル:Comancheria.jpg|thumb|left|300px|テキサスはもともと[[コマンチ族]]と同盟部族の領土だった(赤い枠線内)。彼らは19世紀に残らず[[オクラホマ州]]へ強制移住させられた(1858年の地図)]] [[ファイル:Map of Texas highlighting El Paso County.svg|thumb|right|100px|ティグア族インディアン保留地は赤い部分(エルパソ郡)の一画にある]] [[ファイル:Map of Texas highlighting Polk County.svg|thumb|right|100px|アラバマ・コウシャッタ族インディアン保留地は赤い部分(ポーク郡)の東端にある]] [[ファイル:Alabama-Coushatta Rez.jpg|thumb|right|200px|テキサス・アラバマ・コウシャッタ族の保留地看板]] [[ファイル:Map of Texas highlighting Maverick County.svg|thumb|right|100px|テキサス・キカプー族インディアン保留地は赤い部分(マーベリック郡)の西端のメキシコ国境にある]] {{仮リンク|アコキサ族|en|Akokisa}}、[[アラバマ族]]、[[アナダルコ族]]、[[アパッチ族]]、[[アラナマ族]]、[[アタカパ|アタカパン族]]、{{仮リンク|ビダイ族|en|Bidai}}、{{仮リンク|ビロキシー族|en|Biloxi people}}、[[カド|カドー族]]、[[チェロキー族]]、[[チョクトー族]]、{{仮リンク|コアユルテカン族|en|Coahuiltecan}}、[[コマンチェ|コマンチ族]]、[[クリーク族]]、{{仮リンク|デアドーズ族|en|Deadose}}、{{仮リンク|アイッシュ族|en|Eyeish}}、[[グアスコ族]]、{{仮リンク|ハイナイ族|en|Hainai}}、[[ハシナイ連邦]]、{{仮リンク|ナベダチェ族|en|Nabedache}}、{{仮リンク|ナソニ族|en|Nasoni}}、[[イスレタ族]]、[[アパッチ族|ヒカリア・アパッチ族]]、{{仮リンク|カドハダチョ連邦|en|Kadohadacho}}、[[カランカワ|カランカワ族]]、{{仮リンク|キチャイ族|en|Kichai people}}、[[カイオワ族]]、[[コウシャッタ]]、[[アパッチ族|リパン・アパッチ族]]、[[クリーク族|ムスコギー連合]]、[[パカナ族]]、[[パスカゴーラ族]]、[[プエブロ族]]、[[パチリ族]]、[[クアポー族]]、[[ショーニー族]]、[[シュマン族]]、[[ソアカチノ族]]、{{仮リンク|タワコニ族|en|Tawakoni}}、{{仮リンク|トンカワ族|en|Tonkawa}}、{{仮リンク|ワコ族|en|Waco people}}、[[ウィチタ族]]といった[[インディアン]]部族が、広大な同州の沿岸部から大平原部まで、狩猟民、農耕民取り混ぜて先住していた。 カイオワ族やコマンチ族は18世紀にメキシコ経由で馬を手に入れ、一大騎馬狩猟民となった。遠征隊を組んで、遠く中南米まで足を延ばした記録も残っている。1847年の「和平会談」で、コマンチ族が3000ドル相当の「贈り物」と引き換えに彼らの領土内での白人の通行を認めた。こうして入植白人の幌馬車隊は、この「テキサス道」と呼ばれる入植経路を使って[[インディアン]]の土地に一気に押し寄せた。命の糧のバッファローを虐殺し、勝手に農地を拓く白人の狼藉に怒った略奪狩猟民のカイオワ族やコマンチ族は同盟を組んで、これら入植白人に対して全面的に戦いを挑んだ(「[[テキサスのインディアン戦争]]」)。 「開拓者を襲う恐ろしいインディアン」は、20世紀になって[[西部劇]]映画の題材として繰り返し描かれた。[[コマンチ族]]や[[カイオワ族]]、[[アパッチ族]]は「'''悪いインディアン'''」としてこういった西部劇映画に、デタラメな姿で登場する常連悪役部族となった。 彼らの他に、[[カランカワ|カランカワ族]]や[[トンカワ族]]、[[アタカパ|アタカパン族]]など、多様な部族集団が先住したが、「テキサス・インディアン戦争」の末に、すべて19世紀にオクラホマ州へ強制移住させられた。 全域にかつて先住した一大部族集団{{仮リンク|コアユルテカン族|en|Coahuiltecan}}」は、19世紀中に白人牧場主による「インディアン狩り」によってほぼ絶滅させられた。インディアンを追い払った後の広大な土地は、「一番遠くまで馬で駆けた者が、そこまでの土地を貰う」というような「賭けごと」によって、日本の市町村級の規模面積で白人個人入植者に分配された。 現在、アメリカ連邦政府から公式認定され、「[[インディアン居留地|保留地]](Reservation)」を領有する部族はキカプー族、ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族の3つ。[[キカプー]]族は、19世紀に5大湖地方から白人の侵入を嫌って南下、この地までやってきた。 [[ティグア]]族(イスレタ・プエブロ族)は、一部がニューメキシコ州からの「飛び地」のような場所に存在し、テキサスに「ティグア保留地」を領有している。アラバマ族とコウシャッタ族は長らく絶滅部族の扱いだったが、近縁の両部族は提携結集し、1987年にアメリカ連邦政府からインディアン部族として公式認定され、「復活」した。 他のインディアンたちは、部族単位では認定されていない。「チェロキー族」や「セミノール族」、「クリーク族」は19世紀に東部から大陸を横断して強制移住させられた末裔だが、現在公式認定を抹消され、部族として存在しないことになっている。 2009年、テキサス州議会は、「[[アパッチ族|リパン・アパッチ族]]」を部族認定した。以後、連邦認定と併せて、州議会に部族認定を要求する部族が増えている。 ≪アメリカ連邦政府が公式認定している部族≫ *「[[キカプー|キカプー族]]・テキサスバンド」 *「[[アラバマ族|アラバマ]]・[[コウシャッタ]]族」 *「[[ティグア族]](テキサス・イスレタ・プエブロ族)」 ≪アメリカ連邦政府に公式認定を要求中の部族・団体≫ *「[[クリーク族]]・レッド・オーク・バンド」 *「アリスタ・インディアン村」 *「[[アタカパ|アタカパ・イシャク族]]」 *「[[チェロキー族]]」 **「チカマウガ・チェロキー族・ブラッシークリーク・バンド」 **「チカマウガ・チェロキー族・バッファローバイユー・バンド」 **「チカマウガ連合」 **「オウカー・チェロキー族」 **「自主独立チェロキー族」 **「自由チェロキー族・ハチドリの氏族」 **「南東チェロキー連合・鷹の氏族」 **「南東チェロキー連合・セコイヤ族」 **「南東チェロキー族・部族と協会のバンド」 **「テキサス湾岸チェロキー族・部族と協会のバンド」 **「リオグランデ・バンド」 **「タボー山バンド」 *「ペナテカ・[[コマンチェ|コマンチ族]]」 *「{{仮リンク|ジュマノ族|en|Jumanos}}」 *「{{仮リンク|コアユルテカン族|en|Coahuiltecan}}」 **「パマクエ・バンド」 **「タップ・ピラム・コアユルテカン族」 *「[[カリゾ・コメクルド族]]」 *「マスコゴ・[[セミノール]]族」 *「[[ミッション・インディアン]]・ヤナグアナ・バンド」 ≪アメリカ連邦政府は公認していないが、テキサス州議会が公認している部族≫ *「チカマウガ・チェロキー族・ブラッシークリーク・バンド」 *「[[アパッチ族|リパン・アパッチ族]](平原アパッチ族)」 ===インディアンの宗教の自由とテキサス州=== 合衆国でのインディアンの宗教は、1881年にすべて非合法化された。以後、儀式の話をしただけで、彼らは白人に逮捕される状況となった。1940年代になり、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領が一部合法化したものの、自傷行為を伴う苦行などは、「レッド・パワー運動」が高まった1970年代までなお禁止弾圧され続けた。 19世紀末に同州で発祥した[[ネイティブ・アメリカン・チャーチ]]が行う「ペヨーテの儀式」は、フェネチルアミン系の幻覚剤である[[メスカリン]]を成分として含む[[ペヨーテ]]を摂取して治癒を行う宗教であるが、このペヨーテは、アメリカ国内では同州にしか自生しない。このため、現在ではペヨーテの採集のために全米からインディアンが集まることとなっている。ペヨーテの採集は、現在インディアンにのみ合法とされる行為である。 1884年からインディアンの[[同化政策]]として始まった「[[インディアン寄宿学校]]」は、インディアン児童を[[同化政策]]の目的をもって、彼らの言語・宗教・習慣を根こそぎ奪い、キリスト教化させた私立の「教育」機関である。本来インディアンにとって髪の毛は神聖なものであり、これを切るのは家族が亡くなったときだけであるが、インディアン寄宿学校はこれを無視して入学時に強制的に彼らの髪を切らせた。インディアン児童が一般公立学校に通学させられるようになったのは20世紀後半からであるが、ここでもなお彼らの宗教習慣は、白人のキリスト教規範に従わせるものだった。保留地を領有する部族は「部族学校」を開設してこれに対抗しているが、領土を持たない「非公認部族」の児童は、現在も白人の学校への通学を余儀なくされている。 1978年、「アメリカ・インディアンの宗教の自由法([[:en:American Indian Religious Freedom Act|AIRFA]])」が制定され、絶滅危惧種であるワシなどの羽や骨の使用や、麻薬であるメスカリンを含むペヨーテの宗教儀式での使用を例外的に認められた。 ====アドリエル・アロチャ対ニードヴィル法廷戦==== 同州フォート・ベント郡ニードヴィルの幼稚園に通う[[アパッチ族|リパン・アパッチ族]]インディアンの少年アドリエル・アロチャ(Adriel Arocha)は、インディアンの宗教習慣に従って、長い髪を伸ばしている。 2008年夏、「[[:en:Needville Independent School District|ニードヴィルISD]]」(独立学校区)と学校当局は、アドリエル(当時5歳)の長髪を、テキサス学区での通例である学則に従い短く切るよう両親に通告し、「従わない場合は退学させる」とした。これに対し、父親ケニー・アロチャと母親ミッシェル・ベテンボーはこの処置を「インディアンの宗教に対する侵害である」とし、「[[:en:American Civil Liberties Union|アメリカ市民自由連合(ACLU)]]」の後押しを受けて法廷闘争に持ち込み、「髪を伸ばしているのは(ケニーは12年間、アドリエルは生まれてから一度も髪を切っていない)宗教の自由のための闘いだ」として徹底抗戦の構えをとった。 以後、このインディアン児童の処遇を巡ったテキサス州での係争は、「アドリエル・アロチャ対ニードヴィル法廷戦(A.A. v. Needville Case)」と名付けられ、全米が注目する裁判となった。 この際、ニードヴィルISD監督官のカーチス・ロードスはアドリエルの両親が校区の服装規定に対し、宗教的理由による免除を求めたことを受けて両親の態度を批判し、「彼らは宗教の自由と言うが、それがどんな宗教かわかりますか?」と述べ、「あなたがイスラム教徒とか言うんなら、それはよく知られてますからわかりますよ。でもあなたの宗教とやらには、どれほどの信仰心が伴うものだと言うんですか」と問題発言を行った。9月3日からは、同校校長がアドリエルを髪を切るまで校内謹慎処分とし、級友たちとは別室で、退職教員による特別授業を受けるよう指示した。 この訴訟では、地区の判断が合衆国憲法の修正第1条と第14条、また「テキサス宗教の自由復活法」下での権利に違反すると述べられた。2008年10月に学区の処置に対し差し止め命令が下されたのち、2009年2月、連邦裁判所のキース・P・エリソン裁判官は学校側の強制を「憲法違反」と判定、差し止めを恒久的なものとした。しかし学校側は裁決を不服とし、「三つ編みにした髪を襟に入れるなら登校しても良い」と裁決に逆らって条件を出した。 現在アドリエルは三つ編みを外に垂らして通学し、あくまで学校の条件に抗っている。アドリエルと両親に対しては、「ACLU(アメリカ市民自由連合)」のほかに、同州の「リパン・アパッチ族」、同州のインディアン学者のK・ツィアニナ・[[:en:Hartman H. Lomawaima|ロマワイマ]]とスザンヌ・クロス、「[[:en:Americans United for Separation of Church and State|州の政教分離のためのアメリカ人連合]]」、「[[:en:Anti-Defamation League|反名誉棄損同盟]]」、「[[バージニア州|バージニア]]・[[ナンセモンド族]]・インディアン部族協会」、「[[:en:American Jewish Committee|アメリカ・ユダヤ人協会]]」、「[[:en:Hindu American Foundation|アメリカ・ヒンズー教徒財団]]」、「[[:en:Interfaith Alliance|異教徒間同盟]]」、「[[:en:Sikh Coalition|シーク教徒連合]]」と「連合[[シク教|シーク]]」が支援を表明しており、全米をあげた大論争となっている。 ===インディアン・カジノ=== インディアン部族が運営する「[[インディアン・カジノ]]」は、産業を持てず貧困にあえぐ全米のインディアン部族にとっての最後の切り札であり、「現代のバッファロー」と呼ばれるビジネス・モデルである。 [[フロリダ州]]の[[セミノール|セミノール族]]や[[カリフォルニア州]]のミッション・インディアン・カバゾン・バンドの相次ぐカジノ運営の合法裁定勝訴を受け、1987年、米国最高裁判所は、アメリカ連邦政府が公認したインディアン部族にのみ、州の管区外でのカジノ所有権を認める裁決を下した。これを受けて、1988年に「インディアン賭博規制法(IGRA)」が制定された。 これを受け、テキサス州ではキカプー族のみがカジノの所有権を得たが、1987年の「インディアン復活法」制定後にアメリカ連邦政府から公認を受け「復活」したティグア族(イスレタ・プエブロ族)とアラバマ・コウシャッタ族は、法の対象外としてカジノ運営を禁じられた。 1996年、テキサス・キカプー族は同州イーグル・パスに「幸運な鷲のカジノ」を開設した。しかしテキサス州司法庁はIGRAの認可に逆らい、これを違法として提訴した。現在、このカジノの運営の法的可否は米国最高裁判所に持ち込まれており、成り行きが注目されている。 1992年、テキサス・ティグア族(イスレタ・プエブロ族)は彼らの[[インディアン居留地|保留地]](Reservation)内でのカジノ開設許可をアン・リチャーズ知事(当時)に請願したが、知事はこの要請を拒否した。ティグア族はこれを連邦法に基づく彼らの権利の侵害であるとして、1993年に州の承認無しで「喋る岩のカジノ」を開設した。以後、このカジノの合法性は10年に渡って法廷で争われることとなった。 [[ジョージ・W・ブッシュ]]知事(当時)は、ティグア族のカジノが高額賭け率の博打を禁止した「テキサス州反ギャンブル法」を犯していると主張したが、ティグア族は「われわれのカジノのスロットマシンのコンピューターの乱数度は、テキサス州営宝くじと同じ程度のものだ」と反論。2002年1月、第5巡回控訴裁判所でアメリカ連邦政府はティグア族が1987年の「インディアン復活法」に違反しているとし、閉鎖勧告した。ティグア族はこれに対し、2007年に「喋る岩のカジノ」を再開したため、2008年3月に州司法長官事務所はティグア族に対し「法廷侮辱罪」を申し立てた。 2001年、テキサス・アラバマ・コウシャッタ族は、同州リビングストンに部族カジノを開いた。9ヵ月運営された後に、第5巡回控訴裁判所は、同部族が1987年の「インディアン復活法」に違反しているとしてこのカジノの営業停止命令を勧告した。 2009年5月、テキサス州は同州でのカジノ賭博を非合法と決定(白人の経営する船上カジノ「テキサス宝のカジノ・クルーズ」は営業中である)。ティグア族、アラバマ・コウシャッタ族のカジノ再開は非常に難しくなっている。「インディアン・カジノ」の閉鎖はインディアンのみならず、インディアン以外の従業員の失業をも生んでいる。カジノ再開を求める抗議運動には、インディアン以外の人々も多数参加するものとなっている。 2009年9月、隣州[[オクラホマ州]]の[[チカソー族]]は、テキサス州グランドプレーリーの破産した競馬場、「ローンスターパーク」([[:en:Lone Star Park|Lone Star Park]])の買収計画を発表、2700万ドルを提示した。テキサス賭博協会ほか、ギャンブル業界筋は、チカソー族の目的は競馬より賭博にあると伝えている。オクラホマ・チカソー族は、カジノ事業を拡大しており、 テキサスとオクラホマの州境を含め、現在15の賭博施設を所有運営している。同競馬場での賭博運営の合法化のためには、州憲法改正を含めた賭博法案を可決しなければならず、最短で2011年での可決が予定されている。 ≪テキサス州のインディアン・カジノ≫ *「キカプー・幸運の鷲カジノ」 *「アラバマ・コウシャッタ・カジノ」 ※2002年に営業停止 *「喋る岩のカジノ」 ※2002年に営業停止 ==都市及び大都市圏== [[File:Houston night.jpg|thumb|300px|市域人口最大都市である[[ヒューストン]]]] [[File:Dallas Skyline with Arts District at night.jpg|thumb|300px|都市圏人口最大都市である[[ダラス]]]] ===都市=== 2020年の国勢調査によると、州内にはヒューストン、サンアントニオ、およびダラスと、人口が100万人を超える都市が3つある。この3都市は全米上位10位以内にも入っている。この3都市にオースティン、フォートワースおよびエルパソを加えた6都市が人口50万人を超え、全米でも上位25位以内に入っている<ref name="Census2020_QuickFacts" />。 これら都市部とは対照的に、コロニアと呼ばれる未編入田園部は、基本的なインフラが無いことが多く、貧困が特徴である<ref name="Colonias">{{cite web|url= http://www.sos.state.tx.us/border/colonias/faqs.shtml|title= Colonias FAQ's (Frequently Asked Questions)|accessdate = 2008-10-12|author = Federal Reserve Bank of Dallas Office of Community Affairs|publisher= Texas Secretary of State}}</ref>。2007年時点で、少なくとも2,294カ所のコロニアがあり、主にメキシコとの1,248マイル (2,000&nbsp;km) に及ぶ国境近くにある<ref name="Colonias"/>。約40万人がコロニアに住んでいる。 {|border=1 align=left cellpadding=2 cellspacing=0 style="border-collapse:collapse;border:1px solid gray;font-size:100%;text-align:right" |- style="background:#efefef;" align=center ! テキサス州<br>順位 !! 全米<br>順位 !! 都市 !! 人口<br>(2020年)<ref name="Census2020_QuickFacts" /> !! 地域 |- |1||4||align=left|[[ヒューストン]]||2,304,580人||南東部 |- |2||7||align=left|[[サンアントニオ]]||1,434,625人||中央部 |- |3||9||align=left|[[ダラス]]||1,304,379人||北部 |- |4||11||align=left|[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]||961,855人||中央部 |- |5||13||align=left|[[フォートワース]]||918,915人||北部 |- |6||23||align=left|[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]||678,815人||西部 |} {{clear|left}} <gallery> File:Panoramic Houston skyline.jpg|1.[[ヒューストン]] File:Downtown-san-antonio.jpeg|2.[[サンアントニオ]] File:Xvixionx 29 April 2006 Dallas Skyline.jpg|3.[[ダラス]] File:AustinWikiPic2.jpg|4.[[オースティン (テキサス州)|オースティン]] File:FortWorthTexasSkylineW.jpg|5.[[フォートワース]] File:El Paso Skyline.jpg|6.[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]] File:Arlington - Texas 2010 019.jpg|7.[[アーリントン (テキサス州)|アーリントン]] File:High-rises west of Broadway in Corpus Christi.jpg|8.[[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]] File:Skyline of Plano Texas.jpg|9.[[プレイノ]] File:LubbockSkyline2013.jpg|10.[[ラボック (テキサス州)|ラボック]] </gallery> ===都市圏=== {{See also|テキサス州の都市圏の一覧}} テキサス州は[[アメリカ合衆国国勢調査局]]および[[アメリカ合衆国行政管理予算局]]によって定義された25ヶ所の[[都市圏]]([[アメリカ合衆国大都市統計地域|MSA]])がある。そのうち、最も大きな2つは全米でも上位10位以内に入る。[[2003年]]、アメリカの国勢調査はいくつかの大都市圏内部に "大都市区分 (metropolitan divisions)" を採用した。テキサス州はダラス・フォートワース・アーリントンMSA内部に2つの大都市区分を持っている。 人口100万人以上の都市圏としては、[[ダラス・フォートワース複合都市圏|ダラス・フォートワース都市圏]]、ヒューストン大都市圏、サンアントニオ・[[ニューブローンフェルズ (テキサス州)|ニューブローンフェルズ]]都市圏およびオースティン・[[ラウンドロック (テキサス州)|ラウンドロック]]・[[ジョージタウン (テキサス州)|ジョージタウン]]都市圏の4つがある。ダラス・フォートワース都市圏は7,637,387人(全米4位)、ヒューストン都市圏は7,122,240人(全米5位)である。州西部の[[州間高速道路35号線]](ダラス・フォートワース都市圏からオースティンを経てサンアントニオ)、東部の[[州間高速道路45号線]](ダラスからヒューストン)および南部の[[州間高速道路10号線]](サンアントニオからヒューストン)がテキサス州都市部三角形を形成している。この6万平方マイル (155,000&nbsp;km<sup>2</sup>) の地域に州内の大都市と都市圏の大半が入り、その人口は1,700万人を数え、州人口の3/4近くにのぼる<ref name="urbantriangle">{{cite web|last = Neuman|first = Michael|title = The Texas Urban Triangle:Framework for Future Growth|publisher = Southwest Region University Transportation Center (SWUTC)|url = http://swutc.tamu.edu/projectdescriptions/167166.htm|accessdate = 2008-10-14|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090705231054/http://swutc.tamu.edu/projectdescriptions/167166.htm|archivedate = 2009年7月5日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。 ==政府と政治== 現在のテキサス州憲法は1876年に採択されたものである。他の州と同様に明確に権力の分立を図っている。州の権利章典はアメリカ合衆国憲法よりも広い範囲に及び、テキサス州独自の規定を含んでいる<ref name="BillofRights">{{cite web|title=Bill of Rights (Article 1)|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/7_4_2.html|accessdate=2008-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090206142915/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/7_4_2.html|archivedate=2009年2月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ===州政府=== [[ファイル:Texas State Capitol building-front left front oblique view.JPG|thumb|[[テキサス州会議事堂]]]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の政府|en|Government of Texas}}}} テキサス州は複数の[[行政府]]を持ち、[[州知事]]の権限を制限している。[[州務長官]]を除き州行政役人をそれぞれ有権者が選挙することで、役人候補者達は知事にではなく大衆に直接責任を負うことになる<ref name="pluralexec">{{cite web|year=2005|title=The Plural Executive|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/1_9_0.html|accessdate=2008-05-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928082847/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/1_9_0.html|archivedate=2008年9月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。この選挙制度では行政府が複数の政党支持者で埋められることになる。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]がテキサス州知事を務めたとき、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]のボブ・バロックが副知事を務めた。行政府の役職は州知事、副知事、財務官、土地コミッショナー、検事総長、農業コミッショナー、鉄道委員会の3人の委員、教育委員長および州務長官である<ref name="pluralexec"/>。 [[両院制]]のテキサス州議会は、150人の議員からなる下院と、31人の議員からなる上院がある。下院議長が下院を采配し、副知事が上院を采配する<ref name="Legislature Members">{{cite web|year=2005|title=Membership|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/2_2_4.html|accessdate=2008-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090302003227/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/2_2_4.html|archivedate=2009年3月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。議会は2年に1回定例議会を開くことになっているが、知事は望む時にはいつでも特別会期を招集できる<ref name="Special Sessions">{{cite web|year=2005|title=Special Sessions|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/2_2_2.html|accessdate=2008-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090302003217/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/2_2_2.html|archivedate=2009年3月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。州の会計年度は9月1日から翌年の8月31日までである。 テキサス州の[[司法府]]は合衆国の中でも複雑な仕組みを採用しており、多くの層と重複する司法権がある。最終審に相当するのが2つあり、テキサス州最高裁判所は民事事件を、テキサス州刑事控訴裁判所は刑事事件を扱う。自治体にある司法府の幾らかを除き、あらゆる司法府の裁判官は政党制選挙で選出される。州知事は空席になった裁判官を指名できる。 ====テキサス・レンジャー==== 全米一古い地方警察組織の一つである[[テキサス・レンジャー]](現在の正式名称は州公安局テキサス・レンジャー部)がある。テキサス・レンジャーは長年にわたって、殺人から政治的汚職まで犯罪の捜査を行ってきた。機動隊としても刑事としても行動し、州知事を護衛し、逃亡者を追跡し、民衆に対しても州に対しても準軍事的組織として機能する。元々[[スティーブン・オースティン]]が1823年に非公式に創設したものが、1835年に制度化された。テキサス州の歴史における重要事件や[[西部開拓時代]]の良く知られた犯罪事件に関与してきた<ref name="TexasRangers">{{Handbook of Texas|id=met04|name=Texas Rangers}}. Retrieved January 14, 2009.</ref>。 題材にしたTVドラマに『[[炎のテキサス・レンジャー]]』(1993年 - 2001年)がある。全米で大ヒットを記録し、[[CBS]]のトップショーとして、1994年 - 1995年のピーク時には1940万人もの聴衆を獲得した。その後、現在でも世界80カ国以上の国で放送されており、全世界で約10億人もの視聴者を獲得している。番組の大ヒットで実際のテキサス・レンジャーの評判が上がったとして、州知事[[リック・ペリー]]より主演俳優の[[チャック・ノリス]]に名誉会員([[殿堂]]入り)の栄誉が贈られた<ref>[http://www.dailymail.co.uk/news/article-1335348/Martial-arts-action-hero-Chuck-Norris-honoured-real-Texas-Ranger-title.html Norris, Texas Ranger:Martial arts action hero Chuck honoured with real Ranger title] Associated Newspapers</ref>。 ===政治=== [[ファイル:Lbj2.jpg|upright|thumb|[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]、テキサス州出身で第36代アメリカ合衆国大統領]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の政治|en|Politics of Texas}}}} 過去にアメリカ連合国に所属して[[黒人]]の[[奴隷]]解放に反対していた事もあり、レコンストラクション時代の終わりから[[20世紀]]終盤まで[[民主党 (アメリカ)|民主党]]が比較的強い州だった。[[保守本流]]が圧倒的な同州では[[公民権運動]]の影響で、[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙]]を機に[[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持に鞍替えする人々が増えた。1964年の公民権法に署名した[[リンドン・ジョンソン|リンドン・B・ジョンソン]]大統領は、「我々は一世代にわたって南部を失った」と語ったと言われている<ref name="SouthWon">{{cite web|last=Risen|first=Clay|date =2006-03-05|title=How the South was won|publisher=The Boston Globe|url=http://www.boston.com/news/globe/ideas/articles/2006/03/05/how_the_south_was_won/|accessdate=2008-04-29}}</ref>。[[ロナルド・レーガン]]政権以降、財政的にも社会的にも[[保守]]色が濃くなった<ref name="TPoliticalCulture1">{{cite web|title=Texas Political Culture - Introduction|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/10_1_0.html|accessdate=2008-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081220092705/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/10_1_0.html|archivedate=2008年12月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="TPoliticalCulture2">{{cite web|title=Texas Political Culture - Low Taxes, Low Services Political Culture|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/10_2_1.html|accessdate=2008-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090130015106/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/10_2_1.html|archivedate=2009年1月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。その後は、州知事も共和党出身者が続いており、また[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]や[[ジョージ・W・ブッシュ]]といった共和党出身の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]も輩出している。[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年アメリカ大統領選挙]]においても同州では、共和党候補の[[ジョン・マケイン]]が勝っている。 州内では、州都[[オースティン (テキサス州)|オースティン]]や都市部、また[[ヒスパニック]]系人口の多い[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]や[[ラレド (テキサス州)|ラレド]]などの州南部では、民主党支持が強くなっているのに対し、[[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ]]や[[サンアントニオ]]以北の農村部では、共和党支持が優勢である<ref>[https://edition.cnn.com/ELECTION/2008/results/individual/#mapPTX Local and National Election Results - Election Center 2008 - Elections & Politics from CNN.com]([[英語]])</ref><ref name="2000electionresults">{{cite web|url=http://uselectionatlas.org/RESULTS/state.php?year=2000&fips=48&f=1&off=0&elect=0|title=2000 Presidential General Election Results - Texas|publisher=www.uselectionatlas.org|accessdate=2008-07-22}}</ref><ref name="2004electionresults">{{cite web|url=http://uselectionatlas.org/RESULTS/state.php?year=2004&fips=48&f=1&off=0&elect=0|title=2004 Presidential General Election Results - Texas|publisher=www.uselectionatlas.org|accessdate=2007-07-22}}</ref>。 2003年に共和党の[[トム・ディレイ]]が指導したテキサス州における[[アメリカ合衆国下院]]選挙区再割付は、「[[ニューヨーク・タイムズ]]」紙によって[[ゲリマンダー]](自党に有利な選挙区操作)の最悪のケースと名指された<ref name="NYTGerry">{{cite news|title = The Texas Gerrymander|publisher = New York Times|date = 2006-03-01|url = http://www.nytimes.com/2006/03/01/opinion/01wed2.html|accessdate = 2009-01-07}}</ref>。「テキサス・イレブン」と呼ばれる民主党議員の集団が定数不足になることを見越してテキサス州から逃げ出した<ref name="Tex11">{{cite news|last = Ridder|first = Knight|title = 11 Texas Senate Democrats Take Cue from House, Bolt to Avoid Redistricting|publisher = Houston Chronicle|date = 2003-07-29|url = http://www.allbusiness.com/government/elections-politics-politics-political-parties/10366221-1.html|accessdate = 2009-01-07}}</ref>。このような動きがあったにも拘らず、州議会は共和党有利な選挙区割りを採択した。これを不満とした訴訟が「統合ラテンアメリカ市民連盟対ペリー事件」で、合衆国最高裁判所まで持ち上げられたが、裁決は共和党有利となった<ref>{{cite news|author = The Associated Press |url = http://www.nytimes.com/2006/06/28/washington/28cnd-scotus.html|title =Justices Back Most G.O.P. Changes to Texas Districts|work = New York Times|date= 2006-06-28|accessdate = 2006-06-28}}</ref>。 2012年総選挙の時点でテキサス州選出のアメリカ合衆国議会議員は下院、上院共に共和党が多数派である。第113アメリカ合衆国議会では、テキサス州選出下院議員36人のうち24人が共和党員、12人が民主党員となっている。また、上院議員の{{仮リンク|ジョン・コーニン|en|John Cornyn}}と[[テッド・クルーズ]]は共に共和党員である。1994年以降州全体の選挙で民主党員は選ばれていない。 ====死刑制度==== {{main|アメリカ合衆国における死刑}} テキサス州は全米で最も死刑執行数が多い州である<ref>[http://www.deathpenaltyinfo.org/article.php?scid=8&did=186 Death Penalty Information]</ref>。アメリカでは近年、死刑を撤廃する州や執行数を減らす州が増えてきたため、全米におけるテキサス州の死刑執行数の割合が高くなってきている<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/america/080107/amr0801071830008-n1.htm 死刑執行「6割がテキサス州」米で広がる死刑格差] 産経ニュース 2008年1月7日{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。但し、2005年に絶対的終身刑を導入したことにより、執行数は2016年以降2018年を除いて1桁執行であり、判決に関しては、2008年以降2014年を除いて1桁で推移している<ref>{{Cite journal|author=笹倉 香奈|title=特集1 アメリカ合衆国における死刑制度の現状|journal=[[自由と正義]]|volume=66|issue=8|pages=25|publisher=[[日本弁護士連合会]]|date=2015-08|language=日本語|url=https://www.crimeinfo.jp/wp-content/uploads/2018/11/LibertyJustice_66_8_23.pdf#page=3|naid=40020552391|accessdate=2022-04-04}}</ref>。 ====銃社会==== 2007年3月30日、自宅や職場への侵入者を銃で撃っても正当防衛とみなす州法にペリー知事が署名。同年9月1日施行。 同法により、自宅や職場や車の中に押し入ろうとした侵入者を「致死力のある銃」で撃つことが可能となった(これらの場所から引きずり出されそうになった場合に銃を使用しても、自衛とみなされる)。自宅や車は自分の「城」であり、守る権利があるとの考えに基づいた同法は「キャッスル・ドクトリン」([[城の原則]])と呼ばれ、銃規制に反対する[[全米ライフル協会]]が法制定を後押ししてきた。尚、テキサス州以外にも15州が同様の法律を持つ。同州では拳銃を容易に購入でき、許可を得れば持ち歩くことができる。 一方、テキサス州では2018年に[[サンタフェ高校銃乱射事件]](10人死亡)<ref>{{Cite web|和書|date=2018-05-19 |url=https://www.bbc.com/japanese/44178869 |title=米テキサス州の高校で銃乱射、10人死亡 17歳の生徒逮捕 |publisher=BBC |accessdate=2019-09-04}}</ref>、2019年に[[エルパソ銃乱射事件 (2019年)|エルパソ銃乱射事件]](22人死亡)<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-04 |url=https://www.bbc.com/japanese/49223946 |title=米テキサスのウォルマートで乱射、多数死傷 ヒスパニック系を標的か |publisher=BBC |accessdate=2019-09-02}}</ref>、[[ミッドランド銃乱射事件]]<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-01 |url= https://www.cnn.co.jp/usa/35142036.html|title=米テキサス州で銃乱射5人死亡、21人負傷 容疑者を射殺 |publisher=CNN |accessdate=2019-09-02}}</ref>(死者7人)など立て続けに多数の死傷者が伴う銃乱射事件が発生している。 ====運転中の携帯電話==== テキサス州の場合、これまで[[自動車]]の運転中の[[携帯電話]]の使用はまったく禁止されていなかった。そのため、[[公共交通機関]]の未発達による車社会もあいまって、携帯電話で通話やメールをしながら運転するドライバーがとても多く、これによって引き起こされる事故が後を絶たなかった。しかし2009年9月より18歳未満のドライバーは運転中の携帯電話の使用が禁止となり、それ以外のドライバーもスクールゾーンでは使用できなくなった。 ===行政区分=== {{main|テキサス州の郡一覧}} テキサス州の郡は254あり、全米の州の中で最大である。各郡は4人の選挙で選ばれたコミッショナー(人口に応じて分割された4つの選挙区の代表)から成るコミッショナーズ・コートによって運営されている。郡判事は郡全体の選挙で選ばれる。郡政府は「弱い」市長・市政委員会制度に近い形で運営されている。郡判事には拒否権が無いが、他のコミッショナーと共に投票に参加している。 テキサス州は市や郡にそのサービスを共有する「地方間協定」を結ぶことを認めているが、市と郡の統合政府を認めていない。また都市圏政府も認めていない。郡は「独自法」の郡を認められず、その権限は州法によって厳密に定義されている。テキサス州には編入済みにしろ未編入にしろ、郡内にタウンシップが無い。編入済み地域は自治体の一部である。郡は未編入地域に対して限られたサービスを提供する。自治体は「一般法」の市か、「独自法」の市かに区分されている<ref name="homerule">McDonald, John V., "An Analysis of Texas' Municipal Home Rule Charters Since 1994" (2000). Applied Research Projects. Paper 124. http://ecommons.txstate.edu/arp/124/</ref>。自治体は人口が5,000人を超えたときに有権者の投票により独自法の自治体かを選択できる。この住民投票は教育委員会やコミュニティ・カレッジの地区と同様、無党派で行われる<ref name="reqvote">{{cite web|title=Run for Party Nomination to Public Office|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/4_6_2.html|accessdate=2008-10-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090318023922/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/4_6_2.html|archivedate=2009年3月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ==経済== [[ファイル:NASA Neutral Buoyancy Laboratory Astronaut Training.jpg|left|thumb|[[ジョンソン宇宙センター]]]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の経済|en|Economy of Texas}}}} 2008年時点で、テキサス州は[[国内総生産|州総生産]]が1兆2,240億ドルであり、アメリカ合衆国の州では第2位である<ref name="EconPost">{{cite web|title = Largest state GDPs in the United States - California Texas New York Florida|publisher = EconPost.com|date = November 11, 2009|url = http://econpost.com/unitedstateseconomy/largest-state-gdps-united-states-california-texas-new-york-florida|accessdate = March 29, 2010|archiveurl = https://web.archive.org/web/20100416055232/http://econpost.com/unitedstateseconomy/largest-state-gdps-united-states-california-texas-new-york-florida|archivedate = 2010年4月16日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref name="GSP2">{{cite press release|title=Gross Domestic Product (GDP) by State|publisher=Bureau of Economic Analysis|date =2009-06-02|url=http://bea.gov/newsreleases/regional/gdp_state/gsp_newsrelease.htm|accessdate=2010-03-29}}</ref>。世界の国と比較すると第11の[[カナダ]]や第12位の[[インド]]に匹敵している。世界に国の地方区分では、カリフォルニア州と[[東京都]]に次いで第3位である。2007年の一人当たりGDPは37,083ドルであり、国内第22位だった。テキサス州は人口が多く、[[天然資源]]が豊富であり、多様な民族と多様な地形があることで、大きくまた多様な経済になってきた。[[石油]]が発見されて以来、州経済は石油産業の状況に大きく依存してきた。近年、都市部のサイズが大きくなり、2005年時点では人口の3分の2がそこに集中している。州経済の発展は都市[[スプロール現象]]とそれに付随する兆候を生んできた<ref name="economy1">{{cite web|title=Economic Geography|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/9_3_2.html|accessdate=2008-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090430215209/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/9_3_2.html|archivedate=2009年4月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 2010年1月時点での州内失業率は8.2%である<ref>[http://www.bls.gov/lau/ Bls.gov];Local Area Unemployment Statistics</ref>。 テキサス州は「低い税、低いサービス」の定評がある<ref name="TPoliticalCulture1"/>。シンクタンクのタックス・ファンデーションに拠れば、テキサス州民の州税と地方税負担率は国内最低レベルの下から7番目であり、一人当たり3,580ドル、収入の8.7%である<ref name="TaxFound">{{cite web|title = Texas|work = Research Areas|publisher = The Tax Foundation|year = 2008|url = http://www.taxfoundation.org/research/topic/60.html|accessdate = 2008-10-15}}</ref>。州税の中に[[所得税]]が無い7州の1つである<ref name="TaxFound"/><ref name="incometax">{{cite web|title = State Individual Income Taxes|publisher = Federation of Tax Administrators|url = http://www.taxadmin.org/fta/rate/ind_inc.html|accessdate = 2008-10-12}}</ref>。その代わりに6.25%の[[消費税]]を徴収するが<ref name="TaxFound"/>、地方課税地区(市、郡、特殊目的課税区および公共交通機関管理所)も2%までの消費税を課すので、トータルは最大8.25%となる。テキサス州は「税寄贈州」である。2005年時点で連邦政府に所得税として払った1ドルにつき、約0.94ドルがテキサスに返ってくる<ref name="TaxFound"/>。 2004年、「サイト・セレクション・マガジン」がテキサス州を企業に最も優しい州に位置付けた。これにはテキサス州の運営する30億ドルのテキサス起業基金があることが貢献している<ref name="1businessclimate">{{cite web|last=Arend|first=Mark|title=The Lone Star States Tops Business Climate Ranking|date =November 2004|url=http://www.siteselection.com/issues/2004/nov/p746/|accessdate=2008-05-02}}</ref>。フォーチュン500に入っている企業の本社がある数では合衆国の州で最大である<ref name="texasfortune500_1">{{cite news|title = Texas passes New York on Fortune 500 list|agency = Associated Press|publisher = Dallas Morning News|date = 2008-04-22|url = http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/dn/latestnews/stories/042208dnbusfortunetexas.20aec09.html|accessdate = 2008-10-14}}</ref><ref name="texasfortune500_2">{{cite web|url=http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/states/T.html|title=Fortune 500 2006|accessdate=2007-02-16|publisher=CNN|year=2006}}</ref>。 2010年時点で、州内には346,000人の100万長者がおり、合衆国の州ではカリフォルニア州に次いで第2位である<ref>{{Cite news|first=Walter|last=Scott|title=Personality Parade|url=|work=|publisher=Parade Magazine|location=|pages= 2|date=2 May 2010|id=|accessdate=}}</ref>。 2020年代に入ってから、シリコンバレーなどにある企業が住宅価格の高騰などによる環境悪化を理由にテキサス州へ本社を移転する動きがある<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=テスラ本社、シリコンバレーからテキサスへ移転 マスクCEOが表明:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASPB83C27PB8UHBI009.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-10-08|language=ja}}</ref>。移転企業には[[テスラ (会社)|テスラ]]、[[オラクル (企業)|オラクル]]、[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]北米本社などがある<ref name=":0" />。 ===主な産業など=== 歴史的に農業及び牧畜業が主要産業であったが、[[1901年]]に[[スピンドルトップ]]での油田が発見されて以来、[[エネルギー産業]]の比重が急激に高まり、以後エネルギー産業とともに歩んできた。こうしたことから従来、州の産業はCotton、Cattle、Crude のいわゆる「3C」に代表されるといわれてきた。しかし、80年代以降は、エネルギー産業に加えハイテク産業も成長するなど[[サンベルト]]の一大中心州として急速な発展を遂げてきている。 [[メキシコ湾]]や内陸部に[[油田]]が多く、[[石油]]資源が豊富であり、[[エクソンモービル]]や[[ヴァレロ]]などの石油会社が多い。[[カウボーイ]]文化に象徴される[[放牧]]業も盛んである。 ====農業と鉱業==== [[ファイル:Oil well.jpg|thumb|油井]] [[ファイル:GreenMountainWindFarm Fluvanna 2004.jpg|right|thumb|テキサス州西部平原にあるブラゾス・ウィンドファーム]] テキサス州には合衆国の州の中で最大の農場数と最高の農場面積を持っている<ref name="netstateecon">{{cite web|title=The Texas Economy|publisher=netstate.com|date =2007-06-05|url=http://www.netstate.com/economy/tx_economy.htm|accessdate=2008-04-29}}</ref>。家畜生産量でも国内で最大級であり、牛が最も収益を上げる生産物である。また羊とヤギの生産量も国内では高いほうである。農産物では綿花の生産量が高い<ref name="netstateecon"/>。またかなりの量の穀物や農生産物も生産している<ref name="netstateecon"/>。商業漁業も盛んである。鉱物資源についてはセメント、砕石、石灰、砂、砂利の生産量が大きい<ref name="netstateecon"/>。 ====エネルギー==== スピンドルトップで石油が発見されて以来、エネルギーは州内の政治と経済を牽引する存在になってきた<ref name="AlmanacOil">{{cite web|url = http://www.texasalmanac.com/history/highlights/oil/|title = Oil and Texas:A Cultural History|accessdate = 2009-02-03|last = Ramos|first = Mary G.|work = Texas Almanac 2008-2009|publisher = The Texas State Historical Association}}</ref>。エネルギー情報管理局に拠れば、テキサス州一人当たりエネルギー消費量および全消費量で国内最大である<ref name="Petrol">{{cite web|publisher=Energy Information Administration|date =|url=http://tonto.eia.doe.gov/state/state_energy_profiles.cfm?sid=TX|title=Petroleum Profile:Texas|accessdate=2008-12-13}}</ref>。国内の他の州とは異なり、テキサス州は交流配電網であるテキサス・インターコネクションが送電を行っている。[[カリフォルニア電力危機|カリフォルニアの発電危機]]はあったが、テキサス州は電力供給の規制を緩和したままである。 テキサス州鉄道委員会は、その名前とは裏腹に州内の石油とガス産業、ガス公益事業、パイプラインの安全性、[[液化石油ガス]]産業の安全性、および[[石炭]]と[[ウラニウム]]の採掘を管理している。1970年代まではテキサス州の原油埋蔵量を管理できる故に石油価格を制御していた。[[石油輸出国機構]](OPEC)の設立者がテキサスの機関を石油価格管理のモデルに使った<ref name="RRcommission">{{Handbook of Texas|id=mdr01|name=Railroad Commission}}</ref>。 テキサス州には約50億バーレル (790,000,000 m<sup>3</sup>)1 の石油確認埋蔵量があり、合衆国全体の約4分の1に相当する<ref name="Petrol"/>。州内の[[石油精製|石油精製所]]は1日に460万バーレル (730,000 m<sup>3</sup>) の石油を精製できる<ref name="Petrol"/>。ヒューストン地域のベイタウン製油所はアメリカ合衆国最大の精製所である<ref name="Petrol"/>。[[天然ガス]]の生産量も高く、国内供給量の4分の1に相当している<ref name="Petrol"/>。[[コノコフィリップス]]、[[エクソンモービル]]、[[ハリバートン (企業)|ハリバートン]]、バレロおよびマラソン・オイルなど幾つかの石油会社がテキサスに本社を置いている。 21世紀に入ると[[シェールオイル]]採掘の技術が進歩し、内陸部を中心に石油生産量が増加した。[[HSBC]]はテキサス州を国として見た場合、2018年には[[ロシア]]、[[サウジアラビア]]に次ぐ世界第三位の石油産出国になると予想している<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-07-19|url= https://www.cnn.co.jp/business/35122744.html|title= 米テキサス州の原油生産、世界3位に迫る勢い|publisher= CNN|accessdate=2018-07-21}}</ref>。 [[再生可能エネルギー]]資源についてもテキサスは先進的な存在であり、[[風力発電]]量では国内最大である<ref name="Petrol"/><ref name="wind2">{{cite web|last=Souder|first=Elizabeth|title=Texas leads nation in wind power capacity|work=Dallas Morning News|year=2007|accessdate =2010-06-21|url=http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/dn/latestnews/stories/011808dnbuswindpower.30c78959.html}}</ref>。テイラー郡とノーラン郡のホースホロー・風力エネルギーセンターは2008年11月時点で世界最大の風力発電量、735.5 メガワット(MW) の能力がある<ref name="fplen">{{cite web|last =FPL Energy, LLC|title =Horse Hollow Wind Energy Center now largest wind farm in the world|publisher =FPL Energy, LLC|date =2007-09-07|url =http://www.fplenergy.com/portfolio/pdf/horsehollow.pdf|format=PDF|accessdate =2008-06-14}}</ref>。エネルギー情報管理局は州内の大きな農業と林業で[[バイオ燃料]]用[[バイオマス]]を大量に供給できると述べている。また[[太陽エネルギー|太陽光発電]]に付いても国内最大の開発可能性を有している<ref name="Petrol"/>。 =====温室効果ガスの排出量===== テキサス州の[[温室効果ガス]]排出量は全米50州中1位であり、[[2003年]]の1年間では約6億7000万[[トン]]の[[二酸化炭素]]を排出している。この内、運輸部門による排出量が28%を占めている。 <ref>{{cite news|title=Texas Is No. 1 Carbon Polluter In U.S.|author=Associated Press|date=2008-01-16|url=http://www.cbsnews.com/stories/2008/01/16/tech/main3720823.shtml?source=RSSattr=SciTech_3720823}}([[英語]])</ref> <ref>{{cite news|title=Blame Coal:Texas Leads in Overall Emissions|author=Borenstein, Seth|publisher=USA Today|date=2007-04-06|url=http://www.usatoday.com/tech/news/2007-06-04-state-emissions_N.htm|accessdate=2007-06-06}}([[英語]])</ref>仮に、テキサス州を1つの国に置き換えたとすると、世界7位の排出量であり、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[カナダ]]のそれぞれの1国の排出量をも上回り、また排出量全米2位の[[カリフォルニア州]]と3位の[[ペンシルベニア州]]の排出量の合計を超えている<ref>{{cite news|title=Five Cities that Need help Getting Green|author=MSN City Guides|url=http://cityguides.msn.com/citylife/greenslideshow.aspx?cp-documentid=4848635&imageindex=4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080528001515/http://cityguides.msn.com/citylife/greenslideshow.aspx?cp-documentid=4848635&imageindex=4|archivedate=2008年5月28日|deadurldate=2017年9月}}([[英語]])</ref><ref>{{cite news|title=Approaches, Challenges, Potentials:Renewable Energy and Climate Change Policies in U.S. States|author=Heinrich Boll Foundation North America|date=2003-12|url=http://www.cleanenergyfunds.org/international/downloads/RE_Publication_Online.pdf}}([[英語]])</ref>。 この原因には、19の[[石炭]]による[[火力発電所]]がある事、[[化学]][[工場]]が多い事が挙げられる。さらに、[[公共交通機関]]が少なく、[[燃費]]の悪いフルサイズ[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]や[[ピックアップトラック]]が多い事、[[夏]]の暑さが厳しく[[エアコン]]による電力消費量が高い事が挙げられる。そして、前知事の[[リック・ペリー]]は[[アル・ゴア]]を批判しており、[[地球温暖化]]問題に対して懐疑的である。[[ハイブリッドカー|ハイブリッド車]]も増えてきてはいるが、州内で登録されている2000万台以上の車のうちの約1%にとどまっている。また、[[2007年]]の調査では、全米で半数近い人々が地球温暖化が最も深刻な問題であると回答したのに対し、テキサス州では[[イラク戦争]]が最も深刻な問題であると答えた人々が最も多く、地球温暖化を最も深刻な問題と回答したのは約4%の人々だけであった。 =====ピックアップトラック===== [[ファイル:2007-Toyota-Tundra-DoubleCab.jpg|thumb|right|[[サンアントニオ]]で生産されている2代目[[トヨタ・タンドラ]]]] テキサス州では、轟音を立てて走る[[ピックアップトラック]]を頻繁に目にする。「land of pickup trucks」と呼ばれるこのテキサス州は、全米の約14%のピックアップトラックが売れている最大の市場である<ref>[http://www.bloggingstocks.com/2008/01/16/toyota-tundra-sales-outgrowing-ford-gm-in-texas-truck-market/ Toyota Tundra sales outgrowing Ford, GM in Texas truck market]([[英語]])</ref>。テキサス州内では登録されている[[乗用車]]の約4分の1、特に農村部では車両の約半分がピックアップトラックである<ref>[http://www.amarillo.com/stories/070907/new_7706902.shtml amarillo.com:Texans love their trucks]([[英語]])</ref>。 とりわけ、[[ビッグスリー]]が発売する、フルサイズの[[フォード・Fシリーズ]]、[[シボレー・シルバラード]]、[[ダッジ・ラム]]などが非常に多く、数年前に比べて[[ガソリン]][[価格]]が高騰している現在{{いつ|date=2014年4月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->でも、根強い人気を誇る。さらに、各メーカーは「テキサス・エディション」や「ローンスター・エディション」などという、地域限定仕様も発売している。[[2006年]]に操業開始した、[[トヨタ自動車]]の[[北米]]向けフルサイズピックアップトラック「[[トヨタ・タンドラ|タンドラ]]」の工場も、ここテキサス州の[[サンアントニオ]]に立地する。なお、テキサス州のトラックの自動車税は、その他のタイプの車の自動車税よりも安い<ref>{{cite web|title =Schedule Of Texas Registration Fees|publisher =State of Texas|date =2007-01-01|url =ftp://ftp.dot.state.tx.us/pub/txdot-info/vtr/fees/2007fees.pdf|format =PDF|accessdate =2007-04-20}}([[英語]])</ref>。 また、日本では安全性の問題から近年{{いつ|date=2014年4月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->は急激に減った、[[金属]]製の[[グリルガード]]を付けたピックアップトラックも多い。 ====工業技術==== [[ファイル:GodPod.jpg|thumb|[[プレイノ]]に存在したエレクトリック・データ・システムズ(EDS)本社]] テキサス州には大きな大学システムがあり、テキサス企業基金やテキサス新技術基金のような指導機関と組み合わされて、幅広いハイテク産業が育ってきた。オースティン地域は「シリコンヒルズ」と呼ばれ、ダラス北部地域は「シリコンプレーリー」と呼ばれている。[[デル]]、[[テキサス・インスツルメンツ]](TI)、ペロー・システムズ、[[AT&T]]など多くのハイテク企業の本社がテキサス州にある。また、[[コンパック|コンパック・コンピュータ]]の元本社は、カリフォルニア州に本社を置くヒューレット・パッカード(HP)による買収後も同社の最大拠点として現存しているほか、同様にHPが2008年8月に買収して傘下に収めた旧[[Electronic Data Systems]](EDS、現在は「HPエンタープライズサービス」として事業を継続)もテキサスで創業し、成長した。 [[アメリカ航空宇宙局]](NASA)の[[ジョンソン宇宙センター]]はヒューストン南東部にあり、テキサス州の宇宙航空産業の至宝になっている。フォートワースには[[ロッキード・マーティン]]の宇宙航空事業部と[[ベル・ヘリコプター]]・テキストロンがある<ref name="LM1">{{cite web|title=Locations|publisher=Lockheed Martin|accessdate=2008-05-22|url=http://www.lockheedmartin.com/aeronautics/about/Locations.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080422122219/http://www.lockheedmartin.com/aeronautics/about/Locations.html|archivedate=2008年4月22日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="Bell">{{cite web|title=About Bell Helicopter|publisher=Bell Helicopter|accessdate=2008-05-22|url=http://www.bellhelicopter.com/en/company/}}</ref>。ロッキードは[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機ファルコン]]を製造しており、その後継機[[F-35 (戦闘機)|F-35ライトニング II]]をフォートワースで製作している<ref name="Downside">{{cite web|last=Rosenwald|first=Michael S.|date=2007-12-17|title=Downside of Dominance?|publisher=The Washington Post|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/16/AR2007121601522.html|accessdate=2008-05-22}}</ref>。 ====商業、サービス業==== [[ファイル:Fred Hartman Bridge Houston.jpg|thumb|[[ヒューストン港]]と船舶水路]] テキサス州の豊かさは、小売、卸、金融と保険および建設の各産業からなる強い商業分野を活気づかせている。フォーチュン500に入るテキサス州を本拠とする会社でテキサス州の伝統的産業ではないものとしては、AT&T、メンズ・ウェアハウス、ランドリーズ・レストラン、キンバリー・クラーク、ブロックバスター、[[ホールフーズ・マーケット]]、およびテネット・ヘルスケアがある<ref name="fortune500_2">{{cite web|title=Texas|publisher=Fortune Magazine|date=2007-04-30|url=http://money.cnn.com/magazines/fortune/fortune500/2007/states/TX.html|accessdate=2008-05-03}}</ref>。アメリカ合衆国で第2の[[ショッピングセンター]]があるダラス・フォートワース地域は、合衆国の都市圏で一人当たりのショッピングセンターの数が1番多い<ref name="VisitDallas_Shopping">{{cite web|title = Dallas Shopping|publisher = Dallas Convention & Visitors Bureau|url = http://shopacrosstexas.com/shopping/findastore_profile.php?cityname=Dallas&sub=1|format =|accessdate = 2010-06-21}}</ref>。 [[北米自由貿易協定]] (NAFTA) によってメキシコがテキサス州にとって最大の貿易相手国となり、州輸出額の3分の1に相当する輸入額がある。テキサスとメキシコの国境には議論の多い[[マキラドーラ]]の形成をNAFTAが奨励してきた<ref name="economy2">{{cite web|title=Recent Economic Transformations|work=Texas Politics|publisher=University of Texas|url=http://texaspolitics.laits.utexas.edu/9_3_3.html|accessdate=2008-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090430110703/http://texaspolitics.laits.utexas.edu/9_3_3.html|archivedate=2009年4月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 =====カジノ===== 同州の白人系カジノは、船上ホテル・カジノの「テキサス・宝のクルーズ・カジノ」の一軒のみ。アランサス港に停泊する豪華客船「テキサス・トレジャー号」内にあり、湾内を周遊しながら[[スロットマシン]]500台、[[ブラックジャック]]、[[カリビアンスタッド]]、[[クラップス]]、[[レットイットライド]]、[[:en:Three card poker|スリーカード・ポーカー]]、[[ルーレット]]&[[ポーカー]]の24のテーブル・ゲーム、ルーレット、および100台の[[ビンゴ]]遊技機を楽しめる、一大娯楽施設である。2009年5月、テキサス州は同州でのカジノ賭博を非合法としているが、このカジノはとくに営業上の影響は受けていない。 ===主な会社など=== テキサス州に本拠地のある企業には以下のようなものがある。 {{col-begin}} {{col-2}} *[[コンチネンタル航空]] *[[アメリカン航空]] **[[アメリカン・イーグル航空]] *[[サウスウエスト航空]] *[[エクソンモービル]] *[[コノコフィリップス]] *[[ハリバートン (企業)|ハリバートン]] *[[デル]] *[[テキサス・インスツルメンツ]] *[[AT&T]] *[[ゴールドジム]] {{col-2}} *[[ディッキーズ]] *[[J.C.ペニー]] *[[ストラトフォー]] *[[ジャパンフリトレー|フリトレー]] *[[ミニッツメイド]] *[[BMCソフトウェア]] *[[アソシエーツ・ファースト・キャピタル]] *[[ADヴィジョン]] *[[XTOエネルギー]] *[[シネマーク・シアターズ]] *[[ソーラーウィンズ]] {{col-end}} ==交通== {{main|{{仮リンク|テキサス州の交通|en|Transportation in Texas}}}} テキサス人は歴史的に州の大きさと荒い地形のために旅行する難しさを味わってきた。その総延長でアメリカ合衆国最長となる高規格道路と鉄道のシステムと最大数の空港を作り上げることでこれを補ってきた<ref name="AdvaTransport">{{cite web|title=Texas-Transportation|publisher=Advamag, Inc.|year =2007|url=http://www.city-data.com/states/Texas-Transportation.html|accessdate=2006-05-04}}</ref>。交通規制当局であるテキサス州交通局は州内の広大な高規格道路システムを維持し、[[航空]]<ref name="texdotaviation">{{cite web|title=Aviation Division|publisher=Texas Department of Transportation|url=http://www.txdot.gov/business/aviation/default.htm|accessdate=2009-07-22}}</ref>と[[公共交通機関|公的輸送システム]]を管制している<ref name="texdottransport">{{cite web|title=Transportation Division|publisher=Texas Department of Transportation|url=http://www.dot.state.tx.us/default.htm|accessdate=2010-06-21}}</ref>。テキサス州は北アメリカ大陸の中央に位置しており、重要な交通の中継点になっている。ダラス・フォートワース地域からトラックが出発して48時間以内に国土の93%の地域まで到着でき、24時間以内であれば37%となる<ref name="JDFTransport">{{cite web|title=5 Reasons To Choose the Dallas/Fort Worth Metroplex As A Distribution Hub|publisher=JDF Distribution|url=http://jdfdistribution.com/pdf/dallas-for-distribution.pdf?doc=dfd.pdf|format=PDF|accessdate=2008-10-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081028193024/http://jdfdistribution.com/pdf/dallas-for-distribution.pdf?doc=dfd.pdf|archivedate=2008年10月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。テキサス州には33の[[経済特区|外国貿易ゾーン]]があり、国内最高である。2004年この外国貿易ゾーンを経由して2,980億ドルの商品が取引された。 ===高規格道路=== [[ファイル:45intoI-10 2.jpg|thumb|right|[[ヒューストン]]にある州間高速道路10号線と同15号線のインターチェンジ]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の州道|en|Texas_state_highway_system}}}} テキサス人は1948年のヒューストンにおけるガルフ・フリーウェイ開通以来、[[高速道路|フリーウェイ]]を使うことが多い<ref name="txfwy"> {{cite web|title = Interstate 45 South, the Gulf Freeway|publisher = TexasFreeway.com|date=2001-05-28|url = http://www.texasfreeway.com/Houston/photos/45s/i45s.shtml|accessdate = 2008-10-15}}</ref>。2005年時点でテキサス中を走る79,535マイル (127,000&nbsp;km) の公設高規格道路がある(1984年の71,000マイル (113,000&nbsp;km) から増加した)<ref name="highwaymiles">{{cite web|title=LoneStarRoads - Highways of Texas|publisher=AARoads|date=2008-02-09|url=http://www.aaroads.com/texas/|doi=|accessdate=2008-04-20}}</ref>。州内後期各道路の最近の成長にあてた資金のために17の[[有料道路]]があり、幾つか追加される提案もある<ref name="tollways2">{{cite web|title=Global List of Toll Facilities - United States|publisher=International Bridge, Tunnel and Turnpike Association|year=2005|url=http://www.ibtta.org/Information/content.cfm?ItemNumber=2530|accessdate=2008-04-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090113051058/http://www.ibtta.org/Information/content.cfm?ItemNumber=2530|archivedate=2009年1月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。西テキサスで[[州間高速道路10号線]]も同20号線も最高制限速度が80マイル/時 (129&nbsp;km/h) となっており、国内最高である<ref name="speedlimit">{{Cite web|和書|title=Texas Raises Rural Speed Limits to 80 MPH{{ndash}} 2011年4月8日、さらに最高速度制限を85マイル/時(137km/h)に引き上げると報道されている。 |publisher=FOXNews.com / Associated Press|date=2006-05-08|url=http://www.foxnews.com/story/0,2933,197072,00.html|accessdate=2008-05-12}}</ref>。国道も州道も高規格道路は全て舗装されている。 ===空港=== {{main|{{仮リンク|テキサス州の空港一覧|en|List of airports in Texas}}}} テキサス州には国内のどの州よりも多くの空港がある<ref name="AdvaTransport"/>。最大のものは[[ダラス・フォートワース国際空港]]であり、国内では第2位、世界でも第4位である。AMRコーポレーションの[[アメリカン航空]]と[[アメリカン・イーグル航空]]は旅客輸送距離<ref name="AA1">Aviation Week and Space Technology, January 15, 2007, p. 349,</ref>と旅客搭乗数<ref name="AMR">{{cite web|title=American airlines information pictures and facts|publisher=aviationexplorer.com|date=2008-04-11|url=http://www.aviationexplorer.com/american_airlines.htm|accessdate=2008-04-28}}</ref>で世界最大の航空会社であり、ダラス・フォートワース国際空港をその最大かつ主要中継点に使っている。[[サウスウエスト航空]]もダラスに本社があり、[[ダラス・ラブフィールド空港]]で運行している<ref name="SW1">{{cite web|url=http://www.southwest.com/about_swa/airborne.html|title=We Weren't Just Airborne Yesterday|date=2007-05-02|publisher=Southwest Airlines|accessdate=2007-06-09}}</ref>。サウスウェスト航空は国内年間旅客数では国内最大であり、旅客数では世界最大である<ref name="IATA">{{cite web|url=http://www.iata.org/pressroom/wats/wats_passengers_carried.htm|title=Scheduled Passengers Carried|author=International Air Transport Association|accessdate=2007-06-10}}</ref>。 テキサス州で2番目に大きな空港は[[ヒューストン]]の[[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]]である。ヒューストンを本拠にする[[ユナイテッド航空]](旧・[[コンチネンタル航空]])の最大中継点である。アメリカの空港から来るメキシコ行き航空路の大半が利用している<ref name="GBAir2">{{cite press release|title=Houston Emerges As The Premier Gateway In The U.S. For Travelers To Mexico|publisher=Houston Airport System|date=2005-04-12|url=http://www.fly2houston.com/0/8178/0/1906D1940/|accessdate=2006-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928091617/http://www.fly2houston.com/0/8178/0/1906D1940/|archivedate=2007年9月28日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。 ===港=== {{main|{{仮リンク|アメリカ合衆国の港一覧|en|List of ports in the United States}}}} テキサス州の海岸と1,000マイル (1,600&nbsp;km) 以上に及ぶ水路には1,000以上の[[港湾|海港]]が点在する<ref name="ports1">{{cite web|title=About Texas Ports|publisher=Texas Ports Association|url=http://www.texasports.org/|accessdate=2008-05-07}}</ref>。港では100万人近くを雇用し、毎年3億1,700万トンの荷を取り扱っている<ref name="portbenefits">{{cite web|title=Benefits of Texas Ports|publisher=Texas Ports Association|url=http://www.texasports.org/benefits/|accessdate=2008-05-07}}</ref>。大西洋岸内陸大水路のメキシコ湾部を通って合衆国大西洋岸の他の部分とを繋いでいる<ref name="ports1"/>。今日の[[ヒューストン港]]は外国貿易高で国内最大、全体では第2位であり、世界の港と比較しても第10位である<ref name="porthouston">{{cite web|date=2008-03-31|title=General Information|publisher=The Port of Houston Authority|url=http://www.portofhouston.com/geninfo/overview1.html|accessdate=2008-05-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080509141210/http://www.portofhouston.com/geninfo/overview1.html|archivedate=2008年5月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。ヒューストン船舶水路は幅530フィート (161 m)、深さ45フィート (14 m)、長さ50マイル (80&nbsp;km) ある<ref name="HGnav">"Welcome to the Houston-Galveston Navigation Channel Project Online Resource Center" (description), United States Army Corps of Engineers, December 2005, [http://www.swg.usace.army.mil/items/hgnc/ United States Army Corps of Engineers] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090109052637/http://www.swg.usace.army.mil/items/hgnc/ |date=2009年1月9日 }}</ref>。 ===鉄道=== [[ファイル:METRORail 5.jpg|thumb|left|ヒューストンのメトロレール]] {{main|{{仮リンク|テキサス州の鉄道一覧|en|List of Texas railroads}}}} テキサス州の伝統の一部はカウボーイ達がカンザスの鉄道まで牛を追っていった牛追いから派生している。テキサス州で初めて開通した鉄道は1853年8月のバッファローバイユー・ブラゾス・アンド・コロラド鉄道だった<ref>{{cite web|author=George C. Werner|url=http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/eqb16|title=Handbook of Texas Online - BUFFALO BAYOU, BRAZOS AND COLORADO RAILWAY|publisher=Tshaonline.org|date=|accessdate=2010-04-11}}</ref>。北部から初めてテキサス州内に入ってきた鉄道は1872年完工のミズーリ・カンザス・テキサス鉄道だった<ref>{{cite web|author=Donovan L. Hofsommer|url=http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/eqm08|title=Handbook of Texas Online - MISSOURI-KANSAS-TEXAS RAILROAD|publisher=Tshaonline.org|date=|accessdate=2010-04-11}}</ref>。1911年以降テキサス州の鉄道総営業キロ数は全国一であり、最高時の1932年には17,078マイル (27,000&nbsp;km) あったが、2000年までに14,006マイル (24,000&nbsp;km) まで減った<ref name="AdvaTransport"/>。テキサス州鉄道委員会は当初鉄道を規制するために作られたが、この任務は2005年にTxDOTに移された<ref name="RRCMove">{{cite web|title=Former Rail Division|publisher=Texas Railroad Commission|date=2005-10-01|url=http://www.rrc.state.tx.us/divisions/rail_moved/index.html?/rail.html|accessdate=2008-05-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080506073304/http://www.rrc.state.tx.us/divisions/rail_moved/index.html?%2Frail.html|archivedate=2008年5月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 [[ファイル:DART Light Rail car 113.jpg|thumb|right|ダラス地域高速輸送の列車]] ダラスとヒューストンは[[ライトレール]]・システムを使っている。ダラス地域高速輸送(DART)は米国南西部では初となるライトレールを建設した。フォートワースとダラスを結ぶ[[通勤列車|通勤鉄道]]、「トリニティ・レールウェイ・エクスプレス(TRE)」はフォートワース交通局とDARTが共同運行している<ref name="TRE">{{cite web|title=Trinity Railroad Express|url=http://www.trinityrailwayexpress.org/|accessdate=2008-06-11}}</ref>。オースティン地域ではキャピタル・メトロポリタン交通局が「キャピタル・メトロレール」と呼ばれる通勤鉄道を運行しており、北西部郊外とを繋いでいる。ハリス郡都市圏交通局はヒューストン地域のライトレールを運行している。 [[アムトラック]]が都市間限定乗客輸送を担当しており、その輸送量も頻度も大きい。定期便は3ルート有り、毎日の''テキサス・イーグル''([[ロサンゼルス]] - [[シカゴ]])、州3便の''[[サンセット・リミテッド]]''(ロサンゼルス - [[オーランド]]。但し[[ニューオーリンズ]]以東の区間は運休中)は州内に幾つか停車駅があり、毎日の''ハートランド・フライアー''はフォートワースから[[オクラホマシティ]]まで直行である。 民間資本の[[テキサス・セントラル・レイルウェイ]]は2021年までに[[ダラス]]と[[ヒューストン]]を90分で結ぶ高速鉄道を計画している<ref name="Texas Central Railway">{{cite web|title=Texas Central Railway|url=http://www.texascentral.com/|accessdate=2014-01-13}}</ref>。 ==教育== {{main|{{仮リンク|テキサス州の教育|en|Education in Texas}}}} テキサス共和国第2代大統領[[ミラボー・B・ラマー]]が「テキサス教育の父」と言われている。その任期中に、各郡あたり3平方リーグ (70&nbsp;km<sup>2</sup>) の土地を公立学校建設のために取って置かせた。さらに2つの大学がテキサスの恒久的大学基金の基盤になるものとして、そのために50平方リーグ (1,200&nbsp;km<sup>2</sup>) の土地を別に確保させた<ref name="PUF">{{cite web|url=http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/khp02|title=Permanent University Fund|accessdate= January 13, 2008|first=Vivian Elizabeth|last= Smyrl|publisher=TSHA Online}}</ref>。ラマーによってテキサス全体の公共教育体系の基盤が造られた<ref name=hen37>Hendrickson (1995), p. 37.</ref>。テキサス州はアメリカ議会交流懇談会の教育に関するレポートで26位に位置付けられた。テキサス州の学生は数学で平均より上だが、読むことでは平均以下だった。2005年から2006年に掛けて、テキサス州は生徒一人あたり7,854ドルを使っており、全国平均の9,295ドルを下回っている。また生徒と教師の比率が15.0であり、これも全国平均を僅かに下回っている。教師に対する報酬は38,130ドルであり、全国平均以下である。教育予算の89.2%を州が拠出し、10.8%を連邦政府が負担している<ref name="reportcard">{{cite web|title = Texas|work = 2007 Report Card on American Education|publisher = American Legislative Exchange Council|year = 2007|url = http://www.alec.org/am/pdf/states/texas2007.pdf|format = PDF|accessdate = 2008-10-14}}</ref>。 テキサス教育機関が州内の公共教育制度を管理している。州内には1,000以上の[[アメリカ合衆国の学区|教育学区]]があり、スタッフォード教育学区を除き自治対政府とは独立しており、多くは市境を跨っている<ref name="Stafford">{{cite press release|title=Comptroller Strayhorn to Review Stafford Municipal School District|publisher=Texas Comptroller Carole Keeton Strayhorn|date=2003-09-16|url=http://www.cpa.state.tx.us/news/30916stafford.html|accessdate=2008-06-28}}</ref>。教育学区はその住民に課税し、私有資産に対しても[[土地収用]]を行使する権限がある。教育学区については予算を平衡化する裁判所指示があるために、「ロビンフッド計画」と呼ばれる州による再配分制度があるが、議論もある。この計画は裕福な教育学区から貧しい教育学区へ資産税を移動させるものである<ref name="robinhood">{{cite web|last=Saghaye-Biria|first=Hakimeh|title=Robin Hood Plan is Working|date=2001-04-22|publisher=World Internet News Cooperative|url=http://soc.hfac.uh.edu/artman/publish/article_137.shtml|accessdate=2008-06-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080511051857/http://soc.hfac.uh.edu/artman/publish/article_137.shtml|archivedate=2008年5月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。テキサス教育機関は[[私立学校]]や[[ホームスクーリング|家庭教育]]活動に関する権限を持たない<ref name="homeschool">{{cite web|publication-date=2007-11-01|title=Home School Information Letter|publisher=Texas Education Agency|url=http://www.tea.state.tx.us/home.school/homeltr.html|accessdate=2008-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080613083329/http://www.tea.state.tx.us/home.school/homeltr.html|archivedate=2008年6月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 テキサス州の生徒は[[初等教育|初等学校]]と[[中等教育|中等学校]]で[[TAKS|テキサス州知識能力評価]]を受ける。これによって、テキサス教育標準と落ち零れ防止法で要求される読み、書き、数学、科学および社会研究の能力を評価される。2007年春、州議会は2011年から2012年の学校年から中核となる高校の新入生用知識能力評価を学年末試験で置き換えることにした<ref name="TAKS">{{cite news|url=http://www.tea.state.tx.us/student.assessment/admin/eoc/index.html|title="End-of-Course (EOC) Assessments:Implementation"|last=Texas Education Agency|first=|work=Assessment Division|date=2007-10-22|accessdate=2007-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071120064701/http://www.tea.state.tx.us/student.assessment/admin/eoc/index.html|archivedate=2007年11月20日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。 ===単科・総合大学=== {{main|{{仮リンク|テキサス州のカレッジと大学一覧|en|List of colleges and universities in Texas}}}} [[ファイル:Lovett Hall.jpg|thumb|[[ライス大学]]]] テキサスで議論のある代替的[[ポジティブ・アクション|アファーマティブ・アクション]]計画であるテキサス・ハウス法案588は、高校卒業時の上位10%に入った生徒に州立の大学入学を自動的に認めることを保証している。この方は「ホップウッド対テキサス州事件」で持ち上がった問題を避けるために[[多文化主義|民族の多様性]]を促進している。 テキサス州には6つの州立大学システムと4つの独立公立大学がある<ref name="UniSystems">{{cite web|last = Heath|first = Ben|publisher = Daily Texan|date = 2003-07-07|url = http://www.utsystem.edu/news/clips/dailyclips/2003/0706-0712/UTSystem-DT-BillRequires-070703.pdf|format = PDF|accessdate = 2007-10-12|title = Bill requires review of university systems|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090205011655/http://www.utsystem.edu/news/clips/dailyclips/2003/0706-0712/UTSystem-DT-BillRequires-070703.pdf|archivedate = 2009年2月5日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref name="unisystems2">{{cite web|title = Senate Subcommittee on Higher Education Testimony Regarding the Benefits of a Stand Alone Institution|publisher = Sam Houston State University|date = 2008-06-25|url = http://www.senate.state.tx.us/75r/Senate/commit/c535/20080625/062508_SFA_Testimony_Dr_Pattillo.pdf|format = PDF|accessdate = 2008-10-12|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081028193024/http://www.senate.state.tx.us/75r/Senate/commit/c535/20080625/062508_SFA_Testimony_Dr_Pattillo.pdf|archivedate = 2008年10月28日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。恒久的大学基金の土地で鉱物、特に石油が発見され州立最大の大学システムである[[テキサス大学]]と[[テキサスA&M大学]]の急速な発展に貢献した。2005年秋の恒久的大学基金の資金は約150億ドルであり、[[ハーバード大学]]に続いて第2位である<ref name="PUF"/><ref name="PUF 2">{{cite web|title=2007 NACUBO Endowment Study|publisher=National Association of College and University Business Officers|url=http://www.nacubo.org/Images/All%20Institutions%20Listed%20by%20FY%202007%20Market%20Value%20of%20Endowment%20Assets_2007%20NES.pdf|format=PDF|accessdate=2008-11-12}}</ref>。その他の4つの大学システムは、{{仮リンク|ヒューストン大学|en|University of Houston}}、[[北テキサス大学]]、[[テキサス州立大学]]、および{{仮リンク|テキサス工科大学|en|Texas Tech University}}である。 [[テキサス大学オースティン校]]とテキサスA&M大学はテキサス州の旗艦大学である。どちらもテキサス州憲法で設立され、恒久的大学基金の枠を持っている。州は新しい7つの研究大学のうち幾つかを格上げすることで旗艦大学の数を増やそうとしている。ヒューストン大学、テキサス工科大学およびテキサス大学ダラス校は一般に上位のクラスにあるものと考えられており、そこから次の研究型旗艦大学が現れるものと見なされている<ref>{{cite web|title=Voters could start schools' race for Tier One|accessdate=2009-09-19|url=http://www.chron.com/disp/story.mpl/metropolitan/6627097.html}}</ref><ref>{{cite web|title=House helps pave way for UH's tier-one hopes|accessdate=2009-04-25|url=http://www.chron.com/disp/story.mpl/front/6391384.html}}</ref>。 テキサス州には教養課程カレッジから全国的に認められた研究型一流大学まで私立教育機関が多くある。ヒューストンの[[ライス大学]]はアメリカ合衆国の中でも先進的教育と研究の大学であり、「[[USニューズ&ワールド・レポート]]」によれば全米大学ランクで17位となっている<ref>{{cite web|title = Rice University, Best Colleges 2009|work = - US News and World Report|accessdate = 2009-03-27|url = http://colleges.usnews.rankingsandreviews.com/college/items/3604|archiveurl = https://web.archive.org/web/20090216191034/http://colleges.usnews.rankingsandreviews.com/college/items/3604|archivedate = 2009年2月16日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。 同様に、サンアントニオにある比較的小さなトリニティ大学はその優秀な学術分野で認められてきた。「U.S.ニューズ・アンド・ワールド・リポート」の「アメリカの最良カレッジ」ランキングでは、17年間連続してアメリカ合衆国西部の第1位に挙げてきた。 テキサス州北部にあるフォートワースの[[テキサスクリスチャン大学]]とダラスの[[南メソジスト大学]]は「U.S.ニューズ・アンド・ワールド・リポート」から一流大学と認められてきた。この2校は地域が近いことなど類似性もあって、学術とスポーツの分野でライバル関係を発展させてきた。 元は公立でチャーター校でもあった私立大学の[[ベイラー大学]]とサウスウェスタン大学がある<ref name="privateuni">{{cite web|title=About Baylor|publisher=Baylor University|accessdate=2008-05-21|url=http://www.baylor.edu/about/}}</ref><ref name="southwestern">{{cite web|title=Southwestern History|publisher=Southwestern University|accessdate=2008-10-12|url=http://www.southwestern.edu/about/}}</ref>。 テキサスA&M大学にあるジョージ・ブッシュ大統領図書館とテキサス大学オースティン校にあるリンドン・ベインズ・ジョンソン図書館・博物館という2つの[[大統領図書館]]がある。サザン・メソジスト大学に3番目のジョージ・W・ブッシュ大統領図書館を創設する合意ができた。 {{col-begin}} {{col-2}} *{{仮リンク|アーリントンバプテスト大学|en|Arlington Baptist College}} *{{仮リンク|ダラス芸術大学|en|Art Institute of Dallas}} *[[オースティン大学]] *{{仮リンク|オースティン長老派神学校|en|Austin Presbyterian Theological Seminary}} *[[ベイラー大学]] **[[ベイラー医科大学]] *{{仮リンク|聖トマス・モア大学|en|College of Saint Thomas More}} *{{仮リンク|コンコーディア大学テキサス|en|Concordia University Texas}} *{{仮リンク|クリスウェル大学|en|Criswell College}} *{{仮リンク|ダラスバプテスト大学|en|Dallas Baptist University}} *{{仮リンク|ダラスクリスチャン大学|en|Dallas Christian College}} *[[ダラス神学校]] *{{仮リンク|デヴライ大学|en|DeVry University}} *{{仮リンク|東部テキサスバプテスト大学|en|East Texas Baptist University}} *{{仮リンク|南西部聖公会神学校|en|Episcopal Theological Seminary of the Southwest}} *{{仮リンク|ハーディン=シモンズ大学|en|Hardin-Simmons University}} *{{仮リンク|ヒューストンバプテスト大学|en|Houston Baptist University}} *{{仮リンク|ハワード・ペイン大学|en|Howard Payne University}} *{{仮リンク|ハストン=ティロットソン大学|en|Huston-Tillotson University}} *{{仮リンク|ジャーヴィスクリスチャン大学|en|Jarvis Christian College}} *{{仮リンク|ルトゥーノー大学|en|LeTourneau University}} *{{仮リンク|リー短期大学|en|Lee College}} *{{仮リンク|ラボッククリスチャン大学|en|Lubbock Christian University}} *{{仮リンク|マクマリー大学|en|McMurry University}} *{{仮リンク|中西部州立大学|en|Midwestern State University}} *{{仮リンク|ノースウッド大学|en|Northwood University}} *{{仮リンク|湖水の聖母大学|en|Our Lady of the Lake University}} *{{仮リンク|ポール・クィン大学|en|Paul Quinn College}} *[[ライス大学]] **[[シェパード音楽学校]] *{{仮リンク|聖エドワード大学|en|St. Edward's University}} *{{仮リンク|聖メアリー大学|en|St. Mary's University, Texas}} *{{仮リンク|シュライナー大学|en|Schreiner College}} *[[南メソジスト大学]] *{{仮リンク|南部テキサス法科大学|en|South Texas College of Law}} *{{仮リンク|南西部アドベンチスト大学|en|Southwestern Adventist University}} *{{仮リンク|南西部アッセンブリーズ・オブ・ゴッド大学|en|Southwestern Assemblies of God University}} *{{仮リンク|南西部バプテスト神学校|en|Southwestern Baptist Theological Seminary|}} *{{仮リンク|南西部クリスチャン大学|en|Southwestern Christian College}} *[[サウスウェスタン大学 (テキサス州)|サウスウェスタン大学]] *{{仮リンク|スティーヴン・F・オースティン州立大学|en|Stephen F. Austin State University}} *{{仮リンク|テキサスA&M大学システム|en|Texas A&M University System}} **{{仮リンク|ベイラー歯科大学|en|Baylor College of Dentistry}} **[[テキサスA&M大学]]カレッジステーション校(本校) **{{仮リンク|テキサスA&M大学コマース校|en|Texas A&M University–Commerce}} **{{仮リンク|テキサスA&M大学コーパスクリスティ校|en|Texas A&M University–Corpus Christi}} **[[テキサス海事大学]](テキサスA&M大学ガルヴェストン校) **{{仮リンク|テキサスA&M大学キングスヴィル校|en|Texas A&M University–Kingsville}} **{{仮リンク|プレーリーヴューA&M大学|en|Prairie View A&M University}} **{{仮リンク|タールトン州立大学|en|Tarleton State University}} **{{仮リンク|テキサスA&M大学テクサーカナ校|en|Texas A&M University–Texarkana}} **{{仮リンク|テキサスA&M国際大学|en|Texas A&M International University}} **[[ウェスト・テキサスA&M大学]] {{col-2}} *[[テキサスクリスチャン大学]] *{{仮リンク|テキサスカレッジ|en|Texas College}} *{{仮リンク|テキサスルーテル教会大学|en|Texas Lutheran University}} *{{仮リンク|テキサス南部大学|en|Texas Southern University}} *{{仮リンク|テキサス州立工科大学システム|en|Texas State Technical College System}} **[[テキサス州立工科大学ハーリンジェン校]] **[[テキサス州立工科大学マーシャル校]] **{{仮リンク|テキサス州立工科大学ウェーコ校|en|Texas State Technical College – Waco}} **[[テキサス州立工科大学スイートウォーター校]] *{{仮リンク|テキサス州立大学システム|en|Texas State University System}} **[[アンジェロ州立大学]] **{{仮リンク|ラマー大学|en|Lamar University}} **{{仮リンク|ラマー工科大学|en|Lamar Institute of Technology}} **{{仮リンク|ラマー州立短期大学オレンジ校|en|Lamar State College–Orange}} **{{仮リンク|ラマー州立短期大学ポートアーサー校|en|Lamar State College–Port Arthur}} **{{仮リンク|サム・ヒューストン州立大学|en|Sam Houston State University}} **{{仮リンク|スル・ロス州立大学|en|Sul Ross State University}} **[[スル・ロス州立大学リオグランデ校]] **[[テキサス州立大学サンマルコス校]] *{{仮リンク|テキサス工科大学|en|Texas Tech University}} *{{仮リンク|テキサス工科大学医療科学センター|en|Texas Tech University Health Sciences Center}} *{{仮リンク|テキサスウェスレーアン大学|en|Texas Wesleyan University}} *{{仮リンク|テキサス女子大学|en|Texas Woman's University}} *[[トリニティ大学]] *{{仮リンク|中部テキサス短期大学|en|Central Texas College}} *{{仮リンク|ダラス大学|en|University of Dallas}} *{{仮リンク|ヒューストン大学システム|en|University of Houston System}} **{{仮リンク|ヒューストン大学|en|University of Houston}} **{{仮リンク|ヒューストン大学クリアーレイク校|en|University of Houston–Clear Lake}} **{{仮リンク|ヒューストン大学ダウンタウン校|en|University of Houston–Downtown}} **{{仮リンク|ヒューストン大学ヴィクトリア校|en|University of Houston–Victoria}} *{{仮リンク|メアリー・ハーディン=ベイラー大学|en|University of Mary Hardin-Baylor}} *{{仮リンク|北テキサス大学システム|en|University of North Texas System}} **[[北テキサス大学]](本校) **{{仮リンク|北テキサス大学医療科学センター|en|University of North Texas Health Science Center at Fort Worth}} **{{仮リンク|北テキサス大学ダラス校|en|University of North Texas at Dallas}} *{{仮リンク|聖トマス大学 (テキサス州)|en|University of St. Thomas (Texas)|label=聖トマス大学}} *[[テキサス大学システム]] **[[テキサス大学アーリントン校]] **[[テキサス大学オースティン校]](本校) **{{仮リンク|テキサス大学ブラウンズヴィル校|en|University of Texas at Brownsville and Texas Southmost College}} **[[テキサス大学ダラス校]] **{{仮リンク|テキサス大学エルパソ校|en|University of Texas at El Paso}} **{{仮リンク|テキサス大学パンアメリカン校|en|University of Texas–Pan American}} **{{仮リンク|テキサス大学パーミアンベースン校|en|University of Texas of the Permian Basin}} **[[テキサス大学サンアントニオ校]] **{{仮リンク|テキサス大学タイラー校|en|University of Texas at Tyler}} **{{仮リンク|テキサス大学ヒューストン医療科学センター|en|The University of Texas Health Science Center at Houston}} **{{仮リンク|テキサス大学サンアントニオ医療科学センター|en|University of Texas Health Science Center at San Antonio}} **{{仮リンク|テキサス大学タイラー医療センター|en|University of Texas Health Center at Tyler}} **[[テキサス大学MDアンダーソンがんセンター]] **{{仮リンク|テキサス大学医学部ガルヴェストン校|en|University of Texas Medical Branch}} **{{仮リンク|テキサス大学南西部医学センター|en|University of Texas Southwestern Medical Center at Dallas}} *{{仮リンク|インカーネット・ワード大学|en|University of the Incarnate Word}} *{{仮リンク|ウェイランドバプテスト大学|en|Wayland Baptist University}} *{{仮リンク|ワイリー大学|en|Wiley College}} {{col-end}} ==文化== {{main|{{仮リンク|テキサス州の文化|en|Culture of Texas}}}} [[ファイル:Big Tex.JPG|thumb|upright|テキサス州祭では1952年以降の毎年[[ビッグ・テックス]]が登場している]] 歴史的にテキサスの文化は南西部(メキシコ)南部(ディキシー)および西部辺境の影響が混ざり合ったものである。人気のある料理のブレックファスト・[[ブリート]]はこれら3つの影響を受けたものであり、柔らかい小麦粉の[[トルティーヤ]]にベーコンやスクランブルエッグなど熱く調理されたものを包み込んだものである。18世紀から19世紀に掛けて作られてきたテキサスの伝統的な文化に加えて、移民の流入によって世界中の文化の坩堝になってきた。 ===音楽・芸術=== {{main|{{仮リンク|テキサス州の音楽|en|Music of Texas}}}} [[西部開拓時代]]や郷愁の雰囲気から、古くから[[カントリー・ミュージック]]の人気が高い。同州は多くの著名なカントリー・ミュージック[[歌手]]を輩出している。また、テキサスをテーマにしたカントリーソングも多い。地元の[[ファーストフード]][[チェーンストア|チェーン]]などのローカル[[コマーシャルメッセージ|CM]]でも非常によく使われる。 テハーノがテキサスで育んできたラテン系の音楽はテクス・メクス・ミュージックまたは[[テハーノ・ミュージック]]と呼ばれ、[[スペイン語]]で歌われる。テハーノ・ミュージックはヒスパニック系アメリカ人のコミュニティのみならず海外でも人気が高い。著名なテハーノのミュージシャンに[[セレーナ (歌手)|セレーナ]]がいる。 ヒューストンは、ヒューストン・グランドオペラ、[[ヒューストン交響楽団]]、ヒューストン・バレーおよびアレー劇団というふうに主要な芸術分野の全てに恒久的かつ職業的団体があることでは、アメリカに5つしかない都市の1つである。[[ダウンタウン・ヒューストン|ヒューストン中心街]]の真ん中17ブロックであるヒューストン劇場地区は視覚芸術と舞台芸術の活力で知られ、劇場の観客席12,948と映画観客席1,480が集中してあることでは全米第2位にランクされている。ヒューストンには、ドン・ロービーのデューク、ピーコックというレコード・レーベルが存在した。 1892年に設立されたフォートワース現代美術館は「ザ・モダン」とも呼ばれ、テキサス州最古の美術館である。フォートワースには[[キンベル美術館]]、アモン・カーター博物館、ナショナル・カウガール博物館と殿堂、ウィル・ロジャーズ記念センターおよびバス芸術劇場もある。ダラス中心街の芸術地区には[[ダラス美術館]]、モートン・H・メイアーソン・シンフォニー・センター、マーゴット・アンド・ビル・ウィンスピア・オペラハウス、トラメル・アンド・マーガレット・クロウ・アジア美術コレクション、およびネイシャー彫刻センターといった芸術のための施設がある<ref name="Dallasarts">{{cite web|title=Dallas Arts District|publisher=Dallas Convention & Visitors Bureau|accessdate=2008-05-29|url=http://www.visitdallas.com/visitors/listing-details?id=492}}</ref>。 ダラス市内にあるディープ・エラム地区は1920年代と1930年代にアメリカ合衆国南部の[[ジャズ]]と[[ブルース]]のホットスポットとして人気があった。ディープ・エラムという名前は地元の人が「ディープ・エルム」と「ディープ・エラム」と発音したことに拠っている<ref name="DeepElm">{{Handbook of Texas|id=hpd01|name=Deep Ellum}}</ref>。[[ブラインド・レモン・ジェファーソン]]、[[ロバート・ジョンソン]]、[[レッドベリー|ハディー・"レッドベリー"・レッドベター]]および[[ベッシー・スミス]]などのアーティストが初期ディープ・エラムのクラブで演奏した<ref name="DeepElm2">{{cite web|title=Dallas History Items:Deep Ellum|publisher=Dallas Historical Society|url=http://www.dallashistory.org/history/dallas/deep_ellum.htm|accessdate=2008-07-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080517115728/http://www.dallashistory.org/history/dallas/deep_ellum.htm|archivedate=2008年5月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また、[[ジャニス・ジョプリン]]や[[ジョニー・ウィンター]]、[[スティーヴィー・レイ・ヴォーン]]といったロック、ブルース・ロックのミュージシャンも、テキサス州出身である。 オースティンはライブ・ショウが盛んなことで知られ、一人当たりのライブミュージックの会場数が、ナッシュビル、メンフィス、ロサンゼルス、ニューヨーク市よりも多いことを誇っている<ref name="livemusic">{{cite web|url=http://www.cityofaustin.org/music/|title=Live Music Capital of the World|accessdate=2007-06-12|publisher=City of Austin}}</ref>。オースティンの音楽は6番通りのナイトクラブを中心に回っている。映画、音楽および[[マルチメディア]]の祭であるサウス・バイ・サウスウェスト、アメリカのテレビで長寿番組である「オースティン・シティ・リミッツ」およびジルカー公園で行われるオースティン・シティ・リミッツ音楽祭などの行事がある<ref name="AustinCL">{{cite web|last = Bernardini|first = Deb|authorlink = http://dbmpr.com/|title = Television's longest running concert series begins season 33 Tapings with performances by Norah Fones, Wilco, Femi Kuti, Arcade Fire and more|url = http://dbmpr.com/pressroom/acl/ACLFinalPR.doc.pdf|format = PDF|accessdate = 2008-10-15|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081028193024/http://dbmpr.com/pressroom/acl/ACLFinalPR.doc.pdf|archivedate = 2008年10月28日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。 1980年以降、サンアントニオは「世界のテハーノ音楽の首都」として展開してきた<ref name="TTMA">{{cite web|url=http://www.tejanomusicawards.com/about.html|title=About The Texas Talent Musicians Association (TTMA)|accessdate=2009-08-02|publisher=Texas Talent Musicians Association|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090310113748/http://www.tejanomusicawards.com/about.html|archivedate=2009年3月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。テハーノ音楽と文化に大きな注目を集め好評を博した公開番組にテハーノ音楽賞が与えられている<ref name="TejanoMA">{{cite web|title=Tejano Music Awards|publisher=Texas Talent Musicians Association|year =2008|url=http://www.tejanomusicawards.com/|accessdate=2008-05-12}}</ref>。 ラウンドロックにおいては、毎年2月の頭に〔[[ウシコン]]〕という[[アニメコンベンション]]が開催されている。 ===食文化=== [[ファイル:Barbacoa taco.jpg|200px|thumb|タコス]] {{Seealso|テクス・メクス料理}} [[ウシ|牛]]の放牧業が重要な産業の一つであることから[[牛肉]]の消費が盛んであり、[[ステーキ]]、[[バーベキュー]]、[[ジャーキー|ビーフジャーキー]]などの人気が高い。[[タコス]]や[[ブリート]]、[[ナチョス]]、[[チリコンカーン]]、[[フリホレス]]をはじめとした[[テクス・メクス料理]]は郷土料理の一つであり、テクス・メクス料理専門の[[レストラン]]もとても多い。州東部の食文化は[[南部料理 (アメリカ合衆国)|南部料理]]との共通点が多く、ルイジアナ州と接する地域は[[ケイジャン#料理|ケイジャン料理]]の影響を受ける。 ===スポーツ=== {{main|{{仮リンク|テキサス州のスポーツ|en|Sports in Texas}}}} テキサス州は[[ダラス・カウボーイズ]]や[[テキサス大学オースティン校]]などの強豪[[アメリカンフットボール]]チームが多く、アメリカンフットボールの人気が際立って高い<ref name="FBKing">{{cite news|last=Brady|first=Erik|title=Football still king, but hoops teams in Texas grab attention|publisher=[[USA TODAY]]|date=2003-04-04|url=http://www.usatoday.com/sports/college/2003-04-03-texas-double_x.htm|accessdate=2008-04-11}}</ref>。また、これらのチームの[[Tシャツ]]などのグッズを身に着けて歩いている人も多い。 テキサス人は数多いプロスポーツ・チームを応援している。「ビッグフォー」と呼ばれるプロスポーツでは[[NFL|アメリカフットボール]]と[[メジャーリーグベースボール]]で各2チーム、[[NBA|バスケットボール]]で3チーム、[[ナショナルホッケーリーグ|アイスホッケー]]で1チームがある。ダラス・フォートワース都市圏は「ビッグフォー」の全てを持つアメリカ合衆国の都市圏13か所の1つである。「ビッグフォー」以外にも[[WNBA|女子バスケットボール協会]]や[[メジャーリーグサッカー]]や[[メジャーリーグラグビー]]や[[メジャーリーグクリケット]]などに加盟するチームがある。 カレッジスポーツはテキサスの文化、特にアメリカンフットボールで深い重要性がある。ディビジョンI-FBSに所属するカレッジが10校あるのは全米最大である。大学スポーツチームのベイラー・ベアーズ、テキサス・ロングホーンズ、テキサスA&M・アギーズおよびテキサス・テック・レッドレイダーズは[[ビッグ12カンファレンス]]で競っている。またテキサス・ロングホーンズ、テキサスA&M・アギーズ、TCUホーンドフロッグズおよびSMUマスタングスは少なくとも一度は全国チャンピオンになった。 [[ファイル:Lone Star Showdown 2006 McGee on goal-line.jpg|left|thumb|2006年のローンスター・ショウダウンでのアメリカンフットボール試合、ダレル・K・ロイヤル・テキサス記念スタジアム]] ディビジョンI-Aのコーチによる調査では、[[オクラホマ大学]]と[[テキサス大学]]の対校戦である[[レッド・リバー・シュートアウト]]は国内でも第3位にランクされている<ref name="RRShootout">{{cite news|url=http://www.dallasnews.com/sharedcontent/dws/spt/colleges/redrivershootout/texas/stories/100705dnspofbwnewrivalrylede.1c8619ce.html|title=UT-OU :Best Rivalry?|work=Dallas Morning News|last=Davis|first=Brian|date=2005-10-07|accessdate=2006-07-11}}</ref>。州内での活発な対校戦であるローンスター・ショウダウンはテキサスA&M大学とテキサス大学という2つの最大規模大学で争われている。TCUホーンドフロッグズとSMUマスタングスも対校戦を行っており、毎年バトル・フォー・ザ・アイアン・スキレットを競っている。 ユニバーシティ・インタースコラスティック・リーグは大半の初等および中等学校の競技会を組織している。行事としては運動競技会(高校フットボールが人気)や芸術と学問の競技会もある<ref name="UIL">{{cite web|title = University Interscholastic League|publisher = University of Texas|url = http://www.uil.utexas.edu/|accessdate = 2008-09-28}}</ref>。 テキサス人は[[ロデオ]]も楽しむ。世界で初のロデオはテキサス州ペコスで開催された<ref>{{cite web|url=http://atlas.thc.state.tx.us/common/viewform.asp?atlas_num=5389005909&site_name=World's+First+Rodeo&class=5000|title=View Atlas Data|publisher=Atlas.thc.state.tx.us|date=|accessdate=2010-04-11}}</ref>。毎年開催されるヒューストン家畜ショーとロデオは世界最大のロデオ大会である。州内の数カ所から出発してリライアント公園に集まるトレイル・ライド(長距離騎旅)から始まった<ref name="HoustonRodeo">{{cite web|title=Houston Rodeo Tickets|publisher=Houston Livestock Show and Rodeo|year =2008|url=http://www.houstonrodeoonline.com/|accessdate=2008-04-20}}</ref>。フォートワースで開催されるサウスウェスタン・イクスポジション・アンド・ライブストックショーは、最古の連続して開催されているロデオであり、州内の歴史ある伝統を毎年の行事に取り込んできた。ダラスでは毎年[[フェア・パーク]]でテキサス州祭を開催している<ref name="statefair">{{cite web|title=Fair Park, Texas|publisher=City of Dallas|accessdate=2008-05-22|url=http://www.dallascityhall.com/FairPark/art_architectural.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080514155643/http://www.dallascityhall.com/FairPark/art_architectural.html|archivedate=2008年5月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 オースティンでは2012年から[[フォーミュラ1]]ワールド・チャンピオンシップの1戦を行うことになった<ref name="f1">{{cite web|title=Formula One returns to the United States|publisher=Formula 1 Administration Ltd|accessdate=2010-05-25|url=http://www.formula1.com/news/headlines/2010/5/10824.html}}</ref>。アメリカ合衆国では2007年の[[インディアナポリス・モーター・スピードウェイ]]でのグランプリ以来のことになる。 <table><tr><td valign=top> *[[NFL]] **[[ダラス・カウボーイズ]] **[[ヒューストン・テキサンズ]] *[[アリーナフットボールリーグ|AFL]] **[[:en:Austin Wranglers|オースティン・ラングラーズ]] **[[:en:Dallas Desperados|ダラス・デスペラードス]] *[[:en:Women's Professional Football League|女子プロフットボールリーグ]](WPFL) **[[ダラス・ダイヤモンズ]] **[[:en:Houston Energy|ヒューストン・エナジー]] *[[:en:Independent Women's Football League|独立女子フットボールリーグ]](IWFL) **[[ダラス・レボリューション]] *[[NBA]] **[[ダラス・マーベリックス]] **[[ヒューストン・ロケッツ]] **[[サンアントニオ・スパーズ]] *[[NBAデベロップメント・リーグ]] **[[オースティン・トロス]] **[[フォートワース・フライヤーズ]] *[[WNBA]] **[[ヒューストン・コメッツ]] **[[サンアントニオ・シルバースターズ]] *[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]] **[[ダラス・スターズ]] *[[アメリカン・ホッケー・リーグ|AHL]] **[[:en:Houston Aeros|ヒューストン・エアロズ]] **[[:en:San Antonio Rampage|サンアントニオ・ランページ]] *[[:en:Central Hockey League|CHL]] **[[:en:Austin Ice Bats|オースティン・アイスバッツ]] **[[:en:Lubbock Cotton Kings|ラボック・コットンキングス]](2007-2008年度出場停止) </td><td valign=top> *[[メジャーリーグベースボール|MLB]] **[[ヒューストン・アストロズ]] **[[テキサス・レンジャーズ]] *[[パシフィックコーストリーグ]], [[マイナーリーグベースボール]] **[[ラウンドロック・エクスプレス]] *[[テキサスリーグ]], マイナーリーグ **[[コーパスクリスティ・フックス]] **[[フリスコ・ラフライダース]] **[[サンアントニオ・ミッションズ]] **[[ミッドランド・ロックハウンズ]] *[[セントラル・ベースボール・リーグ]], [[マイナーリーグ]] **[[:en:Amarillo Dillas|アマリロ・ディラス]] **[[:en:Edinburg Roadrunners|エディンバーグ・ロードランナーズ]] **[[:en:Fort Worth Cats|フォートワース・キャッツ]] **[[:en:Rio Grande Valley WhiteWings|リオグランデバレー・ホワイトウイングス]] **[[サンアンジェロ・コルツ]] *[[メジャーリーグサッカー|MLS]] **[[FCダラス]] **[[ヒューストン・ダイナモ]] **[[オースティンFC]] *[[:en:Major Indoor Soccer League (2001 – 2008)|MISL]] **[[:en:Dallas Sidekicks|ダラス・サイドキックス]](撤退) *[[メジャーリーグラグビー|MLR]] **[[オースティン・ギルグロニス]] **[[ヒューストン・セイバーキャッツ]] *[[メジャーリーグクリケット|MLC]] **[[テキサス・スーパーキングス]] </td></tr></table> テキサスを拠点としていたヒューストン・オイラーズは[[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]、更に [[ナッシュビル (テネシー州)|ナッシュビル]]へ移転、現在は [[テネシー・タイタンズ]]となっている。ヒューストンには他に[[アリーナフットボールリーグ|AFL]]チームの[[:en:Houston Thunderbears|ヒューストン・サンダーベアーズ]]、及びマイナーリーグのサッカークラブ[[:en:Houston Hotshots|ヒューストン・ホットショッツ]]がある。 [[2004年]]にはエルパソにテキサスマイナーリーグのエルパソ・ディアブロズがあったが[[スプリングフィールド (ミズーリ州)|スプリングフィールド]]に移転、現在は[[:en:Springfield Cardinals|スプリングフィールド・カージナルス]]となっている。 ===愛州心の高さ=== [[File:Texas Capitol Flags.jpg|thumb|right|200px|[[テキサス州会議事堂]]に星条旗ともに掲揚されるテキサス州の旗「ローン・スター旗」。テキサス州旗のみが合衆国旗と同じ旗ざおに掲揚されることが許されているという『[[都市伝説]]』がある。]] 歴史的に[[テキサス共和国]]として独立していた事もあり、テキサスでは州に対して強い愛着を持っている人々が多い。現在の州旗になっているテキサス共和国時代の旗は、[[学校]]や[[店]]、[[ピックアップトラック]]のリアウインドウなど、至る所で見かけられる。また、「NATIVE TEXAN」(生まれつきのテキサス人)というステッカーを張り付けている車もよく見られる。 ==医療== {{main|[[:en:List of hospitals in Texas|テキサス州の病院一覧]]}} ザ・コモンウェルス・ファンドに拠れば、テキサス州の[[健康管理システム]]は国内の悪い方から3番目ということである<ref name="insurancenet">{{cite web|last=Perotin|first=Maria M.|title=Texas is Near Bottom of Healthcare Rankings|work=Fort Worth Star-Telegram|date=2007-06-13|url=http://www.insurancenewsnet.com/article.asp?a=top_lh&id=80824|accessdate=2008-04-22}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。医療の受けやすさ、治療の質、回避できる入院費用、および様々な集団間の公平性といった指標で最下位の方にある<ref name="insurancenet"/>。この厳しい評価の原因には、政治、高い貧困率および国内最大の不法移民数率が挙げられる<ref name="CausesHealthcare"/>。2006年5月、州内人口の25.1%は健康保険を持っていないという国内最大の比率が報告があったことに反応して「レッドコード」計画を始めた<ref name="codered">{{cite web|title=Code Red:The Critical Condition of Health in Texas|url=http://www.coderedtexas.org/|accessdate=2008-04-28}}</ref>。また「増え続ける医療ミス保険料を抑制し、上昇する医療費を管理する」ために、[[医療事故|医療ミス]]訴訟の非経済損害上限額を25万ドルに設定して議論を呼んでもいる<ref name="tort">{{cite book|last=Odom|first=Lamar|last2 =Garcia|first2 =Anthony|last3 =Milburn|first3 =Pamela|year=2005|title=The Ethicality of Capping Non-Economic Damages to Control Rising Healthcare Costs:Panacea or False and Misleading Practice?|edition =1|volume=3|publisher=The Internet Journal of Healthcare Administration|issn=1366-0756|url=http://www.ispub.com/ostia/index.php?xmlFilePath=journals/ijhca/vol3n1/capping.xml|doi=10.1108/13660750510611170|accessdate=2008-04-28}}</ref>。 アメリカ人の健康トラストは、テキサス人の27.2%が[[肥満]]と判定されたことで、成人の肥満度15位にランク付けた<ref name="healthyamericans">{{cite web|title = Texas|work = State Data|publisher = Trust for America's Health|year = 2008|url= http://healthyamericans.org/states/states.php?measure=highschooloverweight&sort=data|accessdate = 2008-10-14}}</ref>。2008年の「メンズヘルス」誌の肥満度調査では、アメリカ合衆国の肥満率の高い25都市の中にテキサス州の都市が4つ入っており、ヒューストンは6位、ダラスが7位、エルパソが8位、[[アーリントン (テキサス州)|アーリントン]]が14位となっている<ref name="obese2"> {{cite web|title=America's Fittest Cities 2007|work=Men's Health|year=2008|url=http://www.mensfitness.com/city_rankings/462|accessdate=2008-04-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080313161801/http://www.mensfitness.com/city_rankings/462|archivedate=2008年3月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。同じく「健康率の高い25都市」にはオースティンが唯一21位で入っている<ref name="obese2"/>。 ===医療研究=== [[ファイル:FlightHoustontoDallas086.jpg|thumb|ヒューストンのテキサス医療センター]] テキサス州内には多くの優れた医療研究所がある。9つの医学校<ref name="MedicalSchools">{{cite web|title=Texas Medical Schools and Hospitals|publisher=Texas Medical Association|date =2006-08-03|url=http://www.texmed.org/Template.aspx?id=86|accessdate=2008-04-28}}</ref>、3つの歯科学校<ref name="dentalschool">{{cite web|url=http://www.dentist.net/dentalschools.asp|title=Dental Schools in the United States|accessdate=2008-10-31|publisher=Dentist.net}}</ref>、1つの眼科学校がある<ref name="optometry">{{cite web|url=http://healthguideusa.org/optometry/texas_optometry_schools.htm|title=Texas Optometry Schools|accessdate=2008-10-31|publisher=Health Guide USA}}</ref>。[[バイオセーフティーレベル]]4の研究室は、ガルベストンのテキサス大学医学部に1つ<ref name="biosafety4">{{cite web|url=http://www.bioscrypt.com/news/press/item-728/|date=October 14, 2004|title=University Selects Bioscrypt for Biosafety Level 4 Lab|publisher=Bioscrypt|accessdate=2006-04-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071117074008/http://www.bioscrypt.com/news/press/item-728/|archivedate=2007年11月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>と、サンアントニオにある全米で初の民間バイオセーフティー・レベル4の研究室であるサウスウェストバイオ医療研究基金のもの3つ、合計4つがある。 ヒューストンにあるテキサス医療センターは47の会員団体を有する世界最大の研究と医療の集中機関である<ref name="TexasMC"> {{cite web|title = About the Texas Medical Center|publisher = The Texas Medical Center|accessdate = 2009-04-11|url = http://www.texmedctr.tmc.edu/root/en/GetToKnow/AboutTMC/About+the+TMC.htm}}</ref>。心臓移植手術の数でも世界一である<ref name="HeartTransplants">{{cite web|title=Background Statistics > People and Politics (most recent) by state|publisher=State Master|date =2008-05-08|url=http://www.statemaster.com/graph/bac_bac-background-people-and-politics|accessdate=2008-05-08}}</ref>。テキサス大学M・D・アンダーソンがんセンターは癌患者の治療、研究、教育および予防を行う高度に尊重される学術機関である<ref name="MDAnderson">{{cite web|title=About MD Anderson|publisher=The University of Texas M. D. Anderson Cancer Center|url=http://www.mdanderson.org/about_mda/|accessdate=2008-04-28}}</ref>。 サンアントニオのサウステキサス医療センターは臨床医学研究分野でアメリカ合衆国第6位に位置付けられる機関である<ref name="UTSAFactsheet">{{cite web|date=2007-04-03|title=Health Science Center ranks sixth in clinical medicine|edition =7|volume=XL|publisher=University of Texas Health Science Center|url=http://www.uthscsa.edu/hscnews/singleformat.asp?newID=2353|accessdate=2008-04-28}}</ref>。やはりサンアントニオのテキサス大学健康科学センターも高い評価を受ける研究と教育の機関である<ref name="DentalSchool">{{cite web|title=International report gives Dental School high marks|publisher=HSC NEWS|accessdate=2008-05-15|url=http://www.uthscsa.edu/hscnews/singleformat.asp?newID=1742}}</ref><ref name="Tmedicialcenter2">{{cite web|title=Medical center's research ranks high|publisher=San Antonio Express-News|accessdate=2008-05-15|url=http://www.mysanantonio.com/news/MYSA040407_medical_center_EN_2dc65c3e_html751.html}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。 [[アメリカ心臓協会]]とテキサス大学サウスウェスタン医療センターがダラスを本拠地にしている。サウスウェスタン医療センターは「世界の学術的医療センター上位」の中に位置付けられている<ref name="UTSWAboutUs">{{cite web|title=About UT Southwestern|publisher=University of Texas Southwestern Medical Center|url=http://www8.utsouthwestern.edu/home/about/index.html|accessdate=2008-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080509062317/http://utsouthwestern.edu/home/about/index.html|archivedate=2008年5月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。このセンターは世界でも最も多い[[ノーベル生理学・医学賞]]受賞者を雇用している<ref name="UTSWAboutUs"/><ref name="UTSWFactsheet">{{cite web|title=UT Southwestern Fact Sheet|publisher=University of Texas Southwestern Medical Center|year=2008|url=http://www8.utsouthwestern.edu/vgn/images/portal/cit_56417/43/32/2800592006_Fact_Sheet.pdf|format=PDF|accessdate=2008-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080413194108/http://www8.utsouthwestern.edu/vgn/images/portal/cit_56417/43/32/2800592006_Fact_Sheet.pdf|archivedate=2008年4月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ==その他== <!-- === 州の象徴など === * 州の鳥 - * 州の木 - * 州のモットー - --> ===姉妹自治体・提携自治体=== *{{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] ([[日本]]) *:[[2016年]](平成28年)[[4月22日]] 友好相互協力提携<ref>[http://www.pref.aichi.jp/soshiki/kokusai/mouaichitexas.html 「テキサス州と「相互協力に関する覚書」締結」]</ref> ===日本の姉妹都市=== ;(日本) - (州内)、[[年]] {{colbegin|2}} *{{Flagicon|宮城県}}[[宮城県]][[仙台市]] - [[ダラス|ダラス市]] *{{Flagicon|群馬県}}[[群馬県]][[水上町]]、現[[みなかみ町]] - [[:en:Canyon, Texas|キャニオン市]] *{{Flagicon|群馬県}}群馬県[[新治村 (群馬県)|新治村]]、現みなかみ町 - [[:en:Huntsville, Texas|ハンツヴィル市]] *{{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]][[千葉市]] - [[ヒューストン|ヒューストン市]] *{{Flagicon|千葉県}}千葉県[[八千代市]] - [[タイラー (テキサス州)|タイラー市]] *{{Flagicon|東京都}}[[東京都]][[武蔵野市]] - [[ラボック (テキサス州)|ラボック市]] *{{Flagicon|神奈川県}}[[神奈川県]][[横須賀市]] - [[コーパスクリスティ (テキサス州)|コーパスクリスティ市]] *{{Flagicon|神奈川県}}神奈川県[[秦野市]] - [[パサデナ (テキサス州)|パサデナ市]] *{{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]][[新潟市]] - [[ガルベストン (テキサス州)|ガルベストン市]] *{{Flagicon|新潟県}}新潟県[[長岡市]] - [[フォートワース|フォートワース市]] *{{Flagicon|熊本県}}[[熊本県]][[熊本市]] - [[サンアントニオ|サンアントニオ市]] *{{Flagicon|大分県}}[[大分県]][[大分市]] - [[オースティン (テキサス州)|オースティン市]] *{{Flagicon|大分県}}大分県[[別府市]] - [[ボーモント (テキサス州)|ボーモント市]] *{{Flagicon|宮崎県}}[[宮崎県]][[えびの市]] - [[ベルトン (テキサス州)|ベルトン市]] *{{Flagicon|鹿児島県}}[[鹿児島県]][[名瀬市]]、現[[奄美市]] - [[ナカドーチェス (テキサス州)|ナカドゥチェス市]] {{colend}} ==関連項目== *[[テキサス州出身人物の一覧]] *[[テキサス州の都市圏の一覧]] *[[テキサス州の郡一覧]] *[[テキサス州の石油ブーム]] *[[テキサス日本事務所]] *[[テネシー州]] *[[アラバマ州]] *[[ルイジアナ州]] *[[ミシシッピー州]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== {{Refbegin}} *{{Cite book|last=Chipman|first=Donald E.|title=Spanish Texas, 1519-1821|publisher=University of Texas Press|location=Austin, Texas|year=1992|isbn=0292776594}} *{{Cite book|last=Davis|first=William C.|title=Lone Star Rising|year=2006|publisher=Texas A&M University Press|location=College Station, TX|isbn=9781585445325}} originally published 2004 by New York:Free Press *{{Cite book|last=Edmondson|first=J.R.|title=The Alamo Story-From History to Current Conflicts|publisher=Republic of Texas Press|place=[[Plano, Texas]]|isbn=1-55622-678-0|year=2000}} *{{Cite book|last=Hendrickson|first=Kenneth E., Jr.|title=The Chief of Executives of Texas:From Stephen F. Austin to John B. 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An online textbook from the College of Liberal Arts, The University of Texas. *[http://www.traveltex.co.jp/ テキサス州政府観光局(日本語版)]{{リンク切れ|date=2021年12月}} *[https://www.traveltexas.com/?utm_campaign=Redirect&utm_medium=Domains&utm_source=Traveltex.com テキサス州政府観光局(英語版)] ;連邦政府 *[http://tonto.eia.doe.gov/state/state_energy_profiles.cfm?sid=TX Energy Profile for Texas- Economic, environmental, and energy data]{{リンク切れ|date=2021年12月}} *[http://www.nps.gov/history/nr/travel/tx/ South and West Texas, a National Park Service ''Discover Our Shared Heritage'' Travel Itinerary] ;日本との関係 *[https://www.houston.us.emb-japan.go.jp/ 在ヒューストン日本国総領事館] *[https://jasdfw.org/ ダラス/フォートワース日米協会] *[https://www.jasga.org/ オースティン日米協会] ;その他 *{{Curlie|Regional/North_America/United_States/Texas}} *[http://www.thestoryoftexas.com/ The Texas State History Museum] *[http://www.tshaonline.org/handbook/online/ The Handbook of Texas Online]{{ndash}} Published by the ''Texas State Historical Association'' *[http://texinfo.library.unt.edu/texasregister/default.htm ''Texas Register''], hosted by the ''University of North Texas Libraries'' {{Geographic Location |Centre = {{Flagcountry|Texas}} |North = {{Flagcountry|Oklahoma}} |Northeast = {{Flagcountry|Arkansas}} |East = {{Flagcountry|Louisiana}} |South = {{Flagcountry|Mexico}}<br/>{{Flagcountry|Nuevo León}} / {{Flagcountry|Tamaulipas}} |Southwest = {{Flagcountry|Mexico}}<br/>{{Flagcountry|Chihuahua}} / {{Flagcountry|Coahuila}} |West = {{Flagcountry|New Mexico}} }} {{テキサス州}} {{アメリカ合衆国の州}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てきさす}} [[Category:アメリカ合衆国の州]] [[Category:テキサス州|*]]
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侵略戦争
侵略戦争(しんりゃくせんそう、英: war of aggressionあるいはwar of conquest)は、侵略、すなわち一般的には自国の領土の拡張のために他国の領土を占領する目的で武力を行使して争う戦争。軍事侵攻と言ったり、他の語と組み合わせて使う場合は短縮した表現で「侵攻」ともいう。 国際刑事裁判所に関するローマ規程(1998年7月17日、ローマにおける国際刑事裁判所の設立に関する国際連合全権外交使節会議(通称ローマ会議)で、賛成120か国、反対7か国の圧倒的多数で採択された)では、侵略犯罪は「国際社会に対する最も深刻な犯罪である」としており、侵略犯罪は国際刑事裁判所 (ICC) の管轄であると規定している。 ただしこのローマ規程は、締約国が犯罪の定義に同意し起訴される条件を設定するまでICCが侵略犯罪に対する管轄権を行使できない、とも規定していていたが、2010年6月11日のカンパラ再検討会議で計111の法廷締約国が当犯罪の定義とこの犯罪に対する管轄権行使の条件を受け入れる決議を採択することに合意した。そして、関連する規程の修正が35の締約国によって批准された後、2018年7月17日に正式に発効した。 侵略戦争として裁判所で裁かれた件でおそらく最初のものは、シチリア王コッラディーノが1268年に起こした戦争である。 誰が言ったことによると『侵略戦争と自衛戦争の線引きは必ずしも明確でない。なぜなら、自国の防衛のためには、他国国家(主権国家)の領土を侵略(但し領土紛争に見られるようにどこまでがどこの国の領土か明確でない例が多く、複数の人種・民族が同居する中国、ヨーロッパ、中東、アフリカなどの大陸では特にこの傾向が顕著に見られる)するのが最も効果的だからである。なかでもヨーロッパは隣国との距離が近いことから戦争の歴史が長く、オランダ侵略戦争など多数に上る。アメリカ大陸においてもインディアン戦争において白人入植者によるインディアンの征服が見られた。また「自衛」戦争という観点からも突き詰めていけば、同じく自衛を主張する他の膨張国家との衝突は免れず、時に場所を代えて代理戦争の形態を見せる。ベトナム戦争などが好例である。』
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侵略戦争(しんりゃくせんそう、英: war of aggressionあるいはwar of conquest)は、侵略、すなわち一般的には自国の領土の拡張のために他国の領土を占領する目的で武力を行使して争う戦争。軍事侵攻と言ったり、他の語と組み合わせて使う場合は短縮した表現で「侵攻」ともいう。
{{出典の明記|date=2009年4月}} '''侵略戦争'''(しんりゃくせんそう、{{Lang-en-short|war of aggressionあるいはwar of conquest}})は、[[侵略]]、すなわち一般的には自国の[[領土]]の拡張のために他国の領土を[[占領]]する目的で[[軍事力|武力]]を行使して争う[[戦争]]。軍事侵攻と言ったり、他の語と組み合わせて使う場合は短縮した表現で「[[侵攻]]」ともいう。 == 概要 == [[国際刑事裁判所に関するローマ規程]](1998年7月17日、ローマにおける国際刑事裁判所の設立に関する国際連合全権外交使節会議(通称ローマ会議)で、賛成120か国、反対7か国の圧倒的多数で採択された)では、[[侵略犯罪]]は「国際社会に対する最も深刻な犯罪である」としており、侵略犯罪は[[国際刑事裁判所]] (ICC) の管轄であると規定している。 ただしこのローマ規程は、締約国が犯罪の定義に同意し起訴される条件を設定するまでICCが侵略犯罪に対する管轄権を行使できない、とも規定していていたが、2010年6月11日のカンパラ再検討会議で計111の法廷締約国が当犯罪の定義とこの犯罪に対する管轄権行使の条件を受け入れる決議を採択することに合意した。そして、関連する規程の修正が35の締約国によって批准された後、[[2018年]][[7月17日]]に正式に発効した。 == 歴史 == 侵略戦争として裁判所で裁かれた件でおそらく最初のものは、[[シチリア王国|シチリア王]][[コッラディーノ]]が[[1268年]]に起こした[[戦争]]である<ref>Cryer, Robert; et al. (2010). An introduction to international criminal law and procedure (2nd ed.). Cambridge [UK]: Cambridge University Press. p. 312. ISBN 978-0-521-13581-8.</ref>。 == 近年の事例 == *[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]] === 備考 === {{独自の研究|section=1|date=2020年10月}} {{誰|date=2023年1月}}誰が言ったことによると『{{要出典範囲|侵略戦争と[[自衛戦争]]の線引きは必ずしも明確でない。なぜなら、自国の防衛のためには、他国国家([[主権国家]])の領土を侵略(但し[[領土紛争]]に見られるようにどこまでがどこの国の領土か明確でない例が多く、複数の人種・民族が同居する[[中華人民共和国|中国]]、[[ヨーロッパ]]、[[中東]]、[[アフリカ]]などの大陸では特にこの傾向が顕著に見られる)するのが最も効果的だからである。なかでもヨーロッパは隣国との距離が近いことから戦争の歴史が長く、[[仏蘭戦争|オランダ侵略戦争]]など多数に上る。[[アメリカ大陸]]においても[[インディアン戦争]]において[[白人]]入植者による[[インディアン]]の征服が見られた。また「自衛」戦争という観点からも突き詰めていけば、同じく自衛を主張する他の膨張国家との衝突は免れず、時に場所を代えて代理戦争の形態を見せる。[[ベトナム戦争]]などが好例である。|date=2023年1月}}』 <ref group="注釈">{{誰|date=2023年1月}}誰が言ったことによると『{{要出典範囲|さらに[[分断国家]]や既に[[植民地]]などとして支配されていて主権が存在しない(明確でない)地域への侵攻、あるいは主権国家ではない集団による侵攻行為を侵略と呼ぶかどうか議論があるほか、[[宗主国]]が持つ[[租界]]や植民地などの自国権益地帯が侵されること(例えば[[義和団の乱]]での外国人租界地帯に対する中国側の攻撃など)を侵略と呼ぶべきかどうかなどは、評価する側の立場や個人の主観、評価する時代の価値観、評価する際に着目する視点などによって異なり、一概に言えない。また侵略には必ずしも軍事力を行使したケースだけでなく、定義も不明瞭である。 したがって現在では、自国領土に限定した武力行為を自衛戦争、他国領土に武力を展開する行為を侵略戦争と呼ぶことが多いとされるが、[[国際連合平和維持活動|国連平和維持活動]]などをかんがみれば、人道のためならば、後者は侵略とは呼ばれない慣習ができつつある。|date=2023年1月}}』</ref> <ref group="注釈"> なお、産経新聞社の『別冊正論』の10号(2009年)は、主に[[日本]]がやらかした戦争について戦争をやらかした[[日本人]]たちが[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]で裁かれた件ばかりで頭が一杯になった状態で、「侵略戦争は学術的な用語としてはありえない」と主張した(出典:[[別冊正論]]10号『総力特集 東京裁判の呪縛を断つ 』 [[産業経済新聞社]])。(注 - なお別冊正論自体が、そもそも学術誌ではないので、ここに書かれていることも学術的ではない。またこの主張は、[[ロシア]]の[[ウクライナ]]侵攻前に産経新聞社が主張したことであり、また世界の侵略戦争全般に関する一般論として通用すると本当に思って言ったのではなく、日本がやらかした侵略が裁かれたことに関して感情的に反発して、あくまで日本が他国を侵略したことだけを、ともかくどんな理屈でもいいから理屈をこねくりまわして正当化するための[[レトリック]]として主張したことではある。ロシアのウクライナ侵攻の後の現在でも、産経新聞社が、世界で起きうる侵略戦争に関する一般論として、同じようなことを主張するとは限らない。)</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == * [[侵略の定義に関する決議|国連総会決議3314]] - [[国際連合]]による侵略の定義(1974年12月14日)。 * [[平和に対する罪]] * [[人道に対する罪]] * [[正戦論]] * [[制裁戦争]] * [[予防戦争]] * [[レジスタンス運動]] * [[民族浄化]] {{Normdaten}} {{War-stub}} {{DEFAULTSORT:しんりやくせんそう}} [[Category:戦争]] [[Category:戦争犯罪]] [[Category:国際刑事法]] [[Category:侵略犯罪]]
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フォークランド紛争
フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英語: Falklands War、スペイン語: Guerra de las Malvinas)は、南大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3か月に及んだ紛争である。アルゼンチン軍はフォークランド諸島とその東方にある英国領サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島を一時制圧したが、イギリス軍は空母機動部隊や原子力潜水艦、兵員輸送船、長距離爆撃機を南大西洋へ遠征させて奪回し、欧州共同体(EC)などの協力も得て6月に勝利した。敗れたアルゼンチンではレオポルド・ガルチェリ政権が崩壊した。 冷戦下で近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、「兵器の実験場」とも称された。 日本語では「紛争」と呼ばれ、法的には戦争ではないとしているイギリスの政府機関も「Falklands Conflict(フォークランド紛争)」の語を用いている。激しい陸戦のほか第二次世界大戦以来となる大規模な海空戦闘が行われ、世界的には戦争と見なされることが多い。英語圏でも、イギリス政府系ではない刊行物などでは「Falklands War(フォークランド戦争)」または「Falkland Islands War(フォークランド諸島戦争)」と呼ばれる。 アルゼンチンを含むスペイン語圏では諸島のアルゼンチン名を用いて「Guerra de las Malvinas (マルビナス戦争)」と呼ばれる。 1982年3月19日にアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島東方のイギリス領サウスジョージア島に2度にわたって寄港し、無断で民間人を装って海兵隊員を上陸させた。これに対し、イギリスは氷海警備船と海兵隊員を派遣するとともに、紛争回避のため、アルゼンチン軍部隊の退去を条件として外交交渉で妥協する用意があることを伝えたが、既にアルゼンチン側は強硬姿勢を明確にしており、外交交渉での事態打開は困難となっていた。イギリスの要請を受けてアメリカ合衆国も仲介に乗り出し、首脳間の電話会談も行われたが、説得は失敗であった。 4月1日深夜よりアルゼンチン軍によるフォークランド諸島侵攻、また4月3日にはサウスジョージア侵攻が行われた。これに対し、イギリス軍は反攻のための部隊を派遣し、フォークランド諸島近海では激しい海空戦が行われた。アルゼンチン空軍はエグゾセ空対艦ミサイルや航空爆弾による対艦攻撃でイギリス艦船を次々と撃沈したものの、本土から遠いために超音速機が本来の性能を発揮することができず、またイギリス空軍が長距離爆撃機による空爆(ブラック・バック作戦)を行うと最有力の戦闘機部隊は本土に拘置せざるを得なくなり、航空優勢をほぼ失う結果となった。またアルゼンチン海軍も、最有力の大型水上戦闘艦「ヘネラル・ベルグラノ」が撃沈されると現存艦隊主義に転じて、二度と出撃してくることはなかった。イギリスは、アメリカの偵察衛星からの情報によって側面支援を受けたほか、北大西洋条約機構(NATO)諸国、欧州共同体(EC)加盟国、さらにアルゼンチンと対立関係にあるチリの支援を受けて、情報戦も有利に進めた。 イギリス軍は経験豊富な特殊空挺部隊・特殊舟艇部隊によるコマンド作戦を経て、まず4月25日にはサウスジョージア島にイギリス軍が上陸し、奪還した(パラケット作戦)。続いて6月7日にはフォークランド諸島にも地上部隊を上陸させ、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏して戦闘は終結した。 フォークランド紛争当時、アルゼンチンは軍事政権(国家再編成プロセス)であったが、この敗北により軍事政権への国民の不満が爆発し、大統領を務めていたレオポルド・ガルチェリ陸軍総司令官は辞任を余儀なくされた。ガルチェリの後任のレイナルド・ビニョーネも国民の不満を抑えきれずに1983年10月に選挙を実施し、ラウル・アルフォンシンが大統領に当選して民政移管が行われた。 フォークランド紛争は第二次世界大戦以降では初めて大規模な海空戦を伴った、西側諸国製の兵器を装備した近代化された軍隊同士による戦争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカ合衆国やフランス、ベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。 両国の国交が再開されて戦争状態が正式に終結したのは1990年2月5日だった。それ以降もアルゼンチンはフォークランド諸島の領有権を主張している。アルゼンチン外務省は2023年3月2日、カフィエロ外相がG20外相会合が開かれたインドのニューデリーでイギリスのクレバリー外相と同日会談し、領有権交渉の再開を提案したと発表した。 最初にフォークランド諸島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれる。大航海時代におけるヨーロッパ人による発見についても諸説あり、1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとも、あるいは1592年のイギリスの探検家ジョン・デイヴィスによるともされている。アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている。この他に1598年にはオランダ人のセバル・デ・ウェルト (Sebald de Weert) がこの島を訪れ、当時オランダではこの島をセバル島と名付けた。 同地は大西洋と太平洋を結ぶマゼラン海峡・ビーグル水道およびドレーク海峡に近く、パナマ運河開通までは戦略上の要衝であったことから、18世紀には領有権争いの舞台となった。1764年にフランスは東フォークランド島に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。スペイン・ブルボン朝は、1767年にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、1770年にはブエノスアイレスからエグモント港に侵攻した。当時、北米植民地の情勢急迫に対処しなければいけなかったイギリスは全面戦争を避け、1774年にはスペインの領有権が一時的に確立した。しかし1833年にはイギリスが派遣したスループ「クレイオー」によって無血占領に成功し (Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)) 、以後実効支配を進めたことで長らくイギリスの海外領土(属領)とされてきた。 1810年の五月革命を発端とする独立戦争を経て、1816年にアルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島の返還を求めるようになった。1820年代には領有・課税宣言やアメリカ船の拿捕なども行われた。しかしまもなく1825年から1828年のシスプラティーナ戦争で忙殺されたほか、その後も大英帝国の非公式帝国として経済的な繁栄を享受していたことから、返還要求は続けられていたとはいえ、実質的には棚上げ状態となっていた。 その後、1929年の世界恐慌を経て、「忌まわしき十年間」にはナショナリズムが台頭し、第二次世界大戦後の1946年には左翼民族主義者のフアン・ペロンが大統領に就任したが、その後も変わらず棚上げ状態となっていた。 このペロンが下野した後、ペロン派の都市ゲリラと軍部、政党との間で衝突が続き、1960年代には内政の混乱をもたらしていた。またペロン政権時代から極度のインフレーションに見舞われていたこともあって、政治闘争に明け暮れる政権に対し国民の不満が鬱積していた。 この国民の不満を逸らすため、急遽フォークランド諸島というナショナリスティックな問題が取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定をはじめとする様々なプロパガンダ工作が推進された。また1965年12月16日には、国際連合総会決議第2065号により「いかなる形態の植民地主義も終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方が平和的な問題解決のため交渉を開始するよう勧告したことから、両政府の交渉が開始されることになった。 しかしイギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り英国病に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた。保守党のマクミラン政権下でヒース王璽尚書は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった。 1967年3月にイギリス外務省が作成したメモランダムでは「島民が望めば」との条件で、フォークランド諸島における主権の委譲を認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進と受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、議会やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた。 1975年、キャラハン外相の依頼を受けて、リオ・ティント社の重役でもあるエドワード・シャクルトン貴族院議員を団長として、諸島の経済状況に関する調査団が派遣された。その報告書は1976年6月に提出され、フォークランド諸島の経済状況が絶望的であることが確認された。アルゼンチンへの過度の経済的依存はなく、自給自足に近かったものの、逆にいえば、植民地時代からほとんど発展していないということでもあった。5年間で1,400万ポンドという莫大な投資が必要であると見積もられたが、これはイギリス単独では実現困難であった。イギリス政府はこの報告書を公開し、アルゼンチンからの経済的な協力を促そうとしたが、アルゼンチン政府はこれを諸島の経済的自立を進めるものであると誤解して、危機感を強めた。また島民は、この報告書によってイギリス本土からのさらなる投資が呼び込まれるものと期待した。 シャクルトン議員が調査を進めていた1976年2月4日にイギリスの南極調査船「シャクルトン」 (RRS Shackleton) が南緯60度線近くのアルゼンチンの排他的経済水域で、同国海軍による警告射撃を受けて、数発を被弾するという事件が発生した。2月19日、国防省は諸島の防衛について検討したものの、当時、同諸島には軽武装の氷海警備船「エンデュアランス」 (HMS Endurance) とイギリス海兵隊の隊員36名しか配備されておらず、侵攻阻止はほぼ絶望的であると見積もられ、奪回作戦に重点が置かれた。 同年のクーデター(英語版)で権力を掌握したホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領は、国民弾圧へのガス抜きのためにフォークランド問題解決への糸口を探っており、交渉を進めるための挑発行動として、12月には、50名のアルゼンチン軍部隊がイギリス領サウスサンドウィッチ諸島南端の無人島である南チューレに無断で上陸し、アルゼンチンの国旗を掲げる事件が発生した。イギリスのインテリジェンス・コミュニティーを統括する合同情報委員会(JIC)は、これをアルゼンチン軍事評議会において強硬派が優勢になりつつある兆候と分析した。 JICが1977年11月に作成した情報見積もりによれば、アルゼンチンが軍事行動を含めたより強引な手段に訴えてくる危険性があると指摘された。そのため、キャラハン首相は、11月21日に原子力潜水艦「ドレッドノート」とフリゲート「アラクリティ」「フィービ」および支援艦艇を派遣する (Operation Journeyman) ことを決定した。キャラハンは機動部隊派遣について秘密情報部長官に話し、これがアメリカ合衆国を経由して非公式にアルゼンチンに通告されることを期待した。アルゼンチンがこの艦隊派遣を知りえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては不明である。一方、イギリス側は交戦規定の策定など軍事行動のシミュレートを進めるとともに、「エンデュアランス」も一時的に本国に戻されて、レーダー探知機や通信傍受装置などの装備が施された。 1979年に就任したサッチャー首相は外交経験が無かったことから、老練なピーター・キャリントンを外務大臣に迎えた。当時外務・英連邦省とイギリス国防省では、南チューレ上陸事件への対応を踏まえて任務部隊を諸島に常駐させるという「フォークランド要塞化」案を検討していたが、これにはかなりの財政的負担が伴うことから、キャリントン外務大臣及びニコラス・リドリー外務閣外大臣は、名目上の主権をアルゼンチン側に委譲したうえで諸島をイギリスが借り受ける「リース案」を腹案としていた。1980年8月25日にはこの案を携えたリドリー外務閣外大臣がアルゼンチンのカヴァンドーリ外務副大臣と会談し、おおむね好意的な反応を受けた。 しかしサッチャー首相は、国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていたのに対し、島民は自分たちが「イギリス国民」であることに固執しており、リドリー外務閣外大臣は11月22日にスタンリーを訪問して400名の島民と討論を行なったものの、惨憺たる結果となった。またイギリス側は議会への通知を後回しにして交渉を進めていたところ、マスコミにすっぱ抜かれて周知の事実となってしまったことで、議会も態度を硬化させてこの案を拒絶した。 アルゼンチン側はイギリスによるフォークランド占有から150年の節目に当たる1983年までには、諸島問題を「いかなる手段」を使っても解決することを目標としていた。また、1981年12月8日に新大統領に選出された陸軍総司令官のレオポルド・ガルチェリ中将は翌年には陸軍総司令官を退任することになっていたため、退役までに政治的な功績を残す必要に迫られていた。 1981年当時のイギリスでは国防政策見直しの作業が進められており (1981 Defence White Paper) 、トライデントSLBMの予算を捻出するため、氷海警備船「エンデュアランス」や空母「インヴィンシブル」の退役が検討されていたが、アルゼンチン政府は、これらの検討内容について、イギリスはフォークランド諸島の安全保障問題よりも国内の財政問題を優先したものと解釈していた。12月15日、海軍総司令官ホルヘ・アナヤ大将 (Jorge Anaya) は、海軍作戦部長フアン・ロンバルド中将 (Juan Lombardo) に対し、フォークランド諸島侵攻作戦計画の作成を下令し、本格的な武力行使の計画が開始された。 1982年1月27日にアルゼンチン外務省はイギリスに対して主権問題解決のための定期的な交渉の開始を提案し、2月27日にはアメリカ合衆国ニューヨークで会談が持たれた。アルゼンチン外務省としてはイギリスを交渉の場に繋ぎ止め、武力紛争の勃発だけは避けようとしていたが、イギリス側はアルゼンチンがそこまで強硬な姿勢を固めつつあることを想定しておらず、まずは島民の意思を変える時間を稼ぐための引き伸ばしを図っており、積極的に話し合いを進める意図はなかった。アルゼンチン外務省は落胆し、3月1日に「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した。 これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、依然としてイギリス側の反応は鈍く、3月9日に開催されたJICでは、外交交渉が続いている限り、アルゼンチンが極端な行動には出ることはない、という結論であり、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても、同年10月以降になるであろう、という推測であった。同日、サッチャー首相は国防省に対して非常時の対策を練っておくよう指示していたが、その後2週間は具体的な検討は行われなかった。アルゼンチンの首都ブエノスアイレス駐在のウィリアムス英国大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、狼少年と見なされてしまい、重視されなかった。 3月19日にアルゼンチンのくず鉄回収業者コンスタンティノ・ダヴィドフ(Constantino Davidoff)はアルゼンチン海軍の輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」(ARA Bahaia Buen Suceso)によってサウスジョージア島のクリトビケンに上陸した。これは旧捕鯨施設解体のためであり、この解体自体はイギリス政府との契約に基づくものであったが、上陸のための事前許可をサウスジョージア民政府から得ていなかったうえに、作業員のなかにアルゼンチン軍人が紛れ込んでおり、上陸すると、アルゼンチン国旗を掲げた施設を設置し始めた。 イギリス外務・英連邦省はアルゼンチン外務省に抗議するとともに、氷海警備船「エンデュアランス」に海兵隊員22名と軍用ヘリ「ワスプ」2機を乗せて同島海域に派遣したが、これに対抗して、アルゼンチン海軍もコルベット2隻を派遣した。アルゼンチン側の強硬姿勢に驚いたイギリス側は、偶発的な衝突を避けるため、「エンデュアランス」をサウスジョージア島沖に待機させ、状況を監視させた。イギリス側は、戦闘行為がフォークランド諸島にまで飛び火することを恐れており、問題の範囲をサウスジョージア島に留めておきたいと考えていたが、アルゼンチン側を抑止するのか撃退するのかという根本的な方針を定めないまま「エンデュアランス」を派遣したために、対応が中途半端となり、かえって危機を悪化させてしまった。 3月23日にイギリスは危機の収束のためには譲歩もやむなしとして、サウスジョージア島からアルゼンチン軍部隊が速やかに退去すれば外交交渉で妥協する用意があることを緊急に伝えた。しかしこの譲歩は既に手遅れであった。同日、アルゼンチン側の軍事評議会において、サウスジョージア島から部隊を撤収させないということが決定されてしまっており、その上で部隊を撤収させた場合はイギリス側の恫喝に屈したことになるため、強硬派のガルチェリ大統領にとって、もはや受け入れがたい選択となっていた。 3月26日にアルゼンチンのコスタ=メンデス外相は、サウスジョージア島に上陸したアルゼンチン人同胞の保護のために海軍砕氷艦「バイア・パライソ」(ARA Bahia Paraiso)を同地に派遣しており、必要に応じてあらゆる措置を講ずる用意がある由を発表した。同艦から海兵隊員がサウスジョージア島リース港に上陸するに及んで、イギリス側も、外交的手段による状況の打開が極めて困難になっているということを、ようやく理解した。 このように情勢が加速度的に悪化しているにも関わらず、依然としてイギリスの対応は鈍かった。イギリスの情報機関は3月22日になっても、あくまで問題はサウスジョージア島であって、フォークランドにまで侵攻して来るなどとは想定していなかった。3月28日には政府通信本部(GCHQ)により、アルゼンチン海軍の潜水艦「サンタ・フェ」がフォークランド諸島沿岸に派遣されていることが傍受されたものの、同日、アルゼンチン海軍総司令官アナヤ大将が「サウスジョージア島でアルゼンチン人が殺害されない限りフォークランドには手を出さない」と発言したこともあって、この情報の重要性は十分に認識されなかった。 3月31日の時点においてすら、JICは「アルゼンチンはサウスジョージア問題を逆手にとって交渉の材料にしようとしている」として、サウスジョージア島で挑発してイギリスの行動を誘うことがアルゼンチンの目的であって、よもや先に仕掛けて来ることはないであろう、との判断であった。しかし同日、GCHQは、アルゼンチンの海兵部隊一個大隊が4月2日にはフォークランドのスタンリーに達するということ、そしてブエノスアイレスから在英アルゼンチン大使館に対して全ての機密書類の焼却命令があったという決定的な情報を傍受した。 事ここに至り、イギリス政府も、ついにアルゼンチンの狙いがフォークランド諸島にあり、情勢が想定を大きく超えて急迫していることを理解した。サッチャー首相は米国に事態収拾の仲介を要請しており、4月1日、レーガン大統領はガルチェリ大統領に対する説得工作を行っていることと米国の立場がイギリス寄りであることを伝えたが、ガルチェリ大統領との連絡は困難であった。駐アルゼンチン米国大使が既にガルチェリ大統領と面会していたが、大統領は「何を言っているのか全く訳がわからない」状態であった。4月1日20時半頃(米国東部標準時)、レーガンはようやくガルチェリと電話で話すことができたが、侵攻を思いとどまるよう説得するレーガン大統領に対し、ガルチェリ大統領は自分たちの大義について演説し始める始末であり、説得は失敗であった。 このような外交的手段と並行してイギリス側も重い腰を上げて、軍事的な対応に着手していた。3月29日には、物資と海兵隊員200名を乗艦させたフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」が急派された。また4月1日には原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」も派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート艦「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになった。海軍は、今後も増派を続けるのであればこのような五月雨式の派遣を続けるべきではないと考えており、第一海軍卿リーチ提督は、空母機動部隊の編成を上申した。これを受けて、3月31日の時点で、サッチャー首相は任務部隊の編成を下令していた。しかしこれら先遣隊の到着は4月13日前後、そして空母機動部隊の出港も4月5日の予定であった。 これに対してアルゼンチンにおいては、3月26日の時点で軍事評議会によってフォークランド諸島侵攻に関する最終的な決断が下されていた。現地時間4月1日19時、アルゼンチン軍はロサリオ作戦を発動し、同日23時に最初の部隊がスタンリー付近に上陸して、本格侵攻を開始した。 上記の通りフォークランド諸島侵攻作戦の具体的な計画作成は、1981年12月15日に海軍総司令官アナヤ大将から海軍作戦部長ロンバルド中将への下令を端緒とする。この際、アナヤ大将の指示は「マルビナス諸島を奪回せよ。しかしそれらを確保する必要はない」というものであり、イギリスの反撃は予期されていなかった。1982年1月中旬より陸軍・空軍も加えて統合作戦計画作成が着手された。 この時点では作成完了時期は9月15日とされており、その前に何らかの動きを取ることは考慮されなかった。南半球にあるフォークランド諸島では北半球とは逆に、9月は真冬の過酷な天候が終わる時期であった。年初に招集されたアルゼンチン陸軍の徴集兵の訓練も進展しており、海軍航空隊にはシュペルエタンダール攻撃機とエグゾセ空対艦ミサイルの配備が進み、またフォークランド周辺にイギリス海軍が有する唯一の軍艦である氷海警備艦「エンデュアランス」も解役されているはずであった。上陸部隊としては海兵隊第2歩兵大隊が選定され、2月から3月にかけて、フォークランドに地形が似ているバルデス半島で数回の上陸演習を行った。基本的な上陸計画は3月9日に軍事政権の承認を受けて、9月までかけて作戦計画は準備されるはずだった。 しかし3月下旬、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸を巡り、情勢は急激に緊迫し始めていた。3月23日にアルゼンチン政府はイギリスによる業者の退去を阻止するためサウスジョージア島に兵力を送るとともに、この危機を口実にフォークランド諸島を占領することを決心し、侵攻計画の立案グループに対して、計画をどの程度前倒ししうるかを諮問した。3月25日、ロンバルド中将は、同月28日に出港してフォークランド上陸は4月1日であると回答した。軍事政権はこの回答を承認し、ただちにフォークランド上陸作戦とサウスジョージアへのさらなる兵力増強の準備に取りかかるよう命令した。 アルゼンチン軍においてフォークランド諸島の占領を担当したのは、カルロス・ブセル海兵隊少将を指揮官とする第40.1任務群であった。上記の通り海兵隊第2歩兵大隊を基幹として、上陸特殊作戦中隊および水中障害破壊部隊、野戦砲兵などを配属されていた。主たる攻撃目標は総督公邸と海兵隊兵舎であり、多方面から圧倒的に優勢な兵力で奇襲攻撃することで、できれば流血無しに占領することを企図していた。 イギリス側では丁度同地の警備に当たる海兵隊分遣隊が交代の時期を迎えたタイミングで情勢が緊迫し、大使館付駐在武官の助言を容れて交代を中止したため、定数の倍にあたる69名の海兵隊員が駐在していた。また「エンデュアランス」から陸戦隊11名が派遣されていたほか、同地に住んでいた退役海兵隊員1名が再志願して加わっていた。海兵隊指揮官マイク・ノーマン少佐は、侵攻を受けた場合、緒戦で可能な限り激しい打撃を加えて交渉の時間を稼ぐことを企図していた。 3月28日、アルゼンチン軍侵攻部隊が出航した。当初計画では3月31日から4月1日の夜間に上陸する予定であったが、荒天のため24時間延期された。4月1日、フォークランド諸島総督レックス・ハント卿は、アルゼンチンの侵攻が迫っていることを本国より通知されて、これを島民に向けてラジオ放送した。これにより、アルゼンチン側は、既に戦術的奇襲が成立しなくなっていることを悟った。 4月1日21時30分(以下特記無い限りタイムゾーンはUTC-4)、ミサイル駆逐艦「サンティシマ・トリニダド」より、特殊作戦上陸中隊92名がゴムボート21隻に分乗して発進した。これらの部隊は二手に分かれ、サバロツ少佐に率いられた76名はイギリス海兵隊兵舎を、またヒアチノ少佐に率いられた16名は総督公邸を目指した。一方、イギリス側は、停泊中の民間船の航海用レーダーで港を見張っており、2日2時30分にはこれらのアルゼンチン艦艇の動きを把握していた。また監視哨からも報告が相次ぎ、4時30分にハント総督は緊急事態を宣言した。 アルゼンチン側の計画では、イギリス海兵隊が兵舎で就寝中のところを奇襲し、死傷者を出さずに制圧することになっており、サバロツ少佐はこれに従って催涙弾を投げ込んだが、実際にはイギリス海兵隊は既に全員が戦闘配置に就いており、兵舎はもぬけの殻であった。一方、ヒアチノ少佐の隊は、急遽この目標に振り替えられたため、総督公邸に関する情報を何も持っていなかった。ヒアチノ少佐は4名の部下を連れて降伏勧告に赴いたが、誤って総督公邸ではなく執事の住居に入ってしまった。そして公邸では、海兵隊員31名と水兵11名、退役海兵隊員1名が自動小銃を構えていた上に、総督付運転手が散弾銃を、そして総督自身も拳銃を構えていた。誤りに気づいて出てきたヒアチノ少佐たちに銃撃が浴びせられ、ヒアチノ少佐は戦死、1名が負傷して、降伏勧告に向かった全員がイギリスの捕虜となった。指揮官を失ったアルゼンチン側は次の動きを決められず、事態は膠着状態となった。 一方アルゼンチン軍本隊では、まず4時30分に潜水艦「サンタ・フェ」より水中障害破壊部隊のダイバーたちが出撃し、偵察を行うと共に水陸両用車のための誘導灯を敷設した。続いて6時に戦車揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」よりLVTP-7装甲兵員輸送車およびLARC-5貨物車に分乗した海兵隊第2歩兵大隊が出撃し、母艦からの誘導に従って岩礁を迂回したのち、誘導灯に従って無事上陸した。上陸すると、まずスタンリー空港を確保し、イギリス側が滑走路に設置した障害物を撤去したのち、スタンリー市街に向けて前進していった。 7時15分にはイギリス海兵隊の小部隊による妨害攻撃が行われたものの、双方とも戦死者はなく、8時には市街を掌握した。既に海兵隊の砲兵部隊や予備隊も上陸し、スタンリー空港には増援の陸軍部隊を乗せた航空機が着陸し始めていた。イギリス側が保持している施設は総督公邸のみとなっており、ハント総督は、島民と軍人へ不必要な生命の損失を与える徹底抗戦を避けて交渉することにした。9時25分に武装解除が命令されて、フォークランド諸島における戦闘はいったん停止した。 アルゼンチンはサウスジョージア島占領のため、セサル・トロムベタ海軍大佐を指揮官とする第60任務群を派遣した。これは極地輸送艦「バイア・パライソ」とコルベット「ゲリコ」から構成されており、艦載ヘリコプター2機と海兵隊員80名が乗り込んでいた。 サウスジョージア島には、研究者等を除けば定住者はなく、通常は軍隊の配備もないが、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸への対応措置として、3月24日より、氷海警備艦「エンデュアランス」と、ミルズ中尉 (Keith Mills) 指揮下の海兵隊員22名が警戒活動にあたっていた。その後、海兵隊は3月31日に下船し、グリトビケンのイギリス南極探検隊 (British Antarctic Survey) の基地に駐屯した。4月1日には、ハント総督によるフォークランド諸島民へのラジオ放送が受信されたほか、4月2日には、BBCワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻が報じられた。国防省からの指令を受けて、「エンデュアランス」はアルゼンチン軍に見つからないように離れつつ情報収集母体として活動することになり、ミルズ中尉は、猛烈な嵐のなかで防御陣地を構築し、また海岸と桟橋に鉄条網と爆発物を敷設させた。 4月2日12時25分頃、グリトビケンのあるカンバーランド湾に「バイア・パライソ」が侵入してきた。本来、この日にサウスジョージア島への侵攻作戦も実施される予定であったが、極度の悪天候のために断念し、無線で「明朝もう一度来て通信する」と通告して去って行った。4月3日の夜明けには天候も回復しており、6時30分には再び来航した「バイア・パライソ」からのVHF通信で降伏要求がなされた。この間、アルゼンチン軍は、まずピューマ・ヘリコプターのヘリボーンによって部隊を展開させていたが、同地にイギリス軍はいないものと誤認しており、ピューマ・ヘリコプターは陣地の近くを飛行したため、ミルズ中尉たちの一斉射撃によって数十発が命中し、2名が戦死、残りは全員負傷して、機体は不時着した。 トロムベタ大佐は「ゲリコ」へイギリス軍陣地への艦砲射撃を命じたが、目標があまりに近くて俯角を取れず、射撃できずにいるうちに、逆にミルズ中尉たちのカールグスタフ無反動砲とM72 LAW対戦車ロケット弾、そして機関銃および自動小銃の射撃を受けて、水兵1名が戦死し、砲の旋回機構も破壊された。しかしこの間に、アルエットIIIヘリコプターによって、不時着したピューマの負傷者は収容され、また増援部隊を着陸させた。アルゼンチン海兵隊は巧みに展開し、ミルズ中尉たちを包囲していった。また「ゲリコ」も、いったん沖に後退したのちに艦砲射撃を再開しており、砲の旋回機構を破壊されたために弾着の誤差が大きかったものの、徐々に陣地に近づいていた。 ミルズ中尉は、事前に「無益に人命を失うおそれが生じる前に、抵抗をやめる」と指令されていたこともあって、この時点でアルゼンチン軍に対し十分な損害を与えたとして、降伏した。イギリス側は重傷者1名を出したものの、戦死者はなかった。これに対し、アルゼンチン軍は圧倒的に優勢であり、またミルズ中尉が無線で海兵隊の駐屯を宣言していたにも関わらず、イギリス軍はいないだろうという思い込みで不用意に兵力を投入した結果、フリゲート1隻損傷、ヘリコプター1機全損、死者3名という損害を被った。ただし、後々の外交交渉のことを考えて、イギリス人を殺さないように攻撃を手控えた結果とも言われる。 3月31日の時点で、サッチャー首相は、「ハーミーズ」「インヴィンシブル」の2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された。アルゼンチンの侵攻に対して、サッチャーが既に任務部隊派遣の準備が整っていることを表明すると、世論はこれを熱狂的に支持したが、アルゼンチンの侵攻を未然に防げなかったことについて野党は追求の手を緩めず、責任を取って、キャリントン外相、アトキンズ閣外大臣、並びにルース次官は辞任を余儀なくされた。そして4月6日には、サッチャーはイギリスの伝統に基づいて戦時内閣を設置し、サッチャーと数名の閣僚によって意思決定を行える制度を整えた。 このように部隊を派遣してはいたものの、イギリスにとって、武力行使による奪回は最終手段と位置づけられており、できれば任務部隊の派遣効果と対アルゼンチン経済制裁によって、アルゼンチンが全面的に屈服するか、あるいは国連やアメリカによる調停を期待していた。サッチャーは、スエズ危機の教訓を踏まえて、アメリカや国際法を無視した武力行使はありえないと考えており、まずこれらの地固めを重視した。 しかし国連はもともと平和主義と反植民地主義的志向が強く、イギリス寄りでの調停は期待し難かった。またイギリスとしては自衛権の発動を主張することも困難であった。自衛権とは攻撃を受けてから生ずるものであるのに対し、フォークランド総督府は既に降伏し、戦闘はいったん終結していたためである。4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めたが、これが精一杯であった。 イギリスでは軍事作戦と並行して経済制裁についても検討しており、4月2日には国内のアルゼンチン資産を凍結しその額は15億ドルにも及んだ。ただし当時のアルゼンチン経済は食糧、エネルギー分野においては自給に近かったことから短期的な影響は小さく、長期的な影響を与えるためには諸外国との連携が必要であった。欧州、コモンウエルス諸国、そして日本は外交的にイギリスを支持し、対アルゼンチン武器禁輸、アルゼンチンからの輸入の部分的停止、対アルゼンチン新規融資の禁止などを含んだ対アルゼンチン経済制裁に同意したが、日本は経済制裁には追随しなかった。 これと並行して、アメリカのアレクサンダー・ヘイグ国務長官やイギリスのフランシス・ピム外相のシャトル外交により、事態の打開が模索された。アメリカにとって、反共という立場では共通するイギリスとアルゼンチンが対立を続けることは望ましくなかったこともあり、積極的に調停を試みた。ヘイグ国務長官の基本的な構想は、まずアルゼンチンが撤兵し、それを確認してイギリスも任務部隊の派遣をやめるというものであった。4月12日にはロンドンを訪れて、この構想に基づく提案を提示した。イギリスも一時はその案の受諾の方向で進んでいたが、アルゼンチンは主権の移譲を主張して譲らず、ヘイグを愕然とさせた。 イギリス側が諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は、同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、イギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないよう定める文言が、4月24日のアルゼンチン案に含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的と考え、さらに外交交渉が時間稼ぎのために使われていることを懸念した。 ヘイグ長官はなおも調停を試みたものの、4月25日のサウスジョージア島奪還を受けて、27日にはアルゼンチン軍事評議会はヘイグの調停案を拒絶する決定を下し、2日後にヘイグにそのことを伝えた。ヘイグは、もし戦闘が勃発すればアメリカはイギリスを支持することを表明した。 戦争中もイギリス政府や諸外国政府は、外交的に戦争の落としどころを探っていた。ヘイグ国務長官はイギリス、アルゼンチン双方に対して48時間以内の即時停戦とフォークランド諸島からの撤退を求めていた。またペルー政府も仲介役に積極的であり、即時停戦や部隊の撤収、第三国によるフォークランド諸島の一時的な統治の確立などの調停案を持ちかけていた。しかしこのときにイギリス原子力潜水艦「コンカラー」によってアルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」が撃沈され、またイギリス駆逐艦「シェフィールド」にエグゾセを命中させたことで、アルゼンチンは態度を硬化させており、ペルーとアメリカの仲裁には関心を持たず、国際連合の場でイギリスに国際的な圧力をかけて譲歩を引き出そうとしていた。 アメリカにとっては、米英関係と同時にラテン・アメリカ諸国との関係も良好に保つ必要があった。そしてチリを除くラテンアメリカ諸国にとっては、アルゼンチンが完敗して再び政変が生じることは望ましくなかった。5月31日、レーガン大統領はブラジルの大統領と協議したのち、サッチャー首相に電話して、ヘイグ国務長官の即時停戦案を受け入れるよう提案したが、イギリスはグース・グリーンの戦いで勝利を収めた直後であり、到底受け入れられるものではなかった。サッチャー首相は猛抗議し、しまいにはレーガンが「自分でも余計な指図をしたことはわかっているが...」と折れる有様であった。 6月2日には、今度は国際連合安保理の場においてスペインとパナマが独自の即時停戦案を提出した。サッチャー首相は折からのヴェルサイユ・サミットで各国首脳への根回しを行っていたが、日本の鈴木善幸首相だけは問題の平和的解決に拘って即時停戦案への賛成を表明しており、サッチャー首相を激高させた。そして2日後の安保理では、日本とソ連を含む9か国が停戦案に賛成したため、イギリスは拒否権を発動して停戦案を封じ込めざるを得なかった。 上記の通り、イギリス軍は、当初は情勢が緊迫するにつれて五月雨式に派遣部隊を増やしており、まず3月29日にフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」、4月1日に原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」が派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになっていた。アルゼンチン軍の侵攻の時点で、「フォート・オースティン」と原子力潜水艦は大西洋を南に向けて航行中、フリゲート艦隊はようやくジブラルタルの海軍基地を出港したところであった。 そして3月31日の時点で、サッチャー首相はセントー級航空母艦「ハーミーズ」とインヴィンシブル級航空母艦「インヴィンシブル」の2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された。 当時、第1艦隊はカサブランカ沖でNATOの演習「SPRINGTRAIN」に参加しており、ここから下記の7隻が抽出されたほか、既に演習部隊から分離されて西インド方面における長期任務へと向かっていたロスシー級フリゲート「プリマス」も呼び戻された。 4月3日2時30分には、これら8隻は補給艦「タイドスプリング」とともにフォークランド諸島に向かった。 4月5日には、大々的な見送りとともに、ポーツマスより2隻の空母が出撃した。同日、ひっそりと21型フリゲート「アラクリティ」「アンテロープ」、そして補給艦支援給油艦「ピアリーフ」、艦隊補給艦「リソース」および補給艦「オルメダ」も出港した。また4月6日には強襲揚陸艦「フィアレス」が、また4月9日には第3コマンドー旅団の大半および増援された陸軍の第3空挺大隊を乗せた徴用船「キャンベラ」も出港した。第1艦隊司令官ウッドワード海軍少将は、ジブラルタルから「グラモーガン」に座乗して既に南下しており、4月15日、空母部隊と合流した。搭載品の移載や会議を経て、4月18日、空母機動部隊はアセンション島を出港した。 また4月7日の時点で、イギリス政府は、12日4時(UTC)以降、フォークランド諸島周辺200 マイルに海上排除区域(Maritime Exclusion Zone: MEZ)を設定すると宣言していた。12日、原子力潜水艦「スパルタン」が排除海域で配備に入り、予定通りMEZが発効した。また15日には「スプレンディド」も配備に入った。「スパルタン」は東フォークランド島の近くを、「スプレンディド」はアルゼンチン本土の港湾とフォークランド諸島の中間になる海上排除区域の北方の哨戒水域を担当した。 一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンリー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機はプカラ攻撃機、イタリアのアレーニア・アエルマッキ社製の軽攻撃機MB-339・MB-326、アメリカのビーチエアクラフト社製のT-34Cターボメンター軽攻撃機等で編成された。 また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍がフランスのダッソー社から購入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、同じくフランスのMBDA社から購入した空対艦ミサイルエグゾセAM39が5発搭載された。 アルゼンチン軍は、4月3日のサウスジョージア島占領ののち、駐屯軍として海兵隊員55名をグリトビケンとリースに配置した。また廃材回収業者39名が引き続きリースに残っていた。しかし同地は地理的に隔絶しており、特にイギリス軍潜水艦の哨戒下ではアルゼンチン海軍による支援を受けることも困難で、守るに難しい状況であった。このため、イギリス軍としては、まず同地を奪還することで、来るべきフォークランド諸島奪還へと弾みをつける心算であった。 4月7日にはサウスジョージア島奪回のための部隊として、フリゲート「プリマス」と駆逐艦「アントリム」およびタイド型給油艦「タイドスプリング」によって第317.9任務群が編成され、のちにサウスジョージア島近海で氷海警備船「エンデュアランス」が合流、更に4月24日にフリゲート「ブリリアント」が合流した。上陸部隊は第42コマンドーのM中隊が割り当てられ、後に陸軍特殊空挺部隊(SAS)のD中隊と海兵隊特殊舟艇部隊(SBS)の1個分隊も追加された。作戦は「パラケット作戦」(Operation Paraquet)と名付けられたが、作戦参加者は、わざと文字を1字だけ変えて「パラコート(Paraquat)作戦」と呼んだ。これらの任務群を掩護するため、4月20日から25日の間、サウスジョージア島からアルゼンチン本土の沿岸までを、空軍のニムロッド哨戒機が哨戒したほか、原子力潜水艦「コンカラー」もサウスジョージア島沖を哨戒していた。 本隊の上陸に先立ち、まずSASがリースを、SBSがグリトビケンを偵察することになっていた。4月21日12時、リースを偵察するSAS分隊は、周囲の忠告を押し切って「アントリム」と「タイドスプリング」の艦載ヘリコプターによってフォーチュナ氷河に降下したが、おそるべき悪天と氷河の状態のために5時間弱をかけて500メートルしか進めず、4月22日10時に救出を要請した。ホワイトアウトの状態が続き、まず隊員の発見に難渋した上に、救出作業中に2機が墜落してしまった。幸い死者も重傷者もなく、残る1機は一度艦に戻って隊員を降ろしたのち、残されていた隊員と乗員を救出しようとしたが天候不良で二度も引き返し、三度目の挑戦でようやく救助に成功、1トン以上の過荷重状態で無事帰還した。またSBSのグリトビケン偵察も、強力な向かい風と、吹き寄せられた氷山によって阻まれ、失敗した。 4月23日には、SASの偵察隊員が、今度はボートによってストロームネス湾に潜入しようとしたが、極寒の環境で船外機がうまく動かず、5隻中目標に達したのは3隻のみで、1隻は外海に吹き出されてしまったところをヘリコプターで救出され、もう1隻は別の場所に吹き寄せられたのち3日後に救出された。しかし残る隊員は偵察活動を完遂した。 アルゼンチン海軍最高司令官アナヤ大将は、サウスジョージア島について、将来は科学観測基地を設けてアルゼンチンの実効支配を示そうと考えていた。その後、イギリス艦艇がこの島に近付いているという情報が入ると、一度はこの島をあきらめ、部下には無抵抗で降伏するよう命じた。しかしその後考えを変えて、潜水艦「サンタ・フェ」によって、増援として約40名の海兵隊員を送り込むことにした。同艦は、4月21日にマル・デル・プラタ海軍基地を出発し、24日深夜にカンバーランド湾の入り口に到着し、25日の2時頃から約2時間をかけて、海兵隊員と補給物資をグリトビケンに揚陸した。しかし帰路、カンバーランド湾内で第317.9任務群のヘリコプターに攻撃されて行動不能になり、グリトビケンに戻って、キング・エドワード崎に乗り上げた。 第317.9任務群では、この勢いに乗じるべきであると衆議一致した。この時点で、上陸部隊主力が乗艦する給油艦「タイドスプリング」は潜水艦脅威を避けて退避しており、上陸作戦は、駆逐艦・フリゲートに乗艦しているM中隊の指揮班と迫撃砲兵、そしてSASとSBSの特殊作戦部隊のみで行うことになった。まず13時より、「アントリム」と「プリマス」によってグリトビケンへの上陸準備射撃が開始され、続いて13時30分より寄せ集め部隊79名のヘリボーン展開が開始された。実のところ、艦砲射撃が始まるとすぐにアルゼンチン軍は白旗を揚げており、16時5分には接近した地上部隊がこれを確認し、16時30分にはイギリス国旗とイギリス海軍旗が掲揚された。この戦闘で両軍に死者・負傷者はでなかった。 引き続きリース奪還のため、17時15分、SASとSBSの隊員が「プリマス」と「エンデュアランス」に乗艦してリースのあるストロームネス湾へ派遣された。「エンデュアランス」艦長は無線で降伏を説得したところ、リースのアルゼンチン軍指揮官は、当初は「民間人は投降するが海兵隊員は戦う」と返答していたものの、21時45分には「決心を変え海兵隊員も降伏を準備している、イギリス軍指揮官は明日リースのサッカー場へヘリコプターで飛来して欲しい、そこで降伏の指示を受ける」と返答を変えた。イギリス側はいったんそれを認めたが、明朝、予定を変更して、武装解除したのち、上陸していたSAS・SBSの隊員のところに出頭するように命じた。その後、アルゼンチン側が夜のうちにサッカー場などに地雷を敷設していたことが判明し、イギリス側の判断の正しさが裏付けられた。 4月12日より原子力潜水艦による海上封鎖が開始され、フォークランド諸島周辺にMEZが設定されていたが、空母戦闘群の到着に伴って、4月28日には、2日後の4月30日をもって、MEZをアルゼンチン航空機をも対象とする完全排除水域(TEZ)に強化することを宣言した。 紛争勃発時点で海軍が保有していたシーハリアー艦上戦闘機は31機だけで、しかも2機が未引き渡しであった。艦隊の派遣にあたって、20機を機動部隊に配属して、8機を予備、4機を訓練・機材試験用に保持することとなり、第899飛行隊の保有機は第800・801飛行隊に分割されて配属され、下記のように配分された。 「ハーミーズ」のほうが大型であることから多くの機体を搭載しており、後に空軍のハリアーが派遣された際も同艦に搭載された。 5月1日早暁、空軍のバルカン戦略爆撃機による爆撃の直後より、「ハーミーズ」の第800飛行隊のシーハリアーによる攻撃が行われた。「インヴィンシブル」は小型で搭載機数が少ない一方でレーダーが近代的であったことから防空艦に指定され、同艦の第801飛行隊は艦隊防空のための戦闘空中哨戒を担当した。攻撃を終えたシーハリアーを収容すると空母戦闘群は離脱していったが、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート「アロー」および「アラクリティ」は分派されて、ポート・スタンリー周辺のアルゼンチン軍守備隊に対し艦砲射撃を行なった。3隻は13時25分に射撃を終了し、離脱中にアルゼンチン空軍のダガー攻撃機3機による爆撃を受け、「アロー」の乗員1名が腕に負傷し、3隻とも軽度の損傷を受けたものの、重大な損害はなかった。 一方、空戦が本格化したのは午後遅くからであった。まず戦闘空中哨戒(CAP)中のシーハリアー2機がアルゼンチン空軍のミラージュIIIEA戦闘機2機と交戦し、ミラージュ1機が撃墜され(パイロットは脱出)、中破した1機もスタンリー飛行場に不時着しようとしたところを味方の対空砲に誤射されて撃墜された(パイロットは戦死)。またその数分後には、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機2機がシーハリアー2機と交戦し、ダガー1機が撃墜された。その更に数分後には、アルゼンチン空軍のキャンベラ爆撃機3機がシーハリアー2機と交戦し、キャンベラ1機が撃墜された。これらの撃墜はいずれもサイドワインダー空対空ミサイルによるものであった。 4月5日より、アルゼンチン海軍はイギリス海軍との決戦に備えて大規模な艦隊の再編成を行い、主要な戦闘艦艇および補助艦艇は第79任務部隊として再編された。4月30日、この任務部隊は、下記の3つの任務群に分割されてそれぞれの作戦海域に配備された。 第79任務部隊指揮官アララ准将は「ベインティシンコ・デ・マヨ」に乗艦しており、5月1日、同艦搭載のトラッカー哨戒機がイギリス空母戦闘群を発見したことで、同日23時7分(UTC)、攻撃作戦の開始を命じていた。作戦では、第79.1任務群と第79.3任務群によってイギリス空母戦闘群を挟撃することになっていた。しかし5月2日1時(UTC)以降、風はどんどん弱くなっており、元々機関の不調に悩まされ、航空機の運用に必要なだけの速力を発揮するのが困難だった「ベインティシンコ・デ・マヨ」の航空艤装では、スカイホーク攻撃機を発艦させることは困難になっていた。また同日3時30分(UTC)、イギリスのシーハリアー艦上戦闘機が飛来し、アララ准将は、自らの位置が曝露したものと信ずるに至った。4時45分(UTC)、アララ准将は作戦の続行を断念し、各任務群は、イギリスの潜水艦を避けるため、浅海域に戻ることになった。 一方のイギリス軍は実際には第79.1任務群の位置を把握していなかったが、第79.3任務群は、5月1日14時(UTC)以降、原子力潜水艦「コンカラー」によって追尾されていた。同群はTEZに入らず、その外縁部を沿うように進んでいた。すなわち、この時「ヘネラル・ベルグラーノ」はTEZの外にあったのである。一方でこの巡洋艦は元々ブルックリン級軽巡洋艦「フェニックス」として第二次大戦前の1938年にアメリカ海軍で就役した旧式艦であり、いかに旧式艦とはいえ強力な艦砲と装甲を備えていたため、通常の水上戦闘艦の4.5インチ砲やエグゾセ艦対艦ミサイルでは対抗できず、対処には潜水艦の長魚雷かシーハリアーの1,000ポンド爆弾が必要となるので、もし針路を変更してTEZに突入してきた場合、重大な脅威となることが予想された。このため、イギリス軍にとって、これを攻撃するべきか否かは懸案事項となり、最終的にサッチャー首相の認可を受けて交戦規定(ROE)が変更され、攻撃が認可された。 「コンカラー」の通信装置の不調のために命令文の受領には時間がかかったが、5月2日17時10分(UTC)までに攻撃する意思を示す電報を送信し、18時13分(UTC)、「コンカラー」は戦闘配置についた。第79.3任務群は同艦の存在に気付いていなかったものの、緩やかに蛇行しながら前進していた。18時57分(UTC)までに、理想的な位置である「ヘネラル・ベルグラーノ」の左艦首1,400 ヤードに占位し、「コンカラー」は、Mk8魚雷3発を斉射した。このうち2発が艦首と左舷後部に命中し、左舷後部への被弾が致命傷となって「ヘネラル・ベルグラーノ」は撃沈された。魚雷命中から20分後に「へネラル・ベルグラーノ」のボンソ艦長は総員退去命令を出したが、荒天のために救助活動は難航し、850名が救助されたものの、321名が戦死した。また、「ヘネラル・ベルグラーノ」に乗り込んでいた民間人2名がこの攻撃に巻き込まれて死亡している。 第79任務部隊が大陸棚の浅海に戻って以降、紛争が終わるまでの間、アルゼンチン海軍の水上戦闘艦は現存艦隊主義に徹し、二度と出撃してくることはなかった。「ベインティシンコ・デ・マヨ」の艦載機は搭載解除され、ほぼすべての航空機は陸上基地に配置され航空作戦全般に参加することになった。 5月4日11時15分(UTC)、アルゼンチン軍のP-2哨戒機が1隻の駆逐艦のレーダー波を逆探知し、「ハーミーズ」がフォークランド諸島の東方にいると考えられたことから、30分以内にエグゾセAM39空対艦ミサイルを1発ずつ搭載したシュペルエタンダール攻撃機2機がリオ・グランデ基地を発進した。14時(UTC)、この編隊は3隻の42型駆逐艦を発見した。 このとき発見された駆逐艦は、主隊の西18海里で防空任務にあたっていた「グラスゴー」「コヴェントリー」「シェフィールド」であった。5月1日のスタンリー飛行場攻撃作戦の際にアルゼンチン空軍が大きな損害を出したことから、反撃を予想して、「グラスゴー」の艦長は日中のSCOT衛星通信装置の使用を禁止するなど警戒を強めていた。13時56分(UTC)、「グラスゴー」の電波探知装置は、シュペルエタンダールの機上レーダによる掃引(レーダー波)を探知し、ただちに僚艦に急報した。しかしシュペルエタンダール(エグゾセ搭載可能)とミラージュIII(エグゾセ搭載不能、通常爆弾のみ)の機上レーダの信号パターンはよく似ており、5月1日には取り違えによる誤警報も何回かあったことから、「シェフィールド」や「インヴィンシブル」の対空戦調整室では、今回もミラージュIIIであろうと判断していた。また「シェフィールド」はSCOT衛星通信装置を作動させていたため、自身の電波探知装置は使えなくなっていた。 13時58分(UTC)、「グラスゴー」は目標を再探知し、14時(UTC)に対空戦闘配置を下令、チャフを発射した。このためにシュペルエタンダールは右に逸れて、「シェフィールド」を捕捉することになった。シュペルエタンダールは計2発のエグゾセAM39ミサイルを発射したが、うち1発は海面に突入した。残り1発のミサイルは順調に飛行を続け、14時3分(UTC)、「シェフィールド」に命中した。命中の15秒前、艦橋の当直士官が2つの煙を視認したが、最後までエグゾセAM39ミサイルの飛来は理解されず、ソフトキル・ハードキルのいずれも試みられることはなかった。弾頭は爆発しなかったものの、固体燃料ロケットの燃焼によって大火災が生じ、電源の喪失や消防ポンプの機能喪失によって消火活動の遂行も困難となり、シーダート艦対空ミサイルの弾薬庫に誘爆の恐れが生じたことから、21時(UTC)、総員退去が下令された。乗員260名中、死者・行方不明者20名、負傷者24名であった。その後「シェフィールド」の火災は2日後に鎮火し、アセンション島への曳航が行われたが、途上で荒天に遭遇して浸水が拡大し、5月10日に沈没した。 イギリス空軍は、任務部隊にハリアーやヘリコプターを提供するとともに、長い航続力を持つ固定翼機をアセンション島に進出させ、掩護や哨戒を行なっていた。このとき展開した航空機には、アブロ バルカン戦略爆撃機4機が含まれていた。NATOの作戦では空中給油の必要がほとんどなかったため、バルカン戦略爆撃機は空中給油装置を取り外していたが、この事態を受けて、直ちに再装備していた。 5月1日の第1次ブラック・バック作戦で、この空中給油装置が活かされることになった。バルカン戦略爆撃機はハンドレページ ヴィクター空中給油機と共にアセンション島を発進した後、ヴィクター空中給油機による空中給油を重ね、16時間をかけてスタンリー飛行場上空に進出して飛行場に爆撃を実施した。この爆撃では21発の爆弾が投下され、うち1発が滑走路に命中してクレーターを作ったほか、空港施設や駐機していた航空機にも損害を与えた。 この5月1日の爆撃作戦は、直接的な戦果は乏しかったものの、アルゼンチン軍の意思決定に多大な影響を与えたという点で意義が大きかった。バルカン戦略爆撃機によるアルゼンチン本土攻撃の可能性がにわかに注目されることとなり、この時を境に、アルゼンチン本土の脅威がアルゼンチンの計画における主題の1つとなった。これによって、アルゼンチン空軍の最有力の戦闘機であるミラージュIIIEAは本土防空のために拘置されることになり、ミラージュIIIEAとシーハリアーの本格的な空中戦は5月1日の戦闘が最初で最後の機会となったのであった。 またウッドワード提督は、シーハリアーの機数と攻撃能力の不足から、引き続きバルカン戦略爆撃機による爆撃を要望していた。「ヘネラル・ベルグラーノ」などの撃沈に対する反撃として、スタンリー飛行場にシュペルエタンダールを展開するのではないかという懸念もあり、飛行場に対する攻撃を継続することになった。 「シェフィールド」の沈没以降、ウッドワード提督は、最終的上陸のための条件作りに努めており、自己の裁量の範囲内で上陸作戦に不可欠なフォークランド諸島内の偵察および排除水域の実効性の確保を行った。 5月9日には、イギリス空母戦闘群の捜索にあたっていたアルゼンチン海軍の情報収集船「ナルワル」 (ARA Narwal) が排除された。まずシーハリアーが機銃掃射したのちに8名のSBS隊員がヘリコプターからファストロープ降下して突入し、機銃掃射により死亡していた船長を除いて、情報士官を含む11名の生存者全員を捕虜にした。 5月10日には、フォークランド水道内の機雷の敷設状況を確認するため「アラクリティ」「アロー」が分派された。機雷は敷設されていないことが確認されたほか、この通峡の途中、「アラクリティ」はアルゼンチンの輸送艦Isla De Los Estadosをレーダーで捉え、艦砲射撃によって撃沈した。またこの他、夜間に継続して艦砲射撃、爆撃、照明弾射撃を行うことで、アルゼンチン軍守備隊の睡眠妨害を試みていた。 4月30日より、SAS・SBSの計10チームがフォークランド諸島各所に潜入し、上陸候補地点の地理的情報の収集にあたっていた。また第3コマンドー旅団参謀のサウスビー=テルユア少佐は、以前にフォークランド海兵隊分遣隊の隊長だったとき、余暇を利用して海岸線をくまなくヨットで調査してレポートを作成しており、大いに参考になった。 5月10日、これらの情報を踏まえて、上陸地点はサン・カルロスと決定された。同日、第317任務部隊指揮官フィールドハウス大将は、その上陸部隊である第317.1任務群指揮官トンプソン准将(第3コマンドー旅団長)に対し、フォークランドへの上陸を準備するよう指示した。そして5月12日、隷下部隊に対し、「作戦命令3/82」として、水陸両用作戦である「サットン作戦」を発令した。 なお第317.1任務群は第3コマンドー旅団から編成されていたが、同旅団のみでは兵力に不安があるとして、陸軍の第5歩兵旅団(旅団長:ウィルソン准将)から第2・3空挺大隊が抽出されて増援されていたほか、5月3日には旅団そのものが派遣されることになっていた。これら2個旅団を統一指揮する組織としてフォークランド諸島陸上軍(LFFI)が設けられ、その指揮官としてはムーア海兵隊少将が任命されて、指揮権は5月20日に発動された。サットン作戦においては、ムーア少将と第5歩兵旅団の到着前に、第3コマンドー旅団によって橋頭堡を確保し、ここに第5歩兵旅団を投入して戦果を拡大することとなっていた。 シーハリアーは空中戦での損害はなかったものの、5月4日にグースグリーンを攻撃中の機体が対空砲火で撃墜され、また6日にはレーダーコンタクトの捜索に向かった2機が消息を絶って、一挙に17機に減勢してしまった。しかし5月18日には、シーハリアーFRS.1の予備機による第809飛行隊と、空軍のハリアーGR.3攻撃機による第1飛行隊が到着した。「ハーミーズ」には、6機のハリアーGR.3と4機のシーハリアーFRS.1が追加されて計21機となり、「インヴィンシブル」には4機のシーハリアーFRS.1が追加搭載されて計10機となり、空母戦闘群としての艦上戦闘機・攻撃機は31機に増勢した。これによって、近接航空支援・航空阻止はハリアーGR.3の担当となり、シーハリアーFRS.1はCAPに注力できるようになった。 アルゼンチン海軍は、4月24日に、西フォークランド島のすぐ北にあるペブル島の飛行場にT-34C軽攻撃機4機を配置していた。また空軍も、5月1日のシーハリアーの攻撃を受けて、グースグリーンに配置していたプカラ攻撃機12機を同地に移動させていた。 上陸地点がサン・カルロスに決したのち、イギリス軍にとって、同地から約40キロメートルしか離れていないペブル島に(貧弱なターボプロップの軽攻撃機とはいえ)敵機が存在することは看過できない問題となった。5月10日の作戦会議で、ウッドワード少将は、SASに対してこの飛行場の攻撃を命じた。SASはまず偵察することを考えており、3週間はかかると考えていたが、ウッドワード少将は15日までに実行するよう求めたことから、SASはその夜のうちに偵察部隊を出発させた。 悪天のため、実際の偵察は13日から14日にかけてとなり、この結果を踏まえて、14・15日の夜に本隊が進入して航空機に爆弾を仕掛け、駆逐艦「グラモーガン」も艦砲射撃を行なった。これにより同島に配置されていた航空機は全て破壊され、燃料・弾薬も炎上し、以後この飛行場がアルゼンチン軍に使用されることはなかった。SASは2名が負傷しただけで、全員が帰還した。 21日未明、上陸開始に先駆けて、まず「アントリム」の艦砲射撃とSBSの地上攻撃により、ファニング・ヘッドにいるアルゼンチン軍「鷲分遣隊」の監視哨が駆逐された。またこれと並行して、3時30分頃、上陸部隊本隊第1波として、海兵隊第40コマンドーと陸軍第2空挺大隊がLCUによって上陸を開始した。 鷲分遣隊の本隊はポート・サン・カルロスに所在しており、ファニング・ヘッドでの艦砲射撃の音は聞こえていたが、監視哨は通信を送る間もなく壊滅したため、具体的に何が起きているかを把握することはできなかった。夜明けを待って斥候を送り、8時10分頃、イギリス軍の揚陸作戦が実施されていることが判明した。分遣隊はこれらの情報を全てグース・グリーンの第12歩兵連隊へ無線で報告し、航空機による対地攻撃を要請したのち、東方へ離脱した。この間、誤って上空を飛行したイギリス軍のシーキングおよびガゼル・ヘリコプター各1機を撃墜、ガゼル1機に損害を与えた。この損害を受けて、イギリス第3空挺大隊は鷲分遣隊を掃討しようとしたが、そのために投入された中隊同士が同士討ちしてしまい、分遣隊の捕捉には失敗した。 5月4日の駆逐艦「シェフィールド」の被弾を受けて、エクゾセの脅威を避けるため、2隻のイギリス空母は後方へと配置された。仮に2隻の空母のいずれかを失った場合、イギリス軍の作戦全体が成り立たなくなることから、この措置はやむを得ないものではあったが、航空母艦を後方に配置したため、ハリアーの上陸区域における作戦時間が約30分まで低下していた。そして、水陸両用戦の部隊と共にサン・カルロス湾に入ったフリゲートに兵力の防衛を依存することとなった。 アルゼンチンの航空攻撃が予期されたため、艦艇は最高度の警戒状態を維持していた。この予想通り、5月21日 13時25分(UTC)より航空攻撃が開始され、実に45ソーティに及ぶ出撃が行われた。水陸両用艦艇の護衛のために7隻の艦艇がフォークランド水道およびサン・カルロス湾に入ったが、「アーデント」が沈没し、「プリマス」と「ヤーマス」の2隻を除く他のすべての艦が損害を受けた。 しかしこのようにイギリス軍に損害を与えつつも、アルゼンチン軍は大きな失敗を犯していた。すなわち、これらの護衛艦艇が攻撃の主目標とされ、荷を下ろしている船や、陸揚げされ野積みになっている武器、弾薬、資材等は見逃されていたのである。上陸部隊自身のレイピア地対空ミサイルの揚陸が遅れ、防空網が完成されていない時期であったことから、第3コマンドー旅団にとっては幸運だった。またアルゼンチン軍機の損害も少なくなく、10機(ダガー5機、A-4Q 3機、A-4C 2機)を失い、これ以外のアルゼンチン軍機も小火器により被害を受け、修理をせずに作戦を行うことは出来ない状態であった。 5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機が「アーデント」と交代した21型フリゲート「アンテロープ」を攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、「アンテロープ」は翌24日に沈没した。 5月25日にはアルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦「コヴェントリー」と22型フリゲート「ブロードソード」を攻撃し、「コヴェントリー」に爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。 その直後アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイルエグゾセAM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍に徴用されていたコンテナ船「アトランティック・コンベアー」に命中、同船は大破炎上して沈没した。 同船は航空機の輸送に用いられており、シーハリアーとハリアーは既に空母に移動して無事だったものの、ヘリコプター多数(チヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機)が失われ、同日に予定されていたヘリボーン作戦は断念せざるを得なかった。特に空軍のチヌーク輸送ヘリコプター4機で編成された第18飛行隊は、撃沈前に発艦していた1機を除く3機と整備機材・予備品のほとんどを失い、地上部隊を落胆させた。被害を免れた1機 (Bravo November) は孤軍奮闘し、戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送などで活躍した。 5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。 結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。 5月21日にイギリス軍がサン・カルロスに上陸して以降、アルゼンチン軍の抵抗は航空攻撃に限られていた。一方、イギリス軍の側は、上陸以降の作戦については事前の計画は乏しかったが、これらの情勢から、任務部隊司令部ではアルゼンチン軍の積極性について楽観的な見方が広がっていた。第3コマンドー旅団長トンプソン准将は、25日にはケント山からチャレンジャー山にかけての地域に大規模なヘリボーン作戦を行ってスタンリー攻略の地歩を固めることを企図していたが、同日の「アトランティック・コンベアー」の喪失によって多数のヘリコプターが失われ、この作戦は実行不能となった。 スタンリーに進出する前に、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯するアルゼンチン軍を攻撃する必要があった。トンプソン准将はもともと、グース・グリーンに対する(占領を前提としない)襲撃作戦を計画しており、22日には第2空挺大隊長ハーバート・ジョーンズ中佐に作戦立案を下令していたが、「アトランティック・コンベアー」の喪失を受けて、この作戦は第5歩兵旅団とヘリコプターの増援を待って行う方針としていた。しかし逆に、ロンドンの任務部隊司令部と政治家は、この喪失を補うためにも何らかの行動を示すべきであると考えるようになっていた。結局、26日にトンプソン准将が任務部隊司令部と衛星通信で直接話し合い、グース・グリーンへの攻撃とスタンリーへの進撃にむけた機動を始めるよう命令をうけた。 一方、アルゼンチン軍において、グース・グリーン防衛の主力部隊となっていたのは第12連隊であり、連隊長はイタロ・ピアッヒ中佐であった。連隊の兵士の半分以上は2月に徴兵されたばかりで訓練はほとんど完了しておらず、舶送される予定の重装備も到着しておらず、人員・装備ともに不十分な状態であった。部隊の抽出や配属があり、28日の時点でグース・グリーンに配備されていた部隊は総兵力1,007名、歩兵3個中隊を基幹として105mm榴弾砲3門、120mm重迫撃砲(状態不良)1門、81mm迫撃砲3門、35mm対空機関砲2門などを保有しており、メルセデス任務部隊と称された。 イギリス側では、SASによる最初の偵察結果では士気薄弱な1個中隊程度と見積もられていたが、22日午後に第3空挺大隊がアルゼンチン軍の下士官を捕虜にするなど情報収集を進めた結果、26日には、ほぼ上記のような部隊の全容を把握していた。一方の第2空挺大隊は、上陸以降、橋頭堡の南側を防御するためサセックス山に布陣していたが、冷たい風と湿った土地、そして防水性に欠ける軍靴のために、塹壕足をはじめとする病気や負傷によって、既に兵力の約4%に相当する27名の兵士が後送されていた。 27日10時、BBCは全世界に対して「空挺大隊はまさにグース・グリーンとダーウィンを攻撃する準備ができている」と放送した。これを聞き、大隊長ジョーンズ中佐は激怒し、奇襲効果は失われたと信じた。また上記のようにアルゼンチン軍が当初予想よりも強力だったこともあり、第2空挺大隊固有の部隊に加えて、L118 105mm榴弾砲3門の配属を受けるとともに艦砲射撃の支援を受けることになった。一方、第12連隊長ピアッヒ中佐は、まさかBBCが自国軍の正確な情報を放送するとは思わず、欺瞞情報と考えたが、その他の予兆から、イギリス軍の攻撃が迫っていることは察知していた。 同日、第2空挺大隊はカミラ・クリーク・ハウスに移動し、15時よりジョーンズ中佐は命令を下達した。当初の作戦計画は、イギリス空挺部隊の練度を活かして夜間のうちに攻撃を完了するもので、6つの段階に分かれた複雑な計画であった。中佐のせっかちな性格のために急いで下達されたこともあり、中隊長以下、誰も命令を理解できなかった。また上記の通り、トンプソン准将はあくまで襲撃作戦として下令したが、ジョーンズ中佐はこれを拡大解釈し、占領作戦に変更していた。 18時より、第2空挺大隊の各部隊は順次前進して攻撃位置に進入した。攻撃開始予定は28日2時であったが、艦砲射撃を担当するフリゲート「アロー」は昼間は別の任務を割り当てられており、4時30分には艦砲射撃を終了しなければならなかった。このため、大隊の攻撃開始前の22時から3時間に渡って射撃することで十分な地ならしをすることになったが、これにより、ジョーンズ中佐が企図した「始めは静かに接近」という要領は最初から挫折した。 イギリス側は、アルゼンチンの戦力はほぼ正確に見積もっていたが、その配置は把握しておらず、ジョーンズ中佐の込み入った作戦は、戦闘が開始されるとすぐに齟齬を来しはじめた。例えば最初に攻撃を開始したA中隊は、無抵抗のうちに当初目標を速やかに占領したあと、他の部隊の戦闘を横目にしばらく停止させられた。その後攻撃した次の目標もやはり無抵抗であったため、中隊長はそのまま更に次の目標に前進しようとしたが、ジョーンズ中佐は、A中隊を自ら確認したいとしてこれを却下した。そして中佐の到着を待つ1時間の間に夜は明け始めており、次の目標であるダーウィン丘において、A中隊は激烈な抵抗に遭遇した。またこれとほぼ同時刻、B中隊も、その西側において、50口径機銃などの強力な火力を備えた陣地に遭遇し、前進を阻止された。 A・B中隊の攻撃が頓挫しているのをみて、7時30分頃、D中隊は主防衛線を迂回して助攻を行うことを、またC中隊は機関銃により火力支援を行うことを、それぞれ上申したが、ジョーンズ中佐はいずれも却下し、無線を混乱させるなと叱責した。またこの他にも、支援中隊長や砲兵指揮官からも多数の有益な示唆が提案されたが、中佐はこれらを全て拒絶し、8時30分頃よりA中隊と合流して、同中隊のみで攻撃を継続させた。しかしそれでも攻撃は停滞しており、焦った中佐は手近な人員を集めて、自ら陣頭にたって突撃した。この突撃に参加した人員は20名程度に過ぎず、また将校や無線手が多かったこともあって、たちまち阻止された。ひとりジョーンズ中佐のみ前進できたが、結局9時30分時頃に戦死した。しかし突撃隊員が、中佐を狙撃した塹壕を66mmロケット弾で撃破することに成功すると、その破壊力を恐れた周囲の塹壕が降伏し、勝利をもたらした。 ケント山は、スタンリーを見下ろす位置にあるにもかかわらず、アルゼンチン軍は同地に有力な部隊を配備できずにいた。5月24日のSASの偵察によってイギリス軍もこのことを知り、ただちにここに大兵力を投入しようとしたが、25日の航空攻撃によってヘリコプターが多数失われたために断念され、SASのD中隊のみが山頂を固めた。 29日には海兵隊第42コマンドーがこれを増強する予定だったが、悪天候のために順延された。その直後より、アルゼンチン軍コマンド部隊による攻撃が開始された。アルゼンチン第602特殊作戦中隊第3突撃分隊はケント山の左斜面に降着し、ただちに激しい近接戦闘が展開された。彼らは吹雪に紛れてSASの防衛線に浸透し、SASは後退も検討したが、同地の重要性を鑑み、トンプソン准将はぜひとも同地を保持するよう命じた。 30日の夜明けにはSASが優勢となっており、またアルゼンチン軍の第2突撃分隊が来る兆候がないことから、第3突撃分隊は攻撃を断念して後退した。第2突撃分隊が乗ったヘリコプターは悪天候のために同地に到達できず、離れたところに降着したのち徒歩行軍で同地に向かったため、結局、第3突撃分隊の戦闘に間に合わず、30日夜に戦闘を開始することになった。またこの戦闘中、やっとイギリス海兵隊第42コマンドーが同地に到着し、イギリス側の優位が確立されたことから、同分隊も戦闘継続を断念して後退した。 フォークランド諸島地上軍(LFFI)司令官のムーア少将は、5月29日に揚陸艦「フィアレス」へ移乗して司令部を開設、30日より全面的な指揮を開始した。 ケント山の占領成功を受けて、イギリス軍地上部隊はそちらに向けて兵力の集中を図ったが、ヘリコプターの不足と酷寒の気候、湿った土地のために、その行軍は困難なものとなった。ちょうどこの頃、本国から増援されてきた第5歩兵旅団がフォークランド諸島に到着し、ヘリコプターはその揚陸のために使われていた。第3コマンドー旅団の各隊は、しばしば地元住民がトラクターで支援してくれたとはいえ、基本的には徒歩行軍により前進せざるをえなかった。 第2空挺大隊は、グース・グリーンを占領したのち、まず6月2日にはその東北東25キロメートルの入植地を攻撃し、同地が無人であったため容易に占領した。ここでフィッツロイの入植地住民との電話連絡に成功し、同地にもアルゼンチン軍が駐屯していないことを知ると、同日午後のうちに、イギリス軍唯一のチヌークを乗っ取って、同地への進出に成功した。この大胆な前進により、来るべきスタンリー攻撃作戦の際の右翼の援護が確保された。しかし悪天候のためにアルゼンチン軍はこの動きを察知できず、大隊は攻撃を受けずに済んだとはいえ、敵中に深く突出し、補給線からも切り離された脆弱な状態となった。 第2空挺大隊を援護するためにも迅速な前進が望まれたことから、6月3日、ムーア少将は、第5歩兵旅団を海上輸送によってフィッツロイに前進させることを決心した。しかしフィッツロイには揚陸可能な砂浜が乏しく、また本国のフィールドハウス大将が損害に神経質になっていたこともあり、計画は度々変更されて、実施部隊を憤激させた。まず5日から6日の夜間に「イントレピッド」を用いて第1回の海上輸送が行われた。多くの困難が経験されたとはいえ、スコットランド近衛大隊は、無事にフィッツロイ対岸のブラフ・コーヴに到着した。しかしこのとき、同大隊と交代した第2空挺大隊が、フィッツロイに移動するために、同大隊が乗ってきた舟艇を勝手に借用したことで、後の海上輸送に大きな障害が生じた。 続いて6日から7日の夜間に、「イントレピッド」と「サー・トリストラム」を用いて第2回の海上輸送が行われた。しかしこの輸送の際に現地での荷役に使う予定だった舟艇が第2空挺大隊に借用されて所在不明となっていたため、「イントレピッド」に乗艦してきたウェールズ近衛大隊などの部隊を全て上陸させることができなかった。この部隊を輸送するため、7日夜、「サー・ガラハド」を用いて第3回の輸送が行われた。しかしこの時、フィッツロイではまだ「サー・トリストラム」による擱座揚陸の途中であり、「サー・ガラハド」が着岸する余地はなかった。またウェールズ近衛大隊は、本隊がいるブラフ・コーヴまで乗船するつもりでおり、航空攻撃を警戒して下船を勧告にきた海兵隊のサウスビー=テルユア少佐の助言を無視した。 イギリス軍は、航空母艦を後方に配したことによる哨戒時間短縮を補うため、サン・カルロスにアルミニウム板をしきつめた長さ850フィート(約260 メートル)の滑走路を完成させて、6月2日より運用を開始した。これによってハリアー・シーハリアーのCAP時間が大幅に延長されることになった。 6月4日には、ケント山に対し、ダガー6機とプカラ4機による航空攻撃が行われた。いずれも、イギリス軍には全く損害を与えなかったが、部隊の防空体制の不十分さが浮き彫りとなった。 そして6月6日にはイギリス側が海上輸送を行っていることも察知しており、8日11時15分、アルゼンチン軍の観測所よりイギリス輸送船のフィッツロイ入港が報告された。12時50分、空軍のA-4Q 5機が攻撃をかけ、「サー・ガラハド」は大破して48名戦死、「サー・トリストラム」も中破して2名戦死を生じた。また、ダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦「プリマス」を直撃した。しかしいずれも不発で「プリマス」は対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。 これは、この戦争におけるアルゼンチン空軍の最後の大戦果であったが、結果として、イギリス軍のスタンリー進攻を約2日遅らせただけであった。なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜された。また6月8日11時には、エンジンが故障したハリアーが上記の滑走路へクラッシュ・ランディングを行い、アルミニウム板の多くを吹き飛ばしてしまったため、この日いっぱいこの臨時滑走路が使えなくなった スタンリーの西側には、北からロングドン山、ハリエット山、ツー・シスターズ山という3つの山が連なっており、アルゼンチン軍の外郭防衛線となっていた。このため、イギリス軍はまずこれらの攻略を志向することになった。 アルゼンチン軍は6月8日の航空攻撃の戦果を過大評価しており、500~900名の戦死者を出したものと評価された。これを受けてアルゼンチン本国は高揚し、さっそくマルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将に対してフィッツロイの攻撃を要求したが、メネンデス少将は、部隊の機動力の欠如と航空・海上優勢の喪失、そしてイギリス軍の攻撃が先行するであろうことから不可能であると結論し、本国からの支援を求めるため参謀長ダエル少将をブエノスアイレスに派遣した。しかしガルチェリ大統領は、既にマルビナス諸島にはイギリス軍を撃退できるだけの十分な兵力を配しているとして、死守命令を下した。 6月7日には第3コマンドー旅団はケント山の斜面に移動しており、11日には、イギリスの地上部隊は攻撃開始の準備ができていた。双方の地上戦力はほぼ同程度であったが、アルゼンチン側は航空優勢は「ほぼ」、海上優勢は「完全に」失った状態であった。またアルゼンチン側は防衛側であり数週間前から陣地を準備できるという強みはあったが、イギリスがスタンリーに直接上陸してくると想定していたため、防御方向は海側(西側)を指向していた。5月26日には、アルゼンチン軍も、イギリス軍がサン・カルロスから陸路進撃してくる公算が高いことを認識したものの、依然として、イギリス軍が再度、今度はスタンリーに近いところに上陸作戦を行う可能性が高いと考えていたため、サン・カルロスからの進攻に対応できるよう南側に部隊を再配置することはなかった。 イギリス軍においては、第2空挺大隊とウェールズ近衛大隊が第5旅団から第3コマンドー旅団の指揮下に移されて、体制が強化された。第5旅団長ウィルソン准将はこの措置について、海兵隊員であるムーア少将が海兵隊を贔屓したのではないかと考えたが、これは6月8日の航空攻撃で第5歩兵旅団が損害をうけたことと、そしてムーア少将がウィルソン准将の能力に疑問を抱いたためであった。ロンドンの任務部隊司令部はもともとウィルソン准将の能力を不安視しており、ムーア少将は最初はこれに同意していなかったが、この時点では、トンプソン准将であれば3個大隊の戦闘を指揮できるのに対し、ウィルソン准将は2個以上の大隊の戦闘を指揮すべきでないと考えていた。 6月11日19時59分より、スタンリー西側の外郭防衛線に対する艦砲射撃が開始された。「アロー」「ヤーマス」「アヴェンジャー」「グラモーガン」が合計788発を射撃し、この戦争での最大の艦砲射撃となった。ロングドン山において、イギリス陸軍第3空挺大隊は既に前進を開始しており、20時16分に攻撃開始線を通過した。しばらくはイギリス軍が前進するのみで動きがなかったが、21時30分頃に一人の伍長が地雷を踏んで片足を吹き飛ばされたのを切っ掛けに、アルゼンチン軍が射撃を開始した。イギリス軍は砲兵支援を要請したが、陣地に対しては限られた効果しか発揮できなかった。 同山に配備されていたアルゼンチン軍部隊は、第7歩兵連隊B中隊(中隊長カルロス・カリソ=サルバドレス少佐)を基幹とする約220名程度であり、陣地の位置も作りも悪く、鉄条網も土嚢もなく、地雷敷設も適切でなかったが、同山はもともと天然の要害であり、イギリス軍は攻略に難渋した。特に暗視装置を備えた狙撃兵および50口径の重機関銃に対して苦戦を強いられ、手榴弾と銃剣による近接戦闘、また対戦車兵器も投入して、犠牲を出しつつ陣地を掃討していった。カリソ=サルバドレス少佐は3時頃に1個小隊の増援を得て、イギリス軍の攻撃を何度も凌いだものの、5時には限界が近づいていることが分かった。B中隊は整然と退却したが、287名の人員のうち、撤退に成功したのは78名であり、50名が捕虜となり、戦死31名、負傷者は少なくとも120名であった。一方、イギリス側は18名の戦死者と約40名の負傷者を出した。 ツー・シスターズ山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第45コマンドー(指揮官アンドリュー・ホワイトヘッド少佐)であった。この山は、名前の通り、東西に2つの頂をもつ山であり、ホワイトヘッド少佐の当初の計画では、まず西側の頂を確保したのち、そこからの支援を受けて東側を確保することになっていた。しかし地形の関係で、西側の頂を確保する中隊の行軍が遅れたため、12日0時16分、まず東側の頂を担当する2個中隊が攻撃を開始し、まもなく西側の頂への攻撃も開始された。この結果、3個中隊がほぼ同時に攻撃を行うことになり、特に西側の頂では前後に敵を見るかたちになった。この結果、まず西側の頂が確保された。 東側の頂の攻撃もおおむね順調に進展したが、アルゼンチン軍の機銃・迫撃砲・野砲の激しい射撃を受けて、1時間にわたって攻撃が停滞する状況もあった。しかしそのとき、1人の小隊長 (Clive Dytor) が立ち上がって「総員前進!」と叫び、中隊名を意味する「ズールー!ズールー!ズールー!」と叫びながら突撃しはじめた。部下は最初それを諌めたり罵声を飛ばしたりしていたが、すぐに中隊全員がこれに続き、銃撃しながら攻め上がった。この突撃によって東側の頂も確保され、4時18分までに陣地の掃討も完了した。 ハリエット山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第42コマンドー(指揮官ニック・ヴォークス少佐)であった。同山のアルゼンチン軍陣地は非常に堅固であるように認められたことから、ヴォークス少佐は正面攻撃を避けて迂回攻撃を行うことにした。すなわち、1個中隊で西側から陽動攻撃を行う一方、2個中隊を南側に進出させて後方から奇襲攻撃するという作戦であった。 まず偵察小隊が先行したのち、16時15分より迂回行動が開始された。この間第7コマンド砲兵中隊や艦砲による射撃が行われていたこともあって、迂回行動は成功し、22時より予定通り攻撃を開始した。この迂回攻撃はアルゼンチン軍の予備兵力を直撃し、不慣れな夜間戦闘だったこともあり、経験のない徴集兵は降伏しはじめた。ロングドン山と同様、重機関銃座や暗視装置を備えた狙撃兵陣地は頑強な抵抗を示し、一部では600メートル前進するために数時間かかる状況もあったが、夜明けまでにはイギリス軍の勝利となり、イギリス軍2名戦死・13名負傷という比較的軽微な損害で、アルゼンチン軍に対して、10名戦死・53名負傷・300名以上が捕虜になるという戦果をあげた。これはヴォークス少佐の独創的な作戦によってアルゼンチン側が戦意を喪失したところが大きく、また降伏しようとする兵士に対してアルゼンチン軍の将校・下士官が銃撃するのをみたイギリス海兵隊が、これらの将校等を積極的に攻撃目標としたのも理由のひとつであった。 6月12日朝にアルゼンチン軍首脳部は、ロングドン山からハリエット山にかけて約4,500人のイギリス兵が集結していると報告を受けたが、この情報はマルビナス駐留部隊には伝えられなかった。6月13日には、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将とガルチェリ大統領が交信し、メネンデスは、「イギリス軍が示した行動から考えて、まさに今晩彼らは最終的攻撃をかけてくるだろう。必然的に今日から明日にかけてスタンリーの運命は風前のともしびにある」と警告したが、ガルチェリ大統領は、あくまでスタンリーを死守するよう命じた。6月12日にはスタンリーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していたエグゾセMM38艦対艦ミサイルを発射し、駆逐艦「グラモーガン」に命中させて中破に追い込んだ。 6月13日より、イギリス軍はスタンリーの内郭防衛線への攻撃を開始した。これに先立って、12日夜には「アクティブ」と「アロー」が186発を、そして13日23時には「アヴェンジャー」、「ヤーマス」、「アクティブ」、「アムバスケード」が4時間に渡って856発を撃ち込んだ。また砲兵隊も合計で7,120発を射撃した。しかし艦砲も砲兵も残弾不足に悩んでおり、艦砲はこの規模の砲撃をもう1回行う程度で、砲兵隊もあと2日分の弾薬しか残っていなかった。 まずスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を攻撃した。同山は内郭防衛線で最も高い場所であり、アルゼンチン海兵隊第5歩兵大隊(大隊長カルロス・ロバシオー中佐)が守備していた。この大隊は比較的経験を積んだ兵士によって編成されていた上に平時の駐屯地が南アメリカ最南端のフエゴ島であり、耐寒性を考慮した装備を保有していた。また4月上旬からフォークランド諸島に派遣されていたため、陣地もよく準備されたものであった。スコットランド近衛大隊は、まず17時より、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車を加えて陽動攻撃を行ったのち、21時より主攻を開始した。イギリス側の期待に反してアルゼンチン軍は頑強に抵抗し、攻撃はなかなか進捗しなかったが、3時頃よりイギリス軍が戦闘を調整し直して野砲射撃と近接戦闘を連携させるようになると、陣地は徐々に突破されていった。8時には同山での戦闘は終了し、イギリス側は死者8名・負傷者35名であったのに対し、アルゼンチン側は死者20名以上・負傷者多数であった。 その南方のウィリアム山は、当初計画ではスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を占領した後にグルカ小銃大隊によって攻略する予定であったが、タンブルダウン山攻略が意外に難航したことから、グルカ小銃大隊は、これを待たずに2時35分より前進を開始することになった。タンブルダウン山の陥落とともにウィリアム山のアルゼンチン軍も後退したため、実質的な反撃はほとんどなかったが、砲撃、地雷、また友軍の誤射もあり、グルカ小銃大隊による占領は13時5分となった。 ロングドン山東方のワイヤレス・リッジの攻撃を担当したのは第2空挺大隊であった。同大隊はグース・グリーンでの苦戦の戦訓を踏まえて、攻撃に先立ち砲兵隊・フリゲート「アンバスケード」・第2及び第3空挺大隊の迫撃砲・機関銃小隊及び配属された軽戦車によって大規模な準備砲撃を行った後に前進することにした。この結果アルゼンチン軍の反撃はほとんど無く、次々に陣地を放棄して後退していった。アルゼンチン砲兵が放棄した陣地に対して正確な射撃を加えてきたために若干の損害が出たが、これも艦砲射撃で砲兵陣地を撃破することで解決した。最終的に、第2空挺大隊は2名の戦死者を出しただけでワイヤレス・リッジの占領を達成した。 ワイヤレス・リッジの喪失により、もはやスタンリーを防御しうる自然障害物は消滅した。多数のアルゼンチン兵がこれらの陥落した陣地からスタンリーへと戻り始めており、イギリス軍のムーア少将は、これらのアルゼンチン軍兵士を攻撃しないように自軍兵士に命令を出した。 アルゼンチン軍においては、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将は「14日早朝には残っている防衛線が持ちこたえられない」と結論付けた。10時頃にガルチェリ大統領へ電話をかけて、スタンリーを夜まで保持できるとは思えないことと、戦闘を続けるなら多くのアルゼンチン軍兵士が戦死し、降伏より悪い事態となることを指摘したが、ガルチェリ大統領は実情が理解できず、メネンデス少将は自己の責任において降伏することとなった。12時から13時半頃には既に戦場では実質的な戦闘停止が自然に形成されていた。そして14日19時59分にメネンデスが降伏文書に署名し、正式に戦闘停止と降伏が発効した。 スタンリーの陥落を受けて翌15日にはガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を出したが、敗戦によってアルゼンチン国民の軍事政権に対する不満が爆発した。15日昼頃から夜半にかけてブエノスアイレスでガルチェリ大統領の退陣を要求する反政府暴動が起き、加えてガルチェリに大統領の座を追われたロベルト・エドゥアルド・ビオラを始めとして軍内部からも責任追及の動きが起きるなど求心力を失い、17日には大統領を解任され、翌18日には陸軍司令官の座も失った。比較的戦果を挙げた空軍総司令官のバシリオ・ラミ=ドーゾ准将も8月17日に退任し、海軍総司令官のアナヤ提督は戦争で打撃を受けたにも関わらず地位を維持していたが、10月1日付けで辞任した。 6月20日にイギリス軍がサウスサンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終結した。 イギリス機動部隊の編成・出撃の報を受け、アルゼンチン空軍は、航続距離の長いボーイング707輸送機による洋上哨戒・索敵活動を実施し、4月21日・23日にはイギリス機動部隊への触接に成功したが、いずれも母艦を発進したシーハリアーによる退去措置がなされたことから、アルゼンチン空軍はボーイング707による索敵活動を中止した。 また、LADE(Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」)の各機も空軍の下で輸送任務についた。フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に後方支援に当たったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。アルゼンチン航空などのエアラインも支援体制にあった。 イギリス軍 戦没 アルゼンチン軍 戦没 アルゼンチンではガルチェリ大統領が建国以来初めて敗戦の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を解任され失脚した。後任には退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが就任したが、緒戦は軍とペロニスタが挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われ、民政移管が完了した。ガルチェリは「銃殺刑に値する」とまで言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、最終的に責任を逃れた。なお降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由で送還された。 この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀初めから続いていたチリ及びブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で軍は政治力を弱めて大幅に人員を削減され、開戦前には3軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には3軍で7万1000人と半分以下にまで縮小した。 また、イギリスがヨーロッパ共同体の一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人系アルゼンチン人のルーツであるイタリア・西ドイツ・スペインなどのヨーロッパ共同体加盟国は、アルゼンチンへの経済制裁を発動した。このことはそれまでヨーロッパにナショナルアイデンティティーを抱いていたアルゼンチン国民の意識を変え、自分たちをラテンアメリカの一員として見直す切っ掛けになったといわれる。他方、ヨーロッパ共同体加盟国全てが制裁に積極的だったわけではなく、西ドイツは当時、東ドイツ領内で陸の孤島になっている西ベルリンをイギリスに守ってもらっていた関係で、アルゼンチンへの制裁に加わるよう強い圧力を受けていたとされる。 多くの艦艇を失って255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前人気が低迷していたサッチャー首相の人気が急上昇した。これによって勢い付いたサッチャー首相は翌年の総選挙で圧勝し、新自由主義的な改革をさらに推し進め、イギリス病に苦しんでいたイギリス経済を復活させた。 また、それまで「2等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ海軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。 その後も両国の国交断絶状態が続いたが、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝でサッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランド代表に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた(1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランドの項目を参照。)。 1989年10月にアルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日に両国は外交関係を正式に回復した。しかし現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。 戦後、イギリスは戦死したアルゼンチン兵の遺骨返還を申し出たが、アルゼンチン政府は諸島へのイギリスの主権を追認することになるとして拒否している。フォークランドのダーウィン墓地には、アルゼンチン兵の墓が237基あり、うち123基は身元不明である。戦友の墓参に島を訪れた帰還兵の呼びかけをきっかけに、両国政府は2016年12月に身元確認で合意した。赤十字国際委員会が遺骨の発掘とDNA型鑑定を2017年中に終えて最終報告書をまとめる予定であるが、アルゼンチン国内では遺骨の返還への反対意見が依然根強い状態となっている。 フォークランド諸島奪還において、アルゼンチン軍はしばしばブローニングM2重機関銃を陣地の防衛に用いたが、イギリス軍の地上部隊は同クラスの機関銃を配備しておらず、汎用機関銃で支援された偵察兵を遮蔽物に沿って1人ずつ前進させ、火点をあぶりだすとミラン対戦車ミサイルや手りゅう弾と銃剣突撃による直接攻撃を敢行するという対応を余儀無くされた。 上記の重機関銃の運用を通常の射撃ではなく「単発狙撃」であったとする記述が、一部の和文文献に見受けられる。しかしフォークランド紛争、狙撃銃、狙撃手などに関する英文の文献やその和訳書には、そうした言及は見当たらない。また「フォークランド紛争での重機関銃運用の戦訓がきっかけとなって対物ライフルが開発された」とする説も、一部の和文文献にのみ見受けられ、英文文献やその和訳書では言及されていない。 イギリス海軍の原子力潜水艦「コンカラー」の雷撃によるアルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」の撃沈はアルゼンチン海軍の戦意に冷や水を浴びせることになり、空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」を始めとしたアルゼンチン海軍の水上戦闘艦は現存艦隊主義に転じて、二度と出撃してくることはなかった。 一方、アルゼンチン海軍の209型潜水艦「サンルイス」(ARA San Luis) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったこのうち5月1日には「ブリリアント」と「ヤーマス」を雷撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日には「アロー」と「アラクリティ」に対して雷撃を行ったが失敗した。これらの失敗は魚雷の調整失敗などによるとされる。このように実際の戦果を挙げることはできなかったにも関わらず、イギリス海軍は「サンルイス」の存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった。 21型フリゲート8隻のうち2隻が本戦争で撃沈されたことについて、同型が元々商船規格で設計されたことや、アルミニウム合金を多用したこととの関連も疑われた。しかし1977年に「アマゾン」が火災事故で大破したことについてはアルミニウム合金の脆弱性が被害増大につながったと指摘されているのに対し、本戦争での喪失艦については、あまり関係がなかった。アーデントも水線付近に多数の命中弾を受けてずたずたになっており、また「アンテロープ」も艦内深くまで突入した爆弾の爆発によって沈没したが、いずれも、この規模の艦にとっては船体構造に関係なく十分に致命傷となる損傷であった。 なお、エグゾセを被弾した「シェフィールド」の喪失についてもアルミニウム合金の脆弱性に原因を求める意見も多かったが、実際には船体・上部構造物共に全鋼製であった。しかし通風トランクや仕切弁はアルミニウム合金製であり、これらは火災によって溶解してしまい、電纜を介した延焼もあって火災は他区画へ拡大した。特に消火活動にとって致命的であったのが、消火主管の機能喪失であった。これは消防ポンプの起動失敗や可搬式ポンプの能力不足によるものだったが、この結果、火災範囲は艦内の約2/3に達した。電纜類の被覆などの燃焼によって有毒ガスが発生し、また被弾後約30分で電源が失われたこともあって、艦自身の消火活動はほとんど遂行不能となってしまった。艦は放棄され、数日後の曳航中に荒天に遭遇、沈没している。この事件について、アメリカ合衆国の著名な海軍史家であるノーマン・フリードマンは、「現代の精緻な軍艦は対艦ミサイルに耐えられないという誤解が蔓延したが、20年にわたる冒険的なコスト削減のツケがとうとう回ってきたというのが実態である」と評している。 イギリス海軍のシーハリアーFRS.1艦上戦闘機は遷音速程度しか発揮できず、しかも編成当初の第317任務部隊には20機しか配備されていなかった。しかしアルゼンチン側の制約のために、実際には速度差は当初予想されたほどではなくなっていた。また数的な不利についても、アルゼンチン側よりも基地(母艦)が近くに配置されていたうえに稼働率は高く、少ない機体でも最大限に活用できた。 結果的にシーハリアーは計6機(事故4機)を喪失したとはいえ、空戦での損失は無く、アルゼンチン機との空戦では23機を撃破している。戦前には、飛行中の推力偏向(VIFF)の空中戦闘機動への応用が注目されていたが、実際の戦闘では用いられなかった。ハードウェア面で大きな優位をもたらしたのが新世代のサイドワインダーであるAIM-9Lであった。従来のサイドワインダーは目標の後方に回り込まなければ使用できなかったのに対し、AIM-9Lは新型の赤外線センサを採用してほぼ正面からでも交戦可能となり、また旋回性能や弾頭威力も向上していた。実戦でも、正面からの射撃こそ記録されていないが、26~27発の発射で17機を撃墜した。 なおイギリス側の課題の1つが早期警戒機(AEW)の欠如であった。イギリス海軍は1978年に最後の正規空母であるオーディシャス級空母「アーク・ロイヤル」を退役させると同時にフェアリー ガネットAEW.3を退役させて以降、艦上機としてのAEWを保有しておらず、対空捜索能力の不足につながった。これを補うため、ウェストランド社が独自に開発していたウェストランド シーキングのAEW版派生型が採択され、既存のシーキングHAS.2を改装して突貫工事でシーキングAEW.2の試作機2機が製作されたものの、初号機の初飛行は7月23日となり、紛争には間に合わなかった。 アルゼンチン空軍はミラージュIIIやダガーといったマッハ2級のジェット戦闘機を保有しており、この2機種をあわせただけでもイギリス海軍のシーハリアーFRS.1の約2倍の数があったうえに、より低速の攻撃機もあわせれば更に差が開くことから、当初はアルゼンチン側の有利が予測されていた。 ただし実際にはアルゼンチン側の作戦機はその高速性能を十分に発揮することができなかった。フォークランド諸島の航空設備は貧弱で、超音速機の配備は困難であったため、これらの機体は本土の基地からはるばる飛来しなければならなかった。ミラージュやダガーには空中給油の能力がないために戦場での滞空時間が限られたうえに、増槽を吊下せねばならず、その他の兵装重量も相まって、実際にはシーハリアーをわずかに上回る程度の速力しか発揮できなくなっていた。またミラージュ以外の機体はいずれも攻撃機として運用されたため、対空だけでなく対地・対艦用の兵装も搭載しなければならず、機動性と速度の低下を招いたうえに、戦闘の場は主として低高度域になり、シーハリアーは優れた運動性能を発揮できた一方、アルゼンチン機の高速性能は更に減殺された。 また用兵面の理由として、根本的にアルゼンチン軍が空戦による戦闘空域の制圧に積極的では無かったというものがある。5月1日の戦闘でこそ、ミラージュIIIEA戦闘機を投入して制空戦闘を挑んだものの、同日、イギリス空軍がバルカン戦略爆撃機によってスタンリー飛行場を爆撃したことから、アルゼンチン本土への爆撃を警戒してミラージュIIIEAは本土防空のために拘置され、アルゼンチン機は護衛戦闘機無しでイギリス艦隊・上陸部隊への爆撃に投入されることになった。 この結果ミラージュIIIEAが引き下げられて以降、アルゼンチン機はシーハリアーに襲撃されても反撃せずに逃げの一手となり、航空戦は一方的な様相となった。イギリス側も航空優勢の確立までは達成できなかったものの、アルゼンチン側からすれば、航空優勢は「ほぼ」失った状態となっていた。 冷戦終結までのイギリス軍において複数の軍種による協同のための恒常的な組織は設置されておらず、必要が生じるつどその場限りで3軍いずれかの司令官が協同作戦の司令官を務める体制であった。フォークランド紛争もその例外では無く、さらに当時のイギリスにはフォークランド諸島での不測事態への備えが存在していなかった。3軍協同作戦の司令官に任命された海軍艦隊司令官は、急遽地中海で実施される演習への派遣部隊を指揮していた海軍少将を戦域における全兵力の前線指揮官に充てた。しかし海軍少将は過大な兵力を指揮する負荷を担わされることになった。戦場から1万キロメートル以上離れたイギリス本国は前線に対して広範な政治統制と作戦指導を企てた。この過程で前線指揮官は本国との調整に多くの労力を割くことを強いられ、かたや本国の政府や国防省も議会及び報道機関に状況を知らせるために詳細な状況報告を求めたことで、前線と本国の間に大容量かつ長時間の通信が必要とされ、意思決定に遅延を招いた。多くの協同作戦が紛争中に実施されたが、その際協同作戦能力の不足に起因する誤射事件さえ発生した。 こうしたフォークランド紛争の教訓が生かされるようになったのは、ようやく冷戦終結後に至ってのことであった。冷戦終結後に平和の配当への要求と財政難を踏まえて、イギリス軍に対しても経費を削減する一方で一層の効率性が求められるようになった。その過程で示されるようになった方向性は、政策と運用の分離による作戦の効率性の追求であり、国防省本部の役割は前者に限定されるようになった。この方向性のもと、政策及び軍事戦略と軍事作戦との間の明確な責任範囲と関係形成が求められた。また、3軍の恒常的な統合作戦への備えとして、計画・準備段階から危機に際しての作戦遂行・戦力回復・事後の戦訓の蓄積までを一貫して担わせる組織の設立が支持された。こうした協同から統合への方向性は情報通信技術の革新・統合化による効率性の追求・3軍の固定的な区分に由来する国防能力発揮への障害が認識されたことといった社会の変革によって促進され、常設統合司令部の設置による恒久的な統合作戦のための体制がとられるようになった。 中国はクーデターを起こしたビデラの中国訪問を受け入れるなど、当時のアルゼンチンの軍事政権と外交関係を持っていた数少ない共産主義の国で、アルゼンチンの主張を国際連合総会などで支持しており、1982年9月のイギリス領香港をめぐる交渉では、フォークランド紛争に勝利したばかりで自信を深めていたサッチャー首相に対して鄧小平は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬したことで香港返還は決定した。 2010年7月に中国は同年4月に起きていた2010年マルビナス(フォークランド)諸島外交危機(スペイン語版)でアルゼンチンの主張を支持することを共同声明で表明した。2011年12月・2012年6月にも中国はアルゼンチンを支持し、アルゼンチンのクリスティーナ・フェルナンデス大統領は感謝の意を表明した。 2012年7月にアルゼンチンのブリチェリ国防相が中国を訪問し、中国人民解放軍の主力戦闘機として開発中の第5世代ステルス戦闘機の「殲-20」の購入にも言及した。また、アルゼンチンは中国とベトナム・フィリピンの間で問題になっている南シナ海における領有権について中国を支持すると表明した。 2015年2月にフェルナンデス大統領が中国を訪問し、056型コルベットを購入してマルビナス級と命名する計画が発表され、FC-1戦闘機・VN-1歩兵戦闘車なども購入する契約を調印した。また、この際にアルゼンチン議会で承認されたパタゴニアのネウケン州に建設された人工衛星追跡基地である深宇宙ステーション(スペイン語版)は中国人民解放軍の管轄に置かれ、秘密条項も入れた50年契約で敷地を借り上げていることから中国への主権の譲渡や中国による軍事利用の懸念を野党などが示して物議を醸した。この基地はアルゼンチンがフォークランド諸島を占領する際に衛星情報を提供する可能性が米国で取り上げられた。これらの合意はフェルナンデス大統領から交代したマウリシオ・マクリ政権で修正もしくは中止されたが、中国の目的は第二次フォークランド紛争が起きた際にアルゼンチンを支援することだったともされる。 このような中国とアルゼンチンの協力関係を背景にしたイギリス側の報告書では、「イギリスの軍事予算削減によってフォークランド防衛は弱体化し、中国からの軍事的及び財政的支援を受けたアルゼンチン軍に奪われた場合、奪還は極めて難しい」と発表している。 近年日本と中国との間で発生している尖閣諸島問題において、両国共にこのフォークランド紛争を先行事例として研究している。 2013年3月15日にイギリスはバチカン市国の元首にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、イギリスのキャメロン首相は「フランシスコ教皇聖下には、先頃行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と釘を刺した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英語: Falklands War、スペイン語: Guerra de las Malvinas)は、南大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3か月に及んだ紛争である。アルゼンチン軍はフォークランド諸島とその東方にある英国領サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島を一時制圧したが、イギリス軍は空母機動部隊や原子力潜水艦、兵員輸送船、長距離爆撃機を南大西洋へ遠征させて奪回し、欧州共同体(EC)などの協力も得て6月に勝利した。敗れたアルゼンチンではレオポルド・ガルチェリ政権が崩壊した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "冷戦下で近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、「兵器の実験場」とも称された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語では「紛争」と呼ばれ、法的には戦争ではないとしているイギリスの政府機関も「Falklands Conflict(フォークランド紛争)」の語を用いている。激しい陸戦のほか第二次世界大戦以来となる大規模な海空戦闘が行われ、世界的には戦争と見なされることが多い。英語圏でも、イギリス政府系ではない刊行物などでは「Falklands War(フォークランド戦争)」または「Falkland Islands War(フォークランド諸島戦争)」と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アルゼンチンを含むスペイン語圏では諸島のアルゼンチン名を用いて「Guerra de las Malvinas (マルビナス戦争)」と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1982年3月19日にアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島東方のイギリス領サウスジョージア島に2度にわたって寄港し、無断で民間人を装って海兵隊員を上陸させた。これに対し、イギリスは氷海警備船と海兵隊員を派遣するとともに、紛争回避のため、アルゼンチン軍部隊の退去を条件として外交交渉で妥協する用意があることを伝えたが、既にアルゼンチン側は強硬姿勢を明確にしており、外交交渉での事態打開は困難となっていた。イギリスの要請を受けてアメリカ合衆国も仲介に乗り出し、首脳間の電話会談も行われたが、説得は失敗であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "4月1日深夜よりアルゼンチン軍によるフォークランド諸島侵攻、また4月3日にはサウスジョージア侵攻が行われた。これに対し、イギリス軍は反攻のための部隊を派遣し、フォークランド諸島近海では激しい海空戦が行われた。アルゼンチン空軍はエグゾセ空対艦ミサイルや航空爆弾による対艦攻撃でイギリス艦船を次々と撃沈したものの、本土から遠いために超音速機が本来の性能を発揮することができず、またイギリス空軍が長距離爆撃機による空爆(ブラック・バック作戦)を行うと最有力の戦闘機部隊は本土に拘置せざるを得なくなり、航空優勢をほぼ失う結果となった。またアルゼンチン海軍も、最有力の大型水上戦闘艦「ヘネラル・ベルグラノ」が撃沈されると現存艦隊主義に転じて、二度と出撃してくることはなかった。イギリスは、アメリカの偵察衛星からの情報によって側面支援を受けたほか、北大西洋条約機構(NATO)諸国、欧州共同体(EC)加盟国、さらにアルゼンチンと対立関係にあるチリの支援を受けて、情報戦も有利に進めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イギリス軍は経験豊富な特殊空挺部隊・特殊舟艇部隊によるコマンド作戦を経て、まず4月25日にはサウスジョージア島にイギリス軍が上陸し、奪還した(パラケット作戦)。続いて6月7日にはフォークランド諸島にも地上部隊を上陸させ、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏して戦闘は終結した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "フォークランド紛争当時、アルゼンチンは軍事政権(国家再編成プロセス)であったが、この敗北により軍事政権への国民の不満が爆発し、大統領を務めていたレオポルド・ガルチェリ陸軍総司令官は辞任を余儀なくされた。ガルチェリの後任のレイナルド・ビニョーネも国民の不満を抑えきれずに1983年10月に選挙を実施し、ラウル・アルフォンシンが大統領に当選して民政移管が行われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "フォークランド紛争は第二次世界大戦以降では初めて大規模な海空戦を伴った、西側諸国製の兵器を装備した近代化された軍隊同士による戦争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカ合衆国やフランス、ベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "両国の国交が再開されて戦争状態が正式に終結したのは1990年2月5日だった。それ以降もアルゼンチンはフォークランド諸島の領有権を主張している。アルゼンチン外務省は2023年3月2日、カフィエロ外相がG20外相会合が開かれたインドのニューデリーでイギリスのクレバリー外相と同日会談し、領有権交渉の再開を提案したと発表した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最初にフォークランド諸島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれる。大航海時代におけるヨーロッパ人による発見についても諸説あり、1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとも、あるいは1592年のイギリスの探検家ジョン・デイヴィスによるともされている。アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている。この他に1598年にはオランダ人のセバル・デ・ウェルト (Sebald de Weert) がこの島を訪れ、当時オランダではこの島をセバル島と名付けた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "同地は大西洋と太平洋を結ぶマゼラン海峡・ビーグル水道およびドレーク海峡に近く、パナマ運河開通までは戦略上の要衝であったことから、18世紀には領有権争いの舞台となった。1764年にフランスは東フォークランド島に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。スペイン・ブルボン朝は、1767年にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、1770年にはブエノスアイレスからエグモント港に侵攻した。当時、北米植民地の情勢急迫に対処しなければいけなかったイギリスは全面戦争を避け、1774年にはスペインの領有権が一時的に確立した。しかし1833年にはイギリスが派遣したスループ「クレイオー」によって無血占領に成功し (Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)) 、以後実効支配を進めたことで長らくイギリスの海外領土(属領)とされてきた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1810年の五月革命を発端とする独立戦争を経て、1816年にアルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島の返還を求めるようになった。1820年代には領有・課税宣言やアメリカ船の拿捕なども行われた。しかしまもなく1825年から1828年のシスプラティーナ戦争で忙殺されたほか、その後も大英帝国の非公式帝国として経済的な繁栄を享受していたことから、返還要求は続けられていたとはいえ、実質的には棚上げ状態となっていた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、1929年の世界恐慌を経て、「忌まわしき十年間」にはナショナリズムが台頭し、第二次世界大戦後の1946年には左翼民族主義者のフアン・ペロンが大統領に就任したが、その後も変わらず棚上げ状態となっていた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このペロンが下野した後、ペロン派の都市ゲリラと軍部、政党との間で衝突が続き、1960年代には内政の混乱をもたらしていた。またペロン政権時代から極度のインフレーションに見舞われていたこともあって、政治闘争に明け暮れる政権に対し国民の不満が鬱積していた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この国民の不満を逸らすため、急遽フォークランド諸島というナショナリスティックな問題が取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定をはじめとする様々なプロパガンダ工作が推進された。また1965年12月16日には、国際連合総会決議第2065号により「いかなる形態の植民地主義も終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方が平和的な問題解決のため交渉を開始するよう勧告したことから、両政府の交渉が開始されることになった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかしイギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り英国病に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた。保守党のマクミラン政権下でヒース王璽尚書は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1967年3月にイギリス外務省が作成したメモランダムでは「島民が望めば」との条件で、フォークランド諸島における主権の委譲を認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進と受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、議会やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1975年、キャラハン外相の依頼を受けて、リオ・ティント社の重役でもあるエドワード・シャクルトン貴族院議員を団長として、諸島の経済状況に関する調査団が派遣された。その報告書は1976年6月に提出され、フォークランド諸島の経済状況が絶望的であることが確認された。アルゼンチンへの過度の経済的依存はなく、自給自足に近かったものの、逆にいえば、植民地時代からほとんど発展していないということでもあった。5年間で1,400万ポンドという莫大な投資が必要であると見積もられたが、これはイギリス単独では実現困難であった。イギリス政府はこの報告書を公開し、アルゼンチンからの経済的な協力を促そうとしたが、アルゼンチン政府はこれを諸島の経済的自立を進めるものであると誤解して、危機感を強めた。また島民は、この報告書によってイギリス本土からのさらなる投資が呼び込まれるものと期待した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "シャクルトン議員が調査を進めていた1976年2月4日にイギリスの南極調査船「シャクルトン」 (RRS Shackleton) が南緯60度線近くのアルゼンチンの排他的経済水域で、同国海軍による警告射撃を受けて、数発を被弾するという事件が発生した。2月19日、国防省は諸島の防衛について検討したものの、当時、同諸島には軽武装の氷海警備船「エンデュアランス」 (HMS Endurance) とイギリス海兵隊の隊員36名しか配備されておらず、侵攻阻止はほぼ絶望的であると見積もられ、奪回作戦に重点が置かれた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "同年のクーデター(英語版)で権力を掌握したホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領は、国民弾圧へのガス抜きのためにフォークランド問題解決への糸口を探っており、交渉を進めるための挑発行動として、12月には、50名のアルゼンチン軍部隊がイギリス領サウスサンドウィッチ諸島南端の無人島である南チューレに無断で上陸し、アルゼンチンの国旗を掲げる事件が発生した。イギリスのインテリジェンス・コミュニティーを統括する合同情報委員会(JIC)は、これをアルゼンチン軍事評議会において強硬派が優勢になりつつある兆候と分析した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "JICが1977年11月に作成した情報見積もりによれば、アルゼンチンが軍事行動を含めたより強引な手段に訴えてくる危険性があると指摘された。そのため、キャラハン首相は、11月21日に原子力潜水艦「ドレッドノート」とフリゲート「アラクリティ」「フィービ」および支援艦艇を派遣する (Operation Journeyman) ことを決定した。キャラハンは機動部隊派遣について秘密情報部長官に話し、これがアメリカ合衆国を経由して非公式にアルゼンチンに通告されることを期待した。アルゼンチンがこの艦隊派遣を知りえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては不明である。一方、イギリス側は交戦規定の策定など軍事行動のシミュレートを進めるとともに、「エンデュアランス」も一時的に本国に戻されて、レーダー探知機や通信傍受装置などの装備が施された。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1979年に就任したサッチャー首相は外交経験が無かったことから、老練なピーター・キャリントンを外務大臣に迎えた。当時外務・英連邦省とイギリス国防省では、南チューレ上陸事件への対応を踏まえて任務部隊を諸島に常駐させるという「フォークランド要塞化」案を検討していたが、これにはかなりの財政的負担が伴うことから、キャリントン外務大臣及びニコラス・リドリー外務閣外大臣は、名目上の主権をアルゼンチン側に委譲したうえで諸島をイギリスが借り受ける「リース案」を腹案としていた。1980年8月25日にはこの案を携えたリドリー外務閣外大臣がアルゼンチンのカヴァンドーリ外務副大臣と会談し、おおむね好意的な反応を受けた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかしサッチャー首相は、国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていたのに対し、島民は自分たちが「イギリス国民」であることに固執しており、リドリー外務閣外大臣は11月22日にスタンリーを訪問して400名の島民と討論を行なったものの、惨憺たる結果となった。またイギリス側は議会への通知を後回しにして交渉を進めていたところ、マスコミにすっぱ抜かれて周知の事実となってしまったことで、議会も態度を硬化させてこの案を拒絶した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アルゼンチン側はイギリスによるフォークランド占有から150年の節目に当たる1983年までには、諸島問題を「いかなる手段」を使っても解決することを目標としていた。また、1981年12月8日に新大統領に選出された陸軍総司令官のレオポルド・ガルチェリ中将は翌年には陸軍総司令官を退任することになっていたため、退役までに政治的な功績を残す必要に迫られていた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1981年当時のイギリスでは国防政策見直しの作業が進められており (1981 Defence White Paper) 、トライデントSLBMの予算を捻出するため、氷海警備船「エンデュアランス」や空母「インヴィンシブル」の退役が検討されていたが、アルゼンチン政府は、これらの検討内容について、イギリスはフォークランド諸島の安全保障問題よりも国内の財政問題を優先したものと解釈していた。12月15日、海軍総司令官ホルヘ・アナヤ大将 (Jorge Anaya) は、海軍作戦部長フアン・ロンバルド中将 (Juan Lombardo) に対し、フォークランド諸島侵攻作戦計画の作成を下令し、本格的な武力行使の計画が開始された。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1982年1月27日にアルゼンチン外務省はイギリスに対して主権問題解決のための定期的な交渉の開始を提案し、2月27日にはアメリカ合衆国ニューヨークで会談が持たれた。アルゼンチン外務省としてはイギリスを交渉の場に繋ぎ止め、武力紛争の勃発だけは避けようとしていたが、イギリス側はアルゼンチンがそこまで強硬な姿勢を固めつつあることを想定しておらず、まずは島民の意思を変える時間を稼ぐための引き伸ばしを図っており、積極的に話し合いを進める意図はなかった。アルゼンチン外務省は落胆し、3月1日に「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、依然としてイギリス側の反応は鈍く、3月9日に開催されたJICでは、外交交渉が続いている限り、アルゼンチンが極端な行動には出ることはない、という結論であり、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても、同年10月以降になるであろう、という推測であった。同日、サッチャー首相は国防省に対して非常時の対策を練っておくよう指示していたが、その後2週間は具体的な検討は行われなかった。アルゼンチンの首都ブエノスアイレス駐在のウィリアムス英国大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、狼少年と見なされてしまい、重視されなかった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "3月19日にアルゼンチンのくず鉄回収業者コンスタンティノ・ダヴィドフ(Constantino Davidoff)はアルゼンチン海軍の輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」(ARA Bahaia Buen Suceso)によってサウスジョージア島のクリトビケンに上陸した。これは旧捕鯨施設解体のためであり、この解体自体はイギリス政府との契約に基づくものであったが、上陸のための事前許可をサウスジョージア民政府から得ていなかったうえに、作業員のなかにアルゼンチン軍人が紛れ込んでおり、上陸すると、アルゼンチン国旗を掲げた施設を設置し始めた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イギリス外務・英連邦省はアルゼンチン外務省に抗議するとともに、氷海警備船「エンデュアランス」に海兵隊員22名と軍用ヘリ「ワスプ」2機を乗せて同島海域に派遣したが、これに対抗して、アルゼンチン海軍もコルベット2隻を派遣した。アルゼンチン側の強硬姿勢に驚いたイギリス側は、偶発的な衝突を避けるため、「エンデュアランス」をサウスジョージア島沖に待機させ、状況を監視させた。イギリス側は、戦闘行為がフォークランド諸島にまで飛び火することを恐れており、問題の範囲をサウスジョージア島に留めておきたいと考えていたが、アルゼンチン側を抑止するのか撃退するのかという根本的な方針を定めないまま「エンデュアランス」を派遣したために、対応が中途半端となり、かえって危機を悪化させてしまった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "3月23日にイギリスは危機の収束のためには譲歩もやむなしとして、サウスジョージア島からアルゼンチン軍部隊が速やかに退去すれば外交交渉で妥協する用意があることを緊急に伝えた。しかしこの譲歩は既に手遅れであった。同日、アルゼンチン側の軍事評議会において、サウスジョージア島から部隊を撤収させないということが決定されてしまっており、その上で部隊を撤収させた場合はイギリス側の恫喝に屈したことになるため、強硬派のガルチェリ大統領にとって、もはや受け入れがたい選択となっていた。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "3月26日にアルゼンチンのコスタ=メンデス外相は、サウスジョージア島に上陸したアルゼンチン人同胞の保護のために海軍砕氷艦「バイア・パライソ」(ARA Bahia Paraiso)を同地に派遣しており、必要に応じてあらゆる措置を講ずる用意がある由を発表した。同艦から海兵隊員がサウスジョージア島リース港に上陸するに及んで、イギリス側も、外交的手段による状況の打開が極めて困難になっているということを、ようやく理解した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このように情勢が加速度的に悪化しているにも関わらず、依然としてイギリスの対応は鈍かった。イギリスの情報機関は3月22日になっても、あくまで問題はサウスジョージア島であって、フォークランドにまで侵攻して来るなどとは想定していなかった。3月28日には政府通信本部(GCHQ)により、アルゼンチン海軍の潜水艦「サンタ・フェ」がフォークランド諸島沿岸に派遣されていることが傍受されたものの、同日、アルゼンチン海軍総司令官アナヤ大将が「サウスジョージア島でアルゼンチン人が殺害されない限りフォークランドには手を出さない」と発言したこともあって、この情報の重要性は十分に認識されなかった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "3月31日の時点においてすら、JICは「アルゼンチンはサウスジョージア問題を逆手にとって交渉の材料にしようとしている」として、サウスジョージア島で挑発してイギリスの行動を誘うことがアルゼンチンの目的であって、よもや先に仕掛けて来ることはないであろう、との判断であった。しかし同日、GCHQは、アルゼンチンの海兵部隊一個大隊が4月2日にはフォークランドのスタンリーに達するということ、そしてブエノスアイレスから在英アルゼンチン大使館に対して全ての機密書類の焼却命令があったという決定的な情報を傍受した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "事ここに至り、イギリス政府も、ついにアルゼンチンの狙いがフォークランド諸島にあり、情勢が想定を大きく超えて急迫していることを理解した。サッチャー首相は米国に事態収拾の仲介を要請しており、4月1日、レーガン大統領はガルチェリ大統領に対する説得工作を行っていることと米国の立場がイギリス寄りであることを伝えたが、ガルチェリ大統領との連絡は困難であった。駐アルゼンチン米国大使が既にガルチェリ大統領と面会していたが、大統領は「何を言っているのか全く訳がわからない」状態であった。4月1日20時半頃(米国東部標準時)、レーガンはようやくガルチェリと電話で話すことができたが、侵攻を思いとどまるよう説得するレーガン大統領に対し、ガルチェリ大統領は自分たちの大義について演説し始める始末であり、説得は失敗であった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "このような外交的手段と並行してイギリス側も重い腰を上げて、軍事的な対応に着手していた。3月29日には、物資と海兵隊員200名を乗艦させたフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」が急派された。また4月1日には原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」も派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート艦「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになった。海軍は、今後も増派を続けるのであればこのような五月雨式の派遣を続けるべきではないと考えており、第一海軍卿リーチ提督は、空母機動部隊の編成を上申した。これを受けて、3月31日の時点で、サッチャー首相は任務部隊の編成を下令していた。しかしこれら先遣隊の到着は4月13日前後、そして空母機動部隊の出港も4月5日の予定であった。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これに対してアルゼンチンにおいては、3月26日の時点で軍事評議会によってフォークランド諸島侵攻に関する最終的な決断が下されていた。現地時間4月1日19時、アルゼンチン軍はロサリオ作戦を発動し、同日23時に最初の部隊がスタンリー付近に上陸して、本格侵攻を開始した。", "title": "フォークランド問題の起源" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上記の通りフォークランド諸島侵攻作戦の具体的な計画作成は、1981年12月15日に海軍総司令官アナヤ大将から海軍作戦部長ロンバルド中将への下令を端緒とする。この際、アナヤ大将の指示は「マルビナス諸島を奪回せよ。しかしそれらを確保する必要はない」というものであり、イギリスの反撃は予期されていなかった。1982年1月中旬より陸軍・空軍も加えて統合作戦計画作成が着手された。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この時点では作成完了時期は9月15日とされており、その前に何らかの動きを取ることは考慮されなかった。南半球にあるフォークランド諸島では北半球とは逆に、9月は真冬の過酷な天候が終わる時期であった。年初に招集されたアルゼンチン陸軍の徴集兵の訓練も進展しており、海軍航空隊にはシュペルエタンダール攻撃機とエグゾセ空対艦ミサイルの配備が進み、またフォークランド周辺にイギリス海軍が有する唯一の軍艦である氷海警備艦「エンデュアランス」も解役されているはずであった。上陸部隊としては海兵隊第2歩兵大隊が選定され、2月から3月にかけて、フォークランドに地形が似ているバルデス半島で数回の上陸演習を行った。基本的な上陸計画は3月9日に軍事政権の承認を受けて、9月までかけて作戦計画は準備されるはずだった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "しかし3月下旬、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸を巡り、情勢は急激に緊迫し始めていた。3月23日にアルゼンチン政府はイギリスによる業者の退去を阻止するためサウスジョージア島に兵力を送るとともに、この危機を口実にフォークランド諸島を占領することを決心し、侵攻計画の立案グループに対して、計画をどの程度前倒ししうるかを諮問した。3月25日、ロンバルド中将は、同月28日に出港してフォークランド上陸は4月1日であると回答した。軍事政権はこの回答を承認し、ただちにフォークランド上陸作戦とサウスジョージアへのさらなる兵力増強の準備に取りかかるよう命令した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アルゼンチン軍においてフォークランド諸島の占領を担当したのは、カルロス・ブセル海兵隊少将を指揮官とする第40.1任務群であった。上記の通り海兵隊第2歩兵大隊を基幹として、上陸特殊作戦中隊および水中障害破壊部隊、野戦砲兵などを配属されていた。主たる攻撃目標は総督公邸と海兵隊兵舎であり、多方面から圧倒的に優勢な兵力で奇襲攻撃することで、できれば流血無しに占領することを企図していた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "イギリス側では丁度同地の警備に当たる海兵隊分遣隊が交代の時期を迎えたタイミングで情勢が緊迫し、大使館付駐在武官の助言を容れて交代を中止したため、定数の倍にあたる69名の海兵隊員が駐在していた。また「エンデュアランス」から陸戦隊11名が派遣されていたほか、同地に住んでいた退役海兵隊員1名が再志願して加わっていた。海兵隊指揮官マイク・ノーマン少佐は、侵攻を受けた場合、緒戦で可能な限り激しい打撃を加えて交渉の時間を稼ぐことを企図していた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "3月28日、アルゼンチン軍侵攻部隊が出航した。当初計画では3月31日から4月1日の夜間に上陸する予定であったが、荒天のため24時間延期された。4月1日、フォークランド諸島総督レックス・ハント卿は、アルゼンチンの侵攻が迫っていることを本国より通知されて、これを島民に向けてラジオ放送した。これにより、アルゼンチン側は、既に戦術的奇襲が成立しなくなっていることを悟った。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "4月1日21時30分(以下特記無い限りタイムゾーンはUTC-4)、ミサイル駆逐艦「サンティシマ・トリニダド」より、特殊作戦上陸中隊92名がゴムボート21隻に分乗して発進した。これらの部隊は二手に分かれ、サバロツ少佐に率いられた76名はイギリス海兵隊兵舎を、またヒアチノ少佐に率いられた16名は総督公邸を目指した。一方、イギリス側は、停泊中の民間船の航海用レーダーで港を見張っており、2日2時30分にはこれらのアルゼンチン艦艇の動きを把握していた。また監視哨からも報告が相次ぎ、4時30分にハント総督は緊急事態を宣言した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アルゼンチン側の計画では、イギリス海兵隊が兵舎で就寝中のところを奇襲し、死傷者を出さずに制圧することになっており、サバロツ少佐はこれに従って催涙弾を投げ込んだが、実際にはイギリス海兵隊は既に全員が戦闘配置に就いており、兵舎はもぬけの殻であった。一方、ヒアチノ少佐の隊は、急遽この目標に振り替えられたため、総督公邸に関する情報を何も持っていなかった。ヒアチノ少佐は4名の部下を連れて降伏勧告に赴いたが、誤って総督公邸ではなく執事の住居に入ってしまった。そして公邸では、海兵隊員31名と水兵11名、退役海兵隊員1名が自動小銃を構えていた上に、総督付運転手が散弾銃を、そして総督自身も拳銃を構えていた。誤りに気づいて出てきたヒアチノ少佐たちに銃撃が浴びせられ、ヒアチノ少佐は戦死、1名が負傷して、降伏勧告に向かった全員がイギリスの捕虜となった。指揮官を失ったアルゼンチン側は次の動きを決められず、事態は膠着状態となった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方アルゼンチン軍本隊では、まず4時30分に潜水艦「サンタ・フェ」より水中障害破壊部隊のダイバーたちが出撃し、偵察を行うと共に水陸両用車のための誘導灯を敷設した。続いて6時に戦車揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」よりLVTP-7装甲兵員輸送車およびLARC-5貨物車に分乗した海兵隊第2歩兵大隊が出撃し、母艦からの誘導に従って岩礁を迂回したのち、誘導灯に従って無事上陸した。上陸すると、まずスタンリー空港を確保し、イギリス側が滑走路に設置した障害物を撤去したのち、スタンリー市街に向けて前進していった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "7時15分にはイギリス海兵隊の小部隊による妨害攻撃が行われたものの、双方とも戦死者はなく、8時には市街を掌握した。既に海兵隊の砲兵部隊や予備隊も上陸し、スタンリー空港には増援の陸軍部隊を乗せた航空機が着陸し始めていた。イギリス側が保持している施設は総督公邸のみとなっており、ハント総督は、島民と軍人へ不必要な生命の損失を与える徹底抗戦を避けて交渉することにした。9時25分に武装解除が命令されて、フォークランド諸島における戦闘はいったん停止した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アルゼンチンはサウスジョージア島占領のため、セサル・トロムベタ海軍大佐を指揮官とする第60任務群を派遣した。これは極地輸送艦「バイア・パライソ」とコルベット「ゲリコ」から構成されており、艦載ヘリコプター2機と海兵隊員80名が乗り込んでいた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "サウスジョージア島には、研究者等を除けば定住者はなく、通常は軍隊の配備もないが、廃材回収業者のサウスジョージア島上陸への対応措置として、3月24日より、氷海警備艦「エンデュアランス」と、ミルズ中尉 (Keith Mills) 指揮下の海兵隊員22名が警戒活動にあたっていた。その後、海兵隊は3月31日に下船し、グリトビケンのイギリス南極探検隊 (British Antarctic Survey) の基地に駐屯した。4月1日には、ハント総督によるフォークランド諸島民へのラジオ放送が受信されたほか、4月2日には、BBCワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻が報じられた。国防省からの指令を受けて、「エンデュアランス」はアルゼンチン軍に見つからないように離れつつ情報収集母体として活動することになり、ミルズ中尉は、猛烈な嵐のなかで防御陣地を構築し、また海岸と桟橋に鉄条網と爆発物を敷設させた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "4月2日12時25分頃、グリトビケンのあるカンバーランド湾に「バイア・パライソ」が侵入してきた。本来、この日にサウスジョージア島への侵攻作戦も実施される予定であったが、極度の悪天候のために断念し、無線で「明朝もう一度来て通信する」と通告して去って行った。4月3日の夜明けには天候も回復しており、6時30分には再び来航した「バイア・パライソ」からのVHF通信で降伏要求がなされた。この間、アルゼンチン軍は、まずピューマ・ヘリコプターのヘリボーンによって部隊を展開させていたが、同地にイギリス軍はいないものと誤認しており、ピューマ・ヘリコプターは陣地の近くを飛行したため、ミルズ中尉たちの一斉射撃によって数十発が命中し、2名が戦死、残りは全員負傷して、機体は不時着した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "トロムベタ大佐は「ゲリコ」へイギリス軍陣地への艦砲射撃を命じたが、目標があまりに近くて俯角を取れず、射撃できずにいるうちに、逆にミルズ中尉たちのカールグスタフ無反動砲とM72 LAW対戦車ロケット弾、そして機関銃および自動小銃の射撃を受けて、水兵1名が戦死し、砲の旋回機構も破壊された。しかしこの間に、アルエットIIIヘリコプターによって、不時着したピューマの負傷者は収容され、また増援部隊を着陸させた。アルゼンチン海兵隊は巧みに展開し、ミルズ中尉たちを包囲していった。また「ゲリコ」も、いったん沖に後退したのちに艦砲射撃を再開しており、砲の旋回機構を破壊されたために弾着の誤差が大きかったものの、徐々に陣地に近づいていた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ミルズ中尉は、事前に「無益に人命を失うおそれが生じる前に、抵抗をやめる」と指令されていたこともあって、この時点でアルゼンチン軍に対し十分な損害を与えたとして、降伏した。イギリス側は重傷者1名を出したものの、戦死者はなかった。これに対し、アルゼンチン軍は圧倒的に優勢であり、またミルズ中尉が無線で海兵隊の駐屯を宣言していたにも関わらず、イギリス軍はいないだろうという思い込みで不用意に兵力を投入した結果、フリゲート1隻損傷、ヘリコプター1機全損、死者3名という損害を被った。ただし、後々の外交交渉のことを考えて、イギリス人を殺さないように攻撃を手控えた結果とも言われる。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "3月31日の時点で、サッチャー首相は、「ハーミーズ」「インヴィンシブル」の2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された。アルゼンチンの侵攻に対して、サッチャーが既に任務部隊派遣の準備が整っていることを表明すると、世論はこれを熱狂的に支持したが、アルゼンチンの侵攻を未然に防げなかったことについて野党は追求の手を緩めず、責任を取って、キャリントン外相、アトキンズ閣外大臣、並びにルース次官は辞任を余儀なくされた。そして4月6日には、サッチャーはイギリスの伝統に基づいて戦時内閣を設置し、サッチャーと数名の閣僚によって意思決定を行える制度を整えた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このように部隊を派遣してはいたものの、イギリスにとって、武力行使による奪回は最終手段と位置づけられており、できれば任務部隊の派遣効果と対アルゼンチン経済制裁によって、アルゼンチンが全面的に屈服するか、あるいは国連やアメリカによる調停を期待していた。サッチャーは、スエズ危機の教訓を踏まえて、アメリカや国際法を無視した武力行使はありえないと考えており、まずこれらの地固めを重視した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "しかし国連はもともと平和主義と反植民地主義的志向が強く、イギリス寄りでの調停は期待し難かった。またイギリスとしては自衛権の発動を主張することも困難であった。自衛権とは攻撃を受けてから生ずるものであるのに対し、フォークランド総督府は既に降伏し、戦闘はいったん終結していたためである。4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めたが、これが精一杯であった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "イギリスでは軍事作戦と並行して経済制裁についても検討しており、4月2日には国内のアルゼンチン資産を凍結しその額は15億ドルにも及んだ。ただし当時のアルゼンチン経済は食糧、エネルギー分野においては自給に近かったことから短期的な影響は小さく、長期的な影響を与えるためには諸外国との連携が必要であった。欧州、コモンウエルス諸国、そして日本は外交的にイギリスを支持し、対アルゼンチン武器禁輸、アルゼンチンからの輸入の部分的停止、対アルゼンチン新規融資の禁止などを含んだ対アルゼンチン経済制裁に同意したが、日本は経済制裁には追随しなかった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "これと並行して、アメリカのアレクサンダー・ヘイグ国務長官やイギリスのフランシス・ピム外相のシャトル外交により、事態の打開が模索された。アメリカにとって、反共という立場では共通するイギリスとアルゼンチンが対立を続けることは望ましくなかったこともあり、積極的に調停を試みた。ヘイグ国務長官の基本的な構想は、まずアルゼンチンが撤兵し、それを確認してイギリスも任務部隊の派遣をやめるというものであった。4月12日にはロンドンを訪れて、この構想に基づく提案を提示した。イギリスも一時はその案の受諾の方向で進んでいたが、アルゼンチンは主権の移譲を主張して譲らず、ヘイグを愕然とさせた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "イギリス側が諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は、同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、イギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないよう定める文言が、4月24日のアルゼンチン案に含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的と考え、さらに外交交渉が時間稼ぎのために使われていることを懸念した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ヘイグ長官はなおも調停を試みたものの、4月25日のサウスジョージア島奪還を受けて、27日にはアルゼンチン軍事評議会はヘイグの調停案を拒絶する決定を下し、2日後にヘイグにそのことを伝えた。ヘイグは、もし戦闘が勃発すればアメリカはイギリスを支持することを表明した。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "戦争中もイギリス政府や諸外国政府は、外交的に戦争の落としどころを探っていた。ヘイグ国務長官はイギリス、アルゼンチン双方に対して48時間以内の即時停戦とフォークランド諸島からの撤退を求めていた。またペルー政府も仲介役に積極的であり、即時停戦や部隊の撤収、第三国によるフォークランド諸島の一時的な統治の確立などの調停案を持ちかけていた。しかしこのときにイギリス原子力潜水艦「コンカラー」によってアルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」が撃沈され、またイギリス駆逐艦「シェフィールド」にエグゾセを命中させたことで、アルゼンチンは態度を硬化させており、ペルーとアメリカの仲裁には関心を持たず、国際連合の場でイギリスに国際的な圧力をかけて譲歩を引き出そうとしていた。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アメリカにとっては、米英関係と同時にラテン・アメリカ諸国との関係も良好に保つ必要があった。そしてチリを除くラテンアメリカ諸国にとっては、アルゼンチンが完敗して再び政変が生じることは望ましくなかった。5月31日、レーガン大統領はブラジルの大統領と協議したのち、サッチャー首相に電話して、ヘイグ国務長官の即時停戦案を受け入れるよう提案したが、イギリスはグース・グリーンの戦いで勝利を収めた直後であり、到底受け入れられるものではなかった。サッチャー首相は猛抗議し、しまいにはレーガンが「自分でも余計な指図をしたことはわかっているが...」と折れる有様であった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "6月2日には、今度は国際連合安保理の場においてスペインとパナマが独自の即時停戦案を提出した。サッチャー首相は折からのヴェルサイユ・サミットで各国首脳への根回しを行っていたが、日本の鈴木善幸首相だけは問題の平和的解決に拘って即時停戦案への賛成を表明しており、サッチャー首相を激高させた。そして2日後の安保理では、日本とソ連を含む9か国が停戦案に賛成したため、イギリスは拒否権を発動して停戦案を封じ込めざるを得なかった。", "title": "アルゼンチン軍の侵攻" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "上記の通り、イギリス軍は、当初は情勢が緊迫するにつれて五月雨式に派遣部隊を増やしており、まず3月29日にフォート・グランジ級給糧艦「フォート・オースティン」、4月1日に原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」が派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになっていた。アルゼンチン軍の侵攻の時点で、「フォート・オースティン」と原子力潜水艦は大西洋を南に向けて航行中、フリゲート艦隊はようやくジブラルタルの海軍基地を出港したところであった。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "そして3月31日の時点で、サッチャー首相はセントー級航空母艦「ハーミーズ」とインヴィンシブル級航空母艦「インヴィンシブル」の2隻の軽空母を中核として、第3コマンドー旅団を伴った機動部隊の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "当時、第1艦隊はカサブランカ沖でNATOの演習「SPRINGTRAIN」に参加しており、ここから下記の7隻が抽出されたほか、既に演習部隊から分離されて西インド方面における長期任務へと向かっていたロスシー級フリゲート「プリマス」も呼び戻された。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "4月3日2時30分には、これら8隻は補給艦「タイドスプリング」とともにフォークランド諸島に向かった。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "4月5日には、大々的な見送りとともに、ポーツマスより2隻の空母が出撃した。同日、ひっそりと21型フリゲート「アラクリティ」「アンテロープ」、そして補給艦支援給油艦「ピアリーフ」、艦隊補給艦「リソース」および補給艦「オルメダ」も出港した。また4月6日には強襲揚陸艦「フィアレス」が、また4月9日には第3コマンドー旅団の大半および増援された陸軍の第3空挺大隊を乗せた徴用船「キャンベラ」も出港した。第1艦隊司令官ウッドワード海軍少将は、ジブラルタルから「グラモーガン」に座乗して既に南下しており、4月15日、空母部隊と合流した。搭載品の移載や会議を経て、4月18日、空母機動部隊はアセンション島を出港した。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また4月7日の時点で、イギリス政府は、12日4時(UTC)以降、フォークランド諸島周辺200 マイルに海上排除区域(Maritime Exclusion Zone: MEZ)を設定すると宣言していた。12日、原子力潜水艦「スパルタン」が排除海域で配備に入り、予定通りMEZが発効した。また15日には「スプレンディド」も配備に入った。「スパルタン」は東フォークランド島の近くを、「スプレンディド」はアルゼンチン本土の港湾とフォークランド諸島の中間になる海上排除区域の北方の哨戒水域を担当した。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンリー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機はプカラ攻撃機、イタリアのアレーニア・アエルマッキ社製の軽攻撃機MB-339・MB-326、アメリカのビーチエアクラフト社製のT-34Cターボメンター軽攻撃機等で編成された。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍がフランスのダッソー社から購入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、同じくフランスのMBDA社から購入した空対艦ミサイルエグゾセAM39が5発搭載された。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "アルゼンチン軍は、4月3日のサウスジョージア島占領ののち、駐屯軍として海兵隊員55名をグリトビケンとリースに配置した。また廃材回収業者39名が引き続きリースに残っていた。しかし同地は地理的に隔絶しており、特にイギリス軍潜水艦の哨戒下ではアルゼンチン海軍による支援を受けることも困難で、守るに難しい状況であった。このため、イギリス軍としては、まず同地を奪還することで、来るべきフォークランド諸島奪還へと弾みをつける心算であった。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "4月7日にはサウスジョージア島奪回のための部隊として、フリゲート「プリマス」と駆逐艦「アントリム」およびタイド型給油艦「タイドスプリング」によって第317.9任務群が編成され、のちにサウスジョージア島近海で氷海警備船「エンデュアランス」が合流、更に4月24日にフリゲート「ブリリアント」が合流した。上陸部隊は第42コマンドーのM中隊が割り当てられ、後に陸軍特殊空挺部隊(SAS)のD中隊と海兵隊特殊舟艇部隊(SBS)の1個分隊も追加された。作戦は「パラケット作戦」(Operation Paraquet)と名付けられたが、作戦参加者は、わざと文字を1字だけ変えて「パラコート(Paraquat)作戦」と呼んだ。これらの任務群を掩護するため、4月20日から25日の間、サウスジョージア島からアルゼンチン本土の沿岸までを、空軍のニムロッド哨戒機が哨戒したほか、原子力潜水艦「コンカラー」もサウスジョージア島沖を哨戒していた。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "本隊の上陸に先立ち、まずSASがリースを、SBSがグリトビケンを偵察することになっていた。4月21日12時、リースを偵察するSAS分隊は、周囲の忠告を押し切って「アントリム」と「タイドスプリング」の艦載ヘリコプターによってフォーチュナ氷河に降下したが、おそるべき悪天と氷河の状態のために5時間弱をかけて500メートルしか進めず、4月22日10時に救出を要請した。ホワイトアウトの状態が続き、まず隊員の発見に難渋した上に、救出作業中に2機が墜落してしまった。幸い死者も重傷者もなく、残る1機は一度艦に戻って隊員を降ろしたのち、残されていた隊員と乗員を救出しようとしたが天候不良で二度も引き返し、三度目の挑戦でようやく救助に成功、1トン以上の過荷重状態で無事帰還した。またSBSのグリトビケン偵察も、強力な向かい風と、吹き寄せられた氷山によって阻まれ、失敗した。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "4月23日には、SASの偵察隊員が、今度はボートによってストロームネス湾に潜入しようとしたが、極寒の環境で船外機がうまく動かず、5隻中目標に達したのは3隻のみで、1隻は外海に吹き出されてしまったところをヘリコプターで救出され、もう1隻は別の場所に吹き寄せられたのち3日後に救出された。しかし残る隊員は偵察活動を完遂した。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "アルゼンチン海軍最高司令官アナヤ大将は、サウスジョージア島について、将来は科学観測基地を設けてアルゼンチンの実効支配を示そうと考えていた。その後、イギリス艦艇がこの島に近付いているという情報が入ると、一度はこの島をあきらめ、部下には無抵抗で降伏するよう命じた。しかしその後考えを変えて、潜水艦「サンタ・フェ」によって、増援として約40名の海兵隊員を送り込むことにした。同艦は、4月21日にマル・デル・プラタ海軍基地を出発し、24日深夜にカンバーランド湾の入り口に到着し、25日の2時頃から約2時間をかけて、海兵隊員と補給物資をグリトビケンに揚陸した。しかし帰路、カンバーランド湾内で第317.9任務群のヘリコプターに攻撃されて行動不能になり、グリトビケンに戻って、キング・エドワード崎に乗り上げた。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "第317.9任務群では、この勢いに乗じるべきであると衆議一致した。この時点で、上陸部隊主力が乗艦する給油艦「タイドスプリング」は潜水艦脅威を避けて退避しており、上陸作戦は、駆逐艦・フリゲートに乗艦しているM中隊の指揮班と迫撃砲兵、そしてSASとSBSの特殊作戦部隊のみで行うことになった。まず13時より、「アントリム」と「プリマス」によってグリトビケンへの上陸準備射撃が開始され、続いて13時30分より寄せ集め部隊79名のヘリボーン展開が開始された。実のところ、艦砲射撃が始まるとすぐにアルゼンチン軍は白旗を揚げており、16時5分には接近した地上部隊がこれを確認し、16時30分にはイギリス国旗とイギリス海軍旗が掲揚された。この戦闘で両軍に死者・負傷者はでなかった。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "引き続きリース奪還のため、17時15分、SASとSBSの隊員が「プリマス」と「エンデュアランス」に乗艦してリースのあるストロームネス湾へ派遣された。「エンデュアランス」艦長は無線で降伏を説得したところ、リースのアルゼンチン軍指揮官は、当初は「民間人は投降するが海兵隊員は戦う」と返答していたものの、21時45分には「決心を変え海兵隊員も降伏を準備している、イギリス軍指揮官は明日リースのサッカー場へヘリコプターで飛来して欲しい、そこで降伏の指示を受ける」と返答を変えた。イギリス側はいったんそれを認めたが、明朝、予定を変更して、武装解除したのち、上陸していたSAS・SBSの隊員のところに出頭するように命じた。その後、アルゼンチン側が夜のうちにサッカー場などに地雷を敷設していたことが判明し、イギリス側の判断の正しさが裏付けられた。", "title": "イギリス軍の反攻開始" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "4月12日より原子力潜水艦による海上封鎖が開始され、フォークランド諸島周辺にMEZが設定されていたが、空母戦闘群の到着に伴って、4月28日には、2日後の4月30日をもって、MEZをアルゼンチン航空機をも対象とする完全排除水域(TEZ)に強化することを宣言した。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "紛争勃発時点で海軍が保有していたシーハリアー艦上戦闘機は31機だけで、しかも2機が未引き渡しであった。艦隊の派遣にあたって、20機を機動部隊に配属して、8機を予備、4機を訓練・機材試験用に保持することとなり、第899飛行隊の保有機は第800・801飛行隊に分割されて配属され、下記のように配分された。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "「ハーミーズ」のほうが大型であることから多くの機体を搭載しており、後に空軍のハリアーが派遣された際も同艦に搭載された。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "5月1日早暁、空軍のバルカン戦略爆撃機による爆撃の直後より、「ハーミーズ」の第800飛行隊のシーハリアーによる攻撃が行われた。「インヴィンシブル」は小型で搭載機数が少ない一方でレーダーが近代的であったことから防空艦に指定され、同艦の第801飛行隊は艦隊防空のための戦闘空中哨戒を担当した。攻撃を終えたシーハリアーを収容すると空母戦闘群は離脱していったが、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート「アロー」および「アラクリティ」は分派されて、ポート・スタンリー周辺のアルゼンチン軍守備隊に対し艦砲射撃を行なった。3隻は13時25分に射撃を終了し、離脱中にアルゼンチン空軍のダガー攻撃機3機による爆撃を受け、「アロー」の乗員1名が腕に負傷し、3隻とも軽度の損傷を受けたものの、重大な損害はなかった。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "一方、空戦が本格化したのは午後遅くからであった。まず戦闘空中哨戒(CAP)中のシーハリアー2機がアルゼンチン空軍のミラージュIIIEA戦闘機2機と交戦し、ミラージュ1機が撃墜され(パイロットは脱出)、中破した1機もスタンリー飛行場に不時着しようとしたところを味方の対空砲に誤射されて撃墜された(パイロットは戦死)。またその数分後には、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機2機がシーハリアー2機と交戦し、ダガー1機が撃墜された。その更に数分後には、アルゼンチン空軍のキャンベラ爆撃機3機がシーハリアー2機と交戦し、キャンベラ1機が撃墜された。これらの撃墜はいずれもサイドワインダー空対空ミサイルによるものであった。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "4月5日より、アルゼンチン海軍はイギリス海軍との決戦に備えて大規模な艦隊の再編成を行い、主要な戦闘艦艇および補助艦艇は第79任務部隊として再編された。4月30日、この任務部隊は、下記の3つの任務群に分割されてそれぞれの作戦海域に配備された。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "第79任務部隊指揮官アララ准将は「ベインティシンコ・デ・マヨ」に乗艦しており、5月1日、同艦搭載のトラッカー哨戒機がイギリス空母戦闘群を発見したことで、同日23時7分(UTC)、攻撃作戦の開始を命じていた。作戦では、第79.1任務群と第79.3任務群によってイギリス空母戦闘群を挟撃することになっていた。しかし5月2日1時(UTC)以降、風はどんどん弱くなっており、元々機関の不調に悩まされ、航空機の運用に必要なだけの速力を発揮するのが困難だった「ベインティシンコ・デ・マヨ」の航空艤装では、スカイホーク攻撃機を発艦させることは困難になっていた。また同日3時30分(UTC)、イギリスのシーハリアー艦上戦闘機が飛来し、アララ准将は、自らの位置が曝露したものと信ずるに至った。4時45分(UTC)、アララ准将は作戦の続行を断念し、各任務群は、イギリスの潜水艦を避けるため、浅海域に戻ることになった。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "一方のイギリス軍は実際には第79.1任務群の位置を把握していなかったが、第79.3任務群は、5月1日14時(UTC)以降、原子力潜水艦「コンカラー」によって追尾されていた。同群はTEZに入らず、その外縁部を沿うように進んでいた。すなわち、この時「ヘネラル・ベルグラーノ」はTEZの外にあったのである。一方でこの巡洋艦は元々ブルックリン級軽巡洋艦「フェニックス」として第二次大戦前の1938年にアメリカ海軍で就役した旧式艦であり、いかに旧式艦とはいえ強力な艦砲と装甲を備えていたため、通常の水上戦闘艦の4.5インチ砲やエグゾセ艦対艦ミサイルでは対抗できず、対処には潜水艦の長魚雷かシーハリアーの1,000ポンド爆弾が必要となるので、もし針路を変更してTEZに突入してきた場合、重大な脅威となることが予想された。このため、イギリス軍にとって、これを攻撃するべきか否かは懸案事項となり、最終的にサッチャー首相の認可を受けて交戦規定(ROE)が変更され、攻撃が認可された。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "「コンカラー」の通信装置の不調のために命令文の受領には時間がかかったが、5月2日17時10分(UTC)までに攻撃する意思を示す電報を送信し、18時13分(UTC)、「コンカラー」は戦闘配置についた。第79.3任務群は同艦の存在に気付いていなかったものの、緩やかに蛇行しながら前進していた。18時57分(UTC)までに、理想的な位置である「ヘネラル・ベルグラーノ」の左艦首1,400 ヤードに占位し、「コンカラー」は、Mk8魚雷3発を斉射した。このうち2発が艦首と左舷後部に命中し、左舷後部への被弾が致命傷となって「ヘネラル・ベルグラーノ」は撃沈された。魚雷命中から20分後に「へネラル・ベルグラーノ」のボンソ艦長は総員退去命令を出したが、荒天のために救助活動は難航し、850名が救助されたものの、321名が戦死した。また、「ヘネラル・ベルグラーノ」に乗り込んでいた民間人2名がこの攻撃に巻き込まれて死亡している。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "第79任務部隊が大陸棚の浅海に戻って以降、紛争が終わるまでの間、アルゼンチン海軍の水上戦闘艦は現存艦隊主義に徹し、二度と出撃してくることはなかった。「ベインティシンコ・デ・マヨ」の艦載機は搭載解除され、ほぼすべての航空機は陸上基地に配置され航空作戦全般に参加することになった。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "5月4日11時15分(UTC)、アルゼンチン軍のP-2哨戒機が1隻の駆逐艦のレーダー波を逆探知し、「ハーミーズ」がフォークランド諸島の東方にいると考えられたことから、30分以内にエグゾセAM39空対艦ミサイルを1発ずつ搭載したシュペルエタンダール攻撃機2機がリオ・グランデ基地を発進した。14時(UTC)、この編隊は3隻の42型駆逐艦を発見した。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "このとき発見された駆逐艦は、主隊の西18海里で防空任務にあたっていた「グラスゴー」「コヴェントリー」「シェフィールド」であった。5月1日のスタンリー飛行場攻撃作戦の際にアルゼンチン空軍が大きな損害を出したことから、反撃を予想して、「グラスゴー」の艦長は日中のSCOT衛星通信装置の使用を禁止するなど警戒を強めていた。13時56分(UTC)、「グラスゴー」の電波探知装置は、シュペルエタンダールの機上レーダによる掃引(レーダー波)を探知し、ただちに僚艦に急報した。しかしシュペルエタンダール(エグゾセ搭載可能)とミラージュIII(エグゾセ搭載不能、通常爆弾のみ)の機上レーダの信号パターンはよく似ており、5月1日には取り違えによる誤警報も何回かあったことから、「シェフィールド」や「インヴィンシブル」の対空戦調整室では、今回もミラージュIIIであろうと判断していた。また「シェフィールド」はSCOT衛星通信装置を作動させていたため、自身の電波探知装置は使えなくなっていた。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "13時58分(UTC)、「グラスゴー」は目標を再探知し、14時(UTC)に対空戦闘配置を下令、チャフを発射した。このためにシュペルエタンダールは右に逸れて、「シェフィールド」を捕捉することになった。シュペルエタンダールは計2発のエグゾセAM39ミサイルを発射したが、うち1発は海面に突入した。残り1発のミサイルは順調に飛行を続け、14時3分(UTC)、「シェフィールド」に命中した。命中の15秒前、艦橋の当直士官が2つの煙を視認したが、最後までエグゾセAM39ミサイルの飛来は理解されず、ソフトキル・ハードキルのいずれも試みられることはなかった。弾頭は爆発しなかったものの、固体燃料ロケットの燃焼によって大火災が生じ、電源の喪失や消防ポンプの機能喪失によって消火活動の遂行も困難となり、シーダート艦対空ミサイルの弾薬庫に誘爆の恐れが生じたことから、21時(UTC)、総員退去が下令された。乗員260名中、死者・行方不明者20名、負傷者24名であった。その後「シェフィールド」の火災は2日後に鎮火し、アセンション島への曳航が行われたが、途上で荒天に遭遇して浸水が拡大し、5月10日に沈没した。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "イギリス空軍は、任務部隊にハリアーやヘリコプターを提供するとともに、長い航続力を持つ固定翼機をアセンション島に進出させ、掩護や哨戒を行なっていた。このとき展開した航空機には、アブロ バルカン戦略爆撃機4機が含まれていた。NATOの作戦では空中給油の必要がほとんどなかったため、バルカン戦略爆撃機は空中給油装置を取り外していたが、この事態を受けて、直ちに再装備していた。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "5月1日の第1次ブラック・バック作戦で、この空中給油装置が活かされることになった。バルカン戦略爆撃機はハンドレページ ヴィクター空中給油機と共にアセンション島を発進した後、ヴィクター空中給油機による空中給油を重ね、16時間をかけてスタンリー飛行場上空に進出して飛行場に爆撃を実施した。この爆撃では21発の爆弾が投下され、うち1発が滑走路に命中してクレーターを作ったほか、空港施設や駐機していた航空機にも損害を与えた。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "この5月1日の爆撃作戦は、直接的な戦果は乏しかったものの、アルゼンチン軍の意思決定に多大な影響を与えたという点で意義が大きかった。バルカン戦略爆撃機によるアルゼンチン本土攻撃の可能性がにわかに注目されることとなり、この時を境に、アルゼンチン本土の脅威がアルゼンチンの計画における主題の1つとなった。これによって、アルゼンチン空軍の最有力の戦闘機であるミラージュIIIEAは本土防空のために拘置されることになり、ミラージュIIIEAとシーハリアーの本格的な空中戦は5月1日の戦闘が最初で最後の機会となったのであった。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "またウッドワード提督は、シーハリアーの機数と攻撃能力の不足から、引き続きバルカン戦略爆撃機による爆撃を要望していた。「ヘネラル・ベルグラーノ」などの撃沈に対する反撃として、スタンリー飛行場にシュペルエタンダールを展開するのではないかという懸念もあり、飛行場に対する攻撃を継続することになった。", "title": "航空・海上優勢を巡る戦闘" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "「シェフィールド」の沈没以降、ウッドワード提督は、最終的上陸のための条件作りに努めており、自己の裁量の範囲内で上陸作戦に不可欠なフォークランド諸島内の偵察および排除水域の実効性の確保を行った。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "5月9日には、イギリス空母戦闘群の捜索にあたっていたアルゼンチン海軍の情報収集船「ナルワル」 (ARA Narwal) が排除された。まずシーハリアーが機銃掃射したのちに8名のSBS隊員がヘリコプターからファストロープ降下して突入し、機銃掃射により死亡していた船長を除いて、情報士官を含む11名の生存者全員を捕虜にした。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "5月10日には、フォークランド水道内の機雷の敷設状況を確認するため「アラクリティ」「アロー」が分派された。機雷は敷設されていないことが確認されたほか、この通峡の途中、「アラクリティ」はアルゼンチンの輸送艦Isla De Los Estadosをレーダーで捉え、艦砲射撃によって撃沈した。またこの他、夜間に継続して艦砲射撃、爆撃、照明弾射撃を行うことで、アルゼンチン軍守備隊の睡眠妨害を試みていた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "4月30日より、SAS・SBSの計10チームがフォークランド諸島各所に潜入し、上陸候補地点の地理的情報の収集にあたっていた。また第3コマンドー旅団参謀のサウスビー=テルユア少佐は、以前にフォークランド海兵隊分遣隊の隊長だったとき、余暇を利用して海岸線をくまなくヨットで調査してレポートを作成しており、大いに参考になった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "5月10日、これらの情報を踏まえて、上陸地点はサン・カルロスと決定された。同日、第317任務部隊指揮官フィールドハウス大将は、その上陸部隊である第317.1任務群指揮官トンプソン准将(第3コマンドー旅団長)に対し、フォークランドへの上陸を準備するよう指示した。そして5月12日、隷下部隊に対し、「作戦命令3/82」として、水陸両用作戦である「サットン作戦」を発令した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "なお第317.1任務群は第3コマンドー旅団から編成されていたが、同旅団のみでは兵力に不安があるとして、陸軍の第5歩兵旅団(旅団長:ウィルソン准将)から第2・3空挺大隊が抽出されて増援されていたほか、5月3日には旅団そのものが派遣されることになっていた。これら2個旅団を統一指揮する組織としてフォークランド諸島陸上軍(LFFI)が設けられ、その指揮官としてはムーア海兵隊少将が任命されて、指揮権は5月20日に発動された。サットン作戦においては、ムーア少将と第5歩兵旅団の到着前に、第3コマンドー旅団によって橋頭堡を確保し、ここに第5歩兵旅団を投入して戦果を拡大することとなっていた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "シーハリアーは空中戦での損害はなかったものの、5月4日にグースグリーンを攻撃中の機体が対空砲火で撃墜され、また6日にはレーダーコンタクトの捜索に向かった2機が消息を絶って、一挙に17機に減勢してしまった。しかし5月18日には、シーハリアーFRS.1の予備機による第809飛行隊と、空軍のハリアーGR.3攻撃機による第1飛行隊が到着した。「ハーミーズ」には、6機のハリアーGR.3と4機のシーハリアーFRS.1が追加されて計21機となり、「インヴィンシブル」には4機のシーハリアーFRS.1が追加搭載されて計10機となり、空母戦闘群としての艦上戦闘機・攻撃機は31機に増勢した。これによって、近接航空支援・航空阻止はハリアーGR.3の担当となり、シーハリアーFRS.1はCAPに注力できるようになった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "アルゼンチン海軍は、4月24日に、西フォークランド島のすぐ北にあるペブル島の飛行場にT-34C軽攻撃機4機を配置していた。また空軍も、5月1日のシーハリアーの攻撃を受けて、グースグリーンに配置していたプカラ攻撃機12機を同地に移動させていた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "上陸地点がサン・カルロスに決したのち、イギリス軍にとって、同地から約40キロメートルしか離れていないペブル島に(貧弱なターボプロップの軽攻撃機とはいえ)敵機が存在することは看過できない問題となった。5月10日の作戦会議で、ウッドワード少将は、SASに対してこの飛行場の攻撃を命じた。SASはまず偵察することを考えており、3週間はかかると考えていたが、ウッドワード少将は15日までに実行するよう求めたことから、SASはその夜のうちに偵察部隊を出発させた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "悪天のため、実際の偵察は13日から14日にかけてとなり、この結果を踏まえて、14・15日の夜に本隊が進入して航空機に爆弾を仕掛け、駆逐艦「グラモーガン」も艦砲射撃を行なった。これにより同島に配置されていた航空機は全て破壊され、燃料・弾薬も炎上し、以後この飛行場がアルゼンチン軍に使用されることはなかった。SASは2名が負傷しただけで、全員が帰還した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "21日未明、上陸開始に先駆けて、まず「アントリム」の艦砲射撃とSBSの地上攻撃により、ファニング・ヘッドにいるアルゼンチン軍「鷲分遣隊」の監視哨が駆逐された。またこれと並行して、3時30分頃、上陸部隊本隊第1波として、海兵隊第40コマンドーと陸軍第2空挺大隊がLCUによって上陸を開始した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "鷲分遣隊の本隊はポート・サン・カルロスに所在しており、ファニング・ヘッドでの艦砲射撃の音は聞こえていたが、監視哨は通信を送る間もなく壊滅したため、具体的に何が起きているかを把握することはできなかった。夜明けを待って斥候を送り、8時10分頃、イギリス軍の揚陸作戦が実施されていることが判明した。分遣隊はこれらの情報を全てグース・グリーンの第12歩兵連隊へ無線で報告し、航空機による対地攻撃を要請したのち、東方へ離脱した。この間、誤って上空を飛行したイギリス軍のシーキングおよびガゼル・ヘリコプター各1機を撃墜、ガゼル1機に損害を与えた。この損害を受けて、イギリス第3空挺大隊は鷲分遣隊を掃討しようとしたが、そのために投入された中隊同士が同士討ちしてしまい、分遣隊の捕捉には失敗した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "5月4日の駆逐艦「シェフィールド」の被弾を受けて、エクゾセの脅威を避けるため、2隻のイギリス空母は後方へと配置された。仮に2隻の空母のいずれかを失った場合、イギリス軍の作戦全体が成り立たなくなることから、この措置はやむを得ないものではあったが、航空母艦を後方に配置したため、ハリアーの上陸区域における作戦時間が約30分まで低下していた。そして、水陸両用戦の部隊と共にサン・カルロス湾に入ったフリゲートに兵力の防衛を依存することとなった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "アルゼンチンの航空攻撃が予期されたため、艦艇は最高度の警戒状態を維持していた。この予想通り、5月21日 13時25分(UTC)より航空攻撃が開始され、実に45ソーティに及ぶ出撃が行われた。水陸両用艦艇の護衛のために7隻の艦艇がフォークランド水道およびサン・カルロス湾に入ったが、「アーデント」が沈没し、「プリマス」と「ヤーマス」の2隻を除く他のすべての艦が損害を受けた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "しかしこのようにイギリス軍に損害を与えつつも、アルゼンチン軍は大きな失敗を犯していた。すなわち、これらの護衛艦艇が攻撃の主目標とされ、荷を下ろしている船や、陸揚げされ野積みになっている武器、弾薬、資材等は見逃されていたのである。上陸部隊自身のレイピア地対空ミサイルの揚陸が遅れ、防空網が完成されていない時期であったことから、第3コマンドー旅団にとっては幸運だった。またアルゼンチン軍機の損害も少なくなく、10機(ダガー5機、A-4Q 3機、A-4C 2機)を失い、これ以外のアルゼンチン軍機も小火器により被害を受け、修理をせずに作戦を行うことは出来ない状態であった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機が「アーデント」と交代した21型フリゲート「アンテロープ」を攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、「アンテロープ」は翌24日に沈没した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "5月25日にはアルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦「コヴェントリー」と22型フリゲート「ブロードソード」を攻撃し、「コヴェントリー」に爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "その直後アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイルエグゾセAM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍に徴用されていたコンテナ船「アトランティック・コンベアー」に命中、同船は大破炎上して沈没した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "同船は航空機の輸送に用いられており、シーハリアーとハリアーは既に空母に移動して無事だったものの、ヘリコプター多数(チヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機)が失われ、同日に予定されていたヘリボーン作戦は断念せざるを得なかった。特に空軍のチヌーク輸送ヘリコプター4機で編成された第18飛行隊は、撃沈前に発艦していた1機を除く3機と整備機材・予備品のほとんどを失い、地上部隊を落胆させた。被害を免れた1機 (Bravo November) は孤軍奮闘し、戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送などで活躍した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "5月21日にイギリス軍がサン・カルロスに上陸して以降、アルゼンチン軍の抵抗は航空攻撃に限られていた。一方、イギリス軍の側は、上陸以降の作戦については事前の計画は乏しかったが、これらの情勢から、任務部隊司令部ではアルゼンチン軍の積極性について楽観的な見方が広がっていた。第3コマンドー旅団長トンプソン准将は、25日にはケント山からチャレンジャー山にかけての地域に大規模なヘリボーン作戦を行ってスタンリー攻略の地歩を固めることを企図していたが、同日の「アトランティック・コンベアー」の喪失によって多数のヘリコプターが失われ、この作戦は実行不能となった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "スタンリーに進出する前に、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯するアルゼンチン軍を攻撃する必要があった。トンプソン准将はもともと、グース・グリーンに対する(占領を前提としない)襲撃作戦を計画しており、22日には第2空挺大隊長ハーバート・ジョーンズ中佐に作戦立案を下令していたが、「アトランティック・コンベアー」の喪失を受けて、この作戦は第5歩兵旅団とヘリコプターの増援を待って行う方針としていた。しかし逆に、ロンドンの任務部隊司令部と政治家は、この喪失を補うためにも何らかの行動を示すべきであると考えるようになっていた。結局、26日にトンプソン准将が任務部隊司令部と衛星通信で直接話し合い、グース・グリーンへの攻撃とスタンリーへの進撃にむけた機動を始めるよう命令をうけた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "一方、アルゼンチン軍において、グース・グリーン防衛の主力部隊となっていたのは第12連隊であり、連隊長はイタロ・ピアッヒ中佐であった。連隊の兵士の半分以上は2月に徴兵されたばかりで訓練はほとんど完了しておらず、舶送される予定の重装備も到着しておらず、人員・装備ともに不十分な状態であった。部隊の抽出や配属があり、28日の時点でグース・グリーンに配備されていた部隊は総兵力1,007名、歩兵3個中隊を基幹として105mm榴弾砲3門、120mm重迫撃砲(状態不良)1門、81mm迫撃砲3門、35mm対空機関砲2門などを保有しており、メルセデス任務部隊と称された。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "イギリス側では、SASによる最初の偵察結果では士気薄弱な1個中隊程度と見積もられていたが、22日午後に第3空挺大隊がアルゼンチン軍の下士官を捕虜にするなど情報収集を進めた結果、26日には、ほぼ上記のような部隊の全容を把握していた。一方の第2空挺大隊は、上陸以降、橋頭堡の南側を防御するためサセックス山に布陣していたが、冷たい風と湿った土地、そして防水性に欠ける軍靴のために、塹壕足をはじめとする病気や負傷によって、既に兵力の約4%に相当する27名の兵士が後送されていた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "27日10時、BBCは全世界に対して「空挺大隊はまさにグース・グリーンとダーウィンを攻撃する準備ができている」と放送した。これを聞き、大隊長ジョーンズ中佐は激怒し、奇襲効果は失われたと信じた。また上記のようにアルゼンチン軍が当初予想よりも強力だったこともあり、第2空挺大隊固有の部隊に加えて、L118 105mm榴弾砲3門の配属を受けるとともに艦砲射撃の支援を受けることになった。一方、第12連隊長ピアッヒ中佐は、まさかBBCが自国軍の正確な情報を放送するとは思わず、欺瞞情報と考えたが、その他の予兆から、イギリス軍の攻撃が迫っていることは察知していた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "同日、第2空挺大隊はカミラ・クリーク・ハウスに移動し、15時よりジョーンズ中佐は命令を下達した。当初の作戦計画は、イギリス空挺部隊の練度を活かして夜間のうちに攻撃を完了するもので、6つの段階に分かれた複雑な計画であった。中佐のせっかちな性格のために急いで下達されたこともあり、中隊長以下、誰も命令を理解できなかった。また上記の通り、トンプソン准将はあくまで襲撃作戦として下令したが、ジョーンズ中佐はこれを拡大解釈し、占領作戦に変更していた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "18時より、第2空挺大隊の各部隊は順次前進して攻撃位置に進入した。攻撃開始予定は28日2時であったが、艦砲射撃を担当するフリゲート「アロー」は昼間は別の任務を割り当てられており、4時30分には艦砲射撃を終了しなければならなかった。このため、大隊の攻撃開始前の22時から3時間に渡って射撃することで十分な地ならしをすることになったが、これにより、ジョーンズ中佐が企図した「始めは静かに接近」という要領は最初から挫折した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "イギリス側は、アルゼンチンの戦力はほぼ正確に見積もっていたが、その配置は把握しておらず、ジョーンズ中佐の込み入った作戦は、戦闘が開始されるとすぐに齟齬を来しはじめた。例えば最初に攻撃を開始したA中隊は、無抵抗のうちに当初目標を速やかに占領したあと、他の部隊の戦闘を横目にしばらく停止させられた。その後攻撃した次の目標もやはり無抵抗であったため、中隊長はそのまま更に次の目標に前進しようとしたが、ジョーンズ中佐は、A中隊を自ら確認したいとしてこれを却下した。そして中佐の到着を待つ1時間の間に夜は明け始めており、次の目標であるダーウィン丘において、A中隊は激烈な抵抗に遭遇した。またこれとほぼ同時刻、B中隊も、その西側において、50口径機銃などの強力な火力を備えた陣地に遭遇し、前進を阻止された。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "A・B中隊の攻撃が頓挫しているのをみて、7時30分頃、D中隊は主防衛線を迂回して助攻を行うことを、またC中隊は機関銃により火力支援を行うことを、それぞれ上申したが、ジョーンズ中佐はいずれも却下し、無線を混乱させるなと叱責した。またこの他にも、支援中隊長や砲兵指揮官からも多数の有益な示唆が提案されたが、中佐はこれらを全て拒絶し、8時30分頃よりA中隊と合流して、同中隊のみで攻撃を継続させた。しかしそれでも攻撃は停滞しており、焦った中佐は手近な人員を集めて、自ら陣頭にたって突撃した。この突撃に参加した人員は20名程度に過ぎず、また将校や無線手が多かったこともあって、たちまち阻止された。ひとりジョーンズ中佐のみ前進できたが、結局9時30分時頃に戦死した。しかし突撃隊員が、中佐を狙撃した塹壕を66mmロケット弾で撃破することに成功すると、その破壊力を恐れた周囲の塹壕が降伏し、勝利をもたらした。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "ケント山は、スタンリーを見下ろす位置にあるにもかかわらず、アルゼンチン軍は同地に有力な部隊を配備できずにいた。5月24日のSASの偵察によってイギリス軍もこのことを知り、ただちにここに大兵力を投入しようとしたが、25日の航空攻撃によってヘリコプターが多数失われたために断念され、SASのD中隊のみが山頂を固めた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "29日には海兵隊第42コマンドーがこれを増強する予定だったが、悪天候のために順延された。その直後より、アルゼンチン軍コマンド部隊による攻撃が開始された。アルゼンチン第602特殊作戦中隊第3突撃分隊はケント山の左斜面に降着し、ただちに激しい近接戦闘が展開された。彼らは吹雪に紛れてSASの防衛線に浸透し、SASは後退も検討したが、同地の重要性を鑑み、トンプソン准将はぜひとも同地を保持するよう命じた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "30日の夜明けにはSASが優勢となっており、またアルゼンチン軍の第2突撃分隊が来る兆候がないことから、第3突撃分隊は攻撃を断念して後退した。第2突撃分隊が乗ったヘリコプターは悪天候のために同地に到達できず、離れたところに降着したのち徒歩行軍で同地に向かったため、結局、第3突撃分隊の戦闘に間に合わず、30日夜に戦闘を開始することになった。またこの戦闘中、やっとイギリス海兵隊第42コマンドーが同地に到着し、イギリス側の優位が確立されたことから、同分隊も戦闘継続を断念して後退した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "フォークランド諸島地上軍(LFFI)司令官のムーア少将は、5月29日に揚陸艦「フィアレス」へ移乗して司令部を開設、30日より全面的な指揮を開始した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "ケント山の占領成功を受けて、イギリス軍地上部隊はそちらに向けて兵力の集中を図ったが、ヘリコプターの不足と酷寒の気候、湿った土地のために、その行軍は困難なものとなった。ちょうどこの頃、本国から増援されてきた第5歩兵旅団がフォークランド諸島に到着し、ヘリコプターはその揚陸のために使われていた。第3コマンドー旅団の各隊は、しばしば地元住民がトラクターで支援してくれたとはいえ、基本的には徒歩行軍により前進せざるをえなかった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "第2空挺大隊は、グース・グリーンを占領したのち、まず6月2日にはその東北東25キロメートルの入植地を攻撃し、同地が無人であったため容易に占領した。ここでフィッツロイの入植地住民との電話連絡に成功し、同地にもアルゼンチン軍が駐屯していないことを知ると、同日午後のうちに、イギリス軍唯一のチヌークを乗っ取って、同地への進出に成功した。この大胆な前進により、来るべきスタンリー攻撃作戦の際の右翼の援護が確保された。しかし悪天候のためにアルゼンチン軍はこの動きを察知できず、大隊は攻撃を受けずに済んだとはいえ、敵中に深く突出し、補給線からも切り離された脆弱な状態となった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "第2空挺大隊を援護するためにも迅速な前進が望まれたことから、6月3日、ムーア少将は、第5歩兵旅団を海上輸送によってフィッツロイに前進させることを決心した。しかしフィッツロイには揚陸可能な砂浜が乏しく、また本国のフィールドハウス大将が損害に神経質になっていたこともあり、計画は度々変更されて、実施部隊を憤激させた。まず5日から6日の夜間に「イントレピッド」を用いて第1回の海上輸送が行われた。多くの困難が経験されたとはいえ、スコットランド近衛大隊は、無事にフィッツロイ対岸のブラフ・コーヴに到着した。しかしこのとき、同大隊と交代した第2空挺大隊が、フィッツロイに移動するために、同大隊が乗ってきた舟艇を勝手に借用したことで、後の海上輸送に大きな障害が生じた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "続いて6日から7日の夜間に、「イントレピッド」と「サー・トリストラム」を用いて第2回の海上輸送が行われた。しかしこの輸送の際に現地での荷役に使う予定だった舟艇が第2空挺大隊に借用されて所在不明となっていたため、「イントレピッド」に乗艦してきたウェールズ近衛大隊などの部隊を全て上陸させることができなかった。この部隊を輸送するため、7日夜、「サー・ガラハド」を用いて第3回の輸送が行われた。しかしこの時、フィッツロイではまだ「サー・トリストラム」による擱座揚陸の途中であり、「サー・ガラハド」が着岸する余地はなかった。またウェールズ近衛大隊は、本隊がいるブラフ・コーヴまで乗船するつもりでおり、航空攻撃を警戒して下船を勧告にきた海兵隊のサウスビー=テルユア少佐の助言を無視した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "イギリス軍は、航空母艦を後方に配したことによる哨戒時間短縮を補うため、サン・カルロスにアルミニウム板をしきつめた長さ850フィート(約260 メートル)の滑走路を完成させて、6月2日より運用を開始した。これによってハリアー・シーハリアーのCAP時間が大幅に延長されることになった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "6月4日には、ケント山に対し、ダガー6機とプカラ4機による航空攻撃が行われた。いずれも、イギリス軍には全く損害を与えなかったが、部隊の防空体制の不十分さが浮き彫りとなった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "そして6月6日にはイギリス側が海上輸送を行っていることも察知しており、8日11時15分、アルゼンチン軍の観測所よりイギリス輸送船のフィッツロイ入港が報告された。12時50分、空軍のA-4Q 5機が攻撃をかけ、「サー・ガラハド」は大破して48名戦死、「サー・トリストラム」も中破して2名戦死を生じた。また、ダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦「プリマス」を直撃した。しかしいずれも不発で「プリマス」は対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "これは、この戦争におけるアルゼンチン空軍の最後の大戦果であったが、結果として、イギリス軍のスタンリー進攻を約2日遅らせただけであった。なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜された。また6月8日11時には、エンジンが故障したハリアーが上記の滑走路へクラッシュ・ランディングを行い、アルミニウム板の多くを吹き飛ばしてしまったため、この日いっぱいこの臨時滑走路が使えなくなった", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "スタンリーの西側には、北からロングドン山、ハリエット山、ツー・シスターズ山という3つの山が連なっており、アルゼンチン軍の外郭防衛線となっていた。このため、イギリス軍はまずこれらの攻略を志向することになった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "アルゼンチン軍は6月8日の航空攻撃の戦果を過大評価しており、500~900名の戦死者を出したものと評価された。これを受けてアルゼンチン本国は高揚し、さっそくマルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将に対してフィッツロイの攻撃を要求したが、メネンデス少将は、部隊の機動力の欠如と航空・海上優勢の喪失、そしてイギリス軍の攻撃が先行するであろうことから不可能であると結論し、本国からの支援を求めるため参謀長ダエル少将をブエノスアイレスに派遣した。しかしガルチェリ大統領は、既にマルビナス諸島にはイギリス軍を撃退できるだけの十分な兵力を配しているとして、死守命令を下した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "6月7日には第3コマンドー旅団はケント山の斜面に移動しており、11日には、イギリスの地上部隊は攻撃開始の準備ができていた。双方の地上戦力はほぼ同程度であったが、アルゼンチン側は航空優勢は「ほぼ」、海上優勢は「完全に」失った状態であった。またアルゼンチン側は防衛側であり数週間前から陣地を準備できるという強みはあったが、イギリスがスタンリーに直接上陸してくると想定していたため、防御方向は海側(西側)を指向していた。5月26日には、アルゼンチン軍も、イギリス軍がサン・カルロスから陸路進撃してくる公算が高いことを認識したものの、依然として、イギリス軍が再度、今度はスタンリーに近いところに上陸作戦を行う可能性が高いと考えていたため、サン・カルロスからの進攻に対応できるよう南側に部隊を再配置することはなかった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "イギリス軍においては、第2空挺大隊とウェールズ近衛大隊が第5旅団から第3コマンドー旅団の指揮下に移されて、体制が強化された。第5旅団長ウィルソン准将はこの措置について、海兵隊員であるムーア少将が海兵隊を贔屓したのではないかと考えたが、これは6月8日の航空攻撃で第5歩兵旅団が損害をうけたことと、そしてムーア少将がウィルソン准将の能力に疑問を抱いたためであった。ロンドンの任務部隊司令部はもともとウィルソン准将の能力を不安視しており、ムーア少将は最初はこれに同意していなかったが、この時点では、トンプソン准将であれば3個大隊の戦闘を指揮できるのに対し、ウィルソン准将は2個以上の大隊の戦闘を指揮すべきでないと考えていた。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "6月11日19時59分より、スタンリー西側の外郭防衛線に対する艦砲射撃が開始された。「アロー」「ヤーマス」「アヴェンジャー」「グラモーガン」が合計788発を射撃し、この戦争での最大の艦砲射撃となった。ロングドン山において、イギリス陸軍第3空挺大隊は既に前進を開始しており、20時16分に攻撃開始線を通過した。しばらくはイギリス軍が前進するのみで動きがなかったが、21時30分頃に一人の伍長が地雷を踏んで片足を吹き飛ばされたのを切っ掛けに、アルゼンチン軍が射撃を開始した。イギリス軍は砲兵支援を要請したが、陣地に対しては限られた効果しか発揮できなかった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "同山に配備されていたアルゼンチン軍部隊は、第7歩兵連隊B中隊(中隊長カルロス・カリソ=サルバドレス少佐)を基幹とする約220名程度であり、陣地の位置も作りも悪く、鉄条網も土嚢もなく、地雷敷設も適切でなかったが、同山はもともと天然の要害であり、イギリス軍は攻略に難渋した。特に暗視装置を備えた狙撃兵および50口径の重機関銃に対して苦戦を強いられ、手榴弾と銃剣による近接戦闘、また対戦車兵器も投入して、犠牲を出しつつ陣地を掃討していった。カリソ=サルバドレス少佐は3時頃に1個小隊の増援を得て、イギリス軍の攻撃を何度も凌いだものの、5時には限界が近づいていることが分かった。B中隊は整然と退却したが、287名の人員のうち、撤退に成功したのは78名であり、50名が捕虜となり、戦死31名、負傷者は少なくとも120名であった。一方、イギリス側は18名の戦死者と約40名の負傷者を出した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "ツー・シスターズ山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第45コマンドー(指揮官アンドリュー・ホワイトヘッド少佐)であった。この山は、名前の通り、東西に2つの頂をもつ山であり、ホワイトヘッド少佐の当初の計画では、まず西側の頂を確保したのち、そこからの支援を受けて東側を確保することになっていた。しかし地形の関係で、西側の頂を確保する中隊の行軍が遅れたため、12日0時16分、まず東側の頂を担当する2個中隊が攻撃を開始し、まもなく西側の頂への攻撃も開始された。この結果、3個中隊がほぼ同時に攻撃を行うことになり、特に西側の頂では前後に敵を見るかたちになった。この結果、まず西側の頂が確保された。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "東側の頂の攻撃もおおむね順調に進展したが、アルゼンチン軍の機銃・迫撃砲・野砲の激しい射撃を受けて、1時間にわたって攻撃が停滞する状況もあった。しかしそのとき、1人の小隊長 (Clive Dytor) が立ち上がって「総員前進!」と叫び、中隊名を意味する「ズールー!ズールー!ズールー!」と叫びながら突撃しはじめた。部下は最初それを諌めたり罵声を飛ばしたりしていたが、すぐに中隊全員がこれに続き、銃撃しながら攻め上がった。この突撃によって東側の頂も確保され、4時18分までに陣地の掃討も完了した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "ハリエット山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第42コマンドー(指揮官ニック・ヴォークス少佐)であった。同山のアルゼンチン軍陣地は非常に堅固であるように認められたことから、ヴォークス少佐は正面攻撃を避けて迂回攻撃を行うことにした。すなわち、1個中隊で西側から陽動攻撃を行う一方、2個中隊を南側に進出させて後方から奇襲攻撃するという作戦であった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "まず偵察小隊が先行したのち、16時15分より迂回行動が開始された。この間第7コマンド砲兵中隊や艦砲による射撃が行われていたこともあって、迂回行動は成功し、22時より予定通り攻撃を開始した。この迂回攻撃はアルゼンチン軍の予備兵力を直撃し、不慣れな夜間戦闘だったこともあり、経験のない徴集兵は降伏しはじめた。ロングドン山と同様、重機関銃座や暗視装置を備えた狙撃兵陣地は頑強な抵抗を示し、一部では600メートル前進するために数時間かかる状況もあったが、夜明けまでにはイギリス軍の勝利となり、イギリス軍2名戦死・13名負傷という比較的軽微な損害で、アルゼンチン軍に対して、10名戦死・53名負傷・300名以上が捕虜になるという戦果をあげた。これはヴォークス少佐の独創的な作戦によってアルゼンチン側が戦意を喪失したところが大きく、また降伏しようとする兵士に対してアルゼンチン軍の将校・下士官が銃撃するのをみたイギリス海兵隊が、これらの将校等を積極的に攻撃目標としたのも理由のひとつであった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "6月12日朝にアルゼンチン軍首脳部は、ロングドン山からハリエット山にかけて約4,500人のイギリス兵が集結していると報告を受けたが、この情報はマルビナス駐留部隊には伝えられなかった。6月13日には、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将とガルチェリ大統領が交信し、メネンデスは、「イギリス軍が示した行動から考えて、まさに今晩彼らは最終的攻撃をかけてくるだろう。必然的に今日から明日にかけてスタンリーの運命は風前のともしびにある」と警告したが、ガルチェリ大統領は、あくまでスタンリーを死守するよう命じた。6月12日にはスタンリーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していたエグゾセMM38艦対艦ミサイルを発射し、駆逐艦「グラモーガン」に命中させて中破に追い込んだ。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "6月13日より、イギリス軍はスタンリーの内郭防衛線への攻撃を開始した。これに先立って、12日夜には「アクティブ」と「アロー」が186発を、そして13日23時には「アヴェンジャー」、「ヤーマス」、「アクティブ」、「アムバスケード」が4時間に渡って856発を撃ち込んだ。また砲兵隊も合計で7,120発を射撃した。しかし艦砲も砲兵も残弾不足に悩んでおり、艦砲はこの規模の砲撃をもう1回行う程度で、砲兵隊もあと2日分の弾薬しか残っていなかった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "まずスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を攻撃した。同山は内郭防衛線で最も高い場所であり、アルゼンチン海兵隊第5歩兵大隊(大隊長カルロス・ロバシオー中佐)が守備していた。この大隊は比較的経験を積んだ兵士によって編成されていた上に平時の駐屯地が南アメリカ最南端のフエゴ島であり、耐寒性を考慮した装備を保有していた。また4月上旬からフォークランド諸島に派遣されていたため、陣地もよく準備されたものであった。スコットランド近衛大隊は、まず17時より、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車を加えて陽動攻撃を行ったのち、21時より主攻を開始した。イギリス側の期待に反してアルゼンチン軍は頑強に抵抗し、攻撃はなかなか進捗しなかったが、3時頃よりイギリス軍が戦闘を調整し直して野砲射撃と近接戦闘を連携させるようになると、陣地は徐々に突破されていった。8時には同山での戦闘は終了し、イギリス側は死者8名・負傷者35名であったのに対し、アルゼンチン側は死者20名以上・負傷者多数であった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "その南方のウィリアム山は、当初計画ではスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を占領した後にグルカ小銃大隊によって攻略する予定であったが、タンブルダウン山攻略が意外に難航したことから、グルカ小銃大隊は、これを待たずに2時35分より前進を開始することになった。タンブルダウン山の陥落とともにウィリアム山のアルゼンチン軍も後退したため、実質的な反撃はほとんどなかったが、砲撃、地雷、また友軍の誤射もあり、グルカ小銃大隊による占領は13時5分となった。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "ロングドン山東方のワイヤレス・リッジの攻撃を担当したのは第2空挺大隊であった。同大隊はグース・グリーンでの苦戦の戦訓を踏まえて、攻撃に先立ち砲兵隊・フリゲート「アンバスケード」・第2及び第3空挺大隊の迫撃砲・機関銃小隊及び配属された軽戦車によって大規模な準備砲撃を行った後に前進することにした。この結果アルゼンチン軍の反撃はほとんど無く、次々に陣地を放棄して後退していった。アルゼンチン砲兵が放棄した陣地に対して正確な射撃を加えてきたために若干の損害が出たが、これも艦砲射撃で砲兵陣地を撃破することで解決した。最終的に、第2空挺大隊は2名の戦死者を出しただけでワイヤレス・リッジの占領を達成した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "ワイヤレス・リッジの喪失により、もはやスタンリーを防御しうる自然障害物は消滅した。多数のアルゼンチン兵がこれらの陥落した陣地からスタンリーへと戻り始めており、イギリス軍のムーア少将は、これらのアルゼンチン軍兵士を攻撃しないように自軍兵士に命令を出した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "アルゼンチン軍においては、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将は「14日早朝には残っている防衛線が持ちこたえられない」と結論付けた。10時頃にガルチェリ大統領へ電話をかけて、スタンリーを夜まで保持できるとは思えないことと、戦闘を続けるなら多くのアルゼンチン軍兵士が戦死し、降伏より悪い事態となることを指摘したが、ガルチェリ大統領は実情が理解できず、メネンデス少将は自己の責任において降伏することとなった。12時から13時半頃には既に戦場では実質的な戦闘停止が自然に形成されていた。そして14日19時59分にメネンデスが降伏文書に署名し、正式に戦闘停止と降伏が発効した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "スタンリーの陥落を受けて翌15日にはガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を出したが、敗戦によってアルゼンチン国民の軍事政権に対する不満が爆発した。15日昼頃から夜半にかけてブエノスアイレスでガルチェリ大統領の退陣を要求する反政府暴動が起き、加えてガルチェリに大統領の座を追われたロベルト・エドゥアルド・ビオラを始めとして軍内部からも責任追及の動きが起きるなど求心力を失い、17日には大統領を解任され、翌18日には陸軍司令官の座も失った。比較的戦果を挙げた空軍総司令官のバシリオ・ラミ=ドーゾ准将も8月17日に退任し、海軍総司令官のアナヤ提督は戦争で打撃を受けたにも関わらず地位を維持していたが、10月1日付けで辞任した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "6月20日にイギリス軍がサウスサンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終結した。", "title": "フォークランド諸島奪還" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "イギリス機動部隊の編成・出撃の報を受け、アルゼンチン空軍は、航続距離の長いボーイング707輸送機による洋上哨戒・索敵活動を実施し、4月21日・23日にはイギリス機動部隊への触接に成功したが、いずれも母艦を発進したシーハリアーによる退去措置がなされたことから、アルゼンチン空軍はボーイング707による索敵活動を中止した。", "title": "両国の参加兵力" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "また、LADE(Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」)の各機も空軍の下で輸送任務についた。フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に後方支援に当たったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。アルゼンチン航空などのエアラインも支援体制にあった。", "title": "両国の参加兵力" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "イギリス軍", "title": "両軍の損害一覧" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "戦没", "title": "両軍の損害一覧" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "アルゼンチン軍", "title": "両軍の損害一覧" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "戦没", "title": "両軍の損害一覧" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "アルゼンチンではガルチェリ大統領が建国以来初めて敗戦の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を解任され失脚した。後任には退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが就任したが、緒戦は軍とペロニスタが挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われ、民政移管が完了した。ガルチェリは「銃殺刑に値する」とまで言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、最終的に責任を逃れた。なお降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由で送還された。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀初めから続いていたチリ及びブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で軍は政治力を弱めて大幅に人員を削減され、開戦前には3軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には3軍で7万1000人と半分以下にまで縮小した。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "また、イギリスがヨーロッパ共同体の一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人系アルゼンチン人のルーツであるイタリア・西ドイツ・スペインなどのヨーロッパ共同体加盟国は、アルゼンチンへの経済制裁を発動した。このことはそれまでヨーロッパにナショナルアイデンティティーを抱いていたアルゼンチン国民の意識を変え、自分たちをラテンアメリカの一員として見直す切っ掛けになったといわれる。他方、ヨーロッパ共同体加盟国全てが制裁に積極的だったわけではなく、西ドイツは当時、東ドイツ領内で陸の孤島になっている西ベルリンをイギリスに守ってもらっていた関係で、アルゼンチンへの制裁に加わるよう強い圧力を受けていたとされる。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "多くの艦艇を失って255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前人気が低迷していたサッチャー首相の人気が急上昇した。これによって勢い付いたサッチャー首相は翌年の総選挙で圧勝し、新自由主義的な改革をさらに推し進め、イギリス病に苦しんでいたイギリス経済を復活させた。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "また、それまで「2等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ海軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "その後も両国の国交断絶状態が続いたが、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝でサッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランド代表に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた(1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランドの項目を参照。)。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "1989年10月にアルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日に両国は外交関係を正式に回復した。しかし現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "戦後、イギリスは戦死したアルゼンチン兵の遺骨返還を申し出たが、アルゼンチン政府は諸島へのイギリスの主権を追認することになるとして拒否している。フォークランドのダーウィン墓地には、アルゼンチン兵の墓が237基あり、うち123基は身元不明である。戦友の墓参に島を訪れた帰還兵の呼びかけをきっかけに、両国政府は2016年12月に身元確認で合意した。赤十字国際委員会が遺骨の発掘とDNA型鑑定を2017年中に終えて最終報告書をまとめる予定であるが、アルゼンチン国内では遺骨の返還への反対意見が依然根強い状態となっている。", "title": "戦後・影響" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "フォークランド諸島奪還において、アルゼンチン軍はしばしばブローニングM2重機関銃を陣地の防衛に用いたが、イギリス軍の地上部隊は同クラスの機関銃を配備しておらず、汎用機関銃で支援された偵察兵を遮蔽物に沿って1人ずつ前進させ、火点をあぶりだすとミラン対戦車ミサイルや手りゅう弾と銃剣突撃による直接攻撃を敢行するという対応を余儀無くされた。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "上記の重機関銃の運用を通常の射撃ではなく「単発狙撃」であったとする記述が、一部の和文文献に見受けられる。しかしフォークランド紛争、狙撃銃、狙撃手などに関する英文の文献やその和訳書には、そうした言及は見当たらない。また「フォークランド紛争での重機関銃運用の戦訓がきっかけとなって対物ライフルが開発された」とする説も、一部の和文文献にのみ見受けられ、英文文献やその和訳書では言及されていない。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "イギリス海軍の原子力潜水艦「コンカラー」の雷撃によるアルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」の撃沈はアルゼンチン海軍の戦意に冷や水を浴びせることになり、空母「ベインティシンコ・デ・マヨ」を始めとしたアルゼンチン海軍の水上戦闘艦は現存艦隊主義に転じて、二度と出撃してくることはなかった。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "一方、アルゼンチン海軍の209型潜水艦「サンルイス」(ARA San Luis) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったこのうち5月1日には「ブリリアント」と「ヤーマス」を雷撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日には「アロー」と「アラクリティ」に対して雷撃を行ったが失敗した。これらの失敗は魚雷の調整失敗などによるとされる。このように実際の戦果を挙げることはできなかったにも関わらず、イギリス海軍は「サンルイス」の存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "21型フリゲート8隻のうち2隻が本戦争で撃沈されたことについて、同型が元々商船規格で設計されたことや、アルミニウム合金を多用したこととの関連も疑われた。しかし1977年に「アマゾン」が火災事故で大破したことについてはアルミニウム合金の脆弱性が被害増大につながったと指摘されているのに対し、本戦争での喪失艦については、あまり関係がなかった。アーデントも水線付近に多数の命中弾を受けてずたずたになっており、また「アンテロープ」も艦内深くまで突入した爆弾の爆発によって沈没したが、いずれも、この規模の艦にとっては船体構造に関係なく十分に致命傷となる損傷であった。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "なお、エグゾセを被弾した「シェフィールド」の喪失についてもアルミニウム合金の脆弱性に原因を求める意見も多かったが、実際には船体・上部構造物共に全鋼製であった。しかし通風トランクや仕切弁はアルミニウム合金製であり、これらは火災によって溶解してしまい、電纜を介した延焼もあって火災は他区画へ拡大した。特に消火活動にとって致命的であったのが、消火主管の機能喪失であった。これは消防ポンプの起動失敗や可搬式ポンプの能力不足によるものだったが、この結果、火災範囲は艦内の約2/3に達した。電纜類の被覆などの燃焼によって有毒ガスが発生し、また被弾後約30分で電源が失われたこともあって、艦自身の消火活動はほとんど遂行不能となってしまった。艦は放棄され、数日後の曳航中に荒天に遭遇、沈没している。この事件について、アメリカ合衆国の著名な海軍史家であるノーマン・フリードマンは、「現代の精緻な軍艦は対艦ミサイルに耐えられないという誤解が蔓延したが、20年にわたる冒険的なコスト削減のツケがとうとう回ってきたというのが実態である」と評している。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "イギリス海軍のシーハリアーFRS.1艦上戦闘機は遷音速程度しか発揮できず、しかも編成当初の第317任務部隊には20機しか配備されていなかった。しかしアルゼンチン側の制約のために、実際には速度差は当初予想されたほどではなくなっていた。また数的な不利についても、アルゼンチン側よりも基地(母艦)が近くに配置されていたうえに稼働率は高く、少ない機体でも最大限に活用できた。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "結果的にシーハリアーは計6機(事故4機)を喪失したとはいえ、空戦での損失は無く、アルゼンチン機との空戦では23機を撃破している。戦前には、飛行中の推力偏向(VIFF)の空中戦闘機動への応用が注目されていたが、実際の戦闘では用いられなかった。ハードウェア面で大きな優位をもたらしたのが新世代のサイドワインダーであるAIM-9Lであった。従来のサイドワインダーは目標の後方に回り込まなければ使用できなかったのに対し、AIM-9Lは新型の赤外線センサを採用してほぼ正面からでも交戦可能となり、また旋回性能や弾頭威力も向上していた。実戦でも、正面からの射撃こそ記録されていないが、26~27発の発射で17機を撃墜した。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "なおイギリス側の課題の1つが早期警戒機(AEW)の欠如であった。イギリス海軍は1978年に最後の正規空母であるオーディシャス級空母「アーク・ロイヤル」を退役させると同時にフェアリー ガネットAEW.3を退役させて以降、艦上機としてのAEWを保有しておらず、対空捜索能力の不足につながった。これを補うため、ウェストランド社が独自に開発していたウェストランド シーキングのAEW版派生型が採択され、既存のシーキングHAS.2を改装して突貫工事でシーキングAEW.2の試作機2機が製作されたものの、初号機の初飛行は7月23日となり、紛争には間に合わなかった。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "アルゼンチン空軍はミラージュIIIやダガーといったマッハ2級のジェット戦闘機を保有しており、この2機種をあわせただけでもイギリス海軍のシーハリアーFRS.1の約2倍の数があったうえに、より低速の攻撃機もあわせれば更に差が開くことから、当初はアルゼンチン側の有利が予測されていた。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "ただし実際にはアルゼンチン側の作戦機はその高速性能を十分に発揮することができなかった。フォークランド諸島の航空設備は貧弱で、超音速機の配備は困難であったため、これらの機体は本土の基地からはるばる飛来しなければならなかった。ミラージュやダガーには空中給油の能力がないために戦場での滞空時間が限られたうえに、増槽を吊下せねばならず、その他の兵装重量も相まって、実際にはシーハリアーをわずかに上回る程度の速力しか発揮できなくなっていた。またミラージュ以外の機体はいずれも攻撃機として運用されたため、対空だけでなく対地・対艦用の兵装も搭載しなければならず、機動性と速度の低下を招いたうえに、戦闘の場は主として低高度域になり、シーハリアーは優れた運動性能を発揮できた一方、アルゼンチン機の高速性能は更に減殺された。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "また用兵面の理由として、根本的にアルゼンチン軍が空戦による戦闘空域の制圧に積極的では無かったというものがある。5月1日の戦闘でこそ、ミラージュIIIEA戦闘機を投入して制空戦闘を挑んだものの、同日、イギリス空軍がバルカン戦略爆撃機によってスタンリー飛行場を爆撃したことから、アルゼンチン本土への爆撃を警戒してミラージュIIIEAは本土防空のために拘置され、アルゼンチン機は護衛戦闘機無しでイギリス艦隊・上陸部隊への爆撃に投入されることになった。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "この結果ミラージュIIIEAが引き下げられて以降、アルゼンチン機はシーハリアーに襲撃されても反撃せずに逃げの一手となり、航空戦は一方的な様相となった。イギリス側も航空優勢の確立までは達成できなかったものの、アルゼンチン側からすれば、航空優勢は「ほぼ」失った状態となっていた。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "冷戦終結までのイギリス軍において複数の軍種による協同のための恒常的な組織は設置されておらず、必要が生じるつどその場限りで3軍いずれかの司令官が協同作戦の司令官を務める体制であった。フォークランド紛争もその例外では無く、さらに当時のイギリスにはフォークランド諸島での不測事態への備えが存在していなかった。3軍協同作戦の司令官に任命された海軍艦隊司令官は、急遽地中海で実施される演習への派遣部隊を指揮していた海軍少将を戦域における全兵力の前線指揮官に充てた。しかし海軍少将は過大な兵力を指揮する負荷を担わされることになった。戦場から1万キロメートル以上離れたイギリス本国は前線に対して広範な政治統制と作戦指導を企てた。この過程で前線指揮官は本国との調整に多くの労力を割くことを強いられ、かたや本国の政府や国防省も議会及び報道機関に状況を知らせるために詳細な状況報告を求めたことで、前線と本国の間に大容量かつ長時間の通信が必要とされ、意思決定に遅延を招いた。多くの協同作戦が紛争中に実施されたが、その際協同作戦能力の不足に起因する誤射事件さえ発生した。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "こうしたフォークランド紛争の教訓が生かされるようになったのは、ようやく冷戦終結後に至ってのことであった。冷戦終結後に平和の配当への要求と財政難を踏まえて、イギリス軍に対しても経費を削減する一方で一層の効率性が求められるようになった。その過程で示されるようになった方向性は、政策と運用の分離による作戦の効率性の追求であり、国防省本部の役割は前者に限定されるようになった。この方向性のもと、政策及び軍事戦略と軍事作戦との間の明確な責任範囲と関係形成が求められた。また、3軍の恒常的な統合作戦への備えとして、計画・準備段階から危機に際しての作戦遂行・戦力回復・事後の戦訓の蓄積までを一貫して担わせる組織の設立が支持された。こうした協同から統合への方向性は情報通信技術の革新・統合化による効率性の追求・3軍の固定的な区分に由来する国防能力発揮への障害が認識されたことといった社会の変革によって促進され、常設統合司令部の設置による恒久的な統合作戦のための体制がとられるようになった。", "title": "評価と戦訓" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "中国はクーデターを起こしたビデラの中国訪問を受け入れるなど、当時のアルゼンチンの軍事政権と外交関係を持っていた数少ない共産主義の国で、アルゼンチンの主張を国際連合総会などで支持しており、1982年9月のイギリス領香港をめぐる交渉では、フォークランド紛争に勝利したばかりで自信を深めていたサッチャー首相に対して鄧小平は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬したことで香港返還は決定した。", "title": "現代への影響" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "2010年7月に中国は同年4月に起きていた2010年マルビナス(フォークランド)諸島外交危機(スペイン語版)でアルゼンチンの主張を支持することを共同声明で表明した。2011年12月・2012年6月にも中国はアルゼンチンを支持し、アルゼンチンのクリスティーナ・フェルナンデス大統領は感謝の意を表明した。", "title": "現代への影響" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "2012年7月にアルゼンチンのブリチェリ国防相が中国を訪問し、中国人民解放軍の主力戦闘機として開発中の第5世代ステルス戦闘機の「殲-20」の購入にも言及した。また、アルゼンチンは中国とベトナム・フィリピンの間で問題になっている南シナ海における領有権について中国を支持すると表明した。", "title": "現代への影響" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "2015年2月にフェルナンデス大統領が中国を訪問し、056型コルベットを購入してマルビナス級と命名する計画が発表され、FC-1戦闘機・VN-1歩兵戦闘車なども購入する契約を調印した。また、この際にアルゼンチン議会で承認されたパタゴニアのネウケン州に建設された人工衛星追跡基地である深宇宙ステーション(スペイン語版)は中国人民解放軍の管轄に置かれ、秘密条項も入れた50年契約で敷地を借り上げていることから中国への主権の譲渡や中国による軍事利用の懸念を野党などが示して物議を醸した。この基地はアルゼンチンがフォークランド諸島を占領する際に衛星情報を提供する可能性が米国で取り上げられた。これらの合意はフェルナンデス大統領から交代したマウリシオ・マクリ政権で修正もしくは中止されたが、中国の目的は第二次フォークランド紛争が起きた際にアルゼンチンを支援することだったともされる。", "title": "現代への影響" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "このような中国とアルゼンチンの協力関係を背景にしたイギリス側の報告書では、「イギリスの軍事予算削減によってフォークランド防衛は弱体化し、中国からの軍事的及び財政的支援を受けたアルゼンチン軍に奪われた場合、奪還は極めて難しい」と発表している。", "title": "現代への影響" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "近年日本と中国との間で発生している尖閣諸島問題において、両国共にこのフォークランド紛争を先行事例として研究している。", "title": "現代への影響" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "2013年3月15日にイギリスはバチカン市国の元首にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、イギリスのキャメロン首相は「フランシスコ教皇聖下には、先頃行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と釘を刺した。", "title": "現代への影響" } ]
フォークランド紛争は、南大西洋のイギリス領フォークランド諸島の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3か月に及んだ紛争である。アルゼンチン軍はフォークランド諸島とその東方にある英国領サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島を一時制圧したが、イギリス軍は空母機動部隊や原子力潜水艦、兵員輸送船、長距離爆撃機を南大西洋へ遠征させて奪回し、欧州共同体(EC)などの協力も得て6月に勝利した。敗れたアルゼンチンではレオポルド・ガルチェリ政権が崩壊した。 冷戦下で近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、「兵器の実験場」とも称された。 日本語では「紛争」と呼ばれ、法的には戦争ではないとしているイギリスの政府機関も「Falklands Conflict(フォークランド紛争)」の語を用いている。激しい陸戦のほか第二次世界大戦以来となる大規模な海空戦闘が行われ、世界的には戦争と見なされることが多い。英語圏でも、イギリス政府系ではない刊行物などでは「Falklands War(フォークランド戦争)」または「Falkland Islands War(フォークランド諸島戦争)」と呼ばれる。 アルゼンチンを含むスペイン語圏では諸島のアルゼンチン名を用いて「Guerra de las Malvinas (マルビナス戦争)」と呼ばれる。
{{Battlebox | battle_name = フォークランド紛争 | campaign = フォークランド紛争 |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:Etendard en 1982.jpg|300px]] | caption = フォークランド諸島侵攻時のアルゼンチン軍の[[戦闘機]](同国海軍所属のシュペルエタンダール)。 | conflict = フォークランド紛争<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%88%A6%E4%BA%89-169452 |title=フォークランド戦争 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2023-09-30}}</ref> | date = [[1982年]][[4月2日]] - 同年[[6月16日]]{{R|"kotobank"}} | place = [[フォークランド諸島]](マルビナス諸島){{R|"kotobank"}} | result = イギリス側の勝利。アルゼンチン側が[[降伏]]しイギリス側がフォークランド諸島を奪還{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = {{GBR}} | combatant2 = {{ARG}} | commander1 = {{Flagicon|GBR}} [[マーガレット・サッチャー]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[:en:John Nott|ジョン・ノット]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[:en:Terence Lewin|テレンス・ルーウィン]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[エドウィン・ブラモール (ブラモール男爵)|エドウィン・ブラモール]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[:en:Henry Leach|ヘンリー・リーチ]]<br/>{{Flagicon|GBR}} [[:en:Michael Beetham|マイケル・ビーサム]] | commander2 = {{Flagicon|ARG}} [[レオポルド・ガルチェリ]]<br/>{{Flagicon|ARG}} [[:es:Amadeo Frúgoli|アマデオ・フルゴリ]]<br/>{{Flagicon|ARG}} [[:es:Leopoldo Suárez del Cerro|レオポルド・スアレス・デル・セロ]]<br/>{{Flagicon|ARG}} [[:en:Jorge Anaya|ホルヘ・アナヤ]]<br/>{{Flagicon|ARG}} [[:en:Basilio Lami Dozo|バシリオ・ラミ・ドゾ]] | strength1 = 陸軍 10,001<br />海軍 3,119<br />空軍 1,069<br />艦艇 38隻<br />航空機 216機 | strength2 = 陸軍 10,700<br />海軍 13,000<br />空軍 6,000<br />艦艇 111隻<br />航空機 117機 | casualties1 = 死者 255<br />負傷者 775<br />捕虜 115<br /><br />被撃沈 駆逐艦2隻<br />フリゲート2隻<br />揚陸艦1隻<br />コンテナ船1隻<br />航空機34機 | casualties2 = 死者 649<br />負傷者 1,657<br />捕虜 11,313<br /><br />被撃沈 軽巡洋艦1隻<br />潜水艦1隻(擱座)<br />哨戒艇2隻<br />航空機100機 }} [[ファイル:LocationFalklandIslands.png|right|thumb|450px|[[フォークランド諸島]]の位置。[[アルゼンチン]]沖、[[南米大陸]]南端から500km沖に位置する。]][[ファイル:Falklandsmap san carlos landings.png|thumb|[[フォークランド諸島]]は、東西の主要2島と多数の小島からなる。]] '''フォークランド紛争'''(フォークランドふんそう、{{Lang-en|Falklands War}}、{{lang-es|Guerra de las Malvinas}})は、[[南大西洋]]の[[イギリスの海外領土|イギリス領]][[フォークランド諸島]]([[アルゼンチン]]名:マルビナス諸島){{Efn2|以下はフォークランド諸島で記載を統一。}}の領有を巡り、[[1982年]]3月から[[イギリス]]とアルゼンチン間で3か月に及んだ[[紛争]]である。[[アルゼンチン軍]]はフォークランド諸島とその東方にある英国領[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]]を一時制圧したが、[[イギリス軍]]は[[空母機動部隊]]や[[原子力潜水艦]]、兵員輸送船、長距離爆撃機を南大西洋へ遠征させて奪回し、[[欧州共同体]](EC)などの協力も得て6月に勝利した。敗れたアルゼンチンでは[[レオポルド・ガルチェリ]]政権が崩壊し、後の民政移管の引き金を引くこととなった。 [[冷戦]]下で近代化された[[西側諸国]]の軍隊同士による初めての紛争であり、「兵器の実験場」とも称された<ref name="実験場">{{cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220402-OYT1T50055/|title=「兵器の実験場」とも称された戦争から40年、今も心に深い傷…「戦争はいつも兵士が尻ぬぐい」|newspaper=読売新聞|date=2022-04-02|accessdate=2023-07-24}}</ref>。 [[日本語]]では「紛争」と呼ばれ、法的には[[戦争]]ではないとしているイギリスの政府機関も「{{en|Falklands Conflict}}(フォークランド紛争)」の語を用いている<ref>[https://www.iwm.org.uk/history/a-short-history-of-the-falklands-conflict A Short History of The Falklands Conflict] [[帝国戦争博物館]](2023年3月9日閲覧)</ref>。激しい陸戦のほか[[第二次世界大戦]]以来となる大規模な海空戦闘が行われ、世界的には戦争と見なされることが多い。[[英語圏]]でも、イギリス政府系ではない刊行物などでは「{{en|Falklands War}}(フォークランド戦争)」または「Falkland Islands War(フォークランド諸島戦争)」と呼ばれる<ref>[https://www.britannica.com/event/Falkland-Islands-War Falkland Islands War] [[ブリタニカ百科事典]](2023年3月9日閲覧)</ref>。 アルゼンチンを含む[[スペイン語圏]]では諸島のアルゼンチン名を用いて「Guerra de las Malvinas (マルビナス戦争)」と呼ばれる。 == 概要 == [[1982年]][[3月19日]]に[[アルゼンチン海軍]]艦艇がフォークランド諸島東方のイギリス領[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスジョージア島]]に2度にわたって寄港し、無断で民間人を装って海兵隊員を上陸させた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。これに対し、イギリスは氷海警備船と海兵隊員を派遣するとともに、紛争回避のため、アルゼンチン軍部隊の退去を条件として外交交渉で妥協する用意があることを伝えたが、既にアルゼンチン側は強硬姿勢を明確にしており、外交交渉での事態打開は困難となっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。イギリスの要請を受けて[[アメリカ合衆国]]も仲介に乗り出し、首脳間の電話会談も行われたが、説得は失敗であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 [[4月1日]]深夜より[[アルゼンチン軍]]による[[フォークランド諸島侵攻]]{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}、また4月3日には[[サウスジョージア侵攻]]が行われた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=217-221}}。これに対し、イギリス軍は反攻のための部隊を派遣し、フォークランド諸島近海では激しい海空戦が行われた。[[アルゼンチン空軍]]は[[エグゾセ]][[空対艦ミサイル]]や[[航空爆弾]]による対艦攻撃でイギリス艦船を次々と撃沈したものの、本土から遠いために[[超音速機]]が本来の性能を発揮することができず、また[[イギリス空軍]]が長距離爆撃機による空爆([[ブラック・バック作戦]])を行うと最有力の戦闘機部隊は本土に拘置せざるを得なくなり、航空優勢をほぼ失う結果となった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。またアルゼンチン海軍も、最有力の大型水上戦闘艦「[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]]」が撃沈されると[[現存艦隊主義]]に転じて、二度と出撃してくることはなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=200-204}}。イギリスは、アメリカの[[偵察衛星]]からの情報によって側面支援を受けたほか<ref name="実験場" />、[[北大西洋条約機構]](NATO)諸国、[[欧州共同体]](EC)加盟国、さらにアルゼンチンと対立関係にある[[チリ]]の支援を受けて、[[情報戦]]も有利に進めた。 イギリス軍は経験豊富な[[特殊空挺部隊]]・[[特殊舟艇部隊]]によるコマンド作戦を経て、まず[[4月25日]]にはサウスジョージア島にイギリス軍が上陸し、奪還した([[パラケット作戦]])。続いて[[6月7日]]にはフォークランド諸島にも地上部隊を上陸させ、[[6月14日]]にはアルゼンチン軍が正式に降伏して戦闘は終結した。 フォークランド紛争当時、アルゼンチンは[[軍事政権]]([[国家再編成プロセス]])であったが、この敗北により軍事政権への国民の不満が爆発し、大統領を務めていた[[レオポルド・ガルチェリ]]陸軍総司令官は辞任を余儀なくされた。ガルチェリの後任の[[レイナルド・ビニョーネ]]も国民の不満を抑えきれずに1983年10月に選挙を実施し、[[ラウル・アルフォンシン]]が大統領に当選して民政移管が行われた。 フォークランド紛争は[[第二次世界大戦]]以降では初めて大規模な海空戦を伴った、[[西側諸国]]製の兵器を装備した近代化された軍隊同士による戦争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカ合衆国や[[フランス]]、[[ベルギー]]などの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。 両国の[[国交]]が再開されて戦争状態が正式に終結したのは[[1990年]][[2月5日]]だった。それ以降もアルゼンチンはフォークランド諸島の領有権を主張している。アルゼンチン外務省は2023年3月2日、カフィエロ外相が[[G20]]外相会合が開かれた[[インド]]の[[ニューデリー]]でイギリスの[[ジェームズ・クレバリー|クレバリー]]外相と同日会談し、領有権交渉の再開を提案したと発表した<ref>{{Cite news|和書||title=フォークランド領有権交渉再開提案 アルゼンチン |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2023-03-04 |edition=夕刊 |page=6}}<br />{{Cite web2 |df=ja |url=https://mainichi.jp/articles/20230305/ddm/007/030/099000c |title=フォークランド領有権交渉再開提案 アルゼンチン |website=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2023-03-05 |accessdate=2023-03-09 |url-access=subscription}}</ref>。 == フォークランド問題の起源 == === フォークランド諸島の発見とイギリスの実効支配 === 最初にフォークランド諸島を[[発見 (国際法)|発見]]したのは[[フエゴ島]]の先住民[[ヤーガン族]]ともいわれる。[[大航海時代]]における[[ヨーロッパ]]人による発見についても諸説あり、[[1520年]]の[[ポルトガル]]の[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]船団の[[エステバン・ゴメス]]船によるとも、あるいは[[1592年]]のイギリスの探検家[[ジョン・デイヴィス (イギリスの探検家)|ジョン・デイヴィス]]によるともされている。アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。この他に[[1598年]]には[[オランダ人]]のセバル・デ・ウェルト{{enlink|Sebald de Weert}}がこの島を訪れ、当時[[オランダ]]ではこの島をセバル島と名付けた。 同地は[[大西洋]]と[[太平洋]]を結ぶ[[マゼラン海峡]]・[[ビーグル水道]]および[[ドレーク海峡]]に近く、[[パナマ運河]]開通までは戦略上の要衝であったことから、18世紀には領有権争いの舞台となった。[[1764年]]にフランスは[[東フォークランド島]]に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。イギリスは翌[[1765年]]にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにある[[ソーンダース島]]の港にエグモント港と名づけた。[[スペイン・ブルボン朝]]は、[[1767年]]にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、[[1770年]]には[[ブエノスアイレス]]からエグモント港に侵攻した。当時、[[13植民地|北米植民地]]の情勢急迫に対処しなければいけなかったイギリスは全面戦争を避け{{Efn2|その後、[[1773年]]に[[ボストン茶会事件]]が発生し、[[1775年]]の[[レキシントン・コンコードの戦い]]により[[アメリカ独立戦争]]が勃発した。}}、[[1774年]]にはスペインの領有権が一時的に確立した。しかし[[1833年]]にはイギリスが派遣した[[スループ]]「クレイオー」によって無血占領に成功し{{Enlink|Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)}}、以後[[実効支配]]を進めたことで長らく[[イギリスの海外領土]](属領)とされてきた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。 === アルゼンチンの独立と諸島返還交渉の開始 === [[1810年]]の[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]を発端とする[[アルゼンチン独立戦争|独立戦争]]を経て、[[1816年]]にアルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものとして、同諸島の返還を求めるようになった。[[1820年代]]には領有・課税宣言やアメリカ船の[[拿捕]]なども行われた。しかしまもなく[[1825年]]から[[1828年]]の[[シスプラティーナ戦争]]で忙殺されたほか、その後も[[大英帝国]]の[[非公式帝国]]として経済的な繁栄を享受していたことから、返還要求は続けられていたとはいえ、実質的には棚上げ状態となっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。 その後、1929年の[[世界恐慌]]を経て、[[アルゼンチンの歴史#「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年)|「忌まわしき十年間」]]には[[ナショナリズム]]が台頭し、第二次世界大戦後の[[1946年]]には[[左翼ナショナリズム|左翼民族主義者]]の[[フアン・ペロン]]が大統領に就任したが、その後も変わらず棚上げ状態となっていた。 このペロンが下野した後、[[ペロニスタ|ペロン派]]の[[都市ゲリラ]]と軍部、政党との間で衝突が続き、[[1960年代]]には内政の混乱をもたらしていた。またペロン政権時代から極度の[[インフレーション]]に見舞われていたこともあって、政治闘争に明け暮れる政権に対し国民の不満が鬱積していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。 この国民の不満を逸らすため、急遽フォークランド諸島というナショナリスティックな問題が取り上げられるようになり、1960年代には「マルビナス記念日」の制定をはじめとする様々なプロパガンダ工作が推進された。また[[1965年]][[12月16日]]には、[[国際連合総会決議]]第2065号により「いかなる形態の植民地主義も終結させるため」アルゼンチン・イギリス双方が平和的な問題解決のため交渉を開始するよう勧告したことから、両政府の交渉が開始されることになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。 しかしイギリスにとって、フォークランド問題はごく一部の政治家や官僚のみが知るのみの問題であった。1960年代に入り[[英国病]]に苦しむ状況下では、同諸島の維持そのものが負担となっており、アルゼンチン側への売却という案も検討されていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ハロルド・マクミラン|マクミラン]]政権下で[[エドワード・ヒース|ヒース]][[王璽尚書]]は[[1961年]]にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった{{Sfn|サッチャー|1993|p=221}}。 [[1967年]]3月に[[外務・英連邦省|イギリス外務省]]が作成したメモランダムでは「島民が望めば」との条件で、フォークランド諸島における主権の委譲を認めることとなっており、アルゼンチン側は大きな前進と受け止めた。しかし実際には、アルゼンチンへの帰属を望む島民は皆無であり、またイギリス側でも、[[イギリスの議会|議会]]やマスコミは諸島返還には反対の方針を貫いていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第1章 フォークランド問題の起源}}。 === 諸島返還交渉の停滞と挑発行為 === 1975年、[[ジェームズ・キャラハン|キャラハン]][[外務・英連邦大臣|外相]]の依頼を受けて、[[リオ・ティント]]社の重役でもある[[エドワード・シャクルトン]][[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員を団長として、諸島の経済状況に関する調査団が派遣された。その報告書は1976年6月に提出され、フォークランド諸島の経済状況が絶望的であることが確認された。アルゼンチンへの過度の経済的依存はなく、[[自給自足]]に近かったものの、逆にいえば、植民地時代からほとんど発展していないということでもあった。5年間で1,400万[[スターリング・ポンド|ポンド]]という莫大な投資が必要であると見積もられたが、これはイギリス単独では実現困難であった。イギリス政府はこの報告書を公開し、アルゼンチンからの経済的な協力を促そうとしたが、アルゼンチン政府はこれを諸島の経済的自立を進めるものであると誤解して、危機感を強めた。また島民は、この報告書によってイギリス本土からのさらなる投資が呼び込まれるものと期待した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第2章 1970年代の交渉の進展と停滞}}。 シャクルトン議員が調査を進めていた1976年2月4日にイギリスの南極調査船「シャクルトン」{{Enlink|RRS Shackleton|RRS ''Shackleton''}}が[[南緯60度線]]近くのアルゼンチンの[[排他的経済水域]]で、同国海軍による警告射撃を受けて、数発を被弾するという事件が発生した。2月19日、[[国防省 (イギリス)|国防省]]は諸島の防衛について検討したものの、当時、同諸島には軽武装の氷海警備船「エンデュアランス」{{Enlink|HMS Endurance (1967)|HMS ''Endurance''}}と[[イギリス海兵隊]]の隊員36名しか配備されておらず、侵攻阻止はほぼ絶望的であると見積もられ、奪回作戦に重点が置かれた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第2章 1970年代の交渉の進展と停滞}}。 同年の{{仮リンク|アルゼンチン・クーデター (1976年)|en|1976 Argentine coup d'etat|label=クーデター}}で権力を掌握した[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]大統領は、国民弾圧へのガス抜きのためにフォークランド問題解決への糸口を探っており、交渉を進めるための挑発行動として、12月には、50名のアルゼンチン軍部隊がイギリス領[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスサンドウィッチ諸島]]南端の無人島である南チューレに無断で上陸し、[[アルゼンチンの国旗]]を掲げる事件が発生した。イギリスの[[インテリジェンス・コミュニティー]]を統括する[[合同情報委員会]](JIC)は、これをアルゼンチン軍事評議会において強硬派が優勢になりつつある兆候と分析した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第2章 1970年代の交渉の進展と停滞}}。 JICが1977年11月に作成した情報見積もりによれば、アルゼンチンが軍事行動を含めたより強引な手段に訴えてくる危険性があると指摘された。そのため、キャラハン首相は、11月21日に原子力潜水艦「[[ドレッドノート (原子力潜水艦)|ドレッドノート]]」と[[フリゲート#航洋護衛艦|フリゲート]]「[[アラクリティ (フリゲート)|アラクリティ]]」「[[フィービ (フリゲート)|フィービ]]」および支援艦艇を派遣する{{Enlink|Operation Journeyman}}ことを決定した。キャラハンは機動部隊派遣について[[秘密情報部]]長官に話し、これがアメリカ合衆国を経由して非公式にアルゼンチンに通告されることを期待した。アルゼンチンがこの艦隊派遣を知りえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては不明である。一方、イギリス側は[[交戦規定]]の策定など軍事行動のシミュレートを進めるとともに、「エンデュアランス」も一時的に本国に戻されて、レーダー探知機や通信傍受装置などの装備が施された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第2章 1970年代の交渉の進展と停滞}}{{Sfn|篠崎|2017}}。 === リース案の検討と拒絶 === [[1979年]]に就任した[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相は外交経験が無かったことから、老練な[[ピーター・キャリントン (第6代キャリントン男爵)|ピーター・キャリントン]]を外務大臣に迎えた。当時[[外務・英連邦省]]と[[イギリス国防省]]では、南チューレ上陸事件への対応を踏まえて任務部隊を諸島に常駐させるという「フォークランド要塞化」案を検討していたが、これにはかなりの財政的負担が伴うことから、キャリントン外務大臣及び[[:en:Nicholas Ridley, Baron Ridley of Liddesdale|ニコラス・リドリー]]外務[[閣外大臣]]は、名目上の主権をアルゼンチン側に委譲したうえで諸島をイギリスが借り受ける「リース案」を腹案としていた。1980年8月25日にはこの案を携えたリドリー外務閣外大臣がアルゼンチンのカヴァンドーリ外務副大臣と会談し、おおむね好意的な反応を受けた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=36-40}}。 しかしサッチャー首相は、[[国際連合憲章]]第1条第2項[[人民の自決の原則]]にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていたのに対し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.unic.or.jp/know/kensyo.htm|title=国連広報センター 国際憲章|publisher=国連広報センター|accessdate=2008-10-27}}</ref>、島民は自分たちが「イギリス国民」であることに固執しており、リドリー外務閣外大臣は11月22日に[[スタンリー (フォークランド諸島)|スタンリー]]を訪問して400名の島民と討論を行なったものの、惨憺たる結果となった。またイギリス側は議会への通知を後回しにして交渉を進めていたところ、マスコミにすっぱ抜かれて周知の事実となってしまったことで、議会も態度を硬化させてこの案を拒絶した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=36-40}}。 === アルゼンチンからの警告と情勢判断 === アルゼンチン側はイギリスによるフォークランド占有から150年の節目に当たる1983年までには、諸島問題を「いかなる手段」を使っても解決することを目標としていた。また、1981年12月8日に新大統領に選出された陸軍総司令官の[[レオポルド・ガルチェリ]]中将は翌年には陸軍総司令官を退任することになっていたため、退役までに政治的な功績を残す必要に迫られていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=36-40}}。 1981年当時のイギリスでは国防政策見直しの作業が進められており{{Enlink|1981 Defence White Paper}}、[[トライデント (ミサイル)|トライデント]][[潜水艦発射弾道ミサイル|SLBM]]の予算を捻出するため、氷海警備船「エンデュアランス」や[[航空母艦|空母]]「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」の退役が検討されていたが、アルゼンチン政府は、これらの検討内容について、イギリスはフォークランド諸島の安全保障問題よりも国内の財政問題を優先したものと解釈していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第3章 サッチャー政権以降のイギリス・アルゼンチン関係}}。12月15日、海軍総司令官ホルヘ・アナヤ大将{{Enlink|Jorge Anaya}}は、海軍作戦部長フアン・ロンバルド中将{{Enlink|Juan Lombardo}}に対し、フォークランド諸島侵攻作戦計画の作成を下令し、本格的な武力行使の計画が開始された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=208-211}}。 [[ファイル:Alte.Jorge Anaya.jpg|サムネイル|アルゼンチン海軍総司令官ホルヘ・アナヤ]] [[1982年]][[1月27日]]にアルゼンチン外務省はイギリスに対して主権問題解決のための定期的な交渉の開始を提案し、[[2月27日]]にはアメリカ合衆国[[ニューヨーク]]で会談が持たれた。アルゼンチン外務省としてはイギリスを交渉の場に繋ぎ止め、武力紛争の勃発だけは避けようとしていたが、イギリス側はアルゼンチンがそこまで強硬な姿勢を固めつつあることを想定しておらず、まずは島民の意思を変える時間を稼ぐための引き伸ばしを図っており、積極的に話し合いを進める意図はなかった。アルゼンチン外務省は落胆し、[[3月1日]]に「イギリス側に解決の意思がない場合、交渉を諦め自国の利益のため今後あらゆる手段を取る」との公式声明を発表した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=36-40}}。 これはアルゼンチン側からの明確な警告であったが、依然としてイギリス側の反応は鈍く、[[3月9日]]に開催されたJICでは、外交交渉が続いている限り、アルゼンチンが極端な行動には出ることはない、という結論であり、もしアルゼンチン側が武力に訴えるとしても、同年10月以降になるであろう、という推測であった。同日、サッチャー首相は国防省に対して非常時の対策を練っておくよう指示していたが、その後2週間は具体的な検討は行われなかった。アルゼンチンの首都[[ブエノスアイレス]]駐在のウィリアムス英国大使は「もしイギリスがアルゼンチン側の要求を受け入れなければ、3月中の武力行使もありうる」との情報を入手して本国に伝達したが、[[嘘をつく子供|狼少年]]と見なされてしまい、重視されなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 === サウスジョージア島上陸 === {{main|サウスジョージア侵攻#不穏な動き}} [[3月19日]]にアルゼンチンのくず鉄回収業者コンスタンティノ・ダヴィドフ(Constantino Davidoff)はアルゼンチン海軍の[[輸送艦]]「バイア・ブエン・スセソ」(ARA Bahaia Buen Suceso)によってサウスジョージア島のクリトビケンに上陸した{{Efn2|ダヴィドフは、既に1981年12月に一度同島に上陸していたが、この際も、上陸のための事前許可を得ていなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|loc=第3章 サッチャー政権以降のイギリス・アルゼンチン関係}}。}}。これは旧[[捕鯨]]施設解体のためであり、この解体自体はイギリス政府との契約に基づくものであったが、上陸のための事前許可をサウスジョージア民政府から得ていなかったうえに、作業員のなかにアルゼンチン軍人が紛れ込んでおり、上陸すると、アルゼンチン国旗を掲げた施設を設置し始めた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 イギリス外務・英連邦省はアルゼンチン外務省に抗議するとともに、氷海警備船「エンデュアランス」に海兵隊員22名と軍用ヘリ「[[ウェストランド ワスプ|ワスプ]]」2機を乗せて同島海域に派遣したが{{Sfn|サンデー・タイムズ特報部|1983}}、これに対抗して、アルゼンチン海軍も[[コルベット#現代のコルベット|コルベット]]2隻を派遣した。アルゼンチン側の強硬姿勢に驚いたイギリス側は、偶発的な衝突を避けるため、「エンデュアランス」をサウスジョージア島沖に待機させ、状況を監視させた。イギリス側は、戦闘行為がフォークランド諸島にまで飛び火することを恐れており、問題の範囲をサウスジョージア島に留めておきたいと考えていたが、アルゼンチン側を抑止するのか撃退するのかという根本的な方針を定めないまま「エンデュアランス」を派遣したために、対応が中途半端となり、かえって危機を悪化させてしまった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 [[3月23日]]にイギリスは危機の収束のためには譲歩もやむなしとして、サウスジョージア島からアルゼンチン軍部隊が速やかに退去すれば外交交渉で妥協する用意があることを緊急に伝えた。しかしこの譲歩は既に手遅れであった。同日、アルゼンチン側の軍事評議会において、サウスジョージア島から部隊を撤収させないということが決定されてしまっており、その上で部隊を撤収させた場合はイギリス側の恫喝に屈したことになるため、強硬派のガルチェリ大統領にとって、もはや受け入れがたい選択となっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 [[3月26日]]にアルゼンチンのコスタ=メンデス外相は、サウスジョージア島に上陸したアルゼンチン人同胞の保護のために海軍[[砕氷艦]]「バイア・パライソ」([[:es:ARA_Bahia Paraiso (B-1)|{{Lang|es|ARA ''Bahia Paraiso''}}]])を同地に派遣しており、必要に応じてあらゆる措置を講ずる用意がある由を発表した。同艦から海兵隊員がサウスジョージア島リース港に上陸するに及んで、イギリス側も、外交的手段による状況の打開が極めて困難になっているということを、ようやく理解した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 === 開戦前夜におけるイギリスの情勢誤認 === このように情勢が加速度的に悪化しているにも関わらず、依然としてイギリスの対応は鈍かった。イギリスの情報機関は[[3月22日]]になっても、あくまで問題はサウスジョージア島であって、フォークランドにまで侵攻して来るなどとは想定していなかった。[[3月28日]]には[[政府通信本部]](GCHQ)により、アルゼンチン海軍の[[潜水艦]]「サンタ・フェ」がフォークランド諸島沿岸に派遣されていることが傍受されたものの、同日、アルゼンチン海軍総司令官アナヤ大将が「サウスジョージア島でアルゼンチン人が殺害されない限りフォークランドには手を出さない」と発言したこともあって、この情報の重要性は十分に認識されなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 [[3月31日]]の時点においてすら、JICは「アルゼンチンはサウスジョージア問題を逆手にとって交渉の材料にしようとしている」として、サウスジョージア島で挑発してイギリスの行動を誘うことがアルゼンチンの目的であって、よもや先に仕掛けて来ることはないであろう、との判断であった。しかし同日、GCHQは、アルゼンチンの海兵部隊一個大隊が4月2日にはフォークランドのスタンリーに達するということ、そしてブエノスアイレスから在英アルゼンチン大使館に対して全ての機密書類の焼却命令があったという決定的な情報を傍受した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 事ここに至り、イギリス政府も、ついにアルゼンチンの狙いがフォークランド諸島にあり、情勢が想定を大きく超えて急迫していることを理解した。サッチャー首相は米国に事態収拾の仲介を要請しており、[[4月1日]]、[[ロナルド・レーガン|レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]はガルチェリ大統領に対する説得工作を行っていることと米国の立場がイギリス寄りであることを伝えたが、ガルチェリ大統領との連絡は困難であった。駐アルゼンチン米国大使が既にガルチェリ大統領と面会していたが、大統領は「何を言っているのか全く訳がわからない」状態であった。4月1日20時半頃(米国[[東部標準時]])、レーガンはようやくガルチェリと電話で話すことができたが、侵攻を思いとどまるよう説得するレーガン大統領に対し、ガルチェリ大統領は自分たちの大義について演説し始める始末であり、説得は失敗であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 このような外交的手段と並行してイギリス側も重い腰を上げて、軍事的な対応に着手していた。3月29日には、物資と海兵隊員200名を乗艦させた[[フォート・グランジ級給糧艦]]「フォート・オースティン」が急派された。また4月1日には原子力潜水艦「[[スパルタン (原子力潜水艦)|スパルタン]]」と「[[スプレンディッド (原子力潜水艦)|スプレンディド]]」も派遣されたほか、[[ジブラルタル]]に寄港していたフリゲート艦「[[22型フリゲート#同型艦|ブロードソード]]」と「[[ロスシー級フリゲート#同型艦|ヤーマス]]」も追加されることになった。海軍は、今後も増派を続けるのであればこのような五月雨式の派遣を続けるべきではないと考えており、[[第一海軍卿]]リーチ提督は、空母機動部隊の編成を上申した。これを受けて、3月31日の時点で、サッチャー首相は任務部隊の編成を下令していた。しかしこれら先遣隊の到着は4月13日前後、そして空母機動部隊の出港も4月5日の予定であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 これに対してアルゼンチンにおいては、3月26日の時点で軍事評議会によってフォークランド諸島侵攻に関する最終的な決断が下されていた。現地時間4月1日19時、アルゼンチン軍はロサリオ作戦を発動し、同日23時に最初の部隊がスタンリー付近に上陸して、本格侵攻を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 == アルゼンチン軍の侵攻 == === 作戦計画の立案と前倒し (1981年12月-1982年3月) === 上記の通りフォークランド諸島侵攻作戦の具体的な計画作成は、1981年12月15日に海軍総司令官アナヤ大将から海軍作戦部長ロンバルド中将への下令を端緒とする。この際、アナヤ大将の指示は「マルビナス諸島を奪回せよ。しかしそれらを確保する必要はない」というものであり、イギリスの反撃は予期されていなかった。1982年1月中旬より陸軍・空軍も加えて統合作戦計画作成が着手された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=208-211}}。 この時点では作成完了時期は9月15日とされており、その前に何らかの動きを取ることは考慮されなかった。[[南半球]]にあるフォークランド諸島では[[北半球]]とは逆に、9月は真冬の過酷な天候が終わる時期であった。年初に招集されたアルゼンチン陸軍の徴集兵の訓練も進展しており、海軍航空隊には[[シュペルエタンダール]][[攻撃機]]とエグゾセ空対艦ミサイルの配備が進み、またフォークランド周辺にイギリス海軍が有する唯一の軍艦である氷海警備艦「エンデュアランス」も解役されているはずであった。上陸部隊としては[[アルゼンチン海軍#海兵隊|海兵隊]]第2[[歩兵]][[大隊]]が選定され、2月から3月にかけて、フォークランドに地形が似ている[[バルデス半島]]で数回の上陸演習を行った。基本的な上陸計画は3月9日に軍事政権の承認を受けて、9月までかけて作戦計画は準備されるはずだった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=208-211}}。 しかし3月下旬、[[#サウスジョージア島上陸|廃材回収業者のサウスジョージア島上陸]]を巡り、情勢は急激に緊迫し始めていた。3月23日にアルゼンチン政府はイギリスによる業者の退去を阻止するためサウスジョージア島に兵力を送るとともに、この危機を口実にフォークランド諸島を占領することを決心し、侵攻計画の立案グループに対して、計画をどの程度前倒ししうるかを諮問した。3月25日、ロンバルド中将は、同月28日に出港してフォークランド上陸は4月1日であると回答した。軍事政権はこの回答を承認し、ただちにフォークランド上陸作戦とサウスジョージアへのさらなる兵力増強の準備に取りかかるよう命令した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=208-211}}。 === フォークランド諸島侵攻 (3月28日-4月1日) === [[ファイル:Operation Azul.jpg|thumb|250px|ロザリオ作戦の経過]] {{Main|フォークランド諸島侵攻}} ==== 双方の態勢 ==== アルゼンチン軍においてフォークランド諸島の占領を担当したのは、カルロス・ブセル海兵隊少将を指揮官とする第40.1任務群であった。上記の通り海兵隊第2歩兵大隊を基幹として、上陸特殊作戦中隊および水中障害破壊部隊、野戦砲兵などを配属されていた。主たる攻撃目標は総督公邸と海兵隊兵舎であり、多方面から圧倒的に優勢な兵力で[[奇襲]]攻撃することで、できれば流血無しに占領することを企図していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 イギリス側では丁度同地の警備に当たる海兵隊分遣隊が交代の時期を迎えたタイミングで情勢が緊迫し、大使館付[[駐在武官]]の助言を容れて交代を中止したため、定数の倍にあたる69名の海兵隊員が駐在していた。また「エンデュアランス」から陸戦隊11名が派遣されていたほか、同地に住んでいた退役海兵隊員1名が再志願して加わっていた{{Efn2|この他、島民の志願者からなるフォークランド諸島防衛隊23名が組織されていたが、こちらは海兵隊の補助に限定され、戦闘には加えられなかった。}}。海兵隊指揮官マイク・ノーマン少佐は、侵攻を受けた場合、緒戦で可能な限り激しい打撃を加えて交渉の時間を稼ぐことを企図していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 ==== 特殊作戦上陸中隊の錯誤 ==== 3月28日、アルゼンチン軍侵攻部隊が出航した。当初計画では3月31日から4月1日の夜間に上陸する予定であったが、荒天のため24時間延期された。4月1日、フォークランド諸島総督レックス・ハント卿は、アルゼンチンの侵攻が迫っていることを本国より通知されて、これを島民に向けてラジオ放送した。これにより、アルゼンチン側は、既に戦術的奇襲が成立しなくなっていることを悟った{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 4月1日21時30分(以下特記無い限りタイムゾーンは[[UTC-4]])、ミサイル駆逐艦「サンティシマ・トリニダド」より、特殊作戦上陸中隊92名がゴムボート21隻に分乗して発進した。これらの部隊は二手に分かれ、サバロツ少佐に率いられた76名はイギリス海兵隊兵舎を、またヒアチノ少佐に率いられた16名は総督公邸を目指した。一方、イギリス側は、停泊中の民間船の航海用レーダーで港を見張っており、2日2時30分にはこれらのアルゼンチン艦艇の動きを把握していた。また監視哨からも報告が相次ぎ、4時30分にハント総督は緊急事態を宣言した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 アルゼンチン側の計画では、イギリス海兵隊が兵舎で就寝中のところを奇襲し、死傷者を出さずに制圧することになっており、サバロツ少佐はこれに従って[[催涙弾]]を投げ込んだが、実際にはイギリス海兵隊は既に全員が戦闘配置に就いており、兵舎はもぬけの殻であった。一方、ヒアチノ少佐の隊は、急遽この目標に振り替えられたため、総督公邸に関する情報を何も持っていなかった。ヒアチノ少佐は4名の部下を連れて降伏勧告に赴いたが、誤って総督公邸ではなく[[バトラー|執事]]の住居に入ってしまった。そして公邸では、海兵隊員31名と水兵11名、退役海兵隊員1名が[[自動小銃]]を構えていた上に、総督付運転手が[[散弾銃]]を、そして総督自身も[[拳銃]]を構えていた。誤りに気づいて出てきたヒアチノ少佐たちに銃撃が浴びせられ、ヒアチノ少佐は戦死、1名が負傷して、降伏勧告に向かった全員がイギリスの[[捕虜]]となった。指揮官を失ったアルゼンチン側は次の動きを決められず、事態は膠着状態となった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 ==== 本隊の上陸とイギリス軍の降伏 ==== 一方アルゼンチン軍本隊では、まず4時30分に潜水艦「サンタ・フェ」より[[フロッグマン|水中障害破壊部隊のダイバー]]たちが出撃し、偵察を行うと共に[[水陸両用車]]のための誘導灯を敷設した。続いて6時に戦車揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」より[[AAV7|LVTP-7]][[装甲兵員輸送車]]および[[LARC (軍用車両)|LARC-5]]貨物車に分乗した海兵隊第2歩兵大隊が出撃し、母艦からの誘導に従って岩礁を迂回したのち、誘導灯に従って無事上陸した。上陸すると、まずスタンリー空港を確保し、イギリス側が滑走路に設置した障害物を撤去したのち、スタンリー市街に向けて前進していった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 7時15分にはイギリス海兵隊の小部隊による妨害攻撃が行われたものの、双方とも戦死者はなく、8時には市街を掌握した。既に海兵隊の砲兵部隊や予備隊も上陸し、スタンリー空港には増援の陸軍部隊を乗せた航空機が着陸し始めていた。イギリス側が保持している施設は総督公邸のみとなっており、ハント総督は、島民と軍人へ不必要な生命の損失を与える徹底抗戦を避けて交渉することにした。9時25分に武装解除が命令されて、フォークランド諸島における戦闘はいったん停止した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=211-217}}。 === サウスジョージア島侵攻 (3月24日-4月3日) === {{Main|サウスジョージア侵攻}} ==== 双方の態勢 ==== アルゼンチンはサウスジョージア島占領のため、セサル・トロムベタ海軍大佐を指揮官とする第60任務群を派遣した。これは極地輸送艦「バイア・パライソ」とコルベット「[[ゲリコ (コルベット)|ゲリコ]]」から構成されており、艦載ヘリコプター2機と海兵隊員80名が乗り込んでいた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=217-221}}。 サウスジョージア島には、研究者等を除けば定住者はなく、通常は軍隊の配備もないが、[[#サウスジョージア島上陸|廃材回収業者のサウスジョージア島上陸]]への対応措置として、3月24日より、氷海警備艦「エンデュアランス」と、ミルズ中尉{{Enlink|Keith Mills (Royal Marines officer)|Keith Mills}}指揮下の海兵隊員22名が警戒活動にあたっていた。その後、海兵隊は3月31日に下船し、[[グリトビケン]]のイギリス南極探検隊{{Enlink|British Antarctic Survey}}の基地に駐屯した。4月1日には、ハント総督によるフォークランド諸島民へのラジオ放送が受信されたほか、4月2日には、[[英国放送協会|BBC]]ワールド・ニュースによって、アルゼンチンによるフォークランド侵攻が報じられた。国防省からの指令を受けて、「エンデュアランス」はアルゼンチン軍に見つからないように離れつつ情報収集母体として活動することになり、ミルズ中尉は、猛烈な嵐のなかで防御陣地を構築し、また海岸と桟橋に鉄条網と爆発物を敷設させた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=217-221}}。 ==== サウスジョージア島占領 ==== 4月2日12時25分頃、グリトビケンのあるカンバーランド湾に「バイア・パライソ」が侵入してきた。本来、この日にサウスジョージア島への侵攻作戦も実施される予定であったが、極度の悪天候のために断念し、無線で「明朝もう一度来て通信する」と通告して去って行った。4月3日の夜明けには天候も回復しており、6時30分には再び来航した「バイア・パライソ」からのVHF通信で降伏要求がなされた。この間、アルゼンチン軍は、まず[[SA 330 (航空機)|ピューマ]]・ヘリコプターの[[ヘリボーン]]によって部隊を展開させていたが、同地にイギリス軍はいないものと誤認しており、ピューマ・ヘリコプターは陣地の近くを飛行したため、ミルズ中尉たちの一斉射撃によって数十発が命中し、2名が戦死、残りは全員負傷して、機体は不時着した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=217-221}}。 トロムベタ大佐は「ゲリコ」へイギリス軍陣地への艦砲射撃を命じたが、目標があまりに近くて俯角を取れず、射撃できずにいるうちに、逆にミルズ中尉たちの[[カールグスタフ (無反動砲)|カールグスタフ]][[無反動砲]]と[[M72 LAW]][[対戦車ロケット弾]]、そして機関銃および自動小銃の射撃を受けて、水兵1名が戦死し、砲の旋回機構も破壊された。しかしこの間に、[[SA 316 (航空機)|アルエットIII]]ヘリコプターによって、不時着したピューマの負傷者は収容され、また増援部隊を着陸させた。アルゼンチン海兵隊は巧みに展開し、ミルズ中尉たちを包囲していった。また「ゲリコ」も、いったん沖に後退したのちに艦砲射撃を再開しており、砲の旋回機構を破壊されたために弾着の誤差が大きかったものの、徐々に陣地に近づいていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=217-221}}。 ミルズ中尉は、事前に「無益に人命を失うおそれが生じる前に、抵抗をやめる」と指令されていたこともあって、この時点でアルゼンチン軍に対し十分な損害を与えたとして、降伏した。イギリス側は重傷者1名を出したものの、戦死者はなかった。これに対し、アルゼンチン軍は圧倒的に優勢であり、またミルズ中尉が無線で海兵隊の駐屯を宣言していたにも関わらず、イギリス軍はいないだろうという思い込みで不用意に兵力を投入した結果、フリゲート1隻損傷、ヘリコプター1機全損、死者3名という損害を被った{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=217-221}}。ただし、後々の外交交渉のことを考えて、イギリス人を殺さないように攻撃を手控えた結果とも言われる。 === 政治・外交的対応 === ==== 戦時内閣の設置 ==== 3月31日の時点で、サッチャー首相は、「[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]」「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」の2隻の[[軽空母]]を中核として、[[第3コマンドー旅団]]を伴った[[機動部隊]]の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。アルゼンチンの侵攻に対して、サッチャーが既に任務部隊派遣の準備が整っていることを表明すると、世論はこれを熱狂的に支持したが、アルゼンチンの侵攻を未然に防げなかったことについて野党は追求の手を緩めず、責任を取って、キャリントン外相、アトキンズ閣外大臣、並びにルース次官は辞任を余儀なくされた。そして4月6日には、サッチャーはイギリスの伝統に基づいて戦時内閣を設置し、サッチャーと数名の閣僚によって意思決定を行える制度を整えた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 ==== 国連の動きと経済制裁 ==== このように部隊を派遣してはいたものの、イギリスにとって、武力行使による奪回は最終手段と位置づけられており、できれば任務部隊の派遣効果と対アルゼンチン経済制裁によって、アルゼンチンが全面的に屈服するか、あるいは国連やアメリカによる調停を期待していた。サッチャーは、[[第二次中東戦争|スエズ危機]]の教訓を踏まえて、アメリカや国際法を無視した武力行使はありえないと考えており、まずこれらの地固めを重視した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 しかし国連はもともと平和主義と反植民地主義的志向が強く、イギリス寄りでの調停は期待し難かった。またイギリスとしては自衛権の発動を主張することも困難であった。自衛権とは攻撃を受けてから生ずるものであるのに対し、フォークランド総督府は既に降伏し、戦闘はいったん終結していたためである。4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]において[[国際連合安全保障理事会決議502|決議第502号]]が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めたが、これが精一杯であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 イギリスでは軍事作戦と並行して経済制裁についても検討しており、4月2日には国内のアルゼンチン資産を凍結しその額は15億ドルにも及んだ。ただし当時のアルゼンチン経済は食糧、エネルギー分野においては自給に近かったことから短期的な影響は小さく、長期的な影響を与えるためには諸外国との連携が必要であった。欧州、[[イギリス連邦|コモンウエルス]]諸国、そして日本は外交的にイギリスを支持し、対アルゼンチン武器禁輸、アルゼンチンからの輸入の部分的停止、対アルゼンチン新規融資の禁止などを含んだ対アルゼンチン経済制裁に同意したが、日本は経済制裁には追随しなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 ==== 調停の試み ==== これと並行して、アメリカの[[アレクサンダー・ヘイグ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]やイギリスの[[フランシス・ピム]]外相の[[シャトル外交]]により、事態の打開が模索された。アメリカにとって、[[反共主義#冷戦時代|反共]]という立場では共通するイギリスとアルゼンチンが対立を続けることは望ましくなかったこともあり、積極的に調停を試みた。ヘイグ国務長官の基本的な構想は、まずアルゼンチンが撤兵し、それを確認してイギリスも任務部隊の派遣をやめるというものであった。4月12日には[[ロンドン]]を訪れて、この構想に基づく提案を提示した。イギリスも一時はその案の受諾の方向で進んでいたが、アルゼンチンは主権の移譲を主張して譲らず、ヘイグを愕然とさせた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 イギリス側が諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は、同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした{{Sfn|サッチャー|1993|p=245}}。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、イギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないよう定める文言が、4月24日のアルゼンチン案に含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的と考え、さらに外交交渉が時間稼ぎのために使われていることを懸念した{{Sfn|サッチャー|1993|pp=260-261}}。 ヘイグ長官はなおも調停を試みたものの、4月25日の[[#サウスジョージア島奪還 (4月18日-25日)|サウスジョージア島奪還]]を受けて、27日にはアルゼンチン軍事評議会はヘイグの調停案を拒絶する決定を下し、2日後にヘイグにそのことを伝えた。ヘイグは、もし戦闘が勃発すればアメリカはイギリスを支持することを表明した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 戦争中もイギリス政府や諸外国政府は、外交的に戦争の落としどころを探っていた。ヘイグ国務長官はイギリス、アルゼンチン双方に対して48時間以内の即時停戦とフォークランド諸島からの撤退を求めていた。また[[ペルー]]政府も仲介役に積極的であり、即時停戦や部隊の撤収、第三国によるフォークランド諸島の一時的な統治の確立などの調停案を持ちかけていた。しかしこのときにイギリス原子力潜水艦「コンカラー」によってアルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」が撃沈され{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}、またイギリス駆逐艦「シェフィールド」にエグゾセを命中させたことで、アルゼンチンは態度を硬化させており、ペルーとアメリカの仲裁には関心を持たず、国際連合の場でイギリスに国際的な圧力をかけて譲歩を引き出そうとしていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 アメリカにとっては、米英関係と同時にラテン・アメリカ諸国との関係も良好に保つ必要があった。そして[[チリ]]を除く[[ラテンアメリカ]]諸国にとっては、アルゼンチンが完敗して再び政変が生じることは望ましくなかった。5月31日、レーガン大統領は[[ブラジル]]の大統領と協議したのち、サッチャー首相に電話して、ヘイグ国務長官の即時停戦案を受け入れるよう提案したが、イギリスはグース・グリーンの戦いで勝利を収めた直後であり、到底受け入れられるものではなかった。サッチャー首相は猛抗議し、しまいにはレーガンが「自分でも余計な指図をしたことはわかっているが…」と折れる有様であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 6月2日には、今度は国際連合安保理の場においてスペインとパナマが独自の即時停戦案を提出した。サッチャー首相は折からの[[第8回先進国首脳会議|ヴェルサイユ・サミット]]で各国首脳への根回しを行っていたが、日本の[[鈴木善幸]]首相だけは問題の平和的解決に拘って即時停戦案への賛成を表明しており、サッチャー首相を激高させた。そして2日後の安保理では、日本とソ連を含む9か国が停戦案に賛成したため、イギリスは[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動して停戦案を封じ込めざるを得なかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=47-56}}。 == イギリス軍の反攻開始 == [[File:Falklands, Campaign, (Distances to bases) 1982.jpg|thumb|250px|イギリス軍機動部隊の進出]] === 第317任務部隊の編成と海上封鎖の開始 (3月31日-4月18日) === 上記の通り、イギリス軍は、当初は情勢が緊迫するにつれて五月雨式に派遣部隊を増やしており、まず3月29日に[[フォート・グランジ級給糧艦]]「フォート・オースティン」、4月1日に原子力潜水艦「スパルタン」と「スプレンディド」が派遣されたほか、ジブラルタルに寄港していたフリゲート「ブロードソード」と「ヤーマス」も追加されることになっていた。[[#アルゼンチン軍の侵攻|アルゼンチン軍の侵攻]]の時点で、「フォート・オースティン」と原子力潜水艦は大西洋を南に向けて航行中、フリゲート艦隊はようやくジブラルタルの海軍基地を出港したところであった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 そして3月31日の時点で、サッチャー首相は[[セントー級航空母艦]]「[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]」と[[インヴィンシブル級航空母艦]]「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」の2隻の[[軽空母]]を中核として、[[第3コマンドー旅団]]を伴った[[機動部隊]]の編成を下令しており、4月1日夜の閣議で、機動部隊をフォークランドに派遣することが決定された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=40-47}}。 当時、第1艦隊は[[カサブランカ]]沖でNATOの演習「SPRINGTRAIN」に参加しており、ここから下記の7隻が抽出されたほか、既に演習部隊から分離されて[[西インド諸島|西インド]]方面における長期任務へと向かっていた[[ロスシー級フリゲート]]「プリマス」も呼び戻された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=149-159}}。 * [[カウンティ級駆逐艦]]2隻 - 「[[アントリム (駆逐艦)|アントリム]]」「[[グラモーガン (駆逐艦)|グラモーガン]]」 * [[42型駆逐艦]]3隻 - 「[[コヴェントリー (駆逐艦)|コヴェントリー]]」「[[グラスゴー (駆逐艦)|グラスゴー]]」「[[シェフィールド (駆逐艦)|シェフィールド]]」 * [[22型フリゲート]]「[[ブリリアント (フリゲート)|ブリリアント]]」 * [[21型フリゲート]]「[[アロー (フリゲート)|アロー]]」 4月3日2時30分には、これら8隻は補給艦「タイドスプリング」とともにフォークランド諸島に向かった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=149-159}}。 [[4月5日]]には、大々的な見送りとともに、[[ポーツマス (イングランド)|ポーツマス]]より2隻の空母が出撃した。同日、ひっそりと21型フリゲート「[[アラクリティ (フリゲート)|アラクリティ]]」「[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]」、そして補給艦支援給油艦「ピアリーフ」、艦隊補給艦「リソース」および補給艦「オルメダ」も出港した。また4月6日には強襲揚陸艦「フィアレス」が、また4月9日には第3コマンドー旅団の大半および増援された陸軍の第3空挺大隊を乗せた徴用船「キャンベラ」も出港した。第1艦隊司令官ウッドワード海軍少将は、ジブラルタルから「グラモーガン」に座乗して既に南下しており、[[4月15日]]、空母部隊と合流した。搭載品の移載や会議を経て、[[4月18日]]、空母機動部隊は[[アセンション島]]を出港した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=149-159}}。 また4月7日の時点で、イギリス政府は、12日4時([[UTC]])以降、フォークランド諸島周辺200 マイルに海上排除区域(Maritime Exclusion Zone: MEZ)を設定すると宣言していた。12日、原子力潜水艦「スパルタン」が排除海域で配備に入り、予定通りMEZが発効した。また15日には「スプレンディド」も配備に入った。「スパルタン」は東フォークランド島の近くを、「スプレンディド」はアルゼンチン本土の港湾とフォークランド諸島の中間になる海上排除区域の北方の哨戒水域を担当した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=149-159}}。 ==== アルゼンチン軍の迎撃体制 ==== [[ファイル:Galtieri-Jofre.jpg|250px|サムネイル|フォークランド(マルビナス)諸島を訪問したガルチェリ(1982年4月22日)]] 一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンリー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機は[[FMA IA 58 プカラ|プカラ攻撃機]]、[[イタリア]]の[[アレーニア・アエルマッキ]]社製の軽攻撃機[[アエルマッキ MB-339|MB-339]]・[[アエルマッキ MB-326|MB-326]]、アメリカの[[ビーチクラフト|ビーチエアクラフト]]社製の[[T-34 (航空機)|T-34Cターボメンター]]軽攻撃機等で編成された。 また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍が[[フランス]]の[[ダッソー]]社から購入したばかりの[[シュペルエタンダール]]攻撃機に、同じくフランスの[[MBDA]]社から購入した空対艦ミサイル[[エグゾセ]]AM39が5発搭載された。 === サウスジョージア島奪還 (4月18日-25日) === {{main|パラケット作戦}} アルゼンチン軍は、4月3日の[[#サウスジョージア島占領|サウスジョージア島占領]]ののち、駐屯軍として海兵隊員55名をグリトビケンとリースに配置した。また廃材回収業者39名が引き続きリースに残っていた。しかし同地は地理的に隔絶しており、特にイギリス軍潜水艦の哨戒下ではアルゼンチン海軍による支援を受けることも困難で、守るに難しい状況であった。このため、イギリス軍としては、まず同地を奪還することで、来るべきフォークランド諸島奪還へと弾みをつける心算であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。 ==== 第317.9任務群の編成と事前偵察 ==== 4月7日にはサウスジョージア島奪回のための部隊として、フリゲート「プリマス」と駆逐艦「アントリム」および[[タイド型給油艦 (初代)|タイド型給油艦]]「タイドスプリング」によって第317.9任務群が編成され、のちにサウスジョージア島近海で氷海警備船「エンデュアランス」が合流、更に4月24日にフリゲート「ブリリアント」が合流した。上陸部隊は第42コマンドーのM中隊が割り当てられ、後に陸軍[[特殊空挺部隊]](SAS)のD中隊と海兵隊[[特殊舟艇部隊]](SBS)の1個分隊も追加された。作戦は「[[パラケット作戦]]」(Operation Paraquet)と名付けられたが、作戦参加者は、わざと文字を1字だけ変えて「[[パラコート]](Paraquat)作戦」と呼んだ{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。これらの任務群を掩護するため、4月20日から25日の間、サウスジョージア島からアルゼンチン本土の沿岸までを、空軍の[[BAE ニムロッド|ニムロッド]]哨戒機が哨戒したほか、原子力潜水艦「コンカラー」もサウスジョージア島沖を哨戒していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=102-141}}。 本隊の上陸に先立ち、まずSASがリースを、SBSがグリトビケンを偵察することになっていた。4月21日12時、リースを偵察するSAS分隊は、周囲の忠告を押し切って「アントリム」と「タイドスプリング」の艦載ヘリコプターによってフォーチュナ氷河に降下したが、おそるべき悪天と氷河の状態のために5時間弱をかけて500メートルしか進めず、4月22日10時に救出を要請した。[[ホワイトアウト]]の状態が続き、まず隊員の発見に難渋した上に、救出作業中に2機が墜落してしまった。幸い死者も重傷者もなく、残る1機は一度艦に戻って隊員を降ろしたのち、残されていた隊員と乗員を救出しようとしたが天候不良で二度も引き返し、三度目の挑戦でようやく救助に成功、1トン以上の過荷重状態で無事帰還した。またSBSのグリトビケン偵察も、強力な向かい風と、吹き寄せられた[[氷山]]によって阻まれ、失敗した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。 4月23日には、SASの偵察隊員が、今度はボートによってストロームネス湾に潜入しようとしたが、極寒の環境で[[船外機]]がうまく動かず、5隻中目標に達したのは3隻のみで、1隻は外海に吹き出されてしまったところをヘリコプターで救出され、もう1隻は別の場所に吹き寄せられたのち3日後に救出された。しかし残る隊員は偵察活動を完遂した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。 ==== グリトビケンとリースの奪還 ==== アルゼンチン海軍最高司令官アナヤ大将は、サウスジョージア島について、将来は科学観測基地を設けてアルゼンチンの実効支配を示そうと考えていた。その後、イギリス艦艇がこの島に近付いているという情報が入ると、一度はこの島をあきらめ、部下には無抵抗で降伏するよう命じた。しかしその後考えを変えて、潜水艦「[[サンタフェ (S-21)|サンタ・フェ]]」によって、増援として約40名の海兵隊員を送り込むことにした。同艦は、4月21日に[[マル・デル・プラタ]]海軍基地を出発し、24日深夜にカンバーランド湾の入り口に到着し、25日の2時頃から約2時間をかけて、海兵隊員と補給物資をグリトビケンに揚陸した。しかし帰路、カンバーランド湾内で第317.9任務群のヘリコプターに攻撃されて行動不能になり、グリトビケンに戻って、キング・エドワード崎に乗り上げた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。 第317.9任務群では、この勢いに乗じるべきであると衆議一致した。この時点で、上陸部隊主力が乗艦する給油艦「タイドスプリング」は潜水艦脅威を避けて退避しており、上陸作戦は、駆逐艦・フリゲートに乗艦しているM中隊の指揮班と[[迫撃砲]]兵、そしてSASとSBSの特殊作戦部隊のみで行うことになった。まず13時より、「アントリム」と「プリマス」によってグリトビケンへの上陸準備射撃が開始され、続いて13時30分より寄せ集め部隊79名のヘリボーン展開が開始された。実のところ、艦砲射撃が始まるとすぐにアルゼンチン軍は白旗を揚げており、16時5分には接近した地上部隊がこれを確認し、16時30分にはイギリス国旗とイギリス海軍旗が掲揚された。この戦闘で両軍に死者・負傷者はでなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。 引き続きリース奪還のため、17時15分、SASとSBSの隊員が「プリマス」と「エンデュアランス」に乗艦してリースのあるストロームネス湾へ派遣された。「エンデュアランス」艦長は無線で降伏を説得したところ、リースのアルゼンチン軍指揮官は、当初は「民間人は投降するが海兵隊員は戦う」と返答していたものの、21時45分には「決心を変え海兵隊員も降伏を準備している、イギリス軍指揮官は明日リースのサッカー場へヘリコプターで飛来して欲しい、そこで降伏の指示を受ける」と返答を変えた。イギリス側はいったんそれを認めたが、明朝、予定を変更して、武装解除したのち、上陸していたSAS・SBSの隊員のところに出頭するように命じた。その後、アルゼンチン側が夜のうちにサッカー場などに[[地雷]]を敷設していたことが判明し、イギリス側の判断の正しさが裏付けられた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=243-251}}。 == 航空・海上優勢を巡る戦闘 == === TEZの設定とスタンリー飛行場攻撃 (5月1日) === [[File:HMS Invincible (R05) underway c1981.jpg|thumb|250px|[[軽空母]]「[[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]]」(1981年撮影)。1980年に就役したばかりの当艦は、フォークランド紛争においてシーハリアーを搭載して活躍し、その有効性を証明した。]] 4月12日より原子力潜水艦による海上封鎖が開始され、フォークランド諸島周辺にMEZが設定されていたが、空母戦闘群の到着に伴って、4月28日には、2日後の4月30日をもって、MEZをアルゼンチン航空機をも対象とする完全排除水域(TEZ)に強化することを宣言した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=154-168}}。 紛争勃発時点で海軍が保有していた[[BAe シーハリアー|シーハリアー]][[艦上戦闘機]]は31機だけで、しかも2機が未引き渡しであった。艦隊の派遣にあたって、20機を機動部隊に配属して、8機を予備、4機を訓練・機材試験用に保持することとなり、第899飛行隊の保有機は第800・801飛行隊に分割されて配属され、下記のように配分された{{Sfn|田村|2005}}。 * [[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]] - 第800飛行隊:12機 * [[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]] - 第801飛行隊:8機 「ハーミーズ」のほうが大型であることから多くの機体を搭載しており、後に空軍の[[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー]]が派遣された際も同艦に搭載された{{Sfn|田村|2005}}。 5月1日早暁、[[#ブラックバック作戦 (5月1日-6月12日)|空軍のバルカン戦略爆撃機による爆撃]]の直後より、「ハーミーズ」の第800飛行隊のシーハリアーによる攻撃が行われた。「インヴィンシブル」は小型で搭載機数が少ない一方でレーダーが近代的であったことから[[防空艦]]に指定され、同艦の第801飛行隊は艦隊防空のための[[戦闘空中哨戒]]を担当した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=154-168}}。攻撃を終えたシーハリアーを収容すると空母戦闘群は離脱していったが、駆逐艦「グラモーガン」、フリゲート「アロー」および「アラクリティ」は分派されて、ポート・スタンリー周辺のアルゼンチン軍守備隊に対し艦砲射撃を行なった。3隻は13時25分に射撃を終了し、離脱中にアルゼンチン空軍の[[ネシェル (航空機)|ダガー]]攻撃機3機による爆撃を受け、「アロー」の乗員1名が腕に負傷し、3隻とも軽度の損傷を受けたものの、重大な損害はなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=154-168}}{{Sfn|田村|2005}}。 一方、空戦が本格化したのは午後遅くからであった。まず[[戦闘空中哨戒]](CAP)中のシーハリアー2機がアルゼンチン空軍の[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュIII]]EA戦闘機2機と交戦し、ミラージュ1機が撃墜され(パイロットは脱出)、中破した1機もスタンリー飛行場に不時着しようとしたところを味方の対空砲に誤射されて撃墜された(パイロットは戦死)。またその数分後には、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機2機がシーハリアー2機と交戦し、ダガー1機が撃墜された。その更に数分後には、アルゼンチン空軍のキャンベラ爆撃機3機がシーハリアー2機と交戦し、キャンベラ1機が撃墜された。これらの撃墜はいずれも[[サイドワインダー (ミサイル)|サイドワインダー空対空ミサイル]]によるものであった{{Sfn|田村|2005}}{{Sfn|Chant|2001|pp=43-50}}。 === 第79任務部隊の攻撃の試みと挫折 (4月30日-5月2日) === [[File:ARA Belgrano 1982.PNG|thumb|250px|「コンカラー」からの魚雷攻撃を受け沈みゆく「ヘネラル・ベルグラーノ」。写真では攻撃により艦首を吹き飛ばされていることが見て取れるが、実際には艦首への被弾は艦内部に深刻な被害を齎してはおらず、致命傷となったのは左舷後部への被弾であった。]] 4月5日より、アルゼンチン海軍はイギリス海軍との決戦に備えて大規模な艦隊の再編成を行い、主要な戦闘艦艇および補助艦艇は第79任務部隊として再編された。4月30日、この任務部隊は、下記の3つの任務群に分割されてそれぞれの作戦海域に配備された。 * 第79.1任務群 - 航空母艦「[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マヨ]]」および駆逐艦4隻 * 第79.3任務群 - 巡洋艦「[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラーノ]]」、駆逐艦2隻および給油船 * 第79.4任務群 - コルベット3隻 第79任務部隊指揮官アララ准将は「ベインティシンコ・デ・マヨ」に乗艦しており、5月1日、同艦搭載の[[S-2 (航空機)|トラッカー]]哨戒機がイギリス空母戦闘群を発見したことで、同日23時7分(UTC)<!--出典では「2007L時」となっているが、「P時」の打ち間違いか-->、攻撃作戦の開始を命じていた。作戦では、第79.1任務群と第79.3任務群によってイギリス空母戦闘群を挟撃することになっていた。しかし5月2日1時(UTC)以降、風はどんどん弱くなっており、元々機関の不調に悩まされ<ref group="注">ベインティシンコ・デ・マヨは元々[[オランダ海軍]]空母の「[[カレル・ドールマン (空母)|カレル・ドールマン]](旧英海軍[[コロッサス級航空母艦|コロッサス級空母]]「[[ヴェネラブル (空母)|ヴェネラブル]]」)」で、アルゼンチンが購入した際には火災事故によって機関を損傷した状態だった。そのため、コロッサス級の準同型艦で建造が中止されていた英海軍[[マジェスティック級航空母艦|マジェスティック級空母]]「[[レヴァイアサン (空母)|レヴァイアサン]]」から機関を流用して修復した後に就役したのだが、この機関はベインティシンコ・デ・マヨに流用された当初から不調だったと言われている。</ref>、航空機の運用に必要なだけの速力を発揮するのが困難だった「ベインティシンコ・デ・マヨ」の航空艤装では、[[A-4 (航空機)|スカイホーク]]攻撃機を発艦させることは困難になっていた。また同日3時30分(UTC)、イギリスのシーハリアー艦上戦闘機が飛来し、アララ准将は、自らの位置が曝露したものと信ずるに至った。4時45分(UTC)、アララ准将は作戦の続行を断念し、各任務群は、イギリスの潜水艦を避けるため、浅海域に戻ることになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}。 一方のイギリス軍は実際には第79.1任務群の位置を把握していなかったが、第79.3任務群は、5月1日14時(UTC)以降、原子力潜水艦「コンカラー」によって追尾されていた。同群はTEZに入らず、その外縁部を沿うように進んでいた。すなわち、この時「ヘネラル・ベルグラーノ」はTEZの外にあったのである。一方でこの巡洋艦は元々[[ブルックリン級軽巡洋艦]]「[[フェニックス (軽巡洋艦)|フェニックス]]」として第二次大戦前の1938年に[[アメリカ海軍]]で就役した旧式艦であり、いかに旧式艦とはいえ強力な[[艦砲]]と[[装甲]]を備えていたため、通常の水上戦闘艦の4.5インチ砲やエグゾセ艦対艦ミサイルでは対抗できず、対処には潜水艦の長魚雷かシーハリアーの1,000[[ポンド (質量)|ポンド]]爆弾が必要となるので、もし針路を変更してTEZに突入してきた場合、重大な脅威となることが予想された。このため、イギリス軍にとって、これを攻撃するべきか否かは懸案事項となり、最終的にサッチャー首相の認可を受けて[[交戦規定]](ROE)が変更され、攻撃が認可された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}。 「コンカラー」の通信装置の不調のために命令文の受領には時間がかかったが、[[5月2日]]17時10分(UTC)までに攻撃する意思を示す電報を送信し、18時13分(UTC)、「コンカラー」は戦闘配置についた。第79.3任務群は同艦の存在に気付いていなかったものの、緩やかに蛇行しながら前進していた。18時57分(UTC)までに、理想的な位置である「ヘネラル・ベルグラーノ」の左艦首1,400 [[ヤード]]に占位し、「コンカラー」は、[[:en:British_21-inch_torpedo#Mark_VIII|Mk8魚雷]]3発を斉射した。このうち2発が艦首と左舷後部に命中し、左舷後部への被弾が致命傷となって「ヘネラル・ベルグラーノ」は撃沈された。魚雷命中から20分後に「へネラル・ベルグラーノ」のボンソ艦長は総員退去命令を出したが、荒天のために救助活動は難航し、850名が救助されたものの、321名が戦死した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}。また、「ヘネラル・ベルグラーノ」に乗り込んでいた民間人2名がこの攻撃に巻き込まれて死亡している。 第79任務部隊が[[大陸棚]]の浅海に戻って以降、紛争が終わるまでの間、アルゼンチン海軍の水上戦闘艦は[[現存艦隊主義]]に徹し、二度と出撃してくることはなかった。「ベインティシンコ・デ・マヨ」の艦載機は搭載解除され、ほぼすべての航空機は陸上基地に配置され航空作戦全般に参加することになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=200-204}}。 === イギリス駆逐艦「シェフィールド」の沈没 (5月4日) === [[ファイル:SUEreabasteciendo1.jpg|thumb|250px|[[空中給油]]中の[[シュペルエタンダール]](アルゼンチン海軍所属機)。フォークランド紛争においてはエグゾセ空対艦ミサイルを搭載してイギリス海軍艦艇に損害を与え、エグゾセミサイルと共に世界にその名を知らしめた。]] {{main|シェフィールド (駆逐艦)#フォークランド紛争}} [[5月4日]]11時15分(UTC)、アルゼンチン軍の[[P-2 (航空機)|P-2]]哨戒機が1隻の駆逐艦のレーダー波を逆探知し、「ハーミーズ」がフォークランド諸島の東方にいると考えられたことから、30分以内に[[エグゾセ|エグゾセAM39]][[空対艦ミサイル]]を1発ずつ搭載した[[シュペルエタンダール]][[攻撃機]]2機が[[リオ・グランデ (アルゼンチン)|リオ・グランデ]]基地を発進した。14時(UTC)、この編隊は3隻の42型駆逐艦を発見した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=185-193}}。 このとき発見された駆逐艦は、主隊の西18海里で防空任務にあたっていた「グラスゴー」「コヴェントリー」「シェフィールド」であった。5月1日の[[#TEZの設定とスタンリー飛行場攻撃 (5月1日)|スタンリー飛行場攻撃作戦]]の際にアルゼンチン空軍が大きな損害を出したことから、反撃を予想して、「グラスゴー」の艦長は日中のSCOT衛星通信装置の使用を禁止するなど警戒を強めていた{{Efn2|name=SCOT|当時英海軍が採用していたSCOT衛星通信装置は、電波探知装置による探知を阻害する危険があった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=185-193}}。}}。13時56分(UTC)、「グラスゴー」の電波探知装置は、シュペルエタンダールの機上レーダによる掃引(レーダー波)を探知し、ただちに僚艦に急報した。しかしシュペルエタンダール(エグゾセ搭載可能)とミラージュIII(エグゾセ搭載不能、通常爆弾のみ)の機上レーダの信号パターンはよく似ており、5月1日には取り違えによる誤警報も何回かあったことから、「シェフィールド」や「インヴィンシブル」の対空戦調整室では、今回もミラージュIIIであろうと判断していた。また「シェフィールド」はSCOT衛星通信装置を作動させていたため、自身の電波探知装置は使えなくなっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=185-193}}<ref group="注" name=SCOT />。 13時58分(UTC)、「グラスゴー」は目標を再探知し、14時(UTC)に対空戦闘配置を下令、[[チャフ]]を発射した。このためにシュペルエタンダールは右に逸れて、「シェフィールド」を捕捉することになった。シュペルエタンダールは計2発のエグゾセAM39ミサイルを発射したが、うち1発は海面に突入した。残り1発のミサイルは順調に飛行を続け、14時3分(UTC)、「シェフィールド」に命中した。命中の15秒前、艦橋の当直士官が2つの煙を視認したが、最後までエグゾセAM39ミサイルの飛来は理解されず、ソフトキル・ハードキルのいずれも試みられることはなかった。弾頭は爆発しなかったものの、[[固体燃料ロケット]]の燃焼によって大火災が生じ、電源の喪失や消防ポンプの機能喪失によって[[ダメージコントロール#防火|消火活動]]の遂行も困難となり<ref name=OCC>{{Cite web|author=Office of Commander-in-chief, fleet |date=1982-05-28|url=https://clashofarms.com/files/BOI_Rpt_HMS_Sheffield_May82.pdf|title=Loss of HMS Sheffield|format=PDF |language=英語|accessdate=2016/07/24}}</ref>、[[シーダート (ミサイル)|シーダート艦対空ミサイル]]の弾薬庫に誘爆の恐れが生じたことから、21時(UTC)、総員退去が下令された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=185-193}}。乗員260名中、死者・行方不明者20名、負傷者24名であった。その後「シェフィールド」の火災は2日後に鎮火し、アセンション島への曳航が行われたが、途上で荒天に遭遇して浸水が拡大し、5月10日に沈没した。 === ブラックバック作戦 (5月1日-6月12日) === [[File:Refuelling.plan.black.buck (Japanese).svg|thumb|260px|第一次作戦において、バルカン爆撃機は攻撃に際し、往路7回、帰路1回の給油を行う計画であった。実際には、爆撃本務機が故障したため、予備任務機が爆撃を実施している。]] {{Main|ブラック・バック作戦}} イギリス空軍は、任務部隊にハリアーやヘリコプターを提供するとともに、長い航続力を持つ固定翼機を[[アセンション島]]に進出させ、掩護や哨戒を行なっていた。このとき展開した航空機には、[[アブロ バルカン]][[戦略爆撃機]]4機が含まれていた。NATOの作戦では空中給油の必要がほとんどなかったため、バルカン戦略爆撃機は空中給油装置を取り外していたが、この事態を受けて、直ちに再装備していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=102-141}}。 5月1日の第1次ブラック・バック作戦で、この空中給油装置が活かされることになった。バルカン戦略爆撃機は[[ハンドレページ ヴィクター]][[空中給油機]]と共にアセンション島を発進した後、ヴィクター空中給油機による空中給油を重ね、16時間をかけてスタンリー飛行場上空に進出して飛行場に爆撃を実施した。この爆撃では21発の爆弾が投下され、うち1発が滑走路に命中してクレーターを作ったほか、空港施設や駐機していた航空機にも損害を与えた{{Sfn|Chant|2001|pp=40-41}}。 この5月1日の爆撃作戦は、直接的な戦果は乏しかったものの、アルゼンチン軍の意思決定に多大な影響を与えたという点で意義が大きかった。バルカン戦略爆撃機によるアルゼンチン本土攻撃の可能性がにわかに注目されることとなり、この時を境に、アルゼンチン本土の脅威がアルゼンチンの計画における主題の1つとなった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}。これによって、アルゼンチン空軍の最有力の戦闘機であるミラージュIIIEAは本土防空のために拘置されることになり、ミラージュIIIEAとシーハリアーの本格的な空中戦は[[#TEZの設定とスタンリー飛行場攻撃 (5月1日)|5月1日の戦闘]]が最初で最後の機会となったのであった{{Sfn|田村|2005}}。 またウッドワード提督は、シーハリアーの機数と攻撃能力の不足から、引き続きバルカン戦略爆撃機による爆撃を要望していた。「ヘネラル・ベルグラーノ」などの撃沈に対する反撃として、スタンリー飛行場にシュペルエタンダールを展開するのではないかという懸念もあり、飛行場に対する攻撃を継続することになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}。 {{-}} == フォークランド諸島奪還 == === 前段作戦 === 「シェフィールド」の沈没以降、ウッドワード提督は、最終的上陸のための条件作りに努めており、自己の裁量の範囲内で上陸作戦に不可欠なフォークランド諸島内の偵察および排除水域の実効性の確保を行った{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=149-158}}。 5月9日には、イギリス空母戦闘群の捜索にあたっていたアルゼンチン海軍の情報収集船「ナルワル」{{enlink|ARA Narwal|ARA ''Narwal''}}が排除された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|p=192}}。まずシーハリアーが機銃掃射したのちに8名のSBS隊員がヘリコプターから[[ファストロープ器材|ファストロープ]]降下して突入し、機銃掃射により死亡していた船長を除いて、情報士官を含む11名の生存者全員を捕虜にした{{Sfn|キャムセル|2001|pp=201-210}}。 5月10日には、フォークランド水道内の機雷の敷設状況を確認するため「アラクリティ」「アロー」が分派された。機雷は敷設されていないことが確認されたほか、この通峡の途中、「アラクリティ」はアルゼンチンの輸送艦Isla De Los Estadosをレーダーで捉え、艦砲射撃によって撃沈した。またこの他、夜間に継続して艦砲射撃、爆撃、照明弾射撃を行うことで、アルゼンチン軍守備隊の睡眠妨害を試みていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=149-158}}。 === サン・カルロス上陸 (5月10日-5月21日) === ==== イギリス軍の上陸準備 ==== 4月30日より、SAS・SBSの計10チームがフォークランド諸島各所に潜入し、上陸候補地点の地理的情報の収集にあたっていた。また第3コマンドー旅団参謀のサウスビー=テルユア少佐は、以前にフォークランド海兵隊分遣隊の隊長だったとき、余暇を利用して海岸線をくまなくヨットで調査してレポートを作成しており、大いに参考になった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=226-243}}。 5月10日、これらの情報を踏まえて、上陸地点はサン・カルロスと決定された。同日、第317任務部隊指揮官フィールドハウス大将は、その上陸部隊である第317.1任務群指揮官トンプソン准将(第3コマンドー旅団長)に対し、フォークランドへの上陸を準備するよう指示した。そして5月12日、隷下部隊に対し、「作戦命令3/82」として、[[水陸両用作戦]]である「サットン作戦」を発令した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=226-243}}。 なお第317.1任務群は第3コマンドー旅団から編成されていたが、同旅団のみでは兵力に不安があるとして、陸軍の第5歩兵旅団(旅団長:ウィルソン准将)から第2・3空挺大隊が抽出されて増援されていたほか、5月3日には旅団そのものが派遣されることになっていた。これら2個旅団を統一指揮する組織としてフォークランド諸島陸上軍(LFFI)が設けられ、その指揮官としてはムーア海兵隊少将が任命されて、指揮権は5月20日に発動された。サットン作戦においては、ムーア少将と第5歩兵旅団の到着前に、第3コマンドー旅団によって[[橋頭堡]]を確保し、ここに第5歩兵旅団を投入して戦果を拡大することとなっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=226-243}}。 シーハリアーは空中戦での損害はなかったものの、5月4日にグースグリーンを攻撃中の機体が対空砲火で撃墜され、また6日にはレーダーコンタクトの捜索に向かった2機が消息を絶って、一挙に17機に減勢してしまった。しかし5月18日には、シーハリアーFRS.1の予備機による第809飛行隊と、空軍の[[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアーGR.3]]攻撃機による第1飛行隊が到着した。「ハーミーズ」には、6機のハリアーGR.3と4機のシーハリアーFRS.1が追加されて計21機となり、「インヴィンシブル」には4機のシーハリアーFRS.1が追加搭載されて計10機となり、空母戦闘群としての艦上戦闘機・攻撃機は31機に増勢した。これによって、[[近接航空支援]]・[[航空阻止]]はハリアーGR.3の担当となり、シーハリアーFRS.1はCAPに注力できるようになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=193-207}}。 ==== ペブル島襲撃 ==== {{Main|ペブル島襲撃}} アルゼンチン海軍は、4月24日に、西フォークランド島のすぐ北にあるペブル島の飛行場にT-34C軽攻撃機4機を配置していた。また空軍も、[[#TEZの設定とスタンリー飛行場攻撃 (5月1日)|5月1日のシーハリアーの攻撃]]を受けて、グースグリーンに配置していたプカラ攻撃機12機を同地に移動させていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=226-243}}。 上陸地点がサン・カルロスに決したのち、イギリス軍にとって、同地から約40キロメートルしか離れていないペブル島に(貧弱なターボプロップの軽攻撃機とはいえ)敵機が存在することは看過できない問題となった。5月10日の作戦会議で、ウッドワード少将は、SASに対してこの飛行場の攻撃を命じた。SASはまず偵察することを考えており、3週間はかかると考えていたが、ウッドワード少将は15日までに実行するよう求めたことから、SASはその夜のうちに偵察部隊を出発させた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=226-243}}。 悪天のため、実際の偵察は13日から14日にかけてとなり、この結果を踏まえて、14・15日の夜に本隊が進入して航空機に爆弾を仕掛け、駆逐艦「グラモーガン」も艦砲射撃を行なった。これにより同島に配置されていた航空機は全て破壊され、燃料・弾薬も炎上し、以後この飛行場がアルゼンチン軍に使用されることはなかった。SASは2名が負傷しただけで、全員が帰還した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=226-243}}。 ==== イギリス軍の上陸開始 ==== 21日未明、上陸開始に先駆けて、まず「アントリム」の艦砲射撃とSBSの地上攻撃により、ファニング・ヘッドにいるアルゼンチン軍「鷲分遣隊」の監視哨が駆逐された。またこれと並行して、3時30分頃、上陸部隊本隊第1波として、海兵隊第40コマンドーと陸軍第2空挺大隊がLCUによって上陸を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=252-257}}。 鷲分遣隊の本隊はポート・サン・カルロスに所在しており、ファニング・ヘッドでの艦砲射撃の音は聞こえていたが、監視哨は通信を送る間もなく壊滅したため、具体的に何が起きているかを把握することはできなかった。夜明けを待って斥候を送り、8時10分頃、イギリス軍の揚陸作戦が実施されていることが判明した。分遣隊はこれらの情報を全てグース・グリーンの第12歩兵連隊へ無線で報告し、航空機による対地攻撃を要請したのち、東方へ離脱した。この間、誤って上空を飛行したイギリス軍のシーキングおよびガゼル・ヘリコプター各1機を撃墜、ガゼル1機に損害を与えた。この損害を受けて、イギリス第3空挺大隊は鷲分遣隊を掃討しようとしたが、そのために投入された中隊同士が同士討ちしてしまい、分遣隊の捕捉には失敗した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=252-257}}。 === アルゼンチン航空戦力の反撃 === ==== 5月21日 ==== [[#イギリス駆逐艦「シェフィールド」の沈没 (5月4日)|5月4日の駆逐艦「シェフィールド」の被弾]]を受けて、エクゾセの脅威を避けるため、2隻のイギリス空母は後方へと配置された。仮に2隻の空母のいずれかを失った場合、イギリス軍の作戦全体が成り立たなくなることから、この措置はやむを得ないものではあったが、航空母艦を後方に配置したため、ハリアーの上陸区域における作戦時間が約30分まで低下していた。そして、水陸両用戦の部隊と共にサン・カルロス湾に入ったフリゲートに兵力の防衛を依存することとなった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=193-207}}。 アルゼンチンの航空攻撃が予期されたため、艦艇は最高度の警戒状態を維持していた。この予想通り、5月21日 13時25分(UTC)より航空攻撃が開始され、実に45[[ソーティ]]に及ぶ出撃が行われた。水陸両用艦艇の護衛のために7隻の艦艇がフォークランド水道およびサン・カルロス湾に入ったが、「アーデント」が沈没し、「プリマス」と「ヤーマス」の2隻を除く他のすべての艦が損害を受けた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=193-207}}。 しかしこのようにイギリス軍に損害を与えつつも、アルゼンチン軍は大きな失敗を犯していた。すなわち、これらの護衛艦艇が攻撃の主目標とされ、荷を下ろしている船や、陸揚げされ野積みになっている武器、弾薬、資材等は見逃されていたのである。上陸部隊自身の[[レイピアミサイルシステム|レイピア]][[地対空ミサイル]]の揚陸が遅れ、防空網が完成されていない時期であったことから、第3コマンドー旅団にとっては幸運だった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=252-257}}。またアルゼンチン軍機の損害も少なくなく、10機(ダガー5機、A-4Q 3機、A-4C 2機)を失い、これ以外のアルゼンチン軍機も小火器により被害を受け、修理をせずに作戦を行うことは出来ない状態であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=193-207}}。 ==== 5月23・25日 ==== [[5月23日]]には、アルゼンチン軍の[[A-4 (航空機)|A-4]]攻撃機が「アーデント」と交代した21型フリゲート「[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]」を攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが[[信管]]除去作業中に爆発し、「アンテロープ」は翌24日に沈没した{{Sfn|Chant|2001|pp=57-70}}。 [[5月25日]]には[[アルゼンチン空軍]]第5グループのA-4Bが42型駆逐艦「[[コヴェントリー (駆逐艦)|コヴェントリー]]」と22型フリゲート「ブロードソード」を攻撃し、「コヴェントリー」に爆弾3発を命中させ撃沈に成功した{{Sfn|Chant|2001|p=94}}。 その直後アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイル[[エグゾセ]]AM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍に徴用されていた[[コンテナ船]]「[[アトランティック・コンベアー]]」に命中、同船は大破炎上して沈没した{{Sfn|Polmar|2006|loc=ch.20 Carrier War in the South Atlantic}}。 同船は航空機の輸送に用いられており、シーハリアーとハリアーは既に空母に移動して無事だったものの、ヘリコプター多数(チヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機)が失われ{{Sfn|Polmar|2006|loc=ch.20 Carrier War in the South Atlantic}}、同日に予定されていたヘリボーン作戦は断念せざるを得なかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。特に空軍のチヌーク輸送ヘリコプター4機で編成された第18飛行隊は、撃沈前に発艦していた1機を除く3機と整備機材・予備品のほとんどを失い、地上部隊を落胆させた。被害を免れた1機{{enlink|Bravo November}}は孤軍奮闘し、戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送などで活躍した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=102-141}}。 ==== 5月30日 ==== 5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊の[[シュペルエタンダール]]攻撃機2機{{Efn2|1機にエグゾセを搭載し、もう1機はレーダー故障時の誘導を担当するための補助機}}と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーで[[ロックオン]]してミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された{{Efn2|イギリス側はエグゾセの撃破をアヴェンジャーの114mm単装砲による撃墜と主張しているがチャフによる誤作動だった可能性もあるなど詳細は不明である。}}。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。 結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し{{Efn2|チャフロケットなどの発射煙を誤認したと見られている}}、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。 === グース・グリーンの戦い (5月27・28日) === [[File:Battle of Goose Green.png|thumb|260px|グース・グリーンの戦いの関係図]] ==== 双方の態勢 ==== 5月21日にイギリス軍がサン・カルロスに上陸して以降、アルゼンチン軍の抵抗は航空攻撃に限られていた。一方、イギリス軍の側は、上陸以降の作戦については事前の計画は乏しかったが、これらの情勢から、任務部隊司令部ではアルゼンチン軍の積極性について楽観的な見方が広がっていた。第3コマンドー旅団長トンプソン准将は、25日にはケント山からチャレンジャー山にかけての地域に大規模なヘリボーン作戦を行ってスタンリー攻略の地歩を固めることを企図していたが、同日の「アトランティック・コンベアー」の喪失によって多数のヘリコプターが失われ、この作戦は実行不能となった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 スタンリーに進出する前に、まずグース・グリーンとダーウィンに駐屯するアルゼンチン軍を攻撃する必要があった。トンプソン准将はもともと、グース・グリーンに対する(占領を前提としない)襲撃作戦を計画しており、22日には第2空挺大隊長ハーバート・ジョーンズ中佐に作戦立案を下令していたが、「アトランティック・コンベアー」の喪失を受けて、この作戦は第5歩兵旅団とヘリコプターの増援を待って行う方針としていた。しかし逆に、ロンドンの任務部隊司令部と政治家は、この喪失を補うためにも何らかの行動を示すべきであると考えるようになっていた。結局、26日にトンプソン准将が任務部隊司令部と衛星通信で直接話し合い、グース・グリーンへの攻撃とスタンリーへの進撃にむけた機動を始めるよう命令をうけた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 一方、アルゼンチン軍において、グース・グリーン防衛の主力部隊となっていたのは第12連隊であり、連隊長はイタロ・ピアッヒ中佐であった。連隊の兵士の半分以上は2月に徴兵されたばかりで訓練はほとんど完了しておらず、舶送される予定の重装備も到着しておらず、人員・装備ともに不十分な状態であった。部隊の抽出や配属があり、28日の時点でグース・グリーンに配備されていた部隊は総兵力1,007名、歩兵3個中隊を基幹として[[オート・メラーラMod56 105mm榴弾砲|105mm榴弾砲]]3門、120mm重迫撃砲(状態不良)1門、81mm迫撃砲3門、35mm対空機関砲2門などを保有しており、メルセデス任務部隊と称された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 ==== 第2空挺大隊の攻撃準備 ==== イギリス側では、SASによる最初の偵察結果では士気薄弱な1個中隊程度と見積もられていたが、22日午後に第3空挺大隊がアルゼンチン軍の下士官を捕虜にするなど情報収集を進めた結果、26日には、ほぼ上記のような部隊の全容を把握していた。一方の第2空挺大隊は、上陸以降、橋頭堡の南側を防御するためサセックス山に布陣していたが、冷たい風と湿った土地、そして防水性に欠ける軍靴のために、塹壕足をはじめとする病気や負傷によって、既に兵力の約4%に相当する27名の兵士が後送されていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 27日10時、BBCは全世界に対して「空挺大隊はまさにグース・グリーンとダーウィンを攻撃する準備ができている」と放送した。これを聞き、大隊長ジョーンズ中佐は激怒し、奇襲効果は失われたと信じた。また上記のようにアルゼンチン軍が当初予想よりも強力だったこともあり、第2空挺大隊固有の部隊に加えて、L118 105mm榴弾砲3門の配属を受けるとともに艦砲射撃の支援を受けることになった。一方、第12連隊長ピアッヒ中佐は、まさかBBCが自国軍の正確な情報を放送するとは思わず、欺瞞情報と考えたが、その他の予兆から、イギリス軍の攻撃が迫っていることは察知していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 同日、第2空挺大隊はカミラ・クリーク・ハウスに移動し、15時よりジョーンズ中佐は命令を下達した。当初の作戦計画は、イギリス空挺部隊の練度を活かして夜間のうちに攻撃を完了するもので、6つの段階に分かれた複雑な計画であった。中佐のせっかちな性格のために急いで下達されたこともあり、中隊長以下、誰も命令を理解できなかった。また上記の通り、トンプソン准将はあくまで襲撃作戦として下令したが、ジョーンズ中佐はこれを拡大解釈し、占領作戦に変更していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 ==== 大隊長の攻撃と戦死 ==== 18時より、第2空挺大隊の各部隊は順次前進して攻撃位置に進入した。攻撃開始予定は28日2時であったが、艦砲射撃を担当するフリゲート「アロー」は昼間は別の任務を割り当てられており、4時30分には艦砲射撃を終了しなければならなかった。このため、大隊の攻撃開始前の22時から3時間に渡って射撃することで十分な地ならしをすることになったが、これにより、ジョーンズ中佐が企図した「始めは静かに接近」という要領は最初から挫折した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 イギリス側は、アルゼンチンの戦力はほぼ正確に見積もっていたが、その配置は把握しておらず、ジョーンズ中佐の込み入った作戦は、戦闘が開始されるとすぐに齟齬を来しはじめた。例えば最初に攻撃を開始したA中隊は、無抵抗のうちに当初目標を速やかに占領したあと、他の部隊の戦闘を横目にしばらく停止させられた。その後攻撃した次の目標もやはり無抵抗であったため、中隊長はそのまま更に次の目標に前進しようとしたが、ジョーンズ中佐は、A中隊を自ら確認したいとしてこれを却下した。そして中佐の到着を待つ1時間の間に夜は明け始めており、次の目標であるダーウィン丘において、A中隊は激烈な抵抗に遭遇した。またこれとほぼ同時刻、B中隊も、その西側において、50口径機銃などの強力な火力を備えた陣地に遭遇し、前進を阻止された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 A・B中隊の攻撃が頓挫しているのをみて、7時30分頃、D中隊は主防衛線を迂回して助攻を行うことを、またC中隊は機関銃により火力支援を行うことを、それぞれ上申したが、ジョーンズ中佐はいずれも却下し、無線を混乱させるなと叱責した。またこの他にも、支援中隊長や砲兵指揮官からも多数の有益な示唆が提案されたが、中佐はこれらを全て拒絶し、8時30分頃よりA中隊と合流して、同中隊のみで攻撃を継続させた。しかしそれでも攻撃は停滞しており、焦った中佐は手近な人員を集めて、自ら陣頭にたって突撃した。この突撃に参加した人員は20名程度に過ぎず、また将校や無線手が多かったこともあって、たちまち阻止された。ひとりジョーンズ中佐のみ前進できたが、結局9時30分時頃に戦死した。しかし突撃隊員が、中佐を狙撃した塹壕を66mmロケット弾で撃破することに成功すると、その破壊力を恐れた周囲の塹壕が降伏し、勝利をもたらした{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=257-278}}。 === スタンリー攻撃準備 === ==== ケント山の戦い ==== ケント山は、スタンリーを見下ろす位置にあるにもかかわらず、アルゼンチン軍は同地に有力な部隊を配備できずにいた。5月24日のSASの偵察によってイギリス軍もこのことを知り、ただちにここに大兵力を投入しようとしたが、[[#5月23・25日|25日の航空攻撃]]によってヘリコプターが多数失われたために断念され、SASのD中隊のみが山頂を固めた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 29日には海兵隊第42コマンドーがこれを増強する予定だったが、悪天候のために順延された。その直後より、アルゼンチン軍コマンド部隊による攻撃が開始された。アルゼンチン第602特殊作戦中隊第3突撃分隊はケント山の左斜面に降着し、ただちに激しい近接戦闘が展開された。彼らは吹雪に紛れてSASの防衛線に浸透し、SASは後退も検討したが、同地の重要性を鑑み、トンプソン准将はぜひとも同地を保持するよう命じた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 30日の夜明けにはSASが優勢となっており、またアルゼンチン軍の第2突撃分隊が来る兆候がないことから、第3突撃分隊は攻撃を断念して後退した。第2突撃分隊が乗ったヘリコプターは悪天候のために同地に到達できず、離れたところに降着したのち徒歩行軍で同地に向かったため、結局、第3突撃分隊の戦闘に間に合わず、30日夜に戦闘を開始することになった。またこの戦闘中、やっとイギリス海兵隊第42コマンドーが同地に到着し、イギリス側の優位が確立されたことから、同分隊も戦闘継続を断念して後退した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 ==== フィッツロイ占領 ==== フォークランド諸島地上軍(LFFI)司令官のムーア少将は、5月29日に揚陸艦「フィアレス」へ移乗して司令部を開設、30日より全面的な指揮を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 ケント山の占領成功を受けて、イギリス軍地上部隊はそちらに向けて兵力の集中を図ったが、ヘリコプターの不足と酷寒の気候、湿った土地のために、その行軍は困難なものとなった。ちょうどこの頃、本国から増援されてきた第5歩兵旅団がフォークランド諸島に到着し、ヘリコプターはその揚陸のために使われていた。第3コマンドー旅団の各隊は、しばしば地元住民がトラクターで支援してくれたとはいえ、基本的には徒歩行軍により前進せざるをえなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 第2空挺大隊は、グース・グリーンを占領したのち、まず6月2日にはその東北東25キロメートルの入植地を攻撃し、同地が無人であったため容易に占領した。ここでフィッツロイの入植地住民との電話連絡に成功し、同地にもアルゼンチン軍が駐屯していないことを知ると、同日午後のうちに、イギリス軍唯一のチヌークを乗っ取って、同地への進出に成功した。この大胆な前進により、来るべきスタンリー攻撃作戦の際の右翼の援護が確保された。しかし悪天候のためにアルゼンチン軍はこの動きを察知できず、大隊は攻撃を受けずに済んだとはいえ、敵中に深く突出し、補給線からも切り離された脆弱な状態となった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 ==== 第5歩兵旅団の海上輸送 ==== 第2空挺大隊を援護するためにも迅速な前進が望まれたことから、6月3日、ムーア少将は、第5歩兵旅団を海上輸送によってフィッツロイに前進させることを決心した。しかしフィッツロイには揚陸可能な砂浜が乏しく、また本国のフィールドハウス大将が損害に神経質になっていたこともあり、計画は度々変更されて、実施部隊を憤激させた。まず5日から6日の夜間に「イントレピッド」を用いて第1回の海上輸送が行われた。多くの困難が経験されたとはいえ、スコットランド近衛大隊は、無事にフィッツロイ対岸のブラフ・コーヴに到着した。しかしこのとき、同大隊と交代した第2空挺大隊が、フィッツロイに移動するために、同大隊が乗ってきた舟艇を勝手に借用したことで、後の海上輸送に大きな障害が生じた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 続いて6日から7日の夜間に、「イントレピッド」と「サー・トリストラム」を用いて第2回の海上輸送が行われた。しかしこの輸送の際に現地での荷役に使う予定だった舟艇が第2空挺大隊に借用されて所在不明となっていたため、「イントレピッド」に乗艦してきたウェールズ近衛大隊などの部隊を全て上陸させることができなかった。この部隊を輸送するため、7日夜、「サー・ガラハド」を用いて第3回の輸送が行われた。しかしこの時、フィッツロイではまだ「サー・トリストラム」による擱座揚陸の途中であり、「サー・ガラハド」が着岸する余地はなかった。またウェールズ近衛大隊は、本隊がいるブラフ・コーヴまで乗船するつもりでおり、航空攻撃を警戒して下船を勧告にきた海兵隊のサウスビー=テルユア少佐の助言を無視した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 ==== アルゼンチンの航空攻撃 ==== イギリス軍は、航空母艦を後方に配したことによる哨戒時間短縮を補うため、サン・カルロスにアルミニウム板をしきつめた長さ850フィート(約260 メートル)の滑走路を完成させて、6月2日より運用を開始した。これによってハリアー・シーハリアーのCAP時間が大幅に延長されることになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 6月4日には、ケント山に対し、ダガー6機とプカラ4機による航空攻撃が行われた。いずれも、イギリス軍には全く損害を与えなかったが、部隊の防空体制の不十分さが浮き彫りとなった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。 そして6月6日にはイギリス側が海上輸送を行っていることも察知しており、8日11時15分、アルゼンチン軍の観測所よりイギリス輸送船のフィッツロイ入港が報告された。12時50分、空軍のA-4Q 5機が攻撃をかけ、「サー・ガラハド」は大破して48名戦死、「サー・トリストラム」も中破して2名戦死を生じた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。また、ダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦「プリマス」を直撃した。しかしいずれも不発で「プリマス」は対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。 これは、この戦争におけるアルゼンチン空軍の最後の大戦果であったが、結果として、イギリス軍のスタンリー進攻を約2日遅らせただけであった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}}。なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜された。また6月8日11時には、エンジンが故障したハリアーが上記の滑走路へクラッシュ・ランディングを行い、アルミニウム板の多くを吹き飛ばしてしまったため、この日いっぱいこの臨時滑走路が使えなくなった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=278-299}} === スタンリー外郭防衛線への攻撃 (6月11・12日) === [[File:Battleoftumbledown.svg|thumb|500px|スタンリー外郭防衛線の戦いの関係図。]] スタンリーの西側には、北からロングドン山、ハリエット山、ツー・シスターズ山という3つの山が連なっており、アルゼンチン軍の外郭防衛線となっていた。このため、イギリス軍はまずこれらの攻略を志向することになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 ==== 双方の態勢 ==== [[ファイル:Marío Benjamín Menéndez.jpg|サムネイル|マルビナス諸島総軍司令官マリオ・メネンデス]] アルゼンチン軍は6月8日の航空攻撃の戦果を過大評価しており、500~900名の戦死者を出したものと評価された。これを受けてアルゼンチン本国は高揚し、さっそくマルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将に対してフィッツロイの攻撃を要求したが、メネンデス少将は、部隊の機動力の欠如と航空・海上優勢の喪失、そしてイギリス軍の攻撃が先行するであろうことから不可能であると結論し、本国からの支援を求めるため参謀長ダエル少将をブエノスアイレスに派遣した。しかしガルチェリ大統領は、既にマルビナス諸島にはイギリス軍を撃退できるだけの十分な兵力を配しているとして、死守命令を下した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 6月7日には第3コマンドー旅団はケント山の斜面に移動しており、11日には、イギリスの地上部隊は攻撃開始の準備ができていた。双方の地上戦力はほぼ同程度であったが、アルゼンチン側は航空優勢は「ほぼ」、海上優勢は「完全に」失った状態であった。またアルゼンチン側は防衛側であり数週間前から陣地を準備できるという強みはあったが、イギリスがスタンリーに直接上陸してくると想定していたため、防御方向は海側(西側)を指向していた。5月26日には、アルゼンチン軍も、イギリス軍がサン・カルロスから陸路進撃してくる公算が高いことを認識したものの、依然として、イギリス軍が再度、今度はスタンリーに近いところに上陸作戦を行う可能性が高いと考えていたため、サン・カルロスからの進攻に対応できるよう南側に部隊を再配置することはなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 イギリス軍においては、第2空挺大隊とウェールズ近衛大隊が第5旅団から第3コマンドー旅団の指揮下に移されて、体制が強化された。第5旅団長ウィルソン准将はこの措置について、海兵隊員であるムーア少将が海兵隊を贔屓したのではないかと考えたが、これは6月8日の航空攻撃で第5歩兵旅団が損害をうけたことと、そしてムーア少将がウィルソン准将の能力に疑問を抱いたためであった。ロンドンの任務部隊司令部はもともとウィルソン准将の能力を不安視しており、ムーア少将は最初はこれに同意していなかったが、この時点では、トンプソン准将であれば3個大隊の戦闘を指揮できるのに対し、ウィルソン准将は2個以上の大隊の戦闘を指揮すべきでないと考えていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 ==== ロングドン山の戦い ==== 6月11日19時59分より、スタンリー西側の外郭防衛線に対する艦砲射撃が開始された。「アロー」「ヤーマス」「アヴェンジャー」「グラモーガン」が合計788発を射撃し、この戦争での最大の艦砲射撃となった。ロングドン山において、イギリス陸軍第3空挺大隊は既に前進を開始しており、20時16分に攻撃開始線を通過した。しばらくはイギリス軍が前進するのみで動きがなかったが、21時30分頃に一人の伍長が地雷を踏んで片足を吹き飛ばされたのを切っ掛けに、アルゼンチン軍が射撃を開始した。イギリス軍は砲兵支援を要請したが、陣地に対しては限られた効果しか発揮できなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 同山に配備されていたアルゼンチン軍部隊は、[[:en:7th Infantry Regiment (Argentina)|第7歩兵連隊]]B中隊(中隊長[[:es:Carlos_Eduardo_Carrizo_Salvadores|カルロス・カリソ=サルバドレス]]少佐)を基幹とする約220名程度であり、陣地の位置も作りも悪く、鉄条網も土嚢もなく、地雷敷設も適切でなかったが、同山はもともと天然の要害であり、イギリス軍は攻略に難渋した。特に暗視装置を備えた狙撃兵および50口径の重機関銃に対して苦戦を強いられ、手榴弾と銃剣による近接戦闘、また対戦車兵器も投入して、犠牲を出しつつ陣地を掃討していった。カリソ=サルバドレス少佐は3時頃に1個小隊の増援を得て、イギリス軍の攻撃を何度も凌いだものの、5時には限界が近づいていることが分かった。B中隊は整然と退却したが、287名の人員のうち、撤退に成功したのは78名であり、50名が捕虜となり、戦死31名、負傷者は少なくとも120名であった。一方、イギリス側は18名の戦死者と約40名の負傷者を出した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 ==== ツー・シスターズ山の戦い ==== ツー・シスターズ山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第45コマンドー(指揮官アンドリュー・ホワイトヘッド少佐)であった。この山は、名前の通り、東西に2つの頂をもつ山であり、ホワイトヘッド少佐の当初の計画では、まず西側の頂を確保したのち、そこからの支援を受けて東側を確保することになっていた。しかし地形の関係で、西側の頂を確保する中隊の行軍が遅れたため、12日0時16分、まず東側の頂を担当する2個中隊が攻撃を開始し、まもなく西側の頂への攻撃も開始された。この結果、3個中隊がほぼ同時に攻撃を行うことになり、特に西側の頂では前後に敵を見るかたちになった。この結果、まず西側の頂が確保された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 東側の頂の攻撃もおおむね順調に進展したが、アルゼンチン軍の機銃・迫撃砲・野砲の激しい射撃を受けて、1時間にわたって攻撃が停滞する状況もあった。しかしそのとき、1人の小隊長{{enlink|Clive Dytor}}が立ち上がって「総員前進!」と叫び、中隊名を意味する「ズールー!ズールー!ズールー!」と叫びながら突撃しはじめた。部下は最初それを諌めたり罵声を飛ばしたりしていたが、すぐに中隊全員がこれに続き、銃撃しながら攻め上がった。この突撃によって東側の頂も確保され、4時18分までに陣地の掃討も完了した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 ==== ハリエット山の戦い ==== [[File:Battle of Mount Harriet - Gordon Smith.gif|thumb|250px|ハリエット山の戦いの関係図。]] ハリエット山の攻略を担当したのはイギリス海兵隊第42コマンドー(指揮官ニック・ヴォークス少佐)であった。同山のアルゼンチン軍陣地は非常に堅固であるように認められたことから、ヴォークス少佐は正面攻撃を避けて迂回攻撃を行うことにした。すなわち、1個中隊で西側から陽動攻撃を行う一方、2個中隊を南側に進出させて後方から奇襲攻撃するという作戦であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 まず偵察小隊が先行したのち、16時15分より迂回行動が開始された。この間第7コマンド砲兵中隊や艦砲による射撃が行われていたこともあって、迂回行動は成功し、22時より予定通り攻撃を開始した。この迂回攻撃はアルゼンチン軍の予備兵力を直撃し、不慣れな夜間戦闘だったこともあり、経験のない徴集兵は降伏しはじめた。ロングドン山と同様、重機関銃座や暗視装置を備えた狙撃兵陣地は頑強な抵抗を示し、一部では600メートル前進するために数時間かかる状況もあったが、夜明けまでにはイギリス軍の勝利となり、イギリス軍2名戦死・13名負傷という比較的軽微な損害で、アルゼンチン軍に対して、10名戦死・53名負傷・300名以上が捕虜になるという戦果をあげた。これはヴォークス少佐の独創的な作戦によってアルゼンチン側が戦意を喪失したところが大きく、また降伏しようとする兵士に対してアルゼンチン軍の将校・下士官が銃撃するのをみたイギリス海兵隊が、これらの将校等を積極的に攻撃目標としたのも理由のひとつであった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 === スタンリーへの総攻撃 (6月13・14日) === [[File:Mount.longdon.battle.svg|thumb|500px|スタンリー内郭防衛線の戦いの関係図。]] 6月12日朝にアルゼンチン軍首脳部は、ロングドン山からハリエット山にかけて約4,500人のイギリス兵が集結していると報告を受けたが、この情報はマルビナス駐留部隊には伝えられなかった。6月13日には、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将とガルチェリ大統領が交信し、メネンデスは、「イギリス軍が示した行動から考えて、まさに今晩彼らは最終的攻撃をかけてくるだろう。必然的に今日から明日にかけてスタンリーの運命は風前のともしびにある」と警告したが、ガルチェリ大統領は、あくまでスタンリーを死守するよう命じた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。6月12日にはスタンリーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していたエグゾセMM38艦対艦ミサイルを発射し、駆逐艦「グラモーガン」に命中させて中破に追い込んだ{{Sfn|Polmar|2006|loc=ch.20 Carrier War in the South Atlantic}}。 ==== 内郭防衛線への攻撃 ==== [[6月13日]]より、イギリス軍はスタンリーの内郭防衛線への攻撃を開始した。これに先立って、12日夜には「アクティブ」と「アロー」が186発を、そして13日23時には「アヴェンジャー」、「ヤーマス」、「アクティブ」、「アムバスケード」が4時間に渡って856発を撃ち込んだ。また砲兵隊も合計で7,120発を射撃した。しかし艦砲も砲兵も残弾不足に悩んでおり、艦砲はこの規模の砲撃をもう1回行う程度で、砲兵隊もあと2日分の弾薬しか残っていなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。 まずスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を攻撃した。同山は内郭防衛線で最も高い場所であり、アルゼンチン海兵隊第5歩兵大隊(大隊長カルロス・ロバシオー中佐)が守備していた。この大隊は比較的経験を積んだ兵士によって編成されていた上に平時の駐屯地が南アメリカ最南端のフエゴ島であり、耐寒性を考慮した装備を保有していた。また4月上旬からフォークランド諸島に派遣されていたため、陣地もよく準備されたものであった。スコットランド近衛大隊は、まず17時より、新たに揚陸した[[FV101 スコーピオン|スコーピオン軽戦車]]を加えて陽動攻撃を行ったのち、21時より主攻を開始した。イギリス側の期待に反してアルゼンチン軍は頑強に抵抗し、攻撃はなかなか進捗しなかったが、3時頃よりイギリス軍が戦闘を調整し直して野砲射撃と近接戦闘を連携させるようになると、陣地は徐々に突破されていった。8時には同山での戦闘は終了し、イギリス側は死者8名・負傷者35名であったのに対し、アルゼンチン側は死者20名以上・負傷者多数であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。 その南方のウィリアム山は、当初計画ではスコットランド近衛大隊がタンブルダウン山を占領した後にグルカ小銃大隊によって攻略する予定であったが、タンブルダウン山攻略が意外に難航したことから、グルカ小銃大隊は、これを待たずに2時35分より前進を開始することになった。タンブルダウン山の陥落とともにウィリアム山のアルゼンチン軍も後退したため、実質的な反撃はほとんどなかったが、砲撃、地雷、また友軍の誤射もあり、グルカ小銃大隊による占領は13時5分となった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。 ロングドン山東方のワイヤレス・リッジの攻撃を担当したのは第2空挺大隊であった。同大隊は[[#グース・グリーンの戦い (5月27・28日)|グース・グリーンでの苦戦]]の戦訓を踏まえて、攻撃に先立ち砲兵隊・フリゲート「アンバスケード」・第2及び第3空挺大隊の迫撃砲・機関銃小隊及び配属された軽戦車によって大規模な準備砲撃を行った後に前進することにした。この結果アルゼンチン軍の反撃はほとんど無く、次々に陣地を放棄して後退していった。アルゼンチン砲兵が放棄した陣地に対して正確な射撃を加えてきたために若干の損害が出たが、これも艦砲射撃で砲兵陣地を撃破することで解決した。最終的に、第2空挺大隊は2名の戦死者を出しただけでワイヤレス・リッジの占領を達成した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。 ==== スタンリーの陥落 ==== [[ファイル:Argentine prisoners of war - Port Stanley.JPG|right|250px|thumb|投降するアルゼンチン兵。]] ワイヤレス・リッジの喪失により、もはやスタンリーを防御しうる自然障害物は消滅した。多数のアルゼンチン兵がこれらの陥落した陣地からスタンリーへと戻り始めており、イギリス軍のムーア少将は、これらのアルゼンチン軍兵士を攻撃しないように自軍兵士に命令を出した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。 アルゼンチン軍においては、マルビナス諸島総軍司令官メネンデス少将は「14日早朝には残っている防衛線が持ちこたえられない」と結論付けた。10時頃にガルチェリ大統領へ電話をかけて、スタンリーを夜まで保持できるとは思えないことと、戦闘を続けるなら多くのアルゼンチン軍兵士が戦死し、降伏より悪い事態となることを指摘したが、ガルチェリ大統領は実情が理解できず、メネンデス少将は自己の責任において降伏することとなった。12時から13時半頃には既に戦場では実質的な戦闘停止が自然に形成されていた。そして14日19時59分にメネンデスが降伏文書に署名し、正式に戦闘停止と降伏が発効した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=318-328}}。 === 終結 === スタンリーの陥落を受けて翌15日にはガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を出したが、敗戦によってアルゼンチン国民の軍事政権に対する不満が爆発した。15日昼頃から夜半にかけてブエノスアイレスでガルチェリ大統領の退陣を要求する反政府暴動が起き、加えてガルチェリに大統領の座を追われた[[ロベルト・エドゥアルド・ビオラ]]を始めとして軍内部からも責任追及の動きが起きるなど求心力を失い、17日には大統領を解任され、翌18日には陸軍司令官の座も失った。比較的戦果を挙げた空軍総司令官のバシリオ・ラミ=ドーゾ准将も8月17日に退任し、海軍総司令官のアナヤ提督は戦争で打撃を受けたにも関わらず地位を維持していたが、10月1日付けで辞任した。 [[6月20日]]にイギリス軍が[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島|サウスサンドイッチ島]]を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終結した。 == 両国の参加兵力 == === アルゼンチン軍 === ; 参加艦艇 * [[航空母艦]]:[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マヨ]] * [[軽巡洋艦]]:[[ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)|ヘネラル・ベルグラノ]] *[[42型駆逐艦|旧42型駆逐艦]]:[[:en:ARA Santísima Trinidad (D-2)|サンティシマ・トリニダー]]、[[:en:ARA Hércules (B-52)|エルクレス]] *[[アレン・M・サムナー級駆逐艦|旧アレン・M・サムナー級駆逐艦]]:[[:en:USS Hank|セグイ]]、[[:en:USS Borie (DD-704)|イポリト・ブシャール]]、[[:en:USS Collett|ピエドラ・ブエナ]] *[[ギアリング級駆逐艦|旧ギアリング級駆逐艦]]:[[:en:USS Perkins (DD-877)|コンドロ・ペイ]] *[[デスティエンヌ・ドルヴ級通報艦|A69型通報艦]]:[[ドゥルモン (コルベット)|ドゥルモン]]、[[ゲリコ (コルベット)|ゲリコ]]、[[グランビーレ (コルベット)|グランビーレ]] *[[209型潜水艦]]:[[:en:ARA Salta (S-31)|サルタ]]、[[:en:ARA San Luis (S-32)|サン・ルイス]]、[[サンタフェ (S-21)|サンタフェ]]、[[:en:USS Chivo (SS-341)|サンチャゴ・デル・エステロ]] * [[輸送艦]]:バイア・ブエン・スセソ * [[揚陸艦]]:[[:en:ARA Cabo San Antonio (Q-42)|カボ・サン・アントニオ]] *[[哨戒艦艇|哨戒艇]]:イスラスマルビナス、リオ・イグナス、バイア・パライソ * 徴用[[貨物船]]:フォルモサ、マルデルノルテ、ラゴ・アルヘンティーノ、リオセンシル、リオ・カルカラニャ、イェウィン、リオ・デ・ラプラタII * 徴用[[タンカー]]:プエルト・ロサレス * 徴用[[漁船]]:ナァールヮァル、インビエルノ、マリアアレハンドラ、コンスタンサ、キャプテン・カナッペ、マリア・ルイサ、ウスルビル、マール・アスール *[[砕氷船]]:アルミランテイリザル *[[コルベット]]:フォレスト、モンスネン(武装コースター) *[[タグボート]]:フランシスコデグルルチャガ ; 航空機 * [[戦闘機]]・[[攻撃機]] ** [[A-4 (航空機)|ダグラス A-4B/C/Q]]([[アルゼンチン空軍|空軍]]、[[アルゼンチン海軍|海軍]]) ** [[ネシェル (航空機)|IAI ダガーA]](空軍) ** [[シュペルエタンダール|ダッソー・ブレゲー シュペルエタンダール]](海軍) ** [[ミラージュIII (戦闘機)#派生型|ダッソー・ブレゲー ミラージュIIIEA]](空軍) ** [[FMA IA 58 プカラ|FMA IA 58A プカラ]](空軍) ** [[アエルマッキ MB-339#派生型|マッキ MB-339A]](海軍) ** [[T-34 (航空機)#バリエーション|ビーチ T-34C-1 ターボメンター]](海軍) * [[爆撃機]]・[[輸送機]]など **[[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ|BAe キャンベラ B Mk.62]](空軍) ** [[ボーイング707|ボーイング707-320C /372C]](空軍) ** [[ボーイング737#737オリジナル -100/-200(第1世代)|ボーイング737-200]](空軍) ** [[C-130 (航空機)|ロッキード C-130E/H]](空軍、爆撃機としても使用) ** [[C-130 (航空機)#派生型|ロッキード KC-130H]](空軍) ** [[リアジェット35|ゲイツ・リアジェット 35]](空軍、[[民間機|民間]]) ** [[ホーカー・シドレー HS.125|ホーカー・シドレー HS.125-700B]](空軍) ** [[フォッカー F27#バリエーション|フォッカー F27-400M フレンドシップ]](空軍) ** [[フォッカー F28|フォッカー F28-3000 フェローシップ]](海軍) ** [[ロッキード L-188|ロッキード L-188PF エレクトラ]](海軍) ** [[P-2 (航空機)|ロッキード SP-2H ネプチューン]](海軍) ** [[S-2 (航空機)#派生型|グラマン S-2E トラッカー]](海軍) ** [[ブリテン・ノーマン アイランダー|ブリテン・ノーマン BN-2Aアイランダー]]([[鹵獲]]) ** [[ショート スカイバン#派生型|ショート スカイバン シリーズ3M]](沿岸警備隊) ** [[セスナ サイテーション I#500 サイテーション I|セスナ 500 サイテーションI]](空軍、民間) ** [[エアロコマンダー 500|エアロコマンダー500U/690A]](空軍、民間) ** エンブラエル P-95 パンディラハ([[ブラジル]]よりリリース) ** BAC 1-11-521FH(空軍、民間) ** [[MU-2#バリエーション|MU-2B-26A]](空軍、民間) ** PA-60 エアロスター600A(民間) * 回転翼機 ** [[ベル 212]](空軍) ** [[UH-1 (航空機)#ベル モデル 205|ベル UH-1H ヒューイ]](陸軍) ** [[アグスタ A109|アグスタ A109A]](陸軍、後に[[イギリス軍|英軍]]が鹵獲運用) ** [[CH-47 (航空機)#CH-47C|ボーイング CH-47C チヌーク]](陸軍、空軍) ** [[SA 330 (航空機)#派生型|アエロスパシアル SA 330L ピューマ]](陸軍、沿岸警備隊) ** [[アグスタウェストランド リンクス#輸出型|ウェストランド リンクス Mk.23]](海軍) ** [[SA 316 (航空機)#派生型|アエロスパシアル SA 316B アルエットIII]](海軍) ** [[シコルスキー S-61|シコルスキー S-61D-4/S-61NR シーキング]](陸軍、海軍)など イギリス機動部隊の編成・出撃の報を受け、アルゼンチン空軍は、航続距離の長い[[ボーイング707]][[輸送機]]による洋上哨戒・索敵活動を実施し、4月21日・23日にはイギリス機動部隊への触接に成功したが、いずれも母艦を発進したシーハリアーによる退去措置がなされたことから、アルゼンチン空軍はボーイング707による索敵活動を中止した<ref>「シーハリアー奮戦記」『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』1984年2月号 pp.66-77</ref>。 また、{{en|LADE}}({{en|Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」}})の各機も空軍の下で[[輸送]]任務についた。フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に[[後方支援]]に当たったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。[[アルゼンチン航空]]などのエアラインも支援体制にあった。 === イギリス軍 === ; 参加艦艇 * 第317任務部隊([[指揮 (軍事)|指揮]]:ウッドワード[[少将]]) - 機動部隊 * 第324.3任務群(指揮:ハーバート少将) - 潜水艦隊 * 補給部隊(指揮:ダンロップ[[准将]]) [[ファイル:Invincible 1982.JPG|thumb|250px|right|HMS インヴィンシブル]] *[[セントー級航空母艦]]:[[ハーミーズ (空母・2代)|ハーミーズ]]([[艦隊]][[旗艦]])搭載機:シーハリアーFRS.1×16、ハリアーGR.3×10、シーキングHAS.5×5、シーキングHC.4×5 *[[インヴィンシブル級航空母艦]] : [[インヴィンシブル (空母)|インヴィンシブル]] 搭載機:シーハリアーFRS.1×12、シーキングHAS.5×10 *[[スウィフトシュア級原子力潜水艦]]:[[スプレンディッド (原子力潜水艦)|スプレンディッド]]、[[スパルタン (原子力潜水艦)|スパルタン]] *[[チャーチル級原子力潜水艦]]:[[コンカラー (原子力潜水艦)|コンカラー]]、[[カレイジャス (原子力潜水艦)|カレイジャス]] *[[ヴァリアント級原子力潜水艦]]:[[ヴァリアント (原子力潜水艦)|ヴァリアント]] *[[オベロン級潜水艦]]:[[:en:HMCS Ojibwa (S72)|オニクス]] *[[ブリストル (82型駆逐艦)|82型駆逐艦]]:ブリストル *[[42型駆逐艦]]:[[シェフィールド (駆逐艦)|シェフィールド]]、[[:en:HMS Glasgow (D88)|グラスゴー]]、[[コヴェントリー (駆逐艦)|コヴェントリー]]、[[:en:HMS Exeter (D89)|エクセター]]、[[:en:HMS Cardiff (D108)|カーディフ]] *[[カウンティ級駆逐艦]]、[[:en:HMS Antrim (D18)|アントリム]]、[[:en:HMS Glamorgan (D19)|グラモーガン]] [[ファイル:SS Canberra & HMS Andromeda Falklands 1982.jpg|thumb|250px|right|HMS アンドロメダとキャンベラ]] *[[22型フリゲート]]:[[:en:HMS Broadsword (F88)|ブロードソード]]、[[:en:HMS Brilliant (F90)|ブリリアント]] *[[21型フリゲート]]、[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]、[[アクティヴ (フリゲート)|アクティブ]]、[[アンバスケイド (フリゲート)|アンバスケイド]]、[[アロー (フリゲート)|アロー]]、[[アラクリティ (フリゲート)|アラクリティ]]、[[アーデント (フリゲート)|アーデント]]、[[アヴェンジャー (フリゲート)|アベンジャー]] *[[リアンダー級フリゲート]](12I型フリゲート):[[:en:HMS Minerva (F45)|ミネルヴァ]]、[[:en:HMS Argonaut (F56)|アルゴノート]]、[[:en:HMS Andromeda (F57)|アンドロメダ]]、[[:en:HMS Penelope (F127)|ペネロピ]] *[[ロスシー級フリゲート]](12M型フリゲート):[[:en:HMS Yarmouth (F101)|ヤーマス]]、[[:en:HMS Plymouth (F126)|プリマス]] *[[フィアレス級揚陸艦]]:[[:en:HMS Fearless (L10)|フィアレス]](両用艦群旗艦)搭載舟艇:LCU×4(内1隻に軽戦車1両)、LCVP×4、シーキングHC.4×4  *フィアレス級揚陸艦:[[:en:HMS Intrepid (L11)|イントレピッド]] 搭載舟艇:LCU×4、LCVP×4(トレーラー付きランドローバーを搭載)、シーキングHC.4×4 *[[ラウンドテーブル型支援揚陸艦|ラウンドテーブル級揚陸艦]]:[[:en:RFA Sir Lancelot (L3029)|サー・ランスロット]]、[[:en:RFA Sir Galahad (1966)|サー・ガラハド]]、[[:en:RFA Sir Bedivere (L3004)|サー・ベディベア]]、[[:en:RFA Sir Tristram (L3505)|サー・トリストラム]]、[[:en:RFA Sir Geraint (L3027)|サー・ゲライント]]、[[:en:RFA Sir Geraint (L3027)|サー・パーシバル]] [[ファイル:QE2colour.jpg|thumb|250px|right|徴用され輸送船として使用されていたクイーン・エリザベス2号]] *[[シリウス級戦闘給糧艦|ネス型給糧艦]]:[[:en:RFA Stromness (A344)|ストームネス]] *[[リソース級給兵艦]]:[[:en:RFA Resource (A480)|リソース]]、[[:en:RFA Regent (A486)|リージェント]] *[[フォート・グランジ級給糧艦]]:[[:en:RFA Fort Rosalie (A385)|フォートグランジ]]、[[:en:RFA Fort Austin (A386)|フォートオースティン]] *[[タイド型給油艦 (初代)|タイド型給油艦]]:[[:en:RFA Tidespring (A75)|タイドスプリング]]、[[:en:RFA Tidepool (A76)|タイドプール]] *[[オル型給油艦 (2代)|オル型給油艦]]:[[:en:RFA Olna (A123)|オルナ]]、[[:en:RFA Olmeda (A124)|オルメダ]] *[[ローバー級給油艦|ローバー型給油艦]]:[[:en:NRP Bérrio (A5210)|ブルーローバー]] *[[リーフ型給油艦]]:[[ウェストラリア (補給艦)|アップルリーフ]]、[[:en:RFA Bayleaf (A109)|ベイリーフ]]、[[ブランブルリーフ (補給艦・3代)|ブランブルリーフ]]、[[:en:RFA Pearleaf (A77)|ペアリーフ]]、[[:en:RFA Plumleaf (A78)|プラムリーフ]] * ヘリコプター支援船:[[:en:RFA Engadine (K08)|エンガディーン]]、リライアント(ヘリコプター13機を輸送) * [[哨戒艦艇|氷海巡視船]]:エンデュアランス *[[ハント型掃海艇]]:[[:en:HMS Brecon (M29)|ブレコン]]、[[:en:HMS Ledbury (M30)|レドバリー]] *[[:en:Hecla-class survey vessel|ヘクラ級測量艦]]:[[:en:HMS Hecla (A133)|ヘクラ]]、[[:en:HMS Hecate (A137)|ヘカテ]]、[[:en:HMS Herald (H138)|ヘラルド]]、[[:en:HMS Hydra (A144)|ハイドラ]] *[[キャッスル型哨戒艦]]:[[:en:HMS Leeds Castle (P258)|リーズ・キャッスル]]、[[:en:HMS Dumbarton Castle (P265)|ダンバードン・キャッスル]] ;徴用船団(軍艦ではないが、兵員や資材の輸送に投入された船舶) *航洋タグボート - タイフーン、カウアイサ、アイリッシュマン、サルベージマン、ヨークシャーマン *客船:[[クイーン・エリザベス2]](ヘリパッド装備、第5歩兵旅団の3,200名の兵士を輸送。他に第2大隊スコッツガーズ、第1大隊ウェルシュガーズ、1/7グルカライフルの兵士も輸送) *客船:[[キャンベラ (客船)|キャンベラ]](ヘリパッドを装備し、第3コマンドー旅団の要員を輸送) *客船:[[ウガンダ (客船)|ウガンダ]](ヘリパッドを装備し、病院船として使用) *トロール漁船(掃海艇として使用):コーデラ、オデッセイエクスプローラー、ジュネラ、ピクト、ノーセラ、ノーランド、ランガディア *コンテナ船:ブラヴォー・ノヴェンバー(ヘリパッドとエリコン20㎜機関砲装備、13機のヘリコプターを輸送) *コンテナ船:アトランティック・コーズウェイ(ヘリパッドを装備し、8機のASWシーキングを8機、ウェストランドウェセックスを20機輸送) *コンテナ船:[[アトランティック・コンベアー]](第809海軍航空隊のBAeシーハリアーFRS.1を8機(後に空母に移動)、ハリアー6機、ウェセックス6機、第18飛行隊のCH-47を4機輸送) *コンテナ船:ミュルミドーン(テント付きの宿泊施設とエリコン20㎜機関砲を輸送) *[[RO-RO船]]:エルク(ボフォース40mm機関砲2基を装備しシーキングヘリコプターを3機搭載、船内にボフォース L/70 40mm機関砲を8基、FV101軽戦車4両とFV107軽戦車4両を搭載) *[[RO-RO船]]:バルチックフェリー(陸軍ヘリコプター3機、105名の兵士、1,874トンの食糧と弾薬を搭載) *[[RO-RO船]]:ユーロピックフェリー(656飛行隊陸軍航空隊の車両、弾薬、燃料、および4機のスカウトヘリコプターを搭載。ヘリパッドを装備) *RO-RO船:ノルディックフェリー(兵士、食糧、弾薬を輸送、ヘリパッド装備) *RO-RO船:ノーランド(落下傘連隊の兵士800人と第848海軍航空隊の兵士を輸送、ヘリパッド装備) *RO-RO船:ランガディラ(ヘリコプターパッドとエリコン20 mm機関砲を装備、1,000人のエンジニアと車両、装備を輸送) *RO-RO船:セント・エドマンド(ヘリパッドを装備し、空軍の第18飛行隊の乗組員、軍隊、車両を輸送) *RO-RO船:トーア・カレドニア(ヘリパッドを装備し、車両および装備を輸送) *RO-RO船:[[アーガス (A135)|コンテンダー・ベサント]](ヘリパッドを装備し、ワスプ9機、ハリアー4機、チヌーク3機を輸送) *コンテナ船:アヴェロナ・スター(ヘリパッドを装備し食糧を輸送) *コンテナ船:ゲースト・ポート(ヘリパッドを装備し食糧と資材を輸送) *コンテナ船:レアティーズ(装甲ケーブルを内蔵し、物資の輸送) *コンテナ船:リカオン(装甲ケーブルを内蔵し、弾薬と燃料を輸送) *コンテナ船:サクソニア(資材の輸送) *コンテナ船:[https://www.poheritage.com/the-collection/galleries/Photographs/Ships/STRATHEWE-in-the-Falklands ストラトヘーベ](上陸用舟艇を輸送) *コンテナ船:セントヘレナ(ヘリパッドとエリコン20㎜機関砲を装備) *33,000トン級タンカー:アルベガ、スコットランド・イーグル *20,000トン級タンカー:アンコ・チャージャー、フォート・トロント *19,000トン級タンカー:バルドル・ロンドン、エバーナ  *18,000トン級タンカー:GAウォーカー *16,000トン級タンカー:ブリティッシュ・テスト  *15,000トン級タンカー:ブリティッシュ・エイボン、ブリティッシュ・エスク、ブリティッシュ・タマール、ブリティッシュ・テイ、ブリティッシュ・トレント、ブリティッシュ・ワイ *潜水支援船:ブリティッシュ・エンタープライズⅢ  *ケーブル敷設船:アイリス(ヘリパッドを20㎜機関砲2基装備)  *油田補給船:ウィンペイ・シーホース *工作船:ステナ・インスペクター(ヘリパッドを装備) *工作船:ステナ・シースプレード(ヘリパッドを装備) * 航空機 ** [[BAe シーハリアー#FRS.1|BAe シーハリアー FRS.1]]([[艦隊航空隊|海軍]]) ** [[ホーカー・シドレー ハリアー#ハリアーGR.3|ホーカー・シドレー ハリアー GR.3]]([[イギリス空軍|空軍]]) ** [[F-4 (戦闘機)#イギリス|マクドネル ファントム FGR.2]](空軍、アセンション島の防衛で使用) ** [[アブロ バルカン#派生型|アブロ バルカン B.2]](空軍) ** [[BAE ニムロッド#MR.2|BAE ニムロッド MR.2]](空軍) ** [[ハンドレページ ヴィクター#各型|ハンドレページ ヴィクター K.2]](空軍) ** [[ビッカース VC-10#派生型|ビッカース VC-10 C.1]](空軍) ** [[C-130 (航空機)#基本型|ロッキード ハーキュリーズ C.1]](空軍) ** [[BAE ニムロッド#R.1|BAE ニムロッド R.1]](空軍) ** [[イングリッシュ・エレクトリック キャンベラ#PR.9|イングリッシュ・エレクトリック・キャンベラ PR.9]](空軍) * [[回転翼機]] ** [[ウェストランド シーキング#派生型|ウエストランド シーキング HAS.2/2A/5/HC.4/HAR.3]](海軍、空軍) ** [[アグスタウェストランド リンクス#イギリス海軍およびフランス海軍|ウエストランド リンクス HAS.2]](海軍) ** [[ウェストランド ワスプ|ウェストランド ワスプ HAS.1]](海軍) ** [[シコルスキー S-58#イギリスでの運用|ウェストランド ウェセックス HAS.3/HU.5]](海軍) ** [[SA 341 (航空機)|ウェストランド ガゼル AH.1]]([[イギリス陸軍航空隊|陸軍]]、[[イギリス海兵隊|海兵隊]]) ** [[ウェストランド スカウト#各型|ウェストランド スカウト AH.1]](陸軍、海兵隊) ** [[CH-47 (航空機)|ボーイング チヌーク HC.1]](空軍) == 両軍の損害一覧 == イギリス軍 戦没 * 駆逐艦:シェフィールド、コヴェントリー * フリゲート:アンテロープ、アーデント * 揚陸艦:サー・ガラハト * コンテナ船:アトランティック・コンベアー アルゼンチン軍 戦没 * 軽巡洋艦:ヘネラル・ベルグラノ == 戦後・影響 == === アルゼンチン === [[ファイル:Alfonsin-asume-1983.jpg|サムネイル|アルフォンシンへの政権委譲を行うビニョーネ]] アルゼンチンではガルチェリ大統領が建国以来初めて敗戦の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を解任され失脚した。後任には退役陸軍中将の[[レイナルド・ビニョーネ]]が就任したが、緒戦は軍とペロニスタが挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)の[[ラウル・アルフォンシン]]に政権交代が行われ、民政移管が完了した。ガルチェリは「[[銃殺刑]]に値する」とまで言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に[[1990年]]に軍と取り引きした大統領[[カルロス・メネム]]の特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害した[[マリオ・メネンデス]]は「敬虔なカトリック教徒なので[[自殺]]は出来ない」と述べ、最終的に責任を逃れた。なお降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士は[[ウルグアイ]]経由で送還された。 この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀初めから続いていたチリ及び[[ブラジル]]との軍事対立も急速に収まっていった。一方で軍は政治力を弱めて大幅に人員を削減され、開戦前には3軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には3軍で7万1000人と半分以下にまで縮小した。 また、イギリスが[[欧州共同体|ヨーロッパ共同体]]の一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人系アルゼンチン人のルーツである[[イタリア]]・[[西ドイツ]]・[[スペイン]]などのヨーロッパ共同体加盟国は、アルゼンチンへの経済制裁を発動した。このことはそれまで[[ヨーロッパ]]に[[ナショナル・アイデンティティ|ナショナルアイデンティティー]]を抱いていたアルゼンチン国民の意識を変え、自分たちを[[ラテンアメリカ]]の一員として見直す切っ掛けになったといわれる。他方、ヨーロッパ共同体加盟国全てが制裁に積極的だったわけではなく、西ドイツは当時、東ドイツ領内で陸の孤島になっている西ベルリンをイギリスに守ってもらっていた関係で、アルゼンチンへの制裁に加わるよう強い圧力を受けていたとされる<ref>{{Cite journal|和書|author=河東哲夫 |authorlink=河東哲夫 |title=日独の悲哀「敗戦国は辛いよ」 |date=2023-02-07 |publisher=CCCメディアハウス |journal=Newsweek(ニューズウィーク日本版) |issue=2023年2月14日号 |id={{JAN|4910252520231}} |page=14}}<br />{{Cite web|和書|author=河東哲夫 |title=日独の悲哀「敗戦国はつらいよ」 |url=https://www.newsweekjapan.jp/kawato/2023/02/post-120.php |website=ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト |date=2023-02-11 |accessdate=2023-08-14}}</ref>。 === イギリス === 多くの艦艇を失って255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前人気が低迷していたサッチャー首相の人気が急上昇した。これによって勢い付いたサッチャー首相は翌年の総選挙で圧勝し、[[新自由主義]]的な改革をさらに推し進め、[[英国病|イギリス病]]に苦しんでいたイギリス経済を復活させた。 [[ファイル:Placamalvinas.jpg|250px|thumb|自国の領有権を主張するアルゼンチン、[[エントレ・リオス州]]の看板。]] また、それまで「2等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、[[F-4 (戦闘機)|F-4]]M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、[[アメリカ海軍]]で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後に[[トーネード ADV|トーネードF.3]]に交代)。 === 戦後の両国関係 === その後も両国の国交断絶状態が続いたが、[[1986年]][[6月22日]]に行われた[[1986 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・メキシコ大会]]の準々決勝で[[サッカーアルゼンチン代表]]が[[ディエゴ・マラドーナ]]らの活躍により[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた([[1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランド]]の項目を参照。)。 [[1989年]]10月にアルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌[[1990年]][[2月5日]]に両国は外交関係を正式に回復した。しかし現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。 戦後、イギリスは戦死したアルゼンチン兵の[[遺骨]]返還を申し出たが、アルゼンチン政府は諸島へのイギリスの主権を追認することになるとして拒否している。フォークランドのダーウィン墓地には、アルゼンチン兵の墓が237基あり、うち123基は身元不明である。戦友の墓参に島を訪れた帰還兵の呼びかけをきっかけに、両国政府は2016年12月に身元確認で合意した。[[赤十字社|赤十字国際委員会]]が遺骨の発掘と[[DNA型鑑定]]を2017年中に終えて最終報告書をまとめる予定であるが、アルゼンチン国内では遺骨の返還への反対意見が依然根強い状態となっている<ref>アルゼンチン兵遺骨確認開始/フォークランド紛争35年/返還には反発も「英の領有認める」『[[読売新聞]]』朝刊2017年6月21日</ref>。 == 評価と戦訓 == === 陸戦 === ==== 重機関銃の復権 ==== [[#フォークランド諸島奪還|フォークランド諸島奪還]]において、アルゼンチン軍はしばしば[[ブローニングM2重機関銃]]を陣地の防衛に用いたが、イギリス軍の地上部隊は同クラスの機関銃を配備しておらず、汎用機関銃で支援された偵察兵を遮蔽物に沿って1人ずつ前進させ、火点をあぶりだすと[[ミラン (ミサイル)|ミラン]][[対戦車ミサイル]]<ref name="Freedman" /><ref name="Pegler" /><ref name="Dougherty" />や手りゅう弾と銃剣突撃による直接攻撃を敢行するという対応を余儀無くされた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}<ref>{{Cite book |first1=Nicholas |last1=van der Bijl |others=[[:en:Julian Thompson (Royal Marines officer)|Thompson, Julian]] (Foreword) |date=2014-12-17 |title=Nine Battles to Stanley |publisher=Pen & Sword Military |edition=Kindle; Reprint |asin=B00WQ4QSRW |pages=172-173 |language=en}}</ref>。 上記の重機関銃の運用を通常の射撃ではなく「単発狙撃」であったとする記述が、一部の和文文献に見受けられる<ref name="床井1993">{{Cite book|和書|author=床井雅美|authorlink=床井雅美 |title=アンダーグラウンド・ウェポン 非公然兵器のすべて |publisher=[[日本出版社]] |year=1993 |isbn=4-89048-320-9 |page=135}}</ref><ref name="あかぎ2015">{{Cite book|和書|author=あかぎひろゆき |title=40文字でわかる 銃の常識・非常識: 映画の主人公の銃の撃ち方は本当に正しい?(Kindle版) |publisher=Panda Publishing |year=2015 |asin=B00TG26T6C}}([https://books.google.co.jp/books?id=ZvpaDwAAQBAJ&pg=PT203#v=onepage&f=false オンライン版]、Google Books)</ref><ref name="大波2016">{{Cite book|和書|author1=大波篤司 |author2=福地貴子 |title=図解 スナイパー |chapter=No.037 コンクリートの壁をも撃ち抜く狙撃銃とは? |page=83 |publisher=新紀元社 |year=2016 |isbn=978-4775314333}}([https://books.google.co.jp/books?id=iUs8DwAAQBAJ&pg=PT119&f=false#v=onepage オンライン版]、Google Books)</ref>。しかしフォークランド紛争、狙撃銃、狙撃手などに関する英文の文献やその和訳書<ref name="Freedman">{{Cite book|author=[[ローレンス・フリードマン|Lawrence Freedman]] |title=The Official History of the Falklands Campaign, Volume 2: War and diplomacy |publisher=Routledge |year=2005 |isbn=978-0714652078 |page=539}}([https://books.google.co.jp/books?id=BEjOdVzx9UcC&pg=PA539&dq=falklands+milan+machine+gun#v=onepage オンライン版]、Google Books)</ref><ref name="Pegler">{{Cite book|author=Martin Pegler |title=Sniper Rifles: From the 19th to the 21st Century |publisher=[[:en: Osprey Publishing|Osprey Publishing]] |year=2010 |isbn=9781849083980 |page=62}}([https://books.google.co.jp/books?id=vDi3CwAAQBAJ&pg=PA62&q=falklands%20remingtons%20milan#v=onepage&q=falklands%20remingtons%20milan&f=false オンライン版]、Google Books)</ref><ref name="Dougherty">{{Cite book|author=Martin J Dougherty |title=Sniper: SAS and Elite Forces Guide: Sniping skills from the world's elite forces |year=2012 |isbn=9780762782840 |publisher=[[:en:Lyons Press|Lyons Press]] |page=70}} ([https://books.google.co.jp/books?id=j1Dm6EnU7mkC&pg=PT70&dq=falklands+sniper+milan&hl=ja&sa=X#v=onepage オンライン版]、Google Books)</ref><ref name="ブルックスミス">{{Cite book|和書|title=狙撃手(スナイパー) |author1=ピーター・ブルックスミス(著) |author2=森真人(訳) |publisher=原書房 |year=2000 |isbn=978-4562033621|pages=15-18}}</ref><ref name="ファレイ">{{Cite book|和書 |chapter=フォークランド戦争の狙撃手 |title=図説 狙撃手大全 |author1=パット・ファレイ、マーク・スパイサー(著) |author2=大槻敦子(訳) |publisher=[[原書房]] |year=2011 |isbn=978-4562046737 |pages=262-271}}</ref>には、そうした言及は見当たらない。また「フォークランド紛争での重機関銃運用の戦訓がきっかけとなって[[対物ライフル]]が開発された」とする説も、一部の和文文献<ref name="床井1993" /><ref name="大波2016" />にのみ見受けられ、英文文献やその和訳書<ref name="Pegler" /><ref name="Dougherty" /><ref name="ブルックスミス" /><ref name="ファレイ" /><ref name="McNab">{{Cite book|author=[[:en:Chris McNab|Chris McNab]] |title=The Barrett Rifle: Sniping and anti-materiel rifles in the War on Terror |publisher=[[:en:Osprey Publishing|Osprey Publishing]] |year=2016 |isbn=978-1472811011}}</ref>では言及されていない。 === 海戦 === ==== 潜水艦による制海 ==== イギリス海軍の原子力潜水艦「[[コンカラー (原子力潜水艦)|コンカラー]]」の雷撃による[[#第79任務部隊の攻撃の試みと挫折 (4月30日から5月2日)|アルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」の撃沈]]はアルゼンチン海軍の戦意に冷や水を浴びせることになり、空母「[[ベインティシンコ・デ・マヨ (空母)|ベインティシンコ・デ・マヨ]]」を始めとしたアルゼンチン海軍の水上戦闘艦は[[現存艦隊主義]]に転じて、二度と出撃してくることはなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=200-204}}。 一方、アルゼンチン海軍の[[209型潜水艦]]「サンルイス」({{Lang|latin|ARA ''San Luis''}}) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったこのうち5月1日には「ブリリアント」と「ヤーマス」を雷撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日には「アロー」と「アラクリティ」に対して雷撃を行ったが失敗した。これらの失敗は魚雷の調整失敗などによるとされる。このように実際の戦果を挙げることはできなかったにも関わらず、イギリス海軍は「サンルイス」の存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった<ref>{{Cite report|url=http://www.dtic.mil/cgi-bin/GetTRDoc?AD=ADA279554&Location=U2&doc=GetTRDoc.pdf|title=Submarine Operations during the Falklands War|author=Steven R. Harper|date=1994-06-17|publisher=[[:en:Naval War College|Naval War College]]}}</ref>。 ==== イギリス艦船の抗堪性 ==== [[21型フリゲート]]8隻のうち2隻が本戦争で撃沈されたことについて、同型が元々商船規格で設計されたことや、アルミニウム合金を多用したこととの関連も疑われた。しかし1977年に「[[アマゾン (フリゲート)|アマゾン]]」が火災事故で大破したことについてはアルミニウム合金の脆弱性が被害増大につながったと指摘されているのに対し、本戦争での喪失艦については、あまり関係がなかった。アーデントも水線付近に多数の命中弾を受けてずたずたになっており、また「[[アンテロープ (フリゲート)|アンテロープ]]」も艦内深くまで突入した爆弾の爆発によって沈没したが、いずれも、この規模の艦にとっては船体構造に関係なく十分に致命傷となる損傷であった{{Sfn|Friedman|2012|loc=Ch.14}}{{Efn2|ただし、南[[大西洋]]の過酷な海況のために船体に亀裂を生じ、後に補強工事が必要になった{{Sfn|Friedman|2012|loc=Ch.14}}。}}。 なお、エグゾセを被弾した「[[シェフィールド (駆逐艦)|シェフィールド]]」の喪失についてもアルミニウム合金の脆弱性に原因を求める意見も多かったが、実際には船体・上部構造物共に全鋼製であった<ref>{{Cite web|authorlink=オースタル|editor=オースタル|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150506182917/http://www.austal.com/Libraries/Newsletters-Presentations-Presentations-and-Publications/Aluminium---Hull-Structure-in-Naval-Applications.pdf|archivedate=2015-05-06|url=http://www.austal.com/Libraries/Newsletters-Presentations-Presentations-and-Publications/Aluminium---Hull-Structure-in-Naval-Applications.pdf|title=Aluminium Hull Structure in Naval Applications|accessdate=2016/07/12}}</ref>。しかし通風トランクや仕切弁はアルミニウム合金製であり、これらは火災によって溶解してしまい、電纜を介した延焼もあって火災は他区画へ拡大した。特に[[ダメージコントロール#防火|消火活動]]にとって致命的であったのが、消火主管の機能喪失であった。これは消防ポンプの起動失敗や可搬式ポンプの能力不足によるものだったが、この結果、火災範囲は艦内の約2/3に達した。電纜類の被覆などの燃焼によって有毒ガスが発生し、また被弾後約30分で電源が失われたこともあって、艦自身の消火活動はほとんど遂行不能となってしまった{{Sfn|岡田|1997|pp=271-296}}。艦は放棄され、数日後の曳航中に荒天に遭遇、沈没している。この事件について、[[アメリカ合衆国]]の著名な海軍史家である[[:en:Norman Friedman|ノーマン・フリードマン]]は、「現代の精緻な軍艦は対艦ミサイルに耐えられないという誤解が蔓延したが、20年にわたる冒険的なコスト削減のツケがとうとう回ってきたというのが実態である」と評している{{Sfn|Friedman|2012|p=289}}。 === 空戦 === ==== シーハリアーと軽空母 ==== イギリス海軍のシーハリアーFRS.1艦上戦闘機は遷音速程度しか発揮できず、しかも[[#第317任務部隊の編成と海上封鎖の開始 (3月31日-4月18日)|編成当初の第317任務部隊]]には20機しか配備されていなかった。しかし[[#アルゼンチン側の制約|アルゼンチン側の制約]]のために、実際には速度差は当初予想されたほどではなくなっていた。また数的な不利についても、アルゼンチン側よりも基地(母艦)が近くに配置されていたうえに稼働率は高く、少ない機体でも最大限に活用できた{{Sfn|田村|2005}}。 結果的にシーハリアーは計6機(事故4機)を喪失したとはいえ、空戦での損失は無く、アルゼンチン機との空戦では23機を撃破している。戦前には、飛行中の[[推力偏向]](VIFF)の[[空中戦闘機動]]への応用が注目されていたが、実際の戦闘では用いられなかった{{Efn2|ただし、部分的にノズルを偏向して旋回能力を向上させ、敵機後方に回り込むという運用実績は記録されている。また後に増援として派遣された空軍のハリアーGR.3攻撃機は、レーダーを持たないなど空戦能力が低いことから、空中戦に巻き込まれた場合にはVIFFを活用して脱出するように推奨されていたが、実際にはハリアーGR.3が空中戦に遭遇すること自体がなかったため、このような機会はなかった{{Sfn|田村|2019}}。}}。ハードウェア面で大きな優位をもたらしたのが新世代のサイドワインダーである[[サイドワインダー (ミサイル)#AIM-9L|AIM-9L]]であった。従来のサイドワインダーは目標の後方に回り込まなければ使用できなかったのに対し、AIM-9Lは新型の[[赤外線センサ]]を採用してほぼ正面からでも交戦可能となり、また旋回性能や弾頭威力も向上していた。実戦でも、正面からの射撃こそ記録されていないが、26~27発の発射で17機を撃墜した{{Sfn|田村|2005}}。 なおイギリス側の課題の1つが[[早期警戒機]](AEW)の欠如であった。イギリス海軍は1978年に最後の正規空母である[[オーディシャス級航空母艦|オーディシャス級空母]]「[[アーク・ロイヤル (空母・2代)|アーク・ロイヤル]]」を退役させると同時に[[フェアリー ガネット]]AEW.3を退役させて以降、[[艦上機]]としてのAEWを保有しておらず、対空捜索能力の不足につながった。これを補うため、ウェストランド社が独自に開発していた[[ウェストランド シーキング]]のAEW版派生型が採択され、既存のシーキングHAS.2を改装して突貫工事でシーキングAEW.2の試作機2機が製作されたものの、初号機の初飛行は7月23日となり、紛争には間に合わなかった{{Sfn|Chant|2001|pp=51-56}}{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=92-100}}。 ==== アルゼンチン側の制約 ==== アルゼンチン空軍は[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュIII]]や[[ネシェル (航空機)|ダガー]]といったマッハ2級のジェット戦闘機を保有しており、この2機種をあわせただけでもイギリス海軍のシーハリアーFRS.1の約2倍の数があったうえに、より低速の攻撃機もあわせれば更に差が開くことから、当初はアルゼンチン側の有利が予測されていた{{Sfn|田村|2005}}。 ただし実際にはアルゼンチン側の作戦機はその高速性能を十分に発揮することができなかった。フォークランド諸島の航空設備は貧弱で、[[超音速機]]の配備は困難であったため、これらの機体は本土の基地からはるばる飛来しなければならなかった。ミラージュやダガーには[[空中給油]]の能力がないために戦場での滞空時間が限られたうえに、[[増槽]]を吊下せねばならず、その他の兵装重量も相まって、実際にはシーハリアーをわずかに上回る程度の速力しか発揮できなくなっていた。またミラージュ以外の機体はいずれも攻撃機として運用されたため、対空だけでなく対地・対艦用の兵装も搭載しなければならず、機動性と速度の低下を招いたうえに、戦闘の場は主として低高度域になり、シーハリアーは優れた運動性能を発揮できた一方、アルゼンチン機の高速性能は更に減殺された{{Sfn|クレフェルト|2014|pp=325-330}}。 また用兵面の理由として、根本的にアルゼンチン軍が空戦による戦闘空域の制圧に積極的では無かったというものがある。[[#TEZの設定とスタンリー飛行場攻撃 (5月1日)|5月1日の戦闘]]でこそ、ミラージュIIIEA戦闘機を投入して制空戦闘を挑んだものの、同日、イギリス空軍が[[#ブラックバック作戦 (5月1日-6月12日)|バルカン戦略爆撃機によってスタンリー飛行場を爆撃した]]ことから、アルゼンチン本土への爆撃を警戒してミラージュIIIEAは本土防空のために拘置され{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}、アルゼンチン機は護衛戦闘機無しでイギリス艦隊・上陸部隊への爆撃に投入されることになった{{Sfn|田村|2005}}。 この結果ミラージュIIIEAが引き下げられて以降、アルゼンチン機はシーハリアーに襲撃されても反撃せずに逃げの一手となり、航空戦は一方的な様相となった{{Sfn|田村|2005}}。イギリス側も航空優勢の確立までは達成できなかったものの{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=168-185}}、アルゼンチン側からすれば、航空優勢は「ほぼ」失った状態となっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2014|pp=299-318}}。 ===統合作戦=== [[冷戦]]終結までのイギリス軍において複数の軍種による協同のための恒常的な組織は設置されておらず、必要が生じるつどその場限りで3軍いずれかの司令官が協同作戦の司令官を務める体制であった{{Sfn|中村|2009|p=81}}。フォークランド紛争もその例外では無く、さらに当時のイギリスにはフォークランド諸島での不測事態への備えが存在していなかった。3軍協同作戦の司令官に任命された海軍艦隊司令官は、急遽地中海で実施される演習への派遣部隊を指揮していた海軍少将を戦域における全兵力の前線指揮官に充てた。しかし海軍少将は過大な兵力を指揮する負荷を担わされることになった{{Sfn|中村|2009|pp=81-82}}。戦場から1万[[キロメートル]]以上離れたイギリス本国は前線に対して広範な政治統制と作戦指導を企てた。この過程で前線指揮官は本国との調整に多くの労力を割くことを強いられ、かたや本国の政府や国防省も議会及び報道機関に状況を知らせるために詳細な状況報告を求めたことで、前線と本国の間に大容量かつ長時間の通信が必要とされ、意思決定に遅延を招いた{{Sfn|中村|2009|pp=82-83}}。多くの協同作戦が紛争中に実施されたが、その際協同作戦能力の不足に起因する誤射事件さえ発生した。 こうしたフォークランド紛争の教訓が生かされるようになったのは、ようやく冷戦終結後に至ってのことであった。冷戦終結後に[[Peace dividend|平和の配当]]への要求と財政難を踏まえて、イギリス軍に対しても経費を削減する一方で一層の効率性が求められるようになった。その過程で示されるようになった方向性は、政策と運用の分離による作戦の効率性の追求であり、[[国防省 (イギリス)|国防省]]本部の役割は前者に限定されるようになった。この方向性のもと、政策及び軍事戦略と軍事作戦との間の明確な責任範囲と関係形成が求められた。また、3軍の恒常的な統合作戦への備えとして、計画・準備段階から危機に際しての作戦遂行・戦力回復・事後の戦訓の蓄積までを一貫して担わせる組織の設立が支持された{{Sfn|中村|2009|pp=83-84}}。こうした協同から統合への方向性は情報通信技術の革新・統合化による効率性の追求・3軍の固定的な区分に由来する国防能力発揮への障害が認識されたことといった社会の変革によって促進され{{Sfn|中村|2009|p=83}}、[[常設統合司令部]]の設置による恒久的な統合作戦のための体制がとられるようになった。 == 現代への影響 == === 中国とアルゼンチンの軍事的接近 === [[中国]]はクーデターを起こしたビデラの中国訪問を受け入れるなど、当時のアルゼンチンの軍事政権と外交関係を持っていた数少ない共産主義の国で、アルゼンチンの主張を国際連合総会などで支持しており<ref>{{cite news| url = http://ilas.cass.cn/xslt/gnlmyj/201212/t20121201_2244610.shtml| title = 新中国与阿根廷建交40年回顾| newspaper = 中国拉丁美洲研究网| date = 2012-12-01| accessdate = 2019-06-21}}</ref>、1982年9月の[[イギリス領香港]]をめぐる交渉では、フォークランド紛争に勝利したばかりで自信を深めていたサッチャー首相に対して[[鄧小平]]は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬したことで[[香港返還]]は決定した<ref>{{cite news| url = http://cpc.people.com.cn/n1/2016/1229/c69113-28985010.html| title = 跟随邓小平四十年 第二章见证(29)| newspaper = [[人民網]]| date = 2016-12-29| accessdate = 2019-06-21}}</ref>。 2010年7月に中国は同年4月に起きていた{{仮リンク|2010年マルビナス(フォークランド)諸島外交危機|es|Crisis diplomática por la soberanía de las islas Malvinas en los años 2010}}でアルゼンチンの主張を支持することを共同声明で表明した<ref>{{cite news| url = http://www.gov.cn/jrzg/2010-07/13/content_1653406.htm| title = 中华人民共和国和阿根廷共和国联合声明(全文)| newspaper = 中華人民共和国中央人民政府| date = 2010-07-13| accessdate = 2019-06-21}}</ref>。2011年12月・2012年6月にも中国はアルゼンチンを支持し、アルゼンチンの[[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル|クリスティーナ・フェルナンデス]]大統領は感謝の意を表明した<ref name="tyu"/>。 2012年7月にアルゼンチンのブリチェリ国防相が中国を訪問し、[[中国人民解放軍]]の主力戦闘機として開発中の第5世代[[ステルス戦闘機]]の「[[J-20 (戦闘機)|殲-20]]」の購入にも言及した<ref name="tyu"/>。また、アルゼンチンは中国と[[ベトナム]]・[[フィリピン]]の間で問題になっている[[南シナ海]]における領有権について中国を支持すると表明した<ref name="tyu"/>。 2015年2月にフェルナンデス大統領が中国を訪問し、[[056型コルベット]]を購入して'''マルビナス級'''と命名する計画が発表され<ref>{{cite web |url=https://www.uscc.gov/sites/default/files/Research/China%27s%20Military%20Agreements%20with%20Argentina.pdf|title=CHINA’S MILITARY AGREEMENTS WITH ARGENTINA: A POTENTIAL NEW PHASE IN CHINA-LATIN AMERICA DEFENSE RELATIONS|date=2015-11-05|accessdate=2019-06-21|format=pdf|publisher=米中経済安全保障委員会|language=English}}</ref><ref name="Fisher_2015-02-01">{{cite web |url=http://www.janes.com/article/48512/china-argentina-set-for-defence-collaboration-malvinas-class-opv-deal |title=China, Argentina set for defence collaboration, Malvinas-class OPV deal |last1=Fisher |first1=Richard D., Jr. |date=1 February 2015 |website=IHS Jane's 360 |publisher= |access-date=2018-08-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150310030348/http://www.janes.com/article/48512/china-argentina-set-for-defence-collaboration-malvinas-class-opv-deal| archive-date=10 March 2015}}</ref>、[[FC-1 (航空機)|FC-1戦闘機]]・[[08式歩兵戦闘車|VN-1歩兵戦闘車]]なども購入する契約を調印した<ref>{{cite news|title=China To Supply 20 Thunder Fighter Jets To Argentina |url=http://www.defenseworld.net/news/12186/China_To_Supply_20_Thunder_Fighter_Jets_To_Argentina |date=16 February 2015 |work=Defenseworld.net Bureau |archiveurl=https://webcitation.org/6WOHShGQL?url=http://www.defenseworld.net/news/12186/China_To_Supply_20_Thunder_Fighter_Jets_To_Argentina |archivedate=2019-06-21 |deadurl=yes |df=dmy }}</ref><ref>{{cite news| url = https://defence-blog.com/army/argentina-has-finalized-an-order-for-110-vn-1-amphibious-armored-vehicles.html| title = Argentina has finalized an order for 110 VN 1 amphibious armored vehicles| newspaper = Defence Blog| date = 2015-06-15| accessdate = 2019-06-15}}</ref><ref>{{cite news| url = https://hbol.jp/163612/2| title = ラテンアメリカへの兵器輸出でもその力を伸ばしつつある中国| newspaper = ハーバー・ビジネス・オンライン| date = 2018-04-10| accessdate = 2018-08-15}}</ref>。また、この際にアルゼンチン議会で承認されたパタゴニアの[[ネウケン州]]に建設された[[人工衛星]]追跡基地である{{仮リンク|深宇宙ステーション|es|Estacion del Espacio Lejano}}は[[中国人民解放軍]]の管轄に置かれ<ref>{{Cite news| url=https://jp.reuters.com/article/china-space-station-idJPKCN1PT0AL| title=焦点:アルゼンチンの中国軍「宇宙基地」、民事利用は本当か| work=| publisher=[[ロイター]]| date=2019-02-04| accessdate=2019-02-22}}</ref>、秘密条項も入れた50年契約で敷地を借り上げていることから中国への主権の譲渡や中国による軍事利用の懸念を野党などが示して物議を醸した<ref>{{cita web|last=Dinatale|first=Martin|title=Polemica por una estacion espacial de China en el Sur|url=http://www.lanacion.com.ar/1723908-polemica-por-una-estacion-espacial-de-china-en-el-sur|accessdate=2018-08-19|agency=La Nacion|date=2014-09-03}}</ref><ref>{{cite news| url = https://www.nytimes.com/2018/07/28/world/americas/china-latin-america.html| title = From a Space Station in Argentina, China Expands Its Reach in Latin America| newspaper = [[ニューヨーク・タイムズ]]| date = 2018-07-28| accessdate = 2018-08-17}}</ref><ref>{{cite news| url = http://j.people.com.cn/n/2015/0227/c95952-8854669.html| title = 中国の衛星追跡局、アルゼンチンに設置へ| newspaper = [[人民網]]| date = 2015-02-27| accessdate = 2018-08-17}}</ref>。この基地はアルゼンチンがフォークランド諸島を占領する際に衛星情報を提供する可能性が米国で取り上げられた<ref>{{cite web |url=https://www.uscc.gov/sites/default/files/Fisher_Testimony_2.18.15.pdf|title=China’s Military Ambitions in Space and America’s Response|date=2015-02-18|accessdate=2019-06-21|format=pdf|publisher=米中経済安全保障委員会|language=English}}</ref>。これらの合意はフェルナンデス大統領から交代した[[マウリシオ・マクリ]]政権で修正もしくは中止されたが、中国の目的は第二次フォークランド紛争が起きた際にアルゼンチンを支援することだったともされる<ref>{{cite news| url = https://nationalinterest.org/blog/buzz/could-china-help-ignite-second-war-over-falkland-islands-31197| title = Could China Help Ignite a Second War over the Falkland Islands?| newspaper = [[ナショナル・インタレスト]]| date = 2018-09-14| accessdate = 2019-06-21}}</ref>。 このような中国とアルゼンチンの協力関係を背景にしたイギリス側の報告書では、「イギリスの軍事予算削減によってフォークランド防衛は弱体化し、中国からの軍事的及び財政的支援を受けたアルゼンチン軍に奪われた場合、奪還は極めて難しい」と発表している<ref name="tyu"/>。 === 尖閣諸島問題との関係 === 近年日本と中国との間で発生している[[尖閣諸島問題]]において、両国共にこのフォークランド紛争を先行事例として研究している<ref name="tyu">[http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n1.htm][http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n2.htm][http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n3.htm][http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130203/waf13020318000023-n4.htm]「「フォークランド」に学ぶ中国 尖閣略奪へアルゼンチンに急接近の“奇手”」産経新聞2013年2月3日。</ref>。 === 教皇フランシスコとの関係 === [[2013年]][[3月15日]]にイギリスは[[バチカン市国]]の[[元首]]にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、イギリスの[[デーヴィッド・キャメロン|キャメロン]]首相は「[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ教皇聖下]]には、先頃行われた[[フォークランド諸島]]の帰属に関する[[住民投票]]の結果を尊重するように」と釘を刺した<ref>{{Cite news |url=http://www.theguardian.com/uk/2013/mar/15/pope-francis-falklands-david-cameron |title=Pope Francis is wrong on Falklands, says David Cameron |author=Ian Traynor |newspaper=[[ガーディアン]] |language=英語 |date=2013-03-15}}</ref>。 == 関連作品 == {{Dl2 | 映画 | * [[ステイト・オブ・ウォー]] - フォークランド紛争を題材にした2005年のアルゼンチン・スペイン合作映画。 * {{仮リンク|トゥルース・オブ・ウォー|es|Soldado argentino solo conocido por Dios}} - フォークランド紛争を題材にした2016年のアルゼンチン映画。 | マンガ | * [[MASTERキートン]] - [[きむらはじめ (漫画原作者)|勝鹿北星]]原作・[[長崎尚志]]脚本・[[浦沢直樹]]作画。主人公がSASに所属歴があり、名誉除隊後本紛争に[[予備役]]として[[招集]]の上で活躍したと思しき記述がある。また作中第7巻「デビッド・ボビッドの森」・「デビッド・ボビッドの帰還」でフォークランド紛争を取り上げたエピソードが存在する。 * [[Cat Shit One]] - [[小林源文]]作。『Cat Shit One '80』Vol.2はフォークランド紛争を題材にしており、開戦から終結に至るまで描写されている。なお、アルゼンチン人はウシで表現されている。 | ウォーゲーム | * コマンドマガジン 第105号『フォークランド・ショウダウン』<ref>{{Cite web|和書|url=https://commandmagazine.jp/com/105/index.html |title=■コマンドマガジン第105号『フォークランド・ショウダウン』 |website=コマンドマガジン |publisher=コマンドマガジン |accessdate=2022-03-27}}</ref> - 元は海外のウォーゲーム雑誌に掲載されたウォーゲーム。日本語ライセンス化にあたり、ハリアーユニット等の追加・シュペールエタンダールによるエグゾセ攻撃などの追加ルールをまとめた日本版ヴァリアントを掲載している。 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|authorlink=サンデー・タイムズ|author=サンデー・タイムズ特報部|title=フォークランド戦争-“鉄の女”の誤算-|others=宮崎正雄訳|publisher=[[原書房]]|year=1983|isbn=4-562-01374-5|id={{NDLJP|11928589}}|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last1=プライス|first1=A|last2=エセル|first2=J|title=空戦 フォークランド-ハリアー英国を救う-|others=[[江畑謙介]]訳|publisher=原書房|year=1984|isbn=4-562-01462-8|id={{NDLJP|11928639}}|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|last=篠崎|first=正郎|year=2017|month=6|title=フォークランド諸島の防衛をめぐるイギリスの政策|journal=国際安全保障|publisher=[[国際安全保障学会]]|volume=45|issue=1|pages=104-108|naid=40021252063|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|last=中村|first=暁|year=2009|title=英国の常設統合司令部の設立について|url=http://www.drc-jpn.org/annual_report/AR13J2009.pdf|format=PDF|journal=DRC 年報|serial=2009|pages=81-86|publisher=[http://www.drc-jpn.org/ ディフェンス リサーチ センター]|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last=堀|first=元美|title=海戦 フォークランド-現代の海洋戦-|publisher=原書房|year=1983|isbn=4-562-01426-1|ref=harv}} * {{Cite book|和書|authorlink=マーガレット・サッチャー|first=M|last=サッチャー|title=サッチャー回顧録 - ダウニング街の日々|others=石塚雅彦訳|publisher=[[日本経済新聞社]]|year=1993|isbn=4-532-16116-9|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last1=三野|first1=正洋|last2=深川|first2=孝行|last3=仁川|first3=正貴|title=湾岸戦争 兵器ハンドブック|publisher=[[朝日ソノラマ]]|year=1996|isbn=4-257-17313-0|ref=harv}} - 後半がフォークランド紛争に関する記述。 * {{Cite book|和書|last=岡田|first=幸和|year=1997|title=艦艇工学入門―理論と実際 -|publisher=[[海人社]]|isbn=978-4905551621|ref=harv}} * {{Cite book|和書|authorlink=山崎雅弘|last=山崎|first=雅弘|title=現代紛争史|publisher= [[学習研究社]]|series=学研M文庫|year=2001|isbn=4-05-901105-3|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last=キャムセル|first=ダン|year=2001|title=SBS特殊部隊員|publisher=[[並木書房]]|isbn=978-4890631421|ref=harv}} * {{Cite book|first=Chris|last=Chant|year=2001|title=Air War in the Falklands 1982|series=Combat Aircraft Book|publisher=[[:en:Osprey Publishing|Osprey Publishing]]|isbn=978-1841762937|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last=田村|first=俊夫|year=2005|chapter=ハリアー空戦記|title=世界の傑作機 No.111 ハリアー / シーハリアー|publisher=[[文林堂]]|pages=84-89|isbn=978-4893191274|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last=田村|first=俊夫|year=2019|chapter=シーハリアーは「カエル飛び」をしたのか?|title=世界の傑作機 No.191 BAe シーハリアー|publisher=文林堂|pages=71-73|isbn=978-4893192929|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last=床井|first=雅美|year=2005|title=オールカラー軍用銃事典|publisher=並木書房|isbn=978-4890631872|ref=harv}} * {{Cite book|authorlink=:en:Norman Polmar|first=Norman|last=Polmar|year=2006|title=Aircraft Carriers: 2|publisher=[[:en:University of Nebraska Press|Potomac Books Inc.]]|isbn=978-1574886634|ref=harv}} * {{Cite book|authorlink=:en:Norman Friedman|first=Norman|last=Friedman|title= British Destroyers & Frigates - The Second World War & After|year= 2012|publisher=[[:en:United States Naval Institute|Naval Institute Press]]|isbn=978-1591149545|ref=harv}} * {{Cite book|和書|authorlink=マーチン・ファン・クレフェルト|last=クレフェルト|first=マーチン・ファン|year=2014|title=エア・パワーの時代|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=978-4829506073|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=防衛研究所戦史研究センター|year=2014|title=フォークランド戦争史 : NIDS国際紛争史研究|url=http://www.nids.mod.go.jp/publication/falkland/|publisher=防衛省[[防衛研究所]]|isbn=978-4864820202|ref=harv}} == 関連項目 == * [[フォークランド諸島]] * [[アンドルー (ヨーク公)|アンドルー]] - この紛争に従軍した。 * [[オズワルド・アルディレス]] - サッカー選手・指導者。紛争発生当時はイングランドの[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]に所属してプレーしていたが、混乱を避けるため、紛争期間中はフランスの[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]にレンタルに出された。 * [[フォークランド沖海戦]] - [[第一次世界大戦]]でイギリス海軍とドイツ海軍がフォークランド諸島沖で行った海戦。 * [[イギリスの海外領土]] * [[:en:I Don't Want to Be a Hero]] - [[ジョニー・ヘイツ・ジャズ]]による曲。 * [[中越紛争]] - [[西側諸国]]の近代化された軍隊同士による初めての紛争である本紛争に対し、旧[[東側諸国]]の近代化された軍隊同士による初めての紛争。 * [[北方領土問題]] == 外部リンク == {{Commons|Falklands War}} * [http://www.falklands.gov.fk/ Falkland Islands Government] * [http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/laplata/argent1.htm アルゼンチン年表1] * {{NHK放送史|D0009030181_00000|フォークランド紛争(1982年)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふおおくらんとふんそう}} [[Category:フォークランド紛争|*]] [[Category:イギリスの戦争]] [[Category:アルゼンチンの戦争]] [[Category:1982年の戦闘]] [[Category:20世紀の戦争]] [[Category:マーガレット・サッチャー]] [[Category:レオポルド・ガルチェリ]]
2003-03-24T19:20:21Z
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富士山
富士山(ふじさん)は、静岡県(富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。 数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。 富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説、原ポリネシア語説がある。 明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。 富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山麓では静岡県に富士市や富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市や富士河口湖町、富士川町(静岡県庵原郡にもあった町名である(富士市に編入されている))がある。他によくあるものとして富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。 全国各地には、別称を含めて少なくとも321座を超える数の、「富士」と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。 地名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。 また、異名として「芙蓉峰」「富嶽」とも言う。 小惑星(3996) Fugakuは富嶽にちなんで命名された。 理化学研究所・計算科学研究センターが擁する我が国のフラッグシップスーパーコンピュータ「富岳」は、富士山の最高峰としての性能の高さと、すそ野の広さとしての汎用性の象徴として命名された。 富士山は独立峰でよく目立ち、日本の最高峰であることからその高さが注目されてきた。 以下は、江戸時代からの富士山の標高計測の経緯である。 明治初期までに測量された富士山の高さ 箱岩英一(2003):「地質ニュース」pp.23-30、2003年10月 による。 ※鈴木弘道(1998):「Height of Mountains」、1998年9月 標高として言及されるものには、次の2つがある。 山岳の標高としてよく引用される。それは主な山岳の最高地点近くに三角点が設置されて、その標高が精度良く(cm単位で)計測されており、かつ国土地理院の2万5千分1地形図に標高値が記載されているからである。しかし三角点は近傍の山岳との見通しや設置位置の安定性を重視して設置されることから、山岳の最高地点に設置されるとは限らない。 富士山では、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の高さが3775.51 mである。2014年4月1日付け標高改定前の数字は3775.63 mであった。 三角点の高さが必ずしも山岳の最高標高とは限らないことから、最高標高の数値が別途に計測されることがある。例えば、国土地理院は日本の主要な1003の山岳について「日本の主な山岳標高」として公表している。最高標高の地点は岩体の高さなどであって、必ずしも三角点の標高とは限らないため、「日本の主な山岳標高」での山岳標高の表示は1 m単位となっている。この「日本の主な山岳標高」によれば、富士山の高さは3776 mであり、その位置は35度21分39秒 138度43分39秒である。 2014年時点の富士山の最高地点は、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩の頂上であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、3776.12 mとなり、これが富士山、及び日本の最高標高である。 地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい山体を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。 この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。 古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3000 m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2 kmのところにあったと考えられている。 2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2 cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)表れとされている。 プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点)となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、側火山が非常に多いこと、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出することがある。 以下は富士山の主な側火山と標高である(標高は資料により違いがある)。 源流となる以下の河川は4水系に区分され、すべて太平洋へ流れる。 最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500–2800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。 新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8000年前の3000年間と、約4500年前–約3200年前の1300年間と考えられている。山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。 延暦19年 – 延暦21年(800年 ‐ 802年)に延暦噴火(『日本後紀』、要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある)、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火が起きた。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4 cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。 噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。 宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。 宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。 2013年7月20日、産業技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。 地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑(がんせつ)なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。 政府系機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)や自治体(山梨県富士山科学研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。 山頂は最暖月の8月でも平均気温が6 °Cしかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0 °C以上10 °C未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は1981年2月27日に観測された−38.0 °Cで、最高気温が−30 °C未満の日も過去に数回観測されている。−30 °Cを上回ることがない1日というのは北海道でも例がない。 かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。 富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。 富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670 m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万 m以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例がある。 また、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25 m付近)で湧出があるとされている。 富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとしてペットボトル詰めされ、販売されている。 富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。 その中でも総延長2139 mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。 富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。 古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため明治時代まで女人禁制の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。 古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。 それより後期の時代、イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。 登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。 神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 – 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。 江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。 富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。 慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。 富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。 富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。 2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初の閉鎖となった。 山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった。 新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。 元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。 安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。 この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。 富士山の最頂部は剣ヶ峰と呼ばれている。『甲斐国志』によると剣を立てたような形に由来するという。また『駿河国新風土記』によるとこの峰にある石が鋭利だったことから剣の代わりの道具に使うため人々が持ち帰ったと記している。 先述のように江戸幕府は1779年(安永8年)に富士山八合目より上は富士山本宮浅間大社のものとした。明治時代になり寺社の土地は国有化されたものの、第二次大戦後にこれらの土地は返還されることになったが、富士山八合目以上は公益性が高い土地であるとして国有地のままになった。しかし、富士山本宮浅間大社は富士山信仰のために富士山八合目以上の土地も返還するよう国を提訴した。 国と富士山本宮浅間大社の訴訟は17年間にわたったが、1974年(昭和49年)に最高裁判所は富士山本宮浅間大社の主張をほぼ認める判決を出した(ただし判決で国にとって必要な一部の土地は除外された)。 登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。ただし、気象庁は富士山測候所の所在地を便宜上「富士宮市富士山剣が峰」と定めていた。一方、旧須走村も山頂までを村域としたことから、小山町は現在も自らを「富士山頂のあるまち」と宣伝している。 2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見において、静岡・山梨両県知事の川勝平太と横内正明が今後も県境を定めないことを明言した。国土地理院がインターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された。 なお、JP日本郵便では「駿東郡小山町須走本八合目」という住所を交通困難地に指定し、小山町の集配を受け持つ御殿場郵便局で留め置く対応をしている。 1945年(昭和20年)7月10日、富士山頂にあった富士山測候所にアメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日誌』を通じて残されている。 また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている。 富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1500 m以上の地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。 富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した。また2017年には環境省および都県・市町村が中心となり、「富士山がある風景100選」が選定された。富士箱根伊豆国立公園指定80周年記念事業に伴うものである。 羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。 東海道新幹線においても、良好な眺望を得られる際は車内アナウンスが行われる。 富士山を見ることができる最遠地は富士山頂から322.9キロメートル離れた和歌山県那智勝浦町にある色川富士見峠(妙法山とは別)である。また、眺望の北限は2017年1月16日に富士山から308キロメートル離れた福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と、日本地図センターにより認定された。南東方向に約271 km離れた八丈島の三原山からも眺望される。2014年に、理論上可能とされていた京都府からの撮影に成功したことにより、富士山の見える都道府県は、 20都府県となった(福島・栃木・茨城・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟・富山・山梨・静岡・長野・岐阜・愛知・滋賀・三重・京都・奈良・和歌山)。 富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。 現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある。 他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景 裏不二』『冨嶽三十六景 身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されている例がみられる。 活火山かつ日本最高峰で、広大な山麓を持つ富士山は、自然科学と人文科学の両面で研究対象となっている。火山防災や地質学、気象学、生態系といった自然科学では山梨県富士山科学研究所(富士吉田市)、人文科学を含む学際的研究では静岡県富士山世界遺産センター(富士宮市)や富士学会といった専門の研究機関・団体もある。 地形の険しさや山頂近くの強風により、野外で実地踏査できるのは富士山の5–10 %程度であり、植生が不明なエリアも多い。上空からの観測・撮影も、ドローンの上昇限界が2750 m程度という制約がある。 富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である(1069年・延久元年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。 鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。 室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には三峰型の富士とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、伝雪舟作『富士三保清見寺図』(永青文庫所蔵)は、三保の松原と富士山を同一画面に収めた作品であり、静岡市日本平からの眺望とされている。雪舟型の富士山図は江戸時代を通じて写しの手本とされ、狩野派を中心に数多くの作品が派生している。 江戸時代には、1767年(明和4年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。葛飾北斎は、河村岷雪の手法を援用した、富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(1831-34年・天保2–5年頃)、及び、絵本『富嶽百景』(全三編。初編1834年・天保5年)を出版した。前者において、舶来顔料を活かした藍摺などの技法を駆使して富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。後者は墨単色摺で、旧来の名所にこだわらず、天候描写に拘るなど、抽象性が高まっている。 また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。 富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。 富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。 その後も富士山は大日本帝国により日本国および聖俗両面の統治者である天皇を中心とした日本独自の政治体制である国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。これは太平洋戦争(第二次世界大戦、大東亜戦争)で日本と戦ったアメリカ合衆国にも共有された概念で、反日感情を煽るアニメやポスターなどの戦意高揚創作でも富士山が取り上げられた。また、軍事目標としての富士山頂への攻撃も行われた(後述)。 戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。 深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。 日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。 近代では紙幣や切手のデザインにも用いられている。 富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。 また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「...燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ...」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。 『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。 風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613) 都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。 『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している。 ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。 また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表している。 中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。 富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。 また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。 太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。 高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。 「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」 富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない。 富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視している。山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。 富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。 とくに積雪期・残雪期の登山は極めて危険である。 その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。 2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。 静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。 静岡県教育委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。 なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。 静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。 「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。 富士山の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という。 2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている。標高3952 mの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "富士山(ふじさん)は、静岡県(富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説、原ポリネシア語説がある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山麓では静岡県に富士市や富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市や富士河口湖町、富士川町(静岡県庵原郡にもあった町名である(富士市に編入されている))がある。他によくあるものとして富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人たちも、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "全国各地には、別称を含めて少なくとも321座を超える数の、「富士」と名の付く山があり、それらを郷土富士と呼ぶ。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "地名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、異名として「芙蓉峰」「富嶽」とも言う。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "小惑星(3996) Fugakuは富嶽にちなんで命名された。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "理化学研究所・計算科学研究センターが擁する我が国のフラッグシップスーパーコンピュータ「富岳」は、富士山の最高峰としての性能の高さと、すそ野の広さとしての汎用性の象徴として命名された。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "富士山は独立峰でよく目立ち、日本の最高峰であることからその高さが注目されてきた。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "以下は、江戸時代からの富士山の標高計測の経緯である。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "明治初期までに測量された富士山の高さ", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "箱岩英一(2003):「地質ニュース」pp.23-30、2003年10月 による。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "※鈴木弘道(1998):「Height of Mountains」、1998年9月", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "標高として言及されるものには、次の2つがある。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "山岳の標高としてよく引用される。それは主な山岳の最高地点近くに三角点が設置されて、その標高が精度良く(cm単位で)計測されており、かつ国土地理院の2万5千分1地形図に標高値が記載されているからである。しかし三角点は近傍の山岳との見通しや設置位置の安定性を重視して設置されることから、山岳の最高地点に設置されるとは限らない。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "富士山では、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の高さが3775.51 mである。2014年4月1日付け標高改定前の数字は3775.63 mであった。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "三角点の高さが必ずしも山岳の最高標高とは限らないことから、最高標高の数値が別途に計測されることがある。例えば、国土地理院は日本の主要な1003の山岳について「日本の主な山岳標高」として公表している。最高標高の地点は岩体の高さなどであって、必ずしも三角点の標高とは限らないため、「日本の主な山岳標高」での山岳標高の表示は1 m単位となっている。この「日本の主な山岳標高」によれば、富士山の高さは3776 mであり、その位置は35度21分39秒 138度43分39秒である。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2014年時点の富士山の最高地点は、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩の頂上であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、3776.12 mとなり、これが富士山、及び日本の最高標高である。", "title": "富士山の標高" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい山体を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3000 m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2 kmのところにあったと考えられている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2 cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)表れとされている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "プレートの観点からは、ユーラシアプレート外縁部で、北アメリカプレート又はオホーツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島弧を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域(三重会合点)となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に太平洋プレートに由来するものである。富士山の火山上の特徴は、側火山が非常に多いこと、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出しているのに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出することがある。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以下は富士山の主な側火山と標高である(標高は資料により違いがある)。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "源流となる以下の河川は4水系に区分され、すべて太平洋へ流れる。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500–2800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8000年前の3000年間と、約4500年前–約3200年前の1300年間と考えられている。山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "延暦19年 – 延暦21年(800年 ‐ 802年)に延暦噴火(『日本後紀』、要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある)、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火が起きた。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4 cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写がある。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2013年7月20日、産業技術総合研究所は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑(がんせつ)なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "政府系機関(防災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)や自治体(山梨県富士山科学研究所)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "山頂は最暖月の8月でも平均気温が6 °Cしかなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0 °C以上10 °C未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は1981年2月27日に観測された−38.0 °Cで、最高気温が−30 °C未満の日も過去に数回観測されている。−30 °Cを上回ることがない1日というのは北海道でも例がない。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "富士山麓の天然記念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原」(天然記念物:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670 m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万 m以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例がある。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、一部で駿河湾や富士五湖の西湖(水深25 m付近)で湧出があるとされている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウォーターとしてペットボトル詰めされ、販売されている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が形成されている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "その中でも総延長2139 mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。", "title": "地質学上の富士山" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "古代より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため明治時代まで女人禁制の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、摂末社が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が世界遺産に登録されたのも、世界自然遺産ではなく世界文化遺産(富士山-信仰の対象と芸術の源泉)としてであった。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "それより後期の時代、イエズス会のジョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年 – 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初の閉鎖となった。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという。内院散銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山においては、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝により内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年(天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。", "title": "人間との関わりの歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "富士山の最頂部は剣ヶ峰と呼ばれている。『甲斐国志』によると剣を立てたような形に由来するという。また『駿河国新風土記』によるとこの峰にある石が鋭利だったことから剣の代わりの道具に使うため人々が持ち帰ったと記している。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "先述のように江戸幕府は1779年(安永8年)に富士山八合目より上は富士山本宮浅間大社のものとした。明治時代になり寺社の土地は国有化されたものの、第二次大戦後にこれらの土地は返還されることになったが、富士山八合目以上は公益性が高い土地であるとして国有地のままになった。しかし、富士山本宮浅間大社は富士山信仰のために富士山八合目以上の土地も返還するよう国を提訴した。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "国と富士山本宮浅間大社の訴訟は17年間にわたったが、1974年(昭和49年)に最高裁判所は富士山本宮浅間大社の主張をほぼ認める判決を出した(ただし判決で国にとって必要な一部の土地は除外された)。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と市町村境界は未確定である。ただし、気象庁は富士山測候所の所在地を便宜上「富士宮市富士山剣が峰」と定めていた。一方、旧須走村も山頂までを村域としたことから、小山町は現在も自らを「富士山頂のあるまち」と宣伝している。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見において、静岡・山梨両県知事の川勝平太と横内正明が今後も県境を定めないことを明言した。国土地理院がインターネット上で公開している地形図では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なお、JP日本郵便では「駿東郡小山町須走本八合目」という住所を交通困難地に指定し、小山町の集配を受け持つ御殿場郵便局で留め置く対応をしている。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)7月10日、富士山頂にあった富士山測候所にアメリカ軍による機銃掃射攻撃が行われた。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、日本本土空襲を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と八丈島を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の灯火管制を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日誌』を通じて残されている。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、アメリカ軍は日本の降伏を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量がB-29約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている。", "title": "富士山の山頂" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1500 m以上の地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定した。また2017年には環境省および都県・市町村が中心となり、「富士山がある風景100選」が選定された。富士箱根伊豆国立公園指定80周年記念事業に伴うものである。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "東海道新幹線においても、良好な眺望を得られる際は車内アナウンスが行われる。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "富士山を見ることができる最遠地は富士山頂から322.9キロメートル離れた和歌山県那智勝浦町にある色川富士見峠(妙法山とは別)である。また、眺望の北限は2017年1月16日に富士山から308キロメートル離れた福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919m)と、日本地図センターにより認定された。南東方向に約271 km離れた八丈島の三原山からも眺望される。2014年に、理論上可能とされていた京都府からの撮影に成功したことにより、富士山の見える都道府県は、 20都府県となった(福島・栃木・茨城・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟・富山・山梨・静岡・長野・岐阜・愛知・滋賀・三重・京都・奈良・和歌山)。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景 裏不二』『冨嶽三十六景 身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されている例がみられる。", "title": "富士山と眺望" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "活火山かつ日本最高峰で、広大な山麓を持つ富士山は、自然科学と人文科学の両面で研究対象となっている。火山防災や地質学、気象学、生態系といった自然科学では山梨県富士山科学研究所(富士吉田市)、人文科学を含む学際的研究では静岡県富士山世界遺産センター(富士宮市)や富士学会といった専門の研究機関・団体もある。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "地形の険しさや山頂近くの強風により、野外で実地踏査できるのは富士山の5–10 %程度であり、植生が不明なエリアも多い。上空からの観測・撮影も、ドローンの上昇限界が2750 m程度という制約がある。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である(1069年・延久元年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館蔵)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には三峰型の富士とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、伝雪舟作『富士三保清見寺図』(永青文庫所蔵)は、三保の松原と富士山を同一画面に収めた作品であり、静岡市日本平からの眺望とされている。雪舟型の富士山図は江戸時代を通じて写しの手本とされ、狩野派を中心に数多くの作品が派生している。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "江戸時代には、1767年(明和4年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。葛飾北斎は、河村岷雪の手法を援用した、富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(1831-34年・天保2–5年頃)、及び、絵本『富嶽百景』(全三編。初編1834年・天保5年)を出版した。前者において、舶来顔料を活かした藍摺などの技法を駆使して富士を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。後者は墨単色摺で、旧来の名所にこだわらず、天候描写に拘るなど、抽象性が高まっている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、歌川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記に次のように書いている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "その後も富士山は大日本帝国により日本国および聖俗両面の統治者である天皇を中心とした日本独自の政治体制である国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。これは太平洋戦争(第二次世界大戦、大東亜戦争)で日本と戦ったアメリカ合衆国にも共有された概念で、反日感情を煽るアニメやポスターなどの戦意高揚創作でも富士山が取り上げられた。また、軍事目標としての富士山頂への攻撃も行われた(後述)。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "近代では紙幣や切手のデザインにも用いられている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「...燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ...」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "『新古今和歌集』から。富士の煙が歌われている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "『竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表している。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」", "title": "富士山の文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視している。山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。 とくに積雪期・残雪期の登山は極めて危険である。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。 静岡県教育委員会で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "静岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "「富士山検定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "富士山の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という。", "title": "富士山と地域振興" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されている。標高3952 mの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。", "title": "富士山と地域振興" } ]
富士山(ふじさん)は、静岡県(富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。 数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。
{{Otheruses||世界遺産に関する内容|富士山-信仰の対象と芸術の源泉|その他}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2020年3月 | 更新 = 2021年3月 }} {{Infobox 山 |名称=富士山 |画像=[[ファイル:MtFuji FujiCity.jpg|320px|富士山]] |画像キャプション = 全貌(静岡県富士市より) |標高=山体の最高地点 3776.12 m、三角点の標高 3775.51 m<ref group="注釈">剣が峰の最高地点の標高。なお、二等三角点「富士山」の標高は、3775.51 mである(2014年4月1日標高改算)。</ref><ref group="注釈" name="kijun">二等三角点の標高は3775.51 m。[https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/top.html 基準点成果等閲覧サービス・富士山(甲府)] - [[国土地理院]](2015年10月24日閲覧)</ref> |座標={{coord|nosave=1|format=dms|display=inline,title|type:mountain_region:JP|notes=<ref group="注釈" name="kijun" />}} |所在地={{JPN}}{{flatlist|class=hlist-comma| ;[[静岡県]] :[[富士宮市]] :[[裾野市]] :[[富士市]] :[[御殿場市]] :[[駿東郡]][[小山町]] ;[[山梨県]] :[[富士吉田市]] :[[南都留郡]][[鳴沢村]] }} |山系=独立峰 |種類=[[成層火山]]([[活火山]]ランクB<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/0301/21a/yochiren.pdf |format=PDF |title=火山噴火予知連絡会による活火山の選定及び火山活動度による分類(ランク分け)について |publisher=[[気象庁]] |date=2003-01-21 |accessdate=2012-03-17}}</ref>)・[[活火山#常時観測対象の火山|常時観測火山]] |初登頂=663年([[役小角]]) |地図={{location map |Japan#Japan Shizuoka Prefecture#Japan Yamanashi Prefecture |Pmark = RedMountain.svg |marksize =12 |width = 300 |float = center |relief = 1 }}富士山の位置{{日本の位置情報|35|21|38.26|138|43|38.52|富士山南東|nocoord=Yes}} }} {{世界遺産概要表 |site_img = [[ファイル:080103 hakkai fuji.jpg|320px|富士山]] |site_img_capt = (山梨県忍野八海より) |site_img_ width = 275px |ja_name = [[富士山-信仰の対象と芸術の源泉|富士山―信仰の対象と芸術の源泉]] |en_name = Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration |fr_name = Fujisan, lieu sacre et source d'inspiration artistique |country = 日本 |area = {{val|20702|fmt=commas|ul=ha}}<br />(緩衝地域 {{val|49628|fmt=commas|u=ha}}) |criterion_c = (3), (6) |rg_year = 2013年 |ex_rg_year = |remarks = |url_no = 1418 |map_img = ファイル:LocMap_Fuji_Mountain.png |map_img_width = 275px }} '''富士山'''(ふじさん)は、[[静岡県]]([[富士宮市]]、[[富士市]]、[[裾野市]]、[[御殿場市]]、[[駿東郡]][[小山町]])と[[山梨県]]([[富士吉田市]]、[[南都留郡]][[鳴沢村]])に跨る[[活火山]]である<ref group="注釈">日本の活火山で3000 mを超えるのは、富士山・[[御嶽山]]・[[乗鞍岳]]の3つである。</ref>。[[標高]]3776.12 [[メートル|m]]、[[日本一の一覧|日本最高峰]]([[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]])<ref group="注釈">日本が[[玉山 (台湾)|玉山]](新高山)のある[[台湾]]を[[日本統治時代の台湾|領有]]していた時期を除く。</ref>の[[独立峰]]で、その優美な風貌は日本国外でも[[日本]]の[[象徴]]として広く知られている。 数多くの芸術作品の題材とされ[[芸術]]面のみならず、[[気候]]や[[地層]]など[[地質学]]的にも社会に大きな影響を与えている。[[カテナリー曲線|懸垂曲線]]の山容を有した[[玄武岩]]質[[成層火山]]で構成され、その山体は[[駿河湾]]の[[海岸]]まで及ぶ。 古来より[[霊峰]]とされ、特に山頂部は[[浅間大神]]が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため[[律令国家]]により[[浅間神社]]が祭祀され、[[浅間信仰]]が確立された。また、[[修験道|富士山修験道]]の開祖とされる[[富士上人]]により修験道の[[霊場]]としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら[[富士信仰]]は時代により多様化し、[[村山修験]]や[[富士講]]といった一派を形成するに至る。現在、[[富士山麓]]周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには[[富士登山]]が盛んである。 [[日本三大一覧|日本三名山]]([[日本三霊山|三霊山]])、[[日本百名山]]<ref name="fukada">『日本百名山』 [[深田久弥]](著)、[[朝日新聞社]]、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp269-272</ref>、[[日本の地質百選]]に選定されている。また、[[1936年]](昭和11年)には[[富士箱根伊豆国立公園]]に指定されている{{refnest|group="注釈"|[[1936年]](昭和11年)2月1日に指定。山の上部がその特別保護地区、周辺が特別地域及び普通地域になっている。また車両の乗り入れ禁止区域が設定されている<ref>[https://www.env.go.jp/park/fujihakone/intro/index.html 富士箱根伊豆国立公園区域の概要] - [[環境省]](2010年12月28日閲覧)</ref>。}}。その後、[[1952年]](昭和27年)に[[特別名勝]]、[[2011年]](平成23年)に[[史跡]]、さらに[[2013年]](平成25年)[[6月22日]]には関連する文化財群とともに「'''[[富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]'''」の名で[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]に登録された<ref>{{Cite news|title=富士山 世界遺産に登録へ|newspaper=NHKニュース|date=2013-04-30|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130430/t10014292061000.html|accessdate=2013-05-01|publisher=日本放送協会|archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0501-1919-26/www3.nhk.or.jp/news/html/20130430/t10014292061000.html|archivedate=2013-05-01}}</ref>。 == 名称 == {{出典の明記|date=2018年6月23日 (土) 23:27 (UTC)|section=1}} [[ファイル:Mt_Fuji_NASA_ISS002-E-6971_large.jpg|thumb|right|[[国際宇宙ステーション]]から見た春の富士山]] === 語源 === 富士山についての最も古い記録は『[[常陸国風土記]]』における「'''福慈岳'''」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、'''不二山'''もしくは'''不尽山'''<ref group="注釈">(例)「田子の浦ゆ うち出でて見れば真白にぞ '''不尽'''の高嶺に雪はふりける」[[山部赤人]] (『[[万葉集]]』)。「不二」は「日本最高峰の並ぶものの無い」の意とされる。他に「布士」や「布自」の字を当てている書籍もあった。</ref>と表記する古文献もある。また、『[[竹取物語]]』における伝説もある{{refnest|group="注釈"|竹取物語の最後の章では、[[天皇|帝]]が、家臣にかぐや姫から授けられた不老不死の薬を[[駿河国]]にある天に一番近い日本で一番高い山の山頂で燃やすよう命じるという描写があり、結びは「そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、その山を「ふじの山」とは名づけける。」校訂者脚注「つわもの(士)をたくさんつれて登ったから、士に富む山、即ち富士の山と名付けた、という洒落。同時に不死の薬を燃やしたので「ふし山」の意を込める。」<ref>岩波文庫「竹取物語」56項 ISBN 4003000714 </ref>{{Full citation needed|date=2018年6月23日 (土) 22:38 (UTC)|title=著者名、出版年不明。「56項」というのは「56頁」の誤記か?}}。}}。「フジ」という長い山の斜面を表す[[大和言葉]]から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、[[宣教師]][[ジョン・バチェラー|バチェラー]]は、名前は「火を噴く山」を意味する[[アイヌ語]]の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「[[アペフチ|アペフチカムイ]]」からきた誤解であるとの反論がある<ref group="注釈">フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味である{{要出典|date=2018-06-24 |title=}}。</ref>。その他の語源説として、[[マレー語]]説、[[マオリ語]]説<ref>[http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei09.htm 幻の富士山神話]</ref>、[[ポリネシア諸語|原ポリネシア語]]説がある。 明確に「'''富士山'''」と表記される過程においては[[駿河国]]に由来するとするものがあり<ref name="fymuseum">{{PDFlink|[https://www.fy-museum.jp/div/fujisan-museum/pdf/marubi/marubi22.pdf MARUBI 富士吉田市歴史民俗博物館だより 22]}} - 富士吉田市歴史民俗博物館(2004年3月31日)</ref>、記録としては[[都良香]]の『富士山記』に「'''山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり'''」とある。 <!--- ゴネるのはノートで。 ---> === 富士山にちなむ命名 === 富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各地に「富士」の付く[[地名]]が多数存在している。富士山麓では静岡県に[[富士市]]や[[富士宮市]]、[[富士郡]]、山梨県に[[富士吉田市]]や[[富士河口湖町]]、[[富士川町]](静岡県[[庵原郡]]にも[[富士川町 (静岡県)|あった町名]]である(富士市に編入されている))がある。他によくあるものとして富士山が見える場所を[[富士見]]と名づけたり(例:[[埼玉県]][[富士見市]])、富士山に似ている山(主に[[成層火山]])に「富士」の名を冠する例([[有明山 (安曇野市・松川村)|信濃富士]]など)がある。[[日系人|日本国外に移住した日本人たち]]も、居住地付近の山を「○○富士」と呼ぶことがある。 {{main|富士見|富士街道}} 全国各地には、別称を含めて少なくとも321座を超える数の、「富士」と名の付く山があり、それらを'''郷土富士'''と呼ぶ。 {{main|郷土富士}} 地名以外にも「富士」を冠した名称は多く存在する。 {{main|フジ}} また、異名として「芙蓉峰」「富嶽」とも言う。 {{main|芙蓉|富嶽 (曖昧さ回避)}} [[小惑星]][[富嶽 (小惑星)|(3996) Fugaku]]は富嶽にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=3996|title=(3996) Fugaku = 1939 FZ = 1957 TB = 1981 SO5 = 1981 UM16 = 1988 XG1|publisher=MPC|accessdate=2021-09-23}}</ref>。 理化学研究所・計算科学研究センターが擁する我が国のフラッグシップスーパーコンピュータ「[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]」は、富士山の最高峰としての性能の高さと、すそ野の広さとしての汎用性の象徴として命名された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.r-ccs.riken.jp/fugaku/about/|title=「富岳」とは|accessdate=2021年12月23日|publisher=理化学研究所 計算科学研究センター}}</ref>。 == 富士山の標高 == 富士山は独立峰でよく目立ち、日本の最高峰であることからその高さが注目されてきた。 === 標高計測の歴史 === 以下は、江戸時代からの富士山の標高計測の経緯である<ref>[https://www.gsi.go.jp/common/000084700.pdf データ2、4/4ページ] 企画展「富士山」、地図と測量の科学館、国土交通省国土地理院、2013年7月12日-9月23日</ref>。 '''明治初期までに測量された富士山の高さ''' {| class="wikitable" style="font-size:95%; margin-right:10px;" |+ !時代 !測定年 !測定者 !測定法または器械 !結果/m !備考 |- |rowspan="9"|江戸時代 |1727 |福田履軒(福は示偏) |三角法 |3895.1 |「明治以前日本土木史」によれば、測定者は、福田履軒(福は示偏)、高さは3885.96 m となっている<ref>土木学会、明治以前 日本土木史、p.1491、1973年2月5日第3刷、岩波書店</ref>。 |- |1803 |伊能忠敬 |三角法 |3927.7 | |- |1826 |シーボルト |セキスタント |3793 |セキスタント:六分儀 |- |1834 |[[内田五観|内田恭]] |象限儀、占気筒 |3475.7 | |- |1860 |オールコック |気圧計 |4322 |※測定法は<鈴木、1998>による |- |1860 |ファガン | |3987 | |- |1860 |ウィリアム |気圧計 |3266 |※測定法は<鈴木、1998>による |- |1860 |ルビェー | |3518 | |- |1860 |クニッピング |気圧計 |3729 | |- |rowspan="10"|明治時代 |1874 |スチュワート |オムニメートル |3769 | |- |1874 |フェントン | |3772 | |- |1874 |ファーブルブラントン | |3768 | |- |1880 |中村精男、和田雄次 |気圧計 |3823 |メンデンホール・田中館愛橘らの富士山頂重力測定と同時に実施 |- |1880 |野尻武助 |上記の再計算 |3812 |温度の補正が異なる |- |1880 |[[ウィンフィールド・スコット・チャプリン|チャップリン]] |三角測量 |3787.2 | |- |1880 |ライン | |3745.5 | |- |1880 |シュット | |3766.4 | |- |1880 |ミルン | |3882.3 | |- |1887 |参謀本部 |三角測量および平板測量 |3778 | |} 箱岩英一(2003):「地質ニュース」pp.23-30、2003年10月 による。 ※鈴木弘道(1998):「Height of Mountains」、1998年9月 === 最新の標高 === 標高として言及されるものには、次の2つがある。 ==== 三角点の標高(3775.51 m) ==== 山岳の標高としてよく引用される。それは主な山岳の最高地点近くに[[三角点]]が設置されて、その標高が精度良く(cm単位で)計測されており、かつ国土地理院の[[地形図#2万5千分1地形図|2万5千分1地形図]]に標高値が記載されているからである<ref group="注釈">ただし、地形図上に印刷されている標高値は小数以下1桁で示されている。</ref>。しかし三角点は近傍の山岳との見通しや設置位置の安定性を重視して設置されることから、山岳の最高地点に設置されるとは限らない<ref>[https://www.gsi.go.jp/common/000208440.pdf 日本の主な山岳標高(調査概要)] 国土地理院</ref>。 富士山では、[[剣ヶ峰]]にある[[三角点#基準点の等級|二等三角点]]「富士山」の高さが'''3775.51 m'''である。2014年4月1日付け標高改定前の数字は3775.63 mであった<ref name="基準点">{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/chubu/minichishiki4.html |title=測量に関するミニ知識-第4回 標石基準点について|publisher=国土地理院|accessdate=2021-7-31}}</ref>。 ==== 山体の最高標高 (3776.12 m) ==== 三角点の高さが必ずしも山岳の最高標高とは限らないことから、最高標高の数値が別途に計測されることがある。例えば、[[国土地理院]]は日本の主要な1003の山岳について「日本の主な山岳標高」として公表している<ref>[https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html 日本の山岳標高一覧(1003山)] 国土地理院</ref>。最高標高の地点は岩体の高さなどであって、必ずしも三角点の標高とは限らないため、「日本の主な山岳標高」での山岳標高の表示は1 m単位となっている。この「日本の主な山岳標高」によれば、富士山の高さは3776 mであり、その位置は35度21分39秒 138度43分39秒である。 2014年時点の富士山の最高地点は、[[剣ヶ峰]]にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩の頂上であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、'''3776.12 m'''となり、これが富士山、及び日本の最高標高である<ref group="注釈">2等三角点「富士山」の標高は3775.51 mである(注:この数値は2014年4月1日現在)。最高地点はこの三角点から北へ約12 mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61 mだけ高い(この0.61 mの数値は1991年の観測)。</ref><ref>[https://www.gsi.go.jp/common/000213098.pdf 全国で100年以上潮位を測る] 高さってなんだろう?(その2)、ページ7/7、国土地理院、2019年3月12日、「現在の三角点の標高は再計算により、3775.51 mです。なお、富士山の最高地点は、三角点の北側の岩の上で、三角点より61 cm高い3776.12 mです。」</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/fuji_info/fuji_info-top.html |title= 富士山の高さ・大きさは?|publisher=国交省富士砂防事務所|quote=なおこのHPに記述されている2等三角点の標高 3775.63 mは、2014年4月1日に改算されて3775.51 mとなった。|accessdate=2021-7-31}}</ref>{{r|基準点}}。 === 他山の標高 === * [[玉山 (台湾)|玉山]]([[台湾]])- 日本統治時代は'''新高山'''と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3952 m。 * [[雪山 (台湾)|雪山]](台湾)- 日本統治時代は'''次高山'''と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3886 m。 * [[北岳]] - 日本で2番目に高い山。標高3193 m。 * [[御嶽山]] - 日本で2番目に高い火山。日本で2番目に高い独立峰とも見なされる。標高3067 m。 * [[日和山 (仙台市)|日和山]] - 日本で最も低い山。標高3 m。(かつて日和山は標高6.05mあったが、2011年3月の東日本大震災の津波で削られて、標高3mになった。) * [[天保山]] -日本で2番目に低い山。標高4.53m。2011年3月の東日本大震災までは、日本一低い山であった。 * [[エベレスト]] - 世界最高峰。標高8848 m。 * [[k2|ゴッドウィンオースチン(ゴドウィンオースチン)]] - 世界で2番目に高い山。K2(ケーツー)ともいわれている。標高8611 m。[[パキスタン]]の[[カラコルム山脈]]にある。 == 地質学上の富士山 == [[ファイル:Mount Fuji 20170330 (Japanese).svg|thumb|富士山の構造図]] [[ファイル:Mount Fuji Relief Map, SRTM-1.jpg|thumb|富士山周辺の地形図]] [[地質学]]上の富士山は典型的な[[成層火山]]であり、この種の火山特有の美しい山体を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。 *先小御岳(せんこみたけ)火山 *小御岳(こみたけ)火山 *古富士(こふじ)火山 *新富士(しんふじ)火山 この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の[[更新世]]にできた[[火山]]である。[[東京大学地震研究所]]が[[2004年]]4月に行った[[ボーリング]]調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。[[安山岩]]を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた<ref>[https://archive.is/ynYN 富士火山の活動の総合的研究と情報の高度化] - 東京大学 火山噴火予知研究推進センター (アーカイブ版)</ref>。 古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した[[火山灰]]が降り積もることで、標高3000 m弱まで成長した。山頂は[[宝永山#宝永火口|宝永火口]]の北側1&ndash;2 kmのところにあったと考えられている。 2009年10月に、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]による富士山の観測で[[地殻変動]]が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2 cm伸びた。これは[[マグマ]]が蓄積している(活火山である)表れとされている<ref>「地殻変動:噴火予知連、富士山で最大2センチ観測--96年来初」 毎日新聞、2009年10月6日</ref>。 [[プレート]]の観点からは、[[ユーラシアプレート]]外縁部で、[[北アメリカプレート]]又は[[オホーツクプレート]]と接する[[フォッサマグナ]](すぐ西に[[糸魚川静岡構造線]])に南から[[フィリピン海プレート]]が沈み込む位置であり(ほぼ、[[相模トラフ]]と[[駿河トラフ]]及び[[伊豆・小笠原・マリアナ島弧]]を陸上に延長した交点)、3個のプレートの境界域([[三重会合点]])となっている。富士山下で沈み込んでいるフィリピン海プレートのさらに下に[[太平洋プレート]]が沈み込んでおり、富士山の[[マグマ]]は、東日本にある[[火山弧|島弧火山]]と同様に太平洋プレートに由来するものである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/2015/06/29/imaging-crust-and-upper-mantle-beneath-mount-fuji-japan-by-receiver-functions/|title=レシーバ関数解析による富士山の地下構造について|accessdate=2019-10-12|publisher=[[東京大学地震研究所]]}}</ref><ref>[https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/fujisan/text/exp-1.html 富士火山地質図] -産総研地質調査総合センター、2017年3月閲覧</ref>。富士山の火山上の特徴は、側火山が非常に多いこと<ref name="静岡大学">[http://www.cnh.shizuoka.ac.jp/research/barchive/mtfuji/001-2/ 静岡大学火山防災センター]、2020年8月閲覧</ref>、日本の火山のほとんどが[[安山岩]][[マグマ]]を多く噴出しているのに対し<ref name="静岡大学" />、富士山は[[玄武岩]]マグマを多く噴出すること<ref name="静岡大学" />がある。 ; 富士山頂 [[ファイル:Mt fuji summit.jpg|thumb|山頂火口を上空より]] [[ファイル:Fujisan-video-views-airplane-bullet-train2014.ogv|thumb|富士山の眺め。その1、飛行機の窓から見た富士山。その2、ズームイン。その3、新幹線の窓から見た富士山。]] [[ファイル:Hasshinpo of Mt.Fuji 40.jpg|thumb|山頂火口]] : 山頂には[[火口]](お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。これを囲むように位置する8つの峰を[[八神峰]]と呼ぶ。火口の南西側に最高点の[[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]]があり[[三角点|二等三角点]](点名は、富士山。標高3775.51 m 2014年4月1日改算<ref group="注釈" name="kijun" />)、火口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756.23 m 2014年4月1日改算)が設置されている。火口の構造は、[[国土地理院]]によると、最深部の標高が3538.7 m、火口の深さは約237 m、山頂火口の直径は780 m、火口底の直径は130 mとある<ref>[http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2002-0729.html 「富士山」の火山基本図を刊行] - 国土地理院(2002年7月29日)</ref>。 : [[#富士山の山頂]]も参照 ; 宝永山 [[ファイル:Mtfuji houeisan01.jpg|thumb|right|宝永山と宝永噴火口]] : '''宝永山'''(ほうえいざん)は[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永大噴火]]で誕生した側火山(寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これらを間近で見ることができる登山コースも整備されている。 {{main|宝永山}} ; 側火山群 : 富士山には宝永山のほか70以上の[[側火山]]があり、鑵子山(かんすやま)、浅黄塚、腰切塚、東臼塚、平塚などがある<ref name="cnh">{{Cite web|url=https://www.cnh.shizuoka.ac.jp/research/barchive/mtfuji/013-2/|title=2.富士山南東山腹の側火山群|publisher=静岡大学防災センター|accessdate=2022-09-10}}</ref><ref name="cbr" />。 以下は富士山の主な側火山と標高である(標高は資料により違いがある)。 {{Div col}} * [[大室山 (富士山)|大室山]](標高1,300m{{sup|2}})<ref name="cbr">{{Cite web|和書|url=https://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/fuji_info/mamechisiki/a02/index.html|title=富士山周辺の側火山|publisher=国土交通省中部地方整備局|accessdate=2022-09-10}}</ref> * 長尾山(標高1,424m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 片蓋山(標高1,468m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 弓射塚(標高1,570m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 伊賀殿山(標高1,490m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 野頭山(標高1,510m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 二ツ塚(標高1,492m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 西剣(標高1,570m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 臼山(標高1,720m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 椹山(標高1,630m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 氷山(標高1,553m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 幸助丸(標高1,870m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 八軒山(標高1,770m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 桟敷山(標高1,800m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 大平山(標高2,100m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 丸山(標高1,700m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * カタボッコ(標高1,290m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 東剣(標高1,649m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 天神山(標高1,430m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 塒塚(標高1,598m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 犬涼み山(標高1,206m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 奥庭(標高2,180m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 焼山(標高1,660m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 小富士(標高1,906m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 二ツ塚第一丘(標高1,926m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 二ツ塚第二丘(標高1,802m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 荊塚(標高1,651m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 浅黄塚(標高1,575m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 桧塚(標高1,390m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 西臼塚(標高1,293m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 西黒塚(標高1,470m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 平塚(標高1,495m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 腰切塚(標高1,474m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 赤塚(標高1,374m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> * 鑵子山(標高1,306m{{sup|2}})<ref name="cbr" /> {{Div col end}} === 源流の河川 === 源流となる以下の[[河川]]は4水系に区分され、すべて[[太平洋]]へ流れる。 * [[相模川]] * [[酒匂川]] * [[黄瀬川]]([[狩野川]]水系) * [[潤井川]]、[[芝川 (静岡県) |芝川]]([[富士川]]水系) === 富士山と火山活動 === ==== 富士山の噴火 ==== {{Main|富士山の噴火史}} [[最終氷期]]が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、[[溶岩]]を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500&ndash;2800年前、[[風化]]が進んだ古富士の山頂部が大規模な[[山体崩壊]](「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。 新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前&ndash;約8000年前の3000年間と、約4500年前&ndash;約3200年前の1300年間と考えられている。山頂部からの最後の[[爆発的噴火]]は2300年前で<ref name="gsj.2016">[https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2016/pr20160715/pr20160715.html 約50年ぶりに富士山の地質図を全面改定] 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 2016/07/15</ref>、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や[[宝永山]]などの側火山からの噴火が散発的に発生している。 [[延暦]]19年 &ndash; 延暦21年([[800年]] &dash; [[802年]])に[[延暦噴火]](『[[日本後紀]]』、要約すると、「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし、雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」とある)、[[貞観 (日本)|貞観]]6年([[864年]])に[[青木が原]]溶岩を噴出した[[貞観大噴火]]が起きた。最後に富士山が噴火したのは[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永大噴火]]で、[[噴煙]]は[[成層圏]]まで到達し、[[江戸]]では約4 cmの[[火山灰]]が降り積もった。また、宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も[[火山性地震]]や[[噴気]]が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。 [[噴火]]の年代が考証できる最も古い記録は、『[[続日本紀]]』に記述されている、[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『[[竹取物語]]』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『[[日本三代実録]]』には[[貞観大噴火]]の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の『[[更級日記]]』には、富士山の噴気や[[火映]]現象を表した描写がある。 [[宝永大噴火]]についての記録は、[[新井白石]]による『[[折たく柴の記|折りたく柴の記]]』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。<br />その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。 宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は[[休火山]]と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また[[気象庁]]が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は[[活火山]]に区分されている。 2013年7月20日、[[産業技術総合研究所]]は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士火山[[地質図]]第2版(Ver.1)として発表し<ref>[https://www.gsj.jp/researches/openfile/openfile2013/openfile0592.html 地質調査総合センター研究資料集 no. 592]</ref>、2016年には修正加筆が終了した<ref name=gsj.2016 />。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。 ==== 山体崩壊の発生 ==== 地震および噴火活動にともなう[[山体崩壊]](岩屑(がんせつ)なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされている<ref>[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.html 小山真人:富士山の山体崩壊] - 静岡大学防災総合センター 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室 ※東京新聞に掲載(2012年10月31日)</ref>。また、直下に存在が示唆されている[[活断層]]の活動による[[マグニチュード]]7クラスの地震による崩壊も懸念されている。 ;主な発生歴 * 約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億 m<sup>3</sup>)な山体崩壊<ref>{{PDFlink|[http://www.kazan-g.sakura.ne.jp/J/koukai/04/3.pdf 宮地直道:富士山の大規模噴火と山体崩壊](第11回公開講座) 日本火山学会}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/111117.pdf 小山真人:富士山の火山防災-現状と課題]}} 静岡大学防災総合センター 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室 </ref>が発生し、泥流が[[御殿場]]周辺から東へは[[足柄平野]]へ、南へは[[三島市|三島]]周辺を通って[[駿河湾]]へ流下。山体崩壊の発生原因は不明。 * [[1331年]]の[[元弘]]地震 に伴い発生<ref>{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou46/05_05.pdf 富士川断層連日監視と東海地震発生の予測]}} 地震予知連絡会 会報 第46巻</ref>。 * 明治24年([[1891年]])の[[濃尾地震]] に伴い発生<ref>[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/fujid/1891.html 明治24年(1891)地震動による崩壊] 静岡大学防災総合センター 静岡大学教育学部総合科学教室 小山真人研究室</ref>。 ==== 災害対策 ==== * [[火山噴火予知連絡会]] - 富士山のみに限定するものではないが、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表することはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催される。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの収集・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討された。 * [[内閣府]]はウェブサイト「富士山の火山防災対策<ref>[https://www.bousai.go.jp/kazan/fujisan/ 富士山の火山防災対策] 内閣府</ref>」を開設して、富士山[[ハザードマップ]]検討委員会などの情報を提供している。 * 富士直轄砂防事業 - [[大沢崩れ]]を源にして発生する大規模な[[土石流]]から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。 * 山梨県と静岡県は「富士山噴火時避難ルートマップ」を作成した<ref>静岡県 [http://www.pref.shizuoka.jp/bousai/e-quakes/shiraberu/higai/fujisan/index.html 富士山火山防災対策] 静岡県</ref><ref>山梨県 [https://www.pref.yamanashi.jp/bousai/documents/yamanashihinann.pdf 富士山噴火時避難ルートマップ]</ref>。 * 静岡市市長の[[田辺信宏]]は2016年1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013年、富士山で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200 mと上限を設けたことを明らかにした<ref>[http://sp.yomiuri.co.jp/national/20160123-OYT1T50039.html ヘリ救助上限、3200メートルの山…静岡市長]{{リンク切れ|date=2018-06-24}}</ref>。 ==== 地殻変動の観測 ==== 政府系機関([[防災科学技術研究所]]、気象庁、[[国土地理院]]、産業技術総合研究所)や自治体([http://www.mfri.pref.yamanashi.jp/ 山梨県富士山科学研究所])及び大学([[東京大学地震研究所]])などにより観測が行われている。 * 国土地理院:[[地磁気]]観測点<ref>[http://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_03/observatory_data.html 地磁気連続観測(観測所)] - 国土地理院</ref>が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂には[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の電子基準点。 * 気象庁観測所<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/314_Fujisan/314_Obs_points.html 富士山 観測点配置図] - 気象庁</ref>:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原) * 防災科学技術研究所<ref>[https://vivaweb2.bosai.go.jp/viva/v_datalist_fuji.html 火山活動連続観測網VIVA ver.2 富士山] - 防災科学技術研究所</ref>: 火山活動可視情報化システム(VIsualization system for Volcanic Activity) ==== 噴出物災害などへの対策 ==== * 国土交通省[[中部地方整備局]]富士砂防事務所が静岡県、山梨県と連携して[[火砕流]]、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討を実施。[[ハザードマップ]]を作成している<ref>[http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bosai/hazardmap.htm 富士山火山ハザードマップ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120720080742/http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bosai/hazardmap.htm|date=2012年7月20日}} - 富士宮市役所</ref>。しかし、[[山体崩壊]]を想定したハザードマップは2012年時点では未作成である。 * [[中央防災会議]]が東京など[[首都圏 (日本)|首都圏]]への火山灰降下を想定した対策の検討を2018年に開始した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35227530R10C18A9CR8000/ 「富士山火山灰対策を検討/交通などの影響 最小限に/中央防災会議」]『日本経済新聞』朝刊2018年9月12日(社会面)2018年9月12日閲覧。</ref>。 === 富士山と気象 === ==== 気候 ==== 山頂は最暖月の8月でも平均気温が6 &deg;Cしかなく<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=50&prec_ch=%90%C3%89%AA%8C%A7&block_no=47639&block_ch=%95x%8Em%8ER&year=&month=&day=&elm=normal&view= 気象統計情報・過去の気象データ検索・富士山の平年値(年・月ごとの値(] - 気象庁(2011年1月5日閲覧)</ref>、[[ケッペンの気候区分]]では最暖月平均気温が0 &deg;C以上10 &deg;C未満の[[ツンドラ気候]]に分類される。太平洋側の気候のため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を占める。観測史上最低気温は1981年2月27日に観測された&minus;38.0 &deg;Cで、最高気温が&minus;30 &deg;C未満の日も過去に数回観測されている。&minus;30 &deg;Cを上回ることがない1日というのは北海道でも例がない<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=49&block_no=47639&year=&month=&day=&view= 気象統計情報・過去の気象データ検索・観測史上1〜10位の値( 年間を通じての値)、月最深積雪] - [[気象庁]](2013年10月14日閲覧)</ref>。 {{Weather box|location = 富士山([[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]]、標高3776m) |metric first = y |single line = y |Jan record high C = -1.7 |Feb record high C = 0.0 |Mar record high C = 1.0 |Apr record high C = 4.7 |May record high C = 12.2 |Jun record high C = 12.3 |Jul record high C = 17.4 |Aug record high C = 17.8 |Sep record high C = 16.3 |Oct record high C = 14.0 |Nov record high C = 6.9 |Dec record high C = 3.6 |year record high C = |Jan high C = -15.3 |Feb high C = -14.3 |Mar high C = -10.9 |Apr high C = -5.9 |May high C = -0.6 |Jun high C = 4.0 |Jul high C = 8.0 |Aug high C = 9.5 |Sep high C = 6.5 |Oct high C = 0.7 |Nov high C = -5.9 |Dec high C = -12.2 |year high C = -3.0 |Jan mean C = -18.2 |Feb mean C = -17.4 |Mar mean C = -14.1 |Apr mean C = -8.8 |May mean C = -3.2 |Jun mean C = 1.4 |Jul mean C = 5.3 |Aug mean C = 6.4 |Sep mean C = 3.5 |Oct mean C = -2.0 |Nov mean C = -8.7 |Dec mean C = -15.1 |year mean C = -5.9 |Jan low C = -21.4 |Feb low C = -21.1 |Mar low C = -17.7 |Apr low C = -12.2 |May low C = -6.3 |Jun low C = -1.4 |Jul low C = 2.8 |Aug low C = 3.8 |Sep low C = 0.6 |Oct low C = -5.1 |Nov low C = -11.8 |Dec low C = -18.3 |year low C = -9.0 |Jan record low C = -37.3 |Feb record low C = -38.0 |Mar record low C = -33.9 |Apr record low C = -27.8 |May record low C = -18.9 |Jun record low C = -13.1 |Jul record low C = -6.9 |Aug record low C = -4.3 |Sep record low C = -10.8 |Oct record low C = -19.5 |Nov record low C = -28.1 |Dec record low C = -33.0 |year record low C = -38.0 |source 1 = 気象庁<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=50&block_no=47639&year=&month=&day=&view= 気象庁 | 平年値(年・月ごとの値)] - 気象庁(2021年7月21日閲覧)</ref><ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=50&block_no=47639&year=&month=&day=&view= 観測史上1〜10位の値( 年間を通じての値)] - 気象庁(2021年7月21日閲覧)</ref> 平均気温 (1991年 &ndash; 2020年) 最高・最低気温記録 (1932年7月 &ndash; 2021年) |date=July 2021 }} {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- | {| class="wikitable" style="width:40em; background-color:#fff" |- !'''平均気温の推移'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-8),2014(-7.2),2019(-5.7)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=-6.4,-7.1,-6.4,-7,-6.4,-7,-7.2,-7.2,-6.1,-6.7,-6.9,-7.6,-7.7,-6.3,-7.7,-5.7,-6.9,-6.4,-6.6,-6.1,-6.9,-6.2,-6,-6.7,-6.7,-6.3,-5.8,-6.4,-5.8,-6.9,-6.9,-5.8,-8.1,-6.7,-6.8,-7.2,-5.7,,-6.6,-6.2,-6.4,-6.1,-6.7,-7.2,-6.6,-6.3,-5.9,-7,-7.2,-6.4,-6.9,-7.5,-6.6,-7,-5.8,-6.9,-6.1,-5.6,-5.4,-6.4,-6.6,-6,-7.2,-6.9,-6.5,-4.6,-5.7,-6.1,-6,-5.9,-5.5,-5.2,-6.6,-5.6,-6.1,-6,-5.9,-5.2,-6.3,-6.8,-6.1,,-5.2,-4.9,-6.6,-5.4,,-5.2,-5.5,-5.4 |y1Title=平均気温|colors=#696969}} |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:40em; background-color:#fff" |- !style="background-color:#ffc6c6"|'''最高気温・最低気温・湿度の推移''' |- !'''平均最高気温'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-5),2006(-3.4),2008(-4),2010(-0.6),2014(-4.3),2019(-2.8)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=-3.2,-4.3,-3.5,-4.2,-3.2,-4.1,-4.1,-4,-3.1,-3.7,-3.7,-4.9,-5.1,-3.6,-5,-3.2,-4.1,-3.7,-4,-3.5,-4.4,-3.6,-3.4,-4.1,-4.2,-3.6,-3.1,-3.8,-3.2,-4.2,-4.4,-3.2,-5.1,-3.6,-4,-4.3,-2.5,,-3.7,-3.1,-3.2,-3.2,-3.7,-4.4,-3.6,-3.4,-3,-4,-4.1,-3.4,-4.1,-4.4,-3.9,-4.2,-2.9,-4,-3.3,-2.8,-2.7,-3.6,-3.8,-3.1,-4.3,-4,-3.6,-1.9,-2.8,-3.2,-3.1,-3.1,-2.7,-2.3,-3.6,,-3.2,,-2.8,,-3.5,-3.6,-3,,-2.2,-2,-3.6,-2.3,,-2.2,-2.4,-2.4 |y1Title=平均最高気温|colors=#ffa500}} |- !'''最高気温(最高値)'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(13.9),2006(14.6),2008(16.7),2010(15.3),2014(16.3),2019(16)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=13,12.5,14.4,14,15.3,12.5,13.3,13.7,13.6,17.8,15.7,13.6,14.3,14,14.9,12.2,12.6,15,14.5,13.7,12.6,12.6,13.9,14.1,11.2,13.7,11,13.5,14,13.8,12.2,14.4,14.9,14.9,15,12.5,14.5,,14.9,14.1,14.9,14.1,15,12.4,12.4,16.9,13.6,14.6,13.5,12.1,14.2,13.7,15.2,16.6,13.1,13.2,13.2,11.6,16.3,13.3,11.2,16.1,12.8,14.1,14.3,12.1,12.3,14.3,15.1,15.8,12.8,15.1,14.9,,16.2,,16.3,,17.4,,15.3,,16.3,15.5,16.5,15.6, ,14.9,15.7,15.7 |y1Title=最高気温|colors=#dc143c}} |- !'''最高気温(最低値)'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-27.8),2006(-26.3),2008(-25.6),2010(-27.1),2014(-24.8),2019(-22.2)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=-23.3,-26.6,-23.8,-32,-24.8,-26.1,-27.5,-28.2,-26.9,-28.1,-24.9,-26.4,-28.6,-26.1,-28.9,-23.9,-26.5,-24.7,-27.1,-29.7,-26,-28.2,-28,-28.4,-26.3,-27.7,-29.2,-28.3,-26.3,-25.3,-31.6,-25.3,-27,-29,-29.2,-27.8,-27,,-24,-22.6,-23.9,-24.8,-28.5,-28.2,-30.2,-26.9,-25.2,-27.9,-27.1,-25.1,-29,-29.4,-29.2,-24.6,-26.7,-24,-23.7,-25,-24.3,-25.4,-25.2,-24,-28.7,-28.8,-24,-21.7,-26.3,-25.8,-25.5,-25.6,-28,-26.5,-28,,-24.3,,-24.4,,-28.4,-27.1,-24.8,,-24.3,-23,-29.1,-25.3,,-26,-26.5,-27.3 |y1Title=最高気温|colors=#ff7f50}} |- !'''平均最低気温'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-11.2),2006(-9.9),2008(-10.4),2010(-6.8),2014(-10.3),2019(-8.8)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=-9.5,-10.1,-9.5,-10,-9.7,-10,-10.3,-10.3,-9.2,-9.7,-10,-10.3,-10.5,-9.2,-10.6,-8.5,-9.8,-9.2,-9.5,-9.1,-9.6,-8.9,-8.7,-9.3,-9.4,-9.1,-8.6,-9.1,-8.6,-9.6,-9.7,-8.8,-11.3,-9.8,-9.8,-10.1,-8.9,,-9.5,-9.4,-9.7,-9.3,-9.6,-10.3,-9.8,-9.4,-9,-10.1,-10.5,-9.5,-10,-10.5,-9.6,-10,-8.7,-9.9,-9,-8.6,-8.4,-9.4,-9.6,-8.9,-10.2,-10,-9.4,-7.5,-8.7,-9,-9.1,-8.9,-8.6,-8.3,-9.7,,-9.2,,-9.1,,-9.4,-9.9,-9.2,,-8.5,-8,-9.6,-8.5,,-8.3,-8.5,-8.6 |y1Title=平均最低気温|colors=#4169e1}} |- !'''最低気温(最低値)'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(-33.2),2006(-32.3),2008(-33.2),2010(-30.2),2014(-30.1),2019(-30.4)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=-30.8,-31.4,-29.6,-35.3,-29.4,-32.2,-33.3,-33.2,-34.4,-31.8,-35,-29.4,-34.6,-33.9,-33.3,-28.6,-31.4,-33,-32.8,-32.4,-30,-30.3,-32.3,-31.4,-31.9,-32.8,-32.9,-31.8,-30.8,-29.7,-34.7,-31.6,-33.7,-33.8,-32.9,-33.1,-30.5,,-29.5,-28,-32.9,-29.9,-33,-32.6,-35.2,-32,-29.4,-31.8,-38,-32.8,-31.6,-34.7,-33.2,-31.6,-30.7,-32.1,-29.8,-31.5,-32.6,-28.9,-31,-31,-33,-33.1,-37.3,-32.1,-35.6,-31.1,-31.7,-30.7,-34.1,-33.4,-32,,-28.5,,-28.8,,-31.6,-31.5,-31.1,,-30.5,-32.3,-33.8,-31.8,,-30.1,-31.7,-30.9 |y1Title=最低気温|colors=#0000cd}} |- !'''最低気温(最高値)'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(6.3),2006(6.9),2008(6.7),2010(8.8),2014(6.7),2019(7.4)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1=6.3,6.4,6.8,5.8,5.4,5.4,5.1,6.5,6,6.9,5.4,6.7,7.9,5.8,7.8,5.6,6.2,6.8,5.9,7.1,7,7.2,6.4,6,5.4,5.7,6.5,7.5,8.5,6.8,5.6,7.1,6.1,8,6.6,5.8,6.1,,6.8,5.6,7.7,7,7.1,5.7,6,9.4,7,6.4,5.3,4.8,8.2,6.9,7.2,9.7,5.1,6.8,5.6,6.3,7.6,6,5.6,7.8,6.4,6.2,6.7,5.7,6.2,8.5,7.9,7.5,6.2,9.5,6.4,,7.4,,7.1,,8.4,6.3,7,,7.5,7.1,7.2,7.5,,7.2,6.8,6.9 |y1Title=最低気温|colors=#1e90ff}} |- !'''各階級の日数'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載「1970(<0 &deg;C最低277,<0 &deg;C最高205),2006(<0 &deg;C最低277,<0 &deg;C最高205),2008(<0 &deg;C最低277,<0 &deg;C最高207),,2014(<0 &deg;C最低271,<0 &deg;C最高216),2019(<0 &deg;C最低198,<0 &deg;C最高166)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1933,1934,1935,1936,1937,1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 281,276,283,276,285,271,295,279,282,275,272,284,277,278,279,277,287,279,296,286,272,282,273,275,293,282,282,282,258,275,276,282,299,288,287,294,281,,285,297,287,286,273,304,279,266,284,277,287,289,295,284,279,293,276,273,283,272,258,295,289,278,285,286,281,265,251,270,269,279,269,257,262,,267,,290,266,273,278,265,,288,265,279,266,,270,268,261 |y2= 214,221,218,225,222,216,223,221,217,225,213,224,235,220,247,216,228,221,220,222,229,229,215,202,231,212,219,226,199,221,208,216,241,231,225,238,195,,222,213,209,206,216,231,214,217,225,204,215,212,209,229,222,233,203,229,229,212,204,230,221,209,214,229,230,184,209,205,202,214,199,195,211,192,226,207,219,,206,223,202,,196,195,211,207,,205,208,213 |y1Title=<0℃(最低)|y2Title=<0℃(最高)|colors=#00ffff,#ee82ee}} |- !'''平均湿度の推移'''<ref group="注釈">以下の数値は資料不足値の為未記載1970(64),1984(60),1986(60),1990(60),1991(61),1992(60),1995(58),1996(53),1997(58),2000(62),2001(60),2004(56),2007(59),2014(94),2019(63)</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 63,67,70,67,64,,63,61,57,56,59,59,58,54,57,61,,61,62,61,,60,60,62,,,,58,56,,,,60,57,,,58,59,,68,68,,63,64,69,64,65,63,,61,65,62,66,,67,64,65 |y1Title=平均湿度|colors=#66cdaa}} |} |- | 出典:気象庁<ref name="kishou01">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/annually_s.php?prec_no=50&block_no=47639&year=&month=&day=&view=a2 |title=過去の気象データ |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2023-01-02}}</ref> |} <gallery widths="150" heights="105"> Mount Fuji and Broccolini.jpg|[[春]] (<small>2000年4月6日</small>)<br />麓では雨でも山上では冠雪する Mount Fuji from Lake Yamanaka 1995-7-30.jpg|[[夏]] (<small>1995年7月30日</small>)<br />雪がすべて解けた山肌 Autumn Fuji.jpg|[[秋]] (<small>2007年10月28日</small>)<br />上部で冠雪、山麓で[[紅葉]] Mount Fuji from Hotel Mt Fuji 1995-2-7.jpg|[[冬]] (<small>1995年2月7日</small>)<br />麓でも冠雪した厳冬期 </gallery> {{seealso|富士登山#気候}} ==== 富士山での気象観測 ==== かつて気象庁[[東京管区気象台]]が富士山頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は'''[[富士山測候所を活用する会|富士山特別地域気象観測所]]'''となっており、自動気象観測装置による気象観測を行っている。 {{main|富士山測候所}} ==== 気象現象 ==== * 山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えられると報道された<ref>「謎の黒砂、富士山から?」 朝日新聞(2010年xx月17日付、朝刊39頁)</ref>。 * 富士山の「初冠雪」は[[甲府地方気象台]]が観測・発表している。これとは別に、雲などに遮られず「誰もがきれいだと実感できる降雪」を判断基準とした「初雪化粧」を、富士山北麓にある山梨県富士吉田市の富士山課が独自に宣言している<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASKBV34DNKBVUZOB002.html 晴れて富士山「初雪化粧」]『朝日新聞』夕刊2017年10月26日</ref>。 * 富士山北麓の一部地域(現在の山梨県富士吉田市など)では、富士山の標高2600 m付近に現れる農鳥(のうとり)(鳥の形に見える[[残雪]])の出現する時期によって、農作物の豊作・凶作を判断する言い伝えがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000096160|title=富士山の農鳥はどのあたりに見えるのか|work=レファレンス共同データベース|accessdate=2023年8月27日}}</ref>。 * 富士山では[[山岳波]]が発生することもあり、航空機の墜落事故も起きている([[英国海外航空機空中分解事故]]など)。 === 富士山麓の自然環境 === 富士山麓の[[天然記念物]]として、「富士山原始林及び[[青木ヶ原]]」([[天然記念物]]:[[1926年]]2月24日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」(天然記念物:[[1929年]]12月17日指定)などがある。 ==== 伏流水 ==== [[ファイル:白糸の滝 - panoramio - くろふね.jpg|thumb|right|白糸の滝(静岡県)]] 富士山に降った雨や雪は、長い年月をかけ[[伏流水]]として[[地下水]]脈を流れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認されている例は標高1670 m(富士宮口二合目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万 m<sup>3</sup>以上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例がある<ref name="yuusui">{{Cite book|和書|author=日本大学文理学部地球システム科学教室|title=富士山の謎をさぐる―富士火山の地球科学と防災学|year=2008|publisher=築地書館|isbn=978-4-80671-318-0|pages=125,128}}</ref>。 {|class="wikitable" style=font-size:smaller !地域!!名称 |- !南東麓 |[[柿田川]]([[清流|日本三大清流]])、[[楽寿園|小浜池]] |- !南麓 |吉原湧泉群 |- !西麓 |[[湧玉池]]([[特別天然記念物]])、[[白糸の滝 (静岡県)|白糸の滝]](国指定の[[名勝]]及び[[天然記念物]])、猪之頭湧泉群 |- !北麓 |[[忍野八海]](国指定の天然記念物) |- |} また、一部で[[駿河湾]]や[[富士五湖]]の[[西湖 (富士五湖)|西湖]](水深25 m付近)で湧出があるとされている<ref name="yuusui" />。 富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士山の伏流水は[[バナジウム]]を豊富に含んでいるため、[[ミネラルウォーター]]として[[ペットボトル]]詰めされ、販売されている。 ==== 溶岩洞窟 ==== [[ファイル:Lake Saiko Bat Cave Entrance.JPG|thumb|right|西湖コウモリ穴入口]] 富士山麓周辺には大小100以上の[[溶岩洞]]窟が形成されている。 その中でも総延長2139 mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として[[西湖コウモリ穴]](山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定されている。その他、[[鳴沢氷穴]](山梨県南都留郡鳴沢村)も国の天然記念物に指定されている。 ==== 植生 ==== 富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると[[高山植物]]などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の[[生態系]]が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部では[[タデ科]][[オンタデ属]]の[[オンタデ]](御蓼)、山腹では[[キク科]][[アザミ属]]の[[フジアザミ]](富士薊)が自生している<ref>『日本の高山植物(山渓カラー名鑑)』[[山と渓谷社]]、1988年、ISBN 4-635-09019-1、p107,502</ref>。中部山岳地帯の高山の森林限界の上には[[ハイマツ]]帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替に[[カラマツ]]林が広がっている。 {{multiple image | align = center | image1=Forest in Mt.Fuji 02.jpg | width1 = 200 | caption1=三合目付近の森<br />(北西斜面、標高1800 m) | image2=Mt.Fuji from Okuniwa 01.jpg | width2 = 200 | caption2=五合目付近のカラマツ林<br />(北西斜面 奥庭、標高2200 m) | image3=Aconogonon weyrichii var. alpinum 01.jpg | width3 = 200 | caption3=八合目付近のオンタデ<br />(東斜面、標高3200 m) | image4=Hasshinpo of Mt.Fuji 29.jpg | width4 = 200 | caption4 = 山頂部(標高3700 m)の砂礫地帯<br />植生はほとんど見られない }}{{clear}} == 人間との関わりの歴史 == [[ファイル:Fujinomiya Hongu Sengen Taisha Honden.jpg|thumb|right|富士山本宮浅間大社]] === 古代 === [[古代]]より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われるようになった。「神聖な場所」であるため[[明治時代]]まで[[女人禁制]]の伝統があり女性が登山する事は長らく禁止されていた。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神と[[コノハナノサクヤビメ]]を主祭神とするのが[[浅間神社]]であり、[[摂末社]]が全国に点在する。浅間神社の総本宮が麓の[[富士宮市]]にある[[富士山本宮浅間大社]](浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。こうした歴史から、富士山が[[世界遺産]]に登録されたのも、[[自然遺産 (世界遺産)|世界自然遺産]]ではなく世界文化遺産([[富士山-信仰の対象と芸術の源泉]])としてであった。 {{main|富士信仰}} 古代では富士山は駿河国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴重な例もある。 それより後期の時代、[[イエズス会]]の[[ジョアン・ロドリゲス]]は自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続されていたと考えられる。 登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる[[大宮・村山口登山道|村山口]]である。これにより[[富士修験]]が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在している。 [[神仏習合]]は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった<ref name="shinbutsu">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20110722104230/http://www.fujisan-3776.jp/documents/100702kengakujutusiryou.pdf 推薦書原案]}} - 富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議</ref>。遺例としては[[正嘉]]3年([[1259年]])の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『[[吾妻鏡]]』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯([[八神峰]])を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、[[文永]]年間(1264年 &ndash; 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。 === 江戸時代 === 江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、新興宗教として旧来の登山道では発展できなかったために吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという<ref name="shinbutsu" />。 富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『[[妙法寺記]]』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士'''導者'''参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆'''導者'''付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。 === 明治以後 === [[File:Mount_Fuji_from_Omiya_by_Kusakabe_Kimbei_c1890.png|thumb|富士山(1890年頃)]] [[慶応]]4年(1868年)に[[神仏分離令]]が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ<ref name="tozan" />。[[富士山興法寺]]は分離され、大日堂は[[人穴]]浅間神社となり大棟梁[[権現]]社は廃されるなど改変が進んだ。[[北口本宮冨士浅間神社]]では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった<ref name="shinbutsu" />。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、[[1906年]](明治39年)に新大宮口が開削された。 富士山は平成23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に指定された。史跡としての富士山は複数の資産から構成され「史跡富士山」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市と裾野市と駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市、南都留郡の富士河口湖町と鳴沢村である<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130119173835/http://www.bunka.go.jp/oshirase_other/2010/pdf/shiseki_shitei_101119.pdf 史跡等の指定等について(文化庁、平成22年11月19日)]}}</ref>。このとき富士山八合目以上の山頂部や各社寺、登拝道(登山道)が指定された。その後富士山本宮浅間大社社有地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120625180440/http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/shiseki_shitei_111118.pdf 史跡等の指定等について(文化庁、平成23年11月18日)]}}</ref>。 === 登山史 === 富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。 {| class="wikitable" style="font-size:85%; margin:10px 0px;" |+富士山の登山史 |-style="line-height:1.25em;" ![[和暦]] ![[西暦]] !内容 !補足 |- |[[推古天皇]]6年 |[[598年]] |[[平安時代]]の[[甲斐の黒駒]]伝承には、[[聖徳太子]]が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。 |諸国から献上された数百頭の中から白い[[甲斐国|甲斐]]の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて[[信濃国]]まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。 |- |[[天智天皇]]2年 |[[663年]] |[[役小角]]が、流刑された[[伊豆大島]]から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 |役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。 |- |[[貞観 (日本)|貞観]]17年 |[[875年]] |[[平安時代]]の学者である[[都良香]]が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。 |山頂には常に沸き立つ[[火口湖]]があり、そのほとりに[[虎]]の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の[[貞観大噴火]]があった。 |- |[[久安]]5年 |[[1149年]] |『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰り返したとある。 |回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。 |- | | |[[江戸時代]]に入ると[[富士講]]が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 |特に江戸後期には[[講社]]が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの[[宿坊]]([[山小屋]])があった。 |- |[[文政]]11年 |[[1828年]] |気圧計による高度測定の試み |[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の弟子である[[二宮敬作]]が登頂し、[[気圧]]の変化により高度測定を行った。[[伊能忠敬]]の測量では2603&ndash;3732 m<ref>季刊 伊能忠敬研究 第9号(1996年秋季号)</ref>とされていたが、この測定では3794.5 mと算出されている<ref>[http://www5.epsondevice.com/ja/information/technical_info/qmems/story1_4.html 富士山を測れ 伊能忠敬VSシーボルト](微の極致 QMEMSストーリー 第4回) - エプソン水晶デバイス。2010年1月。</ref>。 |- |[[天保]]3年 |[[1832年]] |[[小谷三志#富士山登頂|高山たつ]]が女性として初登頂。 |[[女人禁制]]が敷かれていた時代である。 |- |[[嘉永]]6年 |[[1852年]] |[[松平宗秀]]([[本庄宗秀]])が近世大名として初登頂。 |富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した『袖日記』という古記録に、[[宮津藩]]主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。『袖日記』の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されており、これを逸脱したり、たとえ社寺参詣であっても寄り道したりすることは許されない。このため富士に登山を幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという地点である。 そこで宗秀は嘉永6年(1852年)6月21日、幕府に秘密裡に登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。 |- |[[万延]]元年 |[[1860年]] |英国公使[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]が外国人として初登頂。 |『[[古事類苑]]』にオールコックの登山についての記録([[富士重本]]<ref group="注釈">文書では「不士大宮不士本宮淺間大宮司不士亦八郞」とある。</ref>が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した<ref name="tozan">{{Cite book|和書|author=久保田淳|title=富士山 信仰と芸術の源|year=2009|publisher=小学館|isbn=978-4-09682-027-8|pages=}}</ref>。 |- |[[明治]]4年 |[[1872年]] |女人禁制が解かれる。 |[[明治時代]]になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。 |- |明治25年 |[[1892年]] |英国人の[[ウォルター・ウェストン]]が登頂。 |翌年にも登頂した。その後、本を出版して富士山などの日本の山々を世界に紹介した<ref>『日本アルプスの登山と探検』 ウォルター・ウェストン(著)、青木枝朗(訳) [[岩波文庫]]、1997年、ISBN 4003347412、P372</ref>。 |- |明治28年 |[[1895年]] |[[野中到 (気象学者)|野中到]]が冬季初登頂。 |2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った<ref name="medemiru">山と溪谷社「目で見る日本登山史」およびその日本登山史年表、2005年、ISBN 4635178145</ref>。 |- |[[大正]]12年 |[[1923年]] |皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])の登山 |7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された<ref>{{Cite book|和書|last=宮地|first=直一|editor=浅間神社|title=浅間神社の歴史|series=富士の研究, 2|publisher=古今書院|ncid=BN13895599|last2=広野|first2=三郎|date1929-03}}</ref>。 |- |大正12年 |[[1923年]] |[[秩父宮雍仁親王]]の登山 |8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 |- |昭和2年 |[[1927年]] |[[中村テル]]が冬季女性初登頂 |1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に<ref name="medemiru" />。 |- |昭和47年 |[[1972年]] |[[富士山大量遭難事故 (1972年)]]。 |悪天候による雪崩や低体温症などで24名の死者・行方不明者を出す国内最悪の遭難事故となった。 |- |[[昭和]]63年 |[[1988年]] |[[徳仁|浩宮徳仁親王]](当時・現今上天皇)の登山。 |[[8月1日]]-[[8月2日|2日]]の登山で、須走口から八合目を往復した<ref>『歩いてみたい日本の名山』 西東社、2004年、ISBN 4-791-61227-2、p170</ref>。天候の悪化で登頂は断念される。 |- |style="white-space:nowrap"|[[平成]]20年 |style="white-space:nowrap"|[[2008年]] |皇太子徳仁親王が登頂。 |[[8月7日]]に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂<ref>「20年振りの悲願達成 皇太子さま、富士山にご登頂」 産経新聞(2008年8月8日)</ref>。 |- |} [[2020年]](令和2年)は[[COVID-19|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響で4つの登山道([[御殿場]]ルート、須走ルート、[[富士宮]]ルート、[[富士吉田市|吉田]]ルート)が史上初の閉鎖となった<ref group="注釈">両県は、7~9月の開山期間を通じて四つのルートがすべて閉鎖されるのは、少なくとも静岡県が3登山道の管理を始めた1960年以降、初めてではないかと説明した。[[5月18日|18日]]に静岡県が管理する富士山の3登山道の5合目から頂上までを、開山期間に当たる7月10日~9月10日の期間、閉鎖する方針。登山客の密集で感染が懸念されるため。ルート上の全ての山小屋も休業する。山梨県は「吉田ルート」も同時期に閉鎖すると15日に発表。富士山は夏山閉鎖となる見通し。</ref><ref>「コロナで夏の富士山、閉鎖へ」共同、2020年05月18日、同日閲覧</ref><ref>{{cite news|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59245470Y0A510C2CR8000/|title= 富士山、今夏閉山へ コロナ感染防止で登山道閉鎖|publisher=日本経済新聞|accessdate=2021-11-13}}</ref>。 === 富士山を巡る利権争い === ==== 山役銭と内院散銭 ==== [[ファイル:Hokusai34 climbing-fuji.jpg|thumb|right|『冨嶽三十六景 諸人登山』]] 山麓の各地域には各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来の登山道であり、その登山道を管理する地域の浅間大社が山役銭<ref group="注釈">入山料のような概念。</ref>を徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起こしている。特に内院散銭<ref group="注釈">内院は噴火口を指し、この噴火口に散銭する行為(お金を投げ入れる行為)が行われていた。そのお金を得る権利である。</ref>は相当額になるため、争いの火種になりやすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76[[両]]を越えたといい、一戸に約一両が配当される計算になるという<ref>『小山町史 第2巻』</ref>。内院散銭の権利は、[[大名]]などに与えられた権利を根拠に主に3地域によって争われた。「村山」と「須走」<ref group="注釈">現在の静岡県駿東郡[[小山町]]。</ref>と「大宮」である。村山においては、1533年([[天文 (元号)|天文]]2年)に村山三坊の「辻之坊」が[[今川氏輝]]により内院散銭の取得権を与えられている<ref>『旧辻坊葛山氏文書』、宛名は「富士山興法寺々務代辻坊」とある。</ref>。須走は1577年(天正5年)に[[武田氏]]により薬師堂(現在の[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]])の[[開帳]]日の内院散銭の取得権が与えられている<ref>『須走浅間神社所蔵文書』、「富士山内院之参(散)銭、(中略)洲走浅間之宮可致修造之由…」などとある</ref>。大宮は1609年([[慶長]]14年)に[[徳川家康]]が内院散銭を浅間大社に[[寄進]]し、内院散銭の取得の優位権を得ている<ref name="shinbutsu" />。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあった<ref>[http://www.fujisan-net.jp/data/article/93.html 富士信仰](富士山NET) - 山梨日日新聞社・YBS山梨放送</ref>。 新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司[[富士信安]]など[[富士氏]]が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」<ref group="注釈">現在の山梨県南都留郡富士河口湖町の河口御師などからなる地域。「川口」と表記される場合もある。</ref>と「吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある<ref>{{Cite book|和書|author=青柳周一|title=富岳旅百景|year=2002|publisher=角川書店|isbn=|page=233}}</ref>。 ==== 元禄の争論 ==== [[元禄]]16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が'''元禄の争論'''である。須走村側は[[東口本宮冨士浅間神社]]の神主や御師らが、浅間大社の大宮司[[富士信安]]など[[富士氏]]<ref group="注釈">文書では富士帯刀(富士信安)とある。他案主・公文など。</ref>らを相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された<ref>『小山町史 第2巻』『小山町史 第7巻』</ref>。 ==== 安永の争論 ==== [[安永]]元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争論<ref group="注釈">[[小田原藩]]を通して幕府に伝えられ、寺社奉行の[[松平忠順]]に訴状が提出された。</ref>が'''安永の争論'''である。またこれをみた浅間大社側の富士民済<ref group="注釈">富士大宮司。文書では富士中務とある。</ref>も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康が[[富士山本宮浅間大社]]を信奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる[[三奉行]]による裁許で、最終的に富士山の8合目より上は、[[富士山本宮浅間大社]]持ちとすることが決定された<ref group="注釈">他に薬師堂の開帳や内院散銭はこれまでと同様とするなどが決定された。</ref>。 この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった。 == 富士山の山頂 == 富士山の最頂部は剣ヶ峰と呼ばれている<ref name="lib24">[http://www.fujinomiyalib.jp/images/upload/bokchan.24.pdf ふじのみや探検 第24号 富士山頂のひみつ] 富士宮市立中央図書館、2018年2月23日</ref>。『甲斐国志』によると剣を立てたような形に由来するという<ref name="lib24" />。また『駿河国新風土記』によるとこの峰にある石が鋭利だったことから剣の代わりの道具に使うため人々が持ち帰ったと記している<ref name="lib24" />。 === 山頂部の所有 === 先述のように江戸幕府は[[1779年]]([[安永]]8年)に富士山八合目より上は富士山本宮浅間大社のものとした<ref name="lib24" />。明治時代になり寺社の土地は国有化されたものの、第二次大戦後にこれらの土地は返還されることになったが、富士山八合目以上は公益性が高い土地であるとして国有地のままになった<ref name="lib24" />。しかし、富士山本宮浅間大社は富士山信仰のために富士山八合目以上の土地も返還するよう国を提訴した<ref name="lib24" />。 国と富士山本宮浅間大社の訴訟は17年間にわたったが、1974年(昭和49年)に最高裁判所は富士山本宮浅間大社の主張をほぼ認める判決を出した(ただし判決で国にとって必要な一部の土地は除外された)<ref name="lib24" />。 === 県境及び市町村境の扱い === 登山道を除く8合目より上は、富士宮市にある[[富士山本宮浅間大社]]の私有地であるが、[[県境]]と市町村境界は未確定である。ただし、気象庁は富士山測候所の所在地を便宜上'''「富士宮市富士山剣が峰」'''と定めていた。一方、旧須走村も山頂までを村域としたことから、小山町は現在も自らを'''「富士山頂のあるまち」'''と宣伝している。{{see also|富士山測候所#所在地|小山町#地理}} 2014年1月の富士山世界文化遺産協議会後の記者会見において、静岡・山梨両県知事の[[川勝平太]]と[[横内正明]]が今後も県境を定めないことを明言した<ref>{{Cite news|title=「富士山、県境定めず」山梨と静岡、両知事が明言|newspaper=朝日新聞|date=2014-01-22|url=https://archive.is/aIXSt|accessdate=2014-06-06}}(アーカイブ版)</ref>。[[国土地理院]]がインターネット上で公開している[[地形図]]では2013年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合には近くの帰属が確定している住所が表示されるという設定になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これを受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更された<ref>{{Cite news|title=富士山頂は静岡県? 国土地理院ネット地図で住所表示|newspaper=朝日新聞|date=2014-06-01|url=https://archive.is/vHrnM|accessdate=2014-06-06}}(アーカイブ版)</ref><ref>{{Cite news|title=富士山頂住所非表示に 地理院がHP“訂正”|newspaper=[[山梨日日新聞]]|date=2014-06-06|url=https://archive.is/L8itO|accessdate=2014-06-06}}(アーカイブ版)</ref>。 なお、[[日本郵政|JP]][[日本郵便]]では'''「駿東郡小山町須走本八合目」'''という住所を[[交通困難地]]に指定し、小山町の集配を受け持つ[[御殿場郵便局]]で留め置く対応をしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-7.pdf |title=別冊(内国郵便約款第79条及び第97条関係) 交通困難地・速達取扱地域外一覧 |access-date=2022/05/01 |publisher=[[日本郵便]] |date=2022年2月21日}}</ref>。{{main|交通困難地#東海地方}} === 第二次世界大戦 === [[File:US Bombers near Mount Fuji.jpg|thumb|富士山上空を飛ぶB-29の編隊]] [[1945年]](昭和20年)7月10日、富士山頂にあった[[富士山測候所]]に[[アメリカ軍]]による[[機銃掃射]]攻撃が行われた<ref>{{Cite book|和書|title=気象百年史|date=|year=1975|publisher=[[気象庁]]|url=https://npofuji3776.org/museum/nonaka/nonaka_document/chapter13_fujisansokojo.pdf|pages=376-377}}</ref>。富士山は独立峰で遠方への眺望が効き、[[日本本土空襲]]を行うアメリカ軍機の動向を視認できる場所であったほか、1944年には東京と[[八丈島]]を結ぶ無線通信回線の中継拠点として山頂の旧登山小屋が活用されたため麓からの送電が始められ、高層気象観測拠点として重要な測候所へも給電された。また、この測候所からは東京の[[灯火管制]]を点検していた。日本の象徴という文化的意味に加え、軍事拠点ともなった富士山頂への攻撃が大戦末期に行われ、観測員に負傷者が出た事が業務日誌である『カンテラ日誌』を通じて残されている。{{see also|富士山測候所#『カンテラ日誌』}} また、アメリカ軍は[[日本の降伏]]を早めるために富士山をペンキで真っ赤に染め上げ、士気を下げるという計画を立案した。しかし、計画に必要な物資の量が[[B-29 (航空機)|B-29]]約3万機、ペンキ約12トンという膨大な量になる計算だったため、現実性に欠けるとして計画は中止されたというエピソードも紹介されている<ref>{{Cite news|title=富士山をペンキで赤く塗り潰す作戦|newspaper=富士エコツアーサービス|date=|url=http://fuji-eco.com/fujisan.html#a30|accessdate=2018-11-14}}</ref>。{{see also|ダウンフォール作戦#コロネット作戦}} == 富士山と眺望 == [[File:富士山頂御来光 Go-raikou(The sunrise) at summit of Mt.Fuji HDR-CX560V.webm|thumb|日の出と富士山]] === 特別名勝としての富士山 === 富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された<ref>静岡県教育委員会文化課 山梨県教育庁学術文化財課編、『富士をめぐる しずおか・やまなし文化財ガイドブック』(2006年)に特別名勝の範囲が地図上に図示されている</ref>。山梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された<ref>山梨県教育委員会、『山梨の文化財 : 国指定編』、1971年</ref>。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1500 m以上の地域、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている<ref>静岡県教育委員会文化課、『特別名勝富士山保存管理計画』P4-6、2006年</ref>。 === 富士山の眺望 === {{Commonscat|Views of Mount Fuji by point of view|各地点からの富士山の眺望}} 富士山への良好な眺望が得られる128景233地点を、[[国土交通省]]関東地方整備局が[[関東の富士見百景]]として、2005年(平成17年)に選定した。また2017年には環境省および都県・市町村が中心となり、「富士山がある風景100選」が選定された。富士箱根伊豆国立公園指定80周年記念事業に伴うものである。 {{main|富士山がある風景100選}} [[東京国際空港|羽田空港]]から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをすることが多い。また、新年の[[ご来光]]を見るための遊覧飛行便も運行される。 東海道新幹線においても、良好な眺望を得られる際は車内アナウンスが行われる。 富士山を見ることができる最遠地は富士山頂から322.9キロメートル離れた和歌山県[[那智勝浦町]]にある色川富士見峠(妙法山とは別)である<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH29008_Q3A530C1AA2P00/ 富士山、関西から見えた 3年がかりで撮影成功] 日本経済新聞、2013年6月9日、2023年8月27日閲覧</ref><ref name="a0405">[http://www.asahi.com/eco/TKY201004040194.html 富士山、見える範囲広がった?都心からの観測は増加 - 環境] 朝日新聞社、2010年4月5日、2023年8月27日閲覧</ref><ref>[http://www.town.nachikatsuura.wakayama.jp/forms/info/info.aspx?info_id=9403 富士山が見える最遠の地] 和歌山県那智勝浦町観光産業課、2023年8月27日閲覧 </ref>。また、眺望の北限は2017年1月16日に富士山から308キロメートル離れた福島県[[川俣町]]と[[飯舘村]]にまたがる[[花塚山]](標高919m)と、[[日本地図センター]]により認定された<ref>[http://www.minyu-net.com/news/news/FM20170117-141988.php 花塚山から「富士山」撮影成功 北限を9キロ更新『308キロ』] [[福島民友新聞]]、2017年1月17日閲覧。{{リンク切れ|date=2018-06-24}}</ref>。南東方向に約271 km離れた[[八丈島]]の三原山からも眺望される<ref name=a0405/>。2014年に、理論上可能とされていた[[京都府]]からの撮影に成功したことにより<ref>{{Cite web|和書|url=https://hatenanews.com/articles/201409/22745|title=京都から富士山の撮影に成功 |website=はてなニュース|accessdate=2021/11/12}}</ref>、富士山の見える都道府県は、 20都府県となった(福島・栃木・茨城・群馬・埼玉・千葉・東京・神奈川・新潟・富山・山梨・静岡・長野・岐阜・愛知・滋賀・三重・京都・奈良・和歌山)<ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2603K_W3A221C1000000/?page=3 月夜の富士山、奈良で撮った 遠望の限界に挑む] 日本経済新聞、2021年11月12日閲覧</ref>。 === 様々な表情の富士山 === 富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名が付く、いくつかの姿がある。 {| class="wikitable" !画像 !富士山の姿 !解説 |- |[[ファイル:Mount Fuji from yamankako village 2001-7-2.jpg|100px]] |[[赤富士]] |夏の朝、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。<br />葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。 |- |[[ファイル:Mount Fuji from yamankako village 2000-2-10.jpg|100px]] |紅富士 |雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。<br />「[[登山用語一覧#ま行|モルゲンロート]]」([[ドイツ語]]Morgenrot)が用いられる場合がある。 |- |[[ファイル:01 Fujisan from Yamanakako 2004-2-7.jpg|100px]] |[[逆さ富士]] |波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。<br />[[五千円紙幣|D五千円券]]の裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。 |- |-style="white-space:nowrap" |[[ファイル:Diamond Fuji (from Mount Ryu 2015-12-05 s3).JPG|100px|竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮影)]] |[[ダイヤモンド富士]] |太陽が昇った時又は沈む時、[[太陽]]が富士山の頂上と重なり、<br />富士山の頂上付近が[[ダイヤモンド]]のように光る現象。<br />富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる<ref>[http://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/kikaku/fuji100/highlight/diamond.htm ダイヤモンド富士のスポット](関東の富士見100景) - 国土交通省 関東地方整備局</ref>。 |- |[[ファイル:Kagefuji frm kengamine.jpg|100px]] |影富士 |朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。<br />富士山登山時に山の上部から、[[雲海]]の上に見られる場合がある。 |- |[[ファイル:Fujiyama-kasagumo 01.JPG|100px]] |[[傘雲|笠雲]] |笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶせた雲がある風景。<br />その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多い。 |} === 「表富士」と「裏富士」 === [[ファイル:Back View of Fuji from Dream Mtn in Kai Province (Hiroshige, 1852).jpg|thumb|right|『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』]] 現在も富士山の[[山小屋]]や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが<ref>{{PDFlink|[https://www.fy-museum.jp/div/fujisan-museum/pdf/marubi/MARUBI21.pdf MARUBI 富士吉田市歴史民俗博物館だより 21]}} - 富士吉田市歴史民俗博物館(2003年10月30日)</ref>、これには歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記述がある。 {{Quotation|登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…|『[[甲斐国志]]』}} 他の資料にも共通した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景 裏不二』<ref group="注釈">甲府盆地西部からの眺めとされている。</ref>『冨嶽三十六景 身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景 甲斐夢山裏富士』など、作品名に採用されている例がみられる。 == 富士山の文化 == === 学術研究 === 活火山かつ日本最高峰で、広大な山麓を持つ富士山は、[[自然科学]]と[[人文科学]]の両面で研究対象となっている。火山防災や地質学、気象学、[[生態系]]といった自然科学では山梨県富士山科学研究所(富士吉田市)、人文科学を含む学際的研究では[[静岡県富士山世界遺産センター]](富士宮市)や[[富士学会]]といった専門の研究機関・団体もある。 地形の険しさや山頂近くの強風により、野外で実地踏査できるのは富士山の5&ndash;10 %程度であり、植生が不明なエリアも多い。上空からの観測・撮影も、[[無人航空機|ドローン]]の上昇限界が2750 m程度という制約がある<ref>【解剖 先端拠点】山梨県富士山科学研究所/噴火や植生・資源まで調査『日経産業新聞』2018年2月7日(先端技術面)。</ref>。 === 美術における富士山 === [[ファイル:Fuji Sankei Mandara from Fujisan Hongu Sengen Taisha.png|thumb|right|三峰型富士の例<br />絹本着色富士曼荼羅図 [[狩野元信]](伝)<br />峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲載]] 富士山絵画は平安時代に[[歌枕]]として詠まれた諸国の名所を描く[[名所絵]]の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は[[法隆寺献納宝物]]である(1069年・延久元年)の『聖徳太子絵伝』([[東京国立博物館]]蔵)で、これは[[甲斐の黒駒]]伝承に基づき黒駒に乗った[[聖徳太子]]が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図として描かれている。 [[ファイル:Hon'ami Koetsu Fujisan 1.jpg|thumb|right|[[楽焼白片身変茶碗]] 銘不二山(国宝)]] 鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『[[伊勢物語]]絵巻』『[[曽我物語]]富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、[[富士信仰]]の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた{{refnest|group="注釈"|近世の甲斐国絵図類においては甲斐国の姿を山々に抱かれた霊的な場として表現する傾向が見られるが、富士山は[[八ヶ岳]]や白根山([[北岳]])とともに冠雪した白い山として描かれる神格表現で描写され、特に富士山は三峰形や雲上の表現、登山道の省略など特に神格表現が際立っている点が指摘される<ref>{{Harv|髙橋修|2008}}。</ref>。}}。 [[室町時代]]の作とされる『絹本著色富士[[曼荼羅]]図』(富士山本宮浅間大社所蔵、[[重要文化財]])には三峰型の富士とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、伝[[雪舟]]作『富士三保清見寺図』([[永青文庫]]所蔵)は、[[三保の松原]]と富士山を同一画面に収めた作品であり、静岡市[[日本平]]からの眺望とされている<ref name="Yamashita">山下善也、島尾新、彬子女王、亀田和子(編)「富士三保清見寺図の図様伝播」『写しの力:創造と継承のマトリクス』 思文閣出版 2013 ISBN 9784784217113 pp.177-201.</ref>。雪舟型の富士山図は江戸時代を通じて写しの手本とされ、[[狩野派]]を中心に数多くの作品が派生している。 [[ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|thumb|left|180px|[[凱風快晴]]、[[葛飾北斎]]作]] 江戸時代には、1767年(明和4年)に[[河村岷雪]]が[[絵本#日本における絵本|絵本]]『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。[[葛飾北斎]]は、河村岷雪の手法を援用した、富士図の連作版画『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』(1831-34年・天保2&ndash;5年頃)、及び、絵本『[[葛飾北斎#富嶽百景|富嶽百景]]』(全三編。初編1834年・天保5年)を出版した。前者において、舶来顔料を活かした藍摺などの技法を駆使して富士を描き、夏の赤富士を描いた『[[凱風快晴]]』や『[[山下白雨]]』、荒れ狂う大波と富士を描いた『[[神奈川沖浪裏]]』などが知られる。後者は墨単色摺で、旧来の名所にこだわらず、天候描写に拘るなど、抽象性が高まっている{{Sfn|磯|1961}}。 また、[[歌川広重]]も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『[[東海道五十三次]]』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。[[工芸|工芸品]]としては[[本阿弥光悦]]が自ら制作した[[楽焼]]の[[茶碗]]に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている<ref>[[加藤唐九郎]]編『原色陶器大辞典』[[淡交社]]、1972年、ISBN 4473000907、p.843。</ref>。 [[ファイル:Japanese government small-face-value paper money 50 Sen (Fuji-Sakura) - front.jpg|thumb|right|[[小額政府紙幣|50銭政府紙幣]](1938年発行)<br />岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。]] 富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として[[富岡鉄斎]]、洋画においては[[和田英作]]などがいる。 富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していた[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]は、日記に次のように書いている。 {{quotation|フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴――ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ<ref>{{Cite book|和書|author=フランツ・フェルディナント|authorlink=フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|translator=[[安藤勉]]|date=2005年|title=オーストリア皇太子の日本日記 明治26年夏の記録|series=[[講談社学術文庫]]|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-159725-6|page=154}}</ref>。|8月15日付}} その後も富士山は[[大日本帝国]]により日本国および聖俗両面の統治者である[[天皇]]を中心とした日本独自の政治体制である[[国体]]の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。これは[[太平洋戦争]]([[第二次世界大戦]]、[[大東亜戦争]])で日本と戦った[[アメリカ合衆国]]にも共有された概念で、反日感情を煽るアニメやポスターなどの戦意高揚創作でも富士山が取り上げられた。また、軍事目標としての富士山頂への攻撃も行われた(後述)。 戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本のシンボル」として、日本画家の[[横山大観]]や[[片岡球子]]らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向も見られる。 [[深田久弥]]は『日本百名山』の中で富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。 日本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、[[西行]]法師)が見上げるという構図で、[[水墨画]]や[[彫金]]でも描かれている。 [[ファイル:Lake Motosu04.jpg|thumb|right|千円札、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山]] 近代では紙幣や切手のデザインにも用いられている。 * 富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、[[愛鷹山]]からの富士山である。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札は[[大月市]]の[[雁ヶ腹摺山]]からの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である<ref>[http://www.fujisan-net.jp/data/article/1068.html 新千円札にも富士山の絵柄](富士山NET) - 山梨日日新聞社・YBS山梨放送</ref>。 * 富士山を描写した[[切手]]が[[郵便局]]から発売された<ref>{{Cite book|和書|author=桜田隆範|title=切手と風景印でたどる百名山|date=2007|isbn=978-4-89806-276-0|page=73|publisher=ふくろう舎}}</ref>。 ** 河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年)) ** 葛飾北斎(1999年(平成11年)) ** [[オオマツヨイグサ]]・山梨県(2005年(平成17年)) === 文学における富士山 === 富士山は和歌の[[歌枕]]としてよく取り上げられる。また、『[[万葉集]]』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318) は[[山部赤人]]による有名な[[短歌]](反歌)である。 また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。 『[[新古今和歌集]]』から。富士の煙が歌われている。 <blockquote>風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな [[西行]] (<nowiki>#</nowiki>1613)</blockquote> 都人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。 『[[竹取物語]]』は物語後半で富士が舞台となり、時の[[帝|天皇]]がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuji.shizuoka.jp/kankou_m/k_hime/take_kouen.htm|title=竹採公園|accessdate=2008-04-13|publisher=富士市|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080917114457/http://www.city.fuji.shizuoka.jp/kankou_m/k_hime/take_kouen.htm|archivedate=2008-09-17}}</ref>。 ほか、『[[源氏物語]]』や『[[伊勢物語]]』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては[[駿河国]]に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが、『[[堤中納言物語]]』では[[甲斐国|甲斐]]側の富士について触れられている。 また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい形を表している<ref>{{Cite book|和書|author1=山崎晴雄|authorlink1=山崎晴雄|author2= 久保純子|title=日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語|year=2017|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-502000-5|page=157}}</ref>。 中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として[[俳諧]]が盛んであった。近代には[[鉄道]]など交通機関の発達や富士裾野の[[観光地]]化の影響を受けて、多くの文人や[[民俗学者]]が[[避暑]]目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や[[草野心平]]、[[堀口大學]]らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。 富士山麓に滞在した作家は数多くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。[[津島佑子]]は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『[[火の山―山猿記]]』を記した。 また、北麓地域出身の文学者として[[自然主義文学]]者の[[中村星湖]]や戦後の[[在日朝鮮人文学]]者の[[李良枝]]がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。 [[太宰治]]が昭和14年(1939年)に執筆した小説『[[富嶽百景]]』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県[[富士河口湖町]]の[[御坂峠]]にはその碑文が建っている。[[直木賞]]作家である[[新田次郎]]は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の[[歩荷|強力]](ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『[[富士山頂 (小説)|富士山頂]]』<ref group="注釈">1970年に映画化、主演は[[石原裕次郎]]。</ref>をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆している。 [[高浜虚子]]は静岡県富士宮市の[[沼久保駅]]で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。 <blockquote>「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」</blockquote> == 富士山と地域振興 == 富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には[[温泉郷|温泉地]]として成立する規模の湯量は湧出していない<ref>[https://web.archive.org/web/20150518111747/http://nh.kanagawa-museum.jp/kenkyu/chouken/13/chouken13_061-076_mannen_s.pdf 萬年一剛:箱根カルデラ− 地質構造・成因・現在の火山活動における役割−] 『神奈川県立博物館調査研究報告 自然科学』 2008年 13号 p.61-76(p.71)</ref>。 富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視している。山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題<ref>[http://www.fujisan-net.jp/data/article/2.html 富士山有料道路マイカー通行規制](富士山NET) - 山梨日日新聞社・YBS山梨放送 ※静岡県側は当初からお盆前後に集中実施、山梨県側は当初は観光客の利便に配慮し分散実施とし、後に静岡県側と同様に集中実施とした。</ref>、世界遺産登録問題<ref>「世界遺産 富士山 暫定リスト入り」 産経新聞(山梨版、2007年6月28日付)</ref>等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面化している。 === 富士山と観光 === ==== 富士登山 ==== '''富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fujisan-climb.jp/basic/index.html|title=登山の前に必ず知っておくこと|website=富士登山オフィシャルサイト|accessdate=2021-7-31}}</ref>'''。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。'''期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている<ref name="guideline">{{Cite web|和書|url=http://www.fujisan-climb.jp/risk/guidelines.html |title=富士登山における安全確保のためのガイドライン|website=富士登山オフィシャルサイト|accessdate=2021-7-31}}</ref>。''' とくに'''積雪期・残雪期の登山は極めて危険である<ref name=guideline/>。''' {{main|富士登山}} ==== その他の観光 ==== その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていることが多い。 * '''箱根''' - [[箱根]]は富士山が望めるうえに、東京から近く[[温泉]]や歴史・[[美術館]]や各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また、夏は避暑地としても有名である。 * '''富士五湖''' - [[富士五湖]]は富士山周辺の観光地として著名であり、[[本栖湖]]の[[逆さ富士]]が[[日本銀行券]]に採用されている。 * '''白糸の滝''' - [[白糸の滝 (静岡県)|白糸の滝]]は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成をしている滝である。また、[[音止めの滝]]と共に[[日本の滝百選]]に指定されている。 * '''朝霧高原''' - [[朝霧高原]]は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に[[第13回世界ジャンボリー]]も開催されている。 * '''ダイヤモンド富士''' - [[ダイヤモンド富士]]などがはっきりと拝める[[田貫湖]]や[[山中湖]]といったスポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。 * '''ドライブ''' - [[富士山有料道路|富士スバルライン]]や[[表富士周遊道路|富士山スカイライン]]などを利用して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は[[マイカー規制]]の期間があり、冬期は閉鎖される。 === 富士山の日(2月23日) === [[2月23日]]を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。 * 2001年(平成13年) 山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。 * 2002年(平成14年) 山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。 * 2009年(平成21年)[[12月21日]] 静岡県議会にて条例を全会一致で可決。同年12月25日条例を制定。 静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの期待も込められている。 [[静岡県教育委員会]]で、各市町村に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を[[休日|学校休業日]]とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である[[富士市]]教育委員会では「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、[[富士山こどもの国]]の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。 なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。 === 富士山ナンバー === [[静岡運輸支局]]管内の4市2町と[[山梨運輸支局]]管内の1市2町4村を対象とした、いわゆる[[ご当地ナンバー]]として2008年11月4日から'''富士山ナンバー'''の交付が開始された。管轄支局が二県にまたがる[[ナンバープレート]]は珍しい<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha07/09/090301_.html|title=富士山ナンバーの導入について|accessdate=2008-04-15|author=国土交通省[[自動車交通局]]技術安全部管理課|date=2007-03-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080415k0000e040021000c.html|title=「富士山」ナンバー:11月4日から交付開始…国交省 - 毎日jp(毎日新聞)|accessdate=2008-04-15|author=[[毎日新聞]]|date=2008-04-15}}{{リンク切れ|date=2010年3月}}</ref>。 === 富士山検定 === 「富士山検定実行委員会」が主催する[[富士山検定]]が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。 === 地域間交流 === 富士山の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県[[近江八幡市]]の間で続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が[[琵琶湖]]になった」という伝説からである。富士山の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」という<ref>[http://www.sankei.com/west/news/140904/wst1409040126-n1.html 富士山の湧き水を琵琶湖に ダイダラボッチ伝説にちなみ「お水返し」] 産経WEST 2015年5月23日閲覧</ref><ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20131109000048 富士の湧き水、琵琶湖に 近江八幡で静岡の市民ら「お水返し」]京都新聞 2015年5月23日閲覧{{リンク切れ|date=2018-06-24}}</ref>。 2014年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と[[玉山 (台湾)|玉山]]の友好山提携が締結されている<ref>[http://www.fujisan-kyokai.jp/teikei_gyokuzan.html 日本富士山協会]</ref>。標高3952 mの玉山は[[台湾]]の日本統治時代に'''新高山'''と呼ばれ、日本の最高峰であった。 == 備考 == === 文字 === {{特殊文字|対象=節|説明=Unicode 6.0の絵文字}} * [[通話表#和文通話表|和文通話表]]で、「[[ふ]]」を送る際に「富士山のフ」という。 * 文字コードの[[Unicode|Unicode6.0]]では、携帯電話などで使われていた[[絵文字]]も追加されたが、その中に「MOUNT FUJI」として富士山も含まれている(U+1F5FB、{{絵文字フォント|&#x1F5FB;}})<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U1F300.pdf|title=Miscellaneous Symbols and Pictographs|accessdate=2012-02-04|format=PDF|publisher=[[ユニコードコンソーシアム]]|page=11}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|128507|1F5FB|-|MOUNT FUJI|font=絵文字フォント}} |} == ギャラリー == <!--Wikipediaは写真投稿サイトではありません。本当に必要な写真かどうか投稿前にご一考ください--> <!--解説記事に、ふさわしい画像を --> <gallery mode="packed" style="font-size:85%"> Asagiri_Highland_and_Mount_Fuji.JPG|西の[[毛無山 (山梨県・静岡県)|毛無山]]より、手前は[[朝霧高原]] Sattatouge mtfuji.jpg|南西の[[薩埵峠]](静岡市)より[[駿河湾]]越し Mount Fuji from Mount Aino.jpg|北西の[[南アルプス]][[間ノ岳]]山頂部より View of Mount Fuji from Hiroyama Park.jpg|東方、[[三浦半島]]から、[[江の島]]と[[相模湾]]と富士山 Mt fuji and mt ashitaka.jpg|南から。手前は[[愛鷹山]] MtFujiFromAircraft.jpg|北からの朝焼け Aerial view of Mount Fuji and Shimizu Port 20190324.jpg|[[駿河湾]]南西より<!--三峰型富士と同じ構図の実写富士三保半島、三保の松原、富士川、富士山などの構図位置が一致する--> Skyscrapers of Shinjuku 2009 January (revised).jpg|東北東の[[東京都]]心より Mt fuji(R469 Yuno).jpg|南西から[[剣ヶ峰]]を中央に望む<ref group="注釈">富士宮市柚野(ゆの)地区より。</ref> Mt. Fuji seen from the aircraft 02.jpg|[[駿河湾]]上空から </gallery> * [[:Category:富士山の画像]] * [[commons:category:Mount Fuji|Commonsにアップロードされている富士山の画像]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Refbegin}} *{{Cite journal|和書|author=[[磯博]]|title=河村岷雪の『百富士』と北斎の富嶽図|pages=67-84|year=1961|publisher=[[関西学院大学]]文学部美学研究室|journal=美学論究|issue=1|ref={{SfnRef|磯|1961}}}} *{{Cite journal|和書|author=髙橋修|title=近世甲斐国絵図論序説-山梨県立博物館所蔵甲斐甲斐国絵図との対話-|journal=山梨県立博物館研究紀要|volume=2|date=2008|pages=92-63,i|publisher=[[山梨県立博物館]]|naid=40016760931|ref=harv}} *[[山梨県立文学館]]『富士百景 その文学と美』(2001年) * 神崎宣武『江戸の旅文化』([[岩波新書]] 2004年 ISBN 4-00-430884-4) * 上垣外憲一『富士山 - 聖と美の山』([[中央公論新社]] 2009年) * [[富士学会]]:企画『富士山を知る事典』(日外アソシーエーツ]2012年 ISBN 978-4-81-692166-7) * [[富士学会]]:監修『富士山の大図鑑』([[PHP研究所]] 2013年 ISBN 978-4-56-978333-8) *{{Cite book|和書|author=高埜利彦|title=近世の朝廷と宗教|publisher=吉川弘文館|date=2014|isbn=978-4-64-203461-6 |ref={{SfnRef|高埜|2014}}}} {{Refend}} == 関連項目 == {{colbegin}} {{no col break| ; 自然 * [[日本百名山]] - [[新日本百名山]] - [[山梨百名山]] - 静岡百山 * [[山の一覧]] - [[日本の山一覧 (高さ順)]]・第1位 - [[日本の山一覧 (3000m峰)|日本の山一覧 (3000 m峰)]] * [[各都道府県の最高峰]](静岡県、山梨県) * [[日本の特別名勝一覧]] * [[郷土富士]] * [[富士箱根伊豆国立公園]] * [[富士川]]、[[芝川 (静岡県)|芝川]]、[[潤井川]]、[[相模川]] * [[朝霧高原]]、[[青木ヶ原]](樹海) * [[富士五湖]] ** [[本栖湖]]- [[精進湖]] - [[西湖 (富士五湖)|西湖]] - [[河口湖]] - [[山中湖]] * 富士八海 ** 泉水湖 - 山中湖 - 明見湖 - 河口湖 - 西湖 - 精進湖 - 本栖湖 - 志比礼湖 * [[日本の地質百選]] }} {{no col break| ; 文化・行事関連 :* [[富士登山]] :* [[富士五山]] :* [[富士山の噴火史]] :* [[古富士泥流]] :* [[富士登山駅伝]] :* [[富士講]] :* [[富士塚]] :* [[葛飾北斎と甲斐国]] :* 富士山 (能) :* [[ふじの山]] - [[文部省唱歌]] : }} {{no col break| ; 建造物・施設関連 :* [[富士山本宮浅間大社]] :* [[浅間神社]] :* [[富士山レーダー]] :* [[富士山有料道路]](富士スバルライン) :* [[表富士周遊道路]](富士山スカイライン) :* [[富士山における鉄道構想]] :* [[山梨県立富士ビジターセンター]]・[[山梨県立富士山世界遺産センター]] : ; その他歴史関連 :* [[富士山大規模落石事故]] :* [[富士山大量遭難事故 (1972年)]] :* [[英国海外航空機空中分解事故]] : }} {{no col break| ; その他 :* [[富士山頂_(小説)#映画|富士山頂]] - [[1970年]]の映画。[[石原裕次郎]]が主演、製作し劇場公開。 :* [[松竹]] - 映画オープニングに富士山の映像を使用(現在はCG)。また、かつて関係会社として[[松竹富士]]が存在した。 :* [[フジテレビジョン|フジテレビ]] - 社名は富士山に由来している。かつて[[局名告知|放送開始・終了時の映像]]に富士山のフィルム映像を使用していた。 :* [[エフエムナックファイブ|FM NACK5]] - かつて富士山の八合目に特設スタジオ、富士山スタジオを夏限定で開設していた。 :* [[電気グルーヴ]] - [[アルバム]]『[[VITAMIN]]』やライブで『富士山』という曲を発表している。 : }} {{colend}} {{Multimedia|富士山の画像}} {{ウィキプロジェクトリンク|山|[[ファイル:ロゴ_山.JPG|34px|ウィキプロジェクト 山]]}} {{Clear}} == 外部リンク == {{sisterlinks |q=富士 |commonscat=Mount Fuji |v=no |voy=Mount Fuji |d=Q39231 }} * [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/314_Fujisan/314_index.html 富士山] - 気象庁 * [https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/open-data/open-data.php?id=314 富士山の火山観測データ] 気象庁 **[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/monthly_vact_vol.php?id=314 富士山の臨時及び過去の詳細月別火山概況・火山活動解説資料] 気象庁 **[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/open-data/data/eq_num_314.html 富士山の最近(2ヶ月間)の日別地震回数表] 気象庁 * {{PDFlink|[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/55_Fujisan.pdf 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 富士山]}} - 気象庁 * [http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/index.html 世界遺産富士山] - 富士宮市 * [https://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/bosai/bosai-top.html 富士山と防災] - [[国土交通省]]富士砂防事務所 * [https://sakuya.vulcania.jp/koyama/public_html/Fuji/fujid/0index.html 富士山歴史噴火総解説] - 静岡大学小山研究室 * [https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/library/fujisan_dl_top.html 富士山関係資料デジタルライブラリー] - 静岡県立中央図書館 * [https://volcano.si.edu/volcano.cfm?vn=283030 Fujisan] - Smithsonian Institution: Global Volcanism Program{{en icon}} * {{Kotobank}} ; 防災関連(ハザードマップ) :* [http://www.city.fujinomiya.lg.jp/citizen/visuf80000005lqw.html 富士宮市富士山ハザードマップ] 富士宮市 :* [http://www.kazan-g.sakura.ne.jp/J/koukai/04/1.pdf 富士山のハザードマップ] 日本火山学会 :* [https://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/info/426 富士山火山防災協議会] 富士吉田市 : ; ライブカメラ :* {{YouTube|mY4Uem3g5Mg|テレビ富士山}} / [[テレビ神奈川]](tvk)公式チャンネル ※[[山北テレビ中継局#その他|山北中継局お天気カメラ]]より撮影 : ; 眺望 :* [https://info.jmc.or.jp/fujisankoko/#7/35.361/138.727 富士山ココ | 地図インフォ] - 富士山可視マップ :* {{YouTube|IH7Q_0DpNF0|空から見た日本(6)富士山}} / SCIENCE CHANNEL(JST) : {{富士山の地理}} {{日本の山一覧 (3000m峰)}} {{日本百名山}} {{山梨百名山}} {{日本の活火山}} {{史跡富士山}} {{富士山-信仰の対象と芸術の源泉}} {{Normdaten}} {{pri|富士山 (代表的なトピック)}} {{デフォルトソート:ふしさん}} [[Category:山岳名目録]] [[Category:富士山|*]] [[Category:山梨県の山]] [[Category:静岡県の山]] [[Category:日本の火山]] [[Category:日本百名山]] [[Category:特別名勝]] [[Category:山梨県にある国指定の名勝]] [[Category:静岡県にある国指定の名勝]] [[Category:山梨県にある国指定の史跡]] [[Category:静岡県にある国指定の史跡]] [[Category:山梨県の象徴]] [[Category:静岡県の象徴]] [[Category:富士山-信仰の対象と芸術の源泉|*ふしさん]] [[Category:山梨県の観光地]] [[Category:静岡県の観光地]] [[Category:成層火山]] [[Category:観光圏]] [[Category:日本の霊峰]] [[Category:日本の極と端]] [[Category:国別の最高地点]] [[Category:3000メートル峰]] [[Category:富士宮市の地理]] [[Category:裾野市の地理]] [[Category:富士市の地理]] [[Category:御殿場市の地理]] [[Category:小山町の地理]] [[Category:富士吉田市の地理]] [[Category:鳴沢村の地理]] [[Category:県境]] [[Category:日本の国の象徴]]
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侵略
侵略(、英: aggression)とは、直接武力をもって他国の領域に侵入したり、攻撃すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する。1974年に国連が「国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。しかし、侵略側は自己の行動を否定したり、自衛や勢力均衡のためと正当化したり、被侵略側に責任転嫁することがあるので、侵略行為の認定は困難であり、国際法上の定義は明確ではない。また、国連安全保障理事会は、侵略国と被侵略国(自衛権行使国)を認定できるが、拒否権の発動など国際政治の情勢に左右される。 漢字としての「侵」は「おかす」「そこなう」を意味し、「略」は「かすめとる」「攻めとる」「奪う」の意味で、英語でのaggressionという語は「他人を脅迫したり、危害を加えるような語りや行動」「他者に対する脅威または力を使用する行動」を意味する一般名詞である。(形容詞はaggressive)。 現代の意味での「侵略 (aggression)」が使用されたのは第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約(1919年)においてであり、これに調印した大正9年当時の日本政府は「攻撃」と訳した。 直接武力による行動を直接侵略、ひそかに武器等を送ったり,経済的政治的圧力が高度になる場合は間接侵略ともいう。 侵略戦争に対する裁判を記録した最古のものとしては、1268年のホーエンシュタウフェン朝コッラディーノのイタリア侵攻に対するものが残されている。 植民地支配と侵略の意味合いの違いは、明確な区別をつけることがしばしば難しいとされてきた。この問いは、体制的かそうでないかという定義付けもされたが、厳密に区分けすることは困難であった。この問題の背景には、欧米列強による植民地支配が、アフリカ大陸、アジア諸国、アメリカ大陸など世界中で歴史的に行われてきたことにある。オランダは約350年にわたりインドネシアにおいて、強制的栽培制度でコーヒーなどの作物をプランテーションで栽培させた。またフランスはインドシナ半島東部にて、土地没収令を敷き、農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。イギリスは、インドにてムガル皇帝を廃して東インド会社を設立、綿織物で利益を上げ、その後インドにケシ栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸し、これを清が取り締まったことを口実にアヘン戦争を仕掛け、香港の租借に至った。 現代国際法上における侵略の定義については西欧国際法における国際犯罪概念の発展段階により徐々に形成されてきたものであった。今日の意味での「侵略」aggressionが使用されたのは1919年のヴェルサイユ条約においてであり、231条の戦争責任条項に明記されたことを端緒とする。連合国が被った全ての損害の責任は、aggression(攻撃、侵略)によって戦争をひきおこしたドイツおよびその同盟国の側にあると規定された。 この条約に署名した大正9年当時、日本の条約文では aggression を「侵略」でなく「攻撃」と翻訳された。 その後、国際連盟期における1920年の国際連盟規約11条、ジュネーブ議定書、ロカルノ条約(1925年)、不戦条約(1929年)などで戦争の違法化が合意されつつあったものの、侵略の定義化は非常に困難であった。オースティン・チェンバレンは侵略を定義すれば無実のものにとっては罠となり、侵略を企図する者にとっては抜け道を探すための基準となると述べ、その定義化に反対した。ラムゼイ・マクドナルドが「侵略の責任の帰着を判定するの能のある者は戦後五十年を経て筆を執る歴史家であって、開戦の際における政治家にあらず」と述べている。その後国際軍縮会議で一応の合意が見られたのは、国際条約上の義務を無視して開戦した場合に侵略とされるということであったが、条約違反の認定で相互に意見が異なるのは当然であり、問題が完全に決着したとは言い難い情況であった。 明文として侵略を定義した条約としてはソビエト連邦および周辺諸国を中心として締約された侵略の定義に関する条約(英語版)が最初のものである(1933年7月3日署名、1933年10月16日発効)。これは1933年2月6日のジュネーヴ軍縮会議でリ卜ヴィノフLitvinovは「侵略国に侵略の口実を与えないことが重要である」と演説で述べた。この条約案に示された侵略の事例としては,宣戦布告の場合のほかでも、宣戦せずに他国の領土に侵攻した場合,軍隊が他国の領土に発砲した場合,他国の船や航空機を故意に攻 撃した場合,他国の許可を得ず,または許可された条件を守らずに,他国の領土に軍隊が進駐した場合,湖岸や港を封鎖した場合などが挙げられた。しかしこの条約自体は東欧圏を中心とした8カ国(のち9カ国)によるものにとどまり、国際的な承認を受けたものとは言いがたいものであった。 第二次世界大戦後、国際連合が発足した。朝鮮戦争に関する討議が行われている最中の1950年11月3日、ソビエト連邦代表は侵略の用件を列挙する形で侵略の定義の決議案を提出した。しかし列挙方式か、一般的抽象表現で行うかについて争いがあり、いずれの提案も成立しなかった。その後たびたび侵略の定義に関する特別委員会が設置されて討議が行われたが、結論が出たのは24年後の1974年になってからであり、12月14日に国際連合総会決議3314が成立した。 しかしこの総会決議による定義は各国に対する拘束力はなく、現在もある国家実行を侵略と認定するのは国際連合安全保障理事会に委ねられている。国連総会で侵略の定義についての一応の合意があったことは事実ではあるが、依然としてその解釈や有効性については争いがある。 2010年6月11日、カンパラで開かれた国際刑事裁判所ローマ規程再検討会議において、国連総会決議3314を下地に規程独自の定義を盛り込んだ同規程の改正決議が採択された。同規程の改正は2012年5月現在発効していないが、ローマ規程の締約国(現在121カ国)に憲法上の手続きに則った批准を求める点で、これまでの国際条約の中で最も拘束力を持つ定義となる可能性がある。 国際刑事裁判所(ICC)の管轄犯罪に関するローマ規程で2010年に採択された「侵略犯罪(Crime of Aggression)」では、「国の政治的または軍事的行動を、実質的に管理を行うかまたは指示する地位にある者による、その性質、重大性および規模により、国際連合憲章の明白な違反を構成する侵略の行為の計画、準備、着手または実行」と定義される(第8条の2)。 日本は太平洋戦争において中国、東南アジアへの侵攻を行い、東京裁判において侵略国家としての戦争責任を追及され、戦後70年を経ても日本の戦争謝罪や日本の戦争賠償と戦後補償を続けているが、侵略であるかにはまだ議論がある。 日本では、第一次教科書問題などの歴史教科書問題などで、「侵略」という用語をめぐる議論がされている。 家永三郎は、1993年に検定申請した教科書『日本史B』において、朝鮮戦争に関する記述に「1950年(昭和25年)朝鮮民主主義人民共和国軍が統一を目指して南進し」とし、共産主義側の侵略(武力をもって他国に侵攻することは侵略である)を糊塗する「南進」という表現を用いている。このような例は、教師用の「指導の手引き」といった指導書にも見られ、秦郁彦が「ドイツについては『侵入』という言葉を使っているのに対して、同じことをやってもソ連は『進駐』という表現になる。それで日本となると『侵出』となる」という例を、藤岡信勝との対談の中で紹介している。また、関寛治はソ連によるアフガン侵攻を「進攻」という字句で表現し、高木正幸はハンガリー動乱について自著で触れる際、「ソ連軍によるハンガリー進入」と表現し、坂本義和も「アフガニスタン侵入」と表現している また、神田文人は一般向け通史で以下のように記している。 中宮崇は、『筑紫哲也 NEWS23』が映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を紹介した際には、「この映画は中国による『自治権拡大』を描いた」というナレーションを流していると批判した。 浅羽通明は、かつて家永教科書裁判の際には「国家権力による教育の統制である」と反対していた勢力が新しい歴史教科書をつくる会の採択阻止のために教科書検定に頼ったとし、その図式を「ダブルスタンダード」と批判した。また稲垣武は、2001年2月21日の『朝日新聞』は「つくる会」教科書の白表紙本(検定中のものであり公表が禁じられている)の内容をあげつらい「中韓など反発必至」と報じているとし、こうした態度を新聞報道の倫理から逸脱していると批判した。 入江曜子は、国歌国旗法制定以後の日本を、「日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人たちを輩出した」とした上で、その傾向はいま「侵略」を「解放」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂されつつあると述べている。 この「解放」という言葉は、共産主義陣営国家が自由主義陣営国家に対して侵略を行った際に使用してきた用語である。たとえば、中華人民共和国によるチベット侵略を、中国側は「平和解放」と呼ぶ。他に、小島晋治と丸山松幸は、「人民解放軍、チベットのラサに進駐」と記す。 家永三郎は教師用の指導資料でベトナム戦争を「ベトナム人民の総決起により、ベトナム全土は解放され...前後して、カンボジア、ラオスも解放され...続いて南北ベトナムは統一され」と書いた。 尹健次は、朝鮮戦争を北からの視点で見ると「祖国解放戦争」と呼び、油井大三郎は、朝鮮戦争が韓国が北朝鮮を侵略した「北侵」、もしくは韓国が北朝鮮に軍事挑発を行い、それに対して北朝鮮が反撃を加えた「南侵誘導」を示唆、北朝鮮による「解放戦争」「統一戦争」と主張し、朝鮮戦争が北朝鮮による侵略戦争であることを否認した。 南ベトナム解放民族戦線の略称は「ベトコン」であったが、これは蔑称であるともされた。阿奈井文彦は、1965年2月16日付の朝日新聞では「ベトコン」が紙面に使われていたが、本多勝一のルポルタージュ『戦場の村』以降、正式名称で書かれるようになったのではないかと回想している。なお、山本夏彦は実態は「解放戦線」ではなく「共産軍」であり、岩波書店も朝日をはじめとする大新聞もこの嘘で読者を欺いたと断じている)。 進歩的文化人が寄稿することが多い岩波書店が発行している国語辞典『広辞苑』でも同様の書き換えが見られる。広辞苑の各版を比較分析した水野靖夫によると、日英同盟の説明文は、初版では「ロシヤのアジアへの侵出」となっていたが、第2版以降では「ロシアのアジア進出」に書き換わっている。意図的なものなのである。 なお、1968年にソビエト連邦がチェコスロバキアを「解放」していた当時、ソ連国内で用いられていた歴史教科書では、アレクサンドル・スヴォーロフ元帥がフランス革命戦争に乗じて行った地中海・北イタリア遠征について「ギリシャの島々を解放し土地の人々に自由を保障した。......ナポリを解放し、凱歌をあげてローマに入城した。北イタリアを解放した後、スヴォーロフはパリへの行軍を準備した」と記述していた。この「解放」という表現は日本国内にとどまらず、アメリカの著述家であるマーティン・ガードナーも使用していた。 なお、共産党を離党した人物の中には、「チェコ侵略」と書くものもあった。安東仁兵衛である。 また、この誤報事件の当事者(火付け役)であり、最後まで謝罪も訂正も行わなかった当の朝日新聞は、1985年9月8日付社会面のコラム『残留孤児』で、「東洋の小国が世界の大帝国に勝った、と日本が酔いしれた日露戦争は、中国東北部(旧満洲)に進入したロシア軍に日本が『危機感』を持ち、起きた」と記している。 長谷川三千子は、侵略という語はヴェルサイユ条約231条の戦争責任条項で「戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪」のレッテルとして登場した経緯があり、国際社会において法の支配ではなく力の支配を肯定し、国家の敵対関係をいつまでも継続させる概念であると指摘する。 二国間以上で正式に合意された条約などに基づき、他国による軍の駐留は侵略にあたらない。例えばアメリカによる日本各地での駐留軍は、日米安全保障条約に基づいて内外の了承を得ているもののため、日本への侵略行為には当たらない。
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4, "tag": "p", "text": "植民地支配と侵略の意味合いの違いは、明確な区別をつけることがしばしば難しいとされてきた。この問いは、体制的かそうでないかという定義付けもされたが、厳密に区分けすることは困難であった。この問題の背景には、欧米列強による植民地支配が、アフリカ大陸、アジア諸国、アメリカ大陸など世界中で歴史的に行われてきたことにある。オランダは約350年にわたりインドネシアにおいて、強制的栽培制度でコーヒーなどの作物をプランテーションで栽培させた。またフランスはインドシナ半島東部にて、土地没収令を敷き、農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。イギリスは、インドにてムガル皇帝を廃して東インド会社を設立、綿織物で利益を上げ、その後インドにケシ栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸し、これを清が取り締まったことを口実にアヘン戦争を仕掛け、香港の租借に至った。", "title": "侵略の定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現代国際法上における侵略の定義については西欧国際法における国際犯罪概念の発展段階により徐々に形成されてきたものであった。今日の意味での「侵略」aggressionが使用されたのは1919年のヴェルサイユ条約においてであり、231条の戦争責任条項に明記されたことを端緒とする。連合国が被った全ての損害の責任は、aggression(攻撃、侵略)によって戦争をひきおこしたドイツおよびその同盟国の側にあると規定された。", "title": "侵略の定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この条約に署名した大正9年当時、日本の条約文では aggression を「侵略」でなく「攻撃」と翻訳された。", "title": "侵略の定義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": 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侵略(しんりゃく、とは、直接武力をもって他国の領域に侵入したり、攻撃すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する。1974年に国連が「国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。しかし、侵略側は自己の行動を否定したり、自衛や勢力均衡のためと正当化したり、被侵略側に責任転嫁することがあるので、侵略行為の認定は困難であり、国際法上の定義は明確ではない。また、国連安全保障理事会は、侵略国と被侵略国を認定できるが、拒否権の発動など国際政治の情勢に左右される。 漢字としての「侵」は「おかす」「そこなう」を意味し、「略」は「かすめとる」「攻めとる」「奪う」の意味で、英語でのaggressionという語は「他人を脅迫したり、危害を加えるような語りや行動」「他者に対する脅威または力を使用する行動」を意味する一般名詞である。。 現代の意味での「侵略 」が使用されたのは第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約においてであり、これに調印した大正9年当時の日本政府は「攻撃」と訳した。 直接武力による行動を直接侵略、ひそかに武器等を送ったり,経済的政治的圧力が高度になる場合は間接侵略ともいう。
{{otheruses||映画|侵略 (映画)}} {{読み仮名|'''侵略'''|しんりゃく|{{lang-en-short|aggression}}}}とは、直接[[武力]]をもって他国の[[領域 (国家)|領域]]に[[侵攻|侵入]]したり、[[攻撃 (軍事)|攻撃]]すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=侵略とは |url=https://kotobank.jp/word/%E4%BE%B5%E7%95%A5-82736 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-16 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,普及版 |last=字通}}</ref>。[[1974年]]に[[国連]]が「[[国家]]による他の国家の[[主権]]、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「[[国際連合憲章|国際連合の憲章]]と両立しないその他の方法による武力の行使」と[[定義]]した<ref>[[侵略の定義に関する決議]]:United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of Aggression,{{Cite web|和書 |publisher = ミネソタ大学人権図書館 |url = http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/JGAres3314.html |format = html |title = 侵略の定義に関する決議 |accessdate = 2013-04-25}} </ref>。しかし、侵略側は自己の行動を否定したり、[[自衛]]や[[勢力均衡]]のためと正当化したり、被侵略側に責任転嫁することがあるので、侵略行為の認定は困難であり、[[国際法]]上の定義は明確ではない<ref name=":0" />。また、[[国際連合安全保障理事会|国連安全保障理事会]]は、侵略国と被侵略国(自衛権行使国)を認定できるが、[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権の発動]]など[[国際政治]]の情勢に左右される<ref name=":0" />。 <!--出典提示されるまで--{{要出典範囲|date=2022年2月|[[国際法]]上、ある[[国家]]・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、[[自衛]]ではなく、一方的にその[[主権]]・[[領土]]や[[独立]]を侵すことを意味する。[[軍事学]]概念としての[[侵攻]] (invasion) が目的を問わず相手方勢力・領域を攻撃する行動を指すのとは異なり、相手の主権・政治的独立を奪う目的の有無に注目した用語である}}。また、侵略のために武力を行使して[[戦争]]を起こすことを[[侵略戦争]]と言う。--> [[漢字]]としての「侵」は「おかす」「そこなう」を意味し、「略」は「かすめとる」「攻めとる」「奪う」の意味で<ref name=":0" />、[[英語]]でのaggressionという語は「他人を脅迫したり、危害を加えるような語りや行動」「他者に対する脅威または力を使用する行動」を意味する[[一般名詞]]である。<ref>spoken or physical behaviour that is threatening or involves harm to someone or something:actions or behavior that use threats or force against others:Cambridge Advanced Learner's Dictionary, Cambridge Academic Content Dictionary, Cambridge University Press.</ref>([[形容詞]]はaggressive)。 現代の意味での「侵略 (aggression)」が使用されたのは[[第一次世界大戦]]の講和条約である[[ヴェルサイユ条約]]([[1919年]])においてであり<ref name=":0" />、これに調印した[[大正]]9年当時の日本政府は「攻撃」と訳した<ref name="t9"/>。 直接武力による行動を直接侵略、ひそかに武器等を送ったり,経済的政治的圧力が高度になる場合は間接侵略ともいう<ref name=":0" />。 ==侵略の定義== === 前史 === 侵略戦争に対する裁判を記録した最古のものとしては、1268年の[[ホーエンシュタウフェン朝]][[コッラディーノ]]のイタリア侵攻に対するものが残されている<ref>Cryer (et al), Robert (2010). An introduction to international criminal law and procedure (2nd ed. ed.). Cambridge [UK]: Cambridge University Press. p. 312. ISBN 978-0-521-13581-8.</ref>。 [[植民地]]支配と侵略の意味合いの違いは、明確な区別をつけることがしばしば難しいとされてきた。この問いは、体制的かそうでないかという定義付けもされたが、厳密に区分けすることは困難であった<ref name="Patrick Wolfe 2006">Patrick Wolfe, "Settler Colonialism and the Elimination of the Native", Journal of Genocide Research, 2006.</ref>。この問題の背景には、[[欧米]]列強による植民地支配が、[[アフリカ大陸]]、[[アジア]]諸国、[[アメリカ大陸]]など世界中で歴史的に行われてきたことにある。[[オランダ]]は約350年にわたり[[インドネシア]]において、強制的栽培制度で[[コーヒー]]などの作物を[[プランテーション]]で栽培させた。また[[フランス]]は[[インドシナ半島]]東部にて、土地没収令を敷き、農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。[[イギリス]]は、[[インド]]にて[[ムガル]]皇帝を廃して[[東インド会社]]を設立、[[綿織物]]で利益を上げ、その後インドに[[ケシ]]栽培を強制し、大量の[[アヘン]]を[[中国]]に密輸し、これを[[清]]が取り締まったことを口実に[[アヘン戦争]]を仕掛け、[[香港]]の[[租借]]に至った。 === ヴェルサイユ条約(1919) === 現代国際法上における侵略の定義については西欧国際法における[[国際犯罪]]概念の発展段階により徐々に形成されてきたものであった。今日の意味での「侵略」aggressionが使用されたのは1919年の[[ヴェルサイユ条約]]においてであり<ref name=":0" />、231条の戦争責任条項に明記されたことを端緒とする<ref name="ha">『歴史を見る目歪める「北岡発言」』長谷川三千子(産経新聞「正論」2015.3.17)[https://www.sankei.com/article/20150317-QDKS5A7FH5LANN6OXAWHPF6E6Y/2/]</ref><ref>Stephen C. Neff (2005). war and the Law of Nations: A General History .Cambridge UP.[https://books.google.co.jp/books?id=83vbR5XwQfwC&pg=PA289&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false]P.289</ref>。連合国が被った全ての損害の責任は、aggression(攻撃、侵略)によって戦争をひきおこしたドイツおよびその同盟国の側にあると規定された<ref name=":0" />。 {{Quotation|The Allied and Associated Governments affirm and Germany accepts the responsibility of Germany and her allies for causing all the loss and damage to which the Allied and Associated Governments and their nationals have been subjected as a consequence of '''the war imposed upon them by the aggression''' of Germany and her allies.<br> 連合国政府はドイツおよびその同盟国の'''侵略により強いられた戦争'''の結果、連合国政府および国民が被ったあらゆる損失と損害を生ぜしめたことに対するドイツおよびその同盟国の責任を確認し、ドイツはこれを認める。|1919年[[ヴェルサイユ条約]]231条の戦争責任条項<ref name="ha"/>}} この条約に署名した[[大正]]9年当時、日本の条約文では aggression を「侵略」でなく「'''攻撃'''」と翻訳された<ref name="t9">* {{アジア歴史資料センター|A03021294200|御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)}},173頁</ref>。 その後、[[国際連盟]]期における1920年の[[国際連盟規約]]11条、[[ジュネーブ議定書]]、[[ロカルノ条約]](1925年)、[[不戦条約]](1929年)などで戦争の違法化が合意されつつあったものの、侵略の定義化は非常に困難であった。[[オースティン・チェンバレン]]は侵略を定義すれば無実のものにとっては罠となり、侵略を企図する者にとっては抜け道を探すための基準となると述べ、その定義化に反対した{{sfn|日暮吉延|2011|pp=21}}。[[ラムゼイ・マクドナルド]]が「侵略の責任の帰着を判定するの能のある者は戦後五十年を経て筆を執る歴史家であって、開戦の際における政治家にあらず」と述べている{{sfn|日暮吉延|2011|pp=18}}。その後国際軍縮会議で一応の合意が見られたのは、国際条約上の義務を無視して開戦した場合に侵略とされるということであったが、条約違反の認定で相互に意見が異なるのは当然であり、問題が完全に決着したとは言い難い情況であった{{sfn|日暮吉延|2011|pp=19}}。 === リ卜ヴィノフ案 === 明文として侵略を定義した条約としては[[ソビエト連邦]]および周辺諸国を中心として締約された{{仮リンク|侵略の定義に関する条約|en|Litvinov's Pact}}が最初のものである(1933年7月3日署名、1933年10月16日発効)。これは1933年2月6日の[[ジュネーヴ軍縮会議]]でリ卜ヴィノフLitvinovは「侵略国に侵略の口実を与えないことが重要である」と演説で述べた<ref name="lv"/>。この条約案に示された侵略の事例としては,[[宣戦布告]]の場合のほかでも、宣戦せずに他国の領土に侵攻した場合,軍隊が他国の領土に発砲した場合,他国の船や航空機を故意に攻 撃した場合,他国の許可を得ず,または許可された条件を守らずに,他国の領土に軍隊が進駐した場合,湖岸や港を封鎖した場合などが挙げられた<ref name="lv">坂本清「[https://hdl.handle.net/2115/5180 小協商と対ソ承認問題, 1932-1934]」スラヴ研究, 36, 79-111,北海道大学スラブ研究センター</ref>。しかしこの条約自体は東欧圏を中心とした8カ国(のち9カ国)によるものにとどまり、国際的な承認を受けたものとは言いがたいものであった。 === 国際連合による侵略の定義の決議 === ==== 侵略の定義に関する決議 ==== {{main|侵略の定義に関する決議}} [[第二次世界大戦]]後、[[国際連合]]が発足した。[[朝鮮戦争]]に関する討議が行われている最中の1950年11月3日、[[ソビエト連邦]]代表は侵略の用件を列挙する形で侵略の定義の決議案を提出した。しかし列挙方式か、一般的抽象表現で行うかについて争いがあり、いずれの提案も成立しなかった{{sfn|土屋茂樹 |1981|pp=33}}。その後たびたび侵略の定義に関する特別委員会が設置されて討議が行われたが、結論が出たのは24年後の[[1974年]]になってからであり、[[12月14日]]に[[侵略の定義に関する決議|国際連合総会決議3314]]が成立した{{sfn|土屋茂樹 |1981|pp=33}}。 しかしこの総会決議による定義は各国に対する拘束力はなく、現在もある国家実行を侵略と認定するのは[[国際連合安全保障理事会]]に委ねられている。国連総会で侵略の定義についての一応の合意があったことは事実ではあるが、依然としてその解釈や有効性については争いがある。 ==== 国際刑事裁判所ローマ規程 ==== [[2010年]][[6月11日]]、[[カンパラ]]で開かれた[[国際刑事裁判所ローマ規程]]再検討会議において、国連総会決議3314を下地に規程独自の定義を盛り込んだ同規程の改正決議が[[採択]]された。同規程の改正は[[2012年]][[5月]]現在発効していないが、ローマ規程の[[国際刑事裁判所ローマ規程#締約国|締約国]](現在121カ国)に憲法上の手続きに則った批准を求める点で、これまでの国際条約の中で最も拘束力を持つ定義となる可能性がある。{{main|[[侵略犯罪#定義#抄訳|侵略犯罪]]}} [[国際刑事裁判所]](ICC)の管轄犯罪に関する[[国際刑事裁判所に関するローマ規程|ローマ規程]]で2010年に採択された「[[侵略犯罪|侵略犯罪(Crime of Aggression)]]」では、「国の政治的または軍事的行動を、実質的に管理を行うかまたは指示する地位にある者による、その性質、重大性および規模により、国際連合憲章の明白な違反を構成する侵略の行為の計画、準備、着手または実行」と定義される(第8条の2)。 == 日本国内での「侵略」をめぐる議論 == 日本は[[太平洋戦争]]において中国、[[東南アジア]]への侵攻を行い、[[東京裁判]]において侵略国家としての[[戦争責任]]を追及され、戦後70年を経ても[[日本の戦争謝罪]]や[[日本の戦争賠償と戦後補償]]を続けているが、侵略であるかにはまだ議論がある。 {{main|日本の戦争謝罪発言一覧}} 日本では、[[第一次教科書問題]]などの[[歴史教科書問題]]などで、「侵略」という用語をめぐる議論がされている。 === 共産圏国家の軍事行動を「進入」と表現する事例 === [[家永三郎]]は、1993年に検定申請した教科書『日本史B』において、朝鮮戦争に関する記述に「1950年(昭和25年)朝鮮民主主義人民共和国軍が統一を目指して'''[[南進]]'''し」とし、共産主義側の侵略(武力をもって他国に侵攻することは侵略である)を糊塗する「南進」という表現を用いている<ref>[[稲垣武]] 『「悪魔祓い」の戦後史 <small>進歩的文化人の言論と責任</small>』 文春文庫 [い-36-2] ISBN 4167365049、500p</ref>。このような例は、教師用の「指導の手引き」といった指導書にも見られ、[[秦郁彦]]が「ドイツについては『侵入』という言葉を使っているのに対して、同じことをやってもソ連は『進駐』という表現になる。それで日本となると『侵出』となる」という例を、[[藤岡信勝]]との対談の中で紹介している<ref>[[藤岡信勝]] 『「自虐史観」の病理』 文春文庫 [ふ-18-1] ISBN 4167196042、81p</ref>。また、[[関寛治]]はソ連による[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガン侵攻]]を「'''進攻'''」という字句で表現し<ref>[[関寛治]]「『冷戦の再開』と世界秩序の危機」『[[世界_(雑誌)|世界]]』、(稲垣、535-536p)</ref>、[[高木正幸]]は[[ハンガリー動乱]]について自著で触れる際、「ソ連軍によるハンガリー'''進入'''」と表現し<ref>[[高木正幸]] 『全学連と全共闘』 講談社現代新書 771 ISBN 4061457713、41p</ref>、[[坂本義和]]も「アフガニスタン侵入」と表現している{{refnest|group="注釈"|{{Quotation|それから、たとえばオリンピックの入場式で、選手団が行進しながら一斉に黒い喪章をかざしてアフガニスタン侵入に抗議する、しかもそれを多数の選手団が次々にしたら、それはテレビで全国放映されるわけで、劇的な効果があったでしょう。しかも本来政治的な目的できた人間がそれをするのであれば、効果が減殺されるでしょうが、よりぬきのスポーツ選手がそうした意思表示をしたとすれば、非常に有効性があったはずです。|[[坂本義和]] 『軍縮の政治学』 岩波新書 黄版203 ISBN 4004202035、105p}}}} また、[[神田文人]]は一般向け通史で以下のように記している<ref>神田文人 『昭和の歴史8 占領と民主主義 <small>焦土からの再生と独立への試練</small>』 小学館ライブラリー SL1028 ISBN 4094610286、15-16p(引用の際に[[漢数字]]を[[アラビア数字]]に変換している)</ref>。 {{Quotation|さらに78年6月、ベトナムがカンボジアに、同8月、中国がベトナムにそれぞれ進入し、79年12月、ソ連もアフガニスタンに進入するにおよんで、社会主義=平和勢力のイメージが崩壊し、「社会主義戦争」の呼称さえあらわれた。}} [[中宮崇]]は、『[[筑紫哲也 NEWS23]]』が映画『[[セブン・イヤーズ・イン・チベット]]』を紹介した際には、「この映画は中国による『自治権拡大』を描いた」というナレーションを流していると批判した<ref>[[中宮崇]] 『天晴れ! 筑紫哲也NEWS23』 文春新書 494 ISBN 4166604945、143-144p</ref>。 [[浅羽通明]]は、かつて[[家永教科書裁判]]の際には「国家権力による教育の統制である」と反対していた勢力が[[新しい歴史教科書をつくる会]]の採択阻止のために[[教科用図書検定|教科書検定]]に頼ったとし、その図式を「ダブルスタンダード」と批判した<ref>浅羽通明『右翼と左翼』 [[幻冬舎新書]] 001 ISBN 978-4344980006、236p</ref>。また[[稲垣武]]は、2001年2月21日の『朝日新聞』は「つくる会」教科書の白表紙本(検定中のものであり公表が禁じられている)の内容をあげつらい「中韓など反発必至」と報じているとし、こうした態度を新聞報道の倫理から逸脱していると批判した<ref>[[稲垣武]] 『新聞・テレビはどこまで病んでいるか <small>「靖国」「教科書」「小泉改革」報道他</small>』 小学館文庫 [い-23-1] ISBN 4094024565、47-48p</ref>。 === 侵略を「解放」とみなす事例 === [[入江曜子]]は、[[国旗及び国歌に関する法律|国歌国旗法]]制定以後の日本を、「日本は戦争で悪いことをしたのではなかったと短絡する人たちを輩出した」とした上で、その傾向はいま「侵略」を「'''[[解放]]'''」と言い換える口当たりのいい国家主義的方向へ収斂されつつあると述べている<ref>[[入江曜子]] 『日本が「神の国」だった時代 <small>国民学校の教科書をよむ</small>』 岩波新書 新赤版764 ISBN 4004307643、222p</ref>。 この「解放」という言葉は、[[共産主義]]陣営国家が[[自由主義]]陣営国家に対して侵略を行った際に使用してきた用語である。たとえば、[[中華人民共和国によるチベット併合|中華人民共和国によるチベット侵略]]を、中国側は「平和解放」と呼ぶ<ref>[[古田博司]] 『新しい神の国』 ちくま新書 684 ISBN 978-4480063861、68p</ref>。他に、[[小島晋治]]と[[丸山松幸]]は、「[[人民解放軍]]、[[チベット]]の[[ラサ]]に進駐」と記す<ref>[[小島晋治]]・[[丸山松幸]]『中国近現代史』[[岩波新書]]、[[1986年]]、ISBN 978-4004203360 17p</ref>。 [[家永三郎]]は教師用の指導資料{{refnest|group="注釈"|いわゆる[[教科書ガイド]]。教科書そのものと異なり、検定が存在しない}}で[[ベトナム戦争]]を「ベトナム人民の総決起により、ベトナム全土は'''解放'''され…前後して、カンボジア、ラオスも解放され…続いて南北ベトナムは統一され」と書いた<ref>[[秦郁彦]] 『現代史の争点』 文春文庫 [は-7-6] ISBN 4167453061、148p</ref>。 [[尹健次]]は、[[朝鮮戦争]]を北からの視点で見ると「祖国解放戦争」と呼び<ref>[[尹健次]]『きみたちと朝鮮』 岩波ジュニア新書 190 ISBN 4005001904、148p</ref>、[[油井大三郎]]は、朝鮮戦争が[[韓国]]が[[北朝鮮]]を侵略した「北侵」、もしくは韓国が北朝鮮に軍事挑発を行い、それに対して北朝鮮が反撃を加えた「南侵誘導」を示唆、北朝鮮による「解放戦争」「統一戦争」と主張し、朝鮮戦争が北朝鮮による侵略戦争であることを[[否認主義|否認]]した<ref>{{Cite |和書 |editor=歴史学研究会, 日本史研究会|title=「朝鮮戦争と片面講和」講座 日本歴史(11)|date=1985|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130250610}}</ref>。 [[南ベトナム解放民族戦線]]の略称は「ベトコン」であったが、これは[[蔑称]]であるともされた{{refnest|group="注釈"|ベトナム戦争が行われていた時に朝日新聞論説委員だった丸山静雄は、ベトコンという呼称が不当な蔑称であり本来であれば解放戦線と表記すべきであるが、そうすると「アカ」呼ばわりされる危険があり、世論の同情も薄れる可能性があるので、しばらくはそのままにしておいたと回想している<ref>[[水谷三公]] 『丸山真男 <small>ある時代の肖像</small>』 ちくま新書 484 ISBN 4480061843、49p</ref>。}}。[[阿奈井文彦]]は、1965年2月16日付の朝日新聞では「ベトコン」が紙面に使われていたが、[[本多勝一]]のルポルタージュ『戦場の村』以降、正式名称で書かれるようになったのではないかと回想している<ref>[[阿奈井文彦]] 『ベ平連と脱走米兵』 文春新書 126 ISBN 4166601261、102-104p</ref>{{refnest|group="注釈"|なお[[日本放送協会|NHK]]はこのベトコンという呼称を通し<ref>保岡裕之 『メディアのからくり <small>公平中立を謳う報道のウソを暴く</small>』 [[ベストセラーズ|ベスト新書]] 44 ISBN 4584120447、132-133p</ref>、保岡は「最後までこの蔑称を使用し、自民党政権と同じ立場に立つ『国営放送』的な報道に終始した」と述べている。脚注ではこの単語がベトナム共産主義者という意味を含んだ英語の俗称・蔑称、と書かれている。NHKはテレビ放送では最後までベトコン呼称を用いたことを本多勝一が書き残している<ref>[[本多勝一]] 『NHK受信料拒否の論理』 朝日文庫 [ほ-1-23] ISBN 4022606509、50p</ref>}}。なお、[[山本夏彦]]は実態は「解放戦線」ではなく「共産軍」であり、岩波書店も朝日をはじめとする大新聞もこの嘘で読者を欺いたと断じている<ref>[[山本夏彦]] 『私の岩波物語』 文春文庫 [や-11-11] ISBN 4167352117、28-29p</ref>)。 進歩的文化人が寄稿することが多い[[岩波書店]]{{refnest|group="注釈"|[[谷沢永一]]は同社が発行する雑誌『世界』を「進歩的文化人の一大拠点」と評している<ref>[[谷沢永一]] 『反日的日本人の思想 <small>国民を誤導した12人への告発状</small>』 PHP文庫 [た-5-12] ISBN 4569573274、206p</ref>}}が発行している国語辞典『[[広辞苑]]』でも同様の書き換えが見られる。広辞苑の各版を比較分析した水野靖夫によると、[[日英同盟]]の説明文は、初版では「ロシヤのアジアへの侵出」となっていたが、第2版以降では「ロシアのアジア進出」に書き換わっている。意図的なものなのである<ref>水野靖夫 『「広辞苑」の罠 <small>歪められた近現代史</small>』 [[祥伝社新書]] 350 ISBN 978-4396113506、85-86p。なお水野は、広辞苑は全体に共産主義に肩入れした記述が目に付くと指摘している。221p。また、教科書誤報事件という項目も「[[近隣諸国条項]]」という項目も存在していない。298p。</ref>。 なお、1968年に[[ソビエト連邦]]が[[チェコスロバキア]]を「[[ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻|解放]]」していた当時、ソ連国内で用いられていた歴史教科書では、[[アレクサンドル・スヴォーロフ]]元帥がフランス革命戦争に乗じて行った地中海・北イタリア遠征について「ギリシャの島々を解放し土地の人々に自由を保障した。……ナポリを解放し、凱歌をあげてローマに入城した。北イタリアを解放した後、スヴォーロフはパリへの行軍を準備した」と記述していた<ref>[[袴田茂樹]] 『ソ連 <small>誤解をとく25の視角</small>』 中公新書 857 ISBN 412100857X、164p</ref>。この「解放」という表現は日本国内にとどまらず、アメリカの著述家である[[マーティン・ガードナー]]も使用していた<ref>[[マーティン・ガードナー]] <small>[[市場泰男]]・訳</small> 『奇妙な論理 II <small>空飛ぶ円盤からユリ・ゲラーまで</small>』 [[現代教養文庫]] 1426(C-045) ISBN 4390114263、101-102p/『奇妙な論理 II <small>なぜニセ科学に惹かれるのか</small>』 [[ハヤカワ文庫#ハヤカワ文庫NF|ハヤカワ文庫NF]] 273 ISBN 978-4150502737、112-113p</ref>。 なお、共産党を離党した人物の中には、「チェコ侵略」と書くものもあった。[[安東仁兵衛]]である<ref>[[安東仁兵衛]] 『戦後 日本共産党私記』 文春文庫 [あ-26-1] ISBN 4167244039、235p</ref>。 また、{{要追加記述範囲|date=2022年3月|この誤報事件}}の当事者(火付け役)であり、最後まで謝罪も訂正も行わなかった当の朝日新聞は、1985年9月8日付社会面のコラム『残留孤児』で、「東洋の小国が世界の大帝国に勝った、と日本が酔いしれた日露戦争は、中国東北部(旧満洲)に進入したロシア軍に日本が『危機感』を持ち、起きた」と記している<ref>[[稲垣武]] 『朝日新聞血風録』 文春文庫 [い-36-1] ISBN 4167365030、114p</ref>。 === 戦争責任条項への批判 === [[長谷川三千子]]は、侵略という語はヴェルサイユ条約231条の戦争責任条項で「戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪」のレッテルとして登場した経緯があり、国際社会において法の支配ではなく力の支配を肯定し、国家の敵対関係をいつまでも継続させる概念であると指摘する<ref>『歴史を見る目歪める「北岡発言」』長谷川三千子(産経新聞「正論」2015.3.17)[https://www.sankei.com/article/20150317-QDKS5A7FH5LANN6OXAWHPF6E6Y/2/]</ref>。 == その他 == 二国間以上で正式に合意された[[条約]]などに基づき、他国による軍の駐留は侵略にあたらない。例えば[[在日米軍|アメリカによる日本各地での駐留軍]]は、[[日米安全保障条約]]に基づいて内外の了承を得ているもののため、日本への侵略行為には当たらない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} ==参考文献== * {{アジア歴史資料センター|A03021294200|御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)}} * {{Cite journal|和書|author=土屋茂樹|title=侵略の定義 : 国際連合における発展|format=PDF|journal=滋賀大学教育学部紀要. 人文科学・社会科学・教育科学|publisher=滋賀大学|issue=31|naid=110001031865|year=1981|pages=pp.33-38|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=日暮吉延|title=国際法における侵略と自衛 : 信夫淳平「交戦権拘束の諸条約」を読む|format=PDF|journal=法学論集|publisher=鹿児島大学|issue=45(2)|naid=40019193506|year= 2011|pages=pp. 1-41|ref=harv}} *[[石本泰雄]]「戦争と現代国際法」(高野雄一編『現代法と国際社会』1965、[[岩波書店]] *[[筒井若水]]『戦争と法』1976、東京大学出版会 *{{コトバンク}} ==関連項目== *[[侵攻]] *[[征伐]] *[[直接侵略]] - [[間接侵略]] *[[占領]] *[[拉致]] *[[新世界]] *[[先住民族]] *[[覇権主義]] *[[植民地主義]] *[[世界征服]] *[[民族浄化]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんりやく}} [[Category:戦争]] [[Category:国際法]] [[Category:侵略犯罪]] [[Category:民族浄化]] <!--外国語版は侵略戦争に相当する項目しかなく、直接に対応するものが無いようです。 [[en:Invasion]]ほかは、正義・不正義を問わない[[侵攻]]に相当する内容ゆえ削除しました。 [[en:Aggression]]ほかは、生物学などにおける[[攻撃行動]]の内容ゆえ不適当です。-->
2003-03-24T19:45:35Z
2023-12-07T02:10:11Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%B5%E7%95%A5
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天理市
天理市(てんりし)は、奈良県北中部に位置する市。中心部に天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市として知られている。名称は天理教に由来する。 奈良県北中部に位置する。市域を東西に西名阪自動車道、名阪国道が貫き、南北軸と交わる交通の要衝となっている。 奈良県を参照。 昭和60年代の人口統計(1986年9月時点)で天理市の人口は約65,000人であったが、4分の1程度の天理市民が天理教の宗教関係者とみられている。天理教の信者が多い町でその他の住民人口に数千人の天理教の修養科生などが含まれると考えられる。 市街地のほぼ半分を天理教関係の宗教用非課税施設が占めることから、固定資産税などの減収の問題があり、これを補う形で1967年以来教団から天理市への多額の寄付が続けられている。寄付の金額は、1985年の水準でみると、天理市の総地方税収に近い額となっており、一般寄付ではなく、使途制限つきの「指定寄付」にあたる形で、毎年の予算編成の際に天理市と教団の協議の上で、その年度の都市計画事業などの内容によって寄付額が決められている。また、10年ごとに開催される天理教祖祭に近い年度では、寄付金が急激に増える傾向がある。 このように、天理市は教団との関係なくして自治体として維持できず、天理市は教団と一体化した天理市の発展を強調しているが、天理教本部では市長選挙、市議会議員選挙で候補者を立てない方針をとっており、教団と自治体が一体化し、教団が行政の一部を担って信者を住民として統治するような事態には至っていない。 天理教の2代真柱・中山正善が、1960年(昭和35年)に名誉市民となっている。 命名の背景には天理教会の存在があり、名称は天理教に由来する。21世紀の日本で、市名に宗教団体の名称が使われている唯一の市である。同教の本部が市中心部の丹波市町にあったこと、同教が市制施行時に一帯に普及していたことによる。県に対する合併申請書類の一つ、市名選定の理由書は、次のように述べている。 天理市は誕生時から自らを「宗教文化都市」と位置付け、市民憲章や世界連邦都市宣言などでもその性格を強調している。法学者の石村耕治は、この点は憲法論的に疑問がないとは言えないと指摘している。1977年に奈良県・天理市・天理商工会が作成した「天理市広域商業判断報告書」では、天理市はバチカンやメッカのような日本唯一の宗教都市であるとし、教団と一体化した天理市の発展を強調している。 かつて、天理市民ではない天理教信徒が天理市の市名を、山辺郡をそのまま市名にした「山辺市」に変更するよう求めて天理市長を訴えたが、この訴えは却下された。 市内中心地には、宗教法人天理教教会本部、宗教法人天理教、財団法人天理教維持財団、天理大学、天理医療大学(天理大学に併合)、天理高等学校・中学校・小学校・幼稚園などの学校法人、天理教校、天理大学附属天理図書館(国宝や重要文化財を収蔵)、天理大学附属天理参考館(国宝や重要文化財を収蔵)、特別養護老人ホームやすらぎ園等の教団関連施設があり、市中心部のほぼ半分を占有し、1995年時点では拡大を続けている。施設の中には市民に開放されているものがあるが、ほとんどは信徒向けである。現在の建物は、信者宿泊施設の「詰所」をはじめ、天理よろづ相談所病院など福祉と医療、学校教育、信者の宿泊、教務などの諸施設として使用されている。2014年(平成26年)時点で、26棟が完成している。 天理教の施設群は「おやさとやかた」と呼ばれ、町の中心部に建物群を作るプランは、教祖の中山みきの言葉がまずあり、それを受けた2代目真柱・中山正善が決意し 、同輩の建築家・内田祥三と奥村音造とともに教会本部を中心に、約870m四方に68棟を建て巡らすという広大な「おやさとやかた構想」によって建設された。1954年(昭和29年)から着工され、現在も構想は継続しており、建設中である。 このように、天理市内で教団が多くの土地を占有することから、公共事業には天理教との協力が欠かせず、市建設部と教会本部で構成される「親里委員会」が設置され、協議を行って進められている。天理教幹部と市長・助役・総務部長の非公式会合も、毎月持たれているようであり、法学者の石村耕治は「天理市の都市計画は、市発足当初から今日まで一貫して教団の手中にあったといっても過言ではない」と指摘している。 その他の建造物に、天理教の教祖百年祭を記念し建設された親里競技場があり、野球場、フィールドホッケー場、ラグビー場は地元の天理高等学校野球部、天理大学ラグビー部が使用している他に、各種大会や全国大会が開催されている。 こどもおぢばがえりと称する天理教の祭りが、毎年開催されている。 市の中心部には天理教関連の施設が多く、宗教都市の様相を呈しているが、市全体的には農業地帯である。 特にいちごの栽培が盛んである。 人口増に対応した商業活動も活発であり、大型ショッピングセンターも設置された。 また、「天理ラーメン」という、ひとつのジャンルとなった、トンコツ、鶏ガラをベースにニンニク、豆板醤で味付けされ、具には炒めた白菜、豚肉を使用した彩華ラーメンや、天理スタミナラーメンが有名である。 市北部にはシャープの総合開発センターがあり、研究所およびLSI・液晶ディスプレイの工場が置かれている。 大阪から電車、車で1時間程度の距離であることから、ベッドタウンとしての役割を担っており、特に近鉄天理線沿いを中心に新興住宅地が現在も拡大し続けている。 奈良県農業協同組合(JAならけん) 上記の各支店・出張所、およびイオンタウン天理内にJAバンクATMが設置されている。 (※2014年6月現在) 日本郵便株式会社 ゆうちょ銀行 その他簡易郵便局を除く各郵便局にATMが設置されており、天理・天理親里館の各郵便局ではホリデーサービスを実施。 天理市内の郵便番号は「632-00xx」(天理郵便局の集配担当)となっている。ただし、長滝町は「632-0123」、福住町は「632-0122」、山田町は「632-0121」(以上3地区は針ケ別所郵便局(奈良市針ケ別所町)の集配担当)となっている。 1990年代後半 - 2000年代前半に掛けては増減が激しい時期があったが、近年は微減傾向である。 小学校 中学校 高等学校 大学 ホール・集会場 公民館 図書館 体育施設 奈良市、桜井市、大和郡山市、磯城郡田原本町、三宅町、川西町 このほか、当市北部の大和郡山市に近い地域では大和郡山市コミュニティバス「元気治道号」の伊豆七条町・伊豆七条町セレモニー琴前・新庄町各停留所も利用可能となっており、近鉄郡山駅・JR郡山駅へアクセスできる。 また、当市南部の桜井市に近い地域では桜井市コミュニティバス「西北部循環線」の大豆越停留所が利用可能となっており、桜井駅へアクセスできる。 文化財や史跡が散在。 天理中学校・天理高等学校・天理大学出身。2014年10月10日 天理市が委嘱。
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天理市(てんりし)は、奈良県北中部に位置する市。中心部に天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市として知られている。名称は天理教に由来する。
{{日本の市 | 画像 = Tenri montage.JPG | 画像の説明 = <table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td>[[天理教]]本部<td>[[天理高等学校]]</tr> <tr><td>[[山の辺の道]]<td>[[龍王山城]]石碑</tr> <tr><td colspan="2">[[天理大学附属天理参考館]]</tr> </table><br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=shape-inverse|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}} | 市旗 = [[ファイル:Flag of Tenri, Nara.svg|100px|天理市旗]] | 市旗の説明 = 天理[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Tenri, Nara.svg|75px|天理市章]] | 市章の説明 = 天理[[市町村章|市章]]<br />[[1954年]][[9月24日]]制定 | 自治体名 = 天理市 | 都道府県 = 奈良県 | コード = 29204-4 | 隣接自治体 = [[奈良市]]、[[桜井市]]、[[大和郡山市]]、[[磯城郡]][[田原本町]]、[[三宅町]]、[[川西町 (奈良県)|川西町]] | 木 = [[イチョウ]] | 花 = [[ウメ]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 632-8555 | 所在地 = 天理市川原城町605番地<ref>[https://en3-jg.d1-law.com/tenri/d1w_reiki/H329901010001/H329901010001.html 天理市役所の位置に関する条例]</ref><br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-29|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Tenri City Hall.JPG|250px |center]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|29|204|image=Tenri in Nara Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項 = }} '''天理市'''(てんりし)は、[[奈良県]]北中部に位置する[[市]]。中心部に[[天理教]]関連の施設が集中していることなどから、[[宗教都市]]として知られている<ref name="聖地秘密98">{{Cite book|和書|author=島田裕巳|authorlink=島田裕巳|year=2011|month=6|title=聖地にはこんなに秘密がある|publisher=[[講談社]]|page=98|isbn=978-4-06-216475-7}}</ref>。名称は天理教に由来する。 == 地理 == [[File:Tenri city center area Aerial photograph.2008.jpg|thumb|280px|天理市中心部周辺の空中写真。<br/>2008年5月15日撮影の9枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 奈良県北中部に位置する。市域を東西に[[西名阪自動車道]]、[[名阪国道]]が貫き、南北軸と交わる交通の要衝となっている。 === 気候 === [[奈良県]]を参照。 == 歴史 == * [[1954年]]([[昭和]]29年)[[4月1日]] - [[山辺郡]][[丹波市町]]・[[朝和村]]・[[福住村 (奈良県)|福住村]]・[[二階堂村]]・[[添上郡]][[櫟本町]]・[[磯城郡]][[柳本町]]が合併して'''天理市'''が発足。[[奈良県]]下で4番目の市となる。 * [[1954年]](昭和29年)[[9月24日]] - 市章を制定<ref>{{Cite book|和書|editor=小学館辞典編集部|edition= 初版第1刷 |date=2007-01-10|title=図典 日本の市町村章 |page=165 |publisher=[[小学館]]|isbn=4095263113}}</ref>。 * [[1958年]](昭和33年)[[10月15日]] - 磯城郡[[田原本町]]の一部([[大字]]桧垣・遠田・海知・武蔵)を編入。 === 市域の変遷 === {| class="wikitable" |- ! 明治22年<br>(1889) !! 明治26年<br>(1893) !! 明治27年<br>(1894) !! 大正12年<br>(1923) !! 昭和29年<br>(1954) !! 現在 |- | bgcolor="#B3424A" style="color:white" colspan="6" align="center" |奈良県 |- | bgcolor="#C05800" style="color:white" align="center" colspan="4"|山辺郡|| colspan="2" rowspan="9"|'''天理市''' |- | 山辺村|| colspan="3" |丹波市町 |- | colspan="4" |二階堂村 |- | colspan="4" |朝和村 |- | colspan="4" |福住村 |- | bgcolor="#C05800" style="color:white" align="center"|式上郡|| bgcolor="#C05800" style="color:white" align="center" colspan="3"|磯城郡 |- | colspan="3"|柳本村|| 柳本町 |- | bgcolor="#C05800" style="color:white" align="center" colspan="4" |添上郡 |- | colspan="2" |櫟本村|| colspan="2" |櫟本町 |- |} == 天理市と天理教 == 昭和60年代の人口統計(1986年9月時点)で天理市の人口は約65,000人であったが、4分の1程度の天理市民が天理教の宗教関係者とみられている。天理教の信者が多い町でその他の住民人口に数千人の天理教の修養科生などが含まれると考えられる{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。 市街地のほぼ半分を天理教関係の宗教用非課税施設が占めることから、固定資産税などの減収の問題があり、これを補う形で1967年以来教団から天理市への多額の寄付が続けられている{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。寄付の金額は、1985年の水準でみると、天理市の総地方税収に近い額となっており、一般寄付ではなく、使途制限つきの「指定寄付」にあたる形で、毎年の予算編成の際に天理市と教団の協議の上で、その年度の都市計画事業などの内容によって寄付額が決められている{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。また、10年ごとに開催される天理教祖祭に近い年度では、寄付金が急激に増える傾向がある{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。 このように、天理市は教団との関係なくして自治体として維持できず、天理市は教団と一体化した天理市の発展を強調しているが、天理教本部では市長選挙、市議会議員選挙で候補者を立てない方針をとっており、教団と自治体が一体化し、教団が行政の一部を担って信者を住民として統治するような事態には至っていない{{sfn|石村|1995|pp=380-382}}。 天理教の2代[[真柱]]・[[中山正善]]が、[[1960年]](昭和35年)に[[名誉市民]]となっている。 === 市名の由来 === 命名の背景には天理教会の存在があり{{sfn|石村|1995|pp=380-382}}、名称は[[天理教]]に由来する。[[21世紀]]の日本で、市名に宗教団体の名称が使われている唯一の市である<ref group="注">地方自治体名としては、過去に[[金光教]]本部の所在地であることに由来する[[金光町]]が[[岡山県]][[浅口郡]]に存在したが、合併で[[浅口市]]となったことに伴い消滅している。私的団体に由来する市名としても、他に現存するのは[[愛知県]][[豊田市]]([[トヨタ自動車]]に由来。旧称・挙母市)のみである。過去の例としては、[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]で[[郡上市]]となった旧[[明宝村]]の例がある(元は明方村であったが、村おこしの[[明宝ハム]]の商品名に合わせ、明宝村に村名を変更していた)。[[日野自動車]](トヨタ自動車系)がある[[日野市]](設立時は日野町)や、[[日立製作所]]の所在する[[日立市]](設立当時は日立村)は、企業が地名を社名に取り入れたものである。</ref>。同教の本部が市中心部の[[丹波市町]]にあったこと、同教が[[市制]]施行時に一帯に普及していたことによる。県に対する合併申請書類の一つ、市名選定の理由書は、次のように述べている。 {{cquote|(前略)市の中心たる元丹波市町は天理教教会本部の所在地であり従来より天理の町として又宗教の町としてその名は全国の隅々にまで知れわたつております。<br />'''この際合併を契機として宗教都市たる本質を明瞭に表現し'''関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく住民の意向や感情を勘案してこゝに「天理市」を選定したものであります。}} 天理市は誕生時から自らを「宗教文化都市」と位置付け、市民憲章や世界連邦都市宣言などでもその性格を強調している{{sfn|石村|1995|pp=380-382}}。法学者の石村耕治は、この点は憲法論的に疑問がないとは言えないと指摘している{{sfn|石村|1995|pp=380-382}}。1977年に奈良県・天理市・天理商工会が作成した「天理市広域商業判断報告書」では、天理市はバチカンやメッカのような日本唯一の宗教都市であるとし、教団と一体化した天理市の発展を強調している{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。 かつて、天理市民ではない天理教信徒が天理市の市名を、山辺郡をそのまま市名にした「山辺市」に変更するよう求めて天理市長を訴えたが、この訴えは却下された<ref>奈良地裁昭和51年(行ウ)第2号市名変更請求事件、[[1976年]](昭和51年)9月27日判決(天理市民でない者が,天理市がその市名に特定宗教団体の名称を借用していることは憲法20条に反しているとして,天理市の市名を山の辺市に変更することを求めたところ,「原告には権利保護要件(訴権),当事者適格及び義務づけ訴訟提起の法律上の利益がない」などとする被告の翻案前答弁を引用し,同訴えを不適法却下した事案。)。「A市という市名をB市に変更せよとの訴えが不適法として却下された事例」『判例時報』(第836号pp. 47&ndash;48、1977年2月11日)参照。</ref>。 === 天理教関連施設群と都市計画 === [[ファイル:Tenri sanko-kan01s3200.jpg|thumb|250px|市街地に林立する天理教独自の建築物「おやさとやかた」の例(天理参考館)]] 市内中心地には、宗教法人天理教教会本部、宗教法人天理教、財団法人天理教維持財団、[[天理大学]]、[[天理医療大学]](天理大学に併合)、[[天理高等学校]]・中学校・小学校・幼稚園などの学校法人、天理教校、[[天理大学附属天理図書館]]([[国宝]]や[[重要文化財]]を収蔵)、[[天理大学附属天理参考館]](国宝や重要文化財を収蔵)、特別養護老人ホームやすらぎ園等の教団関連施設があり、市中心部のほぼ半分を占有し、1995年時点では拡大を続けている{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。施設の中には市民に開放されているものがあるが、ほとんどは信徒向けである{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。現在の建物は、信者宿泊施設の「詰所」をはじめ、[[天理よろづ相談所病院]]など福祉と医療、学校教育、信者の宿泊、教務などの諸施設として使用されている<ref name="tenri" />。[[2014年]](平成26年)時点で、26棟が完成している<ref>[http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/ojibagaeri/shisetsu/oyasatoyakata/ 天理教公式サイト「おやさとやかた」]</ref>。 天理教の施設群は「おやさとやかた」と呼ばれ、町の中心部に建物群を作るプランは、教祖の[[中山みき]]の言葉<ref group="注">「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで。」</ref><ref name="tenri">{{Cite journal |author = 森進 |date = 2009-10 |title = 「おぢば帰りの行為と意味」(中) - 「ぢば」,「やしき(屋敷)」,「親里」の呼称と意味;「おぢば帰り」,「お屋敷帰り」,「おやざとまいり(親ザト参リ)」の呼称と意味 - |journal = Tenri University journal |volume = 61 |issue = 1 |page = |pages = "pages = 27-28" |publisher = 天理大学学術研究委員会 |location = |issn = |doi = |naid = 40016894897 |pmid = |id = |url = https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2300/GKH022202.pdf |format = pdf|accessdate = 2015-08-23 |quote = }}</ref>がまずあり、それを受けた2代目真柱・[[中山正善]]が決意し <ref group="注">「神のやかたであるところの元のぢば、その元のぢばを取り囲む子供の住居たるおやさとやかたをめぐらしまして、ここに親も子も共々に、神も人も共々に一つ心になって、陽気ぐらしの実を、否、世界の平和の雛型を進めて行き度い」</ref>、同輩の建築家・[[内田祥三]]と奥村音造とともに教会本部を中心に、約870m四方に68棟を建て巡らすという広大な「おやさとやかた構想」によって建設された。[[1954年]](昭和29年)から着工され、現在も構想は継続しており、建設中である。 このように、天理市内で教団が多くの土地を占有することから、公共事業には天理教との協力が欠かせず、市建設部と教会本部で構成される「親里委員会」が設置され、協議を行って進められている{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。天理教幹部と市長・助役・総務部長の非公式会合も、毎月持たれているようであり、法学者の石村耕治は「天理市の都市計画は、市発足当初から今日まで一貫して教団の手中にあったといっても過言ではない」と指摘している{{sfn|石村|1995|pp=380-381}}。 その他の建造物に、天理教の教祖百年祭を記念し建設された[[親里競技場]]があり、野球場、フィールドホッケー場、ラグビー場は地元の天理高等学校野球部、天理大学ラグビー部が使用している他に、各種大会や全国大会が開催されている。 === 祭り === [[天理教#こどもおぢばがえり|こどもおぢばがえり]]と称する天理教の祭りが、毎年開催されている。 == 行政 == * 市長:[[並河健]] ([[2013年]][[10月28日]]就任、3期目) === 歴代市長 === {| class="wikitable" |- ! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考 |- | 初代 || [[中島賢蔵]] || [[1954年]]4月 || || |- | 2代 || 北沢善之 || [[1957年]] || || |- | 3代 || [[堀内俊夫]] || [[1966年]]5月 || 1976年 || 参院選出馬のため辞職 |- | 4代 || [[尾崎喜代房]] || [[1976年]]9月 || || |- | 5代 || [[前川尭]] || [[1988年]]8月 || 1992年4月1日 || 辞職<ref>[https://web.archive.org/web/20200921072126/https://daihanrei.com/l/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%20%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%94%E5%B9%B4%EF%BC%88%E8%A1%8C%E3%82%A6%EF%BC%89%EF%BC%95%E5%8F%B7%20%E5%88%A4%E6%B1%BA 奈良地方裁判所 平成4年(行ウ)5号 判決 - 大判例]</ref> |- | 6代 || [[市原文雄]] || [[1992年]]5月 || 2001年9月10日 || 受託収賄容疑で逮捕され辞職 |- | 7代 || [[南佳策]] || [[2001年]]10月28日 || 2013年10月27日 || |- | 8代 || [[並河健]] || [[2013年]]10月28日 || 現職 || |} == 議会 == === 天理市議会 === * 定数:16名<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.tenri.nara.jp/shisei/senkyo/1390883096606.html|title=選挙の種類と任期|accessdate=2019年5月6日|publisher=天理市}}</ref> * 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日<ref>[http://www.pref.nara.jp/2875.htm 奈良県 任期満了日一覧]</ref> * 議長:大橋基之 * 副議長:東田匡弘 * 監査委員:加藤嘉久次 {| class="wikitable" ! 会派名 !! 議席数 !! 議員名(◎は幹事長) |- | 清風会 || align="right" | 9 || ◎飯田和男、堀田佳照、廣井洋司、三橋保長、市本貴志、東田匡弘、内田智之、大橋基之、中西一喜 |- | 創生 || align="right" | 4 || ◎寺井正則、鳥山淳一、今西康世、仲西敏 |- | 創造未来 || align="right" | 4 || ◎佐々岡典雅、岡部哲雄、加藤嘉久次、榎堀秀樹 |- | 無会派 || align="right" | 1 || 荻原文明 |} === 奈良県議会 === * 定数:2人 * 選挙区:天理市選挙区 * 任期:2015年(平成27年)4月30日 - 2019年(平成31年)4月29日 {| class="wikitable" |- !議員名!!会派名!!当選回数 |- | 岩田国夫 || 自民党奈良 || align="center" | 5 |- | 川口延良 || 自民党絆 || align="center" | 1 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[奈良県第2区|奈良2区]]([[奈良市]](旧[[都祁村]]域)、[[大和郡山市]]、天理市、[[香芝市]]、[[山辺郡]]、[[生駒郡]]、[[磯城郡]]、[[北葛城郡]]) * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:383,875人 * 投票率:58.69% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[高市早苗]] || align="center" | 60 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 141,858票 || align="center" | ○ |- | || 猪奥美里 || align="center" | 41 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || align="right" | 54,326票 || align="center" | ○ |- | || 宮本次郎 || align="center" | 46 || [[日本共産党]] || align="center" | 新 || align="right" | 23,285票 || |} == 経済 == === 産業 === 市の中心部には天理教関連の施設が多く、宗教都市の様相を呈しているが、市全体的には農業地帯である。 特に[[いちご]]の栽培が盛んである。 人口増に対応した商業活動も活発であり、大型ショッピングセンターも設置された。 また、「[[天理ラーメン]]」という、ひとつのジャンルとなった、[[トンコツ]]、[[鶏ガラ]]をベースに[[ニンニク]]、[[豆板醤]]で味付けされ、具には炒めた[[ハクサイ|白菜]]、[[豚肉]]を使用した[[彩華ラーメン]]や、[[天理スタミナラーメン]]が有名である。 市北部には[[シャープ]]の総合開発センターがあり、研究所および[[LSI]]・[[液晶ディスプレイ]]の工場が置かれている。 === 新興住宅地 === 大阪から電車、車で1時間程度の距離であることから、[[ベッドタウン]]としての役割を担っており、特に[[近鉄天理線]]沿いを中心に[[新興住宅地]]が現在も拡大し続けている。 === 企業 === * [[ファーストグループ (自動車整備業)|天理興業]] * [[林一二|センタン]] 天理工場 * [[シャープ]] 総合開発センター(施設内にシャープミュージアムがある。ただし、新製品などの研究所内のため事前予約制である。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sharp.co.jp/corporate/showroom/tenri/|title=展示施設のご案内|work=シャープ|accessdate=2013-06-12}}</ref>) * [[彩華]] * [[天理スタミナラーメン|なかい]](天理スタミナラーメン) * [[三原食品]] * 近藤豆腐店 * 大和農園 * 坂本金属工業 * 春日台カントリークラブ * [[天理総合運輸]] === 金融機関 === * [[南都銀行]] 天理支店(川原城町)、天理南支店(柳本町) * [[りそな銀行]] 天理支店(川原城町) * [[奈良信用金庫]] 天理支店(田部町) * [[大和信用金庫]] 天理支店(川原城町)、櫟本支店(櫟本町) === 農業協同組合 === '''[[奈良県農業協同組合]]'''(JAならけん) * 二階堂支店・天理営農経済センター(前栽町) ** 福住出張所(福住町) * 櫟本支店(櫟本町) * 天理支店(川原城町) * 朝和支店(成願寺町) * 柳本支店(柳本町) 上記の各支店・出張所、および[[イオンタウン天理]]内にJAバンクATMが設置されている。 === 日本郵政グループ === (※2014年6月現在) '''[[日本郵便|日本郵便株式会社]]''' {{表2列| * [[天理郵便局]](川原城町) - 集配局。 * 二階堂郵便局(二階堂北菅田町) * 天理前栽郵便局(杉本町) * 天理櫟本郵便局(櫟本町) * 天理別所郵便局(別所町) * 天理親里館(おやさとやかた)郵便局(三島町) | * 天理丹波市郵便局(丹波市町) * 天理朝和郵便局(西長柄町) * 天理三昧田(さんまいでん)郵便局(三昧田町) * 柳本郵便局(柳本町) * 天理福住(ふくすみ)郵便局(福住町) * 山田簡易郵便局(山田町) }} '''[[ゆうちょ銀行]]''' * 大阪支店 天理よろづ相談所内出張所(三島町)(ATMのみ/ホリデーサービス実施) * 大阪支店 イオンタウン天理内出張所(東井戸堂町)(ATMのみ/ホリデーサービス実施) その他簡易郵便局を除く各郵便局にATMが設置されており、天理・天理親里館の各郵便局ではホリデーサービスを実施。 天理市内の郵便番号は「'''632-00xx'''」(天理郵便局の集配担当)となっている。ただし、長滝町は「'''632-0123'''」、福住町は「'''632-0122'''」、山田町は「'''632-0121'''」(以上3地区は針ケ別所郵便局([[奈良市]]針ケ別所町)の集配担当)となっている。 == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === * なし === 海外 === * {{Flagicon|CHI}} [[ラ・セレナ]]市([[チリ|チリ共和国]][[コキンボ州]]) - [[1966年]](昭和41年)10月1日提携 * {{Flagicon|BRA}} [[バウル]]市([[ブラジル|ブラジル連邦共和国]][[サンパウロ州]]) - [[1970年]](昭和45年)4月18日提携 * {{Flagicon|KOR}} [[瑞山市]]([[大韓民国]][[忠清南道]]) - [[1991年]](平成3年)11月7日提携 == 地域 == === 人口 === {{人口統計|code=29204|name=天理市|image=Population distribution of Tenri, Nara, Japan.svg}} [[ファイル:Tenri-jinkou.gif|天理市の人口]] * データ出典 [http://www.pref.nara.jp/pro/toukei/ 奈良県統計課]の調査による各年10月1日の人口。 * [[2007年]](平成19年)10月1日現在 : 70,759人 * 人口増加率(2002年→2007年) : -2.1% [[1990年代]]後半 - [[2000年代]]前半に掛けては増減が激しい時期があったが、近年は微減傾向である。 === 学校教育 === '''小学校''' * [[天理市立丹波市小学校]] * [[天理市立山の辺小学校]] * [[天理市立井戸堂小学校]] * [[天理市立前栽小学校]] * [[天理市立二階堂小学校]] * [[天理市立朝和小学校]] * [[天理市立福住小学校]] * [[天理市立櫟本小学校]] * [[天理市立柳本小学校]] * [[天理小学校]] '''中学校''' * [[天理市立北中学校]] * [[天理市立南中学校]] * [[天理市立福住中学校]] * [[天理市立西中学校]] * [[天理中学校]] '''高等学校''' * [[奈良県立添上高等学校]] * [[奈良県立二階堂高等学校]] * [[天理教校学園高等学校]](2023年閉校) * [[天理高等学校]] '''大学''' * [[天理大学]] === 社会教育 === '''ホール・集会場''' * 天理市文化センター * 天理市福祉センター '''公民館''' {{表2列| * 朝和公民館 * 櫟本公民館 * 井戸堂公民館 * 式上公民館 * 祝徳公民館 * 前裁公民館 | * 丹波市公民館 * 東部公民館 * 二階堂公民館 * 福住公民館 * 柳本公民館 * 山田公民館 }} '''図書館''' * 天理市立図書館 * [[天理大学附属天理図書館]] '''体育施設''' * 長柄総合運動公園 * 天理市立三島体育館 * 天理市立二階堂体育館 * 天理市立二階堂運動場 * 天理市立白川ダム運動場 * 天理市立福住運動場 * 天理市立天理ダム運動場 * 温水プール(コナミスポーツ天理) * [[親里競技場]](ラグビー場、野球場、フィールドホッケー場 天理教本部運営) === 警察 === * [[天理警察署]] === 消防 === * [[奈良県広域消防組合]]天理消防署 * 天理教保安室消防掛・境内掛 === 市外局番 === * [[日本の市外局番|市外局番]]は市内全域で'''0743'''(奈良[[単位料金区域|MA]])が使用される<ref>[http://www.denpa-data.com/annex/telephone/0607.htm 市外局番一覧(06・07:近畿・北陸地方)]</ref>。 ** 市外局番が同じ0743の地域ならびに0742の奈良市とは、市内料金での通話が可能である。 == 隣接する自治体 == === 奈良県 === [[奈良市]]、[[桜井市]]、[[大和郡山市]]、磯城郡[[田原本町]]、[[三宅町]]、[[川西町 (奈良県)|川西町]] == 交通 == === 鉄道 === * 中心となる駅 ** [[天理駅]] * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) ** [[桜井線]](万葉まほろば線) [[櫟本駅]] - 天理駅 - [[長柄駅]] - [[柳本駅]] * [[近畿日本鉄道]](近鉄) ** [[近鉄天理線|天理線]] [[二階堂駅]] - [[前栽駅]] - 天理駅 === バス === *'''[[奈良交通]]''' *'''天理市コミュニティバス「いちょう号」''' *'''天理市デマンドタクシー「ぎんなん号」''' *'''天理市・奈良トヨタグループ AIルートバス「チョイソコてんり」''' このほか、当市北部の大和郡山市に近い地域では'''大和郡山市コミュニティバス「元気治道号」'''の伊豆七条町・伊豆七条町セレモニー琴前・新庄町各停留所も利用可能となっており、[[近鉄郡山駅]]・JR[[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]]へアクセスできる。 また、当市南部の桜井市に近い地域では'''桜井市コミュニティバス「西北部循環線」'''の大豆越停留所が利用可能となっており、[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]へアクセスできる。 === 道路 === ==== 高速道路・有料道路 ==== * [[西名阪自動車道]] ** [[天理インターチェンジ|天理IC]] ==== 一般国道 ==== * [[名阪国道]] ** 天理IC - [[天理東インターチェンジ|天理東IC]] - (五ヶ谷IC - 高峰SA) - [[福住インターチェンジ|福住IC]] *: 五ヶ谷IC・高峰SAは奈良市に存在 * [[京奈和自動車道]] ** [[郡山南インターチェンジ (奈良県)|郡山南IC]] **: 名称は「郡山」と付いているが、天理市二階堂北菅田町に存在 * [[国道24号]] * [[国道25号]]…途中で名阪国道と下道に分かれる。 * [[国道169号]] ==== 主要地方道 ==== * [[奈良県道36号天理王寺線]] * [[奈良県道38号桜井都祁線]] *: 当市内は僅か300mほどしか通過しない。 * [[奈良県道・京都府道47号天理加茂木津線|奈良県道47号天理加茂木津線]] * [[奈良県道50号大和高田桜井線]] *: 当市内は僅か500mほどしか通過しない。 * [[奈良県道51号天理環状線]] ==== 一般県道 ==== * [[奈良県道145号櫟本停車場線]] * [[奈良県道109号天理斑鳩線]] * [[奈良県道150号柳本停車場線]] * [[奈良県道186号福住矢田原線]] * [[奈良県道187号福住上三橋線]] * [[奈良県道192号福住横田線]] * [[奈良県道193号筒井二階堂線]] * [[奈良県道196号柳本田原本線]] * [[奈良県道247号笠天理線]] * [[奈良県道267号横川三昧田線]] * [[奈良県道・三重県道781号都祁名張線|奈良県道781号都祁名張線]] *: 起点付近のみ通過する。 == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == === 名所・旧跡 === [[ファイル:Ryuousanjo01.jpg|thumb|龍王山城の石碑]] 文化財や史跡が散在。 * [[山の辺の道]] - 日本最古の道 * [[崇神天皇]]陵 * [[景行天皇]]陵 * [[手白香皇女]]衾田陵([[西殿塚古墳]]) * [[櫛山古墳]] * [[黒塚古墳]] ** [[天理市立黒塚古墳展示館]] * [[西山塚古墳]] * [[東大寺山古墳]] * [[赤土山古墳]] * [[西山古墳]] * [[行燈山古墳]] * [[渋谷向山古墳]] * [[石上神宮]] - [[官幣大社]]、[[二十二社]] * [[大和神社]] - 官幣大社、二十二社 * 氷室神社 * [[夜都岐神社]] * [[長岳寺]] * [[内山永久寺]] * [[龍王山城]] * [[福住中定城]] === 天理市PR大使([[観光大使]]) === * [[辻本美博]]([[ミュージシャン]]・[[カルメラ (バンド)|カルメラ]]の[[サクソフォーン|サックス]]・[[クラリネット]]奏者) [[天理中学校]]・[[天理高等学校]]・[[天理大学]]出身。2014年10月10日 天理市が委嘱。 == 著名な出身者 == * [[有本尚紀]](テニス選手) * [[在原業平]](平安時代の歌人) * [[海原かなた]](漫才師) * [[熊谷俊人]](政治家) * [[佐々木幹郎]](詩人) * [[佐々木六華]](アナウンサー) * [[リップサービス|せやろがいおじさん(榎森耕助)]](YouTuber、お笑い芸人) * [[立川理道]](ラグビー選手) * [[中山平八郎]](政治家) * [[中井久夫]](医学博士) * [[中西彩]](アーチェリー選手) * [[中山みき]](天理教教祖) * [[真鶴秀五郎]](大相撲力士) * [[道上龍]](レーシングドライバー) * [[村上和雄]](農学博士) * [[森田澄]](ラグビー選手) * [[ハイビスカスみぃ]](プロレスラー) * [[山村聰]](俳優) *[[菅野完]](著述家) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=石村耕治|chapter=宗教集団による自治体支配の法的問題 -ラジニーシプラム市事件を素材として- |title =アメリカ連邦税財政法の構造 |publisher=法律文化社|year=1995|ref={{Harvid|石村|1995}} }} * {{Cite book|和書|author=島田裕巳|authorlink=島田裕巳|year=2011|month=6|title=聖地にはこんなに秘密がある|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-216475-7|ref=島田、聖地秘密}} * {{Cite journal|和書|journal=[[史学雑誌]]|title=「宗教都市」天理市の誕生 : その問題点と市町村合併史上の意味|volume=126|issue=8|pages=54-76|author=[[クラーマー・スベン]]|publisher=[[史学会]]|date=2017年|id=|url=|ref={{sfnRef|スベン|2017}}}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[宗教都市]] * [[天理ラーメン]] == 外部リンク == * {{Official website|2=天理市}} * {{Facebook|eやん天理presented-by-天理市-243847062446274|「e~やん天理」}} * {{ウィキトラベル インライン|天理市|天理市}} * {{Osmrelation|3230694}} * {{Googlemap|天理市}} {{天理教}} {{奈良県の自治体}} {{奈良県大学連合}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てんりし}} [[Category:奈良県の市町村]] [[Category:山辺の道]] [[Category:天理市|*]] [[Category:天理教]] [[Category:聖地]] [[Category:1954年設置の日本の市町村]]
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関東
関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。 672年に壬申の乱という日本古代で最大の内乱戦争が起き、天武天皇は翌673年に都(飛鳥浄御原宮)一帯を守る為に、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛発関、と3つの大きな関所(三関)を設置させた。これ以降、これらの三関よりも東側を「関の東側」という意味で「関東」と呼ぶ習慣が生まれたのである。「関東」という言葉・概念は「東国」と同じような意味、響きを持っていた。 律令制が構築された飛鳥時代後期または奈良時代に「関東」という概念が生まれたわけである。三関以東を指して関東と呼ぶ慣習は、奈良時代から平安時代にかけて長らく続き、平安中期に愛発関に代わって逢坂関が三関に加えられたが、「関東」の指し示す地域範囲に大きな異同はなかった。 この時代、天皇や天皇の居所を中心としてものごとは理解されていたので「関東」に対して、中心側と理解されている(現在の)近畿に対して「関西」という用語・概念をあてて理解するようなことは行われていなかった。 この不破関などの三関によって、人の往来は大きく遮断され、関の西側と東側でそれぞれ異なった文化・風習が生まれることになり、それは現在にいたるまで残っている。一例では「食」に関しては、うどんの汁は現在、関西と関東で異なっており、関東では鰹節出汁をベースに濃口醤油で味付けした黒味の強い汁に対し、関西では昆布と鯖節をベースに薄口醤油で味付けした汁で色が薄い。その味がどこで変化するのかと調べると、味の境目は不破関あたりであることが知られている。たとえば日清食品は地域ごとの「味」を尊重して自社製品の味付けを地域の味に合わせる作戦を採用しているが、同社の(「どん兵衛」の)商品開発担当者は関東の汁が関西の汁に変わる場所を正確に知ろうとして、東京駅から新幹線の各駅停車に乗り、駅をひとつひとつ降りては自分の舌と眼でつゆを確かめていったところ、味が変わるのは関ケ原駅(=ほぼ不破関付近)であることを見出し、その場所の西側と東側で異なった味にして販売することに決めたという。関ヶ原の街道沿いのうどん店には、そこがうどん汁の味の「天下の分け目」ということを謳っている店もある。 このように、この関は単なる概念的なものではなく、人の往来や文化などに具体的に影響は残っている。 こうした状況に変化が生じたのは、平安末期に源頼朝が朝廷から自立した政権を樹立してからである。 頼朝は自らの政権を「畿内近国・西国方」に相対する「関東方」と自称し、ほどなくして「関東」の語は頼朝政権=鎌倉幕府の公式な呼称として定着し、朝廷内でも鎌倉幕府への連絡窓口として関東申次が設置された。鎌倉幕府成立後の「関東」が示す地域範囲は、律令以来の三関以東ではなく、遠江国(一説には三河国)・信濃国・越後国以東となったが、これはすなわち、鎌倉幕府の支持基盤であり、かつ鎌倉幕府が朝廷から公認された直接統治範囲に他ならない。「関東」は、鎌倉幕府そのもの及び鎌倉幕府が直接に統治権を及ぼす地域の2つを表す語へと変化していったのである。 14世紀中期に室町幕府が成立し、鎌倉に鎌倉公方(鎌倉府)及びその補佐役として関東管領が置かれると、鎌倉公方の管轄する諸国、すなわち奈良時代以来、坂東と呼ばれてきた相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国に、伊豆国・甲斐国を加えた10か国が「関東」と認識されるようになった。14世紀末に陸奥国・出羽国が鎌倉公方の管轄下となった後は、奥羽も「関東」とされる場合もあった。 14世紀成立の『吾妻鏡』の記述には、「関西38カ国、関東28カ国」と言う記述があり、今で言う「東日本」全体を指す意味でも用いられている事が分かる。 徳川家康による江戸幕府の創始によって、三度「関東」概念に変化が生じることとなった。伊豆韮山に設置された韮山代官所の管轄地域は伊豆・相模・武蔵などに及んでいたものの、幕府が置かれた江戸を防御する箱根関・小仏関・碓氷関より東の坂東8か国が、「関東」と呼ばれるようになっていった。幕府の公式見解によれば奥羽も「関東」に含むとしていたが、「関八州」と呼ばれたように一般的には旧来の坂東8か国のみが「関東」と認識されていき、1805年(文化2年) に設置された関東取締出役も基本的に関八州一円地域の治安維持に当たった。 成立当初の明治政府は韮山代官所に代えて韮山県を設置したものの、府県統合で韮山県は程なく廃止された。そして1876年(明治9年)に足柄県が廃止され、足柄県の旧相模国地域が神奈川県に、旧伊豆国が静岡県に合併されることで、結果として旧来の坂東、江戸時代の関八州が、現代の関東地方の形(茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)へと至っている。 茨城県の(第一)地方銀行である筑波銀行は、関東銀行~関東つくば銀行(つくば銀行(第二地方銀行)を合併時)が、茨城銀行(第二地方銀行)と合併して発足した。
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関東(かんとう)とは、日本の中の、特定の地域・地方を指す言葉・概念である。
{{Otheruses|日本における地域|現代日本の地方区分|関東地方|その他}} {{告知|議論|参考文献発見後の山梨県の追加について}} {{複数の問題 | 出典の明記=2019-09-03 | 独自研究=2019-09-03 }} '''関東'''(かんとう)とは、[[日本]]の中の、特定の[[地域]]・[[地方]]を指す言葉・概念である。 == 概要 == === 古代 === [[672年]]に[[壬申の乱]]という日本古代で最大の内乱戦争が起き、天武天皇は翌673年に都([[飛鳥浄御原宮]])一帯を守る為に、[[東山道]]に'''[[不破関]]'''、[[東海道]]に[[鈴鹿関]]、北陸道に[[愛発関]]、と3つの大きな関所([[三関]])を設置させた。これ以降、これらの三関よりも東側を「関の東側」という意味で「関東」と呼ぶ習慣が生まれたのである。「関東」という言葉・概念は「[[東国]]」と同じような意味、響きを持っていた。 [[律令制]]が構築された[[飛鳥時代]]後期または[[奈良時代]]に「関東」という概念が生まれたわけである。三関以東を指して関東と呼ぶ慣習は、奈良時代から[[平安時代]]にかけて長らく続き、平安中期に愛発関に代わって[[逢坂関]]が三関に加えられたが、「関東」の指し示す地域範囲に大きな異同はなかった。 この時代、天皇や天皇の居所を中心としてものごとは理解されていたので「関東」に対して、中心側と理解されている(現在の)近畿に対して「関西」という用語・概念をあてて理解するようなことは行われていなかった。 この不破関などの三関によって、人の往来は大きく遮断され、関の西側と東側でそれぞれ異なった文化・風習が生まれることになり、それは現在にいたるまで残っている。一例では「食」に関しては、[[うどん]]の汁は現在、関西と関東で異なっており、関東では[[鰹節]][[出汁]]をベースに[[濃口醤油]]で味付けした黒味の強い汁に対し、関西では[[昆布]]と[[鯖節]]をベースに[[薄口醤油]]で味付けした汁で色が薄い。その味がどこで変化するのかと調べると、味の境目は[[不破関]]あたりであることが知られている。たとえば日清食品は地域ごとの「味」を尊重して自社製品の味付けを地域の味に合わせる作戦を採用しているが、同社の(「どん兵衛」の)商品開発担当者は関東の汁が関西の汁に変わる場所を正確に知ろうとして、東京駅から新幹線の各駅停車に乗り、駅をひとつひとつ降りては自分の舌と眼でつゆを確かめていったところ、味が変わるのは[[関ケ原駅]](=ほぼ不破関付近)であることを見出し、その場所の西側と東側で異なった味にして販売することに決めたという。関ヶ原の街道沿いのうどん店には、そこがうどん汁の味の「天下の分け目」ということを謳っている店もある。 このように、この関は単なる概念的なものではなく、人の往来や文化などに具体的に影響は残っている。 === 中世 === こうした状況に変化が生じたのは、平安末期に[[源頼朝]]が朝廷から自立した政権を樹立してからである。 頼朝は自らの政権を「畿内近国・西国方」に相対する「関東方」と自称し、ほどなくして「関東」の語は頼朝政権=[[鎌倉幕府]]の公式な呼称として定着し、朝廷内でも鎌倉幕府への連絡窓口として[[関東申次]]が設置された。鎌倉幕府成立後の「関東」が示す地域範囲は、律令以来の三関以東ではなく、[[遠江国]](一説には[[三河国]])・[[信濃国]]・[[越後国]]以東となったが、これはすなわち、鎌倉幕府の支持基盤であり、かつ鎌倉幕府が朝廷から公認された直接統治範囲に他ならない{{Efn|この「関東」が指す範囲は、律令法において防人を拠出する義務を負った東国諸国とも重なっている(異説でのみ含まれる三河国を除く)。}}。「関東」は、鎌倉幕府そのもの及び鎌倉幕府が直接に統治権を及ぼす地域の2つを表す語へと変化していったのである。 14世紀中期に[[室町幕府]]が成立し、鎌倉に[[鎌倉公方]]([[鎌倉府]])及びその補佐役として[[関東管領]]が置かれると、鎌倉公方の管轄する諸国、すなわち奈良時代以来、[[坂東]]と呼ばれてきた[[相模国]]・[[武蔵国]]・[[安房国]]・[[上総国]]・[[下総国]]・[[常陸国]]・[[上野国]]・[[下野国]]の8か国に、[[伊豆国]]・[[甲斐国]]を加えた10か国が「関東」と認識されるようになった。14世紀末に[[陸奥国]]・[[出羽国]]が鎌倉公方の管轄下となった後は、奥羽も「関東」とされる場合もあった。 14世紀成立の『[[吾妻鏡]]』の記述には、「関西38カ国、関東28カ国」と言う記述があり、今で言う「東日本」全体を指す意味でも用いられている事が分かる。 === 近世 === [[徳川家康]]による[[江戸幕府]]の創始によって、三度「関東」概念に変化が生じることとなった。伊豆韮山に設置された[[韮山代官所]]の管轄地域は伊豆・相模・武蔵などに及んでいたものの、幕府が置かれた江戸を防御する[[箱根峠|箱根関]]・[[小仏峠|小仏関]]・[[碓氷峠|碓氷関]]より東の坂東8か国が、「関東」と呼ばれるようになっていった。幕府の公式見解によれば奥羽も「関東」に含むとしていたが、「関八州」と呼ばれたように一般的には旧来の坂東8か国のみが「関東」と認識されていき、1805年(文化2年) に設置された[[関東取締出役]]も基本的に関八州一円地域の治安維持に当たった。 === 近代・現代 === 成立当初の明治政府は韮山代官所に代えて[[韮山県]]を設置したものの、府県統合で韮山県は程なく廃止された。そして1876年([[明治]]9年)に[[足柄県]]が廃止され、足柄県の旧[[相模国]]地域が神奈川県に、旧[[伊豆国]]が静岡県に合併されることで、結果として旧来の坂東、江戸時代の関八州が、現代の[[関東地方]]の形([[茨城県]]・[[栃木県]]・[[群馬県]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[東京都]]・[[神奈川県]])へと至っている。 == 「関東」を冠する企業・学校 == * [[関東鉄道]] ** [[関鉄筑波商事]](旧:[[筑波鉄道 (初代)|筑波鉄道]]) ** [[関鉄観光バス]] ** [[関鉄グリーンバス]] ** [[関鉄パープルバス]] * [[関東自動車 (栃木県)]] * [[関東自動車 (埼玉県)]] 特定輸送事業が中心。 * [[関東バス]] [[東京都]]のバス会社。 * [[関東電化工業]] [[古河グループ]]の化学メーカー。 * [[関東天然瓦斯開発]] * [[関東化学]] [[試薬]]メーカー。 * [[関東礦油]] [[出光興産]]グループの販売会社。 * [[関東興産]] [[トヨタホーム]]グループの製造会社。 * [[関東電気保安協会]]  * [[関東自動車工業]] ** [[トヨタグループ]]の車体組立メーカー。2012年7月1日付けで[[セントラル自動車]]・[[トヨタ自動車東北]]の両社と統合し、'''[[トヨタ自動車東日本]]'''となった。 * 関東電気工事(現:[[関電工]])[[東京電力]]グループの設備工事会社。 * ラジオ関東(現:[[アール・エフ・ラジオ日本]])[[神奈川県]][[横浜市]]の[[AMラジオ]]局。 [[茨城県]]の(第一)[[地方銀行]]である[[筑波銀行]]は、'''[[関東銀行]]~[[関東つくば銀行]]'''([[つくば銀行]]([[第二地方銀行]])を合併時)が、[[茨城銀行]](第二地方銀行)と合併して発足した。 * [[学校法人関東学院]] ** [[関東学院大学]] * [[関東学園大学]] ** [[関東短期大学]] * [[関東国際高等学校]] * [[関東工業自動車大学校]] == その他 == * [[レモン牛乳|関東・栃木レモン]] [[栃木乳業]](旧:関東乳業)の製造・販売する[[レモン]]風味の[[乳飲料]]。 * [[関東煮]](かんとだき) [[おでん]]の別名・主に[[近畿地方]]で用いられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 網野善彦『「日本」とは何か』 日本の歴史00、講談社、2000、ISBN 4062689006 == 関連項目 == * [[関西]] * [[東国]] * [[坂東]] * [[東日本]] * [[関東軍]] * [[NHK放送センター]] {{japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:かんとう}} [[category:関東地方]] [[Category:東海道|*かんとう]]
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侵攻
侵攻(、英: invasion)とは、戦争や紛争などにおいて、敵地に侵入して攻めること、攻めて相手の領地に侵入すること。英語のinvasionは「軍隊または国が武力を使って他国に侵入したり、支配したりする事態」「集団が力を使って、または迷惑で望ましくない方法で場所に入ってくる行動」などを意味し、日本語訳としては侵入とも訳され、かつては「攻撃」とも訳された。 侵略(しんりゃく、英: aggression)という用語については、1974年に国連がによる他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した。 つまり、侵略のほうは次のことを広く指している。 侵略と侵攻を比較すると、侵略のほうが広範囲のことを含んだ概念・用語である。大規模な侵略計画の第一段階として侵攻が行われる場合がある、という関係になっている(大規模な侵略では、他国の周辺部にまず侵攻した後、次にその首都まで攻め入り、ついにはその国の中央政府も崩壊させその機能を乗っ取ってしまったり、従属国にしてしまう、というようなことが行われることがある。しばしば、そのような大規模な侵略の"第一段階"として侵攻が行われる。) 国家による他国への武力行使という意味での「侵略」aggressionが使用されたのは第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約(1919年)においてである。当時は日本政府はaggressionを「攻撃」と翻訳した。 侵攻は、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して攻撃を仕掛けて、その領土・勢力圏を侵す行為を指す軍事学上の用語である。侵攻は、自衛の対義語である国際法用語としての侵略(aggression)とは異なり、必ずしも相手方の主権や政治的独立を一方的に侵す目的とは限らない、価値中立的な概念である。戦争自体が自衛目的かどうかとは関わらないので、たとえ戦争全体が侵略戦争にあたる場合であっても、その中で行われる個別の軍事行動について敵国領土への攻撃かどうかによって判断して、侵攻と呼ぶこともできる。なお、「侵略」の語についても、純軍事学的観点から、侵攻と同義に用いることもある。 侵攻の手段としては、陸海空の様々な手段が用いられる。 侵攻・侵入(invasion)は、征服(conquest)、占領(occupation)とも混用されることがある。 なお侵攻された側が行う対応(抵抗)は広くは防衛と呼ばれている。 〜第二次世界大戦以降〜
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侵攻(しんこう、とは、戦争や紛争などにおいて、敵地に侵入して攻めること、攻めて相手の領地に侵入すること。英語のinvasionは「軍隊または国が武力を使って他国に侵入したり、支配したりする事態」「集団が力を使って、または迷惑で望ましくない方法で場所に入ってくる行動」などを意味し、日本語訳としては侵入とも訳され、かつては「攻撃」とも訳された。
{{出典の明記|date=2022年3月}} {{読み仮名|'''侵攻'''|しんこう|{{lang-en-short|invasion}}}}とは、[[戦争]]や[[紛争]]などにおいて、[[敵|敵地]]に侵入して攻めること、攻めて相手の[[領地]]に侵入すること<ref>精選版 日本国語大辞典、コトバンク</ref>。[[英語]]のinvasionは「軍隊または国が武力を使って他国に侵入したり、支配したりする事態」「集団が力を使って、または迷惑で望ましくない方法で場所に入ってくる行動」などを意味し<ref>「[https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/invasion invasion]」,Cambridge Advanced Learner's Dictionary, Cambridge Academic Content Dictionary, Cambridge University Press.</ref>、日本語訳としては'''侵入'''とも訳され<ref name="mz">{{Cite journal|和書|author= 宮崎繁樹 |title=占領に關する一考察|url=https://hdl.handle.net/10291/3664|date=1950 |publisher=明治大学法律研究所 |journal=法律論叢|volume=24(1-2)|pages=116-132|naid=120001439764|ref=harv}}</ref>、かつては「[[攻撃]]」とも訳された<ref name="t9"/>。 == 侵攻と侵略の指す範囲の比較 == {{Main2|侵略の定義|侵略}} '''[[侵略]]'''(しんりゃく、{{lang-en-short|aggression}})という用語については、[[1974年]]に[[国連]]が「[[国家]]による他の国家の[[主権]]、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「[[国際連合憲章|国際連合の憲章]]と両立しないその他の方法による武力の行使」と[[定義]]した<ref name="un">[[侵略の定義に関する決議]]:United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of Aggression,{{Cite web|和書 |publisher = ミネソタ大学人権図書館 |url = http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/JGAres3314.html |format = html |title = 侵略の定義に関する決議 |accessdate = 2022-03-07}}</ref>。 <!--'''[[侵略]]'''という用語について[[国連]]では「[[国家]]による他の国家の[[主権]]、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」と定義される<ref name="un"/>。--><!--出典のコトバンクには、国際法上の定義は明確でないとは書いて無い。 [[国際法]]上の定義は明確ではない<ref name="koto"/>。-->つまり、侵略のほうは次のことを広く指している。 *ある国家が[[武力]]をもって他国の[[領域 (国家)|領域]]へ侵入したり[[攻撃 (軍事)|攻撃]]したりすること *ある国家が他国の[[土地]]や財物を奪い取ること *ある国家が他国の[[主権]]を侵害すること 侵略と侵攻を比較すると、侵略のほうが広範囲のことを含んだ概念・用語である。大規模な侵略計画の第一段階として侵攻が行われる場合がある、という関係になっている(大規模な侵略では、他国の周辺部にまず侵攻した後、次にその首都まで攻め入り、ついにはその国の中央政府も崩壊させその機能を乗っ取ってしまったり、[[従属国]]にしてしまう、というようなことが行われることがある。しばしば、そのような大規模な侵略の"第一段階"として侵攻が行われる。) <!-- 出典を確認した。出典のコトバンクに 次のことは全く書かれていない。 侵略側は自己の行動を否定したり、[[自衛]]や[[勢力均衡]]のためと正当化したりするので、侵略行為の認定は困難であり、[[国際法]]上の定義は明確ではない<ref name="koto">[[コトバンク]]「侵略」</ref>。--> ;用語の歴史 国家による他国への武力行使という意味での「侵略」aggressionが使用されたのは[[第一次世界大戦]]の講和条約[[ヴェルサイユ条約]]([[1919年]])においてである。当時は日本政府はaggressionを「攻撃」と[[翻訳]]した<ref name="t9">* {{アジア歴史資料センター|A03021294200|御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書 (国立公文書館)}},173頁</ref>。 == 軍事学 == {{See|攻撃 (軍事)|占領}} {{要出典範囲|date=2022年2月|侵攻は、ある[[国家]]・[[武装勢力の一覧|武装勢力]]が別の国家・武装勢力に対して攻撃を仕掛けて、その[[領土]]・勢力圏を侵す行為を指す[[軍事学]]上の用語である}}。{{要出典範囲|date=2022年2月|侵攻は、[[自衛]]の対義語である[[国際法]]用語としての[[侵略]](aggression)とは異なり、必ずしも相手方の[[主権]]や政治的[[独立]]を一方的に侵す目的とは限らない、価値中立的な概念である。[[戦争]]自体が自衛目的かどうかとは関わらないので、たとえ戦争全体が[[侵略戦争]]にあたる場合であっても、その中で行われる個別の軍事行動について敵国領土への攻撃かどうかによって判断して、侵攻と呼ぶこともできる。なお、「侵略」の語についても、純軍事学的観点から、侵攻と同義に用いることもある}}。 侵攻の手段としては、陸海空の様々な手段が用いられる。 侵攻・侵入(invasion)は、[[征服]](conquest)、[[占領]](occupation)とも混用されることがある<ref name="mz"/>。 *[[征服]] *[[占領]] なお侵攻された側が行う対応(抵抗)は広くは[[防衛]]と呼ばれている。 == 侵攻と呼ばれることがある事例 == *[[モンゴルのポーランド侵攻]] (1240年) *[[モンゴルの樺太侵攻]] (1264年) *[[ドミニカ侵攻 (1761年)]] *[[セイロン侵攻]] (1795年) * [[ポーランド侵攻]] ([[1939年]]) * [[冬戦争|ソ連によるフィンランド侵攻]] (1939年) *[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]] (1940年) *[[ユーゴスラビア侵攻]] (1941年) 〜第二次世界大戦以降〜 *[[グレナダ侵攻]] ([[1983年]]) * [[パナマ侵攻]] ([[1989年]]) * [[クウェート侵攻]] ([[1990年]]) * [[アメリカのアフガニスタン侵攻]] ([[2001年]]) * [[イラク戦争|アメリカのイラク侵攻]] ([[2003年]]) * [[レバノン侵攻 (2006年)]] *[[ガザ侵攻 (2014年)]] * [[ロシアのクリミア侵攻]] (2014年) * [[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアのウクライナ侵攻]] ([[2022年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[攻勢作戦]] * [[攻撃 (軍事)]] * [[防御 (軍事)]] * [[侵略]] * [[直接侵略]] - [[間接侵略]] * [[進攻]] - [[進撃]] - [[侵撃]] * [[進駐]] * [[侵犯]] ** [[領海侵犯]] ** [[領空侵犯]] * [[行軍]] * [[戦略]]、[[戦術]] * [[征伐]] == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author= 宮崎繁樹 |title=占領に關する一考察|url=https://hdl.handle.net/10291/3664|date=1950 |publisher=明治大学法律研究所 |journal=法律論叢|volume=24(1-2)|pages=116-132|naid=120001439764|ref=harv}} * [[侵略の定義に関する決議]]:United Nations General Assembly Resolution 3314 on the Definition of Aggression,{{Cite web|和書 |publisher = ミネソタ大学人権図書館 |url = http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/JGAres3314.html |format = html |title = 侵略の定義に関する決議 |accessdate = 2022-03-07}} * {{intitle}} {{War-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しんこう}} [[Category:軍事学]] [[Category:戦闘]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%B5%E6%94%BB
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ヤマト王権
ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。 大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。 旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王(天皇)を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。 1970年代前半ごろまでは、日本史上の4世紀ごろから6世紀ごろにかけての時期をさす時代区分名として「大和時代」がひろく用いられていた。また、この時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力のことをさす用語としては「大和朝廷」が一般的だった。 1970年代以降、考古学による発掘調査がすすみ、重要な古墳の発見といった成果が蓄積した。くわえて、考古学的調査において理化学的年代測定や年輪年代測定などの科学的調査法が使われはじめ、またその精度が向上していったことから、古墳の編年研究がいちじるしく発展した。また、考古学的な古墳調査と文献史学(一般的な歴史学)は、提携して調査・研究を行うようになり、その対象は古墳時代の政治組織にも及ぶようになった。こうした成果をうけて、「大和時代」という時代区分名、「大和朝廷」という政権名がかならずしも適切ではないと考えられるようになった。この見解は国内の歴史学会等で有力なものとなり、1980年代以降、時代区分名としては「古墳時代」が、また、政権名としては「大和政権/ヤマト政権」、あるいは(この政権が王権であることを重視する立場からは)「大和王権/ヤマト王権」が普及した。現在では、高等教育以上では時代区分名として「古墳時代」が用いられることが一般的である。 ただし、「大和」、「朝廷」という語の使用については学界でも依然としてさまざまな見解が並立しており、「大和朝廷」を用いる研究者も少数ながら存在する。 2020年現在、各種メディアでは「政権」、「王権」、「朝廷」の各表記が混在しており、統一はされていない。 「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里〈後の郷〉名も)は二文字とすることになって「大倭」となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って「大養徳」と(地名のみならずウジ名も)なったが、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)に「大倭」に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月〈改元前〉に諸兄死去)の後半頃に、「大和」へと変化していく。同年に(仲麻呂の提案により)施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。 「大和(ヤマト)」はまた、 の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2)をただちに連想する「大和」表記よりも、3を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。 白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば、1〜3に加えて、(4)大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。 一方、関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4–5世紀の政権を表現するのは「倭王権」「大倭王権」が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。 一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。 武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の飛鳥や斑鳩といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は 7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を大和朝廷発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。 「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。 関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している。 古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。 山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。 また、山尾によれば、 という時代区分をおこなっている。 この用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない。 大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。 この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。 現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている。 なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。たとえば、 など。 ヤマト王権の首長は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公王」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている。 弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭面土国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。 また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代には大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。 墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方や日向(宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長があらわれたことがうかがえる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類のちがいにもあらわれている。 西晋代に著された歴史書である『魏志』東夷伝倭人条によれば、3世紀前半に邪馬台国という名の大国を中心とした倭の国々(ここでいう国とは土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体「国邑」のことと思われる)にて、争いを収まらせるため卑弥呼という人物が邪馬台国の「女王」として擁立され、魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授与されたことを記している。邪馬台国には、「大人」と「下戸」の身分差や刑罰、租税の制、鉄貨を用いた市場、および中央から派遣された監察官と思われる「一大率」が属国の伊都国に置かれるなど、ある程度の成熟した統治組織を持っていたことが分かる。 『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には会稽がある。邪馬台国の北西には帯方郡、北方には伊都国があると記述されている。また邪馬台国と抗争状態にある国として東方の狗奴国を挙げている。 卑弥呼の死の後は男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(臺與と記している史料もある)が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用された『晋起居注』には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王が臺與ではないかと言われている。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では266年の倭人の朝貢は書かれているが、女王という記述は無い。 邪馬台国の所在地については「近畿説」と「九州説」があるが、近畿説に則る場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ統一的な広域政体がすでに成立していたことになり、九州説に則る場合、北部九州一帯の地方勢力ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。 考古学者の白石太一郎によれば、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との併合に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」としている。 奈良盆地南東部の大規模遺跡・纒向遺跡は当時の畿内地方にあった国邑連合の政治・経済の中枢地であったとされている。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる三輪山麓に位置し、都市計画の痕跡とされる遺構が認められ、運河などの土木工事もおこなわれており、政治都市として祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびにごく少数ながら北部九州の土器が搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよぶ7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡の規模を上回る可能性があるとしている。纒向遺跡を邪馬台国の中心集落に比定する説はますます説得力を増している。 纏向遺跡の近辺には纏向古墳群と呼ばれる最初期の前方後円墳群があり、その中には卑弥呼の有力比定候補の一人とされる倭迹迹日百襲姫命の墓と伝わる箸墓古墳がある。同じく纏向古墳群に属する石塚古墳など帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称する)も、前方後円墳に先だつ型式の古墳でありながら墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもつ。 国立民族学博物館は、炭素年代測定により纏向古墳群の成立時期は3世紀中頃に遡るとし、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「大和王権」につながる可能性が高くなったとしている。炭素年代測定法には50年ないし100年古く推定される誤差があるとする見方もあり、依然として議論が続いている。 白石太一郎によれば、纏向古墳群の古墳は出雲地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しているとする。吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、ヤマト政権の盟友的存在として吉備勢力が重要な位置を占めていた可能性を指摘している。 なお、朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国と無関係な遺跡であるとする見方も少なからず存在している。 ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉など若干の異同はある。ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる一方、大王を中心とした中央集権国家であったと見る意見もある。 考古学的には3世紀後半ごろ、近畿をはじめとした西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。ただし炭素年代測定や年輪年代学の技術的欠点や、測定値と文献記録との大きな乖離などからも従来の土器編年に基づいた4世紀出現を唱える意見もある。 こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考える意見がある。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。一方上述のように4世紀頃は崇神天皇の在位年代と重なるものと見られており、同朝の四道将軍説話や、続く景行天皇朝の倭建命の東国遠征の経路上に纏まって古墳が出現することから、地域連合ではなく中央豪族を各地に首長(国造)として派遣したために広がったものとする意見もある。 出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある。 吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで、「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらないと考えられる」と述べている。 また「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。その論拠としては、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また、特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤をもたないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ、大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する。 前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(伝崇神天皇陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である。上述の山尾の指摘とあわせ、今後検討していくべき課題であるといえる。 2023年11月3日、奈良県立橿原考古学研究所は橿原市内で講演会を開き初期ヤマト王権の大王墓とされる奈良県桜井市外山(とび)の桜井茶臼山古墳(3世紀末)の調査の結果、国内最多の103面分の銅鏡破片が発見されたことを発表し、被葬者は「他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」であり、古墳時代初期から強大な支配体制が形成されたとの見解を示し、「3世紀末の奈良盆地には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と発表した。 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は大陸の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 以下は古墳時代の時期区分としての通説の3期区分けである。 この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。 日本列島の古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。 列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。 ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。 4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。 いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。 いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する好太王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。 4世紀末から5世紀全体を通じて、考古学における古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。 しかし、この王朝交替説に対しても、現状ではいくつかの立場から批判が出されている。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられている。 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、自らの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられている。 475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。 さらに、銘文には「治天下...大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに中国の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。 上述した「今来漢人」は、陶作部、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団(品部)に組織され、東漢氏に管理をまかせた。また、漢字を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは史部とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である伴造やその配下におかれた部などからなる官僚組織がしだいにつくられていったものと考えられる。 いっぽう、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質したことは、考古資料の面からも指摘できる。 なお、平野邦雄は「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している。 ワカタケルの没後、5世紀後半から末葉にかけての時期には、巨大な前方後円墳の築造も衰退しはじめ、一般に小型化していくいっぽう、小規模な円墳などが群集して営まれる群集墳の造営例があらわれ、一部には横穴式石室の採用もみられる。こうした動きは、巨大古墳を築造してきた地域の大首長の権威が相対的に低下し、中小首長層が台頭してきたことを意味している。これについては、ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したという考えがある。 5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴、物部、阿部などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される。王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、そのいっぽうでは大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質していく。5世紀末葉から6世紀初頭にかけて、『日本書紀』では短期間のあいだに清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体もはげしく動揺したことを示唆している。また、こののちのヲホド王(継体天皇)即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説(王朝交替説)がある。 こうした王権の動揺を背景として、この時期、中国王朝との通交も途絶している。ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。6世紀に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。 こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたヲホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトにむかえられて王統を統一した。しかし、ヲホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。ヲホド大王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱)。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。いっぽう、ヲホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、540年には、ヲホド大王を擁立した大伴金村が失脚している。 6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。そのいっぽう、半島からは暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘・部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立し、大臣蘇我馬子と大連物部守屋の代には、ついに武力闘争に至った(丁未の乱)。 丁未の乱を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えたが(崇峻天皇)、次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。続いて姪の額田部皇女を即位させて推古天皇とし、厩戸王(聖徳太子)とともに強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。 6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。 7世紀半ばに唐が高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮で大化の改新が行われた。壬申の乱にて大王位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、持統天皇の代には飛鳥から遷都した。701年大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本国」を国号の表記として用い(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)、大王に代わる新しい君主号を、正式に「天皇」と定めた。 『日本書紀』によれば、伊奘諾尊と伊奘冉尊の間にうまれた太陽神である天照大神が皇室の祖だという。その子天忍穂耳尊と栲幡千千姫(高皇産霊尊の娘)の間にうまれた子の瓊瓊杵尊(天孫)は、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向の襲の高千穗峰に降臨した(天孫降臨)。 瓊瓊杵尊は、大山祇神の娘である木花之開耶姫をめとり、火闌降命(海幸彦。隼人の祖。)・火折尊(山幸彦。皇室の祖。)・火明命(尾張氏の祖)をうんだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「山幸彦と海幸彦」がある。 火折尊は海神の娘である豊玉姫を娶り、二人の間には彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊がうまれた。鸕鶿草葺不合尊はその母の妹である玉依姫をめとり、五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊がうまれた。瓊瓊杵尊から鸕鶿草葺不合尊までの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。 磐余彦尊は日向国にあったが、甲寅年、45歳のときに饒速日(物部氏の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめてその地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。速吸の門では、国神である珍彦(倭国造の祖)に出会い、彼に椎根津彦という名を与えて道案内にした。筑紫国菟狭の一柱騰宮、同国崗水門を経て、安芸国の埃宮、吉備国の高島宮に着いた。磐余彦は大和の指導者長髄彦と戦い、饒速日命はその主君であった長髄彦を殺して帰順した。辛酉年、磐余彦尊は橿原宮ではじめて天皇位につき(神武天皇)、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。 綏靖天皇から開化天皇までは記紀において事績の記載がほとんどないため、欠史八代と称されることがある。 武烈天皇には子がなく、大伴金村らは近江国高島郡で生まれ越前国で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、継体天皇として即位した。 ここに皇統の断絶があったとする見解もある。(王朝交代説) 実在が確定している天皇であり、またこれ以降の天皇には実在が疑われる人物が存在しないことから、現代まで繋がる全ての皇室の始祖であるとされる。 崇峻天皇は蘇我馬子の命により暗殺され、初の女帝となる推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が継いで第33代天皇となった。 弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあった。しかし存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「決定的な根拠に欠けている」としている。 なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、学界からは根拠が薄いとされている。 九州王朝説とは別に、九州の邪馬台国と畿内の大和王権の二朝並立を唱える説、その他古代出雲や吉備にも一定勢力が存在したと考える多元王朝説もある。二朝並立説では大和王権が邪馬台国から分岐独立後に勢力を拡大させ、本宗であった邪馬台国を滅ぼしたとする説がある。 日本の古代国家は天皇による専制君主国家であったとしてきた戦後の古代史学界へのアンチテーゼとして、日本の古代国家の本質は大王を含む畿内豪族による全国支配(「畿内ブロックの全国支配)だったとする学説。1950年代に東北大学教授の関晃氏が唱え、その後、戦後の古代史学界の中心的なテーマとして邪馬台国論争を超える論争が行われたという。 神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。 また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『儀鳳暦(麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦2月11日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。この布告にもとづき、戦前は2月11日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)2月11日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)2月11日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(1月1日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。 紀元節は太平洋戦争(大東亜戦争)終結後1948年に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、1966年に妥協案として「の」を入れた「建国記念の日」が成立した。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年(昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、今日に至っている。 『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。 皇室に伝わる神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡(八咫鏡)、剣(天叢雲剣)、玉(八尺瓊勾玉)を指す。 大和時代に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「神嘗祭」や11月23日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令ではじめて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある。 なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmでその図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する大型内行花文鏡が福岡県糸島市の平原遺跡から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。
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"1970年代前半ごろまでは、日本史上の4世紀ごろから6世紀ごろにかけての時期をさす時代区分名として「大和時代」がひろく用いられていた。また、この時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力のことをさす用語としては「大和朝廷」が一般的だった。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1970年代以降、考古学による発掘調査がすすみ、重要な古墳の発見といった成果が蓄積した。くわえて、考古学的調査において理化学的年代測定や年輪年代測定などの科学的調査法が使われはじめ、またその精度が向上していったことから、古墳の編年研究がいちじるしく発展した。また、考古学的な古墳調査と文献史学(一般的な歴史学)は、提携して調査・研究を行うようになり、その対象は古墳時代の政治組織にも及ぶようになった。こうした成果をうけて、「大和時代」という時代区分名、「大和朝廷」という政権名がかならずしも適切ではないと考えられるようになった。この見解は国内の歴史学会等で有力なものとなり、1980年代以降、時代区分名としては「古墳時代」が、また、政権名としては「大和政権/ヤマト政権」、あるいは(この政権が王権であることを重視する立場からは)「大和王権/ヤマト王権」が普及した。現在では、高等教育以上では時代区分名として「古墳時代」が用いられることが一般的である。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、「大和」、「朝廷」という語の使用については学界でも依然としてさまざまな見解が並立しており、「大和朝廷」を用いる研究者も少数ながら存在する。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2020年現在、各種メディアでは「政権」、「王権」、「朝廷」の各表記が混在しており、統一はされていない。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里〈後の郷〉名も)は二文字とすることになって「大倭」となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って「大養徳」と(地名のみならずウジ名も)なったが、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)に「大倭」に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月〈改元前〉に諸兄死去)の後半頃に、「大和」へと変化していく。同年に(仲麻呂の提案により)施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「大和(ヤマト)」はまた、", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "の広狭三様の意味をもっており、最も狭い3のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2)をただちに連想する「大和」表記よりも、3を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違していることに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内(和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている。すなわち、白石によれば、1〜3に加えて、(4)大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方、関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4–5世紀の政権を表現するのは「倭王権」「大倭王権」が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている。 一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の飛鳥や斑鳩といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は 7世紀にならないと出現しなかったとする。纒向遺跡を大和朝廷発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「朝廷」の語については、天子が朝政などの政務や朝儀と総称される儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例があり、混乱もあることを指摘している。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "古代史学者の山尾幸久は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜ではほぼ崇神から雄略までに相当すると見られている」と説明している。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「古墳時代にはっきり現れた」としている。いっぽう、白石太一郎は、「ヤマトの政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく日本列島各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「畿内の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、山尾によれば、", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "という時代区分をおこなっている。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この用語は、1962年(昭和37年)に石母田正が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大和朝廷(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「大和時代または古墳時代の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、古墳とくに前方後円墳の考古学的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には武光誠や高森明勅などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として神武東征と長髄彦の説話を掲げている。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、中国の史料も考慮に入れた総合的な古代史研究、考古資料を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。たとえば、", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "など。", "title": "名称について" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ヤマト王権の首長は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公王」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている。", "title": "首長の称号" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭面土国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代には大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓、九州北部における甕棺墓、中国地方における箱式石棺墓、近畿地方や日向(宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長があらわれたことがうかがえる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸、瀬戸内地方の銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類のちがいにもあらわれている。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "西晋代に著された歴史書である『魏志』東夷伝倭人条によれば、3世紀前半に邪馬台国という名の大国を中心とした倭の国々(ここでいう国とは土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体「国邑」のことと思われる)にて、争いを収まらせるため卑弥呼という人物が邪馬台国の「女王」として擁立され、魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授与されたことを記している。邪馬台国には、「大人」と「下戸」の身分差や刑罰、租税の制、鉄貨を用いた市場、および中央から派遣された監察官と思われる「一大率」が属国の伊都国に置かれるなど、ある程度の成熟した統治組織を持っていたことが分かる。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には会稽がある。邪馬台国の北西には帯方郡、北方には伊都国があると記述されている。また邪馬台国と抗争状態にある国として東方の狗奴国を挙げている。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "卑弥呼の死の後は男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女壱与(臺與と記している史料もある)が王となって再び治まったことが記されている。『日本書紀』の神功皇后紀に引用された『晋起居注』には、266年(泰初(「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、この女王が臺與ではないかと言われている。なお現存する『晋書』四夷伝と武帝紀では266年の倭人の朝貢は書かれているが、女王という記述は無い。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "邪馬台国の所在地については「近畿説」と「九州説」があるが、近畿説に則る場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ統一的な広域政体がすでに成立していたことになり、九州説に則る場合、北部九州一帯の地方勢力ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "考古学者の白石太一郎によれば、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との併合に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」としている。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "奈良盆地南東部の大規模遺跡・纒向遺跡は当時の畿内地方にあった国邑連合の政治・経済の中枢地であったとされている。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる三輪山麓に位置し、都市計画の痕跡とされる遺構が認められ、運河などの土木工事もおこなわれており、政治都市として祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、東海地方から北陸・近畿・阿讃瀬戸内・吉備・出雲ならびにごく少数ながら北部九州の土器が搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍、吉野ヶ里遺跡の約6倍におよぶ7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡の規模を上回る可能性があるとしている。纒向遺跡を邪馬台国の中心集落に比定する説はますます説得力を増している。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "纏向遺跡の近辺には纏向古墳群と呼ばれる最初期の前方後円墳群があり、その中には卑弥呼の有力比定候補の一人とされる倭迹迹日百襲姫命の墓と伝わる箸墓古墳がある。同じく纏向古墳群に属する石塚古墳など帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「纒向型前方後円墳」と称する)も、前方後円墳に先だつ型式の古墳でありながら墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもつ。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "国立民族学博物館は、炭素年代測定により纏向古墳群の成立時期は3世紀中頃に遡るとし、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「大和王権」につながる可能性が高くなったとしている。炭素年代測定法には50年ないし100年古く推定される誤差があるとする見方もあり、依然として議論が続いている。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "白石太一郎によれば、纏向古墳群の古墳は出雲地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しているとする。吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊器台・特殊壺が採り入れられるなど、ヤマト政権の盟友的存在として吉備勢力が重要な位置を占めていた可能性を指摘している。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国と無関係な遺跡であるとする見方も少なからず存在している。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉など若干の異同はある。ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる一方、大王を中心とした中央集権国家であったと見る意見もある。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "考古学的には3世紀後半ごろ、近畿をはじめとした西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。ただし炭素年代測定や年輪年代学の技術的欠点や、測定値と文献記録との大きな乖離などからも従来の土器編年に基づいた4世紀出現を唱える意見もある。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考える意見がある。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。一方上述のように4世紀頃は崇神天皇の在位年代と重なるものと見られており、同朝の四道将軍説話や、続く景行天皇朝の倭建命の東国遠征の経路上に纏まって古墳が出現することから、地域連合ではなく中央豪族を各地に首長(国造)として派遣したために広がったものとする意見もある。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで、「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらないと考えられる」と述べている。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。その論拠としては、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また、特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤をもたないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ、大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(伝崇神天皇陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である。上述の山尾の指摘とあわせ、今後検討していくべき課題であるといえる。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2023年11月3日、奈良県立橿原考古学研究所は橿原市内で講演会を開き初期ヤマト王権の大王墓とされる奈良県桜井市外山(とび)の桜井茶臼山古墳(3世紀末)の調査の結果、国内最多の103面分の銅鏡破片が発見されたことを発表し、被葬者は「他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」であり、古墳時代初期から強大な支配体制が形成されたとの見解を示し、「3世紀末の奈良盆地には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と発表した。", "title": "ヤマト王権の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は大陸の史書から姿を消している。3世紀後半から4世紀前半にかけての日本列島はしたがって、金石文もふくめて史料をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "以下は古墳時代の時期区分としての通説の3期区分けである。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日本列島の古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪が立て並べられ、表面は葺石で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉・管玉)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "4世紀後半にはいると、石上神宮(奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年のこととされる。356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。中国吉林省集安に所在する好太王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "4世紀末から5世紀全体を通じて、考古学における古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられた時期があった。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "しかし、この王朝交替説に対しても、現状ではいくつかの立場から批判が出されている。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備、毛野、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられている。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、自らの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられている。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "さらに、銘文には「治天下...大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに中国の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "上述した「今来漢人」は、陶作部、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団(品部)に組織され、東漢氏に管理をまかせた。また、漢字を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは史部とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である伴造やその配下におかれた部などからなる官僚組織がしだいにつくられていったものと考えられる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "いっぽう、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質したことは、考古資料の面からも指摘できる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "なお、平野邦雄は「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ワカタケルの没後、5世紀後半から末葉にかけての時期には、巨大な前方後円墳の築造も衰退しはじめ、一般に小型化していくいっぽう、小規模な円墳などが群集して営まれる群集墳の造営例があらわれ、一部には横穴式石室の採用もみられる。こうした動きは、巨大古墳を築造してきた地域の大首長の権威が相対的に低下し、中小首長層が台頭してきたことを意味している。これについては、ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したという考えがある。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴、物部、阿部などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される。王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、そのいっぽうでは大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質していく。5世紀末葉から6世紀初頭にかけて、『日本書紀』では短期間のあいだに清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体もはげしく動揺したことを示唆している。また、こののちのヲホド王(継体天皇)即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説(王朝交替説)がある。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "こうした王権の動揺を背景として、この時期、中国王朝との通交も途絶している。ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。6世紀に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたヲホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトにむかえられて王統を統一した。しかし、ヲホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。ヲホド大王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱)。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。いっぽう、ヲホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、540年には、ヲホド大王を擁立した大伴金村が失脚している。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。そのいっぽう、半島からは暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘・部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立し、大臣蘇我馬子と大連物部守屋の代には、ついに武力闘争に至った(丁未の乱)。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "丁未の乱を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えたが(崇峻天皇)、次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。続いて姪の額田部皇女を即位させて推古天皇とし、厩戸王(聖徳太子)とともに強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "7世紀半ばに唐が高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮で大化の改新が行われた。壬申の乱にて大王位継承権を勝ち取った天武天皇は藤原京の造営を始め、持統天皇の代には飛鳥から遷都した。701年大宝律令が完成し、この頃からヤマト王権は「日本国」を国号の表記として用い(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)、大王に代わる新しい君主号を、正式に「天皇」と定めた。", "title": "王権の展開" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "『日本書紀』によれば、伊奘諾尊と伊奘冉尊の間にうまれた太陽神である天照大神が皇室の祖だという。その子天忍穂耳尊と栲幡千千姫(高皇産霊尊の娘)の間にうまれた子の瓊瓊杵尊(天孫)は、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向の襲の高千穗峰に降臨した(天孫降臨)。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "瓊瓊杵尊は、大山祇神の娘である木花之開耶姫をめとり、火闌降命(海幸彦。隼人の祖。)・火折尊(山幸彦。皇室の祖。)・火明命(尾張氏の祖)をうんだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「山幸彦と海幸彦」がある。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "火折尊は海神の娘である豊玉姫を娶り、二人の間には彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊がうまれた。鸕鶿草葺不合尊はその母の妹である玉依姫をめとり、五瀬命・稲飯命・三毛入野命・磐余彦尊がうまれた。瓊瓊杵尊から鸕鶿草葺不合尊までの3代を「日向三代」と呼ぶことがある。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "磐余彦尊は日向国にあったが、甲寅年、45歳のときに饒速日(物部氏の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめてその地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。速吸の門では、国神である珍彦(倭国造の祖)に出会い、彼に椎根津彦という名を与えて道案内にした。筑紫国菟狭の一柱騰宮、同国崗水門を経て、安芸国の埃宮、吉備国の高島宮に着いた。磐余彦は大和の指導者長髄彦と戦い、饒速日命はその主君であった長髄彦を殺して帰順した。辛酉年、磐余彦尊は橿原宮ではじめて天皇位につき(神武天皇)、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "綏靖天皇から開化天皇までは記紀において事績の記載がほとんどないため、欠史八代と称されることがある。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "武烈天皇には子がなく、大伴金村らは近江国高島郡で生まれ越前国で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、継体天皇として即位した。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ここに皇統の断絶があったとする見解もある。(王朝交代説)", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "実在が確定している天皇であり、またこれ以降の天皇には実在が疑われる人物が存在しないことから、現代まで繋がる全ての皇室の始祖であるとされる。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "崇峻天皇は蘇我馬子の命により暗殺され、初の女帝となる推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が継いで第33代天皇となった。", "title": "史書の記録" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあった。しかし存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「決定的な根拠に欠けている」としている。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、学界からは根拠が薄いとされている。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "九州王朝説とは別に、九州の邪馬台国と畿内の大和王権の二朝並立を唱える説、その他古代出雲や吉備にも一定勢力が存在したと考える多元王朝説もある。二朝並立説では大和王権が邪馬台国から分岐独立後に勢力を拡大させ、本宗であった邪馬台国を滅ぼしたとする説がある。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "日本の古代国家は天皇による専制君主国家であったとしてきた戦後の古代史学界へのアンチテーゼとして、日本の古代国家の本質は大王を含む畿内豪族による全国支配(「畿内ブロックの全国支配)だったとする学説。1950年代に東北大学教授の関晃氏が唱え、その後、戦後の古代史学界の中心的なテーマとして邪馬台国論争を超える論争が行われたという。", "title": "異説" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『儀鳳暦(麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦2月11日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。この布告にもとづき、戦前は2月11日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)2月11日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)2月11日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(1月1日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "紀元節は太平洋戦争(大東亜戦争)終結後1948年に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、1966年に妥協案として「の」を入れた「建国記念の日」が成立した。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年(昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、今日に至っている。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "皇室に伝わる神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡(八咫鏡)、剣(天叢雲剣)、玉(八尺瓊勾玉)を指す。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "大和時代に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「神嘗祭」や11月23日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令ではじめて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmでその図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する大型内行花文鏡が福岡県糸島市の平原遺跡から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。", "title": "神話伝承を根拠とする諸事" } ]
ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。 大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。 旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王(天皇)を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。
{{政府 |政府名 = ヤマト王権<br/>ヤマト政権 |背景色 = #daa520 |画像 = [[File:Unebi-yama.jpg|300px]] |画像の説明 = <small>北東側の[[藤原宮]]跡から見た[[畝傍山]]。<br/>後方に見えるのは[[金剛山地]]。<br/>[[奈良県]][[橿原市]](旧大和国)</small> |創設年 = |解散年 = |代表 = [[大王 (ヤマト王権)|大王]]、[[七支刀|倭王]] |対象国 = {{JPN}} |地域 = [[倭国]]・[[大和地方]] |政庁所在地 = 大和地方 |機関 = [[大臣 (古代日本)|大臣]]([[皇別氏族]])<br/>[[大連 (古代日本)|大連]]([[神別氏族]]) |前政府 = |後政府 = {{JPN701}} |サイト = |備考 = 2世紀末〜3世紀に大和地方と[[吉備]]などの瀬戸内、あるいは北九州、山陰、東海まで含む地域を超えた有力豪族らが大和盆地東南部、三輪山麓の纒向遺跡に政治連合を形成する。[[8世紀]]の律令制確立の過程で「朝廷」としての体裁を整えていった。 }} '''ヤマト王権'''(ヤマトおうけん)は、[[古墳時代]]に「[[ヒコ]](彦)」「[[ワケ]](別)」「[[大王 (ヤマト王権)|オホキミ]](大王)」などと呼称された[[首長]]もしくは[[豪族]]連合によって成立した[[倭国|古代日本]]の政治および軍事勢力。 [[奈良盆地|大和盆地]]および[[大阪平野|河内平野]]を本拠とし、[[2世紀]]〜[[3世紀]]頃にかけて[[瀬戸内海]]周辺をはじめ、[[山陰地方|山陰]]および[[北九州]]を含む[[西日本]]全域、[[東海地方|東海]]などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な[[国家]]ないし[[国家連合]]として鼎立し、[[纒向遺跡|纏向遺跡]]などの[[計画都市]]を造営した。[[4世紀]]以降では[[関東]]・[[北陸地方|北陸]]・[[南九州]]などをも統合、[[絶対王政|王権]]の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。 旧来から一般的に'''大和朝廷'''(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「[[大和]]」「[[朝廷 (日本)|朝廷]]」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が[[1970年代]]以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。 本記事では、これら「'''大和朝廷'''」および「'''ヤマト王権'''」について解説する。呼称については、古墳時代の前半においては近年「'''倭王権'''」「'''ヤマト政権'''」「'''倭政権'''」などの用語も用いられている(詳細は「[[ヤマト王権#名称について|名称について]]」の節を参照)。古墳時代の後、[[飛鳥時代]]以降の大王([[天皇]])を中心とした日本の中央集権組織のことは「[[朝廷 (日本)|朝廷]]」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「[[奈良盆地]]などの[[近畿地方]]中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。 == 名称について == [[1970年代]]前半ごろまでは、日本史上の[[4世紀]]ごろから[[6世紀]]ごろにかけての時期をさす時代区分名として「'''[[大和時代]]'''」がひろく用いられていた。また、この時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力のことをさす用語としては「'''大和朝廷'''」が一般的だった。 [[1970年代]]以降、考古学による[[発掘調査]]がすすみ、重要な[[古墳]]の発見といった成果が蓄積した。くわえて、考古学的調査において[[理化学的年代|理化学的年代測定]]や[[年輪年代学|年輪年代測定]]などの科学的調査法が使われはじめ、またその精度が向上していったことから、古墳の編年研究がいちじるしく発展した。また、考古学的な古墳調査と文献史学(一般的な歴史学)は、提携して調査・研究を行うようになり、その対象は古墳時代の政治組織にも及ぶようになった。こうした成果をうけて、「大和時代」という時代区分名、「大和朝廷」という政権名がかならずしも適切ではないと考えられるようになった。この見解は国内の歴史学会等で有力なものとなり、[[1980年代]]以降、時代区分名としては「[[古墳時代]]」が、また、政権名としては「'''大和政権'''/'''ヤマト政権'''」、あるいは(この政権が王権であることを重視する立場からは)「'''大和王権'''/'''ヤマト王権'''」が普及した<ref group="注">一例をあげると、[[1979年]](昭和54年)の高等学校用日本史教科書『詳説日本史』([[井上光貞]]ら著、[[山川出版社]])では、時代名称として「古墳時代」、国土の大半を統一した勢力として「大和朝廷」の語が使用されていた。</ref>。現在では、[[高等教育]]以上では時代区分名として「古墳時代」が用いられることが一般的である。 ただし、「大和」、「朝廷」という語の使用については学界でも依然としてさまざまな見解が並立しており、「大和朝廷」を用いる研究者も少数ながら存在する。 2020年現在、各種メディアでは「政権」、「王権」、「朝廷」の各表記が混在しており、統一はされていない{{Refnest|group="注"|{{Wayback |url=https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=22638 |title=全く新しい古墳の楽しみ方を紹介します! あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル |NHK_PR|NHKオンライン |date=20210327144030}} - [[日本放送協会|NHK]]の[[古墳]]特集番組。[[松木武彦]]の発言も含めて「ヤマト政権」「大和王権」が混在している。}}<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200323/ddl/k29/040/249000c まほろば再発見:黒塚古墳(天理市) 「卑弥呼の鏡」大量出土 /奈良] - [[毎日新聞]]。「ヤマト政権」の表記</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20200229/ddl/k29/040/413000c ヒエ塚古墳、全長は129メートル 発掘調査、基底石など発見 天理 /奈良] - [[毎日新聞]]。「ヤマト王権」の表記</ref><ref>[https://www.saga-s.co.jp/articles/-/494176 <まちの話題>伊勢山神社春の大祭 8日、豊作と世の平安祈る] - [[佐賀新聞]]。「大和朝廷」の表記</ref>。 === 「大和」をめぐって === {{See also|大和|倭|大和国}} 「大和(ヤマト)」をめぐっては、[[8世紀]]前半完成の『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には[[邪馬台国]]の記述が魏志倭人伝に登場する。その後[[701年]]の[[大宝律令]]施行により、国名(郡・里〈後の郷〉名も)は二文字とすることになって「大倭」となり、[[橘諸兄]]政権開始後間もなくの[[天平]]9年([[737年]])12月[[丙寅]](27日)に、[[恭仁京]]遷都に先立って「[[倭国造|大養徳]]」と(地名のみならず[[氏#古代氏族としての「氏」|ウジ名]]も)なったが、[[藤原仲麻呂]]権勢下の天平19年([[747年]])3月[[辛卯]](16日)<ref group="注">前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入)。</ref>に「大倭」に戻り、そして[[天平宝字]]元年([[757年]])(正月〈改元前〉に諸兄死去)の後半頃に、「大和」へと変化していく。同年に(仲麻呂の提案により)施行された[[養老令]]から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、[[7世紀]]以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある{{sfn|平野邦雄|1988}}{{sfn|関和彦|1990|pp=53-54}}。ただし、[[武光誠]]のように[[3世紀]]末から「大和」を使用する研究者もいる{{sfn|武光誠|2006|p=29}}。 「大和(ヤマト)」はまた、 # 国号「[[日本]]([[倭]])」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体) # 令制国としての「大和」(上述の令制[[大和国]]) # [[奈良盆地]]東南部の[[三輪山]]麓一帯(すなわち令制大和国のうちの[[磯城郡]]・[[十市郡]]・[[倭国造]]) の広狭三様の意味をもっており{{Refnest|group="注"|{{Harvtxt|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=79-84}}。原出典は、{{Harvp|直木孝次郎|1970}}。}}、最も狭い3のヤマトこそ、[[出現期古墳]]が集中する地域であり、王権の中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2)をただちに連想する「大和」表記よりも、3を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。 [[白石太一郎]]はさらに、奈良盆地・[[京都盆地]]から[[大阪平野]]にかけて、北の[[淀川 (近畿)|淀川]]水系と南の[[大和川]]水系では古墳のあり方が大きく相違している<ref group="注">淀川水系では要所要所に[[前方後円墳]]や[[前方後方墳]]が営まれるのに対し、大和川水系では出現期においては三輪山麓に集中し、[[4世紀]]以降大規模な古墳が営まれる[[葛城]]地域や河内南部に顕著な古墳がみられないこと。また、4世紀以降、巨大な前方後円墳が数多く営まれるのはいずれも大和川水系であり、淀川水系ではごくわずかであること。</ref>ことに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と[[河内国|河内]]([[和泉国|和泉]]ふくむ)を合わせた地域である、としている{{sfn|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=79-84}}。すなわち、白石によれば、1〜3に加えて、(4)大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。 一方、[[関和彦]]は、「大和」表記は[[8世紀]]からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4–5世紀の政権を表現するのは「倭王権」「大倭王権」が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている{{sfn|関和彦|1990|pp=53-54}}。 一方、上述の武光のように「大和」表記を使用する研究者もいる{{sfn|武光誠|2006|p=29}}。 武光によれば、古代人は三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、これは奈良盆地の[[飛鳥]]や[[斑鳩]]といったほかの地域と区別された呼称で、今日のように奈良県全体を「大和」と呼ぶ用語法は 7世紀にならないと出現しなかったとする。[[纒向遺跡]]を<u>大和朝廷</u>発祥の地と考える武光は、纒向一帯を「古代都市『大和』」と呼んでいる{{sfn|武光誠|2006|p=29}}。 === 「朝廷」をめぐって === {{See also|朝廷}} 「[[朝廷 (日本)|朝廷]]」の語については、[[天子]]が[[朝政]]などの政務や[[朝儀]]と総称される[[儀式]]をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする[[官僚]]組織をともなった[[中央集権]]的な[[政府]]および[[政権]]を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「[[天皇]]」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという指摘がある。たとえば関和彦は、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義し、[[4世紀]]・[[5世紀]]の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し{{sfn|関和彦|1990|pp=53-54}}、鬼頭清明もまた、一般向け書物のなかで[[磐井の乱]]当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、[[継体天皇|継体朝]]以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として、「大和朝廷」の語は継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきと説明している{{sfn|鬼頭清明|1989|p=250|ps=脚注}}。 === 「国家」「政権」「王権」「朝廷」 === {{See also|国家|政権|王権}} 関和彦はまた、「天皇の政治の場」である「朝廷」に対し、「王権」は「王の政治的権力」、「政権」は「超歴史的な政治権力」、「国家」は「それらを包括する権力構造全体」と定義している{{sfn|関和彦|1990|pp=53-54}}。語の包含関係としては、朝廷⊂王権⊂政権⊂国家という図式を提示しているが、しかし、一部には「朝廷」を「国家」という意味で使用する例{{sfn|朝比奈正幸ほか|1987}}があり、混乱もあることを指摘している{{sfn|関和彦|1990|pp=53-54}}。 === 用語「ヤマト王権」について === 古代史学者の[[山尾幸久]]は、「ヤマト王権」について、「4,5世紀の近畿中枢地に成立した王の権力組織を指し、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』の天皇系譜ではほぼ[[崇神天皇|崇神]]から[[雄略天皇|雄略]]までに相当すると見られている」と説明している{{sfn|山尾幸久|1995|p=11}}。 山尾はまた別書で「王権」を、「王の臣僚として結集した特権集団の共同組織」が「王への従属者群の支配を分掌し、王を頂点の権威とした種族」の「序列的統合の中心であろうとする権力の組織体」と定義し、それは「[[古墳時代]]にはっきり現れた」としている{{sfn|山尾幸久|2005}}。いっぽう、[[白石太一郎]]は、「[[大和|ヤマト]]の政治勢力を中心に形成された北と南をのぞく[[日本列島]]各地の政治勢力の連合体」「広域の政治連合」を「ヤマト政権」と呼称し、「[[畿内]]の首長連合の盟主であり、また日本列島各地の政治勢力の連合体であったヤマト政権の盟主でもあった畿内の王権」を「ヤマト王権」と呼称して、両者を区別している{{sfn|白石太一郎|1999|p=72}}。 また、山尾によれば、 *190年代-260年代 王権の胎動期。 *270年頃-370年頃 初期王権時代。 *370年頃-490年頃 王権の完成時代。続いて王権による種族の統合(490年代から)、さらに初期国家の建設(530年頃から) という時代区分をおこなっている{{sfn|山尾幸久|2005}}。 この用語は、[[1962年]]([[昭和]]37年)に[[石母田正]]が『岩波講座日本歴史』のなかで使用して以来、古墳時代の政治権力・政治組織の意味で広く使用され、時代区分の概念としても用いられているが、必ずしも厳密に規定されているとはいえず、語の使用についての共通認識があるとはいえない{{sfn|山尾幸久|1995|p=11}}。 === 「大和朝廷」 === '''大和朝廷'''(やまとちょうてい)という用語は、次の3つの意味を持つ。 #[[律令国家]]成立以前に[[奈良盆地]]を本拠とした有力な政治勢力およびその政治組織。 #[[大和時代]]([[古墳時代]])の政府・政権。「ヤマト王権」。 #[[飛鳥時代]]または古墳時代後半の[[天子]]([[天皇]])を中心とする[[官僚制]]をともなった[[中央集権]]的な政府・政権。 この用語は、戦前においては1.の意味で用いられてきたが、戦後は単に「[[大和時代]]または[[古墳時代]]の政権」(2.)の意味で用いられるようになった。しかし、「朝廷」の語の検討や、[[古墳]]とくに[[前方後円墳]]の[[考古学]]的研究の進展により、近年では、3.のような限定的な意味で用いられることが増えている。 現在、1.の意味で「大和朝廷」の語を用いる研究者や著述家には[[武光誠]]や[[高森明勅]]などがおり、武光は『古事記・日本書紀を知る事典』(1999)のなかで、「大和朝廷の起こり」として[[神武東征]]と[[長髄彦]]の[[説話]]を掲げている{{sfn|武光誠|1999}}。 なお、中国の[[史料]]も考慮に入れた総合的な古代史研究、[[考古資料]]を基礎においた考古学的研究における話題において「大和朝廷」を用いる場合、「ヤマト(大和)王権」などの諸語と「大和朝廷」の語を、編年上使い分ける場合もある。たとえば、 *安康天皇以前を「ヤマト王権」、[[5世紀]]後半の雄略天皇以後を「ヤマト朝廷」 - 平野邦雄{{sfn|平野邦雄|1988}} *宣化天皇以前を「倭王権」または「大和王権」、[[6世紀]]中葉の欽明天皇以後を「大和朝廷」 - 鬼頭清明{{sfn|鬼頭清明|1994}} など。 == 首長の称号 == {{main|大王 (ヤマト王権)}} ヤマト王権の首長は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、{{要出典|国内向けには「治天下大王」「大王」「大公王」などと称していた。|date=2013年11月}}考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の[[天下]]であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている<ref group="注">これを研究者によっては[[小中華主義]]の萌芽とする見解もあるが、一方で小中華主義とは「中国(大中華)に次する文明国である(小中華)とする思想」と定義している研究者もおり(一例として河宇鳳著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』)、この場合、ヤマト王権の「中華王朝と異なる別の[[天下]]であるという意識」は「小中華」に当たらないこととなる。</ref>。 == ヤマト王権の歴史 == === 王権の成立 === ==== 小国の発生 ==== [[弥生時代]]にあっても、『[[後漢書]]』東夷伝に[[107年]]の「倭面土国王[[帥升]]」の記述があるように、「[[倭]]」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『[[魏志倭人伝|魏志]]』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。 また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、[[考古資料]]においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や[[土塁]]をめぐらした[[環濠集落]]や、[[稲作]]に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える[[高地性集落]]が造られ、墓に納められた遺体も[[戦争]]によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。[[縄文時代]]にはもっぱら小動物の[[狩猟]]の道具として用いられた[[石鏃]]も、弥生時代には大型化し、人間を対象とする[[武器]]に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。 墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の[[地下式横穴墓]]、[[九州]]北部における[[甕棺墓]]、[[中国地方]]における[[箱式石棺墓]]、[[近畿地方]]や[[日向国|日向]]([[宮崎県]])における[[木棺墓]]など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、[[土坑墓]]の多い東日本では死者の骨を土器につめる[[再葬墓]]がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした[[方形周溝墓]]は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長があらわれたことがうかがえる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の[[銅鐸]]、[[瀬戸内地方]]の[[銅剣]]、九州地方の[[銅戈]](中期)・[[銅矛]](中期-後期)など宝器として用いられる[[青銅器]]の種類のちがいにもあらわれている。 ==== 邪馬台国と女王卑弥呼政権 ==== [[西晋]]代に著された歴史書である『[[魏志]]』[[魏志倭人伝|東夷伝倭人条]]によれば、[[3世紀]]前半に'''[[邪馬台国]]'''という名の大国を中心とした倭の国々(ここでいう国とは土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体「[[邑|国邑]]」のことと思われる)にて、争いを収まらせるため'''[[卑弥呼]]'''という人物が邪馬台国の「[[女王]]」として擁立され、魏に遣使して「[[親魏倭王]]」の[[金印]]を授与されたことを記している。邪馬台国には、「大人」と「下戸」の[[封建制|身分差]]や[[刑罰]]、[[租税]]の制、[[鉄貨]]を用いた[[市場]]、および中央から派遣された[[監察官]]と思われる<ref group="注">[[魏 (三国)|魏]]の[[刺史]]に似ていたとされる。</ref>「'''[[一大率]]'''」が属国の[[伊都国]]に置かれるなど、ある程度の成熟した[[政府|統治組織]]を持っていたことが分かる。 『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国の東には海を渡ること千余里にてまた倭種の国があり、邪馬台国の西方には[[会稽]]がある。邪馬台国の北西には[[帯方郡]]、北方には[[伊都国]]があると記述されている。また邪馬台国と抗争状態にある国として東方の'''[[狗奴国]]'''を挙げている。 卑弥呼の死の後は男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女[[台与|壱与]]('''臺與'''と記している史料もある)が王となって再び治まったことが記されている。『[[日本書紀]]』の[[神功皇后]]紀に引用された『晋起居注<ref group="注">単本としては現存せず。</ref>』には、[[266年]]([[泰始 (晋)|泰初]](「泰始」の誤り)2年)、倭の女王の使者が[[西晋]]の都[[洛陽]]に赴いて[[朝貢]]したとの記述があり、この女王が臺與ではないかと言われている<ref group="注">『日本書紀』は台与の行動を神功皇后の事績として想定した可能性がある。</ref>。なお現存する『[[晋書]]』四夷伝と武帝紀では266年の倭人の朝貢は書かれているが、女王という記述は無い。 邪馬台国の所在地については「[[邪馬台国畿内説|近畿説]]」と「[[邪馬台国九州説|九州説]]」があるが、近畿説に則る場合、3世紀には近畿から北部九州に及ぶ統一的な広域政体がすでに成立していたことになり、九州説に則る場合、北部九州一帯の地方勢力ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。 ==== 邪馬台国と纏向遺跡 ==== {{main|邪馬台国畿内説}}考古学者の[[白石太一郎]]によれば、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編や、狗奴国連合との併合に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」としている{{sfn|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=79-84}}。 [[奈良盆地]]南東部の大規模遺跡・'''[[纒向遺跡]]'''は当時の畿内地方にあった国邑連合の政治・経済の中枢地であったとされている{{sfn|石野博信|2008|ps=など}}。この遺跡は、飛鳥時代には「大市」があったといわれる三輪山麓に位置し、[[都市計画]]の痕跡とされる[[遺構]]が認められ、[[運河]]などの土木工事もおこなわれており、政治都市として祭祀用具を収めた穴が30余基や祭殿、祭祀用仮設建物を検出し、[[東海地方]]から[[北陸]]・[[近畿]]・阿讃瀬戸内・[[吉備]]・[[出雲]]ならびにごく少数ながら北部[[九州]]の土器が搬入されており、また、広がりの点では国内最大級の環濠集落である[[唐古・鍵遺跡]]の約10倍、[[吉野ヶ里遺跡]]の約6倍におよぶ[[7世紀]]末の[[藤原宮]]に匹敵する巨大な遺跡で、[[多賀城|多賀城跡]]の規模を上回る可能性があるとしている{{sfn|和田萃|1992|pp=62-96}}。纒向遺跡を[[邪馬台国]]の中心集落に比定する説はますます説得力を増している{{sfn|武光誠|2006|p=29}}。 纏向遺跡の近辺には[[纒向古墳群|纏向古墳群]]と呼ばれる最初期の前方後円墳群があり、その中には卑弥呼の[[卑弥呼#人物比定|有力比定候補]]の一人とされる'''[[倭迹迹日百襲姫命]]'''の墓と伝わる'''[[箸墓古墳]]'''がある。同じく纏向古墳群に属する[[纒向石塚古墳|石塚古墳]]など帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。「[[纒向型前方後円墳]]」と称する)も、前方後円墳に先だつ型式の古墳でありながら墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかに凌ぐ規模をもつ。 [[国立民族学博物館]]は、[[炭素年代測定]]により纏向古墳群の成立時期は3世紀中頃に遡るとし、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とする「ヤマト政権」ないし「大和王権」につながる可能性が高くなったとしている。炭素年代測定法には50年ないし100年古く推定される誤差があるとする見方もあり、依然として議論が続いている。 白石太一郎によれば、纏向古墳群の古墳は[[出雲|出雲地方]]の[[四隅突出型墳丘墓]]、[[吉備国|吉備地方]]の[[楯築墳丘墓]]など各地域の文化を総合的に継承しているとする。吉備などで墳丘の上に立てられていた[[特殊器台・特殊壺]]が採り入れられるなど、ヤマト政権の盟友的存在として[[吉備津彦命|吉備勢力]]が重要な位置を占めていた可能性を指摘している{{sfn|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=84-89}}。 なお、朝鮮との交流を示す[[漢鏡]]、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、『魏志倭人伝』にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国と無関係な遺跡であるとする見方も少なからず存在している<ref>[[関川尚功]]著『邪馬台国と箸墓古墳』財団法人古代学協会</ref>。 ==== ヤマト王権の成立 ==== {{See also|前方後円墳体制}} ヤマト王権の成立にあたっては、[[前方後円墳]]の出現とその広がりを基準とする見方が有力である{{Refnest|group="注"|[[川西宏幸]](1988)「畿内政権論」、{{Harvp|都出比呂志|1991|ps=「前方後円墳体制論」}}など。}}。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉など若干の異同はある。ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる一方、大王を中心とした中央集権国家であったと見る意見もある。 考古学的には3世紀後半ごろ、近畿をはじめとした西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは[[前方後方墳]]で、[[竪穴式石室]]の内部に長さ数メートルにおよぶ[[割竹形木棺]]を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の[[銅鏡]]はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。ただし[[炭素年代測定]]や[[年輪年代学]]の技術的欠点や、測定値と文献記録との大きな乖離などからも従来の土器編年に基づいた4世紀出現を唱える意見もある。 [[ファイル:Hashihaka-kofun-1.jpg|250px|thumb|right|[[箸墓古墳]](北西方向から)]] こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考える意見がある。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。一方上述のように4世紀頃は崇神天皇の在位年代と重なるものと見られており、同朝の[[四道将軍]]説話や、続く[[景行天皇]]朝の[[倭建命]]の東国遠征の経路上に纏まって古墳が出現することから、地域連合ではなく中央豪族を各地に首長([[国造]])として派遣したために広がったものとする意見もある。 出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、[[奈良県]][[桜井市]]に所在する[[箸墓古墳]](280メートル)や[[天理市]]にある[[西殿塚古墳]](234メートル)などであり、奈良盆地南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「[[前方後円墳体制]]」と称することがある{{sfn|都出比呂志|1991}}。 [[吉村武彦]]は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで、「[[崇神天皇]]以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらないと考えられる」と述べている{{sfn|吉村武彦|1993|pp=177-210}}。 また「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。その論拠としては、記紀には[[王宮]]と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また、特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤をもたないのだとしたら、[[記紀]]におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ、大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する{{sfn|吉村武彦|1993|pp=177-210}}。 前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし[[行燈山古墳]](伝[[崇神天皇]]陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である{{sfn|吉村武彦|1993|pp=177-210}}。上述の山尾の指摘{{sfn|山尾幸久|1995|p=11}}とあわせ、今後検討していくべき課題であるといえる。 2023年11月3日、[[奈良県立橿原考古学研究所]]は橿原市内で講演会を開き初期'''ヤマト王権'''の大王墓とされる奈良県桜井市外山(とび)の[[桜井茶臼山古墳]](3世紀末)の調査の結果、国内最多の103面分の[[銅鏡]]破片が発見されたことを発表し、被葬者は「他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」であり、古墳時代初期から強大な支配体制が形成されたとの見解を示し、「'''3世紀末の[[奈良盆地]]には[[邪馬台国]]とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった'''」と発表した<ref>THE SANKEI NEWS 「圧倒的な王権の力証明」国内最多銅鏡の桜井茶臼山古墳 奈良・橿原で講演会 2023/11/6 20:48</ref>。 == 王権の展開 == === 前方後円墳体制(古墳時代前期前半)=== 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は大陸の史書から姿を消している。3世紀後半から[[4世紀]]前半にかけての日本列島はしたがって、[[金石文]]もふくめて[[史料]]をほとんど欠いているため、その政治や文化の様態は考古学的な資料をもとに検討するほかない。 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは[[東日本]]の広大な地域がヤマトを盟主とする広域政治連合(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では[[前方後方墳]]が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。 <small>以下は古墳時代の時期区分としての通説の3期区分けである。 * 古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで * 古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末 * 古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半 この区分をさらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分して以下の節立てをこれに準拠させる。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。</small> [[ファイル:Andonyama 001.jpg|250px|right|thumb|[[崇神天皇]]陵に比定されている[[行燈山古墳]](4世紀前半)]] 日本列島の古墳には、前方後円墳、前方後方墳、[[円墳]]、[[方墳]]などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は[[山形盆地]]・[[北上盆地]]、南は[[大隅国|大隅]]・[[日向国|日向]]におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した[[首長]]層だと考えられる。 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の[[副葬品]]である特殊器台に起源をもつ[[円筒埴輪]]が立て並べられ、表面は[[葺石]]で覆われたものが多く、また周囲に[[濠]]をめぐらしたものがある。副葬品としては[[三角縁神獣鏡]]や[[画文帯神獣鏡]]などの[[青銅鏡]]や[[碧玉]]製の[[腕輪]]、玉([[勾玉]]・[[管玉]])、鉄製の武器・[[農耕具]]などがみられて全般に[[呪術]]的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら[[神]]を祀る[[司祭]]者でもあったという性格をあらわしている([[祭政一致]])。 列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、[[貿易]]等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。 ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが上述の吉備のほか北関東の地域であった。[[毛野]]地域とくに[[上野国|上野]]には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の[[日向国|日向]]や[[陸奥国|陸奥]]の[[仙台平野]]なども重視された地域であったが、白石太一郎はそれは両地方がヤマト政権連合にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている{{sfn|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=89-94}}。 === 七支刀と好太王碑(古墳時代前期後半) === 4世紀後半にはいると、[[石上神宮]](奈良県)につたわる[[七支刀]]の製作が、銘文により[[369年]]のこととされる。[[356年]]に[[馬韓]]の地に建国された[[百済]]王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわす。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると[[372年]]のこととなる。 いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ[[任那]](金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」([[土師器]])など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。 いっぽう半島北部では、[[満州]]東部の森林地帯に起源をもつ[[ツングース]]系[[濊貊|貊族]]の国家[[高句麗]]が、[[313年]]に楽浪郡・[[帯方郡]]に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。[[中華人民共和国|中国]][[吉林省]]集安に所在する[[好太王碑]]には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、[[400年]]と[[404年]]の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻んでいる([[倭・倭人関連の朝鮮文献]])。 この時期のヤマト王権の政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず、将兵の構成や動員の様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマトの王権の基盤が既に整っていたことが理解できる。 === 巨大古墳の時代(古墳時代中期前半) === [[ファイル:NintokuTomb Aerial photograph 2007.jpg|250px|thumb|right|[[大仙陵古墳]]([[大阪府]][[堺市]])<br/><small>{{国土航空写真}}。</small>]] 4世紀末から[[5世紀]]全体を通じて、考古学における古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて[[短甲]]や[[冑]]など騎馬戦用の武具も増える。こうした騎馬技術や武具・道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘を通じてもたらされたものと考えられるが、かつては、このような副葬品の変化を過大に評価して、騎馬民族が日本列島の農耕民を征服して「大和朝廷」を立てたとする「[[騎馬民族征服王朝説]]」がさかんに唱えられた時期があった。 確かに、ヤマトを起源とされる前方後円墳が5世紀以前の朝鮮半島では見つかっているものの、[[江上波夫]]の説のように騎馬技術や武具・道具が倭国に急速に流入し政権が変貌したという証拠は乏しい。その間、日本においては首長墓・王墓の型式は3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳がつくられるなど、前期古墳と中期古墳の間には、江上の指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性が認められることから、この説は現在では以前ほどの支持を得られなくなっている(→[[騎馬民族征服王朝説]]参照)。 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半に河内平野([[大阪平野]]南部)に[[誉田山古墳]](伝応神陵、墳丘長420メートル)や[[大山古墳]](伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも[[秦]]の[[始皇帝陵]]とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、[[大和・柳本古墳群]](奈良盆地南東部)、[[佐紀盾列古墳群]](奈良盆地北部)、[[馬見古墳群]](奈良盆地南西部)、[[古市古墳群]](河内平野)、[[百舌鳥古墳群]](河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている{{sfn|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=79-84}}{{sfn|白石太一郎|佐川正敏|泉拓良|設楽博己|2002|pp=89-94}}。また、[[井上光貞]]も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり<ref>{{harvtxt|井上光貞|1960|ref=none}}</ref>、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。 いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「[[王朝交替説]]」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇[[和風諡号]]の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は[[河内王朝]](「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は[[水野祐 (歴史学者)|水野祐]]によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、[[上田正昭]]の河内王朝論などとして展開し、[[直木孝次郎]]、[[岡田精司]]らに引き継がれた。 {{See also|王朝交替説}} しかし、この王朝交替説に対しても、現状ではいくつかの立場から批判が出されている。その代表的なものに「[[地域国家論]]」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが[[和田萃]]である{{sfn|和田萃|1992|pp=214-262}}。大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。 [[ファイル:Tsukuriyama Kofun, Okayama air.jpg|250px|thumb|right|[[造山古墳]]]] 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、[[筑紫国|筑紫]]、吉備、毛野、[[丹後国|丹後]]などでも大きな前方後円墳がつくられた。なかでも[[岡山市]]の[[造山古墳]](墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられている。 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・[[出雲]]など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される、政治機構、徴税機構、軍事・裁判機構が存在していた証明がなされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 5世紀初めはまた、[[渡来人]]([[帰化人]])の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、[[王仁]]、[[阿知使主]]、[[弓月君]]([[東漢氏]]や[[秦氏]]の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。[[須恵器]]の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。 5世紀にはいって、再び倭国が中国の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで中国の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。[[倭の五王]]は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。中国皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を[[冊封体制]]と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国([[任那]]・[[伽耶|加羅]])における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」([[438年]])、済がやはり「安東将軍倭国王」([[443年]])の称号を得、さらに済は[[451年]]に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。[[462年]]、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝に対し、自らの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられている。 === ワカタケルの政権(古墳時代中期後半) === [[475年]]、高句麗の大軍によって百済の都[[ソウル特別市|漢城]]が陥落し、[[蓋鹵王]]はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の[[熊津]]へ遷した。こうした半島情勢により「[[今来漢人]](いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。5世紀後半から6世紀にかけての[[雄略天皇]]の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。雄略天皇は、上述した倭の五王のうちの武であると比定される。 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」には、倭の王権(倭王武の先祖)が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。 この時代のものと考えられる[[埼玉県]]の[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]出土鉄剣([[稲荷山古墳出土鉄剣|金錯銘鉄剣]])には[[辛亥]]年([[471年]])の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、[[熊本県]]の[[江田船山古墳]]出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、上述の「倭王武の上表文」の征服事業の記載と整合的である。 また、稲荷山古墳出土鉄剣銘には東国の豪族が「[[大王 (ヤマト王権)|大王]]」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の[[仕奉関係]]は「[[人制]]」とよばれる。 さらに、銘文には「治天下…大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに中国の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。 上述した「今来漢人」は、[[陶作部]]、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団([[品部]])に組織され、東漢氏に管理をまかせた。また、[[漢字]]を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは[[史部]]とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である[[伴造]]やその配下におかれた[[部民制|部]]などからなる官僚組織がしだいにつくられていったものと考えられる。 いっぽう、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質した<ref group="注">『日本書紀』『古事記』には、5世紀前半に大勢力を誇った葛城氏と吉備氏が、雄略天皇の時代に没落したことを伝えている。</ref>ことは、考古資料の面からも指摘できる。 なお、平野邦雄は「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している{{sfn|平野邦雄|1988}}。 === 王権の動揺と変質 === ==== 継体・欽明朝の成立(古墳時代後期前半) ==== [[ファイル:Imashirokf17.jpg|180px|right|thumb|継体天皇陵と考えられる[[今城塚古墳]]]] ワカタケルの没後、5世紀後半から末葉にかけての時期には、巨大な前方後円墳の築造も衰退しはじめ、一般に小型化していくいっぽう、小規模な円墳などが群集して営まれる[[群集墳]]の造営例があらわれ、一部には[[横穴式石室]]の採用もみられる。こうした動きは、巨大古墳を築造してきた地域の大首長の権威が相対的に低下し、中小首長層が台頭してきたことを意味している。これについては、ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したという考えがある{{sfn|佐々木憲一|2007|p=27-29}}。 5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する[[大伴氏|大伴]]、[[物部氏|物部]]、[[阿部氏|阿部]]などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される{{sfn|白石太一郎|1999|pp=160-161}}。王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、そのいっぽうでは大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質していく{{sfn|白石太一郎|1999|p=161}}。5世紀末葉から[[6世紀]]初頭にかけて、『[[日本書紀]]』では短期間のあいだに[[清寧天皇|清寧]]、[[顕宗天皇|顕宗]]、[[仁賢天皇|仁賢]]、[[武烈天皇|武烈]]の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体もはげしく動揺したことを示唆している。また、こののちのヲホド王([[継体天皇]])即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説([[王朝交替説]])がある。 こうした王権の動揺を背景として、この時期、中国王朝との通交も途絶している。ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。[[6世紀]]に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。 [[ファイル:Mise Maruyama kohun aerial.jpg|180px|right|thumb|欽明天皇陵と考えられる[[見瀬丸山古墳]]]] こうしたなか、6世紀初頭に[[近江国|近江]]から[[北陸地方|北陸]]にかけての首長層を背景としたヲホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトにむかえられて王統を統一した。しかし、ヲホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る{{Refnest|group="注"|これについて、白石太一郎は、継体天皇を擁立した淀川流域・畿内東辺の諸勢力とヤマト王権をささえてきた大伴、物部などの旧勢力とのあいだに妥協が成立したことを示すものとし、その妥協はヲホドと[[手白香皇女]]との結婚によって成り立ったと推定し、継体朝の成立は王朝交替を意味しないと説いている{{sfn|白石太一郎|1999|pp=167-168}}。}}。ヲホド大王治世下の[[527年]]には、北九州の有力豪族である[[筑紫君磐井]]が[[新羅]]と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった([[磐井の乱]])。この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、[[大伴金村]]の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ<ref group="注">『日本書紀』によれば、大伴金村が「任那4県」を百済にあたえたため任那の人びとの反感を買い、倭国と対立していた新羅に乗ずるすきをあたえたという。</ref>。継体天皇の没後、[[531年]]から[[539年]]にかけては、王権の分裂も考えられ、[[安閑天皇|安閑]]・[[宣化天皇|宣化]]の王権と[[欽明天皇|欽明]]の王権が対立したとする説もある([[辛亥の変]])。いっぽう、ヲホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。なお、[[540年]]には、ヲホド大王を擁立した[[大伴金村]]が失脚している。 ==== ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半) ==== 6世紀前半は[[砂鉄]]を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。[[562年]]、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。そのいっぽう、半島からは[[暦法]]など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、[[田荘]]・[[部民]]などの獲得をめぐって抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、[[蘇我稲目]]と[[物部尾輿]]が崇仏か排仏かをめぐって対立し、大臣[[蘇我馬子]]と大連[[物部守屋]]の代には、ついに武力闘争に至った([[丁未の乱]])。 丁未の乱を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えたが([[崇峻天皇]])、次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。続いて姪の額田部皇女を即位させて[[推古天皇]]とし、厩戸王([[聖徳太子]])とともに強固な政治基盤を築きあげ、[[冠位十二階]]や[[十七条憲法]]の制定など官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。 6世紀中葉に日本に伝来した[[仏教]]は、統治と支配をささえる[[イデオロギー]]として重視され、『[[天皇記]]』『[[国記]]』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。 ==== 「日本」へ ==== 7世紀半ばに[[唐]]が[[高句麗]]を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、[[難波宮]]で[[大化の改新]]が行われた。[[壬申の乱]]にて大王位継承権を勝ち取った[[天武天皇]]は[[藤原京]]の造営を始め、[[持統天皇]]の代には[[飛鳥]]から遷都した。[[701年]][[大宝律令]]が完成し、この頃からヤマト王権は「[[日本国]]」を国号の表記として用い(当初は「日本」と書き「やまと」と訓じた)、大王に代わる新しい君主号を、正式に「天皇」と定めた。 == 史書の記録 == === 前史 === 『[[日本書紀]]』によれば、[[伊奘諾尊]]と[[伊奘冉尊]]の間にうまれた[[太陽神]]である[[天照大神]]が皇室の祖だという。その子[[天忍穂耳尊]]と[[栲幡千千姫]]([[高皇産霊尊]]の娘)の間にうまれた子の[[瓊瓊杵尊]](天孫)は、天照大神の命により、[[葦原中国]]を統治するため[[高天原]]から[[日向国|日向]]の[[熊襲|襲]]の高千穗峰に降臨した([[天孫降臨]])。 瓊瓊杵尊は、[[大山祇神]]の娘である[[木花之開耶姫]]をめとり、[[火闌降命]](海幸彦。[[隼人]]の祖。)・[[火折尊]](山幸彦。皇室の祖。)・[[火明命]]([[尾張氏]]の祖)をうんだ。山幸彦と海幸彦に関する神話としては「[[山幸彦と海幸彦]]」がある。 火折尊は[[ワダツミ|海神]]の娘である[[豊玉姫]]を娶り、二人の間には[[彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊]]がうまれた。鸕鶿草葺不合尊はその母の妹である[[タマヨリビメ (日向神話)|玉依姫]]をめとり、[[五瀬命]]・[[稲飯命]]・[[三毛入野命]]・[[磐余彦尊]]がうまれた。瓊瓊杵尊から鸕鶿草葺不合尊までの3代を「[[日向三代]]」と呼ぶことがある。 === 神武東征と建国 === [[ファイル:Emperor Jimmu.jpg|thumb|right|150px|[[神武東征]]をあらわす[[明治時代]]初期の[[版画]]([[月岡芳年]])]] 磐余彦尊は[[日向国]]にあったが、[[甲寅]]年、45歳のときに[[饒速日]]([[物部氏]]の遠祖)が東方の美しい国に天下った話を聞いた。磐余彦尊は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめてその地([[奈良盆地]])へ東征([[神武東征]])を開始した。[[速吸之門|速吸の門]]では、[[国つ神|国神]]である珍彦([[倭国造]]の祖)に出会い、彼に[[椎根津彦]]という名を与えて道案内にした。[[筑紫国]][[宇佐郡|菟狭]]の[[一柱騰宮]]、同国[[遠賀郡|崗]]水門を経て、[[安芸国]]の[[埃宮]]、[[吉備国]]の[[高島宮]]に着いた。磐余彦は大和の指導者[[長髄彦]]と戦い、饒速日命はその主君であった[[長髄彦]]を殺して帰順した。[[辛酉]]年、磐余彦尊は[[橿原宮]]ではじめて[[天皇]]位につき([[神武天皇]])、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。 === 伝承の時代 === * 初代:[[神武天皇]](神日本磐余彦天皇) * 第2代:[[綏靖天皇]](神渟名川耳天皇) * 第3代:[[安寧天皇]](磯城津彦玉手看天皇) * 第4代:[[懿徳天皇]](大日本彦耜友天皇) * 第5代:[[孝昭天皇]](観松彦香殖稲天皇) * 第6代:[[孝安天皇]](日本足彦国押人天皇) * 第7代:[[孝霊天皇]](大日本根子彦太瓊天皇) * 第8代:[[孝元天皇]](大日本根子彦国牽天皇) *:妹と伝わる[[倭迹迹日百襲姫命]]は最古の巨大前方後円墳<ref>橿考研、[http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/hokenoyama-hashika.html]</ref>とされる[[箸墓古墳]]の被葬者と伝わる。この古墳の築造を期に各地で前方後円墳が築造され始める。 * 第9代:[[開化天皇]](稚日本根子彦大日日天皇) [[綏靖天皇]]から[[開化天皇]]までは[[記紀]]において事績の記載がほとんどないため、[[欠史八代]]と称されることがある。 * 第10代:[[崇神天皇]](御間城入彦五十瓊殖天皇) *: 「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも称され、この別名は神武天皇の別名と同訓である。崇神天皇は[[三輪氏]]に[[大物主大神]]を祀らせた。日本書紀によれば[[四道将軍]]を派遣したとされ、この将軍派遣記事が初の本格的な日本統一運動である。実在可能性が認められる最古の天皇。 * 第11代:[[垂仁天皇]](活目入彦五十狭茅天皇) *: [[相撲]]と[[埴輪]]の起原は垂仁天皇の時代にあるとされる。 * 第12代:[[景行天皇]](大足彦忍代別天皇) *: 景行天皇は九州の征伐に赴き、皇子[[日本武尊]]は東国へ遠征を行ったとされる。 * 第13代:[[成務天皇]](稚足彦天皇) *: 父と日本武尊の遠征・平定を受け、この時代に東北から九州までの諸国に[[国造]]と[[県主]]を設置した。これは4世紀代後半までに東北から九州南部にかけて、古墳(前方後円墳、前方後方墳)が築造されたことに符合する。 * 第14代:[[仲哀天皇]](足仲彦天皇) *: [[皇后]]の[[神功皇后]]は仲哀天皇崩御後に[[熊襲]]征伐や[[三韓征伐]]を行い、その後即位せずに政務をとったとされる。 * 第15代:[[応神天皇]](誉田天皇) * 第16代:[[仁徳天皇]](大鷦鷯天皇) *: 「聖帝」と称され、[[大阪平野|河内平野]]の開拓にいそしみ、人家の[[竈]]から炊煙が立ち上がらないことを知って[[租税]]を免除するなど仁政を施した逸話で知られる。 * 第17代:[[履中天皇]](大兄去来穂別天皇) * 第18代:[[反正天皇]](瑞歯別天皇) * 第19代:[[允恭天皇]](雄朝津間稚子宿禰天皇) *: この時代に中央豪族や各地の豪族に対して[[カバネ|姓]]を与えたとされる。 * 第20代:[[安康天皇]](穴穂天皇) * 第21代:[[雄略天皇]](大泊瀬幼武天皇) *: [[倭の五王]]の最後として『[[宋書]]』倭国伝に記された「倭王武」であるとされる。また、[[埼玉県]]の[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]出土鉄剣([[稲荷山古墳出土鉄剣|金錯銘鉄剣]])の[[辛亥]]年([[471年]])の紀年銘、および[[熊本県]]の[[江田船山古墳]]出土の鉄刀銘には雄略天皇の名と一致する人名がみられる。考古学的に実在がほぼ確定している最古の天皇。 * 第22代:[[清寧天皇]](白髪武広国押稚日本根子天皇) * 第23代:[[顕宗天皇]](弘計天皇) * 第24代:[[仁賢天皇]](億計天皇) * 第25代:[[武烈天皇]](小泊瀬稚鷦鷯天皇) === 古墳時代 === 武烈天皇には子がなく、[[大伴金村]]らは[[近江国]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]で生まれ[[越前国]]で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、[[継体天皇]]として即位した。 ここに皇統の断絶があったとする見解もある。([[王朝交替説|王朝交代説]]) 実在が確定している天皇であり、またこれ以降の天皇には実在が疑われる人物が存在しないことから、現代まで繋がる全ての皇室の始祖であるとされる。 * 第26代:[[継体天皇]](雄大迹天皇) * 第27代:[[安閑天皇]](広国押武金日天皇) * 第28代:[[宣化天皇]](武小広国押盾天皇) * 第29代:[[欽明天皇]](天国排開広庭天皇) * 第30代:[[敏達天皇]](渟中倉太珠敷天皇) * 第31代:[[用明天皇]](橘豊日天皇) * 第32代:[[崇峻天皇]](泊瀬部天皇) 崇峻天皇は[[蘇我馬子]]の命により暗殺され、初の[[女帝]]となる[[推古天皇]](豊御食炊屋姫天皇)が継いで第33代天皇となった。 == 異説 == === 多元王朝説 === 弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、[[日本列島]]内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、という[[多元王朝説]]が[[古田武彦]]らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあった。しかし存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「決定的な根拠に欠けている」としている。 なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする[[九州王朝説|九州王朝一元説]]や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする[[豊前王朝説]]、九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする[[東北王朝説]]もあるが、学界からは根拠が薄いとされている。 九州王朝説とは別に、九州の邪馬台国と畿内の大和王権の二朝並立を唱える説、その他[[古代出雲]]や[[吉備]]にも一定勢力が存在したと考える多元王朝説もある。二朝並立説では大和王権が邪馬台国から分岐独立後に勢力を拡大させ、本宗であった邪馬台国を滅ぼしたとする説がある。 === 畿内政権論(畿内王権論) === 日本の古代国家は天皇による専制君主国家であったとしてきた戦後の古代史学界へのアンチテーゼとして、日本の古代国家の本質は大王を含む畿内豪族による全国支配(「畿内ブロックの全国支配)だったとする学説。1950年代に東北大学教授の[[関晃]]氏が唱え、その後、戦後の古代史学界の中心的なテーマとして邪馬台国論争を超える論争が行われたという<ref>水谷千秋「古代豪族と大王の謎」宝島社新書 2019 15‐24頁</ref>。 {{main|[[畿内政権論]]}} == 神話伝承を根拠とする諸事 == === 皇紀と建国記念の日 === 神武天皇の橿原宮での即位は「[[辛酉]]年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って[[紀元前660年]]に相当し、それを[[紀元]]とする[[紀年法]]が「皇紀」([[神武天皇即位紀元]])である。西暦[[1940年]]([[昭和]]15年)は皇紀2600年にあたり、[[日中戦争]]の戦時下にあったためもあり、「[[紀元二千六百年記念行事]]」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された[[零式艦上戦闘機]](いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。 [[ファイル:Kashiharajingu.jpg|250px|right|thumb|[[1890年]]、[[明治天皇]]により創建された[[橿原神宮]]([[橿原市]])]] また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『[[儀鳳暦]](麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は[[太陽暦]]の採用にあたり、[[1873年]](明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦[[2月11日]]を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の[[立春]]に最も近い[[庚辰]]の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。この布告にもとづき、戦前は2月11日が[[紀元節]]として[[祝日]]とされていた。紀元節は、[[大日本帝国憲法]]発布の日([[1889年]](明治22年)2月11日)、[[広田弘毅]]発案による[[文化勲章]]の制定日([[1937年]](昭和12年)2月11日)にも選ばれ、[[昭和天皇]]即位後は[[四方拝]](1月1日)、[[天長節]](4月29日)、[[明治節]](11月3日、[[明治天皇]]誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。 紀元節は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])終結後[[1948年]]に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、[[1966年]]に妥協案として「の」を入れた「[[建国記念の日]]」が成立した。[[国民の祝日に関する法律]](祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、[[1966年]]([[昭和]]41年)の祝日法改正では「[[国民の祝日]]」に加えられ、今日に至っている<ref group="注">明治節であった11月3日は「[[文化の日]]」、昭和天皇誕生日であった4月29日は昭和天皇崩御後「[[みどりの日]]」を経て、現在は「[[昭和の日]]」として国民の祝日となっている。</ref>。 『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。 === 神宝と皇室行事 === 皇室に伝わる神宝は「[[三種の神器]]」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡([[八咫鏡]])、剣([[天叢雲剣]])、玉([[八尺瓊勾玉]])を指す。 [[大和時代]]に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「[[神嘗祭]]」や11月23日の「[[新嘗祭]]」がある。「[[大祓]]」もまた、[[大宝律令|大宝令]]ではじめて明文化された古い[[宮中祭祀]]である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「[[曲水の宴|曲水宴]]」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある{{sfn|武光誠|2006}}。 なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmでその図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する[[大型内行花文鏡]]が福岡県糸島市の[[平原遺跡]]から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。 == 関連神社 == * '''[[伊勢神宮]]''' *: 皇室の祖先神である[[天照大神|天照坐皇大御神]]を主祭神とする神社。[[垂仁天皇]]の第4皇女[[倭姫命]]が、天照大神を祭る土地を東に求めて大和、[[近江国|近江]]、[[美濃国|美濃]]を経て、[[神託]]により伊勢に大神が鎮坐する祠を立てたのがこの神宮の起源であるという。 * [[大神神社]] *: 大和朝廷発祥の地とされる[[奈良盆地]]南東部に所在する神社である。[[神武東征]]前の先住支配者であった[[三輪氏]]の[[氏神]]。主祭神は[[大物主大神]]であり、[[三輪山]]を[[神体山]]とする。[[大己貴神]]が自らの[[幸魂]][[奇魂]]である大三輪の神を日本国の三諸山(三輪山)に宮をつくって住ませたのがこの神社の起源であるという。今日でも[[本殿]]をもたず、[[拝殿]]から三輪山を神体として仰ぎみる[[古神道]](原始神道)の形態を残している。また、山を神体としないものの大神神社と同じく本殿を持たない[[諏訪大社]]は、三輪氏と同族であった[[諏訪氏]]が奉斎した。 * [[熱田神宮|熱田社]] *: [[三種の神器]]のひとつ[[天叢雲剣|草薙神剣(草薙剣、天叢雲剣)]]を神体とし[[熱田大神]]を主祭神とする。[[日本武尊]]は、東国遠征ののち[[尾張国造]]の娘・[[宮簀媛]]を娶り、[[能褒野]]で崩じたという。 * [[石上神宮]] *: 神武天皇の時代から仕える有力豪族の[[物部氏]]の[[氏神]]。[[崇神天皇]]の時代に創建された。垂仁天皇が[[五十瓊敷入彦命|五十瓊敷命]]と大足彦命(のちの[[景行天皇]])の兄弟に対しそれぞれが欲するものを尋ねた際、兄の五十瓊が弓矢、弟が皇位を望んだとされ、五十瓊敷が大刀一千口を作り石上神宮に蔵したのを契機として守護神として崇敬されるようになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=18em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=石原道博|editor-link=石原道博|contribution=現代語訳『魏志』倭人伝|title=魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝|others=[[和田清]]、石原道博共編訳|year=1951|series=岩波文庫|publisher=[[岩波書店]]|id={{全国書誌番号|52000739}}|ref={{SfnRef|石原道博|1951}}}}(1985年新訂版:ISBN 4003340116) * {{Cite book|和書|author=石母田正|author-link=石母田正|contribution=古代史概説|year=1962|title=岩波講座日本歴史 第1(原始および古代)|publisher=岩波書店|id={{全国書誌番号|50001749}}|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=直木孝次郎|author-link=直木孝次郎|contribution="やまと"の範囲について|title=日本古文化論攷|year=1970|publisher=[[吉川弘文館]]|id={{全国書誌番号|73006001}}|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=鈴木靖民|author-link=鈴木靖民|title=増補・古代国家史研究の歩み|year=1983|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4404011458|id={{全国書誌番号|83031918}}|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=朝比奈正幸ほか|authorlink=朝比奈正幸|title=新編国民日本史|year=1987|publisher=新人物往来社|isbn=4562019026|ref={{SfnRef|朝比奈正幸ほか|1987}}}} * {{Cite book|和書|editor=平凡社|editor-link=平凡社|author=平野邦雄|authorlink=平野邦雄|contribution=大和朝廷|title=世界大百科事典 第28(メ-ユウ)| year=1988 |publisher=平凡社|ISBN=4-58-202700-8|id={{全国書誌番号|88035401}}|ref=harv}} * {{Citation|和書|editor=朝日新聞社|editor-link=朝日新聞社|author=鬼頭清明|authorlink=鬼頭清明|contribution=大王と有力豪族|title=日本の歴史1 原始・古代|series=朝日百科|date=1989-04-08|publisher=朝日新聞社|ISBN=4-02-380007-4|ref=harv}} * {{Cite 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7月15日
7月15日(しちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から196日目(閏年では197日目)にあたり、年末まであと169日ある。
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{{カレンダー 7月}} '''7月15日'''(しちがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から196日目([[閏年]]では197日目)にあたり、年末まであと169日ある。 == できごと == [[Image:Prise_de_J%C3%A9rusalem_par_les_Crois%C3%A9s%2C_le_15_juillet_1099_Emil_Signol%2C_Mus%C3%A9e_du_Ch%C3%A2teau_Versailles.JPG|thumb|upright|[[エルサレム]]が陥落し[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]]終結(1099)]] [[image:Matejko Battle of Grunwald.jpg|thumb|upright|[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]](1410)]] [[Image:Monmouth%27s_Execution.gif|thumb|upright|[[モンマス公爵]][[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]](1649-1685)刑死]] [[Image:Rosetta_Stone.JPG|thumb|upright|[[ロゼッタ・ストーン]]発見(1799)。[[ヒエログリフ]]の解読をもたらした]] [[Image:Mitaka_Incident.JPG|thumb|180px|[[国鉄三大ミステリー事件]]の1つ、無人列車が暴走した[[三鷹事件]](1949)]] [[Image:Nintendo-Famicom-Console-Set-FL.png|thumb|240px|[[家庭用ゲーム機]]、[[ファミリーコンピュータ]]発売(1983)]] * [[1099年]] - [[第1回十字軍]]・[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]]: 十字軍により[[エルサレム]]が陥落{{要出典|date=2021-03}}。エルサレム攻囲戦が終結{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1381年]] - [[ワット・タイラーの乱]]の思想的指導者[[ジョン・ボール]]が最も重い[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]により処刑される。 * [[1408年]]([[応永]]15年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[若狭国]][[小浜市|小浜]]に[[南蛮]](東南アジア)の「[[亜烈進卿]]」が派遣した船が入港。文献記録上初めて[[ゾウ]]が日本に到来。 * [[1410年]] - [[ポーランド・リトアニア連合]]軍と[[ドイツ騎士団]]の間で[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]](グルンヴァルトの戦い)が行われる。 * [[1685年]] - イングランド王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の甥で、{{仮リンク|セッジムーアの戦い|en|Battle of Sedgemoor}}で敗れた[[モンマス公爵]][[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]]が刑死。 * [[1799年]] - [[エジプト・シリア戦役]]の途上[[フランス]][[軍人]]ピエール=フランソワ・ブシャールによって[[ロゼッタ・ストーン]]が発見される。 * [[1823年]] - ローマの[[サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]が火災で焼失。 * [[1867年]] - [[ベニート・フアレス]]が[[メキシコ]]の[[共和制]]への復帰を宣言。 * [[1880年]] - [[東海道本線]]の[[京都駅]]から大津駅(のちの[[びわ湖浜大津駅|浜大津駅]]、現在廃止)までの区間が開通する。 * [[1888年]] - [[1888年の磐梯山噴火|磐梯山噴火]]。小磐梯の[[山体崩壊]]により発生した泥流などにより477名が犠牲となる。 * [[1901年]] - [[高峰譲吉]]が[[アドレナリン]]の製法の特許を取得<ref>{{Cite web|和書|url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4105|title=高峰譲吉、サムライ化学者の功績|publisher=WEB歴史街道|date=2017-07-15|accessdate=2020-07-14}}</ref>。 * [[1907年]] - [[広島県]]南部に[[集中豪雨]]。総頭川が決壊し、[[坂町]]で死者2名、家屋流失11棟、田畑も流失するという大災害が発生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sabo.pref.hiroshima.lg.jp/densyou/pdf/panel04.pdf|title=広島県の土砂災害情報サイト 地域の砂防情報アーカイブ 坂町の登録情報|publisher=[[広島県]]砂防課|format=[[pdf]]|accessdate=2020-07-14}}</ref>。 * [[1913年]] - 宝塚唱歌隊(現在の[[宝塚歌劇団]])設立。 * [[1916年]] - アメリカ[[ワシントン州]][[シアトル]]で[[ボーイング]]社が創業。 * [[1918年]] - [[第一次世界大戦]]:{{仮リンク|第二次マルヌ会戦|en|Second Battle of the Marne}}が始まる。 * [[1922年]] - [[日本共産党]]結成。 * [[1927年]] - [[オーストリア]]の首都[[ウィーン]]で[[社会主義者]]の抗議デモが[[暴動]]に発展。暴徒側77人、警官2人が死亡<ref>死者七十九人に達す『大阪毎日新聞』昭和2年7月20日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p39 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1933年]] - {{仮リンク|ステポナス・ダリュス|en|Steponas Darius}}と{{仮リンク|スタシース・ギレナス|en|Stasys Girėnas}}が操縦する飛行機「{{仮リンク|リトゥアニカ|en|Lituanica}}」が、大西洋横断を目指し、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]を離陸。 * [[1934年]] - Varney Speed Lines(後の[[コンチネンタル航空]])が運航開始。 * [[1936年]] - [[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]と[[阪神タイガース|大阪タイガース]]が初対戦し、タイガースが8-7で勝利。 * [[1938年]] - 日本政府が[[閣議 (日本)|閣議]]で[[1940年]]に予定されていた[[1940年東京オリンピック|夏季東京オリンピック]]および[[1940年札幌オリンピック|冬季札幌オリンピック]]の開催権返上を決定。 * [[1940年]] - [[満洲国]]の[[新京]]に[[建国神廟]]が創建される。 * [[1941年]] - [[長野地震]]が起こる。 * [[1943年]] - [[愛媛県]][[松山市]]の沖合で[[関西汽船]]所属の定期旅客船「浦戸丸」(1326トン)が貨物船と衝突して沈没。死者・行方不明者200人以上<ref>{{Cite web|和書|url=https://ehime-np.co.jp/article/news202110030009 |title=旅客船「浦戸丸」沈没78年 続く供養 惨事思いはせ |publisher=愛媛新聞 |date=2021-10-03 |accessdate=2022-01-15}}</ref>。 * [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]:[[イタリア王国]]が対日[[宣戦布告]]。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦:[[室蘭艦砲射撃]]。[[北海道]][[室蘭市]]がアメリカ海軍による[[艦砲射撃]]により壊滅状態になる。 * [[1948年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が新聞社16社・通信社3社の事前[[検閲]]を廃止し、事後検閲に移行。 * 1948年 - [[教育委員会法]]公布・施行。 * [[1949年]] - [[三鷹事件]]。中央線[[三鷹駅]]構内で無人電車が暴走し民家に突入。 * [[1950年]] - [[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]](LTSR)[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議|最高会議]]幹部会がLTSRの新国歌を制定し、[[ヴィンツァス・クディルカ|クディルカ]]作詞・作曲の旧国歌を禁止。 * [[1951年]] - [[天竜川バス転落事故]]。静岡県磐田郡浦川町の県道から国鉄バスが増水した天竜川に転落。死者28人前後。 * [[1953年]] - [[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]が公布 ・施行。[[1954年]][[1月1日]]以降、1[[円 (通貨)|円]]未満の貨幣・紙幣を無効とする。 * 1953年 - ソ連・リトアニア共和国最高会議幹部会が、新[[リトアニアの国旗|国旗]]を制定。 * [[1954年]] - [[ニッポン放送]]が開局、本放送を開始。 * 1954年 - ジェット旅客機[[ボーイング707]]型機の原型となった試作機[[ボーイング367-80]]が初飛行。 * 1954年 - 茨城県[[常陸太田市]]、石川県[[珠洲市]]、鹿児島県[[加世田市]]が市制施行。 * [[1955年]] - [[オットー・ハーン]]、[[マックス・ボルン]]ら18人のノーベル賞受賞者が[[核兵器]]の使用中止を訴える[[マイナウ宣言]]を発表。 * 1955年 - [[トニー谷長男誘拐事件]]。犯人は6日後に逮捕され、長男は無事保護。 * [[1958年]] - 埼玉県[[与野市]](現 [[さいたま市]])・[[上尾市]]が市制施行。 * 1958年 - [[東京都]][[大田区]][[雪ヶ谷]]にあった進化製薬工場で爆発事故。工場3棟、敷地内にあった社長宅に延焼して従業員13人が死亡、重軽傷者24人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=128|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1959年]] - 国鉄[[紀勢本線]]が全通。 * [[1960年]] - [[第2次岸内閣 (改造)|岸信介内閣]]が総辞職。 * 1960年 - [[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]の[[ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム]]において行われた[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の党大会において、大統領候補の[[ジョン・F・ケネディ]]が「[[ニューフロンティア]]」を掲げた演説を行う。 * [[1962年]] - [[北海道]][[芦別市]]の三井鉱山頼城炭鉱でガス爆発事故。作業員11人が坑内に取り残され8人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=162 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1963年]] - [[河野一郎邸焼き討ち事件]]。 * [[1969年]] - [[週刊少年チャンピオン]]が創刊。 * [[1970年]] - [[九州]]初となる民放FMラジオ局・[[エフエム福岡]]が開局。 * [[1974年]] - [[キプロス]]で[[ギリシャ]]の支援を受けたギリシャ併合強硬派が{{仮リンク|1974年キプロスクーデター|en|1974 Cypriot coup d'état|label=クーデター}}を起こし、[[マカリオス3世|マカリオス]]大統領を追放。 * 1974年 - [[アメリカ合衆国]]・[[フロリダ州]][[サラソータ (フロリダ州)|サラソータ]]のテレビ局WXLT-TV(のちのWWSB)の[[ニュースキャスター]]、[[クリスティーン・チュバック]]が、ニュース番組の生放送中に突然[[拳銃]][[自殺]]。 * [[1980年]] - [[牛丼]]屋チェーン[[吉野家]]を運営する株式会社吉野家が[[会社更生法]]の適用を申請し事実上[[倒産]]。 * [[1983年]] - [[任天堂]]が家庭用ゲーム機[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン)を発売。価格は14,800円。同日、[[セガ・エンタープライゼス]]が[[SG-1000]]とベーシック搭載の[[SC-3000]]を発売。 * 1983年 - [[免田事件]]の再審で、[[熊本地方裁判所|熊本地裁]]八代支部が免田栄被告に無罪判決。[[死刑]]が確定した被告に対する初の無罪判決。 * [[1987年]] - [[台湾]]([[中華民国]])で、戒厳令解除を要求する[[五一九緑色運動]]を受けて、[[1949年]]以来続いてきた[[戒厳令]]が解除される。 * 1987年 - [[仙台市地下鉄南北線]]([[八乙女駅]] - [[富沢駅]]間)開業。 * [[1988年]] - [[境トンネル多重衝突炎上事故]]。[[中国自動車道]]の[[境トンネル (広島県)|境トンネル]]で多重衝突事故から火災が発生。死者5人、重軽傷者5人を出す惨事となった。 * [[1991年]] - 第17回[[主要国首脳会議]]が[[ロンドン]]で開幕、会期は[[7月17日]]まで。 * [[1992年]] - [[仙台市地下鉄南北線]]延長部([[泉中央駅]] - 八乙女駅間)開業。 * [[1999年]] - 米ワシントン州シアトルに[[野球場]][[T-モバイル・パーク|セーフコ・フィールド]]が開場。 * [[2003年]] - [[タイム・ワーナー|AOLタイム・ワーナー]]は同社内の[[ネットスケープ・コミュニケーションズ|ネットスケープ]]部門を解体、同日に[[Mozilla Foundation]]が設立される。 * [[2008年]] - 原油高を受けて日本の17[[漁業協同組合|漁業団体]]の漁船約20万隻が一斉休漁。 * 2008年 - [[楊逸]]が第139回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|date=2008年7月17日 |url=http://j.people.com.cn/2008/07/16/jp20080716_91278.html |title=芥川賞に初の中国人作家 |publisher=人民網日本語版 |accessdate=2020-04-19}}</ref>。中国人の受賞は史上初。 * [[2009年]] - [[カスピアン航空7908便墜落事故]]が起こる。 * [[2011年]] - [[プロゴルファー]]の[[有村智恵]]が[[スタンレーレディスゴルフトーナメント]]で[[アルバトロス]]と[[ホールインワン]]を達成<ref>{{Cite web|和書|date=2011年7月16日 |url=https://www.nikkansports.com/sports/golf/news/p-sp-tp1-20110716-805770.html |title=有村“なでしこパワー”で快挙/女子ゴルフ |publisher=日刊スポーツ新聞社 |accessdate=2020-04-19}}</ref>。 * [[2016年]] - [[トルコ]]で[[2016年トルコクーデター未遂事件|クーデター未遂事件]]が起こる<ref>{{Cite news |title=トルコ:軍がクーデターか 「完全に掌握した」と声明 |newspaper=毎日新聞 |date=2016-07-16 |author= |url=https://mainichi.jp/articles/20160716/k00/00e/030/159000c |accessdate=2020-04-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2016/RCT201617_001.html|publisher=IDE-JETRO|author=間 寧|title=トルコ「らしくない」クーデタの試み:背景と今後|date=2016年7月|accessdate=2020-04-19}}</ref>。 {{-}} == 誕生日 == {{multiple image | footer = イングランド最初の建築家とされる[[イニゴー・ジョーンズ]](1652-1573)誕生。右画像は「[[クイーンズ・ハウス]]」 | image1 = PortraitInigoJones.jpg | width1 = 100 | alt1 = イニゴー・ジョーンズ | image2 = Queens_house_greenwich.jpg | width2 = 200 | alt2 = クイーンズ・ハウス }} {{multiple image | footer = 画家[[レンブラント・ファン・レイン]](1606-1669)誕生。左画像は『[[34歳の自画像]]』(1640)、右は『フランス・バニング・コック隊長の市警団』(1642) | image1 =Self-portrait_at_34_by_Rembrandt_(rectangular_detail).jpg | width1 = 100 | alt1 = レンブラント・ファン・レイン | image2 = The Nightwatch by Rembrandt - Rijksmuseum.jpg | width2 = 240 | alt2 = 『フランス・バニング・コック隊長の市警団』 }} {{multiple image | footer = 画家[[ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ]](1745-1830)。左画像は自画像、右は『ワルシャワの古市場町での反逆者の処刑』(1794) | image1 = Jan_piotr_norblin_autoportret.jpg | width1 = 80 | alt1 = 自画像 | image2 = Wieszanie_zdrajcow.jpg | width2 = 140 | alt2 = 『ワルシャワの古市場町での反逆者の処刑』 }} [[Image:Vilfredo Pareto 1870s2.jpg|thumb|100px|経済学者[[ヴィルフレド・パレート]](1848-1923)、[[パレート効率性|パレート最適]]を提唱し[[厚生経済学]]のパイオニアとなった]] {{multiple image | footer = [[象徴主義]]の画家[[ヤチェク・マルチェフスキ]](1854-1929)。左画像は自画像、右は『メデューサ』(1900) | image1 = Malczewski_Jacek_Autoportret_z_paleta.jpg | width1 = 100 | alt1 = 自画像 | image2 = Malczewski-Meduza.jpg | width2 = 100 | alt2 = 『メデューサ』 }} [[Image:Stephen Smale2.jpg|thumb|100px|数学者[[スティーヴン・スメイル]](1930-)]] [[Image:Derrida-by-Pablo-Secca.jpg|thumb|100px|哲学者[[ジャック・デリダ]](1930-2004)。{{Squote|テクストの外部は存在しない。――『グラマトロジーについて』(1967)}}]] [[ファイル:Koike Yuriko 1-2.jpg|サムネイル|133x133ピクセル|[[東京都知事]]、[[小池百合子]](1952-)]] * [[980年]]([[天元 (日本)|天元]]3年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]])- [[一条天皇]]、第66代[[天皇]](+ [[1011年]]) * [[1573年]] - [[イニゴー・ジョーンズ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography//Inigo-Jones Inigo Jones English architect and artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、建築家(+ [[1652年]]) * [[1606年]] - [[レンブラント・ファン・レイン]]、[[画家]](+ [[1669年]]) * [[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[島津光久]]、第2代[[薩摩藩|薩摩藩主]](+ [[1695年]]) * [[1676年]] ([[延宝]]4年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]])- [[織田成純]]、第5代[[柳本藩|柳本藩主]] (+ [[1729年]]) * [[1678年]] (延宝6年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]])- [[前田利興]]、第3代[[富山藩|富山藩主]] (+ [[1733年]]) * [[1745年]] - [[ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ]]、[[画家]]、[[彫刻家]](+ [[1830年]]) * [[1840年]] ([[天保]]11年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]])- [[五島盛徳]]、第11代[[福江藩|福江藩主]] (+ [[1875年]]) * [[1848年]] - [[ヴィルフレド・パレート]]、[[経済学者]]、[[社会学者]](+ [[1923年]]) * [[1854年]] - [[ヤチェク・マルチェフスキ]]、[[画家]](+ [[1929年]]) * [[1861年]]([[文久]]元年[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]) - [[広津柳浪]]、[[小説家]](+ [[1928年]]) * [[1875年]] - [[林古渓]]、[[歌人]]、[[作詞家]]、漢文学者(+ [[1947年]]) * [[1892年]] - [[ヴァルター・ベンヤミン]]、[[文芸評論家]]、文化史家(+ [[1940年]]) * [[1900年]] - [[永野重雄]]、[[実業家]](+ [[1984年]]) * [[1904年]] - [[千田是也]]、[[演出家]]、[[俳優]](+ [[1994年]]) * [[1905年]] - [[秋田實]]、[[漫才]]作家(+ [[1977年]]) * [[1910年]] - [[山本薩夫]]、[[映画監督]](+ [[1983年]]) * [[1913年]] - [[入江徳郎]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1989年]]) * [[1914年]] - [[納家米吉]]、[[プロ野球選手]](+ [[1941年]]) * [[1917年]] - [[佐藤平七]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]]?) * [[1920年]] - [[稲葉義男]]、俳優(+ [[1998年]]) * [[1922年]] - [[松園尚巳]]、実業家(+ [[1994年]]) * [[1923年]] - [[原田昇左右]]、[[政治家]](+ [[2006年]]) * 1923年 - [[フィリー・ジョー・ジョーンズ]]、[[ミュージシャン]](+ [[1985年]]) * [[1925年]] - [[出羽錦忠雄]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[2005年]]) * [[1926年]] - [[香山彬子]]、[[児童文学作家]](+ [[1999年]]) * 1926年 - [[竹元勝雄]]、元プロ野球選手(+ 2006年) * [[1930年]] - [[秋谷栄之助]]、第5代[[創価学会]]会長 * 1930年 - [[スティーヴン・スメイル]]、[[数学者]] * 1930年 - [[ジャック・デリダ]]、[[思想家]](+ [[2004年]]) * 1930年 - [[横井啓二]]、元プロ野球選手 * 1930年 - [[伊藤万喜三]]、元プロ野球選手 * [[1931年]] - [[深田祐介]]、[[作家]](+ [[2014年]]) * [[1933年]] - [[吉沢岳男]]、元プロ野球選手(+ [[1971年]]) * [[1935年]] - [[大根晃]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[鳥居一雄]]、政治家(+ [[2020年]]) * [[1938年]] - [[長谷川哲夫]]、俳優(+ [[2023年]]) * 1938年 - [[平光清]]、[[プロ野球審判員]](+ [[2011年]]) * [[1939年]] - [[金子功]]、[[デザイナー]] * 1939年 - [[後藤忠弘]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[河村保彦]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]]) * 1940年 - [[山本集]]、高校野球指導者(+ [[2011年]]) * [[1941年]] - [[今井宏 (政治家) |今井宏]]、政治家(+ [[2023年]]) * [[1942年]] - [[ミル・マスカラス]]、[[プロレスラー]] * [[1943年]] - [[神崎武法]]、[[政治家]] * 1943年 - [[伊藤勝利]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[ハサナル・ボルキア]]、[[ブルネイ]][[国王]]、[[政治家]] * 1946年 - [[植木一智]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[石塚雅二]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[上辻修]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[大石代悟]]、[[空手道|空手家]] * 1950年 - [[萩野友康]]、元野球選手 * [[1952年]] - [[峰さを理]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[日舞]]西﨑流[[師範]](+ [[2021年]]) * 1952年 - [[小池百合子]]、政治家、第20代[[東京都知事]] * [[1954年]] - [[マリオ・ケンペス]]、元[[サッカー|サッカー選手]] * [[1955年]] - [[島本啓次郎]]、元プロ野球選手 * [[1956年]] - [[瀬古利彦]]、[[マラソン]]選手 * 1956年 - [[松島みどり]]、政治家 * 1956年 - [[イアン・カーティス]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[1980年]]) * [[1957年]] - [[ジョー・ヒックス (内野手)|ジョー・ヒックス]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[林海象]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]] * [[1958年]] - [[古川康]]、政治家、元[[佐賀県知事一覧|佐賀県知事]] * [[1959年]] - [[玉井次郎]]、[[ノンフィクション作家]] * [[1960年]] - 笠松美樹、[[歌手]](元[[Sugar (日本のコーラスグループ)|Sugar]]) * 1960年 - 長沢久美子、歌手(元Sugar) * 1960年 - [[タナティップ・ウパティシン]]、外交官 * [[1961年]] - [[寺田理恵子]]、[[アナウンサー]] * [[1962年]] - [[上橋菜穂子]]、[[児童文学作家]] * 1962年 - [[正木敦]]、[[テレビプロデューサー]] * [[1963年]] - [[上村典子]]、[[声優]] * 1963年 - [[伊藤優]]、元プロ野球選手 * [[1964年]] - [[柱谷哲二]]、元サッカー選手、指導者 * [[1965年]] - [[高木淳也]]、俳優 * 1965年 - [[松永幸男]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[三浦泰年]]、元サッカー選手、指導者 * 1965年 - [[今野登茂子]]、キーボーディスト(元[[PRINCESS PRINCESS]]) * [[1966年]] - [[永瀬正敏]]、俳優 * [[1967年]] - [[楠本まき]]、漫画家 * [[1968年]] - 比嘉栄昇、ミュージシャン([[BEGIN (バンド)|BEGIN]]) * [[1968年]] - [[大崎一万発]]、パチンコライター、[[YouTuber]] * [[1969年]] - [[近内仁子]]、女優 * 1969年 - [[真下貴]]、アナウンサー * 1969年 - ♥さゆり、[[お笑いタレント]]([[かつみ♥さゆり]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://yoshimotozaka46.com/member/detail/22.php|title=MEMBER ♥さゆり(かつみ♥さゆり)|publisher=吉本坂46|accessdate=2020-07-14}}</ref> * [[1971年]] - [[池田裕紀子]]、アーチェリー選手 * [[1972年]] - [[渡辺江里子]]、お笑いタレント([[阿佐ヶ谷姉妹]]) *[[1974年]] - [[戸部浩]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[RYO-Z]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]]([[RIP SLYME]]) * 1974年 - [[蛯原哲]]、アナウンサー * 1974年 - [[佐久本昌広]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[部坂俊之]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[平野孝]]、元サッカー選手 * [[1975年]] - [[柴田英嗣]]、お笑いタレント([[アンタッチャブル (お笑いコンビ)|アンタッチャブル]]) * 1975年 - [[金子茂樹]]、[[脚本家]] * [[1976年]] - [[石川正史]]、元[[アナウンサー]] * 1976年 - [[北原雅樹]]、俳優、タレント * 1976年 - [[マルコ・ディ・ヴァイオ]]、元サッカー選手 * 1976年 - [[ダイアン・クルーガー]]、女優 * 1976年 - [[川崎健一郎]]、実業家 * [[1977年]] - 徳岡慶也、アーティスト([[DEPAPEPE]]) * 1977年 - [[三遊亭楽生]]、[[落語家]] * [[1978年]] - [[ミゲル・オリーボ]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[帆足和幸]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[アレクサンダー・フライ]]、サッカー選手 * [[1980年]] - [[奉重根]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[クリス・デノーフィア]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[許安安]]、女優 * 1980年 - [[BxBハルク]]、プロレスラー([[DRAGONGATE]]) * 1980年 - [[越中睦士]]、歌手、俳優 * [[1981年]] - [[小泉里子]]、[[ファッションモデル]] * [[1982年]] - [[呉昇桓]]、プロ野球選手 * [[1983年]] - [[ジュリアン・ルパルー]]、[[騎手]] * 1983年 - [[唐沢美帆]]、[[歌手]] * 1983年 - [[TOKIYA]]、[[イラストレーター]] * [[1984年]] - [[椿姫彩菜]]、ファッションモデル、タレント * 1984年 - [[森岡良介]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[山本優弥]]、キックボクサー * [[1985年]] - [[小野寺司]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[ディスクジョッキー|DJ]] * 1985年 - [[グラツィアーノ・ペッレ]]、サッカー選手 * [[1986年]] - [[宮原義典]]、元騎手 * 1986年 - [[森本ゆうこ]]、女優 * 1986年 - [[ホルヘ・バルボア]]、野球選手 * [[1987年]] - [[田中順也]]、サッカー選手 * 1987年 - [[古川秀一]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[星野奈津子]]、女優 * 1987年 - [[見延和靖]]、[[フェンシング]]選手 * 1987年 - [[吉田夏海]]、ファッションモデル * [[1988年]] - [[藤井美菜]]、女優 * 1988年 - [[狩野舞子]]、元[[バレーボール]]選手 * 1988年 - [[エロイス・ルスール]]、[[陸上競技]]選手<ref>{{cite web|url=http://www.iaaf.org/athletes/france/eloyse-lesueur-207741|title=Athlete profile for Éloyse Lesueur|accessdate=2020-04-19|publisher=[[国際陸上競技連盟]]}}</ref> * [[1989年]] - [[アリサ・クレイバノワ]]、テニス選手 * [[1990年]] - [[すみれ (モデル)|すみれ]]、ファッションモデル * 1990年 - [[松山愛里]]、ファッションモデル * 1990年 - [[松浦寛子]]、バレーボール選手 * 1990年 - [[オリー・アレクサンダー]]、ミュージシャン([[イヤーズ・アンド・イヤーズ]]) * 1990年 - [[ダミアン・リラード]]、バスケットボール選手 * 1990年 - [[カイル・クビッツァ]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[マーク・アペル]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[今宮健太]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[岡大海]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[柏木由紀]]、アイドル([[AKB48]]) * 1991年 - [[品田亮太]]、記者、元アナウンサー * 1991年 - [[谷口彰悟]]、サッカー選手 * 1991年 - [[日岡なつみ]]、声優 * 1991年 - [[デリック・フェイバーズ]]、バスケットボール選手 * 1991年 - [[ダニーロ・ルイス・ダ・シウバ]]、サッカー選手 * [[1992年]] - [[久住小春]]、タレント、ファッションモデル(元[[モーニング娘。]]) * 1992年 - [[岡田慶太]]、俳優 * 1992年 - [[北勝富士大輝]]、大相撲力士 * 1992年 - [[武藤嘉紀]]、サッカー選手 * 1992年 - [[朝倉未来]]、[[総合格闘家]] * [[1993年]] - [[橋本良亮]]、アイドル([[A.B.C-Z]]) * 1993年 - [[吉田正尚]]、プロ野球選手 * 1993年 - [[ももせもも]]、グラビアアイドル * [[1996年]] - [[大塚千愛]]、女優 * 1996年 - HIROKI、ミュージシャン([[Qyoto]]) * 1996年 - [[小波]]、プロレスラー * 1996年 - [[梶谷瑠哉]]、陸上選手 * [[1997年]] - [[森本慎太郎]]、俳優、アイドル([[SixTONES]]) * 1997年 - [[海野隆司]]、プロ野球選手 * [[1997年]] - YORO 、アイドル、ラッパー、アーティスト( 元[[PRODUCE 101 JAPAN|PRODUCE101JAPAN]]練習生、 元 [[NIK]]) * [[1998年]] - [[志田音々]]、タレント、グラビアアイドル、女優 * [[1999年]] - 山口はのん、アイドル ([[夢みるアドレセンス]]) * [[2000年]] - [[パウロ・エンヒキ・サンパイオ・フィーリョ]]、サッカー選手 * [[2001年]] - [[藤田悠希]]、元子役 * [[2002年]] - [[竹内詩乃]]、女優 * 2002年 - [[宮下玲奈]]、AV女優 * [[2006年]] - [[高野万優]]、空手家 * 生年不明 - [[うろたん]]、[[イラストレーター]] * 生年不明 - [[五十嵐由佳]]、声優 * 生年不明 - [[相内沙英]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社アーツビジョン|title=パーソナル・データ 相内沙英|url=https://web.archive.org/web/20150506001624/http://www.artsvision.co.jp/data.php?id=1165|accessdate=2020-11-11}}</ref>、声優 == 忌日 == {{multiple image | footer = [[バロック]]期の画家[[アンニーバレ・カラッチ]](1560-1609)没。左画像は自画像、右は『聖母被昇天』 | image1 = Carracci_Selfportrait.JPG | width1 = 80 | alt1 = 自画像 | image2 = Assumption of Mary - Cerasi Chapel - Santa Maria del Popolo - Rome 2015.jpg | width2 = 140 | alt2 = 聖母被昇天 }} {{multiple image | caption1 = 彫刻家[[ジャン=アントワーヌ・ウードン]](1741-1828)没。画像は『ディアナ』 | image1 = Houdon-diana.jpg | width1 = 100 | alt1 = ジャン=アントワーヌ・ウードン | caption2 = 作曲家[[カール・チェルニー]](1791-1857)没。{{audio|Carl Czerny - Duo Concertante - 1. Allegro.ogg|協奏的二重奏曲よりアレグロを聴く}} | image2 = Czerny_2.jpg | width2 = 100 | alt2 = カール・チェルニー | caption3 = [[世紀末ウィーン]]の詩人、[[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]] (1874-1929) | image3 = Nicola_Perscheid_-_Hugo_von_Hofmannsthal_1910.jpg | width3 = 100 | alt3 = フーゴ・フォン・ホーフマンスタール }} {{multiple image | footer = 劇作家[[アントン・チェーホフ]](1860-1904)没。 | image1 = Anton_Tschechow_Denkmal.JPG | width1 = 100 | alt1 = アントン・チェーホフ | image2 = ChekhovTomb.jpg | width2 = 70 | alt2 = 墓 }} [[Image:Hermann_Emil_Fischer.jpg|thumb|140px|化学者[[エミール・フィッシャー]](1852-1919)]] {{multiple image | footer = 洋画家[[黒田清輝]](1866-1924)没。右画像は『[[湖畔 (絵画)|湖畔]]』(1897) | image1 = Kuroda_Seiki.jpg | width1 = 100 | alt1 = 黒田清輝 | image2 = Kuroda-seiki-kohan00-6-1b.jpeg | width2 = 100 | alt2 = 『[[湖畔 (絵画)|湖畔]]』 }} * [[1015年]] - [[ウラジーミル1世]]、[[キエフ大公国|キエフ大公]](* [[955年]]頃) * [[1274年]] - [[ボナヴェントゥラ]]、[[神学者]]、[[枢機卿]]、[[フランシスコ会]]総長(* [[1221年]]?) * [[1291年]] - [[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Rudolf-I-king-of-Germany Rudolf I king of Germany] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、神聖ローマ皇帝(* [[1218年]]) * [[1381年]] - [[ジョン・ボール]]、[[聖職者]](* 1338年頃) * [[1544年]] - [[ルネ・ド・シャロン]]、[[オラニエ=ナッサウ家|オランジュ公]](* [[1519年]]) * [[1571年]]([[元亀]]2年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[島津貴久]]、[[薩摩国]]の[[戦国大名]](* [[1514年]]) * [[1609年]] - [[アンニーバレ・カラッチ]]、[[画家]](* [[1560年]]) * [[1685年]] - [[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]]、[[モンマス公]]、[[バクルー公]](* [[1649年]]) * [[1771年]]([[明和]]8年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[徳川宗武]]、[[徳川吉宗]]の次男、[[田安徳川家]]始祖(* [[1716年]]) * [[1784年]] - [[伊勢貞丈]]、[[旗本]]、[[有職故実]]研究家(* [[1718年]]) * [[1789年]] - [[ジャック・デュフリ]]、[[作曲家]](* [[1715年]]) * [[1798年]] - [[ガエターノ・プニャーニ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1731年]]) * [[1819年]]([[文政]]2年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]])- [[伊達斉宗]]、第10代[[仙台藩|仙台藩主]](* [[1796年]]) * [[1828年]] - [[ジャン=アントワーヌ・ウードン]]、[[彫刻家]](* [[1741年]]) * [[1838年]] - [[ジャン・イタール]]、[[医師]]、教育者(* [[1774年]]) * [[1857年]] - [[カール・チェルニー]]、[[ピアニスト]]、作曲家(* [[1791年]]) * [[1871年]] - [[タッド・リンカーン]]、第16代[[アメリカ合衆国大統領]][[エイブラハム・リンカーン]]の四男(* [[1853年]]) * [[1879年]] - [[ヨハン・フリードリヒ・フォン・ブラント]]、[[自然学者]](* [[1802年]]) * [[1898年]] - [[稲葉正邦]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[京都所司代]]、[[淀藩|淀藩主]](* [[1834年]]) * [[1904年]] - [[アントン・チェーホフ]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1860年]]) * [[1912年]] - [[フランシスコ・ラザロ]]、[[マラソン]]選手(* [[1891年]]) * [[1919年]] - [[エミール・フィッシャー]]、[[化学者]](* [[1852年]]) * [[1924年]] - [[黒田清輝]]、画家(* [[1866年]]) * [[1929年]] - [[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]、[[劇作家]](* [[1874年]]) * [[1930年]] - [[レオポルト・アウアー]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1845年]]) * [[1934年]] - [[ジュール・ランカン]]、[[ベルギー]][[首相]](* [[1862年]]) * [[1939年]] - [[オイゲン・ブロイラー]]、[[精神医学|精神医学者]](* [[1857年]]) * [[1940年]] - [[ロバート・ワドロー]]、世界一身長の高い人物(* [[1918年]]) * [[1948年]] - [[ジョン・パーシング]]、[[元帥 (アメリカ合衆国)#合衆国総軍元帥|アメリカ合衆国総軍元帥]](* [[1860年]]) * 1948年 - [[今井邦子]]、[[歌人]](* [[1890年]]) * [[1952年]] - [[ノーマン・テーバー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1891年]]) * [[1958年]] - [[藤井浩佑]]、[[彫刻家]](* [[1882年]]) * [[1959年]] - [[エルネスト・ブロッホ]]、作曲家(* [[1880年]]) * [[1960年]] - [[ローレンス・ティベット]]、[[バリトン]][[歌手]](* [[1896年]]) * [[1971年]] - [[吉沢岳男]]、[[プロ野球選手]](* [[1933年]]) * [[1974年]] - [[クリスティーン・チュバック]]、[[ニュースキャスター]](* [[1944年]]) * [[1976年]] - [[山口源]]、[[版画家]](* [[1896年]]) * 1976年 - [[ポール・ギャリコ]]、小説家(* [[1897年]]) * [[1981年]] - [[大山デブ子]]、女優(* [[1915年]]) * [[1987年]] - [[富士正晴]]、小説家、[[詩人]](* [[1913年]]) * [[1988年]] - 松本望、[[パイオニア]]の創業者・元会長・元社長<ref>{{Cite web|和書|url=https://fuhou-shinbun.com/goner.html?id=16367|title=松本望 氏|work=訃報新聞|accessdate=2020-07-14}}</ref> * [[1989年]] - [[鈴木貞一]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[中将]](* [[1888年]]) * [[1990年]] - [[オレグ・カガン]]、ヴァイオリニスト(* [[1946年]]) * 1990年 - [[宮田輝]]、アナウンサー、[[参議院]]議員(* [[1921年]]) * [[1991年]] - [[永川英植]]、元[[プロ野球選手]](* [[1956年]]) * [[1997年]] - [[ジャンニ・ヴェルサーチ]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1946年]]) * 1997年 - [[小野田勇]]、[[脚本家]]、[[劇作家]](* [[1920年]]) * [[2001年]] - [[岩川隆]]、[[ノンフィクション]]作家(* [[1933年]]) * [[2002年]] - [[藤島亥治郎]]、[[建築史|建築史家]](* [[1899年]]) * [[2004年]] - [[チャールズ・スウィーニー]]、[[アメリカ空軍]][[准将]](* [[1919年]]) * 2004年 - [[阿部公正]]、建築史家(* [[1921年]]) * 2004年 - [[安東ウメ子]]、[[ムックリ]]奏者、歌手(* [[1932年]]) * 2004年 - [[吉田直]]、[[ライトノベル]]作家(* [[1969年]]) * [[2006年]] - [[篠原一男]]、[[建築家]](* [[1925年]]) * 2006年 - [[今辻和典]]、[[詩人]](* [[1929年]]) * [[2007年]] - [[中林仁良]]<ref name="d-kintetsu-annual-report-2008-29">株式会社近鉄百貨店 有価証券報告書(2008年2月期) 29ページ</ref>、元[[丸物]]社長、[[丸物#京都近鉄百貨店|京都近鉄百貨店]]会長、[[近鉄百貨店]]取締役相談役 (*[[1919年]]) * [[2008年]] - [[石田文樹]]、元プロ野球選手(* [[1966年]]) * [[2009年]] - [[ブライアン・グッドウィン]]、[[生物学者]]、[[数学者]](* [[1931年]]) * [[2010年]] - [[ピーター・フェルナンデス]]、[[俳優]]、[[声優]]、[[音響監督]](* [[1927年]]) * [[2012年]] - [[高林陽一]]、[[映画監督]](* [[1931年]]) * [[2013年]] - [[石井晶]]、元プロ野球選手(* [[1939年]]) * [[2015年]] - [[青木昌彦]]、経済学者(* [[1938年]]) * [[2017年]] - [[マリアム・ミルザハニ]]、数学者(* [[1977年]]) * [[2018年]] - [[生田悦子]]、[[俳優|女優]](* [[1947年]]) * [[2020年]] - [[瀬戸剛]]<ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20200722092138/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072200835&g=soc|title=彫刻家の瀬戸剛氏死去|work=時事ドットコムニュース|date=2020-07-22|accessdate=2020-12-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/551419|title=瀬戸剛氏死去 彫刻家|publisher=佐賀新聞LiVE|date=2020-07-22|accessdate=2020-11-13}}</ref>、[[彫刻家]](* [[1945年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Hakata-gion-yamakasa-oiyama.jpg|thumb|300px|[[博多祇園山笠]]の「追山笠」。画像は2008年のもの]] * [[お盆]]・[[盂蘭盆会]]({{JPN}})(地域により[[月遅れ]]で[[8月15日]]) * [[中元]] * 大阪港開港記念日({{JPN}}) *: [[1868年]]のこの日、[[旧淀川|安治川]]の河口に[[大阪港]]が開港した。 * [[博多祇園山笠]]・追山笠({{JPN}} [[福岡市]][[博多区]]・[[櫛田神社 (福岡市)|櫛田神社]]) *: 一番山笠が午前4時59分にスタートする。 * ファミコンの日({{JPN}}) *: [[1983年]]のこの日、[[任天堂]]が家庭用ビデオゲーム機[[ファミリーコンピュータ]]を発売した。 * うらかわ夏いちごの日({{JPN}}) *: 牧場と[[サラブレッド]]で有名な[[北海道]][[浦河町]]が制定。町の特産品である「夏いちご(品種:すずあかね)」をより多くの人に知ってもらうのが目的。日付は、「夏(7)いちご(15)」と読む語呂合わせから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=25|isbn=978-4422021157 }}</ref>。 * [[海の日]] ({{JPN}}、[[2013年]]・[[2019年]]・[[2024年]])※7月の第3月曜日 * マンゴーの日({{JPN}}) *: 沖縄県農水産物販売促進協議会が2000年に制定。収穫の最盛期を目前に控えた日であることから。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0715|date=2011年6月}} * [[1922年]] - 末延唯月は藤川紡を誘い、二人きりで[[隅田川花火大会|両国の川開き]]へと足を運ぶ。夜空に花火が上がる中、唯月は紡へ口づけをする。(漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』)<ref>『[[まんがタイムきららキャラット]]』2023年6月号、[[芳文社]]、124頁。</ref> * 1943年(昭和18年)- 夜、私(椎名耕助)と乙骨三四郎が[[上野駅|上野]]を出発、[[信越線]]の旅に出る。(小説『[[真珠郎]]』第1章<ref group="注">年は第8章で真珠郎の世話をしてきた爺やが、真珠郎の誕生を「今から21年前、大正11年」と語っていることからの逆算。</ref>) * 1947年(昭和22年)- 午後、矢代寸兵が<ruby><rb>[[日本交通公社 (公益財団法人)|ツーリストビューロオ]]</rb><rt>原文ママ</rt></ruby>の使いの人から切符を三枚受け取る。(小説『[[不連続殺人事件]]』第2章) * 1988年 - 味吉陽一、幻の「黄金鰻」を求めて[[利根川]]へ行く。(アニメ『[[ミスター味っ子]]』第40話「うな丼勝負! 黄金のうなぎを求めて」) * 1999年 - [[横浜市|横浜]]にてモータースポーツ大会「REAL RACING ROOTS'99」(RRR'99)の2次予選第2レースが開催される。(ゲーム『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』)<ref>ゲーム内のレース開始前より</ref> * 1999年 - M県S市杜王町にて主人公達やその関係者<ref group="注">東方仗助、虹村億泰、支倉未起隆、広瀬康一、東方朋子、岸辺露伴、噴上裕也</ref>と川尻浩作が災難<ref group="注">東方仗助、虹村億泰、支倉未起隆 - スーパーフライ(鋼田一豊大)と戦う 広瀬康一、東方朋子 - エニグマ(宮本輝之輔)の能力に閉じ込められる 東方仗助、噴上裕也 - エニグマに閉じ込められた2人を助ける 岸辺露伴 - チープ・トリックに取り憑かれる 広瀬康一 - チープ・トリックとの戦闘を手伝う 川尻浩作 - 息子の川尻早人に正体(吉良吉影であること)がバレる</ref>に見舞われる(アニメ [[ダイヤモンドは砕けない|ジョジョの奇妙な冒険第4部]] 31話~34話) *年不明 - 一年三組で、カンニング犯探しの臨時学級会が開催される。(小説『[[終物語]](上)』)<ref>{{Cite book |和書|date=2013-10-22|title=[[終物語]](上)|page=61|author=[[西尾維新]]|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社BOX]]|isbn=978-4063233087}}</ref> === 誕生日(フィクション) === * [[1990年]] - 澤田敏行、ゲーム・アニメ『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=電撃プレイステーション編集部|date=2012-09-29|title =ROBOTICS;NOTES【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集 Childhood Dreams|page=88|publisher=[[アスキー・メディアワークス]]|isbn=978-4048867566}}</ref> * [[1983年]] - SC-3000、アニメ『[[Hi☆sCoool! セハガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shg.sega.jp/chara.html |title=キャラクター SC−3000(CV:相沢 舞) |access-date=2022-09-24 |publisher=SEGA |website=セガ★ハード・ガールズ}}</ref> * 1983年 - SG-1000、アニメ『Hi☆sCoool! セハガール』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://shg.sega.jp/chara.html |title=キャラクター SG-1000(CV:芹澤 優) |access-date=2022-09-24 |publisher=SEGA |website=セガ★ハード・ガールズ}}</ref> * [[2019年]] - クローネ、漫画・アニメ『[[約束のネバーランド]]』に登場するキャラクター(+ [[2045年]])<ref>{{Cite book|和書|author1=白井カイウ|authorlink1=白井カイウ|author2=出水ぽすか|authorlink2=出水ぽすか|year=2020 |title=シークレットバイブル 約束のネバーランド 0 MYSTIC CODE |publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|page=50|isbn=978-4-08-882462-8}}</ref> * [[宇宙暦#スターオーシャンシリーズ|宇宙暦]]328年 - ミリー・キリート、ゲーム『[[スターオーシャン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=33|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref> * 生年不明 - 奥田三吉、小説・アニメ『[[ズッコケ三人組]]』の主人公のひとり * 生年不明 - [[黒崎一護]]、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/ichigo.html |title=黒崎一護 |work=BLEACH.com |accessdate=2022-09-24 |publisher=久保帯人/[[集英社]]}}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|date=2006-02-03|title=BLEACH―ブリーチ― OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=34|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088740799}}</ref> * 生年不明 - 緑谷出久、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-01/ |title=緑谷出久 |access-date=2022-09-24 |publisher=堀越耕平/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 愛崎えみる、アニメ『[[HUGっと!プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書| |url=https://www.asahi.co.jp/precure/hugtto/character/curemacherie.html |title=キャラクター キュアマシェリ(愛崎えみる) |work=HUGっと!プリキュア |accessdate=2022-09-24 |publisher=ABC-A・東映アニメーション}}</ref> * 生年不明 - 大西洋、漫画・アニメ『[[アイシールド21]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - コラソン、漫画・アニメ『[[ONE PIECE|ワンピース]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Corazon.html |title=コラソン |accessdate=2022-09-24 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |website=ONE PIECE.com}}</ref> * 生年不明 - 奈良シカク、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=115|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref> * 生年不明 - ノイズ・マリ、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|date=2008-06-04|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃 |page=44|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088742489}}</ref> * 生年不明 - アーロン・ユージック、漫画・アニメ『[[テラフォーマーズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 通形ミリオ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://mhaoj2.bn-ent.net/character/mirio.php |title=通形ミリオ |access-date=2022-09-24 |publisher=堀越耕平/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 [[バンダイナムコエンターテインメント|BANDAI NAMCO Entertainment Inc.]]}}</ref> * 生年不明 - 山本タクヤ、漫画・アニメ『[[東京卍リベンジャーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_toman|1415325210140499977}}</ref> * 生年不明 - 新開隼人、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yowapeda_anime|885877380631339008}}</ref> * 生年不明 - 小暮宙太、漫画・アニメ『[[超速スピナー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 桐間紗路、漫画・アニメ『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=koi|authorlink=koi|date=2014-05-27|title=「ご注文はうさぎですか?」画集 Cafe du Lapin|page=20|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4832244481}}</ref> * 生年不明 - 秋山エレ、漫画『[[ヘルズキッチン (漫画)|ヘルズキッチン]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 柿葉千鳥、漫画『[[マイぼーる!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 平家いぶき、アニメ『[[ゲンジ通信あげだま]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 箕国起助、アニメ『[[ALDNOAH.ZERO]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ジャン・ジャック・ルロワ、アニメ『[[ユーリ!!! on ICE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yurionice.com/special/birthday/jj/ |title=JJ誕生日記念!プレゼントキャンペーン |accessdate=2022-09-22 |publisher=はせつ町民会/ユーリ!!! on ICE 製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 丸目千熊、ボカロ歌唱・アニメ『[[ACTORS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://actorsmusic.jp/character/marume/ |title=丸目 千熊 |access-date=2022-09-24 |publisher=EXIT TUNES |work=ACTORS}}</ref> * 生年不明 - 文月海、キャラクターCD・アニメ『[[ツキウタ。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://tsukino-pro.com/tsukiuta/character/kai |title=07 文月 海 |access-date=2022-09-24 |work=ツキウタ。 Tsukiuta}}</ref> * 生年不明 - エリス・ファロース、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 星乃文緒、ゲーム・アニメ『[[君が望む永遠]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 秋原未遊、ゲーム・アニメ『[[Gift 〜ギフト〜|Gift ~ギフト~ eternal rainbow]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 小鳥遊まひる、ゲーム・アニメ『[[D.C.II ~ダ・カーポII~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/dc2ps/character/mahiru.html |title=小鳥遊まひる |access-date=2022-09-24 |publisher=CIRCUS |work=D.C.II P.S.~ダ・カーポII~プラスシチュエーション}}</ref> * 生年不明 - 紫之創、ゲーム・アニメ『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/shino_hajime/ |title=紫之 創 CHARACTER |work=あんさんぶるスターズ!! |accessdate=2022-09-24 |publisher=Happy Elements}}</ref> * 生年不明 - 天宮奏、ゲーム・アニメ『[[ドリフェス!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dream-fes.com/characters/kanade_amamiya.php |title=天宮 奏(CAST:石原 壮馬) |access-date=2022-09-24 |publisher=BNP/BANDAI, DF PROJECT |date=2017-08-09 |work=ドリフェス!R}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|July 15|15 July}} {{新暦365日|7|14|7|16|[[6月15日]]|[[8月15日]]|[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]|0715|7|15}} {{1年の月と日}}
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アルフレッド・ノーベル
アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン語: Alfred Bernhard Nobel [ˈǎlfrɛd nʊˈbɛlː] ( 音声ファイル), 1833年10月21日 - 1896年12月10日)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。 ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。 遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。ディナミット・ノーベル(英語版)やアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)。 スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家のイマヌエル・ノーベル(英語版) (1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。父方の先祖にスウェーデンの科学者オラウス・ルドベック (1630–1702) がいる。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。 事業に失敗した父は1837年、単身サンクトペテルブルクに赴き、機械や爆発物の製造で成功。合板を発明し、機雷製造を始めた。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった。学校に通っていたのはストックホルムでの1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった。 化学の家庭教師として雇われたのは化学者ニコライ・ジーニン(英語版)である。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、テオフィル=ジュール・ペルーズの科学講座を受講している(アスカニオ・ソブレロは彼の生徒の一人)。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家ジョン・エリクソンに師事している。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許だった。 クリミア戦争 (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は1859年に再び破産する。父は工場を次男のルドヴィッグ・ノーベル(英語版) (1831–1888) に任せ、アルフレッドと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。アルフレッドは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。アルフレッド本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことである(テオフィル=ジュール・ペルーズの下で共に学んだアスカニオ・ソブレロが発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。 1864年9月3日、爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。アルフレッド本人も怪我を負う。この事故に関してはアルフレッド本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。また合成者のアスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero) に対し充分な対価を支払った。1866年、不安定なニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、1867年アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はアルフレッドにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。 1871年、珪藻土を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする。1875年、ダイナマイトより安全で強力なゼリグナイトを発明。1887年にはコルダイトの元になったバリスタイト(英語版)の特許を取得している。 1878年、兄ルドヴィッグとロベルト(英語版)と共に現在のアゼルバイジャンのバクーでノーベル兄弟石油会社(英語版)を設立。この会社は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。 1884年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれた。また同年、フランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を授与される。さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。 1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。アルフレッドは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。 1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。 1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、アルフレッドはストックホルムのNorra begravningsplatsen(北の墓地)に埋葬されている。 ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。最初の相手はロシアの娘アレクサンドラだが、彼のプロポーズを拒絶した。 1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にアートゥル・フォン・ズットナー(ドイツ語版)という婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。 また同じく1876年、当時20歳のゾフィー・ヘス(Sofie Hess)と出会い、交流が始まる。ゾフィーとの関係は18年間続き、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。ゾフィーはこの子供の父親と結婚。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功したためすべてが残っており、またノーベル財団により1955年から公開もされている。ゾフィーはこの手紙の売却で巨万の富を得ている。 正式な高等教育を受けていないが、ノーベルは母語であるスウェーデン語に加えて、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語が堪能だった。また少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンとシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、それらのほとんどは晩年に破棄された。最晩年に書き上げた戯曲「ネメシス」という作品はベアトリーチェ・チェンチを主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。残っていたものをベースとして2003年、スウェーデンで2言語版(スウェーデン語とエスペラント)が出版され、その後スロベニア語やフランス語に翻訳された。2010年にはロシアで新たな2言語版(ロシア語とエスペラント)が出版されている。 ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。 その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイト(英語版)も発明している。 1888年4月12日、カンヌを訪れていた兄ルドヴィッグが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり、見出しには「死の商人、死す」とあった。さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれていた。ノーベルにとってダイナマイトが戦争で使われることは想定内であり、むしろ破壊力の大きな兵器は戦争抑止力として働くと予想していたが、実際には高性能爆薬の普及により戦争の激化を招いたことで世間的には「死の商人」というイメージが広まっていた。これらのことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという。 1895年11月27日、財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与するノーベル賞を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千スウェーデン・クローナを5部門のノーベル賞創設に割り当てている。これは当時の為替レートで168万7837ポンドに相当する。ノーベルの莫大な遺産の相続をめぐって、兄弟やその子達が当然のようにトラブルを起こしたために指名された相続執行人は苦労した。ノーベル本人は1890年に起こした訴訟の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたために遺書の内容には矛盾点が多く、このことも相続執行人を悩ませた。 遺言で賞を授与するとされた分野のうち最初の3つは物理学、化学、医学または生理学だった。4つめは「理想的な方向性の (in an ideal direction)」文学とされ、5つ目は軍縮や平和推進に貢献した個人や団体に贈るとされている。数学分野の賞は含まれていなかった(アーベル賞も参照)。ノーベル本人はこの賞に名はつけていないが、現在この賞は「ノーベル賞」と呼ばれている。 文学賞については "in an ideal direction"(スウェーデン語では i idealisk riktning)の解釈が問題となった。これについてスウェーデン・アカデミーは "ideal" 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アルフレッド・ベルンハルド・ノーベルは、スウェーデンの化学者、発明家、実業家。 ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。 遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。ディナミット・ノーベルやアクゾノーベルのように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)。
{{Infobox scientist |name = アルフレッド・ノーベル<br />Alfred Nobel |image = AlfredNobel2.jpg |image_width = 200px |alt = |caption = |birth_name = Alfred Bernhard Nobel |birth_date = {{生年月日と年齢|1833|10|21|no}} |birth_place = {{SWE1818}}・[[ストックホルム]] |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1833|10|21|1896|12|10}} |death_place = {{ITA1861}}・[[サンレーモ]] |death_cause = |residence = <!-- 居住 --> |citizenship = <!-- 市民権 --> |nationality = {{SWE1844}} |field = [[化学者]]、[[実業家]] |workplaces = <!-- 研究機関 --> |alma_mater = <!-- 母校 --> |doctoral_advisor = <!-- 博士課程指導教員 --> |academic_advisors = <!-- 他の指導教員 --> |doctoral_students = <!-- 博士課程指導学生 --> |notable_students = <!-- 他の指導学生 --> |known_for = [[ダイナマイト]]、[[ノーベル賞]] |influences = <!-- 影響を受けた者 --> |influenced = <!-- 影響を与えた者 --> |awards = <!-- 主な受賞歴 --> |author_abbreviation_bot = <!-- 命名者名略表記(植物学) --> |author_abbreviation_zoo = <!-- 命名者名略表記(動物学) --> |signature = Alfred Nobel Signature.svg |signature_alt = |footnotes = 墓地は[[ストックホルム]]、 [[:en:Norra begravningsplatsen|Norra begravningsplatsen]] | resting_place_coordinates = {{Coord|59|21|24.52|N|18|1|9.43|E|region:SE_type:landmark|name=アルフレッド・ノーベルの墓地}} }} '''アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル'''({{lang-sv|Alfred Bernhard Nobel}} {{IPA-sv|ˈǎlfrɛd nʊˈbɛlː||sv-Alfred_Nobel.ogg}}, [[1833年]][[10月21日]] - [[1896年]][[12月10日]])は、[[スウェーデン]]の[[化学者]]、[[発明家]]、[[実業家]]。 [[ボフォース]]社を単なる鉄工所から[[兵器]]メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でも[[ダイナマイト]]が最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「'''ダイナマイト王'''」とも呼ばれた。 遺産を「[[ノーベル賞]]」の創設に使用させた。自然界には存在しない元素[[ノーベリウム]]はノーベルの名をとって名付けられた。{{仮リンク|ディナミット・ノーベル|en|Dynamit Nobel}}や[[アクゾノーベル]]のように現代の企業名にも名を残している(どちらもノーベルが創業した会社の後継)。 == 生涯 == [[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]にて、[[建築家]]で発明家の{{仮リンク|イマヌエル・ノーベル|en|Immanuel Nobel}} (1801–1872) とカロリナ・アンドリエッテ・ノーベル (1805–1889) の4男として生まれた{{R|Brit1}}。両親は1827年に結婚し、8人の子をもうけた。一家は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった{{R|Brit1}}<ref Name="Gale">''Encyclopedia of Modern Europe: Europe 1789-1914: Encyclopedia of the Age of Industry and Empire'', "Alfred Nobel", 2006 Thomson Gale.</ref>。父方の先祖にスウェーデンの科学者[[オラウス・ルドベック]] (1630–1702) がいる<ref>Schück, Henrik, Ragnar Sohlman, Anders Österling, Carl Gustaf Bernhard, the Nobel Foundation, and Wilhelm Odelberg, eds. Nobel: The Man and His Prizes. 1950. 3rd ed. Coordinating Ed., Wilhelm Odelberg. New York: American Elsevier Publishing Company, Inc., 1972, p. 14. ISBN 0-444-00117-4 (10). ISBN 978-0-444-00117-7 (13). (Originally published in Swedish as Nobelprisen 50 år: forskare, diktare, fredskämpar.)</ref>。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。 [[ファイル:AlfredNobel adjusted.jpg|thumb|right]] 事業に失敗した父は1837年、単身[[サンクトペテルブルク]]に赴き、機械や爆発物の製造で成功。[[合板]]を発明し、[[機雷]]製造を始めた<ref name=MWMIH>{{Cite web |title=The Man Who Made It Happen — Alfred Nobel |url= http://www.3833.com/wbn_nobel_alfred_bernhard |publisher=3833 |accessdate=2012-05-03}}</ref>。1842年、父は妻子をサンクトペテルブルクに呼び寄せた。裕福になったため、アルフレッドには複数の家庭教師がつけられ、特に化学と語学を学んだ。そのため英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語で流暢に会話できるようになった{{R|Brit1}}。学校に通っていたのは[[ストックホルム]]での1841年から1842年にかけての18カ月間だけだった<ref Name="Gale"/>。 [[ファイル:Nobel's death mask.jpg|thumb|upright|ノーベルの[[デスマスク]]]] 化学の家庭教師として雇われたのは化学者{{仮リンク|ニコライ・ジーニン|en|Nikolay Zinin}}である。その後化学をさらに学ぶため、1850年にパリに行き、[[テオフィル=ジュール・ペルーズ]]の科学講座を受講している(アスカニオ・ソブレロは彼の生徒の一人)。翌年にはアメリカに渡って4年間化学を学んだ。そこで短期間だが発明家[[ジョン・エリクソン]]に師事している。その後、父の事業を手伝う。最初の特許を出願したのは1857年のことで、ガスメーターについての特許だった<ref Name="Gale"/><ref>Carlisle, Rodney (2004). [https://books.google.co.jp/books?id=1Dz06kX-p6YC&printsec=frontcover&dq=editions:ISBN0471660248&hl=ja ''Scientific American Inventions and Discoveries''], p. 256. John Wiley & Songs, Inc., New Jersey. ISBN 0-471-24410-4.</ref>{{R|Brit1}}。 [[クリミア戦争]] (1853–1856) では兵器生産で大儲けをするが、戦争終結と同時に注文が止まったばかりでなく、軍がそれまでの支払いも延期したため事業はたちまち逼迫し、父は[[1859年]]に再び破産する{{R|Brit1}}。父は工場を次男の{{仮リンク|ルドヴィッグ・ノーベル|en|Ludvig Nobel}} (1831–1888) に任せ、アルフレッドと両親はスウェーデンに帰国した。なお、ルドヴィッグは受け継いだ工場を再開して事業を発展させた。アルフレッドは爆発物の研究に没頭し、特に[[ニトログリセリン]]の安全な製造方法と使用方法を研究した。アルフレッド本人が[[ニトログリセリン]]のことを知ったのは1855年のことである([[テオフィル=ジュール・ペルーズ]]の下で共に学んだ[[アスカニオ・ソブレロ]]が発見)。この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。[[1862年]]にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。[[1863年]]にはスウェーデンで特許を得た。1865年には[[雷管]]を設計した{{R|Brit1}}。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。 [[1864年]]9月3日、爆発事故で弟[[エミール・ノーベル]]と5人の助手が死亡<ref Name="Gale"/>。アルフレッド本人も怪我を負う。この事故に関してはアルフレッド本人は一切語っていないが、父イマヌエルによればニトログリセリン製造ではなく[[グリセリン]]精製中に起きたものだという。この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたため[[ハンブルク]]に工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した<ref Name="Gale"/>。また合成者のアスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero) に対し充分な対価を支払った。1866年、不安定な[[ニトログリセリン]]をより安全に扱いやすくした[[ダイナマイト]]を発明。彼の莫大な利益を狙うシャフナーと名乗る軍人が特許権を奪おうと裁判を起こしたがこれに勝訴し、[[1867年]]アメリカとイギリスでダイナマイトに関する特許を取得する。しかしシャフナーによる執拗な追求はその後も続き、アメリカ連邦議会にニトロの使用で事故が起きた場合、責任はアルフレッドにあるとする法案まで用意されたため、軍事における使用権をシャフナーに譲渡。 [[1871年]]、[[珪藻土]]を活用しより安全となった爆薬をダイナマイトと名づけ生産を開始。50カ国で特許を得て100近い工場を持ち、世界中で採掘や土木工事に使われるようになり、一躍世界の富豪の仲間入りをする{{R|Brit1}}。1875年、ダイナマイトより安全で強力な[[ゼリグナイト]]を発明。1887年には[[コルダイト]]の元になった{{仮リンク|バリスタイト|en|ballistite}}の特許を取得している{{R|Brit1}}。 [[1878年]]、兄ルドヴィッグと{{仮リンク|ロベルト・ノーベル|en|Robert Nobel|label=ロベルト}}と共に現在の[[アゼルバイジャン]]の[[バクー]]で{{仮リンク|ブラノーベル|en|Branobel|label=ノーベル兄弟石油会社}}を設立。この会社は[[1920年]]に[[ボリシェヴィキ]]のバクー制圧に伴い国有化されるまで存続した。 1884年、[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の会員に選ばれた。また同年、フランス政府から[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ド・ヌール勲章]]を授与される。さらに1893年には[[ウプサラ大学]]から[[名誉学位]]を授与された。 [[1890年]]、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。アルフレッドは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし[[1895年]]最終的な敗訴が確定する。 1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアの[[サンレーモ]]に移住。 [[1895年]]、持病の[[狭心症|心臓病]]が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く{{R|Brit1}}。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。[[1896年]]12月7日、[[サンレーモ]]にて[[脳溢血]]で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、アルフレッドはストックホルムの[[:w:Norra begravningsplatsen|Norra begravningsplatsen]](北の墓地)に埋葬されている。 == 私生活 == ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた<ref Name="Gale"/>。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある{{R|Brit1}}。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。最初の相手はロシアの娘アレクサンドラだが、彼のプロポーズを拒絶した。 [[1876年]]には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきた[[ベルタ・フォン・ズットナー|ベルタ・キンスキー]]という女性を候補とする。しかしベルタには既に{{仮リンク|アートゥル・フォン・ズットナー|de|Arthur Gundaccar von Suttner|label=アートゥル・フォン・ズットナー}}という婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちの[[ノーベル平和賞]]創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。 [[ファイル:Björkborn exterior.jpg|thumb|upright|ノーベルが晩年に使用していたスウェーデンの[[マナー・ハウス]]。[[ボフォース]]社が所有]] また同じく1876年、当時20歳のゾフィー・ヘス(Sofie Hess)と出会い、交流が始まる<ref Name="Gale"/>。ゾフィーとの関係は18年間続き<ref Name="Gale"/>、218通の手紙を残した。しかし[[1891年]]に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。ゾフィーはこの子供の父親と結婚。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功したためすべてが残っており、またノーベル財団により1955年から公開もされている。ゾフィーはこの手紙の売却で巨万の富を得ている。 正式な高等教育を受けていないが、ノーベルは[[母語]]である[[スウェーデン語]]に加えて、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[ロシア語]]が堪能だった。また少年時代から文学に関心を持っており、特に[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]と[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]の詩に熱中して自らも詩を書いていたが、それらのほとんどは晩年に破棄された。最晩年に書き上げた[[戯曲]]「[[ネメシス (戯曲)|ネメシス]]」という作品は[[ベアトリーチェ・チェンチ]]を主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。残っていたものをベースとして2003年、スウェーデンで2言語版(スウェーデン語と[[エスペラント]])が出版され、その後[[スロベニア語]]やフランス語に翻訳された<ref>{{Cite book |author=Alfred Nobel |title=Némésis: tragédie en quatre actes |url= https://books.google.co.jp/books?id=VRUYPQAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja |accessdate=2011-08-19 |year=2008 |publisher=Belles lettres |isbn=978-2-251-44342-3}}</ref>。2010年にはロシアで新たな2言語版([[ロシア語]]とエスペラント)が出版されている。 == 発明 == {{Main|ダイナマイト|ゼリグナイト}} [[ニトログリセリン]]の衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての[[珪藻土]]とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、[[1867年]]ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドの[[サリー (イングランド)|サリー]]にある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。 その後ノーベルは[[コロジオン]]などに似た様々な[[ニトロセルロース]]化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それを[[ゼリグナイト]]と名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに[[硝酸カリウム]]や他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている[[無煙火薬]]のさきがけともいうべき{{仮リンク|バリスタイト|en|ballistite}}も発明している。 == 遺産とノーベル賞 == [[File:Alfred Nobels will-November 25th, 1895.jpg|thumb|right|250px|アルフレッド・ノーベルの遺言書(1895年11月27日署名)]] {{Main|ノーベル賞}} [[1888年]][[4月12日]]、[[カンヌ]]を訪れていた兄ルドヴィッグが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり{{R|Brit1}}、見出しには「[[死の商人]]、死す」とあった{{R|Brit1}}。さらに本文には「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれていた{{R|Nobel}}。ノーベルにとってダイナマイトが戦争で使われることは想定内であり、むしろ破壊力の大きな兵器は戦争抑止力として働くと予想していたが、実際には高性能爆薬の普及により戦争の激化を招いたことで世間的には「死の商人」というイメージが広まっていた<ref>『当った予言、外れた予言』ジョン・マローン著 [[文春文庫]] ISBN 4167308967</ref>。これらのことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという<ref>[[フランス通信社]] [https://www.afpbb.com/articles/-/2763779?pid=6286738 死の商人から平和の象徴へ、「ノーベル賞」創設秘話 * 2010年10月04日 17:19 発信地:ストックホルム/スウェーデン]</ref>{{R|Brit1}}{{R|HistC}}。 1895年11月27日、財産の大部分をあてて国籍の差別なく毎年授与する[[ノーベル賞]]を創設するとした遺言状に署名した。税と個人への遺産分を除いた全財産の94%、3122万5千[[スウェーデン・クローナ]]を5部門のノーベル賞創設に割り当てている。これは当時の為替レートで168万7837ポンドに相当する<ref group="注釈">SEK:GBPの為替レートは18.5:1だった。</ref><ref name="Håkan Lobell">{{Cite book|author= Lobell, Håkan |title= Historical Monetary and Financial Statistics for Sweden Exchange rates,prices, and wages,1277–2008|publisher= S V E R I G E S R I K S B A N K|ISBN=978-91-7092-124-7|year=2010|page=291}}</ref><ref name="Abrams7">{{Cite book|author=Abrams, Irwin|title= The Nobel Peace Prize and the Laureates|publisher= Watson Publishing International|ISBN=0-88135-388-4|year=2001|page=7}}</ref>{{R|Fant 1991 327}}。ノーベルの莫大な遺産の相続をめぐって、兄弟やその子達が当然のようにトラブルを起こしたために指名された相続執行人は苦労した。ノーベル本人は1890年に起こした訴訟の経験から弁護士を信用しておらず、直筆で自分だけで遺言状を書いたために遺書の内容には矛盾点が多く、このことも相続執行人を悩ませた。 遺言で賞を授与するとされた分野のうち最初の3つは[[ノーベル物理学賞|物理学]]、[[ノーベル化学賞|化学]]、[[ノーベル生理学・医学賞|医学または生理学]]だった。4つめは「理想的な方向性の (in an ideal direction)」[[ノーベル文学賞|文学]]とされ、[[ノーベル平和賞|5つ目]]は軍縮や平和推進に貢献した個人や団体に贈るとされている。数学分野の賞は含まれていなかった<ref>{{Cite web|url= http://www.snopes.com/science/nobel.asp |title=No Nobel Prize for Math |publisher=snopes.com |accessdate=2009-11-20}}</ref>([[アーベル賞]]も参照)。ノーベル本人はこの賞に名はつけていないが、現在この賞は「[[ノーベル賞]]」と呼ばれている。 文学賞については "in an ideal direction"(スウェーデン語では ''{{Lang|sv|i idealisk riktning}}'')の解釈が問題となった。これについて[[スウェーデン・アカデミー]]は "ideal" を「理想主義的」(idealistic、''{{Lang|sv|idealistisk}}'')と解釈したため、[[ヘンリック・イプセン]]や[[レフ・トルストイ]]らが受賞できない結果となった。その後解釈は修正され、理想主義的ではない[[ダリオ・フォ]]や[[ジョゼ・サラマーゴ]]といった作家も受賞するようになった。 ノーベルは遺言状の内容について生前誰にも相談しなかったため、物理学賞や化学賞についても選考方針に解釈の余地があった。遺言状には、物理学における発明・発見、化学における発見・改良に賞を与えると記されていた。つまり工学的貢献も念頭にあったと見られるが、科学と工学の区別については何も記されていなかった。ノーベルが選考者に指定した組織は科学寄りだったため、それらの賞は工学者や発明家ではなく科学者に与えられるようになった。 2001年、ノーベルの兄弟のひ孫 Peter Nobel (b. 1931) がスウェーデン国立銀行に対して「アルフレッド・ノーベルを記念」した経済学者への賞を上述の5部門とは区別するよう依頼した。このことに現れているように、[[ノーベル経済学賞]]を「ノーベル賞」に含めるか否かについては議論がある<ref>[http://www.aftenposten.no/fakta/nobel/article235455.ece "Alfred Nobels familie tar avstand fra økonomiprisen"]</ref>。 == その他 == 現在もノーベルの名を冠する会社は欧州各地にあり、爆薬製造や化学工業を行っている。特にドイツのダイナミット・ノーベル社は、対戦車兵器[[パンツァーファウスト3]]やケースレスライフル[[H&K G11]]用弾薬など、現在も兵器の開発・製造を行っている。 日本の菓子製造会社で[[大阪市]][[生野区]]に本社がある[[ノーベル製菓]]はノーベルの名を冠しているが、ノーベル本人とは全くの無関係である。[[1949年]]に[[湯川秀樹]]が[[ノーベル物理学賞]]を受賞した際にノーベルの登録商標を取得、[[1959年]]に社名をノーベル製菓に変更しているためで、ノーベル製菓の初代社長が湯川秀樹と交友関係であったことから単にノーベル賞に因んだ社名を付けただけである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="Brit1">[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/416842/Alfred-Bernhard-Nobel Britannica, Alfred Nobel]</ref> <ref name="Fant 1991 327">Fant, Kenne (Ruuth, Marianne, transl.) (1991). [https://books.google.co.jp/books?id=-87ReXymessC&pg=PA327&redir_esc=y&hl=ja ''Alfred Nobel: a biography'']. New York: Arcade Publishing ISBN 1-55970-328-8, p. 327</ref> <ref name="HistC">[[ヒストリー (TVチャンネル)|The History Channel]], ''[[:en:Modern Marvels|Modern Marvels]]'', episode 038 (originally aired 21 June 1999)</ref> <ref name=Nobel>{{Cite news|url = http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,998209,00.html|work=Time|title=The Worst And The Brightest|first=Frederic|last=Golden|date=16 October 2000}}</ref> }} == 参考文献 == * [[s:1911 Encyclopædia Britannica/Nobel, Alfred Bernhard|Nobel, Alfred Bernhard]] in [[ブリタニカ百科事典第11版|the 1911 ''Encyclopædia Britannica'']] * Schück, H, and Sohlman, R., (1929). ''The Life of Alfred Nobel''. London: William Heineman Ltd. * [[s:U.S. Patent 78317|Alfred Nobel US Patent No 78,317]], dated 26 May 1868 * Evlanoff, M. and Fluor, M. ''Alfred Nobel – The Loneliest Millionaire''. Los Angeles, Ward Ritchie Press, 1969. * Sohlman, R. ''The Legacy of Alfred Nobel'', transl. Schubert E. London: The Bodley Head, 1983 (Swedish original, ''Ett Testamente'', published in 1950). * Jorpes, J.E. Alfred Nobel. ''British Medical Journal'', Jan.3, 1959, 1(5113): 1–6. * Sri Kantha, S. Alfred Nobel's unusual creativity; an analysis. ''Medical Hypotheses'', April 1999; 53(4): 338–344. * Sri Kantha, S. Could nitroglycerine poisoning be the cause of Alfred Nobel's anginal pains and premature death? ''Medical Hypotheses'', 1997; 49: 303–306. * [[ディスカバリーチャンネル]]「ミッションX ダイナマイトの発明」 == 関連項目 == * [[石油タンカー]] * [[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]] == 外部リンク == {{Commonscat|Alfred Nobel}} * [https://www.nobelprize.org/alfred-nobel/ Alfred Nobel – Man behind the Prizes] * [https://www.biography.com/inventor/alfred-nobel Biography of Alfred Nobel] * [https://www.nobelprize.org/ Nobelprize.org] * [https://azer.com/aiweb/categories/magazine/ai102_folder/102_articles/102_nobels_asbrink.html "The Nobels in Baku" in Azerbaijan International, Vol 10.2 (Summer 2002), 56–59.] * [https://azer.com/aiweb/categories/magazine/43_folder/43_articles/43_nobel.html The Nobel Prize in Postage Stamps] * {{Kotobank|ノーベル}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:のおへる あるふれつと}} [[Category:アルフレッド・ノーベル|!]] [[Category:19世紀の化学者]] [[Category:ノーベル賞|*]] [[Category:ボフォース|*]] [[Category:スウェーデンの実業家]] [[Category:スウェーデンの発明家]] [[Category:スウェーデンのキリスト教徒]] [[Category:スウェーデンの化学者]] [[Category:スウェーデンの無神論者]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:全米発明家殿堂]] [[Category:ユネスコ記憶遺産]] [[Category:19世紀スウェーデンの人物]] [[Category:スウェーデン史の人物]] [[Category:ノーベル家|あるふれつと]] [[Category:ストックホルム出身の人物]] [[Category:1833年生]] [[Category:1896年没]]
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8月25日
8月25日(はちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から237日目(閏年では238日目)にあたり、年末まであと128日ある。
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{{カレンダー 8月}} '''8月25日'''(はちがつにじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から237日目([[閏年]]では238日目)にあたり、年末まであと128日ある。 == できごと == {{multiple image | caption1 = [[七年戦争]]、[[ツォルンドルフの戦い]](1758) | image1 = Bataille_de_Zorndorf.jpg | width1 = 90 | alt1 = ツォルンドルフの戦い | image2 = Wappers_belgian_revolution.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[ベルギー独立革命]]はじまる(1830) | alt2 = ベルギー独立革命はじまる }} {{multiple image | footer = [[北里柴三郎]]、[[ペスト菌]]を発見(1894) | image1 = Kitasato_Shibasaburo.jpg | width1 = 70 | alt1 = 北里柴三郎 | image2 = Yersinia_pestis.jpg | width2 = 110 | alt2 = ペスト菌 }} {{multiple image | footer = [[孫文]]、[[宋教仁]]らが[[中国国民党]]を結成(1912) | image1 = Sun_Yat-sen_3.jpg | width1 = 60 | caption1 = 孫文 | image2 = Sung_Chiao-jen.jpg | width2 = 60 | caption2 = 宋教仁 | image3 = Emblem_of_the_Kuomintang.svg | width3 = 60 | caption3 = 国民党のマーク }} {{multiple image | caption1 = [[大河津分水]]完成(1922) | image1 = Okozu_Canal_under_construction.JPG | width1 = 90 | alt1 = 大河津分水 | image2 = Eight_Route_Army_in_Shanxi.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[紅軍]]が[[八路軍]]へと改組(1937) | alt2 = 紅軍が八路軍へ改組 }} {{multiple image | header = [[第二次世界大戦]]のできごと | image1 = Australian_troops_at_Milne_Bay.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[ラビの戦い]]はじまる(1942)。画像はオーストラリア兵 | image2 = Paris1944.jpg | width2 = 90 | caption2 = [[パリの解放]]完了(1944)。画像は翌26日のパレード }} {{multiple image | image1 = Saturn_%28planet%29_large.jpg | width1 = 80 | caption1 = [[ボイジャー2号]]、[[土星]]に最接近(1981) | image2 = Neptune.jpg | width2 = 100 | caption2 = ボイジャー2号、[[海王星]]に最接近(1989) }} {{multiple image | footer = [[クロアチア紛争]]、{{仮リンク|ヴコヴァルの戦い|en|Battle of Vukovar}}はじまる(1991) | image1 = Vukovar_water_tank.jpg | width1 = 60 | alt1 = 損傷の激しい給水塔 | image2 = Vukovar_ruins.JPG | width2 = 120 | alt2 = 廃墟となった建物 }} {{multiple image | footer = ノルウェー王太子[[ホーコン (ノルウェー王太子)|ホーコン]]と[[メッテ=マリット (ノルウェー王太子妃)|メッテ=マリット]]が結婚 | image1 = Crown_Prince_H%C3%A5kon_%2850%29.jpg | width1 = 95 | alt1 = ホーコン | image2 = Mette_Marit2.jpg | width2 = 85 | alt2 = メッテ=マリット }} {{multiple image | caption1 = [[ハリケーン・カトリーナ]]がアメリカ合衆国に上陸(2005) | image1 = Hurricane_Katrina_August_28_2005_NASA.jpg | width1 = 70 | alt1 = ハリケーン・カトリーナ | image2 = KSLV-1_Naro_Replica.jpg | width2 = 110 | caption2 = 「[[KSLV|KSLV-1]]」打ち上げ失敗(2009)。画像左はロケットの模型。 | alt2 = KSLV-1 }} * [[1266年]]([[文永]]3年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[鎌倉幕府]]将軍・[[宗尊親王]]が京に送還されたのに伴い、宗尊親王の子で3歳の[[惟康親王]]が将軍に就任。 * [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[毛利元就]]が家中で専横が目立った[[井上元兼]]一族を粛清。 * [[1758年]] - [[七年戦争]]: [[ツォルンドルフの戦い]]。 * [[1825年]] - [[ウルグアイ]]が[[ブラジル]]からの分離独立を宣言。 * [[1830年]] - [[ベルギー独立革命]]が始まる。 * [[1875年]] - [[マシュー・ウェッブ]]が[[ドーバー海峡]]を[[遠泳#海峡横断泳|泳ぎ渡り]]、史上最初の{{仮リンク|イギリス海峡横断泳者|en|List of successful English Channel swimmers}}となる。 * [[1883年]] - [[フランス]]と[[ベトナム]]が、アルマン条約に調印<ref>{{Kotobank|アルマン条約}}</ref>。アンナン・トンキンがフランスの属領となる。 * [[1884年]] - [[明治17年の台風|大型台風]]が日本を襲い、甚大な被害をもたらす。 * [[1894年]] - [[北里柴三郎]]が[[ペスト菌]]を発見<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/74881 |title=8月25日 北里柴三郎がペスト菌を発見(1894年) |access-date=6 Jul 2023 |publisher=[[講談社]] |date=25 Aug 2020 |work=サイエンス365days}}</ref>。 * [[1912年]] - [[孫文]]・[[宋教仁]]らが[[中国国民党|国民党]]を結成。 * [[1916年]] - [[アメリカ合衆国国立公園局]]設立。 * [[1919年]] - [[三菱銀行]]設立。 * [[1920年]] - [[ポーランド・ソビエト戦争]]:[[ワルシャワの戦い (1920年)|ワルシャワの戦い]]が終結<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Battle-of-Warsaw-1920 |title=Battle of Warsaw|Russo-Polish War (1920) |access-date=6 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。 * [[1922年]] - [[信濃川]]の[[大河津分水]]が完成し、通水。 * [[1931年]] - 羽田飛行場(現[[東京国際空港]])が開港。 * [[1936年]] - 山口県[[防府市]]が市制施行。 * [[1937年]] - 中国で[[紅軍]]を改組して[[八路軍]]が誕生。 * [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[イギリス]]・[[ソビエト連邦]]が[[イラン進駐 (1941年)|イラン進駐]]を開始。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦・[[ニューギニアの戦い]]: [[ラビの戦い]](ミルン湾の戦い)が始まる。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[パリの解放]]が完了。[[パリ]]が[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の占領から解放される。 * 1944年 - 第二次世界大戦: [[ルーマニア王国]]が対独宣戦布告([[ルーマニア革命 (1944年)|ルーマニア革命]])。 * [[1958年]] - 世界初の[[インスタントラーメン]]「[[チキンラーメン]]」([[日清食品]])発売開始。85グラム入りで35円で販売された。 * [[1960年]] - 第17回[[夏季オリンピック]]、[[ローマオリンピック]]が開幕。[[9月11日]]まで。 * [[1964年]] - 前日[[千葉県]][[習志野市]]の病院で死亡した患者が[[コレラ]]に感染していたことが判明。翌26日には死亡患者の同宿者からも[[コレラ菌]]が検出され、習志野市一帯をコレラ汚染地帯として大規模な[[殺菌]]・[[予防接種]]を実施する事態に。 * [[1980年]] - [[ジンバブエ]]が[[国際連合]]に加盟<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/member_nations/ |title=加盟国一覧 |access-date=6 Jul 2023 |publisher=国連広報センター}}</ref>。 * [[1981年]] - アメリカの惑星探査機「[[ボイジャー2号]]」が[[土星]]に最接近。 * [[1989年]] - [[山下徳夫]][[内閣官房長官]]が女性問題により在任16日目で辞任し、後任に初の女性官房長官となる[[森山眞弓]]が就任<ref>{{Cite web|和書|title=1989年8月25日 女性初の官房長官、森山真弓氏が就任 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO62968650U0A820C2EAC000/ |date=24 Aug 2020 |access-date=6 Jul 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。 * 1989年 - アメリカの惑星探査機「ボイジャー2号」が[[海王星]]に最接近。 * [[1991年]] - [[ベラルーシ]]が[[ソビエト連邦]]から独立。 * 1991年 - [[クロアチア紛争]]: {{仮リンク|ヴコヴァルの戦い|en|Battle of Vukovar}}が始まる。 * [[1995年]] - [[山下組組員警官誤射殺事件]]。 * [[2001年]] - [[ホーコン (ノルウェー王太子)|ノルウェー王太子ホーコン]]と[[メッテ=マリット (ノルウェー王太子妃)|メッテ=マリット]]が結婚。 * [[2005年]] - [[ハリケーン・カトリーナ]]がフロリダ半島に上陸。 * [[2006年]] - [[福岡海の中道大橋飲酒運転事故]]。 * [[2007年]] - [[2007年世界陸上競技選手権大会]]が[[大阪]]の[[長居陸上競技場]]で開幕。 * 2007年 - [[闇サイト殺人事件]]。 * [[2009年]] - 韓国初の人工衛星打ち上げロケット「[[羅老 (ロケット)|羅老]]」1号機が打ち上げ。衛星の軌道投入ができず打ち上げ失敗<ref name="joins119662">{{Cite web|和書|date=26 Aug 2009 |url=http://japanese.joins.com/article/662/119662.html |title=「羅老」打ち上げ、人工衛星が正常軌道に乗らず失敗 |publisher=[[中央日報]] |accessdate=6 Jul 2023}}</ref>。 * [[2012年]] - [[ボイジャー1号]]が[[太陽]]から約190億kmの地点で[[太陽圏]]を離脱。太陽圏を離脱した初めての人工物となる<ref>{{Cite web|和書|date=13 Sep 2013 |url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35037181.html |title=ボイジャー1号が太陽系圏を脱出 人工物で初 - (1/2) |publisher=CNN.co.jp |accessdate=6 Jul 2023}}</ref>。 * [[2017年]] - [[ミャンマー]]、[[ラカイン州]]で[[アラカン・ロヒンギャ救世軍]]が治安施設を襲撃<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/41070480 |title=ミャンマーの少数民族ロヒンギャ、衝突受け多数が隣国に避難 |access-date=6 Jul 2023 |publisher=[[BBC]] |date=28 Aug 2017 |website=BBC NEWS JAPAN}}</ref>。 * [[2020年]] - [[ジャパンサーチ]]が正式公開。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} <!-- 画像がセクションの境界を大きくはみ出す時に、セクションの境目を示すセパレータです --><!-- 日付に本質的な意味のある「できごと」の図版を優先的に紹介するためスペースを融通させています。{{-}}などとは役割が違いますので置き換えないでください。 --> {{multiple image | image1 = Ivan_grozny_frame.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[モスクワ・ロシア]]の初代[[ツァーリ]]、「雷帝」[[イヴァン4世]](1530-1584)誕生 | image2 = Saint_Just.jpg | width2 = 80 | caption2 = [[フランス革命]]期の政治家、[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト]](1767-1794) }} {{multiple image | image1 = Herder_by_K%C3%BCgelgen.jpg | width1 = 90 | caption1 = 哲学者・詩人、[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]](1744-1803) | image2 = Allan_Pinkerton-retouch.jpg | width2 = 80 | caption2 = 探偵[[アラン・ピンカートン]](1819-1884) }} {{multiple image | image1 = Ludwig I. von Bayern around 1830.jpg | width1 = 90 | caption1 = バイエルン王[[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]](1786-1868) | image2 = Ludwig_II_in_Uniform%3B_Bavaria_Rex.jpg | width2 = 90 | caption2 = バイエルン王「狂王」[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]](1845-1886) }} {{multiple image | image1 = Emil_Theodor_Kocher.jpg | width1 = 100 | caption1 = 医学者[[エーミール・テオドール・コッハー]](1841-1917)。[[甲状腺]]を研究 | image2 = MaximKontsevich.jpg | width2 = 80 | caption2 = 数学者[[マキシム・コンツェビッチ]](1964-) }} {{multiple image | image2 = Bundesarchiv_Bild_183-R0518-182%2C_Erich_Honecker.jpg | width2 = 90 | caption2 = 東ドイツの指導者、[[エーリッヒ・ホーネッカー]](1912-1994) | image1 = Leonard_Bernstein_Allan_Warren.jpg | width1 = 90 | caption1 = 指揮者[[レナード・バーンスタイン]](1918-1990) }} {{multiple image | image1 = Wayne_Shorter.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[ジャズ]]サックス奏者、[[ウェイン・ショーター]](1933-) | image2 = Mali_Salif_Keita2_400.jpg | width2 = 80 | caption2 = [[アルビノ]]のシンガーソングライター、[[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]](1949-) }} * [[1530年]] - [[イヴァン4世]](イヴァン雷帝)<ref>{{Cite web |title=Ivan the Terrible {{!}} Biography, Accomplishments, & Facts |url=https://www.britannica.com/biography/Ivan-the-Terrible |access-date=9 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[モスクワ大公国]]の[[ツァーリ]](+ [[1584年]]) * [[1561年]] - [[フィリッペ・ファン・ランスベルゲ]]、[[天文学者]](+ [[1632年]]) * [[1707年]] - [[ルイス1世 (スペイン王)|ルイス1世]]、[[スペイン|スペイン王]](+ [[1724年]]) * [[1722年]]([[享保]]7年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]])- [[板倉勝興]]、第3代[[庭瀬藩]]主(+ [[1796年]]) * [[1724年]] - [[ジョージ・スタッブス]]、[[画家]](+ [[1806年]]) * [[1744年]] - [[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]、[[哲学|哲学者]]・[[詩人]](+ [[1803年]]) * [[1753年]]([[宝暦]]3年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]])- [[一柳頼欽]]、第6代[[小松藩]]主(+ [[1796年]]) * [[1761年]](宝暦11年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]])- [[板倉勝長]]、第8代[[福島藩]]主(+ [[1815年]]) * [[1767年]] - [[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト]]、[[フランス革命]]の指導者(+ [[1794年]]) * [[1768年]] - [[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]、[[バイエルン王国|バイエルン王]](+ [[1868年]]) * [[1775年]]([[安永 (元号)|安永]]4年[[7月30日 (旧暦)|7月30日]])- [[松前章広]]、第9代[[松前藩]]主(+ [[1833年]]) * [[1818年]] - [[トーマス・ウェード]]、[[外交官]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1895年]]) * [[1819年]] - [[アラン・ピンカートン|アラン・ビンカートン]]、私立探偵 * [[1841年]] - [[エーミール・テオドール・コッハー]]、[[医学者]](+ [[1917年]]) * [[1843年]] - [[井上勝]]、[[武士]]、[[政治家]](+ [[1910年]]) * 1843年([[天保]]14年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]])- [[内藤政敏]]、第12代[[湯長谷藩]]主(+ [[1863年]]) * [[1845年]] - [[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]、バイエルン王(+ [[1886年]]) * [[1850年]] - [[パーヴェル・アクセリロード]]([[思想|思想家]])(+ [[1928年]]) * [[1868年]] - [[山田美妙]]、[[作家]](+ [[1910年]]) * [[1869年]] - [[トム・カイリー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1951年]]) * [[1892年]] - [[藤田亮策]]、[[考古学者]](+ [[1960年]]) * [[1894年]] - [[アルフレート・ベルガー]]、[[フィギュアスケート]][[アスリート|選手]](+ [[1966年]]) * [[1896年]] - [[渋沢敬三]]、第16代[[日本銀行]]総裁、[[実業家]]、[[民俗学者]](+ [[1963年]]) * 1896年 - [[三田村四郎]]、[[労働運動家]]、戦前の[[日本共産党]][[幹部]](+ [[1964年]]) * [[1899年]] - [[ガイ・バトラー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1981年]]) * [[1900年]] - [[ハンス・クレブス]]、[[化学者]](+ 1981年) * 1900年 - [[石川恒太郎]]、[[歴史家]](+ [[1990年]]) * [[1902年]] - [[菊池正士]]、[[物理学者]](+ [[1974年]]) * 1902年 - [[シュテファン・ヴォルペ]]、[[作曲家]](+ [[1972年]]) * [[1906年]] - [[森清 (図書館学)|森清]]、[[図書館]][[司書]]、[[日本十進分類法]]の生みの親(+ [[1990年]]) * [[1909年]] - [[アイリーン・ヒスコック]]、陸上競技選手(+ [[1958年]]) * [[1910年]] - [[水木洋子]]、[[脚本家]](+ [[2003年]]) * 1910年 - [[ドロテア・タニング]]、画家(+ [[2012年]]) * [[1911年]] - [[ビビ=アンネ・フルテン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2003年]]) * 1911年 - [[ヴォー・グエン・ザップ]]、軍人、政治家(+ [[2013年]]) * [[1912年]] - [[福田恆存]]、[[文芸評論家]]、[[劇作家]]、[[イギリス文学者|英文学者]](+ [[1994年]]) * 1912年 - [[村上三島]]、[[書家]](+ [[2005年]]) * 1912年 - [[エーリッヒ・ホーネッカー]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]国家評議会議長(+ [[1994年]]) * [[1913年]] - [[徳永正利]]、政治家(+ [[1990年]]) * [[1914年]] - [[笠置シヅ子]]、[[歌手]](+ [[1985年]]) * [[1916年]] - [[フレデリック・チャップマン・ロビンス]]、医学者(+ [[2003年]]) * [[1917年]] - [[メル・ファーラー]]、[[俳優]](+ [[2008年]]) * [[1918年]] - [[レナード・バーンスタイン]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](+ [[1990年]]) * [[1919年]] - [[葛原繁]]、[[歌人]](+ [[1993年]]) * 1919年 - [[エルンスト・バルクマン]]、[[武装親衛隊]]の曹長(+ [[2009年]]) * 1919年 - [[ジョージ・ウォレス]]、[[アラバマ州知事]](+ [[1998年]]) * [[1920年]] - [[三好豊一郎]]、[[詩人]](+ [[1992年]]) * 1920年 - [[政野岩夫]]、[[プロ野球選手]](+ [[1944年]]) * [[1921年]] - モンティ・ホール、クイズ司会者(+ [[2017年]]) * [[1922年]] - [[山川武範]]、元プロ野球選手(+ [[1981年]]) * 1922年 - [[イヴリー・ギトリス]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2020年]]) * [[1924年]] - [[増村保造]]、[[映画監督]](+ [[1986年]]) * 1924年 - [[宮下信明]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * [[1925年]] - [[荻昌弘]]、[[映画評論家]](+ [[1988年]]) * [[1927年]] - [[久武綾子]]、[[日本史]]学者 * [[1928年]] - [[三條美紀]]、[[俳優|女優]](+ [[2015年]]) * 1928年 - [[ハーバート・クレーマー]]、物理学者 * [[1930年]] - [[ショーン・コネリー]]、[[俳優]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=初代「007」俳優サー・ショーン・コネリー死去 90歳 |url=https://www.bbc.com/japanese/54762246 |website=[[BBC]] NEWS JAPAN |access-date=9 Jul 2023 |date=31 Oct 2020}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.washingtonpost.com/local/obituaries/sean-connery-first-james-bond-of-film-dies-at-90/2020/10/31/6cbff0a6-1b75-11eb-82db-60b15c874105_story.html |title=Sean Connery, who brought James Bond to life on film, dies at 90 |publisher=The Washington Post |date=31 Oct 2020 |accessdate=9 Jul 2023}}</ref>) * [[1931年]] - [[山村美紗]]、[[小説家]](+ [[1996年]]) * [[1933年]] - [[ウェイン・ショーター]]、ジャズサクソフォーン奏者、作曲家(+ [[2023年]]) * [[1935年]] - [[田宮二郎]]、俳優(+ [[1978年]]) * 1935年 - [[大井光雄]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[石原健太郎]]、政治家(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S14541114.html |title=石原健太郎さん死去 |access-date=9 Jul 2023 |publisher=[[朝日新聞]]デジタル |date=8 Jul 2020}}</ref>) * [[1938年]] - [[フレデリック・フォーサイス]]、小説家 * [[1939年]] - [[ジョン・バダム]]、映画監督 * 1939年 - [[島田源太郎]]、元プロ野球選手 * 1939年 - [[橘家文蔵 (2代目)|橘家文蔵]]、[[落語家]](+ [[2001年]]) * 1939年 - [[コシノジュンコ]]、[[ファッションデザイナー]] * [[1940年]] - [[木内貴史]]、元[[バスケットボール選手]] * [[1941年]] - [[松丸国照]]、地質学者 * [[1942年]] - [[井上勝巳]]、元プロ野球選手 * 1942年 - [[溝口舜亮]]、俳優(+[[2016年]]) * [[1943年]] - [[林美雄]]、[[アナウンサー]](+ [[2002年]]) * 1943年 - [[光本幸子]]、女優(+ [[2013年]]) * [[1946年]] - [[西田憲正]]、[[実業家]]、[[東横イン]]創業者 * [[1948年]] - [[きたろう]]、[[タレント]]([[シティボーイズ]]) * [[1949年]] - [[多田しげお]]、[[アナウンサー]] * 1949年 - [[ジーン・シモンズ (ミュージシャン)|ジーン・シモンズ]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[キッス]]) * 1949年 - [[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]]、シンガーソングライター * [[1950年]] - [[ライナー・キュッヒル]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1951年]] - [[沢木郁也]]、[[声優]] * 1951年 - [[ロブ・ハルフォード]]、ミュージシャン([[ジューダス・プリースト]]) * [[1952年]] - [[三原渡]]、元アナウンサー * 1952年 - [[白山宣之]]、[[漫画家]](+ [[2012年]]) * 1952年 - [[渡辺進]]、元プロ野球選手 * 1952年 - [[ジェフ・ダウンズ]]、ミュージシャン * [[1953年]] - [[川島宏治]]、元アナウンサー * [[1954年]] - [[エルヴィス・コステロ]]、ミュージシャン * [[1955年]] - [[松澤一之]]、俳優 * 1955年 - [[ジョン・マッギオーク]]、ミュージシャン(+ [[2004年]]) * [[1956年]] - [[岡田武史]]、元サッカー選手、指導者 * 1956年 - [[ヘンリ・トイヴォネン]]、[[ラリー]]ドライバー(+ [[1986年]]) * [[1958年]] - [[ティム・バートン]]、[[映画監督]] * 1958年 - [[岩井三四二]]、[[小説家]] * [[1959年]] - [[佐藤恒治 (俳優)|佐藤恒治]]、俳優 * [[1960年]] - [[アルバート・ベル]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[田中宏幸 (ベーシスト)|田中宏幸]]、[[ベーシスト]](+ [[2006年]]) * [[1961年]] - [[大越健介]]、ジャーナリスト * [[1962年]] - [[横須賀よしみ|横須賀昌美]]、歌手、女優 * [[1963年]] - [[池頼広]]、作曲家 * 1963年 - [[平野洋一郎]]、実業家 * [[1964年]] - [[マキシム・コンツェビッチ]]、[[数学者]] * [[1965年]] - [[片山修]]、[[テレビディレクター]]、映画監督 * 1965年 - [[板倉賢司]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[森昌彦]]、元野球選手 * [[1966年]] - [[マービン・レノアー]]、ミュージシャン * [[1967年]] - [[高部知子]]、元[[タレント]] * 1967年 - [[檜山修之]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/檜山修之/#person-110024644 |title=檜山修之 |access-date=9 Jul 2023 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |website=goo 人名事典}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=声優名鑑|page=598|publisher=[[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-00878-3|date=1999-7}}</ref>、[[声優]] * [[1968年]] - [[上田剛士]]、ミュージシャン([[THE MAD CAPSULE MARKETS]]) * 1968年 - [[三井ゆり]]、タレント * [[1969年]] - [[楠田敏之]]、声優 * [[1970年]] - [[石井琢朗]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[速水昌未]]、元歌手、元女優 * 1970年 - [[クラウディア・シファー]]、[[スーパーモデル]] * 1970年 - [[郝海東]]、元サッカー選手 * [[1971年]] - [[東野純直]]、ミュージシャン * 1971年 - [[石井貴]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[マイケル・チャック]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1972年]] - [[本間満]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[アンディ・エイバッド]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[山内康一]]、政治家 * 1973年 - [[路木龍次]]、元[[サッカー選手]] * 1973年 - [[渡辺英雄]]、声優 * [[1974年]] - [[大島衣恵]]、[[能楽師]] * 1974年 - [[ゲイリー・マシューズ・ジュニア]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[国井律子]]、[[随筆家|エッセイスト]] * [[1975年]] - [[ペトリア・トーマス]]、競泳選手 * 1975年 - [[林田堅吾]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[福岡幸治]]、元ラグビー選手 * [[1976年]] - [[ペドロ・フェリシアーノ]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]]) * 1976年 - 大嶽香子、ミュージシャン([[ナチュラル ハイ]]) * [[1977年]] - [[浅野真澄]]、声優 * 1977年 - [[琴春日桂吾]]、元[[大相撲]][[力士]] * 1977年 - [[アルベルト・アコスタ (野球)|アルベルト・アコスタ]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[ジャーシム・ビン・ハマド・アール=サーニー]]、[[カタール]]の[[廃太子]] * [[1979年]] - [[和田正人]]、俳優 * 1979年 - [[川口知哉]]、元プロ野球選手 * [[1980年]] - [[北川賢一]]、ミュージシャン * [[1981年]] - [[石塚久也]]、競艇選手 * 1981年 - [[倉田麗華]]、政治家、練馬区議会議員 * 1981年 - [[濱津隆之]]、俳優 * 1981年 - [[渡辺大剛 (冒険家)|渡辺大剛]]、冒険家、登山家(+ [[2012年]]) * [[1982年]] - [[荒木健太朗]]、俳優 * 1982年 - [[江添建次郎]]、元サッカー選手 * [[1983年]] - [[松原渓]]、[[スポーツライター]]、元[[グラビアアイドル]] * 1983年 - [[阿夢露光大]]、元大相撲力士 * 1983年 - [[大堀恵]]、タレント(元[[SDN48]]) * 1983年 - [[中林佑輔]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[海川ひとみ]]、元グラビアアイドル * 1984年 - [[小川佳純]]、サッカー選手 * 1984年 - [[森花子]]、NHKアナウンサー * 1984年 - [[伊藤ゆみ]]、女優、歌手 * [[1985年]] - [[中野友加里]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * 1985年 - [[三谷哲也]]、囲碁棋士 * [[1986年]] - [[カリアン・サムス]]、プロ野球選手 * 1986年 - [[カン・イソク]]、人権活動家、反戦平和運動家 * [[1987年]] - [[ジャスティン・アップトン]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[エイミー・マクドナルド]]、シンガーソングライター * 1987年 - [[MADOKA]]、タレント、歌手 * 1987年 - [[ローガン・モリソン]]、プロ野球選手 * 1987年 - [[ブレイク・ライブリー]]、女優 * 1987年 - [[劉亦菲]]、女優、歌手 * 1987年 - [[アダム・ウォーレン (野球)|アダム・ウォーレン]]、プロ野球選手 * [[1988年]] - [[長沢駿]]、[[サッカー選手]] * 1988年 - [[舘谷恵利子]]、ファッションモデル * 1988年 - Maika、ミュージシャン([[Mi (バンド)|Mi]]) * 1988年 - [[ダイアナ・ガーネット]]、歌手 * 1988年 - [[ファン・グァンヒ]]、アイドル、タレント([[ZE:A]]) * [[1990年]] - [[錦木徹也]]、大相撲力士 * 1990年 - [[緒方凌介]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[神咲詩織]]、タレント、元[[AV女優]] * [[1991年]] - [[多田瑞穂]]、元グラビアアイドル * 1991年 - [[駒形友梨]]、声優 * [[1992年]] - [[夏焼雅]]、歌手([[PINK CRES.]]) * 1992年 - [[高塚智人]]、声優 * 1992年 - [[リカルド・イヴァン・ロドリゲス・アラジャ|リカルド・ロドリゲス]]、サッカー選手 * 1992年 - [[櫻井飛夏]]、元グラビアアイドル * 1992年 - 前田裕太、お笑いタレント([[ティモンディ]]) * 1992年 - [[荒西祐大]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - [[相内奈津]]、元グラビアアイドル * [[1995年]] - [[オン・ソンウ]]、アイドル、俳優(元[[Wanna One]]) * 1995年 - ユン・ドウン、ミュージシャン([[DAY6]]) * [[1996年]] - [[渋谷凪咲]]、アイドル([[NMB48]]) * 1996年 - タン、アイドル(Ciipher) * 1996年 - [[石橋尚也]]、ラグビー選手 * [[1997年]] - [[中村あやの]]、元タレント * 1997年 - [[町田浩樹]]、 サッカー選手 * 1997年 - [[森下暢仁]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[ケイティ・オーメロッド]]、スノーボード選手 * [[1998年]] - [[榊原翼]]、プロ野球選手 * 1998年 - 堺萌香、アイドル([[HKT48]]) * 1998年 - [[喜多隆介]]、プロ野球選手 * 1998年 - [[安藤令奈]]、タレント * [[2000年]] - [[竹内夏紀]]、アイドル(元[[つりビット]]) * 2000年 - [[桃果]]、ファッションモデル * [[2001年]] - [[宮城大弥]]、プロ野球選手 * 2001年 - JEROME、アイドル([[TO1]]) * [[2007年]] - [[風見和香]]、アイドル([[私立恵比寿中学]]) * [[2008年]] - [[土屋希乃]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hirata-office.jp/talent_profile/hirata_beans/girl/kino_tsuchiya.html |title=土屋希乃 |publisher=ヒラタオフィス |accessdate=9 Jul 2023}}</ref>、[[子役]] * 生年不明 - [[朝比奈優樹]]、声優 * 生年不明 - [[石橋美佳]]、声優 * 生年不明 - [[田嶌紗蘭]]、声優 * 生年不明 - [[中条智世]]、声優、女優、歌手 == 忌日 == {{multiple image | caption1 = フランス王「聖王(サン=ルイ)」[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](1214-1270)没 | image1 = Louis_IX.jpg | width1 = 60 | image2 = Outa_Doukan.jpg | width2 = 60 | caption2 = 戦国武将[[太田道灌]](1432-1486)没。[[江戸城]]を築城 | image3 = Sozenji_%28Higashiyodogawa%2C_Osaka%29_Hosokawa_Gracia_haka.jpg | width3 = 60 | caption3 = [[細川忠興]]の正室[[細川ガラシャ]](1563-1600)自害。 }} {{multiple image | image1 = Morgan%2CHenry.jpg | width1 = 90 | caption1 = [[カリブ海]]の海賊、[[ヘンリー・モーガン]](1635-1688)病没 | image2 = David_Hume_1754.jpeg | width2 = 90 | caption2 = [[経験論]]の哲学者、[[デイヴィッド・ヒューム]](1711-1776)没 }} {{multiple image | image1 = Nietzsche_Olde_02.JPG | width1 = 90 | caption1 = 哲学者[[フリードリヒ・ニーチェ]](1844-1900)、狂気のうちに没 | image2 = William_Herschel01.jpg | width2 = 90 | caption2 = 天文学者[[ウィリアム・ハーシェル]](1738-1822)没。[[天王星]]を発見 }} {{multiple image | image1 = Michael-faraday3.jpg | width1 = 90 | caption1 = 化学者・物理学者、[[マイケル・ファラデー]](1791-1867)没 | image2 = Paul Nadar - Henri Becquerel.jpg | width2 = 90 | caption2 = 物理学者[[アンリ・ベクレル]](1852-1908)没。[[放射線]] を発見。 }} {{multiple image | footer = 画家[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]](1836-1904)没。左画像は自画像(1859)、右は静物画(1872) | image1 = Henri_Fantin-Latour_001.jpg | width1 = 80 | alt1 = 自画像 | image2 = Fantin_Latour_Vase_of_Hawthorn_Bowl_of_Cherries_Japanese_Bowl_Cup_Saucer.jpg | width2 = 100 | alt2 = 『サンザシの花瓶、サクランボの鉢、日本のお椀、カップと皿のある静物画』 }} {{multiple image | footer = 建築構造家[[内藤多仲]](1886-1970)没。左画像は「[[東京タワー]]」(1958)、右は「2代目[[通天閣]]」(1956) | image1 = Tokyo_Tower_20060211.JPG | width1 = 110 | alt1 = 東京タワー | image2 = Tsutenkaku_tower.jpg | width2 = 70 | alt2 = 通天閣 }} [[Image:TrumanCapote1959.jpg|thumb|90px|作家[[トルーマン・カポーティ]](1924-1984)没]] * [[383年]] - [[グラティアヌス]]、[[ローマ皇帝]](* [[359年]]) * [[1192年]] - [[ユーグ3世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ3世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1142年]]) * [[1270年]] - [[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]<ref>{{Cite web |title=Louis IX {{!}} King of France, Crusader, Saint |url=https://www.britannica.com/biography/Louis-IX |access-date=9 Jul 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[フランス君主一覧|フランス国王]](* [[1214年]]) * [[1333年]] - [[ムハンマド4世 (ナスル朝)|ムハンマド4世]]、[[ナスル朝]][[スルターン]](* [[1315年]]) * [[1482年]] - [[マーガレット・オブ・アンジュー|マーガレット]]、[[イングランド王国|イングランド王]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の妃(* [[1429年]]) * [[1486年]]([[文明 (日本)|文明]]18年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[太田道灌]]、[[室町時代]]の[[武将]]、[[江戸城]]の築城者(* [[1432年]]) * [[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[井上元兼]]、[[武将|戦国武将]](* [[1486年]]) * [[1592年]]([[天正]]20年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]) - [[島津歳久]]、戦国武将(* [[1537年]]) * [[1600年]]([[慶長]]5年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[細川ガラシャ|細川玉(洗礼名:ガラシャ)]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/825 |title=8月25日は明智玉(細川ガラシャ)の命日 |access-date=9 Jul 2023 |publisher=[[同志社女子大学]] |date=17 Aug 2020}}</ref>、[[細川忠興]]の正室、[[明智光秀]]の娘(* [[1563年]]) * 1600年(慶長5年7月17日) - [[中村一氏]]、戦国武将 * [[1662年]]([[寛文]]2年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]) - [[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]、[[江戸幕府]][[大老]]、[[小浜藩|小浜藩主]](* [[1587年]]) * [[1688年]] - [[ヘンリー・モーガン]]、[[カリブ海]]の[[海賊]](* [[1635年]]) * [[1699年]] - [[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1646年]]) * [[1742年]] - [[カルロス・セイシャス]]、[[作曲家]](* [[1704年]]) * [[1774年]] - [[ニコロ・ヨンメッリ]]、作曲家(* [[1714年]]) * [[1776年]] - [[デイヴィッド・ヒューム]]、[[哲学|哲学者]](* [[1711年]]) * [[1805年]] - [[ウィリアム・ヘンリー (グロスター=エディンバラ公)|ウィリアム・ヘンリー]]、[[イギリス]]の王族(* [[1743年]]) * [[1822年]] - [[ウィリアム・ハーシェル]]、[[天文学者]](* [[1738年]]) * [[1840年]] - [[カール・インマーマン]]、[[小説家]](* [[1796年]]) * [[1867年]] - [[マイケル・ファラデー]]、[[物理学者]](* [[1791年]]) * [[1882年]] - [[フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト]]、[[作家]](* [[1803年]]) * [[1900年]] - [[フリードリヒ・ニーチェ]]、哲学者(* [[1844年]]) * [[1904年]] - [[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[画家]]、[[版画家]](* [[1836年]]) * [[1908年]] - [[アンリ・ベクレル]]、[[物理学者]](* [[1852年]]) * [[1910年]] - [[梅謙次郎]]、法学者(* [[1860年]]) * [[1913年]] - [[田波御白]]、[[歌人]](* [[1885年]]) * [[1919年]] - [[ヴィクトール・クノール]]、天文学者(* [[1840年]]) * [[1925年]] - [[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]軍の参謀総長(* [[1852年]]) * [[1936年]] - [[レフ・カーメネフ]]、[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦共産党|共産党]]幹部(* [[1883年]]) * 1936年 - [[グリゴリー・ジノヴィエフ]]、ソビエト連邦の共産党幹部(* 1883年) * [[1942年]] - [[ジョージ (ケント公)|ジョージ]]、[[ケント公]](* [[1902年]]) * [[1946年]] - [[アルノルト・ロゼ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1863年]]) * [[1955年]] - [[北沢楽天]]、[[漫画家]]、[[日本画家]](* [[1876年]]) * [[1956年]] - [[アルフレッド・キンゼイ]]、[[性科学|性科学者]](* [[1894年]]) * [[1958年]] - [[レオ・ブレッヒ]]、[[指揮者]](* [[1871年]]) * [[1964年]] - [[三遊亭圓歌 (2代目)|2代目三遊亭圓歌]]、[[落語家]](* [[1890年]]) * 1964年 - [[八田尚之]]、[[脚本家]](* [[1905年]]) * [[1967年]] - [[ポール・ムニ]]、[[俳優]](* [[1895年]]) * [[1969年]] - [[ハリー・ハモンド・ヘス]]、[[海洋科学者]](* [[1906年]]) * [[1970年]] - [[内藤多仲]]、[[建築家]](* [[1886年]]) * [[1973年]] - [[倉金章介]]、[[漫画家]](* [[1914年]]) * 1973年 - [[緒方知三郎]]、[[病理学]]者(* [[1883年]]) * [[1976年]] - [[エイヴィンド・ユーンソン]]、[[小説家]](* [[1900年]]) * [[1979年]] - [[朝比奈宗源]]、[[臨済宗]]の[[僧侶]](* [[1891年]]) * [[1984年]] - [[トルーマン・カポーティ]]、小説家(* [[1924年]]) * 1984年 - [[ウェイト・ホイト]]、元プロ野球選手(* [[1899年]]) * 1984年 - [[田畑政治]]、[[教育者]]、[[新聞記者]]、[[水泳]]指導者(* [[1898年]]) * [[1985年]] - [[サマンサ・スミス]]、[[アメリカ合衆国|米]]最年少の[[親善大使]](* [[1972年]]) * [[1990年]] - [[滝田ゆう]]、漫画家(* [[1932年]]) * [[1991年]] - [[松前重義]]、[[東海大学]]創設者、[[日本社会党]][[衆議院議員]]、[[科学者]](* [[1901年]]) * 1991年 - [[芝木好子]]、小説家(* [[1914年]]) * [[1993年]] - [[平川唯一]]、[[アナウンサー]](* [[1902年]]) * [[1995年]] - [[雍仁親王妃勢津子]]、[[皇族]]、[[秩父宮雍仁親王]]の妃(* [[1909年]]) * [[1997年]] - [[永田耕衣]]、[[俳人]](* [[1900年]]) * [[1998年]] - [[工藤巌]]、[[岩手県知事一覧|岩手県知事]](* [[1921年]]) * [[1999年]] - カルロス・エルナイティング、冷戦時のパラグアイ農牧大臣(* [[1899年]]) * [[2001年]] - [[アリーヤ]]、[[歌手]](* [[1979年]]) * 2001年 - [[松尾銀三]]、[[声優]](* [[1951年]]) * [[2005年]] - [[レイハン]]、[[ポップ・フォーク]]歌手(* [[1986年]]) * [[2006年]] - [[高木東六]]、[[作曲家]](* [[1904年]]) * [[2007年]] - [[レイモン・バール]]、元[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1924年]]) * 2007年 - [[渡辺秀武]]、元[[プロ野球選手]](* [[1941年]]) * [[2008年]] - [[ペール・ヘンリク・ノルドグレン]]、作曲家(* [[1944年]]) * 2008年 - [[深浦加奈子]]、女優(* [[1960年]]) * [[2009年]] - [[上山善紀]]、[[実業家]](* [[1914年]]) * 2009年 - [[細川隆一郎]]、[[政治]][[評論家]]・元[[毎日新聞]]編集局顧問(* [[1919年]]) * 2009年 - [[エドワード・ケネディ]]、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ合衆国上院議員]](* [[1932年]]) * [[2012年]] - [[ニール・アームストロング]]、[[宇宙飛行士]](* [[1930年]]) * 2016年 - [[ポール・デード|ロナルド・ポール・デード]]、元プロ野球選手 (* [[1951年]]) * [[2018年]] - [[麻生美代子]]、[[声優]](* [[1926年]]) * [[2020年]] - [[梅野泰靖]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63304840R00C20A9CC1000/ |title=梅野泰靖氏が死去 俳優 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=1 Sep 2020 |accessdate=9 Jul 2023}}</ref><ref name="oricon20200901">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2170908/full/ |title=俳優の梅野泰靖さん死去 87歳 三谷作品『ラヂオの時間』など出演 |website=[[ORICON NEWS]] |date=1 Sep 2020 |accessdate=9 Jul 2023}}</ref>、俳優(* [[1933年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == {{multiple image | footer = [[ウルグアイ]]の独立記念日(1825年独立) | image1 = Uruguay_%28orthographic_projection%29.svg | width1 = 80 | caption1 = ウルグアイの位置 | image3 = Playa_Pocitos.jpg | width3 = 100 | caption3 = 首都[[モンテビデオ]] }} {{multiple image | footer = [[東京国際空港|羽田飛行場]]開港(1931)。左画像は1933年 | image1 = Aircraft overfly Haneda Airfield c1930.png | width1 = 90 | alt1 = 1930年の羽田 | image2 = Tokyo_International_Airport_Terminal_2.jpg | width2 = 90 | alt2 = 現代のターミナル }} *[[独立記念日]]({{URU}}) *: [[1825年]]8月25日にウルグアイがブラジルから分離独立した。 *川柳発祥の日({{JPN}}) *: [[宝暦]]7年([[1757年]])旧暦[[8月25日 (旧暦)|旧暦8月25日]]に[[柄井川柳]]が最初の[[川柳]]評万句合を開始したことを記念し、川柳学会が制定。 *[[東京国際空港]]開港記念日({{JPN}}) *: [[1931年]]のこの日、羽田に東京飛行場(現在の東京国際空港、通称 羽田空港)が開港した。 *[[チキンラーメン]]誕生の日・[[インスタントラーメン|即席ラーメン]]記念日({{JPN}}) *: [[1958年]]8月25日に、[[日清食品]]が世界初の即席ラーメンである「チキンラーメン」の発売を開始したことに由来し、日清食品が制定。 {{Clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0825|date=Jul 2023}} * [[2019年]] - アナザーディケイドとの戦闘で明光院ゲイツ、並びにツクヨミが死亡。これに激怒した常磐ソウゴはオーマジオウとなり、アナザーディケイドを撃破。オーマジオウの能力である時空を破壊する力を用いて世界をリセットし、本来の仮面ライダージオウの歴史とは異なる[[2018年]][[9月]]へと書き換える<ref>{{Cite news|title= LAST「2019:アポカリプス」 |newspaper=仮面ライダージオウ|date=25 Aug 2019|url= https://www.tv-asahi.co.jp/zi-o/story/?49 |accessdate=9 Jul 2023}}</ref>(テレビドラマ『[[仮面ライダージオウ]]』)。 === 誕生日(フィクション) === * [[コズミック・イラ|C.E.]]55年 - [[カズイ・バスカーク]]、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=ガンダムエース編集部|authorlink=ガンダムエース|year = 2004 |title = ガンダムSEED占い |publisher = [[角川書店]] |isbn = 978-4-04-853746-9 }}</ref> * [[1982年]] - 磯崎泉、漫画・アニメ『[[I"s]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=I“S 9巻 第75話 それどころじゃない!|date=1999-03-09|publisher=[[集英社]]|page=34|author=桂 正和|isbn=4-08-872681-2}}</ref> * [[1985年]] - 志野リュウジ、小説『[[龍時]]』の主人公<ref>『龍時(リュウジ)01─02』『龍時(リュウジ)02─03』『龍時(リュウジ)03─04』[[文藝春秋]]</ref> * [[2050年]] - マシュラ、アニメ『[[マシュランボー]]』の主人公 * 2183年 - セイジュ・ウライ、ゲーム『LIVE×EVIL 〜灼熱のエデマ〜』に登場するキャラクター * 宇宙暦6979年 - ユリコ・スター、小説・アニメ『[[無責任艦長タイラー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 一ノ瀬双葉、漫画・アニメ『[[それが声優!]]』の主人公<ref>{{Twitter status|soresei_anime|1033021107039653888}}</ref> * 生年不明 - 高山春香、漫画・アニメ『[[桜Trick]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=タチ|authorlink=タチ (漫画家)|title=桜Trick|volume=1巻|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムきらら#まんがタイムKRコミックス|まんがタイムKRコミックス]]|year=2012|page=2|ISBN=978-4-8322-4187-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=まんがタイムきらら編集部|editor-link=まんがタイムきらら|title=桜Trick TVアニメ公式ガイドブック 〜ヒミツのシラバス〜|publisher=芳文社|series=まんがタイムKRコミックス|year=2014|page=14|ISBN=978-4-8322-4438-2}}</ref> * 生年不明 - 友江淳、ゲーム『[[ENSEMBLE 〜舞降る羽のアンサンブル〜]]』北海道編の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://fandc.co.jp/dreamsoft/ensemble/cha_sunao.htm |title=友江 淳 |access-date=9 Jul 2023 |publisher=F&C FC03 |work=『ENSEMBLE 〜舞降る羽のアンサンブル〜』}}</ref> * 生年不明 - 伊東椿月、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://onsen-musume.jp/character/ito_tsubaki |title=静岡 伊東椿月 |work=『温泉むすめ』 |accessdate= 9 Jul 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - 道後泉海、『温泉むすめ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://onsen-musume.jp/character/dogo_izumi |title=愛媛 道後泉海 |work=『温泉むすめ』 |accessdate=9 Jul 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - [[ラーメンマン]]、漫画『[[キン肉マン]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2017/03/05/81099/ |title=『キン肉マン』最新58巻の特別付録「平成29(肉)年度カレンダー」に秘められた超人たちの細かすぎるネタとは? |work=週プレNEWS |publisher=[[週刊プレイボーイ]] |accessdate= 9 Jul 2023}}</ref> * 生年不明 - [[聖闘士星矢の登場人物#アテナ軍の関係者|エスメラルダ]]、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=110 |title=エスメラルダ |access-date= 9 Jul 2023 |website=MUSEUM聖闘士博物館 |work=『聖闘士星矢』 |publisher=[[車田正美]]}}</ref><ref>{{Twitter status|saintseiya_rc|1562454690595487744}}</ref> * 生年不明 - 翠、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1562635964274855936}}</ref> * 生年不明 - エドラド・リオネス、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-bleach.com/chara/03/edrad.html |title=エドラド・リオネス |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=[[久保帯人]] / [[集英社]] |website=『BLEACH』}}</ref> * 生年不明 - バブルス王女、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 幾松、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#霧崎恭子|霧崎恭子]]、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year = 2011 |title = To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|page = 84 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874852-8 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year = 2014 |title = To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page = 104 |publisher = [[集英社]] |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-880260-2 }}</ref> * 生年不明 - 伊賦夜経一、漫画『[[保健室の死神]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 村松拓哉、漫画・アニメ『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ユンファ・ルー、漫画・アニメ『[[彼方のアストラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://astra-anime.com/character/ |title=CHARACTER ユンファ・ルー |access-date=2023-01-11 |publisher=[[篠原健太]]/[[集英社]]・彼方のアストラ製作委員会 |work=『彼方のアストラ』}}</ref> * 生年不明 - 荒谷寛、漫画・アニメ『[[ベイビーステップ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 大森夏奈子、漫画『[[エデンの檻]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 岩木くん、漫画・アニメ『[[あたしンち]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 香織、漫画・『[[ストレンジ・プラス]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 椿エリカ、漫画『[[ヤスコとケンジ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ベラルーシ、漫画・アニメ『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=AXIS POWERS ヘタリア2|date=2008-12-31|publisher=[[幻冬舎]]|page=18|author=[[日丸屋秀和]]}}</ref> * 生年不明 - 鳳源一郎、漫画『[[わらってヒミコさん]]に登場するキャラクター * 生年不明 - 鳳艶子、漫画『わらってヒミコさん』に登場するキャラクター * 生年不明 - 森林檎、漫画『[[四姉妹エンカウント]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 香蘭、小説・アニメ『[[火魅子伝]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 新堂愛、小説・アニメ『[[境界の彼方]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://tv.anime-kyokai.com/character/ai/ |title=新藤愛 |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=[[鳥居なごむ]]・[[京都アニメーション]]/境界の彼方製作委員会 |work=『境界の彼方』}}</ref> * 生年不明 - 西園寺莢一、アニメ『[[少女革命ウテナ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 御芍神紫、アニメ『[[K (アニメ)|K]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://k-project-come-back.jpn.com/character/ |title=CHARACTER 御芍神 紫 |access-date= 9 Jul 2023 |work=『K RETURN OF KINGS』 |publisher=GoRA×GoHands}}</ref> * 生年不明 - ナイト、アニメ『[[牙狼-GARO- -VANISHING LINE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://garo-project.jp/VANISHING_LINE/index.html |title=CHARACTERナイト(本名:クリストフェル=ハーデン) |work=TVアニメ『牙狼 VANISHING_LINE』 |accessdate= 9 Jul 2023 |publisher=[[雨宮慶太]] [[MAPPA]] [[東北新社]]}}</ref> * 生年不明 - 山田宗介、アニメ『[[number24]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://number24-anime.com/character/sousukeyamada/ |title=堂紫社大学 山田宗介 |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=[[ムービック|movic]]|work=『number24』}}</ref> * 生年不明 - [[ラルフ・ジョーンズ]] 、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.snk-corp.co.jp/official/kof-xii/character/ralf.html |title=Ralf Jones |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]] |work=『THE KING OF FIGHTERS XII』}}</ref> * 生年不明 - バン、ゲーム『[[ファイティングバイパーズ]]』にに登場するキャラクター * 生年不明 - ヴォルド、ゲーム『[[ソウルシリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url= https://bandainamco-am.co.jp/am/vg/soulcalibur2/special/chara/07.php |title=ヴォルド |work=『SOUL CALIBUR Ⅱ』 |accessdate= 9 Jul 2023 |publisher=[[バンダイナムコアミューズメント|Bandai Namco Amusement Inc.]]}}</ref> * 生年不明 - まきば、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m08.html |title=住民名簿 8月 まきば |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - レムレス、ゲーム『[[ぷよぷよフィーバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://puyo.sega.jp/puyopuyo!/producer/003/index.html |title=全22名のキャラクター 名前:レムレス |work=『ぷよぷよ』プロデューサーコラム |accessdate= 9 Jul 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]]}}</ref> * 生年不明 - 吉本日向、ゲーム『[[ぼくのなつやすみ3 -北国篇- 小さなボクの大草原]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 右代宮朱志香、ゲーム・漫画・アニメ『[[うみねこのなく頃に]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 阿、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://showbyrock-anime.com/character/tsurezure/ |title=徒然なる操り霧幻庵 阿 |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=『SHOW BY ROCK!!』}}</ref> * 生年不明 - カノエ、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=40&cate=name&cont=Kanoe |title=カノエ |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 朱鷺宮栞、ゲーム・小説・アニメ『[[ニル・アドミラリの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://nilad-anime.com/character/ |title=CHARACTER 朱鷺宮 栞 |access-date= 9 Jul 2023 |publisher=IF/Nil Admirari PROJECT |work=『ニル・アドミラリの天秤』}}</ref> * 生年不明 - リノ、ゲーム『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1430349234897784835}}</ref> * 生年不明 - 山脇・ボン・イヴァール、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heaven-burns-red.com/character/31c/yamawaki-bon-ivar/ |title=山脇・ボン・イヴァール |publisher= [[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate= 9 Jul 2023 |work=『ヘブンバーンズレッド』}}</ref> * 生年不明 - 八重沢なとり、「.LIVE」のアイドル部に所属する[[バーチャルYouTuber]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=ycaf8_a_sDA |title=【ASMR】誕生日&7.7万人ありがとう!第二回食わず嫌い大会開催 |work=[[YouTube]] |accessdate= 9 Jul 2023}}</ref> * 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#Roselia|今井リサ]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/imai-lisa/ |title=今井 リサ |work=『BanG Dream! ガールズバンドパーティ! 』 |publisher= BanG Dream! 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5,162
単位
単位(、英: unit)とは、量を数値で表すための基準となる決められた一定量のことである。 人類の歴史における量の観念は数の観念と並行して発達してきた。計量には客観的な基準がなければ困難であり、計量の基準には時間的普遍性、空間的不変性、再現性がなければならない。 同じ種類の量を表すのにも、社会や国により、また歴史的にも異なる多数の単位がある。 なお、漢語の「単位」は本来仏教用語で、禅宗寺院で修行僧1人ごとに与えられる一畳のスペースを「単」もしくは「単位」と呼ぶ。ここから、一区切りを「単位」と言うようになった。 科学技術に関する文書中では、「単位」は計量単位を意味することが多い。 国際単位系では計量単位の定義と単位記号の書き方は国際的に決められており、数値の後にスペース(通常は半角スペース(thin space))を空け、単位記号を書く。例えば、1.50 kgと書く。 計算において、単位記号は文字式の文字のように扱えるため、基本的には単位記号も一緒に計算する。例として、100 g+300 g=400 gや、100 m÷25 s=4.0 m/sのように単位記号を書きながら計算することで、計算ミスを減らすことができる。 数学において、単位とは、「恒等の作用をするもの」(英: identity)を意味する。積では、数の1がこれに当たる。 また、数学において、単位は数の「1」を意味し(英: unit)、またそれを想起させるさまざまな意味で用いられることもある。 学校制度における単位(en:Course credit)とは、学校における「科目ごとの学習量」のことである。学校の進学や卒業に必要となる履修すべき学習量を科目毎に表した量である。詳細は、学年制と単位制を参照のこと。
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単位(たんい、とは、量を数値で表すための基準となる決められた一定量のことである。
{{WikipediaPage|'''単位の表記'''|Wikipedia:表記ガイド#単位}} {{Otheruses||学校の卒業要件|単位 (学校)|中華人民共和国の組織|単位 (社会組織)}} {{読み仮名|'''単位'''|たんい|{{lang-en-short|unit}}}}とは、[[量]]を[[数値]]で表すための基準となる決められた一定量のことである。 == 意義 == 人類の歴史における量の観念は[[数]]の観念と並行して発達してきた<ref name="koizumi">{{Cite journal|和書|publisher=精密工学会 |title=尺度の歴史 : I.東西個有制度の源流 |author=[[小泉袈裟勝]] |url=https://doi.org/10.2493/jjspe1933.26.715 |journal=精密機械 |volume=26 |issue=311 |pages=715 - 718 |year=1960 |doi=10.2493/jjspe1933.26.715|accessdate=2020-11-06}}</ref>。[[計量]]には客観的な基準がなければ困難であり、計量の基準には時間的普遍性、空間的不変性、再現性がなければならない<ref name="koizumi" />。 同じ種類の量を表すのにも、社会や国により、また歴史的にも異なる多数の単位がある。 なお、漢語の「単位」は本来仏教用語で、禅宗寺院で修行僧1人ごとに与えられる一畳のスペースを「単」もしくは「単位」と呼ぶ。ここから、一区切りを「単位」と言うようになった。 == 科学技術 == [[ファイル:Relations between New SI units definitions.svg|サムネイル|[[SI単位]]どうしの関係を表した図]] [[科学技術]]に関する文書中では、「単位」は[[計量単位]]を意味することが多い。 [[国際単位系]]では計量単位の定義と[[単位記号]]の書き方は国際的に決められており、数値の後にスペース(通常は半角[[スペース]](thin space))を空け、単位記号を書く。例えば、1.50 kgと書く。<!--量記号は文字を使うため、単位と混同しないよう、[]をつける。単位のみ書く時も[]をつける。例えば、V[m/s]と書く。また、量記号でなくとも、1.50[kg]のように書いてもかまわない。 ※単位が無い(無次元という)場合、書かなくてもよいが、単位のように[-]とすることも可能。--> 計算において、[[単位記号]]は文字式の文字のように扱えるため、基本的には単位記号も一緒に計算する。例として、100 g+300 g=400 gや、100 m÷25 s=4.0 m/sのように単位記号を書きながら計算することで、計算ミスを減らすことができる。 === 一般 === * 数学においては「単位」は数の「1」を意味することがあるが、数学以外では「1」に限られたものではなく、状況により様々な数値を取るため注意が必要である。例:[[単位時間]]とは、議論の基準となる時間の長さを指す。 * 離散量を表すときの「人」「個」「冊」などは[[助数詞]]であり、正式には単位とは見なされていないが、単位に準ずるものとして扱うことはできる<ref name="単位の辞典-丸善">[[二村隆夫]]「丸善 単位の辞典」[[丸善雄松堂]]、(2002年(平成14年)3月)</ref>。12をひとかたまりとする[[ダース]]や12ダースをひとかたまりとする[[ダース|グロス]]は個数という量の単位と見なせる。 == 数学 == === 単位(identity) === [[数学]]において、単位とは、「[[恒等]]の作用をするもの」({{lang-en-short|identity}})を意味する。[[積]]では、数の[[1]]がこれに当たる。 * [[単位元]]は[[環論|環]]や[[半群]]において、<!--数の1と同じく-->積に関して恒等的な作用をもつ元のことである。(単位元の存在を[[代数的構造|構造]]としてみるとき、単位的環、[[モノイド|単位的半群]]などとも言う。) * [[単位行列]]は、[[行列]][[積]]における[[単位元]]を指す。対角成分が1でそのほかが全て0の[[正方行列]]となる。 === 単位(unit) === また、[[数学]]において、単位は[[数]]の「[[1]]」を意味し({{lang-en-short|unit}})、またそれを想起させるさまざまな意味で用いられることもある。 * [[単位ベクトル]]は長さ1の[[ベクトル空間|ベクトル]]のことである。 * [[単位円]]は原点を中心とした半径1の[[円 (数学)|円]]のことである。 * [[単位球面|単位球]]は原点を中心とした半径1の[[球面|球]]のことである。 * [[単位区間]]は0と1を端点とする長さ1の[[区間 (数学)|区間]]のことである。 * [[行列単位]]はただ一つの成分のみが1でそのほかが全て0の行列のことである。 * [[虚数単位]]はその[[冪乗|平方]]が-1となる[[絶対値]]1の[[複素数]] ''i'' のことである。 <!-- ** [[1の原始累乗根|1 の ''n'' 乗根]]は英語で ''n'' th [[:en:Root of unity|root of unity]] と呼ばれる。 ** [[数学]]で[[環論|環]]の[[逆元|可逆]]な要素は[[英語]]で ''unit'' というが、これは'''単元'''と呼ばれる。 --><!-- 単位という語に直接かかわらないので、一応外す。 --> == 医学・薬理学 == * 医薬品等の中には投薬量を「単位」という語で表す物があり、[[ペニシリン]]や[[インスリン]]などの薬が一定の効き目を示す量を1単位としている。一部品目については「[[国際単位|国際単位(IU)]]」として[[世界保健機関]]が規定している(物理単位を規定する「国際単位系」とは別物)。 * 医学用語ではないが、アルコール乱用の目安飲酒量に「[[アルコール乱用#定義|単位(Standard drink)]]」という単位名が使われることがある。 * 生存率の単位記号は「%」だけでなく何年後の生存率かを明記する必要がある。例: [[5年生存率]]であれば単位記号「%/5年」と表記される。 == 通貨 == {{main2|[[通貨]]や[[お金]]の単位については該当項目を}} == 学校制度 == 学校制度における単位([[:en:Course credit]])とは、学校における「科目ごとの学習量」<ref>[https://www.kousotu.com/tsushin/tani_toha.php 単位とは] 高卒.com</ref>のことである。学校の進学や卒業に必要となる履修すべき学習量を科目毎に表した量である。詳細は、[[学年制と単位制]]を参照のこと。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ユニット]](曖昧さ回避) * [[計量単位]] * [[単位記号]] * [[国際単位系]] * [[単位一覧]] * [[計量単位一覧]] * [[計量法に基づく計量単位一覧]] * [[単位の換算一覧]] * [[命数法]] {{DEFAULTSORT:たんい}} [[Category:単位|*]] [[Category:度量衡|たんい]] [[category:和製漢語]]
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12月27日
12月27日(じゅうにがつにじゅうななにち、じゅうにがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から361日目(閏年では362日目)にあたり、年末まであと4日ある。
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12月27日(じゅうにがつにじゅうななにち、じゅうにがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から361日目(閏年では362日目)にあたり、年末まであと4日ある。
{{カレンダー 12月}} '''12月27日'''(じゅうにがつにじゅうななにち、じゅうにがつにじゅうしちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から361日目([[閏年]]では362日目)にあたり、年末まであと4日ある。 == できごと == * 534年 ハギアソフィア聖堂が落成する。 * [[694年]](持統天皇8年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[持統天皇]]が[[飛鳥浄御原宮]]から[[藤原京]]に[[遷都]]する。 * [[784年]]([[延暦]]3年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[桓武天皇]]が[[長岡京]]に[[遷都]]する。 * [[1457年]]([[長禄]]元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]])- [[長禄の変]]起こる。 * [[1703年]] - [[イングランド]]と[[ポルトガル]]が[[メシュエン条約]]に調印。 * [[1831年]] - [[チャールズ・ダーウィン]]が[[イギリス海軍]]の海洋測量艦[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]に乗り[[世界一周]]に出発。 * [[1871年]] - 明治通宝100円 50円 10円 5円 が布告。 * [[1885年]] - [[浅草寺]]表参道の両側の「[[仲見世通り|仲見世]]」を近代的な煉瓦造の建物に建て替え(現在の仲見世の発祥)。 * [[1895年]] - 上野鉄道(現[[上信電鉄]])設立<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.joshin-dentetsu.co.jp/kaisyaannai/enkaku.htm |title=会社沿革 |publisher=上信電鉄 |accessdate=2018-12-27}}</ref>。 * [[1904年]] - [[ジェームス・バリー]]の童話劇『[[ピーター・パン]]』が[[ロンドン]]で初演。 * [[1922年]] - [[横須賀海軍工廠]]で世界初となる[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[航空母艦]]「[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]」が竣工。 * [[1923年]] - [[難波大助]]が裕仁親王(のちの昭和天皇)を狙撃した[[虎ノ門事件]]が発生。 * [[1924年]] - [[北海道]][[小樽市]]の国鉄[[手宮駅]]で[[ダイナマイト]]が爆発。死者87人。 * [[1926年]] - [[陸軍機密費横領問題]]で田中義一、山梨半造が不起訴処分となる。 * [[1932年]] - ニューヨークに世界最大のホール・[[ラジオシティ・ミュージックホール]]が開場。 * [[1933年]] - 神中鉄道(現[[相模鉄道]])の[[横浜駅]]が開業。 * [[1936年]] - [[伊豆諸島北部地震|東京都新島付近を震源とする地震]]が発生。[[新島村]]で死者3人、負傷者50人、家屋全壊20戸、半壊350戸、破損350戸。ほぼ全ての住戸に被害<ref>「間断ない余震におびえる島民」『東京朝日新聞』1936年(昭和11年)12月28日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p.199 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1937年]] - [[満州重工業開発|満州重工業]]設立。 * [[1939年]] - [[トルコ]]東部[[エルズィンジャン県]]で[[マグニチュード]]7.8の[[地震]]([[エルジンジャン地震 (1939年)|エルジンジャン地震]])が発生。死者約3万3000人。 * [[1945年]] - [[国際通貨基金]] (IMF) と[[国際復興開発銀行]](世界銀行)を設立するための[[ブレトン・ウッズ協定]]が発効。 * 1945年 - [[ベルギー]]が[[国際連合]]に加盟。 * [[1946年]] - [[第1次吉田内閣]]が石炭・鉄鋼を中心に増産する[[傾斜生産方式]]の採用を決定。 * [[1949年]] - [[オランダ]]が[[インドネシア]]の主権を放棄し、インドネシアの独立を[[国家の承認|承認]]。 * [[1956年]] - [[日本放送協会]] (NHK) と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]に[[カラーテレビ]]の実験放送許可が下りる。 * [[1958年]] - [[国民健康保険法]]公布。 * 1958年 - [[鹿児島県]][[瀬戸内町]]で大火。町役場や警察署、郵便局、水産試験場など1547戸が全焼。翌日鎮火。住民約100人が負傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=133|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1959年]] - 文京公会堂で[[第1回日本レコード大賞]]開催。 * [[1960年]] - [[第2次池田内閣]]が[[所得倍増計画]]を閣議決定。 * [[1966年]] - [[衆議院解散]]([[黒い霧解散]])。 * [[1968年]] - 都営地下鉄6号線(現在の[[都営地下鉄三田線|三田線]])[[巣鴨駅]] - 志村駅(現在の[[高島平駅]])が開業。 * 1968年 - [[マルセル盗難事件]]。 * [[1971年]] - [[群馬県]][[草津温泉スキー場]]の[[殺生河原]]で、スキーヤー6人が[[火山ガス]]により中毒死<ref>「登山の女高生、集団ガス中毒 噴気の硫化水素を吸う 2人死亡し2人重体」『朝日新聞』1976年8月3日夕刊、3版、7面</ref>。 * [[1972年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]制定。 * [[1977年]] - [[阪神電気鉄道]]が「[[軌道法|軌道]]」から「[[地方鉄道法|地方鉄道]]」へと変更。 * [[1979年]] - [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]: ソ連が[[アフガニスタン]]の大統領宮殿を襲撃し、[[ハフィーズッラー・アミーン]]革命評議会議長(書記長)を殺害。 * [[1980年]] - [[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]が公布・施行。 * 1980年 - [[レンデルシャムの森事件]]。 * [[1982年]] - [[加藤保男]]が冬期[[エベレスト]]登頂に成功、帰途消息を絶つ。 * [[1983年]] - [[新自由クラブ]]と連立し[[第2次中曽根内閣]]発足。[[55年体制]]下初の連立内閣。 * [[1985年]] - [[ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件]] * 1985年 - [[国民の祝日に関する法律|祝日法]]が改正され、[[国民の休日]]が設けられる。 * [[1987年]] - [[横綱]][[北尾光司|双羽黒光司]]が[[安念山治|親方]]から私生活の乱れを注意され激怒し失跡。[[12月31日]]、親方から提出された[[引退|廃業]]届を相撲協会が受理。 * [[1988年]] - [[竹下内閣 (改造)|竹下登改造内閣]]が発足。 * [[1989年]] - [[将棋]]の[[羽生善治]]が[[竜王戦|竜王]]に。10代として棋界初の[[棋戦 (将棋)|タイトル]]保持者に。 * [[1995年]] - [[東海道新幹線]]の[[三島駅]]で、新幹線開業以来の初の旅客死亡事故([[三島駅乗客転落事故]])。 * 1995年 - [[名神高速道路]]の[[湖東三山パーキングエリア|秦荘PA]]([[滋賀県]][[愛荘町]])から[[東名高速道路]]の[[赤塚パーキングエリア|赤塚PA]]([[愛知県]][[豊川市]])間で日本最長記録となる{{Val|154|ul=km}}の[[渋滞]]が発生。 * [[1997年]] - [[新進党]]の党両院議員総会で解散を決定。 * [[1999年]] - [[無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律|団体規制法]]施行。 * 1999年 - [[マイクロソフト]]のベータ版[[オペレーティングシステム]]の、[[Windows Neptune]]の最新安定版がリリース。 * [[2004年]] - [[マグネター]][[SGR 1806-20]]の星震が地球で観測される。 * [[2007年]] - パキスタン元[[首相]][[ベーナズィール・ブットー]]が{{仮リンク|ベーナズィール・ブットー暗殺事件|en|Assassination of Benazir Bhutto|label=暗殺}}される。 * 2007年 - [[ケニア危機 (2007年-2008年)|ケニア危機]]が始まる。 * [[2008年]] - [[ガザ紛争 (2008年-2009年)|ガザ紛争]]: [[イスラエル]]がロケット弾攻撃への報復として[[ガザ地区]]を空爆<ref>{{Cite web|和書 |date=2008-12-28 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552917 |title=ガザ地区の大規模空爆、死者228人・負傷者700人 |publisher=AFPBB News |accessdate=2018-01-30}}</ref>。 <!-- 「12月27日」に特記すべき事柄ですか? * 2008年 - 愛知県[[犬山市]]を走る[[名鉄モンキーパークモノレール線]]がこの日をもって営業廃止。 --> * [[2023年]] - 日本初のモノレールであった[[東京都交通局]][[東京都交通局上野懸垂線|上野懸垂線]]がこの日をもって廃止。(最終営業日は2019年11月30日) == 誕生日 == * [[1571年]] - [[ヨハネス・ケプラー]]、[[天文学者]](+ [[1630年]]) * [[1675年]]([[延宝]]3年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[毛利匡広]]、第6代[[長府藩|長府藩主]](+ [[1729年]]) * [[1755年]] - [[アントン (ザクセン王)|アントン]]、[[ザクセン王国|ザクセン王]](+ [[1836年]]) * [[1731年]]([[享保]]16年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[稲垣昭央]]、第2代[[鳥羽藩|鳥羽藩主]](+ [[1790年]]) * [[1739年]]([[元文]]4年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[亀井矩貞]]、第7代[[津和野藩|津和野藩主]](+ [[1814年]]) * [[1771年]]([[明和]]8年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) - [[喜連川彭氏]]、第8代[[喜連川藩|喜連川藩主]](+ [[1833年]]) * [[1798年]]([[寛政]]10年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[細川興建]]、第8代[[谷田部藩|谷田部藩主]](+ [[1856年]]) * [[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[牧野康命]]、第8代[[小諸藩|小諸藩主]](+ [[1832年]]) * [[1822年]] - [[ルイ・パストゥール]]、細菌学者(+ [[1895年]]) * [[1832年]] - [[トーマス・ブラキストン]]、[[軍人]]、貿易商、[[探検家]]、[[博物学|博物学者]](+ [[1891年]]) * [[1867年]] - [[レオン・ドラクロワ]]、政治家、[[ベルギーの首相|ベルギー首相]](+ [[1929年]]) * [[1871年]] - [[ニコライ・パニン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1956年]]) * [[1876年]] - [[大谷光瑞]]、浄土真宗本願寺派門主(+ [[1948年]]) * [[1880年]] - [[テオドール・リット]]、[[教育学|教育学者]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1962年]]) * [[1898年]] - [[浅沼稲次郎]]、[[政治家]](+ [[1960年]]) * [[1901年]] - [[マレーネ・ディートリヒ]]、[[俳優|女優]](+ [[1992年]]) * [[1911年]] - [[セルヴァーンスキ・エンドレ]]、[[作曲家]](+ [[1977年]]) * [[1919年]] - [[天川清三郎]]、[[プロ野球選手]](+ [[1944年]]) * [[1920年]] - [[ロバート・ホイッタカー]]、[[生物学|生物学者]](+ [[1980年]]) * [[1922年]] - [[岡部冬彦]]、[[漫画家]](+ [[2005年]]) * [[1925年]] - [[ミシェル・ピコリ]]、[[映画俳優]](+ [[2020年]]) * [[1930年]] - [[ノーム・ラーカー]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]]) * [[1942年]] - [[ロナルド・ラネカー]]、[[言語学|言語学者]] * [[1943年]] - [[加藤登紀子]]、[[シンガーソングライター]] * 1943年 - [[ロイ・ホワイト]]、元プロ野球選手 * [[1944年]] - [[斉藤斗志二]]、政治家、[[自由民主党 (日本)|自民党]][[衆議院議員]] * [[1949年]] - [[テリー伊藤]]、[[演出家]] * [[1950年]] - [[楠岡英雄]]、医師、医学者 * 1950年 - [[柴田正敏]]、政治家 * 1950年 - [[奈美悦子]]、女優 * 1950年 - [[テリー・ボジオ]]、ドラマー * 1950年 - [[福士敬章]]、元プロ野球選手(+ [[2005年]]) * [[1951年]] - [[サンディー]]、歌手 * [[1952年]] - [[ラム・チェンイン]]、[[俳優]]、[[スタントマン]](+ [[1997年]]) * 1952年 - [[マーク・ブダスカ]]、元プロ野球選手 * 1952年 - [[石川セリ]]、歌手 * [[1953年]] - [[山田雅稔]]、[[空手道|空手家]]、[[公認会計士]] * 1953年 - [[陳時中]]、政治家、歯科医師 * [[1955年]] - [[橘家富蔵]]、[[落語家]] * 1955年 - [[役所広司]]、俳優 ※実際の出生日。戸籍上の生年月日は1956年[[1月1日]] * [[1956年]] - [[青柳政司]]、元[[プロレスラー]](+ [[2022年]]) * [[1957年]] - [[ティム・ウィザスプーン]]、[[プロボクサー]] * [[1958年]] - [[鄭問]]、漫画家(+ [[2017年]]) * 1958年 - [[トニー・タッカー]]、プロボクサー * 1958年 - [[小川達明]]、元プロ野球選手 * 1958年 - [[都志見隆]]、作曲家 * [[1959年]] - [[高田晴行]]、警察官(+ [[1993年]]) * [[1960年]] - [[木村玉治郎 (6代)|6代木村玉治郎]]、[[大相撲]][[三役]]格[[行司]] * 1960年 - [[井之上隆志]]、俳優(+ [[2017年]]) * [[1962年]] - [[三浦堅治]]、元[[騎手]]、[[調教助手]] * [[1964年]] - [[藤井尚之]]、[[音楽家|ミュージシャン]](元[[チェッカーズ]]) * [[1965年]] - [[橘高文彦]]、[[ギタリスト]]([[筋肉少女帯]]) * 1965年 - [[サルマン・カーン]]、俳優 * [[1966年]] - [[福田正博]]、元サッカー選手、解説者 * 1966年 - [[ビル・ゴールドバーグ]]、[[プロレスラー]] * [[1967年]] - [[大木ミノル]]、映画監督 * [[1968年]] - [[濱田マリ]]、[[タレント]]、女優(元[[モダンチョキチョキズ]]) * 1968年 - [[岩沢慶明]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[スタジアムDJ]] * [[1970年]] - [[神田利則]]、タレント(元[[いいとも青年隊]]) * 1970年 - [[飛鳥井豊]]、声優 * [[1971年]] - 海原ともこ、漫才師([[海原やすよ・ともこ]]) * [[1972年]] - [[武田幸三]]、キックボクサー * 1972年 - [[青山祐子]]、元アナウンサー * 1972年 - [[堀川早苗]]、女優、タレント * 1972年 - [[ニクラス・エンゲリン]]、ミュージシャン * 1972年 - [[土屋大輔]]、俳優 * 1972年 - [[土屋圭輔]]、俳優 * [[1974年]] - [[マシ・オカ]]、俳優、[[VFX]]アーティスト * 1974年 - [[折笠富美子]]、声優 * 1974年 - [[和田洋人]]、[[漫画家]](+ [[2021年]]) * [[1975年]] - [[ヘザー・オルーク]]、[[子役]] (+ [[1988年]]) * [[1976年]] - [[西義之]]、漫画家 * 1976年 - [[竹原ピストル]]、ミュージシャン(元[[野狐禅 (フォークバンド)|野狐禅]])、俳優 * 1976年 - [[PES]]、[[MC (ヒップホップ)|MC]](元[[RIP SLYME]]) * [[1977年]] - TSUBOI、[[MC (ヒップホップ)|MC]]([[アルファ (音楽グループ)|アルファ]]) * 1977年 - [[安藤優也]]、元プロ野球選手 * 1977年 - [[森藤恵美]]、フリーアナウンサー、ラジオパーソナリティ * [[1978年]] - [[増川洋一]]、声優 * [[1980年]] - [[池田信太郎]]、元[[バドミントン]]選手 * [[1981年]] - [[アーマド・アジュテビ]]、騎手 * [[1982年]] - [[支倉凍砂]]、[[小説家]] * 1982年 - [[高山都]]、女優、モデル * 1982年 - [[鉄平 (野球)|鉄平]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[児玉美代]]、ミュージシャン(元[[0930]]) * 1982年 - [[クリス・ジメネス]]、元プロ野球選手 * [[1983年]] - [[コール・ハメルズ]]、プロ野球選手 * 1983年 - てつG、ミュージシャン([[All Japan Goith]]) * 1983年 - [[森本友]]、マラソン選手 * 1983年 - [[桜 稲垣早希]]、お笑いタレント * [[1984年]] - [[代田和也]]、ラジオDJ * [[1985年]] - 黄地裕樹、俳優、ミュージシャン([[HIROZ]]、[[HIROZ SEVEN+]]) * 1985年 - [[川人千慧]]、作曲家 * 1985年 - 坂井良多、お笑いタレント([[鬼越トマホーク]]) * 1985年 - 木﨑太郎、お笑いタレント([[祇園 (お笑いコンビ)|祇園]]) * [[1986年]] - [[中島梨紗]]、[[野球選手]] * [[1987年]] - [[鷲尾修斗]]、俳優 * 1988年 - [[高井友里]]、元タレント、元アイドル * 1988年 - [[ヨアンナ・ブドネル]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1988年 - [[山田大記]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[内田真礼]]、声優 * 1989年 - [[横田美紀]]、女優、タレント * 1989年 - 市川刺身、お笑いタレント([[そいつどいつ]]) * [[1990年]] - [[国分優作]]、騎手 * 1990年 - [[国分恭介]]、騎手 * 1990年 - [[李博 (バレーボール)|李博]]、[[バレーボール選手一覧|バレーボール選手]] * 1990年 - [[ミロシュ・ラオニッチ]]、プロテニス選手 * 1990年 - [[タイラー・ダフィー]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[原田千弘]]、ミュージカル俳優 * 1991年 ‐ [[SHAKA]]、元プロゲーマー、ストリーマー * 1991年 - [[石川柊太]]、プロ野球選手 * [[1993年]] - [[内田眞由美]]、実業家、タレント、元アイドル(元[[AKB48]]) * 1993年 - [[木村玲衣]]、女優 * 1993年 - [[オリヴィア・クック]]、女優 * 1993年 - [[岡田龍太郎]]、 俳優 * [[1994年]] - [[アイナ・ジ・エンド]]、歌手(元[[BiSH]]) * 1994年 - [[みなみ飛香]]、[[プロレスラー]] * 1994年 - [[松本享恭]]、俳優 * [[1995年]] - [[ティモシー・シャラメ]]、俳優 * 1995年 - [[板東湧梧]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[辰己涼介]]、プロ野球選手 * [[1997年]] - [[アナ・コニュ]]、テニス選手 * 1997年 - [[稲場愛香]]、タレント、元アイドル(元[[Juice=Juice]]) * 1997年 - [[中村友哉]]、陸上選手 * 1997年 - [[郡司裕也]]、プロ野球選手 * [[2000年]] - 野口もなみ、アイドル(元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]]) * [[2003年]] - [[劇団4ドル50セント#劇団員|志賀愛咲]]、タレント([[劇団4ドル50セント]]) * [[2004年]] - ソ・ヨンウン、アイドル ([[Kep1er]]) * 生年不詳 - [[柏山奈々美]]、[[声優]] * 生年不明 - [[衣鳩志野]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wingwave.jp/talent/2020woman/shino.html|title=衣鳩志野(いばとしの)(SHINO IBATO):所属タレント:正所属女性|2020年度入所養成所二期生募集中|publisher=株式会社 ウィングウェーヴ|accessdate=2021-01-20}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[桜井翼]]、声優 == 忌日 == * [[683年]]([[弘道 (唐)|弘道]]元年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[高宗 (唐)|高宗]]、[[唐]]の第3代皇帝(* [[628年]]) * [[1585年]] - [[ピエール・ド・ロンサール]]、[[詩人]](* [[1524年]]) * [[1592年]]([[文禄]]元年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[顕如]]、[[本願寺]]第11世門主(* [[1543年]]) * [[1707年]] - [[ジャン・マビヨン]]、[[歴史家]](* [[1632年]]) * [[1743年]] - [[イアサント・リゴー]]、[[画家]](* [[1659年]]) * [[1834年]] - [[チャールズ・ラム]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1775年]]) * [[1836年]] - [[スティーブン・オースティン]]、[[テキサス州]]の入植指導者(* [[1793年]]) * [[1900年]] - 初代アームストロング男爵[[ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵)|ウィリアム・アームストロング]]、[[アームストロング砲]]の[[発明家]]、[[企業家]](* [[1810年]]) * [[1903年]] - [[アドルフ・チェフ]]、[[指揮者]](* [[1841年]]) * [[1909年]] - [[依田學海]]、[[考証学|漢学者]]、[[文芸評論家]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1834年]]) * [[1923年]] - [[ギュスターヴ・エッフェル]]、[[建築家]](* [[1832年]]) * [[1925年]] - [[岡部長職]]、第13代[[岸和田藩|岸和田藩主]]、[[東京都知事一覧|東京府知事]]、[[司法大臣]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]](* [[1855年]]) * 1925年 - [[セルゲイ・エセーニン]]、詩人(* [[1895年]]) * [[1932年]] - [[ジョン・カーティー]]、[[電子工学|電子工学者]](* [[1861年]]) * [[1936年]] - [[ハンス・フォン・ゼークト]]、元[[ドイツ陸軍]]総司令官(* [[1866年]]) * [[1938年]] - [[オシップ・マンデリシュターム]]、詩人(* [[1891年]]) * [[1940年]] - [[ルイ・アイエ]]、[[画家]](*[[1864年]]) * [[1942年]] - [[ウィリアム・G・モーガン]]、体育教師、[[バレーボール]]考案者(* [[1870年]]) * [[1944年]] - [[エイミー・ビーチ]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1867年]]) * [[1947年]] - [[ヨハネス・ヴィンクラー]]、宇宙工学者(* [[1897年]]) * [[1957年]] - [[砂田重政]]、元[[防衛庁長官]](* [[1884年]]) * 1957年 - [[山崎猛 (政治家)|山崎猛]]、第38代[[衆議院議長]]、[[運輸大臣]](* [[1886年]]) * [[1959年]] - [[アルフォンソ・レイエス]]、詩人、[[文芸評論家]]、[[外交官]](* [[1889年]]) * [[1965年]] - [[エドガー・エンデ]]、[[画家]]・児童文学作家(* [[1901年]]) * [[1966年]] - [[ギジェルモ・スタービレ]]、[[サッカー選手]]・指導者(* [[1906年]]) * 1966年 - [[アーネスト・バージェス]]、[[社会学者]](* [[1886年]]) * [[1972年]] - [[謝枢泗]]、[[実業家]](* [[1886年]]) * 1972年 - [[レスター・B・ピアソン]]、第14代[[カナダ首相]](* [[1897年]]) * [[1979年]] - [[ハフィーズッラー・アミーン]]、[[アフガニスタン]]の指導者(* [[1929年]]) * [[1980年]] - [[山田盛太郎]]、[[経済学者]](* [[1897年]]) * [[1982年]] - [[加藤保男]]、[[登山家]](* [[1949年]]) * [[1986年]] - [[金子岩三]]、元[[科学技術庁長官]]、[[農林水産大臣]](* [[1907年]]) * 1986年 - [[ラーシュ=エリク・ラーション]]、作曲家(* [[1908年]]) * [[1987年]] - [[椋鳩十]]、[[小説家]](* [[1905年]]) * 1987年 - [[鏑木政岐]]、[[天文学者]](* [[1902年]]) * [[1988年]] - [[ハル・アシュビー]]、[[映画監督]](* [[1929年]]) * [[1990年]] - [[菊矢吉男]]、元[[プロ野球選手]](* [[1915年]]) * [[1991年]] - [[山根成之]]、映画監督(* [[1936年]]) * [[1992年]] - [[大熊元司]]、[[プロレスラー]](* [[1941年]]) * [[1995年]] - [[シューラ・チェルカスキー]]、[[ピアニスト]](* [[1911年]]) * 1995年 - [[アル・バーリック]]、[[メジャーリーグ]]審判(* [[1915年]]) * [[1998年]] - [[森乃福郎|森乃福郎 (初代)]]、[[落語家]](* [[1935年]]) * [[2002年]] - [[ジョージ・ロイ・ヒル]]、映画監督(* [[1922年]]) * [[2003年]] - [[アラン・ベイツ]]、[[俳優]](* [[1934年]]) * 2003年 - [[風間完]]、[[画家]](* [[1919年]]) * [[2005年]] - [[若狭得治]]、元[[運輸省|運輸]][[官僚]]、[[全日本空輸|全日空]]顧問(* [[1914年]]) * [[2006年]] - [[ボリス・グジ]]、[[ソビエト連邦]]の[[スパイ|諜報員]](* [[1902年]]) * [[2007年]] - [[イェジー・カヴァレロヴィチ]]、映画監督(* [[1922年]]) * 2007年 - [[ベーナズィール・ブットー]]、[[パキスタン]]の元[[パキスタンの首相|首相]](* [[1953年]]) * [[2009年]] - [[高林隆]]、サッカー選手(* [[1931年]]) * [[2010年]] - [[伊藤正己]]、元最高裁判事、東大名誉教授 (* [[1919年]]) * [[2011年]] - [[新津義雄]]、実業家(* [[1922年]]) * [[2012年]] - [[千石規子]]、[[俳優|女優]](* [[1922年]]) * 2012年 - [[ノーマン・シュワルツコフ]]、元軍人(* [[1934年]]) * 2012年 - [[谷口節]]、[[声優]]、[[ナレーター]](* [[1947年]]) * [[2014年]] - [[中村紀子子]]、[[声優]](* [[1923年]]) * [[2016年]] - [[一龍齋貞鳳]]<ref>[https://www.sanspo.com/geino/news/20190110/geo19011012240021-n1.html 一龍斎貞鳳さんが死去…テレビ草創期のバラエティー番組「お笑い三人組」で人気] - SANSPO.COM 2019年1月10日</ref>、講談師(* [[1926年]]) * 2016年 - [[キャリー・フィッシャー]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASJDX111VJDWUHBI04D.html?iref=comtop_8_02|title=米女優キャリー・フィッシャーさん死去 「レイア姫」|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2016-12-28|accessdate=2020-11-21}}</ref>、[[俳優|女優]]、[[脚本家]](* [[1956年]]) * [[2017年]] - [[長谷部久雄]]<ref name="JSA_20180123PR">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/01/29122784_30228_630730_2-39-9.html|title=長谷部久雄九段 訃報 並びにお別れの会のお知らせ|publisher=日本将棋連盟|date=2018-1-23|accessdate=2020-11-03}}</ref>、[[将棋棋士]](* [[1933年]]) * [[2020年]] - [[羽田雄一郎]]<ref>{{Cite news |title=羽田雄一郎参院議員が死去|newspaper=信濃毎日新聞 |date=2020-12-27 |url=https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2020122700358 |accessdate=2021-02-02}}</ref><ref>{{Cite news |title=羽田氏の急死、党関係者「大きな痛手」 地元にも衝撃|newspaper=朝日新聞|date=2020-12-29|url=https://www.asahi.com/articles/ASNDX76J3NDXUOOB00T.html|accessdate=2021-05-04}}</ref>、政治家(* [[1967年]]) * [[2023年]] - [[イ・ソンギュン]]<ref>[https://chped.net/https/jp.yna.co.kr/view/AJP20231227002000882 人気俳優イ・ソンギュンさんが遺体で見つかる 薬物使用容疑で操車中=韓国]</ref>、俳優 (* [[1975年]]) == 記念日・年中行事 == * ピーターパンの日 *: [[1904年]]のこの日、イギリスの劇作家[[ジェームス・バリー]]の童話劇『[[ピーターパン]]』がロンドンで初演されたことに由来。 * 浅草仲見世記念日 *: [[1885年]]のこの日、[[浅草]]の[[仲見世通り|仲見世]]が新装開業した。東側に82件、西側に57件の計139件が煉瓦作りで開店した。[[1923年]][[9月1日]]の[[関東大震災]]で倒壊した後、鉄筋作りで再建された。 * 国際疫病対策の日 *: [[2019年]]からの[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の大流行を機に、この日を疫病の大流行に対する備えの必要性を認識する日として、[[2020年]][[12月7日]]に[[国連総会]]本会議によって可決された<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/73128 12月27日は「疫病対策の日」 国連が制定、新型コロナ1年で](東京新聞、2020年12月8日)</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1227|date=2011年7月}} * 1962年 - 木曜日、ピーター・ホームズ[[オーストラリア海軍]][[少佐]]が自宅で目覚める。(小説『[[渚にて (小説)|渚にて]]』冒頭) * 不明 - 白銀御行と四宮かぐやの交際がスタートする(漫画『[[かぐや様は告らせたい]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[2007年]] - [[鏡音リン・レン]]、『[[VOCALOID]]』のキャラクター<ref>{{Twitter status|rinlen_live|1607662573209403394}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://piapro.net/pages/character |title=ピアプロキャラクターズとは?「鏡音リン」「鏡音レン」 |access-date=2023-01-03 |publisher=Art by KEI / iXima Crypton Future Media, INC.piapro}}</ref> * 2131年 - 皆城総士、アニメ『[[蒼穹のファフナー]]』シリーズの登場人物<ref>{{Cite web|和書|url=http://fafner-exodus.jp/special/character/soshi.html |title=皆城総士 |accessdate=2023-01-03 |work=『蒼穹のファフナー EXODUS』 |publisher=[[XEBEC]] [[キングレコード|King Record.co.,Ltd]]}}</ref> * 生年不明 - ラブラ、キャラクターコンテンツ・アニメ『[[ジュエルペット]]』の登場人物<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.jewelpet.jp/character/ |title=ラブラドライト |access-date=2023-01-03 |publisher=[[サンリオ]]・[[セガトイズ]]/[[テレビ東京]]・ジュエルペット製作委員会 |work=『ジュエルペット』}}</ref> * 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#日向ヒナタ|日向ヒナタ]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=4-08-873288-X|page=113}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=141|ISBN=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - 麗日お茶子、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group01/01-03/ |title=麗日お茶子 |access-date=2023-1-03 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 奥村燐、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|aoex_official|1342847816469659650}}</ref> * 生年不明 - 奥村雪男、漫画・アニメ『青の祓魔師』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 山羊座のエルシド、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1607587207111663617}}</ref> * 生年不明 - 星野慶子(ホシノ)、アニメ『[[ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan|1607390911352152064}}</ref> * 生年不明 - [[BanG Dream!#Pastel*Palettes|丸山彩]]、メディアミックスプロジェクト『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/maruyama-aya/|title=丸山 彩|website=バンドリ! ガールズバンドパーティ! 公式サイト|publisher=ブシロード|accessdate=2019-11-06}}</ref> <!--* 生年不明 - ジラーク、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 廼仔涼太、『ぷ与太郎君の恋』に登場するキャラクター--> === 忌日(フィクション) === * 2003年 - レイ=ペンバー、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year = 2006|title = DEATH NOTE|volume = 13|publisher = 集英社|isbn = 978-4-08-874095-9|page = 25}}</ref>(* 1974年) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|27 December}} {{新暦365日|12|26|12|28|[[11月27日]]|[[1月27日]]|[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]|1227|12|27}} {{1年の月と日}}
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8月9日
8月9日(はちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から221日目(閏年では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。
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{{カレンダー 8月}} '''8月9日'''(はちがつここのか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から221日目([[閏年]]では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。 == できごと == [[Image:Leaning_tower_of_pisa_2.jpg|thumb|upright|[[ピサの斜塔]]着工(1173)。着工時には垂直であった]] [[Image:Location_and_plaque_of_the_Fulton_experiment_9_August_1803.jpg|thumb|upright|[[ロバート・フルトン]]、[[蒸気船]]の試走に成功(1803)]] {{multiple image | footer = [[クリーク戦争]]、[[クリーク族]]が2,300万エーカーの土地(右画像)をアメリカ合衆国に割譲(1814) | image1 = Jackson_and_Weatherford.jpg | width1 = 160 | alt1 = レッド・イーグルの降伏 | image2 = Map_of_Land_Ceded_by_Treaty_of_Fort_Jackson.png | width2 = 120 | alt2 = 割譲地 }} [[Image:Ohyama_incident.PNG|thumb|200px|[[大山事件]](1937)]] {{multiple image | footer = [[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]上で[[大西洋憲章|大西洋会談]]はじまる(1941) | image1 = USS McDougal (DD-358) alongside HMS Prince of Wales (53) in Placentia Bay, Newfoundland, in August 1941 (NH 67195).jpg | width1 = 140 | alt1 = プリンス・オブ・ウェールズ | image2 = Prince_of_Wales-5.jpg | width2 = 140 | alt2= ルーズヴェルトとチャーチル }} [[Image:QUITIN5.JPG|thumb|upright|インドを去れ運動で[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]、[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]ら逮捕(1942)。画像は[[バンガロール]]でのピケ]] {{multiple image | footer = [[長崎市への原子爆弾投下]](1945) | image1 = Nagasakibomb.jpg | width1 = 150 | alt1 = きのこ雲 | image2 = Nagasaki_1945_-_Before_and_after_%28adjusted%29.jpg | width2 = 150 | alt2 = 投下前後の長崎 }} [[Image:Ford_sworn-in.jpg|thumb|220px|ニクソンの辞任を受け[[ジェラルド・フォード]]、アメリカ合衆国大統領に就任]] {{multiple image | footer = 日本の[[国旗国歌法]]成立(1999)。{{audio|Kimi_ga_Yo_1930.ogg|『君が代』を聴く}}1930年の演奏 | image1 = 国旗及び国歌に関する法律.jpg | width1 = 80 | alt1 = 官報 | image2 = Flag_of_Japan.svg | width2 = 140 | alt2 = 日の丸 }} * [[紀元前48年]] - [[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]: [[ファルサルスの会戦]]。 * [[378年]] - [[ゴート戦争 (376年–382年)|ゴート戦争]]: [[ハドリアノポリスの戦い]]。 * [[686年]]([[天武天皇]]15年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]) - 政を皇后・皇太子に託す。 * [[1134年]] - 2人のノルウェー共同王 : [[マグヌス4世 (ノルウェー王)|マグヌス・シグルズソン]]と[[ハーラル4世 (ノルウェー王)|ハーラル・ギッレ]]が全ノルウェー支配権をめぐり、フィリスレイフで戦った。 * [[1173年]] - [[ピサの斜塔]]が着工される。 * [[1803年]] - パリ・[[セーヌ川]]で[[ロバート・フルトン]]が[[蒸気船]]の試走に成功。 * [[1814年]] - [[インディアン戦争]]・[[クリーク戦争]]: [[クリーク族]]が{{仮リンク|ジャクソン砦条約|en|Treaty of Fort Jackson}}への調印を強要され、2,300万[[エーカー]]の土地を[[アメリカ合衆国]]に割譲させられる。 * [[1842年]] - アメリカ合衆国とカナダが[[ウェブスター=アッシュバートン条約]]に調印。両国の国境線を確定。 * [[1854年]] - [[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]の『[[ウォールデン 森の生活]]』が刊行<ref>{{cite news|url=https://www.wired.com/thisdayintech/2010/08/0809thoreau-walden-published/|title=Aug. 9, 1854: Thoreau Warns, 'The Railroad Rides on Us'|last=Alfred|first=Randy|date=August 9, 2010|work=[[Wired News]]|accessdate=2020-06-26}}</ref>。 * [[1869年]] - [[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]らが{{仮リンク|ドイツ社会民主労働党|en|Social Democratic Workers' Party of Germany}}を結成。 * [[1902年]] - [[イギリス]]国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]と后の[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク]]が戴冠。 * [[1933年]] - 第1回関東地方防空大演習実施。[[8月11日]]、[[信濃毎日新聞]]が[[桐生悠々]]の社説「関東防空大演習を嗤ふ」を掲載し問題となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/area/mie/articles/MTW20190813250530001.html|title=8月に想う「表現の不自由」|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2019-08-13|accessdate=2020-06-26}}</ref>。 * [[1937年]] - [[大山事件]]。上海で偵察中の[[上海海軍特別陸戦隊]]・大山勇夫中尉が中国保安隊に殺害される。 * [[1941年]] - [[大西洋会談]]開始。[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]英首相と[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]米大統領が大西洋上の戦艦[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]内で日独伊のファシズムへの対処について会談。 * [[1942年]] - 前日の[[インド国民会議|インド国民会議派]]の大会でイギリスの即時退去({{仮リンク|「インドを去れ」運動|en|Quit India Movement}})が決議されたことを受け、インド政庁が国民会議派を弾圧。指導者の[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]、[[ジャワハルラール・ネルー|ネルー]]らが逮捕。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]・[[継続戦争]]: [[ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢]]が終結。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[ソ連対日参戦]]: [[ソビエト連邦]]が[[満州国|満州]]・[[朝鮮]]・[[樺太]]の[[国境]]を突破し侵略開始。 * 1945年 - 第二次世界大戦: [[アメリカ軍]]が[[長崎市への原子爆弾投下]]を実施。約7万4千人が死亡。 * 1945年 - 第二次世界大戦: [[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下|広島]]に続く2度目の[[長崎市への原子爆弾投下|長崎への原爆投下]]と未明の[[ソ連対日宣戦布告]]を受け、[[御前会議]]を開催。翌[[8月10日]]に[[ポツダム宣言]]の受諾を決定。 * [[1946年]] - [[第1回国民体育大会]]が[[宝塚市]]で開幕。 * 1946年 - バレエ『[[白鳥の湖]]』が日本初演。 * [[1949年]] - 長崎平和記念都市建設法公布。 * [[1953年]] - [[神奈川県]][[鎌倉市]][[由比ガ浜]]の海岸に[[海上保安庁]]の[[ヘリコプター]]が墜落。乗員と[[海水浴]]客2人が死亡、重軽傷13人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=94|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1954年]] - 右翼・民族派が新橋で「滅共反ソ国民大会」を行なった後、[[在日ロシア連邦大使館|駐日ソ連代表部]]へ押しかけ乱入。以後右翼にとっては「[[反ソ連デー]]」となる。 * [[1961年]] - [[熊本県]]の[[チッソ|新日本窒素]]水俣工場でタンクが爆発する事故。死者・行方不明者12人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=154|isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1965年]] - [[シンガポール]]が[[マレーシア]]から分離・独立。 * [[1969年]] - [[チャールズ・マンソン]]の信奉者がマンソンの命令により女優[[シャロン・テート]]ら5人の無差別殺害を実行。 * [[1974年]] - [[ウォーターゲート事件]]の責任を取ってアメリカ大統領[[リチャード・ニクソン]]が辞任したのを受け、副大統領の[[ジェラルド・フォード]]が大統領に就任。 * [[1987年]] - プロ入り1年目の[[中日ドラゴンズ|中日]]([[セントラル・リーグ|セ・リーグ]])の[[近藤真市|近藤真一]]投手が、対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦([[ナゴヤ球場]])で[[ノーヒットノーラン]]を達成。初登板・初先発でのノーヒットノーラン達成は史上唯一。 * [[1989年]] - [[岩手県種市町妻子5人殺害事件]]。[[岩手県]][[九戸郡]][[種市町]](現:[[洋野町]]種市)で元漁船員の男が妻子5人を殺害。事件後に自殺しようとしたが死にきれず、4日後(8月14日)に[[自首]]。 * [[1993年]] - 6党[[連立政権|連立]]による[[細川内閣|細川護熙内閣]]が発足。38年ぶりの非[[自由民主党 (日本)|自民]]政権。 * [[1996年]] - [[セガサターン]]用ソフト『[[デスクリムゾン]]』発売。その内容からオカルトゲームブームの火付け役となる。 * [[1999年]] - [[ロシア]]大統領[[ボリス・エリツィン]]が[[セルゲイ・ステパーシン]]首相を解任。 * 1999年 - 日本で[[国旗及び国歌に関する法律]](国旗国歌法)が成立。 * [[2004年]] - [[関西電力]][[美浜発電所]]で高温の蒸気が漏れ出る事故。作業員11名のうち5人が全身やけどで死亡し、日本の運転中の原発で初の死亡事故となる。 * [[2009年]] - [[平成21年台風第9号|台風9号]]の影響により[[兵庫県]][[佐用町]]の佐用川が氾濫。山崩れなどの被害を受け、死者行方不明者20人。 * [[2013年]] - [[田中将大]]が[[NPB]]の新記録となる開幕16連勝を更新<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/09/kiji/K20130809006386700.html|title=マー君 日本新開幕16連勝!楽天 貯金20の大台に乗せた|newspaper=スポーツニッポン|date=2013-08-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130810-1170938.html|title=マー君日本新開幕16連勝&神様タイ20連勝|newspaper=日刊スポーツ|date=2013-08-10|accessdate=2013-08-27}}</ref>。 * 2013年 - [[平成25年8月秋田・岩手豪雨|秋田・岩手豪雨]]。 * [[2018年]] - [[アントニオ・グテーレス]]が[[国連事務総長]]にして初めて[[広島と長崎への原子爆弾投下|原子爆弾の被爆]]に関する式典である長崎原爆忌に参列する。 * 2018年 - [[アフガニスタン]]の[[ガズニー]]市にて政府軍と[[ターリバーン]]が大規模な交戦状態に突入。以後、数日間で310人以上が死亡する規模の戦闘となった<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-08-14|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3185944?cx_part=search |title=タリバンのアフガン都市襲撃、死者310人超 住民も犠牲に |publisher=AFP |accessdate=2018-08-20}}</ref>。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|220px]]}} {{multiple image | image1 = Izaak_Walton.jpg | width1 = 120 | caption1 = 随筆家[[アイザック・ウォルトン]](1593-1683)誕生。{{Squote|[[釣り]]は[[詩]]とどこか似ていて、人はそれをするように生まれつく。――『釣魚大全』(1653-55)}} | image2 = John_Dryden_portrait.jpg | width2 = 120 | caption2 = 詩人[[ジョン・ドライデン]](1631-1700)誕生。{{Squote|この世にある全てのものは何かにとって良いものだという。――『スペインの修道士』(1681)}} }} [[Image:J-C-F-GutsMuths.jpg|thumb|120px|教育学者[[ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ]](1759-1839)。学校教育に体系的に[[体操]]を取り入れた]] {{multiple image | image1 = Avogadro_Amedeo.jpg | width1 = 120 | caption1 = 物理学者・化学者、[[アメデオ・アボガドロ]](1776-1856) | image2 = WilliamMorton.jpg | width2 = 120 | caption2 = 歯科医師[[ウィリアム・T・G・モートン]](1819-1868)。エーテル麻酔を発明 }}[[Image:Jean_Piaget.jpg|thumb|120px|心理学者[[ジャン・ピアジェ]](1896-1980)誕生。{{Squote|真の[[唯我論]]者は自己の概念を持たない。自己はなく、世界がある。――『子供の生の最初の1年』(1927)}}]] * [[1593年]] - [[アイザック・ウォルトン]]、[[随筆家]]、[[伝記作家]](+ [[1683年]]) * [[1609年]]([[慶長]]14年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[伊東祐久]]、[[日向国]][[飫肥藩]]3代藩主(+ [[1657年]]) * [[1631年]] - [[ジョン・ドライデン]]、[[詩人]](+ [[1700年]]) * [[1720年]]([[享保]]5年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[上杉重定]]、[[出羽国]][[米沢藩]]8代藩主(+ [[1798年]]) * [[1759年]] - [[ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ]]、[[教育学者]](+ [[1839年]]) * [[1776年]] - [[アメデオ・アボガドロ]]、[[物理学者]]、[[化学者]](+ [[1856年]]) * [[1788年]]([[天明]]8年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]) - [[細川利愛]]、[[肥後国]][[肥後新田藩|新田藩]]8代藩主(+ [[1841年]]) * [[1789年]] - [[ニコラ=シャルル・ボクサ]]、[[作曲家]]、[[ハープ]]奏者(+ [[1856年]]) * [[1819年]] - [[ウィリアム・T・G・モートン]]、[[歯科医師]]、[[医学者]](+ [[1868年]]) * [[1845年]] - [[グザヴィエ・メルリ]]、[[美術家]](+ [[1921年]]) * [[1866年]]([[慶応]]2年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[黒田清輝]]、[[洋画家]](+ [[1924年]]) * [[1868年]](慶応4年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[宇垣一成]]、[[軍人]](+ [[1956年]]) * [[1874年]] - [[レイナルド・アーン]]、[[作曲家]](+ [[1947年]]) * [[1875年]] - [[大塚楠緒子]]、[[歌人]](+ [[1910年]]) * 1875年 - [[アルバート・ケテルビー]]、[[作曲家]]、[[指揮者]](+ [[1959年]]) * [[1876年]] - [[ヴィクター・ブルワー=リットン]]、[[政治家]](+ [[1947年]]<ref>{{Cite web|url=https://www.findagrave.com/memorial/189676853/victor-alexander_george_robert-bulwer_lytton|title=Victor Alexander George Robert Bulwer-Lytton|work=Find a Grave|accessdate=2020-06-26}}</ref>) * [[1896年]] - [[ジャン・ピアジェ]]、[[心理学者]](+ [[1980年]]) * 1896年 - [[エーリヒ・ヒュッケル]]、[[化学者]](+ [[1980年]]) * 1896年 - [[レオニード・マシーン]]、[[バレエダンサー]]、[[振付師]](+ [[1979年]]) * [[1898年]] - [[麻生豊]]、[[漫画家]](+ [[1961年]]) * [[1899年]] - [[パメラ・トラバース]]、[[児童文学作家]](+ [[1996年]]) * [[1901年]] - [[杉本栄一]]、[[経済学者]](+ [[1952年]]) * [[1905年]] - [[ピエール・クロソウスキー]]、[[作家]]、[[思想家]](+ [[2001年]]) * [[1906年]] - [[田中千代 (教育者)|田中千代]]、[[教育者]]、服飾[[デザイナー]](+ [[1999年]]) * [[1908年]] - [[周立波]]、[[作家]](+ [[1979年]]) * [[1909年]] - [[野口久光]]、[[映画]]、[[音楽評論家]](+ [[1994年]]) * [[1911年]] - [[ウィリアム・ファウラー]]、[[物理学者]](+ [[1996年]]) * [[1914年]] - [[フェレンツ・フリッチャイ]]、[[指揮者]](+ [[1963年]]) * 1914年 - [[トーベ・ヤンソン]]、[[児童文学]]作家(+ [[2001年]]) * 1914年 - [[後藤田正晴]]、[[政治家]](+ [[2005年]]) * [[1915年]] - [[マイケル・ヤング (社会学者)|マイケル・ヤング]]、[[社会学者]](+ [[2002年]]) * [[1918年]] - [[斉藤滋与史]]、政治家(+ [[2018年]]) * [[1921年]] - [[ローラ・ボベスコ]]、ヴァイオリニスト(+ [[2003年]]) * 1921年 - [[池田久之]]、[[プロ野球選手]](+ [[1944年]]) * [[1927年]] - [[ダニエル・キイス]]、[[作家]](+ [[2014年]]) * 1927年 - [[ロバート・ショウ]]、[[俳優]](+ [[1978年]]) * 1927年 - [[マービン・ミンスキー]]、[[コンピュータ科学]]者(+ [[2016年]]<ref>{{Cite news |title=マービン・ミンスキー氏が死去 「人工知能の父」 |newspaper=日本経済新聞 |date=2016-01-26 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM26H4Y_W6A120C1000000/ |accessdate=2020-12-11}}</ref>) * [[1928年]] - [[ボブ・クージー]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * [[1929年]] - [[磯村尚徳]]、[[ジャーナリスト]](+ [[2023年]]) * [[1931年]] - [[マリオ・ザガロ]]、元[[サッカー選手]]、[[監督]] * [[1933年]] - [[黒柳徹子]]、[[俳優|女優]] * 1933年 - [[太田正男]]、元プロ野球選手 * [[1934年]] - [[兵頭冽]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * [[1935年]] - [[吉行和子]]、女優 * 1935年 - [[松本典子 (女優)|松本典子]]、女優(+ [[2014年]]) * 1935年 - [[北川透]]、[[詩人]]、[[評論家]] * [[1938年]] - [[ロッド・レーバー]]、[[テニス選手]] * [[1939年]] - [[ロマーノ・プローディ]]、経済学者、[[イタリア]]第75・79代[[イタリアの首相|首相]]、[[民主党 (イタリア)|民主党]][[議長]] * [[1941年]] - [[石橋蓮司]]、俳優 * 1941年 - [[アルフレッド・エイホ]]、[[計算機科学]]研究者 * [[1944年]] - [[佐藤蛾次郎]]、俳優(+ [[2022年]]) * 1944年 - [[サム・エリオット]]、俳優 * [[1945年]] - [[黒澤吉徳]]、[[作曲家]] * 1945年 - [[アレクサンドル・ゴレリク]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2012年]]) * [[1946年]] - [[野村収]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[森田淳悟]]、[[バレーボール選手]] * [[1950年]] - [[池上彰]]、[[ジャーナリスト]] * 1950年 - [[市原明 (野球)|市原明]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[田山涼成]]、俳優 * 1951年 - [[桜井洋子]]、[[アナウンサー]] * [[1953年]] - [[ジャン・ティロール|ジャン・マルセル・ティロール]]、経済学者 * [[1955年]] - [[山本和夫 (テレビプロデューサー)|山本和夫]]、[[テレビプロデューサー]]、[[ディレクター]] * 1955年 - [[ダグ・ウィリアムス (アメリカンフットボール)|ダグ・ウィリアムス]]、元アメリカンフットボール選手 * 1955年 - [[内田正人 (アメリカンフットボール)|内田正人]]、元アメリカンフットボール選手 * [[1956年]] - [[貝塚博次]]、元プロ野球選手 * [[1957年]] - [[水上善雄]]、元プロ野球選手 * 1957年 - [[メラニー・グリフィス]]、女優 * [[1959年]] - [[野村万之丞 (5世)|野村万之丞]](5世)、狂言師(+ [[2004年]]) * [[1961年]] - [[三木聡]]、[[放送作家]]、[[映画監督]] * 1961年 - [[ハイヒールリンゴ]]、[[漫才師]] * [[1962年]] - [[いずみ尚]]、俳優、[[声優]] * 1962年 - [[竹田光訓]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[ホイットニー・ヒューストン]]、歌手、女優(+ [[2012年]]) * 1963年 - [[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]、漫画家、元[[アニメーター]] * 1963年 - [[渡辺浩司 (野球)|渡辺浩司]]、元プロ野球選手 * 1963年 - [[岩手富士祐一]]、[[大相撲]][[力士]] (+ [[2020年]]) * 1963年 - [[アラン・メニュ]]、[[レーシングドライバー]] * [[1964年]] - [[鴈龍]]、俳優(+ [[2019年]]<ref>{{Cite news2 | url =https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201912030001051.html | title = 雁龍太郎さん死去 勝新太郎さん中村玉緒夫妻の長男 | newspaper = nikkansports.com | agency = 日刊スポーツ新聞社 | date = 2019-12-03 | accessdate = 2021-01-06 }}</ref>) * [[1965年]] - [[會川昇]]、脚本家 * 1965年 - [[篠田潤子]]、アナウンサー * [[1967年]] - [[江坂政明]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[清田文章]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[ジリアン・アンダーソン]]、女優 * 1968年 - [[マックG]]、[[映画監督]] * 1968年 - [[堀田延]]、[[放送作家]] * 1968年 - [[頼重秀一]]、政治家、[[沼津市]]長 * [[1969年]] - [[橋本奈都江]]、フリーアナウンサー * 1969年 - [[小原沢重頼]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[樋口あゆ子]]、[[ピアニスト]] * 1970年 - [[ha-j]]、[[作曲家]]、[[編曲家]] * 1970年 - [[金村キンタロー]]、元[[プロレスラー]] * 1970年 - [[パット・マホームズ]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[張惠妹]]、歌手 * [[1973年]] - [[根鈴雄次]]、元[[野球選手]] * 1973年 - [[フィリッポ・インザーギ]]、元[[サッカー選手]] * 1973年 - [[徳丸哲史]]、元野球選手 * [[1974年]] - [[清涼院流水]]、[[推理作家]] * 1974年 - [[木下半太]]、[[小説家]] * 1974年 - [[デレック・フィッシャー]]、バスケットボール選手 * 1974年 - [[秦由圭]]、女優、[[ストリップ (性風俗)|ストリッパー]] * [[1975年]] - [[東佳樹]]、ドラマー、パーカッショニスト、[[シエナ・ウインド・オーケストラ]]打楽器奏者 * 1975年 - [[ブライアン・フエンテス]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[於保浩己]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[マヌエル・ベガ]]、元野球選手 * [[1976年]] - [[エレーナ・リアシェンコ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1976年 - [[オドレイ・トトゥ]]、女優 * [[1977年]] - [[千野志麻]]、[[アナウンサー]] * 1977年 - [[いとうのいぢ]]、[[イラストレーター]]、[[ゲームクリエイター]] * 1977年 - [[磯村秀人]]、元野球選手 * 1977年 - [[ミカエル・シルヴェストル]]、元サッカー選手 * [[1978年]] - [[G.G.佐藤]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[ハン・ジョンイン]]、フィギュアスケート選手 * [[1979年]] - MOCKY、ミュージシャン([[Jam9]]) * 1979年 - [[北山猛邦]]、[[作家]] * 1979年 - [[松尾由美子]]、アナウンサー * 1979年 - [[ロニー・クインタレッリ]]、[[レーシングドライバー]] * [[1981年]] - [[リ・ジャウェイ]]、卓球選手 * [[1982年]] - [[タイソン・ゲイ]]、[[陸上競技選手]] * [[1983年]] - [[大鷹浪勝]]、元大相撲力士 * 1983年 - [[ドリュー・ブテラ]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[瀧上夕佳]]、タレント * [[1984年]] - [[岩崎千明]]、タレント * 1984年 - [[小倉遥]]、[[グラビアアイドル]] * 1984年 - [[古川高晴]]、[[アーチェリー]]選手 * 1984年 - [[山本里奈]]、タレント * [[1985年]] - [[北村悠]]、歌手([[FLAME]]) * 1985年 - [[加藤沙耶香]]、タレント、アイドル(元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]1号) * 1985年 - [[木南晴夏]]、女優 * 1985年 - [[小川トモヨ]]、歌手 * 1985年 - [[ホン・ジニョン]]、歌手、女優 * [[1986年]] - [[藤原夏姫]]、タレント * [[1987年]] - [[ミカライ・カミャンチュク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1988年]] - [[上野優花]]、フリーアナウンサー * 1988年 - [[旭秀鵬滉規]]、大相撲力士 * 1988年 - [[藤岡みなみ]]、タレント * 1988年 - [[ウィリアン・ボルジェス・ダ・シウヴァ|ウィリアン]]、サッカー選手 * 1988年 - [[三木美]]、声優 * 1988年 - [[山本希望]]<ref name="prof">{{Cite web|和書|date=|url=https://profile.ameba.jp/ameba/hopeblog/|title=山本希望(やまもとのぞみ)のプロフィール|work=|author=|publisher=|accessdate=2020-11-13}}</ref>、声優 * 1988年 - [[山本紘之]]、アナウンサー * [[1989年]] - [[ジェイソン・ヘイワード]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[ステファノ・オカカ・チュカ]]、サッカー選手 * 1989年 - [[小野健斗]]、俳優 * 1989年 - [[小沼将太]]、俳優 * 1989年 - [[浦田わたる]]、声優([[浦島坂田船]]) * 1989年 - [[クリスティン・ズコウスキー]]、元フィギュアスケート選手 * [[1990年]] - [[宋楠]]、元フィギュアスケート選手 * 1990年 - [[田中朋子]]、元野球選手 * 1990年 - [[水瀬あいみ]]、タレント * 1990年 - [[高橋凛]]、グラビアアイドル * [[1991年]] - [[スティーブン・モヤ]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[Heize]]、歌手 * [[1993年]] - 磯佳奈江、アイドル(元[[NMB48]]) * 1993年 - [[近藤健介]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - ジェユン、アイドル([[SF9]]) * [[1995年]] - [[ミニョン (曖昧さ回避)|ファン・ミンヒョン]]、アイドル([[NU'EST]]、元[[Wanna One]]) * 1995年 - [[夏緒]]、女優 * [[1997年]] - [[阿部一二三]]、[[柔道家]] * 1997年 - [[松岡広大]]、俳優 * 1997年 - [[藤田菜七子]]、[[騎手]] * 1997年 - [[大橋和也]]、アイドル([[なにわ男子]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://j-island.net/artist/person/id/56|title=大橋和也 プロフィール {{!}} ISLAND TV|accessdate=2020年8月9日|publisher=ジャニーズ事務所|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190327033831/https://j-island.net/artist/person/id/56|archivedate=2019-03-27}}</ref> <!-- 特筆性 * 1997年 - [[ゲームセンターCXの登場人物#サポートAD|猪谷素直]]、[[ゲームセンターCX]]の19代目AD --> * [[1998年]] - [[運上弘菜]]、アイドル([[HKT48]]) * [[1999年]] - [[デニス・ヴァシリエフス]]、フィギュアスケート選手 * 1999年 - [[岡林飛翔]]、元プロ野球選手 * 1999年 - ミンギ、アイドル([[ATEEZ]]) * 1999年 - アン・ヒョンソプ、歌手、俳優 * 1999年 - [[長谷川威展]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[オーウェン・ホワイト]]、プロ野球選手 * [[2000年]] - [[本間至恩]]、サッカー選手 * 2000年 - [[キム・ヒャンギ]]、女優 * [[2001年]] - [[佐藤璃果]]、アイドル([[乃木坂46]]) * 2001年 - [[南衣伶夏|夏弓えれな]]、グラビアモデル、アイドル * [[2001年]] - [[詩羽]]、[[水曜日のカンパネラ]] * [[2002年]] - [[髙橋宏斗]]、プロ野球選手 * 2002年 - [[山本大斗]]、プロ野球選手 * [[2003年]] - 信濃宙花、アイドル([[STU48]]) * 2003年 - [[中村一葉|カズハ]]、アイドル([[LE SSERAFIM]]) * 2004年 - 郭殿甲、アイドル([[BOYHOOD]]) * 2005年 - 石川恵里加、女優、アイドル([[LINKL PLANET]]) * 生年不明 - [[髙嶺巌]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-spring-voice.com/profile/man/takamine.html|title=髙嶺巌|publisher=E-sprinG|accessdate=2021-01-09}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[十束おとは]]、アイドル([[フィロソフィーのダンス]]) * 生年不明 - 池戸猫、[[ギタリスト]]、[[YouTuber]]([[datto]]) == 忌日 == {{multiple image | image1 = Valens_Honorius_Musei_Capitolini_MC494.jpg | width1 = 100 | caption1 = ローマ皇帝[[ウァレンス]](328-378) | alt1 = ローマ皇帝ウァレンス | image2 = GoldSolidusIrene797-802Constantinople.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[東ローマ帝国]]初の女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]](752-803)没 | alt2 = 東ローマ帝国初の女帝エイレーネー | image3 = Hyakuninisshu_087.jpg | width3 = 100 | caption3 = 歌人[[寂蓮]](1139-1202) | alt3 = 歌人寂蓮 }} {{multiple image | footer = 画家[[ヒエロニムス・ボス]](1450頃-1516)没。右画像は『快楽の園』 | image1 = Jheronimus_Bosch.jpg | width1 = 100 | alt1 = ヒエロニムス・ボスとされる肖像 | image2 = El jardín de las Delicias, de El Bosco.jpg | width2 = 160 | alt2 = 『快楽の園』 }} {{multiple image | footer = 生物学者[[エルンスト・ヘッケル]](1834-1919)没。右画像は『生物の驚異的な形』(1904)のヘッケル自身による絵 | image1 = Ernst_Haeckel_2.jpg | width1 = 100 | alt1 = エルンスト・ヘッケル | image2 = Haeckel Actiniae.jpg | width2 = 100 | alt2 = イソギンチャク }} {{multiple image | caption1 = 地理学者・生物学者[[フリードリヒ・ラッツェル]](1844-1904) | image1 = Friedrich_Ratzel.jpg | width1 = 100 | alt1 = フリードリヒ・ラッツェル | caption2 = 作曲家[[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ]](1858-1919)没。{{audio|Vesti La Giubba.ogg|『道化師』より「衣装を着けろ」を聴く}} | image2 = Ruggiero_leoncavallo.jpg | width2 = 100 | alt2 = ルッジェーロ・レオンカヴァッロ }} {{multiple image | image1 = John_charles_fields.jpg | width1 = 100 | caption1 = 数学者[[ジョン・チャールズ・フィールズ]](1863-1932)没。[[フィールズ賞]]を提唱 | image2 = James_van_Allen.jpg | width2 = 100 | caption2 = 物理学者[[ジェームズ・ヴァン・アレン]](1914-2006)没。[[ヴァン・アレン帯]]を発見 }} {{multiple image | footer = [[チャールズ・マンソン]](左画像)の命令で[[シャロン・テート]](右画像; 1943-1969)ら5人が殺害される | image1 = Charles-mansonbookingphoto.jpg | width1 = 100 | alt1 = チャールズ・マンソン | image2 = Sharon_Tate_in_Eye_of_the_Devil_trailer_3.jpg | width2 = 100 | alt2 = シャロン・テート }} {{multiple image | caption1 = 作家[[ヘルマン・ヘッセ]](1877-1962) | image1 = Hermann_Hesse_1927_Photo_Gret_Widmann.jpg | width1 = 100 | alt1 = ヘルマン・ヘッセ | caption2 = [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]](1906-1975) | image2 = Dmitri Shostakovich credit Deutsche Fotothek adjusted.jpg | width2 = 100 | alt2 = ドミートリイ・ショスタコーヴィチ }} === 人物 === * [[378年]] - [[ウァレンス]]、[[ローマ帝国|ローマ皇帝]](* [[328年]]) * [[803年]] - [[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]](* [[752年]]) * [[1048年]] - [[ダマスス2世 (ローマ教皇)|ダマスス2世]]、第151代[[教皇|ローマ教皇]] * [[1107年]]([[嘉承]]2年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]])- [[堀河天皇]]、第73代[[天皇]](* [[1079年]]) * [[1189年]]([[文治]]5年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]])- [[藤原忠衡]]、[[平安時代]]の[[武将]](* [[1167年]]) * [[1202年]]([[建仁]]2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]])- [[寂蓮]]、[[歌人]](* [[1139年]]?) * [[1326年]] - [[オスマン1世]]、[[オスマン帝国]]初代皇帝(* [[1258年]]) * [[1420年]] - [[ピエール・ダイイ]]、[[神学者]](* [[1351年]]) * [[1516年]] - [[ヒエロニムス・ボス]]、[[画家]](* [[1450年]]頃) * [[1570年]]([[元亀]]元年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]])- [[真柄直隆]]、[[武将|戦国武将]](* [[1536年]]) * [[1596年]]([[文禄]]5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]])- [[本多重次]](作左衛門)、戦国武将(* [[1529年]]) * [[1622年]]([[元和 (日本)|元和]]8年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]])- [[珠姫]]、[[前田利常]]の[[正室]](* [[1599年]]) * [[1729年]]([[享保]]14年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]])- [[芳沢あやめ (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1673年]]) * [[1837年]]([[天保]]8年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]])- [[小俣蠖庵]]、[[篆刻|篆刻家]]、[[日本画家]]、[[書道|書家]](* [[1765年]]) * [[1848年]] - [[フレデリック・マリアット]]、[[小説家]](* [[1792年]]) * [[1854年]] - [[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]、[[ザクセン王国|ザクセン王]](* [[1797年]]) * [[1899年]] - [[エドワード・フランクランド]]、[[化学者]](* [[1825年]]) * [[1901年]] - [[アンリ・ドルレアン (1867-1901)|アンリ・ドルレアン]]、[[探検家]](* [[1867年]]) * [[1903年]] - [[浦風林右エ門]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1841年]]) * [[1904年]] - [[フリードリヒ・ラッツェル]]、[[地理学者]]、[[生物学者]](* [[1844年]]) * [[1919年]] - [[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ]]、[[作曲家]](* [[1857年]]) * 1919年 - [[エルンスト・ヘッケル]]、生物学者(* [[1834年]]) * 1919年 - [[箕作元八]]、[[歴史家]](* [[1862年]]) * [[1920年]] - [[中沢臨川]]、[[文芸評論|文芸評論家]]、電気工学者(* [[1878年]]) * [[1932年]] - [[ジョン・チャールズ・フィールズ]]、[[数学者]](* [[1863年]]) * [[1937年]] - [[塚本靖]]、[[建築家]](* [[1869年]]) * [[1942年]] - [[エーディト・シュタイン]]、[[カトリック教会|カトリック]]の[[聖人]](* [[1891年]]) * [[1943年]] - [[シャイム・スーティン]]、[[画家]](* [[1893年]]) * [[1945年]] - [[ハリー・ヒルマン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1881年]]) * [[1947年]] - [[レジナルド・インズ・ポコック]]、[[動物学者]](* [[1863年]]) * [[1949年]] - [[エドワード・ソーンダイク]]、[[心理学者]]、[[教育学者]](* [[1874年]]) * [[1955年]] - [[マリオン・バウアー]]、作曲家(* [[1882年]]) * [[1961年]] - [[ウォルター・ベデル・スミス]]、[[アメリカ中央情報局]]長官(* [[1895年]]) * 1961年 - [[桂鎔黙]]、小説家(* [[1904年]]) * [[1962年]] - [[ヘルマン・ヘッセ]]、[[作家]](* [[1877年]]) * [[1966年]] - [[ヨースタ・ニューストレム]]、作曲家(* [[1890年]]) * [[1969年]] - [[セシル・パウエル]]、[[物理学者]](* [[1903年]]) * 1969年 - [[シャロン・テート]]、[[俳優|女優]](* [[1943年]]) * [[1970年]] - [[飯島滋弥]]、元[[プロ野球選手]](* [[1918年]]) * [[1975年]] - [[木村卜堂]]、書家(* [[1905年]]) * 1975年 - [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]、作曲家(* [[1906年]]) * [[1980年]] - [[ジャクリーン・コクラン]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1906年]]) * [[1983年]] - [[市村俊幸]]、俳優(* [[1920年]]) * [[1984年]] - [[大河内一男]]、[[社会政策|社会政策学者]]・元[[東京大学]]総長(* [[1905年]]) * [[1986年]] - [[ジェフ・シェーレン]]、[[自転車競技]]選手(* [[1909年]]) * [[1988年]] - [[ジャチント・シェルシ]]、作曲家(* [[1905年]]) * [[1992年]] - [[湧永満之]]、[[実業家]]、[[湧永製薬]]創業者(* [[1910年]]) * [[1995年]] - [[右城暮石]]、[[俳人]](* [[1899年]]) * [[1995年]] - [[ジェリー・ガルシア]]、[[ミュージシャン|音楽家]]([[グレイトフル・デッド]])(* [[1942年]]) * [[1998年]] - [[小堀四郎]]、[[画家]](* [[1902年]]) * [[1999年]] - [[ジャッキー佐藤]]、[[プロレスラー]] (* [[1957年]]) * 2003年 - [[沢たまき]]、[[タレント]]、[[公明党]][[参議院|参議院議員]](* [[1937年]]) * [[2005年]] - [[saku sakuの出演者、登場キャラクター#以前の出演者・出演キャラクター|金田真人]](ご意見番)、[[テレビ神奈川|テレビ神奈川(tvk)]]『[[Saku saku]]』の[[ディレクター]] * [[2006年]] - [[森千夏]]、[[砲丸投]]選手(* [[1980年]]) * 2006年 - [[ジェームズ・ヴァン・アレン]]、物理学者(* [[1914年]]) * 2006年 - [[イェニー・グレルマン]]、女優(* [[1947年]]) * [[2007年]] - [[高橋栄一郎]]、元プロ野球選手(* [[1936年]]) * [[2008年]] - [[バーニー・マック]]、俳優、[[コメディアン]](* [[1957年]]) * [[2009年]] - [[Jasmine You]]、ベーシスト、アーティスト([[Versailles (バンド)|Versailles]]) * 2009年 - [[トーマス・クノッパー]]、レーシングドライバー(* [[1990年]]) * [[2011年]] - [[平光清]]、[[プロ野球審判員]](* [[1938年]]) * [[2014年]] - [[中井康之]]、プロ野球選手(* [[1954年]]) * [[2017年]] - [[ダニー・ウォルトン]]、プロ野球選手(* [[1947年]]) * [[2018年]] - [[斉藤滋与史]]<ref>{{Cite news|title=元静岡知事の斉藤滋与史氏が死去…100歳の誕生日 建設相、大昭和製紙社長など歴任|date=2018-08-09|url=https://www.sankei.com/article/20180809-MEY5X2IH6JL5HOBQMDQZBMJADI/|newspaper=産経ニュース|agency=産経デジタル|accessdate=2021-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34011510Z00C18A8CZ8000/|title=斉藤滋与史氏が死去 元建設相|publisher=日本経済新聞|date=2018-08-09|accessdate=2020-10-25}}</ref>、政治家(+ [[1918年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2003年]] - [[カブラヤオー]]、[[競走馬]](* [[1972年]]) * [[2012年]] - ZIPPEI兄弟、番組『[[ZIP!]]』に出演していた犬(* [[2008年]]) * [[2019年]] - [[キングカメハメハ]]、競走馬(* [[2001年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == {{multiple image | footer = 長崎原爆忌/長崎原爆記念日/原爆殉難者慰霊平和祈念式典 | image1 = %E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%A5%88%E5%BF%B5%E5%83%8F.jpg | width1 = 240 | caption1 = [[平和祈念像]] | image2 = Nagasaki_Ground_Zero_C2117.jpg | width2 = 120 | caption2 = 爆心地の記念碑 }} {{multiple image | footer = 世界の先住民の国際デー | image1 = | width1 = 140 | caption1 = ブラジルの{{仮リンク|カイアポ族|en|Kayapo}} | image2 = AinuGroup.JPG | width2 = 140 | caption2 = 日本の[[アイヌ]] }} {{multiple image | footer = [[シンガポール]]の独立記念日(1965年独立) | image1 = Location_Singapore_ASEAN.svg | width1 = 120 | caption1 = シンガポールの位置 | image2 = Merlion.jpg | width2 = 160 | caption2 = [[マーライオン]] }} [[Image:Praha_edith_stein.JPG|thumb|upright|[[エーディト・シュタイン]](1891-1942)]] * 長崎原爆忌/長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典({{JPN}}) *: [[1945年]]8月9日午前11時2分に、米軍の[[B-29 (航空機)|B-29爆撃機]]「[[ボックスカー]]」により、[[プルトニウム]][[原子爆弾]]「[[ファットマン]]」が[[長崎市]]に投下された。これにより、およそ7万人の人々が死亡し、市街は壊滅した。[[長崎市への原子爆弾投下]]を参照。 * [[世界の先住民の国際デー]]({{World}}) *: [[1994年]]12月の国連総会で制定された[[国際デー]]。[[1982年]]のこの日に、国連人権促進保護小委員会[[先住民作業部会]]の第1回会合が開かれたことを記念。 * [[独立記念日]]({{SGP}}) *: [[1965年]]のこの日、シンガポールが[[マレーシア]]から分離独立した。 * {{仮リンク|女性の日 (南アフリカ)|en|National Women's Day|label=女性の日}}({{ZAF}}) * [[エーディト・シュタイン|エディット・シュタイン]]の記念日([[カトリック教会]]) *: [[1942年]]のこの日に[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュビッツ]]で死去し、1998年に[[列聖]]されたユダヤ系修道女・エディット・シュタインを[[聖名祝日|記念する日]]。 * [[ムーミン]]の日({{World}}) *: [[トーベ・ヤンソン]]の[[ムーミン]]を記念する日。元々日本のファンの間で、語呂合せから[[6月3日]]がムーミンの日とされてきたが、ムーミン誕生60周年の[[2005年]]に「全世界に通用する記念日を」との見解から、トーベ・ヤンソンの誕生日である8月9日をムーミンの日とすることとなった。[[フィンランド]]の著作権者も了承し、全世界共通で公式なムーミンの日となった。日本やフィンランドでは、毎年この日に盛大なイベントが行われる。 * [[野球]]の日({{JPN}}) *: 8月9日の8と9が「やきゅう」と読め、また、[[高校野球]]の期間中でもあることから。スポーツ用品の[[ミズノ]]が制定。 * [[鍼|はり]]・[[灸|きゅう]]・[[マッサージ]]の日({{JPN}}) *: 全日本鍼灸マッサージ師会が[[2003年]]に制定。8(はり)・9(きゅう)の語呂合わせ。 * パークの日([[駐車場]]の日)({{JPN}}) *: [[パーク24]]が制定。「パー(8)ク(9)」の語呂合せ。 * [[コリアンダー|パクチー]]の日({{JPN}}) *: 日本パクチー狂会が制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://okayama.keizai.biz/headline/828/|title=備前国総社宮で「岡山パクチー奉納祭」 神前に備えたパクチー使った料理の振る舞いも|publisher=岡山経済新聞|date=2019-08-02|accessdate=2020-06-26}}</ref>。「パ(8)ク(9)」の語呂合せ。 * 美白の女神の日({{JPN}}) *: 株式会社クリスタルジェミーの中島香里氏が制定。より多くの人に美肌への意識を高めてもらうのが目的。日付は、8と9で「美白」の白(はく)の語呂合わせ<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=64|isbn=978-4422021157}}</ref>。 * [[薬草]]の日({{JPN}}) *: 沖縄県保健食品開発協同組合が制定。「や(8)く(9)そう」の語呂合せ。 * [[バグ|ソフトウェアバグ]]の日({{JPN}}) *: [[SHIFT (企業)|株式会社SHIFT]]が制定(日本記念日協会 記念日登録証発行日:2015年1月30日)<ref>[http://www.shiftinc.jp/news/news-1053/ 8月9日が「ソフトウェアバグの日」として認定されました | ニュース | プレスルーム│株式会社SHIFT]</ref>。「バ(8)グ(9)」の語呂合せ。 {{Clear}} == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0809|date=2011年6月}} * 1942年 - 海軍少佐草加拓海、海上自衛隊二佐の角松洋介に大日本帝国と日本国を超越したジパングの建国の構想を打ち明かす。その後戦艦大和はガダルカナル島の米軍陣地に発砲。イージス艦みらいが対空ミサイルにてそれを阻止する。(アニメ・漫画『[[ジパング]]』) * 1947年(昭和22年)- 11時すぎに巨勢博士が歌川邸に到着、昼食後に関係者を広間に集め「心理の足跡」を語り始める。(小説『[[不連続殺人事件]]』第23章から第24章) * 1974年 - JDC(日本探偵倶楽部)創設。(小説『[[JDCシリーズ]]』) * [[2091年]] - [[ハフマン島|第2次ハフマン紛争]]終結。(ゲーム「[[フロントミッションシリーズ]]」) * [[2201年]] - ターミナルコロニー「アマテラス」で[[火星]]の後継者が蜂起する。(アニメ映画『[[機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1994年]] - 菅生修(ナイト・シューマッハ)、アニメ『[[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|cyberformula_gp|1378995829315301388}}</ref> * [[1999年]] - 鈴木萌歌、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://wakeupgirls.jp/character14.html |title=鈴木 萌歌 |access-date=2022-12-17 |work=『Wake Up,Girls!』 |publisher=Green Leaves Wake Up, Girls!製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 天坂れい、漫画『迷想区閾』の主人公<ref>{{Cite book |和書|author=方條ゆとり|authorlink=方條ゆとり|date=2002-10-27|title=迷想区閾|volume=1巻|publisher =[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ガンガンWINGコミックス]]|isbn=978-4757508040|page=コミック本体表紙}}</ref> * 生年不明 - 城ヶ根御前、アニメ・漫画『[[アクションヒロイン チアフルーツ]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/cfru/chara/chara01.html |title=城ヶ根 御前 |access-date=2022-09-28 |publisher=チアフルーツ製作委員会 TBS |work=『アクションヒロイン チアフルーツ』}}</ref> * 生年不明 - ハック、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/hack.html |title=ハック |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-09-28 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - ワポル、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Wapol.html |title=ワポル |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2022-09-28 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - タラッタ・ヘラクレス、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1424386179181563905}}</ref> * 生年不明 - 縄樹、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=121|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref> * 生年不明 - 志岐小夜子、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1556657736565215238}}</ref> * 生年不明 - 本庄新、漫画『[[世界でいちばん大嫌い]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 張飛益徳、漫画・アニメ『[[一騎当千 (漫画)|一騎当千]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/product/ikki_eb/character/chouhi/ |title=張飛益徳 CV:茅原実里 |work=一騎当千エクストラバースト |accessdate=2022-09-28 |publisher=[[塩崎雄二]]・[[ワニブックス]]/一騎当千EE パートナーズ}}</ref> * 生年不明 - 畠篤史、漫画・アニメ『[[おおきく振りかぶって]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oofuri.com/1st/chara/mihoshi.html |title=三星学園 畠篤史 |access-date=2022-12-17 |publisher=[[ひぐちアサ]]・[[講談社]]/おお振り製作委員会  |work=『おおきく振りかぶって』}}</ref> * 生年不明 - 末原恭子、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=末原 恭子(すえはら きょうこ) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=2022-09-28 |publisher=[[小林立]]}}</ref> * 生年不明 - 木山春生、漫画・アニメ『[[とある科学の超電磁砲]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 九段下、漫画・アニメ『[[ディーふらぐ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[暁のヨナ#ハク|ハク/ソン・ハク]] 、漫画・アニメ『[[暁のヨナ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|KusanagiMizuho|630365821500416000}}</ref> * 生年不明 - 羽柴夏樹、漫画・アニメ・映画『[[虹色デイズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 凸守早苗、小説・アニメ『[[中二病でも恋がしたい!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_chu_2|895134667384303616}}</ref> * 生年不明 - 七尾つばさ、読者参加企画『[[お嬢様特急]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 吉永サリー、アニメ『[[勇者特急マイトガイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|sunriseworld_pr|1424566104949657600}}</ref> * 生年不明 - 下町駆、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * 生年不明 - 鷹士お兄ちゃん、ゲーム・アニメ『[[乙女的恋革命★ラブレボ!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gungho.jp/cgame/loverevo/DS/chara/chara_ani.html |title=鷹士お兄ちゃん |access-date=2023-01-21 |publisher=[[ガンホー・ワークス|GungHo Works Inc.]] [[任天堂]] |work=『乙女的恋革命★ラブレボ!!DS』}}</ref> * 生年不明 - 咲野明日夏、ゲーム・アニメ『[[キミキス pure rouge]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kimikiss-pure-rouge.jp/chara_asuka.html |title=咲野明日夏 |access-date=2023-02-08 |work=『キミキス pure rouge』 |publisher=[[エンターブレイン|ENTERBRAIN, INC.]]/ 「キミキス」製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 河合アメリ、ゲーム・アニメ『[[タユタマ -Kiss on my Deity-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|lumpofsuger|1424600721345843205}}</ref> * 生年不明 - 雪、ゲーム『[[ドリームクラブ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author =エンタテインメント書籍編集部|date=2009-11-04|title=ドリームクラブ ビジュアルファンブック|series=ゲーマガBOOKS|publisher =[[ソフトバンク クリエイティブ]]|isbn=978-4797356526|page=30}}</ref> * 生年不明 - マユカ・サナギ、ゲーム・アニメ『[[アンジュ・ヴィエルジュ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sega-net.com/release/141208_8276.html |title=『アンジュ・ヴィエルジュ』 アニメ化プロジェクト始動! |access-date=2022-09-28 |publisher=SEGA |date=2014-12-08}}</ref><ref>{{Twitter status|angeRelink|1159630522739507200}}</ref> * 生年不明 - 豊臣秀虎、ゲーム・漫画『[[忍び、恋うつつ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|nin_koi|895193505546383365}}</ref> * 生年不明 - マコト、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1424551022819635205}}</ref> === 忌日(フィクション) === * [[1991年]] - 久保嘉晴、漫画『[[シュート!]]』に登場するキャラクター(* [[1974年]])→ 映画版では[[1994年]][[7月30日]]に死去。(* [[1977年]]) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|August 9|9 August}} {{新暦365日|8|8|8|10|[[7月9日]]|[[9月9日]]|[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]|0809|8|09}} {{1年の月と日}}
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9月29日
9月29日(くがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から272日目(閏年では273日目)にあたり、年末まであと93日ある。
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{{カレンダー 9月}} '''9月29日'''(くがつにじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から272日目([[閏年]]では273日目)にあたり、年末まであと93日ある。 == できごと == [[File:Eight men banned.png|thumb|180px|[[ブラックソックス事件]](1920年)。翌年、永久追放処分を受けた“悲劇の8人”]] [[File:Bundesarchiv Bild 183-R69173, Münchener Abkommen, Staatschefs.jpg|thumb|120px|[[ズデーテン地方]]の帰属問題を討議した[[ミュンヘン会談]](1930)。[[ドイツ]]を増長させた悪しき[[宥和政策]]と後に批判される]] {{multiple image | image1 = Дерев'яний хрест у пам'ять про 621 розстріляного члена ОУН.JPG | width1 = 120 | caption1 =[[ウクライナ]]・[[バビ・ヤール]]渓谷でのユダヤ人虐殺(1941)。翌日までに3万3771人が殺害された | alt1 = バビ・ヤール | image2 = Map of the East Urals Radioactive Trace.png | width2 = 100 | caption2 =[[ソビエト連邦|ソ連]][[ウラル地方]]、[[マヤーク核技術施設]]での[[原子力事故]](1957)。汚染地域を記した地図 | alt2 = マヤーク }} {{multiple image | footer = [[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]調印(1972)。[[田中角栄]](左)と[[周恩来]](右) | image1 = Tanaka 1973.jpg | width1 = 100 | alt1 = 田中角栄 | image2 = Zhou Enlai portrait.jpg | width2 = 100 | alt2 = 周恩来 }} [[File:Shimonoseki stn former.jpg|thumb|120px|[[下関通り魔殺人事件]](1999)。画像の[[下関駅]]東口(2002年当時)はその後、火災により改修されている]] [[File:Dowjones crash 2008.svg|thumb|120px|米下院で[[緊急経済安定化法]]否決(2008)。大きく下落する[[ダウ平均株価]]]] * [[紀元前480年]] - [[サラミスの海戦]]の戦闘が行われる([[9月20日|20日]]説あり)。 * [[440年]] - [[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]が[[ローマ教皇]]に即位。 * [[855年]] - [[ベネディクトゥス3世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス3世]]が[[ローマ教皇]]に即位。 * [[1011年]] - [[ノルマン・コンクエスト]]: [[デーン人]]により包囲されていた[[カンタベリー]]の[[カンタベリー大主教|総主教]]だった[[エルフィア]]([[:en:Ælfheah_of_Canterbury|Ælfheah of Canterbury]])が捕らえられる。 * [[1227年]] - [[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が[[十字軍]]不参加を理由に教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]により破門される。 * [[1331年]]([[元徳]]3/[[元弘]]元年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[元弘の変]]: 倒幕計画が発覚した[[後醍醐天皇]]が神器とともに奈良・[[笠置山 (京都府)|笠置山]]に逃れる。 * [[1364年]] - [[百年戦争]]: [[オーレの戦い]]。[[イングランド]]が支援する[[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]により[[フランス]]が支援する[[シャルル・ド・ブロワ]]が敗死し、[[ブルターニュ継承戦争]]が終結{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1399年]] - 従弟のヘンリー・ボリングブルック(後の[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]])ら貴族層の[[クーデター]]によって[[イングランド王]][[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]が王位から追放される。 * [[1642年]] - [[スダン|セダン]]が[[フランス王国]]の支配下に入る。 * [[1668年]] - [[ブサンソン要塞]]([[:fr:Citadelle_de_Besançon|Citadelle de Besançon]])の建設が開始。 * [[1717年]] - [[グアテマラ地震 (1717年)|グアテマラ地震]]が発生。 * [[1789年]] - [[第1回アメリカ合衆国議会]]([[:en:1st_United_States_Congress|1st United States Congress]])が閉会。 * [[1829年]] - [[イギリス]]の首都警察[[スコットランドヤード]]が発足。 * [[1833年]] - [[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]が[[スペイン]]女王に即位。 * [[1837年]] - [[歴史的記念物 (フランス)|フランス歴史的記念物]]の称号制度が始まる。 * [[1848年]] - [[ハンガリー革命 (1848年)|ハンガリー革命]]: [[パーコズドの戦い]]([[:en:Battle_of_Pákozd|Battle of Pákozd]])。 * [[1855年]] - [[フィリピン]]の[[イロイロ港]]([[:en:Port_of_Iloilo|Port_of_Iloilo]])がスペインによって貿易のため開港される。 * [[1864年]] - [[南北戦争]]: [[チャフィン農園の戦い]]。 * 1864年 - [[リスボン条約 (1864年)|リスボン条約]]が署名されスペインとポルトガルの国境線が定められる。 * [[1885年]] - [[日本郵船]]創立(郵便汽船三菱と[[共同運輸会社|共同運輸]]が合併、同年[[10月1日]]創業)。 * 1885年 - [[ブラックプール・トラム]]が開業。 * [[1902年]] - [[ニューヨーク]]・[[ブロードウェイ]]に初の商業[[ミュージカル]]劇場が開場。 * [[1907年]] - [[ワシントン大聖堂]]起工。 * [[1911年]] - [[伊土戦争]]勃発。 * [[1918年]] - [[原敬]]が第19代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[原内閣]]が成立。 * 1918年 - [[第一次世界大戦]]: [[ブルガリア]]が[[サロニカ休戦協定]]([[:en:Armistice_of_Salonica|Armistice of Salonica]])に署名。 * 1918年 - [[第一次世界大戦]]・[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]: [[連合国 (第一次世界大戦)|連合軍]]が{{仮リンク|ヒンデンブルク線|en|Hindenburg Line}}を突破。 * 1918年 - 第一次世界大戦: [[ドイツ]]の最高軍司令部が皇帝と首相に[[11月11日]]の[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]の交渉を開始するように指示。 * [[1920年]] - 大リーグ・[[ブラックソックス事件]]の裁判で、8選手が八百長を認める証言。翌年、無罪判決が出るが、球界永久追放となる。 * [[1923年]] - フランスによる[[フランス委任統治領シリア|シリア委任統治]]、イギリスによる[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ委任統治]]の委任状が発効。 * [[1927年]] - [[ベーブ・ルース]]がシーズン60号ホームランを打ち、当時の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]記録を更新。 * [[1932年]] - [[チャコ戦争]]: [[ボケロンの戦い]]([[:en:Battle_of_Boquerón_(1932)|Battle of Boquerón (1932)]])が終了。 * [[1938年]] - [[ミュンヘン会談]]。( - [[9月30日]]) * [[1940年]] - [[ブロックルズビー空中衝突事故]]([[:en:1940_Brocklesby_mid-air_collision|1940 Brocklesby mid-air collision]])。 * [[1941年]] - ナチスによる[[バビ・ヤール#ナチスの占領|バビ・ヤールでの虐殺]]が起こる。 * [[1943年]] - [[ゾルゲ事件]]: [[東京地方裁判所|東京地裁]]が[[リヒャルト・ゾルゲ]]や[[尾崎秀実]]らに[[死刑]]判決。 * [[1945年]] - [[昭和天皇]]と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]が並ぶ写真を新聞各紙が掲載。 * [[1946年]] - [[新潟日報社襲撃事件]]。 * 1946年 - [[富山地方鉄道上滝線]]、[[上滝駅]]-上滝公園下駅(当時)間で電車三重衝突事故。死者1名、重傷者6名、軽傷者6名。 * [[1949年]] - [[中国共産党]]が[[甘粛省]]全域を支配下に置く。 * [[1950年]] - [[国際連合安全保障理事会決議87]]が採択。この年の[[10月15日]]以降に[[中華人民共和国]]が[[台湾島]]への武力侵攻を宣言した場合、中華人民共和国と[[中華民国]]の双方の代表が出席して対応することを決定。 * [[1954年]] - [[欧州原子核研究機構]](CERN)が発足。 * 1954年 - [[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]が初訪中。 * 1954年 - MLB[[1954年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]第一戦8回表の守備で、[[ウィリー・メイズ]]が『[[:en:The Catch (baseball)|ザ・キャッチ]]』の好捕。 * [[1957年]] - [[ソビエト連邦|ソ連]][[チェリャビンスク州]]の[[放射性廃棄物]]タンクで爆発事故がおこったが、[[1989年]]まで事実はふせられた。([[ウラル核惨事]]) * [[1962年]] - [[カナダ]]初の国産実験衛星「[[アルーエット1]]」が打ち上げ。 * [[1963年]] - [[第2バチカン公会議#第2会期(1963年9月29日~12月4日)|第2バチカン公会議第2会期]]が始まる( - [[12月4日]])。 * [[1969年]] - [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の[[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第14番]]が初演される。 * [[1971年]] - [[第二水俣病]]訴訟で新潟地裁は[[昭和電工]]に賠償金の支払いを命じる判決を出す。 * [[1972年]] - [[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]に調印。[[日本]]と[[中華人民共和国]]の国交が成立([[日中国交正常化]])。[[大平正芳]]外相が、日本と[[中華民国]](台湾)との間の条約は失効と表明。 * [[1975年]] - [[三園浄水場]]の上水道が通水。 * [[1977年]] - [[ダッカ日航機ハイジャック事件]]: 日本政府が[[超法規的措置]]により犯人グループの要求通り獄中の9人を釈放。 * [[1979年]] - [[フランシスコ・マシアス・ンゲマ]]が甥の[[テオドロ・オビアン・ンゲマ]]率いる[[クーデター]]で処刑される。 * [[1984年]] - [[大韓民国|韓国]]の豪雨被害に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が援助物資を贈り、受け渡しが[[板門店]]で行なわれる。( - [[10月4日]]) * [[1988年]] - [[1986年]]の[[チャレンジャー号爆発事故]]以来凍結されていた[[スペースシャトル]]計画が、[[STS-26]]の「[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]」の打ち上げで再開される。 * [[1989年]] - [[横綱]][[千代の富士貢|千代の富士]]が[[国民栄誉賞]]を授与される。 * [[1990年]] - [[F-22 (戦闘機)|YF-22]]([[:en:Lockheed_YF-22|en: Lockheed YF-22]])が初飛行<!-- 日本時間9月30日? -->。 * [[1991年]] - [[1991年ハイチクーデター]]([[:en:1991_Haitian_coup_d'état|1991 Haitian coup d'état]])が発生。 * [[1992年]] - [[ブラジル]]の[[フェルナンド・コロール・デ・メロ]][[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]]が辞任。 * [[1993年]] - [[インド]]・[[マハラシュトラ州]]で[[マグニチュード]]6.3の[[地震]]発生。 * [[1996年]] - [[任天堂]]が[[北アメリカ|北米]]で[[NINTENDO64]]を発売。 * [[1999年]] - [[下関通り魔殺人事件]]。 * [[2001年]] - サイラキュース・ジャーナル([[:en:Syracuse_Herald-Journal|Syracuse Herald-Journal]])の刊行が終了。 * [[2002年]] - 第14回[[2002年アジア競技大会|アジア競技大会]]が[[釜山広域市|釜山]]で開幕。( - [[10月14日]]) <!-- 確認できず * 2004年 - [[kmm737-800]]型機が[[ブラジル]]北部[[パラ州]]上空で小型機と衝突、[[熱帯雨林|ジャングル]]に墜落し同機の乗員乗客155名全員が死亡。 --> * [[2004年]] - 定期的に地球のすぐ近くを通る[[小惑星]][[トータティス (小惑星)|トータティス]]が地球から156万kmのところまで接近する。 * 2004年 - スペースシップワンが民間宇宙船開発に対する賞金制度「[[Ansari X Prize]]」の受賞条件を最も早く達成する。 * [[2005年]] - [[阪神タイガース]]が2年ぶりに[[セントラル・リーグ|リーグ]]優勝。 * [[2006年]] - [[ゴル航空1907便墜落事故]]。 <!-- * [[2006年]] - [[1954年]]から放送が開始された[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系の[[長寿番組]]『[[NNNきょうの出来事]]』が終了。 --> * [[2007年]] - 2003年から行われてきた[[平等院]]の平成大修理事業が終了。 * 2007年 - [[セラフィールド]]にある[[コールダーホール原子力発電所]]の4つの冷却塔が爆破解体される。 * [[2008年]] - [[サブプライムローン]]問題: 米下院で[[緊急経済安定化法]]が否決。[[ダウ平均株価]]が史上最大の下落幅となる777.68ドル安を記録。 * [[2009年]] - [[サモア沖地震 (2009年)|サモア沖地震]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2009年9月30日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2647777 |title=南太平洋サモアでM8.0の強い地震、少なくとも28人が死亡か |work=AFPBB News |publisher=AFP |accessdate=2018-04-15}}</ref>。<!-- 「9月29日」に特記すべき情報ですか? * [[2017年]] - [[京王線]]で座席指定列車として使用される新型車両[[京王5000系電車 (2代)|5000系(2代)]]先行営業運転開始。 --> * [[2013年]] - [[グジバ大学虐殺事件]]([[:en:Gujba_college_massacre|Gujba college massacre]])が発生する。 * [[2019年]] - [[2019年オーストリア議会選挙]]([[:en:2019_Austrian_legislative_election|2019 Austrian legislative election]])が行われる。 * [[2020年]] - [[クウェートの首長|クウェート首長]]の[[サバーハ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ|サバーハ4世]]が薨去し、30日[[ナワーフ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ]]([[:en:Nawaf_Al-Ahmad_Al-Jaber_Al-Sabah|Nawaf al-Ahmad al-Jaber al-Sabah]])が即位。 {{-}} == 誕生日 == [[File:Accademia - Miracle of the Slave by Tintoretto.jpg|thumb|upright|[[ルネサンス期]][[ヴェネツィア派|ヴェネツィア]]で活躍した[[画家]]、[[ティントレット]](1518-1594)誕生。画像は《奴隷の奇蹟》(1548)]] [[File:Boucher Diane sortant du bain Louvre 2712.jpg|thumb|upright|[[ロココ]]芸術全盛期を築いた[[フランス]]の画家、[[フランソワ・ブーシェ]](1573-1610)誕生。画像は《水浴のディアナ》(1742)]] [[File:HoratioNelson1.jpg|thumb|120px|[[イギリス海軍|英国海軍]][[提督]]、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]](1758-1805)誕生。]] {{multiple image | image1 = Miguel de Unamuno Meurisse 1925.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[実存主義]]的な死生観を追求した[[スペイン]]の思想家、[[ミゲル・デ・ウナムーノ]](1864-1936)誕生 | alt1 = ウナムーノ | image2 = Suzuki Miekichi.JPG | width2 = 100 | caption2 = 『[[赤い鳥]]』を創刊し、日本児童文化運動を牽引した[[児童文学]]者、[[鈴木三重吉]](1898-1936)誕生 | alt2 = 鈴木三重吉 }} {{multiple image | image1 = Trofim Lysenko portrait.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[ソビエト連邦]]の[[生物学者]]にして[[農学者]]、[[トロフィム・ルイセンコ]](1898-1976)誕生。[[疑似科学]]的な[[ヤロビ農法]]は共産諸国に広く支持され、多くの弊害を招いた | alt1 = ルイセンコ | image2 = Enrico Fermi 1943-49.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[原子核分裂]]の[[連鎖反応]]制御に成功するなど、[[核物理学]]に多大な影響を残した[[イタリア]]出身の[[物理学者]]、[[エンリコ・フェルミ]](1901-1956)誕生 | alt2 = フェルミ }} [[File:Silvio Berlusconi (2010) cropped.jpg|thumb|120px|[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]](1936-2023)誕生]] [[File:Felice Gimondi 1966.jpg|thumb|120px|史上2人目の欧州三大大会制覇をした[[イタリア]]の[[ロードレース (自転車競技)|自転車競技]]選手、[[フェリーチェ・ジモンディ]](1942-2019)誕生]] [[File:Andriy Shevchenko Ukraine.jpg|thumb|120px|[[ウクライナ]]を初の[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]に導いた英雄的[[サッカー選手]]、[[アンドリー・シェフチェンコ]](1976-)誕生]] * [[紀元前106年]] - [[グナエウス・ポンペイウス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Pompey-the-Great Pompey the Great Roman statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[共和政ローマ]]の軍人、政治家(+ [[紀元前48年]]) * [[929年]]([[宝正]]4年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[銭弘俶]]、[[五代十国時代|十国]][[呉越]]の第5代(最後)の王(+ [[988年]]) * [[1240年]] - [[マーガレット・オブ・イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]の王妃(+ [[1275年]]) * [[1276年]] - [[クリストファ2世 (デンマーク王)|クリストファ2世]]、[[デンマーク王]](+ [[1332年]]) * [[1402年]] - [[フェルナンド聖王子]]、[[ポルトガル]]の王子(+ [[1443年]]) * [[1460年]] - [[ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ]]、貴族(+ [[1525年]]) * [[1463年]] - [[ルイ1世 (レーヴェンシュタイン伯爵)|ルイ1世]]([[:en:Louis_I,_Count_of_Löwenstein|Louis_I,_Count_of_Löwenstein]])、レーヴェンシュタイン伯爵(+ [[1523年]]) * [[1511年]] - [[ミシェル・セルヴェ]]、[[人文主義者]]、[[医師]]、[[神学者]](+ [[1553年]]) * [[1518年]] - [[ティントレット]]、[[画家]](+ [[1594年]]) * [[1547年]] - [[ミゲル・デ・セルバンテス]]、作家(+ [[1616年]]) * [[1548年]] - [[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]、[[バイエルン公]](+ [[1626年]]) * [[1561年]] - [[アドリアン・ファン・ルーメン]]([[:en:Adriaan_van_Roomen|Adriaan van Roomen]])、司祭(+ [[1615年]]) * [[1571年]] - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]、画家<ref>Andrew Graham-Dixon, "[https://www.britannica.com/biography/Caravaggio Caravaggio]"『[[Britannica|ブリタニカ百科事典]]』。2020年8月25日閲覧。</ref> *[[1574年]] - [[ルドヴィック・スチュワート (第2代レノックス公爵)|ルドヴィック・スチュワート]]([[:en:Ludovic_Stewart,_2nd_Duke_of_Lennox|Ludovic Stewart, 2nd Duke of Lennox]])、第2代[[レノックス公爵]](+ [[1624年]]) * [[1602年]] - [[アルジャーノン・パーシー (第10代ノーサンバランド伯)|アルジャーノン・パーシー]]、第10代[[ノーサンバランド伯]](+ [[1668年]]) * [[1636年]] - [[トーマス・テニソン]]([[:en:Thomas_Tenison|Thomas Tenison]])、大司教(+ [[1715年]]) * [[1639年]] - [[ウィリアム・ラッセル (1639-1683)|ウィリアム・ラッセル]](ラッセル卿)、政治家(+ [[1683年]]) * [[1640年]] - [[アントワーヌ・コワズヴォ]](Antoine Coysevox)、彫刻家(+ [[1720年]]) * [[1674年]] - [[ジャック・オトテール]]、[[作曲家]]、[[フルート奏者]](+ [[1763年]]) * [[1678年]] - [[アドリアン・モーリス・ド・ノワイユ]]([[:en:Adrien_Maurice_de_Noailles|Adrien Maurice de Noailles]])、フランス外務大臣、軍人(+ [[1766年]]) * [[1691年]] - [[リチャード・シャロナー]]([[:en:Richard_Challoner|Richard Challoner]])、司教(+ [[1781年]]) * [[1703年]] - [[フランソワ・ブーシェ]]、画家(+ [[1770年]]) * [[1718年]] - [[ニキータ・パーニン]]、[[ロシア帝国]]外務大臣(+ [[1783年]]) * [[1725年]] - [[ロバート・クライヴ]]、軍人(+ [[1774年]]) * [[1758年]] - [[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]、イギリス海軍軍人、提督(+ [[1805年]]) * [[1761年]]([[宝暦]]11年[[9月2日 (旧暦) |9月2日]]) - [[堀田正時]]、[[佐倉藩|佐倉藩主]](+ [[1811年]]) * [[1765年]] - [[カール・ハーディング]]、小惑星[[ジュノー (小惑星)|ジュノー]]の発見者(+ [[1834年]]) * [[1766年]] - [[シャーロット (ヴュルテンベルク王妃)|シャーロット・オーガスタ・マティルダ]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王]][[フリードリヒ1世 (ヴュルテンベルク王)|フリードリヒ1世]]の王妃(+ [[1828年]]) * [[1786年]] - [[グアダルーペ・ビクトリア]]、初代[[メキシコ|メキシコ合衆国]][[メキシコの大統領|大統領]](+ [[1843年]]) * 1786年([[天明]]6年[[9月8日 (旧暦) |9月8日]]) - [[松平康乂]]、[[津山藩|津山藩主]](+ [[1805年]]) * [[1791年]]([[寛政]]3年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]])- [[真田幸貫]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[松代藩|松代藩主]](+ [[1852年]]) * [[1803年]] - [[マーケイター・クーパー]]、[[探検家]]、船乗り、[[マンハッタン号]]([[:en:Manhattan_(1843_ship)|Manhattan (1843_ship)]])船長(+ [[1876年]]) *1803年 - [[ジャック・シャルル・フランソワ・シュトゥルム]]([[:en:Jacques_Charles_François_Sturm|Jacques Charles François Sturm]])、数学者(+ [[1855年]]) * [[1810年]] - [[エリザベス・ギャスケル]]、[[小説家]](+ [[1865年]]) * [[1815年]] - {{仮リンク|アンドレアス・アッシェンバッハ|en|Andreas Achenbach|de|Andreas Achenbach}}、画家(+ [[1910年]]) * [[1816年]] - [[ポール・フェヴァル]]([[:en:Paul_Féval,_père|Paul Féval, père]])、作家(+ [[1887年]]) * [[1820年]] - [[アンリ・ダルトワ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]の孫(+ [[1883年]]) * [[1827年]]([[文政]]10年[[8月9日 (旧暦) |8月9日]]) - [[松平信璋]]、[[三河吉田藩|吉田藩主]](+ [[1849年]]) * [[1832年]] - [[ミゲル・ミラモン]]、タクバヤの陰謀による[[メキシコの大統領|メキシコ暫定大統領]](+ [[1867年]]) * [[1843年]] - [[ミハイル・スコベレフ]]、軍人(+ [[1882年]]) * [[1844年]] - [[ミゲル・アンヘル・フアレス・セルマン]]([[:en:Miguel_Ángel_Juárez_Celman|Miguel Ángel Juárez Celman]])、第10代[[アルゼンチン大統領]](+ [[1909年]]) * [[1848年]]([[嘉永]]元年[[9月3日 (旧暦) |9月3日]]) - [[松平頼策]]、[[常陸府中藩|府中藩主]]、[[子爵]](+ [[1886年]]) * [[1859年]] - [[デーブ・オル]]、[[プロ野球選手]](+ [[1915年]]) * [[1863年]] - [[フーゴー・ハーゼ]]、[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)初代党首、[[平和主義者]](+ [[1919年]]) * [[1864年]] - [[ミゲル・デ・ウナムーノ]]、[[哲学者]]、[[文学者]]、[[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1936年]]) * [[1866年]] - [[ムィハーイロ・フルシェーウシクィイ]]、歴史家(+ [[1934年]]) * [[1867年]] - [[ヴァルター・ラーテナウ]]、ドイツ外相(+ [[1922年]]) * [[1879年]] - [[マリウス・ジェイコブ]]([[:en:Marius_Jacob|Marius Jacob]])、アナキスト(+ [[1954年]]) * [[1880年]] - [[リベラト・ピント]]([[:en:Liberato_Pinto|Liberato Pinto]])、第79代[[ポルトガル首相]](+ [[1949年]]) * [[1881年]] - [[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]]、[[経済学者]](+ [[1973年]]) * [[1882年]] - [[鈴木三重吉]]、[[児童文学]]者(+ [[1936年]]) * 1882年 - [[リリアス・アームストロング]]([[:en:Lilias_Armstrong|Lilias Armstrong]])、電話技師(+ [[1937年]]) * [[1894年]] - [[エルネスト・アンブロジーニ]]、[[陸上競技選手]](+ [[1951年]]) * [[1895年]] - [[クラレンス・アシュリー]]([[:en:Clarence_Ashley|Clarence Ashley]])、歌手、[[バンジョー]]奏者(+ [[1967年]]) * 1895年 - [[ジョゼフ・バンクス・ライン]]、[[超心理学]]者(+ [[1980年]]) * 1895年 - [[ロスコー・ターナー]]、パイロット(+ [[1970年]]) * [[1898年]] - [[トロフィム・ルイセンコ]]、農学者(+ [[1976年]]) * [[1899年]] - [[ビーロー・ラースロー]]、[[ボールペン]]の発明者(+ [[1985年]]) * [[1900年]] - [[ミゲル・アレマン|ミゲル・アレマン・バルデス]]、第46代[[メキシコ大統領]](+ [[1983年]]) * [[1901年]] - [[エンリコ・フェルミ]]、[[物理学者]](+ [[1954年]]) * 1901年 - [[ランツァ・デル・ヴァスト]]([[:en:Lanza_del_Vasto|Lanza del Vasto]])、詩人、哲学者(+ [[1981年]]) * [[1903年]] - [[オットー・フォン・ポラット]]([[:en:Otto_von_Porat|Otto von Porat]])、[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]](+ [[1982年]]) * [[1904年]] - [[グリア・ガースン]]、[[俳優|女優]](+ [[1996年]]) * [[1905年]] - [[フィデル・ラバルバ]]、ボクサー(+ [[1981年]]) * [[1906年]] - [[チャールズ・ウォルコット (作曲家)|チャールズ・ウォルコット]]([[:en:Charles_Wolcott|Charles Wolcott]])、作曲家(+ [[1987年]]) * [[1907年]] - [[ハンス・マーティン・ズーターマイスター]]、作家(+ [[1977年]]) * 1907年 - {{仮リンク|ジーン・オートリー|en|Gene Autry}}、歌手(+ [[1998年]]) * [[1908年]] - [[エディ・トーラン]]、陸上競技選手(+ [[1967年]]) * [[1909年]] - [[小田切信男]]、[[医師]]、[[聖書]]研究家(+ [[1982年]]) * [[1910年]] - [[ヴァージニア・ブルース]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]](+ [[1982年]]) * 1910年 - [[アルド・ドナーティ]]([[:en:Aldo_Donati|Aldo Donati]])、サッカー選手(+ [[1984年]]) * [[1911年]] - [[麻生太賀吉]]、[[実業家]]、[[政治家]](+ [[1980年]]) * 1911年 - [[チャールズ・コート]]([[:en:Charles_Court|Charles Court]])、第21代[[西オーストラリア州首相]](+ [[2007年]]) * [[1912年]] - [[ミケランジェロ・アントニオーニ]]、[[映画監督]](+ [[2007年]]) * [[1913年]] - [[スタンリー・クレイマー]]、[[映画監督]](+ [[2001年]]) * 1913年 - [[シルヴィオ・ピオラ]]、サッカー選手(+ [[1996年]]) * 1913年 - [[トレヴァー・ハワード]]、俳優(+ [[1988年]]) * [[1915年]] - [[ブレンダ・マーシャル]]、女優(+ [[1992年]]) * [[1917年]] - [[八幡野平八郎]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1994年]]) <!-- 出典が不明 * 1917年 - [[ハリー・シャウプ]]、[[アメリカ空軍]]大佐(+ [[2009年]]) --> * 1917年 - [[赤谷源一]]、[[国際連合事務次長]](+ [[1987年]]) * [[1919年]] - [[キラ・ズヴォリキナ]]([[:en:Kira_Zvorykina|Kira Zvorykina]])、チェス選手(+ [[2014年]]) * 1919年 - [[竹本正男]]、体操選手(+ [[2007年]]) * [[1920年]] - [[ヴァーツラフ・ノイマン]]、[[指揮者]](+ [[1995年]]) * 1920年 - [[平野龍一]]、[[法学者]](+ [[2004年]]) * 1920年 - [[ピーター・ミッチェル|ピーター・デニス・ミッチェル]]、[[生化学者]](+ [[1992年]]) * [[1922年]] - [[リザベス・スコット]]([[:en:Lizabeth_Scott|Lizabeth Scott]])、女優(+ [[2015年]]) * [[1925年]] - [[スティーヴ・フォレスト]]、俳優(+ [[2013年]]) * 1925年 - [[ポール・マクレディ]]、航空技術者(+ [[2007年]]) * [[1926年]] - [[チャック・クーパー]]、バスケットボール選手(+ [[1984年]]) * [[1927年]] - [[アデマール・ダ・シルバ]]、三段跳び選手(+ [[2001年]]) * 1927年 - [[ピート・マックロスキー]]([[:en:Pete_McCloskey|Pete McCloskey]])、政治家 * 1927年 - [[エリザベス・ピーターズ]]、作家(+ [[2013年]]) * [[1928年]] - [[田村錦人]]、[[俳優]]、[[声優]](+ [[2015年]]) * 1928年 - [[マルティン・トゥルノフスキー]]、[[指揮者]](+ [[2021年]]) * [[1930年]] - [[リチャード・ボニング]]、指揮者 * 1930年 - [[コリン・デクスター]]、[[推理作家]](+ [[2017年]]) * [[1931年]] - [[アニタ・エクバーグ]]、女優(+ [[2015年]]) * 1931年 - [[ジェイムズ・クローニン]]、物理学者(+ [[2016年]]) * [[1932年]] - [[植草貞夫]]、[[アナウンサー]] * 1932年 - [[ロバート・ベントン]]、映画監督 * [[1933年]] - [[サモラ・マシェル]]、[[モザンビークの大統領一覧|モザンビーク初代大統領]](+ [[1986年]]) * [[1934年]] - [[ミハイ・チクセントミハイ]]、心理学者(+ [[2021年]]) * 1934年 - [[スカンドル・アクバ]]、プロレスラー(+ [[2010年]]) * 1934年 - [[スチュアート・M・カミンスキー]]、推理作家(+ [[2009年]]) * [[1935年]] - [[深谷隆司]]、政治家 * 1935年 - [[中川李枝子]]、[[児童文学作家]] * 1935年 - [[藤井弘]]、元[[プロ野球選手]](+ [[2018年]]) * 1935年 - [[新井茂]]、元プロ野球選手 * 1935年 - [[ジェリー・リー・ルイス]]、歌手(+ [[2022年]]) * 1935年 - [[ミレーヌ・ドモンジョ]]、歌手 * 1935年 - [[秋山武司]]、元プロ野球選手 * [[1936年]] - [[三谷太一郎]]、[[政治学者]] * 1936年 - [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]、政治家、イタリア首相(+ [[2023年]]) * [[1937年]] - [[ジャン=ピエール・エルカバッハ]]([[:en:Jean-Pierre_Elkabbach|Jean-Pierre Elkabbach]])、コメディアン * [[1938年]] - [[ウィム・コック]]、政治家、[[オランダの首相|オランダ首相]](+ [[2018年]]) * [[1939年]] - [[高橋伸夫 (地理学者)|高橋伸夫]]、[[地理学者]](+ [[2013年]]) * 1939年 - [[フィクレト・アブディッチ]]([[:en:Fikret_Abdić|Fikret Abdić]])、経済学者 * 1939年 - [[ジム・バクスター]]([[:en:Jim_Baxter|Jim Baxter]])、サッカー選手(+ [[2001年]]) * 1939年 - [[ラリー・リンヴィル]]([[:en:Larry_Linville|Larry Linville]])、俳優(+ [[2000年]]) * 1939年 - [[ロドリー・モーガン]]([[:en:Rhodri_Morgan|Rhodri Morgan]])、ウェールズ第一首相(+ [[2017年]]) * [[1940年]] - [[カルロス・モラレス・トロンコソ]]([[:en:Carlos_Morales_Troncoso|Carlos Morales Troncoso]])、第34代[[ドミニカ共和国の副大統領|ドミニカ共和国副大統領]](+ [[2014年]]) <!-- 出典が不明 * [[1940年]] - [[上野紀子]]、絵本作家 --> * [[1941年]] - [[ミールホセイン・ムーサヴィー]]、イラン首相 * [[1942年]] - [[今谷明]]、[[歴史学者]] * 1942年 - [[マデリーン・カーン]]、女優(+ [[1999年]]) * 1942年 - [[フェリーチェ・ジモンディ]]、自転車選手(+ [[2019年]]) * 1942年 - [[ビル・ネルソン]]、政治家 * 1942年 - [[イアン・マクシェーン]]、俳優 * 1942年 - [[ジャン=リュック・ポンティ]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1942年 - [[スティーヴ・テシック]]([[:en:Steve_Tesich|Steve Tesich]])、脚本家(+ [[1996年]]) * 1942年 - [[イヴ・レニエ]]([[:en:Yves_Rénier|Yves Rénier]])、俳優(+ 2021年) * [[1943年]] - [[林隆三]]、[[俳優]](+ [[2014年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/06/10/kiji/K20140610008336130.html|title=林隆三さん急死 先月28日、熱唱ライブ直後に突然倒れる|publisher=スポニチ Sponichi Annex 芸能|date=2014-06-10|accessdate=2020-10-30}}</ref>) * 1943年 - レツゴー長作、[[漫才師]]([[レツゴー三匹]])(+ [[2018年]]) * 1943年 - [[レフ・ヴァウェンサ]]、[[ポーランドの大統領一覧|ポーランド第2代大統領]] * 1943年 - [[ヴォルフガング・オヴェラート]]、元サッカー選手 * 1943年 - [[ルイス・カルロス・ガラン・サルミエント]]、政治家(+ [[1989年]]) * [[1944年]] - [[マイク・ポスト]]、作曲家 * 1944年 - [[マリーナ・ヘドマン]]([[:en:Marina_Hedman|Marina Hedman]])、女優 * [[1945年]] - [[ナデジダ・チジョワ]]、[[陸上競技選手一覧|砲丸投げ選手]] * [[1946年]] - [[イアン・ウォレス]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ドラマー]])(+ [[2007年]]) * 1946年 - [[パトリシア・ホッジ]]([[:en:Patricia_Hodge|Patricia Hodge]])、女優 * 1946年 - [[ウェイン・ウェルズ]]([[:en:Wayne_Wells|Wayne Wells]])、レスリング選手 * [[1947年]] - [[添野義二]]、[[空手道|空手家]]、元[[キックボクサー]] <!-- 出典が不明 * 1947年 - [[ヨルゴス・ダラーラス]]、歌手 --> * [[1948年]] - [[テオ・ユルゲンスマン]]、ジャズクラリネット奏者 * 1948年 - [[高松秀恒]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * 1948年 - [[内田俊一 (建設官僚)|内田俊一]]、建設官僚 * 1948年 - [[マーク・ファーナー]]([[:en:Mark_Farner|Mark Farner]])、歌手、ギタリスト、作曲家 * 1948年 - [[ヴィクトル・アレクセイエヴィッチ・クロヴォプスコフ]]([[:en:Viktor_Krovopuskov|Viktor Krovopuskov]])、フェンシング選手 * [[1949年]] - [[西城恵一]]、[[天文学者]] * 1949年 - [[板東順司]]、元プロ野球選手 * 1949年 - [[ジョージ・ダララス]]([[:en:George_Dalaras|George Dalaras]])、[[シンガーソングライター]] * [[1950年]] - [[ケン・モッカ]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]] * 1950年 - [[西田隆広]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[福井康雄]]、[[天文学者]] * 1951年 - [[ミシェル・バチェレ]]、政治家、第34・36代[[チリ]][[チリ大統領の一覧|大統領]] * 1951年 - [[ピエル・ルイジ・ベルサーニ]]、[[エミリア=ロマーニャ州]]知事、[[欧州議会]]議員 * [[1952年]] - [[隆の里俊英]]、第59代[[横綱]]、年寄13代[[鳴戸]](+ [[2011年]]) * 1952年 - [[松沼博久]]、元プロ野球選手 * 1952年 - [[モニカ・ツェールト]]、陸上競技選手 * [[1953年]] - [[ウォーレン・クロマティ]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[中川信秀]]、元プロ野球選手 * [[1956年]] - [[セバスチャン・コー]]、陸上選手 * 1956年 - [[ジェームズ・ハルセル]]、[[宇宙飛行士]] * [[1957年]] - [[蓮池薫]]、[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致]]被害者 * 1957年 - [[酒巻匡]]、[[法学者]] * [[1959年]] - [[マキノノゾミ]]、[[脚本家]] * 1959年 - [[板井典夫]]、フードプロデューサー * 1959年 - [[ヨン・フォッセ]]、劇作家 * [[1960年]] - 毛利公子、歌手([[Sugar (日本のコーラスグループ)|Sugar]])(+ [[1990年]]) * 1960年 - [[ロブ・ディアー]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[フーベルト・ノイパー]]、[[スキージャンプ]]選手 * 1960年 - [[ジョン・パクソン]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * 1960年 - [[デビッド・サンマルチノ]]、[[プロレスラー]] * 1960年 - [[キャロル・ウェルスマン]]、[[ジャズ]]・ヴォーカリスト * [[1961年]] - [[ジュリア・ギラード]]、第27代[[オーストラリア首相]] * [[1963年]] - [[横堀悦夫]]、俳優、声優 * [[1964年]] - [[山下容莉枝]]、女優、[[声優]] * 1964年 - [[阿井英二郎]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[ペリクレス・シャムスカ]]、[[サッカー]][[監督]] * 1965年 - [[野中賢二]]、[[調教師]] * [[1966年]] - [[薫田真広]]、ラグビーユニオン選手 * [[1969年]] - [[城山美佳子]]、[[歌手]]、女優、[[タレント]](元[[パンプキン (グループ)|パンプキン]]) * 1969年 - [[イヴィツァ・ヴァスティッチ]]、サッカー選手 * 1969年 - [[エリカ・エレニアック]]、女優 * 1969年 - [[コラアゲンはいごうまん]]、お笑い芸人 * [[1970年]] - [[INORAN]]、ミュージシャン([[LUNA SEA]]) * 1970年 - [[藤井猛]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * 1970年 - [[吉田篤史]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[TAJIRI]]、[[プロレスラー]] * [[1971年]] - [[エディ・ディアス]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[森昭一郎]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]] * 1971年 - [[イツハク・イエディッド]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]] * [[1972年]] - [[真壁刀義]]、プロレスラー * 1972年 - [[小沢カオル]]、[[漫画家]] * [[1973年]] - [[齋藤信治]]、[[バレーボール]]選手 * 1973年 - [[ダヴィ・ボニヤ]]、[[騎手]] * [[1974年]] - [[ビビる大木]]、[[お笑いタレント]] * 1974年 - [[しゅはまはるみ]]、女優 * [[1976年]] - [[アンドリー・シェフチェンコ]]、[[サッカー選手]] * [[1977年]] - [[鈴衛佑規]]、元プロ野球選手 * 1977年 - [[ヒース・ベル]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[河合ふゆみ]]、元[[タレント]] * 1978年 - [[美濃岡洋子]]、[[気象予報士]] * 1978年 - [[穂積ユタカ]]、[[DJ]]、[[リポーター]] * 1978年 - [[クルト・ニルセン]]、歌手 * 1978年 - [[オーノキヨフミ]]、ミュージシャン * [[1979年]] - 久保田和靖、お笑いタレント([[とろサーモン (お笑いコンビ)|とろサーモン]]) * 1979年 - [[ハイタナ]]、歌手 * 1979年 - [[シェリー・ダンカン]]、元プロ野球選手 * [[1980年]] - [[榎本加奈子]]、女優、タレント * 1980年 - [[花沢耕太]]、ミュージシャン([[Chicago Poodle]]) * 1980年 - [[安以軒]]、女優 * 1980年 - [[ザッカリー・リーヴァイ]]、俳優 * [[1981年]] - [[藤崎大輔]]、元プロ野球選手 * 1981年 - [[井上碧]]、女優 * 1981年 - [[山田真歩]]、女優 * 1981年 - [[新妻さと子]]、女優、タレント * 1981年 - [[山本貴則]]、[[プロ野球審判員]] * 1981年 - [[シェーン・スメルツ]]、サッカー選手 * 1981年 - [[畑田亜希]]、ファッションモデル * [[1982年]] - ぁみ、お笑いタレント([[ありがとう (お笑いコンビ)|ありがとう]]) * [[1983年]] - [[ジョナサン・マロ]]、プロ野球選手 * 1983年 - [[鈴木理沙]]、プロボウラー * [[1984年]] - [[下山学]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[ペア・メルテザッカー]]、元サッカー選手 * [[1985年]] - [[ダニ・ペドロサ]]、[[オートバイ]]レーサー * 1985年 - [[尾崎雄二]]、[[競艇選手]]、元サッカー選手 * 1985年 - [[ニクラス・モイサンデル]]、サッカー選手 * 1985年 - [[カルビン・ジョンソン]]、元アメリカンフットボール選手 * [[1986年]] - [[有希・マヌエラ・ヤンケ]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1986年 - [[上田まりえ]]、タレント、元アナウンサー * [[1987年]] - [[はまだこう]]、タレント、[[グラビアアイドル]] * 1987年 - [[アラン・カッシオ・ダ・クルス]]、サッカー選手 * [[1988年]] - [[横山龍之介]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[西原圭大]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[エルサムニー・オサマ]]、元サッカー選手 * 1988年 - [[サムエル・ディ・カルミネ]]、サッカー選手 * 1988年 - [[ケビン・デュラント]]、[[バスケットボール]]選手 * [[1989年]] - [[アンドレア・ポーリ]]、サッカー選手 * 1989年 - [[イェウヘン・コノプリャーンカ]]、サッカー選手 * 1989年 - [[古川慎]]、声優 * 1989年 - [[TJ・ハウス]]、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[八木亮祐]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[坂口真規]]、元プロ野球選手 * 1990年 - [[久富賢]]、サッカー選手 * 1990年 - [[佐倉薫]]、声優 * [[1991年]] - [[柊子]]、アイドル([[JK21]]) * 1991年 - [[アデム・リャイッチ]]、サッカー選手 * [[1992年]] - [[ドーキンズ英里奈]]、タレント、モデル * 1992年 - [[一二三慎太]]、元プロ野球選手 * 1992年 - [[平松修造]]、アナウンサー * 1992年 - 星奈あまゆ、アイドル(元[[ナト☆カン]]) * 1992年 - 虫眼鏡、YouTuber([[東海オンエア]]) * 1992年 - [[青木まりな]]、女優 * 1992年 - [[福岡みもれ]]、モデル、グラビアアイドル * [[1993年]] - [[大島江里奈]]、[[ファッションモデル]] * 1993年 - [[スミス楓]]、モデル * [[1994年]] - [[長野せりな]]、声優、タレント、元[[アイドル]](元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]]13号) * 1994年 - [[ホールジー]]、[[シンガーソングライター]] * [[1995年]] - [[ryuchell]]、ファッションモデル(+ [[2023年]]) * 1995年 - [[岸優太]]、アイドル、俳優(元[[King & Prince]]) * [[1996年]] - [[畠山有希]]、シンガーソングライター、モデル * [[1997年]] - [[藍染カレン]]、アイドル([[ZOC (アイドルグループ)|ZOC]]) * 1997年 - [[花守ゆみり]]、声優 * 1997年 - [[清水麻璃亜]]、アイドル(元[[AKB48]]) * 1997年 - [[飯野雅]]、モデル * 1997年 - [[西ひより]]、アイドル、グラビアアイドル * [[1998年]] - 大西菜友、アイドル(元[[赤マルダッシュ☆]]) * 1998年 - GK、アイドル、ミュージシャン([[DKB (音楽グループ)|DKB]]) * [[1999年]] - [[チェ・イェナ]]、アイドル(元[[IZ*ONE]]) * [[2000年]] - [[小野瑞歩]]、アイドル([[つばきファクトリー]]) * 2000年 - [[マーシュ彩]]、アイドル、モデル * [[2001年]] - 中村綺花、モデル * [[2005年]] - [[羚奈]]、モデル、ウクレレ奏者 * 生年不明 - [[今千秋]]、[[アニメーション]][[監督]] * 生年不明 - [[岩井映美里]]、声優 * 生年不明 - [[蘇武健治]]、声優 * 生年不明 - [[狩野茉莉]]、声優 == 忌日 == [[File:Pompei Magnus Antiquarium.jpg|thumb|120px|[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]とともに[[三頭政治|第一次三頭政治]]を担った[[グナエウス・ポンペイウス]](BC106-BC48)、亡命先のエジプトで暗殺。奇しくも誕生日であった]] {{multiple image | image1 = Tokugawa Nariaki.jpg | width1 = 102 | caption1 = 第9代[[水戸藩|水戸藩主]]、[[徳川斉昭]](1800-1860)、[[安政の大獄]]での[[蟄居]]処分から1年後に急逝 | alt1 = 徳川斉昭 | image2 = Giichi Tanaka posing.jpg | width2 = 102 | caption2 = 最後の[[藩閥|長州閥]]、[[田中義一]](1864-1929)、[[張作霖爆殺事件]]で勅勘を蒙り、辞職後3ヶ月で病没 | alt2 = 田中義一 }} {{multiple image | image1 = Nguyễn Văn Thiệu.jpg | width1 = 102 | caption1 = [[サイゴン]]陥落時の[[ベトナム共和国|南ベトナム]]大統領[[グエン・バン・チュー]](1923-2001)、亡命先のアメリカで客死 | alt1 = グエン | image2 = | width2 = 102 | caption2 = [[恐怖政治]]を布いた[[赤道ギニア]]初代[[赤道ギニアの大統領一覧|大統領]][[マシアス・ンゲマ]](1924-1974)、甥[[テオドロ・オビアン・ンゲマ|テオドロ]]の[[クーデター]]に斃れる | alt2 = ンゲマ }} * [[855年]] - [[ロタール1世 (フランク王)|ロタール1世]]、ローマ王(* [[795年]]) * [[1186年]] - [[ギヨーム・ド・ティール]]、[[十字軍]]時代の[[ティルス|ティール]][[大司教]]、歴史家(* [[1130年]]) * [[1325年]]([[正中 (日本)|正中]]2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])- [[瑩山紹瑾]]、[[曹洞宗]]第四祖(* [[1268年]]) * [[1560年]] - [[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]{{要出典|date=2021-03}}、[[スウェーデン]]国王(* [[1495年]]) * [[1804年]] - [[マイケル・ヒレガス]]、政治家(* [[1729年]]) * [[1833年]] - [[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]、[[スペイン]]国王(* [[1784年]]) * [[1860年]]([[万延]]元年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])- [[徳川斉昭]]、第9代[[水戸藩|水戸藩主]]、[[徳川慶喜]]の父(* [[1800年]]) * [[1891年]] - [[津田三蔵]]、[[大津事件]]主犯(* [[1855年]]) * [[1902年]] - [[ウィリアム・マッゴナガル]]、詩人(* [[1825年]]) * [[1902年]] - [[エミール・ゾラ]]、[[小説家]](* [[1840年]]) * [[1908年]] - [[マシャード・デ・アシス]]、[[小説家]](* [[1839年]]) * [[1910年]] - [[ウィンスロー・ホーマー]]、[[画家]](* [[1836年]]) * [[1927年]] - [[ウィレム・アイントホーフェン]]、[[医学|医学者]](* [[1860年]]) * [[1929年]] - [[田中義一]]、政治家、第26代[[内閣総理大臣]](* [[1864年]]) * [[1930年]] - [[イリヤ・レーピン]]、[[画家]]、[[彫刻家]](* [[1844年]]) * [[1937年]] - [[レイ・ユーリー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1873年]]) * [[1973年]] - [[W・H・オーデン]]、[[詩人]](* [[1907年]]) * [[1975年]] - [[ケーシー・ステンゲル]]、野球選手・監督(* [[1890年]]) * [[1979年]] - [[マシアス・ンゲマ]]、政治家、[[赤道ギニア]]初代[[赤道ギニアの大統領一覧|大統領]](* [[1924年]]) * [[1982年]] - [[モンティ・ストラットン]]、[[プロ野球選手]](* [[1912年]]) * [[1985年]] - [[入江相政]]、[[随筆家|エッセイスト]](* [[1905年]]) * [[1995年]] - [[林伊佐緒]]、歌手・作曲家(* [[1912年]]) * [[1996年]] - [[遠藤周作]]、小説家(* [[1923年]]) * [[1997年]] - [[ロイ・リキテンスタイン]]、画家(* [[1923年]]) * [[2001年]] - [[グエン・バン・チュー]]、[[ベトナム共和国]](南ベトナム)大統領(* [[1923年]]) * [[2007年]] - [[鬼塚喜八郎]]、[[実業家]]、[[アシックス]]創業者(* [[1918年]]) * 2007年 - [[ロイス・マクスウェル]]、女優(* [[1927年]]) * 2007年 - [[ジュラ・ジボツキー]]、[[ハンマー投]]選手(* [[1937年]]) * 2007年 - [[上福元勤]]、プロ野球選手(* [[1966年]]) * [[2010年]] - [[トニー・カーティス]]、俳優(* [[1925年]]) * [[2011年]] - [[花村菊江]]、歌手(* [[1939年]]) * [[2012年]] - [[冴島奈緒]]、[[AV女優]](* [[1968年]]) * [[2013年]] - [[アントン・ベニング]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](* [[1918年]]) * 2013年 - [[山崎豊子]]、作家(* [[1924年]]) * [[2015年]] - [[フィル・ウッズ]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(* [[1931年]]) * [[2017年]] - [[槐柳二]]、俳優、[[声優]](* [[1928年]]) * 2017年 - [[リュドミラ・ベルソワ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1935年]]) * [[2019年]] - [[佐藤しのぶ (歌手)|佐藤しのぶ]]、[[ソプラノ歌手]](* [[1958年]]) * [[2020年]] - [[レツゴー三匹|レツゴー正児]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/10/02/kiji/20201002s00041000201000c.html レツゴー正児さん 肺炎のため死去 80歳 「レツゴー三匹」トリオ3人が鬼籍に] - Sponichi Annex 2020年10月2日</ref>、[[漫才師]]([[レツゴー三匹]])(* [[1940年]]) * 2020年 - [[湯原祐希]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200930/k10012641751000.html|title=ラグビー元日本代表 湯原祐希さん死去 36歳|publisher=NHKニュース|date=2020-09-30|accessdate=2020-12-25}}</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20200930-OHT1T50364.html 11&amp;15年W杯メンバー・湯原祐希さん36歳で急死 今春から東芝コーチ クラブハウスで突然倒れる] . スポーツ報知 (2020年10月01日)2020年12月15日閲覧。</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/202009300000318.html ラグビーW杯元日本代表の湯原祐希さん死去 36歳] . 日刊スポーツ (2020年9月30日)2020年10月23日閲覧。</ref>、[[ラグビーユニオン]]選手(* [[1984年]]) == 記念日・年中行事 == {{multiple image | footer = [[ハンガリー]]出身の[[発明家]][[ビーロー・ラースロー]](1899-1985)と、彼が発明した[[ボールペン]] | image1 = Ladislao Biro Argentina Circa 1978.JPG | width1 = 130 | alt1 = ビーロー | image2 = Bolígrafo birome II edit.jpg | width2 = 30 | alt2 = ボールペン }} {{multiple image | image1 = PD-Maneki Neko.JPG | width1 = 100 | caption1 = [[招き猫]]の日 | alt1 = 招き猫 | image2 = Birthday cake 01.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[洋菓子]]の日 | alt2 = ケーキ }} * {{仮リンク|ミクルマス|en|Michaelmas}}([[カトリック教会]]) *: [[大天使]][[ミカエル]]、[[ガブリエル]]、[[ラファエル]]の[[聖名祝日]]。 * [[発明家の日]]({{ARG}}) *: [[1986年]]から実施。[[ボールペン]]の発明で知られるハンガリーの発明家で、[[アルゼンチン]]で亡くなった[[ビーロー・ラースロー]]の誕生日を記念。 * [[クリーニング]]の日({{JPN}}) *: 「ク(9)リーニ(2)ング(9)」の語呂合せ。全国クリーニング環境衛生同業組合連合会が[[1982年]]に制定。 * [[招き猫]]の日({{JPN}}) *: 招き猫が福を招くといわれていることから、9月29日の「929」を「来る福」と読んで、日本招猫倶楽部が制定。[[猫の日#その他の猫の日|猫の日]]も参照。 * [[洋菓子]]の日({{JPN}}) *: 三重県洋菓子協会が[[2002年]]に制定。フランスでは大天使ミシェル(ミカエル)が菓子職人の[[守護聖人]]となっており、その祝日が9月29日であることから。 * [[接着の日]]({{JPN}}) *: 日本接着剤工業会が[[2010年]]に制定。「929」が「くっつく」と読めるという語呂合わせから。 * くっつくFM東海ラジオの日({{JPN}}) *: [[東海ラジオ放送]]の[[超短波放送|FM]]周波数が92.9MHz(くっつく)であることから、[[日本記念日協会]]に申請し、[[2018年]]に認定される。 <!-- 実施者不明。 * [[フグ|河豚]](ふぐ)の日(日本) *: [[1997年]]から実施。[[2月9日]]も河豚の日である。 --> == フィクションのできごと == {{関連フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0929|date=2011年7月}} *1947年(昭和22年)- [[六本木]]の椿元[[子爵]]邸で砂占いが行われる。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』第4章) *1979年 - 午後8時([[日本標準時]])、富士山麓宇宙港から大型ロケットJX-1「隼号」が打ち上げられ、土星探検に出発する。(映画『[[妖星ゴラス]]』<ref>{{Cite book |和書 |author1=川北紘一監修|authorlink1=川北紘一|author2=岸川靖構成|authorlink2=岸川靖|title = 東宝特撮超兵器画報 |publisher = [[大日本絵画]] |year = 1993 |page = 30 |isbn = 978-4-499-20598-6}}</ref>) *2009年 - 渋谷ニュージェネレーションの狂気の第三の事件「張り付け」と呼ばれる殺人事件が発生。(ゲーム・アニメ『[[CHAOS;HEAD]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1969年]] - 伊出英基、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|author2= 小畑健|authorlink2=小畑健|year = 2006|title = DEATH NOTE|volume = 13|publisher = 集英社|isbn = 978-4-08-874095-9|page = 23}}</ref> * [[1995年]] - 福永招平、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870555-2|quote=|date=|volume=4巻|page=193}}</ref> * 生年不明 - 瓜生新吾、ゲーム・アニメ『[[ましろ色シンフォニー]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://palette.clearrave.co.jp/product/mashiro/chara_shingo.html |title=瓜生新吾 |access-date=2022-10-09 |publisher=palette |work=ましろ色シンフォニー}}</ref> * 生年不明 - フィーナ・ファム・アーシュライト、ゲーム『[[夜明け前より瑠璃色な]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://august-soft.com/yoake/character.htm#FEENA |title=フィーナ・ファム・アーシュライト |access-date=2022-10-09 |publisher=オーガスト |work=夜明け前より瑠璃色な}}</ref><ref>『夜明け前より瑠璃色な -Moonlight Cradle-』特典小冊子「Moonlight Chronicle」[[オーガスト (ブランド)|オーガスト]]、2009年、16頁。</ref> * 生年不明 - 千ヶ崎入莉、ゲーム『[[終わる世界とバースデイ]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamer.ne.jp/news/201702020049/ |title=2012年9月29日、世界は本当に終わるのか―恋愛ADV「終わる世界とバースデイ」PS Vita版が5月11日に発売決定 |access-date=2022-10-09 |publisher=ixll Gamer |date=2017-02-02}}</ref> * 生年不明 - 黒羽春風、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1442868215168655374}}</ref> * 生年不明 - 松本乱菊、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=久保帯人|authorlink=久保帯人|year = 2006 |title = BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs. |page = 219 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-874079-3 }}</ref> * 生年不明 - 鮎沢美咲、漫画・アニメ『[[会長はメイド様!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=藤原ヒロ|authorlink=藤原ヒロ|title = 会長はメイド様!公式ファンブック ご主人様も大満足|publisher = [[白泉社]]|year = 2010|page = 36|isbn = 978-4-592-19836-9}}</ref> * 生年不明 - 妃杈・スメラギ、漫画『[[dear (漫画)|dear]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|title=dear|volume=6巻|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[ガンガンウイングコミックス]]|year=2005|quote=表紙カバー下|isbn=4-7575-1416-6}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 藤原ここあ|title=dear新装版|volume=3巻|publisher=スクウェア・エニックス|series=[[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]]|year=2011|page=358|isbn=978-4-7575-3372-1}}</ref> * 生年不明 - 楠梛斗、漫画・アニメ『[[恋愛暴君]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://renaiboukun.com/character/ |title=楠 梛斗 |access-date=2022-10-09 |publisher=三星めがね・COMICメテオ/恋愛暴君製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 乾心寿、漫画・アニメ『[[その着せ替え人形は恋をする]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kisekoi_anime|1575138258907897856}}</ref> * 生年不明 - [[ハイスクールD×Dの登場人物#紫藤イリナ|紫藤イリナ]]、小説・アニメ『[[ハイスクールD×D]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ishibumi_ddd|603340033752367104}}</ref> * 生年不明 - イクスアイン、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.valvrave.com/character/#c17 |title=イクスアイン |publisher=SUNRISE/VVV Committee, MBS |accessdate=2022-10-09 |work=TVアニメ「革命機ヴァルヴレイヴ」公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 黒崎蘭丸、ゲーム・アニメ『[[うたの☆プリンスさまっ♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=キャラクター|黒崎 蘭丸 |url=https://www.utapri.com/character.php |access-date=2022-10-09 |publisher=BROCCOLI 早乙女学園 / Illustration 倉花千夏 |work=うたの☆プリンスさまっ♪公式Webサイト}}</ref> * 生年不明 - 楊菲菲、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20174 |title=楊 菲菲(やお ふぇいふぇい) |access-date=2022-10-09 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 伊豆野踊子、ゲーム『[[Berry's]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cuffs-sphere.jp/products/berrys/char/yoko/ |title=伊豆野 踊子 |work=Berry's |accessdate=2022-10-09 |publisher=Sphere}}</ref> * 生年不明 - ナミ、ゲーム・アニメ『[[消滅都市]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shoumetsutoshi|1310821609335185408}}</ref> * 生年不明 - イノリ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1310761322653515777}}</ref> * 生年不明 - 湊柊護、メディアミックス『[[プリンス・オブ・ストライド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_pos|913418185419898880}}</ref> <!-- * 生年不明 - 大河内タイガ、漫画『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2018年9月28日 (金) 21:30 (UTC)}} 2022年10月、4年以上要出典のためコメントアウト --> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|29 September}} {{新暦365日|9|28|9|30|[[8月29日]]|[[10月29日]]|[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]|0929|9|29}} {{1年の月と日}}
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1998年長野オリンピック
1998年長野オリンピック(1998ねんながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで、日本の長野県長野市などで開催された20世紀最後の冬季オリンピックであり、平成唯一のオリンピックでもある。2022年現在、長野は、歴代の冬季オリンピック開催地のうち最南で、最も低緯度である。 72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った。 長野オリンピックの競技会場は、長野市の他にも白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地でもある長野市が主催都市(Host City)だった。そのため、1994年リレハンメルオリンピックおよび長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで、長野市の塚田佐市長(当時)が出席した 。 1985年2月28日に信濃毎日新聞は、長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始した。同年3月25日に長野県議会はオリンピック招致決議を行った。その後は、長野県内の全市町村も招致決議を行った 。 1988年6月1日に行われた日本オリンピック委員会(JOC)の1998年冬季オリンピックの開催国内候補地選定投票で盛岡市、山形市、旭川市を破り、選定された。 長野オリンピックの開催は、1991年6月15日にイギリスのバーミンガムで開かれた第97回国際オリンピック委員会総会で決定された。2回目は1回目の最低得票がソルトレイクとアオスタの2都市になったために落選都市決定戦という形で行なわれた。 日本での冬季五輪の開催は1972年札幌オリンピック以来、26年ぶり2度目だった。(1940年も札幌で予定されていたが、第二次世界大戦の影響で中止となっている。冬季の場合は夏季と異なり、非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる。) 長野オリンピックの開会式は、天皇(現在の上皇)・美智子皇后(現在の上皇后)臨席の下、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。当初は夜間の開催だったが、アメリカの放映権を持つCBSの要請により昼間に変更。同時に開催時間を2時間以内に設定していた。総合演出(総合プロデューサー)は劇団四季の浅利慶太が担当(シニアプロデューサーが萩元晴彦、音楽アドバイザーが小澤征爾、イメージ監督が新井満、映像監督が今野勉、総合司会が磯村尚徳と道傳愛子)。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱祭の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の曙の土俵入りが行われ、歌手の森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが...When Children Rule the World」が披露された。 選手入場はオリンピック憲章に則り、ギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は県民歌でもある「信濃の国」に合わせて入場した。 大会組織委員会会長・斎藤英四郎および国際オリンピック委員会(IOC)のフアン・アントニオ・サマランチ会長が挨拶し、「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します。」との天皇の開会宣言後、湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。 猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美の元冬季オリンピック日本代表選手8人がオリンピック旗を持って入場し、長野市児童合唱団の合唱でオリンピック賛歌が演奏され、オリンピック旗が掲揚された。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場した。 1997年世界陸上選手権10000m銅メダリスト・千葉真子から1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピックノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そして1997年世界陸上選手権女子マラソン金メダリストの鈴木博美が引き継ぎ、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」の中の『ある晴れた日に』が演奏され、1992年アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりの手によって聖火が点火された。 オリンピック宣誓は、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、子供たちのメッセージカードが入った羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が1,998個空に放たれた。 開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーベン作曲の交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行い、この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。 さらに演奏終了に合わせて航空自衛隊のブルーインパルスが開会式会場上空で五色のレベルオープナー展示飛行を行った。 屋外競技は全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が変更され、スキージャンプ団体戦は競技が一時中断された。 男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き競技日程が変更され、大会10日目の16日には男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施された。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした(1998年長野オリンピックの滑降競技場設営問題も参照)。なお、このシーズンのワールドカップ総合1位のヘルマン・マイヤーも滑降でこの地点で転倒したが、スーパー大回転および大回転で優勝した。 志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるようスタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能であった。 またコース整備は陸上自衛隊が協力し、降雪によりコースが埋没した際の排雪も行った。 日本勢が金2個(ラージヒル個人・船木和喜、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・原田雅彦)を獲得した。 日本代表団体の金メダル獲得の裏側を描いた映画「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」が制作され、2020年に6月19日に公開予定だった。新型コロナウイルスの影響で延期し、2021年6月18日に公開された。 団体戦の日本代表は冬季五輪3連覇は成らなかったものの5位に入賞した。また個人戦で荻原健司が4位、荻原次晴が6位に入賞した。 クロスカントリースキー男子15kmクラシカルではケニアから出場し、最下位ながらも完走したフィリップ・ボイトを優勝したノルウェーのビョルン・ダーリがゴール地点で出迎えた一幕があった。 大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、カナダのロス・レバグリアティがオリンピックチャンピオンになった。しかしレバグリアティは競技終了後、ドーピング検査でマリファナの陽性反応が出たために一旦はメダル剥奪が決定されたが、スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定により処分は取り消された。 プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回った。 日本勢では清水宏保が男子500メートルで金メダル、男子1000メートルで銅メダルを獲得した。また、女子500メートルでも岡崎朋美が銅メダルを獲得した。 多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワンが金メダルを争い、リピンスキーは当時15歳8か月で金メダルを獲得した。なお、リピンスキーはソニア・ヘニー(ノルウェー)の持つ最年少金メダル記録(15歳10か月)を更新した。その後、オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録の更新は難しくなった。 この大会からプロ選手の参加が認められ、ナショナルホッケーリーグ(NHL)は2週間中断した。NHLの選手を多く所属した6カ国は2次リーグからのシード参加となった。その中でもスター選手揃いのアメリカとカナダが注目されたが、ドミニク・ハシェックを中心とした堅い守備を持ったチェコがロシアとの決勝戦を制して金メダルを獲得した。 モーグル女子で、里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。 正式競技としては1924年シャモニー・モンブランオリンピック以来74年ぶり2度目の実施となった。公開競技として行われた大会を含めると、1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。 なお、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。 閉会式は2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催され、天皇・皇后が臨席した。 各国の選手が入場し、「日本の祭り」というプログラムで長野県の祭りが一堂に集結、創作和太鼓『勇駒、信濃田楽、万岳の響き』の総勢2,000人揃い打ちが小口大八総指揮のもと演じられた。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、今大会の開催国でもある日本、次回大会の開催国・アメリカの3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗が長野市の塚田市長からソルトレイクシティのディーディー・コラディーニ(英語版)市長に引き継がれたあと、ソルトレイクシティオリンピック組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会副会長の吉村午良とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチによって「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともにオリンピック賛歌が演奏・合唱された。 聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱を行い、司会を務めたタレントの萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレでは花火5,000発が打ち上げられ、AGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)が登場し、「WAになっておどろう〜イレアイエ〜」を演奏した。なお、生中継を行った日本テレビの視聴率も30.8%を記録した。 長野オリンピックの開催決定により、1991年には北陸新幹線が現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと北陸新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年時点ではフル規格での建設が決まっていた高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。 軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については小諸駅、佐久平駅も参照。 その他の影響として、1994年にはスキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化された。1997年には選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。また、当時現役で運行されていた新幹線200系電車は本来北陸新幹線区間を走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。 また、記念切手も発行された。 競技内容はもちろん、オリンピックの精神や理念を学習する教材資料として1996年3月に長野県教育委員会が製作・発行し、長野県内すべての小中学校全校生徒に配布された。 長野五輪で使用される施設は、少なからずの不法滞在を含む外国人が入り、施設や道路造りに加わったとされる。しかし、その外国人らの多くが入管法違反(不法残留・入国など)で摘発されていると地元紙の信濃毎日新聞は報じている。同記事によると、長野県警は多数の摘発について「ホワイト・スノー作戦」という名称を付けていると言う。これについて、佐久地域国際連帯市民の会の横田隆志代表が「不法滞在の外国人労働者が日本社会を支えているという暗黙の現実がありながら、五輪が来る場にはいられない。日本の現実の姿だと思いますね」と述べている。また長野市内でスナックを経営するフィリピン人の女性が、日本人客から「五輪までに街をきれいにしなきゃいかん。そのうちあんたらも居られなくなるかもな」と言葉を投げつけられたとも同記事は伝えており、信濃毎日新聞はオリンピックの祝福ムードの陰にある外国人への「排除の論理」についても報じている。 1998年長野冬季オリ・パラ大会では、国際オリンピック委員会(IOC)で招致段階における不正疑惑が浮上したが、当時の長野大会組織委員会が帳簿を焼却し、真相は藪の中となった。
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"この大会からプロ選手の参加が認められ、ナショナルホッケーリーグ(NHL)は2週間中断した。NHLの選手を多く所属した6カ国は2次リーグからのシード参加となった。その中でもスター選手揃いのアメリカとカナダが注目されたが、ドミニク・ハシェックを中心とした堅い守備を持ったチェコがロシアとの決勝戦を制して金メダルを獲得した。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "モーグル女子で、里谷多英が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "正式競技としては1924年シャモニー・モンブランオリンピック以来74年ぶり2度目の実施となった。公開競技として行われた大会を含めると、1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "閉会式は2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催され、天皇・皇后が臨席した。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "各国の選手が入場し、「日本の祭り」というプログラムで長野県の祭りが一堂に集結、創作和太鼓『勇駒、信濃田楽、万岳の響き』の総勢2,000人揃い打ちが小口大八総指揮のもと演じられた。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、今大会の開催国でもある日本、次回大会の開催国・アメリカの3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗が長野市の塚田市長からソルトレイクシティのディーディー・コラディーニ(英語版)市長に引き継がれたあと、ソルトレイクシティオリンピック組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会副会長の吉村午良とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチによって「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともにオリンピック賛歌が演奏・合唱された。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱を行い、司会を務めたタレントの萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレでは花火5,000発が打ち上げられ、AGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)が登場し、「WAになっておどろう〜イレアイエ〜」を演奏した。なお、生中継を行った日本テレビの視聴率も30.8%を記録した。", "title": "概要と経過" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "長野オリンピックの開催決定により、1991年には北陸新幹線が現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと北陸新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年時点ではフル規格での建設が決まっていた高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。", "title": "鉄道への影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については小諸駅、佐久平駅も参照。", "title": "鉄道への影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その他の影響として、1994年にはスキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化された。1997年には選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。また、当時現役で運行されていた新幹線200系電車は本来北陸新幹線区間を走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。", "title": "鉄道への影響" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、記念切手も発行された。", "title": "記念発行物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "競技内容はもちろん、オリンピックの精神や理念を学習する教材資料として1996年3月に長野県教育委員会が製作・発行し、長野県内すべての小中学校全校生徒に配布された。", "title": "記念発行物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "長野五輪で使用される施設は、少なからずの不法滞在を含む外国人が入り、施設や道路造りに加わったとされる。しかし、その外国人らの多くが入管法違反(不法残留・入国など)で摘発されていると地元紙の信濃毎日新聞は報じている。同記事によると、長野県警は多数の摘発について「ホワイト・スノー作戦」という名称を付けていると言う。これについて、佐久地域国際連帯市民の会の横田隆志代表が「不法滞在の外国人労働者が日本社会を支えているという暗黙の現実がありながら、五輪が来る場にはいられない。日本の現実の姿だと思いますね」と述べている。また長野市内でスナックを経営するフィリピン人の女性が、日本人客から「五輪までに街をきれいにしなきゃいかん。そのうちあんたらも居られなくなるかもな」と言葉を投げつけられたとも同記事は伝えており、信濃毎日新聞はオリンピックの祝福ムードの陰にある外国人への「排除の論理」についても報じている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1998年長野冬季オリ・パラ大会では、国際オリンピック委員会(IOC)で招致段階における不正疑惑が浮上したが、当時の長野大会組織委員会が帳簿を焼却し、真相は藪の中となった。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "", "title": "その他" } ]
1998年長野オリンピック(1998ねんながのオリンピック)は、1998年(平成10年)2月7日から2月22日まで、日本の長野県長野市などで開催された20世紀最後の冬季オリンピックであり、平成唯一のオリンピックでもある。2022年現在、長野は、歴代の冬季オリンピック開催地のうち最南で、最も低緯度である。 72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った。 長野オリンピックの競技会場は、長野市の他にも白馬村、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地でもある長野市が主催都市だった。そのため、1994年リレハンメルオリンピックおよび長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで、長野市の塚田佐市長(当時)が出席した。
{{オリンピックインフォメーション |大会名称 = 1998年長野オリンピック |英称・別称 = 第18回オリンピック冬季競技大会<br />XVIII Olympic Winter Games |画像 = Aqua Wing Arena.JPG |ロゴ = |開催都市 = {{JPN}} [[長野市|長野]] |参加国・地域数 = 72 |参加人数 = 2,302人(男子1,488人、女子814人) |競技種目数 = 7競技68種目 |開会式 = [[1998年]][[2月7日]] |閉会式 = 1998年[[2月22日]] |開会宣言 = [[明仁|上皇(明仁)]]([[平成]]の[[天皇]]) |選手宣誓 = [[荻原健司]] |審判宣誓 = [[平松純子]] |最終聖火ランナー = [[伊藤みどり]] |主競技場 = [[長野オリンピックスタジアム]] |冬用前冬 = {{flagicon|NOR}}[[1994年リレハンメルオリンピック|1994年リレハンメル]] |冬用次冬 = {{flagicon|USA}}[[2002年ソルトレークシティオリンピック|2002年ソルトレークシティ]] |冬用前夏 = {{flagicon|USA}}[[1996年アトランタオリンピック|1996年アトランタ]] |冬用次夏 = {{flagicon|AUS}}[[2000年シドニーオリンピック|2000年シドニー]] }} {{座標一覧}} [[ファイル:1998 Nagano Olympics bridge (4415089217).jpg|サムネイル|ロゴマーク。[[篠塚正典]]のデザイン。]] '''1998年長野オリンピック'''(1998ねんながのオリンピック)は、[[1998年]]([[平成]]10年)[[2月7日]]から[[2月22日]]まで、[[日本]]の[[長野県]][[長野市]]などで開催された[[20世紀]]最後の[[冬季オリンピック]]であり、[[平成]]唯一のオリンピックでもある。2022年現在、長野は、歴代の冬季オリンピック開催地のうち最南で、最も低緯度である。 72の国(地域)から選手・役員4638人が参加し、延べ144万2700人の観客が会場に集った<ref name="PostOlympics">{{PDFlink|[http://www.pref.nagano.lg.jp/kanken/jigyo/gyomu/documents/gorinhoukoku.pdf 長野冬季五輪から10年後の自然保護対策における現状と課題]}}(長野県環境保全研究所長野冬季五輪研究プロジェクト 2009年)</ref>。 長野オリンピックの競技会場は、長野市の他にも[[白馬村]]、[[山ノ内町]]、[[軽井沢町]]、[[野沢温泉村]]に配置され、このうち人口が最も多く県庁所在地でもある長野市が主催都市(Host City)だった。そのため、[[1994年リレハンメルオリンピック]]および長野オリンピックの閉会式では、いずれも次回開催地への引き継ぎセレモニーで、長野市の[[塚田佐]]市長(当時)が出席した<ref>[http://weekly-nagano.main.jp/2014/03/19-23.html 19 リレハンメルへ ~五輪旗を受け取る 感動と感激の閉会式~]『週刊長野記事アーカイブ 塚田佐さん』</ref><ref>[http://weekly-nagano.main.jp/2014/06/post-62.html 29五輪閉幕 ~オリンピック旗渡す 肩の荷が下りる思い~]『週刊長野記事アーカイブ 塚田佐さん』</ref> 。 == 大会開催までの経緯 == 1985年2月28日に[[信濃毎日新聞]]は、長野県への冬季オリンピック招致キャンペーンを開始した。同年3月25日に[[長野県議会]]はオリンピック招致決議を行った。その後は、長野県内の全市町村も招致決議を行った<ref>江沢正雄ほか『長野五輪 歓喜の決算 肥大化五輪への批判や提言』川辺書林、1998年、p11、229</ref> 。 [[1988年]][[6月1日]]に行われた[[日本オリンピック委員会]](JOC)の[[1998年]][[冬季オリンピック]]の開催国内候補地選定投票で[[盛岡オリンピック構想|盛岡市]]、[[山形オリンピック構想|山形市]]、[[旭川オリンピック構想|旭川市]]を破り、選定された。 長野オリンピックの開催は、[[1991年]][[6月15日]]に[[イギリス]]の[[バーミンガム]]で開かれた第97回[[国際オリンピック委員会総会]]で決定された。2回目は1回目の最低得票がソルトレイクとアオスタの2都市になったために落選都市決定戦という形で行なわれた。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small" |+1998年冬季オリンピック 開催地投票 !都市 !国 !style="background-color:silver;"|1回目 !style="background-color:silver;"|2回目 !style="background-color:silver;"|3回目 !style="background-color:silver;"|4回目 !style="background-color:silver;"|5回目 |- |[[長野市|長野]]||style="text-align:left"|{{JPN}} |'''21'''||-||'''30'''||'''36'''||'''46''' |- |[[ソルトレイクシティ]]||style="text-align:left"|{{USA}} |15||'''59'''||27||29||42 |- |[[エステルスンド]]||style="text-align:left"|{{SWE}} |18||-||25||23||- |- |[[ハカ (スペイン)|ハカ]]||style="text-align:left"|{{ESP}} |19||-||5||-||- |- |[[アオスタ]]||style="text-align:left"|{{ITA}} |15||29||-||-|| |} 日本での冬季五輪の開催は[[1972年札幌オリンピック]]以来、26年ぶり2度目だった。([[1940年]]も[[1940年札幌オリンピック|札幌]]で予定されていたが、[[第二次世界大戦]]の影響で中止となっている。冬季の場合は夏季と異なり、非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる。) == 概要と経過 == === 開会式 === [[ファイル:Nagano Olympic Stadium.jpg|thumb|right|250px|開会式および閉会式が開催された[[長野オリンピックスタジアム]](2006年撮影)。現在は[[野球場]]となっている。]] [[ファイル:1998 Nagano Winter Olympics opening ceremony.jpg|200px|thumb|開会式での[[明仁|天皇]]・[[正田美智子|皇后]]ら]] 長野オリンピックの開会式は、[[明仁|天皇]](現在の上皇)・[[上皇后美智子|美智子]]皇后(現在の上皇后)臨席の下、2月7日午前11時から[[長野オリンピックスタジアム]]で行われた。当初は夜間の開催だったが、アメリカの放映権を持つ[[CBS]]の要請により昼間に変更<ref group="注釈">夏季五輪・冬季五輪共に次回シドニー五輪からは夜間に開催されており、開会式の昼間開催は長野五輪が最後である。</ref>。同時に開催時間を2時間以内に設定していた<ref>長野五輪開会式は午前11時から 出演者、一般公募の方針 信濃毎日新聞 1995年2月25日</ref>。総合演出(総合プロデューサー)は[[劇団四季]]の[[浅利慶太]]が担当(シニアプロデューサーが[[萩元晴彦]]、音楽アドバイザーが[[小澤征爾]]、イメージ監督が[[新井満]]、映像監督が[[今野勉]]<ref>{{Cite news|date=2014-09-21|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/58e5e1b5b5cf6be37b931bb4499fa4b051672c96|title=没後13年 稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝 最終回|work=Yahoo!ニュース|author=[[碓井広義]]|publisher=[[ヤフー (企業)|ヤフー]]|accessdate=2016-08-14}}</ref>、総合司会が[[磯村尚徳]]と[[道傳愛子]])。[[善光寺]]の鐘の音を合図にスタートした。[[御柱祭]]の建御柱、[[大相撲]][[幕内]]力士の土俵入り、[[横綱]]の[[曙太郎|曙]]の土俵入りが行われ、歌手の[[森山良子]]と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。 選手入場は[[オリンピック憲章]]に則り、[[ギリシャ]]を先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は県民歌でもある「[[信濃の国]]」に合わせて入場した。 大会組織委員会会長・[[斎藤英四郎]]および[[国際オリンピック委員会]](IOC)の[[フアン・アントニオ・サマランチ]]会長が挨拶し、「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します。」との天皇の開会宣言後、[[湯浅譲二]]作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。 [[猪谷千春]]、[[笠谷幸生]]、[[金野昭次]]、[[北沢欣浩]]、[[長久保初枝]]、[[大高優子]]、[[橋本聖子]]、[[山本宏美]]の元[[冬季オリンピック]]日本代表選手8人が[[オリンピックシンボル|オリンピック旗]]を持って入場し、長野市児童合唱団の合唱で[[オリンピック賛歌]]が演奏され、オリンピック旗が掲揚された。[[雅楽]]による[[君が代|国歌]]演奏の後、[[クリス・ムーン]]と子供たちが聖火を持って入場した。 [[1997年世界陸上選手権]]10000m銅メダリスト・[[千葉真子]]から[[1992年アルベールビルオリンピック]]、[[1994年リレハンメルオリンピック]]ノルディック複合団体の金メダリスト・[[河野孝典]]、[[阿部雅司]]、[[三ヶ田礼一]]の3人へ、そして[[1997年世界陸上選手権]]女子[[マラソン]]金メダリストの[[鈴木博美 (陸上選手)|鈴木博美]]が引き継ぎ、[[ジャコモ・プッチーニ]]作曲のオペラ「[[蝶々夫人]]」の中の『ある晴れた日に』が演奏され、1992年アルベールビル五輪女子[[フィギュアスケート]]銀メダリストの[[伊藤みどり]]の手によって聖火が点火された。 [[オリンピック宣誓]]は、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・[[荻原健司]]、フィギュアスケート審判・[[平松純子]]によって行われ、審判宣誓終了直後、子供たちのメッセージカードが入った羽ばたいているように見える3種類の[[鳩]]の形の[[紙風船]]が1,998個空に放たれた。 開会式のクライマックスは、[[長野県県民文化会館]]でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸([[北京市|北京]]、[[ベルリン]]、[[ケープタウン]]、[[ニューヨーク]]・[[シドニー]])の合唱団が加わった衛星同時中継による[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]作曲の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番「合唱付き」第4楽章]]の演奏・合唱であった。指揮は[[小澤征爾]]が行い、この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。 さらに演奏終了に合わせて[[航空自衛隊]]の[[ブルーインパルス]]が開会式会場上空で五色のレベルオープナー展示飛行を行った。 [[File:JASDF Blue Impulse (9).jpg|thumb|200px|長野オリンピックを盛り上げたブルーインパルスチーム。]] ;映像 :{{YouTube|7aGNei01fzQ|Nagano 1998 Opening Ceremony - Full Length | Nagano 1998 Replays}} IOC Olympicチャンネル、日本時間2020年5月12日0時プレミア公開<ref name=opyt>{{Cite video| df =ja| people =| title =Nagano 1998 Opening Ceremony - Full Length {{!}} Nagano 1998 Replays| medium =[[YouTube]]| publisher =IOC Olympicチャンネル| location =スイス | date =2020-05-12 | url=https://www.youtube.com/watch?v=7aGNei01fzQ|accessdate=2020-05-11}}</ref> === 競技 === {{Main|[[:Category:1998年長野オリンピックの各競技]]}} 屋外競技は全体的に悪天候に悩まされた大会であった。[[アルペンスキー]]は競技日程が変更され、[[スキージャンプ]]団体戦は競技が一時中断された。 ==== アルペンスキー ==== {{Main|1998年長野オリンピックのアルペンスキー競技}} 男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き競技日程が変更され、大会10日目の16日には男子[[スーパー大回転]]、女子[[滑降]]、女子[[アルペンスキー複合|複合]]滑降の3レースが同日実施された。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした([[1998年長野オリンピックの滑降競技場設営問題]]も参照)。なお、このシーズンの[[アルペンスキー・ワールドカップ|ワールドカップ]]総合1位の[[ヘルマン・マイヤー]]も滑降でこの地点で転倒したが、スーパー大回転および[[大回転]]で優勝した。 [[志賀高原]]会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるようスタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能であった。 またコース整備は[[陸上自衛隊]]が協力し、降雪によりコースが埋没した際の排雪も行った。 ==== ジャンプ ==== {{Main|1998年長野オリンピックのスキージャンプ競技}} 日本勢が金2個(ラージヒル個人・[[船木和喜]]、ラージヒル団体・日本代表)、銀1個(ノーマルヒル個人・船木)、銅1個(ラージヒル個人・[[原田雅彦]])を獲得した。 日本代表団体の金メダル獲得の裏側を描いた映画「[[ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜]]」が制作され、2020年に6月19日に公開予定だった。[[2019年新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の影響で延期し、2021年6月18日に公開された。 ==== ノルディックスキー ==== {{Main|1998年長野オリンピックのノルディック複合競技}} 団体戦の日本代表は冬季五輪3連覇は成らなかったものの5位に入賞した。また個人戦で[[荻原健司]]が4位、[[荻原次晴]]が6位に入賞した。 ==== クロスカントリースキー ==== {{Main|1998年長野オリンピックのクロスカントリースキー競技}} [[クロスカントリースキー]]男子15kmクラシカルでは[[ケニア]]から出場し、最下位ながらも完走した[[フィリップ・ボイト]]を優勝した[[ノルウェー]]の[[ビョルン・ダーリ]]がゴール地点で出迎えた一幕があった。 ==== スノーボード ==== {{Main|1998年長野オリンピックのスノーボード競技}} 大回転と[[ハーフパイプ]]の2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、[[カナダ]]の[[ロス・レバグリアティ]]がオリンピックチャンピオンになった。しかしレバグリアティは競技終了後、[[ドーピング検査]]で[[マリファナ]]の陽性反応が出たために一旦はメダル剥奪が決定されたが、[[スポーツ仲裁裁判所]](CAS)の裁定により処分は取り消された。 ==== スピードスケート ==== {{Main|1998年長野オリンピックのスピードスケート競技}} プレシーズンに[[スラップスケート]]が登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、[[エムウェーブ]]の高速リンクと相まって世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回った。 日本勢では[[清水宏保]]が男子500メートルで金メダル、男子1000メートルで銅メダルを獲得した。また、女子500メートルでも[[岡崎朋美]]が銅メダルを獲得した。 ==== ショートトラックスピードスケート ==== {{Main|1998年長野オリンピックのショートトラックスピードスケート競技}} ==== フィギュアスケート ==== {{Main|1998年長野オリンピックのフィギュアスケート競技}} 多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳の[[タラ・リピンスキー]]と、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳の[[ミシェル・クワン]]が金メダルを争い、リピンスキーは当時15歳8か月で金メダルを獲得した。なお、リピンスキーは[[ソニア・ヘニー]]([[ノルウェー]])の持つ最年少金メダル記録(15歳10か月)を更新した。その後、オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録の更新は難しくなった。 ==== アイスホッケー ==== {{Main|1998年長野オリンピックのアイスホッケー競技}} この大会からプロ選手の参加が認められ、[[ナショナルホッケーリーグ]](NHL)は2週間中断した。NHLの選手を多く所属した6カ国は2次リーグからのシード参加となった。その中でもスター選手揃いのアメリカとカナダが注目されたが、[[ドミニク・ハシェック]]を中心とした堅い守備を持った[[チェコ]]が[[ロシア]]との決勝戦を制して金メダルを獲得した。 ==== フリースタイルスキー ==== {{Main|1998年長野オリンピックのフリースタイルスキー競技}} モーグル女子で、[[里谷多英]]が冬季オリンピックで日本女子選手初となる金メダルを獲得した。 ==== カーリング ==== {{Main|1998年長野オリンピックのカーリング競技}} 正式競技としては[[1924年シャモニー・モンブランオリンピック]]以来74年ぶり2度目の実施となった。[[オリンピック公開競技|公開競技]]として行われた大会を含めると、1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。 なお、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。 === 閉会式 === 閉会式は[[2月22日]]午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催され、天皇・皇后が臨席した。 各国の選手が入場し、「日本の祭り」というプログラムで長野県の祭りが一堂に集結、[[創作和太鼓]]『勇駒、信濃田楽、万岳の響き』の総勢2,000人揃い打ちが[[小口大八]]総指揮のもと演じられた。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、今大会の開催国でもある日本、次回大会の開催国・アメリカの3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗が長野市の塚田市長から[[ソルトレイクシティ]]の{{仮リンク|ディーディー・コラディーニ|en|Deedee Corradini}}市長に引き継がれたあと、ソルトレイクシティオリンピック組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会副会長の[[吉村午良]]とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチによって「'''アリガトナガノ、サヨナラニッポン'''」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともに[[オリンピック賛歌]]が演奏・合唱された。 聖火の納火の後、[[杏里]]と子供たちが会場と全員で「[[故郷 (唱歌)|ふるさと]]」を合唱を行い、司会を務めたタレントの[[萩本欽一]]が「'''私たちのふるさとは?'''」と問いかけると、会場は「'''地球!!'''」と叫んだ。フィナーレでは花火5,000発が打ち上げられ、[[AGHARTA]](長万部太郎こと[[角松敏生]]率いる覆面バンド)が登場し、「[[WAになっておどろう|WAになっておどろう〜イレアイエ〜]]」を演奏した。なお、生中継を行った[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の視聴率も30.8%を記録した。 == 実施競技と日程 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small" |- !colspan="2"|競技名 / 日付!!style="width:1.5em"|7!!style="width:1.5em"|8!!style="width:1.5em"|9!!style="width:1.5em"|10!!style="width:1.5em"|11!!style="width:1.5em"|12!!style="width:1.5em"|13!!style="width:1.5em"|14!!style="width:1.5em"|15!!style="width:1.5em"|16!!style="width:1.5em"|17!!style="width:1.5em"|18!!style="width:1.5em"|19!!style="width:1.5em"|20!!style="width:1.5em"|21!!style="width:1.5em"|22 |- |colspan="2"|開閉会式||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|• |- |rowspan="6"|[[スキー]]||style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのアルペンスキー競技|アルペンスキー]]|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのクロスカントリースキー競技|クロスカントリースキー]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|• |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのスキージャンプ競技|スキージャンプ]]|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのノルディック複合競技|ノルディック複合]]|| || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのフリースタイルスキー競技|フリースタイルスキー]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのスノーボード競技|スノーボード]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || || |- |rowspan="3"|[[スケート]]||style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのスピードスケート競技|スピードスケート]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのフィギュアスケート競技|フィギュアスケート]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||ex|| |- |style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのショートトラックスピードスケート競技|ショートトラックスピードスケート]]|| || || || || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのアイスホッケー競技|アイスホッケー]]||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|• |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのボブスレー競技|ボブスレー]]|| || || || || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのリュージュ競技|リュージュ]]|| ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || || || |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのバイアスロン競技|バイアスロン]]|| || ||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| || || ||style="background-color:#3399ff"|•|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| ||style="background-color:#3399ff"|•|| |- |colspan="2" style="text-align:left"|[[1998年長野オリンピックのカーリング競技|カーリング]]|| || ||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•||style="background-color:#3399ff"|•|| || || || || || || |} == 各国・地域の獲得メダル数 == [[File:1998 Winter Olympics medals 2.jpg|thumb|350px|長野オリンピックのメダル、[[木曽漆器]]と[[セイコーエプソン]]の精密[[金属加工]]技術で製作された<ref>[http://www.kiso.or.jp/info/post-1.html 長野冬季オリンピック入賞メダル - 木曽くらしの工芸館]</ref>。[[造幣さいたま博物館]]<ref>[https://www.stib.jp/sangyokanko/mint.shtml さいたま観光国際協会 - 造幣さいたま博物館]</ref> にて展示。]] {{main|1998年長野オリンピックのメダル受賞数一覧}} {| {{RankedMedalTable}} |- | 1||style="text-align:left"| {{flagIOC|GER|1998冬季}} ||12 || 9 || 8 || 29 |- | 2||style="text-align:left"| {{flagIOC|NOR|1998冬季}} ||10 ||10 || 5 || 25 |- | 3||style="text-align:left"| {{flagIOC|RUS|1998冬季}} || 9 || 6 || 3 || 18 |- | 4||style="text-align:left"| {{flagIOC|CAN|1998冬季}} || 6 || 5 || 4 || 15 |- | 5||style="text-align:left"| {{flagIOC|USA|1998冬季}} || 6 || 3 || 4 || 13 |- | 6||style="text-align:left"| {{flagIOC|NED|1998冬季}} || 5 || 4 || 2 || 11 |- style="background-color:#ccccff"<!--これは開催国用の色コードなので注意--> | 7||style="text-align:left"| {{flagIOC|JPN|1998冬季}}(開催国) || 5 || 1 || 4 || 10 |- | 8||style="text-align:left"| {{flagIOC|AUT|1998冬季}} || 3 || 5 || 9 || 17 |- | 9||style="text-align:left"| {{flagIOC|KOR|1998冬季}} || 3 || 1 || 2 || 6 |- |10||style="text-align:left"| {{flagIOC|ITA|1998冬季}} || 2 || 6 || 2 || 10 |} == 主なメダリスト == * [[アルペンスキー]] ** [[ヘルマン・マイヤー]]({{AUT}}、男子大回転金、男子スーパー大回転金) ** [[ラッセ・チュース]]({{NOR}}、男子滑降銀、男子複合銀) ** [[シュテファン・エベルハルター]]({{AUT}}、男子大回転銀) ** [[カーチャ・ザイツィンガー]]({{GER}}、女子滑降金、女子複合金、女子大回転銅) ** [[デボラ・コンパニョーニ]]({{ITA}}、女子大回転金、女子回転銀) ** [[ピカボ・ストリート]]({{USA}}、女子スーパー大回転金) * [[クロスカントリースキー]] ** [[ビョルン・ダーリ]]({{NOR}}、男子10kmクラシカル金、男子4×10kmリレー金、男子50kmフリー金、男子複合(10kmフリー+15kmクラシカル)銀) ** [[ラリサ・ラズチナ]]({{RUS}}、女子5kmクラシカル金、女子複合(5kmクラシカル+10kmフリー)金、女子4×5kmリレー金、女子15kmクラシカル銀、女子30kmフリー銅) ** [[ステファニア・ベルモンド]]({{ITA}}、クロスカントリースキー女子30kmフリー銀、女子4×5kmリレー銅) * [[スキージャンプ]] ** [[船木和喜]]({{JPN}}、男子[[ノーマルヒル]]個人銀、男子[[ラージヒル]]個人金) ** [[原田雅彦]]({{JPN}}、男子ラージヒル個人銅) ** [[日本]]([[岡部孝信]]、[[斉藤浩哉]]、[[原田雅彦]]、[[船木和喜]])({{JPN}}、男子ラージヒル団体金) ** [[ヤニ・ソイニネン]]({{FIN}}、男子ノーマルヒル個人金、男子ラージヒル個人銀) * [[ノルディック複合]] ** [[ビャルテ・エンゲン・ビーク]]({{NOR}}、男子個人金、男子団体金) ** [[サンパ・ラユネン]]({{FIN}}、男子個人銀、男子団体銀) * [[スノーボード]] ** [[ジャン・シメン]]({{SUI}}、[[スノーボード]]男子ハーフパイプ金) ** [[カリーヌ・ルビ]]({{FRA}}、スノーボード女子大回転金) ** [[ニコラ・トースト]]({{GER}}、スノーボード女子ハーフパイプ金) * [[フリースタイルスキー]] ** [[里谷多英]]({{JPN}}、女子[[モーグル]]金) ** [[ジョニー・モズレー]]({{USA}}、男子モーグル金) ** [[ヤンネ・ラハテラ]]({{FIN}}、男子モーグル銀) ** [[サミー・ムストネン]]({{FIN}}、男子モーグル銅) ** [[タチアナ・ミッターマイヤー]]({{GER}}、女子モーグル銀) ** [[カーリー・トゥロー]]({{NOR}}、女子モーグル銅) ** [[エリック・ベルゴースト]]({{USA}}、男子[[エアリアル]]金) ** [[セバスチャン・フォークラス]]({{FRA}}、男子エアリアル銀) ** [[ドミトリ・ダシンスキー]]({{BLR}}、男子エアリアル銅) ** [[ニッキ・ストーン]]({{USA}}、女子エアリアル金) ** [[シュ・ナンナン]]([[徐囡囡]])({{CHN}}、女子エアリアル銀) ** [[コレット・ブランド]]({{SUI}}、女子エアリアル銅) * [[スピードスケート]] ** [[清水宏保]]({{JPN}}、男子500m金、男子1000m銅) ** [[岡崎朋美]]({{JPN}}、女子500m銅) ** [[ジャンニ・ロメ]]({{NED}}、男子5000m金、男子10000m金) ** [[カトリオナ・ルメイ・ドーン]]({{CAN}}、女子500m金、1000m銅) ** [[グンダ・ニーマン・シュティルネマン]]({{GER}}、女子3000m金、女子1500m銀、女子5000m銀) ** [[クラウディア・ペヒシュタイン]]({{GER}}、女子5000m金、女子3000m銀) * [[ショートトラックスピードスケート]] ** [[西谷岳文]]({{JPN}}、男子500m金) ** [[植松仁]]({{JPN}}、男子500m銅) ** [[全利卿]]({{KOR}}、女子1000m金、女子3000mリレー金、女子500m銅) ** [[楊陽]](ヤンヤンS、{{CHN}}、女子500m銀、女子1000m銀、女子3000mリレー銀) ** [[楊揚]](ヤンヤンA、{{CHN}}、女子3000mリレー銀) * [[フィギュアスケート]] ** [[イリヤ・クーリック]]({{RUS}}、男子シングル金) ** [[エルビス・ストイコ]]({{CAN}}、男子シングル銀) ** [[フィリップ・キャンデロロ]]({{FRA}}、男子シングル銅) ** [[タラ・リピンスキー]]({{USA}}、女子シングル金) ** [[ミッシェル・クワン]]({{USA}}、女子シングル銀) ** [[陳露]]({{CHN}}、女子シングル銅) * [[アイスホッケー]] ** 男子:{{CZE}}(金)、{{RUS}}(銀)、{{FIN}}(銅) ** 女子:{{USA}}(金)、{{CAN}}(銀)、{{FIN}}(銅) * [[リュージュ]] ** [[ゲオルク・ハックル]]({{GER}}、男子1人乗り金) * [[バイアスロン]] ** [[オーレ・アイナル・ビョルンダーレン]]({{NOR}}、男子10km金、男子4×7.5kmリレー銀) * [[カーリング]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://olympics.com/ja/olympic-games/nagano-1998/results/curling |title=長野1998 カーリング - オリンピック種目別結果 |website=Olympics.com |publisher=国際オリンピック委員会 |access-date=2022-08-08 }}</ref> ** 男子:{{SUI}}(金)、{{CAN}}(銀)、{{NOR}}(銅) ** 女子:{{CAN}}(金)、{{DEN}}(銀)、{{SWE}}(銅) == 会場 == {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%;" |+会場一覧<ref>[http://www.joc.or.jp/games/olympic/nagano/map/ 第18回オリンピック冬季競技大会(1998/長野) 競技会場](日本オリンピック委員会)</ref> !都市 !施設 !class="unsortable"|位置 !使用目的 !五輪後 |- |rowspan="8" |[[長野市]] |[[長野オリンピックスタジアム]] | nowrap="nowrap" |{{ウィキ座標|36|34|48.5|N|138|9|57.5|E|region:JP|地図|name=長野オリンピックスタジアム(開会式、閉会式)}} |開会式<br />閉会式 |[[野球場]] |- |[[セントラルスクゥエア]] |{{ウィキ座標|36|39|7|N|138|11|16.7|E|region:JP|地図|name=セントラルスクゥエア(表彰式)}} |表彰式 |駐車場、イベント会場 → 公園 |- |[[長野市真島総合スポーツアリーナ|ホワイトリング]] |{{ウィキ座標|36|36|16.8|N|138|12|22.4|E|region:JP|地図|name=ホワイトリング(フィギュアスケート、ショートトラックスピードスケート)}} |[[フィギュアスケート]]<br />[[ショートトラックスピードスケート]] |体育館 |- |[[長野市若里多目的スポーツアリーナ|ビッグハット]] |{{ウィキ座標|36|37|47|N|138|11|44.8|E|region:JP|地図|name=ビッグハット(アイスホッケー)}} |[[アイスホッケー]] |冬季はスケートリンク、夏季は体育館 |- |[[長野運動公園総合運動場総合市民プール|アクアウィング]] |{{ウィキ座標|36|39|39.3|N|138|13|52.2|E|region:JP|地図|name=アクアウィング(アイスホッケー)}} |[[アイスホッケー]] |プール |- |[[エムウェーブ]] |{{ウィキ座標|36|38|25.6|N|138|14|25.3|E|region:JP|地図|name=エムウェーブ(スピードスケート)}} |[[スピードスケート]] |冬季はスケートリンク、夏季は体育館 |- |[[長野市ボブスレー・リュージュパーク|スパイラル]] |{{ウィキ座標|36|42|38.9|N|138|9|27.4|E|region:JP|地図|name=スパイラル(ボブスレー、リュージュ)}} |[[ボブスレー]]<br />[[リュージュ]] |2017年製氷利用休止、夏季は遊歩道 |- |[[飯綱高原スキー場]] |{{ウィキ座標|36|43|1.3|N|138|8|23.8|E|region:JP|地図|name=飯綱高原スキー場(フリースタイルスキー)}} |[[フリースタイルスキー]] |2020年施設閉鎖 |- |[[軽井沢町]] |[[風越公園 (軽井沢町)|風越公園アリーナ]] |{{ウィキ座標|36|19|25.5|N|138|35|55.2|E|region:JP|地図|name=風越公園アリーナ(カーリング)}} |[[カーリング]] |[[スケートリンク]]に転用 |- | nowrap="nowrap" |[[野沢温泉村]] |[[ふれ愛の森公園]] |{{ウィキ座標|36|54|33.7|N|138|26|45|E|region:JP|地図|name=ふれあいの森公園(バイアスロン)}} |[[バイアスロン]] |[[銃刀法]]によりバイアスロンでの使用不可<ref name="PostOlympics"/>。夏季はサッカー、野外活動に使用<ref name="PostOlympics"/>。冬季は閉鎖(一部[[クロスカントリースキー|クロカン]]で使用)<ref name="PostOlympics"/>。 |- |rowspan="3" |[[山ノ内町]] |[[志賀高原]][[東館山スキー場]] |{{ウィキ座標|36|43|33|N|138|30|44.2|E|region:JP|地図|name=東舘山スキー場(アルペンスキー大回転)}} |[[アルペンスキー]]([[大回転]]) | |- |志賀高原[[焼額山スキー場]] |{{ウィキ座標|36|45|9.9|N|138|31|32.6|E|region:JP|地図|name=焼額山スキー場(アルペンスキー回転、スノーボード大回転)}} |アルペンスキー([[回転 (スキー)|回転]])<br />[[スノーボード]](大回転) | |- | nowrap="nowrap" |[[かんばやしスキー&スノーボードパーク|かんばやしスノーボードパーク]] |{{ウィキ座標|36|43|46|N|138|26|48.9|E|region:JP|地図|name=かんばやしスノーボードパーク(スノーボードハーフパイプ)}} |スノーボード([[ハーフパイプ]]) |[[2007年]]1月閉鎖 |- |rowspan="3" |[[白馬村]] |[[白馬八方尾根スキー場|八方尾根スキー場]] |{{ウィキ座標|36|42|6.9|N|137|50|14.2|E|region:JP|地図|name=八方尾根スキー場(アルペンスキー滑降、アルペンスキースーパー大回転、アルペン複合)}} |アルペンスキー([[滑降]])<br />アルペンスキー([[スーパー大回転]])<br />[[アルペンスキー複合|アルペン複合]] |滑降のゴール付近は河道復元工事施行<ref name="PostOlympics"/>。 |- |[[白馬ジャンプ競技場]] |{{ウィキ座標|36|41|44.5|N|137|50|9.8|E|region:JP|地図|name=白馬ジャンプ競技場(ノルディックスキージャンプ、ノルディック複合(ジャンプ))}} |[[ノルディックスキー]]([[スキージャンプ|ジャンプ]])<br />[[ノルディック複合]](ジャンプ) | |- |[[白馬クロスカントリー競技場|スノーハープ]] |{{ウィキ座標|36|38|3.1|N|137|51|26.9|E|region:JP|地図|name=スノーハープ(ノルディックスキークロスカントリー、ノルディック複合(クロスカントリー))}} | nowrap="nowrap" |ノルディックスキー([[クロスカントリースキー|クロスカントリー]])<br />ノルディック複合(クロスカントリー) |夏季はサッカー、[[マウンテンバイク|MTB]]等に使用<ref name="PostOlympics"/>。冬季はクロカンで使用<ref name="PostOlympics"/>。 |} {{座標一覧|節=会場}} * 軽井沢町は[[1964年東京オリンピック]]で[[馬術]]競技を開催しており、夏季・冬季両大会で競技を開催した世界初の都市となった<ref group="注釈">2021年の札幌市([[1972年札幌オリンピック]]でホスト都市、[[2020年東京オリンピック]]でサッカー競技および陸上のマラソンを実施)まで唯一であった。ホスト都市としては、[[北京市]]([[2008年北京オリンピック|2008年夏季]]・[[2022年北京オリンピック|2022年冬季]])が史上初。</ref>。 * 当初、バイアスロンの会場として整備された飯森東山地区は、[[1996年]]にミニゴルフ場として使用され、その後は[[産業廃棄物]]処理施設となった<ref name="PostOlympics"/>。 * これらの施設のほかにも、スケートなどの練習として使用された長野スケートセンター(1998年3月8日閉鎖)や国際放送センターとして使われた旧カネボウ綿糸長野工場跡地、開会式の際小澤征爾による演奏・合唱が行われた長野県県民文化会館がある。 *2030年に北海道[[札幌市]]が招致を予定していた[[2030年冬季オリンピック|冬季オリンピック構想]]ではボブスレー・リュージュの会場として、本大会同競技の会場としても使用されたスパイラル([[長野市ボブスレー・リュージュパーク]])を再使用することが計画されていた<ref>{{Cite web|和書|title=札幌市、2030年冬季五輪招致へ計画公表 開催経費900億円削減|url=https://www.asahi.com/articles/ASPCY4Q9JPCYIIPE001.html|website=朝日新聞|accessdate=2021-11-29|date=2021-11-29}}</ref>。 == 鉄道への影響 == 長野オリンピックの開催決定により、[[1991年]]には[[北陸新幹線]]が現存する在来線([[信越本線]]、現[[しなの鉄道線]]区間)を活用して運行する[[ミニ新幹線]]規格から、[[軽井沢駅]]~[[長野駅]]で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと北陸新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年時点ではフル規格での建設が決まっていた[[高崎駅]]~[[軽井沢駅]]のみが建設されていた。 軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。ミニ新幹線計画時には[[小諸市]]を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない[[佐久市]]をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については[[小諸駅]]、[[佐久平駅]]も参照。 その他の影響として、[[1994年]]にはスキー・スノーボード会場となる[[志賀高原]]への人員輸送に伴う列車増発対応のため、[[長野電鉄]][[河東線]](現[[長野電鉄長野線|長野線]])[[北須坂駅]]と[[延徳駅]]が[[交換駅]]化された。[[1997年]]には選手村への最寄り駅として、[[信越本線]]上に[[今井駅]]が新設された。また、当時現役で運行されていた[[新幹線200系電車]]は本来北陸新幹線区間を走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。 == 記念発行物 == [[File:NaganoOlympic500.jpg|thumb|right|200px|[[記念貨幣]](500円白銅貨)。]] [[File:NaganoOlympic5000.jpg|thumb|right|200px|記念貨幣(5,000円銀貨)。]] [[File:Nagano-10000yen-1st.jpg|thumb|right|200px|記念貨幣(10,000円金貨)。]] * 500円硬貨 ** 1次スノーボード 発行枚数2000万枚 ** 2次ボブスレー 発行枚数2000万枚 ** 3次フリースタイル 発行枚数2000万枚 * 5,000円硬貨 ** 1次アイスホッケー 発行枚数500万枚 ** 2次バイアスロン 発行枚数500万枚 ** 3次パラリンピック滑降 発行枚数5000万枚 * 10,000円硬貨 ** 1次ジャンプ 発行枚数55,000枚 ** 2次フィギュアスケート 発行枚数55,000枚 ** 3次スピードスケート 発行枚数55,000枚 また、記念切手も発行された。 * 「愛と感動の冬」長野オリンピック・長野パラリンピック読本 競技内容はもちろん、オリンピックの精神や理念を学習する教材資料として1996年3月に長野県教育委員会が製作・発行し、長野県内すべての小中学校全校生徒に配布された。 == 長野オリンピックを題材とした作品 == ; 映画 * 『Nagano'98 Olympics: Stories of Honor and Glory(1998長野オリンピック 名誉と栄光の物語)』(公式記録映画 監督:[[バド・グリーンスパン]]) * 『[[国家代表!?]]』(韓国映画、2009年) * 『[[ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜]]』(日本映画、2021年6月18日公開) == スポンサー == ;パートナー {{Div col|2}} *[[ザ コカ・コーラ カンパニー|コカコーラ]] *[[IBM]] *ジョン・ハンコック *[[コダック]] *[[マクドナルド]] *[[パナソニック]] *[[サムスン電子]] *[[タイム (出版社)|タイム]] *[[ユナイテッド・パーセル・サービス|UPS]] *[[VISA]] *[[ゼロックス]] ([[富士フイルムビジネスイノベーション|富士ゼロックス]]) {{Div col end}} ;ゴールドスポンサー {{Div col|2}} *[[アムウェイ]] * [[八十二銀行]] *[[国際電信電話|KDD]] *[[麒麟麦酒|キリンビール]] *[[ミズノ]] *[[日本電信電話|NTT]] *[[セイコーホールディングス|セイコー]] *[[トヨタ自動車]] {{Div col end}} ;オフィシャルサポーターおよびサプライヤー {{Div col|2}} *[[ブリヂストン]] *[[ブラザー工業]] *[[コロナ (住宅関連機器メーカー)|コロナ]] * [[ハナマルキ]] *[[日立造船]] *[[出光興産]] *[[農業協同組合|JA長野県]] *[[日本航空]] * [[コクヨ]] * 前川製作所 * [[丸大食品]] *[[王子製紙]] * [[ぴあ]] * サンコーシヤ *[[雪印乳業]] *[[東京海上日動火災保険|東京海上]] *[[東京ガス]] *[[山崎製パン]] {{Div col end}} == 批判 == === 不法滞在者にまつわる問題 === 長野五輪で使用される施設は、少なからずの不法滞在を含む外国人が入り、施設や道路造りに加わったとされる。しかし、その外国人らの多くが[[入管法]]違反(不法残留・入国など)で摘発されていると地元紙の[[信濃毎日新聞]]は報じている。同記事によると、[[長野県警察|長野県警]]は多数の摘発について「ホワイト・スノー作戦」という名称を付けていると言う。これについて、佐久地域国際連帯市民の会の横田隆志代表が「[[不法滞在]]の外国人労働者が日本社会を支えているという暗黙の現実がありながら、五輪が来る場にはいられない。日本の現実の姿だと思いますね」と述べている。また長野市内でスナックを経営する[[フィリピン人]]の女性が、日本人客から「五輪までに街をきれいにしなきゃいかん。そのうちあんたらも居られなくなるかもな」と言葉を投げつけられたとも同記事は伝えており、信濃毎日新聞はオリンピックの祝福ムードの陰にある外国人への「[[排外主義|排除の論理]]」についても報じている<ref>[[信濃毎日新聞]] 1997年6月10日版</ref>。 === 大会運営費にまつわる問題 === {{See also|2016年東京オリンピック構想#経費を巡るトラブル|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会#大会運営費の膨張}} 1998年長野冬季オリ・パラ大会では、[[国際オリンピック委員会]](IOC)で招致段階における不正疑惑が浮上したが、当時の長野大会組織委員会が[[帳簿]]を焼却し、真相は藪の中となった<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20220621/k00/00m/050/111000c |title=実は3兆円超え?試算も 東京五輪「1.4兆円」に関連経費含まれず |author=小林悠太 |publisher=[[毎日新聞]](有料記事)|date=2022年6月21日19:14(最終更新 6月21日22:34)|lang=ja}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/184840 |title=1兆4238億円に膨張した東京五輪・パラ 書類開示の義務なく検証は困難 組織委は30日解散へ|author=原田遼 |publisher=[[東京新聞]] |date=2022年6月22日 06時00分|lang=ja}}</ref>。 == その他 == {{Anchors|スノーレッツ}} ;{{ill2|スノーレッツ|en|Sukki, Nokki, Lekki and Tsukki|redirect =1}}(4羽のフクロウがモチーフの大会マスコット) :[[オリンピックシンボル#大会マスコット|大会マスコット]]は、森の守り神であり知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。開催前年の1997年の『[[第48回NHK紅白歌合戦]]』にも出場した。 :1羽ずつそれぞれに、「スッキー」「ノッキー」「レッキー」「ツッキー」という名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについては[[日本放送協会|NHK]]が「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。 :[[ランドーアソシエイツ]]によるデザインで<ref>[http://www.landor.com/pdfs/cases/case6182-a4.pdf Organizing Committee for Nagano XVIII Olympic Winter Games 1998] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111217152840/http://www.landor.com/pdfs/cases/Case6182-A4.pdf |date=2011年12月17日 }} - [[ランドーアソシエイツ]]</ref>、スノーレッツというネーミングは「ZYXYZ(ジザイズ)」が考案<ref>[http://zyxyz.co.jp/portfolio/product_and_service_names/snowlets/ スノーレッツ] ジザイズ</ref><ref>{{Cite news|title=東京五輪、パラのマスコット名 関係者は「よく商標が取れた」|newspaper=デイリースポーツ|date=2018年7月22日|url=https://www.daily.co.jp/general/2018/07/22/0011469002.shtml}}</ref>。4マスコットについては、4万7484通の応募のうち115通あった決定名称から1994年1月21日に決まった<ref>[https://web.archive.org/web/20140216120756/http://www.shinmai.co.jp/olympic/alacarte/mascot.htm マスコット「スノーレッツ」] - 信濃毎日新聞(Internet Archive)</ref><ref>[https://style.nikkei.com/article/DGXMZO24404430X01C17A2CN8001 マスコット選びは任せて! 小学生の1票が五輪に熱気|オリパラ] 2017/12/13 日本経済新聞 朝刊</ref><ref>[http://blog.fujitv.co.jp/goody/E20180228001.html 東京五輪の公式マスコットが決定! スタジオではさっそく名前を予想!?] せーの!グッディ!</ref>。 : なお、招致キャンペーンマスコットは[[松下進]]のデザインで[[オコジョ]]をモチーフにした1体の「スノープル」である(ネーミングはスノー+アップルから)<ref>[http://www.susumumatsushita.net/press/release/pr2004_09.html アテネオリンピックをイラストで盛り上げた松下進作品のご紹介!] - Susumu Matsushita Enterprise-PressRelease-</ref>。 ;エンブレムなどのデザイン :[[シンボルマーク]]([[オリンピックエンブレム]])は個人でなく、デザイン会社や広告代理店を対象にしたコンペ(JOC元参事の[[春日良一]]によると、3社の指名プレゼン<ref>『[[女性自身]]』 2015年9月22日号46頁 「怒りの緊急座談会」</ref>)が実施され<ref>[http://bunbuntokuhoh.hateblo.jp/entry/2015/08/28/234056 8月28日 五輪エンブレム選考過程に関する記者ブリーフィング・質疑応答(全文) 『東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会』] - 聞文読報、2015年8月28日</ref><ref>[http://datazoo.jp/tv/Nスタ/888315 Nスタ|2015/09/03(木)放送 | TVでた蔵]</ref>、[[ランドーアソシエイツ]]に決まった。ランドー社内から1000点以上の作品が寄せられ<ref name="ocemblem"/>、社内コンペ(制作チームを率いたのは[[フミ・ササダ]]<ref>[http://jcc.jp/news/10039838/ デザインにプロが斬る!オリンピックエンブレム問題の核心 テレビ朝日【ワイドスクランブル】|JCC 09/15 12:35 テレビ朝日 【ワイドスクランブル】] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150915052147/http://jcc.jp/news/10039838/ |date=2015年9月15日 }}</ref>)にて、[[篠塚正典]]によるデザインが、最終3作品の中から選ばれた<ref>[https://web.archive.org/web/20150730235242/http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20150730/3749412.html 五輪エンブレム類似指摘相次ぐ] - NHK 首都圏 NEWS WEB、2015年7月30日</ref><ref>[http://www.ginza.jp/people/2522 シリーズ銀座×人 VOL.6 株式会社イデア クレント 代表取締役 篠塚正典] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150730124432/http://www.ginza.jp/people/2522 |date=2015年7月30日 }} - Ginza Official、2012年10月15日</ref>。デザインの受発注は、大会組織委員会(略称NAOC)の専門委員会が、県外企業へ発注した。グローバル系デザイン企業(神奈川県)の一括受託となり、公式ポスターの「ツグミ」([[青葉益輝]])、長野大会ポスターの「銀嶺の女神」([[絹谷幸二]])などは指名形式だった<ref>[http://www.gitc.pref.nagano.lg.jp/joho/kaisetsu/olympic/index-j.html 長野冬季オリンピック・パラリンピックとデザイン] - 長野県情報技術試験場 デザイン部 吉田健二</ref>。 :エンブレムの愛称は「スノーフラワー」で<ref>[http://www.sanspo.com/sports/news/20151005/oly15100517450001-n1.html 長野五輪エンブレム作成のササダ氏「愛され、感動されるものを」] - SANSPO.COM</ref>、雪上の高山植物と雪の結晶をモチーフとした6弁の花のデザインで花弁の1枚1枚に競技者の躍動する姿をイメージした形でオリンピックの五色から黒を外した赤・青・緑・黄色と日本の高貴な色である紫と長野県の県旗色である橙を取り入れた<ref name="ocemblem">[https://olympics.com/ja/news/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E3%81%A6%E3%81%82%E3%82%8B%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%A0-2020%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%81%AF%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1-%E5%B8%82%E6%9D%BE%E6%A8%A1%E6%A7%98-%E3%81%8B%E3%83%A2%E3%83%81-%E3%83%95 オリンピックの象徴であるエンブレム。2020年東京五輪は江戸の伝統「市松模様」がモチーフ] - オリンピックチャンネル 2018年12月26日</ref>。 ;テーマソング :「[[WAになっておどろう]]〜イレアイエ〜」[[AGHARTA]](公式テーマソング。元々はNHK「[[みんなのうた]]」で採用されていたもの。スノーレッツのテーマソングという位置づけであった) :「[[SHARE 瞳の中のヒーロー]]」[[杏里]](公式イメージソング) :「[[夢唄#収録曲|Dream〜愛を忘れない〜]]」[[さだまさし]](公式メッセージソング) :「長野冬季スポーツ音頭」[[清水アキラ]]、[[小林由紀子]](推薦曲。当初は「長野オリンピック音頭」であったが、オリンピックが[[商標|登録商標]]であったので改称された) :「[[SINGLES+1|銀色の夢 〜All over the world〜]]」[[DEEN]](公式ボランティアサポートソング) :「[[足音 (槇原敬之の曲)|足音]]」[[槇原敬之]](聖火リレー公式応援ソング) :「[[湾岸スキーヤー]]」[[少年隊]](イメージソング。[[フジテレビ]]の五輪中継テーマソングにも使用) :「[[Unite! The Night!]]」[[TRF]](イメージソング。[[TBSテレビ|TBS]]の五輪中継テーマソングにも使用) ;聖火リレー :ギリシャから日本に着いた聖火は北海道・東北・関東・山梨県・川上村を経由する「東日本ルート」、鹿児島県・九州東部・四国・本州太平洋側・静岡県・売木村を経由する「西日本・太平洋ルート」、沖縄県・九州西部・本州日本海側・新潟県・小谷村を経由する「西日本・日本海ルート」の三手に分かれ、1998年1月6日から22日にかけ全都道府県を巡ったのち1月23日から2月5日まで長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した<ref>[https://web.archive.org/web/20190506042141/https://www.shinmai.co.jp/feature/olympic/alacarte/s-japan.htm 98長野五輪ニュース 聖火ルート(全国)] - 信濃毎日新聞(Internet Archive)</ref>。 :聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。これは[[たいまつ|トーチ]]の欠陥により、トーチを傾けすぎるとガス噴出装置のパッキンが膨張し燃料供給が途絶えてしまうこととされた。後に1月18日より改良されたトーチが用いられ、消えることはなくなった<ref>98長野五輪 リレー中に消えた聖火 半数はトーチの構造、原因 - 信濃毎日新聞 1998年1月15日</ref>。 :芸能界からは[[堂本光一]]([[KinKi Kids]])らが参加した。 ;[[ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗]] :青地に黄色の三角と8つの星をあしらったデザイン。開催直前に新国旗が発表された。公式の場では、開会式の入場行進でお披露目された。 :各競技会場で使用する国旗を急遽差し替える作業が発生した。 ;[[日本の国旗]](日の丸) :長野五輪で使用する日の丸は「円の直径は縦の2/3(本来は3/5)」とされ、雪よりくすんで見えないように白地部分も真っ白にした。この比率は[[1962年]]の日本宣伝美術会展で[[永井一正]]らが提案したものでもあるが、[[1964年]]の東京五輪では採用が見送られていた<ref>[http://blog.canpan.info/fukiura/archive/3207 日の丸の大きさ・解答] - 吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草 2007年12月31日</ref><ref>[http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20150421ddm035070055000c.html 月刊五輪:吹浦忠正の1964年東京五輪物語 「日の丸」基準に苦労] - 毎日新聞、2015年4月21日 東京朝刊([https://archive.is/MM3j9 アーカイブ])</ref><ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/10421278/ 東京五輪エンブレムのパクリ疑惑 原因はコンペ作品のコンセプトか] - ライブドアニュース(2015年8月2日 LITERA)</ref>。 ;IT化 :前大会([[1994年リレハンメルオリンピック]])に引き続き、スポンサーとして[[IBM]]が担当した。オフィシャル計時を担当した[[セイコーホールディングス|セイコー]](競技マネージメントとして豊富な経験の蓄積があった)と協力し、リアルタイムで情報が更新された。 :各種の告知や結果の速報など、スポーツ大会におけるインターネット活用についても本格的な導入がなされた大会であった。期間中6億3,500万ヒット・1分間に11万ヒットの公式サイトアクセス数2部門は当時の[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]に登録された。 :システム開発拠点は篠ノ井駅前の閉鎖したスーパーマーケットを利用して設けられた。[[テロリズム|テロ]]などへのセキュリティ対策から所在地は公表されかったが、建物に出入りする人々の雰囲気から周辺住民には“公然の秘密”であった。大型コンピュータの[[メインフレーム]]は公共施設の空フロアに設置された。更に運用本部であるシステムオペレーションセンター (SOC) は、本大会時は長野オリンピック組織委員会 (NAOC) 本部内に設けられ、各競技会場にはメインフレームとネットワーク接続されたサーバーや端末等を設置する部屋が設営された。これらサーバーや端末等には主に[[OS/2]] Warpが使用された。 :選手・役員・関係者・ボランティアスタッフなど施設や会場にアクセスするためのIDカードを持つ者全員にメールアドレスが与えられ、施設や会場に設置されたPCからウェブメールのような形でインターネットメールのやり取りができた。 ;プレ大会(開催1年前の競技会) :NAOCはリハーサルとして臨んだが、各競技団体にとってはそれも大事な本番であった。認識のズレが各所で散見され軋轢が生じる場面があった。 ;文化プログラム :オリンピックは単なる国際的な運動会ではなく、[[古代ギリシャ]]の時代から様々な文化的なプログラムも行われる総合的なイベントである。長野オリンピックの際は長野県北部の[[野沢温泉村]]の[[左義長|道祖神祭り]]から、[[いいだ人形劇フェスタ|南部の飯田市の人形劇]]、[[大鹿歌舞伎|大鹿村の歌舞伎]]までの紹介が行われた。長野市はすぐ北に俳人・[[小林一茶]]の里である[[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]があるので、「[[長野オリンピック・俳句でおもてなし|俳句でおもてなし]]」も行われた。 ;市民との融和 :国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「[[一校一国運動]]」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、[[1994年アジア競技大会|広島アジア大会]]の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。その後のオリンピックの際にも導入され、[[国際オリンピック委員会|IOC]]のプログラムにも取り入れられた<ref>[http://www.ssf.or.jp/history/legacy/tabid/1134/Default.aspx スポーツ歴史の検証 少年の夢が実った一校一国運動] - 笹川スポーツ財団</ref>。 :一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対しての[[ホスピタリティ]]を意識した運動で好評を持って迎え入れられた。 ;市街地表彰式<ref>[https://web.archive.org/web/20191024072319/https://www.shinmai.co.jp/feature/olympic/alacarte/hyousyou.htm 98長野五輪ニュース 表彰式] - 信濃毎日新聞(Internet Archive)</ref> :屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市問御所町の[[セントラルスクゥエア]]に表彰式場を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。 ;カウントダウンTシャツ<ref>[https://www.joc.or.jp/games/olympic/nagano/news/detail.html?id=4397 長野オリンピック1998 ニュース 500日前からカウントダウンTシャツオークションを開始] - 日本オリンピック委員会(1996年10月1日)</ref> :開催を記念して、記念Tシャツが作成され一般に販売された。これは、開会式の500日前から前日まで1日1着ずつ[[オークション]]形式で販売された。入札はオークション会場およびファックスにて受け付けられた。落札価格は、最低が2万円、最高は前日分の155万円、初日分(500日前)は67万円だった。 :Tシャツのデザインは、5つのデザインで100日ごとに変更された。それぞれのデザインに加えて、開会「○○○日前」の数字が「No.○○○」と刺繍される。製作は[[ミズノ]]が担当した。 :デザインした5人のアーティストは次の通り。 :*500 ~401日前 [[藤井フミヤ]] :*400~301日前 [[立花ハジメ]] :*300~201日前 [[石井竜也]] :*200~101日前 [[日比野克彦]] :*100~1日前 [[池田満寿夫]] ;日本の民放テレビ中継 :それまで日本の民放テレビは、夏季大会は大々的に放送してきたが冬季は殆ど中継してこなかった。冬季も中継枠が増えたのはこの大会からである(それまではNHKの単独放送だった)。冬季オリンピック中継で[[ジャパンコンソーシアム]]が初採用されたのはこの大会からである。 ;イベントFM放送局 :開催にあわせ、大会に関する諸情報を提供する[[イベント放送局|臨時イベントFM放送局]]「長野オリンピックラジオ」が期間中開設された<ref>[https://web.archive.org/web/20200810194823/https://www.shinmai.jp/feature/olympic/199801/98011418.htm オリンピックラジオが放送開始] - 1998年1月14日 信濃毎日新聞</ref>。周波数78.5MHz、出力は長野100W・白馬30W、[[コールサイン]]はJOYZ4A-FM。 ;参加国 :この大会に72の国と地域が参加。当時の[[ヨーロッパ連合|EU]]加盟全15カ国([[オーストリア]]、[[ベルギー]]、[[デンマーク]]、[[フィンランド]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[イギリス]]、[[ギリシャ]]、[[アイルランド]]、[[イタリア]]、[[ルクセンブルク]]、[[オランダ]]、[[ポルトガル]]、[[スペイン]]、[[スウェーデン]])が参加した。また、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)が[[1992年アルベールビルオリンピック]]以来2大会ぶりに冬季オリンピックに参加した。 ;電話回線トラブル :本大会中の[[2月15日]]、午前10時頃から約2時間に亘って日本全国的に電話回線が通じにくくなる事態が発生し、メインプレスセンターに居る報道関係者の送信事務が困難になった他、[[国際電話]]もつながりにくくなった。原因はこの日午前10時から[[GLAY]]の全国コンサートツアーの前売券約11万5,000枚が発売開始され、その電話予約が殺到したためとされている。なおこの時は[[スキージャンプ]]・[[ラージヒル]]の競技が行われていた<ref>[[スポーツニッポン]] 1998年2月16日31面『GLAY人気で五輪回線パニック』</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- === 参考文献 === --> == 関連項目 == * [[国際オリンピック委員会]] * [[冬季オリンピック]] * [[1998年長野オリンピックの日本選手団]] * [[1998年長野オリンピックの滑降競技場設営問題]] * [[1998年長野パラリンピック]] * [[長野オリンピック記念長野マラソン]] * [[北陸新幹線]] * [[南長野運動公園]] ** [[長野オリンピックスタジアム]] * [[プロジェクト:オリンピック]] == 外部リンク == {{commonscat|1998 Winter Olympics}} * [https://olympics.com/ja/olympic-games/nagano-1998 長野1998 冬季オリンピック - アスリート、メダル&結果] * [https://olympics.com/ja/original-series/episode/nagano-1998-official-film-nagano-98-olympics-stories-of-honor-and-glory 長野1998公式映画 | 1998長野オリンピック 名誉と栄光の物語] - OLYMPIC CHANNEL(国際オリンピック委員会) * [https://www.joc.or.jp/games/olympic/nagano/ JOC長野オリンピック(1998)特集] * [https://web.archive.org/web/19970117085413/http://www.nagano.olympic.org/index_j.html Official 1998 Olympic Web Site] * [https://web.archive.org/web/19990420124624/http://www.nikkansports.com/news/nagano/98olympic.html 日刊スポーツ特集記事] * [https://web.archive.org/web/19980208021138/http://www.ntt.co.jp/WHATSNEW/cool/Special.html 長野オリンピック特集] * [https://web.archive.org/web/19990427161241fw_/http://www.xusxus.com/nagano/4seika.html 聖火リレー日程] * [https://web.archive.org/web/19991013233314/http://club.infopepper.or.jp/~masuda/skate/link/links-olympic.html#olympic オリンピック関連サイト リンクのページ] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010799 番組エピソード 冬の熱い戦いを彩ったNHK冬季オリンピック放送テーマ曲_NHKアーカイブス] {{長野オリンピック実施競技}} {{オリンピック}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかのおりんひつく}} [[Category:冬季オリンピックの歴代大会|1998]] [[Category:1998年長野オリンピック|*]]
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ロサンゼルスオリンピック
ロサンゼルスオリンピックは、夏季大会として2回開催され、3回目の開催が予定されている。
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ロサンゼルスオリンピックは、夏季大会として2回開催され、3回目の開催が予定されている。 1932年ロサンゼルスオリンピック - 1932年に開催された、第10回夏季オリンピック。 1984年ロサンゼルスオリンピック - 1984年に開催された、第23回夏季オリンピック。 2028年ロサンゼルスオリンピック - 2028年に開催予定の、第34回夏季オリンピック。
'''ロサンゼルスオリンピック'''は、夏季大会として2回開催され、3回目の開催が予定されている。 *[[1932年ロサンゼルスオリンピック]] - [[1932年]]に開催された、第10回[[夏季オリンピック]]。 *[[1984年ロサンゼルスオリンピック]] - [[1984年]]に開催された、第23回夏季オリンピック。 *[[2028年ロサンゼルスオリンピック]] - [[2028年]]に開催予定の、第34回夏季オリンピック。 ==関連項目== *[[2028年ロサンゼルスパラリンピック]] {{aimai}} {{デフォルトソート:ろさんせるすおりんひつく}}
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グアラニー語
グアラニー語(グアラニーご)またはグアラニ語(グアラニご)、ワラニー語(ワラニーご)、ガラニ語(ガラニご)、Guaraní、原語名: アバァニェエン (Avañe'ẽ)は、トゥピ語族に属する南アメリカ先住民の言語である。パラグアイではスペイン語と共に公用語として用いられるほか、同国人口の88%がこれを解し、地方部では住民の半数がグアラニー語のみを母語としている。またパラグアイに限らず、アルゼンチンのメソポタミア地方やブラジル南西部など近隣諸国の住民の間でも用いられており、ボリビアでは他の先住民言語とともに公用語のひとつとして、アルゼンチンのコリエンテス州ではスペイン語に次ぐ第二公用語に指定されている。 グアラニー語はアメリカ先住民諸語としては最も話者が多い言語の一つであり、中でも唯一大きな比率で非先住民の話者を擁する。これは南北アメリカ大陸では興味深い例外である。というのは、グアラニー語を除くと、スペイン人とアメリカ先住民の混血であるメスティーソや、文化的同化の進んだ上昇指向の強いアメリカ先住民の中では、植民地言語(この場合、他の公用語であるスペイン語)への移行がほとんど全体に共通した文化およびアイデンティティの標識となっているからである。 イエズス会の宣教師で Tesoro de la lengua guaraní (グアラニー語の宝)を著したアントニオ・ルイス・デ・モントーヤ(英語版)は、グアラニー語について「豊かで格調高く、最高の名声を受けるに匹敵すべき」言語であると述べている。 なお一般にグアラニー語といえばパラグアイの公用語を指すが、この言語はグアラニー諸語、もしくは方言連続体の一部であって、これらの言語群に属する姉妹語の過半も同じくグアラニー語と呼ばれていることに留意されたい。 イエズス会はインディヘナに対するローマ・カトリックの布教をグアラニー語で行い、イエズス会伝道所のような自治共同体でもグアラニー語が用いられた。また往時のパラグアイを支配していた諸々の独裁者が国境を閉ざしてしまったために、国内の文化や言語は守られる結果となった。こうしてグアラニー語は活力を保って生き延び、公用語の地位を得たのであった。 一口にグアラニー語と言っても研究者は様々な方言に分かれるとしている。たとえば、まず Rodrigues (1984/85) により形態論的・音韻論的な根拠からトゥピ・グアラニー語族下の7組の言語群のうちの最初の組を以下のように分類した。 また Kaufman (1994) は以下のような分類を唱えた。 I. トゥピ・グアラニ語族(Tupí-Guaraní family) Lewis et al. (2015a, b, c, d, e, f) はグアラニー語と名のつく言語を以下の5種類に細分化している。 なお、ここまでで度々パラグアイグアラニー語の下位分類として見られるジョパラ(方言)とはスペイン語の要素が入り混じった、都市部で用いられる口語のグアラニー語である。 グアラニー語が書き言葉として使われるようになったのは、比較的最近になってからのことである。今使われているグアラニー語アルファベットは、基本的にラテン文字に準拠しつつ、2つのダイアクリティカルマークと6つの二重字を付け加えた文字体系となっている。正書法は非常に音素論的であって、個々の文字はスペイン語と似たような音価をもつ。 母音字はYを含め6字で、それぞれが鋭アクセント符号を伴って強勢を示す(Á/á, É/é, Í/í, Ó/ó, Ú/ú, Ý/ý)が、これら強勢のある文字素は無強勢のものと同じ文字として扱われる。また、チルダも多くの文字と併せて用いられている。例えば、N/nにチルダを付してÑ/ñとすると、スペイン語と同様に歯茎鼻音でなく硬口蓋鼻音を表すものとして扱われ、またチルダ付きの母音字は、ポルトガル語のように鼻母音であることを示すことができる(Ã/ã, Ẽ/ẽ, Ĩ/ĩ, Õ/õ, Ũ/ũ, Ỹ/ỹ)。 グアラニー語アルファベットに特有の表記として、チルダにより鼻音化された軟口蓋子音G/g、すなわち軟口蓋鼻音であるところのG̃/g̃がある。これがグアラニー語に導入されたのは20世紀半ばと比較的新しく、その使用を巡っては異論もある。またこの文字はユニコードでも正規合成済みとして扱われておらず、ダイアクリティカルマーク付き文字が充分にサポートされていないコンピュータやフォントを使用する際には、写植に手間がかかったりコンピュータ上の表示が完全になされないおそれがある。Gregores & Suárez (1967:116) では言及されていない。同書の同ページにおける音素と綴り字の対応関係は#母音、#子音を参照されたい。 a、e、i、o、uはスペイン語やIPAで用いられているものと概ね同じであるが、[ɛ]や[ɔ]といった異音がわりあい頻繁に用いられる。y(または î、ï、ĭ)の音価は非円唇中舌狭母音/ɨ/である。ここまでの 6母音は口母音(英: oral vowels)とも呼ばれ、各口母音はそれぞれ対応する鼻母音をもつ。口母音と鼻母音の区別は、後述する鼻音調和に関わってくる。 子音は以下の通りである。括弧内の表記は、基本的には Gregores & Suárez (1967:116) において示されている、用いられる可能性のある全ての綴り方である。指定が複雑なものである場合には注釈を付した。 /ɕ/と/ʃ/、/ɰ/と/ɡ/、/ʋ/と/v/はそれぞれ相補分布を示す。また/j/は方言により/dʒ/と発音されることもあり、声門閉鎖音 /ʔ/ は母音間にのみ認められる。なお、Gregores & Suárez (1967:116) では上表の他に /č/(綴りはch)、/f/(綴りは f)、/δ/(綴りは d)、/l/(綴りは l)、/r/(綴りはr)、/ř/(綴りは rr)、/l̬/(綴りは ll)が見られる。歯茎ふるえ音/r/、前鼻音化音/nt/と歯茎側面接近音/l/は、グアラニー語固有の音価ではない。 強勢については、鼻母音を含む語では鼻母音に置かれる。鼻母音がなければアクセントが付された音節に、それもなければ最後の音節に置かれる。 グアラニー語の音節は母音のみ、または子音+母音から成り立っており、閉音節や二重子音は存在しない。すなわち (C)V(V) として表される。 グアラニー語は世界でも数少ない、鼻音調和(英: nasal harmony)を持つ言語である。すべての単語は語幹に下記の異音を一つでも含むか否かにより、鼻音と口音に分類される。そして特定の音素が「鼻音」である単語に現れる際には必ず鼻音化した異音が出現し、「口音」である単語に鼻音化した異音は現れず、鼻音と非鼻音である異音が共に現れる単語は存在しない。 ã - ẽ - ĩ - õ - ũ - ỹ - g̃ - m - mb - n - nd - ng - nt - ñ また鼻音調和は、接頭辞や一定の前接辞を選ぶ際にも影響を及ぼしている。例えば後置詞である pe や ta は、それぞれ鼻音である単語の後では me、nda に変化する。 グアラニー語はきわめて膠着的な言語であって、複統合語に分類されることもある。また流動-Sの活格言語であり、ミレフスキの類型論にしたがえば、第六種に分類される。 グアラニー語には文法性と定不定を示す接小辞が存在しないが、単数を照応する定冠詞としての la、複数についての lo が、スペイン語の影響により使われるようになった。ただしこれらの語は口語グアラニー語では見られるものの、純粋なグアラニー語では用いられない。 Dryer (2013a) は Gregores & Suárez (1967:passim) から、屈折変化に接頭辞が関わる傾向と接尾辞が関わる傾向とでは、前者の方が圧倒的に強いと判断している。 グアラニー語では他動詞や動きの見られる(英: active あるいは agentive)自動詞の主語を共通の人称標識で表す一方、状態的な(英: inactive あるいは non-agentive)自動詞の主語と所有者はまた異なる共通の人称標識体系で表す。González (2005) は前者を「ジェンセンの Set 1」、後者を「ジェンセンの Set 2」と呼んでいる。いずれの体系にも、一人称複数について聞き手を含める包含形(英: inclusive)と聞き手を含めない除外形(英: exclusive)との違いが見られる。この区別は代名詞とも共通するものである。 また、Gregores & Suárez (1967:131f) は「目的語」と称して以下のような接辞も紹介している。このうち ro- と po- 以外は「主語」として示された接辞にも同形のものが見られるが、Gregores & Suárez はあくまでも異なる体系として扱っている。一方、ro- と po- はいずれも動作の受け手が二人称で動作主は一人称であるが、Jensen (1998:498) はこうした特徴を持つ再建中のトゥピ・グアラニー祖語(英語版)(英: Proto-Tupí-Guaraní)の2種類の人称標識 *oro-、*opo- を "Set 4" に分類している。 ここまで挙げた人称標識の具体的な使用例については#動詞などを参照されたい。 一人称複数には包含形と除外形とがあり、この区別は先述の人称標識とも共通するものである。三人称複数の hikuái は動詞の後にのみ現れる。また再帰代名詞 je が用いられる。 文例: グアラニー語の動詞語幹は活用の仕方に応じて3種類に分類され、それぞれ動詞を活用した際の一人称単数・二人称単数の接頭辞から名前を採って、順に areal、aireal、chendal と呼ばれている。なおaireal活用は、areal活用の一種として扱われる。 areal活用は参与者(英: participant)が行為者にあたることを、chendal活用は非行為者にあたることを示すため、それぞれ用いられる。なお他動詞はいずれの活用も行いうるが、自動詞は通常areal活用しか行わず、chendal活用を行う際には習慣性が含意される。名詞もまた活用を行うが、叙述所有を表す際にはchendal活用も行う。 なお動詞についても、語幹が鼻音か口音かによって僅かながら異なった活用を行う。 グアラニー語で否定を表す際には、接周辞 n(d)(V)-...-(r)i が用いられる。動詞の前に現れる n(d)- は、語幹が口音に分類される場合は nd- 、鼻音に分類される場合は n- としたうえで、さらに主語が二人称単数である場合には -e- を、また一人称複数包含形である場合には -a- を、n(d)- と動詞の間に挿入することによって作られる。また、動詞の後に現れる -(r)i については、動詞の語幹が -i で終わる場合に -r- が挿入されることを示す。 否定表現は全時制で使うことができるが、未来または非現実について述べる場合には、通常の時制マーカーが mo'ã に置き換わり、Ndajapomo'ãi (私はするつもりがない)のような n(d)(V)-(語幹)-mo'ã-i という表現になる。またこの他にも、ani、ỹhỹ、nahàniri、naumbre、na'anga といった否定辞による否定表現も存在する。 グアラニー語は名詞(句)の後ろに後置詞をとる。Gregores & Suárez (1967:160–164) にある後置詞の一覧を以下に示す。この中では pe の使用域が非常に広いとされている。 通常、1音節のみの後置詞は直前の名詞(句)に複合され、2音節以上であれば分かち書きされる。 パラグアイグアラニー語の口語について扱う Gregores & Suárez (1967:150) によると、名詞句は「指示詞-(数詞)-冠詞-名詞-名詞-限定的 quality 動詞-唯一性を表す語(nte など)-後置詞句-複数を表す語(kuéra または hikuãi)」という順番となるが、1つの名詞句に現れる限定語(英: attributes)の数は最大でも5までしか確認されていない旨が述べられている。また、左記のうち数詞と kuéra/hikuãi はいずれか一方のみが現れるともされている。 Lewis et al. (2015e) はパラグアイグアラニー語について類型の欄に SVO と記している。パラグアイグアラニー語の口語について扱う Gregores & Suárez (1967:182) によると、語順は基本的には自由であるが、「以下に述べることは印象主義者的な評価に基づく概算に過ぎないことと理解されるべきである」という断りを添えつつ、「主語-動詞-間接目的語-目的語-副詞的限定詞」の順が最も頻度が高いとしている。Dryer (2013b) は同ページの記述から、グアラニー語において優勢な語順は SVO であるとする判断を下している。 グアラニー語からは動物の名称を中心に、若干の単語がポルトガル語を経由して英語へと取り込まれた。例えばジャガーは jaguarete に、ピラニアは pira aña にそれぞれ由来している。またアグーチは akuti を、バクの英名 Tapir は tapira を、アサイーは ĩwasa'iを語源としており、パラグアイやウルグアイは国名そのものがグアラニー語である。ただし、これらは姉妹語のトゥピ語に由来する可能性もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "グアラニー語(グアラニーご)またはグアラニ語(グアラニご)、ワラニー語(ワラニーご)、ガラニ語(ガラニご)、Guaraní、原語名: アバァニェエン (Avañe'ẽ)は、トゥピ語族に属する南アメリカ先住民の言語である。パラグアイではスペイン語と共に公用語として用いられるほか、同国人口の88%がこれを解し、地方部では住民の半数がグアラニー語のみを母語としている。またパラグアイに限らず、アルゼンチンのメソポタミア地方やブラジル南西部など近隣諸国の住民の間でも用いられており、ボリビアでは他の先住民言語とともに公用語のひとつとして、アルゼンチンのコリエンテス州ではスペイン語に次ぐ第二公用語に指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "グアラニー語はアメリカ先住民諸語としては最も話者が多い言語の一つであり、中でも唯一大きな比率で非先住民の話者を擁する。これは南北アメリカ大陸では興味深い例外である。というのは、グアラニー語を除くと、スペイン人とアメリカ先住民の混血であるメスティーソや、文化的同化の進んだ上昇指向の強いアメリカ先住民の中では、植民地言語(この場合、他の公用語であるスペイン語)への移行がほとんど全体に共通した文化およびアイデンティティの標識となっているからである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イエズス会の宣教師で Tesoro de la lengua guaraní (グアラニー語の宝)を著したアントニオ・ルイス・デ・モントーヤ(英語版)は、グアラニー語について「豊かで格調高く、最高の名声を受けるに匹敵すべき」言語であると述べている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお一般にグアラニー語といえばパラグアイの公用語を指すが、この言語はグアラニー諸語、もしくは方言連続体の一部であって、これらの言語群に属する姉妹語の過半も同じくグアラニー語と呼ばれていることに留意されたい。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "イエズス会はインディヘナに対するローマ・カトリックの布教をグアラニー語で行い、イエズス会伝道所のような自治共同体でもグアラニー語が用いられた。また往時のパラグアイを支配していた諸々の独裁者が国境を閉ざしてしまったために、国内の文化や言語は守られる結果となった。こうしてグアラニー語は活力を保って生き延び、公用語の地位を得たのであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一口にグアラニー語と言っても研究者は様々な方言に分かれるとしている。たとえば、まず Rodrigues (1984/85) により形態論的・音韻論的な根拠からトゥピ・グアラニー語族下の7組の言語群のうちの最初の組を以下のように分類した。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また Kaufman (1994) は以下のような分類を唱えた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "I. トゥピ・グアラニ語族(Tupí-Guaraní family)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Lewis et al. 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ẽ - ĩ - õ - ũ - ỹ - g̃ - m - mb - n - nd - ng - nt - ñ", "title": "音韻論" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また鼻音調和は、接頭辞や一定の前接辞を選ぶ際にも影響を及ぼしている。例えば後置詞である pe や ta は、それぞれ鼻音である単語の後では me、nda に変化する。", "title": "音韻論" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "グアラニー語はきわめて膠着的な言語であって、複統合語に分類されることもある。また流動-Sの活格言語であり、ミレフスキの類型論にしたがえば、第六種に分類される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "グアラニー語には文法性と定不定を示す接小辞が存在しないが、単数を照応する定冠詞としての la、複数についての lo が、スペイン語の影響により使われるようになった。ただしこれらの語は口語グアラニー語では見られるものの、純粋なグアラニー語では用いられない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Dryer (2013a) は Gregores & Suárez (1967:passim) から、屈折変化に接頭辞が関わる傾向と接尾辞が関わる傾向とでは、前者の方が圧倒的に強いと判断している。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "グアラニー語では他動詞や動きの見られる(英: active あるいは agentive)自動詞の主語を共通の人称標識で表す一方、状態的な(英: inactive あるいは non-agentive)自動詞の主語と所有者はまた異なる共通の人称標識体系で表す。González (2005) は前者を「ジェンセンの Set 1」、後者を「ジェンセンの Set 2」と呼んでいる。いずれの体系にも、一人称複数について聞き手を含める包含形(英: inclusive)と聞き手を含めない除外形(英: exclusive)との違いが見られる。この区別は代名詞とも共通するものである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、Gregores & Suárez (1967:131f) は「目的語」と称して以下のような接辞も紹介している。このうち ro- と po- 以外は「主語」として示された接辞にも同形のものが見られるが、Gregores & Suárez はあくまでも異なる体系として扱っている。一方、ro- と po- はいずれも動作の受け手が二人称で動作主は一人称であるが、Jensen (1998:498) はこうした特徴を持つ再建中のトゥピ・グアラニー祖語(英語版)(英: Proto-Tupí-Guaraní)の2種類の人称標識 *oro-、*opo- を \"Set 4\" に分類している。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ここまで挙げた人称標識の具体的な使用例については#動詞などを参照されたい。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一人称複数には包含形と除外形とがあり、この区別は先述の人称標識とも共通するものである。三人称複数の hikuái は動詞の後にのみ現れる。また再帰代名詞 je が用いられる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "文例:", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "グアラニー語の動詞語幹は活用の仕方に応じて3種類に分類され、それぞれ動詞を活用した際の一人称単数・二人称単数の接頭辞から名前を採って、順に areal、aireal、chendal と呼ばれている。なおaireal活用は、areal活用の一種として扱われる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "areal活用は参与者(英: participant)が行為者にあたることを、chendal活用は非行為者にあたることを示すため、それぞれ用いられる。なお他動詞はいずれの活用も行いうるが、自動詞は通常areal活用しか行わず、chendal活用を行う際には習慣性が含意される。名詞もまた活用を行うが、叙述所有を表す際にはchendal活用も行う。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお動詞についても、語幹が鼻音か口音かによって僅かながら異なった活用を行う。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "グアラニー語で否定を表す際には、接周辞 n(d)(V)-...-(r)i が用いられる。動詞の前に現れる n(d)- は、語幹が口音に分類される場合は nd- 、鼻音に分類される場合は n- としたうえで、さらに主語が二人称単数である場合には -e- を、また一人称複数包含形である場合には -a- を、n(d)- と動詞の間に挿入することによって作られる。また、動詞の後に現れる -(r)i については、動詞の語幹が -i で終わる場合に -r- が挿入されることを示す。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "否定表現は全時制で使うことができるが、未来または非現実について述べる場合には、通常の時制マーカーが mo'ã に置き換わり、Ndajapomo'ãi (私はするつもりがない)のような n(d)(V)-(語幹)-mo'ã-i という表現になる。またこの他にも、ani、ỹhỹ、nahàniri、naumbre、na'anga といった否定辞による否定表現も存在する。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "グアラニー語は名詞(句)の後ろに後置詞をとる。Gregores & Suárez (1967:160–164) にある後置詞の一覧を以下に示す。この中では pe の使用域が非常に広いとされている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "通常、1音節のみの後置詞は直前の名詞(句)に複合され、2音節以上であれば分かち書きされる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "パラグアイグアラニー語の口語について扱う Gregores & Suárez (1967:150) によると、名詞句は「指示詞-(数詞)-冠詞-名詞-名詞-限定的 quality 動詞-唯一性を表す語(nte など)-後置詞句-複数を表す語(kuéra または hikuãi)」という順番となるが、1つの名詞句に現れる限定語(英: attributes)の数は最大でも5までしか確認されていない旨が述べられている。また、左記のうち数詞と kuéra/hikuãi はいずれか一方のみが現れるともされている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Lewis et al. (2015e) はパラグアイグアラニー語について類型の欄に SVO と記している。パラグアイグアラニー語の口語について扱う Gregores & Suárez (1967:182) によると、語順は基本的には自由であるが、「以下に述べることは印象主義者的な評価に基づく概算に過ぎないことと理解されるべきである」という断りを添えつつ、「主語-動詞-間接目的語-目的語-副詞的限定詞」の順が最も頻度が高いとしている。Dryer (2013b) は同ページの記述から、グアラニー語において優勢な語順は SVO であるとする判断を下している。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "グアラニー語からは動物の名称を中心に、若干の単語がポルトガル語を経由して英語へと取り込まれた。例えばジャガーは jaguarete に、ピラニアは pira aña にそれぞれ由来している。またアグーチは akuti を、バクの英名 Tapir は tapira を、アサイーは ĩwasa'iを語源としており、パラグアイやウルグアイは国名そのものがグアラニー語である。ただし、これらは姉妹語のトゥピ語に由来する可能性もある。", "title": "語彙論" } ]
グアラニー語(グアラニーご)またはグアラニ語(グアラニご)、ワラニー語への移行がほとんど全体に共通した文化およびアイデンティティの標識となっているからである。 イエズス会の宣教師で Tesoro de la lengua guaraní (グアラニー語の宝)を著したアントニオ・ルイス・デ・モントーヤは、グアラニー語について「豊かで格調高く、最高の名声を受けるに匹敵すべき」言語であると述べている。 なお一般にグアラニー語といえばパラグアイの公用語を指すが、この言語はグアラニー諸語、もしくは方言連続体の一部であって、これらの言語群に属する姉妹語の過半も同じくグアラニー語と呼ばれていることに留意されたい。
{{Infobox Language |name=グアラニー語 |nativename=avañe'ẽ |pronunciation=/aʋaɲẽˈʔẽ/ |altname=グアラニ語、ワラニー語 |states=[[アルゼンチン]]、[[ボリビア]]、[[ブラジル]]、[[パラグアイ]] |speakers= 全体で493万9千180人<ref>Lewis ''et al.'' 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[[トゥピ・グアラニー語族|トゥピ・グアラニ語族]](Tupí-Guaraní family) * A. グアラニ語群(Guaraní group) ** 1. グアラニ語(域)(Guaraní language (area)) *** カイングワ方言(Kaingwá) **** カイワ(Kaiwá、別名: カヨバ (Kayová)) **** パニ(Pãi、別名: パニィ (Pany)) **** タビテラン{{enlink|Pai Tavytera language|a=on}}(Tavüterán) *** ボリビア グアラニ方言(Bolivian Guaraní) *** パラグアイ グアラニ方言(Paraguayan Guaraní) **** {{仮リンク|ジョパラ|en|Jopara language}}(Jopará) *** チリパ・ニャンデバ方言(Chiripá-Nyandeva) **** チリパ(Chiripá) **** ニャンデバ(Nyandéva) *** チリグアノ方言複合体/新生言語 (?)(Chiriguano; 同義語: アバ (Avá)) **** タピエテ(Tapieté (= ニャナイグア Nyanaigua)) **** チリグアノ・チャネ・イソセーニョ(Chiriguano-Chané-Isosenyo (= タピイ Tapyi)) *** {{仮リンク|ムブヤ語|label=ムビア グアラニ方言|en|Mbyá Guaraní language}}({{Unicode|Mbü’a}}) ** 2. {{仮リンク|シェタ語|en|Xeta language}}(Shetá) ** 3. グアヤキ語(Guajakí) Lewis ''et al.'' (2015a, b, c, d, e, f) はグアラニー語と名のつく言語を以下の5種類に細分化している。 * アバグアラニー語(Ava Guaraní; 別名: チリパ語 (Chiripá、Txiripá)、ニャンデバ語 (Ñandeva)<ref group="注">なお、「ニャンデバ語」についてはタピエテ語の別名の一つともされている。詳しくは[[タピエテ語#名称]]を参照されたい。</ref>、Apytare; [[ISO 639-3]]: nhd) ** アパポクバ方言(Apapocuva) * 西部ボリビアグアラニー語(Western Bolivian Guaraní; ISO 639-3: gnw) * 東部ボリビアグアラニー語(Eastern Bolivian Guaraní; 蔑称: 「チリグアノ語」 (Chiriguano); ISO 639-3: gui) ** アバ方言(Ava) ** イソセーニョ方言(Izoceño) ** チャネ方言(Chané) * パラグアイグアラニー語(Paraguayan Guaraní; ISO 639-3: gug) ** ジョパラ方言(Jopará) * ムブヤグアラニー語(Mbyá; ISO 639-3: gun) ** Baticola方言 ** Tambéopé方言 なお、ここまでで度々パラグアイグアラニー語の下位分類として見られるジョパラ(方言)とはスペイン語の要素が入り混じった、都市部で用いられる口語のグアラニー語である<ref>青木(2003:91)。</ref><ref name="mple">Lewis ''et al.'' (2015e).</ref>。 == 綴字法 == グアラニー語が書き言葉として使われるようになったのは、比較的最近になってからのことである。今使われているグアラニー語アルファベットは、基本的に[[ラテン文字]]に準拠しつつ、2つの[[ダイアクリティカルマーク]]と6つの[[二重字]]を付け加えた文字体系となっている。正書法は非常に[[音素論]]的であって<ref>{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}}.</ref>、個々の文字はスペイン語と似たような音価をもつ。 母音字はYを含め6字で、それぞれが[[鋭アクセント]]符号を伴って[[強勢]]を示す({{lang|gn|Á/á, É/é, Í/í, Ó/ó, Ú/ú, Ý/ý}})が、これら強勢のある[[文字素]]は無強勢のものと同じ文字として扱われる。また、[[チルダ]]も多くの文字と併せて用いられている。例えば、N/nにチルダを付してÑ/ñとすると、スペイン語と同様に[[歯茎鼻音]]でなく[[硬口蓋鼻音]]を表すものとして扱われ、またチルダ付きの母音字は、ポルトガル語のように[[鼻母音]]であることを示すことができる({{lang|gn|Ã/ã, Ẽ/ẽ, Ĩ/ĩ, Õ/õ, Ũ/ũ, Ỹ/ỹ}})。 グアラニー語アルファベットに特有の表記として、チルダにより鼻音化された[[軟口蓋音|軟口蓋子音]]G/g、すなわち[[軟口蓋鼻音]]であるところの{{Unicode|G̃/g̃}}がある。これがグアラニー語に導入されたのは20世紀半ばと比較的新しく、その使用を巡っては異論もある。またこの文字は[[ユニコード]]でも正規合成済みとして扱われておらず、ダイアクリティカルマーク付き文字が充分にサポートされていないコンピュータやフォントを使用する際には、[[写植]]に手間がかかったりコンピュータ上の表示が完全になされないおそれがある。{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では言及されていない。同書の同ページにおける音素と綴り字の対応関係は[[#母音]]、[[#子音]]を参照されたい。 == 音韻論 == === 分節音素 === ==== 母音 ==== '''a'''、'''e'''、'''i'''、'''o'''、'''u'''はスペイン語や[[国際音声記号|IPA]]で用いられているものと概ね同じであるが、{{IPA|ɛ}}や{{IPA|[ɔ]}}といった[[異音]]がわりあい頻繁に用いられる。'''y'''(または î、ï、ĭ)の音価は[[非円唇中舌狭母音]]{{IPA|/ɨ/}}である。ここまでの 6[[母音]]は口母音({{Lang-en-short|oral vowels}})とも呼ばれ、各口母音はそれぞれ対応する[[鼻母音]]をもつ。口母音と鼻母音の区別は、後述する鼻音調和に関わってくる。 {| cellpadding="5" style="margin: 1em 1em 1em 0; line-height: 1.1em; border-collapse: collapse; text-align: center; font-family: Doulos SIL, GentiumAlt, Lucida Sans Unicode, Gentium, Code2000, Chrysanthi Unicode, TITUS Cyberbit Basic, Bitstream Cyberbit, Bitstream Vera, Arial Unicode MS, Hiragino Kaku Gothic Pro, Lucida Grande; font-size: 110%; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid;" | i | ɨ | u |- | e | | o |- | | a | |} ==== 子音 ==== [[子音]]は以下の通りである。括弧内の表記は、基本的には {{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} において示されている、用いられる可能性のある全ての綴り方である。指定が複雑なものである場合には注釈を付した。 {| border="2" cellpadding="5" style="margin: 1em 1em 1em 0; line-height: 1.2em; border-collapse: collapse; text-align: center; background: #f9f9f9; border: 1px #aaa solid;" |- | &nbsp; ! [[両唇音]] ! [[唇歯音]] ! [[歯茎音]] ! [[歯茎硬口蓋音]] ! [[硬口蓋音]] ! [[軟口蓋音]] ! [[声門音]] |- ! style="text-align: left;" | [[破裂音]] | {{IPA|p}} (p) | &nbsp; | {{IPA|t}} (t) | &nbsp; | | {{IPA|k}} <ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} ではまず音素 {{Ipa|k}} について 1. a、o、u の前で '''c'''、e、i、î の前では '''k''' と綴られるか、あるいは 2. 常に '''k''' と綴られるかの2通りであるとされている。また、これとは別に {{Ipa|kʷ}} という音素が設定されており、その綴り方は '''cu''' か '''ku''' の2通りが示されている。</ref> | {{IPA|ʔ}} (') |- ! style="text-align: left;" | [[鼻音]] | {{IPA|m}}<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では基本的に鼻母音の前では m、強勢のある非鼻母音の前では mb となるとされている。また強勢のない非鼻母音の前の場合いずれの表記も見られるが、mb と書かれる傾向の方が強いともしている。</ref> | &nbsp; | {{IPA|n}}<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では基本的に鼻母音の前では n、強勢のある非鼻母音の前では nd となるとされている。また強勢のない非鼻母音の前の場合いずれの表記も見られるが、nd と書かれる傾向の方が強いともしている。</ref> | &nbsp; | {{IPA|ɲ}}&nbsp; (ñ)<ref group="注">{{Ipa|j}} に対する注も参照。</ref> | <ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では {{Ipa|ŋ}} と {{Ipa|ŋʷ}} という音素が見られ、それぞれ ng、ngu という綴りが当てられている。</ref> | &nbsp; |- ! style="text-align: left;" | [[前鼻音化音]]<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では、個々の音素としては扱われていない。</ref> | {{IPA|<small><sup>m</sup></small>b}}&nbsp; (mb) | &nbsp; | {{IPA|<small><sup>n</sup></small>d}} &nbsp; (nd) | &nbsp; | &nbsp; | {{IPA|<small><sup>ŋ</sup></small>ɡ}}&nbsp; (ng) | &nbsp; |- ! style="text-align: left;" | [[はじき音]] | &nbsp; | &nbsp; | {{IPA|ɾ}} (r)<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} には見られない。</ref> | &nbsp; | &nbsp; | &nbsp; | &nbsp; |- ! style="text-align: left;" | [[摩擦音]] | &nbsp; | &nbsp; | {{IPA|s}} (s) | {{IPA|ɕ}}&nbsp; (ch)<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} には ch または x と綴られる /ś/ が見られる。</ref> | | | {{IPA|h}}<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では見られず、代わりに {{Ipa|x}}(綴りは jh または h)、{{Ipa|xʷ}}(綴りは jhuまたはhu)が見られる。</ref> |- ! style="text-align: left;" | [[接近音]] | &nbsp; | {{IPA|ʋ}} (v)<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では {{Ipa|v}} に v、b の表記が当てられている。</ref> | &nbsp; | &nbsp; | &nbsp;{{IPA|j}}<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では /y/ という音素が見られるが、これは鼻母音の前では ñ となり、それ以外の場合には y となるとされ、j という綴りが当てられる場合もあるとされている。</ref> | {{IPA|ɰ}}&nbsp; (g)&nbsp;<ref group="注">{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では {{Ipa|γ}} と {{Ipa|γʷ}} という音素が見られ、それぞれ g、gu という綴りが当てられている。</ref> | &nbsp; |- |} {{IPA|/ɕ/}}と{{IPA|/ʃ/}}、{{IPA|/ɰ/}}と{{IPA|/ɡ/}}、{{IPA|/ʋ/}}と{{IPA|/v/}}はそれぞれ[[相補分布]]を示す。また{{IPA|/j/}}は[[方言]]により{{IPA|/dʒ/}}と発音されることもあり、[[声門閉鎖音]] {{Ipa|ʔ}} は母音間にのみ認められる<ref group="注">一方、{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} にはこのような制限については特に記されておらず、語頭に現れる場合には表記されないとの旨が記されている。</ref>。なお、{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=116}} では上表の他に /č/(綴りはch)、{{Ipa|f}}(綴りは f)、/δ/(綴りは d)、{{Ipa|l}}(綴りは l)、{{Ipa|r}}(綴りはr)、{{Unicode|/ř/}}(綴りは rr)、{{Unicode|/l̬/}}(綴りは ll)が見られる。{{要出典範囲|[[歯茎ふるえ音]]{{IPA|/r/}}、[[前鼻音化音]]{{IPA|/nt/}}と[[歯茎側面接近音]]{{IPA|/l/}}は、グアラニー語固有の音価ではない|date=2017年2月}}。 === 超分節音素 === ==== 強勢 ==== [[強勢]]については、鼻母音を含む語では鼻母音に置かれる。鼻母音がなければアクセントが付された音節に、それもなければ最後の音節に置かれる<ref group="注">{{Harvcoltxt|González|2005|p=36}} や Goedemans & van der Hulst (2013) では鼻母音やアクセント記号のことについては特に触れることなく、単に最後の音節に置かれるとしている。また González は同時に彼女が主題としているタピエテ語の他、{{仮リンク|シリオノ語|en|Sirionó language}}やアバ・グアラニー語(Ava-Guaraní)といった同系統の言語はいずれも最後から2番目の音節に強勢があるものとしている。</ref>。 === 音節構造 === グアラニー語の[[音節]]は母音のみ、または子音+母音から成り立っており、[[閉音節]]や[[二重子音]]は存在しない。すなわち ''([[子音|C]])[[母音|V]](V)'' として表される。 === 鼻音調和 === グアラニー語は世界でも数少ない、[[鼻音調和]]({{Lang-en-short|nasal harmony}})を持つ言語である。すべての単語は語幹に下記の異音を一つでも含むか否かにより、鼻音と口音に分類される。そして特定の音素が「鼻音」である単語に現れる際には必ず鼻音化した異音が出現し、「口音」である単語に鼻音化した異音は現れず、鼻音と非鼻音である異音が共に現れる単語は存在しない。 {{lang|gn|ã - ẽ - ĩ - õ - ũ - ỹ - g̃ - m - mb - n - nd - ng - nt - ñ}} また鼻音調和は、接頭辞や一定の前接辞を選ぶ際にも影響を及ぼしている。例えば後置詞である ''pe'' や ''ta'' は、それぞれ鼻音である単語の後では ''me''、''nda'' に変化する。 == 文法 == グアラニー語はきわめて[[膠着語|膠着]]的な言語であって、[[複統合語]]に分類されることもある。また[[流動-S]]の[[活格言語]]であり、ミレフスキの類型論にしたがえば、第六種に分類される。 グアラニー語には[[性 (文法)|文法性]]と[[定不定]]を示す接小辞が存在しないが、単数を照応する[[定冠詞]]としての ''la''、複数についての ''lo'' が、スペイン語の影響により使われるようになった。ただしこれらの語は口語グアラニー語では見られる<ref>たとえば {{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=150}} などを参照。</ref>ものの、{{要出典範囲|純粋なグアラニー語では用いられない|date=2017年2月}}。 === 形態論 === Dryer (2013a) は {{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=passim}} から、[[語形変化|屈折変化]]に[[接頭辞]]が関わる傾向と[[接尾辞]]が関わる傾向とでは、前者の方が圧倒的に強いと判断している。 ==== 人称標識 ==== グアラニー語では他動詞や動きの見られる({{Lang-en-short|active}} あるいは {{Lang|en|agentive}})自動詞の主語を共通の人称標識で表す一方、状態的な({{Lang-en-short|inactive}} あるいは {{Lang|en|non-agentive}})自動詞の主語と[[所有 (言語学)|所有]]者はまた異なる共通の人称標識体系で表す。{{Harvcoltxt|González|2005}} は前者を「ジェンセンの Set 1」、後者を「ジェンセンの Set 2」と呼んでいる<ref group="注">{{Harvcoltxt|González|2005|p=106}} は Jensen (1998) がいわゆるトゥピ・グアラニー語族の言語における人称標識を4組に分けたとしている。</ref>。いずれの体系にも、[[一人称]][[複数]]について聞き手を含める[[一人称#包括形と除外形|包含形]]({{Lang-en-short|inclusive}})と聞き手を含めない[[一人称#包括形と除外形|除外形]]({{Lang-en-short|exclusive}})との違いが見られる。この区別は[[#代名詞|代名詞]]とも共通するものである。 {| class="wikitable" style="width:400px;" |+ 「主語」の接辞(Gregores & Suárez 1967:131)、<br />あるいは「ジェンセンの Set 1」 |- ! colspan="2" | ! [[数 (文法)|単数]] ! 複数 |- ! rowspan="2" | 一人称 ! 包含 | rowspan="2" style="text-align:center;" | a- | style="text-align:center;" | ja- |- ! 除外 | style="text-align:center;" | ro- |- ! colspan="2" | [[二人称]] | style="text-align:center;" | re- | style="text-align:center;" | pe- |- ! colspan="2" | [[三人称]] | colspan="2" style="text-align:center;" | o- |} {| class="wikitable" style="width:400px;" |+ (Gregores & Suárez 1967:131)、<br />「ジェンセンの Set 2」 ! colspan="2" | ! 単数 ! 複数 |- ! rowspan="2" | 一人称 ! 包含 | rowspan="2" style="text-align:center;" | che- | style="text-align:center;" | jane- |- ! 除外 | style="text-align:center;" | ore- |- ! colspan="2" | 二人称 | style="text-align:center;" | ne- | style="text-align:center;" | pene- |- ! colspan="2" | 三人称 | colspan="2" style="text-align:center;" | i- |} また、{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=131f}} は「目的語」と称して以下のような接辞も紹介している。このうち ''ro-'' と ''po-'' 以外は「主語」として示された接辞にも同形のものが見られるが、Gregores & Suárez はあくまでも異なる体系として扱っている。一方、''ro-'' と ''po-'' はいずれも動作の受け手が二人称で動作主は一人称であるが、Jensen (1998:498) はこうした特徴を持つ[[再構 (言語学)|再建]]中の{{仮リンク|トゥピ・グアラニー祖語|en|Proto-Tupian language}}({{Lang-en-short|Proto-Tupí-Guaraní}})の2種類の人称標識 ''*oro-''、''*opo-'' を "Set 4" に分類している。 {| class="wikitable" |+ 「目的語」の接辞 |- ! colspan="4" rowspan="2" | ! colspan="3" | 動作主<ref group="注" name="AandP">Gregores & Suárez は一切用いていない表現であるが、それぞれの接辞に反映されている二者の関係が分かりやすくなることを期し、便宜上用いることとする。</ref> |- ! 一人称 ! 二人称 ! 三人称 |- ! rowspan="5" | 被動者<ref group="注" name="AandP" /> ! rowspan="3" | 一人称 ! colspan="2" | 単数 | colspan="3" style="text-align:center;" | che- |- ! rowspan="2" | 複数 ! 包含 | colspan="3" style="text-align:center;" | jane- |- ! 除外 | colspan="3" style="text-align:center;" | ore- |- ! rowspan="2" | 二人称 ! colspan="2" | 単数 | style="text-align:center;" | ro- | style="text-align:center;" | - | style="text-align:center;" | ne- |- ! colspan="2" | 複数 | style="text-align:center;" | po- | style="text-align:center;" | - | style="text-align:center;" | pe- |} ここまで挙げた人称標識の具体的な使用例については[[#動詞]]などを参照されたい。 ==== 代名詞 ==== {|class="wikitable" |- ! ! 単数 ! 複数 |- ! 一人称 | che | ñande(包含形),<br />ore(除外形) |- ! 二人称 | nde | peẽ |- ! 三人称 | ha'e | ha'ekuéra / hikuái |} 一人称複数には包含形と除外形とがあり、この区別は先述の[[#人称標識|人称標識]]とも共通するものである。三人称複数の ''hikuái'' は動詞の後にのみ現れる。また再帰代名詞 ''je'' が用いられる。 文例: * ohecha hikuái : 彼らは見る * ahecha : 私は見る * ajehecha : 私は自分を見る ==== 動詞 ==== ===== 通常の活用 ===== グアラニー語の動詞語幹は活用の仕方に応じて3種類に分類され、それぞれ動詞を活用した際の一人称単数・二人称単数の接頭辞から名前を採って、順に ''areal''、''aireal''、''chendal'' と呼ばれている。なおaireal活用は、areal活用の一種として扱われる。 areal活用は参与者({{Lang-en-short|participant}})が行為者にあたることを、chendal活用は非行為者にあたることを示すため、それぞれ用いられる。なお他動詞はいずれの活用も行いうるが、自動詞は通常areal活用しか行わず、chendal活用を行う際には習慣性が含意される。名詞もまた活用を行うが、叙述所有を表す際にはchendal活用も行う。<ref name=Nordhoff2004>Nordhoff (2004).</ref> なお動詞についても、語幹が鼻音か口音かによって僅かながら異なった活用を行う。 {| class="wikitable" |- ! ! areal ! areal ! aireal ! chendal |- ! ! 歩く ! 話す ! 使う ! 大きい |- | 一人称単数 | a-guata | a-ñe'ẽ | ai-poru | che-tuicha |- | 二人称単数 | re-guata | re-ñe'ẽ | rei-poru | nde-tuicha |- | 三人称単数 | o-guata | o-ñe'ẽ | oi-poru | i-tuicha |- | 一人称複数包含形 | ja-guata | ña-ñe'ẽ | jai-poru | ñande-tuicha |- | 一人称複数除外形 | ro-guata | ro-ñe'ẽ | roi-poru | ore-tuicha |- | 二人称複数 | pe-guata | pe-ñe'ẽ | pei-poru | pende-tuicha |- | 三人称複数 | o-guata | o-ñe'ẽ | oi-poru | i-tuicha |} ===== 否定 ===== グアラニー語で否定を表す際には、接周辞 ''n(d)(V)-...-(r)i'' が用いられる。動詞の前に現れる ''n(d)-'' は、語幹が口音に分類される場合は ''nd-'' 、鼻音に分類される場合は ''n-'' としたうえで、さらに主語が二人称単数である場合には ''-e-'' を、また一人称複数包含形である場合には ''-a-'' を、''n(d)-'' と動詞の間に挿入することによって作られる。また、動詞の後に現れる ''-(r)i'' については、動詞の語幹が ''-i'' で終わる場合に ''-r-'' が挿入されることを示す。 否定表現は全時制で使うことができるが、未来または非現実について述べる場合には、通常の時制マーカーが ''mo'ã'' に置き換わり、''Ndajapomo'ãi'' (私はするつもりがない)のような ''n(d)(V)-''(語幹)''-mo'ã-i'' という表現になる。またこの他にも、''ani''、''ỹhỹ''、''nahàniri''、''naumbre''、''na'anga'' といった否定辞による否定表現も存在する。 {| class="wikitable" ! ! 口音動詞 ! 鼻音動詞 ! "-i"語幹 |- ! ! ''japo'' (する) ! ''kororõ'' (唸る) ! ''jupi'' (上る) |- ||一人称単数||nd-ajapó-i || n-akororõ-i || nd-ajupí-ri |- ||二人称単数||nde-rejapó-i || ne-rekororõ-i || nde-rejupí-ri |- ||三人称単数||nd-ojapó-i || n-okororõ-i || nd-ojupí-ri |- ||一人称複数包含形||nda-jajapó-i || na-ñakororõ-i || nd-ajajupí-ri |- ||一人称複数除外形||nd-orojapó-i || n-orokororõ-i || nd-orojupí-ri |- ||二人称複数||nda-pejapó-i || na-pekororõ-i || nda-pejupí-ri |- ||三人称複数||nd-ojapó-i || n-okororõ-i || nd-ojupí-ri |} ===== 時制・相 ===== ; -Ø : 接尾辞を全く持たない場合は、幾分かの[[アオリスト]]性をもった現在時制として扱われる。 : ''{{lang|gn|Upe ára resẽ reho mombyry}}'' - その日あなたは出かけ、遠くへ行った。 ; -kuri : 行為が近接していることを示す。また代名詞の後に用いることもできる。 : ''{{lang|gn|Ha'ukuri}}'' - 私はちょうど食べてしまった。 : ''{{lang|gn|Ha che kuri, che po'a}}'' - そして私に起きた事を言えば、私は幸運だった。 : (注)本例中の ''ha'u'' は、不規則活用する動詞 ''u''(食べる)の一人称単数形である。 ; -va'ekue : 遠い過去に起こったことを示し、それが実際に起こったと断言する際に用いられる。 : ''{{lang|gn|Okañyva'ekue}}'' - 彼はとっくの昔にいなくなってしまった。 ; -ra'e : かつては疑っていたものの、発話時点では間違いないと考えるようになったことを示す。 : ''{{lang|gn|Nde rejoguara'e peteĩ ta'angambyry pyahu}}'' - なるほど、君は結局、新しいテレビを買ったんだね。 ; -raka'e : 完了相で表される事実について、それが確かでないことを示す。ただし近年では、この形態素が持っていた意味は一部が失われ、''ra'e'' や ''va'ekue'' と同じように用いられている。 : ''{{lang|gn|Peẽ peikoraka'e Asunción-pe}}'' - 君達はアスンシオンに住んでいたことがあるように思う。 ; -ta : まもなく起こる未来時制を指すほか、高圧的な[[命令法]]としても用いられる。ここに強勢が置かれることはない。 : ''{{lang|gn|Oujeýta ag̃aite}}'' - 彼はすぐに帰ってくる。 ; -ma : 既に起こったこと、[[完了相]]を表す。''-ta'' と併せて用いることもある。ここに強勢が置かれることはない。 : ''{{lang|gn|Ajapóma}}'' - 私は既にやってしまった。 : ''{{lang|gn|Ahátama}}'' - 私は既に向かっているところだ。 ; -va'erã : 問題が今にも起ころうとしている訳ではないもの、社会的・道義的な理由により行わなければならないものを示す。[[ドイツ語]]の[[法助動詞]]である ''sollen'' に似た意味を持つ。 : ''{{lang|gn|Péa ojejapova'erã}}'' - それは行われねばならない。 ; -ne : おそらく起こるであろうこと、またはそうであろうと話者が考えていることを指す。ある意味ではスペイン語の[[接続法]]に関連する形態素である。ここに強勢が置かれることはない。 : ''{{lang|gn|Mitãnguéra ág̃a og̃uahéne hógape}}'' - 子供達は今に家に戻ってくるさ。 ; -(h)ína : 発話時点で繰返している行為、現在または大過去における継続相・強意形を示す。なお、口音には ''hína''、鼻音には''ína''が前接する。 : ''{{lang|gn|Rojatapyhína}}'' - 私たちは火をおこしている。 : ''{{lang|gn|che ha'ehína}}'' - 私がまさにそれだ。 ; -vo : ''-hína'' に類似した形態素であるが、必ずしも発話時点でなされていると限らない点で若干異なっている。ここに強勢が置かれることはない。 : ''{{lang|gn|amba'apóvo}}'' - 私は働いている。(現在とは限らない) ; -pota : 行為が今まさになされようとしていることを示す。なお ''-po'' で終わる動詞に前接する場合は、ある種の連声により ''-mbota'' に変化する。 : ''{{lang|gn|Ajukapota}}'' - 私はちょうど今から殺そうとしていたところだ。 : ''{{lang|gn|ajapombota}}'' - 私は今からやるつもりだ。 ; -pa : 一連の過程が全て終わったことを強調して言う際に用いられる。また ''-ma'' と併せて ''páma'' とすることもできる。 : ''{{lang|gn|Amboparapa pe ogyke}}'' - 私は壁を塗りきった。 : ''{{lang|gn|ñande jaikuaapáma nde remimo'ã}}'' - 私達はあなたの考えをすっかり知り尽してしまった。 ==== 限定詞 ==== ; 話者の近くにあり、見えるもの : ''ko'' - これ : ''pe'' - それ : ''amo'' - あれ : ''peteĩ-teĩ'' - 各々 : ''ko'ã'' - これら : ''umi'' - それら ; 不明瞭で話者の遠くにあり、見ることができないもの : ''ku'' - あれ : ''akói'' - あれら ; その他の限定詞 : ''opa'' - 全ての : ''mayma'' - みな(人にのみ用いる) : ''mbovy'' - いくつかの : ''heta'' - 多数の : ''ambue'' - 他の : ''ambueve'' - もう一方の : ''Oimeraẽ'' - どちらかの : ''Mokoĩve'' - 両方の : ''Ni peteĩ'' - いずれでもない === 統語論 === ==== 句 ==== ===== 名詞句 ===== ====== 後置詞 ====== グアラニー語は名詞(句)の後ろに[[後置詞]]をとる。{{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=160&ndash;164}} にある後置詞の一覧を以下に示す。この中では ''pe'' の使用域が非常に広いとされている。 : {{Unicode|'''ʔári'''}} - (直接的に触れて)…上に :* 例: {{Unicode|''tupà '''ʔári'''''}} - 寝床の上に : '''ní''' - …と(共に) : '''gwi''' - 〔起点、原因、比較〕 …より : '''gwiguá''' - …(由来)の : '''gwivé''' - 〔起点、原因〕 …より : '''pe''' - 〔位置、行き先〕 …に; …によって :* 例: {{Unicode|''peteĩ́ ʔóga '''pe'''''}} - 一軒の家(の中)に : {{Unicode|'''moɨvé'''}} - …の前に : '''pevé''' - 〔到達点〕 …まで : '''rehé''' - …を通って; …に沿って : '''riré''' - 〔時間〕 …の後に : '''rupí''' - …を通って; …のそばに; 〔理由〕 …の為に : '''(i)ša''' - …のように 通常、1音節のみの後置詞は直前の名詞(句)に複合され、2音節以上であれば分かち書きされる{{Sfn |Estigarribia |2020 |pp=50-51}}。 ====== 名詞句の語順 ====== パラグアイグアラニー語の口語について扱う {{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=150}} によると、名詞句は「指示詞-(数詞)-冠詞-名詞-''名詞''-限定的 quality 動詞-唯一性を表す語(''nte'' など)-後置詞句-複数を表す語(''kuéra'' または ''hikuãi'')」という順番となるが、1つの名詞句に現れる[[限定語]]({{Lang-en-short|attributes}})の数は最大でも5までしか確認されていない旨が述べられている。また、左記のうち数詞と ''kuéra/hikuãi'' はいずれか一方のみが現れるともされている。 * 例: upe la 'óga nte ita guiguá kuéra : [[グロス (言語学)|グロス]]: {{Scaps|[[指示詞|dem]] [[冠詞|art]]}} 家 だけ 石 {{Scaps|[[複数|pl]]}} : 訳: 石でできたこれらの家々だけ ==== 節 ==== ===== 語順 ===== Lewis et al. (2015e) はパラグアイグアラニー語について[[類型論|類型]]の欄に [[SVO型|SVO]] と記している。パラグアイグアラニー語の口語について扱う {{Harvcoltxt|Gregores|Suárez|1967|p=182}} によると、語順は基本的には自由であるが、「以下に述べることは印象主義者的な評価に基づく概算に過ぎないことと理解されるべきである」という断りを添えつつ、「主語-動詞-間接目的語-目的語-副詞的限定詞」の順が最も頻度が高いとしている。Dryer (2013b) は同ページの記述から、グアラニー語において優勢な語順は SVO であるとする判断を下している<ref group="注">一方、タピエテ語については {{Harvcoltxt|González|2005|p=35}} において[[SOV型]]であると明言されている。</ref>。 == 語彙論 == === 単語・会話の抄例 === * {{lang|gn|[[wikt:gn:mba'èichapa|Mba'éichapa]]}} ''ンバエイシャパ'' : おはよう こんにちは お元気ですか ** {{Lang|gn|Mba'éichapa nde pyhareve}} : おはよう<ref name="ya2003_102">青木(2003:102)。</ref> ** {{Lang|gn|Mba'éichapa nde ka'aru}} : こんにちは<ref name="ya2003_102" /> ** {{Lang|gn|Mba'éichapa pyhare}} : こんばんは<ref name="ya2003_102" /> * {{lang|gn|Iporã}} ''イポラ'' : よい OK 最高 すばらしい * {{Lang|gn|Jajohechapeve}}<ref name="ya2003_102" /> : さようなら / {{lang|gn|Jajuechapeve}} : こんばんわ さようなら また今度 * {{lang|gn|angirũ}} : 友達(男女とも)  ** 一般的には che angirũ {名前} で 使う * {{lang|gn|Nepora}} : かっこいい かわいい * {{Lang|gn|Mba'éicha reiko?}}<ref name="ya2003_102" /> : お元気ですか * {{Lang|gn|Aiko porã}}<ref name="ya2003_102" /> / {{lang|gn|Iporante}} : 元気ですよ(お元気ですか、の問いに答えて) * {{lang|gn|Jajuechapeve che angirũ}} : さようなら、私の友達 * {{lang|gn|Avya roikuaavo}} : はじめまして どうぞよろしく * {{lang|gn|Iporante avei}} : すばらしい 私は大丈夫です・元気です * {{lang|gn|Avya re hai haguere cheve}} : 私も貴方のさらなる幸運と努力を願っています * {{lang|gn|Ara pora koape}} : 今日はいい天気です === グアラニー語由来の英語 === グアラニー語からは動物の名称を中心に、若干の単語がポルトガル語を経由して英語へと取り込まれた。例えば[[ジャガー]]は ''jaguarete'' に、[[ピラニア]]は ''pira aña'' にそれぞれ由来している。また[[アグーチ]]は ''akuti'' を、[[バク]]の英名 ''Tapir'' は ''tapira'' を、[[アサイー]]は ''ĩwasa'i''を語源としており、パラグアイやウルグアイは国名そのものがグアラニー語である。ただし、これらは姉妹語の[[トゥピ語]]に由来する可能性もある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * 青木, 芳夫 (2003). 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120003368996 パラグアイにおけるグアラニー語と先住民族]」 『総合研究所所報』(11)、87-107頁。奈良大学総合研究所。 * {{WALS|||Dryer, Matthew S.|26A|f=on|Feature 26A: Prefixing vs. Suffixing in Inflectional Morphology|n=a}} * {{WALS|||Dryer, Matthew S.|81A|f=on|Feature 81A: Order of Subject, Object and Verb|n=b}} * {{WALS|||Goedemans, Rob and Harry van der Hulst|14A|f=on|Feature 14A: Fixed Stress Locations}} * {{Cite book |last=Estigarribia |first=Bruno |year=2020 |title=A Grammar of Paraguayan Guarani |publisher=[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン|UCL]] Press |isbn=978-1-78735-322-0 |ref=harv}} * {{Cite book|last=González|first=Hebe Alicia|year=2005|title=A Grammar of Tapiete (Tupi-Guarani)|url=http://d-scholarship.pitt.edu/id/eprint/8444|publisher=Doctoral Dissertation, University of Pittsburgh|ref=harv}} * {{Cite book|last1=Gregores|first1=Emma|last2=Suárez|first2=Jorge A.|year=1967|title=A description of Colloquial Guaraní|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA42399806|location=The Hague|publisher=Mouton|ref=harv}} * Jensen, Cheryl (1998). "Comparative Tupí-Guaraní Morphosyntax." In D. C. Derbyshire and G. K. Pullum (eds.) [https://books.google.co.jp/books?id=dz5g2JxxkUUC&hl=ja&source=gbs_book_other_versions ''Handbook of Amazonian Languages'', vol. 4], pp. 489&ndash;618. Berlin/New York: Mouton de Gruyter. * {{仮リンク|テランス・カウフマン|label=カウフマン, テランス|en|Terrence Kaufman}} (2000). 「南アメリカの先住民語」 R. E. アシャー、クリストファー・マーズレイ 編、土田滋、[[福井勝義]] 日本語版監修、福井正子 翻訳『世界民族言語地図』東洋書林、41-88頁。ISBN 4-88721-399-9 (原書: ''Atlas of the World's Languages'', 1994, London: Routledge.) * "[http://www.ethnologue.com/18/language/grn Guaraní]." In {{Ethnologue18|n=a}} * "[http://www.ethnologue.com/18/language/nhd Guaraní, Ava]." In {{Ethnologue18|n=b}} * "[http://www.ethnologue.com/18/language/gui Guaraní, Eastern Bolivian]." In {{Ethnologue18|n=c}} * "[http://www.ethnologue.com/18/language/gun Guaraní, Mbyá]." In {{Ethnologue18|n=d}} * "[http://www.ethnologue.com/18/language/gug Guaraní, Paraguayan]." In {{Ethnologue18|n=e}} * "[http://www.ethnologue.com/18/language/gnw Guaraní, Western Bolivian]." In {{Ethnologue18|n=f}} ※以下は英語版記事{{enlink|Guarani language|a=on}}(2010年9月10日 20:51 (UTC) 版)からの翻訳に伴って日本語版記事に移入された典拠であり、日本語版編集者が直接参考としたか否かの保証は存在しないという点に留意されたい。 * Mortimer, K. (2006). "Guaraní Académico or Jopará? Educator Perspectives and Ideological Debate in Paraguayan Bilingual Education." In ''Working Papers in Educational Linguistics'' 21/2: 45&ndash;71. * Nordhoff, Sebastian (2004). Nomen-Verb-Distinktion im Guaraní. Köln: Universität zu Köln. == 関連文献 == * Ayala, Presbítero (1993). ''Gramatica Guarani.'' (Reprint 1996 Buenos Aires: Ministerio de Educación). * {{仮リンク|アリオン・ホドリゲス|label=Rodrigues, Aryon D.|en|Aryon Rodrigues}} (1984/1985). "Relações internas na familia lingüística Tupi-Guarani." ''Revista de Antropología''. * Jensen, Cheryl (1990). "Cross-Referencing Changes in Some Tupí-Guaraní Languages." In D. L. Payne (ed.), ''Amazonian Linguistics: Studies in Lowland South American Languages'', ''Texas Linguistics Series'', pp. 117&ndash;158. Austin: University of Texas Press. ==関連項目== *[[イエズス会伝道所]] *[[カポエイラ]]([[ポルトガル語]]: Capoeira) - グアラニー語で「刈られた森」を意味する「caá puéra」が語源とされる。 * [[カピバラ]] - グアラニー語で「細い草を食べる者」意味する「ka'apiûara」がスペイン語に転訛して「Capibara」と呼ばれるようになった。 ==外部リンク== {{Wikipedia|gn}} {{Wiktionarycat}} *[http://www.websters-online-dictionary.org/definition/Guarani-english/ Guarani - English Dictionary]: from *[http://www.websters-online-dictionary.org Webster's Online Dictionary] - [[The Rosetta Edition]] *[http://en.wiktionary.org/wiki/Appendix:Swadesh_lists_for_Tupi-Guarani_languages Guaraní Swadesh vocabulary list] (from Wiktionary) *[http://www.staff.uni-mainz.de/lustig/guarani Guarani Portal from the University of Mainz]: *[http://www.guarani.de www.guarani.de]: - online dictionary in Spanish, German and Guarani *[http://www.guaranirenda.com www.guaranirenda.com]: - about the Guarani language *[http://crl.ucsd.edu/newsletter/3-6/Article1.html Guaraní Possessive Constructions]: - by Maura Velázquez *[http://www.eva.mpg.de/~cschmidt/SWL1/handouts/Nordhoff.pdf Stative Verbs and Possessions in Guaraní]: - University of [[Köln]] *[http://www.testigosdejehova.org/languages/gi/library/rq/article_02.htm Bible verses written in Guarani]: - a sample of the Guarani language *http://www.datamex.com.py/guarani/neenga/neejoapy_latineeme.html // Spanish- Frases celebres del latin Traducidas al guarani *https://albino-guaranikupyty.blogspot.com/ Spanish - Estructura Basica del Guarani and others *[https://www.google.com/intl/gn/ グアラニー語のグーグル(試験的)] * Glottolog 2.7({{Accessdate|2017-02-19}}) ** [http://glottolog.org/resource/languoid/id/chir1286 - Chiripá] ** [http://glottolog.org/resource/languoid/id/east2555 - Eastern Bolivian Guaraní] ** [http://glottolog.org/resource/languoid/id/mbya1239 - Mbyá Guaraní] ** [http://glottolog.org/resource/languoid/id/para1311 - Paraguayan Guaraní] ** [http://glottolog.org/resource/languoid/id/west2640 - Western Bolivian Guaraní] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くあらにいこ}} [[Category:パラグアイの言語]] [[Category:アルゼンチンの言語]] [[Category:ボリビアの言語]] [[Category:ブラジルの言語]] [[Category:トゥピ語族]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%83%BC%E8%AA%9E
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池田勇人
池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階勲等は正二位大勲位。 大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。 大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。 所得倍増計画を打ち出し、戦後日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした。 広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・ウメの間に7人兄姉の末子として生まれた。長女とは歳の差が20歳もある。忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる。第一高等学校を受験するが2度落第、1浪で第五高等学校入学。五高を経て1924年3月に京都帝国大学法学部卒業。 京都帝国大学法学部卒業後、高等試験行政科をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省。銀行局属。入省同期は山際正道、植木庚子郎、田村敏雄など。大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。本来ならば地方の出先機関の局長や税関長止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。 宇都宮税務署長を務めていた1929年、当時不治の病といわれた難病の落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため1931年に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけたころ、島四国巡礼をする。 闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、1934年に奇跡的に完治する。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の谷口恒二や松隈秀雄から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。 復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。 当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度太平洋戦争と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。 1945年2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。 1944年9月~1945年9月の間埼玉県春日部市に家族(妻と次女と三女)を疎開させていた。当時の春日部市は春日部町と言う町であり、春日部駅東口周辺に税務署があった。池田家の居住地はその周辺になる。池田本人も家族の疎開先の春日部町から大蔵省に通っていた。5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、同所で終戦を迎える。 終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、そして主計局長の中村建城をはじめとする公職追放による人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した(次官抜擢は別説あり)。石橋蔵相下では石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当した。 次いで成立した社会党首班(民主、国民協同と3党連立)の片山内閣は社会主義を標榜し、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増える。ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり、財界に強い素地を作る。 1948年、梅林組及び竹中工務店に対する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に小坂善太郎、愛知揆一らとともに証人喚問された。同年、48歳で大蔵省を退官した。浪人中に政治家になることを猛反対していた母が亡くなったことが、政治家転身を後押しした。 1949年の第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室で上げた。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす。以降死去まで在任、選挙は7回全てトップ当選した。中選挙区制においては空前絶後の記録である。 池田の所属する民自党は大勝したが、選挙後の組閣(第3次吉田内閣)において、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった。この年2月1日にマッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもないためであった。 外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが、財政経済は素人でほとんど無関心だったため、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった。吉田は前内閣で、池田成彬に擬えて泉山三六を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった(国会キス事件)。吉田は宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる向井忠晴ら候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた。 宮島から桜田武経由で話を聞いた永野重雄は、安本時代の次官仲間だった池田を推薦した。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった池田を吉田に推薦した。こうして池田は当選1回で第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された(就任日は1949年2月16日)。この人事には林譲治や大野伴睦ら党人派が反対したが、最終的には吉田に頼まれた自由党幹事長の大野が反対派をまとめた。池田は吉田の全権委任の形で経済を任されており、その後3度の内閣改造を経て解散されるまで蔵相に留任した他、第3次吉田内閣で通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。 池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と、官僚時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した。まもなく黒金が仙台国税局長に異動したため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに秘書官に起用した。 1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた。この年6月に参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ。 しかし渡米の最大の使命はこれではなかった。ドッジやマーカット少将から「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、朝鮮戦争に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある。 こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和・安保問題の打診、"吉田からの伝言を預かり、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という、重大なミッションを抱えて同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎、宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった。 池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.でドッジ・ラインの緩和を要請した。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)設立の構想を持っており、国際通貨基金(IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、国際復興開発銀行(世界銀行)加入要請、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形であった。 5月3日、池田と宮澤が国務省にドッジを訪問、吉田からのメッセージを口頭で伝えた。「日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい...条約締結の前提として米軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意がある」などと、日米安全保障条約の基礎を成す内容を伝えた。国務省の立場を非常によくする内容の安保条約的構想のオファーに、バターワース国務次官が「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した。コピーのもう一部はダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた。 なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされていなかったといわれ、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している。白洲は皮肉をこめて「池田勇人というのはアメリカにとてもモテたんです。不思議に数字丸暗記できるという、一種の特技ですよ。日本の国家予算はあの時分はインフレだから、兆でなく何千億ですけど、それを、こういうものはこうでありましてと、ひょうひょうと言うんです。聞く方は口開けて見てましたね。頭脳明晰な、とても偉い人だと思って。アメリカ人はそういうところはわりに感心するんです。第一回の訪米のとき、アメリカの財界人は池田を買ったのです」などと述べている。 帰国後、GHQを差し置いて池田が官吏の給与引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ民政局 (GS) のホイットニー准将とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る参院選の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定(MSA協定)への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした。以降、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、鶴川に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった。 なお、マッカーサーは池田訪米の本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している。 この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである。当時当選1回で、しかも外相でもない池田が全権メンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなく、宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという。対日講和条約と日米安全保障条約が調印(後者は吉田のみ署名)した後、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された。 産業金融システムとして池田が設立したのが政府系金融機関である輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)と日本開発銀行(開銀)である。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である電力、石炭、海運、鉄鋼など、輸出力のない基幹産業に、当時の民間銀行は資金不足で投資ができず、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、基幹産業を復活させる目的を持った。本来は1947年に設立された復興金融金庫(復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて反対し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の国策会社的なものは一切認めないという態度を崩さなかった。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで(昭和電工事件)、経済安定本部が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのが米国務省からの見返り資金と政府が運営する郵便貯金であった。郵便貯金は明治時代から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、スキャンダルや様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を地方債の引き受けに限定していた。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、郵便局に預けるようになるにつれ資金量が増えていた。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った。池田は輸銀と事実上復金の再生である新しい機関・開銀の設立を提案、うち輸銀に関しては資本財の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の一般会計からの資金、合計150億円を資本金として1951年2月1日に輸銀は営業を開始した。 もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初である。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金特別会計からの支払いを認めた。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、金融債の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も運転資金は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた。 こうして1951年4月、開銀は設立された。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した。両銀行設立にアメリカが見返り資金を提供したのは、日本を朝鮮戦争の兵站基地とすべく日本の財閥解体を中止させ、軍需産業の復活を狙っていたためともいわれる。池田が輸銀の初代総裁には河上弘一、開銀の初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあてた。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、マーカット、つまり米国の意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった。産業界への資金供給の主要な役を日銀の一万田総裁から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降財界の池田シンパの中心的な存在になった。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった。 1952年には、池田主導の下に長期信用銀行法が成立し、旧特殊銀行であった日本興業銀行と新設の日本長期信用銀行(以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した。長銀の第二代頭取には池田が日本勧業銀行での権力闘争に敗れた浜口巌根を据えた。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「公社」に再編された国鉄と電信電話事業及び帝都高速度交通営団・郵政事業特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの日本道路公団)・電源開発株式会社・日本航空株式会社などにも投資された。池田は税務畑の出身で、本来金融は畑違いだったのだが、苦心の対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「大手町界隈は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという。1949年「従来の一県一行主義に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて北海道銀行、東北銀行、千葉興業銀行、東京都民銀行など全国に12の新銀行(戦後地銀)が設立された。この他、戦後の投資信託(投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に議員立法で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「証券投資信託法」公布が切っ掛けである。野村、日興、山一、大和の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる。戦後の様々な金融機関の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した。 吉田内閣は、成立当初は白洲次郎が吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田が入れ替わって吉田の右腕になっていく。池田の自由党とは反目になる1954年の日本民主党結党時のころの池田の政財界への影響力について椎名悦三郎は「三木さんが岸さんを幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、復興金融金庫に融資を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる。 経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、1950年6月の朝鮮動乱勃発による特需ブームにより、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した。また見返り資金の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という次官級または大臣級のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に財務官という役職を新設し、初代の財務官には渡辺武を任命した。また同月、大蔵政務次官として部下となった京大の後輩・水田三喜男を可愛がり、後の第1次池田内閣で大野派ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した。 1951年、正力松太郎からの要請で、日本初の民放テレビ・日本テレビ放送網設立のための資金を財界人から調達。同年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長から請求された健保の診療報酬大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された(詳細は後述)。1951年の増田甲子七の自由党幹事長起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり橋本龍伍厚生大臣と対立し、橋本が辞任した。 1952年8月、吉田と密談を重ねて抜き打ち解散を進言する。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂内閣官房長官と麻生太賀吉の二人のみで、その二人も池田が後から伝えたといわれる。衆議院議長の大野伴睦も自由党幹事長・林譲治さえ知らなかった。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、鳩山一郎一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時公職追放を解除された恩人の賀屋興宣は東京から出馬することになったが、永野護が同じ広島2区から立候補することになり、石橋湛山が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた。 講和の下交渉の際に打診していた日本の国際復興開発銀行(世界銀行)と国際通貨基金 (IMF) 加盟が認められ、選挙期間中の9月にメキシコシティで開催された総会に宮澤を伴い出席。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金(只見特定地域総合開発計画)の借り入れを打診し賛同を得た。またスナイダーアメリカ合衆国財務長官とドッジ国務長官顧問から後にMSA交渉で展開される軍事援助の問題を伝えられた。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や中央銀行総裁と、初めて対等の立場で物が言えた。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという。 しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と広川弘禅農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と河野一郎の除名処分を強引に決め、吉田に進言して実行させた。当時、林譲治、益谷秀次、大野伴睦の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤という新興勢力を抑えられなくなっていた。 同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆、水野成夫、工藤昭四郎らの電力統合派と政府委員会で争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり、通産大臣の池田に直談判して来た。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後電気事業再編成令の発令による分割民営化(九電力体制)が成された。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった。松永との関係が後の水主火従から火主水従というエネルギー切り替えに繋がった。 戦後GHQは保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようと「農地法」の制定を農林省に命じた。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した。「農地法」の制定によって農地改革による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した。池田の狙いは見事に実現し、保守化した農家・農村は農協によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった。 池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議を醸すこともあった。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、さらに12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとしていずれも問題となる。占領軍の権威を笠に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持ちになっていた。日ごろから「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があり大問題になった。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした。 1952年11月27日、加藤勘十(社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため、翌日に野党が不信任決議案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された。日本国憲法下での唯一の閣僚不信任である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。 失言の度に、大衆の反感をかったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った。この不信任案可決以降、池田に近い党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった。このころから池田は派閥を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた。 その後も党・政府の要職を歴任する。1953年自由党政調会長に就任。政調副会長には水田三喜男や前尾繁三郎など政策通を取り揃え「大政調会」と謳われた。実力は相当で、大蔵官僚は池田の許に何かと通い、人事から政策まで逐一相談した。当時の副総理は緒方竹虎だったが、池田は「もう一人の副総理だ」の声まで上がった。八方塞がりだったこの時期に池田がこれ程の力を持てたのは変わらぬ吉田の寵と、自身が築き上げた大蔵省内外に張り巡らせた人脈と政策力のためである。また松野頼三は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている。 1953年5月、朝鮮戦争休戦協定と前後してMSA問題が表面化。MSAとは米国が1951年10月に作った相互安全保障法のことで、対外経済援助と米国の世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、米国はこのMSA援助を日本にも適用し、朝鮮戦争で用いた兵器を日本に転用して日本の防衛力を増大することを目指していた。これに対して日本側では、財界が朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待しており、両者の思惑が食い違っていた。8月にダレス国務長官が訪日、吉田に保安隊増強を提案したが不調に終わったため、防衛問題と経済援助での日米間の意見調整を目的として、10月、池田が吉田個人の特使として、宮澤と愛知揆一を伴い渡米。池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉(MSA協定)が行われた。烈しい交渉の結果、自衛力増強の努力を続けることで日米間の合意が成立した。 この交渉がきっかけとなって自主防衛への取り組みが進み、防衛庁新設、自衛隊発足、秘密保護法成立などの安保政策につながった。また、農産物取引によって米国の余剰農産物を受け入れたことによって日米間の農産物貿易自由化・日本の食卓の洋食化が進んだほか、教育分野でのいわゆる「逆コース」(教育二法による日教組の影響力の排除や、道徳・倫理の科目増設など)のきっかけにもなった。 1954年の造船疑獄で東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤に焦点を当てて捜査を進めたが、佐藤逮捕の寸前に犬養健法相の指揮権発動によって免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任。同年、重光、鳩山一郎、三木武吉、松村謙三ら党内非主流派と改進党による新党結成(日本民主党)の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸と石橋を自由党から除名した。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり、この時点で亀裂があった。1955年の保守合同に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や河野一郎、岸らに頭を下げることになり吉田派は迷った。池田は反対グループの中心的存在だったが、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治・益谷秀次とともにまとめて自由民主党に参加する。吉田にも入党を勧めたが佐藤が反対し、吉田と佐藤は無所属になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月)。 1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の2年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく。政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた。ただし1956年5月の日比賠償協定締結には、藤山愛一郎に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している。吉田一派は親米嫌ソだったため、日ソ国交回復の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し、「モスクワに行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた。ドッジ、吉田という2人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた。 1956年12月の鳩山退陣に伴う後継争いで池田は石井派に加担、打倒岸へ向けて動いた。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた池田の系列の議員が選挙の指揮を執った。岸反対で共通する石橋支持派の参謀・三木武夫と2、3位連合の政略を立てた仕掛けが成功、石橋湛山が決選投票で岸を僅差で逆転した。一説には、石橋が総理になった方が自身が蔵相として復帰できると計算、石橋が2位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる。同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決選投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した。1961年から1964年までアメリカの大統領経済諮問委員会議長を務めたウォルター・ヘラーが後にジョン・F・ケネディの減税政策にこのキャッチフレーズを真似たともいわれる。しかし同内閣が2か月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸が後継となる。 1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが、1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった。1957年10月ごろには旧自由党の吉田派を佐藤と分ける形で自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり、自民党派閥の原点といわれる。宏池会は1957年10月に機関紙「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった。 宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、このころから「所得倍増」の基となる政策構想を練り上げていく。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で、3人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができており、下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である。 また財界人のバックアップも、この時期強化された。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、桜田武や永野重雄、近藤荒樹、小田原大造、廿日出要之進といった広島出身者、奥村綱雄や太田垣士郎、堀田庄三、堀江薫雄ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた。他に吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものや、松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた。。特に池田と同じ明治32年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった。財界四天王に鹿内信隆を加えた少人数で話し合う会は極秘中の極秘だった。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めた。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった。 1958年、話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流4派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに池田の妻が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの強行軍の結果50名が当選、岸派57名に次ぐ第2派閥に躍り出る。しかし選挙後の第2次岸内閣では、主流四派で組閣が進み、池田には最後に防衛庁長官を提示された。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける。11月、アメリカシアトルで開催されたコロンボ会議に出席し、アメリカの中間選挙で大勝したアメリカ民主党の財務長官・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる(諸説あり)。反岸を鮮明にし同年12月31日、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫、灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり、また行政協定についても、三木や河野一郎らと謀り、そろって改訂を主張して岸に圧力をかけた。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった。 1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的なキャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした。同年6月18日の第2次岸改造内閣では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、池田を感動させた、岸と佐藤の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて、あるいは影のブレーン・賀屋興宣が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(後述)。安保闘争が激化した同年6月には、自衛隊の治安出動を強く主張した。治安出動に強硬だったのは、池田と川島正次郎幹事長だった。 安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで続く長期政権となった。 池田は安保闘争の時の強硬な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかと見られていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。さらに、内閣総理大臣官房広報室(現・内閣府大臣官房政府広報室)の機能を拡充させ、現在のタウンミーティングのはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。 1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。さらに、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。 また、所得倍増政策の一環として、国土計画の第一歩である「全国総合開発計画」(全総)を発表(1962年10月)、太平洋ベルト地帯の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への公共事業の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は1970年代の派閥政治へと向かってゆく。 通商政策としては、自由貿易が日本の先進国入りには不可欠であるとの認識を持っており。首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げた。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内のレモン農家までを敵に回した。さらに、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、炭労や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。 文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、高等専門学校(高専)の設置も進んだ。 第一次産業に関しては、1961年に農業基本法を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。 また、総理在任中に行われた朝日新聞社の世論調査においては、鳩山内閣から宮澤内閣までの全自民党政権を通じ、唯一内閣支持率が内閣不支持率を下回った事がなかった。 1964年9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院した。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。政治家、とりわけ首相や実力者が病に倒れた場合には政局変動の要因になるため、その病状がひた隠しされることが通例と言われる。池田の場合も池田派の側近議員らが癌であることをひた隠し通した上で、任期を残して退陣する演出を行った。東京オリンピック閉会式翌日の10月25日に退陣を表明、自民党内での後継総裁選びの調整を見守った上で11月9日の議員総会にて佐藤栄作を後継総裁として指名した(池田裁定)。後継総裁選びを、退陣予定の総裁の指名に委ねた戦前・戦後を通じて最初のケースであった。 その後療養に努めたが、1965年7月16日の検診で癌が広範囲に転移していることが判明、7月29日東大病院に入院。がんは食道、肺に転移している状態だった。8月4日手術をしたが手術後肺炎を起こし1965年8月13日12時25分に死去した。享年65。なお、葬儀は自民党葬で執り行われた。墓所は青山霊園。 池田以前の戦後の保守政党出身の歴代首相の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきた。それが左派勢力から「逆コース」と批判を受け、1960年の安保闘争で頂点に達した。一方で、内政面での政策はほぼ各省の立案に頼っており、経済政策を全面に押し出す首相はいなかった。池田は、吉田内閣では大蔵大臣として外交に傾注する吉田に代わり経済政策を主導したが、岸内閣ではハイポリティックスの安保改定を特に強硬に主張していた。政権発足当初は池田内閣は"岸亜流内閣"というのが世間一般の見方で、政治・軍事を中心とする外交の課題を前面に押し出してくると考えられていた。 政権発足時に秘書の伊藤昌哉が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えたが、伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した。財界も池田は切り札だから、安保のような状態で泥まみれにして殺してしまうのはまずいと考えていた。池田が額面通りに経済政策を推し進め、徹底した岸の裏返しに出てくるとは、誰も信じていなかったのである。しかし池田は「火中の栗を拾う。これで駄目でも結構だ」と腹をくくった。また「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる。 しかし、当時国民を広く覆っていた経済観では、この難局を経済重視で乗り切れると想像することは難しかった。貿易自由化を進めて日本を重化学工業の国として高度成長させると提唱しても、当時は日本が欧米先進国に伍して、世界市場で競争しようとするなどということは無謀だと思われていた。貿易自由化などは日本市場をいたずらに欧米製品の餌食にするだけで、資本力の弱い日本の産業はすべて欧米の巨大資本に踏み潰され、下請けの部品メーカーになって生き延びられれば上出来などと論じられていた。精密な軽工業製品・酪農・観光で生きる"東洋のスイス"という、敗戦直後に社会党首班の片山哲内閣が描いたヴィジョンは、まだ根強く生き残っていた。伊藤はこの経済観の転換について、「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃"所得倍増"なんて誰も信じてませんでしたよ」、「いちばん重要なことはオリエンテイションです。こっちへ行けばいいんだと示した点で、池田は大変大きな仕事をしたと思います。そのことから外交問題を解決する経済力が出てくるわけです。池田は経済合理主義という形で政治というものを変えた。これはそれまでの政治には全然なかったと思います」などと述べている。萩原延壽は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では"倍増計画"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。明治維新以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったことを、われわれはいま解決しようとしているのである』などと述べた。西欧水準への到達ということをもって、近代日本の歴史に於けるライトモティーフだと考えるならば、池田内閣は、明治維新以来の日本の"進歩的伝統"を継承する正統な嫡子であった」と評している。 また、池田の経済政策全体につけられたネーミング「所得倍増計画」も、目標がそのまま名づけられた、史上最も明快な経済政策と映った。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げたスローガンの中で、最も分かりやすく、かつ説得力もあった。この呼称について、「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した。武田晴人は「"所得倍増計画"という巧みなレトリックによって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している。黒金泰美は「"所得倍増計画"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている。橋本治は「"所得倍増計画"という、えげつない名前の政策は"新時代の始まり"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる"新しい時代"の素晴らしさを語ろうとする時、"月給が倍になる"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった資本主義と社会主義の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した。官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちが"成長マインド"に移行した。 池田は国民の政治観をも転換させた。池田はそれ以前の首相と異なり戦前に政治活動歴がなく、敗戦後に政界に入った政治家としては最初の首相であるが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を国民に提示した。藤井信幸は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』というルサンチマンもあったと思います」と述べている。萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる"政治"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が"国民所得倍増計画"において提供した"豊かな生活"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった。高度経済成長は、1950年代後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである。池田内閣は、「政治の季節」から「経済の季節」にギアを切り替えた、戦後史の重大な局面転換であった。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、日米安保条約に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ。御厨貴は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で"富国民"路線が定着した。吉田の弟子で後に首相となる池田勇人、佐藤栄作の二人によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通してきたことは、自民党の功績」、「あのままいけば自民党も危なかったかもしれないけれど池田勇人政権で変わった。池田・佐藤で12年以上、2人のおかげで自民党は10年で終わるはずが60年も続いた」などと述べている。 60年安保で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、反対運動の理論的支柱の一人と目されていた法政大学助教授・松下圭一は『朝日ジャーナル』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観"がある」と、ある種の無念さを込めて記した。日本中が左翼のようになり、インテリは早く共産主義革命が起きて欲しいと考えていたような時代に、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる。池上彰は1960年の安保闘争最中でさえ、第29回衆議院議員総選挙で池田率いる自民党が圧勝したことからマスコミと当時珍しかった大学生、一部のインテリ・学生以外は、今のように左派の主張に賛同していたわけではなかったと当時の多数派と左派との認識の乖離の存在を述べている。高畠通敏は「池田内閣が安保の教訓を踏まえながら保守党の新しい路線として、戦前への逆コースの夢を捨てる。憲法改正をあきらめ、戦後の新しい現実に即してマイホームという形での私生活解放を認め、その上に立つ繁栄と成長としての自民党という路線を打ち出す。私はそのとき、国内における戦後は、基本的に終わったと思います。そこから戦後のあとの時代が始まった。また60年安保を支えた戦後革新勢力の分解も始まった。池田路線は戦前的な体質を持った佐藤内閣でも実質的には継承された。つまり60年代を通じて持続されたわけですが、その中で国民の私生活の解放、欲望の肯定を経済大国の形成へ編成しなおしていった。戦後民主主義は圧力民主主義に、平和主義はマイホームの平和へと風化し、労働運動は春闘の儀式として収斂する。60年代の運動を支えてきた民衆はその中に巻き込まれて分解していった。池田内閣の路線転換に沿って60年代に発展した知識人の特徴的な政治思想は現実主義でした」などと主張している。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティーにすべきという明確なビジョンを持っていたと主張している。しかし、秘書の伊藤は池田が首相として諸外国での経験から今の経済規模の日本に軍隊があれば国際的地位はこんなものではないと述べていて、再軍備自体に賛同する内心が池田にあったことを回顧している。政治から経済成長への"チェンジオブペース"を見事に演出した池田は、日本の経済成長が、日米安保の存在により軽軍備に抑えられていたからこそ可能になったという「日米安保効用論」を打ち出すことによって、安保の問題を経済成長に取り込んだ。 また、社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる。内田健三は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて"管理"の概念を導入した政権だった」と論じている。 池田は外交面においても、その後の日本を形作った。また、ドッジ・ライン、サンフランシスコ講和条約・日米安保の下交渉を経て、池田・ロバートソン会談、池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制を作った最大のキーパーソンでもある。 フランスのド・ゴール大統領から「トランジスタのセールスマン」と揶揄されたとする逸話が有名であるが、これは池田がソニーの最新のトランジスタラジオを首脳会談で売り込んだことで、ド・ゴールが側近にそう漏らしたと反ド・ゴール派の『フィガロ』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になったもので、池田の帰国後、日本で大騒ぎになり、多くの日本人は嫌な思いをした。しかし池田は「会談の内容を知りもしないで、何を言うか」と一蹴しており、また『フィガロ』はジョン・F・ケネディを「鶏肉のセールスマン」と評したこともあり、日本や池田のみが槍玉に上げられたわけではない。八幡和郎は「当時は首脳が経済について語ることが珍しかったためにド・ゴールも意外に思ったもので、その後同じフランスのジスカール・デスタン大統領は、経済を主題にしたサミット(先進国首脳会議)を始めて日本をメンバーにしてくれたし、ミッテランやシラクは"エアバスのセールスマン"として何機売ったかを海外訪問の成果として誇った。経済外交重視は世界的にみてもその後の大きな流れになったことから、池田は世界の外交史の中で先駆者であり、世界史的偉人である」と評価している。池田の経済優先の発想は今日まで続いており、日本が経済大国を実現できたのも「吉田ドクトリン」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる。下村治は、池田死去翌日の日経新聞に追悼文を寄せ「池田勇人が果した歴史的な役割は、日本人が内に秘めていた創造力、建設力を『成長政策』という手段によって引き出し、開花させたことである」と記した。 池田はドッジ・ライン以来の念願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさに"一内閣一仕事"でやり遂げた。池田内閣以後の自民党政権による政治・外交運営は、池田が築いた国内安定と国際的地位を基盤として展開された。憲法改正を事実上棚上げにし、経済成長と豊かさの追求を最優先したからこそ、池田以降の自民党政権は、それなりに戦後的価値観を共有し、長期政権を維持できたのである。池田は戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済外交面でも創り上げたといえる。高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが、佐藤政権も池田政権という大きな括弧の中に入るともいわれる。その佐藤も池田同様引退後まもなく死去する。両者は1970年代の田中角栄や福田赳夫が1980年代にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた。東京オリンピックと大阪万博による大都市圏の開発、公共事業を通じた国土・列島の整備によって自民党は包括政党の道を進めていく。「55年体制」は成立こそ1955年であったものの、その確立は1960年代前半の池田内閣にあった。日本の国内政治の基本的な枠組みを作り上げたのが池田であった。この戦略は、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘ら、その後の内閣にも担われることになる。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」、「田中の『日本列島改造論』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」、「『日本列島改造論』や小泉純一郎の『骨太の方針』も、いわば池田の政治手法にあやかったもの、池田の後に登場した政権の大半はイデオロギーなしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった。田中浩は「池田内閣登場以後、日本政治は、ほとんど"事なかれ主義"を旨とする安全運転、無風状態が続き、保守の安定化(資本主義体制確立化)の道をたどっている」と論じている。この時期に派閥政治が確立し、閣僚や国会、党内での主要役職を当選回数によって配分する制度化も進み、議員の個人後援会が普及し、二世議員が増えていく。宏池会の後輩・古賀誠(第7代会長)は池田を「政治家として今の自民党の基礎を確立させた人」と評している。 自民党がこのように全く違った個性を持つ「総理・総裁」を起用して、国民の批判をかわす「振り子」の手法は、金権批判の田中角栄からクリーンイメージの三木武夫へバトンタッチした時にも使われ、自民党が長期政権を維持したカギの一つといえる。池田は発言でも舌禍事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった。官僚臭を感じさせない、庶民的でガラガラ声のキャラクターも、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った。池田はテレビを利用して政策をアピールした最初の首相でもあった。国民の関心がもっぱら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる。池田は政治を生活の延長にある祝祭空間と見て、その演出を試みる演出家だったとも評される。池田は首相就任後の参議院予算委員会において、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される。「敗戦国」から高度成長を進め「経済大国」「先進国」に変貌していった日本に、そして日本国民のナショナリズムに居場所を与えた。森田実は「ケネディが日本に対しても干渉する考え方を取らなかったため、高度経済成長路線を打ち出した池田内閣の時期が(アメリカの支配を受けない)戦後日本で一番自立していた時期だった」と述べている。 池田勇人の語録には、本人の発言とは異なる見出しで発言を歪曲されて報道されたことで後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い。 堺屋は「池田はマスコミが面白おかしく発言を歪曲しても怒らなかった」として、これがマスコミにも人気を得た理由としている。池上彰は池田がマスコミに発言を歪曲されて、それを野党に利用されていたことに同情を示しながら、「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」「高度経済成長期の立役者」と絶賛している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚。位階勲等は正二位大勲位。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "所得倍増計画を打ち出し、戦後日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・ウメの間に7人兄姉の末子として生まれた。長女とは歳の差が20歳もある。忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる。第一高等学校を受験するが2度落第、1浪で第五高等学校入学。五高を経て1924年3月に京都帝国大学法学部卒業。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "京都帝国大学法学部卒業後、高等試験行政科をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省。銀行局属。入省同期は山際正道、植木庚子郎、田村敏雄など。大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。本来ならば地方の出先機関の局長や税関長止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "宇都宮税務署長を務めていた1929年、当時不治の病といわれた難病の落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため1931年に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけたころ、島四国巡礼をする。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、1934年に奇跡的に完治する。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の谷口恒二や松隈秀雄から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度太平洋戦争と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1945年2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。 1944年9月~1945年9月の間埼玉県春日部市に家族(妻と次女と三女)を疎開させていた。当時の春日部市は春日部町と言う町であり、春日部駅東口周辺に税務署があった。池田家の居住地はその周辺になる。池田本人も家族の疎開先の春日部町から大蔵省に通っていた。5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、同所で終戦を迎える。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、そして主計局長の中村建城をはじめとする公職追放による人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した(次官抜擢は別説あり)。石橋蔵相下では石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "次いで成立した社会党首班(民主、国民協同と3党連立)の片山内閣は社会主義を標榜し、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増える。ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり、財界に強い素地を作る。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1948年、梅林組及び竹中工務店に対する融資問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に小坂善太郎、愛知揆一らとともに証人喚問された。同年、48歳で大蔵省を退官した。浪人中に政治家になることを猛反対していた母が亡くなったことが、政治家転身を後押しした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1949年の第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室で上げた。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす。以降死去まで在任、選挙は7回全てトップ当選した。中選挙区制においては空前絶後の記録である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "池田の所属する民自党は大勝したが、選挙後の組閣(第3次吉田内閣)において、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった。この年2月1日にマッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもないためであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが、財政経済は素人でほとんど無関心だったため、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった。吉田は前内閣で、池田成彬に擬えて泉山三六を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった(国会キス事件)。吉田は宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる向井忠晴ら候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "宮島から桜田武経由で話を聞いた永野重雄は、安本時代の次官仲間だった池田を推薦した。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった池田を吉田に推薦した。こうして池田は当選1回で第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された(就任日は1949年2月16日)。この人事には林譲治や大野伴睦ら党人派が反対したが、最終的には吉田に頼まれた自由党幹事長の大野が反対派をまとめた。池田は吉田の全権委任の形で経済を任されており、その後3度の内閣改造を経て解散されるまで蔵相に留任した他、第3次吉田内閣で通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と、官僚時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した。まもなく黒金が仙台国税局長に異動したため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに秘書官に起用した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた。この年6月に参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし渡米の最大の使命はこれではなかった。ドッジやマーカット少将から「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、朝鮮戦争に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和・安保問題の打診、\"吉田からの伝言を預かり、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える\"という、重大なミッションを抱えて同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎、宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.でドッジ・ラインの緩和を要請した。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)設立の構想を持っており、国際通貨基金(IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、国際復興開発銀行(世界銀行)加入要請、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "5月3日、池田と宮澤が国務省にドッジを訪問、吉田からのメッセージを口頭で伝えた。「日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい...条約締結の前提として米軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意がある」などと、日米安全保障条約の基礎を成す内容を伝えた。国務省の立場を非常によくする内容の安保条約的構想のオファーに、バターワース国務次官が「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した。コピーのもう一部はダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされていなかったといわれ、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している。白洲は皮肉をこめて「池田勇人というのはアメリカにとてもモテたんです。不思議に数字丸暗記できるという、一種の特技ですよ。日本の国家予算はあの時分はインフレだから、兆でなく何千億ですけど、それを、こういうものはこうでありましてと、ひょうひょうと言うんです。聞く方は口開けて見てましたね。頭脳明晰な、とても偉い人だと思って。アメリカ人はそういうところはわりに感心するんです。第一回の訪米のとき、アメリカの財界人は池田を買ったのです」などと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "帰国後、GHQを差し置いて池田が官吏の給与引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ民政局 (GS) のホイットニー准将とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る参院選の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定(MSA協定)への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした。以降、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、鶴川に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、マッカーサーは池田訪米の本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである。当時当選1回で、しかも外相でもない池田が全権メンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなく、宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという。対日講和条約と日米安全保障条約が調印(後者は吉田のみ署名)した後、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "産業金融システムとして池田が設立したのが政府系金融機関である輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)と日本開発銀行(開銀)である。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である電力、石炭、海運、鉄鋼など、輸出力のない基幹産業に、当時の民間銀行は資金不足で投資ができず、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、基幹産業を復活させる目的を持った。本来は1947年に設立された復興金融金庫(復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて反対し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の国策会社的なものは一切認めないという態度を崩さなかった。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで(昭和電工事件)、経済安定本部が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのが米国務省からの見返り資金と政府が運営する郵便貯金であった。郵便貯金は明治時代から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、スキャンダルや様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を地方債の引き受けに限定していた。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、郵便局に預けるようになるにつれ資金量が増えていた。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った。池田は輸銀と事実上復金の再生である新しい機関・開銀の設立を提案、うち輸銀に関しては資本財の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の一般会計からの資金、合計150億円を資本金として1951年2月1日に輸銀は営業を開始した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初である。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金特別会計からの支払いを認めた。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、金融債の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も運転資金は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうして1951年4月、開銀は設立された。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した。両銀行設立にアメリカが見返り資金を提供したのは、日本を朝鮮戦争の兵站基地とすべく日本の財閥解体を中止させ、軍需産業の復活を狙っていたためともいわれる。池田が輸銀の初代総裁には河上弘一、開銀の初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあてた。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、マーカット、つまり米国の意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった。産業界への資金供給の主要な役を日銀の一万田総裁から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降財界の池田シンパの中心的な存在になった。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1952年には、池田主導の下に長期信用銀行法が成立し、旧特殊銀行であった日本興業銀行と新設の日本長期信用銀行(以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した。長銀の第二代頭取には池田が日本勧業銀行での権力闘争に敗れた浜口巌根を据えた。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「公社」に再編された国鉄と電信電話事業及び帝都高速度交通営団・郵政事業特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの日本道路公団)・電源開発株式会社・日本航空株式会社などにも投資された。池田は税務畑の出身で、本来金融は畑違いだったのだが、苦心の対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「大手町界隈は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという。1949年「従来の一県一行主義に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて北海道銀行、東北銀行、千葉興業銀行、東京都民銀行など全国に12の新銀行(戦後地銀)が設立された。この他、戦後の投資信託(投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に議員立法で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「証券投資信託法」公布が切っ掛けである。野村、日興、山一、大和の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる。戦後の様々な金融機関の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "吉田内閣は、成立当初は白洲次郎が吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田が入れ替わって吉田の右腕になっていく。池田の自由党とは反目になる1954年の日本民主党結党時のころの池田の政財界への影響力について椎名悦三郎は「三木さんが岸さんを幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、復興金融金庫に融資を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、1950年6月の朝鮮動乱勃発による特需ブームにより、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した。また見返り資金の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という次官級または大臣級のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に財務官という役職を新設し、初代の財務官には渡辺武を任命した。また同月、大蔵政務次官として部下となった京大の後輩・水田三喜男を可愛がり、後の第1次池田内閣で大野派ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1951年、正力松太郎からの要請で、日本初の民放テレビ・日本テレビ放送網設立のための資金を財界人から調達。同年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長から請求された健保の診療報酬大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された(詳細は後述)。1951年の増田甲子七の自由党幹事長起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり橋本龍伍厚生大臣と対立し、橋本が辞任した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1952年8月、吉田と密談を重ねて抜き打ち解散を進言する。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂内閣官房長官と麻生太賀吉の二人のみで、その二人も池田が後から伝えたといわれる。衆議院議長の大野伴睦も自由党幹事長・林譲治さえ知らなかった。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、鳩山一郎一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時公職追放を解除された恩人の賀屋興宣は東京から出馬することになったが、永野護が同じ広島2区から立候補することになり、石橋湛山が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "講和の下交渉の際に打診していた日本の国際復興開発銀行(世界銀行)と国際通貨基金 (IMF) 加盟が認められ、選挙期間中の9月にメキシコシティで開催された総会に宮澤を伴い出席。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金(只見特定地域総合開発計画)の借り入れを打診し賛同を得た。またスナイダーアメリカ合衆国財務長官とドッジ国務長官顧問から後にMSA交渉で展開される軍事援助の問題を伝えられた。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や中央銀行総裁と、初めて対等の立場で物が言えた。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と広川弘禅農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と河野一郎の除名処分を強引に決め、吉田に進言して実行させた。当時、林譲治、益谷秀次、大野伴睦の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤という新興勢力を抑えられなくなっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆、水野成夫、工藤昭四郎らの電力統合派と政府委員会で争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり、通産大臣の池田に直談判して来た。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後電気事業再編成令の発令による分割民営化(九電力体制)が成された。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった。松永との関係が後の水主火従から火主水従というエネルギー切り替えに繋がった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "戦後GHQは保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようと「農地法」の制定を農林省に命じた。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した。「農地法」の制定によって農地改革による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した。池田の狙いは見事に実現し、保守化した農家・農村は農協によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議を醸すこともあった。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、さらに12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとしていずれも問題となる。占領軍の権威を笠に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持ちになっていた。日ごろから「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があり大問題になった。\"貧乏人は麦を食え発言\"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1952年11月27日、加藤勘十(社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため、翌日に野党が不信任決議案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された。日本国憲法下での唯一の閣僚不信任である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "失言の度に、大衆の反感をかったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った。この不信任案可決以降、池田に近い党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった。このころから池田は派閥を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その後も党・政府の要職を歴任する。1953年自由党政調会長に就任。政調副会長には水田三喜男や前尾繁三郎など政策通を取り揃え「大政調会」と謳われた。実力は相当で、大蔵官僚は池田の許に何かと通い、人事から政策まで逐一相談した。当時の副総理は緒方竹虎だったが、池田は「もう一人の副総理だ」の声まで上がった。八方塞がりだったこの時期に池田がこれ程の力を持てたのは変わらぬ吉田の寵と、自身が築き上げた大蔵省内外に張り巡らせた人脈と政策力のためである。また松野頼三は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1953年5月、朝鮮戦争休戦協定と前後してMSA問題が表面化。MSAとは米国が1951年10月に作った相互安全保障法のことで、対外経済援助と米国の世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、米国はこのMSA援助を日本にも適用し、朝鮮戦争で用いた兵器を日本に転用して日本の防衛力を増大することを目指していた。これに対して日本側では、財界が朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待しており、両者の思惑が食い違っていた。8月にダレス国務長官が訪日、吉田に保安隊増強を提案したが不調に終わったため、防衛問題と経済援助での日米間の意見調整を目的として、10月、池田が吉田個人の特使として、宮澤と愛知揆一を伴い渡米。池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉(MSA協定)が行われた。烈しい交渉の結果、自衛力増強の努力を続けることで日米間の合意が成立した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この交渉がきっかけとなって自主防衛への取り組みが進み、防衛庁新設、自衛隊発足、秘密保護法成立などの安保政策につながった。また、農産物取引によって米国の余剰農産物を受け入れたことによって日米間の農産物貿易自由化・日本の食卓の洋食化が進んだほか、教育分野でのいわゆる「逆コース」(教育二法による日教組の影響力の排除や、道徳・倫理の科目増設など)のきっかけにもなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1954年の造船疑獄で東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤に焦点を当てて捜査を進めたが、佐藤逮捕の寸前に犬養健法相の指揮権発動によって免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任。同年、重光、鳩山一郎、三木武吉、松村謙三ら党内非主流派と改進党による新党結成(日本民主党)の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸と石橋を自由党から除名した。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり、この時点で亀裂があった。1955年の保守合同に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や河野一郎、岸らに頭を下げることになり吉田派は迷った。池田は反対グループの中心的存在だったが、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治・益谷秀次とともにまとめて自由民主党に参加する。吉田にも入党を勧めたが佐藤が反対し、吉田と佐藤は無所属になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の2年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく。政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた。ただし1956年5月の日比賠償協定締結には、藤山愛一郎に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している。吉田一派は親米嫌ソだったため、日ソ国交回復の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し、「モスクワに行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた。ドッジ、吉田という2人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1956年12月の鳩山退陣に伴う後継争いで池田は石井派に加担、打倒岸へ向けて動いた。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた池田の系列の議員が選挙の指揮を執った。岸反対で共通する石橋支持派の参謀・三木武夫と2、3位連合の政略を立てた仕掛けが成功、石橋湛山が決選投票で岸を僅差で逆転した。一説には、石橋が総理になった方が自身が蔵相として復帰できると計算、石橋が2位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる。同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決選投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した。1961年から1964年までアメリカの大統領経済諮問委員会議長を務めたウォルター・ヘラーが後にジョン・F・ケネディの減税政策にこのキャッチフレーズを真似たともいわれる。しかし同内閣が2か月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸が後継となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが、1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった。1957年10月ごろには旧自由党の吉田派を佐藤と分ける形で自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり、自民党派閥の原点といわれる。宏池会は1957年10月に機関紙「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の\"派閥\"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、このころから「所得倍増」の基となる政策構想を練り上げていく。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された。池田の\"勘\"と下村の\"理論\"を結びつけたのは田村で、3人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができており、下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また財界人のバックアップも、この時期強化された。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、桜田武や永野重雄、近藤荒樹、小田原大造、廿日出要之進といった広島出身者、奥村綱雄や太田垣士郎、堀田庄三、堀江薫雄ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた。他に吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものや、松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた。。特に池田と同じ明治32年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった。財界四天王に鹿内信隆を加えた少人数で話し合う会は極秘中の極秘だった。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めた。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1958年、話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流4派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに池田の妻が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの強行軍の結果50名が当選、岸派57名に次ぐ第2派閥に躍り出る。しかし選挙後の第2次岸内閣では、主流四派で組閣が進み、池田には最後に防衛庁長官を提示された。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける。11月、アメリカシアトルで開催されたコロンボ会議に出席し、アメリカの中間選挙で大勝したアメリカ民主党の財務長官・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる(諸説あり)。反岸を鮮明にし同年12月31日、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫、灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり、また行政協定についても、三木や河野一郎らと謀り、そろって改訂を主張して岸に圧力をかけた。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的なキャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした。同年6月18日の第2次岸改造内閣では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、池田を感動させた、岸と佐藤の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて、あるいは影のブレーン・賀屋興宣が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(後述)。安保闘争が激化した同年6月には、自衛隊の治安出動を強く主張した。治安出動に強硬だったのは、池田と川島正次郎幹事長だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、1964年11月9日まで続く長期政権となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "池田は安保闘争の時の強硬な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかと見られていた。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「低姿勢」「寛容と忍耐」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「所得倍増計画」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。さらに、内閣総理大臣官房広報室(現・内閣府大臣官房政府広報室)の機能を拡充させ、現在のタウンミーティングのはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1960年11月の総選挙では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。さらに、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、所得倍増政策の一環として、国土計画の第一歩である「全国総合開発計画」(全総)を発表(1962年10月)、太平洋ベルト地帯の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への公共事業の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は1970年代の派閥政治へと向かってゆく。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "通商政策としては、自由貿易が日本の先進国入りには不可欠であるとの認識を持っており。首相在任中に、輸入自由化率を43%から西欧諸国並みの93%にまで引き上げた。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内のレモン農家までを敵に回した。さらに、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、炭労や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、高等専門学校(高専)の設置も進んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "第一次産業に関しては、1961年に農業基本法を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、総理在任中に行われた朝日新聞社の世論調査においては、鳩山内閣から宮澤内閣までの全自民党政権を通じ、唯一内閣支持率が内閣不支持率を下回った事がなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1964年9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院した。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。政治家、とりわけ首相や実力者が病に倒れた場合には政局変動の要因になるため、その病状がひた隠しされることが通例と言われる。池田の場合も池田派の側近議員らが癌であることをひた隠し通した上で、任期を残して退陣する演出を行った。東京オリンピック閉会式翌日の10月25日に退陣を表明、自民党内での後継総裁選びの調整を見守った上で11月9日の議員総会にて佐藤栄作を後継総裁として指名した(池田裁定)。後継総裁選びを、退陣予定の総裁の指名に委ねた戦前・戦後を通じて最初のケースであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "その後療養に努めたが、1965年7月16日の検診で癌が広範囲に転移していることが判明、7月29日東大病院に入院。がんは食道、肺に転移している状態だった。8月4日手術をしたが手術後肺炎を起こし1965年8月13日12時25分に死去した。享年65。なお、葬儀は自民党葬で執り行われた。墓所は青山霊園。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "池田以前の戦後の保守政党出身の歴代首相の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、吉田内閣は講和独立、鳩山内閣は日ソ国交回復、岸内閣は安保改定と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきた。それが左派勢力から「逆コース」と批判を受け、1960年の安保闘争で頂点に達した。一方で、内政面での政策はほぼ各省の立案に頼っており、経済政策を全面に押し出す首相はいなかった。池田は、吉田内閣では大蔵大臣として外交に傾注する吉田に代わり経済政策を主導したが、岸内閣ではハイポリティックスの安保改定を特に強硬に主張していた。政権発足当初は池田内閣は\"岸亜流内閣\"というのが世間一般の見方で、政治・軍事を中心とする外交の課題を前面に押し出してくると考えられていた。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "政権発足時に秘書の伊藤昌哉が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えたが、伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった。側近の前尾繁三郎も大平も宮澤も反対した。財界も池田は切り札だから、安保のような状態で泥まみれにして殺してしまうのはまずいと考えていた。池田が額面通りに経済政策を推し進め、徹底した岸の裏返しに出てくるとは、誰も信じていなかったのである。しかし池田は「火中の栗を拾う。これで駄目でも結構だ」と腹をくくった。また「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "しかし、当時国民を広く覆っていた経済観では、この難局を経済重視で乗り切れると想像することは難しかった。貿易自由化を進めて日本を重化学工業の国として高度成長させると提唱しても、当時は日本が欧米先進国に伍して、世界市場で競争しようとするなどということは無謀だと思われていた。貿易自由化などは日本市場をいたずらに欧米製品の餌食にするだけで、資本力の弱い日本の産業はすべて欧米の巨大資本に踏み潰され、下請けの部品メーカーになって生き延びられれば上出来などと論じられていた。精密な軽工業製品・酪農・観光で生きる\"東洋のスイス\"という、敗戦直後に社会党首班の片山哲内閣が描いたヴィジョンは、まだ根強く生き残っていた。伊藤はこの経済観の転換について、「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃\"所得倍増\"なんて誰も信じてませんでしたよ」、「いちばん重要なことはオリエンテイションです。こっちへ行けばいいんだと示した点で、池田は大変大きな仕事をしたと思います。そのことから外交問題を解決する経済力が出てくるわけです。池田は経済合理主義という形で政治というものを変えた。これはそれまでの政治には全然なかったと思います」などと述べている。萩原延壽は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では\"倍増計画\"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。明治維新以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったことを、われわれはいま解決しようとしているのである』などと述べた。西欧水準への到達ということをもって、近代日本の歴史に於けるライトモティーフだと考えるならば、池田内閣は、明治維新以来の日本の\"進歩的伝統\"を継承する正統な嫡子であった」と評している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、池田の経済政策全体につけられたネーミング「所得倍増計画」も、目標がそのまま名づけられた、史上最も明快な経済政策と映った。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げたスローガンの中で、最も分かりやすく、かつ説得力もあった。この呼称について、「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の\"計画\"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。\"計画\"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した。武田晴人は「\"所得倍増計画\"という巧みなレトリックによって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している。黒金泰美は「\"所得倍増計画\"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている。橋本治は「\"所得倍増計画\"という、えげつない名前の政策は\"新時代の始まり\"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる\"新しい時代\"の素晴らしさを語ろうとする時、\"月給が倍になる\"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった資本主義と社会主義の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した。官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちが\"成長マインド\"に移行した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "池田は国民の政治観をも転換させた。池田はそれ以前の首相と異なり戦前に政治活動歴がなく、敗戦後に政界に入った政治家としては最初の首相であるが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を国民に提示した。藤井信幸は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』というルサンチマンもあったと思います」と述べている。萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる\"政治\"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が\"国民所得倍増計画\"において提供した\"豊かな生活\"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった。高度経済成長は、1950年代後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである。池田内閣は、「政治の季節」から「経済の季節」にギアを切り替えた、戦後史の重大な局面転換であった。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、日米安保条約に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ。御厨貴は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で\"富国民\"路線が定着した。吉田の弟子で後に首相となる池田勇人、佐藤栄作の二人によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通してきたことは、自民党の功績」、「あのままいけば自民党も危なかったかもしれないけれど池田勇人政権で変わった。池田・佐藤で12年以上、2人のおかげで自民党は10年で終わるはずが60年も続いた」などと述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "60年安保で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、反対運動の理論的支柱の一人と目されていた法政大学助教授・松下圭一は『朝日ジャーナル』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は\"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観\"がある」と、ある種の無念さを込めて記した。日本中が左翼のようになり、インテリは早く共産主義革命が起きて欲しいと考えていたような時代に、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる。池上彰は1960年の安保闘争最中でさえ、第29回衆議院議員総選挙で池田率いる自民党が圧勝したことからマスコミと当時珍しかった大学生、一部のインテリ・学生以外は、今のように左派の主張に賛同していたわけではなかったと当時の多数派と左派との認識の乖離の存在を述べている。高畠通敏は「池田内閣が安保の教訓を踏まえながら保守党の新しい路線として、戦前への逆コースの夢を捨てる。憲法改正をあきらめ、戦後の新しい現実に即してマイホームという形での私生活解放を認め、その上に立つ繁栄と成長としての自民党という路線を打ち出す。私はそのとき、国内における戦後は、基本的に終わったと思います。そこから戦後のあとの時代が始まった。また60年安保を支えた戦後革新勢力の分解も始まった。池田路線は戦前的な体質を持った佐藤内閣でも実質的には継承された。つまり60年代を通じて持続されたわけですが、その中で国民の私生活の解放、欲望の肯定を経済大国の形成へ編成しなおしていった。戦後民主主義は圧力民主主義に、平和主義はマイホームの平和へと風化し、労働運動は春闘の儀式として収斂する。60年代の運動を支えてきた民衆はその中に巻き込まれて分解していった。池田内閣の路線転換に沿って60年代に発展した知識人の特徴的な政治思想は現実主義でした」などと主張している。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティーにすべきという明確なビジョンを持っていたと主張している。しかし、秘書の伊藤は池田が首相として諸外国での経験から今の経済規模の日本に軍隊があれば国際的地位はこんなものではないと述べていて、再軍備自体に賛同する内心が池田にあったことを回顧している。政治から経済成長への\"チェンジオブペース\"を見事に演出した池田は、日本の経済成長が、日米安保の存在により軽軍備に抑えられていたからこそ可能になったという「日米安保効用論」を打ち出すことによって、安保の問題を経済成長に取り込んだ。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる。内田健三は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて\"管理\"の概念を導入した政権だった」と論じている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "池田は外交面においても、その後の日本を形作った。また、ドッジ・ライン、サンフランシスコ講和条約・日米安保の下交渉を経て、池田・ロバートソン会談、池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制を作った最大のキーパーソンでもある。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "フランスのド・ゴール大統領から「トランジスタのセールスマン」と揶揄されたとする逸話が有名であるが、これは池田がソニーの最新のトランジスタラジオを首脳会談で売り込んだことで、ド・ゴールが側近にそう漏らしたと反ド・ゴール派の『フィガロ』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になったもので、池田の帰国後、日本で大騒ぎになり、多くの日本人は嫌な思いをした。しかし池田は「会談の内容を知りもしないで、何を言うか」と一蹴しており、また『フィガロ』はジョン・F・ケネディを「鶏肉のセールスマン」と評したこともあり、日本や池田のみが槍玉に上げられたわけではない。八幡和郎は「当時は首脳が経済について語ることが珍しかったためにド・ゴールも意外に思ったもので、その後同じフランスのジスカール・デスタン大統領は、経済を主題にしたサミット(先進国首脳会議)を始めて日本をメンバーにしてくれたし、ミッテランやシラクは\"エアバスのセールスマン\"として何機売ったかを海外訪問の成果として誇った。経済外交重視は世界的にみてもその後の大きな流れになったことから、池田は世界の外交史の中で先駆者であり、世界史的偉人である」と評価している。池田の経済優先の発想は今日まで続いており、日本が経済大国を実現できたのも「吉田ドクトリン」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる。下村治は、池田死去翌日の日経新聞に追悼文を寄せ「池田勇人が果した歴史的な役割は、日本人が内に秘めていた創造力、建設力を『成長政策』という手段によって引き出し、開花させたことである」と記した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "池田はドッジ・ライン以来の念願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさに\"一内閣一仕事\"でやり遂げた。池田内閣以後の自民党政権による政治・外交運営は、池田が築いた国内安定と国際的地位を基盤として展開された。憲法改正を事実上棚上げにし、経済成長と豊かさの追求を最優先したからこそ、池田以降の自民党政権は、それなりに戦後的価値観を共有し、長期政権を維持できたのである。池田は戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済外交面でも創り上げたといえる。高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが、佐藤政権も池田政権という大きな括弧の中に入るともいわれる。その佐藤も池田同様引退後まもなく死去する。両者は1970年代の田中角栄や福田赳夫が1980年代にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた。東京オリンピックと大阪万博による大都市圏の開発、公共事業を通じた国土・列島の整備によって自民党は包括政党の道を進めていく。「55年体制」は成立こそ1955年であったものの、その確立は1960年代前半の池田内閣にあった。日本の国内政治の基本的な枠組みを作り上げたのが池田であった。この戦略は、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘ら、その後の内閣にも担われることになる。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」、「田中の『日本列島改造論』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」、「『日本列島改造論』や小泉純一郎の『骨太の方針』も、いわば池田の政治手法にあやかったもの、池田の後に登場した政権の大半はイデオロギーなしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった。田中浩は「池田内閣登場以後、日本政治は、ほとんど\"事なかれ主義\"を旨とする安全運転、無風状態が続き、保守の安定化(資本主義体制確立化)の道をたどっている」と論じている。この時期に派閥政治が確立し、閣僚や国会、党内での主要役職を当選回数によって配分する制度化も進み、議員の個人後援会が普及し、二世議員が増えていく。宏池会の後輩・古賀誠(第7代会長)は池田を「政治家として今の自民党の基礎を確立させた人」と評している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "自民党がこのように全く違った個性を持つ「総理・総裁」を起用して、国民の批判をかわす「振り子」の手法は、金権批判の田中角栄からクリーンイメージの三木武夫へバトンタッチした時にも使われ、自民党が長期政権を維持したカギの一つといえる。池田は発言でも舌禍事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった。官僚臭を感じさせない、庶民的でガラガラ声のキャラクターも、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った。池田はテレビを利用して政策をアピールした最初の首相でもあった。国民の関心がもっぱら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる。池田は政治を生活の延長にある祝祭空間と見て、その演出を試みる演出家だったとも評される。池田は首相就任後の参議院予算委員会において、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される。「敗戦国」から高度成長を進め「経済大国」「先進国」に変貌していった日本に、そして日本国民のナショナリズムに居場所を与えた。森田実は「ケネディが日本に対しても干渉する考え方を取らなかったため、高度経済成長路線を打ち出した池田内閣の時期が(アメリカの支配を受けない)戦後日本で一番自立していた時期だった」と述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "池田勇人の語録には、本人の発言とは異なる見出しで発言を歪曲されて報道されたことで後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い。 堺屋は「池田はマスコミが面白おかしく発言を歪曲しても怒らなかった」として、これがマスコミにも人気を得た理由としている。池上彰は池田がマスコミに発言を歪曲されて、それを野党に利用されていたことに同情を示しながら、「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」「高度経済成長期の立役者」と絶賛している。", "title": "発言と報道" } ]
池田 勇人は、日本の政治家、大蔵官僚。位階勲等は正二位大勲位。 大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・6・17代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。全日本居合道連盟創立者及び初代会長。
{{Other people}} {{別人|池田速人|x1=アナウンサーの}} {{政治家 |人名 = 池田 勇人 |各国語表記 = いけだ はやと |画像 = JFKWHP-KN-C18157 in Hayato Ikeda (cropped) restored.jpg |画像サイズ = 220px |画像説明 = [[ホワイトハウス]]にて(1961年) |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = [[1899年]][[12月3日]] |出生地 = {{JPN}} [[広島県]][[豊田郡]][[吉名村]](現:広島県[[竹原市]]) |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1899|12|3|1965|8|13}} |死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[文京区]]([[東京大学医学部附属病院]]) |出身校 = [[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都帝国大学法学部]]卒業 |前職 = [[大蔵省]][[官僚]]([[大蔵次官|次官]]) |現職 = |所属政党 = ([[民主自由党 (日本)|民主自由党]]→)<br />([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |称号・勲章 = [[正二位]]<br /> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]]<br />[[学士(法学)|法学士]](京都帝国大学) |親族(政治家) = [[広沢真臣|廣澤眞臣]](前妻の祖父)<br />[[廣澤金次郎]](前妻の父)<br />[[池田行彦]](娘婿・妻の養子)<br />[[寺田稔]](孫娘の夫) |配偶者 = 池田直子<br />[[池田満枝]] |サイン = IkedaH kao.png |国旗 = JPN |職名 = 第58-60代 [[内閣総理大臣]] |内閣 = [[第1次池田内閣]]<br />[[第2次池田内閣]]<br />[[第2次池田内閣 (第1次改造)|第2次池田第1次改造内閣]]<br />[[第2次池田内閣 (第2次改造)|第2次池田第2次改造内閣]]<br />[[第2次池田内閣 (第3次改造)|第2次池田第3次改造内閣]]<br />[[第3次池田内閣]]<br />[[第3次池田内閣 (改造)|第3次池田改造内閣]] |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = [[1960年]][[7月19日]] |退任日 = [[1964年]][[11月9日]] |所属委員会 = |議員会館 = |元首職 = 天皇 |元首 = [[昭和天皇]] |国旗2 = JPN |職名2 = 第2・6・17代 [[経済産業大臣|通商産業大臣]] |内閣2 = [[第3次吉田内閣]]<hr />[[第4次吉田内閣]]<hr />[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]] |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = [[1950年]][[2月17日]] - [[1950年]][[4月11日]]<hr />[[1952年]][[10月30日]] - [[1952年]][[11月29日]]<hr />[[1959年]][[6月18日]] |退任日2 = [[1960年]][[7月19日]] |元首職2 = |元首2 = |国旗3 = JPN |職名3 = [[無任所大臣 (日本)|国務大臣]] |内閣3 = [[第2次岸内閣]] |選挙区3 = |当選回数3 = |就任日3 = [[1958年]][[6月12日]] |退任日3 = [[1958年]][[12月31日]] |元首職3 =|元首3 = |国旗4 = JPN |職名4 = 第55・61-62代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]] |内閣4 = 第3次吉田内閣<br/>[[第3次吉田内閣 (第1次改造)|第3次吉田第1次改造内閣]]<br />[[第3次吉田内閣 (第2次改造)|第3次吉田第2次改造内閣]]<br/>[[第3次吉田内閣 (第3次改造)|第3次吉田第3次改造内閣]]<hr />[[石橋内閣]]<br />[[第1次岸内閣]] |選挙区4 = |当選回数4 = |就任日4 = [[1949年]][[2月16日]] - [[1952年]][[10月30日]]<hr />[[1956年]][[12月23日]] |退任日4 = [[1957年]][[7月10日]] |元首職4 = |元首4 = |国旗5 = JPN |職名5 = 第3代 [[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]] |内閣5 = 第4次吉田内閣 |選挙区5 = |当選回数5 = |就任日5 = [[1952年]][[10月30日]] |退任日5 = [[1952年]][[11月29日]] |元首職5 = |元首5 = |国旗6 = JPN |その他職歴1 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]] <br/>'''[[広島県第2区 (中選挙区)|旧広島2区]]<br />当選回数 7回''' '' '' |就任日6 = [[1949年]][[1月23日]] |退任日6 = [[1965年]][[8月13日]] |その他職歴2 = [[File:Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg|20px]] 第4代 [[自由民主党総裁]] |就任日7 = [[1960年]][[7月14日]] |退任日7 = [[1964年]][[12月1日]] }} '''池田 勇人'''(いけだ はやと、[[1899年]]〈[[明治]]32年〉[[12月3日]] - [[1965年]]〈[[昭和]]40年〉[[8月13日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]。[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。 [[大蔵次官]]、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](7期)、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]](第[[第3次吉田内閣|55]]・[[石橋内閣|61]]・[[第1次岸内閣|62]]代)、[[経済産業大臣|通商産業大臣]](第[[第3次吉田内閣|2]]・[[第4次吉田内閣|6]]・[[第2次岸内閣 (改造)|17]]代)、[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]]([[第4次吉田内閣|第3代]])、[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]][[政策部会|政調会長]]・[[幹事長]]、[[内閣総理大臣]](第[[第1次池田内閣|58]]・[[第2次池田内閣|59]]・[[第3次池田内閣|60]]代)などを歴任した。[[全日本居合道連盟]]創立者及び初代会長。 == 概説 == [[大蔵省|大蔵]][[官僚]]を経て[[日本の降伏|終戦]]後まもなく政界入りすると、[[吉田茂]]の右腕として頭角を顕し、[[吉田内閣]]の[[日本の国際関係|外交]]・[[国家安全保障#日本の安全保障|安全保障]]・[[経済政策]]に深く関与した。[[佐藤栄作]]と並ぶ「[[吉田学校]]」の筆頭格である。[[保守合同]]後は自民党の[[宏池会]]の領袖として一派をなし、[[1960年]]に首相に就任した。[[19世紀]]生まれの最後の首相である{{Sfn|伊藤|p=2}}。 '''[[所得倍増計画]]'''を打ち出し、戦後日本の[[高度経済成長]]の進展に最も大きな役割を果たした{{Sfn|人間昭和史|pp=71-82}}{{Sfn|堺屋|pp=152-153}}{{Sfn|池上|pp=表紙,2-9,12-23}}{{Sfn|沢木|pp=27-44,114-117}}。 == 生涯 == === 生い立ち === [[広島県]][[豊田郡]][[吉名村]](現・[[竹原市]])にて父・池田吾一郎、母・ウメの間に7人兄姉の末子として生まれた<ref>{{Cite news |title=没後50年池田勇人展-日本を変えた男 |date= |author= |url=http://www.city.takehara.lg.jp/data/open/cnt/3/2329/1/ikedahayatoten.pdf |accessdate=2016-02-08 |publisher=[[竹原市]]}}</ref>。長女とは歳の差が20歳もある。[[広島県立忠海高等学校|忠海中学校]]の1年時に[[陸軍幼年学校]]を受験するが、[[近視]]と背丈の低さで不合格となる{{sfn|人間昭和史|pp=71-82}}。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を受験するが2度落第{{Sfn|沢木|pp=52-56}}<ref name="kumanichi20151123">[http://kumanichi.com/tokushu/sou/kiji/20151123001.shtml 強いものほど姿勢を低く…-高峰武論説主幹の「想」 くまにちコム]</ref>、1浪で[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]入学<ref group="注釈">五高同期に[[佐藤栄作]]、[[仲小路彰]]、[[濱口巌根]]らがいる。</ref>。五高を経て1924年3月に[[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都帝国大学法学部]]卒業<ref>[http://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/kouhoushi/kumadainow/topics2013/t251015 池田勇人元総理大臣の写真が本学の五高記念館に! - 熊本大学]</ref>。 === 大蔵官僚時代 === ==== 挫折と生命の危機の克服 ==== 京都帝国大学法学部卒業後、[[高等文官試験#試験科目|高等試験行政科]]をパスし[[1925年]]、同郷の[[立憲政友会|政友会]]代議士・[[望月圭介]]の推薦を受け[[大蔵省]]へ入省{{Sfn|藤井|pp=7-17}}。[[銀行局]]属<ref name="Ōkurasho Jinmeiroku:M.T.S">『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』[[大蔵財務協会]]、1973年1月発行、13頁</ref>。入省同期は[[山際正道]]、[[植木庚子郎]]、田村敏雄など<ref>{{Cite journal|和書 |author=黒田晁生 |title=高度経済成長期における日本銀行の金融政策 |url=https://hdl.handle.net/10291/10979 |journal=政経論叢 |publisher=明治大学政治経済研究所 |year=2010 |month=mar |volume=78 |issue=5 |pages=477-518 |naid=120002926999 |hdl=10291/10979 |issn=03873285}}</ref>。大蔵省の中枢は当時からすでに[[東京大学|東大]]出身者で固められており{{Sfn|塩口|pp=7-20}}<ref>[https://gendai.media/articles/-/32895?page=3 (財務省の王)はこうして伝説になった...]</ref>、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった{{Sfn|GC昭和史|pp=46-49}}。本来ならば地方の[[出先機関]]の局長や[[税関長]]止まりというキャリアで{{Sfn|沢木|pp=52-56}}、入省後は相場の通り地方を廻る。[[1927年]]、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった[[宮澤裕]]に勧められ[[明治維新|維新]]の[[元勲]]・[[広沢真臣]]の孫・直子と結婚する{{Sfn|藤井|pp=7-17}}。[[仲人|媒酌]]は時の大蔵大臣・[[井上準之助]]だった{{Sfn|堺屋|p=154}}。 宇都宮税務署長を務めていた[[1929年]]、当時不治の病といわれた[[特定疾患|難病]]の[[水疱症|落葉状天疱瘡]]を発症して大蔵省を休職{{Sfn|藤井|pp=7-17}}、休職期間が切れたため[[1931年]]に退職<ref name="seikaiourai">[http://seikaiourai.jp/110919.htm 政界往来 政治家と病「池田勇人」 - 新政界往来]</ref>、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた{{Sfn|土生|pp=51-53}}。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み{{Sfn|土生|pp=51-53}}、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の[[迫水久常]]に切歯扼腕する思いであった{{Sfn|藤井|pp=7-17}}。少しよくなりかけたころ、[[島四国]]巡礼をする<ref>[https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/33/view/4801 五 大島の島四国 データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム] 愛媛県史 地誌II(東予西部)、[http://shima-shikoku.com/no5.htm 第5番札所 寿気庵] [[大島 (愛媛県今治市)|伊予大島]]准四国霊場会、[http://shima-shikoku.com/no64.htm 第64番札所 五光庵] 伊予大島准四国霊場会。</ref>。 闘病中には、看病疲れから妻の直子を[[狭心症]]で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の[[池田満枝|大貫満枝]]との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、[[1934年]]に奇跡的に完治する{{Sfn|文藝春秋|pp=214-220}}。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる{{Sfn|文藝春秋|pp=214-220}}。再び望月の世話を受けて[[日立製作所]]への就職が内定したが{{Sfn|藤井|pp=7-17}}、挨拶を受けた秘書課長の[[谷口恒二]]や[[松隈秀雄]]から復職を薦められる{{Sfn|上前|pp=21-24}}。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した{{Sfn|藤井|pp=7-17}}。[[玉造 (大阪市)|玉造]]では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた[[前尾繁三郎]]と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる<ref name="nikkeimaeo3">{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0801P_Z01C11A1000000/ |title=造幣局長に左遷、政界出馬を決意 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (1) |date=2011-11-13 |accessdate=2016-02-04 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2101M_S1A121C1000000/ |title=池田内閣で幹事長を3期3年 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (3) |date=2011-11-27 |accessdate=2016-02-08 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。 ==== 財政家として基盤の形成 ==== 復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ[[租税|税制]]関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、[[野間清治]]や[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]の[[遺産相続]]時の取り立ては凄まじかったといわれる{{Sfn|伊藤|pp=75-76}}。 当時省内では、[[賀屋興宣]]と[[石渡荘太郎]]の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した{{Sfn|藤井|pp=18-38}}。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが{{Sfn|GC昭和史|pp=46-49}}、[[1941年]]、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる{{Sfn|堺屋|pp=153-158}}。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度[[太平洋戦争]]と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた{{Sfn|賀屋|pp=281-283}}。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が[[借金#政府の借金|国の借金]]となり、国家財政は事実上の破綻に至る{{Sfn|上前|pp=27-31}}。[[1942年]]、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止){{Sfn|証言下|pp=106-115}}。[[1944年]]、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長{{Sfn|小林|pp=73-75}}。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時[[満洲国|満州国]]の副総理格だった[[古海忠之]]に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが{{Sfn|上前|pp=23-27}}、母親に猛反対され断念した{{Sfn|沢木|pp=18-19}}。 [[1945年]]2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった{{Sfn|藤井|pp=18-38}}。 1944年9月~1945年9月の間[[埼玉県]][[春日部市]]に家族(妻と次女と三女)を[[疎開]]させていた。当時の春日部市は春日部町と言う町であり、[[春日部駅]]東口周辺に税務署があった。池田家の居住地はその周辺になる。池田本人も家族の疎開先の春日部町から大蔵省に通っていた{{sfn|人間昭和史|pp=71-82}}。5月25日の[[東京大空襲]]で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した{{Sfn|上前|pp=11-13}}。主税局は[[雑司が谷]]の[[自由学園明日館]]に移っており、同所で[[終戦の日|終戦]]を迎える{{Sfn|上前|pp=11-13}}。 終戦後、池田は[[戦時補償債務|戦後補償]]の担当者だったといわれ{{Sfn|鬼塚|pp=126-137}}、[[軍需産業|軍需会社]]や民間の会社が大蔵省に殺到した{{Sfn|鬼塚|pp=126-137}}。1945年9月、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) から「[[日本の租税|日本の租税制度]]について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした{{Sfn|明治人下|p=22}}。[[戦時補償債務|戦時補償]]の打ち切りと[[財産税法]]創設問題に精力的に取り組み{{Sfn|藤井|pp=18-38}}、[[1947年]]2月、[[第1次吉田内閣]](大蔵大臣・[[石橋湛山]])の下、主計局長だった[[野田卯一]]を飛び越えて[[大蔵次官]]に就任する。終戦、そして主計局長の中村建城をはじめとする[[公職追放]]による人事の混乱に加え{{Sfn|藤井|pp=38-45}}、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した{{Sfn|塩田|2015|pp=63-72}}<!--([[#占領下時代|→どこにもリンクしていない。主税からの次官就任は要は、GHQやドッジら米国側が租税政策を重視したため?-->(次官抜擢は別説あり)。石橋蔵相下では石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当した{{Sfn|樋渡|pp=228-231}}。 次いで成立した[[日本社会党|社会党]]首班(民主、国民協同と3党連立)の[[片山内閣]]は[[社会主義]]を標榜し、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として[[経済安定本部]](安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増える。ここで安本次官だった同郷の[[永野重雄]]と親しくなり、[[財界]]に強い素地を作る{{Sfn|藤井|pp=38-45}}。 [[1948年]]、梅林組及び[[竹中工務店]]に対する融資問題で[[衆議院]]不当財産取引調査特別委員会に[[小坂善太郎]]、[[愛知揆一]]らとともに[[証人喚問]]された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205052X02319480521&current=62 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第23号 昭和23年5月21日]</ref><ref group="注釈">会議録で池田を「元議員」としているがこれは誤り。</ref>。同年、48歳で大蔵省を退官した。浪人中に政治家になることを猛反対していた母が亡くなったことが、政治家転身を後押しした{{Sfn|鬼塚|pp=138-139}}。 === 政治家として === ==== 吉田の右腕として ==== ====新人で大蔵大臣 ==== [[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙]]に[[広島県第2区 (中選挙区)|旧広島2区]]から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の[[竹原市立吉名小学校]]の裁縫室で上げた{{Sfn|藤井|pp=47-49}}。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす{{Sfn|藤井|pp=47-49}}。以降死去まで在任、選挙は7回全てトップ当選した{{Sfn|塩田|2007|p=54}}。[[中選挙区制]]においては空前絶後の記録である。 池田の所属する[[民主自由党 (日本)|民自党]]は大勝したが、選挙後の組閣([[第3次吉田内閣]])において、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった{{Sfn|土生|pp=94-98}}。この年2月1日に[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の財政顧問の[[ジョゼフ・ドッジ]] (デトロイト銀行頭取)が[[駐日アメリカ合衆国大使|公使]]の資格で来日し、日本の[[インフレーション|インフレ]]収束について強力な政策が要求されると予想され{{Sfn|細川|伊藤|pp=38-43}}、それまでのような蔵相ではとても[[連合国軍最高司令官総司令部|総司令部]]に太刀打ちできそうもないためであった{{Sfn|東京新聞|pp=38-43}}。<!---出典記述通りなので変えないで下さい。---> 外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが{{Sfn|御厨|中村|pp=92-111}}、財政経済は素人でほとんど無関心だったため<ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150607/dms1506070830002-n1.htm 安倍総理が“第三の矢"を放てば「経済宰相」への道が開ける 塩田潮さん (1/3ページ)]</ref>、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった{{Sfn|細川|伊藤|pp=38-43}}。吉田は[[第2次吉田内閣|前内閣]]で、[[池田成彬]]に擬えて[[泉山三六]]を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった([[国会キス事件]]){{Sfn|コーエン|大前|pp=314-331}}。吉田は[[宮島清次郎]]に人選を依頼したが、宮島が挙げる[[向井忠晴]]ら候補者はみな[[公職追放]]の憂き目に遭っていた{{Sfn|証言上|pp=52-60}}。 宮島から[[桜田武]]経由で話を聞いた永野重雄は、安本時代の次官仲間だった池田を推薦した{{sfn|人間昭和史|pp=71-82}}<ref>{{Cite book|和書 |author=三鬼陽之助|authorlink=三鬼陽之助 |year=1962 |title=財界首脳部 日本経済を動かすもの |publisher=[[文藝春秋新社]] |isbn= |pages=7-59}}</ref>。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる{{sfn|人間昭和史|pp=71-82}}。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった{{Sfn|細川|伊藤|1985|pp=38-43}}池田を吉田に推薦した{{Sfn|林|pp=222-225}}{{Sfn|桜田|鹿内|pp=33-39}}。こうして池田は当選1回で[[第3次吉田内閣]]の大蔵大臣に抜擢された(就任日は1949年2月16日)。この人事には[[林譲治 (政治家)|林譲治]]や[[大野伴睦]]ら[[党人派]]が反対したが{{Sfn|堺屋|pp=153-158}}、最終的には吉田に頼まれた[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]][[幹事長]]の大野が反対派をまとめた{{Sfn|大野|pp=130-135}}。池田は吉田の全権委任の形で経済を任されており、その後3度の内閣改造を経て解散されるまで蔵相に留任した他、[[第3次吉田内閣]]で[[経済産業大臣|通商産業大臣]]を、[[第4次吉田内閣]]では[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)#歴代大臣|経済審議庁長官]]を兼務した。 池田は大蔵大臣[[秘書官]]として[[黒金泰美]]と、官僚時代に英語が堪能で贔屓にしていた<!---<ref>[[#御厨|中村]]、53-54頁。</ref>--->[[宮澤喜一]]を抜擢した<ref>[http://hon.bunshun.jp/articles/-/613 新幹線の車内で英字紙を読む宮澤喜一]</ref>。まもなく黒金が[[仙台国税局|仙台国税局長]]に異動したため、後任に固辞する[[大平正芳]]を否応なしに秘書官に起用した{{Sfn|藤井|pp=173-176}}。 ==== 占領下の経済政策 ==== [[ファイル:Hayato Ikeda meets Joseph Dodge.jpg|thumb|240px|[[1949年]]、ジョゼフ・ドッジ(手前右)と]] ; ドッジ・ラインによる緊縮財政 : [[1949年]]、[[ジョゼフ・ドッジ]]が来日{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。池田はドッジと協議を重ねた{{Sfn|文藝春秋|pp=112-118}}{{Sfn|渡辺|1996|pp=191-211}}。池田は、後の「所得倍増計画」に見られるような[[積極財政]]をプランし、減税や[[公共事業|公共投資]]を推し進め、それによって戦後の復興を成し遂げようと考えていたが、占領下ではGHQの指示は絶対で、意に反してドッジの超[[均衡財政]]の忠実な執行者を余儀なくされた{{sfn|塩田|1995a|pp=359-369,376-383}}<ref name="池田政権1">吉村克己著『池田政権・一五七五日』「前書き・宮澤喜一『池田さんの歩んだ道』」。</ref>。[[3月7日]]に[[ドッジ・ライン]]を実施<ref>[http://showa.mainichi.jp/news/1949/03/post-f800.html 昭和毎日:ドッジ・ライン - 毎日jp(毎日新聞)]</ref><ref name="friday50355">[http://friday.kodansha.ne.jp/archives/50355/ 歴史に残るプッツン劇場 池田勇人「貧乏人は麦を食え ...]</ref><ref>[http://www.nissoken.jp/hatugen/kiji20080601.htm ■ 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その3) 宮沢喜一と戦後日本]</ref>、1950年度[[予算#国家予算|予算]]は、[[収入|収支]]プラス3億円の超均衡予算となった{{Sfn|塩田|1995a|pp=359-369,376-383}}{{Sfn|吉村|pp=88-92}}{{Sfn|松野|pp=122-127,131-133}}。 : ドッジ・ラインの反動で、金づまり([[デフレーション|デフレ]])の嵐が吹き荒れ、企業合理化による[[整理解雇|人員整理]]で失業者が増大し、各地で[[労働争議]]が頻発、[[下山事件]]など暗い事件も相次いだ{{Sfn|三輪|pp=151-153}}。ドッジは特に[[公務員]]の大量[[解雇]]による[[人件費]]削減を池田に強く指示し、これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}、政党、[[労働組合]]、産業界、特に[[中小企業]]からの集中砲火にさらされた<ref name="icukatoh">加藤龍蘭、「[http://id.nii.ac.jp/1130/00001475/ 戦後型公企業制度の誕生 --政府系金融機関の名称と制度設計--]」紀要論文 『国際基督教大学学報. II-B, 社会科学ジャーナル』 2008年 65号 p.27-52, 国際基督教大学。</ref>。 ; 財政投融資の開始 : ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった{{Sfn|中川|pp=122-129}}。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する[[住宅金融公庫]]を設立して[[政策金融機関|政府系金融機関]]を設ける糸口を付けた上で{{Sfn|塩口|pp=111-112}}<ref>[https://worldjpn.net/documents/texts/fim/19500123.SYJ.html 第7回国会(常会)における財政演説 - 東京大学東洋文化研究所]</ref>、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して[[1951年]]4月に資金運用部を設立した{{Sfn|塩口|pp=111-112}}。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった[[財政投融資]]になる{{Sfn|塩口|pp=111-112}}。 ; 日本専売公社発足 : 1949年、大蔵省専売局を独立し発足した[[日本専売公社]]の初代総裁には池田の推薦により秋山孝之輔が抜擢された{{Sfn|桜田|鹿内|p=48}}。 ; 日銀への影響力の拡大 : 1950年、産業金融のあり方を巡り[[一万田尚登]][[日本銀行総裁]]と大論争が行われ、池田が勝利したことで、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。特に1956年、池田の大蔵省の同期・[[山際正道]]が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。池田は輸出向け金融の制度改革で足腰を強め、重化学工業を中心とする産業の成長を見据えていた{{Sfn|幸田|2016a |pp=230-231}}。しかし一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。 ; 通商産業省発足 : [[アメリカ対日協議会]](ACJ、[[アメリカ対日協議会#ジャパン・ロビーとニューズウィーク|ジャパン・ロビー]]の中枢組織)の[[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア|ドレイパー]]陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}、池田が「[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]がない。[[綿花]]を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と切り返すとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の[[アパレル産業|繊維産業]]が急ピッチで発展した{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1502K_Z10C13A4000000/|title=経済でも冷戦を戦った日本 講和発効まで (14) |date=2013-04-27|accessdate=2016-03-16|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社}}</ref>。繊維製品と[[日用品|日用雑貨製品]]のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、[[商工省]]を改組して通商産業省(現:[[経済産業省]])が発足した{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。 ; シャウプ勧告と税制改革 : 戦後[[税制]]3つの転機といわれる[[所得税]]中心の税制を確立した[[シャウプ勧告]]では、ドッジ予算ほど強い権限がないことに着目し、池田はその内容を柔軟に解釈し、勧告の中で示されている以上の減税が可能であるとの立場をとり、1949年度の[[補正予算]]に若干の減税をドッジに認めさせ、歴史上はじめて実質上の[[歳出]]増ならびに減税の両方を含む補正予算を示した{{Sfn|樋渡|pp=12-26}}。 ; 池田の評判と評価の変化 : 池田はドッジと、[[マニフェスト|選挙公約]]の不履行という[[民主自由党 (日本)|民自党]]内部や各党からの批判、「国民生活の窮迫」という国民の非難との板挟みになり{{Sfn|塩口|pp=34-38}}、「[[インフレーション|インフレ]]ではない。[[デフレーション#ディスインフレーション|ディスインフレ政策]]である」と強調したため、「ディス・インテリ」という不本意な渾名を付けられた{{Sfn|吉村|pp=88-92}}。「池田勇人、鬼よりこわい、ニッコリ笑って税をとる」という戯れ歌が歌われ<ref>[https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/policy_evaluation/proceedings/proceedings/261009gijiroku.html 第52回 財務省政策評価懇談会(10月9日開催)議事録 : 財務省]</ref>、池田の憎たらしい面構えの漫画が新聞・雑誌に掲載された{{Sfn|土生|pp=12-13}}。 : [[中小企業]]の倒産や、企業主家族の心中が相次いだため、記者たちからの意見を求められた池田は「その種の事件が起こるのは当然のことと見ている」と述べ、国民にショックを与えた{{Sfn|コーエン|大前|pp=314-331}}。1950年6月の[[第2回参議院議員通常選挙|参院選]]では、吉田から「お前が喋らない方が党のためになる」と選挙応援には来ないでくれと言われた{{Sfn|コーエン|大前|pp=314-331}}。 : 一方、国内からの反撥を受けながらもドッジ・ラインを実現できるだけの力を示すことで、対米信用を獲得し、大蔵省を足場に政治家としての権力基盤を形成した{{Sfn|樋渡|pp=12-26}}{{Sfn|中川|pp=122-129}}。ドッジと大蔵省の協議のほとんどに出席したヤング使節団のオービル・マークダイアミドは後年、「ドッジ使節団の成功に最も寄与したのは池田である」と述べた{{Sfn|コーエン|大前|pp=314-331}}。ドッジやGHQからの池田に対する信頼は厚く、日本の政治家は池田を通さないとドッジと面会できなかったといわれる{{Sfn|樋渡|pp=12-26}}。それが吉田の池田に対する信頼感を持たせることにも繋がった{{Sfn|藤井|pp=65-75}}。 ==== 講和の下交渉 ==== 1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた{{Sfn|藤井|pp=89-116}}。この年6月に[[第2回参議院議員通常選挙|参院選]]も予定されていたことから、[[世論]]の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ{{Sfn|フィン|pp=154-162}}{{Sfn|文藝春秋|pp=118-120}}{{Sfn|東京新聞|pp=52-71}}。 しかし渡米の最大の使命はこれではなかった{{Sfn|宮澤|pp=40-61}}{{Sfn|鬼塚|pp=208-211}}。ドッジや[[ウィリアム・マーカット|マーカット]]少将から「[[日本国との平和条約|講和]]の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる{{Sfn|吉村|pp=88-92}}。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、[[朝鮮戦争]]に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある{{Sfn|鬼塚|pp=208-211}}。 こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|講和・安保問題]]の打診、"吉田からの伝言を預かり{{Sfn|土生|pp=118-129}}{{Sfn|内田|pp=22-23}}{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=56-62}}{{Sfn|渡辺|1983|p=699}}、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という{{Sfn|東京新聞|pp=157-161}}、重大なミッションを抱えて同年[[4月25日]]、吉田の特使として[[白洲次郎]]、[[宮澤喜一]]蔵相秘書官と共に渡米した{{Sfn|フィン|pp=154-162}}<ref name="tahara200706">[http://www.the-journal.jp/contents/tahara/2007/06/_in_1.html 田原総一朗の「タハラ・インタラクティブ」: アーカイブ 《追悼・宮澤喜一氏》宮澤元首相の最終講義 in 早稲田大学 (1)]</ref><ref name="白洲100年">{{Cite journal|和書 |author= |year=2002 |title=総特集 白洲次郎:生後100年 |journal=文藝別冊([[KAWADE夢ムック]]) |publisher=[[河出書房新社]] |isbn= |pages=62-65}}</ref>。池田は戦後、日本の[[国務大臣|閣僚]]がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった{{Sfn|フィン|pp=154-162}}。 池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり{{Sfn|林|pp=7-8}}、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、[[ワシントンD.C.]]でドッジ・ラインの緩和を要請した{{Sfn|藤井|pp=89-116}}。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫([[国際協力銀行|日本輸出銀行]]、輸銀)設立の構想を持っており{{Sfn|土生|pp=118-129}}{{Sfn|渡辺|1999|pp=300-307,326-330}}、[[国際通貨基金]](IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])加入要請{{Sfn|宮澤|pp=147-153}}、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた<ref name="icukatoh" />{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}{{Sfn|渡辺|1983|p=699}}。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形であった{{Sfn|塩口|pp=59-69}}。 [[5月3日]]、池田と宮澤が[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]にドッジを訪問、吉田からのメッセージを口頭で伝えた{{Sfn|土生|pp=118-129}}{{Sfn|宮澤|pp=40-61}}{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}{{Sfn|ヨシツ|pp=63-70}}。「日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及び[[アジア]]地域の安全を保障するために、[[アメリカ軍|米軍]]を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…条約締結の前提として米軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意がある」などと、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]の基礎を成す内容を伝えた{{Sfn|フィン|pp=154-162}}{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=56-62}}{{Sfn|高坂|pp=55-56}}{{Sfn|樋渡|pp=26-50}}。国務省の立場を非常によくする内容の安保条約的構想のオファーに{{Sfn|藤井|pp=89-93,107-116}}、[[ウィリアム・ウォルトン・バターワース|バターワース]][[アメリカ合衆国国務次官補(東アジア・太平洋担当)|国務次官]]が「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これは[[ディーン・アチソン|アチソン]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があった[[ロンドン]]での外相会議に出席した{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}。コピーのもう一部はダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}。 なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされていなかったといわれ{{Sfn|御厨|中村|pp=128-129}}、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している<ref name="白洲100年"/>。白洲は皮肉をこめて「池田勇人というのはアメリカにとてもモテたんです。不思議に数字丸暗記できるという、一種の特技ですよ。日本の国家予算はあの時分はインフレだから、兆でなく何千億ですけど、それを、こういうものはこうでありましてと、ひょうひょうと言うんです。聞く方は口開けて見てましたね。頭脳明晰な、とても偉い人だと思って。アメリカ人はそういうところはわりに感心するんです。第一回の訪米のとき、アメリカの財界人は池田を買ったのです」などと述べている{{Sfn|安藤|pp=400-407}}。 帰国後、GHQを差し置いて池田が[[官吏]]の[[給与]]引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ[[民政局]] (GS) の[[コートニー・ホイットニー|ホイットニー]][[准将]]とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した{{Sfn|渡辺|1999|pp=286-289}}。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた{{Sfn|渡辺|1999|pp=286-289}}。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る[[第2回参議院議員通常選挙|参院選]]の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した{{Sfn|渡辺|1999|pp=286-289}}。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった{{Sfn|渡辺|1999|pp=286-289}}。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定([[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA協定]])への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた{{Sfn|渡辺|1999|pp=286-289}}。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした{{Sfn|萩原|pp=75-83}}。以降、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く{{Sfn|塩口|pp=59-69}}。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、[[鶴川村|鶴川]]に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった{{Sfn|塩口|pp=59-69}}。 なお、マッカーサーは池田訪米の本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが{{Sfn|フィン|pp=154-162}}{{Sfn|塩口|pp=51-64}}、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}。 この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}。[[1951年]][[9月8日]]、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである{{Sfn|御厨|中村|pp=120-154}}。当時当選1回で、しかも[[外務大臣 (日本)|外相]]でもない池田が全権メンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなく{{Sfn|小林|pp=89-90}}、宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという{{Sfn|上前|pp=187-190}}。[[日本国との平和条約|対日講和条約]]と[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]が調印(後者は吉田のみ署名)した後、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された{{Sfn|藤井|pp=89-93,107-116}}<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2202K_T20C12A3000000/ |title=池田蔵相、箱根で訪米準備の猛勉強 サンフランシスコヘ (33) |date=2012-03-31 |accessdate=2016-02-01 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0102W_T00C12A8000000/ |title=ドッジ登場に驚く日本全権団 サンフランシスコへ (54) |date=2012-03-10 |accessdate=2016-02-01 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0600X_X00C13A3000000/ |title=池田勇人、一万田尚登が散らす火花 講和発効まで (8) |date=2013-03-16 |accessdate=2016-02-01 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。 ==== 講和・独立後の政権運営 ==== <!--ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった{{Sfn|中川|pp=122-129}}。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する[[住宅金融公庫]]を設立して[[政策金融機関|政府系金融機関]]を設ける糸口を付けたうえで{{Sfn|塩口|pp=111-112}}<ref>[https://worldjpn.net/documents/texts/fim/19500123.SYJ.html 第7回国会(常会)における財政演説 - 東京大学東洋文化研究所]</ref>、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して[[1951年]]4月に資金運用部を設立した{{Sfn|塩口|pp=111-112}}。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった[[財政投融資]]のハシリである{{Sfn|塩口|pp=111-112}}。1950年産業金融のあり方を巡り、[[一万田尚登]][[日本銀行総裁]]と大論争が行われ、池田が勝利したことで、政治的あるいは役所間の権限争いに勝ち、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。特に1956年、池田の大蔵省の同期・[[山際正道]]が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。1950年代は池田と一万田の二人が蔵相を務める時期が長かっため、通産省などはその二つのバランスの上に立ち、名人芸的な政策運営を進めた{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。[[アメリカ対日協議会]](ACJ、[[アメリカ対日協議会#ジャパン・ロビーとニューズウィーク|ジャパン・ロビー]]の中枢組織)の[[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア|ドレイパー]]陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。池田は「[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]がない。[[綿花]]を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と嘆くとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の[[アパレル産業|繊維産業]]が急ピッチで発展した{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1502K_Z10C13A4000000/ |title=経済でも冷戦を戦った日本 講和発効まで (14) |date=2013-04-27 |accessdate=2016-03-16 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。繊維製品と[[日用品|日用雑貨製品]]のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、[[商工省]]を改組して通商産業省(現:[[経済産業省]])が発足した{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。--> 産業金融システムとして池田が設立したのが[[政策金融機関|政府系金融機関]]である輸出金庫([[国際協力銀行|日本輸出銀行]]、輸銀)と[[日本政策投資銀行|日本開発銀行]](開銀)である<ref name="icukatoh" />{{Sfn|中川|pp=122-129}}{{Sfn|渡辺|1999|pp=300-307,326-330}}{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}<ref name="globeasahi090921">[http://globe.asahi.com/feature/090921/02_1.html やまぬ「民業圧迫」 - 朝日新聞GLOBE]</ref><ref name="SENTAKU19510330">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101015261X03419510330 参議院会議録情報 第010回国会 予算委員会 第34号]</ref>。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である[[電力]]、[[石炭]]、[[海運]]、[[鉄鋼]]など、輸出力のない基幹産業に、当時の[[民間銀行]]は資金不足で投資ができず{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}{{Sfn|中村|1993|p=458}}、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、[[基幹産業]]を復活させる目的を持った{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}{{Sfn|中川|pp=122-129}}。本来は1947年に設立された[[日本政策投資銀行|復興金融金庫]](復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて反対し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の[[国策会社]]的なものは一切認めないという態度を崩さなかった{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで([[昭和電工事件]])<ref name="globeasahi090921" />、[[経済安定本部]]が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのが[[アメリカ合衆国国務省|米国務省]]からの[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]]と政府が運営する[[郵便貯金]]であった{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。郵便貯金は[[明治|明治時代]]から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、[[不祥事|スキャンダル]]や様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を[[地方債]]の引き受けに限定していた{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、[[郵便局]]に預けるようになるにつれ資金量が増えていた{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。池田は輸銀と事実上復金の再生である新しい機関・開銀の設立を提案{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}、うち輸銀に関しては[[資本財]]の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の[[一般会計]]からの資金、合計150億円を[[資本金]]として1951年2月1日に輸銀は営業を開始した<ref name="icukatoh" /><ref name="SENTAKU19510330" />{{Sfn|中川|pp=122-129}}{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}{{Sfn|渡辺|1966|pp=300-307}}{{Sfn|上前|p=256}}。 もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初である{{Sfn|渡辺|1966|pp=300-307,326-330}}。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金[[特別会計]]からの支払いを認めた{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、[[金融債]]の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も[[運転資金]]は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。 こうして1951年4月、開銀は設立された<ref name="globeasahi090921" />{{Sfn|中川|pp=122-129}}{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}{{Sfn|渡辺|1999|pp=300-307}}{{Sfn|上前|p=256}}<ref>[http://www.dbj.jp/co/info/history/history1.html 会社概要・沿革|IR情報|日本政策投資銀行 (DBJ)]</ref>。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}<ref name="tokyo19510126">[https://worldjpn.net/documents/texts/fim/19510126.SYJ.html データベース『世界と日本』 東京大学東洋文化研究所 第10回衆議院(常会)財政演説 1951年1月26日]</ref><ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101005254X00519510126 第10回国会衆議院本会議第5号(1951/01/26、24期)]</ref>。両銀行設立にアメリカが[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]]を提供したのは、日本を[[朝鮮戦争]]の兵站基地とすべく日本の[[財閥解体]]を中止させ、[[軍需産業]]の復活を狙っていたためともいわれる{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。池田が輸銀の初代総裁には河上弘一、開銀の初代総裁には[[小林中]]とそれぞれ腹心をあてた{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}{{Sfn|中川|pp=122-129}}<ref>{{Cite book|和書 |author=グレン・デイビス、ジョン・G・ ロバーツ |translator=森山尚美 |title=軍隊なき占領 - ウォール街が「戦後」を演出した |publisher=[[新潮社]] |year=1996 |isbn=978-4-10-534301-9 |pages=76-78}}</ref>。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、[[M資金|マーカット]]、つまり米国の意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。産業界への資金供給の主要な役を日銀の[[一万田尚登|一万田]][[日本銀行#歴代日本銀行総裁|総裁]]から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降財界の池田シンパの中心的な存在になった{{Sfn|塩口|pp=111-112}}。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。 1952年には、池田主導の下に[[長期信用銀行法]]が成立し、旧[[特殊銀行]]であった[[日本興業銀行]]と新設の[[日本長期信用銀行]](以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した{{Sfn|中川|pp=122-129}}<ref>[http://r-cube.ritsumei.ac.jp/handle/10367/1736 R-Cube: 拓銀の経営破綻とコーポレート・ガバナンス 服部泰彦 立命館大学経営学会]-3頁、蔭山克秀『やりなおす戦後史』211-214頁([http://diamond.jp/articles/-/60475?page=6 今知っておきたい、90年代のバブル崩壊物語 第4回 株価暴落から山一・拓銀・長銀の破綻まで])。</ref>。長銀の第二代頭取には池田が[[日本勧業銀行]]での権力闘争に敗れた[[浜口巌根]]を据えた{{sfn|佐高|pp=21-25}}。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「[[公社]]」に再編された[[日本国有鉄道|国鉄]]と[[日本電信電話公社|電信電話事業]]及び[[帝都高速度交通営団]]・[[日本郵政公社|郵政事業]]特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの[[日本道路公団]])・[[電源開発|電源開発株式会社]]・[[日本航空|日本航空株式会社]]などにも投資された{{Sfn|幸田|2016a|pp=258-259}}{{Sfn|柴垣|pp=67-68}}<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101314629X05219520515 参議院会議録情報 第013回国会 大蔵委員会 第52号]</ref>。池田は税務畑の出身で、本来[[金融]]は畑違いだったのだが、苦心の対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「[[大手町 (千代田区)|大手町界隈]]は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという{{Sfn|鬼塚|pp=169-193}}{{Sfn|中川|pp=122-129}}。1949年「従来の[[一県一行主義]]に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて[[北海道銀行]]、[[東北銀行]]、[[千葉興業銀行]]、[[東京都民銀行]]など全国に12の新銀行([[戦後地銀]])が設立された<ref>[http://www.chibabank.co.jp/company/info/history/pdf/70/003.pdf 沿革・年史|企業概要|千葉銀行の歴史 70年史 第1章 千葉銀行創立と戦後の再建整備]-18頁。</ref>。この他、戦後の[[投資信託]](投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に[[議員立法]]で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「[[投資信託及び投資法人に関する法律|証券投資信託法]]」公布が切っ掛けである<ref name="tokyo19510126" />{{Sfn|投信知識|p=128}}{{Sfn|草野|pp=48-58,299-303}}<ref name="toshin">{{Cite book|和書 |author= |title=投資信託50年史 [概況編] |publisher=投資信託協会 |year=2002 |isbn= |pages=34−36}}[http://www.investlife.jp/backnumber/155.html インベストライフ Vol.155 I-OWAマンスリー・セミナー 日本証券市場のあゆみ 日本証券市場のあゆみ ~終戦から高度成長期まで(2)~ 岡本和久]</ref>。[[野村ホールディングス|野村]]、[[日興コーディアルグループ|日興]]、[[山一證券|山一]]、[[大和証券グループ本社|大和]]の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる{{Sfn|投信知識|p=128}}{{Sfn|草野|pp=48-58,299-303}}<ref name="toshin" />。戦後の様々な[[金融機関]]の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した{{Sfn|樋渡|pp=12-26}}。 吉田内閣は、成立当初は[[白洲次郎]]が吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田が入れ替わって吉田の右腕になっていく{{Sfn|藤井|pp=89-116}}。池田の自由党とは反目になる1954年の[[日本民主党]]結党時のころの池田の政財界への影響力について[[椎名悦三郎]]は「[[三木武吉|三木さん]]が[[岸信介|岸さん]]を幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、[[日本政策投資銀行|復興金融金庫]]に[[融資]]を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している{{Sfn|北國新聞|pp=93-94}}。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる{{Sfn|樋渡|pp=1-4}}{{Sfn|倉山|2012|pp=138-150}}<ref name="zakzak20150607">[http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150607/dms1506070830002-n2.htm 安倍総理が“第三の矢"を放てば「経済宰相」への道が開ける 塩田潮さん (2/3ページ)]</ref><ref name="yawata201506">[https://www.facebook.com/kazuo.yawata/posts/845437505530471 八幡和郎 - 「日本の選択 宰相ライバル史 岸信介と池田勇人(政治大国か経済大国か)] [[夕刊フジ]]連載、2015年6月。</ref><ref name="bookbang513056">{{Cite web|和書|url=http://www.bookbang.jp/review/article/513056 |accessdate=2016-06-20 |title=幸田真音 刊行記念インタビュー「1964年の東京オリンピック誘致に奔走する男たちを描く大作」 |year=2016 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160613130343/http://www.bookbang.jp/review/article/513056 |archivedate=2016-06-13}}{{Cite web|和書|url=http://ddnavi.com/interview/298253/a/ |accessdate=2016-06-20 |title=あの頃の日本は熱気にあふれていた─ 1964年東京オリンピックの壮大な準備譚 |date=2016-05-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160613151657/http://ddnavi.com/interview/298253/a/ |archivedate=2016-06-14}}</ref>。 経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、[[1950年]]6月の[[朝鮮戦争|朝鮮動乱]]勃発による[[朝鮮特需|特需ブーム]]により、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した{{Sfn|御厨|中村|pp=92-111}}{{Sfn|塩田|1995a|pp=359-369,376-383}}。また[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]]の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という[[事務次官|次官級]]または[[国務大臣|大臣級]]のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に[[財務官 (日本)|財務官]]という役職を新設し、初代の財務官には[[渡辺武 (官僚)|渡辺武]]を任命した{{Sfn|渡辺|1999|pp=1-4}}{{Sfn|渡辺|1983|pp=216-219}}。また同月、大蔵[[政務次官]]として部下となった京大の後輩・[[水田三喜男]]を可愛がり、後の[[第1次池田内閣]]で[[大野伴睦|大野派]]ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した{{Sfn|塩田|1995a|pp=359-369,376-383}}。 [[1951年]]、[[正力松太郎]]からの要請で、日本初の民放テレビ・[[日本テレビ放送網]]設立のための資金を財界人から調達<ref>{{Cite book|和書 |author=佐野眞一|authorlink=佐野眞一 |title=巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀 |publisher=[[文藝春秋]] |year=1994 |isbn=978-4-16-349460-9 |pages=446-447}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=ベンジャミン・フルフォード|authorlink=ベンジャミン・フルフォード |title=ステルス・ウォー 日本の闇を侵蝕する5つの戦争 |publisher=講談社 |year=2010 |isbn=978-4-06-216124-4 |page=241}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=有馬哲夫|authorlink=有馬哲夫 |title=日本テレビとCIA -発掘された『正力ファイル』 |publisher=新潮社 |year=2006 |isbn=4-10-302231-0 |page=248}}</ref>。同年、[[日本医師会]]の[[田宮猛雄]]会長、[[武見太郎]]副会長から請求された[[健康保険|健保]]の[[診療報酬]]大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された([[#閣僚時代|詳細は後述]])。1951年の[[増田甲子七]]の[[自由党 (日本 1950-1955)#歴代執行部役員表|自由党幹事長]]起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった{{sfn|証言上|pp=61-70}}。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり[[橋本龍伍]][[厚生省|厚生大臣]]と対立し、橋本が辞任した<ref>[https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/550-01.pdf 占領下日本の再軍備反対論と傷痍軍人問題-左派政党機関紙に見る白衣の傷痍軍人 植野真澄]</ref>。 1952年8月、吉田と密談を重ねて[[抜き打ち解散]]を進言する{{Sfn|土生|pp=159-169}}{{Sfn|堀越|pp=13-14}}。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は[[保利茂]][[内閣官房長官]]と[[麻生太賀吉]]の二人のみで{{Sfn|土生|pp=159-169}}、その二人も池田が後から伝えたといわれる{{Sfn|細川|1978|pp=139-162}}。[[衆議院議長]]の[[大野伴睦]]も自由党幹事長・[[林譲治 (政治家)|林譲治]]さえ知らなかった{{Sfn|細川|1978|pp=139-162}}{{Sfn|大野|pp=199-204}}。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、[[鳩山一郎]]一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが{{Sfn|土生|pp=159-169}}、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時[[公職追放]]を解除された恩人の[[賀屋興宣]]は東京から出馬することになったが{{Sfn|賀屋|pp=275-276}}、[[永野護 (政治家)|永野護]]が同じ[[広島県第2区 (中選挙区)|広島2区]]から立候補することになり、[[石橋湛山]]が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた{{Sfn|鬼塚|pp=230-235}}。 講和の下交渉の際に打診していた日本の[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])と[[国際通貨基金]] (IMF) 加盟が認められ、[[第25回衆議院議員総選挙|選挙期間中]]の9月に[[メキシコシティ]]で開催された総会に宮澤を伴い出席{{Sfn|宮澤|1956|pp=147-153}}<ref name="2012tokyo">[https://www.facebook.com/Annual.Meetings.2012tokyo/photos/a.328727873878796.76949.316264935125090/353631534721763/?type=3&fref=nf Development Japan shared IMF ・世銀総会準備事務局]</ref>。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金([[只見特定地域総合開発計画]])の借り入れを打診し賛同を得た{{Sfn|宮澤|1956|pp=147-153}}。また[[ジョン・スナイダー|スナイダー]][[アメリカ合衆国財務長官]]とドッジ国務長官顧問から後に[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA交渉]]で展開される軍事援助の問題を伝えられた{{Sfn|樋渡|pp=64-65}}。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や[[中央銀行]]総裁と、初めて対等の立場で物が言えた{{Sfn|土生|p=169}}。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという{{Sfn|土生|p=169}}。 しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と[[広川弘禅]]農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と[[河野一郎]]の[[除名#政党の除名|除名処分]]を強引に決め、吉田に進言して実行させた{{Sfn|鬼塚|pp=230-235|松野|p=22}}。当時、林譲治、[[益谷秀次]]、[[大野伴睦]]の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤という新興勢力を抑えられなくなっていた{{Sfn|松野|p=22}}。 同年[[10月30日]]に発足した[[第4次吉田内閣]]では、通商産業大臣と[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済審議庁長官]]を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す[[松永安左エ門]]が、[[三鬼隆]]、[[水野成夫]]、[[工藤昭四郎]]らの電力統合派と政府委員会で争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり{{Sfn|三鬼|1974|pp=174-175}}、通産大臣の池田に直談判して来た{{Sfn|評論選集|pp=174-175}}<ref name="山岡">{{Cite book|和書 |title=気骨: 経営者 土光敏夫の闘い |author=山岡淳一郎 |publisher=[[平凡社]] |year=2013 |pages=98-100 |isbn=978-4-582-82466-7}}</ref><ref name="kyuden">[http://www.kyuden.co.jp/qside_cat_series_ijin_1.html 九州電力 「電力の鬼」と呼ばれた不屈の事業家]</ref>。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後[[電気事業再編成令]]の発令による分割民営化(九電力体制)が成された<ref name="山岡"/><ref>[http://kins.jp/html/43kikkawa.htm 橘川 武郎氏 - 近代日本史料研究会]</ref>。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった{{Sfn|三鬼|1974|pp=174-175}}。松永との関係が後の水主火従から火主水従という[[エネルギー革命|エネルギー切り替え]]に繋がった<ref name="coastaltokyo">[http://coastal.t.u-tokyo.ac.jp/member_page/member2.html 本間先生思い出集 - 東京大学 海岸・沿岸環境研究室] 53-53頁。</ref>。 戦後GHQは保守化した農村を[[共産主義]]からの防波堤にしようと「[[農地法]]」の制定を農林省に命じた。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した。「農地法」の制定によって[[農地改革]]による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた<ref name="山下" />。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した。池田の狙いは見事に実現し、保守化した農家・農村は[[農業協同組合|農協]]によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった<ref name="山下">{{Cite book|和書 |author=山下一仁|authorlink=山下一仁 |title=「亡国農政」の終焉 |publisher=[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]] |series=ベスト新書257 |year=2009 |isbn=978-4-584-12257-0 |pages=122-124}}{{Cite book|和書 |author=山下一仁 |title=日本の農業を破壊したのは誰か 「農業立国」に舵を切れ |publisher=講談社 |year=2013 |isbn=978-4-06-218585-1 |pages=26-32}}[http://diamond.jp/articles/-/47489 農業立国への道(中) 農地集約・規模拡大を阻む農地法を廃止せよ]、[http://diamond.jp/articles/-/47489?page=2 農業立国への道(中) page=2]</ref><ref name="池田blog">[http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51902601.html 池田信夫 blog : 農地改革と資本家の不在]</ref>。 ==== 度重なる問題発言 ==== [[画像:IKEDA Hayato.jpg|240px|thumb|池田勇人(1952年)]] 池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議を醸すこともあった<!--([[#語録|詳細は後述]]) → リンクしていない。ただし、中小企業の〜、貧乏人は麦を食えなど、下記に具体的記述あり。-->。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の[[1950年]][[3月1日]]、「[[中小企業]]の一部倒産もやむを得ない」、さらに[[12月7日]]、「貧乏人は麦を食え」と発言したとしていずれも問題となる<ref name="friday50355" /><ref name="bunshun1289">{{Cite web|和書|url=http://hon.bunshun.jp/articles/-/1289 |accessdate=2016-02-08 |title=「寛容と忍耐」で経済成長路線を打ち出した池田勇人 |文春写真館 あのとき、この一枚|date = 2013-01-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130201233454/http://hon.bunshun.jp/articles/-/1289 |archivedate=2013-02-08}}</ref><ref name="postseven2012911">{{Cite journal|和書 |author= |date=2012-09-11 |title =岸信介、池田勇人、中曽根康弘 3人の宰相が権力誇示した館 |journal=週刊ポスト |issue=2012年9月21・28日号 |publisher=NEWSポストセブン |url=http://www.news-postseven.com/archives/20120911_142257.html?PAGE=2 |accessdate=2016-02-08}}</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2016/03/22/kiji/K20160322012257590.html さらば船橋オート…65年の歴史に幕 有終V永井男泣き「幸せです」]</ref>。占領軍の権威を笠に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた{{Sfn|吉村|pp=88-92}}。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された{{Sfn|松野|pp=122-127,131-133}}。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持ちになっていた{{Sfn|上前|pp=183-187}}。日ごろから「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があり大問題になった{{Sfn|松野|pp=122-127,131-133}}。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした{{Sfn|上前|pp=183-187}}。 1952年[[11月27日]]、[[加藤勘十]](社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため<ref name="bunshun1289"/><ref name="postseven2012911"/>、翌日に野党が[[不信任決議]]案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された{{Sfn|東京新聞|pp=88-96}}。[[日本国憲法]]下での唯一の閣僚不信任である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には[[内閣不信任決議]]にもつながりかねない状況であったため<ref group="注釈">約3か月半後に第4次吉田内閣は反主流派の採決欠席により内閣不信任決議を受け、[[バカヤロー解散]]に至っている。</ref>、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。 ==== 雌伏期から自民党の大物政治家へ ==== 失言の度に、大衆の反感をかったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った{{Sfn|鬼塚|p=272}}。この不信任案可決以降、池田に近い党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった{{Sfn|藤井|pp=153-162}}。このころから池田は[[派閥]]を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた{{Sfn|藤井|pp=153-162}}。 その後も党・政府の要職を歴任する。[[1953年]][[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]政調会長に就任。政調副会長には[[水田三喜男]]や前尾繁三郎など政策通を取り揃え「大政調会」と謳われた{{sfn|栗原|pp=124-129}}。実力は相当で、大蔵官僚は池田の許に何かと通い、人事から政策まで逐一相談した{{sfn|栗原|pp=124-129}}。当時の[[副総理]]は[[緒方竹虎]]だったが、池田は「もう一人の副総理だ」の声まで上がった{{sfn|栗原|pp=124-129}}。八方塞がりだったこの時期に池田がこれ程の力を持てたのは変わらぬ吉田の寵と、自身が築き上げた大蔵省内外に張り巡らせた人脈と政策力のためである{{sfn|栗原|pp=124-129}}。また[[松野頼三]]は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った{{Sfn|松野|pp=122-127,131-133}}。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている{{Sfn|季武|武田|pp=223-234}}。 {{main|日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定}} 1953年5月、[[朝鮮戦争休戦協定]]と前後して[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|MSA問題]]が表面化{{Sfn|内田|pp=110-116}}<ref name="modhakusho2311100">[http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2007/2007/html/j2311100.html 防衛白書 2007年度版 1 防衛省・自衛隊の歩み]</ref>。MSAとは米国が1951年10月に作った[[相互安全保障法]]のことで、対外経済援助と米国の世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、米国はこのMSA援助を日本にも適用し、朝鮮戦争で用いた兵器を日本に転用して日本の防衛力を増大することを目指していた{{Sfn|内田|pp=110-116}}。これに対して日本側では、[[財界]]が[[朝鮮特需]]に代わる経済特需をこのMSA援助に期待しており、両者の思惑が食い違っていた<ref name="ciishii">石井晋, 「[https://hdl.handle.net/10959/570 MSA協定と日本 : 戦後型経済システムの形成(2)]」『学習院大学経済論集』 40巻 4号 p.295-313 2004年, 学習院大学, {{ISSN|00163953}}, {{naid|110000982329}}, {{hdl|10959/570}}。</ref>。8月に[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が訪日、吉田に[[保安隊]]増強を提案したが不調に終わったため{{Sfn|内田|pp=110-116}}、防衛問題と経済援助での日米間の意見調整を目的として、10月、池田が吉田個人の特使として、宮澤と[[愛知揆一]]を伴い渡米<ref name="modhakusho2311100" />{{Sfn|小林|pp=92-95}}。[[池田・ロバートソン会談]]で[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定|再軍備を巡る交渉(MSA協定)]]が行われた{{Sfn|宮澤|1956|pp=200-275}}<ref name="ikedaRobertson">[http://showa.mainichi.jp/news/1953/10/post-2503.html 昭和毎日:池田・ロバートソン会談 - 毎日jp(毎日新聞)]、[https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01252/contents/153.htm 「特集」外交文書/1 軍備強化か、経済か――池田・ロバーソン会談]、[http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2004/2004/html/1624c1.html 防衛庁・自衛隊発足の経緯といわゆる「戦力」論争]、[http://diamond.jp/articles/-/75796?page=4 やりなおす戦後史【第3回】 蔭山克秀 戦後の政治もまた改憲をめぐる攻防から始まった.. 自国の防衛軍「自衛隊」の誕生]、[http://www.tv-asahi.co.jp/hst/contents/sp_2006/special/040826.html 憲法9条の半世紀 - 報道STATION -特集-]、[http://www.yobieki-br.jp/opinion/araya/ara_mksenri_.html 荒谷卓 -緊急座談会「戦慄!何も守れない、無防備日本の現実」]</ref>。烈しい交渉の結果、自衛力増強の努力を続けることで日米間の合意が成立した{{Sfn|室生|p=15}}。 この交渉がきっかけとなって自主防衛への取り組みが進み、[[防衛省|防衛庁]]新設、[[自衛隊]]発足、[[日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法|秘密保護法]]成立などの安保政策につながった<ref name="modhakusho2311100" />。また、農産物取引によって米国の余剰農産物を受け入れたことによって日米間の農産物貿易自由化・日本の食卓の洋食化が進んだほか{{sfn|鈴木猛夫|pp=13-42}}、教育分野でのいわゆる「[[逆コース]]」([[教育二法]]による[[日本教職員組合|日教組]]の影響力の排除や、[[道徳教育|道徳]]・倫理の科目増設など)のきっかけにもなった{{Sfn|柴垣|pp=48-51}}<ref name="nagoya17256">{{Cite journal|和書|author=佐々木亨 |title=人材開発政策の法制措置のあしどり : 中等教育を中心に |url=https://hdl.handle.net/2237/17256 |journal=教育評論 |publisher=日本教職員組合情宣部 |year=1963 |month=may |issue=140 |pages=36-39 |naid=40000720412 |hdl=2237/17256 |issn=00235997}}</ref><ref name="aikoku">[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-06-07/2006060702_05_0.html 教基法改悪反対 党演説会/志位委員長の講演(詳報)]、[http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200607011823136 日刊ベリタ : 特集 : 「労働・教育運動に生きて80年」槙枝元文自伝 (36) 米国の対日政策転換が「偏向教育狩り」を鼓舞]、[http://www.edu-kana.com/kenkyu/nezasu/no30/keyword.htm キーワードで読む戦後教育史 (2) 池田・ロバートソン会談&教育二法 杉山宏 神奈川県高等学校教育会館]、[http://www.magazine9.jp/interv/takahashi/index3.html この人に聞きたい|マガジン9]、[http://www.fujinminsyuclub.org/paper/archive/1205.htm 婦人民主クラブ|婦民新聞|過去の記事|第1205号]、[http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2007/consti/news/CK2007051002115189.html 東大大学院教授の高橋哲哉さん 国民の監視で軍事化防げ]、[http://sankei.jp.msn.com/politics/topics/politics-14749-t2.htm 【野口裕之の安全保障読本】半世紀前…池田勇人氏の「予言」的中]"([https://megalodon.jp/2010-1221-0204-05/sankei.jp.msn.com/politics/policy/101220/plc1012201021004-n1.htm アーカイブ〈ウェブ魚拓〉])[[産経新聞]](2016年5月9日閲覧)</ref>。 ==== 政界再編成と宏池会の結成 ==== 1954年の[[造船疑獄]]で[[東京地方検察庁|東京地検]]は、[[政治資金]]が豊かな池田と佐藤に焦点を当てて[[捜査]]を進めたが、佐藤逮捕の寸前に[[犬養健]][[法務大臣|法相]]の[[指揮権 (法務大臣)|指揮権]]発動によって免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した{{Sfn|藤井|pp=151-153}}<ref>[http://showa.mainichi.jp/news/1954/04/post-1e45.html 昭和毎日:造船疑獄で指揮権発動 - 毎日jp(毎日新聞)]、[https://gendai.media/articles/-/39104?page=3 田原総一朗×郷原信郎【第1回】「特捜部は正義の味方」の原点となった「造船疑獄事件の指揮権発動」は検察側の策略だった!p3]</ref>。この事件で池田は[[参考人]]として[[事情聴取]]を受けたにも拘らず{{Sfn|堺屋|pp=157-158}}、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として[[自由党 (日本 1950-1955)#党史|自由党幹事長]](12月29日まで)に就任{{Sfn|藤井|pp=151-153}}。同年、重光、[[鳩山一郎]]、[[三木武吉]]、[[松村謙三]]ら党内非主流派と[[改進党]]による新党結成([[日本民主党]])の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸と石橋を自由党から除名した<ref name="nikkei20120408">{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFK02016_T00C12A4000000&uah=DF230220126469 |title=吉田内閣打倒で三木武吉と連携 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三 (6) |date=2012-04-08 |accessdate=2016-02-17 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>{{Sfn|塩口|pp=140-148}}{{Sfn|樋渡|pp=83-108}}。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり、この時点で亀裂があった{{Sfn|樋渡|pp=140-150}}。[[1955年]]の[[保守合同]]に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や[[河野一郎]]、岸らに頭を下げることになり吉田派は迷った{{Sfn|伊藤|p=37}}。池田は反対グループの中心的存在だったが{{Sfn|松野|pp=39-40}}、現実的に判断し吉田派全体を長老の[[林譲治 (政治家)|林譲治]]・[[益谷秀次]]とともにまとめて[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に参加する{{Sfn|藤井|pp=151-153}}<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/news/topic/article/?uah=DF270420112651 |title=無罪確定、幻の「芦田議長」 悲運の宰相・芦田均 (10) |date=2011-05-15 |accessdate=2016-03-16 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。吉田にも入党を勧めたが佐藤が反対し、吉田と佐藤は[[無所属]]になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月){{Sfn|藤井|pp=151-153}}。 1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の2年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる{{Sfn|小林|pp=112-114}}。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく{{Sfn|塩口|pp=149-159}}。政争の一環として、鳩山政権全期間にわたって大蔵大臣を務めた[[一万田尚登]]へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした{{Sfn|樋渡|p=132}}。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた{{Sfn|樋渡|p=132}}。ただし1956年5月の[[日本の戦争賠償と戦後補償|日比賠償協定]]締結には、[[藤山愛一郎]]に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している{{Sfn|藤山|pp=51-55}}。吉田一派は親米嫌ソだったため、[[日ソ共同宣言|日ソ国交回復]]の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し{{Sfn|内田|pp=96-97}}、「[[モスクワ]]に行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた{{Sfn|松野|pp=39-40}}{{Sfn|福永|pp=74-76}}。[[ジョゼフ・ドッジ|ドッジ]]、吉田という2人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった[[緒方竹虎]]という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった{{Sfn|藤井|pp=151-153}}。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた<ref name="李炯喆">{{Cite journal|和書|author=李炯喆 |title=池田勇人の対外認識とアジア政策 |url=https://hdl.handle.net/10561/395 |journal=県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要 |publisher=県立長崎シーボルト大学 |year=2002 |month=dec |issue=3 |naid=120005474965 |hdl=10561/395 |issn=1346-6372}}</ref>。 [[1956年]]12月の鳩山退陣に伴う後継争いで池田は[[水曜会 (自民党)|石井派]]に加担、打倒岸へ向けて動いた{{Sfn|土生|pp=227-241}}。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた池田の系列の議員が選挙の指揮を執った{{Sfn|土生|pp=227-241}}。岸反対で共通する[[二日会|石橋支持派]]の参謀・[[三木武夫]]と2、3位連合の政略を立てた仕掛けが成功{{Sfn|塩田|2015|pp=63-72}}、[[石橋湛山]]が[[1956年12月自由民主党総裁選挙|決選投票]]で岸を僅差で逆転した{{Sfn|宇治|pp=123-141}}。一説には、石橋が総理になった方が自身が蔵相として復帰できると計算、石橋が2位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる{{Sfn|上前|pp=302-304}}。同年[[12月23日]]に成立した[[石橋内閣]]で、石橋は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし{{Sfn|塩田|2007|pp=57-58}}、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す<ref name="jairo00003643">[http://jairo.nii.ac.jp/0236/00003643 JAIRO | 高度成長期の経済政策構想--システム選択としての所得倍増計画 藤井信幸]</ref><ref>[http://www.toyokeizai.net/115-anniversary/series/kosai4-2.html 連載/石橋湛山を語る 香西泰- 東洋経済オンライン-p2]</ref><ref group="注釈">[[下村治]]は「石橋さんは理論的には不十分な展開だったと思う」と述べている(『聞書 池田勇人』、252頁)。</ref>。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決選投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した{{Sfn|細川|1978|pp=231-248}}。1961年から1964年までアメリカの[[大統領経済諮問委員会]]議長を務めた[[ウォルター・ヘラー]]が後に[[ジョン・F・ケネディ]]の減税政策にこの[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]を真似たともいわれる{{Sfn|証言上|pp=10-31}}。しかし同内閣が2か月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり{{Sfn|北國新聞|pp=154-157}}、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸が後継となる{{Sfn|北國新聞|pp=154-157}}。 [[1957年]]2月、[[第1次岸内閣]]となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ{{Sfn|塩田|2015|pp=73-83}}。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした{{Sfn|塩田|2015|pp=73-83}}。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが{{Sfn|塩田潮|2015|pp=73-83}}、[[第1次岸内閣 (改造)|1957年7月の内閣改造]]で、岸が[[日本銀行|日銀]]寄りの一万田を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる{{Sfn|東京新聞|pp=73-83}}。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく{{Sfn|藤井|pp=163-173}}。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった{{Sfn|藤井|pp=163-173}}。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的[[スローガン]]の獲得であった{{Sfn|藤井|pp=163-173}}。[[1957年]]10月ごろには旧自由党の吉田派を佐藤と分ける形で自らの政策集団・[[自由民主党の派閥|派閥]]である[[宏池会]]を結成した<ref group="注釈">佐藤は[[田中角栄]]・[[松野頼三]]・[[保利茂]]・[[愛知揆一]]・[[橋本登美三郎]]・[[二階堂進]]らと[[周山会]]を結成する。</ref>。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり{{Sfn|日経|2014|pp=57-60}}<ref name="nikkei20121014">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGKDZO47234020T11C12A0TY8000/ |accessdate=2016-03-21 |title=(経済史を歩く)(22) 国民所得倍増計画(1960年)本物の成長戦略 「豊かな日本」誰もが確信 |publisher=日本経済新聞社 |date=2012-10-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160130110658/http://www.nikkei.com/article/DGKDZO47234020T11C12A0TY8000/ |archivedate=2013-05-20}}</ref><ref>[http://webronza.asahi.com/politics/articles/2015121400002.html 「保守本流」宏池会は「保守中枢」になれるか? - 牧原出]</ref>、自民党派閥の原点といわれる<ref name="bs-asahi032">{{Cite web|和書|url=https://archives.bs-asahi.co.jp/ijinden/prg_032.html |title=吉田茂/池田勇人 |work=[[昭和偉人伝]] |publisher=BS朝日 |date=2015-02-11 |accessdate=2015-03-20}}</ref>。宏池会は1957年10月に[[機関紙]]「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした{{Sfn|上前|pp=316-318}}。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった{{Sfn|上前|pp=316-318}}。 宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった[[下村治]]をはじめとする[[エコノミスト]]や官僚系議員たちとともに、このころから「所得倍増」の基となる政策構想を練り上げていく{{Sfn|中川|pp=62-81}}{{Sfn|歴史街道|pp=42-46}}<ref name="jinji200602">[https://www.jinji.go.jp/hakusho/h17/jine200602_2_059.html 平成17年度 年次報告書 - 人事院 第1編 人事行政 官僚達のネットワーク 御厨貴]</ref><ref>[http://www.saga-s.co.jp/sp/news/saga/10101/266936 評伝 宮崎勇元経企庁長官|佐賀新聞LiVE]</ref>。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された{{Sfn|小林|pp=136-150}}。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で{{Sfn|沢木|pp=50-54}}、3人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる{{Sfn|沢木|pp=50-54}}。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた{{Sfn|宇治|pp=141-151}}<ref name="agora1658015">[http://agora-web.jp/archives/1658015.html 安倍首相は所得倍増の池田勇人になれるか : アゴラ - ライブドア]</ref>。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした{{Sfn|歴史街道|pp=50-53}}。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができており{{Sfn|塩田|1995b|pp=226-227}}{{Sfn|伊藤|pp=76-79}}、下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である{{Sfn|伊藤|pp=64-66}}。 また財界人のバックアップも、この時期強化された{{sfn|藤井|pp=173-176}}。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、[[桜田武]]や[[永野重雄]]、[[近藤荒樹]]、[[小田原大造]]、[[廿日出要之進]]といった広島出身者{{sfn|三鬼金づる|pp=174-175}}、[[奥村綱雄]]や[[太田垣士郎]]、[[堀田庄三]]、[[堀江薫雄]]ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた{{Sfn|三鬼金づる|pp=174-175}}{{Sfn|岩見|pp=39-42}}。他に吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という[[財界四天王]]を中心として集まったものや{{sfn|三鬼評論選集|pp=174-175}}、[[松永安左ヱ門]]が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり{{sfn|三鬼評論選集|pp=174-175}}<ref>[https://kaken.nii.ac.jp/d/p/05204210.ja.html KAKEN - 経済復興政策と経済団体(05204210)]、[http://net.keizaikai.co.jp/archives/15731 ワンマンシリーズ (6) 三和の法皇・渡辺忠雄〈3〉|経済界]{{Cite book|和書|author=奥村宏|authorlink=奥村宏|title=日本の六大企業集団|publisher=[[ダイヤモンド社]]|series=ダイヤモンド現代選書|year=1976|isbn=|pages=75-78}}</ref>、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた{{sfn|GC昭和史|pp=46-49}}。{{Sfn|桜田|鹿内|pp=93-105}}。特に池田と同じ明治32年生まれで集まる[[小林中]]ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった{{sfn|吉村|pp=93-105}}。財界四天王に[[鹿内信隆]]を加えた少人数で話し合う会は極秘中の極秘だった{{Sfn|桜田|鹿内|pp=42-44}}。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた{{sfn|柴垣|pp=286-291}}。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めた{{sfn|藤井|pp=173-176}}<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20151209-OHT1T50025.html 【フレー フレー ヨシノブ】池井優さん、政治家なら佐藤栄作&池田勇人タイプ]</ref>。また保守合同をめぐり佐藤との関係が複雑になり<ref name="nikkeibpshusei">[http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/news/070720_shusei3/ 田中秀征:私が見た宮沢喜一さんと保守本流政治 (3)]</ref>、佐藤の実兄の岸が総理になったことで吉田とも距離を置くようになった{{sfn|藤井|pp=178-179}}。 [[1958年]]、[[話し合い解散]]による同年5月の[[第28回衆議院議員総選挙|総選挙]]では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流4派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った{{sfn|伊藤|pp=52-56}}。池田は自派全ての候補者の応援に回り、のちに池田の妻が秘書に「あんな強行日程は組まないで欲しい」と言われたほどの強行軍の結果50名が当選{{sfn|伊藤|pp=52-56}}、岸派57名に次ぐ第2派閥に躍り出る。しかし選挙後の[[第2次岸内閣]]では、主流四派で組閣が進み、池田には最後に[[防衛大臣|防衛庁長官]]を提示された{{sfn|伊藤|pp=52-56}}。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の[[国務大臣]]を引き受ける{{sfn|塩田|2015|pp=73-83}}。11月、アメリカ[[シアトル]]で開催された[[コロンボ会議]]に出席し、アメリカの[[中間選挙]]で大勝した[[民主党 (アメリカ)|アメリカ民主党]]の[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]・ジョン・W・シュナイダーにお祝いを言った際、後に標語として用いた「寛容と忍耐」という言葉をシュナイダーから聞いたと言われる([[#低姿勢・寛容と忍耐首相時代|諸説あり]]){{Sfn|沢木|pp=171-174}}{{Sfn|伊藤|pp=64-66}}。反岸を鮮明にし同年12月31日、岸の[[警察官職務執行法|警職法改正案]]の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、[[三木武夫]]、[[灘尾弘吉]]の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策<ref name="nikkeimaeo3"/><ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0901H_Z00C12A4000000/|title=周首相と会談、LT貿易に道筋 「日中関係に賭けた情熱」松村謙三 (7) |date=2012-04-15 |accessdate=2016-02-01 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref name="nikkeinadao">{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1601N_X10C12A1000000/ |title=文相6期、日教組の勤評闘争と対決 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉 (3) |date=2012-01-22 |accessdate=2016-02-05 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、[[石井光次郎|石井]]らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり{{sfn|伊藤|pp=67-73}}、また行政協定についても、三木や[[河野一郎]]らと謀り、そろって改訂を主張して岸に圧力をかけた<ref>{{Cite web|和書|title=誤解だらけの「日米地位協定」/山本章子 |url=https://synodos.jp/opinion/international/23260/ |website=SYNODOS |date=2020-05-19 |access-date=2022-06-15 |language=ja}}</ref>。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった{{sfn|松野|p=100、110}}。 [[1959年]][[2月22日]]、郷里の広島に戻り、[[広島市立袋町小学校]]の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的なキャッチコピーとも評される「[[所得倍増計画]]」「月給倍増論」を初めて口にした{{sfn|沢木|pp=40-44}}<ref name="canon20160404">[http://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20160404_3594.html 「所得倍増」の故事-自民党内で真摯な政策論争を-岡崎哲二| キヤノンコラム・論文 | キヤノングローバル戦略研究所(CIGS)]</ref><ref name="shugiin2005518">[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/009916220050518018.htm 第162回国会 国土交通委員会 第18号(平成17年5月18日)]</ref>。同年[[6月18日]]の[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]]では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが{{sfn|渡邉恒雄|2000|p=154}}、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、池田を感動させた{{sfn|三鬼金づる|pp=94-106}}、岸と佐藤の使い・[[田中角栄]]から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて{{sfn|堀越|pp=80-81}}、あるいは影のブレーン・[[賀屋興宣]]が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが{{sfn|鬼塚|pp=280-282}}、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している{{sfn|伝記|pp=66-76、99}}。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが<ref name="canon20160404" />{{Sfn|原|pp=203-212}}、池田自身も後述する理由から無視して通産大臣に就任した<ref name="nikkeimaeo3"/><!---<ref name="藤井179"/>。--->。保守政界の一方の雄として政治家池田の擡頭を印象付けたが{{sfn|塩田|2015|pp=73-83}}、ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った(後述)。[[安保闘争#闘争の激化|安保闘争が激化]]した同年6月には、[[自衛隊]]の[[治安出動]]を強く主張した{{sfn|読売新聞社|2012|pp=225-234}}<ref name="sankei150510">[https://www.sankei.com/article/20150923-DQNPS3D5XBIHREZH3FUJAO43LA/ 【安保改定の真実 (8) 完】 岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」]</ref>。治安出動に強硬だったのは、池田と[[川島正次郎]][[自由民主党幹事長|幹事長]]だった{{sfn|北國新聞|pp=18-19}}。 === 内閣総理大臣 === [[File:Hayato Ikeda Cabinet 19600719.jpg|220px|thumb|1960年7月19日に発足した[[第1次池田内閣]]]] [[File:Korea-Photo-News-3.png|thumb|220px|[[朴正熙]]大統領と池田(1961年11月11日)]] {{main|池田勇人内閣の政策}} 安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は[[1960年]]7月19日に[[内閣総理大臣]]に就任、[[第1次池田内閣]]が発足する。池田政権はその後、2度の解散総選挙と4度の内閣改造を経て、[[1964年]][[11月9日]]まで続く長期政権となった。 池田は安保闘争の時の強硬な立場から、安保改定を強引に押し通した岸政権の亜流になるのではないかと見られていた<ref>{{Cite web|和書|title=「『新しい資本主義』とは?」|池上彰 |url=https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1807 |website=週刊文春 電子版 |date=2021-10-22 |access-date=2022-06-15 |first=池上 |last=彰}}</ref>。しかし、池田は60年安保を通じて、テレビをはじめとするメディアが大衆の世論形成に影響を与えることを肌で実感し、それを逆に利用する戦略をとる。吉田内閣時代や安保闘争で定着していた自身の反庶民的・高圧的なイメージを払拭することに努め、「'''低姿勢'''」「'''寛容と忍耐'''」の信条をテレビを通じて国民に見せ、「庶民派」を演出した{{Sfn|GC昭和史|pp=46-49}}。一方、重要政策と見られていた安保・外交や憲法などを封印し、数年来自身のブレーンらとともに懐で温めていた「'''[[所得倍増計画]]'''」を池田内閣の目玉政策として発表、日本の社会を「政治の季節」から「経済の時代」へ巧みに転換した。さらに、内閣総理大臣官房広報室(現・[[内閣府大臣官房]][[政府広報]]室)の機能を拡充させ、現在の[[タウンミーティング]]のはしり(当時は「一日内閣」と呼称)も行われた。 [[第29回衆議院議員総選挙|1960年11月の総選挙]]では、当初は安保を争点とするつもりであった社会党など野党もあわてて経済政策を前面に出すなど、選挙戦は自民党のベースで進み、結果は戦後最高となる301議席、自民党の圧勝であった。さらに、社会党は得意としていた「貧困対策」を自民党の「所得倍増計画」で先取りされ、安保闘争からの党勢拡大の勢いが頭打ちとなり、結局社会党は自民党を議席数で上回ることが一度もなかった。 また、所得倍増政策の一環として、[[国土計画]]の第一歩である「[[全国総合開発計画]]」(全総)を発表(1962年10月)、[[太平洋ベルト地帯]]の形成を始め、政府主導のインフラ設備投資が始まる。後に、自民党の政治家と後援会は選挙区への[[公共事業]]の誘導で密接なつながりを形成し、自民党は1970年代の派閥政治へと向かってゆく。 通商政策としては、[[自由貿易]]が日本の[[先進国]]入りには不可欠であるとの認識を持っており。首相在任中に、輸入自由化率を43%から[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国並みの93%にまで引き上げた。池田は自由化を推し進めるために、選挙区内の[[広島レモン|レモン]]農家までを敵に回した。さらに、石油の輸入自由化によって石炭は斜陽産業となり、[[日本炭鉱労働組合|炭労]]や社会党の打撃となった。その一方で、労働者保護のための社会保障政策の拡充も成し遂げられる。 文部行政としては、それまでの文科系学問の優遇(国庫補助など)を改め、技術革新による経済成長に対応させるために、医学をはじめ理工系を重要視した予算を組んだ。また、[[高等専門学校]](高専)の設置も進んだ。 [[第一次産業]]に関しては、1961年に[[農業基本法]]を成立させ、遅れていた農業の近代化に取り組んだ。この政策においても、利益団体との癒着が見られるようになる。 また、総理在任中に行われた[[朝日新聞社]]の世論調査においては、鳩山内閣から宮澤内閣までの全自民党政権を通じ、唯一内閣支持率が内閣不支持率を下回った事がなかった<ref>{{Cite book|和書|title=戦後政治史 第四版|date=2021年3月|year=2021|publisher=岩波新書|page=96}}なお短期の総理在任で、1度しか世論調査が行われていない石橋内閣を除く</ref>。 === 退陣、死去 === [[画像:Grave of Hayato Ikeda.jpg|240px|thumb|池田の墓]] [[1964年]][[9月9日]]、[[国立がんセンター]]へ[[喉頭癌]]の治療のため入院した。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。政治家、とりわけ首相や実力者が病に倒れた場合には政局変動の要因になるため、その病状がひた隠しされることが通例と言われる。池田の場合も池田派の側近議員らが癌であることをひた隠し通した上で、任期を残して退陣する演出を行った{{Sfn|読売新聞社|1985|pp=119-132}}。[[1964年東京オリンピックの閉会式|東京オリンピック閉会式]]翌日の[[10月25日]]に退陣を表明、自民党内での後継総裁選びの調整を見守った上で[[11月9日]]の[[議員総会]]にて[[佐藤栄作]]を後継総裁として指名した([[池田裁定]])<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-watanabe/25263/ 五輪が終わると退陣する日本の首相 | ニュースのフリマ]{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK28014_Y1A121C1000000/ |title=池田政権の幕引きを仕切る 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎 (4) |date=2011-12-04 |accessdate=2016-02-08 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref><ref group="注釈">佐藤を「指名」したと言われていることについて、[[渡邉恒雄]](当時、[[読売新聞東京本社|読売新聞社]]記者)は自伝『天人天職』のインタビューの中で「[[抗がん剤]]の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか」と回想している。ただし、池田は、この際に放射線照射による治療を受けているが、抗がん剤の投与は受けておらず、かつ、佐藤への後継指名は、池田が副総裁[[川島正次郎]]と幹事長[[三木武夫]]に自民党内の意向を調整するよう指示した上で行われており、この話の信憑性は薄い。[[細川隆元]]は著書で、細川の[[第五高等学校 (旧制)|五高]]の1年後輩で、池田と佐藤の同級でもある朝日新聞の佐藤弥(わたる)が池田と面会し、池田から「川島副総裁にも三木幹事長にも言っていないが、佐藤に伝えて欲しい。(1)自分の政策をそのまま踏襲するという声明を出す、(2)来年([[第7回参議院議員通常選挙|1965年7月の参院選]])まで大臣を一人も変えない、(3)おれが河野と手を組んだように、これから河野と手を組んでやってもらいたい、この三つの条件を飲むなら佐藤に譲る。飲まないなら河野に渡す」と言われ、すぐに佐藤に伝えるとやはり(3)に難色を示したものの、結局この条件を佐藤が飲み、池田が佐藤を後継に決めたと書いている(細川隆元『男でござる 暴れん坊一代記 龍の巻』、山手書房、194−200頁)。</ref>。後継総裁選びを、退陣予定の総裁の指名に委ねた戦前・戦後を通じて最初のケースであった<ref group="注釈">ただし[[石橋内閣]]は病気で倒れた首相が[[岸信介]]を[[内閣総理大臣臨時代理]]に任命した後に総辞職し、岸は[[内閣総理大臣指名選挙|内閣首班指名]]を受けて[[第1次岸内閣]]を発足させた後に自民党総裁に選出されており、実質的には石橋が岸を後継指名している。池田以後には、[[中曽根裁定]]、[[竹下裁定]]がある。</ref>。 その後療養に努めたが、1965年7月16日の検診で癌が広範囲に転移していることが判明<ref name="池田政権の幕引きを仕切る">{{Cite web|和書|title=池田政権の幕引きを仕切る |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK28014_Y1A121C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2011-12-04 |access-date=2022-04-30 |language=ja}}</ref>、7月29日[[東京大学医学部附属病院|東大病院]]に入院。がんは食道、肺に転移している状態だった。8月4日手術をしたが手術後肺炎を起こし[[1965年]][[8月13日]]12時25分に死去した。享年65。なお、葬儀は自民党葬で執り行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15356795.html|title=異例国葬、党内に配慮 全額国費、首相は正当性強調:朝日新聞デジタル|newspaper=朝日新聞|date=2022-07-15}}</ref>。墓所は[[青山霊園]]。 == 評価 == === 経済重視の姿勢 === 池田以前の戦後の保守政党出身の歴代首相の関心はもっぱら独立と戦後処理の外交で、吉田内閣は[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|講和独立]]、鳩山内閣は[[日ソ国交回復]]、岸内閣は[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保改定]]と、歴代内閣はいずれもハイポリティックスのレベルで大きな課題を処理してきた。それが左派勢力から「[[逆コース]]」と批判を受け、1960年の安保闘争で頂点に達した<ref name="shugiin2005518" /><ref name="asahi20151024">[http://www.asahi.com/articles/ASHBS639FHBSUTFK00F.html 「池田元首相は未来見通す政策持ち実行」 自民・岸田氏 朝日新聞デジタル]</ref>{{Sfn|藤井|pp=229-234}}{{Sfn|沢木|pp=19-20}}。一方で、内政面での政策はほぼ[[日本の行政機関|各省]]の立案に頼っており{{Sfn|天川|御厨|牧原|2007|pp=117-121,144-146}}、経済政策を全面に押し出す首相はいなかった{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}<ref name="diamond76354">蔭山克秀『やりなおす戦後史』107-116頁 ([http://diamond.jp/articles/-/76354 今、戦後史から知っておきたい日本を「経済の国」へと変えた男 ダイヤモンド・オンライン]、[http://diamond.jp/articles/-/76354?page=2 page=2]、[http://diamond.jp/articles/-/76354?page=3 page=3])</ref>。池田は、吉田内閣では大蔵大臣として外交に傾注する吉田に代わり経済政策を主導したが、岸内閣ではハイポリティックスの安保改定を特に強硬に主張していた。政権発足当初は池田内閣は"岸亜流内閣"というのが世間一般の見方で{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=187-188}}、政治・軍事を中心とする外交の課題を前面に押し出してくると考えられていた{{Sfn|藤井|pp=229-234}}。 政権発足時に秘書の[[伊藤昌哉]]が「総理になったら何をなさいますか」と尋ねると、池田は「経済政策しかないじゃないか。所得倍増でいくんだ」と答えたが<ref name="detail496">[http://taishu.jp/2302.php 歴代宰相と徹底比較 安倍晋三「総理の器」大検証 vol.1 - デジタル大衆]</ref>{{Sfn|藤井|pp=229-234}}、伊藤は池田が本気で「所得倍増計画」に取り組むとは思っていなかった{{Sfn|藤井|pp=229-234}}。側近の[[前尾繁三郎]]も大平も宮澤も反対した{{Sfn|藤井|pp=229-234}}{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。財界も池田は切り札だから、安保のような状態で泥まみれにして殺してしまうのはまずいと考えていた{{Sfn|証言上|pp=61-70}}。池田が額面通りに経済政策を推し進め、徹底した岸の裏返しに出てくるとは、誰も信じていなかったのである{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=187-188}}。しかし池田は「火中の栗を拾う。これで駄目でも結構だ」と腹をくくった{{Sfn|証言上|pp=61-70}}。また「国民の人心を一新するためには経済政策しかない」との強い使命感を抱いていた{{Sfn|池上|pp=6-9}}。とかく「ゼニカネのこと」を軽視、蔑視しがちだった、それまでの政治指導者とは、ひと味違った政治目標を掲げたといえる{{Sfn|朝日新聞社|p=116}}。 しかし、当時国民を広く覆っていた経済観では、この難局を経済重視で乗り切れると想像することは難しかった{{Sfn|藤井|pp=229-234}}。貿易自由化を進めて日本を重化学工業の国として高度成長させると提唱しても、当時は日本が欧米先進国に伍して、世界市場で競争しようとするなどということは無謀だと思われていた{{Sfn|俵|pp=30-42}}。貿易自由化などは日本市場をいたずらに欧米製品の餌食にするだけで、資本力の弱い日本の産業はすべて欧米の巨大資本に踏み潰され、下請けの部品メーカーになって生き延びられれば上出来などと論じられていた{{Sfn|俵|pp=30-42}}。精密な軽工業製品・酪農・観光で生きる"東洋のスイス"という、敗戦直後に社会党首班の[[片山内閣|片山哲内閣]]が描いたヴィジョンは、まだ根強く生き残っていた{{Sfn|俵|pp=30-42}}。伊藤はこの経済観の転換について、「池田という人は経済を中心に政権に近づいたのですが、政治家と財政家がひとつである、という珍しいケースです。普通この両方は兼備しないものです。ケンカは好きですね。うまいですよ。政治的判断は素晴らしいものがありました。一旦決めたら動かない。それまでは柔軟な姿勢ですがね。あの激動期に頼りになる、それが経済の面でも現れる、財界人でも政界人にもファンができるわけです。『所得倍増政策』を成功させたものは、下村の理論と勉強会と池田の鋭いカンです。政治の上に経済学的な科学性を導入した。それまでの政治はいわば腹芸だった。この科学的な政策によって、池田が革命期とも激動期ともいえる一時代を開き得た。あの頃"所得倍増"なんて誰も信じてませんでしたよ」{{Sfn|GC昭和史|pp=46-49}}、「いちばん重要なことはオリエンテイションです。こっちへ行けばいいんだと示した点で、池田は大変大きな仕事をしたと思います。そのことから外交問題を解決する経済力が出てくるわけです。池田は経済合理主義という形で政治というものを変えた。これはそれまでの政治には全然なかったと思います」などと述べている{{Sfn|証言上|pp=61-70}}。[[萩原延壽]]は「池田内閣の経済優先主義は、統治技術という点からみても、極めて巧妙なものであった。政治の分野における低姿勢にもかかわらず、経済の分野においては、極めて強気な態度をとり続けた。池田は1964年(政権最終年)元日の日経新聞の年頭所感で『日本経済の西欧水準への到達は、かつては遠い将来の夢に過ぎなかったが、今日では"倍増計画"最終年次からほど遠くない時期の可能性の問題に変わりつつある。[[明治維新]]以来の日本経済百年の歩みの中で解決できなかったことを、われわれはいま解決しようとしているのである』などと述べた。西欧水準への到達ということをもって、近代日本の歴史に於ける[[ライトモティーフ]]だと考えるならば、池田内閣は、明治維新以来の日本の"進歩的伝統"を継承する正統な[[嫡男|嫡子]]であった」と評している{{Sfn|萩原|pp=83-95}}。 また、池田の経済政策全体につけられた[[命名|ネーミング]]「所得倍増計画」も、目標がそのまま名づけられた、史上最も明快な経済政策と映った{{Sfn|御厨|p=136}}。「所得倍増計画」は、戦後の首相が掲げた[[スローガン]]の中で、最も分かりやすく、かつ説得力もあった<ref name="sankeiw120905">{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120905/wlf12090512340005-n1.htm |title=【浪速風】 同じ「倍増」でも支持は得られない |date=2012-03-31 |accessdate=2016-04-01 |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産経新聞ニュース|MSN産経ニュース]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120905182414/http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120905/wlf12090512340005-n1.htm |archivedate=2012-09-05}}</ref>{{Sfn|東京新聞|p=58}}。この呼称について、「日本は自由主義経済の国。所得倍増計画の"計画"という言葉は不適当では。別の言い方に変えた方がいいと思います」と大平が進言すると池田は「何を言うか。"計画"と謳うから国民は付いてくるんだ。外すわけにはいかん」と一蹴した{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。[[武田晴人]]は「"所得倍増計画"という巧みな[[修辞学|レトリック]]によって、民間企業の投資行動の背中を押すとともに、経済諸政策の立案の焦点を明確化し、高成長の実現を目標として、これを前提として創造的な活動を次々生み出すこととなった」と評している{{Sfn|武田|p=8}}。[[黒金泰美]]は「"所得倍増計画"というのは空前絶後の選挙用スローガンだった。あの言葉を聞いただけで、なんだかみんな金持ちになれるような気になってしまう。とにかく明るい感じにさせる力がありました」と述べている{{Sfn|沢木|p=26}}。[[橋本治]]は「"所得倍増計画"という、えげつない名前の政策は"新時代の始まり"だった。戦後という貧乏を克服し、その後に訪れる"新しい時代"の素晴らしさを語ろうとする時、"月給が倍になる"は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ」と述べている{{Sfn|20世紀の記憶|p=17}}。池田はそれまでの内閣が必ずしも明示しなかった[[資本主義]]と[[社会主義]]の優劣を政治争点として改めて国民に突きつけ、その選択を迫ったのであるが<ref name="doshisha1428">田辺宏太郎、「[https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000001427 池田・ケネディ会談の意義: 国内経済体制の再編と経済外交]」 『同志社アメリカ研究』 2002年 38号 p.75-86, {{doi|10.14988/pa.2017.0000001427}}, 同志社大学アメリカ研究所</ref>{{Sfn|藤井|pp=229-234}}、池田の「所得倍増計画」は肩肘張ったイデオロギー的な議論の対象としてではなく、さしたる抵抗もなく、あっさりと国民の間に浸透した{{Sfn|藤井|pp=229-234}}<ref name="asai20100731" />。官僚をはじめ民間企業の経営者や労働者たちの気持ちが"成長マインド"に移行した{{Sfn|石川|pp=98-99}}。 池田は国民の政治観をも転換させた。池田はそれ以前の首相と異なり戦前に政治活動歴がなく、敗戦後に政界に入った政治家としては最初の首相であるが、池田は「所得倍増論」を提起することによって、経済成長中心の「戦後型政治」を国民に提示した{{Sfn|朝日新聞社|p=116}}<ref name="asai20100731">[https://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2010/338.html 21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ 「中国的民主」についての所感]</ref>。[[藤井信幸]]は「岸は新安保条約の強行採択で国家と国民の間に対立を生んだが、池田は所得倍増という民間に自由にやらせる開放的な経済政策を打ち出すことで国家と国民を結びつけることに成功しました。強兵なき富国を実現する最善のシステムは資本主義だという思いとともに、戦時を過ごしてきたことからくる『やり返すんだ』という[[ルサンチマン]]もあったと思います」と述べている<ref name="sunmai20150208">{{Cite journal|和書 |title=〔一億人の戦後史〕「日本初の総合週刊誌」だから書ける 終戦70年特別企画 昭和30年代編(2) |journal=[[サンデー毎日]] |chapter=所得倍増計画 米国のルサンチマンが池田勇人を『月給2倍』に駆り立てた |publisher=[[毎日新聞出版]] |url=http://mainichibooks.com/sundaymainichi/backnumber/2015/02/08/ |date=2015-02-08 |pages=17-18}}</ref>。萩原延壽は「とりわけ対立するエネルギーが灼熱し、激突した安保闘争のあとであっただけに、言い換えれば、高度に政治的な季節のあとに訪れる"政治"についての倦怠感や疲労感を味わっていたときだけに、池田内閣が"国民所得倍増計画"において提供した"豊かな生活"というイメージは、いっそう新鮮なものとして国民の眼に映ったに違いない」などと述べている{{Sfn|萩原|pp=83-95}}。池田は独自のブレーンによって政策を構想し、政権に就任するとそれを実行するスタイルを初めて明確にした{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}<ref>[http://blogos.com/article/53205/ 安倍晋三首相は、「危機突破」政策で、どんな国づくりをするのか、「国家ビジョン」が定かでない]</ref>。誰にでもわかる数字を駆使したことと、池田とそのブレーンたちの演出も効果的だった{{Sfn|藤井|pp=229-234}}。[[高度経済成長]]は、[[1950年代]]後半から始まっていたが、ここに分かりやすい目標を得たことで一段と活気づいた{{Sfn|読売新聞社|2012|pp=235-243}}。政府が強気な成長見通しを明確に示したことで、民間企業は投資を拡大し、現実の高度成長を呼んだのである{{Sfn|読売新聞社|2012|pp=235-243}}。池田内閣は、「政治の季節」から「経済の季節」にギアを切り替えた、戦後史の重大な局面転換であった<ref name="asai20100731" />{{Sfn|朝日新聞社|p=116}}{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}{{Sfn|藤井|pp=229-234}}。「所得倍増政策」は、のちに宮澤が「結果として日本は非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」と解説したように、[[日米安保条約]]に経済成長の手段という役割を与えることになった。いわゆる「安保効用論」は、安保条約体制も結局は豊かさの追求に従属するものだという安心感を誘い、安保に同意する人々の数を増やす効果を生んだ{{Sfn|石川|pp=98-99}}。[[御厨貴]]は「安保闘争の後、池田は『所得倍増』をスローガンに経済成長を唱え、それに続く佐藤の長期政権で"富国民"路線が定着した。吉田の弟子で後に首相となる池田勇人、佐藤栄作の二人によって再軍備の問題はほぼ棚上げになった。日米安保体制の下で、自由な市場経済を守り通してきたことは、自民党の功績」{{Sfn|橋本|pp=257-258}}、「あのままいけば自民党も危なかったかもしれないけれど池田勇人政権で変わった。池田・佐藤で12年以上、2人のおかげで自民党は10年で終わるはずが60年も続いた」などと述べている<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/98990?page=2 TKO木本、御厨先生に「自民党の正体」を学ぶ - 東洋経済オンライン] page=2</ref>。 [[安保闘争#60年安保|60年安保]]で高揚した「反体制」「反政府」のエネルギーは、池田内閣のさまざまな施策の前に、なし崩し的に拡散した{{Sfn|沢木|pp=19-20}}。「反体制」の闘争が最も激しかった6月から、まだ半年ほどしか経っていない1960年12月、反対運動の理論的支柱の一人と目されていた[[法政大学]][[准教授|助教授]]・[[松下圭一]]は『[[朝日ジャーナル]]』に「安保直後の政治状況」という論文を書き「池田内閣は"安保から経済成長へと完全に政治気流のチェンジオブペースをやってのけたかのごとき観"がある」と、ある種の無念さを込めて記した{{Sfn|沢木|pp=19-20}}。日本中が[[左翼]]のようになり、インテリは早く[[共産主義革命]]が起きて欲しいと考えていたような時代に、池田が混乱した社会を安定化させようと「所得倍増計画」のような、資本主義のままで年収を二倍にするという政策を打ち出して、本当にそれが実現してしまったので、革命前夜みたいな状況がリアルな革命運動に向かっていかなかったとも論じられる{{Sfn|芹沢|荻上|飯田|岡田|赤木|湯浅|pp=63-65}}。[[池上彰]]は1960年の安保闘争最中でさえ、[[第29回衆議院議員総選挙]]で池田率いる自民党が圧勝したことからマスコミと当時珍しかった大学生、一部のインテリ・学生以外は、今のように左派の主張に賛同していたわけではなかったと当時の多数派と左派との認識の乖離の存在を述べている<ref>「池上彰と学ぶ日本の総理第3号 池田勇人」池上彰 p15</ref>。[[高畠通敏]]は「池田内閣が安保の教訓を踏まえながら[[保守政党|保守党]]の新しい路線として、戦前への[[逆コース]]の夢を捨てる。[[憲法改正論議|憲法改正]]をあきらめ、戦後の新しい現実に即して[[マイホーム主義|マイホーム]]という形での私生活解放を認め、その上に立つ繁栄と成長としての自民党という路線を打ち出す。私はそのとき、国内における戦後は、基本的に終わったと思います。そこから戦後のあとの時代が始まった。また60年安保を支えた戦後革新勢力の分解も始まった。池田路線は戦前的な体質を持った佐藤内閣でも実質的には継承された。つまり60年代を通じて持続されたわけですが、その中で国民の私生活の解放、欲望の肯定を経済大国の形成へ編成しなおしていった。戦後民主主義は圧力民主主義に、平和主義はマイホームの平和へと風化し、労働運動は[[春闘]]の儀式として収斂する。60年代の運動を支えてきた民衆はその中に巻き込まれて分解していった。池田内閣の路線転換に沿って60年代に発展した知識人の特徴的な政治思想は現実主義でした」などと主張している<ref>{{Cite book|和書|author=高畠通敏|authorlink=高畠通敏|title=討論・戦後日本の政治思想|publisher=[[三一書房]]|year=1977|isbn=|pages=80-81}}</ref>。池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済を[[自己同一性|アイデンティティー]]にすべきという明確な[[ビジョン]]を持っていたと主張している<ref name="diamond76354"/>{{Sfn|藤井|pp=229-234}}<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20110904_29535.html 戦後 グランドビジョン持っていた総理は池田勇人と田中角栄]、[http://president.jp/articles/-/16894?page=4 「骨のない記者、政治家に喝!」花田紀凱編集長×飯島勲 60分対談 - PRESIDENT Online]</ref>。しかし、秘書の伊藤は池田が首相として諸外国での経験から今の経済規模の日本に軍隊があれば国際的地位はこんなものではないと述べていて、再軍備自体に賛同する内心が池田にあったことを回顧している{{Sfn|伊藤|p=145}}。政治から経済成長への"チェンジオブペース"を見事に演出した池田は、日本の経済成長が、日米安保の存在により軽軍備に抑えられていたからこそ可能になったという「日米安保効用論」を打ち出すことによって、安保の問題を経済成長に取り込んだ{{Sfn|鈴木|pp=9-16}}。 また、社会福祉の増進や農業政策にかなりの予算を振り向けた。それらは個々には批判の余地のあるものであったとしても、やはり強烈な政府指導がそこにあったといえる{{Sfn|石川|pp=98-99}}。[[内田健三]]は「池田政権こそは、古典的な保守政治支配の方式に、はじめて"[[管理]]"の[[概念]]を導入した政権だった」と論じている{{Sfn|内田|p=173}}。 === 外交面での評価 === [[ファイル:JFKWHP-KN-C18092.jpg|thumb|212px|left|池田・[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]会談([[1961年]][[6月20日]])]] 池田は外交面においても、その後の日本を形作った<ref name="yawata201506" />{{Sfn|八幡|pp=276-279}}。また、[[ドッジ・ライン]]、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]・[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安保]]の下交渉を経て、[[池田・ロバートソン会談]]、池田・ケネディ会談まで、池田は今日の日米体制を作った最大の[[キーパーソン]]でもある{{Sfn|小林|pp=92-95}}。 フランスの[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]][[共和国大統領 (フランス)|大統領]]から「トランジスタのセールスマン」と揶揄されたとする逸話が有名であるが<ref name="yawata201506" />{{Sfn|池上|p=5,30,33}}<ref name="abe20130517">{{Cite web|和書|url=http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0517speech.html|accessdate = 2016-02-29 |title=平成25年5月17日 安倍総理「成長戦略第2弾スピーチ」(日本アカデメイア) |publisher=[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130520200012/http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0517speech.html |archivedate=2013-05-20}}</ref><ref>[https://gendai.media/articles/-/1424?page=2 菅首相は「トランジスタラジオのセールスマン」池田勇人の気概を持て | 現代ビジネス]</ref>、これは池田が[[ソニー]]の最新の[[トランジスタラジオ]]を首脳会談で売り込んだことで、ド・ゴールが側近にそう漏らしたと反ド・ゴール派の『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』が記事にしたものが日本の新聞に紹介され有名になったもので{{Sfn|伊藤|pp=184-195}}{{Sfn|保阪|pp=109-110}}、池田の帰国後、日本で大騒ぎになり、多くの日本人は嫌な思いをした{{Sfn|八幡|pp=276-279}}。しかし池田は「会談の内容を知りもしないで、何を言うか」と一蹴しており、また『フィガロ』は[[ジョン・F・ケネディ]]を「鶏肉のセールスマン」と評したこともあり、日本や池田のみが槍玉に上げられたわけではない{{Sfn|伊藤|p=187}}。[[八幡和郎]]は「当時は首脳が経済について語ることが珍しかったためにド・ゴールも意外に思ったもので、その後同じフランスの[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカール・デスタン]]大統領は、経済を主題にした[[主要国首脳会議|サミット]](先進国首脳会議)を始めて日本をメンバーにしてくれたし、[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]]や[[ジャック・シラク|シラク]]は"[[エアバス]]のセールスマン"として何機売ったかを海外訪問の成果として誇った。経済外交重視は世界的にみてもその後の大きな流れになったことから、池田は世界の外交史の中で先駆者であり、世界史的偉人である」と評価している<ref name="yawata201506" />{{Sfn|八幡|pp=276-279}}。池田の経済優先の発想は今日まで続いており<ref name="ironna771">[http://ironna.jp/article/771 なぜ「高度成長」の考察が重要なのか] iRONNA</ref>、日本が経済大国を実現できたのも「[[吉田ドクトリン]]」というよりも「池田ドクトリン」の所産ともいわれる<ref name="李炯喆" />。1965年、愛弟子・池田の逝去の報を受け、吉田茂は「今日の繁栄は池田君に負うことが多かった」と呟いたといわれる<ref name="bs-asahi032"/>。[[下村治]]は、池田死去翌日の[[日本経済新聞|日経新聞]]に追悼文を寄せ「池田勇人が果した歴史的な役割は、日本人が内に秘めていた創造力、建設力を『成長政策』という手段によって引き出し、開花させたことである」と記した{{Sfn|読売新聞社|2012|pp=235-243}}。 === 戦後日本体制の確立 === 池田は[[ドッジ・ライン]]以来の念願の国内経済産業体制の再編と自由化を、まさに"一内閣一仕事"でやり遂げた<ref name="doshisha1428"/>。池田内閣以後の自民党政権による政治・外交運営は、池田が築いた国内安定と国際的地位を基盤として展開された{{Sfn|萩原|pp=114-122}}{{Sfn|苅谷|pp=21-46}}{{Sfn|鈴木|pp=202-203}}。憲法改正を事実上棚上げにし、経済成長と豊かさの追求を最優先したからこそ、池田以降の自民党政権は、それなりに戦後的価値観を共有し、長期政権を維持できたのである{{Sfn|苅谷|pp=21-46}}。池田は戦後日本の原型を、国内経済政策面でも経済外交面でも創り上げたといえる<ref name="doshisha1428"/>{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=196、200-203}}。高度経済成長は、池田の経済政策を踏襲した佐藤内閣の時期に最盛期を迎えるが{{Sfn|藤井|pp=277-282}}<ref name="花村163">{{Cite book|和書 |author=花村仁八郎|authorlink=花村仁八郎 |title=政財界パイプ役半生記 -経団連外史- |publisher=東京新聞出版局 |year=1990 |isbn=4-8083-0378-7 |pages=163-166}}</ref>、佐藤政権も池田政権という大きな括弧の中に入るともいわれる{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=196、200-203}}。その佐藤も池田同様引退後まもなく死去する。両者は[[1970年代]]の田中角栄や福田赳夫が[[1980年代]]にも穏然たる影響力を持ったのとは対照的である{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}。高度経済成長とともに敗戦と占領の残滓を最終的に清算したのが池田と佐藤といえる{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}<ref name="nw228212">[https://news.nicovideo.jp/watch/nw228212 "引退"直前の政治評論家・三宅久之氏がニコ生に初出演 「国会の野次はユーモアのかけらもない」 全文書き起こし<前編>]</ref>。池田と佐藤の時代に自民党政権は安定の中で成熟を遂げた<ref name="jimin">{{Cite web|和書|url=http://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100351.html |accessdate=2016-02-08 |title=第4代 池田 勇人 歴代総裁 党のあゆみ 自民党について |publisher=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111227124739/http://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100351.html |archivedate=2014-01-27}}</ref>。東京オリンピックと[[日本万国博覧会|大阪万博]]による[[都市圏|大都市圏]]の開発、[[公共事業]]を通じた国土・列島の整備によって自民党は[[包括政党]]の道を進めていく{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}。「[[55年体制]]」は成立こそ1955年であったものの、その確立は1960年代前半の池田内閣にあった{{Sfn|鈴木|pp=2-8}}{{Sfn|田中|pp=128-132}}。日本の国内政治の基本的な枠組みを作り上げたのが池田であった{{Sfn|鈴木|pp=2-8}}{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=196,200-203}}。この戦略は、田中角栄、大平正芳、[[鈴木善幸]]、[[中曽根康弘]]ら、その後の内閣にも担われることになる<ref name="eda30100">[http://www.eda-jp.com/saburou/30-100/3-4.html 戦後政治における江田三郎 構造改革論争と《党近代化》(松下圭一)]</ref><ref name="webronzayamaguti">[http://webronza.asahi.com/politics/articles/2016030700005.html 立憲デモクラシー講座・山口二郎教授「1」 - 山口二郎|WEBRONZA]、[http://webronza.asahi.com/politics/articles/2016030700007.html 立憲デモクラシー講座「2」]</ref>{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}{{Sfn|池上|pp=6-9}}<ref name="kurayama153">[http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=153 大学では教えられない歴史講義 : 亡国前夜(5) ―恐怖の超権力者]</ref><ref>[http://www.jalisa.info/kikanshi/k_158/158_002_02.html 東京裁判とニュルンベルグ原則 - 日本国際法律家協会 根本孔衛]</ref>。「池田時代に、経済発展を国家目標の中心に置いた政治が始まった。田中角栄はその子である」{{Sfn|藤井|pp=277-282}}、「田中の『[[日本列島改造論]]』は池田の『所得倍増計画』の延長線上にある」{{Sfn|藤井|pp=277-282}}、「『日本列島改造論』は『所得倍増計画』の地方版」{{Sfn|小林|pp=1-3}}<ref name="ironna771"/>、「『日本列島改造論』や[[小泉純一郎]]の『[[骨太の方針]]』も、いわば池田の政治手法にあやかったもの{{Sfn|菊池|pp=139-143}}、池田の後に登場した政権の大半は[[イデオロギー]]なしの、無定見な高度成長を追い求めていた」などと評される<ref name="chuokoron201109"/>{{Sfn|藤井|pp=277-282}}<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20130619_194686.html 首相表明所得150万円増は意味なし 目標の名目成長率を示せ]</ref>。経済成長による社会の多様化は、自民党内に於いては党内派閥の分散化にとどまり、野党の方が多党化していくことで、自民党支配を維持させていくことになった{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}{{Sfn|古川|pp=22-29}}。[[田中浩 (政治学者)|田中浩]]は「池田内閣登場以後、日本政治は、ほとんど"事なかれ主義"を旨とする安全運転、無風状態が続き、[[保守]]の安定化([[資本主義]]体制確立化)の道をたどっている」と論じている{{Sfn|田中浩|pp=133-138}}。この時期に[[派閥|派閥政治]]が確立し{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}、[[国務大臣|閣僚]]や国会、党内での主要役職を当選回数によって配分する制度化も進み、議員の個人後援会が普及し、二世議員が増えていく{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}。[[宏池会]]の後輩・[[古賀誠]](第7代会長)は池田を「政治家として今の自民党の基礎を確立させた人」と評している<ref name="bs-asahi032"/>。 === 新たな政治スタイルの創出 === 自民党がこのように全く違った個性を持つ「総理・総裁」を起用して、国民の批判をかわす「振り子」の手法は、金権批判の[[田中角栄]]からクリーンイメージの[[三木武夫]]へバトンタッチした時にも使われ、自民党が長期政権を維持したカギの一つといえる{{Sfn|朝日新聞社|p=116}}<ref name="blogos100322">[http://blogos.com/article/100322/ 衆議院選挙の公示に寄せて:「60年安保+所得倍増計画」の一人二役の限界. 六辻彰二]</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20150125_3.html |title=社説 - 格差社会 |date=2015-01-25 |accessdate=2016-04-11 |newspaper=[[京都新聞]] |publisher=京都新聞社}}</ref>。池田は発言でも舌禍事件を何度も引き起こすなど、歴代首相の話題性ナンバーワンだった{{Sfn|東京新聞|p=58}}。官僚臭を感じさせない、[[庶民]]的でガラガラ声の[[キャラクター]]も、安保改定で騒然となった世情を一変させることに役立った{{Sfn|東京新聞|p=58}}。池田は[[テレビ]]を利用して政策をアピールした最初の首相でもあった<ref name="bs-asahi032"/>{{Sfn|佐藤|pp=221-222}}。国民の関心がもっぱら生活水準の向上に移っていた頃合いを見逃さなかったともいえる{{Sfn|渡邉恒雄|2000|pp=183-186}}。池田は政治を生活の延長にある[[祭|祝祭空間]]と見て、その[[演出]]を試みる[[演出家]]だったとも評される{{Sfn|天川|御厨|牧原|pp=117-121,144-146}}。池田は首相就任後の[[予算委員会#委員|参議院予算委員会]]において、所得を2倍にするのではなく、2倍になるような環境を作るのだと答弁した。すなわち経済の成長は国民自身の努力によって実現するものであり、政府の任務は、かかる成長実現への努力を円滑に働かすことのできる環境と条件を整備することにあると明言した。池田の最大の功績は、日本の国民に自信を与え、すすむべき方向を示したこととも評される{{Sfn|藤井|pp=236-241}}。「敗戦国」から高度成長を進め「経済大国」「先進国」に変貌していった日本に、そして日本国民の[[ナショナリズム]]に居場所を与えた{{Sfn|鈴木|pp=202-203}}。[[森田実]]は「ケネディが日本に対しても干渉する考え方を取らなかったため、高度経済成長路線を打ち出した池田内閣の時期が(アメリカの支配を受けない)戦後日本で一番自立していた時期だった」と述べている<ref name="morita2006">{{Cite book|和書 |title=アメリカの日本改造計画 マスコミが書けない「日米論」 |series=East Press nonfiction 6 |chapter=[[森田実]]「『日本独立』気概は、どこで失われたのか?」 |publisher=[[イースト・プレス]] |date=2006-12|pages=82-95 |isbn=978-4-87257-744-0}}</ref>。 === その他の論評 === * [[宮澤喜一]]は「池田さんは占領時代にインフレから日本を救う過程で身につけた[[自由主義]]的[[市場経済]]の信念に加えて、[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]の[[乗数効果|乗数理論]]を具体化して、投資→雇用・所得・消費→投資の循環と拡大を見事に日本経済の中に実現した」{{Sfn|吉村|p=前書き}}、「"所得倍増計画"というのは、[[ケインズ経済学|ケインズ理論]]を中心とした政策だが、日本の経済成長、工業化を通じて、完全雇用、高[[賃金]]になるという雰囲気をはっきり国民に植え付けて、政策的にそれを誘導したというのが、あの政策の値打ちでしょう。それが池田さんの功績だと思う。池田内閣の時、まさに日本が経済大国になる基礎ができた。戦争が終わって、[[引き揚げ#各地からの引き揚げ|外地から沢山の人が引き揚げてき]]、戦後の日本は深刻な失業問題を抱えていた。加えて日本は農業国だったし、この労働力が過剰にあったことが、日本の工業化ひいては所得倍増を可能にした」などと述べている{{Sfn|読売新聞社|1985|pp=95-105}}。 * [[伊藤昌哉]]は「池田が提唱した所得倍増計画は、多くの人びとを共感させ、自信をあたえ、日本の経済力を伸長させた。都市における鉱工業部門の所得の増加は、やがて各層に波及していった。農村の次、三男がぞくぞくと都市への移動を開始した。人手不足の声がではじめ、日本では完全雇用は永遠に不可能だという、漠然としたあきらめは徐々に消えていった。社会には明るい力がみなぎってきた。「これから前途は展開していく」と、人びとは思った。「日本は若い国だ」と、人びとは肌で感じた。三つの卵を五人でどう分配するかに狂奔するよりは、その五人で六つの卵をつくることに努力したほうがとくだと考えだした。」と述べている{{Sfn|伊藤|p=237}}。 * [[田中六助]]は「『国民所得倍増論』というのは、綿密な統計や数字に裏打ちされた政策体系であるが、その端緒を知る者としては、池田さんの意がどこにあったかが理解できる。すなわちそれは、戦後の復興が一段落し、新しい日本の行く道をどう考えるか、ということであり、それにはまず社会を繁栄させ、国民の生活を豊かにすることから始めるということである。それは池田さん自身の財政に対する反省でもあった。昭和30年頃の財政は約一兆円の規模だったが、池田さんは大蔵大臣として32年にそれを大きく突き破る一兆三百七十五億円という積極予算を組んだ。しかしその経験などから、国民に何でも与えるだけではだめだ、自分自身で稼ぎ出す所得を倍増する必要があるという思いが生まれたのであろう。『所得』とか『倍増』とか、あるいは詳細に計算された数字などに眩惑されると、経済至上主義とか、[[物質主義|物質万能主義]]のように見えてしまうが、その原点にはモノで測れない『心』があり、政治哲学としての目標があった」と解説している{{Sfn|田中六助|pp=134-135}}。 * [[前尾繁三郎]]は「池田さんの功績は、総理大臣自ら先頭に立って推進したということ。それまで経済問題というのは、非常に抽象的で一般に分かりにくい感じだった。その経済問題を正面から政治問題としてクローズアップさせ、総理自ら数字を使って説明したり論争した。彼は数字に対する記憶力がよかったから、朝書類を見て数字を覚え、それを使って説明するから非常に現実的な感じを与えた。1961年にも不況がきたけど、あの時も強い調子でやったので、国民に自信を持たせた」と語った{{Sfn|自民党広報|pp=165-181}}。 * [[水田三喜男]]は「経済を政治問題にして真正面から取り組んだということが池田さんの功績。経済計画というのは吉田さんのときから全部あるんですが、初めて池田さんが自分でマスターして、実行の先頭に立ったというのが特徴です。それまで総理自身がそういう形でやったことがなかったので、当時としては非常に国民に訴えるものがありました」などと述べている{{Sfn|自民党広報|pp=165-181}}。 * 池田は若い池田番記者たちに「キミたちが定年を迎えるころ(1985年頃)には、日本の自動車はきっと欧米の市場で歓迎されるようになる。キミたちは日本を過小評価しているが、これだけ勤勉で、これだけ平均的な教育レベルが高く、100年も200年も前から多くの分野で競って高度なことをこなしてきた国民はいない。これだけ優れた[[日本人]]を、うまく目標を示して動かすことができれば、必ず日本は欧米に追いつく。それが実証できれば他の[[アジア]]の国も続く。アジアがいっせいに集団で欧米を追いかける。それをするのは日本の政治家、アジアの政治家の使命だ」と繰り返し語ったという{{Sfn|俵|pp=30-42}}。記者たちは、こうして予算書を読んだり、経済統計に注目したりする、それまでにはいなかった政治記者のタイプを身につけていった。[[俵孝太郎]]は「池田の政治家として、一国の宰相としての[[予知|予知能力]]と政策的構想力に、舌を巻く思いを禁じえないのである」と述べている{{Sfn|俵|pp=30-42}}。 * [[高坂正堯]]は「『所得倍増計画』は驚くほどの成功をおさめ、国民が豊かな生活を求めて努力するという目ざましい状況が出現した。経済発展は国民の間に存在する唯一の[[合意形成|コンセンサス]]であった。経済の問題は計量可能なものが多いため、イデオロギーや価値の対立に煩わされることが最も少ない。言葉を換えれば、経済の問題は価値中立的な技術的な言葉で議論することができる(中略)おそらく1960年からの後の数年間は、二つの[[楽観主義]]によって特徴づけられる特異な時期として日本の歴史に残るかもしれない。すなわち、ひとつは経済は発展するものだという楽観主義であり、他のひとつは経済が発展すれば国民生活は幸福なものになるという楽観主義である(中略)池田が内政に対する考慮から経済中心主義をとり、説得の相手を国民としたことは、吉田が成し得なかった程度に、経済中心主義を国民の中に根付かせるという成果を生んだ。池田内閣以後、"[[実質経済成長率|経済成長率]]"や"[[国民所得]]"などの言葉は、日本人が政治を語るときの共通の言葉となった。その後の世界に於ける外交の基礎としての内政の重要性を考えるとき、池田の果たした重要性が理解されるであろう。吉田によって国家の政策として据えられた経済中心主義は池田によって定着した。それは日本の新しい国家理性となった(中略)池田は『所得倍増計画』を予想以上に成功させ、それによって、国際政治の中に於ける日本ではないにしても、国際経済の中に於ける日本の位置を確立した。そして急速な経済発展は日本人の自信を回復するのにも大いに役立った」などと論じている{{Sfn|高坂|pp=128-138}}。 * [[若田部昌澄]]は「『所得倍増計画』は、これまで日本が行った最大かつ最高の経営成長戦略であり、[[効率性|効率化]]政策と[[再配分|再分配]]政策をうまく組み合わせたもの。それが裁量的な計画・統制によるものではなかったことは、[[経済学]]的知見に一致している。それにより実現したのは、史上もっとも成功した[[構造改革]]([[産業構造]]の転換、[[生産性]]の向上、経営の[[近代化]])であり、[[二重構造]]と言われる[[経済的不平等|経済格差]]の縮小だった。池田にとって、経済成長はそれ自体が目的ではなかった。敗戦を経験した国民が"国としての誇り"を取り戻すための手段、それが池田にとっての経済成長だった」と論じている{{Sfn|若田部|pp=217-218}}。 * [[京極純一]]は「池田内閣は経済成長、所得倍増、月給二倍という[[国家|ナショナル]]・[[合意形成|コンセンサス]]を確立して安保騒動の混乱を収拾しました。外交、防衛、治安といった天下国家の問題ではなく、所得倍増という経済生活の問題で国民統合を実現したのは、日本の政治の画期的な転換でした。これからあと、日本の政治の中心問題は、高成長か低成長か、赤字財政か財政再建か、といった経済問題に集中します。それは経済[[テクノクラート]]主導型政治の開幕でもありました。こうして戦後[[議会|議会政治]]の上演するドラマのA、経済成長が定着しました。そして輸出主導型の経済成長にともなって[[国民総生産|GNP]]も大きくなり、それとともに財政規模も大きくなります。ここから、一方で財政という[[チャンネル|チャネル]]を使い、[[公共事業]]費、[[交付]]金、[[補助金]]を活用する、全国的な富と文明の分配が政治ドラマの主題Bとして成立します。『地元の面倒を見ることは職業政治家の仕事である』などの今日の政治常識が確立しました」などと論じている{{Sfn|中村|1993|pp=509-523}}。 * [[上前淳一郎]]は「日本の高度成長政策は、池田の自己改造のひとつの産物といえるかも知れない。ひたすら国民から税を取り立てることだけに熱心だった男が、いや、民にはまず与えるべきだと悟る。その結果、所得倍増という桁外れの贈り物ができるようになったのではなかったか(中略)高度成長政策は池田が政治生命を賭けた骨太な日本改造策だった。これほど具体的で、輝きに満ちた政策を引っ下げて登場した首相は、日本の政治史にほかにない。その結実を最後まで見届けずに氏は世を去ったが、もしあの時期に池田勇人を持たなかったら、日本はいまこれほどの成長と繁栄を謳歌していただろうか。むろん、当時の環境と条件の下では、放っておいても日本経済はかなりの成長を遂げたに違いない。しかし、その行方に明確な目標を掲げ、国民の知恵と力を結集して成長をより早く、より大きくしようとしたという意味で、池田勇人の存在は偉大であった」と評している{{Sfn|上前|pp=487-492}}。 * [[沢木耕太郎]]は「[[安保闘争|60年安保]]をめぐる社会的混乱は、[[保守合同]]後の保守が直面しなければならなかった最初で最大の"危機"だった。この"危機"の時代に総理大臣になった池田は、"所得倍増"という言葉が指し示す方向を明らかにすることで"危機"を逆に"蜜月"の時代に転じる離れ業を演じた。"所得倍増"という言葉自体は60年代の半ばを待たずして風化するが、それ以後も時代は依然として"所得倍増"の射程の中にあった。池田以後のどの保守政治家も"所得倍増"を超える現実的で力強い政治経済上の言葉を発見することができなかったのだ(中略)佐藤内閣の政治経済思想は、池田が1960年代前半に遺したものの無定見の"増補版"にすぎない。仮に佐藤栄作が無定見の増補版だったとすれば、田中角栄の"[[日本列島改造論]]"は"所得倍増"の壮大な"増補決定版"であったといえるかもしれない。もしかしたら池田の政治的[[嫡男|嫡子]]は、大平正芳でなく田中角栄だったのかもしれない。しかし田中角栄は遅すぎた、だから悲劇的な"決定版"だったといえる(中略)佐藤以降の権力者たちが、政治的シンボルとしての言葉を考えるとき、常に意識しなくてはならない存在は池田勇人であった」と述べた。 * それは池田時代から一貫して反池田の旗を振り続けてきた[[福田赳夫]]においても例外ではなく、『福田赳夫論』の編著者・佐藤雄一が、政権を手にする直前の福田に「保守にとって池田の政治こそ最高だったのではないだろうか。政策、ブレーン、政治姿勢、どれをとってもよかった。福田さんも池田さんから学ぶべきでないだろうか」と語りかけると福田は、ほんのわずかながら頷いたという。沢木はこの微かな肯定の中には、「保守単独政権の崩壊という60年安保以来の大きな"危機"に直面した福田の、かつてその"危機"を乗り切った政治家としての池田に対する、ある種の畏れのようなものが秘められていたのではなかったか」と論じている{{Sfn|沢木|pp=13-16}}。 * [[フランス]]『[[ル・モンド]]』は「池田は1960年代に於ける日本の[[反米]]エネルギーを経済問題に向かせることに成功した。池田の最大の功績は、日本国民に対して、日本は豊かな社会を実現できる能力を持っていることを教えたことではないか」<ref name="李炯喆" />{{Sfn|林|p=532}}、[[イギリス]]『[[タイムズ]]』は「池田の在任4年半に、日本経済の成し遂げた驚嘆すべき成功は、ひとえに池田の功績といわなくてはなるまい。世界の目に、日本の新しいイメージを植えつけた」と評した{{Sfn|林|p=532}}。 * [[チャルマーズ・ジョンソン]]は「池田は戦後日本経済の驚異を生んだ最大の功労者として記録されねばならない」と述べている{{Sfn|ジョンソン|pp=221-233}}。 * 『サンケイ新聞』元政治部長の[[吉村克己]]は「[[資源]]、[[エネルギー資源|エネルギー]]もない小さな四つの[[島国]]の国民に、やればできるの自信を持たせた功績は、やはり池田ならではのものだった」{{Sfn|小林|pp=238-242}}、「池田の政治的決断は、当時においては思い切った勇気を要する賭けであった(中略)10年後の現在振り返ってみるとき、このような池田的決断は見事な成功をおさめたということができる(中略)成功の主な原因は、やはり池田的構想が当時の日本経済の潜在的成長能力を正しくとらえた点にあると思われる。しかしそれと同時に、計画の発表やそれに対する池田内閣の強力な支持が、人々に成長を前提として行動するという習慣をつけさせたことも無視できない(中略)池田構想の術中に陥った日本経済は、事実的にも心理的にも高度成長の持続を前提とした体質をとるようになった」などと評している{{Sfn|村上|p=272}}。 * [[日本経済新聞社]]は「池田の"所得倍増計画"は、根拠も実現性もさだかでない最近のそれとは好対照の、本物の成長戦略だった」<ref name="nikkei20121014"/>、『[[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]]』は「池田内閣の4年半は、日本資本主義発達史上、一つの大きな画期であった。日本経済が先進国的な高度資本主義への急激な構造転換を加速した時期だったからである。戦後十指をこえる経済計画が立てられたが『国民所得倍増計画』ほど影響を持ったものはない」と評している{{Sfn|証言上|p=9}}。 * [[塩田潮]]は「池田は戦後復興から高度成長期にかけての日本経済を牽引した人。日本の病弊である官僚主導社会をも醸成しましたが、わが国に経済発展をもたらした功績は大きい」<ref name="zakzak20150607" />と評した。 * [[江坂彰]]は「"月給倍増"なら、その恩恵に与れるのは[[サラリーマン]]だけだと思う。しかし"所得倍増"という言葉は、小商工業者や農民にも配慮したスローガンであり、そこに国民全体が豊かになるのだという思想が感じられる。"所得倍増"という言葉の響きが格別によかった」{{Sfn|歴史街道|pp=32-37}}、「戦後強兵の道を捨て(あるいは捨てさせられて)経済の基盤固めに一点集中した池田の戦略は、最良の選択だったはずである。日本はよき敗者の道を、別に卑屈にもならず、驕りもせず、着実に歩んでいくことになった」{{Sfn|歴史街道|pp=32-37}}と評した。 * [[橋本五郎]]は「政権構想の戦後最大のヒットは、なんといっても池田内閣の『所得倍増計画』でしょう。政治的に行き詰まり、国民がどちらの方向を向いたらいいのか探しあぐねていたときに、生きる希望を与えられたといっても過言ではありません」<ref name="chuokoron201109">[http://www.chuokoron.jp/2011/09/post_100_3.html なぜ、「政権構想」はここまで空虚になったのか - 中央公論.jp]</ref>と評した。 * [[星浩]]は「これからはイデオロギーではなく、経済でいくという提示するタイミングが絶妙でした。『所得倍増』というのは具体的で魅力的で、みなが実現可能なスローガンに感じられたのです。そして実際に成し遂げられた」<ref name="chuokoron201109"/>と評した。 * [[飯尾潤]]は「池田は政策の優先順位を明確に変えようとした。しかも"安保"を捨てたわけではない。非常にしたたかな計算に基づいて政治の重心の転換を図ったところに大きな意義があります」<ref name="chuokoron201109"/>と評した。 * [[渡邉恒雄]]は「池田さんの経済政策が、現在の日本の繁栄を築いたことは間違いないでしょう。池田さん自身、ブレーンを使いながらも、自分自身で高度経済成長政策を考え、財政均衡を考えていたと思うよ(中略)池田さんは口癖のように『私は嘘を申しません』と言っていたけれど、本当に言ったことは守り、実行した人だった」などと評している{{Sfn|渡邉恒雄|2000|pp=183-186}}。 * 小林吉弥は池田を「第二次大戦後の敗戦経済、虚脱社会の真っ只中で政治家として登場し、日本経済の歴史的勃興期にあたって所得倍増政策を推進、絢爛の高度成長社会"経済大国日本"へのレールを敷くに至る、いわば日本経済革命というべきわが国史上初の歴史的実験の施行者」と表現している{{Sfn|小林|pp=1-3}}。 * [[中曽根康弘]]は、2008年9月3日付の[[読売新聞]]朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った[[福田康夫]]に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。 * [[1959年]][[12月3日]]、池田の[[還暦]]祝賀会が東京[[丸の内]]の[[東京會舘]]で開催されたが、これを主催したのが[[共同通信社|共同通信]]の和田清好、[[産経新聞]]の吉村克己、[[毎日新聞]]の土師二三生、[[日本経済新聞]]の[[田中六助]]で、発起人代表として[[板倉卓造]]、[[小汀利得]]、[[吉田秀雄]]、[[東畑精一]]が名を連ねた{{Sfn|吉村|pp=91-92}}。案内先は新聞、放送、出版と[[マスメディア]]に限り、出席者は400人近くにのぼった。池田の祝賀会であれば[[財界]]主体が通常だが、敢えて常識を破る試みであった。政界人のお祝いに、言論界の長老が発起人を引き受けたことも異例だった。吉田内閣以来、とくにマスメディアに不評だった池田の祝賀会にこれだけ集まったことは「岸政権後の池田本命」が世間一般の印象となる契機となり、マスメディアに認知されたことが、池田政権の発場する最大の要件となって生きた{{Sfn|吉村|pp=91-92}}。[[1950年代]]も終わろうとするこの還暦祝賀会の[[スピーチ]]で池田は「次にくる日本の10年間は、日本人が一度も味わったことのない豊かな時代になる。日本経済はかつてない飛躍的な成長を遂げるはずだ」と述べた<ref name="asahi20151024" />{{Sfn|塩田|2007|pp=48-49}}。日本が[[黄金時代#歴史用語としての用法|黄金時代]]を迎えようとしている時期に政権を握り、自分の手で「黄金の'60年代」をつくり出す場面を本気で胸に描いていた{{Sfn|塩田|2007|pp=48-49}}。池田の65年間の軌跡を振り返ると、地獄と天国を行き来するような浮き沈みの激しい人生だった。前半生と後半生はまるで彩りが異なり、前半は不運の悪魔に憑りつかれ、逆に後半は一転して幸運が舞い込み続ける人生航路だった{{Sfn|塩田|2007|pp=48-49}}。 * [[堺屋太一]]は、著書『日本を創った12人』で、[[聖徳太子]]、[[源頼朝]]、[[織田信長]]、[[徳川家康]]、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]、[[松下幸之助]]らとともに、唯一の政治家として池田勇人を挙げ、その理由として、「現在われわれが生きている戦後の日本を、経済大国へ導き、実績として[[経済成長]]の実現もさることながら『所得倍増計画』の策定によって『経済大国』を日本の理想に据えた点が最重要である」と述べている{{Sfn|堺屋|pp=152-153}}。負の遺産として「[[経済発展]]に貢献する一方、すべてに金銭が優先する[[価値観]]を生むことになり"金権体質社会"を作り出した。池田の果たした役割は、日本社会の[[理念]]と[[倫理学|倫理]]を決定する上で、歴代総理の中でも、最も大きかったのではないか、戦後の総理大臣としてよく取り上げられるのは、[[吉田茂]]、池田勇人、[[佐藤栄作]]、[[田中角栄]]の四人で、吉田茂が大きな存在だが、その重要な政治決定はほとんどが[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]、つまりマッカーサーから出ていた。それに比べて池田は、自らの発想と手腕で今日の日本人の心や生き方、あるいは日本の社会の在り方や動き方に大きな影響を残した」{{Sfn|堺屋|pp=152-153}}、「池田が総理大臣であったのは4年3ヵ月、吉田茂や佐藤栄作よりはずっと短い。しかし、この男の植え付けた経済優先思想と、それを実現する官僚主導の仕組みは、今日も揺るぎなく続いている」と述べている{{Sfn|堺屋|p=164}}。 * [[宮内義彦]]、[[八幡和郎]]は、池田を日本の歴代最高の総理大臣と評価している<ref>[http://jp.jnocnews.jp/news/show.aspx?id=54391 中国の若者は穏やかに、日本の若者はアグレッシブに 宮内義彦 オリックスグループ シニア・チェアマンに聞く]、[http://www.bsfuji.tv/primenews/text/old01/txt101222.html BSフジLIVE PRIME NEWS - BS FUJI 『歴代首相のNo.1は誰? 首相の資質を徹底検証』]</ref>。 * [[御厨貴]]は「戦後最も成功した首相は池田勇人。吉田茂の果実をうまく育てた。権力を行使していると見せずに行使した」と評している<ref>[http://www.47news.jp/47topics/postwar70/turning-point/post_20150407185648.html 戦争、震災、そして忘却 - 戦後70年 - 47NEWS(よんななニュース)]</ref>。 * [[片岡剛士]]、[[倉山満]]は、池田を戦後最高の総理大臣として推している<ref>[http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/02/20140221-1.html 荻上チキ・Session-22: 2014年02月21日(金)「戦後、最高の総理は誰だ!?」(わいわい→ランキングモード)]、[http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=137 大学では教えられない歴史講義 : 亡国前夜(1)ー「憲政の常道」を守った池田勇人 by kurayama - 憲政史研究者・倉山満の砦]</ref>。宇治敏彦は「いま呼び戻したい総理は、大平正芳、宮澤喜一ら、最高の側近がいた池田勇人」と述べている<ref>[http://magazinehaniwa.blog70.fc2.com/blog-entry-26.html いま呼び戻したい歴代首相はだれ? 宇治敏彦 - 雑誌「埴輪」]、[http://www.jnpc.or.jp/files/2016/01/jnpc-b-201601.pdf 2016年1月号 | 会報 | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)] -6頁</ref>。八幡和郎は、著書『本当は偉くない?世界の歴史人物 : 世界史に影響を与えた68人の通信簿』で、"世界史に影響を与えた68人"のうち、東洋人を7人を選び、うち日本人2人を[[明治天皇]]とともに池田を選び、「明治日本の成功と戦後の高度経済成長がアジア諸国など欧米以外の国のモデルになったこと」をその理由に挙げている<ref name="yawata201506" /><ref>[https://twitter.com/yawatakazuo/status/368961999511642112 八幡和郎Twitter]</ref>。 * 池田が[[1953年]][[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]政調会長時代に政調副会長として仕えた[[松野頼三]]は、池田を「官僚離れした知恵者」だったと評し、その後の自身の政策は「池田さんの行動が自身の念頭にあった」と話している{{sfn|松野|pp=122-127,131-133}}。 == 発言と報道 == 池田勇人の語録には、本人の発言とは異なる見出しで発言を歪曲されて報道されたことで後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の[[流行語]]にまでなった有名な発言などが多い<ref name="friday50355" /><ref name="bunshun1289"/><ref name="bs-asahi032"/>{{sfn|池上|p=5、30、33}}。 堺屋は「池田はマスコミが面白おかしく発言を歪曲しても怒らなかった」として、これがマスコミにも人気を得た理由としている{{sfn|堺屋|p=167}}。[[池上彰]]は池田がマスコミに発言を歪曲されて、それを野党に利用されていたことに同情を示しながら、「わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつだった」「高度経済成長期の立役者」と絶賛している{{sfn|池上|p=5、30、33}}。 ;「貧乏人は麦を食え」問題 :[[第3次吉田内閣|第三次吉田内閣]]で吉田は1年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。 :1950年12月7日の参議院[[予算委員会]]で社会党の[[木村禧八郎]]議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくった。質問者の木村は「所得の少い者は麦を食え」という答弁であったと批判し、議場からも「重大問題だ」「第三放言だ」と声が上がった。続いて答弁に立った農林大臣の[[広川弘禅]]は、池田の発言の趣旨自体は内閣の方針であるとしながらも、「池田君は少し言葉が過ぎたと私は思いますが」と述べている<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100915261X00919501207 1第9回国会 参議院 予算委員会 第9号 昭和25年12月7日] -[[国会会議録検索システム]]</ref>。 :これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞が翌日の朝刊に「'''貧乏人は麦を食え'''」という見出しで池田の答弁を紹介、これが池田自身の発言のように伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった<ref name="bunshun1289"/>。この発言をしたと報道されたときの報道被害に宮澤は「ちょっと総理大臣になるのは無理じゃなかろうかなと思った」と述べている{{sfn|塩口|pp=267-291}}。秘書だった伊藤昌哉は池田の趣旨は低所得者が米を食べられるようにするとして需要と供給で決まる米の値段に政府が介入するような米価統制する気はないということであった。さらに当時の米事情から池田自身も麦飯を食べていたと述べている。急激なインフレーションを抑止するための引き締め政策であるドッジ・ラインをとっている時に在任していたことで、記者に不人気だった池田はいつでも経済危機説を売りものにする経済評論家やマスコミに狙われていた旨を回顧している{{Sfn|伊藤|p=20}}。 {{Quotation|'''○木村禧八郎君''' (略)米価を特に上げる、併し麦とか何とかは余り上げない。こういう食糧の価格体系について大蔵大臣には、何かほかに重要な理由があるのではなかろうか。この点をお伺いしたいと思います。<br />'''○国務大臣(池田勇人君)''' 日本の経済を国際的に見まして立派なものにしたいというのが私の念願であるのであります。別に他意はございません。米と麦との価格の問題につきましても、日本古来の習慣に合つたようなやり方をして行きたい。(略)麦は大体国際価格になつている。米を何としても値段を上げて、それが日本経済再建のマイナスにならないように、徐々に上げて行きたいというのが私の念願であります。ほかに他意はございません。私は衆議院の大蔵委員会に約束しておりますから、ちよつと……、又来ますから……。<br />'''○木村禧八郎君''' それじや一言だけ……、只今日本の古来の考え方に従つてやるのだという、その点はどういう意味なんですか。<br />'''○国務大臣(池田勇人君)''' 御承知の通りに戰争前は、米一〇〇に対しまして麦は六四%ぐらいの。パーセンテージであります。それが今は米一〇〇に対して小麦は九五、大麦は八五ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります。|1950年(昭和25年)12月7日 参議院予算委員会<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100915261X00919501207 第9号 昭和25年12月7日]、国会会議録検索システム。</ref>}} ;新聞による「[[中小企業]]の五人や十人」報道 :2年後の[[第3次吉田内閣 (第3次改造)|第三次改造内閣]]で池田は[[経済産業大臣|通産大臣]]になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の[[加藤勘十]]の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した<ref name="bunshun1289"/>。経営の原則を無視している企業が倒産するのはやむを得ないとするこの発言に対して、野党は「中小企業を倒産させてよいのか」と曲解してヤジと怒号を浴びせ、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「'''中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない'''」と[[歪曲]]して報道した。池田が発言したと世間に誤解された中で野党が提出した池田通産相不信任案は、自由党反主流派の欠席も影響して可決され、池田は辞任に追い込まれた。その後、池田はマスコミと野党の歪曲された内容で辞任させられたことでショックを受けて自宅に引きこもってしまったが<ref>[「池上彰と学ぶ日本の総理第3号 池田勇人」池上彰 p30]</ref>、宮澤喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は[[土曜日]]だな。週末旅行でもするか。」と話して<ref>読売新聞1952年11月29日朝刊</ref>さばさばした様子であった<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101505254X00719521127 1952年11月27日の衆議院本会議の議事録] を閲覧</ref>。 ;経済のことはこの池田にお任せください :池田は総理となると政治的論争となりうる[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|安保]]と[[日本国憲法第9条|9条]]問題を早々と棚上げして、国民の目を経済に向けさせるべく街頭演説やテレビ討論会などでこう力説した<ref name="nagoya21320">{{Cite journal|和書 |author=鈴木宏尚 |title=親米日本の政治経済構造、1955-61 |url=https://hdl.handle.net/2237/21320 |journal=名古屋大学法政論集 |publisher=名古屋大学大学院法学研究科 |year=2015 |month=feb |issue=260 |pages=253-275 |naid=110009881693 |doi=10.18999/nujlp.260.13 |hdl=2237/21320 |issn=0439-5905}}</ref>{{sfn|池上|p=5、30、33}}。有名なこのセリフは、世の反発を呼ばず、そのまままかり通っていた{{sfn|中川|pp=62-81}}。総選挙で勝てたものの批判勢力がそれでも大規模な扇動に成功していたことから法案も読まずに反対されている日米安保の必要性を一般世論に理解させるよりも、日米安保下で経済で実感させれば核保有する中ソが近隣にあるのに軍隊の無い状態での安保条約必要性が理解されるだろうと語っていた{{Sfn|伊藤|p=146}}。 ;私はウソは申しません :池田はテレビを本格的に活用しようとした最初の首相である{{sfn|佐藤|pp=221-222}}。池田は[[第29回衆議院議員総選挙|1960年の総選挙]]において、[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]と[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]の[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]での[[ディベート]]を模倣して行われた「三党首テレビ討論会」に出演した。これは[[日本社会党|社会党]]の[[江田三郎]]の申し出に対して、泥仕合にならないならという条件で受けたものであったが、1960年11月20日の[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「'''私はウソは申しません'''」と言い切った<ref name="bunshun1289"/>{{Refnest|group="注釈"|この第29回総選挙の際に、自民党は5本のテレビCMを制作しており、その中の1本が「私はウソは-」のCMである。なお2019年現在、「私はウソは-」のCM以外の4本が現存している<ref>{{Cite book |和書 |author=高野光平|authorlink=高野光平 (文化・メディア研究者) |year=2019 |title=発掘!歴史に埋もれたテレビCM : 見たことのない昭和30年代 |series=[[光文社新書]] ; 1018 |publisher=[[光文社]] |pages=220-223 |isbn=9784334044268}}</ref>。}}。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった<ref name="bs-asahi032"/>。翌1961年には、[[日本放送協会|NHK]]専務理事の提案により、『総理と語る』を開始した<ref>{{NHK放送史|D0009040066_00000|総理と語る}}</ref>。この番組は、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]が行った『[[炉辺談話]]』という[[ラジオ]]に倣って、首相がくつろいだ気分で国民に語りかけることを目的とした番組であった。他にもテレビを意識してメガネを変えるなど、テレビを通じて親しみやすい首相イメージを作り出そうとした{{sfn|佐藤|pp=221-222}}。 ;国のためになることなら… :総理就任後「寛容と忍耐」を政治理念に掲げた池田は周囲に「'''国のためになることなら、電信柱にもお辞儀するつもりで総裁になったんだ'''」と話した<ref name="mainichi20150406">[http://mainichi.jp/articles/20150406/ddm/002/070/116000c 風知草:時代を変えた演説=山田孝男 - 毎日新聞]</ref>。 ;君は… :[[浅沼稲次郎暗殺事件]]の発生を受けて池田が衆院本会議場で行った[[追悼演説]]は、故人に対して「君」と呼びかけ、大正末年に浅沼の友人<ref group="注釈">浅沼稲次郎『[[私の履歴書]]』によると、田所輝明。田所輝明『無産党十字街』では、「ある同志」の歌としている。</ref><ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001487/files/51167_41894.html 私の履歴書 浅沼稲次郎] - 『日本経済新聞』「私の履歴書」 浅沼稲次郎</ref><ref>[{{NDLDC|1280605}} 無産党十字街] - 田所輝明 p.69 [[近代デジタルライブラリー]]所収</ref>が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作の一つに数えられる名演説として知られている<ref name="mainichi20150406" /><ref group="注釈">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103605254X00219601018 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録] を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、[[内閣総理大臣秘書官|首席秘書官]]の[[伊藤昌哉]]が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 [[中央公論社]] 1994年 ISBN 4-12-101206-2 C1231)。</ref>。 ;山より大きな猪… :政治家としての池田はたびたび難局に直面したが、一度も逃げたことはなかった。そのつど周りに「なに、'''山より大きな猪は出ない'''よ」と口癖のように言った<ref name="kumanichi20151123" />。どんな大きい猪、つまり難局が向うからやってきても、そいつが普段隠れている山より大きいことは有り得ない、人は猪の勢いだけに気をとられるて怯えるが、大局から見れば大したことはないという比喩で、元は郷里の農夫たちのいいならわしだったとされる{{sfn|上前|pp=380-382}}。池田は[[亥|亥年]]生まれで猪が好きで、自宅の居間にはいつも猪を描いた[[掛軸]]を下げていた。池田自身、猪突猛進の積極論者でもあり、この台詞はいかにも池田にふさわしい{{sfn|上前|pp=380-382}}。 ;国づくりとは人づくりである :[[第2次池田内閣 (第2次改造)|第2次池田内閣]]時代、[[1962年]][[8月10日]]の[[所信表明演説]](衆議院本会議)で「国づくりの根本たる人づくりに全力を尽くす」と述べ{{Sfn|小林|pp=186-189}}<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104105254X00319620810 第41回国会衆議院本会議第3号(1962/08/10、29期)]、[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104305254X00219630123 第43回国会衆議院本会議第2号施政方針演説(1963/01/23)]、[http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1297 戦後七十年を動かした「政治家の名言」 文藝春秋2015年6月号 | バックナンバー - 文藝春秋WEB]、[http://iwj.co.jp/wj/open/archives/230249 2015/02/04 古賀誠・元自民党幹事長が講演「私の政治の原点は平和」]、[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/ap_m/page3_001019.html 国際協力60周年記念シンポジウム 岸田外務大臣基調講演]、[http://www.panasonic.com/jp/corporate/history/konosuke-matsushita/114.html 114. NHKで池田総理と対談 1963年(昭和38年) - 松下幸之助の生涯]</ref>、その考えを根幹に同年10月、池田の[[審議会|私的諮問機関]]である「国づくり懇談会」を{{sfn|吉村|pp=206-212}}、12月5日に「人づくり懇談会」を創設し「期待される人間像」を掲げて、文教政策、児童政策に重点を置くことを指示した<ref name="nikkeinadao"/><ref name="kokkai1961130">[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103705254X00619601212 第37回国会本会議第6号 所信表明演説 (1960.12.12)]([http://www.amazon.co.jp/dp/B0106VDDPG 昭和の証言「池田勇人 第37特別国会所信表明演説より」(昭和35年)])、[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103805254X00319610130 第38回国会本会議第3号 (1961.1.30)]、[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=103805254X00319610130 第38回国会本会議第3号 (1961.1.30)]</ref><ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/headline/kyouikusaisei2013.html 人づくりは、国づくり。教育再生への取組み始まる〜教育再生実行会議]、 忠津玉枝、「[https://doi.org/10.24729/00004025 児童・青少年政策をめぐる最近の動き]」 『社會問題研究』 1964年 14巻 2号 p.41-56, {{doi|10.24729/00004025}}, 大阪社会事業短期大学社会問題研究会</ref>。敗戦の焼け野原にあって、国民は食うために何でもした。池田の仕事はまず経済の復興になってしまった{{Sfn|細川|伊藤|pp=205-209}}。これが一応実現し、次に何かと文教の刷新を考え、日本がしっかりした国になるには、経済的独立の奥の精神の独立が必要だと「人づくり」という発想が生まれた{{Sfn|細川|伊藤|pp=205-209}}{{Sfn|伊藤|pp=234-241}}。また安定成長論で池田を揺さぶる[[福田赳夫]]ら党内批判勢力の「池田内閣の所得倍増政策は[[物質主義|物質万能主義]]であり、[[日本人|日本民族]]の精神を荒廃させるもの」とする声に対抗する術でもあった{{sfn|藤井|pp=186-199}}。池田の思いは文教の刷新にあり、占領政策や、それに便乗する[[日本教職員組合|日教組]]の教育方針を正すことではあったが、真の願いは日本人と精神の独立であった{{Sfn|細川|伊藤|pp=205-209}}。人格育成に重点が置かれたのは、池田が「[[西ヨーロッパ|西欧]]には[[宗教]]と結んだ[[道徳観]]があるが、日本には戦前は[[儒教]]と[[神道]]にささえられた[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]があったが、今はそれがない」と憂いていたためで{{sfn|歴史街道|pp=56-57}}、当時青少年犯罪が[[社会問題]]となりつつあったことも背景にあった{{sfn|藤井|pp=266-270}}。池田内閣の時代に全国的に統一した[[カリキュラム|教育カリキュラム]]が徹底されている{{sfn|堺屋|pp=170-177}}。とかく経済成長のみを重視した印象が強い池田だが、国民道徳の確立にも目を向けていた{{sfn|池上|p=15}}。しかし肉付けする役割を持つブレーンたちがこの分野は得手ではなく{{sfn|吉村|pp=206-212}}、この方針は、佐藤、田中両内閣まで引き継がれたものの{{Sfn|保阪|pp=144-146}}、「国づくりとは人づくり」という哲学的命題は上手くいかなかったとする評価もある<ref name="ris2995">松本金寿、「[https://hdl.handle.net/11266/2995 大学の自治と学生の自治 (1)]」『立正大学文学部論叢』 1968年 32号 p.3-23, {{naid|110000477056}}, {{hdl|11266/2995}}, 立正大学文学部</ref>{{Sfn|林|pp=495-505}}{{Sfn|歴史街道|p=3}}。 ;今の経済規模の日本に軍隊があれば国際的地位はこんなものではない :池田は諸外国との外交で相手が日本に軍隊(軍事的カード)がないと分かっていることで、日本と同じような経済規模の他国にはできないだろう要求や交渉を経験してきた。そのため、池田は「今の経済規模の日本に軍隊があれば国際的地位はこんなものではない」と秘書の伊藤に悔しがっていた。自身を批判する者が言う、相手に要求を飲ませる強い外交や自国での国防が出来ている国は米ソ中仏英など核や強力な軍隊を背景としているからであると述べていた。そのため、日米安保破棄や[[自衛隊]]解体など[[非武装中立]]を主張する政党や組織、その支持者が日本と同じアメリカなど[[西側諸国|西側陣営]]にはもっと主張すべきと批判することを日本の外交どころか自衛すら危うくする主張としている者で[[東側諸国|東側陣営]]のための外患誘致だと批判していた。秘書の伊藤は池田の評価される経済重視とは安保軽視と一致するのではなく、再軍備の憲法改正が不可能な内は日米安保にあえて触れないことで維持する路線を現実的な日本の安全保障とし、早く経済規模に見合った国際的地位や外交の幅を広げる再軍備を望む本心が池田にあったことを回顧している{{Sfn|伊藤|p=145}}。 == 人物 == * 出世レースに遅れ、闘病や前妻の病没など苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。その人柄から省内での人気は抜群ではあった{{sfn|塩口|pp=7-20}}。池田のブレーンに大蔵官僚出身者が集結したのはこれが理由の一つである。宮沢は池田を「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」と表現している{{sfn|沢木|pp=20-23}}。それが、人の話をよく聞くという能力を作り出した。自分の話をよく聞いてくれるということが、また人のやる気を起こさせ、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった{{sfn|沢木|pp=20-23}}。宮澤は「この人のためならと思って、一生懸命やったと思う。こんなことは一生に何回もないんで、私はいっぺんでもあったということが幸せだったと思ってるんです。ところが、そう思った人は私ばかりじゃなくて、たくさんいましてね。そう思わせるところが、池田さんの偉いところじゃないですか」「それがあの人の将たる器なのかもしれませんが」と話している{{sfn|塩口|pp=267-291}}。 * 子供のころはわがままに育てられ、田舎の[[ガキ大将]]であった{{sfn|岩見|pp=212-213}}。長じても、旧制五高の学生そのままの[[バンカラ]]気風であった{{sfn|藤井|pp=166-178}}。粗野で強気で、あちこちに圧力をかけまくることから「[[圧力鍋|圧力釜]]」という渾名もあった<ref>{{Cite book|和書 |author= |title=週刊 ビジュアル日本の歴史 120 |publisher=[[デアゴスティーニ・ジャパン]] |date=|page=392}}</ref>。首相就任までは、「貧乏人は麦を食え」といった放言癖もあいまって反庶民的イメージが定着していた。さらに、蔵相時代はGHQ担当者との会合についてうっかり公表すればGHQからねじこまれるため報道関係者には一切喋れず、新聞記者からの人気が悪くなった<ref name="friday50355" />{{Sfn|塩口|pp=39-49}}。[[カール・シャウプ|シャウプ]]に会った後、[[記者会見]]を要求され、無視すると「取材活動を妨害し、国論を軽視する非民主主義的な態度をとった。猛省を促す」という決議を[[記者クラブ]]から突きつけられた{{Sfn|塩口|pp=39-49}}。ついでに「庭先で散歩中、レンズを向けたカメラマンにステッキを振り上げた」などと、新聞に悪口ばかり書きたてられた{{Sfn|塩口|pp=39-49}}。 * ジャーナリストには池田を毛嫌いする者が多く、[[大宅壮一]]は池田を「没人間味でのし上がった男」「[[ヒューマニズム]]というものが全然欠けている」などと表現した{{sfn|上前|pp=487-492}}。 * 首相に就任した際、反庶民的イメージを払拭すべく、大平の演出の下、親しみやすさをアピールすることに努めた{{Sfn|小林|pp=158-159}}。大平と並んで[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]の食堂で昼食の[[カレーライス]]を食べている写真を新聞各紙に載せさせたり<ref name="curry">[https://www.excite.co.jp/news/article/E1349140206651/ 首相公邸で魚を干す。カツカレーだけじゃない、自民党総裁びっくり食列伝]、[http://www.nikkei.com/article/DGKDZO67996640Y4A300C1NN9000/ (権力者たちのガジェット)カレーライス 「庶民派」の象徴、永田町の定番に]</ref>、[[スリーピース・スーツ#仕様・着方|ダブルの背広]]が好きだった池田に[[スリーピース・スーツ#仕様・着方|シングル]]に改めさせ、金属製のフレームの眼鏡をアメ色の材質に変えさせた{{Sfn|小林|pp=158-159}}。さらに、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして[[待合]]と[[ゴルフ]]が大好きな池田に、絶対に行かないことを約束させ[[記者会見]]でこれを発表させた{{Sfn|福永|pp=90-93}}。 * また、新聞記者への応対も改め、対等に接するようになった。池田は月に1回か2回、私邸通用門脇に建つプレハブの番記者小屋にふらりと現れるか、家族用の食堂に番記者を呼び込むかして、ゆっくり懇談する機会を作った{{Sfn|俵|pp=30-42}}。特に妻の満江は面倒見がよく、記者の名前を全員覚えていて、池田邸で記者が御馳走になると酒を注いで回った。[[渡邉恒雄]]は、[[内閣総理大臣夫人|総理の奥さん]]でそこまでしてくれた人はいなかったと話している{{sfn|渡邉恒雄|2000|pp=183-186}}。 * 税畑育ちの池田にとって税は得意分野であり、戦後税制の「[[シャウプ勧告]]」では、多くの新税を巡り交渉を繰り広げた。池田の税自慢は有名で、[[1961年]]の訪米の際には「[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]に税制を教えに行ってくるよ」と吹いていたという{{sfn|中川|p=62}}。 * 信心深く、倹約家でもあり、ものを粗末にしなかった。首相官邸詰めの記者全員を集めたパーティのあと、残った料理を自ら集めて[[折箱|折り詰め]]にし、世帯持ちの若い記者に「キミたちは時たまこうしたパーティにも出る機会があるから、平気で馳走を残すが、キミたちの妻子にとってはめったにお目にかかれないものなんだ。家に持って帰れ」と説教して持ち帰らせ、大抵の家庭では喜ばれた。その後の議員の資金集めのパーティなどで、食べ物が山のように残っても誰も怪しまないのが普通になったが、古い記者たちは「今でも池田が生きていてこれを見たら怒号するだろうな」と言葉を交わしたという{{Sfn|俵|pp=30-42}}。 * 愛唱歌は、1938年の[[松竹|松竹映画]]『[[愛染かつら#映画|愛染かつら]]』の主題歌「[[旅の夜風]]」。出だしと最後の文句が苦闘時代の池田の鬱屈した心理をとらえている。総理になっても酒が入るとこの曲を歌った{{sfn|吉村|p=85}}。 * 郷里の[[広島東洋カープ|広島カープ]]のファンであったが、そのカープの弱さにはいらついていたらしい。ある日、同じく万年Bクラスの[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]にカープが負けたため、国鉄の[[クリーンナップ|四番打者]]であった[[豊田泰光]]に「池田ですが。アンタ、よう打っとるが、カープの試合に打ったらいけんよ」と脅しの電話をかけたことがあった<ref>{{Cite web|和書|url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=018-20150202-01|title="アベノミクス"より、はるかに大胆かつ、実効性があった"イケノミクス"。その池田首相も広島の弱さだけは…… |publisher=[[週刊ベースボール]]オンライン |date=2015年1月26日(月) 10:00 |accessdate=2016年10月30日 (日) 00:58 (UTC)}}</ref>。 * 舌足らずながらも無邪気さに富み、吸い寄せるように人材を集めた{{sfn|倉山|pp=138-150}}。財界を中心に支持者が多く、[[政治資金]]にはまったく困らなかったとも{{sfn|倉山|pp=138-150}}、池田ほど金に恵まれた政治家は戦後一人もいないとも{{sfn|鬼塚|p=140}}、利権家の代表格とされる田中角栄を凌ぐ資金力があったともいわれる{{sfn|鬼塚|pp=159-164}}。[[御手洗辰雄]]が「いまの保守党政治家が束になっても池田にかなうまい」と評した{{sfn|鬼塚|pp=159-164}}。1952年の[[抜き打ち解散]]を吉田に進言した際、急な話でそれに伴う[[第25回衆議院議員総選挙|総選挙]]の選挙資金調達が間に合わないと心配されたが、池田は「選挙資金は心配いらない」(全員の資金を出すという意味。自由党は300人以上を立候補させていた)と説明した{{sfn|土生|pp=159-169}}{{sfn|鬼塚|pp=230-231}}。 * 英語には滅法弱く「エチケット」を「エケチット」と"発音"した{{sfn|藤井|pp=166-178}}。 * 酒と同様に煙草も大好きで、死の直前まで止めなかった{{sfn|藤井|pp=203-205}}。 * かつての大蔵省の正門の銘版は、1964年当時首相であった池田の[[揮毫]]によるものである<ref>2001年1月6日付[[産経新聞]]他</ref>。 * 戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである([[宇野宗佑]]は[[神戸商業大学 (旧制)|神戸商業大学]]中退)。 * 再入院の日の朝、[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]の私邸に[[前尾繁三郎]]、[[大平正芳]]、[[鈴木善幸]]の3人を呼んで遺言を残した。「これが最後の声になるかもしれないから3人ともよく聞いてくれ。宏池会は保守党のバックボーンだから、これから先も結束を保って、バックボーンにふさわしい政治行動をしていってくれ。オレに万一のことがあった時は、前尾君を中心にして、大平、鈴木両君は前尾君を助けてやってくれ」。続けて「自分も国民を甘やかした政治をしてしまったが、佐藤君もそうなりつつある」「前尾、田中の時代が来るだろう。前尾君はPRをしないのが良いところだが、もっとすべきだ。黒金、宮沢ともに心配だが、よくできる人物だから育てていってくれ」<ref>{{Cite web|和書|title=池田政権の幕引きを仕切る |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK28014_Y1A121C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2011-12-04 |access-date=2022-04-30 |language=ja}}</ref> * 秘書の伊藤からは池田は「もともと楽天家で、勇ましく、大きなことが好きなたちだった」と回顧されている{{Sfn|伊藤|p=80}}。 == 人間関係 == === 吉田茂 === * [[吉田茂]]の[[大磯]]の家に行くと酒を飲んで、吉田に自分の本当の親父と同じような調子で談論風発し、少しの遠慮もない態度でいいたいことを言って、吉田はそれをまたニコニコ笑って聞いているというような間柄だった。一方で[[佐藤栄作]]は酒を飲んでも池田のように談論風発という形はなく、徹底的に吉田に師事するという、本当に教えを乞うという態度を最後まで崩さなかったという<ref name="武見戦前256">{{Cite book|和書 |author=武見太郎|authorlink=武見太郎 |title=戦前 戦中 戦後 |publisher=[[講談社]] |year=1982 |isbn=4-06-125648-3 |pages=256-258}}</ref>。 * 吉田の選挙の費用は全て池田が面倒をみていて、選挙が異常な金喰い選挙になっていき、迷惑がかけられないと吉田は政界を引退したといわれる<ref name="武見戦前256" />。吉田は[[第29回衆議院議員総選挙|1960年の衆議院総選挙]]で最下位だったこともあって、池田が[[1964年]]春に復活を予定していた[[勲章 (日本)|生存者叙勲]]で、最高位の[[大勲位菊花大綬章]]の贈与が予想されたため、落選でもすると最後が傷つくと、[[第30回衆議院議員総選挙|1963年の総選挙]]限りで池田が引導を渡した{{sfn|吉村|pp=253-256、270-271}}。 * 一般に吉田と池田は師弟コンビとして語られるが、[[鬼塚英昭]]は経済オンチで経済政策を池田に丸投げした吉田を池田が尊敬するはずがなく、吉田は出世の階段を昇っていく手段としての師で、本当の意味での師は石橋湛山だったと推察している{{Sfn|鬼塚|pp=125-132}}。 === 石橋湛山 === * [[石橋湛山]]は[[1946年]]の[[第1次吉田内閣]]で大蔵大臣に就任した際{{sfn|細川|1978|pp=289-307}}、推薦した[[小汀利得]]に「君の推薦で大蔵大臣になったが、大蔵省の小役人どものことは一向俺には分からない。だから君は俺の推薦の責任者として誰か[[財務事務次官|次官]]を選んでくれ。但し俺が頭がいいから、俺の次官はなるべくぼんくらがいい。そして不可欠の要素は、俺と酒を飲んで見劣りのしないようなやつを選んでくれ」と注文を付けた。小汀は「ぼんくらで酒飲みなら大蔵省を見渡しても池田しかいない」と池田を推薦、石橋は即座に池田を大蔵次官に抜擢した{{sfn|細川|pp=289-307}}。石橋と池田は毎晩のように酒を食らったという。 * 石橋は大蔵省時代の上司と部下の関係から、戦後に共に政治家となると関係が悪化した。石橋は池田の不信任案に2度賛成し、池田は石橋を2度党から除名した{{Sfn|鬼塚|pp=263-269}}。石橋は池田の政策に何度も異議を唱え、池田は窮地に陥ったこともあるため、これらは出来レースではなく実際に仲が悪かったものと考えられる。しかし石橋が首相になったとき復縁した。石橋は金を持っておらず、池田の資金無くして総裁選を戦えなかった。この取り持ちは[[松永安左エ門]]と考えられる{{Sfn|鬼塚|pp=263-269}}。首相になった石橋は組閣人事で「他のポストは全て譲ってもいいから」と池田蔵相にこだわった<ref name="jairo00003643" />{{Sfn|樋渡|pp=140-145}}。石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出すが、同内閣は2か月の短命に終わった。石橋が3年ぐらい首相をやってその後池田と考えられたので{{Sfn|鬼塚|pp=68-206}}、そうなれば「国民所得倍増計画」に近いものが少し早く実現したかもしれないが、この1957年から1958年の段階では、石橋も池田も理論的にはまだ不十分で{{Sfn|塩口|p=252}}、このコンビが続いたとしても経済成長政策がどのような形になったかは不明である。 === 佐藤栄作 === * 旧制一高受験の際、[[名古屋市|名古屋]]の下宿で偶然に[[佐藤栄作]]と同じ宿に泊まり合わせた。池田は[[広島県立忠海高等学校|忠海中学校]]の同級生2人と、佐藤は[[山口県立山口高等学校|山口中学校]]の同級生と、計5人で試験場に行き、入試が終わった日、5人で酒を飲み、大騒ぎして別れた{{Sfn|山田|pp=42-45}}。ただしこの時点ではあくまで同宿人であって、友人として急速に接近するのは、互いに政界入りしてからである。 * 吉田学校の双璧といわれた池田と佐藤は、盟友でもあり最大のライバルでもあった<ref name="curry" /><ref name="kodanshadaisaisyo">[https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000193333 歴史劇画 大宰相(4) - 講談社BOOK倶楽部]</ref><ref name="allabout2935362">[https://allabout.co.jp/gm/gc/293536/2/ 自民党の歴史 長期政権化とそのひずみ (2ページ目)]</ref>。両者は親友といわれることもあるが、五高で池田の1年先輩だった[[細川隆元]]は「表は兄弟のように親しく見えても、性格の相違とはおかしなもので、両方ともお互いにあまり好きでなかった」と述べている{{Sfn|細川風の巻|pp=67-69}}。池田は佐藤より2歳年上だが2浪したため五高で佐藤と同級になり、さらに池田は病気で1年落第したため、佐藤が先に五高を卒業して東大に入った。佐藤は[[高等文官試験|高文]]の成績が悪く東大卒業後に大蔵省には入れず、定員に満たない[[鉄道省]]に入ったが、池田は東大に落ちて京大に行った後、大蔵省に入った{{Sfn|細川龍の巻|pp=213-219}}。 * 1964年、池田の後を継いだ佐藤は、総理大臣として7年8か月の連続在任を記録したが、そのエネルギーは池田への激しい対抗意識があったといわれる{{Sfn|後藤|内田|石川|pp=235,245-248}}{{Sfn|西山|pp=6-17}}。佐藤は池田の3選阻止のため、1964年夏に[[1964年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]に立候補した際、記者団に「[[ソ連]]には[[千島列島|南千島]]の[[北方領土問題|返還]]を、アメリカには[[沖縄返還|沖縄の返還]]を積極的に要求する。[[北方領土問題|領土問題]]が片付かないと"戦後は終わった"とか、日米パートナーシップの確立とか、ソ連との平和外交の推進とかはいえない。池田内閣が沖縄の返還を正式にアメリカに要求したのは聞いたことがないが、私がもし政権を取れば、いずれアメリカに出かけて[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]大統領に対して正面からこの問題を持ち出すつもりだ」と話した。佐藤が総理大臣として後世に名を残すほどの業績を挙げようとする場合、その選択肢はおのずと限られるという事情があった。内政、特に経済面でいえば、「所得倍増計画」をひっさげて登場した池田に比べてどうしても影が薄い<ref name="mainichi20150804">[https://mainichi.jp/articles/20150804/mog/00m/040/004000c 失われた20年インタビュー藤井裕久・元財務相「恵まれない人に目を向けるのが政治の責任」]</ref>{{Sfn|沢木|pp=13-16}}{{Sfn|中島|pp=113-114}}。池田の後を引き継いで池田以上の経済成長はしたが、そもそも経済優先路線を批判して政権に就いたのであった。本来佐藤は経済は全くの素人で{{Sfn|堀越|pp=131-134}}{{Sfn|中川|pp=130-131}}、蔵相になって経済の勉強を始めたようなもので、「経済政策は基本的には池田路線の踏襲」<ref name="花村163" />、「新しいものは何もない」{{Sfn|GC昭和史|pp=46-49}}、「池田の成長戦略から漏れ出た部分をフォローするような政治」などと評された{{Sfn|蔭山|pp=118-121}}。池田に比べて国民的人気も低く、池田の向こうを張って、どうすれば国民的人気を得られるかに腐心した{{Sfn|堀越|pp=5-6}}。外交面でも残る戦後処理案件は、日ソについては、領土問題が絡んで難しく、また[[反共主義|反共主義者]]の佐藤が、[[中華人民共和国|中国]]や[[北朝鮮]]の国交正常化に本腰を入れる予測は皆無で、すると残りは[[沖縄返還]]しかなかった{{Sfn|西山|pp=6-17}}{{Sfn|宮崎|pp=172-173}}。これが佐藤が政治生命を賭けて沖縄の施政権返還に取り組むに至った事情である。 * 池田と佐藤は、吉田茂門下という[[保守本流]]の基盤の上に長い交遊関係を続けていた{{Sfn|松野|pp=30-34,59,130,160-161}}。池田ら5人が立候補した[[1960年自由民主党総裁選挙|1960年の総裁選挙]]でも、吉田の説得もあり、結局兄の岸と共に同じ官僚出身の池田を支持し、党人派連合を破り、池田内閣をつくり上げた。佐藤には「池田内閣は、おれが作ってやった」という自負があった{{Sfn|西山|pp=6-17}}。池田は1960年7月からの[[第1次池田内閣]]では、佐藤の要請を聞いて河野派を締め出し、[[大野伴睦]]の[[自由民主党副総裁|副総裁]]帰り咲きも見送りにさせたが、1962年7月からの[[第2次池田内閣 (第2次改造)]] では、池田は佐藤の要請を無視し、佐藤とは犬猿の仲の[[河野一郎]]を入閣させ、同じく佐藤と犬猿の仲の大野を副総裁に復帰させた。かつては"喧嘩河野"といわれ、敵が多かった河野であったが、入閣すると人が変わったように池田に尽くし、元々一本気な性格が似たところがあって池田も情が移り、佐藤を無視して河野とばかり相談するようになった{{Sfn|細川龍の巻|pp=213-219}}。これに佐藤は嫉妬し一悶着あり、池田と佐藤は急速に仲が悪くなった{{Sfn|細川龍の巻|pp=213-219}}。当時、政界では、池田に近い友人(佐藤)から遠い他人(河野)へ馬を乗り替えたというたとえ話が流行った{{Sfn|沢木|p=178}}。佐藤からすれば、池田との間に「次は佐藤」という言外の信頼関係があるという思いがあり、[[1962年自由民主党総裁選挙|池田再選]](1962年7月)のときも、回りから「出馬すべし」の声が強かったが立候補しなかった{{Sfn|松野|pp=30-34,59,130,160-161}}。ところが4年も経った池田3選のときには、さすがに池田に「俺に譲れ」と迫った。しかし池田が「まだやる」と佐藤の訴えを却下した。吉田を調停役に三者の会談が行われたが池田は譲らない。池田は吉田に会うのも避けるようになった。これで池田と吉田に完全に溝ができた{{Sfn|松野|pp=30-34,59,130,160-161}}。佐藤はこれを「恩を仇で返す」離反とみなし、こうした両者の激しい対立関係が池田への[[アンチテーゼ]]として佐藤の沖縄問題への傾斜を一層促すことになった。佐藤の時代に日本経済の高度成長期はピークを迎えるが、一般には佐藤独自の政策の効果というよりは、やはり池田からの延長線上の景気拡大と受け止められていた。佐藤は政権担当の前後から、自らの名誉獲得すべてを沖縄の施政権返還に託したのである。それは沖縄問題に突き進む以外の選択肢は見当たらなかったともいえる{{Sfn|西山|pp=6-17}}。 === 宮澤喜一 === * 池田をからかった「ディスインテリ」「非インテリ」などの渾名、「池田は書籍は読まない。読むのは書類だけだ」というジョークは[[宮澤喜一]]の作といわれている{{sfn|石川|p=22}}。 * 池田は宮澤が大蔵省に入った時の[[保証人|身元保証人]]だったが、後年宮澤は「池田勇人なんて、当時(昭和16年)誰も将来、出世するとも思っていなくて、どうしてこの人に保証人になってもらったのかと聞かれたことがある」と話していた{{sfn|中川|p=117}}。 === 福田赳夫 === * [[第2次池田内閣]]で高度経済成長政策を批判した[[自由民主党政務調査会|政調会長]][[福田赳夫]]をくびにし、福田や同調者を池田内閣の続いている間、完全に干し上げた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seiwaken.jp/seiwaken/seiwaken.html |accessdate=2016-03-16 |title=出身総理大臣 - 清和政策研究会 |publisher=[[清和政策研究会]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080515113228/http://www.seiwaken.jp/seiwaken/seiwaken.html|archivedate = 2008-05-15}}</ref><ref name="評伝">浦田進『評伝シリーズ9 福田赳夫』国際商業出版、1978年、129-135頁</ref><ref>古澤健一『福田赳夫と日本経済』[[講談社]]、1983年、42頁、福田赳夫『回顧九十年』[[岩波書店]]、1995年、144-145頁</ref>。安定成長論者である福田とは相容れなかった{{Sfn|小林|pp=180-183}}{{Sfn|塩田|2015|pp=84-97}}。池田は[[自由民主党の派閥|派閥]]強化を助長し、派閥による党内抗争は池田内閣になってその弊害が増幅し、これが力の政治になり、力を得るための金権政治を増長させることになる<ref>『福田赳夫と日本経済』50-55頁</ref>。福田は池田との対立を機に派閥解消などを掲げた「党風刷新連盟」を結成した<ref name="nikkeimaeo3"/>。これが後に福田派([[清和政策研究会]])に発展する{{Sfn|吉村|pp=160-162}}<ref name="評伝" />。 * 福田が池田と仲が悪くなったのは、[[1948年]]の[[昭和電工事件]]で福田が連座された際に、福田が大蔵省の同僚ということから池田のところへ、「自分の立場を理解して欲しい」と頼みに行ったら、池田が「よし、何とかしてやる」と言ったのに何もしてやらなかったのが切っ掛けと[[松野頼三]]は話している{{Sfn|松野|pp=172-173}}。池田の後の大蔵次官は福田で当然と省内では言われていたから、池田は「あんな有能な人を、あったかなかったか分からん汚職で失うのは大蔵省の損失だ」と、せっせと裁判所に足を運び福田の弁護を買って出たと書かれた文献もあるので{{Sfn|塩口|pp=7-20}}、本当のところはよく分からないが、池田が大雑把で大酒飲みに対して、福田は秀才で酒を嗜まず、心から許して付き合う間柄ではなかったという{{Sfn|塩口|pp=7-20}}。池田と福田の確執は、福田と旧制一高の同期だった[[前尾繁三郎]]との対立が、池田、福田の抗争にズレ込んだ形跡が強く{{Sfn|塩口|pp=7-20}}、[[昭和電工事件|昭電汚職]]で出遅れた福田が無所属で政界入りして自由党に一旦入党したものの、そこは池田の勢威が行き渡って福田の入り込む余地がなく、すぐ岸の新党運動に走った。福田は1952年の[[抜き打ち解散]]に伴う[[第25回衆議院議員総選挙|総選挙]]で初当選し、池田に唯一自身から挨拶に行ったら、カネを出すから自由党に入れ、のようなニュアンスのことを言われた{{Sfn|鬼塚|pp=236-237}}。当時国会には参議院を含めて24人の大蔵省出身者がいたが、うち23人が池田の子分になっていた{{Sfn|鬼塚|pp=236-237}}。福田は池田の誘いをキッパリ断り、自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ{{Sfn|鬼塚|pp=236-237}}。このスタート時点の違いに、すでに陽の池田、陰の福田の政治的位置付けの始まりがあった{{Sfn|塩口|pp=7-20}}。岸が何故福田を重用し続け、岸派が空中分解した際も[[清和政策研究会|福田派]]に身を寄せたかといえば、岸はずっと大蔵省との関係に腐心し、大蔵省傍流組である池田派が力をつけていく中、大蔵省本流組である福田を取り込みたいと考えていたからである{{Sfn|倉山||pp=154-156}}。 === 田中角栄 === * [[田中角栄]]は政治家デビューして間もない1948年ごろの29歳のとき、不当財産取引調査特別委員会委員として大蔵省官僚だった池田と知り合った。池田は当時48歳で、数字を並べてぽんぽん財政の話を繰り出され「大蔵省というところには、大変な人がいるものだな」と圧倒された{{Sfn|上前|pp=133-135}}。池田の財政通ぶりに感心していたため、池田が1949年に政治家としてデビューして大蔵大臣に抜擢された際も、いち早く賛成に回った{{Sfn|鬼塚|pp=164-166}}{{Sfn|上前|pp=133-135}}。1955年の[[保守合同]]の際には、池田は[[自由党 (日本 1950-1955)#党史|自由党幹事長]]として[[岸信介]]と[[石橋湛山]]の自由党からの除名を決めたが、このとき筆頭副幹事長だったのが田中で、総務会で恩人・石橋の書類にサインをするとき池田が震えて躊躇していると、傍らにいた池田の腕を取ってサインさせた{{Sfn|塩口|pp=140-148}}。この幹事長・副幹事長コンビを組んだころから、田中は池田邸にしょっちゅう出入りするようになった。ざっくばらんに話をする田中を池田は可愛がった{{sfn|岩見|pp=246-254}}。 * 池田も田中も同じ吉田門下であったが、吉田の寵臣として栄華を極める池田を見て田中は、池田につながって出世したいと策を巡らせ、田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組んだ{{Sfn|上前|pp=300-301}}。田中は池田と縁戚まで結んで池田に付いていくつもりであったが変心した{{Sfn|福永|pp=74-76}}{{Sfn|上前|pp=300-301}}。1956年12月に鳩山一郎首相の退陣に伴う[[1956年12月自由民主党総裁選挙|総裁選]]があり、旧吉田派(当時は丙申会と呼んだ){{Sfn|福永|pp=74-76}}<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/news/topic/article/?uah=DF091120115205 |title=牛の歩み、岸内閣で通産相に 「池田首相を支えた男」前尾繁三郎(2) |date=2011-11-20 |accessdate=2016-04-04 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>のうち、池田が石橋湛山を推し、佐藤が実兄岸を推したため、田中は佐藤に付いて行った。結婚式は1956年12月5日にあり、その日の夜に丙申会の派として誰を推すのか最終的に決める総会が開かれる予定だった。結婚式が終わり外へ出たところで、池田は田中に「お前、どうしても佐藤の方に行くのか」と言うと田中は顔が上げられず、ようやく顔を上げて「池田さんにはお世話になりました。しかしその一歩前から、佐藤さんにお世話になった義理があるのです」と言った。この義理とはかつて佐藤に[[越後交通長岡線|長岡鉄道]]の顧問になってもらったことを指すが、それは本当の理由ではなく、総裁選では岸が勝つ、とすれば日の当たる場所に躍り出るのは佐藤であり、従って佐藤に付く方が自身の出世に有利であるとしたたかに計算したのである。また池田周辺には官僚上がりの有能な側近が取り囲んでいて、自身が入っても外様で次の次になる可能性が高く、その点佐藤の側近は有能な家来がおらず、佐藤派に付けばすぐに代貸しになれる、また池田派には大平がおり、盟友とは別の派に属する方がパイプ役として情報交換が出来るし得策という考えがあった{{sfn|栗原|pp=136-140}}。池田は田中の肝の中を見透かし「お前はきついやつだなあ」と言った。田中は策を巡らせ、皮肉にも策が実って親戚になった日に、一度は盟主と仰いだ相手を裏切ったのである{{Sfn|上前|pp=300-301}}。ところが政権を取ったのは佐藤より池田が先だった。 * [[1961年]][[第2次池田内閣 (第1次改造)|池田内閣]]での田中の[[自由民主党政務調査会|自民党政調会長]]就任、[[1962年]][[第2次池田内閣 (第2次改造)|第2次池田内閣]]での[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]就任は、先の1960年総裁選での池田の票集めに奔走したことを池田に認められ、池田から抜擢されたもので{{Sfn|下村|p=6}}、田中の成長は[[周山会|佐藤派]]の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる{{Sfn|小林|pp=180-183}}<ref>読売新聞2012年9月22日27面 「戦後転換期 第2部(1965〜79年) 第23回 田中角栄」。</ref>。特に第2次池田内閣における[[尋常高等小学校]]卒、44歳の田中の蔵相抜擢は、[[1890年]]日本の[[帝国議会]]開設以来、後にも先にも例がない{{Sfn|小林|pp=180-183}}。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した{{Sfn|小林|pp=180-183}}。「高度経済政策」を推進していくにあたって最も重要なポストである蔵相に、いくら池田と親戚関係になっているとはいえ、国家財政に一度も携わったことのない素人をあてることはできない{{Sfn|上前|pp=459-463}}。ところが大平が「あの男ならやれます」と熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した{{Sfn|小林|pp=180-183}}{{Sfn|上前|pp=459-463}}。田中と大平の関係が密になるのはここからである{{Sfn|神|pp=76-90}}。田中の蔵相抜擢を聞いた佐藤は「あいつはおれを売って池田の子分になった」と激怒したといわれる{{Sfn|上前|pp=459-463}}。田中の抜擢は、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ"楔"という見方や{{Sfn|倉山|pp=154-156}}、金融や財政に素人の田中を据えて、事実上の実権を裏で池田自身が掌握する、総理と蔵相を自身で兼ねて自ら陣頭指揮を執り、田中を傀儡蔵相に仕立てた池田の策略という説もある{{Sfn|幸田|2016b|pp=154-159}}。池田と田中には長い因縁があった。[[野田卯一]]は「池田に対して田中を強引に蔵相に推薦したのは佐藤」と述べている{{Sfn|北國新聞|pp=213-216}}。岸、池田時代にまさか田中が総理になると思う者は党内にいなかった{{Sfn|北國新聞|pp=213-216}}。田中は石橋の死後一周忌で「池田さんは大蔵次官のとき、石橋さんに拾い上げられて、それからトントン拍子で政界をのしていかれた。うらやましいと思い、私は池田さんにそのように自分を引き立てて欲しいと頼み、そうしてもらいました」と話している{{Sfn|塩口|pp=144-148}}。田中は池田内閣で2年4か月大蔵大臣を務めるが、「所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた{{Sfn|東京新聞|p=301}}。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、得意の人心収攬術と政治力で誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる{{Sfn|東京新聞|p=30}}。田中は池田が進めた利益誘導政治の形成・展開に便乗したばらまき財政により政治基盤を固めていった{{Sfn|下村|pp=205-207}}{{Sfn|人間昭和史|p=102}}。 === その他政界関係者 === * 五高で池田と佐藤栄作の1年先輩だった[[細川隆元]]は、その後生涯にわたり親交があった<!-- 途中で絶交した人のことを「生涯にわたり親交があった」といいますかね? -->。しかし細川がホストを務めた[[TBSテレビ|TBS]]の『[[時事放談]]』で細川が「所得倍増計画」を何度もしつこく批判した{{sfn|細川龍の巻|pp=231-234}}。[[小汀利得]]は池田びいきで「俺はそうは思わぬ」と反論したが、池田に会ったとき「君は最近おれの政策をいろいろと批評しているようだが、やめてくれ。君は財政、経済の知識はゼロだ。おれの財政経済の知識は日本一だ。一度ぼくが君に経済の講義をして聞かせるから家に来い」と言われた{{sfn|細川|pp=289-307}}。すると細川は「総理大臣ともあろうものが、講義とは何だい。講義抜きで国民が納得するような経済行動をとるのが政治家というものだ」と言い返したため、「これからは君と会う必要はない」「以後絶対に君とは口を利かない」などと喧嘩別れして、そのまま池田が他界するまで絶交状態が続いた。腹が立った細川は『時事放談』で「池田は、人づくり、人づくりといって委員会を作ったが、[[川口松太郎]]を入れたのはどういう意味か。彼は本妻のみならず、二号、三号にいろいろ子供を持っているのは周知の事実だ。池田の言う人づくりとは、妾に人をつくらせるという意味か」と批判した{{sfn|細川|pp=289-307}}。細川は「池田君と言うのは、鼻柱が強く、一度いい出したらテコでも動かぬ自信満々の荒々しい人間であった」と述べている{{sfn|細川龍の巻|pp=231-234}}。 * 池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の[[亥|亥年]]生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、[[小林中]]、[[水野成夫]]、[[小池厚之助]]、[[堀田庄三]]、[[東畑精一]]で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという<ref>『追悼 小林中』小林中追悼録編集委員会、1982年、377-385頁</ref>。池田が亡くなると急に淋しくなり、話が上手な水野が亡くなると集まることがなくなったという{{sfn|塩口|pp=267-291}}。 * 蔵相時代の池田の秘書官を務めていたころの[[大平正芳]]は、[[陽明学者]]の[[安岡正篤]]に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は[[織田信長]]の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした[[豊臣秀吉]]であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという{{sfn|福永|pp=59-60}}。 * 安岡とともに歴代内閣にパイプを持っていた人物に[[四元義隆]]がいる<ref>[https://gendai.media/articles/-/41750?page=2 「戦後70年」特別鼎談 児玉誉士夫 笹川良一 瀬島龍三 四元義隆ほか「黒幕たちの戦後史」を語りつくす 保阪正康×佐高信×森功]、[https://gendai.media/articles/-/41750?page=4 page=4]</ref>。黒幕などと取り上げられる人物であるが、四元が一言「四元です」と電話をかけたら、秘書も側近も用件を聞かずに取り次ぎ、歴代総理が即座に電話に出たといわれる。四元はかつて吉田茂の義父である[[牧野伸顕]]を狙ったこともあったが、吉田が何故かかわいがったため、戦後の内閣に影響力を持つようになり、池田が総理のときも、池田邸の人目につかない早朝吉田の内密の手紙を持って来たりした。[[鬼塚英昭]]は、四元は[[迫水久常]]から派遣された人物と推察している{{sfn|鬼塚|pp=145-146}}。四元は唯一の事業が[[田中清玄]]が設立した神中組という土建会社で、その後三幸建設という社名に変更したが、この会社が経営不振に陥ったとき四元が譲り受け、池田が応援し再建した。四元が池田を揶揄するような記述も見られるが、池田からすれば吉田が四元の話を1時間でも2時間でも熱心に聞くので、我慢して拝聴していただけで「あの人の話は退屈でたまらん」とこぼしていたという<ref>{{Cite journal|和書 |author= |date=1983-04-14 |title=『小説吉田学校』が避けた歴代首相の『陰の人物』|journal=[[週刊新潮]] |publisher=[[新潮社]] |pages=120-121}}</ref>。 * [[三木武夫]]とは、[[大和銀行|旧野村銀行]]の人脈で親しく付き合うようになった{{sfn|岩見|pp=39-42}}{{Refnest|group="注釈"|三木の妻・[[三木睦子|睦子]]の兄の岳父は[[大和銀行|旧野村銀行]]頭取・[[野村元五郎]]で{{sfn|岩見|pp=39-42}}、戦後の財閥解体で名前を変えなければならなくなった時に、池田の友人である[[奥村綱雄]]の努力で野村の名前が残り、野村の関係者は奥村に敬意を表していた{{sfn|岩見|pp=39-42}}。}}。池田が自由党政調会長時代には改進党の三木とよく政策調整をやり、1955年の[[保守合同]]で同じ自民党になると「おれは自由党の本流、きみは改進党の本流、ともに提携して新しい政治をしよう」とよく秘密に会っていた{{sfn|塩口|pp=149-159}}。その後も、池田内閣時代も三木は閣僚・[[自由民主党執行部|党三役]]として池田を支えた{{sfn|岩見|pp=39-42}}。[[第2次池田内閣 (第1次改造)]] のとき、党近代化を進める党組織調査会の会長に三木を抜擢した。池田が三選なった1964年7月10日の[[1964年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]では、三木[[自由民主党政務調査会#政務調査会長|政調会長]]の功績があったことから7月18日に発足した[[第3次池田内閣 (改造)]] で、三木を[[自由民主党幹事長|幹事長]]に抜擢した{{sfn|松野|p=29}}。他派幹事長のはじめである{{sfn|松野|p=29}}。 * 1961年4月に[[東南アジア]]に視察に出かけ行方不明になった[[辻政信]]は、池田と懇意であったことから「池田特使説」がある。池田がケネディに会うことになったので、辻が東南アジアの新しい情報収集を池田に頼まれていたというものである{{Sfn|北國新聞|pp=216-220}}。辻は岸が安保騒動で倒れ、池田が首相につくと、俄然生気を取り戻し「岸とは性格的に合わないが、池田さんはわしの気持ちを分かってくれる男だ」と誉めていたという。池田の秘書・[[伊藤昌哉]]は辻の出発の10日ほど前に辻に呼び出され「旅費と現地大使館の便宜を図って欲しい、その代わりに東南アジアの情報をおみやげに持ってこよう」と言われ、池田に報告したら「善意の押し付けだ」と言ったが、せっかくなので辻の申し出を承諾した、しかし池田から頼んだことではないと述べている{{Sfn|北國新聞|pp=216-220}}。 * 1960年代に[[インドネシア]]の[[スカルノ]][[インドネシアの大統領|大統領]]と池田をつなぐ仲介役を務めたのは、夫人の[[デヴィ・スカルノ|デヴィ]]であったという。デヴィは池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している<ref>[http://www.sankei.jp.msn.com/politics/policy/081222/plc0812220048006-n1.htm 【外交文書公開】デヴィ夫人首脳外交に一役 池田首相の伝言取り次ぐ]、[https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/print.aspx?id=20081222000008 デヴィ夫人、首脳外交に一役/池田首相の伝言取り次ぐ]、[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1964/s39-shiryou-003.htm 池田総理大臣の西太平洋諸国訪問の再の各国政府との共同声明]</ref>。 * [[西武グループ]]の創業者で衆議院議員でもあった[[堤康次郎]]は池田と親しく<ref>[[上之郷利昭]]『堤義明は語る』 [[講談社]] 1989年 126、185頁 ISBN 4-06-184383-4</ref>、1964年、池田が死去する少し前に死去したが、後援会は父の秘書を務めたことのある息子の[[堤清二]]に地盤を受け継ぎ政治に出てくれと頼んだ。池田が清二に親父の後を継がないのか」と尋ねると「自分は政治家に向かないと思います。しかし地盤は残っているので、総理から誰か推薦いただければ」と言うので、池田が大蔵省の青山俊を推薦し、清二に「口説いてくれ」と頼んだ。しかし青山も清二と同様に政治が嫌いでやはり断わり、青山が[[山下元利]]を推薦し、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった<ref>[[堤清二|辻井喬]]『叙情と闘争 ―辻井喬+堤清二回顧録―』 [[中央公論新社]] 2009年 113-118頁 ISBN 4-12-004033-X</ref><ref name="昭和の大物">松崎隆司『堤清二と昭和の大物』 [[光文社]] 2014年 ISBN 978-4-334-97801-3、107-117頁</ref>。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も没したため、清二は佐藤栄作総理から田中角栄幹事長を紹介され、田中が滋賀県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビはここに始まる<ref name="昭和の大物"/>。また先の堤康次郎の死に際して清二が跡を継がないと表明したため、弟の[[堤義明]]が[[コクド]]・[[西武鉄道グループ]]を引き継いだが、康次郎は生前、[[相続税]]に疑問を持っていて、その対策により相続税が0円になるようにしていた。西武という巨大企業の創業者の遺族が相続税0では世間で通らないと、清二は税の専門家である池田に相談し、池田のアドバイス通り1億円以上の相続税を支払った。しかし40年後、義明が西武鉄道株を他人名義にしていたことが発覚し、西武グループの総帥として君臨していた座から転落した。清二は「あのとき池田さんに名義株のことをきちんと話していれば、西武鉄道グループが、今のような憂き目を見ることもなかった。それが残念でなりません」と話していた<ref name="昭和の大物"/>。 * 前述した[[大平正芳]]と、[[宮澤喜一]]、[[黒金泰美]]は、池田勇人側近の「[[三羽烏|三羽ガラス]]」と言われ、このうち大平正芳と黒金泰美は池田内閣で官房長官になった。またこの3人とは別に、池田内閣で3番目の官房長官を務めた[[鈴木善幸]]も、[[保守合同]]後は池田勇人に可愛がられ、池田勇人の側近として活躍した。 === その他の人物 === * 旧制忠海中学校時代の1年先輩に[[ニッカウヰスキー]]創業者の[[竹鶴政孝]]がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が首相になっても「日本にも美味しい[[ジャパニーズ・ウイスキー|ウイスキー]]がある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるほど、生涯変わらない友人だった<ref>[http://www.nikka.com/world/sticking/gallant/gallant02.html 凛として~ウイスキーの父竹鶴政孝~] ニッカウヰスキーウェブサイト、[http://www.yomiuri.co.jp/otona/special/sakababanashi/20150319-OYT8T50038.html リタとマッサン~「マッサン展」から(下) : 新おとな総研]、[http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/anoutline/yoichistory/sono115/sono115.html その115 大日本果汁株式会社の誕生 - 余市町でおこったこんな話 余市町ホームページ]</ref><ref group="注釈">竹鶴が「[[私の履歴書]]」に記したところでは、池田は当時寮長だった竹鶴に対して「こわい」という印象を抱いていたという([http://friday.kodansha.ne.jp/archives/30267/ 『マッサン』より10倍豪快な竹鶴政孝の「ウイスキー人生」])。</ref>。 == エピソード == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2022年7月}} [[ファイル:Cenotaph for tax collector who was killed in the line of duty.JPG|thumb|200px|池田の筆による[[神奈川税務署員殉職事件]]の殉職税務官顕彰碑の碑文]] * 旧制五高在学当時、酒代があまりかかるので、趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台「池田屋」を開業した。しかし友人たちにツケで飲ませ、自身も一緒に飲むといった放漫経営で、わずか3日でつぶれた{{sfn|自民党広報|pp=583-595}}。のちに自らの派閥「[[宏池会]]」を率いる親分肌が表れたエピソードである{{sfn|池上|p=5,30,33}}。 * [[津島寿一]]が課長時代、一事務官だった池田と酒を飲んだ席で財政論で喧嘩になり、池田が大勢のいる前で津島に組み付いて捻じ伏せたが、津島は柔道の大家で逆に押さえつけられた。それでも池田は「体は俺の方が下に捻じ伏せられているが、財政論では俺の方が上だ」とわめき散らした{{sfn|細川|pp=289-307}}。 * とにかく家の中は人で溢れていた。朝は6時に郷里広島の人たちが[[夜行列車]]で東京に着くとそのまま池田邸に訪ねて来るので、やかん酒と[[スルメ]]を出して長旅を労った。夕食後には大蔵省や通産省などの官僚と勉強会。入れ替わりに[[番記者]]と夜中1時ごろまで懇談が続く。毎日何十人と人が来るので魚屋では間に合わず、娘の紀子が長靴を履いて[[築地市場]]に通い箱ごと魚を買って帰り家で捌いて客に出した<ref name="bunshun">[http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/509 『激動の90年、歴史を動かした90人』「時代を拓いた人々 池田勇人 父と麦飯 池田紀子」 文藝春秋2013年新年特別号 | バックナンバー - 文藝春秋WEB]</ref>。 * 池田が主税局長に就任したのは1945年2月17日であるが、このころは既に敗戦色濃く、主税局や[[税務署]]は本来の徴税の仕事は不可能で{{Sfn|鬼塚|pp=68-206}}、主税局は当時、[[国有財産]]管理の仕事を主に行っていた{{Sfn|鬼塚|pp=68-206}}。[[林房雄]]著『随筆 池田勇人』のみ、主税局長就任の1ヵ月後の「3月16日に[[軍需省]][[参与]]・[[大東亜省]]交易局参与に任じられた」と記述されているが、具体的にどんな仕事をしていたのかは書かれていない{{Sfn|林|p=110}}。[[鬼塚英昭]]は、池田はその後国有財産の管理をやっていたのだろうと推察している{{Sfn|鬼塚|pp=68-206}}。1945年2月からGHQが日本を支配することを想定し、[[皇室財産]]担当の[[ウィリアム・マーカット]]少将を局長とするGHQ経済科学局 (ESS) は、皇室財産目録の作成にかかり、[[宮内省#歴代の宮内大臣|宮内大臣]]になっていた[[石渡荘太郎]]が宮中内に天皇財産管理室を作り、[[宮内庁]]の役人にできる仕事でないため、[[迫水久常]]からの進言を受け、[[津島寿一]]大蔵大臣が数字に強い池田を皇室の財産管理人として指名、この財産の中の処分しきれない金塊、プラチナ・ダイヤモンドなどを池田が外部に移した、またこれとは別に敗戦2年前に[[東条英機]]首相が国民から供出を訴えて集まった金、銀、ダイヤモンドなどのうち、工業用には使えないものを集め「日本金銀運営会」を立ち上げ大蔵省の管理下に置いた、この運営は迫水と[[三浦義一]]が行ったとする文献が多いが、三浦は一役員で、実際は迫水と池田が共同運営した、戦後贅沢三昧で遺産を食い潰し金を持っていなかった吉田茂に迫水と池田が「金銀運営会」から金を引き出して渡し、吉田は首相になったのであろうと推察している{{Sfn|鬼塚|pp=68-206}}。 * 池田は占領下の日本において、ESSのマーカットや[[アメリカ対日協議会#ジャパン・ロビーとニューズウィーク|ジャパン・ロビー]]のドッジや[[ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア|ドレイパー]]らと親しくなっていき、[[中央情報局|CIA]]からも[[経済協力局 (アメリカ合衆国)#見返り資金|見返り資金]](通称:キャンデイ)を一番貰い、彼らの要求にも応えた。池田は戦後のどさくさ紛れの隠し金、「天皇マネー」、「日本金銀運営会」(大蔵省[[外郭団体]])、「[[隠退蔵物資事件|隠退蔵物資]]」の管理者との指摘もあり{{Sfn|鬼塚|pp=68-206}}、[[隠退蔵物資事件]]では[[世耕弘一]]から国会で追及を受けている<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100705261X01619500216 第007回国会 予算委員会 第16号昭和二十五年二月十六日]、[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100705261X02219500306 第007回国会 予算委員会 第22号昭和二十五年三月六日]</ref>。その他、豊富な献金ルートを持っていてアメリカの要求に応えることが出来た。 * もちろん応えられる実力もあった。アメリカの要求とは、短期的にはドッジによる銀行集団が戦前に日本に投資した金の回収と再投資で、これには数字のエキスパートである池田が必要だった{{Sfn|鬼塚|pp=200-202}}。また長期的にいえば、日本をアメリカ好みにコントロールすること、その基礎は[[親米]]であり{{Sfn|鬼塚|pp=293-294}}、権力欲の強い池田とは利害が一致した。鬼塚は、戦後の日本の政治家で最も力を持っていたのは「天皇マネー」を握った迫水と池田、特に他にも豊富な資金源を持った池田だったと推察している{{Sfn|鬼塚|pp=125-132}}。 * [[太平洋戦争]]に敗れた3日後の8月18日、[[内務省 (日本)|内務省]]の[[橋本政実]]・[[警保局]]長が各府県の[[都道府県知事|長官(県知事)]]に、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]のための[[公娼|サービスガール]]を集めたいと全国で[[慰安婦]]を募集、当時大蔵省主税局長だった池田の「いくら必要か」という質問に、野本特殊慰安施設協会副理事長が「1億円くらい」と答えると、池田は「1億円で(日本女性の)純潔が守られるのなら安い」と答え、[[特殊慰安施設協会]]が8月27日に東京[[大森 (大田区)|大森]]で開業し、1360名の慰安婦がそろったとされる{{sfn|孫崎|pp=40-411}}。 * 「ドッジ・ライン」開始直後、池田とドッジの話し合いにより、[[円相場]]を1ドル=360円に切り下げる合意がなされ、1949年4月25日より適用された{{sfn|岩見|pp=223-235}}。その後経済が安定し、日本側からレート変更の要望が出されないまま[[ブレトン・ウッズ体制]]による[[固定相場制]]が固まったため、360円レートは永らく維持された{{sfn|文藝春秋|pp=112-118}}。 * 1949年8月27日に出された1回目の『シャウプ勧告』の報告書にあった「net worth tax」を「[[富裕税]]」と日本語に訳したのは池田だという<ref name="nta15130">[https://www.nta.go.jp/ntc/kenkyu/ronsou/15/130/hajimeni.htm 富裕税の創設とその終末 - 国税庁] -244頁。</ref>。内容からいけば"財産税"であるが、1946年に導入された「[[財産税法|財産税]]」が[[預金封鎖|封鎖預金]]の騒ぎを起こしたため、池田がこれを避けて、辞書で代わりになる言葉を調べ、最初「富有税」としたが、柿の名前のようなので"有"にあたる字を調べると"裕"を見つけ「富裕税」とした<ref name="nta15130" />。 * 蔵相時代、いずれも後の総理になる[[大平正芳]]、[[宮澤喜一]]を秘書官に配し、対外折衝の要衝[[財務官 (日本)|財務官]]に[[渡辺武 (官僚)|渡辺武]]、ブレーンの官房調査スタッフに[[石野信一]]、[[下村治]]らを擁して、磐石の政策決定構造を持った{{sfn|中川|p=62}}{{sfn|渡辺|1983|pp=684-692}}。池田は人の使い方が非常に上手く、彼らとともに戦後不況を乗り切った{{sfn|鬼塚|pp=169-193}}{{Sfn|中川|p=62}}。 * [[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。[[小林中]]は[[根津美術館]]建設の税対策担当者として国税課長時代の池田と知り合った{{sfn|林|pp=84-85}}。 * [[1951年]]、[[日本医師会]]の[[田宮猛雄]]会長、[[武見太郎]]副会長が[[健康保険|健保]]の[[診療報酬]]の大幅引き上げを迫って来た{{sfn|松野|pp=130-131}}。[[厚生大臣]]の[[橋本龍伍]]、池田、田宮の三者会談が連日のように開かれた。税制のプロ・池田は一点単価18円40銭などとても呑めないと一歩も譲らず、両者の主張には大きな開きがあったが、吉田が「医療は大事な問題だから何とかしてやれ」と池田を説得にかかり、最終局面で池田が決断を下し「わかった。差額は税で措置する。まかせて欲しい」と胸をたたき、日本医師会の要求と池田の主張との間にあった5円90銭分72%、診療報酬の72%までを[[経費|必要経費]]として認めたものが「医師優遇税制」として1954年に導入された{{sfn|松野|pp=122-127,131-133}}<ref>[http://1000ya.isis.ne.jp/0889.html 889夜『誰も書かなかった日本医師会』水野肇|松岡正剛の千夜千冊]</ref>。抵抗の気配を見せた大蔵省の事務当局を池田が抑えたといわれる<ref name="実録医師会36">{{Cite book|和書|author=武見太郎・有岡二郎|title=実録日本医師会|publisher=[[朝日出版社]]|year=1993|isbn=|pages=36-40,203-217}}</ref>。その後「医師税制」を抜本的に見直すような力量を持った大蔵大臣は出ず{{sfn|松野|pp=122-127,131-133}}、不公平税制の代表のようにいわれ続け、1974年の[[第2次田中角栄内閣 (第1次改造)]] から、改正に向けて議論が本格化したが、日本医師会の強力な抵抗があって先送りが続き<ref name="実録医師会36" />、1979年に収入金額に応じて異なる率を導入する形での改善がなされるまでこの税制が続いた<ref name="実録医師会36" />。しかし、72%までを必要経費として認めるという60年以上前に池田が決めた基本制度は、今日まで残っている。なお、武見太郎は著書で上記の交渉を大磯の吉田茂邸で、武見と池田の2人で酒を飲みながら決めたと書いているが{{sfn|三輪|pp=151-153}}<ref name="実録医師会36" />、当時、[[厚生省|厚生]][[政務次官]]として折衝の一部始終を見たという[[松野頼三]]の証言を優先した{{sfn|松野|pp=122-127,131-133}}。 * [[出光興産]]が商業者から製造業へ転換するきっかけとなった[[出光興産#製油所・工場|出光興産徳山製油所]](1957年竣工)建設のための敷地払い下げは、当初、地元の大勢は、[[石油精製]]に実績のある[[昭和シェル石油|昭和石油]]に傾いていたが、[[出光佐三]]の要請を受けた池田や[[石橋湛山]]通産大臣、[[松永安左エ門]]らの援助により、出光興産が逆転獲得した{{sfn|水木|pp=266-268}}<ref name="idemitu">{{Cite book|和書|author=高倉秀二|title=評伝 出光佐三 士魂商才の軌跡|publisher=[[プレジデント社]]|year=1990|isbn=978-4-8334-2074-7|pages=494-496}}{{Cite book|和書|author=堀江義人|title=石油王 出光佐三 発想の原点|publisher=三心堂出版社|year=1998|isbn=4-88342-235-6|pages=182-186}}{{Cite book|和書|author=橋川武郎|title=出光佐三 黄金の奴隷たるなかれ|series=[[ミネルヴァ日本評伝選]]|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|year=2012|isbn=978-4-623-06369-7|pages=167-169,175-177}}</ref>。また1959年、池田が通産大臣のとき、[[ソビエト連邦|ソ連]]との長期貿易協定を結び、出光にソ連からの[[原油]]輸入を手引きした<ref name="idemitu" />。 * [[1959年]]7月、この年[[キューバ革命]]を成功させた[[チェ・ゲバラ]]が特使として来日、[[第2次岸内閣 (改造)|第2次岸改造内閣]]の通産大臣を務めていた池田が会談した。ゲバラは「日本にもっと砂糖を買って欲しい」と申し入れたが「現在の両国貿易は日本側の入超になっている。キューバこそ日本商品をもっと多く買い付けるべきだ」と断った{{sfn|沢木|pp=126-127}}。ゲバラは池田と会見した後、予定になかった広島へ訪問に向かったといわれる<ref>{{Cite news |title=ゲバラが残した「悲痛な言葉」 オバマ氏は広島で何語る |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ5R65LSJ5RUEHF01G.html |date=2016-5-24 |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2016-07-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160524104319/http://www.asahi.com/articles/ASJ5R65LSJ5RUEHF01G.html |archivedate=2016-05-24}}</ref>。 * 池田が将来の総理という意識を始めたころ、最もライバル視したのは人脈も豊富で、政治家としては池田より格上だった[[緒方竹虎]]だったが、緒方はそこへ手が届く直前に突然亡くなった{{Sfn|土生|p=222}}{{Sfn|御厨|中村|pp=176-179}}。 * 総裁選への出馬に際して、池田は同郷の先輩政治家[[肥田琢司]]に協力要請をした。[[岩淵辰雄]]は「池田勇人氏を再び岸内閣に迎え、安保条約の成立では、池田氏が身を挺してこれを支持したことであったが、それも肥田さんの努力の賜物であったし、岸内閣のあとに池田内閣が成立したのも肥田さんの力に負うものが大部分であった」と述べており<ref>浩然録 肥田琢司追遠集</ref>、池田から協力を懇願されていた肥田は人脈を生かした工作に加え、資金面でも大きく貢献した{{Sfn|鬼塚|pp=}}。 * 総理就任の際、3人の娘に[[喪服]]を用意したという{{Sfn|幸田|2016b|pp=79-82}}<ref>[https://ddnavi.com/interview/298253/a/2/ あの頃の日本は熱気にあふれていた─ 1964年東京オリンピックの壮大な準備譚]</ref>。 * 1960年、広島県人が[[明仁|皇太子]]に拝謁した際、同年8月6日の[[広島平和記念式典]]への出席を要請し皇太子が承諾した。[[皇族]]はそれまで一度も同式典に出席したことがなかったため、アメリカが難色を示して大変深刻な問題となった。この年7月19日に池田政権が発足し、[[内閣官房長官|官房長官]]となった大平にも圧力がかかった。[[外務省]]も頭を痛めたため、大平が池田首相に「やめにしたら」と言うと、池田は断固として「アメリカに気兼ねはいらん。皇太子が約束された以上、皇太子は行かねばならん」と言ったという{{Sfn|伝記|pp=66-76、99}}。 * [[1960年]]、[[第1次池田内閣]]の発足で、[[女性政治家#女性閣僚の一覧|日本初の女性閣僚]]として[[中山マサ]]を[[厚生省|厚生大臣]]に起用したが、1961年4月からの「[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険]]」導入にあたり、[[日本医師会]]の[[武見太郎]]会長が制限診療の撤廃など、素人には難しい要望書を提出してきた。[[厚生省]]の大臣室で武見と面会した中山は役人のメモを読みながら回答していたため、武見は立腹してメモを受け取り、中山や官僚の制止を振り切ってそのまま池田の元へ行き、「あんなばかなやつを厚生大臣にするなんてどうしたわけですか」と言うと、池田は「こんど総選挙をするから女の票が欲しい。[[女性政治家#女性国会議員|女性議員]]でまともなのはいないかと聞いたら、あれが一番良いというから起用したんだ。そんなに怒んなよ」という回答であった<ref name="実録医師会94">{{Cite book|和書 |author=武見太郎・有岡二郎 |title=実録日本医師会 |publisher=[[朝日出版社]] |year=1993 |isbn= |pages=94-98}}</ref>。中山の退任後に[[近藤鶴代]]が[[科学技術庁長官]]兼[[原子力委員長]]として入閣するが、その後の女性閣僚は中曽根内閣の[[石本茂]]まで約20年空いた<ref name="asahi20150719">[http://www.asahi.com/and_M/bijin_kinenbi/SDI201506236996.html 美人記念日(7月19日)=女性大臣誕生の日 - 朝日新聞デジタル]</ref>。 * 「政治は結論だ。経過は役人だ」と政治家は結論だけ打ち出して、その経過は役人に任せりゃいいという自論を持つなど{{Sfn|松野|pp=127-130}}、役人上がりながら大胆不敵であった。演説も上手く、一千億円減税を打ち出す際、実際は3年でやるのを「所得倍増!」「一千億円減税!」とバーンとぶち上げた後、小声で「3年で」と言っていたという{{Sfn|松野|pp=127-130}}。また、「みなさんが着ている[[ワイシャツ]]は870円くらいでしょう。これが[[社会主義国]]のソ連だと4300円もします。日本の五倍ですよ」「いま日本の国民所得はアメリカの八分の一に過ぎません。[[西ドイツ]]の三分の一です。せめて西ドイツぐらいにはなりたい。それが出来るんです。日本の経済には、それだけの力がついているのです」「今後10年で実質所得は二倍になる。月給が二倍になるのです。そのときこそ[[イギリス]]の大[[思想家]][[ジェレミ・ベンサム|ベンタム]]が唱えた、最大多数の最大幸福、という政治理想が実現すると私は信じるものであります」などと、分かりやすい数字を挙げ、身近な日常品から、経済、景気、政策へ入っていく。池田の街頭演説は大いにうけた{{Sfn|上前|pp=332-334、367-370}}。 * 当時[[日本経済新聞]]の記者で同郷でもあった[[中川順]]は、著書に池田との思い出にページを割き多くのエピソードを書いているが、唯一残念なことは日経の「[[私の履歴書]]」が日の目を見なかったことと話している。池田が大蔵大臣就任以来、赫々の"武勲"よろしく男の階段を登り始めて以来、中川は履歴書執筆をねばり強く交渉し続けたが、「総理にでもなればね」と断り続けられ、総理になると繁忙で駄目になり、そのまま世を去ってしまった。総理経験者で「私の履歴書」に登場しなかったのは、吉田茂と[[三木武夫]]らわずかで、池田は中でも惜しまれる人物であった、と中川は話している{{Sfn|中川|p=62}}。 * 総理時代の池田が「[[財界四天王]]」の[[小林中]]、[[桜田武]]、[[永野重雄]]、[[水野成夫]]と会うのは、極秘中の極秘。もう一人小間使いとして同席したのが[[鹿内信隆]]であった。池田は総理在任中、約束通り待合には行かなかったが「栄家」と「福田家」だけは利用した{{Sfn|伊藤|pp=286}}。 [[ファイル:Hayato and Mitsue Ikeda.jpg|サムネイル|1961年6月の訪米時に妻・満枝と]] * 1961年6月の訪米で、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領と会談する際、夫人が[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス|ジャクリーン・ケネディ]]なので、こちらも夫人同伴がいいのではないかという話になり、池田の妻・満枝が同行した{{Sfn|御厨|中村|pp=203-211}}。[[内閣総理大臣夫人|首相夫人]]が[[外遊]]などに同行する先駆けとなった<ref name="bookbang513056"/>{{Sfn|御厨|中村|pp=203-211}}{{Sfn|池上|p=32}}。 * [[日本の核武装論|日本の核武装]]について積極的であった。1962年11月の訪欧時、[[ロンドン]]で[[イギリスの首相|英首相]][[ハロルド・マクミラン]]と会談した後、「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言権はおそらく今日のそれに10倍したろう」と慨嘆し、各国首脳との接触を重ねるうちに、経済力の裏付けしかなく軍事力の後ろ盾を欠く外交の弱さを思い知らされていたという<ref name="李炯喆" /><ref name="hiroshimaikeda">{{Cite journal|和書|author=池田慎太郎 |title=池田政権のヨーロッパ外交と日米欧「三本の柱」論 |url=http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hiroshima-cu/metadata/673 |journal=広島国際研究 |publisher=広島市立大学国際学部 |year=2007 |volume=13 |pages=13-23 |naid=120005402786 |issn=13413546}}</ref>{{Sfn|藤井|pp=255-263}}。酒が進むと核武装について話しはじめるのが毎度のことで、「被爆地広島を選挙区に持つ政治家の発言することではない」と周囲が諫めても聴きいれなかった。三木が池田の発言を漏らして大事になったこともある{{Sfn|塩口|pp=194-197}}。また1961年6月、米国で[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]と会談した際、ケネディに対し、米国が[[核実験]]再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言したとされ<ref>[http://www.47news.jp/hondana/nuclear/article/article010.html 沖縄の核Ⅰ - 原子力時代の死角 - 特別連載 - 47NEWS]</ref>、池田は米国からの日本国内への[[核兵器]]持ち込みを知っていたとされるが([[日米核持ち込み問題]])<ref name="mofamitsuyaku">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/mitsuyaku/kekka.html いわゆる「密約」問題に関する調査結果]</ref>、1963年3月の参議院予算委員会で「核弾頭を持った潜水艦は、私は日本に寄港を認めない」と答弁した<ref name="mofamitsuyaku"/><ref>[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20091221122927398_ja 核兵器はなくせる 「核の傘」をたたむ日 <5> |連載・特集]</ref>。この発言に[[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]][[駐日アメリカ合衆国大使]]が慌てて1963年4月4日、[[大平正芳|大平]][[外務大臣|外相]]を密かに呼び、大平が核密約(日本国内の基地への核兵器の持ち込み)の内容を確認し、日本国内への核兵器持ち込み(イントロデュース)を了承したとされる<ref name="mofamitsuyaku"/>{{Sfn|福永|pp=103-105}}<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-07-07/2009070703_01_0.html 不破・中曽根対談で浮かび上がった/日米核密約の真相][http://blog.tatsuru.com/2009/09/11_1359.php 密約について (内田樹の研究室)]</ref>。 * [[第2次池田内閣 (第2次改造)|第2次池田内閣]]時代の[[1963年]][[5月14日]]に「全国戦没者追悼式実施要項」が閣議決定し、同年から[[8月15日]]に政府主催で[[全国戦没者追悼式]]が行われるようになり、8月15日が[[終戦の日#日本における終戦の日|終戦記念日]]と法的に定められた<ref name="佐高昭和史">{{Cite book|和書|author=佐高信|authorlink=佐高信|title=佐高信の昭和史|publisher=[[角川学芸出版]]|year=2015|isbn=978-4-04-653334-0|pages=159-161}}</ref><ref>[http://blogos.com/article/68276/ 8月15日が「終戦記念日」とされるのは何故か - BLOGOS]</ref>。この1963年8月15日は[[靖国神社]]で行われ、天皇、皇后臨席の下に池田以下全閣僚、衆参両院議長が列席した{{Sfn|吉村|pp=253-256、270-271}}<ref>[http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/ou_izokukai.htm 王希亮「日本遺族会とその戦争観」 - Ne]</ref>。それまでにも民間で追悼行事は行われていたが、国家が主体となって8月15日に追悼行事をやることが、この時に初めて打ち出された<ref name="佐高昭和史" />{{Sfn|波多野|p=2}}。これが今日まで問題になっている8月15日の首相、閣僚の[[靖国神社問題|靖国神社参拝]]は合憲か違憲かという論争の発端であるが、このときはさして問題にはならなかった{{Sfn|吉村|pp=253-256、270-271}}。前年は[[日比谷公会堂]]で行われたが、[[日本遺族会]]から強い要請があり、自民党内の支持も強く、総裁三選の絡みもあって会場をこの年靖国神社に移した。この件に関して池田は積極的だったという{{Sfn|吉村|pp=253-256、270-271}}。池田は「戦後わが国の文化と経済の著しい発展は、その底に祖国の栄光を確信して散った多くの人々の願いあったことを忘れてはならない」と式辞を述べた{{Sfn|波多野|p=2}}。以後、毎年8月の追悼式の首相式辞において、「わが国の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上に築かれている」という文言が定着していった{{Sfn|波多野|p=2}}。 * 1963年、[[日本国有鉄道|国鉄]][[日本国有鉄道#歴代の国鉄総裁|総裁]]の起用に財界人の抜擢に執念を燃やし[[十河信二]]を辞任させた上で、[[綾部健太郎]][[運輸大臣]]に後任総裁の人選を指示した<ref>[https://www.mitsui.com/jp/ja/roots/1209863_7248.html あゆみ | 「人の三井」を支えた企業家たち(2)石田禮助]、[https://www.city.odawara.kanagawa.jp/public/index.php?y=2002 広報おだわら平成14年10月号 広報おだわらアーカイブ]-14頁。</ref>{{Sfn|苅谷|pp=65-66}}{{Sfn|城山|1988|pp=9-12}}。池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の対中接近などで政敵になっていた佐藤の国鉄への影響力を絶ち、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからであった{{Sfn|苅谷|pp=65-66}}{{Sfn|城山|1988|pp=9-12}}{{Sfn|宮城|pp=113-118}}。それが分かるだけに財界人はよけい尻込みした{{Sfn|城山|1988|pp=9-12}}。[[松下幸之助]]や[[中島慶次]]にも断られ、結局池田から人選を頼まれた[[石坂泰三]](経団連会長)が、親友[[石田礼助]]に頼み、石田が後任総裁に決まった{{Sfn|苅谷|pp=65-66}}{{Sfn|城山|1988|pp=9-12}}。 * 1963年に旧友の[[坂口芳久]][[太陽銀行|日本相互銀行]]社長が急逝した時、池田が[[日本長期信用銀行]]副頭取に天下りしていた[[河野一之]]を後任社長に送り込むにあたり、[[金融機関の合併及び転換に関する法律|合転法]]を成立させ普通銀行に移行させるなどの便宜を図った{{Sfn|佐高|pp=21-25}}。1973年には合併により[[太陽神戸銀行]]となって以降も、大蔵省と近い関係を維持していた{{Sfn|佐高|pp=21-25}}。 * 1963年11月、[[ケネディ大統領暗殺事件|暗殺]]された[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]大統領の葬儀参列のため渡米し、[[11月25日]]のセント・マシューズ教会での葬儀と[[アーリントン国立墓地]]での[[埋葬式]]に参列。同行した秘書官の[[伊藤昌哉]]に池田はぽつりと「伊藤君、これが政治家の死というものだ。オレもできたら短刀を突き刺され、弾丸のひとつも撃ち込まれて死にたいと思っている」と言ったという{{Sfn|小林|pp=202-203}}。 * そのケネディ暗殺の2週間前に当たる1963年[[11月5日]]には、[[第30回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]のため訪れた[[福島県]][[郡山市]]で、池田自身が暴漢に襲われそうになっている。演説終了後に記念撮影をしようとしていたところ、聴衆の一人が25cmの短刀を抜いて体当たりしようとしたため、ただちに警察官に取り押さえられたもの<ref>池田首相へ暴漢 襲いかかろうとしてつかまる『読売新聞』1963年11月5日付夕刊、4版、9面</ref>。なお、翌6日に「何か近づいてくるような気がしたので、もしそばへきたらけとばしてやろうと思っていた。こんなことを気にしていたら、大衆に接する政治家はつとまらない」と語っている<ref>「政界メモ」首相“不心得者”にも平然『読売新聞』1963年11月6日付朝刊、14版、2面</ref>。 * [[1964年自由民主党総裁選挙|1964年の総裁選]]で3選後、外国人記者に「池田内閣は来年(1965年)7月で終了し、次期(首相)は佐藤に間違いない」と言われると「オレは長年続けて首相を務める。[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]のように、だ」と答えた{{Sfn|塩口|pp=18-19}}。 * 数字に強いのが売りだったため、[[城山三郎]]が「数字の使い方が違う」と新聞に書くと、池田の秘書から電話がかかってきて池田の自宅に呼びつけられた。城山が「この数字はおかしい」と言うと、新しい資料を持って来て「これでどうか」と応じた。「やっぱり僕の考え方と合わない」と言うと「あなた、大学で教えているそうだけど、大学での資格は何だ?」と聞かれ、専任講師と答えると「僕を教えられるのは、講師でなく教授だよ」と言われたという<ref>[http://yoshiko-sakurai.jp/2004/09/02/315 「対談」 城山三郎 vs 櫻井よしこ 「指揮官『小泉純一郎』を採点する」]</ref>。 * 1964年、病気退陣の直前、戦後初めて[[日本銀行|日銀総裁]]に民間人として[[宇佐美洵]]を据えるよう佐藤に申し送った<ref name="日銀総裁論">{{Cite book|和書|author=吉野俊彦|authorlink=吉野俊彦|title=歴代日本銀行総裁論|publisher=[[毎日新聞社]]|year=1976|isbn=|pages=316-318}}</ref>{{Sfn|草野|pp=20-22}}。これはそれまで歩調を合わせていた大蔵省の同期・[[山際正道]]が次第に政策面で折り合わなくなっていたための交代である{{Sfn|草野|pp=126-129}}。宇佐美は[[三菱銀行]](現:[[三菱UFJ銀行]])[[頭取]]のときに、[[桜田武]]の斡旋で、[[岩佐凱実]][[富士銀行]]頭取、[[中山素平]][[日本興業銀行]]頭取の金融トリオとして池田に接近したことに付き合いが始めるが{{Sfn|塩口|pp=98-99}}、岩佐、中山が自主調整論の信奉者であったのに対して、宇佐美は自由経済を尊重し、その基盤に立つ成長のバイタリティーを評価する点で、3人の中では池田に近く最も密接な関係があったといわれる<ref name="日銀総裁論" />。 * [[児玉誉士夫]]が吉田内閣のとき、反吉田運動のテコにしようと池田のスキャンダルを握って暴き立てようとしたところ、池田の某側近がやってきて「勘弁してくれ、そいつを暴かれると池田の政治生命が断たれてしまうから」と手をついて頼んできた。しかし児玉が「いや許すわけにはいかん」と居丈高に断ると側近が「いや、実は他にもこれがある、これがある」とみんなペラペラ洗いざらい喋った。児玉の方がびっくりして「これは保守政治全体が危ない」と思案し、暴くのを止めたという{{Sfn|後藤|内田|石川|p=90}}。 * 池田は、その死の直前に「自分は国民を甘やかす政治をしてしまった」と言い残したといわれる{{Sfn|櫻井|2001|pp=52-53}}。池田は自身の公約が着々と実現されていくのを見ながら、憂鬱に囚われていたともいわれる。秘書の[[伊藤昌哉]]はこの言葉の意味を「経済を良くしたことで、賃金も労働条件も国民は要求するばかり、国家はそれを聞いてやるばかりになった。国民は国家の一員だということ、国家に対する義務や、国家が国民に期待することを果たす責任も、国民にあることを説明するのが下手だった」「戦後日本の政治は父親の政治ではなく、母親の政治をやってしまった、甘やかすことに長じていて、自分の足で立っていないような国にした」と解説している{{Sfn|櫻井|2001|pp=52-53}}。伊藤は「池田が残した思いとは、国防を自前でやることと、憲法改正だったと思う」と話している<ref name="globis2392">[http://globis.jp/article/2392 安倍晋三氏×櫻井よしこ氏 「誇りある日本人として〜今、如何に行動して、何を次世代に伝えてゆくか」]</ref>{{Sfn|櫻井|2001|pp=52-53}}。 == 官歴 == * [[1925年]]4月:[[大蔵省]]へ入省。[[銀行局]]属<ref name="Ōkurasho Jinmeiroku:M.T.S"/>。 * [[1927年]]7月:[[函館市|函館]][[税務署|税務署長]]。 * [[1929年]]12月:[[宇都宮市|宇都宮]]税務署長。 * [[1931年]]5月:病休(〜[[1933年]]5月)。 * [[1934年]]12月:復職(新規採用){{Sfn|藤井|pp=7-17}}。 * 1934年12月:[[玉造 (大阪市)|玉造]]税務署長。 * [[1935年]]6月:熊本税務監督局直税部長。 * [[1936年]]11月:[[財務省主税局|主税局]]。 * [[1937年]]10月:東京税務監督局直税部長。 * [[1939年]]4月:主税局経理課長。 * [[1941年]]12月:主税局国税課長。 * [[1942年]][[11月1日]]:主税局国税第一課長。 * [[1944年]][[3月29日]]:東京財務局長。 * [[1945年]][[2月28日]]:[[財務省主税局#歴代主税局長|主税局長]]。 * [[1946年]][[5月1日]]:主税局長 兼 主税局関税課長事務取扱。 * 1946年[[6月1日]]:主税局長。 * [[1947年]][[2月6日]]:[[大蔵次官]]。 * [[1948年]][[3月11日]]:退官。 == 栄典 == * 1965年8月13日:贈[[大勲位菊花大綬章]] == 家族・親族 == === 池田家 === ;([[広島県]][[竹原市]]、[[東京都]]) * 生家が[[造り酒屋]]というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では[[素封家]]ということになる{{Sfn|神|pp=76-90}}。 * 父・'''吾一郎''' *:酒造りや[[煉瓦]]の製造、[[塩田|塩浜]]の経営、[[郵便局]]長などをやり、有為転変があった{{sfn|文藝春秋|pp=214-220}}。 * 母・'''ウメ''' * 前妻・'''直子'''([[貴族院 (日本)|貴族院議員]]・[[伯爵]][[廣澤金次郎|広沢金次郎]]の三女、参議[[広沢真臣]]の孫) *:直子の兄の姻戚には[[侯爵]][[大隈信常]]がおり、[[華族]]の名門である{{Sfn|鈴木幸夫|pp=63-64}}。地方の[[素封家]]の息子でも「[[学士]]の大蔵官僚」とあれば、華族の令嬢との結婚はごく当たり前のことだった{{Sfn|鈴木幸夫|pp=63-64}}。学士と華族の結びつきは、親たちの名門意識を支える一つの手段であった{{Sfn|鈴木幸夫|pp=63-64}}。 * 後妻・'''[[池田満枝|満枝]]'''(医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘で、池田とは再従兄妹に当たる) *:満枝は医者の娘で広島の名門[[広島女子高等師範学校|山中高等女学校]]、名古屋の[[金城学院大学|金城女子専門学校]]を出た才女だった{{Sfn|神|pp=85-86}}。池田の先妻直子が[[学習院]]出だからと娘たちも学習院に通わせた{{Sfn|鈴木幸夫| pp=63-64}}。実兄の大貫修郎は[[陸軍少尉]]・[[軍医]]である。旧制[[崇徳中学校・高等学校|崇徳中学校]]、旧制[[千葉医科大学 (旧制)|千葉医科大学]]を卒業し、戦後地元の竹原で開業医となった。 * 長女・'''直子'''([[近藤荒一郎]]の妻) *:前妻と同じ名がつけられている。 *:直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた[[近藤荒樹]]の長男の荒一郎{{Sfn|神|pp=85-86}}。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた[[1957年]]ごろは、[[長者番付|高額所得番付]]で全国6位にランクされるほどの資産家だった{{Sfn|神|pp=85-86}}。この2人の結婚は昭和33年([[1958年]])1月{{Sfn|神|pp=85-86}}。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた{{Sfn|神|pp=85-86}}。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵の[[明治神宮]][[宮司]][[甘露寺受長]]の長女・績子という関係から[[旧皇族]]の[[北白川宮|北白川家]]までつながり、箔をつけている{{Sfn|神|pp=85-86}}。 * 二女・'''紀子'''(大蔵官僚、政治家[[池田行彦]]([[旧姓]]粟根)の妻) *:池田家の養子になったことについて池田行彦は「たまたまって感じですね。大蔵官僚は仕事がいそがしいので、女性とめぐり合う機会が少ない。そこで紹介というのが多くなるのですが、たまたまそれが池田の娘だったということですよ」と述べている{{Sfn|神|p=88}}。 **孫・宏子(1971年7月8日生学習院中退<ref name="名前なし-20230316125045">人事興信録42版い130</ref>) **孫・明子(1973年7月10日生学習院法学部卒<ref name="名前なし-20230316125045"/>[[エルメス]]社員<ref>https://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/22365/</ref>) **孫・恭子(1975年2月5日生学習院法学部卒) * 三女・'''祥子'''(日本ゴム会長[[石橋進一]]の長男で[[ブリヂストンタイヤ]]会長[[石橋正二郎]]の甥にあたる[[石橋慶一]]の妻) *:この結婚で池田家はさらに[[閨閥]]を広げ、[[鳩山一郎]]、[[石井光次郎]]、[[三井財閥]]の團一族とも“血の連鎖”を結ぶようになった{{Sfn|神|pp=85-86}}。 *甥・山持巌(妹 コトヨの四男)、[[田中角栄]]の養女(静子)と結婚 === 系図 === <div style="font-size:80%"> {{familytree/start}} {{familytree|border=1| |kita|-|man|kita=[[北白川宮能久]]|man=満子}} {{familytree|border=1| | | | | | |:|}} {{familytree|border=1| | | | | |kanro|-|seki|kanro=[[甘露寺受長]]|seki= 績子}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | |:|}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | |kondo|kondo=[[近藤荒樹]]}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | |}|-|-|kondo|kondo=[[近藤荒一郎]]}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | |iku| | |:|iku= 伊久子}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | |:| | | }} {{familytree|border=1| | | | | |okm|-|toyo| | |:| | |okm=[[大隈信常]]|toyo=豊子 }} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | |:| | | |:| | | }} {{familytree|border=1| | | | |,|jue| | |:| | | |}|-|-|x1|jue= 寿栄|x1=慶子}} {{familytree|border=1| |yam|+|yam3| | |:| | | |:| | |:|yam=[[山尾庸三]]|yam3=[[山尾三郎]]}} {{familytree|border=1| | | | |`|chi| | |:| | | |:| | |terada|chi= 千代|terada=[[寺田稔]]}} {{familytree|border=1| | | | | | |}|-|v|hiro| | 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|date=1946-01 |publisher=日本産業経済新聞社 |id={{全国書誌番号|77100962}}}} * {{Cite book |和書 |title=戦時補償特別措置法の解説 |date=1946-11 |publisher=日本経済新聞社出版部 |series=日本経済新聞社出版部刊行物 第16輯 |ncid=BA65487505}} * {{Cite book |和書 |title=財産税法の解説 |date=1946-11 |publisher=日本経済新聞社出版部 |series=日本経済新聞社出版部刊行物 第16輯 |ncid=BA7828980X}} * {{Cite book |和書 |title=均衡財政 附・占領下三年のおもいで |date=1952-08 |publisher=[[実業之日本社]] |id={{全国書誌番号|52006516}} |ncid=BN09758255}} ** {{Cite book |和書 |title=均衡財政 附・占領下三年のおもいで |date=1999-02 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公文庫]] |id={{全国書誌番号|99079402}} |ncid=BN09758255}} === 共著 === * {{Cite book |和書 |title=間接税等改正税法解説 ――酒税等ノ増徴等ニ関スル法律解説―― |date=1942-02 |publisher=[[大蔵財務協会]] |id={{全国書誌番号|46012194}} |ncid=BN11202658}} == 関連作品 == ;映画 * [[小説吉田学校]](1983年、東宝) - 演:[[高橋悦史]] ;モデルとした人物が登場する映画 * [[金環蝕 (石川達三の小説)#映画|金環蝕]](1975年、大映) - 演:[[久米明]] - 役名は寺田政臣。 ;テレビドラマ * [[B円を阻止せよ!もう一つの占領秘話]](1977年、[[フジテレビ]]) - 演:[[下川辰平]] * [[日本の戦後]] 第10集 オペラハウスの日章旗 サンフランシスコ講和会議(1978年、[[日本放送協会|NHK]]) - 演:[[久米明]] * [[わが首相のベッド ガン回廊の朝 II]](1980年、[[読売テレビ]]) - 演:[[芦田伸介]] * [[小説吉田学校#テレビドラマ|関西テレビ開局25周年記念 吉田茂]](1983年、[[関西テレビ]]) - 演:[[若林豪]] * [[からたちの花、永遠に]](1987年、[[テレビ東京]]) - 演:[[仲谷昇]] * [[わが家の歴史]](2010年、フジテレビ) - 演:[[宮川大助]] * [[負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜]](2012年、NHK) - 演:[[小市慢太郎]] * [[経世済民の男]] 鬼と呼ばれた男〜松永安左ェ門〜(2015年、NHK) - 演:[[高嶋政伸]] * [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](2019年、[[NHK大河ドラマ]]) - 演:[[立川談春]] * [[アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜]](2020年、テレビ東京) - 演:[[佐々木蔵之介]] ;マンガ * [[疾風の勇人]] - [[大和田秀樹]]の漫画。『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』連載。池田を主人公とする。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 追悼集 == *『池田勇人先生を偲ぶ』 [[松浦周太郎]]・[[志賀健次郎]]編(非売品)、1967年-追悼文集 *『池田さんを偲ぶ』 岡田幸雄・池田会編、財務出版(非売品)、1968年-追悼文集 == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=|title=朝日キーワード別冊・政治|publisher=朝日新聞社|year=1997|isbn=4-02-227604-5|ref={{SfnRef|朝日新聞社}}}} * {{Cite book|和書|author1=天川晃|authorlink1=天川晃|author2=御厨貴|authorlink2=御厨貴|author3=牧原出|authorlink3=牧原出|title=日本政治外交史―転換期の政治指導|series=[[放送大学]]教材|publisher=[[放送大学教育振興会]]|year=2007|isbn=978-4-595-30733-1|ref={{SfnRef|天川|御厨|牧原}}}} * {{Cite book|和書|author=安藤良雄|authorlink=安藤良雄|title=昭和経済史への証言 下|publisher=[[毎日新聞社]]|year=1966|isbn=|ref={{SfnRef|安藤}}}} * {{Cite book|和書|author=|title=週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 3 池田勇人|publisher=[[小学館]]|url=http://www.shogakukan.co.jp/magazines/2862102112|date=2012-01-31|ref={{SfnRef|池上}}}} * {{Cite book|和書|author=石川真澄|authorlink=石川真澄|title=戦後政治史|publisher=岩波書店|year=1995|isbn=4-00-430367-2|ref={{SfnRef|石川|1995}}}} * {{Cite book|和書|author=伊藤昌哉|authorlink=伊藤昌哉|title=池田勇人とその時代 生と死のドラマ|publisher=[[朝日新聞社]]|series=[[朝日文庫]]|year=1985|isbn=4022603399|ref={{SfnRef|伊藤}}}} * {{Cite book|和書|author=岩見隆夫|authorlink=岩見隆夫|title=あのころのこと 女性たちが語る戦後政治|publisher=毎日新聞社|year=1993|isbn=4-620-30953-2|ref= {{SfnRef|岩見}}}} * {{Cite book|和書|author=上前淳一郎|authorlink=上前淳一郎|title=山より大きな猪 高度成長に挑んだ男たち|publisher=講談社|year=1986|isbn=978-4-06-202657-4|ref={{SfnRef|上前}}}} * {{Cite book|和書|author=宇治敏彦|authorlink=宇治敏彦|title=首相列伝 伊藤博文から小泉純一郎まで|publisher=[[東京書籍]]|year=2001|isbn=9784487795321|ref={{SfnRef|宇治}}}} * {{Cite book|和書|author=エコノミスト編集部|authorlink=エコノミスト (日本の雑誌)|title=証言・高度成長期の日本(上)|publisher=[[毎日新聞社]]|year=1984|isbn=|ref={{SfnRef|証言上}}}} * {{Cite book|和書|author=エコノミスト編集部|title=証言・高度成長期の日本(下)|publisher=毎日新聞社|year=1984|isbn=|ref={{SfnRef|証言下}}}} * {{Cite book|和書|author1=大久保利謙|authorlink1=大久保利謙|author2=入江徳郎|authorlink2=入江徳郎|author3=草柳大蔵監修|authorlink3=草柳大蔵|title=グラフィックカラー昭和史 第13巻 繁栄と混迷|publisher=研秀出版||year=1977|isbn=|ref={{SfnRef|GC昭和史}}}} * {{Cite book|和書|author=大野伴睦|authorlink=大野伴睦|title=大野伴睦回想録|publisher=[[弘文堂]]|year=1962|isbn=|ref={{SfnRef|大野}} }} * {{Cite book|和書|author=大来佐武郎監修|authorlink=大来佐武郎|year=1986|title=ビジュアル版・人間昭和史(2) 政界の首領|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-192552-0|ref={{SfnRef|人間昭和史}} }} * {{Cite book|和書|author=鬼塚英昭|authorlink=鬼塚英昭|title=天皇種族・池田勇人 知るのは危険すぎる昭和史|publisher=[[成甲書房]]|url=http://www.seikoshobo.co.jp/|year=2014|isbn= 978-4-88086-322-1|ref={{SfnRef|鬼塚}}}} * {{Cite book|和書|author=蔭山克秀|authorlink=蔭山克秀|title=本当はよくわかっていない人の2時間で読む教養入門 やりなおす戦後史|publisher=[[ダイヤモンド社]]|year=2015|isbn= 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ー日本を動かした70人の通信簿ー|publisher=[[SBクリエイティブ|ソフトバンククリエイティブ]]|series=[[SB新書|ソフトバンク新書]]114|year=2009|isbn=978-4-7973-5663-2|ref={{SfnRef|八幡}}}} * {{Cite book|和書|author=山田栄三|title=正伝 佐藤栄作 (上)|publisher=[[新潮社]]|year=1988|isbn=4-10-370701-1|ref={{SfnRef|山田}}}} * {{Cite book|和書|author=マイケル・ヨシツ|title=日本が独立した日|publisher=講談社|year=1984|isbn=4-06-200853-X|ref={{SfnRef|ヨシツ}}}} * {{Cite book|和書|author=吉村克己|title=池田政権・一五七五日|publisher=行政問題研究所出版局|year=1985|isbn=4905786436|ref={{SfnRef|吉村}}}} * {{Cite book|和書|author=読売新聞政治部|authorlink=読売新聞|title=権力の中枢が語る自民党の三十年|publisher=[[読売新聞社]]|year=1985|isbn=|ref={{SfnRef|読売新聞社|1985}}}} * {{Cite book|和書|author=読売新聞昭和時代プロジェクト|title=昭和時代 三十年代|publisher=中央公論新社|year=2012|isbn=978-4-12-004392-5|ref={{SfnRef|読売新聞社|2012}}}} * {{Cite journal|和書|author=|date=2007-12-01|title=池田勇人と昭和30年代 奇跡の「高度成長」を生んだもの|journal=歴史街道|issue=2007年12月号|publisher=[[PHP研究所]]|url=http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/?unique_issue_id=84236|ref={{SfnRef|歴史街道}}}} * {{Cite book|和書|author=若田部昌澄|authorlink=若田部昌澄|title=ネオアベノミクスの論点 レジームチェンジの貫徹で日本経済は復活する|publisher=PHP研究所|series=PHP新書|year=2015|isbn=978-4-569-82422-2|ref={{SfnRef|若田部}}}} * {{Cite book|和書|editor1=渡辺武|editor1-link=渡辺武 (官僚)|editor2=大蔵省財政史室|title=渡辺武日記 対占領軍交渉秘録|publisher=[[東洋経済新報社]]|year=1983 |isbn=|ref={{SfnRef|渡辺|1983}}}} * {{Cite book|和書|author=渡辺武|authorlink=渡辺武 (官僚)|title=占領下の日本財政覚え書|publisher=[[日本経済新聞社]]|year=1966|isbn=|ref={{SfnRef|渡辺|1999}}}}[[中央公論新社]]〈[[中公文庫]]〉、1999年 * {{Cite book|和書 |title=渡邉恒雄回顧録 |year=2000 |publisher=中央公論新社 |ref={{SfnRef|渡邉恒雄|2000}} |author=[[渡邉恒雄]]述 |others=インタビュー・構成/伊藤隆、御厨貴、飯尾潤}} == 関連項目 == {{Wikisourcecat}} {{Commonscat|Hayato Ikeda}} {{Wikiquote|池田勇人}} 本文中・表中にリンクのあるものを除く {{Columns-list|2| * [[オリンピック景気]] * [[吉田13人衆]] * [[吉田茂書翰の宛名一覧]] * [[保守本流]] * [[日中国交正常化]] * [[財界四天王]] * [[三無事件]] * [[九頭竜川ダム汚職事件]] * [[成田空港問題]]([[三里塚闘争]]) * [[川北対合衆国事件]] * [[日米核持ち込み問題]] * [[長沼弘毅]] * [[曲淵景漸]] * [[金子岩三]] * [[柳澤伯夫]] * [[岡光序治]] * [[島桂次]] - 終生の恩人と名前を挙げている(『シマゲジ風雲録』133頁、[[文藝春秋]]、1995年) * [[坂本龍一]] - 祖父が池田の生涯の親友であったという(坂本龍一『音楽は自由にする』23頁、[[新潮社]]、2009年) * [[久米明]] * [[日本航空機製造]] * [[学校法人皇學館]] * [[世界平和記念聖堂]] * [[たけはら美術館]] - 池田コレクションを所蔵。 * [[将校志望を断念した日本の人物の一覧]] }} == 外部リンク == * {{Kotobank|池田勇人}} * {{Kotobank|池田 勇人}} * {{Kotobank|池田勇人内閣}} * {{青空文庫著作者|2023|池田 勇人}} * [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/058.html 第58代 池田 勇人 | 歴代内閣] | 首相官邸ホームページ * [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/059.html 第59代 池田 勇人 | 歴代内閣] | 首相官邸ホームページ * [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/060.html 第60代 池田 勇人 | 歴代内閣] | 首相官邸ホームページ * [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/373/ 池田勇人|近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]] * {{NHK for School clip|D0005310459_00000|池田勇人}} {{S-start}} {{s-off}} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]] |before = [[岸信介]] |years = 第58・59・60代:1960年 - 1964年 |after = [[佐藤栄作]] }} {{succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[経済産業大臣|通商産業大臣]] |before = [[稲垣平太郎]]<br />[[高橋龍太郎]]<br />[[高碕達之助]] |years = 第2代:1950年<br />第6代:1952年<br />第17代:1959年 - 1960年 |after = [[高瀬荘太郎]]<br 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8月13日
8月13日(はちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から225日目(閏年では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。
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8月13日(はちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から225日目(閏年では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。
{{カレンダー 8月}} '''8月13日'''(はちがつじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から225日目([[閏年]]では226日目)にあたり、年末まであと140日ある。 == できごと == [[Image:Fundacion_Tenochtitlan.jpg|thumb|200px|[[アステカ]]文明の都[[テノチティトラン]]、[[エルナン・コルテス]]により陥落(1521)。破壊された都の跡地に[[メキシコシティ]]が建設された。]] [[Image:Duke-of-Marlborough-signing-Despatch-Blenheim-Bavaria-1704.jpg|thumb|200px|[[スペイン継承戦争]]、[[ブレンハイムの戦い]](1704)]] [[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])が落雷による火災で焼失(1798)。画像は[[エンゲルベルト・ケンペル]]による大仏のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。]] {{multiple image | image1 = Bayreuthfest.jpg | width1 = 100 | caption1 = 第1回[[バイロイト音楽祭]]開幕(1876)。画像は1882年の[[バイロイト祝祭劇場]] | alt1 = バイロイト祝祭劇場 | image2 = Yagi.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[八木・宇田アンテナ|八木アンテナ]]の特許取得(1926) | alt2 = 八木アンテナ }} {{multiple image | footer = [[第二次上海事変]]勃発(1937) | image1 = Shanghai1937KMT_machine_gun_nest.jpg | width1 = 120 | alt1 = 中華民国国民革命軍の機関銃陣地 | image2 = Bombing outside the Palace Hotel.jpg | width2 = 120 | alt2 = キャセイ・ホテル前 }} {{multiple image | footer = [[ベルリンの壁]]の建設開始(1961)。右画像は同年11月の建造 | image1 = Winken ueber die Berliner Mauer.jpg | width1 = 160 | alt1 = 有刺鉄線の壁越しに手を振る人 | image2 = Berlin_Wall_1961-11-20.jpg | width2 = 150 | alt2 = ベルリンの壁の建設 }} [[Image:H-I-FullScaledModel-20090827.jpg|thumb|100px|[[H-Iロケット]]1号機打ち上げ(1986)。画像は模型]] {{multiple image | image1 = Olympic flame at opening ceremony 2004.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[2004年アテネオリンピック]]開幕 | alt1 = 2004年アテネオリンピック開幕 | image2 = Okinawa_Intl_Univ2.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[沖国大米軍ヘリ墜落事件]](2004) | alt2 = 沖国大米軍ヘリ墜落事件 }} * [[1471年]]([[文明 (日本)|文明]]3年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[蓮如]]が越前に[[吉崎御坊]]を建てる<ref>{{Cite web|和書|date=2021-01-28|url=https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/sp/news/article.php?id=NEWS0000026425 |title=吉崎御坊(福井県あわら市)開創550年 7月から蓮如発信へ多彩事業 |publisher=福井新聞 |accessdate=2021-08-12}}</ref>。 * [[1521年]] - [[アステカ]]文明の湖上の都[[テノチティトラン]]が[[エルナン・コルテス]]によって陥落。 * [[1536年]]([[天文 (元号)|天文]]5年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]])- [[法華一揆|天文法華の乱]]。[[比叡山延暦寺]]の[[僧兵]]と[[六角氏]]の軍勢が[[京都|京]]に侵入、市中の21の[[法華宗]]寺院に火をつけ炎上させる。 * [[1553年]] - [[三位一体説]]批判のかどで[[カトリック教会|カトリック]]・[[プロテスタント]]の双方から追われていた[[ミシェル・セルヴェ]]が[[ジャン・カルヴァン]]治下の[[ジュネーヴ]]で捕らえられる。 * [[1587年]]([[天正]]15年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]])- [[肥後国]]の[[国人]]・[[隈部親永]]が、[[佐々成政]]による[[検地]]を拒否し挙兵([[肥後国人一揆]]) * [[1690年]]([[元禄]]3年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - 上野忍岡の[[忍岡聖堂]]を湯島に移転([[湯島聖堂]])。 * [[1704年]] - [[スペイン継承戦争]]: [[ブレンハイムの戦い]]で[[イギリス]]・[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]連合軍が[[フランス王国|フランス]]・[[バイエルン大公|バイエルン]]連合軍を破る。 * [[1787年]]([[天明]]7年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]) - 江戸幕府老中・[[松平定信]]が、[[享保の改革]]にならうよう各役人に訓戒。[[寛政の改革]]の始まり。 * [[1798年]]([[寛政]]10年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - 当時大仏として日本一の高さを誇っていた[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])が落雷で全焼する。(ただし落雷があったのは前日の夜) * [[1814年]] - [[イギリス]]と[[オランダ]]が[[ロンドン条約 (1814年)|ロンドン条約]]を締結。この条約で両国が[[マレー半島]]・[[スマトラ島]]間の勢力圏を画定する。 * [[1844年]]([[弘化]]元年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]) - [[伝馬町牢屋敷]]が焼け、[[蛮社の獄]]で収監されていた[[高野長英]]が[[脱獄]]。 * [[1868年]] - [[チリ]]北部沖で[[マグニチュード]]8.9の[[アリカ地震]]発生。 * [[1872年]] - [[明治通宝]]の百円券と五十円券が発行。 * [[1876年]] - 第1回[[バイロイト音楽祭]]開幕。 * [[1904年]] - [[桂田富士郎]]が[[日本住血吸虫]]を官報第6337号に報告掲載(発見は前月7月30日)。 * [[1913年]] - [[吉田岩窟王事件]]発生。 * [[1914年]] - [[富山県]][[富山市]]で大水害。[[神通川]]流域で死者54人、行方不明60人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』303頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。 * [[1916年]] - 鄭家屯事件。中国・[[遼寧省 (中華民国)|奉天省]]鄭家屯で日中両軍が衝突。日本側14名、中国側4名が戦死。 * [[1926年]] - [[東北大学]]の[[八木秀次]]教授が[[八木・宇田アンテナ|八木アンテナ]]の特許を取得<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/74740|title=8月13日 八木・宇田アンテナの特許取得(1926年)|publisher=[[講談社]]|work=ブルーバックス編集部|accessdate=2020-08-17}}</ref>。 * [[1927年]] - 大阪放送局(現[[NHK大阪放送局]])が全国中等学校優勝野球大会(現[[全国高等学校野球選手権大会]])の試合を生中継、日本初のスポーツ生中継となった。 * [[1937年]] - [[第二次上海事変]]勃発。 * [[1942年]] - [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]が5番目の長編[[アニメーション]]映画『[[バンビ (童話)|バンビ]]』を発表(日本で公開されたのは、[[1951年]][[5月18日]])。 * [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ソ連対日参戦]]: [[小山克事件]]。 * [[1952年]] - 日本が[[国際通貨基金]] (IMF) に53番目の加盟国として加盟。また、[[国際復興開発銀行]](IBRD)および[[世界銀行]]に加盟した。 * [[1954年]] - 前年に起きた[[徳島ラジオ商殺し事件]]で被害者の[[内縁]]の妻が逮捕される。後に[[冤罪]]と判明。 * [[1955年]] - [[日本民主党]]が社会科教科書の偏向を指摘するパンフレット『うれうべき教科書の問題』を配布。 * [[1960年]] - [[中央アフリカ]]が[[フランス]]からの独立を宣言。 * 1960年 - [[尹潽善]]が第4代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]]に就任。韓国の[[第二共和国 (大韓民国)|第二共和国]]が発足。 * [[1961年]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]政府が東西[[ベルリン]]間の全ての道を閉鎖し、[[有刺鉄線]]による最初の[[ベルリンの壁]]の建設を開始。 * [[1968年]] - [[アレクサンドロス・パナグリス]]が[[ギリシャ軍事政権]]の指導者[[ゲオルギオス・パパドプロス]]を[[暗殺]]しようとし未遂。 * [[1985年]] - [[三光汽船]]が倒産。負債総額約6650億円で過去最大規模。 * 1985年 - 前日に発生した[[日本航空123便墜落事故]]の乗員・乗客の捜索開始。4名の生存者が発見される。 * [[1986年]] - 日本で測地観測衛星「[[あじさい (人工衛星)|あじさい]]」、日本初の[[アマチュア衛星]]「[[ふじ1号]]」が[[H-Iロケット]]1号機により打ち上げ。 * [[1990年]] - ソ連の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]大統領が、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]時代に[[大粛清|粛清・弾圧された]]全ての国民の名誉を回復する大統領令を発令。 * [[1999年]] - 日本で[[国旗及び国歌に関する法律|国旗国歌法]]公布・施行。 * [[2001年]] - [[小泉純一郎]]が首相就任後初めて[[靖国神社]]に公式参拝。(現職首相では5年ぶり) * [[2004年]] - [[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]開幕。[[8月29日]]まで。 * 2004年 - [[沖国大米軍ヘリ墜落事件]]。[[在日米軍]]の大型輸送ヘリが[[沖縄国際大学]](沖縄県[[宜野湾市]])へ墜落。 * [[2008年]] - [[太田雄貴]]が[[2008年北京オリンピックのフェンシング競技|北京五輪フェンシング]]男子フルーレ個人で日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得<ref>[http://www.sanspo.com/beijing2008/news/080814/oap0808140447002-n2.htm サンケイスポーツ] 2008年8月14日5時3分配信|accessdate=2020-10-14</ref>。 * [[2017年]] - [[2017年世界陸上競技選手権大会|ロンドン世界陸上]]男子[[50キロメートル競歩|50km競歩]]で[[荒井広宙]]が銀、[[小林快]]が銅メダルを獲得<ref>{{Cite web|和書|date=2017-08-14|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00480_T10C17A8000000/ |title=男子50キロ競歩で銀・銅 世界陸上、20キロは藤沢11位が最高 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2020-08-17}}</ref>。同種目での日本人史上初の複数メダル獲得。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|240px]]}} {{multiple image | image1 = Alfonsoxialgeciras.jpg | width1 = 100 | caption1 = カスティーリャ王[[アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ11世]](1311-1350)誕生 | image2 = Johann_Georg_Weikert_001.jpg | width2 = 100 | caption2 = ナポリ王妃[[マリア・カロリーナ・ダズブルゴ]](1752-1814)誕生 }} {{multiple image | image1 = A%C3%85ngstr%C3%B6m.jpg | width1 = 100 | caption1 = 天文学者・物理学者、[[アンデルス・オングストローム]](1814-1874)誕生 | image2 = SS-stokes.jpg | width2 = 100 | caption2 = 数学者・物理学者、[[ジョージ・ガブリエル・ストークス]](1819-1903) }} {{multiple image | footer = 画家・ジャーナリスト、[[クリスチャン・クローグ]](1852-1925)誕生。右画像は『編まれる髪』(1882) | image1 = Christian_Krogh_%28cropped%29.jpg | width1 = 100 | alt1 = クリスチャン・クローグ | image2 = Christian_Krohg_001.jpg | width2 = 120 | alt2 = 『編まれる髪』 }} [[Image:Roppa_Furukawa.jpg|thumb|100px|コメディアン、[[古川緑波]](1903-1961)]] {{multiple image | image1 = Richard_Willst%C3%A4tter.jpg | width1 = 100 | caption1 = 化学者[[リヒャルト・ヴィルシュテッター]](1872-1942)誕生。植物色素を研究 | image2 = Salvador_E._Luria_ca.1969.jpg | width2 = 100 | caption2 = 微生物学者、[[サルバドール・エドワード・ルリア]](1912-1991)。[[分子生物学]]創始者の1人 | image3 = Frederick_Sanger2.jpg | width3 = 100 | caption3 = 生化学者[[フレデリック・サンガー]](1918-2013) }} [[Image:Alfred_Hitchcock_NYWTS.jpg|thumb|120px|「サスペンスの神様」、映画監督[[アルフレッド・ヒッチコック]](1899-1980)]] {{multiple image | image1 = Makarios_III_and_Robert_F._Wagner_NYWTS_cropped.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[キプロス]]初代大統領、[[マカリオス3世]](1913-1977) | image2 = Fidel_Castro5_cropped.JPG | width2 = 100 | caption2 = キューバの政治家、[[フィデル・カストロ]](1926-2016) }} [[Image:Bundesarchiv Bild 183-1989-0407-022, Midori Ito.jpg|thumb|100px|フィギュアスケーター[[伊藤みどり]](1969-)]] * [[1311年]] - [[アルフォンソ11世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ11世]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]](+ [[1350年]]) * [[1698年]] - [[ルイーズ・アデライード・ドルレアン]]、[[フランス王国|フランス]]の王族(+ [[1743年]]) * [[1719年]]([[享保]]4年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]) - [[板倉勝澄]]、備中[[備中松山藩|松山藩]]主(+ [[1769年]]) * [[1752年]] - [[マリア・カロリーナ・ダズブルゴ]]、[[マリー・アントワネット]]の姉(+ [[1814年]]) * [[1783年]]([[天明]]3年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[加藤明允]]、近江[[水口藩]]主(+ [[1815年]]) * [[1784年]](天明4年6月28日) - [[黒田直温]]、上総[[久留里藩]]主(+ [[1801年]]) * [[1795年]]([[寛政]]7年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[織田信陽]]、大和[[柳本藩]]主(+ [[1857年]]) * [[1810年]]([[文化 (元号)|文化]]7年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]])- [[緒方洪庵]]、[[江戸時代]]後期の[[蘭学者]](+ [[1863年]]) * [[1814年]] - [[アンデルス・オングストローム]]、[[物理学者]](+ [[1874年]]) * [[1819年]] - [[ジョージ・ガブリエル・ストークス]]、[[数学者]]、物理学者(+ [[1903年]]) * [[1830年]] - [[グスタフ・ランゲ]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1889年]]) * [[1837年]]([[天保]]8年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[池田慶徳]]、因幡[[鳥取藩]]主(+ [[1877年]]) * [[1852年]] - [[クリスチャン・クローグ]]、[[画家]]、著述家、[[ジャーナリスト]](+ [[1925年]]) * [[1860年]] - [[アニー・オークレイ]]、女性[[射撃]]手(+ [[1926年]]) * [[1866年]] - [[ジョヴァンニ・アニェッリ (シニア)]]、[[実業家]](+ [[1945年]]) * [[1868年]]([[慶応]]4年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]])- [[福澤桃介]]、[[実業家]](+ [[1938年]]) * [[1869年]] - [[トニー・ガルニエ]]、[[都市計画家]]、[[建築家]](+ [[1948年]]) * [[1871年]] - [[カール・リープクネヒト]]、[[政治家]]、[[共産主義者]](+ [[1919年]]) * [[1872年]] - [[リヒャルト・ヴィルシュテッター]]、[[有機化学者]](+ [[1942年]]) * [[1878年]] - [[レオニード・ニコラーエフ]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1942年]]) * [[1884年]] - [[アグスティン・バルディ]]、[[音楽家]](+ [[1941年]]) * [[1886年]] - [[落合太郎]]、[[フランス文学者]](+ [[1969年]]) * [[1893年]] - [[梅原末治]]、[[考古学者]](+ [[1983年]]) * [[1898年]] - [[ジョン・ロジー・ベアード]]、[[発明家]](+ [[1946年]]) * [[1899年]] - [[アルフレッド・ヒッチコック]]、[[映画監督]](+ [[1980年]]) * [[1902年]] - [[フェリクス・ヴァンケル]]、発明家(+ [[1988年]]) * [[1903年]] - [[古川緑波]]、[[喜劇俳優]](+ [[1961年]]) * [[1905年]] - [[難波田龍起]]、[[画家]](+ [[1997年]]) * [[1906年]] - [[一龍斎貞丈#5代目|一龍斎貞丈(5代目)]]、[[講釈師]](+ [[1968年]]) * [[1912年]] - [[サルバドール・エドワード・ルリア]]、[[遺伝学者]](+ [[1991年]]) * 1912年 - [[ベン・ホーガン]]、[[プロゴルファー]](+ [[1997年]]) * 1912年 - [[後藤正 (野球)|後藤正]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1937年]]) * [[1913年]] - [[マカリオス3世]]、[[キプロスの大統領|キプロス大統領]](+ [[1977年]]) * [[1918年]] - [[フレデリック・サンガー]]、[[生化学者]](+ [[2013年]]) * [[1919年]] - [[ジョージ・シアリング]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[2011年]]) * [[1925年]] - [[佐野浅夫]]、[[俳優]] (+ [[2022年]]) * 1925年 - [[清水川明於]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1979年]]) * [[1926年]] - [[フィデル・カストロ]]、革命家、[[キューバ]]首相(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASJCV4SN8JCVUHBI00H.html|title=フィデル・カストロ氏死去 キューバ前議長、90歳|publisher=朝日新聞デジタル|date=2016-11-26|accessdate=2020-11-20}}</ref>) * 1926年 - [[ノリス・ボーデン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1991年]]) * [[1929年]] - [[正司歌江]]、[[漫才師]]、女優([[かしまし娘]]) * [[1931年]] - [[千葉耕市]]、俳優、[[声優]]、[[音響監督]](+ [[2001年]]) * 1931年 - [[あまんきみこ]]、[[児童文学作家]] * 1931年 - [[保坂幸永]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[森健兒]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者(+ [[2022年]]) * 1937年 - [[山口剛 (プロデューサー)|山口剛]]、プロデューサー * [[1939年]] - [[桂枝雀 (2代目)]]、[[落語家]](+ [[1999年]]) * [[1940年]] - [[江渡辰郎]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[樫山文枝]]、女優 * [[1944年]] - [[入江美樹]]、女優、[[ファッションモデル]] * [[1945年]] - [[大迫忍]]、実業家(+ [[2005年]]) * [[1948年]] - [[キャスリーン・バトル]]、[[ソプラノ歌手]] * 1948年 - [[林家パー子]]、[[コメディアン]] * 1948年 - [[長谷川時夫]]、[[音楽家]] * [[1949年]] - [[塚田恵美子]]、声優 * 1949年 - [[アンドレ・ソーントン]]、元プロ野球選手 * 1950年 - [[橋田正人|橋田"ペッカー"正人]]、パーカッション奏者 * [[1951年]] - [[ダン・フォーゲルバーグ]]、[[シンガーソングライター]](+ [[2007年]]) * 1951年 - [[江城哲雄]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[ダロー]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * 1955年 - [[袴田英利]]、元プロ野球選手 * [[1956年]] - [[小道迷子]]、[[漫画家]] * [[1958年]] - [[高橋ジョージ]]、[[歌手]]([[THE 虎舞竜]]) * [[1959年]] - [[藤本由香里]]、[[編集者]]、[[評論家]]、マンガ評論家 * 1959年 - [[椎名恵]]、[[歌手]] * 1959年 - [[草川祐馬]]、俳優、歌手 * 1959年 - [[えのきどいちろう]]、[[コラムニスト]] * [[1960年]] - [[フィル・テイラー]]、[[ダーツ]]プレイヤー * 1960年 - [[吉沢孝明]]、[[アナウンサー]] * [[1961年]] - [[近藤芳正]]、俳優 * 1961年 - [[近藤浩治]]、作曲家 * [[1962年]] - [[佐藤文彦 (外野手)|佐藤文彦]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[栗原みきこ]]、[[声優]] * 1963年 - [[山本直也]]、アナウンサー * [[1964年]] - [[戸川京子]]、女優(+ [[2002年]]) * [[1965年]] - [[松尾早人]]、[[作曲家]] * [[1966年]] - [[春一番 (お笑い芸人)|春一番]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](+ [[2014年]]) * 1966年 - [[宋祖英]]、[[歌手]] * 1966年 - [[畑亜貴]]、作詞家、シンガーソングライター * [[1967年]] - [[太田貴子]]、歌手、声優 * [[1968年]] - [[小野一也]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[タル・バックマン]]、シンガーソングライター * [[1969年]] - [[三宅伸]]、競輪選手 * 1969年 - [[伊藤みどり]]、元[[フィギュアスケート]]選手 *1969年 - [[クリストファー・T・ドナヒュー]]、[[アメリカ陸軍]][[軍人]] * [[1970年]] - [[エディ・ギャラード]]、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[アラン・シアラー]]、元サッカー選手 * [[1971年]] - [[諏訪野しおり]]、元ロリータアイドル * 1971年 - [[安部友恵]]、[[陸上競技選手]] * 1971年 - [[野島正弘]]、元[[野球選手]] * 1971年 - [[奥山泰全]]、実業家、相場師 * [[1972年]] - [[入来祐作]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[篠原涼子]]、女優、歌手 * [[1974年]] - [[永野愛]]、[[声優]] * 1974年 - [[丸野勝虎]]、[[騎手]] * 1974年 - [[ニクラス・スンディン]]、ミュージシャン、グラフィックデザイナー * [[1975年]] - [[春原佑紀]]、[[ラジオパーソナリティ]]、歌手 * [[1976年]] - [[三崎宏美]]、射撃選手 * [[1977年]] - [[小西美帆]]、女優 * [[1978年]] - [[稲嶺茂夫]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[杉村太蔵]]、実業家、投資家、政治評論家 * [[1981年]] - [[ランディ・メッセンジャー]]、元プロ野球選手 * [[1982年]] - [[セバスチャン・スタン]]、俳優 * 1982年 - [[シャーニー・デービス]]、[[ショートトラックスピードスケート|ショートトラック]]/[[スピードスケート]]選手 * 1982年 - [[ギャリー・マクシェフリー]]、サッカー選手 * [[1983年]] - [[森嶋秀太]]、声優 * 1983年 - [[ダラス・ブレイデン]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[ニコ・クラニチャール]]、サッカー選手 * 1984年 - [[ブーン・ローガン]]、プロ野球選手 * 1984年 - [[:en:James Morrison (singer)|ジェームズ・モリソン]]、[[シンガーソングライター]] * [[1985年]] - [[Shogo (ファッションモデル)|Shogo]]、[[ファッションモデル]] * [[1986年]] - [[古原靖久]]、俳優 * 1986年 - [[ジャマル・オスマン]]、フィギュアスケート選手 * 1986年 - [[デメトリアス・ジョンソン]]、総合格闘家 * 1986年 - Saori、ミュージシャン([[SEKAI NO OWARI]]) * [[1987年]] - [[今吉めぐみ]]、タレント(元[[SDN48]]) * [[1990年]] - [[宮澤佐江]]、タレント(元[[SNH48]]、元[[SKE48]]) * 1990年 - [[中島愛里]]、[[グラビアアイドル]] * 1990年 - [[葉月抹茶]]、漫画家 * 1990年 - [[デマーカス・カズンズ]]、バスケットボール選手 * 1990年 - 小野竜輔、お笑い芸人([[ダイヤモンド (お笑いコンビ)|ダイヤモンド]]) * [[1991年]] - [[黒木弥生]]、元野球選手 * [[1992年]] - [[ルーカス・ロドリゲス・モウラ・ダ・シルヴァ|ルーカス・モウラ]]、サッカー選手 * [[1993年]] - [[成瀬理沙]]、タレント、元アイドル(元[[AKB48]]) * 1993年 - [[アルトゥール・ガチンスキー]]、フィギュアスケート選手 * 1993年 - [[三家和真]]、元プロ野球選手 * [[1994年]] - [[大塚祥平]]、陸上選手 * [[1995年]] - ガチヤマ、([[エスポワールトライブ|エスポワール・トライブ]]) * 1995年 - [[武田光司]]、総合格闘家 * [[2000年]] - [[ジェミン]]、歌手([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * 2000年 - [[村上愛花]]、ファッションモデル、女優 * [[2001年]] - [[前佑囲斗]]、プロ野球選手 * 2001年 - [[津崎佑美]]、アイドル([[中野風女シスターズ]]/[[風男塾]](葉崎アラン名義)) * [[2002年]] - [[永瀬莉子]]<ref>{{Cite web|和書|title=永瀬 莉子 プロフィール|url=https://www.sma.co.jp/s/sma/artist/486|website=www.sma.co.jp|accessdate=2021-01-13|publisher=Sony Music Artists Inc.}}</ref>、ファッションモデル、女優 * [[2003年]] - [[金子みゆ]]、元[[アイドル]]、[[インフルエンサー]] (元[[LinQ]]) * 2003年 - [[若山耀人]]、元子役 * 2003年 - [[タン・ジュンサン]]、俳優 * 2003年 - [[滝澤夏央]]、プロ野球選手 * 生年不明 - [[紀昌利]]、声優 * 生年不明 - [[冨岡美沙子]]、声優 * 生年不明 - [[長松ひろし]]、声優 == 忌日 == [[Image:David_Virgin_among_the_Virgins.jpg|thumb|260px|画家[[ヘラルト・ダヴィト]](1460頃-1523)没。画像は『天使に囲まれる聖母』(1509)]] {{multiple image | image1 = Bernhard_Romberg.jpg | width1 = 100 | caption1 = 作曲家[[ベルンハルト・ロンベルク]](1767-1841)没。{{audio|Bernhard Romberg - Flute Quintet in G Major - Allegro.ogg|『フルート四重奏曲ト長調』よりアレグロを聴く}} | image2 = Jules_Massenet_portrait.jpg | width2 = 100 | caption2 = 作曲家[[ジュール・マスネ]](1842-1912)没。{{audio|Jeanette Ekornaasvaag - Jules Massenet - Werther - "Va! laisse couler mes larmes".ogg|『ウェルテル』より「お願い、涙を流させて」を聴く}} }} {{multiple image | footer = 画家[[ウジェーヌ・ドラクロワ]](1798-1863)。左画像は自画像、右は『[[サルダナパールの死]]』(1827)。 | image1 = Eugene_delacroix.jpg | width1 = 100 | alt1 = ウジェーヌ・ドラクロワ | image2 = Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_Mort_de_Sardanapale.jpg | width2 = 180 | alt2 = 『サルダナパールの死』 }} {{multiple image | image1 = Ignaz_Semmelweis.jpg | width1 = 100 | caption1 = 医師[[イグナーツ・ゼンメルワイス]](1818-1865)。[[消毒]]法と[[院内感染]]予防を確立 | image2 = Florence_Nightingale_CDV_by_H_Lenthall.jpg | width2 = 120 | caption2 = 看護師・看護教育学者、[[フローレンス・ナイチンゲール]](1820-1910) }} {{multiple image | image1 = WilliamStanleyJevons.jpg | width1 = 100 | caption1 = 経済学者[[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]](1835-1882) | image2 = Eduardbuchner.jpg | width2 = 100 | caption2 = 化学者[[エドゥアルト・ブフナー]](1860-1917) | image3 = Henri_Cartan.jpg | width3 = 100 | caption3 = 数学者[[アンリ・カルタン]](1904-2008) }} {{multiple image | footer = 画家[[ジョン・エヴァレット・ミレー]](1829-1896)没。左画像は自画像、右は『[[オフィーリア (絵画)|オフィーリア]]』(1852) | image1 = Millais_-_Self-Portrait.jpg | width1 = 100 | alt1 = ジョン・エヴァレット・ミレー | image2 = Sir_John_Everett_Millais_003.jpg | width2 = 220 | alt2 = 『オフィーリア』 }} {{multiple image | image1 = H_G_Wells_pre_1922.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[サイエンス・フィクション|SF]]作家[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ]](1866-1946)没 | alt1 = 作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ | image2 = Ihafuyu.JPG | width2 = 100 | caption2 = 民俗学者[[伊波普猷]](1876-1947) | alt2 = 民俗学者伊波普猷 }} {{multiple image | image1 = Hayato_Ikeda.jpg | width1 = 100 | caption1 = 第58-60代日本国内閣総理大臣、[[池田勇人]](1899-1965) | image2 = David_Lange_Posts_a_Letter.jpg | width2 = 100 | caption2 = 第32代ニュージーランド首相、[[デビッド・ロンギ]](1942-2005) }} [[Image:Les_Paul.jpg|thumb|100px|ギタリスト[[レス・ポール]](1915-2009)]] * [[696年]]([[持統天皇]]10年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[高市皇子]]、[[天武天皇]]の皇子(* [[654年]]?) * [[1134年]] - [[ピロシュカ]]、[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[ヨハネス2世コムネノス]]の皇后(* [[1088年]]) * [[1278年]]([[弘安]]元年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[蘭渓道隆]]、[[僧]](* [[1213年]]) * [[1316年]]([[正和]]5年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]) - [[宇都宮貞綱]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1266年]]) * [[1449年]] - [[ルートヴィヒ4世 (プファルツ選帝侯)|ルートヴィヒ4世]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1424年]]) * [[1492年]]([[明応]]元年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[庭田朝子]]、[[後土御門天皇]]の後宮、[[後柏原天皇]]の生母(* [[1437年]]) * [[1523年]] - [[ヘラルト・ダヴィト]]、[[画家]](* [[1460年]]頃) * [[1573年]]([[天正]]元年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]) - [[篠原長房]]、[[武将|戦国武将]](生年不明) * [[1623年]]([[元和 (日本)|元和]]9年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[義姫]]、[[伊達輝宗]]の[[正室]]、[[伊達政宗]]の母(* [[1548年]]) * [[1755年]] - [[フランチェスコ・ドゥランテ]]、[[作曲家]](* [[1684年]]) * [[1841年]] - [[ベルンハルト・ロンベルク]]、[[チェリスト]]・作曲家(* [[1767年]]) * [[1846年]]([[弘化]]3年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[宇田川榕菴]]、[[蘭学者]]、[[医師]]、[[科学者]](* [[1798年]]) * [[1860年]]([[万延]]元年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[佐久良東雄]]、[[国学|国学者]](* [[1811年]]) * [[1863年]] - [[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、画家(* [[1798年]]) * [[1865年]] - [[フランシスコ・デ・パウラ・デ・ボルボーン]]、[[スペイン]]の王族(* [[1794年]]) * 1865年 - [[イグナーツ・ゼンメルワイス]]、[[医学者]](* [[1818年]]) * [[1882年]] - [[中村直三]]、[[老農]]、[[農業]]指導者(* [[1819年]]) * 1882年 - [[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]]、[[経済学者]]、[[論理学者]](* [[1835年]]) * [[1887年]] - [[ジュール・パドルー]]、[[指揮者]](* [[1819年]]) * [[1896年]] - [[ルートヴィヒ・ザイデル]]、[[数学者]]、[[天文学者]](* [[1821年]]) * 1896年 - [[ジョン・エヴァレット・ミレー]]、画家(* [[1829年]]) * [[1907年]] - [[ヘルマン・カール・フォーゲル]]、天文学者(* [[1841年]]) * [[1910年]] - [[フローレンス・ナイチンゲール]]、[[看護師]](* [[1820年]]) * [[1912年]] - [[オクタヴィア・ヒル]]、社会運動家(* [[1838年]]) * 1912年 - [[ジュール・マスネ]]、作曲家(* [[1842年]]) * [[1913年]] - [[アウグスト・ベーベル]]、[[ドイツ社会民主党]]の指導者(* [[1840年]]) * [[1917年]] - [[エドゥアルト・ブフナー]]、[[化学者]](* [[1860年]]) * [[1923年]] - 2代目[[三遊亭小圓朝]]、[[落語家]](* [[1858年]]) * [[1929年]] - [[オイゼビウス・マンディチェフスキ]]、[[音楽学|音楽学者]](* [[1857年]]) * 1929年 - [[レイ・ランケスター]]、[[動物学者]](* [[1847年]]) * [[1932年]] - [[岡野知十]]、[[俳人]](* [[1860年]]) * [[1945年]] - [[松本英一]]、[[映画監督]](* [[1895年]]) * [[1946年]] - [[ハーバート・ジョージ・ウェルズ]]、[[SF作家]](* [[1866年]]) * [[1947年]] - [[伊波普猷]]、[[沖縄学]]の祖とされる人物(* [[1876年]]) * [[1949年]] - [[伊沢多喜男]]、[[台湾総督府|台湾総督]](* [[1869年]]) * [[1952年]] - [[ヴィルム・ホーゼンフェルト]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の[[大尉]](* [[1895年]]) * [[1959年]] - [[鈴木銀之助]]、[[プロ野球選手]](* [[1912年]]) * [[1965年]] - [[池田勇人]]、政治家、第58-60代[[内閣総理大臣]](* [[1899年]]) * [[1967年]] - [[加藤与五郎]]、[[化学者]]、[[工学者]](* [[1872年]]) * 1967年 - [[ジェーン・ダーウェル]]、[[俳優|女優]](* [[1879年]]) * [[1969年]] - 2代目[[玉川勝太郎]]、[[浪曲|浪曲師]](* [[1896年]]) * 1969年 - [[ジャコー・ド・バンドリン]]、[[マンドリン]]奏者(* [[1918年]]) * [[1971年]] - [[キング・カーティス]]、[[サクソフォーン]]奏者(* [[1934年]]) * [[1972年]] - [[ジョージ・ワイス (野球)|ジョージ・ワイス]]、[[メジャーリーグベースボール]]の球団経営者(* [[1894年]]) * [[1973年]] - [[ウィリー・レイ]]、[[プレイメイト]](* [[1949年]]) * [[1974年]] - [[エルンスト・フォルストホフ]]、[[法学者]](* [[1902年]]) * [[1979年]] - [[福永武彦]]、[[小説家]](* [[1918年]]) * 1979年 - [[ヨハンナ・マルツィ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1924年]]) * [[1980年]] - [[乙骨淑子]]、[[児童文学|児童文学作家]](* [[1929年]]) * [[1981年]] - [[桑田義備]]、[[植物学|植物学者]](* [[1882年]]) * [[1984年]] - [[チグラン・ワルタノビッチ・ペトロシアン]]、[[チェス]]の選手(* [[1929年]]) * [[1985年]] - [[J・ウィラード・マリオット]]、[[実業家]]、[[マリオット・インターナショナル]]創業者(* [[1900年]]) * [[1987年]] - [[三木成夫]]、[[解剖学|解剖学者]]、[[思想家]](* [[1925年]]) * [[1988年]] - [[太刀若峯五郎]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1903年]]) * [[1991年]] - [[山田一雄]]、[[指揮者]](* [[1912年]]) * [[1993年]] - [[吉田善哉]]、[[競走馬]]生産者、[[社台グループ]]創業者(* [[1921年]]) * [[1994年]] - [[レイモン・ガロワ=モンブラン]]、作曲家、ヴァイオリニスト(* [[1918年]]) * [[1995年]] - [[ミッキー・マントル]]、元プロ野球選手(* [[1931年]]) * [[1996年]] - [[デイヴィッド・チューダー]]、[[ピアニスト]]、作曲家(* [[1926年]]) * [[2003年]] - [[戸部新十郎]]、小説家(* [[1926年]]) * [[2004年]] - [[池野成]]、作曲家(* [[1931年]]) * [[2005年]] - [[アーノルド・クック]]、作曲家(* [[1906年]]) * 2005年 - [[デビッド・ロンギ]]、第32代[[ニュージーランドの首相|ニュージーランド首相]](* [[1942年]]) * 2005年 - [[神田順治]]、アマチュア野球指導者(* [[1915年]]) * [[2006年]] - [[アーミン・マイヤー]]、[[駐日アメリカ合衆国大使]](* [[1914年]]) * 2006年 - [[渕一博]]、[[情報工学|情報工学者]](* [[1936年]]) * 2006年 - [[ジョン・ノトヴェイト]]、ミュージシャン(* [[1975年]]) * [[2007年]] - [[皆川ヨ子]]、[[長寿]]世界一の日本女性(* [[1893年]]) * 2007年 - [[フィル・リズート]]、元プロ野球選手(* [[1917年]]) * 2007年 - [[ブライアン・アダムス (プロレスラー)|ブライアン・アダムス]]、[[プロレスラー]](* [[1963年]]) * 2007年 - [[佃正樹]]、元野球選手(* [[1955年]]) * 2007年 - [[ヨーゼフ・シヴォー]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1931年]]) * [[2008年]] - [[アンリ・カルタン]]、数学者(* [[1904年]]) * [[2009年]] - [[熊田五郎|熊田五郎(熊田千佳慕)]]、[[画家]]、[[グラフィックデザイナー]](* [[1911年]]) * 2009年 - [[レス・ポール]]、[[ギタリスト]]、[[エレクトリックギター]]製作者(* [[1915年]]) * 2009年 - [[海老沢泰久]]、小説家(* [[1950年]]) * [[2011年]] - 皆川雅舟、[[書道家]](* [[1923年]]) * 2011年 - 小林禮次郎、実業家、[[コーセー]]第2代社長(* [[1928年]]) * [[2012年]] - [[祓川正敏]]、元プロ野球選手(* [[1939年]]) * [[2013年]] - [[村山定男]]、[[天文学者]](* [[1924年]]) * [[2018年]] - [[石塚運昇]]、[[声優]](* [[1951年]]) * 2018年 - [[伊理正夫]]<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL8G4DF1L8GUTIL015.html|title=東京大名誉教授の伊理正夫さん死去|newspaper=朝日新聞社|date=2018-08-15|accessdate=2020-11-11}}</ref>、[[数学者]]、[[東京大学]]名誉教授(* [[1933年]]) * [[2022年]] - [[近藤誠]]、[[医師]](* [[1948年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2015年]] - [[マンハッタンカフェ]]、[[競走馬]](* [[1998年]]) {{-}} == 記念日・年中行事 == [[Image:Lefthandersday.jpg|thumb|200px|国際[[左利きの日]]]] * [[月遅れ]][[お盆|盆]][[迎え火]]({{JPN}}) * 国際[[左利きの日]] * 独立記念日({{CAF}}) *: [[1960年]]のこの日、中央アフリカが[[フランス]]より独立。 * 女性の日({{TUN}}) *: [[1956年]]のこの日、チュニジアで{{仮リンク|個人身分法 (チュニジア)|en|Code_of_Personal_Status_(Tunisia)|label=個人身分法}}が制定されたことを記念。 * [[函館市|函館]]夜景の日({{JPN}}) *: 函館出身の大学生の投書がきっかけで、函館夜景の日実行委員会(函館青年会議所・函館観光協会など)が[[1991年]]から実施。「や(8)けい(K=トランプの13)」の語呂合せ。 * [[J-WAVE]]の日({{JPN}}) *: 放送周波数が81.3MHzであることから<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000705.000025404.html|title=8月13日は「J-WAVEの日」|publisher=PR TIMES|accessdate=2020-08-17}}</ref>。 * [[郡上おどり]]の初日({{JPN}} [[郡上市]]、16日、[[重要無形民俗文化財]]) * 怪談の日({{JPN}}) *: タレントの[[稲川淳二]]氏が、自身の「MYSTERY NIGHT TOUR 稲川淳二の怪談ナイト」20周年連続公演を記念して制定。日付は第1回の公演が[[1993年]]8月13日に開催されたことから。 *ペッカー・山ちゃんリズムの日({{JPN}}) *: リズムの恩恵に感謝し、リズムを楽しみ、リズムで世の中をより良くする日として、「トントン拍子」「生活リズム」「テンポよく過ごす」など、多くのリズムに関連する言葉に日常的に触れているのを感じてもらおうと、音楽を使った研修プログラムなどを手がける合同会社ビートオブサクセスが制定し、日本記念日協会が認定。長年リズムに関する活動を行ってきたパーカッション界の草分けで第一人者である橋田”ペッカー”正人氏と、ボディーパーカッション教育の考案者の山田俊之氏の誕生日から。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0813|date=2011年7月}} * 1955年(昭和30年)- 大空ゆかり(本名、別所千恵子)が鬼首村に里帰りする。(小説『[[悪魔の手毬唄]]』) * 1983年 - [[吉良吉影]]による杉本一家惨殺事件が起き、現場に居合わせた[[岸辺露伴]]だけが生還する。(『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』Part4『[[ダイヤモンドは砕けない]]』)<ref>{{Cite book ja-jp|author = [[荒木飛呂彦]]|year = 2013年|title = 岸辺露伴は動かない|publisher = [[集英社]]}}</ref> === 誕生日(フィクション) === * 1957年 - 則巻みどり(旧姓:山吹)、漫画・アニメ『[[Dr.スランプ]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Dr.スランプ]]』ジャンプ・コミックス4巻 144ページDr.スランプ ほよよ履歴書「山吹みどり」より</ref> * 生年不明 - 青根高伸、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyu.jp/chara/date/1.html|title=伊達工業高校|work=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]]|accessdate=2020-08-17}}</ref> * 生年不明 - 和泉明貞、漫画・アニメ『[[可愛いだけじゃない式守さん]]』に登場するキャラクター<ref name="tokutaro3390351590829629456">{{Cite web|和書|author=公式「可愛いだけじゃない式守さん」 |date=2021-01-22 |url=https://twitter.com/shikimori_off/status/1352458498760609794 |title=2021年1月22日のツイート (1352458498760609794) |publisher=[[Twitter]] |accessdate=2022-03-12}}</ref> * 生年不明 - 牛島若利、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyu.jp/chara/shiratorizawa/1.html|title=白鳥沢学園高校|work=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]]|accessdate=2020-08-17}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2015|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-880447-7|volume=17巻|page=168}}</ref> * 生年不明 - 衛藤可奈美、アニメ『[[刀使ノ巫女]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://tojinomiko.jp/chara/01.html|title=CHARACTER 衛藤 可奈美 CV:本渡 楓|work=伍箇伝計画/刀使ノ巫女製作委員会|accessdate=2020-08-17}}</ref> * 生年不明 - サイ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/sai.html|title=サイ|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-08-17}}</ref> * 生年不明 - 澄快(スカイ)、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=85&cate=name&cont=Sky |title=澄快(スカイ) |access-date=2022-07-14 |publisher=『夢王国と眠れる100人の王子様』公式サイト}}</ref> *生年不明 - 辻本夏実、漫画・アニメ『[[逮捕しちゃうぞ]]』の主人公 * 生年不明 - 天神耕介、漫画『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/tenipuri_staff/status/1425835729922535424 |url=https://twitter.com/tenipuri_staff/status/1425835729922535424 |website=Twitter |access-date=2022-07-08 |language=ja}}</ref> * 生年不明 - ナノナノ・プティング、メディアミックス『[[ギャラクシーエンジェルII]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.broccoli.co.jp/ga/game/ga2/chara/03_nano/index.html|title=ナノナノ・プティング CV:明坂聡美|work=[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]|accessdate=2020-08-17}}</ref> * 生年不明 - ホセ・マルティネス、メディアミックス作品『[[博多豚骨ラーメンズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://note.com/kisakichiaki/n/n45700921bd7f|title=『博多豚骨ラーメンズ』のキャラクター設定について|accessdate=2020-08-17|author=木崎ちあき|website=note}}</ref> * 生年不明 - ほたる(熒惑)、漫画『[[SAMURAI DEEPER KYO]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 真白玲、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hachinai.com/character/mashiro|publisher=八月のシンデレラナイン公式サイト|title=真白 玲|キャラクター|accessdate=2022-08-23}}</ref> * 生年不明 - マッハバイス、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/machvice.html|title=マッハバイス|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-08-17}}</ref> * 生年不明 - 三嶋ゆらら、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1293564146202456064}}(ガールフレンド(仮)公式)</ref> * 生年不明 - レオポルド・ヴァーミリオン、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bclover.jp/character/|title=CHARACTER|TVアニメ『ブラッククローバー』|work=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会|accessdate=2020-08-17}}</ref> * 生年不明- ゾックス・ゴールドツイカー、[[スーパー戦隊シリーズ]]『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の登場人物 === 忌日(フィクション) === * 1992年 - [[ギース・ハワード]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』に登場するキャラクター(* 生年不明)<ref group="注">主人公との戦いに敗れ、ビルの屋上からの転落死。ゲーム中に「1992年8月13日 ギース・ハワード、ビルの屋上から転落 3時間後病院で死亡」という表記がある。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|August 13|13 August}} {{新暦365日|8|12|8|14|[[7月13日]]|[[9月13日]]|[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]|0813|8|13}} {{1年の月と日}}
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12月3日
12月3日(じゅうにがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から337日目(閏年では338日目)にあたり、年末まであと28日ある。
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{{カレンダー 12月}} '''12月3日'''(じゅうにがつみっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から337日目([[閏年]]では338日目)にあたり、年末まであと28日ある。 == できごと == * [[1800年]] - [[ナポレオン戦争]]・[[第二次対仏大同盟]]: [[ホーエンリンデンの戦い]]。フランス軍がオーストリア軍を破る<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Battle-of-Hohenlinden |title=Battle of Hohenlinden European history |access-date=20 Sep 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。 * [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]) - [[華岡青洲]]が世界初の[[麻酔]]を使った手術に成功。 * [[1818年]] - [[イリノイ準州]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]21番目の州・[[イリノイ州]]となる。 * [[1828年]] - [[1828年アメリカ合衆国大統領選挙]]の結果、[[アンドリュー・ジャクソン]]が大統領に選出。 * [[1888年]] - [[愛媛県]]から[[香川県]]が分割。現在の日本の全ての[[都道府県]]の領域が確定する。 * [[1904年]] - [[チャールズ・パーライン]]が[[木星]]の[[木星の衛星と環|第6衛星]][[ヒマリア (衛星)|ヒマリア]]を発見。 * [[1906年]] - [[イタリア]]の[[サッカー]]クラブ・[[トリノFC]]が発足。 * [[1910年]] - [[ジョルジュ・クロード]]が[[ネオン管]]を初めて公開。 * [[1926年]] - 推理作家[[アガサ・クリスティ]]が自宅を出たきり[[アガサ・クリスティ#失踪事件|失踪]]。11日後に発見される。 * 1926年 - [[改造社]]が1冊1円の『現代日本文学全集』の刊行を開始。他社が追従し[[円本]]ブームとなる。 * [[1946年]] - [[日本放送協会|NHK]]ラジオで日本初の[[クイズ番組]]『[[話の泉]]』の放送が開始される。 * [[1947年]] - [[テネシー・ウィリアムズ]]の戯曲『[[欲望という名の電車]]』が[[ニューヨーク]]・[[ブロードウェイ]]で初演。 * [[1950年]] - [[鹿児島県]][[鹿児島市]]で大規模[[火災]]。[[バラック]]など300戸が全焼<ref>「鹿児島市で大火 三百余戸焼く」『朝日新聞』昭和26年12月4日4面</ref>。 * [[1955年]] - 鹿児島県[[名瀬市]]で大規模火災。市全体の約1/3にあたる1413戸が全焼<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=110 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1959年]] - 現在の[[シンガポールの国旗]]が制定。 * 1959年 - 東京で日本初の[[個人タクシー]]の営業認可。 * [[1966年]] - [[マカオ]]で[[一二・三事件]]がおこる。 * [[1967年]] - [[クリスチャン・バーナード]]の執刀によって世界初の[[心臓移植]]が[[南アフリカ]]の[[ケープタウン]]で行われる。世界初の[[レシピエント]]は移植18日後に死亡。 * 1967年 - [[福岡国際マラソン]]で[[デレク・クレイトン]]が史上初の2時間10分を切る2時間9分36秒を記録。 * [[1971年]] - [[第三次印パ戦争]]勃発。 * [[1972年]] - 日本でアニメ「[[マジンガーZ]]」放送開始。 * [[1973年]] - アメリカの惑星探査機「[[パイオニア10号]]」が初めて[[木星]]の接近画像を送る。 * [[1979年]] - [[日本電信電話公社|電電公社]]が[[東京23区]]内で[[自動車電話]]のサービスを開始。 * [[1985年]] - [[日本電信電話|NTT]]が[[フリーダイヤル]]のサービスを開始。 * [[1989年]] - [[ジョージ・H・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]]と[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト連邦|ソ連]][[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]兼[[ソ連共産党書記長]]が[[マルタ島]]で会談し、[[冷戦]]の終結を宣言。([[マルタ会談]]) * [[1994年]] - [[智頭急行智頭線]]が開業。 * 1994年 - [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]が家庭用ゲーム機[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]を日本国内で発売。 * [[1997年]] - [[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約|対人地雷禁止条約]](オタワ条約)に調印。 * [[1999年]] - アメリカの[[火星探査機]]「[[マーズ・ポーラー・ランダー]]」が[[火星]]に到着するが、同日の大気圏突入の直前の通信を最後に通信途絶。 * [[2009年]] - [[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]][[ロシア連邦大統領|ロシア大統領]]と[[教皇|ローマ教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]が会談し、[[ロシア]]と[[バチカン]]が[[国交|外交関係]]を樹立することで合意。 * [[2010年]] - [[中国高速鉄道]]の[[CRH380A]]が試験走行で最高速度{{Val|486.1|ul=km/h}}を記録<ref>{{Cite web |date=3 Dec 2010 |url=http://japanese.cri.cn/881/2010/12/03/141s167493.htm |title=中国の高速鉄道が時速486.1キロの最速記録を達成 |publisher=中国国際放送局 |accessdate=20 Sep 2023}}</ref>。 * [[2011年]] - [[平成23年台風第12号]]に伴う豪雨の被害により和歌山県内の一部の区間で不通となっていた、JR[[紀勢本線]]が約3カ月ぶりに全線で運転を再開。 * [[2014年]] - [[宇宙航空研究開発機構]]が小惑星探査機「[[はやぶさ2]]」を打ち上げ<ref>{{Cite web |url=https://www.jaxa.jp/press/2014/12/20141203_h2af26_j.html |title=H-IIAロケット26号機による 小惑星探査機「はやぶさ2」(Hayabusa2)の 打上げ結果について |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[三菱重工業|三菱重工業株式会社]] [[宇宙航空研究開発機構]] |date=3 Dec 2014}}</ref>。 * [[2018年]] - アメリカの小惑星探査機「[[オシリス・レックス]]」が小惑星[[ベンヌ (小惑星)|ベンヌ]]に到着<ref>{{Cite web |url=https://solarsystem.nasa.gov/missions/osiris-rex/in-depth/ |title=OSIRIS-REx |access-date=20 Sep 2023 |publisher=NASA's Deep Dive Planetary Website}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1703年]]([[元禄]]16年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[松平親純]]、[[杵築藩]]主(+ [[1739年]]) * [[1714年]]([[正徳 (日本)|正徳]]4年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - [[吉川経永]]、[[岩国領]]6代領主(+ [[1764年]]) * [[1729年]] - [[アントニオ・ソレール]]、[[作曲家]](+ [[1783年]]<ref>{{Cite web |title=Antonio Soler|Spanish composer |url=https://www.britannica.com/biography/Antonio-Soler |access-date=20 Sep 2023 |publisher=Britannica}}</ref>) * [[1791年]]([[寛政]]4年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[吉川経賢]]、岩国領9代領主(+ [[1807年]]) * [[1799年]] - [[マーガレット・オニール・イートン]]、[[ジョン・ヘンリー・イートン]]の夫人(+ [[1879年]]) * [[1819年]]([[文政]]2年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[阿部正弘]]、[[幕末]]の[[老中]]、[[備後福山藩|福山藩]]主(+ [[1857年]]) * [[1830年]] - [[フレデリック・レイトン]]、[[画家]]、[[彫刻家]](+ [[1896年]]) * [[1835年]]([[天保]]6年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[小松清廉]](帯刀)、[[薩摩藩]]士、政治家(+ [[1870年]]) * [[1845年]]([[弘化]]2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[朽木為綱]]、[[福知山藩]]主(+ [[1883年]]) * [[1857年]] - [[ジョゼフ・コンラッド]]、[[小説家]](+ [[1924年]]) * [[1862年]] - [[ジュール・ランカン]]、[[政治家]]、[[ベルギーの首相|ベルギー首相]] (+ [[1934年]]) * [[1876年]] - [[木村庄之助 (20代)|20代木村庄之助]]、元大相撲立行司(+ [[1940年]]) * [[1877年]] - [[リチャード・ピアース]]、航空工学者(+ [[1953年]]) * [[1879年]] - [[永井荷風]]、小説家(+ [[1959年]]) * [[1882年]] - [[種田山頭火]]、[[俳人]](+ [[1940年]]) * [[1883年]] - [[アントン・ヴェーベルン]]、[[作曲家]](+ [[1945年]]) * [[1887年]] - [[東久邇宮稔彦王]]、旧皇族、政治家、第43代[[内閣総理大臣]](+ [[1990年]]) * [[1888年]] - [[水野仙子]]、[[作家]](+ [[1919年]]) * [[1889年]] - [[小汀利得]]、[[ジャーナリスト]]、時事評論家(+ [[1972年]]) * [[1890年]] - [[佐藤惣之助]]、[[詩人]]、[[作詞家]](+ [[1942年]]) * [[1895年]] - [[アンナ・フロイト]]、[[心理学者]](+ [[1982年]]) * [[1898年]] - [[レジナルド・ブライス]]、日本文化研究者(+ [[1964年]]) * [[1899年]] - [[池田勇人]]、政治家、第58・59・60代内閣総理大臣(+ [[1965年]]) * [[1907年]] - [[服部逸郎]]、[[作曲家]]、[[歌手]]、[[作詞家]]、元[[アナウンサー]](+ [[1973年]]) * [[1911年]] - [[ニーノ・ロータ]]、作曲家(+ [[1979年]]) * [[1921年]] - [[数原洋二]]、[[実業家]](+ [[2020年]]) * [[1922年]] - [[千頭久米夫]]、元[[プロ野球選手]] * [[1923年]] - [[ソール・ライター]]、写真家(+ [[2013年]]) * [[1924年]] - [[ジョン・バッカス]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2007年]]) * [[1925年]] - [[金大中]]、政治家、第15代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]](+ [[2009年]]) * 1925年 - [[石坂公成]]、[[免疫学者]](+ [[2018年]]) * 1925年 - [[木村庄之助 (27代)|27代木村庄之助]]、元大相撲行司(+ [[2023年]]) * [[1926年]] - [[石川清逸]]、元プロ野球選手 * [[1927年]] - [[アンディ・ウィリアムス]]、歌手(+ [[2012年]]) * [[1930年]] - [[ジャン=リュック・ゴダール]]、[[映画監督]](+ [[2022年]]) * [[1936年]] - [[川淵三郎]]、元[[サッカー選手]]、第10代[[日本サッカー協会]]会長 * [[1939年]] - [[木村朱炎]]、[[書家]] * 1939年 - [[宇多川勝太郎]]、元大相撲力士(+ [[1989年]]) * [[1940年]] - [[篠山紀信]]、[[写真家]] * 1940年 - [[木村庄之助 (31代)|31代木村庄之助]]、元大相撲行司 * [[1941年]] - [[山脇百合子]]、[[絵本作家]]、[[挿絵]][[画家]](+ [[2022年]]) * [[1942年]] - [[下河辺晴三]]、[[音楽プロデューサー]] * 1942年 - [[越智靖朗]]、元プロ野球選手 * [[1943年]] - [[富沢清司]]、元[[サッカー選手]] * [[1946年]] - [[ヨープ・ズートメルク]]、元自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手 * [[1947年]] - [[山内新一]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[ウェイン・ギャレット]]、元プロ野球選手 * 1947年 - [[松あきら]]、政治家、女優 * 1947年 - 今いくよ、漫才師([[今いくよ・くるよ]])(+ [[2015年]]) * [[1948年]] - [[オジー・オズボーン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[ブラック・サバス]]) * 1948年 - [[岡崎徹]]、元[[俳優]]、元歌手 * 1948年 - [[日森文尋]]、政治家(+ [[2022年]]) * [[1949年]] - [[路遥]]、[[小説家]](+ [[1992年]]) * [[1950年]] - [[イルカ (歌手)|イルカ]]、歌手 * [[1951年]] - [[長州力]]、プロレスラー * [[1952年]] - [[柴田光陽]]、元[[騎手]]、[[調教師]] * [[1953年]] - [[パット・パットナム]]、元プロ野球選手 * 1953年 - [[佐山展生]]、技術者、経営者、投資家、大学教授 * [[1955年]] - [[麻生よう子]]、歌手 * [[1956年]] - [[福井美恵子]]、バスケットボール選手(+ [[1980年]]) * [[1957年]] - [[岩里祐穂]]、作詞家、作家 * 1957年 - [[鐘井裕治]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[天川由記子]]、政治家 * [[1959年]] - [[遠藤察男]]、[[脚本家]] * [[1960年]] - [[ダリル・ハンナ]]、女優 * 1960年 - [[ジュリアン・ムーア]]、女優 * 1960年 - [[倉林明子]]、政治家 * [[1961年]] - [[高松信司]]、[[アニメーション監督]] * [[1962年]] - [[神保悟志]]、俳優 * 1962年 - [[久保文雄]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[カトキハジメ]]、[[メカニックデザイナー]] * 1963年 - [[神田森莉]]、[[漫画家]] * 1963年 - [[関根正明]]、俳優 * [[1964年]] - [[パンチ佐藤]]、元プロ野球選手、タレント * 1964年 - [[マルコ・テンペスト]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[1965年]] - [[カタリナ・ヴィット]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1965年 - [[アンドリュー・スタントン]]、映画監督、脚本家、プロデューサー * 1965年 - [[古田新太]]、俳優 * [[1968年]] - [[織戸学]]、[[レーシングドライバー]] * 1968年 - [[松田公太]]、政治家 * 1968年 - [[ブレンダン・フレイザー]]、俳優 * 1968年 - [[松岡圭祐]]、小説家 * [[1969年]] - [[綾瀬早智子]]、[[モデル (職業)|モデル]] * 1969年 - [[ビル・スティアー]]、ミュージシャン * [[1970年]] - [[クリスティアン・カランブー]]、元サッカー選手 * [[1971年]] - [[藤井貴彦]]、アナウンサー * [[1972年]] - [[高岡早紀]]、女優 * 1972年 - [[パトリス・アルケット]]、フィギュアスケート選手 * [[1973年]] - [[石橋晴行]]、元プロバスケットボール選手 * 1973年 - [[池田ゆい]]、タレント * [[1974年]] - [[アルベナ・デンコヴァ]]、フィギュアスケート選手 * [[1976年]] - [[岡本知高]]、ソプラニスタ * 1976年 - [[ゲーリー・グローバー]]、プロ野球選手 * 1976年 - [[シルビア・フォンタナ]]、フィギュアスケート選手 * [[1977年]] - [[笑福亭智之介]]、[[落語家]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]] * [[1978年]] - [[マット・チルダース]]、プロ野球選手 * 1978年 - [[松橋拓二]]、元プロボクサー * 1978年 - [[天野弓彦]]、画家、イラストレーター * [[1979年]] - 村田秀亮、[[お笑いタレント]]([[とろサーモン (お笑いコンビ)|とろサーモン]]) * 1979年 - [[首藤奈知子]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー * 1979年 - [[星野奏子]]、歌手、[[作詞家]] * [[1980年]] - [[壇蜜]]、タレント、女優、[[グラビアアイドル]] * 1980年 - 武田豊彦、お笑いタレント(元[[アントニオ (お笑いコンビ)|アントニオ]]) * 1980年 - [[朝比奈拓見]]、声優 * 1980年 - [[馬渕智史]]、競輪選手 * [[1981年]] - [[エドウィン・バレロ]]、[[プロボクサー]](+ [[2010年]]) * 1981年 - [[ダビド・ビジャ]]、サッカー選手 * [[1982年]] - [[マイケル・エッシェン]]、サッカー選手 * 1982年 - [[美竹涼子]]、元[[AV女優]] * 1982年 - [[マニー・コーパス]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[アレクサンダー (モデル)|アレクサンダー]]、俳優、ファッションモデル * [[1984年]] - [[横川史学]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[高井彰大]]、元騎手、調教助手 * 1984年 - [[エレーナ・ロマノフスカヤ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1984年 - [[濱野雅慎]]、元野球選手 * [[1985年]] - [[フィリッパ・ハミルトン]]、ファッションモデル * 1985年 - [[アマンダ・サイフリッド]]、女優 * [[1986年]] - [[逢笠恵祐]]、声優 * [[1987年]] - [[アリシア・サクラモーン]]、体操選手 * 1987年 - [[ジェリアール・カストロ]]、元プロ野球選手 * 1987年 - 浦井のりひろ、お笑いタレント([[男性ブランコ]]) * [[1988年]] - [[川谷絵音]]、ミュージシャン([[indigo la End]]、[[ゲスの極み乙女。]]、[[ジェニーハイ]]) * 1988年 - [[周防ゆきこ]]、元AV女優 * [[1989年]] - [[江川清音]]、気象キャスター * 1989年 - [[阿部寿樹]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[J.T.シャギワ]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[矢吹シャルロッテ]]、元グラビアアイドル * 1990年 - [[米本拓司]]、サッカー選手 * 1990年 - ガク、お笑いタレント([[真空ジェシカ]]) * [[1991年]] - [[碓井将大]]、俳優、タレント([[D-BOYS]]) * 1991年 - [[吉武怜朗]]、料理人、元俳優 * 1991年 - [[渡部やえ]]、[[演歌歌手]] * 1991年 - [[村雨美紀]]、[[札幌テレビ]]アナウンサー * 1991年 - [[矢野圭吾]]、陸上選手 * [[1992年]] - [[アヤンレ・スレイマン]]、陸上競技選手 * 1992年 - [[寺岡寛治]]、元プロ野球選手 * [[1993年]] - [[中川誠也]]、元プロ野球選手 * [[1994年]] - [[京本大我]]、アイドル([[SixTONES]]) * 1994年 - [[橋本拓哉]]、プロバスケットボール選手 * 1994年 - [[芹澤優]]、声優、アイドル([[i☆Ris]]) * 1994年 - [[増岡加奈子]]、バスケットボール選手 * [[1995年]] - [[入山杏奈]]、女優、元アイドル(元[[AKB48]]) * 1995年 - [[彩乃なな]] 、元AV女優 * 1995年 - [[水上京香]]、女優 * 1995年 - [[大竹壱青]]、[[バレーボール]]選手  * [[1996年]] - [[今川宇宙]]、女優、イラストレーター * 1996年 - [[周庭]]、[[政治活動家]] * [[1997年]] - [[涼森れむ]] 、AV女優 * 1997年 - [[廣畑敦也]]、プロ野球選手 * [[1998年]] - 井田玲音名、アイドル([[SKE48]]) * 1998年 - アーン、アイドル([[BNK48]]) * [[2002年]] - [[笠野咲藍]]、タレント * 生年不明 - [[甘束まお]]、声優 * 生年不明 - [[鈴木亜理沙]]、声優 * 生年不明 - [[古川裕隆]]<ref name="prof">{{Cite web |publisher=[[ぷろだくしょんバオバブ]] |url=http://pro-baobab.jp/men/furukawa_y/index.html |title=古川裕隆 |accessdate=20 Sep 2023}}</ref>、声優 == 忌日 == [[File:Diocletien Vaux1.jpg|thumb|271x271px|[[ディオクレティアヌス]](244 - 311)。最後の[[軍人皇帝]]である彼は、[[ドミナートゥス]](専制[[君主制]])を創始し、四分治制なる[[テトラルキア]]を導入した。また、[[キリスト教]]に対して最後の大迫害を行った。]] * [[311年]] - [[ディオクレティアヌス]]、[[ローマ皇帝]](* [[244年]]) * [[1137年]] - [[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1075年]]) * [[1490年]] - [[ジュリアーノ・ダ・マイアーノ]]、[[彫刻家]] * [[1552年]] - [[フランシスコ・ザビエル]]、[[イエズス会]]宣教師(* [[1506年]]) * [[1608年]] - [[養徳院]]、[[池田恒興]]の母、[[織田信長]]の[[乳母]](* [[1515年]]) * [[1610年]]([[慶長]]15年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[本多忠勝]]、[[武将|戦国武将]]、[[桑名藩|桑名藩主]](* [[1548年]]) * [[1823年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニ]]、[[探検家]](* [[1778年]]) * [[1839年]] - [[フレデリク6世 (デンマーク王)|フレデリク6世]]、[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]王(* [[1768年]]) * [[1848年]]([[嘉永]]元年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[坪井信道]]、蘭方医(* [[1795年]]) * [[1850年]](嘉永3年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]]) - [[高野長英]]、[[蘭学者]](* [[1804年]]) * [[1866年]] - [[ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ]]、[[作曲家]](* [[1801年]]) * [[1876年]] - [[ヘルマン・ゲッツ]]、作曲家(* [[1840年]]) * [[1882年]] - [[ジェームズ・チャリス]]、[[天文学者]](* [[1803年]]) * [[1885年]] - [[桃井春蔵]]、[[剣術|剣術家]](* [[1825年]]) * [[1886年]] - [[箕作秋坪]]、蘭学者(* [[1826年]]) * [[1890年]] - [[根岸友山]]、元[[壬生浪士]]、[[庄内藩]][[新徴組]]取締役(* [[1810年]]) * [[1894年]] - [[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]、[[小説家]](* [[1850年]]) * [[1897年]] - [[フリードリヒ・ヴィネッケ]]、天文学者(* [[1835年]]) * [[1910年]] - [[メリー・ベーカー・エディ]]、[[クリスチャン・サイエンス]]の創立者(* [[1812年]]) * [[1919年]] - [[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[画家]](* [[1841年]]) * [[1920年]] - [[ウィリアム・アブニー]]、天文学者、[[化学者]](* [[1843年]]) * [[1929年]] - [[多忠亮]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](* [[1895年]]) * [[1931年]] - [[花井卓蔵]]、[[弁護士]](* [[1868年]]) * 1931年 - [[フランク・キレン]] 、プロ野球選手(* [[1870年]]) * [[1935年]] - [[ミルマン・パリー]]、[[叙事詩|叙事詩学者]](* [[1902年]]) * [[1937年]] - [[高田早苗]] 、元[[文部大臣]]、[[早稲田大学]]総長(* [[1860年]]) * [[1938年]] - [[ガイ・ヘッカー]]、[[プロ野球選手]](* [[1856年]]) * [[1941年]] - [[クリスティアン・シンディング]]、作曲家(* [[1856年]]) * 1941年 - [[パーヴェル・フィローノフ]]、[[画家]]、美術理論家(* [[1883年]]) * [[1942年]] - [[ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル]]、作曲家(* [[1867年]]) * 1942年 - [[ヘンナー・ヘンケル]]、[[テニス]]選手(* [[1915年]]) * [[1948年]] - [[式守伊之助 (16代)]]、[[大相撲]]の[[立行司]](* [[1892年]]) * [[1956年]] - [[アレクサンドル・ロトチェンコ]]、画家、[[写真家]]、[[デザイナー]](* [[1891年]]) * [[1965年]] - [[河上丈太郎]]、[[政治家]](* [[1889年]]) * [[1969年]] - [[長谷部言人]]、[[人類学|人類学者]](* [[1882年]]) * [[1975年]] - [[鹿島守之助]]、[[実業家]]、[[参議院議員]](* [[1896年]]) * [[1977年]] - [[ルドルフ・コンフナー]]、[[工学者]]、[[物理学者]](* [[1909年]]) * [[1978年]] - [[ウィリアム・グラント・スティル]]、作曲家(* [[1895年]]) * [[1979年]] - [[張国涛]]、[[中国共産党]]創立初期の幹部(* [[1897年]]) * [[1980年]] - [[オズワルド・モズリー]]、[[ファシズム]]運動指導者(* [[1896年]]) * 1980年 - [[板沢峰生]]、プロ野球選手(* [[1961年]]) * [[1986年]] - [[川島四郎]]、[[栄養学|栄養学者]](* [[1895年]]) * 1986年 - [[武田文吾]]、元[[騎手]]、[[調教師]](* [[1907年]]) * 1986年 - [[東君平]]、[[絵本作家]]、[[童話作家]](* [[1940年]]) * [[1988年]] - [[清水宗徳 (神道家)|清水宗徳]]、[[老荘思想]]研究家(* [[1910年]]) * [[1993年]] - [[磯田一郎]]、実業家、[[日本経済団体連合会|経団連]]副会長(* [[1913年]]) * 1993年 - [[マルケス・ブラウンリー]]、[[YouTuber]]、[[アルティメット]]選手 * [[1996年]] - [[バブラク・カールマル]]、[[政治家]]、[[アフガニスタン]]革命評議会議長(* [[1929年]]) * [[1999年]] - [[スキャットマン・ジョン]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1942年]]) * 1999年 - [[マデリーン・カーン]]、[[俳優|女優]](* [[1942年]]) * [[2000年]] - [[小平忠]]、[[政治家]](* [[1915年]]) * 2000年 - [[福田純]]、[[映画監督]](* [[1923年]]) * [[2002年]] - [[グレン・クイン]]、俳優(* [[1970年]]) * [[2003年]] - [[フェリックス・カスパー]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1915年]]) * 2004年 - [[陳省身]]、[[数学者]]、教育家、[[中国科学院]]外国人院士(* [[1911年]]) * [[2005年]] - [[鎌田要人]]、政治家、元[[鹿児島県知事一覧|鹿児島県知事]](* [[1921年]]) * 2005年 - [[川崎寛治]]、元[[日本社会党]][[衆議院議員]](* [[1922年]]) * 2005年 - [[田中敦子 (画家)|田中敦子]]、画家(* [[1932年]]) * [[2006年]] - [[大森健次郎]]、[[映画監督]](* [[1933年]]) * 2006年 - [[竹中省吾]]、[[裁判官]](* [[1942年]]) * [[2008年]] - [[オリバー・セルフリッジ]]、[[人工知能]]研究者(* [[1926年]]) * [[2012年]] - [[小月冴子]]、女優(* [[1922年]]) * [[2013年]] - [[青山純]]、[[ドラマー]](* [[1957年]]) * [[2016年]] - [[ハーブ・ハーデスティ]]、ミュージシャン(* [[1925年]]) * [[2018年]] - [[金鉄万]]、[[軍人]]、[[政治家]](* [[1920年]]) * [[2020年]] - [[花村えい子]]、[[漫画家]](* [[1929年]]) * 2020年 - [[一龍斎貞水#6代目|6代目一龍斎貞水]]、[[講談師]](* [[1939年]]) * 2020年 - [[アンドレ・ギャニオン]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]、[[編曲家]](* [[1936年]]) * [[2021年]] - [[八奈見乗児]]、[[声優]](* [[1931年]]) * 2021年 - [[新井満]]、作家、作詞家、作曲家(* [[1946年]]) == 記念日・年中行事 == * [https://sites.google.com/view/world-japanese-macaque-day 世界ニホンザルの日] *: ニホンザルの魅力を知り、関心を高め、保全や福祉について考える日。1948年12月3日、宮崎県の幸島で京都大学の今西錦司らが初めてサルの調査をおこなったことにちなみ、[https://www.j-monkey.jp/ 公益財団法人日本モンキーセンター]が呼びかけて、2021年より12月3日を「世界ニホンザルの日」とした。日本モンキーセンターをはじめ、各地の動物園等でニホンザルに関するポスター掲示やイベントがおこなわれる。 * [[国際障害者デー]] *: [[1992年]]の国連総会で制定された[[国際デー]]。[[1982年]]のこの日に「障害者に関する世界行動計画」が国連総会で採択されたことを記念。 * 国際[[バスク語]]の日 * [[カレンダー]]の日({{JPN}}) *: [[太陽暦]]採用に伴って[[明治]]5年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]([[旧暦]])が明治6年([[1873年]])[[1月1日]]となったことに由来し、全国団扇扇子カレンダー協議会が[[1987年]]に制定。 * [[奇術]]の日({{JPN}}) *: 奇術を行う際の掛け声「ワン、ツー、スリー」にちなんで[[日本奇術協会]]が[[1990年]]に制定。 * 妻の日({{JPN}}) *: 1年間の妻の労をねぎらう日。1年の最後の月である12月と、感謝を表す「サン(3)クス(Thanks)」の語呂合わせに由来する。[[1995年]]に[[凸版印刷]]が制定。 * みかんの日({{JPN}}) *: 全国果実生産出荷安定協議会と[[農林水産省]]が制定。[[11月3日]]と12月3日。 *秩父夜祭({{JPN}}) *: [[埼玉県]][[秩父市]]の[[秩父神社]]の例大祭。[[祇園祭|京都祇園祭]]、[[高山祭|飛騨高山祭]]と共に日本三大曳山祭の1つに数えらており、2016年には[[ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された。[[江戸時代]]の寛文年間(1661~72)には祭りが存在していた記録があり、300年余りの歴史がある。 *: [[12月2日]]が宵宮で、12月3日が大祭。笠鉾2基と屋台4基の山車が、まちなかを曳き回る<ref>{{Cite web |url=http://www.chichibuji.gr.jp/event/yomatsuri/ |title=秩父夜祭(宵宮・大祭) |access-date=22 Sep 2023 |publisher=一般社団法人 秩父観光協会}}</ref>。 *諸手船神事({{JPN}}) *: [[島根県]][[松江市]][[美保関町]]の[[美保神社]]で齋行される神事。 *: [[大国主|大国主命]]が国譲りの際に、美保神社の祭神・[[事代主|事代主命]](恵比須様)に諸手船で使者を送ったという[[古事記]]などの故事にちなみ、毎年この日に行なわれる。「青柴垣神事」と並ぶ美保神社2大神事のひとつで、厳寒の美保関港から、2槽の古代船に乗り込んだ白装束の氏子たちが海へと漕ぎ出していく。氏子たちは対岸の社の下を折り返すと岸まで競争し、到着後は櫂で激しく海水を掛け合い、大国譲りの様子を再現する<ref>{{Cite web |url=http://furusato.sanin.jp/p/osusume/season/105/ |title=美保神社の2大神事の一つ「諸手船神事」  その神事に伴う「神賑わい・ホーライッチャ」参加者募集 |access-date=22 Sep 2023 |publisher=山陰ポータルサイト運営会議 |website=山と海と湖のシンフォニー 神々のふるさと 山陰}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.yonago-navi.jp/materials/view/festival-event/1236/ |title=諸手船神事 (もろたぶねしんじ) |access-date=22 Sep 2023 |publisher=米子市観光協会 |website=米子観光ナビ}}</ref>。 *[[天智天皇]]忌({{JPN}}) *: 天智天皇は、天智天皇10年12月3日(672年[[1月7日]])、[[近江大津宮]]で崩御。若き頃、中大兄皇子として[[蘇我入鹿]]を殺害する[[大化の改新]]を断行した。朝鮮半島へ出兵し、[[白村江の戦い]]で大敗を喫した後、[[唐]]・[[新羅]]連合軍の侵略を恐れて、[[飛鳥]]から内陸部の[[近江大津宮]](現在の[[滋賀県]][[大津市]])へ遷都。日本最古の全国的な戸籍「[[古代日本の戸籍制度|庚午年籍]]」の整備や、時計([[水時計|漏刻]]という水時計)を作ったことでも知られる。 *: 陵は、京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(御廟野古墳)<ref>{{Cite web |url=https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=2494 |title=天智天皇 山科陵(御廟野古墳) |access-date=21 Sep 2023 |publisher=京都市観光協会}}</ref>。皇紀2600年を記念して、昭和15年([[1940年]])に創建された[[近江神宮]]は天智天皇を祭神とする<ref>{{Cite web |url=https://oumijingu.org/ |title=近江神宮 |access-date=21 Sep 2023 |publisher=近江神宮}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1203|date=Sep 2023}} * 1970年 - ダンと[[猫]]のピートが「夏への扉」を探している。(小説『[[夏への扉]]』第1章) * 2018年 - スーパータイムジャッカー・ティードが平成ライダーの歴史を消そうと暗躍を始める。やがて自らが支配者として君臨するための城を築き、あらゆる怪人達を街に解き放つ。(映画『[[平成仮面ライダー20作記念 仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1974年]] - 山田直道、漫画『[[はじめの一歩]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ippo_fs|1327174369592942592}}</ref> * [[1982年]] - グイード・ミスタ 、漫画・アニメ『[[黄金の風|ジョジョの奇妙な冒険 Parte5 黄金の風]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title= [[ジョジョの奇妙な冒険]] |volume=62|page=86|author=荒木飛呂彦|authorlink=荒木飛呂彦|publisher=[[集英社]]|date=1999-03-04|isbn=978-4-08-872680-9}}</ref> * [[1994年]] - スーパー32X、メディアミックス『[[セガ・ハード・ガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://shg.sega.jp/chara.html |title=キャラクター スーパー32X |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『セガ ハード・ガールズ』}}</ref> * [[2007年]] - 貞任綾乃、小説・漫画・アニメ『[[りゅうおうのおしごと!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[りゅうおうのおしごと!]]|volume=4|author=白鳥士郎|authorlink=白鳥士郎|publisher=[[SBクリエイティブ]]|page=67|isbn=978-4-7973-8818-3}}</ref> * [[2035年]] - ジェット・ブラック、アニメ『[[カウボーイビバップ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.cowboy-bebop.net/character/index.html#chara2 |title=ジェット・ブラック |accessdate=20 Sep 2023 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]・[[ボンズ (アニメ制作会社)|ボンズ]]・[[バンダイビジュアル]] |work=『カウボーイビバップ』}}</ref> * 2171年 - 華原涼太、ゲーム・漫画『[[はーとふる彼氏]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=はーとふる彼氏 公式ファンブック|publisher=[[一迅社]]|date=2012-10-05|isbn=978-4-7580-1280-5}}</ref> * 2282年 - 弓岡かえで/アイドルのかえで、ゲーム『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/yuna3/char/kaede.html|title=銀河お嬢様伝説ユナ:キャラクター紹介:弓岡かえで|date=20100923090847}}</ref> * 生年不明 - 宮内れんげ、漫画・アニメ『[[のんのんびより]]』の主人公<ref>{{Cite web |url=https://nonnontv.com/tvanime/character/ |title=宮内れんげ |accessdate=20 Sep 2023 |publisher=[[あっと]]・[[KADOKAWA]]刊/ 旭丘分校管理組合三期 |work=『のんのんびより』}}</ref> * 生年不明 - 織原姫、小説『[[ちょっぴり年上でも彼女にしてくれますか?|ちょっぴり年上でも彼女にしてくれますか?]]』のヒロイン<ref>{{Twitter status|nozomikota|1069550125981134850}}</ref> * 生年不明 - 秩父美祭、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://onsen-musume.jp/character/chichibu_matsuri |title=秩父美祭 |access-date=20 Sep 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - パパドプーロス・エヴァゲロス、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1334151608016531459}}</ref> * 生年不明 - 水戸部凛之助、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1201520120595509248}}</ref> * 生年不明 - 天羽月彦、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1334151594108129294}}</ref> * 生年不明 - マーリン、漫画・アニメ『[[七つの大罪 (漫画)|七つの大罪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|7_taizai|1334150339562496003}}</ref> * 生年不明 - 乙夜影汰、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BLUELOCK_WM|1466422032539738130}}</ref> * 生年不明 - 小阪ちひろ、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=若木民喜|authorlink=若木民喜|title=神のみぞ知るセカイ公式ガイドブック|year=2013|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4091244512|page=48}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=神のみぞ知るセカイ |date=22 Apr 2009 |publisher=[[小学館]] |page=189 |isbn=978-4-09-122004-2 |author=[[若木民喜]] |volume=4}}</ref> * 生年不明 - 三千院ナギ、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』のヒロイン<ref>{{Cite web |url=http://hayatenogotoku.com/chara/index.html |title=生徒名簿 三千院ナギ |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[畑健二郎]]/[[小学館]]・白皇学院生徒会・[[テレビ東京]] |work=『ハヤテのごとく!! 』}}</ref> * 生年不明 - 射手座のシジフォス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1598875033920671745}}</ref> * 生年不明 - アシェアブルカ=フアジャール14世、漫画『[[エレメンタル ジェレイド|EREMENTAR GERAD -蒼空の戦旗-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=東まゆみ|authorlink=東まゆみ|title=エレメンタルジェレイド アルティメットガイド|year=2009|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|isbn=978-4-86127-616-3|page=92}}</ref> * 生年不明 - 遠山りん、漫画・アニメ『[[NEW GAME!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |work=『NEW GAME!』 |url=http://newgame-anime.com/character/ |title=Character 遠山りん |accessdate=20 Sep 2023 |publisher=[[得能正太郎]]・[[芳文社]]/NEW GAME!製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 傘木希美、小説・アニメ『[[響け! ユーフォニアム|響け!ユーフォニアム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|anime_eupho|1466605505695330307}}</ref> * 生年不明 - 左衛門佐、アニメ『[[ガールズ&パンツァー|ガールズ&パンツァー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|garupan_app|1069461197915750400}}</ref> * 生年不明 - アントニオ・ロペス、アニメ『[[TIGER & BUNNY]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|TIGERandBUNNY|1598829367051829250}}</ref> * 生年不明 - 清川望、ゲーム『[[ときめきメモリアル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=ときめきメモリアルオフィシャルイラスト集|isbn=978-4-19-825112-3|publisher=[[徳間書店インターメディア]]|date=1996年4月|page=52}}</ref> * 生年不明 - 島田泉、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://app.famitsu.com/20130621_178896/ |title=【ガールフレンド(仮)通信64】マジカル☆リリカル手品ガール 島田泉ちゃん |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=21 Jun 2013 |website=ファミ通App}}</ref> * 生年不明 - 椿、ゲーム『[[閃乱カグラ NewWave]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.marv.jp/product/kagura_nw/character/tsubaki.php |title=椿 |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[マーベラス (企業)|Marvelous Inc.]] |work=『閃乱カグラ NewWave Gバースト』}}</ref> * 生年不明 - 冴草きい、ゲーム・アニメ『[[アイカツ! (アニメ)|アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aikatsu.net/02/character/09.html |title=冴草 きい |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツ!』}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=アイカツ! アイドル名鑑|author1=サンライズ(企画・原作)|authorlink1=サンライズ (アニメ制作ブランド)|author2=バンダイ(原案)|authorlink2=バンダイ|author3=サンライズ|author4=バンダイ(監修)|publisher=[[小学館]]|year=2014|page=62|isbn=978-4-09-280501-9}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#野々原茜|野々原茜]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30026 |title=野々原 茜(ののはら あかね) |access-date=20 Sep 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - ジョーカー、ゲーム『[[ファイアーエムブレムif]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 西条緋文、ゲーム『[[タユタマ2 -you're the only one-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://www.lumpofsugar.co.jp/product/tayutama2/character/character002.html |title=西条緋文 |accessdate=20 Sep 2023 |publisher=[[Lump of Sugar]] |work=『タユタマ2 -you're the only one-』}}</ref> *生年不明 - 御影密、ゲーム・アニメ『[[A3!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.a3-liber.jp/character/ |title=〔冬組〕御影 密 |accessdate=20 Sep 2023 |publisher=[[リベル・エンタテインメント|Liber Entertainment Inc.]] |work=『A3!』}}</ref> *生年不明 - 早坂あかり、メディアミックス『[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://honeyworks.jp/special/#character |title=Character 早坂 あかり |publisher=[[HoneyWorks]] |accessdate=20 Sep 2023 |work=『告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|3 December}} {{新暦365日|12|2|12|4|[[11月3日]]|[[1月3日]]|[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]|1203|12|03}} {{1年の月と日}}
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研究
研究(けんきゅう、英: research リサーチ)とは、ある特定の物事について、人間の知識を集めて考察し、実験、観察、調査などを通して調べて、その物事についての事実あるいは真理を追求する一連の過程のことである。語義としては「研ぎ澄まし究めること」の意。 研究と称される行為の目的は多種多様であり、自明に求められる成果は目的によって異なる。 学術的な研究の目的は、突き詰めれば新しい事実や解釈の発見である。それゆえ研究の遂行者は、得られた研究成果が「新しい事実や解釈の発見」であることを証明するために、それが先行研究によってまだ解明されていないこと(新規性)も示す必要がある。また、自身の研究成果が新しい発見であることを他の研究者によって認めてもらうためには、学会や査読付き論文などにおいて研究成果を公表しなければならない。もしどんなに優れた研究成果が得られても、それが他の研究者によってすでに明らかにされていたとすれば、精度のよしあし、方法/条件、解釈等に差異がない場合には、原則としてその研究は「無価値」に等しいとされる可能性がある。 逆に言えば、これらに違いがあれば素人目には同じに見えるかもしれない研究成果いずれもが、新規な成果として評価される場合もある。例えば原子分解能での物質の測定は、電子顕微鏡でも、走査型トンネル顕微鏡でも、原子間力顕微鏡でも達成されているが、いずれの研究も極めて高い評価を得ている。また、誰にも知られず埋没していた研究と同じ成果が、誰かに「再発見」されることによって、その分野の研究に大きく貢献したり、評価されたりすることはある。代表例としてメンデルの法則やガロア理論などがある。また、ほぼ同時に同じ研究成果を挙げたり、あるいは異なる分野で独立に研究されていたものが、後に同じ研究成果であると判明した場合など、「独立して」研究がなされたと見なされる場合も同様である。 逆に、たとえ先行研究であっても、たとえば研究会のみで発表して論文として発表していなかった場合、あるいは発表が遅れた場合などは、その研究が先行した研究と認知されない場合もある(代表例として内山龍雄のゲージ理論などがある)。 上記のように誰かの先行研究と自身の研究内容が重複しないようにするためや、また過去にいかなる研究が行われ、いかなる論証・プロセスを経て現在の学説や理論が構築されてきたかを理解するため、先行研究(論文)を次々に読み、時系列的に整理していく作業を「研究史の整理」と言う。これは過去の研究成果を踏まえて新規性のある研究テーマを見出だし、また自身の研究を、今ある研究体系の中に位置付けしていく上で極めて重大な意味をもつ。 研究の分類は多種多様であり、厳密に区分することはできないが、大まかな分類には以下のようなものがある。 独自研究は、一次研究とも呼ばれ、研究の主題に関する以前の出版物の要約、レビュー、または合成に基づくものではない研究のことである。作成された資料は、一次資料となる。一次研究の目的は新しい知識を生み出すことであり、既存の知識を新しい形(要約または分類)で提示することではない。 独自研究は、それが関係する規律に応じて、いくつかの形態を取る。実験では、通常、例えば、実験室などで、研究対象の直接的・間接的な観察を行い、実験、方法論、結果、および結論を文書化する。または以前の結果の新しい解釈を提供する。分析作業では、一般に、新しい (たとえば) 数学的な結果が生成されたり、既存の問題にアプローチする新しい方法が作成される。この種の実験や分析を行わない分野においては、研究者の研究の結果に基づいて既存の理解が変化または再解釈される特定の方法が独創性であると解釈される。 研究の独創性の程度は、学術雑誌に掲載される記事の主要な基準の一つであり、通常は査読によって確立される。大学院生は、論文の一部として、独自研究を行うことが一般的である。 科学研究は、データを収集し、好奇心を満たすための体系的な方法である。この研究は、自然現象や世界の特性を説明のための科学的な情報と理論を提供する。科学研究は実用的な応用を可能とする。科学研究には、公的機関、慈善団体、多くの企業を含む民間団体が資金を提供している。科学研究は、学問や応用分野に応じて、様々な分類に細分化することができる。科学研究の内容は、学術機関の立場を判断するために広く使用されている基準であるが、研究の質は必ずしも教育の質につながらないため (相関関係が常にあるわけではない) 、不正確な評価であるとの主張もある。 人文科学研究は、例えば、神秘学や記号論などの異なる方法を含む。人文科学者は通常、質問に対する究極の正解を探すのではなく、それを取り巻く問題と詳細を探る。文脈は常に重要であり、文脈は社会的、歴史的、政治的、文化的、または民族的であり得る。人文科学研究の一例は、歴史的手法で具体化された歴史的研究である。歴史家は、一次情報源やその他の証拠を使用して、トピックを体系的に調査し、過去の歴史を記述する。他の研究は、特にこれらを説明する理由や動機を探すことなく、社会や地域社会における行動の発生を調べることを目的としている。これらの研究は定性的または定量的であり、クィア理論やフェミニスト理論のような様々なアプローチを使用することができる。 芸術研究は、"実践に基づく研究" とも言われ、創作作品を研究対象とする場合である。それは知識と真実を探す研究において純粋な科学的方法に代わる手法である。 研究を、作業工程という観点から考えた場合、基礎研究、応用研究の別によらず大雑把に言えば「研究とは仮説の構築とその検証、再評価の延々たる繰り返し」である。 「一つの研究」に着目して考えると「一つの研究」の各段階は、概ね「計画、実行、評価」の流れで見ることが出来、より詳しくは以下の要素からなっていると考えることが出来る。このように研究の過程が構造化されていることは、研究結果の公表物であるところの論文がIMRADのように構造化されているのとよく似ている。しかしながら、「論文におけるIMRADのような略称」は今のところない。 高等学校向けの理科の検定教科書の課題研究の項や、各大学の学生実験の指導書等、研究の初心者あるいはそれ未満のレベルの人を対象とした人向けの教育課程では研究の過程として「『(1)→(2)→(3)→(4)→(5)→(6)→(1)』のループを何度か繰り返したあと、(7)に至る」などといった極めてオーソドックスな流れを解説している。ただし、理科の検定教科書間でも記述に若干の違いがあり、執筆者の個性が伺われる。ただし、どの教科書においても概ね「要素」としてあげているものは上の(1)~(7)で尽きている。問題は、一部の要素が結合されていたり、省略されていたり、より細分化されていたり、ループさせる/させないの違いだけである。特に、「得られた結果と実際の予想とが大きく食い違うこと」は、課題研究や学生実験では起こりにくく、また、そのような“変則的”(実際には“変則”でないほうがおかしいのだが)な事態に対処できるレベルは意外に高いという考えから、「研究結果をフィードバックさせる」というトレーニングをするか否かに大きな違いが現れる。また、(8)-(10)は、学生実験や高等学校の課題研究レベルでは問題になることが殆ど全くなく、検定教科書には解説されていない。 これらの要素をどのようにつなげるのか、どのように偶然的な要素や目標の現実とのズレを実際の研究計画にフィードバックするのかは、研究者の腕や個性、場合によっては価値観や感性にかかわってくる問題である。その意味では、必ずしも実際の研究の現場では必ずしも各要素を直線的に実行する(「『(1)→(2)→(3)→(4)→(5)→(6)→(1)』のループを何度か繰り返したあと、(7)に至る」といった具合に)わけではなく、そうあるべきとも限らない。 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研究とは、ある特定の物事について、人間の知識を集めて考察し、実験、観察、調査などを通して調べて、その物事についての事実あるいは真理を追求する一連の過程のことである。語義としては「研ぎ澄まし究めること」の意。
{{出典の明記|date=2016年7月7日 (木) 11:24 (UTC)}} [[File:Ascolto con idrofono.jpg|thumb|両生類について研究している様子]] '''研究'''(けんきゅう、''{{lang-en-short|research}}'' リサーチ)とは、ある特定の[[物事]]について、[[人間]]の[[知識]]を集めて考察し、[[実験]]、[[観察]]、[[調査]]などを通して調べて、その物事についての[[事実]]あるいは[[真理]]を追求する一連の[[過程]]のことである。[[語義]]としては「研ぎ澄まし究めること」の意。 == 目的 == 研究と称される行為の[[目的]]は多種多様であり、自明に求められる成果は目的によって異なる。 === 学術的研究 === 学術的な研究の目的は、突き詰めれば新しい[[事実]]や[[解釈]]の[[発見]]である。それゆえ研究の遂行者は、得られた研究成果が「新しい事実や解釈の発見」であることを[[証明#一般用法|証明]]するために、それが[[先行研究]]によってまだ解明されていないこと([[新規性]])も示す必要がある。また、自身の研究成果が新しい発見であることを他の[[研究者]]によって認めてもらうためには、[[学会]]や[[査読]]付き[[論文]]などにおいて研究成果を公表しなければならない。もしどんなに優れた研究成果が得られても、それが他の研究者によって'''すでに明らかにされていたとすれば'''、'''精度のよしあし、方法/条件、解釈等に差異がない場合には'''、原則としてその研究は「'''無価値'''」に等しいとされる可能性がある。 逆に言えば、これらに違いがあれば素人目には同じに見えるかもしれない研究成果いずれもが、新規な成果として評価される場合もある。例えば原子分解能での物質の測定は、[[電子顕微鏡]]でも、[[走査型トンネル顕微鏡]]でも、[[原子間力顕微鏡]]でも達成されているが、いずれの研究も極めて高い評価を得ている。また、誰にも知られず埋没していた研究と同じ成果が、誰かに「再発見」されることによって、その分野の研究に大きく貢献したり、評価されたりすることはある。代表例として[[メンデルの法則]]や[[ガロア理論]]などがある。また、ほぼ同時に同じ研究成果を挙げたり、あるいは異なる分野で独立に研究されていたものが、後に同じ研究成果であると判明した場合など、「独立して」研究がなされたと見なされる場合も同様である。 逆に、たとえ先行研究であっても、たとえば[[研究会]]のみで発表して論文として発表していなかった場合、あるいは発表が遅れた場合などは、その研究が先行した研究と認知されない場合もある(代表例として[[内山龍雄]]の[[ゲージ理論]]などがある)。 ===研究史の整理=== 上記のように誰かの[[先行研究]]と自身の研究内容が重複しないようにするためや、また過去にいかなる研究が行われ、いかなる論証・プロセスを経て現在の学説や理論が構築されてきたかを理解するため、先行研究(論文)を次々に読み、時系列的に整理していく作業を「[[研究史]]の整理」と言う。これは過去の研究成果を踏まえて新規性のある研究テーマを見出だし、また自身の研究を、今ある研究体系の中に位置付けしていく上で極めて重大な意味をもつ{{Sfn|Howard|2012|pp=199-220}}{{Sfn|村上|2019|pp=31-79}}{{Sfn|村上|2019|pp=167-182}}。 ===その他=== * [[卒業研究]] == 分類 == 研究の分類は多種多様であり、厳密に区分することはできないが、大まかな分類には以下のようなものがある。 {| class="wikitable" |- ![[基礎研究]] |特別な応用や用途を考慮せず、新たな法則や定理などの「発見」を目的にして行われる研究。純粋研究とも呼ばれ、応用研究の核となる。 |- !応用研究 |基礎研究の成果を応用し、特定の目標を定め、実用化の可能性を確認する研究。すでに実用化されている方法に関して、新たな応用方法を探索する研究も含む。 |- !開発研究 |基礎研究および応用研究の成果を利用し、科学技術(装置、製品、システム、工程など)の創出を目指す研究。既存の科学技術の改良を目的とする研究も指す。 |} == 形態 == === 独自研究 === {{Otheruses||Wikipediaの編集方針|Wikipedia:独自研究は載せない}} '''独自研究'''は、'''一次研究'''とも呼ばれ、研究の主題に関する以前の出版物の要約、レビュー、または合成に基づくものではない研究のことである。作成された資料は、[[一次資料]]となる。一次研究の目的は新しい[[知識]]を生み出すことであり、既存の知識を新しい形(要約または分類)で提示することではない<ref>{{cite web|title=What is Original Research? Original research is considered a primary source |url=http://www.unf.edu/library/guides/originalresearch.html|publisher=Thomas G. Carpenter Library, University of North Florida|access-date=9 August 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20110709085129/http://www.unf.edu/library/guides/originalresearch.html|archive-date=9 July 2011}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=XlIH4R9Z_k8C&pg=PT75|title=Schaum's Quick Guide to Writing Great Research Papers|first=Laurie|last=Rozakis|date=2007|publisher=McGraw Hill Professional|via=Google Books|isbn=978-0071511223}}</ref>。 独自研究は、それが関係する規律に応じて、いくつかの形態を取る。実験では、通常、例えば、実験室などで、研究対象の直接的・間接的な観察を行い、実験、方法論、結果、および結論を文書化する。または以前の結果の新しい解釈を提供する。[[分析]]作業では、一般に、新しい (たとえば) 数学的な結果が生成されたり、既存の問題にアプローチする新しい方法が作成される。この種の実験や分析を行わない分野においては、[[研究者]]の研究の結果に基づいて既存の理解が変化または再解釈される特定の方法が独創性であると解釈される<ref>{{cite web |url=http://www.aare.edu.au/09pap/li091380.pdf |title=Early career researcher originality: Engaging Richard Florida's international competition for creative workers |first=Michael |last=Singh |author2=Li, Bingyi |date=6 October 2009 |publisher=Centre for Educational Research, University of Western Sydney |page=2 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110410083715/http://aare.edu.au/09pap/li091380.pdf |archive-date=10 April 2011 |url-status=live |access-date=12 January 2012 |df=dmy-all }}</ref>。 研究の独創性の程度は、[[学術雑誌]]に掲載される記事の主要な基準の一つであり、通常は[[査読]]によって確立される<ref>{{Cite journal |last1=Callaham |first1=Michael |last2=Wears|first2= Robert|last3=Weber|first3=Ellen L. |title=Journal Prestige, Publication Bias, and Other Characteristics Associated With Citation of Published Studies in Peer-Reviewed Journals |journal=JAMA |volume=287 |issue=21 |pages=2847–50 |year=2002 |doi=10.1001/jama.287.21.2847|pmid=12038930 |doi-access=free }}</ref>。[[大学院生]]は、[[論文]]の一部として、独自研究を行うことが一般的である<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=oFFWt5oyA3oC&q=%22original+research%22&pg=PA178|title=Occupational Outlook Handbook, 2006–2007 edition|author=US Department of Labor|date=2006|publisher=Mcgraw-hill|via=Google Books|isbn=978-0071472883}}</ref>。 === 科学研究 === '''科学研究'''は、データを収集し、[[好奇心]]を満たすための体系的な方法である。この研究は、[[自然現象]]や世界の特性を説明のための[[科学|科学的]]な情報と理論を提供する。科学研究は実用的な応用を可能とする。科学研究には、公的機関、慈善団体、多くの企業を含む民間団体が資金を提供している。科学研究は、学問や応用分野に応じて、様々な分類に細分化することができる。科学研究の内容は、学術機関の立場を判断するために広く使用されている基準であるが、研究の質は必ずしも教育の質につながらないため (相関関係が常にあるわけではない) 、不正確な評価であるとの主張もある<ref>{{cite journal | url = http://marketing.wharton.upenn.edu/documents/research/Business%20School%20Prestige.pdf | title = Business School Prestige: Research versus Teaching | author1 = J. Scott Armstrong | author2 = Tad Sperry | name-list-style = amp | journal = Energy & Environment | volume = 18 | issue = 2 | pages = 13–43 | year = 1994 | access-date = 8 December 2011 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100620223714/http://marketing.wharton.upenn.edu/documents/research/Business%20School%20Prestige.pdf | archive-date = 20 June 2010 | url-status = dead | df = dmy-all |accessdate=2020-12-21}}</ref>。 {{main|科学的方法}} === 人文科学研究 === '''人文科学研究'''は、例えば、[[神秘学]]や[[記号論]]などの異なる方法を含む。人文科学者は通常、質問に対する究極の正解を探すのではなく、それを取り巻く問題と詳細を探る。文脈は常に重要であり、文脈は社会的、歴史的、政治的、文化的、または民族的であり得る。人文科学研究の一例は、[[歴史学研究法|歴史的手法]]で具体化された歴史的研究である。歴史家は、[[一次情報源]]やその他の[[証拠]]を使用して、トピックを体系的に調査し、過去の歴史を記述する。他の研究は、特にこれらを説明する理由や動機を探すことなく、社会や地域社会における行動の発生を調べることを目的としている。これらの研究は定性的または定量的であり、[[クィア理論]]や[[フェミニスト]]理論のような様々なアプローチを使用することができる<ref name="Roffee 4–22">{{Cite journal|last1=Roffee|first1=James A|last2=Waling|first2=Andrea|date=18 August 2016|title=Resolving ethical challenges when researching with minority and vulnerable populations: LGBTIQ victims of violence, harassment and bullying|journal=Research Ethics|language=en|volume=13|issue=1|pages=4–22|doi=10.1177/1747016116658693|doi-access=free}}</ref>。 {{main|歴史学研究法}} === 芸術研究 === '''芸術研究'''は、"実践に基づく研究" とも言われ、創作作品を研究対象とする場合である。それは知識と真実を探す研究において純粋な科学的方法に代わる手法である。 === 文書研究 === {{main|文書研究}} == 過程 == 研究を、作業工程という観点から考えた場合、基礎研究、応用研究の別によらず大雑把に言えば「研究とは[[仮説]]の構築とその検証、再評価の延々たる繰り返し」である。 「一つの研究」に着目して考えると「一つの研究」の各段階は、概ね「計画、実行、評価」の流れで見ることが出来、より詳しくは以下の要素からなっていると考えることが出来る。このように研究の過程が構造化されていることは、研究結果の公表物であるところの論文が[[IMRAD]]のように構造化されているのとよく似ている。しかしながら、「論文におけるIMRADのような略称」は今のところない。 #予備調査、予備実験、先行研究の[[評論|レビュー]]: #:「何を調べたいのか」、「何を調べるのか」、「何を調べることが出来るのか」、「何を調べればモノになるのか?」「調べようとする問題に先人はどのように取り組んできたのか」、「調べようとする事柄を調べるにはどのような方法が検討しえるのか」を整理するために文献調査、討論、予備的な実験等を行う。 #研究目的の決定: #:これからおこなう一連の活動によってどのような問題を解決、解明しようとするのかを決定する。また、これから解決、解明しようとする問題にどのような切り口から光を当てるのか、どのような着眼点を持つのかをまとめる。 #[[仮説]]の構築: #:"(2)"で設定した問題の「仮の答え」をいくつか考える。ここでいうところの「仮の答え」は、「[[棄却]]すべきであるか否か」を「いくつかの実験事実等の事実」と「それからの推論」のみで決定できるものでなければならない(検証可能性)とされ、通常、定性的あるいは定量的な[[モデル (自然科学)|モデル]]を立てるという形をとる。 #:但し、場合によっては明確な形の仮説をおかず、「ここを調べればちょうど抜けたパズルのかけらが埋まりそうだ」といったレベルの考えで話を進めることもある(だからといって悪い結果が得られるとは限らない)。また、「どのような実験をすればどのような結果(どのような範囲、傾向の結果)が得られるのか」であるだとか、「もしこういう結果が出た場合はこういうことが考えられる」、「複数の実験および先行研究の結果を組み合わせた上でどのような知見が得られるのか」などの問題意識をよりハッキリさせるにとどまる場合がある。そのようなケースにおいては(2)の段階や(4)の段階との区別があいまいになる #(仮説検証のための)調査方法、実験方法の立案、実験の準備: #:実際に行う実験を「いつ、どこで、何をつかってどのように何を行う」といったルーチンワークレベルの作業手順におとす。必要な機材がなければ購入計画を立てるあるいは設計するあるいは自分で製作する。また、解析するための方法を検討する。解析方法、実験回数の選択などは[[統計学]]特に[[実験計画法]]に従って検討する。 #実験、調査([[データ]]の収集、データの[[解析]]): #:"(4)"で立案した計画に沿って実際の実験、調査、解析などを行い、結果を[[統計図表|グラフ]]や[[図面|図]]や[[統計図表|表]]にまとめる。適宜統計処理を行う。実験、解析などの段階においては以下の"(9)"の「偶然的な発見」が得られることがあり、また、[[誤謬]]が紛れ込む可能性も高い。その意味でこの段階は、まさに研究におけるクリティカルフェーズである。この過程では、特に[[実験ノート]]が威力を発揮する。 #考察: #:仮説、研究目的の妥当性の評価、得られたデータから予想あるいは主張できる内容の抽出、仮説の真偽判定及び修正、及びそれらに基づいた研究計画の修正などを行う。また、得られたデータや先行研究によって得られた事実にどのような文脈の中におくのかを検討する。 #研究成果発表の公表: #:学会発表・[[専門誌]]への公刊、研究室内、学内での研究報告会、[[審査会]]等。ここでもらった意見の一部は研究に[[フィードバック]]される。 #突然のひらめき: #:有名な学者の多くが、行き詰まった環境下でふと、あることに気づき、[[ブレークスルー]]に繋がったというエピソードを語る。 #偶然的な発見([[セレンディピティ]]): #:有名な学者の多くが偶然という言い方をするが、実際のところは、広く[[アンテナ]]を張り巡らし、適切な記録をとり、わずかな兆候を見逃さず、いろいろな解析処理を試せるだけの技能とチャレンジ精神を持ち、適宜研究計画にフィードバックを加えるといったことが出来るぐらいに訓練された人間以外にはなかなかこのような幸運は訪れない。 #偶然(学会、ディスカッション)などで情報にめぐり合う: #:ある[[噂]]を聞いてあわてて帰って研究室に引きこもって何かに取り付かれたように研究に取り組んだという[[逸話]]が残る先生が何人かいる。 #研究経費の獲得([[科研費]]、[[COE]]等): #:地獄の沙汰も金次第。 [[高等学校]]向けの理科の[[検定教科書]]の[[課題研究]]の項や、各大学の学生実験の指導書等、研究の初心者あるいはそれ未満のレベルの人を対象とした人向けの[[教育課程]]では研究の過程として「『(1)→(2)→(3)→(4)→(5)→(6)→(1)』のループを何度か繰り返したあと、(7)に至る」などといった極めてオーソドックスな流れを解説している。ただし、理科の検定教科書間でも記述に若干の違いがあり、執筆者の個性が伺われる。ただし、どの教科書においても概ね「要素」としてあげているものは上の(1)~(7)で尽きている。問題は、一部の要素が結合されていたり、省略されていたり、より細分化されていたり、ループさせる/させないの違いだけである。特に、「得られた結果と実際の予想とが大きく食い違うこと」は、[[課題研究]]や学生実験では起こりにくく、また、そのような“変則的”(実際には“変則”でないほうがおかしいのだが)な事態に対処できるレベルは意外に高いという考えから、「研究結果をフィードバックさせる」というトレーニングをするか否かに大きな違いが現れる。また、(8)-(10)は、学生実験や高等学校の課題研究レベルでは問題になることが殆ど全くなく、検定教科書には解説されていない。 これらの要素をどのようにつなげるのか、どのように偶然的な要素や目標の現実とのズレを実際の研究計画にフィードバックするのかは、研究者の腕や個性、場合によっては価値観や感性にかかわってくる問題である。その意味では、必ずしも実際の研究の現場では必ずしも各要素を直線的に実行する(「『(1)→(2)→(3)→(4)→(5)→(6)→(1)』のループを何度か繰り返したあと、(7)に至る」といった具合に)わけではなく、そうあるべきとも限らない。 また、優先度が物を言う研究の世界では、極端な場合過去のデータを見て突然ひらめいてそのまま発表するといった「(8)→(10)」のような話や、(6)の過程を省略し、単なる実験結果の羅列を報告するケースなど、ショートカットや省略が多々あるとされる。また、偶然の発見の決定的な証拠が取れた場合、再現実験を何度か行いながら同時平行的に「それをどのような文脈におくのか」を検討するような流れ、つまり「(9)→(1),(2),(3),(4),(5),(6)→(7)」のようなこともよくあるとされる。さらに、通常は(6)の段階でテーマの分割、整理統合が行われる場合がよくある。優れた研究者の中には、(4),(5)と(6)の間の往復に殆どに労力をつぎ込み、ある程度の結果がたまったところで、(10)に至るものもある。また、実験計画の立案や実験のみを行う人、考察のみを行う人のように分業体制で研究を行っているところもある。実験系の場合には「装置の開発」や「材料の精製」の部分のみで学士、修士、博士の学位が与えられ、場合によってはノーベル賞クラスの評価が与えられることもある。一見、「装置の開発」や「材料の精製」の部分のみを行うことは(4)の段階にのみにとどまっているように見えるが、「装置の開発」や「材料の精製」という問題自体を一つの課題として考えれば概ね上の要素に還元できる場合が殆どである。 研究を行う際に、研究者が単独で行うか (個人研究)、もしくは民間企業等の他組織の研究者及び研究経費等を受け入れて、共通の課題について共同して行うか ([[共同研究]])についても決定する。 == 手法 == [[File:NYC Public Library Research Room Jan 2006-1- 3.jpg|thumb|ニューヨーク公立図書館の研究室で[[二次調査]]が進行中の例]] [[File:Hilleman-Walter-Reed.jpeg|thumb|upright=0.55|[[モーリス・ヒレマン]]は、20世紀の優れたワクチン学者で、当時の他のどの科学者よりも多くの命を救ったとして信じられている<ref>{{cite news |author=Sullivan P |date=13 April 2005 |url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A48244-2005Apr12.html |title=Maurice R. Hilleman dies; created vaccines |work=[[The Washington Post]]}}</ref>。]] 研究プロセスの目的は、新しい知識を生み出すこと、またはトピックや問題についての理解を深める方法である。このプロセスは、3 つの主要な形式を取る (ただし、それらの間の境界が不明瞭になる可能性がある)。 * [[探索的研究]]、問題や疑問を特定し、定義するのに役立つ。 * [[発展的研究]]、理論をテストし、問題や質問の解決策を提案する。 * [[実証的研究]]、[[経験的証拠]]を用いて解決策の実現可能性をテストする 実証研究の設計にあたっては、定性的研究と定量的研究の2つの主要な種類がある。研究者は、調査したい研究トピックの性質と答えが欲しい質問に応じて、定性的または定量的な方法を選択する。 ;[[定性的研究]] :人間の行動と、行動を支配する理由を理解し、幅広い質問をしたり、言葉、画像、 ビデオなどの形でデータを収集したり、分析したり、テーマを探したりする。 ;[[定量的研究]] :定量的性質や現象、その関係を体系的に実証的に調査し、統計的手法を用いて分析する数値データを収集する。 定性的または定量的な研究において、研究者は一次または二次的なデータを収集することになる<ref name=":2" >{{Cite book|last=Eyler, Amy A., PhD, CHES.|url=https://www.worldcat.org/oclc/1202451096|title=Research Methods for Public Health|date=2020|publisher=Springer Publishing Company|isbn=978-0-8261-8206-7|location=New York|oclc=1202451096|accessdate=2020-12-21}}</ref>。 [[一次データ]]は、面接やアンケートなどで、自分で研究のために収集したデータである。[[二次データ]]は、調査に再利用できる国勢調査データなど、既に存在するデータである。研究倫理の慣行に倣うと、可能な限り二次データを使用することが望ましい<ref>Kara H. (2012). ''Research and Evaluation for Busy Practitioners: A Time-Saving Guide'', p. 102. Bristol: The Policy Press.</ref>。 '''混合研究法'''、すなわち、一次データと二次データの両方を用いた質的要素と定量的要素を含む研究が一般的になってきている<ref>Kara H (2012). ''Research and Evaluation for Busy Practitioners: A Time-Saving Guide'', p. 114. Bristol: The Policy Press.</ref>。この方法には、定性、定量のそれぞれ単独では得られない利点がある。たとえば、研究者は定性的調査を行い、定量的調査を行って追加の洞察を得ることができる<ref name="Creswell Book">{{cite book |last=Creswell |first=John W. |title=Research design : qualitative, quantitative, and mixed methods approaches |date=2014 |publisher=[[SAGE Publishing|Sage]] |location=[[Thousand Oaks]] |isbn=978-1-4522-2609-5 |url=https://books.google.com/books?id=PViMtOnJ1LcC |edition=4th}}</ref>。 [[ビッグデータ]]は研究方法に大きな影響を与え、多くの研究者がデータ収集に多くの労力を費やさないようになった<ref>{{Cite book|publisher = John Wiley & Sons, Inc.|date = 2015|isbn = 978-1118900772|first = Alex|last = Liu|doi = 10.1002/9781118900772.etrds0325|title = Emerging Trends in the Social and Behavioral Sciences|pages = 1–15|chapter = Structural Equation Modeling and Latent Variable Approaches}}</ref>。 ;非実証研究 非実証的な([[理論|理論的]])研究は、観察と実験を用いるのとは対照的に、理論の発展を伴うアプローチである。そのため、非実証研究は、既存の知識を情報源として使用する問題の解決策を模索する。しかし、これは、既存の知識のプール内で新しいアイデアや革新が見つからないことを意味しない。非実証研究は、研究アプローチを強化するために経験的研究と併用できるため、経験的研究の絶対的な代替手段ではない。どちらも科学の特定の目的を持っているので、他のものよりも効果が低いわけでもない。一般的に経験的研究は、説明する必要がある事柄の観察を行う。その後、理論的研究はそれらを説明しようとし、そうすることで経験的にテスト可能な仮説を生み出す。これらの仮説は経験的にテストされ、さらなる説明が必要な観測事項が増える、など。[[科学的方法]]を参照。 非実証タスクの簡単な例は、既存の知識の差別化されたアプリケーションを使用して新薬のプロトタイプを作成することである。もう1つは、すべての成分が確立された知識から得られたフローチャートとテキストの形でのビジネスプロセスの開発である。[[宇宙論]]研究の多くは、本質的に理論的である。[[数学]]研究は、外部から入手可能なデータに依存せず、むしろ、[[数学的対象]]に関する[[定理]]を証明しようとする。 == 研究倫理 == {{Main|[[研究倫理]]|[[研究公正]]|[[科学における不正行為]]|[[捏造 (科学)]]|剽窃}} 研究に求められる[[倫理]]。 == 研究関連の人物 == * {{ill2|研究主宰者|en|Principal investigator}}(研究室の主宰者、Principal investigator、略称:PI) ‐ 研究の責任者、研究グループのリーダー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v15/n8/気付いてないのはPIだけ?/93330 |title=気付いてないのはPIだけ? |access-date=2023-07-05 |website=www.natureasia.com |language=ja |Nature ダイジェスト |Nature Portfolio}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/011900001/17/02/09/00086/ |title=研究主宰者(PI) |access-date=2023-07-05 |last=日経バイオテクONLINE |website=日経バイオテクONLINE |language=ja}}</ref> * [[研究者]] - [[研究員]] == 関連項目 == {{Wiktionary|研究}} {{columns-list|2| *[[大量訂正 (論文)|大量訂正]] *[[先行研究]] - [[研究史]] *[[研究開発]] * [[研究所]] - [[研究室]] - [[研究会]] * [[大学]] - [[研究大学]] - [[大学院]] - [[研究科]] - [[ゼミナール]] - [[卒業論文]] * [[パラダイムシフト]] * [[科学]] - [[科学哲学]] - [[科学的方法]] * [[歴史学研究法]] * [[社会調査]] - [[市場調査]] - [[オペレーションズリサーチ]] * [[実験ノート]] * [[統計]] * [[真理]] }} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2016年7月7日 (木) 11:24 (UTC)}} *文部科学省 平成21年(2009年)度7月 高等学校学習指導要領解説 理科編[https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/29/1282000_6.pdf] *小泉治彦 著:「理科課題研究ガイドブック」[[千葉大学]][http://koudai.cfs.chiba-u.ac.jp/guidebook.html] *[[California Science Teachers Association]] [http://www.cascience.org/csta/csta.asp]による[[図解]] How science works.[https://www.cascience.org/csta/pdf/how_science_works.pdf] *{{Cite book|和書|last=Becker|first=Howard|authorlink=:en:Howard S. Becker|title=ベッカー先生の論文教室(小川芳範・訳)|chapter=文献に怯える|publisher=慶應義塾大学出版会|year=2012|date=2012-04-30|pages=199-220|isbn=9784766419375|ncid=BB08994076|ref=harv}} *{{Cite book|和書|last=村上|first=紀夫|title=歴史学で卒業論文を書くために|chapter=第3章 論文の集め方と読み方|publisher=[[創元社]]|year=2019|date=2019-09-20|pages=31-79|isbn=9784422800417|ncid=BB28929146|ref=harv}} *{{Cite book|和書|last=村上|first=紀夫|title=歴史学で卒業論文を書くために|chapter=第10章「はじめに」を書く|publisher=創元社|year=2019|date=2019-09-20|pages=167-182|isbn=9784422800417|ncid=BB28929146|ref=harv}} {{authority control}} {{デフォルトソート:けんきゆう}} [[Category:研究|*]] [[Category:アカデミックスキル]]
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研究所
研究所(けんきゅうしょ、けんきゅうじょ、英: research institute, laboratory, research center など)とは、研究などを行う組織・施設のことである。 研究所とは研究(や研究開発)、また試験、鑑定などを行うための組織(機関)であり、またその施設のことである。広義には、天文台や「農業試験所」なども含めて指している場合もある。 大学は通常、研究所に分類しないが、研究所という名称を冠した機関を持つことが多い。諸分野に関する政策立案、政策提言を主たる業務とするシンクタンクも、研究所という名称を使用しているものが多い。英語のlaboratory(ラボラトリー、ラボ)は広い範囲を示し、単に設備が整った場所も含む。このため、研究ではない既知の技術を使った分析や製造を行う施設もそう呼ばれる(写真現像、血液検査、音響解析、構造解析など)。 領域ごとに組織構成が異なる。 一般論としていえば、研究所では、研究テーマごとに各研究室に分かれ、通常は学生はいない。ここでは、技術または見習いスタッフ→研究員(または研究官)→主任研究員(または主任研究官)、室長→部長→副所長→所長という階層構造を採用している機関が多い。 ただし文部科学省所管の研究所では、大学の講座と同様に、教授、准教授、助教(または、技官や学生)により構成されている。 ここでは、研究所単体で法人となっているもののみを掲載する。
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研究所とは、研究などを行う組織・施設のことである。
'''研究所'''(けんきゅうしょ、けんきゅうじょ、{{lang-en-short|research institute, laboratory, research center}} など)とは、[[研究]]などを行う組織・施設のことである。 == 概要 == 研究所とは[[研究]](や[[研究開発]])、また[[試験]]、[[鑑定]]などを行うための[[組織]]([[機関]])であり、またその[[施設]]のことである。広義には、[[天文台]]や「農業試験所」なども含めて指している場合もある。 ;領域 :各研究所ごとに様々で、たとえば[[自然科学]]、[[人文科学]]、[[社会科学]]などの諸分野、あるいはそれらの中から細分化された特定の分野を対象にしたものが設立されている。また科学に限らず、様々な領域の研究所が存在している。 ;設立者 :設立者は特に限定されておらず、[[国際機関]]、ある国の[[中央政府]]、[[地方政府]]、[[大学]]、[[企業]]、[[財団法人|財団]]、[[個人]]など多岐に渡る。 :日本の場合、企業が企業の中に設置したものを「企業内研究所」などと呼び、個人が設置したものは「私設研究所」、政府系では日本国が設立したものを[[国立試験研究機関]]、地方自治体が設置するものを[[公設試験研究機関]]と称する。 ;タイプ、分類 :研究所の分類は、様々あり、例えば学問の種類による分類がある。また、「[[基礎研究]]」、「[[応用研究]]」という意味の分類や、予めミッションの決まった「トップダウン型」研究、研究者の自由な発想に基づく「ボトムアップ型」研究という意味の分類がされることもある。 [[大学]]は通常、研究所に分類しないが、研究所という名称を冠した機関を持つことが多い。諸分野に関する政策立案、政策提言を主たる業務とする[[シンクタンク]]も、研究所という名称を使用しているものが多い。英語のlaboratory(ラボラトリー、ラボ)は広い範囲を示し、単に設備が整った場所も含む。このため、研究ではない既知の技術を使った分析や製造を行う施設もそう呼ばれる(写真現像、血液検査、音響解析、構造解析など)。 == 世界の研究所 == === 国際機関 === {{sect-stub|section=1|date=2015年7月}} *[[国連大学サステイナビリティと平和研究所]] *[[国連訓練調査研究所]] ([[:en:UNITAR|UNITAR]]) *[[国連軍縮研究所]] ([[:en:UNIDIR|UNIDIR]]) *[[国連社会開発研究所]] ([[:en:UNRISD|UNRISD]]) *[[国連地域間犯罪司法研究所]] ([[:en:UNICRI|UNICRI]]) === イギリス === *[[キャヴェンディッシュ研究所]] *[[COMARE]] *[[イギリス国立物理学研究所]] *[[ウォーバーグ研究所]] *[[英国地質調査所]] *[[MRC分子生物学研究所]] *[[欧州バイオインフォマティクス研究所]] *[[気候研究ユニット]] *[[シティ大学ロンドン]] *[[ジョドレルバンク天体物理学センター]] *[[世界がん研究基金]] *[[タビストック人間関係研究所]] *[[薬物に関する独立科学評議会]] *[[ラザフォード・アップルトン・ラボラトリー]] *[[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント]] === フランス === *[[パスツール研究所]] *[[INSEE]] *[[IHES]] *[[IRCAM]]/[[IRCAMの関連作品一覧]] *[[Abcd協会]] *[[機械・エンジニアリング科学のための情報学研究室]] *[[キュリー研究所 (パリ)]] *[[グルノーブル原子力研究センター]] *[[原子力・代替エネルギー庁]] *[[国立自然史博物館 (フランス)]] *[[細胞分子生物学研究所]] *[[サクレー研究所]] *[[人類博物館]] *[[ソレイユ (シンクロトロン)]] *[[電子情報技術研究所]] *[[パリ天体物理学研究所]] *[[パリ都市研究所]] *[[フランス極東学院]] *[[フランス国立科学研究センター]] *[[フランス国立情報学自動制御研究所]] *[[フランス国立東洋言語文化研究所]] *[[放射線防護・原子力安全研究所]] *[[ムーズ・オート=マルヌ地層研究所]] === ドイツ === *[[アーネンエルベ]] *[[欧州分子生物学研究所]] *[[オーバーヴォルファッハ数学研究所]] *[[重イオン研究所]] *[[ドイツ電子シンクロトロン]] *[[ドイツ日本研究所]] *[[ドイツ東洋文化研究協会]] *[[フラウンホーファー協会]] *[[フリッツ・ハーバー研究所]] *[[マックス・プランク研究所]] *[[マックス・プランク進化人類学研究所]] *[[マックス・プランク地球外物理学研究所]] *[[マックス・プランク知的財産法・競争法・租税法研究所]] *[[ライプツィヒ・ドイツ文学研究所]] *[[連邦軍微生物学研究所]] *[[連邦軍放射線生物学研究所]] *[[連邦軍薬理学・毒物学研究所]] *[[ロベルト・コッホ研究所]] === アメリカ === *[[アメリカがん研究協会]] *[[アメリカ国立アレルギー・感染症研究所]] *[[アメリカ国立衛生研究所]] *[[アメリカ国立がん研究所]] *[[アメリカ国立老化研究所]] *[[アメリカ疾病予防管理センター]] *[[アメリカ大気研究センター]] *[[アメリカ地質調査所]] *[[アメリカ国立標準技術研究所]] *[[アルゴンヌ国立研究所]] *[[アレン脳科学研究所]] *[[ウィスター研究所]] *[[ウッズホール海洋研究所]] *[[ウッズホール海洋生物学研究所]] *[[SRIインターナショナル]] *[[エドウィン・O・ライシャワー日本研究所]] *[[MITコンピュータ科学・人工知能研究所]] *[[MIT人工知能研究所]] *[[MITメディアラボ]] *[[オークリッジ国立研究所]] *[[オレゴン国立霊長類研究センター]] *[[カーネギー研究所]] *[[カブリ理論物理学研究所]] *[[クレイ数学研究所]] *[[グレン研究センター]] *[[ケネディ宇宙センター]] *[[コウルズ財団]] *[[コールド・スプリング・ハーバー研究所]] *[[国立再生可能エネルギー研究所]] *[[国立生物工学情報センター]] *[[国立補完代替医療センター]] *[[サンタフェ研究所]] *[[サンディア国立研究所]] *[[ジェット推進研究所]] *[[情報科学研究所]] *[[ジョージア原子力航空機研究所]] *[[ジョンソン宇宙センター]] *[[神経科学研究所]] *[[スタンフォード人工知能研究所]] *[[SLAC国立加速器研究所]] *[[セージ・バイオネットワークス]] *[[全米経済研究所]] *[[ソーク研究所]] *[[ダナ・ファーバー癌研究所]] *[[チャールズ・スターク・ドレイパー研究所]] *[[チャールズ・バベッジ研究所]] *[[テラパワー]] *[[トーマス・J・ワトソン研究所]] *[[ニュー・アルケミー・インスティテュート]] *[[ハーバード大学フェアバンク中国研究センター]] *[[パロアルト研究所]] *[[ハワイ州立自然エネルギー研究所]] *[[ピュー研究所]] *[[ファインスタイン医学研究所]] *[[フェルミ国立加速器研究所]] *[[プリンストン高等研究所]] *[[ブルックヘブン国立研究所]] *[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]] *[[ヘリテージ財団]] *[[ベル研究所]] *[[ホワイトヘッド研究所]] *[[マイクロソフトリサーチ]] *[[マウナロア観測所]] *[[マクガヴァン脳研究所]] *[[マーシャル宇宙飛行センター]] *[[ランド研究所]] *[[リンカーン研究所]] *[[ローレンス・バークレー国立研究所]] *[[ローレンス・リバモア国立研究所]] *[[ロスアラモス国立研究所]] === ロシア === *[[ガマレヤ記念国立疫学・微生物学研究センター]] *[[クルチャトフ研究所]] *[[シュテルンベルク天文研究所]] *[[植物栽培研究所]] *[[ステクロフ数学研究所]] *[[全ロシア鉄道研究所環状実験線]] *[[TsAGI]] *[[ドゥブナ合同原子核研究所]] *[[設計局]]/[[マキーエフロケット設計局]] *[[モスクワ熱技術研究所]] *[[ロシア宇宙科学研究所]] *[[ロシア科学アカデミー東洋学研究所]] === タイ === *[[ABACポール研究所]] *[[タイ科学技術研究所]] *[[タイ国立遺伝子生命工学研究センター]] *[[タイ国立科学技術開発庁]] *[[タイ国立金属材料技術研究センター]] *[[タイ国立電子コンピューター技術研究センター]] *[[タイ国立天文学研究所]] *[[タイ国立ナノテクノロジー研究センター]] *[[タイ国家計量標準機関]] *[[タイ国家原子力技術研究所]] *[[タイ・シンクロトロン光研究所]] *[[タイ有機プリンテッドエレクトロニクスイノベーションセンター]] === 中国 === *[[大連化学物理研究所]] *[[中国運載火箭技術研究院]] *[[中国科学院]] *[[中国科学社]] *[[中国空間技術研究院]] *[[中国工程院]] *[[中国社会科学院]] === シンガポール === * [[シンガポール科学技術研究庁]] == 日本 == 領域ごとに組織構成が異なる。 一般論としていえば、研究所では、研究テーマごとに各[[研究室]]に分かれ、通常は学生はいない。ここでは、技術または見習いスタッフ→[[研究員]](または研究官)→主任研究員(または主任研究官)、室長→部長→副所長→所長という階層構造を採用している機関が多い。 ただし[[文部科学省]]所管([[日本国政府]])の研究所では、[[大学]]の講座と同様に、[[教授]]、[[准教授]]、[[助教]](または、技官や学生)により構成されている。 {{See also|シンクタンク}} === 日本にある国際機関直轄研究所 === *[[WHO健康開発総合研究センター]] === [[国立研究開発法人]]、国立研究開発法人に附属する主な研究所 === *[[医薬基盤研究所]] *[[宇宙航空研究開発機構]] **[[宇宙科学研究所]] *[[海上技術安全研究所]] *[[海洋研究開発機構]] *[[経済産業研究所]] *[[建築研究所]] *[[交通安全環境研究所]] *[[港湾空港技術研究所]] *[[国立環境研究所]] *[[国立がん研究センター]] **研究所 *[[国立国際医療研究センター]] **研究所 *[[国立精神・神経医療研究センター]] **神経研究所 **精神保健研究所 *[[国立成育医療研究センター]] **研究所 *[[国立長寿医療研究センター]] **研究所 *[[国立特別支援教育総合研究所]] *[[国立文化財機構]]<ref group="注">[[東京国立博物館]]、[[京都国立博物館]]、[[奈良国立博物館]]、[[九州国立博物館]]も傘下に収めているが、これらも研究活動を行っている。</ref> **[[奈良文化財研究所]] **[[東京文化財研究所]] *[[産業技術総合研究所]] *[[酒類総合研究所]] *[[情報通信研究機構]]([[通信総合研究所]]と通信・放送機構が統合) **光ネットワーク研究所 **ワイヤレスネットワーク研究所 **ネットワークセキュリティ研究所 **ユニバーサルコミュニケーション研究所 **未来ICT研究所 **電磁波計測研究所 **テストベッド研究開発推進センター **脳情報通信融合研究センター **耐災害ICT研究センター **テラヘルツ研究センター **サイバー攻撃対策総合研究センター *[[森林総合研究所]] *[[水産総合研究センター]] **[[北海道区水産研究所]] **[[東北区水産研究所]] **[[中央水産研究所]] **[[日本海区水産研究所]] **[[国際水産資源研究所]] **[[瀬戸内海区水産研究所]] **[[西海区水産研究所]] **[[増養殖研究所]] **[[水産工学研究所]] *[[電子航法研究所]] *[[土木研究所]] *[[日本原子力研究開発機構]]([[日本原子力研究所]]と[[核燃料サイクル開発機構]]が統合) **東海研究開発センター ***原子力科学研究所 ***核燃料サイクル工学研究所 **敦賀本部 ***高速増殖炉研究開発センター ***原子炉廃止措置研究開発センター **[[大洗研究所]] **[[幌延深地層研究センター]] **[[東濃地科学センター]] **瑞浪超深地層研究所 **人形峠科学技術センター **青森研究開発センター *[[量子科学技術研究開発機構]](放射線医学総合研究所と日本原子力研究開発機構の量子ビーム部門と核融合部門が統合) **那珂核融合研究所 **高崎量子応用研究所 **関西光科学研究所 **[[放射線医学総合研究所]] *[[日本貿易振興機構]] **[[アジア経済研究所]] *[[農業・食品産業技術総合研究機構]] *[[物質・材料研究機構]] [[:en:National_Institute_for_Materials_Science|[:en]]](金属材料研究所と無機材質研究所が併合) *[[防災科学技術研究所]] *[[理化学研究所]] *[[労働安全衛生総合研究所]] *[[労働政策研究・研修機構]] **労働政策研究所 === 国が直接運営している「[[施設等機関]]」、または施設等機関に附属する研究所 === *[[厚生労働省]] **[[国立感染症研究所]] **[[国立循環器病研究センター]] **[[国立保健医療科学院]]([[国立公衆衛生院]]、[[国立医療・病院管理研究所]]、[[国立感染症研究所]]口腔科学部の一部を統合) **[[国立医薬品食品衛生研究所]] **[[国立社会保障・人口問題研究所]] **[[国立障害者リハビリテーションセンター]] *[[国土交通省]] **[[国土技術政策総合研究所]] **[[国土交通政策研究所]] *[[気象庁]] **[[気象研究所]] *[[内閣府]] **[[経済社会総合研究所]] *[[総務省]] **[[情報通信政策研究所]] *[[文部科学省]] **[[国立教育政策研究所]] **[[科学技術・学術政策研究所]] *[[農林水産省]] **[[農林水産政策研究所]] *[[防衛省]] **[[防衛研究所]] **[[防衛医科大学校]] ***防衛医学研究センター *[[防衛装備庁]]  **航空装備研究所 **陸上装備研究所 **艦艇装備研究所 **電子装備研究所 **先進技術推進センター *[[財務省]] **[[財務総合政策研究所]] *[[消防庁]] **[[消防大学校]] ***消防研究センター *[[海上保安庁]] **[[海上保安大学校]] ***国際海洋政策研究センター === 国の「[[特別の機関]]」、または特別の機関に附属する研究所 === *国土交通省 **[[国土地理院]] ***地理地殻活動研究センター === その他の国の研究所 === *[[警察庁]] **[[科学警察研究所]] === [[共同利用・共同研究拠点]] === <!--共同利用・共同研究拠点のみ入れて下さい--> * [[北海道大学]] ** [[北海道大学遺伝子病制御研究所]] ** [[北海道大学人獣共通感染症国際共同研究所]] ** [[北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター]] ** [[北海道大学低温科学研究所]] * [[帯広畜産大学]]原虫病研究センター * [[東北大学]] ** [[東北大学加齢医学研究所]] ** [[東北大学金属材料研究所]] ** [[東北大学電気通信研究所]] ** 東北大学電子光理学研究センター ** [[東北大学流体科学研究所]] * [[筑波大学]] ** [[筑波大学計算科学研究センター]] ** 筑波大学つくば機能植物イノベーション研究センター ** 筑波大学ヒューマン・ハイ・パフォーマンス先端研究センター * [[群馬大学]]生体調節研究所 * [[千葉大学]] ** 千葉大学環境リモートセンシング研究センター ** [[千葉大学真菌医学研究センター]] * [[東京大学]] ** [[東京大学医科学研究所]] ** [[東京大学宇宙線研究所]] ** [[東京大学空間情報科学研究センター]] ** [[東京大学地震研究所]] ** [[東京大学史料編纂所]] ** [[東京大学新世代感染症センター]] ** [[東京大学]]素粒子物理国際研究センター ** [[東京大学大気海洋研究所]] ** [[東京大学物性研究所]] * [[東京医科歯科大学難治疾患研究所]] * [[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]] * [[東京工業大学フロンティア材料研究所]] * [[一橋大学経済研究所]] * [[新潟大学脳研究所]] * [[金沢大学]] ** [[金沢大学がん進展制御研究所]] ** [[金沢大学環日本海域環境研究センター]] * [[名古屋大学]] ** [[名古屋大学宇宙地球環境研究所]] ** 名古屋大学低温プラズマ科学研究センター ** 名古屋大学未来材料・システム研究所 * [[京都大学]] ** [[京都大学医生物学研究所]] ** [[京都大学エネルギー理工学研究所]] ** [[京都大学化学研究所]] ** [[京都大学基礎物理学研究所]] ** [[京都大学経済研究所]] ** [[京都大学人文科学研究所]] ** [[京都大学数理解析研究所]] ** [[京都大学生存圏研究所]] ** 京都大学生態学研究センター ** [[京都大学東南アジア地域研究研究所]] ** [[京都大学複合原子力科学研究所]] ** [[京都大学防災研究所]] ** 京都大学野生動物研究センター * [[大阪大学]] ** [[大阪大学核物理研究センター]] ** [[大阪大学社会経済研究所]] ** [[大阪大学接合科学研究所]] ** [[大阪大学蛋白質研究所]] ** [[大阪大学微生物病研究所]] ** [[大阪大学レーザー科学研究所]] * [[神戸大学経済経営研究所]] * [[鳥取大学乾燥地研究センター]] * [[岡山大学]] ** [[岡山大学資源植物科学研究所]] ** [[岡山大学惑星物質研究所]] * [[広島大学]]放射光科学研究センター * [[徳島大学]]先端酵素学研究所 * [[愛媛大学]] ** 愛媛大学沿岸環境科学研究センター ** 愛媛大学地球深部ダイナミクス研究センター ** 愛媛大学プロテオサイエンスセンター * [[高知大学]]海洋コア総合研究センター * [[九州大学]] ** [[九州大学応用力学研究所]] ** [[九州大学生体防御医学研究所]] ** [[九州大学マス・フォア・インダストリ研究所]] * [[佐賀大学海洋エネルギー研究センター]] * [[長崎大学]] ** 長崎大学高度感染症研究センター ** 長崎大学感染症研究出島特区 ** [[長崎大学熱帯医学研究所]] * [[熊本大学]]発生医学研究所 * [[琉球大学]]熱帯生物圏研究センター * 熊本大学・[[富山大学]](共同設置)先進軽金属材料国際研究機構 * [[札幌医科大学]]フロンティア医学研究所 * [[会津大学]]宇宙情報科学研究センター * [[横浜市立大学先端医科学研究センター]] * [[名古屋市立大学]] ** 名古屋市立大学不育症研究センター ** 名古屋市立大学創薬基盤科学研究所 * [[大阪公立大学]] ** 大阪公立大学数学研究所 ** 大阪公立大学都市科学・防災研究センター ** [[大阪公立大学附属植物園]] * [[和歌山県立医科大学]]みらい医療推進センター * [[兵庫県立大学]]自然・環境科学研究所天文科学センター * [[北九州市立大学]]環境技術研究所先制医療工学研究センター / 計測・分析センター * [[自治医科大学]]先端医療技術開発センター * [[慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター]] * [[昭和大学]]発達障害医療研究所 * [[玉川大学]]脳科学研究所 * [[東京工芸大学]]風工学研究センター * [[東京農業大学]]生物資源ゲノム解析センター * [[東京理科大学総合研究院]]火災科学研究所 * [[野上記念法政大学能楽研究所]] * [[明治大学]]先端数理科学インスティテュート * [[早稲田大学]] ** [[早稲田大学坪内博士記念演劇博物館]] ** 早稲田大学各務記念材料技術研究所 * [[中部大学]]中部高等学術研究所国際GISセンター * [[藤田医科大学]]総合医科学研究所 * [[立命館大学]]アート・リサーチセンター * [[京都芸術大学]]舞台芸術研究センター * [[大阪商業大学]]JGSS研究センター * [[関西大学]]ソシオネットワーク戦略研究機構 * [[同志社大学]]赤ちゃん学研究センター ;ネットワーク型拠点 * 学際大規模情報基盤共同利用・共同研究拠点 ** [[東京大学情報基盤センター]] ** 北海道大学情報基盤センター ** 東北大学サイバーサイエンスセンター ** 東京工業大学学術国際情報センター ** 名古屋大学情報基盤センター ** 京都大学学術情報メディアセンター ** 大阪大学サイバーメディアセンター ** [[九州大学情報基盤研究開発センター]] * 物質・デバイス領域共同研究拠点 ** [[北海道大学電子科学研究所]] ** [[東北大学多元物質科学研究所]] ** [[東京工業大学化学生命科学研究所]] ** [[大阪大学産業科学研究所]] ** [[九州大学先導物質化学研究所]] * 生体医歯工学共同研究拠点 ** [[東京医科歯科大学生体材料工学研究所]] ** [[東京工業大学]]未来産業技術研究所 ** [[静岡大学]]電子工学研究所 ** [[広島大学]]ナノデバイス・バイオ融合科学研究所 * 放射線災害・医科学研究拠点 ** [[広島大学原爆放射線医科学研究所]] ** [[長崎大学原爆後障害医療研究所]] ** [[福島県立医科大学]]ふくしま国際医療科学研究センター * 放射能環境動態・影響評価ネットワーク共同研究拠点 ** [[弘前大学]]被ばく医療総合研究所 ** [[福島大学]]環境放射能研究所 ** [[筑波大学]]アイソトープ環境動態研究センター ** [[日本原子力研究開発機構]]廃炉環境国際共同研究センター ** [[国立環境研究所]]福島地域協働研究拠点 ** [[環境科学技術研究所]] * 触媒科学計測共同研究拠点 ** [[北海道大学触媒科学研究所]] ** [[大阪公立大学人工光合成研究センター]] ** [[産業技術総合研究所]]触媒化学融合研究センター * 糖鎖生命科学連携ネットワーク型拠点 ** [[名古屋大学]]・[[岐阜大学]](共同設置)糖鎖生命コア研究所 ** [[創価大学]]糖鎖生命システム融合研究所 ** [[自然科学研究機構]]生命創成探究センター === [[大学共同利用機関法人]]の研究所 === *[[総合地球環境学研究所]]([[人間文化研究機構]]<ref group="注">[[国立歴史民俗博物館]]、[[国文学研究資料館]]、[[国立民族学博物館]]も傘下に収めているが、これらも研究活動を行っている。</ref>) *[[国立国語研究所]](同) *[[国際日本文化研究センター]](同) *[[国立天文台]]([[自然科学研究機構]]) *[[核融合科学研究所]](同) *[[基礎生物学研究所]](同) *[[生理学研究所]](同) *[[分子科学研究所]](同) *[[素粒子原子核研究所]]([[高エネルギー加速器研究機構]]) *[[物質構造科学研究所]](同) *[[国立極地研究所]]([[情報・システム研究機構]]) *[[国立情報学研究所]](同) *[[統計数理研究所]](同) *[[国立遺伝学研究所]](同) === 主な地方自治体の研究所 === *各都道府県[[警察本部]]の[[科学捜査研究所]] *各都道府県の[[教育研究所]] *[[北海道立衛生研究所]] *[[北海道立総合研究機構]]<ref group="注">[[地方独立行政法人]]</ref> *[[秋田県立脳血管研究センター]] *[[茨城県工業技術センター]] *[[東京都立産業技術研究センター]] *[[東京都農林総合研究センター]] *[[神奈川県立産業技術総合研究所]] *[[埼玉県水産研究所]] *[[埼玉県茶業研究所]] *[[埼玉県農業技術研究センター]] *[[静岡県埋蔵文化財調査研究所]] *あいち産業科学技術総合センター *[[名古屋市工業研究所]] *[[三重県水産研究所]] *[[京都市産業技術研究所]] <ref group="注">[[地方独立行政法人]]</ref> *[[京都府農林水産技術センター 海洋センター]] *[[奈良県立橿原考古学研究所]] *[[大阪府立産業技術総合研究所]] *[[大阪府立放射線中央研究所]] *[[大阪府立成人病センター]] *[[人と防災未来センター]] *[[兵庫県立農林水産技術総合センター]] *[[兵庫県森林動物研究センター]] *[[徳島県立農林水産総合技術支援センター水産研究所]] *[[徳島県立農林水産総合技術支援センター農業研究所]] *[[徳島県立農林水産総合技術支援センター森林林業研究所]] *[[愛媛県農林水産研究所 水産研究センター]] ===[[公益財団法人]]の研究所 === *公益財団法人[[鉄道総合技術研究所]] *公益財団法人[[高輝度光科学研究センター]](日本原子力研究所と理化学研究所が設立) *公益財団法人[[若狭湾エネルギー研究センター]]<!--(経済産業省、文部科学省認可の研究所)=「認可」は全ての研究所に該当するので--> *公益財団法人[[大阪バイオサイエンス研究所]] * 公益財団法人[[電磁料研究所]] * 公益財団法人[[山階鳥類研究所]] * 公益財団法人動物臨床医学研究所 * 公益財団法人[[実験動物中央研究所]] * 公益財団法人[[京都高度技術研究所]] * 公益財団法人[[応用科学研究所]] *公益財団法人[[パブリックヘルスリサーチセンターストレス科学研究所]] *公益財団法人[[佐々木研究所]] *公益財団法人[[地方自治総合研究所]] *公益財団法人[[世界平和研究所]] *公益財団法人[[電磁材料研究所]] *公益財団法人[[日本交通公社 (公益財団法人)|日本交通公社]] *公益財団法人[[放射線影響研究所 (公益財団法人)|放射線影響研究所]] ===[[一般財団法人]]の研究所 === *一般財団法人[[電力中央研究所]](戦後民間初、日本最大の財団法人格の研究機関) *一般財団法人[[電気安全環境研究所]] * 一般財団法人[[国際貿易投資研究所]] * 一般財団法人[[世界政経調査会]][[国際情勢研究所]] * 一般財団法人[[日本エネルギー経済研究所]] *一般財団法人[[秋田経済研究所]] * 一般財団法人[[電子科学研究所]] * 一般財団法人[[日本不動産研究所]] * 一般財団法人[[キヤノングローバル戦略研究所]] * 一般財団法人[[電子科学研究所]] * 一般財団法人[[建設経済研究所]] === 社団法人の研究所 === ここでは、研究所単体で法人となっているもののみを掲載する。 *[[公益社団法人]]北海道地方自治研究所 *公益社団法人[[商事法務研究会]] *公益社団法人[[部落問題研究所]] *公益社団法人[[地域経済総合研究所]] *[[一般社団法人]][[JC総研]] *一般社団法人[[地域経済総合研究所]] *一般社団法人[[日本パン技術研究所]] *一般社団法人[[日本リサーチ総合研究所]] *一般社団法人[[日本自動車流通研究所]] *一般社団法人俯瞰工学研究所 *一般社団法人[[関西国際産業関係研究所]] *一般社団法人[[地域経済総合研究所]] *一般社団法人[[部落解放・人権研究所]] *一般社団法人[[倫理研究所]] *一般社団法人[[北海道未来総合研究所]] *一般社団法人[[国際産業関係研究所]] *一般社団法人[[近代経済研究所]] *一般社団法人[[淡水生物研究所]] *一般社団法人[[中央政策研究所]] *一般社団法人[[農山漁村文化協会]][[民間稲作研究所]] *一般社団法人中国研究所 *一般社団法人生活文化研究所 === 株式会社の研究所 === <!-- 企業内の研究所・研究センターを列挙するとキリがないのでこのように致しましたが、余力のある方はどうぞ内容を追加して下さい。 例)NEC,日立,三菱,松下,東芝,...--> {{Seealso|株式会社の研究所一覧}} *[[三菱重工業]]株式会社総合研究所 *株式会社[[東芝]] **研究開発センター<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.toshiba.co.jp/rdc/index_j.htm |title = 研究開発センター |publisher = [[東芝]] |accessdate = 2019-2-14}}</ref> **生産技術センター<ref>{{Cite web|和書|url = http://cmc.toshiba.co.jp/cmc/ |title = 生産技術センター |publisher = [[東芝]] |accessdate = 2019-2-14}}</ref> **ソフトウェア技術センター<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.toshiba.co.jp/tech/swc/index_j.htm |title = ソフトウェア技術センター |publisher = [[東芝]] |accessdate = 2019-2-14}}</ref> *株式会社[[アシックススポーツ工学研究所]] *株式会社[[アンデルセン・パン生活文化研究所]] *株式会社[[DIMS医科学研究所]] *株式会社[[トリケミカル研究所]] *株式会社[[本田技術研究所]] *株式会社[[オートネットワーク技術研究所]] *株式会社[[神戸製鋼所#研究所|神戸製鋼所神戸総合技術研究所]] *株式会社[[石油産業技術研究所]] *株式会社[[双日総合研究所]] *株式会社[[東京海上]]研究所 *株式会社片山さつき政治経済研究所 *[[東京化成工業]]株式会社基礎研究所 *株式会社[[国際電気通信基礎技術研究所]] (ATR) *株式会社[[ソニーコンピュータサイエンス研究所]] *株式会社[[富士通研究所]] *株式会社[[KDDI総合研究所]] *株式会社[[超高温材料研究所]] *株式会社[[ミサワホーム]]総合研究所<ref>{{Cite web|和書|url = https://soken.misawa.co.jp/ |title =ミサワホーム総合研究所 |publisher = [[ミサワホーム]] |accessdate = 2020-2-13}}</ref> *株式会社[[デンソー]]先端技術研究所<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.denso.com/jp/ja/about-us/facts-and-figures/denso-corporation/ |title = ㈱デンソー拠点一覧 | 企業情報 | DENSO - 株式会社デンソー / Crafting the Core / |publisher = [[デンソー]] |accessdate = 2017-12-18}}</ref> *株式会社[[豊田中央研究所]] *株式会社[[高速道路総合技術研究所]](NEXCO総研) *[[三菱化学生命科学研究所]] *[[日本たばこ産業#研究所]] **[[医薬総合研究所 (日本たばこ産業)]] **[[日本たばこ産業|JT]] たばこ中央研究所 *[[日本電信電話#研究拠点|NTT研究所]] *株式会社[[NTTドコモ]]・モバイル社会研究所 === 学校法人の研究所 === *[[学校法人北里研究所]] === 教育研究所 === *[[教育研究所]] === 宗教法人の研究所 === *[[真宗大谷派#真宗大谷派教学研究所|真宗大谷派教学研究所]] *[[本願寺]]教学伝道研究所 == その他の研究所 == *美術大学の[[予備校]]、習い事の塾、一部の(研究機関でない)民間企業、親睦団体の名前として「研究所」が用いられることもある。例:[[PHP研究所]]や[[ハードSF研究所]]など。 *[[研究者]]が集まって、任意団体の[[研究会]]を作成する際には「研究所」よりも「ラボ」を好んで使う傾向にある。例:フォトニックインターネットラボ ([[Photonic Internet Lab.]] : PIL) や[[けいはんな]][[情報通信]][[オープンラボ]]など。 *台湾では、[[大学院]]を'''研究所'''と呼ぶ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[シンクタンク]] - 政策立案・意思決定の調査・分析を行う機関 *[[附属機関]] *[[ハイテクパーク]] *[[筑波研究学園都市]] *[[関西文化学術研究都市]] *[[播磨科学公園都市]] - [[SPring-8]]、[[ニュースバル]]などの施設と研究所の集積地 *[[横須賀リサーチパーク]]移動体通信の研究・開発拠点 *[[北九州学術研究都市]] == 外部リンク == {{Commonscat|Research institutes}} * 経済産業省「機関評価の効果的・効率的推進に関する調査」報告書 [http://www.meti.go.jp/policy/tech_evaluation/e00/01/h14/h1503i57.pdf] * [http://shochou-kaigi.org/ 国立大学附置研究所・センター長会議] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんきゆうしよ}} [[Category:研究所|*]]
2003-03-25T09:19:50Z
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スター・ウォーズシリーズ
「スター・ウォーズ」(Star Wars)は、ジョージ・ルーカスが製作し、1977年に公開された同名の映画から始まるアメリカのスペースオペラシリーズである。映画だけでなく、アニメーション、小説、コミック、ゲームなど複数の媒体で展開される。 後に『エピソード4/新たなる希望』と改題されるオリジナルの映画『スター・ウォーズ』(1977年)を皮切りに、『エピソード5/帝国の逆襲』(1980年)、『エピソード6/ジェダイの帰還』(1983年)の旧三部作が製作された。 その後、『エピソード1 /ファントム・メナス』(1999年)、『エピソード2 /クローンの攻撃』(2002年)、『エピソード3 /シスの復讐』(2005年)の新三部作が製作され、シリーズは一度幕を閉じた。 2012年、ルーカスは制作会社のルーカスフィルムをウォルト・ディズニー・カンパニーに売却し、フランチャイズの所有権を放棄した。その後『エピソード7/フォースの覚醒』(2015年)、『エピソード8/最後のジェダイ』(2017年)、『エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』(2019年)の続三部作が製作された。これらの9作品は「スカイウォーカー・サーガ」としてシリーズの柱となっている。 実写スピンオフ映画『ローグ・ワン』(2016年)と『ハン・ソロ』(2018年)を合わせて、映画の合計興行収入は100億米ドル以上に相当し、現在、歴代映画フランチャイズの中で2番目に高い興行収入を記録している。 『スター・ウォーズ』シリーズは、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で」の登場人物たちの冒険を描いている。そこでは、人間と多くの種の異星人(多くの場合はヒューマノイド)が、日常生活を支援してくれるロボットや「ドロイド」と共存しており、光速の超空間技術によって惑星間の宇宙旅行が一般的に行われている。宇宙船には、小型のスターファイターからスター・デストロイヤーのような巨大な宇宙戦艦、月面サイズのデス・スターのような宇宙ステーションまで様々なものがある。通信には、双方向のオーディオやオーディオ・ビジュアル・スクリーン、ホログラフィック・プロジェクションなどがある。 フォースと呼ばれる神秘的な力は、原作では「すべての生物が作り出すエネルギーフィールド......(それは、)銀河を束ねる」と説明されている。「フォースが強い」者は、訓練や瞑想によって、さまざまな超能力(念力、予知能力、テレパシー、物理的エネルギーの操作など)を発揮することができる。 ジェダイは銀河共和国の平和維持者であり、無執着と仲裁によってフォースのライト・サイドを行使し、シスは恐怖と攻撃性を操ることで闇ダーク・サイドを行使するという、互いに対立する2つの主要な騎士団によってフォースが行使されている。ジェダイの騎士は数が多いが、シスの暗黒卿(または「ダース」)は、マスターとその弟子の2人に限定されることになっている。 フォースの使い手は、平均的な人口に比べて数が非常に限られている。ジェダイとシスは、ライトセーバーと呼ばれる武器を好んで使用する。ライトセーバーは、ほぼすべての表面を切り裂き、エネルギーボルトを逸らすことができるエネルギーの刃である。それ以外の人々や、反逆者や兵士は、レーザーを使ったブラスター銃器を使用する。銀河系外縁部では、ハットのカルテルのような犯罪シンジケートが支配的である。賞金稼ぎはギャングと政府の両方に雇われることが多い。密輸や奴隷制などの違法行為も行われている。 映画『スター・ウォーズ』シリーズは、「スカイウォーカー・サーガ(Skywalker saga)」と総称される3組の3部作が中心となっている。 これらは非時系列的に製作されており、エピソード4~6(旧3部作)は1977年から1983年の間に、エピソード1~3(新3部作)は1999年から2005年の間に、エピソード7~9(続3部作)は2015年から2019年の間に公開されている。それぞれの3部作は、フォースに敏感なスカイウォーカー家の一世代に焦点を当てている。旧3部作はルーク・スカイウォーカーの英雄的な成長を描き、新3部作は父アナキンのバックストーリーを、続3部作はルークの甥であるカイロ・レンを主役にしている。 メインエピソードの間に設定された「アンソロジー・シリーズ」は、続3部作の制作と並行して開発に入り、ディズニーのCFOであるジェイ・ラズロは、オリジン・ストーリーと表現している。最初の作品である『ローグ・ワン』(2016年)は、エピソード4の直前にデス・スターの設計図を盗んだ反乱軍の物語である。『ハン・ソロ』(2018年)は、同名のキャラクターのバックストーリーに焦点を当て、旧3部作の共同主人公であるチューバッカとランド・カルリジアンも登場し、新3部作の悪役であるダース・モールも関わっている。 ルーカスフィルムは、スター・ウォーズの映画を数多く開発しており、そのうちの2本が、2020年のディズニー・インベスター・デイで確認された。1つ目は、パティ・ジェンキンスが監督を務める『Rogue Squadron』というタイトルの映画で、2023年12月25日に公開予定である。 2つ目は、2020年5月にクリスティ・ウィルソン=ケアンズと共同執筆していたスター・ウォーズ映画の監督を務めることが発表されたタイカ・ワイティティによる未発表の映画である。さらに、『最後のジェダイ』の脚本・監督のライアン・ジョンソンによって、スカイウォーカー・サーガから独立した3部作が執筆されている。2019年9月には、キャスリーン・ケネディとマーベル・スタジオ社長のケヴィン・ファイギが共同でスター・ウォーズ映画を開発することが発表された。2020年2月には、監督のJ・D・ディラードと脚本家のマット・オーウェンズによる映画が開発中であることが発表された。 2018年2月には、『ゲーム・オブ・スローンズ』のショーランナーを務めたデイヴィッド・ベニオフとD・B・ワイスが脚本、製作を担当するスター・ウォーズ映画の開発が発表されるも、ベニオフとワイスの多忙を理由に2019年10月には立ち消えとなった。また、製作が予定されたオビ=ワン・ケノービとボバ・フェットのスピンオフ映画は、2018年6月に『ハン・ソロ』の興行不振の影響で保留となり、ボバ・フェットの映画は2018年10月に製作中止となり、オビ=ワン・ケノービのスピンオフはドラマシリーズとして製作されることが、2019年8月に発表された。 ルーク・スカイウォーカーを主人公とするシリーズで、1977年から1983年にかけて公開された。スピンオフを含むスター・ウォーズ全作品の大元となる作品群である。第1作『スター・ウォーズ』(1977年)は大衆文化に大きな影響をもたらし(英語版)、続編『帝国の逆襲』(1980年)、『ジェダイの復讐』(1983年)も世界的にヒットした。 1971年、ユニバーサル映画はルーカスが監督を務める2作品について契約を結んだ。最初に製作された『アメリカン・グラフィティ』は成功を収め、ルーカスはアカデミー賞にノミネートされた。数か月後、ルーカスは2作目の草案を提出したがユニバーサルは草案を拒否したため、20世紀フォックスと契約を結んだ。1974年までにルーカスは草案を下敷きにして脚本を書き上げ(この時点でシス、デス・スター、アナキン・スターキラー(アナキン・スカイウォーカー)などの要素が加えられた)、物語が全9部作になると主張して20世紀フォックスと交渉し、監督として5万ドル、脚本家として5万ドル、プロデュース費用として5万ドルを受け取った。製作を確実なものとしたルーカスは、監督としての報酬を抑える代わりに、マーチャンダイジングの権利は全てルーカスフィルムが持つと認めさせ(トム・ポロック(英語版)は、「交渉において、我々は20世紀フォックスのビル・ラーマンとの間で契約を立案しました。我々はジョージが権利を所有することで合意しました」と述べている)、自らの管理でキャラクターやメカのグッズを製造・発売し、巨額の富を得た。この利益を基に、後の新三部作(プリクエル・トリロジー)はルーカスフィルムの自己資金で製作されている。 映画が時系列では4番目にあたる『新たなる希望』から制作されたのは、まず1作目が商業的に成果を収めねばシリーズ化が望めず、その意味で一番「冒険活劇」としての完成度が高かった『新たなる希望』を最初に世に出すことが得策だと判断されたためである。また新三部作の時代は、全銀河の首都である大都市惑星コルサントの描写や、銀河共和国と独立星系連合の間で勃発した大規模戦争であるクローン戦争の描写が必須にもかかわらず、当時の映像技術と予算では映画化が不可能だったのも理由にある。 1997年、新三部作(プリクエル・トリロジー)の公開に先駆けて『スター・ウォーズ』『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』の特別篇が順次公開された。ルーカスの製作意図に一層近づいた形にするべく、フィルムの物理的な洗浄や素材フィルムまで戻った光学合成シーンのデジタル合成によるやり直し、再撮影及びCGによる新規シーンの追加等が行われた。音響効果もバラつきが統合され、サウンドトラック全体もヒスノイズ低減処理を経て再編集された。一方で、行われた変更の中にはいわゆる「ハンが先に撃った」など、旧来のファンの間で論争を引き起こしたものもある。 その後2004年にDVD、2011年にBlu-ray Discと新規の映像ソフトが発売されるたび、新三部作との整合化など、この特別篇にさらに修正が加えられていった。現在はテレビオンエアもこちらのバージョンが標準になっており、初公開時のオリジナル版を鑑賞することは困難となっている(ただし、2006年にDVDが発売された際に、初公開時のオリジナル版が特典として同梱されている)。 アナキン・スカイウォーカーを主人公とするシリーズで、1999年から2005年にかけて公開された。旧三部作の前日譚に当たる。 1987年、ルーカスはマーシア・ルーカスとの離婚和解で財産を失い映画製作の意欲をなくし、『ジェダイの帰還』以降の続編計画は中断してしまう。しかし、1990年代の映像技術の進歩に触発され、シリーズの再開を考えるようになった。この間、スター・ウォーズはティモシイ・ザーンの『スローン三部作』やダークホースコミックスの『ダークエンパイア』などのスピンオフ作品によって人気を回復した。スター・ウォーズ人気が衰えていないことを知ったルーカスは、再び監督として製作に復帰する。1999年に『ファントム・メナス』が公開され、2002年に『クローンの攻撃』、2005年に『シスの復讐』が公開された。 旧三部作と比較すると遥かに発達した特撮・CG技術や派手なカメラワークが目立ち、シリーズの見所の一つであるライトセーバーの殺陣も非常にアクロバティック化した。ルーカスは新たな映像信号規格・HD24Pの導入によるデジタルシネマの推進に意欲的に取り組み、『エピソード2/クローンの攻撃』において長編映画では史上初めて完全デジタル撮影を行った。その後、映画界では撮影機材のデジタル化が急速化し、映画の歴史に一つの転換期をもたらすことになった。 ルーカスは長年スター・ウォーズシリーズのために作成した資料の量を誇張しており(その理由をマイケル・カミンスキーは宣伝と情報保安を目的にしていると述べている)、「ルーカスが『ジェダイの帰還』の後に続く物語を企画している」という憶測が生まれた。しかしルーカスは『シスの復讐』以降の作品は製作しないと明言し、「私はよく"『ジェダイの帰還』の後に何が起きるんですか?"と聞かれますが、それに対する答えを持っていません。映画はアナキンとルークの物語であり、ルークは銀河を救い父を取り戻して物語は終結しています」と語ったことにより、スター・ウォーズシリーズは全九部作の予定を全六部作と修正して一旦の完結を迎えた。 レイを主人公とするシリーズで、2015年から2019年にかけて公開された。旧三部作の後日譚に当たり、世界歴代興行成績の上位を塗り替えるヒットを記録している。 オリジナル映画の公開に先立ち、その成功によって可能となったルーカスの計画は「9本の映画からなる3つの三部作」であり、1978年にTime誌にこのことを発表し、1981年にはその概要を確認している。開発の様々な段階で、続3部作は共和国の再建、旧三部作のオビ=ワンのような役割でのルークの復帰、ルークの妹(レイアとはまだ決まっていない)、ハン、レイア、R2-D2とC-3POに焦点を当てる予定だった。しかし、新三部作の制作を始めた後、ルーカスは『スター・ウォーズ』は6部作であることを意味し、続三部作は存在しないと主張した。 2011年に入り、ルーカスは『スター・ウォーズ』の新しい映画作品について仕事を始めた。2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収してスター・ウォーズシリーズの著作権を取得、配給会社も20世紀フォックスからウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズに変更され、新体制での再スタートとなった。2015年に『フォースの覚醒』、2017年に『最後のジェダイ』、2019年に『スカイウォーカーの夜明け』が公開され、本来想定されていた九作で完結した。 買収後のルーカスフィルム社長にはキャスリーン・ケネディが就任。作品自体は引き続きルーカスフィルムが製作するが、ルーカス本人は今までのように製作総指揮は行わず、製作現場から退き「クリエイティブ顧問」という特別な役職に就任した。マーク・ハミルはディズニーの制作について、「ルーカスの構想していたのとは大きく異なるものだ」と言及した。また、20世紀フォックスが永久的配給権・販売権を所有する『エピソード4』を除いて、オリジナル&プリクエル・トリロジーの同権利も2020年5月にディズニー/ルーカスフィルムに移行する予定になっていた。2013年に親会社(ニューズ・コープ)の分社化により21世紀フォックスが設立され、20世紀フォックスは傘下となり、その後2017年12月14日にウォルト・ディズニー・カンパニーは21世紀フォックスのエンターテインメント部門を総額661億ドル(7兆4000億円)で買収することに最終合意したと発表。これにより『スター・ウォーズ』全ての権利を完全にディズニー/ルーカスフィルムが有することとなった。 2010年に本シリーズの『エピソード1〜6』のデジタル3D化が発表された。そのためのデジタル3D変換技術の開発がイン・スリー社において行われたが、これは人物や背景などのシーン中の全対象物の3次元形状を3DCGモデルで再現し、そこに元映像をマッピングして3Dレンダリングするという非常に手間のかかるものでコストの問題が解決出来ずキャンセルされ、ルーカスとILMの監修の下プライム・フォーカス社においてデジタル3D変換が行われることになった。 2012年には『エピソード1/ファントム・メナス』のデジタル3D版が公開され、以後『エピソード2〜6』のデジタル3D版がエピソード順に公開される予定だったが、同年10月にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収し、続三部作(シークエル・トリロジー)の製作を決定したためそちらに尽力することとなり、デジタル3D版の公開は事実上の凍結状態となっている。この影響で日本でも『エピソード1/ファントム・メナス』のデジタル3D版公開終了後に3D版Blu-ray Discの発売が予定されていたが中止となった。 全世界の映画館での興行公開は現在も行われていないものの、『エピソード2/クローンの攻撃』のデジタル3D版は2013年7月26日から7月28日にドイツのメッセ・エッセンで開催された「スター・ウォーズ セレブレーション ヨーロッパII」にてイベント上映され、『エピソード3/シスの復讐』のデジタル3D版は2015年4月16日から4月19日にアメリカのカリフォルニア州アナハイムで開催された「スター・ウォーズ セレブレーションアナハイム」にてイベント上映されている。 実写映画本編を補完する実写映画シリーズ。2013年、ルーカスフィルムがスター・ウォーズのメインストーリーとは別の劇場映画をいくつか製作すると報じられ、2015年4月にアメリカのカリフォルニア州アナハイムで開催された本シリーズのオフィシャルファンイベント「スター・ウォーズ セレブレーションアナハイム」で、これらの実写映画スピンオフ作品群は「アンソロジー・シリーズ」のレーベル名の下で公開されることが明らかにされた(ただし、アンソロジーという言葉はどのタイトルにも使われておらず、代わりに宣伝用の「スター・ウォーズ・ストーリー(A Star Wars Story)」というサブタイトルが付けられている)。アンソロジー映画の一作目は、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』2016年12月に公開され、『エピソード4/新たなる希望』で紹介された帝国軍からデススターの設計図を入手した反乱軍に焦点を当て、評価でも、興行的にも成功を収めた。二作目の『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』は、2018年5月に公開され、若き日のハン・ソロを中心に、チューバッカやランドが脇役として登場した。評価はおおむね好評だったが、興行成績は振るわず、計画されていたオビ=ワン・ケノービとボバ・フェットのスピンオフ映画に影響を及ぼした。 ルーカスフィルム・アニメーションが制作している主要なアニメーション作品では、『エピソード2/クローンの攻撃』から『エピソード3/シスの復讐』冒頭の戦いまでをシームレスに繋ぐ2Dアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ クローン大戦』や、同じく『エピソード2/クローンの攻撃』と『エピソード3』の間の時代を舞台にクローン大戦における戦いの一端を描いた3DCGアニメ映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』、そしてその続編となるクローン大戦の様々な戦場を描く3DCGアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』が発表されている。 また、ウォルト・ディズニー・カンパニーによるルーカスフィルム買収後も、『エピソード3/シスの復讐』と『エピソード4/新たなる希望』の間の時代の、反乱同盟軍が結成されるまでの物語を描いた3DCGアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ 反乱者たち』が発表されている。 2018年10月3日、企画されていた実写ドラマのタイトルが『マンダロリアン』になると製作、脚本を務めるジョン・ファヴローが自身のInstagramで発表した。 10月4日、スター・ウォーズ公式サイトにて、作中の画像と共に、一作目の監督をデイブ・フィローニ、その後のエピソードの監督をデボラ・チョウ、リック・ファムイーワ、ブライス・ダラス・ハワード、タイカ・ワイティティが、プロデューサーにはジョン・ファヴロー、キャスリーン・ケネディ、コリン・ウィルソン、エグゼイティブ・プロデューサーにはカレン・ギルクリストが参加することが発表された。2020年にはシーズン2が配信され、2022年に配信予定のシーズン3製作が発表されている。またスピンオフシリーズのAhsokaおよびRangers of the New Republicの製作が発表されている。さらに、The Book of Boba Fettの製作も発表されている。 その他、2022年配信予定のAndor、同じく2022年配信予定のThe Acolyteの製作が発表されている。 旧三部作の成功を受けて、『エピソード6/ジェダイの帰還』に登場した惑星エンドアのイウォーク族を主人公にしたテレビ映画。日本では劇場用映画として公開された。 『エピソード6/ジェダイの帰還』にてルーク達と出会う以前の、ウィケット・W・ウォリックらイウォーク族の冒険を描く。子供向けに実写映画本編より対象年齢を下げて制作されている。 Atari 2600 ファミリーコンピュータ/Nintendo Entertainment System スーパー スター・ウォーズ レベルアサルト ローグ スコードロン スターファイター ゲームボーイアドバンス バトルフロント 映画の翻案 クローン・ウォーズ フォース・アンリーシュド Knights of the Old Republic Xウィング スター・ウォーズ ジェダイナイト 前述の通り、映画の公開は時系列通りになっていない。それをスピンオフ等も含め歴史通りに整理すると、エピソード1 ファントム・メナス→エピソード2 クローンの攻撃→クローン・ウォーズ全シリーズ→エピソード3 シスの復讐→ハン・ソロ スター・ウォーズ ストーリー→スター・ウォーズ反乱者たち全シーズン→ローグワン スター・ウォーズ ストーリー→エピソード4 新たなる希望→エピソード5 帝国の逆襲→エピソード6 ジェダイの帰還(ジェダイの復讐)→スター・ウォーズ バトルフロント2→スター・ウォーズ レジスタンス→エピソード7 フォースの覚醒→エピソード8 最後のジェダイ→エピソード9 スカイウォーカーの夜明けとなる。 基本的な用語のみ記述する。その他の用語、及び詳細は「用語一覧」「登場兵器一覧」「登場テクノロジー一覧」「惑星一覧」「戦いの一覧」を参照。 実写映画11作品を合わせると、アカデミー賞37部門にノミネートされ、そのうち7部門を受賞している。また、特別業績賞も計3回受賞している。『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』は視覚効果で特別功労賞を受賞し、『スター・ウォーズ』はエイリアン、クリーチャー、ロボットの声で特別功労賞を受賞した。 本シリーズは、多種多様な媒体を通じて沢山のスピンオフ(外伝)を世に送り出してきた。ジョージ・ルーカス自身が他の作家による二次創作に寛容だったこともあり、映画本編と整合性が取られていない独創的な作品も多く存在する。しかし2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収した際、膨大な数のスピンオフが新規ファンに混乱を与えてしまうという配慮から、スピンオフ作品は全て「カノン(正史)」と「レジェンズ(非正史)」に分別されることとなった。 「カノン」に属するスピンオフ作品は、ウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムの買収後に設立した「ルーカスフィルム ストーリー・グループ」の監修を受けた作品が該当する。それ以外(及び、すでに展開を終了している作品)は全て「レジェンズ」としていわゆる“パラレルワールド”の扱いとなった。しかし、「レジェンズ」の所属になったキャラクターのスローン大提督が「カノン」のアニメーション『反乱者たち』に、同じくタグ&ビンクが「カノン」の実写映画『ハン・ソロ』にそれぞれ登場しており、ルーカスフィルムのリーランド・チーは今後も「レジェンズ」のキャラクターが「カノン」に登場していくことを明言している。 2005年、SANKYOから『CRフィーバースター・ウォーズ』として登場した。 2008年に本機のゲーム性をさらにアップした『CRフィーバースター・ウォーズ ダース・ベイダー降臨』も登場した。 2014年に『CR FEVER STAR WARS Battle of Darth Vader』が登場した。 2007年にパチンコと同じSANKYOから発売。 2015年6月1日、オリジナル&プリクエル・トリロジー6部作のデジタル配信が開始された。ウォルト・ディズニー・カンパニーによるルーカスフィルム買収後の配信であるため、20世紀フォックスのロゴは表示されない(『エピソード4』を除く)。それまでの映像ソフトには未収録のボーナス映像も収録されている。 その後、シークエル・トリロジーやアンソロジー・シリーズの作品がソフト化される際は、デジタル配信も同時に行われるようになった。また、『クローン・ウォーズ』『反乱者たち』などのアニメーションも配信されている。
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"tag": "p", "text": "映画『スター・ウォーズ』シリーズは、「スカイウォーカー・サーガ(Skywalker saga)」と総称される3組の3部作が中心となっている。 これらは非時系列的に製作されており、エピソード4~6(旧3部作)は1977年から1983年の間に、エピソード1~3(新3部作)は1999年から2005年の間に、エピソード7~9(続3部作)は2015年から2019年の間に公開されている。それぞれの3部作は、フォースに敏感なスカイウォーカー家の一世代に焦点を当てている。旧3部作はルーク・スカイウォーカーの英雄的な成長を描き、新3部作は父アナキンのバックストーリーを、続3部作はルークの甥であるカイロ・レンを主役にしている。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "メインエピソードの間に設定された「アンソロジー・シリーズ」は、続3部作の制作と並行して開発に入り、ディズニーのCFOであるジェイ・ラズロは、オリジン・ストーリーと表現している。最初の作品である『ローグ・ワン』(2016年)は、エピソード4の直前にデス・スターの設計図を盗んだ反乱軍の物語である。『ハン・ソロ』(2018年)は、同名のキャラクターのバックストーリーに焦点を当て、旧3部作の共同主人公であるチューバッカとランド・カルリジアンも登場し、新3部作の悪役であるダース・モールも関わっている。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ルーカスフィルムは、スター・ウォーズの映画を数多く開発しており、そのうちの2本が、2020年のディズニー・インベスター・デイで確認された。1つ目は、パティ・ジェンキンスが監督を務める『Rogue Squadron』というタイトルの映画で、2023年12月25日に公開予定である。 2つ目は、2020年5月にクリスティ・ウィルソン=ケアンズと共同執筆していたスター・ウォーズ映画の監督を務めることが発表されたタイカ・ワイティティによる未発表の映画である。さらに、『最後のジェダイ』の脚本・監督のライアン・ジョンソンによって、スカイウォーカー・サーガから独立した3部作が執筆されている。2019年9月には、キャスリーン・ケネディとマーベル・スタジオ社長のケヴィン・ファイギが共同でスター・ウォーズ映画を開発することが発表された。2020年2月には、監督のJ・D・ディラードと脚本家のマット・オーウェンズによる映画が開発中であることが発表された。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2018年2月には、『ゲーム・オブ・スローンズ』のショーランナーを務めたデイヴィッド・ベニオフとD・B・ワイスが脚本、製作を担当するスター・ウォーズ映画の開発が発表されるも、ベニオフとワイスの多忙を理由に2019年10月には立ち消えとなった。また、製作が予定されたオビ=ワン・ケノービとボバ・フェットのスピンオフ映画は、2018年6月に『ハン・ソロ』の興行不振の影響で保留となり、ボバ・フェットの映画は2018年10月に製作中止となり、オビ=ワン・ケノービのスピンオフはドラマシリーズとして製作されることが、2019年8月に発表された。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ルーク・スカイウォーカーを主人公とするシリーズで、1977年から1983年にかけて公開された。スピンオフを含むスター・ウォーズ全作品の大元となる作品群である。第1作『スター・ウォーズ』(1977年)は大衆文化に大きな影響をもたらし(英語版)、続編『帝国の逆襲』(1980年)、『ジェダイの復讐』(1983年)も世界的にヒットした。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1971年、ユニバーサル映画はルーカスが監督を務める2作品について契約を結んだ。最初に製作された『アメリカン・グラフィティ』は成功を収め、ルーカスはアカデミー賞にノミネートされた。数か月後、ルーカスは2作目の草案を提出したがユニバーサルは草案を拒否したため、20世紀フォックスと契約を結んだ。1974年までにルーカスは草案を下敷きにして脚本を書き上げ(この時点でシス、デス・スター、アナキン・スターキラー(アナキン・スカイウォーカー)などの要素が加えられた)、物語が全9部作になると主張して20世紀フォックスと交渉し、監督として5万ドル、脚本家として5万ドル、プロデュース費用として5万ドルを受け取った。製作を確実なものとしたルーカスは、監督としての報酬を抑える代わりに、マーチャンダイジングの権利は全てルーカスフィルムが持つと認めさせ(トム・ポロック(英語版)は、「交渉において、我々は20世紀フォックスのビル・ラーマンとの間で契約を立案しました。我々はジョージが権利を所有することで合意しました」と述べている)、自らの管理でキャラクターやメカのグッズを製造・発売し、巨額の富を得た。この利益を基に、後の新三部作(プリクエル・トリロジー)はルーカスフィルムの自己資金で製作されている。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "映画が時系列では4番目にあたる『新たなる希望』から制作されたのは、まず1作目が商業的に成果を収めねばシリーズ化が望めず、その意味で一番「冒険活劇」としての完成度が高かった『新たなる希望』を最初に世に出すことが得策だと判断されたためである。また新三部作の時代は、全銀河の首都である大都市惑星コルサントの描写や、銀河共和国と独立星系連合の間で勃発した大規模戦争であるクローン戦争の描写が必須にもかかわらず、当時の映像技術と予算では映画化が不可能だったのも理由にある。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1997年、新三部作(プリクエル・トリロジー)の公開に先駆けて『スター・ウォーズ』『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』の特別篇が順次公開された。ルーカスの製作意図に一層近づいた形にするべく、フィルムの物理的な洗浄や素材フィルムまで戻った光学合成シーンのデジタル合成によるやり直し、再撮影及びCGによる新規シーンの追加等が行われた。音響効果もバラつきが統合され、サウンドトラック全体もヒスノイズ低減処理を経て再編集された。一方で、行われた変更の中にはいわゆる「ハンが先に撃った」など、旧来のファンの間で論争を引き起こしたものもある。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後2004年にDVD、2011年にBlu-ray Discと新規の映像ソフトが発売されるたび、新三部作との整合化など、この特別篇にさらに修正が加えられていった。現在はテレビオンエアもこちらのバージョンが標準になっており、初公開時のオリジナル版を鑑賞することは困難となっている(ただし、2006年にDVDが発売された際に、初公開時のオリジナル版が特典として同梱されている)。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アナキン・スカイウォーカーを主人公とするシリーズで、1999年から2005年にかけて公開された。旧三部作の前日譚に当たる。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1987年、ルーカスはマーシア・ルーカスとの離婚和解で財産を失い映画製作の意欲をなくし、『ジェダイの帰還』以降の続編計画は中断してしまう。しかし、1990年代の映像技術の進歩に触発され、シリーズの再開を考えるようになった。この間、スター・ウォーズはティモシイ・ザーンの『スローン三部作』やダークホースコミックスの『ダークエンパイア』などのスピンオフ作品によって人気を回復した。スター・ウォーズ人気が衰えていないことを知ったルーカスは、再び監督として製作に復帰する。1999年に『ファントム・メナス』が公開され、2002年に『クローンの攻撃』、2005年に『シスの復讐』が公開された。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "旧三部作と比較すると遥かに発達した特撮・CG技術や派手なカメラワークが目立ち、シリーズの見所の一つであるライトセーバーの殺陣も非常にアクロバティック化した。ルーカスは新たな映像信号規格・HD24Pの導入によるデジタルシネマの推進に意欲的に取り組み、『エピソード2/クローンの攻撃』において長編映画では史上初めて完全デジタル撮影を行った。その後、映画界では撮影機材のデジタル化が急速化し、映画の歴史に一つの転換期をもたらすことになった。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ルーカスは長年スター・ウォーズシリーズのために作成した資料の量を誇張しており(その理由をマイケル・カミンスキーは宣伝と情報保安を目的にしていると述べている)、「ルーカスが『ジェダイの帰還』の後に続く物語を企画している」という憶測が生まれた。しかしルーカスは『シスの復讐』以降の作品は製作しないと明言し、「私はよく\"『ジェダイの帰還』の後に何が起きるんですか?\"と聞かれますが、それに対する答えを持っていません。映画はアナキンとルークの物語であり、ルークは銀河を救い父を取り戻して物語は終結しています」と語ったことにより、スター・ウォーズシリーズは全九部作の予定を全六部作と修正して一旦の完結を迎えた。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "レイを主人公とするシリーズで、2015年から2019年にかけて公開された。旧三部作の後日譚に当たり、世界歴代興行成績の上位を塗り替えるヒットを記録している。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "オリジナル映画の公開に先立ち、その成功によって可能となったルーカスの計画は「9本の映画からなる3つの三部作」であり、1978年にTime誌にこのことを発表し、1981年にはその概要を確認している。開発の様々な段階で、続3部作は共和国の再建、旧三部作のオビ=ワンのような役割でのルークの復帰、ルークの妹(レイアとはまだ決まっていない)、ハン、レイア、R2-D2とC-3POに焦点を当てる予定だった。しかし、新三部作の制作を始めた後、ルーカスは『スター・ウォーズ』は6部作であることを意味し、続三部作は存在しないと主張した。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2011年に入り、ルーカスは『スター・ウォーズ』の新しい映画作品について仕事を始めた。2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収してスター・ウォーズシリーズの著作権を取得、配給会社も20世紀フォックスからウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズに変更され、新体制での再スタートとなった。2015年に『フォースの覚醒』、2017年に『最後のジェダイ』、2019年に『スカイウォーカーの夜明け』が公開され、本来想定されていた九作で完結した。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "買収後のルーカスフィルム社長にはキャスリーン・ケネディが就任。作品自体は引き続きルーカスフィルムが製作するが、ルーカス本人は今までのように製作総指揮は行わず、製作現場から退き「クリエイティブ顧問」という特別な役職に就任した。マーク・ハミルはディズニーの制作について、「ルーカスの構想していたのとは大きく異なるものだ」と言及した。また、20世紀フォックスが永久的配給権・販売権を所有する『エピソード4』を除いて、オリジナル&プリクエル・トリロジーの同権利も2020年5月にディズニー/ルーカスフィルムに移行する予定になっていた。2013年に親会社(ニューズ・コープ)の分社化により21世紀フォックスが設立され、20世紀フォックスは傘下となり、その後2017年12月14日にウォルト・ディズニー・カンパニーは21世紀フォックスのエンターテインメント部門を総額661億ドル(7兆4000億円)で買収することに最終合意したと発表。これにより『スター・ウォーズ』全ての権利を完全にディズニー/ルーカスフィルムが有することとなった。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2010年に本シリーズの『エピソード1〜6』のデジタル3D化が発表された。そのためのデジタル3D変換技術の開発がイン・スリー社において行われたが、これは人物や背景などのシーン中の全対象物の3次元形状を3DCGモデルで再現し、そこに元映像をマッピングして3Dレンダリングするという非常に手間のかかるものでコストの問題が解決出来ずキャンセルされ、ルーカスとILMの監修の下プライム・フォーカス社においてデジタル3D変換が行われることになった。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2012年には『エピソード1/ファントム・メナス』のデジタル3D版が公開され、以後『エピソード2〜6』のデジタル3D版がエピソード順に公開される予定だったが、同年10月にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収し、続三部作(シークエル・トリロジー)の製作を決定したためそちらに尽力することとなり、デジタル3D版の公開は事実上の凍結状態となっている。この影響で日本でも『エピソード1/ファントム・メナス』のデジタル3D版公開終了後に3D版Blu-ray Discの発売が予定されていたが中止となった。 全世界の映画館での興行公開は現在も行われていないものの、『エピソード2/クローンの攻撃』のデジタル3D版は2013年7月26日から7月28日にドイツのメッセ・エッセンで開催された「スター・ウォーズ セレブレーション ヨーロッパII」にてイベント上映され、『エピソード3/シスの復讐』のデジタル3D版は2015年4月16日から4月19日にアメリカのカリフォルニア州アナハイムで開催された「スター・ウォーズ セレブレーションアナハイム」にてイベント上映されている。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "実写映画本編を補完する実写映画シリーズ。2013年、ルーカスフィルムがスター・ウォーズのメインストーリーとは別の劇場映画をいくつか製作すると報じられ、2015年4月にアメリカのカリフォルニア州アナハイムで開催された本シリーズのオフィシャルファンイベント「スター・ウォーズ セレブレーションアナハイム」で、これらの実写映画スピンオフ作品群は「アンソロジー・シリーズ」のレーベル名の下で公開されることが明らかにされた(ただし、アンソロジーという言葉はどのタイトルにも使われておらず、代わりに宣伝用の「スター・ウォーズ・ストーリー(A Star Wars Story)」というサブタイトルが付けられている)。アンソロジー映画の一作目は、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』2016年12月に公開され、『エピソード4/新たなる希望』で紹介された帝国軍からデススターの設計図を入手した反乱軍に焦点を当て、評価でも、興行的にも成功を収めた。二作目の『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』は、2018年5月に公開され、若き日のハン・ソロを中心に、チューバッカやランドが脇役として登場した。評価はおおむね好評だったが、興行成績は振るわず、計画されていたオビ=ワン・ケノービとボバ・フェットのスピンオフ映画に影響を及ぼした。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ルーカスフィルム・アニメーションが制作している主要なアニメーション作品では、『エピソード2/クローンの攻撃』から『エピソード3/シスの復讐』冒頭の戦いまでをシームレスに繋ぐ2Dアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ クローン大戦』や、同じく『エピソード2/クローンの攻撃』と『エピソード3』の間の時代を舞台にクローン大戦における戦いの一端を描いた3DCGアニメ映画『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』、そしてその続編となるクローン大戦の様々な戦場を描く3DCGアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』が発表されている。", "title": "テレビシリーズ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、ウォルト・ディズニー・カンパニーによるルーカスフィルム買収後も、『エピソード3/シスの復讐』と『エピソード4/新たなる希望』の間の時代の、反乱同盟軍が結成されるまでの物語を描いた3DCGアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ 反乱者たち』が発表されている。", "title": "テレビシリーズ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2018年10月3日、企画されていた実写ドラマのタイトルが『マンダロリアン』になると製作、脚本を務めるジョン・ファヴローが自身のInstagramで発表した。", "title": "テレビシリーズ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "10月4日、スター・ウォーズ公式サイトにて、作中の画像と共に、一作目の監督をデイブ・フィローニ、その後のエピソードの監督をデボラ・チョウ、リック・ファムイーワ、ブライス・ダラス・ハワード、タイカ・ワイティティが、プロデューサーにはジョン・ファヴロー、キャスリーン・ケネディ、コリン・ウィルソン、エグゼイティブ・プロデューサーにはカレン・ギルクリストが参加することが発表された。2020年にはシーズン2が配信され、2022年に配信予定のシーズン3製作が発表されている。またスピンオフシリーズのAhsokaおよびRangers of the New Republicの製作が発表されている。さらに、The Book of Boba Fettの製作も発表されている。", "title": "テレビシリーズ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その他、2022年配信予定のAndor、同じく2022年配信予定のThe Acolyteの製作が発表されている。", "title": "テレビシリーズ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "旧三部作の成功を受けて、『エピソード6/ジェダイの帰還』に登場した惑星エンドアのイウォーク族を主人公にしたテレビ映画。日本では劇場用映画として公開された。 『エピソード6/ジェダイの帰還』にてルーク達と出会う以前の、ウィケット・W・ウォリックらイウォーク族の冒険を描く。子供向けに実写映画本編より対象年齢を下げて制作されている。", "title": "テレビシリーズ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Atari 2600", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータ/Nintendo Entertainment System", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スーパー スター・ウォーズ", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "レベルアサルト", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ローグ スコードロン", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "スターファイター", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ゲームボーイアドバンス", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "バトルフロント", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "映画の翻案", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "クローン・ウォーズ", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "フォース・アンリーシュド", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "Knights of the Old Republic", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Xウィング", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "スター・ウォーズ ジェダイナイト", "title": "ゲーム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "前述の通り、映画の公開は時系列通りになっていない。それをスピンオフ等も含め歴史通りに整理すると、エピソード1 ファントム・メナス→エピソード2 クローンの攻撃→クローン・ウォーズ全シリーズ→エピソード3 シスの復讐→ハン・ソロ スター・ウォーズ ストーリー→スター・ウォーズ反乱者たち全シーズン→ローグワン スター・ウォーズ ストーリー→エピソード4 新たなる希望→エピソード5 帝国の逆襲→エピソード6 ジェダイの帰還(ジェダイの復讐)→スター・ウォーズ バトルフロント2→スター・ウォーズ レジスタンス→エピソード7 フォースの覚醒→エピソード8 最後のジェダイ→エピソード9 スカイウォーカーの夜明けとなる。", "title": "主なストーリーの時系列 " }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "基本的な用語のみ記述する。その他の用語、及び詳細は「用語一覧」「登場兵器一覧」「登場テクノロジー一覧」「惑星一覧」「戦いの一覧」を参照。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "実写映画11作品を合わせると、アカデミー賞37部門にノミネートされ、そのうち7部門を受賞している。また、特別業績賞も計3回受賞している。『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』は視覚効果で特別功労賞を受賞し、『スター・ウォーズ』はエイリアン、クリーチャー、ロボットの声で特別功労賞を受賞した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "本シリーズは、多種多様な媒体を通じて沢山のスピンオフ(外伝)を世に送り出してきた。ジョージ・ルーカス自身が他の作家による二次創作に寛容だったこともあり、映画本編と整合性が取られていない独創的な作品も多く存在する。しかし2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収した際、膨大な数のスピンオフが新規ファンに混乱を与えてしまうという配慮から、スピンオフ作品は全て「カノン(正史)」と「レジェンズ(非正史)」に分別されることとなった。", "title": "その他メディア" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「カノン」に属するスピンオフ作品は、ウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムの買収後に設立した「ルーカスフィルム ストーリー・グループ」の監修を受けた作品が該当する。それ以外(及び、すでに展開を終了している作品)は全て「レジェンズ」としていわゆる“パラレルワールド”の扱いとなった。しかし、「レジェンズ」の所属になったキャラクターのスローン大提督が「カノン」のアニメーション『反乱者たち』に、同じくタグ&ビンクが「カノン」の実写映画『ハン・ソロ』にそれぞれ登場しており、ルーカスフィルムのリーランド・チーは今後も「レジェンズ」のキャラクターが「カノン」に登場していくことを明言している。", "title": "その他メディア" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2005年、SANKYOから『CRフィーバースター・ウォーズ』として登場した。", "title": "その他メディア" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2008年に本機のゲーム性をさらにアップした『CRフィーバースター・ウォーズ ダース・ベイダー降臨』も登場した。", "title": "その他メディア" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2014年に『CR FEVER STAR WARS Battle of Darth Vader』が登場した。", "title": "その他メディア" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2007年にパチンコと同じSANKYOから発売。", "title": "その他メディア" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2015年6月1日、オリジナル&プリクエル・トリロジー6部作のデジタル配信が開始された。ウォルト・ディズニー・カンパニーによるルーカスフィルム買収後の配信であるため、20世紀フォックスのロゴは表示されない(『エピソード4』を除く)。それまでの映像ソフトには未収録のボーナス映像も収録されている。", "title": "デジタル配信" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後、シークエル・トリロジーやアンソロジー・シリーズの作品がソフト化される際は、デジタル配信も同時に行われるようになった。また、『クローン・ウォーズ』『反乱者たち』などのアニメーションも配信されている。", "title": "デジタル配信" } ]
「スター・ウォーズ」は、ジョージ・ルーカスが製作し、1977年に公開された同名の映画から始まるアメリカのスペースオペラシリーズである。映画だけでなく、アニメーション、小説、コミック、ゲームなど複数の媒体で展開される。 後に『エピソード4/新たなる希望』と改題されるオリジナルの映画『スター・ウォーズ』(1977年)を皮切りに、『エピソード5/帝国の逆襲』(1980年)、『エピソード6/ジェダイの帰還』(1983年)の旧三部作が製作された。 その後、『エピソード1 /ファントム・メナス』(1999年)、『エピソード2 /クローンの攻撃』(2002年)、『エピソード3 /シスの復讐』(2005年)の新三部作が製作され、シリーズは一度幕を閉じた。 2012年、ルーカスは制作会社のルーカスフィルムをウォルト・ディズニー・カンパニーに売却し、フランチャイズの所有権を放棄した。その後『エピソード7/フォースの覚醒』(2015年)、『エピソード8/最後のジェダイ』(2017年)、『エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』(2019年)の続三部作が製作された。これらの9作品は「スカイウォーカー・サーガ」としてシリーズの柱となっている。 実写スピンオフ映画『ローグ・ワン』(2016年)と『ハン・ソロ』(2018年)を合わせて、映画の合計興行収入は100億米ドル以上に相当し、現在、歴代映画フランチャイズの中で2番目に高い興行収入を記録している。
{{Otheruses|シリーズ作品|その他の用法|スター・ウォーズ (曖昧さ回避)}}{{Infobox media franchise|title=スター・ウォーズ<br><small></small>Star Wars|novels=[[スター・ウォーズのスピンオフ一覧|一覧]]|years=1977年-現在|attractions=[[#イベント・テーマパーク|ディズニーのテーマパークに展開されているエリア及びアトラクション一覧]]|vgs={{Plainlist| * ''Star Wars: X-Wing''<br/>(4作品; 1993年–1999年) * ''Jedi Knight''<br/>(4作品; 1995年–2003年) * ''Rogue Squadron''<br/>(3作品; 1998年–2003年) * ''Knights of the Old Republic'' (3作品;<br>2003年–現在) * ''Battlefront''<br/>(8作品; 2004年–2017年) * ''Lego Star Wars''<br/>(6 games; 2005–2021) * [[スター・ウォーズ フォース アンリーシュド|フォース アンリーシュド]]<br/>(2作品; 2008年–2010年) }}|soundtracks=|radio=Star Wars<br>The Empire Strikes Back<br>Return of the Jedi<br> (1981年-1996年)|plays=|magazines=「''スター・ウォーズ インサイダー''」<br>(1987年–現在)|comics=[[スター・ウォーズのスピンオフ一覧|一覧]]|shorts=''Reflections'' (2018)|image=Star wars2.svg|tv_specials=『スター・ウォーズ・ホリデー・スペシャル』<br>(1978年)|tv_films=[[#テレビ映画|一覧]]|tv=[[:en:List of Star Wars television series|リストはこちら]] {{Plainlist| *『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』<br>(2019年–) *『[[ボバ・フェット/The Book of Boba Fett]]』<br/>(2021年) *『[[オビ=ワン・ケノービ (テレビドラマ) |オビ=ワン・ケノービ]]』<br>(2022年) *『''キャシアン・アンドー''』<br>(2022年) }}|films=[[映画|すべての一覧]] {{Plainlist| '''実写''' * 「[[#スカイウォーカー・サーガ|スカイウォーカー・サーガ]]」<br/>(9作品; 1977年–2019年) * 「[[#アンソロジー・シリーズ|アンソロジー・シリーズ]]」<br/>(2作品; 2016年–現在) '''アニメーション''' * 『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ|クローン・ウォーズ]]』<br/>(劇場用パイロット版1作; 2008年) }}|owner=[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]|origin=『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』 (1977年)|creator=[[ジョージ・ルーカス]]|imagesize=225px|website={{URL|starwars.com}}}}「'''スター・ウォーズ'''」('''Star Wars''')は、[[ジョージ・ルーカス]]が製作し、[[1977年]]に公開された[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|同名の映画]]から始まる[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ]]の[[スペースオペラ]]シリーズである<ref name="知恵蔵">{{Cite Kotobank|word=スター・ウォーズ|encyclopedia=(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」|accessdate=2022-12-31}}</ref>。映画だけでなく、[[アニメーション]]、[[小説]]、[[コミック]]、[[ゲーム]]など複数の媒体で展開される。 後に『エピソード4/新たなる希望』と改題されるオリジナルの映画『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』(1977年)を皮切りに、『[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|エピソード5/帝国の逆襲]]』(1980年)、『[[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還|エピソード6/ジェダイの帰還]]』(1983年)の旧三部作が製作された<ref name="知恵蔵" />。 その後、『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス|エピソード1 /ファントム・メナス]]』(1999年)、『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃|エピソード2 /クローンの攻撃]]』(2002年)、『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐|エピソード3 /シスの復讐]]』(2005年)の新三部作が製作され、シリーズは一度幕を閉じた<ref name="知恵蔵" />。 2012年、ルーカスは制作会社の[[ルーカスフィルム]]を[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]に売却し、フランチャイズの所有権を放棄した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/000/G000000/20121031029/|title=ディズニーがルーカスフィルムを買収。シリーズ最新作「Star Wars Episode 7」は,2015年公開予定|website=4Gamer.net|date=2012-10-31|accessdate=2022-12-31}}</ref>。その後『[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒|エピソード7/フォースの覚醒]]』(2015年)、『[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ|エピソード8/最後のジェダイ]]』(2017年)、『[[スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け|エピソード9/スカイウォーカーの夜明け]]』(2019年)の続三部作が製作された。これらの9作品は「スカイウォーカー・サーガ」としてシリーズの柱となっている。 実写スピンオフ映画『[[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー|ローグ・ワン]]』(2016年)と『[[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー|ハン・ソロ]]』(2018年)を合わせて、映画の合計興行収入は100億米ドル以上に相当し、現在、歴代映画[[メディアミックス|フランチャイズ]]の中で2番目に高い興行収入を記録している<ref>{{Cite web|title=Franchise Index|url=https://www.boxofficemojo.com/|publisher=[[Amazon.com]]|website=[[Box Office Mojo]]|work=[[インターネット・ムービー・データベース|Internet Movie Database]] (IMDb)|language=English|accessdate=2016-09-07}}{{リンク切れ|date=2020年7月4日}}</ref>。 == 世界設定 == 『スター・ウォーズ』シリーズは、「遠い昔、遥か彼方の銀河系で<ref name="star wars 4">{{Cite video|title=The Empire Strikes Back|publisher=[[20世紀フォックス]]|date=2006|medium=DVD|publication-date=|newspaper=}}</ref>」の登場人物たちの冒険を描いている。そこでは、人間と多くの種の[[宇宙人|異星人]](多くの場合は[[ヒューマノイド]])が、日常生活を支援してくれる[[ロボット]]や「[[ドロイド]]」と共存しており、光速の超空間技術によって惑星間の宇宙旅行が一般的に行われている<ref>{{Cite book|title=Star wars : the essential guide to alien species|url=https://archive.org/details/starwarsessentia00lewi|publisher=New York : Lucas Books ; Del Rey|date=2001|isbn=978-0-345-44220-8|others=Internet Archive|first=Ann Margaret|last=Lewis|first2=R. K.|last2=Post}}</ref><ref>{{Cite book|title=Star wars|url=https://archive.org/details/starwarsessentia00wall|publisher=Del Rey|date=1999|isbn=978-0-345-42067-1|others=Internet Archive|first=Daniel|last=Wallace}}</ref>。宇宙船には、小型の[[ジェダイ・スターファイター|スターファイター]]から[[スター・デストロイヤー]]のような巨大な宇宙戦艦、月面サイズの[[デス・スター]]のような宇宙ステーションまで様々なものがある。[[通信]]には、双方向のオーディオや[[オーディオ・ビジュアル]]・スクリーン、[[ホログラフィー|ホログラフィック]]・プロジェクションなどがある。 フォースと呼ばれる神秘的な力は、原作では「すべての生物が作り出すエネルギーフィールド......(それは、)銀河を束ねる」と説明されている<ref>{{Cite web|title=6 Great Quotes About the Force|url=https://www.starwars.com/news/6-great-quotes-about-the-force|website=StarWars.com|date=2016-07-25|accessdate=2021-04-11|language=en-US}}</ref>。「フォースが強い」者は、訓練や瞑想によって、さまざまな超能力([[念力]]、[[予知|予知能力]]、[[テレパシー]]、物理的エネルギーの操作など)を発揮することができる<ref name="star wars 4" />。 [[ジェダイ]]は[[銀河共和国]]の平和維持者であり、無執着と仲裁によってフォースのライト・サイドを行使し、[[シス (スター・ウォーズ)|シス]]は恐怖と攻撃性を操ることで闇ダーク・サイドを行使するという、互いに対立する2つの主要な[[騎士団]]によってフォースが行使されている。ジェダイの騎士は数が多いが、シスの暗黒卿(または「ダース」)は、マスターとその弟子の2人に限定されることになっている。 フォースの使い手は、平均的な人口に比べて数が非常に限られている。ジェダイとシスは、[[ライトセーバー]]と呼ばれる武器を好んで使用する。ライトセーバーは、ほぼすべての表面を切り裂き、エネルギーボルトを逸らすことができるエネルギーの刃である。それ以外の人々や、反逆者や兵士は、レーザーを使った[[ブラスター (スター・ウォーズ)|ブラスター]]銃器を使用する。銀河系外縁部では、ハットのカルテルのような犯罪シンジケートが支配的である。[[バウンティハンター|賞金稼ぎ]]はギャングと政府の両方に雇われることが多い。密輸や奴隷制などの違法行為も行われている。 ==映画== {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ;width:99%" !タイトル !公開日 !監督 !脚本 !原案 !製作 !製作総指揮 |- ! colspan="7" style="background-color:#ccccff;" | '''旧3部作/オリジナル・トリロジー''' |- ![[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|エピソード4/新たなる希望]] |'''オリジナル'''<br />{{Flagicon|USA}} 1977年5月25日<br />{{Flagicon|JPN}} 1978年6月24日<br />'''特別篇'''<br />{{Flagicon|USA}} 1997年1月31日<br />{{Flagicon|JPN}} 1997年5月31日 | colspan="3" |[[ジョージ・ルーカス]] | rowspan="2" |[[ゲイリー・カーツ]]<br />[[リック・マッカラム]](特別篇) | rowspan="3" |ジョージ・ルーカス(特別篇) |- ![[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 |エピソード5/帝国の逆襲]] |'''オリジナル'''<br />{{Flagicon|USA}} 1980年5月21日<br />{{Flagicon|JPN}} 1980年6月28日<br />'''特別篇'''<br />{{Flagicon|USA}} 1997年2月21日<br />{{Flagicon|JPN}} 1997年7月5日 |[[アーヴィン・カーシュナー]] |[[リイ・ブラケット]]<br />[[ローレンス・カスダン]] | rowspan="2" |ジョージ・ルーカス |- ![[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還|エピソード6/ジェダイの帰還]] |'''オリジナル'''<br />{{Flagicon|USA}} 1983年5月25日<br />{{Flagicon|JPN}} 1983年7月2日<br />'''特別篇'''<br />{{Flagicon|USA}} 1997年3月14日<br />{{Flagicon|JPN}} 1997年7月26日 |[[リチャード・マーカンド]] |ローレンス・カスダン<br />ジョージ・ルーカス |ハワード・カザンジャン<br />リック・マッカラム(特別篇) |- ! colspan="7" style="background-color:#ccccff;" | '''新3部作/プリクエル・トリロジー''' |- ![[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス|エピソード1/ファントム・メナス]] |{{Flagicon|USA}}1999年5月19日<br />{{Flagicon|JPN}} 1999年7月10日 | colspan="3" |ジョージ・ルーカス | rowspan="3" |リック・マッカラム | rowspan="3" |ジョージ・ルーカス |- ![[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃|エピソード2/クローンの攻撃]] |{{Flagicon|USA}}2002年5月22日<br />{{Flagicon|JPN}} 2002年7月13日 |ジョージ・ルーカス |ジョージ・ルーカス<br /> ジョナサン・ヘイルズ |ジョージ・ルーカス |- ![[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐|エピソード3/シスの復讐]] |{{Flagicon|USA}}2005年5月19日<br />{{Flagicon|JPN}} 2005年7月9日 | colspan="3" |ジョージ・ルーカス |- ! colspan="7" style="background-color:#ccccff;" | '''続3部作/シークエル・トリロジー''' |- ![[スター・ウォーズ/フォースの覚醒|エピソード7/フォースの覚醒]] |{{Flagicon|USA}} {{Flagicon|JPN}} 2015年12月18日 |[[J・J・エイブラムス]] | colspan="2" | J・J・エイブラムス<br />[[ローレンス・カスダン]]<br />[[マイケル・アーント]] | J・J・エイブラムス<br />[[キャスリーン・ケネディ (映画プロデューサー)|キャスリーン・ケネディ]]<br />[[ブライアン・バーク]] |トミー・ハーパー<br />ジェイソン・マクガトリン |- ![[スター・ウォーズ/最後のジェダイ|エピソード8/最後のジェダイ]] |{{Flagicon|USA}} {{Flagicon|JPN}} 2017年12月15日 | colspan="3" |[[ライアン・ジョンソン]] | キャスリーン・ケネディ<br />[[ラム・バーグマン]] |J・J・エイブラムス<br />ジェイソン・マクガトリン<br />トム・カルノースキー |- ![[スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け|エピソード9/スカイウォーカーの夜明け]] |{{Flagicon|USA}} {{Flagicon|JPN}} 2019年12月20日 | J・J・エイブラムス | J・J・エイブラムス<br />[[クリス・テリオ]] |デレク・コノリー [[コリン・トレヴォロウ]] J・J・エイブラムス<br />[[クリス・テリオ]] | キャスリーン・ケネディ<br />ラム・バーグマン |J・J・エイブラムス<br />ジェイソン・マクガトリン<br />トム・カルノースキー |- ! colspan="7" style="background-color:#ccccff;" | アンソロジー映画 |- ![[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー]] |{{Flagicon|USA}} {{Flagicon|JPN}} 2016年12月16日 |[[ギャレス・エドワーズ]] |[[クリス・ワイツ]]<br />[[トニー・ギルロイ]] |[[ジョン・ノール]] ゲイリー ウィッタ | rowspan="2" |キャサリーン・ケネディ アリソン・シェアマー サイモン・エマニュエル |サイモン・エマニュエルジョン・ノー[[ジョン・ノール]] ジェイソン・マクガトリン アリソン・シェアマー |- ![[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー]] |{{Flagicon|USA}}2018年5月25日 <br />{{Flagicon|JPN}} 2018年6月29日 |[[ロン・ハワード]] | colspan="2" |ジョナサン・カスダン<br />[[ローレンス・カスダン]] |ローレンス・カスダン ジェイソン・マクガトリン [[フィル・ロード&クリス・ミラー]] |- !''Rogue Squadron'' |{{Flagicon|USA}}2023年12月22日 |[[パティ・ジェンキンス]] |TBA |TBA |キャサリーン・ケネディ |TBA |} 映画『スター・ウォーズ』シリーズは、「スカイウォーカー・サーガ(Skywalker saga)」と総称される3組の3部作が中心となっている。 これらは非時系列的に製作されており、エピソード4~6(旧3部作)は1977年から1983年の間に、エピソード1~3(新3部作)は1999年から2005年の間に、エピソード7~9(続3部作)は2015年から2019年の間に公開されている。それぞれの3部作は、フォースに敏感なスカイウォーカー家の一世代に焦点を当てている。旧3部作は[[ルーク・スカイウォーカー]]の英雄的な成長を描き、新3部作は父[[アナキン・スカイウォーカー|アナキン]]のバックストーリーを、続3部作はルークの甥である[[カイロ・レン]]を主役にしている。 メインエピソードの間に設定された「アンソロジー・シリーズ」は、続3部作の制作と並行して開発に入り、ディズニーの[[最高財務責任者|CFO]]であるジェイ・ラズロは、オリジン・ストーリーと表現している<ref>{{Cite web|title=‘Star Wars’: The ‘Sky’s the Limit’ for Disney’s Spinoff Opportunities|url=https://variety.com/2013/biz/news/star-wars-skys-the-limit-for-disney-when-it-comes-to-opportunities-1200609291/|website=Variety|date=2013-09-12|accessdate=2021-04-11|language=en-US|first=Marc|last=Graser}}</ref>。最初の作品である『[[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー|ローグ・ワン]]』(2016年)は、エピソード4の直前にデス・スターの設計図を盗んだ反乱軍の物語である。『[[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー|ハン・ソロ]]』(2018年)は、[[ハン・ソロ|同名のキャラクター]]のバックストーリーに焦点を当て、旧3部作の共同主人公である[[チューバッカ]]と[[ランド・カルリジアン]]も登場し、新3部作の悪役である[[ダース・モール]]も関わっている。 ルーカスフィルムは、スター・ウォーズの映画を数多く開発しており、そのうちの2本が、2020年のディズニー・インベスター・デイで確認された。1つ目は、[[パティ・ジェンキンス]]が監督を務める『''Rogue Squadron''』というタイトルの映画で、2023年12月25日に公開予定である。 2つ目は、2020年5月にクリスティ・ウィルソン=ケアンズと共同執筆していたスター・ウォーズ映画の監督を務めることが発表された[[タイカ・ワイティティ]]による未発表の映画である。さらに、『最後のジェダイ』の脚本・監督のライアン・ジョンソンによって、スカイウォーカー・サーガから独立した3部作が執筆されている<ref name="eiga.com_20171110">{{Cite news|和書|date=2017-11-10|title=『スター・ウォーズ』新たな3部作を製作!「最後のジェダイ」R・ジョンソンが監督|url=http://eiga.com/news/20171110/12|publisher=株式会社エイガ・ドット・コム|newspaper=映画.com|accessdate=2020-07-04}}</ref>。2019年9月には、キャスリーン・ケネディと[[マーベル・スタジオ]]社長の[[ケヴィン・ファイギ]]が共同でスター・ウォーズ映画を開発することが発表された。2020年2月には、監督のJ・D・ディラードと脚本家のマット・オーウェンズによる映画が開発中であることが発表された<ref>{{Cite web|title=New ‘Star Wars’ Movie in Development With ‘Sleight’ Director, ‘Luke Cage’ Writer|url=https://variety.com/2020/film/news/star-wars-movie-jd-dillard-1203511055/|website=Variety|date=2020-02-21|accessdate=2021-04-11|language=en-US|first=Adam B.|last=Vary}}</ref>。 2018年2月には、『[[ゲーム・オブ・スローンズ]]』のショーランナーを務めた[[デイヴィッド・ベニオフ]]と[[D・B・ワイス]]が脚本、製作を担当するスター・ウォーズ映画の開発が発表される<ref>{{Cite web|和書|title=『スター・ウォーズ』映画新シリーズの製作が決定、次回3部作とは別物に ― 『ゲーム・オブ・スローンズ』製作者が脚本を執筆|url=https://theriver.jp/sw-film-new-series/|website=THE RIVER|date=2018-02-07|accessdate=2021-04-11|language=ja}}</ref>も、ベニオフとワイスの多忙を理由に2019年10月には立ち消えとなった<ref>{{Cite web|和書|title=ゲーム・オブ・スローンズ製作者のスター・ウォーズ新作は立ち消え。Netflix作品で多忙が理由 - Engadget 日本版|url=http://japanese.engadget.com/jp-2019-10-29-netflix.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220220155736/https://japanese.engadget.com/jp-2019-10-29-netflix.html|archivedate=2022-02-20|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2021-04-11}}</ref>。また、製作が予定された[[オビ=ワン・ケノービ|オビ=ワン・ケノービ]]と[[ボバ・フェット]]のスピンオフ映画は、2018年6月に『ハン・ソロ』の興行不振の影響で保留となり<ref name=":0">{{Cite web|title=Star Wars Spinoffs on Hold at Lucasfilm|url=https://collider.com/star-wars-spinoffs-on-hold/|website=Collider|date=2018-06-20|accessdate=2021-04-11|language=en-US}}</ref>、ボバ・フェットの映画は2018年10月に製作中止となり<ref>{{Cite web|和書|title=『スター・ウォーズ』ボバ・フェットのスピンオフ映画が製作中止に ― ドラマ「ザ・マンダロリアン」に集中の方針|url=https://theriver.jp/boba-fett-no-development/|website=THE RIVER|date=2018-10-27|accessdate=2021-04-11|language=ja}}</ref>、オビ=ワン・ケノービのスピンオフはドラマシリーズとして製作されることが、2019年8月に発表された<ref>{{Cite web|和書|title=オビ=ワン・ケノービのスピンオフドラマが21年3月にクランクイン ユアン・マクレガーが明言 : 映画ニュース|url=https://eiga.com/news/20201014/5/|website=映画.com|accessdate=2021-04-11|language=ja}}</ref>。 === スカイウォーカー・サーガ === ==== 旧三部作/オリジナル・トリロジー ==== {{multiple image|total_width=320|caption_align=left|image1=Mark Hamill (48419236062) Cropped.jpg|image2=|image3=Carrie Fisher 2013 cropped retouched.jpg|image4=James Earl Jones (8516667383).jpg|footer=旧三部作のメインキャスト達(左から)[[マーク・ハミル]](ルーク・スカイウォーカー)、[[キャリー・フィッシャー]](レイア姫)、[[ジェームズ・アール・ジョーンズ]](ダース・ベイダーの声)。|direction=}} [[ルーク・スカイウォーカー]]を主人公とするシリーズで、[[1977年]]から[[1983年]]にかけて公開された。スピンオフを含むスター・ウォーズ全作品の大元となる作品群である。第1作『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』(1977年)は{{仮リンク|大衆文化におけるスター・ウォーズ|en|Cultural impact of Star Wars|label=大衆文化に大きな影響をもたらし}}、続編『[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|帝国の逆襲]]』([[1980年]])、『[[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還|ジェダイの復讐]]<ref name="rotj" group="注釈" />』(1983年)も世界的にヒットした。 1971年、[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル映画]]はルーカスが監督を務める2作品について契約を結んだ。最初に製作された『[[アメリカン・グラフィティ]]』は成功を収め、ルーカスはアカデミー賞にノミネートされた。数か月後、ルーカスは2作目の草案を提出したがユニバーサルは草案を拒否したため、20世紀フォックスと契約を結んだ<ref>{{Harvnb|Rinzler|2007|p=8}} {{出典無効|date=2020年7月4日|title=編集上の残滓?}}</ref>。1974年までにルーカスは草案を下敷きにして脚本を書き上げ(この時点で[[シス (スター・ウォーズ)|シス]]、[[デス・スター]]、アナキン・スターキラー([[アナキン・スカイウォーカー]])などの要素が加えられた)、物語が全9部作になると主張して20世紀フォックスと交渉し、監督として5万ドル、脚本家として5万ドル、プロデュース費用として5万ドルを受け取った<ref name=Deadline_20151218>{{Cite web |last=Fleming Jr. |first=Mike |author=Mike Fleming Jr. |date=18 December 2015 |title=An Architect Of Hollywood's Greatest Deal Recalls How George Lucas Won Sequel Rights |url=http://deadline.com/2015/12/star-wars-franchise-george-lucas-historic-rights-deal-tom-pollock-1201669419/ |publisher=[[:en:Penske Media Corporation|Penske Media Corporation]] (PMC) |work=[[Deadline.com]] |language=English |accessdate=10 November 2017 }}</ref>。製作を確実なものとしたルーカスは、監督としての報酬を抑える代わりに、[[マーチャンダイジング]]の権利は全て[[ルーカスフィルム]]が持つと認めさせ({{仮リンク|トム・ポロック|en|Tom Pollock}}は、「交渉において、我々は20世紀フォックスのビル・ラーマンとの間で契約を立案しました。我々はジョージが権利を所有することで合意しました」と述べている{{r|Deadline_20151218}})、自らの管理でキャラクターやメカのグッズを製造・発売し、巨額の富を得た。この利益を基に、後の新三部作([[プリクエル]]・[[トリロジー]])はルーカスフィルムの自己資金で製作されている{{r|Deadline_20151218}}。 映画が時系列では4番目にあたる『新たなる希望』から制作されたのは、まず1作目が商業的に成果を収めねばシリーズ化が望めず、その意味で一番「冒険活劇」としての完成度が高かった『新たなる希望』を最初に世に出すことが得策だと判断されたためである。また新三部作の時代は、全銀河の首都である大都市惑星[[スター・ウォーズ惑星一覧|コルサント]]の描写や、[[銀河共和国]]と[[独立星系連合]]の間で勃発した大規模戦争である[[クローン戦争]]の描写が必須にもかかわらず、当時の映像技術と予算では映画化が不可能だったのも理由にある<ref>『エピソード1』『エピソード2』『エピソード4』オーディオ・コメンタリー</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" |- ! 公開年 ! タイトル ! 監督 |- | [[1977年]] | [[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]](エピソード4/新たなる希望) | [[ジョージ・ルーカス]] |- | [[1980年]] | [[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|スター・ウォーズ/帝国の逆襲]](エピソード5/帝国の逆襲) | [[アーヴィン・カーシュナー]] |- | [[1983年]] | [[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還|スター・ウォーズ/ジェダイの復讐]]{{Refnest|name="rotj"|group="注釈"|日本における劇場公開時のサブタイトルは「ジェダイの'''復讐'''」だったが、2004年の旧三部作DVDボックス発売時に、原題である「''Return of the Jedi''」をそのまま訳した「ジェダイの'''帰還'''」に改題された<ref name=eiga.com_45859>{{Cite news |和書 |title=スター・ウォーズ ジェダイの復讐 - 作品情報 |url=http://eiga.com/movie/45859/ |publisher=株式会社エイガ・ドット・コム |newspaper=[[映画.com]] |accessdate=2018-04-09 }}</ref>。}}(エピソード6/ジェダイの帰還) | [[リチャード・マーカンド]] |} ===== 特別篇 ===== [[1997年]]、新三部作(プリクエル・トリロジー)の公開に先駆けて『スター・ウォーズ』『帝国の逆襲』『ジェダイの復讐』の特別篇が順次公開された。ルーカスの製作意図に一層近づいた形にするべく、フィルムの物理的な洗浄や素材フィルムまで戻った[[光学合成]]シーンの[[デジタル合成]]によるやり直し、再撮影及び[[コンピュータグラフィックス|CG]]による新規シーンの追加等が行われた。音響効果もバラつきが統合され、[[サウンドトラック]]全体もヒスノイズ低減処理を経て再編集された。一方で、行われた変更の中にはいわゆる「[[ハンが先に撃った]]」など、旧来のファンの間で論争を引き起こしたものもある。 その後[[2004年]]に[[DVD]]、[[2011年]]に[[Blu-ray Disc]]と新規の映像ソフトが発売されるたび、新三部作との整合化など、この特別篇にさらに修正が加えられていった。現在はテレビオンエアもこちらのバージョンが標準になっており、初公開時のオリジナル版を鑑賞することは困難となっている(ただし、2006年にDVDが発売された際に、初公開時のオリジナル版が特典として同梱されている)。 ==== 新三部作/プリクエル・トリロジー ==== {{multiple image|total_width=320|caption_align=left|image1=Ewan McGregor 2012.jpg|image2=Natalie Portman Cannes 2015 4.jpg|image3=Hayden-cfda2010-0004(1) (cropped).jpg|image4=Ian McDiarmid Brussels Comic Con 2020.jpg|footer=新三部作のメインキャスト達(左から)[[ユアン・マクレガー]](オビ=ワン・ケノービ)、[[ナタリー・ポートマン]](パドメ・アミダラ)、[[ヘイデン・クリステンセン]](アナキン・スカイウォーカー<ref group="注釈">『エピソード1』では[[ジェイク・ロイド]]が幼少期を演じた</ref>)、[[イアン・マクダーミド]](パルパティーン)。|direction=}} [[アナキン・スカイウォーカー]]を主人公とするシリーズで、[[1999年]]から[[2005年]]にかけて公開された。旧三部作の前日譚に当たる。 1987年、ルーカスは[[マーシア・ルーカス]]との離婚和解で財産を失い映画製作の意欲をなくし、『ジェダイの帰還』以降の続編計画は中断してしまう{{Sfnp|Kaminski|2007|p=227}}。しかし、1990年代の映像技術の進歩に触発され、シリーズの再開を考えるようになった。この間、スター・ウォーズは[[ティモシイ・ザーン]]の『スローン三部作』や[[ダークホースコミックス]]の『ダークエンパイア』などのスピンオフ作品によって人気を回復した。スター・ウォーズ人気が衰えていないことを知ったルーカスは、再び監督として製作に復帰する{{Sfnp|Kaminski|2007|pp=294–95}}。1999年に『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス|ファントム・メナス]]』が公開され、2002年に『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃|クローンの攻撃]]』、2005年に『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐|シスの復讐]]』が公開された<ref name="release dates">{{cite web|url=http://www.starwars.com/episode-iii/bts/production/news20040405.html|title=Episode III Release Dates Announced|accessdate=March 27, 2008|date=April 5, 2004|publisher=Star Wars|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080415144223/http://www.starwars.com/episode-iii/bts/production/news20040405.html|archivedate=April 15, 2008}}</ref>。 旧三部作と比較すると遥かに発達した特撮・[[コンピュータグラフィックス|CG]]技術や派手なカメラワークが目立ち、シリーズの見所の一つであるライトセーバーの殺陣も非常にアクロバティック化した。ルーカスは新たな[[映像信号]]規格・[[HD24P]]の導入による[[デジタルシネマ]]の推進に意欲的に取り組み、『エピソード2/クローンの攻撃』において長編映画では史上初めて完全デジタル撮影を行った。その後、映画界では撮影機材のデジタル化が急速化し、映画の歴史に一つの転換期をもたらすことになった。 ルーカスは長年スター・ウォーズシリーズのために作成した資料の量を誇張しており(その理由をマイケル・カミンスキーは宣伝と情報保安を目的にしていると述べている<ref name=seattlepi_20050312>{{Cite news |last=Arnold |first=William (Seattle Post-Intelligencer) |author=William Arnold |date=12 May 2005 |title=Director George Lucas Takes a Look Back—and Ahead |url=https://www.seattlepi.com/ae/movies/article/Director-George-Lucas-takes-a-look-back-and-1173117.php |publisher=Hearst Seattle Media |work=seattlepi.com |language=English |accessdate=2020-07-04 }}</ref>)、「ルーカスが『ジェダイの帰還』の後に続く物語を企画している」という憶測が生まれた<ref name=Movieweb_20040910>{{Cite web |author=Brian B. |date=10 September 2004 |title=Mark Hamill talks ''Star Wars'' 7, 8 and 9! |url=http://www.movieweb.com/news/NEDgFKFJPSFEID |publisher=[[:en:Movieweb|Movieweb]] |language=English |accessdate=18 October 2008 }}</ref>。しかしルーカスは『シスの復讐』以降の作品は製作しないと明言し<ref name=KillerMovies_20040913>{{Cite web |author= |date=13 September 2004 |title=George Lucas talks on ''Star Wars'' sequels 7, 8 & 9 |url=http://www.killermovies.com/s/starwarsepisodeiii/articles/4415.html |publisher=KillerMovies |language=English |accessdate=18 October 2008 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.industrycentral.net/director_interviews/GL01.HTM|title=George Lucas (''Star Wars'': Episode I)|accessdate=October 18, 2008|publisher=Industry Central|last=Mr. Showbiz}}{{リンク切れ|date=2020年7月4日}}</ref>、「私はよく"『ジェダイの帰還』の後に何が起きるんですか?"と聞かれますが、それに対する答えを持っていません。映画はアナキンとルークの物語であり、ルークは銀河を救い父を取り戻して物語は終結しています」と語ったことにより<ref>{{cite web|url=http://www.cinematical.com/2008/05/07/will-lucas-extend-his-star-wars-story-past-return-of-the-je|title=Will Lucas Extend His ''Star Wars'' Story Beyond ''Return of the Jedi''?|accessdate=October 18, 2008|date=May 7, 2008|publisher=Cinematical|last=Davis|first=Erik}}</ref>、スター・ウォーズシリーズは全九部作の予定を全六部作と修正して一旦の完結を迎えた。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" |- ! 公開年 ! タイトル ! 監督 |- | [[1999年]] |[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]] | rowspan="3" |ジョージ・ルーカス |- | [[2002年]] |[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]] |- | [[2005年]] | [[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐]] |} ==== 続三部作/シークエル・トリロジー ==== {{multiple image|total_width=320|caption_align=left|image1=Daisy Ridley by Gage Skidmore.jpg|image2=Star Wars- The Last Jedi Japan Premiere Red Carpet- Adam Driver (27163437599) (cropped).jpg|image3=John Boyega by Gage Skidmore.jpg|image4=Oscar Isaac by Gage Skidmore.jpg|footer=続三部作のメインキャスト達(左から)[[デイジー・リドリー]](レイ)、[[アダム・ドライバー]](カイロ・レン)、[[ジョン・ボイエガ]](フィン)、[[オスカー・アイザック]](ポー・ダメロン)。|direction=}} [[レイ (スター・ウォーズ)|レイ]]を主人公とするシリーズで、[[2015年]]から[[2019年]]にかけて公開された。旧三部作の後日譚に当たり、[[世界歴代興行収入上位の映画一覧|世界歴代興行成績]]の上位を塗り替えるヒットを記録している。 オリジナル映画の公開に先立ち、その成功によって可能となったルーカスの計画は「9本の映画からなる3つの三部作<ref>{{Cite web|title=Mark Hamill talks ‘Star Wars 7, 8 and 9’!|url=https://movieweb.com/mark-hamill-talks-star-wars-7-8-and-9/|website=Movieweb|date=2004-09-10|accessdate=2021-04-11|language=en-US}}</ref>」であり、1978年にTime誌にこのことを発表し<ref>{{Cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,915986,00.html|title="George Lucas' Galactic Empire"|accessdate=2012年9月15日|publisher=[[タイム (雑誌)|タイム]]}}</ref>、1981年にはその概要を確認している。開発の様々な段階で、続3部作は共和国の再建、旧三部作のオビ=ワンのような役割でのルークの復帰、ルークの妹(レイアとはまだ決まっていない)、ハン、レイア、R2-D2とC-3POに焦点を当てる予定だった<ref>{{Cite web|title=The Empire Strikes Back! - TIME|url=https://web.archive.org/web/20130825234833/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,924122,00.html|website=web.archive.org|date=2013-08-25|accessdate=2021-04-11}}</ref><ref name="Starlog237">{{cite magazine|last=Warren|first=Bill|title=Maker of Myths|issue=#237, April 1997|magazine=Starlog}}</ref><ref>[[Kerry O'Quinn]]. "The George Lucas Saga Chapter 1: 'A New View{{'"}}, ''Starlog'' #48, July 1981.</ref>。しかし、新三部作の制作を始めた後、ルーカスは『スター・ウォーズ』は6部作であることを意味し、続三部作は存在しないと主張した<ref>{{cite book|title=Star Wars: The Empire Strikes Back|last=Lucas|first=George|year=1997|publisher=[[Del Rey Books|Del Rey]]|page=i}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.killermovies.com/s/starwarsepisodeiii/articles/4415.html|title=George Lucas talks on ''Star Wars'' sequels 7, 8 & 9|date=September 13, 2004|publisher=Killer Movies|access-date=October 18, 2008|archive-date=October 11, 2008|archive-url=https://web.archive.org/web/20081011055915/http://www.killermovies.com/s/starwarsepisodeiii/articles/4415.html|url-status=live}}</ref>。 2011年に入り、ルーカスは『スター・ウォーズ』の新しい映画作品について仕事を始めた。2012年に[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]が[[ルーカスフィルム]]を買収してスター・ウォーズシリーズの著作権を取得<ref name="Meredith_20121221">{{Cite web |last=Schou |first=Solvej |author=Solvej Schou |date=21 December 2012 |title=Mickey + 'Star Wars' = Disney completes Lucasfilm acquisition |url=https://ew.com/article/2012/12/21/walt-disney-completes-lucasfilm-acquisition/ |publisher=[[メレディス・コーポレーション|Meredith Corporation]] |work=Entertainment Weekly |language=English |accessdate=22 December 2012 }}</ref>、配給会社も[[20世紀フォックス]]から[[ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ]]に変更され、新体制での再スタートとなった。2015年に『[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒|フォースの覚醒]]』、2017年に『[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ|最後のジェダイ]]』、2019年に『[[スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け|スカイウォーカーの夜明け]]』が公開され、本来想定されていた九作で完結した。 買収後のルーカスフィルム社長には[[キャスリーン・ケネディ (映画プロデューサー)|キャスリーン・ケネディ]]が就任。作品自体は引き続きルーカスフィルムが製作するが、ルーカス本人は今までのように製作総指揮は行わず、製作現場から退き「クリエイティブ顧問」という特別な役職に就任した<ref name="StarWarsVideoSeries">[http://starwars.com/news/a-discussion-about-the-future-of-star-wars/index.html "New Video Series: A Discussion About the Future of Star Wars"], ''StarWars.com'', October 30, 2012. Retrieved May 25, 2013.</ref>。マーク・ハミルはディズニーの制作について、「ルーカスの構想していたのとは大きく異なるものだ」と言及した<ref name="Esquire_20171215">{{Cite web|和書|author=エスクァイア編集部 |date=2017-12-15 |title=ジョージ・ルーカス不在にマーク・ハミル悲しむ ―「スター・ウォーズ」シリーズ生みの親のフォース |url=https://www.esquire.com/jp/entertainment/movies/a196450/entertainment-movies-starwars17-1215/ |publisher=エスクァイア |accessdate=2018-02-18 }}</ref>。また、[[20世紀フォックス]]が永久的配給権・販売権を所有する『エピソード4』を除いて、オリジナル&プリクエル・トリロジーの同権利も2020年5月にディズニー/ルーカスフィルムに移行する予定になっていた。2013年に親会社([[ニューズ・コープ]])の分社化により[[21世紀フォックス]]が設立され、20世紀フォックスは傘下となり、その後2017年12月14日にウォルト・ディズニー・カンパニーは21世紀フォックスのエンターテインメント部門を総額661億ドル(7兆4000億円)で買収することに最終合意したと発表。これにより『スター・ウォーズ』全ての権利を完全にディズニー/ルーカスフィルムが有することとなった<ref>{{cite press release|title=The Walt Disney Company To Acquire Twenty-First Century Fox, Inc., After Spinoff Of Certain Businesses, For $52.4 Billion In Stock|publisher=[[The Walt Disney Company]]|date=December 14, 2017|url=https://thewaltdisneycompany.com/walt-disney-company-acquire-twenty-first-century-fox-inc-spinoff-certain-businesses-52-4-billion-stock-2/|accessdate=December 14, 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171214141817/https://thewaltdisneycompany.com/walt-disney-company-acquire-twenty-first-century-fox-inc-spinoff-certain-businesses-52-4-billion-stock-2/|archivedate=December 14, 2017|deadurl=yes|df=mdy-all}} Additional , December 14, 2017.</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ;width:99%" |- ! 公開年 ! タイトル ! 監督 |- | [[2015年]] |[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒]](エピソード7) | [[J・J・エイブラムス]] |- | [[2017年]] |[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ]](エピソード8) | [[ライアン・ジョンソン]] |- | [[2019年]] |[[スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け]](エピソード9) | J・J・エイブラムス<ref group="注釈">当初は[[コリン・トレヴォロウ]]が監督だったが、[[プリプロダクション]]段階の2017年に降板し、J・J・エイブラムスに交代。</ref><ref name=CinemaToday_20170906>{{Cite news |和書 |author=入倉功一 |date=2017-09-06 |title=『スター・ウォーズ』またも監督降板 エピソード9からコリン・トレヴォロウ離脱 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0094236 |publisher=株式会社シネマトゥデイ |newspaper=[[シネマトゥデイ]] |accessdate=2017-09-18 }}</ref><ref name=Natalie_20170913>{{Cite news |和書 |date=2017-09-13 |title=「スター・ウォーズ」エピソード9の監督がJ.J.エイブラムスに決定 |url=https://natalie.mu/eiga/news/248504 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=映画[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2017-09-18 }}</ref> |} ==== デジタル3D版 ==== 2010年に本シリーズの『エピソード1{{~}}6』の[[立体映画|デジタル3D]]化が発表された<ref name=TSUTAYA_20150810>{{Cite web|和書|author=川井英司 |date=2015-08-10 |title=『エピソード2/クローンの攻撃 3D』、『エピソード3/シスの復讐 3D』が「セレブレーションアナハイム」にて上映 |url=https://tsutaya.tsite.jp/news/cinema/i/25051500/ |publisher=[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ#TSUTAYA及び蔦屋書店事業|株式会社蔦屋書店]] |work=T-SITE NEWS |accessdate=2016-04-24 }}</ref>。そのためのデジタル3D変換技術の開発が[[イン・スリー]]社において行われたが、これは人物や背景などのシーン中の全対象物の3次元形状を[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]モデルで再現し、そこに元映像をマッピングして3Dレンダリングするという非常に手間のかかるもので<ref>{{Harvnb|大口|2009}} {{要ページ番号|date=2020年7月4日}}</ref>コストの問題が解決出来ずキャンセルされ、ルーカスとILMの監修の下[[プライム・フォーカス]]社においてデジタル3D変換が行われることになった<ref>『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』3D版劇場パンフレットの[[ジョン・ノール]]のインタビューより。</ref>。 2012年には『エピソード1/ファントム・メナス』のデジタル3D版が公開され、以後『エピソード2{{~}}6』のデジタル3D版がエピソード順に公開される予定だったが、同年10月にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収し、続三部作([[シークエル]]・トリロジー)の製作を決定したためそちらに尽力することとなり、デジタル3D版の公開は事実上の凍結状態となっている。この影響で[[日本]]でも『エピソード1/ファントム・メナス』のデジタル3D版公開終了後に3D版[[Blu-ray Disc]]の発売が予定されていたが中止となった。 全世界の映画館での興行公開は現在も行われていないものの、『エピソード2/クローンの攻撃』のデジタル3D版は[[2013年]][[7月26日]]から[[7月28日]]に[[ドイツ]]のメッセ・エッセンで開催された「スター・ウォーズ セレブレーション [[ヨーロッパ]]Ⅱ」にてイベント上映され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.starwarsblog.jp/star-wars-celebration-europe-2-open/|title=スター・ウォーズ セレブレーション ヨーロッパⅡ開催!注目のイベントとゲスト一覧|accessdate=2016-04-24|date=2013-7-26|publisher=STAR WARS WEBLOG}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.starwarsblog.jp/star-wars-celebration-april-2015-to-the-anaheim/|title=次回「スター・ウォーズ セレブレーション」は2015年4月にカリフォルニア・アナハイムで開催!|accessdate=2016-04-24|date=2013-7-28|publisher=STAR WARS WEBLOG}}</ref>、『エピソード3/シスの復讐』のデジタル3D版は2015年[[4月16日]]から[[4月19日]]にアメリカのカリフォルニア州アナハイムで開催された「スター・ウォーズ セレブレーションアナハイム」にてイベント上映されている{{r|TSUTAYA_20150810}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.starwarsblog.jp/celebration-anaheim-to-feature-3d-prequel-screenings//|title=『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 3D』、『エピソード3/シスの復讐 3D』が「セレブレーションアナハイム」にて上映!|accessdate=2016-04-24|date=2015-1-4|publisher=STAR WARS WEBLOG}}</ref>。 === アンソロジー・シリーズ === 実写映画本編を補完する実写映画シリーズ。2013年、ルーカスフィルムがスター・ウォーズのメインストーリーとは別の劇場映画をいくつか製作すると報じられ<ref name=CNBC_20130205>{{Cite news |date=05 February 2013 |title=Disney Earnings Beat; 'Star Wars' Spinoffs Planned |url=http://www.cnbc.com/id/100434935 |publisher=[[CNBC]] |language=English |accessdate=05 February 2013 }}</ref>、2015年[[4月]]にアメリカの[[カリフォルニア州]][[アナハイム]]で開催された本シリーズのオフィシャルファンイベント「[[スター・ウォーズ セレブレーション]]アナハイム」で、これらの実写映画スピンオフ作品群は「アンソロジー・シリーズ」のレーベル名の下で公開されることが明らかにされた<ref>{{cite web|url=http://www.slashfilm.com/star-wars-rogue-one-plot/|title=‘Star Wars: Rogue One’ Details: Theft of Death Star Plans Confirmed as Plot; Plus Footage and Concept Art|accessdate=2016-09-07|date=2015-04-19|work=/Film|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160827014044/http://www.slashfilm.com/star-wars-rogue-one-plot|archivedate=2016年8月27日|last=Fischer|first=Russ|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>(ただし、アンソロジーという言葉はどのタイトルにも使われておらず、代わりに宣伝用の「スター・ウォーズ・ストーリー(''A Star Wars Story'')」というサブタイトルが付けられている)。アンソロジー映画の一作目は、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』2016年12月に公開され、『エピソード4/新たなる希望』で紹介された帝国軍からデススターの設計図を入手した反乱軍に焦点を当て、評価でも、興行的にも成功を収めた。二作目の『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』は、2018年5月に公開され、若き日の[[ハン・ソロ]]を中心に、[[チューバッカ]]や[[ランド・カルリジアン|ランド]]が脇役として登場した。評価はおおむね好評だったが、興行成績は振るわず、計画されていた[[オビ=ワン・ケノービ|オビ=ワン・ケノービ]]と[[ボバ・フェット]]のスピンオフ映画に影響を及ぼした<ref name=":0" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" ! 作品名 ! 公開日 ! 監督 ! 脚本 ! 製作 ! 製作総指揮 |- ![[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー]] |{{Flagicon|USA}} {{Flagicon|JPN}} 2016年12月16日 | [[ギャレス・エドワーズ]] |[[クリス・ワイツ]]<br />[[トニー・ギルロイ]] | キャスリーン・ケネディ |[[サイモン・エマニュエル]]<br /> [[ジョン・ノール]]<br />ジェイソン・マクガトリン<br />[[アリソン・シェアマー]] |- ![[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー]] |{{Flagicon|USA}}2018年5月25日 <br />{{Flagicon|JPN}} 2018年6月29日 | [[ロン・ハワード]] |[[ジョナサン・カスダン]]<br />ローレンス・カスダン | キャスリーン・ケネディ<br /> サイモン・エマニュエル<br />アリソン・シェアマー | ローレンス・カスダン<br /> ジェイソン・マクガトリン<br />[[フィル・ロード&クリス・ミラー]] |- ![[ローグ・スコードロン(原題)]] |{{Flagicon|USA}}2023年12月22日 <br />{{Flagicon|JPN}} 未定 |[[パティ・ジェンキンス]] | | | |} == テレビシリーズ == [[ルーカスフィルム・アニメーション]]が制作している主要なアニメーション作品では、『エピソード2/クローンの攻撃』から『エピソード3/シスの復讐』冒頭の戦いまでをシームレスに繋ぐ[[2次元コンピュータグラフィックス|2D]]アニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ クローン大戦』や、同じく『エピソード2/クローンの攻撃』と『エピソード3』の間の時代を舞台にクローン大戦における戦いの一端を描いた3DCG[[アニメ映画]]『[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]]』、そしてその続編となるクローン大戦の様々な戦場を描く3DCGアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』が発表されている。 また、ウォルト・ディズニー・カンパニーによるルーカスフィルム買収後も、『エピソード3/シスの復讐』と『エピソード4/新たなる希望』の間の時代の、反乱同盟軍が結成されるまでの物語を描いた3DCGアニメのテレビシリーズ『スター・ウォーズ 反乱者たち』が発表されている。 === 3Dアニメーション === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" |- ! タイトル !シーズン !話数 ! 公開年 ! 監督 |- ! rowspan="8" |[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ (テレビアニメ)]] ! colspan="2" |[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ|映画]] |[[2008年]] | rowspan="8" | デイブ・フィローニ |- !1 |22 | 2008年 - 2009年 |- !2 |22 |2009年 - 2010年 |- !3 |22 |2010年 - 2011年 |- !4 |22 |2011年 -2012年 |- !5 |20 |2012年 - 2013年 |- !6 |13 |2014年 - 2014年 |- !7 |12 |2020年 -2020年 |- ! rowspan="5" |[[スター・ウォーズ 反乱者たち]] !ショート |4 | 2014年 | rowspan="3" | デイブ・フィローニ |- !1 |15 |2014年 - 2015年 |- !2 |22 |2015年 - 2016年 |- !3 |22 |2017年 - 2018年 |ジャスティン・リッジ |- !4 |16 |2019年 - 2020年 |デイブ・フィローニ |- ! rowspan="3" |[[スター・ウォーズ レジスタンス]] !ショート |12 | 2018年 | rowspan="3" | ジャスティン・リッジ |- !1 |21 |2018年 - 2019年 |- !2 |19 |2019年 - 2020年 |- ! rowspan="2" | [[スター・ウォーズ: バッド・バッチ]] !1 |16 | 2021年 - | rowspan="2" | ブラッド・ラウ |- !2 | |2023年 - |- !スター・ウォーズ: テイルズ・オブ・ジェダイ !1 |6 |2022年 |デイブ・フィローニ |- ! rowspan="2" |[[スター・ウォーズ: ビジョンズ]] !1 |9 |2021年 | rowspan="2" |Individually |- !2 |9 |2023年 |- !スター・ウォーズ: ヤング・ジェダイ・アドベンチャー !1 | |2023年 - | |} === 2Dアニメーション === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" |- ! タイトル !シーズン !話数 !公開年 !監督 |- ! rowspan="2" |[[スター・ウォーズ ドロイドの大冒険]] !1 |13 | 1985年 | ケン・スティーブンソン レイモンド・ヤフェリチェ |- ! colspan="2" |TV スペシャル |1986年6月7日 |クライヴ・A・スミス |- ! rowspan="2" |[[イウォーク物語]] !1 |13 | 1985年 | |- !2 |22 |1986年 | |- ! rowspan="3" |[[スター・ウォーズ クローン大戦]] !1 |10 |2003年 | rowspan="3" |[[ゲンディ・タルタコフスキー]] |- !2 |10 |2004年 |- !3 |5 |2005年 |- !''Star Wars Blips'' !1 |8 |2017年 | |- ! rowspan="2" |[[スター・ウォーズ/フォース・オブ・デスティニー]] !1 |16 |2017年 | rowspan="2" |キャリー・ベック デイブ・フィローニ |- !2 |16 |2018年 |- ! rowspan="2" |スター・ウォーズ ギャラクシー・オブ・アドベンチャー !1 |36 |2018年- 2019年 | rowspan="2" |ジョシュ・ライムス |- !2 | |2020年 - |- !スター・ウォーズ ロール・アウト !1 | |2019年 |糸柳英郎 |} === 実写ドラマ === 2018年10月3日、企画されていた実写ドラマのタイトルが『[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]]』になると製作、脚本を務める[[ジョン・ファヴロー]]が自身の[[Instagram]]で発表した<ref name=RIVER_20181004 >{{Cite news |和書 |author=中谷直登 |date=2018-10-04 |title=『スター・ウォーズ』実写TVドラマは「ザ・マンダロリアン」 ─ ジョン・ファヴローが概要明らかに |url=https://theriver.jp/jf-the-mandalorian/ |publisher=株式会社riverch |newspaper=THE RIVER |accessdate=2018-10-05 }}</ref>。 10月4日、スター・ウォーズ公式サイトにて、作中の画像と共に、一作目の監督を[[デイブ・フィローニ]]、その後のエピソードの監督を[[デボラ・チョウ]]、[[リック・ファミュイワ|リック・ファムイーワ]]、[[ブライス・ダラス・ハワード]]、[[タイカ・ワイティティ]]が、プロデューサーには[[ジョン・ファヴロー]]、[[キャスリーン・ケネディ (映画プロデューサー)|キャスリーン・ケネディ]]、[[コリン・ウィルソン (プロデューサー)|コリン・ウィルソン]]、エグゼイティブ・プロデューサーには[[カレン・ギルクリスト]]が参加することが発表された<ref name=RIVER_20181005>{{Cite news |和書 |author=中谷直登 |date=2018-10-05 |title=スター・ウォーズ実写ドラマ『ザ・マンダロリアン』初の画像公開 ─ 『マイティ・ソー バトルロイヤル』タイカ・ワイティティ監督も参加 |url=https://theriver.jp/mandalorian-first-look/ |publisher=株式会社riverch |newspaper=THE RIVER |accessdate=2018-10-05 }}</ref>。2020年にはシーズン2が配信され、2022年に配信予定のシーズン3製作が発表されている。またスピンオフシリーズの''Ahsoka''および''Rangers of the New Republic''の製作が発表されている<ref name="DisneyInvestorDay">{{cite web|url=https://www.slashfilm.com/mandalorian-spin-off-shows-ahsoka-and-rangers-of-the-new-republic/|title=Lucasfilm Announces ‘The Mandalorian’ Spin-Offs ‘Ahsoka’ and ‘Rangers of the New Republic’|last=Anderton|first=Ethan|work=[[/Film]]|date=December 10, 2020|accessdate=December 10, 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201211001516/https://www.slashfilm.com/mandalorian-spin-off-shows-ahsoka-and-rangers-of-the-new-republic/|archivedate=December 10, 2020|url-status=live}}</ref><ref name="DisneyInvestorDayVerge">{{cite web|url=https://www.theverge.com/2020/12/10/22168619/disney-plus-star-wars-rangers-of-the-new-republic-ahsoka-mandalorian-spinoffs|title=Disney Plus is getting two new Mandalorian spinoffs: Rangers of the New Republic and Ahsoka|last=Gartenberg|first=Chaim|work=[[The Verge]]|date=December 10, 2020|accessdate=December 10, 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201210233851/https://www.theverge.com/2020/12/10/22168619/disney-plus-star-wars-rangers-of-the-new-republic-ahsoka-mandalorian-spinoffs|archivedate=December 10, 2020|url-status=live}}</ref>。さらに、''The Book of Boba Fett''の製作も発表されている<ref name="BobaFettSeriesDeadline">{{cite web|url=https://deadline.com/2020/11/the-mandalorian-season-3-production-start-date-spinoff-casting-disney-plus-sophie-thatcher-1234609860/|title='The Mandalorian' Eyes Season 3 Production Start As Spinoff, Casting & Boba Fett Buzz Heats Up|last=Andreeva|first=Nellie|work=[[Deadline Hollywood]]|date=November 5, 2020|accessdate=November 6, 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201106175726/https://deadline.com/2020/11/the-mandalorian-season-3-production-start-date-spinoff-casting-disney-plus-sophie-thatcher-1234609860/|archivedate=November 6, 2020|url-status=live}}</ref>。 その他、2022年配信予定の''Andor''<ref name="AndorTitleAnnouncement">{{cite web|url=https://ew.com/tv/rogue-one-prequel-series-title-andor/|title=Rogue One prequel series gets title: Andor|last=Hibberd|first=Jame|work=[[Entertainment Weekly]]|date=December 10, 2020|accessdate=December 10, 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201210235503/https://ew.com/tv/rogue-one-prequel-series-title-andor/|archivedate=December 10, 2020|url-status=live}}</ref>、同じく2022年配信予定の''The Acolyte''<ref name="StarWarsLeslyeHeadland">{{cite web |url=https://variety.com/2020/tv/news/star-wars-series-leslye-headland-disney-plus-1234587493/ |title=‘Star Wars’ Series From ‘Russian Doll’ Co-Creator Leslye Headland in the Works at Disney Plus (EXCLUSIVE) |work=Variety |date=April 22, 2020 |access-date=April 22, 2020 |archive-date=April 22, 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200422204140/https://variety.com/2020/tv/news/star-wars-series-leslye-headland-disney-plus-1234587493/ |url-status=live }}</ref>の製作が発表されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" |- ! タイトル !シーズン !話数 !公開年 !監督 |- ! rowspan="4" |[[マンダロリアン (テレビドラマ)|マンダロリアン]] !1 |8 |2019年 | rowspan="5" |[[ジョン・ファヴロー]] |- !2 |8 |2020年 |- !3 |8 |2023年 |- !4 |8 |TBA |- ![[ボバ・フェット/The Book of Boba Fett]] !1 |7 |2021年 |- ![[オビ=ワン・ケノービ (テレビドラマ)|オビ=ワン・ケノービ]] !1 |6 |2022年 |[[デボラ・チョウ]] |- ! rowspan="2" |[[キャシアン・アンドー (テレビドラマ)|キャシアン・アンドー]] !1 |12 |2022年 | rowspan="2" |[[トニー・ギルロイ]] |- !2 |TBA |2024年 |- ![[アソーカ (テレビドラマ)|アソーカ]] !1 |8 |2023年 |[[ピーター・ラムジー]] |- !Skeleton Crew !1 |TBA |2023年 |[[ジョン・ワッツ]] |- !'''Star Wars: The Acolyte''' !1 |TBA |2024年 |レスリー・ヘッドランド |- !Lando !1 |TBA |TBA |TBA |} === テレビ映画 === ===  イウォーク2部作 === 旧三部作の成功を受けて、『エピソード6/ジェダイの帰還』に登場した惑星[[エンドア]]の[[イウォーク]]族を主人公にした[[テレビ映画]]。日本では劇場用映画として公開された。 『エピソード6/ジェダイの帰還』にてルーク達と出会う以前の、ウィケット・W・ウォリックらイウォーク族の冒険を描く。子供向けに実写映画本編より対象年齢を下げて制作されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" ! 作品名 ! 公開日 ! 監督 ! 脚本 ! 製作 ! 放送 |- ![[イウォーク・アドベンチャー]] |{{Flagicon|USA}}1984年11月25日<br />{{Flagicon|JPN}} 1985年8月17日 |[[ジョン・コーティ]] |[[ボブ・キャロウ]] | rowspan="2" |ジョージ・ルーカス | rowspan="2" |[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]] |- ![[エンドア/魔空の妖精]] |{{Flagicon|USA}} 1985年11月24日<br />{{Flagicon|JPN}} 1987年3月21日 |[[ケン・ウィート]]<br />[[ジム・ウィート]] |ケン・ウィート<br />ジム・ウィート |} == ゲーム == === アクション === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: Droids (video game)|Star Wars: Droids]] |1988年 |[[Amstrad CPC]]/[[コモドール64]]/[[ZX Spectrum]] | |- |[[スター・ウォーズ 帝国の影]] |[[北アメリカ|NA]]:1996年12月3日,[[PAL]]:1997年3月1日(N64)<br />NA:1997年9月17日,PAL:1998年2月3日(Windows) |[[NINTENDO64|N64]]/[[Microsoft Windows|Windows]] | |- |[[:en:Star Wars: Masters of Teräs Käsi|Star Wars: Masters of Teräs Käsi]] |NA:1997年10月31日,[[ヨーロッパ|EU]]:1998年3月,[[日本|JP]]:1998年9月23日 |[[PlayStation (ゲーム機)|PS]] | |- |[[:en:Star Wars: Demolition|Star Wars: Demolition]] |NA:2000年11月12,EU:2000年12月15日(PS)<br />NA:2000年11月19日,2000年12月15日(DC) |PS/[[ドリームキャスト|DC]] | |- |[[:en:Star Wars Episode I: Battle for Naboo|Star Wars Episode I: Battle for Naboo]] |2000年12月18日(N64)<br />2001年3月12日(Windows) |N64/Windows |ローグ スコードロンの[[精神的続編]]。 |- |[[:en:Star Wars: The Clone Wars (2002 video game)|Star Wars: The Clone Wars]] |NA:2002年10月28日,EU:2002年11月15日(NGC)<br />NA:2002年12月10日,EU:2003年2月7日(PS2)<br />NA:2003年4月22日,EU:2003年5月9日(Xbox) |[[ニンテンドーゲームキューブ|NGC]]/[[PlayStation 2|PS2]]/[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]] | |- |[[:en:Star Wars: Bounty Hunter|Star Wars: Bounty Hunter]] |NA:2002年11月19日,PAL:2002年12月6日(PS2)<br />NA:2002年12月7日,PAL:2003年2月7日(NGC) |PS2/NGC |邦題はスター・ウォーズ ジャンゴ・フェット。 |- |[[Kinect スター・ウォーズ]] |NA,EU:2012年4月3日,JP;2012年4月5日 |[[Xbox 360|X360]]/[[Kinect]] | |- |[[Vader Immortal: A Star Wars VR Series]] |エピソードI:2019年5月21日,エピソードII:2019年9月25日,エピソードIII:2019年11月21日(Oculus Quest,Oculus Rift)<br />2020年8月25日(PS VR) |[[Oculus Quest]]/[[Oculus Rift]]/[[PlayStation VR|PS VR]] | |- |[[:en:Star Wars: Tales from the Galaxy's Edge|Star Wars: Tales from the Galaxy's Edge]] |2020年11月19日 |Oculus Quest/[[Oculus Quest 2]] | |} '''Atari 2600''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: The Empire Strikes Back (1982 video game)|Star Wars: The Empire Strikes Back]] |1982年(Atari 2600)<br />1983年(インテレビジョン) |[[Atari 2600]]/[[インテレビジョン]] | |- |[[:en:Star Wars: Jedi Arena|Star Wars: Jedi Arena]] |1983年1月 |Atari 2600 | |- |[[:en:Return of the Jedi: Death Star Battle|Return of the Jedi: Death Star Battle]] |1983年(Atari 2600,Atari 5200,Atari 8ビット)<br />1985年(ZX Spectrum) |Atari 2600/[[Atari 5200]]/[[Atari 8ビット・コンピュータ]]/ZX Spectrum | |} '''ファミリーコンピュータ/Nintendo Entertainment System''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[スター・ウォーズ (ナムコ)|スター・ウォーズ]] |1987年12月4日 |[[ファミリーコンピュータ|FC]] |日本でのみ発売。 |- |[[スター・ウォーズ (ビクター)|スター・ウォーズ]] |JP:1991年11月15日,NA:1991年11月,EU:1992年3月26日(FC) |FC/[[ゲームボーイ|GB]]/[[セガ・マスターシステム]]/[[ゲームギア]] | |- |[[:en:Star Wars: The Empire Strikes Back (1992 video game)|Star Wars: The Empire Strikes Back]] |JP:1992年3月12日,NA:1992年3月,EU:1992年(FC)<br />NA:1993年1月,1996年(再発売)(GB) |FC/GB | |} '''スーパー スター・ウォーズ''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Super Star Wars|Super Star Wars]] |NA:1992年11月1日,JP:1992年12月18日,EU:1993年4月2日(SFC)<br />NA:2009年8月10日,PAL:2009年9月18日(VC)<br />NA:2015年11月17日,EU:2015年11月24日(PS4,PS Vita) |[[スーパーファミコン|SFC]]/[[バーチャルコンソール|VC]]/[[PlayStation 4|PS4]]/[[PlayStation Vita|PS Vita]] | |- |[[:en:Super Star Wars: The Empire Strikes Back|Super Star Wars: The Empire Strikes Back]] |NA:1993年6月1日,JP:1993年12月17日,EU:1994年2月24日(SFC)<br />NA:2009年8月24日,PAL:2009年10月2日(VC) |SFC/VC | |- |[[:en:Super Star Wars: Return of the Jedi|Super Star Wars: Return of the Jedi]] |NA:1994年6月22日,EU:1995年3月30日,JP:1995年6月23日(SFC))<br />NA:1995,EU:1995(ゲームギア)<br />NA:1995年11月,EU:1995年(GB)<br />NA:2009年9月7日,PAL:2009年10月16日(Wii仮想コンソール) |SFC/ゲームギア/GB/Wii仮想コンソール | |} '''レベルアサルト''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: Rebel Assault|Star Wars: Rebel Assault]] |1993年11月 |[[MS-DOS]]/[[Macintosh|Mac]]/[[メガCD]]/[[3DO]] | |- |[[:en:Star Wars: Rebel Assault II: The Hidden Empire|Star Wars: Rebel Assault II: The Hidden Empire]] |1995年11月 |MS-DOS/Windows/Mac/PS | |} '''ローグ スコードロン''' {{Main|[[:en:Star Wars: Rogue Squadron (series)|Star Wars: Rogue Squadron (series)]]}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[スター・ウォーズ 出撃! ローグ中隊]] |1999年8月27日 |N64 | |- |[[スター・ウォーズ ローグ スコードロン II]] |2002年3月22日 |NGC | |- |[[スター・ウォーズ ローグ スコードロン III]] |2003年11月21日 |NGC | |- |[[:en:Star Wars: Rogue Squadron (series)#Cancelled sequels|Cancelled sequels]] |未発売 | |中止された続編。 |} '''スターファイター''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: Starfighter|Star Wars: Starfighter]] |NA:2001年2月19日,EU:2001年3月23日,JP:2001年10月4日(PS2)<br />NA:2001年11月26日(Xbox)<br />NA:2002年1月22日,EU:2002年2月8日(PC)<br />NA:2015年4月28日,EU:2015年5月4日(PS3) |PS2/Xbox/PC/[[PlayStation 3|PS3]] | |- |[[:en:Star Wars: Jedi Starfighter|Star Wars: Jedi Starfighter]] |NA:2002年3月10日,EU:2002年3月28日(PS2)<br />NA:2002年5月13日,EU:2002年5月31日(Xbox) |PS2/Xbox | |- |} '''ゲームボーイアドバンス''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: The New Droid Army|Star Wars: The New Droid Army]] |NA:2002年11月14日,EU:2002年11月29日 |[[ゲームボーイアドバンス|GBA]] | |- |[[:en:Star Wars: Flight of the Falcon|Star Wars: Flight of the Falcon]] |EU:2003年11月21日,NA:2003年11月18日 |GBA | |- |[[:en:Star Wars Trilogy: Apprentice of the Force|Star Wars Trilogy: Apprentice of the Force]] |NA:2004年9月21日,EU:2004年9月24日 |GBA | |} '''バトルフロント''' {{Main|[[:en:Star Wars: Battlefront|Star Wars: Battlefront]]}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[スター・ウォーズ バトルフロント]] |[[アメリカ合衆国|USA]]:2004年9月21日,JP:2004年10月7日 |PS2/Xbox/Windows/Mac/携帯電話 | |- |[[スター・ウォーズ バトルフロントII]] |EU:2005年10月31日,NA:2005年11月1日,JP:2006年1月26日 |PS2/[[PlayStation Portable|PSP]]/Windows | |- |[[:en:Star Wars Battlefront: Renegade Squadron|Star Wars Battlefront: Renegade Squadron]] |NA:2007年10月9日,[[オーストララシア|AU]]:2007年10月10日,EU:2007年10月12日 |PSP | |- |[[:en:Star Wars: Battlefront#Star Wars Battlefront: Mobile Squadrons|Star Wars Battlefront: Mobile Squadrons]] |2009年4月2日 |携帯電話 | |- |[[:en:Star Wars Battlefront: Elite Squadron|Star Wars Battlefront: Elite Squadron]] |NA:2009年11月3日,EU:2009年11月6日 |PSP/[[ニンテンドーDS|DS]] | |- |[[スター・ウォーズ バトルフロント (2015)|スター・ウォーズ バトルフロント]] |NA:2015年11月17日,JP:2015年11月19日 |PS4/[[Xbox One|XOne]]/Windows | |- |[[スター・ウォーズ バトルフロントII (2017)|スター・ウォーズ バトルフロントII]] |2017年11月17日 |PS4/XOne/Windows | |} === アクションアドベンチャー === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: Yoda Stories|Star Wars: Yoda Stories]] |1997年3月12日(Windows)<br />1999年12月(GBC) |[[ゲームボーイカラー|GBC]] | |- |[[:en:Star Wars Episode I: Jedi Power Battles|Star Wars Episode I: Jedi Power Battles]] |NA:2000年4月4日,EU:2000年4月4日(PS)<br />NA:2000年10月18日(DC)<br />NA:2001年11月21日,EU:2002年3月1日(GBA) |PS/DC/GBA | |- |[[:en:Star Wars Episode I: Obi-Wan's Adventures|Star Wars Episode I: Obi-Wan's Adventures]] |2000年11月27日 |GBC | |- |[[:en:Star Wars: Obi-Wan|Star Wars: Obi-Wan]] |NA:2001年12月19日,EU:2002年3月29日 |Xbox | |- |[[:en:Star Wars: Lethal Alliance|Star Wars: Lethal Alliance]] |NA:2006年12月7日,AU:2006年12月7日,EU:2006年12月8日(PSP)<br />AU:2006年12月7日,NA:2006年12月14日,EU:2006年12月15日(DS) |PSP/DS | |- |[[スター・ウォーズ ジェダイ:フォールン・オーダー]] |2019年11月15日(PS4,XOne,Windows)<br />2020年11月24日(Stadia)<br />2021年6月11日(PS5,Xbox Series X/S) |PS4/XOne/Windows/[[Google Stadia|Stadia]]/[[PlayStation 5|PS5]]/[[Xbox Series X/S]] | |- |[[スター・ウォーズ ジェダイ:サバイバー]] |2023年4月28日(PS5,Xbox Series X/S,Windows) |PS5/Xbox Series X/S/Windows | |} '''映画の翻案''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: Episode I – The Phantom Menace (video game)|Star Wars: Episode I – The Phantom Menace]] |NA:1999年5月18日,EU:1999年(Windows)<br />NA:1999年9月14日,PAL:1999年9月24日(PS) |PS/Windows | |- |[[:en:Star Wars: Episode II – Attack of the Clones (video game)|Star Wars: Episode II – Attack of the Clones]] |NA:2002年5月30日,EU:2002年6月21日 |GBA | |- |[[:en:Star Wars: Episode III – Revenge of the Sith (video game)|Star Wars: Episode III – Revenge of the Sith]] |NA:2005年5月4日,EU:2005年5月5日,AU:2005,JP:2005年7月9日 |PS2/Xbox/GBA/DS | |} '''クローン・ウォーズ''' {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: The Clone Wars – Jedi Alliance|Star Wars: The Clone Wars – Jedi Alliance]] |2008年11月11日 |DS | |- |[[:en:Star Wars: The Clone Wars – Lightsaber Duels|Star Wars: The Clone Wars – Lightsaber Duels]] |2008年11月11日 |[[Wii]] | |- |[[:en:Star Wars: The Clone Wars – Republic Heroes|Star Wars: The Clone Wars – Republic Heroes]] |2009年10月6日 |PS2/PS3/PSP/X360/DS/Windows | |} '''フォース・アンリーシュド''' {{Main|[[:en:Star Wars: The Force Unleashed (project)|Star Wars: The Force Unleashed (project)]]}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[スター・ウォーズ フォース アンリーシュド]] |NA:2008年9月16日,AU:2008年9月17日,EU:2008年9月19日,JP:2008年10月9日 |PS2/PS3/PSP/X360/DS/Windows/Mac/[[iOS]] | |- |[[:en:Star Wars: The Force Unleashed II|Star Wars: The Force Unleashed II]] |NA:2010年10月26日,EU:2010年10月29日 |PS3/X360/Windows/iOS | |} ===アーケード=== {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars (1983 video game)|Star Wars]] |NA:1983年5月5日,JP:1983年5月,[[イギリス|UK]]:1983年9月,[[スペイン|SPA]]:1983年 |[[アーケードゲーム|アーケード]]/Atari 2600/Atari 5200/Atari 8ビット/[[コレコビジョン]]/コモドール64 | |- |[[:en:Star Wars: Return of the Jedi (video game)|Star Wars: Return of the Jedi]] |1984年 |アーケード/Amstrad CPC/コモドール64/ZX Spectrum/[[Amiga]]/[[Atari ST]]/[[BBC Micro]] | |- |[[:en:Star Wars: The Empire Strikes Back (1985 video game)|Star Wars: The Empire Strikes Back]] |1985年3月 |アーケード/Amstrad CPC/コモドール64/ZX Spectrum/Amiga/Atari ST/BBC Micro | |- |[[:en:Star Wars Arcade|Star Wars Arcade]] |JP:1993年8月,NA:1993年,EU:1994年4月(アーケード)<br />EU:1994年11月14日,NA:1994年11月21日,JP:1994年12月3日(スーパー32X) |アーケード/[[スーパー32X]] | |- |[[:en:Star Wars Trilogy Arcade|Star Wars Trilogy Arcade]] |1998年11月 |アーケード | |- |[[:en:Star Wars: Racer Arcade|Star Wars: Racer Arcade]] |JP:2000年5月,NA:2000年,EU:2000年 |アーケード | |- |[[:en:Star Wars Battle Pod|Star Wars Battle Pod]] |2014年10月8日 |アーケード | |} ===レーシング=== {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars Episode I: Racer|Star Wars Episode I: Racer]] |NA:1999年5月18日,EU:1999年6月4日(Windows)<br />NA:1999年5月18日,EU:1999年6月4日,JP:1999年7月21日(N64)<br />NA:1999年12月,EU:1999年12月17日(GBC)<br />NA:1999年12月16日(Mac)<br />NA:2000年4月4日,EU:2000年8月4日(DC)<br />2020年6月23日(PS4,Switch)<br />2020年10月27日(XOne) |Windows/Mac/N64/GBC/DC/PS4/XOne/[[Nintendo Switch|Switch]] | |- |[[:en:Star Wars: Super Bombad Racing|Star Wars: Super Bombad Racing]] |NA:2001年4月23日,EU:2001年5月25日 |PS2 | |- |[[:en:Star Wars Racer Revenge|Star Wars Racer Revenge]] |NA:2002年2月11日,EU:2002年3月8日 |PS2 | |} ===ロールプレイング=== {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars Galaxies|Star Wars Galaxies]] |NA:2003年6月26日,EU:2003年11月7日,AU:2006年 |Windows | |- |[[:en:Star Wars: Uprising|Star Wars: Uprising]] |2015年9月9日 |iOS/[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] | |- |[[:en:Star Wars: Galaxy of Heroes|Star Wars: Galaxy of Heroes]] |2015年11月24日 |iOS/Android | |} '''Knights of the Old Republic''' {{Main|[[:en:Star Wars: Knights of the Old Republic|Star Wars: Knights of the Old Republic]]}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[Star Wars: Knights of the Old Republic]] |NA:2003年7月15日,EU:2003年9月12日(Xbox)<br />NA:2003年11月19日,EU:2003年12月5日(Windows)<br />NA:2004年9月7日(Mac)<br />2013年5月30日(iOS)<br />2014年12月23日(Android)<br />2021年11月11日(Switch) |Xbox/Windows/Mac/iOS/Android/Switch | |- |[[:en:Star Wars Knights of the Old Republic II: The Sith Lords|Star Wars Knights of the Old Republic II: The Sith Lords]] |NA:2004年12月6日,EU:2005年2月11日,AU:2005年2月15日(Xbox)<br />NA:2005年2月8日,EU:2005年2月11日,AU:2005年2月15日(Windows)<br />2015年7月21日(Mac,Linux)<br />2020年12月18日(iOS,Android) |Xbox/Windows/Mac/[[Linux]]/iOS/Android | |- |[[:en:Star Wars: The Old Republic|Star Wars: The Old Republic]] |NA:2011年12月20日,EU:2011年12月20日,AU:2012年3月1日 |Windows | |} ===シミュレーション=== {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small ; width:99%" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: Droid Works|Star Wars: Droid Works]] |1998年10月21日 |Windows/Mac | |- |[[:en:Star Wars: Pit Droids|Star Wars: Pit Droids]] |1999年9月13日(Windows,Mac)<br />2012年2月9日(iOS) |Windows/Mac/iOS | |- |[[:en:Star Wars: Squadrons|Star Wars: Squadrons]] |2020年10月3日(PS4,XOne,Windows)<br />2020年12月3日(Xbox Series X/S) |PS4/XOne/Xbox Series X/S/Windows | |} '''Xウィング''' {{Main|[[:en:Star Wars: X-Wing (video game series)|Star Wars: X-Wing (video game series)]]}} {| class="wikitable" style="font-size:small" !タイトル !発売年月日 !プラットフォーム !備考 |- |[[:en:Star Wars: X-Wing|Star Wars: X-Wing]] |1993年2月 |Windows/Mac | |- |[[:en:Star Wars: TIE Fighter|Star Wars: TIE Fighter]] |1994年7月 |Windows/Mac | |- |[[:en:Star Wars: X-Wing vs. TIE Fighter|Star Wars: X-Wing vs. TIE Fighter]] |1997年4月29日 |Windows | |- |[[:en:Star Wars: X-Wing Alliance|Star Wars: X-Wing Alliance]] |1999年3月15日 |Windows | |} ===ストラテジー=== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル ! 発売年月日 ! プラットフォーム ! 備考 |- |[[:en:Star Wars Chess|Star Wars Chess]] |1993(Dos)<br />1994年11月(Windows) |Windows/MS-DOS | |- |[[:en:Star Wars: Rebellion (video game)|Star Wars: Rebellion]] |NA:1998年3月25日,EU:1998年 |Windows | |- |[[:en:Star Wars: Force Commander|Star Wars: Force Commander]] |NA:2000年3月17日,EU:2000年 |Windows | |- |[[:en:Star Wars: Galactic Battlegrounds|Star Wars: Galactic Battlegrounds]] |NA:2001年11月9日,EU:2001年11月23日 |Windows/Mac | |- |[[:en:Star Wars: Empire at War|Star Wars: Empire at War]] |NA:2006年2月16日,EU:2006年2月17日(Windows)<br />NA:2007年4月2日,EU:2007年4月27日(Mac) |Windows/Mac | |- |[[:en:Star Wars Commander|Star Wars Commander]] |2014年8月23日 |Windows/iOS/Android | |- |[[:en:Star Wars: Force Arena|Star Wars: Force Arena]] |2017年1月12日 |iOS/Android | |- |[[:en:Star Wars: Rise to Power|Star Wars: Rise to Power]] |開発中止 | |} ===FPS=== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル ! 発売年月日 ! プラットフォーム ! 備考 |- |[[スター・ウォーズ アタック・オン・ザ・デス・スター]] |1991年12月17日 |X68000/PC-9801VX以降 |- |[[スター・ウォーズ リパブリックコマンド]] |2005年2月17日NA:2005年2月28日,EU:2005年3月4日(Xbox)<br />NA,JP:2005年3月1日,EU:2005年3月4日(Windows)<br />[[世界|WW]]:2021年4月6日,JP:2021年12月23日(PS4,Switch) |Xbox/Windows/PS4/Switch | |} '''スター・ウォーズ ジェダイナイト''' {{Main|[[:en:Star Wars: Jedi Knight|Star Wars: Jedi Knight]]}} {| class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル ! 発売年月日 ! プラットフォーム ! 備考 |- |[[スター・ウォーズ ダークフォース]] |NA:1995年2月28日,EU:1995年6月(MS-DOS)<br />NA:1996年11月30日,EU:1998年3月4日(PS) |PS/Mac/MS-DOS | |- |[[:en:Star Wars Jedi Knight: Dark Forces II|Star Wars Jedi Knight: Dark Forces II]] |NA:1997年10月10日 |Windows | |- |[[:en:Star Wars Jedi Knight II: Jedi Outcast|Star Wars Jedi Knight II: Jedi Outcast]] |NA:2002年3月26日,EU:2002年3月26日(Windows)<br />NA:2002年11月5日(Mac)<br />NA:2002年11月19日,EU:2002年11月22日(GC,Xbox)<br />WW:2019年9月24日,JP:2021年12月23日(PS4,Switch) |Windows/Mac/GC/Xbox/PS4/Switch | |- |[[:en:Star Wars Jedi Knight: Jedi Academy|Star Wars Jedi Knight: Jedi Academy]] |NA:2003年9月16日(Mac)<br />NA:2003年9月17日,EU:2003年9月19日(Windows)<br />NA:2003年11月18日,EU:2003年11月21日(Xbox)<br />WW:2020年3月26日(PS4,Switch) |Windows/Mac/Xbox/PS4/Switch | |} ===レゴ スター・ウォーズ=== {{Main|[[:en:Lego Star Wars|Lego Star Wars]]}} {| class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル ! 発売年月日 ! プラットフォーム ! 備考 |- |[[レゴ スター・ウォーズ THE VIDEO GAME]] |NA:2005年3月29日,PAL:2005年4月22日(GBA)<br />NA:2005年4月2日,PAL:2005年4月22日(PS2,Windows)<br />NA:2005年4月5日,PAL:2005年4月22日(Xbox)<br />NA:2005年8月23日,PAL:2005年9月7日(Mac)<br />NA:2005年10月25日,PAL:2005年11月4日(GC) |PS2/Xbox/GBA/GC/Windows/Mac | |- |[[レゴ スター・ウォーズII THE ORIGINAL TRILOGY]] |EU:2006年9月11日,NA:2006年9月12日,AU:2006年9月15日<br />WW:2007年(Mac) |PS2/PSP/Xbox/Xbox 360//GBA/GC/DS/Windows/Mac | |- |[[レゴ スター・ウォーズ コンプリート サーガ]] |JP:2008年3月27日,AU:2007年11月7日(PS3,X360,DS,Wii)<br />2009年10月13日(Windows)<br />2010年11月16日(Mac) |PS3/X360/DS/Wii/Windows/Mac/iOS/Android | |- |[[:en:Lego Star Wars III: The Clone Wars|Lego Star Wars III: The Clone Wars]] |NA:2011年3月22日,EU:2011年3月25日,AU:2011年3月30日 |PS3/PSP/X360/DS/3DS/Wii/Windows/Mac | |- |[[レゴ スター・ウォーズ/フォースの覚醒]] |NA:2016年6月28日,PAL:2016年6月28日,JP:2016年10月13日 |PS3/PS4/PS Vita/X360/XOne/3DS/[[Wii U]]/Windows/Mac/iOS/Android | |- |[[:en:Lego Star Wars: The Skywalker Saga|Lego Star Wars: The Skywalker Saga]] |2022年4月5日 |PS4/PS5/XOne/Xbox Series X/S/Switch/Windows | |} ===中止されたゲーム=== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル ! 発売年月日 ! プラットフォーム ! 備考 |- |[[:en:Star Wars: Return of the Jedi: Ewok Adventure|Star Wars: Return of the Jedi: Ewok Adventure]] | |Atari 2600(予定) | |- |[[:en:Star Wars 1313|Star Wars 1313]] | |PS4/XOne/Windows(予定) | |- |[[:en:Star Wars: Attack Squadrons|Star Wars: Attack Squadrons]] | |PS4/XOne/Windows(予定) | |- |[[:en:Project Ragtag|Project Ragtag]] | | | |} ===計画中のゲーム=== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! タイトル ! 発売年月日 ! プラットフォーム ! 備考 |- |[[:en:Quantic Dream#Games developed|Star Wars: Eclipse]] | | | |} == 主なストーリーの時系列  == 前述の通り、映画の公開は時系列通りになっていない。それをスピンオフ等も含め歴史通りに整理すると、エピソード1 ファントム・メナス→エピソード2 クローンの攻撃→クローン・ウォーズ全シリーズ→エピソード3 シスの復讐→ハン・ソロ スター・ウォーズ ストーリー→スター・ウォーズ反乱者たち全シーズン→ローグワン スター・ウォーズ ストーリー→エピソード4 新たなる希望→エピソード5 帝国の逆襲→エピソード6 ジェダイの帰還(ジェダイの復讐)→スター・ウォーズ バトルフロント2→スター・ウォーズ レジスタンス→エピソード7 フォースの覚醒→エピソード8 最後のジェダイ→エピソード9 スカイウォーカーの夜明けとなる。 == 主な登場キャラクター == {{リンクのみの節|a=スター・ウォーズ登場人物一覧|date=2018年5月}} {{main|スター・ウォーズ登場人物一覧}} ;[[アナキン・スカイウォーカー]] / [[ダース・ベイダー]] (Anakin Skywalker / Darth Vader) : 「プリクエル・トリロジー」の主人公。また、「オリジナル・トリロジー」における最大の敵でもある。惑星タトゥイーンで暮らす奴隷の少年だったが、フォースの資質を見出されて銀河共和国を護る[[ジェダイ|ジェダイ騎士団]]に「予言にあるフォースにバランスをもたらすもの」として迎えられる。[[アソーカ・タノ]]を弟子にとりクローン戦争で活躍。しかしその生い立ちと境遇故により強い力を渇望するようになり、最終的には共和国に潜伏していた[[シス (スター・ウォーズ)|シスの暗黒卿]]“[[ダース・シディアス]]”に誘惑され、側近“ダース・ベイダー”へと生まれ変わり反乱を起こす。ジェダイと共和国を滅ぼした後、負傷により全身サイボーグの姿となり、新たに成立した銀河帝国をシディアスと共に統治していく。のちに息子によって改心、シディアスとシスを滅ぼし、その際受けた攻撃が仇となり絶命するが、結果として予言通りにフォースにバランスをもたらした。その後はアナキン時代の姿で霊体として復活。エクセゴルの戦いでは[[オビ=ワン・ケノービ]]や[[クワイ=ガン・ジン]]、アソーカらとともにレイに呼びかけた。 ;[[ルーク・スカイウォーカー]] (Luke Skywalker) : 「オリジナル・トリロジー」の主人公。アナキンの息子として生まれるが、シディアスのジェダイ狩りから逃れるため父の故郷タトゥイーンで育てられる。成長後、自身がジェダイの血を引く存在であると知り、帝国への反乱軍に協力することを決意。戦闘を経験する中で秘めたる才能が徐々に覚醒する。ベイダーは父親を殺害した怨敵だと聞かされていたが、そのベイダーこそが実の父親だった。深いショックを受け、かつてのアナキンのように心が暗黒面へと出向いていく。しかし最後はその誘惑を撥ね返してベイダーとシディアスを討ち、銀河に一時的な平和を取り戻す。その後新たなジェダイの育成を試みるが、甥の反乱に心を病み、オク=トーに引き籠る。レイに修行をつけフォースの幻影を使い甥のカイロ・レンと対決し、力尽きてフォースと一体化。霊体として残りレイアの霊体とともにレイを見守った。 ;[[レイ (スター・ウォーズ)|レイ・スカイウォーカー]] (Rey Skywalker) : 「シークエル・トリロジー」の主人公。惑星ジャクーにて一人暮らす少女。幼少期に家族と離れ離れになり、廃船から奪った部品を売って生活しながら再会を待ち望んでいた。実は生まれながらに高いフォースの資質を持ち、訓練を受けていない段階でも戦士として高い能力を発揮する。BB-8やフィンとの出会いをきっかけにレジスタンスと、ファースト・オーダーとの戦いに関わるようになる。やがて戦いの中でカイロ・レンがファースト・オーダーの最高指導者となり、レイがシディアスの孫“レイ・パルパティーン”であるという真実を告げられる。さらに、復活したシディアスの後を継ぐ未来を予知してしまう。しかし最後はファースト・オーダーや、復活したシディアスが組織するシス艦隊“[[ファイナル・オーダー]]”との激闘の末に、未来の予知を撥ね返してレンとともに祖父シディアスを討ち、銀河に真の平和を取り戻す。その後はレイ・パルパティーンではなくレイ・スカイウォーカーを名乗っている。 ;[[レイア・オーガナ]] (Leia Organa) : アナキンの子で、ルークの双子の妹として生まれたが、ベイル・オーガナ夫妻に引き取られオルデランで王女として育てられる。外交官としても活躍していてその頃に反乱者のエズラ・ブリッジャーとも接触している。その後、反乱同盟のリーダーとして銀河帝国との戦いに参加し、ルークやハン・ソロ、オビ=ワンとともに第一[[デス・スター]]の設計図を届ける任務をやり遂げヤヴィンの戦いに勝利した。帝国滅亡後、実兄ルークに師事し修行中に妊娠、ハンとの間にベン・ソロをもうける。その後もレジスタンスの将軍として息子達が率いるファースト・オーダーと戦った。カイロ・レンとなった息子にフォースで働きかけ改心させ、やがて疲れ果てレジスタンスをポー・ダメロンに任せ息を引き取った。その後もフォースの霊体として残り、レイを支えた。 ;[[C-3PO]](See-Threepio) : 金色の装甲を持つヒューマノイド型のプロトコル(儀礼・通訳用)ドロイド。R2-D2と共に、全エピソードに登場しているキャラクター。 ;[[R2-D2]](Artoo-Detoo) : 宇宙船や電子機器のオペレートを主目的としたアストロメク・ドロイド。C-3POと共に、全エピソードに登場しているキャラクター。 ;[[ハン・ソロ]](Han Solo) : 密輸船「[[ミレニアム・ファルコン]]」の船長。帝国軍の歩兵であったがチューバッカと出会い共に帝国を逃走、ベケットの盗賊団に参加した。その後ルークやレイアと出会い反乱同盟軍に参加、将軍となる。帝国滅亡後にレイアとの間に後のカイロ・レンとなるベン・ソロを設ける。しかし彼によってスターキラー基地の戦いで殺される。その後、デス・スターの残骸でレイに敗北したベンの記憶の中の存在として現れ、彼を改心させた。 ;[[チューバッカ]](Chewbacca) : ハン・ソロの相棒であるウーキー族の戦士。エピソード3以降の全作品に登場。クローン戦争中のキャッシークの戦いでヨーダと共に参戦し、オーダー66から彼を救っている。帝国時代に奴隷として囚われていたところをハンに命を救われ共に帝国を逃走、ベケットの盗賊団に参加した。その後反乱同盟軍に参加し帝国を滅ぼす。ハンの死後はレイと行動を共にした。 ;[[カイロ・レン|ベン・ソロ / カイロ・レン]] (Ben Solo / Kylo Ren) : ソロとレイアの息子。祖父にあたるダース・ベイダーに惹かれたためルークに鍛えられるが、スノークに誘惑され、ルークに暗殺されかけたのも影響しダークサイドに転落。スノークを殺害しレイを誘ってファースト・オーダーを率いようとするが拒絶された。感情に任せルークの幻影と戦闘、レジスタンスを取り逃してしまう。その後ファースト・オーダーの最高指導者となったが、レイや両親の働きかけが効きライト・サイドへ帰還。蘇ったダース・シディアス、シス、ファースト・オーダーの後継組織ファイナル・オーダーをレイとともに葬り、フォースを使い果たし息絶えた。 == 劇中用語 == 基本的な用語のみ記述する。その他の用語、及び詳細は「[[スター・ウォーズ世界の用語一覧|用語一覧]]」「[[スター・ウォーズ登場兵器一覧|登場兵器一覧]]」「[[スター・ウォーズ登場テクノロジー一覧|登場テクノロジー一覧]]」「[[スター・ウォーズ惑星一覧|惑星一覧]]」「[[スター・ウォーズにおける戦いの一覧|戦いの一覧]]」を参照。 ; フォース : 銀河の万物をあまねく包み込んでいるエネルギー体。目には見えない[[空気]]のような概念だが、強い意思と精神集中によってその「流れ」を感じ取り自由に操作することで、身体能力や空間認識能力の強化に留まらず、未来予知、念力、心理操作、テレパシーなどの超感覚的な能力による現象を起こすことができる。使用者の感情に伴って性質は二つに別れ、ジェダイは穏やかで冷静な心から引き出される「'''ライトサイド(光明面)'''」、シスは怒りや憎しみといった負の感情によって引き出される「'''ダークサイド(暗黒面)'''」を用いる。初公開時の字幕スーパーでは、「理力」と訳されていた。(例:「機械に頼るな。理力を使え!」) ; [[ライトセーバー]] : [[ファイル:Lightsaber_blue.svg|サムネイル|青いライトセーバー]]プラズマの光刃を形成する剣型の武器。主にジェダイとシスが接近戦で用いる。何らかの物体に接触すれば膨大な熱エネルギーを放出し、溶断する。レーザーやビームの類を跳ね返すこともできる。基本的にジェダイの光刃は青や緑、シスは真紅であるのが通例である。 ; [[ジェダイ]] : 作中では、「ジェダイの騎士/ジェダイ・ナイト」とも呼ばれる。フォースのライトサイドを駆使して戦う、銀河系の自由と正義の守護者たち。清廉潔白かつ気高い精神が求められ、恋愛の禁止、無抵抗な者への攻撃の禁止など、教条主義的な厳しい掟がある。人間性を排した体質に憤慨し、シスに寝返ったアナキンによって銀河共和国もろとも滅ぼされてしまうが、結果として、ルークという全く新しいジェダイが誕生することになる。 ; [[シス (スター・ウォーズ)|シス]] : 作中では、「シスの暗黒卿」とも呼ばれる。フォースのダークサイドを信奉する者達の総称。ジェダイと相反する存在であり、欲望を貫徹させる精神的解放性とあからさまな権力欲を持ち、防御よりも攻撃を重視する傾向にある。シスとなった者は、それまでの名を捨て「'''ダース'''」(Dark Lord of the Sithの略称)の称号を冠する。 ; ドロイド : 人間と同程度か、それ以上の知性(特に専門分野では)を持つロボット全般を指す。基本的に与えられたプログラムに従って行動するが、長い稼動時間の中で経験や知識を積むことにより個性を得て自己主張し、更には嘘をついたり怒ったり喜んだりといった、極めて「人間的な」行動を見せるものも少なくない。 ; [[クローン・トルーパー]] : “銀河一の賞金稼ぎ”[[ジャンゴ・フェット]]の遺伝子を元に、独立心や自我を削ぐ遺伝子調整を施され、成長速度を速めて生産された銀河共和国軍のクローン兵士。総兵力約320万ユニット。バトル・ドロイドを凌駕する戦闘能力により、クローン戦争における共和国の主力軍隊となった。ジェダイと任務を共にしたことで多くのクローンに個性が芽生え、ジェダイとの間にも強い絆が生まれた。しかし、その生産過程には密かにシスの関与があり、結果的にはクローン戦争終盤にジェダイが滅ぼされる一因となった。後の銀河帝国軍のストームトルーパーの前身でもある。銀河帝国誕生から10年以内にほぼ全ユニットが退役となった。 ; [[ストームトルーパー (スター・ウォーズ)|ストームトルーパー]] : 帝国に忠誠を誓い、絶対的に服従する銀河帝国軍の機動歩兵。総兵力20億ユニットともいわれている。サバイバル装備や温度調節機能を備えた白いアーマーに身を包み、ブラスターにより集団攻撃で敵を圧倒する。初期にはクローンによって構成されたが、まもなく士官学校から充当された人間によって構成されるようになり、銀河帝国誕生から10年後までには一般的な人間の男女でほぼ構成されるようになる。スノートルーパーやスカウト・トルーパーなど、任務に応じた様々なバリエーションが存在する。銀河帝国の崩壊後はストームトルーパーの動員も禁止されたが、残党勢力が密かに部隊を保持し続け、後にファースト・オーダーが台頭した際には、フォルムを一新した新世代のストームトルーパーが構成された。 == 評価 == === 興行成績 === {| class="wikitable sortable" style="text-align: center" ! rowspan="2" scope="col" |作品 ! rowspan="2" scope="col" |米国公開日 ! colspan="4" scope="col" class="unsortable" |興行収入 ! colspan="2" scope="col" class="unsortable" |歴代ランキング ! rowspan="2" scope="col" |製作費 ! rowspan="2" scope="col" class="unsortable" |{{nowrap|{{Abbr|Refs|References}}}} |- !北米 !その他の地域 !全世界 !インフレーション調整後 (北米) ! class="unsortable" |[[北米歴代興行収入上位の映画一覧|北米]] ! class="unsortable" |[[世界歴代興行収入上位の映画一覧|全世界]] |- ! colspan="10" style="background-color:#ccccff;" |スカイウォーカー・サーガ |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|新たなる希望]] |1977年5月25日 |$460,998,507 | $314,613,557 | $775,512,064 |$1,416,050,800 |19 |98 |$11 million |<ref name="SW4BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars4.htm|title=Star Wars (1977)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=January 17, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20120312144337/http://boxofficemojo.com/movies/?id=starwars4.htm|archive-date=March 12, 2012|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|帝国の逆襲]] |1980年5月21日 |$290,371,960 | $257,607,494 | $547,975,067 | $780,536,100 |98 |182 |$18 million |<ref name="SW5BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars5.htm|title=The Empire Strikes Back (1980)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=January 4, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20190707110907/https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars5.htm|archive-date=July 7, 2019|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還|ジェダイの帰還]] |1983年5月25日 |$309,306,177 | $166,040,934 | $475,306,177 | $747,772,300 |82 |231 |$32.5 million |<ref name="SW6BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars6.htm|title=Return of the Jedi (1983)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=January 4, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20190718161025/https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars6.htm|archive-date=July 18, 2019|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス|ファントム・メナス]] |1999年5月19日 |$474,544,677 | $552,538,030 |$1,027,044,677 | $674,365,200 |18 |42 |$115 million |<ref name="SW1BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars.htm|title=Star Wars: Episode I - The Phantom Menace (1999)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=February 13, 2020|archive-url=https://webcitation.org/64xJUCNHT?url=http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars.htm|archive-date=January 25, 2012|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃|クローンの攻撃]] |2002年5月16日 |$310,676,740 | $338,859,618 | $649,436,358 | $425,074,300 |80 |140 |$115 million |<ref name="SW2BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars2.htm|title=Star Wars: Episode II - Attack of the Clones (2002)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=January 4, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20090215215126/http://boxofficemojo.com/movies/?id=starwars2.htm|archive-date=February 15, 2009|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐|シスの復讐]] |2005年5月19日 |$380,270,577 | $469,765,058 | $850,035,635 | $471,630,400 |44 |78 |$113 million |<ref name="SW3BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars3.htm|title=Star Wars: Episode III - Revenge of the Sith (2005)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=January 4, 2020|archive-url=https://webcitation.org/64wg6llv7?url=http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars3.htm|archive-date=January 25, 2012|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒|フォースの覚醒]] |2015年12月18日 |$936,662,225 |$1,132,561,399 |$2,068,223,624 |$2,068,178,225 |1 |4 |$245 million |<ref name="SW7BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars7.htm|title=Star Wars: The Force Awakens (2015)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=June 6, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20160227161042/http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars7.htm|archive-date=February 27, 2016|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ|最後のジェダイ]] |2017年12月15日 |$620,181,382 | $713,358,507 |$1,333,539,889 |$1,332,539,889 |9 |12 |$317 million |<ref name="SW8BOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars8.htm|title=Star Wars: The Last Jedi (2017)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=June 6, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20171219025457/http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwars8.htm|archive-date=December 19, 2017|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け|スカイウォーカーの夜明け]] |2019年12月20日 |$515,202,542 | $558,941,706 |$1,074,144,248 | |14 |32 |$275 million |<ref>{{Cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/release/rl3305145857/|title=Star Wars: The Rise of Skywalker|website=Box Office Mojo|access-date=2020-03-20|archive-url=https://web.archive.org/web/20191230203110/https://www.boxofficemojo.com/release/rl3305145857/|archive-date=December 30, 2019|url-status=live}}</ref> |- ! colspan="10" style="background-color:#ccccff;" |スピンオフ映画 |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ|スター・ウォーズ/]] [[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ|クローン・ウォーズ]] |2008年8月15日 |$35,161,554 |$33,121,290 |$68,282,844 |$35,020,908 |2,447 |2,211 |$8.5 million |<ref name="TCWBOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwarsclonewars.htm|title=Star Wars: The Clone Wars (2008)|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=June 6, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190605170651/https://www.boxofficemojo.com/movies/?id=starwarsclonewars.htm|archive-date=June 5, 2019|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー|ローグ・ワン/]] [[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー|スター・ウォーズ・ストーリー]] |2016年12月16日 |$532,177,324 |$524,879,949 |$1,056,057,273 |$545,787,800 |12 |36 |$265 million |<ref name="filmla">{{Cite journal|last=FilmL.A.|date=May 23, 2017|title=2016 Feature Film Study|url=https://www.filmla.com/wp-content/uploads/2017/05/2016_film_study_WEB.pdf|journal=FilmL.A. Feature Film Study|page=22|access-date=November 22, 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20170731191957/https://www.filmla.com/wp-content/uploads/2017/05/2016_film_study_WEB.pdf|archive-date=July 31, 2017|url-status=live}}</ref> |- | scope="row" |[[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー|ハン・ソロ/]] [[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー|スター・ウォーズ・ストーリー]] |2018年5月25日 |$213,767,512 |$179,157,295 |$392,924,807 |$206,317,700 |189 |311 |$300 million |<ref name="ForbesBudget">{{cite web|url=https://www.forbes.com/sites/csylt/2018/06/04/disney-recoups-a-quarter-of-star-wars-purchase-price/#5a8ea944481d|title=Disney Recoups A Quarter Of $4 Billion Star Wars Purchase Price|author=Christian Sylt|work=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]]|date=June 4, 2018|access-date=June 13, 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180615215547/https://www.forbes.com/sites/csylt/2018/06/04/disney-recoups-a-quarter-of-star-wars-purchase-price#5a8ea944481d|archive-date=June 15, 2018|url-status=live}}</ref><ref name="DeadlineBudget">{{cite web|url=https://deadline.com/2018/10/star-wars-boba-fett-spinoff-james-mangold-directing-1202397784/|title='Star Wars' Boba Fett Movie No Longer In Development; Lucasfilm Focusing On 'The Mandalorian' Streaming Series|author=Anthony D'Alessandro|work=[[Deadline Hollywood|Deadline]]|date=October 26, 2018|access-date=October 27, 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20181026231545/https://deadline.com/2018/10/star-wars-boba-fett-spinoff-james-mangold-directing-1202397784/|archive-date=October 26, 2018|url-status=live}}</ref> |- ! colspan="2" scope="row" |合計 !${{val|{{#expr:460998007<!--SW4-->+290075067<!--SW5-->+309506177<!--SW6-->+475544677<!--SW1-->+311676740<!--SW2-->+380270577<!--SW3-->+35161554<!--TCW-->+936662225<!--SW7-->+532177324<!--RO-->+620181382<!--SW8-->+213767512<!--Solo-->+515202542<!--SW9-->}}|fmt=commas}} !${{val|{{#expr:314600000<!--SW4-->+257900000<!--SW5-->+165800000<!--SW6-->+552500000<!--SW1-->+338721588<!--SW2-->+469765058<!--SW3-->+33121290<!--TCW-->+1132561399<!--SW7-->+523879949<!--RO-->+712358507<!--SW8-->+179157295<!--Solo-->+558941706<!--SW9-->}}|fmt=commas}} !${{val|{{#expr:775598007<!--SW4-->+547375067<!--SW5-->+475306177<!--SW6-->+1027044677<!--SW1-->+649498328<!--SW2-->+850035635<!--SW3-->+68282844<!--TCW-->+2068223624<!--SW7-->+1056057273<!--RO-->+1333539889<!--SW8-->+392924807<!--Solo-->+1074144248<!--SW9-->}}|fmt=commas}} ! !2 !2 !$1.633 billion !<ref name="AllTimeDomesticBOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/franchises/?view=Franchise&sort=sumgross&order=DESC&p=.htm|title=Franchise Index|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=June 6, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20140524020558/http://boxofficemojo.com/franchises/?view=Franchise&sort=sumgross&order=DESC&p=.htm|archive-date=May 24, 2014|url-status=live}}</ref><ref name="TotalBOM">{{cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/franchises/chart/?id=starwars.htm|title=Star Wars Movies at the Box Office|publisher=[[Box Office Mojo]]|access-date=June 6, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20180308032340/http://www.boxofficemojo.com/franchises/chart/?id=starwars.htm|archive-date=March 8, 2018|url-status=live}}</ref> |} === 批評家の反応 === {| class="wikitable sortable" style="text-align: center" ! scope="col" |作品 ! scope="col" |[[Rotten Tomatoes]] ! scope="col" |[[Metacritic]] ! scope="col" |[[CinemaScore]]<ref name="SWcs2">{{cite web|url=https://www.cinemascore.com/publicsearch/index/title/c3RhciA=|title=Star Wars at Cinemascore|publisher=[[CinemaScore]]|access-date=December 21, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190724135211/https://www.cinemascore.com/publicsearch/index/title/c3RhciA%3D|archive-date=July 24, 2019}}</ref> |- ! colspan="4" style="background-color:#ccccff;" |スカイウォーカー・サーガ |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]] |92% (134 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode IV - A New Hope (1977)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=March 2, 2020|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190506141547/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars|archive-date=May 6, 2019}}</ref> |90 (24 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-iv---a-new-hope|title=Star Wars: Episode IV - A New Hope|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20121227071904/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-iv---a-new-hope|archive-date=December 27, 2012}}</ref> ! |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|スター・ウォーズ/ 帝国の逆襲]] |94% (104 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode V - The Empire Strikes Back (1980)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/empire_strikes_back/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190620043858/https://www.rottentomatoes.com/m/empire_strikes_back|archive-date=June 20, 2019}}</ref> |82 (25 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-v---the-empire-strikes-back|title=Star Wars: Episode V - The Empire Strikes Back|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20121106100324/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-v---the-empire-strikes-back|archive-date=November 6, 2012}}</ref> ! |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還|スター・ウォーズ/ ジェダイの復讐]] |82% (95 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode VI - Return of the Jedi (1983)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/return_of_the_jedi/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190507105607/https://www.rottentomatoes.com/m/return_of_the_jedi|archive-date=May 7, 2019}}</ref> |58 (24 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-vi---return-of-the-jedi|title=Star Wars: Episode VI - Return of the Jedi|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20130221013658/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-vi---return-of-the-jedi|archive-date=February 21, 2013}}</ref> ! |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]] |52% (233 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode I - The Phantom Menace (1999)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_i_the_phantom_menace/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=March 2, 2020|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20191218083931/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_i_the_phantom_menace|archive-date=December 18, 2019}}</ref> |51 (36 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-i---the-phantom-menace|title=Star Wars: Episode I - The Phantom Menace|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20121230035104/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-i---the-phantom-menace|archive-date=December 30, 2012}}</ref> |A− |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]] |65% (253 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode II - Attack of the Clones (2002)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_ii_attack_of_the_clones/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=March 2, 2020|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20191218083931/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_ii_attack_of_the_clones|archive-date=December 18, 2019}}</ref> |54 (39 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-ii---attack-of-the-clones|title=Star Wars: Episode II - Attack of the Clones|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20120327181139/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-ii---attack-of-the-clones|archive-date=March 27, 2012}}</ref> |A− |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐]] |80% (302 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode III - Revenge of the Sith (2005)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_iii_revenge_of_the_sith/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=March 2, 2020|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20191218083931/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_iii_revenge_of_the_sith|archive-date=December 18, 2019}}</ref> |68 (40 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-iii---revenge-of-the-sith|title=Star Wars: Episode III - Revenge of the Sith|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20121227120508/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-iii---revenge-of-the-sith|archive-date=December 27, 2012}}</ref> |A− |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/フォースの覚醒]] |93% (440 reviews)<ref>{{cite web|title=Star Wars: Episode VII - The Force Awakens (2015)|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_vii_the_force_awakens/|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=December 18, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20191218083931/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_episode_vii_the_force_awakens|archive-date=December 18, 2019}}</ref> |80 (55 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-vii---the-force-awakens|title=Star Wars: Episode VII - The Force Awakens|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20160917015652/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-vii---the-force-awakens|archive-date=September 17, 2016}}</ref> |A |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/最後のジェダイ]] |90% (477 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_the_last_jedi|title=Star Wars: The Last Jedi&nbsp;(2017)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=December 18, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20180123114702/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_the_last_jedi/|archive-date=January 23, 2018}}</ref> |84 (56 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-viii---the-last-jedi|title=Star Wars: Episode VIII - The Last Jedi|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20180111005925/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-viii---the-last-jedi|archive-date=January 11, 2018}}</ref> |A |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け]] |51% (507 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_the_rise_of_skywalker|title=Star Wars: The Rise of Skywalker (2019)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=March 23, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20191218174724/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_the_rise_of_skywalker|archive-date=December 18, 2019|url-status=live}}</ref> |53 (61 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-ix---the-rise-of-skywalker|title=Star Wars: Episode IX - The Rise of Skywalker Reviews|website=[[Metacritic]]|access-date=December 21, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20191218122420/https://www.metacritic.com/movie/star-wars-episode-ix---the-rise-of-skywalker|archive-date=December 18, 2019|url-status=live}}</ref> |B+ |- ! colspan="4" style="background-color:#ccccff;" |スピンオフ映画 |- | scope="row" |[[スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ]] |18% (172 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/clone_wars|title=Star Wars: The Clone Wars (2008)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20110808201448/http://www.rottentomatoes.com/m/clone_wars/|archive-date=August 8, 2011}}</ref> |35 (30 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/star-wars-the-clone-wars|title=Star Wars: The Clone Wars|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20151215121807/http://www.metacritic.com/movie/star-wars-the-clone-wars|archive-date=December 15, 2015}}</ref> |B−<ref name="SWcs2" /> |- | scope="row" |''[[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー]]'' |84% (452 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/rogue_one_a_star_wars_story/|title=Rogue One: A Star Wars Story (2016)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=December 18, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20191225135114/https://rottentomatoes.com/m/rogue_one_a_star_wars_story|archive-date=December 25, 2019}}</ref> |65 (51 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/rogue-one-a-star-wars-story|title=Rogue One: A Star Wars Story|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20170723113153/http://www.metacritic.com/movie/rogue-one-a-star-wars-story|archive-date=July 23, 2017}}</ref> |A<ref name="SWcs2" /> |- | scope="row" |''[[ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー]]'' |69% (477 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/solo_a_star_wars_story|title=Solo: A Star Wars Story&nbsp;(2018)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=December 18, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20180520234937/https://www.rottentomatoes.com/m/solo_a_star_wars_story|archive-date=May 20, 2018}}</ref> |62 (54 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.metacritic.com/movie/solo-a-star-wars-story|title=Solo: A Star Wars Story|website=[[Metacritic]]|access-date=June 6, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20180519014213/http://www.metacritic.com/movie/solo-a-star-wars-story|archive-date=May 19, 2018}}</ref> |A−<ref name="SWcs2" /> |- ! colspan="4" style="background-color:#ccccff;" |テレビ映画 |- | scope="row" |''スター・ウォーズ・ホリデー・スペシャル'' |27% (15 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_holiday_special|title=Star Wars: Holiday Special (1978)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=January 23, 2020|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190523154131/https://www.rottentomatoes.com/m/star_wars_holiday_special/|archive-date=May 23, 2019}}</ref> ! ! |- | scope="row" |''[[イウォーク・アドベンチャー]]'' |21% (14 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/the_ewok_adventure|title=The Ewok Adventure (1984)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=December 18, 2019|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190507155731/https://www.rottentomatoes.com/m/the_ewok_adventure|archive-date=May 7, 2019}}</ref> ! ! |- | scope="row" |''[[エンドア/魔空の妖精]]'' |33% (3 reviews)<ref>{{cite web|url=https://www.rottentomatoes.com/m/ewoks_the_battle_for_endor|title=Ewoks: The Battle for Endor (1985)|website=[[Rotten Tomatoes]]|access-date=May 21, 2020|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190505194125/https://www.rottentomatoes.com/m/ewoks_the_battle_for_endor|archive-date=May 5, 2019}}</ref> ! ! |} === 受賞 === ==== アカデミー賞 ==== 実写映画11作品を合わせると、アカデミー賞37部門にノミネートされ、そのうち7部門を受賞している。また、[[アカデミー特別業績賞|特別業績賞]]も計3回受賞している。『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』は視覚効果で特別功労賞を受賞し<ref>{{Cite web|title=The 53rd Academy Awards {{!}} 1981|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1981|website=Oscars.org {{!}} Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2021-08-20|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=The 56th Academy Awards {{!}} 1984|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1984|website=Oscars.org {{!}} Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2021-08-20|language=en}}</ref>、『スター・ウォーズ』はエイリアン、クリーチャー、ロボットの声で特別功労賞を受賞した<ref>{{Cite web|title=The 50th Academy Awards {{!}} 1978|url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1978|website=Oscars.org {{!}} Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2021-08-20|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=Academy Awards Acceptance Speeches - Search Results {{!}} Margaret Herrick Library {{!}} Academy of Motion Picture Arts & Sciences|url=http://aaspeechesdb.oscars.org/link/050-23/|website=aaspeechesdb.oscars.org|accessdate=2021-08-20}}</ref>。 {| class="wikitable" style="margin:left; font-size: 80%;" |- ! style="width:180px;" rowspan="2"| 部門 ! colspan="11"| 結果 |- ! style="width:130px;"|新たなる希望 ! style="width:130px;"|帝国の逆襲 ! style="width:130px;"|ジェダイの帰還 ! style="width:130px;"|ファントム・メナス ! style="width:130px;"|クローンの攻撃 ! style="width:130px;"|シスの復讐 ! style="width:130px;"|フォースの覚醒 ! style="width:130px;"|ローグ・ワン ! style="width:130px;"|最後のジェダイ ! style="width:130px;"|ハン・ソロ ! style="width:130px;"|スカイウォーカーの夜明け |- | '''[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]''' | {{nom}}<br />([[アレック・ギネス]]) | | | | | | | | | | |- | '''[[アカデミー美術賞|美術賞]]''' | {{won}} | {{nom}} | {{nom}} | | | | | | | | |- | '''[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]''' | {{won}} | | | | | | | | | | |- | '''[[アカデミー監督賞|監督賞]]''' | {{nom}}<br />([[ジョージ・ルーカス]]) | | | | | | | | | | |- | '''[[アカデミー編集賞|編集賞]]''' | {{won}} | | | | | | {{nom}} | | | | |- | '''[[アカデミーメイクアップ賞|メイクアップ賞]]''' | | | | | | {{nom}} | | | | | |- | '''[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]''' | {{won}} | {{nom}} | {{nom}} | | | | {{nom}} | | | | {{nom}} |- | '''[[アカデミー作品賞|作品賞]]''' | {{nom}} | | | | | | | | | | |- | '''[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]''' | {{nom}} | | | | | | | | | | |- | '''[[アカデミー音響編集賞|音響編集賞]]''' | | | {{nom}} | {{nom}} | | | {{nom}} | | {{nom}} | | {{nom}} |- | '''[[アカデミー録音賞|録音賞]]''' | {{won}} | {{won}} | {{nom}} | {{nom}} | | | {{nom}} | {{nom}} | {{nom}} | | |- | '''[[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]]''' | {{won}} | | | {{nom}} | {{nom}} | | {{nom}} | {{nom}} | {{nom}} | {{nom}} | {{nom}} |- | '''[[アカデミー特別業績賞|特別業績賞]]''' | {{won}}<br />([[ベン・バート]]) | {{won}}<br />(視覚効果) | {{won}}<br />(視覚効果) | | | | | | | | |} <br /> == その他メディア == {{main|スター・ウォーズのスピンオフ一覧}}本シリーズは、多種多様な媒体を通じて沢山のスピンオフ(外伝)を世に送り出してきた。ジョージ・ルーカス自身が他の作家による二次創作に寛容だったこともあり、映画本編と整合性が取られていない独創的な作品も多く存在する<ref name=NWJ-SW-2015>{{Harvnb|『ニューズウィーク日本版 SPECIAL EDITION STAR WARS』|2015}}</ref>。しかし2012年にウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムを買収した際、膨大な数のスピンオフが新規ファンに混乱を与えてしまうという配慮から、スピンオフ作品は全て「'''カノン(正史)'''」と「'''レジェンズ(非正史)'''」に分別されることとなった{{r|NWJ-SW-2015}}<ref name=Natalie_20151203>{{Cite news |和書 |date=2015-12-03 |title=「スター・ウォーズ」EP4&5をつなぐアメコミ「スカイウォーカーの衝撃」発売 |url=https://natalie.mu/eiga/news/167985 |publisher=株式会社ナターシャ |newspaper=映画[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]] |accessdate=2020-07-04 }}</ref>。 「カノン」に属するスピンオフ作品は、ウォルト・ディズニー・カンパニーがルーカスフィルムの買収後に設立した「ルーカスフィルム ストーリー・グループ」の監修を受けた作品が該当する{{r|NWJ-SW-2015}}。それ以外(及び、すでに展開を終了している作品)は全て「レジェンズ」としていわゆる“[[パラレルワールド]]”の扱いとなった{{r|NWJ-SW-2015}}。しかし、「レジェンズ」の所属になったキャラクターの[[スローン大提督]]が「カノン」のアニメーション『反乱者たち』に、同じくタグ&ビンクが「カノン」の実写映画『ハン・ソロ』にそれぞれ登場しており、ルーカスフィルムのリーランド・チーは今後も「レジェンズ」のキャラクターが「カノン」に登場していくことを明言している<ref name=RIVER_20180130>{{Cite news |和書 |author=稲垣貴俊 |date=2018-01-30 |title=『スター・ウォーズ』非正史のキャラクター、正史作品へ続々カムバック!ルーカスフィルムのスタッフが明言 |url=https://theriver.jp/sw-legends-come-back/ |publisher=株式会社riverch |newspaper=THE RIVER |accessdate=2018-02-01 }}</ref>。 {| class="wikitable" |- ! 公開年 ! タイトル ! 監督 |- | [[1977年]] | [[ハードウェア・ウォーズ]] | |- | [[1983年]] | [[スター・フォース〜未知との遭遇〜]] | |- | [[1987年]] | [[スペースボール]] | [[メル・ブルックス]] |- | [[1999年]] | [[親指ウォーズ]] | [[スティーヴ・オーデカーク]] |- | [[2007年]] - [[2010年]] | [[スター・ウォーズ/ロボットチキン]] | |- | [[2009年]] | [[ファンボーイズ]] | [[カイル・ニューマン]] |- | 2010年 | [[ピープルVSジョージ・ルーカス]] | [[アレクサンドレ・オー・フィリップ]] |- | [[2011年]] | [[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ パダワン・メナス|LEGO スター・ウォーズ パダワン・メナス]] | |- | [[2012年]] | [[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ エンパイア・ストライクス・アウト|LEGO スター・ウォーズ エンパイア・ストライクス・アウト]] | |- | [[2013年]] - [[2014年]] | [[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ:ヨーダ・クロニクル|LEGO スター・ウォーズ:ヨーダ・クロニクル]] | |- | 2014年 | [[フィニアスとファーブ|フィニアスとファーブ/スター・ウォーズ大作戦]] | |- | rowspan="3" | [[2015年]] | [[LEGO スター・ウォーズ:ドロイド・テイルズ]] | |- | [[エルストリー1976- 新たなる希望が生まれた街 -]] | [[ジョン・スピラ]] |- | [[I AM YOUR FATHER/アイ・アム・ユア・ファーザー]] | |- | [[2016年]] | [[LEGO スター・ウォーズ/たたかえ!レジスタンス]] |- | 2016年 - [[2017年]] | [[LEGO スター・ウォーズ/フリーメーカーの冒険]] | |- | [[2018年]] | [[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ/オールスターズ|LEGO スター・ウォーズ/オールスターズ]] | |- | [[2020年]] | [[LEGO スター・ウォーズ/ホリデー・スペシャル]] | rowspan="3" | [[ケン・カニングハム]] |- | [[2021年]] | [[レゴ スター・ウォーズ#LEGO スター・ウォーズ/恐怖のハロウィーン|LEGO スター・ウォーズ/恐怖のハロウィーン]] |- | [[2022年]] | [[LEGO スター・ウォーズ/サマー・バケーション]] |} === パチンコ === {{出典の明記|section=1|date=2018年10月}} [[2005年]]、[[三共 (パチンコ)|SANKYO]]から『[[CR機|CR]]フィーバースター・ウォーズ』として登場した。 [[2008年]]に本機のゲーム性をさらにアップした『CRフィーバースター・ウォーズ ダース・ベイダー降臨』も登場した。 [[2014年]]に『CR FEVER STAR WARS Battle of Darth Vader』が登場した。 ; キャスト * [[オビ=ワン・ケノービ]] - [[森川智之]]、[[納谷悟朗]](老人) * [[アナキン・スカイウォーカー]]/[[ダース・ベイダー]] - [[浪川大輔]]、[[矢島晶子]]{{要出典|date=2020年1月}}(少年)、[[大平透]](ダース・ベイダー) * [[パドメ・アミダラ]] - [[坂本真綾]] * [[ジャンゴ・フェット]] - [[加瀬康之]] * [[ダース・モール]]、ナレーション - [[石井康嗣]]<ref group="注釈">石井は『[[スター・ウォーズ ギャラクティック・バトルグラウンド]]』に担当していた。</ref> * [[ヨーダ]] - [[永井一郎]] * [[グリーヴァス将軍]] - [[渡部猛]] * [[ダース・シディアス|パルパティーン皇帝]] - [[高木渉]] * [[メイス・ウィンドゥ]] - [[玄田哲章]] * [[C-3PO]] - [[岩崎ひろし]] * [[ハン・ソロ]] - [[磯部勉]] * [[ルーク・スカイウォーカー]] - [[島田敏]] * [[レイア・オーガナ]] - [[高島雅羅]] * [[ジャー・ジャー・ビンクス]] - [[稲葉実]]{{要出典|date=2020年1月}} * ザム・ウェセル - [[久川綾]]{{要出典|date=2020年1月}} * [[ドゥークー伯爵]]、[[クワイ=ガン・ジン]] - [[大塚周夫]]{{要出典|date=2020年1月}} * [[ストームトルーパー (スター・ウォーズ)|ストームトルーパー]] - [[肝付兼太]]{{要出典|date=2020年1月}} : キャストはソフト版と劇場公開版とほぼ同じだが、代役のため変更されている。 === パチスロ === {{出典の明記|section=2|date=2018年10月}} [[2007年]]にパチンコと同じSANKYOから発売。 === イベント・テーマパーク === * [[スター・ウォーズ セレブレーション]] - 1999年からディズニーによって開催されている本シリーズのオフィシャルファンイベント<ref name=Disney_20170525>{{Cite web |author= |date=2017-05-25 |title=YOUR STAR WARS MEMORY |url=http://starwars.disney.co.jp/history.html |publisher=[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]] |work=スター・ウォーズ |accessdate=2017-07-13 }}</ref>。 * Star Wars Weekends - 1997年から2015年まで[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]で開催されていた本シリーズのファンイベント。 * [[スター・ツアーズ]] - [[ディズニーランド]]、[[ディズニー・ハリウッド・スタジオ]]、[[東京ディズニーランド]]、[[ディズニーランド・パーク (パリ)|ディズニーランド・パリ]]にある、本シリーズを題材にしたフライトシミュレータータイプの[[アトラクション (遊園地)|アトラクション]]。時系列はエピソード6の後の世界。現在はすべて後述のリニューアル版に更新されている。 * [[スター・ツアーズ:ザ・アドベンチャーズ・コンティニュー]] - 上記のディズニーパークにある、スター・ツアーズのリニューアル版。メガネをかけるタイプの3D映像となり、固定だった飛行ルートが数パターンのルートの組み合わせにより数十種類に増えた。時系列はエピソード3と4の間だが、期間限定イベントでエピソード7、8、9の映像が増えたりするなど曖昧になっていることもある。新作映画が公開されるたびに飛行ルートが追加されている。 * [[ジェダイ・トレーニング:トライアル・オブ・ザ・テンプル]] - ([[東京ディズニーリゾート|東京]]と[[上海ディズニーリゾート|上海]]を除く)世界のディズニーパークで行われている、ジェダイの騎士になる為にライトセーバーの訓練を行う体験型エンターテインメント。 * [[スター・ウォーズ・ローンチ・ベイ]] - ディズニーランドや[[上海ディズニーランド]]をはじめとする本シリーズに関する小道具の展示やキャラクターとのグリーティングを行うことができる施設。 * [[スター・ウォーズ:ギャラクシーズ・エッジ]] - 本シリーズの初の[[テーマランド]]。2019年海外のディズニーパークにて、「スター・ウォーズ ホテル」と同時オープンした。また、アトラクションは「[[ミレニアム・ファルコン:スマグラーズラン]]」「[[スター・ウォーズ:ライズ・オブ・ザ・レジスタンス]]」がある。 * Star Wars: Where Science Meets Imagination * Star Wars Hyperspace Mountain * Star Wars: A Galactic Spectacular * [[ミレニアム・ファルコン:スマグラーズラン]] * [[スター・ウォーズ:ライズ・オブ・ザ・レジスタンス]] == デジタル配信 == [[2015年]][[6月1日]]、オリジナル&プリクエル・トリロジー6部作のデジタル配信が開始された。[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]による[[ルーカスフィルム]]買収後の配信であるため、[[20世紀フォックス]]のロゴは表示されない(『エピソード4』を除く)。それまでの映像ソフトには未収録のボーナス映像も収録されている。 その後、シークエル・トリロジーやアンソロジー・シリーズの作品がソフト化される際は、デジタル配信も同時に行われるようになった。また、『クローン・ウォーズ』『反乱者たち』などのアニメーションも配信されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2|reflist}} == 参考文献 == *<!--Kaminski-->{{Cite book |last=Kaminski |first=Michael |author=Michael Kaminski |last2=Thompson |first2=Josh Robert (Reading) |author2=Josh Robert Thompson |authorlink2=:en:Josh Robert Thompson |date=18 March 2007 |title=The Secret History of Star Wars |edition=1st |location=[[キングストン (オンタリオ州)|Kingston, Ont.]] |publisher=Legacy Books Press |language=English |ref={{SfnRef|Kaminski|2007}} }} **{{Cite web |last=Kaminski |first=Michael |title=The Secret History of Star Wars |url=https://drbeat.li/album/B%C3%BCcher/The_Secret_History_of_Star_Wars.pdf |format=PDF |pages=1-533 |accessdate=2020-07-03 }} ** {{Cite book |last=Kaminski |first=Michael |last2=Thompson |first2=Josh Robert (Reading) |date=18 November 2008 |title=The Secret History of Star Wars |url=https://www.goodreads.com/book/show/5986868-the-secret-history-of-star-wars |origdate=18 March 2007 |location=Kingston, Ont. |publisher=Legacy Books Press |language=English |oclc=313441965 |ref={{SfnRef|Kaminski|2008}} }}{{spaces}}ISBN 0978465237, ISBN 978-0978465230. *<!--おおぐち-->{{Cite book |和書 |author=大口孝之|authorlink=大口孝之 |date=2009-06-05 |title=コンピュータ・グラフィックスの歴史─3DCGというイマジネーション |publisher=フィルムアート社 |ncid=BA9032393X |oclc=395050484 |ref={{SfnRef|大口|2009}} }}ISBN 4-8459-0930-8、ISBN 978-4-8459-0930-8。{{国立国会図書館書誌ID|000010300502}}。 <!--※以下は編著者が法人等。--> * <!--CCCメディアハウス-->{{Cite book |和書 |editor=ニューズウィーク日本版編集部|editor-link=ニューズウィーク |date=2015-012-09 |title=ニューズウィーク日本版 SPECIAL EDITION STAR WARS ─『フォースの覚醒』を導いたスター・ウォーズの伝説 |url=http://m-org.newsweekjapan.jp/mook/160540.php |publisher=[[CCCメディアハウス]] |asin=B018SMRSY2 |ref={{SfnRef|『ニューズウィーク日本版 SPECIAL EDITION STAR WARS』|2015}} }} *<!--こ;講談社-->{{Cite book |和書 |editor=フジテレビトリビア普及委員会|editor-link=フジテレビ |date=2003-09 |title=トリビアの泉 へぇの本 3 素晴らしきムダ知識 |publisher=[[講談社]] |oclc=54380518 |ref={{SfnRef|『トリビアの泉 へぇの本 3』|2003}} }}ISBN 4-06-352704-2、ISBN 978-4-06-352704-9。{{国立国会図書館書誌ID|000007594750}}。 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|スペキュレイティブ・フィクション|[[画像:Dragon-149393.svg|34px|Portal:スペキュレイティブ・フィクション]]}} * [[ルーカスフィルム]] - 本シリーズの製作会社。 * [[インダストリアル・ライト&マジック]] - 本シリーズの[[SFX]]・[[VFX]]製作会社。 * [[ウォルト・ディズニー・カンパニー]] * [[戦略防衛構想]] - 別名スター・ウォーズ計画。 * [[Wookieepedia]] - スター・ウォーズについてのオンライン百科事典。 * [[ジョーゼフ・キャンベル]] == 外部リンク == {{Commonscat|Star Wars}} * [https://www.starwars.com/ StarWars.com]{{en icon}} * {{Official website|https://starwars.disney.co.jp|name=スター・ウォーズ|STAR WARS 公式サイト}} * {{Official website|https://www.disney.co.jp/studio/digital/starwars.html|name=スター・ウォーズ デジタル配信特集}} * {{Twitter|starwars|Star Wars}} {{en icon}} * {{Twitter|starwarsjapan|スター・ウォーズ公式}} * {{Facebook|StarWars.jp|Star Wars}} * {{Instagram|starwars|Star Wars}} {{en icon}} * {{YouTube|user=StarWars|Star Wars}} {{en icon}} * {{YouTube|p=PLuLW12lxUp4WBKN-y9pArZXjOzDe-dnXi|スター・ウォーズ}} * {{Cite web |title=Star Wars |url=https://www.imdb.com/find?q=Star+Wars+&ref_=nv_sr_sm |publisher=[[Amazon.com]] |work=[[インターネット・ムービー・データベース|Internet Movie Database]] (IMDb) |language=English |accessdate=2020-07-04 |ref={{SfnRef|IMDb}} }}{{en icon}} ** Full Cast & Crew - Star Wars (1977) {{Cite web |title=Full Cast & Crew |url=https://www.imdb.com/title/tt0076759/fullcredits/?ref_=tt_ov_st_sm |publisher=Amazon.com |work=Internet Movie Database (IMDb) |language=English |accessdate=2020-07-04 |ref={{SfnRef|IMDb 1977-cast}} }}{{en icon}}<!--※活用の一例。--> {{スター・ウォーズ}} {{オリコン週間BD総合チャート第1位 2015年|2015年11月23日付}} {{オリコン週間DVD映画チャート第1位 2015年|2015年12月7日・14日・28日付}} {{オリコン週間DVD映画チャート第1位 2016年|2016年1月11日付}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すたあうおおす}} [[Category:スター・ウォーズ|*]] [[Category:アメリカ合衆国のSF映画のシリーズ]] [[Category:特撮のシリーズ]] [[Category:メディアミックス作品]] [[Category:映画の三部作]]
2003-03-25T10:00:19Z
2023-12-29T14:03:08Z
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大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。 当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。 その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。 国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された(「大和」の項も参照)。 戦国時代を経ても、飛鳥時代・奈良時代以来の古い寺社が権門領主として大和国を支配していたことから、安土桃山時代には「神国」という異称もあった。 大和国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている(詳細は皇居#歴代の皇居を参照)。 国府所在地を記した文献は次の通り。 国府は、葛上郡掖上(現在の御所市東北部と同市名柄の二説あり)の地にあったが、平城京遷都に伴って8世紀に高市郡(『和名類聚抄』)の軽の地に移ったとされる。その後13世紀には平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った。このように国府は数か所に推定されているが、詳細は明らかでない。 延喜式内社 総社・一宮 二宮以下はない。 郡名は『延喜式』による。 鎌倉、室町時代を通じて守護所は設置されず、興福寺がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説、「一乗院・大乗院の両門跡が守護権限を行使していた」説、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説がある。 但し、室町時代後期には宇智郡は河内畠山氏が、宇陀郡は北畠氏が、それぞれの分郡守護であったとする説がある。 また、天正3年(1575年)に織田家臣の塙直政が織田信長から大和守護に任じられ、直政が天王寺の戦いで戦死すると天正4年(1576年)に筒井順慶が織田信長から大和守護に任じられている。
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大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 大和国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|大和国}} |別称 = 和州(わしゅう) |所属 = [[畿内]] |領域 = [[奈良県]] |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = <!--定義なし--> |郡 = 15郡39郷 |国府 = (推定)[[奈良県]][[大和郡山市]]<br/>(推定)奈良県[[高市郡]][[高取町]] |国分寺 = 奈良県[[奈良市]]([[東大寺]]) |国分尼寺 = 奈良県奈良市([[法華寺]]) |一宮 = [[大神神社]](奈良県[[桜井市]]) }} '''大和国'''(やまとのくに)は、[[日本]]の地方行政区分である[[令制国]]の一つ。[[畿内]]に属する。現在の[[奈良県]]。[[大国 (令制国)|大国]]。 == 国名について == 当国は、律令制定の際に表記を「'''大倭国'''(やまとのくに)」として成立したとされる<ref name="平凡社"/><ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD-144220 大和国(藩名・旧国名がわかる事典)](朝日新聞社コトバンクより)。</ref>。ただし[[藤原京]]出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。 その後、[[奈良時代]]の[[天平]]9年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[ユリウス暦]]:[[738年]][[1月21日]])<ref>『続日本紀』天平9年(737年)12月27日条。</ref>に表記は「'''大養徳'''」に改められた<ref name="平凡社"/>。天平19年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]([[747年]][[4月29日]])<ref>『続日本紀』天平19年(747年)3月16日条。</ref>には元の「'''大倭'''」に改称<ref name="平凡社"/>。その後、[[天平宝字]]元年([[757年]])頃から「'''大和'''」に定められたとされる<ref group="注釈">国史に改名記事がないため時期は諸説あるが、天平宝字元年(757年)の『養老令』施行からが有力視される(上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 142-143)。</ref>。[[平安時代]]以降は「大和」で一般化した<ref name="平凡社">『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節。</ref>。 国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して[[奈良盆地]]東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)<ref group="注釈">『和名抄』の大和国式下郡大和郷(おおやまとごう)、現在の[[大和神社]](奈良県天理市新泉町)付近(『日本歴史地名体系 奈良県の地名』(平凡社)大和国節より)。</ref>。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された<ref>『日本古代史大辞典』(大和書房)大和国項。</ref><ref name="上田">上田正昭『私の日本古代史(上)』(新潮選書)pp. 140-142。</ref>(「[[大和]]」の項も参照)。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を経ても、[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]以来の古い寺社が[[権門]]領主として大和国を支配していたことから、[[安土桃山時代]]には「神国」という異称もあった<ref>[https://www.sankei.com/west/news/140102/wst1401020051-n2.html 【秀吉と大和の城(2)】大阪の“副都”担った「郡山城」…秀吉の命受け弟・秀長が統治、強力な寺社勢力抑え100万石規模に(2/2ページ)]産経WEST(2014年1月2日)</ref>。 == 沿革 == {{main|奈良県#歴史}} === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,497村・495,885石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。下記のほか葛上郡・忍海郡・宇智郡を除く各郡に寺社領が所在。 ** [[添上郡]](146村・58,224石余) - [[天領|幕府領]]([[奈良奉行]])、郡山藩、'''[[柳生藩]]'''、小泉藩、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]、伊勢[[久居藩]]、[[公家領]]、[[能楽師]]領 ** [[添下郡]](69村・40,322石余) - [[地方知行|旗本領]]、'''[[郡山藩]]'''、'''[[小泉藩]]''' ** [[平群郡]](82村・30,860石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、郡山藩、[[三方楽所|奈良楽人]]領 ** [[広瀬郡]](35村・18,558石余) - 郡山藩、伊勢久居藩 ** [[葛上郡]](73村・23,778石余) - 幕府領(奈良奉行・[[五條代官所]])、'''[[櫛羅藩]]'''、高取藩 ** [[葛下郡]](87村・42,447石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、郡山藩、櫛羅藩、高取藩、[[下野国|下野]][[壬生藩]] ** [[式上郡]](68村・22,573石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、'''[[柳本藩]]'''、'''[[芝村藩]]'''、伊勢津藩、伊勢久居藩 ** [[式下郡]](48村・27,968石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、郡山藩 ** [[忍海郡]](22村・5,577石余) - 幕府領(奈良奉行)、櫛羅藩 ** [[宇智郡]](64村・18,229石余) - 幕府領(五條代官所)、旗本領 ** [[宇陀郡]](125村・33,909石余) - 幕府領(奈良奉行・五條代官所)、柳本藩 ** [[高市郡]](116村・41,423石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、'''[[高取藩]]''' ** [[十市郡]](85村・37,400石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、'''[[田原本藩]]'''、郡山藩、高取藩、伊勢津藩、伊勢久居藩、[[上総国|上総]][[大多喜藩]]<ref group="注釈">「旧高旧領取調帳」では後に大多喜県が管轄したとしているが、[[三河国]]にも飛地のあった大多喜藩は、慶応4年の[[徳川将軍家|徳川宗家]]の[[転封]]より領地を上総国[[夷隅郡]]にまとめられているため、同時に奈良県に移管されたものと思われる。</ref> ** [[山辺郡]](151村・49,021石余) - 幕府領(奈良奉行)、旗本領、芝村藩、柳生藩、柳本藩、伊勢津藩、伊勢久居藩 ** [[吉野郡]](326村・45,588石余) - 幕府領(五條代官所)、旗本領、高取藩 * [[慶応]]4年 ** [[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[1868年]][[2月27日]])<ref group="注釈">同年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]](1868年[[5月19日]])にかけて移管。</ref> - 奈良奉行の管轄地域および吉野郡の一部([[十津川郷]]を除く)が'''[[奈良府]]'''の管轄となる。 ** [[5月21日 (旧暦)|5月21日]](1868年[[7月10日]]) - 寺社領・旗本領が奈良府の管轄となる。 ** [[7月29日 (旧暦)|7月29日]](1868年[[9月15日]]) - 奈良府が改称して'''[[奈良県]]'''(第1次)となる。 * 明治2年 ** [[3月6日 (旧暦)|3月6日]]([[1869年]][[4月17日]]) - 吉野郡の一部(十津川郷)が奈良府の管轄となる。 ** 6月 - 吉野郡の一部(十津川郷)が'''[[兵部省]]'''[[軍務官]]の管轄となる。 * 明治3年 ** [[2月27日 (旧暦)|2月27日]]([[1870年]][[3月28日]]) - 五條代官所の管轄地域および奈良県の一部(十津川郷を除く吉野郡)が'''[[五條県]]'''の管轄となる。 ** [[5月19日 (旧暦)|5月19日]](1870年[[6月17日]]) - 吉野郡の一部(十津川郷)が五條県の管轄となる。 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[郡山県]]'''、'''[[柳生県]]'''、'''[[小泉県]]'''、'''[[櫛羅県]]'''、'''[[高取県]]'''、'''[[柳本県]]'''、'''[[芝村県]]'''、'''[[田原本県]]'''および[[津県]]、[[久居県]]、[[壬生県]]の飛地となる。 ** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第2次府県統合により、全域が'''奈良県'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[堺県]]'''の管轄となる。 * 明治14年([[1881年]])[[2月7日]] - '''[[大阪府]]'''の管轄となる。 * 明治20年([[1887年]])[[11月4日]] - '''奈良県'''(第2次)の管轄となる。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 宮 === 大和国内には、これまでに度々天皇の住居(宮)が構えられている(詳細は[[皇居#歴代の皇居]]を参照)。 === 国府 === 国府所在地を記した文献は次の通り。 * 『[[和名類聚抄|和名抄]]』([[平安時代]]中期成立)では、「高市郡」<ref>[{{NDLDC|2544218/12}} 『和名類聚抄 20巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)12コマ参照。</ref> * 『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]中期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]成立)では、「高市郡」<ref>[{{NDLDC|2543900/52}} 『拾芥抄 3巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)52コマ参照。</ref> * 『[[節用集]]』([[室町時代]]中期成立)では、「十市郡」<ref>[{{NDLDC|1112421/136}} 『節用集 易林本』](国立国会図書館デジタルコレクション)136コマ。</ref> 国府は、[[葛上郡]]掖上(現在の[[御所市]]東北部と同市名柄の二説あり)の地にあったが、[[平城京]]遷都に伴って8世紀に[[高市郡]](『[[和名類聚抄]]』)の軽の地<ref group="注釈">現在の[[橿原市]]大軽町と石川町の接点丈六、ここを軽の衢という。久米町、西池尻/東池尻、高取町土佐の三説ある。</ref>に移ったとされる。その後13世紀には平群郡(現在の大和郡山市今国府)に移った。このように[[国府]]は数か所に推定されているが、詳細は明らかでない。 === 国分寺・国分尼寺 === * 大和国分寺 ** [[東大寺]] ([[奈良県]][[奈良市]]、{{Coord|34|41|20.38|N|135|50|23.78|E|region:JP-29_type:landmark|name=総国分寺・大和国分寺:東大寺}}) - 総国分寺。 ** [[国分寺 (橿原市)|国分寺]] (奈良県[[橿原市]]、{{Coord|34|30|37.1|N|135|47|41.1|E|region:JP-29_type:landmark|name=大和国分寺か:国分寺}}) - 勝満山満法院。 *: 東大寺とするのが一般的だが、後者とする説もある。 * 大和国分尼寺 ** [[法華寺]] (奈良県奈良市、{{Coord|34|41|32.65|N|135|48|14.85|E|region:JP-29_type:landmark|name=総国分尼寺・大和国分尼寺:法華寺}}) - 総国分尼寺。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社128座85社(うち[[名神大社]]47座26社)・小社158座131社の計286座216社が記載されている([[大和国の式内社一覧]]参照)。 '''[[総社]]・[[一宮]]''' * 総社:[[国府神社]] ([[奈良県]][[高市郡]][[高取町]]下土佐、{{Coord|34|26|41.86|N|135|47|52.19|E|region:JP-29_type:landmark|name=大和国総社:国府神社}}) * 一宮:[[大神神社]] (奈良県[[桜井市]]三輪、{{Coord|34|31|45.11|N|135|51|8.74|E|region:JP-29_type:landmark|name=大和国一宮:大神神社}})<ref>『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 7。</ref> - ただし、神社側で自ら一宮を称した文書は見つかっていない<ref>『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)p. 41。</ref>。 二宮以下はない。 == 地域 == === 郡 === {|class="wikitable" !colspan="2"|古代 !中世 !1896年4月1日 !現在 |- |rowspan="2"|曾布 |[[添上郡]] |添上郡 |添上郡 |奈良市・天理市 |- <!-- 曾布 --> |[[添下郡]] |添下郡 |rowspan="2"|[[生駒郡]] |rowspan="2"|大和郡山市・生駒市・生駒郡 |- | |[[平群郡]] |平群郡 <!-- 生駒郡 --> |- | |[[広瀬郡]] |広瀬郡 |rowspan="2"|[[北葛城郡]] |rowspan="2"|大和高田市・香芝市・葛城市・北葛城郡 |- |rowspan="3"|[[葛城]] |[[葛下郡]] |葛下郡 <!-- 北葛城郡 --> |- <!-- 葛城 --> |[[葛上郡]] |葛上郡 |rowspan="2"|[[南葛城郡]] |rowspan="2"|御所市・葛城市の一部 |- <!-- 葛城 --> |[[忍海郡]] |忍海郡 <!-- 南葛城郡 --> |- | |[[宇智郡]] |宇智郡 |宇智郡 |五條市 |- | |[[吉野郡]] |吉野郡 |吉野郡 |五條市・吉野郡 |- | |[[宇陀郡]] |宇陀郡 |宇陀郡 |宇陀市・宇陀郡 |- |rowspan="2"|磯城 |[[城上郡]] |[[式上郡]] |rowspan="3"|[[磯城郡]] |rowspan="3"|天理市・橿原市・桜井市・磯城郡 |- <!-- 磯城 --> |[[城下郡]] |[[式下郡]] <!-- 磯城郡 --> |- | |[[十市郡]] |十市郡 <!-- 磯城郡 --> |- | |[[高市郡]] |高市郡 |高市郡 |橿原市・高市郡 |- | |[[山辺郡]] |山辺郡 |山辺郡 |天理市・奈良市・山辺郡 |} 郡名は『[[延喜式]]』による。 === 江戸時代の藩 === *[[郡山藩]]([[郡山城 (大和国)|郡山城]]):水野家〔宗家〕(6万石、1615年 - 1619年)→松平(奥平)家(12万石、1619年 - 1639年)→本多家(15万石→9万石と6万石、1639年 - 1679年)→松平(藤井)家(12万石、1679年 - 1685年)→本多家(12万石→5万石、1685年 - 1723年)→柳沢家(15万1千石、1724年 - 1871年) *[[高取藩]]([[高取城]]):本多家(3万石、1600年 - 1637年)→天領→植村家(2万5000石→2万500石→2万5000石、1640年 - 1871年) *[[柳生藩]](柳生陣屋):[[柳生氏|柳生家]](1万2500石→8300石→1万石、1636年 - 1871年) *[[小泉藩]]([[小泉陣屋]]):片桐家(1万石→1万6千石→1万3千石→1万1千石、1600年 - 1871年) *[[柳本藩]]([[柳本陣屋]]):織田家(1万石、1615年 - 1871年) *[[芝村藩|戒重藩/芝村藩]]([[芝村陣屋]]):織田家(1万石、1615年 - 1871年) *[[大和新庄藩]]:桑山家(2万石→1万6000石→1万3000石→1万1000石、1600年 - 1682年)→永井家(1万石、1682年 - 1863年)→廃藩(櫛羅藩に転封) *[[櫛羅藩]]([[櫛羅陣屋]]):永井家(1万石、1863年 - 1871年) *[[宇陀松山藩]](松山陣屋):福島家(3万1717石、1600年 - 1615年)→織田家(2万8千石、1615年 - 1695年)→廃藩(丹波[[柏原藩]]へ転封) *[[興留藩]](興留陣屋):松平(藤井)家(1万石、1686年 - 1693年)→廃藩(備中[[庭瀬藩]]へ転封) *[[竜田藩]]:片桐家(2万8千石→4万石→1万石、1601年 - 1654年)→廃藩(無嗣断絶) *[[御所藩]]:桑山家(1万2千石→1万石→1万6千石→2万6千石、1600年 - 1629年)→廃藩(無嗣断絶) *[[大和五条藩]]:松倉家(1万石、1600年 - 1616年)→廃藩(肥前[[島原藩]]に転封) == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 大和守 ==== *[[阿倍真君]](従五位下):[[慶雲]]3年([[706年]])任官 *[[佐伯男]](従五位下)[[和銅]]元年([[708年]])任官 *[[紀飯麻呂]](従四位下):[[天平]]21年([[749年]])任官 *[[山村王]](従三位):[[天平神護]]元年([[765年]])任官 *[[石川名足]](従五位上):[[神護景雲]]2年2月18日([[768年]])任官 *[[大伴古慈斐]](従四位上):[[宝亀]]元年([[770年]])任官 *[[佐伯今毛人]](正四位上):[[延暦]]元年([[782年]])任官 *''石川名足'' (従三位):延暦7年2月6日([[788年]])任官 (再任) *[[石川真守]](従四位上):延暦11年2月2日([[792年]])任官 *[[和家麻呂]](従四位下):延暦12年5月([[793年]])任官 *[[三島名継]](従四位下):延暦16年1月13日([[797年]])任官 *[[藤原園人]](正五位下):延暦17年2月([[798年]])任官 *[[藤原縄主]](従四位上):延暦20年1月([[801年]])任官 *[[藤原仲成]](従四位下):[[大同 (日本)|大同]]元年1月18日([[806年]])任官 *[[藤原永貞]](従五位下):大同元年7月15日(806年)任官 *藤原某(従五位下):大同2年5月3日([[807年]])任官 (名不詳) *[[藤原継業]](従四位下):大同3年11月17日([[808年]])任官 *[[坂田奈弖麻呂]](従四位下):[[弘仁]]元年9月10日([[810年]])任官 *[[紀末成]](従五位上):弘仁12年7月([[821年]])任官 *[[藤原藤広]] *[[清原長田|長田王]](従五位上):[[承和 (日本)|承和]]元年1月12日([[834年]])任官 *[[滋野貞主]](従四位上):承和6年1月11日([[839年]])任官 *[[正躬王]](従四位下):承和8年1月12日([[841年]])任官 *[[紀長江]](従四位上):承和10年1月12日([[843年]])任官 *[[藤原長岡]](従四位下):承和10年7月(843年)任官 *[[清原岑成|岑成王]](正五位下):承和14年1月12日(847年)任官 *[[清瀧河根]](従五位上):[[嘉祥]]元年8月16日([[848年]])任官 *[[丹墀門成]](従五位上):嘉祥3年5月17日([[850年]])任官 *[[鎌蔵王]](従五位上):[[仁寿]]3年1月16日([[853年]])任官 (権守) *[[豊前王]](正五位下):仁寿3年4月10日(853年)任官 *[[安倍貞行]](従五位上):[[天安 (日本)|天安]]元年1月14日([[857年]])任官 *[[藤原氏雄]](正五位下):天安2年2月18日([[858年]])任官 *[[在原善淵]](正五位下):[[貞観 (日本)|貞観]]元年12月21日([[859年]])任官 *[[弘宗王]](正五位下):貞観2年8月16日([[860年]])任官 *[[在原安貞]](従五位下):貞観3年1月13日([[861年]])任官 (権守) *[[紀今守]](従四位上):貞観5年2月10日([[863年]])任官 *[[藤原春岡]](正五位下):貞観5年2月10日(863年)任官 (権守) *[[良岑長松]](従五位上):貞観7年5月15日([[865年]])任官 (権守) *[[清原秋雄]](従四位下):貞観8年([[866年]])任官 *[[藤原本雄]](正五位下):貞観9年1月12日([[867年]])任官 (権守) *藤原本雄(従四位下):貞観10年1月16日([[868年]])任官 *[[坂上瀧守]] *[[平教盛]] *[[平基盛]] *[[忠貞王]] *[[伴保平]] *[[藤原家依]] *藤原伊家 - 寛治2(1088)年、白河上皇高野御幸時負担*[[藤原輔公]] *[[藤原園人]] *[[藤原親盛 (左衛門尉)|藤原親盛]] *[[藤原長岡]] *[[藤原登任]] *[[藤原真楯]] *[[藤原師氏]] *[[藤原安親]] *[[源重時]] *[[源光行]] *[[源頼定]] *[[源頼親]] *[[大江公景]] *[[宇都宮信房]] ==== 武家官位としての大和守 ==== ===== 江戸時代以前 ===== *[[陸奥石川氏]](平安~安土桃山時代) **[[石川光義]]:第4代当主。平安時代後期の武将 **[[石川義季]]:第5代当主。平安時代後期の武将 **[[石川基光]]:第6代当主。平安末期から鎌倉時代初期の武将 **[[石川光長]]:第9代当主。鎌倉時代の武将 **[[石川元盛]]:第10代当主。鎌倉時代の武将 **[[石川盛義]]:第11代当主。鎌倉時代の武将 **[[石川晴光]]:第24代当主。戦国時代から安土桃山時代の武将、[[陸奥国]][[石川郡]][[三芦城]]主 **[[石川昭光]]:第25代当主。戦国時代から江戸時代初期の武将、[[伊達晴宗]]の4男で[[伊達政宗]]の家臣 *戦国時代[[尾張国]][[清洲城]]主織田大和守家 **[[織田久長]]:大和守家第2代当主 **[[織田敏定]]:大和守家第3代当主 **[[織田達定]]:大和守家第6代当主 **[[織田達勝]]:大和守家第7代当主 **[[織田信友]]:大和守家第8代当主 *その他 **[[宇都宮信房]]:平安時代末期から鎌倉時代前期の武将 **[[伊東祐時]]:鎌倉時代前期の武将。[[工藤祐経]]の子。鎌倉幕府御家人 **[[高重茂]]:南北朝時代の武将、守護大名。関東執事、武蔵守護。[[高師直]]の弟 **[[三木直頼]]:戦国時代の武将。飛騨三木氏の当主。姉小路頼綱の祖父 **[[遠山景任]]:戦国時代の武将。岩村[[遠山氏]]当主 **[[本庄房長]]:戦国時代の武将。越後の国人[[本庄氏]]当主 **[[姉小路頼綱]]:戦国時代・安土桃山時代の武将、[[飛騨国]]の戦国大名 **[[直江景綱]]:戦国時代・安土桃山時代の武将。越後[[長尾]]氏([[上]]氏)の家臣、[[直江兼続]]の養父 **[[本多政重]]:安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は[[本多正信]]、養父は[[直江兼続]] =====江戸時代 ===== *[[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]/[[日向国|日向]][[飫肥藩]][[伊東家]] **[[伊東祐安 (室町時代)|伊東祐安]]:日向伊東氏第3代当主、室町時代の武将 **[[伊東祐堯]]:日向伊東氏第5代当主。室町時代から戦国時代の武将 **[[伊東祐国]]:日向伊東氏第6代当主。室町時代から戦国時代の武将 **[[伊東尹祐]]:日向伊東氏第7代当主。日向の戦国大名 **[[伊東祐久]]:日向伊東氏第14代当主。日向飫肥藩第3代藩主 **[[伊東祐実]]:日向伊東氏第16代当主。日向飫肥藩第5代藩主 **[[伊東祐之 (飫肥藩主)|伊東祐之]]:日向伊東氏第18代当主。日向飫肥藩第7代藩主 **[[伊東祐福]]:日向伊東氏第20代当主。日向飫肥藩第9代藩主 *大和[[柳本藩]]織田家 **[[織田尚長]]:初代藩主 **[[織田秀綿]]:第10代藩主 **[[織田信陽]]:第11代藩主 **[[織田信及]]:第13代藩主 *[[上総国|上総]][[一宮藩]]加納家 **[[加納久慎]]:加納家4代。[[伊勢国|伊勢]][[八田藩]]第4代藩主 **[[加納久徴]]:加納家6代。上総一宮藩第2代藩主 **[[加納久恒]]:加納家7代。上総一宮藩第3代藩主 *[[豊後国|豊後]][[日出藩]]木下家 **[[木下俊泰]]:第9代藩主 **[[木下俊敦]]:第13代藩主 **[[木下俊愿]]:第16代藩主 *九鬼家宗家 **[[九鬼久隆]]:宗家2代。[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]第2代藩主、[[摂津国|摂津]][[三田藩]]初代藩主 **[[九鬼隆久]]:宗家6代。三田藩の第5代藩主 **[[九鬼隆徳]]:宗家12代。三田藩の第11代藩主 *[[下総国|下総]][[関宿藩]]久世家 **[[久世広之]]:久世家初代。下総[[関宿藩]]初代藩主・老中 **[[久世重之]]:久世家2代。関宿藩第2代藩主、[[備中国|備中]][[庭瀬藩]]初代藩主、[[丹波国|丹波]][[丹波亀山藩|亀山藩]]初代藩主、[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]初代藩主、関宿藩再封初代藩主 **[[久世広誉]]:久世家5代。関宿藩第5代藩主 **[[久世広明]]:久世家4代。関宿藩第4代藩主・老中 **[[久世広周]]:久世家7代。関宿藩の第7代藩主・老中 *上総[[久留里藩]]黒田家 **[[黒田直純]]:初代藩主 **[[黒田直英]]:第3代藩主 **[[黒田直温]]:第4代藩主 **[[黒田直和]]:第8代藩主 *[[但馬国|但馬]][[出石藩]]小出家 **[[小出吉政]]:小出家2代。但馬出石藩主、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]2代藩主 **[[小出吉英]]:小出家3代。但馬出石藩2代および4代藩主、和泉岸和田藩3代藩主 **[[小出英益]]:小出家6代。但馬出石藩第7代藩主 *[[肥前国|肥前]][[福江藩]]五島家 **[[五島盛佳]]:第6代藩主。五島家第26代当主 **[[五島盛道]]:第7代藩主。五島家第27代当主 **[[五島盛運]]:第8代藩主。五島氏の第28代当主 **[[五島盛繁]]:第9代藩主。五島家第29代当主 **[[五島盛成]]:第10代藩主。五島家第30代当主 *[[安房国|安房]][[安房勝山藩|勝山藩]]酒井家 **[[酒井忠国]]:初代藩主 **[[酒井忠大]]:第4代藩主 **[[酒井忠鄰]]:第5代藩主 **[[酒井忠和]]:第6代藩主 **[[酒井忠嗣]]:第7代藩主 **[[酒井忠美]]:第9代藩主 *[[信濃国|信濃]][[高遠藩]]内藤家 **[[内藤重頼]]:内藤家5代。 **[[内藤頼由]]:内藤家8代。高遠藩第3代藩主 **[[内藤長好]]:内藤家10代。高遠藩第5代藩主 **[[内藤頼以]]:内藤家11代。高遠藩第6代藩主 **[[内藤頼寧]]:内藤家12代。高遠藩第7代藩主 **[[内藤頼直]]:内藤家13代。高遠藩第8代藩主 *信濃[[信濃飯田藩|飯田藩]]堀家 **[[堀親賢]]:第4代藩主 **[[堀親蔵]]:第6代藩主 **[[堀親長]]:第7代藩主 **[[堀親民]]:第9代藩主 **[[堀親寚]]:第10代藩主・老中格 **[[堀親義]]:第11代藩主 *[[美濃国|美濃]][[高富藩]]本庄家 **[[本庄道矩]]:第2代藩主 **[[本庄道堅]]:第4代藩主 **[[本庄道信]]:第5代藩主 *[[播磨国|播磨]][[山崎藩]]本多家 **[[本多忠堯]]:第4代藩主 **[[本多忠居]]:第6代藩主 **[[本多忠鄰]]:第8代藩主 *[[上野国|上野]][[七日市藩]]前田家 **[[前田利孝]]:初代藩主 **[[前田利理]]:第6代藩主 **[[前田利尚]]:第7代藩主 **[[前田利見]]:第8代藩主 **[[前田利以]]:第9代藩主 **[[前田利和 (七日市藩主)|前田利和]]:第10代藩主 **[[前田利豁]]:第11代藩主 *[[松平直基|直基系]]越前松平家 **[[松平直基]]:直基系初代。[[越前国|越前]][[越前勝山藩|勝山藩]]主、越前[[大野藩]]主、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]主、播磨[[姫路藩]]初代藩主 **[[松平直矩]]:直基系2代。姫路藩第2代藩主、[[越後国|越後]][[村上藩]]主、姫路藩主(再封)、豊後[[日田藩]]主、出羽山形藩主、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]初代藩主 **[[松平基知]]:直基系3代。白河藩第2代藩主 **[[松平明矩]]:直基系4代。白河藩第3代藩主、姫路藩初代藩主(再々封) **[[松平朝矩]]:直基系5代。姫路藩第2代藩主、上野[[前橋藩]]主、武蔵[[川越藩]]初代藩主 **[[松平直恒]]:直基系6代。川越藩第2代藩主 **[[松平直温 (川越藩主)|松平直温]]:直基系7代。川越藩第3代藩主 **[[松平斉典]]:直基系8代。川越藩第4代藩主 **[[松平典則]]:直基系9代。川越藩第5代藩主 **[[松平直侯]]:直基系10代。川越藩第6代藩主 **[[松平直克]]:直基系11代。川越藩第7代藩主、上野前橋藩初代藩主(再封) *[[駿河国|駿河]][[沼津藩]]水野家 **[[水野忠成]]:第2代藩主・老中 **[[水野忠義]]:第3代藩主 **[[水野忠武]]:第4代藩主 *その他 **[[青山幸道]]:[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]第2代藩主、美濃[[郡上藩]]初代藩主 **[[井上正岑]]:美濃[[郡上藩|八幡藩]]第2代藩主、丹波亀山藩主、[[常陸国|常陸]][[下妻藩]]主、常陸[[笠間藩]]初代藩主・老中 **[[井上正経]]:常陸笠間藩第3代藩主、陸奥[[磐城平藩]]主、[[遠江国|遠江]][[浜松藩]]初代藩主・老中 **[[田沼意知]]:[[田沼意次]]の嫡子・若年寄 **[[土屋数直]]:常陸[[土浦藩]]初代藩主・老中 **[[戸沢正庸]]:出羽[[新庄藩]]第3代藩主 **[[土方義苗]]:伊勢[[菰野藩]]第9代藩主 **[[土方雄永]]:伊勢[[菰野藩]]第12代藩主 **[[松平典信]]:丹波[[篠山藩]]第2代藩主 **[[松平忠恕 (島原藩主)|松平忠恕]]:[[下野国|下野]][[宇都宮藩]]第2代藩主、肥前[[島原藩]]初代藩主 **[[水野元綱]]:三河[[新城藩]]第2代藩主、上野[[安中藩]]初代藩主 === 守護 === 鎌倉、室町時代を通じて[[守護所]]は設置されず、[[興福寺]]がその役割を果たしていた。ただし、その守護権の行使については不明な点が多く、「興福寺別当が守護権限を行使していた」説<ref>今谷明「室町時代の伝馬について」(小笠原長和 編『東国の社会と文化』(1985年、梓出版社))</ref>、「[[一乗院]]・[[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]]の両門跡が守護権限を行使していた」説<ref>永島福太郎『奈良文化の伝流』(1944年、中央公論社)</ref>、「両門跡のどちらかが興福寺別当の時は別当が、それ以外の者が別当の時は別当と両門跡が共同で守護権限を行使していた」説<ref>田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4)</ref>がある。 但し、室町時代後期には[[宇智郡]]は[[河内畠山氏]]<ref>今谷明「室町時代の河内守護」(『大阪府の歴史』7号、1976年)</ref>が、[[宇陀郡]]は[[北畠氏]]<ref>今谷明「守護領国制下に於ける国郡支配について」(『千葉史学』創刊号、1982年)</ref>が、それぞれの[[分郡守護]]であったとする説がある。 また、[[天正]]3年([[1575年]])に織田家臣の[[塙直政]]が[[織田信長]]から大和守護に任じられ、直政が[[天王寺の戦い (1576年)|天王寺の戦い]]で戦死すると天正4年([[1576年]])に[[筒井順慶]]が織田信長から大和守護に任じられている。 {{see also|衆徒}} === 戦国大名 === *[[筒井氏]]([[筒井城]]) *[[松永久秀]]([[信貴山城]]) *織豊政権の大名 **[[塙直政]]([[多聞山城]]):山城南部・大和の2カ国守護(大和守護は1575年~1576年) **[[筒井順慶]]([[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]):1576年大和守護、大和国内18万石・与力含め44万石。1584年の順慶死後、養子の[[筒井定次]]は[[伊賀上野城]]へ転封 **[[豊臣秀長]]・[[豊臣秀保|秀保]](大和郡山城):大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余(1585年~1595年)。豊臣秀保の死により断絶 **[[増田長盛]](大和郡山城):大和国内22万3千石(1595年~1600年)。[[関ヶ原の戦い]]後改易 == 大和国の合戦 == *[[645年]]:[[乙巳の変]]、[[天智天皇|中大兄皇子]]・[[藤原鎌足|中臣鎌足]] x [[蘇我入鹿]]・[[蘇我蝦夷]] *[[672年]]:[[壬申の乱]]、[[天武天皇|大海人皇子]]軍 x [[弘文天皇|大友皇子]]軍 **[[672年]]:倭古京付近の戦い、[[大伴吹負]]・[[紀阿閉麻呂]]・[[多品治]]・[[三輪子首]]・[[置始菟]]等 x [[大野果安]]・[[壱伎韓国]]・[[犬養五十君]]等 *[[1181年]]:[[南都焼討]]、平家軍([[平重衡]]) x [[東大寺]]・[[興福寺]] *[[1455年]]:[[筒井城#第一次筒井城の戦い|第一次筒井城の戦い]]、[[畠山義就]]・越智連合軍 x [[筒井順永]] *[[1466年]]:[[筒井城#第二次筒井城の戦い|第二次筒井城の戦い]]、畠山義就 x 筒井順永 *[[1477年]]:[[筒井城#第三次筒井城の戦い|第三次筒井城の戦い]]、[[越智家栄]] x [[筒井順尊]] *[[1483年]]:[[筒井城#第四次筒井城の戦い|第四次筒井城の戦い]]、[[古市氏]]・箸尾氏軍 x 成身院順盛軍 *[[1516年]]:[[筒井城#第五次筒井城の戦い|第五次筒井城の戦い]]、[[越智家教]]・古市氏連合軍 x 成身院順盛軍 *[[1565年]]:[[筒井城の戦い#第六次筒井城の戦い|第六次筒井城の戦い]]、[[松永久秀]]軍 x [[筒井順慶]]軍 *1565年:[[筒井城の戦い#第七次筒井城の戦い|第七次筒井城の戦い]]、筒井順慶軍 x 松永久秀軍 *[[1567年]]:[[東大寺大仏殿の戦い]]、松永久秀・[[三好義継]]・[[三好三人衆]]軍 x 筒井順慶・[[池田勝正]]軍 *[[1568年]]:[[信貴山城#松永久秀の時代|信貴山城の戦い]]、筒井順慶・三好三人衆軍 x 松永久秀軍 *1568年:[[筒井城の戦い#第八次筒井城の戦い|第八次筒井城の戦い]]、松永久秀軍 x 筒井順慶軍 *[[1571年]]:[[辰市城#辰市城の合戦|辰市城の合戦]]、筒井順慶軍 x 松永久秀・三好義継軍 *[[1577年]]:[[信貴山城の戦い]]、織田軍([[織田信忠]]・筒井順慶・[[明智光秀]]・[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[佐久間信盛]]・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]) x 松永久秀軍 *[[1615年]]:[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]、江戸幕府軍([[徳川家康]]・[[徳川秀忠]]) x 豊臣軍([[豊臣秀頼]]) **1615年:[[郡山城 (大和国)#郡山城の戦い|郡山城の戦い]]、[[筒井定慶]]・[[筒井順斎]] x [[大野治房]]・[[箸尾高春]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 29 奈良県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Yamato Province}} * [[芳野監]] * [[令制国一覧]] * [[藩の一覧]] * [[倭国造]] * [[ヤマト王権]] * [[大和 (スループ)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[スループ]]。[[葛城型スループ]]の2番艦。艦名は大和国に因む。 * [[大和 (戦艦)]]‐旧日本海軍の[[戦艦]]。[[大和型戦艦]]の1番艦。 * [[大和路線]] * [[東大寺大仏殿の戦い]] {{令制国一覧}} {{畿内五国の郡}} {{デフォルトソート:やまとのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:畿内|国やまと]] [[Category:奈良県の歴史]] [[Category:大和国|*]]
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5,190
大和
大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。 ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。 元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。『記紀』や『国造本紀』には、神武天皇の時代に豊玉彦命の後裔である椎根津彦を初代として倭国造が設置されたと伝わる。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国を大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。 「やまと」の語源は諸説ある。 古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。 次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。 奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。 奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(8月18日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
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大和(やまと)は、日本の古称・雅称。倭・日本とも表記して「やまと」と訓ずることもある。大和・大倭・大日本(おおやまと)とも呼ばれる。 ヤマト王権が大和と呼ばれる地(現在の奈良県内)に在ったことに由来する。初めは「倭」と書いたが、元明天皇の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。
{{Otheruses|日本の古称・雅称}} '''大和'''(やまと)は、[[日本]]の古称・雅称。'''倭'''・'''日本'''とも表記して「[[やまと]]」と訓ずることもある。大和・'''大倭'''・'''大日本'''(おおやまと)とも呼ばれる。 [[ヤマト王権]]が大和と呼ばれる地(現在の[[奈良県]]内)<ref> {{Cite web|和書 |url = https://dictionary.goo.ne.jp/jn/222918/meaning/m0u/ |title = 大和/倭(やまと)の意味 - goo国語辞書 |publisher = goo国語辞書 |accessdate = 2019-11-15 }} </ref>に在ったことに由来する。初めは「[[倭]]」と書いたが、[[元明天皇]]の治世に[[国名]]は好字を二字で用いることが定められ<ref>新村出編 『広辞苑』1983年 岩波書店</ref>、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/222918/m0u/%E5%A4%A7%E5%92%8C/ 国語辞書-大辞泉「やまと【大和/倭】」]</ref><ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/29684/m0u/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%A8/ 国語辞書-大辞泉「おお‐やまと〔おほ‐〕【大倭/大日本】」]</ref>。 == 範囲の変遷 == 元々はヤマト王権の本拠地である[[奈良盆地]]の東南地域が、'''大和'''(やまと)と呼称されていた。『[[記紀]]』や『[[国造本紀]]』には、[[神武天皇]]の時代に[[豊玉彦命]]の後裔である[[椎根津彦]]を初代として'''[[倭国造]]'''が設置されたと伝わる。その後、ヤマト王権が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の[[近畿地方|近畿]]・[[畿内]])もまた'''大和'''と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする[[令制国]]を[[大和国]]とした。さらには、同王権の支配・制圧が[[日本列島]]の大半([[東北地方]]南部から[[九州]]南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して'''大和'''と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。 == 語源 == 「やまと」の[[語源]]は諸説ある。 * [[山]]のふもと。 * 山に囲まれた地域であるからという説。 * この地域を拠点とした[[ヤマト王権]]が元々「[[やまと]]」と言う地域に発祥したためとする説。 * 「[[やまと]]」は元は「[[山門]]」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説<ref>賀茂真淵、本居宣長等が主張</ref>。 * 「[[やまと]]」は元は「山跡」とする説<ref>『釈日本紀』、『神皇正統記』より</ref>。 * [[邪馬台国]]の「やまたい」が「[[やまと]]」に変化したとする説。 * 「[[やまと]]」は元は温和・平和な所を意味する「やはと」、「やわと」であり、「しきしま(磯城島)のやはと」から転訛して「やまと」となり、後に「しきしま」がやまとの枕詞となったとする説<ref>『日本国号論』(著:井乃香樹)より。古事記には神武天皇の東征を「言向(ことむ)け平和(やわ)して」と説明していることから。</ref>。 * [[アイヌ語]]で、“ヤ”は接頭語、“マト”は讃称で、高貴を意味する“ムチ”や祥瑞を意味する“ミツ”等と同根の語とする説。 == 用字の変遷 == [[古墳時代]]頃に[[漢字]]文化が流入すると、「やまと」の語に対して「'''[[倭]]'''」の字が当てられるようになった。[[中国]]では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが<ref>『後漢書』倭伝、『魏志』倭人伝</ref>、古墳時代に倭を「やまと」と称したこと{{疑問点|date=2014年2月}}は、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。 次いで、[[飛鳥時代]]になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。[[7世紀]]後半から[[701年]](大宝元年)までの期間に、国号が「[[日本]]」と定められたとされている<ref>それまでの国号は倭もしくは大倭であった。</ref>が、このときから、日本を「[[やまと]]」と訓じたとする見解がある<ref>『日本書紀』の神代巻第四段本文に「大日本」の語の訓読みは「日本、此を'''耶麻謄'''(やまと)と云ふ」とある。</ref>。 奈良盆地を指す[[令制国]]の名称が、三野が[[美濃国|美濃]]、尾治が[[尾張国|尾張]]、木が[[紀伊国|紀伊]]、上毛野が[[上野国|上野]]、珠流河が[[駿河国|駿河]]、遠淡海が[[遠江国|遠江]]、粟が[[阿波国|阿波]]などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、[[701年]]には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。 [[奈良時代]]中期の[[737年]](天平9年)、令制国の「やまと」は[[橘諸兄]]政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった[[747年]](天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして[[757年]](天平宝字元年(8月18日改元))、[[橘奈良麻呂の乱]]直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。 == 古墳 == *[[大和古墳群]]がある。 == その他 == * 「夜麻登(やまと)は国のまほろば~」とあるように、[[万葉仮名]]における当て字は'''夜麻登'''とも表記され、『[[古事記]]』における「[[ヤマトトトヒモモソヒメ]]」の漢字表記も、この夜麻登の方である(『紀』では倭の一字でヤマトと読ませている)。この他、『古事記』では、'''山跡'''とも表記される。『日本書紀』では、'''野麻登'''、'''椰麼等'''、'''夜麻苔'''などとも表記され、『万葉集』では、'''山常'''、'''也麻等'''、'''夜末等'''、'''夜万登'''、'''八間跡'''などなどの表記が見られる。 * 『[[日本書紀]]』の記述では、[[神武東征]]前に、この国々の中心となるだろうとして、「内つ国」と表記し、大和成立以前では「内つ国」と呼称されていた。 * 現代において、[[通話表#和文通話表|和文通話表]]で「[[や]]」を送る際に「'''大和のヤ'''」という。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|やまと|大和|倭}} {{Div col}} * [[大和国]] * [[倭国]] * [[奈良県]] * [[邪馬台国]] * [[ヤマト王権|大和朝廷]] * [[畿内]] * [[古墳時代]] * [[大和時代]] * [[飛鳥時代]] * [[白鳳時代]] * [[奈良時代]] * [[平城京]] * [[藤原京]] * [[飛鳥京]] * [[日本の首都]] * [[大和路]] * [[大和平野|大和平野 (奈良盆地)]] * [[大和神社]] * [[大和撫子]] * [[東大寺]]、[[興福寺]] * [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] * [[大和言葉]] * [[大和撫子]] * [[大和民族]] * [[大和 (戦艦)]] * [[ヤマトタケル]](日本武尊) * [[倭迹迹日百襲媛命|ヤマトトトヒモモソヒメ]](三輪山の大物主神の妻) * [[高天原]] {{div col end}} {{DEFAULTSORT:やまと}} [[Category:大和国]] [[Category:日本の別名]] [[Category:奈良県の歴史]] [[Category:日本の旧地域名]] [[category:熟字訓]]
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ナブー
ナブー
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ナブー ナブー (メソポタミア神話) (Nabu) - メソポタミア神話に登場する神。 ナブー (スター・ウォーズ) (Naboo) - 映画『スター・ウォーズ・シリーズ』に登場する架空の惑星。 漫画『喰霊』の登場人物。
'''ナブー''' * [[ナブー (メソポタミア神話)]] (Nabu) - [[メソポタミア]]神話に登場する[[神]]。 * [[ナブー (スター・ウォーズ)]] (Naboo) - 映画『[[スター・ウォーズ・シリーズ]]』に登場する架空の[[惑星]]。 * 漫画『[[喰霊]]』の登場人物。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:なふう}}
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ベクトル計算機
ベクトル計算機()は、計算機科学分野の並列計算に関する類型の一つであるベクトル演算(SIMDを参照)を実行可能なコンピュータのこと。 狭義ではベクトル演算のために最適化された設計として、高性能でパイプライン化された実行ユニットを持ち、その演算能力を可能な限り発揮できるように構成されたアーキテクチャを持つスーパーコンピュータを指す。 広義にはSIMDによるベクトルを対象とした並列演算を指す。以下、主に狭義の、すなわちパイプラインによるベクトル計算機について述べる。 ベクトル計算機のプロセッサを ベクトルプロセッサ (Vector Processor) または アレイプロセッサ (Array Processor) と呼ぶ。ベクトルプロセッサは数値演算を複数のデータに対してパイプラインにより次々と実行できる。ベクトルプロセッサは科学技術計算分野でよく使われ、特に1980年代から1990年代にかけてのスーパーコンピュータでは一般的であった。2020年現在、ベクトルプロセッサを名乗るプロセッサは少ないが(特にスーパコンピュータでは、パイプライン形のベクトルプロセッサはSXシリーズを残すのみである)、SIMDと呼ばれる並列ベクトル演算を行う機能を備えたマイクロプロセッサは多い。グラフィックスやマルチメディアのため、とメーカーはうたっており、実際そのように使われていることは多いが、研究発表などとしては科学技術計算への利用やコンパイラ最適化による利用なども見られる。200x年代後半頃から、GPUによる汎目的計算 (GPGPU) が行われるようになってきている。但し、一般的なCPUのSIMD機能やGPGPUは、可変長ベクトル命令をサポートしていなかったり、ランダムメモリアクセスに弱いなどの欠点があるため、完全なベクトルプロセッサではない。 ベクトルプロセッサに対し、いわゆる(レトロニムで)スカラプロセッサと呼ばれる、従来の、あるいは一般的なプロセッサの命令は、1個の命令(オペコード)に対する0個〜3個の引数(オペランド)として、1個かせいぜい2個のワードから成るスカラ値しか取り扱えない。例として「AとBを加算しCに代入せよ」といったようなプログラムを考えよう(A、B、Cはいずれもメモリにある変数とする)。だいたい、CISCであれば「Copy [A], R1」「Add [B], R1」「Copy R1, [C]」といった感じの機械語命令で、RISCであれば「Load [A], R1」「Load [B], R2」「Add R1, R2, R3」「Store R3, [C]」といった感じの機械語命令で、だいたいどちらも数個の命令により、数個の値(スカラ値)を操作している。 ここで、AやBやCというデータはメモリに保持されるものであり、メモリアドレスにより識別/特定される。アドレスをデコードし、メモリからデータを取り出すには一定の時間が必要となる。プロセッサの高速化に合わせてバスやメモリを高速化(正確には高スループットだけでなく低レイテンシであることも重要)することは不可能であったため(フォン・ノイマン・ボトルネック)、「周辺がプロセッサに追いつかない」ということが問題となる。 また、プロセッサにおける命令の処理は「命令パイプライン」で行われる。最初のサブユニットがアドレスを読み込み、デコード、次のユニットがアドレスからデータを取り出し、その次が演算を行う仕組みである。パイプラインの仕掛けは、まるで組立ラインのように一つ目の命令が終わる前に次の命令をデコードし始めることで、アドレス・デコーダは絶えず使用され続ける。 一方で科学技術計算において必要な大量の計算では、ベクトルの加算のことを考えてみればわかるように、配列のそれぞれのデータに対して、一斉に同じ演算をするようなものが多い。画像処理などはその最たる例であり、さらに行列の乗算などでは行列が大きくなると計算量は飛躍的に大きくなる。これを効率的に処理するには、命令を「アドレスAから始まる配列と、アドレスBから始まる配列の各要素を足し、アドレスCから始まる配列として戻せ」といったようなものにし、パイプラインにはそれぞれの配列のデータを次々と送り込むようにすれば、演算器が常に働き続けることになり、効率よく大量の計算を処理できる。 2組の、それぞれ10個ある数字を加算していく単純なタスクを例に取ると、普通のプログラミングではループ処理で、1組ずつ数字を取り出し、10回加算を繰り返すコードを書く。プロセッサから見ると、以下のような命令となる。 ベクトル計算機だと以下のように、かなり異なったものとなる。 この方法ならばアドレスの解読は2箇所だけで済む。ただし短縮できる時間はアーキテクチャによる。もう1つの利点は命令読み出しが10回から1回に減ることである。コード自体も短くなるので、よりメモリの効率化が図られる。プログラムをこのように変形することをベクトル化と言う。 クレイはさらに高度な命令セットとマイクロアーキテクチャを考案し、異なるタイプの演算処理を同時に行えるようにした。2個の数字を加算してさらに3個目の数字を掛ける処理を考えると、クレイでは一度にデータを取り出し、一度の処理で加算と乗算を済ませることが出来る。 クレイでは上記のようなコードで実行される。 ただし、ベクトル計算機の初期の発展における一応の完成形と考えられているCray-1では、以上のような命令を、直接メモリ-メモリで実行しているわけではない(Cray-1より古いマシンであるCDCのSTARではメモリ-メモリだった)。演算に使用するのはベクトルレジスタと呼ぶ専用のレジスタで、演算はレジスタ-レジスタで実行される。レジスタ-メモリ間のデータの移動は別の命令によることになるが、演算とは並列に実行できるため、Cray-1はその構成要素が全て同時に最高の性能を発揮し続けるようにプログラミングが可能である。 以上により、ベクトル計算機は大量のデータに同様の処理を繰り返すときに最良の働きをする。他にも大規模並列機には通信が大量に発生するといった理由などから向かない、といったものもあり、ベクトル計算機はスーパーコンピュータが利用される施設の中でも、数値予報や数値流体力学のような膨大な演算を行うサイトで採用されている。 より全体的な歴史はスーパーコンピュータ技術史を参照のこと。 パイプラインによる性能向上が試みられた最初の汎用コンピュータはIBMのストレッチことIBM 7030だとされている。IBM 7030は1960年前後に設計・建造された。商業的にはうまくいかなかったが、UNIVAC LARCに代わって世界で最も速いコンピュータとなることができ、パイプラインをはじめとする多くの技術を残した。 世界で初めて成功したスーパーコンピュータとされているのはCDC 6600(1964年から製造)である。シーモア・クレイが設計したCDC 6600は10個の入出力プロセッサと1個の演算処理に特化したCPUという構成をしていた。CPUは入出力プロセッサより10倍速く、うまくプログラミングすればこれらのプロセッサを休ませることなく働かせ続けることができた。続くCDC 7600(1969年リリース)ではパイプライン処理が取り入れられた。 初めて予定通りに実装されたベクトル計算機は CDC STAR-100(1974年リリース、クレイはかかわっていない)と テキサス・インスツルメンツ社の Advanced Scientific Computer(ASC、1970年前後)である。これらが最初期のベクトル計算機とされる。 ASC の演算装置はひとつのパイプラインを持ち、スカラー演算もベクトル演算も共通のパイプラインで処理した。そのピーク性能は 20MFLOPS であり、非常に長いベクトルを実行したときに達成できた。拡張構成ではパイプラインの本数を2倍、4倍にして、ピーク性能も2倍、4倍となった。メモリバンド幅は拡張モードをサポートするのに十分であった。 STAR は CDC 7600 と比較すると遅いと言わざるを得ないが、データ量が多いタスクを扱った場合の価格性能比は良かった。STAR はベクトル命令をデコードして処理の設定をするのに極めて時間がかかっており、性能を出すには特殊なデータの設定を必要とした。 CDC 6600・7600を設計したクレイは、CDC社内での次の自分のプロジェクトの位置付けに不満を持ち、クレイ・リサーチを設立した。離脱は友好的に行われ、CDCの役員であるウィリアム・ノリスが立ち上げ資金を投資している。 離脱したシーモア・クレイが設計した、クレイ・リサーチのスーパーコンピュータCray-1(1976年初号機納入)で、ベクトル計算機の技術は完成を見た。STARやASCでは、演算対象のデータを直接メモリから取ってきていたため、その遅さが性能を妨げていた。Cray-1は8本のベクトルレジスタを持ち、各レジスタは64×64ビットワードで構成されていた。ベクトル命令はそれらレジスタ間の演算を実行した。これはメモリからデータを取ってきながら計算するよりもずっと高速に動作した。また、この方式を取ることにより、ベクトル命令をパイプラインで実行することができた(この技術を vector chaining と呼ぶ)。Cray-1 は平均的に 80MFLOPS の性能だったが、ベクトル命令を3個チェインさせることで最高 240MFLOPS を記録した。ベクトルレジスタとメモリの間のやりとりは別に動作する命令で行う。 クレイが離脱した後のCDCは、w:CDC Cyber・ETAとスーパーコンピュータに挑戦を続けたが、1980年代末に撤退した。 日本のコンピュータメーカ(富士通、日立製作所、日本電気)もまた、ベクトル計算機に乗り出した。まず富士通が1977年にFACOM 230-75 APUという同社のメインフレームに付加するアレイプロセッシングユニットを完成させている。次いで日立も1978年にHITAC M-180IAPを完成させた。日本電気は1982年にACOS-1000 IAPを完成させた。 クレイ機に対抗する機種としては、1982年7月発表のFACOM VP-200、同8月のHITAC S-820、1983年発表の日本電気SX-2となる。これらは、各社がメインフレーマという特性を生かし、周辺プロセッサに既存メインフレームのモジュールを流用したことなどでバランスが良く、性能対価格比が高かった。これらの機種は、Cray-2の開発の遅れ(1985年)をつく形で市場に登場したが、このころは色々不可解な貿易障壁が設定されアメリカではほとんど商売ができなかった。(日米スパコン貿易摩擦も参照) 他にFloating Point Systems(FPS)はミニコンピュータ向けのアドオン・アレイプロセッサを開発した。後に FPS 自身も ミニスーパーコンピュータ を製造している。 クレイ社は、その後も性能のトップを走り続け、Cray-2(1985年)、Cray X-MP、Cray Y-MP とマシンをリリースしていった。 Cray-1で1クロック1演算が達成されたため、それ以上のベクトル計算機の性能向上は並列ベクトル化ということになった。さらに、スーパーコンピュータのトレンドがベクトルから超並列プロセッシングに焦点が移っていった。シーモア・クレイは超並列スカラ機に否定的で「私が生きている間に彼らが普遍的成功を収めるのは難しいと思う」と述べていたが、突然の自動車事故(1996年10月)によってそれが真実になってしまった。また日本で、FACOM 230-75 APUから関与し、NSシステム・地球シミュレータと、世界一のベクトル計算機の計画を牽引した三好甫が2001年に亡くなっている。 日本メーカでは、並列ベクトル機は日立がHITAC S-3800(1992年)を最後に、富士通がVPPシリーズのVPP5000(1999年)を最後に、それぞれSRシリーズ(SR2001 1994年〜、w:Hitachi SR2201 1996年、ただしSRシリーズはCP-PACSで開発された擬似ベクトル機能により、従来のベクトル機のプログラムを高速実行する機能を持っている)、APシリーズ(AP1000 1992年〜)およびPRIMEPOWER HPCシリーズ(PRIMEPOWER HPC2500 2002年〜、自動並列化コンパイラなど、VPP5000を代替する旗艦シリーズとしてのスカラ機はこのシリーズから)の超並列スカラ型に移行し、日本電気のSXシリーズのみが、スーパーコンピュータ市場に残るベクトル計算機となった(日本電気は80年代後半から90年代後半にかけて、Cenjuという並列計算機も作っているが、その後はベクトルに絞っている)。またCray社では、2003年のCray X1(en:Cray X1)ないしその更新であるCray X1E(2005年)が最後のベクトル機となった。 一方で、コモディティ化したパーソナルコンピュータにおいて、例えば動画データの再生を行う時など、1970年代のスーパーコンピュータよりも多量のデータが処理されている。SIMDによる並列演算(広義のベクトル処理の一種とされることがある)は、ほとんどのプロセッサのデザインに採り入れられており、それらの実装では、並列演算を行うプロセッサはメインのスカラー計算機の横で動作している。インテルのAVX、IBMとモトローラのAltiVec(およびVMX)、ARMのVFPなどのように、Vectorの名が付けられる例も増えてきている。GPUはもともとリアルタイム3次元コンピュータグラフィックスの生成に特化した並列計算機だったが、プログラマブルシェーダーの発展と統合型シェーダーアーキテクチャによる汎用計算能力を獲得して以降、科学技術目的の汎用計算などの高速化に使われることも増えている。 以上のように、狭義のベクトル計算機はSXシリーズを除いて終息しつつあったが、2010年代後半から、回帰の動きも見られる。富岳のA64FXのSIMD拡張であるSVEは、「Scalable Vector 拡張」という名前が示すようにベクトル長に依存しない命令セットであることを特徴にしていて、MMXのようなベクタ長が命令で固定されているSIMD命令セットとは異なっており、ベクトル計算機の命令セットの特徴を持っている。また、RISC-Vも、同様なベクトル命令セットを拡張として定義している。RISC-Vの設計者らは既存プロセッサのSIMD拡張の積み重ね、特にIntelのそれを優美でないとみている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ベクトル計算機()は、計算機科学分野の並列計算に関する類型の一つであるベクトル演算(SIMDを参照)を実行可能なコンピュータのこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "狭義ではベクトル演算のために最適化された設計として、高性能でパイプライン化された実行ユニットを持ち、その演算能力を可能な限り発揮できるように構成されたアーキテクチャを持つスーパーコンピュータを指す。 広義にはSIMDによるベクトルを対象とした並列演算を指す。以下、主に狭義の、すなわちパイプラインによるベクトル計算機について述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ベクトル計算機のプロセッサを ベクトルプロセッサ (Vector Processor) または アレイプロセッサ (Array Processor) と呼ぶ。ベクトルプロセッサは数値演算を複数のデータに対してパイプラインにより次々と実行できる。ベクトルプロセッサは科学技術計算分野でよく使われ、特に1980年代から1990年代にかけてのスーパーコンピュータでは一般的であった。2020年現在、ベクトルプロセッサを名乗るプロセッサは少ないが(特にスーパコンピュータでは、パイプライン形のベクトルプロセッサはSXシリーズを残すのみである)、SIMDと呼ばれる並列ベクトル演算を行う機能を備えたマイクロプロセッサは多い。グラフィックスやマルチメディアのため、とメーカーはうたっており、実際そのように使われていることは多いが、研究発表などとしては科学技術計算への利用やコンパイラ最適化による利用なども見られる。200x年代後半頃から、GPUによる汎目的計算 (GPGPU) が行われるようになってきている。但し、一般的なCPUのSIMD機能やGPGPUは、可変長ベクトル命令をサポートしていなかったり、ランダムメモリアクセスに弱いなどの欠点があるため、完全なベクトルプロセッサではない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ベクトルプロセッサに対し、いわゆる(レトロニムで)スカラプロセッサと呼ばれる、従来の、あるいは一般的なプロセッサの命令は、1個の命令(オペコード)に対する0個〜3個の引数(オペランド)として、1個かせいぜい2個のワードから成るスカラ値しか取り扱えない。例として「AとBを加算しCに代入せよ」といったようなプログラムを考えよう(A、B、Cはいずれもメモリにある変数とする)。だいたい、CISCであれば「Copy [A], R1」「Add [B], R1」「Copy R1, [C]」といった感じの機械語命令で、RISCであれば「Load [A], R1」「Load [B], R2」「Add R1, R2, R3」「Store R3, [C]」といった感じの機械語命令で、だいたいどちらも数個の命令により、数個の値(スカラ値)を操作している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ここで、AやBやCというデータはメモリに保持されるものであり、メモリアドレスにより識別/特定される。アドレスをデコードし、メモリからデータを取り出すには一定の時間が必要となる。プロセッサの高速化に合わせてバスやメモリを高速化(正確には高スループットだけでなく低レイテンシであることも重要)することは不可能であったため(フォン・ノイマン・ボトルネック)、「周辺がプロセッサに追いつかない」ということが問題となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、プロセッサにおける命令の処理は「命令パイプライン」で行われる。最初のサブユニットがアドレスを読み込み、デコード、次のユニットがアドレスからデータを取り出し、その次が演算を行う仕組みである。パイプラインの仕掛けは、まるで組立ラインのように一つ目の命令が終わる前に次の命令をデコードし始めることで、アドレス・デコーダは絶えず使用され続ける。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一方で科学技術計算において必要な大量の計算では、ベクトルの加算のことを考えてみればわかるように、配列のそれぞれのデータに対して、一斉に同じ演算をするようなものが多い。画像処理などはその最たる例であり、さらに行列の乗算などでは行列が大きくなると計算量は飛躍的に大きくなる。これを効率的に処理するには、命令を「アドレスAから始まる配列と、アドレスBから始まる配列の各要素を足し、アドレスCから始まる配列として戻せ」といったようなものにし、パイプラインにはそれぞれの配列のデータを次々と送り込むようにすれば、演算器が常に働き続けることになり、効率よく大量の計算を処理できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2組の、それぞれ10個ある数字を加算していく単純なタスクを例に取ると、普通のプログラミングではループ処理で、1組ずつ数字を取り出し、10回加算を繰り返すコードを書く。プロセッサから見ると、以下のような命令となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ベクトル計算機だと以下のように、かなり異なったものとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この方法ならばアドレスの解読は2箇所だけで済む。ただし短縮できる時間はアーキテクチャによる。もう1つの利点は命令読み出しが10回から1回に減ることである。コード自体も短くなるので、よりメモリの効率化が図られる。プログラムをこのように変形することをベクトル化と言う。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "クレイはさらに高度な命令セットとマイクロアーキテクチャを考案し、異なるタイプの演算処理を同時に行えるようにした。2個の数字を加算してさらに3個目の数字を掛ける処理を考えると、クレイでは一度にデータを取り出し、一度の処理で加算と乗算を済ませることが出来る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "クレイでは上記のようなコードで実行される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ただし、ベクトル計算機の初期の発展における一応の完成形と考えられているCray-1では、以上のような命令を、直接メモリ-メモリで実行しているわけではない(Cray-1より古いマシンであるCDCのSTARではメモリ-メモリだった)。演算に使用するのはベクトルレジスタと呼ぶ専用のレジスタで、演算はレジスタ-レジスタで実行される。レジスタ-メモリ間のデータの移動は別の命令によることになるが、演算とは並列に実行できるため、Cray-1はその構成要素が全て同時に最高の性能を発揮し続けるようにプログラミングが可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "以上により、ベクトル計算機は大量のデータに同様の処理を繰り返すときに最良の働きをする。他にも大規模並列機には通信が大量に発生するといった理由などから向かない、といったものもあり、ベクトル計算機はスーパーコンピュータが利用される施設の中でも、数値予報や数値流体力学のような膨大な演算を行うサイトで採用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "より全体的な歴史はスーパーコンピュータ技術史を参照のこと。 パイプラインによる性能向上が試みられた最初の汎用コンピュータはIBMのストレッチことIBM 7030だとされている。IBM 7030は1960年前後に設計・建造された。商業的にはうまくいかなかったが、UNIVAC LARCに代わって世界で最も速いコンピュータとなることができ、パイプラインをはじめとする多くの技術を残した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "世界で初めて成功したスーパーコンピュータとされているのはCDC 6600(1964年から製造)である。シーモア・クレイが設計したCDC 6600は10個の入出力プロセッサと1個の演算処理に特化したCPUという構成をしていた。CPUは入出力プロセッサより10倍速く、うまくプログラミングすればこれらのプロセッサを休ませることなく働かせ続けることができた。続くCDC 7600(1969年リリース)ではパイプライン処理が取り入れられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "初めて予定通りに実装されたベクトル計算機は CDC STAR-100(1974年リリース、クレイはかかわっていない)と テキサス・インスツルメンツ社の Advanced Scientific Computer(ASC、1970年前後)である。これらが最初期のベクトル計算機とされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ASC の演算装置はひとつのパイプラインを持ち、スカラー演算もベクトル演算も共通のパイプラインで処理した。そのピーク性能は 20MFLOPS であり、非常に長いベクトルを実行したときに達成できた。拡張構成ではパイプラインの本数を2倍、4倍にして、ピーク性能も2倍、4倍となった。メモリバンド幅は拡張モードをサポートするのに十分であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "STAR は CDC 7600 と比較すると遅いと言わざるを得ないが、データ量が多いタスクを扱った場合の価格性能比は良かった。STAR はベクトル命令をデコードして処理の設定をするのに極めて時間がかかっており、性能を出すには特殊なデータの設定を必要とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "CDC 6600・7600を設計したクレイは、CDC社内での次の自分のプロジェクトの位置付けに不満を持ち、クレイ・リサーチを設立した。離脱は友好的に行われ、CDCの役員であるウィリアム・ノリスが立ち上げ資金を投資している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "離脱したシーモア・クレイが設計した、クレイ・リサーチのスーパーコンピュータCray-1(1976年初号機納入)で、ベクトル計算機の技術は完成を見た。STARやASCでは、演算対象のデータを直接メモリから取ってきていたため、その遅さが性能を妨げていた。Cray-1は8本のベクトルレジスタを持ち、各レジスタは64×64ビットワードで構成されていた。ベクトル命令はそれらレジスタ間の演算を実行した。これはメモリからデータを取ってきながら計算するよりもずっと高速に動作した。また、この方式を取ることにより、ベクトル命令をパイプラインで実行することができた(この技術を vector chaining と呼ぶ)。Cray-1 は平均的に 80MFLOPS の性能だったが、ベクトル命令を3個チェインさせることで最高 240MFLOPS を記録した。ベクトルレジスタとメモリの間のやりとりは別に動作する命令で行う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "クレイが離脱した後のCDCは、w:CDC Cyber・ETAとスーパーコンピュータに挑戦を続けたが、1980年代末に撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本のコンピュータメーカ(富士通、日立製作所、日本電気)もまた、ベクトル計算機に乗り出した。まず富士通が1977年にFACOM 230-75 APUという同社のメインフレームに付加するアレイプロセッシングユニットを完成させている。次いで日立も1978年にHITAC M-180IAPを完成させた。日本電気は1982年にACOS-1000 IAPを完成させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "クレイ機に対抗する機種としては、1982年7月発表のFACOM VP-200、同8月のHITAC S-820、1983年発表の日本電気SX-2となる。これらは、各社がメインフレーマという特性を生かし、周辺プロセッサに既存メインフレームのモジュールを流用したことなどでバランスが良く、性能対価格比が高かった。これらの機種は、Cray-2の開発の遅れ(1985年)をつく形で市場に登場したが、このころは色々不可解な貿易障壁が設定されアメリカではほとんど商売ができなかった。(日米スパコン貿易摩擦も参照)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "他にFloating Point Systems(FPS)はミニコンピュータ向けのアドオン・アレイプロセッサを開発した。後に FPS 自身も ミニスーパーコンピュータ を製造している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "クレイ社は、その後も性能のトップを走り続け、Cray-2(1985年)、Cray X-MP、Cray Y-MP とマシンをリリースしていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Cray-1で1クロック1演算が達成されたため、それ以上のベクトル計算機の性能向上は並列ベクトル化ということになった。さらに、スーパーコンピュータのトレンドがベクトルから超並列プロセッシングに焦点が移っていった。シーモア・クレイは超並列スカラ機に否定的で「私が生きている間に彼らが普遍的成功を収めるのは難しいと思う」と述べていたが、突然の自動車事故(1996年10月)によってそれが真実になってしまった。また日本で、FACOM 230-75 APUから関与し、NSシステム・地球シミュレータと、世界一のベクトル計算機の計画を牽引した三好甫が2001年に亡くなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本メーカでは、並列ベクトル機は日立がHITAC S-3800(1992年)を最後に、富士通がVPPシリーズのVPP5000(1999年)を最後に、それぞれSRシリーズ(SR2001 1994年〜、w:Hitachi SR2201 1996年、ただしSRシリーズはCP-PACSで開発された擬似ベクトル機能により、従来のベクトル機のプログラムを高速実行する機能を持っている)、APシリーズ(AP1000 1992年〜)およびPRIMEPOWER HPCシリーズ(PRIMEPOWER HPC2500 2002年〜、自動並列化コンパイラなど、VPP5000を代替する旗艦シリーズとしてのスカラ機はこのシリーズから)の超並列スカラ型に移行し、日本電気のSXシリーズのみが、スーパーコンピュータ市場に残るベクトル計算機となった(日本電気は80年代後半から90年代後半にかけて、Cenjuという並列計算機も作っているが、その後はベクトルに絞っている)。またCray社では、2003年のCray X1(en:Cray X1)ないしその更新であるCray X1E(2005年)が最後のベクトル機となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方で、コモディティ化したパーソナルコンピュータにおいて、例えば動画データの再生を行う時など、1970年代のスーパーコンピュータよりも多量のデータが処理されている。SIMDによる並列演算(広義のベクトル処理の一種とされることがある)は、ほとんどのプロセッサのデザインに採り入れられており、それらの実装では、並列演算を行うプロセッサはメインのスカラー計算機の横で動作している。インテルのAVX、IBMとモトローラのAltiVec(およびVMX)、ARMのVFPなどのように、Vectorの名が付けられる例も増えてきている。GPUはもともとリアルタイム3次元コンピュータグラフィックスの生成に特化した並列計算機だったが、プログラマブルシェーダーの発展と統合型シェーダーアーキテクチャによる汎用計算能力を獲得して以降、科学技術目的の汎用計算などの高速化に使われることも増えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "以上のように、狭義のベクトル計算機はSXシリーズを除いて終息しつつあったが、2010年代後半から、回帰の動きも見られる。富岳のA64FXのSIMD拡張であるSVEは、「Scalable Vector 拡張」という名前が示すようにベクトル長に依存しない命令セットであることを特徴にしていて、MMXのようなベクタ長が命令で固定されているSIMD命令セットとは異なっており、ベクトル計算機の命令セットの特徴を持っている。また、RISC-Vも、同様なベクトル命令セットを拡張として定義している。RISC-Vの設計者らは既存プロセッサのSIMD拡張の積み重ね、特にIntelのそれを優美でないとみている。", "title": "歴史" } ]
ベクトル計算機は、計算機科学分野の並列計算に関する類型の一つであるベクトル演算(SIMDを参照)を実行可能なコンピュータのこと。 狭義ではベクトル演算のために最適化された設計として、高性能でパイプライン化された実行ユニットを持ち、その演算能力を可能な限り発揮できるように構成されたアーキテクチャを持つスーパーコンピュータを指す。 広義にはSIMDによるベクトルを対象とした並列演算を指す。以下、主に狭義の、すなわちパイプラインによるベクトル計算機について述べる。 ベクトル計算機のプロセッサを ベクトルプロセッサ または アレイプロセッサ と呼ぶ。ベクトルプロセッサは数値演算を複数のデータに対してパイプラインにより次々と実行できる。ベクトルプロセッサは科学技術計算分野でよく使われ、特に1980年代から1990年代にかけてのスーパーコンピュータでは一般的であった。2020年現在、ベクトルプロセッサを名乗るプロセッサは少ないが(特にスーパコンピュータでは、パイプライン形のベクトルプロセッサはSXシリーズを残すのみである)、SIMDと呼ばれる並列ベクトル演算を行う機能を備えたマイクロプロセッサは多い。グラフィックスやマルチメディアのため、とメーカーはうたっており、実際そのように使われていることは多いが、研究発表などとしては科学技術計算への利用やコンパイラ最適化による利用なども見られる。200x年代後半頃から、GPUによる汎目的計算 (GPGPU) が行われるようになってきている。但し、一般的なCPUのSIMD機能やGPGPUは、可変長ベクトル命令をサポートしていなかったり、ランダムメモリアクセスに弱いなどの欠点があるため、完全なベクトルプロセッサではない。
{{出典の明記|date=2015年9月}} {{読み仮名|'''ベクトル計算機'''|ベクトルけいさんき}}は、[[計算機科学]]分野の[[並列計算]]に関する類型の一つである[[ベクトル化|ベクトル演算]]([[SIMD]]を参照)を実行可能な[[コンピュータ]]のこと。 狭義ではベクトル演算のために最適化された設計として、高性能で[[パイプライン処理|パイプライン化]]された[[実行ユニット]]を持ち、その演算能力を可能な限り発揮できるように構成された[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]を持つ[[スーパーコンピュータ]]を指す。 広義には[[SIMD]]によるベクトルを対象とした並列演算を指す。以下、主に狭義の、すなわちパイプラインによるベクトル計算機について述べる。 ベクトル計算機の[[プロセッサ]]を '''ベクトルプロセッサ''' (''Vector Processor'') または '''アレイプロセッサ''' (''Array Processor'') と呼ぶ。ベクトルプロセッサは数値演算を複数のデータに対してパイプラインにより次々と実行できる。ベクトルプロセッサは科学技術計算分野でよく使われ、特に1980年代から1990年代にかけての[[スーパーコンピュータ]]では一般的であった。2020年現在、ベクトルプロセッサを名乗るプロセッサは少ないが(特にスーパコンピュータでは、パイプライン形のベクトルプロセッサは[[NEC SX|SXシリーズ]]を残すのみである)、[[SIMD]]と呼ばれる並列ベクトル演算を行う機能を備えた[[マイクロプロセッサ]]は多い。グラフィックスやマルチメディアのため、とメーカーはうたっており、実際そのように使われていることは多いが、研究発表などとしては科学技術計算への利用や[[コンパイラ最適化]]による利用なども見られる。200x年代後半頃から、[[Graphics Processing Unit|GPU]]による汎目的計算 ([[GPGPU]]) が行われるようになってきている。但し、一般的な[[CPU]]の[[SIMD]]機能や[[GPGPU]]は、可変長ベクトル命令をサポートしていなかったり、[[ランダムアクセス|ランダムメモリアクセス]]に弱いなどの欠点があるため、完全なベクトルプロセッサではない<ref>{{Cite web|和書|title=プロセッサ開発のセンス ~第4回 ベクトル・プロセッサ~ {{!}} 株式会社エヌエスアイテクス (NSITEXE,Inc.) |url=https://www.nsitexe.com/blog/sense_of_processor_development_004/ |date=2023-02-22 |access-date=2023-06-18 |language=ja}}</ref>。 == 概要 == ベクトル[[プロセッサ]]に対し、いわゆる(レトロニムで)スカラプロセッサと呼ばれる、従来の、あるいは一般的なプロセッサの命令は、1個の命令(オペコード)に対する0個〜3個の<ref>いわゆる、「0オペランド」(スタックマシン等)・「1オペランド」(初期のコンピュータ。アキュームレータマシン)・「2オペランド」(CISCに多い)・「3オペランド」(RISCに多い)のこと。</ref>引数(オペランド)として、1個かせいぜい2個<ref>複素数のハードウェアサポートは、ポピュラーではないが特に珍しいものでもない。</ref>のワードから成るスカラ値しか取り扱えない。例として「AとBを加算しCに代入せよ」といったようなプログラムを考えよう(A、B、Cはいずれもメモリにある変数とする)。だいたい、CISCであれば「Copy [A], R1」「Add [B], R1」「Copy R1, [C]」といった感じの[[機械語]]命令で、RISCであれば「Load [A], R1」「Load [B], R2」「Add R1, R2, R3」「Store R3, [C]」といった感じの機械語命令で、だいたいどちらも数個の命令により、数個の値(スカラ値)を操作している。 ここで、AやBやCというデータはメモリに保持されるものであり、[[メモリアドレス]]により識別/特定される。アドレスをデコードし、メモリからデータを取り出すには一定の時間が必要となる。プロセッサの高速化に合わせてバスやメモリを高速化(正確には高[[スループット]]だけでなく低[[レイテンシ]]であることも重要)することは不可能であったため([[フォン・ノイマン・ボトルネック]])、「周辺がプロセッサに追いつかない」ということが問題となる。 また、プロセッサにおける命令の処理は「[[命令パイプライン]]」で行われる。最初のサブユニットがアドレスを読み込み、デコード、次のユニットがアドレスからデータを取り出し、その次が演算を行う仕組みである。パイプラインの仕掛けは、まるで組立ラインのように一つ目の命令が終わる前に次の命令をデコードし始めることで、アドレス・デコーダは絶えず使用され続ける。 一方で科学技術計算において必要な大量の計算では、ベクトルの加算のことを考えてみればわかるように、配列のそれぞれのデータに対して、一斉に同じ演算をするようなものが多い。[[画像処理]]などはその最たる例であり、さらに行列の乗算などでは行列が大きくなると計算量は飛躍的に大きくなる。これを効率的に処理するには、命令を「アドレスAから始まる配列と、アドレスBから始まる配列の各要素を足し、アドレスCから始まる配列として戻せ」といったようなものにし、パイプラインにはそれぞれの配列のデータを次々と送り込むようにすれば、演算器が常に働き続けることになり、効率よく大量の計算を処理できる。 2組の、それぞれ10個ある数字を加算していく単純なタスクを例に取ると、普通の[[プログラミング]]ではループ処理で、1組ずつ数字を取り出し、10回加算を繰り返すコードを書く。プロセッサから見ると、以下のような命令となる。 execute this loop 10 times(ここから10回ループ) read the next instruction and decode it(次の命令を読み出し、解読) fetch this number(こちらの数字を取り出す) fetch that number(あちらの数字を取り出す) add them(加算) put the result here(ここに結果を) end loop(ループ終わり) ベクトル計算機だと以下のように、かなり異なったものとなる。 read instruction and decode it(命令を読み出し、解読) fetch these 10 numbers(こちらの数字を10個丸ごと取り出す) fetch those 10 numbers(あちらの数字を10個丸ごと取り出す) add them(一気に加算) put the results here(まとめて結果を保存) この方法ならばアドレスの解読は2箇所だけで済む。ただし短縮できる時間はアーキテクチャによる。もう1つの利点は命令読み出しが10回から1回に減ることである。コード自体も短くなるので、よりメモリの効率化が図られる。プログラムをこのように変形することを[[ベクトル化]]と言う。 <!--最も重要なのはベクトル計算機が典型的な[[スーパースカラー]]を実装しており、10個の数字を加算するのに1つの[[演算器]]ではなく、2個あるいは4個と言った演算器で並列に行えることである。ベクトル命令の出力は他の入力には依存しないので、例えば演算器が2個だった場合は、それぞれ5つの数字を加算処理し、半分の時間で処理を終えることが出来る。--><!-- ↑スカラ機とベクトル機を混同しかねない説明ですので削ります --> クレイはさらに高度な命令セットとマイクロアーキテクチャを考案し、異なるタイプの演算処理を同時に行えるようにした。2個の数字を加算してさらに3個目の数字を掛ける処理を考えると、クレイでは一度にデータを取り出し、一度の処理で加算と乗算を済ませることが出来る。 read instruction and decode it(命令を読み出し、解読) fetch these 10 numbers(こちらの数字を10個丸ごと取り出す) fetch those 10 numbers(あちらの数字を10個丸ごと取り出す) fetch another 10 numbers(そちらの数字を10個丸ごと取り出す) add and multiply them(一度に加算と乗算) put the results here(まとめて結果を保存) クレイでは上記のようなコードで実行される。 ただし、ベクトル計算機の初期の発展における一応の完成形と考えられている[[Cray-1]]では、以上のような命令を、直接メモリ-メモリで実行しているわけではない(Cray-1より古いマシンであるCDCのSTARではメモリ-メモリだった)。演算に使用するのはベクトルレジスタと呼ぶ専用のレジスタで、演算はレジスタ-レジスタで実行される。レジスタ-メモリ間のデータの移動は別の命令によることになるが、演算とは並列に実行できるため、Cray-1はその構成要素が全て同時に最高の性能を発揮し続けるようにプログラミングが可能である。 以上により、ベクトル計算機は大量のデータに同様の処理を繰り返すときに最良の働きをする。他にも大規模並列機には通信が大量に発生するといった理由などから向かない、といったものもあり、ベクトル計算機はスーパーコンピュータが利用される施設の中でも、[[数値予報]]や[[数値流体力学]]のような膨大な演算を行うサイトで採用されている。 == 歴史 == より全体的な歴史は[[スーパーコンピュータ技術史]]を参照のこと。 <!-- ↓以下の記述は並列計算の歴史であって、パイプラインによるベクトル演算についての歴史ではない。 --><!-- 歴史上最初の実動したベクトル計算機は、1960年代の[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]社が行った'''Solomon'''プロジェクトである。Solomonの目標は数値演算の性能を劇的に向上させることであり、そのために多数の単純な数値演算用[[演算装置]]をひとつの[[制御装置]]に接続した。クロックサイクル毎に制御装置はひとつの命令を全演算装置に送り込むが、それぞれに演算対象として異なるデータを渡した。これにより Solomon のマシンではひとつの[[アルゴリズム]]を配列の形式で用意された多くのデータ群に適用することができた。1962年、ウェスティングハウス社はプロジェクトを中止したが、その成果は[[イリノイ大学]]での[[ILLIAC IV]]へとつながっていく。ILLIAC IV の設計は 1G[[FLOPS]]マシンと呼ばれ、256個のprocessing element(PE、演算装置)を装備するはずだったが、1972年に完成したときには 64個しかPEが装備されておらず、性能も 150MFLOPS しか出なかった。とは言うものの、基本コンセプトは有効であることを示し、特に多量のデータを扱う[[計算流体力学]]などのアプリケーションを実行した場合、(予定通りに実装できなかった)ILLIAC は世界最高速であった。 --> [[パイプライン処理|パイプライン]]による性能向上が試みられた最初の汎用コンピュータはIBMのストレッチこと[[IBM 7030]]だとされている。IBM 7030は1960年前後に設計・建造された。商業的にはうまくいかなかったが、UNIVAC [[LARC]]に代わって世界で最も速いコンピュータとなることができ、パイプラインをはじめとする多くの技術を残した。 世界で初めて成功した[[スーパーコンピュータ]]とされているのは[[CDC 6600]](1964年から製造)である。[[シーモア・クレイ]]が設計したCDC 6600は<!--、「barrel and slot」と呼ぶ構造をしていた。barrelとは-->10個の入出力プロセッサ<!--で、slotとは-->と1個の演算処理に特化した[[CPU]]という構成をしていた。<!-- ← 注意: 6600のbarrel and slotは周辺プロセッサとCPUという構造のことではなく、周辺プロセッサ自体の構造を指す。6600の周辺プロセッサは、状態を持つ資源のみが10台ぶんあり、状態を持たない資源は1台ぶんの装置を10台ぶん使いまわすという設計だった。-->CPUは入出力プロセッサより10倍速く、うまくプログラミングすればこれらのプロセッサを休ませることなく働かせ続けることができた。続く[[CDC 7600]](1969年リリース)ではパイプライン処理が取り入れられた。 初めて予定通りに実装されたベクトル計算機は [[CDC STAR-100]](1974年リリース、クレイはかかわっていない)と [[テキサス・インスツルメンツ]]社の Advanced Scientific Computer(ASC、1970年前後)である。これらが最初期のベクトル計算機とされる。 ASC の演算装置はひとつの[[命令パイプライン|パイプライン]]を持ち、スカラー演算もベクトル演算も共通のパイプラインで処理した。そのピーク性能は 20MFLOPS であり、非常に長いベクトルを実行したときに達成できた。拡張構成ではパイプラインの本数を2倍、4倍にして、ピーク性能も2倍、4倍となった。メモリバンド幅は拡張モードをサポートするのに十分であった。 STAR は CDC 7600 と比較すると遅いと言わざるを得ないが、データ量が多いタスクを扱った場合の価格性能比は良かった。STAR はベクトル命令をデコードして処理の設定をするのに極めて時間がかかっており、性能を出すには特殊なデータの設定を必要とした。 CDC 6600・7600を設計したクレイは、CDC社内での次の自分のプロジェクトの位置付けに不満を持ち、[[クレイ・リサーチ]]を設立した。離脱は友好的に行われ、CDCの役員である[[ウィリアム・ノリス]]が立ち上げ資金を投資している。 離脱したシーモア・クレイが設計した、クレイ・リサーチのスーパーコンピュータ[[Cray-1]](1976年初号機納入)で、ベクトル計算機の技術は完成を見た。STARやASCでは、演算対象のデータを直接メモリから取ってきていたため、その遅さが性能を妨げていた。Cray-1は8本の'''ベクトル[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]'''を持ち、各レジスタは64×64ビットワードで構成されていた。ベクトル命令はそれらレジスタ間の演算を実行した。これはメモリからデータを取ってきながら計算するよりもずっと高速に動作した。また、この方式を取ることにより、ベクトル命令をパイプラインで実行することができた(この技術を ''vector chaining'' と呼ぶ)。Cray-1 は平均的に 80MFLOPS の性能だったが、ベクトル命令を3個チェインさせることで最高 240MFLOPS を記録した。ベクトルレジスタとメモリの間のやりとりは別に動作する命令で行う。 クレイが離脱した後のCDCは、[[w:CDC Cyber]]・[[ETAシステムズ|ETA]]とスーパーコンピュータに挑戦を続けたが、1980年代末に撤退した。 日本のコンピュータメーカ([[富士通]]、[[日立製作所]]、[[日本電気]])もまた、ベクトル計算機に乗り出した。まず富士通が1977年に[[FACOM]] 230-75 APUという同社のメインフレームに付加するアレイプロセッシングユニットを完成させている。次いで日立も1978年に[[HITAC]] M-180IAPを完成させた。日本電気は1982年に[[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]]-1000 IAPを完成させた。 クレイ機に対抗する機種としては、1982年7月発表のFACOM VP-200、同8月のHITAC S-820、1983年発表の日本電気[[NEC SX|SX-2]]となる。これらは、各社がメインフレーマという特性を生かし、周辺プロセッサに既存[[メインフレーム]]のモジュールを流用したことなどでバランスが良く、性能対価格比が高かった。これらの機種は、[[Cray-2]]の開発の遅れ(1985年)をつく形で市場に登場したが、このころは色々不可解な貿易障壁が設定されアメリカではほとんど商売ができなかった<ref>[http://jun-makino.sakura.ne.jp/articles/future_sc/note026.html#rdocsect29 牧野淳一郎『スーパーコンピューティングの将来』25.4. 日本の時代 1990年代前半まで]{{Accessdate|2023-09-09}}</ref>。([[日米スパコン貿易摩擦]]も参照) 他にFloating Point Systems(FPS)は[[ミニコンピュータ]]向けのアドオン・アレイプロセッサを開発した。後に FPS 自身も [[ミニスーパーコンピュータ]] を製造している。 クレイ社は、その後も性能のトップを走り続け、[[Cray-2]](1985年)、[[Cray X-MP]]、[[Cray Y-MP]] とマシンをリリースしていった。 Cray-1で1クロック1演算が達成されたため、それ以上のベクトル計算機の性能向上は並列ベクトル化ということになった。さらに、スーパーコンピュータのトレンドがベクトルから[[超並列]]プロセッシングに焦点が移っていった。[[シーモア・クレイ]]は超並列スカラ機に否定的で「私が生きている間に彼らが普遍的成功を収めるのは難しいと思う」と述べていたが、突然の自動車事故(1996年10月)によってそれが真実になってしまった。また日本で、FACOM 230-75 APUから関与し、[[NSシステム]]・[[地球シミュレータ]]と、世界一のベクトル計算機の計画を牽引した[[三好甫]]が2001年に亡くなっている。 日本メーカでは、並列ベクトル機は日立が[[HITAC]] S-3800(1992年)を最後に、富士通が[[VPP]]シリーズのVPP5000(1999年)を最後に、それぞれSRシリーズ(SR2001 1994年〜、[[w:Hitachi SR2201]] 1996年、ただしSRシリーズは[[PACS (並列計算機)|CP-PACS]]で開発された擬似ベクトル機能により、従来のベクトル機のプログラムを高速実行する機能を持っている)、APシリーズ(AP1000 1992年〜)およびPRIMEPOWER HPCシリーズ(PRIMEPOWER HPC2500 2002年〜、自動並列化コンパイラなど、VPP5000を代替する旗艦シリーズとしてのスカラ機はこのシリーズから)の超並列スカラ型に移行し、日本電気の[[NEC SX|SX]]シリーズのみが、スーパーコンピュータ市場に残るベクトル計算機となった(日本電気は80年代後半から90年代後半にかけて、Cenjuという並列計算機も作っているが、その後はベクトルに絞っている)。またCray社では、2003年のCray X1([[:en:Cray X1]])ないしその更新であるCray X1E(2005年)が最後のベクトル機となった<ref>[http://ascii.jp/elem/000/001/055/1055814/index-3.html ASCII.jp:スーパーコンピューターの系譜 最後のベクトルマシンとなったCray X1]{{Accessdate|2023-09-09}}</ref>。 一方で、コモディティ化したパーソナルコンピュータにおいて、例えば動画データの再生を行う時など、1970年代のスーパーコンピュータよりも多量のデータが処理されている。[[SIMD]]による並列演算(広義のベクトル処理の一種とされることがある)は、ほとんどのプロセッサのデザインに採り入れられており、それらの実装では、並列演算を行うプロセッサはメインの[[スカラー計算機]]の横で動作している。インテルの[[ストリーミングSIMD拡張命令#Intel AVX|AVX]]、IBMとモトローラの[[AltiVec]](およびVMX)、ARMの[[ARMアーキテクチャ#VFP|VFP]]などのように、Vectorの名が付けられる例も増えてきている。GPUはもともとリアルタイム[[3次元コンピュータグラフィックス]]の生成に特化した並列計算機だったが、[[プログラマブルシェーダー]]の発展と統合型シェーダー[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]による汎用計算能力を獲得して以降、科学技術目的の汎用計算などの高速化に使われることも増えている。 以上のように、狭義のベクトル計算機はSXシリーズを除いて終息しつつあったが、2010年代後半から、回帰の動きも見られる。[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]の[[富士通 A64FX|A64FX]]のSIMD拡張である[[AArch64#Scalable Vector Extension(SVE)|SVE]]は、「Scalable Vector 拡張」という名前が示すようにベクトル長に依存しない命令セットであることを特徴にしていて<ref>[https://qiita.com/aKatsuhiroMihara/items/f4799ae4e6f12743b88e Arm SVE命令セットって美味しいの? - Qiita]{{Accessdate|2023-09-09}}</ref>、[[MMX]]のようなベクタ長が命令で固定されているSIMD命令セットとは異なっており、ベクトル計算機の命令セットの特徴を持っている<ref>https://www.fujitsu.com/jp/about/businesspolicy/tech/fugaku/pickup/interview01/#anc-08 に「ベクトルプロセッサとスカラープロセッサ両方の性質を兼ね備えている」とある。{{Accessdate|2023-09-09}}</ref>。また、[[RISC-V]]も、同様なベクトル命令セットを拡張として定義している<ref>『RISC-V 原典』第8章 (pp.74-88) p.75に「ベクトルの長さとクロックサイクル当たりの最大の処理を命令のエンコーディングから分離することがベクトル・アーキテクチャの最も重要な点である」と強調がある。</ref>。RISC-Vの設計者らは既存プロセッサのSIMD拡張の積み重ね、特にIntelのそれを優美でないとみている<ref>『RISC-V 原典』p.85に「<code>vfmadd213pd</code> とは何であり、いつ使うべきかを、どうしたら覚えられようか」とある。</ref>。 == 関連項目 == * [[スーパースカラー]] == 脚注 == <references/> {{CPU technologies}} {{DEFAULTSORT:へくとるけいさんき}} [[Category:コンピュータアーキテクチャ]] [[Category:スーパーコンピュータ]]
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7月13日
7月13日(しちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から194日目(閏年では195日目)にあたり、年末まであと171日ある。
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7月13日(しちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から194日目(閏年では195日目)にあたり、年末まであと171日ある。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{カレンダー 7月}} '''7月13日'''(しちがつじゅうさんにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から194日目([[閏年]]では195日目)にあたり、年末まであと171日ある。 == できごと == [[Image:Beleg_van_Haarlem_-_Executies_door_de_Spanjaarden.jpg|thumb|{{仮リンク|ハールレム攻城戦|en|Siege of Haarlem}}終結(1573)]] [[Image:Hodges%2C_Resolution_and_Adventure_in_Matavai_Bay.jpg|thumb|[[レゾリューション (帆船)|レゾリューション]]号と[[アドヴェンチャー (帆船)|アドヴェンチャー]]号、[[プリマス]]を出港(1772)。画像は翌年、タヒチに停泊する両船]] {{multiple image | footer = [[アメリカ合衆国]]で[[北西部領土 (アメリカ合衆国)|北西部領土]](左画像)の統治法を定めた[[北西部条例 (アメリカ)|北西部条例]]可決(1787)。右画像は記念プレート | image1 = Northwest-territory-usa-1787.png | width1 = 120 | alt1 = 北西部領土 | image2 = DSCN3504_ohiocompany_e.JPG | width2 = 100 | alt2 = 銘板}} [[Image:Waterloo_station_main_entrance.JPG|thumb|160px|ロンドンの[[ウォータールー駅]](1848)開業]] [[Image:New_York_Draft_Riots_-_fighting.jpg|thumb|160px|[[南北戦争]]下で[[ニューヨーク徴兵暴動]]発生(1863)]] {{multiple image | footer = [[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]とフランス大使{{仮リンク|ヴァンサン・ベネデッティ|en|Vincent, Count Benedetti}}との会談(左画像)の結果を伝えた電報の文面を[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が改竄し公表した[[エムス電報事件]](1870)。[[普仏戦争]]の引き金となった。右画像は記念碑 | image1 = WilhelmIBenedetti.jpg | width1 = 140 | alt1 = ヴィルヘルム1世とフランス大使ヴァンサン・ベネデッティの会談 | image2 = Gedenkstein_Emser_Depesche.jpg | width2 = 60 | alt2 = 記念碑}} [[Image:Art_of_Paknam_incident.jpg|thumb|160px|[[フランス]]が[[タイ王国|タイ]]に領土の割譲を迫った[[パークナム事件]](1893)]] [[Image:Hullywod-Sign.jpg|thumb|[[ハリウッド]]に"HOLLYWOOD"の看板設置(1923)。画像は1970年代に撮影、こののち1978年に鋼鉄製に作り変えられた]] {{multiple image | footer = [[1930 FIFAワールドカップ|第1回FIFAワールドカップ]]開幕(1930)。右画像は決勝の前半で使用されたボール | image1 = | width1 = 100 | alt1 = ポスター | image2 = 1930_World_Cup_Final_ball_Argentina.jpg | width2 = 100 | alt2 = ボール}} [[Image:Srebrenica massacre memorial gravestones 2009 1.jpg|thumb|160px|[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]、[[スレブレニツァの虐殺]](1995)。8000人超が犠牲となった]] * [[869年]]([[貞観 (日本)|貞観]]11年5月26日) - [[貞観地震]]。([[グレゴリオ暦]]換算、ユリウス暦[[7月9日]]) * [[986年]]([[寛和]]2年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[花山天皇]]が近習らとともに清涼殿から失踪。 * [[1352年]] ([[観応]]3年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[光厳上皇]]・[[光明上皇]]・[[崇光上皇]]・[[直仁親王]]、[[奈良県]]の[[賀名生]]に拉致される。 * [[1573年]] - [[八十年戦争]]: {{仮リンク|ハールレム攻城戦|en|Siege of Haarlem}}が終結。 * [[1643年]] - [[イングランド内戦]]: {{仮リンク|ラウンドウェイダウンの戦い|en|Battle of Roundway Down}}。 * [[1765年]] - ロッキンガム侯[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|チャールズ・ワトソン=ウェントワース]]が第9代[[イギリスの首相|イギリス首相]]に就任。 * [[1772年]] - [[レゾリューション (帆船)|レゾリューション]]号および[[アドヴェンチャー (帆船)|アドヴェンチャー]]号が[[ジェームズ・クック]]率いる2度目の[[太平洋]]探検のため[[プリマス]]を出港。 * [[1787年]] - [[アメリカ合衆国]][[連合会議]]で[[北西部領土 (アメリカ合衆国)|北西部領土]]の統治方法を定めた[[北西部条例 (アメリカ)|北西部条例]]が可決。 * [[1837年]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア英女王]]が[[バッキンガム宮殿]]に移り住む。これ以降バッキンガムが英王室の常住の場となる<ref>{{Cite web|url=https://www.projectbritain.com/calendar/july/buckingham.html|title=Buckingham Palace|work=Fact of the Day Calendar|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 * [[1848年]] - [[ロンドン]]のターミナル駅[[ウォータールー駅]]が開業。 * [[1863年]] - [[ニューヨーク徴兵暴動]]勃発。[[南北戦争]]中の米[[ニューヨーク]]で[[アイルランド]]系[[移民]]の労働者が[[徴兵]]反対を訴える。 * [[1864年]]([[元治]]元年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]])- [[明保野亭事件]]。 * [[1867年]]([[慶応]]3年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[坂本龍馬]]が『[[船中八策]]』を著す。 * [[1870年]] - [[普仏戦争]]の原因となった[[エムス電報事件]]が起こる。 * [[1878年]] - [[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]の講和条約である[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]が締結。 * [[1886年]] - 1888年1月1日から[[東経135度線|東経135度]]の[[子午線]]の時刻を[[日本標準時]]とすることを定めた[[勅令]]「[[本初子午線]]経度計算方及標準時ノ件」が公布。 * [[1893年]] - [[パークナム事件]]。 * [[1911年]] - 第3次[[日英同盟]]協約締結。 * [[1923年]] - 後に[[ハリウッド]]の象徴となる[[ハリウッドサイン|"HOLLYWOOD"の看板]]が設置される。 * [[1930年]] - サッカーの[[1930 FIFAワールドカップ|第1回ワールドカップ]]が[[ウルグアイ]]で開幕。 * [[1935年]] - 福岡県[[伊田町]]の三井田川鉱業所([[炭鉱]])で爆発事故。救援隊も二次災害に遭い死者66人<ref>二次爆発で救援隊遭難、死者・行方不明六十六人『大阪毎日新聞』(昭和13年7月15日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p219昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1937年]] - [[大紅門事件]]。 * [[1948年]] - 優生保護法(現在の[[母体保護法]])公布。 * [[1950年]] - [[国立大学協会]]設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.janu.jp/active/activity/1950.html|title=昭和21~24年(1950年)|work=一般社団法人 国立大学協会|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 * [[1958年]] - 第21次集団引揚げ船[[白山丸 (1940年)|白山丸]]が[[中華人民共和国|中国]][[天津市]][[浜海新区|塘沽]]より579名を乗せて[[舞鶴港]]へ入港し、中国大陸からの集団引揚げが終結。 * [[1966年]] - [[東京都教育委員会]]が次年度の[[公立学校|都立]][[高校受験|高校入試]]から[[学校群制度]]導入を決定<ref>{{Cite journal|和書|author=岩田一正 |date=2019-09 |url=http://id.nii.ac.jp/1109/00005508/ |title=1966年から1980年までの教育言説の相克 : 高校入試を中心として |journal=成城文藝 |ISSN=0286-5718 |publisher=成城大学文芸学部 |volume=248・249 |pages=78-57 |id={{CRID|1050003824826378880}} |accessdate=2023-05-12}}</ref>。 * [[1969年]] - [[前橋競輪場]]で[[投石]]、[[放火]]騒ぎ。観客、警官14人が重軽傷。観客が場外に排除された後も、群衆約2000人が[[機動隊]]とにらみ合いを続けた<ref>「観客が投石・放火 八百長と騒ぐ 警官ら14人重軽傷」『朝日新聞』昭和44年(1969年)7月14日朝刊、12版、15面</ref>。 * [[1977年]] - [[1977年ニューヨーク大停電]]。ニューヨークで[[落雷]]が原因の[[停電]]が起こり、復旧までの3日間に900万人が影響を受けた。 * 1977年 - [[津地鎮祭訴訟]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁]][[大法廷]]判決。この判決で、いわゆる[[目的効果基準]]を採用。 * [[1978年]] - [[アルジェ]]で第3回[[アフリカ競技大会]]が開幕。[[7月28日]]まで。 * [[1985年]] - アフリカ難民救済を目的としたチャリティーコンサート・[[ライヴエイド]]が[[フィラデルフィア]]と[[ロンドン]]で開催。60カ国20億人が中継を視聴したとされる。 * 1985年 - [[昭和天皇]]が、第108代[[後水尾天皇]]の84歳2か月を抜き、実在が明らかな天皇の中では歴代最長寿となる。 * [[1987年]] - 滋賀県のJR西日本・[[信楽高原鐵道信楽線|信楽線]]が[[第三セクター鉄道]]・[[信楽高原鐵道]]に転換。 * [[1989年]] - [[群発地震]]が発生していた[[伊東市]]沖合の海底([[手石海丘]])が噴火する。 * 1989年 - パリの歌劇場[[オペラ・バスティーユ]]が落成。 * [[1995年]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]: [[スレブレニツァの虐殺]]。[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[スレブレニツァ]]で[[スルプスカ共和国軍]]が推定8千人の[[ボシュニャク人]]を殺害。[[第二次世界大戦]]以降では欧州最悪のジェノサイド。 * [[2001年]] - [[モスクワ]]で開かれていた[[国際オリンピック委員会]](IOC)総会で[[2008年]][[夏季オリンピック]]の[[北京市|北京]]開催が決定。 * [[2003年]] - [[イラク]]の暫定統治機関として[[イラク統治評議会]]が設置される。 * 2003年 - [[プチエンジェル事件]]発生。児童買春デートクラブの経営者が小学6年生の少女4人を誘拐・監禁。16日に犯人が自殺し、17日に4人を保護<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_50132/|title=千本のビデオテープと二千人の顧客名簿が握りつぶされたプチエンジェル事件、容疑者の不可解な自殺方法とは【未解決事件ファイル】|work=[[エキサイト|excite ニュース]]|date=2019-11-16|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 * [[2004年]] - [[平成16年7月新潟・福島豪雨]]による大規模[[水害]]発生。[[新潟県]][[三条市]]、[[中之島町]]などを中心に甚大な被害。 * [[2006年]] - [[青森県立美術館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aomori-museum.jp/ja/blog/1138.html|title=7月13日は開館記念日!!|work=AOMORI MUSEUM OF ART|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 * [[2008年]] - [[プロゴルファー]]の[[不動裕理]]が女子ツアーで初めて選手生涯獲得賞金を10億円台に乗せる。 * [[2010年]] - [[マイクロソフト]]の[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]のサポートが終了。 * [[2011年]] - [[南スーダン]]の国連加盟を勧告する[[国際連合安全保障理事会決議1999]]が採択される<ref>{{Cite web|和書|date=2011年7月14日 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2812924 |title=南スーダンが国連加盟へ、安保理が勧告 |publisher=AFP |accessdate=2020-08-21}}</ref>。 * [[2016年]] - [[明仁|明仁天皇]]が数年以内に[[徳仁|皇太子徳仁親王]]へ天皇の位を譲る「生前退位」の意向を示した、と[[日本放送協会|NHK]]が報じた<ref>{{Cite web|和書|date=2016年7月14日 |url=https://www.bbc.com/japanese/36791159 |title=天皇陛下「退位」の意向 日本報道 |publisher=BBC |accessdate=2020-08-21}}</ref>。 * <!-- "忌日"節に記載済み [[2017年]] - ノーベル平和賞を受賞した中国の活動家[[劉暁波]]氏が死去(61歳) --> == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|240px]]}} {{multiple image | footer = [[共和政ローマ]]の政治家[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](BC100?-BC44)誕生。右画像は[[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』(AD1637) {{Squote|[[賽は投げられた]]。――[[ルビコン川]]を渡り[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]との内戦に突入する際に(BC49)}} {{Squote|[[来た、見た、勝った]]。――[[ファルナケス2世]]を敗って(BC47)}} | image1 = Julius_Caesar_Coustou_Louvre_MR1798.jpg | width1 = 100 | alt1 = ガイウス・ユリウス・カエサル | image2 = Pietro_Da_Cortona-Lyon.jpg | width2 = 200 | alt2 = 『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』 }} [[Image:Allan_Cunningham07.jpg|thumb|120px|植物学者[[アラン・カニンガム]](1791-1839)]] [[Image:PatriceMacMahon.jpg|thumb|120px|[[フランス第三共和政]]第2代大統領[[パトリス・ド・マクマオン]](1808-1893)誕生]] [[Image:MetrokarlplatzWK.jpg|thumb|120px|[[ウィーン分離派]]の[[建築]]家、[[オットー・ワーグナー]](1841-1918)誕生。画像はカールスプラッツ駅]] {{multiple image | footer = 洋画家[[青木繁]](1882-1911)。右画像は『わだつみのいろこの宮』(1907) | image1 = Aoki_Shigeru.jpg | width1 = 100 | alt1 = 青木繁 | image2 = Aoki_Shigeru_-_Paradise_Under_the_Sea.jpg | width2 = 100 | alt2 = 『わだつみのいろこの宮』 }} [[Image:Rubiks_cube_solved.jpg|thumb|120px|[[ルービック・キューブ]]を考案した発明家[[ルビク・エルネー]](1944-)誕生]] * [[紀元前100年]] - [[ガイウス・ユリウス・カエサル]]、[[政治家]](+ [[紀元前44年]])※7月12日説もある * [[40年]] - [[グナエウス・ユリウス・アグリコラ]]、[[帝政ローマ]]の[[軍人]](+ [[93年]]) * [[1527年]] - [[ジョン・ディー]]、[[錬金術師]]、[[占星術師]](+ [[1608年]]) * [[1590年]] - [[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]]、第239代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1676年]]) * [[1608年]] - [[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]、[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1657年]]) * [[1791年]] - [[アラン・カニンガム (植物学者)|アラン・カニンガム]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1839年]]) * [[1798年]] - [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]、[[ロシア帝国|ロシア]][[皇后]](+ [[1860年]]) * [[1808年]] - [[パトリス・ド・マクマオン]]、[[フランス第三共和政]]第2代[[フランス大統領の一覧|大統領]](+ [[1893年]]) * [[1815年]]([[文化 (元号)|文化]]12年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]])- [[梅田雲浜]]、[[儒学者]](+ [[1859年]]) * [[1821年]] - [[ネイサン・ベッドフォード・フォレスト]]、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]](+ [[1877年]]) * [[1832年]]([[天保]]3年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]])- [[松本良順]]、[[幕末|江戸時代末期]]・[[明治期]]の[[医師]](+ [[1907年]]) * [[1841年]] - [[オットー・ワーグナー]]、[[建築家]](+ [[1918年]]) * [[1852年]] - [[ジョージ・ブラッドリー]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1931年]]) * [[1859年]] - [[シドニー・ウェッブ]]、政治家、[[社会主義者]](+ [[1947年]]) * [[1864年]] - [[ジョン・ジェイコブ・アスター4世]](+ [[1912年]]) * [[1882年]] - [[青木繁]]、[[洋画家]](+ [[1911年]]) * [[1886年]] - [[エドワード・ジョゼフ・フラナガン]]、[[聖職者]]、社会事業家(+ [[1948年]]) * [[1887年]] - [[小絲源太郎]]、洋画家(+ [[1978年]]) * [[1889年]] - [[スタン・コベレスキ]]、元プロ野球選手(+ [[1984年]]) * [[1891年]] - [[フレエル]]、[[シャンソン]][[歌手]](+ [[1951年]]) * [[1894年]] - [[イサーク・バーベリ]]、[[小説家]](+ [[1941年]]) * [[1900年]] - [[ジョージ・ルイス]]、[[ジャズ]][[クラリネット]]奏者(+ [[1968年]]) * [[1901年]] - [[小山いと子]]、[[作家]](+ [[1989年]]) * [[1905年]] - [[ボズレー・クラウザー]]、[[映画評論家一覧|映画評論家]](+ [[1981年]]) * [[1914年]] - [[三人奴|塚本やっこ]]、[[漫才師]]([[三人奴]])(+ [[1987年]]) * 1914年 - [[スティーヴン・ウルマン]]、[[言語学者]](+ [[1976年]]) * [[1917年]] - [[相模川佶延]]、元[[大相撲]][[力士]](+ 1987年) * [[1918年]] - [[アルベルト・アスカリ|アルベルト・アスカーリ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(+ [[1955年]]) * [[1924年]] - [[カルロ・ベルゴンツィ]]、[[テノール]][[歌手]](+ [[2014年]]) * [[1927年]] - [[シモーヌ・ヴェイユ (政治家)|シモーヌ・ヴェイユ]]、政治家(+ [[2017年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASK6Z660HK6ZUHBI01Z.html|title=シモーヌ・ベイユさんが死去 アウシュビッツの生存者|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞社]]|date=2017-06-30|accessdate=2020-12-18}}</ref>) * [[1928年]] - [[ダリル・スペンサー]]、元プロ野球選手(+ [[2017年]]) * [[1930年]] - [[東谷夏樹]]、元プロ野球選手(+ [[2006年]]) * 1930年 - [[杉田豊]]、[[グラフィックデザイナー]]、[[絵本作家]](+ [[2017年]]) * [[1933年]] - [[ピエロ・マンゾーニ]]、[[美術家]](+ [[1963年]]) * [[1934年]] - [[ウォーレ・ショインカ]]、[[詩人]]、[[劇作家]] * [[1935年]] - [[堺屋太一]]、[[作家]]、元[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済企画庁長官]](+ [[2019年]]<ref>[https://www.sankei.com/life/news/190210/lif1902100032-n1.html 作家の堺屋太一さん死去][[産経新聞]]「[[産経デジタル|産経ニュース]]」[[2019年]]([[平成]]31年)2月10日</ref>) * 1935年 - [[ジャック・ケンプ]]、元[[アメリカンフットボール]]選手、政治家(+ [[2009年]]) * [[1936年]] - [[アルバート・アイラー]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(+ [[1970年]]) * 1936年 - [[佐藤公博]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[水野忠夫]]、[[ロシア文学者]]、[[翻訳者]](+ [[2009年]]) * 1937年 - [[新宮晋]]、[[彫刻家]] * [[1940年]] - [[パトリック・スチュワート]]、[[俳優]] * [[1941年]] - [[ジャック・ペラン]]、俳優、[[映画プロデューサー]](+ [[2022年]]) * 1941年 - [[ロバート・フォスター]]、俳優(+ [[2019年]]) * [[1942年]] - [[ハリソン・フォード]]、俳優 * 1942年 - [[ロジャー・マッギン]]、[[ミュージシャン]]([[バーズ (アメリカのバンド)|バーズ]]) * 1942年 - [[渡辺泰輔]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]]) * 1942年 - [[小野坂清]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]]) * [[1943年]] - [[関口宏]]、俳優、[[タレント]] * 1943年 - [[阪本敏三]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]]) * [[1944年]] - [[ルビク・エルネー|エルノー・ルービック]]、建築学者([[ルービックキューブ]]発明者) * 1944年 - [[堀口武視]]、政治家 * 1944年 - [[シリル・ノウルズ]]、サッカー選手、監督 (+ [[1991年]]) * [[1945年]] - [[日野てる子]]、[[歌手]](+ [[2008年]]) * [[1946年]] - [[尾上松助 (6代目)|尾上松助]]、[[歌舞伎役者]](+ [[2005年]]) * 1946年 - [[内田圭一]]、元プロ野球選手 * [[1947年]] - [[小松和彦]]、[[文化人類学者]]、[[民俗学者]] * 1947年 - [[コリン・サーストン]]、[[音楽プロデューサー]](+ [[2007年]]) * [[1948年]] - [[中山千夏]]、[[小説家]]、タレント、政治家 * [[1949年]] - [[長谷川きよし]]、[[シンガーソングライター]] * [[1950年]] - [[馬英九]]、[[中華民国]]元総統 * 1950年 - [[河村和茂]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[福間納]]、元プロ野球選手 * [[1952年]] - [[三宅民夫]]、[[アナウンサー]] * 1952年 - [[鵜沢達雄]]、元プロ野球選手 * [[1954年]] - [[北猛俊]]、政治家、富良野市長 * [[1955年]] - [[達川光男]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]] * 1955年 - [[藤田博史]]、精神分析医 * 1955年 - [[丹波義隆]]、俳優 * [[1956年]] - [[マイケル・スピンクス]]、[[プロボクサー]] * [[1957年]] - [[ティエリー・ブーツェン]]、F1レーサー * 1957年 - [[キャメロン・クロウ]]、[[映画監督]] * 1957年 - [[浅井純哉]]、[[高校野球]]指導者 * [[1958年]] - [[山口二郎]]、[[政治学者]] * [[1959年]] - [[ファンキー末吉]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[爆風スランプ]]) * [[1961年]] - [[大槻東巳]]、[[物理学者]] * [[1962年]] - [[橋口亮輔]]、[[映画監督]]、[[脚本家]] * [[1963年]] - [[エリック宮城]]、[[トランペット]]奏者 * 1963年 - [[水野良]]、作家、ゲームデザイナー * 1963年 - [[スパッド・ウェッブ]]、バスケットボール選手 * 1963年 - [[村上眞一]]、元プロ野球選手 * [[1964年]] - [[青山真治]]、[[映画監督]](+ [[2022年]]) * 1964年 - [[金子雅弘]]、[[空手家]] * 1964年 - [[村田晃嗣]]、政治学者、[[同志社大学]]助教授 * [[1965年]] - [[中森明菜]]、[[歌手]] * 1965年 - [[本広克行]]、[[演出家]]、映画監督 * [[1966年]] - [[石川秀美]]、元歌手 * [[1967年]] - [[北斗晶]]、タレント、元[[プロレスラー]] * [[1968年]] - [[南央美]]、[[声優]] * [[1969年]] - [[葉山レイコ]]、女優、タレント * 1969年 - [[MANZAI-C|西野健一]]、[[お笑いタレント]] * 1969年 - [[藤井岳彦]]、作曲家 * [[1970年]] - [[石毛博史]]、元プロ野球選手 * 1970年 - [[角田英介]]、元俳優 * [[1971年]] - [[遠藤章造]]、お笑いタレント([[ココリコ]]) * 1971年 - [[渡辺秀一]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[大地洋輔]]、お笑い芸人([[ダイノジ]]) * 1972年 - スギ。、お笑い芸人([[インスタントジョンソン]]) * [[1973年]] - [[賀山祐介]]、ミュージカル俳優 * [[1974年]] - [[ヤルノ・トゥルーリ]]、F1レーサー * 1974年 - [[川本成]]、タレント([[あさりど]]) * [[1975年]] - [[長谷川崇夫]]、[[歌手]] * [[1976年]] - [[内藤裕子]]、アナウンサー * 1976年 - [[ディアナ・ヴィシニョーワ]]、[[バレエダンサー]] * [[1977年]] - [[鈴木紗理奈]]、タレント、女優 * 1977年 - [[今村文昭]]、元プロ野球選手 * [[1979年]] - [[井川慶]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[飯山裕志]]、元プロ野球選手 * 1979年 - [[ルシンダ・ルー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1980年]] - [[中孝介]]、歌手 * 1980年 - [[松比良平太]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ]]、[[レーシングドライバー]] * 1981年 - [[木南清香]]、女優 * [[1982年]] - [[ヤディアー・モリーナ]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[秋信守]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[中川英之]]、元[[サッカー選手]] * 1982年 - [[クリストファー・ベルントソン]]、フィギュアスケート選手 * 1982年 - 木坂哲平、お笑い芸人([[パニーニ (お笑いコンビ)|パニーニ]]) * [[1983年]] - [[陳鏞基]]、プロ野球選手 * 1983年 - Tatsuya、ミュージシャン([[START OF THE DAY]]) * 1983年 - [[劉翔]]、元[[陸上競技]]([[障害走]])選手 * [[1984年]] - [[吉田仁美]]、女優、声優、歌手 * [[1985年]] - [[内竜也]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[苔口卓也]]、元サッカー選手 * 1985年 - [[上野なつひ]]、女優 * 1985年 - [[平山智加]]、[[競艇選手|ボートレーサー]] * 1985年 - [[アハマド・ブストミ]]、サッカー選手 * 1985年 - [[ギジェルモ・オチョア]]、サッカー選手 * 1985年 - [[伊藤綾祐]]、ミュージカル俳優 * [[1986年]] - [[木原真佐人]]、元陸上競技選手 * [[1988年]] - [[五嶋龍]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1988年 - [[渋谷飛鳥]]、タレント、女優(元[[美少女クラブ31]]) * 1988年 - [[仁藤拓馬]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[王靖超]]、プロ野球選手 * 1988年 - [[ヴァネッサ・クワイ]]、歌手 * 1988年 - [[DJ・ルメイユ]]、プロ野球選手 * [[1989年]] - [[道重さゆみ]]、歌手(元[[モーニング娘。]]) * 1989年 - [[柏原竜二]]、元陸上競技選手 * 1989年 - [[高木勇人]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[小山夏希]]、グラビアアイドル * 1990年 - [[古谷健太]]、お笑い芸人 * [[1992年]] - [[大谷澪]]、元[[グラビアアイドル]] * 1992年 - [[高梨雄平]]、プロ野球選手 * [[1993年]] - [[のん (女優)|のん]]、女優、ファッションモデル * 1993年 - [[羅冠聡]]、政治家 * 1993年 - [[ダニー・ダ・コスタ]]、サッカー選手 * [[1994年]] - [[三浦采夏]]、女優 * 1994年 - [[久慈暁子]]、アナウンサー、元ファッションモデル、元女優 * 1994年 - [[中元大介]]、声優 * 1994年 - [[上枝恵美加]]、タレント、元アイドル(元[[NMB48]]) * [[1995年]] - [[コディ・ベリンジャー]]、プロ野球選手 * 1995年 - [[神宮寺かなん]]、グラビアアイドル * 1995年 - [[永井すみれ]]、女優、グラビアアイドル * [[1996年]] - [[キーリー・マーシャル]]、女優 * 1996年 - [[田島洸成]]、元プロ野球選手 * 1996年 - [[チェ・アダムス]]、サッカー選手 * [[1997年]] - [[桑代貴明]]、俳優 * [[1998年]] - [[水上由伸]]、プロ野球選手 * [[1999年]] - [[田中瑛斗]]、プロ野球選手 * [[2004年]] - [[高木星来]]、俳優 * [[2005年]] - [[千葉紀佳]]、ファッションモデル、アイドル * 生年不明 - [[立岡耕造]]、声優 * 生年不明 - [[永野希]]、シンガーソングライター * 生年不明 - [[小宅悠一]]、声優 * 生年不明 - [[川中瀬奈]]、声優 == 忌日 == [[Image:Sanada_Masayuki2.jpg|thumb|120px|武将、[[真田昌幸]](1547-1611)没]] [[Image:Michael_Federowitz_Great_Duke_of_Moscovie.jpg|thumb|120px|[[ロマノフ朝]]創始者、[[モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]]、[[ミハイル・ロマノフ]](1596-1645)没]] {{multiple image | footer = 江戸幕府第9代将軍、[[徳川家重]](1712-1761)没 | image1 = Tokugawa_Ieshige.jpg | width1 = 80 | alt1 = 徳川家重 | image2 = TokugawaIeshige_grave.JPG | width2 = 80 | alt2 = 墓所 }} {{multiple image | footer = [[山岳派]]の革命指導者、[[ジャン=ポール・マラー]](1743-1793)暗殺される。画像は[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が現場で描いた『マラーの死』 | image1 = Maratdeathmask.jpg | width1 = 70 | alt1 = デスマスク | image2 = Death_of_Marat_by_David.jpg | width2 = 120 | alt2 = 『マラーの死』 }} [[Image:RingoJohn_Grave.jpg|thumb|220px|アメリカ[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]]、[[リンゴ・キッド]](1850-1882)、死体で発見]] {{multiple image | footer = [[有機化学]]者[[アウグスト・ケクレ]](1829-1896)没。[[ベンゼン]]のケクレ構造(右画像)を発見 | image1 = Frkekul%C3%A9.jpg | width1 = 80 | alt1 = フリードリヒ・アウグスト・ケクレ・フォン・シュトラードニッツ | image2 = Benz1.png | width2 = 80 | alt2 = ベンゼン環 }} [[Image:Marshall.gif|thumb|100px|[[新古典派経済学|新古典派]]の経済学者[[アルフレッド・マーシャル]](1842-1924)]] {{multiple image | footer = 写真家[[アルフレッド・スティーグリッツ]](1864-1946)没。中央画像『ヴェネツィアの運河』(1894)、右『Ellen Koeniger』(1916) | image1 = Alfred Stieglitz.jpg | width1 = 80 | alt1 = アルフレッド・スティーグリッツ | image2 = Stieglitz-Venetian_Canal.jpg | width2 = 100 | alt2 = 『ヴェネツィアの運河』(1894) | image3 = StieglitzEKLakeGeorge1916.JPG | width3 = 100 | alt3 = 『Ellen Koeniger』(1916) }} {{multiple image | footer = 作曲家[[アルノルト・シェーンベルク]](1874-1951)没。{{audio|Schoenberg Quartet No. 2 4th movement.OGG|四重奏曲第2番作品10より第4楽章を聴く}} | image1 = Arnold_Schoenberg_la_1948.jpg | width1 = 100 | alt1 = アルノルト・シェーンベルク | image2 = Zentralfriedhof_Vienna_-_Schoenberg.JPG | width2 = 120 | alt2 = 墓 }} [[Image:Blackett-large.jpg|thumb|100px|[[反物質]]研究の第一人者、物理学者[[パトリック・ブラケット]](1897-1974)]] === 人物 === * [[982年]] - [[ギュンター (マイセン辺境伯)|ギュンター]]、[[マイセン辺境伯]] * [[998年]]([[長徳]]4年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[寛朝]]、[[真言宗]]の[[僧]](* [[916年]]) * [[1205年]] - [[ヒューバート・ウォルター]]、[[カンタベリー大司教]]、[[大法官]] * [[1380年]] - [[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]、[[百年戦争]]期の[[フランス王国|フランス]]軍人(* [[1320年]]) * [[1611年]]([[慶長]]16年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[真田昌幸]]、[[武将|戦国武将]](* [[1547年]]) * [[1645年]] - [[ミハイル・ロマノフ]]、[[ロシア帝国]]の[[ツァーリ]](* [[1596年]]) * [[1673年]]([[寛文]]13年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[板倉重矩]]、[[江戸幕府]][[老中]]、[[烏山藩|烏山藩主]](* [[1617年]]) * [[1685年]]([[貞享]]2年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[八橋検校]]、近代[[箏曲]]の父とされる[[検校]](* [[1614年]]) * [[1755年]] - [[エドワード・ブラドック]]、[[イギリス軍]]の[[将軍]](* [[1695年]]?) * [[1761年]]([[宝暦]]11年6月12日) - [[徳川家重]]、[[江戸幕府]]第9代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1711年]]) * [[1762年]] - [[ジェームズ・ブラッドリー]]、[[天文学者]](* [[1693年]]) * [[1793年]] - [[ジャン=ポール・マラー]]、[[フランス革命]][[ジャコバン派]]の指導者(* [[1743年]]) * [[1807年]] - [[ヘンリー・ベネディクト・ステュアート]]、[[ジャコバイト]]が支持する[[イングランド王国|イングランド]]の王位継承権者(* [[1725年]]) * [[1832年]]([[天保]]3年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[堀田正敦]]、江戸幕府[[若年寄]]、[[佐野藩|佐野藩主]](* [[1755年]]) * [[1849年]]([[嘉永]]2年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]) - [[橘守部]]、[[国学者]](* [[1781年]]) * [[1882年]] - [[ジョニー・リンゴ]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]]、[[アウトロー]](* [[1850年]]) * [[1885年]] - [[アウグスト・ヴェラ]] ([[:en:Augusto Vera|Augusto Vera]])、[[哲学|哲学者]](* [[1813年]]) * [[1886年]] - [[山内豊範]]、第16代[[土佐藩|土佐藩主]](* [[1846年]]) * [[1890年]] - [[ジョン・C・フレモント]]、[[探検家]](* [[1813年]]) * [[1896年]] - [[フリードリヒ・ケクレ]]、[[化学者]](* [[1829年]]) * [[1921年]] - [[ガブリエル・リップマン]]、[[物理学者]](* [[1845年]]) * [[1924年]] - [[アルフレッド・マーシャル]]、[[経済学者]](* [[1842年]]) * [[1943年]] - [[ルッツ・ロング]]、[[陸上競技]]選手(* [[1913年]]) * [[1945年]] - [[アラ・ナジモヴァ]]、[[俳優|女優]]、[[脚本家]]、映画プロデューサー(* [[1879年]]) * 1945年 - [[ロスコー・ディッキンソン]]、化学者(* [[1894年]]) * [[1946年]] - [[アルフレッド・スティーグリッツ]]、[[写真家]](* [[1864年]]) * [[1951年]] - [[アルノルト・シェーンベルク]]、[[作曲家]](* [[1874年]]) * [[1954年]] - [[フリーダ・カーロ]]、[[画家]](* [[1907年]]) * [[1967年]] - [[吉野秀雄]]、[[歌人]](* [[1902年]]) * [[1970年]] - [[レズリー・グローヴス]]、[[アメリカ陸軍]]の[[中将]]、[[マンハッタン計画]]指導者(* [[1896年]]) * 1970年 - [[盛世才]]、[[新疆省]]の指導者(* [[1897年]]) * [[1974年]] - [[パトリック・ブラケット]]、[[実験物理学|実験物理学者]](* [[1897年]]) * [[1977年]] - [[ヘルマン・ケンペル]]、[[発明家]](* [[1892年]]) * [[1978年]] - [[畠山麦]]、俳優(* [[1944年]]) * [[1980年]] - [[セレツェ・カーマ]]、政治家、[[ボツワナの大統領一覧|ボツワナ初代大統領]](* [[1921年]]) * [[1986年]] - [[神田隆 (俳優)|神田隆]]、[[俳優]](* [[1918年]]) * [[1995年]] - [[マッティ・ペロンパー]]、俳優(* [[1951年]]) * [[1997年]] - [[アレクサンドラ・ダニロワ]]、[[バレエ]]ダンサー(* [[1903年]]) * [[2002年]] - [[ユーサフ・カーシュ]]、写真家(* [[1908年]]) * 2002年 - [[林美雄]]、[[TBSテレビ|TBS]][[アナウンサー]](* [[1943年]]) * [[2003年]] - [[坂口祐三郎]]、俳優(* [[1941年]]) * [[2004年]] - [[森嶋通夫]]、[[経済学者]](* [[1923年]]) * 2004年 - [[カルロス・クライバー]]、[[指揮者]](* [[1930年]]) * [[2006年]] - [[レッド・バトンズ]]、[[コメディアン]](* [[1919年]]) * 2006年 - [[小谷輝二]]、[[政治家]](* [[1926年]]) * 2006年 - [[谷口徹次]]、俳優(* [[1936年]]) * 2006年 - [[宮田征典]]、元[[プロ野球選手]](* [[1939年]]) * 2006年 - [[坪内滄明]]、[[日本画家]](* 1939年) * [[2007年]] - [[太田省吾]]、[[劇作家]]、[[演出家]](* 1939年) * [[2012年]] - [[北村正利]]、[[天文学者]](* [[1926年]]) * [[2013年]] - [[コリー・モンティス]]、俳優(* [[1982年]]) * [[2014年]] - [[ロリン・マゼール]]、[[指揮者]](* [[1930年]]) * [[2015年]] - [[渡辺英樹]]、[[ミュージシャン]]、[[ベーシスト]](* [[1960年]]) * [[2016年]] - [[ベルナルド・プロベンツァーノ]]、シチリア・[[マフィア]]の有力者(* [[1933年]]) * [[2017年]] - [[劉暁波]]、人権活動家(* [[1955年]]) * [[2018年]] - [[大塚徹 (野球)|大塚徹]]、元[[プロ野球]]選手(* [[1945年]]) * 2018年 - [[浅利慶太]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/18/kiji/20180718s00041000159000c.html|title=演出家の浅利慶太さんが死去 85歳 劇団四季創立メンバー|date=2018-7-18|accessdate=2020-11-13|newspaper=Sponichi Annex|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>、[[劇団四季]]創設者、[[演出家]]、[[実業家]](* [[1933年]]) * 2018年 - [[藤田香]]<ref name="sportsnippon">{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/17/kiji/20180717s00041000332000c.html|title=イラストレーターの藤田香さん死去 47歳の若さで 「黒魔女さんが通る」挿絵など|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2018-07-17|accessdate=2020-11-07}}</ref>、イラストレーター(* [[1971年]]) * [[2021年]] - [[辻久子]]、ヴァイオリニスト(* [[1926年]]) === 人物以外(動物など) === * [[1996年]] - [[シンザン]]、[[競走馬]]、[[三冠 (競馬)|三冠]]馬、長寿記録(* [[1961年]]) == 記念日・年中行事 == {{右|[[Image:1D line.svg|260px]]}} {{multiple image | footer = 日本標準時制定(1886)。画像は[[明石市立天文科学館]]と、その館内にある親時計<ref>[http://ja.wikisource.org/wiki/本初子午線經度計算方及標準時ノ件 本初子午線経度計算方及標準時ノ件(ウィキソース)]</ref> | image1 = Akashi-Minicipal-Planetarium3387.JPG | width1 = 140 | alt1 = [[明石市立天文科学館]] | image2 = Akashitenmonkagakukan-oyadokei.JPG | width2 = 100 | alt2 = 親時計 }} * [[お盆|盆]]迎え火({{JPN}}) *: 盆の初日。家門で火をたき、祖先の霊を迎える。[[7月13日 (旧暦)|旧暦7月13日]]に行われていたもので、現代では地域などにより新暦7月13日や[[月遅れ|1カ月遅らせた]][[8月13日]]などに行われている。 * {{仮リンク|国家主権の日 (モンテネグロ)|en|Statehood Day (Montenegro)|label=国家主権の日}}({{MNE}}) *: [[1878年]]のこの日に締結された[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によりモンテネグロほかの[[オスマン帝国]]からの独立が承認されたことを記念。 * 日本標準時制定記念日({{JPN}}) *: [[1886年]]7月13日に、東経135度を[[日本標準時]]とし、[[1888年]][[1月1日]]よりこれを実施するという内容の勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」が公布されたことに由来。なお、公布文の署名が7月12日になされていることから、7月12日を日本標準時制定記念日としている書籍もある。 * 生命尊重の日({{JPN}}) *: [[医師]]、[[法律家]]、[[教育者]]、[[主婦]]等で構成される「生命尊重の日実行委員会」が[[1984年]]に制定。[[1948年]]のこの日、優生保護法(現在の[[母体保護法]])が公布されたことを記念。 * オカルト記念日({{JPN}}) *: [[1974年]]7月13日に、[[オカルトブーム]]の火つけ役となった映画『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』が日本で初公開されたことに由来。 * 水上バイクの日({{JPN}}) *: 日本海マリンクラブ([[新潟県]][[新潟市]])が制定。日付は、「な(7)み(3)」の間に「/(1)」で、波を切ると読み、水上バイクの爽快感を表している<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=23|isbn=978-4422021157 }}</ref>。 * イーサン・ハントの日({{JPN}}) *: 映画『[[ミッション:インポッシブル]]』が1996年7月13日に日本で公開されたことを記念して、主役のイーサン・ハントの名前をとり、[[日本記念日協会]]により2015年に正式認定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0074401|title=7月13日が「イーサン・ハントの日」に認定|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-06-26|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0713|date=2011-6}} [[Image:Comic_Market_94_Day_1_Cosplayers_(44005587012).jpg|thumb|120px|[[ラブライブ!サンシャイン!!]]より、津島善子<br/>(コスプレ)]] * [[1973年]] - [[七曲署|七曲警察署]]の早見淳刑事が刺殺される。(『[[太陽にほえろ!]]』第52話「13日金曜日マカロニ死す」) * [[1979年]] - 七曲警察署の田口良刑事が[[射殺]]される。(『太陽にほえろ!』第363話「13日金曜日ボン最期の日」) * [[2003年]] - 辺野古ディストラクション(小説『[[亡国のイージス]]』『[[Twelve Y. O.]]』) * [[2006年]] - ナイスの日(アニメ映画『[[時をかける少女 (アニメ映画)|時をかける少女]]』) * [[2068年]] - アルナイル8型墜落事故発生。(アニメ『[[プラネテス]]』) === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - ブラックペガサス、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=55 |title=ブラックペガサス |access-date=2023-01-19 |publisher=MUSEUM聖闘士博物館 |work=『聖闘士星矢』 |author=[[車田正美]]}}</ref> * 生年不明 - 軽業フワーズ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>『VIVRE CARD〜ONE PIECE図鑑〜』BOOSTER PACK 〝東の海〟の猛者達!!</ref><ref group="注釈">軽業フワーズは、東の海(イーストブルー)の4人組のナイフ使い。[https://one-piece.com/log/character/detail/Acrobatic_Fuwazu.html 『ONE PIECE.com』]には誕生日の記載はない。</ref> * 生年不明 - キングバーム、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Kingbaum.html |title=キングバーム |access-date=2023-01-19 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref> * 生年不明 - 清水亜希、漫画・アニメ『[[ベイビーステップ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 風紀委員長、漫画『[[アホガール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ヒロユキ|authorlink=ヒロユキ|date=2013-05-17|title=アホガール|volume=1巻|page=60|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社コミックス]]|isbn=978-4063848717}}</ref> * 生年不明 - 関和明、漫画『[[ラフ (漫画)|ラフ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 朝風理沙、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 李小狼、漫画・アニメ『[[カードキャプターさくら]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |date=1997-4-1|title = カードキャプターさくら |page = 55 |volume = 第2巻 |publisher = [[講談社]] |series = KCデラックス |isbn = 978-4063197914 }}</ref> * 生年不明 - 瑞原はやり、漫画・アニメ 『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A』アニメBD第5巻封入特典「プロ麻雀煎餅カード」での記述より。</ref> * 生年不明 - 庚霧江、漫画・アニメ『[[黄昏乙女×アムネジア]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 黒田良勝、漫画・アニメ『[[ナナマル サンバツ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://7o3x.com/char/profiles.html#6 |title=黒田良勝 |publisher=[[杉基イクラ]]/[[KADOKAWA]] 7○3×クイズ研究会 |accessdate=2023-01-19 |work=アニメ『ナナマル サンバツ』}}</ref> * 生年不明 - 中山春樹、漫画・アニメ『[[ギヴン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|noitamina_shop|1282328869903597576}}</ref> * 生年不明 - 三宅明人、小説・アニメ『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/miyake.html |title=三宅 明人 |accessdate=2023-01-19 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』 |publisher=MF文庫J [[衣笠彰梧]]・[[KADOKAWA]]刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会}}</ref> * 生年不明 - [[ラブライブ!サンシャイン!!#津島善子|津島善子]]、メディアミックス『[[ラブライブ!サンシャイン!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/member.php |title=メンバー紹介 津島 善子 |publisher=ラブライブ!サンシャイン!! |accessdate=2022-09-05}}</ref> * 生年不明 - ヨハネ、漫画・アニメ・ゲーム『[[幻日のヨハネ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://yohane.net/character/ |title=キャラクター紹介 ヨハネ |publisher=幻日のヨハネ -SUNSHINE in the MIRROR- |accessdate=2023-07-15}}</ref> * 生年不明 - 蒼井ミサ、メディアミックス『[[神田川JET GIRLS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://kjganime.com/character.html |title=蒼井ミサ |access-date=2022-09-05 |publisher=KJG PARTNERS |work=神田川JET GIRLS}}</ref> * 生年不明 - 花祭果凛、ゲーム・アニメ『[[Memories Off]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://memoriesoff.jp/psp/sorekara/chara.html |title=キャラクター紹介 花祭果凛(C.V:榎本温子) |access-date=2022-09-05 |publisher=メモリーズオフ 〜それから〜 PSP 版}}</ref> * 生年不明 - 飛羽愛歌、ゲーム・アニメ『[[アマガミSS]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 寿嶺二、ゲーム・アニメ『[[うたの☆プリンスさまっ♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.utapri.com/game/debut/character_reiji.php |title=寿 嶺二 |accessdate=2022-09-05 |publisher=早乙女学園 / Illustration.倉花千夏 |work=うたの☆プリンスさまっ♪ Debut}}</ref> * 生年不明 - 氏家むつみ、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20024 |title=氏家 むつみ(うじいえ むつみ) |access-date=2023-01-19 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 天堂寺ムスビ、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://t7s.jp/character/chara/02.html |title=天堂寺ムスビ |access-date=2022-09-05 |publisher=Tokyo 7th シスターズ}}</ref> * 生年不明 - 幸田ミチル、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1546992808065736707}}</ref> * 生年不明 - ラビ、ゲーム・アニメ『[[アイ★チュウ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.i-chu.jp/unit/ib/ravi/ |title=ユニット&キャラクター ラビ |access-date=2022-09-05 |publisher=Liber Entertainment Inc. |work=『アイ★チュウ』}}</ref> * 生年不明 - 井崎ユウタ、ゲーム・アニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vanguard_zero_|1414600443846660096}}</ref> * 生年不明 - 榊亜矢香、ゲーム・アニメ『[[ぱすてるメモリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://pasumemotv.com/character/#ayaka |title=キャラクター 榊 亜矢香 |access-date=2022-09-05 |publisher=FURYU/「ぱすてるメモリーズ」製作委員会 |work=『ぱすてるメモリーズ』}}</ref> * 生年不明 - トワ、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yumekuro.com/character/meister/nijinokanata/towa/ |title=トワ |access-date=2023-01-19 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} === 注釈 === <references group="注釈" /> == 関連項目 == {{Commons&cat|July 13|13 July}} {{新暦365日|7|12|7|14|[[6月13日]]|[[8月13日]]|[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]|0713|7|13}} {{1年の月と日}}
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ピチカート・ファイヴ
ピチカート・ファイヴ(英語: PIZZICATO FIVE)は、1984年から2001年まで活動した日本の音楽グループ。1984年から1987年までの表記はPIZZICATO V。 1990年代の日本において一世を風靡した「渋谷系」と呼ばれる系統に属し、その音楽性のみならず3代目ボーカルである野宮真貴のルックス・ファッション面も評価が高かった。 自らを「クール」「ハッピー」「キャッチー」「グルーヴィー」「ファンキー」等の言葉で形容することがある。 その活動はアメリカ合衆国やイギリス、フランスなどの欧米諸国にまで及び、ロバート・アルトマン監督の『プレタポルテ』(1994年)や劇場版『チャーリーズ・エンジェル』(2000年)で「トゥイギー・トゥイギー〜トゥイギー対ジェイムズ・ボンド」(元曲は野宮のソロ時代に佐藤奈々子の曲をカバーしたもの)が使われたり、2002年のオースティン・パワーズ#第3作では「東京の合唱」が流れるなど、複数の外国映画で楽曲が使われた。 熱狂的なファンを指す用語や、公式ファンクラブの名称は「ピチカートマニア!」(コロムビア時代ファンクラブは「ピチカートマフィア」の名称) 1984年、小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の4人をオリジナルメンバーとして結成。当初、ドラマーの宮田繁男(後のオリジナル・ラヴメンバー→ファースト・インプレッション)を加えた5人の予定だったが、4人で「ピチカート・ファイヴ」を名乗ることとなった。 1985年、細野晴臣プロデュースで8月21日に12インチ・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でテイチク/ノン・スタンダードレーベルよりデビュー。12インチ・シングル2枚を残す。 1986年、CBS・ソニーへ移籍。 1987年、ファースト・アルバム『couples』をリリースするが全く売れず、CBS・ソニー側から「ライヴの出来るボーカリストと交代」を要求される等の事情もあり同年、鴨宮と佐々木の2人が脱退。当時、既にORIGINAL LOVEでの活動を開始していた田島貴男を2代目ボーカルに迎える。 1988年、セカンド・アルバム『Bellissima!』、 1989年、サード・アルバム『女王陛下のピチカート・ファイヴ』発売。 1990年、4thアルバム『月面軟着陸』発表。 アルバムリリースを重ねるごとに熱心なファンを作り出すことに成功。一部では話題となるが、いずれも商業的な成果を残すことができず、クラブに通う若者や流行に敏感な者だけが熱狂的に支持するハウス系バンドとして認識されていた。 1990年、日本コロムビア/SEVEN GODS RECORDS(当時の所属事務所 グレイテスト・ヒッツの代表・麻田浩主宰)に移籍(後にTRIADへ転籍)。移籍の背景は、前所属レコード会社、CBS・ソニーの販売戦略に対する疑問があった(アルバム『月面軟着陸』のノベルティが、アームストロング船長を由来にした運動器具だったり、シングル盤のリリースもなかった)。 移籍と同時に翌年田島がORIGINAL LOVEの活動に専念するため脱退。レコーディングやライブでサポート・ボーカルをしていた元ポータブル・ロックの野宮真貴を3代目ボーカルに迎える。野宮は、正式加入以前からコーラス等で参加。CBS・ソニー最後のリリースとなったシングル「ラヴァーズ・ロック」(後にTokyo's Coolest Soundに発展)にボーカルとして参加している。高浪慶太郎が「高浪敬太郎」に改名。 1991年、高浪敬太郎コンボ&オーケストラ(野宮参加・小西も2曲参加、「大人になりましょう」のプロトタイプとなる曲も収録)として5月21日にフジテレビ系テレビドラマ「学校へ行こう!」のサウンドトラックCD『学校へ行こう! オリジナル・サウンドトラック 〜Hi,guys! Let me teach you』発売を皮切りに、6月から8月まで3枚のミニ・アルバム『最新型のピチカート・ファイヴ』『超音速のピチカート・ファイヴ』『レディメイドのピチカート・ファイヴ』そして9月発売のフル・アルバム『女性上位時代』に至るまで5か月間にわたり「5-4-3-2-1 count down to extacy」と銘打った連続リリース攻勢を仕掛けた。 1993年、4月発売の「SWEET SOUL REVUE」は、カネボウ化粧品「REVUE」シリーズ春のキャンペーンソングという大型タイアップを掴み、スマッシュ・ヒット。バンド名が広く知れ渡るきっかけの楽曲となった。同年6月発売アルバム『ボサ・ノヴァ2001』(小山田圭吾と共同プロデュース)はオリコンチャートで最高7位を獲得。12月リリースシングル「東京は夜の七時」(タイトルは矢野顕子の曲から引用)が、別ヴァージョンながらフジテレビ系『ウゴウゴルーガ2号』のオープニング曲に採用され更に知名度を高め、一気に一流アーティストの仲間入りを果たした。 1994年、ミニ・アルバム『5×5』をアメリカのマタドールレコード(Matador Records) からリリースして北米デビュー。次作アルバム『MADE in USA』も全世界での売上が20万枚に達した。 同年9月、アルバム『Overdose』リリース発表直前に高浪が脱退。その後、2001年の解散まで小西・野宮の2人体制で活動していくことになった。 1995年2月からはアメリカおよびヨーロッパの14都市でツアーを行い、成功を収める。3月に初のベスト・アルバム『ピチカート・ファイヴTYO〜Big Hits and Jet Lags 1991-1995』をリリース。 1996年3月に発売されたシングル「ベイビィ・ポータブル・ロック(ポータブル・ロックは、かつて野宮の所属したユニット名)」(日産・ミストラルCMソング)がヒットを記録。12月に発売されたシングル「メッセージ・ソング」は発売された月から翌年1月までの2か月間、NHKの音楽番組『みんなのうた』で放送された(その後も数回放送されている)。 1997年、小西によって新レーベル「*********(readymade) records,tokyo」を設立。、アルバム『ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド』、ベスト・アルバム『ピチカート・ファイヴJPN〜Big Hits and Jet Lags 1994-1997』のほか、アナログ盤作品やリミックスアルバムのリリース、ライブなど順調に活動を重ねた。11月発表シングル「大都会交響楽」が、セガサターン用ソフト(後にPlayStationへも移植)「クロス探偵物語」(1998年6月25日発売)のテーマソングとして起用された。 1998年1月、筒美京平作曲「恋のルール・新しいルール」、7月にミディアムバラード調の「きみみたいにきれいな女の子」、9月にザ・コレクターズの加藤ひさしをフィーチャリングした(実態的には野宮とのデュエット)「ウィークエンド」と立て続けにシングルがリリース。10月からの新番組『サタスマ』の音楽を小西が手がける事になり、エンディングテーマに、同月発売の同名アルバム『プレイボーイ プレイガール』(CD、限定LP盤)のタイトル曲が採用され11月18日にリカット。コーナードラマ『少年頭脳カトリ』オープニング・テーマ(未発売)も「野宮真貴と野宮真貴(ピチカート・ファイヴ)」名義で担当。 アルバム『プレイボーイ プレイガール』発売以降、日本コロムビアが立ち上げたJ-POP部門のレコード会社 HEAT WAVE(ヒートウェーブ)が発売元となり、2001年の同社清算までの作品は【********* records,tokyoレーベル、発売元:株式会社ヒートウェーブ、販売元:日本コロムビア株式会社】という形態となった。 1999年に発売のミニ・アルバムに形態の近いシングルCDは、「JBL maxisonic series」と銘打ち、4月に「darlin' of discotheque e.p.」、7月「nonstop to tokyo e.p.」10月「パーフェクト・ワールド」を相次いでリリース。11月には20世紀最後となるアルバム『PIZZICATO FIVE』リリース。 2000年2月、readymade recordsのアーティストによるコンピレーション盤を発売、7月に野宮がソロCD、8月に小西プロデュースによる「慎吾ママのおはロック」発売、ミリオンセラーを記録。9月、シゲル・マツザキとYOU THE ROCK★をフィーチャリングしたシングル「東京の合唱」を発売、東京を一種のブランドテーマとしたプロデュースに傾斜。9月30日、『女性上位時代』〜『ロマンティーク96』までのSEVEN GODS・TRIADレーベル時代のオリジナル・アルバム5作がジャケット新調で再発売。11月、クリスマス・ソング・シングルであり、ラストシングル「12月24日」を発売、同年のクリスマスまでfeel H"とタイアップしたCM(梅宮アンナ出演)がゴールデンタイムを中心に放映された。「12月24日」と同時にMV集「readymade TV Volume.3」がPIZZICATO FIVE初のDVDとして発売。 2001年1月1日、21世紀最初でリリースされたラストアルバムとなる『さ・え・ら ジャポン』をリリース。東京から視野を広げ日本をテーマとしたありとあらゆる楽曲が詰め込まれた本作は、「東京の合唱」でフィーチャーしたシゲル・マツザキ・YOU THE ROCK★、雪村いづみ・デューク・エイセス、南佳孝、ロケットマン(ふかわりょう)、横山剣(クレイジーケンバンド)、クレモンティーヌ、イマクニ?、ハナレグミ、ピエール・バルーなどの豪華なゲストをフィーチャリングした事でも高い評価を受けた。 2001年3月14日、3月31日を以て「ピチカート・ファイヴを解散する」旨がreadymade records,tokyoから発表。 解散の理由は小西曰く、「『さ・え・ら ジャポン』の出来が、ゲストの力を借りる形で今までになく素晴らしい出来上がりで、解散するなら(最高の状態の)今かな」とのこと。野宮も小西が「ピチカート・ファイヴでやりたいことは全てやり尽くした」と言及していた。 これに関しては「元祖渋谷系が終止符を打つ」などの内容で、一般紙だけでなく朝日新聞など全国紙の文化面でも報じられた。 3月31日、ベスト・アルバム『Pizzicato Five R.I.P.〜Big Hits and Jet Lags 1998-2001』をリリース。 同日、かつてのメンバー田島・高浪、および大勢のゲストを招いてオールナイト敢行のラスト・ライブ(通称「お葬式」ライブ)を開催、解散。 17年間の活動に終止符を打った。 結果的に1999年から2001年3月末の解散までの間に12種のCD・LP盤を1か月から3か月のハイ・ペースで立て続けにリリースした。 2001年6月、日本コロムビア在籍時代のシングルA面楽曲を全曲収録した2枚組CD『シングルス』発売。 解散1年後の2002年3月31日、トリビュート・アルバム『戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-』が発売。曽我部恵一、ORIGINAL LOVE、キリンジ、RIP SLYME、市川実和子、夏木マリ、水森亜土(既発曲)、和田アキ子(既発曲)が参加。 2004年、結成20年を迎える。日本コロムビア在籍時代の映像作品をDVDで再発売。CBS・ソニー在籍時代のベスト・アルバム、オリジナル・アルバムの再発売盤リリース。 2005年、小西はコロムビアミュージックエンタテインメントとプロデュース契約した。「columbia*readymade」レーベルを設立。ピチカート・ファイヴの解散から5年経った2006年3月31日、同レーベルより日本コロムビア時代のオリジナル・ベスト・ライブ・アルバムの再発盤をリリース。小西がアートディレクションしたジャケットがあしらわれ、ライナーノーツの構成がオリジナルと幾分異なる作品も存在する。同レーベルの第一弾アーティスト、野本かりあがピチカート・ファイヴの代表曲「東京は夜の七時」をカバー(歌詞、アレンジを変更)。 2019年、小西が新たに「自分がDJするときに使いやすい形で作ったという感じでエディットした」『THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001』発売発表に合わせウェブサイトをリニューアル。小西による楽曲解説を順次公開。7inch BOX(11月3日)及びCD・配信(11月6日)でリリース(形態によりエディットが異なる)。11月6日、YouTubeにて最新音源での12曲のMVの配信開始。 2021年9月22日、『配信向けのピチカート・ファイヴ』と題し、9月(高浪編)・10月20日(小西編)・11月17日(野宮編)の3か月連続配信リリース。11月24日、『配信向けのピチカート・ファイヴ』3作品から厳選した、2枚組CD『高音質のピチカート・ファイヴ』をリリース。11月27日、7インチ・レコード『東京の合唱/プレイボーイ・プレイガール』をリリース。 1998年発売アルバム『プレイボーイ プレイガール』初回限定盤、1999年発売CD(JBL maxisonic series)は紙製変形ケース仕様。 2000年「東京の合唱」から2001年『さ・え・らジャポン』までの3枚のCD、初のDVD作品『readymade TV Volume.3』は紙製のトール・ケース仕様。 高さの関係から通常の縦置きのままでは棚に収まらず、横に倒し出っ張らせた状態で陳列せざるを得ない店舗が多々あったことで話題になった。 アメリカ合衆国で放送されたアニメ『フューチュラマ』第4期・第5話「Leela's Homeworld」ラストで、「Baby Love Child」が挿入歌として使用されている。 すべて日本コロムビア(2006年のみコロムビアミュージックエンタテインメント)からリリース すべて日本コロムビア(「動く女性上位時代」〜「readymade TV volume three」までのDVD再発盤、「HAPPY END OF THE BAND」はコロムビアミュージックエンタテインメント)より
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ピチカート・ファイヴは、1984年から2001年まで活動した日本の音楽グループ。1984年から1987年までの表記はPIZZICATO V。
{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = ピチカート・ファイヴ | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = band | 別名 = <!-- 活動時に使用した別名義を記載。通称や略称ではありません。 --> | 出身地 = {{JPN}} | ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |first=Jason |last=Ankeny |title=Pizzicato Five {{!}} Biography & History |class=artist |id=pizzicato-five-mn0000851731/biography |accessdate=2022-10-15}}</ref>|[[ギターポップ|インディー・ポップ]]<ref name="allmusic" />|[[ダンス・ポップ]]<ref name="allmusic" />|[[ハウス (音楽)|ハウス]]<ref name="allmusic" />|[[渋谷系]]<ref name="allmusic" />}} | 活動期間 = [[1984年]] - [[2001年]] | レーベル = {{Hlist-comma|[[ノン・スタンダード|NON STANDARD]] / [[テイチクエンタテインメント|テイチク]]|[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS/SONY]]|SEVEN GODS / [[日本コロムビア]]|TRIAD / 日本コロムビア|********* / 日本コロムビア|********* 、HEAT WAVE|columbia*readymade}}/MATADOR(海外) | 事務所 = | 共同作業者 = | 公式サイト = | 旧メンバー = {{Plainlist| * [[小西康陽]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]・[[ギター]]・[[キーボード (楽器)|キーボード]]・[[ボーカル]]) * [[野宮真貴]](ボーカル) * 佐々木麻美子(ボーカル) * [[鴨宮諒]](キーボード) * [[高浪慶太郎]]([[ギター]]・キーボード・ボーカル) * [[田島貴男]](ボーカル・ギター・[[ハーモニカ]]) }} }} '''ピチカート・ファイヴ'''({{Lang-en|''PIZZICATO FIVE''}})は、[[1984年]]から[[2001年]]まで活動した[[日本]]の[[音楽グループ]]。1984年から[[1987年]]までの表記は'''PIZZICATO V'''。 == 概要 == [[1990年代]]の日本において一世を風靡した「[[渋谷系]]」と呼ばれる系統に属し、その音楽性のみならず3代目ボーカルである[[野宮真貴]]の[[ルックス]]・[[ファッション]]面も評価が高かった<ref name="週刊文春 1993年9月9日号">{{Harvnb|週刊文春 1993年9月9日号|loc=CATCH UP 世の中にはスウィートやキャッチーがいっぱいあるよね}}</ref>。 自らを「クール」「ハッピー」「キャッチー」「グルーヴィー」「ファンキー」等の言葉で形容することがある。 その活動は[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス]]、[[フランス]]などの欧米諸国にまで及び、[[ロバート・アルトマン]][[映画監督|監督]]の『[[プレタポルテ (映画)|プレタポルテ]]』([[1994年]])や劇場版『[[チャーリーズ・エンジェル (2000年の映画)|チャーリーズ・エンジェル]]』([[2000年]])で「トゥイギー・トゥイギー〜[[ツイッギー|トゥイギー]]対[[ジェームズ・ボンド (架空の人物)|ジェイムズ・ボンド]]」(元曲は野宮のソロ時代に[[佐藤奈々子]]の曲をカバーしたもの)が使われたり、2002年の[[オースティン・パワーズ#第3作]]では「東京の合唱」が流れるなど、複数の外国映画で楽曲が使われた。 [[ファイル:Pizzicato Five logo.svg|サムネイル|ピチカート・ファイヴのロゴ]] 熱狂的なファンを指す用語や、公式[[ファンクラブ]]の名称は「'''ピチカートマニア!'''」(コロムビア時代ファンクラブは「'''ピチカートマフィア'''」の名称) == 解散時のメンバー == ; [[小西康陽]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]、ギター、[[ボーカル]])<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号">{{Harvnb|ミュージック・マガジン 1987年5月号|p=62|loc=「傍流ポップスへの偏愛」}}</ref> : ピチカート・ファイヴのフロントマン、リーダー。解散までグループを牽引した唯一のオリジナル・メンバー。ほぼ全楽曲の[[作詞]]・[[作曲]]・[[編曲]]を担当。 ; [[野宮真貴]](メイン・ボーカル) : 1990年、田島に代わり3代目ボーカリストとして加入。2001年の解散まで10年にわたりメイン・ボーカルを務める。ライブにおいてギターを演奏したことがある。 === 脱退したメンバー === ; [[高浪慶太郎]]([[ギター]]、キーボード、ボーカル)<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号" /> : オリジナル・メンバーの一人。1994年脱退。 ; [[鴨宮諒]]([[キーボード (楽器)|キーボード]])<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号" /> : オリジナル・メンバーの一人。1987年脱退。 ; 佐々木麻美子(メイン・ボーカル)<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号" /> : オリジナル・メンバーの一人。初代ボーカリスト。1987年脱退。 ; [[田島貴男]](メイン・ボーカル、ギター) : 1988年、脱退した佐々木に代わり2代目ボーカリストとして加入。加入当時既に[[ORIGINAL LOVE]]で活動しており、掛け持ちの形になる。1990年、ORIGINAL LOVEに専念するため脱退。ピチカート・ファイヴの楽曲「夜をぶっとばせ」を1995年にORIGINAL LOVEでカバー。 == 来歴 == === 結成 === [[1984年]]、[[小西康陽]]、[[高浪慶太郎]]、[[鴨宮諒]]、佐々木麻美子の4人をオリジナルメンバーとして結成<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号" />。当初、[[ドラマー]]の[[宮田繁男]](後の[[ORIGINAL LOVE|オリジナル・ラヴ]]メンバー→ファースト・インプレッション)を加えた5人の予定だったが、4人で「ピチカート・'''ファイヴ'''」を名乗ることとなった。 [[1985年]]、[[細野晴臣]]プロデュースで8月21日に12インチ・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」で[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]/[[ノン・スタンダード]]レーベルよりデビュー<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号" />。12インチ・シングル2枚を残す<ref name="ミュージック・マガジン 1987年5月号" />。 [[1986年]]、[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]へ移籍。 [[1987年]]、ファースト・アルバム『[[couples]]』をリリースするが全く売れず、CBS・ソニー側から「ライヴの出来る[[ボーカリスト]]と交代」を要求される等の事情もあり同年、鴨宮と佐々木の2人が脱退。当時、既に[[ORIGINAL LOVE]]での活動を開始していた[[田島貴男]]を2代目[[ボーカル]]に迎える。 [[1988年]]、セカンド・アルバム『[[Bellissima!]]』{{sfn|ジャパニーズ・シティ・ポップ|p=146}}{{sfn|Light Mellow 和モノ669|p=204}}、 [[1989年]]、サード・アルバム『[[女王陛下のピチカート・ファイヴ]]』{{sfn|ジャパニーズ・シティ・ポップ|p=146}}発売。 [[1990年]]、4thアルバム『[[月面軟着陸]]』発表。 アルバムリリースを重ねるごとに熱心なファンを作り出すことに成功。一部では話題となるが、いずれも商業的な成果を残すことができず、[[ディスコ|クラブ]]に通う若者や流行に敏感な者だけが熱狂的に支持するハウス系バンドとして認識されていた<ref name="週刊文春 1993年9月9日号" />。 === レコード会社移籍と3代目ヴォーカル === [[1990年]]、[[日本コロムビア]]/SEVEN GODS RECORDS(当時の所属事務所 グレイテスト・ヒッツの代表・麻田浩主宰)に移籍(後にTRIADへ転籍)。移籍の背景は、前所属レコード会社、CBS・ソニーの販売戦略に対する疑問があった(アルバム『月面軟着陸』の[[ノベルティ]]が、アームストロング船長を由来にした運動器具だったり、シングル盤のリリースもなかった)。 移籍と同時に翌年田島がORIGINAL LOVEの活動に専念するため脱退。レコーディングやライブでサポート・ボーカルをしていた元[[ポータブル・ロック]]の[[野宮真貴]]を3代目ボーカルに迎える。野宮は、正式加入以前からコーラス等で参加。CBS・ソニー最後のリリースとなったシングル「[[ラヴァーズ・ロック]]」(後にTokyo's Coolest Soundに発展)にボーカルとして参加している。高浪慶太郎が「高浪敬太郎」に改名。 [[1991年]]、高浪敬太郎コンボ&オーケストラ(野宮参加・小西も2曲参加、「大人になりましょう」の[[プロトタイプ]]となる曲も収録)として5月21日に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系[[テレビドラマ]]「[[学校へ行こう! (テレビドラマ)|学校へ行こう!]]」の[[サウンドトラック]]CD『[[学校へ行こう! オリジナル・サウンドトラック 〜Hi,guys! Let me teach you]]』発売を皮切りに、6月から8月まで3枚の[[コンパクト盤|ミニ・アルバム]]『[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ|最新型のピチカート・ファイヴ]]』『[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ|超音速のピチカート・ファイヴ]]』『[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ|レディメイドのピチカート・ファイヴ]]』そして9月発売のフル・アルバム『[[女性上位時代 (アルバム)|女性上位時代]]』に至るまで5か月間にわたり「5-4-3-2-1 count down to extacy」と銘打った連続リリース攻勢を仕掛けた。 [[1993年]]、4月発売の「[[SWEET SOUL REVUE]]」<ref name="週刊文春 1993年9月9日号" />は、[[カネボウ化粧品]]「[[REVUE]]」シリーズ春のキャンペーンソングという大型[[タイアップ]]を掴み、スマッシュ・ヒット<ref name="週刊文春 1993年9月9日号" />。バンド名が広く知れ渡るきっかけの楽曲となった。同年6月発売アルバム『[[ボサ・ノヴァ2001]]』([[小山田圭吾]]と共同プロデュース)は[[オリコンチャート]]で最高7位を獲得。12月リリースシングル「[[東京は夜の七時]]」(タイトルは矢野顕子の曲から引用)が、別ヴァージョンながらフジテレビ系『[[ウゴウゴルーガ]]2号』のオープニング曲に採用され更に知名度を高め、一気に一流アーティストの仲間入りを果たした。 [[1994年]]、ミニ・アルバム『5×5』をアメリカのマタドールレコード(Matador Records) からリリースして[[北アメリカ|北米]]デビュー。次作アルバム『MADE in USA』も全世界での売上が20万枚に達した。 同年9月、アルバム『[[オーヴァードーズ (アルバム)|Overdose]]』リリース発表直前に高浪が脱退。その後、2001年の解散まで小西・野宮の2人体制で活動していくことになった。 [[1995年]]2月からはアメリカおよび[[ヨーロッパ]]の14都市でツアーを行い、成功を収める。3月に初の[[ベスト・アルバム]]『[[ピチカート・ファイヴTYO〜Big Hits and Jet Lags 1991-1995]]』をリリース。 [[1996年]]3月に発売されたシングル「[[ベイビィ・ポータブル・ロック]](ポータブル・ロックは、かつて野宮の所属したユニット名)」([[日産・ミストラル]][[コマーシャルソング|CMソング]])がヒットを記録。12月に発売されたシングル「[[メッセージ・ソング]]」は発売された月から翌年1月までの2か月間、[[日本放送協会|NHK]]の音楽番組『[[みんなのうた]]』で放送された(その後も数回放送されている)。 [[1997年]]、小西によって新[[レコードレーベル|レーベル]]「*********(readymade) records,tokyo」を設立。、アルバム『[[ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド]]』、ベスト・アルバム『[[ピチカート・ファイヴJPN〜Big Hits and Jet Lags 1994-1997]]』のほか、[[レコード|アナログ盤]]作品や[[リミックス]]アルバムのリリース、ライブなど順調に活動を重ねた。11月発表シングル「大都会交響楽」が、[[セガサターン]]用ソフト(後に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]へも移植)「[[クロス探偵物語]]」([[1998年]][[6月25日]]発売)のテーマソングとして起用された。 [[1998年]]1月、[[筒美京平]]作曲「恋のルール・新しいルール」、7月にミディアム[[バラード]]調の「きみみたいにきれいな女の子」、9月に[[ザ・コレクターズ]]の[[加藤ひさし]]を[[フィーチャリング]]した(実態的には野宮との[[デュエット]])「ウィークエンド」と立て続けにシングルがリリース。10月からの新番組『[[サタスマ]]』の音楽を小西が手がける事になり、[[主題歌|エンディングテーマ]]に、同月発売の同名アルバム『[[プレイボーイ プレイガール (アルバム)|プレイボーイ プレイガール]]』(CD、限定[[LP盤]])のタイトル曲が採用され11月18日に[[リカット]]。[[コーナードラマ]]『[[少年頭脳カトリ]]』オープニング・テーマ(未発売)も「野宮真貴と野宮真貴(ピチカート・ファイヴ)」名義で担当。 アルバム『[[プレイボーイ プレイガール (アルバム)|プレイボーイ プレイガール]]』発売以降、日本コロムビアが立ち上げたJ-POP部門のレコード会社 HEAT WAVE(ヒートウェーブ)が発売元となり、2001年の同社[[清算]]までの作品は【********* records,tokyoレーベル、発売元:株式会社ヒートウェーブ、販売元:日本コロムビア株式会社】という形態となった。 [[1999年]]に発売のミニ・アルバムに形態の近いシングルCDは、「[[JBL (企業)|JBL]] maxisonic series」<ref>{{Cite web|title=JBL Maxisonic Series|url=https://www.discogs.com/ja/label/405447-JBL-Maxisonic-Series|website=Discogs|accessdate=2021-11-30}}</ref>と銘打ち、4月に「darlin' of discotheque [[レコード#レコードの諸形態|e.p.]]」、7月「nonstop to tokyo e.p.」10月「パーフェクト・ワールド」を相次いでリリース。11月には20世紀最後となるアルバム『[[ピチカート・ファイヴ (アルバム)|PIZZICATO FIVE]]』リリース。 === 末期・各々のアーティストによるフィーチャリング === [[2000年]]2月、readymade recordsのアーティストによる[[コンピレーション・アルバム|コンピレーション盤]]を発売、7月に野宮がソロCD、8月に小西[[プロデュース]]による「[[慎吾ママのおはロック]]」発売、[[ミリオンセラー]]を記録。9月、[[松崎しげる|シゲル・マツザキ]]と[[YOU THE ROCK★]]を[[フィーチャリング]]したシングル「[[東京の合唱(ピチカート・ファイヴのシングル)|東京の合唱]]」を発売、東京を一種のブランドテーマとしたプロデュースに傾斜。9月30日、『[[女性上位時代]]』〜『[[ロマンティーク96]]』までのSEVEN GODS・TRIADレーベル時代のオリジナル・アルバム5作がジャケット新調で再発売。11月、クリスマス・ソング・シングルであり、ラストシングル「12月24日」を発売、同年のクリスマスまで[[ウィルコム#H"(エッジ)|feel H"]]とタイアップしたCM([[梅宮アンナ]]出演)が[[プライムタイム|ゴールデンタイム]]を中心に放映された。「12月24日」と同時に[[ミュージック・ビデオ|MV]]集「readymade TV Volume.3」がPIZZICATO FIVE初のDVDとして発売。 [[2001年]][[1月1日]]、21世紀最初でリリースされたラストアルバムとなる『[[さ・え・ら ジャポン]]』をリリース。東京から視野を広げ日本をテーマとしたありとあらゆる楽曲が詰め込まれた本作は、「東京の合唱」でフィーチャーしたシゲル・マツザキ・YOU THE ROCK★、[[雪村いづみ]]・[[デューク・エイセス]]、南佳孝、[[ふかわりょう|ロケットマン(ふかわりょう)]]、[[横山剣]]([[クレイジーケンバンド]])、[[クレモンティーヌ]]、[[イマクニ?]]、[[ハナレグミ]]、ピエール・バルーなどの豪華なゲストを[[フィーチャリング]]した事でも高い評価を受けた。 === 解散発表 === 2001年3月14日、[[3月31日]]を以て「ピチカート・ファイヴを解散する」旨がreadymade records,tokyoから発表。 解散の理由は小西曰く、「『さ・え・ら ジャポン』の出来が、ゲストの力を借りる形で今までになく素晴らしい出来上がりで、解散するなら(最高の状態の)今かな」とのこと。野宮も小西が「ピチカート・ファイヴでやりたいことは全てやり尽くした」<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2022/06/post-1047807.html |title=野宮真貴が振り返る、ピチカート解散以降に訪れた転機の出会い 川勝正幸、フェルナンダ・タカイらとの意欲的な音楽制作 |website=Real Sound |date=2022-06-25 |accessdate=2022-11-02}}</ref>と言及していた。 これに関しては「元祖[[渋谷系]]が終止符を打つ」などの内容で、一般紙だけでなく[[朝日新聞]]など[[全国紙]]の文化面でも報じられた。 3月31日、ベスト・アルバム『[[Pizzicato Five R.I.P.〜Big Hits and Jet Lags 1998-2001]]』をリリース。 同日、かつてのメンバー田島・高浪、および大勢のゲストを招いてオールナイト敢行のラスト・ライブ(通称「お葬式」ライブ)を開催、解散。 17年間の活動に終止符を打った。 結果的に1999年から2001年3月末の解散までの間に12種のCD・LP盤を1か月から3か月のハイ・ペースで立て続けにリリースした。 === 解散後から現在 === [[2001年]]6月、日本コロムビア在籍時代のシングルA面楽曲を全曲収録した2枚組CD『[[シングルス (ピチカート・ファイヴのアルバム)|シングルス]]』発売。 解散1年後の[[2002年]]3月31日、[[トリビュート・アルバム]]『[[戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-]]』が発売。[[曽我部恵一]]、[[ORIGINAL LOVE]]、[[キリンジ]]、[[RIP SLYME]]、[[市川実和子]]、[[夏木マリ]]、[[水森亜土]](既発曲)、[[和田アキ子]](既発曲)が参加。 [[2004年]]、結成20年を迎える。日本コロムビア在籍時代の映像作品をDVDで再発売。CBS・ソニー在籍時代のベスト・アルバム、オリジナル・アルバムの再発売盤リリース。 [[2005年]]、小西は[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]とプロデュース契約した。「columbia*readymade」レーベルを設立。ピチカート・ファイヴの解散から5年経った2006年3月31日、同レーベルより日本コロムビア時代のオリジナル・ベスト・ライブ・アルバムの再発盤をリリース。小西がアートディレクションしたジャケットがあしらわれ、[[ライナーノーツ]]の構成がオリジナルと幾分異なる作品も存在する。同レーベルの第一弾アーティスト、[[野本かりあ]]がピチカート・ファイヴの代表曲「[[東京は夜の七時]]」をカバー(歌詞、アレンジを変更)。 [[2019年]]、小西が新たに「自分がDJするときに使いやすい形で作ったという感じでエディットした」<ref>{{Cite web|和書|url=https://ototoy.jp/feature/2019110901/ |title=対談 : 小西康陽 x クボタタケシ ── 1990年代のピチカート・ファイヴと、DJと |website=ototoy |date=2019-11-09 |accessdate=2022-10-15}}</ref>『[[THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001]]』発売発表に合わせウェブサイト<ref>{{Cite web |url=https://columbia.jp/pizzicatofive/#top |title=THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001 |publisher=日本コロムビア |date=2019-10 |accessdate=2019-12-07}}</ref>をリニューアル。小西による楽曲解説を順次公開。7inch BOX(11月3日)及びCD・配信(11月6日)でリリース(形態によりエディットが異なる)。11月6日、[[YouTube]]にて最新音源での12曲のMVの配信開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/354373 |title=ピチカート・ファイヴ12本のMVを最新音源で、ポータブル・ロックのアナログも |website=音楽ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2019-11-06 |accessdate=2021-09-12}}</ref>。 [[2021年]]9月22日、『配信向けのピチカート・ファイヴ』と題し、9月<ref>{{Cite web|和書|title=配信向けのピチカート・ファイヴ その1 高浪慶太郎の巻 {{!}} ディスコグラフィ {{!}} PIZZICATO FIVE(ピチカート・ファイヴ) {{!}} 日本コロムビアオフィシャルサイト|url=https://columbia.jp/artist-info/pizzicato/discography/COKM-43497.html|website=日本コロムビア公式サイト|accessdate=2021-11-30}}</ref>(高浪編)・10月20日<ref>{{Cite web|和書|title=配信向けのピチカート・ファイヴ その2 小西康陽の巻 {{!}} ディスコグラフィ {{!}} PIZZICATO FIVE(ピチカート・ファイヴ) {{!}} 日本コロムビアオフィシャルサイト|url=https://columbia.jp/artist-info/pizzicato/discography/COKM-43498.html|website=日本コロムビア公式サイト|accessdate=2021-11-30}}</ref>(小西編)・11月17日<ref>{{Cite web|和書|title=配信向けのピチカート・ファイヴ その3 野宮の巻 {{!}} ディスコグラフィ {{!}} PIZZICATO FIVE(ピチカート・ファイヴ) {{!}} 日本コロムビアオフィシャルサイト|url=https://columbia.jp/artist-info/pizzicato/discography/COKM-43499.html|website=日本コロムビア公式サイト|accessdate=2021-11-30}}</ref>(野宮編)の3か月連続配信リリース<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/443657 |title=ピチカート・ファイヴの配信プロジェクト始動、第1弾「高浪慶太郎の巻」で13曲を初配信 |website=音楽ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2021-09-03 |accessdate=2021-09-19}}</ref>。11月24日、『配信向けのピチカート・ファイヴ』3作品から厳選した、2枚組CD『[[高音質のピチカート・ファイヴ]]』をリリース<ref>{{Cite web|和書|title=2枚組CD『高音質のピチカート・ファイヴ』(11/24発売)収録曲決定! {{!}} PIZZICATO FIVE(ピチカート・ファイヴ) {{!}} 日本コロムビアオフィシャルサイト|url=https://columbia.jp/artist-info/pizzicato/info/77167.html|website=日本コロムビア公式サイト|accessdate=2021-11-30}}</ref>。11月27日、7インチ・レコード『[[東京の合唱/プレイボーイ・プレイガール]]』をリリース<ref>{{Cite web|和書|title=東京の合唱/プレイボーイ・プレイガール【アナログ】 {{!}} ディスコグラフィ {{!}} PIZZICATO FIVE(ピチカート・ファイヴ) {{!}} 日本コロムビアオフィシャルサイト|url=https://columbia.jp/artist-info/pizzicato/discography/COKA-90.html|website=日本コロムビア公式サイト|accessdate=2021-11-30}}</ref>。 === エピソード === [[1998年]]発売アルバム『[[プレイボーイ プレイガール (アルバム)|プレイボーイ プレイガール]]』初回限定盤、1999年発売CD(JBL maxisonic series)は紙製変形ケース仕様。 2000年「東京の合唱」から2001年『[[さ・え・ら ジャポン|さ・え・らジャポン]]』までの3枚のCD、初のDVD作品『readymade TV Volume.3』は紙製のトール・ケース仕様。 高さの関係から通常の縦置きのままでは棚に収まらず、横に倒し出っ張らせた状態で陳列せざるを得ない店舗が多々あったことで話題になった。 [[アメリカ合衆国]]で放送されたアニメ『[[フューチュラマ (アニメ)|フューチュラマ]]』第4期・第5話「Leela's Homeworld」ラストで、「Baby Love Child」が挿入歌として使用されている。 == ディスコグラフィー == === シングル === {| class="wikitable" style="font-size: 83%;" |- ! !発売日 !タイトル !規格品番 !備考 |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[ノン・スタンダード]]''' |- |1st |[[1985年]][[8月21日]] |オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス |12NS-1003 | |- |2nd |[[1986年]][[1月21日]] |イン・アクション |12NS-1007 | |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]''' |- |3rd |[[1990年]][[6月21日]] |[[ラヴァーズ・ロック (ピチカート・ファイヴの曲)|ラヴァーズ・ロック]] |CSDL-3131 | |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[日本コロムビア]]''' |- |4th |[[1993年]][[4月7日]] |[[SWEET SOUL REVUE|スウィート・ソウル・レヴュー]] |CODA-159 |ファンクラブ「ピチカートマフィア」の発足を告知 |- |5th |1993年[[12月1日]] |[[東京は夜の七時]] |CODA-281 | |- |6th |[[1994年]][[4月21日]] |[[ハッピー・サッド]] |CODA-406 |アナログシングルのカップリングは「Side B」 |- |7th |1994年[[7月21日]] |[[スーパースター (ピチカート・ファイヴの曲)|スーパースター]] |CODA-463 | |- |8th |1994年[[10月21日]] |[[陽の当たる大通り]] |CODA-510 | |- |9th |[[1995年]][[10月21日]] |[[悲しい歌]] |CODA-729 | |- |10th |[[1996年]][[3月20日]] |[[ベイビィ・ポータブル・ロック]] |CODA-909 | |- |11th |1996年[[12月21日]] |[[メッセージ・ソング]] |CODA-1093 | |- |12th |[[1997年]][[3月1日]] |[[イッツ・ア・ビューティフル・デイ/愛のテーマ]] |CODA-1164 | |- |13th |1997年[[6月21日]] |[[モナムール東京]] |CODA-1214 | |- |14th |1997年[[10月10日]] |[[PORNO 3003]] |COCA-14517 |岸田今日子による「黒い十人の女」リバイバル上映のトレイラーが収録。12cmCD。 |- |15th |1997年[[11月1日]] |[[大都会交響楽]] |CODA-1388 | |- |16th |[[1998年]][[1月21日]] |[[恋のルール・新しいルール]] |CODA-1404 | |- |17th |1998年[[7月18日]] |[[きみみたいにきれいな女の子]] |CODA-1585 | |- |18th |1998年[[9月19日]] |[[ウィークエンド (ピチカート・ファイヴの曲)|ウィークエンド]] |CODA-1614 | |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[日本コロムビア#レーベル|HEAT WAVE]]''' |- |19th |1998年[[11月18日]] |[[プレイボーイ・プレイガール]] |CODA-50002 | |- |20th |[[1999年]][[4月21日]] |[[ダーリン・オブ・ディスコティックe.p.]] |COCA-50068 |12cmCD |- |21st |1999年[[7月17日]] |[[ノンストップ・トゥ・トーキョーe.p.]] |COCA-50119 |12cmCD |- |22nd |1999年[[10月21日]] |[[パーフェクト・ワールド (ピチカート・ファイヴ)|パーフェクト・ワールドe.p.]] |CODA-50174 | |- |23rd |[[2000年]][[9月27日]] |[[東京の合唱 (ピチカート・ファイヴ)|東京の合唱]] |COCA-50384 |12cmCD |- |24th |2000年[[11月22日]] |[[12月24日 (ピチカート・ファイヴの曲)|12月24日]] |COCA-50429 |12cmCD、ラストシングル |} === オリジナル・アルバム === {| class="wikitable" style="font-size: 83%;" |- ! !発売日 !タイトル !規格品番 !備考 |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]''' |- |1st |1987年[[4月1日]] |[[couples]] |32DH-637<br />(再発盤)MHCL-363 | |- |2nd |1988年[[9月21日]] |[[Bellissima!]] |32DH-5126<br />(再発盤)MHCL-364 | |- |3rd |1989年[[7月21日]] |[[女王陛下のピチカート・ファイヴ]] |32DH-5279<br />(再発盤)MHCL-365 | |- |4th |1990年[[5月21日]] |[[月面軟着陸]] |CSCL-1149<br />(再発盤)MHCL-366 |第2版以降、奥田民生が参加した「これは恋ではない」が未収録。 |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[日本コロムビア]]''' |- |5th |1991年[[9月1日]] |[[女性上位時代 (アルバム)|女性上位時代]] |COCA-7575<br />(再発盤)COCP-50891 | |- |6th |1992年[[9月21日]] |[[SWEET PIZZICATO FIVE]] |COCA-10178<br />(再発盤)COCP-50892 |レディメイドのロゴが初めて記載されたアルバム。当時は、ラバーメイド社のロゴを引用。 |- |7th |1993年[[6月1日]] |[[ボサ・ノヴァ2001]] |COCA-10837<br />(再発盤)COCP-50894 | |- |8th |1994年[[10月1日]] |[[オーヴァードーズ (アルバム)|オーヴァードーズ]] |COCA-11999<br />(再発盤)COCP-50895 | |- |9th |1995年[[9月30日]] |[[ロマンティーク96]] |COCA-1288<br />(再発盤)COCP-50897 | |- |10th |1997年[[6月21日]] |[[ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド]] |COCA-14242<br />(再発盤)COCP-50898 | |- |11th |1998年[[10月1日]]<br /> |[[プレイボーイ プレイガール (アルバム)|プレイボーイ プレイガール]] |COCP-30054<br />(再発盤)COCP-50900 | |- | colspan="5" style="text-align: center" |'''[[日本コロムビア#レーベル|HEAT WAVE]]''' |- |12th |1999年[[11月20日]] |[[ピチカート・ファイヴ (アルバム)|ピチカート・ファイヴ]] |COCP-50186<br />(再発盤)COCP-50901 | |- |13th |2001年[[1月1日]] |[[さ・え・ら ジャポン]] |COCP-50460<br />(再発盤)COCP-50902 |ラストアルバム |} === ベスト・アルバム/コンピレーション・アルバム === {| class="wikitable" style="font-size: 83%;" |- !発売日 !タイトル !規格品番 !備考 |- | colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;"| '''[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]''' |- |1987年[[7月21日]] |ピチカートマニア! |30CH-253 |ノン・スタンダード時代のベスト・アルバム |- |1995年[[11月22日]] |ノン・スタンダードのピチカート・ファイヴ |TECN-22333/4 |85年・86年にノン・スタンダードに残した12インチ・シングル2枚を完全復刻。CD2枚組。 |- | colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''[[ソニー・ミュージックレコーズ|ソニー・レコード]]''' |- |1995年[[11月1日]] |[[ANTIQUE 96]] |SRCL 3370 |CBS・ソニー期のベスト・アルバム |- | colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''[[日本コロムビア]]''' |- |1995年[[3月1日]] |[[ピチカート・ファイヴTYO〜Big Hits and Jet Lags 1991-1995]] |COCA-12414<br />(再発盤)COCP-50896 |コロムビア初期、1991-1995期のベスト・アルバム |- |1997年[[12月10日]] |[[ピチカート・ファイヴJPN〜Big Hits and Jet Lags 1994-1997]] |COCA-14715<br />(再発盤)COCP-50899 |コロムビア中期、1994-1997期のベスト・アルバム |- |2001年[[3月31日]] |[[Pizzicato Five R.I.P.〜Big Hits and Jet Lags 1998-2001]] |COCP-50488<br />(再発盤)COCP-50903 |コロムビア〜HEAT WAVEの後期、1998-2001期のベスト・アルバム |- |2001年[[6月21日]] |[[シングルス (ピチカート・ファイヴのアルバム)|シングルス]] |COCP-50630/1<br />(再発盤)COCP-50904/5 |コロムビア楽曲のシングル・コレクション。CD2枚組。 |- | colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''[[インペリアルレコード (日本)|インペリアルレコード]]'''<br />(テイチクにより新設) |- |2001年[[7月25日]] |pizzicato five'85 | |「ピチカートマニア!」リマスタリング+別テイク収録 |- | colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックダイレクト]]'''<br />(ソニー・ミュージックエンタテインメントより事業分業) |- |[[2004年]][[4月28日]] |[[THE BAND OF 20TH CENTURY:Sony Music Years 1986-1990]] |MHCL 361/2 |CBS・ソニー期の総括的ベスト・アルバム。2枚組。 |- | colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''[[日本コロムビア]]'''<br />(2006年のみコロムビアミュージックエンタテインメント) |- | rowspan="2" |2006年[[3月31日]] |[[ピチカート・ファイヴ・アイ・ラヴ・ユー]] |COCP-50906 |小西康陽選曲によるベスト・アルバム |- |[[ピチカート・ファイヴ・ウィ・ラヴ・ユー]] |COCP-50918 |平林伸一選曲によるベスト・アルバム |- |2019年[[11月3日]](EPレコード) 2019年[[11月6日]](CD) |[[THE BAND OF 20TH CENTURY:Nippon Columbia Years 1991-2001]] |EPレコード:COKA-70/85<br />CD:COCP-40957/8 |小西康陽監修・選曲によるピチカートファイヴ最新型の16枚の7inch BOX・2CD・配信(形態によりエディットが異なる)。 |- |2021年[[9月22日]](配信限定) |[[配信向けのピチカート・ファイヴ その1 高浪慶太郎の巻]] |COKM-43497 | rowspan="3" |[[音楽配信]]限定による[[ベスト・アルバム]] |- |2021年[[10月20日]](配信限定) |[[配信向けのピチカート・ファイヴ その2 小西康陽の巻]] |COKM-43498 |- |2021年[[11月17日]](配信限定) |[[配信向けのピチカート・ファイヴ その3 野宮の巻]] |COKM-43499 |- |2021年[[11月24日]] |[[高音質のピチカート・ファイヴ]] |COCP-41652/3 |配信限定アルバム『配信向けのピチカート・ファイヴ』3作品からのコンピレーション |} === リミックス・アルバム === すべて日本コロムビア(2006年のみコロムビアミュージックエンタテインメント)からリリース {| class="wikitable" style= "font-size:90%;" !発売日 !タイトル !規格品番 !備考 |- |1993年[[11月1日]] |[[EXPO 2001]] |COCA-11243 |全9曲入 |- |1993年[[12月21日]] |[[FREE SOUL 2001]] |COJA-9154/5 |初回生産限定盤 アナログ2枚組で発売 |- |1996年[[6月21日]] |[[宇宙組曲]] |COCA-13433<br />COJA-9183 |初回生産限定盤 CD・アナログで発売 |- |1999年[[11月20日]] |[[Pizzicato Five VS Darlin'of Discotheque]] |COJA-50198 |初回生産限定盤  アナログで発売 |- |2000年[[3月18日]] |[[REMIXES 2000]] |COCP-50255 |全7曲入 |- |2001年[[12月21日]] |[[Pizzicato Five in the mix]] |COCP-50669 |[[須永辰緒]]によるリミックスCD |- |2006年[[5月24日]] |[[ピチカート・ファイヴ・ウィ・ディグ・ユー]] |COCP-50928 |小西康陽監修[[カットアップ]]リミックスCD |} === その他のアルバム === {| class="wikitable" style= "font-size: 81%;" |- !発売日 !タイトル !規格品番 !備考 |- |colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''日本コロムビア''' |- |1991年[[5月21日]] |[[フジテレビ]]系[[テレビドラマ|ドラマ]]「[[学校へ行こう! (テレビドラマ)|学校へ行こう!]]」[[サウンドトラック]] |COCA-7558 | |- |1991年[[6月1日]] |[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ#最新型のピチカート・ファイヴ|最新型のピチカート・ファイヴ]] |COCA-5132 |rowspan="3" | ※[[コンパクト盤|ミニ・アルバム]]<br />2006年3月31日、columbia*readymadeから他アルバムが再発された際、これら3枚のミニ・アルバムは『[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ]]』として1枚にコンパイルされた。規格品番:COCP-50890 |- |1991年[[7月1日]] |[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ#超音速のピチカート・ファイヴ|超音速のピチカート・ファイヴ]] |COCA-5133 |- |1991年[[8月1日]] |[[最新型の/超音速の/レディメイドのピチカート・ファイヴ#レディメイドのピチカート・ファイヴ|レディメイドのピチカート・ファイヴ]] |COCA-5134 |- |1993年[[3月21日]] |[[インスタント・リプレイ]] |COCA-10650<br />(再発盤)COCP-50893 |※[[ライブ・アルバム]] |- |1993年[[7月1日]] |[[スーヴニール2001]] |COCA-10897 |※完全初回生産限定盤<br />アルバム『[[ボサ・ノヴァ2001]]』のスペシャルパッケージ盤([[コロちゃんパック]])。<br />「[[SWEET SOUL REVUE|スウィート・ソウル・レビュー]]」「ソフィスティケイテッド・キャッチー」の2曲が入っていない代わりに野宮真貴による『ボサ・ノヴァ2001』発売告知が入っている。 |- |1994年[[2月10日]] |[[ウゴウゴ・ルーガのピチカート・ファイヴ]] |COCA-11506 |※フジテレビ系「[[ウゴウゴ・ルーガ]]」サウンドトラック。<br />コロちゃんパック仕様でカセット・テープも発売。 |- |1996年[[6月21日]] |[[フリーダムのピチカート・ファイヴ]] |COCA-13434<br />COJA-9184 |※初回生産限定盤、CD・アナログで発売 |- |1996年[[10月1日]](完全限定仕様)<br />1996年[[10月19日]](通常盤) |[[great white wonder〜rare masters 1990-1996]] |COCA-13713(完全限定仕様)<br />COCA-13739(通常盤) |※日本コロムビア移籍後の未発表・レアトラック集 |- |[[2002年]][[3月31日]] |[[戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-]] |RMCA-1002 |※[[トリビュート・アルバム]] |- |colspan="4" style="text-align: center; background-color: #ffffff;" | '''ソニー・レコード''' |- |1995年[[11月1日]] |[[a quiet couple]] |SRCL-3372 |『[[couples]]』[[器楽曲|Instrumental]]盤 |} === VHS・DVD === すべて日本コロムビア(「動く女性上位時代」〜「readymade TV volume three」までのDVD再発盤、「HAPPY END OF THE BAND」はコロムビアミュージックエンタテインメント)より {| class="wikitable" style="font-size: 80%;" |- !発売日 !タイトル !規格品番 !備考 |- |1991年[[11月21日]] |動く女性上位時代 |(DVD)COBA-50781 | rowspan="4" |VHS/DVD(再発盤) |- |1992年[[7月1日]] |ミス・ピチカート・ファイヴ・スーパースター |(DVD)COBA-50782 |- |1994年[[7月21日]] |readymade TV volume one |(DVD)COBA-50783 |- |1998年[[1月21日]] |readymade TV volume two |(DVD)COBA-50784 |- |2000年[[11月22日]] |readymade TV volume three |(DVD)COBA-50785 |DVD版のジャケット写真は[[雷門]]、VHS版は[[太陽の塔]]。 |- |2004年[[3月31日]] |HAPPY END OF THE BAND:PIZZICATO FIVE [[BSフジ]]・スタジオ・ラスト・セッションズ |COBA-50786 |DVD |} === その他 === * キッズチャレンジのテーマ(NHK、[[キッズチャレンジ]])<ref>{{NHK放送史|D0009042561_00000|キッズチャレンジ}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=萩原健太 |authorlink=萩原健太 |title=傍流ポップスへの偏愛…その姿勢がロック的なピチカート・ファイヴ |journal=[[ミュージック・マガジン]] |year=1987 |month=4 |issue=1987年5月号 |pages=62-65 |publisher=ミュージックマガジン |ref={{sfnref|ミュージック・マガジン 1987年5月号}} }} * {{Cite journal|和書|title=CATCH UP 世の中にはスウィートやキャッチーがいっぱいあるよね |year=1993 |month=8 |publisher=[[文藝春秋]] |journal=[[週刊文春]] |issue=1993年9月9日号 |ref={{sfnref|週刊文春 1993年9月9日号}} }} * {{Cite book|和書|others=木村ユタカ 監修 |title=ジャパニーズ・シティ・ポップ |date=2002-09-29 |publisher=[[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコー・ミュージック]] |series=ディスク・ガイド・シリーズ No.10 |isbn=978-4401617739 |page=146 |ref={{sfnref|ジャパニーズ・シティ・ポップ}} }} * {{Cite book|和書|author=Light Mellow Attendants |others=金澤寿和 監修 |title=Light Mellow 和モノ669 <small>Including city pops, J-AOR, Japanese mellow groove and more...</small> |date=2004-01-21 |publisher=[[マイナビ|毎日コミュニケーションズ]] |series=MYCOMムック |isbn=978-4839912598 |page=204 |ref={{sfnref|Light Mellow 和モノ669}} }} == 関連項目 == * [[渋谷系]] == 外部リンク == * [https://columbia.jp/~pizzicato/ Pizzicato Five] - 日本コロムビア ** [https://columbia.jp/artist-info/pizzicato/discography/ discography] - 日本コロムビアでのディスコグラフィ * [https://www.sonymusic.co.jp/artist/PizzicatoFive/ ピチカート・ファイヴ] - ソニー・ミュージックによるアーティストページ * [https://readymade-shopping.stores.jp/ readymade entertainmentオフィシャルサイト] * [https://web.archive.org/web/19961222021553/http://www.clark.net/pub/fan/pizz.html fan page] * {{Facebook|PizzicatoFive}} * {{YouTube|channel = UCtjXXkN5-5Ntqj5gkh7RABA/|PIZZICATO FIVE Official}} {{ピチカート・ファイヴ}} {{細野晴臣}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひちかあとふあいふ}} [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:インディー・ポップ・バンド]] [[Category:渋谷系]] [[Category:テイチクエンタテインメントのアーティスト]] [[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]] [[Category:日本コロムビアのアーティスト]] [[Category:1984年に結成した音楽グループ]] [[Category:2001年に解散した音楽グループ]] [[Category:2人組の音楽グループ]]
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スポーツの日 (日本)
スポーツの日(スポーツのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。10月の第2月曜日。 1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を「体育の日(たいいくのひ)」に定め国民の祝日とし、2000年(平成12年)から移動祝日になり、2020年(令和2年)に現在の名称に改称した。 日本の移動祝日の中では、1年のうち最後の祝日である。日本の祝日では、初めての英語由来の片仮名の名称である。 1966年(昭和41年)に「体育の日」として制定され、制定当初から1999年(平成11年)までは10月10日、2000年(平成12年)以降は10月の第2月曜日とされていた。 2018年(平成30年)6月20日に国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)が改正され、2020年(令和2年)1月1日に施行されたことで、体育の日が「スポーツの日」に変更された。 同法でスポーツの日の趣旨は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」とされている。 1961年(昭和36年)に公布されたスポーツ振興法では、10月の第1土曜日を「スポーツの日」に制定していた。 1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を、1966年(昭和41年)に「体育の日」に定め国民の祝日とした。これに伴い、スポーツ振興法で定めたスポーツの日は体育の日に改められた。最初の体育の日である1966年(昭和41年)10月10日は、月曜日だった。 2000年(平成12年)から、国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成10年法律第141号)によって「ハッピーマンデー制度」が適用され、体育の日は10月の第2月曜日となった。 超党派の国会議員でつくるスポーツ議員連盟により、2016年(平成28年)に「体育の日」を「スポーツの日」に変更する検討が始められ、2017年(平成29年)には改正法案の国会提出が準備された。「スポーツ」は、「体育」より広い意味を持ち、自発的に楽しむことを含意することが変更の理由とされる。 2018年(平成30年)6月13日に改正祝日法が参議院本会議で可決・成立し、2020年(令和2年)1月1日付で「体育の日」は「スポーツの日」へと改められることが決定した。また、その趣旨も、体育の日の「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」から、「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」に改められた。 また、「スポーツの日」は史上初めてカタカナ用語の入った祝日で、英語の名称による祝日である。 「体育」を「スポーツ」に改める動きは、スポーツの日に限ったものではなく、2018年(平成30年)4月1日には日本体育協会が日本スポーツ協会に名称を変更している。また、改正祝日法と同日に可決・成立した改正スポーツ基本法では、「国民体育大会」を2023年から「国民スポーツ大会」に改称することが定められている。 2020年は東京オリンピック・パラリンピックが開催されることに伴い、同年に限り、東京五輪・パラリンピック特措法により、スポーツの日は東京オリンピックの開会式の当初の予定日だった7月24日(金曜日)に変更された。海の日も同特措法により7月23日(木曜日)に移動されたため、続く土曜日・日曜日を含め4連休となった。なお、東京オリンピックはその後新型コロナウイルス感染拡大のため翌年に延期されたが、これによる2020年の祝日の再変更はされずそのまま実施された。これにより、1965年(昭和40年)以来、55年ぶりに10月は祝日のない月となった。また、2021年(令和3年)は令和三年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法により、1年延期された東京オリンピックの開会式の予定日の7月23日(金曜日)にこの年に限り変更された。海の日も前日の7月22日(木曜日)に移動されたため、前年に引き続き土曜日・日曜日を含め4連休となった。もしもオリンピックが2022年(令和4年)に再延期となった場合は、7月22日(金曜日)に変更、海の日も前日の7月21日(木曜日)に移動し、3年連続で土曜日・日曜日を含め4連休となる予定だった。 なお、2021年は特別措置法の法改正が2020年11月末に成立したため、既に印刷が始まっていた一部のカレンダーや手帳では祝日の移動などの修正が反映されないまま、市場に流通した。この事を受けて、日本政府が同年10月11日は平日である旨をTwitterなどで呼び掛ける事態になった。
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スポーツの日(スポーツのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。10月の第2月曜日。 1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われた10月10日を「体育の日(たいいくのひ)」に定め国民の祝日とし、2000年(平成12年)から移動祝日になり、2020年(令和2年)に現在の名称に改称した。 日本の移動祝日の中では、1年のうち最後の祝日である。日本の祝日では、初めての英語由来の片仮名の名称である。
{{Redirect|体育の日|芸人|寺田体育の日}} [[ファイル:Yoshinori Sakai 1964c.jpg|thumb|[[1964年]](昭和39年)に[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[1964年東京オリンピックの開会式|開会式]]が行われたことから、体育の日が制定された。]] {{国民の祝日}} '''スポーツの日'''(スポーツのひ)は、[[日本]]の[[国民の祝日]]の一つである。[[10月]]の第2月曜日。 [[1964年]](昭和39年)に[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[1964年東京オリンピックの開会式|開会式]]が行われた[[10月10日]]を「'''体育の日'''(たいいくのひ)」に定め[[国民の祝日]]とし、[[2000年]]([[平成]]12年)から[[移動祝日]]<ref group="注">[[ハッピーマンデー制度]]が適用される祝日及び[[春分の日]]、[[秋分の日]]。</ref>になり、[[2020年]]([[令和]]2年)に現在の名称に改称した。 日本の[[移動祝日]]の中では、1年のうち最後の祝日である。日本の祝日では、初めての[[英語]]由来の[[片仮名]]の名称である。 == 概要 == [[1966年]](昭和41年)に「'''体育の日'''」として制定され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/premium/entertainment/news/202209270000287.html|title=【あの日あの紙面】10月10日「体育の日」を検証、王、具志堅、金田、カラーTV…|publisher=日刊スポーツ|date=2022-10-10|accessdate=2023-10-07}}</ref>、制定当初から[[1999年]](平成11年)までは[[10月10日]]、[[2000年]]([[平成]]12年)以降は[[10月]]の第2[[月曜日]]とされていた。 2018年(平成30年)6月20日に[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)が改正され、2020年(令和2年)1月1日に施行されたことで、体育の日が「'''スポーツの日'''」に変更された。 同法でスポーツの日の趣旨は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」とされている。 == 沿革 == === スポーツ振興法による「スポーツの日」の制定 === [[1961年]](昭和36年)に公布された[[スポーツ基本法#スポーツ振興法|スポーツ振興法]]では、10月の第1土曜日を「スポーツの日」に制定していた<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AE%E6%97%A5-84875 |title=スポーツの日 |work=デジタル大辞泉 |publisher=コトバンク |accessdate=2019-10-21 }}</ref>。 === 「体育の日」の制定 === [[1964年]](昭和39年)に[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[1964年東京オリンピックの開会式|開会式]]が行われた[[10月10日]]を、[[1966年]](昭和41年)に「体育の日」に定め[[国民の祝日]]とした{{refnest|group="注"|10月10日が東京地方で「晴れの[[特異日]]」であることから、1964年東京オリンピックの開会式が催された<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.kishou.go.jp/camp/0410.pdf |title=気象庁キャンペーン資料(平成16年) 平成16年10月号 |publisher=気象庁 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060210101741/http://www.kishou.go.jp/camp/0410.pdf |archivedate=2005-12-18 |accessdate=2019-10-21 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://weathernews.jp/s/topics/201610/100085/ |title=10月10日は晴れやすい!? |publisher=ウェザーニュース |date=2016-10-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180813164043/https://weathernews.jp/s/topics/201610/100085/ |archivedate=2018-08-13 |accessdate=2019-10-21 }}</ref>が、1959年(昭和34年)発行の『気象学ハンドブック』では、10月の晴れの特異日は14日とされている<ref>{{Cite web|和書 |url=http://homepage1.nifty.com/tenki/weather/10oct.html |title=10月10日は晴れの特異日? |publisher=湘南お天気相談所 |author=三浦郁夫 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140718103328/http://homepage1.nifty.com/tenki/weather/10oct.html |archivedate=2014-07-18 |accessdate=2019-10-21 }}</ref>}}。これに伴い、スポーツ振興法で定めたスポーツの日は体育の日に改められた<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19660922001/t19660922001.html |title=総青第二〇五号・文体体第二一三号 体育の日について |publisher=総理府総務副長官・文部事務次官通達 |date=1961-09-22 |accessdate=2019-10-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061008042657/http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19660922001/t19660922001.html |archivedate=2006-10-08 }}</ref>。最初の体育の日である1966年(昭和41年)10月10日は、月曜日だった。 [[2000年]](平成12年)から、国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成10年法律第141号)によって「[[ハッピーマンデー制度]]」が適用され、体育の日は10月の第2[[月曜日]]となった。 ===「スポーツの日」への名称変更 === 超党派の国会議員でつくるスポーツ議員連盟により、2016年(平成28年)に「体育の日」を「スポーツの日」に変更する検討が始められ<ref>{{cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASJ1T5CQ6J1TUTQP00W.html|title=体育の日、スポーツの日に変わるかも 初のカタカナ祝日|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2016-01-26}}</ref>、[[2017年]](平成29年)には改正法案の国会提出が準備された<ref>{{cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170428/k00/00m/010/021000c|title=体育の日 名称「スポーツの日」に 改正法案を今秋提出へ|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2017-04-27|accessdate=2017-09-27}}</ref>。「スポーツ」は、「体育」より広い意味を持ち、自発的に楽しむことを含意することが変更の理由とされる<ref>{{cite news|url=https://www.daily.co.jp/general/2017/01/01/0009796358.shtml|title=体育協会名称「スポーツ協会」へ 変更検討、体育の日も|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2017-01-01|accessdate=2017-01-01}}</ref>。 2018年(平成30年)6月13日に改正祝日法が参議院本会議で可決・成立し、2020年(令和2年)1月1日付で「体育の日」は「スポーツの日」へと改められることが決定した<ref name="nikkei20180613">{{cite news|title=東京五輪前後に3祝日移動 改正法成立、渋滞を緩和|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2018-06-13|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31696030T10C18A6CR0000/|accessdate=2018-06-13|work=日経電子版}}</ref>。また、その趣旨も、体育の日の「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」から、「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」に改められた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g19601029.htm|title=国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案|publisher=衆議院|accessdate=2019-10-21}}</ref>。 また、「スポーツの日」は史上初めてカタカナ用語の入った祝日で、[[英語]]の名称による祝日である。 「体育」を「スポーツ」に改める動きは、スポーツの日に限ったものではなく、2018年(平成30年)4月1日には日本体育協会が[[日本スポーツ協会]]に名称を変更している<ref>{{cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL3Y4G7DL3YUTQP00W.html|title=「日本体育協会」→「日本スポーツ協会」に名称変更|newspaper=朝日新聞|date=2018-03-29}}</ref>。また、改正祝日法と同日に可決・成立した改正[[スポーツ基本法]]では、「[[国民体育大会]]」を2023年から「国民スポーツ大会」に改称することが定められている<ref name=nikkei20180613 />。 2020年は[[2020年東京オリンピック・パラリンピック|東京オリンピック・パラリンピック]]が開催されることに伴い、同年に限り、[[令和三年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法|東京五輪・パラリンピック特措法]]により、スポーツの日は[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[2020年東京オリンピックの開会式|開会式]]の当初の予定日だった7月24日(金曜日)に変更された<ref name="nikkei20180613" />。[[海の日]]も同特措法により7月23日(木曜日)に移動されたため、続く土曜日・日曜日を含め4連休となった。なお、東京オリンピックはその後[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]のため翌年に延期されたが、これによる2020年の祝日の再変更はされずそのまま実施された。これにより、1965年(昭和40年)以来、55年ぶりに10月は祝日のない月となった。また、[[2021年]](令和3年)は令和三年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法により、1年延期された東京オリンピックの開会式の予定日の7月23日(金曜日)にこの年に限り変更された<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.kantei.go.jp/jp/headline/tokyo2020/shukujitsu.html| title=2021年の祝日移動について | work=[[首相官邸]] 内閣官房 東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局| accessdate=2020-12-13}}</ref>。海の日も前日の[[7月22日]](木曜日)に移動されたため、前年に引き続き土曜日・日曜日を含め4連休となった。もしもオリンピックが[[2022年]](令和4年)に再延期となった場合は、7月22日(金曜日)に変更、海の日も前日の[[7月21日]](木曜日)に移動し、3年連続で土曜日・日曜日を含め4連休となる予定だった。 なお、2021年は特別措置法の法改正が2020年11月末に成立したため、既に印刷が始まっていた一部の[[カレンダー]]や[[手帳]]では祝日の移動などの修正が反映されないまま、市場に流通した。この事を受けて、[[日本国政府|日本政府]]が同年10月11日は平日である旨を[[Twitter]]などで呼び掛ける事態になった<ref>{{Cite web|和書|title=10月11日は「平日」です 五輪で祝日移動、注意を|url=https://web.archive.org/web/20211009072133/https://nordot.app/819464545199472640?c=39546741839462401|website=共同通信|date=2021-10-09|accessdate=2021-10-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=10月11日は「平日」 「カレンダーにご注意を」政府も発信 |url=https://www.asahi.com/articles/ASPB97F8RPB9UTIL01D.html |website=朝日新聞 |accessdate=2021-10-11 |date=2021-10-10 |deadlinkdate=2023年10月5日}}</ref>。 == スポーツの日(体育の日)に開催されている行事 == * [[出雲全日本大学選抜駅伝]] - 例年、この日に開催されている<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.izumo-ekiden.jp/about/ |title=出雲駅伝とは |publisher=出雲全日本大学選抜駅伝競走 |accessdate=2019-10-21 }}</ref>(1994年<ref group="注">1994年は[[1994年アジア競技大会|広島アジア大会]]との日程の重複を避けるため、例外的に開会式前日の10月1日に開催された。</ref>、2020年{{refnest|group=注|2020年はスポーツの日が7月24日に移動したことで10月の第2月曜日が平日となったため、第2日曜日の10月11日開催予定とされていた<ref>{{cite news |url=https://hochi.news/articles/20191014-OHT1T50173.html |title=出雲駅伝、来年は10月第2日曜日開催 フジテレビ競馬優先でスタート時間も変更へ |work=スポーツ報知 |date=2019-10-14 }}</ref>。実際には[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]にともない駅伝自体が中止となっている。}}、2021年を除く)。 * [[フォーミュラ1|F1]][[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]] - この時期の開催が多い{{refnest|group="注"|2013年は当初10月6日に設定したが、JAFの申請により体育の日を含む3連休内の10月13日になった<ref>{{cite news |url=http://www.as-web.jp/past/2013%E5%B9%B4f1%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%80%82%E6%97%A5%E6%9C%ACgp%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%A8%8B%E5%A4%89%E6%9B%B4?all |title=2013年F1カレンダーが発表。日本GPが日程変更 |work=オートスポーツweb |date=2012-09-29 }}</ref>。}}。 * [[マイルチャンピオンシップ南部杯]] - 1995年以降開催日はスポーツの日(体育の日)に固定されている(2020年と2021年を除く)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[1964年東京オリンピックのレガシー]] == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou/kaku.html#sports 各「国民の祝日」について - 内閣府] {{デフォルトソート:すほおつのひ}} [[Category:日本の祝日]] [[Category:10月の記念日]] [[Category:スポーツの文化]] [[Category:1964年東京オリンピック]] [[Category:1966年設立]]
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10月10日
10月10日(じゅうがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から283日目(閏年では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。 日本記念日協会によると、同協会が認定した10月10日の記念日は63件あり、8月8日に次いで2番目に多い日となっている(2023年11月現在)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "10月10日(じゅうがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から283日目(閏年では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本記念日協会によると、同協会が認定した10月10日の記念日は63件あり、8月8日に次いで2番目に多い日となっている(2023年11月現在)。", "title": "記念日・年中行事" } ]
10月10日(じゅうがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から283日目(閏年では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。
{{Redirect|十月十日|妊娠期間を示す十月十日(とつきとおか)|妊娠}} {{カレンダー 10月}} '''10月10日'''(じゅうがつとおか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から283日目([[閏年]]では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。 == できごと == [[File:Battle of Karbala (Without written version).jpg|サムネイル|[[カルバラーの戦い]]におけるヤズィード軍団とフセイン軍団の位置。]] [[File:Bataille de Poitiers.jpg|thumb|upright|[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]。[[カール・マルテル]]が[[ウマイヤ朝]]軍を退ける(732)]] [[File:Wuchangqiyi paobing.JPG|thumb|upright|[[辛亥革命]]の発端となった[[武昌起義]](1911)。総督府を砲撃する新軍砲兵]] [[File:TokyoOlympics1964Opening.jpg|thumb|upright|第18回[[夏季オリンピック]]が東京で開催(1964)]] [[File:Ibis KIN.JPG|thumb|upright|最後の日本[[トキ]]、[[キン (トキ)|キン]]死す(2003)]] * [[680年]] - [[カルバラーの戦い]]。 * [[732年]] - [[トゥール・ポワティエ間の戦い]]。 * [[1780年]] - [[1780年のグレートハリケーン]]がバルバドス周辺海域を通過。カリブ海の諸島で死者約2万人を出す、歴史上最悪の被害を出したハリケーンとなる。 * [[1882年]] - [[日本銀行]]が開業。 * [[1911年]] - [[武漢市|武漢三鎮]]で革命軍が蜂起([[武昌起義]])。[[辛亥革命]]が勃発。 * 1911年 - [[香港]]初の鉄道[[東鉄線]]が開業。 * [[1913年]] - [[袁世凱]]が初代[[中華民国大総統]]に就任。 * [[1916年]] - [[第一次世界大戦]]:[[第八次イゾンツォの戦い]]。 * 1916年 - [[立憲同志会]]・[[公友倶楽部]]・[[中正会]]が合同し[[憲政会]]を結成。 * [[1919年]] - [[中華革命党]]が[[中国国民党]]に改組し、[[孫文]]が総理に就任。 * [[1922年]] - [[銚子電気鉄道]]が[[銚子市]]に銚子鉄道株式会社として開業。 * [[1925年]] - [[北京]]で故宮博物院開設。 * [[1933年]] - [[ユナイテッド航空機チェスタートン爆破事件]]が発生。 <!-- enには[[:en:Double Tenth Incident]](双十事件?)というのが載っているが(シンガポールで日本の憲兵隊が云々)、手元の資料には載ってない。 --> * [[1941年]] - 国鉄[[深名線]]が全通。 * [[1943年]] - [[アピ事件]]。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]:[[アメリカ合衆国|米]]軍が[[沖縄本島]]を初空襲、[[那覇市]]の9割を焼失し死者548人。([[十・十空襲]]) * [[1945年]] - [[朝鮮労働党]]が結成される。 * [[1945年]] - [[中国国民党]]と[[中国共産党]]が[[双十協定]]を締結。 * 1945年 - [[GHQ|連合国軍最高司令官総司令部]]の命令に基づき、この日までに戦前・戦中の全ての政治犯が釈放<ref>司法省、政治犯の即時釈放を通告(昭和20年10月7日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p317</ref>。[[徳田球一]]ら439人が釈放。 * 1945年 - [[日本]]政府が[[日本共産党]]を合法化。 * 1945年 - [[学童疎開|疎開学童]]の帰京が始まる。 * [[1951年]] - アメリカで[[相互安全保障法]](MSA)が成立。 * [[1952年]] - [[昭和天皇]]の第四皇女・[[池田厚子|順宮厚子内親王]]と[[池田隆政]]が結婚。 * [[1954年]] - [[光文社]]が新書判の『[[カッパ・ブックス]]』の刊行を開始。 * [[1955年]] - [[1950年]][[7月2日]]に焼失した[[鹿苑寺]](金閣寺)が再建され落慶法要。 * [[1957年]] - [[ウィンズケール原子炉火災事故]]おこる。 * [[1962年]] - [[ボクシング]]の[[ファイティング原田]]がタイの[[ポーン・キングピッチ]]を11回[[ノックアウト|KO]]で破り、世界[[フライ級]]チャンピオンに。日本人では2人目で、世界フライ級では史上最年少。 * [[1963年]] - [[部分的核実験停止条約]]が発効。 * [[1964年]] - 第18回[[夏季オリンピック]]・[[1964年東京オリンピック|東京大会]]が開幕([[10月24日]]まで)。 * [[1966年]] - 「[[体育の日]]」施行。 * [[1967年]] - [[宇宙条約]]が発効。 * 1967年 - 新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])建設のための外郭測量用の杭打ち警護に[[機動隊]]が出動([[成田空港問題]]) <!-- 確認できず * [[1969年]] - [[ベトナムに平和を!市民連合|べ平連]]など市民団体が学生・労働者と統一行動デモ。 --> * [[1969年]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[金田正一]]が[[日本プロ野球]]史上初の400勝を達成。 * [[1970年]] - [[フィジー]]が[[イギリス]]から独立。 * 1970年 - [[ケベック州]]労働相{{仮リンク|ピエール・ラポルト|en|Pierre Laporte}}が[[ケベック解放戦線]]のメンバーに誘拐される。同月17日遺体で発見。 * [[1971年]] - [[日本放送協会|NHK]]が[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]の全放送時間をカラー化。 * [[1972年]] - [[鉄道]]開業100周年を記念して[[京都市]]に[[梅小路蒸気機関車館]]が開館。 * [[1973年]] - [[スピロ・アグニュー]]が州知事時代の収賄容疑により、[[ジョン・カルフーン]]以来史上二人目の[[アメリカ合衆国副大統領|米副大統領]]辞任。 * [[1974年]] - [[蔵前国技館]]で[[アントニオ猪木]]が[[バックドロップ]]で[[大木金太郎]]を破り、[[NWF世界ヘビー級王座]]防衛。 * [[1975年]] - [[パプアニューギニア]]が[[国際連合]]に加盟。 * [[1976年]] - [[具志堅用高]]が[[ファン・ホセ・グスマン]]を破り、世界[[ライトフライ級|ジュニアフライ級]]王座を獲得。 <!-- * [[1977年]] - [[歌声喫茶]]の草分けである[[新宿]]の「灯」が閉店。 --> * [[1981年]] - 『[[オレたちひょうきん族]]』レギュラー放送開始。 * [[1986年]] - [[エルサルバドル]]で[[マグニチュード|M]] 5.6の地震。規模が小さいにも拘らず約1200名の死者を出した。 * [[1990年]] - [[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の[[野茂英雄]]がシーズン2桁奪三振試合21回の日本記録を達成。 * [[1997年]] - [[新国立劇場]]が開場。 * [[2003年]] - 日本産の最後の[[トキ]]・[[キン (トキ)|キン]]が死に、日本産のトキが絶滅。 * [[2004年]] - [[リトアニア]]で[[2004年リトアニア議会選挙|議会選挙]]が実施。左派諸党派が勝利。 * [[2006年]] - 仙台・金沢・堺など17地域で、[[ご当地ナンバー]]を導入。 * [[2008年]] - [[大和生命保険]]が[[更生特例法]]申請を[[東京地方裁判所|東京地裁]]に提出し、破産の手続きを開始。 * [[2017年]] - [[カタルーニャ独立宣言]]:[[カルラス・プッチダモン]]州首相が独立宣言に署名し、直後に凍結を宣言<ref>{{Cite web|和書 |date=2017-10-11 |url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8628.php |title=カタルーニャ州首相、正式な独立宣言延期 スペイン中央政府と協議へ |publisher=ニューズウィーク日本版 |accessdate=2017-11-03}}</ref>。 === 日本の自治体改編 === * [[1932年]] - [[東京市]]が隣接する5郡82町村を編入。現在の[[特別区|東京23区]]とほぼ同じ市域になる。 * [[1948年]] - 栃木県[[鹿沼市]]が市制施行。 * [[1954年]] - 山梨県[[韮崎市]]、福岡県[[行橋市]]が市制施行。 * [[2005年]] - [[新潟県]][[巻町]]が[[新潟市]]に編入される。 == 誕生日 == [[File:Cavendish Henry signature.jpg|thumb|120px|[[イギリス]]の[[化学者]][[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]](1731-1810)誕生。[[水素]]を発見し、水を[[化合物]]と示した]] [[File:Giuseppe Verdi by Giovanni Boldini.jpg|thumb|120px|[[作曲家]][[ジュゼッペ・ヴェルディ]](1813-1901)誕生。{{audio|Marie Rappold performing O Patria Mia from Aida.ogg|オペラ『アイーダ』より“おおわが故郷(O patria mia)”を聴く}}]] [[File:Shungaku Matsudaira.jpg|thumb|120px|[[福井藩]]主[[松平春嶽]](1828-1890)誕生。幕末期の幕政に参与]] {{multiple image | footer = [[国際連盟]]にて初代[[国際連合難民高等弁務官事務所|難民高等弁務官]]を務めた[[フリチョフ・ナンセン]](1861-1930)誕生。右は戦争難民に発行した“[[ナンセン・パスポート]]” | image1 = Fridtjof Nansen LOC 25031u.jpg | width1 = 100 | alt1 = フリチョフ・ナンセン | image2 = No-nb bldsa 6e001.jpg | width2 = 100 | alt2 = ナンセン・パスポート }} [[File:Kan Naoto.jpg|thumb|120px|第94代[[内閣総理大臣]][[菅直人]](1946-)誕生]] * [[1684年]] - [[アントワーヌ・ヴァトー]]、[[画家]](+ [[1721年]]) * [[1726年]]([[享保]]11年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[松平親盈]]、[[杵築藩|杵築藩主]](+ [[1801年]]) * [[1731年]] - [[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]、[[化学者]](+ [[1810年]]) * 1731年(享保16年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[松平信有]]、[[吉井藩|吉井藩主]](+ [[1793年]]) * [[1738年]] - [[ベンジャミン・ウエスト]]、画家(+ [[1820年]]) * [[1769年]]([[宝暦]]9年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[大村純鎮]]、[[大村藩|大村藩主]](+ [[1814年]]) * [[1777年]]([[安永 (元号)|安永]]6年9月10日) - [[酒井忠道]]、[[姫路藩|姫路藩主]](+ [[1837年]]) * [[1813年]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ]]、[[作曲家]](+ [[1901年]]) * [[1791年]]([[寛政]]3年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[松平定永]]、[[白河藩|白河藩主]]、[[桑名藩|桑名藩主]](+ [[1838年]]) * [[1828年]]([[文政]]11年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[松平春嶽]]、[[福井藩|福井藩主]](+ [[1890年]]) * [[1830年]] - [[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]、[[スペイン]][[女王]](+ [[1904年]]) * [[1845年]]([[弘化]]2年9月10日) - [[内藤正誠]]、[[岩村田藩|岩村田藩主]](+ [[1880年]]) * [[1858年]]([[安政]]5年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]) - [[佐竹義理]]、[[岩崎藩|岩崎藩主]](+ [[1914年]]) * [[1861年]] - [[フリチョフ・ナンセン]]、[[探検家]]、[[国際連盟]]初代難民高等弁務官(+ [[1930年]]) * [[1873年]] - [[アドルフ・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク]]、探検家、植民地政治家(+ [[1969年]]) * [[1878年]] - [[オットー・ヘス (野球)|オットー・ヘス]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1926年]]) * [[1888年]] - [[ヴィクトール・パリモフ]]、画家(+ [[1929年]]) * [[1889年]] - [[ハン・ファン・メーヘレン]]、画家、画商(+ [[1947年]]) * [[1895年]] - [[林語堂]]、[[文学者]]、[[言語学者]]、[[評論家]](+ [[1976年]]) * [[1898年]] - 堀米[[日淳]]、僧侶(+ [[1959年]]) * [[1899年]] - [[千島喜久男]]、[[生物学|生物学者]](+ [[1978年]]) * [[1900年]] - [[ヘレン・ヘイズ]]、[[俳優|女優]](+ [[1993年]]) * [[1901年]] - [[アルベルト・ジャコメッティ]]、[[彫刻家]](+ [[1966年]]) * [[1905年]] - [[田中千禾夫]]、[[劇作家]](+ [[1995年]]) * [[1906年]] - [[エマーソン・スペンサー]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1985年]]) * [[1909年]] - [[金田利雄]]、政治家、銀行家(+ [[1998年]]) * [[1911年]] - [[本名武]]、[[政治家]](+ [[1994年]]) * [[1915年]] - [[伏見信子]]、女優(+ 没年不明) * 1915年 - [[ジャン・ゴットマン]]、[[地理学者]](+ [[1994年]]) * [[1917年]] - [[セロニアス・モンク]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[1982年]]) * [[1921年]] - [[手塚明治]]、プロ野球選手(+ [[2018年]]) * [[1922年]] - [[安居玉一]]、プロ野球選手(+ [[2002年]]) * [[1923年]] - [[杉浦竜太郎]]、プロ野球選手(+ [[1994年]]) * [[1924年]] - [[エド・ウッド]]、[[映画監督]](+ [[1978年]]) * [[1925年]] - [[根津弘司]]、元プロ野球選手 * [[1927年]] - [[琴ヶ濱貞雄]]、元[[大相撲]][[力士]]、[[大関]](+ [[1981年]]) * [[1928年]] - [[羽仁進]]、[[映画監督]] * [[1930年]] - [[野坂昭如]]、[[小説家]](+ [[2015年]]) * 1930年 - [[ハロルド・ピンター]]、劇作家(+ [[2008年]]) * [[1932年]] - [[高千穂ひづる]]、元女優(+ [[2016年]]) * [[1934年]] - [[岩橋邦枝]]、作家(+ [[2014年]]) * [[1935年]] - [[倉橋由美子]]、小説家(+ [[2005年]]) * [[1937年]] - [[佐々木勲]]、元プロ野球選手 * 1937年 - [[ブサイナ・ビント・タイムール]]、王族 * [[1938年]] - [[森山大道]]、写真家 * [[1939年]] - [[田中勉 (野球)|田中勉]]、元プロ野球選手 * [[1940年]] - [[石井郁子]]、政治家、教育学者 * 1940年 - [[早田卓次]]、元体操選手 * [[1944年]] - [[渚まゆみ]]、女優 * [[1946年]] - [[菅直人]]、政治家、第94代[[内閣総理大臣]] * 1946年 - [[荒戸源次郎]]、映画プロデューサー(+ [[2016年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20161108/k00/00m/040/044000c|title=訃報:荒戸源次郎さん70歳=映画製作「どついたるねん」|publisher=毎日新聞|date=2016-11-07|accessdate=2020-11-27}}</ref>) * 1946年 - [[チャールズ・ダンス]]、俳優 * 1946年 - [[荒木泰臣]]、政治家(+ [[2023年]]) * [[1948年]] - [[シリル・ネヴィル]]、ミュージシャン * [[1949年]] - [[林家染丸 (4代目)|林家染丸]]、落語家 * 1949年 - [[ロイヤル小林]]、元プロボクサー * [[1953年]] - [[ミッジ・ユーロ]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[1954年]] - [[宗次郎]]、[[ミュージシャン]] * 1954年 - [[デイヴィッド・リー・ロス]]、ミュージシャン([[ヴァン・ヘイレン]]) * [[1955年]] - [[むつ利之]]、[[漫画家]] * 1955年 - [[アミノテツロー]]、アニメーション演出家 * 1955年 - [[植松精一]]、元プロ野球選手 * [[1957年]] - [[高橋留美子]]、漫画家 * [[1959年]] - [[アイヴァー・ノイマン]]、[[政治学者]] * [[1960年]] - [[エリック・マーティン]]、ミュージシャン * 1960年 - [[萩奈穂美]]、女優 * 1960年 - [[福島絵美]]、アナウンサー * [[1961年]] - [[ジョディ・ベンソン]]、女優、声優 * 1961年 - [[バイ・リン]]、女優 * 1961年 - [[佛田洋]]、特撮監督 * 1961年 - [[山本拓夫]]、スタジオミュージシャン * 1961年 - [[ドリーン・ボイド]]、モデル * [[1962年]] - [[風見しんご]]、[[タレント]] * 1962年 - [[宮崎哲弥]]、[[評論家]] * 1962年 - [[藤川孝幸]]、[[サッカー選手]]、指導者(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20181120/865807.html|title=元V川崎のGK藤川孝幸氏が逝去…56歳、胃がんからの“完全復活”叶わず|publisher=サッカーキング|date=2018-11-20|accessdate=2020-12-09}}</ref>) * [[1963年]] - [[アニタ・ムイ]]、歌手(+ [[2003年]]) * [[1964年]] - [[住吉義則]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[ToshI]]、ミュージシャン([[X JAPAN]]) * 1965年 - [[比企理恵]]、女優 * [[1966年]] - [[サイード・ビン・スルール]]、[[調教師]] * [[1966年]] - [[キャロライン・ベルトッツィ]]、化学生物学者 * [[1967年]] - [[岡幸二郎]]、ミュージカル俳優 * 1967年 - [[北野勝則]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[波多野鷹]]、小説家 * [[1968年]] - [[広田一]]、政治家 * [[1969年]] - [[おたっきぃ佐々木]]、ラジオディレクター * 1969年 - [[ブレット・ファーヴ]]、元[[アメリカンフットボール]]選手 * [[1970年]] - [[森内俊之]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]] * 1970年 - [[aki (男性歌手)|aki]]、歌手(+ [[2023年]])  * 1970年 - [[村上睦子]]、元バスケットボール選手 * [[1971年]] - [[エフゲニー・キーシン]]、[[ピアニスト]] * [[1972年]] - [[晴山さおり]]、[[歌手]] * 1972年 - [[河北通]]、[[騎手]] * 1972年 - [[安部まみこ]]、元[[アナウンサー]]、記者 * 1972年 - [[楠見朋彦]]、作家 * 1972年 - [[高村和宏]]、[[アニメーション]][[演出家]] * 1972年 - [[マイク・ホルツ]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[モリノリ久]]、声優 * [[1973年]] - [[小沢一敬]]、[[お笑いタレント]]([[スピードワゴン]]) * 1973年 - [[TAICHI MASTER]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]・[[音楽プロデューサー]] * [[1975年]] - [[イーサーン (ミュージシャン)|イーサーン]]、ミュージシャン * 1975年 - [[プラシド・ポランコ]]、元プロ野球選手 * [[1976年]] - [[パット・バレル]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[中野真矢]]、オートバイレーサー * 1977年 - [[アルベルト・チゾーラ]]、[[バレーボール]]選手 * 1977年 - [[徳住有香]]、フリーアナウンサー * [[1978年]] - [[シャドウ・リュウ]]、女優 * [[1979年]] - [[佐藤仁美]]、女優 * 1979年 - [[川久保賜紀]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1979年 - [[ノルベルト・ゴンサレス]]、野球選手 * [[1980年]] - [[小谷野栄一]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[相沢しの]]、元[[グラビアアイドル]] * 1980年 - 久保田賢治、お笑いタレント([[5GAP]]) * [[1981年]] - [[那須大亮]]、元[[サッカー選手]] * [[1982年]] - [[中野大輔]]、元[[体操選手]] * 1982年 - [[タチアナ・フィロワ]]、[[陸上選手]] * 1982年 - [[竹内梢]]、[[アナウンサー]] * 1982年 - [[ダン・スティーヴンス]]、俳優 * 1982年 - [[馬暁東]]、フィギュアスケート選手 * [[1983年]] - [[井手正太郎]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[蜜樹みこ]]、漫画家 * [[1984年]] - [[栗山千明]]、女優、歌手 * 1984年 - [[トロイ・トゥロウィツキー]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[近藤しづか]]、ファッションモデル * 1984年 - [[前原あい]]、グラビアアイドル * 1984年 - [[細貝圭]]、俳優 * [[1985年]] - [[ヨエニス・セスペデス]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[エカテリーナ・ルブレワ]]、元[[フィギュアスケート]]選手 * [[1986年]] - [[秋山優]]、元タレント * 1986年 - [[アンドリュー・マカッチェン]]、プロ野球選手 * 1986年 - [[西秋愛菜]]、女優 * [[1987年]] - [[若竹竜士]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[☆ぴょんぴょん☆]]、アイドル、お笑いタレント * [[1988年]] - [[大石達也 (野球)|大石達也]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[フェルナンド・マルティネス]]、元プロ野球選手 * 1988年 - 福田麻貴、お笑いタレント([[3時のヒロイン]])、元アイドル(元[[つぼみ大革命|つぼみ]]) * [[1989年]] - [[宮里美香]]、[[ゴルファー]] * [[1990年]] - [[野村麻純]]、女優 * [[1991年]] - [[マイケル・カーター=ウィリアムス]]、バスケットボール選手 * 1991年 - [[ジェルダン・シャチリ]]、サッカー選手 * 1991年 - [[ガブリエラ・チルミ]]、歌手 * [[1992年]] - [[藤本タツキ]]、漫画家 * 1992年 - [[山下リオ]]、ファッションモデル * [[1993年]] - [[木下雄介]]、プロ野球選手(+ [[2021年]]) * 1993年 - [[山本泰寛]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - [[丹羽孝希]]、卓球選手 * 1994年 - [[ペ・スジ]]、女優 * [[1995年]] - [[佐伯亮 (俳優)|佐伯亮]]、俳優 * 1995年 - [[大塚紗英]]、声優 * 1995年 - [[椎野新]]、プロ野球選手 * 1995年 - [[宮川哲]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[松川星]]、女優 * 1996年 - [[岸田行倫]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[ルーク・ワカマツ]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[伊藤克 (野球)|伊藤克]]、元プロ野球選手 * [[1997年]] - [[劉昊然]]、俳優 * 1997年 - [[津留﨑大成]]、プロ野球選手 * 1997年 - [[木村柾哉]]、アイドル([[INI]])、元ダンサー * [[1998年]] - [[小木田敦也]]、プロ野球選手 * [[2000年]] - [[佐野雄大]]、アイドル(INI) * 2000年 - [[劉揚揚|ヤンヤン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * [[2004年]] - [[松生理乃]]、フィギュアスケート選手 * [[2005年]] - [[南みゆか]]、アイドル([[OS☆U#O₂|O₂]]、元[[OS☆U#OS☆K|OS☆K]]) * [[2006年]] - [[高比良由菜]]、ファッションモデル * 生年不明 - [[春日萌衣]]、声優 * 生年不明 - [[加乃みるく]]、声優 * 生年不明 - [[田村奈央]]、声優 * 生年不明 - [[福米ともみ]]、漫画家 === 人物以外(動物など) === * [[2003年]] - [[カイくん]]、[[ソフトバンク]]の[[白戸家|お父さん]]犬(+ [[2018年]]) == 忌日 == [[File:Taro Katsura.jpg|thumb|120px|「ニコポン宰相」[[桂太郎]](1848-1913)没]] {{multiple image | footer = 風刺画家[[ジョルジュ・ビゴー]](1860-1927)没。明治日本の風刺画を数多く描いた | image1 = Bigot1882.jpg | width1 = 100 | alt1 = ジョルジュ・ビゴー | image2 = Une-Partie-De-Peche-Rus-Jpn-Qing-Dispute-Korea-Feb-15-1887.png | width2 = 100 | alt2 = 「魚釣り遊び」 }} {{multiple image | image1 = Koun Takamura cropped.jpg | width1 = 100 | caption1 = 彫刻家[[高村光雲]](1854-1932)没 | alt1 = 高村光雲 | image2 = Itaya Hazan.jpg | width2 = 100 | caption2 = 陶芸家[[板谷波山]](1872-1963)没 | alt2 = 板谷波山 }} {{multiple image | footer = 同年同日に死去した名優。『[[ネレトバの戦い (映画)|ネレトバの戦い]]』(1969)で共演 | image1 = Orson Welles 1937.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[オーソン・ウェルズ]](1915-1985) | alt1 = ウェルズ | image2 = S.Kragujevic, Yul Brynner in Sarajevo,1969.JPG | width2 = 100 | caption2 = [[ユル・ブリンナー]](1920-1985) | alt2 = ブリンナー }} * [[19年]] - [[ゲルマニクス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Germanicus Germanicus Roman general] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ローマ帝国]]の軍人(* [[紀元前15年]]) * [[645年]]([[大化]]元年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[古人大兄皇子]]、[[飛鳥時代]]の[[皇族]] * [[680年]] - [[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・イブン・アリー]]、[[イスラム教]][[シーア派]]第3代[[イマーム]](* [[626年]]) * [[1022年]]([[治安 (元号)|治安]]2年9月12日) - [[当子内親王]]、[[三条天皇]]第一皇女、[[伊勢斎宮]](* [[1001年]]) * [[1518年]]([[永正]]15年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[尼子政久]]、[[武将|戦国武将]](* [[1488年]]?) * [[1614年]]([[慶長]]19年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]) - [[千少庵]]、[[茶道|茶人]]、[[千利休]]の養子、[[三千家]]の祖(* [[1546年]]) * [[1659年]] - [[アベル・タスマン]]、[[探検家]](* [[1603年]]) * [[1731年]]([[享保]]16年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[松平正容]]、第3代[[会津藩|会津藩主]](* [[1669年]]) * [[1806年]] - [[ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセン (1772-1806)|ルイ・フェルディナント]]、[[プロイセン王国]]の王族(* [[1772年]]) * [[1816年]]([[文化 (元号)|文化]]13年[[閏]][[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[徳川治紀]]、[[常陸国]][[水戸藩]]の第7代藩主(* [[1773年]]) * [[1825年]] - [[ドミトリー・ボルトニャンスキー]]、[[作曲家]](* [[1751年]]) * [[1836年]] - [[マーサ・ワシントン・ジェファーソン]]、[[アメリカ合衆国のファーストレディ]](* [[1772年]]) * [[1851年]] - [[カール・フォン・ドライス]]、[[発明家]](* [[1785年]]) * [[1872年]] - [[ウィリアム・スワード]]、[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1801年]]) * [[1875年]] - [[アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ]]、[[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]](* [[1817年]]) * [[1883年]] - [[ジム・デブリン]]、[[プロ野球選手]](* [[1849年]]) * [[1889年]] - [[アドルフ・フォン・ヘンゼルト]]、作曲家、[[ピアニスト]](* [[1814年]]) * [[1893年]] - [[リップ・パイク]]、プロ野球選手(* [[1845年]]) * [[1902年]] - [[桂梅枝 (2代目)]]、[[落語家]](* [[1853年]]) * [[1913年]] - [[桂太郎]]、第11・13・15代[[内閣総理大臣]]、台湾協会学校(現 [[拓殖大学]])創立者(* [[1848年]]) * [[1914年]] - [[カロル1世 (ルーマニア王)|カロル1世]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]王(* [[1839年]]) * [[1916年]] - [[妻木頼黄]]、[[建築家]](* [[1859年]]) * [[1924年]] - [[ハルトフ・ハンバーガー]]、プロ野球選手(* [[1887年]]) * [[1927年]] - [[ジョルジュ・ビゴー]]、[[画家]]、[[漫画家]](* [[1860年]]) * 1927年 - [[グスターヴ・ホワイトヘッド]]、[[航空]]技術者(* [[1874年]]) * [[1930年]] - [[アドルフ・エングラー]]、[[植物学者]] (* [[1844年]]) * [[1932年]] - [[李奉昌]]、朝鮮独立運動家(* [[1900年]]) * [[1934年]] - [[高村光雲]]、[[彫刻家]](* [[1852年]]) * [[1936年]] - [[アントニオ・ホセ]]、作曲家(* [[1902年]]) * [[1944年]] - [[吉原正喜]]、プロ野球選手(* [[1919年]]) * [[1948年]] - [[勝田主計]]、[[大蔵大臣]]、[[文部大臣]](* [[1869年]]) * [[1955年]] - [[フレデリック・マサイアス・アレクサンダー]]、[[俳優]](* 1869年) * [[1963年]] - [[板谷波山]]、[[陶芸|陶芸家]](* [[1872年]]) * [[1964年]] - [[三遊亭志ん蔵]]、落語家(* [[1887年]]) * 1964年 - [[ゲンリフ・ネイガウス]]、[[ピアニスト]](* [[1888年]]) * [[1970年]] - [[エドゥアール・ダラディエ]]、[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1884年]]) * 1970年 - [[アダム・ラパツキ]]、[[ポーランド]]外相(* [[1909年]]) * [[1973年]] - [[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]]、[[経済学者]](* [[1891年]]) * [[1978年]] - [[ラルフ・メトカーフ]]、[[陸上競技]]選手、[[政治家]](* [[1910年]]) * [[1979年]] - [[ポール・パレー]]、[[指揮者]](* [[1886年]]) * [[1985年]] - [[オーソン・ウェルズ]]、映画監督、[[脚本家]]、俳優(* [[1915年]]) * 1985年 - [[ユル・ブリンナー]]、俳優(* [[1920年]]) * [[1990年]] - [[濃人渉]]、プロ野球選手(* 1915年) * [[1993年]] - [[望月潤一]]、プロ野球選手(* [[1918年]]) * [[2001年]] - [[ヴァシーリー・ミシン]]、宇宙工学者(* [[1917年]]) * [[2002年]] - [[横沢七郎]]、プロ野球選手(* [[1913年]]) * [[2003年]] - [[ユージン・イストミン]]、ピアニスト(* [[1925年]]) * 2003年 - [[エイラ・ヒルツネン]]、彫刻家(* [[1922年]]) * [[2004年]] - [[クリストファー・リーヴ]]、俳優(* [[1952年]]) * [[2005年]] - [[ミルトン・オボテ]]、[[ウガンダの大統領|ウガンダ大統領]](* [[1924年]]) * [[2007年]] - [[石本茂]]、[[環境庁長官]](* [[1913年]]) * [[2008年]] - 木暮安太郎、[[郷土史家]] (* [[1911年]]) * 2008年 - [[リーガル天才・秀才|リーガル秀才]]、[[漫才|漫才師]](*[[1926年]]) * [[2011年]] - [[中村芝翫 (7代目)|七世中村芝翫]]、[[歌舞伎役者]](* [[1928年]]) * 2011年 - [[浜崎昌弘]]、[[サッカー選手]](* [[1940年]]) * 2011年 - [[柳ジョージ]]、歌手(* [[1948年]]) * [[2013年]] - [[檀臣幸]]、声優(* [[1963年]]) * [[2015年]] - [[猿渡ゆか]]、女優、[[レポーター]](* [[1980年]]) * 2015年 - [[スティーヴ・マッケイ]]、音楽家(* [[1949年]]) * [[2016年]] - [[田中一成]]、声優(* [[1967年]]) * 2016年 - [[レオ・ベラネック]]、[[音響学]]研究者 (* [[1914年]]) * [[2018年]] - [[佐々淳行]]、[[警察庁|警察]]・[[防衛省|防衛]][[官僚]]、[[危機管理]][[評論家]](* [[1930年]]) === 人物以外(動物など) === * [[2003年]] - [[キン (トキ)|キン]]、日本産の最後の[[トキ]] == 記念日・年中行事 == * [[世界メンタルヘルスデー]] *: 世界精神衛生連盟が[[1992年]]に制定。[[世界保健機構]]が協賛する[[国際デー]]。 * 世界死刑廃止の日 *: [[2003年]]、[[死刑廃止世界連盟]]が設置。[[2007年]]、[[欧州連合]]、[[欧州評議会]]により公式認定。 * 双十節・[[中華民国国慶日]]({{ROC}}) *: [[1911年]]のこの日、[[清]]で[[辛亥革命]]が起きた。これにより清朝が崩壊し、翌年1月1日に中華民国が成立した。 * [[朝鮮労働党]]創建記念日({{PRK}}) * 国民連帯の記念日({{LUX}}) * 独立戦争開始記念日({{CUB}}) * フィジーデー({{FJI}}) *: [[1970年]]のこの日、フィジーが[[イギリス]]から独立した。 * 英雄の日({{RSA}}) *: [[トランスファール共和国]]の大統領であり、[[アフリカーナー]](ボーア人)の英雄である[[ポール・クリューガー]]の誕生日。[[アパルトヘイト]]時代の南アフリカでは、公的な祝日であったが、アパルトヘイトが廃止された後、1994年に廃止された。しかし、現在でも、アフリカーナーの町である[[オラニア]]では、この日を祝日としている。 ===日本=== [[日本記念日協会]]によると、同協会が認定した10月10日の記念日は63件あり、[[8月8日]]に次いで2番目に多い日となっている(2023年11月現在)<ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/5255 一般社団法人 日本記念日協会]</ref>。 <!-- 歴史から --> * 体育の日({{JPN}}、[[1966年]] - [[1999年]]、[[2005年]]・[[2011年]]・[[2016年]]) *: [[2000年]]以降は毎年10月第2月曜日([[2019年]]まで)。 * [[スポーツの日 (日本)|スポーツの日]]({{JPN}}、[[2022年]]) *: [[2020年]]に前述の体育の日から改名。2022年以降は毎年10月第2月曜日。 * [[マグロ]]の日({{JPN}}) *: [[726年]]のこの日、[[聖武天皇]]の伴で明石に赴いた[[山部赤人]]が、まぐろ漁を称えた歌を詠んだことにちなむ。日本かつお・まぐろ漁業協同組合連合会が制定。 * [[缶詰]]の日({{JPN}}) *: [[1877年]]のこの日、[[北海道]]石狩町(現在の[[石狩市]])において、日本最初の缶詰(中身は[[サケ]])が作られたことにちなむ。[[日本缶詰協会]]が制定。 <!-- 形のもじり --> * [[目の愛護デー]]({{JPN}}) *: 10月10日の「10・10」を横に倒すと眉と目の形に見えることから。中央盲人福祉協会が[[1931年]]に「視力保存デー」として制定し、戦後、厚生省(現[[厚生労働省]])が「目の愛護デー」と改称した。また、[[1963年]]に日本初の[[アイバンク]]・順天堂アイバンク([[順天堂大学]])と慶大眼球銀行([[慶應義塾大学]])が開設されたのもこの日である。 * [[盲導犬|アイメイト]]・デー({{JPN}}) *: 東京盲導犬協会(現在の[[アイメイト協会]])が[[1972年]]に制定。[[1971年]]のこの日に、同協会が東京都から財団法人として認められたことを記念。 * [[貯金箱]]の日({{JPN}}) *: 玩具メーカー5社による「貯金箱の日」制定委員会が[[2008年]]に制定。1をコインの投入口、0をコインに見立てたもの。 * 肉だんごの日({{JPN}}) *: 「10・10」の形が串とだんごを連想させることと、日本ではこの時期あたりから気温も下がり、本格的な[[鍋]]の季節となり消費も増えることから制定された。 * トッポの日({{JPN}}) *: [[ロッテ]]が自社のチョコレート菓子『[[トッポ (菓子)|トッポ]](Toppo)』をPRするために[[2002年]]に制定。商品の形が1と0で表せる事と、商品の語感から。 * [[ちくわぶ]]の日({{JPN}}) *: ちくわぶ料理研究家の[[丸山晶代]]と宮城県塩釜市の株式会社阿部善商店が共同で制定。ちくわぶの棒状の形と穴を1と0に見立てたもの。 * [[球根]]の日({{JPN}}) *: 総合園芸メーカーの「株式会社花の大和」が制定。1と0を縦につなげると球根から芽が出ているように見えることと、この頃から秋植え球根の植え時であることなどから。 * [[ポテトサラダ]]の日({{JPN}}) *: [[キユーピー]]グループのデリア食品株式会社が制定。北海道産のじゃがいもの収穫時期が10月で、ポテト=PoTaToのTaToが1010をイメージできること。また、ポテトサラダの主原料である人参、じゃがいも、きゅうり、玉ねぎを横に並べると1010に見えることから。 * 亀田の[[柿の種]]の日({{JPN}}) *: [[亀田製菓]]が制定。1が「柿の種」の種、0がピーナッツに見えることから。 <!-- 語呂合せ --> * 朝礼の日({{JPN}}) *: 株式会社コミニケ出版が10月10日を「朝礼の日」と制定したことを、一般社団法人日本記念日協会が2014年に認定。「朝=十+月+十+日」「礼→一礼一礼=1+0+1+0」の語呂合わせが由来で、企業で毎日行われる「朝礼」を活性化し、社員一人一人の「朝礼」に対する姿勢を見つめ直し、働く意識や意欲、礼儀やマナーの質を高めることを目的に制定。 * 銭湯の日({{JPN}}) *: 1010で「千十(せんとお)」と読む語呂合せ。[[東京都]][[江東区]]の公衆浴場商業協同組合が[[1991年]]に実施したのが始まりで、その後日本全国に広まった。 * [[釣り]]の日({{JPN}}) *: [[魚類|魚]]の異名の一つである「とと」の語呂合わせから。全日本釣り団体協議会と日本釣り振興会が制定。 * 冷凍めんの日({{JPN}}) *: 日本冷凍めん協会が[[2000年]]に制定。「れい(0)とう(10)」の語呂合せ<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://chouriryoku.jp/test/partner/150245|title=日本冷凍めん協会の紹介ページ:調理力で健康!プロジェクト|publisher=|accessdate=2016-03-03}}</ref>。 * 転倒予防の日({{JPN}}) *: 転倒予防医学研究会が制定。「てん(ten)とう(10)」の語呂合せ。 * [[トマト]]の日({{JPN}}) *: 全国トマト工業会が制定。「ト(10)マト(10)」の語呂合せ。 * [[お好み焼]]の日({{JPN}}) *: [[オタフクソース]]が制定。お好み焼を焼く音「ジュー(10)ジュー(10)」の語呂合せ。 * [[液化石油ガス|LPガス]]の日({{JPN}}) *: 一般社団法人[[全国LPガス協会]]が制定。1964年10月10日に東京オリンピックの聖火がLPガスで点火されたことと、10と10が火で調理をしているときの音「ジュージュー」と読める語呂合わせから。 * 赤ちゃんの日({{JPN}}) *: [[赤ちゃん本舗]]が制定。「妊娠は十月十日(とつきとうか)」と言われてきたことから。 * JUJUの日({{JPN}}) *:歌手の[[JUJU]]が10月10日に節目となる活動を行ってきたことで、「JUJU(ジュジュ)=10(ジュウ)月10(ジュウ)日」にちなんで[[日本記念日協会]]が2008年10月10日に正式に認定<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/10134|title=10月10日「JUJUの日」が正式に記念日認定|date=2008年10月10日|accessdate=2009年2月22日|author=ナタリー}}</ref>。 * [[ドラムセット|ドラム]]の日({{JPN}}) *:10と10を「1(スティック)0(太鼓)1(スティック)0(太鼓)」として、両手のスティックでドラムを叩いている姿に見えることから、株式会社[[リットーミュージック]]が発行するドラム専門誌の「リズム&ドラムマガジン」が制定。 * [[和太鼓]]の日({{JPN}}) *: 10と10で和太鼓の音の「ドンドン」と読む語呂合わせから。 * [[TOTO (バンド)|TOTO]]の日({{JPN}}) *: 1978年のデビュー以来、“Africa”、“Rosanna”、“99”、“Georgy Porgy”など数多の名曲を生み出し、AORの代表的なバンドとして多世代の音楽ファンから世界的な支持を集め続けるTOTO。彼らがデビュー40周年を迎えた2018年に、日本記念日協会により「TOTO(トト)=10(とお)月10(とお)日」にちなんで、10月10日が「TOTOの日」として正式に認定。 * [[萌え]]の日({{JPN}}) *: インターネットプロバイダー業務などを手がける株式会社[[インターリンク (インターネットサービスプロバイダ)|インターリンク]]が制定。縦に書いた「十月」と「十日」を合わせると「萌」になることから。 * 青森のお米「[[青天の霹靂 (米)|青天の霹靂]]」の日({{JPN}}) *: 青天の霹靂が、[[青森県]]産のお米として初めて食味ランキング「特A」を取得したことを記念して、JA全農あおもりが制定。日付は、「1010」を「センテン=青天」と読む語呂合わせから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=155|isbn=978-4422021157 }}</ref>。 * [[トートバッグ]]の日({{JPN}}) *: 10と10で「トート」と読む語呂合わせから。 * [[布団|ふとん]]の日({{JPN}}) *: 全日本寝具寝装品協会が制定。10が2つで「ふ(2)と(10)ん」と読む語呂合わせから。 * [[窓ガラス]]の日({{JPN}}) *: 2019年に機能ガラス普及推進協議会が制定。高機能ガラスは2枚のガラス仕様が多いことから「透明=トー(10)メイ」が2枚あるという意味で10月10日とした。 == その他 == * 1964年東京オリンピックの開会式がこの日に行われたため、この日は晴れの[[特異日]]であると勘違いされているが誤りである。昭和34年 ([[1959年]]) 発行の気象学ハンドブックによれば、10月の特異日は[[10月14日]]である。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1010|date=2011年7月}} * 大正××年 - 富田博士の妻が轢死体として発見される。(小説『[[一枚の切符]]』) * 193-年 - 土曜日、{{仮リンク|株主仲買人|en|Stockbroker}}ジョン・O・デウィットが[[ニューヨーク]]の[[郊外電車]]内で[[射殺]]される。(小説『[[Xの悲劇]]』第4幕第3場) * 1947年(昭和22年)- [[金田一耕助]]が『[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代|ウィルヘルム・マイステル]]』を読んでいると3時に出川[[刑事]]と磯川[[警部]]からの手紙が届き、3時半に等々力警部から電話がある。5時頃[[芝 (東京都港区)|芝]][[増上寺]]に到着し「天銀堂事件の[[容疑者]]の飯尾豊三郎らしい死体が発見された」と言われる。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』第25章) * 1972年 - 超合金Z製の光子力エネルギーで動くスーパーロボット「マジンガーZ」が完成する。(漫画・アニメ『[[マジンガーZ]]』) * 2009年 - 渋谷ニュージェネレーションの狂気の第四の事件「ヴァンパイ屋」と呼ばれる殺人事件が発生。(ゲーム・アニメ『[[CHAOS;HEAD]]』) * 20XX年 - 日曜日、午前10時にブリックモールがグランドオープン。キュリオ3号店、ファミーユブリックモール店その他が開店。(ゲーム『[[パルフェ 〜ショコラ second brew〜]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1862年]](文久2年) - 神谷薫、漫画・アニメ『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://rurouni-kenshin.com/character/chara2.html |title=神谷薫|work=『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』 |publisher=[[和月伸宏]]/[[集英社]]・「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」製作委員会|accessdate=10 Oct 2023}}</ref> * [[1914年]] - コクリコ、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sakura-taisen.com/archives/game/3ps2/chara_coquelicot.html |title=コクリコ |access-date=2022-10-10 |publisher=SEGA |work=『サクラ大戦3~巴里は燃えているか~』}}</ref> * [[1949年]] - [[一文字隼人]]([[仮面ライダー2号]])、特撮テレビドラマ『[[仮面ライダー]]』の主人公のひとり<ref>{{Cite book|和書|others=構成 間宮尚彦|title=仮面ライダー[[超全集]] 1号・2号・V3・ライダーマン|chapter=素顔の仮面ライダー|date=1992-03-10|publisher=[[小学館]]|series=[[てれびくん]]デラックス愛蔵版|page=51|isbn=4-09-101427-5}}</ref> * [[1962年]] - 夜神幸子、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=大場つぐみ|authorlink1=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year = 2006 |title = DEATH NOTE |volume = 第13巻 |page = 24 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874095-9}}</ref> * [[1971年]] - 木村達也、漫画・アニメ『[[はじめの一歩]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|IPPO_FS|1322507359898509313}}</ref> * [[1973年]] - 陣内恭介(レッドレーサー)、特撮『[[激走戦隊カーレンジャー]]』の主人公のひとり * 1973年 - 森沢優(クリィミーマミ)、アニメ『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』の主人公 * 1973年 - 羽柴当麻(天空のトウマ)、アニメ『[[鎧伝サムライトルーパー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |year = 1989 |editor=アニメック編集部|title = 鎧伝サムライトルーパー大事典 |page = 39 |publisher = [[ラポート]] |series = ラポートデラックス }}</ref> * [[1975年]] - 奥田姫子、漫画『[[あまいぞ!男吾]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=Moo.念平|authorlink=Moo.念平|title=あまいぞ!男吾|volume=第2巻|publisher=[[小学館]]|year=1987|page=97|isbn=4-09-141132-0}}</ref> * 1975年 - 今泉京子、漫画『[[疾風伝説 特攻の拓]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=佐木飛朗斗|authorlink1=佐木飛朗斗|author2=所十三|authorlink2=所十三|title=疾風伝説 特攻の拓|volume=第4巻|publisher=[[講談社]]|year=1992|isbn=4-06-311794-4}}</ref> * [[1976年]] - [[中西球道]]、漫画『[[球道くん]]』の主人公(生年は『[[ドカベン プロ野球編]]』以降の設定) * [[1977年]] - [[桜庭裕一郎]]、テレビドラマ『[[ムコ殿]]』の主人公 * [[1978年]] - 佐々倉溜、漫画・アニメ『[[バーテンダー (漫画)|バーテンダー]]』の主人公 * [[1979年]] - 櫟朝子、漫画『朝子の野球日記』の主人公 * [[1981年]] - 道潤、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター * [[1991年]] - 賽臥隆恭、ゲーム『[[アパシー 鳴神学園都市伝説探偵局]]』の主人公 * [[1993年]] - [[リン・ミンメイ]]、アニメ『[[超時空要塞マクロス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|macrossd|1182155947436736519}}</ref> * [[2089年]] - ガス山本、アニメ『[[魔動王グランゾート]]』に登場するキャラクター * [[宇宙世紀|U.C.]]0074年 - [[ジュドー・アーシタ]]、アニメ『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』の主人公 * 生年不明 - [[うずまきナルト]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year=2002|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|isbn=4-08-873288-X|page=31}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=29|ISBN=4-08-873734-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|pae=25|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref> * 生年不明 - ヒビキ・トカイ、アニメ『[[ヴァンドレッド|VANDREAD]]』の主人公 * 生年不明 - ユーディット・フォルトーネ、ゲーム『[[ユーディーのアトリエ 〜グラムナートの錬金術士〜]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.gust.co.jp/products/a4/about04.html |title=ユーディット・フォルトーネ(Judith-Volltone) |access-date=2022-10-06 |publisher=ガスト |work=ユーディーのアトリエ ~グラムナートの錬金術士~}}</ref> * 生年不明 - 二ノ宮空、漫画『[[すくらんぶる-b]]』・『[[空色☆すくらんぶる]]』の主人公 * 生年不明 - [[坂田銀時]]、漫画・アニメ『[[銀魂]]』の主人公<ref>{{Twitter status|gintamamovie|1447034158425915396}}</ref> * 生年不明 - 美墨なぎさ(キュアブラック)、アニメ『[[ふたりはプリキュア]]』『ふたりはプリキュア Max Heart』の主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書 |title=美墨(みすみ)なぎさ =キュアブラック |url=https://www.asahi.co.jp/precure_ss/oldsite/character/01.html |access-date=2023-02-07 |publisher=ABC TV |work=『ふたりはプリキュア』}}</ref> * 生年不明 - 六条壬晴、漫画・アニメ『[[隠の王]]』の主人公 * 生年不明 - 対馬レオ、ゲーム・アニメ『[[つよきす]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.candysoft.jp/ohp/01_products/tuyokiss/chara/sub_character.html#reo |title=対馬 レオ(つしま れお) |access-date=2023-02-07 |publisher=[[CandySoft]] |work=『つよきす』}}</ref> * 生年不明 - [[フットボールネーション#登場人物|沖千尋]]、漫画『[[フットボールネーション]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=大武ユキ|authorlink=大武ユキ|year=2010|title=フットボールネーション|volume=1|page=185|publisher=[[小学館]]|series=[[ビッグコミックス]]|isbn=978-4-09-183167-5}}</ref> * 生年不明 - 香山洋子、人形玩具『[[リカちゃん]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2010114/full/ |title=『リカちゃん』の“母方の祖母”、45年目で初めて登場 |access-date=2022-10-07 |publisher=[[オリコン|ORICON NEWS]] |date=2013-04-13}}</ref> * 生年不明 - [[みみりん|緑原みみりん]]、ベネッセの教材『[[こどもちゃれんじ]]』、アニメ『[[しましまとらのしまじろう]]』『[[はっけん たいけん だいすき! しまじろう]]』『[[しまじろうヘソカ]]』『[[しまじろうのわお!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shimajiroTV|41014811521191936}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |title=みどりはら みみりん |url=https://kodomo.benesse.ne.jp/open/tv/characters/ |access-date=2023-02-07 |publisher=[[Benesse]] |work=『しまじろうクラブ』}}</ref> * 生年不明 - タルト、『[[ポムポムプリン]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/pompompurin/ |title=お友だち タルト |access-date=2023-02-07 |publisher=[[サンリオ]] |work=『ポムポムプリン』}}</ref> * 生年不明 - ブッピーくん、『[[ウサハナ]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/usahana/ |title=お友だち ブッピーくん |access-date=2023-02-07 |publisher=[[サンリオ]] |work=『ウサハナ』}}</ref> * 生年不明 - フラッペくん、『[[てのりくま]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/tenorikuma/ |title=なかまたち フラッペくん |access-date=2023-02-07 |publisher=[[サンリオ]] |work=『てのりくま』}}</ref> * 生年不明 - 玉造彗、『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://onsen-musume.jp/character/tamatsukuri_kei |title=島根 玉造彗 |access-date=2023-02-07 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT |work=『温泉むすめ』}}</ref> * 生年不明 - 竜千士氷、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref>『[[Kamedas]]2』(集英社、2001年)71頁</ref> * 生年不明 - [[ところ天の助]]、漫画・アニメ『[[ボボボーボ・ボーボボ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 田中一郎、漫画『[[ノルマンディーひみつ倶楽部]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 羊谷遊人、漫画『[[Mr.FULLSWING]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 愛川羅武、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 防人衛(通称キャプテンブラボー)、漫画・アニメ『[[武装錬金]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - プラス姫、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター * 生年不明 - XANXUS、漫画・アニメ・舞台『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|stage_reborn|1314772137551355905}}</ref> * 生年不明 - バーズ、漫画・アニメ『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 西谷夕、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://haikyu.jp/chara/karasuno/4.html |title=西谷 夕 |access-date=2023-02-07 |publisher=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・MBS |work=『ハイキュー‼︎』}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2012|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-870521-7|quote=|date=|volume=第3巻|page=30}}</ref> * 生年不明 - 糸師冴、漫画・アニメ『[[ブルーロック]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - イリーナ・イェラビッチ、漫画『[[暗殺教室]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ansatsu_k|1579124536485683200}}</ref> * 生年不明 - [[ゆらぎ荘の幽奈さん#巳虎神マトラ|巳虎神マトラ]]、漫画・アニメ『[[ゆらぎ荘の幽奈さん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ミウラタダヒロ|authorlink=ミウラタダヒロ|year=2020|title=ゆらぎ荘の幽奈さん|volume=第24巻|page=144|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-882496-3}}</ref> * 生年不明 - 獅子王司、漫画・アニメ『[[Dr.STONE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|drstone_off|1469213984738144256}}</ref> * 生年不明 - ノノア(乃愛)、漫画『[[2.5次元の誘惑]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shonenjump.com/ririsa/question/ |title=『2.5次元の誘惑』Q&A Q013 奥村たちの誕生日が知りたいです! |accessdate=2022-10-06 |publisher=橋本 悠/[[集英社]] |work=『2.5次元の誘惑』原作公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 秋木劉邦、漫画『[[GetBackers-奪還屋-]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[妃英理]]、漫画・アニメ『[[名探偵コナン]]』に登場するキャラクター<ref>単行本第68巻収録「最悪な誕生日[バースデー]」のエピソードでの描写から。</ref> * 生年不明 - 五位堂結、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=若木民喜|authorlink=若木民喜|year=2013|title=神のみぞ知るセカイ 神ヒロイン完全攻略ブック|page=84|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-124451-2}}</ref> * 生年不明 - 泉田塔一郎、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yowapeda_anime|520383261504065536}}</ref> * 生年不明 - ハガエル3世、漫画『[[エスパークス]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[野原みさえ]]、漫画・アニメ『[[クレヨンしんちゃん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=臼井儀人|authorlink=臼井儀人|year=1992|title=クレヨンしんちゃん|publisher=[[双葉社]]|isbn=4-575-93292-2|volume=Vol.1|page=35}}</ref> <ref group="注釈"> アニメ版では[[1963年]][[9月21日]]生まれ。</ref> * 生年不明 - ぬけないくん、漫画・アニメ『[[とっとこハム太郎]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 松本陽、漫画『[[GET LOVE!!〜フィールドの王子さま〜]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 深堀純代、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=深堀 純代(ふかぼり すみよ) |url=http://sciasta.com/characters.html |access-date=2023-02-07 |work=『咲-Saki-』 |publisher=[[小林立]]}}</ref> * 生年不明 - 高梨修輔、漫画・アニメ『[[お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://news.mynavi.jp/article/20101207-a001/ |title=高梨修輔 (たかなし しゅうすけ) cv. 豊永利行 |access-date=2022-10-07 |publisher=マイナビニュース |work=お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!}}</ref> * 生年不明 - 渡狸卍里、漫画『[[妖狐×僕SS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=藤原ここあ|authorlink=藤原ここあ|title=妖狐×僕SS|volume=第4巻|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|series=[[月刊ガンガンJOKER#ガンガンコミックスJOKER|ガンガンコミックスJOKER]]|year=2011|page=212|isbn=978-4-7575-3146-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=妖狐×僕SS オフィシャルガイド 0|publisher=スクウェア・エニックス|series=ガンガンコミックスJOKER|year=2012|page=80|isbn=978-4-7575-3500-8}}</ref> * 生年不明 - 江古田蓮、漫画・アニメ『[[あんハピ♪]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://anne-happy.com/character/5/ |title=江古田蓮(えこだ れん) |publisher=琴慈・[[芳文社]]/あんハピ製作委員会 |accessdate=2023-02-07 |work=『あんハピ♪』}}</ref> * 生年不明 - ヴィーネ、漫画・アニメ『[[ガヴリールドロップアウト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://gabdro.com/chara2.html |title=ヴィーネ(CV:大西沙織)月乃瀬=ヴィネット=エイプリル |work=『ガヴリールドロップアウト』 |accessdate=2023-02-07 |publisher=[[うかみ]]/[[KADOKAWA]] [[アスキー・メディアワークス]]/ガヴリールドロップアウト製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 本町利音、漫画・アニメ『[[おちこぼれフルーツタルト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=浜弓場双|date=2017-05-27|title=おちこぼれフルーツタルト|page=3|volume=第2巻|publisher=[[芳文社]]|series=[[まんがタイムKRコミックス]]|isbn=978-4832248359}}</ref> * 生年不明 - 涼風涼、漫画『[[ばっどがーる]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 神無月夢(ブラックハニー)、舞台『[[Cutie Honey Emotional]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://cutiehoneystage.com/cast/ |title=神無月夢 / ブラックハニー |access-date=2023-02-07 |publisher=[[永井豪]]/ダイナミック企画・舞台「Cutie Honey Climax」製作委員会 株式会社キョードーファクトリー / 株式会社SANETTY Produce |work=舞台『Cutie Honey Climax』}}</ref> * 生年不明 - 流崎力哉、アニメ『[[元気爆発ガンバルガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.eldran.net/gambaruger/chara/index.html |title=流崎力哉 |access-date=2022-10-07 |publisher=SUNRISE |work=元気爆発ガンバルガー}}</ref> * 生年不明 - 速水ヒロ、アニメ『[[プリティーリズム・レインボーライブ]]』、『[[KING OF PRISM by PrettyRhythm]]』、『[[KING OF PRISM -PRIDE the HERO-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|PrismRushPR|1314581387673055235}}</ref> * 生年不明 - 大路もち蔵、アニメ『[[たまこまーけっと]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|atsushi_tamaru|1579126446702100480}}</ref> * 生年不明 - 杉本一、アニメ『[[多田くんは恋をしない]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://tadakoi.tv/chara05.html |title=杉本一 |accessdate=2023-02-07 |work=『多田くんは恋をしない』 |publisher=TADAKOI PARTNERS}}</ref> * 生年不明 - 盛上モコ、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/2/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=2 |accessdate=2022-10-06}}</ref> * 生年不明 - 望月駿、ゲーム『[[くにおくんシリーズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - めめっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=講談社|editor-link=講談社|title=Tamagotchi iD らくらく育て方ガイド|year=2010|page=48|isbn=978-4-06-364814-0}}</ref><ref>{{Cite book|和書|others=[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修)|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|publisher=[[小学館]]|year=2011|page=16|isbn=978-4-09-751048-2}}</ref> * 生年不明 - ローラ・ニューフィールド、ゲーム『[[悠久幻想曲]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 沢村将馬、ゲーム『[[ジャスティス学園]]』シリーズに登場するキャラクター * 生年不明 - アルフォンソ・ロベルト・マルティニ、ゲーム『[[ゲッターラブ!! ちょー恋愛パーティーゲーム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/getterlove/quest7.html|title=ゲッターラブ!!質問コーナー第7回|date=20040813070908}}</ref> * 生年不明 - ダイダロ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - フランクリン、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m10.html |title=住民名簿 10月 フランクリン |access-date=2022-10-06 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - ぺしみち、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m10.html |title=住民名簿 10月 ペしみち |access-date=2022-10-06 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - 柏木晴子、ゲーム・アニメ『[[マブラヴ]]』・『[[マブラヴ オルタネイティヴ]]』 に登場するキャラクター<ref>『マブラヴ オルタネイティヴ メモリアルアートブック』、[[アスキー・メディアワークス]]、70頁。</ref> * 生年不明 - [[ルキア]]、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=100 |title=ルキア |access-date=2022-02-07 |publisher=[[KONAMI]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref> * 生年不明 - 高杉百恵、ゲーム『[[CARNIVAL (ゲーム)|CARNIVAL]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 世良香澄、ゲーム『[[秋色恋華]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.purplesoftware.jp/products/akiiro/chara.html#b |title=世良 香澄 |access-date=2023-02-07 |publisher=Purple software |work=『璃色恋華』}}</ref> * 生年不明 - [[THE IDOLM@STERの登場人物#我那覇 響(がなは ひびき)|我那覇響]]、ゲーム『[[アイドルマスターシリーズ|アイドルマスター]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/10003 |title=我那覇 響(がなは ひびき) |access-date=2022-11-10 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref><ref>『[[電撃G's magazine]]』2010年11月号、[[アスキーメディアワークス]]、110頁。</ref> * 生年不明 - 近衛素奈緒、ゲーム・アニメ『[[つよきす]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.netrevo.net/products/tsuyokiss2/character/sunao.html |title=近衛 素奈緒 |access-date=2023-02-07 |publisher=REVONET |work=『つよきす2学期』}}</ref> * 生年不明 - 二条亜矢、ゲーム『[[あかね色に染まる坂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 本町春乃、ゲーム 『[[Clear -クリア-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.moon-stone.jp/product/ms06/06_haruno2.html |title=本町春乃 |access-date=2023-02-07 |publisher=MOONSTONE |work=『Clear -クリア-』}}</ref> * 生年不明 - アズラエル、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/azrael.html |title=アズラエル |publisher=ARC SYSTEM WORKS |accessdate=2023-02-07 |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』}}</ref> * 生年不明 - 雅、ゲーム『[[ドリームクラブ|ドリームクラブGogo.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2014|title=ドリームクラブ Gogo. ビジュアルファンブック|page=46|publisher=[[KADOKAWA]]|ISBN=978-4-04-729693-0}}</ref> * 生年不明 - 加納佳代子、ゲーム『[[恋色空模様]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 織葉朱、ゲーム『[[アッチむいて恋]]』に登場するキャラクター<ref>『[[PUSH!!]]』2010年1月号、[[マックス (出版社)|マックス]]、83頁。</ref> * 生年不明 - 辰原奏矢、ゲーム『[[STORM LOVER]]』シリーズに登場するキャラクター * 生年不明 - 奏衣、ゲーム『[[秋空に舞うコンフェティ]]』に登場するキャラクター<ref>『[[DENGEKI HIME]]』2010年5月号、アスキーメディアワークス、69頁。</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#椎名法子|椎名法子]]、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20080 |title=椎名 法子(しいな のりこ) |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |accessdate=2023-02-07 |work=『THE iDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - ロンクー、ゲーム『[[ファイアーエムブレム 覚醒]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 林田たまき、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130531_168956/ |title=【ガールフレンド(仮)通信49】押忍!熱血応援ガール 林田たまきちゃん |access-date=2022-10-06 |publisher=ファミ通App |date=2013-05-31}}</ref> * 生年不明 - ジョウ、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!|SHOW BY ROCK‼︎]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://showbyrock-anime-s.com/character/11.php |title=ジョウ |access-date=2023-02-07 |publisher=[[サンリオ]] SHOWBYROCK!!製作委員会M |work=『SHOW BY ROCK!! STARS!!』}}</ref> * 生年不明 - トト、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=107&cate=name&cont=Toto |title=トト |access-date=2023-02-07 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - 赤峰こはる、ゲーム・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/akamine-koharu/ |title=大分県 赤峰 こはる |access-date=2023-02-07 |publisher=[[MAGES.]] |work=『アイドル事変』}}</ref> * 生年不明 - 乾ケイ、ゲーム『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/inui |publisher=[[アカツキ (企業)|Akatsuki Inc.]] |title=乾 ケイ |accessdate=2022-10-07 |work=『八月のシンデレラナイン』}}</ref> * 生年不明 - 華毘、ゲーム『[[シノビマスター 閃乱カグラ NEW LINK]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.hpgames.jp/shinomas/ |title=キャラクター 巫神楽 華毘 |access-date=2022-10-07 |work=『シノビマスター 閃乱カグラ NEW LINK』 |publisher=Marvelous Inc.}}</ref> * 生年不明 - ユキ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1447019075343818754}}</ref> * 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#叶美空|叶美空]]、ゲーム『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1181947429622558726}}</ref> * 生年不明 - 十隠カンナ、メディアミックス『[[HAPPY★LESSON]]』に登場するキャラクター <!-- * [[1961年]] - 灰原達之、漫画『[[ナニワ金融道]]』の主人公 * 生年不明 - ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテ、ゲーム・漫画『[[ラッキードッグ1]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 叢雨九十九、漫画・アニメ『[[裏切りは僕の名前を知っている]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 宮子、漫画・アニメ『[[ひだまりスケッチ]]』に発場するキャラクター --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} === 注釈 === <references group="注釈" /> == 関連項目 == {{commonscat|10 October}} {{新暦365日|10|9|10|11|[[9月10日]]|[[11月10日]]|[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]|1010|10|10}} {{1年の月と日}}
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5,203
1821年
1821年(1821 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1821年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1821}} {{year-definition|1821}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文政]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2481年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[道光]]元年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]21年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4154年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[明命]]2年  * [[仏滅紀元]] : 2363年 - 2364年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1236年3月26日 - 1237年4月6日 * [[ユダヤ暦]] : 5581年4月27日 - 5582年4月7日 * [[ユリウス暦]] : 1820年12月20日 - 1821年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -13834 - -13470 * [[リリウス日]](LD) : 87007 - 87371 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1821}} == できごと == * [[3月25日]] - [[ギリシャ]]が[[オスマン帝国]]から独立を宣言([[ギリシャ独立戦争]]開始){{要出典|date=2021-03}} * [[6月19日]] - [[ドラガシャニの戦い]] * [[7月10日]] - 米国が[[スペイン領フロリダ]]を獲得([[アダムズ=オニス条約]]発効) * [[7月28日]] - [[ペルー]]が[[スペイン]]から独立 * [[8月7日]](文政4年7月10日) - [[伊能忠敬]]らによる『[[大日本沿海輿地全図]]』が完成 * [[8月10日]] - 米国で[[ミズーリ州|ミズーリ]]が24番目に州となる * [[8月19日]] - 英国で[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]戴冠式 * [[8月21日]] - 南太平洋で[[ジャーヴィス島]]が発見される * [[9月15日]] - [[グアテマラ]]・[[エルサルバドル]]・[[ホンジュラス]]・[[コスタリカ]]が[[スペイン]]から独立 * [[9月18日]] - 米[[アマースト大学]]創立 * [[9月27日]] - [[メキシコ]]が[[スペイン]]から独立([[メキシコ独立革命]]参照) * [[11月28日]] - [[パナマ]]が[[スペイン]]から独立([[パナマの歴史]]参照) * [[12月30日]](文政4年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[陸奥国]][[梁川藩]]主[[松前章広]]、[[蝦夷地]][[松前藩]]に転封 === 日付不詳 === * [[ポルトガル]]宮廷[[ブラジル]]より[[リスボン]]に帰還 * [[トーマス・ゼーベック]]が[[ゼーベック効果]]を発見 == 誕生 == {{see also|Category:1821年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月19日]] - [[リチャード・フランシス・バートン]]、[[探検家]](+ [[1890年]]) * [[3月26日]] - [[エルンスト・エンゲル]]、ドイツの[[統計学]]者・経済学者(+ [[1896年]]) * [[3月29日]] - [[カール・グスタフ・アドルフ・クニース]]、[[経済学者]](+ [[1898年]]) * [[4月9日]] - [[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、フランスの[[批評家]]・[[詩人]](+ [[1867年]]) * [[4月16日]] - [[フォード・マドックス・ブラウン]]、[[画家]](+ [[1893年]]) * [[8月31日]] - [[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|ヘルムホルツ]]、ドイツの[[生理学者]]・[[物理学者]](+ [[1894年]]) * [[10月13日]] - [[ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー]]、[[医師]]・[[病理学者]](+ [[1902年]]) * [[10月16日]] - [[フランツ・ドップラー]]、[[作曲家]](+ [[1883年]]) * [[10月31日]] - [[カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキー]]、[[作家]]、[[政治家]](+ [[1856年]]) * [[11月11日]](ロシア暦10月30日) - [[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、ロシアの[[小説家]](+ [[1881年]]) * [[11月24日]] - [[ヘンリー・バックル]]、[[歴史学者]](+ [[1862年]]) * [[12月10日]](ロシア暦11月28日) - [[ニコライ・ネクラーソフ|ネクラーソフ]]、ロシアの[[詩人]](+ [[1877年]]) * [[12月12日]] - [[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]、フランスの小説家(+ [[1880年]]) == 死去 == {{see also|Category:1821年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月12日]] - [[ウィリアム・ロバート・ブロートン]]、海軍士官・[[探検家]](* [[1762年]]) * [[3月31日]](文政4年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[山片蟠桃]]、商人・学者(* [[1748年]]) * [[5月5日]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[軍人]]・[[政治家]]・[[皇帝]](* [[1769年]]) * [[10月7日]](文政4年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[塙保己一]]、[[国学者]](* [[1746年]]) * [[11月10日]] - [[アンドレーアス・ロンベルク]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1767年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1821}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1821ねん}} [[Category:1821年|*]]
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5,204
1819年
1819年(1819 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
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1819年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1819}} {{year-definition|1819}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文政]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2479年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]24年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]19年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4152年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]18年 * [[仏滅紀元]] : 2361年 - 2362年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1234年3月4日 - 1235年3月14日 * [[ユダヤ暦]] : 5579年4月4日 - 5580年4月13日 * [[ユリウス暦]] : 1818年12月20日 - 1819年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -14565 - -14201 * [[リリウス日]](LD) : 86276 - 86640 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1819}} == できごと == * [[1月 (旧暦)|1月]] - [[江戸幕府]]が[[浦賀奉行]]を2名に増員する。 * [[1月29日]] - [[トーマス・ラッフルズ|トーマス・スタンフォード・ラッフルズ]]が[[シンガポール]]に上陸{{要出典|date=2021-03}}。 * [[2月6日]] - イギリスのインド副総督トーマス・ラッフルズがシンガポールの族長と商館開設などの条約を締結し開港。 * [[2月22日]] - [[スペイン領フロリダ]]の米国への譲渡が決定([[アダムズ=オニス条約]])。 * [[3月20日]] - [[イギリス]]([[イングランド]])の[[ロンドン]]で、{{仮リンク|バーリントン・アーケード|en|Burlington Arcade}}が開通。 * [[7月4日]] - [[アメリカ合衆国]]で[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]の星が21個となる([[イリノイ州]]の加入を反映)。 * [[8月2日]]([[文政]]2年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - 日本時間15時頃、[[日本]]の北[[近江国|近江]]を[[震央]]とする[[マグニチュード]]7.7-7.5の[[巨大地震]]「[[文政近江地震]]」が発生。 * [[8月7日]] - [[ボヤカの戦い]]で[[大コロンビア]]が[[スペイン]]から独立。 * [[8月16日]] - イギリス(イングランド)で[[ピータールーの虐殺]]が起こる。 * [[9月20日]] - [[ドイツ連邦]]で[[カールスバート決議]]。 * [[11月19日]] - [[プラド美術館]]創設。 * [[12月14日]] - アメリカ合衆国で [[アラバマ州|アラバマ]]が22番目に州となる。 === 日付不詳 === * [[群書類従]]刊行 * [[グリム童話]](第2版)出版 == 誕生 == {{see also|Category:1819年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月19日]] - [[ウィリアム・フリス]]、[[画家]](+ [[1909年]]) * [[2月8日]] - [[ジョン・ラスキン|ラスキン]]、[[イギリス]]の[[評論家]]・[[美術評論家]](+ [[1900年]]) * [[3月5日]](文政2年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[毛利敬親]]、[[長州藩]]主(+ [[1871年]]) * [[3月31日]] - [[クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト|ホーエンローエ]]、[[ドイツ]]の[[政治家]]・[[バイエルン王国]][[首相]]・[[ドイツ帝国]]宰相(+ [[1901年]]) * [[4月11日]] - [[チャールズ・ハレ]]、[[ピアニスト]]・[[指揮者]](+ [[1895年]]) * [[4月18日]] - [[フランツ・スッペ]]、[[作曲家]](+ 1895年) * [[5月24日]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]、第35代[[イギリス]]女王(+ [[1901年]]) * [[5月31日]] - [[ウォルト・ホイットマン|ホイットマン]]、アメリカの[[詩人]]・[[随筆家]](+ [[1892年]]) * [[6月3日]] - [[ヨハン・ヨンキント]]、[[画家]]・[[版画家]](+ [[1891年]]) * [[6月10日]] - [[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]、フランスの画家・[[写実主義]]者(+ [[1877年]]) * [[6月22日]](文政2年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[長井雅楽]]、[[長州藩|長州]][[武士|藩士]](+ [[1863年]]) * [[7月2日]] - [[シャルル=ルイ・アノン]]、[[作曲家]]・ピアノ教師・[[オルガニスト]](+ [[1900年]]) * [[7月20日]](文政2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[徳川斉温]]、[[尾張藩]]11代藩主(+ [[1839年]]) * [[7月28日]] - [[カルロッタ・グリジ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1899年]]) * [[8月1日]] - [[ハーマン・メルヴィル]]、アメリカの[[作家]](+ [[1891年]]) * [[8月13日]] - [[ジョージ・ガブリエル・ストークス]]、アイルランドの[[数学者]]・[[物理学者]](+ [[1903年]]) * [[8月18日]] - [[カルロス・マヌエル・デ・セスペデス]]、[[キューバ]]の[[革命家]](+ [[1874年]]) * [[8月26日]] - [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]、[[ザクセン=コーブルク=ゴータ家|ザクセン=コーブルク=ゴータ公子]]・ヴィクトリア女王の[[王配]](+ [[1861年]]) * [[9月13日]] - [[クララ・シューマン]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1896年]]) * [[9月18日]] - [[レオン・フーコー]]、フランスの[[物理学者]] * [[9月20日]] - [[テオドール・シャセリオー]]、画家(+ [[1856年]]) * [[10月20日]] - [[カール・ミクリ]]、[[ピアニスト]]・[[指揮者]]・作曲家(+ [[1897年]]) * [[11月22日]] - [[ジョージ・エリオット]]、女流[[小説家]](+ [[1880年]])  * [[12月3日]](文政2年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]) - [[阿部正弘]]、[[老中]]首座、備後[[備後福山藩|福山藩]]第7代藩主(+ [[1857年]]) * [[12月12日]] - [[ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー]]、画家(+ [[1898年]]) == 死去 == {{see also|Category:1819年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月20日]] - [[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]、[[スペイン|スペイン王]](* [[1748年]]) * [[3月19日]] - [[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]、[[哲学|哲学者]](* [[1743年]]) * [[8月19日]] - [[ジェームズ・ワット]]、ワット式[[蒸気機関]]開発者(* [[1736年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1819}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1819ねん}} [[Category:1819年|*]]
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5,205
1863年
1863年(1863 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
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1863年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1863}} {{year-definition|1863}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[癸亥]] * [[日本]]([[天保暦]]) ** [[文久]]2年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]] - 文久3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]] ** [[皇紀]]2523年 * [[清]]:[[同治]]元年11月12日 - 同治2年11月21日  * [[朝鮮]] <!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし--> ** [[李氏朝鮮]] : [[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]14年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4196年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]16年  * [[仏滅紀元]]:2405年 - 2406年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1279年7月10日 - 1280年7月20日 * [[ユダヤ暦]]:5623年4月10日 - 5624年4月21日 * [[修正ユリウス日]](MJD):1506 - 1870 * [[リリウス日]](LD):102347 - 102711 <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1863}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] ** [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]米大統領が[[奴隷解放宣言]]を布告。 ** 米国で[[ホームステッド法]]による初めての払下げ申請 * [[1月8日]] - 米国で[[大陸横断鉄道]]着工 * [[1月9日]] - 世界初の[[地下鉄]]が[[ロンドン地下鉄|ロンドン]]で開業 * [[1月21日]] - [[オペル]]社創立 * [[1月22日]] - 現在の[[ポーランド]]、[[リトアニア]]、[[ベラルーシ]]で[[ロシア帝国]]の支配に対する[[一月蜂起]]が勃発 === 2月 === * [[2月16日]] - カンザス農科大学(後の[[カンザス州立大学]])創立(初の[[ランドグラント大学]]) * [[2月17日]] - 国際負傷軍人救護常置委員会(五人委員会)発足(後の[[赤十字国際委員会]]) === 3月 === * [[3月3日]] - 米国(北軍)初の[[徴兵]]法成立(実施4月1日) * [[3月10日]] - 英王子アルバート(後の[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]])がデンマーク王女[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]と結婚 * [[3月13日]] - 米国(北軍)初の黒人部隊創設([[マサチューセッツ第54連隊]] ([[:en:54th Massachusetts Volunteer Infantry|54th Massachusetts Volunteer Infantry]])) * [[3月25日]] - 米国初の[[名誉勲章]]授与 ([[:en:Jacob Parrott|Jacob Parrott]]) * [[3月30日]] - デンマーク王子ヴィルヘルムがギリシャ国王[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]として即位 === 4月 === * [[4月21日]](文久3年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]) - [[徳川家茂]]が[[上洛]](将軍の上洛は229年ぶり) * [[4月28日]](文久3年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[孝明天皇]]が[[賀茂神社]]へ行幸 * [[4月30日]](文久3年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) ** [[新選組]]結成 ** [[南北戦争]]: [[チャンセラーズヴィルの戦い]]( - 5月6日) === 5月 === * [[5月18日]] - 南北戦争: [[ビックスバーグの包囲戦]]( - 7月4日) * [[5月21日]] - 南北戦争: [[ポートハドソンの包囲戦]]( - 7月9日) * [[5月23日]] - [[ライプツィヒ]]で[[全ドイツ労働者協会]]創設 * [[5月28日]](文久3年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[孝明天皇]]が[[石清水八幡宮]]へ行幸 === 6月 === * [[6月9日]] - 南北戦争: [[ブランディ・ステーションの戦い]] * [[6月13日]] - 南北戦争: [[第二次ウィンチェスターの戦い]]( - 6月15日) * [[6月20日]] - 南北戦争: 南軍に参加した[[バージニア州]]から奴隷制に反対する北西部諸郡が分離独立、[[ウェストバージニア州]]が成立 * [[6月25日]](文久3年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[下関戦争|馬関戦争]]: [[長州藩]]が米商船ペンブローグ号を砲撃 === 7月 === * [[7月1日]] - 南北戦争: [[ゲティスバーグの戦い]]( - 7月3日) * [[7月5日]](文久3年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[姉小路公知]]が禁裏で暗殺される([[朔平門外の変]]) * [[7月8日]](文久3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - 馬関戦争: 長州藩が仏軍艦キンシャン号を砲撃 * [[7月11日]](文久3年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]) - 馬関戦争: 長州藩が蘭軍艦メデューサ号を砲撃 * [[7月13日]] - 南北戦争: [[ニューヨーク徴兵暴動]] * [[7月16日]](文久3年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - 馬関戦争: 米艦[[ワイオミング (戦闘スループ)|ワイオミング]]号が報復砲撃 * [[7月18日]](文久3年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) - 江戸で[[火災|大火]]、[[江戸城]]本丸・西ノ丸を焼失(文久の大火) * [[7月19日]](文久3年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - 香港からアメリカに向けて航海をしていた「バイキング号」(1349トン)が荒天により[[伊豆諸島]][[御蔵島]]の岩場に引き寄せられて[[座礁]]。乗っていた中国人労働者や乗員ら483人が島民により救助された<ref>107年目のアメリカの良心 救われた難破の483人 カーター米公使「ささやかな恩返し」『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月5日 12版 23面</ref>。 * [[7月20日]](文久3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - 馬関戦争: 仏艦隊が報復砲撃 * [[7月22日]](文久3年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - 長州藩で[[高杉晋作]]らが[[奇兵隊]]編成 === 8月 === * [[8月11日]] - [[カンボジア]]が[[フランス]]の[[保護国]]となる * [[8月15日]](文久3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[薩英戦争]]( - 8月17日(7月4日)) * [[8月17日]] - [[天誅組の変]]起こる。 * [[8月18日]] - [[八月十八日の政変]]起こる。[[公武合体]]派が[[尊王攘夷]]派[[公卿]]を排除した[[クーデター]]。 * [[8月19日]] - 前日の政変により排除された七卿が長州へ落ちる。[[七卿落ち]]。 === 9月 === * [[9月29日]](文久3年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]) - [[天誅組の変]] * [[9月30日]](文久3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]) ** [[ジョルジュ・ビゼー|ビゼー]]歌劇「[[真珠採り]]」初演([[パリ]]) <!-- 29日説あり --> === 10月 === * [[10月3日]] - リンカーン米大統領が[[感謝祭]]を休日にすると宣言 * [[10月11日]] - 幕府の洋学所[[開成所]]開校 * [[10月14日]](文久3年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[井土ヶ谷事件]] * [[10月26日]] - [[フットボール・アソシエーション|イングランドサッカー協会]]創立 * [[10月29日]] - [[赤十字国際委員会]]設立 === 11月 === * [[11月15日]] - デンマーク王[[フレデリク7世 (デンマーク王)|フレデリク7世]]が死去し[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]が即位 * [[11月19日]] - 南北戦争:リンカーン米大統領が[[ゲティスバーグ演説|ゲティスバーグで演説]]([[人民の人民による人民のための政治]]) === 12月 === * [[12月16日]] - [[ハイネケン]]設立 === 日付不詳 === * [[ジュール・ベルヌ]]「[[気球に乗って五週間]]」刊行 == 誕生 == {{see also|Category:1863年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ピエール・ド・クーベルタン]]、[[近代オリンピック]]創立者(+ [[1937年]]) * [[1月8日]] - [[パウル・シェーアバルト]]、[[画家]]・[[作家]]・[[詩人]](+ [[1915年]]) * 1月8日 - [[エレン・センプル]]、[[地理学者]](+ [[1932年]]) * [[1月17日]]([[ロシア暦]][[1月5日]]) - 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IRC
IRC(アイアールシー)は、さまざまな略称である。
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IRC(アイアールシー)は、さまざまな略称である。 文章通信のアプリケーション層プロトコル Internet Relay Chat の略称。 Wikipedia:チャット - ウィキペディアン同士で対話できるInternet Relay Chatについて。 井上ゴム工業の略称。IRC Tireの商品名で販売している。 国際返信切手券の略称。 インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジの略称。 国際赤十字の略称。 内国歳入法 - アメリカの歳入に関する法律。アメリカ合衆国内国歳入庁も参照。 国際救済委員会
'''IRC'''(アイアールシー)は、さまざまな略称である。 * 文章通信のアプリケーション層プロトコル [[Internet Relay Chat]] の略称。 ** [[Wikipedia:チャット]] - ウィキペディアン同士で対話できるInternet Relay Chatについて。 * [[井上ゴム工業]](Inoue Rubber Company)の略称。IRC Tireの商品名で販売している。 * [[国際返信切手券]](International Reply Coupon)の略称。 * [[インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ]](Intercontinental Rally Challenge)の略称。 * [[国際赤十字]](International Red Cross)の略称。 * {{仮リンク|内国歳入法|en|Internal Revenue Code}}(Internal Revenue Code) - [[アメリカ]]の[[歳入]]に関する[[法律]]。[[アメリカ合衆国内国歳入庁]]も参照。 * {{仮リンク|国際救済委員会|en|International Rescue Committee}}(International Rescue Committee) ==関連項目== *{{prefix}} *{{intitle}} {{aimai}}
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E・E・スミス
エドワード・エルマー・スミス(Edward Elmer Smith あるいは E.E."Doc"Smith, 1890年5月2日 - 1965年8月31日)は、アメリカのSF作家で、《レンズマン》シリーズや《スカイラーク》シリーズで知られている。「スペースオペラの父」と呼ばれることもある。通称はE・E・スミス、ドク・スミスなど。家族からはテッドと呼ばれていた。ドーナツやペイストリー用の粉を専門とする食品工学者でもあった。 1890年5月2日、ウィスコンシン州シボイガンで生まれる。両親は共に長老派教会の敬虔な信徒の家系である。母はミシガン州出身の教師で、父はメイン州出身の船員だったが英語教師になった。同年冬、ワシントン州スポケーンに幼いE・E・スミスを連れて引越し、そこで父が1900年には契約で働いていた。1902年、一家はアイダホ州クートニー郡の Seneaquoteen に引っ越した。E・E・スミスは5人兄弟の4番目だった。1910年の国勢調査によると両親と弟は当時アイダホ州ボナー郡の Markham Precinct に住んでいた。国勢調査の記録では父の職業は農夫となっている。 スミスは肉体労働者として働いていたが、19歳のとき火事から逃げる際に手首を負傷し、肉体労働が難しくなった。そこで彼はアイダホ大学に入学。1984年にはアイダホ大学同窓会の殿堂入りしている。1907年に入学し化学工学を専攻して1914年に卒業(7年かかっているのは学士号を2つ取得したため)。化学クラブ、チェスクラブ、マンドリン・ギタークラブ、ライフルチームの部長を務めた。ギルバートとサリヴァンのオペレッタの舞台で歌ったこともある。学士論文の題名は Some Clays of Idaho でクラスメートの Chester Fowler Smith と共同で執筆した。なお、そのクラスメートはバークレーで講師の職を得たが、翌年結核で亡くなっている。2人の関係はよくわかっていない。 1915年10月5日、アイダホ州ボイシで大学のルームメイトの妹だったジャンヌ・クレイグ・マクドゥーガルと結婚。因みにジャンヌの姉妹がクラリッサ・マクリーン・マクドゥーガルという名で、《レンズマン》シリーズのヒロインの名(クラリッサ・マクドゥーガル)に使われている。ジャンヌはスコットランドのグラスゴー出身で、父はバイオリン奏者だった。彼女の父は子供たちが幼いころにボイシに単身赴任し、家族がボイシに引っ越そうとしている1905年に亡くなった。ジャンヌの母は1914年に元政治家の実業家と再婚した。 スミスは3人の子をもうけた。 大学卒業後は国立標準局 (NBS) で化学者として働くようになり、ワシントンD.C.に引っ越した。NBSではバターや牡蠣の品質規格制定などに従事。第一次世界大戦には召集され陸軍中尉で従軍したが、どういう任務についていたかは不明である。妻には自分以外に頼る者がいないということと、化学者として戦争に寄与できるという考えから、スミスは徴兵免除を申請したと見られている。 1915年のある晩、アイダホ大学で同級生だったカール・ガービー博士がワシントンD.C.に引っ越してきたということでスミス家を訪問した。引っ越してきた場所がスミス家のすぐ近くだった。そして宇宙空間への旅について長く話しこんだ。ガービーは恒星間航行についての空想的な物語とアイデアを書いてみるべきだとスミスに提案した。スミスはそれに興味を抱いたが、実際に書くとなれば若干のロマンチックな要素も必要だろうし、そういうことは得意ではないと思った。 するとガービー夫人が恋愛要素やロマンチックな台詞について協力すると申し出、スミスは書いてみることにした。主要登場人物は彼ら自身をモデルにしている。シートンはスミス本人がモデルで、クレイン夫妻はガービー夫妻がモデルである。『宇宙のスカイラーク』の3分の1ほどは1916年末までに完成したが、スミスとガービーは徐々にその作業をしなくなっていった。 スミスはジョージ・ワシントン大学でチャールズ・モンロー (en、「モンロー効果」のモンローである) の下で学び、1917年に化学の修士号を取得。1918年には化学工学でPh.D.を取得。学位論文は食品工学に関するもので題名は The effect of bleaching with oxides of nitrogen upon the baking quality and commercial value of wheat flour](窒素酸化物による漂白で小麦粉の品質と商品価値を高める効果)であり、1919年に出版された。(Warner 1938) やFleischerのサイトでは、論文タイトルを The Effect of the Oxides of Nitrogen upon the Carotin Molecule — C40H56 としている。また、サム・モスコウィッツは博士号取得を1919年としている。これは、論文を提出した日付、審査された日付、博士号が与えられた日付の違いを反映したものと見られる。なお、ドクの名はこの博士号取得によるものである。 1919年、スミスはミシガン州ヒルズデールのF・W・ストック&サン社の主任化学者として働くようになった。技師長としてドーナッツ・ミックス・パウダーの研究開発を行う。同社はミシシッピ川以東では有数のドーナッツ用の製粉工場だった。 1919年後半、ミシガン州に引っ越した後でスミスは妻が映画を見に行っている晩に赤ん坊(おそらく長男)の子守をしていた。そのとき『宇宙のスカイラーク』の執筆を再開し、1920年春に完成させた。彼はその原稿を多数の出版社や雑誌社に送り、最終的に得た原稿料よりも切手代のほうが高くついたという。1922年、アーゴシー誌の編集者ボブ・デーヴィスは、個人的には好きなのだが同誌の読者には話が壮大すぎるという断わりの返事を送っている。(Warner 1938) だけは、最初の原稿が売れる前にスミスが続編『スカイラーク3号』に取り掛かったとしている。最終的に1927年4月、『宇宙のスカイラーク』はアメージング・ストーリーズ誌に売れた。当初原稿料は75ドルだったが後に125ドルに上がった。作品は1928年の8月号から10月号に連載された。評判は上々で、編集長T・オコンナー・スローンは連載2回目の出版前に続編を依頼している。 ガービー夫人はそれ以上の共作を望まず、『スカイラーク3号』はスミス1人で書き始め、アメージング誌1930年8月号から10月号に連載された。そのころスミス夫妻はミシガン州ヒルズデールに住んでいた。スミスは《スカイラーク》シリーズを前作で完結させたつもりだったが、アメージング誌の投書欄に多数の賞賛の手紙が掲載され、さらに続編を書くことになった。原稿料はアメージング誌のそれまでの最高記録だった1語半セントを更新し、1語4分の3セントとなった。 SFの舞台が一気に太陽系外・銀河系スケールにまで拡大したのは、スミスの『スカイラーク』シリーズ、そして『レンズマン』シリーズの功績といって良いだろう。 その後スミスは『火星航路SOS』(Spacehounds of IPC) から始まる新シリーズの執筆を開始し、1930年秋に完成させた。この小説を書くにあたってスミスは『宇宙のスカイラーク』で読者に指摘された科学的不正確さを排除するのに苦労した。『銀河パトロール隊』執筆後の1938年時点でもスミスはこの作品が一番できがよいと思っていた。後に彼は「スカイラークのような疑似科学とは違い、この作品は本当の科学だ」と述べている。晩年になってもスミスはこの作品が唯一の真のSFだったと述べている。この作品はアメージング誌1931年9月号に掲載されたが、そのとき編集長スローンが勝手に修正を加えている。読者のファンレターの多くは舞台が太陽系内に限られていることに不平を漏らしており、スローンは読者の味方をした。そこでアスタウンディング誌の編集者ハリー・ベイツが1語2セントの原稿料で原稿を依頼してきたとき、スミスはそちらの話に乗った。したがって、『火星航路SOS』の続編は書かれることなく終わった。 そして書かれたのが『三惑星連合』であり、科学考証にはこだわらず想像の赴くままに書かれていた。実際、登場人物が心理学的あるいは科学的な信じ難さを作中で指摘しており、ある意味で自己風刺的ですらある。それ以外では登場人物は明らかな信じ難いことにも全く沈黙している。アスタウンディング誌1933年1月号には『三惑星連合』が3月号から連載され、表紙もそのイラストになるという予告が載ったが、アスタウンディング誌の財政問題からこの作品は掲載できなかった。そこでスミスは原稿をワンダー・ストーリーズ誌に送ったが、編集長チャールズ・D・ホーニッグはそれを受け取らなかった。彼は後にファンジンでその原稿をボツにしたことを自慢している。最終的にスミスはアメージング誌に原稿を送り、1934年1月号から掲載された。ただし原稿料は1語半セントだった。間もなくアスタウンディング誌が復活し、新編集長F・オーリン・トレメインが1語1セントの原稿料を提示したが、既にアメージング誌が買い取った後だった。そこでトレメインは《スカイラーク》シリーズの3作目を依頼した。 1933年から1934年にかけての冬、『ヴァレロンのスカイラーク』を執筆したが、スミスは話の収拾がつかなくなってきたと感じ、初稿をトレメインに送る際に助言を求める乱雑な注記を添えていた。トレメインは初稿に850ドルを支払い、1ページ全部を論説にあて、4分の3ページを広告として1934年6月号で掲載を発表した。この小説は1934年8月号から1935年2月号まで連載された。アスタウンディング誌は掲載当初から1万部に上がり、競合するアメージング・ストーリーズ誌やワンダー・ストーリーズ誌は財政危機に陥り、その年は休刊している。 1936年1月、既にSF作家としての地位を確立していたスミスだが、ミシガン州ジャクソンのダウン・ドーナッツ社に移籍。ここで約1年間、1日18時間、毎日休みなく働いた。ドーナツや他のペイストリー用のミックス粉の開発を担当していたことは確かだが、ドーナツに粉砂糖を付着させる方法をスミスが開発したという主張は裏づけがない。スミスは1940年初めごろ、戦前の供給制限のために同社内で配置換えされたと言われている。 スミスは1927年ごろから宇宙警察ものを書く構想を暖めていた。《レンズマン》の設定を考え付いたスミスは、蔵書の中の警察と犯罪者を扱ったSF小説をかたっぱしから読み返した。彼は Clinton Constantinescue の "War of the Universe" を悪い例、Starzl やウィリアムスンの作品を良い例とした。トレメインはスミスの構想に大賛成した。 1936年末、ダウン・ドーナッツ社が利益を上げるようになると、スミスは《レンズマン》シリーズ4作品となる梗概を80ページほどにまとめ、1937年初めにトレメインがそれらが作品になったら買うことを約束した。梗概を4作品に分割するにあたって、それぞれの終わり方がさらなる面白さを予感させるようにするのに苦労した。その点でスミスはエドガー・ライス・バローズを悪い例として挙げている。骨子が決まるとスミスは『銀河パトロール隊』のより詳細な骨子を書き、感情的な盛り上がり部分や説明的な部分を示す小説の構造を詳細なグラフに描いた。しかし、実際に書いてみると登場人物が勝手に動き回り、骨子の通りにはならなかったとスミスは記している。『銀河パトロール隊』の草稿を完成させると、スミスはシリーズの完結編である『レンズの子供たち』の最終章を書いた。『銀河パトロール隊』はアスタウンディング誌1937年9月号から1938年2月号まで連載された。単行本化されたときには『三惑星連合軍』と同じ世界という設定になっていたが、連載時はそうではなかった。 シリーズ2作目の『グレー・レンズマン』は、アスタウンディング誌1939年10月号から1940年1月号まで連載された。なお、グレーの綴りは "Gray" だが雑誌掲載時の表紙に間違ってイギリス風に "Grey" と記されたこともあり、よく間違われる。『グレー・レンズマン』(とその表紙イラスト)は非常に好評だった。キャンベルは12月号の編集後記で10月号がアスタウンディング誌史上最高の出来だったと記しており、『グレー・レンズマン』は他の作品を大きく引き離して読者投票で1位となった。表紙イラストも好評で、キャンベルは「E・E・スミスとイラストレーターのヒューバート・ロジャースはキニスンの外見について合意しているという手紙を受け取った」と記している。 スミスは1940年シカゴで開催された第2回ワールドコンのゲストとして招待され、"What Does This Convention Mean?"(この大会の意義は何か)と題してSFファンダムの重要性を強調する講演を行った。また、ワールドコンの仮装大会にはC・L・ムーアのノースウェスト・スミスの扮装で参加した。ミシガン州から来ていたファンと親交ができ、そのファンたちが後に Galactic Roamers(銀河放浪者)を結成し、その後の作品についていち早く教えてもらえるようになったという。 1941年から1945年まで、スミスはアメリカ陸軍に勤務した。『三惑星連合軍』の単行本版(1948) は第二次世界大戦中に加筆されており、爆薬や軍需品の製造に関する詳細な知識をこの時期に得たことがうかがえる。品質検査を巡って上層部と衝突した登場人物が正論でありながらクビになるエピソードは、スミス自身の体験に基づいているとする伝記もいくつかある。1946年、ドーナツなどを製造する J. W. Allen Company に就職し、引退となる1957年まで勤めた。 本職を引退後、夫妻は秋から冬にかけてはフロリダ州クリアウォーターに住み、春には2つ所有するトレーラーのうち小さい方でオレゴン州シーサイドに行き、その途中でよくSF大会に立ち寄った。スミスは飛行機での移動が嫌いだった。 ロバート・A・ハインラインはスミスの友人だった。ハインラインは1958年の小説『メトセラの子ら』をスミスに捧げている。ハインラインはスミスの『火星航路SOS』のずば抜けた能力を持つ「非現実的」な主人公について、本人がモデルだろうと記している。ハインラインは、E・E・スミスは大柄のブロンドで優れた身体能力を持つ非常に聡明な男で、極めて美しく聡明で赤毛の女性マクドゥーガルと結婚したと記しており、キムボール・キニスンとクラリッサ・マクドゥガルは2人がモデルだとしている。ハインラインはエッセイの中で、スミスに車選びを手伝ってもらったとき、彼が一種の「スーパーマン」ではないかと疑うようになったと記している。スミスは車の天井に頭を押し付けて骨伝導でシャーシの異常な音が聞こえるようにして、裏道を速度制限以上の高速で運転したという。その方法はその場で思いついたようだった。 スミスが本職引退後に書いた長編 Galaxy Primes、Subspace Explorers、Subspace Encounter では、テレパシーなどの超能力を題材にしており、他の惑星の植民地化における自由主義者と社会主義/共産主義者とのぶつかり合いを描いている。 スミスは "Lord Tedric" という中編を1952年に Other Worlds 誌に発表していたが、この作品はほとんど忘れられていた。 スミスの死後13年が経過して、ゴードン・エクランドが同じ題名と同じ登場人物を使った新たな長編を「E・E・スミスが構想していた新シリーズ」と銘打って出版した。エクランドはその後も続編を "E. E. 'Doc' Smith" や "E. E. Smith" の筆名で発表した。主人公はスミス作品と同様に勇敢で、異次元の種族と交信できる。敵は鞭と剣を得意とするダークナイトで、惑星サイズの "iron sphere" という超兵器が登場する。このように設定が似ているところからE・E・スミスが「スター・ウォーズ」の認められていない原型を考案したとする向きもある。 スミスの作品は一般に古典的スペースオペラとみなされており、スミスは20世紀SF界の "最初の新星(first nova)" とも呼ばれている。 スミスは(当時の科学技術で)厳密に不可能とされたわけではないがほとんど無理と思われるような架空のテクノロジーを発明することを好んだ。スミスの言葉として「基本演算が無限小も無視しない数学に反することを除いて、よりありそうにない概念の方が私は好きだ」がある。 『渦動破壊者』は《レンズマン》シリーズと設定が共通である。これは『第二段階レンズマン』と『レンズの子供たち』の間に位置する話で、従来のレンズマンとは異なる超能力の持ち主が登場する。また『火星航路SOS』は1970年代のペーパーバックでは間違って《レンズマン》シリーズの一部とされることがあった。 ロバート・A・ハインラインによれば、スミスは1960年代前半、『レンズの子供たち』の後を描いた《レンズマン》シリーズ7作目を構想していたが、そのときは出版できる状況ではなかったという。スミスがハインラインに語ったところでは、『レンズの子供たち』には注意深く読めばわかる未解決の問題があり、そこから新たな小説へと展開するのだという。スミスをよく知る人々(担当編集者だったフレデリック・ポールやスミスの娘など)がその構想のノートなどがないかと注意深く捜したが、見つかっていない。スミスはその小説について全く何も残していないと見られている。 彼の死の約1カ月前の1965年7月14日、スミスは William B. Ellern に《レンズマン》シリーズを継続する許可を書面で与えた。Ellern は "Moon Prospector"(1965) と New Lensman(1976) を書いた。また、スミスの長年の友人デイヴィッド・カイルが《レンズマン》シリーズの公式の続編を3作書いており、非人類種族のレンズマンについてのバックグラウンドを提供した。 スミスの作品は1930年代から1970年代にかけて多くの科学者や技術者に読まれた。スミス作品の軍事的アイデアが現実になったものとして、戦略防衛構想(『三惑星連合軍』)、ステルス性(『グレー・レンズマン』)、OODAループ、C3軍事システム、AWACS(『グレー・レンズマン』)などがある。 議論の余地がない影響は、1947年6月11日付けのジョン・W・キャンベル(《レンズマン》シリーズの多くを出版したアスタウンディング誌編集長)からスミスへの手紙に現れている。その中でキャンベルは海軍艦長C・ラニング中佐 がアメリカ海軍の艦船の戦闘指揮所(CIC)にスミスの戦闘状況表示のアイデア(作中では "tank" と呼ばれている)を借用したことへの許可を求めてきたと書いている。C・ラニング中佐は、1943年前後に、駆逐艦にCICを導入するためのプロジェクトチームを主導しており、スミスのアイデアは第二次世界大戦中に実際に使われ、日本海軍相手に大きな成果をあげたという。 スミスのエッセイ "The Epic of Space" で、彼は好きな作家を(姓のみ)挙げている。ジョン・W・キャンベル、L・スプレイグ・ディ=キャンプ、ロバート・A・ハインライン、マレイ・ラインスター、H・P・ラヴクラフト、A・メリット(特に『イシュタルの船』、『ムーン・プール』、『黄金郷の蛇母神』、『蜃気楼の戦士』)、C・L・ムーア(特に《処女戦士ジレル》)、A・E・ヴァン・ヴォークト、スタンリイ・G・ワインボウム(特にトウィール)、ジャック・ウィリアムスンなどである。スミスは《レンズマン》の準備をする過程で、Clinton Constantinescu の "War of the Universe" は傑作ではないとし、Starzlやウィリアムスンの作品は傑作だと記している。Starzl は Interplanetary Flying Patrol というパトロール隊を作品で描いており、それがスミスの三惑星連合軍や銀河パトロール隊に影響している可能性がある。《レンズマン》シリーズにはA・メリットの『ムーン・プール』によく似た場面がいくつかある。 スミスは Galactic Roamers や E. Everett Evans らの作品への協力があったことを認めている。スミスの娘 Verna は彼女が若いころにスミス家を訪問した人物として、Lloyd Arthur Eshbach、ハインライン、デイヴィッド・カイル、ウィルスン・タッカー、ウィリアムスン、フレデリック・ポール、A・メリット、そして Galactic Roamers を挙げている。 サム・モスコウィッツの著書 Seekers of Tomorrow にあるスミスの伝記的記述によれば、スミスはアーゴシー誌を定期購読しており、H・G・ウェルズ、ジュール・ヴェルヌ、ヘンリー・ライダー・ハガード、エドガー・アラン・ポー、エドガー・ライス・バローズの作品は全て読んでいたという。モスコウィッツはまた、スミスの読書遍歴について「哲学、古代史や中世史、英文学全般」に及んでいたとしている。そういった素養が作品に表れている部分は少なく、『三惑星連合軍』の古代ローマの章やスミスの複雑だが完璧な文体ぐらいしかない。『銀河パトロール隊』で「レンズ」が万能翻訳機の役目も果たすという設定は、ゴットロープ・フレーゲに代表される19世紀言語哲学の影響ととることもできる。また『グレー・レンズマン』ではラドヤード・キップリングの "Ballad of Boh Da Thon" を引用している。 モスコウィッツとスミスの娘 Verna Smith Trestrail は、アスタウンディング誌編集長ジョン・W・キャンベルとスミスは問題を抱えた関係だったとしている。スミスの最も成功した作品はキャンベルが出版したものだが、キャンベルがどの程度影響を与えたかは不明である。《レンズマン》シリーズの骨子はキャンベルの前の編集長F・オーリン・トレメインが受け入れたもので、スミスが『渦動破壊者』をトレメインの新雑誌 Comet に売ったため(1941年)、キャンベルの怒りを買ったという。1947年にアスタウンディング誌に『レンズの子供たち』を連載開始する際のキャンベルの紹介にはそれほど熱がこもっていなかった。後にキャンベルはそれを掲載するのはいやだったと語っているが、作品そのものは賞賛しており、その後はスミスの作品をほとんど買い取っていない。 (カッコ内は日本語タイトル。記載の無いものは未邦訳。年数は初稿掲載年。連載の場合は第一話の掲載年。) 1作目の途中までがE・E・スミスが執筆した部分で、残りはスティーヴン・ゴールディンがスミスの構想を元に執筆。 E・E・スミスの構想を元にゴードン・エクランドが執筆。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エドワード・エルマー・スミス(Edward Elmer Smith あるいは E.E.\"Doc\"Smith, 1890年5月2日 - 1965年8月31日)は、アメリカのSF作家で、《レンズマン》シリーズや《スカイラーク》シリーズで知られている。「スペースオペラの父」と呼ばれることもある。通称はE・E・スミス、ドク・スミスなど。家族からはテッドと呼ばれていた。ドーナツやペイストリー用の粉を専門とする食品工学者でもあった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1890年5月2日、ウィスコンシン州シボイガンで生まれる。両親は共に長老派教会の敬虔な信徒の家系である。母はミシガン州出身の教師で、父はメイン州出身の船員だったが英語教師になった。同年冬、ワシントン州スポケーンに幼いE・E・スミスを連れて引越し、そこで父が1900年には契約で働いていた。1902年、一家はアイダホ州クートニー郡の Seneaquoteen に引っ越した。E・E・スミスは5人兄弟の4番目だった。1910年の国勢調査によると両親と弟は当時アイダホ州ボナー郡の Markham Precinct に住んでいた。国勢調査の記録では父の職業は農夫となっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スミスは肉体労働者として働いていたが、19歳のとき火事から逃げる際に手首を負傷し、肉体労働が難しくなった。そこで彼はアイダホ大学に入学。1984年にはアイダホ大学同窓会の殿堂入りしている。1907年に入学し化学工学を専攻して1914年に卒業(7年かかっているのは学士号を2つ取得したため)。化学クラブ、チェスクラブ、マンドリン・ギタークラブ、ライフルチームの部長を務めた。ギルバートとサリヴァンのオペレッタの舞台で歌ったこともある。学士論文の題名は Some Clays of Idaho でクラスメートの Chester Fowler Smith と共同で執筆した。なお、そのクラスメートはバークレーで講師の職を得たが、翌年結核で亡くなっている。2人の関係はよくわかっていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1915年10月5日、アイダホ州ボイシで大学のルームメイトの妹だったジャンヌ・クレイグ・マクドゥーガルと結婚。因みにジャンヌの姉妹がクラリッサ・マクリーン・マクドゥーガルという名で、《レンズマン》シリーズのヒロインの名(クラリッサ・マクドゥーガル)に使われている。ジャンヌはスコットランドのグラスゴー出身で、父はバイオリン奏者だった。彼女の父は子供たちが幼いころにボイシに単身赴任し、家族がボイシに引っ越そうとしている1905年に亡くなった。ジャンヌの母は1914年に元政治家の実業家と再婚した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "スミスは3人の子をもうけた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大学卒業後は国立標準局 (NBS) で化学者として働くようになり、ワシントンD.C.に引っ越した。NBSではバターや牡蠣の品質規格制定などに従事。第一次世界大戦には召集され陸軍中尉で従軍したが、どういう任務についていたかは不明である。妻には自分以外に頼る者がいないということと、化学者として戦争に寄与できるという考えから、スミスは徴兵免除を申請したと見られている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1915年のある晩、アイダホ大学で同級生だったカール・ガービー博士がワシントンD.C.に引っ越してきたということでスミス家を訪問した。引っ越してきた場所がスミス家のすぐ近くだった。そして宇宙空間への旅について長く話しこんだ。ガービーは恒星間航行についての空想的な物語とアイデアを書いてみるべきだとスミスに提案した。スミスはそれに興味を抱いたが、実際に書くとなれば若干のロマンチックな要素も必要だろうし、そういうことは得意ではないと思った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "するとガービー夫人が恋愛要素やロマンチックな台詞について協力すると申し出、スミスは書いてみることにした。主要登場人物は彼ら自身をモデルにしている。シートンはスミス本人がモデルで、クレイン夫妻はガービー夫妻がモデルである。『宇宙のスカイラーク』の3分の1ほどは1916年末までに完成したが、スミスとガービーは徐々にその作業をしなくなっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "スミスはジョージ・ワシントン大学でチャールズ・モンロー (en、「モンロー効果」のモンローである) の下で学び、1917年に化学の修士号を取得。1918年には化学工学でPh.D.を取得。学位論文は食品工学に関するもので題名は The effect of bleaching with oxides of nitrogen upon the baking quality and commercial value of wheat flour](窒素酸化物による漂白で小麦粉の品質と商品価値を高める効果)であり、1919年に出版された。(Warner 1938) やFleischerのサイトでは、論文タイトルを The Effect of the Oxides of Nitrogen upon the Carotin Molecule — C40H56 としている。また、サム・モスコウィッツは博士号取得を1919年としている。これは、論文を提出した日付、審査された日付、博士号が与えられた日付の違いを反映したものと見られる。なお、ドクの名はこの博士号取得によるものである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1919年、スミスはミシガン州ヒルズデールのF・W・ストック&サン社の主任化学者として働くようになった。技師長としてドーナッツ・ミックス・パウダーの研究開発を行う。同社はミシシッピ川以東では有数のドーナッツ用の製粉工場だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1919年後半、ミシガン州に引っ越した後でスミスは妻が映画を見に行っている晩に赤ん坊(おそらく長男)の子守をしていた。そのとき『宇宙のスカイラーク』の執筆を再開し、1920年春に完成させた。彼はその原稿を多数の出版社や雑誌社に送り、最終的に得た原稿料よりも切手代のほうが高くついたという。1922年、アーゴシー誌の編集者ボブ・デーヴィスは、個人的には好きなのだが同誌の読者には話が壮大すぎるという断わりの返事を送っている。(Warner 1938) だけは、最初の原稿が売れる前にスミスが続編『スカイラーク3号』に取り掛かったとしている。最終的に1927年4月、『宇宙のスカイラーク』はアメージング・ストーリーズ誌に売れた。当初原稿料は75ドルだったが後に125ドルに上がった。作品は1928年の8月号から10月号に連載された。評判は上々で、編集長T・オコンナー・スローンは連載2回目の出版前に続編を依頼している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ガービー夫人はそれ以上の共作を望まず、『スカイラーク3号』はスミス1人で書き始め、アメージング誌1930年8月号から10月号に連載された。そのころスミス夫妻はミシガン州ヒルズデールに住んでいた。スミスは《スカイラーク》シリーズを前作で完結させたつもりだったが、アメージング誌の投書欄に多数の賞賛の手紙が掲載され、さらに続編を書くことになった。原稿料はアメージング誌のそれまでの最高記録だった1語半セントを更新し、1語4分の3セントとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "SFの舞台が一気に太陽系外・銀河系スケールにまで拡大したのは、スミスの『スカイラーク』シリーズ、そして『レンズマン』シリーズの功績といって良いだろう。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後スミスは『火星航路SOS』(Spacehounds of IPC) 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"1933年から1934年にかけての冬、『ヴァレロンのスカイラーク』を執筆したが、スミスは話の収拾がつかなくなってきたと感じ、初稿をトレメインに送る際に助言を求める乱雑な注記を添えていた。トレメインは初稿に850ドルを支払い、1ページ全部を論説にあて、4分の3ページを広告として1934年6月号で掲載を発表した。この小説は1934年8月号から1935年2月号まで連載された。アスタウンディング誌は掲載当初から1万部に上がり、競合するアメージング・ストーリーズ誌やワンダー・ストーリーズ誌は財政危機に陥り、その年は休刊している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1936年1月、既にSF作家としての地位を確立していたスミスだが、ミシガン州ジャクソンのダウン・ドーナッツ社に移籍。ここで約1年間、1日18時間、毎日休みなく働いた。ドーナツや他のペイストリー用のミックス粉の開発を担当していたことは確かだが、ドーナツに粉砂糖を付着させる方法をスミスが開発したという主張は裏づけがない。スミスは1940年初めごろ、戦前の供給制限のために同社内で配置換えされたと言われている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "スミスは1927年ごろから宇宙警察ものを書く構想を暖めていた。《レンズマン》の設定を考え付いたスミスは、蔵書の中の警察と犯罪者を扱ったSF小説をかたっぱしから読み返した。彼は Clinton Constantinescue の \"War of the Universe\" を悪い例、Starzl やウィリアムスンの作品を良い例とした。トレメインはスミスの構想に大賛成した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1936年末、ダウン・ドーナッツ社が利益を上げるようになると、スミスは《レンズマン》シリーズ4作品となる梗概を80ページほどにまとめ、1937年初めにトレメインがそれらが作品になったら買うことを約束した。梗概を4作品に分割するにあたって、それぞれの終わり方がさらなる面白さを予感させるようにするのに苦労した。その点でスミスはエドガー・ライス・バローズを悪い例として挙げている。骨子が決まるとスミスは『銀河パトロール隊』のより詳細な骨子を書き、感情的な盛り上がり部分や説明的な部分を示す小説の構造を詳細なグラフに描いた。しかし、実際に書いてみると登場人物が勝手に動き回り、骨子の通りにはならなかったとスミスは記している。『銀河パトロール隊』の草稿を完成させると、スミスはシリーズの完結編である『レンズの子供たち』の最終章を書いた。『銀河パトロール隊』はアスタウンディング誌1937年9月号から1938年2月号まで連載された。単行本化されたときには『三惑星連合軍』と同じ世界という設定になっていたが、連載時はそうではなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "シリーズ2作目の『グレー・レンズマン』は、アスタウンディング誌1939年10月号から1940年1月号まで連載された。なお、グレーの綴りは \"Gray\" だが雑誌掲載時の表紙に間違ってイギリス風に \"Grey\" と記されたこともあり、よく間違われる。『グレー・レンズマン』(とその表紙イラスト)は非常に好評だった。キャンベルは12月号の編集後記で10月号がアスタウンディング誌史上最高の出来だったと記しており、『グレー・レンズマン』は他の作品を大きく引き離して読者投票で1位となった。表紙イラストも好評で、キャンベルは「E・E・スミスとイラストレーターのヒューバート・ロジャースはキニスンの外見について合意しているという手紙を受け取った」と記している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "スミスは1940年シカゴで開催された第2回ワールドコンのゲストとして招待され、\"What Does This Convention Mean?\"(この大会の意義は何か)と題してSFファンダムの重要性を強調する講演を行った。また、ワールドコンの仮装大会にはC・L・ムーアのノースウェスト・スミスの扮装で参加した。ミシガン州から来ていたファンと親交ができ、そのファンたちが後に Galactic Roamers(銀河放浪者)を結成し、その後の作品についていち早く教えてもらえるようになったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1941年から1945年まで、スミスはアメリカ陸軍に勤務した。『三惑星連合軍』の単行本版(1948) は第二次世界大戦中に加筆されており、爆薬や軍需品の製造に関する詳細な知識をこの時期に得たことがうかがえる。品質検査を巡って上層部と衝突した登場人物が正論でありながらクビになるエピソードは、スミス自身の体験に基づいているとする伝記もいくつかある。1946年、ドーナツなどを製造する J. W. Allen Company に就職し、引退となる1957年まで勤めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "本職を引退後、夫妻は秋から冬にかけてはフロリダ州クリアウォーターに住み、春には2つ所有するトレーラーのうち小さい方でオレゴン州シーサイドに行き、その途中でよくSF大会に立ち寄った。スミスは飛行機での移動が嫌いだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ロバート・A・ハインラインはスミスの友人だった。ハインラインは1958年の小説『メトセラの子ら』をスミスに捧げている。ハインラインはスミスの『火星航路SOS』のずば抜けた能力を持つ「非現実的」な主人公について、本人がモデルだろうと記している。ハインラインは、E・E・スミスは大柄のブロンドで優れた身体能力を持つ非常に聡明な男で、極めて美しく聡明で赤毛の女性マクドゥーガルと結婚したと記しており、キムボール・キニスンとクラリッサ・マクドゥガルは2人がモデルだとしている。ハインラインはエッセイの中で、スミスに車選びを手伝ってもらったとき、彼が一種の「スーパーマン」ではないかと疑うようになったと記している。スミスは車の天井に頭を押し付けて骨伝導でシャーシの異常な音が聞こえるようにして、裏道を速度制限以上の高速で運転したという。その方法はその場で思いついたようだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スミスが本職引退後に書いた長編 Galaxy Primes、Subspace Explorers、Subspace Encounter では、テレパシーなどの超能力を題材にしており、他の惑星の植民地化における自由主義者と社会主義/共産主義者とのぶつかり合いを描いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スミスは \"Lord Tedric\" という中編を1952年に Other Worlds 誌に発表していたが、この作品はほとんど忘れられていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スミスの死後13年が経過して、ゴードン・エクランドが同じ題名と同じ登場人物を使った新たな長編を「E・E・スミスが構想していた新シリーズ」と銘打って出版した。エクランドはその後も続編を \"E. E. 'Doc' Smith\" や \"E. E. Smith\" の筆名で発表した。主人公はスミス作品と同様に勇敢で、異次元の種族と交信できる。敵は鞭と剣を得意とするダークナイトで、惑星サイズの \"iron sphere\" という超兵器が登場する。このように設定が似ているところからE・E・スミスが「スター・ウォーズ」の認められていない原型を考案したとする向きもある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "スミスの作品は一般に古典的スペースオペラとみなされており、スミスは20世紀SF界の \"最初の新星(first nova)\" とも呼ばれている。", "title": "重要な意見" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "スミスは(当時の科学技術で)厳密に不可能とされたわけではないがほとんど無理と思われるような架空のテクノロジーを発明することを好んだ。スミスの言葉として「基本演算が無限小も無視しない数学に反することを除いて、よりありそうにない概念の方が私は好きだ」がある。", "title": "重要な意見" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "『渦動破壊者』は《レンズマン》シリーズと設定が共通である。これは『第二段階レンズマン』と『レンズの子供たち』の間に位置する話で、従来のレンズマンとは異なる超能力の持ち主が登場する。また『火星航路SOS』は1970年代のペーパーバックでは間違って《レンズマン》シリーズの一部とされることがあった。", "title": "《レンズマン》宇宙の拡張" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ロバート・A・ハインラインによれば、スミスは1960年代前半、『レンズの子供たち』の後を描いた《レンズマン》シリーズ7作目を構想していたが、そのときは出版できる状況ではなかったという。スミスがハインラインに語ったところでは、『レンズの子供たち』には注意深く読めばわかる未解決の問題があり、そこから新たな小説へと展開するのだという。スミスをよく知る人々(担当編集者だったフレデリック・ポールやスミスの娘など)がその構想のノートなどがないかと注意深く捜したが、見つかっていない。スミスはその小説について全く何も残していないと見られている。", "title": "《レンズマン》宇宙の拡張" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "彼の死の約1カ月前の1965年7月14日、スミスは William B. Ellern に《レンズマン》シリーズを継続する許可を書面で与えた。Ellern は \"Moon Prospector\"(1965) と New Lensman(1976) を書いた。また、スミスの長年の友人デイヴィッド・カイルが《レンズマン》シリーズの公式の続編を3作書いており、非人類種族のレンズマンについてのバックグラウンドを提供した。", "title": "《レンズマン》宇宙の拡張" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "スミスの作品は1930年代から1970年代にかけて多くの科学者や技術者に読まれた。スミス作品の軍事的アイデアが現実になったものとして、戦略防衛構想(『三惑星連合軍』)、ステルス性(『グレー・レンズマン』)、OODAループ、C3軍事システム、AWACS(『グレー・レンズマン』)などがある。", "title": "軍事への影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "議論の余地がない影響は、1947年6月11日付けのジョン・W・キャンベル(《レンズマン》シリーズの多くを出版したアスタウンディング誌編集長)からスミスへの手紙に現れている。その中でキャンベルは海軍艦長C・ラニング中佐 がアメリカ海軍の艦船の戦闘指揮所(CIC)にスミスの戦闘状況表示のアイデア(作中では \"tank\" と呼ばれている)を借用したことへの許可を求めてきたと書いている。C・ラニング中佐は、1943年前後に、駆逐艦にCICを導入するためのプロジェクトチームを主導しており、スミスのアイデアは第二次世界大戦中に実際に使われ、日本海軍相手に大きな成果をあげたという。", "title": "軍事への影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スミスのエッセイ \"The Epic of Space\" で、彼は好きな作家を(姓のみ)挙げている。ジョン・W・キャンベル、L・スプレイグ・ディ=キャンプ、ロバート・A・ハインライン、マレイ・ラインスター、H・P・ラヴクラフト、A・メリット(特に『イシュタルの船』、『ムーン・プール』、『黄金郷の蛇母神』、『蜃気楼の戦士』)、C・L・ムーア(特に《処女戦士ジレル》)、A・E・ヴァン・ヴォークト、スタンリイ・G・ワインボウム(特にトウィール)、ジャック・ウィリアムスンなどである。スミスは《レンズマン》の準備をする過程で、Clinton Constantinescu の \"War of the Universe\" は傑作ではないとし、Starzlやウィリアムスンの作品は傑作だと記している。Starzl は Interplanetary Flying Patrol というパトロール隊を作品で描いており、それがスミスの三惑星連合軍や銀河パトロール隊に影響している可能性がある。《レンズマン》シリーズにはA・メリットの『ムーン・プール』によく似た場面がいくつかある。", "title": "スミスが影響を受けた文学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スミスは Galactic Roamers や E. Everett Evans らの作品への協力があったことを認めている。スミスの娘 Verna は彼女が若いころにスミス家を訪問した人物として、Lloyd Arthur Eshbach、ハインライン、デイヴィッド・カイル、ウィルスン・タッカー、ウィリアムスン、フレデリック・ポール、A・メリット、そして Galactic Roamers を挙げている。", "title": "スミスが影響を受けた文学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "サム・モスコウィッツの著書 Seekers of Tomorrow にあるスミスの伝記的記述によれば、スミスはアーゴシー誌を定期購読しており、H・G・ウェルズ、ジュール・ヴェルヌ、ヘンリー・ライダー・ハガード、エドガー・アラン・ポー、エドガー・ライス・バローズの作品は全て読んでいたという。モスコウィッツはまた、スミスの読書遍歴について「哲学、古代史や中世史、英文学全般」に及んでいたとしている。そういった素養が作品に表れている部分は少なく、『三惑星連合軍』の古代ローマの章やスミスの複雑だが完璧な文体ぐらいしかない。『銀河パトロール隊』で「レンズ」が万能翻訳機の役目も果たすという設定は、ゴットロープ・フレーゲに代表される19世紀言語哲学の影響ととることもできる。また『グレー・レンズマン』ではラドヤード・キップリングの \"Ballad of Boh Da Thon\" を引用している。", "title": "スミスが影響を受けた文学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "モスコウィッツとスミスの娘 Verna Smith Trestrail は、アスタウンディング誌編集長ジョン・W・キャンベルとスミスは問題を抱えた関係だったとしている。スミスの最も成功した作品はキャンベルが出版したものだが、キャンベルがどの程度影響を与えたかは不明である。《レンズマン》シリーズの骨子はキャンベルの前の編集長F・オーリン・トレメインが受け入れたもので、スミスが『渦動破壊者』をトレメインの新雑誌 Comet に売ったため(1941年)、キャンベルの怒りを買ったという。1947年にアスタウンディング誌に『レンズの子供たち』を連載開始する際のキャンベルの紹介にはそれほど熱がこもっていなかった。後にキャンベルはそれを掲載するのはいやだったと語っているが、作品そのものは賞賛しており、その後はスミスの作品をほとんど買い取っていない。", "title": "スミスが影響を受けた文学" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "(カッコ内は日本語タイトル。記載の無いものは未邦訳。年数は初稿掲載年。連載の場合は第一話の掲載年。)", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1作目の途中までがE・E・スミスが執筆した部分で、残りはスティーヴン・ゴールディンがスミスの構想を元に執筆。", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "E・E・スミスの構想を元にゴードン・エクランドが執筆。", "title": "作品リスト" } ]
エドワード・エルマー・スミスは、アメリカのSF作家で、《レンズマン》シリーズや《スカイラーク》シリーズで知られている。「スペースオペラの父」と呼ばれることもある。通称はE・E・スミス、ドク・スミスなど。家族からはテッドと呼ばれていた。ドーナツやペイストリー用の粉を専門とする食品工学者でもあった。
{{Infobox 作家 | name = E・E・スミス | birth_name = Edward Elmer Smith | birth_date = [[1890年]][[5月2日]] | birth_place = [[ウィスコンシン州]][[シボイガン (ウィスコンシン州)|シボイガン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1890|5|2|1965|8|31}} | death_place = [[オレゴン州]]シーサイド | occupation = [[食品工学]]者、[[SF作家]] | nationality = {{USA}} | period = [[サイエンス・フィクション|SF]] 1928–1965 | genre = [[スペースオペラ]] | subject = | movement = | notable_works = [[宇宙のスカイラーク]] | awards = | debut_works = }} '''エドワード・エルマー・スミス'''('''Edward Elmer Smith''' あるいは '''E.E."Doc"Smith''', [[1890年]][[5月2日]] - [[1965年]][[8月31日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[SF作家]]で、《[[レンズマン]]》シリーズや《[[宇宙のスカイラーク|スカイラーク]]》シリーズで知られている。「[[スペースオペラ]]の父」と呼ばれることもある。通称は'''E・E・スミス'''、'''ドク・スミス'''など。家族からはテッドと呼ばれていた。[[ドーナツ (菓子)|ドーナツ]]や[[ペイストリー]]用の粉を専門とする[[食品工学]]者でもあった。 == 生涯 == === 家族と学生時代まで === 1890年5月2日、[[ウィスコンシン州]][[シボイガン (ウィスコンシン州)|シボイガン]]で生まれる。両親は共に[[長老派教会]]の敬虔な信徒の家系である<ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=11}}. これも含めて日付については {{Harv|Lucchetti|2004|pp=31–5, 113–147}} を主に参照。また、一部は {{Harv|Sanders|1986|pp=1–2}} を参照</ref>。母はミシガン州出身の教師で、父は[[メイン州]]出身の船員だったが英語教師になった<ref name="census1900">1900 Census, House 1515, Residence 438, Family 371, 3rd Ward of Spokane County, Washington, recorded June 13, 1900, accessed via online census images at heritagequest.com</ref>。同年冬、[[ワシントン州]][[スポケーン]]に幼いE・E・スミスを連れて引越し<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|pp=1, 7}}. ただし {{Harv|Trestrail|1979?|p=2}} では最初からアイダホに引っ越したとしている。また、{{Harv|Moskowitz|1966|pp=11–12}} と {{Harv|Eshbach|1947|p=85}} ではどちらもSandarsと同じである。</ref>、そこで父が1900年には契約で働いていた<ref name = "census1900"/>。1902年、一家は[[アイダホ州]]<ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|pp=11–12}}</ref>[[クートニー郡 (アイダホ州)|クートニー郡]]の Seneaquoteen<ref name="sanders1">{{Harvnb|Sanders|1986|p=1}}</ref> に引っ越した。E・E・スミスは5人兄弟の4番目だった。1910年の国勢調査によると両親と弟は当時アイダホ州[[ボナー郡 (アイダホ州)|ボナー郡]]の Markham Precinct に住んでいた。国勢調査の記録では父の職業は農夫となっている<ref>1910 Census, Residence 37, Family 37, Markham Precinct, Bonner County, Idaho, recorded 25 April 1910, accessed via heritagequest.com.</ref>。 スミスは肉体労働者として働いていたが、19歳のとき火事から逃げる際に手首を負傷し、肉体労働が難しくなった。そこで彼は[[アイダホ大学]]に入学。1984年にはアイダホ大学同窓会の殿堂入りしている<ref>Letter from Flip Kleffner, Director of Alumni Relations, University of Idaho Alumni Association, to Verna Smith Trestrail, dated 27 February 1984.</ref>。1907年に入学し[[化学工学]]を専攻して1914年に卒業(7年かかっているのは学士号を2つ取得したため)。化学クラブ、チェスクラブ、[[マンドリン]]・ギタークラブ、ライフルチームの部長を務めた。[[アーサー・サリヴァン|ギルバートとサリヴァン]]のオペレッタの舞台で歌ったこともある<ref name="sanders8">{{Harvnb|Sanders|1986|p=8}}</ref>。学士論文の題名は ''Some Clays of Idaho'' でクラスメートの Chester Fowler Smith と共同で執筆した。なお、そのクラスメートはバークレーで講師の職を得たが、翌年[[結核]]で亡くなっている<ref>[[:en:Latah County, Idaho|Latah County, Idaho]] [http://www.newspaperabstracts.com/link.php?id=17836 Star-Mirror, March 25, 1915].</ref>。2人の関係はよくわかっていない。 1915年10月5日、アイダホ州[[ボイシ]]<ref>[http://abish.byui.edu/specialCollections/westernStates/westernStatesRecordDetail.cfm?recordID=84846 Western States Marriage Index Entry 84846], accessed 5 April 2007</ref>で大学のルームメイトの妹だったジャンヌ・クレイグ・マクドゥーガルと結婚<ref>{{Harvnb|Trestrail|1979?|pp=3-4}}</ref><ref name="sanders8" /><ref name="mosk13">{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=13}}</ref>。因みにジャンヌの姉妹がクラリッサ・マクリーン・マクドゥーガルという名で、《レンズマン》シリーズのヒロインの名(クラリッサ・マクドゥーガル)に使われている。ジャンヌはスコットランドの[[グラスゴー]]出身で、父はバイオリン奏者だった。彼女の父は子供たちが幼いころにボイシに単身赴任し、家族がボイシに引っ越そうとしている1905年に亡くなった。ジャンヌの母は1914年に元政治家の実業家と再婚した<ref>Hawley, James F. ''A History of Idaho: Gem of the Mountains", page 868. S. J. Clarke Publishing Company, 1920. Full text available at [https://books.google.co.jp/books?id=-t8UAAAAYAAJ&ie=ISO-8859-1&output=html&redir_esc=y&hl=ja Google Books]</ref>。 スミスは3人の子をもうけた。 * Roderick N. (1918-?) - [[ロッキード]]社の航空機設計技師となった。 * Verna Jean (1920-1994) - 結婚後は Verna Smith Trestrail。スミスの著作権を相続した。死後はその子 Kim Trestrail が相続している<ref>[http://www.ethanfleischer.com/lensman/smithexhibit.htm Z9M9Z: "Noreascon 4".]</ref>。[[ロバート・A・ハインライン]]は『フライデイ』(1982) の献辞に Verna を挙げている<ref>{{cite book | author=Heinlein, Robert A. | title=Friday| publisher=New England Library | year=1984 | isbn=0-450-05549-3}}</ref>。 * Clarissa M. (1921-?) - 結婚後は Clarissa Wilcox<ref name="Lucchetti32">{{Harvnb|Lucchetti|2004|p=32}}</ref><ref name="warner">{{Harvnb|Warner|1938}}</ref><ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=22}}</ref>。 === 化学者としての経歴と《スカイラーク》シリーズの始まり === 大学卒業後は[[アメリカ国立標準技術研究所|国立標準局]] (NBS) で[[化学者]]として働くようになり、[[ワシントンD.C.]]に引っ越した。NBSではバターや牡蠣の品質規格制定などに従事<ref name = "mosk13"/>。[[第一次世界大戦]]には召集され陸軍中尉で従軍したが、どういう任務についていたかは不明である<ref>[http://www.outel.org/decomposed/goe/lensfaq.html Lens FAQ] [http://www.outel.org/decomposed/goe/LFQ0.html p. 0] にある[http://www.outel.org/decomposed/goe/eesww1.gif 写真]を参照。{{Harv|Warner|1938}} によれば、スミスは[[パイロット (航空)|操縦士]]になることを望んだが不合格だったという。他の伝記には戦時中のスミスの動向は記されていない。</ref>。妻には自分以外に頼る者がいないということと、化学者として戦争に寄与できるという考えから、スミスは徴兵免除を申請したと見られている<ref>Partially illegible draft card, 5 June 1917, retrieved from Ancestry.com July 2007.</ref>。 1915年のある晩、[[アイダホ大学]]で同級生だったカール・ガービー博士がワシントンD.C.に引っ越してきたということでスミス家を訪問した。引っ越してきた場所がスミス家のすぐ近くだった。そして[[宇宙空間]]への旅について長く話しこんだ。ガービーは[[恒星間航行]]についての空想的な物語とアイデアを書いてみるべきだとスミスに提案した。スミスはそれに興味を抱いたが、実際に書くとなれば若干のロマンチックな要素も必要だろうし、そういうことは得意ではないと思った。 するとガービー夫人が恋愛要素やロマンチックな台詞について協力すると申し出、スミスは書いてみることにした。主要登場人物は彼ら自身をモデルにしている。シートンはスミス本人がモデルで、クレイン夫妻はガービー夫妻がモデルである<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|pp=8-9}}</ref><ref name="mosk14">{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=14}}</ref>。『[[宇宙のスカイラーク]]』の3分の1ほどは1916年末までに完成したが、スミスとガービーは徐々にその作業をしなくなっていった。 スミスは[[ジョージ・ワシントン大学]]でチャールズ・モンロー ([[:en:Charles Edward Munroe|en]]、「[[モンロー/ノイマン効果|モンロー効果]]」のモンローである) の下で学び、1917年に[[化学]]の修士号を取得<ref name = "sanders1"/><ref>{{Harvnb|Moskowitz|1942}} では[[ハーバード大学]]と[[ジョンズ・ホプキンス大学]]で修士号を得たとされているが、他の文献とは一致しない。</ref>。1918年には[[化学工学]]<ref name = "mosk13"/>で[[Ph.D.]]を取得<ref name="sanders1"/><ref name="Lucchetti32"/><ref>{{Harvnb|Barrett|1994|p=4}}</ref>。学位論文は[[食品工学]]に関するもので題名は ''The effect of bleaching with oxides of nitrogen upon the baking quality and commercial value of wheat flour]''(窒素酸化物による漂白で小麦粉の品質と商品価値を高める効果)であり、1919年に出版された<ref>「ノンフィクション」の節参照</ref>。{{Harv|Warner|1938}} やFleischerのサイトでは、論文タイトルを ''The Effect of the Oxides of Nitrogen upon the Carotin Molecule — C40H56'' としている。また、[[サム・モスコウィッツ]]は博士号取得を1919年としている<ref name="mosk13" />。これは、論文を提出した日付、審査された日付、博士号が与えられた日付の違いを反映したものと見られる。なお、'''ドク'''の名はこの[[博士号]]取得によるものである。 === 《スカイラーク》シリーズ === [[ファイル:Amazing stories 193008.jpg|thumb|『スカイラーク3号』が掲載された[[アメージング・ストーリーズ]]1930年8月号の表紙]] 1919年、スミスは[[ミシガン州]][[ヒルズデール (ミシガン州)|ヒルズデール]]のF・W・ストック&サン社の主任化学者として働くようになった。技師長として[[ドーナツ (菓子)|ドーナッツ]]・ミックス・パウダーの研究開発を行う。同社はミシシッピ川以東では有数の<ref>http://www.hillsdalecounty.info/history0118.asp accessed 5 April 2007</ref>ドーナッツ用の製粉工場だった<ref name="sanders1" />。 1919年後半、ミシガン州に引っ越した後でスミスは妻が映画を見に行っている晩に赤ん坊(おそらく長男)の子守をしていた。そのとき『宇宙のスカイラーク』の執筆を再開し、1920年春に完成させた<ref name="sanders1" /><ref name="mosk14"/><ref>{{Harvnb|Warner|1938}} では1921年完成とされている。</ref><ref>{{Harvnb|Moskowitz|1942}} では「執筆が本当に始まったのは1919年になってからだった……アメリカ市場の最初のSF雑誌がそれを買うまでに5年かかり、実際に出版するまで2年かかった」とあるが、他の文献とは一致しない。</ref>。彼はその原稿を多数の出版社や雑誌社に送り、最終的に得た原稿料よりも切手代のほうが高くついたという。1922年、[[アーゴシー]]誌の編集者ボブ・デーヴィスは、個人的には好きなのだが同誌の読者には話が壮大すぎるという断わりの返事を送っている<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|p=9}}</ref><ref name="mosk15">{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=15}}</ref>。{{Harv|Warner|1938}} だけは、最初の原稿が売れる前にスミスが続編『スカイラーク3号』に取り掛かったとしている。最終的に1927年4月、『宇宙のスカイラーク』は[[アメージング・ストーリーズ]]誌に売れた。当初原稿料は75ドルだったが後に125ドルに上がった<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|pp=1, 9}}, {{Harvnb|Moskowitz|1966|p=15}}. どちらもその原稿を買ったのはT・オコンナー・スローンだとしているが、[[アメージング・ストーリーズ]]のWikipediaの記事によれば、スローンが編集長となったのは1929年11月号からである。当時の編集長は[[ヒューゴー・ガーンズバック]]だった。</ref>。作品は1928年の8月号から10月号に連載された。評判は上々で、編集長T・オコンナー・スローンは連載2回目の出版前に続編を依頼している<ref name="mosk15" />。 ガービー夫人はそれ以上の共作を望まず、『スカイラーク3号』はスミス1人で書き始め<ref name="mosk15" /><ref>前述の通り {{Harvnb|Warner|1938}} ではもっと前から書き始めたとされている。</ref>、アメージング誌1930年8月号から10月号に連載された。そのころスミス夫妻はミシガン州ヒルズデールに住んでいた<ref>1930 Census of Ward 3, Household 288, Family 314, Hillsdale, Michigan, recorded by Mark C. Hanselman on 11 April 1930. Copy courtesy www.ancestry.com.</ref>。スミスは《スカイラーク》シリーズを前作で完結させたつもりだったが、アメージング誌の投書欄に多数の賞賛の手紙が掲載され<ref>例えば9月号の567-8ページには[[ジョン・W・キャンベル]]からの手紙が掲載された。その最後に『宇宙のスカイラーク』は「史上最高のSF小説だ」とあるが、キャンベルの手紙の大半は科学考証面への痛烈な批判である。</ref>、さらに続編を書くことになった。原稿料はアメージング誌のそれまでの最高記録だった1語半セントを更新し、1語4分の3セントとなった<ref name="mosk16">{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=16}}</ref>。 [[サイエンス・フィクション|SF]]の舞台が一気に[[太陽系]]外・[[銀河系]]スケールにまで拡大したのは、スミスの『スカイラーク』シリーズ、そして『[[レンズマン]]』シリーズの功績といって良いだろう。 === 1930年代前半: 《スカイラーク》と《レンズマン》の狭間 === その後スミスは『火星航路SOS』(''[[:en:Spacehounds of IPC|Spacehounds of IPC]]'') から始まる新シリーズの執筆を開始し<ref name="mosk16" /><ref>{{Harvnb|Sanders|1986|p=65}}</ref>、1930年秋に完成させた<ref name = "warner"/>。この小説を書くにあたってスミスは『宇宙のスカイラーク』で読者に指摘された科学的不正確さを排除するのに苦労した<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|p=65}}. しかし、[[土星]]の大気が呼吸可能だったり、土星や[[木星]]の衛星のいくつかも呼吸可能な大気があるなど、科学的におかしな点がいくつもある。</ref>。『銀河パトロール隊』執筆後の1938年時点でもスミスはこの作品が一番できがよいと思っていた<ref name = "warner"/>。後に彼は「スカイラークのような疑似科学とは違い、この作品は本当の科学だ」と述べている<ref>{{Harvnb|Sheridan|1977|p=3}}</ref>。晩年になってもスミスはこの作品が唯一の真のSFだったと述べている<ref>{{Harvnb|Rogers|1964|p=26}}</ref>。この作品はアメージング誌1931年9月号に掲載されたが、そのとき編集長スローンが勝手に修正を加えている<ref name="mosk16" /><ref name="rogers14">{{Harvnb|Rogers|1964|p=14}}</ref>。読者のファンレターの多くは舞台が[[太陽系]]内に限られていることに不平を漏らしており、スローンは読者の味方をした。そこで[[アスタウンディング]]誌の編集者[[ハリー・ベイツ]]が1語2セントの原稿料で原稿を依頼してきたとき、スミスはそちらの話に乗った。したがって、『火星航路SOS』の続編は書かれることなく終わった<ref name="mosk16" />。 そして書かれたのが『三惑星連合』であり、科学考証にはこだわらず想像の赴くままに書かれていた<ref name="warner" />。実際、登場人物が心理学的<ref>ライマン・クリーブランドが「鉄の塊の小惑星」が容易に入手できると述べている。アメージング誌1934年3月号の16ページ。英語版初版の196ページ。ネヴィア人の攻撃の無意味さを指摘した言葉。</ref>あるいは科学的<ref>クリーブランドは初版223ページで、[[特殊相対性理論]]によれば無慣性航行は出発点から見ると光速を越えられないと予測している。</ref>な信じ難さを作中で指摘しており、ある意味で自己風刺的ですらある<ref>2月号81ページ、初版160ページで、ネラドは "Destruction, always destruction… they are a useless race" と言っている。</ref>。それ以外では登場人物は明らかな信じ難いことにも全く沈黙している<ref>コスティガンとブラッドレーは、宇宙船が光速を越えても特に何も言っていない(2月号84ページ、初版168ページ)。 この場面は小説内で初めて[[超光速航法]]が出てきたところである。</ref><ref>コスティガンとブラッドレーはネヴィア人が2度目の[[テルス]]襲撃に対して、もっと簡単に鉄を入手する方法があることを主張しなかった(2月号88ページ、初版175ページ)</ref>。アスタウンディング誌1933年1月号には『三惑星連合』が3月号から連載され、表紙もそのイラストになるという予告が載ったが、アスタウンディング誌の財政問題からこの作品は掲載できなかった<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=17}}</ref><ref name="rogers14" />。そこでスミスは原稿を[[ワンダー・ストーリーズ]]誌に送ったが、編集長チャールズ・D・ホーニッグはそれを受け取らなかった。彼は後にファンジンでその原稿をボツにしたことを自慢している<ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=17}} ''[http://fanac.org/fanzines/Fantasy_Magazine/ Fantasy Magazine]'' 誌1934年12月号の "Stories We Reject" から引用</ref>。最終的にスミスはアメージング誌に原稿を送り、1934年1月号から掲載された。ただし原稿料は1語半セントだった。間もなくアスタウンディング誌が復活し、新編集長F・オーリン・トレメインが1語1セントの原稿料を提示したが、既にアメージング誌が買い取った後だった。そこでトレメインは《スカイラーク》シリーズの3作目を依頼した<ref name="名前なし-1"/>。 1933年から1934年にかけての冬、『ヴァレロンのスカイラーク』を執筆したが、スミスは話の収拾がつかなくなってきたと感じ、初稿をトレメインに送る際に助言を求める乱雑な注記を添えていた。トレメインは初稿に850ドルを支払い、1ページ全部を論説にあて、4分の3ページを広告として1934年6月号で掲載を発表した。この小説は1934年8月号から1935年2月号まで連載された。[[アスタウンディング]]誌は掲載当初から1万部に上がり、競合する[[アメージング・ストーリーズ]]誌や[[ワンダー・ストーリーズ]]誌は財政危機に陥り、その年は休刊している<ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|pp=17–8}}, {{Harvnb|Rogers|1964|pp=24–30}}. どちらもこの時期に[[アスタウンディング]]誌がSF雑誌業界のトップに躍り出たことには同意している。ただし、それがE・E・スミスだけのせいとはしていない。</ref>。 === 《レンズマン》シリーズ === 1936年1月、既にSF作家としての地位を確立していたスミスだが、[[ミシガン州]][[ジャクソン (ミシガン州)|ジャクソン]]のダウン・ドーナッツ社<ref>[http://www.dawnfoods.com Dawn Doughnut Company]</ref>に移籍<ref name="mosk19">{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=19}}</ref><ref name="warner" />。ここで約1年間、1日18時間、毎日休みなく働いた。ドーナツや他のペイストリー用のミックス粉の開発を担当していたことは確かだが、ドーナツに粉砂糖を付着させる方法をスミスが開発したという主張は裏づけがない<ref>この主張のウェブ上の最初の出典は [http://news.zdnet.co.uk/hardware/emergingtech/0,39020357,2099814,00.htm Computer games: 40 years of fun, ZDNet UK, November 23, 2001] by Graeme Wearden と見られるが、この記事には出典がない。特許を検索してもE・E・スミスの名で関連する特許が取得された証拠は見つかっていない。</ref>。スミスは1940年初めごろ、戦前の供給制限のために同社内で配置換えされたと言われている<ref name="dict">The Dictionary of Literary Biography,{{要出典|date=2007年10月}} quoted at http://www.bookrags.com/biography/edward-elmer-smith-dlb/ accessed 8 May 2007.</ref>。 スミスは1927年ごろから宇宙警察ものを書く構想を暖めていた<ref>{{Harvnb|Eshbach|1947|p=83}}</ref>。《レンズマン》の設定を考え付いたスミスは、蔵書の中の警察と犯罪者を扱ったSF小説をかたっぱしから読み返した。彼は Clinton Constantinescue の "War of the Universe" を悪い例、[[:en:Roman Frederick Starzl|Starzl]] や[[ジャック・ウィリアムスン|ウィリアムスン]]の作品を良い例とした<ref>{{Harvnb|Eshbach|1947|p=84}}. 'Canstantinescu' となっているが、Clinton Constantinescu の間違い。"War of the Universes" は ''Amazing Stories Quarterly'' 1931年秋号に掲載された。</ref>。トレメインはスミスの構想に大賛成した<ref name="epic85">{{Harvnb|Eshbach|1947|p=85}}</ref>。 1936年末、ダウン・ドーナッツ社が利益を上げるようになると、スミスは《[[レンズマン]]》シリーズ4作品となる梗概を80ページほどにまとめ、1937年初めにトレメインがそれらが作品になったら買うことを約束した<ref name="mosk19" /><ref>{{Harvnb|Eshbach|1947|p=85}}. なお、"The Epic of Space" にはトレメインが約束したという記述はない。また『銀河パトロール隊』の部分はほんの数ページだったとある。</ref>。梗概を4作品に分割するにあたって、それぞれの終わり方がさらなる面白さを予感させるようにするのに苦労した。その点でスミスは[[エドガー・ライス・バローズ]]を悪い例として挙げている<ref name = "epic85"/>。骨子が決まるとスミスは『銀河パトロール隊』のより詳細な骨子を書き、感情的な盛り上がり部分や説明的な部分を示す小説の構造を詳細なグラフに描いた。しかし、実際に書いてみると登場人物が勝手に動き回り、骨子の通りにはならなかったとスミスは記している<ref>{{Harvnb|Eshbach|1947|p=86}}</ref>。『銀河パトロール隊』の草稿を完成させると、スミスはシリーズの完結編である『レンズの子供たち』の最終章を書いた<ref name = "mosk19"/>。『銀河パトロール隊』は[[アスタウンディング]]誌1937年9月号から1938年2月号まで連載された。単行本化されたときには『三惑星連合軍』と同じ世界という設定になっていたが、連載時はそうではなかった<ref>司令官が銀河パトロールの歴史を語る場面で、三惑星連合やバージル・サムスへの言及が後から挿入された(''[[アスタウンディング|Astounding]]'' September 1937 pp. 12–13; cp. [[:en:Fantasy Press|Fantasy Press]] edition pp. 8–9.)。また、『三惑星連合軍』と齟齬のあった記述を削除している(''[[アメージング・ストーリーズ|Amazing]]'' March 1934 pp. 28 & 33; cp. Fantasy Press edition pp. 223 & 231.)。 Gharlane の Lens FAQ Question 1 も参照。アリシア人の未来予測する能力についての言及も後からの挿入である(''Astounding'' January 1938 p. 127 vs. first edition p. 205)。</ref>。 シリーズ2作目の『グレー・レンズマン』は、アスタウンディング誌1939年10月号から1940年1月号まで連載された。なお、グレーの綴りは "Gray" だが雑誌掲載時の表紙に間違ってイギリス風に "Grey" と記されたこともあり、よく間違われる<ref>Gharlane Lens FAQ Question 1 and footnote to rec.arts.sf.written [https://groups.google.com/g/rec.arts.sf.written/c/-Vc7c_9yaLY/m/BTt4g6GaElkJ posting]; {{Harvnb|Moskowitz|1966|p=20}}</ref>。『グレー・レンズマン』(とその[http://www.ethanfleischer.com/lensman/gallery_gl.htm 表紙イラスト])は非常に好評だった。[[ジョン・W・キャンベル|キャンベル]]は12月号の編集後記で10月号がアスタウンディング誌史上最高の出来だったと記しており、『グレー・レンズマン』は他の作品を大きく引き離して読者投票で1位となった<ref>''Astounding'' December 1939 pp. 6, 91.</ref>。表紙イラストも好評で、キャンベルは「E・E・スミスとイラストレーターのヒューバート・ロジャースはキニスンの外見について合意しているという手紙を受け取った」と記している<ref>''Astounding'' December 1939 pp. 104.</ref>。 スミスは1940年[[シカゴ]]で開催された第2回[[ワールドコン]]のゲストとして招待され<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|p=10}}, {{Harvnb|Moskowitz|1966|p=12}}</ref>、"What Does This Convention Mean?"(この大会の意義は何か)と題して[[SFファンダム]]の重要性を強調する講演を行った<ref>{{Harvnb|Resnick|Siclari|2006}}</ref>。また、ワールドコンの仮装大会には[[C・L・ムーア]]の[[ノースウェスト・スミス]]の扮装で参加した。ミシガン州から来ていたファンと親交ができ、そのファンたちが後に Galactic Roamers(銀河放浪者)を結成し、その後の作品についていち早く教えてもらえるようになったという<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|p=10}}、『第二段階レンズマン』のあとがき</ref>。 1941年から1945年まで、スミスはアメリカ陸軍に勤務した。『三惑星連合軍』の単行本版(1948) は第二次世界大戦中に加筆されており、爆薬や軍需品の製造に関する詳細な知識をこの時期に得たことがうかがえる。品質検査を巡って上層部と衝突した登場人物が正論でありながらクビになるエピソードは、スミス自身の体験に基づいているとする伝記もいくつかある。1946年、ドーナツなどを製造する J. W. Allen Company に就職し、引退となる1957年まで勤めた<ref name="dict"/>。 === 退職と晩年の作品 === 本職を引退後、夫妻は秋から冬にかけては[[フロリダ州]][[クリアウォーター]]に住み、春には2つ所有するトレーラーのうち小さい方でオレゴン州シーサイドに行き、その途中でよく[[SF大会]]に立ち寄った。スミスは飛行機での移動が嫌いだった<ref>{{Harvnb|Lucchetti|2004|pp=15, 19}}</ref>。 [[ロバート・A・ハインライン]]はスミスの友人だった。ハインラインは1958年の小説『メトセラの子ら』をスミスに捧げている<ref>{{cite book | author=Heinlein, Robert A | title=Methuselah's Children | publisher=Baen Publishing Enterprises | year=1986 | isbn=0-671-65597-3}}</ref>。ハインラインはスミスの『火星航路SOS』のずば抜けた能力を持つ「非現実的」な主人公について、本人がモデルだろうと記している。ハインラインは、E・E・スミスは大柄のブロンドで優れた身体能力を持つ非常に聡明な男で、極めて美しく聡明で赤毛の女性マクドゥーガルと結婚したと記しており、キムボール・キニスンとクラリッサ・マクドゥガルは2人がモデルだとしている。ハインラインはエッセイの中で、スミスに車選びを手伝ってもらったとき、彼が一種の「スーパーマン」ではないかと疑うようになったと記している。スミスは車の天井に頭を押し付けて[[骨伝導]]でシャーシの異常な音が聞こえるようにして、裏道を速度制限以上の高速で運転したという。その方法はその場で思いついたようだった<ref name="heinlein1979">{{Harvnb|Heinlein|1979}}</ref>。 スミスが本職引退後に書いた長編 ''Galaxy Primes''、''Subspace Explorers''、''Subspace Encounter'' では、テレパシーなどの超能力を題材にしており、他の惑星の植民地化における自由主義者と社会主義/共産主義者とのぶつかり合いを描いている。 === Lord Tedric === スミスは "Lord Tedric" という中編を1952年に ''Other Worlds'' 誌に発表していたが、この作品はほとんど忘れられていた。 スミスの死後13年が経過して、[[ゴードン・エクランド]]が同じ題名と同じ登場人物を使った新たな長編を「E・E・スミスが構想していた新シリーズ」と銘打って出版した。エクランドはその後も続編を "E. E. 'Doc' Smith" や "E. E. Smith" の筆名で発表した。主人公はスミス作品と同様に勇敢で、異次元の種族と交信できる。敵は鞭と剣を得意とするダークナイトで、惑星サイズの "iron sphere" という超兵器が登場する。このように設定が似ているところからE・E・スミスが「[[スター・ウォーズ]]」の認められていない原型を考案したとする向きもある。 == 重要な意見 == スミスの作品は一般に古典的[[スペースオペラ]]とみなされており<ref>{{Harvnb|Clarke|1990|pp=102-3}}</ref>、スミスは20世紀SF界の "最初の新星(first [[新星|nova]])" とも呼ばれている<ref>{{Harvnb|Clarke|1990|p=120}}, ''The Best of [[スタンリイ・G・ワインボウム|Stanley G. Weinbaum]]'' の序文で[[アイザック・アシモフ]]がスミスを "first nova"、ワインボウムを "second nova" と称していることを引用し、それに同意している。</ref>。 スミスは(当時の科学技術で)厳密に不可能とされたわけではないがほとんど無理と思われるような架空のテクノロジーを発明することを好んだ。スミスの言葉として「基本演算が無限小も無視しない数学に反することを除いて、よりありそうにない概念の方が私は好きだ」がある<ref>{{Harv|Eshbach|1947|p=84}} - ただし、Advent版のページ数</ref>。 == 《レンズマン》宇宙の拡張 == 『渦動破壊者』は《レンズマン》シリーズと設定が共通である。これは『第二段階レンズマン』と『レンズの子供たち』の間に位置する話で、従来のレンズマンとは異なる超能力の持ち主が登場する。また『火星航路SOS』は1970年代のペーパーバックでは間違って《レンズマン》シリーズの一部とされることがあった。 [[ロバート・A・ハインライン]]によれば、スミスは1960年代前半、『レンズの子供たち』の後を描いた《レンズマン》シリーズ7作目を構想していたが、そのときは出版できる状況ではなかったという<ref name="heinlein1979"/>。スミスがハインラインに語ったところでは、『レンズの子供たち』には注意深く読めばわかる未解決の問題があり、そこから新たな小説へと展開するのだという。スミスをよく知る人々(担当編集者だった[[フレデリック・ポール]]やスミスの娘など)がその構想のノートなどがないかと注意深く捜したが、見つかっていない{{要出典|date=2009年8月}}。スミスはその小説について全く何も残していないと見られている。 彼の死の約1カ月前の1965年7月14日、スミスは [[:en:William B. Ellern|William B. Ellern]] に《レンズマン》シリーズを継続する許可を書面で与えた。Ellern は "Moon Prospector"(1965) と ''New Lensman''(1976) を書いた。また、スミスの長年の友人[[デイヴィッド・カイル]]が《レンズマン》シリーズの公式の続編を3作書いており、非人類種族のレンズマンについてのバックグラウンドを提供した。 == 軍事への影響 == スミスの作品は1930年代から1970年代にかけて多くの科学者や技術者に読まれた。スミス作品の軍事的アイデアが現実になったものとして、[[戦略防衛構想]](『三惑星連合軍』)、[[ステルス性]](『グレー・レンズマン』)、[[OODAループ]]、[[C4Iシステム|C3]]軍事システム、[[早期警戒管制機|AWACS]](『グレー・レンズマン』)などがある。 議論の余地がない影響は、1947年6月11日付けの[[ジョン・W・キャンベル]](《レンズマン》シリーズの多くを出版した[[アスタウンディング]]誌編集長)からスミスへの手紙に現れている<ref>Letter from John W. Campbell to E. E. Smith, pages 1–2, Dated 11 June 1947.</ref>。その中でキャンベルは海軍艦長[[:en:Cal Laning|C・ラニング]]中佐<ref>[[ロバート・A・ハインライン]]の海軍時代からの友人ケレイブ・ランニング(後の少将)</ref> が[[アメリカ海軍]]の艦船の[[戦闘指揮所]](CIC)にスミスの戦闘状況表示のアイデア(作中では "tank" と呼ばれている)を借用したことへの許可を求めてきたと書いている。C・ラニング中佐は、1943年前後に、駆逐艦にCICを導入するためのプロジェクトチームを主導しており<ref>{{Cite book|和書|author=大熊康之|authorlink=大熊康之|year=2011|title=戦略・ドクトリン統合防衛革命|publisher=[[かや書房]]|isbn=978-4-906124-70-1}}</ref>、スミスのアイデアは第二次世界大戦中に実際に使われ、日本海軍相手に大きな成果をあげたという。 == スミスが影響を受けた文学 == {{出典の明記|section=1|date=2009年11月|ソートキー=人1965年没}} スミスのエッセイ "The Epic of Space" で、彼は好きな作家を(姓のみ)挙げている。[[ジョン・W・キャンベル]]、[[L・スプレイグ・ディ=キャンプ]]、[[ロバート・A・ハインライン]]、[[マレイ・ラインスター]]、[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|H・P・ラヴクラフト]]、[[エイブラハム・メリット|A・メリット]](特に『イシュタルの船』、『ムーン・プール』、『黄金郷の蛇母神』、『蜃気楼の戦士』)、[[C・L・ムーア]](特に《処女戦士ジレル》)、[[A・E・ヴァン・ヴォークト]]、[[スタンリイ・G・ワインボウム]](特に[[トウィール]]<ref>{{Harvnb|Eshbach|1947|p=80}}</ref>)、[[ジャック・ウィリアムスン]]などである。スミスは《[[レンズマン]]》の準備をする過程で、Clinton Constantinescu の "War of the Universe" は傑作ではないとし<ref>スミスは Constantinescu の名も作品名も綴り間違っていて、Canstantinescu's "War of the Universes" と書いている。{{Harv|Eshbach|1947|p=84}}</ref>、Starzlやウィリアムスンの作品は傑作だと記している。Starzl は Interplanetary Flying Patrol というパトロール隊を作品で描いており、それがスミスの三惑星連合軍や銀河パトロール隊に影響している可能性がある。《レンズマン》シリーズにはA・メリットの『ムーン・プール』によく似た場面がいくつかある。 スミスは Galactic Roamers や [[:en:E. Everett Evans|E. Everett Evans]] らの作品への協力があったことを認めている。スミスの娘 Verna は彼女が若いころにスミス家を訪問した人物として、[[:en:Lloyd Arthur Eshbach|Lloyd Arthur Eshbach]]、ハインライン、[[デイヴィッド・カイル]]、[[ウィルスン・タッカー]]、ウィリアムスン、[[フレデリック・ポール]]、A・メリット、そして Galactic Roamers を挙げている。 [[サム・モスコウィッツ]]の著書 ''Seekers of Tomorrow'' にあるスミスの伝記的記述によれば、スミスは[[アーゴシー]]誌を定期購読しており、[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]、[[ジュール・ヴェルヌ]]、[[ヘンリー・ライダー・ハガード]]、[[エドガー・アラン・ポー]]、[[エドガー・ライス・バローズ]]の作品は全て読んでいたという。モスコウィッツはまた、スミスの読書遍歴について「哲学、古代史や中世史、英文学全般」に及んでいたとしている<ref name="mosk14"/>。そういった素養が作品に表れている部分は少なく、『三惑星連合軍』の古代ローマの章やスミスの複雑だが完璧な文体ぐらいしかない。『銀河パトロール隊』で「レンズ」が[[万能翻訳機]]の役目も果たすという設定は、[[ゴットロープ・フレーゲ]]に代表される19世紀[[言語哲学]]の影響ととることもできる。また『グレー・レンズマン』では[[ラドヤード・キップリング]]の "Ballad of Boh Da Thon" を引用している。 モスコウィッツとスミスの娘 Verna Smith Trestrail は、[[アスタウンディング]]誌編集長[[ジョン・W・キャンベル]]とスミスは問題を抱えた関係だったとしている。スミスの最も成功した作品はキャンベルが出版したものだが、キャンベルがどの程度影響を与えたかは不明である。《[[レンズマン]]》シリーズの骨子はキャンベルの前の編集長F・オーリン・トレメインが受け入れたもので<ref name="mosk19" />、スミスが『渦動破壊者』をトレメインの新雑誌 ''Comet'' に売ったため(1941年)、キャンベルの怒りを買ったという<ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=21}}</ref>。1947年にアスタウンディング誌に『レンズの子供たち』を連載開始する際のキャンベルの紹介にはそれほど熱がこもっていなかった<ref>{{Harvnb|Moskowitz|1966|p=23}}</ref>。後にキャンベルはそれを掲載するのはいやだったと語っているが<ref>{{Harvnb|Sanders|1986|p=15}}</ref>、作品そのものは賞賛しており<ref>Letter to [[クリフォード・D・シマック|Clifford Simak]] June 18, 1953, ''The John W. Campbell Letters'' Volume 1, p. 177.</ref>、その後はスミスの作品をほとんど買い取っていない。 == 派生作品とポップカルチャーへの影響 == * [[ランドル・ギャレット]]は ''[[:en:Backstage Lensman|Backstage Lensman]]''(邦題「レンズマン裏舞台」)というパロディ作品を書いており、スミス本人も面白がったという。[[ハリイ・ハリスン]]の『銀河遊撃隊』もスミス作品のパロディである。ランドル・ギャレットによる、魔法が存在する世界を舞台にした本格推理小説《ダーシー卿》シリーズにはレンズのような魔法のバッジが登場する。 * [[アーサー・C・クラーク]]の『地球光』における宇宙戦闘場面は『スカイラーク3号』の戦闘シーンを参考にしたという<ref>{{Citation | last = Clarke | first = Arthur C. | authorlink = アーサー・C・クラーク | title = Astounding Days | publisher = Bantam | year = 1990 | location = New York | pages = 104 | isbn = 0553348221}}</ref>。 * 世界で初めて不特定多数の人に遊ばれた[[コンピューターゲーム]]「[[スペースウォー!]]」は『スカイラーク』と『レンズマン』をヒントに作られた。詳細は[[スペースウォー!]]の項を参照。 * [[テーブルトークRPG]]の体系である[[ガープス]]には《レンズマン》シリーズに基づいたワールドブックが存在する。 * 日本では[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]版「[[レンズマン#メディアミックス|レンズマン]]」も製作されたが、原作とはかけ離れている。それを日本で漫画化したものを英語に翻訳してスミス家に許可を得ずにアメリカで発売しようとしたが、カリフォルニアのSF作家やファンの支援を受けた Verna Smith Trestrail の訴えによって販売停止となった。 * [[ジョージ・ルーカス]]は自伝の中で幼いころに最も影響を受けた小説として《[[レンズマン]]》シリーズを挙げている。テレビドラマ『[[バビロン5]]』を製作した[[J・マイケル・ストラジンスキー]]もレンズマンの影響を認めている<ref>[http://movies.ign.com/articles/035/035904p1.html IGN: Interview with J. Michael Straczynski (Part 1 of 4)]</ref><ref>[http://www.fsl.cs.sunysb.edu/pipermail/b5jms/1997-April/001838.html ATTN JMS: Lensman]</ref>。 * [[スーパーマン]]の原作者[[ジェリー・シーゲル]]は『宇宙のスカイラーク』の楽天的未来観に影響を受けたという<ref>Gerard Jones, ''Men of Tomorrow'', 2004, p. 29–31</ref>。 * DCコミックスの著名なアメリカンコミック「[[グリーンランタン]]」はその設定に《レンズマン》シリーズと似た部分がある。 == 作品リスト == (カッコ内は日本語タイトル。記載の無いものは未邦訳。年数は初稿掲載年。連載の場合は第一話の掲載年。) === 《スカイラーク》シリーズ === * The Skylark of Space ([[宇宙のスカイラーク]],宇宙船スカイラーク号,宇宙船スカイラーク,宇宙の超高速船)1915年-1920年執筆。1928年雑誌掲載。 * Skylark Three (スカイラーク3号,スカイラーク3)1930年 * Skylark of Valeron (ヴァレロンのスカイラーク,バレロンのスカイラーク)1934年 * Skylarke DuQuesne (スカイラーク対デュケーヌ,スカイラーク・デュケーン)1965年 === 《[[レンズマン]]》シリーズ === * Triplanetary (三惑星連合,三惑星連合軍,銀河系防衛軍,三惑星連合軍の戦い)1934年(元はレンズマンシリーズではなく、後付けで関連付けられた。単行本は1948年出版で、かなり加筆されている) * First Lensman (ファースト・レンズマン,最初のレンズマン,宇宙戦士レンズマン)1950年 * Galactic Patrol (銀河パトロール隊,銀河パトロール,宇宙パトロール,銀河戦士レンズマン,レンズマン対宇宙海賊)1937年 * Gray Lensman (グレー・レンズマン,レンズマン危機一髪,戦うグレーレンズマン)1939年 * Second Stage Lensman (第二段階レンズマン,レンズマンの反撃,ボスコニア大戦争)1941年 * Children of the Lens (レンズの子供たち,レンズの子ら,レンズマンの子どもたち)1947年 * The Bortex Blaster, Masters of the Vortex (渦動破壊者)1941年 === 《Subspace》シリーズ === * Subspace Explorers (大宇宙の探究者)1960年 * Subspace Encounter 1983年 === 《Family d'Alembert》シリーズ === 1作目の途中までがE・E・スミスが執筆した部分で、残りは[[スティーヴン・ゴールディン]]がスミスの構想を元に執筆。 * Imperial Stars 1976年 * Stranglers' Moon 1976年 * The Clockwork Traitor 1976年 * Getaway World 1977年 * Appointment at Bloodstar, also known as The Bloodstar Conspiracy 1978年 * The Purity Plot 1978年 * Planet of Treachery 1981年 * Eclipsing Binaries 1983年 * The Omicron Invasion 1984年 * Revolt of the Galaxy 1985年 === 《Lord Tedric》シリーズ === E・E・スミスの構想を元に[[ゴードン・エクランド]]が執筆。 * Lord Tedric 1978年 * The Space Pirates 1979年 * Black Knight of the Iron Sphere 1979年 * Alien Realms 1980年 === その他長編小説と短編集 === * Spacehounds of IPC (火星航路SOS,惑星連合の戦士)1931年 * The Galaxy Primes (銀河系の超能力者)1959年 * Masters of Space 1976年 * {{cite book | author=Edward E. Smith | title= Have Trenchcoat — Will Travel, and Others | publisher= Advent | year=2001 | isbn=0-911682-33-3}} === 短編 === * Robot Nemesis (ロボット復讐鬼)1934年 === 論文とノンフィクション === * ''Some Clays of Idaho'', (with Chester Fowler Smith) アイダホ大学での卒論(1914)<ref>[http://ui.wash-id.net/cgi-bin/Pwebrecon.cgi?DB=local&PAGE=First University of Idaho Libraries]</ref> * ''[http://worldcatlibraries.org/oclc/29865182 The effect of bleaching with oxides of nitrogen upon the baking quality and commercial value of wheat flour]'', ジョージワシントン大学での学位論文(1919)、約100ページ。<ref name="Lucchetti113">{{Harvnb|Lucchetti|2004|p=113}}</ref><ref>[http://worldcatlibraries.org/oclc/29865182 worldcatlibraries.org]</ref> * "A study of some of the chemical changes which occur in oysters during their preparation for market", Bureau of Chemistry, U.S. Department of Agriculture Bulletin 740, 1919, 24 pp.<ref name="Lucchetti113"/> * "Viscosity and Baking Quality", ''[http://www.nonprofitjournals.org/journals/cereal_chemistry.htm Cereal Chemistry]'' 2, 178-89, 1925.<ref name="Lucchetti113"/> * "Report of the Subcommittee on Hydrogen-Ion Concentration with Special Reference to the Effect of Flour Bleach", ''[http://www.nonprofitjournals.org/journals/cereal_chemistry.htm Cereal Chemistry]'' 9, 424–8, 1932.<ref>{{Harvnb|Lucchetti|2004|p=114}}</ref> * "Catastrophe" (''[[アスタウンディング|Astounding Science Fiction]]'' May 1938). * {{Citation |last=Resnick |first=Mike |last2=Siclari |first2=Joe |title=Worldcon Guest of Honor Speeches |year=2006 |publisher=ISFiC Press }} - 第2回ワールドコンでのE・E・スミスの講演を含む。 * {{Citation |editor-surname=Eshbach |editor-first=Lloyd Arthur |contribution=The Epic of Space |title=Of Worlds Beyond: The Science of Science Fiction Writing |year=1947 |publisher=Fantasy Press}} 自伝的記述が含まれている。 * Introduction to ''Man of Many Minds'' by E. Everett Evans (Fantasy Press 1953). == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == <!--Alphabetically by author--> * {{Citation |last=Barrett |first=Sean | title= [[ガープス|GURPS]] Lensman| publisher= Steve Jackson Games | year=1994 | isbn=1-55634-527-5}} [[テーブルトークRPG]]のシステム[[ガープス]]の[[サプリメント (TRPG)|サプリメント]]。簡単な伝記的記述が p.4 にあり、[[スティーブ・ジャクソン・ゲームズ]] に2002年の第2版の [http://www.sjgames.com/gurps/books/Lensman/img/lensman.pdf 抜粋] がある。 * {{Citation |last=Ellik |first=Ron |last2=Evans |first2=Bill |last3=Lewis |first3=Al | title=The Universes of E. E. Smith | publisher=Advent | year=1966 | isbn=0-911682-03-1}} * Ethan Fleischer [http://www.ethanfleischer.com/lensman/smithbiblio.txt Selectively Annotated English Primary Source Bibliography]. * Ethan Fleischer [http://www.ethanfleischer.com/lensman/main.htm Z9M9Z: A Lensman Website] * [[:en:Gharlane of Eddore (Pen-name)|Gharlane of Eddore]] (1998). Lensman FAQ http://www.chronology.org/noframes/lens/. * {{Citation |last=Heinlein |first=Robert A. |author-link=ロバート・A・ハインライン |year=1979 |title=Larger Than Life |publisher=written for MosCon I}} ** {{Citation|last=Heinlein |first=Robert A. |title= Expanded Universe | publisher= Grosset & Dunlap | year=1980 | isbn=0-448-11916-1}} に収録 * {{Citation |last=Lucchetti |first=Stephen C. |title = "Doc"—First Galactic Roamer: A Complete Bibliography… |year=2004 |publisher = NESFA Press |isbn = 1-886778-58-2}} * {{Citation |last=Moskowitz |first=Sam |year=1942 |title= Doughnut Specialist Smith Blasts Vortices in His Spare Time |journal=Astonishing Stories |date=June 1942 |pages=6 }} "Storm Cloud on Deka" という短編掲載時の簡単な著者紹介だが、他の文献とは異なる部分が多い。署名はないが、{{Harv|Ellik|Evans|Lewis|1966|p=262}}で筆者を特定している。 * {{Citation |last=Moskowitz |first=Sam | title= Seekers of Tomorrow | publisher= World Publishing | year=1966|isbn=0-88355-129-2}} * [[フレデリック・ポール|Frederik Pohl]] (1964). "Ode to a Skylark", ''[[イフ (雑誌)|If]]'', May 1964. Reprinted in {{Harv|Lucchetti|2004|pp=11–15}}. ** (2009) [http://www.thewaythefutureblogs.com/2009/12/doc-skylark-smith/ Doc “Skylark” Smith] * {{Citation |last=Rogers |first=Alva | title = A Requiem for Astounding | year = 1964 | publisher = Advent | isbn = 0-911682-16-3}} * {{Citation |last=Sanders |first=Joseph | title = E. E. "Doc" Smith | year = 1986 | publisher = Starmont House | isbn = 0-916732-73-8}} * {{Citation |last=Sheridan |first=Thomas | title = E. E. "Doc" Smith, Father of [[スター・ウォーズ|Star Wars]] | year = 1977 | publisher = Necronomicon Press}} 8pp. ''Fantasy Review'' 誌(1948) の記事の再掲。インタビューとされているが、実際はスミスの言を多く引用したエッセイである。 * {{Citation |last=Trestrail |first=Verna Smith |year=1979? |title= MosCon I Keynote Speech |publisher=unpublished typewritten notes}} * {{Citation |last=Warner |first=Harry |year=1938 |title= EDWARD E. SMITH -- A BIOGRAPHY |url= http://fanac.org/fanzines/Spaceways/Spaceways1-06.html |journal= [http://fanac.org/fanzines/Spaceways/ Spaceways] |volume=1 |number=1}} == 外部リンク == {{Commons|Edward Elmer Smith}} * {{isfdb name|id=Edward_E._Smith}} * {{gutenberg author|id=Edward_Smith}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すみす えとわと}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:アメリカ合衆国のSF作家]] [[Category:食品科学者|工]] [[Category:食品工学|者]] [[Category:ウィスコンシン州の人物]] [[Category:アイダホ大学出身の人物]] [[Category:ジョージ・ワシントン大学出身の人物]] [[Category:1890年生]] [[Category:1965年没]]
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郵便番号
郵便番号(ゆうびんばんごう、英語圏共通: postal code . アメリカ英語: ZIP code)とは、郵便物の分類に役立てるために、宛先に加えて記された、数字や文字である。 郵便番号はその性質上、全国的に統一されたコード体系が用いられている。ただし、コード体系は各国独自であり、日本のように数字のみで構成される体系や、イギリスのようにアルファベットと数字を組み合わせて構成される体系もある。 郵便番号は1857年に、ロンドン市内を10の郵便地区に区分けし、それぞれにアルファベット1文字または2文字のコードを割り振ったところから始まる。このシステムは1864年にはリバプールでも導入され、その後第一次世界大戦を契機にイギリスからヨーロッパ各地の大都市に拡大して行った。この当時はあくまで限られた大都市の中の区分けであり、国全体の全ての地区にコードを割り振っていたわけではなかった。 大都市だけでなく小規模な都市やもっと小さい村にまでこのシステムを広げようという発想は早くからあったが、1930年以前には実現性に乏しいものだった。全国的に広めた近代的郵便番号システムは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国で1932年11月に初めて導入された。しかし、その制度は1939年に廃止された。その後、郵便番号はドイツで1941年に、続いてアルゼンチンで1958年に、イギリス全土で1959年に、アメリカ合衆国で1963年に、スイスで1964年に導入された。 日本では、おおむね都道府県、市区町村の集配郵便局別に番号が割り当てられている。1998年までは3桁又は5桁(3桁+2桁)、同年からは7桁(3桁+4桁)に変更された。ちなみに100-0001は皇居のある東京都千代田区千代田に割り振られている。 フィリピン郵便会社 (Philippine Postal Corporation) では郵便番号を米国と同じくZIPコードと呼んでいるが、米国で使われている物と異なり他の拡張がない4桁である。マニラ首都圏では複数の番号が利用されるが、マニラ首都圏以外では都市や町ごとに一つずつの番号だけ割り当てられる。 シンガポールでは6桁の番号が使われる。最初の3桁は通りか小さな地域を示す。通常、郵便番号はビルや分譲住宅を特定する。 タイでは5桁の数字を使っている。たとえば、バンコク都ワタナ区では「10110」である。 中華人民共和国の郵便番号は「郵政編碼、邮政编码(ヨウジョンビエンマー、yóuzhèng biānmǎ)」と呼ばれ、6桁からなる。最初の2桁は、省または省に同等の自治体または自治区を示す。第3桁は郵便ゾーン、第4の桁は、県または県レベルの都市。最後の2桁は集配郵便局。なお、政府機関などの大口集配先には別途番号が割り当てられている。具体的な番号は中国語版の中華人民共和国境内地区郵政編碼列表、または、英語版のList of postal codes in Chinaを参照。 中華民国(台湾)では「郵遞區號(ヨウディーチューハオ、yóudì qūhào)」と呼ばれる。 2015年8月までの郵便番号は、地域別に割り振られた番号3桁(発送用番号)と細部の住所別に割り振られた番号3桁(配達用番号)を併せた計6桁の番号である。一番早い番号はソウル特別市中区忠武路1街の「100-011」である。 2015年8月以降は、1、2桁目が広域行政区域(特別市・広域市・道・特別自治道など)。3桁目が市・郡・区。4、5桁目が一連番号の計5桁の番号となった。 集合住宅の場合1日500通、ビルや機関などの場合1日300通以上の郵便物があれば個別の郵便番号が割り振られる。この場合、当該地域を配達する管轄郵便局長の許可が必要となる。 ドイツでは郵便番号をPostleitzahl(略号 : PLZ)と称し全国に5桁の番号を付番しており、1つの都市の中もいくつもの区域に分割されている。したがって都市地図の検索にも郵便番号が使用されることがある。またドイツでは郵便物に郵便番号を正しく記載していない場合、住所が正しくても配達されるかどうかは保証の限りでない。なおドイツの郵便番号の詳細についてはen:Postal codes in Germany、一覧についてはドイツの郵便番号一覧を参照。 英数字を併用した5〜7文字の郵便番号を全土に付番して使用している。前後2つの部分に分かれ、間に1文字分のスペースを挟む。前の部分(outward code)は1文字または2文字の英字コードと1桁または2桁の数字コード(ロンドンの一部のみ数字1桁+英字1文字の場合がある)からなり、後ろの部分(inward code)は数字1桁と英字2文字からなる。前後それぞれが更に2つの部分に分かれ、それぞれの組み合わせによって配達エリアを指定するというシステムになっている。 付番例(英語版ページより転載。ロンドン・ヴィクトリア駅近くのエバリー・ストリートのもの) 前述の通り、世界で初めて郵便番号システムを導入したのは大ロンドン市だった。その後国内の各都市に広がったが、このシステムはそれぞれ統一されておらず、書式なども異なっていた。人力で処理している間はそれでも良かったが、1950年代に入って進んだオートメーション化で機械式の仕分け機が導入されると問題となり、全土で統一された郵便番号システムを導入する必要に迫られた。 統一システムは1959年にノーフォーク州ノリッジで試験運用が開始された。この時のものは英字3文字+2桁の数字+英字1文字の6桁だったが、その後改良が加えられ現行のものへと変化した。段階的に全国で導入されていったが、全土に普及したのは1974年のことだった。利用者の利便を図るため、旧システムも即時廃止とはせずに併用された。 スイスとリヒテンシュタインは共通でヨーロッパの中でも郵便番号制度が早くから完備しており、各県を9つの地方に分け、4桁の数字で表している。たとえばチューリッヒは8000、ベルンは3000という具合で、これらは県コードにも準じる扱いで地図やホテルリストにも記載されている。また、スイスで使用される消印には機械印・手押し印・風景印・記念印のすべてに郵便番号の記載がある。 A1A 1A1のような3+3桁で構成される6桁の英数字。上3桁は日本の上3桁と同じような意味。なお、カナダの機械印は局名表示が無く郵便番号しか書かれていない。 詳細は en:List of A postal codes of Canadaを参照。 アメリカ合衆国ではZIP (Zone Improvement Plan) またはZIP Codeと呼ばれる形式の郵便番号の様式を採用している。アメリカ合衆国郵便公社の商標である。日本の郵便番号の様式とは異なっており、州と都市によって5桁または9桁のZIP Codeが割り当てられている。強いて言えば、5桁の部分のZIP Codeは日本の7桁郵便番号の上3桁分の意味に近い。
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郵便番号とは、郵便物の分類に役立てるために、宛先に加えて記された、数字や文字である。
'''郵便番号'''(ゆうびんばんごう、英語圏共通: [[wikt:postal_code|postal code]] . {{lang-en-us|[[ZIPコード|ZIP code]]}})とは、[[郵便物]]の分類に役立てるために、宛先に加えて記された、[[数字]]や[[文字]]である<ref>Oxford Dictionaries 「A group of numbers or letters and numbers that are added to a postal address to assist the sorting of mail.」</ref>。 == 概説 == 郵便番号はその性質上、全国的に統一されたコード体系が用いられている。ただし、コード体系は各国独自であり、日本のように数字のみで構成される体系や、[[イギリス]]のように[[ラテン文字|アルファベット]]と数字を組み合わせて構成される体系もある。 == 歴史 == [[File:Registered letter postal marking and code of the USSR 1930s.jpg|thumb|right|140px|ウクライナのキーウの郵便番号]] 郵便番号は[[1857年]]に、[[グレーター・ロンドン|ロンドン市内]]を10の郵便地区に区分けし、それぞれにアルファベット1文字または2文字のコードを割り振ったところから始まる。このシステムは[[1864年]]には[[リヴァプール|リバプール]]でも導入され、その後[[第一次世界大戦]]を契機に[[グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]から[[ヨーロッパ]]各地の大都市に拡大して行った。この当時はあくまで限られた大都市の中の区分けであり、国全体の全ての地区にコードを割り振っていたわけではなかった。 大都市だけでなく小規模な都市やもっと小さい村にまでこのシステムを広げようという発想は早くからあったが、[[1930年]]以前には実現性に乏しいものだった。全国的に広めた近代的郵便番号システムは、[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]で[[1932年]]11月に初めて導入された<ref>{{cite web|url=http://www.upns.org/archives/16 |title=The First Postal (ZIP) Code in the World |publisher=Ukrainian Philatelic and Numismatic Society |date=2009-04-20 |accessdate=2010-03-04}}</ref>。しかし、その制度は[[1939年]]に廃止された。その後、郵便番号は[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]で[[1941年]]に<ref>{{Cite  web|url=http://www.deutschepost.de/dpag?tab=1&skin=hi&check=no&lang=de_EN&xmlFile=link1017517_1004711 |publisher=Deutsche Post |title=The history of the postcode |accessdate=2010-10-10 }}</ref>、続いて[[アルゼンチン]]で[[1958年]]に、イギリス全土で[[1959年]]に<ref>{{Cite news |url= http://www.independent.co.uk/money/mortgages/a-short-history-of-the-postcode-751884.html |title=A short history of the postcode |publisher=The Independent |accessdate=2010-10-10 }}</ref>、[[アメリカ合衆国]]で[[1963年]]に<ref>{{cite web |url=http://glossary.ippaper.com/default.asp?req=glossary/term/2592&catitemid= |title=ZIP (Zone Improvement Plan) Code |publisher=International Paper Company|accessdate=2010-10-10 }}</ref>、[[スイス]]で[[1964年]]に<ref>{{Cite web |url= http://www.fundinguniverse.com/company-histories/SCHWEIZERISCHE-POST-TELEFON-UND-TELEGRAFENBETRIEBE-Company-History.html |title=Company History: Schweizerische Post-Telefon-und-Telegrafen-Betriebe |publisher=Funding Universe |accessdate=2010-10-10 }}</ref>導入された。 {{-}} == アジア == === 日本 === {{See|日本の郵便番号}} [[日本]]では、おおむね[[都道府県]]、[[市町村|市区町村]]の[[集配郵便局]]別に番号が割り当てられている。[[1998年]]までは3桁又は5桁(3桁+2桁)、同年からは7桁(3桁+4桁)に変更された。ちなみに100-0001は[[皇居]]のある[[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]に割り振られている。 === フィリピン === [[フィリピン]]郵便会社 (Philippine Postal Corporation) では郵便番号を米国と同じくZIPコードと呼んでいるが、米国で使われている物と異なり他の拡張がない4桁である。[[マニラ首都圏]]では複数の番号が利用されるが、マニラ首都圏以外では都市や町ごとに一つずつの番号だけ割り当てられる。 === シンガポール === {{See|シンガポールの郵便番号}} [[シンガポール]]では6桁の番号が使われる。最初の3桁は通りか小さな地域を示す。通常、郵便番号はビルや分譲住宅を特定する。 === タイ === タイでは5桁の数字を使っている。たとえば、バンコク都ワタナ区では「10110」である。 === 中華人民共和国 === [[中華人民共和国]]の郵便番号は「郵政編碼、{{lang|zh|邮政编码}}(ヨウジョンビエンマー、{{lang|zh|yóuzhèng biānmǎ}})」と呼ばれ、6桁からなる。最初の2桁は、[[省]]または省に同等の自治体または自治区を示す。第3桁は郵便ゾーン、第4の桁は、県または県レベルの都市。最後の2桁は集配郵便局。なお、政府機関などの大口集配先には別途番号が割り当てられている。具体的な番号は中国語版の[[:zh:中华人民共和国境内地区邮政编码列表|中華人民共和国境内地区郵政編碼列表]]、または、英語版の[[:en:List of postal codes in China|List of postal codes in China]]を参照。 === 中華民国(台湾) === [[中華民国]]([[台湾]])では「郵遞區號(ヨウディーチューハオ、{{lang|zh|yóudì qūhào}})」と呼ばれる。 * [[1970年]]3月20日 - 5桁(3+2) 従来の日本と同様に、5桁(3桁+2桁)の番号が使われる。最初の3桁が地方自治体を表し、残り2桁が集配局、または、大口集配先を表す。3桁の自治体別番号の最初の1桁は、1〜9の大集配区を表している。当初は3桁のみでスタートしたため、一般的な宛先の場合、3桁だけ書いてもよいことになっている。具体的な番号は中国語版の[[:zh:台灣地區郵遞區號一覽表|台湾地区郵逓区号一覧表]]を参照。 * [[2020年]]3月3日 - 5桁(3+2)から6桁(3+3)に変更。 === 大韓民国 === ==== 歴史 ==== * [[1970年]][[7月1日]] - 郵便番号が導入される。郵便局単位で番号が付与されたが、その単位が[[洞]]レベルである場合には3桁+2桁(例:ソウル特別市西大門区水色洞…120-01)、区レベルである場合には3桁(ソウル特別市中区…100)の番号が割り振られていた。1桁目の地域区分は次の通りである。 **ソウル特別市、京畿道-1 **江原道-2 **忠清北道、忠清南道-3 **全羅北道、全羅南道-5 **釜山直轄市、慶尚北道、慶尚南道-6 * [[1988年]][[2月1日]] - 行政区域別に[[邑 (朝鮮)|邑]][[面]]洞を単位とする6桁の番号が新たに割り振られた。また1桁目の地域区分を仁川直轄市と京畿道は1から4へ、大邱直轄市と慶尚北道は6から7へ、済州道は5から6へ変更。 * [[2000年]][[5月1日]] - 1988年に割り振られた番号を基本骨子としながらも、配達の便を図るために集配人の担当区域別の番号が割り振られた。 * [[2015年]]8月1日 - 6桁(3+3)から5桁に変更。国家基礎区域番号(국가기초구역번호)が新たに郵便番号として使用される。 ==== 番号の構造 ==== 2015年8月までの郵便番号は、地域別に割り振られた番号3桁(発送用番号)と細部の住所別に割り振られた番号3桁(配達用番号)を併せた計6桁の番号である。一番早い番号はソウル特別市中区忠武路1街の「100-011」である。 2015年8月以降は、1、2桁目が広域行政区域(特別市・広域市・道・特別自治道など)。3桁目が市・郡・区。4、5桁目が一連番号の計5桁の番号となった。 ; 発送用番号 : 宛先の行政区域を基準に付与された番号で集配局において発送仕分け用に用いられる。以下は2015年8月までの基準である。 :# 1桁目は広域行政区域(特別市・広域市・道・特別自治道など)別。 :# 2桁目は住民生活圏や集中局の圏域別。同一基礎自治体でも[[昌原市]]のように異なるケースがある。[[馬山会原区]]と[[馬山合浦区]]は上二桁が63、[[義昌区]]と[[城山区]]、[[鎮海区 (昌原市)|鎮海区]]は64。 :# 3桁目は市・郡・区別に割り振られている。ただし、[[平沢市]](旧平沢市内は上3桁が450、旧松炭市内は459、旧平沢郡内は451)、[[麗水市 (全羅南道)|麗水市]](旧麗水市内は上3桁が550、旧麗川市内は555、旧麗川郡内は556)のように同一市内でも異なる場合がある。) ; 配達用番号 : 郵便物を各戸に配達する際に使用する番号で各集配員の担当区域と一致するべく細分化されて割り振られている。洞や面といった単位での区分もあれば、さらに細かく建物・私書箱単位にまで区分されたものもある。原則として法定洞を基準とし、法定洞内に複数の行政洞が存在する場合は各法定洞・行政洞に、逆に複数の法定洞が一つの行政洞となっている場合には法定洞のみに郵便番号が付与される。 集合住宅の場合1日500通、ビルや機関などの場合1日300通以上の郵便物があれば個別の郵便番号が割り振られる。この場合、当該地域を配達する管轄郵便局長の許可が必要となる。 == ヨーロッパ == === ドイツ === [[File:German postcode information.png|thumb|right|240px|ドイツ。PLZの上2桁]] [[ドイツ]]では郵便番号をPostleitzahl(略号 : PLZ)と称し全国に5桁の番号を付番しており、1つの都市の中もいくつもの区域に分割されている。したがって都市地図の検索にも郵便番号が使用されることがある。またドイツでは郵便物に郵便番号を正しく記載していない場合、住所が正しくても配達されるかどうかは保証の限りでない。なおドイツの郵便番号の詳細については[[w:en:Postal codes in Germany|en:Postal codes in Germany]]、一覧については[[ドイツの郵便番号一覧]]を参照。 === イギリス === {{節スタブ}} 英数字を併用した5〜7文字の郵便番号を全土に付番して使用している。前後2つの部分に分かれ、間に1文字分のスペースを挟む。前の部分(outward code)は1文字または2文字の英字コードと1桁または2桁の数字コード(ロンドンの一部のみ数字1桁+英字1文字の場合がある)からなり、後ろの部分(inward code)は数字1桁と英字2文字からなる。前後それぞれが更に2つの部分に分かれ、それぞれの組み合わせによって配達エリアを指定するというシステムになっている。 付番例(英語版ページより転載。[[ロンドン・ヴィクトリア駅]]近くのエバリー・ストリートのもの) {| class="wikitable" style="margin:0 auto;text-align:center" |style="background:#87cefa; color:#000000;" colspan=4| '''POSTCODE''' |- style="background:#87cefa; color:#000000;" |style="background:#ff4500; color:#ffffff;" colspan=2 | Outward Code |style="background:#ff4500; color:#ffffff;" colspan=2 | Inward Code |- style="background:#ff4500; color:#ffffff;" | Postcode Area|| Postcode District|| Postcode Sector || Postcode Unit |- style="background:#0000cd; color:#ffffff;" | SW || 1W || 0 || NY |} 前述の通り、世界で初めて郵便番号システムを導入したのは大ロンドン市だった。その後国内の各都市に広がったが、このシステムはそれぞれ統一されておらず、書式なども異なっていた。人力で処理している間はそれでも良かったが、[[1950年代]]に入って進んだオートメーション化で機械式の仕分け機が導入されると問題となり、全土で統一された郵便番号システムを導入する必要に迫られた。 統一システムは[[1959年]]に[[ノーフォーク]]州[[ノリッジ]]で試験運用が開始された。この時のものは英字3文字+2桁の数字+英字1文字の6桁だったが、その後改良が加えられ現行のものへと変化した。段階的に全国で導入されていったが、全土に普及したのは[[1974年]]のことだった。利用者の利便を図るため、旧システムも即時廃止とはせずに併用された。 <gallery> File:2 digit postcode uk.png|イギリスの2桁部分 </gallery> === スイス・リヒテンシュタイン=== [[スイス]]と[[リヒテンシュタイン]]は共通でヨーロッパの中でも郵便番号制度が早くから完備しており、各県を9つの地方に分け、4桁の数字で表している。たとえば[[チューリッヒ]]は8000、[[ベルン]]は3000という具合で、これらは県コードにも準じる扱いで[[地図]]や[[ホテル]]リストにも記載されている。また、スイスで使用される[[消印]]には機械印・手押し印・風景印・記念印のすべてに郵便番号の記載がある。 == 北米 == === カナダ === A1A 1A1のような3+3桁で構成される6桁の英数字。上3桁は日本の上3桁と同じような意味。なお、カナダの機械印は局名表示が無く郵便番号しか書かれていない。 詳細は [[:en:List of A postal codes of Canada]]を参照。 === アメリカ合衆国 === {{Main|ZIPコード}} [[ファイル:ZIP code zones.png|thumb|right|300px|米国。ZIPコードの上2桁]] [[アメリカ合衆国]]では'''ZIP''' (Zone Improvement Plan) または'''ZIP Code'''と呼ばれる形式の郵便番号の様式を採用している。[[アメリカ合衆国郵便公社]]の[[商標]]である。[[日本]]の郵便番号の様式とは異なっており、[[州]]と[[都市]]によって5桁または9桁のZIP Codeが割り当てられている。強いて言えば、5桁の部分のZIP Codeは日本の7桁郵便番号の上3桁分の意味に近い。 {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[カスタマバーコード]] * [[国番号]] * [[電話番号]] * [[国際郵便]] * [[位置情報サービス]] * [[スリーレターコード]] * [[ベース・レジストリ]] == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Wikidata property}} * [https://www.post.japanpost.jp/zipcode/ 郵便番号検索] - [[日本郵便]] {{日本郵便のサービス}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうひんはんこう}} [[Category:郵便]] [[Category:識別子]] [[Category:地方区分]]
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5,210
アカデミー助演女優賞
アカデミー助演女優賞(アカデミーじょえんじょゆうしょう、Academy Award for Best Supporting Actress)は、アカデミー賞の一部門で、1936年の第9回からとりいれられた。なお、第9回から第15回までの受賞者にあたえられたのは、オスカー像ではなくオスカー像の描かれた楯であったが、1944年に開催された第16回授賞式からは、実物大の像が贈られるようになった。 最年少受賞者、最年少候補者はテータム・オニールの10歳。最年長受賞者はペギー・アシュクロフトの77歳、最年長候補者はグロリア・スチュアートの87歳。 最多受賞者は2回受賞のシェリー・ウィンタース、ダイアン・ウィースト。最多候補者はセルマ・リッターの6回。 非白人(黒人)として、初めて受賞したのはハティ・マクダニエル。LGBTQ+を公言している俳優が、初めて受賞したのはアリアナ・デボーズ。
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アカデミー助演女優賞は、アカデミー賞の一部門で、1936年の第9回からとりいれられた。なお、第9回から第15回までの受賞者にあたえられたのは、オスカー像ではなくオスカー像の描かれた楯であったが、1944年に開催された第16回授賞式からは、実物大の像が贈られるようになった。 最年少受賞者、最年少候補者はテータム・オニールの10歳。最年長受賞者はペギー・アシュクロフトの77歳、最年長候補者はグロリア・スチュアートの87歳。 最多受賞者は2回受賞のシェリー・ウィンタース、ダイアン・ウィースト。最多候補者はセルマ・リッターの6回。 非白人(黒人)として、初めて受賞したのはハティ・マクダニエル。LGBTQ+を公言している俳優が、初めて受賞したのはアリアナ・デボーズ。
{{Infobox award | name = [[アカデミー賞]]助演女優賞<br />Academy Award for Best Supporting Actress | image = | image_upright = | caption = | description = 最高の演技をした助演女優 | presenter = [[映画芸術科学アカデミー]] (AMPAS) | country = {{USA}} | year = [[第9回アカデミー賞|1936年]] | holder = [[ジェイミー・リー・カーティス]]<br />『[[エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス]]』 ([[第95回アカデミー賞|2022年]]) | website = {{url|https://www.oscars.org/}} }} '''アカデミー助演女優賞'''(アカデミーじょえんじょゆうしょう、'''Academy Award for Best Supporting Actress''')は、[[アカデミー賞]]の一部門で、[[1936年]]の第9回からとりいれられた。なお、第9回から第15回までの受賞者にあたえられたのは、オスカー像ではなくオスカー像の描かれた楯であったが、[[1944年]]に開催された[[第16回アカデミー賞|第16回]]授賞式からは、実物大の像が贈られるようになった<ref>{{harvnb|Kinn|Piazza|2014|p=67}}</ref>。 最年少受賞者、最年少候補者は[[テータム・オニール]]の10歳。最年長受賞者は[[ペギー・アシュクロフト]]の77歳、最年長候補者は[[グロリア・スチュアート]]の87歳。 最多受賞者は2回受賞の[[シェリー・ウィンタース]]、[[ダイアン・ウィースト]]。最多候補者は[[セルマ・リッター]]の6回。 [[非白人]](黒人)として、初めて受賞したのは[[ハティ・マクダニエル]]。LGBTQ+を公言している俳優が、初めて受賞したのは[[アリアナ・デボーズ]]。 == 主な記録 == {| class=wikitable border="1" |-align=center !項目 !記録 !記録保持者 !備考 |-align=left |最多受賞 |2回 |[[シェリー・ウィンタース]]<br />[[ダイアン・ウィースト]] | |-align=left |最多候補 |6回 |[[セルマ・リッター]] | |-align=left |最年少受賞 |10歳 |[[テータム・オニール]] |作品:[[1973年]]『[[ペーパー・ムーン]]』 |-align=left |最年少候補 |10歳 |テータム・オニール |作品:1973年『ペーパー・ムーン』 |-align=left |最年長受賞 |77歳 |[[ペギー・アシュクロフト]] |作品:[[1984年]]『[[インドへの道]]』 |-align=left |最年長候補 |87歳 |[[グロリア・スチュアート]] |作品:[[1997年]]『[[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]]』 |} ;その他の記録 {| class=wikitable border="1" |-align=center !記録 !記録保持者 !備考 |-align=left |黒人初受賞者 |[[ハティ・マクダニエル]] |作品:[[1939年]]『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』 |-align=left |アジア人初受賞 |[[ミヨシ・ウメキ|ナンシー梅木]] |作品:[[1957年]]『[[サヨナラ (映画)|サヨナラ]]』 |} == 受賞一覧 == === 1930年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1936年の映画|1936年]]'''<br /><small>[[第9回アカデミー賞|(第9回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ゲイル・ソンダガード]]''' | '''[[風雲児アドヴァース]]''' | '''フェイス・パレオロゴス''' |- | [[ビューラ・ボンディ]] | [[豪華一代娘]] | [[レイチェル・ジャクソン]] |- | [[アリス・ブラディ]] | [[襤褸と宝石]] | アンジェリカ・ブロック |- | [[ボニータ・グランヴィル]] | [[この三人]] | マリー・ティルフォード |- | [[マリア・オースペンスカヤ]] | [[孔雀夫人]] | フォン・オーベルスドルフ男爵夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1937年の映画|1937年]]'''<br /><small>[[第10回アカデミー賞|(第10回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アリス・ブラディ]]''' | '''[[シカゴ (1937年の映画)|シカゴ]]''' | '''{{仮リンク|モリー・オリアリー|en|Catherine O'Leary}}''' |- | [[アンドレア・リーズ]] | [[ステージ・ドア]] | ケイ・ハミルトン |- | [[アン・シャーリー]] | [[ステラ・ダラス]] | ローレル・"ロリー"・ダラス |- | [[クレア・トレヴァー]] | [[デッドエンド (映画)|デッドエンド]] | フランシー |- | [[メイ・ウィッティ]] | [[夜は必ず来る]] | ブラムソン夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1938年の映画|1938年]]'''<br /><small>[[第11回アカデミー賞|(第11回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[フェイ・ベインター]]''' | '''[[黒蘭の女]]''' | '''ベル・マッセイおばさん''' |- | [[ボーラ・ボンディ]] | ''[[:en:Of Human Hearts|Of Human Hearts]]'' | マリー・ウィンキンス |- | [[ビリー・バーク (女優)|ビリー・バーク]] | ''[[:en:Merrily We Live|Merrily We Live]]'' | エミリー・キルボーン |- | [[スプリング・バイントン]] | [[我が家の楽園]] | ペニー・シカモア |- | [[ミリザ・コルジャス]] | [[グレート・ワルツ]] | カーラ・ドナー |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1939年の映画|1939年]]'''<br /><small>[[第12回アカデミー賞|(第12回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ハティ・マクダニエル]]''' | '''[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]''' | '''マミー''' |- | [[オリヴィア・デ・ハヴィランド]] | [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]] | {{仮リンク|メラニー・ハミルトン|en|Melanie Hamilton}} |- | [[ジェラルディン・フィッツジェラルド]] | [[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐が丘]] | {{仮リンク|イザベラ・リントン|en|Isabella Linton}} |- | [[エドナ・メイ・オリバー]] | [[モホークの太鼓]] | マクレナー夫人 |- | [[マリア・オースペンスカヤ]] | [[邂逅]] | ミシェルの祖母 |} === 1940年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1940年の映画|1940年]]'''<br /><small>[[第13回アカデミー賞|(第13回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジェーン・ダーウェル]]''' | '''[[怒りの葡萄 (映画)|怒りの葡萄]]''' | '''マ・ジョード''' |- | [[ジュディス・アンダーソン]] | [[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]] | ダンヴァース夫人 |- | [[ルース・ハッセイ]] | [[フィラデルフィア物語]] | エリザベス・イムブリー |- | [[バーバラ・オニール]] | [[凡てこの世も天国も]] | プラズラン公爵夫人 |- | [[マージョリー・ランボー]] | [[桜草の丘]] | マミー・アダムス |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1941年の映画|1941年]]'''<br /><small>[[第14回アカデミー賞|(第14回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[メアリー・アスター]]''' | '''[[偉大な嘘]]''' | '''サンドラ・コヴァク''' |- | [[サラ・オールグッド]] | [[わが谷は緑なりき]] | ベス・モーガン |- | [[パトリシア・コリンジ]] | [[偽りの花園 (映画)|偽りの花園]] | バーディ・ハバード |- | [[テレサ・ライト]] | [[偽りの花園 (映画)|偽りの花園]] | アレクサンドラ・ギデンズ |- | [[マーガレット・ウィッチャーリー]] | [[ヨーク軍曹]] | ヨークの母 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1942年の映画|1942年]]'''<br /><small>[[第15回アカデミー賞|(第15回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[テレサ・ライト]]''' | '''[[ミニヴァー夫人]]''' | '''キャロル・ベルドン''' |- | [[グラディス・クーパー]] | [[情熱の航路]] | ミセス・ヴェイル |- | [[アグネス・ムーアヘッド]] | [[偉大なるアンバーソン家の人々]] | ファニー |- | [[スーザン・ピータース]] | [[心の旅路 (映画)|心の旅路]] | キティ |- | [[メイ・ウィッティ]] | [[ミニヴァー夫人]] | レディ・ベルドン |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1943年の映画|1943年]]'''<br /><small>[[第16回アカデミー賞|(第16回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[カティーナ・パクシヌー]]''' | '''[[誰が為に鐘は鳴る]]''' | '''ピラー''' |- | [[グラディス・クーパー]] | [[聖処女]] | マリー・テレーズ・ヴォズー修道女 |- | [[ポーレット・ゴダード]] | ''[[:en:So Proudly We Hail!|So Proudly We Hail!]]'' | ジョーン・オドール中尉 |- | [[アン・リヴィア]] | [[聖処女]] | ルイス・スビルー |- | [[ルシル・ワトソン]] | [[ラインの監視]] | ファニー・ファレリー |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1944年の映画|1944年]]'''<br /><small>[[第17回アカデミー賞|(第17回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[エセル・バリモア]]''' | '''[[孤独な心]]''' | '''マ・モット''' |- | [[ジェニファー・ジョーンズ]] | [[君去りし後]] | ジェーン・デボラ・ヒルトン |- | [[アンジェラ・ランズベリー]] | [[ガス燈 (映画)|ガス燈]] | ナンシー・オリヴァー |- | [[アリン・マクマホン]] | ''[[:en:Dragon Seed (film)|Dragon Seed]]'' | Ling Tan's Wife |- | [[アグネス・ムーアヘッド]] | [[パーキントン夫人]] | アスパシア・コンティ伯爵夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1945年の映画|1945年]]'''<br /><small>[[第18回アカデミー賞|(第18回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アン・リヴィア]]''' | '''[[緑園の天使]]''' | '''ブラウン夫人''' |- | [[イヴ・アーデン]] | [[ミルドレッド・ピアース]] | アイダ・コーウィン |- | [[アン・ブライス]] | [[ミルドレッド・ピアース]] | ヴィーダ・ピアース・フォレスター |- | [[アンジェラ・ランズベリー]] | [[ドリアン・グレイの肖像 (映画)|ドリアン・グレイの肖像]] | シビル・ベイン |- | [[ジョーン・ローリング]] | [[小麦は緑]] | ベシイ・ワアテイ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1946年の映画|1946年]]'''<br /><small>[[第19回アカデミー賞|(第19回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アン・バクスター]]''' | '''[[剃刀の刃 (1946年の映画)|剃刀の刃]]''' | '''ソフィ・マクドナルド''' |- | [[エセル・バリモア]] | [[らせん階段 (1946年の映画)|らせん階段]] | ウォレン夫人 |- | [[リリアン・ギッシュ]] | [[白昼の決闘]] | ローラ・マキャンレス |- | [[フローラ・ロブソン]] | [[サラトガ本線]] | アンジェリク |- | [[ゲイル・ソンダガード]] | [[アンナとシャム王]] | ティアン王妃 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1947年の映画|1947年]]'''<br /><small>[[第20回アカデミー賞|(第20回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[セレステ・ホルム]]''' | '''[[紳士協定 (映画)|紳士協定]]''' | '''アン・デトリー''' |- | [[エセル・バリモア]] | [[パラダイン夫人の恋]] | ソフィー・ホーフィールド |- | [[グロリア・グレアム]] | [[十字砲火 (映画)|十字砲火]] | ジニー・トレメイン |- | [[マージョリー・メイン]] | [[卵と私]] | {{仮リンク|マ・ケトル|en|Ma Kettle}} |- | [[アン・リヴィア]] | [[紳士協定 (映画)|紳士協定]] | グリーン夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1948年の映画|1948年]]'''<br /><small>[[第21回アカデミー賞|(第21回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[クレア・トレヴァー]]''' | '''[[キー・ラーゴ (映画)|キー・ラーゴ]]''' | '''ゲイ・ドーン''' |- | [[バーバラ・ベル・ゲデス]] | [[ママの想い出]] | カトリン・ハンソン |- | [[エレン・コービイ]] | [[ママの想い出]] | トリーナおばさん |- | [[アグネス・ムーアヘッド]] | [[ジョニー・ベリンダ]] | アギー・マクドナルド |- | [[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]] | [[ハムレット (1948年の映画)|ハムレット]] | [[オフィーリア]] |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1949年の映画|1949年]]'''<br /><small>[[第22回アカデミー賞|(第22回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[マーセデス・マッケンブリッジ]]''' | '''[[オール・ザ・キングスメン]]''' | '''セイディ・バーク''' |- | [[エセル・バリモア]] | [[ピンキー (映画)|ピンキー]] | ミス・エム |- | [[セレステ・ホルム]] | [[星は輝く]] | Sister Scholastica |- | [[エルザ・ランチェスター]] | [[星は輝く]] | アメリア・ポッツ |- | [[エセル・ウォーターズ]] | [[ピンキー (映画)|ピンキー]] | ダイシー・ジョンソン |} === 1950年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1950年の映画|1950年]]'''<br /><small>[[第23回アカデミー賞|(第23回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジョセフィン・ハル]]''' | '''[[ハーヴェイ (映画)|ハーヴェイ]]''' | '''ヴィタ・ルイーズ・シモンズ''' |- | [[ホープ・エマーソン]] | [[女囚の掟]] | イヴリン・ハーパー |- | [[セレステ・ホルム]] | [[イヴの総て]] | カレン・リチャーズ |- | [[ナンシー・オルソン]] | [[サンセット大通り (映画)|サンセット大通り]] | ベティ・シェーファー |- | [[セルマ・リッター]] | [[イヴの総て]] | バーディ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1951年の映画|1951年]]'''<br /><small>[[第24回アカデミー賞|(第24回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[キム・ハンター]]''' | '''[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]''' | '''{{仮リンク|ステラ・コワルスキー|en|Stella Kowalski}}''' |- | [[ジョーン・ブロンデル]] | [[青いヴェール]] | アニー・ローリンズ |- | [[ミルドレッド・ダンノック]] | [[セールスマンの死 (1951年の映画)|セールスマンの死]] | リンダ・ロマン |- | [[リー・グラント]] | [[探偵物語 (1951年の映画)|探偵物語]] | 万引き女 |- | [[セルマ・リッター]] | ''[[:en:The Mating Season (film)|The Mating Season]]'' | エレン・マクナルティ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1952年の映画|1952年]]'''<br /><small>[[第25回アカデミー賞|(第25回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[グロリア・グレアム]]''' | '''[[悪人と美女]]''' | '''ローズマリー・バートロウ''' |- | [[ジーン・ヘイゲン]] | [[雨に唄えば]] | リナ・ラモント |- | [[コレット・マルシャン]] | [[赤い風車]] | マリー・シャルレ |- | [[テリー・ムーア (女優)|テリー・ムーア]] | [[愛しのシバよ帰れ]] | マリー・バックホルダー |- | [[セルマ・リッター]] | [[わが心に歌えば (映画)|わが心に歌えば]] | クランシー |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1953年の映画|1953年]]'''<br /><small>[[第26回アカデミー賞|(第26回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ドナ・リード]]''' | '''[[地上より永遠に]]''' | '''アルマ・"ロリーン"・バーク''' |- | [[グレース・ケリー]] | [[モガンボ (映画)|モガンボ]] | リンダ・ノードリー |- | [[ジェラルディン・ペイジ]] | [[ホンドー]] | アンジー・ロウ |- | [[マージョリー・ランボー]] | ''[[:en:Torch Song (film)|Torch Song]]'' | ミセス・スチュワート |- | [[セルマ・リッター]] | [[拾った女]] | モエ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1954年の映画|1954年]]'''<br /><small>[[第27回アカデミー賞|(第27回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[エヴァ・マリー・セイント]]''' | '''[[波止場 (映画)|波止場]]''' | '''エディ・ドイル''' |- | [[ニナ・フォック]] | [[重役室]] | エリカ・マーティン |- | [[ケティ・フラド]] | [[折れた槍]] | セニョーラ・デヴロー |- | [[ジャン・スターリング]] | [[紅の翼 (1954年の映画)|紅の翼]] | サリー・マッキー |- | [[クレア・トレヴァー]] | [[紅の翼 (1954年の映画)|紅の翼]] | メイ・ホルスト |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1955年の映画|1955年]]'''<br /><small>[[第28回アカデミー賞|(第28回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジョー・ヴァン・フリート]]''' | '''[[エデンの東 (映画)|エデンの東]]''' | '''ケイト''' |- | [[ベッツィ・ブレア]] | [[マーティ (映画)|マーティ]] | クレア・スナイダー |- | [[ペギー・リー]] | [[皆殺しのトランペット]] | ローズ・ホプキンス |- | [[マリサ・パヴァン]] | [[バラの刺青]] | ローザ・デッレ・ローズ |- | [[ナタリー・ウッド]] | [[理由なき反抗]] | ジュデイ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1956年の映画|1956年]]'''<br /><small>[[第29回アカデミー賞|(第29回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ドロシー・マローン]]''' | '''[[風と共に散る]]''' | '''マリリー・ハドリー''' |- | [[ミルドレッド・ダンノック]] | [[ベビイ・ドール]] | ローズ・コンフォート |- | [[アイリーン・ヘッカート]] | [[悪い種子]] | オルタンス・デイグル |- | [[マーセデス・マッケンブリッジ]] | [[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]] | ラズ・ベネディクト |- | [[パティ・マコーマック]] | [[悪い種子]] | {{仮リンク|ローダ・ペンマーク|en|Rhoda Penmark}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1957年の映画|1957年]]'''<br /><small>[[第30回アカデミー賞|(第30回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ミヨシ・ウメキ]]''' | '''[[サヨナラ (映画)|サヨナラ]]''' | '''カツミ''' |- | [[キャロリン・ジョーンズ (女優)|キャロリン・ジョーンズ]] | [[独身者のパーティ]] | 実存主義者 |- | [[エルザ・ランチェスター]] | [[情婦 (映画)|情婦]] | ミス・プリムソル |- | [[ホープ・ラング]] | [[青春物語]] | {{仮リンク|セレーナ・クロス|en|Selena Cross}} |- | [[ダイアン・ヴァーシ]] | [[青春物語]] | {{仮リンク|アリソン・マッケンジー|en|Allison MacKenzie}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1958年の映画|1958年]]'''<br /><small>[[第31回アカデミー賞|(第31回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ウェンディ・ヒラー]]''' | '''[[旅路 (1958年の映画)|旅路]]''' | '''パット・クーパー''' |- | [[ペギー・キャス]] | [[メイム叔母さん]] | アグネス・グーチ |- | [[マーサ・ハイヤー]] | [[走り来る人々]] | グウェン・フレンチ |- | [[モーリン・ステイプルトン]] | [[孤独の旅路 (映画)|孤独の旅路]] | フェイ・ドイル |- | [[カーラ・ウィリアムズ]] | [[手錠のまゝの脱獄]] | ビリーの母 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1959年の映画|1959年]]'''<br /><small>[[第32回アカデミー賞|(第32回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[シェリー・ウィンタース]]''' | '''[[アンネの日記 (1959年の映画)|アンネの日記]]''' | '''[[アウグステ・ファン・ペルス]]''' |- | [[ハーマイアニ・バドリー]] | [[年上の女 (1959年の映画)|年上の女]] | エルスペス |- | [[スーザン・コーナー]] | [[悲しみは空の彼方に]] | サラ・ジェーン・ジョンソン(18歳) |- | [[ファニタ・ムーア]] | [[悲しみは空の彼方に]] | アニー・ジョンソン |- | [[セルマ・リッター]] | [[夜を楽しく]] | アルマ |} === 1960年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1960年の映画|1960年]]'''<br /><small>[[第33回アカデミー賞|(第33回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[シャーリー・ジョーンズ]]''' | '''[[エルマー・ガントリー/魅せられた男]]''' | '''ルル・ベインズ''' |- | [[グリニス・ジョンズ]] | [[サンダウナーズ]] | ミセス・ファース |- | [[シャーリー・ナイト]] | [[階段の上の暗闇]] | リーニー・フラッド |- | [[ジャネット・リー]] | [[サイコ (1960年の映画)|サイコ]] | {{仮リンク|マリオン・クレイン|en|Marion Crane}} |- | [[メアリー・ユーア]] | [[息子と恋人]] | クララ・ドーズ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1961年の映画|1961年]]'''<br /><small>[[第34回アカデミー賞|(第34回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[リタ・モレノ]]''' | '''[[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]]''' | '''アニタ・デル・カルメン''' |- | [[フェイ・ベインター]] | [[噂の二人]] | アメリア・ティルフォード |- | [[ジュディ・ガーランド]] | [[ニュールンベルグ裁判]] | イレーネ・ホフマン・ウォルナー |- | [[ロッテ・レーニャ]] | [[ローマの哀愁]] | マグダ・テッリビリ=ゴンザレス伯爵夫人 |- | [[ウナ・マーケル]] | [[肉体のすきま風]] | ワインミラー夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1962年の映画|1962年]]'''<br /><small>[[第35回アカデミー賞|(第35回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[パティ・デューク]]''' | '''[[奇跡の人 (1962年の映画)|奇跡の人]]''' | '''[[ヘレン・ケラー]]''' |- | [[メアリー・バダム]] | [[アラバマ物語]] | ジェーン・ルイス・"スカウト"・フィンチ |- | [[シャーリー・ナイト]] | [[渇いた太陽]] | ヘブンリー・フィンレー |- | [[アンジェラ・ランズベリー]] | [[影なき狙撃者 (映画)|影なき狙撃者]] | エレノア・アイスリン夫人 |- | [[セルマ・リッター]] | [[終身犯]] | エリザベス・ストラウド |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1963年の映画|1963年]]'''<br /><small>[[第36回アカデミー賞|(第36回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[マーガレット・ラザフォード]]''' | '''[[予期せぬ出来事]]''' | '''ブライトン公爵夫人''' |- | [[ダイアン・シレント]] | [[トム・ジョーンズの華麗な冒険]] | モリー・シーグリム |- | [[イーディス・エヴァンス]] | [[トム・ジョーンズの華麗な冒険]] | ミス・ウェスタン |- | [[ジョイス・レッドマン]] | [[トム・ジョーンズの華麗な冒険]] | ミセス・ウォーターズ(ジェニー・ジョーンズ) |- | [[リリア・スカラ]] | [[野のユリ]] | マザー・マリア・マルト |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1964年の映画|1964年]]'''<br /><small>[[第37回アカデミー賞|(第37回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[リラ・ケドロヴァ]]''' | '''[[その男ゾルバ]]''' | '''マダム・ホーテンス''' |- | [[グラディス・クーパー]] | [[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]] | ヒギンズ夫人 |- | [[イーディス・エヴァンス]] | [[ドーヴァーの青い花]] | セントモーム夫人 |- | [[グレイソン・ホール]] | [[イグアナの夜]] | ジュディス・フェローズ |- | [[アグネス・ムーアヘッド]] | [[ふるえて眠れ]] | ヴェルマ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1965年の映画|1965年]]'''<br /><small>[[第38回アカデミー賞|(第38回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[シェリー・ウィンタース]]''' | '''[[いつか見た青い空 (映画)|いつか見た青い空]]''' | '''ローズアン・ダーシー''' |- | [[ルース・ゴードン]] | [[サンセット物語]] | ミセス・クローバー / ディーラー |- | [[ジョイス・レッドマン]] | [[オセロ (1965年の映画)|オセロ]] | {{仮リンク|エミリア (オセロ)|en|Emilia (Othello)|label=エミリア}} |- | [[マギー・スミス]] | [[オセロ (1965年の映画)|オセロ]] | [[デズデモーナ]] |- | [[ペギー・ウッド]] | [[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]] | 修道院長 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1966年の映画|1966年]]'''<br /><small>[[第39回アカデミー賞|(第39回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[サンディ・デニス]]''' | '''[[ヴァージニア・ウルフなんかこわくない|バージニア・ウルフなんかこわくない]]''' | '''ハニー''' |- | [[ウェンディ・ヒラー]] | [[わが命つきるとも]] | アリス・モア |- | [[ジョスリン・ラガード]] | [[ハワイ (映画)|ハワイ]] | マラマ女王 |- | [[ヴィヴィエン・マーチャント]] | [[アルフィー (1966年の映画)|アルフィー]] | リリー |- | [[ジェラルディン・ペイジ]] | [[大人になれば…]] | マージェリー・チャンティクリア |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1967年の映画|1967年]]'''<br /><small>[[第40回アカデミー賞|(第40回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[エステル・パーソンズ]]''' | '''[[俺たちに明日はない]]''' | '''{{仮リンク|ブランチ・バロウ|en|Blanche Barrow}}''' |- | [[キャロル・チャニング]] | [[モダン・ミリー]] | マジー |- | [[ミルドレッド・ナトウィック]] | [[裸足で散歩]] | エセル・バンクス |- | [[ビア・リチャーズ]] | [[招かれざる客]] | プレンティス夫人 |- | [[キャサリン・ロス]] | [[卒業 (1967年の映画)|卒業]] | エレーン・ロビンソン |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1968年の映画|1968年]]'''<br /><small>[[第41回アカデミー賞|(第41回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ルース・ゴードン]]''' | '''[[ローズマリーの赤ちゃん]]''' | '''ミニー・カスタベット''' |- | [[リン・カーリン]] | [[フェイシズ (1968年の映画)|フェイシズ]] | マリア・フォースト |- | [[ソンドラ・ロック]] | [[愛すれど心さびしく]] | ミッキー・ケリー |- | [[ケイ・メドフォード]] | [[ファニー・ガール]] | ローズ・ブライス |- | [[エステル・パーソンズ]] | [[レーチェル レーチェル]] | キャラ・マッキー |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1969年の映画|1969年]]'''<br /><small>[[第42回アカデミー賞|(第42回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ゴールディ・ホーン]]''' | '''[[サボテンの花 (映画)|サボテンの花]]''' | '''トニ・シモンズ''' |- | [[キャシー・バーンズ]] | [[去年の夏]] | ローダ |- | [[ダイアン・キャノン]] | [[ボブ&キャロル&テッド&アリス]] | アリス・ヘンダーソン |- | [[シルヴィア・マイルズ]] | [[真夜中のカーボーイ]] | キャス |- | [[スザンナ・ヨーク]] | [[ひとりぼっちの青春]] | アリス・ルブラン |} === 1970年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1970年の映画|1970年]]'''<br /><small>[[第43回アカデミー賞|(第43回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ヘレン・ヘイズ]]''' | '''[[大空港 (映画)|大空港]]''' | '''エイダ・クォンセット''' |- | [[カレン・ブラック]] | [[ファイブ・イージー・ピーセス]] | レイエット・ディペスト |- | [[リー・グラント]] | [[真夜中の青春]] | ジョイス・エンダーズ |- | [[サリー・ケラーマン]] | [[M★A★S★H マッシュ]] | ホットリップス |- | [[モーリン・ステイプルトン]] | [[大空港 (映画)|大空港]] | イネーズ・ゲレーロ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1971年の映画|1971年]]'''<br /><small>[[第44回アカデミー賞|(第44回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[クロリス・リーチマン]]''' | '''[[ラスト・ショー]]''' | '''ルース・ポッパー''' |- | [[アン=マーグレット]] | [[愛の狩人 (映画)|愛の狩人]] | ボビー |- | [[エレン・バースティン]] | [[ラスト・ショー]] | ルイス・ファロー |- | [[バーバラ・ハリス]] | [[ケラーマン (映画)|ケラーマン]] | アリソン・デンスモア |- | [[マーガレット・レイトン]] | [[恋 (1970年の映画)|恋]] | モーズレー夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1972年の映画|1972年]]'''<br /><small>[[第45回アカデミー賞|(第45回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アイリーン・ヘッカート]]''' | '''[[バタフライはフリー]]''' | '''ミセス・ベイカー''' |- | [[ジーニー・バーリン]] | [[ふたり自身]] | リラ・コロドニィ |- | [[ジェラルディン・ペイジ]] | [[おかしな結婚]] | ガートルード |- | [[スーザン・ティレル]] | [[ゴングなき戦い]] | オマ |- | [[シェリー・ウィンタース]] | [[ポセイドン・アドベンチャー (映画)|ポセイドン・アドベンチャー]] | ベル・ローゼン |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1973年の映画|1973年]]'''<br /><small>[[第46回アカデミー賞|(第46回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[テータム・オニール]]''' | '''[[ペーパー・ムーン]]''' | '''アディ・ロギンス''' |- | [[リンダ・ブレア]] | [[エクソシスト (映画)|エクソシスト]] | [[リーガン・マクニール]] |- | [[キャンディ・クラーク]] | [[アメリカン・グラフィティ]] | デビー・ダンハム |- | [[マデリーン・カーン]] | [[ペーパー・ムーン]] | トリクシー・デライト |- | [[シルヴィア・シドニー]] | ''[[:en:Summer Wishes, Winter Dreams|Summer Wishes, Winter Dreams]]'' | プリチェット夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1974年の映画|1974年]]'''<br /><small>[[第47回アカデミー賞|(第47回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[イングリッド・バーグマン]]''' | '''[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]''' | '''グレタ・オルソン''' |- | [[ヴァレンティナ・コルテーゼ]] | [[アメリカの夜]] | セヴリーヌ |- | [[マデリーン・カーン]] | [[ブレージングサドル]] | リリー・フォン・シュタップ |- | [[ダイアン・ラッド]] | [[アリスの恋]] | {{仮リンク|フローレンス・ジェーン・キャッスルベリー|en|Florence Jean Castleberry|label=フロー・キャッスルベリー}} |- | [[タリア・シャイア]] | [[ゴッドファーザー PART II]] | {{仮リンク|コニー・コルレオーネ|en|Connie Corleone}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1975年の映画|1975年]]'''<br /><small>[[第48回アカデミー賞|(第48回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[リー・グラント]]''' | '''[[シャンプー (映画)|シャンプー]]''' | '''フェリシア・カープ''' |- | [[ロニー・ブレイクリー]] | [[ナッシュビル (映画)|ナッシュビル]] | バーバラ・ジーン |- | [[シルヴィア・マイルズ]] | [[さらば愛しき女よ (1975年の映画)|さらば愛しき女よ]] | ジェシー・ハルステッド・フロリアン |- | [[リリー・トムリン]] | [[ナッシュビル (映画)|ナッシュビル]] | リネア・リース |- | [[ブレンダ・ヴァッカロ]] | [[いくたびか美しく燃え]] | リンダ・リッグス |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1976年の映画|1976年]]'''<br /><small>[[第49回アカデミー賞|(第49回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ベアトリス・ストレイト]]''' | '''[[ネットワーク (映画)|ネットワーク]]''' | '''ルイーズ・シューマッカー''' |- | [[ジェーン・アレクサンダー]] | [[大統領の陰謀]] | ジュディ・ホバック |- | [[ジョディ・フォスター]] | [[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]] | アイリス |- | [[リー・グラント]] | [[さすらいの航海]] | リリアン・ローゼン |- | [[パイパー・ローリー]] | [[キャリー (1976年の映画)|キャリー]] | {{仮リンク|マーガレット・ホワイト|en|Margaret White}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1977年の映画|1977年]]'''<br /><small>[[第50回アカデミー賞|(第50回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ヴァネッサ・レッドグレイヴ]]''' | '''[[ジュリア (映画)|ジュリア]]''' | '''ジュリア''' |- | [[レスリー・ブラウン]] | [[愛と喝采の日々]] | エミリア・ロジャース |- | [[クィン・カミングス]] | [[グッバイガール]] | ルーシー・マクファーデン |- | [[メリンダ・ディロン]] | [[未知との遭遇]] | ジリアン・ガイラー |- | [[チューズデイ・ウェルド]] | [[ミスター・グッドバーを探して]] | キャサリン・ダン |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1978年の映画|1978年]]'''<br /><small>[[第51回アカデミー賞|(第51回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[マギー・スミス]]''' | '''[[カリフォルニア・スイート]]''' | '''ダイアナ・バリー''' |- | [[ダイアン・キャノン]] | [[天国から来たチャンピオン]] | ジュリア・ファーンズワース |- | [[ペネロープ・ミルフォード]] | [[帰郷 (1978年の映画)|帰郷]] | ヴィ・マンソン |- | [[モーリン・ステイプルトン]] | [[インテリア (映画)|インテリア]] | パール |- | [[メリル・ストリープ]] | [[ディア・ハンター]] | リンダ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1979年の映画|1979年]]'''<br /><small>[[第52回アカデミー賞|(第52回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[メリル・ストリープ]]''' | '''[[クレイマー、クレイマー]]''' | '''ジョアンナ・クレイマー''' |- | [[ジェーン・アレクサンダー]] | [[クレイマー、クレイマー]] | マーガレット・フェルプス |- | [[バーバラ・バリー]] | [[ヤング・ゼネレーション]] | イヴリン・ストーラー |- | [[キャンディス・バーゲン]] | [[結婚ゲーム (映画)|結婚ゲーム]] | ジェシカ・ポター |- | [[マリエル・ヘミングウェイ]] | [[マンハッタン (映画)|マンハッタン]] | トレイシー |} === 1980年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1980年の映画|1980年]]'''<br /><small>[[第53回アカデミー賞|(第53回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[メアリー・スティーンバージェン]]''' | '''[[メルビンとハワード]]''' | '''リンダ・ダマー''' |- | [[アイリーン・ブレナン]] | [[プライベート・ベンジャミン]] | キャプテン・ドレーン・ルイス |- | [[エヴァ・ル・ガリエンヌ]] | [[レザレクション/復活]] | パール |- | [[キャシー・モリアーティ]] | [[レイジング・ブル]] | {{仮リンク|ビッキー・ラモッタ|en|Vikki LaMotta|label=ビッキー・セイラー・ラモッタ}} |- | [[ダイアナ・スカーウィッド]] | [[サンフランシスコ物語]] | ルイーズ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1981年の映画|1981年]]'''<br /><small>[[第54回アカデミー賞|(第54回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[モーリン・ステイプルトン]]''' | '''[[レッズ (映画)|レッズ]]''' | '''[[エマ・ゴールドマン]]''' |- | [[メリンダ・ディロン]] | [[スクープ 悪意の不在]] | テレサ・ペロン |- | [[ジェーン・フォンダ]] | [[黄昏 (1981年の映画)|黄昏]] | チェルシー・セアー・ウェイン |- | [[ジョーン・ハケット]] | [[泣かないで (映画)|泣かないで]] | トビー・ランドー |- | [[エリザベス・マクガヴァン]] | [[ラグタイム (映画)|ラグタイム]] | {{仮リンク|イヴリン・ネズビット|en|Evelyn Nesbit}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1982年の映画|1982年]]'''<br /><small>[[第55回アカデミー賞|(第55回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジェシカ・ラング]]''' | '''[[トッツィー]]''' | '''ジュリー・ニコルズ''' |- | [[グレン・クローズ]] | [[ガープの世界]] | ジェニー・フィールズ |- | [[テリー・ガー]] | [[トッツィー]] | サンディ・レスター |- | [[キム・スタンレー]] | [[女優フランシス]] | リリアン・ファーマー |- | [[レスリー・アン・ウォーレン]] | [[ビクター/ビクトリア]] | ノーマ・キャシディ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1983年の映画|1983年]]'''<br /><small>[[第56回アカデミー賞|(第56回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[リンダ・ハント]]''' | '''[[危険な年]]''' | '''ビリー・クワン''' |- | [[シェール]] | [[シルクウッド]] | ドリー・ペルリカー |- | [[グレン・クローズ]] | [[再会の時]] | サラ・クーパー |- | [[エイミー・アーヴィング]] | [[愛のイエントル]] | ハダス |- | [[アルフレ・ウッダード]] | [[クロスクリーク]] | Geechee |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1984年の映画|1984年]]'''<br /><small>[[第57回アカデミー賞|(第57回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ペギー・アシュクロフト]]''' | '''[[インドへの道]]''' | '''ムーア夫人''' |- | [[グレン・クローズ]] | [[ナチュラル (映画)|ナチュラル]] | アイリス・ゲインズ |- | [[リンゼイ・クローズ]] | [[プレイス・イン・ザ・ハート]] | マーガレット・ロマックス |- | [[クリスティーン・ラーティ]] | [[スイング・シフト]] | ヘイゼル・ザヌーシ |- | [[ジェラルディン・ペイジ]] | [[パッショネイト 悪の華]] | リッター夫人 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1985年の映画|1985年]]'''<br /><small>[[第58回アカデミー賞|(第58回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アンジェリカ・ヒューストン]]''' | '''[[女と男の名誉]]''' | '''メイローズ・プリッツィ''' |- | [[マーガレット・エイヴリー]] | [[カラーパープル (映画)|カラーパープル]] | シャグ・エブリー |- | [[エイミー・マディガン]] | [[燃えてふたたび]] | サニー・ソーベル |- | [[メグ・ティリー]] | [[アグネス (映画)|アグネス]] | シスター・アグネス |- | [[オプラ・ウィンフリー]] | [[カラーパープル (映画)|カラーパープル]] | ソフィア・ジョンソン |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1986年の映画|1986年]]'''<br /><small>[[第59回アカデミー賞|(第59回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ダイアン・ウィースト]]''' | '''[[ハンナとその姉妹]]''' | '''ホリー''' |- | [[テス・ハーパー]] | [[ロンリー・ハート (映画)|ロンリー・ハート]] | チェック・ボイル |- | [[パイパー・ローリー]] | [[愛は静けさの中に]] | ノーマン夫人 |- | [[メアリー・エリザベス・マストラントニオ]] | [[ハスラー2]] | カルメン |- | [[マギー・スミス]] | [[眺めのいい部屋 (映画)|眺めのいい部屋]] | シャーロット・バートレット |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1987年の映画|1987年]]'''<br /><small>[[第60回アカデミー賞|(第60回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[オリンピア・デュカキス]]''' | '''[[月の輝く夜に]]''' | '''ローズ・キャストリニ''' |- | [[ノルマ・アレアンドロ]] | [[ギャビー、愛はすべてを越えて]] | フロレンシア |- | [[アン・アーチャー]] | [[危険な情事]] | ベス・ギャラガー |- | [[アン・ラムジー]] | [[鬼ママを殺せ]] | リフト夫人 |- | [[アン・サザーン]] | [[八月の鯨]] | ティシャ・ダウティ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1988年の映画|1988年]]'''<br /><small>[[第61回アカデミー賞|(第61回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジーナ・デイヴィス]]''' | '''[[偶然の旅行者]]''' | '''ミュリエル・プリチェット''' |- | [[ジョーン・キューザック]] | [[ワーキング・ガール]] | シン |- | [[フランシス・マクドーマンド]] | [[ミシシッピー・バーニング]] | ペル夫人 |- | [[ミシェル・ファイファー]] | [[危険な関係 (1988年の映画)|危険な関係]] | トゥールベル夫人 |- | [[シガニー・ウィーバー]] | [[ワーキング・ガール]] | キャサリン・パーカー |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1989年の映画|1989年]]'''<br /><small>[[第62回アカデミー賞|(第62回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ブレンダ・フリッカー]]''' | '''[[マイ・レフトフット]]''' | '''ミセス・ブラウン''' |- | [[アンジェリカ・ヒューストン]] | [[敵、ある愛の物語]] | タマラ |- | [[レナ・オリン]] | [[敵、ある愛の物語]] | マーシャ |- | [[ジュリア・ロバーツ]] | [[マグノリアの花たち]] | シェルビー |- | [[ダイアン・ウィースト]] | [[バックマン家の人々]] | ヘレン・バックマン |} === 1990年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1990年の映画|1990年]]'''<br /><small>[[第63回アカデミー賞|(第63回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ウーピー・ゴールドバーグ]]''' | '''[[ゴースト/ニューヨークの幻]]''' | '''オダ・メイ・ブラウン''' |- | [[アネット・ベニング]] | [[グリフターズ/詐欺師たち]] | マイラ・ラングトリー |- | [[ロレイン・ブラッコ]] | [[グッドフェローズ]] | カレン・ヒル |- | [[ダイアン・ラッド]] | [[ワイルド・アット・ハート]] | マリエッタ・フォーチュン |- | [[メアリー・マクドネル]] | [[ダンス・ウィズ・ウルブズ]] | 拳を握って立つ女 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1991年の映画|1991年]]'''<br /><small>[[第64回アカデミー賞|(第64回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[マーセデス・ルール]]''' | '''[[フィッシャー・キング]]''' | '''アン・ナポリターノ''' |- | [[ダイアン・ラッド]] | [[ランブリング・ローズ]] | 母親 |- | [[ジュリエット・ルイス]] | [[ケープ・フィアー]] | ダニエル・ボーデン |- | [[ケイト・ネリガン]] | [[サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方]] | ライラ・ウィンゴ・ニューベリー |- | [[ジェシカ・タンディ]] | [[フライド・グリーン・トマト]] | ニニー・スレッドグッド |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1992年の映画|1992年]]'''<br /><small>[[第65回アカデミー賞|(第65回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[マリサ・トメイ]]''' | '''[[いとこのビニー]]''' | '''モナ・リサ・ヴィト''' |- | [[ジュディ・デイヴィス]] | [[夫たち、妻たち]] | サリー |- | [[ジョーン・プロウライト]] | [[魅せられて四月]] | ミセス・フィッシャー |- | [[ヴァネッサ・レッドグレイヴ]] | [[ハワーズ・エンド]] | ルース・ウィルコックス |- | [[ミランダ・リチャードソン]] | [[ダメージ (映画)|ダメージ]] | イングリット・フレミング |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1993年の映画|1993年]]'''<br /><small>[[第66回アカデミー賞|(第66回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アンナ・パキン]]''' | '''[[ピアノ・レッスン]]''' | '''フローラ・マクグラス''' |- | [[ホリー・ハンター]] | [[ザ・ファーム 法律事務所]]''' | タミー・ヘンフィル |- | [[ロージー・ペレス]] | [[フィアレス (映画)|フィアレス]] | カーラ・ロドリゴ |- | [[ウィノナ・ライダー]] | [[エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事]] | メイ・ウェランド |- | [[エマ・トンプソン]] | [[父の祈りを]] | {{仮リンク|ギャレス・パース|en|Gareth Peirce}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1994年の映画|1994年]]'''<br /><small>[[第67回アカデミー賞|(第67回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ダイアン・ウィースト]]''' | '''[[ブロードウェイと銃弾]]''' | '''ヘレン・シンクレア''' |- | [[ローズマリー・ハリス]] | [[愛しすぎて/詩人の妻]] | ローズ・ヘーグ=ウッド |- | [[ヘレン・ミレン]] | [[英国万歳!]] | [[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット女王]] |- | [[ユマ・サーマン]] | [[パルプ・フィクション]] | ミア・ウォレス |- | [[ジェニファー・ティリー]] | [[ブロードウェイと銃弾]] | オリーヴ・ニール |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1995年の映画|1995年]]'''<br /><small>[[第68回アカデミー賞|(第68回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ミラ・ソルヴィノ]]''' | '''[[誘惑のアフロディーテ]]''' | '''リンダ・アッシュ''' |- | [[ジョアン・アレン]] | [[ニクソン (映画)|ニクソン]] | [[パット・ニクソン]] |- | [[キャスリーン・クインラン]] | [[アポロ13]] | マリリン・ラベル |- | [[メア・ウィニンガム]] | [[ジョージア (映画)|ジョージア]] | ジョージア・フロッド |- | [[ケイト・ウィンスレット]] | [[いつか晴れた日に]] | {{仮リンク|マリアンヌ・ダッシュウッド|en|Marianne Dashwood}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1996年の映画|1996年]]'''<br /><small>[[第69回アカデミー賞|(第69回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジュリエット・ビノシュ]]''' | '''[[イングリッシュ・ペイシェント]]''' | '''ハナ''' |- | [[ジョアン・アレン]] | [[クルーシブル]] | {{仮リンク|エリザベス・プロクター|en|Elizabeth Proctor}} |- | [[ローレン・バコール]] | [[マンハッタン・ラプソディ]] | ハンナ・モーガン |- | [[バーバラ・ハーシー]] | [[ある貴婦人の肖像]] | マダム・セレナ・マーレ |- | [[マリアンヌ・ジャン=バプティスト]] | [[秘密と嘘]] | ホーテンス・カンバー |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1997年の映画|1997年]]'''<br /><small>[[第70回アカデミー賞|(第70回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[キム・ベイシンガー]]''' | '''[[L.A.コンフィデンシャル]]''' | '''リン・ブラッケン''' |- | [[ジョーン・キューザック]] | [[イン&アウト]] | エミリー・モンゴメリー |- | [[ミニー・ドライヴァー]] | [[グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち]] | スカイラー |- | [[ジュリアン・ムーア]] | [[ブギーナイツ]] | アンバー・ウェイヴス |- | [[グロリア・スチュアート]] | [[タイタニック (1997年の映画)|タイタニック]] | ローズ・カルバート |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1998年の映画|1998年]]'''<br /><small>[[第71回アカデミー賞|(第71回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジュディ・デンチ]]''' | '''[[恋におちたシェイクスピア]]''' | '''[[エリザベス1世]]''' |- | [[キャシー・ベイツ]] | [[パーフェクト・カップル]] | リビー・ホールデン |- | [[ブレンダ・ブレッシン]] | [[リトル・ヴォイス]] | マリー・ホフ |- | [[レイチェル・グリフィス]] | [[ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ]] | {{仮リンク|ヒラリー・デュ・プレ|en|Hilary du Pré}} |- | [[リン・レッドグレイヴ]] | [[ゴッド・アンド・モンスター]] | ハンナ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[1999年の映画|1999年]]'''<br /><small>[[第72回アカデミー賞|(第72回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[アンジェリーナ・ジョリー]]''' | '''[[17歳のカルテ]]''' | '''リサ・ロウ''' |- | [[トニ・コレット]] | [[シックス・センス]] | リン・シアー |- | [[キャサリン・キーナー]] | [[マルコヴィッチの穴]] | マキシン・ランド |- | [[サマンサ・モートン]] | [[ギター弾きの恋]] | ハッティ |- | [[クロエ・セヴィニー]] | [[ボーイズ・ドント・クライ]] | ラナ・ティスデイル |} === 2000年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! width="10%" | 年 ! width="30%" | 女優名 ! width="30%" | 作品名 ! width="30%" | 役名 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2000年の映画|2000年]]'''<br /><small>[[第73回アカデミー賞|(第73回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[マーシャ・ゲイ・ハーデン]]''' | '''[[ポロック 2人だけのアトリエ]]''' | '''{{仮リンク|リー・クラスナー|en|Lee Krasner}}''' |- | [[ジュディ・デンチ]] | [[ショコラ (2000年の映画)|ショコラ]] | アルマンド・ヴォイジン |- | [[ケイト・ハドソン]] | [[あの頃ペニー・レインと]] | ペニー・レイン |- | [[フランシス・マクドーマンド]] | [[あの頃ペニー・レインと]] | エレイン・ミラー |- | [[ジュリー・ウォルターズ]] | [[リトル・ダンサー]] | ジョージア・ウィルキンソン |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2001年の映画|2001年]]'''<br /><small>[[第74回アカデミー賞|(第74回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジェニファー・コネリー]]''' | '''[[ビューティフル・マインド]]''' | '''アリシア・ナッシュ''' |- | [[ヘレン・ミレン]] | [[ゴスフォード・パーク]] | ジェーン・ウィルソン |- | [[マギー・スミス]] | [[ゴスフォード・パーク]] | コンスタンツ・トレンサム |- | [[マリサ・トメイ]] | [[イン・ザ・ベッドルーム]] | ナタリー・ストラウト |- | [[ケイト・ウィンスレット]] | [[アイリス (映画)|アイリス]] | 若年期の[[アイリス・マードック]] |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2002年の映画|2002年]]'''<br /><small>[[第75回アカデミー賞|(第75回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[キャサリン・ゼタ=ジョーンズ]]''' | '''[[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]]''' | '''{{仮リンク|ヴェルマ・ケリー|en|Velma Kelly}}''' |- | [[キャシー・ベイツ]] | [[アバウト・シュミット]] | ロバータ・ハーツェル |- | [[ジュリアン・ムーア]] | [[めぐりあう時間たち]] | ローラ・ブラウン |- | [[クィーン・ラティファ]] | [[シカゴ (2002年の映画)|シカゴ]] | メイトロン・"ママ"・モートン |- | [[メリル・ストリープ]] | [[アダプテーション]] | {{仮リンク|スーザン・オーリアン|en|Susan Orlean}} |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2003年の映画|2003年]]'''<br /><small>[[第76回アカデミー賞|(第76回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[レネー・ゼルウィガー]]''' | '''[[コールド マウンテン]]''' | '''ルビー・シューズ''' |- | [[ショーレ・アグダシュルー]] | [[砂と霧の家]] | ナデレー・ベーラミ |- | [[パトリシア・クラークソン]] | [[エイプリルの七面鳥]] | ジョーイ・バーンズ |- | [[マーシャ・ゲイ・ハーデン]] | [[ミスティック・リバー]] | セレステ・ボイル |- | [[ホリー・ハンター]] | [[サーティーン あの頃欲しかった愛のこと]] | メラニー・フリーランド |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2004年の映画|2004年]]'''<br /><small>[[第77回アカデミー賞|(第77回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ケイト・ブランシェット]]''' | '''[[アビエイター]]''' | '''[[キャサリン・ヘプバーン]]''' |- | [[ローラ・リニー]] | [[愛についてのキンゼイ・レポート]] | {{仮リンク|クララ・マクミレン|en|Clara McMillen}} |- | [[ヴァージニア・マドセン]] | [[サイドウェイ]] | マヤ・ランドール |- | [[ソフィー・オコネドー]] | [[ホテル・ルワンダ]] | タチアナ・ルセサバギナ |- | [[ナタリー・ポートマン]] | [[クローサー (2004年の映画)|クローサー]] | アリス・エアーズ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2005年の映画|2005年]]'''<br /><small>[[第78回アカデミー賞|(第78回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[レイチェル・ワイズ]]''' | '''[[ナイロビの蜂]]''' | '''テッサ・クエイル''' |- | [[エイミー・アダムス]] | ''[[:en:Junebug (film)|Junebug]]'' | アシュリー・ジョンスタイン |- | [[キャサリン・キーナー]] | [[カポーティ]] | [[ハーパー・リー]] |- | [[フランシス・マクドーマンド]] | [[スタンドアップ (映画)|スタンドアップ]] | グローリー・ダッジ |- | [[ミシェル・ウィリアムズ (女優)|ミシェル・ウィリアムズ]] | [[ブロークバック・マウンテン]] | アルマ・ビール・デル・マール |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2006年の映画|2006年]]'''<br /><small>[[第79回アカデミー賞|(第79回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ジェニファー・ハドソン]]''' | '''[[ドリームガールズ (映画)|ドリームガールズ]]''' | '''エフィ・ホワイト''' |- | [[アドリアナ・バラッザ]] | [[バベル (映画)|バベル]] | アメリア |- | [[ケイト・ブランシェット]] | [[あるスキャンダルについての覚え書き]] | シーバ・ハート |- | [[アビゲイル・ブレスリン]] | [[リトル・ミス・サンシャイン]] | オリーヴ・フーヴァー |- | [[菊地凛子]] | [[バベル (映画)|バベル]] | 綿谷千恵子 |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2007年の映画|2007年]]'''<br /><small>[[第80回アカデミー賞|(第80回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ティルダ・スウィントン]]''' | '''[[フィクサー (2007年の映画)|フィクサー]]''' | '''カレン・クラウダー''' |- | [[ケイト・ブランシェット]] | [[アイム・ノット・ゼア]] | ジュード・クイン |- | [[ルビー・ディー]] | [[アメリカン・ギャングスター]] | ママ・ルーカス |- | [[シアーシャ・ローナン]] | [[つぐない (映画)|つぐない]] | ブライオニー・タリス |- | [[エイミー・ライアン]] | [[ゴーン・ベイビー・ゴーン]] | ヘリーン・マックリーディ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2008年の映画|2008年]]'''<br /><small>[[第81回アカデミー賞|(第81回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[ペネロペ・クルス]]''' | '''[[それでも恋するバルセロナ]]''' | '''マリア・エレーナ''' |- | [[エイミー・アダムス]] | [[ダウト〜あるカトリック学校で〜]] | シスター・ジェイムズ |- | [[ヴィオラ・デイヴィス]] | [[ダウト〜あるカトリック学校で〜]] | ミラー夫人 |- | [[タラジ・P・ヘンソン]] | [[ベンジャミン・バトン 数奇な人生]] | クイニー |- | [[マリサ・トメイ]] | [[レスラー (映画)|レスラー]] | キャシディ |- | rowspan=6 style="text-align:center" | '''[[2009年の映画|2009年]]'''<br /><small>[[第82回アカデミー賞|(第82回)]]'''</small> |- style="background:#FAEB86" | '''[[モニーク (女優)|モニーク]]''' | '''[[プレシャス (映画)|プレシャス]]''' | '''メアリー・リー・ジョンストン''' |- | [[ペネロペ・クルス]] | [[NINE]] | カルラ・アルバニーズ |- | [[ヴェラ・ファーミガ]] | [[マイレージ、マイライフ]] | アレックス・ゴーラン |- | [[マギー・ジレンホール]] | [[クレイジー・ハート]] | ジャン・クラドック |- | [[アナ・ケンドリック]] | [[マイレージ、マイライフ]] | ナタリー・キーナー |} === 2010年代 === {| class="wikitable" style="width:98%;" |- style="background:#bebebe;" ! 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5,211
ゴールデンラズベリー賞
ゴールデンラズベリー賞(ゴールデンラズベリーしょう、英: Golden Raspberry Award)は、アメリカの映画賞。毎年、アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰するもので、ラジー賞(Razzies)とも呼ばれている。 UCLAから映像製作・映画宣伝の道に進んだジョン・J・B・ウィルソンにより1981年に創設された。 初期は正真正銘のB級映画が各部門受賞を独占することが多かったが、近年は、輝かしい実績があるにもかかわらずどうしようもない役柄を演じてしまった俳優や、前評判と実際の出来のギャップが著しい大作などが受賞する傾向にある。 この賞自体が一種のユーモアであり、本当にくだらない、つまらない作品を選ぶ場合もあるが、一方で出来はよいが惜しい作品や、強烈なカリスマ性や異色性が強すぎて一般ウケしない作品に与えられることもあり、この賞の受賞作品が意外によく出来た面白い作品として評価されることがある。 また、俳優に与えられる賞も、必ずしも酷い演技をした役者が受賞するわけではなく、第1回の『ジャズ・シンガー』で受賞したニール・ダイアモンドは同じ作品でラジー賞とゴールデングローブ賞を同時受賞している。 また、上述のように一種のジョーク賞であることから、受賞した作品が「一般受け」はしないがマニアからは「カルト映画」と評価される作品の場合もある(『フォード・フェアレーンの冒険』『ハドソン・ホーク』『ショーガール』など)。 なお、ジョージ・W・ブッシュ大統領を激しく批判する内容で製作され、そのブッシュ大統領が最低主演男優賞を獲得した『華氏911』や、狙いそのままに「最優秀頭からっぽティーン向け作品賞」を受賞した『ジャッカス・ザ・ムービー』のように、遠回しに正の評価を贈られた作品も希ながらある。 第32回(2011年度)には『ジャックとジル』が初の全部門制覇を果たしている。 2023年1月25日、事務局は第43回(2022年度)の最低女優賞候補としていたライアン・キーラ・アームストロングのノミネートを撤回して謝罪した。アームストロングは12歳で「炎の少女チャーリー」(リメイク版)で主演女優を務めていたが、将来のキャリアを台無しにしかねないとして批判を受けていた。 「野次」を意味する「Razz」から命名された「Razzie Award」が正式な賞名であるが、「Razz」のもうひとつの意味である「Raspberry」(ラズベリー:木イチゴ)の実を模したトロフィーのデザインにより「Golden Raspberry Award」とも呼ばれる。 また、英語の「ラズベリータルト」(raspberry tart)が「fart」(おなら) と韻を踏んでいることから、ラズベリーはおならをまねた音、すなわちブーイングの音を指すようになった。賞の名はこのことにも掛かっている。 トロフィーは、ゴルフボールで作ったラズベリーを金色に塗装し8mmフィルム缶に乗せ、木目の入った台所用壁紙を巻いてタイトルを貼り付けただけの貧乏臭いデザインである。制作価格はわずか4ドル79セントほどと言われるが、近年は8mmフィルムが市場から姿を消しつつあるため手に入りにくく、価格は上昇傾向にある。 ラジー賞は米映画アカデミーの会員による投票・審査で受賞が決定されるアカデミー賞と同じく、「ゴールデンラズベリー賞財団」の会員による投票で受賞作品を決定する。ただし実績ある映画業界人によるアカデミーと違い、ラジー賞選考には一般の映画ファンが小額の会費(2013年現在、新規会員は40ドル)を払うだけで投票権を有する事もできる。また、2作品が同一部門で受賞する事もある。 主要部門は毎年変わらないが、その年だけの部門が作られているのも、ラジー賞の特徴である。 第35回(2014年度)には名誉挽回賞(The Razzie Redeemer Award)が新設された。これはラジー賞の常連や、ラジー賞を受賞したことで有名な俳優や監督を対象とし、その年にアカデミー賞ノミネートなどの功績を挙げて「名誉挽回」した者に贈られる特殊な賞である。新設された2014年度は事あるごとに酷評される『ジーリ』のベン・アフレックが、2015年度はラジー賞のチャンピオンとまで称されたシルヴェスター・スタローンが受賞した。 第36回(2015年度)には商業的にも批評的にも失敗した作品を対象とするバリー・L・バムステッド賞(Barry L. Bumstead Award)が新設された。これはゴールデングローブ賞におけるセシル・B・デミル賞のパロディである。 一方、第42回(2021年度)では、特別賞として「2021年公開映画で見せたブルース・ウィリスの最低演技賞」が設けられ、ウィリスを特別に腐す趣向が設けられたが、その4日後にウィリスが失語症を理由に俳優業からの引退を公表したことを受けて、これら賞の撤回を行っている。同様に、第1回において最低主演女優賞にノミネートされたシェリー・デュヴァル(『シャイニング』)に対しても、現在ではスタンリー・キューブリックによって精神的に追い詰められていたことがわかっており、今回のウィリスへの対応に合わせて彼女へのノミネートも同様に撤回されることが公表された。 例年、本家アカデミー賞の授賞式の前日に授賞式が開催されていたが、第32回のラジー賞はノミネート発表がアカデミー賞前日の2012年2月25日、授賞式はエイプリルフールの同年4月1日に行われた。第33回ラジー賞の授賞式は再びアカデミー賞の前日に戻り、ノミネート発表が2013年1月9日、授賞式が同年2月23日(現地時間)に行われた。 賞の意味合いからトロフィーを受け取りにくる者はほとんどいないが、第8回でラジー史上初めてトロフィーが受賞者の手に渡っている。当年、『ビル・コスビーのそれ行けレオナルド』で3部門受賞したビル・コスビーは、授賞式に出席はしなかったが作品の失敗を自ら認めており、のちに出演したテレビ番組の中でそのトロフィーを受け取った。 授賞式でのトロフィー授与が初めて実現したのは第16回授賞式で、最低作品賞・監督賞など7部門を受賞した『ショーガール』のポール・バーホーベン監督が出席し、「蝶からサナギになった気分だ」とコメントした。以降、第22回の授賞式には最低作品賞・監督賞など5部門を受賞した『フレディのワイセツな関係』の監督・主演のトム・グリーンが、第25回の授賞式には『キャットウーマン』(最低作品賞・監督賞など4部門受賞)で最低主演女優賞を受賞したハル・ベリーらが出席し、その懐の深さに授賞式参加者は満場の喝采を贈った。 特にハル・ベリーは『チョコレート』で受賞したオスカー像を持参して左手に持ち、右手にはラジー像を抱えてアカデミー賞主演女優賞を受賞した際の自身のスピーチのパロディを演じ切り、涙まで流して見せたことで聴衆から大喝采を得た。子供のころに母親から「胸を張って負け犬になれない者は、勝者にもなれない」と言われたことが出席した理由だと語った。 第30回では最低主演女優賞と最低スクリーンカップル賞を受賞したサンドラ・ブロックがハル・ベリー以来の授賞式出席を行ったが、彼女はアカデミー賞の主演女優賞にも選ばれ、史上初めて同じ年に両方の賞を受賞した。ただ、ブロックはこの際に「一つしかないオリジナルのトロフィー」を持ち帰ってしまっており(受賞者にはレプリカが渡されるが、受賞会場に受賞者が現れることはまれであるため、このようなハプニングが起こってしまった)、実行委員会がブロックに返却を求める事態となっている。 2020年3月14日に予定されていた授賞式は新型コロナウイルス感染症流行の影響で中止となり、最低賞は3月16日に財団のYouTubeチャンネルで発表された。 2023年度のラズベリー賞の「最低女優賞」候補として、映画『炎の少女チャーリー』で当時12歳で主演した子役ライアン・キーラ・アームストロングが選ばれたことが1月に発表された。これに対し、「まだ幼い子役をネガティヴな意味合いの賞の候補にする」という点で物議をかもし各方面から批判の声が相次いだ。『ワンダヴィジョン』などに出演する子役のジュリアン・ヒリアードも「そもそもラジー賞は意地悪な賞だけど、子どもをノミネートするのは間違っている。なぜ、子どもをいじめのリスクにさらすのか」とTwitterで苦言と疑問を呈し、映画監督のジョー・ルッソも「人々のがんばりを侮辱し続けるのであれば(するべきではないが)、ターゲットは大人であるべきだ」と怒りの声を上げた。 これに応じ、ラジー賞共同創設者のジョン・ウィルソンは同月の25日に声明を発表し「自分たちがどれほど無神経だったかに気付くきっかけとなった」と述べて陳謝した。同時にアームストロングを候補から外すと共に18歳未満の俳優やフィルムメーカーは候補の対象外とすると発表しつつ「我々は誰かのキャリアをつぶすつもりはない」と釈明した。 なお、子役のノミネートはこれが初めての事ではなく、これ以前にもマコーレー・カルキンが1994年に『リッチー・リッチ』等の出演に際して「最低男優賞」候補としてノミネートされている。また、1999年公開の『スター・ウォーズ エピソードI/ファントム・メナス』において、当時8歳でアナキン・スカイウォーカーを演じたジェイク・ロイドは、同作への出演で「最低助演男優賞」を受賞したことが原因で学校で陰湿ないじめに遭い引退に追い込まれた顛末を明かしている。
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ゴールデンラズベリー賞は、アメリカの映画賞。毎年、アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰するもので、ラジー賞(Razzies)とも呼ばれている。
{{Expand language |langcode=en |otherarticle=Golden Raspberry Awards |date=2022-04-01 |fa= |topic= |nodoc= |no interwiki= }} {{Infobox Award | name = ゴールデンラズベリー賞 | current_awards = | image = John Wilson at 29th Razzie Awards.jpg | imagesize = | caption = [[第29回ゴールデンラズベリー賞]]での[[ジョン・J・B・ウィルソン]]([[2009年]][[2月21日]]) | description = 最低の映画 | presenter = ゴールデンラズベリー賞財団 | country = {{USA}} | location = | year = [[1981年]][[3月31日]] | year2 = | holder = | website = https://www.razzies.com/index.html }} '''ゴールデンラズベリー賞'''(ゴールデンラズベリーしょう、{{lang-en-short|Golden Raspberry Award}})は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[映画賞]]。毎年、[[アカデミー賞]]授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰するもので、'''ラジー賞'''(Razzies)とも呼ばれている。 == 歴史 == {{独自研究|section=1|date=2020年3月}} [[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]から映像製作・映画宣伝の道に進んだ[[ジョン・J・B・ウィルソン]]により[[1981年]]に創設された。 初期は正真正銘の[[B級映画]]が各部門受賞を独占することが多かったが、近年は、輝かしい実績があるにもかかわらずどうしようもない役柄を演じてしまった俳優や、前評判と実際の出来のギャップが著しい大作などが受賞する傾向にある。 この賞自体が一種のユーモアであり、本当にくだらない、つまらない作品を選ぶ場合もあるが、一方で出来はよいが惜しい作品や、強烈なカリスマ性や異色性が強すぎて一般ウケしない作品に与えられることもあり、この賞の受賞作品が意外によく出来た面白い作品として評価されることがある。 また、俳優に与えられる賞も、必ずしも酷い演技をした役者が受賞するわけではなく、[[第1回ゴールデンラズベリー賞|第1回]]の『[[ジャズ・シンガー (1980年の映画)|ジャズ・シンガー]]』で受賞した[[ニール・ダイアモンド]]は同じ作品でラジー賞と[[ゴールデングローブ賞]]を同時受賞している。 また、上述のように一種のジョーク賞であることから、受賞した作品が「一般受け」はしないがマニアからは「[[カルト映画]]」と評価される作品の場合もある(『[[フォード・フェアレーンの冒険]]』『[[ハドソン・ホーク]]』『[[ショーガール (1995年の映画)|ショーガール]]』など)。 なお、[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領を激しく批判する内容で製作され、そのブッシュ大統領が最低主演男優賞を獲得した『[[華氏911]]』や、狙いそのままに「最優秀頭からっぽティーン向け作品賞」を受賞した『[[ジャッカス・ザ・ムービー]]』のように、遠回しに正の評価を贈られた作品も希ながらある。 [[第32回ゴールデンラズベリー賞|第32回(2011年度)]]には『[[ジャックとジル]]』が初の全部門制覇を果たしている。 2023年1月25日、事務局は[[第43回ゴールデンラズベリー賞|第43回(2022年度)]]の最低女優賞候補としていたライアン・キーラ・アームストロングのノミネートを撤回して謝罪した。アームストロングは12歳で「[[炎の少女チャーリー (2022年の映画)|炎の少女チャーリー]]」(リメイク版)で主演女優を務めていたが、将来のキャリアを台無しにしかねないとして批判を受けていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35199144.html |title=12歳女優の「最低女優賞」ノミネート撤回、ラジー賞が謝罪 |publisher=CNN |date=2023-01-26 |accessdate=2023-02-06}}</ref>。 == 名称 == 「野次」を意味する「Razz」から命名された「Razzie Award」が正式な賞名であるが、「Razz」のもうひとつの意味である「Raspberry」([[ラズベリー]]:木イチゴ)の実を模したトロフィーのデザインにより「Golden Raspberry Award」とも呼ばれる。 また、英語の「ラズベリータルト」(raspberry tart)が「fart」(おなら) と韻を踏んでいることから、ラズベリーはおならをまねた音、すなわち[[ブーイング]]の音を指すようになった<ref group="注">記事「'''[[ラズベリー (スラング)]]'''」、[[英辞郎]]「[http://eow.alc.co.jp/Raspberry/UTF-8/ Rasberry]」「[http://eow.alc.co.jp/raspberry+tart/UTF-8/ raspberry tart]」の項目を参照のこと。[[コックニー]]の{{仮リンク|押韻俗語|en|Cockney Rhyming Slang}} の一種である。</ref>。賞の名はこのことにも掛かっている。 トロフィーは、[[ゴルフボール]]で作ったラズベリーを金色に塗装し[[8ミリ映画|8mmフィルム]]缶に乗せ、木目の入った台所用壁紙を巻いてタイトルを貼り付けただけの貧乏臭いデザインである。制作価格はわずか4ドル79セントほどと言われるが、近年は8mmフィルムが市場から姿を消しつつあるため手に入りにくく、価格は上昇傾向にある。  == 選考 == ラジー賞は[[映画芸術科学アカデミー|米映画アカデミー]]の会員による投票・審査で受賞が決定されるアカデミー賞と同じく、「ゴールデンラズベリー賞財団」の会員による投票で受賞作品を決定する。ただし実績ある映画業界人によるアカデミーと違い、ラジー賞選考には一般の映画ファンが小額の会費(2013年現在、新規会員は40ドル)を払うだけで投票権を有する事もできる。また、2作品が同一部門で受賞する事もある。 主要部門は毎年変わらないが、その年だけの部門が作られているのも、ラジー賞の特徴である。 [[第35回ゴールデンラズベリー賞|第35回(2014年度)]]には[[ゴールデンラズベリー賞 名誉挽回賞|名誉挽回賞]]([[:en:The Razzie Redeemer Award|The Razzie Redeemer Award]])が新設された。これはラジー賞の常連や、ラジー賞を受賞したことで有名な俳優や監督を対象とし、その年にアカデミー賞ノミネートなどの功績を挙げて「名誉挽回」した者に贈られる特殊な賞である。新設された2014年度は事あるごとに酷評される『[[ジーリ]]』の[[ベン・アフレック]]が、[[第36回ゴールデンラズベリー賞|2015年度]]はラジー賞のチャンピオンとまで称された[[シルヴェスター・スタローン]]が受賞した。 [[第36回ゴールデンラズベリー賞|第36回(2015年度)]]には商業的にも批評的にも失敗した作品を対象とするバリー・L・バムステッド賞(Barry L. Bumstead Award)が新設された。これは[[ゴールデングローブ賞]]における[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]のパロディである。 一方、[[第42回ゴールデンラズベリー賞|第42回(2021年度)]]では、特別賞として「2021年公開映画で見せた[[ブルース・ウィリス]]の最低演技賞」が設けられ、ウィリスを特別に腐す趣向が設けられたが、その4日後にウィリスが[[失語症]]を理由に俳優業からの引退を公表したことを受けて、これら賞の撤回を行っている<ref>{{Cite news|title=ラジー賞、B・ウィリスの「最低賞」撤回 失語症公表で|url=https://jp.reuters.com/article/awards-razzies-idJPKCN2LT2Y4|work=ロイター通信|date=2022-04-01|accessdate=2022-04-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=最低映画や俳優に贈られるゴールデンラズベリー賞、引退ブルース・ウィリスの受賞取り消し |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202204010000313.html |website=日刊スポーツ |accessdate=2022-04-01 |date=2022-04-01}}</ref>。同様に、[[第1回ゴールデンラズベリー賞|第1回]]において最低主演女優賞にノミネートされた[[シェリー・デュヴァル]](『[[シャイニング (映画)|シャイニング]]』)に対しても、現在では[[スタンリー・キューブリック]]によって精神的に追い詰められていたことがわかっており、今回のウィリスへの対応に合わせて彼女へのノミネートも同様に撤回されることが公表された<ref>{{Cite web|和書|title=ブルース・ウィリスの最悪映画賞受賞撤回、失語症の公表受け |url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35185743.html |website=CNN.co.jp |accessdate=2022-04-01 |date=2022-04-01}}</ref>。 == 授賞式 == 例年、本家アカデミー賞の授賞式の前日に授賞式が開催されていたが、[[第32回ゴールデンラズベリー賞|第32回]]のラジー賞はノミネート発表がアカデミー賞前日の[[2012年]][[2月25日]]、授賞式は[[エイプリルフール]]の同年[[4月1日]]に行われた。[[第33回ゴールデンラズベリー賞|第33回]]ラジー賞の授賞式は再びアカデミー賞の前日に戻り、ノミネート発表が[[2013年]][[1月9日]]、授賞式が同年[[2月23日]](現地時間)に行われた。 賞の意味合いからトロフィーを受け取りにくる者はほとんどいないが、第8回でラジー史上初めてトロフィーが受賞者の手に渡っている。当年、『[[ビル・コスビーのそれ行けレオナルド]]』で3部門受賞した[[ビル・コスビー]]は、授賞式に出席はしなかったが作品の失敗を自ら認めており、のちに出演したテレビ番組の中でそのトロフィーを受け取った。 [[File:Sandra Bullock at 2010 Razzies adjusted.jpg|thumb|[[第30回ゴールデンラズベリー賞|第30回]]授賞式に出席した[[サンドラ・ブロック]]]] 授賞式でのトロフィー授与が初めて実現したのは[[第16回ゴールデンラズベリー賞|第16回]]授賞式で、最低作品賞・監督賞など7部門を受賞した『[[ショーガール (1995年の映画)|ショーガール]]』の[[ポール・バーホーベン]]監督が出席し、「蝶からサナギになった気分だ」とコメントした。以降、[[第22回ゴールデンラズベリー賞|第22回]]の授賞式には最低作品賞・監督賞など5部門を受賞した『[[フレディのワイセツな関係]]』の監督・主演の[[トム・グリーン]]が、[[第25回ゴールデンラズベリー賞|第25回]]の授賞式には『[[キャットウーマン (映画)|キャットウーマン]]』(最低作品賞・監督賞など4部門受賞)で最低主演女優賞を受賞した[[ハル・ベリー]]らが出席し、その懐の深さに授賞式参加者は満場の喝采を贈った。 特にハル・ベリーは『[[チョコレート (映画)|チョコレート]]』で受賞した[[オスカー像]]を持参して左手に持ち、右手にはラジー像を抱えてアカデミー賞主演女優賞を受賞した際の自身のスピーチのパロディを演じ切り、涙まで流して見せたことで聴衆から大喝采を得た。子供のころに母親から「胸を張って負け犬になれない者は、勝者にもなれない」と言われたことが出席した理由だと語った。 [[第30回ゴールデンラズベリー賞|第30回]]では最低主演女優賞と最低スクリーンカップル賞を受賞した[[サンドラ・ブロック]]がハル・ベリー以来の授賞式出席を行ったが、彼女はアカデミー賞の[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]にも選ばれ、史上初めて同じ年に両方の賞を受賞した。ただ、ブロックはこの際に「一つしかないオリジナルのトロフィー」を持ち帰ってしまっており(受賞者には[[レプリカ]]が渡されるが、受賞会場に受賞者が現れることはまれであるため、このようなハプニングが起こってしまった)、実行委員会がブロックに返却を求める事態となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0023862|title=サンドラ・ブロックさん、ラジー賞のトロフィーを返してください!主催者が悲痛な訴え|publisher=[[シネマトゥデイ]]|date=2010-04-19|accessdate=2010-04-19}}</ref>。 == 受賞作品(主要部門) == === 1980年(第1回) === {{Main|第1回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ミュージック・ミュージック]]』 * 最低監督賞:[[ロバート・グリーンウォルド]](『[[ザナドゥ (映画)|ザナドゥ]]』) * 最低主演男優賞:[[ニール・ダイアモンド]](『[[ジャズ・シンガー (1980年の映画)|ジャズ・シンガー]]』) * 最低主演女優賞:[[ブルック・シールズ]](『[[青い珊瑚礁 (1980年の映画)|青い珊瑚礁]]』) * 最低助演男優賞:[[ジョン・アダメス]](『[[グロリア (1980年の映画)|グロリア]]』)、[[ローレンス・オリヴィエ]](『ジャズ・シンガー』) * 最低助演女優賞:[[エイミー・アーヴィング]](『[[忍冬の花のように]]』) * 最低脚本賞:[[ブロント・ウッダード]]、[[アラン・カー]](『ミュージック・ミュージック』) * 最低主題歌賞:"The Man with Bogart's Face"(『''[[:en:The Man with Bogart's Face|The Man with Bogart's Face]]''』) === 1981年(第2回) === {{Main|第2回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[愛と憎しみの伝説]]』 * 最低監督賞:[[マイケル・チミノ]](『[[天国の門]]』) * 最低主演男優賞:[[クリントン・スピルスベリー]](『[[ローン・レンジャー]]』) * 最低主演女優賞:[[ボー・デレク]](『[[類猿人ターザン (1981年の映画)|類猿人ターザン]]』)、[[フェイ・ダナウェイ]](『愛と憎しみの伝説』) * 最低助演男優賞:[[スティーヴ・フォレスト]](『愛と憎しみの伝説』) * 最低助演女優賞:[[ダイアナ・スカーウィッド]](『愛と憎しみの伝説』) * 最低新人俳優賞:クリントン・スピルズバリー(『ローン・レンジャー』) * 最低脚本賞:[[フランク・ヤブランス]]、[[フランク・ペリー]]、[[トレイシー・ホッチナー]]、[[ロバート・ゲッチェル]](『愛と憎しみの伝説』) * 最低音楽賞:[[ジョン・バリー (作曲家)|ジョン・バリー]](『ローン・レンジャー』) * 最低主題歌賞:"Baby Talk"(『[[結婚しない男]]』) === 1982年(第3回) === {{Main|第3回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[インチョン!]]』 * 最低監督賞:[[テレンス・ヤング]](『インチョン!』)、[[ケン・アナキン]](『[[パイレーツ・ムービー/恋のしおかぜ]]』) * 最低主演男優賞:[[ローレンス・オリヴィエ]](『インチョン!』) * 最低主演女優賞:[[ピア・ザドラ]](『''[[:en:Butterfly (1982 film)|Butterfly]]''』) * 最低助演男優賞:[[エド・マクマホン]](『''Butterfly''』) * 最低助演女優賞:[[アイリーン・クイン]](『[[アニー#映画およびテレビ|アニー]]』) * 最低新人俳優賞:[[ピア・ザドラ]](『''Butterfly''』) * 最低脚本賞:[[ロビン・ムーア]]、[[レアード・コーニグ]](『インチョン!』) * 最低音楽賞:[[キット・ヘイン]](『パイレーツ・ムービー/恋のしおかぜ』) * 最低主題歌賞:"Pumpin' and Blowin'"(『パイレーツ・ムービー/恋のしおかぜ』) === 1983年(第4回) === {{Main|第4回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『''[[:en:The Lonely Lady|The Lonely Lady]]''』 * 最低監督賞:[[ピーター・サスディ]](『''The Lonely Lady''』) * 最低主演男優賞:[[クリストファー・アトキンズ]](『[[ナイト・イン・ヘブン]]』) * 最低主演女優賞:[[ピア・ザドラ]](『''The Lonely Lady''』) * 最低助演男優賞:[[ジム・ネイバース]](『[[ストローカーエース]]』) * 最低助演女優賞:[[シビル・ダニング]](『[[チェーンヒート]]』『[[超人ヘラクレス]]』) * 最低新人俳優賞:[[ルー・フェリグノ]](『超人ヘラクレス』) * 最低脚本賞:[[エレン・シェパード]]、[[ジョン・カーショウ]]、[[ショーン・ランデル]](『''The Lonely Lady''』) * 最低音楽賞:[[チャールズ・カレロ]]、[[ジェフ・ハリントン]]、[[J・ペンニグ]]、[[ロジャー・ヴォードリス]](『''The Lonely Lady''』) * 最低主題歌賞:"The Way You DO It"(『''The Lonely Lady''』) === 1984年(第5回) === {{Main|第5回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ボレロ/愛欲の日々]]』 * 最低監督賞:[[ジョン・デレク]](『ボレロ/愛欲の日々』) * 最低主演男優賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[クラブ・ラインストーン/今夜は最高!]]』) * 最低主演女優賞:[[ボー・デレク]](『ボレロ/愛欲の日々』) * 最低助演男優賞:[[ブルック・シールズ]](『サハラ』での男役として) * 最低助演女優賞:[[リン=ホリー・ジョンソン]](『[[ボーイハント (1984年の映画)|ボーイハント]]』) * 最低新人俳優賞:[[オリヴィア・ダボ]](『ボレロ/愛欲の日々』『[[キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2]]』) * 最低脚本賞:ジョン・デレク(『ボレロ/愛欲の日々』) * 最低音楽賞:[[ピーター・バーンスタイン]]、[[エルマー・バーンスタイン]](『ボレロ/愛欲の日々』) * 最低主題歌賞:[[ドリー・パートン]] "Drinkenstein"(『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』) === 1985年(第6回) === {{Main|第6回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ランボー/怒りの脱出]]』 * 最低監督賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[ロッキー4/炎の友情]]』) * 最低主演男優賞:シルヴェスター・スタローン(『ランボー/怒りの脱出』『ロッキー4/炎の友情』) * 最低主演女優賞:[[リンダ・ブレア]](『[[ナイト・パトロール]]』『[[非情の島・女囚大脱走]]』『[[暴行都市]]』) * 最低助演男優賞:[[ロブ・ロウ]](『[[セント・エルモス・ファイヤー]]』) * 最低助演女優賞:[[ブリジット・ニールセン]](『ロッキー4/炎の友情』) * 最低新人俳優賞:ブリジット・ニールセン(『レッドソニア』『ロッキー4/炎の友情』) * 最低脚本賞:シルヴェスター・スタローン、[[ジェームズ・キャメロン]](『ランボー/怒りの脱出』) * 最低音楽賞:[[ヴィンス・ディコーラ]](『ロッキー4/炎の友情』) * 最低主題歌賞:"Peace in Our Life"(『ランボー/怒りの脱出』) === 1986年(第7回) === {{Main|第7回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀]]』『[[プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン]]』 * 最低監督賞:[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]](『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』) * 最低主演男優賞:プリンス(『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』) * 最低主演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『[[上海サプライズ]]』) * 最低助演男優賞:[[ジェローム・ベントン]](『[[プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン]]』) * 最低助演女優賞:[[ドム・デルイーズ]](『[[呪われたハネムーン]]』) * 最低新人俳優賞:アヒルの着ぐるみを着て奮闘した6人の諸君(『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』) * 最低脚本賞:[[ウィラード・ハイク]]、[[グロリア・カッツ]](『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』) * 最低主題歌賞:[[ザ・レヴォリューション#プリンス&ザ・レヴォリューション|プリンス&ザ・レヴォリューション]] "[[:en:Kiss (Prince song)|♥ Or $ (Love or Money)]]"(『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』) * 最低視覚効果賞:[[インダストリアル・ライト&マジック|ILM]](『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』) === 1987年(第8回) === {{Main|第8回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ビル・コスビーのそれ行けレオナルド]]』 * 最低監督賞:[[ノーマン・メイラー]](『[[タフガイは踊らない]]』)、[[エレイン・メイ]](『[[イシュタール]]』) * 最低主演男優賞:[[ビル・コスビー]](『ビル・コスビーのそれ行けレオナルド』) * 最低主演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『[[フーズ・ザット・ガール (1987年の映画)|フーズ・ザット・ガール]]』) * 最低助演男優賞:[[デヴィッド・メンデンホール]](『[[オーバー・ザ・トップ]]』) * 最低助演女優賞:[[ダリル・ハンナ]](『[[ウォール街 (映画)|ウォール街]]』) * 最低新人俳優賞:デヴィッド・メンデンホール(『オーバー・ザ・トップ』) * 最低脚本賞:ビル・コスビー、[[ジョナサン・レイノルズ]](『ビル・コスビーのそれ行けレオナルド』) * 最低主題歌賞:[[ジョージ・マイケル]] "I Want Your Sex"(『ビバリーヒルズ・コップ2』) * 最低視覚効果賞:[[ヘンリー・ミラー (曖昧さ回避)|ヘンリー・ミラー]](『ジョーズ'87/復讐篇』) === 1988年(第9回) === {{Main|第9回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[カクテル (映画)|カクテル]]』 * 最低監督賞:[[ブレイク・エドワーズ]](『[[キャデラック・カウボーイ]]』)、[[スチュワート・ラフィル]](『[[マック (映画)|マック]]』) * 最低主演男優賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[ランボー3/怒りのアフガン]]』) * 最低主演女優賞:[[ライザ・ミネリ]](『[[ミスター・アーサー2]]』『[[レンタ・コップ]]』) * 最低助演男優賞:[[ダン・エイクロイド]](『[[ボールズ・ボールズ2/成金ゴルフマッチ]]』) * 最低助演女優賞:[[クリスティ・マクニコル]](『[[トゥー・ムーン]]』) * 最低新人俳優賞:[[ロナルド・マクドナルド]](『マック』) * 最低脚本賞:[[ヘイウッド・グールド]](『カクテル』) * 最低主題歌賞:[[フル・フォース]] "Jack Fresh"(『ボールズ・ボールズ2/成金ゴルフマッチ』) === 1989年(第10回) === {{Main|第10回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[スタートレックV 新たなる未知へ]]』 * 最低監督賞:[[ウィリアム・シャトナー]](『スタートレックV 新たなる未知へ』) * 最低主演男優賞:ウィリアム・シャトナー(『スタートレックV 新たなる未知へ』) * 最低主演女優賞:[[ヘザー・ロックリア]](『[[怪人スワンプシング]]』) * 最低助演男優賞:[[クリストファー・アトキンズ]](『[[青春!ケンモント大学]]』) * 最低助演女優賞:[[ブルック・シールズ]](『[[キャノンボール3 新しき挑戦者たち]]』) * 最低脚本賞:[[エディ・マーフィ]](『[[ハーレム・ナイト]]』) * 最低主題歌賞:"Bring Your Daughter to The Slaughter"(『[[エルム街の悪夢5 ザ・ドリームチャイルド]]』) ==== 10周年特別賞 ==== * 10年間の最低作品賞:『[[愛と憎しみの伝説]]』<ref group="注">[[第2回ゴールデンラズベリー賞|第2回(1981年度)]]で最低作品賞を受賞している。</ref> * 10年間の最低男優賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[コブラ (映画)|コブラ]]』『[[ロックアップ (映画)|ロックアップ]]』『[[オーバー・ザ・トップ]]』『[[ランボー/怒りの脱出]]』『[[ランボー3/怒りのアフガン]]』『[[クラブ・ラインストーン/今夜は最高!]]』『[[ロッキー4/炎の友情]]』『[[デッドフォール]]』) * 10年間の最低女優賞:[[ボー・デレク]](『[[ボレロ/愛欲の日々]]』『[[類猿人ターザン]]』) * 10年間の最低新人賞:[[ピア・ザドラ]](『''[[:en:Butterfly (1982 film)|Butterfly]]''』『''[[:en:The Lonely Lady|The Lonely Lady]]''』) === 1990年(第11回) === {{Main|第11回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[フォード・フェアレーンの冒険]]』『[[ゴースト・ラブ]]』 * 最低監督賞:[[ジョン・デレク]](『ゴースト・ラブ』) * 最低主演男優賞:[[アンドリュー・ダイス・クレイ]](『フォード・フェアレーンの冒険』) * 最低主演女優賞:[[ボー・デレク]](『ゴースト・ラブ』) * 最低助演男優賞:[[ドナルド・トランプ]](『ゴースト・ラブ』) * 最低助演女優賞:[[ソフィア・コッポラ]](『[[ゴッドファーザー PART III]]』) * 最低新人賞 : ソフィア・コッポラ(『ゴッドファーザー PART III』) * 最低脚本賞:[[ダニエル・ウォーターズ]]、[[ジェームズ・カップ]]、[[デヴィッド・アーノット]](『フォード・フェアレーンの冒険』) * 最低主題歌賞:"He's Comin' Back (The Devil!)"(『[[裸の十字架を持つ男/エクソシストフォーエバー]]』) === 1991年(第12回) === {{Main|第12回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ハドソン・ホーク]]』 * 最低監督賞:[[マイケル・レーマン]](『ハドソン・ホーク』) * 最低主演男優賞:[[ケビン・コスナー]](『[[ロビン・フッド (1991年のアメリカ映画)|ロビン・フッド]]』) * 最低主演女優賞:[[ショーン・ヤング]](『[[死の接吻 (1991年の映画)|死の接吻]]』) * 最低助演男優賞:[[ダン・エイクロイド]](『[[絶叫屋敷へいらっしゃい]]』) * 最低助演女優賞:ショーン・ヤング(『死の接吻』) * 最低新人俳優賞:[[ヴァニラ・アイス]](『[[クール・アズ・アイス]]』) * 最低脚本賞:[[スティーヴン・E・デ・スーザ]]、[[ダニエル・ウォーターズ]](『ハドソン・ホーク』) * 最低主題歌賞:[[M.C.ハマー]] "Addams Groove"(『[[アダムス・ファミリー (1991年の映画)|アダムス・ファミリー]]』) === 1992年(第13回) === {{Main|第13回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[嵐の中で輝いて_(映画)|嵐の中で輝いて]]』 * 最低監督賞:[[デヴィッド・セルツァー]](『嵐の中で輝いて』) * 最低主演男優賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[刑事ジョー/ママにお手あげ]]』) * 最低主演女優賞:[[メラニー・グリフィス]](『嵐の中で輝いて』『[[刑事エデン/追跡者]]』) * 最低助演男優賞:[[トム・セレック]](『[[コロンブス (映画)|コロンブス]]』) * 最低助演女優賞:[[エステル・ゲティ]](『刑事ジョー/ママにお手あげ』) * 最低新人俳優賞:[[ポーリー・ショア]](『[[原始のマン]]』) * 最低脚本賞:[[ブレイク・スナイダー]]、[[ウィリアム・オズボーン]]、[[ウィリアム・デイヴィス (脚本家)|ウィリアム・デイヴィス]](『刑事ジョー/ママにお手あげ』) * 最低主題歌賞:"High Times, Hard Times"(『[[ニュースボーイズ/ぼくたちのわんぱく革命]]』) === 1993年(第14回) === {{Main|第14回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[幸福の条件]]』 * 最低監督賞:[[ジェニファー・リンチ|ジェニファー・チェンバース・リンチ]](『[[ボクシング・ヘレナ]]』) * 最低主演男優賞:[[バート・レイノルズ]](『[[コップ・アンド・ハーフ]]』) * 最低主演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『[[BODY/ボディ]]』) * 最低助演男優賞:[[ウディ・ハレルソン]](『幸福の条件』) * 最低助演女優賞:[[フェイ・ダナウェイ]](『[[派遣秘書]]』) * 最低新人俳優賞:[[ジャネット・ジャクソン]](『[[ポエティック・ジャスティス/愛するということ]]』) * 最低脚本賞:[[エイミー・ホールデン・ジョーンズ]](『幸福の条件』) * 最低主題歌賞:"Addams Family (WHOOMP!)"(『[[アダムス・ファミリー2]]』) === 1994年(第15回) === {{Main|第15回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[薔薇の素顔]]』 * 最低リメイク賞:『[[ワイアット・アープ (1994年の映画)|ワイアット・アープ]]』 * 最低監督賞:[[スティーヴン・セガール]](『[[沈黙の要塞]]』) * 最低主演男優賞:[[ケビン・コスナー]](『ワイアット・アープ』) * 最低主演女優賞:[[シャロン・ストーン]](『[[わかれ路]]』『[[スペシャリスト (1994年の映画)|スペシャリスト]]』) * 最低助演男優賞:[[O・J・シンプソン]](『[[裸の銃を持つ男|裸の銃を持つ男 PART33 1/3 最後の侮辱]]』) * 最低助演女優賞:[[ロージー・オドネル]](『[[パトカー54/応答せよ!]]』『[[フリントストーン/モダン石器時代]]』) * 最低新人俳優賞:[[アンナ・ニコル・スミス]](『裸の銃を持つ男 PART33 1/3 最後の侮辱』) * 最低スクリーンカップル賞:[[トム・クルーズ]]&[[ブラッド・ピット]](『[[インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア]]』)、[[シルヴェスター・スタローン]]&[[シャロン・ストーン]](『スペシャリスト』) * 最低脚本賞:『フリントストーン/モダン石器時代』を寄ってたかって書き直しまくった35人もの人々 * 最低主題歌賞:"Marry The Mole!"(『[[おやゆび姫 サンベリーナ]]』) === 1995年(第16回) === {{Main|第16回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ショーガール (1995年の映画)|ショーガール]]』 * 最低リメイク・続編賞:[[スカーレット・レター]] * 最低監督賞:[[ポール・バーホーベン|ポール・ヴァーホーヴェン]](『ショーガール』) * 最低主演男優賞:[[ポーリー・ショア]](『[[陪審員だよ、全員集合!]]』) * 最低主演女優賞:[[エリザベス・バークレー]](『ショーガール』) * 最低助演男優賞:[[デニス・ホッパー]](『[[ウォーターワールド]]』) * 最低助演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『[[フォー・ルームス]]』) * 最低新人俳優賞:エリザベス・バークレー(『ショーガール』) * 最低脚本賞:[[ジョー・エスターハス]](『ショーガール』) * 最低主題歌賞:"Walk Into The Wind"(『ショーガール』) === 1996年(第17回) === {{Main|第17回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[素顔のままで (映画)|素顔のままで]]』 * 最低監督賞:[[アンドリュー・バーグマン]](『素顔のままで』) * 最低主演男優賞:[[トム・アーノルド]](『[[スクール・ウォーズ/もうイジメは懲りごり!]]』『[[ドタキャン・パパ]]』『[[ステューピッド/おばかっち地球防衛大作戦]]』)、[[ポーリー・ショア]](『[[バイオ・ドーム/ボクたち環境改善隊]]』) * 最低主演女優賞:[[デミ・ムーア]](『[[陪審員 (映画)|陪審員]]』『素顔のままで』) * 最低助演男優賞:[[マーロン・ブランド]](『[[D.N.A./ドクター・モローの島]]』) * 最低助演女優賞:[[メラニー・グリフィス]](『[[狼たちの街]]』) * 最低新人俳優賞:[[パメラ・アンダーソン|パメラ・アンダーソン・リー]](『[[バーブ・ワイヤー/ブロンド美女戦記]]』) * 最低スクリーンカップル賞:デミ・ムーア&[[バート・レイノルズ]](『素顔のままで』) * 最低脚本賞:アンドリュー・バーグマン(『素顔のままで』) * ジョー・エスターハス記念/興行収入1億ドル以上作品限定最低脚本賞:[[マイケル・クライトン]]、[[アン・マリー・マーティン]](『[[ツイスター (映画)|ツイスター]]』) * 最低主題歌賞:"Pussy, Pussy, Pussy (Whose Kitty Cat Are You?)"(『素顔のままで』) === 1997年(第18回) === {{Main|第18回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ポストマン (1997年の映画)|ポストマン]]』 * 最低続編賞:『[[スピード2]]』 * 最低人命軽視と公共物破壊しまくり作品賞:『[[コン・エアー]]』 * 最低監督賞:[[ケビン・コスナー]](『ポストマン』) * 最低主演男優賞:ケビン・コスナー(『ポストマン』) * 最低主演女優賞:[[デミ・ムーア]](『[[G.I.ジェーン]]』) * 最低助演男優賞:[[デニス・ロッドマン]](『[[ダブルチーム (映画)|ダブルチーム]]』) * 最低助演女優賞:[[アリシア・シルヴァーストーン]](『[[バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲]]』) * 最低新人俳優賞:デニス・ロッドマン(『ダブルチーム』) * 最低スクリーンカップル賞:デニス・ロッドマン&[[ジャン=クロード・ヴァン・ダム]](『ダブルチーム』) * 最低脚本賞:[[エリック・ロス]]、[[ブライアン・ヘルゲランド]](『ポストマン』) * 最低音楽(歌)賞:『ポストマン』の挿入歌全部 === 1998年(第19回) === {{Main|第19回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[アラン・スミシー・フィルム]]』 * 最低リメイク賞:『[[アベンジャーズ (1998年の映画)|アベンジャーズ]]』『[[GODZILLA]]』『[[サイコ (1998年の映画)|サイコ]]』 * 最低監督賞:[[ガス・ヴァン・サント]](『サイコ』) * 最低主演男優賞:[[ブルース・ウィリス]](『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』『[[マーキュリー・ライジング]]』『[[マーシャル・ロー (映画)|マーシャル・ロー]]』) * 最低主演女優賞:[[スパイス・ガールズ]](『[[スパイス・ザ・ムービー]]』) * 最低助演男優賞:[[ジョー・エスターハス]](『アラン・スミシー・フィルム』) * 最低助演女優賞:[[マリア・ピティロ]](『GODZILLA』) * 最低新人俳優賞:ジョー・エスターハス(『アラン・スミシー・フィルム』に本人役で出演)、[[ジェリー・スプリンガー]](『ジェリー・スプリンガー・ザ・ムービー/人の不幸はクセになる』) * 最低スクリーンカップル賞:[[レオナルド・ディカプリオ]]&レオナルド・ディカプリオ(『[[仮面の男]]』の双子役で) * ジョー・エスターハス記念/最低脚本賞:ジョー・エスターハス(『アラン・スミシー・フィルム』) * 最低主題歌賞:"I Wanna Be Mike Ovitz!"(『アラン・スミシー・フィルム』) * 最低作品傾向賞:58歳の主演男優が28歳の主演女優に求愛するような少々イタいロマンス(『[[ダイヤルM]]』『[[6デイズ/7ナイツ]]』『[[グッドナイト・ムーン]]』などを参照のこと) === 1999年(第20回) === {{Main|第20回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ワイルド・ワイルド・ウェスト]]』 * 最低監督賞:[[バリー・ソネンフェルド]](『ワイルド・ワイルド・ウエスト』) * 最低主演男優賞:[[アダム・サンドラー]](『[[ビッグ・ダディ (映画)|ビッグ・ダディ]]』) * 最低主演女優賞:[[ヘザー・ドナヒュー]](『[[ブレア・ウィッチ・プロジェクト]]) * 最低助演男優賞:[[ジャー・ジャー・ビンクス]](『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]』) * 最低助演女優賞:[[デニス・リチャーズ]](『[[007 ワールド・イズ・ノット・イナフ]]』) * 最低スクリーンカップル賞:[[ケヴィン・クライン]]&[[ウィル・スミス]](『ワイルド・ワイルド・ウエスト』) * 最低脚本賞:『ワイルド・ワイルド・ウエスト』の脚本を書いた6人 * 最低主題歌賞:"Wild Wild West"(『ワイルド・ワイルド・ウエスト』) ==== 特別大賞 ==== * 1990年代最低作品賞:『[[ショーガール (1995年の映画)|ショーガール]]』<ref group="注">[[第16回ゴールデンラズベリー賞|第16回(1995年度)]]で7冠を果たしている。</ref> * 20世紀最低主演男優賞:[[シルヴェスター・スタローン]](彼が行ったすべてのことの99.5%に対して) * 20世紀最低主演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『[[BODY/ボディ]]』『[[上海サプライズ]]』『[[フーズ・ザット・ガール (1987年の映画)|フーズ・ザット・ガール]]』) * 1990年代最低新人俳優賞:[[ポーリー・ショア]](『[[バイオ・ドーム/ボクたち環境改善隊]]』『[[原始のマン]]』『[[陪審員だよ、全員集合!]]』) === 2000年(第21回) === {{Main|第21回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[バトルフィールド・アース (映画)|バトルフィールド・アース]]』 * 最低続編賞:『[[ブレアウィッチ2]]』 * 最低監督賞:[[ロジャー・クリスチャン]](『バトルフィールド・アース』) * 最低主演男優賞:[[ジョン・トラボルタ]](『バトルフィールド・アース』『[[ラッキー・ナンバー]]』) * 最低主演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『[[2番目に幸せなこと]]』) * 最低助演男優賞:[[バリー・ペッパー]](『バトルフィールド・アース』) * 最低助演女優賞:[[ケリー・プレストン]](『バトルフィールド・アース』) * 最低スクリーンカップル賞:ジョン・トラボルタ&『バトルフィールド・アース』で一緒にスクリーンに映ってしまった人全部 * 最低脚本賞:[[コリー・マンデル]]、[[J・デビッド・シャピロ]](『バトルフィールド・アース』) === 2001年(第22回) === {{Main|第22回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[フレディのワイセツな関係]]』 * 最低リメイク賞:『[[PLANET OF THE APES/猿の惑星]]』 * 最低監督賞:[[トム・グリーン]](『フレディのワイセツな関係』) * 最低主演男優賞:トム・グリーン(『フレディのワイセツな関係』) * 最低主演女優賞:[[マライア・キャリー]](『[[グリッター きらめきの向こうに]]』) * 最低助演男優賞:[[チャールトン・ヘストン]](『[[キャッツ&ドッグス]]』『PLANET OF THE APES/猿の惑星』『[[フォルテ (映画)|フォルテ]]』) * 最低助演女優賞:[[エステラ・ウォーレン]](『[[ドリヴン]]』『PLANET OF THE APES/猿の惑星』) * 最低スクリーンカップル賞:トム・グリーン&彼が陵辱した動物たち(『フレディのワイセツな関係』) * 最低脚本賞:トム・グリーン、[[デレク・ハーヴィ]](『フレディのワイセツな関係』) === 2002年(第23回) === {{Main|第23回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[スウェプト・アウェイ]]』 * 最低リメイク賞:『スウェプト・アウェイ』 * 最優秀頭からっぽティーン向け作品賞:『[[ジャッカス・ザ・ムービー]]』 * 最低監督賞:[[ガイ・リッチー]](『スウェプト・アウェイ』) * 最低主演男優賞:[[ロベルト・ベニーニ]](『[[ピノッキオ (映画)|ピノッキオ]]』) * 最低主演女優賞:[[マドンナ (歌手)|マドンナ]](『スウェプト・アウェイ』)、[[ブリトニー・スピアーズ]](『[[ノット・ア・ガール]]』) * 最低助演男優賞:[[ヘイデン・クリステンセン]](『[[スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃]]』) * 最低助演女優賞:マドンナ(『[[007 ダイ・アナザー・デイ]]』) * 最低スクリーンカップル賞:マドンナ&[[アドリアーノ・ジャンニーニ]](『スウェプト・アウェイ』) * 最低脚本賞:[[ジョージ・ルーカス]]、[[ジョナサン・ヘイルズ]](『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』) * 最低主題歌賞:ブリトニー・スピアーズ "I'm not a girl, Not yet a woman."(『ノット・ア・ガール』) === 2003年(第24回) === {{Main|第24回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ジーリ]]』 * 最低続編賞:『[[チャーリーズ・エンジェル フルスロットル]]』 * コンセプトが全てで中身空っぽ賞:『[[ハットしてキャット]]』 * 最低監督賞:[[マーティン・ブレスト]](『ジーリ』) * 最低主演男優賞:[[ベン・アフレック]](『[[デアデビル (映画)|デアデビル]]』『ジーリ』『[[ペイチェック 消された記憶|ペイチェック/消された記憶]]』) * 最低主演女優賞:[[ジェニファー・ロペス]](『ジーリ』) * 最低助演男優賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[スパイキッズ3-D:ゲームオーバー]]』) * 最低助演女優賞:[[デミ・ムーア]](『チャーリーズ・エンジェル/フルスロットル』) * 最低スクリーンカップル賞:ベン・アフレック&ジェニファー・ロペス(『ジーリ』) * 最低脚本賞:[[マーティン・ブレスト]](『ジーリ』) * 審査員特別賞:[[アメリカン・スター]]における[[:en:Travis_Payne|トラヴィス・ペイン]]によるダンス振り付けに対して === 2004年(第25回) === {{Main|第25回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[キャットウーマン (映画)|キャットウーマン]]』 * 最低続編賞:『[[スクービー・ドゥー#『スクービー・ドゥー2 モンスターパニック』|スクービー・ドゥー2/モンスター・パニック]]』 * 最低監督賞:[[ピトフ]](『キャットウーマン』) * 最低主演男優賞:[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・W・ブッシュ]](『[[華氏911]]』) * 最低主演女優賞:[[ハル・ベリー]](『キャットウーマン』) * 最低助演男優賞:[[ドナルド・ラムズフェルド]](『華氏911』) * 最低助演女優賞:[[ブリトニー・スピアーズ]](『華氏911』) * 最低スクリーンカップル賞:ジョージ・W・ブッシュ&[[コンドリーザ・ライス]]、もしくは[[:en:The Pet Goat|彼のペットのヤギさん]]<ref group="注">[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ]]発生時にジョージ・W・ブッシュが子どもたちに読み聞かせていた絵本『''[[:en:The Pet Goat|The Pet Goat]]''』を指している。</ref>(『華氏911』) * 最低脚本賞:[[:en:Theresa_Rebeck|テレサ・レベック]]、[[:en:John_Brancato|ジョン・ブランカトー]]、[[:en:Michael_Ferris|マイケル・フェリス]]、[[:en:John_Rogers|ジョン・ロジャース]](『キャットウーマン』) ==== ラジー賞創設25周年特別大賞 ==== * 歴代最低ドラマ作品賞:『[[バトルフィールド・アース (映画)|バトルフィールド・アース]]』 * 歴代最低コメディ作品賞:『[[ジーリ]]』 * 歴代最低ミュージカル作品賞:『[[アメリカン・スター]]』 * 歴代最低ノミネート賞:[[アーノルド・シュワルツェネッガー]](過去通算8つの賞にノミネートされるも1つも獲れず) === 2005年(第26回) === {{Main|第26回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『''[[:en:Dirty Love (film)|Dirty Love]]''』 * 最低続編賞:『[[マスク2]]』 * 最低監督賞:[[:en:John Mallory Asher|ジョン・アッシャー]](『''Dirty Love''』) * 最低主演男優賞:[[ロブ・シュナイダー]](『''[[デュース・ビガロウの旅ジゴロ]]''』) * 最低主演女優賞:[[:en:Jenny_McCarthy|ジェニー・マッカーシー]](『''Dirty Love''』) * 最低助演男優賞:[[ヘイデン・クリステンセン]](『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐]]』) * 最低助演女優賞:[[パリス・ヒルトン]](『[[蝋人形の館 (映画)|蝋人形の館]]』) * 最低スクリーンカップル賞:[[ウィル・フェレル]]&[[ニコール・キッドマン]](『[[奥さまは魔女_(映画)|奥さまは魔女]]』) * 最低脚本賞:ジェニー・マッカーシー(『''Dirty Love''』) * 最低飽き飽きもう見たくもないゴシップネタ賞:[[トム・クルーズ]]&[[ケイティ・ホームズ]]、彼の奇行の舞台となった[[オプラ・ウィンフリー]]・ショーのソファー、もしくはプロポーズした舞台の[[エッフェル塔]]、2人の子宝騒動 === 2006年(第27回) === {{Main|第27回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[氷の微笑2]]』 * 最低主演女優賞:[[シャロン・ストーン]](『氷の微笑2』) * 最低主演男優賞:[[ショーン・ウェイアンズ]]、[[マーロン・ウェイアンズ]](『[[最凶赤ちゃん計画]]』) * 最低助演女優賞:[[カルメン・エレクトラ]](『[[最'愛'絶叫計画]]』『[[最終絶叫計画4]]』) * 最低助演男優賞:[[M・ナイト・シャマラン]](『[[レディ・イン・ザ・ウォーター]]』) * 最低監督賞:M・ナイト・シャマラン(『レディ・イン・ザ・ウォーター』) * 最低スクリーンカップル賞:ショーン・ウェイアンズ&[[ケリー・ワシントン]]またはマーロン・ウェイアンズ(『最凶赤ちゃん計画』) * 最低リメイク賞:『最凶赤ちゃん計画』(『[[バッグス・バニー|ドロボ〜ベイビー]]』のパクリ) * 最低序章・続編賞:『氷の微笑2』 * 最低脚本賞:『氷の微笑2』([[レオラ・バリッシュ]]、[[ヘンリー・ビーン]]、キャラクター考案:[[ジョー・エスターハス]]) * 最低ファミリー映画賞:『[[RV (映画)|RV]]』 === 2007年(第28回) === {{Main|第28回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『''[[:en:I Know Who Killed Me|I Know Who Killed Me]]''』 * 最低主演女優賞:[[リンジー・ローハン]](『''I Know Who Killed Me''』) * 最低主演男優賞:[[エディ・マーフィ]](『[[マッド・ファット・ワイフ]]』のノービット役) * 最低助演女優賞:エディ・マーフィ(『マッド・ファット・ワイフ』のラスプーティア役) * 最低助演男優賞:エディ・マーフィ(『マッド・ファット・ワイフ』のMr.ウォン役) * 最低監督賞:[[クリス・シルヴァートン]](『''I Know Who Killed Me''』) * 最低スクリーンカップル賞:リンジー・ローハン&リンジー・ローハン(『''I Know Who Killed Me''』) * 最低リメイク及び盗作賞:『''I Know Who Killed Me''』(『[[ホステル (映画)|ホステル]]』『[[ソウ (映画)|ソウ]]』『[[パティ・デューク・ショウ]]』の盗作) * 最低序章・続編賞:『[[チャーリーと18人のキッズ in ブートキャンプ]]』 * 最低脚本賞:[[ジェフリー・ハモンド]](『''I Know Who Killed Me''』) * ホラー映画と宣った最低作品賞:『''I Know Who Killed Me''』 === 2008年(第29回) === {{Main|第29回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[愛の伝道師 ラブ・グル]]』 * 最低男優賞:[[マイク・マイヤーズ]](『愛の伝道師 ラブ・グル』) * 最低女優賞:[[パリス・ヒルトン]](『''[[:en:The Hottie and the Nottie|The Hottie and the Nottie]]''』) * 最低助演男優賞:[[ピアース・ブロスナン]](『[[マンマ・ミーア! (映画)|マンマ・ミーア!]]』) * 最低助演女優賞:パリス・ヒルトン(『[[REPO! レポ]]』) * 最低スクリーンカップル賞:パリス・ヒルトン&[[クリスティーン・レイキン]]または[[ジョエル・デイヴィッド・ムーア]](『''The Hottie and the Nottie''』) * 最低監督賞:[[ウーヴェ・ボル]](『[[T-フォース ベトコン地下要塞制圧部隊]]』『[[デス・リベンジ]]』『[[ポスタル (映画)|ポスタル]]』) * 最低脚本賞:マイク・マイヤーズ、[[グラハム・ゴーディ]](『愛の伝道師 ラブ・グル』) * 最低リメイク及び続編賞:『[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]』 * 最低功績賞:『[[ウーヴェ・ボル]]』 === 2009年(第30回) === {{Main|第30回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[トランスフォーマー/リベンジ]]』 * 最低男優賞:[[ジョナス・ブラザーズ|ジョナス・ブラザーズ全員]](『[[ジョナス・ブラザーズ ザ・コンサート 3D]]』) * 最低女優賞:[[サンドラ・ブロック]](『[[ウルトラ I LOVE YOU!]]』) * 最低助演男優賞:[[ビリー・レイ・サイラス]](『[[ハンナ・モンタナ/ザ・ムービー]]』) * 最低助演女優賞:[[シエナ・ミラー]](『[[G.I.ジョー (映画)|G.I.ジョー]]』) * 最低スクリーンカップル賞:サンドラ・ブロック&[[ブラッドリー・クーパー]](『ウルトラ I LOVE YOU!』) * 最低監督賞:[[マイケル・ベイ]](『トランスフォーマー/リベンジ』) * 最低脚本賞:[[アレックス・カーツマン]]、[[ロベルト・オーチー]]、[[アーレン・クルーガー]](『トランスフォーマー/リベンジ』) * 最低リメイク及び続編賞:『[[マーシャル博士の恐竜ランド]]』(1970年代に放送されたテレビシリーズ『''Land of the Lost''』を映画化) ==== 2000年代最低賞 ==== * 2000年代最低作品賞:『[[バトルフィールド・アース (映画)|バトルフィールド・アース]]』<ref group="注">[[第21回ゴールデンラズベリー賞|第21回(2000年度)]]で7冠を果たしている。</ref> * 2000年代最低男優賞:[[エディ・マーフィ]](『[[プルート・ナッシュ]]』『[[アイ・スパイ]]』『[[エディ・マーフィの劇的1週間]]』『[[デイブは宇宙船]]』『[[マッド・ファット・ワイフ]]』『[[ショウタイム (映画)|ショウタイム]]』) * 2000年代最低女優賞:[[パリス・ヒルトン]](『''[[:en:The Hottie and the Nottie|The Hottie and the Nottie]]''』『[[蝋人形の館 (映画)|蝋人形の館]]』『[[REPO! レポ]]』) === 2010年(第31回) === {{Main|第31回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[エアベンダー]]』 * 最低男優賞:[[アシュトン・カッチャー]](『[[キス&キル]]』『[[バレンタインデー (2010年の映画)|バレンタインデー]]』) * 最低女優賞:[[サラ・ジェシカ・パーカー]]、[[キム・キャトラル]]、[[クリスティン・デイヴィス]]、[[シンシア・ニクソン]](『[[セックス・アンド・ザ・シティ2]]』) * 最低助演男優賞:[[ジャクソン・ラスボーン]](『エアベンダー』『[[エクリプス/トワイライト・サーガ]]』) * 最低助演女優賞:[[ジェシカ・アルバ]](『[[キラー・インサイド・ミー]]』『[[ミート・ザ・ペアレンツ3]]』『[[マチェーテ (映画)|マチェーテ]]』『バレンタインデー』) * 最低スクリーンカップル・アンサンブル賞:『セックス・アンド・ザ・シティ2』の全キャスト * 最低監督賞:[[M・ナイト・シャマラン]](『エアベンダー』) * 最低脚本賞:『エアベンダー』(脚本:M・ナイト・シャマラン、キャラクター創造:[[マイケル・ダンテ・ディマーティノ]]&[[ブライアン・コニーツコ]]『[[アバター 伝説の少年アン]]』) * 最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞:『セックス・アンド・ザ・シティ2』 * 最も3Dの使い方が間違っていて目に悪い映画賞:『エアベンダー』 === 2011年(第32回) === {{Main|第32回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ジャックとジル]]』 * 最低監督賞:[[デニス・デューガン]](『ジャックとジル』『[[ウソツキは結婚のはじまり]]』) * 最低主演男優賞:[[アダム・サンドラー]](『ジャックとジル』『ウソツキは結婚のはじまり』) * 最低主演女優賞:アダム・サンドラー(『ジャックとジル』の女性ジル役として) * 最低助演男優賞:[[アル・パチーノ]](『ジャックとジル』) * 最低助演女優賞:[[デヴィッド・スペード]](『ジャックとジル』の女性モニカ役として) * 最低スクリーンカップル賞:アダム・サンドラー&[[ケイティ・ホームズ]]またはアル・パチーノまたはアダム・サンドラー(『ジャックとジル』) * 最低スクリーンアンサンブル賞:『ジャックとジル』の全キャスト * 最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞:『ジャックとジル』(『[[グレンとグレンダ]]』の盗作) * 最低脚本賞:[[スティーヴ・コレン]]、アダム・サンドラー(『ジャックとジル』) === 2012年(第33回) === {{Main|第33回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2]]』 * 最低主演男優賞:[[アダム・サンドラー]](『[[俺のムスコ]]』) * 最低主演女優賞:[[クリステン・スチュワート]](『[[スノーホワイト (2012年の映画)|スノーホワイト]]』『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』) * 最低助演男優賞:[[テイラー・ロートナー]](『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』) * 最低助演女優賞:[[リアーナ]](『[[バトルシップ (映画)|バトルシップ]]』) * 最低スクリーンカップル賞:[[マッケンジー・フォイ]]&[[テイラー・ロートナー]](『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』) * 最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞:『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』 * 最低監督賞:[[ビル・コンドン]](『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』) * 最低脚本賞:[[デヴィッド・キャスパー]](『俺のムスコ』) * 最低スクリーンアンサンブル賞:『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』のキャスト === 2013年(第34回) === {{Main|第34回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ムービー43]]』 * 最低主演男優賞:[[ジェイデン・スミス]](『[[アフター・アース]]』) * 最低主演女優賞:[[タイラー・ペリー]](『''[[:en:A Madea Christmas (film)|A Madea Christmas]]''』) * 最低助演男優賞:[[ウィル・スミス]](『アフター・アース』) * 最低助演女優賞:[[キム・カーダシアン]](『''[[:en:Temptation: Confessions of a Marriage Counselor|Temptation: Confessions of a Marriage Counselor]]''』) * 最低スクリーンコンボ賞:ジェイデン・スミス&ウィル・スミス(『アフター・アース』) * 最低リメイク・盗作・続編賞:『[[ローン・レンジャー (2013年の映画)|ローン・レンジャー]]』 * 最低監督賞:『ムービー43』を監督した13人 * 最低脚本賞:『ムービー43』の脚本を書いた21人 === 2014年(第35回) === {{Main|第35回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『''[[:en:Saving Christmas|Saving Christmas]]''』 * 最低主演男優賞:[[カーク・キャメロン]](『''Saving Christmas''』) * 最低主演女優賞:[[キャメロン・ディアス]](『[[SEXテープ]]』『[[ダメ男に復讐する方法]]』) * 最低助演男優賞:[[ケルシー・グラマー]](『[[エクスペンダブルズ3 ワールドミッション]]』『[[オズ めざせ!エメラルドの国へ]]』『[[ベガス流 ヴァージンロードへの道]]』『[[トランスフォーマー/ロストエイジ]]』) * 最低助演女優賞:[[ミーガン・フォックス]](『[[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (映画)|ミュータント・タートルズ]]』) * 最低監督賞:[[マイケル・ベイ]](『[[トランスフォーマー/ロストエイジ]]』) * 最低スクリーンコンボ賞:カーク・キャメロン&彼のエゴ (『''Saving Christmas''』) * 最低脚本賞:『''Saving Christmas''』 * 最低リメイク・パクリ・続編賞:『[[ANNIE/アニー]]』 * 名誉挽回賞:[[ベン・アフレック]](『[[ゴーン・ガール]]』) === 2015年(第36回) === {{Main|第36回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ (映画)|フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ]]』『[[ファンタスティック・フォー (2015年の映画)|ファンタスティック・フォー]]』<ref name=natary160228>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/177931|title=アカデミー賞前夜に最低映画決定、「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」が5冠|publisher=映画ナタリー|date=2016-02-28|accessdate=2016-02-29}}</ref> * 最低主演男優賞:[[ジェイミー・ドーナン]](『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』)<ref name=natary160228/> * 最低主演女優賞:[[ダコタ・ジョンソン]](『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』)<ref name=natary160228/> * 最低助演男優賞:[[エディ・レッドメイン]](『[[ジュピター (映画)|ジュピター]]』)<ref name=natary160228/> * 最低助演女優賞:[[ケイリー・クオコ]](『[[アルビン4 それいけ!シマリス大作戦]]』『[[ベストマン -シャイな花婿と壮大なる悪夢の2週間-]]』)<ref name=natary160228/> * 最低映画監督賞:[[ジョシュ・トランク]](『ファンタスティック・フォー』)<ref name=natary160228/> * 最低リメイク・パクリ・続編映画賞:『ファンタスティック・フォー』<ref name=natary160228/> * 最低スクリーンコンボ賞:[[ジェイミー・ドーナン]]&ダコタ・ジョンソン(『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』)<ref name=natary160228/> * 最低脚本賞:『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』<ref name=natary160228/> * 名誉挽回賞:[[シルヴェスター・スタローン]](『[[クリード チャンプを継ぐ男]]』)<ref name=natary160228/> * バリー・L・バムステッド賞:『''[[:en:United Passions|United Passions]]''』<ref>{{Cite news|url=http://www.hollywoodreporter.com/news/razzie-awards-mock-fifty-shades-870615|title=Razzie Awards Mock 'Fifty Shades of Grey,' Redeem Sylvester Stallone|newspaper=The Hollywood Reporter|accessdate=2018-11-20|language=en}}</ref> === 2016年(第37回) === {{Main|第37回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ヒラリーのアメリカ、民主党の秘密の歴史]]』<ref name=natary170226>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/222351|title=最低映画ラジー賞で「バットマンvsスーパーマン」4冠、名誉挽回賞はメル・ギブソン|publisher=映画ナタリー|date=2017-02-26|accessdate=2017-02-26}}</ref> * 最低主演男優賞:[[ディネシュ・ドゥスーザ]](『ヒラリーのアメリカ、民主党の秘密の歴史』)<ref name=natary170226/> * 最低主演女優賞:[[ベッキー・ターナー]](『ヒラリーのアメリカ、民主党の秘密の歴史』)<ref name=natary170226/> * 最低助演男優賞:[[ジェシー・アイゼンバーグ]](『[[バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生]]』)<ref name=natary170226/> * 最低助演女優賞:[[クリステン・ウィグ]](『[[ズーランダー NO.2]]』)<ref name=natary170226/> * 最低映画監督賞:ディネシュ・ドゥスーザ&[[ブルース・スクーリー]](『ヒラリーのアメリカ、民主党の秘密の歴史』)<ref name=natary170226/> * 最低リメイク・パクリ・続編映画賞:『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』<ref name=natary170226/> * 最低スクリーンコンボ賞:[[ベン・アフレック]]とその永遠に最悪な敵[[ヘンリー・カヴィル]](『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』)<ref name=natary170226/> * 最低脚本賞:『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』<ref name=natary170226/> * 名誉挽回賞:[[メル・ギブソン]](『[[ハクソー・リッジ]]』)<ref name=natary170226/> * バリー・L・バムステッド賞:『[[ブラック・ファイル 野心の代償]]』<ref>{{cite web|last1=Heller|first1=Corrine|title=Razzies 2017 Winners Announced: Batman v Superman "Loses" Worst Picture But Still "Wins" Big|url=http://www.eonline.com/news/831927/razzies-2017-winners-announced-batman-v-superman-loses-worst-picture-but-still-wins-big|website=E Online|publisher=E!|accessdate=20 November 2017}}</ref> === 2017年(第38回) === {{Main|第38回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[絵文字の国のジーン]]』 * 最低主演男優賞:[[トム・クルーズ]](『[[ザ・マミー/呪われた砂漠の王女]]』) * 最低主演女優賞:[[タイラー・ペリー]](『''[[:en:Boo 2! A Madea Halloween|Tyler Perry's Boo 2! A Madea Halloween]]''』) * 最低助演男優賞:[[メル・ギブソン]](『[[パパVS新しいパパ2]]』) * 最低助演女優賞:[[キム・ベイシンガー]](『[[フィフティ・シェイズ・ダーカー]]』) * 最低映画監督賞:[[トニー・レオンディス]](『絵文字の国のジーン』) * 最低リメイク・パクリ・続編映画賞:『フィフティ・シェイズ・ダーカー』 * 最低スクリーンコンボ賞:不快な絵文字のあらゆる組み合わせ(『絵文字の国のジーン』)<ref name="guardian180303">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/film/2018/mar/03/the-emoji-movie-worst-picture-2018-razzies-awards|title=The Emoji Movie named worst picture at the 2018 Razzies|publisher=The Guardian|date=2018-03-03|accessdate=2019-02-24}}</ref> * 最低脚本賞:『絵文字の国のジーン』 * [[Rotten Tomatoes]]特別賞<ref name="guardian180303" />「ひどすぎて逆に大好きになったで賞」:『[[ベイウォッチ (映画)|ベイウォッチ]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35115794.html|title=ドウェイン・ジョンソン、ラジー賞を「快く受け取る」|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN.co.jp]]|date=2018-03-08|accessdate=2018-11-20}}</ref> * 名誉挽回賞:安全なハリウッドの聖域(才能が保護・育成され、適切な報酬による活躍が可能な場所)<ref>{{cite web|url=http://www.newnownext.com/razzies-kevin-spacey-in-memoriam/03/2018/|title=Razzie Awards Include Kevin Spacey In “In Memoriam” Segment|publisher=NewNowNext|date=2018-03-04|accessdate=2019-02-24}}</ref> * バリー・L・バムステッド賞:『[[チップス 白バイ野郎ジョン&パンチ再起動!?]]』 === 2018年(第39回) === {{Main|第39回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[俺たちホームズ&ワトソン]]』<ref name="guardian190223">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/film/2019/feb/23/trump-picks-up-two-razzies-as-holmes-watson-dominates-worst-of-hollywood|title=Trump picks up two Razzies as Holmes & Watson dominates worst of Hollywood|publisher=The Guardian|date=2019-02-23|accessdate=2019-02-24}}</ref> * 最低主演男優賞:[[ドナルド・トランプ]](『''[[:en:Death of a Nation (2018 film)|Death of a Nation]]''』『[[華氏119]]』)<ref name="guardian190223" /> * 最低主演女優賞:[[メリッサ・マッカーシー]](『[[パペット大騒査線 追憶の紫影]]』『[[ライフ・オブ・ザ・パーティー]]』)<ref name="guardian190223" /> * 最低助演男優賞:[[ジョン・C・ライリー]](『俺たちホームズ&ワトソン』)<ref name="guardian190223" /> * 最低助演女優賞:[[ケリーアン・コンウェイ]](『華氏119』)<ref name="guardian190223" /> * 最低映画監督賞:[[イータン・コーエン]](『俺たちホームズ&ワトソン』)<ref name="guardian190223" /> * 最低リメイク・パクリ・続編映画賞:『俺たちホームズ&ワトソン』<ref name="guardian190223" /> * 最低スクリーンコンボ賞:ドナルド・トランプと彼の尽きない卑小さ(『''Death of a Nation''』『華氏119』)<ref name="guardian190223" /> * 最低脚本賞:『[[フィフティ・シェイズ・フリード (映画)|フィフティ・シェイズ・フリード]]』<ref name="guardian190223" /> * 名誉挽回賞:メリッサ・マッカーシー(『[[ある女流作家の罪と罰]]』)<ref name="guardian190223" /> * バリー・L・バムステッド賞:『[[ビリオネア・ボーイズ・クラブ (映画)|ビリオネア・ボーイズ・クラブ]]』<ref name="guardian190223" /> === 2019年(第40回) === {{Main|第40回ゴールデンラズベリー賞}} 2020年3月14日に予定されていた授賞式は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症流行]]の影響で中止となり、最低賞は3月16日に財団のYouTubeチャンネルで発表された<ref>{{Cite web |author=Kimberly Nordyke , Annie Howard |date=2020-03-16 |url=https://www.billboard.com/articles/news/awards/9336093/cats-razzie-awards-winners-list |title='Cats' Leads Razzie Awards 'Winners' After Coronavirus Cancels Ceremony |website= |publisher=The Hollywood Reporter |accessdate=2020-05-17}} {{YouTube|gt2N5QsbHqY|40th Razzie Awards: The Lock-Down Edition}}</ref>。 * 最低作品賞:『[[キャッツ (映画)|キャッツ]]』 * 最低映画監督賞:[[トム・フーパー]](『キャッツ』) * 最低主演男優賞:[[ジョン・トラボルタ]](『ザ・ファナティック ''[[:en:The Fanatic (2019 film)]]''』『ワイルド・レース ''[[:en:Trading Paint]]''』) * 最低主演女優賞:[[ヒラリー・ダフ]](『[[ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊]]』) * 最低助演男優賞:[[ジェームズ・コーデン]](『キャッツ』) * 最低助演女優賞:[[レベル・ウィルソン]](『キャッツ』) * 最低リメイク・パクリ・続編映画賞:『[[ランボー ラスト・ブラッド]]』 * 最低スクリーンコンボ賞:全ての半猫/半人の毛玉コンビ(『キャッツ』) * 最低脚本賞:『キャッツ』 * 名誉挽回賞:[[エディ・マーフィ]](『[[ルディ・レイ・ムーア (映画)|ルディ・レイ・ムーア]]』) * 人命・公共財軽視の無謀さに対する最低賞:『ランボー ラスト・ブラッド』 === 2020年(第41回) === {{Main|第41回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[:en:Absolute_Proof|Absolute Proof]]』<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.gmanetwork.com/entertainment/celebritylife/news/76391/list-the-winners-of-the-2021-razzie-awards/story |title=LIST: The winners of the 2021 Razzie Awards |access-date=2023-1-30}}</ref> * 最低映画監督賞:[[シーア]](『[[ライフ・ウィズ・ミュージック]]』)<ref name=":0" /> * 最低主演男優賞:[[マイク・リンデル]](『Absolute Proof』)<ref name=":0" /> * 最低主演女優賞:ケイト・ハドソン(『ライフ・ウィズ・ミュージック』)<ref name=":0" /> * 最低助演男優賞:[[ルドルフ・ジュリアーニ]](『[[続・ボラット 栄光ナル国家だったカザフスタンのためのアメリカ貢ぎ物計画]]』)<ref name=":0" /> * 最低助演女優賞:[[マディー・ジーグラー]](『ライフ・ウィズ・ミュージック』)<ref name=":0" /> * 最低リメイク・パクリ・続編映画賞:『[[ドクター・ドリトル (2020年の映画)|ドクター・ドリトル]]』<ref name=":0" /> * 最低スクリーンコンボ賞:ルドルフ・ジュリアーニと彼のズボンのチャック<ref name=":0" /> * 最低脚本賞:『[[愛は、365の日々で]]』<ref name=":0" /> * 史上最悪のカレンダー・イヤーにガバナーズ特別賞:[[2020年]]<ref>{{Cite web |url=https://movieweb.com/2021-razzie-awards-winners/ |title=2021 Razzie Awards Winners Include Sia's Music, the My Pillow Guy and Rudy Giulia |access-date=2023-1-30}}</ref> === 2021年(第42回) === {{Main|第42回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低映画賞:『ダイアナ:ザ・ミュージカル』 * 最低主演男優賞:[[レブロン・ジェームズ]](『[[スペース・プレイヤーズ]]』) * 最低主演女優賞:ジーナ・デ・ヴァール(『ダイアナ:ザ・ミュージカル』) * 最低助演男優賞:[[ジャレッド・レト]](『[[ハウス・オブ・グッチ]]』) * 最低助演女優賞:ジュディ・ケイ(『ダイアナ ザ・ミュージカル』) * ブルース・ウィリスの最低演技賞2021(特別賞):[[ブルース・ウィリス]](『[[コズミック・シン]]』) * 最低スクリーンカップル賞:レブロン・ジェームズ&彼がドリブルしたワーナーのカートゥーンキャラクター(もしくはタイム・ワーナーの製品)(『スペース・プレイヤーズ』) * 最低監督賞:クリストファー・アシュレイ(『ダイアナ:ザ・ミュージカル』) * 最低脚本賞:ジョー・ディピエトロ(『ダイアナ:ザ・ミュージカル』) * 最低リメイク・パクリ・続編賞:『スペース・プレイヤーズ』 === 2022年(第43回) === {{Main|第43回ゴールデンラズベリー賞}} * 最低作品賞:『[[ブロンド (映画)|ブロンド]]』 * 最低主演男優賞:[[ジャレッド・レトー]](『[[モービウス]]』) * 最低主演女優賞:[[#子役のノミネートに対する批判|第43回ラジー賞におけるノミネーションの失敗]] * 最低助演男優賞:[[トム・ハンクス]](『[[エルヴィス (映画)|エルヴィス]]』) * 最低助演女優賞:アドリア・アルホ(『モービウス』) * 最低スクリーン・コンボ賞:トム・ハンクス&ラテックスたっぷりの顔(&滑稽なアクセント)(『エルヴィス』) * 最低序章&リメイク&盗作&続編賞:『[[ピノキオ (2022年の実写映画)|ピノキオ]]』(デル・トロ監督作ではない方の) * 最低監督賞:[[コルソン・ベイカー]](マシン・ガン・ケリー)&モッド・サン(『グッド・モウニング/人生最悪のハイな1日』) * 最低脚本賞:『ブロンド』 * 救済賞:[[コリン・ファレル]]:2004年度ラジー賞最低主演男優賞ノミネートから2022年度アカデミー賞主演男優賞の有力候補 == 子役のノミネートに対する批判 == 2023年度のラズベリー賞の「最低女優賞」候補として、映画『炎の少女チャーリー』で当時12歳で主演した子役ライアン・キーラ・アームストロングが選ばれたことが1月に発表された。これに対し、「まだ幼い子役をネガティヴな意味合いの賞の候補にする」という点で物議をかもし各方面から批判の声が相次いだ。『ワンダヴィジョン』などに出演する子役のジュリアン・ヒリアードも「そもそもラジー賞は意地悪な賞だけど、子どもをノミネートするのは間違っている。なぜ、子どもをいじめのリスクにさらすのか」とTwitterで苦言と疑問を呈し、映画監督の[[ジョー・ルッソ]]も「人々のがんばりを侮辱し続けるのであれば(するべきではないが)、ターゲットは大人であるべきだ」と怒りの声を上げた<ref name="huffpost-2023-06-19">{{Cite web|和書|title=12歳の子役が「最低女優賞」ノミネート⇒批判殺到で撤回。過去にはいじめに苦しんだ子役も |url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_63d20355e4b01e928868959f |website= HUFFPOST|accessdate=2023-06-19 |date=2023-06-19}}</ref>。 これに応じ、ラジー賞共同創設者のジョン・ウィルソンは同月の25日に声明を発表し「自分たちがどれほど無神経だったかに気付くきっかけとなった」と述べて陳謝した。同時にアームストロングを候補から外すと共に18歳未満の俳優やフィルムメーカーは候補の対象外とすると発表しつつ「我々は誰かのキャリアをつぶすつもりはない」と釈明した<ref name="huffpost-2023-06-19"/>。 なお、子役のノミネートはこれが初めての事ではなく、これ以前にも[[マコーレー・カルキン]]が1994年に『[[リッチー・リッチ]]』等の出演に際して「最低男優賞」候補としてノミネートされている。また、1999年公開の『スター・ウォーズ エピソードI/ファントム・メナス』において、当時8歳でアナキン・スカイウォーカーを演じた[[ジェイク・ロイド]]は、同作への出演で「最低助演男優賞」を受賞したことが原因で学校で陰湿ないじめに遭い引退に追い込まれた顛末を明かしている<ref name="huffpost-2023-06-19"/>。 ==類似する賞== * {{仮リンク|スティンカーズ最悪映画賞|en|Stinkers Bad Movie Awards}} *: 本賞よりも先の[[1978年]]に創設されたが、2006年度を最後に発表を終えている。 *[[文春きいちご賞]](2004年 - 2007年) *: 『[[週刊文春]]』主催の本賞の日本版。 *[[蛇いちご賞]](2004年 - 2011年) *: 『[[スポーツ報知]]』主催の本賞の日本版。 *[[HIHOはくさい映画賞]]( 2007年 - 20019年) *: 『[[映画秘宝]]』主催の本賞の日本版。 *[[Tokyo SuperStar Awards|TSSAラズベリー賞]](2010年 - 2014年) *: [[LGBT]]のイベント[[Tokyo SuperStar Awards]](TSSA)が主宰する賞の一つ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Golden Raspberry Awards}} *[[イグ・ノーベル賞]] *[[映画の賞]] *[[Rotten Tomatoesの支持率0%の映画一覧|Rotten Tomatoesの支持率0%の映画一覧]] == 外部リンク == *[https://www.razzies.com/index.html ラジー賞公式サイト]{{En icon}} {{ゴールデンラズベリー賞}} {{Culture Award of US}} {{DEFAULTSORT:こるてんらすへりしよう}} [[Category:ゴールデンラズベリー賞|*]] [[Category:ユーモアの賞]] [[Category:ジョーク]]
2003-03-25T19:43:10Z
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自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧
自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧(じさつ・じけつ・じがいしたにっぽんのちょめいじんぶついちらん)とは、自殺した又は自殺したとされる日本の著名な人物の一覧。 本節の一覧には明治から現在までの人物を収載する。江戸時代以前の人物については「#近代以前」を参照。 その自殺について強い疑義のある者に関しては「#その自殺に強い疑義のある者」を参照。 著名活動を行っていない人物(特筆性のない人物)については掲載しない。重大事件の犯人が自殺した場合や、自殺事件そのものに特筆性がある場合でも、その自殺者が著名活動を行っていなかった場合は掲載しない。(Wikipedia:独立記事作成の目安#ニュース報道等、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは新聞ではありませんも参照) ここでは近代以前の人物、具体的には幕末の動乱期より以前の人物について一覧する。なお、近世における処刑の一様式としての切腹・賜死といった例については収載していない。 ここでは、自殺とされているが強い疑義のある者、またその疑義が広く知られている者について一覧する。
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自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧(じさつ・じけつ・じがいしたにっぽんのちょめいじんぶついちらん)とは、自殺した又は自殺したとされる日本の著名な人物の一覧。
{{保護依頼}} '''自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧'''(じさつ・じけつ・じがいしたにっぽんのちょめいじんぶついちらん)とは、[[自殺]]した又は自殺したとされる[[日本]]の著名な人物の一覧。 {{Main2|海外の一覧|自殺した有名人の一覧}} == 自殺した著名人一覧 == <!-- ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 本記事のテーブルはいずれも書式がやや複雑です。初めて加筆される方は、 [[ノート:自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧/ソートキー]]を御一読ください。 説明文とテンプレートに沿って欄を埋めてゆけば、ありがちなミスは回避できます。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ --> 本節の一覧には明治から現在までの人物を収載する。江戸時代以前の人物については「[[#近代以前]]」を参照。 その自殺について'''強い疑義'''のある者に関しては「[[#その自殺に強い疑義のある者]]」を参照。 著名活動を行っていない人物(特筆性のない人物)については掲載しない。重大事件の犯人が自殺した場合や、自殺事件そのものに特筆性がある場合でも、その自殺者が著名活動を行っていなかった場合は掲載しない。([[Wikipedia:独立記事作成の目安#ニュース報道等]]、[[Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは新聞ではありません]]も参照) ; 凡例 * デフォルトでは'''没年月日'''の降順に配列。 * '''没年齢'''は[[満年齢]]を表記。ただし、正確な生年月日が不明な一部の人物については便宜的に[[数え年]]を記載([[アスタリスク]]付きの年齢は数え年)。 * '''没年月日'''の欄のアスタリスク付き(**)の日付は{{Visible anchor|遺体発見日}}である。 * 軍人は死後の昇進・特進後の最終階級ではなく、死亡時の階級を記載。 * 警察など信頼できる場所から手段が明かされていない場合、手段は記載しない。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:85%; margin:10px 0px;" |- ! 氏名 !! {{Nowrap|職業/肩書き/地位}} !! 手段 !! style="padding-right:17px" | {{Nowrap|没年齢}} !! 没年月日 !! class="unsortable" | 備考/補足/関連 |- |- |{{Display none|ありあ きい/}}[[有愛きい]] |{{Display none|01}}[[宝塚歌劇団]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]娘役 |[[飛び降り]] |25歳 |[[2023年]]{{Display none|09/30-}}[[9月30日]] |兵庫県宝塚市の自宅マンション敷地内で倒れているのを発見される<ref name="有愛">[https://bunshun.jp/articles/-/66169 「精神的に崩壊している」“タカラジェンヌ飛び降り事件”有愛きい(25)が死の前日、母に送った“悲痛メッセージ”「9月28日夜にはマンションから…」【宙組では複数の出演者の体調不良が判明】] 文春オンライン。</ref>。現場の状況から自殺とみられる<ref name="有愛"/>。 |- |{{Display none|りゅうちぇる/}}[[ryuchell]] |{{Display none|16}}[[タレント]] |[[縊死|首吊り]] |27歳 |[[2023年]]{{Display none|07/12-}}[[7月12日]] |東京都渋谷区の自身が代表を務める個人事務所(比嘉企画、元妻の[[peco (モデル)|peco]]とともにタレントとしても所属)内で首を吊って死亡していた。現場の状況から警視庁は自殺とみている<ref>[https://nordot.app/1051811426343780954 ryuchellさん死亡 東京都内で、タレント]共同通信2023/7/12</ref><ref>{{Cite web|和書|title=親友が明かすryuchellの「泣いて暴れたエイサー騒動」 |url=https://bunshun.jp/denshiban/articles/b6459 |website=週刊文春 電子版 |date=2023-07-19 |access-date=2023-08-01 |last=「週刊文春」編集部}}</ref>。 |- |{{Display none|くさだ そうた/}}[[草田草太]] |{{Display none|37}}[[イラストレーター]] | |29歳 |[[2022年]]{{Display none|10/05-}}[[10月5日]] |ゲーム『[[艦隊これくしょん]]』の一部艦隊のキャラクターデザインなどを担当。夫の報告により、衝動的なものだったとされる<ref>{{Cite tweet|user=Ashitaba_s|author=草田草太|number=1579429080231202816|title=ファンの皆様へ 草田草太の夫です。突然ではございますが本人に代わりましてお伝えさせていただきたいことがございます。|date=2022-10-10|accessdate=2022-10-10}}</ref>。 |- |{{Display none|うえしま りゅうへい/}}[[上島竜兵]] |{{Display none|16}}[[お笑いタレント]]、[[俳優]] |[[首吊り]] |61歳 |[[2022年]]{{Display none|05/11-}}[[5月11日]] |お笑いトリオ[[ダチョウ倶楽部]]メンバー。東京都中野区の自宅で妻の[[広川ひかる]]が発見。救急搬送されたが、午前1時頃に死亡が確認された<ref>[https://www.sankei.com/article/20220511-RI64GUMF4NLQ7B7WV2EBELOH5I/ 上島竜兵さん死去 自宅で家族が異常に気づき…]産経新聞2022/5/11</ref><ref>[https://www.sanspo.com/article/20220512-FX5PWDD6NRJQTCPGVCMXVPNTFE/ 上島竜兵さん急死、11日未明に自宅でぐったりしている姿を妻・広川ひかるが発見 ビートたけしが追悼「悔しい」]サンケイスポーツ2022/05/12</ref>。 |- |{{Display none|わたなべ ひろゆき/}}[[渡辺裕之]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[首吊り]] |66歳 |[[2022年]]{{Display none|05/03-}}[[5月3日]] |自宅内で死亡していたところを家族によって発見された。コロナ禍による自律神経失調症が原因とされる。 |- |{{Display none|さかもと てつお/}}[[坂本鉄男]] |{{Display none|74}}[[文学者]](伊文学者) |[[心中]]/自刃/[[切腹]] |92歳 |[[2022年]]{{Display none|04/28-}}[[4月28日]] |[[イタリア]]・[[ローマ]]の自宅浴槽にて倒れている状態で発見された。また、ベッドでは90歳の妻も死亡しており、妻を鈍器で殺害した後に自殺したと見られている<ref>[https://www.lasicilia.it/italia/news/ex-prof-giapponese-uccide-la-moglie-e-poi-fa-harakiri-omicidio-suicidio-rituale-a-roma-1596814/ Ex prof giapponese uccide la moglie e poi fa harakiri: omicidio suicidio rituale a Roma]La Sicilia 2022/04/29</ref>。 |- |{{Display none|かんだ さやか/}}[[神田沙也加]] |{{Display none|01}}[[俳優#性別での分類|女優]] |[[飛び降り]] |35歳 |[[2021年]]{{Display none|12/18-}}[[12月18日]] |ミュージカル公演のため滞在中の札幌市内ホテル14階屋上で倒れている神田を捜索中の北海道警札幌中央署が発見<ref>[https://mainichi.jp/articles/20211220/k00/00m/040/212000c 神田沙也加さん、死因は外傷性ショック 北海道警が発表]毎日新聞2021/12/20</ref>。「他人の関与はなく自殺」と見られている<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20211221-OYT1T50060/ 神田沙也加さんの死因を警察が発表、ホテルの安全管理に問題なし…自室窓から転落か]読売新聞2021/12/21</ref>。 |- |{{Display none|やすぎ まさよし/}}[[八杉将司]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |49歳 |[[2021年]]{{Display none|12/12-}}[[12月12日]] |自宅の物置で首を吊っているところを近隣住民が発見。 |- |{{Display none|しばた だいすけ/}}[[柴田大輔]] |{{Display none|99}}元[[暴走族]] |自刃 |42歳 |[[2021年]]{{Display none|11/28-}}[[11月28日]] |暴走族グループ[[関東連合]]のOB。'''工藤明男'''の名で執筆活動も行っていた。連絡がとれないことを心配した会社関係者が自宅で発見したことで発覚した。当時、精神安定剤を服用しており、衝動的に自らの身体を刃物で切りつけたとされている<ref>[https://friday.kodansha.co.jp/article/217573 ”半グレ集団”『関東連合』元リーダーが亡くなっていた] - FRIDAYデジタル 2021年11月30日</ref>。 |- |{{Display none|おがわ ともお/}}[[小川知男]] |{{Display none|70}}[[地方公務員]]、[[造形作家]] |[[縊死|首吊り]] |47歳 |[[2021年]]{{Display none|09/29-}}[[9月29日]] |[[兵庫県]][[福崎町]]役場地域振興課職員。同町のゆるキャラである河童のガジロウの生みの親で、妖怪を使った町おこしをした中心人物だった。姫路市の芝生広場で首を吊った状態でいたのを通行人が発見<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202109/0014719735.shtml 「妖怪のまち」仕掛け人 福崎町職員の小川知男さん死去、自殺か] - 神戸新聞NEXT 2021年9月29日</ref>。同町役場職員の自殺は相次ぎ、健康福祉課の33歳女性職員の首吊り死体も10月2日に見つかっている<ref>[https://www.nikkansports.com/general/news/202110020000737.html いずれも自殺か?兵庫・福崎町職員が相次ぎ首つり死亡「心のケアに努める」] - 日刊スポーツ 2021年10月2日</ref>。 |- |{{Display none|たきもと けんじ/}}[[瀧本憲治]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |自刃/手首 |49歳 |[[2021年]]{{Display none|06/08-}}[[6月8日]] |前[[maneo]]社長。[[日比谷公園]]のトイレで自殺しているところを清掃員が発見<ref>[https://gendai.media/articles/-/84218?imp=0 「金融界の革命児」の死…ソーシャルレンディング大手・元社長に“何が”あったのか]現代ビジネス# 金融・投資・マーケット# 不正・事件・犯罪</ref>。「手首を切っており、近くには刃物が落ちていた」と証言されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/239226|title=日比谷公園で「怪死」した凄腕社長が本誌に語っていたこと|publisher=FRIDAYデジタル|date=2022-04-15|accessdate=2022-04-15}}</ref>。 |- |{{Display none|おびや のぶひろ/}}[[帯谷信弘]] |{{Display none|48}}元[[総合格闘家]] |[[心中]]/[[練炭]] |40歳 |[[2021年]]{{Display none|04/22-}}[[4月22日]] |遺体が発見された車の中には妻と息子2人の刺殺体も発見されており、3人を刺殺した後に自殺を図った無理心中とみられる。 |- |{{Display none|くぼでら あきら/}}[[窪寺昭]] |{{Display none|01}}[[俳優]] | |43歳 |[[2020年]]{{Display none|11/13-}}[[11月13日]] |東京都中野区の自宅でぐったりしている状態で見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。自殺とみられている<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201114/k10012711541000.html 俳優の窪寺昭さん死去 43歳] - NHKニュース 2020年11月14日</ref>。 |- |{{Display none|しまだ いさお/}}[[嶋田功]] |{{Display none|49}}元[[騎手]]、元[[調教師]] | |74歳 |[[2020年]]{{Display none|10/19-}}[[10月19日]] |[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]で亡くなっている状態で発見された。自殺とみられている<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201019/k10012670851000.html オークス5勝の元騎手 嶋田功さん 死去] - NHKニュース 2020年10月19日</ref>。 |- |{{Display none|つの まいさ/}}[[津野米咲]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] | |29歳 |[[2020年]]{{Display none|10/18-}}[[10月18日]] | ロックバンド[[赤い公園]]のリーダーで、ギター・コーラス担当。東京・杉並区の住宅でぐったりしている状態で発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。自殺とみられている<ref>{{cite news| url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201019/k10012670361000.html| title=女性ロックバンドグループ「赤い公園」 津野米咲さん 死去 | おくやみ | NHKニュース| publisher=[[NHK]]| date=2020-10-19| accessdate=2020-10-19}}</ref>。 |- |{{Display none|つきの のあ/}}[[月乃のあ]] |{{Display none|04}}元[[アイドル]] | [[飛び降り]] |18歳 |[[2020年]]{{Display none|09/30-}}[[9月30日]] | アイドルグループ[[ヲルタナティヴ]]の元メンバー。14時55分に名古屋市内のホテルから飛び降り、死亡が確認された。家族とファンへの謝罪の言葉と、3人の人物の実名が明記され「全員嫌い」と記された遺書が残っていた<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/43571 「死んでもAさんBさん諸々恨みます」18歳で自殺した元アイドル・月乃のあさんが残していた“遺書”公開《母親が悲痛告白》]文春オンライン2021/02/19 </ref>。 |- |{{Display none|たけうち ゆうこ/}}[[竹内結子]] |{{Display none|01}}[[俳優#性別での分類|女優]] | [[縊死|首吊り]] |40歳 |[[2020年]]{{Display none|09/27-}}[[9月27日]] | 東京都渋谷区の自宅クローゼット内で首を吊っているところを、夫で俳優の[[中林大樹]]が発見<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20200927-OYT1T50103/ 女優の竹内結子さんが死去、40歳…自宅で自殺か]読売新聞2020/09/27 10:37</ref>。 |- |{{Display none|ふじき たかし/}}[[藤木孝]] |{{Display none|01}}[[俳優]] | |80歳 |[[2020年]]{{Display none|09/20-}}[[9月20日]] | 東京都中野区の自宅で死んでいる藤木を帰宅した息子が発見。死因は不明。発見時の様子から自殺と見られている。 |- |{{Display none|あしな せい/}}[[芦名星]] |{{Display none|01}}[[俳優#性別での分類|女優]] | [[縊死|首吊り]] |36歳 |[[2020年]]{{Display none|09/14-}}[[9月14日]] | 東京都新宿区の自宅マンションで死亡している芦名を親族が発見。現場の状況から自殺を図ったと見られている。 |- |{{Display none|みうら はるま/}}[[三浦春馬]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |30歳 |[[2020年]]{{Display none|07/18-}}[[7月18日]] |予定の仕事現場に現れず、自宅マンションを訪ねたマネージャーが東京都港区の自宅マンションのクローゼット内で首を吊っているところを7月18日に発見。搬送先の病院で死亡を確認。 |- |{{Display none|たかの ひな/}}[[鷹野日南]] |{{Display none|01}}[[アイドル]] |[[飛び降り]] |20歳 |[[2020年]]{{Display none|07/10-}}[[7月10日]] | 女性アイドルグループ「[[KissBee]]」の結成時からのメンバーであり初代リーダー。同月13日に公式Twitterで訃報が公表されたが死因は公表されていなかった。その後、[[週刊新潮]]の同月30日号にて飛び降り自殺と報道されている<ref>{{Cite news|title=女性アイドル自殺 「ZOZO前澤」が気を病む理由|newspaper=デイリー新潮|date=2020-7-30|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2020/07291055/?all=1|accessdate=2020-9-27}}</ref>。 |- |{{Display none|きむら はな/}}[[木村花]] |{{Display none|41}}[[女子プロレス|女子プロレスラー]] |[[硫化水素]] |22歳 |[[2020年]]{{Display none|05/23-}}[[5月23日]] |[[スターダム]]所属の女子プロレスラー。遺書を残し自宅マンションの寝室で自殺<ref>{{Cite news | url = https://www.yomiuri.co.jp/national/20200525-OYT1T50075/ | title = 「テラハ」出演の木村花さん、自殺か…自宅から遺書「産んでくれてありがとう」 | newspaper = 読売新聞 | publisher = 読売新聞 | date = 2020-5-25 | accessdate = 2020-5-25 }}</ref>。[[リアリティ番組]]『[[テラスハウス (テレビ番組)|テラスハウス]]』出演時の不穏当な言動がきっかけで[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]上で誹謗中傷を受けていた。 |- |{{Display none|かすがにしき たかひろ/}}[[春日錦孝嘉]] |{{Display none|48}}元[[力士]] | |44歳 |[[2020年]]{{Display none|04/24-}}[[4月24日]] |2021年8月20日に公開された[[貴闘力忠茂]]の動画内で1年ほど前に亡くなっていたことが明かされた。警察の発表では自殺とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=jtW0iQPNeW8|title=【スクープ】八百長の黒幕にされた?春日錦 悲痛な想いを貴闘力が受け止める!|accessdate=2021-08-21}}</ref>。 |- |{{Display none|みやけ ゆきこ/}}[[三宅雪子]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}元[[国会議員|衆院議員]] |[[入水]] |54歳 |[[2020年]]{{Display none|01/02-}}[[1月2日]][[#遺体発見日|**]] |2009年の[[第45回衆議院議員総選挙]]で大量当選した'''[[小沢チルドレン|小沢ガールズ]]'''の1人。2012年の落選後も[[小沢一郎]]と行動を共にしていたが、所属していた[[自由党 (日本 2016-2019)|生活の党]]支持者(を名乗る人物)との間でトラブルを抱えていた。2020年1月、東京都内の海岸で遺体が発見される<ref>{{Cite news | url = https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200106-OYT1T50123/ | title = 三宅雪子元議員、入水自殺か…都内の海岸で遺体発見 | newspaper = 読売新聞 | publisher = 読売新聞 | date = 2019-1-6 | accessdate = 2019-1-6 }}</ref>。 |- |{{Display none|おおもと ほのか/}}[[愛の葉Girls|大本萌景]] |{{Display none|01}}[[アイドル]] |[[首吊り]] |16歳 |[[2018年]]{{Display none|03/21-}}[[3月21日]] |[[愛媛県]][[松山市]]を拠点に活動していた[[ローカルアイドル]]グループ「[[愛の葉Girls]]」のメンバー。遺族によると、自身の進路・学業との両立を巡って所属事務所との間でトラブルがあったとされている<ref>{{Cite news | url = https://dot.asahi.com/articles/-/100203 | title = 愛の葉Girls訴訟でわかった地下アイドル「残酷物語」 パワハラ、長時間労働、ノルマで自腹も | newspaper = AERA dot. | publisher = 朝日新聞出版 | date = 2018-10-14 | accessdate = 2019-8-17 }}</ref>。 |- |{{Display none|あかぎ としお/}}[[赤木俊夫]] |{{Display none|70/}}[[近畿財務局]]職員 |[[首吊り]] |54歳 |[[2018年]]{{Display none|03/07-}}[[3月7日]] |[[森友学園問題]]を巡って、公文書改ざんを命じられた末に首を吊った状態で発見された<ref>{{Cite news |title=森友学園公文書改ざん 妻が語る「夫はこのコードで首を吊った」 |newspaper=FRIDAY |date=2020-08-27 |author= |url=https://friday.kodansha.co.jp/article/128913 |accessdate=2022-07-16}}</ref>。 |- |{{Display none|いしはら しんじ/}}[[石原伸司]] |{{Display none|99ヤクザ/}}元[[ヤクザ]]、元[[作家]] |[[入水]] |79歳 |[[2018年]]{{Display none|03/06-}}[[3月6日]] |自称・元[[暴力団]]組長で、'''夜回り組長'''と称して若者の[[非行]]防止や更生を支援する活動を行っていた。しかし、2017年10月26日に[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]事件を、翌2018年3月6日には[[傷害罪|傷害]]事件を相次いで起こし、[[隅田川]]において入水自殺を遂げた<ref>{{Cite news |title=男性殺害後、自殺か 容疑で「夜回り組長」を書類送検 東京・駒込 |newspaper=産経ニュース |date=2018-04-05 |author= |url=https://www.sankei.com/affairs/news/180405/afr1804050014-n1.html |accessdate=2019-08-17}}</ref>。 |- |{{Display none|あしざわ かずあき/}}[[芦沢一明]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職区議 |[[飛び降り]] |52歳 |[[2018年]]{{Display none|03/03-}}[[3月3日]] |現職の東京都[[渋谷区議会]]議員。元同区議会議長<ref>{{Cite news | url = https://www.sankei.com/article/20180307-EYTOXKWE4FK2DDXAE6WZNO6YKE/ | title = 東京・渋谷区議がマンションから転落死、自殺か 日朝友好促進東京議員連絡会代表 | newspaper = 産経ニュース | publisher = 産経新聞社 | date = 2018-3-7 | accessdate = 2018-4-27 }}</ref>。 |- |{{Display none|にしべ すすむ/}}[[西部邁]] |{{Display none|24}}[[評論家]] |[[入水]] |78歳 |[[2018年]]{{Display none|01/21-}}[[1月21日]] |従前から自死の意思を周囲に漏らしていて<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/society/news/2018/01/22/kiji/20180121s00042000355000c.html|title=西部邁さん入水自殺 「朝生」保守の論客、多摩川の河川敷に遺書|newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチAnnex]]|date=2018-01-22|accessdate=2018-01-24}}</ref>、遺書を残し[[多摩川]]へ入水したと当初報じられたが、状況に不審な点があった事から警察が捜査に乗り出し、その後、知人2人が[[自殺幇助]]容疑で逮捕された<ref>[https://www.sankei.com/article/20180406-7VBZVUV3SVIQRN6UBCRSCSRSOE/ 西部邁さん自殺幇助の疑い MX子会社社員ら2人逮捕 警視庁] [[産経新聞]]2018年4月5日</ref>。{{main|西部邁#死去後の経緯}} |- |{{Display none|はぎはら しんいちろう/}}[[萩原慎一郎]] |{{Display none|23}}[[歌人]] | |32歳 |[[2017年]]{{Display none|06/08-}}[[6月8日]] |学生時代のいじめ被害に起因する精神的不調により、歌集『[[歌集 滑走路|滑走路]]』の出版直前に自殺<ref>{{Cite news|title=いじめ・非正規… 32歳・萩原慎一郎さんが遺した歌|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2018-02-19|url=https://www.asahi.com/articles/ASL2756XLL27UCVL012.html|accessdate=2020-11-17}}</ref>。死去後、弟の[[萩原健也]]ら遺族に引き継がれ、同年末に同歌集が発売されると、自費出版の歌集としては異例のヒットを記録した。 |- |{{Display none|さくらだ まこと/}}[[櫻田真人]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職市長 |[[縊死|首吊り]] |52歳 |[[2015年]]{{Display none|08/06-}}[[8月6日]] |現職の北海道[[北見市]]長。 |- |{{Display none|こだま ひろし/}}[[児玉広志]] |{{Display none|49}}[[競輪選手]] | |46歳 |[[2015年]]{{Display none|08/05-}}[[8月5日]] |2000年に[[KEIRINグランプリ]]([[KEIRINグランプリ2000]])優勝、賞金王。[[香川県]][[小豆郡]][[土庄町]]の自宅の浴槽内で死亡しているところを発見される。同年7月に[[ストーカー行為等の規制等に関する法律|ストーカー規制法]]違反の疑いで逮捕され罰金刑が下っていた<ref>[https://www.daily.co.jp/horse/keirin/2015/08/06/0008280327.shtml 競輪の児玉広志選手が急死 自殺か] デイリースポーツ 2015年8月6日</ref><ref>{{cite news|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20150806-OHT1T50147.html|title=競輪・児玉広志選手が自宅で急死 自殺か|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2015年8月6日|accessdate=2015-08-07}}</ref>。 |- |{{Display none|よしかわ とおる/}}[[吉川徹 (演出家)|吉川徹]] |{{Display none|20}}[[演出家]] | |54歳 |[[2015年]]{{Display none|07/29-}}[[7月29日]] |かつて[[文学座]]に所属し、その後フリーとして活動した演出家。自身の54歳の誕生日の午前3時(2015年1月に妻が死亡した時刻)に自殺したとされている<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1517074.html 「シカゴ」演出吉川徹さん妻が亡くなった時間に自殺] 日刊スポーツ 2015年8月3日</ref>。 |- |{{Display none|かせ くにひこ/}}[[加瀬邦彦]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]] |窒息 |74歳 |[[2015年]]{{Display none|04/20-}}[[4月20日]] |[[ザ・ワイルド・ワンズ]]リーダー。[[2014年]]に[[下咽頭癌]]を発症して以降、活動を休止し療養を続けていたが、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の自宅で呼吸用のチューブがふさがれた状態で発見された<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20150422-XO26MI2KBZPJLKS6VOJPH7IIUM/|title= ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さん自殺、自宅洗面所前で見つかる|publisher= sanspo.com|date= 2015-04-22|accessdate= 2015-04-22}}</ref>。 |- |{{Display none|ごとう ひろき/}}[[後藤浩輝]] |{{Display none|49}}[[騎手]] |[[縊死|首吊り]] |40歳 |[[2015年]]{{Display none|02/27-}}[[2月27日]] |[[日本中央競馬会]]所属の[[騎手]]。中央GI競走5勝を含む通算1447勝を挙げた。[[茨城県|城県]][[稲敷郡]][[阿見町]]の自宅で首を吊っているところを発見される<ref>{{cite news|url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20150227/etc15022710540007-n1.html|title=現役トップジョッキー後藤浩輝騎手が自殺|newspaper=[[サンケイスポーツ]]|date=2015-02-27|accessdate=2015-02-27}}</ref>。2012年と2014年に頸椎骨折の大怪我を負うも復帰。順調に騎乗していたが、前週に再度落馬したばかりだった。 |- |{{Display none|てん/}}[[TENN]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |[[縊死|首吊り]] |35歳 |[[2014年]]{{Display none|09/25-}}[[9月25日]] |[[J-POP]]グループ「[[ET-KING]]」のメンバーで、[[MC (ヒップホップ)|MC]]を担当。死去から約3年後の2017年8月になり、TENNの弟が当時の妻宛の遺書を[[女性セブン]]に提供し、自殺の動機が明かされた。 |- |{{Display none|ささい よしき/}}[[笹井芳樹]] |{{Display none|74}}[[生物学者]]、[[医師]] |[[縊死|首吊り]] |52歳 |[[2014年]]{{Display none|08/05-}}[[8月5日]] |[[理化学研究所]]CDB副センター長。部下の[[小保方晴子]]による[[刺激惹起性多能性獲得細胞|STAP細胞]]問題の渦中、複数の遺書を残し<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140805/crm14080521100033-n1.htm|title=【理研・笹井氏自殺】遺書で小保方氏気遣う「あなたのせいではない」|newspaper=[[産経新聞]]|date=2014-08-05|accessdate=2014-08-05}}</ref>、発生再生科学総合研究センター内の先端医療センター研究棟で首吊り<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/science/news/140805/scn14080513420010-n1.htm|title=【理研・笹井氏自殺】机などに複数の遺書、5階部分の手すりにひも|newspaper=[[産経新聞]]|date=2014-08-05|accessdate=2014-08-05}}</ref>。 |- |{{Display none|さかもと しんいち/}}[[坂本眞一_(実業家)|坂本眞一]] |{{Display none|51}}鉄道[[実業家]] |[[入水]] |73歳 |[[2014年]]{{Display none|01/14-}}[[1月14日]] |[[2014年]][[1月15日]]8時20分ごろ、[[北海道]][[後志総合振興局|後志管内]][[余市町]]の余市港100mの沖合にて死体が浮いているところを[[海上自衛隊]]に発見された<ref>{{cite news |title=JR北海道の坂本元社長、自殺か 余市港に遺体、付近に車|author= |agency=|publisher=北海道新聞 |date=2014-1-15 16:46 |url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/515379.html|accessdate=2014-1-16}}</ref><ref name="yomiuri20140115">[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140115-OYT1T00796.htm 港に男性遺体、JR北海道・坂本相談役と判明] - 読売新聞 2014年1月15日21:49(JST)</ref>。坂本相談役の自家用車が余市港の岸壁で発見されており<ref name="yomiuri20140115"/>、自殺とみられる<ref>{{cite news |title=元JR北海道社長が自殺か 現相談役、余市港で発見|author= |agency=|publisher=共同通信 |date=2014-1-15 |url=https://web.archive.org/web/20140116105655/http://www.47news.jp/CN/201401/CN2014011501001603.html|accessdate=2014-1-15}}</ref>。 |- |{{Display none|ふじ けいこ/}}[[藤圭子]] |{{Display none|05}}[[歌手]] |[[飛び降り]] |62歳 |[[2013年]]{{Display none|08/22-}}[[8月22日]] |『[[女のブルース]]』『[[圭子の夢は夜ひらく]]』などのヒット曲があり、[[宇多田ヒカル]]の母としても知られた。[[東京都]][[新宿区]]のマンション13階<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130824/ent13082411310009-n2.htm|title=寂しすぎる別れ…藤圭子さん 葬儀なし、火葬のみ (2/2)|newspaper=[[産経新聞]]|date=2013.8.24|accessdate=2013-08-25}}</ref>から飛び降り<ref>[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00252316.html FNNニュース: 歌手・藤 圭子さん、東京・新宿区のマンションから飛び降り自殺] 2013年8月22日</ref>。 |- |{{Display none|さどがわ じゅん/}}[[佐渡川準]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] |[[縊死|首吊り]] |34歳 |[[2013年]]{{Display none|08/13-}}[[8月13日]] |[[週刊少年チャンピオン]]に『あまねあたためる』を連載中だった。[[茨城県]][[利根町]]の利根親水公園で首吊り自殺。 |- |{{Display none|ひらめ たかゆき/}}[[平目孝志]] |{{Display none|49}}元[[騎手]]、[[厩務員|調教厩務員]] |[[縊死|首吊り]] |53歳 |[[2013年]]{{Display none|08/09-}}[[8月9日]] |[[函館競馬場]]の出張厩舎内で首吊り<ref>{{cite news|newspaper=[[東京スポーツ|東スポWeb]]|date=2013年08月09日|url=http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/171554/|title=重賞勝ちの元JRA騎手が首つり自殺|accessdate=2013-08-10}}</ref>。 |- |{{Display none|まき しんじ/}}[[牧伸二]] |{{Display none|16}}[[芸人]]、[[ウクレレ]][[漫談家]] |[[入水]] |78歳 |[[2013年]]{{Display none|04/29-}}[[4月29日]] |[[東京都]][[大田区]]の[[多摩川]][[丸子橋]]付近で投身し、病院に搬送されたが死亡が確認された<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130429-1119673.html|title=ウクレレ漫談の牧伸二さん飛び込み自殺か|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2013年4月29日|accessdate=2013年4月29日}}</ref>。会長を務めている東京演芸協会での金銭トラブルが動機の一つであったと見られている<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130501/ent13050107170001-n1.htm|title=牧伸二さん自殺、使途不明金の責任が原因か|newspaper=[[産経新聞]]|date=2013-05-01|accessdate=2013-05-10}}</ref>。 |- |{{Display none|あおき よしゆき/}}[[青木芳之]] |{{Display none|49}}[[騎手]] | |35歳 |[[2012年]]{{Display none|12/25-}}[[12月25日]] |日本中央競馬会所属の騎手。主に海外遠征などで活躍した。[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]内の自宅で自殺<ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20121229143645/http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20121227-1064710.html|title=青木芳之騎手が自殺か 95年デビュー35歳|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2012年12月27日|accessdate=2013-08-15}}</ref>。 |- |{{Display none|げんや/}}[[玄也]] | style="width:10em" |{{Display none|01}}[[俳優]]、[[スタント・パーソン|スタントマン]] | |23歳 |[[2012年]]{{Display none|11/22-}}[[11月22日]] |前日に俳優の[[早乙女太一]]を含む友人と食事をしていた際に予告、翌朝自宅で自殺。 |- |{{Display none|しまだ かずお/}}[[憂歌団|島田和夫]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |[[縊死|首吊り]] |58歳 |[[2012年]]{{Display none|10/02-}}[[10月2日]] |[[憂歌団]]のメンバー。 |- |{{Display none|いちご みるく/}}[[苺みるく]] |{{Display none|18}}[[AV女優]] | |31歳 |[[2012年]]{{Display none|10/00-}}[[10月]] |東京都中野区の自宅で自殺。 |- |{{Display none|まつした ただひろ/}}[[松下忠洋]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政//閣僚/}}現職[[内閣府特命担当大臣(金融担当)|金融相]] |[[縊死|首吊り]] |73歳 |[[2012年]]{{Display none|09/10-}}[[9月10日]] |現職の[[内閣府特命担当大臣(金融担当)|金融担当特命大臣]]。東京都江東区の自宅マンションで首吊り。 |- |{{Display none|つかこし たかし/}}[[塚越孝]] |{{Display none|17}}[[フジテレビジョン|フジテレビ]]社員、同社元[[アナウンサー]] |[[縊死|首吊り]] |57歳 |[[2012年]]{{Display none|06/26-}}[[6月26日]] |[[ニッポン放送]]とフジテレビでアナウンサーを歴任。東京都港区のフジテレビ社内男子トイレの個室でスカーフで首を吊って死亡しているところを警備員が発見した<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120627/crm12062710410005-n1.htm|title=塚越元アナウンサー、自殺か|newspaper=[[産経新聞]]|date=2012.6.27|accessdate=2012-06-27}}</ref>。 |- |{{Display none|さいとう たかし/}}[[齊藤隆 (政治家)|齊藤隆]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職[[市町村長|町長]] |自刃/[[総頸動脈|頸部]]<br />[[入水]] |47歳 |[[2012年]]{{Display none|02/06-}}[[2月6日]] |現職の[[千葉県]][[横芝光町]]長。2010年4月に初当選。死亡日の午前1時過ぎに夫人から「夫が暴れている」との通報が入ったが、自宅近くの[[栗山川]]に身投げし、カッターナイフで自らの首を何度も切り付けた<ref>{{Cite news|title=合併2町の狭間で苦悩? PCB施設めぐり紛糾も 横芝光町長、突然の自殺|newspaper=千葉日報|date=2012-02-20|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/national/69258|accessdate=2021-05-26}}</ref>。死因は失血死。 |- |{{Display none|こじま さだひろ/}}[[小島貞博]] |{{Display none|49}}[[騎手]]、[[調教師]] |[[縊死|首吊り]] |60歳 |[[2012年]]{{Display none|01/23-}}[[1月23日]] |騎手時代に[[東京優駿|日本ダービー]]を2度制覇。厩舎経営に悩み、「先に行くから」と夫人に電話で伝えた後、滋賀県栗東市の[[栗東トレーニングセンター|栗東トレセン]]内の自厩舎2階で首吊り<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2012/01/24/kiji/K20120124002495160.html|title=小島貞博調教師、首つりか 栗東トレセン内で発見|newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチAnnex]]|date=2012年1月24日|accessdate=2012-01-27}}</ref><ref>{{cite news|url=http://gallop.sanspo.com/gallop/headline/news/120124/tpc12012415340006-n1.html|title=小島貞調教師、自殺の真相…プレッシャーと経済的苦境|newspaper=[[週刊Gallop]]|date=2012年1月24日|accessdate=2012-01-27}}</ref><ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120124k0000m040098000c.html|title= 競馬:調教師で元騎手の小島貞博さん死亡 自殺か|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2012年1月24日|accessdate=2011-01-24}}</ref>。 |- |{{Display none|ながせ ひろき/}}[[長瀬弘樹]] |{{Display none|07}}[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[歌手]] |[[縊死|首吊り]] |36歳 |[[2012年]]{{Display none|01/04-}}[[1月4日]] |東京都調布市の自宅マンションで首吊り<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120107-OYT1T00103.htm?from=main2|title= 長瀬弘樹さん自殺か…中島美嘉さんらの歌作曲|newspaper=[[読売新聞]]|date=2012年1月7日|accessdate=2011-01-10}}</ref>。 |- |{{Display none|まつもと れいじ/}}[[松本礼児]] |{{Display none|07}}[[作詞家]] |[[焼身自殺|焼身]] |68歳 |[[2011年]]{{Display none|12/19-}}[[12月19日]] |12月19日午前4時40分頃<ref name="産経20111219"/>、[[世田谷区]][[祖師谷]]の自宅玄関先で焼身<ref name="産経20111219">{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111219/crm11121911490005-n1.htm|title=作詞家の松本礼児さん、自宅で自殺か 全身やけどで死亡、妻がうめき声に気づく|newspaper=[[産経新聞]]|date=2011-12-19|accessdate=2011-12-21}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/12/19/kiji/K20111219002274760.html|title=焼身自殺か…作詞家・松本礼児さん死亡 アイドルに歌詞 作詩大賞で受賞|newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチAnnex]]|date=2011年12月19日|accessdate=2011-12-21}}</ref>。 |- |{{Display none|あおやま けい/}}[[青山景]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] |[[縊死|首吊り]] |32歳 |[[2011年]]{{Display none|10/09-}}[[10月9日]][[#遺体発見日|**]] |東京都[[狛江市]]の自宅マンション浴室で首を吊っているところを発見された<ref name="産経20111012">{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111012/crm11101212410010-n1.htm|title=「よいこの黙示録」漫画家の青山景さんが首つり死亡 ツイッターに自殺ほのめかす|newspaper=[[産経新聞]]|date=2011-10-12|accessdate=2011-10-12}}</ref>。『[[よいこの黙示録]]』を連載中だった<ref name="産経20111012"/>。 |- |{{Display none|なかじま なおとし/}}[[中島尚俊]] |{{Display none|51}}鉄道実業家 |[[入水]] |64歳 |[[2011年]]{{Display none|09/18-}}[[9月18日]][[#遺体発見日|**]] |[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)社長。2011年9月12日朝、遺書を残し失踪。同日午後に[[石狩市]]の海岸近くで車が見つかり捜索活動が続いていたが<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/national/update/0918/TKY201109180091.html|title=小樽沖の男性遺体、JR北海道社長と確認|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2011年9月18日|accessdate=2011-09-18}}</ref>、9月18日に[[小樽市]]沖合約1kmの海上で遺体が発見された<ref>{{cite news|url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E3EAE2E3EB8DE3EAE2EBE0E2E3E39191E3E2E2E2|title=JR北海道社長、遺体で発見 社員に残した文書公表|newspaper=[[日本経済新聞|日経新聞]]|date=2011-09-18|accessdate=2011-09-18}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201109/CN2011091801000275.html|title=JR北海道社長の遺体発見 小樽市沖、自殺か|newspaper=[[47NEWS]]/[[共同通信]]|date=2011-09-18|accessdate=2011-09-18}}</ref>。 |- |{{Display none|しばの たいぞう/}}[[柴野たいぞう]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}元[[国会議員|衆院議員]] |[[縊死|首吊り]] |60歳 |[[2011年]]{{Display none|09/05-}}[[9月5日]] |[[日本中油]]をめぐる架空増資・未公開株販売事件で詐欺などの罪に問われ裁判中だった。[[特別捜査部#東京地方検察庁特別捜査部|東京地検特捜部]]への抗議文を報道各社に送り、判決の当日に首吊り<ref>{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201109/2011090500249&rel=j&g=soc|title=柴野元衆院議員が自殺=詐欺事件の判決当日-自社ビル内で首つる-東京|newspaper=[[時事通信]]|date=2011-09-05|accessdate=2011-09-05}}</ref><ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110905/crm11090512200006-n1.htm|title=「命をかけて告発」「特捜部のデッチ上げ」…自殺の柴野元衆院議員、本紙に手紙|newspaper=[[産経新聞]]|date=2011-09-05|accessdate=2011-09-05}}</ref>。 |- |{{Display none|いらぶ ひでき/}}[[伊良部秀輝]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |[[縊死|首吊り]] |42歳 |[[2011年]]{{Display none|07/27-}}[[7月27日]][[#遺体発見日|**]] |[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]や[[メジャーリーグベースボール|MLB]]3球団・[[阪神タイガース|阪神]]等でプレーし、豪速球投手として名を馳せた<ref name="zakzak2011-07-29">{{cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110729/bbl1107291235006-n1.htm|title=孤高の豪腕…伊良部氏自殺の真相|newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]]/夕刊フジ|date=2011-07-29|accessdate=2011-07-29}}</ref>。現地時間の7月27日午後<ref name="reuters2011-07-29">{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-22429820110729|title=元ヤンキース投手の伊良部さん死亡、首つり自殺か|newspaper=[[ロイター]]|date=2011-07-29|accessdate=2011-07-29}}</ref>、[[ロサンゼルス]]近郊の自宅で首を吊って死亡しているところを発見された<ref name="reuters2011-07-29"/><ref>{{cite news|url=http://www.sankei-kansai.com/2011/07/29/20110729-055910.php|title=伊良部秀輝さん死去 42歳 元阪神、ロス自宅で自殺か|newspaper=[[産経新聞|産経関西]]|date=2011-07-29|accessdate=2011-07-29}}</ref>。 |- |{{Display none|なかむら とうよう/}}[[中村とうよう]] |{{Display none|24}}[[音楽評論家]] |[[飛び降り]] |79歳 |[[2011年]]{{Display none|07/21-}}[[7月21日]] |株式会社[[ミュージック・マガジン]]元会長・編集長、[[武蔵野美術大学|武蔵野美大]]客員研究員。一人暮らしの自宅マンション8階から飛び降り<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110721/crm11072118040019-n1.htm|title=音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か|newspaper=[[産経新聞]]|date=2011-07-21|accessdate=2011-07-21}}</ref>。 |- |{{Display none|たに てつじろう/}}[[谷哲二郎]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |[[縊死|首吊り]] |61歳 |[[2011年]]{{Display none|05/24-}}[[5月24日]] |[[ルミネ]]社長。元[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)副社長。 |- |{{Display none|うえはら みゆ/}}[[上原美優]] |{{Display none|01}}[[アイドル]]、[[タレント]] |[[縊死|首吊り]] |24歳 |[[2011年]]{{Display none|05/12-}}[[5月12日]] |「[[種子島]]出身の貧乏アイドル」として売り出し、テレビのバラエティ番組を中心に活躍していた。 |- |{{Display none|たなか みのる/}}[[田中実 (俳優)|田中実]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |44歳 |[[2011年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] |1990年の[[連続テレビ小説]]『[[凛凛と]]』で主演。[[無名塾]]出身。 |- |{{Display none|おくやま えいし/}}[[奥山英志]] |{{Display none|19}}[[事件リポーター]] |[[縊死|首吊り]] |61歳 |[[2011年]]{{Display none|04/10-}}[[4月10日]][[#遺体発見日|**]] |1980年代から90年代にかけて、主にフジテレビの[[ワイドショー]]番組でリポーターを務めた。2011年4月から失踪していたことが同年9月に報じられ、同年12月に東京都調布市の[[神代植物公園]]で4月10日に発見された身元不明遺体が奥山のものであることが確認された<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111212-OYT1T00538.htm|title=リポーター奥山英志さんと確認、公園で自殺か|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011年12月12日|accessdate=2011-12-14}}</ref>。 |- |{{Display none|いけだ としはる/}}[[池田敏春]] |{{Display none|20}}[[映画監督]] |[[入水]] |59歳 | style="white-space:nowrap;" |[[2010年]]{{Display none|12/26-}}[[12月26日]][[#遺体発見日|**]] |[[日活]]、[[ディレクターズ・カンパニー]]を経て、1991年以後はフリーランスの映画監督として活動していた。 |- |{{Display none|まつもと ゆり/}}[[松本友里]] |{{Display none|04}}元[[俳優|女優]]、元[[歌手]] |[[縊死|首吊り]] |42歳 |[[2010年]]{{Display none|11/15-}}[[11月15日]] |俳優[[松平健]]の当時の妻。母親の介護疲れや死別の影響があったとされる。 |- |{{Display none|まきのだ あや/}}[[牧野田彩]] |{{Display none|18}}[[AV女優]]、元[[歌手]] |[[飛び降り]] |30歳 |[[2010年]]{{Display none|10/23-}}[[10月23日]] |1996年にオーディション番組『[[ASAYAN]]』からデビューしたユニット[[L☆IS]]の元メンバーで、元小室ファミリー。2009年に'''AYA'''としてAVデビュー。芸能活動を通じて何らかのトラブルを抱えていたとされ、生前には「芸能界の大物に殺される」という言葉を繰り返し友人らに訴えていたという。 |- |{{Display none|よしだ けい/}}[[吉田敬 (音楽プロデューサー)|吉田敬]] |{{Display none|09}}[[音楽プロデューサー]] |[[縊死|首吊り]] |48歳 |[[2010年]]{{Display none|10/07-}}[[10月7日]] |[[平井堅]]・[[CHEMISTRY]]などを手掛けた音楽プロデューサー。 |- |{{Display none|かげやま ひでお/}}[[影山日出夫]] |{{Display none|25}}[[ジャーナリスト]] |[[縊死|首吊り]] |56歳 |[[2010年]]{{Display none|08/12-}}[[8月12日]] |[[日本放送協会|NHK]]解説委員で、[[日曜討論]]の司会。[[渋谷区]]の[[NHK放送センター]]内で首吊り自殺を図り、搬送されたが翌日に死去。 |- |{{Display none|こんの ゆうじ/}}[[今野雄二]] |{{Display none|24}}[[評論家]] |[[縊死|首吊り]] |66歳 |[[2010年]]{{Display none|08/02-}}[[8月2日]][[#遺体発見日|**]] |深夜番組『[[11PM]]』への出演で知られる。[[映画評論]]、[[音楽評論家|音楽評論]]の他にも翻訳家・作詞家として活動していた。 |- |{{Display none|やまもと ますみ/}}[[山本真純]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |[[飛び降り]] |34歳 |[[2010年]]{{Display none|07/27-}}[[7月27日]] |[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー。産後うつを患っていたとされる。 |- |{{Display none|だいすけ/}}[[大佑]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |{{Display none|服毒/}}[[オーバードース|薬物過剰摂取]] |31歳 |[[2010年]]{{Display none|07/15-}}[[7月15日]][[#遺体発見日|**]] |[[ヴィジュアル系]][[バンド (音楽)|バンド]][[蜉蝣 (バンド)|蜉蝣]]の元ボーカル。ソロプロジェクトのセカンドシングル発売直前、自宅で死亡しているところが見つかる。 |- |{{Display none|ひらの ようこ/}}[[平野洋子]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |47歳 |[[2010年]]{{Display none|02/07-}}[[2月7日]] |俳優[[船越英一郎]]の妹。死亡時まで実家の[[旅館]]で女将を務めていた。 |- |{{Display none|ごうり だいすけ/}}[[郷里大輔]] |{{Display none|02}}[[声優]] |自刃/手首 |57歳 |[[2010年]]{{Display none|01/17-}}[[1月17日]] |アニメ『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』で[[ロビンマスク]]や[[アシュラマン]]、『[[ドラゴンボールZ]]』で[[ミスター・サタン]]などを演じた。 |- |{{Display none|こじま ひでつぐ/}}[[小嶋英嗣]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職[[市町村長|町長]] |[[縊死|首吊り]] |55歳 |[[2009年]]{{Display none|11/28-}}[[11月28日]] |現職の[[和歌山県]][[那智勝浦町]]長。2009年[[9月18日]]に初当選、その2か月後に自宅で首吊り。 |- |{{Display none|かとう かずひこ/}}[[加藤和彦]] |{{Display none|07}}[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]] |[[縊死|首吊り]] |62歳 |[[2009年]]{{Display none|10/17-}}[[10月17日]] |[[ザ・フォーク・クルセダーズ|フォーク・クルセダーズ]]元メンバー。『[[あの素晴しい愛をもう一度]]』『[[悲しくてやりきれない]]』『[[白い色は恋人の色]]』『[[ドゥー・ユー・リメンバー・ミー]]』などの作曲者。 |- |{{Display none|しみず ゆきこ/}}[[清水由貴子]] |{{Display none|05}}元[[歌手]]、元[[俳優|女優]] |[[硫化水素]] |49歳 |[[2009年]]{{Display none|04/20-}}[[4月20日]] |アイドル歌手や[[欽ちゃんファミリー]]の一員として人気を集めた。後年は実母の介護のため、芸能活動を引退していた。 |- |{{Display none|いとう たかひろ/}}[[伊藤隆大]] |{{Display none|01}}[[俳優]]、[[声優]] |[[練炭]] |21歳 |[[2009年]]{{Display none|03/08-}}[[3月8日]] |俳優[[伊藤淳史]]の実弟。 |- |{{Display none|ながた ひさやす/}}[[永田寿康]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}元[[国会議員|衆院議員]] |[[飛び降り]] |39歳 |[[2009年]]{{Display none|01/03-}}[[1月3日]] |民主党に所属していた元衆議院議員。[[堀江メール問題]]において渦中の人物となった。 |- |{{Display none|ささき かずお/}}[[佐々木一夫]] |{{Display none|49}}[[騎手]]、[[調教師]] |自刃/手首 |58歳 |[[2008年]]{{Display none|09/28-}}[[9月28日]] |[[ホッカイドウ競馬|北海道競馬]]の[[騎手]]。1994年に騎手を引退後[[調教師]]となったが、2008年に[[門別競馬場]]にて自殺。 |- |{{Display none|くさやなぎ ふみえ/}}[[草柳文惠]] |{{Display none|17}}[[ニュースキャスター]]<!--、[[随筆家|エッセイスト]]--> |[[縊死|首吊り]] |54歳 |[[2008年]]{{Display none|09/09-}}[[9月9日]] |評論家[[草柳大蔵]]の娘。 |- |{{Display none|かわだ あこ/}}[[川田亜子]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |[[練炭]] |29歳 |[[2008年]]{{Display none|05/25-}}[[5月25日]] |元[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー。死亡前日には司会を務める[[テレビ朝日]]『[[サタデースクランブル]]』に出演していたが、その数週間前からブログに悩みを書き込んでいた。 |- |{{Display none|よこた あきお/}}[[横田昭夫]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、元[[市町村長|市長]] |[[縊死|首吊り]] |66歳 |[[2008年]]{{Display none|02/12-}}[[2月12日]] |元[[埼玉県]][[行田市]]長。 |- |{{Display none|たけだ よしたか/}}[[竹田吉孝]] |{{Display none|49}}[[騎手]] |[[練炭]] |21歳 |[[2007年]]{{Display none|12/24-}}[[12月24日]] |[[金沢市]]内の駐車場で発見され、搬送されたが死亡<!--[http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=154205&log=20071225] [http://plaza.rakuten.co.jp/turf365/diary/200712250000] 個人ブログのためコメントアウトにて。いずれも中日スポーツ孫引き。-->。 |- |{{Display none|まちい ひろし/}}[[待井寛]] |{{Display none|48}}元[[フリースタイルスキー|スキー]]選手 |[[縊死|首吊り]] |41歳 |[[2007年]]{{Display none|11/15-}}[[11月15日]] |1994年の[[1994年リレハンメルオリンピックの日本選手団|リレハンメルオリンピック日本代表]]選手。 |- |{{Display none|さとう まこと/}}[[佐藤真]] |{{Display none|20}}[[映画監督]] |[[飛び降り]] |49歳 |[[2007年]]{{Display none|09/04-}}[[9月4日]] | |- |{{Display none|みさき さや/}}[[美咲沙耶]] |{{Display none|18}}[[AV女優]] |[[縊死|首吊り]] |21歳 |[[2007年]]{{Display none|07/06-}}[[7月6日]] |ただし異説あり<!--生存説あり[https://web.archive.org/web/20071208130331/https://ameblo.jp/oharan/entry-10058850316.html]--><!--※[[美咲沙耶]]に貼られている要出典が取れるまでコメントアウト → 要出典がはがされたあと長期にわたって異論が差し挟まれないためコメントアウトを解除します--> |- |{{Display none|やまざき しんいち/}}[[山崎進一]] |{{Display none|70}}[[森林開発公団]]元理事 |[[飛び降り]] |76歳 |[[2007年]]{{Display none|05/29-}}[[5月29日]] |[[緑資源機構談合事件|緑資源機構談合疑惑]]のさなか、[[松岡利勝]]農水大臣が自殺した翌日に自殺。 |- |{{Display none|まつおか としかつ/}}[[松岡利勝]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政//閣僚/}}現職[[農林水産大臣|農水相]] |[[縊死|首吊り]] |62歳 |[[2007年]]{{Display none|05/28-}}[[5月28日]] |現職[[農林水産大臣|農水相]]。就任直後から事務所費問題、光熱水費問題、献金問題など数々の疑惑が報じられていた。現職閣僚の自殺は[[太平洋戦争|第2次大戦]]終戦時の[[阿南惟幾]]以来2人目。 |- |{{Display none|あちは しんすけ/}}[[阿知波信介]] |{{Display none|51}}[[実業家]]、元[[俳優]] |[[入水]] |67歳 |[[2007年]]{{Display none|05/04-}}[[5月4日]] |芸能事務所[[アクターズプロモーション|アクターズエージェンシー]]社長。元俳優で、『[[ウルトラセブン]]』のソガ隊員役で知られた。[[鹿児島県]][[霧島市]]の[[犬飼滝]]で遺体発見。 |- |{{Display none|かとう ぜんぱく/}}[[加藤善博]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |48歳 |[[2007年]]{{Display none|04/27-}}[[4月27日]] |ドラマ『[[愛という名のもとに]]』の課長役など、主に悪役として活躍した。 |- |{{Display none|そのだ ひでひろ/}}[[園田英弘]] |{{Display none|74}}[[社会学者]] |[[縊死|首吊り]] |60歳 |[[2007年]]{{Display none|04/06-}}[[4月6日]] |[[国際日本文化研究センター]][[教授]]。 |- |{{Display none|くどう かずよし/}}[[工藤和義]] |{{Display none|99}}[[ヤクザ]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |70歳 |[[2007年]]{{Display none|02/15-}}[[2月15日]] |六代目[[山口組]]最高顧問 四代目[[國粹会]]会長。 |- |{{Display none|おおすぎ きみえ/}}[[大杉君枝]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |[[飛び降り]] |43歳 |[[2007年]]{{Display none|02/02-}}[[2月2日]] |[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[アナウンサー]]。出産後、全身の疼痛を伴う原因不明の難病[[線維筋痛症]]を患っていた<ref>{{cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_02/g2007020301.html|title=日テレ衝撃 病気に耐えきれず…大杉君枝アナ自殺背景|newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]]/夕刊フジ|date=2007-02-03|accessdate=2011-07-29}}</ref>。 |- |{{Display none|たけなか しょうご/}}[[竹中省吾]] |{{Display none|68}}[[裁判官]] |[[縊死|首吊り]] |64歳 |[[2006年]]{{Display none|12/03-}}[[12月3日]] |[[大阪高等裁判所]][[判事]](第22期) |- |{{Display none|たかだ まり/}}[[高田真理]] |{{Display none|06}}[[音楽家|ミュージシャン]] |[[飛び降り]] |59歳 |[[2006年]]{{Display none|09/26-}}[[9月26日]] |フォークグループ[[青い三角定規]]の元メンバー。2006年にグループの再結成が決まっていたが、同年9月に酒気帯び運転で人身事故を起こし逮捕されたため一旦白紙となる。このことに責任を感じたとみられ、事故の15日後に投身。 |- |{{Display none|いぬまる りん/}}[[犬丸りん]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|31}}[[漫画家]]、[[エッセイスト]] |[[飛び降り]] |48歳 |[[2006年]]{{Display none|09/10-}}[[9月10日]] |NHKアニメ『[[おじゃる丸]]』の原案者。 |- |{{Display none|だん ゆうた/}}[[団優太]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[飛び降り]] |38歳 |[[2006年]]{{Display none|08/08-}}[[8月8日]] | |- |{{Display none|かい ちえみ/}}[[甲斐智枝美]] |{{Display none|04}}元[[アイドル]] |[[縊死|首吊り]] |43歳 |[[2006年]]{{Display none|07/10-}}[[7月10日]] |「[[スター誕生!]]」第29代グランドチャンピオン。1980年代にアイドル歌手・女優・タレントとして活躍。 |- |{{Display none|すはら かずひで/}}[[須原一秀]] |{{Display none|74}}[[哲学者]] |[[縊死|首吊り]] |65歳 |[[2006年]]{{Display none|04/00-}}4月 | |- |{{Display none|かとう みつのり/}}[[加藤光徳]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職[[市町村長|市長]] |[[縊死|首吊り]] |57歳 |[[2006年]]{{Display none|02/26-}}[[2月26日]] |現職の[[三重県]][[伊勢市|伊勢市長]]。2月26日に自宅を出たまま行方不明になり、翌朝、市内の山林で首を吊った姿で発見された。前年の市長選挙で当選後、加藤に対する無言電話や剃刀を送り付けられたりなどの被害に遭っていた。 |- |{{Display none|うえの まさお/}}[[上野政夫]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職[[市町村長|町長]] |[[窒息]] |69歳 |[[2005年]]{{Display none|12/02-}}[[12月2日]] |現職の[[愛知県]][[西春町|西春町長]](5期)。[[師勝町]]との合併(上野は師勝町・西春町合併協議会の会長を務めていた)を3か月後に控えた[[2005年]][[12月2日]]、[[岐阜県]][[可児市]]東帷子の市道脇の空き地に止めてあった乗用車の運転席で[[ポリ袋]]を頭にかぶった状態で発見された<ref>『中日新聞』2005年12月03日朝刊社会39頁、「西春町長が自殺 頭にポリ袋、車内で窒息 岐阜・可児で発見」</ref>。その後実施された西春町長選挙では妻・津美子が出馬したが<ref>『中日新聞』2006年01月19日朝刊尾張総合15頁 、「候補者はこんな人 西春町長選」</ref>、[[太田考則]]に敗れ落選した<ref>『中日新聞』2006年01月23日朝刊二社32頁、「最年少の町長誕生 西春町」</ref>。 |- |{{Display none|みさわ ちれん/}}[[見沢知廉]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[飛び降り]] |46歳 |[[2005年]]{{Display none|09/07-}}[[9月7日]] |元[[右翼]]活動家。 |- |{{Display none|ながおか ようじ/}}[[永岡洋治]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}現職[[国会議員|衆院議員]] |[[縊死|首吊り]] |54歳 |[[2005年]]{{Display none|08/01-}}[[8月1日]] |[[自由民主党 (日本)|自民党]]衆議院議員。[[小泉内閣]]の[[郵政民営化]]法案に当初は反対の意を示していたものの、採決では所属派閥会長であった[[亀井静香]]の意に反し賛成票を投じていた。同年に実施された[[第44回衆議院議員総選挙]]では妻・[[永岡桂子|桂子]]が夫の遺志を継いで同法案に賛成として戦い、当選(選挙区では敗れた)。 |- |{{Display none|ぽーる まき/}}[[ポール牧]] |{{Display none|16}}[[芸人]]、[[タレント]] |[[飛び降り]] |63歳 |[[2005年]]{{Display none|04/22-}}[[4月22日]] |「指パッチン芸」で有名。自殺前は[[僧侶]]を務めていた。 |- |{{Display none|きぬた だいぞう/}}[[砧大蔵]] |{{Display none|22}}[[作家]] | |42歳 |[[2005年]]{{Display none|04/06-}}[[4月6日]] | |- |{{Display none|うめき たつろう/}}[[梅木達郎]] |{{Display none|74}}[[文学者]]([[仏文学者]]) | |48歳 |[[2005年]]{{Display none|03/05-}}[[3月5日]] |[[東北大学]]助教授 |- |{{Display none|としみつ まつお/}}[[利光松男]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |[[縊死|首吊り]] |80歳 |[[2004年]]{{Display none|11/22-}}[[11月22日]] |元[[日本航空]]社長。 |- |{{Display none|もりむら かつら/}}[[森村桂]] |{{Display none|22}}[[作家]] | |64歳 |[[2004年]]{{Display none|09/27-}}[[9月27日]] | |- |{{Display none|くらさわ ななみ/}}[[倉沢七海]] |{{Display none|18}}[[AV女優]] |[[飛び降り]] |28歳 |[[2004年]]{{Display none|08/19-}}[[8月19日]] |同棲していた恋人との結婚話が破談になったことが原因とされる。 |- |{{Display none|のざわ ひさし/}}[[野沢尚]] |{{Display none|21}}[[脚本家]]、[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |44歳 |[[2004年]]{{Display none|06/28-}}[[6月28日]] |『[[青い鳥 (テレビドラマ)|青い鳥]]』や『[[眠れる森]]』『[[マリリンに逢いたい]]』『[[破線のマリス]]』の原作者として知られる。これらの作品を映像化した際には脚本も担当するなど、1980年代後半から2000年代前半にかけてのヒットメーカーであった。 |- |{{Display none|さぎさわ めぐむ/}}[[鷺沢萠]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |35歳 |[[2004年]]{{Display none|04/11-}}[[4月11日]] | |- |{{Display none|またの せいじ/}}[[又野誠治]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |43歳 |[[2004年]]{{Display none|03/23-}}[[3月23日]] |テレビドラマ『[[太陽にほえろ!]]』でブルース刑事を演じたものの伸び悩み、後年は飲食店を経営していた。 |- |{{Display none|やくしじ かついち/}}[[薬師寺克一]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、現職区長 |[[縊死|首吊り]] |71歳 |[[2004年]]{{Display none|03/07-}}[[3月7日]] |現職の東京都[[目黒区]]長(2期)。目黒区[[碑文谷]]の自宅で首を吊り、ポケットに「ごめんなさい」と書かれたメモが入っていた。 |- |{{Display none|にかいどう おくば/}}[[二階堂奥歯]] |{{Display none|29}}[[編集者]] |[[飛び降り]] |25歳 |[[2003年]]{{Display none|03/25-}}[[4月26日]] |[[国書刊行会]]や[[毎日新聞出版]]で編集者として勤めながら読書記録などを中心とした日記を[[ウェブサイト]]上で書いていた。没後、『八本脚の蝶』としてその日記が書籍化された。 |- |{{Display none|ふるおや まさと/}}[[古尾谷雅人]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |45歳 |[[2003年]]{{Display none|03/25-}}[[3月25日]] |映画『[[ヒポクラテスたち]]』やドラマ『[[金田一少年の事件簿 (堂本剛のテレビドラマ)|金田一少年の事件簿]]』などに出演した。 |- |{{Display none|もりした なおと/}}[[森下直人]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |[[縊死|首吊り]] |42歳 |[[2003年]]{{Display none|01/09-}}[[1月9日]] |[[総合格闘技]]イベント[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]を主催する[[ドリームステージエンターテインメント]]の社長で、そのPRIDEを放送していたパーフェクTV!(現[[スカパーJSAT]])の設立にも携わった。 |- |{{Display none|とがわ きょうこ/}}[[戸川京子]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[縊死|首吊り]] |37歳 |[[2002年]]{{Display none|07/18-}}[[7月18日]] |女優[[戸川純]]の実妹。子役から活躍。死去の3カ月後に彼女の遺作『[[どっちがどっち!]]』が放送された。 |- |{{Display none|やがわ すみこ/}}[[矢川澄子]] |{{Display none|22}}[[作家]]、[[詩人]]、[[翻訳家]] |[[縊死|首吊り]] |71歳 |[[2002年]]{{Display none|05/29-}}[[5月29日]] | |- |{{Display none|あらい しょういち/}}[[荒井昌一]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |[[縊死|首吊り]] |36歳 |[[2002年]]{{Display none|05/16-}}[[5月16日]] |プロレス団体[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]元社長。同年2月に団体が倒産していた。 |- |{{Display none|しおたに しょうご/}}[[塩谷庄吾]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[飛び降り]] |35歳 |[[2002年]]{{Display none|05/05-}}[[5月5日]] | 『[[電脳警察サイバーコップ]]』『[[ウルトラマンガイア]]』などに出演。 |- |{{Display none|いのくま いさお/}}[[猪熊功]] |{{Display none|41}}[[柔道家]] |自刃/[[切腹]] |63歳 |[[2001年]]{{Display none|09/28-}}[[9月28日]] |1964年[[1964年東京オリンピックの柔道競技|東京オリンピック柔道競技]]重量級金メダリスト。[[東海建設]]社長として業績不振の責任を取る形で自らの生命を絶ったと言われる。 |- |{{Display none|たけち せいじ/}}[[竹地盛治]] |{{Display none|41}}[[プロボクサー]] |[[縊死|首吊り]] |24歳 |[[2001年]]{{Display none|08/10-}}[[8月10日]] |[[2001年]][[5月13日]]、後に[[暫定王座|世界王者(暫定)]]となる[[石田順裕]]を下し、[[OPBF]]東洋太平洋[[スーパーウェルター級]]王座を獲得するが、3か月後に突然の自殺。生涯戦績は10勝(2KO)3敗2分 |- |{{Display none|あおやま まさあき/}}[[青山正明]] |{{Display none|29}}[[編集者]]、ライター |[[縊死|首吊り]] |41歳 |[[2001年]]{{Display none|06/17-}}[[6月17日]] |[[神奈川県]][[横須賀市]]の自宅で首つり自殺。死の数時間前には[[高等学校|高校]]時代からの好物だった「[[マルちゃん赤いきつねと緑のたぬき|赤いきつねうどん]]」を食べていたという。 |- |{{Display none|かがわ みつお/}}[[賀川光夫]] |{{Display none|74}}[[考古学|考古学者]] |[[縊死|首吊り]] |78歳 |[[2001年]]{{Display none|03/09-}}[[3月9日]] |<!--2000年8月から2001年3月にかけて-->[[週刊文春]]に[[聖嶽洞穴#聖嶽洞窟遺跡捏造疑惑|聖嶽洞窟遺跡における出土品捏造疑惑]]を報じられ<!--2001年3月9日に-->抗議の自殺。その後遺族は<!--2001年11月に-->週刊文春に対して[[名誉毀損|名誉毀損裁判]]を起こした。2004年7月に[[週刊文春#聖嶽洞窟遺跡捏造疑惑|週刊文春の敗訴が確定]]し、2004年9月2日号にて謝罪文<ref>[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/hijiridaki/index.htm 聖嶽洞穴遺跡問題について / 2004年12月1日発行 会報No.153,p.8掲載] - [[週刊文春]]が掲載した謝罪文の全文が参照可能([[日本考古学協会]])</ref>を掲載した<!--<ref>[http://daibun.hp.infoseek.co.jp/bunkazai.htm 大分県文化財保存協議会]</ref>--><ref>[https://web.archive.org/web/20140506130632/http://www.47news.jp/CN/200310/CN2003102501000328.html 捏造証明できず 聖嶽洞穴遺跡で考古学協会] - 共同通信 (2003年10月25日) 2010-02-26 閲覧</ref><ref>[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/141/004141_hanrei.pdf 福岡高等裁判所 2004年(平成16年)2月23日 謝罪広告等請求控訴事件 平成15(ネ)534] - 福岡高裁での判決主文。週刊文春はこの判決を不服とし上告したが、最高裁はこれを棄却し週刊文春の敗訴が確定した</ref><ref>[http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/bunnsyunnsyazaikoukoku.htm 週刊文春謝罪広告] - 判決文全文と詳細<!--(松山大学ドメイン内)--></ref>。 |- |{{Display none|かどう しゅうぞう/}}[[加堂秀三]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |60歳 |[[2001年]]{{Display none|02/02-}}[[2月2日]] | |- |{{Display none|なかじま ようじろう/}}[[中島洋次郎]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}元[[国会議員|衆院議員]] |[[縊死|首吊り]] |41歳 |[[2001年]]{{Display none|01/06-}}[[1月6日]] |[[政党助成法]]違反・[[公職選挙法]]違反・[[賄賂罪|受託収賄]]などで一・二審で懲役2年6カ月・追徴金1000万円の実刑判決を受けたあと精神不安定となり、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]に上告するも最終結審前に自殺。 |- |{{Display none|かつら みきすけ/}}[[桂三木助 (4代目)|桂三木助]] |{{Display none|16}}[[落語家]] |[[縊死|首吊り]] |43歳 |[[2001年]]{{Display none|01/03-}}[[1月3日]] |[[桂三木助 (3代目)|3代目桂三木助]]を父に持つ。従来の落語家像とは大きくかけ離れていたことから、「落語界のシティーボーイ」との異名をとった。 |- |{{Display none|さきさか まつひこ/}}[[向坂松彦]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |自刃/手首 |66歳 |[[2000年]]{{Display none|11/08-}}[[11月8日]] |元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー。フジテレビの[[向坂樹興]]アナウンサーの叔父。 |- |{{Display none|たかの ひかる/}}[[高野光]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |[[飛び降り]] |39歳 |[[2000年]]{{Display none|11/05-}}[[11月5日]] |[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]等で活躍した投手。 |- |{{Display none|いいじま はるこ/}}[[飯島晴子]] |{{Display none|23}}[[俳人]] | |79歳 |[[2000年]]{{Display none|06/06-}}[[6月6日]] | |- |{{Display none|いのうえ だいすけ/}}[[井上大輔]] |{{Display none|07}}[[作曲家]]、[[音楽家|ミュージシャン]] |[[縊死|首吊り]] |58歳 |[[2000年]]{{Display none|05/30-}}[[5月30日]] |[[ジャッキー吉川とブルーコメッツ]]の元メンバー。『[[ブルー・シャトウ]]』をはじめ、『[[恋のダイヤル6700]]』『[[学園天国 (曲)|学園天国]]』『[[NAI・NAI 16]]』『[[め組のひと]]』など数多くのヒット曲を手掛けた。[[網膜剥離]]の手術を受けた年に自殺。20年以上妻の介護を続けており、2カ月後にその妻も自殺。 |- |{{Display none|いとう きょうこ/}}[[伊藤京子 (女優)|伊藤京子]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |40歳 |[[2000年]]{{Display none|02/21-}}[[2月21日]] |旧芸名は辻今日子。かつて[[石坂浩二]]と愛人関係にあった。[[相模原駅]]で飛び込み。 |- | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|てるくはのる/}}[[てるくはのる]] |{{Display none|91}}[[京都小学生殺害事件]]の犯人 |[[飛び降り]] |21歳 |[[2000年]]{{Display none|02/05-}}[[2月5日]] |1999年12月に発生した[[京都小学生殺害事件]]の犯人。「てるくはのる」は[[犯行声明|犯行声明文]]に書かれていた犯人の自称。[[任意同行]]を拒み逃走、14階建ての団地の屋上から飛び降り<ref>{{Cite web|和書 |author=[[黒木昭雄]] |date=2000-03-10 |url=http://www.akuroki.jp/kyo_tree/treebbs.cgi?log=18 |title=特集 京都事件現場リポートファイル (log18/25) |accessdate=2010-08-05 }}<br />当初警察は、「犯人は13階から飛び降りた」と発表していた。しかしその後の警察発表では「屋上から飛び降りた」に変更された。元警察官でジャーナリストの[[黒木昭雄]]は、警察発表に辻褄の合わない点があることを指摘し、犯人自殺に疑義を呈している。</ref>。 |- |{{Display none|まつみや かずひこ/}}[[松宮一彦]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |[[縊死|首吊り]] |45歳 |[[1999年]]{{Display none|09/27-}}[[9月27日]] |元[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー。音楽番組『[[ザ・ベストテン]]』の“追っかけマン”として有名。 |- |{{Display none|えとう じゅん/}}[[江藤淳]] |{{Display none|24}}[[文芸評論|文芸評論家]] |自刃/手首 |66歳 |[[1999年]]{{Display none|07/21-}}[[7月21日]] |遺書には「形骸を断ず」と。 |- |{{Display none|あおき たつゆき/}}[[青木達之]] |{{Display none|06}}[[音楽家|ミュージシャン]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |32歳 |[[1999年]]{{Display none|05/02-}}[[5月2日]] |[[東京スカパラダイスオーケストラ]]のドラマ―。小田急電鉄[[豪徳寺駅]]西約70メートルから飛び込む。 |- |{{Display none|かつら しじゃく/}}[[桂枝雀 (2代目)|桂枝雀]] |{{Display none|16}}[[落語家]] |[[縊死|首吊り]] |59歳 |[[1999年]]{{Display none|04/19-}}[[4月19日]] |自宅で首を吊り搬送されたが、回復することなく1カ月後に死去。 |- |{{Display none|にしおか きょうぞう/}}[[西岡恭蔵]] |{{Display none|06}}[[音楽家|ミュージシャン]] |[[縊死|首吊り]] |50歳 |[[1999年]]{{Display none|04/03-}}[[4月3日]] |フォークグループのザ・ディランの元メンバー |- |{{Display none|なんじょう あや/}}[[南条あや]] |{{Display none|01}}[[ネットアイドル]]、[[フリーライター]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|服毒/}}[[オーバードース|薬物過剰摂取]] |18歳 |[[1999年]]{{Display none|03/30-}}[[3月30日]] |[[向精神薬]]の大量服用によって意識不明となり病院に搬送されるが死亡。明確な自殺の意思があったかどうか不明。死後『卒業式まで死にません』という本が出版された。 |- |{{Display none|おきた ひろゆき/}}[[沖田浩之]] |{{Display none|01}}[[俳優]]、元[[アイドル]] |[[縊死|首吊り]] |36歳 |[[1999年]]{{Display none|03/27-}}[[3月27日]] |テレビドラマ『[[3年B組金八先生]]』(第2シリーズ)の生徒役で人気を集め、1981年に歌手デビュー、その後は俳優として活躍。置鮎家(本名)では浩之だけでなく彼の祖父や父・兄も自殺で死去している<ref>[http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_08/g2002081910.html ZAKZAK 新潮45 2002年9月号]</ref>。 |-<!-- |{{Display none|さとう しんじ/}}[[佐藤伸治]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |[[飛び降り]] |33歳 |[[1999年]]{{Display none|03/15-}}[[3月15日]] |[[フィッシュマンズ]]のボーカル。表向きには病死と発表されるが、後に実家の団地からの飛び降り、後頭部を樹木で強打した自殺と明かされる。//信頼できる出典が付加されるまでコメントアウト--> |- |{{Display none|くさかべ りゅうじ/}}[[草壁竜次]] |{{Display none|91}}[[ドクター・キリコ事件]]の主犯 |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |27歳 |[[1998年]]{{Display none|12/15-}}[[12月15日]] |1998年12月に起こった[[ドクター・キリコ事件]]の主犯。「草壁竜次」は事件以前に自殺掲示板で使用されていた[[ハンドルネーム]]。 |- |{{Display none|みわた かつとし/}}[[三輪田勝利]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |[[飛び降り]] |53歳 |[[1998年]]{{Display none|11/27-}}[[11月27日]] |[[イチロー]]を担当したスカウトとして知られる。[[オリックス・バファローズ|オリックス]]編成部長在職中の1998年、[[1998年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]後の[[沖縄水産高校]]投手・[[新垣渚]]との獲得交渉が紛糾。これを球団上層部が激しく指弾し、その結果三輪田は投身自殺を遂げた。 |- |{{Display none|たなか ゆうじ/}}[[田中融二]] |{{Display none|29}}[[翻訳家]] |{{Display none|ガス/}}[[自殺#ガス|排ガス]] |[[数え年|73歳*]] |[[1998年]]{{Display none|05/12-}}[[5月12日]] |癌で闘病中、親友[[内田庶]]に予告の上[[小樽市|小樽]]で自殺。 |- |{{Display none|ねこぢる/}}[[ねこぢる]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] |[[縊死|首吊り]] |31歳 |[[1998年]]{{Display none|05/10-}}[[5月10日]] |東京都町田市の自宅で縊死。その数日前に急逝した[[X JAPAN]]の[[hide]]の後を追ったのではないか、との憶測報道が流れたが、夫の[[山野一]]が否定している。{{main|ねこぢる#自殺}} |- |{{Display none|こばやし まさあき/}}[[小林正明 (実業家)|小林正明]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |[[縊死|首吊り]] |51歳 |[[1998年]]{{Display none|02/25-}}[[2月25日]] |カー用品量販店スポット社長。第57回[[東京優駿|日本ダービー]]を制覇した[[アイネスフウジン]]の馬主。 |- |{{Display none|あらい しょうけい/}}[[新井将敬]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}現職[[国会議員|衆院議員]] |[[縊死|首吊り]] |50歳 |[[1998年]]{{Display none|02/19-}}[[2月19日]] |[[SMBC日興証券|日興証券]]スキャンダルの渦中、衆院議運委員会で逮捕許諾請求が可決された直後に自殺。 |- |{{Display none|みやざき くにじ/}}[[宮崎邦次]] |{{Display none|51}}銀行家 |[[縊死|首吊り]] |67歳 |[[1997年]]{{Display none|06/29-}}[[6月29日]] |元[[第一勧業銀行|第一勧銀]]頭取、[[小池隆一事件|総会屋利益供与事件]]への対応中に縊死。 |- |{{Display none|かわい かずみ/}}[[可愛かずみ]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[飛び降り]] |32歳 |[[1997年]]{{Display none|05/09-}}[[5月9日]] |[[にっかつロマンポルノ]]の専属女優を経て、テレビドラマやバラエティ番組などで活躍。かつての交際相手だった[[川崎憲次郎]](当時プロ野球選手)の自宅マンションから飛び降り。 |- |{{Display none|はせ ありひろ/}}[[長谷有洋]] |{{Display none|02}}[[声優]]、[[俳優]] |[[飛び降り]] |31歳 |[[1996年]]{{Display none|07/30-}}[[7月30日]] |声優[[はせさん治]]の長男 |- |{{Display none|わかいずみ けい/}}[[若泉敬]] |{{Display none|74}}[[国際政治学者]] |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |66歳 |[[1996年]]{{Display none|07/27-}}[[7月27日]] |1960年代後半の[[沖縄返還|沖縄返還交渉]]において、当時の[[佐藤栄作]]首相の密使として重要な役割を果たしたとされる人物。 |- |{{Display none|とつつあん/}}[[S.O.B|TOTTSUAN]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |29歳 |[[1995年]]{{Display none|06/22-}}[[6月22日]] |ハードコア・パンクバンド[[S.O.B]]のメンバーでありバンド創始者。 |- |{{Display none|ほりぐち あやこ/}}[[堀口綾子]] |{{Display none|01}}[[アイドル]] |[[縊死|首吊り]] |22歳 |[[1995年]]{{Display none|04/19-}}[[4月19日]] |アイドルグループ[[みるく (アイドルグループ)|みるく]]の元メンバー。 |- |{{Display none|まつざき たつお/}}[[松崎龍夫]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、元市長 |[[縊死|首吊り]] |68歳 |[[1994年]]{{Display none|12/19-}}[[12月19日]] |1994年12月6日、[[北茨城市]]長在職時に不動産会社から現金1,000万円を受け取った容疑で逮捕された。同年12月18日、東京拘置所の部屋で首つり。翌19日に死亡した<ref>『朝日新聞』1994年12月20日付朝刊、23面、「松崎龍夫・前北茨城市長が死亡 収賄容疑で逮捕され拘置中、自殺」。</ref>。 |- |{{Display none|はだに もりゆき/}}[[波谷守之]] |{{Display none|99}}[[ヤクザ]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |64歳 |[[1994年]]{{Display none|11/02-}}[[11月2日]] | |- |{{Display none|くわた たえこ/}}[[桑田妙子]] |{{Display none|08}}[[ピアニスト]] |[[縊死|首吊り]] |[[数え年|49歳*]] |[[1994年]]{{Display none|07/14-}}[[7月14日]] |1974年に夫パトリック・クロムランクと共に[[デュオ・クロムランク]]を結成し、クラシックの演奏家として幅広く活動していたが、夫婦関係のもつれから夫が自宅で首吊り自殺し、妙子も後を追った<ref>夫の亡骸は床に降ろされた状態で発見された。司法警察は、夫の自殺を発見した妻が彼を床に降ろし、そのあと自らも命を絶ったと推定した[http://www.kammermusik.org/ensemble.asp?ensemble=Duo+Crommelynck]</ref>。 |- |{{Display none|かいこう みちこ/}}[[開高道子]] |{{Display none|29}}[[随筆家]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |41歳 |[[1994年]]{{Display none|06/22-}}[[6月22日]] |作家[[開高健]]の娘。健の急逝から5年後、[[東海道本線]][[茅ケ崎駅]](神奈川県[[茅ヶ崎市]])付近の踏切から飛び込む。 |- |{{Display none|おおわだ なつき/}}[[大和田夏希]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] | |41歳 |[[1994年]]{{Display none|02/20-}}[[2月20日]] |『タフネス大地』『虹色town』などの作者。[[小林まこと]]・[[小野新二]]と親しく、[[小林まこと]]の自伝作品『[[青春少年マガジン1978〜1983]]』には、大和田・小野・小林の最後の交流が描かれている。 |- |{{Display none|ふじた ごろう/}}[[藤田五郎 (小説家)|藤田五郎]] |{{Display none|22}}[[作家]] |窒息 |62歳 |[[1993年]]{{Display none|12/13-}}[[12月13日]] |映画『[[仁義の墓場]]』の原作者。ビニール袋による窒息自殺。 |- |{{Display none|にしむら きよし/}}[[西村潔]] |{{Display none|20}}[[映画監督]] |[[入水]] |61歳 |[[1993年]]{{Display none|11/17-}}[[11月17日]] |TVドラマでは『[[西部警察]]』『[[探偵物語]]』『[[ザ・ハングマン]]』などにも監督・演出として参加している。 |- |{{Display none|のむら しゅうすけ/}}[[野村秋介]] |{{Display none|67}}右翼活動家 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |58歳 |[[1993年]]{{Display none|10/20-}}[[10月20日]] |政治団体「風の会」代表。[[週刊朝日]]に掲載された[[山藤章二]]の風刺イラストで「風の会」を「虱([[シラミ]])の会」と揶揄されたことで発行元の[[朝日新聞社]]([[朝日新聞東京本社|東京本社]])に抗議、同社の社屋内で拳銃自殺。 |- |{{Display none|こじま よしお/}}[[小島義雄]] |{{Display none|48}}元[[陸上競技|陸上]]選手 |{{Display none|ガス/}}[[自殺#ガス|排ガス]] |61歳 |[[1993年]]{{Display none|03/03-}}[[3月3日]] |[[1952年ヘルシンキオリンピック]]と[[1956年メルボルンオリンピック]]に[[ハンマー投|ハンマー投げ]]日本代表として出場。かつてのハンマー投げ日本記録保持者。 |- |{{Display none|やまだ はなこ/}}[[山田花子 (漫画家)|山田花子]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] |[[飛び降り]] |24歳 |[[1992年]]{{Display none|05/24-}}[[5月24日]] |15歳で漫画家デビューし早くに頭角を現すものの、中学時代から人間関係のトラブルを抱えており、精神的に不安定だった。 |- |{{Display none|なお りょうこう/}}[[名尾良孝]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}現職[[国会議員|参院議員]] |[[飛び降り]] |74歳 |[[1991年]]{{Display none|05/06-}}[[5月6日]] |[[議員宿舎]]から飛び降り自殺 |- |{{Display none|ただ ゆうこう/}}[[多田雄幸]] |{{Display none|41}}[[ヨットマン]] |[[縊死|首吊り]] |60歳 |[[1991年]]{{Display none|03/08-}}[[3月8日]] |第3回{{仮リンク|アラウンド・アローン|en|Velux 5 Oceans Race|label=BOCチャレンジ}}(世界一周レース)の途中、途中棄権した[[シドニー]]のホテルにて客死。 |- |{{Display none|ふしみ せんたろう/}}[[伏見扇太郎]] |{{Display none|01}}[[俳優]] | |55歳? |[[1991年]]{{Display none|00/00-}}? |かつての東映時代劇のスター。死去年については1991年との説があるが詳細不明。 |- |{{Display none|みずき じょう/}}[[水木襄]] |{{Display none|01}}[[俳優]]、[[歌手]] | |53歳 |[[1991年]]{{Display none|00/00-}} |東映のスター。『[[忍者部隊月光]]』『[[魔人ハンター ミツルギ]]』『[[特別機動捜査隊]]』『[[緊急指令10-4・10-10]]』などに出演。引退後はスナックなどを経営。 |- |{{Display none|やまのうち とよのり/}}[[山内豊徳]] |{{Display none|68}}官僚([[環境省|環境庁]]) |[[縊死|首吊り]] |53歳 |[[1990年]]{{Display none|12/05-}}[[12月5日]] |[[環境省|環境庁]]企画調整局の現職局長。関連:[[水俣病]]訴訟<ref>[http://www.news.janjan.jp/government/0512/0512045937/1.php JANJAN 永田町ローバー(14)山崎拓氏が向かい合う歴史]</ref><ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/minamata/20060907/20060907_042.shtml 西日本新聞 岐路・役人たちの水俣病<7>苦悩 良心と職責のはざまで]</ref> |- |{{Display none|さとう やすし/}}[[佐藤泰志]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |41歳 |[[1990年]]{{Display none|10/10-}}[[10月10日]] | |- |{{Display none|わたなべ ひろゆき/}}[[渡辺博之]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |[[心中]]/[[縊死|首吊り]] |69歳 |[[1990年]]{{Display none|10/02-}}[[10月2日]] |妻と共に首吊り |- |{{Display none|かわい よしたか/}}[[河合義隆]] |{{Display none|20}}[[映画監督]]、[[演出家]] |[[縊死|首吊り]] |43歳 |[[1990年]]{{Display none|04/30-}}[[4月30日]] |不倫関係にあった女優[[荻野目慶子]](当時25歳)の自宅にて首吊り |- |{{Display none|ながおか ひろよし/}}[[長岡弘芳]] |{{Display none|24}}[[評論家]]、[[詩人]] |[[縊死|首吊り]] |57歳 |[[1989年]]{{Display none|08/14-}}[[8月14日]] |- |{{Display none|こまつばら しげお/}}[[小松原茂雄]] |{{Display none|74}}[[文学者]]([[英文学者]]) |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |60歳 |[[1988年]]{{Display none|11/30-}}[[11月30日]] |元[[東京大学教養学部]]教授、[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]の研究者。[[五反田駅]]にて飛び込み。 |- |{{Display none|なかや よしあき/}}[[仲谷義明]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、元[[都道府県知事|知事]] |[[縊死|首吊り]] |63歳 |[[1988年]]{{Display none|11/18-}}[[11月18日]] |元[[愛知県]][[都道府県知事|知事]]。知事を引退した5年後に自殺。 |- |{{Display none|ふるや しんご/}}[[古谷真吾]] |{{Display none|51}}[[阪神タイガース]]球団代表 |[[飛び降り]] |56歳 |[[1988年]]{{Display none|07/19-}}[[7月19日]] |球団代表就任により多忙となり、[[ランディ・バース]]の退団騒動と[[掛布雅之]]の引退騒動によるマスコミ対応で心労を重ね、東京都内のホテルで飛び降り自殺。 |- |{{Display none|いしざわ えいたろう/}}[[石沢英太郎]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |72歳 |[[1988年]]{{Display none|06/16-}}[[6月16日]] | |- |{{Display none|たみや とらひこ/}}[[田宮虎彦]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[飛び降り]] |76歳 |[[1988年]]{{Display none|04/09-}}[[4月9日]] | |- |{{Display none|みやぎ むねのり/}}[[宮城宗典]] |{{Display none|06}}[[音楽家|ミュージシャン]] |[[飛び降り]] |23歳 |[[1988年]]{{Display none|03/29-}}[[3月29日]] |ロカビリーグループ[[ヒルビリー・バップス]]のボーカル |- |{{Display none|なかしま いつこ/}}[[中島伊津子]] |{{Display none|34}}[[ファッションデザイナー]] |[[縊死|首吊り]] |36歳 |[[1988年]]{{Display none|03/14-}}[[3月14日]] |ファッションブランド[[ニコル (アパレル)|ニコル]]のデザイナー |- |{{Display none|あめみや だいじ/}}[[ダンテス・ダイジ|雨宮第二]] |{{Display none|99}} |[[自殺#ガス|ガス]] |37歳 |[[1987年]]{{Display none|12/11-}}[[12月11日]] |[[ヨーガ|ヨガ行者]]ダンテス・ダイジとしての著書『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』が、[[オウム真理教]]の教義に影響を与えたとされる<ref>[http://www5e.biglobe.ne.jp/~conspire/asyura_tomabeti_hypnotism.html 実話ナックルズ2004年5月号] - [[苫米地英人]]へのインタビュー記事</ref>。[[睡眠薬]]服用の上ガス自殺。 |- |{{Display none|さとう すけお/}}[[佐藤助雄]] |{{Display none|33}}彫刻家 |鉄道 |68歳 |[[1987年]]{{Display none|10/19-}}[[10月19日]] |元日本彫刻会委員長。[[日本芸術院賞]]、[[文部大臣賞]]等受賞。 |- |{{Display none|みくに れいこ/}}[[三国玲子]] |{{Display none|23}}[[歌人]] |[[飛び降り]] |63歳 |[[1987年]]{{Display none|08/05-}}[[8月5日]] |<!-- |- |{{Display none|なりた よしほ?(未確認/よしほではない可能性あり。検索では確認できず)/}}[[成田芳穂]] |{{Display none|51}}会社役員 |[[縊死|首吊り]] |60歳 |[[1987年]]{{Display none|01/16-}}[[1月16日]] |[[山一證券]]筆頭副社長non-notable--> |- |{{Display none|まんば よしはる/}}[[万場世志冶]] |{{Display none|67}}右翼活動家 |自刃/[[切腹]] |22歳 |[[1986年]]{{Display none|12/20-}}[[12月20日]] |昭和天皇御在位60年奉祝運動を終えた2日後、割腹の上[[総頸動脈|頸動脈]]を左右から切って自決。 |- |{{Display none|ひだか とみあき/}}[[日高富明]] |{{Display none|06}}[[音楽家|ミュージシャン]] |[[飛び降り]] |36歳 |[[1986年]]{{Display none|09/20-}}[[9月20日]] |フォークグループ[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]の元メンバー |- |{{Display none|おかだ ゆきこ/}}[[岡田有希子]] |{{Display none|01}}[[アイドル]] |[[飛び降り]] |18歳 |[[1986年]]{{Display none|04/08-}}[[4月8日]] |アイドルとしての人気絶頂期に所属先の[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]事務所屋上から投身。マスメディアで連日大きく報道されたことから、後に「'''ユッコ・シンドローム'''」と呼ばれる後追い自殺が多発し、大きな社会問題となった(いわゆる[[ウェルテル効果]])。 |- |{{Display none|えんどう やすこ/}}[[遠藤康子]] |{{Display none|01}}[[アイドル]] |[[飛び降り]] |17歳 |[[1986年]]{{Display none|03/30-}}[[3月30日]] |レコードデビュー直前、交友関係の清算を(特に恋人と別れるように)指示され悩んでいたとされる。 |- |{{Display none|すずき いづみ/}}[[鈴木いづみ]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |36歳 |[[1986年]]{{Display none|02/17-}}[[2月17日]] | |- |{{Display none|おおとも りゅうたろう/}}[[大友柳太朗]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[飛び降り]] |73歳 |[[1985年]]{{Display none|09/27-}}[[9月27日]] | |- |{{Display none|かもい れい/}}[[鴨居玲]] |{{Display none|32}}[[画家]] |[[自殺#ガス|ガス]] |57歳 |[[1985年]]{{Display none|09/07-}}[[9月7日]] | |- |{{Display none|うの よしひと/}}[[宇野功人]] |{{Display none|68}}[[官僚]]([[大蔵省|大蔵]]) |[[飛び降り]] | |[[1985年]]{{Display none|05/09-}}[[6月12日]] |大蔵省本省庁舎の屋上から飛び降り |- |{{Display none|わかやま せつこ/}}[[若山セツ子]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[縊死|首吊り]] |55歳 |[[1985年]]{{Display none|05/09-}}[[5月9日]] |躁鬱症状による奇行の末一度入院、一旦退院するが、姉と母を亡くしたあと再入院し、入院先で首吊り。 |- |{{Display none|きん かくえい/}}[[金鶴泳]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[自殺#ガス|ガス]] |46歳 |[[1985年]]{{Display none|01/04-}}[[1月4日]] | |- |{{Display none|ちば あきお/}}[[ちばあきお]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] |[[縊死|首吊り]] |41歳 |[[1984年]]{{Display none|09/13-}}[[9月13日]] |漫画家[[ちばてつや]]の実弟。アニメにもなった野球漫画『[[キャプテン (漫画)|キャプテン]]』『[[プレイボール (漫画)|プレイボール]]』の作者。 |- |{{Display none|うなやま ひろし/}}[[宇南山宏]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[心中]]/[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |48歳 |[[1984年]]{{Display none|06/16-}}[[6月16日]] | |- |{{Display none|なかやま さんきち/}}[[中山三吉]] |{{Display none|16}}[[芸人]] |[[縊死|首吊り]] |[[数え年|47歳*]] |[[1984年]]{{Display none|06/03-}}[[6月3日]] | |- |{{Display none|やまふじ ひろみ/}}[[山藤浩三]] |{{Display none|49}}[[競輪選手]] | style="white-space:nowrap;" |[[心中]]/一家心中 |39歳 |[[1984年]]{{Display none|05/00-}}[[5月]] |[[1964年東京オリンピック]]日本代表選手 |- |{{Display none|よだ いくこ/}}[[依田郁子]] |{{Display none|48}}元[[陸上競技|陸上選手]] |[[縊死|首吊り]] |45歳 |[[1983年]]{{Display none|10/14-}}[[10月14日]] |[[1964年東京オリンピック]]日本代表選手 |- |{{Display none|おき まさや/}}[[沖雅也]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[飛び降り]] |31歳 |[[1983年]]{{Display none|06/28-}}[[6月28日]] |テレビドラマ『[[太陽にほえろ!]]』のスコッチ刑事役や『[[俺たちは天使だ!]]』のキャップ役で知られた。[[京王プラザホテル]]の最上階から養父の[[日景忠男]]に宛てた遺書を残して投身自殺。 |- |{{Display none|まつもと ゆきお/}}[[松本幸男]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}現職[[国会議員|衆院議員]] |[[縊死|首吊り]] |56歳 |[[1983年]]{{Display none|01/28-}}[[1月28日]] |[[日本社会党|社会党]]衆議院議員。前年にも入院中に自殺未遂<ref>[http://www.geocities.jp/showahistory/history06/topics58a.html 誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ(昭和58年・上)]</ref>。 |- |{{Display none|すぎはら ただし/}}[[杉原正]] |{{Display none|68}}官僚([[警察庁]]) |[[縊死|首吊り]] |51歳 |[[1982年]]{{Display none|11/12-}}[[11月12日]] |[[大阪府警察]]で現職警察官多数が[[懲戒処分]]された[[大阪府警賭博ゲーム機汚職事件]]が自分の警察本部長在任中に起きていたことに対する引責 |- |{{Display none|えなつ みよし/}}[[江夏美好]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |59歳 |[[1982年]]{{Display none|07/17-}}[[7月17日]] | |- |{{Display none|あきもと ちかし/}}[[秋元近史]] |{{Display none|19}}[[ディレクター|TVディレクター]] |[[飛び降り]] |49歳 |[[1982年]]{{Display none|04/04-}}[[4月4日]] |バラエティ番組『[[シャボン玉ホリデー]]』のディレクター |- |{{Display none|やまもと ひろし/}}[[山本弘 (画家)|山本弘]] |{{Display none|32}}[[画家]] |[[縊死|首吊り]]<!--https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20061113/1163368343--> |51歳 |[[1981年]]{{Display none|07/15-}}[[7月15日]] | |- |{{Display none|しゅんぷうてい いちりゅう/}}[[春風亭一柳]] |{{Display none|16}}[[落語家]] |[[飛び降り]] |45歳 |[[1981年]]{{Display none|07/09-}}[[7月9日]] |師匠・[[三遊亭圓生 (6代目)|三遊亭圓生]]の死、[[落語協会分裂騒動]]の暴露本出版がきっかけで精神を病み、自宅の団地屋上から飛び降り自殺。 |- |{{Display none|なかた ぐんじ/}}[[Wヤング#元メンバー|中田軍治]] |{{Display none|16}}[[芸人]] |[[飛び降り]] |41歳 |[[1979年]]{{Display none|10/25-}}[[10月25日]] |漫才コンビ[[Wヤング]]のメンバー |- |{{Display none|やまぎし しょうじ/}}[[山岸章二]] |{{Display none|29}}[[編集者]]、[[写真評論家]] |[[縊死|首吊り]] |[[数え年|50歳*]] |[[1979年]]{{Display none|07/20-}}[[7月20日]] | |- |{{Display none|かげやま まさはる/}}[[影山正治]] |{{Display none|67}}右翼活動家、[[歌人]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|散弾銃]] |68歳 |[[1979年]]{{Display none|05/25-}}[[5月25日]] |割腹の上、[[散弾銃]]により自決。 |- |{{Display none|おおした ひろし/}}[[大下弘]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |56歳 |[[1979年]]{{Display none|05/23-}}[[5月23日]] |青バットの大下として絶大的な人気を誇ったプロ野球選手。本塁打王、首位打者を3度獲得。 |- |{{Display none|えぐち しんいち/}}[[江口榛一]] |{{Display none|23}}[[詩人]]、[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |65歳 |[[1979年]]{{Display none|04/18-}}[[4月18日]] | |- |{{Display none|つしま ただゆき/}}[[対馬忠行]] |{{Display none|72}}[[マルクス主義]][[思想家]] |[[入水]] |77歳 |[[1979年]]{{Display none|04/11-}}[[4月11日]] |[[播磨灘]]を航行中のフェリーから入水 |- |{{Display none|たみや じろう/}}[[田宮二郎]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|猟銃]] |43歳 |[[1978年]]{{Display none|12/28-}}[[12月28日]] |テレビドラマ『[[白い巨塔 (1978年のテレビドラマ)|白い巨塔]]』の[[財前五郎]]役や[[クイズ番組]]『[[クイズタイムショック]]』の初代司会などで知られた。 |- |{{Display none|はたけやま ばく/}}[[畠山麦]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |34歳 |[[1978年]]{{Display none|07/13-}}[[7月13日]] |『[[秘密戦隊ゴレンジャー]]』のキレンジャー |- |{{Display none|せき りょういち/}}[[関良一]] |{{Display none|74}}[[文学者]](日本文学) | |60歳 |[[1978年]]{{Display none|03/10-}}[[3月10日]] | |- |{{Display none|いがめ あおい/}}[[井亀あおい]] |{{Display none|79}}高校生 |[[飛び降り]] |17歳 |[[1977年]]{{Display none|11/19-}}[[11月19日]] |[[福岡県立戸畑高等学校]]2年生。没後に遺稿集『もと居た所』『アルゴノオト あおいの日記』が刊行され、評価された。 |- |{{Display none|とみどころ しょういち/}}[[富所正一]] |{{Display none|06}}[[音楽家|ミュージシャン]] |[[入水]] |25歳 |[[1977年]]{{Display none|03/20-}}[[3月20日]] |新潟県[[三条市]]の三条大橋から[[信濃川]]に投身。 |- |{{Display none|たけざわ やしち/}}[[竹沢弥七#十代目|竹沢弥七]] |{{Display none|38}}[[義太夫節]]三味線方<br />[[人間国宝]] |[[入水]] |66歳 |[[1976年]]{{Display none|10/24-}}[[10月24日]] | |- |{{Display none|ひだか としひこ/}}[[日高敏彦]] |{{Display none|67左/}}新左翼活動家 |[[縊死|首吊り]] |31歳<!--http://yabusaka.moo.jp/nihonsekigun.htm--> |[[1976年]]{{Display none|10/02-}}[[10月2日]] |[[日本赤軍]]メンバー。1975年8月に発生した[[クアラルンプール事件]]の実行犯。事件の翌年[[ヨルダン]]で拘束され、取り調べ中に獄中自殺。 |- |{{Display none|たなか せいいち/}}[[田中精一 (経済学者)|田中精一]] |{{Display none|}}経済学者、大学学長 |[[飛び降り]]/心中 |69歳 |[[1976年]]{{Display none|09/15-}}[[9月15日]] |妻とともに飛行中のセスナ機から飛び降り([[日本の航空事故#1976年]]) |- |{{Display none|もり げんじろう/}}[[森源二郎]] |{{Display none|68}}[[官僚]]([[大蔵省|大蔵]]) |[[飛び降り]] | |[[1976年]]{{Display none|05/09-}}[[8月27日]] |大蔵省本省庁舎の屋上から飛び降り |- |{{Display none|むらかみ ともゆき/}}[[村上知行]] |{{Display none|29}}[[翻訳家]] |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |77歳 |[[1976年]]{{Display none|03/23-}}[[3月23日]] |[[中国]]および[[中国文学]]の研究者で、[[三国志演義|三国志]]・[[水滸伝]]・[[西遊記]]など[[四大奇書]]の現代語訳で知られた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E7%9F%A5%E8%A1%8C-1114631 コトバンク 村上知行]</ref>。自宅にて鉛筆削り用の小型ナイフで自刃<ref>[http://www.geocities.jp/showahistory/history06/topics51a.html 誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ(昭和51年・上)]</ref>。 |- |{{Display none|まえの そういちろう/}}[[前野霜一郎]] |{{Display none|}}[[俳優]] |激突死 |29歳 |[[1976年]]{{Display none|03/23-}}[[3月23日]] |[[児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件]]犯人 |- |{{Display none|つじ まこと/}}[[辻まこと]] |{{Display none|23}}[[詩人]]、[[画家]] |[[縊死|首吊り]] |62歳 |[[1975年]]{{Display none|12/19-}}[[12月19日]] |[[辻潤]]、[[伊藤野枝]]の息子。 |- |{{Display none|こぼり やすざぶろう/}}[[小堀保三郎]] |{{Display none|51}}[[実業家]]、[[自動車技術者の一覧|自動車技術者]] |[[心中]]/[[自殺#ガス|ガス]] |76歳 |[[1975年]]{{Display none|08/30-}}[[8月30日]] |[[エアバッグ]]の発明者。研究開発に私財を投じ[[特許]]も取得したが、発明当初はすぐに実用化されるに至らず、借金苦・生活苦から妻と共にガス心中した(エアバッグの実用化は[[1980年代]]で、普及は[[1990年代]]中盤以降である)。 |- |{{Display none|おか まさふみ/}}[[岡真史]] |{{Display none|79}}作家[[高史明]]の子息 |[[飛び降り]] |12歳 |[[1975年]]{{Display none|07/17-}}[[7月17日]] |遺稿集として詩集『ぼくは12歳』が出版され、[[ドラマ人間模様|NHKでドラマ化]]された。 |- |{{Display none|やすくら さちえ/}}[[保倉幸恵]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]]、[[モデル_(職業)|モデル]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |22歳 |[[1975年]]{{Display none|07/08-}}[[7月8日]] | |- |{{Display none|さいとう のどか/}}[[齋藤和]] |{{Display none|67左/}}新左翼活動家 |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |27歳 |[[1975年]]{{Display none|05/19-}}[[5月19日]] |[[東アジア反日武装戦線]]「大地の牙」メンバー。部隊の事実上のリーダーとして[[連続企業爆破事件]]に関与したとされる。逮捕直後、隠し持っていた青酸カリで取り調べ中に自殺。 |- |{{Display none|とみなが みさこ/}}[[富永美沙子]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[心中]]/{{Display none|ガス/}}[[自殺#ガス|排ガス]] |41歳 |[[1975年]]{{Display none|05/02-}}[[5月2日]][[#遺体発見日|**]] |[[支笏湖]]畔にて排ガス心中、5月2日に遺体発見<ref>[http://www.matsuyomi.co.jp/showashi/showashi_BN_031.html 松戸よみうり新聞 私の昭和史]</ref><ref>[http://hiro32612000.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/19755058_5161.html 日本の娯楽史 昭和の娯楽 50年(1975年)]</ref>。 |- |{{Display none|なかむら えいこ/}}[[中村英子]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[自殺#ガス|ガス]] |24歳 |[[1975年]]{{Display none|03/30-}}[[3月30日]] | |- |{{Display none|むらかみ いちろう/}}[[村上一郎]] |{{Display none|24}}[[文芸評論|文芸評論家]] |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |54歳 |[[1975年]]{{Display none|03/29-}}[[3月29日]] |[[三島事件]]から5年後の自刃。 |- |{{Display none|すぎやま とし/}}[[杉山登志]] |{{Display none|19}}[[CMディレクター]] |[[縊死|首吊り]] |37歳 |[[1973年]]{{Display none|12/12-}}[[12月12日]] | |- |{{Display none|おおば ひろよし/}}[[大場啓仁]] |{{Display none|74}}[[文学者]](英米文学) | style="white-space:nowrap;" |[[心中]]/一家心中 |38歳 |[[1973年]]{{Display none|09/06-}}[[9月6日]] |[[立教大学]]助教授。殺人を犯し、自首の直前に家族を巻き込んで自殺。 |- |{{Display none|こばやし みよこ/}}[[小林美代子 (小説家)|小林美代子]] |{{Display none|22}}[[作家]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |56歳 |[[1973年]]{{Display none|08/18-}}[[8月18日]] | |- |{{Display none|わだ つるいち/}}[[和田鶴一]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}元[[国会議員|参院議員]] |[[自殺#ガス|ガス]] |61歳 |[[1973年]]{{Display none|06/01-}}[[6月1日]] | |- |{{Display none|おおつじ しろう/}}[[大辻伺郎]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |38歳 |[[1973年]]{{Display none|05/21-}}[[5月21日]] |[[ホテルオークラ東京]]本館の客室にて自殺。晩年は趣味への投資で抱えた多額の[[借金]]で悩んでおり、自殺前日には[[交通事故]]を起こして事故相手から暴行を受けていた。 |- |{{Display none|まつもと きんしろう/}}[[松本錦四郎]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[自殺#ガス|ガス]] |39歳 |[[1973年]]{{Display none|01/20-}}[[1月20日]] | |- |{{Display none|もり つねお/}}[[森恒夫]] |{{Display none|67左/}}新左翼活動家 |[[縊死|首吊り]] |28歳 |[[1973年]]{{Display none|01/01-}}[[1月1日]] |[[連合赤軍]]委員長。[[山岳ベース事件]]の首謀者。[[東京拘置所]]にて獄中自殺。 |- |{{Display none|ゆげ たろう/}}[[弓削太郎]] |{{Display none|20}}[[映画監督]] |[[縊死|首吊り]] |[[数え年|51歳*]] |[[1973年]]{{Display none|05/20-}}[[5月20日]][[#遺体発見日|**]] |1972年に行方不明となり、1973年5月20日にミイラ化した状態で発見された。 |- |{{Display none|せごえ けんさく/}}[[瀬越憲作]] |{{Display none|99}}[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]] | |83歳 |[[1972年]]{{Display none|07/27-}}[[7月27日]] | |- |{{Display none|かわばた やすなり/}}[[川端康成]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[自殺#ガス|ガス]] |72歳 |[[1972年]]{{Display none|04/16-}}[[4月16日]] |[[ノーベル文学賞]]受賞者。逗子マリーナマンション407号室でガス自殺。遺書は無し。 |- |{{Display none|けんもち いさむ/}}[[剣持勇]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|34}}[[インテリアデザイナー]] |[[自殺#ガス|ガス]] |59歳 |[[1971年]]{{Display none|06/03-}}[[6月3日]] | |- |{{Display none|もりた まさかつ/}}[[森田必勝]] |{{Display none|67}}右翼活動家 |自刃/[[切腹]] |25歳 |[[1970年]]{{Display none|11/25-}}[[11月25日]]{{Display none|-2}} |[[楯の会]]メンバー。[[三島由紀夫]]と共に自刃([[三島事件]])。 |- |{{Display none|みしま ゆきお/}}[[三島由紀夫]] |{{Display none|22}}[[作家]] |自刃/[[切腹]] |45歳 |[[1970年]]{{Display none|11/25-}}[[11月25日]]{{Display none|-1}} |[[市ヶ谷駐屯地]]にて自衛隊決起を呼び掛ける演説をしたのち割腹([[三島事件]]、[[檄 (三島由紀夫)|檄文]])。 |- |{{Display none|やまむら まさあき/}}[[山村政明]] |{{Display none|79}}学生 |[[焼身自殺|焼身]] |25歳 |[[1970年]]{{Display none|10/06-}}[[10月6日]] |日本に[[帰化]]した[[在日韓国・朝鮮人|在日2世]]。[[早稲田大学]][[大隈講堂]]前で焼身。遺稿集『いのち燃えつきるとも』<ref>[[山村政明]]遺稿集『いのち燃えつきるとも』[[大和書房]]、1971年、[[ASIN]] B000J9HKWS</ref> |- |{{Display none|はんだ よしゆき/}}[[半田義之]] |{{Display none|22}}[[作家]] | |59歳 |[[1970年]]{{Display none|08/02-}}[[8月2日]] |[[芥川龍之介賞|芥川賞]]作家(1939年受賞) |- |{{Display none|かわつ けんたろう/}}[[河津憲太郎]] |{{Display none|48}}元[[水泳選手一覧|水泳選手]] |[[焼身自殺|焼身]] |55歳 |[[1970年]]{{Display none|03/24-}}[[3月24日]] |[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]男子100M背泳ぎの銅メダリスト |- |{{Display none|おおた やえこ/}}[[太田八重子]] |{{Display none|18}}[[ヌードモデル]] |[[入水]] |25歳 |[[1969年]]{{Display none|12/10-}}[[12月10日]] |[[シンナー]]を用いた窒息自殺という説もある。 |- |{{Display none|たかの えつこ/}}[[高野悦子 (大学生)|高野悦子]] |{{Display none|79}}学生 |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |20歳 |[[1969年]]{{Display none|06/24-}}[[6月24日]] |死後に出版された遺稿集『[[二十歳の原点]]』がベストセラーになる |- |{{Display none|えとう こさぶろう/}}[[江藤小三郎]] |{{Display none|67}}右翼活動家、[[陸上自衛官]] |[[焼身自殺|焼身]] |23歳 |[[1969年]]{{Display none|02/11-}}[[2月11日]] |[[江藤新平]]の曾孫。「[[江藤小三郎#「覚醒書」|覚醒書]]」を遺し[[国会議事堂]]前で焼身。その1年9カ月後に[[三島事件|楯の会事件]]で自決する[[三島由紀夫]]に影響を与えたといわれる。{{main|三島由紀夫#決起に至った理由}} |- |{{Display none|つぶらや こうきち/}}[[円谷幸吉]] |{{Display none|41}}[[マラソン選手一覧|マラソン選手]] |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |27歳 |[[1968年]]{{Display none|01/09-}}[[1月9日]] |[[1964年東京オリンピック]]男子マラソン銅メダリスト。「父上様 母上様 三日とろゝ美味しうございました」で始まる遺書を記している。 |- |{{Display none|あさくさ しろう/}}[[姿三平・浅草四郎|浅草四郎]] |{{Display none|16}}芸人 |[[縊死|首吊り]] |40歳? |[[1968年]]{{Display none|}} |病院で入院中に自殺。 |- |{{Display none|ゆい ちゅうのしん/}}[[由比忠之進]] |{{Display none|67}}[[反戦運動|反戦運動家]]、[[エスペランティスト]] |[[焼身自殺|焼身]] |73歳 |[[1967年]]{{Display none|11/12-}}[[11月12日]] |[[ベトナム戦争]]に賛同する日本政界への抗議として、[[総理大臣官邸|首相官邸]]前で焼身自殺。由比の自殺は1963年6月の[[ティック・クアン・ドック]]師の焼身を範としている。ドック師の焼身は[[:en:File:Thích Quảng Đức self-immolation.jpg|その写真]]と共に広く報道され、アメリカでは[[アリス・ハーズ]](1965年3月)ら8人が、フランスでは[[フランシーヌ・ルコント]]<!--現在[[新谷のり子]]へのリダイレクトになってるが… 新谷=フランシーヌではないのでいずれ記事化される可能性を考えそのままリンク-->(1969年3月)が、ドック師や由比と同じく抗議の焼身を遂げている。 |- |{{Display none|まるい たろう/}}[[丸井太郎]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[自殺#ガス|ガス]] |31歳 |[[1967年]]{{Display none|09/06-}}[[9月6日]] | |- |{{Display none|やすひら しかいち<!--[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%B9%B3%E9%B9%BF%E4%B8%80-1116568]-->/}}[[安平鹿一]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}元[[国会議員|衆院議員]] | |65歳 |[[1967年]]{{Display none|01/17-}}[[1月17日]] |[[日本社会党]]の元衆議院議員。1960年に病気で政界を退いたあと自宅療養していたが、1967年1月17日に自宅で死亡しているところを発見された。[[検死]]の結果、自殺と判明した。 |- |{{Display none|たに あきら/}}[[谷晃]] |{{Display none|01}}[[俳優]]、[[演出家]] |[[縊死|首吊り]] |55歳 |[[1966年]]{{Display none|08/11-}}[[8月11日]] | |- |{{Display none|いちかわ だんぞう/}}[[市川團蔵 (8代目)|市川團蔵]] |{{Display none|03}}[[歌舞伎|歌舞伎役者]] |[[入水]] |84歳 |[[1966年]]{{Display none|06/04-}}[[6月4日]] | |- |{{Display none|やなぎや きんぺい/}}[[柳家きん平]] |{{Display none|16}}[[落語家]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |44歳 |[[1966年]]{{Display none|04/24-}}[[4月24日]] | |- |{{Display none|たにぐち ひとみ/}}[[谷口ひとみ]] |{{Display none|31}}[[漫画家]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |18歳 |[[1966年]]{{Display none|04/10-}}[[4月10日]] | |- |{{Display none|きよむら こうじ/}}[[清村耕次]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[縊死|首吊り]] |40歳 |[[1966年]]{{Display none|02/01-}}[[2月1日]] | |- |{{Display none|しまだ とん/}}[[島田屯]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[心中]]/[[自殺#ガス|ガス]] |48歳 |[[1965年]]{{Display none|11/07-}}[[11月7日]] |息子と共に心中<ref>桑原稲敏 『往生際の達人』 新潮社、1998年、132頁。</ref>。 |- |{{Display none|こいずみ ぐんじ/}}[[小泉軍治]] |{{Display none|41}}[[柔道家]] |[[窒息]] |79歳 |[[1965年]]{{Display none|04/15-}}[[4月15日]] |柔道をイギリスに紹介し「イギリス柔道の父」と呼ばれた人物。 |- |{{Display none|おく こうへい/}}[[奥浩平]] |{{Display none|79}}学生 |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |21歳 |[[1965年]]{{Display none|03/06-}}[[3月6日]] |学生運動活動家。死後、遺稿集『青春の墓標』が出版された。 |- |{{Display none|いじゅういん ひろし/}}[[伊集院浩]] |{{Display none|25}}新聞記者、プロレス解説者 |自刃/[[切腹]] |55歳 |[[1963年]]{{Display none|02/20-}}[[2月20日]] |元[[毎日新聞]]記者。 |- |{{Display none|おがわ きくまつ/}}[[小川菊松]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |{{Display none|銃/}}[[猟銃]] |[[数え年|75歳*]] |[[1962年]]{{Display none|07/03-}}[[7月3日]] |[[誠文堂新光社]]創業者・社長。 |- |{{Display none|ながとし ゆうきち/}}[[永利勇吉]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |41歳 |[[1962年]]{{Display none|06/27-}}[[6月27日]] | |- |{{Display none|きしがみ だいさく/}}[[岸上大作]] |{{Display none|23}}[[歌人]] |[[縊死|首吊り]] |21歳 |[[1960年]]{{Display none|12/05-}}[[12月5日]] | |- |{{Display none|やまぐち おとや/}}[[山口二矢]] |{{Display none|67}}右翼[[テロリスト]] |[[縊死|首吊り]] |17歳 |[[1960年]]{{Display none|11/02-}}[[11月2日]] |[[浅沼稲次郎暗殺事件]]の実行犯。東京[[少年鑑別所]]にて首吊り。 |- ||{{Display none|うきよてい ゆめわか/}}[[浮世亭夢若]] |{{Display none|16}}[[芸人]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |45歳 |[[1960年]]{{Display none|10/05-}}[[10月5日]] |漫才コンビ・[[松鶴家光晴・浮世亭夢若]]のメンバー。一部関係者が自殺を否定している。 |- |{{Display none|なとり しゅんせん/}}[[名取春仙]] |{{Display none|32}}[[画家]]、[[浮世絵|浮世絵師]] |[[服毒]] |74歳 |[[1960年]]{{Display none|03/30-}}[[3月30日]] |青山にある高徳寺の先祖の墓前にて妻と共に服毒<ref>[http://shunsen.art-museum.city.minami-alps.yamanashi.jp/NATORI/nenpu.html 南アルプス市立春仙美術館 名取春仙 年譜]</ref> |- |{{Display none|ひの あしへい/}}[[火野葦平]] |{{Display none|22}}[[作家]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |53歳 |[[1960年]]{{Display none|01/24-}}[[1月24日]] |当初は[[病死]]と思われたが、後に自殺の経緯を記したノートが発見される。13回忌で公表された。 |- |{{Display none|たけわき しょうさく/}}[[竹脇昌作]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |[[縊死|首吊り]] |49歳 |[[1959年]]{{Display none|11/09-}}[[11月9日]] |元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー。俳優[[竹脇無我]]の父。 |- |{{Display none|たにやま とよ/}}[[谷山豊]] |{{Display none|74}}[[数学者]] |[[自殺#ガス|ガス]] |31歳 |[[1958年]]{{Display none|11/17-}}[[11月17日]] | |- |{{Display none|さかもと むつこ/}}[[坂本睦子]] |{{Display none|99}} |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |44歳 |[[1958年]]{{Display none|04/15-}}[[4月15日]] |[[大岡昇平]]の小説『花影』のモデル。戦前文壇のミューズ。長く大岡と愛人関係にあったが、別離の1年後に自殺。 |- |{{Display none|くぼ さかえ/}}[[久保栄]] |{{Display none|21}}[[劇作家]]、[[演出家]] |[[縊死|首吊り]] |57歳 |[[1958年]]{{Display none|03/15-}}[[3月15日]] | |- | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|あいしんかくら えいせい/}}[[愛新覚羅慧生]] |{{Display none|79}}学生 |[[心中]]/[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |19歳 |[[1957年]]{{Display none|12/10-}}[[12月10日]] |[[愛新覚羅溥儀]]の姪。同級生男性と[[心中|情死]]。※ただし異説もあり。[[天城山心中|天城山心中事件]]参照。 |- |{{Display none|くすのき しげお/}}[[楠木繁夫]] |{{Display none|05}}[[歌手]] |[[縊死|首吊り]] |51歳 |[[1956年]]{{Display none|12/14-}}[[12月14日]] |[[流行歌]]歌手。戦前の歌謡界をリードした歌手の一人。 |- |{{Display none|おかだ ひさきち/}}[[岡田壽吉]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、元[[市町村長|市長]] |[[縊死|首吊り]] |62歳?<ref>失踪年月日と遺体発見年月日に大きな差があるため、失踪年月日を没日とした年齢を記載。</ref> |[[1956年]]{{Display none|11/18-}}[[11月18日]][[#遺体発見日|**]] |元[[長崎県]][[長崎市]]長。1949年3月6日に失踪。失踪から7年以上経過してから、[[八郎岳]]で白骨死体が見つかり、自殺と断定された。 |- |{{Display none|いしかわ りきお/}}[[石川力夫]] |{{Display none|99}}[[ヤクザ]] |[[飛び降り]] |30歳 |[[1956年]]{{Display none|02/02-}}[[2月2日]] |[[藤田五郎 (小説家)|藤田五郎]]の小説『[[仁義の墓場]]』のモデル。服役中に自殺。 |- |{{Display none|はっとり たつ/}}[[服部達]] |{{Display none|24}}[[文芸評論|文芸評論家]] |[[低体温症|凍死]] |33歳 |[[1956年]]{{Display none|01/01-}}[[1月1日]] |[[睡眠薬]]服用のうえ真冬の八ヶ岳に分け入り凍死。遺体は半年のあいだ発見されなかった。 |- |{{Display none|もりやす しょうたろう/}}[[守安祥太郎]] |{{Display none|08}}[[ピアニスト]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |31歳 |[[1955年]]{{Display none|09/28-}}[[9月28日]] | |- |{{Display none|かとう みちお/}}[[加藤道夫]] |{{Display none|21}}[[劇作家]] |[[縊死|首吊り]] |35歳 |[[1953年]]{{Display none|12/22-}}[[12月22日]] |女優・[[加藤治子]]の最初の夫([[寡婦|未亡人]]となった治子は後に俳優の[[高橋昌也 (俳優)|高橋昌也]]と再婚したが、高橋とは1973年に離婚した)。 |- |{{Display none|くさか ようこ/}}[[久坂葉子]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |21歳 |[[1952年]]{{Display none|12/31-}}[[12月31日]] | |- |{{Display none|はら たみき/}}[[原民喜]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |45歳 |[[1951年]]{{Display none|03/13-}}[[3月13日]] | |- |{{Display none|はらだ けいきち/}}[[原田慶吉]] |{{Display none|74}}[[法学者]] |[[縊死|首吊り]] |47歳 |[[1950年]]{{Display none|09/01-}}[[9月1日]] |[[東京大学法学部]]教授。[[ローマ法]]学者。 |- |{{Display none|きむら そうた/}}[[木村荘太]] |{{Display none|22}}[[作家]]、[[翻訳家]] |[[縊死|首吊り]] |61歳 |[[1950年]]{{Display none|04/15-}}[[4月15日]] |[[成田山新勝寺|成田山公園]]にて縊死。4月16日朝、[[自殺]][[死体]]が発見された<ref>「文芸評論家 [[木村荘太]]氏(六十一)の首つり[[自殺]][[死体]]が十六日朝千葉県[[成田山新勝寺|成田山]]公園内で発見された。」『[[朝日新聞]]』昭和二十五年四月十六日〔成田発〕</ref> |- |{{Display none|かん すえはる/}}[[菅季治]] |{{Display none|74}}[[哲学者]] |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |32歳 |[[1950年]]{{Display none|04/06-}}[[4月6日]] |[[徳田要請問題]]で追及され、[[証人喚問]]の翌日に自殺。 |- |{{Display none|やまざき あきつぐ/}}[[山崎晃嗣]] |{{Display none|51}}会社社長 |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |26歳 |[[1949年]]{{Display none|11/24-}}[[11月24日]] |[[光クラブ]]社長。[[光クラブ事件]]で自殺。 |- |{{Display none|たなか ひでみつ/}}[[田中英光]] |{{Display none|22}}[[作家]] |自刃/手首 |36歳 |[[1949年]]{{Display none|11/03-}}[[11月3日]] |[[太宰治]]の墓前で[[睡眠薬]]服用の上手首を切って自殺 |- |{{Display none|ひがしうら しょうじ/}}[[東浦庄治]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}現職[[国会議員|参院議員]] |[[縊死|首吊り]] |51歳 |[[1949年]]{{Display none|09/02-}}[[9月2日]] |[[緑風会]]所属、[[東京大学|東大]]講師、農業共済保険協会会長。<ref>[http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics24b.html 誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ(昭和24年7~12月)]</ref> |- |{{Display none|ながさわ のぶこ/}}[[長沢延子]] |{{Display none|23}}[[詩人]] |[[服毒]] |17歳 |[[1949年]]{{Display none|06/01-}}[[6月1日]] |1946年に入水を遂げた[[原口統三]]に強い影響を受けたとされる。遺稿集『友よ私が死んだからとて』 |- |{{Display none|たかぎ まさなり/}}[[高木正得]] |{{Display none|81}}[[華族]]、元[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、{{Display none|74}}[[昆虫学|昆虫学者]] |[[縊死|首吊り]] |54歳 |[[1948年]]{{Display none|11/01-}}[[11月1日]][[#遺体発見日|**]] |[[1948年]][[7月8日]]、[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を携えて遺書を残し失踪。その4カ月後、[[奥多摩]]の山中で[[白骨化|白骨]]となって発見された。 |- |{{Display none|だざい おさむ/}}[[太宰治]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[心中]]/[[入水]] |38歳 |[[1948年]]{{Display none|06/13-}}[[6月13日]] |[[山崎富栄]]と共に[[玉川上水]]へ入水。富栄による[[心中|無理心中]]説あり。 |- |{{Display none|やまがみ みつじ/}}[[山上光治]] |{{Display none|99}}[[ヤクザ]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |[[数え年|25歳*]] |[[1948年]]{{Display none|03/23-}}[[3月23日]] |映画『[[仁義なき戦い 広島死闘篇]]』のモデル。 |- |{{Display none|なかざわ せつこ/}}[[中澤節子]] |{{Display none|79}}学生 |[[服毒]] |17歳 |[[1947年]]{{Display none|09/00-}}[[9月]] |「哲学少女の自殺」として報道され、遺稿集『花ちりぬ』が出版された。 |- |{{Display none|しみず とおる/}}[[清水澄]] |{{Display none|74}}[[法学者]]、最後の[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長 |[[入水]] |78歳 |[[1947年]]{{Display none|09/25-}}[[9月25日]] |[[日本国憲法|新憲法]]施行に際し、「幽界より[[国体]]を護持し[[昭和天皇|今上陛下]]の御在位を見守らんと欲する」がゆえに自決した。[[大日本帝国憲法|明治憲法]]に殉じたとも言われる。''遺言の全文と詳細は[[清水澄]]を参照。'' |- |{{Display none|あだち はたぞう/}}[[安達二十三]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|陸軍中将]] |自刃/[[切腹]] |57歳 |[[1947年]]{{Display none|09/10-}}[[9月10日]] |[[第18軍 (日本軍)|ニューギニア方面司令官]]。終戦後、すべての部下が解放されるのを待って自決。のちに作家[[山田風太郎]]は、その著書の中で、安達の身の処し方を極めて肯定的に評価している。 |- |{{Display none|はらぐち とうぞう/}}[[原口統三]] |{{Display none|79}}学生、[[詩人]] |[[入水]] |19歳 |[[1946年]]{{Display none|10/25-}}[[10月25日]] |『二十歳のエチュード』の作者 |- |{{Display none|くさば たつみ/}}[[草場辰巳]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|陸軍中将]] |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |58歳 |[[1946年]]{{Display none|09/17-}}[[9月17日]] |[[山崎豊子]]の小説『[[不毛地帯]]』に登場する秋津中将(秋津紀武)のモデルといわれる。 |- |{{Display none|あんどう りきち/}}[[安藤利吉]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |[[服毒]] |62歳 |[[1946年]]{{Display none|06/19-}}[[6月19日]] | |- |{{Display none|みのだ むねき/}}[[蓑田胸喜]] |{{Display none|67右/}}右翼思想家、[[慶應義塾大学|慶大]]教授 |[[縊死|首吊り]] |52歳 |[[1946年]]{{Display none|01/30-}}[[1月30日]] |戦中右翼の理論的指導者の一人だったが、終戦後に自殺。発狂による[[横難横死|横死]]との説もある。 |- |{{Display none|このえ ふみまろ/}}[[近衛文麿]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政//閣僚/}}元[[内閣総理大臣|首相]] |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |54歳 |[[1945年]]{{Display none|12/16-}}[[12月16日]] | |- |{{Display none|のうみ としろう/}}[[納見敏郎]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|陸軍中将]] |[[服毒]] |51歳 |[[1945年]]{{Display none|12/13-}}[[12月13日]] | |- |{{Display none|ほんじょう しげる/}}[[本庄繁]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |自刃/[[切腹]] |69歳 |[[1945年]]{{Display none|11/30-}}[[11月30日]] |終戦時すでに現役を退いていたが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]からの戦犯指定を受け、[[陸軍大学校]]の理事長室にて割腹。 |- |{{Display none|よしもと ていいち/}}[[吉本貞一]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |自刃/[[切腹]] |58歳 |[[1945年]]{{Display none|09/14-}}[[9月14日]] | |- |{{Display none|はしだ くにひこ/}}[[橋田邦彦]] |{{Display none|71}}[[医学者]]、元[[文部大臣]] |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |63歳 |[[1945年]]{{Display none|09/14-}}[[9月14日]] |[[第2次近衛内閣|第2次]]・[[第3次近衛内閣]]・[[東條内閣]]で文部大臣 |- |{{Display none|こいずみ ちかひこ/}}[[小泉親彦]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|61}}軍人、陸軍[[軍医総監]] |自刃/[[切腹]] |61歳 |[[1945年]]{{Display none|09/13-}}[[9月13日]] |[[第3次近衛内閣]]・[[東條内閣]]で[[厚生大臣]] |- |{{Display none|すぎやま はじめ/}}[[杉山元]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |65歳 |[[1945年]]{{Display none|09/12-}}[[9月12日]] |大戦期の指導部で[[陸軍大臣]]、[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]など要職を歴任。夫自決の報を聞いた妻啓子も後を追って自決した。 |- |{{Display none|みうら じょう/}}[[三浦襄]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |57歳 |[[1945年]]{{Display none|09/07-}}[[9月7日]] |[[大東亜戦争]]の大義を信じ[[インドネシア]]の独立のために活動した実業家。日本の敗戦によって[[バリ島]]の人々との約束を果たせなくなったため、彼らに詫び、「日本人皆の責任を負って」自決した。 |- |{{Display none|くらば とみさぶろう/}}[[倉場富三郎]] |{{Display none|51}}[[実業家]]、[[水産学|水産学者]] |[[縊死|首吊り]] |74歳 |[[1945年]]{{Display none|08/26-}}[[8月26日]] |[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]]の息子 |- |{{Display none|たなか しずいち/}}[[田中静壱]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |57歳 |[[1945年]]{{Display none|08/24-}}[[8月24日]] | |- |{{Display none|あまかす まさひこ/}}[[甘粕正彦]] |{{Display none|61}}軍人、{{Display none|陸軍/}}[[満州映画協会|満映]]理事長、元陸軍[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]大尉 |{{Display none|服毒/}}[[シアン化カリウム|青酸カリ]] |54歳 |[[1945年]]{{Display none|08/20-}}[[8月20日]] | |- |{{Display none|はすだ ぜんめい/}}[[蓮田善明]] |{{Display none|24}}[[文芸評論|文芸評論家]]、軍人 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |41歳 |[[1945年]]{{Display none|08/19-}}[[8月19日]] |[[三島由紀夫]]の思想形成に大きな影響を与えた人物 |- |{{Display none|はるき まこと/}}[[晴気誠]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍少佐、[[大本営]]参謀 |自刃/[[切腹]] |32歳 |[[1945年]]{{Display none|08/17-}}[[8月17日]] | |- |{{Display none|おおにし たきじろう/}}[[大西瀧治郎]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|海軍中将]] |自刃/[[切腹]] |54歳 |[[1945年]]{{Display none|08/16-}}[[8月16日]] |[[特別攻撃隊|特攻]]の父と呼ばれた軍人。<!--終戦時、死んでいった特攻隊員たちに詫びるため、「生き残るようにしてくれるな」と-->手当てを拒否し、介錯を付けずに割腹、15時間余り苦しんで死んだという。 |- |{{Display none|おかもと きよとみ/}}[[岡本清福]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|陸軍中将]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |51歳 |[[1945年]]{{Display none|08/15-}}[[8月15日]] |赴任先の[[チューリッヒ]]の自宅で自殺。 |- |{{Display none|てらもと くまいち/}}[[寺本熊市]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|陸軍中将]] |自刃/[[切腹]] |56歳 |[[1945年]]{{Display none|08/15-}}[[8月15日]] | |- |{{Display none|あなみ これちか/}}[[阿南惟幾]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |自刃/[[切腹]] |58歳 |[[1945年]]{{Display none|08/15-}}[[8月15日]] |[[鈴木貫太郎内閣]]で陸軍大臣だった時に終戦を迎え、自決。内閣制度発足以来、現職閣僚として自殺した最初の人物となった(2人目はその62年後の[[松岡利勝]])。 |- |{{Display none|こが ひでまさ/}}[[古賀秀正]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍少佐 |自刃/[[切腹]] |26歳 |[[1945年]]{{Display none|08/15-}}[[8月15日]]{{Display none|12時過ぎ}} |[[玉音放送]]直前に発生した[[クーデター]]未遂事件([[宮城事件]])の首謀者の一人。割腹の上、口内に拳銃を用いた。 |- |{{Display none|しいざき じろう/}}[[椎崎二郎]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍中佐 |自刃/[[切腹]] |33歳 |[[1945年]]{{Display none|08/15-}}[[8月15日]]{{Display none|11時過ぎ}} |[[玉音放送]]直前に発生した[[クーデター]]未遂事件([[宮城事件]])の首謀者の一人。[[畑中健二]]と共に皇居前で自決。割腹の上、頭部に拳銃を用いた。 |- |{{Display none|はたなか けんじ/}}[[畑中健二]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍少佐 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |33歳 |[[1945年]]{{Display none|08/15-}}[[8月15日]]{{Display none|11時過ぎ}} |[[玉音放送]]直前に発生した[[クーデター]]未遂事件([[宮城事件]])の首謀者の一人。[[椎崎二郎]]と共に皇居前で自決。 |- |{{Display none|ぬのい りょうすけ/}}[[布井良助]] |{{Display none|41}}[[テニス|テニス選手]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |36歳 |[[1945年]]{{Display none|07/21-}}[[7月21日]] |出征先の[[ミャンマー|ビルマ]]で自殺。 |- |{{Display none|うしじま みつる/}}[[牛島満]] |{{Display none|61}}軍人、[[中将#日本|陸軍中将]]<!--死後に大将に昇進--> |自刃/[[切腹]] |57歳 |[[1945年]]{{Display none|06/23-}}[[6月23日]] |[[第32軍 (日本軍)|沖縄守備軍]]司令官。参謀長[[長勇]]中将らと共に自決、これをもって[[沖縄戦]]は終結した。 |- |{{Display none|おおた みのる/}}[[大田実]] |{{Display none|61}}軍人、[[少将#日本|海軍少将]]<!--死後に中将に昇進--> |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |54歳 |[[1945年]]{{Display none|06/13-}}[[6月13日]] |[[沖縄戦]]の指揮官の一人で、[[海軍根拠地隊|根拠地隊]]司令官。自決直前の打電には「沖縄県民かく戦へり&nbsp;&nbsp;県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と。全文と現代語訳は[[大田実#海軍次官宛の電報]]参照。 |- |{{Display none|みなかみ げんぞう/}}[[水上源蔵]] |{{Display none|61}}軍人、[[少将#日本|陸軍少将]]<!--死後に中将に昇進--> |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |55歳 |[[1944年]]{{Display none|08/04-}}[[8月4日]] |[[ミイトキーナの戦い]]において、残存将兵らの命を救うため、玉砕命令に背いて撤退命令を発する。部下らの脱出を見届けた後、ひとり陣地に留まり、命令違反の責任を取って拳銃自決した<ref name="db2"/><ref>[http://www011.upp.so-net.ne.jp/senbotsu-irei/inparu-sakusen4.htm インパール作戦 ひとり自決した水上少将]([[特定非営利活動法人]]アジア地域戦没者慰霊協会)</ref><ref>[http://www.news.janjan.jp/government/0709/0709112151/1.php JANJAN 平成の時代と人命、憲法と愛国心と捕虜]</ref>。 |- |{{Display none|なかの せいごう/}}[[中野正剛]] |{{Display none|67}}右翼政治家 |自刃/[[切腹]] |57歳 |[[1943年]]{{Display none|10/26-}}[[10月26日]] |[[ジャーナリスト]]出身の右翼運動家、政治家。[[東方会]]総裁。 |- |{{Display none|きむら しょうすけ/}}[[木村庄助]] |{{Display none|99}} |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |22歳 |[[1943年]]{{Display none|05/13-}}[[5月13日]] |太宰治『[[パンドラの匣 (小説)|パンドラの匣]]』のモデルとなった日記の筆者。 |- |{{Display none|かん げんざぶろう/}}[[菅源三郎]] |{{Display none|99}}[[船長]] |自刃/[[切腹]] |60歳 |[[1942年]]{{Display none|05/20-}}[[5月20日]] |1942年5月17日に発生した長崎丸沈没事故において、長崎丸側には責任なしと判断が下ったものの、船長としての責任を感じて自殺。 |- |{{Display none|せきや としこ/}}[[関屋敏子]] |{{Display none|08}}[[声楽家]]、[[作曲家]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |37歳 |[[1941年]]{{Display none|11/23-}}[[11月23日]] | |- |{{Display none|にしかわ よしのすけ/}}[[西川吉之助]] |{{Display none|78}}[[教育者]] |{{Display none| /}} |[[数え年|67歳*]] |[[1940年]]{{Display none|07/18-}}[[7月18日]] |[[ろう教育]]において口話法教育の普及を推進した教育者。病苦により自殺。 |- |{{Display none|はやし ちゅうじろう/}}[[林忠次郎]] |{{Display none|71}}<!--その他とすべきか考えたが、医師に準じるとしてソートキー70を付す-->[[レイキ|臼井霊気療法]]師範 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|62歳*]] |[[1940年]]{{Display none|05/11-}}[[5月11日]] |[[レイキ|臼井霊気療法]]の創始者[[臼井甕男]]から霊気療法の施術を伝授されたうちの一人で、霊気療法を西洋社会に紹介した[[高田ハワヨ]]に施術技術を伝授した人物。戦時下、[[予備役|予備役将校]]として軍への復帰を求められていたが、戦争への加担を是とせず自決<!--[[レイキ]]、[[高田ハワヨ]]、及び没年等事実関係については [http://homepage3.nifty.com/faithfull/hayashi.htm] も参考にした-->。 |- |{{Display none|えぐち きち/}}[[江口きち]] |{{Display none|23}}[[歌人]] |[[服毒]] |25歳 |[[1938年]]{{Display none|12/02-}}[[12月2日]] |兄と共に服毒 |- |{{Display none|かつら ざこば/}}[[桂ざこば (初代)|初代桂ざこば]] |{{Display none|16}}[[落語家]] | |72歳 |[[1938年]]{{Display none|09/19-}}[[9月19日]] | |- |{{Display none|とい むつお/}}[[津山事件|都井睦雄]] |{{Display none|91}}[[津山事件]]の犯人 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|猟銃]] |21歳 |[[1938年]]{{Display none|05/21-}}[[5月21日]] |前代未聞の大量殺戮事件を起こしたあと、当日に自殺。 |- |{{Display none|おおた おさむ/}}[[太田収]] |{{Display none|51}}[[実業家]] |[[青酸カリ]] |48歳 |[[1938年]][[5月28日]] |株式取引に失敗し[[山一証券]]社長を辞任したのち自殺。 |- |{{Display none|たなか わたる/}}[[田中弥]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍大尉 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |36歳 |[[1936年]]{{Display none|10/18-}}[[10月18日]] | |- |{{Display none|つつみ まさゆき/}}[[堤正之]] |{{Display none|61}}軍人、海軍少佐 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]]<!--http://www5e.biglobe.ne.jp/HHJ/modeactuel_takamatsunomiyanikki.htm--> |33歳 |[[1936年]]{{Display none|06/17-}}[[6月17日]] |遺書を残さず自決したが、[[二・二六事件]]に何らかの関わりがあったとされる。 |- |{{Display none|さぶり まこと/}}[[佐分眞]] |{{Display none|}}画家 |[[縊死|首吊り]] |37歳 |[[1936年]]{{Display none|04/23-}}[[4月23日]] |遺書3通残し自宅アトリエで縊死 |- |{{Display none|まきの しんいち/}}[[牧野信一]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[縊死|首吊り]] |39歳 |[[1936年]]{{Display none|03/24-}}[[3月24日]] | |- |{{Display none|こうの ひさし/}}[[河野寿]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍大尉 |自刃/[[切腹]] |28歳 |[[1936年]]{{Display none|03/06-}}[[3月6日]] |[[二・二六事件]]で[[牧野伸顕]]を襲撃した部隊の指揮官。牧野殺害を果たせず負傷して捕縛され、入院先の病院にて果物ナイフで自刃。 |- |{{Display none|のなか しろう/}}[[野中四郎]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍大尉 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |32歳 |[[1936年]]{{Display none|02/29-}}[[2月29日]] |[[二・二六事件]]で警視庁を襲撃。事件収束の29日、陸相官邸で自決。 |- |{{Display none|べっしょ さきち/}}[[別所佐吉]] |{{Display none|99}} |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|猟銃]] |[[数え年|73歳*]] |[[1935年]]{{Display none|10/24-}}[[10月24日]] |[[千島列島]]開拓を試みた[[千島報效義会]]<!--※現在リダイレクトだが、立項の可能性を考慮してそのままリダイレクトにリンク-->の会員の一人。報效義会が解散したのちも最後まで[[占守島]]に残った。死後、占守島には「別所翁之碑」が建立されている<ref>[http://www.geocities.jp/gunjishigetada/kinenhi.htm 明治の探検家 郡司成忠 - 記念碑・墓碑]</ref>。 |- |{{Display none|やまだ ちょうざぶろう/}}[[山田長三郎]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍大佐、陸軍兵務課長 |自刃/[[切腹]] |48歳 |[[1935年]]{{Display none|10/05-}}[[10月5日]] |[[永田鉄山]]軍務局長殺害事件([[相沢事件]])において現場におり、上官を見捨てて逃げたと批判される。事件から2カ月後に自宅にて自決。 |- |{{Display none|みどりかわ あきこ/}}[[翠川秋子]] |{{Display none|17}}[[アナウンサー]] |[[心中]]/[[入水]] |45歳 |[[1935年]]{{Display none|08/20-}}[[8月20日]] |日本初の女性アナウンサー。29歳の男性と[[房総半島|房総沖]]にて[[入水]]。 |- |{{Display none|かたた とくろう/}}[[片多徳郎]] |{{Display none|32}}[[画家]] |[[縊死|首吊り]] |44歳 |[[1934年]]{{Display none|04/28-}}[[4月28日]] | |- |{{Display none|さとう じろう/}}[[佐藤次郎]] |{{Display none|41}}[[テニス|テニス選手]] |[[入水]] |26歳 |[[1934年]]{{Display none|04/05-}}[[4月5日]] |[[デビスカップ]]欧州遠征からの帰途、[[マラッカ海峡]]にて投身。 |- |{{Display none|たかくら とくたろう/}}[[高倉徳太郎]] |{{Display none|82}}[[牧師]]、[[神学者]] |[[縊死|首吊り]] |48歳 |[[1934年]]{{Display none|04/03-}}[[4月3日]] |[[植村正久]]の後継者。牧会に悩み自殺。 |- |{{Display none|くまがい いわお/}}[[熊谷巌]] |{{Display none|60}}[[政治家]]、{{Display none|/国政/}}[[国会議員|衆院議員]] |[[縊死|首吊り]] |50歳 |[[1933年]][[11月2日]] |[[東京市]][[芝区]](現[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])の自宅で自殺。 |- |{{Display none|ばんどう つまのすけ/}}[[阪東妻之助]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[入水]] |27歳 |[[1933年]][[6月20日]] |初期[[阪東妻三郎プロダクション|阪妻プロ]]のスター。交際相手の女給・渡邊あきゑと共に静岡県熱海市の錦ヶ浦海岸で投水心中。 |- |{{Display none|たかなわ よしこ/}}[[高輪芳子]] |{{Display none|05}}[[歌手]] |[[自殺#ガス|ガス]] |18歳 |[[1932年]]{{Display none|12/12-}}[[12月12日]] |交際相手のファッション評論家・[[中村進治郎]]の居室で、中村と情死を図ったが、中村は蘇生した。 |- |{{Display none|こんどう はくじろう/}}[[近藤柏次郎]] |{{Display none|08}}[[ピアニスト]] |[[心中]]/[[自殺#ガス|ガス]] |31歳 |[[1932年]]{{Display none|07/13-}}[[7月13日]] |新橋の芸妓と自宅で心中。 |- |{{Display none|かつ くわし/}}[[勝精]] |{{Display none|81}}[[華族]]、[[実業家]] |[[心中]]/{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |43歳 |[[1932年]]{{Display none|07/11-}}[[7月11日]] |[[徳川慶喜]]の十男。妾宅にて[[ブロムワレリル尿素|カルモチン]]による心中。 |- |{{Display none|くが のぼる/}}[[空閑昇]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍少佐 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |44歳 |[[1932年]]{{Display none|03/28-}}[[3月28日]] |[[第一次上海事変]]において[[国民革命軍|中国国民党軍]]の捕虜となった大隊長。捕虜となったことを恥じ、捕虜交換によって帰還した後、自らの部隊が戦った戦地に戻り割腹の上拳銃自決した<ref name="db2">[http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/db2.html 自殺データベース (2) 昭和前期の自殺 (1826-1969)]</ref>。 |- |{{Display none|もうり てるお/}}[[毛利輝夫]] |{{Display none|01}}[[俳優]] |[[心中]]/[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |23歳 |[[1931年]]{{Display none|03/20-}}[[3月20日]] |[[松竹蒲田]]のスター。『[[朗かに歩め]]』などに出演。同所事務員の[[大町弘子]]と共に鉄道心中<ref>『日本映画人名事典 男優篇・下巻』 キネマ旬報社、1996年、766頁。</ref>。 |- |{{Display none|にしのうみ かじろう/}}[[西ノ海嘉治郎 (2代)|西ノ海]] |{{Display none|48}}元[[力士]]、<!--第25代-->[[横綱]] |[[縊死|首吊り]] |50歳 |[[1931年]]{{Display none|01/27-}}[[1月27日]] | |- |{{Display none|たかね よしひと/}}[[高根義人]] |{{Display none|74}}[[法学者]] |[[縊死|首吊り]] |62歳 |[[1930年]]{{Display none|07/14-}}[[7月14日]] |元[[京都大学|京都帝国大学]]教授。[[京都法政学校]](現在の[[立命館大学]]の前身)の講師も勤めた。病気を苦に自殺<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A0%B9%E7%BE%A9%E4%BA%BA-1087447 コトバンク 高根義人]</ref>。<!--コトバンクとJAWPで生没年月日に齟齬があるが、どちらが正しいか判断つかず。コトバンクのほうが正しそうだが...没年齢はいずれにせよ62歳。--> |- |{{Display none|くさかり えいじ/}}[[草刈英治]] |{{Display none|61}}軍人、海軍少佐 |自刃/[[切腹]] |38歳 |[[1930年]]{{Display none|05/20-}}[[5月20日]] |[[国際水路会議]]から帰国後、東京へ向かう[[東海道本線]][[寝台車 (鉄道)|寝台車]]の車内で割腹<ref name="rhapsody-S5-4-6"/>。[[ロンドン海軍軍縮条約]]を巡る政府上層部の弱腰と[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯]]に憤り、[[財部彪]][[海軍大臣]]の暗殺を企図したが果たせず、死をもって条約批准に抗議したとも<ref>{{Cite book|和書 |author=[[半藤一利]] |year=2006 |title=聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎 |publisher=PHP文庫 |isbn=9784569666686 |page=159 }}</ref>。 |- |{{Display none|いくた しゅんげつ/}}[[生田春月]] |{{Display none|23}}[[詩人]] |[[入水]] |38歳 |[[1930年]]{{Display none|05/19-}}[[5月19日]] |[[神戸市|神戸]]を出港し[[今治市|今治]]を経て[[別府市|別府]]に向かっていた船から投身<ref name="rhapsody-S5-4-6">[http://www.geocities.jp/showahistory/history01/topics05b.html 誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ(昭和5年4~6月)]</ref>。 |- |{{Display none|かねこ みすず/}}[[金子みすゞ]] |{{Display none|23}}[[詩人]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |26歳 |[[1930年]]{{Display none|03/10-}}[[3月10日]] | |- |{{Display none|えぎ きんきん/}}[[江木欣々]] |{{Display none|38}}[[芸者]] |[[縊死|首吊り]] |53歳 |[[1930年]]{{Display none|02/20-}}[[2月20日]] |[[大正三美人]]の一人 |- |{{Display none|はぶと えいじ/}}[[羽太鋭治]] |{{Display none|71}}[[医師]]、[[性科学者]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |[[数え年|52歳*]] |[[1929年]]{{Display none|08/31-}}[[8月31日]] |前年に[[脳溢血]]に倒れた上、薬の開発と著書を巡るトラブルを抱え込んでいた。[[ブロムワレリル尿素|カルモチン]]300錠を飲み2日後に死去<ref>[http://www.geocities.jp/showahistory/history01/topics04c.html 誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ(昭和4年7~9月)]</ref>。 |- |{{Display none|わたなべ まさのすけ/}}[[渡辺政之輔]] |{{Display none|67左/}}[[労働運動|労働運動家]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |29歳 |[[1928年]]{{Display none|10/06-}}[[10月6日]] |[[第二次共産党 (日本)|非合法時代の共産党]]書記長。台湾の[[基隆市]]にて官憲に包囲され自決、客死。 |- |{{Display none|いせのはま けいたろう/}}[[伊勢ノ濱慶太郎|伊勢ノ濱]] |{{Display none|48}}元[[力士]]、大関 |[[服毒]] |44歳 |[[1928年]]{{Display none|05/17-}}[[5月17日]] |大量の酒と[[石見銀山ねずみ捕り|猫いらず]]を飲み自殺 |- |{{Display none|わだ きゅうたろう/}}[[和田久太郎]] |{{Display none|91}}[[福田雅太郎]]狙撃犯 |[[縊死|首吊り]] |35歳 |[[1928年]]{{Display none|02/20-}}[[2月20日]] |無期懲役での服役中に[[秋田刑務所]]で首吊り |- |{{Display none|みずしろ けいじ/}}[[水城圭次]] |{{Display none|61}}軍人、海軍大佐 |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |44歳 |[[1927年]]{{Display none|12/26-}}[[12月26日]] |[[美保関事件]]時の[[軽巡洋艦]]「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」艦長。軍法会議判決前日、事故の責任を一身に負い自宅にて自決。 |- |{{Display none|あくたがわ りゅうのすけ/}}[[芥川龍之介]] |{{Display none|22}}[[作家]] |{{Display none|服毒/}}[[睡眠薬]] |35歳 |[[1927年]]{{Display none|07/24-}}[[7月24日]] |[[久米正雄]]に宛てた「或旧友へ送る手記」を遺して自殺。 |- |{{Display none|いけだ まさすけ/}}[[池田政佑]] |{{Display none|61}}軍人、陸軍少佐 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |43歳 |[[1926年]]{{Display none|12/30-}}[[12月30日]] |[[大正天皇]]崩御の5日後に[[殉死]] |- |{{Display none|いわぶち くまじろう/}}[[鬼熊事件|岩淵熊次郎]] |{{Display none|91}}[[鬼熊事件]]の犯人 |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |[[数え年|35歳*]] |[[1926年]]{{Display none|09/30-}}[[9月30日]] | |- |{{Display none|もり うしのすけ/}}[[森丑之助]] |{{Display none|74}}[[人類学者]] |[[入水]] |49歳 |[[1926年]]{{Display none|07/04-}}[[7月4日]] |[[台湾先住民]]の研究者。[[国立台湾博物館|台湾博物館]]主事<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E4%B8%91%E4%B9%8B%E5%8A%A9-1115535 コトバンク/森丑之助]</ref>。[[関東大震災]]による研究資料・未刊原稿の焼失を悲観していたとも言われるが確証はないという<ref>{{Cite web|和書|author=[[笠原政治]] ([[横浜国立大学]])|date=2002年3月|url=http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/6418/1/11446226.pdf|title=文化人類学の先駆者・森丑之助の研究|accessdate=2011-12-22}}</ref>。 |- |{{Display none|おおた えんぞう/}}[[太田圓三]] |{{Display none|74}}土木技術者・鉄道技師 | |45歳 |[[1926年]]{{Display none|03/21-}}[[3月21日]] |[[帝都復興院]]土木局長。遺書はなく、[[復興局疑獄事件]]での検挙による心労を原因とする突発的自殺とされる。 |- |{{Display none|くの ひさ/}}[[久野久 (ピアニスト)|久野久]] |{{Display none|08}}[[ピアニスト]] |[[飛び降り]] |[[数え年|40歳*]] |[[1925年]]{{Display none|04/20-}}[[4月20日]] |日本初のピアニスト。ウィーンにて客死。事故説あり。 |- |{{Display none|しみず すみこ/}}[[清水澄子 (女学生)|清水澄子]] |{{Display none|79}}女学生 |[[自殺#自殺の手法|鉄道]] |15歳 |[[1925年]]{{Display none|01/07-}}[[1月7日]] |死後、遺稿集『さゝやき』が刊行される。 |- |{{Display none|ありしま たけお/}}[[有島武郎]] |{{Display none|22}}[[作家]] |[[心中]]/[[縊死|首吊り]] |45歳 |[[1923年]]{{Display none|06/09-}}[[6月9日]] |不倫関係にあった[[波多野秋子]]と共に軽井沢の別荘で首吊り。7月7日に発見される。決行から1カ月経過していたため、2人の遺体には壮絶な量の[[蛆]]が湧いていたという。 |- |{{Display none|のむら わいはん/}}[[野村隈畔]] |{{Display none|74}}哲学者、文明批評家 |心中/[[入水]] |37歳 |[[1921年]]{{Display none|11/05-}}[[11月5日]][[#遺体発見日|**]] |聴講生の女性と共に入水。津田沼海岸で遺体が発見される。 |- |{{Display none|あさひ へいご/}}[[朝日平吾]] |{{Display none|91}}[[安田善次郎]]殺害犯 |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |31歳 |[[1921年]]{{Display none|09/28-}}[[9月28日]] |[[安田善次郎]]を刺殺した後、その場で自刃。 |- |{{Display none|にしかわ かぎ/}}[[西川嘉義]] |{{Display none|38}}[[名古屋西川流]][[舞踊家]] | |58歳 |[[1921年]]{{Display none|03/21-}}[[3月21日]] |長女の早い死去や流派争いに悲観し自殺。 |- |{{Display none|さの ともさぶろう/}}[[佐野友三郎]] |{{Display none|74}}[[図書館学|図書館学者]]、[[教育者]] |[[縊死|首吊り]] |56歳 |[[1920年]]{{Display none|05/13-}}[[5月13日]] |日本における近代図書館の黎明期を支えた人物。 |- |{{Display none|まつい すまこ/}}[[松井須磨子]] |{{Display none|01}}[[俳優|女優]] |[[縊死|首吊り]] |32歳 |[[1919年]]{{Display none|01/05-}}[[1月5日]] |[[島村抱月]]の後を追い、2カ月後に自殺。 |- |{{Display none|おしかわ のりきち/}}[[押川則吉]] |{{Display none|60}}[[貴族院 (日本)|貴族院議員]] |[[縊死|首吊り]] |55歳 |[[1918年]]{{Display none|02/18-}}[[2月18日]] |当時の[[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]長官だったが、[[帝国議会|議会]]で製鉄所鋼片払下事件を追及され、自殺。 |- |{{Display none|いわもと えいのすけ/}}[[岩本栄之助]] |{{Display none|51}}[[実業家]]、株式仲買人 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |39歳 |[[1916年]]{{Display none|10/27-}}[[10月27日]] |大阪の[[大阪市中央公会堂|中之島公会堂]]を建設した人物 |- |{{Display none|たかぎ けんみょう/}}[[高木顕明]] |{{Display none|85}}[[僧侶]]、[[大逆事件]]被告 |[[縊死|首吊り]] |50歳 |[[1914年]]{{Display none|06/24-}}[[6月24日]] |無期懲役の服役中に[[秋田刑務所]]にて首吊り |- |{{Display none|せき かんさい/}}[[関寛斎]] |{{Display none|71}}[[医師]]([[蘭方医学|蘭方医]]) |[[服毒]] |82歳 |[[1912年]]{{Display none|10/15-}}[[10月15日]] | |- |{{Display none|のぎ まれすけ/}}[[乃木希典]] |{{Display none|61}}軍人、[[陸軍大将]] |自刃/[[切腹]] |62歳 |[[1912年]]{{Display none|09/13-}}[[9月13日]]{{Display none|-1}} |[[明治天皇]]の大葬が終わった夜、妻[[乃木静子|静子]]と共に殉死。 |- |{{Display none|のぎ しずこ/}}[[乃木静子]] |{{Display none|84}}軍人[[乃木希典]]の妻 |自刃/胸部 |52歳 |[[1912年]]{{Display none|09/13-}}[[9月13日]]{{Display none|-2}} |夫と共に殉死。 |- |{{Display none|みふね ちづこ/}}[[御船千鶴子]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|99}}[[千里眼事件|千里眼騒動]]の超能力者 |[[服毒]] |24歳 |[[1911年]]{{Display none|01/18-}}[[1月18日]] |[[二クロム酸カリウム|重クロム酸カリウム]]による服毒自殺 |- |{{Display none|とくのう せきしろう/}}[[得能関四郎]] |{{Display none|41}}[[剣術家]]、[[日本の警察官|警察官]] |自刃/[[咽喉|咽喉部]] |66歳 |[[1908年]]{{Display none|07/17-}}[[7月17日]] |[[直心影流剣術|直心影流]]の剣客、[[大日本武徳会]][[範士]]。病気を苦にしての自殺といわれる。 |- |{{Display none|かわかみ びざん/}}[[川上眉山]] |{{Display none|22}}[[作家]] |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |39歳 |[[1908年]]{{Display none|06/15-}}[[6月15日]] | |- |{{Display none|ふじむら みさお/}}[[藤村操]] |{{Display none|79}}学生 |[[飛び降り]] |16歳 |[[1903年]]{{Display none|05/22-}}[[5月22日]] |[[華厳滝]]に投身。大きく報じられ、以来、華厳滝は[[自殺の名所]]となった。 |- |{{Display none|もりかわ せいじろう/}}[[森川清治郎]] |{{Display none|70}}[[日本の警察官|警察官]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |[[数え年|42歳*]] |[[1902年]]{{Display none|04/07-}}[[4月7日]] |[[日清戦争]]直後の[[台湾]]に勤務した警察官。任務のかたわら教育の普及・環境衛生の改善に尽力し現地の人々にも慕われたという<ref name="giaiko-001"/>。新たに定められた漁業税に関し[[台湾総督府]]に免減を訴えるも訓戒処分を受け、失意のうちに自決した<ref name="giaiko-001">{{Cite web|author=|date=|url=http://giaiko.atwebpages.com/001.html|title=義愛公伝|accessdate=2011-12-22}}</ref><ref>{{Cite web|author=|date=|url=http://giaiko.atwebpages.com/003.html|title=義愛公伝|accessdate=2011-12-22}}</ref>。 |- |{{Display none|ふじの こはく/}}[[藤野古白]] |{{Display none|23}}[[俳人]]、[[劇作家]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |23歳 |[[1895年]]{{Display none|04/12-}}[[4月12日]] |[[正岡子規]]の従弟<ref>[http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/h/hu015/hu015p01.htm 早稲田大学 早稲田と文学(藤野古白)]</ref> |- |{{Display none|きたむら とうこく/}}[[北村透谷]] |{{Display none|23}}[[詩人]] |[[縊死|首吊り]] |25歳 |[[1894年]]{{Display none|05/16-}}[[5月16日]] | |- |{{Display none|かとう なおや/}}[[加藤直矢]] |{{Display none|99}}[[治水|治水家]] |自刃 |42歳 |[[1892年]]{{Display none|02/13-}}[[2月13日]] |[[赤川]]の治水事業に尽力した。竣工の翌年に自刃<ref>[http://www4.airnet.ne.jp/soutai/01_soutai/02-1_ka/04-5_to/katou_naoya/katou_naoya.html 日本掃苔録 - 加藤直矢]</ref>。 |- |{{Display none|はたけやま ゆうこ/}}[[畠山勇子]] |{{Display none|99}} |自刃/[[総頸動脈|頸部]] |25歳 |[[1891年]]{{Display none|05/20-}}[[5月20日]] |ロシア皇太子[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ]]暗殺未遂事件([[大津事件]])に際し、多くの国民が大国ロシアの報復を恐れる中、死をもってロシア皇太子に謝罪するために自刃した女性。その行いはその後国家主義者らによって祭り上げられ、憂国の烈女と呼ばれた。 |- |{{Display none|とうじんおきち/}}[[斎藤きち|唐人お吉]] |{{Display none|38}}[[芸者]] |[[入水]] |49歳 |[[1891年]]{{Display none|03/25-}}[[3月25日]] | |- |{{Display none|くるしま つねき/}}[[来島恒喜]] |{{Display none|67}}右翼活動家 |自刃/[[咽喉|咽喉部]] |29歳 |[[1889年]]{{Display none|10/18-}}[[10月18日]] |政治結社[[玄洋社]]社員で、[[大隈重信]]外務大臣襲撃事件の実行犯。爆裂弾による暗殺を狙ったが果たせず、その場で自決。大隈は右足切断の重傷を負った。 |- |{{Display none|やまもと ちくうん/}}[[山本竹雲]] |{{Display none|37}}[[篆刻|篆刻家]] |[[入水]] |69歳<!--http://www.shuundo.co.jp/yamamotochikuun_ahirutaiko.html および コトバンク 山本竹雲--> |[[1888年]]{{Display none|04/27-}}[[4月27日]] |[[東山_(京都府)|京都東山]]の稚児ヶ池にて入水。[[茶人]]としても知られた人物で、入水した池の畔には丁寧にたたまれた羽織と揃えられた下駄、そして茶道具が並べられていた。 |- |{{Display none|はこだ ろくすけ/}}[[箱田六輔]] |{{Display none|67右翼/}}[[自由民権運動]]運動家 |自刃/[[切腹]] |37歳 |[[1888年]]{{Display none|01/19-}}[[1月19日]] |政治結社[[玄洋社]]の指導者の一人 |- |{{Display none|たまの よふみ/}}[[玉乃世履]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|68}}[[裁判官]]、初代[[大審院]]長 | |60歳 |[[1886年]]{{Display none|08/08-}}[[8月8日]] |その公正な裁きから「明治の[[大岡忠相|大岡]]」と呼ばれた人物。 |- |{{Display none|かわかみ とうがい/}}[[川上冬崖]] |{{Display none|32}}[[画家]] |[[縊死|首吊り]]<!--<ref>[http://uenishi01.at.infoseek.co.jp/k030itsuwa.html]</ref>--> |52歳 |[[1881年]]{{Display none|05/03-}}[[5月3日]] |[[清|清国]]公使館への地図漏洩疑惑(地図密売事件)に巻き込まれ、熱海にて客死。詳細不明。 |- |- |} == 近代以前 == ここでは近代以前の人物、具体的には[[幕末]]の動乱期より以前の人物について一覧する。なお、近世における処刑の一様式としての[[切腹]]・[[賜死]]といった例については収載していない。 ;凡例 *'''没年齢'''は[[満年齢]]ではなく[[数え年]]で統一した(正確な生年月日が不明の者が多いため。没年月日は[[太陽暦]]に換算した日付である)。 *補足欄が<span style="background-color:#E6E6E6;">† グレー</span>になっている人物は、戦乱において自害した人物である。補足欄のソートボタンで年代順に再配列される。<!-- 本記事のテーブルはいずれも書式がやや複雑です。初めて加筆される方は、 [[ノート:自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧/ソートキー]] をご一読ください。説明文とテンプレートに沿って欄を埋めてゆけば、ありがちなミスはおそらく回避できます。 --> {| class="sortable wikitable" style="font-size:85%; margin:10px 0px;" |- ! 名前 !! {{Nowrap|職業/肩書き/地位}} !! 手段 !! style="padding-right:17px" | {{Nowrap|没年齢}} !! 没年月日 !! 備考/補足/関連 |- |{{Display none|さいごう たかもり/}}[[西郷隆盛]] |{{Display none|85}}武士、[[薩摩藩]]士、[[政治家]]、軍人 |自刃 |[[数え年|50歳*]] |[[1877年]]{{Display none|09/24-}}[[9月24日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1877/09/24}}† [[西南戦争]][[西郷隆盛#城山決戦|城山決戦]]において、「もう、ここらでよか」と自決。介錯した[[別府晋介]]もその場で自決した。 |- |{{Display none|たまき ぶんのしん/}}[[玉木文之進]] |{{Display none|85}}武士、[[長州藩]]士、[[軍学者|兵学者]]、[[教育者]] |自刃/[[切腹]] |[[数え年|67歳*]] |[[1876年]]{{Display none|11/06-}}[[11月6日]] |[[松下村塾]]の創立者で[[吉田松陰]]の叔父。松陰の死後も藩政に関わり、明治2年に引退。その後ふたたび松下村塾を開いて後進の指導に当たったが、[[1876年]](明治9年)の[[萩の乱]]に多くの門下生が参加、その責任を取り自刃した。 |- |{{Display none|そうま かずえ/}}[[相馬主計]] |{{Display none|85}}武士、[[新選組]]隊長 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|41歳*]] |[[1875年]] |生年は[[1843年]]とも。[[新選組]]最後の隊長。 |- |{{Display none|やましろや わすけ/}}[[山城屋和助]] |{{Display none|51}}御用商人 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|37歳*]] |[[1872年]]{{Display none|12/29-}}[[12月29日]] |[[山城屋事件]] |- |{{Display none|しまづ ひさはる/}}[[島津久治]] |{{Display none|85}}武士、[[薩摩藩]]家老 |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |[[数え年|32歳*]] |[[1872年]]{{Display none|02/12-}}[[2月12日]] |[[島津久光]]の子で宮之城家当主。島津家系図では急病が原因とされているが、[[西郷隆盛]]が[[大久保利通]]に宛てた書簡ではピストル自殺と明言されている。 |- |{{Display none|かわじ としあきら/}}[[川路聖謨]] |{{Display none|85}}武士、[[旗本]] |{{Display none|銃/}}[[自殺#自殺の手法|拳銃]] |[[数え年|68歳*]] |[[1868年]]{{Display none|04/07-}}[[4月7日]] |幕末の名官吏と謳われた人物。引退後、[[江戸開城|江戸城開城]]の報を聞き、割腹の上拳銃を用いた。 |- |{{Display none|さわむら そうのじょう/}}[[沢村惣之丞]] |{{Display none|85}}武士、[[土佐藩]]士 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|26歳*]] |[[1868年]]{{Display none|02/18-}}[[2月18日]] |[[海援隊]]隊士。長崎の町を警備中、薩摩藩士を誤って殺してしまい、薩摩との軋轢を恐れ割腹。 |- |{{Display none|ほり なおとら/}}[[堀直虎]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|33歳*]] |[[1868年]]{{Display none|02/10-}}[[2月10日]] |[[須坂藩]]主。諌死とも言われる。 |- |{{Display none|やまなみ けいすけ/}}[[山南敬助]] |{{Display none|85}}武士、[[新選組]]隊士 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|33歳*]] |[[1865年]]{{Display none|03/20-}}[[3月20日]] |異説あり。{{main|山南敬助}} |- |{{Display none|まき いずみ/}}[[真木保臣|真木和泉]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|82}}[[神職]]、[[久留米藩]]士 |自刃 |[[数え年|52歳*]] |[[1864年]]{{Display none|08/22-}}[[8月22日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/08/22}}† [[禁門の変]]に敗れ自刃 |- |{{Display none|くさか げんずい/}}[[久坂玄瑞]] |{{Display none|85}}武士、[[長州藩]]士 |自刃 |[[数え年|25歳*]] |[[1864年]]{{Display none|08/20-}}[[8月20日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/08/20}}† [[禁門の変]]に敗れ[[寺島忠三郎]]と共に自刃 |- |{{Display none|てらしま ちゅうざぶろう/}}[[寺島忠三郎]] |{{Display none|85}}武士、[[長州藩]]士 |自刃 |[[数え年|21歳*]] |[[1864年]]{{Display none|08/20-}}[[8月20日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/08/20}}† [[禁門の変]]に敗れ[[久坂玄瑞]]と共に自刃 |- |{{Display none|いりえ くいち/}}[[入江九一]] |{{Display none|85}}武士、[[長州藩]]士 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|28歳*]] |[[1864年]]{{Display none|08/20-}}[[8月20日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/08/20}}† [[禁門の変]]に敗れ自刃 |- |{{Display none|いけだ なかたつ/}}[[池田仲建]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|24歳*]] |[[1864年]]{{Display none|07/30-}}[[7月30日]] |[[鹿奴藩]]主。本家の[[池田慶徳]]への諌死。 |- |{{Display none|みやべ ていぞう/}}[[宮部鼎蔵]] |{{Display none|85}}武士、[[熊本藩]]士 |自刃 |[[数え年|45歳*]] |[[1864年]]{{Display none|07/08-}}[[7月8日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/07/08}}† [[池田屋事件]]。応戦するも負傷し自刃。 |- |{{Display none|よしだ としまろ/}}[[吉田稔麿]] |{{Display none|85}}武士、[[長州藩]]士 |自刃 |[[数え年|24歳*]] |[[1864年]]{{Display none|07/08-}}[[7月8日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/07/08}}† [[池田屋事件]]。討ち死とも。 |- |{{Display none|もちづき かめやた/}}[[望月亀弥太]] |{{Display none|85}}武士、[[土佐藩]]士 |自刃 |[[数え年|27歳*]] |[[1864年]]{{Display none|07/08-}}[[7月8日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1864/07/08}}† [[池田屋事件]]。脱出するも長州藩邸前で自刃。 |- |{{Display none|たなか しんべえ/}}[[田中新兵衛]] |{{Display none|85}}武士、[[薩摩藩]]士 |自刃 |[[数え年|32歳*]] |[[1863年]]{{Display none|07/11-}}[[7月11日]] |[[朔平門外の変]]における[[姉小路公知]]暗殺の実行犯として捕縛され自刃。 |- |{{Display none|たかはし たいちろう/}}[[高橋多一郎]] |{{Display none|85}}武士、[[水戸藩]]士 |自刃 |[[数え年|47歳*]] |[[1860年]]{{Display none|04/13-}}[[4月13日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1860/04/13}}† [[桜田門外の変]]の首謀者の一人。[[井伊直弼|井伊]]暗殺の報を大坂にて受け取るも、幕吏に追い詰められ息子と共に自刃。 |- | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|ありむら じざえもん/}}[[有村次左衛門]] |{{Display none|85}}武士、[[薩摩藩]]士 |自刃 |[[数え年|22歳*]] |[[1860年]]{{Display none|03/24-}}[[3月24日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1860/03/24}}† [[桜田門外の変]]において[[井伊直弼]]の首級を取るも追い詰められ自刃。桜田門外の変では山口辰之介らをはじめ有村の他にも多くの者が自刃・獄死した。 |- |{{Display none|げっしょう/}}[[月照]] |{{Display none|82}}[[僧侶]] |[[入水]] |[[数え年|46歳*]] |[[1858年]]{{Display none|12/20-}}[[12月20日]] |[[鹿児島湾|錦江湾]]で[[西郷隆盛]]と共に入水。月照はこの時亡くなったが、西郷は一命を取り留めた。 |- |{{Display none|おおはら ゆうがく/}}[[大原幽学]] |{{Display none|74}}[[農学者|農政学者]] |自刃/[[切腹]] |[[数え年|62歳*]] |[[1858年]]{{Display none|04/21-}}[[4月21日]] |[[二宮尊徳]]、[[大蔵永常]]と同時代の農民指導者。[[下総国]]長部村を拠点に農業技術の指導・農民の教化・村落改革に尽力した人物で、[[1838年]](天保9年)に[[先祖株組合]]という世界初の[[農業協同組合]]を創設した人物。 |- |{{Display none|みなもと きよまろ/}}[[源清麿]] |{{Display none|39}}[[刀工]] |自刃/[[切腹]] |[[数え年|43歳*]] |[[1855年]]{{Display none|01/02-}}[[1月2日]] |山浦清麿とも。江戸三作と呼ばれた名工<ref>[http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=132367 最上義光歴史館] - 2009-12-14閲覧</ref>。 |- |{{Display none|いちかわ だんじゅうろう/}}[[市川團十郎 (8代目)|市川團十郎]] |{{Display none|03}}[[歌舞伎|歌舞伎役者]] | |[[数え年|32歳*]] |[[1854年]]{{Display none|09/27-}}[[9月27日]] |八代目市川團十郎。面長の美貌で人気を博した二枚目だったが、突如自殺。動機不明。 |- |{{Display none|たかの ちょうえい/}}[[高野長英]] |{{Display none|74}}[[蘭学者]]、[[医師]] | style="white-space:nowrap;" |自刃/[[咽喉|咽喉部]] |[[数え年|47歳*]] |[[1850年]]{{Display none|12/03-}}[[12月3日]] |[[蛮社の獄]]のあと薬品で顔を変え長く追手を逃れていたが捕縛される。その際に応戦、喉を突いて自害したとされるが、踏み込んだ幾人もの役人に殴打されたことで死亡したとする説がある。 |- |{{Display none|わたなべ かざん/}}[[渡辺崋山]] |{{Display none|32}}[[画家]]、[[田原藩]]家老 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|49歳*]] | style="white-space:nowrap;" |[[1841年]]{{Display none|11/23-}}[[11月23日]] |[[蛮社の獄]] |- |{{Display none|こせき さんえい/}}[[小関三英]] |{{Display none|74}}[[蘭学者]]、[[医師]] |自刃 |[[数え年|53歳*]] |[[1839年]]{{Display none|06/27-}}[[6月27日]] |[[蛮社の獄]] |- |{{Display none|おおしお へいはちろう/}}[[大塩平八郎]] |{{Display none|74}}[[儒学者]]、[[陽明学|陽明学者]] |[[火薬]] |[[数え年|45歳*]] |[[1837年]]{{Display none|05/01-}}[[5月1日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1837/05/01}}† [[大塩平八郎の乱]]を主導。逃亡の後、養子と共に自害。 |- |{{Display none|いちかわ だんのすけ/}}[[市川團之助 (3代目)|市川團之助]] |{{Display none|03}}[[歌舞伎|歌舞伎役者]] | |[[数え年|32歳*]] |[[1817年]]{{Display none|12/09-}}[[12月9日]] |三代目市川團之助。病と興行元の経営不振を苦にして自殺。 |- |{{Display none|まつだいら やすひで/}}[[松平康英 (長崎奉行)|松平康英]] |{{Display none|85}}武士、[[長崎奉行]] |自刃/[[切腹]] |[[数え年|41歳*]] |[[1808年]]{{Display none|10/06-}}[[10月6日]] |[[フェートン号事件]]の責任を取り自害。 |- |{{Display none|たかやま ひこくろう/}}[[高山彦九郎]] |{{Display none|72}}尊王思想家 |自刃/[[切腹]] |[[数え年|47歳*]] |[[1793年]]{{Display none|08/04-}}[[8月4日]] |[[寛政の三奇人]]の一人 |- |{{Display none|ひらた ゆきえ/}}[[平田靱負]] |{{Display none|85}}[[薩摩藩]][[家老]] |自刃/[[切腹]] |[[数え年|50歳*]] |[[1755年]]{{Display none|07/04-}}[[7月4日]] |[[宝暦治水]]の責任をとって自害。 |- |{{Display none|いたみ かつもり/}}[[伊丹勝守]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|26歳*]] |[[1698年]]{{Display none|10/18-}}[[10月18日]] |[[徳美藩]]主。発狂し厠で自害。 |- |{{Display none|おだ のぶたけ/}}[[織田信武]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|40歳*]] |[[1694年]]{{Display none|12/16-}}[[12月16日]] |[[宇陀松山藩]]主 |- |{{Display none|ほった まさのぶ/}}[[堀田正信]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | style="white-space:nowrap;" |自刃/[[咽喉|咽喉部]] |[[数え年|50歳*]] |[[1680年]]{{Display none|06/26-}}[[6月26日]] |元[[佐倉藩]]主。[[徳川家綱]]の死去後に[[殉死]]。 |- |{{Display none|まつだいら みつみち/}}[[松平光通]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|39歳*]] |[[1674年]]{{Display none|04/29-}}[[4月29日]] |[[福井藩]]主 |- |{{Display none|すずき しげなり/}}[[鈴木重成]] |{{Display none|83}}[[幕臣]]([[江戸時代|江戸期]]) |自刃/[[切腹]] |[[数え年|66歳*]] |[[1653年]]{{Display none|12/04-}}[[12月4日]] |[[天草]][[代官]]。租税半減を幕府から棄却され、抗議の為に切腹。これに驚いた幕府は慌てて減免を前向きに検討し、遂に実現した。このために、天草の郡内には重成を祀った鈴木神社が建立され、名代官として長く追慕される存在となった。 |- |{{Display none|うちだ まさのぶ/}}[[内田正信]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|39歳*]] |[[1651年]]{{Display none|06/08-}}[[6月8日]] |[[鹿沼藩]]主。[[徳川家光]]の死去後に[[殉死]]。 |- |{{Display none|ほった まさもり/}}[[堀田正盛]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|44歳*]] |[[1651年]]{{Display none|06/08-}}[[6月8日]] |[[佐倉藩]]主。[[徳川家光]]の死去後に[[殉死]]。 |- |{{Display none|あべ しげつぐ/}}[[阿部重次]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|54歳*]] |[[1651年]]{{Display none|06/08-}}[[6月8日]] |[[岩槻藩]]主。[[徳川家光]]の死去後に[[殉死]]。 |- |{{Display none|いなば のりみち/}}[[稲葉紀通]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) |{{Display none|銃/}}鉄砲 |[[数え年|46歳*]] |[[1648年]]{{Display none|10/06-}}[[10月6日]] |[[福知山藩]]主 |- |{{Display none|てらざわ かたたか/}}[[寺沢堅高]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|39歳*]] |[[1647年]]{{Display none|12/14-}}[[12月14日]] |[[唐津藩]]主 |- |{{Display none|もりかわ しげとし/}}[[森川重俊]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[江戸時代|江戸期]]) | |[[数え年|49歳*]] |[[1632年]]{{Display none|03/15-}}[[3月15日]] |[[生実藩]]主。[[徳川秀忠]]の死去後に[[殉死]]。 |- |{{Display none|おおの はるなが/}}[[大野治長]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃 |[[数え年|47歳*]] |[[1615年]]{{Display none|06/04-}}[[6月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1615/06/04}}† [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]] |- |{{Display none|もうり かつなが/}}[[毛利勝永]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃 |[[数え年|39歳*]] |[[1615年]]{{Display none|06/04-}}[[6月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1615/06/04}}† 豊臣氏家臣。[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]において[[豊臣秀頼|秀頼]]を介錯。 |- |{{Display none|とよとみ ひでより/}}[[豊臣秀頼]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃 |[[数え年|23歳*]] |[[1615年]]{{Display none|06/04-}}[[6月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1615/06/04}}† [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]] |- |{{Display none|よどどの/}}[[淀殿]] |{{Display none|84}}[[豊臣秀吉]]の妻 |自刃 |[[数え年|47歳*]] |[[1615年]]{{Display none|06/04-}}[[6月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1615/06/04}}† [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]。秀頼と共に落ち延びたという説がある。 |- |{{Display none|くき よしたか/}}[[九鬼嘉隆]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|59歳*]] |[[1600年]]{{Display none|11/17-}}[[11月17日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1600/11/17}}† [[関ヶ原の戦い]]で西軍に与する。西軍の壊滅後、東軍に与した息子[[九鬼守隆]]により助命嘆願がなされ、[[徳川家康]]もそれを認めたが間に合わず。 |- |{{Display none|なつか まさいえ/}}[[長束正家]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|39歳*]] |[[1600年]]{{Display none|11/08-}}[[11月8日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1600/11/08}}† [[関ヶ原の戦い]]で東軍に敗れ、弟の[[長束直吉]]と共に自害。[[五奉行]]の一人。 |- |{{Display none|おおたに よしつぐ/}}[[大谷吉継]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|42歳*]] |[[1600年]]{{Display none|10/21-}}[[10月21日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1600/10/21}}† [[関ヶ原の戦い]] |- |{{Display none|とよとみ ひでつぐ/}}[[豊臣秀次]] |{{Display none|83}}[[大名]]、[[関白]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃/[[切腹]] |[[数え年|27歳*]] |[[1595年]]{{Display none|08/20-}}[[8月20日]] | おじで前関白の[[豊臣秀吉]]によって謀反の疑いをかけられ、[[高野山]]に追いやられた後、[[青巌寺]]で切腹。また、秀次の切腹から二週間後には、秀次の実子や側室が、京都の[[三条河原]]で処刑された。秀次の切腹は、従来、「刑罰」としてとらえられてきたが、近年では、無実であることを示すための抗議の自殺、という説も有力視されている。 |- |{{Display none|しばた かついえ/}}[[柴田勝家]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|62歳*]] |[[1583年]]{{Display none|06/14-}}[[6月14日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1583/06/14}}† [[賤ヶ岳の戦い]]で[[豊臣秀吉]]に敗れ、[[お市の方]]と共に自害。 |- |{{Display none|しみず むねはる/}}[[清水宗治]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃/[[切腹]] |[[数え年|46歳*]] |[[1582年]]{{Display none|06/23-}}[[6月23日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1582/06/23}}† 毛利氏家臣 |- |{{Display none|おだ のぶただ/}}[[織田信忠]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃/[[切腹]] |[[数え年|26歳*]] |[[1582年]]{{Display none|06/21-}}[[6月21日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1582/06/21}}† [[本能寺の変]]。[[織田信長]]の嫡男。 |- |{{Display none|おだ のぶなが/}}[[織田信長]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|48歳*]] |[[1582年]]{{Display none|06/21-}}[[6月21日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1582/06/21}}† [[本能寺の変]]。ただし、遺体や遺骨は発見されていないため、異説あり。 |- |{{Display none|たけだ かつより/}}[[武田勝頼]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|37歳*]] |[[1582年]]{{Display none|04/03-}}[[4月3日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1582/04/03}}† [[天目山の戦い]]に敗れ、妻[[北条夫人]]、息子[[武田信勝]]と共に自害。 |- |{{Display none|やすだ あきもと/}}[[安田顕元]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | | |1580年8月6日 |上杉氏家臣 |- |{{Display none|まつなが ひさひで/}}[[松永久秀]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |[[火薬]] |[[数え年|68歳*]] |[[1577年]]{{Display none|11/19-}}[[11月19日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1577/11/19}}† [[織田信長]]から離反して[[信貴山城]]に籠城、織田軍の総攻撃を受け、天守閣で爆死。 |- |{{Display none|あさくら よしかげ/}}[[朝倉義景]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|41歳*]] |[[1573年]]{{Display none|09/16-}}[[9月16日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1573/09/16}}† [[一乗谷城の戦い]]で[[織田信長]]に敗れ自刃。 |- |{{Display none|あざい ながまさ/}}[[浅井長政]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|29歳*]] |[[1573年]]{{Display none|09/01-}}[[9月1日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1573/09/01}}† [[小谷城の戦い]]で[[織田信長]]に敗れ、父[[浅井久政]]と共に自害。 |- |{{Display none|すえ はるかた/}}[[陶晴賢]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃 |[[数え年|35歳*]] |[[1555年]]{{Display none|10/16-}}[[10月16日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1555/10/16}}† 周防大内氏家臣。[[厳島の戦い]] |- |{{Display none|ひらて まさひで/}}[[平手政秀]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|62歳*]] |[[1553年]]{{Display none|02/25-}}[[2月25日]] |織田氏家臣。若き[[織田信長|信長]]への諌死とされるが、諸説ある。 |- |{{Display none|おおうち よしたか/}}[[大内義隆]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) |自刃 |[[数え年|45歳*]] |[[1551年]]{{Display none|09/30-}}[[9月30日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1551/09/30}}† [[大寧寺の変]]で[[陶晴賢]]の謀反に遭い自害。その陶晴賢もまた、のちの戦に破れて自害している。 |- |{{Display none|いちじょう ふさもと/}}[[一条房基]] |{{Display none|83}}[[大名]]([[戦国時代 (日本)|戦国期]]) | |[[数え年|28歳*]] |[[1549年]]{{Display none|05/09-}}[[5月9日]] |発狂による自害とも言われるが詳細は不明 |- |{{Display none|あしかが もちうじ/}}[[足利持氏]] |{{Display none|83}}[[鎌倉公方]] | |[[数え年|51歳*]] |[[1439年]]{{Display none|03/24-}}[[3月24日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1439/03/24}}† [[永享の乱]]。嫡男[[足利義久]]も自害。 |- |{{Display none|たけだ のぶみつ/}}[[武田信満]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[室町時代|室町期]]) | | |[[1417年]]{{Display none|02/22-}}[[2月22日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1417/02/22}}† [[上杉禅秀の乱]] |- |{{Display none|あしかが もちなか/}}[[足利持仲]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[室町時代|室町期]]) | | |[[1417年]]{{Display none|01/27-}}[[1月27日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1417/01/27}}† [[上杉禅秀の乱]] |- |{{Display none|あしかが みつたか/}}[[足利満隆]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[室町時代|室町期]]) | |[[数え年|26歳*]] |[[1417年]]{{Display none|01/27-}}[[1月27日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1417/01/27}}† [[上杉禅秀の乱]] |- |{{Display none|うえすぎ ぜんしゅう/}}[[上杉禅秀]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[室町時代|室町期]]) | | |[[1417年]]{{Display none|01/27-}}[[1月27日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1417/01/27}}† [[上杉禅秀の乱]] |- |{{Display none|うえすぎ のりはる/}}[[上杉憲春]] |{{Display none|83}}[[武将]]([[南北朝時代 (日本)|南北朝期]]) | | |[[1379年]]{{Display none|03/25-}}[[3月25日]] |[[足利氏満]]への諌死 |- |{{Display none|ほうじょう もととき/}}[[北条基時]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|83}}[[鎌倉幕府]]第13代[[執権]] | |[[数え年|48歳*]] |[[1333年]]{{Display none|07/04-}}[[7月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1333/07/04}}† [[東勝寺合戦]] |- |{{Display none|ほうじょう たかとき/}}[[北条高時]] |{{Display none|83}}[[鎌倉幕府]]第14代[[執権]] |自刃/[[切腹]] |[[数え年|31歳*]] |[[1333年]]{{Display none|07/04-}}[[7月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1333/07/04}}† [[東勝寺合戦]]。[[新田義貞]]に破れ、[[安達時顕]]・[[長崎高重]]ら家臣・北条一門と共に自刃。[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺跡]]には「腹切り郭」と称される空間が残っている。 |- |{{Display none|ほうじょう さだあき/}}[[北条貞顕]] |{{Display none|83}}[[鎌倉幕府]]第15代[[執権]] |自刃 |[[数え年|56歳*]] |[[1333年]]{{Display none|07/04-}}[[7月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1333/07/04}}† [[東勝寺合戦]] |- |{{Display none|ほうじょう もりとき/}}[[北条守時]] |{{Display none|83}}[[鎌倉幕府]]第16代[[執権]] |自刃 |[[数え年|39歳*]] |[[1333年]]{{Display none|06/30-}}[[6月30日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1333/06/30}}† 最後の執権。赤橋守時ともいう。[[新田義貞]]率いる倒幕軍を鎌倉[[巨福呂坂|小袋坂]]に迎え撃つが敗れ自刃。<!--http://kotobank.jp/word/赤橋守時--> |- |{{Display none|あしかが いえとき/}}[[足利家時]] |{{Display none|85}}武士([[鎌倉時代|鎌倉期]])、[[足利氏]]当主 | |[[数え年|25歳*]] |[[1284年]]{{Display none|08/07-}}[[8月7日]] |[[1402年]]完成の『[[難太平記]]』によると、家時は3代後の子孫に天下を取らせよと[[八幡神|八幡大菩薩]]に祈念して自害したとされる(詳細は[[足利家時#置文伝説]]を参照)。家時の3代孫は[[足利尊氏]]、[[1338年]]に征夷大将軍に任じられている。 |- |{{Display none|たいら の ありもり/}}[[平有盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|22歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]] |- |{{Display none|たいら の ゆきもり/}}[[平行盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|22歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]] |- |{{Display none|たいら の すけもり/}}[[平資盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|28歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]](生年は[[1161年]]とも) |- |{{Display none|たいら の のりつね/}}[[平教経]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|26歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]] |- |{{Display none|たいら の とももり/}}[[平知盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|34歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]] |- |{{Display none|たいら の のりもり/}}[[平教盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|58歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]] |- |{{Display none|たいら の ときこ/}}[[平時子]] |{{Display none|84}}[[平清盛]]の妻 |[[入水]] |[[数え年|60歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]]で8歳の[[安徳天皇]]と共に[[入水]] |- |{{Display none|たいら の つねもり/}}[[平経盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|62歳*]] |[[1185年]]{{Display none|04/25-}}[[4月25日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1185/04/25}}† [[壇ノ浦の戦い]] |- |{{Display none|たいら の これもり/}}[[平維盛]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|27歳*]] |[[1184年]]{{Display none|05/10-}}[[5月10日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1184/05/10}}† [[倶利伽羅峠の戦い]]で[[源義仲]]に敗れ、各地を敗走ののち入水。 |- |{{Display none|いまい かねひら/}}[[今井兼平]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |自刃 |[[数え年|33歳*]] |[[1184年]]{{Display none|03/04-}}[[3月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1184/03/04}}† [[源義仲]]が討ち取られた後、太刀の先を口に含んで馬から飛び降りて自害。 |- |{{Display none|たいら の きよつね/}}[[平清経]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |[[入水]] |[[数え年|21歳*]] |[[1183年]]{{Display none|04/04-}}[[4月4日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1183/04/04}}† 平家一門都落ちののち入水。清経の入水は、[[平家物語]]では平家一門の「心憂きことのはじめ」として語られている。 |- |{{Display none|みなもと の ためとも/}}[[源為朝]] |{{Display none|83}}[[武将]](源平期) |自刃/[[切腹]] |[[数え年|32歳*]] |[[1170年]]{{Display none|04/23-}}[[4月23日]]? | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-1170/04/23?/}}† [[保元の乱]]で[[伊豆大島]]に流され、追討を受け自害。最古の[[切腹]]とも。 |- |{{Display none|にんかん/}}[[仁寛]] |{{Display none|82}}[[僧侶]] |[[飛び降り]] | |[[1114年]]{{Display none|04/29-}}[[4月29日]] |[[立川流_(密教)|真言立川流]]の始祖とされる僧 |- |{{Display none|ふじわら の やすすけ/}}[[藤原保輔]] |{{Display none|81}}[[貴族]] |自刃 | |{{Display none|0}}[[988年]]{{Display none|08/07-}}[[8月7日]] |平安中期の[[官人]]にして盗賊。捕縛された際に自らの腹部に刃した。 |- |{{Display none|ふじわら の くすこ/}}[[藤原薬子]] | style="width:10em" |{{Display none|81}}[[貴族]]、[[女官]] |服毒 |[[数え年|不明*]] |{{Display none|0}}[[810年]]{{Display none|10/17-}}[[10月17日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-0810/10/17}}† [[薬子の変]]、または[[平城太上天皇の変]]とも言う。 |- |- |{{Display none|さわらしんのう/}}[[早良親王]] |{{Display none|81}}[[皇族]] |絶食 |[[数え年|26歳*]] |{{Display none|0}}[[785年]]{{Display none|11/08-}}[[11月8日]] |[[藤原種継]]暗殺事件に連座して捕らえられ、[[淡路国]]に[[流罪|配流]]される途上で憤死。 |- |{{Display none|ながやのおおきみ/}}[[長屋王]] |{{Display none|81}}[[皇族]] |[[服毒]] |[[数え年|46歳*]] |{{Display none|0}}[[729年]]{{Display none|03/20-}}[[3月20日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-0729/03/20}}† [[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]] |- |{{Display none|やまのべのひめみこ/}}[[山辺皇女]] |{{Display none|81}}[[皇族]] | |[[数え年|24歳*]] |{{Display none|0}}[[686年]]{{Display none|10/25-}}[[10月25日]] |[[大津皇子]]の正妃。大津皇子の[[賜死]]のあと[[殉死]]。 |- |{{Display none|こうぶんてんのう/}}[[弘文天皇]] |{{Display none|81}}[[皇族]]/第39代天皇 |縊死 |[[数え年|25歳*]] |{{Display none|0}}[[672年]]{{Display none|08/21-}}[[8月21日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-0672/08/21}}† [[壬申の乱]]。叔父[[天武天皇|大海人皇子]] (第40代・天武天皇) に敗れ自害。 |- |{{Display none|そが の えみし/}}[[蘇我蝦夷]] | style="width:10em" |{{Display none|81}}[[貴族]] | |[[数え年|60歳*]] |{{Display none|0}}[[645年]]{{Display none|07/11-}}[[7月11日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-0645/07/11}}† [[大化の改新]]、[[乙巳の変]] |- |{{Display none|やましろのおおえのおう/}}[[山背大兄王]] |{{Display none|81}}[[皇族]] |縊死 | |{{Display none|0}}[[643年]]{{Display none|12/30-}}[[12月30日]] | style="background-color:#E6E6E6;" |{{Display none|0-戦-0643/12/30}}† [[蘇我入鹿]]との争いの中、一族もろとも自害。 |- |{{Display none|うじのわきいらつこ/}}[[菟道稚郎子]] |{{Display none|81}}[[皇族]] | | |{{Display none|0}}[[312年]] |[[記紀]]に伝えられる[[古墳時代]]の人物。[[応神天皇]]崩御のあと、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に皇位を譲るために自ら果てたという。大鷦鷯尊は即位して[[仁徳天皇]]となった。 |- |{{Display none|おとたちばなひめ/}}[[弟橘媛|弟橘比売命]] |{{Display none|81-/}}[[日本神話|神話上の人物]] |[[入水]] | |{{Display none|0000}} | [[日本武尊]]の后。[[海神]]の怒りを鎮め日本武尊と宝劔を安泰ならしめ、又天下後世の人をして渡海風波の難を救う守護神となるため、日本武尊に替わって海中に入ったという。 |} == その自殺に強い疑義のある者 == ここでは、自殺とされているが'''強い疑義'''のある者、またその疑義が広く知られている者について一覧する。<!-- 本記事のテーブルはいずれも書式がやや複雑です。初めて加筆される方は、 [[ノート:自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧/ソートキー]] をご一読ください。説明文とテンプレートに沿って欄を埋めていけば、ありがちなミスはおそらく回避できます。 --> {| class="sortable wikitable" style="font-size:85%; margin:10px 0px;" |- ! 名前 !! {{Nowrap|職業/肩書き/地位}} !! 手段 !! style="padding-right:17px" | {{Nowrap|没年齢}} !! 没年月日 !! class="unsortable" | 備考/補足/関連 |- |{{Display none|いちかわ だんしろう/}}[[市川段四郎 (4代目)|市川段四郎]] |{{Display none|03}}[[歌舞伎|歌舞伎役者]] |[[向精神薬]] |76歳 |[[2023年]]{{Display none|07/17-}}[[5月18日]] |四代目市川段四郎。息子の[[市川猿之助 (4代目)|四代目猿之助]]が幇助し、妻の喜熨斗延子とともに家族会議(四代目猿之助談)の末、睡眠薬を過剰摂取し、ビニール袋を被ることで一家心中したが、要介護に近しい状態であったとされ、本人の意思で自殺を遂げたかは不明。なお、要介護認定は受けておらず、意思疎通は可能であったとして四代目猿之助は自殺幇助容疑での逮捕となった<ref>{{Cite news|url= https://news.ntv.co.jp/category/society/204da4a86b034af09f5e941f01965380 |title= 【速報】市川猿之助容疑者を再逮捕 父・市川段四郎さんの自殺も“手助け”自殺ほう助の疑い 警視庁 |newspaper= 日テレNEWS |publisher= 日本テレビ |date= 2023-07-18 |accessdate= 2023-07-20}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/07/19/kiji/20230719s00041000087000c.html |title= 市川猿之助容疑者 母の自殺ほう助容疑、処分保留 嘱託殺人容疑への布石か |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2023-07-19 |accessdate= 2023-07-20 }}</ref>。 |- |{{Display none|さわだ たいじ/}}[[沢田泰司]] |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |[[縊死|首吊り]] |45歳 |[[2011年]]{{Display none|07/17-}}[[7月17日]] |[[X JAPAN|X(現・X JAPAN)]]の元[[ベーシスト]]。[[暴行罪]]で[[勾留]]中に首を吊る。しかし、その死にはいくつかの疑惑があるとされ<ref>[https://lite-ra.com/2015/08/post-1431.html X JAPAN、TAIJIの死をめぐる謎…内縁の妻がマネージャーの不審行動とサイパン拘置所の不正を告発] [[サイゾー|LITERA]] 2015年8月28日</ref>、遺族により不審死の検証及び再調査に関する署名活動が行われている<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000136603 TAIJIの死、5年の年月を経て外務省が問題を認識] BARKS 2016年12月29日 2020年9月24日閲覧</ref>。 |- |{{Display none|くろき あきお/}}[[黒木昭雄]] | style="width:10em" |{{Display none|25}}[[ジャーナリスト]]、元[[警察官]] |[[練炭]] |52歳 | style="white-space:nowrap;" |[[2010年]]{{Display none|11/02-}}[[11月2日]][[#遺体発見日|**]] |遺体発見当日のテレビ・新聞等では自殺と報じられ<ref>{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101102/crm1011021942027-n1.htm|title=元警察官ジャーナリスト、黒木昭雄さん練炭自殺か|newspaper=[[産経新聞|MSN産経ニュース]]|date=2010-11-02|accessdate=2010-11-09}}</ref><ref>{{cite news|url=https://web.archive.org/web/20101107061834/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110201000781.html|title=黒木昭雄さん自殺か 元警察官でジャーナリスト|newspaper=[[47NEWS]]/[[共同通信]]|date=2010-11-02|accessdate=2010-11-09}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201011/2010110200795|title=ジャーナリスト黒木さん、自殺か=車内に練炭、家族が発見-千葉|newspaper=[[時事通信]]|date=2010-11-02|accessdate=2010-11-09}}</ref>、[[千葉県警]][[市原警察署|市原署]]も自殺と断定したが<ref name="MSN産経2010-11-08">{{cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101108/crm1011081455019-n1.htm|title=ジャーナリスト黒木氏自殺に不審な影「消された可能性も」|newspaper=[[産経新聞|MSN産経ニュース]]|date=2010-11-08|accessdate=2010-11-09}}</ref>、その後、かねてより黒木が追跡していた[[岩手17歳女性殺害事件]]をめぐって何者かに消された可能性も、と報じられた<ref name="MSN産経2010-11-08"/><ref>{{cite news|url=https://www.j-cast.com/2010/11/04079998.html?p=all|title=変死警察ジャーナリストに何があったのか 追及していた女性殺害事件との関連性は|newspaper=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]]|date=2010-11-04|accessdate=2010-11-09}}</ref><ref>{{cite news|url=https://npn.co.jp/article/detail/79673490/|title=警察ジャーナリスト・黒木昭雄氏死亡への不審と、ネットで流れる様々な憶測|newspaper=[[リアルスポーツ|リアルライブ]]|date=2010-11-04|accessdate=2010-11-09}}</ref>。その一方で、黒木の親族は黒木の死を自殺と断定する声明をウェブ上で発表している<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2010年11月17日|url=http://blogs.yahoo.co.jp/kuroki_aki/17860690.html|title=黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」 - 読者の皆様へ|accessdate=2011-08-22}}</ref>。 |- |{{Display none|おぜ ひろゆき/}}[[小瀬浩之]] |{{Display none|47}}[[プロ野球選手]] |[[飛び降り]] |24歳 |[[2010年]]{{Display none|02/05-}}[[2月5日]] |[[オリックス・バファローズ]]の現役外野手。[[春季キャンプ]]で滞在していた沖縄県・[[宮古島市]]のホテルで、10階の自室から2階部分屋上に転落死しているのが発見された。スポーツ各紙は、小瀬が前日に元気のない様子だったこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100206-593088.html |title=オリ小瀬選手自殺か キャンプ宿舎飛び降り|work=[[日刊スポーツ]]|date=2010年2月6日|accessdate=2018-03-02}}</ref>や同年からチームメート数名に自殺をほのめかしていたこと、死亡する前に「ありがとうございました」というメールを数名の選手に送っていたこと<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/02/06/kiji/K20100206Z00000140.html|title=なぜ…小瀬選手 同僚に「自殺したい」 気になるメールも|publisher=Sponichi Annex |date=2010-2-06|accessdate=2022-12-14}}</ref>を報じた。自殺と事故の両面から警察による捜査を行われたが、死亡から2日後、オリックス球団本部長は「事件性がなく、死因や遺書の有無についても警察から報告がなかった」と述べ、球団は小瀬の死を自殺と断定しなかった<ref>毎日新聞、2010年2月7日</ref>。 |- | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|みうら かずよし/}}[[三浦和義]] |{{Display none|51}}[[実業家]]、[[ロス疑惑]]の人物 |[[縊死|首吊り]] |61歳 |[[2008年]]{{Display none|10/10-}}[[10月10日]] |旅行先の[[サイパン島|サイパン]]で米当局に逮捕され、その後[[ロサンゼルス]]に移送。到着した当日、留置所内で首を吊って死亡したとされる。その後三浦の弁護人が「検死の結果自殺ではなく他殺だった」と発表したが、真相は不明のまま。 |- |{{Display none|わたなべ しょうぞう/}}[[渡辺省三]] |{{Display none|47}}元[[プロ野球選手]] |[[飛び降り]] |65歳 |[[1998年]]{{Display none|08/31-}}[[8月31日]] |[[阪神タイガース]][[スカウト (勧誘)#スポーツ|スカウト]]。神戸市内のビルの屋上から飛び降り自殺<ref>{{Cite news|title=00年に元ヤクルトの高野光さんが自殺|newspaper=日刊スポーツ|date=2010-02-05|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20100205-592930.html|accessdate=2019-11-27}}</ref>。屋上で争った形跡がないことから警察は自殺と断定したが、不審な点が多く、遺族は殺人事件であると断定して、同年に長女が「週刊文春」に自殺ではない旨を寄稿し<ref>「父、渡辺省三(阪神スカウト)は自殺ではありません!」長女が明かす死の真相」『週刊文春』 40(40), 195-197, 1998-10-22, {{naid|40001710019}}</ref>、2004年にも「FRIDAY」で死の疑惑について取り上げる記事が掲載された。長女はウェブサイトを開設し、球団関係者による殺人事件であることを訴え続け、2000年には殺人予備罪の告訴状を神戸地方検察庁に提出<ref>{{Cite web|url=http://anchorwoman.biz/newpage9.html|title=殺人予備罪|accessdate=2019-11-27}}</ref>、2002年には著書『タイガースの闇』を出版した。 |- |{{Display none|ひで/}}[[hide]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|06}}[[ミュージシャン]] |[[縊死|首吊り]] |33歳 |[[1998年]]{{Display none|05/02-}}[[5月2日]] |[[X 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カニバリズム
カニバリズム(英語: cannibalism)とは、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食ともいう。 文化人類学における「食人俗」は社会的・制度的に認められた慣習や風習を指す。一時的な飢餓による緊急避難的な食人や精神異常による食人はカニバリズムには含まず、アントロポファジー(後述)に分類される。また、生物学では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す(後述)。 スペイン語の「カニバル(Canibal)」に由来する。「Canib-」はカリブ族のことを指しており、16世紀頃のスペイン人航海士達の間では、西インド諸島に住むカリブ族が人肉を食べる(人食い人種)と信じられていた。そのためこの言葉には「西洋(キリスト教)の倫理観から外れた蛮族による食人の風習」=「食人嗜好」を示す意味合いが強い。 発音が似ているため、日本ではしばしば謝肉祭を表す「カーニバル (carnival)」と混同されるが、こちらは中世ラテン語の「carnelevarium(「肉」を表す「carn-」と、「取り去る」を意味する「levare」が合わさったもの)を語源に持つ。 「食人」、「人食い」という意味としては、ギリシア語の「アンスロポファギア(ανθρωποφαγία)」に由来する「アントロポファジー(anthropophagy、「人間」を意味する「anthropo-」と、「食べる」を意味する「-phagy」の合成語)」が忠実な語である。 習慣としてのカニバリズムは、大きく以下の2種類に大別される。 特定の社会では、対象の肉を摂取することにより、自らに特別な効果や力、または栄誉が得られると信じられている場合がある。しばしばその社会の宗教観、特にトーテミズムと密接に関係しており、食文化というよりも文化人類学・民俗学に属する議題である。自分の仲間を食べる族内食人と、自分達の敵を食べる族外食人に大別される。 族内食人の場合には、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがあると指摘される。すなわち、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えである。すべての肉体を土葬・火葬にしてしまうと、現世に何も残らなくなるため、これを惜しんでの行いと見ることができる。日本に残る「骨噛み」は、このような意味合いを含む風習と考えられる。 また、約1万年以前の後期旧石器時代の欧州では、葬儀の習慣として死者の肉を食べる行為が一般的に行われていたというデータが存在する。 なお人身供養と考えるか、葬制の一部と見るのかによって意味合いが変わってくるが、ニューギニア島の一部族に流行していたクールー病と呼ばれるプリオン病は、族内食人が原因でプリオンが増加したことが判明している。 族外食人の場合には、復讐のような憎悪の感情が込められると指摘される。また族内食人同様、被食者の力を自身に取り込もうとする意図も指摘される。代表例は各国で見られる戦場における人肉食である(兵糧の補給という合理的見地から行われた場合を除く)。ヨーロッパ人の探検隊が先住民族に捕らえられて食される逸話もこれに相当する。何もこれは未開地域の話ではなく、例えばジョン・ジョンスンは、妻を殺したインディアンに復讐した際、その肝臓を食べたという話が広まり、レバー・イーティング(肝臓食い)という渾名を付けられた。実際には、インディアンをナイフで殺した時、刃先に付着していた肝臓の欠片を食べる「ふり」をしただけともされるが、いずれにせよ、殺した相手の肉を食らうという逸話は、復讐を完了したことを象徴的に示しているとされた。 戦争によるカニバリズムは、首長制の集団のような比較的小規模な条件では高まり、国家と呼べる規模まで成長すると逆に禁止、縮小される傾向がある。マーヴィン・ハリスは、戦争によるカニバリズムを許すと相手の降伏が望めなくなり、戦争後の統治や収奪が困難になるデメリットが大きいために、国家レベルの社会では戦争によるカニバリズムを禁止したとしている。 なお、タンパク質の供給源が不足しているあるいは過去に不足していた地域では、人肉食の風習を持つ傾向が高いという説がある。実際に、人肉食が広い範囲で見られた上述のニューギニア島は、他の地域と比べて家畜の伝播が遅く、それを補うような大型野生動物も生息していなかった。 こういった地域での族外食人には、もとは社会的意図がなかった可能性が示唆される。 死者の血肉が強壮剤や媚薬になるとする考えも欧州はじめ世界中に見られ、これは族内食人の一環として説明する研究者もいる。人間のミイラには防腐処理剤に瀝青・ハーブ・スパイスが用いられ一種の漢方薬として不老不死や滋養強壮の薬効があると信じられていて、主に粉末としたものが薬として飲用され、日本にも薬として輸出されていた。また中国や日本では肝臓、胆嚢、脳を薬として摂取していた(例:刀剣の試し斬り役山田浅右衛門の人胆丸)。現在でも胎盤は健康や美容のために食されたり、医薬品として加工される(胎盤#利用を参照)。 ジャック・アタリやレヴィ=ストロース、鷲田小彌太らは、臓器移植(他者の臓器を取り出して別人の体に移植する行為)はカニバリズムのカテゴリーに含まれると主張している。臓器移植は経口摂取ではないものの、他人の体の一部を取り込む行為にはある種の不気味さを感じる人もあり、例えば吉本隆明は『私は臓器を提供しない』の中で、臓器移植には「人食いのイメージが強い」と記している。 飢饉、戦争、食料不足による人肉食も世界各地に見られる。 生存のために他の人間の死体を食べた事例は、 緊急事態下を生き延びる手段としての人肉食は、食のタブーを超えて古今東西でしばしば見られる。近年の著名な例としては、1972年のウルグアイ空軍機571便遭難事故が挙げられ、遭難した乗客らは、死亡した他の乗客の遺体を食べることで、救助されるまでの72日間を生き延びた。『アンデスの聖餐』、『生存者』やこれを原作にした『生きてこそ』の映画で知られる。このような事例は厳密にはカニバリズムには含まれない。 他の例として、1846年のアメリカにおいて、東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民の一行であった西部開拓者のキャラバン・ドナー隊が旅程の遅れのためにシエラ・ネバダ山脈での越冬を余儀なくされ、山中トラッキー湖畔において遭難した際は、発覚までに隊の中で死亡者を食べるという緊急避難措置が行われていた。さらに悪天候や当時の救助技術により完了するまでに長期間、数回に分けての救助となった。そんな折、最後の被救出者は、先の救出作業の際に渡されていた牛の干し肉があったにもかかわらず、共に残った婦人の肉を食べていた。これは緊急避難が人肉嗜食に転じた典型例である。彼はその婦人の殺害を疑われたが、証拠不十分で放免された。 人肉の栄養価は、旧石器時代の人々が食べていた他の動物と比較して高くないことが2017年4月6日に『サイエンティフィック・リポーツ』で発表された。論文著者であるブライトン大学のジェームズ・コールは「ほかの動物に比べて、ヒトは栄養学的に優れた食品ではありません」と語っており、コールの推定値によると、イノシシやビーバーの筋肉は1kgあたり4000kcalあるが、現代人の筋肉は1300kcalしかないという。この研究によって、コールは2018年のイグノーベル栄養学賞を受賞した。 人肉嗜食とは、特殊な心理状態での殺人に時折見られる人肉捕食等のことで、緊急性がなく、かつ社会的な裏づけ(必要性)のない行為である。多くは猟奇殺人に伴う死体損壊として現れる。文明社会では、直接殺人を犯さずとも死体損壊等の罪に問われる内容であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されない行為(タブー)である食のタブーとされる。 カニバリズムは、しばしば性的な幻想をもって受け止められることが多い。連続殺人者として知られるアルバート・フィッシュ、ジェフリー・ダーマー、フリッツ・ハールマン、アンドレイ・チカチーロは、殺人と並行して人肉を食べた。性的なものをベースにしつつ、より「食人」を重視したカール・グロスマン(英語版)、ニコライ・デュマガリエフは犠牲者も多数となった。パリ人肉事件の犯人の佐川一政は自著の中で、女生徒の肉の味を「まったり」と「おいしい」と記述し、また被害者に憎しみはなく憧れの対象であり、事件時の精神状態は性的幻想の中にあったと記述している。 1978年には、日本で手首ラーメン事件、1989年には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生している。 2001年にはドイツに住むアルミン・マイヴェスが、カニバリズムを扱うインターネット上のサイトで自分に食べてもらいたい男性を募集し、それに応じてきた男性を殺害し、遺体を食べている。 2007年には、フランス北部ルーアンの刑務所で35歳の男性受刑者が、別の男性受刑者を殺害し、肉体の一部(肋骨の肉)を監房に備え付けられていたキッチンやストーブで調理して食べたとされる事件が起きている。同年にホセ・ルイス・カルバが食人を行った。2012年にはマイアミゾンビ事件が発生した。 近年はロシアの若年層に人肉嗜食が頻発しており、2008年には、悪魔崇拝を標榜する少年少女8名が同年代の4名を殺害してその肉を食する事件が、2009年には、メタルバンドを組むユーリ・モジノフら青年2人がファンの少女を殺害してその肉や内臓を食する事件が起きている。いずれも犯行動機は要領を得ず、「悪魔から逃げたかった」「酩酊して腹が減っていた」と不可解な供述に終始している。 以下、狭義にはカニバリズムの定義に該当しないものも含まれる。 イースター島では1600年頃から1700年頃にかけて人口が約70%減少した。その要因として現地住民の人為的環境破壊(モアイ作成のための森林伐採)が挙げられるが、結果として野生動物の肉の供給源が失われることになり、最終的に少ない食料を巡っての部族抗争が起き、人肉を食すようになったといわれ、当時のゴミの集積地跡からは人骨が発見されている。 上記はジャレド・ダイアモンドが著した『文明崩壊に』記載されている内容であるが、2020年現在、ダイアモンドの説には誤りがあるとの研究がいくつかある。当時の遺骨には争った形跡が殆ど無いことから、抗争は無かったとの説が出てきており、この説によればイースター島の住民が激減したのは、西洋人による奴隷狩りが主な原因とされる。一方で、やはり文明崩壊、そして人肉食は起きたと主張する学者もいる。 1961年に、ニューギニア島の奥地で人類学者のマイケル・ロックフェラーが原住民に殺され食べられたと報じられた。 スペイン北部のアタプエルカ遺跡で発掘された「最初のヨーロッパ人」の遺骨から、この先史人類たちが人肉を食べており、しかも、とりわけ子どもの肉を好んでいたことが明らかになった。遺骨の分析によると、食人は、儀式としてではなく食用で行われていた。当時、食料や水は豊富にあり、イノシシやウマ、シカの狩猟も可能であり、食料不足で食人が行われたのではなく、敵対する相手を殺し、その肉を食べたと考えられている。 後にヨーロッパでは戦争、飢饉、貧困、宗教的理由でカニバリズムは広く行われた。第1回十字軍において、十字軍の軍勢がシリアのマアッラを陥落させた際(マアッラ攻囲戦)に、人肉食が行われたという記録が残っている。アラブ、フランク(西欧)双方から同内容の証言が出ており、信憑性が高い。当時、十字軍の食料状況は非常に貧困で、現地調達の略奪の一環として現地住民を殺害し、その肉を食べたとされる。 1274年にフォッサヌォーヴァ修道院(英語版)で死去したトマス・アクィナスの遺体も修道士たちによって食されている。ホイジンガによれば、修道士たちは、当時高価であった聖遺物の散逸を恐れ、師の遺体を加工保存し、頭部を調理したとしている。 また、大飢饉 (1315年-1317年)(英語版)の際は人肉食があったと言われるが、それがどの程度のものだったかについては議論が分かれている。また近世以降、船の難破による漂流中に人肉食が行われたという事例が時折記録されている。 15世紀のスコットランドにおいて、ソニー・ビーンとその家族は山岳を通過する旅行者達を食べて暮らしていたという記録があるが、それらは19世紀以降のものであり信憑性は低い。 人肉そのものを食べたわけではないが、1805年のトラファルガー海戦で戦死したイギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンの遺体は、腐敗を防ぐためラム酒の樽に漬けて本国に運ばれたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることがある。しかし、ネルソンの遺体が実際に入れられたのはコニャックの樽であり、盗み飲みの逸話もただの噂話だとする説もある。 人肉嗜食の項のハールマン、グロスマンらの犯行が行われていたのは第一次世界大戦後の後遺症下にあったドイツである。極度のインフレーションに襲われていたドイツでは慢性的な肉不足となっており、その中で行われた2人の犯行は性的なものがメインでありながら、若干の経済的目的の側面も持ち合わせていた。その経済的目的に特化したカール・デンケは、人肉を市場に流通させるための商品開発における過程で犯行が明るみに出て逮捕されている。3人の犯行は、戦後の浮浪者にあふれていた当時のドイツにおいて、いずれも数十人単位の犠牲者が出るまで発覚しなかった。 その後ドイツでは第二次世界大戦中に強制収容所内で収容者が人肉を食することがあったことがヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に記されている。 アメリカ大陸では宗教的儀礼として広く人身御供が行われていた。また、戦争捕虜を食糧とする慣習も多く存在した。 アステカは食人を制度化していた稀有な国家であり、各所で発生する戦争や反乱で得た捕虜を首都に送り、食糧として消費していた。生きた状態の生贄から黒曜石のナイフで心臓を抉り取り、神に捧げ、体の部分は投げ落として切り刻み、トウモロコシとともに煮込んで食された。ただし、人肉を食すことが許されたのは上流階級のみだった。 北アメリカのイロコイ族やヒューロン族といったアメリカ先住民たちも戦争捕虜を食糧にしていた。イエズス会士の報告によれば、戦場での食糧とする他に、自分たちの村に連れ帰り拷問や訓練に使用した後に食していたと言われる。 北アメリカ大陸に移民したヨーロッパの植民者が、ジェームズタウンにおいて食人をしていたとの研究結果がある。新世界に到着した植民者たちが、厳しい生活環境によって食人行為を強いられた可能性は、古くから指摘されている。 1995年にボブ・マッケンジーがシエラレオネで戦死した際、遺体の一部を食べられた。 飢饉や戦争における人肉食は他の地域と変わらないが、宗教儀式に人肉食が利用されるケースが特筆される。 ヘロドトスは『歴史』の中で、アンドロパゴイという部族の食人の風習や、メディアの王アステュアゲスが将軍ハルパゴスにその子を食べさせた逸話を紹介している。これらは伝説的ではあるが、ヨーロッパの視点からのアジア人(をはじめとする異民族)の「食人」に関する記述である。 インドではシヴァ教の一派であるアゴーリ(英語版)の行者が人肉食を行う。彼らは神通力を得るためにガンジス川から水葬遺体を引き上げ、その肉を食する。近年、その撮影が行われた。社会的行為でない事例としては、2009年にハリヤーナー州で火葬場の職員らが遺体の焼肉で晩酌をするという事件が起きている。 チベットでも、1930年代にシャンバラを標榜する宗教団体が信徒を御供にして人肉食儀式を行っていたという報告がある。 南ベトナムでは、1950年代から1960年代にかけてベトナム共和国軍が、反政府勢力の掃討作戦において反政府勢力と目された民衆を殺害し、「人間の生きた肝臓は精力がつく」として肝臓を取り出して食べたとされる。 中国におけるカニバリズムの先行研究者に日本の桑原隲蔵や相田洋などがいる。 世界各地の例に漏れず、殷代以前において中国でも人身御供にとともに人肉食が行われていたと考えられる。『韓非子』に「紂為肉圃、設炮烙、登糟丘、臨酒池、翼侯炙(あぶり肉)、鬼侯臘(干し肉)、梅伯醢(かい、塩漬け肉)」という殷代の人肉食に関する伝承の記述が見られる。なお後世の儒教においては、人肉食は暴君たる紂王個人に起因するものと解釈された。人肉食は、暴君による残虐行為のひとつとして紂王とともに批判され、忌避された。 常習的なカニバリズムは消えたものの、飢饉や戦争に起因する偶発的な人肉食はその後も絶えなかった。 『左伝』において魯の宣公十五年に、飢えた民が子を交換して食べたとの記録があり、これが飢饉による人肉食の最古の記録となる。『後漢書』において漢末の飢饉の記録にも「人相食」との描写がある。 五代十国以降に人肉食の記録がより頻繁に現れる。元代の『事林広記』には、妻が自らの肉を病気の夫に食べさせたことが美談として称賛され、その行いに朝廷が絹や羊や田を与えて報いたという記述がある。 民間では、元末の『南村輟耕録』に、戦場での人肉食の実例と調理法が多岐にわたって紹介されている。この方式を採用した部隊では戦果が食事に直結するため、大いに士気が高揚したという。 明代の李時珍による『本草綱目』人部には、人肉をはじめ人間由来の漢方薬が記されている。特に宮廷を中心として、女人の血から作った薬(仙丹)が強壮剤としてもてはやされた。不妊に悩む世宗は、投薬してまで宮女に出血を強要したため、多くが衰弱死したという。また、宋代より全身を切り刻む凌遅刑が存在したが、著名人が凌遅刑後に被食された事例として劉瑾が挙げられる。 明代に編纂された三国志演義には、漁師が妻の肉で劉備をもてなし曹操から百金を賜る逸話が挿入されているほか、水滸伝にも、しびれ薬を飲ませた客の肉を商いに利用する居酒屋の話が登場するなど、この時代の知識人にとっても人肉食は特に違和感を覚える存在ではなかった。 清代の宮廷でしばしば人肉食が行われ、高官が赤ん坊の肉を好んで調理させた逸話が伝わる。著名人では、西太后が病の東太后の歓心を買うため肘肉を羹に供したという。黄昭堂によれば、台湾原住民族は「生蕃」と呼ばれ、その肉である「蕃肉」は滋養に富むとして食され、大陸に輸出されていた。凌遅場近辺で死刑囚の肉片が食用ないし薬用に供されていた記録があり、廃止された光緒31年(1905年)には北京で撮影が行われている。 近代に入ると、革新派知識人らによって史料に散見される食人記録が封建制による悪習だと定義され、前近代的な象徴として厳しく糾弾された。その代表が魯迅で、強迫性障害の主人公がカニバルの幻想を抱く『狂人日記』や人血に浸して食べる肉饅頭が肺病を治すという風習についての『薬』といった著作において見られる。 中国共産党の大躍進政策の失敗により深刻な食糧不足が発生した際には人肉食が発生した(中華人民共和国大飢饉)。文化大革命時にも人肉食が広西などで行われたという後年の調査とその報告がある。 香港やマカオではしばしば食人事件が噂され、盛んに作品に翻案された。香港映画『八仙飯店之人肉饅頭』はその一例である。2008年、香港で少女を殺害し、遺体を切り刻んで肉と内臓をミンチ機で細切りにしてトイレに破棄し、手足の骨は肉屋の店頭に並べたという、この映画を思わせる事件が発生した。 朝鮮半島における食人文化は、「断指」「割股(自身の腿肉を切る)」という過激な孝行思想によるもので統一新羅から朝鮮まで続いた。孝以外で直接的に人肉を薬にすることについては比較的遅くに見られ、朝鮮の中宗の治世(1520年代)から広まっており、宣祖の治世である1575年6月には生きた人間を殺し生肝を取り出して売り捌いた罪で多数捕縛されたことが『朝鮮王朝実録』に記載されている。 韓国独立運動家の金九は、割股して病気の父に食べさせている。この民俗療法の風習は、元々梅毒の治療のために行われたと推察できるが、後にこれらの病に留まらず不治の病とされるもの全般に行われるようになり、日本統治時代の昭和初期に至っても新聞記事の中にも長患いの夫に自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件や、当時は不治の病とされたハンセン病の薬として子供を山に連れて行って殺し、生肝を抜くという行為が散見される。ただしこの時代の社会でも、既にこのような薬としての人肉食は一般的ではなく、前近代的で非科学的な奇習と考えられているようになっており、朝鮮総督府により施行された日本法でも禁止されている。1933年に京城府竹添町幼児生首事件が発生した。 ただし、近年でも人肉を薬として信じ、滋養強壮や若返りの効果があると信じて服用されている事例がある。特に2011年8月、中国から密輸された人肉を封入したカプセルが裏で出回っていることを韓国の税関当局が発表し、国内外で大問題となった。税関、警察、保健当局は取締に乗り出しているが、既に大量に出回っており、摘発は容易ではない。2012年において、1錠3000円超で取引されているという。 韓国では20世紀後半の経済成長によって、食料不足は縁遠いものとなっているが、北朝鮮では、政策の失敗が原因で、1990年代中頃以降食料不足が慢性化している。2012年春には数万人規模での餓死者が発生しており、その少ない食料を政府や朝鮮人民軍が横領した結果という。飢えに耐えかねた親が子を釜茹でして食べて捕まる事件や、人肉の密売流通事件が後を絶たないという。 日本の食人風習については南方熊楠による論考がある。 縄文時代後期の大森貝塚において、住民の墓地とは別に貝殻捨て場で獣畜と同様に細かく砕いた人骨が発見されていることから、食人行為が行われていたと推測される。また綏靖天皇が七人の人々を食べたという史料の記述をはじめとして、酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達ヶ原の鬼婆の家に立ち寄った旅人、肝取り地蔵といった説話に古代日本におけるカニバリズムの存在が散見される。 『遠野物語拾遺』第二九六話と第二九九話には、遠野で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話が記録されている。また、中国にある割股の話は、日本にも類話が見える。 『信長公記』には、鳥取城が羽柴秀吉に兵糧攻めされた際、城兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、城を脱走しようとして織田軍に銃撃されて死んだ人間を食い争ったとある。 随筆『新著聞集』では、江戸時代の元禄年間に増上寺の僧が、葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話が収められている。確実な記録には、江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。また天明の大飢饉の際には天明4年(1784年)に弘前で人食いがあったと橘南谿が『東遊記』で記している。 戊辰戦争の折には旧幕府側総指揮官の松平正質が敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたといい、また薩摩藩兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという。 人間の内臓が、民間薬として食されていたという記録がある。 江戸時代、処刑された罪人の死体を日本刀で試し斬りすることを職とした山田浅右衛門は、死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥させ、人胆丸という薬に加工して販売したとされる。当時の人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売却で大名に匹敵する財力を持っていたと言われている。 明治3年(1870年)4月15日付けで、明治政府が「刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ヲ試ミ及人胆霊天蓋等密売ヲ厳禁ス」と、人肝・霊天蓋(脳髄)・陰茎の密売を厳禁する弁官布告を行っている。しかし闇売買は依然続いたらしく、『東京日日新聞』でたびたび事件として立件、報道されている。作家の長谷川時雨は『旧聞日本橋』で明治中期の話として「肺病には死人の水-火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが...これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している。1902年(明治35年)に発生した臀肉事件は、ハンセン病の治療目的で、被害者の臀部の肉を材料としたスープが作られている。 中沢啓治の自伝的漫画『はだしのゲン』には、日本への原子爆弾投下直後から、被災地では「人骨を粉末状にしたものが放射線障害に効く」という迷信が信じられていたという描写がある。 昭和40年代までは、日本各地で、「万病に効く」という伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓を摘出し、黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせ、のちに逮捕されていたことが新聞で報道されている。 このように人間の内臓が薬として利用されていたことについては、未だ明らかにされてはいないが、曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹、煮物、膾、干し肉として食すれば様々な病気を治すと解説しており、肉食が薬事とみなされていたことを示しているし、また漢方においては、熊の胆は胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があると言われ、金と同程度の価値がある高価な薬品だった。江戸中期の古方派医師後藤艮山は、熊胆丸を処方して手広く売り出したと言われる。また中国からこのような薬学的な考えが伝わったともされる。 1938年(昭和13年)、伊波普猷は当時那覇他で見られていた葬儀の際に会葬人への豚肉料理を提供する習慣の起源ではないかと、ある民間伝承を参考のために書き記している。 葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼または風習としての「骨噛み」を行ってきた地域も存在する。長寿を全うした死者や人々に尊敬されていた人物が被食対象となっていることから、死者の生命力や生前の能力にあやかろうとする素朴な感情が根底にあるとみられる。最愛の配偶者の遺骨をかむことは、強い哀惜の念からと思われ、これらは素朴な感情表出として受け止められている。 俳優の勝新太郎は父の死に際して、その遺骨を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。いわゆる「闇の社会」では骨噛みの特殊な習俗が継承されているとの推測もある。 太平洋戦争中の南洋戦線(インパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナル)において、日本軍では兵站が慢性的に途絶したことで大規模な飢餓が頻繁に起こり、死者の肉を食べるという事態が各地で発生した。 グアム島では敗走中のある陸軍上等兵が逃避行を共にしていた日本人の民間人親子を殺害してその肉を食べるという事件が発生。事件の目撃者がアメリカ軍にこのことを密告したため、上等兵は戦犯として逮捕され、アメリカ軍により処刑された。1944年12月にニューギニア戦線の第18軍司令部は「友軍兵の屍肉を食すことを罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。また、ミンダナオ島では1946年から1947年にかけて残留日本兵が現地人を捕食したとの証言があり、マニラ公文書館に記録されている。 なお、連合軍兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。一方で、処刑したアメリカ軍捕虜の肉を酒宴に供したとされる小笠原事件(父島事件)では、関係者がBC級戦犯として処刑されている。罪状には人肉食は含まれず、捕虜殺害と死体損壊として審理された。ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、人肉食の事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している。 1944年真冬の知床岬(ペキンノ鼻)では、難破した陸軍徴用船で「ひかりごけ事件」が発生した。食料が殆どない極限状態に置かれた船長が、死亡した船員の遺体を食べて生存した。武田泰淳の小説『ひかりごけ』や映画化作品で知られる。韓国は、1945年に人肉を獣肉として朝鮮人軍属にふるまったとの疑念が切っ掛けになったとされるチルボン島事件が発生したと主張している。 肉食の習慣や、いわゆる「共食い」とは違うが、豚の「尾かじり」や「耳かじり」・鶏の「尻突き」、群れで飼育する家畜・家禽同士で、傷ついたり弱ったりした個体を(口を使って)集団で攻撃し、結果として死に至らせる行動も畜産学・動物行動学上では「カニバリズム」と呼ばれている。これらの行動は環境探索本能の転嫁と密飼いによるストレスが原因と言われており、遊具等の投入による欲求不満の解消や飼育密度の低減によってある程度の抑制が可能である。また近年では、畜産物残渣の再利用という名目で肉骨粉を飼料に混ぜることもあり、家畜が人間によって意識しない形でカニバリズムをさせられる形となり、BSE(狂牛病)という感染症を発生させる結果となった。 カニバリズムを動物が同種の他個体を食べる共食い(種内捕食、intraspecies predation)の訳語としてとる場合、共食いはアリやシロアリ等の社会性昆虫では頻繁に見られ、食料欠乏の場合には、幼虫・成虫が卵やさなぎを捕食する(飢餓状態に置かれれば、チョウの幼虫の草食動物も共食いをする)。繁殖のためではなく、幼生に栄養を補給する目的で無精卵(栄養卵(英語版))を産む行動は、カエル、ハキリアリ、クモに見られる。無脊椎動物や魚類、成体と幼生(あるいは大きさの著しく異なる雄と雌)が同じ地域(同じ生物群集内)に生息する雑食動物や肉食動物の間では、食物ピラミッドの中では小さな個体が大きな個体の下に位置するため、食性としてのカニバリズムが頻繁に起こりうる。そのような場合、カニバリズムが個体群数の周期的変動につながる例も多い。 カニバリズムは無脊椎動物や魚類、両生類だけではなく鳥類や哺乳類等の高等動物にも見られる行動であり、チンパンジーの子殺しに伴う共食いのように霊長類も例外ではない。自然状態での家畜とは異なるストレス以外のカニバリズムの理由としては、えさとしての価値に重点がある場合と同種個体を殺すことに重点がある場合、その両方を兼ねる場合があるが、チンパンジーの例ではその意義が未だよく解明されていない。 古来より、カニバリズムは説話や童話・民話でもモチーフになっている。タブーとされるがゆえに、それを扱った文学・芸術は多く見られる。フィクションでは青頭巾(『雨月物語』)、スウィーニー・トッド、『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』に登場するハンニバル・レクターがいる。 小説や映画でもカニバリズムを扱った作品は多数ある。ジョナサン・スウィフトは風刺として『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』において貧民の赤子を1歳になるまで養育し、アイルランドの富裕層に美味な食料として提供することをアイルランドの窮状解決策として提案した。 ほか マルキ・ド・サド『食人国旅行記』、フローベール『サランボー』、H・G・ウェルズ『タイムマシン』、エドガー・アラン・ポー『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』がある(その他は#参考文献を参照)。 昭和初期の探偵小説作家夢野久作の作品に『白くれなゐ』があり、人胆(ひとぎも)採取の話が出ている。 絵画ではゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』がある。 その他のフィクション作品については「カテゴリー:カニバリズムを題材とした作品」参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カニバリズム(英語: cannibalism)とは、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "文化人類学における「食人俗」は社会的・制度的に認められた慣習や風習を指す。一時的な飢餓による緊急避難的な食人や精神異常による食人はカニバリズムには含まず、アントロポファジー(後述)に分類される。また、生物学では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す(後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スペイン語の「カニバル(Canibal)」に由来する。「Canib-」はカリブ族のことを指しており、16世紀頃のスペイン人航海士達の間では、西インド諸島に住むカリブ族が人肉を食べる(人食い人種)と信じられていた。そのためこの言葉には「西洋(キリスト教)の倫理観から外れた蛮族による食人の風習」=「食人嗜好」を示す意味合いが強い。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "発音が似ているため、日本ではしばしば謝肉祭を表す「カーニバル (carnival)」と混同されるが、こちらは中世ラテン語の「carnelevarium(「肉」を表す「carn-」と、「取り去る」を意味する「levare」が合わさったもの)を語源に持つ。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「食人」、「人食い」という意味としては、ギリシア語の「アンスロポファギア(ανθρωποφαγία)」に由来する「アントロポファジー(anthropophagy、「人間」を意味する「anthropo-」と、「食べる」を意味する「-phagy」の合成語)」が忠実な語である。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "習慣としてのカニバリズムは、大きく以下の2種類に大別される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "特定の社会では、対象の肉を摂取することにより、自らに特別な効果や力、または栄誉が得られると信じられている場合がある。しばしばその社会の宗教観、特にトーテミズムと密接に関係しており、食文化というよりも文化人類学・民俗学に属する議題である。自分の仲間を食べる族内食人と、自分達の敵を食べる族外食人に大別される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "族内食人の場合には、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがあると指摘される。すなわち、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えである。すべての肉体を土葬・火葬にしてしまうと、現世に何も残らなくなるため、これを惜しんでの行いと見ることができる。日本に残る「骨噛み」は、このような意味合いを含む風習と考えられる。 また、約1万年以前の後期旧石器時代の欧州では、葬儀の習慣として死者の肉を食べる行為が一般的に行われていたというデータが存在する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお人身供養と考えるか、葬制の一部と見るのかによって意味合いが変わってくるが、ニューギニア島の一部族に流行していたクールー病と呼ばれるプリオン病は、族内食人が原因でプリオンが増加したことが判明している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "族外食人の場合には、復讐のような憎悪の感情が込められると指摘される。また族内食人同様、被食者の力を自身に取り込もうとする意図も指摘される。代表例は各国で見られる戦場における人肉食である(兵糧の補給という合理的見地から行われた場合を除く)。ヨーロッパ人の探検隊が先住民族に捕らえられて食される逸話もこれに相当する。何もこれは未開地域の話ではなく、例えばジョン・ジョンスンは、妻を殺したインディアンに復讐した際、その肝臓を食べたという話が広まり、レバー・イーティング(肝臓食い)という渾名を付けられた。実際には、インディアンをナイフで殺した時、刃先に付着していた肝臓の欠片を食べる「ふり」をしただけともされるが、いずれにせよ、殺した相手の肉を食らうという逸話は、復讐を完了したことを象徴的に示しているとされた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "戦争によるカニバリズムは、首長制の集団のような比較的小規模な条件では高まり、国家と呼べる規模まで成長すると逆に禁止、縮小される傾向がある。マーヴィン・ハリスは、戦争によるカニバリズムを許すと相手の降伏が望めなくなり、戦争後の統治や収奪が困難になるデメリットが大きいために、国家レベルの社会では戦争によるカニバリズムを禁止したとしている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお、タンパク質の供給源が不足しているあるいは過去に不足していた地域では、人肉食の風習を持つ傾向が高いという説がある。実際に、人肉食が広い範囲で見られた上述のニューギニア島は、他の地域と比べて家畜の伝播が遅く、それを補うような大型野生動物も生息していなかった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "こういった地域での族外食人には、もとは社会的意図がなかった可能性が示唆される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "死者の血肉が強壮剤や媚薬になるとする考えも欧州はじめ世界中に見られ、これは族内食人の一環として説明する研究者もいる。人間のミイラには防腐処理剤に瀝青・ハーブ・スパイスが用いられ一種の漢方薬として不老不死や滋養強壮の薬効があると信じられていて、主に粉末としたものが薬として飲用され、日本にも薬として輸出されていた。また中国や日本では肝臓、胆嚢、脳を薬として摂取していた(例:刀剣の試し斬り役山田浅右衛門の人胆丸)。現在でも胎盤は健康や美容のために食されたり、医薬品として加工される(胎盤#利用を参照)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ジャック・アタリやレヴィ=ストロース、鷲田小彌太らは、臓器移植(他者の臓器を取り出して別人の体に移植する行為)はカニバリズムのカテゴリーに含まれると主張している。臓器移植は経口摂取ではないものの、他人の体の一部を取り込む行為にはある種の不気味さを感じる人もあり、例えば吉本隆明は『私は臓器を提供しない』の中で、臓器移植には「人食いのイメージが強い」と記している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "飢饉、戦争、食料不足による人肉食も世界各地に見られる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "生存のために他の人間の死体を食べた事例は、", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "緊急事態下を生き延びる手段としての人肉食は、食のタブーを超えて古今東西でしばしば見られる。近年の著名な例としては、1972年のウルグアイ空軍機571便遭難事故が挙げられ、遭難した乗客らは、死亡した他の乗客の遺体を食べることで、救助されるまでの72日間を生き延びた。『アンデスの聖餐』、『生存者』やこれを原作にした『生きてこそ』の映画で知られる。このような事例は厳密にはカニバリズムには含まれない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "他の例として、1846年のアメリカにおいて、東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民の一行であった西部開拓者のキャラバン・ドナー隊が旅程の遅れのためにシエラ・ネバダ山脈での越冬を余儀なくされ、山中トラッキー湖畔において遭難した際は、発覚までに隊の中で死亡者を食べるという緊急避難措置が行われていた。さらに悪天候や当時の救助技術により完了するまでに長期間、数回に分けての救助となった。そんな折、最後の被救出者は、先の救出作業の際に渡されていた牛の干し肉があったにもかかわらず、共に残った婦人の肉を食べていた。これは緊急避難が人肉嗜食に転じた典型例である。彼はその婦人の殺害を疑われたが、証拠不十分で放免された。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "人肉の栄養価は、旧石器時代の人々が食べていた他の動物と比較して高くないことが2017年4月6日に『サイエンティフィック・リポーツ』で発表された。論文著者であるブライトン大学のジェームズ・コールは「ほかの動物に比べて、ヒトは栄養学的に優れた食品ではありません」と語っており、コールの推定値によると、イノシシやビーバーの筋肉は1kgあたり4000kcalあるが、現代人の筋肉は1300kcalしかないという。この研究によって、コールは2018年のイグノーベル栄養学賞を受賞した。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "人肉嗜食とは、特殊な心理状態での殺人に時折見られる人肉捕食等のことで、緊急性がなく、かつ社会的な裏づけ(必要性)のない行為である。多くは猟奇殺人に伴う死体損壊として現れる。文明社会では、直接殺人を犯さずとも死体損壊等の罪に問われる内容であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されない行為(タブー)である食のタブーとされる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "カニバリズムは、しばしば性的な幻想をもって受け止められることが多い。連続殺人者として知られるアルバート・フィッシュ、ジェフリー・ダーマー、フリッツ・ハールマン、アンドレイ・チカチーロは、殺人と並行して人肉を食べた。性的なものをベースにしつつ、より「食人」を重視したカール・グロスマン(英語版)、ニコライ・デュマガリエフは犠牲者も多数となった。パリ人肉事件の犯人の佐川一政は自著の中で、女生徒の肉の味を「まったり」と「おいしい」と記述し、また被害者に憎しみはなく憧れの対象であり、事件時の精神状態は性的幻想の中にあったと記述している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1978年には、日本で手首ラーメン事件、1989年には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2001年にはドイツに住むアルミン・マイヴェスが、カニバリズムを扱うインターネット上のサイトで自分に食べてもらいたい男性を募集し、それに応じてきた男性を殺害し、遺体を食べている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2007年には、フランス北部ルーアンの刑務所で35歳の男性受刑者が、別の男性受刑者を殺害し、肉体の一部(肋骨の肉)を監房に備え付けられていたキッチンやストーブで調理して食べたとされる事件が起きている。同年にホセ・ルイス・カルバが食人を行った。2012年にはマイアミゾンビ事件が発生した。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "近年はロシアの若年層に人肉嗜食が頻発しており、2008年には、悪魔崇拝を標榜する少年少女8名が同年代の4名を殺害してその肉を食する事件が、2009年には、メタルバンドを組むユーリ・モジノフら青年2人がファンの少女を殺害してその肉や内臓を食する事件が起きている。いずれも犯行動機は要領を得ず、「悪魔から逃げたかった」「酩酊して腹が減っていた」と不可解な供述に終始している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以下、狭義にはカニバリズムの定義に該当しないものも含まれる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "イースター島では1600年頃から1700年頃にかけて人口が約70%減少した。その要因として現地住民の人為的環境破壊(モアイ作成のための森林伐採)が挙げられるが、結果として野生動物の肉の供給源が失われることになり、最終的に少ない食料を巡っての部族抗争が起き、人肉を食すようになったといわれ、当時のゴミの集積地跡からは人骨が発見されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上記はジャレド・ダイアモンドが著した『文明崩壊に』記載されている内容であるが、2020年現在、ダイアモンドの説には誤りがあるとの研究がいくつかある。当時の遺骨には争った形跡が殆ど無いことから、抗争は無かったとの説が出てきており、この説によればイースター島の住民が激減したのは、西洋人による奴隷狩りが主な原因とされる。一方で、やはり文明崩壊、そして人肉食は起きたと主張する学者もいる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1961年に、ニューギニア島の奥地で人類学者のマイケル・ロックフェラーが原住民に殺され食べられたと報じられた。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スペイン北部のアタプエルカ遺跡で発掘された「最初のヨーロッパ人」の遺骨から、この先史人類たちが人肉を食べており、しかも、とりわけ子どもの肉を好んでいたことが明らかになった。遺骨の分析によると、食人は、儀式としてではなく食用で行われていた。当時、食料や水は豊富にあり、イノシシやウマ、シカの狩猟も可能であり、食料不足で食人が行われたのではなく、敵対する相手を殺し、その肉を食べたと考えられている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "後にヨーロッパでは戦争、飢饉、貧困、宗教的理由でカニバリズムは広く行われた。第1回十字軍において、十字軍の軍勢がシリアのマアッラを陥落させた際(マアッラ攻囲戦)に、人肉食が行われたという記録が残っている。アラブ、フランク(西欧)双方から同内容の証言が出ており、信憑性が高い。当時、十字軍の食料状況は非常に貧困で、現地調達の略奪の一環として現地住民を殺害し、その肉を食べたとされる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1274年にフォッサヌォーヴァ修道院(英語版)で死去したトマス・アクィナスの遺体も修道士たちによって食されている。ホイジンガによれば、修道士たちは、当時高価であった聖遺物の散逸を恐れ、師の遺体を加工保存し、頭部を調理したとしている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、大飢饉 (1315年-1317年)(英語版)の際は人肉食があったと言われるが、それがどの程度のものだったかについては議論が分かれている。また近世以降、船の難破による漂流中に人肉食が行われたという事例が時折記録されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "15世紀のスコットランドにおいて、ソニー・ビーンとその家族は山岳を通過する旅行者達を食べて暮らしていたという記録があるが、それらは19世紀以降のものであり信憑性は低い。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "人肉そのものを食べたわけではないが、1805年のトラファルガー海戦で戦死したイギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンの遺体は、腐敗を防ぐためラム酒の樽に漬けて本国に運ばれたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることがある。しかし、ネルソンの遺体が実際に入れられたのはコニャックの樽であり、盗み飲みの逸話もただの噂話だとする説もある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "人肉嗜食の項のハールマン、グロスマンらの犯行が行われていたのは第一次世界大戦後の後遺症下にあったドイツである。極度のインフレーションに襲われていたドイツでは慢性的な肉不足となっており、その中で行われた2人の犯行は性的なものがメインでありながら、若干の経済的目的の側面も持ち合わせていた。その経済的目的に特化したカール・デンケは、人肉を市場に流通させるための商品開発における過程で犯行が明るみに出て逮捕されている。3人の犯行は、戦後の浮浪者にあふれていた当時のドイツにおいて、いずれも数十人単位の犠牲者が出るまで発覚しなかった。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その後ドイツでは第二次世界大戦中に強制収容所内で収容者が人肉を食することがあったことがヴィクトール・フランクルの『夜と霧』に記されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "アメリカ大陸では宗教的儀礼として広く人身御供が行われていた。また、戦争捕虜を食糧とする慣習も多く存在した。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アステカは食人を制度化していた稀有な国家であり、各所で発生する戦争や反乱で得た捕虜を首都に送り、食糧として消費していた。生きた状態の生贄から黒曜石のナイフで心臓を抉り取り、神に捧げ、体の部分は投げ落として切り刻み、トウモロコシとともに煮込んで食された。ただし、人肉を食すことが許されたのは上流階級のみだった。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "北アメリカのイロコイ族やヒューロン族といったアメリカ先住民たちも戦争捕虜を食糧にしていた。イエズス会士の報告によれば、戦場での食糧とする他に、自分たちの村に連れ帰り拷問や訓練に使用した後に食していたと言われる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "北アメリカ大陸に移民したヨーロッパの植民者が、ジェームズタウンにおいて食人をしていたとの研究結果がある。新世界に到着した植民者たちが、厳しい生活環境によって食人行為を強いられた可能性は、古くから指摘されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1995年にボブ・マッケンジーがシエラレオネで戦死した際、遺体の一部を食べられた。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "飢饉や戦争における人肉食は他の地域と変わらないが、宗教儀式に人肉食が利用されるケースが特筆される。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヘロドトスは『歴史』の中で、アンドロパゴイという部族の食人の風習や、メディアの王アステュアゲスが将軍ハルパゴスにその子を食べさせた逸話を紹介している。これらは伝説的ではあるが、ヨーロッパの視点からのアジア人(をはじめとする異民族)の「食人」に関する記述である。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "インドではシヴァ教の一派であるアゴーリ(英語版)の行者が人肉食を行う。彼らは神通力を得るためにガンジス川から水葬遺体を引き上げ、その肉を食する。近年、その撮影が行われた。社会的行為でない事例としては、2009年にハリヤーナー州で火葬場の職員らが遺体の焼肉で晩酌をするという事件が起きている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "チベットでも、1930年代にシャンバラを標榜する宗教団体が信徒を御供にして人肉食儀式を行っていたという報告がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "南ベトナムでは、1950年代から1960年代にかけてベトナム共和国軍が、反政府勢力の掃討作戦において反政府勢力と目された民衆を殺害し、「人間の生きた肝臓は精力がつく」として肝臓を取り出して食べたとされる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "中国におけるカニバリズムの先行研究者に日本の桑原隲蔵や相田洋などがいる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "世界各地の例に漏れず、殷代以前において中国でも人身御供にとともに人肉食が行われていたと考えられる。『韓非子』に「紂為肉圃、設炮烙、登糟丘、臨酒池、翼侯炙(あぶり肉)、鬼侯臘(干し肉)、梅伯醢(かい、塩漬け肉)」という殷代の人肉食に関する伝承の記述が見られる。なお後世の儒教においては、人肉食は暴君たる紂王個人に起因するものと解釈された。人肉食は、暴君による残虐行為のひとつとして紂王とともに批判され、忌避された。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "常習的なカニバリズムは消えたものの、飢饉や戦争に起因する偶発的な人肉食はその後も絶えなかった。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "『左伝』において魯の宣公十五年に、飢えた民が子を交換して食べたとの記録があり、これが飢饉による人肉食の最古の記録となる。『後漢書』において漢末の飢饉の記録にも「人相食」との描写がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "五代十国以降に人肉食の記録がより頻繁に現れる。元代の『事林広記』には、妻が自らの肉を病気の夫に食べさせたことが美談として称賛され、その行いに朝廷が絹や羊や田を与えて報いたという記述がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "民間では、元末の『南村輟耕録』に、戦場での人肉食の実例と調理法が多岐にわたって紹介されている。この方式を採用した部隊では戦果が食事に直結するため、大いに士気が高揚したという。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "明代の李時珍による『本草綱目』人部には、人肉をはじめ人間由来の漢方薬が記されている。特に宮廷を中心として、女人の血から作った薬(仙丹)が強壮剤としてもてはやされた。不妊に悩む世宗は、投薬してまで宮女に出血を強要したため、多くが衰弱死したという。また、宋代より全身を切り刻む凌遅刑が存在したが、著名人が凌遅刑後に被食された事例として劉瑾が挙げられる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "明代に編纂された三国志演義には、漁師が妻の肉で劉備をもてなし曹操から百金を賜る逸話が挿入されているほか、水滸伝にも、しびれ薬を飲ませた客の肉を商いに利用する居酒屋の話が登場するなど、この時代の知識人にとっても人肉食は特に違和感を覚える存在ではなかった。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "清代の宮廷でしばしば人肉食が行われ、高官が赤ん坊の肉を好んで調理させた逸話が伝わる。著名人では、西太后が病の東太后の歓心を買うため肘肉を羹に供したという。黄昭堂によれば、台湾原住民族は「生蕃」と呼ばれ、その肉である「蕃肉」は滋養に富むとして食され、大陸に輸出されていた。凌遅場近辺で死刑囚の肉片が食用ないし薬用に供されていた記録があり、廃止された光緒31年(1905年)には北京で撮影が行われている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "近代に入ると、革新派知識人らによって史料に散見される食人記録が封建制による悪習だと定義され、前近代的な象徴として厳しく糾弾された。その代表が魯迅で、強迫性障害の主人公がカニバルの幻想を抱く『狂人日記』や人血に浸して食べる肉饅頭が肺病を治すという風習についての『薬』といった著作において見られる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "中国共産党の大躍進政策の失敗により深刻な食糧不足が発生した際には人肉食が発生した(中華人民共和国大飢饉)。文化大革命時にも人肉食が広西などで行われたという後年の調査とその報告がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "香港やマカオではしばしば食人事件が噂され、盛んに作品に翻案された。香港映画『八仙飯店之人肉饅頭』はその一例である。2008年、香港で少女を殺害し、遺体を切り刻んで肉と内臓をミンチ機で細切りにしてトイレに破棄し、手足の骨は肉屋の店頭に並べたという、この映画を思わせる事件が発生した。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "朝鮮半島における食人文化は、「断指」「割股(自身の腿肉を切る)」という過激な孝行思想によるもので統一新羅から朝鮮まで続いた。孝以外で直接的に人肉を薬にすることについては比較的遅くに見られ、朝鮮の中宗の治世(1520年代)から広まっており、宣祖の治世である1575年6月には生きた人間を殺し生肝を取り出して売り捌いた罪で多数捕縛されたことが『朝鮮王朝実録』に記載されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "韓国独立運動家の金九は、割股して病気の父に食べさせている。この民俗療法の風習は、元々梅毒の治療のために行われたと推察できるが、後にこれらの病に留まらず不治の病とされるもの全般に行われるようになり、日本統治時代の昭和初期に至っても新聞記事の中にも長患いの夫に自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件や、当時は不治の病とされたハンセン病の薬として子供を山に連れて行って殺し、生肝を抜くという行為が散見される。ただしこの時代の社会でも、既にこのような薬としての人肉食は一般的ではなく、前近代的で非科学的な奇習と考えられているようになっており、朝鮮総督府により施行された日本法でも禁止されている。1933年に京城府竹添町幼児生首事件が発生した。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ただし、近年でも人肉を薬として信じ、滋養強壮や若返りの効果があると信じて服用されている事例がある。特に2011年8月、中国から密輸された人肉を封入したカプセルが裏で出回っていることを韓国の税関当局が発表し、国内外で大問題となった。税関、警察、保健当局は取締に乗り出しているが、既に大量に出回っており、摘発は容易ではない。2012年において、1錠3000円超で取引されているという。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "韓国では20世紀後半の経済成長によって、食料不足は縁遠いものとなっているが、北朝鮮では、政策の失敗が原因で、1990年代中頃以降食料不足が慢性化している。2012年春には数万人規模での餓死者が発生しており、その少ない食料を政府や朝鮮人民軍が横領した結果という。飢えに耐えかねた親が子を釜茹でして食べて捕まる事件や、人肉の密売流通事件が後を絶たないという。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "日本の食人風習については南方熊楠による論考がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "縄文時代後期の大森貝塚において、住民の墓地とは別に貝殻捨て場で獣畜と同様に細かく砕いた人骨が発見されていることから、食人行為が行われていたと推測される。また綏靖天皇が七人の人々を食べたという史料の記述をはじめとして、酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達ヶ原の鬼婆の家に立ち寄った旅人、肝取り地蔵といった説話に古代日本におけるカニバリズムの存在が散見される。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "『遠野物語拾遺』第二九六話と第二九九話には、遠野で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話が記録されている。また、中国にある割股の話は、日本にも類話が見える。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "『信長公記』には、鳥取城が羽柴秀吉に兵糧攻めされた際、城兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、城を脱走しようとして織田軍に銃撃されて死んだ人間を食い争ったとある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "随筆『新著聞集』では、江戸時代の元禄年間に増上寺の僧が、葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話が収められている。確実な記録には、江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。また天明の大飢饉の際には天明4年(1784年)に弘前で人食いがあったと橘南谿が『東遊記』で記している。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "戊辰戦争の折には旧幕府側総指揮官の松平正質が敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたといい、また薩摩藩兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "人間の内臓が、民間薬として食されていたという記録がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "江戸時代、処刑された罪人の死体を日本刀で試し斬りすることを職とした山田浅右衛門は、死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥させ、人胆丸という薬に加工して販売したとされる。当時の人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売却で大名に匹敵する財力を持っていたと言われている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "明治3年(1870年)4月15日付けで、明治政府が「刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ヲ試ミ及人胆霊天蓋等密売ヲ厳禁ス」と、人肝・霊天蓋(脳髄)・陰茎の密売を厳禁する弁官布告を行っている。しかし闇売買は依然続いたらしく、『東京日日新聞』でたびたび事件として立件、報道されている。作家の長谷川時雨は『旧聞日本橋』で明治中期の話として「肺病には死人の水-火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが...これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している。1902年(明治35年)に発生した臀肉事件は、ハンセン病の治療目的で、被害者の臀部の肉を材料としたスープが作られている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "中沢啓治の自伝的漫画『はだしのゲン』には、日本への原子爆弾投下直後から、被災地では「人骨を粉末状にしたものが放射線障害に効く」という迷信が信じられていたという描写がある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "昭和40年代までは、日本各地で、「万病に効く」という伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓を摘出し、黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせ、のちに逮捕されていたことが新聞で報道されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "このように人間の内臓が薬として利用されていたことについては、未だ明らかにされてはいないが、曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹、煮物、膾、干し肉として食すれば様々な病気を治すと解説しており、肉食が薬事とみなされていたことを示しているし、また漢方においては、熊の胆は胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があると言われ、金と同程度の価値がある高価な薬品だった。江戸中期の古方派医師後藤艮山は、熊胆丸を処方して手広く売り出したと言われる。また中国からこのような薬学的な考えが伝わったともされる。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1938年(昭和13年)、伊波普猷は当時那覇他で見られていた葬儀の際に会葬人への豚肉料理を提供する習慣の起源ではないかと、ある民間伝承を参考のために書き記している。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼または風習としての「骨噛み」を行ってきた地域も存在する。長寿を全うした死者や人々に尊敬されていた人物が被食対象となっていることから、死者の生命力や生前の能力にあやかろうとする素朴な感情が根底にあるとみられる。最愛の配偶者の遺骨をかむことは、強い哀惜の念からと思われ、これらは素朴な感情表出として受け止められている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "俳優の勝新太郎は父の死に際して、その遺骨を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。いわゆる「闇の社会」では骨噛みの特殊な習俗が継承されているとの推測もある。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "太平洋戦争中の南洋戦線(インパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナル)において、日本軍では兵站が慢性的に途絶したことで大規模な飢餓が頻繁に起こり、死者の肉を食べるという事態が各地で発生した。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "グアム島では敗走中のある陸軍上等兵が逃避行を共にしていた日本人の民間人親子を殺害してその肉を食べるという事件が発生。事件の目撃者がアメリカ軍にこのことを密告したため、上等兵は戦犯として逮捕され、アメリカ軍により処刑された。1944年12月にニューギニア戦線の第18軍司令部は「友軍兵の屍肉を食すことを罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。また、ミンダナオ島では1946年から1947年にかけて残留日本兵が現地人を捕食したとの証言があり、マニラ公文書館に記録されている。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "なお、連合軍兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。一方で、処刑したアメリカ軍捕虜の肉を酒宴に供したとされる小笠原事件(父島事件)では、関係者がBC級戦犯として処刑されている。罪状には人肉食は含まれず、捕虜殺害と死体損壊として審理された。ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、人肉食の事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1944年真冬の知床岬(ペキンノ鼻)では、難破した陸軍徴用船で「ひかりごけ事件」が発生した。食料が殆どない極限状態に置かれた船長が、死亡した船員の遺体を食べて生存した。武田泰淳の小説『ひかりごけ』や映画化作品で知られる。韓国は、1945年に人肉を獣肉として朝鮮人軍属にふるまったとの疑念が切っ掛けになったとされるチルボン島事件が発生したと主張している。", "title": "各地のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "肉食の習慣や、いわゆる「共食い」とは違うが、豚の「尾かじり」や「耳かじり」・鶏の「尻突き」、群れで飼育する家畜・家禽同士で、傷ついたり弱ったりした個体を(口を使って)集団で攻撃し、結果として死に至らせる行動も畜産学・動物行動学上では「カニバリズム」と呼ばれている。これらの行動は環境探索本能の転嫁と密飼いによるストレスが原因と言われており、遊具等の投入による欲求不満の解消や飼育密度の低減によってある程度の抑制が可能である。また近年では、畜産物残渣の再利用という名目で肉骨粉を飼料に混ぜることもあり、家畜が人間によって意識しない形でカニバリズムをさせられる形となり、BSE(狂牛病)という感染症を発生させる結果となった。", "title": "家畜のカニバリズム" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "カニバリズムを動物が同種の他個体を食べる共食い(種内捕食、intraspecies predation)の訳語としてとる場合、共食いはアリやシロアリ等の社会性昆虫では頻繁に見られ、食料欠乏の場合には、幼虫・成虫が卵やさなぎを捕食する(飢餓状態に置かれれば、チョウの幼虫の草食動物も共食いをする)。繁殖のためではなく、幼生に栄養を補給する目的で無精卵(栄養卵(英語版))を産む行動は、カエル、ハキリアリ、クモに見られる。無脊椎動物や魚類、成体と幼生(あるいは大きさの著しく異なる雄と雌)が同じ地域(同じ生物群集内)に生息する雑食動物や肉食動物の間では、食物ピラミッドの中では小さな個体が大きな個体の下に位置するため、食性としてのカニバリズムが頻繁に起こりうる。そのような場合、カニバリズムが個体群数の周期的変動につながる例も多い。", "title": "自然界でのカニバリズム" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "カニバリズムは無脊椎動物や魚類、両生類だけではなく鳥類や哺乳類等の高等動物にも見られる行動であり、チンパンジーの子殺しに伴う共食いのように霊長類も例外ではない。自然状態での家畜とは異なるストレス以外のカニバリズムの理由としては、えさとしての価値に重点がある場合と同種個体を殺すことに重点がある場合、その両方を兼ねる場合があるが、チンパンジーの例ではその意義が未だよく解明されていない。", "title": "自然界でのカニバリズム" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "古来より、カニバリズムは説話や童話・民話でもモチーフになっている。タブーとされるがゆえに、それを扱った文学・芸術は多く見られる。フィクションでは青頭巾(『雨月物語』)、スウィーニー・トッド、『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』に登場するハンニバル・レクターがいる。", "title": "フィクションにおけるカニバリズム" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "小説や映画でもカニバリズムを扱った作品は多数ある。ジョナサン・スウィフトは風刺として『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』において貧民の赤子を1歳になるまで養育し、アイルランドの富裕層に美味な食料として提供することをアイルランドの窮状解決策として提案した。", "title": "フィクションにおけるカニバリズム" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ほか マルキ・ド・サド『食人国旅行記』、フローベール『サランボー』、H・G・ウェルズ『タイムマシン』、エドガー・アラン・ポー『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』がある(その他は#参考文献を参照)。", "title": "フィクションにおけるカニバリズム" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "昭和初期の探偵小説作家夢野久作の作品に『白くれなゐ』があり、人胆(ひとぎも)採取の話が出ている。", "title": "フィクションにおけるカニバリズム" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "絵画ではゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』がある。", "title": "フィクションにおけるカニバリズム" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "その他のフィクション作品については「カテゴリー:カニバリズムを題材とした作品」参照。", "title": "フィクションにおけるカニバリズム" } ]
カニバリズムとは、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食ともいう。 文化人類学における「食人俗」は社会的・制度的に認められた慣習や風習を指す。一時的な飢餓による緊急避難的な食人や精神異常による食人はカニバリズムには含まず、アントロポファジー(後述)に分類される。また、生物学では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す(後述)。
{{Otheruses||生物学における種内捕食|共食い|その他の用法|カニバリゼーション}} {{暴力的}} [[ファイル:Os Filhos de Pindorama. Cannibalism in Brazil in 1557.jpg|thumb|right|300px|[[1557年]]に[[ブラジル]]で行われたカニバリズムを描いた絵画]] '''カニバリズム'''({{Lang-en|cannibalism}})とは、[[人間]]が人間の[[食肉|肉]]を食べる行動、あるいは習慣をいう。'''食人'''、'''食人俗'''、'''人肉嗜食'''ともいう。 文化人類学における「食人俗」は社会的・制度的に認められた慣習や風習を指す。一時的な[[飢餓]]による[[緊急避難]]的な食人や[[精神異常]]による食人はカニバリズムには含まず{{Sfn|吉岡 |1989|pp=255-257}}、アントロポファジー(後述)に分類される。また、生物学では種内捕食(いわゆる「[[共食い]]」)全般を指す(後述)。 == 語源 == [[ファイル:Cannibalism on Tanna.jpeg|thumb|right|300px|[[タンナ島]]における食人の饗宴(1885-9年頃)]] [[スペイン語]]の「カニバル({{Lang|es|Canibal}})」に由来する。「{{Lang|es|Canib-}}」は[[カリブ族]]のことを指しており、[[16世紀]]頃の[[スペイン人]]航海士達の間では、[[西インド諸島]]に住むカリブ族が人肉を食べる([[人食い人種]])と信じられていた{{Sfn|吉岡 |1989|pp=255-257}}。そのためこの言葉には「西洋([[キリスト教]])の倫理観から外れた蛮族による食人の風習」=「食人嗜好」を示す意味合いが強い。 発音が似ているため、日本ではしばしば[[謝肉祭]]を表す「カーニバル ({{Lang|en|carnival}})」と混同されるが、こちらは[[中世ラテン語]]の「{{Lang|la|carnelevarium}}(「肉」を表す「{{Lang|la|carn-}}」と、「取り去る」を意味する「{{Lang|la|levare}}」が合わさったもの)を[[語源]]に持つ。 「食人」、「人食い」という意味としては、[[ギリシア語]]の「アンスロポファギア({{Lang|el|ανθρωποφαγία}})」に由来する「'''アントロポファジー'''({{Lang|en|anthropophagy}}、「人間」を意味する「{{Lang|en|anthropo-}}」と、「食べる」を意味する「{{Lang|en|-phagy}}」の合成語)」が忠実な語である。 == 分類 == 習慣としてのカニバリズムは、大きく以下の2種類に大別される。 # 社会的行為としてのカニバリズム # 社会的行為ではない(=単純に人肉を食す意味合いでの)カニバリズム === 文化人類学による説明 === 特定の社会では、対象の肉を摂取することにより、自らに特別な効果や力、または栄誉が得られると信じられている場合がある。しばしばその社会の[[宗教]]観、特に[[トーテム|トーテミズム]]と密接に関係しており、[[食文化]]というよりも[[文化人類学]]・[[民俗学]]に属する議題である。自分の仲間を食べる'''族内食人'''と、自分達の敵を食べる'''族外食人'''に大別される{{Sfn|吉岡 |1989|pp=255-257}}。 族内食人の場合には、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがあると指摘される。すなわち、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えである。すべての肉体を[[土葬]]・[[火葬]]にしてしまうと、現世に何も残らなくなるため、これを惜しんでの行いと見ることができる。日本に残る「[[#骨噛み|骨噛み]]」は、このような意味合いを含む風習と考えられる。 また、約1万年以前の後期[[旧石器時代]]の欧州では、葬儀の習慣として死者の肉を食べる行為が一般的に行われていたというデータが存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35209964.html |title=死者を葬る人肉食、1万5000年前の欧州で普及 |publisher=CNN |date=2023-10-06 |accessdate=2023-10-07}}</ref>。 なお人身供養と考えるか、[[葬制]]の一部と見るのかによって意味合いが変わってくるが、[[ニューギニア島]]の[[フォレ族|一部族]]に流行していた[[クールー病]]と呼ばれる[[伝達性海綿状脳症|プリオン病]]は、族内食人が原因で[[プリオン]]が増加したことが判明している。 族外食人の場合には、[[報復|復讐]]のような憎悪の感情が込められると指摘される。また族内食人同様、被食者の力を自身に取り込もうとする意図も指摘される。代表例は各国で見られる戦場における人肉食である(兵糧の補給という合理的見地から行われた場合を除く)。ヨーロッパ人の探検隊が先住民族に捕らえられて食される逸話もこれに相当する。何もこれは未開地域の話ではなく、例えば[[レバー・イーティング・ジョンソン|ジョン・ジョンスン]]は、妻を殺した[[インディアン]]に復讐した際、その[[肝臓]]を食べたという話が広まり、レバー・イーティング(肝臓食い)という渾名を付けられた。実際には、インディアンをナイフで殺した時、刃先に付着していた肝臓の欠片を食べる「ふり」をしただけともされるが、いずれにせよ、殺した相手の肉を食らうという逸話は、復讐を完了したことを象徴的に示しているとされた。 戦争によるカニバリズムは、[[首長制]]の集団のような比較的小規模な条件では高まり、[[国家]]と呼べる規模まで成長すると逆に禁止、縮小される傾向がある{{Sfn|ハリス |1988|loc=第9章}}。[[マーヴィン・ハリス]]は、戦争によるカニバリズムを許すと相手の[[降伏]]が望めなくなり、戦争後の統治や収奪が困難になるデメリットが大きいために、国家レベルの社会では戦争によるカニバリズムを禁止したとしている。 なお、[[タンパク質]]の供給源が不足しているあるいは過去に不足していた地域では、人肉食の風習を持つ傾向が高いという説がある。実際に、人肉食が広い範囲で見られた上述のニューギニア島は、他の地域と比べて[[家畜]]の伝播が遅く、それを補うような大型野生動物も生息していなかった。 こういった地域での族外食人には、もとは社会的意図がなかった可能性が示唆される。 === 薬用としての人肉食 === {{See also|ヒトに由来する生薬|胎盤食}} 死者の血肉が強壮剤や媚薬になるとする考えも欧州はじめ世界中に見られ、これは族内食人の一環として説明する研究者もいる。人間の[[ミイラ]]には[[防腐]]処理剤に[[瀝青]]・[[ハーブ]]・[[香辛料|スパイス]]が用いられ一種の[[漢方薬]]として[[不老不死]]や滋養強壮の薬効があると信じられていて、主に粉末としたものが薬として飲用され、日本にも薬として輸出されていた。また中国や日本では肝臓、[[胆嚢]]、[[脳]]を薬として摂取していた(例:刀剣の試し斬り役[[山田浅右衛門]]の人胆丸)。現在でも[[胎盤]]は健康や美容のために食されたり、医薬品として加工される([[胎盤#利用]]を参照)。 [[ジャック・アタリ]]や[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]、[[鷲田小彌太]]らは、[[器官|臓器]][[移植 (医療)|移植]](他者の臓器を取り出して別人の体に移植する行為)はカニバリズムのカテゴリーに含まれると主張している<ref name="Murase">{{Harvnb|村瀬|2010|pp=92-99,110-112,121-124}}</ref>。臓器移植は経口摂取ではないものの、他人の体の一部を取り込む行為にはある種の不気味さを感じる人もあり、例えば[[吉本隆明]]は『私は臓器を提供しない』の中で、臓器移植には「人食いのイメージが強い」と記している<ref name="Murase"/>。 === 緊急事態下での人肉食 === [[ファイル:Cannibalism during Russian famine 1921.jpg|thumb|180px|[[1921年]]、[[ロシア飢饉 (1921年-1922年)|ロシア内戦期の大規模な飢饉]]における人肉食]] 飢饉、戦争、食料不足による人肉食も世界各地に見られる。 生存のために他の人間の死体を食べた事例は、 *[[1816年]] [[メデューズ (帆走フリゲート)|メデューズ号]]遭難事故 - [[テオドール・ジェリコー]]による絵画「[[メデューズ号の筏]]」で広く知られた。 *[[1845年]] [[ジョン・フランクリン]]探検隊遭難事故([[フランクリン遠征]]) *[[1846年]] [[ドナー隊]]遭難事故 - 後述。 *[[1884年]] [[ミニョネット号事件]] *[[1918年]] [[デュマル]]遭難事故 - アメリカ合衆国の貨物船が[[落雷]]による爆発沈没のため、複数の救命艇に避難するも、乗員数に極端な偏りが生じた。 *[[1921年]]-[[1922年]] [[ロシア飢饉 (1921年-1922年)]] *[[1931年]]-[[1932年]] [[ホロドモール]] スターリン治下のソ連で引き起こされた人工的な飢饉([[飢餓輸出]])。 *[[1943年]] [[ひかりごけ事件]] - 後述。 *[[1972年]] [[ウルグアイ空軍機571便遭難事故]] - 後述。 緊急事態下を生き延びる手段としての人肉食は、[[食のタブー]]を超えて古今東西でしばしば見られる。近年の著名な例としては、[[1972年]]の[[ウルグアイ空軍機571便遭難事故]]が挙げられ、遭難した乗客らは、死亡した他の乗客の遺体を食べることで、救助されるまでの72日間を生き延びた。『[[アンデスの聖餐]]』、『[[生存者]]』やこれを原作にした『[[生きてこそ (1993年の映画)|生きてこそ]]』の映画で知られる。このような事例は厳密にはカニバリズムには含まれない。 他の例として、[[1846年]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]において、東部から[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]を目指して出発した開拓民の一行であった[[西部開拓時代|西部開拓者]]の[[キャラバン]]・[[ドナー隊]]が旅程の遅れのために[[シエラネバダ山脈 (アメリカ合衆国)|シエラ・ネバダ山脈]]での越冬を余儀なくされ、山中[[ドナー湖|トラッキー湖]]畔において遭難した際は、発覚までに隊の中で死亡者を食べるという緊急避難措置が行われていた。さらに悪天候や当時の救助技術により完了するまでに長期間、数回に分けての救助となった。そんな折、最後の被救出者は、先の救出作業の際に渡されていた[[牛肉|牛の干し肉]]があったにもかかわらず、共に残った婦人の肉を食べていた。これは緊急避難が人肉嗜食に転じた典型例である。彼はその婦人の殺害を疑われたが、証拠不十分で放免された。 ==== 栄養学的に見た人肉食 ==== 人肉の栄養価は、旧石器時代の人々が食べていた他の動物と比較して高くないことが2017年4月6日に『[[Scientific Reports|サイエンティフィック・リポーツ]]』で発表された。論文著者である[[ブライトン大学]]のジェームズ・コールは「ほかの動物に比べて、ヒトは栄養学的に優れた食品ではありません」と語っており、コールの推定値によると、イノシシやビーバーの筋肉は1kgあたり4000kcalあるが、現代人の筋肉は1300kcalしかないという<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/041000131/ |title=人肉はカロリー低め、旧人類はなぜ食べた? |website=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本版サイト |accessdate=2019-06-04}}</ref>。この研究によって、コールは2018年の[[イグノーベル賞|イグノーベル栄養学賞]]を受賞した。 === 人肉嗜食 === 人肉嗜食とは、特殊な心理状態での[[殺人]]に時折見られる人肉捕食等のことで、緊急性がなく、かつ社会的な裏づけ(必要性)のない行為である。多くは[[猟奇殺人]]に伴う[[死体遺棄|死体損壊]]として現れる。文明社会では、直接殺人を犯さずとも死体損壊等の罪に問われる内容であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されない行為([[タブー]])である[[食のタブー]]とされる。 カニバリズムは、しばしば性的な幻想をもって受け止められることが多い。連続殺人者として知られる[[アルバート・フィッシュ]]、[[ジェフリー・ダーマー]]、[[フリッツ・ハールマン]]、[[アンドレイ・チカチーロ]]は、殺人と並行して人肉を食べた。性的なものをベースにしつつ、より「食人」を重視した{{仮リンク|カール・グロスマン|en|Carl Großmann}}、[[ニコライ・デュマガリエフ]]は犠牲者も多数となった。[[パリ人肉事件]]の犯人の[[佐川一政]]<!--佐川一政は自著の書籍において、下記の「パリ留学生人肉食事件」の経緯についてなどを書いています。そのため[[Wikipedia:削除の方針#ケース B-2:プライバシー問題に関して]]の「伝統的に認められている例」に合致すると判断し、そのまま名前を載せています。-->は自著の中で、女生徒の肉の味を「[[まったり]]」と「おいしい」と記述し、また被害者に憎しみはなく憧れの対象であり、事件時の精神状態は性的幻想の中にあったと記述している。 1978年には、日本で[[手首ラーメン事件]]、1989年には[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]が発生している。 [[2001年]]には[[ドイツ]]に住む[[アルミン・マイヴェス]]が、カニバリズムを扱う[[インターネット]]上のサイトで自分に食べてもらいたい男性を募集し、それに応じてきた男性を殺害し、遺体を食べている<ref>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/world/2003/dec/04/germany.lukeharding |title=Victim of cannibal agreed to be eaten |newspaper=[[ガーディアン]] |date=2003-12-04 |accessdate=2013-08-16 }}</ref>。 [[2007年]]には、[[フランス]]北部[[ルーアン]]の刑務所で35歳の男性受刑者が、別の男性受刑者を殺害し、肉体の一部([[肋骨]]の肉)を監房に備え付けられていたキッチンやストーブで調理して食べたとされる事件が起きている<ref>{{Cite news||url=http://www.bbc.co.uk/news/10410286 |title=French cannibal killer Cocaign jailed for 30 years |newspaper=[[英国放送協会|BBC]] |date=2010-06-24 |accessdate=2013-08-16 }}</ref>。同年に[[ホセ・ルイス・カルバ]]が食人を行った。2012年には[[マイアミゾンビ事件]]が発生した。 近年は[[ロシア]]の若年層に人肉嗜食が頻発しており、[[2008年]]には、[[悪魔崇拝]]を標榜する少年少女8名が同年代の4名を殺害してその肉を食する事件が、[[2009年]]には、[[ヘヴィメタル|メタル]]バンドを組むユーリ・モジノフら青年2人がファンの少女を殺害してその肉や内臓を食する事件が起きている<ref>{{Cite news|url=http://en.rian.ru/russia/20090203/119959860.html |title=Schoolgirl’s severed head found in St. Petersburg murder case |publisher=en.rian.ru |date=2009-02-03 |accessdate=2013-08-16 }}</ref>。いずれも犯行動機は要領を得ず、「悪魔から逃げたかった」「酩酊して腹が減っていた」と不可解な供述に終始している。 == 聖書中におけるカニバリズム == ;旧約聖書 :[[レビ記]]26章では、もし[[ヤハウェ|主(神)]]に逆らい続けるなら処罰として、疫病や敵への敗北、不作や野獣による荒廃の後、ついには自分の息子や娘の肉を食べることになると厳重に警告されている<ref>{{Cite wikisource|和書|title=レビ記(口語訳)#第26章|wslanguage=ja}}</ref>。 {{Quotation|それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わず、わたしに逆らって歩むならば、わたしもあなたがたに逆らい、怒りをもって歩み、あなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。あなたがたは自分のむすこの肉を食べ、また自分の娘の肉を食べるであろう。|[[s:レビ記(口語訳)#26:27|レビ記26章27節から29節(口語訳)]]}} :[[列王記]]では、[[サマリア]]がシリアの軍隊に囲まれた際に、食べ物に困った母親達が自分の子供を食べる奇行に走るほどだったという記述<ref>{{Cite wikisource|和書|title=列王紀下(口語訳)#6:24|wslanguage=ja}}</ref>がある。 {{Quotation|そして王は女に尋ねた、「何事なのですか」。彼女は答えた、「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あす、わたしの子を食べましょう』と言いました。それでわたしたちは、まずわたしの子を煮て食べましたが、次の日わたしが彼女にむかって『あなたの子をください。わたしたちはそれを食べましょう』と言いますと、彼女はその子を隠しました」。|[[s:列王紀下(口語訳)#6:28|列王紀下6章28節と29節(口語訳)]]}} ;新約聖書 :[[イエス・キリスト]]が自分を食べるようにと述べたことがある。実際にイエスの肉を誰かが食べたという記述は聖書中には無いため、隠喩での[[たとえ話]]と考えられる。一方で、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]のように[[聖体拝領]]を形を変えたカニバリズムとして解釈する者もいる<ref name="Murase"/>。 {{Quotation|イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。|[[s:ヨハネによる福音書(口語訳)#6:53|ヨハネによる福音書6章53節と54節(口語訳)]]}} == 各地のカニバリズム == 以下、狭義にはカニバリズムの定義に該当しないものも含まれる。 === オセアニア === [[ファイル:National Museum of Ethnology, Osaka - Cannibal fork - Fiji Islands - Made in the latter half of 19th Century - George Brown Collection.jpg|thumb|190px|人肉食用フォーク(フィジー諸島、19世紀後半製作)]] [[イースター島]]では1600年頃から1700年頃にかけて人口が約70%減少した。その要因として現地住民の人為的[[自然破壊|環境破壊]]([[モアイ]]作成のための森林伐採)が挙げられるが、結果として[[野生動物]]の肉の供給源が失われることになり、最終的に少ない食料を巡っての部族抗争が起き、人肉を食すようになったといわれ、当時のゴミの集積地跡からは人骨が発見されている<ref>{{Harvnb|ダイアモンド|2005|pp=173-174}}</ref>。 上記は[[ジャレド・ダイアモンド]]が著した『[[文明崩壊 (書籍)|文明崩壊]]』に記載されている内容であるが、2020年現在、ダイアモンドの説には誤りがあるとの研究がいくつかある<ref>{{cite news |title=イースター島、人殺しの武器を作らなかったと新説|newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2016-2-25 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/022400064/ |accessdate=2020-11-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=イースター島の環境崩壊とモアイ |publisher=[[国立民族学博物館]] |date=2014-12-1 |url=https://www.minpaku.ac.jp/museum/enews/162 |accessdate=2020-11-20}}</ref>。当時の遺骨には争った形跡が殆ど無いことから、抗争は無かったとの説が出てきており、この説によればイースター島の住民が激減したのは、西洋人による奴隷狩りが主な原因とされる<ref>{{Cite news|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/18628|title=謎の巨石文化、イースター島のモアイ像を作った人々のルーツ |newspaper=[[フォーブス (雑誌)|Forbes]]|date=2017-11-25 |accessdate=2020-11-20}}</ref>。一方で、やはり文明崩壊、そして人肉食は起きたと主張する学者もいる<ref>{{Cite news|url=https://wired.jp/2020/06/10/new-study-challenges-popular-collapse-hypothesis-for-easter-island/ |title=イースター島の文明は、通説のようには「崩壊」しなかった:論文が提起した新説が波紋 |newspaper=[[WIRED (雑誌)|WIRED]]|date=2020-6-10 |accessdate=2020-11-20}}</ref>。 [[1961年]]に、ニューギニア島の奥地で人類学者の[[マイケル・ロックフェラー]]が原住民に殺され食べられたと報じられた<ref>{{Wayback|title=Was Michael Rockefeller eaten by cannibals?|url=http://outside.away.com:80/outside/features/200310/200310_mysteries_4.html|date=20091231032254}}</ref>。 === ヨーロッパ === [[スペイン]]北部の[[アタプエルカ]]遺跡で発掘された「最初のヨーロッパ人」の遺骨から、この先史人類たちが人肉を食べており、しかも、とりわけ子どもの肉を好んでいたことが明らかになった。遺骨の分析によると、食人は、儀式としてではなく食用で行われていた。当時、食料や水は豊富にあり、[[イノシシ]]や[[ウマ]]、[[シカ]]の狩猟も可能であり、食料不足で食人が行われたのではなく、敵対する相手を殺し、その肉を食べたと考えられている<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2614726?pid=4297433|title=最初の欧州人は「人食い」だった! スペイン・アタプエルカ遺跡] |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2009年6月25日|accessdate=2013-08-16}}</ref>。 後にヨーロッパでは戦争、飢饉、貧困、宗教的理由でカニバリズムは広く行われた。[[第1回十字軍]]において、十字軍の軍勢がシリアの[[マアッラト・アン=ヌウマーン|マアッラ]]を陥落させた際([[マアッラ攻囲戦]])に、人肉食が行われたという記録が残っている<ref>{{Harvnb|Maalouf|1989|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。[[アラブ人|アラブ]]、[[フランク人|フランク(西欧)]]双方から同内容の証言が出ており、信憑性が高い。当時、十字軍の食料状況は非常に貧困で、現地調達の略奪の一環として現地住民を殺害し、その肉を食べたとされる。 [[1274年]]に{{仮リンク|フォッサノーヴァ修道院|label=フォッサヌォーヴァ修道院|en|Fossanova Abbey}}で死去した[[トマス・アクィナス]]の遺体も修道士たちによって食されている<ref name="Huizinga336">{{Harvnb|ホイジンガ|p=336}}{{Full citation needed |title=刊行年が不明。 |date=2019-06-04}}</ref><ref>{{Harvnb|稲垣|1999|pp=234}}</ref>。[[ヨハン・ホイジンガ|ホイジンガ]]によれば、修道士たちは、当時高価であった[[聖遺物]]の散逸を恐れ、師の遺体を加工保存し、頭部を調理したとしている<ref name="Huizinga336"/>。 また、{{仮リンク|大飢饉 (1315年-1317年)|en|Great Famine of 1315–1317}}の際は人肉食があったと言われるが、それがどの程度のものだったかについては議論が分かれている{{要出典|date=2023年2月}}。また近世以降、船の難破による漂流中に人肉食が行われたという事例が時折記録されている。 [[15世紀]]のスコットランドにおいて、[[ソニー・ビーン]]とその家族は山岳を通過する旅行者達を食べて暮らしていたという記録があるが、それらは[[19世紀]]以降のものであり信憑性は低い。 人肉そのものを食べたわけではないが、[[1805年]]の[[トラファルガーの海戦|トラファルガー海戦]]で戦死した[[イギリス海軍]][[提督]][[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]の遺体は、腐敗を防ぐため[[ラム酒]]の樽に漬けて本国に運ばれたが、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまったため、帰国の際には樽は空っぽになっていたという。この逸話からラム酒は「ネルソンの血」と呼ばれることがある。しかし、ネルソンの遺体が実際に入れられたのはコニャックの樽であり、盗み飲みの逸話もただの噂話だとする説もある。 [[#人肉嗜食|人肉嗜食]]の項のハールマン、グロスマンらの犯行が行われていたのは[[第一次世界大戦]]後の後遺症下にあった[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]である。極度の[[インフレーション]]に襲われていたドイツでは慢性的な肉不足となっており、その中で行われた2人の犯行は性的なものがメインでありながら、若干の経済的目的の側面も持ち合わせていた。その経済的目的に特化した[[カール・デンケ]]は、人肉を市場に流通させるための[[商品開発]]における過程で犯行が明るみに出て逮捕されている。3人の犯行は、戦後の浮浪者にあふれていた当時のドイツにおいて、いずれも数十人単位の犠牲者が出るまで発覚しなかった。 その後ドイツでは[[第二次世界大戦]]中に[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]内で収容者が人肉を食することがあったことが[[ヴィクトール・フランクル]]の『[[夜と霧 (文学)|夜と霧]]』に記されている。 [[ファイル:Magliabchanopage 73r.jpg|thumb|190px|アステカの絵文書に描かれた、人肉を食べる人々。土鍋の中に人の頭部や手足がうかがえる]] === アメリカ大陸 === アメリカ大陸では宗教的儀礼として広く[[人身御供]]が行われていた。また、戦争[[捕虜]]を食糧とする慣習も多く存在した。 [[アステカ]]は食人を制度化していた稀有な国家であり、各所で発生する戦争や反乱で得た捕虜を[[テノチティトラン|首都]]に送り、食糧として消費していた{{Sfn|ハリス |1988|loc=第9章}}。生きた状態の生贄から[[黒曜石]]のナイフで心臓を抉り取り、神に捧げ、体の部分は投げ落として切り刻み、[[トウモロコシ]]とともに煮込んで食された。ただし、人肉を食すことが許されたのは上流階級のみだった。 北アメリカの[[イロコイ連邦|イロコイ族]]や[[ワイアンドット族|ヒューロン族]]といった[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民]]たちも戦争捕虜を食糧にしていた{{Sfn|ハリス |1988|loc=第9章}}。[[イエズス会]]士の報告によれば、戦場での食糧とする他に、自分たちの村に連れ帰り拷問や訓練に使用した後に食していたと言われる。 [[北アメリカ大陸]]に移民したヨーロッパの植民者が、[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]において食人をしていたとの研究結果がある。新世界に到着した植民者たちが、厳しい生活環境によって食人行為を強いられた可能性は、古くから指摘されている<ref>{{Cite news |title=北米大陸初の英植民地で起きた食人の証拠、14歳少女の骨から発見 |newspaper=AFPBB News |date=2013-5-2 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2941883?pid=10677947 |accessdate=2013-5-2 }}</ref>。 1995年に[[ロバート・C・マッケンジー|ボブ・マッケンジー]]がシエラレオネで戦死した際、遺体の一部を食べられた。 === アジア === 飢饉や戦争における人肉食は他の地域と変わらないが、宗教儀式に人肉食が利用されるケースが特筆される。 [[ヘロドトス]]は『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』の中で、[[アンドロパゴイ]]という部族の食人の風習や、[[メディア王国|メディア]]の王[[アステュアゲス]]が将軍[[メディアのハルパゴス|ハルパゴス]]にその子を食べさせた逸話を紹介している。これらは伝説的ではあるが、ヨーロッパの視点からのアジア人(をはじめとする異民族)の「食人」に関する記述である。 [[インド]]では[[シヴァ派|シヴァ教]]の一派である{{仮リンク|アゴーリ|en|Aghori}}の行者が人肉食を行う。彼らは神通力を得るために[[ガンジス川]]から[[水葬]]遺体を引き上げ、その肉を食する。近年、その撮影が行われた<ref>{{Harvnb|Singh|2005}}{{Full citation needed |title= |date=2019-06-04}}</ref>。社会的行為でない事例としては、2009年に[[ハリヤーナー州]]で火葬場の職員らが遺体の焼肉で晩酌をするという事件が起きている。 [[チベット]]でも、1930年代に[[シャンバラ (チベット)|シャンバラ]]を標榜する宗教団体が信徒を御供にして人肉食儀式を行っていたという報告がある<ref>{{Harvnb|イリオン|1994|pp=278-288}}</ref>。 [[コーチシナ|南ベトナム]]では、1950年代から1960年代にかけて[[ベトナム共和国]]軍が、[[ベトナム戦争#反政府勢力の掃討作戦|反政府勢力の掃討作戦]]において反政府勢力と目された民衆を殺害し、「人間の生きた肝臓は精力がつく」として肝臓を取り出して食べたとされる<ref>{{Harvnb|小倉|1992|p=83}}</ref>。 ==== 中国 ==== 中国におけるカニバリズムの先行研究者に日本の[[桑原隲蔵]]や[[相田洋 (中国研究者)|相田洋]]などがいる。 世界各地の例に漏れず、[[殷]]代以前において中国でも[[人身御供]]にとともに人肉食が行われていたと考えられる。『[[韓非子]]』に「[[帝辛|紂]]為肉圃、設炮烙、登糟丘、臨酒池、翼侯炙(あぶり肉)、鬼侯臘(干し肉)、梅伯醢(かい、塩漬け肉{{Refnest|group="注"|「醢」は塩漬け全般を指す語でもあり、獣肉の料理を指すこともあれば、見せしめのために塩で防腐した遺体を指すこともあり、必ずしも人肉食を指すものではない。}})」という殷代の人肉食に関する伝承の記述が見られる<ref>{{Cite wikisource|和書|title=韓非子/喻老|author=[[韓非]]|wslanguage=zh}}</ref>。なお後世の[[儒教]]においては、人肉食は暴君たる紂王個人に起因するものと解釈された。人肉食は、暴君による残虐行為のひとつとして紂王とともに批判され、忌避された。 常習的なカニバリズムは消えたものの、飢饉や戦争に起因する偶発的な人肉食はその後も絶えなかった。 『[[春秋左氏伝|左伝]]』において[[魯]]の[[宣公 (魯)|宣公]]十五年に、飢えた民が子を交換して食べたとの記録があり、これが飢饉による人肉食の最古の記録となる<ref>{{Cite web |title=易子而食 [修訂本參考資料] - 成語檢視 - 教育部《成語典》2020 [進階版] |url=https://dict.idioms.moe.edu.tw/idiomView.jsp?ID=8382&webMd=2&la=0 |website=dict.idioms.moe.edu.tw |access-date=2023-04-01}}</ref>。『[[後漢書]]』において漢末の飢饉の記録にも「人相食」との描写がある。 [[五代十国時代|五代十国]]以降に人肉食の記録がより頻繁に現れる。[[元 (王朝)|元]]代の『[[事林広記]]』には、妻が自らの肉を病気の夫に食べさせたことが美談として称賛され、その行いに朝廷が[[絹]]や[[羊]]や田を与えて報いたという記述がある。 民間では、元末の『[[輟耕録|南村輟耕録]]』に、戦場での人肉食の実例と調理法が多岐にわたって紹介されている<ref>{{Harvnb|陶宗儀|1959|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。この方式を採用した部隊では戦果が食事に直結するため、大いに士気が高揚したという。 [[明]]代の[[李時珍]]による『[[本草綱目]]』人部<ref>{{Cite wikisource|和書|title=本草綱目/人部|author=李時珍|wslanguage=zh}}</ref>には、人肉をはじめ人間由来の漢方薬が記されている。特に宮廷を中心として、女人の血から作った薬(仙丹)が強壮剤としてもてはやされた。[[不妊]]に悩む[[嘉靖帝|世宗]]は、投薬してまで宮女に出血を強要したため、多くが衰弱死したという<ref>{{Harvnb|卜鍵|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref><ref>{{Harvnb|林乾|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。また、宋代より全身を切り刻む[[凌遅刑]]が存在したが、著名人が凌遅刑後に被食された事例として[[劉瑾]]が挙げられる。 明代に編纂された[[三国志演義]]には、[[劉安 (三国志演義)|漁師]]が妻の肉で[[劉備]]をもてなし[[曹操]]から百金を賜る逸話が挿入されているほか、[[水滸伝]]にも、しびれ薬を飲ませた客の肉を商いに利用する[[李立|居酒屋]]の話が登場するなど、この時代の知識人にとっても人肉食は特に違和感を覚える存在ではなかった{{要検証|date=2023年4月}}。 [[清]]代の宮廷でしばしば人肉食が行われ、高官が赤ん坊の肉を好んで調理させた逸話が伝わる<ref name="Yashitaikan">{{Harvnb|王志娟|p={{Full citation needed |title=刊行年とページ番号が不明。 |date=2019-06-04}}}}</ref>。著名人では、[[西太后]]が病の[[東太后]]の歓心を買うため肘肉を[[羹]]に供したという{{Refnest|group="注"|左の肘に包帯を巻いた上での自己申告であり、真偽は不明<ref name="Yashitaikan"/><!--同上、{{疑問点 |title=「同上」が意味不明です。 |date=2019-06-04}}--><ref>{{Harvnb|加藤|2005|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。}}。[[黄昭堂]]によれば、[[台湾原住民|台湾原住民族]]は「生蕃」と呼ばれ、その肉である「蕃肉」は滋養に富むとして食され、大陸に輸出されていた<ref>{{Harvnb|黄昭堂|1984|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。凌遅場近辺で死刑囚の肉片が食用ないし薬用に供されていた記録があり、廃止された[[光緒]]31年(1905年)には北京で撮影が行われている<ref>{{Wayback|title=Turandot : Chinese Torture / Supplice chinois|url=http://turandot.ish-lyon.cnrs.fr:80/Event.php?ID=1|date=20110803123819}}</ref>。 近代に入ると、[[新文化運動|革新派知識人]]らによって史料に散見される食人記録が[[封建制]]による悪習だと定義され、前近代的な象徴として厳しく糾弾された。その代表が[[魯迅]]で、強迫性障害の主人公がカニバルの幻想を抱く『[[狂人日記 (魯迅の小説)|狂人日記]]』や人血に浸して食べる肉饅頭が肺病を治すという風習についての『薬』といった著作において見られる。 [[中国共産党]]の[[大躍進政策]]の失敗により深刻な食糧不足が発生した際には人肉食が発生した([[中華人民共和国大飢饉]])。[[文化大革命]]時にも人肉食が[[広西チワン族自治区|広西]]などで行われたという後年の調査とその報告がある<ref>{{Harvnb|鄭義ほか|1993|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。 [[香港]]や[[マカオ]]ではしばしば食人事件が噂され、盛んに作品に翻案された。[[香港映画]]『[[八仙飯店之人肉饅頭]]』{{Efn2|性描写や惨殺シーンが多くそのため海外では劇場上映が禁止されている。}}はその一例である{{Refnest|group="注"|映画の題材となったのは1985年にマカオで起こった[[八仙飯店一家殺害事件]]だが、実際には被害者十名の胴体が発見できなかったことに留まり、人肉食は立証されていない。}}。2008年、香港で少女を殺害し、遺体を切り刻んで肉と内臓をミンチ機で細切りにしてトイレに破棄し、手足の骨は肉屋の店頭に並べたという、この映画を思わせる事件が発生した<ref>{{Wayback|title=16歳美少女をバラバラ殺人、遺体を肉屋で販売―香港|url=http://www.recordchina.co.jp/group/g18822.html|date=20161107222213}}</ref>。 ==== 朝鮮半島 ==== [[朝鮮半島]]における食人文化は、「[[指詰め|断指]]」「割股(自身の腿肉を切る)」という過激な[[孝]]行思想によるもので統一[[新羅]]から[[李氏朝鮮|朝鮮]]まで続いた。孝以外で直接的に人肉を薬にすることについては比較的遅くに見られ、朝鮮の[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の治世(1520年代)から広まっており、[[宣祖]]の治世である1575年6月には生きた人間を殺し生肝を取り出して売り捌いた罪で多数捕縛されたことが『[[朝鮮王朝実録]]』に記載されている。 [[大韓民国臨時政府|韓国]]独立運動家の[[金九]]は、割股して病気の父に食べさせている。この民俗療法の風習は、元々[[梅毒]]の治療のために行われたと推察できるが、後にこれらの病に留まらず不治の病とされるもの全般に行われるようになり、[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]の[[昭和]]初期に至っても新聞記事の中にも長患いの夫に自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件や、当時は不治の病とされた[[ハンセン病]]の薬として子供を山に連れて行って殺し、生肝を抜くという行為が散見される。ただしこの時代の社会でも、既にこのような薬としての人肉食は一般的ではなく、前近代的で非科学的な奇習と考えられているようになっており、[[朝鮮総督府]]により施行された日本法でも禁止されている。1933年に[[京城府竹添町幼児生首事件]]が発生した。 ただし、近年でも人肉を薬として信じ、滋養強壮や若返りの効果があると信じて服用されている事例がある。特に2011年8月、中国から密輸された[[人肉カプセル|人肉を封入したカプセル]]が裏で出回っていることを[[大韓民国|韓国]]の税関当局が発表し、国内外で大問題となった。税関、警察、保健当局は取締に乗り出しているが、既に大量に出回っており、摘発は容易ではない。2012年において、1錠3000円超で取引されているという<ref>{{Wayback|title=中国製人肉入りカプセルは“万能薬”? 韓国に大量密輸の実態|url=http://www.sankeibiz.jp:80/compliance/news/120527/cpb1205272031000-n1.htm|date=20121010052749}}</ref><ref>{{Wayback|title=韓国税関、中国からの「人肉カプセル」密輸に対策強化|url=http://www.cnn.co.jp:80/world/30006502.html|date=20120615170310}}</ref>。 韓国では20世紀後半の経済成長によって、食料不足は縁遠いものとなっているが、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では、政策の失敗が原因で、[[1990年代]]中頃以降食料不足が慢性化している。[[2012年]]春には数万人規模での[[餓死]]者が発生しており、その少ない食料を政府や[[朝鮮人民軍]]が横領した結果という。飢えに耐えかねた親が子を釜茹でして食べて捕まる事件や、人肉の密売流通事件が後を絶たないという<ref>{{Wayback|title=【朝鮮半島ウオッチ】飢餓地獄の北朝鮮で人肉食相次ぐ 親が子を釜ゆで 金正恩体制下で大量餓死発生|url=http://sankei.jp.msn.com:80/world/news/130127/kor13012718010001-n1.htm|date=20160426173533}}</ref>。 ==== 日本 ==== 日本の食人風習については[[南方熊楠]]による論考がある<ref>{{Harvnb|南方|2005|pp=278-288}}</ref>。 [[縄文時代]]後期の[[大森貝塚]]において、住民の墓地とは別に貝殻捨て場で獣畜と同様に細かく砕いた人骨が発見されていることから、食人行為が行われていたと推測される。また[[綏靖天皇]]が七人の人々を食べたという史料の記述をはじめとして、[[酒呑童子]][[説話]]中の[[源頼光]]一行や、[[黒塚|安達ヶ原の鬼婆]]の家に立ち寄った旅人、[[肝取り地蔵]]といった説話に古代日本におけるカニバリズムの存在が散見される<ref>『[[神道集]]』</ref>。 『[[遠野物語]]拾遺』第二九六話と第二九九話には、[[遠野町 (岩手県)|遠野]]で5月5日に薄[[餅]](すすきもち)を、7月7日に筋太の[[素麺]]を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話{{Efn2|これは[[金神|巨旦調伏の祭礼]]に関連が見える。}}が記録されている。また、中国にある割股の話は、日本にも類話が見える<ref>『明良綱範』</ref>。 『[[信長公記]]』には、[[鳥取城]]が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に兵糧攻めされた際、城兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、城を脱走しようとして織田軍に銃撃されて死んだ人間を食い争ったとある<ref name="nakae">{{Harvnb|中江|1998|pp=218-221}}</ref>。 随筆『[[新著聞集]]』では、[[江戸時代]]の[[元禄]]年間に[[増上寺]]の僧が、葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話が収められている<ref name="nakae" />。確実な記録には、[[江戸四大飢饉]]の時に人肉を食べたというものがある。また[[天明の大飢饉]]の際には[[天明]]4年([[1784年]])に[[弘前藩|弘前]]で人食いがあったと[[橘南谿]]が『[[東西遊記|東遊記]]』で記している{{Sfn|牧原|2008|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}。 [[戊辰戦争]]の折には旧幕府側総指揮官の[[大河内正質|松平正質]]が敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたといい、また[[薩摩藩]]兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという{{Sfn|牧原|2008|pp=56-57}}。 ===== 薬食としての人肉食 ===== {{See also|日本の獣肉食の歴史}} 人間の内臓が、[[民間薬]]として食されていたという記録がある。 江戸時代、処刑された罪人の死体を[[日本刀]]で試し斬りすることを職とした[[山田浅右衛門]]は、死体から採取した[[肝臓#その他|肝臓]]を軒先に吊るして乾燥させ、人胆丸という薬に加工して販売したとされる。当時の人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売却で大名に匹敵する財力を持っていたと言われている<ref>{{Harvnb|氏家|1999|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>。 [[明治]]3年([[1870年]])4月15日付けで、明治政府が「刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ヲ試ミ及人胆霊天蓋等密売ヲ厳禁ス」と、人肝・霊天蓋(脳髄)・[[陰茎]]の密売を厳禁する弁官布告を行っている<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|787950/118|『法令全書』明治3年 第294号|format=EXTERNAL}}</ref>{{Sfn|礫川|1997|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}。しかし闇売買は依然続いたらしく、『[[東京日日新聞]]』でたびたび事件として立件、報道されている。作家の[[長谷川時雨]]は『旧聞日本橋』で明治中期の話として「肺病には死人の水-[[火葬]]した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが…これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している{{Sfn|牧原|2008|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}。[[1902年]](明治35年)に発生した[[臀肉事件]]は、ハンセン病の治療目的で、被害者の臀部の肉を材料としたスープが作られている。 [[中沢啓治]]の自伝的漫画『[[はだしのゲン]]』には、[[日本への原子爆弾投下]]直後から、被災地では「人骨を粉末状にしたものが[[放射線障害]]に効く」という迷信が信じられていたという描写がある。 昭和40年代までは、日本各地で、「万病に効く」という伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓を摘出し、黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせ、のちに逮捕されていたことが新聞で報道されている<ref>{{Harvnb|中山|1940|p={{Full citation needed |title=タイトル以外の書誌情報が不明。 |date=2019-06-04}}}}</ref><ref>{{Harvnb|村野|2002|p={{Full citation needed |title=タイトル以外の書誌情報が不明。 |date=2019-06-04}}}}</ref>。 このように人間の内臓が薬として利用されていたことについては、未だ明らかにされてはいないが、[[曲直瀬玄朔]]は医学書『[[日用食性]]』の中で、獣肉を羹、煮物、[[膾]]、干し肉として食すれば様々な病気を治すと解説しており、肉食が薬事とみなされていたことを示している<ref>{{Harvnb|原田|1993|p={{要ページ番号|date=2019-06-04}}}}</ref>し、また[[漢方医学|漢方]]においては、[[熊胆|熊の胆]]は胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があると言われ、金と同程度の価値がある高価な薬品だった。江戸中期の古方派医師[[後藤艮山]]は、[[熊胆丸]]を処方して手広く売り出したと言われる<ref>{{Wayback|title=臓器売買・人胆丸・山田浅右衛門・臓器移植|url=http://seikotutop.web.fc2.com/data3/k12.htm|date=20161107222512}}{{信頼性要検証|date=2016年11月}}</ref>。また中国からこのような薬学的な考えが伝わったともされる。 ===== 葬儀としての人肉食 ===== 1938年(昭和13年)、[[伊波普猷]]は当時那覇他で見られていた葬儀の際に会葬人への豚肉料理を提供する習慣の起源ではないかと、ある民間伝承を参考のために書き記している<ref>{{Harvnb|伊波|2004|pp=161-162}}</ref>。 {{Quotation|那覇で金持の家になると、七十歳以上の人が死ぬ場合には、今日でも女子の会葬人だけに豚肉料理を主にした御膳を出すが、……同治元年(即ち我が文久二年、一八六二)頃までは、久米島では葬式の時に牛や豚を屠って会葬人一同に振舞つたが、……なほ国頭郡にもさういふ言伝へがあるとのことだから、この風習が、かつて南島全体にあつたことは、最早疑ふ余地がない。之に就いてはかういふ民間伝承がある。昔は死人があると、親類縁者が集って、其の肉を食った。後世になつて、この風習を改めて、人肉の代りに豚肉を食ふやうになつたが、今日でも近い親類のことを真肉親類(マツシヽオエカ)といひ、遠い親類のことを脂肪親類(プトプトーオエカ)といふのは、かういふところから来た云々。 |伊波普猷|「南海古代の葬制(『をなり神の島』昭和十三年八月)」『葬送墓制研究集成』第1巻}} ===== 骨噛み ===== 葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼または風習としての「骨噛み」を行ってきた地域も存在する{{Refnest|group="注"|ただし、単なる葬儀を「骨噛み」と呼ぶことがある。[[山本作兵衛]]は、[[筑豊炭田]]の炭鉱夫の間で葬礼の事を「骨噛み(ほねがみ)」と呼んでいたと記録しており、「本当に骨を噛むのでないのでお安心を。」と説明を加えた絵を描き残している<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/y_sakubei/kiji0033863/index.html|title = 図録番号478 タイトル:骨噛み/ 山本作兵衛コレクション/ 田川市|author = |date = 2017-03-13|publisher = 田川市|accessdate=2023-02-04}}</ref>。}}。長寿を全うした死者や人々に尊敬されていた人物が被食対象となっていることから、死者の生命力や生前の能力にあやかろうとする素朴な感情が根底にあるとみられる。最愛の配偶者の遺骨をかむことは、強い哀惜の念からと思われ、これらは素朴な感情表出として受け止められている<ref name="kondo">{{Harvnb|近藤|2012|pp=395-407}}</ref>。 俳優の[[勝新太郎]]は[[杵屋勝東治|父]]の死に際して、その[[遺骨]]を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。いわゆる「闇の社会」では骨噛みの特殊な習俗が継承されているとの推測もある<ref>{{Harvnb|新谷|1992|p=44}}</ref>。 ===== 戦時中の人肉食 ===== [[太平洋戦争]]中の南洋戦線([[インパール]]・ニューギニア・[[フィリピン]]・[[ガダルカナル島|ガダルカナル]])において、[[日本軍]]では[[兵站]]が慢性的に途絶したことで大規模な飢餓が頻繁に起こり、死者の肉を食べるという事態が各地で発生した。 [[グアム島]]では敗走中のある[[大日本帝国陸軍|陸軍]]上等兵が逃避行を共にしていた日本人の民間人親子を殺害してその肉を食べるという事件が発生。事件の目撃者が[[アメリカ軍]]にこのことを密告したため、上等兵は戦犯として逮捕され、アメリカ軍により処刑された<ref>{{Harvnb|佐藤|1999|p={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}</ref>。[[1944年]]12月に[[ニューギニアの戦い|ニューギニア戦線]]の[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]司令部は「友軍兵の屍肉を食すことを罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。また、[[ミンダナオ島]]では[[1946年]]から[[1947年]]にかけて[[残留日本兵]]が現地人を捕食したとの証言があり、[[マニラ]]公文書館に記録されている<ref>{{Harvnb|辺見|1994|p={{要ページ番号|date=2017年1月}}}}</ref>。 なお、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。一方で、処刑したアメリカ軍捕虜の肉を酒宴に供したとされる[[小笠原事件]](父島事件)では、関係者が[[BC級戦犯]]として処刑されている。罪状には人肉食は含まれず、捕虜殺害と死体損壊として審理された<ref>GHQ法務局調査課報告書(INVESTIGATION DIVISION REPORT, LEGAL SECTION, GHQ/SCAP)137号 388号 392号 2704号</ref>。ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元[[日本弁護士連合会 |日弁連]]会長の[[土屋公献]]は事件について証言し、人肉食の事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している<ref>{{Cite web|和書|author=澤田猛 |url=http://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/chichijima.html|title=父島事件 真相の一端 ~米捕虜の処刑に立ち会ったある少尉の証言~ |website=POW研究会 |accessdate=2019-06-03}}</ref>。 1944年真冬の[[知床岬]](ペキンノ鼻)では、難破した陸軍[[焼津港の徴用船|徴用船]]で「[[ひかりごけ事件]]」が発生した。食料が殆どない極限状態に置かれた船長が、死亡した船員の遺体を食べて生存した。[[武田泰淳]]の小説『[[ひかりごけ]]』や映画化作品で知られる。韓国は、1945年に人肉を獣肉として朝鮮人軍属にふるまったとの疑念が切っ掛けになったとされる[[チルボン島事件]]が発生したと主張している。 == 家畜のカニバリズム == 肉食の習慣や、いわゆる「[[共食い]]」とは違うが、豚の「[[尾]]かじり」や「[[耳]]かじり」・[[ニワトリ|鶏]]の「[[尻]]突き」、群れで飼育する[[家畜]]・[[家禽]]同士で、傷ついたり弱ったりした個体を(口を使って)集団で攻撃し、結果として死に至らせる行動も[[畜産学]]・[[動物行動学]]上では「カニバリズム」と呼ばれている。これらの行動は環境探索本能の転嫁と[[密飼い]]による[[ストレス (生体)|ストレス]]が原因と言われており、遊具等の投入による欲求不満の解消や飼育密度の低減によってある程度の抑制が可能である。また近年では、畜産物残渣の再利用という名目で[[肉骨粉]]を[[飼料]]に混ぜることもあり、家畜が人間によって意識しない形でカニバリズムをさせられる形となり、[[牛海綿状脳症|BSE(狂牛病)]]という[[感染症]]を発生させる結果となった。 == 自然界でのカニバリズム == {{See also|共食い}} カニバリズムを動物が同種の他[[個体]]を食べる共食い(種内捕食、{{Lang|en|intraspecies predation}})の訳語としてとる場合、共食いは[[アリ]]や[[シロアリ]]等の社会性昆虫では頻繁に見られ、食料欠乏の場合には、[[幼虫]]・[[成虫]]が卵や[[蛹|さなぎ]]を捕食する(飢餓状態に置かれれば、[[チョウ]]の幼虫の[[草食動物]]も共食いをする)。[[繁殖]]のためではなく、[[幼生]]に栄養を補給する目的で[[未受精卵|無精卵]]({{仮リンク|栄養卵|en|Trophic egg}})を産む行動は、[[カエル]]、[[ハキリアリ]]、[[クモ]]に見られる。[[無脊椎動物]]や[[魚類]]、成体と幼生(あるいは大きさの著しく異なる雄と雌)が同じ地域(同じ[[生物群集]]内)に生息する[[雑食動物]]や[[肉食動物]]の間では、[[食物連鎖|食物ピラミッド]]の中では小さな個体が大きな個体の下に位置するため、[[食性]]としてのカニバリズムが頻繁に起こりうる。そのような場合、カニバリズムが[[個体群]]数の周期的変動につながる例も多い。 カニバリズムは無脊椎動物や魚類、[[両生類]]だけではなく[[鳥類]]や[[哺乳類]]等の高等動物にも見られる行動であり、[[チンパンジー]]の子殺しに伴う共食いのように[[霊長類]]も例外ではない。自然状態での家畜とは異なるストレス以外のカニバリズムの理由としては、[[餌|えさ]]としての価値に重点がある場合と同種個体を殺すことに重点がある場合、その両方を兼ねる場合があるが、チンパンジーの例ではその意義が未だよく解明されていない。 == フィクションにおけるカニバリズム == [[ファイル:Francisco_de_Goya,_Saturno_devorando_a_su_hijo_(1819-1823).jpg|right|120px|thumb|[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]「[[我が子を食らうサトゥルヌス]]」]] 古来より、カニバリズムは説話や童話・民話でもモチーフになっている。タブーとされるがゆえに、それを扱った文学・芸術は多く見られる。フィクションでは青頭巾(『[[雨月物語]]』)、[[スウィーニー・トッド]]、『[[羊たちの沈黙]]』や『[[ハンニバル (映画)|ハンニバル]]』に登場する[[ハンニバル・レクター]]がいる。 * [[赤ずきん]] * [[かちかち山]] * [[強盗のおむこさん]] * [[百槇の話]] 小説や映画でもカニバリズムを扱った作品は多数ある。[[ジョナサン・スウィフト]]は風刺として『[[アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案]]』において貧民の赤子を1歳になるまで養育し、アイルランドの富裕層に美味な食料として提供することをアイルランドの窮状解決策として提案した。 ほか [[マルキ・ド・サド]]『食人国旅行記』、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]『サランボー』、[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]『[[タイム・マシン (小説)|タイムマシン]]』、[[エドガー・アラン・ポー]]『[[ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語]]』がある(その他は[[#参考文献]]を参照)。 昭和初期の[[探偵小説]]作家[[夢野久作]]の作品に『[[白くれなゐ]]』があり、人胆(ひとぎも)採取の話が出ている<ref>{{青空文庫|000096|2124|新字新仮名|夢野久作 白くれない}}</ref>。 絵画では[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]『[[我が子を食らうサトゥルヌス]]』がある。 その他のフィクション作品については「[[:Category:カニバリズムを題材とした作品|カテゴリー:カニバリズムを題材とした作品]]」参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 「参考文献」節には、本記事の出典として実際に使われている文献のみをご記入下さい。 --> {{参照方法|date=2019年6月4日 (火) 21:46 (UTC)|section=1}} * {{Cite book|和書|author=礫川全次編著|authorlink=礫川全次|date=1997-01|title=人喰いの民俗学|series=歴史民俗学資料叢書 2|publisher=[[批評社]]|isbn=4-8265-0224-9 |ref={{SfnRef|礫川|1997}} }} * {{Cite book|和書|editor=七北数人|editor-link=七北数人|date=2001-01|title=人肉嗜食|series=ちくま文庫 猟奇文学館 3|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=4-480-03613-X|ref=七北2001}} * {{Cite book|和書|author=マーヴィン・ハリス|authorlink=マーヴィン・ハリス |translator=板橋作美 |title=食と文化の謎:Good to eatの人類学 |date=1988 |publisher=岩波書店 |isbn=4000026550 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=マーヴィン・ハリス|others=[[鈴木洋一]]訳|date=1997-05|title=ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源|series=ハヤカワ文庫 NF|publisher=[[早川書房]]|isbn=4-15-050210-2|ref=ハリス1997}} * {{Cite book|和書|author=牧原憲夫|authorlink=牧原憲夫 |date=2008 |title=文明国をめざして |publisher=小学館 |isbn=9784096221136 |ref={{SfnRef|牧原|2008}} }} * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|マルタン・モネスティエ|fr|Martin Monestier}}|others=[[大塚宏子]]訳|date=2001-03|title=図説 食人全書|publisher=[[原書房]]|isbn=4-562-03399-1|ref=モネスティエ2001}} * {{Cite book|和書|author=吉岡郁夫|authorlink=吉岡郁夫|title=身体の文化人類学-身体変工と食人|date=1989-12|publisher=[[雄山閣]]|series=|isbn=4-639-00932-1 |ref={{SfnRef|吉岡|1989}} }} * {{Cite book|和書|author=村瀬学|authorlink=村瀬学|title=「食べる」思想:人が食うもの・神が食うもの|publisher=洋泉社|date=2010年|isbn=9784862485212|ref={{SfnRef|村瀬|2010}}}} * {{Cite book|和書|author=ジャレド・ダイアモンド|authorlink=ジャレド・ダイアモンド |translator=[[東江一紀|楡井浩一]]|title=文明崩壊 |volume=上 |publisher=[[草思社]] |date=2005 |isbn=4794214642|ref={{SfnRef|ダイアモンド|2005}}}} * {{Cite book|author=Amin Maalouf|authorlink=アミン・マアルーフ|title=The Crusades through Arab Eyes|publisher=Schocken|date=1989|isbn=0-8052-0898-4|ref={{SfnRef|Maalouf|1989}}}} ** {{Cite book|和書|author=アミン・マアルーフ|title=アラブが見た十字軍|publisher=筑摩書房}} * {{Cite book|和書|author=ホイジンガ|authorlink=ヨハン・ホイジンガ|title=中世の秋|volume=上巻|series=中公文庫|ref={{SfnRef|ホイジンガ}}}} * {{Cite book|和書|author=稲垣良典|authorlink=稲垣良典|title=トマス・アクィナス |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 |date=1999 |isbn=4061593773|ref={{SfnRef|稲垣|1999}}}} * {{Cite book|author=Sandeep Singh|title=Feeding on the Dead|date=2005|ref={{SfnRef|Singh|2005}}}} * {{Cite book|和書|author={{仮リンク|テオドール・イリオン|en|Theodore Illion}} |translator=林陽|title=チベット永遠の書:宇宙より遥かに深く |publisher=徳間書店 |date=1994 |isbn=978-4-198-60134-8|ref={{SfnRef|イリオン|1994}}}} * {{Cite book|和書|author=小倉貞男|authorlink=小倉紀蔵#家族|title=ドキュメント ヴェトナム戦争全史|publisher=岩波書店|date=1992年|ref={{SfnRef|小倉|1992}}}} * {{Cite journal|和書|author=[[桑原隲蔵]] |title=支那人の食人肉風習 |journal=太陽 |volume=25 |issue=7 |date=1919 | url = 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{{Citation|和書 |author = 伊波普猷|author-link=伊波普猷 |title = 南海古代の葬制(『をなり神の島』昭和十三年八月) |journal = 葬送墓制研究集成 |volume = 1 |publisher = 名著出版 |ISBN = 4626016839 |date = 2004-02|ref={{SfnRef|伊波|2004}} }} * {{Citation | 和書 | title = 現代日本の食屍習俗について | last = 近藤 | first = 雅樹 | authorlink = 近藤雅樹 | journal = 国立民族学博物館研究報告 | volume = 36 | issue = 3 | date = 2012-02-27 | ISSN = 0385180X | publisher = [[国立民族学博物館]] | url = https://hdl.handle.net/10502/4756|ref={{SfnRef|近藤|2012}} }} * {{Cite book|和書|author=新谷尚紀|authorlink=新谷尚紀|title=日本人の葬儀|publisher=[[紀伊国屋書店]]|date=1992年|ref={{SfnRef|新谷|1992}}}} * {{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|title=グアム島玉砕戦記|publisher=[[光人社]]|series=光人社NF文庫|date=1999年|ref={{SfnRef|佐藤|1999}}}} * {{Cite book|和書|author=辺見庸|authorlink=辺見庸|title=もの食う人々|publisher=[[共同通信社]]|date=1994年|ref={{SfnRef|辺見|1994}}}} * {{Cite book|和書|author=黄文雄|authorlink=黄文雄|title=呪われた中国人―“中国食人史”の重大な意味 | url = https://www.amazon.co.jp/dp/4334004997/ |publisher=[[光文社]] [[カッパブックス]] |ISBN = 4334004997 |date=1990-09-01 |ref={{SfnRef|黄|1990}}}} * {{Cite book|和書|author=黄文雄|authorlink=黄文雄|title=なぜ食べ続けてきたのか!? 「食人文化」で読み解く中国人の正体 | url = https://www.amazon.co.jp/dp/486471133X |publisher=[[ヒカルランド]] |ISBN = 486471133X |date=2013-07-02 |ref={{SfnRef|黄|2014}}}} == 関連項目 == * [[:Category:カニバリズムを題材とした作品|カテゴリー:カニバリズムを題材とした作品]] * [[ウェンディゴ]] * [[プリオン]] * [[クールー病]] * [[クロイツフェルト・ヤコブ病]] * [[ダニエル・カールトン・ガジュセック]] == 外部リンク == {{Commonscat|Cannibalism}} * [http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0110/caniba.html カニバリズムの起源] - 日経サイエンス * {{青空文庫|000372|4270|旧字旧仮名|支那人の食人肉風習}}:[[桑原隲蔵]] * {{青空文庫|000372|42810|旧字旧仮名|支那人間に於ける食人肉の風習}}:桑原隲蔵 * [http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/mondo/m_10/m_10_1.html 「おかしな肉屋 ドイツに実在した3人の人肉卸業者たち」] - マジソンズ博覧会 {{食肉}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かにはりすむ}} [[Category:カニバリズム|*]] [[Category:文化人類学]] [[Category:宗教行為]] [[Category:宗教文化]] [[Category:生態学]] [[Category:倫理学の概念]] [[Category:倫理問題]]
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ピエール・ド・クーベルタン
クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(フランス語: Pierre de Frédy, baron de Coubertin, 1863年1月1日 - 1937年9月2日)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者である。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれる。 フレディ (Fredy) 家は元はイタリアから来た家系にあたる。パリ7区のフォーブール・サンジェルマン西側界隈ウディノ通り (Rue Oudinot) 20番地で生まれ育ち、イエズス会系の学校に通った。英国パブリックスクールの教育に興味を持ち、ワーテルローの戦いでイギリスがフランスに勝ったのは、パブリックスクールの心身ともに鍛える教育の成果との記述を残している。 ラグビー校を訪問した際にラグビーに取りつかれ、自身もプレーを始める。後にラグビーのレフェリーの資格を取って、主にパリの試合で笛を吹いた。彼は社会進化論の信奉者であり、優れた人種は劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよいと考えていたことである。またナチス・ドイツが1936年のベルリン・オリンピックで示した熱意に非常に喜んだ。クーベルタンは「アドルフ・ヒトラーの強さと規律に照らされたベルリン大会を、後続の大会は規範にするべきだ」と考えた。また。クーベルタンの後継者であったアベリー・ブランデージや、フアン・アントニオ・サマランチ(フランコのファランヘ党員)も右派思想の持主であった。 歴史書のオリュンピアの祭典の記述に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説の中で近代オリンピックを提唱した。賛同者によって国際オリンピック委員会(仏: CIO、英: IOC)が設立され、1896年のアテネオリンピックの開催へとつながった。 1912年第5回ストックホルム大会の芸術競技で、自らは金メダルを獲得していると言われ、この時彼は「ホーロット&エッシェンバッハ」という筆名を使い芸術競技文学部門に参加して優勝したと言われ、この時の出品作品は仏語で「オド・オ・スポール(Ode au Sport、日本語で『スポーツ賛歌』)」とされる。ただし、これが本当にクーベルタン本人の作品なのかは確証がなく実際は今も不明のままとなっている。 また、彼の考案・提唱によって近代五種競技が1912年のストックホルムオリンピックから種目に採用された。 国際オリンピック委員会事務局長、第2代国際オリンピック委員会会長などを務め、近代オリンピックのシンボルである五輪のマークも考案した。 クーベルタン男爵を始めとして、国際オリンピック委員会の設立時のメンバーであったアンプティル男爵、及び、初代イギリスオリンピック委員会会長のデスボロー男爵は、フリーメイソンリーの会員である。 「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」(フランス語: L'important, c'est de participer、直訳:重要なのは、参加することである)の言葉が有名だが、実はこの言葉は彼の考え出したものではない。この言葉は聖公会のペンシルベニア大主教であるエセルバート・タルボット(Ethelbert Talbot)が1908年のロンドンオリンピックの際にアメリカの選手たちに対して語った言葉である。 1908年のロンドン大会が開催された当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲となっており、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受けた。それで気の滅入ってしまったアメリカ選手団が気分転換にセント・ポール大聖堂の聖餐式に出かけたところ、この大聖堂で説教を受けて、大いに勇気づけられた。この時の出来事とセリフが伝わり感銘を受けたクーベルタン男爵が、各国のオリンピック関係者を招いての晩餐会の席上でのスピーチで引用して演説したところ、たちまちこのセリフが“クーベルタン男爵の演説”として有名になり世界に広まってしまった、というのが真相である。 また、クーベルタン男爵はこの席で「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」とも語っているが、こちらは本人が考え出したセリフである。
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クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディは、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者である。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれる。
{{複数の問題|ソートキー=人1937年没|出典の明記=2010年1月8日 (金) 15:32 (UTC)|独自研究=2019年4月}} {{大統領 | 人名 = ピエール・ド・クーベルタン | 各国語表記 = {{lang|fr|Pierre de Frédy, baron de Coubertin}} | 画像 = Coubertin.jpg | 画像サイズ = | 国名 = {{Flagicon|IOC}} [[国際オリンピック委員会]] | 代数 = 第2 | 職名 = {{仮リンク|国際オリンピック委員会会長|en|President of the International Olympic Committee|label=会長}} | 副大統領 = | 就任日 = [[1896年]] | 退任日 = [[1925年]] | 元首 = | 出生日 = {{生年月日と年齢|1863|1|1|死去}} | 生地 = {{FRA1852}}[[パリ]] | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1863|1|1|1937|9|2}} | 没地 = {{CHE}}、[[ジュネーヴ]] | 政党 = | 配偶者 = | サイン = }} '''クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ'''({{lang-fr|Pierre de Frédy, baron de Coubertin}}, [[1863年]][[1月1日]] - [[1937年]][[9月2日]])は、[[フランス]]の教育者であり、[[古代オリンピック]]を復興させ[[近代オリンピック]]の基礎を築いた創立者である。一般に'''ピエール・ド・クーベルタン男爵'''と呼ばれる。 ==プロフィール、人物== フレディ (Fredy) 家は元はイタリアから来た家系にあたる。[[7区 (パリ)|パリ7区]]の[[サンジェルマン|フォーブール・サンジェルマン]]西側界隈ウディノ通り ([[:fr:Rue Oudinot|Rue Oudinot]]) 20番地で生まれ育ち、[[イエズス会]]系の学校に通った。<!--フランス語版参照-->英国[[パブリックスクール]]の教育に興味を持ち、[[ワーテルローの戦い]]で[[イギリス]]が[[フランス]]に勝ったのは、パブリックスクールの心身ともに鍛える教育の成果との記述を残している。 [[ラグビー校]]を訪問した際に[[ラグビーフットボール|ラグビー]]に取りつかれ、自身もプレーを始める。後に[[ラグビーフットボール|ラグビー]]の[[レフェリー]]の資格を取って、主に[[パリ]]の試合で笛を吹いた。{{独自研究範囲|彼は社会進化論の信奉者であり、優れた人種は劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよいと考えていたことである。また[[ナチス・ドイツ]]が1936年のベルリン・オリンピックで示した熱意に非常に喜んだ。クーベルタンは「[[アドルフ・ヒトラー]]の強さと規律に照らされたベルリン大会を、後続の大会は規範にするべきだ」と考えた<ref>http://www.gamesmonitor.org.uk/node/1821</ref>{{信頼性要検証|date=2019-04}}。また。クーベルタンの後継者であった[[アベリー・ブランデージ]]や、[[フアン・アントニオ・サマランチ]](フランコのファランヘ党員)も[[右派]]思想の持主であった。|date=2019年4月}} ===近代オリンピックの父=== 歴史書の[[古代オリンピック|オリュンピアの祭典]]の記述に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説の中で近代オリンピックを提唱した。賛同者によって[[国際オリンピック委員会]]({{lang-fr-short|CIO}}、{{lang-en-short|IOC}})が設立され、[[1896年]]の[[アテネオリンピック (1896年)|アテネオリンピック]]の開催へとつながった。 1912年第5回ストックホルム大会の芸術競技で、自らは金メダルを獲得していると言われ、この時彼は「ホーロット&エッシェンバッハ」という筆名を使い芸術競技文学部門に参加して優勝したと言われ、この時の出品作品は仏語で「オド・オ・スポール({{lang|fr|Ode au Sport}}、日本語で『スポーツ賛歌』)」とされる。ただし、これが本当にクーベルタン本人の作品なのかは確証がなく実際は今も不明のままとなっている。 また、彼の考案・提唱によって[[近代五種競技]]が1912年の[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]から種目に採用された。 ===役職=== [[国際オリンピック委員会]]事務局長、第2代国際オリンピック委員会会長などを務め、[[オリンピックシンボル|近代オリンピックのシンボル]]である五輪のマークも考案した。 クーベルタン男爵を始めとして、国際オリンピック委員会の設立時のメンバーであったアンプティル男爵、及び、初代イギリスオリンピック委員会会長のデスボロー男爵は、[[フリーメイソン|フリーメイソンリー]]の会員である。 ===発言=== 「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」({{lang-fr|L'important, c'est de participer}}、直訳:重要なのは、参加することである)の言葉が有名だが、実はこの言葉は彼の考え出したものではない。この言葉は[[聖公会]]の[[ペンシルベニア州|ペンシルベニア]][[大主教]]である[[エセルバート・タルボット]]([[:en:Ethelbert Talbot|Ethelbert Talbot]])が[[1908年]]の[[ロンドンオリンピック (1908年)|ロンドンオリンピック]]の際にアメリカの選手たちに対して語った言葉である。 1908年のロンドン大会が開催された当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲となっており、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受けた。それで気の滅入ってしまったアメリカ選手団が気分転換に[[セント・ポール大聖堂]]の[[聖餐式]]に出かけたところ、この大聖堂で説教を受けて、大いに勇気づけられた。この時の出来事とセリフが伝わり感銘を受けたクーベルタン男爵が、各国のオリンピック関係者を招いての晩餐会の席上でのスピーチで引用して演説したところ、たちまちこのセリフが“クーベルタン男爵の演説”として有名になり世界に広まってしまった、というのが真相である。 また、クーベルタン男爵はこの席で「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」とも語っているが、こちらは本人が考え出したセリフである。 ==脚注== {{Reflist}} ==関連項目== {{Commons&cat|Pierre de Coubertin|Pierre de Coubertin}} * [[アベリー・ブランデージ]] * [[フアン・アントニオ・サマランチ]] * [[アマチュアリズム]] * [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](演:[[ニコラ・ルンブレラス]]) {{S-start}} {{s-other}} {{Succession box | title = {{Flagicon|IOC}} [[国際オリンピック委員会#歴代会長|国際オリンピック委員会会長]] | years = 第2代:1896 - 1925 | before = {{flagicon|GRC1828}} [[ディミトリオス・ヴィケラス]] | after = {{flagicon|BEL}} [[アンリ・ド・バイエ=ラトゥール]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|IOC}} [[冬季オリンピック]]組織委員会会長 | years = 初代:1924 | before = (創設) | after = {{flagicon|CHE}} Edmund Schulthess ([[:en:Edmund Schulthess|en]]) }} {{S-end}} {{国際オリンピック委員会会長}} {{Sportspeople-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くうへるたん ひええる}} [[Category:国際オリンピック委員会会長]] [[Category:オリンピック組織委員会会長]] [[Category:フランスの貴族]] [[Category:フランスのラグビー審判員]] [[Category:パリ出身の人物]] [[Category:1863年生]] [[Category:1937年没]] [[Category:ワールドラグビー殿堂選出者]]
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ブッシュ政権
アメリカ合衆国の二人の大統領が「ブッシュ(Bush)」と言う姓であった。
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アメリカ合衆国の二人の大統領が「ブッシュ(Bush)」と言う姓であった。 ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ政権は第41代合衆国大統領の下、1989年から1993年まで政府を運営していた。 ジョージ・W・ブッシュ政権は第43代合衆国大統領の下、2001年から2009年まで政府を運営していた。
[[アメリカ合衆国]]の二人の[[大統領]]が「ブッシュ(''Bush'')」と言う[[姓]]であった。 #[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ]]政権は第41代合衆国大統領の下、[[1989年]]から[[1993年]]まで[[アメリカ合衆国連邦政府|政府]]を運営していた。 #[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権は第43代合衆国大統領の下、[[2001年]]から[[2009年]]まで政府を運営していた。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ふつしゆせいけん}} [[Category:アメリカ合衆国の政治史 (1990年-)]] [[Category:ブッシュ家|*]]
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コンドリーザ・ライス
コンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice、1954年11月14日 - )は、アメリカ合衆国の政治家・政治学者。スタンフォード大学フーヴァー研究所所長。共和党員。学位はPh.D.(デンバー大学・1981年)。 ジョージ・W・ブッシュ政権1期目で第20代アメリカ合衆国国家安全保障問題担当大統領補佐官、ジョージ・W・ブッシュ政権2期目で第66代アメリカ合衆国国務長官を歴任。 ジョージ・W・ブッシュ政権1期目で20代目国家安全保障問題担当大統領補佐官と2期目で66代目アメリカ合衆国国務長官を歴任した。政治学の博士号を持ち、スタンフォード大学教授やシェブロン取締役を務めた。 2004年11月にブッシュはアメリカ合衆国国務長官としてコリン・パウエルの後任にライスを指名した。2005年1月26日にアメリカ合衆国上院は賛成85・反対13で彼女の指名を承認し、彼女は同日宣誓した。アフリカ系アメリカ人女性としては初のアメリカ合衆国国務長官(アフリカ系アメリカ人としてはコリン・パウエルに続く2人目で、女性としてはマデレーン・オルブライトに続く2人目)である。またジョージ・W・ブッシュ大統領の1期目ではアフリカ系アメリカ人及び女性として初の国家安全保障担当大統領補佐官を務めており、『フォーブス』2005年版「世界最強の女性」では1位になっている。 1954年11月14日にアメリカのアラバマ州バーミングハムで、ジョン・ウェズレー・ライスJr.とアンジェレーナ・ライス夫妻の一人娘として生まれた。父親は長老派教会の牧師で、母親は音楽教師であった。名前はイタリア語の音楽用語「コン・ドルチェッツア con dolcezza」(甘美に柔らかく演奏する)に由来する。 コロンビア大学ジャーナリズム大学院学部長のニコラス・レーマンが書いた記事:「バーミンハムには保険業で成功した一組の黒人家族、ギャストン一家がいた。それに続いて支配していたのはアルマ・パウエルの一家だった。アルマの父親と伯父は町にある二つの黒人高校の校長であった。ライスの父親、ジョン・ウェズレー・ライスジュニアは高校のガイダンスカウンセラーとしてアルマ・パウエルの伯父のために働き、週末に説教を行う牧師であった。ライスの母親アンジェレーナは教師だった」(アルマ・パウエルはコリン・パウエルの妻)。 8歳だった1963年9月15日に友人のデニース・マクネーアが白人優越論者による16番街聖ヨハネ教会での爆弾テロで死亡した。両親は常々「教育が人種差別に対する最高の防御になる」と教えた。ライスはあるスピーチで「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)ウールワースでハンバーガーを食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)大統領になることだって可能だということに私は何の疑いも持っていませんでした」と語っている。ライスは「体制の中にある不平等を克服するには、人の二倍優秀でなければいけない。」とも語っている。 1967年に父親がデンバー大学の学部長補佐となり、一家はコロラド州デンバーに転居した。 アスペン・ミュージック・キャンプでピアノを学んだ後に、ライスは15歳でデンバー大学に入学した。彼女の父親は同大学で副学部長を務め、「The Black Experience in America」クラスを教えた。彼女はコンサートピアニストになるクラスで学んだが、元アメリカ合衆国国務長官マデレーン・オルブライトの父親で国際研究大学院(現在のデンバー大学ジョセフ・コーベル国際研究大学院)の校長でもあったジョセフ・コーベルの国際政治入門クラスに参加し、ソ連や国際関係への興味を持つこととなった。ライスはコーベルを「私の人生で最も重要な人物のうちの一人」と語った。 ライスは1974年に19歳でデンバー大学から政治学士号を優等で得て、1975年にはノートルダム大学から修士号を得た。彼女は1977年からアメリカ合衆国国務省に勤務し、ジミー・カーター政権下で教育文化省のインターンとなった。1979年にソ連のモスクワ大学に留学しロシア語を学ぶ。1981年にはデンバー大学で政治学の博士号を得る。彼女はロシア語が非常に堪能なバイリンガルで、ほかにもチェコ語・フランス語・スペイン語を解する。 1981年よりスタンフォード大学助教(Assistant Professor)。1987年に准教授に昇進。在野時代より既に東欧史・軍事史の分野でも声望を得ており、クラウゼヴィッツ戦略学の世界的権威ピーター・パレットのまとめた論文集にもその論文が掲載されている。 1989年から1991年まで、アメリカ共和党のジョージ・H・W・ブッシュ政権に参画。ブレント・スコウクロフト国家安全保障担当補佐官の下、国家安全保障会議東欧ソ連部長として、ソビエト連邦及び東ヨーロッパの専門家として、辣腕を振るう。日本にも度々訪れ、海上自衛隊などでソビエト連邦に関した講義を行った。 1991年、スタンフォード大学に復職する。1993年、教授に昇進。同時に最年少で、女性としても白人以外としても初の、スタンフォード大学の教務局長 (Provost) になる。 2001年1月20日より国家安全保障問題担当大統領補佐官として、アメリカ共和党のジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権の外交政策立案に当たる。同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後のアフガニスタン戦争やイラク戦争など強硬政策を推進。 2003年にマイケル・ムーアが監督したドキュメンタリー映画『華氏911』にてゴールデンラズベリー賞の最低助演女優賞、最低スクリーンカップル賞受賞。 2004年にコリン・パウエルの国務長官辞任を受けて66代目アメリカ合衆国国務長官に就任。対東アジア外交面では在日アメリカ軍再編や北朝鮮問題に奔走するなど多忙な日々を送る。 2006年10月に北朝鮮核実験直後に来日し、日本国内閣総理大臣安倍晋三(第1次安倍内閣)との会談で北朝鮮への制裁と日米同盟強化を確認した。 2007年5月に「BDAの金融問題が想像以上に複雑で、解決へ少し時間の余裕を与えた。しかし、忍耐は無限ではない。この点をタロー(麻生太郎)とも緊密に話し合った」と述べた。 2008年11月にはパレスチナを訪問した。ブッシュと共にイスラエル・パレスチナの和平プロセスを進めていた。「パレスチナ国家の樹立は近づいている」と述べ、その一方でヨルダン川西岸で入植活動を続けるイスラエルを再び批判した。 2009年1月20日のブッシュ政権の退任後はスタンフォード大学のフーヴァー研究所に復職し、「外交政策をテーマにした本と自分の両親についての本を執筆する予定だ」と語っていた。2009年3月1日付けでスタンフォード大学の政治学教授・フーヴァー研究所上級フェローに復帰した。 2017年秋の叙勲で旭日大綬章を受章した。 2022年夏より、NFLデンバー・ブロンコスのオーナーである、ウォルトン=ペナー・ファミリー・グループの一員となっている。 支持者からはアメリカ屈指の戦略家であり、オフェンシブ・リアリスト(攻撃的現実主義者)と評される。バランス・オブ・パワーを破壊しようとする勢力には当然に武力行使も選択肢に入れた対応をしなければならないとする立場であり、クラウゼヴィッツ戦略学の正統に位置するとも言える。経済への理解も深いが、リベラリストのように経済に深入りし過ぎた判断をすることも無いとされる(対中国への姿勢に特に顕著)。 自分の経験からアファーマティブ・アクションには「効果が無い」と反対している。 批判者からはブッシュの政策顧問団バルカンズの一人でもある彼女をいわゆるネオコンに分類し、ブッシュ大統領への忠誠心を評価されて要職を射止めたとする論調も見られる。アメリカを代表するジャーナリストの一人であるボブ・ウッドワードは、著書『ブッシュの戦争』の中で、ライスは政権内の強硬派であるチェイニーやラムズフェルドに軽く見られ相手にされておらず、「イラク戦争をはじめ重要な政策の決定においてほとんど影響力を行使できなかった」と批判している。 ドイツの国際連合安全保障理事会常任理事国入りにドイツのフィッシャー外相との共同記者会見の席でライスは「ドイツの常任理事国入りは賛成しない」と明言している。 アフリカ系アメリカ人であるためにアフリカ諸国の反米政権からは軽蔑の対象とみなされる事がある。例えばジンバブエの独裁政権を非難するとロバート・ムガベ大統領からは『白人の奴隷』と軽蔑され、またハリー・ベラフォンテからも「白人に媚びる奴隷」と似たような事を言われた。 政治的な信条は異にするが、アメリカ民主党のバラク・オバマ上院議員が初のアフリカ系アメリカ人のアメリカ合衆国大統領として当選した際には、「アフリカ系アメリカ人として誇りに思う」と述べている。 趣味はピアノ・フィギュアスケート・フィットネス・フットボールと野球の観戦(ニューヨーク・ヤンキースファン、NFLはクリーブランド・ブラウンズのファン)、音楽鑑賞、ショッピング。フェラガモがお気に入りのブランドという。好きな作家はドストエフスキー、好きな作曲家はブラームスである。 ピアノの腕前はプロ並みで、2002年にはチェロ奏者ヨーヨー・マとチャリティーコンサートで共演。2009年3月アメリカのTVトーク番組「ジェイ・レノ・ショウ」出演時には「レッド・ツェッペリンも好き」とも発言した。 2012年に長年女性に対して門戸を閉ざしていたオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブは、ライスを初の女性会員として受け入れた。それまでゴルフを趣味とすることについては報道される機会はなかったが、2013年にはオーガスタでフィル・ミケルソンとラウンドした様子が報道されている。 「ライスのIQは180または200である」と語られることがある。ライスの知能指数を科学的に計測したデータが公表されているというわけではなく、これは裏付けの無い風説である。なお、ライス本人は自伝において、6歳時に受けたIQテストで136だったことを明かしている。 アメリカ合衆国史上3人目、アフリカ系アメリカ人女性としては初の女性の国際連合大使であるスーザン・ライスとは同姓であり、たまたま容姿が似ているため誤解される事が多いが血縁関係はない。 独身であるが、本人は「独身主義というわけではない」としている。
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コンドリーザ・ライスは、アメリカ合衆国の政治家・政治学者。スタンフォード大学フーヴァー研究所所長。共和党員。学位はPh.D.(デンバー大学・1981年)。 ジョージ・W・ブッシュ政権1期目で第20代アメリカ合衆国国家安全保障問題担当大統領補佐官、ジョージ・W・ブッシュ政権2期目で第66代アメリカ合衆国国務長官を歴任。
{{政治家 |各国語表記 = Condoleezza Rice |画像 = Condoleezza Rice cropped.jpg |画像サイズ = 220px |画像説明 = コンドリーザ・ライス |国略称 = {{flagicon|USA}} アメリカ合衆国 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1954|11|14}} |出生地 = {{flagicon|USA1912}} アメリカ合衆国<br/>[[File:Flag_of_Birmingham,_Alabama.svg|border|25x20px]] [[アラバマ州]][[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]] |没年月日 = |死没地 = |出身校 = [[デンバー大学]] |所属政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]] |称号・勲章 = [[Ph.D.]]([[政治学]])([[デンバー大学]]・[[1981年]])<br/>{{flagicon|JPN}} [[旭日大綬章]](2017年)<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/20171103-OYT1T50019.html 秋の叙勲、4103人…俳優の大村崑さんら] 読売新聞 2017年11月3日{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref><ref name="jiji"/> |配偶者 = |サイン = Condoleezza Rice Signature 2.svg |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = アメリカ合衆国 |職名 = [[アメリカ合衆国]]<br/>第66代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]] |内閣 = |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = [[2005年]][[1月26日]] |退任日 = [[2009年]][[1月20日]] |退任理由 = 大統領の任期切れによる政権交代 |元首職 = 大統領 |元首 = [[ジョージ・W・ブッシュ]] <!-- ↓省略可↓ --> |国旗2 = アメリカ合衆国 |職名2 = [[アメリカ合衆国]]<br/>第20代[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]] |内閣2 = |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = [[2001年]][[1月20日]] |退任日2 = [[2005年]][[1月26日]] |退任理由2 = 第66代アメリカ合衆国国務長官就任の為 |元首職2 = 大統領 |元首2 = ジョージ・W・ブッシュ <!-- ↑省略可↑ --> }} '''コンドリーザ・ライス'''(Condoleezza Rice、[[1954年]][[11月14日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]・[[政治学者]]。[[スタンフォード大学]][[フーヴァー研究所]]所長。[[共和党 (アメリカ)|共和党員]]。[[学位]]は[[Ph.D.]]([[デンバー大学]]・1981年)。 ジョージ・W・ブッシュ政権1期目で第20代アメリカ合衆国[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]]、[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権2期目で第66代[[アメリカ合衆国国務長官]]を歴任。 ==概説== [[ジョージ・W・ブッシュ]]政権1期目で20代目[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]]と2期目で66代目[[アメリカ合衆国国務長官]]を歴任した。政治学の博士号を持ち、[[スタンフォード大学]]教授や[[シェブロン]]取締役<ref>1991年から2001年までの10年間に渡って就任していた。シェブロンはタンカーにライスの名前を付けている。</ref>を務めた。 [[2004年]]11月にブッシュはアメリカ合衆国国務長官として[[コリン・パウエル]]の後任にライスを指名した。2005年1月26日に[[アメリカ合衆国上院]]は賛成85・反対13で彼女の指名を承認し、彼女は同日宣誓した。[[アフリカ系アメリカ人]]女性としては初のアメリカ合衆国国務長官(アフリカ系アメリカ人としてはコリン・パウエルに続く2人目で、女性としては[[マデレーン・オルブライト]]に続く2人目)である。またジョージ・W・ブッシュ大統領の1期目ではアフリカ系アメリカ人及び女性として初の国家安全保障担当大統領補佐官を務めており、『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』2005年版「世界最強の女性」では1位になっている。 == 経歴 == === 生い立ち === 1954年11月14日にアメリカの[[アラバマ州]][[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]で、ジョン・ウェズレー・ライスJr.とアンジェレーナ・ライス夫妻の一人娘として生まれた。父親は[[長老派教会]]の[[牧師]]で、母親は音楽教師であった。名前は[[イタリア語]]の音楽用語「コン・ドルチェッツア con dolcezza」(甘美に柔らかく演奏する)に由来する。 [[コロンビア大学]]ジャーナリズム大学院学部長のニコラス・レーマンが書いた記事:「バーミンハムには保険業で成功した一組の黒人家族、ギャストン一家がいた。それに続いて支配していたのはアルマ・パウエルの一家だった。アルマの父親と伯父は町にある二つの黒人高校の校長であった。ライスの父親、ジョン・ウェズレー・ライスジュニアは高校の[[ガイダンスカウンセラー]]としてアルマ・パウエルの伯父のために働き、週末に説教を行う牧師であった。ライスの母親アンジェレーナは教師だった」<ref>[http://www.newyorker.com/fact/content/?021014fa_fact3 The New Yorker “Without A Doubt” by Nicholas Lemann, 2002年10月14/21日]</ref>(アルマ・パウエルはコリン・パウエルの妻)。 8歳だった1963年9月15日に友人のデニース・マクネーアが[[クー・クラックス・クラン|白人優越論者]]による[[:en:16th Street Baptist Church bombing|16番街聖ヨハネ教会での爆弾テロ]]で死亡した。両親は常々「教育が[[人種差別]]に対する最高の防御になる」と教えた。ライスはあるスピーチで「(子供の頃、生まれ育った南部アラバマでは)[[:en:F. W. Woolworth Company|ウールワース]]で[[ハンバーガー]]を食べることはできなかったかもしれませんが、(教育に熱心な)両親の励ましがあったおかげで、(努力さえすれば)[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]になることだって可能だということに私は何の疑いも持っていませんでした」<ref>2000年12月18日付の The New York Times の記事、“The 43rd President; Rice on Power And Democracy” に引用された、ライスが1999年1月15日に Los Angeles World Affairs Council で行ったスピーチの一節。 (“''...The Civil Rights Act passed 10 years later. Birmingham was a violent place in 1963-64; I lost a little friend in that church bombing in 1964, at Sixteenth Street Baptist Church. But our parents really did have us convinced that you couldn't have a hamburger at Woolworth's but you could be president of the United States...''”) </ref>と語っている。ライスは「体制の中にある不平等を克服するには、人の二倍優秀でなければいけない。」とも語っている<ref>[http://www.racematters.org/lessononlifecondoleezzarice.htm www.racematters.org "A Lesson from Condoleezza Rice" by Derrick Z. Jackson, 2002年11月20日]</ref>。 [[1967年]]に父親が[[デンバー大学]]の学部長補佐となり、一家はコロラド州[[デンバー]]に転居した。 === 大学時代 === アスペン・ミュージック・キャンプでピアノを学んだ後に、ライスは15歳で[[デンバー大学]]に入学した。彼女の父親は同大学で副学部長を務め、「The Black Experience in America」クラスを教えた<ref>[http://www.publiceye.org/frontpage/OpEds/berlet_condi_dad.html www.publiceye.org “Condi’s Dad and the Lessons of War” by Chip Berlet, 2004年10月27日]</ref>。彼女はコンサートピアニストになるクラスで学んだが、元アメリカ合衆国国務長官[[マデレーン・オルブライト]]の父親で国際研究大学院(現在の[[デンバー大学ジョセフ・コーベル国際研究大学院]])の校長でもあったジョセフ・コーベルの国際政治入門クラスに参加し、ソ連や国際関係への興味を持つこととなった。ライスはコーベルを「私の人生で最も重要な人物のうちの一人」<!-- リンク切れです [http://www.rider.edu/phanc/Phanc/JoKorbel.htm]-->と語った。 ライスは1974年に19歳でデンバー大学から政治学士号を優等で得て、1975年には[[ノートルダム大学]]から修士号を得た。彼女は1977年から[[アメリカ合衆国国務省]]に勤務し、[[ジミー・カーター]]政権下で教育文化省のインターンとなった。1979年にソ連の[[モスクワ大学]]に留学しロシア語を学ぶ。1981年にはデンバー大学で政治学の博士号を得る。彼女は[[ロシア語]]が非常に堪能な[[バイリンガル]]で、ほかにも[[チェコ語]]・[[フランス語]]・[[スペイン語]]を解する。 === 学者時代 === 1981年よりスタンフォード大学[[助教]](Assistant Professor)。1987年に[[准教授]]に昇進。在野時代より既に東欧史・軍事史の分野でも声望を得ており、クラウゼヴィッツ戦略学の世界的権威[[ピーター・パレット]]のまとめた論文集<ref>Peter Paret(ed).,''Makers of Modern Strategy: From Machiavelli to the Nuclear Age'', Princeton University Press ,1986.(邦訳『現代戦略思想の系譜――マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳、[[原書房]]、1989年)</ref>にもその論文が掲載されている。 === 政界入り === [[Image:Aso and Rice in APEC.jpg|thumb|160px|[[アジア太平洋経済協力]](APEC)閣僚会議にて[[麻生太郎]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]と会談(2005年)]] [[ファイル:Yuko Ando with Condoleezza Rice.jpg|thumb|160px|訪日時に日本のニュースキャスターである[[安藤優子]]によるインタビューに臨むライス(2005年3月19日)]] [[Image:070922 rice Machimura 500.jpg|thumb|160px|2007年の訪日時に[[外務省]]にて[[町村信孝]]外務大臣と会談。]] === ジョージ・H・W・ブッシュ政権 === [[1989年]]から[[1991年]]まで、[[共和党 (アメリカ)|アメリカ共和党]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]政権に参画。[[ブレント・スコウクロフト]]国家安全保障担当補佐官の下、国家安全保障会議東欧ソ連部長として、ソビエト連邦及び東ヨーロッパの専門家として、辣腕を振るう。[[日本]]にも度々訪れ、[[海上自衛隊]]などで[[ソビエト連邦]]に関した講義を行った。 [[1991年]]、[[スタンフォード大学]]に復職する。[[1993年]]、教授に昇進。同時に最年少で、女性としても白人以外としても初の、スタンフォード大学の教務局長 (Provost) になる。 ==== ジョージ・W・ブッシュ政権 ==== 2001年1月20日より[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]]として、アメリカ共和党の[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]政権の外交政策立案に当たる。同年9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]後の[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタン戦争]]や[[イラク戦争]]など強硬政策を推進。 2003年に[[マイケル・ムーア]]が監督した[[ドキュメンタリー映画]]『[[華氏911]]』にて[[ゴールデンラズベリー賞]]の最低助演女優賞、最低スクリーンカップル賞受賞。 [[2004年]]に[[コリン・パウエル]]の国務長官辞任を受けて66代目[[アメリカ合衆国国務長官]]に就任。対東アジア外交面では[[在日米軍|在日アメリカ軍]]再編や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]問題に奔走するなど多忙な日々を送る。 [[2006年]]10月に[[北朝鮮核実験]]直後に来日し、日本国内閣総理大臣[[安倍晋三]]([[第1次安倍内閣]])との会談で北朝鮮への制裁と日米同盟強化を確認した。 2007年5月に「[[バンコ・デルタ・アジア|BDA]]の金融問題が想像以上に複雑で、解決へ少し時間の余裕を与えた。しかし、忍耐は無限ではない。この点をタロー([[麻生太郎]])とも緊密に話し合った」と述べた。 2008年11月には[[パレスチナ]]を訪問した。ブッシュと共にイスラエル・パレスチナの和平プロセスを進めていた。「パレスチナ国家の樹立は近づいている」と述べ、その一方で[[ヨルダン川]]西岸で入植活動を続けるイスラエルを再び批判した<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2536234?pid=3504738|title=中東訪問中のライス米国務長官、「パレスチナ国家樹立は近い」|publisher=afp|date=2008-11-8 |accessdate=2020-6-16}}</ref>。 === 引退後 === 2009年1月20日のブッシュ政権の退任後はスタンフォード大学のフーヴァー研究所に復職し、「外交政策をテーマにした本と自分の両親についての本を執筆する予定だ」と語っていた。2009年3月1日付けでスタンフォード大学の政治学教授・フーヴァー研究所上級フェローに復帰した。 2017年秋の叙勲で[[旭日大綬章]]を受章した<ref name="jiji">{{Cite web|和書|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110300165&g=pol |title= 旭日大綬章に坂本剛二氏ら=俳優の大村崑さん小綬章-秋の叙勲 |accessdate= 2023-01-25|publisher= 時事ドットコム |date= 2017-11-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171107012540/https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110300165&g=pol|archivedate=2017年11月7日|deadlinkdate=2023年1月}}</ref>。 2022年夏より、[[NFL]][[デンバー・ブロンコス]]のオーナーである、ウォルトン=ペナー・ファミリー・グループの一員となっている。 == 思想と行動 == 支持者からはアメリカ屈指の戦略家であり、[[ネオリアリズム|オフェンシブ・リアリスト]]([[攻撃的現実主義]]者)と評される。バランス・オブ・パワーを破壊しようとする勢力には当然に武力行使も選択肢に入れた対応をしなければならないとする立場であり、[[クラウゼヴィッツ]]戦略学の正統に位置するとも言える。経済への理解も深いが、リベラリストのように経済に深入りし過ぎた判断をすることも無いとされる(対中国への姿勢に特に顕著)。 自分の経験から[[アファーマティブ・アクション]]には「効果が無い」と反対している。 批判者からはブッシュの政策顧問団[[:en:The Vulcans|バルカンズ]]の一人でもある彼女をいわゆる[[新保守主義 (アメリカ)|ネオコン]]に分類し、ブッシュ大統領への忠誠心を評価されて要職を射止めたとする論調も見られる。アメリカを代表するジャーナリストの一人である[[ボブ・ウッドワード]]は、著書『ブッシュの戦争』の中で、ライスは政権内の強硬派であるチェイニーやラムズフェルドに軽く見られ相手にされておらず、「イラク戦争をはじめ重要な政策の決定においてほとんど影響力を行使できなかった」と批判している。 ドイツの国際連合安全保障理事会常任理事国入りにドイツのフィッシャー外相との共同記者会見の席でライスは「ドイツの常任理事国入りは賛成しない」と明言している。 [[アフリカ系アメリカ人]]であるためにアフリカ諸国の[[反米]]政権からは軽蔑の対象とみなされる事がある。例えば[[ジンバブエ]]の独裁政権を非難すると[[ロバート・ムガベ]]大統領からは『[[白人]]の[[奴隷]]』と軽蔑され、また[[ハリー・ベラフォンテ]]からも「白人に媚びる奴隷」と似たような事を言われた。 政治的な信条は異にするが、アメリカ民主党の[[バラク・オバマ]]上院議員が初のアフリカ系アメリカ人のアメリカ合衆国大統領として当選した際には、「アフリカ系アメリカ人として誇りに思う」と述べている<ref>[http://mainichi.jp/select/world/presidential/archive/news/2008/11/20081106dde007030051000c.html 米大統領選:オバマ氏勝利 ライス氏とパウエル氏が祝福]([[毎日新聞]] 2008年11月6日)</ref>。 == 人物評 == [[Image:Yoyoma_rice.jpg|thumb|right|230px|[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]のソナタを[[ヨーヨー・マ]]と競演し、観客から喝采を浴びるライス補佐官 (当時)]] [[趣味]]は[[ピアノ]]・[[フィギュアスケート]]・[[フィットネス]]・[[アメリカンフットボール|フットボール]]と[[野球]]の観戦([[ニューヨーク・ヤンキース]]ファン<ref>{{cite journal | title=Fox News host offers Secretary Rice All Star Game tickets | journal=The Raw Story, 2007 | year=2007 | url=https://www.google.com/search?q=cache:G2ewqKE2FucJ:rawstory.com/news/2007/Fox_News_host_offers_Secretary_Rice_0402.html+Rice+Yankees&hl=en&ct=clnk&cd=7}}</ref>、NFLは[[クリーブランド・ブラウンズ]]のファン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/showbiz/35128854.html|title=ライス元国務長官がNFL監督に? 本人は報道を否定|accessdate=2019-01-10|website=CNN.co.jp|language=ja}}</ref>)、音楽鑑賞、ショッピング。[[サルヴァトーレ・フェラガモ|フェラガモ]]がお気に入りの[[ブランド]]という。好きな作家は[[ドストエフスキー]]、好きな作曲家は[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]である。 ピアノの腕前はプロ並みで、2002年にはチェロ奏者[[ヨーヨー・マ]]と[[チャリティー]]コンサートで共演。2009年3月アメリカのTVトーク番組「ジェイ・レノ・ショウ」出演時には「[[レッド・ツェッペリン]]も好き」とも発言した。 2012年に長年女性に対して門戸を閉ざしていた[[オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ]]は、ライスを初の女性会員として受け入れた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK380TYBK37UHBI04P.html ゴルフ場の女人禁制、本場英国にも 門戸開放か近く結論] 朝日新聞DIGITAL 稲垣康介(2017年3月9日)2017年7月1日閲覧</ref>。それまで[[ゴルフ]]を趣味とすることについては報道される機会はなかったが、2013年にはオーガスタで[[フィル・ミケルソン]]とラウンドした様子が報道されている<ref>[http://www.golfnetwork.co.jp/tournament/news/articles/201304-00032.html P.ミケルソン、ライス元国務長官とオーガスタで練習ラウンド] GOLF NETWORK(2013年4月8日)2017年7月1日閲覧</ref>。 「ライスの[[知能指数|IQ]]は180または200である」と語られることがある。ライスの知能指数を科学的に計測したデータが公表されているというわけではなく、これは裏付けの無い風説である。なお、ライス本人は自伝において、6歳時に受けたIQテストで136だったことを明かしている<ref>コンドリーザ・ライス 『コンドリーザ・ライス自伝』 中井京子訳、扶桑社、2012年、96ページ。</ref>。 アメリカ合衆国史上3人目、アフリカ系アメリカ人女性としては初の女性の国際連合大使である[[スーザン・ライス]]とは同姓であり、たまたま容姿が似ているため誤解される事が多いが血縁関係はない。 独身であるが、本人は「独身主義というわけではない」としている。 == 著書 == ===単著=== * 『''The Soviet Union and the Czechoslovak Army, 1948-1983: Uncertain Allegiance''』 (Princeton University Press, 1984年) * 『''Condoleezza Rice: A Memoir of My Extraordinary, Ordinary Family and Me''』 (Delacorte Press, 2010年) : [[中井京子]]訳『コンドリーザ・ライス自伝~素晴らしいありふれた家族の物語』(扶桑社、2012年) * 『''No Higher Honor: A Memoir of My Years in Washington''』 (Crown, 2011年) : [[福井昌子]]、[[波多野理彩子]]他訳『ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日』(集英社、2013年) * 『''Democracy: Stories from the Long Road to Freedom''』(Twelve, 2017年) ===共著=== * 『''Germany Unified and Europe Transformed: A Study in Statecraft''』 with Philip Zelikow (Harvard University Press, 1995年) * 『''The Strategy of Campaigning: Lessons from Ronald Reagan and Boris Yeltsin''』 with Kiron Skinner, Bruce Bueno de Mesquita and Serhiy Kudelia (University of Michigan Press, 2008年) == 参考文献 == * 『ヒラリーとクリントン−アメリカを動かす女たちの素顔』岸本裕紀子(著)、[[PHP新書]]、2006年 * 『プライドと情熱−ライス国務長官物語』アントニア・フェリックス(Antonia Felix)(原著), 渡邊玲子(翻訳) 、[[角川学芸出版]]、2007年 == 注釈 == <references/> == 外部リンク == {{commons|Condoleezza Rice}} * [https://www.biography.com/political-figure/condoleezza-rice Condoleezza Rice - Stanford, Quotes & Family - Biography](伝記特集サイト) * [https://www.womenshistory.org/education-resources/biographies/condoleezza-rice Condoleezza Rice | National Women's History Museum](米国立女性歴史博物館公式サイト内) {{先代次代|{{Flagicon|アメリカ合衆国}} [[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]|第66代: 2005年 - 2009年|[[コリン・パウエル]]|[[ヒラリー・クリントン]]}} {{アメリカ合衆国国務長官}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らいす こんとりさ}} [[Category:アメリカ合衆国国務長官]] [[Category:アメリカ合衆国の女性閣僚]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の政治家]] [[Category:アメリカ合衆国の女性外交官]] [[Category:アメリカ合衆国国家安全保障問題担当大統領補佐官]] [[Category:イラク戦争の人物]] [[Category:ラジー賞受賞者]] [[Category:旭日大綬章受章者]] [[Category:デンバー大学出身の人物]] [[Category:ノートルダム大学出身の人物]] [[Category:スタンフォード大学経営大学院の教員]] [[Category:スタンフォード大学政治学科の教員]] [[Category:スタンフォード大学のスタッフ]] [[Category:政治学博士取得者]] [[Category:アラバマ州の学者]] [[Category:フーヴァー戦争・革命・平和研究所の人物]] [[Category:ランド研究所の人物]] [[Category:バーミングハム出身の人物]] [[Category:1954年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:アラバマ州の共和党員]]
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コリン・パウエル
コリン・ルーサー・パウエル(英語: Colin Luther Powell, 1937年4月5日 -2021年10月18日)は、アメリカ合衆国の政治家、陸軍軍人。退役陸軍大将。学位はM.B.A.(ジョージ・ワシントン大学)。ジョージ・W・ブッシュ政権で第65代国務長官を務めた。ジャマイカ系アメリカ人。 1937年4月5日にニューヨーク州ニューヨーク市のハーレムにて、ジャマイカ系移民の息子として誕生した。サウス・ブロンクス地区にて育ち、ニューヨーク市立大学シティカレッジで地学を専攻する傍ら、予備役将校訓練課程(ROTC)を受講した。 1958年にニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業すると、少尉としてアメリカ陸軍に任官する。それはトルーマン大統領が1948年に大統領令9981号(英語版)で、アメリカ軍における「人種、肌の色、宗教または出身国に基づく」差別を撤廃した丁度10年後のことであった。ドイツ・韓国での勤務を含めてベトナム戦争に2度従軍・負傷した(ベトナムでの従軍は1962-1963、1968-1969)。まだ南部では厳しい人種隔離政策があった時代に、アフリカ系アメリカ人として異例の出世を遂げる。1971年にはジョージ・ワシントン大学大学院経営学修士課程を修了している。ニクソン政権時代には「ホワイトハウス・フェロー」に選ばれた。レーガン政権では、予備役に退いた上で国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。1989年のレーガン政権の終了と同時に現役に復帰し、大将に昇進してアメリカ陸軍総軍司令官となる。同年10月にジョージ・H・W・ブッシュ政権の指名により、アフリカ系アメリカ人初のアメリカ軍制服組トップである統合参謀本部議長に就任し、パナマ侵攻や湾岸戦争の指揮を執った。 1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、支持率低迷に喘ぐ共和党現職のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が不人気のダン・クエール副大統領に替えて新たな副大統領候補を検討していると報じられた際、その候補者として取りざたされた。結局は擁立には至らなかった。またこの選挙で当選したビル・クリントンが国務長官にパウエルを充てることを検討しているという報道もあったが、これも現実にはならなかった。 1993年に退役後、自伝「マイ・アメリカン・ジャーニー」を出版した。1996年アメリカ合衆国大統領選挙に向けての世論調査では幅広い層からの圧倒的な支持を示したが出馬しなかった。選挙戦における激しい中傷合戦に巻き込まれたくないと妻が懸念したからとも、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対があったからとも言われる。 2000年アメリカ合衆国大統領選挙ではブッシュ陣営の外交問題アドバイザーを務めた。ブッシュの当選後、アフリカ系アメリカ人初の国務長官に任命された(上院では全会一致で承認)。同政権では、息子のマイク・パウエルが1997年11月から2005年1月までの間連邦通信委員会 (FCC) 委員長を務めた。国務副長官に任命されたレーガン政権からの盟友リチャード・アーミテージと共にブッシュ政権での穏健派を形成していた。2004年11月に国務長官辞任の意思を表明し、2005年に職を辞した。中道派で国連協調路線であったため、有志連合指向の右派が主導する政権内での孤立が原因と考えられている。 国務長官在任時、国際連合安全保障理事会で「イラクが大量破壊兵器を開発している証拠」を列挙した。しかしCBSの60 Minutesなどによると、イラクからドイツに出国した男性エージェント、コードネーム「癖玉(英語版)」が永住権を得るためにドイツの情報機関に話した虚偽の話(例:生物兵器製造中に事故で12名が死亡した)をCIAが事実と誤認したものだった。長官退任後にパウエルはこの発言を間違いだったと認め、自らの著書である「リーダーを目指す人の心得」において「人生最大の汚点」と述べている。 バラク・オバマが大統領になった時は「アフリカ系アメリカ人の歴史を考えれば、非常に感動した」と涙を目に浮かべた。 晩年は多発性骨髄腫との闘病生活を2年近く送ったほか、パーキンソン病とも戦っていたとされる。 2021年10月18日、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の合併症のため、メリーランド州ベセスダのウォルター・リード国立軍事医療センター(英語版)で死去した。84歳没。 共和党員だが、リベラルや中道にも理解を示すことがある。人工妊娠中絶や積極的差別是正措置を容認、合理的範囲の銃規制にも賛成している。著書「マイ・アメリカン・ジャーニー A case of the munchies」によると、ベトナム戦争の経験から軍隊の抑制的使用という意見を持つようになった。ただし、軍事力の行使は、やるからには国際的協調を得た上で圧倒的な規模で行うべきという意見である。 2004年にイギリスのジャック・ストロー外務・英連邦大臣との電話会談で、ネオコンのことを「狂った連中」と述べた。2004年の共和党全国大会を欠席するなど、共和党内で台頭するネオコンと距離を置いているとされる。そのため反対派からは「ロックフェラー・リパブリカン」というレッテルを貼られることがある。 2008年アメリカ合衆国大統領選挙では、マケイン選挙陣営にも許容最大限の寄付をし、マケインの副大統領候補として名前があがっていたにもかかわらず、大統領選挙2週間前の10月19日に、NBCの「ミート・ザ・プレス」に出演し、民主党候補バラク・オバマへの支持を表明した。声明では共和党候補のジョン・マケインへの不支持は容易な決断では無かったとし、マケイン陣営のネガティブ・キャンペーンが行き過ぎであり、金融危機への対処能力においてオバマがマケインを上回ると述べた。またマケインが経験の浅いサラ・ペイリンを副大統領候補に据えたことを無責任であるとした。また、「共和党の中にはオバマ議員がムスリムではないかと問う者がいる。正しい答えはノーであり、彼はずっとキリスト教徒であった。だが、もっと正しい答えは、『もし彼がムスリムだったとして、それが一体何の問題があるというのか?』というものだ。この国ではムスリムであることがいけないのか。もちろんノーだ、アメリカではそんなことは問題ではない。7歳のムスリムのアメリカ人たる子供が将来大統領になろうと思ったとして、一体どこに問題があるのか」と、語った。一連のパウエル発言に、共和党内の右派は反発を示し、パウエルを「裏切り者」と一斉に批判。ディック・チェイニー元副大統領は、NBCテレビの番組収録でパウエルはリパブリカンではないと批判したが、本人は同テレビの番組で一連の発言を撤回せず、逆にチェイニーを批判した。 2012年アメリカ合衆国大統領選挙では、10月25日にCBSのインタビューで、再選を目指すオバマの支持を表明した。政界引退後はブルームエナジー(英語版)の社外取締役を務めている。 2016年、パウエルがジャーナリストあてに送った電子メールが流出。2016年アメリカ合衆国大統領選挙の有力候補であったドナルド・トランプ(共和党)やヒラリー・クリントン(民主党)の双方を批判する内容が公開された。 2020年にジョージ・フロイドの死と一連の抗議運動に対して軍の投入をも辞さないとしたトランプ大統領の対応に対して、憲法から逸脱していると強く批判した。元海兵隊大将でトランプ政権の元国務長官も務めたジェームス・マティスら多くの元軍幹部や外交官がトランプ大統領への批判を表明していることに誇りに思うと語り、2020年アメリカ合衆国大統領選挙では民主党のジョー・バイデンを支持すると表明した。8月18日の民主党党大会では、故マケイン上院議員のシンディ夫人に続き、ビデオで登場してバイデン支持を訴えた。 軍人としての最終階級は陸軍大将。政治家としての最高位はジョージ・W・ブッシュ政権での国務長官である。軍人としての栄誉にはディフェンス・ディスティングシュドサービスメダル・陸軍最高殊勲章・国防省第1等殊勲章・青銅章・多数の名誉負傷章・軍人殊勲章・勇猛戦士章・国防長官賞などがある。文民としての栄誉には2度の大統領自由勲章・大統領国民栄誉賞・連邦議会栄誉賞・国務長官栄誉賞などがある。またイギリス女王からバス勲章ナイト・コマンダー(KCB)に叙されている。
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コリン・ルーサー・パウエルは、アメリカ合衆国の政治家、陸軍軍人。退役陸軍大将。学位はM.B.A.(ジョージ・ワシントン大学)。ジョージ・W・ブッシュ政権で第65代国務長官を務めた。ジャマイカ系アメリカ人。
{{複数の問題 | 独自研究 = 2015年4月12日 (日) 13:25 (UTC) | 出典の明記 = 2015年4月12日 (日) 13:25 (UTC) | ソートキー = 人2021年没 }} {{政治家 | 各国語表記 = {{en|Colin Powell}} | 画像 = Colin powell (official portrait).png | 画像説明 = | 国略称 = {{USA}} | 生年月日 = {{生年月日|1937|4|5}} | 出生地 = {{USA1912}}・[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1937|4|5|2021|10|18}} | 死没地 = {{USA}}・[[メリーランド州]][[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]] | 出身校 = [[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]<br/>[[ジョージ・ワシントン大学]]大学院 | 所属政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]](1985 - 2021)<br/>無所属( - 1995、2021) | 称号・勲章 = [[大統領自由勲章]]<br/>[[ディフェンス・ディスティングシュドサービスメダル]]<br/>[[経営学修士]](ジョージ・ワシントン大学) | 配偶者 = アルマ・ジョンソン | サイン = Colin Powell Signature.svg | ウェブサイト = | サイトタイトル = | 国旗 = | 職名 = {{USA}}<br/>第65代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]] | 内閣 = | 選挙区 = | 当選回数 = | 就任日 = [[2001年]][[1月20日]] | 退任日 = [[2005年]][[1月26日]] | 元首職 = 大統領 | 元首 = [[ジョージ・W・ブッシュ]] | 国旗2 = | 職名2 = [[ファイル:Flag_of_the_Chairman_of_the_U.S._Joint_Chiefs_of_Staff.svg|border|25px]] [[アメリカ統合参謀本部]]<br/>第12代[[アメリカ統合参謀本部議長|議長]] | 内閣2 = | 選挙区2 = | 当選回数2 = | 就任日2 = [[1989年]][[10月1日]] | 退任日2 = [[1993年]][[9月30日]] | 元首職2 = 大統領 | 元首2 = [[ジョージ・H・W・ブッシュ]]<br />[[ビル・クリントン]] | 国旗3 = | 職名3 = {{USA}}<br/>第16代[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]] | 内閣3 = | 選挙区3 = | 当選回数3 = | 就任日3 = [[1987年]][[11月23日]] | 退任日3 = [[1989年]][[1月20日]] | 元首職3 = 大統領 | 元首3 = [[ロナルド・レーガン]] }} {{基礎情報 軍人 | 氏名 = コリン・ルーサー・パウエル | 各国語表記 = {{en|Colin Luther Powell}} | 箱サイズ = | 生年月日 = | 没年月日 = | 画像 = General Colin Powell, USA (uncovered).jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 1989年 | 渾名 = | 生誕地 = | 死没地 = | 所属国 = {{USA}} | 所属組織 = {{USARMY}} | 軍歴 = [[1958年]] - [[1993年]] | 最終階級 = [[大将]] | 除隊後 = | 墓所 = | 署名 = }} '''コリン・ルーサー・パウエル'''({{Lang-en|Colin Luther Powell}}, [[1937年]][[4月5日]]<ref name="dos">{{Cite web|url=https://history.state.gov/departmenthistory/people/powell-colin-luther |title= Biographies of the Secretaries of State: Colin Luther Powell (1937–)|author= United States Department of State |date= |work= |publisher= |accessdate=2016-08-07 }}</ref> -[[2021年]][[10月18日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]、[[アメリカ陸軍|陸軍]][[軍人]]。退役陸軍[[大将]]。学位は[[経営学修士|M.B.A.]]([[ジョージ・ワシントン大学]])。[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権で第65代[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]を務めた。[[ジャマイカ]]系アメリカ人。 == 経歴 == 1937年4月5日に[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]の[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]にて、ジャマイカ系移民の息子として誕生した<ref name="dos"/>。サウス・ブロンクス地区にて育ち、[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]で[[地学]]を専攻する傍ら、[[予備役将校訓練課程]](ROTC)を受講した<ref name="dos"/>。 [[1958年]]にニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業すると、[[少尉]]としてアメリカ陸軍に任官する<ref name="dos"/>。それは[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領が1948年に{{仮リンク|大統領令9981号|en|Executive Order 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|url=https://www.newsweekjapan.jp/sam/2021/10/if_2.php|title=高潔なる政治家、コリン・パウエルの死と「歴史のif」|publisher=[[ニューズウィーク]]|date=2021-10-27|accessdate=2021-11-24 |quote=どうして、パウエルは根強い待望論に応えず、大統領選に出馬しなかったのか。最愛の妻が選挙戦の容赦ない中傷攻撃に巻き込まれたくないと言ったのだろうと、推測する人も多い。}}</ref>、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対があったからとも言われる<ref>{{Cite news|url=https://www.the-miyanichi.co.jp/kuroshio/_57587.html|title=くろしお「上司ガチャ」|newspaper=[[宮崎日日新聞]]|date=2021-10-24|accessdate=2021-11-24|quote=党派を超えて信頼され人気があったパウエル氏。暗殺されるのを恐れた妻の反対で出馬はしなかったが、黒人として初の米大統領になっていたかもしれない人だった。}}</ref>。 [[2000年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]陣営の外交問題アドバイザーを務めた。ブッシュの当選後、アフリカ系アメリカ人初の[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]に任命された([[アメリカ合衆国上院|上院]]では全会一致で承認)。同政権では、息子の[[マイケル・パウエル (政治家)|マイク・パウエル]]が1997年11月から2005年1月までの間[[連邦通信委員会]] (FCC) 委員長を務めた。[[アメリカ合衆国国務副長官|国務副長官]]に任命されたレーガン政権からの盟友[[リチャード・アーミテージ]]と共にブッシュ政権での穏健派を形成していた。[[2004年]]11月に国務長官辞任の意思を表明し、[[2005年]]に職を辞した。[[中道政治|中道派]]で[[国連中心主義|国連協調路線]]であったため、有志連合指向の[[右翼|右派]]が主導する政権内での孤立が原因と考えられている。 国務長官在任時、[[国際連合安全保障理事会]]で「[[イラク]]が[[大量破壊兵器]]を開発している証拠」を列挙した<ref>{{Cite news |title=Transcript of Powell's U.N. presentation|date=2003-02-06|url=https://edition.cnn.com/2003/US/02/05/sprj.irq.powell.transcript/|accessdate=2021-11-24|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|language=en-US}}</ref>。しかし[[CBS]]の[[60 Minutes]]などによると、イラクからドイツに出国した男性[[スパイ|エージェント]]、[[コードネーム]]「{{仮リンク|カーブボール(密告者)|en|Curveball (informant)|label=癖玉}}」が[[永住権]]を得るためにドイツの[[情報機関]]に話した虚偽の話(例:[[生物兵器]]製造中に事故で12名が死亡した)を[[中央情報局|CIA]]が事実と誤認したものだった。長官退任後にパウエルはこの発言を間違いだったと認め<ref>{{Cite news |title=Powell admits Iraq evidence mistake|date=2004-04-03|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3596033.stm|accessdate=2021-11-24|publisher=[[BBC]]|language=en-GB}}</ref>、自らの著書である「リーダーを目指す人の心得」において「人生最大の汚点」と述べている。 === 国務長官退任後 === [[バラク・オバマ]]が大統領になった時は「アフリカ系アメリカ人の歴史を考えれば、非常に感動した」と涙を目に浮かべた<ref>{{Cite news |title= オバマ大統領誕生に黒人の名士たちは涙|newspaper= [[日刊スポーツ]]|date= 2008-11-06|url= http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20081106-426759.html|accessdate= 2014-06-22}}</ref>。 晩年は[[多発性骨髄腫]]との闘病生活を2年近く送ったほか、[[パーキンソン病]]とも戦っていたとされる<ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35178245.html|title=パウエル元国務長官、生前インタビューで闘病生活に言及 「気の毒に思わないでほしい」|work=CNN.co.jp|agency=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2021-10-19|accessdate=2021-10-20}}</ref>。 [[2021年]][[10月18日]]、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の合併症のため、[[メリーランド州]][[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]]の{{ill2|ウォルター・リード国立軍事医療センター|en|Walter Reed National Military Medical Center}}で死去した<ref>{{Cite web|url=https://dailynewsbrief.com/2021/10/18/former-us-secretary-of-state-colin-powell-dies-from-covid-19/ ||title=Former US Secretary of State Colin Powell Dies From COVID-19 |website=Daily News Brief|date=2021-10-18 |accessdate=2021-10-18|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|title=Colin Powell, military leader and first Black US secretary of state, dies after complications from Covid-19|url=https://www.cnn.com/2021/10/18/politics/colin-powell-dies/index.html|website=CNN|accessdate=2021-10-18|author=Devan Cole|publisher=CNN|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.theguardian.com/us-news/2021/oct/18/colin-powell-us-secretary-of-state-dies-covid-84|title=Colin Powell, former US secretary of state, dies at 84 of Covid complications|work=The Guardian|agency=[[ガーディアン]]|date=2021-10-18|accessdate=2021-10-18|language=en-US}}</ref>。{{没年齢|1937|4|5|2021|10|18}}。 == 政治的立場 == [[画像:GEN_Colin_Powell.JPG|thumb|200px|陸軍大将時代]] 共和党員だが、[[自由主義|リベラル]]や中道にも理解を示すことがある。[[人工妊娠中絶]]や[[積極的差別是正措置]]を容認<ref>{{Cite web |url= http://aad.english.ucsb.edu/docs/epowell.html|title= Colin Powell Lauds Bush, Rebukes GOP on Affirmative Action|accessdate= 2014-06-22|author= Barbara Frankel|date= 2000-08-01|publisher= AAD project|language= 英語|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110525190957/http://aad.english.ucsb.edu/docs/epowell.html|archivedate= 2011-05-25}}</ref>、合理的範囲の銃規制にも賛成している。著書「マイ・アメリカン・ジャーニー A case of the munchies」によると、ベトナム戦争の経験から軍隊の抑制的使用という意見を持つようになった。ただし、軍事力の行使は、やるからには[[国際協調主義|国際的協調]]を得た上で圧倒的な規模で行うべきという意見である。 [[2004年]]に[[イギリス]]の[[ジャック・ストロー]][[外務・英連邦大臣]]との電話会談で、[[新保守主義 (アメリカ合衆国)|ネオコン]]のことを「狂った連中」と述べた<ref>{{Cite news |title= Colin Powell in four-letter neo-con 'crazies' row|newspaper= [[The Guardian]]|date= 2014-06-22|author= Martin Bright|url= http://www.theguardian.com/media/2004/sep/12/Iraqandthemedia.politicsphilosophyandsociety|accessdate= 2014-06-22|language= 英語}}</ref>。2004年の[[共和党全国大会]]を欠席するなど、共和党内で台頭するネオコンと距離を置いているとされる。そのため反対派からは「[[ロックフェラー・リパブリカン]]」というレッテルを貼られることがある。 [[2008年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、マケイン選挙陣営にも許容最大限の寄付をし、マケインの副大統領候補として名前があがっていたにもかかわらず、大統領選挙2週間前の10月19日に、[[NBC]]の「[[ミート・ザ・プレス]]」に出演し、[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補[[バラク・オバマ]]への支持を表明した。声明では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補の[[ジョン・マケイン]]への不支持は容易な決断では無かったとし、マケイン陣営の[[ネガティブ・キャンペーン]]が行き過ぎであり、金融危機への対処能力においてオバマがマケインを上回ると述べた<ref>{{Cite news |title= Colin Powell endorses Obama|date= 2008-10-20|url= https://edition.cnn.com/2008/POLITICS/10/19/colin.powell/index.html|accessdate= 2014-06-22|publisher= CNN|language= 英語}}</ref><ref> {{Cite news |title= Colin Powell backs Barack Obama|date= 2008-10-19|url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7678788.stm|accessdate= 2014-06-22|publisher= BBC|language= 英語}}</ref>。またマケインが経験の浅い[[サラ・ペイリン]]を副大統領候補に据えたことを無責任であるとした<ref>{{Cite news |title= Powell endorses Obama for president|date= 2008-10-19|author= Alex Johnson|url= http://www.nbcnews.com/id/27265369/#.U6XvIvl_s-I|accessdate= 2014-06-22|publisher= MSNBC|language= 英語}}</ref>。また、<!-- 以下の記述は、当時非常に流布した陰謀論であり、出典も書かれていないのでコメントアウトします。もし出典あれば出典を明記したうえで差し戻してください。 ---------- 「オバマがムスリム(イスラム教徒)の家系であり、オバマ自身もそうだと強調したことについては、」 -->「共和党の中にはオバマ議員が[[ムスリム]]ではないかと問う者がいる。正しい答えはノーであり、彼はずっと[[キリスト教徒]]であった。だが、もっと正しい答えは、『もし彼がムスリムだったとして、それが一体何の問題があるというのか?』というものだ。この国ではムスリムであることがいけないのか。もちろんノーだ、アメリカではそんなことは問題ではない。7歳のムスリムのアメリカ人たる子供が将来大統領になろうと思ったとして、一体どこに問題があるのか」と、語った<ref>Colin Powell on NBC Meet the Press, Sunday October 19, 2008. ([https://www.youtube.com/watch?v=dYELqbZAQ4M Archived]). also, Juliane Hammer, Omid Safi, ed. ''The Cambridge Companion to American Islam;'' Cambridge University Press, August 2013, p. 3. </ref>。一連のパウエル発言に、共和党内の右派は反発を示し、パウエルを「裏切り者」と一斉に批判。[[ディック・チェイニー]]元副大統領は、NBCテレビの番組収録でパウエルはリパブリカンではないと批判したが、本人は同テレビの番組で一連の発言を撤回せず、逆にチェイニーを批判した。 [[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、10月25日にCBSのインタビューで、再選を目指すオバマの支持を表明した<ref>{{Cite web|title=Colin Powell endorses Barack Obama for president|url=https://www.cbsnews.com/news/colin-powell-endorses-barack-obama-for-president/|website=www.cbsnews.com|accessdate=2020-09-12|language=en|first=CBS News|last=October 25}}</ref><ref>{{Cite news |title= パウエル氏がオバマ支持表明 党を超え再び|newspaper= [[東京新聞]]|date= 2012-10-27|author= 久留信一|url= http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2012102602000231.html|accessdate= 20102-10-29|publisher= [[はてな (企業)|はてな]]|archiveurl= http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2012102602000231.html|archivedate= 2012-10-27}}</ref>。政界引退後は{{仮リンク|ブルームエナジー|en|Bloom Energy Server#Bloom Energy}}の社外取締役を務めている<ref>{{Cite web |url= http://www.bloomenergy.com/about/board-of-directors/|title= Board of Directors|accessdate= 2014-06-22|publisher= Bloom energy|language= 英語}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title= 「Bloomエナジーサーバー」国内初号機を福岡M-TOWERで運転開始|publisher= [[SoftBank]]|date= 2013-11-25|url= http://www.softbank.jp/corp/news/press/sb/2013/20131125_01/|accessdate= 2014-06-22}}</ref>。 2016年、パウエルがジャーナリストあてに送った電子メールが流出。[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙]]の有力候補であった[[ドナルド・トランプ]](共和党)や[[ヒラリー・クリントン]](民主党)の双方を批判する内容が公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-15 |url=https://www.bbc.com/japanese/37371999 |title=【米大統領選2016】パウエル元国務長官、トランプ氏を「国家の恥」と批判 |publisher=BBC |accessdate=2020-06-06}}</ref>。 2020年に[[ジョージ・フロイドの死]]と一連の抗議運動に対して軍の投入をも辞さないとしたトランプ大統領の対応に対して、憲法から逸脱していると強く批判した<ref>{{Cite web|和書|title=パウエル元国務長官、トランプ大統領は憲法から「逸脱」|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35154939.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2020-08-27|language=ja}}</ref>。元海兵隊大将でトランプ政権の元国務長官も務めた[[ジェームズ・マティス|ジェームス・マティス]]ら多くの元軍幹部や外交官がトランプ大統領への批判を表明していることに誇りに思うと語り、[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジョー・バイデン]]を支持すると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/52961138|title=パウエル元国務長官、トランプ氏は憲法を「逸脱」 不支持表明|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2020-06-08|accessdate=2020-06-10}}</ref>。8月18日の[[民主党全国大会|民主党党大会]]では、故[[ジョン・マケイン|マケイン]]上院議員のシンディ夫人に続き、ビデオで登場してバイデン支持を訴えた<ref>{{Cite web|title=Republicans at the DNC: Colin Powell, Cindy McCain give remarks; Some progressives feel overlooked {{!}} WATCH|url=https://abc13.com/6376561/|website=ABC13 Houston|date=2020-08-18|accessdate=2020-08-27|language=en|last=Alexandra Jaffe}}</ref>。 == その他 == 軍人としての最終[[階級]]は[[陸軍大将]]。政治家としての最高位はジョージ・W・ブッシュ政権での[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]である。軍人としての栄誉には[[ディフェンス・ディスティングシュドサービスメダル]]・陸軍最高殊勲章・国防省第1等殊勲章・青銅章・多数の名誉負傷章・軍人殊勲章・勇猛戦士章・国防長官賞などがある。文民としての栄誉には2度の[[大統領自由勲章]]・大統領国民栄誉賞・連邦議会栄誉賞・国務長官栄誉賞などがある。また[[イギリス女王]]から[[バス勲章|バス勲章ナイト・コマンダー(KCB)]]に叙されている。 == 勲章 == {| class="wikitable" |- |{{Ribbon devices|number=3|type=oak|ribbon=Defense Distinguished Service Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ディフェンス・ディスティングシュドサービスメダル]]([[:en:oak leaf cluster|銅製樫葉三枚付]]) |- |{{Ribbon devices|number=1|type=oak|ribbon=Distinguished Service Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ディスティングシュドサービスメダル]]<small>([[:en:Distinguished Service Medal (U.S. Army)|英語版]])</small>([[:en:oak leaf cluster|銅製樫葉付]]) |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=US Defense Superior Service Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ディフェンス・スーピアリアサービスメダル]] |- |{{Ribbon devices|number=1|type=oak|ribbon=Legion of Merit ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[レジオン・オブ・メリット]]([[:en:oak leaf cluster|銅製樫葉付]]) |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Soldier's Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ソルジャーズメダル]] |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Bronze Star ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ブロンズスターメダル|ブロンズスター]] |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Purple Heart ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[パープルハート章|パープルハート]] |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Air Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[エア・メダル]] |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Joint Service Commendation Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ジョイントサービス・コメンデーションメダル]]<small>([[:en:Joint Service Commendation Medal|英語版]])</small> |- |{{Ribbon devices|number=2|type=oak|ribbon=Army Commendation Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[アーミー・コメンデーションメダル]]<small>([[:en:Army Commendation Medal|英語版]])</small>([[:en:oak leaf cluster|銅製樫葉二枚付]]) |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Presidential Medal of Freedom (ribbon).png{{!}}border|width=80}} |[[大統領自由勲章]] (1991年受勲) |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Presidential Medal of Freedom with Distinction (ribbon).PNG{{!}}border|width=80}} |[[大統領自由勲章]] (1993年受勲) |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Presidential Citizens Medal ribbon -vector.svg{{!}}border|width=80}} |[[大統領市民勲章]]<small>([[:en:Presidential Citizens Medal|英語版]])</small> |- |{{Ribbon devices|number=1|type=service-star|ribbon=National Defense Service Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ナショナル・ディフェンス・サービスメダル]]<small>([[:en:National Defense Service Medal|英語版]])</small>([[:en:Service star|サービススター付]]) |- |{{Ribbon devices|number=5|type=service-star|ribbon=Vietnam Service Medal ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[ベトナム戦争従軍章]]<small>([[:en:Vietnam Service Medal|英語版]])</small>([[:en:Service star|サービススター付]]) |- |{{ribbon devices|number=0|type=oak|ribbon=Army Service Ribbon.svg{{!}}border|width=80}} |[[陸軍従軍リボン]]<small>([[:en:Army Service Ribbon|英語版]])</small> |- |{{ribbon devices|number=0|type=numeral|ribbon=Army Overseas Service Ribbon.svg{{!}}border|width=80}}<span style="position:relative; top: 1px; left: -48px; display: inline-block; width: 0;">[[File:Award numeral 4.png|15px]]</span> |[[陸軍海外従軍リボン]]<small>([[:en:Overseas Service Ribbon|英語版]])</small> |} == 著書 == * ''My American Journey'', with Joseph E. Persico, (Random House, 1995). {{ISBN2|0-67-943296-5}} ** 同・ペーパーバック版(Ballantine Books,2003) {{ISBN2|0-34-546641-1}} ** [[鈴木主税]]訳『マイ・アメリカン・ジャーニー コリン・パウエル自伝』[[角川書店]], 1995年 {{ISBN2|4-04-791236-0}} - 上記の和訳 *** 同・文庫版(少年・軍人時代編)角川書店、2001年 {{ISBN2|4-04-287401-0}} *** 同・文庫版(ワシントン時代編)角川書店, 2001年 {{ISBN2|4-04-287402-9}} *** 同・文庫版(統合参謀本部議長時代編)角川書店, 2001年 {{ISBN2|4-04-287403-7}} * ''It Worked For Me'', with Tony Koltz, (Haper Collins, 2012). {{ISBN2|978-0062135124}} ** [[井口耕二]]訳『リーダーを目指す人の心得』[[飛鳥新社]], 2012年 {{ISBN2|4-86-410193-0}} - 上記の和訳 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{commonscat|Colin Powell}} * [[パウエル報告]] * [[ベトナム戦争]] * [[湾岸戦争]] * [[イラク戦争]] * [[予備役将校訓練課程]] == 外部リンク == {{S-start}} {{s-off}} {{U.S. Secretary box | before = [[マデレーン・オルブライト]] | after = [[コンドリーザ・ライス]] | years = [[2001年]][[1月20日]] - [[2005年]][[1月26日]] | president = [[ジョージ・W・ブッシュ]] | office = {{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国国務長官]] }} {{succession box | title = {{flagicon|USA}} [[国家安全保障問題担当大統領補佐官|アメリカ合衆国国家安全保障問題担当<br/>大統領補佐官]] | years = 第16代:[[1987年]][[11月23日]] - [[1989年]][[1月20日]] | before = [[フランク・カールッチ]] | after = [[ブレント・スコウクロフト]] }} {{s-mil}} {{succession box | title = [[ファイル:Flag_of_the_Chairman_of_the_U.S._Joint_Chiefs_of_Staff.svg|border|25px]] [[アメリカ統合参謀本部議長|統合参謀本部議長]] | years = 第12代:[[1989年]][[10月1日]] - [[1993年]][[9月30日]] | before = [[:en:William J. Crowe|ウィリアム・J・クロウ]] | after = [[:en:David E. Jeremiah|デヴィッド・E・ジェレマイア]] }} {{S-end}} {{アメリカ合衆国国務長官}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はうえる こりん}} [[Category:アメリカ合衆国国務長官]] [[Category:アメリカ合衆国国家安全保障問題担当大統領補佐官]] [[Category:アメリカ統合参謀本部議長]] [[Category:イラク戦争の人物]] [[Category:湾岸戦争の人物]] [[Category:アメリカ合衆国陸軍の軍人]] [[Category:20世紀の軍人]] [[Category:政治的リアリスト]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の政治家]] [[Category:ジャマイカ系アメリカ人]] [[Category:議会名誉黄金勲章受章者]] [[Category:大統領自由勲章受章者]] [[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ニューヨーク市出身の人物]] [[Category:ジョージ・ワシントン大学出身の人物]] [[Category:パーキンソン病の人物]] [[Category:1937年生]] [[Category:2021年没]] [[Category:2019新型コロナウイルス感染症で亡くなったアメリカ合衆国の人物]]
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リチャード・マイヤーズ
リチャード・ボウマン・マイヤーズ(Richard Bowman Myers、1942年3月1日 - )はアメリカ空軍の軍人。最終階級は大将。第15代アメリカ軍統合参謀本部議長としてイラク戦争に従事した。2005年9月30日にピーター・ペース大将に議長を引き継ぎ退役した。 ミズーリ州カンザスシティに生まれ、1960年位シューニーミッション・北高校を卒業し次いで1965年にカンザス州立大学を卒業。同年、予備役将校訓練課程 (Reserve Officer Training Corps) を経て空軍に入隊し、ベトナム戦争に従軍。T-33、C-37、C-21、F-4、F-15、F-16のパイロットとして4100時間以上の飛行経験(うち600時間は F-4 での戦闘経験)を持つ。この他にオーバーン大学で経営学修士号 (MBA) を取得しており、また空軍指揮幕僚大学、陸軍国防大学、ハーヴァード大学ジョン・F・ケネディ行政大学院の国家・国際安全保障上級行政官課程で学んでいる。 1993年11月から1996年6月にかけて在日米軍司令官兼第5空軍(横田飛行場)司令官に任ぜられ、ついで1996年7月から1997年7月まで統合参謀本部議長補佐官を務めた。その後、太平洋空軍司令官(1997年7月-1998年7月)、宇宙軍司令官兼北米航空宇宙防衛軍司令官(1998年8月-2000年2月)を経て、2000年3月に統合参謀本部副議長に就任。あわせて国防総省の統合要求監査会議 (Joint Requirements Oversight Council) 議長、国防調達委員会 (Defense Acquisition Board) 副委員長、核兵器委員会 (Nuclear Weapons Council) 委員等の要職を務めた。 2001年10月1日、ヘンリー・シェルトン陸軍大将のあとをうけて第15代統合参謀本部議長に指名され、大統領の最高軍事顧問としてアフガニスタン侵攻およびイラク戦争を指揮。空軍からの統合参謀本部議長就任はデイヴィッド・ジョーンズ空軍大将(1978年-1982年在任)以来であり、マイヤーズは空軍出身で4人目となる。2005年9月30日には退役し、同年11月9日、文民に与えられる最高勲章の一つである大統領自由勲章 (Presidential Medal of Freedom) を授与された。
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リチャード・ボウマン・マイヤーズはアメリカ空軍の軍人。最終階級は大将。第15代アメリカ軍統合参謀本部議長としてイラク戦争に従事した。2005年9月30日にピーター・ペース大将に議長を引き継ぎ退役した。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = リチャード・ボウマン・マイヤーズ | 各国語表記 = Richard Bowman Myers | 生年月日 = [[1942年]][[3月1日]] | 没年月日 = | 画像 = Richard Myers official portrait.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = | 渾名 | 生誕地 = {{USA}}・[[ミズーリ州]][[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]] | 死没地 | 所属政体 = {{USA}} | 所属組織 = {{USAF}} | 軍歴 = 1965 - 2005 | 最終階級 = 空軍[[大将]] | 指揮 = [[統合参謀本部議長]]<br>[[アメリカ宇宙軍 (統合軍)|宇宙軍]]司令官<br>[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部|北アメリカ航空宇宙防衛司令官]]<br>[[太平洋空軍 (アメリカ空軍)|太平洋空軍]]司令官 | 戦闘 = [[ベトナム戦争]]<br>[[対テロ戦争]]<br />*[[不朽の自由作戦]]<br />*[[イラク戦争]] | 賞罰 = [[ディフェンス・スーピアリアサービスメダル|防衛功労章]]<br />空軍殊勲章<br />レジオン・オブ・メリット<br />航空功労十字章<br />[[大統領自由勲章]] | 除隊後 = [[ノースロップ・グラマン]]取締役 }} '''リチャード・ボウマン・マイヤーズ'''(Richard Bowman Myers、[[1942年]][[3月1日]] - )は[[アメリカ空軍]]の[[軍人]]。最終階級は[[大将]]。第15代[[アメリカ軍]][[統合参謀本部議長]]として[[イラク戦争]]に従事した。[[2005年]]9月30日に[[ピーター・ペース]]大将に議長を引き継ぎ退役した。 ==経歴== [[Image:Richard Myers wearing Japanese Happi.jpg|200px|right|thumb|法被姿で日本大使主催の[[バーベキュー]]に参加するマイヤーズ統合参謀本部議長([[2005年]][[8月27日]])]] [[ミズーリ州]][[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]に生まれ、1960年位シューニーミッション・北高校を卒業し次いで[[1965年]]に[[カンザス州立大学]]を卒業。同年、[[予備役将校訓練課程]] (<span lang="en">Reserve Officer Training Corps</span>) を経て空軍に入隊し、[[ベトナム戦争]]に従軍。[[T-33 (航空機)|T-33]]、[[ガルフストリーム V|C-37]]、[[リアジェット45|C-21]]、[[F-4 (戦闘機)|F-4]]、[[F-15 (戦闘機)|F-15]]、[[F-16 (戦闘機)|F-16]]のパイロットとして4100時間以上の飛行経験(うち600時間は F-4 での戦闘経験)を持つ。この他に[[オーバーン大学]]で[[経営学修士]]号 (MBA) を取得しており、また空軍指揮幕僚大学、陸軍国防大学、[[ハーバード大学|ハーヴァード大学]][[ケネディスクール|ジョン・F・ケネディ行政大学院]]の国家・国際安全保障上級行政官課程で学んでいる。 [[1993年]]11月から[[1996年]]6月にかけて[[在日米軍]]司令官兼[[第5空軍 (アメリカ軍)|第5空軍]]([[横田飛行場]])司令官に任ぜられ、ついで1996年7月から[[1997年]]7月まで統合参謀本部議長補佐官を務めた。その後、太平洋空軍司令官(1997年7月-[[1998年]]7月)、[[アメリカ宇宙コマンド|宇宙軍]]司令官兼[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部|北米航空宇宙防衛軍]]司令官(1998年8月-[[2000年]]2月)を経て、[[2000年]]3月に[[アメリカ統合参謀本部副議長|統合参謀本部副議長]]に就任。あわせて[[アメリカ国防総省|国防総省]]の統合要求監査会議 (<span lang="en">Joint Requirements Oversight Council</span>) 議長、国防調達委員会 (<span lang="en">Defense Acquisition Board</span>) 副委員長、核兵器委員会 (<span lang="en">Nuclear Weapons Council</span>) 委員等の要職を務めた。 [[2001年]][[10月1日]]、[[ヘンリー・シェルトン]]陸軍大将のあとをうけて第15代統合参謀本部議長に指名され、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の最高[[軍事顧問]]として[[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガニスタン侵攻]]および[[イラク戦争]]を指揮。空軍からの統合参謀本部議長就任は[[デイヴィッド・ジョーンズ]]空軍大将([[1978年]]-[[1982年]]在任)以来であり、マイヤーズは空軍出身で4人目となる。[[2005年]][[9月30日]]には退役し、同年[[11月9日]]、文民に与えられる最高勲章の一つである[[大統領自由勲章]] (<span lang="en">Presidential Medal of Freedom</span>) を授与された。 [[File:MyersRichard PresidentialMedalofFreedom.jpg|left|thumb|大統領自由勲章の授与式でのマイヤーズ]] {{-}} == 外部リンク == * [http://www.defenselink.mil/bios/myers_bio.html 公式経歴紹介] - アメリカ合衆国国防総省公式サイト内([[英語]]) * [http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2005/11/20051109-10.html 2005年度大統領自由勲章受章者紹介] - [[ホワイトハウス]]公式サイト内(英語) {{Commons|Richard Myers|リチャード・マイヤーズ}} {{先代次代|[[アメリカ統合参謀本部議長]]|第15代:2001 - 2005|[[ヘンリー・H・シェルトン]]|[[ピーター・ペース]]}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まいやあす りちやあと}} [[Category:アメリカ合衆国空軍の軍人]] [[Category:20世紀の軍人]] [[Category:21世紀の軍人]] [[Category:大統領自由勲章受章者]] [[Category:ベトナム戦争の人物]] [[Category:イラク戦争の人物]] [[Category:ミズーリ州カンザスシティ出身の人物]] [[Category:1942年生]] [[Category:存命人物]]
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メールマガジン
メールマガジン(和製英語: mail magazine)は、発信者が定期的にメールで情報を流し、読みたい人が購読するようなメールの配信の一形態。MM、メルマガと略されることも多い。 メールマガジンでは、双方向の配信システムを使用するメーリングリストとは異なり、購読者同士で情報交換ができないプッシュメディア方式の配信システムを使用することが一般的である。 英語でいう「Email Newsletter」「Newsletter」「ezine」などは、特定の法人・個人が自社・自分の購読者へ配信するものだけを指す。 つまり文字通りLetter(読者への手紙)なので、三行広告など、他社・他人の広告宣伝媒体的な機能は含まない。 初期は企業か一部の個人が発行しているものが大半であったが、一般化するにつれて政治家や政党、行政府、自治体、NGOなどでもメールマガジンを発行するようになった。 メールマガジンを発行する場合、内容以外にも受信者の好みや環境の違いに配慮するなど、購読者の満足度向上に工夫が必要となる。配慮すべき項目としては、一回のデータ量、配信頻度、形式(HTMLかテキストか)、配信停止の仕組みなどがある。 また、各種サービス等の提供事業者が、加入者に対して送付する広告メールを「メールマガジン」と称している場合もある。中には、メールアドレスの記入を必須事項とするなどしてアドレスを収集し、アドレスの記入を以って「メール送付を許可された」と拡大解釈して必要以上の頻度でメール送付を続けるといったスパム紛いの行為を行う事業者もある。途中で説明も無く配信が途絶え、事実上廃刊するものもある。 配信代行業者のサービス(メールマガジンスタンド)を利用することで個人でのメールマガジン配信が可能となる。 メールマガジンの購読と解約(購読解除)の方法は2種類に分類できる 本人が登録したのではないメールアドレス宛に送信してくるものは、迷惑メール(スパムメール)として規制の対象となっている。 オプトアウト方式のメールマガジンは以下の点でユーザーにとって不利なので勧められない。 このため、セキュリティ啓蒙を行う団体などでは、オプトイン方式であるべきだとの主張がある。 なお、日本においては、宣伝・広告を目的としたメールは、特定電子メールの送信の適正化等に関する法律にて事前承諾がない受信者への送信を基本的に禁止している(オプトイン方式のみが合法)。2008年以前は、事業者はオプトインを取らなくても件名に「未承諾広告※」と書いてメール仕訳が可能な状態にしておけば、広告メールを送っても違法にはならなかったが、2008年の同法改正後はオプトインが必須となった。
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メールマガジンは、発信者が定期的にメールで情報を流し、読みたい人が購読するようなメールの配信の一形態。MM、メルマガと略されることも多い。
{{出典の明記|date=2013年2月24日 (日) 04:16 (UTC)}} '''メールマガジン'''({{lang-en-jp|mail magazine}})は、発信者が定期的に[[電子メール|メール]]で情報を流し、読みたい人が購読するようなメールの配信の一形態。'''MM'''、'''メルマガ'''と略されることも多い。 == 概要 == メールマガジンでは、双方向の配信システムを使用する[[メーリングリスト]]とは異なり、購読者同士で情報交換ができないプッシュメディア方式の配信システムを使用することが一般的である。 英語でいう「Email Newsletter」「Newsletter」「ezine」などは、特定の法人・個人が自社・自分の購読者へ配信するものだけを指す。 つまり文字通り''Letter''(読者への手紙)なので、[[三行広告]]など、他社・他人の広告宣伝媒体的な機能は含まない。 初期は企業か一部の個人が発行しているものが大半であったが、一般化するにつれて[[政治家]]や[[政党]]、[[行政府]]、[[地方公共団体|自治体]]、[[非政府組織|NGO]]などでもメールマガジンを発行するようになった。 メールマガジンを発行する場合、内容以外にも受信者の好みや環境の違いに配慮するなど、購読者の満足度向上に工夫が必要となる。配慮すべき項目としては、一回のデータ量、配信頻度、形式([[HyperText Markup Language|HTML]]かテキストか)、配信停止の仕組みなどがある。 また、各種サービス等の提供事業者が、加入者に対して送付する広告メールを「メールマガジン」と称している場合もある。中には、メールアドレスの記入を必須事項とするなどしてアドレスを収集し、アドレスの記入を以って「メール送付を許可された」と拡大解釈して必要以上の頻度でメール送付を続けるといった[[スパム (メール)|スパム]]紛いの行為を行う事業者もある。途中で説明も無く配信が途絶え、事実上廃刊するものもある。 配信代行業者のサービス([[メールマガジンスタンド]])を利用することで個人でのメールマガジン配信が可能となる。 == 購読と解約 == メールマガジンの購読と解約(購読解除)の方法は2種類に分類できる ; [[オプトイン]]方式 : オプトインは、メールマガジンへの参加の意思を確認して許可を取ること。オプトイン方式とは、参加の意思を示したユーザーだけにメールマガジンを送ること。一般的なメールマガジンの形態。企業が会員を募って配信するものなどがこれにあたる。 ; [[オプトアウト]]方式 : オプトアウトは、メールの受け取りを拒否する意思を示すこと。購読中止の手続きをすること。オプトアウト方式とは、最初は発信者が読者の意思と関係なくメールマガジンの購読者リストに登録し、購読中止を申し込んだユーザーは配送を止められる。 本人が登録したのではないメールアドレス宛に送信してくるものは、'''迷惑メール'''([[スパム (メール)|スパム]]メール)として規制の対象となっている。 オプトアウト方式のメールマガジンは以下の点でユーザーにとって不利なので勧められない。 * ユーザーに取っては不要な情報のために購読中止するための手間がかかる。 * 相手が迷惑メール業者の場合、購読中止の意思表示をすることがメールアドレスの有効性を示すことになってしまうので、一層迷惑メールが増える危険性がある。 このため、セキュリティ啓蒙を行う団体などでは、オプトイン方式であるべきだとの主張がある<ref>{{cite web|url=https://www.spamhaus.org/whitepapers/mailinglists/|title=Mailing Lists -vs- Spam Lists|publisher=Spamhaus|access-date=2021-03-20}}</ref>。 なお、日本においては、宣伝・広告を目的としたメールは、[[特定電子メールの送信の適正化等に関する法律]]にて事前承諾がない受信者への送信を基本的に禁止している(オプトイン方式のみが合法)。2008年以前は、事業者はオプトインを取らなくても件名に「未承諾広告※」と書いてメール仕訳が可能な状態にしておけば、広告メールを送っても違法にはならなかったが、2008年の同法改正後はオプトインが必須となった<ref name="0:">{{Cite web|和書|url=https://webtan.impress.co.jp/g/%E3%82%AA%E3%83%97%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%B3|title=オプトイン とは 意味/解説/説明 【opt in】|publisher=[[インプレス]]|access-date=2021-03-20}}</ref><ref name="2:">{{Cite web|和書|url=https://salt.iajapan.org/wpmu/anti_spam/admin/2008_qanda/qa_basic/|title=有害情報対策ポータルサイト迷惑メール対策編 >メール管理者の皆様へ > 改正迷惑メール対策法に関するQ&A > 基本的な質問|publisher=一般財団法人インターネット協会|access-date=2021-03-20}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} ==関連項目== *[[ニューズレター]] *[[メール広告]] *[[顧客関係管理]] *[[ポイントサービス]] *[[メーリングリスト]] *[[フィード]] *[[ウェブログ]] *[[ソーシャルネットワーキングサービス]] *[[インスタントメッセンジャー]] *[[動画共有サービス]] *[[機関紙]] *[[機内誌]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:めるまかしん}} [[Category:電子メール]] [[Category:メールマガジン|*めるまかしん]] [[Category:和製英語]]
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オレンジカード
オレンジカードとは、JR各社で利用できる磁気式プリペイドカードである。略称でオレカとも呼ばれる。 日本国有鉄道(国鉄)時代の1985年3月25日に関東圏の主要駅で販売が開始されたのち、全国で発売された。2013年3月31日限りで発売を終了した。 1971年(昭和46年)に研究と開発を開始。マルス105開発や国鉄経営難等もあって開発は数回中断している。1984年(昭和59年)、JNRカードの開発と同時期に再度開発をスタート。当時からICカード化にも意欲を見せていたが、この時は断念している。 開発プロジェクトのリーダーは、当初から須田寬(後に常務理事を経てJR東海の初代社長)が担当している。 オレンジカード対応の自動券売機で乗車券(切符)類の購入に利用できる。また、オレンジカード対応の自動精算機や有人改札の窓口処理機で乗り越し精算にも利用できる。もっとも、イオカード・Jスルーカード・ワイワイカード(以上いずれも発売終了)のように、自動改札機に直接投入して自動精算することはできない。 JRの駅のみどりの窓口やカード発売機のほか、一部のデパートで購入することができた。また、JRの一部特急列車でもオレンジカード発売の案内放送があれば車掌から購入することが可能で、その中には車内販売限定オリジナルデザインのものもあった。 新幹線のみが停車する山陽新幹線の新神戸駅、北陸新幹線の安中榛名駅や東北新幹線のいわて沼宮内駅・二戸駅・八戸駅・七戸十和田駅・東海道新幹線の新富士駅・在来線の無人駅およびみどりの窓口非設置駅では、オレンジカード対応の自動券売機が設置されていないため、オレンジカードを使用しての乗車券類の購入はできない。ただし、新幹線のみが停車する軽井沢駅・上田駅・上毛高原駅や、一部のみどりの窓口非設置駅などでは、オレンジカード対応の自動券売機が設置されている場合がある。無人駅が多い鶴見線や青梅線の各駅にもオレンジカード対応の自動券売機が設置されていたが、鶴見線は鶴見駅を除く全駅が2022年2月28日に、青梅線は一部の駅を除き2017年から2018年にかけて自動券売機が撤去され、利用ができなくなった。 みどりの窓口設置駅でありながら他社管理駅である小諸駅(しなの鉄道管理駅)・八戸駅(在来線は青い森鉄道管理駅)と自動券売機非設置の左沢駅などでは使用することができない。 オレンジカードで購入した乗車券類は、みどりの窓口で乗車変更の取り扱いが可能である。 他の乗車カード類の場合も共通するが、オレンジカードで他のオレンジカードや他のJRの磁気式乗車カード(イオカード)などを購入したり、Suica・ICOCA・TOICA・Kitaca・SUGOCAのJRの非接触型ICカードを購入したりチャージ(現金積み増し)したりすることはできない。また車内精算で使用することもできない。 以前はクレジットカードでの購入も可能だったが、北海道旅客鉄道(JR北海道)では2003年6月20日から、東日本旅客鉄道(JR東日本)では2005年ごろから(ビューカードは最後まで購入可能だった)、JR九州、JR四国、JR西日本も段階的に購入が不可能となった。これは、クレジットカードを盗んだ者がオレンジカードを購入、金券ショップで換金することで現金を得るという不正行為を行っており、これを防ぐことが目的であった。 JR東日本の首都圏エリアでは1991年3月1日にイオカードが発売開始され、そして2001年11月18日にSuicaの販売を開始した。これらのカードは自動券売機で乗車券に引き換えることなくカード自体に対して自動改札機による改札処理を行うことが可能でありオレンジカードに代わり普及し、JR東日本ではオレンジカードの売上はピーク時の1991年には327億円あったが、2006年には13億円に減少した。また他のJR各社も1990年代以降、自社独自の磁気式ストアードフェアカードやICカードを発売開始している。 JR西日本(西日本旅客鉄道)では、新幹線単独駅に設置されている一部の券売機を除いてオレンジカードが使用可能であり、在来線扱いの博多南線博多南駅でも使用できる。ICOCA・Jスルーエリアの小規模の駅で取扱いをやめている。一部の駅の出札窓口でも専用の処理機を使う事で利用することができた時期もある(現在でも三石駅などの岡山支社の一部の駅に残存している)。ただし、一部の駅ではオレンジカード対応券売機が設置されていない。このため、オレンジカード対応の自動券売機が更新されないケースや、オレンジカードを発売していない駅も出てきている。しかし、当時ICOCAの導入予定を公式発表していなかった北陸地方と山口県内や山陰地方では、2008年頃まで記念カードも発行されていた。 また、2011年頃でも、JR北海道とJR四国では、定期的に新デザインのカードが発売されていた。 JR東日本管内ではSuicaの普及が進んできたため、2007年6月よりSuica利用可能エリア内でのオレンジカードの取扱駅を順次縮小し、2012年4月1日からは発売駅が東北・信越の主要駅のみとなり、首都圏での発売は終了した。 その後、2013年3月31日限りでJR各社ともオレンジカードの発売を終了した。発売終了後もオレンジカード対応券売機で引き続きオレンジカードを利用することが可能である。 なお、2014年8月1日より、ビューカード会員のポイント特典として、限定5,000セットでオレンジカードが用意され、交換可能となっていた(現在は受付終了)。 当初は1,000円券・3,000円券・5,000円券・10,000円券と、オリジナルオレンジカード専用の500円券の5種類が発売された。利用額は500円券・1,000円券・3,000円券が発売額と同額、5,000円券は5,300円、10,000円券は10,700円であった。1,000円券・3,000円券は50枚をまとめて購入すると1枚おまけで付くサービスがあった(2003年11月をもって廃止)。 1990年代にテレホンカードやハイウェイカードと同様、偽造が横行したため、5,000円券・10,000円券は1997年3月をもって発売を停止し、翌1998年1月21日からは利用も不可能とされた。利用停止となった額面のカードは、一部の駅で1,000円または3,000円の額面カードに交換することが可能である(1000円未満の端数は、2013年3月31日までは現金払い戻し、同年4月1日以降は減算したカードと交換)。その場合に元のカードは返却されないので注意が必要である。なお、JR東日本発行分の5,000円券・10,000円券については2021年9月30日をもって廃止(交換対応終了)となり、以降は2023年3月31日まで払い戻しのみの取り扱いとなる。 オレンジカード発売開始と同時期に、オレンジカードに独自の絵柄を印刷できるオリジナルオレンジカードのサービスが開始された。オリジナルオレンジカードには以下の2種類があった。 なお、1997年に松本駅・秋田駅・東京駅(八重洲地下)などにプリント倶楽部感覚でオレンジカードを作成できる機械「オレカメイト」が設置された。当初は設置駅の拡大も予定されていたが、1枚1,000円で500円分のオレンジカードと費用の掛かることから、ほとんど広まらずに撤去された。 JR東日本では2012年1月20日限りでオリジナルオレンジカードの受付を終了し、JR他社は2013年1月18日限りで受付を終了した。 オレンジカードもテレホンカードと同様に収集アイテムとなっている。 一時はオレンジカード収集ブームがあった。特に国鉄時代に発行されたオレンジカードで企業もののオーダーメイドのものは、2000年代でも原則としてプレミアムが付いている。そのほか、広告入りオレンジカード、業務用の窓口販売のオレンジカードにもプレミアムの付いているものが存在する。国鉄分割民営化後のオレンジカードでは、企業もの、アイドルもの、コミックものに収集対象となっているものがある。とくにJR東日本でイオカードがその役目をSuicaに移行してからは、同社の磁気の記念プリペイドカードはすべてオレンジカードに統一されたため、収集家にとってはより貴重な存在となった。 簿記上でオレンジカードは交通費に当たる。本来であればカードには消費税は含まれず、乗車券と引き換えた時点で消費税が発生するが、帳簿上は購入時点で乗車券を購入したものとして、消費税込みとしてカード代を計上することができる。ただし、販促品として配布など他人に譲渡する目的で購入するのであれば、商品券などと同じ扱いであり、非課税品として処理する。
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オレンジカードとは、JR各社で利用できる磁気式プリペイドカードである。略称でオレカとも呼ばれる。 日本国有鉄道(国鉄)時代の1985年3月25日に関東圏の主要駅で販売が開始されたのち、全国で発売された。2013年3月31日限りで発売を終了した。
{{独自研究|date=2009年1月}} '''オレンジカード'''とは、[[JR]]各社で利用できる[[磁気]]式[[プリペイドカード]]である。略称で'''オレカ'''とも呼ばれる。 [[日本国有鉄道]](国鉄)時代の[[1985年]][[3月25日]]に[[関東地方|関東圏]]の主要[[鉄道駅|駅]]で販売が開始されたのち、全国で発売された。[[2013年]][[3月31日]]限りで発売を終了した。 == 概要 == [[1971年]](昭和46年)に研究と開発を開始。[[マルス (システム)|マルス105]]開発や国鉄経営難等もあって開発は数回中断している。[[1984年]](昭和59年)、[[JRカード|JNRカード]]の開発と同時期に再度開発をスタート。当時から[[ICカード]]化にも意欲を見せていたが、この時は断念している<ref name="HIT1987">{{Cite book | 和書 authors =脇田健一 | title = 大ヒット商品 誕生の秘密 | publisher = 朝日新聞出版社 | page = 15-37| issue = 1987-5}}</ref>。 開発プロジェクトのリーダーは、当初から[[須田寬]](後に常務理事を経て[[東海旅客鉄道|JR東海]]の初代社長)が担当している<ref name="HIT1987" />。 オレンジカード対応の[[自動券売機]]で[[乗車券]](切符)類の購入に利用できる。また、オレンジカード対応の[[自動精算機]]や有人[[改札]]の[[窓口処理機]]で[[不足賃|乗り越し精算]]にも利用できる<ref group="注">JR[[常磐線]]との共用駅である[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[綾瀬駅]]・[[北千住駅]]の自動精算機ではイオカードは使えるが、オレンジカードは使用できない{{要出典|date=2012年1月}}。</ref>。もっとも、[[イオカード]]・[[Jスルーカード]]・[[ワイワイカード]](以上いずれも発売終了)のように、[[自動改札機]]に直接投入して自動精算することはできない。 JRの駅の[[みどりの窓口]]やカード発売機のほか、一部の[[百貨店|デパート]]で購入することができた。また、JRの一部[[特別急行列車|特急列車]]でもオレンジカード発売の[[車内放送|案内放送]]があれば[[車掌]]から購入することが可能で、その中には車内販売限定オリジナルデザインのものもあった。 [[新幹線]]のみが停車する[[山陽新幹線]]の[[新神戸駅]]、[[北陸新幹線]]の[[安中榛名駅]]や[[東北新幹線]]の[[いわて沼宮内駅]]・[[二戸駅]]・[[八戸駅]]・[[七戸十和田駅]]・[[東海道新幹線]]の[[新富士駅 (静岡県)|新富士駅]]・[[在来線]]の[[無人駅]]およびみどりの窓口非設置駅では、オレンジカード対応の自動券売機が設置されていないため、オレンジカードを使用しての乗車券類の購入はできない。ただし、新幹線のみが停車する[[軽井沢駅]]・[[上田駅]]・[[上毛高原駅]]や、一部のみどりの窓口非設置駅などでは、オレンジカード対応の自動券売機が設置されている場合がある。無人駅が多い[[鶴見線]]や[[青梅線]]の各駅にもオレンジカード対応の自動券売機が設置されていたが、鶴見線は鶴見駅を除く全駅が2022年2月28日に、青梅線は一部の駅を除き2017年から2018年にかけて自動券売機が撤去され、利用ができなくなった。 みどりの窓口設置駅でありながら他社管理駅である[[小諸駅]]([[しなの鉄道]]管理駅)・[[八戸駅]](在来線は[[青い森鉄道]]管理駅)と自動券売機非設置の[[左沢駅]]などでは使用することができない。 オレンジカードで購入した乗車券類は、みどりの窓口<ref group="注">新幹線のみの駅など、オレンジカード対応の自動券売機が設置されていない駅のみどりの窓口も含む<!--が、[[JRバス]]駅のみどりの窓口での取り扱いは不明-->。</ref>で乗車変更の取り扱いが可能である。 他の[[乗車カード]]類の場合も共通するが、オレンジカードで他のオレンジカードや他のJRの磁気式乗車カード(イオカード)などを購入したり、[[Suica]]・[[ICOCA]]・[[TOICA]]・[[Kitaca]]・[[SUGOCA]]のJRの非接触型[[ICカード]]を購入したり[[チャージ機|チャージ]](現金積み増し)したりすることはできない。また車内精算で使用することもできない。 以前は[[クレジットカード]]での購入も可能だったが、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)では[[2003年]][[6月20日]]から、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)では[[2005年]]ごろから([[ビューカード]]は最後まで購入可能だった)、JR九州、JR四国、JR西日本も段階的に購入が不可能となった{{要出典|date=2012年1月}}。これは、[[クレジットカード]]を盗んだ者がオレンジカードを購入、金券ショップで換金することで現金を得るという不正行為を行っており、これを防ぐことが目的であった<ref>{{Cite news | title = JR西日本のクレジットカード犯罪対策 回数乗車券は現金のみで販売へ | newspaper = 読売新聞 朝刊 | location = 大阪 | pages = 10 | date = 2000-09-14 | url = | accessdate = 2015-08-29}} </ref>。 == 発売終了 == JR東日本の首都圏エリアでは[[1991年]][[3月1日]]にイオカードが発売開始され、そして[[2001年]][[11月18日]]にSuicaの販売を開始した。これらのカードは自動券売機で乗車券に引き換えることなくカード自体に対して自動改札機による改札処理を行うことが可能でありオレンジカードに代わり普及し、JR東日本ではオレンジカードの売上はピーク時の[[1991年]]には327億円あったが、[[2006年]]には13億円に減少した。また他のJR各社も[[1990年代]]以降、自社独自の磁気式ストアードフェアカードやICカードを発売開始している。 JR西日本([[西日本旅客鉄道]])では、新幹線単独駅に設置されている一部の券売機を除いてオレンジカードが使用可能であり、在来線扱いの[[博多南線]][[博多南駅]]でも使用できる。ICOCA・Jスルーエリアの小規模の駅で取扱いをやめている。一部の駅の[[出札]]窓口でも専用の処理機を使う事で利用することができた時期もある(現在でも[[三石駅]]などの岡山支社の一部の駅に残存している){{要出典|date=2012年1月}}。ただし、一部の駅ではオレンジカード対応券売機が設置されていない。このため、オレンジカード対応の自動券売機が更新されないケースや、オレンジカードを発売していない駅も出てきている。しかし、当時ICOCAの導入予定を公式発表していなかった[[西日本旅客鉄道金沢支社|北陸地方]]と[[山口県]]内や[[西日本旅客鉄道米子支社|山陰地方]]では、2008年頃まで記念カードも発行されていた。 また、2011年頃でも、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]<ref group="注">[http://www.jrasahi.co.jp/contents/orange/index.html 旭川支社]・[http://www.jrkushiro.jp/oreca.html 釧路支社]の[[ウェブサイト]]では[[通信販売]]も受け付けていた。</ref>と[[四国旅客鉄道|JR四国]]<ref group="注">「[http://www.yumeshikoku.com/index.htm ショッピングモール夢四国]」<!--エラーが出るためトップページにリンク-->ウェブサイトでは[[ネットショッピング]]も受け付けていた。</ref>では、定期的に新デザインのカードが発売されていた。 JR東日本管内ではSuicaの普及が進んできたため、[[2007年]]6月よりSuica利用可能エリア内でのオレンジカードの取扱駅を順次縮小し、[[2012年]][[4月1日]]からは発売駅が東北・信越の主要駅のみとなり、首都圏での発売は終了した<ref name="jreast20111214">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2011/20111214.pdf オレンジカードの発売箇所変更及びオリジナルオレンジカードの発売終了について]}} - JR東日本、[[2011年]][[12月20日]]</ref>。 その後、2013年3月31日限りでJR各社ともオレンジカードの発売を終了した<ref name="jreast20121204">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121201.pdf オレンジカードの発売終了について]}} - JRグループ、[[2012年]][[12月4日]]</ref><ref>[http://railf.jp/news/2012/12/04/153000.html オレンジカードの発売終了] - [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 鉄道ニュース 2012年12月4日</ref>。発売終了後もオレンジカード対応券売機で引き続きオレンジカードを利用することが可能である<ref>{{Cite news|title=JRの「オレンジカード」、来年3月で販売終了 Suicaなど普及で役目終える|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|date=2012-12-04|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121204/biz12120415090014-n1.htm|access-date=2022-09-07|archive-url=https://web.archive.org/web/20121204080818/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/121204/biz12120415090014-n1.htm|archive-date=2012-12-04}}</ref>。 なお、2014年8月1日より、[[ビューカード]]会員のポイント特典として、限定5,000セットでオレンジカードが用意され、交換可能となっていた(現在は受付終了)。 == 額面 == 当初は1,000円券・3,000円券・5,000円券・10,000円券と、オリジナルオレンジカード専用の500円券の5種類が発売された。利用額は500円券・1,000円券・3,000円券が発売額と同額、5,000円券は5,300円、10,000円券は10,700円であった。1,000円券・3,000円券は50枚をまとめて購入すると1枚おまけで付くサービスがあった([[2003年]]11月をもって廃止)。 1990年代に[[テレホンカード]]や[[ハイウェイカード]]と同様、[[有価証券偽造罪|偽造]]が横行したため、5,000円券・10,000円券は[[1997年]]3月をもって発売を停止し、翌[[1998年]][[1月21日]]からは利用も不可能とされた<ref name="JR">{{Cite web|和書 | url = http://faq.jr-central.co.jp/detail/faq000082.html | title = Q&A「10,000円、5,000円のオレンジカードは使えなくなったと聞きました」 | author = JR東海 | date = | format = | work = | publisher = | pages = | language = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090502162717/https://faq.jr-central.co.jp/detail/faq000082.html | archivedate = 2009-05-02 | quote = | accessdate = 2014-03-07 }}JR各に同様のFAQページが存在する。</ref>。利用停止となった額面のカードは、一部の駅で1,000円または3,000円の額面カードに交換することが可能である(1000円未満の端数は、[[2013年]][[3月31日]]までは現金払い戻し、同年[[4月1日]]以降は減算したカードと交換)。その場合に元のカードは返却されないので注意が必要である<ref>[https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/orangecard/ オレンジカード:JRおでかけネット] JR西日本ホームページ 2017年2月4日閲覧</ref>。なお、JR東日本発行分の5,000円券・10,000円券については[[2021年]][[9月30日]]をもって廃止(交換対応終了)となり、以降は[[2023年]][[3月31日]]まで払い戻しのみの取り扱いを行っていた<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|title=JR東日本高額オレンジカードの廃止及び払戻しについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-07-29|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210729_ho01.pdf|accessdate=2021-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210729050945/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210729_ho01.pdf|archivedate=2021-07-29}}</ref>。JR西日本発行分の5,000円券・10,000円券についても[[2023年]][[5月31日]]をもって廃止(交換対応終了)となり、以降は[[2024年]][[11月30日]]まで払い戻しのみの取り扱いとなっている<ref>[https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/orangecard/oshirase/ JR西日本発行の高額オレンジカードの廃止、及び払戻の実施について] JR西日本ホームページ 2023年11月7日閲覧</ref>。 == オリジナルオレンジカード == [[ファイル:オレンジカード500JR西.jpg|サムネイル]] オレンジカード発売開始と同時期に、オレンジカードに独自の絵柄を印刷できるオリジナルオレンジカードのサービスが開始された。オリジナルオレンジカードには以下の2種類があった。 *オーダーメイド:絵柄を完全に自由に決められる。 *レディーメイド:あらかじめ、ある絵柄のうち好きなものを選択する。自由に写真や文字を入れることができ、文字は書体や大きさを指定できる。 なお、1997年に[[松本駅]]・[[秋田駅]]・[[東京駅]](八重洲地下)などに[[プリント倶楽部]]感覚でオレンジカードを作成できる機械「オレカメイト」が設置された<ref group="注">[[ジェイアール東日本メカトロニクス]]が開発。</ref>。当初は設置駅の拡大も予定されていたが、1枚1,000円で500円分のオレンジカードと費用の掛かることから、ほとんど広まらずに撤去された。 JR東日本では2012年[[1月20日]]限りでオリジナルオレンジカードの受付を終了し<ref name="jreast20111214" />、JR他社は2013年[[1月18日]]限りで受付を終了した<ref name="jreast20121204" />。 == 収集対象 == オレンジカードも[[テレホンカード]]と同様に[[コレクション|収集アイテム]]となっている。 一時はオレンジカード収集ブームがあった。特に国鉄時代に発行されたオレンジカードで[[企業]]もののオーダーメイドのものは、[[2000年代]]でも原則として[[付加価値|プレミアム]]が付いている。そのほか、[[広告]]入りオレンジカード、業務用の窓口販売のオレンジカードにもプレミアムの付いているものが存在する。[[国鉄分割民営化]]後のオレンジカードでは、企業もの、[[アイドル]]もの、[[漫画|コミック]]ものに収集対象となっているものがある。とくにJR東日本でイオカードがその役目をSuicaに移行してからは、同社の磁気の記念プリペイドカードはすべてオレンジカードに統一されたため、収集家にとってはより貴重な存在となった。 == 簿記上での扱い == [[簿記]]上でオレンジカードは交通費に当たる。本来であればカードには[[消費税]]は含まれず、乗車券と引き換えた時点で消費税が発生するが、帳簿上は購入時点で乗車券を購入したものとして、消費税込みとしてカード代を計上することができる。ただし、[[ノベルティ|販促品]]として配布など他人に譲渡する目的で購入するのであれば、[[商品券]]などと同じ扱いであり、非課税品として処理する<ref>[https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shohi/6229.htm 商品券やプリペイドカードなど] 税について調べる - 国税庁</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[プリペイドカード]] * [[イオカード]]・[[Jスルーカード]]・[[ワイワイカード]](改札に投入できるJR系の磁気カード、いずれも発売終了) * [[Suica]]・[[ICOCA]]・[[TOICA]]・[[SUGOCA]]・[[Kitaca]](JR系のICカード乗車券) == 外部リンク == * [https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/orangecard/ オレンジカード] きっぷ・定期について - JRおでかけネット {{JR}} {{DEFAULTSORT:おれんしかあと}} [[Category:プリペイドカード]] [[Category:日本国有鉄道のサービス]] [[Category:JRグループの歴史]] [[Category:1985年設立]] [[Category:2013年廃止]]
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テレホンカード
テレホンカードは、緑色の公衆電話機専用の磁気カードとして、硬貨の代わりに使用できる、プリペイドカードである。 世界最初の公衆電話用プリペイドカードは、1976年にイタリアで発行された。 「磁気テレホンカード」または「電話カード」とも呼ばれる。 日本では1982年(昭和57年)12月23日に日本電信電話公社(電電公社)が発行・発売を開始した。日本で最初に発行されたテレホンカードは、通話度数のみが表記されたシンプルなデザインのもののほか、岡本太郎が製作したデザイン文字が表記されたものがあった。日本で発売・流通し利用ができるものはテレカと呼ばれることが多いが、これはNTTカードソリューションの登録商標である。 テレホンカード対応の公衆電話は首都圏から設置が進められて、全国に普及した。『別冊宝島』の記述によると、1982年のサブカル・流行の1つである。 1972年(昭和47年)に、日本で100円硬貨の利用できる黄色の公衆電話機が設置され始めたが、100円硬貨が電話機の金庫に収納された場合、釣り銭の返却は行われない構造になっている。当初は釣り銭式電話機の開発も検討されたが、製造・運用コストの増嵩が見込まれたため、見送られた。そこで、釣り銭の現金払い出しに代わる手段として、磁気媒体を利用するプリペイドカード式公衆電話が開発・製造された。 カードなので小銭が不要であり、1度数(10円)単位で引き落とされるため無駄がなく、長時間通話時にも常に硬貨を投入し続ける必要がない。設置者側にとっても、金庫が硬貨で一杯になって機能が停止する事態を避けられる他、硬貨集金の巡回経費を節減できるメリットもあった。 テレホンカードが最も利用されたのは1990年代の中頃であり、無線呼び出し(ポケットベル)の普及で10〜20代を中心に、メッセージを送信するために短時間通話で多用された。しかし早くも1990年代の終わりにはポケットベルの利用者減少と携帯電話の普及に伴い、公衆電話の利用やテレホンカードの必要性も減少していった。 一部の医療福祉施設や学校では通信機器を持ち込めなかったり高齢者が使用したりするために、家族などへの連絡に日常的に用いられている。また競輪、ボートレース、オートレース等公営競技の選手養成所では原則として施設内での通信機器の使用を認めていないため、日常の外部との連絡は基本的に施設内の公衆電話であることから、これらの候補生は大量のテレホンカードを所持、利用している。 2010年代に入り、NTT制作発行のテレホンカードは動植物の写真柄から文字のみのシンプルなデザインとなり、2019年9月13日をもってNTTグループによる私製デザインのカード印刷の注文受付も終了した。しかし、過去に発行された電電公社時代のものやタレントやアニメものなど、コレクターズアイテムとしての価値を持ち、現在も有料販売や懸賞であえて希少性を狙い制作されるテレホンカードもある。 なお、NTTでは「テレホンカード」が正式な表記である。 一般的に、テレホンカードと言えばこの磁気テレホンカードを指す。後に登場したICテレホンカードと区別するため、NTTなどではこの呼称を使用している。 発売開始当初は、50度数・100度数・300度数・500度数の4種類が発売された。後に100度数以上のカードについてはプレミアが加えられ、販売価格は据え置きでそれぞれ105度数・320度数・540度数として売り出された。日本で最初に発行されたテレホンカードは、岡本太郎デザインによるものである。 また、発売開始当初は、カード購入時に公衆電話での使用方法を書いた「ご利用の手引き」「テレホンカードが利用できる公衆電話の設置場所の案内(例:都内では江東区役所内など)」も渡された。現在は、ピンク電話やドコモがサービスを提供し山小屋や船舶などに設置されているワイドスターII衛星簡易公衆電話を除くほとんどの公衆電話がテレホンカードを使用できるものになっており、中には硬貨が使用できないテレホンカード専用の公衆電話もある(画像参照。右上の硬貨投入口がある部分に「テレホンカード専用」という表記がある)。 後述の偽造テレホンカード問題のため、現在は50度数と105度数の2種類のみが販売されている。また、106度数以上の残度数があるテレホンカードは、公衆電話では現在使用できなくなっている(ただし、320度数や540度数で発売されたテレホンカードでも、残り度数が105度数以下であれば使用可能である)。 なお、磁気異常などにより使用できなくなってしまったテレホンカードや前述の106度数の残額が残っているカードは、かつてはNTTの各営業所に持ち込むことで、使用できなくなったカードを新しいカードと交換してもらうことができた。現在は合理化で営業所窓口をすべて廃止しているため、NTT東西共に郵送での交換手続きとなっており、専用の電話番号で交換手続きを案内している。 郵送料は 特定記録郵便料金も含め、料金受取人払い扱いでNTT東西が負担している。金券のため内容品が多額の場合、NTT東日本では簡易書留または一般書留料金を差出人の立て替えで発送でき、その場合は交換カードとともに未使用切手を返送してくれる。 1999年(平成11年)、日本で横行する『偽造テレホンカード対策』の切り札として、ICカードを利用したICテレホンカード(ICテレカ)とこれに対応するICカード式専用公衆電話機が登場した。30度数・50度数・105度数・210度数・320度数の5種類があった。このうち、30度数と50度数は注文を受けて製作する商品であり、一般に流通していたのは105度数と210度数のカードであった。ICカード規格としては ISO/IEC 14443 Type Aを採用しており、日本で広く普及したFeliCaとは異なる規格であった。また、ICカードの特徴を活かし、2枚重ねての利用も可能であった。 「ICカードであるゆえに従来の磁気カードのような偽造はほぼ不可能」と発表され、105度数を超える高額テレホンカードも210度数と320度数で復活するなど鳴り物入りで登場したICテレカであったが、以下のような問題があった。 2002年(平成14年)に開催された2002 FIFAワールドカップではノベルティとして記念ICテレカが販売されたものの、先に挙げたデメリットや公衆電話需要の減少が災いし、ICテレカの利用状況は低迷し続け、縮小から消滅に至った。 まずICテレカの券種のうち、30度数・50度数・210度数・320度数が販売を終了し、105度数のみの販売となった。ICテレカ登場から9年後の2006年(平成18年)3月末にICカード公衆電話サービスが終了し、ICテレカも廃止された。ICテレカ対応公衆電話機は撤去され(ICテレカ・硬貨併用を含む)、磁気テレカ対応公衆電話機もしくは硬貨専用公衆電話機のみが残ることになった。 ICカード廃止後も磁気カードの交換申し込みは従来通り、有効期限到来後5年以内に限り対応した。最後に発売されたICテレカである有効期限2011年(平成23年)9月30日のICテレカが2016年(平成28年)9月30日をもって交換期限満了となり、ICテレカの交換業務はすべて終了した。 磁気テレホンカードが広く流通するようになるにつれ、使用済カードに新たに磁気情報を加えて、再び使用可能とした、いわゆる「偽造テレホンカード」(または「変造テレホンカード」「偽テレ」とも)も広く流通するようになり、社会問題に発展した。同様の事態はオレンジカードやハイウェイカードでも起きていた。 一部のカード式公衆電話では国際電話をかけられるようになったことで、磁気テレホンカードの需要の高まりから、主に外国人により売られていた偽造テレホンカードが大量に出回った。 当初のカード式公衆電話機は偽造対策が脆弱であったため、「永久使用テレカ」なるものも生まれていた。また、偽造テレホンカードを用いて国際電話をかけたり、ダイヤルQに繋いでNTTから情報料を詐取する、といった不正行為が増加したため、NTT側も偽造テレホンカード対策に乗り出した。 この結果、320度数・540度数のテレホンカードが1991年(平成3年)12月28日に使用廃止された。翌1992年(平成4年)からはテレホンカードで国際電話がかけられる公衆電話は激減した。電話機自体もカードリーダーライターの交換や改造が施され、106度数以上のカードは度数を読み取り表示するものの、電話機から排出されるようになった。 当時は、この行為を直接取り締まる法律がなく、警察は偽造カードの不正使用者については『変造有価証券行使罪』を適用して、摘発に当たった。ただ、当時のこの法律では「使用した時点で触法行為」で、現行犯逮捕での身柄拘束しかできない反面、偽造テレホンカードを所持しているだけでは、たとえ職務質問で発見できても、逮捕摘発ができないといった弊害も生まれていた。現在は、2001年(平成13年)の刑法改正によって、テレホンカード等のプリペイドカードは、刑法163条の2の支払用カードに当たることになり、人の財産上の事務処理を誤らせる目的で電磁的記録を不正に作れば、支払用カード電磁的記録に関する罪(支払用カード電磁的記録不正作出罪)が適用されることとなっている。 日本の磁気テレホンカードはピーク時の1995年(平成7年)度には年間4億353万枚を発行したが、2021年(令和3年)度には年間130万枚に減少している。販売金額でのピークは1994年(平成6年)度の年間2793億円である。 日本のICテレホンカードはピーク時の2002年(平成14年)度に年間325万枚・32億円を発行した。 カードを挿入すると、自動的に指定番号にダイヤルするオートダイヤルカードがある。バリエーションとしては以下のものがある。 なお、NTTカードソリューションで制作していたオートダイヤルカード(フリーダイヤル・フリーアクセスカード含む)は、需要の減少により2019年(令和元年)9月13日をもって制作受付を終了した。 1989年(平成元年)10月より、未使用であればNTT東日本・NTT西日本の固定電話(ひかり電話含む)の通話料の支払いに充当できる扱いがなされている。 充当する場合、手数料として1枚あたり税抜50円が通常の請求書にて一括して請求され支払うこととなる。テレホンカードの預かり金額が通話料より多い場合、翌月以降も預かり金額の相殺が終了されるまでは繰り越して充当処理される。 対象のカードは未使用の50度数・100度数・105度数のみで、穴が開いている使用途中のものや、先述の高額未使用カードを預け充当することはできない。高額未使用カードは一旦、50度数・105度数カードへの交換手続きを行い、交換後のカードを送付する。なお、105度数のうち付加された度数(5度数のプレミア分)は充当対象外となる。充当は通話料のみであり、基本料金やNTT系以外の00XXを付けた他社国内通話料などへの充当はできない。 固定電話の通話料の支払いに充当したい場合、東日本地域はホームページ掲載の申込書と封筒を印刷し、郵送。印刷する環境がない場合は116番へ連絡する。西日本地域はホームページ掲載の無料電話番号へ「未使用カードを固定電話通話料へ充当したい」と連絡。後に郵送される支払充当申込書と充当するカードを返信用封筒で返送すれば、手続きが完了次第通話料に充当される。なお、郵便料金についてはかつては申込者による自己負担であったが、現在では特定記録郵便による料金受取人払い扱いとなっており、NTTが負担している(かつてNTTの営業所窓口があった時代は、窓口にて申請することができた。現在すでに合理化で営業所窓口をすべて廃止し、先述の磁気異常等のカード交換も同様に受取人払いの郵送で行っている)。 預かり残額のある固定電話を廃止する場合などは、残額を他の電話番号に振り替え、充当することもできる。他に振り替える番号がないなどの場合は、105度数・50度数の順にテレホンカードで返還し、500円に満たない金額については銀行振込にて返金される。ただし、図柄は全てNTTが新規発行したものとなり、預かり時に支払った手数料は返還されない。 かつて発行されていたICカードについても充当可能(手数料は1枚あたり税抜100円)だったが、発行済みの当該カードの有効期限が全て満了したことにより、通話料への充当取り扱いが終了した。 ヨーロッパではフランスを中心に1980年代にはテレホンカードのIC化が始まった。しかし、初期のICテレホンカードはCPUの無い安価なもので、一般のICカードとは区別され「チップカード」という呼び名が用いられた。 アメリカ合衆国の公衆電話の支払いの方式には、コイン式、クレジットカード式、コーリングカード式がある。このうちコーリングカード(calling card)はプリペイドカードであるが、日本のテレホンカードとは異なり、カードを直接電話機に挿入して使用するものではない。 通常、コーリングカードには表面に通信会社の名前とコーリングカード番号が記載されており、裏面には使用方法やアクセス番号が記載されている。コーリングカードを使用する場合、電話会社へのアクセス番号をダイアルした後に音声案内に従って操作する。番号別にオプション(長距離電話など)があり、コーリングカード番号とPIN(暗証番号)を入力した後、電話番号をダイアルすると相手方に電話をかけることができる。 なお、アメリカ合衆国ではクレジットカードを電話機に通して通話料金をカード決済で支払う公衆電話もみられる。 多種多様なカード表面のデザインが存在するため、発行当初からコレクターズアイテムとしてのポジションも確立した。テレホンカード全盛の頃は、電電公社時代に発売されたり、使用済カードも含め、非売品(ノベルティ)や限定品など希少性のあるもの、特定のアイドルやタレントのテレホンカードなどは、50度数(使用済カードも含む)でも数十万円もの価格で取引された時期もある。テレホンカード毎の時価が記載されたコレクター向けの雑誌やカタログなども多数発行された。 また、コレクターの団体も各地に発足し、コレクター間の情報交換やテレホンカードの交換・授受の場としても利用された。東京都を拠点とする「テレカ収集協会」(松田英孝会長)は、それら団体の中では最大の規模であり、毎月1回交換会を池袋で行っていた。 上記の通り、公衆電話での利用機会が激減していることもあり、現在ではプリペイドカードとしてよりもコレクターズアイテムとしての比重が高くなっている。 オリジナルの絵柄をプリントしたフリーデザインのテレホンカードを作成することが可能であるため、一時期は記念品や商品の特典(ノベルティ)や、新規オープンの店舗が名刺代わりに配布するなど贈答用としても有効活用された。 全盛期と比較すると収集品や公衆電話での利用のための市場は縮小しているが、利用するための入手はコンビニエンスストアなどで現在も販売しているものの、その認知度は低い。また、ひかり電話の広い普及により、前述の通話料金への充当制度を利用し、企業の通話料金を正規価格より安価で行う支払い代行企業が存在する。 そのため古物商(金券ショップなど)では現在も主要な金券として売買されている。 また、個人による収集品の放出のため(いわゆる「断捨離」や家族の遺品整理なども含めて)、インターネットオークションやフリーマーケットサイトなどでも取引がなされている。 困窮者救済などを事業とする慈善団体の中には、財源確保としてテレホンカードを受け入れているところがある。未使用品はもちろん、使用済み品についても、ある程度のコレクターがいるため、現在でもインターネットオークション等でまとまった枚数の売買が行われている。 かつては、宿泊施設によっては、未使用のテレホンカードをその額面分ないしそれに近い分を宿泊料金に充当するサービスを実施していたこともある。なお、このサービスは各施設独自に定めているものであり、発行者(NTT)の施策・約款とは関係ない。 東横インではプレミアを除いた額面分が、福山ニューキャッスルホテル(福山市)においては額面の80%に換算した金額分が、それぞれ宿泊料金に充当することができた。ただ、東横インは2010年(平成22年)7月31日をもって取り扱いを終了し、福山ニューキャッスルホテルも時期不明ながら取り扱いを終了している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "テレホンカードは、緑色の公衆電話機専用の磁気カードとして、硬貨の代わりに使用できる、プリペイドカードである。 世界最初の公衆電話用プリペイドカードは、1976年にイタリアで発行された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「磁気テレホンカード」または「電話カード」とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では1982年(昭和57年)12月23日に日本電信電話公社(電電公社)が発行・発売を開始した。日本で最初に発行されたテレホンカードは、通話度数のみが表記されたシンプルなデザインのもののほか、岡本太郎が製作したデザイン文字が表記されたものがあった。日本で発売・流通し利用ができるものはテレカと呼ばれることが多いが、これはNTTカードソリューションの登録商標である。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "テレホンカード対応の公衆電話は首都圏から設置が進められて、全国に普及した。『別冊宝島』の記述によると、1982年のサブカル・流行の1つである。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)に、日本で100円硬貨の利用できる黄色の公衆電話機が設置され始めたが、100円硬貨が電話機の金庫に収納された場合、釣り銭の返却は行われない構造になっている。当初は釣り銭式電話機の開発も検討されたが、製造・運用コストの増嵩が見込まれたため、見送られた。そこで、釣り銭の現金払い出しに代わる手段として、磁気媒体を利用するプリペイドカード式公衆電話が開発・製造された。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "カードなので小銭が不要であり、1度数(10円)単位で引き落とされるため無駄がなく、長時間通話時にも常に硬貨を投入し続ける必要がない。設置者側にとっても、金庫が硬貨で一杯になって機能が停止する事態を避けられる他、硬貨集金の巡回経費を節減できるメリットもあった。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "テレホンカードが最も利用されたのは1990年代の中頃であり、無線呼び出し(ポケットベル)の普及で10〜20代を中心に、メッセージを送信するために短時間通話で多用された。しかし早くも1990年代の終わりにはポケットベルの利用者減少と携帯電話の普及に伴い、公衆電話の利用やテレホンカードの必要性も減少していった。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一部の医療福祉施設や学校では通信機器を持ち込めなかったり高齢者が使用したりするために、家族などへの連絡に日常的に用いられている。また競輪、ボートレース、オートレース等公営競技の選手養成所では原則として施設内での通信機器の使用を認めていないため、日常の外部との連絡は基本的に施設内の公衆電話であることから、これらの候補生は大量のテレホンカードを所持、利用している。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2010年代に入り、NTT制作発行のテレホンカードは動植物の写真柄から文字のみのシンプルなデザインとなり、2019年9月13日をもってNTTグループによる私製デザインのカード印刷の注文受付も終了した。しかし、過去に発行された電電公社時代のものやタレントやアニメものなど、コレクターズアイテムとしての価値を持ち、現在も有料販売や懸賞であえて希少性を狙い制作されるテレホンカードもある。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、NTTでは「テレホンカード」が正式な表記である。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一般的に、テレホンカードと言えばこの磁気テレホンカードを指す。後に登場したICテレホンカードと区別するため、NTTなどではこの呼称を使用している。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "発売開始当初は、50度数・100度数・300度数・500度数の4種類が発売された。後に100度数以上のカードについてはプレミアが加えられ、販売価格は据え置きでそれぞれ105度数・320度数・540度数として売り出された。日本で最初に発行されたテレホンカードは、岡本太郎デザインによるものである。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、発売開始当初は、カード購入時に公衆電話での使用方法を書いた「ご利用の手引き」「テレホンカードが利用できる公衆電話の設置場所の案内(例:都内では江東区役所内など)」も渡された。現在は、ピンク電話やドコモがサービスを提供し山小屋や船舶などに設置されているワイドスターII衛星簡易公衆電話を除くほとんどの公衆電話がテレホンカードを使用できるものになっており、中には硬貨が使用できないテレホンカード専用の公衆電話もある(画像参照。右上の硬貨投入口がある部分に「テレホンカード専用」という表記がある)。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "後述の偽造テレホンカード問題のため、現在は50度数と105度数の2種類のみが販売されている。また、106度数以上の残度数があるテレホンカードは、公衆電話では現在使用できなくなっている(ただし、320度数や540度数で発売されたテレホンカードでも、残り度数が105度数以下であれば使用可能である)。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、磁気異常などにより使用できなくなってしまったテレホンカードや前述の106度数の残額が残っているカードは、かつてはNTTの各営業所に持ち込むことで、使用できなくなったカードを新しいカードと交換してもらうことができた。現在は合理化で営業所窓口をすべて廃止しているため、NTT東西共に郵送での交換手続きとなっており、専用の電話番号で交換手続きを案内している。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "郵送料は 特定記録郵便料金も含め、料金受取人払い扱いでNTT東西が負担している。金券のため内容品が多額の場合、NTT東日本では簡易書留または一般書留料金を差出人の立て替えで発送でき、その場合は交換カードとともに未使用切手を返送してくれる。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)、日本で横行する『偽造テレホンカード対策』の切り札として、ICカードを利用したICテレホンカード(ICテレカ)とこれに対応するICカード式専用公衆電話機が登場した。30度数・50度数・105度数・210度数・320度数の5種類があった。このうち、30度数と50度数は注文を受けて製作する商品であり、一般に流通していたのは105度数と210度数のカードであった。ICカード規格としては ISO/IEC 14443 Type Aを採用しており、日本で広く普及したFeliCaとは異なる規格であった。また、ICカードの特徴を活かし、2枚重ねての利用も可能であった。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「ICカードであるゆえに従来の磁気カードのような偽造はほぼ不可能」と発表され、105度数を超える高額テレホンカードも210度数と320度数で復活するなど鳴り物入りで登場したICテレカであったが、以下のような問題があった。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2002年(平成14年)に開催された2002 FIFAワールドカップではノベルティとして記念ICテレカが販売されたものの、先に挙げたデメリットや公衆電話需要の減少が災いし、ICテレカの利用状況は低迷し続け、縮小から消滅に至った。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "まずICテレカの券種のうち、30度数・50度数・210度数・320度数が販売を終了し、105度数のみの販売となった。ICテレカ登場から9年後の2006年(平成18年)3月末にICカード公衆電話サービスが終了し、ICテレカも廃止された。ICテレカ対応公衆電話機は撤去され(ICテレカ・硬貨併用を含む)、磁気テレカ対応公衆電話機もしくは硬貨専用公衆電話機のみが残ることになった。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ICカード廃止後も磁気カードの交換申し込みは従来通り、有効期限到来後5年以内に限り対応した。最後に発売されたICテレカである有効期限2011年(平成23年)9月30日のICテレカが2016年(平成28年)9月30日をもって交換期限満了となり、ICテレカの交換業務はすべて終了した。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "磁気テレホンカードが広く流通するようになるにつれ、使用済カードに新たに磁気情報を加えて、再び使用可能とした、いわゆる「偽造テレホンカード」(または「変造テレホンカード」「偽テレ」とも)も広く流通するようになり、社会問題に発展した。同様の事態はオレンジカードやハイウェイカードでも起きていた。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一部のカード式公衆電話では国際電話をかけられるようになったことで、磁気テレホンカードの需要の高まりから、主に外国人により売られていた偽造テレホンカードが大量に出回った。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "当初のカード式公衆電話機は偽造対策が脆弱であったため、「永久使用テレカ」なるものも生まれていた。また、偽造テレホンカードを用いて国際電話をかけたり、ダイヤルQに繋いでNTTから情報料を詐取する、といった不正行為が増加したため、NTT側も偽造テレホンカード対策に乗り出した。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この結果、320度数・540度数のテレホンカードが1991年(平成3年)12月28日に使用廃止された。翌1992年(平成4年)からはテレホンカードで国際電話がかけられる公衆電話は激減した。電話機自体もカードリーダーライターの交換や改造が施され、106度数以上のカードは度数を読み取り表示するものの、電話機から排出されるようになった。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "当時は、この行為を直接取り締まる法律がなく、警察は偽造カードの不正使用者については『変造有価証券行使罪』を適用して、摘発に当たった。ただ、当時のこの法律では「使用した時点で触法行為」で、現行犯逮捕での身柄拘束しかできない反面、偽造テレホンカードを所持しているだけでは、たとえ職務質問で発見できても、逮捕摘発ができないといった弊害も生まれていた。現在は、2001年(平成13年)の刑法改正によって、テレホンカード等のプリペイドカードは、刑法163条の2の支払用カードに当たることになり、人の財産上の事務処理を誤らせる目的で電磁的記録を不正に作れば、支払用カード電磁的記録に関する罪(支払用カード電磁的記録不正作出罪)が適用されることとなっている。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本の磁気テレホンカードはピーク時の1995年(平成7年)度には年間4億353万枚を発行したが、2021年(令和3年)度には年間130万枚に減少している。販売金額でのピークは1994年(平成6年)度の年間2793億円である。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本のICテレホンカードはピーク時の2002年(平成14年)度に年間325万枚・32億円を発行した。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カードを挿入すると、自動的に指定番号にダイヤルするオートダイヤルカードがある。バリエーションとしては以下のものがある。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、NTTカードソリューションで制作していたオートダイヤルカード(フリーダイヤル・フリーアクセスカード含む)は、需要の減少により2019年(令和元年)9月13日をもって制作受付を終了した。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)10月より、未使用であればNTT東日本・NTT西日本の固定電話(ひかり電話含む)の通話料の支払いに充当できる扱いがなされている。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "充当する場合、手数料として1枚あたり税抜50円が通常の請求書にて一括して請求され支払うこととなる。テレホンカードの預かり金額が通話料より多い場合、翌月以降も預かり金額の相殺が終了されるまでは繰り越して充当処理される。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "対象のカードは未使用の50度数・100度数・105度数のみで、穴が開いている使用途中のものや、先述の高額未使用カードを預け充当することはできない。高額未使用カードは一旦、50度数・105度数カードへの交換手続きを行い、交換後のカードを送付する。なお、105度数のうち付加された度数(5度数のプレミア分)は充当対象外となる。充当は通話料のみであり、基本料金やNTT系以外の00XXを付けた他社国内通話料などへの充当はできない。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "固定電話の通話料の支払いに充当したい場合、東日本地域はホームページ掲載の申込書と封筒を印刷し、郵送。印刷する環境がない場合は116番へ連絡する。西日本地域はホームページ掲載の無料電話番号へ「未使用カードを固定電話通話料へ充当したい」と連絡。後に郵送される支払充当申込書と充当するカードを返信用封筒で返送すれば、手続きが完了次第通話料に充当される。なお、郵便料金についてはかつては申込者による自己負担であったが、現在では特定記録郵便による料金受取人払い扱いとなっており、NTTが負担している(かつてNTTの営業所窓口があった時代は、窓口にて申請することができた。現在すでに合理化で営業所窓口をすべて廃止し、先述の磁気異常等のカード交換も同様に受取人払いの郵送で行っている)。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "預かり残額のある固定電話を廃止する場合などは、残額を他の電話番号に振り替え、充当することもできる。他に振り替える番号がないなどの場合は、105度数・50度数の順にテレホンカードで返還し、500円に満たない金額については銀行振込にて返金される。ただし、図柄は全てNTTが新規発行したものとなり、預かり時に支払った手数料は返還されない。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "かつて発行されていたICカードについても充当可能(手数料は1枚あたり税抜100円)だったが、発行済みの当該カードの有効期限が全て満了したことにより、通話料への充当取り扱いが終了した。", "title": "日本におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヨーロッパではフランスを中心に1980年代にはテレホンカードのIC化が始まった。しかし、初期のICテレホンカードはCPUの無い安価なもので、一般のICカードとは区別され「チップカード」という呼び名が用いられた。", "title": "欧米におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の公衆電話の支払いの方式には、コイン式、クレジットカード式、コーリングカード式がある。このうちコーリングカード(calling card)はプリペイドカードであるが、日本のテレホンカードとは異なり、カードを直接電話機に挿入して使用するものではない。", "title": "欧米におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "通常、コーリングカードには表面に通信会社の名前とコーリングカード番号が記載されており、裏面には使用方法やアクセス番号が記載されている。コーリングカードを使用する場合、電話会社へのアクセス番号をダイアルした後に音声案内に従って操作する。番号別にオプション(長距離電話など)があり、コーリングカード番号とPIN(暗証番号)を入力した後、電話番号をダイアルすると相手方に電話をかけることができる。", "title": "欧米におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、アメリカ合衆国ではクレジットカードを電話機に通して通話料金をカード決済で支払う公衆電話もみられる。", "title": "欧米におけるテレホンカード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "多種多様なカード表面のデザインが存在するため、発行当初からコレクターズアイテムとしてのポジションも確立した。テレホンカード全盛の頃は、電電公社時代に発売されたり、使用済カードも含め、非売品(ノベルティ)や限定品など希少性のあるもの、特定のアイドルやタレントのテレホンカードなどは、50度数(使用済カードも含む)でも数十万円もの価格で取引された時期もある。テレホンカード毎の時価が記載されたコレクター向けの雑誌やカタログなども多数発行された。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、コレクターの団体も各地に発足し、コレクター間の情報交換やテレホンカードの交換・授受の場としても利用された。東京都を拠点とする「テレカ収集協会」(松田英孝会長)は、それら団体の中では最大の規模であり、毎月1回交換会を池袋で行っていた。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "上記の通り、公衆電話での利用機会が激減していることもあり、現在ではプリペイドカードとしてよりもコレクターズアイテムとしての比重が高くなっている。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "オリジナルの絵柄をプリントしたフリーデザインのテレホンカードを作成することが可能であるため、一時期は記念品や商品の特典(ノベルティ)や、新規オープンの店舗が名刺代わりに配布するなど贈答用としても有効活用された。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "全盛期と比較すると収集品や公衆電話での利用のための市場は縮小しているが、利用するための入手はコンビニエンスストアなどで現在も販売しているものの、その認知度は低い。また、ひかり電話の広い普及により、前述の通話料金への充当制度を利用し、企業の通話料金を正規価格より安価で行う支払い代行企業が存在する。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "そのため古物商(金券ショップなど)では現在も主要な金券として売買されている。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、個人による収集品の放出のため(いわゆる「断捨離」や家族の遺品整理なども含めて)、インターネットオークションやフリーマーケットサイトなどでも取引がなされている。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "困窮者救済などを事業とする慈善団体の中には、財源確保としてテレホンカードを受け入れているところがある。未使用品はもちろん、使用済み品についても、ある程度のコレクターがいるため、現在でもインターネットオークション等でまとまった枚数の売買が行われている。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "かつては、宿泊施設によっては、未使用のテレホンカードをその額面分ないしそれに近い分を宿泊料金に充当するサービスを実施していたこともある。なお、このサービスは各施設独自に定めているものであり、発行者(NTT)の施策・約款とは関係ない。", "title": "テレホンカードの流通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "東横インではプレミアを除いた額面分が、福山ニューキャッスルホテル(福山市)においては額面の80%に換算した金額分が、それぞれ宿泊料金に充当することができた。ただ、東横インは2010年(平成22年)7月31日をもって取り扱いを終了し、福山ニューキャッスルホテルも時期不明ながら取り扱いを終了している。", "title": "テレホンカードの流通" } ]
テレホンカードは、緑色の公衆電話機専用の磁気カードとして、硬貨の代わりに使用できる、プリペイドカードである。 世界最初の公衆電話用プリペイドカードは、1976年にイタリアで発行された。 「磁気テレホンカード」または「電話カード」とも呼ばれる。
{{複数の問題 | 脚注の不足 = 2022年8月 | 独自研究 = 2022年8月 | 更新 = 2021年3月 }} [[ファイル:MC-3PNC.JPG|thumb|200px|'''テレホンカード'''と10円・100円硬貨に対応する磁気テレホンカード公衆電話(MC-3PNC)。卓上や電話ブースに設置される。[[アナログ回線]]に接続されている。]] [[ファイル:MC-2 Green Card Payphone.JPG|thumb|200px|初期の磁気テレホンカード公衆電話(MC-2)]] [[ファイル:NTT-Payphone MC-1PN.jpg|thumb|200px|初期の磁気テレホンカード・硬貨兼用公衆電話(MC-1PN)]] [[ファイル:公衆電話DMC-8A-01.jpg|thumb|200px|磁気テレホンカード公衆電話(DMC-8A)]] [[ファイル:Telephone card vending machine of Japan.jpg|thumb|200px|テレホンカード販売機]] '''テレホンカード'''は、[[緑]]色の[[公衆電話]]機専用の[[磁気]][[カード]]として、[[硬貨]]の代わりに使用できる、[[プリペイドカード]]である。 世界最初の公衆電話用プリペイドカードは、[[1976年]]に[[イタリア]]で発行された。 「'''磁気テレホンカード'''」または「'''電話カード'''」とも呼ばれる。 == 日本におけるテレホンカード == 日本では[[1982年]]([[昭和]]57年)[[12月23日]]に[[日本電信電話公社]](電電公社)が発行・発売を開始した<ref name="sankei_221223">[https://www.sankei.com/article/20221223-PRKFKHVYTBMNDJQTC2HTBTF3MI/ 森高千里150万円、ポケモン90万円 誕生40年「今も人気」テレホンカード]、産経ニュース、2022年12月23日。</ref>。日本で最初に発行されたテレホンカードは、通話度数のみが表記されたシンプルなデザインのもののほか、[[岡本太郎]]が製作したデザイン文字が表記されたものがあった<ref name="sankei_221223" />。日本で発売・流通し利用ができるものは'''テレカ'''と呼ばれることが多いが、これは[[NTTカードソリューション]]の[[商標|登録商標]]である。 テレホンカード対応の公衆電話は[[首都圏 (日本)|首都圏]]から設置が進められて、全国に普及した<ref name="shashin">『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p76</ref>。『[[別冊宝島]]』の記述によると、1982年のサブカル・流行の1つである<ref>別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.93.</ref>。 [[1972年]](昭和47年)に、[[日本]]で[[百円硬貨|100円硬貨]]の利用できる黄色の公衆電話機が設置され始めたが、100円硬貨が電話機の金庫に収納された場合、釣り銭の返却は行われない構造になっている<ref group="注釈">投入された硬貨は一旦機内に保留され、通話がつながると、[[十円硬貨|10円硬貨]]から1枚ずつ金庫に収納される(落ちる)。10円で通話できる秒数を超過すると、新たに10円が収納される。100円硬貨は10円硬貨を使い切ってから金庫に落ち、10円10枚分の秒数通話が維持される。金庫に落ちず保留された状態の硬貨は通話終了後返却口に戻るが、10円分以上の残額があっても釣りは返却されない。100円硬貨だけで掛けた場合、間違い電話をかけてしまった場合など大きく損することもあり、NTTでは、10円硬貨で通話を開始することを推奨している。</ref>。当初は釣り銭式電話機の開発も検討されたが、製造・運用コストの増嵩が見込まれたため、見送られた。そこで、釣り銭の現金払い出しに代わる手段として、磁気媒体を利用するプリペイドカード式公衆電話が開発・製造された<ref name="shashin"/>。 カードなので小銭が不要であり、1度数(10円)単位で引き落とされるため無駄がなく、長時間通話時にも常に硬貨を投入し続ける必要がない。設置者側にとっても、金庫が硬貨で一杯になって機能が停止する事態を避けられる他、硬貨集金の巡回経費を節減できるメリットもあった。 テレホンカードが最も利用されたのは[[1990年代]]の中頃であり、[[無線呼び出し]](ポケットベル)の普及で10〜20代を中心に、メッセージを送信するために短時間通話で多用された。しかし早くも1990年代の終わりにはポケットベルの利用者減少と[[携帯電話]]の普及に伴い、公衆電話の利用やテレホンカードの必要性も減少していった。 一部の医療福祉施設や学校では通信機器を持ち込めなかったり高齢者が使用したりするために、家族などへの連絡に日常的に用いられている。また[[日本競輪選手養成所|競輪]]、[[ボートレーサー養成所|ボートレース]]、[[オートレース選手|オートレース]]等公営競技の選手養成所では原則として施設内での通信機器の使用を認めていないため、日常の外部との連絡は基本的に施設内の公衆電話である<ref>{{Cite web|和書|url=https://morecadence.jp/keirin/63359/3 |title=【Weekly JIK Vol.7】公衆電話は1人5分!日本競輪選手養成所の日常 |publisher=morecadence.jp |date=2020-09-06 |accessdate=2020-09-08 }}</ref>ことから、これらの候補生は大量のテレホンカードを所持、利用している<ref group="注釈">参考に、2021年10月1日改正時点の1分あたり通話料金は、携帯電話宛は約40円(10円あたり一律15.5秒){{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/2106/22/news109.html |title=NTT東西、固定電話から携帯への通話料金を値下げ 10月1日から |publisher=itmedia.co.jp |date=2021-06-22 |accessdate=2022-09-21}}、固定電話宛は100km超え地域へは平日昼間に80円、夜間土日に50円かかる。</ref>。 [[2010年代]]に入り、NTT制作発行のテレホンカードは動植物の写真柄から文字のみのシンプルなデザインとなり、[[2019年]][[9月13日]]をもってNTTグループによる私製デザインのカード印刷の注文受付も終了した。しかし、過去に発行された電電公社時代のものやタレントやアニメものなど、コレクターズアイテムとしての価値を持ち<ref name="shashin"/>、現在も有料販売や懸賞であえて希少性を狙い制作されるテレホンカードもある。 なお、[[NTTグループ|NTT]]では「テレ'''ホ'''ンカード」が正式な表記である。 === テレホンカードの種類 === {{複数の問題 | section = 1 | 出典の明記 = 2022年8月 | 独自研究 = 2022年8月 | 脚注の不足 = 2022年8月 }} ==== 磁気テレホンカード ==== 一般的に、テレホンカードと言えばこの'''磁気テレホンカード'''を指す。後に登場した[[集積回路|IC]]テレホンカードと区別するため、NTTなどではこの呼称を使用している。 発売開始当初は、50度数・100度数・300度数・500度数の4種類が発売された。後に100度数以上のカードについてはプレミアが加えられ、販売価格は据え置きでそれぞれ105度数・320度数・540度数として売り出された。日本で最初に発行されたテレホンカードは、[[岡本太郎]]デザインによるものである。 また、発売開始当初は、カード購入時に公衆電話での使用方法を書いた「ご利用の手引き」「テレホンカードが利用できる公衆電話の設置場所の案内(例:都内では[[江東区役所]]内など)」も渡された。現在は、[[特殊簡易公衆電話|ピンク電話]]やドコモがサービスを提供し山小屋や船舶などに設置されている[[ワイドスター|ワイドスターII衛星簡易公衆電話]]を除くほとんどの公衆電話がテレホンカードを使用できるものになっており、中には硬貨が使用できないテレホンカード専用の公衆電話もある(画像参照。右上の硬貨投入口がある部分に「テレホンカード専用」という表記がある)。 後述の[[テレホンカード#偽造テレホンカード問題|偽造テレホンカード問題]]のため、現在は50度数と105度数の2種類のみが販売されている。また、106度数以上の残度数があるテレホンカードは、公衆電話では現在使用できなくなっている(ただし、320度数や540度数で発売されたテレホンカードでも、残り度数が105度数以下であれば使用可能である)。 なお、磁気異常などにより使用できなくなってしまったテレホンカードや前述の106度数の残額が残っているカードは、かつてはNTTの各営業所に持ち込むことで、使用できなくなったカードを新しいカードと交換してもらうことができた。現在は合理化で営業所窓口をすべて廃止しているため、NTT東西共に郵送での交換手続きとなっており、専用の電話番号で交換手続きを案内している<ref>[http://www.ntt-east.co.jp/ptd/contents/mag_card.html#03 NTT東日本-磁気テレホンカードが使えなくなった]</ref><ref>[http://www.ntt-west.co.jp/ptd/inqury/q_and_a.html#8 NTT西日本-テレホンカードが使えなくなった]</ref>。 郵送料は [[特定記録郵便]]料金も含め、料金受取人払い扱いでNTT東西が負担している。金券のため内容品が多額の場合、NTT東日本では簡易書留または一般書留料金を差出人の立て替えで発送でき、その場合は交換カードとともに未使用切手を返送してくれる。 {{Main2|クレジット通話サービス(サービス終了済)|カードC}} ==== ICテレホンカード ==== [[ファイル:公衆電話ICT-2AO-01.jpg|thumb|200px|ICカード式専用公衆電話(ICT-2AO)。ISDN回線につながっていたため、サブアドレスを持つISDN電話機への発信や音声通話と共にデータ通信が可能であった。]] [[ファイル:IC telephonecard back.jpg|thumb|200px|ICテレホンカード(裏面)。カード右下の角を折り取ること(写真のように)で使用できる仕組みである。]] [[1999年]](平成11年)、日本で横行する『偽造テレホンカード対策』の切り札として、[[ICカード]]を利用したICテレホンカード(ICテレカ)とこれに対応するICカード式専用公衆電話機が登場した。30度数・50度数・105度数・210度数・320度数の5種類があった。このうち、30度数と50度数は注文を受けて製作する商品であり、一般に流通していたのは105度数と210度数のカードであった。ICカード規格としては [[ISO/IEC 14443]] Type Aを採用<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0406/08/news031.html ITmediaモバイル:ISO 14443【あいえすおー・いちよんよんよんさん】] ITmedia 2004年6月8日</ref>しており、日本で広く普及した[[FeliCa]]とは異なる規格であった。また、ICカードの特徴を活かし、2枚重ねての利用も可能であった。 「ICカードであるゆえに従来の磁気カードのような偽造はほぼ不可能」と発表され、105度数を超える高額テレホンカードも210度数と320度数で復活するなど鳴り物入りで登場したICテレカであったが、以下のような問題があった。 * 互換性の問題 : ICテレカには従来の磁気カードとの互換性がなく、専用のICテレカ対応公衆電話機でしか利用できず、ICテレカ対応電話機では従来の磁気カードは利用できない。 * 専用公衆電話の設置台数が少ない : 専用公衆電話の設置台数は従来型の1割程度にとどまったため<ref group="注釈">設置台数の低迷はICテレカが登場した時点では既に携帯電話・PHSが普及し始めていたため、公衆電話の需要が縮小していたこともあり、費用対効果が予想を大きく下回ってしまったこともある。</ref>、公衆電話を利用するにはICテレカだけではなく、従来の磁気テレカも持ち歩く必要があった。 * 有効期限の問題 : ICテレカには有効期限が設定されており、有効期限を過ぎたカードは使用できない。ただし有効期限到来後5年以内のICテレカはその残度数に相当する磁気テレカと交換することで、従来型公衆電話で引き続き使用できた。 * 独自機能の問題 : ICテレカにテレカそのものに電話番号を記録させる機能があった。30度数・50度数・105度数・210度数には電話番号を1つだけ記憶でき(ダイヤルメモ機能)、320度数には電話番号を10件登録できる([[電話帳]]機能)が、ダイヤルメモと電話帳の両機能は別々の機能であり、記録した電話番号の引き継ぎはできず、特段便利といえるものではなかった。 * 入手性の悪さ : 購入方法はICテレカ対応電話機そばに設置された自動販売機、あるいは電話機近辺の売店等のみに限られ、磁気テレカに比べて入手性が著しく劣った。 * 残り度数の確認方法の問題 : 使用中にパンチ穴があき、残り度数の目安を目視で確認できる磁気式テレカと違い、ICテレカには残り度数を利用者側で確認する仕組みがなかった。手元のICテレカの残り度数を確認するにはICテレカ対応公衆電話を探し出して手元のカードをかざし、電話機のディスプレイに残り度数を表示させる必要がある。 * 知名度の低さ : ICテレカは対応する公衆電話機が少ない、期限内に使い切る必要がある、回路部分が破損しやすいなど利用者側のデメリットが目立つ。その一方、ICテレカのメリット(電話番号の記憶機能や105度数超の高額カードの復活など)や有効期限切れ時の対応などは十分に周知、広報されておらず、知名度の点で磁気テレカに遠く及ばなかった。 [[2002年]](平成14年)に開催された[[2002 FIFAワールドカップ]]ではノベルティとして記念ICテレカが販売されたものの、先に挙げたデメリットや公衆電話需要の減少が災いし、ICテレカの利用状況は低迷し続け、縮小から消滅に至った。 まずICテレカの券種のうち、30度数・50度数・210度数・320度数が販売を終了し、105度数のみの販売となった。ICテレカ登場から9年後の[[2006年]](平成18年)[[3月]]末にICカード公衆電話サービスが終了し、ICテレカも廃止された。ICテレカ対応公衆電話機は撤去され(ICテレカ・硬貨併用を含む)、磁気テレカ対応公衆電話機もしくは硬貨専用公衆電話機のみが残ることになった。 ICカード廃止後も磁気カードの交換申し込みは従来通り、有効期限到来後5年以内に限り対応した。最後に発売されたICテレカである有効期限[[2011年]](平成23年)[[9月30日]]のICテレカが[[2016年]](平成28年)9月30日をもって交換期限満了となり、ICテレカの交換業務はすべて終了した。 === 偽造テレホンカード問題 === 磁気テレホンカードが広く流通するようになるにつれ、使用済カードに新たに磁気情報を加えて、再び使用可能とした、いわゆる「偽造テレホンカード」(または「'''変造テレホンカード'''」「'''偽テレ'''」とも)も広く流通するようになり、社会問題に発展した。同様の事態は[[オレンジカード]]や[[ハイウェイカード]]でも起きていた。 一部のカード式公衆電話では[[国際電話]]をかけられるようになったことで、磁気テレホンカードの需要の高まりから、主に外国人により売られていた偽造テレホンカードが大量に出回った。 当初のカード式公衆電話機は偽造対策が脆弱であったため、「永久使用テレカ」なるものも生まれていた<ref name="shashin"/>。また、偽造テレホンカードを用いて国際電話をかけたり、[[ダイヤルQ2|ダイヤルQ<sup>2</sup>]]に繋いでNTTから情報料を詐取する、といった不正行為が増加したため、NTT側も偽造テレホンカード対策に乗り出した。 この結果、320度数・540度数のテレホンカードが[[1991年]](平成3年)[[12月28日]]に使用廃止された<ref name="shashin"/>。翌[[1992年]](平成4年)からはテレホンカードで国際電話がかけられる公衆電話は激減した。電話機自体もカードリーダーライターの交換や改造が施され、106度数以上のカードは度数を読み取り表示するものの、電話機から排出されるようになった。 当時は、この行為を直接取り締まる法律がなく、[[日本の警察|警察]]は偽造カードの不正使用者については『'''変造有価証券行使罪'''』を適用して、摘発に当たった。ただ、当時のこの法律では「使用した時点で触法行為」で、[[現行犯逮捕]]での身柄拘束しかできない反面、偽造テレホンカードを所持しているだけでは、たとえ[[職務質問]]で発見できても、[[逮捕]]摘発ができないといった弊害も生まれていた。現在は、[[2001年]](平成13年)の[[刑法 (日本)|刑法]]改正によって、テレホンカード等の[[プリペイドカード]]は、刑法163条の2の支払用カードに当たることになり、人の財産上の事務処理を誤らせる目的で電磁的記録を不正に作れば、[[有価証券偽造罪#支払用カード電磁的記録に関する罪|支払用カード電磁的記録に関する罪(支払用カード電磁的記録不正作出罪)]]が適用されることとなっている。 <!-- ここから、「偽造テレホンカード問題」と直接関係ないためコメントアウト。復帰させるのなら、適切な節があればそこに移すか、新たな節を作ったほうが良いと思います。 なお、公衆電話からテレホンカードで国際通話するよりも、プリペイドカードやプリペイド番号お知らせシートなどに記載されている番号をダイヤルして使用するタイプのプリペイドカードを利用したほうが安く通話できるケースもある。これらは、[[KDDI]]が[[国際電信電話]](KDD)時代から「[[KDDIスーパーワールドカード|スーパーワールドカード]]」の名称で発売しており、[[NTTコミュニケーションズ]]や[[ソフトバンクテレコム]]のような国内電話会社のほか、日本国外の電話会社が発行するものも増えている。これらは、テレホンカードの必要度低下に拍車をかけている。 --> === 発行枚数・金額 === 日本の磁気テレホンカードはピーク時<!--2021年度時点-->の[[1995年]](平成7年)度には年間4億353万枚を発行したが、[[2021年]](令和3年)度には年間130万枚に減少している<ref name="sankei_221223" /><ref name="公衆電話">[https://www.ntt-east.co.jp/databook/pdf/2022_40.pdf 公衆電話]、『インフォメーションNTT東日本2022』NTT東日本、2022年11月。</ref>。販売金額でのピークは[[1994年]](平成6年)度の年間2793億円である<ref name="公衆電話" />。 日本のICテレホンカードはピーク時の[[2002年]](平成14年)度に年間325万枚・32億円を発行した<ref name="公衆電話" />。 === テレホンカードの券種 === ==== 磁気テレホンカードの券種 ==== * 販売中 ** 50度数:500円 ** 105度数:1,000円 * 販売終了 ** 100度数:1,000円 ** 300度数:3,000円 ** 320度数:3,000円 ** 500度数:5,000円 ** 540度数:5,000円 ==== ICテレホンカードの券種 ==== * いずれも販売終了(利用も不可) ** 30度数:1,000円(注文で製作するもののみ) ** 50度数:2,000円(注文で製作するもののみ) ** 105度数:1,000円 ** 210度数:2,000円 ** 320度数:3,000円 === 特殊なテレホンカード === カードを挿入すると、自動的に指定番号にダイヤルする'''オートダイヤルカード'''がある。バリエーションとしては以下のものがある。 * カードに度数を持ち、カードを挿入すると登録された番号に発信するカード : KDDが在日外国人向けのプロモーションに、「001」を自動でダイヤルし、そのまま国番号や電話番号を入力し国際電話をかけられるようにするカードがあった。 : 電話番号案内サービス「104」がカードを発行し、案内を有料化した際に利用料金を引き去ることができるカードがあった。 * カードに度数を持たないが、カードを差し込むと指定された[[フリーダイヤル]]等着信先課金番号に発信するカード。ほとんどのものに有効期限がある。 ** 損害保険会社が自社の自動車保険加入者に、事故に遭遇した時に対応窓口へかけられるカードを配布。 ** 航空会社が顧客の囲い込みのため、予約センターに発信するカードを配布。挿入方向の違いにより、1枚のカードで国内線と国際線の2つの番号を呼び出すことができるものが多かった。 ** [[日本自動車連盟]]に20年以上継続している会員向けに配布。 ** タクシー会社が自社タクシーを利用してもらうため、顧客に配布。 ** 顧客サービス以外では、企業が従業員と自社オフィスへの連絡のために、度数付や着信先課金のオートダイヤルカードを持たせた例もある。 * カードに度数を持たず、指定の特番に発信するカード : これを応用したものが、[[カードC|NTTカードC]]などである。 : 第二電電(DDI)、日本テレコム(JT)、日本高速通信(TWJ)の国内通信会社3社も同様に、請求書にて後日課金サービスを行うカードを発行した。 なお、NTTカードソリューションで制作していたオートダイヤルカード(フリーダイヤル・フリーアクセスカード含む)は、需要の減少により[[2019年]]([[令和]]元年)[[9月13日]]をもって制作受付を終了した。 === 通話料金への充当 === [[1989年]](平成元年)[[10月]]より、未使用であれば[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]の[[固定電話]](ひかり電話含む)の[[通話料]]の支払いに充当できる扱いがなされている。 充当する場合、手数料として1枚あたり税抜50円が通常の請求書にて一括して請求され支払うこととなる。テレホンカードの預かり金額が通話料より多い場合、翌月以降も預かり金額の相殺が終了されるまでは繰り越して充当処理される。 対象のカードは未使用の50度数・100度数・105度数のみで、穴が開いている使用途中のものや、先述の高額未使用カードを預け充当することはできない。高額未使用カードは一旦、50度数・105度数カードへの交換手続きを行い、交換後のカードを送付する。なお、105度数のうち付加された度数(5度数のプレミア分)は充当対象外となる。充当は通話料のみであり、[[電話料金|基本料金]]やNTT系以外の00XXを付けた他社国内通話料などへの充当はできない。 固定電話の通話料の支払いに充当したい場合、東日本地域はホームページ掲載の申込書と封筒を印刷し、郵送。印刷する環境がない場合は116番へ連絡する。西日本地域はホームページ掲載の無料電話番号へ「未使用カードを固定電話通話料へ充当したい」と連絡。後に郵送される支払充当申込書と充当するカードを返信用封筒で返送すれば、手続きが完了次第通話料に充当される。なお、郵便料金についてはかつては申込者による自己負担であったが、現在では特定記録郵便による[[着払い|料金受取人払い]]扱いとなっており、NTTが負担している(かつてNTTの営業所窓口があった時代は、窓口にて申請することができた。現在すでに合理化で営業所窓口をすべて廃止し、先述の磁気異常等のカード交換も同様に受取人払いの郵送で行っている)。 預かり残額のある固定電話を廃止する場合などは、残額を他の電話番号に振り替え、充当することもできる。他に振り替える番号がないなどの場合は、105度数・50度数の順にテレホンカードで返還し、500円に満たない金額については銀行振込にて返金される。ただし、図柄は全てNTTが新規発行したものとなり、預かり時に支払った手数料は返還されない。 かつて発行されていたICカードについても充当可能(手数料は1枚あたり税抜100円)だったが、発行済みの当該カードの有効期限が全て満了したことにより、通話料への充当取り扱いが終了した。 == 欧米におけるテレホンカード == === 歴史 === [[ヨーロッパ]]では[[フランス]]を中心に1980年代にはテレホンカードのIC化が始まった<ref name="kitagawa" />。しかし、初期のICテレホンカードはCPUの無い安価なもので、一般のICカードとは区別され「チップカード」という呼び名が用いられた<ref name="kitagawa">{{Cite web|和書|author=北川修身、谷口昇二、三浦謙二|title=ICカードシステムの市場・技術動向|url=https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/1997/11/52_11pdf/b02.pdf|website=東芝レビュー52巻11号|accessdate=2022-08-13}}</ref>。 {{節スタブ}} === アメリカ合衆国 === [[File:Phonecards from found in Olneyville Rhode Island 2008.tif|thumb|カードの例、[[米国]][[ロードアイランド州]]{{仮リンク|Olneyville|en|Olneyville, Providence, Rhode Island}}にて([[2008年]])]] [[アメリカ合衆国]]の公衆電話の支払いの方式には、コイン式、クレジットカード式、コーリングカード式がある{{Sfn|宮川|2003|p=178}}。このうちコーリングカード(calling card)はプリペイドカードであるが、日本のテレホンカードとは異なり、カードを直接電話機に挿入して使用するものではない{{Sfn|宮川|2003|p=178}}。 通常、コーリングカードには表面に通信会社の名前とコーリングカード番号が記載されており、裏面には使用方法やアクセス番号が記載されている{{Sfn|ローレンス|2007|p=39}}。コーリングカードを使用する場合、電話会社へのアクセス番号をダイアルした後に音声案内に従って操作する{{Sfn|ローレンス|2007|p=39}}。番号別にオプション(長距離電話など)があり、コーリングカード番号とPIN([[暗証番号]])を入力した後、電話番号をダイアルすると相手方に電話をかけることができる{{Sfn|ローレンス|2007|p=39}}。 なお、アメリカ合衆国では[[クレジットカード]]を電話機に通して通話料金をカード決済で支払う公衆電話もみられる{{Sfn|宮川|2003|p=178}}。 == テレホンカードの流通 == === コレクターズアイテム === 多種多様なカード表面のデザインが存在するため、発行当初から[[コレクション|コレクターズアイテム]]としてのポジションも確立した。テレホンカード全盛の頃は、電電公社時代に発売されたり、使用済カードも含め、非売品([[ノベルティ]])や[[限定販売|限定品]]など希少性のあるもの、特定の[[アイドル]]や[[タレント]]のテレホンカードなどは、50度数(使用済カードも含む)でも数十万円もの価格で取引された時期もある。テレホンカード毎の時価が記載されたコレクター向けの雑誌やカタログなども多数発行された。 また、コレクターの団体も各地に発足し、コレクター間の情報交換やテレホンカードの交換・授受の場としても利用された。[[東京都]]を拠点とする「テレカ収集協会」([[松田英孝]]会長)は、それら団体の中では最大の規模<ref>[https://web.archive.org/web/20100429180311/http://www.teleca.co.jp/sub2.htm 「テレカ収集協会」 とは(テレカ収集協会)](2010年4月29日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>であり、毎月1回交換会を[[池袋]]で行っていた<ref>[https://web.archive.org/web/20090614223646/http://www.teleca.co.jp/kokankai.htm 交換会のお知らせ(テレカ収集協会)](2009年6月14日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 上記の通り、公衆電話での利用機会が激減していることもあり、現在ではプリペイドカードとしてよりもコレクターズアイテムとしての比重が高くなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jocr.jp/raditopi/2022/06/23/435684/ |title=昭和のマストアイテム『テレホンカード』 実用目的以外に高まる“収集”ニーズ 購入者9割は男性 |publisher=ラジトピ([[ラジオ関西]]) |date=2022-06-23 |accessdate=2022-06-25 }}</ref>。 === 宣伝媒体 === オリジナルの絵柄をプリントしたフリーデザインのテレホンカードを作成することが可能であるため、一時期は記念品や商品の特典([[ノベルティ]])や、新規オープンの店舗が[[名刺]]代わりに配布するなど贈答用としても有効活用された。 === 古物市場での売買 === 全盛期と比較すると収集品や公衆電話での利用のための市場は縮小しているが、利用するための入手はコンビニエンスストアなどで現在も販売しているものの、その認知度は低い。また、ひかり電話の広い普及により、前述の通話料金への充当制度を利用し、企業の通話料金を正規価格より安価で行う支払い代行企業が存在する。 そのため[[古物商]]([[金券ショップ]]など)では現在も主要な金券として売買されている。 また、個人による収集品の放出のため(いわゆる「断捨離」や家族の遺品整理なども含めて)、インターネットオークションやフリーマーケットサイトなどでも取引がなされている。 === 慈善団体への寄付 === 困窮者救済などを事業とする慈善団体の中には、財源確保としてテレホンカードを受け入れているところがある。未使用品はもちろん、使用済み品についても、ある程度のコレクターがいるため、現在でもインターネットオークション等でまとまった枚数の売買が行われている。 === 宿泊料金への充当(終了) === かつては、宿泊施設によっては、未使用のテレホンカードをその額面分ないしそれに近い分を宿泊料金に充当するサービスを実施していたこともある。なお、このサービスは各施設独自に定めているものであり、発行者(NTT)の施策・約款とは関係ない。 [[東横イン]]ではプレミアを除いた額面分が、福山ニューキャッスルホテル([[福山市]])においては額面の80%に換算した金額分が、それぞれ宿泊料金に充当することができた。ただ、東横インは[[2010年]](平成22年)[[7月31日]]をもって取り扱いを終了し、福山ニューキャッスルホテルも時期不明ながら取り扱いを終了している。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author1=ローレンス・J. ヅヴァイヤー|author2=マーク・カニングハム|date=2007-02-01|title=イラストでわかるビジネスの英語表現―The English You Need For Business|publisher=IBCパブリッシング|ref={{SfnRef|ローレンス|2007}} }} * {{Citation|和書|author1=宮川幸久|author2=ダイアン・ナガトモ|author3=Thomas Clark|date=2003-03-07|title=英語仕事術 あいさつ・電話編|publisher=アスク出版|ref={{SfnRef|宮川|2003}} }} == 関連項目 == * [[KDDIスーパーワールドカード]] * [[NTTカードソリューション]] - テレホンカード交換センターを運営 == 外部リンク == {{Commons|Telephone card}} * [https://www.ntt-east.co.jp/ptd/ NTT東日本: 公衆電話インフォメーション] * [https://www.ntt-west.co.jp/ptd/ NTT西日本: 公衆電話インフォメーション] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てれほんかと}} [[Category:プリペイドカード]] [[Category:公衆電話]] [[Category:東日本電信電話]] [[Category:西日本電信電話]] [[Category:登録商標]] [[Category:コレクション]]
2003-03-26T06:20:28Z
2023-10-20T02:23:17Z
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郵便局
郵便局(、英: post office)とは、郵便サービスを提供するための、その利用者向けの施設・組織のこと。 郵便局とは、郵便のサービスを提供するための、その利用者向けの施設および組織のことである。各郵便局は、郵便という大きなシステムの中でも特に利用者と直接に接する部分を担っており、より具体的に言うと、郵便物の受領、集配(担当区域内に設置されている郵便ポスト群を巡って郵便物を集めること、および担当区域内の住宅や店舗や事務所等に郵便物を届けること)を行っている。 国によっては、郵便局が上記の(純粋な)郵便以外の業務を行っている場合がある。 たとえば国によっては郵便と電話は同一の行政組織が担当している場合があり、いわゆる郵便局が、電話に関する窓口も同時に担っている場合がある(フランスの本土や海外県など)。フランスでは郵便サービスを担っている国の行政機関は元々Postes,_télégraphes_et_téléphones(PTT、「郵便・電信・電話」)という名称の機関で、それらを等しく担ってきた歴史があり、名称がLa Posteと短く変更された後も基本的には変わっておらずどれも行っており、その結果、各郵便局もそれらを扱っている。フランスのLa Poste内には公衆電話がいくつも設置されており、電話関連の事務手続きも行っている。 また郵便物ではない荷物等の受領・配送等の運送事業の窓口になっている国(日本郵便のゆうパックなど)、旅券の発券を委託されている国(アメリカ合衆国郵便公社)、銀行窓口機能や保険窓口など金融機関としての機能を併せ持った例もある(日本のゆうちょ銀行とかんぽ生命保険、台湾の中華郵政、フランスなど)。 日本の郵政民営化以降、「ぽすくま」ブランドなどのグッズ類などを販売する郵便局もあるほか、過疎地では高齢者が買い物難民化しないように食品などの無人販売コーナーを併設する郵便局が約3000(2022年12月時点)に増えている。 ドイツにおいての郵便事業は民間会社であるドイツポスト(DeutschePostAG)が主に扱っている。1995年、それまで国営の連邦郵便公社が行っていた郵便、電話、貯金の事業をそれぞれドイツテレコム、ドイツ・ポストバンク、そしてドイツポストに分割、株式会社として民営化したことに由来する。 Bureau de poste(ビュロー・ドゥ・ポスト)と云う。「La Poste ラ・ポスト」と書かれた黄色い看板が目印となっている。フランス本国内では、16,130ほどある(2020年時点)とされている。 オランダにおいては、民間会社であるTPGPOSTが郵便事業を行っている。TPGPOSTは全額民間資本であり、他ヨーロッパ諸国のように政府資本を一切入れていないところに特徴がある。 国営企業であるスイスポストが郵便事業を行っている。スイス国内の雇用先としてはスーパーマーケットを展開するミグロに次いで国内第2位である。郵便以外にも保険や金融事業も行っている。かつては電話事業も行っていたが、1998年にスイスコムとして分割民営化された。郵便局では文房具や雑誌も取り扱っている。 郵便物の配送は歴史的な経緯から貨客混載のポストバスでも行われている。 特殊な事業として、スイスは国民皆兵であるため予備役用の自動小銃を保管しており、有事の際は郵便局に集合して銃器や弾薬を受け取る。 首都のベルンには万国郵便連合がある。 イギリス(英国)の郵便局は1516年にイングランド国王ヘンリー8世によって王室郵便(ロイヤルメール)が設立されたことに起源を発する。1635年には王室郵便の利用を一般公開する旨をチャールズ1世が布告した。しかし、当時は受取人後払いであったため、不払いなどが多発していたという。1830年代に入るとローランド・ヒルが郵便改革案を提唱し、1840年改革案がイギリスの議会を通過すると郵便切手の創設や全国均一払いなどの特徴を持つ近代郵便が誕生した。1850年代にはポストが創設された。これらの手法が世界に広まったのが近代郵便システムである。これらの経緯からイギリスにおいての郵便事業は、1700年代以降350年以上にわたり国営のロイヤルメールの独占が続いていたが、2000年に政府100%所有の特殊会社、2001年に郵政公社から英国政府100%出資の株式会社となり、2002年には公社の称号から「ロイヤルメールグループ」に名称変更し、数十社を展開、主に窓口事業や郵便貯金事務などを行うポスト・オフィス (Post Office) と、国際小包配送を行うパーセルフォースが実務の中核を担っていた。郵政事業参入の自由化が2005年に行われ、ドイツ・ポストやUKメールなどの新規参入が相次いでいるため、各郵便局もそうした業務を行っている。2011年に郵便サービス法にてロイヤルメールの完全民営化が決定すると、ポスト・オフィスはポスト・オフィス・リミテッド(en:Post Office Ltd)として分離され、パーセルフォース(en:Parcelforce)も別会社として三社分離された。ポスト・オフィス・リミテッドは、現時点も政府100%保有の国営である。 トルコ全土でおよそ5,000ほどの郵便局があるとされる(2011年時点)。黄色に青文字でPTTと書かれている看板が目印。郵便物、電信、電話を扱っていたのでPTTという名になっている。電話を取り扱う組織は既に分離・独立したが、「PTT」という短縮形の名称はトルコ国民にすっかり定着していたので、そのまま使い続けることが選ばれた。現在、預金も取り扱っている。 インドが1947年に独立した時点では、23,344の郵便局があったとされる。その後増加し、154,965となっている(2017年時点)。その9割ほどは田舎の小さな郵便局である。インドの郵便局は赤に黄色い三本の曲線の看板が目印。 ロシア連邦全土でおよそ42,000ほどの郵便局があるとされる(2020年時点)。青い看板が目印。 中国において、郵便事業は2007年に監督官庁の国家郵政局と、実質的経営を行う中国郵政集団公司に組織分割された。また2006年に郵政事業と通信事業が分割され、都市部においては郵便集配と電報を行う「郵政局」(小規模な局は「郵局」と呼称)ならびに各地の通信会社に事業分割された。ただし局によっては、現在でも郵便・貯金・電話・新聞などの販売を同拠点で扱っているケースも見られる。なお、貯金は2007年に中国郵政儲蓄銀行として独立している。 大韓民国では産業通商資源部が郵便、預金(貯金という用語は使用していない)、郵便局保険(簡易保険に相当)を取り扱っており、預金や保険は取り扱わないが、水協(日本の漁協に相当)、農協、信用組合を含む全ての金融機関と電算網がつながっている。なお、別定郵遞局(별정우체국:ピョルジョンウチェグッ。別に定めたという意味。日本の「特定郵便局」に相当するようなもの)がある。 台湾における郵便事業は、中華民国政府が出資する中華郵政(中華郵政股份有限公司)が行っており、かつて中華郵政は中華民国交通部郵政総局であったが組織改革によって2003年1月1日に公共企業に改組し、交通部が100%出資する国営公司となったため、民間では「郵局(郵便局)」と通称される。事業内容は郵便事業および郵便貯金事業。なお、2007年から2008年にかけて一時期「台湾郵政」と呼称していた。 日本において「郵便局」と称するものは、歴史的には、逓信省、郵政省、総務省郵政事業庁、日本郵政公社と続いた国の機関であり、2007年10月1日の郵政民営化から2012年9月30日までは郵便局株式会社の事業所、2012年10月1日以降は日本郵便株式会社の事業所である。 2022年7月30日時点で全国に23,608の郵便局(分室、簡易郵便局を含める)がある。 日本郵便株式会社法(平成十七年法律第百号)第二条4項に定義があり、それによれば、日本郵便株式会社の営業所のうち、郵便窓口業務、銀行窓口業務、保険窓口業務を行うものをいう。すなわち、ゆうゆう窓口しか設置されていないもの(新東京郵便局など)や、ゆうちょ銀行の直営店が併設されているなどの理由から、日本郵便としてゆうちょ銀行の窓口業務を受託していないもの(東京中央郵便局など)、かんぽ生命の保険窓口業務を受託していない簡易郵便局などは、名称に「郵便局」が含まれていても、法的な整理としては「郵便局」ではない「会社の営業所」として扱われる。 郵便局株式会社法では、「会社の営業所であって、郵便窓口業務を行うものをいう。」と定義されていた。 郵政民営化以前の郵便局は、以下のように区別された。 また、集配業務の有無により、普通郵便局と特定郵便局は次のように分けられた。簡易郵便局は窓口業務のみを扱う。 郵政民営化後は、集配業務および時間外窓口についてはすべて郵便事業株式会社の事業となり、郵便局を運営する郵便局株式会社からは切り離された。また郵便局内にあるATMについてもゆうちょ銀行の管理となった。したがって郵便局の規模の大小に関係なく郵便局は主として窓口業務のみとなり、郵便局の区別は現在では「直営郵便局」「簡易郵便局」の2種類に区別される。郵便局の業務の約9割が委託(郵便・貯金・保険)である。2012年10月1日付で郵便局株式会社が郵便事業株式会社を吸収合併し、日本郵便株式会社が発足したため、郵便業務が自前業務となり、貯金・保険が受託業務の中心となった。 日本の郵政事業は時代とともにその事業主体が様々に移り変わり、その変遷とともにそれらの根拠法が示す郵便局なるものの定義や設置趣旨なども多少異なっている。 郵政省設置法では国家行政組織法に基づき、いわゆる郵政事業を一体的に遂行する責任を負う唯一の政府機関として郵政省が設置された。郵政省設置法に基づき、郵便局は郵政省の事務の一部を分掌する地方支分部局のひとつとされ、その名称、管轄区域、所掌事務および内部組織は、郵政大臣が定めることとされた(廃止前の郵政省設置法第6条)。 郵政省が廃止され、同時に総務省が置かれると、新たに郵政事業を行う総務省の外局として郵政事業庁が設置された。郵政事業庁設置法においても、郵便局は郵政事業庁におかれる地方支分部局のひとつとされ、郵政事業庁の所掌事務のうち、現業事務の全部または一部を分掌するものとされた。また、その名称、位置、管轄区域、所掌事務および内部組織は、総務省令に委ねられることとされた(廃止前の郵政事業庁設置法第11条)。 プログラム法である中央省庁等改革基本法に基づき日本郵政公社法が定められ、日本郵政公社が郵政事業を実施する国営の新たな公社として発足したあとは、郵便局の設置主体も公社に移った。日本郵政公社法では、郵便局を、総務省令で定めるところにより、あまねく全国に設置しなければならないものとして定めており、その省令を定めるに当たっては、地域住民の利便の確保について配慮することとされている(日本郵政公社法第20条)。日本郵政公社は、同法の施行の際、現に存する郵便局ネットワークの水準を維持することを旨とすることとされている。 なお、2006年9月以降、集配郵便局の削減(無集配局化)や、集配センター・配達センターに細分化された。この体制をもって2007年10月1日の民営化・分社化を迎えた。 郵政民営化法により、2007年10月1日をもって日本郵政公社は解散し、日本郵政株式会社(持株会社)、郵便事業株式会社(郵便集配)、ゆうちょ銀行(貯金)、かんぽ生命保険(生命保険)・郵便局株式会社に、郵政3事業が分割承継された(以上、「日本郵政グループ」)。郵便窓口業務および郵便局を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務を引き継ぐものとして、郵便局株式会社が設立される。郵便局株式会社法では、郵便事業株式会社の委託を受けて郵便窓口業務、印紙の売りさばきを営むとされたほか、郵便局を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務として、銀行業および生命保険業の代理業務を営むことができるとされた。同法における郵便局の設置基準としては、「総務省令で定めるところにより、あまねく全国において利用されることを旨として郵便局を設置しなければならない」と規定されており、日本郵政公社法に規定する「地域住民の利便の確保についての配慮」とは文言上異なる規定がなされている(郵便局株式会社法第五条)。 後述の通り2012年10月1日に郵便局会社と郵便事業会社が統合されるまでの5年間、集配業務は郵便局の事業ではなかった。しかし、従来通り郵便局の事業と勘違いする利用者や、郵便事業の集配担当社員のことを「郵便局員」と誤った報道をするマスコミが多かった。こうした状況により、郵便事業の集配担当社員が、郵便局社員ではないにもかかわらず自らをあえて「郵便局(の者)です」と名乗らざるを得ない事例もあった。 2012年10月1日、郵政民営化法等の一部を改正する等の法律(平成二十四年法律第三十号)の施行に伴い、郵便局株式会社が郵便事業株式会社を吸収合併し、日本郵便株式会社となった。この際に郵便局の定義も変更され、前述の通り、郵便窓口業務、銀行窓口業務、保険窓口業務の全てを行うものを指す語となった。合併後、郵便局は日本郵便株式会社の店舗となり、従来郵便事業の支店・集配センターだった拠点も原則「郵便局」の名称に変更されている。これに伴い、旧郵便局会社の店舗と同じ名称を使う旧郵便事業の支店については、単に「支店」を「郵便局」に置き換えるに留まらない名称変更が行われた(例:郵便事業大阪支店→大阪北郵便局、郵便事業博多支店→博多北郵便局、郵便事業宇佐四日市支店→四日市郵便局(大分県)、また集配中央郵便局では地名+支店→地名+中央郵便局に)。郵便局会社店舗の場所と別の場所に設置された一部の郵便事業支店や集配センターについては「分室」の扱いとなり、「○○郵便局郵便分室」「××郵便局集配分室」となった拠点もある。これらとは別に、新たに同一名称の郵便局が発生したケースもある(例:郵便事業丹波支店→丹波郵便局(兵庫県)、元からある丹波郵便局(京都府))。 郵便局の基本業務は郵便業務であるが、その中でも特に重要な業務が郵便物の配達である。担当区域内宛ての郵便物一件一件を、一軒一軒の家の前まで出向き家ごとに位置や形状が異なる郵便受けの入り口に入れていく。 物流センターを除く各直営店舗では、郵便窓口およびかんぽ生命保険の窓口業務を郵便局会社・日本郵便が行うと定められている。加えて直営店の設置されていない店舗では、ゆうちょ銀行の業務も行っている。民営化以降の特徴として、グループ外の商品の受託販売が可能となった。対象は自動車保険、変額年金保険、医療保険、がん保険、法人向け生命保険、住宅ローンなどである。取扱は現在、おおむね1,000局以下と限定的である。 民営化以降、封筒などの文具や菓子なども郵便局で取り扱うことができるようになった。また極少数の郵便局であるが、子会社がフランチャイズ運営するコンビニエンスストア(JPローソン)を併設営業している。 国体・博覧会会場などに設けられる臨時出張所や、自衛隊の艦船内などに開設される船内郵便局などもある。 富士山頂郵便局(静岡県富士宮市)や上高地局(長野県松本市)などは、開設が季節限定ではあっても設置自体が「常設」のため、定期開設局と呼ばれる。郵便窓口業務のみを行う。 トラックの荷台部やマイクロバスの車内に郵便局の設備を設置し、駐車して郵便局業務を行う例がある。このような設備を持つ車両は移動郵便局(英語版)または車両型郵便局と呼ばれる。郵便局が閉鎖された地域を定期的に巡回したり、東日本大震災など災害で郵便局が被災し機能しなくなった地域に一時期常設されることもある。2018年時点で、日本ではATMやゆうパック受付ができる車両が7台ある。 農業協同組合・漁業協同組合や地方の事業者、地域住民が受託する郵便局を、郵便局の歴史的経緯から「簡易郵便局」と称することもある(郵便局名の末尾が「簡易郵便局」となっているものが該当する)。簡易郵便局では貯金や保険業務を取り扱わず、郵便業務のみの場合もある。 1990年代の一時期「シティポスト」と称し、都市部の百貨店・地下街・旅行会社内にカウンターのみの郵便局窓口を設けることが流行したものの、シティポストの名称は長続きせずに徐々に廃止、民営化前にその多くが廃止された。その後、2021年3月1日に廃止された池袋西武簡易郵便局を最後に全てのシティポストは廃止された。分類としては簡易郵便局の一種であった。 1970年代までは、旧逓信省での電話業務の経緯から、農林漁村の郵便局で日本電信電話公社(電電公社)の業務に属する電話交換業務(磁石手動式)や電報受託業務も行う局もあり、日本電信電話株式会社(NTT)発足までは電話関連事務を電電公社の受託で行う局もあった。電報業務を行わなくなった後の迅速な伝達商品として、FAX通信を用いた電子郵便(レタックス)が生まれた。 郵便局の下部に属する「分室」や「出張所」「臨時出張所」「郵便集配所」も存在する。 分室は窓口分室(例:岡山中央局天満屋内分室、北浜郵便局高等裁判所内分室、成田郵便局空港第1旅客ビル内分室、同第2ビル内分室)、集配(郵便)分室(例:陸前高田局郵便分室、米子局集配分室、六日町局塩沢集配分室、和歌山中央局川辺集配分室、海南局野上集配分室)、作業分室(例:荻窪局ゆうパックセンター分室、帯広局分室、仙台東局若林分室、新東京局羽田分室、新大阪局南港分室、徳島中央局マリンピア分室、宇都宮東局岩舟分室、岐阜中央局下川手分室)、ゆうゆう窓口分室(例:銀座局JPタワー内分室、晴海局京橋分室、富山南局富山駅前分室)や私書箱分室(例:渋谷局新大宗ビル内分室、新宿局新宿NSビル内分室、同新宿モノリス内分室)などに分かれる(なおこの分室の区別は郵趣家が名付けたもので、日本郵便がつけたものではない)。窓口分室は基本的に小規模な局舎だが、かつての名古屋中央局名古屋駅前分室のように元々中央郵便局だった局舎を流用したために大規模なものもある。 民営化後に主にゆうパックの作業をする「作業分室」が増加傾向にある。繁忙期のみ貸し倉庫を使う、期間限定の作業分室の設置例も増えている。 分室は固有の取扱局番号を持たず、属する郵便局の取扱局番号の後ろにアルファベット1文字を付して区別する(6桁の局所コードの場合は、1の位が0以外の数字の拠点が分室となる)。郵便日付印には本局名と並んで分室名が入る。これは郵便局より下位であるが独立した局所を示すものとし、業務上も取扱箇所が本局か分室か判別するためである(ただし一般客を相手にしない作業分室や私書箱分室は分室名を省略した日付印を使用するところもある)。 郵政民営化以前、集配普通郵便局が集配業務を廃止した場合、特定郵便局へ局種改定することが多かったが、郵政民営化直前になって分室化する例が増えた。これは分室の方が営業時間・取扱事務を柔軟に設定できることや、郵政民営化に向けた郵便局削減圧力への対応とされている。 2007年7月30日、全国の貯金を扱う分室のうち過半数の親局が変更された。これは分室の親局は大規模な郵便局が多く、それらの局の貯金課はゆうちょ銀行の直営店となるところが多いのであるが、ゆうちょ銀行は分室を設置しないため、郵便局株式会社が貯金を扱う郵便局に親局を変更する必要があるためである。このとき分室名の変更を伴うことがあった。特に「貯金事務センター内」などの日本郵政公社の施設名を冠した分室名は、多くが地名を使った分室名に変更された(名古屋中央局貯金事務センター内分室は存続)。また無集配普通郵便局化された分室もあった。郵便しか扱わない分室および、民営化後も郵便局会社が貯金を扱うことになる郵便局の分室も親局の変更はなかった。なお、これに伴う親局が変更された拠点のうち、のちに分室での貯金取扱いを取り止めた拠点については、親局を元に戻したところも一部であった(ATMは、店舗外扱いとして存続させたケースを含むが、通常払込や硬貨入出金は取り止めとなった)。 2012年10月1日、日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便局と郵便事業支店の一部については、分割前の郵便局側が親局となり、郵便事業拠点側が親局の「郵便分室」、郵便局と郵便事業の集配センターが分割された拠点の一部については、従来の郵便事業支店が親局となり、郵便局と分離された従来の集配センター側が親局の「集配分室」となった。 2007年9月30日までは主に駅やスーパーマーケットなどに設置されたATMの正式名称であったが、翌日の郵政民営化によりこれらのATMはゆうちょ銀行の支店の管理となった。自動ドアのあるATMの入口には「ゆうちょ銀行本支店名+出張所名」と書かれ、取扱店番号が母店のものではなくなり、地域ごとのATM統一のものとなった。 ちなみに2022年1月17日より出張所のATMにおいて、平日と土曜日の指定時間帯を除く夜間や休日の通常貯金と通常貯蓄貯金口座の入出金に利用手数料がかかることとなった。 臨時出張所は文字通り、臨時に設けられる郵便局である。ただし臨時出張所と名乗っていても、ほとんど常設の窓口であるものもあれば、単なるワゴンセールにすぎないものもあり、千差万別である。ワゴンセールは、駅のコンコースや大型ショッピングセンターなどでの年賀はがきなどのくじ付ハガキの販売時や、夏の花火大会や祭などのイベント時の出店などで多く見られる。2007年の郵政民営化初の年賀はがき販売では、郵便局会社と郵便事業会社がそれぞれ臨時出張所を出店し、同じ場所で局会社と事業会社が交互で出店したり、同じショッピングセンターや駅構内の違った場所(東口と西口など)で両社が出店するような光景が見られた。 臨時出張所と称しながら常設の有人窓口を有する出張所があった。過去には日本橋局・東急百貨店内出張所(ポスタルショップ日本橋)、KDDビル内局・アネックス出張所(現在は出張所跡に本局が移転)、岡山中央局・天満屋内出張所(ポスタルショップ桃太郎)(現在は岡山東局・天満屋内分室)、岡山中央局・岡山市役所内出張所(市役所ポスタルショップ)(岡山東局・岡山市役所内分室になったあと、2012年(平成24年)に廃止)、仙台駅内局・仙台駅東口出張所が存在した。 またかつて平野局(大阪市)や奈良西局(奈良市)、尼崎北局(兵庫県尼崎市)、布施局(大阪府東大阪市)では、普通郵便局改築に当たっての仮局舎を「臨時出張所」と称していた(1992年当時)。 民営・分社化を期に離島の集配局を対外的に郵便局会社の店舗とするため無集配局化した際に、集配業務継承先の出先となる拠点として、郵便事業時代は担当支店の集配所と位置づけられ、日本郵便となった現在は集配局の郵便集配所と称している(新東京局小笠原郵便集配所など)。郵便集配所は集配業務だけのため、一般にはその拠点の情報は公開されていない。 アメリカ合衆国(米国)における郵便局事業は公共企業体であるアメリカ合衆国郵便公社(The United States Postal Service、U.S.P.S)が行っており、貯金事務や簡易保険事務などは行っておらず、純粋に郵便事業が中核であるので、各郵便局もほぼ純粋に郵便サービスを提供している。 ブラジル全土におよそ3,800の郵便局があるとされる(2020年時点)。黄色に青文字の看板が目印。
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"国営企業であるスイスポストが郵便事業を行っている。スイス国内の雇用先としてはスーパーマーケットを展開するミグロに次いで国内第2位である。郵便以外にも保険や金融事業も行っている。かつては電話事業も行っていたが、1998年にスイスコムとして分割民営化された。郵便局では文房具や雑誌も取り扱っている。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "郵便物の配送は歴史的な経緯から貨客混載のポストバスでも行われている。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "特殊な事業として、スイスは国民皆兵であるため予備役用の自動小銃を保管しており、有事の際は郵便局に集合して銃器や弾薬を受け取る。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "首都のベルンには万国郵便連合がある。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "イギリス(英国)の郵便局は1516年にイングランド国王ヘンリー8世によって王室郵便(ロイヤルメール)が設立されたことに起源を発する。1635年には王室郵便の利用を一般公開する旨をチャールズ1世が布告した。しかし、当時は受取人後払いであったため、不払いなどが多発していたという。1830年代に入るとローランド・ヒルが郵便改革案を提唱し、1840年改革案がイギリスの議会を通過すると郵便切手の創設や全国均一払いなどの特徴を持つ近代郵便が誕生した。1850年代にはポストが創設された。これらの手法が世界に広まったのが近代郵便システムである。これらの経緯からイギリスにおいての郵便事業は、1700年代以降350年以上にわたり国営のロイヤルメールの独占が続いていたが、2000年に政府100%所有の特殊会社、2001年に郵政公社から英国政府100%出資の株式会社となり、2002年には公社の称号から「ロイヤルメールグループ」に名称変更し、数十社を展開、主に窓口事業や郵便貯金事務などを行うポスト・オフィス (Post Office) と、国際小包配送を行うパーセルフォースが実務の中核を担っていた。郵政事業参入の自由化が2005年に行われ、ドイツ・ポストやUKメールなどの新規参入が相次いでいるため、各郵便局もそうした業務を行っている。2011年に郵便サービス法にてロイヤルメールの完全民営化が決定すると、ポスト・オフィスはポスト・オフィス・リミテッド(en:Post Office Ltd)として分離され、パーセルフォース(en:Parcelforce)も別会社として三社分離された。ポスト・オフィス・リミテッドは、現時点も政府100%保有の国営である。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "トルコ全土でおよそ5,000ほどの郵便局があるとされる(2011年時点)。黄色に青文字でPTTと書かれている看板が目印。郵便物、電信、電話を扱っていたのでPTTという名になっている。電話を取り扱う組織は既に分離・独立したが、「PTT」という短縮形の名称はトルコ国民にすっかり定着していたので、そのまま使い続けることが選ばれた。現在、預金も取り扱っている。", "title": "アジア" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "インドが1947年に独立した時点では、23,344の郵便局があったとされる。その後増加し、154,965となっている(2017年時点)。その9割ほどは田舎の小さな郵便局である。インドの郵便局は赤に黄色い三本の曲線の看板が目印。", "title": "アジア" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ロシア連邦全土でおよそ42,000ほどの郵便局があるとされる(2020年時点)。青い看板が目印。", "title": "アジア" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中国において、郵便事業は2007年に監督官庁の国家郵政局と、実質的経営を行う中国郵政集団公司に組織分割された。また2006年に郵政事業と通信事業が分割され、都市部においては郵便集配と電報を行う「郵政局」(小規模な局は「郵局」と呼称)ならびに各地の通信会社に事業分割された。ただし局によっては、現在でも郵便・貯金・電話・新聞などの販売を同拠点で扱っているケースも見られる。なお、貯金は2007年に中国郵政儲蓄銀行として独立している。", "title": "アジア" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大韓民国では産業通商資源部が郵便、預金(貯金という用語は使用していない)、郵便局保険(簡易保険に相当)を取り扱っており、預金や保険は取り扱わないが、水協(日本の漁協に相当)、農協、信用組合を含む全ての金融機関と電算網がつながっている。なお、別定郵遞局(별정우체국:ピョルジョンウチェグッ。別に定めたという意味。日本の「特定郵便局」に相当するようなもの)がある。", "title": "アジア" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "台湾における郵便事業は、中華民国政府が出資する中華郵政(中華郵政股份有限公司)が行っており、かつて中華郵政は中華民国交通部郵政総局であったが組織改革によって2003年1月1日に公共企業に改組し、交通部が100%出資する国営公司となったため、民間では「郵局(郵便局)」と通称される。事業内容は郵便事業および郵便貯金事業。なお、2007年から2008年にかけて一時期「台湾郵政」と呼称していた。", "title": "アジア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本において「郵便局」と称するものは、歴史的には、逓信省、郵政省、総務省郵政事業庁、日本郵政公社と続いた国の機関であり、2007年10月1日の郵政民営化から2012年9月30日までは郵便局株式会社の事業所、2012年10月1日以降は日本郵便株式会社の事業所である。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2022年7月30日時点で全国に23,608の郵便局(分室、簡易郵便局を含める)がある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本郵便株式会社法(平成十七年法律第百号)第二条4項に定義があり、それによれば、日本郵便株式会社の営業所のうち、郵便窓口業務、銀行窓口業務、保険窓口業務を行うものをいう。すなわち、ゆうゆう窓口しか設置されていないもの(新東京郵便局など)や、ゆうちょ銀行の直営店が併設されているなどの理由から、日本郵便としてゆうちょ銀行の窓口業務を受託していないもの(東京中央郵便局など)、かんぽ生命の保険窓口業務を受託していない簡易郵便局などは、名称に「郵便局」が含まれていても、法的な整理としては「郵便局」ではない「会社の営業所」として扱われる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "郵便局株式会社法では、「会社の営業所であって、郵便窓口業務を行うものをいう。」と定義されていた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "郵政民営化以前の郵便局は、以下のように区別された。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、集配業務の有無により、普通郵便局と特定郵便局は次のように分けられた。簡易郵便局は窓口業務のみを扱う。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "郵政民営化後は、集配業務および時間外窓口についてはすべて郵便事業株式会社の事業となり、郵便局を運営する郵便局株式会社からは切り離された。また郵便局内にあるATMについてもゆうちょ銀行の管理となった。したがって郵便局の規模の大小に関係なく郵便局は主として窓口業務のみとなり、郵便局の区別は現在では「直営郵便局」「簡易郵便局」の2種類に区別される。郵便局の業務の約9割が委託(郵便・貯金・保険)である。2012年10月1日付で郵便局株式会社が郵便事業株式会社を吸収合併し、日本郵便株式会社が発足したため、郵便業務が自前業務となり、貯金・保険が受託業務の中心となった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本の郵政事業は時代とともにその事業主体が様々に移り変わり、その変遷とともにそれらの根拠法が示す郵便局なるものの定義や設置趣旨なども多少異なっている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "郵政省設置法では国家行政組織法に基づき、いわゆる郵政事業を一体的に遂行する責任を負う唯一の政府機関として郵政省が設置された。郵政省設置法に基づき、郵便局は郵政省の事務の一部を分掌する地方支分部局のひとつとされ、その名称、管轄区域、所掌事務および内部組織は、郵政大臣が定めることとされた(廃止前の郵政省設置法第6条)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "郵政省が廃止され、同時に総務省が置かれると、新たに郵政事業を行う総務省の外局として郵政事業庁が設置された。郵政事業庁設置法においても、郵便局は郵政事業庁におかれる地方支分部局のひとつとされ、郵政事業庁の所掌事務のうち、現業事務の全部または一部を分掌するものとされた。また、その名称、位置、管轄区域、所掌事務および内部組織は、総務省令に委ねられることとされた(廃止前の郵政事業庁設置法第11条)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "プログラム法である中央省庁等改革基本法に基づき日本郵政公社法が定められ、日本郵政公社が郵政事業を実施する国営の新たな公社として発足したあとは、郵便局の設置主体も公社に移った。日本郵政公社法では、郵便局を、総務省令で定めるところにより、あまねく全国に設置しなければならないものとして定めており、その省令を定めるに当たっては、地域住民の利便の確保について配慮することとされている(日本郵政公社法第20条)。日本郵政公社は、同法の施行の際、現に存する郵便局ネットワークの水準を維持することを旨とすることとされている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、2006年9月以降、集配郵便局の削減(無集配局化)や、集配センター・配達センターに細分化された。この体制をもって2007年10月1日の民営化・分社化を迎えた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "郵政民営化法により、2007年10月1日をもって日本郵政公社は解散し、日本郵政株式会社(持株会社)、郵便事業株式会社(郵便集配)、ゆうちょ銀行(貯金)、かんぽ生命保険(生命保険)・郵便局株式会社に、郵政3事業が分割承継された(以上、「日本郵政グループ」)。郵便窓口業務および郵便局を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務を引き継ぐものとして、郵便局株式会社が設立される。郵便局株式会社法では、郵便事業株式会社の委託を受けて郵便窓口業務、印紙の売りさばきを営むとされたほか、郵便局を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務として、銀行業および生命保険業の代理業務を営むことができるとされた。同法における郵便局の設置基準としては、「総務省令で定めるところにより、あまねく全国において利用されることを旨として郵便局を設置しなければならない」と規定されており、日本郵政公社法に規定する「地域住民の利便の確保についての配慮」とは文言上異なる規定がなされている(郵便局株式会社法第五条)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "後述の通り2012年10月1日に郵便局会社と郵便事業会社が統合されるまでの5年間、集配業務は郵便局の事業ではなかった。しかし、従来通り郵便局の事業と勘違いする利用者や、郵便事業の集配担当社員のことを「郵便局員」と誤った報道をするマスコミが多かった。こうした状況により、郵便事業の集配担当社員が、郵便局社員ではないにもかかわらず自らをあえて「郵便局(の者)です」と名乗らざるを得ない事例もあった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2012年10月1日、郵政民営化法等の一部を改正する等の法律(平成二十四年法律第三十号)の施行に伴い、郵便局株式会社が郵便事業株式会社を吸収合併し、日本郵便株式会社となった。この際に郵便局の定義も変更され、前述の通り、郵便窓口業務、銀行窓口業務、保険窓口業務の全てを行うものを指す語となった。合併後、郵便局は日本郵便株式会社の店舗となり、従来郵便事業の支店・集配センターだった拠点も原則「郵便局」の名称に変更されている。これに伴い、旧郵便局会社の店舗と同じ名称を使う旧郵便事業の支店については、単に「支店」を「郵便局」に置き換えるに留まらない名称変更が行われた(例:郵便事業大阪支店→大阪北郵便局、郵便事業博多支店→博多北郵便局、郵便事業宇佐四日市支店→四日市郵便局(大分県)、また集配中央郵便局では地名+支店→地名+中央郵便局に)。郵便局会社店舗の場所と別の場所に設置された一部の郵便事業支店や集配センターについては「分室」の扱いとなり、「○○郵便局郵便分室」「××郵便局集配分室」となった拠点もある。これらとは別に、新たに同一名称の郵便局が発生したケースもある(例:郵便事業丹波支店→丹波郵便局(兵庫県)、元からある丹波郵便局(京都府))。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "郵便局の基本業務は郵便業務であるが、その中でも特に重要な業務が郵便物の配達である。担当区域内宛ての郵便物一件一件を、一軒一軒の家の前まで出向き家ごとに位置や形状が異なる郵便受けの入り口に入れていく。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "物流センターを除く各直営店舗では、郵便窓口およびかんぽ生命保険の窓口業務を郵便局会社・日本郵便が行うと定められている。加えて直営店の設置されていない店舗では、ゆうちょ銀行の業務も行っている。民営化以降の特徴として、グループ外の商品の受託販売が可能となった。対象は自動車保険、変額年金保険、医療保険、がん保険、法人向け生命保険、住宅ローンなどである。取扱は現在、おおむね1,000局以下と限定的である。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "民営化以降、封筒などの文具や菓子なども郵便局で取り扱うことができるようになった。また極少数の郵便局であるが、子会社がフランチャイズ運営するコンビニエンスストア(JPローソン)を併設営業している。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "国体・博覧会会場などに設けられる臨時出張所や、自衛隊の艦船内などに開設される船内郵便局などもある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "富士山頂郵便局(静岡県富士宮市)や上高地局(長野県松本市)などは、開設が季節限定ではあっても設置自体が「常設」のため、定期開設局と呼ばれる。郵便窓口業務のみを行う。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "トラックの荷台部やマイクロバスの車内に郵便局の設備を設置し、駐車して郵便局業務を行う例がある。このような設備を持つ車両は移動郵便局(英語版)または車両型郵便局と呼ばれる。郵便局が閉鎖された地域を定期的に巡回したり、東日本大震災など災害で郵便局が被災し機能しなくなった地域に一時期常設されることもある。2018年時点で、日本ではATMやゆうパック受付ができる車両が7台ある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "農業協同組合・漁業協同組合や地方の事業者、地域住民が受託する郵便局を、郵便局の歴史的経緯から「簡易郵便局」と称することもある(郵便局名の末尾が「簡易郵便局」となっているものが該当する)。簡易郵便局では貯金や保険業務を取り扱わず、郵便業務のみの場合もある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1990年代の一時期「シティポスト」と称し、都市部の百貨店・地下街・旅行会社内にカウンターのみの郵便局窓口を設けることが流行したものの、シティポストの名称は長続きせずに徐々に廃止、民営化前にその多くが廃止された。その後、2021年3月1日に廃止された池袋西武簡易郵便局を最後に全てのシティポストは廃止された。分類としては簡易郵便局の一種であった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1970年代までは、旧逓信省での電話業務の経緯から、農林漁村の郵便局で日本電信電話公社(電電公社)の業務に属する電話交換業務(磁石手動式)や電報受託業務も行う局もあり、日本電信電話株式会社(NTT)発足までは電話関連事務を電電公社の受託で行う局もあった。電報業務を行わなくなった後の迅速な伝達商品として、FAX通信を用いた電子郵便(レタックス)が生まれた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "郵便局の下部に属する「分室」や「出張所」「臨時出張所」「郵便集配所」も存在する。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "分室は窓口分室(例:岡山中央局天満屋内分室、北浜郵便局高等裁判所内分室、成田郵便局空港第1旅客ビル内分室、同第2ビル内分室)、集配(郵便)分室(例:陸前高田局郵便分室、米子局集配分室、六日町局塩沢集配分室、和歌山中央局川辺集配分室、海南局野上集配分室)、作業分室(例:荻窪局ゆうパックセンター分室、帯広局分室、仙台東局若林分室、新東京局羽田分室、新大阪局南港分室、徳島中央局マリンピア分室、宇都宮東局岩舟分室、岐阜中央局下川手分室)、ゆうゆう窓口分室(例:銀座局JPタワー内分室、晴海局京橋分室、富山南局富山駅前分室)や私書箱分室(例:渋谷局新大宗ビル内分室、新宿局新宿NSビル内分室、同新宿モノリス内分室)などに分かれる(なおこの分室の区別は郵趣家が名付けたもので、日本郵便がつけたものではない)。窓口分室は基本的に小規模な局舎だが、かつての名古屋中央局名古屋駅前分室のように元々中央郵便局だった局舎を流用したために大規模なものもある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "民営化後に主にゆうパックの作業をする「作業分室」が増加傾向にある。繁忙期のみ貸し倉庫を使う、期間限定の作業分室の設置例も増えている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "分室は固有の取扱局番号を持たず、属する郵便局の取扱局番号の後ろにアルファベット1文字を付して区別する(6桁の局所コードの場合は、1の位が0以外の数字の拠点が分室となる)。郵便日付印には本局名と並んで分室名が入る。これは郵便局より下位であるが独立した局所を示すものとし、業務上も取扱箇所が本局か分室か判別するためである(ただし一般客を相手にしない作業分室や私書箱分室は分室名を省略した日付印を使用するところもある)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "郵政民営化以前、集配普通郵便局が集配業務を廃止した場合、特定郵便局へ局種改定することが多かったが、郵政民営化直前になって分室化する例が増えた。これは分室の方が営業時間・取扱事務を柔軟に設定できることや、郵政民営化に向けた郵便局削減圧力への対応とされている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2007年7月30日、全国の貯金を扱う分室のうち過半数の親局が変更された。これは分室の親局は大規模な郵便局が多く、それらの局の貯金課はゆうちょ銀行の直営店となるところが多いのであるが、ゆうちょ銀行は分室を設置しないため、郵便局株式会社が貯金を扱う郵便局に親局を変更する必要があるためである。このとき分室名の変更を伴うことがあった。特に「貯金事務センター内」などの日本郵政公社の施設名を冠した分室名は、多くが地名を使った分室名に変更された(名古屋中央局貯金事務センター内分室は存続)。また無集配普通郵便局化された分室もあった。郵便しか扱わない分室および、民営化後も郵便局会社が貯金を扱うことになる郵便局の分室も親局の変更はなかった。なお、これに伴う親局が変更された拠点のうち、のちに分室での貯金取扱いを取り止めた拠点については、親局を元に戻したところも一部であった(ATMは、店舗外扱いとして存続させたケースを含むが、通常払込や硬貨入出金は取り止めとなった)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2012年10月1日、日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便局と郵便事業支店の一部については、分割前の郵便局側が親局となり、郵便事業拠点側が親局の「郵便分室」、郵便局と郵便事業の集配センターが分割された拠点の一部については、従来の郵便事業支店が親局となり、郵便局と分離された従来の集配センター側が親局の「集配分室」となった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2007年9月30日までは主に駅やスーパーマーケットなどに設置されたATMの正式名称であったが、翌日の郵政民営化によりこれらのATMはゆうちょ銀行の支店の管理となった。自動ドアのあるATMの入口には「ゆうちょ銀行本支店名+出張所名」と書かれ、取扱店番号が母店のものではなくなり、地域ごとのATM統一のものとなった。 ちなみに2022年1月17日より出張所のATMにおいて、平日と土曜日の指定時間帯を除く夜間や休日の通常貯金と通常貯蓄貯金口座の入出金に利用手数料がかかることとなった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "臨時出張所は文字通り、臨時に設けられる郵便局である。ただし臨時出張所と名乗っていても、ほとんど常設の窓口であるものもあれば、単なるワゴンセールにすぎないものもあり、千差万別である。ワゴンセールは、駅のコンコースや大型ショッピングセンターなどでの年賀はがきなどのくじ付ハガキの販売時や、夏の花火大会や祭などのイベント時の出店などで多く見られる。2007年の郵政民営化初の年賀はがき販売では、郵便局会社と郵便事業会社がそれぞれ臨時出張所を出店し、同じ場所で局会社と事業会社が交互で出店したり、同じショッピングセンターや駅構内の違った場所(東口と西口など)で両社が出店するような光景が見られた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "臨時出張所と称しながら常設の有人窓口を有する出張所があった。過去には日本橋局・東急百貨店内出張所(ポスタルショップ日本橋)、KDDビル内局・アネックス出張所(現在は出張所跡に本局が移転)、岡山中央局・天満屋内出張所(ポスタルショップ桃太郎)(現在は岡山東局・天満屋内分室)、岡山中央局・岡山市役所内出張所(市役所ポスタルショップ)(岡山東局・岡山市役所内分室になったあと、2012年(平成24年)に廃止)、仙台駅内局・仙台駅東口出張所が存在した。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "またかつて平野局(大阪市)や奈良西局(奈良市)、尼崎北局(兵庫県尼崎市)、布施局(大阪府東大阪市)では、普通郵便局改築に当たっての仮局舎を「臨時出張所」と称していた(1992年当時)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "民営・分社化を期に離島の集配局を対外的に郵便局会社の店舗とするため無集配局化した際に、集配業務継承先の出先となる拠点として、郵便事業時代は担当支店の集配所と位置づけられ、日本郵便となった現在は集配局の郵便集配所と称している(新東京局小笠原郵便集配所など)。郵便集配所は集配業務だけのため、一般にはその拠点の情報は公開されていない。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国(米国)における郵便局事業は公共企業体であるアメリカ合衆国郵便公社(The United States Postal Service、U.S.P.S)が行っており、貯金事務や簡易保険事務などは行っておらず、純粋に郵便事業が中核であるので、各郵便局もほぼ純粋に郵便サービスを提供している。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ブラジル全土におよそ3,800の郵便局があるとされる(2020年時点)。黄色に青文字の看板が目印。", "title": "ブラジル" } ]
郵便局(ゆうびんきょく、とは、郵便サービスを提供するための、その利用者向けの施設・組織のこと。
{{Otheruses||国レベルの行政組織|郵便公社|日本に存在した株式会社|郵便局 (企業)|イギリスの会社|ポスト・オフィス・リミテッド}} [[File:Holy Island Post Office - geograph.org.uk - 1503112.jpg|thumb|right|220px|[[イギリス|英国]][[リンディスファーン島]](ホリー島)の郵便局]] [[File:Stein, Aargau — Eingang zum Postamt und Schilder (u.a. "4332 Stein AG).JPG|thumb|right|180px|スイスの郵便局]] [[File:VTBS-Post office.JPG|thumb|right|180px|[[タイ王国|タイ]]の空港にある郵便局]] [[File:Trung tam vien thong Da Lat 01.jpg|thumb|right|220px|[[ベトナム]]の[[ダラット]]にある郵便局]] [[File:2010 Lekki Post Office Lagos Nigeria 4185312654.jpg|thumb|right|220px|[[ナイジェリア]]の郵便局]] {{読み仮名|'''郵便局'''|ゆうびんきょく|{{lang-en-short|post office}}}}とは、[[郵便]]サービスを提供するための、その利用者向けの施設・組織のこと。 == 概説 == 郵便局とは、郵便のサービスを提供するための、その利用者向けの施設および組織のことである。各郵便局は、郵便という大きなシステムの中でも特に利用者と直接に接する部分を担っており、より具体的に言うと、[[郵便物]]の受領、集配(担当区域内に設置されている[[郵便ポスト]]群を巡って郵便物を集めること、および担当区域内の住宅や店舗や事務所等に郵便物を届けること)を行っている。 国によっては、郵便局が上記の(純粋な)郵便以外の業務を行っている場合がある。 たとえば国によっては郵便と電話は同一の行政組織が担当している場合があり、いわゆる郵便局が、[[電話]]に関する窓口も同時に担っている場合がある<ref>[http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/post-office?q=post+office&searchDictCode=all ]</ref>([[フランス]]の[[フランス・メトロポリテーヌ|本土]]や[[フランスの海外県・海外領土|海外県]]など)。フランスでは郵便サービスを担っている国の行政機関は元々[[:fr:Postes, télégraphes et téléphones (France)|Postes,_télégraphes_et_téléphones]](PTT、「郵便・電信・電話」)という名称の機関で、それらを等しく担ってきた歴史があり、名称がLa Posteと短く変更された後も基本的には変わっておらずどれも行っており、その結果、各郵便局もそれらを扱っている。フランスのLa Poste内には[[公衆電話]]がいくつも設置されており、電話関連の事務手続きも行っている。 また郵便物ではない荷物等の受領・配送等の[[運送]]事業の窓口になっている国([[日本郵便]]の[[ゆうパック]]など)、[[旅券]]の発券を委託されている国([[アメリカ合衆国郵便公社]])、[[銀行]]窓口機能や[[保険]]窓口など[[金融機関]]としての機能を併せ持った例もある(日本の[[ゆうちょ銀行]]と[[かんぽ生命保険]]、[[台湾]]の[[中華郵政]]、フランスなど)。 日本の[[郵政民営化]]以降、「[[ぽすくま]]」ブランドなどのグッズ類などを販売する郵便局もあるほか、過疎地では高齢者が[[買い物難民]]化しないように食品などの無人販売コーナーを併設する郵便局が約3000(2022年12月時点)に増えている<ref>「[https://mainichi.jp/articles/20230213/dde/041/040/036000c 郵便局で無人販売[増]地域の商店[減]高齢者手助け]」『[[毎日新聞]]』夕刊2023年2月13日(社会面)同日閲覧</ref>。 == ヨーロッパ == === ドイツ === [[File:German post office in Galata, Constantinople.jpg|thumb|220px|right|[[オスマン帝国]]首都[[コンスタンチノープル]]にあった、ドイツの郵便局(1870年の絵ハガキ)]] ドイツにおいての郵便事業は民間会社である[[ドイツポスト]](DeutschePostAG)<ref>[http://www.dpwn.de dpwn.de ドイツポスト公式サイト]([[ドイツ語]])</ref>が主に扱っている。[[1995年]]、それまで国営の[[連邦郵便公社 (ドイツ)|連邦郵便公社]]が行っていた郵便、電話、貯金の事業をそれぞれ[[ドイツテレコム]]、[[ドイツ・ポストバンク]]、そしてドイツポストに分割、株式会社として民営化したことに由来する。 === フランス === Bureau de poste(ビュロー・ドゥ・ポスト)と云う。「La Poste ラ・ポスト」と書かれた黄色い看板が目印となっている。フランス本国内では、16,130ほどある(2020年時点)とされている。 {{Gallery|width=180px |File:Bureau_de_poste_à_Paris.jpg|首都[[パリ]]にある郵便局の外観 |File:Bureau de poste 1 bis rue de Chaillot.jpg|パリ市内の別の郵便局の外観([[アパルトマン]]の建物の1階) |File:Intérieur du bureau de poste de la rue du Colisée.jpg|パリのある郵便局の内部 |File:Nice (5647378894).jpg|[[ニース]]の郵便局の外観 |File:Poste Mas-Thibert by Malost.JPG|[[アルル]]の郵便局の外観 }} {{節スタブ|section=1|date=2021年6月14日}} === オランダ === [[オランダ]]においては、民間会社であるTPGPOSTが郵便事業を行っている。TPGPOSTは全額民間資本であり、他ヨーロッパ諸国のように政府資本を一切入れていないところに特徴がある。 ===スイス=== 国営企業である[[スイスポスト]]が郵便事業を行っている。スイス国内の雇用先としてはスーパーマーケットを展開する[[ミグロ]]に次いで国内第2位である。郵便以外にも保険や金融事業も行っている。かつては電話事業も行っていたが、1998年に[[スイスコム]]として分割民営化された。郵便局では文房具や雑誌も取り扱っている。 郵便物の配送は歴史的な経緯から[[貨客混載]]の[[ポストバス]]でも行われている。 特殊な事業として、スイスは[[国民皆兵]]であるため[[予備役]]用の[[自動小銃]]を保管しており、有事の際は郵便局に集合して銃器や弾薬を受け取る。 首都の[[ベルン]]には[[万国郵便連合]]がある。 === イギリス === [[File:Microcosm of London Plate 063 - The Post Office.jpg|thumb|250px|英国首都[[ロンドン]]の[[ロンバード・ストリート (ロンドン)|ロンバード・ストリート]]にあった郵便局を描いた絵(1803年)]] [[イギリス]](英国)の郵便局は1516年に[[イングランド国王]][[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]によって王室郵便([[ロイヤルメール]])が設立されたことに起源を発する。1635年には王室郵便の利用を一般公開する旨を[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]が布告した。しかし、当時は受取人後払いであったため、不払いなどが多発していたという。1830年代に入ると[[ローランド・ヒル]]が郵便改革案を提唱し、1840年改革案が[[イギリスの議会]]を通過すると[[郵便切手]]の創設や全国均一払いなどの特徴を持つ近代郵便が誕生した。1850年代にはポストが創設された。これらの手法が世界に広まったのが近代郵便システムである<ref>{{Cite book2|author=井上卓朗|title=日本における近代郵便の成立過程|url=http://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_02_all.pdf|format=PDFファイル形式|series=『郵政資料館 研究紀要』第2号|date=2010-03-09|year=2010|publisher=[[郵政博物館]]|page=22|chapter=論文 日本における近代郵便の成立過程|accessdate=2017-07-05}}</ref>。これらの経緯からイギリスにおいての郵便事業は、1700年代以降350年以上にわたり国営のロイヤルメールの独占が続いていたが、2000年に政府100%所有の特殊会社、2001年に郵政公社から英国政府100%出資の株式会社となり、2002年には公社の称号から「ロイヤルメールグループ」に名称変更し、数十社を展開、主に窓口事業や郵便貯金事務などを行うポスト・オフィス (Post Office) と、国際小包配送を行う[[パーセルフォース]]が実務の中核を担っていた。郵政事業参入の自由化が2005年に行われ、ドイツ・ポストやUKメールなどの新規参入が相次いでいるため、各郵便局もそうした業務を行っている。2011年に郵便サービス法にてロイヤルメールの完全民営化が決定すると、ポスト・オフィスは[[ポスト・オフィス・リミテッド]]([[:en:Post Office Ltd]])として分離され、パーセルフォース([[:en:Parcelforce]])も別会社として三社分離された。ポスト・オフィス・リミテッドは、現時点も政府100%保有の国営である。 == アジア == === トルコ === [[トルコ]]全土でおよそ5,000ほどの郵便局があるとされる(2011年時点)。黄色に青文字でPTTと書かれている看板が目印。郵便物、電信、電話を扱っていたのでPTTという名になっている。電話を取り扱う組織は既に分離・独立したが、「PTT」という短縮形の名称はトルコ国民にすっかり定着していたので、そのまま使い続けることが選ばれた。現在、預金も取り扱っている。 :[[:en:PTT (Turkey)]] {{節スタブ|section=1|date=2021年6月14日}} {{Gallery|width=200px |File:GrandPostOfficeIstanbul02.JPG|[[イスタンブール]]の中央郵便局 |File:GrandPostOfficeIstanbul04.JPG|イスタンブールの郵便局の内部 |File:Post Office in the Village.jpg|トルコのとある小さな村の郵便局 }} === インド === [[インド]]が1947年に独立した時点では、23,344の郵便局があったとされる。その後増加し、154,965となっている(2017年時点)。その9割ほどは田舎の小さな郵便局である。インドの郵便局は赤に黄色い三本の曲線の看板が目印。 {{Gallery|width=200px |Baduria Sub Post Office - Baduria 2012-02-24 2487.JPG| |Majuli Island , Assam (19).jpg| |File:Bharatpura Post Office patna Bihar.jpg| }} === ロシア === [[ロシア連邦]]全土でおよそ42,000ほどの郵便局があるとされる(2020年時点)。青い看板が目印。 {{Gallery|width=180px |File:Russian Post.svg|ロシアの郵便局の目印 |File:Контора почтово-телеграфная 41.jpg|[[ウラジオストク]]の郵便局 |File:Postal office in Russian village.JPG|[[トヴェリ州]]の小さな村Svapushcheの郵便局 |File:Voronezh post office.jpg|[[ヴォロネジ]]の郵便局の内部 }} === 中華人民共和国 === {{Main|中国郵政}} [[Image:China Post office in Shanghai.JPG|thumb|right|200px|中国の郵便局([[上海]])]] [[中華人民共和国|中国]]において、郵便事業は2007年に監督官庁の[[中華人民共和国国家郵政局|国家郵政局]]と、実質的経営を行う中国郵政集団公司に組織分割された。また2006年に郵政事業と通信事業が分割され、都市部においては郵便集配と電報を行う「郵政局」(小規模な局は「郵局」と呼称)ならびに各地の通信会社に事業分割された。ただし局によっては、現在でも郵便・貯金・電話・新聞などの販売を同拠点で扱っているケースも見られる。なお、貯金は2007年に[[中国郵政儲蓄銀行]]として独立している。 === 香港 === {{節スタブ|section=1|date=2021年6月14日}} === 北朝鮮 === {{節スタブ|section=1|date=2021年6月14日}} === 韓国 === {{Main|郵政事業本部}} [[大韓民国]]では[[産業通商資源部]]が郵便、預金(貯金という用語は使用していない)、郵便局保険(簡易保険に相当)を取り扱っており、預金や保険は取り扱わないが、水協(日本の[[漁業協同組合|漁協]]に相当)、[[農業協同組合|農協]]、信用組合を含む全ての[[金融機関]]と[[コンピュータネットワーク|電算網]]がつながっている。なお、別定郵遞局({{Lang|ko|별정우체국}}:ピョルジョンウチェグッ。別に定めたという意味。日本の「[[特定郵便局]]」に相当するようなもの)がある。 === 台湾 === {{Main|中華郵政}} [[File:Taipei Taiwan Beimen-Post-Office-01.jpg|thumb|200px|right|[[台北郵局]]]] 台湾における郵便事業は、[[中華民国政府]]が出資する中華郵政(中華郵政股份有限公司)が行っており、かつて中華郵政は[[中華民国交通部]]郵政総局であったが組織改革によって2003年[[1月1日]]に公共企業に改組し、交通部が100%出資する国営公司となったため、民間では「郵局(郵便局)」と通称される。事業内容は郵便事業および郵便貯金事業。なお、2007年から[[2008年]]にかけて一時期「台湾郵政」と呼称していた。 == 日本 == [[ファイル:東京中央郵便局 全景.jpg|thumb|[[東京中央郵便局]]]] [[ファイル:Kure ryotani post office 20200815.JPG|thumb|郵便局の例(呉両谷郵便局、[[広島県]][[呉市]])]] [[ファイル:Post Office Teller.jpg|thumb|郵政民営化前の郵便局の窓口(赤色の窓口は郵便、緑色は郵便貯金、青色は簡易生命保険業務を行うことを表している。[[逓信総合博物館]]にて撮影、2007年9月)]] [[ファイル:Billboard_of_JpNetwork.jpg|thumb|[[2007年]]、[[郵政民営化]]を翌日に控え、カバーが外された郵便局の看板。「JP」のロゴが見える([[北海道]][[旭川市]])<ref group="注釈">画像の[[モザイク]]がかかった緑色は[[旭川市|旭川]]豊岡十四条郵便局とは無関係な歯科医院の看板とみられる[https://www.google.com/maps/@43.772109,142.4149787,3a,15y,123.26h,92.92t/data=!3m6!1e1!3m4!1stFYji2ki8_uOlZBCrQ_65g!2e0!7i13312!8i6656]。</ref>。]] [[ファイル:Kure ryotani post office 2.JPG|thumb|郵便局の窓口の例(呉両谷局)]] [[ファイル:Mobile post office01.jpg|thumb|[[福岡市]]に仮設されていた、車両型郵便局の例(2014年)]] {{Main|日本郵政公社|日本郵便}} === 日本の郵便局の定義 === 日本において「郵便局」と称するものは、歴史的には、[[逓信省]]、[[郵政省]]、[[総務省]][[郵政事業庁]]、[[日本郵政公社]]と続いた国の機関であり、[[2007年]][[10月1日]]の[[郵政民営化]]から[[2012年]][[9月30日]]までは[[郵便局 (企業)|郵便局]]株式会社の事業所、[[2012年]]10月1日以降は[[日本郵便]]株式会社の事業所である。 2022年7月30日時点で全国に23,608の郵便局(分室、[[簡易郵便局]]を含める)がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/notification/storeinformation/index02.html|title=郵便局局数情報〈オープンデータ〉 - 日本郵便|accessdate=2018-07-31|website=www.post.japanpost.jp|language=ja}}</ref>。 ==== 法的な定義 ==== [[日本郵便株式会社法]]([[平成]]十七年法律第百号)第二条4項に定義があり、それによれば、日本郵便株式会社の営業所のうち、郵便窓口業務、銀行窓口業務、保険窓口業務を行うものをいう<ref>{{Cite web|和書|title=日本郵便株式会社法 {{!}} e-Gov法令検索|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417AC0000000100|website=elaws.e-gov.go.jp|accessdate=2021-10-25}}</ref>。すなわち、[[ゆうゆう窓口]]しか設置されていないもの([[新東京郵便局]]など)や、ゆうちょ銀行の直営店が併設されているなどの理由から、日本郵便としてゆうちょ銀行の窓口業務を受託していないもの([[東京中央郵便局]]など)、かんぽ生命の保険窓口業務を受託していない簡易郵便局などは、名称に「郵便局」が含まれていても、法的な整理としては「郵便局」ではない「会社の営業所」として扱われる<ref>{{Cite web|和書|title=日本郵便株式会社法第6条第2項の規定による届出関係 - 日本郵便|url=https://www.post.japanpost.jp/newsrelease/storeinformation/index.html|website=www.post.japanpost.jp|accessdate=2021-10-25}}</ref>。 [[郵便局株式会社法]]<ref group="注釈">[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/180/meisai/m18005180006.htm 郵政民営化法等の一部を改正する等の法律(平成二十四年法律第三十号)]により改正(改題名)される前の日本郵便株式会社法。</ref>では、「会社の営業所であって、郵便窓口業務を行うものをいう。」と定義されていた<ref>{{Cite web|和書|title=郵便局株式会社法|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/16320051021100.htm|website=www.shugiin.go.jp|accessdate=2021-10-25}}</ref>。 === 郵政民営化以前 === 郵政民営化以前の郵便局は、以下のように区別された。 * [[普通郵便局]] * [[特定郵便局]] * [[簡易郵便局]] また、集配業務の有無により、普通郵便局と特定郵便局は次のように分けられた。簡易郵便局は窓口業務のみを扱う。 * [[集配郵便局]] - 基本的に窓口業務と集配業務を行う。郵政公社末期には、さらに以下のように分類される。 ** 統括センター - 郵便物の区分を行い、時間外窓口(ゆうゆう窓口)がある。→[[郵便事業]]の支店に移行。 ** 配達センター - 郵便物の区分を行わず、時間外窓口がない。→郵便事業支店配下の集配センターに移行。 * 無集配郵便局 - 窓口業務のみを行う。 === 郵政民営化以降 === 郵政民営化後は、集配業務および時間外窓口についてはすべて郵便事業株式会社の事業となり、郵便局を運営する郵便局株式会社からは切り離された。また郵便局内にあるATMについてもゆうちょ銀行の管理となった。したがって郵便局の規模の大小に関係なく郵便局は主として窓口業務のみとなり、郵便局の区別は現在では「直営郵便局」「簡易郵便局」の2種類に区別される。郵便局の業務の約9割が委託(郵便・貯金・保険)である。2012年10月1日付で郵便局株式会社が郵便事業株式会社を吸収合併し、日本郵便株式会社が発足したため、郵便業務が自前業務となり、貯金・保険が受託業務の中心となった。 日本の郵政事業は時代とともにその事業主体が様々に移り変わり、その変遷とともにそれらの根拠法が示す郵便局なるものの定義や設置趣旨なども多少異なっている。 === 郵政省 === 郵政省設置法では[[国家行政組織法]]に基づき、いわゆる郵政事業を一体的に遂行する責任を負う唯一の政府機関として[[郵政省]]が設置された。郵政省設置法に基づき、郵便局は郵政省の事務の一部を分掌する地方支分部局のひとつとされ、その名称、管轄区域、所掌事務および内部組織は、[[郵政大臣]]が定めることとされた(廃止前の郵政省設置法第6条)。 ==== 郵政事業庁 ==== 郵政省が廃止され、同時に総務省が置かれると、新たに郵政事業を行う総務省の外局として[[郵政事業庁]]が設置された。郵政事業庁設置法においても、郵便局は郵政事業庁におかれる地方支分部局のひとつとされ、郵政事業庁の所掌事務のうち、現業事務の全部または一部を分掌するものとされた。また、その名称、位置、管轄区域、所掌事務および内部組織は、総務省令に委ねられることとされた(廃止前の郵政事業庁設置法第11条)。 === 日本郵政公社 === プログラム法である[[中央省庁等改革基本法]]に基づき[[日本郵政公社法]]が定められ、日本郵政公社が郵政事業を実施する国営の新たな公社として発足したあとは、郵便局の設置主体も公社に移った。日本郵政公社法では、郵便局を、総務省令で定めるところにより、あまねく全国に設置しなければならないものとして定めており、その省令を定めるに当たっては、地域住民の利便の確保について配慮することとされている(日本郵政公社法第20条)。日本郵政公社は、同法の施行の際、現に存する郵便局ネットワークの水準を維持することを旨とすることとされている。 なお、[[2006年]]9月以降、集配郵便局の削減(無集配局化)や、集配センター・配達センターに細分化された。この体制をもって2007年10月1日の民営化・分社化を迎えた。 === 郵便局株式会社 === [[郵政民営化法]]により、2007年10月1日をもって日本郵政公社は解散し、[[日本郵政]]株式会社([[持株会社]])、[[郵便事業]]株式会社(郵便集配)、[[ゆうちょ銀行]](貯金)、[[かんぽ生命保険]](生命保険)・[[郵便局 (企業)|郵便局]]株式会社に、郵政3事業が分割承継された(以上、「日本郵政グループ」)。郵便窓口業務および郵便局を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務を引き継ぐものとして、郵便局株式会社が設立される。[[郵便局株式会社法]]では、郵便事業株式会社の委託を受けて郵便窓口業務、印紙の売りさばきを営むとされたほか、郵便局を活用して行う地域住民の利便の増進に資する業務として、銀行業および生命保険業の代理業務を営むことができるとされた。同法における郵便局の設置基準としては、「総務省令で定めるところにより、あまねく全国において利用されることを旨として郵便局を設置しなければならない」と規定されており、日本郵政公社法に規定する「地域住民の利便の確保についての配慮」とは文言上異なる規定がなされている(郵便局株式会社法第五条)。 後述の通り2012年10月1日に郵便局会社と郵便事業会社が統合されるまでの5年間、集配業務は郵便局の事業ではなかった。しかし、従来通り郵便局の事業と勘違いする利用者や、郵便事業の集配担当社員のことを「郵便局員」と誤った報道をするマスコミが多かった。こうした状況により、郵便事業の集配担当社員が、郵便局社員ではないにもかかわらず自らをあえて「郵便局(の者)です」と名乗らざるを得ない事例もあった。 === 日本郵便株式会社 === [[File:Japan Post Office Logo.svg|thumb|200px|日本郵便による郵便局のロゴマーク]] [[2012年]][[10月1日]]、郵政民営化法等の一部を改正する等の法律(平成二十四年法律第三十号)の施行に伴い、郵便局株式会社が郵便事業株式会社を吸収合併し、[[日本郵便]]株式会社となった。この際に郵便局の定義も変更され、前述の通り、郵便窓口業務、銀行窓口業務、保険窓口業務の全てを行うものを指す語となった。合併後、郵便局は日本郵便株式会社の店舗となり、従来郵便事業の支店・集配センターだった拠点も原則「'''郵便局'''」の名称に変更されている。これに伴い、旧郵便局会社の店舗と同じ名称を使う旧郵便事業の支店については、単に「支店」を「郵便局」に置き換えるに留まらない名称変更が行われた(例:郵便事業大阪支店→[[大阪北郵便局]]、郵便事業博多支店→[[博多北郵便局]]、郵便事業宇佐四日市支店→[[四日市郵便局 (大分県)|四日市郵便局]](大分県)、また集配中央郵便局では地名+支店→地名+中央郵便局に)。郵便局会社店舗の場所と別の場所に設置された一部の郵便事業支店や集配センターについては「分室」の扱いとなり、「○○郵便局郵便分室」「××郵便局集配分室」となった拠点もある。これらとは別に、新たに同一名称の郵便局が発生したケースもある(例:郵便事業丹波支店→[[柏原郵便局 (兵庫県)|丹波郵便局]](兵庫県)、元からある[[丹波郵便局 (京都府)|丹波郵便局]](京都府))。 === 郵便局の業務 === [[File:Yubin haitatsuin P8086580a.jpg|thumb|right|160px|配達の定番ともなっている[[ホンダ・カブ]]にまたがり配達業務を行う郵便局職員]] [[File:Hijetcargo.jpg|thumb|160px|right|郵便局の業務の一つである、郵便物の集配のために使う[[郵便車]](日本)(車種:[[ダイハツ・ハイゼット|ハイゼット]])。画像は日本郵便の車両ではなく、委託先の東京米油会社の車両。]] [[File:6th Toyota Hilux Yubinsya.jpg|thumb|160px|right|同じく郵便物の集配業務に使う郵便車(日本)(車種:[[トヨタ・ハイラックス|ハイラックス]])。画像は日本郵便の車両ではなく、委託先の[[日本郵便輸送]]会社の車両。]] [[ファイル:Kamigataya.jpg|thumb|200px|絵葉書([[1904年]])。[[消印]]がひとつひとつ切手にかかるように押していた。]] 郵便局の基本業務は郵便業務であるが、その中でも特に重要な業務が郵便物の配達である。担当区域内宛ての郵便物一件一件を、一軒一軒の家の前まで出向き家ごとに位置や形状が異なる[[郵便受け]]の入り口に入れていく。 物流センターを除く各直営店舗では、郵便窓口および[[かんぽ生命保険]]の窓口業務を郵便局会社・日本郵便が行うと定められている。加えて直営店の設置されていない店舗では、[[ゆうちょ銀行]]の業務も行っている。民営化以降の特徴として、グループ外の商品の受託販売が可能となった。対象は自動車保険、変額年金保険、医療保険、がん保険、法人向け生命保険、住宅ローンなどである。取扱は現在、おおむね1,000局以下と限定的である。 民営化以降、封筒などの文具や菓子なども郵便局で取り扱うことができるようになった。また極少数の郵便局であるが、子会社がフランチャイズ運営する[[コンビニエンスストア]]([[ローソン#JPローソン|JPローソン]])を併設営業している。 [[国民体育大会|国体]]・[[博覧会]]会場などに設けられる'''臨時出張所'''や、[[自衛隊]]の[[艦船]]内などに開設される[[船内郵便局]]などもある。 [[富士山頂郵便局]]([[静岡県]][[富士宮市]])や上高地局([[長野県]][[松本市]])などは、開設が季節限定ではあっても設置自体が「常設」のため、'''定期開設局'''と呼ばれる。郵便窓口業務のみを行う。 トラックの荷台部やマイクロバスの車内に郵便局の設備を設置し、駐車して郵便局業務を行う例がある。{{誰範囲2|このような設備を持つ車両は'''{{ill2|移動郵便局|en|Mobile post office}}'''<ref name=tvasahi26/>または'''車両型郵便局'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2022/07_hokuriku/0908_01.html |title=石川県小松市における車両型郵便局による郵便局サービスの開始 - 日本郵便 |access-date=2023-08-11 |website=郵便局 | 日本郵便株式会社 |language=ja}}</ref>と呼ばれる|date=2014年11月}}。郵便局が閉鎖された地域を定期的に巡回したり、[[東日本大震災]]など災害で郵便局が被災し機能しなくなった地域に一時期常設されることもある。2018年時点で、日本ではATMやゆうパック受付ができる車両が7台ある<ref name=tvasahi26>{{Cite web|和書|url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000136526.html |title=ATMやゆうパック受け付けも 避難所に移動郵便局 |access-date=2023-08-11 |website=テレ朝news |language=ja}}</ref>。 [[農業協同組合]]・[[漁業協同組合]]や地方の事業者、地域住民が受託する郵便局を、郵便局の歴史的経緯から「[[簡易郵便局]]」と称することもある(郵便局名の末尾が「簡易郵便局」となっているものが該当する)。簡易郵便局では貯金や保険業務を取り扱わず、郵便業務のみの場合もある。 [[1990年代]]の一時期「シティポスト」と称し、都市部の[[百貨店]]・[[地下街]]・[[旅行会社]]内にカウンターのみの郵便局窓口を設けることが流行したものの、シティポストの名称は長続きせずに徐々に廃止、民営化前にその多くが廃止された。その後、2021年3月1日に廃止された池袋西武簡易郵便局を最後に全てのシティポストは廃止された。分類としては簡易郵便局の一種であった。 [[1970年代]]までは、旧逓信省での電話業務の経緯から、農林漁村の郵便局で[[日本電信電話公社]](電電公社)の業務に属する電話交換業務(磁石[[電話交換機#概要|手動]]式)や電報受託業務も行う局もあり、[[日本電信電話株式会社]](NTT)発足までは電話関連事務を電電公社の受託で行う局もあった。電報業務を行わなくなった後の迅速な伝達商品として、FAX通信を用いた[[電子郵便]](レタックス)が生まれた。 === 分室・出張所 === 郵便局の下部に属する「'''分室'''」や「'''出張所'''」「'''臨時出張所'''」「'''郵便集配所'''」も存在する。 ==== 分室 ==== 分室は'''窓口分室'''(例:岡山中央局天満屋内分室、北浜郵便局高等裁判所内分室、成田郵便局空港第1旅客ビル内分室、同第2ビル内分室)、'''集配(郵便)分室'''(例:陸前高田局郵便分室、米子局集配分室<ref>[https://www.mhs.co.jp/work/yonago-postal-building/ 「米子集配分室」松田平田設計]</ref>、六日町局塩沢集配分室、和歌山中央局川辺集配分室、海南局野上集配分室)、'''作業分室'''(例:荻窪局ゆうパックセンター分室、帯広局分室、仙台東局若林分室、新東京局羽田分室、新大阪局南港分室、徳島中央局マリンピア分室、宇都宮東局岩舟分室、岐阜中央局下川手分室)、'''ゆうゆう窓口分室'''(例:銀座局JPタワー内分室、晴海局京橋分室、富山南局富山駅前分室)や'''私書箱分室'''(例:渋谷局新大宗ビル内分室、新宿局新宿NSビル内分室、同新宿モノリス内分室)などに分かれる('''なおこの分室の区別は郵趣家が名付けたもので、日本郵便がつけたものではない''')。窓口分室は基本的に小規模な局舎だが、かつての名古屋中央局名古屋駅前分室のように元々中央郵便局だった局舎を流用したために大規模なものもある。 民営化後に主にゆうパックの作業をする「作業分室」が増加傾向にある。繁忙期のみ貸し倉庫を使う、期間限定の作業分室の設置例も増えている。 分室は固有の取扱局番号を持たず、属する郵便局の取扱局番号の後ろにアルファベット1文字を付して区別する(6桁の局所コードの場合は、1の位が0以外の数字の拠点が分室となる)。郵便[[日付印]]には本局名と並んで分室名が入る。これは郵便局より下位であるが独立した局所を示すものとし、業務上も取扱箇所が本局か分室か判別するためである(ただし一般客を相手にしない作業分室や私書箱分室は分室名を省略した日付印を使用するところもある)。 郵政民営化以前、集配普通郵便局が集配業務を廃止した場合、特定郵便局へ局種改定することが多かったが、郵政民営化直前になって分室化する例が増えた。これは分室の方が営業時間・取扱事務を柔軟に設定できることや、郵政民営化に向けた郵便局削減圧力への対応とされている。 2007年[[7月30日]]、全国の貯金を扱う分室のうち過半数の親局が変更された。これは分室の親局は大規模な郵便局が多く、それらの局の貯金課はゆうちょ銀行の直営店となるところが多いのであるが、ゆうちょ銀行は分室を設置しないため、郵便局株式会社が貯金を扱う郵便局に親局を変更する必要があるためである。このとき分室名の変更を伴うことがあった。特に「[[貯金事務センター]]内」などの日本郵政公社の施設名を冠した分室名は、多くが地名を使った分室名に変更された(名古屋中央局貯金事務センター内分室は存続)。また無集配普通郵便局化された分室もあった。郵便しか扱わない分室および、民営化後も郵便局会社が貯金を扱うことになる郵便局の分室も親局の変更はなかった。なお、これに伴う親局が変更された拠点のうち、のちに分室での貯金取扱いを取り止めた拠点については、親局を元に戻したところも一部であった(ATMは、店舗外扱いとして存続させたケースを含むが、通常払込や硬貨入出金は取り止めとなった)。 2012年10月1日、日本郵便株式会社の発足に伴い、郵便局と郵便事業支店の一部については、分割前の郵便局側が親局となり、郵便事業拠点側が親局の「郵便分室」、郵便局と郵便事業の集配センターが分割された拠点の一部については、従来の郵便事業支店が親局となり、郵便局と分離された従来の集配センター側が親局の「集配分室」となった。 ==== 出張所 ==== 2007年9月30日までは主に[[鉄道駅|駅]]や[[スーパーマーケット]]などに設置された[[現金自動預け払い機|ATM]]の正式名称であったが、翌日の郵政民営化によりこれらのATMはゆうちょ銀行の支店の管理となった。自動ドアのあるATMの入口には「ゆうちょ銀行本支店名+出張所名」と書かれ、取扱店番号が母店のものではなくなり、地域ごとのATM統一のものとなった。 ちなみに2022年1月17日より出張所のATMにおいて、平日と土曜日の指定時間帯を除く夜間や休日の通常貯金と通常貯蓄貯金口座の入出金に利用手数料がかかることとなった。 ==== 臨時出張所 ==== 臨時出張所は文字通り、臨時に設けられる郵便局である。ただし臨時出張所と名乗っていても、ほとんど常設の窓口であるものもあれば、単なる[[ワゴンセール]]にすぎないものもあり、千差万別である。ワゴンセールは、駅の[[コンコース]]や大型ショッピングセンターなどでの年賀はがきなどのくじ付ハガキの販売時や、夏の[[花火]]大会や祭などのイベント時の出店などで多く見られる。2007年の郵政民営化初の年賀はがき販売では、郵便局会社と[[郵便事業]]会社がそれぞれ臨時出張所を出店し、同じ場所で局会社と事業会社が交互で出店したり、同じショッピングセンターや駅構内の違った場所(東口と西口など)で両社が出店するような光景が見られた。 臨時出張所と称しながら常設の有人窓口を有する出張所があった。過去には日本橋局・東急百貨店内出張所(ポスタルショップ日本橋)、KDDビル内局・アネックス出張所(現在は出張所跡に本局が移転)、岡山中央局・天満屋内出張所(ポスタルショップ桃太郎)(現在は岡山東局・天満屋内分室)、岡山中央局・岡山市役所内出張所(市役所ポスタルショップ)(岡山東局・岡山市役所内分室になったあと、2012年(平成24年)に廃止)、仙台駅内局・仙台駅東口出張所が存在した。 またかつて平野局([[大阪市]])や奈良西局([[奈良市]])、尼崎北局(兵庫県[[尼崎市]])、布施局(大阪府[[東大阪市]])では、普通郵便局改築に当たっての仮局舎を「臨時出張所」と称していた(1992年当時)。<!---局名印にも「臨時出張所」と入っていた---> ==== 郵便集配所 ==== 民営・分社化を期に離島の集配局を対外的に郵便局会社の店舗とするため無集配局化した際に、集配業務継承先の出先となる拠点として、[[郵便事業]]時代は担当支店の集配所と位置づけられ、[[日本郵便]]となった現在は集配局の郵便集配所と称している(新東京局小笠原郵便集配所など)。郵便集配所は集配業務だけのため、一般にはその拠点の情報は公開されていない。 == アメリカ合衆国 == {{Seealso|アメリカ合衆国郵便公社|郵便#アメリカ合衆国}} アメリカ合衆国(米国)における郵便局事業は公共企業体である[[アメリカ合衆国郵便公社]](The United States Postal Service、U.S.P.S)が行っており、貯金事務や簡易保険事務などは行っておらず、純粋に郵便事業が中核であるので、各郵便局もほぼ純粋に郵便サービスを提供している。 {{Gallery|width=200px |File:Statenville Post Office.JPG|米国[[:en:Statenville]]の郵便局。青色で「UNITED STATES POST OFFICE」と書かれた看板が掲げられている。 |File:Moultrie_Post_Office,_US_319.JPG|米国[[:en:Moultrie]]の郵便局 }} <!-- 郵便サービスの内容は【[[郵便]]】で記述するべきなので、そちらに配置されている。 === 郵便の種類 === 全部で3種類。 *Express Mail :3種類の中で最も速い速達。集配翌日の正午〜15時までに受取人に配達することを依頼人に保証しており、時間内に届かなかった場合は依頼人に料金が返却されることとなっている。また、無料で$100までの保険を付加することも可能。これはその速達性から、依頼主との信用関係を確保するためである。Express Mail Flat-Rate Envelopeという専用封筒で送ると、重量に関係なく一律$13.65の料金で送ることができる。封筒は無料で、各郵便局に置かれている。その他、インターネットで依頼封書・小包が現在どこにあるかを確認することができる。 *First-Class Mail :アメリカ国内であれば1日から3日以内で配送される。機密性の高い文書(請求書の書類や法定文書など)に利用される。U.S.P.Sの定型はがきの大きさであれば、料金は23セント。それより大型のものであれば、封書の料金(37セント)となる。ただし長方形以外の変形封書は追加料金がかかる。 *Priority Mail :アメリカ国内であれば3日以内で配送される。ただし荷物には大きさの制限があり、縦・横・高さの合計が180インチ(約45cm)以下で、重さは70ポンド(約32kg)までのものとしている。これもPriority Mail Flat-Rate Envelopeという専用封筒を利用すると、送り先や重量に関係なく一律$3.85で送ることができる。U.S.P.Sのウェブサイト[http://www.usps.com/welcome.htm 1]でプリントアウトした宛名レーベルを使用すると、無料で配達確認サービス(Delivery Confirmation)が付加される。 *Parcel Post :小包の配送サービスで、JP(日本郵政)のゆうパックに相当。アメリカ国内であれば2日から9日で配達される。縦・横・高さの合計が130インチ(約330cm)、重量70ポンド(約32kg)の大きさまでの制限がある。 *Media Mail :本やCD、DVD、ビデオテープなどの配送向郵便。アメリカ国内であれば8日ほどで配達される。料金はParcel Postよりも安価。 --> == カナダ == {{節スタブ|section=1|date=2021年6月14日}} {{Gallery|width=200px |File:Postal facility interior.JPG|カナダの郵便局の仕分け作業所 }} == ブラジル == [[ブラジル]]全土におよそ3,800の郵便局があるとされる(2020年時点)。黄色に青文字の看板が目印。 {{Gallery|width=200px |File:Posto dos Correios, Canindé, Ceará, Brasil.JPG|ブラジル[[セアラー州]][[:en:Canindé, Ceará|カニンデ]]の郵便局 |File:Curitiba (Brasil) 2018-05-31 4.jpg|[[クリチバ]]の郵便局 |File:Correios rio vermelho-4863.jpg|[[バイーア州]][[サルバドール]][[:en:Rio Vermelho (neighborhood)|Rio Vermelho リオ・ヴェルメーリョ地区]]の郵便局 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Post offices}} * [[期間雇用社員 (日本郵政)]] * [[郵便ポスト]] * [[郵便局留め]] * [[国会内郵便局]] * [[宮内庁内郵便局]] * [[鉄道郵便局]] ** [[郵便車]] * [[郵便番号]] * [[消印]] ** [[日付印]] * [[郵便趣味]] ** [[切手収集]] ** [[風景印]] ** [[記念印]] ** [[定例局]] ** [[郵便局巡り]] ** [[旅行貯金]] * [[CTM]] - 係員操作型の貯金・保険の端末機はCTMと呼ばれる。 * [[郵便ステーショナリー]] * [[現金自動預け払い機]] * [[Japan Post System]] * [[ボイスコール]] * [[自爆営業]] * 日本の郵便局:[[日本郵政公社]] - [[日本郵政]] - [[日本郵便]] * 各国の郵便局:[[コレオス・デ・コスタリカ]] - [[スイスポスト]] * [[漂流郵便局]] * [[郵便機]] == 外部リンク == * [https://www.post.japanpost.jp/ 郵便局](日本) {{日本郵便のサービス}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうひんきよく}} [[Category:郵便局|*]]
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神話
神話(しんわ、英: Myth、Mythology)は、人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている。 英語のMythology(ミソロジー)には「物語としての神話」と「神話の研究」のふたつの意味がある。例えば「比較神話学」(comparative mythology)は異なる文化圏の神話を比較研究する学問であり、一方で「ギリシア神話」(Greek mythology)とは古代ギリシアの神話物語の体系を指す。単語「myth」は口語にてしばしば「誤った根拠」を指して使われるが、学問的に使われる場合は、その真偽を問うことは無い。民俗学では、神話とは世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明する象徴的な物語と定義されるが、他の学問分野では単語「myth」の使い方が異なり、伝統的な説話を広く包括する意味合いを持たせている。 比喩的な用法では根拠も無く絶対的事実だと思われている事象を例えて用いる言葉にも使われ、「日本の『安全神話』(safety myth)が崩れた」といった例で使われる場合もある。これらは、現実が隠蔽され、人々の考え方や行動が何かしら誤った方向に固定化してしまった「常識」ともいえる。 神話の主要登場人物は神や超自然的なヒーローが多い。支配者や聖職者は神話を神聖なものとして是認し、宗教と密接に関係させることがあり、そのような社会では神話は遠い昔の「真実の物語」とみなされる。実際に、多くの社会では古い物語を二つに、すなわち「実話」として語る神話と、「嘘の話」である寓話とに区分している。神話は一般的に、世界が現在の形をなす前の根源的な時代のことを描写し、そこで世界がどのようにして今の有り様となったか、そしてさまざまな習慣や社会組織、さらに禁忌がどうして成り立ったかを説明する。 神話はストーリーを持つ物語の形式で、人間を取り巻く様々なものについての過去の出来事を語る。このようなモチーフは伝説や昔話でも扱われるが、これらと神話とは密接に関連するものの学問用語として明瞭に区分されている。 神話は始原的な出来事を伝えるものに対し、伝説・昔話は過去のある時点の出来事について語られる。また、単一の事象を伝える点では神話と伝説は似ており、伝説は神話同様真実を伝える物語と受け取られるが、基本的に固有名詞を持つ人物を主人公とし、その活躍した場所も限定され、時代も世界がほぼ現在のように様相が固まった後を舞台とするため歴史的記載に近く、神話のような広い対象の根源になるものではなく、神聖的性格も帯びてもいない。主人公も神話のような神や超人ではなく、あくまで人間が主役となっている。 昔話は異なる時と場所で何度か起こった出来事の典型を表す話であり、真実を表現したものではないか、もしくは神聖な物語ではないものと認識される。例えば『桃太郎』も、鬼退治はどこでも起こりうる争乱の数ある一つと捉えることが出来るため、神話とも伝説とも異なる性格を持つ。 神話・昔話・伝説の3つは伝統的な古い説話を区分する手段に用いられるが、これを物語る各文化では必ずしも厳密な線引きが出来ている訳ではない。文化圏によっては神話と伝説に明瞭な差異を持っていないところもあれば、ひとつの同じ説話についても、ある集団はそれを真実と捉えてそれゆえ神話と考え、別の集団は虚構と捉えてそれは昔話と考えるような場合もある。神話が宗教の一部に組み込まれたような状態では昔話的な特徴が強調されて、登場人物も人間の英雄や巨人や妖精などへ再解釈されてしまう。 ただし神話・昔話・伝説は伝統的な古い説話を分類するほんの一部分でしかなく、これら以外にも逸話やジョークのようなものもある。さらには古い説話そのものも民俗学の一分野でしかなく、他にも舞踊や伝統装束、音楽など多岐に渡る。 神話と墳墓のシンボルとの関係を調べたJ・J・バッハオーフェンは、20世紀以降に科学的見地から乱婚や母権制といった古代社会に対する見方を批判されることになるが、1861年の著作『母権制』にて神話は母権制社会が父権制へ変遷する過程で構築されたと論説した。その段階を、初期の乱婚制母系社会から一夫一妻制を経て大地母神・デーメーテール型の母権へと変わり、やがて古代ギリシア・ローマを典型とする父権優位型神話体系が成立したと述べた。これは根底に、母親は自ずと母親たりえるが、父親がアイデンティティを持つには説明が不可欠で、この説明のために神話が創られたとしている。 神話学者の松村一男によると、この背景が影響して神話の女神や女性に見られる性質には、男性側の観念を反映した要素がある。ひとつはギリシアのアルテミスやインドのドゥルガーのような豊穣がある。ただしそこには、単に恵みをもたらすのみならず、全てを呑み込むような過剰な部分も併せ持つ。他にも処女と母親という相反する性質の同居があり、日本のアマテラス、ギリシアのアテーナー、そしてキリスト教の聖母マリアらがこの例に当たる。これらは男性が女性に抱く理想を反映し、後に難解な理論づけをしたものという。 ひとつの理論として、神話とは歴史的な出来事が歪められて説明されたものという考えがある。これによると、語り部が歴史的な出来事を繰り返し何度も詳述するうちに、登場人物が神格化され神話が成立したという。例えば、風の神アイオロスの神話は、ある王が臣下に帆を使い風を読むよう命令した故事が発展したものという解釈がある。紀元前5世紀のヘロドトスとプロディコスも同様の主張をしており、このような考え方は紀元前320年頃の小説家で、ギリシア神話の神々は人間の伝説が変化したものと主張したエウヘメロス(en)にちなみエウヘメリズムという。 神話は寓話を元にしているという説がある。それによると、アポローンは火、ポセイドーンは水といった具合に自然現象を扱う寓話が神話に変化したという。また哲学的概念や霊的概念を表す寓話を元にした神話もあり、例えばアテーナーは賢明な判断、アプロディーテーは願望を示すという。19世紀のサンスクリット文献学者のフリードリヒ・マックス・ミュラーは神話の寓話的理論を纏め、当初神話は自然を語る寓話として形成されたが、やがて文字通りに解釈するようになったと主張した。例えば、「raging」という表現は元々は海が「荒れ狂う」ことを表現していたが、これがやがて海を司る神の「激怒する」性格を現すようになったと言う。 いくつかの考察によれば、神話は無生物や力の擬人化という説もある。それによれば、古代の崇拝は炎や空気などの自然現象に向けられ、徐々にこの信仰対象が神に変化したという。例えば、神話的思考論(en)によれば古代人は何を見るにしても単なる物ではなく人格を帯びているという見方を持っていたという。したがって自然現象はそれぞれの神の所業であると考え、その思考が神話形成へ繋がったと主張している。 儀式との関連を解説した神話‐儀式理論の極端な説では、神話とは儀式を説明するために作られたという。聖書学者のウィリアム・ロバートソン・スミス(en)によって提唱されたこの主張では、古代人が何らかの目的を持って儀式を始めた時には神話とは何ら関係が無かった。しかし時が過ぎ元々の目的が忘れ去られたときに、人々はなぜ儀式を行うかを説明するために神話を創り出し、それを祝するためという理由で儀式を行うようになったという。人類学者のジェームズ・フレイザーも似通った説を唱え、古代人の信仰は人智が及ばぬ法則を信じることで始まり、やがてそのような感情を失ってしまった際に神話を創り出し、それまで行っていた魔術的な儀式を、神を鎮める儀式にすりかえたと主張した。 しかし現在では、神話と儀式の関係には普遍的な判断をつけずそれぞれの民族ごとに判断すべきという意見で一致している。儀式が先行し後に神話が作られたというフレイザーらの説を立証する証拠はほとんど見つからず、逆にアメリカインディアンのゴースト・ダンスの例のように神話が先行して存在し、儀式は神話の補強として発達する例が多い。 民族や文化を単位に生まれる。古代、小規模であったこれらの単位は征服や統合を通じて集合し、やがては国家単位の大きな統一的文化・文明へと発展した。これに伴い神話も段階的にまとまり、体系付けられた。松村武雄はこれら神話の統合された構成について、「横に展開」と「縦に展開」とに分類し、前者の例としてギリシア・ゲルマン・ケルトなど西ヨーロッパの神話が網のように存在する状態を示し、後者の例として日本の天孫系神話を挙げている。 中国の神話はこのような体系化がなされず断片的・孤立的なところを特徴とするが、個別の神話の中には三皇五帝に見られる3つの異なる大洪水があるように「横に展開」や「縦に展開」に相当する箇所もある。これらは、神話が固定化した時期に当該地域がどのような政治的・文化的な体系を成していたかが影響し、中国は例外的に神話が統合されない傾向にあった可能性が考えられる。 担う役割のうち最も重要なものは、行動規範を定めることにある。神話の中で語られる象徴は、時に道徳的な解説を含む出来事の結果を示す場合がある。人間と動物の特徴を合わせ持つような登場人物はまさに人間の典型として描き出される。例えばケンタウロスは人間男性の上半身と馬の下半身を持つが、人間部分は合理性を象徴し、動物部分は野性的本能を表す。この特異な姿は、人間心理が動物的本能に脅かされる状態を意味する。この例は、神話の価値は文化的または精神的な根拠の臆説を述べる点にあるだけでなく、道徳的な解釈が成り立つ象徴群を描写するところにもある。その時には必ずしも神の説話を登場させる必要は無く、何らかの概念を具現化する象徴が示されれば良い。例えば、ギリシア神話では鳩は「権力」や「肥沃」、犬の悪い意味は「死者」があり、神話概念を引継ぐ詩集『変身物語』では熊は「自然の変化」を象徴する。 近代以前、人生体験は宗教や物語的な宇宙観と密接に関係し、切り離すことができなかった。それは、当時の宗教とは「入信するもの」ではなく、人生のすべての面において存在し、宗教や物語的宇宙観は人生そのものを構築していたことを示す。この時代、神話はいわゆる「宗教的な体験」を提供する一翼を担った。神話物語は人を現実社会から切り離して神話の時代へ誘い、神聖なるものに触れる機能を持った。事実、神話時代の状況を再現しようと試みる社会も存在し、そこでは現実社会に生きる人間に原初の時代に存在した神の癒しをもたらそうとしている例もある。この背景には、人間の道徳を定義するものではない技術と直面する科学に対して、「宗教的な体験」は過去の徳目への理解に繋がる指向性がある点が挙げられる。 神話の機能では、神話そのものと神話時代の観念とを区分することは重要である。クロード・レヴィ=ストロースは、神話とは科学と同様に、意識的人間と自然との間にある関係から自ずと導き出されたものと示した。文化は、例えば陰湿な者を蛇に喩えたように、人間のふるまいを表現するために神話学的存在を設けた。それが、時が経つにつれて「蛇男の神話」へと変貌した。しかしながら、神話時代の観念とは、現代的視点からすると紛う方無く虚構であり、人類が神話を編み出す以前のいかなる時間軸上に存在していない。 歴史的に神話研究の重要な取り組みは、ジャンバッティスタ・ヴィーコ、フリードリヒ・シェリング、フリードリヒ・フォン・シラー、カール・グスタフ・ユング、ジークムント・フロイト、リュシアン・レヴィ=ブリュール、クロード・レヴィ=ストロース、ノースロップ・フライ、ソヴィエト流派、神話‐儀礼理論派らによってもたらされた。本項では、神話解釈のトレンドを解説する。異なる神話の比較検証については比較神話学を参照願う。 神話の批判的解釈はソクラテス以前の哲学者まで遡ることが出来る。エウヘメロスは初期の重要な神話学者であり、彼は歴史的事実の変質が神話となったと唱えた。プラトンは『パイドロス』にてこれを批判し、この神話学門分野をソクラテスの言として「恐ろしく奇妙でぎこちなく、全く巧妙さが無い」と述べている。より深く包括的な洞察が行われた。例えばサルティウス(en)は神話を5つの種類に分けた。神学的、物理的(または自然の法則との関連)、アニマスティック(または魂との関連)、物質的そしてこれらの混合である。この分類は最終的に2-3に纏め直されたが、この考え方は神話研究の嚆矢となった。 プラトンが『国家』にて詩人が語る神話は教育上害悪だという主張(詩人追放論)を展開した事は有名だが、その一方で多種類の神話を著作中に引用した。その後のプルタルコス、ポルピュリオス、プロクロス、オリュンピオドロス、ダマスキオスらプラトン派の思想家も伝統的な神話やオルペウス神話の象徴を明白に解釈する著述を行った。 ルネサンス期には多神教の神話へ再び関心が向けられ、16世紀には『Theologia mythologica』(1532年)のような神話に関する書籍が著された。 神話を扱う学究的理論は19世紀後半に提示された。この時代の考えでは神話は失われたり時代遅れであったりする思考として扱われたが、一方で神話は近代科学に相当する原始的な概念という解釈も行われた。研究手段には歴史学、文献学、民族学的手法が持ち込まれた。特にインド・ヨーロッパ語族の比較言語学進展に伴ってこの言語を用いる地域の各神話が研究され、もっぱら言語学的要素を重視した神話研究が進展した。 E.B.タイラーの解釈では、神話とは、人智の及ばぬ自然の法である自然現象を文章として説明する試みだったと言い、それはやがてアニミズムに繋がる無生物に霊魂を見出す古代人の試みと考えられた。テイラーは、このような人間の思考が様々な段階を踏んで神話的な解釈から科学的な考察へ進歩したと主張した。これにはあまり同調する学者はおらず、リュシアン・レヴィ=ブリュールは「原始的な知性というものは人の精神状態そのものであり、歴史的な発展をする段階などではない」と反駁した。 フリードリヒ・マックス・ミュラーは神話を「言語疾病」と呼び、抽象的表現や中性的に捉える概念が言語上で充分に発達していなかったために創られた、そのため擬人的な何かに語らせたり、自然現象そのものを神のような意思を持つ存在と認識するような手段で概念を捉え言語化したと考えた。ただし今日では、この理論はあまり重要視されていない。 人類学者のジェームズ・フレイザーは、神話とはそもそも自然の法則を誤訳した魔術的な儀式をさらに誤って解釈したものとみなした。彼は、人間は不可思議な事象を客観的な魔術的法則とみなし、それが願望を聞き届けるような性格ではないと判ると自然法則とみなすことを諦め、なにかしらの神が自然を制御していると思うようになり、それが神話への傾倒に繋がったと主張した。この過程において、伝統的に行われてきた儀式を神話の出来事の再現する行動だと再解釈して続けるようになるとも述べた。しかし最終的に人類は、自然とは自然の法則に従っているのだと認識し、そして科学を通じてその法則を見つけるようになり、神話は時代遅れなものへと押しやられてゆくと言い、フレイザーはこの一連の過程を「魔法に発し、宗教を通じて科学へ至る」と表現した。また彼は世界中に数ある神話の部分類似点に着目し、進化論的な普遍化を施した。ただしこれは強引な手法との批判がなされた。 この頃には、科学の発展に伴って神話は近代科学思想の洗礼を受けざるを得なくなった。その結果、神話はそれ自体の信憑性を失うことになった。19世紀後半には社会文化的進化論を基礎に置き、神話は未開状態の習俗から発生したものとみなすアンドルー・ラングなどが現れた。 20世紀に入ると、前世紀の神話研究における主要な考えであった神話と科学の対立という見方は否定された。一般に、「20世紀の理論は、神話を時代遅れの疑似科学とはみなさない傾向にあり、科学を理由に神話を無視するようなことはしない」と述べてられている。神話研究にも構造主義人類学や心理学からのアプローチが行われた。この潮流は、レオ・フロベニウスなどドイツの民族学者たちが世界中の神話を収集し、分布や文化史上の意義を定めたことが貢献した。 神話収集に寄与した、ドイツの民族学者らは前時代的解釈に縛られていたが、これを進める役割をアードルフ・イェンゼンが担った。彼は農作物の始原を語る神話の一種「ハイヌヴェレ型神話」と初期栽培民文化の関連性に、さらに儀礼のタイプを考慮に加えてひとつの一貫した世界像を洗い出した。この世界像を基礎に据えて初めて、各神話や儀礼を正確に解釈できるとイェンゼンは主張した。 ヘルマン・バウマンは、イェンゼンと逆の手法で神話を解釈した。彼は各創世神話に見られる宇宙観に着目した。このような世界観を構築するには、それぞれの文化がある程度発達していなければならず、バウマンは過去の研究者が未開状態の人類が創った神話から順を追ったのに対し、高い文化社会の神話を分析の対象とした。これによって、高文化地域の神話が周辺の未開社会へ影響を与えることが明らかとなった。 スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングを筆頭に、世界の神話には背景に心理学的なものがあるという考えを置いた理解も進んだ。ユングは、すべての人間は生まれながらの心理的な力(psychological force)を無意識に共有する(集合的無意識)と主張し、これを「元型」(archetypes)と名づけた。彼は、異文化間の神話に見られる類似性から、このような普遍的な原型が存在することを明らかにできると考え、この元型が表現された一つの形態が神話だと論じた。 ジョーゼフ・キャンベルは、人間心理を洞察した中で、人の生き方に応用できるものを神話から得られると主張した。例えば、キャンベルが主張するところによると神話第一の機能は「神秘な存在に対する畏敬の念を想起させ支持させる」ことにあり、さらに「各個人に自己の精神を現実的に秩序づけるよう導く」ことに役立つと言及した。 ユングやキャンベル同様、クロード・レヴィ=ストロースも神話は心の有り様を反映したものだと唱えた。ただし彼は、この有り様とは無意識や衝動ではなく明確な精神機構、特に対立する神話素(英語版)の組み合わせである二項対立があると考えた。 ミルチャ・エリアーデは『神話と夢想と秘儀』や『The Myth of the Eternal Return』の付記に、現代人が感じる不安は神話や神聖なるものの拒絶に帰すると論じた。 ハンス・ブルーメンベルクは、神話には「威嚇(Terror)」と「詩情(Poesie)」という互いに背反する二つの機能が対立する構図を取ると分析した。前者は人間社会が有する制度や規範または抑圧などをイメージさせる物語を提示し、それを強制させる機能をいう。後者は生命本来が持つ自然性や原初の話にある自由さを提示し、世界を人間の相似をして認識させ、人間の精神を高める想像をもたらす機能を意味する。ブルーメンベルクはこの二つの機能が対立するのではなく、「距離(Distanz)」を持ちながら共存すると言い、具体的には「威嚇」を感じ取りながらそこから適度に離れた位置で「詩情」を感じ取る構造が神話の特色と言及した。 異なる文化における神話を比較する学問を比較神話学という。その主題は各神話の中にある類似性を見つけ出すことにあり、そこから神話に流れる共通の基礎的部分を見出そうとする試みである。この基礎的な部分とは、例えばある同じ自然現象に直面した各民族が意図せず似通った神話を創り出すような場合にありうる、普遍的な発想の源、もしくは多様な神話に分岐する大元の「神話の種」(protomythology)とみなされる可能性がある。 19世紀には、神話解釈において比較神話学的手法が活発になり、その普遍性探求が行われた。しかし現代、このような比較検討の手法には研究者から疑問も提示され、神話の普遍性に囚われるべきではないとの意見もある。この傾向に抗う例のひとつはジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』(en)であり、この中でジョーゼフは、全ての神話上の英雄には基本的に同じパターン(ヒーローズ・ジャーニー)が見られるという。このモノミス(en)理論は神話研究の主流派には認められていない。 近代の文脈において、非常に最近に作られたものにせよ、再度の組み合わせの流れのものにせよ、しかしながら神話の性格を全て有するところの話を人は確かに観察した。人はそれで「都市神話」、またはさらに一般に「都市伝説」について話す。しかしながら現代の神話について、フランス革命もしくは19世紀末期での労働者の意向におけるもののような戦争の叙事詩の類の、信じられない出来事の到来に対するあるいはそれらの出現の分析を与えたものである、哲学者で社会学者のジョルジュ・ソレルの策略を与えるところの意味においても人は話すことを与える。大衆の動員において用いられるところの社会的神話はそれで問題である。20世紀の法廷では、神話はとくに国家の高揚のために、ファシズムによる 宣伝活動における道具のように使われたとされた。今日人は、広告が売り手の神話において顧客に機能することとの評価を与える。現代の神話はすなわちある時は自発的な社会的意志の表明でありまたある時は政治あるいは商業における秩序での操作である。現在の現代社会において、他面では神話はひとつの広告宣伝装置であるのに、それらの能力限界に含みを持たせることが必要なように思われる。 神話は、古代ギリシアにおいてはミュトスとして伝えられ、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』、ヘシオドスの『神統記』『仕事と日』などのように、霊感を受けた詩人が神々の行為を権力者に語る歌の形式となった。これらは神が人に真実を語る力関係の基、聞き手である強者・男性的価値観に副うようにつくられていた。それに対しロゴスは説明する言葉であり、弱者が強者に使う、多少の嘘を含みながらも説得力を持たせることを目的としていた。 これが、現在用いられるミュトス=真実ではない「虚構」、ロゴス=知性や理性に裏打ちされた「真理」へ逆転した転換点は、ギリシア民主制の誕生にある。市民が話し合いながら政治を進める体制では、必要な議論は神がかった詩人の言葉ではなく、理性や知性を働かせ、相手を説得する言葉でなければならない。これを背景に、ロゴスこそが真実という概念が固められ、相反してミュトスが虚偽の意味合いを持つようになった。 日本の古典には、「神語(かんがたり)」という語はあるが、「神話」という語はない。これは明治20年代に、英語の「myth」を「神話」と日本語に翻訳した事で用いられる様になった翻訳漢字であり、中国や朝鮮の古典にもない言葉である。これは本来、神話と呼ばれるものが語られるものであって、文字によって書き残される様になったのは後である為とされる。したがって『神話』という日本語は、近代から用いられる様になった比較的新しい語である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神話(しんわ、英: Myth、Mythology)は、人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "英語のMythology(ミソロジー)には「物語としての神話」と「神話の研究」のふたつの意味がある。例えば「比較神話学」(comparative mythology)は異なる文化圏の神話を比較研究する学問であり、一方で「ギリシア神話」(Greek mythology)とは古代ギリシアの神話物語の体系を指す。単語「myth」は口語にてしばしば「誤った根拠」を指して使われるが、学問的に使われる場合は、その真偽を問うことは無い。民俗学では、神話とは世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明する象徴的な物語と定義されるが、他の学問分野では単語「myth」の使い方が異なり、伝統的な説話を広く包括する意味合いを持たせている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "比喩的な用法では根拠も無く絶対的事実だと思われている事象を例えて用いる言葉にも使われ、「日本の『安全神話』(safety myth)が崩れた」といった例で使われる場合もある。これらは、現実が隠蔽され、人々の考え方や行動が何かしら誤った方向に固定化してしまった「常識」ともいえる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "神話の主要登場人物は神や超自然的なヒーローが多い。支配者や聖職者は神話を神聖なものとして是認し、宗教と密接に関係させることがあり、そのような社会では神話は遠い昔の「真実の物語」とみなされる。実際に、多くの社会では古い物語を二つに、すなわち「実話」として語る神話と、「嘘の話」である寓話とに区分している。神話は一般的に、世界が現在の形をなす前の根源的な時代のことを描写し、そこで世界がどのようにして今の有り様となったか、そしてさまざまな習慣や社会組織、さらに禁忌がどうして成り立ったかを説明する。", "title": "神話の本質" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "神話はストーリーを持つ物語の形式で、人間を取り巻く様々なものについての過去の出来事を語る。このようなモチーフは伝説や昔話でも扱われるが、これらと神話とは密接に関連するものの学問用語として明瞭に区分されている。", "title": "神話の本質" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "神話は始原的な出来事を伝えるものに対し、伝説・昔話は過去のある時点の出来事について語られる。また、単一の事象を伝える点では神話と伝説は似ており、伝説は神話同様真実を伝える物語と受け取られるが、基本的に固有名詞を持つ人物を主人公とし、その活躍した場所も限定され、時代も世界がほぼ現在のように様相が固まった後を舞台とするため歴史的記載に近く、神話のような広い対象の根源になるものではなく、神聖的性格も帯びてもいない。主人公も神話のような神や超人ではなく、あくまで人間が主役となっている。", "title": "神話の本質" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "昔話は異なる時と場所で何度か起こった出来事の典型を表す話であり、真実を表現したものではないか、もしくは神聖な物語ではないものと認識される。例えば『桃太郎』も、鬼退治はどこでも起こりうる争乱の数ある一つと捉えることが出来るため、神話とも伝説とも異なる性格を持つ。", "title": "神話の本質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "神話・昔話・伝説の3つは伝統的な古い説話を区分する手段に用いられるが、これを物語る各文化では必ずしも厳密な線引きが出来ている訳ではない。文化圏によっては神話と伝説に明瞭な差異を持っていないところもあれば、ひとつの同じ説話についても、ある集団はそれを真実と捉えてそれゆえ神話と考え、別の集団は虚構と捉えてそれは昔話と考えるような場合もある。神話が宗教の一部に組み込まれたような状態では昔話的な特徴が強調されて、登場人物も人間の英雄や巨人や妖精などへ再解釈されてしまう。", "title": "神話の本質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ただし神話・昔話・伝説は伝統的な古い説話を分類するほんの一部分でしかなく、これら以外にも逸話やジョークのようなものもある。さらには古い説話そのものも民俗学の一分野でしかなく、他にも舞踊や伝統装束、音楽など多岐に渡る。", "title": "神話の本質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "神話と墳墓のシンボルとの関係を調べたJ・J・バッハオーフェンは、20世紀以降に科学的見地から乱婚や母権制といった古代社会に対する見方を批判されることになるが、1861年の著作『母権制』にて神話は母権制社会が父権制へ変遷する過程で構築されたと論説した。その段階を、初期の乱婚制母系社会から一夫一妻制を経て大地母神・デーメーテール型の母権へと変わり、やがて古代ギリシア・ローマを典型とする父権優位型神話体系が成立したと述べた。これは根底に、母親は自ずと母親たりえるが、父親がアイデンティティを持つには説明が不可欠で、この説明のために神話が創られたとしている。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "神話学者の松村一男によると、この背景が影響して神話の女神や女性に見られる性質には、男性側の観念を反映した要素がある。ひとつはギリシアのアルテミスやインドのドゥルガーのような豊穣がある。ただしそこには、単に恵みをもたらすのみならず、全てを呑み込むような過剰な部分も併せ持つ。他にも処女と母親という相反する性質の同居があり、日本のアマテラス、ギリシアのアテーナー、そしてキリスト教の聖母マリアらがこの例に当たる。これらは男性が女性に抱く理想を反映し、後に難解な理論づけをしたものという。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ひとつの理論として、神話とは歴史的な出来事が歪められて説明されたものという考えがある。これによると、語り部が歴史的な出来事を繰り返し何度も詳述するうちに、登場人物が神格化され神話が成立したという。例えば、風の神アイオロスの神話は、ある王が臣下に帆を使い風を読むよう命令した故事が発展したものという解釈がある。紀元前5世紀のヘロドトスとプロディコスも同様の主張をしており、このような考え方は紀元前320年頃の小説家で、ギリシア神話の神々は人間の伝説が変化したものと主張したエウヘメロス(en)にちなみエウヘメリズムという。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "神話は寓話を元にしているという説がある。それによると、アポローンは火、ポセイドーンは水といった具合に自然現象を扱う寓話が神話に変化したという。また哲学的概念や霊的概念を表す寓話を元にした神話もあり、例えばアテーナーは賢明な判断、アプロディーテーは願望を示すという。19世紀のサンスクリット文献学者のフリードリヒ・マックス・ミュラーは神話の寓話的理論を纏め、当初神話は自然を語る寓話として形成されたが、やがて文字通りに解釈するようになったと主張した。例えば、「raging」という表現は元々は海が「荒れ狂う」ことを表現していたが、これがやがて海を司る神の「激怒する」性格を現すようになったと言う。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "いくつかの考察によれば、神話は無生物や力の擬人化という説もある。それによれば、古代の崇拝は炎や空気などの自然現象に向けられ、徐々にこの信仰対象が神に変化したという。例えば、神話的思考論(en)によれば古代人は何を見るにしても単なる物ではなく人格を帯びているという見方を持っていたという。したがって自然現象はそれぞれの神の所業であると考え、その思考が神話形成へ繋がったと主張している。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "儀式との関連を解説した神話‐儀式理論の極端な説では、神話とは儀式を説明するために作られたという。聖書学者のウィリアム・ロバートソン・スミス(en)によって提唱されたこの主張では、古代人が何らかの目的を持って儀式を始めた時には神話とは何ら関係が無かった。しかし時が過ぎ元々の目的が忘れ去られたときに、人々はなぜ儀式を行うかを説明するために神話を創り出し、それを祝するためという理由で儀式を行うようになったという。人類学者のジェームズ・フレイザーも似通った説を唱え、古代人の信仰は人智が及ばぬ法則を信じることで始まり、やがてそのような感情を失ってしまった際に神話を創り出し、それまで行っていた魔術的な儀式を、神を鎮める儀式にすりかえたと主張した。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし現在では、神話と儀式の関係には普遍的な判断をつけずそれぞれの民族ごとに判断すべきという意見で一致している。儀式が先行し後に神話が作られたというフレイザーらの説を立証する証拠はほとんど見つからず、逆にアメリカインディアンのゴースト・ダンスの例のように神話が先行して存在し、儀式は神話の補強として発達する例が多い。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "民族や文化を単位に生まれる。古代、小規模であったこれらの単位は征服や統合を通じて集合し、やがては国家単位の大きな統一的文化・文明へと発展した。これに伴い神話も段階的にまとまり、体系付けられた。松村武雄はこれら神話の統合された構成について、「横に展開」と「縦に展開」とに分類し、前者の例としてギリシア・ゲルマン・ケルトなど西ヨーロッパの神話が網のように存在する状態を示し、後者の例として日本の天孫系神話を挙げている。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国の神話はこのような体系化がなされず断片的・孤立的なところを特徴とするが、個別の神話の中には三皇五帝に見られる3つの異なる大洪水があるように「横に展開」や「縦に展開」に相当する箇所もある。これらは、神話が固定化した時期に当該地域がどのような政治的・文化的な体系を成していたかが影響し、中国は例外的に神話が統合されない傾向にあった可能性が考えられる。", "title": "神話の起源" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "担う役割のうち最も重要なものは、行動規範を定めることにある。神話の中で語られる象徴は、時に道徳的な解説を含む出来事の結果を示す場合がある。人間と動物の特徴を合わせ持つような登場人物はまさに人間の典型として描き出される。例えばケンタウロスは人間男性の上半身と馬の下半身を持つが、人間部分は合理性を象徴し、動物部分は野性的本能を表す。この特異な姿は、人間心理が動物的本能に脅かされる状態を意味する。この例は、神話の価値は文化的または精神的な根拠の臆説を述べる点にあるだけでなく、道徳的な解釈が成り立つ象徴群を描写するところにもある。その時には必ずしも神の説話を登場させる必要は無く、何らかの概念を具現化する象徴が示されれば良い。例えば、ギリシア神話では鳩は「権力」や「肥沃」、犬の悪い意味は「死者」があり、神話概念を引継ぐ詩集『変身物語』では熊は「自然の変化」を象徴する。", "title": "神話の役割" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "近代以前、人生体験は宗教や物語的な宇宙観と密接に関係し、切り離すことができなかった。それは、当時の宗教とは「入信するもの」ではなく、人生のすべての面において存在し、宗教や物語的宇宙観は人生そのものを構築していたことを示す。この時代、神話はいわゆる「宗教的な体験」を提供する一翼を担った。神話物語は人を現実社会から切り離して神話の時代へ誘い、神聖なるものに触れる機能を持った。事実、神話時代の状況を再現しようと試みる社会も存在し、そこでは現実社会に生きる人間に原初の時代に存在した神の癒しをもたらそうとしている例もある。この背景には、人間の道徳を定義するものではない技術と直面する科学に対して、「宗教的な体験」は過去の徳目への理解に繋がる指向性がある点が挙げられる。", "title": "神話の役割" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "神話の機能では、神話そのものと神話時代の観念とを区分することは重要である。クロード・レヴィ=ストロースは、神話とは科学と同様に、意識的人間と自然との間にある関係から自ずと導き出されたものと示した。文化は、例えば陰湿な者を蛇に喩えたように、人間のふるまいを表現するために神話学的存在を設けた。それが、時が経つにつれて「蛇男の神話」へと変貌した。しかしながら、神話時代の観念とは、現代的視点からすると紛う方無く虚構であり、人類が神話を編み出す以前のいかなる時間軸上に存在していない。", "title": "神話の役割" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "歴史的に神話研究の重要な取り組みは、ジャンバッティスタ・ヴィーコ、フリードリヒ・シェリング、フリードリヒ・フォン・シラー、カール・グスタフ・ユング、ジークムント・フロイト、リュシアン・レヴィ=ブリュール、クロード・レヴィ=ストロース、ノースロップ・フライ、ソヴィエト流派、神話‐儀礼理論派らによってもたらされた。本項では、神話解釈のトレンドを解説する。異なる神話の比較検証については比較神話学を参照願う。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "神話の批判的解釈はソクラテス以前の哲学者まで遡ることが出来る。エウヘメロスは初期の重要な神話学者であり、彼は歴史的事実の変質が神話となったと唱えた。プラトンは『パイドロス』にてこれを批判し、この神話学門分野をソクラテスの言として「恐ろしく奇妙でぎこちなく、全く巧妙さが無い」と述べている。より深く包括的な洞察が行われた。例えばサルティウス(en)は神話を5つの種類に分けた。神学的、物理的(または自然の法則との関連)、アニマスティック(または魂との関連)、物質的そしてこれらの混合である。この分類は最終的に2-3に纏め直されたが、この考え方は神話研究の嚆矢となった。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "プラトンが『国家』にて詩人が語る神話は教育上害悪だという主張(詩人追放論)を展開した事は有名だが、その一方で多種類の神話を著作中に引用した。その後のプルタルコス、ポルピュリオス、プロクロス、オリュンピオドロス、ダマスキオスらプラトン派の思想家も伝統的な神話やオルペウス神話の象徴を明白に解釈する著述を行った。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ルネサンス期には多神教の神話へ再び関心が向けられ、16世紀には『Theologia mythologica』(1532年)のような神話に関する書籍が著された。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "神話を扱う学究的理論は19世紀後半に提示された。この時代の考えでは神話は失われたり時代遅れであったりする思考として扱われたが、一方で神話は近代科学に相当する原始的な概念という解釈も行われた。研究手段には歴史学、文献学、民族学的手法が持ち込まれた。特にインド・ヨーロッパ語族の比較言語学進展に伴ってこの言語を用いる地域の各神話が研究され、もっぱら言語学的要素を重視した神話研究が進展した。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "E.B.タイラーの解釈では、神話とは、人智の及ばぬ自然の法である自然現象を文章として説明する試みだったと言い、それはやがてアニミズムに繋がる無生物に霊魂を見出す古代人の試みと考えられた。テイラーは、このような人間の思考が様々な段階を踏んで神話的な解釈から科学的な考察へ進歩したと主張した。これにはあまり同調する学者はおらず、リュシアン・レヴィ=ブリュールは「原始的な知性というものは人の精神状態そのものであり、歴史的な発展をする段階などではない」と反駁した。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "フリードリヒ・マックス・ミュラーは神話を「言語疾病」と呼び、抽象的表現や中性的に捉える概念が言語上で充分に発達していなかったために創られた、そのため擬人的な何かに語らせたり、自然現象そのものを神のような意思を持つ存在と認識するような手段で概念を捉え言語化したと考えた。ただし今日では、この理論はあまり重要視されていない。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "人類学者のジェームズ・フレイザーは、神話とはそもそも自然の法則を誤訳した魔術的な儀式をさらに誤って解釈したものとみなした。彼は、人間は不可思議な事象を客観的な魔術的法則とみなし、それが願望を聞き届けるような性格ではないと判ると自然法則とみなすことを諦め、なにかしらの神が自然を制御していると思うようになり、それが神話への傾倒に繋がったと主張した。この過程において、伝統的に行われてきた儀式を神話の出来事の再現する行動だと再解釈して続けるようになるとも述べた。しかし最終的に人類は、自然とは自然の法則に従っているのだと認識し、そして科学を通じてその法則を見つけるようになり、神話は時代遅れなものへと押しやられてゆくと言い、フレイザーはこの一連の過程を「魔法に発し、宗教を通じて科学へ至る」と表現した。また彼は世界中に数ある神話の部分類似点に着目し、進化論的な普遍化を施した。ただしこれは強引な手法との批判がなされた。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この頃には、科学の発展に伴って神話は近代科学思想の洗礼を受けざるを得なくなった。その結果、神話はそれ自体の信憑性を失うことになった。19世紀後半には社会文化的進化論を基礎に置き、神話は未開状態の習俗から発生したものとみなすアンドルー・ラングなどが現れた。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると、前世紀の神話研究における主要な考えであった神話と科学の対立という見方は否定された。一般に、「20世紀の理論は、神話を時代遅れの疑似科学とはみなさない傾向にあり、科学を理由に神話を無視するようなことはしない」と述べてられている。神話研究にも構造主義人類学や心理学からのアプローチが行われた。この潮流は、レオ・フロベニウスなどドイツの民族学者たちが世界中の神話を収集し、分布や文化史上の意義を定めたことが貢献した。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "神話収集に寄与した、ドイツの民族学者らは前時代的解釈に縛られていたが、これを進める役割をアードルフ・イェンゼンが担った。彼は農作物の始原を語る神話の一種「ハイヌヴェレ型神話」と初期栽培民文化の関連性に、さらに儀礼のタイプを考慮に加えてひとつの一貫した世界像を洗い出した。この世界像を基礎に据えて初めて、各神話や儀礼を正確に解釈できるとイェンゼンは主張した。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ヘルマン・バウマンは、イェンゼンと逆の手法で神話を解釈した。彼は各創世神話に見られる宇宙観に着目した。このような世界観を構築するには、それぞれの文化がある程度発達していなければならず、バウマンは過去の研究者が未開状態の人類が創った神話から順を追ったのに対し、高い文化社会の神話を分析の対象とした。これによって、高文化地域の神話が周辺の未開社会へ影響を与えることが明らかとなった。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングを筆頭に、世界の神話には背景に心理学的なものがあるという考えを置いた理解も進んだ。ユングは、すべての人間は生まれながらの心理的な力(psychological force)を無意識に共有する(集合的無意識)と主張し、これを「元型」(archetypes)と名づけた。彼は、異文化間の神話に見られる類似性から、このような普遍的な原型が存在することを明らかにできると考え、この元型が表現された一つの形態が神話だと論じた。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ジョーゼフ・キャンベルは、人間心理を洞察した中で、人の生き方に応用できるものを神話から得られると主張した。例えば、キャンベルが主張するところによると神話第一の機能は「神秘な存在に対する畏敬の念を想起させ支持させる」ことにあり、さらに「各個人に自己の精神を現実的に秩序づけるよう導く」ことに役立つと言及した。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ユングやキャンベル同様、クロード・レヴィ=ストロースも神話は心の有り様を反映したものだと唱えた。ただし彼は、この有り様とは無意識や衝動ではなく明確な精神機構、特に対立する神話素(英語版)の組み合わせである二項対立があると考えた。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ミルチャ・エリアーデは『神話と夢想と秘儀』や『The Myth of the Eternal Return』の付記に、現代人が感じる不安は神話や神聖なるものの拒絶に帰すると論じた。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ハンス・ブルーメンベルクは、神話には「威嚇(Terror)」と「詩情(Poesie)」という互いに背反する二つの機能が対立する構図を取ると分析した。前者は人間社会が有する制度や規範または抑圧などをイメージさせる物語を提示し、それを強制させる機能をいう。後者は生命本来が持つ自然性や原初の話にある自由さを提示し、世界を人間の相似をして認識させ、人間の精神を高める想像をもたらす機能を意味する。ブルーメンベルクはこの二つの機能が対立するのではなく、「距離(Distanz)」を持ちながら共存すると言い、具体的には「威嚇」を感じ取りながらそこから適度に離れた位置で「詩情」を感じ取る構造が神話の特色と言及した。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "異なる文化における神話を比較する学問を比較神話学という。その主題は各神話の中にある類似性を見つけ出すことにあり、そこから神話に流れる共通の基礎的部分を見出そうとする試みである。この基礎的な部分とは、例えばある同じ自然現象に直面した各民族が意図せず似通った神話を創り出すような場合にありうる、普遍的な発想の源、もしくは多様な神話に分岐する大元の「神話の種」(protomythology)とみなされる可能性がある。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "19世紀には、神話解釈において比較神話学的手法が活発になり、その普遍性探求が行われた。しかし現代、このような比較検討の手法には研究者から疑問も提示され、神話の普遍性に囚われるべきではないとの意見もある。この傾向に抗う例のひとつはジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』(en)であり、この中でジョーゼフは、全ての神話上の英雄には基本的に同じパターン(ヒーローズ・ジャーニー)が見られるという。このモノミス(en)理論は神話研究の主流派には認められていない。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "近代の文脈において、非常に最近に作られたものにせよ、再度の組み合わせの流れのものにせよ、しかしながら神話の性格を全て有するところの話を人は確かに観察した。人はそれで「都市神話」、またはさらに一般に「都市伝説」について話す。しかしながら現代の神話について、フランス革命もしくは19世紀末期での労働者の意向におけるもののような戦争の叙事詩の類の、信じられない出来事の到来に対するあるいはそれらの出現の分析を与えたものである、哲学者で社会学者のジョルジュ・ソレルの策略を与えるところの意味においても人は話すことを与える。大衆の動員において用いられるところの社会的神話はそれで問題である。20世紀の法廷では、神話はとくに国家の高揚のために、ファシズムによる 宣伝活動における道具のように使われたとされた。今日人は、広告が売り手の神話において顧客に機能することとの評価を与える。現代の神話はすなわちある時は自発的な社会的意志の表明でありまたある時は政治あるいは商業における秩序での操作である。現在の現代社会において、他面では神話はひとつの広告宣伝装置であるのに、それらの能力限界に含みを持たせることが必要なように思われる。", "title": "神話の研究" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "神話は、古代ギリシアにおいてはミュトスとして伝えられ、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』、ヘシオドスの『神統記』『仕事と日』などのように、霊感を受けた詩人が神々の行為を権力者に語る歌の形式となった。これらは神が人に真実を語る力関係の基、聞き手である強者・男性的価値観に副うようにつくられていた。それに対しロゴスは説明する言葉であり、弱者が強者に使う、多少の嘘を含みながらも説得力を持たせることを目的としていた。", "title": "「神話」の意味の変化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "これが、現在用いられるミュトス=真実ではない「虚構」、ロゴス=知性や理性に裏打ちされた「真理」へ逆転した転換点は、ギリシア民主制の誕生にある。市民が話し合いながら政治を進める体制では、必要な議論は神がかった詩人の言葉ではなく、理性や知性を働かせ、相手を説得する言葉でなければならない。これを背景に、ロゴスこそが真実という概念が固められ、相反してミュトスが虚偽の意味合いを持つようになった。", "title": "「神話」の意味の変化" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本の古典には、「神語(かんがたり)」という語はあるが、「神話」という語はない。これは明治20年代に、英語の「myth」を「神話」と日本語に翻訳した事で用いられる様になった翻訳漢字であり、中国や朝鮮の古典にもない言葉である。これは本来、神話と呼ばれるものが語られるものであって、文字によって書き残される様になったのは後である為とされる。したがって『神話』という日本語は、近代から用いられる様になった比較的新しい語である。", "title": "「神話」という語" } ]
神話は、人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている。 英語のMythology(ミソロジー)には「物語としての神話」と「神話の研究」のふたつの意味がある。例えば「比較神話学」は異なる文化圏の神話を比較研究する学問であり、一方で「ギリシア神話」とは古代ギリシアの神話物語の体系を指す。単語「myth」は口語にてしばしば「誤った根拠」を指して使われるが、学問的に使われる場合は、その真偽を問うことは無い。民俗学では、神話とは世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明する象徴的な物語と定義されるが、他の学問分野では単語「myth」の使い方が異なり、伝統的な説話を広く包括する意味合いを持たせている。 比喩的な用法では根拠も無く絶対的事実だと思われている事象を例えて用いる言葉にも使われ、「日本の『安全神話』が崩れた」といった例で使われる場合もある。これらは、現実が隠蔽され、人々の考え方や行動が何かしら誤った方向に固定化してしまった「常識」ともいえる。
{{Good article}} {{Otheruses}} [[ファイル:Kobayashi Izanami and Izanagi.jpg|thumb|200px|[[日本神話]]の[[イザナギ]]と[[イザナミ]]の[[国産み]]。[[創造神話]]の典型。]] {{ウィキポータルリンク|神話伝承}} {{ウィキプロジェクトリンク|神話}} '''神話'''(しんわ、{{Lang-en-short|Myth}}、{{En|Mythology}})は、[[人類]]が認識する[[自然]]物や[[自然現象]]、または[[民族]]や[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[文明]]などさまざまな事象を、[[世界]]が始まった時代における[[神]]など超自然的・形而上的な存在や[[文化英雄]]などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する[[物語]]であり、諸事象の起源<ref name="koujien1401">{{ Cite book|和書|year=1999|title=広辞苑|edition=第五版第一刷|publisher=岩波書店|page=1401|chapter=【神話】|isbn=4-00-080113-9}}</ref>や存在理由を語る[[説話]]でもある<ref name="sinwa0">[[#世界神話事典|世界神話事典 pp.24-46、大林、総説]]</ref><ref name="daijiten">{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一版|publisher=[[講談社]]|page=1015|chapter=【神話】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている<ref name="sinwa0" /><ref name="daijiten" />。 [[英語]]の{{En|Mythology}}(ミソロジー)には「物語としての神話」と「神話の研究」のふたつの意味がある<ref>{{Cite book|author=|year=2009|title=[[ブリタニカ百科事典]]|chapter=【myth】|pages=|publisher=|url=http://search.eb.com/eb/article-9108748|isbn=|ref=}}</ref>。例えば「比較神話学」({{En|comparative mythology}})は異なる文化圏の神話を比較研究する学問であり<ref name="Littleton, p.32">[[#Littleton|Littleton p.32]]</ref>、一方で「[[ギリシア神話]]」({{En|Greek mythology}})とは[[古代ギリシア]]の神話物語の体系を指す。単語「{{En|myth}}」は[[口語]]にてしばしば「誤った根拠」を指して使われる<ref>{{Cite book|author=Karen Armstrong|date=2006年|title=A Short History of Myth |chapter=|pages=7|publisher= Knopf Canada |isbn=|ref=}}</ref><ref name="eliademythtruth">[[#Eliade, Myth and Reality|Eliade、''Myth and Reality'' p.1]]</ref>が、学問的に使われる場合は、その真偽を問うことは無い<ref name="eliademythtruth" /><ref name="dundesintro">[[#Dundes, Introduction|Dundes, ''Introduction'' p.1]]</ref>。[[民俗学]]では、神話とは世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明する象徴的な物語と定義される<ref name="dundesintro" /><ref name="Dundes, Binary, p. 45">[[#Dundes, Binary|Dundes, ''Binary'' p.45]]</ref><ref name="madness">[[#Dundes, Madness|Dundes, ''Madness'' p.147]]</ref>が、他の学問分野では単語「myth」の使い方が異なり<ref name="madness" /><ref>[[#Doty|Doty pp.11-12]]</ref><ref>[[#Segal|Segal p.5]]</ref>、伝統的な説話を広く包括する意味合いを持たせている<ref>Kirk, "Defining", p. 57; Kirk, ''Myth'', p. 74; Simpson, p. 3</ref>。 比喩的な用法では根拠も無く絶対的事実だと思われている事象を例えて用いる言葉<ref name="koujien1401" />にも使われ、「日本の『安全神話』({{En|safety myth}})が崩れた」といった例で使われる場合もある。これらは、現実が隠蔽され、人々の考え方や行動が何かしら誤った方向に固定化してしまった「[[常識]]」ともいえる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ipu.ac.jp/syllabus/rs/rs1035.html|language=日本語|title=授業科目名:【H21カリキュラム】社会学、才津芳昭|publisher=[[茨城県立医療大学]]|accessdate=2010-05-17}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=後藤斉 |date=1993-03 |url=https://hdl.handle.net/10097/00128009 |title=「神話」の比喩的用法について -コーパス言語学からのアプローチ- |journal=東北大学言語学論集 |ISSN=0916-989X |publisher=東北大学言語学研究会 |volume=2 |pages=1-16 |id={{CRID|1050285299838954624}} |hdl=10097/00128009 |accessdate=2023-05-19}}</ref>。 == 神話の本質 == [[ファイル:Gustave Moreau 006.jpg|200px|thumb|right|[[ギュスターヴ・モロー]]1868年作『プロメテウス』。最初の[[プロメーテウス|プロメテウス]]神話は[[ヘーシオドス|ヘシオドス]]の証言にあり、それは[[アイスキュロス]]の筆と思われる悲劇的な三部作形式に纏められた。神話の共通テーマ「火」を代表する物語である<ref>[[#世界神話事典|世界神話事典 p.129、吉田]]</ref>。]] === 典型的な特徴 === 神話の主要登場人物は[[神]]や超自然的な[[ヒーロー]]が多い<ref name="mythnature">[[#Bascom|Bascom p.9]]</ref><ref name="mythfolk">{{Cite book|author= Jacqueline Simpson、Steve Roud |date=2009年|title= A Dictionary of English Folklore |chapter= 【myths】 |pages=|publisher=オックスフォード大学出版局|url= http://www.oxfordreference.com/views/ENTRY.html?subview=Main&entry=t71.e725|isbn=|ref=}}</ref><ref>[[#O'Flaherty|O'Flaherty p.19]] "I think it can be well argued as a matter of principle that, just as 'biography is about chaps', so mythology is about gods."、訳:原則論的な話だが、伝記が奴ら(男たち)の事を語るように、神話は神について語っていると思う。</ref>。支配者や聖職者は神話を神聖なものとして是認し、[[宗教]]と密接に関係させることがあり<ref name="mythnature" />、そのような社会では神話は遠い昔の「真実の物語」とみなされる<ref name="mythnature" /><ref name="mythfolk" /><ref name="eliademyth">[[#Eliade, Myths, Dreams and Mysteries|Eliade ''Myths, Dreams and Mysteries'' p.23]]</ref><ref>[[#Pettazzoni|Pettazzoni p.102]]</ref>。実際に、多くの社会では古い物語を二つに、すなわち「実話」として語る神話と、「嘘の話」である[[寓話]]とに区分している<ref>[[#Eliade, Myth and Reality|Eliade, ''Myth and Reality'', pp. 10-11]]</ref><ref>[[#Pettazzoni|Pettazzoni pp.99-101]]</ref>。神話は一般的に、世界が現在の形をなす前の根源的な時代のことを描写し<ref name="mythnature" />、そこで世界がどのようにして今の有り様となったか<ref name="dundesintro" /><ref name="Dundes, Binary, p. 45" /><ref name="madness" /><ref name="originmyth">[[#Eliade, Myth and Reality|Eliade ''Myth and Reality'' p.6]]</ref>、そしてさまざまな[[習慣]]や社会組織、さらに[[タブー|禁忌]]がどうして成り立ったかを説明する<ref name="mythnature" /><ref name="originmyth" />。 === 伝説・昔話 === 神話はストーリーを持つ物語の形式で、人間を取り巻く様々なものについての過去の出来事を語る。このようなモチーフは[[伝説]]や[[昔話]]でも扱われるが、これらと神話とは密接に関連するものの学問用語として明瞭に区分されている<ref name="sinwa0" /><ref>[[#Bascom |Bascom, p.7]]</ref>。 神話は始原的な出来事を伝えるものに対し、伝説・昔話は過去のある時点の出来事について語られる。また、単一の事象を伝える点では神話と伝説は似ており、伝説は神話同様真実を伝える物語と受け取られるが<ref name="mythnature" />、基本的に[[固有名詞]]を持つ人物を[[主人公]]とし、その活躍した場所も限定され、時代も世界がほぼ現在のように様相が固まった後を舞台とする<ref name="mythnature" />ため[[歴史]]的記載に近く、神話のような広い対象の根源になるものではなく、神聖的性格も帯びてもいない<ref name="sinwa0" />。主人公も神話のような神や超人ではなく、あくまで人間が主役となっている<ref name="mythnature" />。 昔話は異なる時と場所で何度か起こった出来事の典型を表す話であり、真実を表現したものではないか、もしくは神聖な物語ではないものと認識される<ref name="sinwa0" /><ref name="mythnature" />。例えば『[[桃太郎]]』も、[[鬼]]退治はどこでも起こりうる争乱の数ある一つと捉えることが出来るため、神話とも伝説とも異なる性格を持つ<ref name="sinwa0" />。 神話・昔話・伝説の3つは伝統的な古い説話を区分する手段に用いられる<ref name="mythlegendfolk">[[#Bascom |Bascom, p. 10]]</ref>が、これを物語る各文化では必ずしも厳密な線引きが出来ている訳ではない<ref name="sinwa0" /><ref>Kirk, ''Myth'', p. 22, 32; Kirk, "Defining", p. 55</ref>。文化圏によっては神話と伝説に明瞭な差異を持っていないところもあれば<ref>[[#Bascom|Bascom, p.17]]</ref>、ひとつの同じ説話についても、ある集団はそれを真実と捉えてそれゆえ神話と考え、別の集団は虚構と捉えてそれは昔話と考えるような場合もある<ref>[[#Bascom|Bascom, p.13]]</ref><ref name="doty">[[#Doty|Doty, p. 114]]</ref>。神話が宗教の一部に組み込まれたような状態では昔話的な特徴が強調されて、登場人物も人間の英雄や[[巨人 (伝説の生物)|巨人]]や[[妖精]]などへ再解釈されてしまう<ref name="mythfolk" />。 ただし神話・昔話・伝説は伝統的な古い説話を分類するほんの一部分でしかなく、これら以外にも[[逸話]]や[[ジョーク]]のようなものもある<ref name="mythlegendfolk" />。さらには古い説話そのものも民俗学の一分野でしかなく、他にも[[舞踊]]や伝統装束、[[音楽]]など多岐に渡る<ref name="doty" />。 == 神話の起源 == [[ファイル:Kali lithograph.jpg|200px|thumb|[[インド神話]]の女神[[カーリー]]。松村は、男性側観念から見た女性の暗い面として[[ドゥルガー]]から分離したものとみなす<ref name="shinwa1-jyosei"/>。沖田瑞穂の「インドの女神小事典」には、もともと別個の神格であったとの考えが示される<ref>沖田瑞穂「インドの女神小事典」『アジア女神大全』 吉田敦彦・松村一男編著、青土社、2011年、408頁、416-418頁。</ref>。]] === 父権制の成立と神話 === 神話と[[墳墓]]の[[シンボル]]との関係を調べた[[J・J・バッハオーフェン]]は、20世紀以降に科学的見地から[[乱婚]]や[[母系制|母権制]]といった古代社会に対する見方を批判されることになるが、1861年の著作『母権制』にて神話は母権制社会が[[父権制]]へ変遷する過程で構築されたと論説した。その段階を、初期の[[乱婚]]制母系社会から一夫一妻制を経て[[大地母神]]・[[デーメーテール]]型の母権へと変わり、やがて古代[[ギリシア]]・[[ローマ]]を典型とする父権優位型神話体系が成立したと述べた<ref>{{Cite web|和書|url=http://campus.jissen.ac.jp/seibun/ci/|language=日本語|title=生活文化サイバーアカデミー構想案 「家族の時代」の構築のために|publisher=[[実践女子学園]]|author=平原日出夫|accessdate=2010-05-17}}{{リンク切れ|date=2020年3月}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=松田義幸, 江藤裕之 |date=2007-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1157/00000972/ |title=古代母権制社会研究の今日的視点 : 神話と語源からの思索・素描 |journal=実践女子大学生活科学部紀要 |ISSN=13413244 |publisher=実践女子大学 |volume=44 |pages=73-100 |id={{CRID|1050282676644808576}}}}</ref>。これは根底に、母親は自ずと母親たりえるが、父親がアイデンティティを持つには説明が不可欠で、この説明のために神話が創られたとしている<ref name="kanagawa">{{Cite web|和書|url=http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/father/shinwa.html|language=日本語|title=神話的「知」のすすめ|publisher=[[富山商船高等専門学校]]|author=金川欣二|accessdate=2010-05-17}}{{リンク切れ|date=2020年3月}}</ref>。 神話学者の[[松村一男]]によると、この背景が影響して神話の[[女神]]や[[女性]]に見られる性質には、[[男性]]側の観念を反映した要素がある。ひとつはギリシアの[[アルテミス]]やインドの[[ドゥルガー]]のような豊穣がある。ただしそこには、単に恵みをもたらすのみならず、全てを呑み込むような過剰な部分も併せ持つ<ref name="shinwa1-jyosei">[[#世界神話事典|世界神話事典 pp.173-192、松村、I.共通テーマにみる神話 女性]]</ref>。他にも[[処女]]と[[母親]]という相反する性質の同居があり、日本の[[天照大神|アマテラス]]、ギリシアの[[アテーナー]]、そして[[キリスト教]]の[[聖母マリア]]らがこの例に当たる。これらは男性が女性に抱く理想<ref>[[#世界神話事典|世界神話事典 p.192、松村]]</ref>を反映し、後に難解な理論づけをしたものという<ref name="shinwa1-jyosei" />。 === エウヘメリズム === {{Main|エウヘメリズム}} ひとつの理論として、神話とは歴史的な出来事が歪められて説明されたものという考えがある<ref name="matsumura1">{{Cite web|和書|url=http://www.wako.ac.jp/~kmat/R2.htm|language=日本語|title=新しい神話研究の可能性|publisher=[[和光大学]]総合文化研究所|author=松村一男|accessdate=2010-05-17}}{{404|date=2023-05}}</ref><ref name="bulfincheuhemerism">[[#Bulfinch|Bulfinch, p.194]]</ref><ref name="honkoancienttheories">[[#Honko|Honko, p.45]]</ref>。これによると、語り部が歴史的な出来事を繰り返し何度も詳述するうちに、登場人物が神格化され神話が成立したという<ref name="bulfincheuhemerism" /><ref name="honkoancienttheories" />。例えば、[[風]]の神[[アイオロス]]の神話は、ある王が臣下に[[帆]]を使い風を読むよう命令した故事が発展したものという解釈がある<ref name="bulfincheuhemerism" />。紀元前5世紀の[[ヘロドトス]]と[[プロディコス]]も同様の主張をしており<ref name="honkoancienttheories" />、このような考え方は紀元前320年頃の小説家で、ギリシア神話の神々は人間の伝説が変化したものと主張した[[エウヘメロス]][[:en:Euhemerus|(en)]]にちなみ[[エウヘメリズム]]という<ref name="honkoancienttheories" /><ref>{{Cite book|author=|date=2000年|title=The Concise Oxford Dictionary of World Religions |chapter=【Euhemerism】|pages=|publisher= Ed. John Bowker、[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]、UC - Berkeley Library |isbn=|url http://www.oxfordreference.com/views/ENTRY.html?subview=Main&entry=t101.e2315 Oxford Reference Online =}}</ref>。 === 寓話 === 神話は[[寓話]]を元にしているという説がある。それによると、[[アポローン]]は[[火]]、[[ポセイドーン]]は[[水]]といった具合に[[自然現象]]を扱う寓話が神話に変化したという<ref name="honkoancienttheories" />。また[[哲学]]的概念や[[霊]]的概念を表す寓話を元にした神話もあり、例えば[[アテーナー]]は賢明な判断、[[アプロディーテー]]は[[願望]]を示すという<ref name="honkoancienttheories" />。19世紀の[[サンスクリット]][[文献学|文献学者]]の[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]は神話の寓話的理論を纏め、当初神話は[[自然]]を語る寓話として形成されたが、やがて文字通りに解釈するようになったと主張した。例えば、「raging」という表現は元々は[[海]]が「荒れ狂う」ことを表現していたが、これがやがて[[海]]を司る神の「激怒する」性格を現すようになったと言う<ref name="名前なし-1">[[#Segal|Segal p.20]]</ref>。 === 擬人化 === いくつかの考察によれば、[[神話・伝説に登場する英雄一覧|神話]]は[[無生物]]や力の[[擬人化]]という説もある。それによれば、古代の崇拝は炎や空気などの自然現象に向けられ、徐々にこの信仰対象が神に変化したという<ref>[[#Bulfinch|Bulfinch p.195]]</ref>。例えば、神話的思考論[[:en:Mythopoeic thought|(en)]]によれば古代人は何を見るにしても単なる物ではなく人格を帯びているという見方を持っていたという<ref>[[#Frankfort|Frankfort p.4]]</ref>。したがって自然現象はそれぞれの神の所業であると考え、その思考が神話形成へ繋がったと主張している<ref>[[#Frankfort|Frankfort p.15]]</ref>。 === 神話と儀式の関係 === [[儀式]]との関連を解説した神話‐儀式理論<ref>[[#Segal|Segal p.61]]</ref>の極端な説では、神話とは儀式を説明するために作られたという<ref>*{{Cite book|author= Fritz Graf |date=1993年|title=Greek Mythology|chapter=|pages=40|publisher= Trans. Thomas Marier. Baltimore: [[:en:Johns Hopkins University Press|Johns Hopkins University Press]]|isbn=|ref=}}</ref>。[[聖書学|聖書学者]]のウィリアム・ロバートソン・スミス[[:en:William Robertson Smith|(en)]]によって提唱された<ref>[[#Meletinsky|Meletinsky pp.19-20]]</ref>この主張では、古代人が何らかの目的を持って儀式を始めた時には神話とは何ら関係が無かった。しかし時が過ぎ元々の目的が忘れ去られたときに、人々はなぜ儀式を行うかを説明するために神話を創り出し、それを祝するためという理由で儀式を行うようになったという<ref>[[#Segal|Segal p.63]]</ref>。人類学者の[[ジェームズ・フレイザー]]も似通った説を唱え、古代人の信仰は人智が及ばぬ法則を信じることで始まり、やがてそのような感情を失ってしまった際に神話を創り出し、それまで行っていた魔術的な儀式を、神を鎮める儀式にすりかえたと主張した<ref name="Frazer, p. 711">[[#Frazer|Frazer p.711]]</ref>。 しかし現在では、神話と儀式の関係には普遍的な判断をつけずそれぞれの民族ごとに判断すべきという意見で一致している。儀式が先行し後に神話が作られたというフレイザーらの説を立証する証拠はほとんど見つからず、逆に[[インディアン|アメリカインディアン]]の[[ネイティブ・アメリカン#宗教|ゴースト・ダンス]]の例のように神話が先行して存在し、儀式は神話の補強として発達する例が多い<ref name="sinwa0" />。 === 神話の変化や統合 === 民族や文化を単位に生まれる。古代、小規模であったこれらの単位は征服や統合を通じて集合し、やがては[[国家]]単位の大きな統一的文化・文明へと発展した。これに伴い神話も段階的にまとまり、体系付けられた。[[松村武雄]]はこれら神話の統合された構成について、「横に展開」と「縦に展開」とに分類し、前者の例としてギリシア・[[ゲルマン人|ゲルマン]]・[[ケルト人|ケルト]]など[[西ヨーロッパ]]の神話が網のように存在する状態を示し、後者の例として[[日本]]の[[天孫族|天孫系]]神話を挙げている<ref name="shirakawa">{{Cite book|和書|author=白川静|authorlink=白川静|date=1994年(初版1990年)|edition=五版|title=中国の神話|pages=10-16|chapter=第一章 中国神話学の方法 1、第三の神話|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|isbn=978-4-12-200711-6 }}</ref>。 [[中国]]の神話はこのような体系化がなされず断片的・孤立的なところを特徴とするが、個別の神話の中には[[三皇五帝]]に見られる3つの異なる[[大洪水]]があるように「横に展開」や「縦に展開」に相当する箇所もある。これらは、神話が固定化した時期に当該地域がどのような政治的・文化的な体系を成していたかが影響し、中国は例外的に神話が統合されない傾向にあった可能性が考えられる<ref name="shirakawa" />。 == 神話の役割 == [[ファイル:Centaur (PSF).jpg|left|200px|thumb|[[ケンタウロス]]。獣性と人間性がせめぎ合う象徴。]] 担う役割のうち最も重要なものは、行動規範を定めることにある<ref>[[#Eliade, Myth and Reality|Eliade ''Myth and Reality'' p.8]]</ref><ref name="honkomythfunction">[[#Honko|Honko p.51]]</ref>。神話の中で語られる象徴は、時に道徳的な解説を含む出来事の結果を示す場合がある。人間と動物の特徴を合わせ持つような登場人物はまさに人間の典型として描き出される。例えば[[ケンタウロス]]は人間男性の上半身と馬の下半身を持つが、人間部分は合理性を象徴し、動物部分は野性的本能を表す。この特異な姿は、人間心理が動物的本能に脅かされる状態を意味する<ref name="Totani">{{cite journal|和書|author=戸谷鉱一 |date=2006-01 |url=http://kyouyou.agu.ac.jp/laboratory/file/GokenKiyou-31.pdf |format=PDF |title=『嵐が丘』における比喩表現 |journal=[http://kyouyou.agu.ac.jp/laboratory/backissue.html 愛知学院大学語研紀要 |ISSN=03885402 |publisher=愛知学院大学語学研究所 |volume=31 |issue=1 |pages=111-135 |id={{CRID|1520853832862387328}} |accessdate=2023-05-19}}</ref>。この例は、神話の価値は文化的または精神的な根拠の臆説を述べる点にあるだけでなく、道徳的な解釈が成り立つ象徴群を描写するところにもある。その時には必ずしも神の説話を登場させる必要は無く、何らかの概念を具現化する象徴が示されれば良い。例えば、ギリシア神話では鳩は「権力」や「肥沃」、犬の悪い意味は「死者」があり、神話概念を引継ぐ詩集『[[変身物語]]』では熊は「自然の変化」を象徴する<ref name="Totani" />。 近代以前、人生体験は宗教や物語的な宇宙観と密接に関係し、切り離すことができなかった。それは、当時の宗教とは「入信するもの」ではなく、人生のすべての面において存在し、宗教や物語的宇宙観は人生そのものを構築していたことを示す<ref>Lila Abu-Lughod, Imagining Nature: Practices of Cosmology and Identity</ref>。この時代、神話はいわゆる「宗教的な体験」を提供する一翼を担った。神話物語は人を現実社会から切り離して神話の時代へ誘い、神聖なるものに触れる機能を持った<ref name="eliademyth" /><ref name="honkomythfunction" /><ref>[[#Eliade, Myth and Reality|Eliade ''Myth and Reality'' p.19]]</ref>。事実、神話時代の状況を再現しようと試みる社会も存在し、そこでは現実社会に生きる人間に原初の時代に存在した神の癒しをもたらそうとしている例もある<ref>[[#Honko|Honko p.49]]</ref>。この背景には、人間の道徳を定義するものではない技術と直面する科学に対して、「宗教的な体験」は過去の徳目への理解に繋がる指向性がある点が挙げられる<ref>Roland Barthes, Mythologies</ref>。 神話の機能では、神話そのものと神話時代の観念とを区分することは重要である。[[クロード・レヴィ=ストロース]]は、神話とは科学と同様に、意識的人間と自然との間にある関係から自ずと導き出されたものと示した。文化は、例えば陰湿な者を蛇に喩えたように、人間のふるまいを表現するために神話学的存在を設けた。それが、時が経つにつれて「蛇男の神話」へと変貌した。しかしながら、神話時代の観念とは、現代的視点からすると紛う方無く虚構であり、人類が神話を編み出す以前のいかなる時間軸上に存在していない<ref>クロード・レヴィ=ストロース Claude Levi-Strauss, The Savage Mind</ref>。 == 神話の研究 == 歴史的に神話研究の重要な取り組みは、[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[フリードリヒ・シェリング]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]、[[カール・グスタフ・ユング]]、[[ジークムント・フロイト]]、[[リュシアン・レヴィ=ブリュール]]、クロード・レヴィ=ストロース、[[ノースロップ・フライ]]、ソヴィエト流派、神話‐儀礼理論派らによってもたらされた<ref>Guy Lanoue, Foreword to Meletinsky, p.viii</ref>。本項では、神話解釈のトレンドを解説する。異なる神話の比較検証については[[比較神話学]]を参照願う。 === 近代以前の理論 === 神話の批判的解釈は[[ソクラテス以前の哲学者]]まで遡ることが出来る<ref name="Segal, p. 1">[[#Segal|Segal p.1]]</ref>。エウヘメロスは初期の重要な神話学者であり、彼は歴史的事実の変質が神話となったと唱えた。[[プラトン]]は『パイドロス』にてこれを批判し、この神話学門分野をソクラテスの言として「恐ろしく奇妙でぎこちなく、全く巧妙さが無い」と述べている。より深く包括的な洞察が行われた。例えばサルティウス[[:en:Sallustius|(en)]]<ref>On the Gods and the World, ch. 5, See Collected Writings on the Gods and the World, The Prometheus Trust, Frome, 1995年</ref>は神話を5つの種類に分けた。神学的、物理的(または自然の法則との関連)、アニマスティック(または魂との関連)、物質的そしてこれらの混合である。この分類は最終的に2-3に纏め直されたが、この考え方は神話研究の嚆矢となった。 プラトンが『[[国家 (対話篇)|国家]]』にて詩人が語る神話は教育上害悪だという主張([[詩人追放論]])を展開した事は有名だが、その一方で多種類の神話を著作中に引用した。その後の[[プルタルコス]]、[[ポルピュリオス]]、[[プロクロス]]、[[オリュンピオドロス]]、[[ダマスキオス]]らプラトン派の思想家も伝統的な神話や[[オルペウス]]神話の象徴を明白に解釈する著述を行った<ref group="注釈">おそらくは、神話を哲学的に解釈したものの中で最も広範にわたるものは、プロクルスの著作『Commentary on the Republic』にある (''The Works of Plato I'', trans. Thomas Taylor, The Prometheus Trust, , 1996)。妖精についてのHomeric Caveを分析したポルフュリオスも重要な仕事といえる (''Select Works of Porphyry'', Thomas Taylor The Prometheus Trust, Frome, 1994)。外部リンク参照。</ref>。 [[ルネサンス]]期には多神教の神話へ再び関心が向けられ、16世紀には『[[:en:Theologia mythologica|Theologia mythologica]]』(1532年)のような神話に関する書籍が著された。 === 19世紀の理論 === 神話を扱う学究的理論は[[19世紀]]後半に提示された<ref name="Segal, p. 1" />。この時代の考えでは神話は失われたり時代遅れであったりする思考として扱われたが、一方で神話は近代科学に相当する原始的な概念という解釈も行われた<ref>[[#Segal|Segal pp.3-4]]</ref>。研究手段には[[歴史学]]、[[文献学]]、[[民族学]]的手法が持ち込まれた<ref name="sinwa0" />。特に[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[比較言語学]]進展に伴ってこの言語を用いる地域の各神話が研究され、もっぱら[[言語学]]的要素を重視した神話研究が進展した<ref name="sinwa0" />。 [[エドワード・バーネット・タイラー|E.B.タイラー]]の解釈では、神話とは、人智の及ばぬ自然の法である自然現象を文章として説明する試みだったと言い、それはやがて[[アニミズム]]に繋がる無生物に霊魂を見出す<ref name="Kubota">{{Cite journal|和書|author=久保田力 |date=2008-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1353/00000447/ |title=アニミズム発生論理再考 ―「霊魂」の人類学的思想史(1)タイラー ― |journal=東北芸術工科大学紀要= |publisher=[東北芸術工科大学] |issue=15 |pages=80-99 |id={{CRID|1051412328453847296}} |accessdate=2023-05-19}}</ref>古代人の試みと考えられた<ref>[[#Segal|Segal p.4]]</ref>。テイラーは、このような人間の思考が様々な段階を踏んで神話的な解釈から科学的な考察へ進歩したと主張した。これにはあまり同調する学者はおらず、[[リュシアン・レヴィ=ブリュール]]は「原始的な知性というものは人の精神状態そのものであり、歴史的な発展をする段階などではない」と反駁した<ref>{{cite book|last=Mâche|title=Music, Myth and Nature, or The Dolphins of Arion| year=1992| pages= 8}}</ref>。 [[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]は神話を「言語疾病」<ref name="Kubota" />と呼び、抽象的表現や中性的に捉える概念が言語上で充分に発達していなかったために創られた、そのため擬人的な何かに語らせたり、自然現象そのものを神のような意思を持つ存在と認識するような手段で概念を捉え言語化したと考えた<ref name="名前なし-1"/>。ただし今日では、この理論はあまり重要視されていない<ref name="sinwa0" />。 人類学者の[[ジェームズ・フレイザー]]は、神話とはそもそも自然の法則を誤訳した魔術的な儀式をさらに誤って解釈したものとみなした<ref>[[#Segal|Segal pp.67-68]]</ref>。彼は、人間は不可思議な事象を客観的な魔術的法則とみなし、それが願望を聞き届けるような性格ではないと判ると自然法則とみなすことを諦め、なにかしらの神が自然を制御していると思うようになり、それが神話への傾倒に繋がったと主張した。この過程において、伝統的に行われてきた儀式を神話の出来事の再現する行動だと再解釈して続けるようになるとも述べた。しかし最終的に人類は、自然とは自然の法則に従っているのだと認識し、そして科学を通じてその法則を見つけるようになり、神話は時代遅れなものへと押しやられてゆくと言い、フレイザーはこの一連の過程を「魔法に発し、宗教を通じて科学へ至る」と表現した<ref name="Frazer, p. 711" />。また彼は世界中に数ある神話の部分類似点に着目し、[[進化論]]的な普遍化を施した。ただしこれは強引な手法との批判がなされた<ref name="sinwa0" />。 この頃には、科学の発展に伴って神話は近代科学思想の洗礼を受けざるを得なくなった。その結果、神話はそれ自体の信憑性を失うことになった<ref name="Segal, p. 3">[[#Segal|Segal p.3]]</ref>。19世紀後半には[[社会文化的進化]]論を基礎に置き、神話は未開状態の習俗から発生したものとみなす[[アンドルー・ラング]]などが現れた<ref name="sinwa0" />。 === 20世紀の理論 === [[20世紀]]に入ると、前世紀の神話研究における主要な考えであった神話と科学の対立という見方は否定された。一般に、「20世紀の理論は、神話を時代遅れの[[疑似科学]]とはみなさない傾向にあり、科学を理由に神話を無視するようなことはしない」と述べてられている<ref name="Segal, p. 3" />。神話研究にも構造主義人類学や[[心理学]]からのアプローチが行われた<ref name="sinwa0" />。この潮流は、[[レオ・フロベニウス]]などドイツの民族学者たちが世界中の神話を収集し、分布や文化史上の意義を定めたことが貢献した<ref name="sinwa0" />。 ==== 民族学的考察 ==== 神話収集に寄与した、ドイツの民族学者らは前時代的解釈に縛られていたが、これを進める役割をアードルフ・イェンゼンが担った。彼は農作物の始原を語る神話の一種「[[ハイヌヴェレ型神話]]」と初期栽培民文化の関連性に、さらに儀礼のタイプを考慮に加えてひとつの一貫した世界像を洗い出した。この世界像を基礎に据えて初めて、各神話や儀礼を正確に解釈できるとイェンゼンは主張した<ref name="sinwa0" />。 ヘルマン・バウマンは、イェンゼンと逆の手法で神話を解釈した。彼は各創世神話に見られる宇宙観に着目した。このような世界観を構築するには、それぞれの文化がある程度発達していなければならず、バウマンは過去の研究者が未開状態の人類が創った神話から順を追ったのに対し、高い文化社会の神話を分析の対象とした。これによって、高文化地域の神話が周辺の未開社会へ影響を与えることが明らかとなった<ref name="sinwa0" />。 ==== 心理学的考察 ==== [[スイス]]の心理学者[[カール・グスタフ・ユング]]を筆頭に、世界の神話には背景に心理学的なものがあるという考えを置いた理解も進んだ。ユングは、すべての人間は生まれながらの心理的な力(psychological force)を無意識に共有する([[集合的無意識]])と主張し、これを「[[元型]]」(archetypes)と名づけた。彼は、異文化間の神話に見られる類似性から、このような普遍的な原型が存在することを明らかにできると考え<ref>Boeree</ref>、この元型が表現された一つの形態が神話だと論じた<ref>{{Cite web|和書|url=https://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/annual_report_ja/annual_report_2006_243-257_ja.html|language=日本語|title=仏教と自然科学-鈴木大拙とアインシュタイン-|publisher=[[龍谷大学]]人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター|author=金子務|accessdate=2019-12-17}}</ref>。 [[ジョーゼフ・キャンベル]]は、人間心理を洞察した中で、人の生き方に応用できるものを神話から得られると主張した。例えば、キャンベルが主張するところによると神話第一の機能は「神秘な存在に対する畏敬の念を想起させ支持させる」ことにあり<ref>Campbell, p. 519</ref>、さらに「各個人に自己の精神を現実的に秩序づけるよう導く」ことに役立つと言及した<ref>Campbell, p. 521</ref>。 ユングやキャンベル同様、クロード・レヴィ=ストロースも神話は心の有り様を反映したものだと唱えた。ただし彼は、この有り様とは無意識や衝動ではなく明確な精神機構、特に対立する{{仮リンク|神話素|en|Mytheme}}の組み合わせである二項対立<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/HistoryOf%20Wife_03LeviStrauss.pdf|format=PDF|language=日本語|title=&lt;妻&gt;の歴史図像学|publisher=[[名古屋大学]]大学院・国際言語文化研究所|author=鈴木繁夫|accessdate=2010-05-14}}{{リンク切れ|date=2019年12月}}</ref>があると考えた<ref>[[#Segal|Segal p.113]]</ref>。 [[ミルチャ・エリアーデ]]は『神話と夢想と秘儀』や『The Myth of the Eternal Return』の付記に、現代人が感じる不安は神話や神聖なるものの拒絶に帰すると論じた。 ==== その他の考察 ==== [[ハンス・ブルーメンベルク]]は、神話には「威嚇(Terror)」と「詩情(Poesie)」という互いに背反する二つの機能が対立する構図を取ると分析した。前者は人間社会が有する制度や規範または抑圧などをイメージさせる物語を提示し、それを強制させる機能をいう。後者は生命本来が持つ自然性や原初の話にある自由さを提示し、世界を人間の相似をして認識させ、人間の精神を高める想像をもたらす機能を意味する。ブルーメンベルクはこの二つの機能が対立するのではなく、「距離(Distanz)」を持ちながら共存すると言い、具体的には「威嚇」を感じ取りながらそこから適度に離れた位置で「詩情」を感じ取る構造が神話の特色と言及した<ref>{{Cite journal|和書|author=前田富士男 |date=1999 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AA11893297-00000005-04211188 |title=再神話化そして間隔 : ヨーゼフ・ボイス<君の傷を見せよ>(ヨーゼフ・ボイス : ハイパーテクストとしての芸術) |journal=Booklet |publisher=慶應義塾大学 |volume=5 |pages=74-94 |id={{CRID|1050282812370694272}} |accessdate=2023-05-19}}</ref>。 [[ファイル:10,000 BEF 1929.jpg|thumb|200px|古い[[ベルギー]][[紙幣]]。[[ケレース]]、[[ネプトゥーヌス]]、[[ケーリュケイオン]]が図柄に使われている。]] === 比較神話学 === {{main|比較神話学}} 異なる文化における神話を比較する学問を比較神話学という<ref name="Littleton, p.32" />。その主題は各神話の中にある類似性を見つけ出すことにあり<ref name="Littleton, p.32" />、そこから神話に流れる共通の基礎的部分を見出そうとする試みである。この基礎的な部分とは、例えばある同じ自然現象に直面した各民族が意図せず似通った神話を創り出すような場合にありうる、普遍的な発想の源、もしくは多様な神話に分岐する大元の「神話の種」(protomythology)とみなされる可能性がある<ref name="Littleton, p.32" />。 19世紀には、神話解釈において比較神話学的手法が活発になり、その普遍性探求が行われた<ref>{{cite web|author= Scott Leonard |date=2007年|title= The History of Mythology: Part I、Scott A. Leonard's Home Page |accessdate=2010-05-17|url= http://www.as.ysu.edu/~saleonard/History%20of%20Mythology%201.html|publisher=Youngstown State University}}</ref>。しかし現代、このような比較検討の手法には研究者から疑問も提示され、神話の普遍性に囚われるべきではないとの意見もある<ref name="Northup, p. 8">Northup, p. 8</ref>。この傾向に抗う例のひとつは[[ジョーゼフ・キャンベル]]の『千の顔を持つ英雄』[[:en:The Hero with a Thousand Faces|(en)]]であり、この中でジョーゼフは、全ての神話上の英雄には基本的に同じパターン([[ヒーローズ・ジャーニー]])が見られるという。このモノミス[[:en:Monomyth|(en)]]理論は神話研究の主流派には認められていない<ref name="Northup, p. 8" />。 === 都市神話または現代神話 === 近代の文脈において、非常に最近に作られたものにせよ、再度の組み合わせの流れのものにせよ、しかしながら神話の性格を全て有するところの話を人は確かに観察した。人はそれで「都市神話」、またはさらに一般に「[[都市伝説]]」について話す。しかしながら現代の神話について、[[フランス革命]]もしくは[[19世紀]]末期での労働者の意向におけるもののような戦争の叙事詩の類の、信じられない出来事の到来に対するあるいはそれらの出現の分析を与えたものである、哲学者で社会学者の[[ジョルジュ・ソレル]]の策略を与えるところの意味においても人は話すことを与える<ref>{{harv | Gianinazzi | 2006}}</ref>。大衆の動員において用いられるところの社会的神話はそれで問題である。[[20世紀]]の法廷では、神話はとくに国家の高揚のために、[[ファシズム]]による[[プロパガンダ | 宣伝活動]]における道具のように使われたとされた。今日人は、[[広告]]が売り手の神話において顧客に機能することとの評価を与える。現代の神話はすなわちある時は自発的な社会的意志の表明でありまたある時は政治あるいは商業における秩序での操作である。現在の現代社会において、他面では神話はひとつの広告宣伝装置であるのに、それらの能力限界に含みを持たせることが必要なように思われる。 == 「神話」の意味の変化 == 神話は、古代ギリシアにおいては[[ミュトス]]として伝えられ、[[ホメーロス]]の『[[イーリアス]]』『[[オデュッセイア]]』、[[ヘシオドス]]の『[[神統記]]』『仕事と日』などのように、霊感を受けた詩人が神々の行為を権力者に語る[[歌]]の形式となった。これらは神が人に真実を語る力関係の基、聞き手である強者・男性的価値観に副うようにつくられていた。それに対し[[ロゴス]]は説明する言葉であり、弱者が強者に使う、多少の[[嘘]]を含みながらも説得力を持たせることを目的としていた<ref name="matsumura2">{{cite journal|和書|author=松村一男|date=2001-03-19|title=神話・イメージ・言語(シンポジウム イメージと言語) |url=http://id.nii.ac.jp/1073/00003619/|journal=東西南北 |volume=2001 |pages=20-26 |publisher=[[和光大学]]総合文化研究所|language=日本語 |accessdate=2010-05-17|naid=120005539806}}</ref>。 これが、現在用いられるミュトス=真実ではない「虚構」、ロゴス=[[知性]]や[[理性]]に裏打ちされた「真理」へ逆転した転換点は、ギリシア民主制の誕生にある。市民が話し合いながら政治を進める体制では、必要な議論は神がかった詩人の言葉ではなく、理性や知性を働かせ、相手を説得する言葉でなければならない。これを背景に、ロゴスこそが真実という概念が固められ、相反してミュトスが虚偽の意味合いを持つようになった<ref name="matsumura2" />。 == 「神話」という語 == 日本の古典には、「'''神語'''(かんがたり)」という語はあるが、「神話」という語はない。これは[[明治時代|明治]]20年代に、英語の「{{en|myth}}」を「神話」と[[日本語]]に翻訳した事で用いられる様になった翻訳漢字であり、中国や朝鮮の古典にもない言葉である<ref>{{Cite book |和書 |author=上田正昭|authorlink=上田正昭|author2=鎌田純一|authorlink2=鎌田純一|title=日本の神々 - 『先代旧事本紀』の復権 |publisher=[[大和書房]] |date=2004-2 |isbn=978-4-479-84063-3 |page=35}}</ref>。これは本来、神話と呼ばれるものが語られるものであって、文字によって書き残される様になったのは後である為とされる。したがって『神話』という日本語は、近代から用いられる様になった比較的新しい語である。 == 各国一覧 == * [[日本神話]] * [[アイヌラックル|アイヌ神話]] * [[中国神話]] * [[朝鮮神話]] * [[インド神話]] * [[アラビア神話]] * [[イラン神話]] * [[バビロニア神話]] * [[メソポタミア神話]] * [[ウガリット神話]] * [[ギリシャ神話]] * [[ローマ神話]] * [[ケルト神話]] * [[ゲルマン神話]] * [[スラヴ神話]] * [[コーカサス神話]] * [[北欧神話]] * [[フィンランド神話]] * [[エジプト神話]] * [[マヤ神話]] * [[アステカ神話]] * [[インカ神話]] * [[ハワイ神話]] * [[ポリネシア神話]] * {{日本語版にない記事リンク|テュルク神話|en|Turkic mythology}} * {{日本語版にない記事リンク|西アフリカ神話|en|West African mythology}} * {{日本語版にない記事リンク|ヨルバ神話|en|Yoruba religion}} * {{日本語版にない記事リンク|バルト神話|en|Baltic mythology}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|20em}} * {{cite book | last = Gianinazzi | first = Willy | authorlink = :fr:Willy Gianinazzi | year = 2006 | title = Naissance du mythe moderne. Georges Sorel et la crise de la pensée savante (1889-1914) | publisher = Maison des sciences de l’homme | location = Paris | oclc = 909344043 | isbn = 2735111059 |ref = harv}} == 参考文献 == <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--> * {{Cite book|和書|editor1-first=太良|editor1-last=大林|editor2-first=清司|editor2-last=伊藤|editor2-link=伊藤清司|editor3-first=敦彦|editor3-last=吉田|editor4-first=一男|editor4-last=松村|editor4-link=松村一男|year=2005|title=世界神話事典|publisher=[[角川書店]]|series=角川選書 375|isbn=978-4-04-703375-7|ref=世界神話事典}} * {{Cite book|author=William Bascom, |date=1984年|title=Sacred Narrative: Readings in the Theory of Myth |chapter= The Forms of Folklore: Prose Narratives|pages=5-29 |publisher=Ed. Alan Dunde、カリフォルニア大学出版局|isbn=|ref=Bascom}} * {{Cite book|author=[[トマス・ブルフィンチ]]|date=1867年|title=[[:en:Bulfinch's Mythology| Bulfinch's Mythology]]|chapter=|pages=|publisher=Whitefish: Kessinger |isbn=|ref=Bulfinch}} * {{Cite book|author= William Doty|date=2004年|title= Myth: A Handbook |chapter=|pages=|publisher= Westport: Greenwood |isbn=|ref=Doty}} * {{Cite book|author=[[:en:Alan Dundes|Alan Dundes]]|date=1997年|title=Western Folklore |chapter= Binary Opposition in Myth: The Propp/Levi-Strauss Debate in Retrospect |pages=39-50,56|publisher=|isbn=|ref= Dundes, Binary}} * {{Cite book|author=Alan Dundes |date=1984年|title=Sacred Narrative: Readings in the Theory of Myth |chapter=Introduction |pages=1-3|publisher=Ed. Alan Dunde、カリフォルニア大学出版局|isbn=|ref=Dundes, Introduction}} * {{Cite book|author= Alan Dunes |date=1996年|title=Madness in Method Plus a Plea for Projective Inversion in Myth、Myth and Method|chapter=|pages=|publisher= Ed. Laurie Patton and Wendy Doniger. Charlottesville: University of Virginia Press |isbn=|ref=Dundes, Madness}} * {{Cite book|author=[[:en:Mircea Eliade|Mircea Eliade]]|date=1963年|title=''Myth and Reality |chapter=|pages=|publisher= Trans. Willard R. Trask. New York: Harper & Row |isbn=|ref=Eliade, Myth and Reality}} * {{Cite book|author= Mircea Eliade|date=1967年|title=Myths, Dreams and Mysteries |chapter=|pages=|publisher=Trans. Philip Mairet. New York: Harper & Row |isbn=|ref=Eliade, Myths, Dreams and Mysteries }} * {{Cite book|author=[[:en:Henri Frankfort|Henri Frankfort]]|date=1977年|title= The Intellectual Adventure of Ancient Man: An Essay on Speculative Thought in the Ancient Near East |chapter=|pages=|publisher=[[シカゴ大学出版局]]|isbn=|ref=Frankfort}} * {{Cite book|author=[[ジェームズ・フレイザー]]|date=1922年|title=[[金枝篇]]|chapter=|pages=|publisher= New York: Macmillan |isbn=|ref=Frazer}} * {{Cite book|author= Lauri Honko |date=1984年|title= The Problem of Defining Myth、Sacred Narrative: Readings in the Theory of Myth |chapter=|pages=41-52|publisher= Ed. Alan Dundes. Berkeley、カリフォルニア大学出版局|isbn=|ref=Honko}} * {{Cite book|author= G・S・カーク |date=|title= 『神話―ーその意味と機能』(Myth, its Meaning and Functions in Ancient and Other Cultures, 1970) |chapter=|pages=|publisher=社会思想社 |isbn=|ref=|year=1976}} * {{Cite book|author= G.S Kirk |date=1984年|title= On Defining Myths、Sacred Narrative: Readings in the Theory of Myth |chapter=|pages=53-61|publisher= Ed. Alan Dundes. Berkeley、カリフォルニア大学出版局|isbn=|ref=}} * {{Cite book|author=Covington Littleton|date=1973年|title=The New Comparative Mythology: An Anthropological Assessment of the Theories of Georges Dumezil |chapter=|pages=|publisher= Berkeley、カリフォルニア大学出版局|isbn=|ref=Littleton}} * {{Cite book|author= Elea Meletinsky|date=2000年|title=The Poetics of Myth |chapter=|pages=|publisher= Trans. Guy Lanoue and Alexandre Sadetsky. New York: Routledge |isbn=|ref=Meletinsky}} * {{Cite book|author=|date=2006年|title=Myth-Placed Priorities: Religion and the Study of Myth、Religious Studies Review |chapter=|pages=5-10|publisher= Northup, Lesley |isbn=|ref=}} * {{Cite book|author=Wendy O'Flaherty|date=1975年|title= Hindu Myths: A Sourcebook |chapter=|pages=|publisher= London: Penguin |isbn=|ref=}} * {{Cite book|author=Raffaele Pettazzoni |date=1984年|title=The Truth of Myth、Sacred Narrative: Readings in the Theory of Myth |chapter=|pages=98-109|publisher=Ed. Alan Dundes. Berkeley: University of California Press |isbn=|ref=Pettazzoni}} * {{Cite book|author=Robert Segal |date=2004年|title=Myth: A Very Short Introduction |chapter=|pages=|publisher= Oxford: Oxford UP |isbn=|ref=Segal}} * {{Cite book|author=Michael Simpson |date=1976年|title= Gods and Heroes of the Greeks |chapter= Introduction. Apollodorus |pages=1-9|publisher= Trans. Michael Simpson. Amherst: [[:en:University of Massachusetts Press|University of Massachusetts Press]]|isbn=|ref=}} == 読書案内 == <!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。 書籍の宣伝はおやめ下さい。--> * Stefan Arvidsson, ''Aryan Idols. Indo-European Mythology as Ideology and Science'', University of Chicago Press, 2006. ISBN 0-226-02860-7 * [[ロラン・バルト]] ''Mythologies'', 1957. ** 『[[神話作用 (書籍)|神話作用]]』、[[篠沢秀夫]]訳、新版・[[現代思潮新社]] ** 新訳『現代社会の神話 著作集3』、下沢和義訳、[[みすず書房]]、2005年 * Kees W. Bolle, ''The Freedom of Man in Myth''. [[:en:Vanderbilt University Press|Vanderbilt University Press]], 1968. * Richard Buxton. ''The Complete World of Greek Mythology''. London: Thames & Hudson, 2004. * E. Csapo, ''Theories of Mythology'', 2005. * [[:en:Edith Hamilton|Edith Hamilton]], ''[[:en:Mythology (book)|Mythology]]'' 1998. * [[ロバート・グレーヴス]] ** "Introduction." ''New Larousse Encyclopedia of Mythology''. Trans. Richard Aldington and Delano Ames. London: Hamlyn, 1968. v-viii. ** ''The Greek Myths''. London: Penguin, 1955. ***『[[ギリシア神話 (ロバート・グレーヴス)|ギリシア神話]]』、[[高杉一郎]]訳、[[紀伊國屋書店]]、新版1998年 * [[ジョーゼフ・キャンベル]] ''[[:en:The Hero with a Thousand Faces|(en)]]'', 1949. **『[[千の顔を持つ英雄|千の顔をもつ英雄]]』、平田武靖ほか監修、[[人文書院]](上下)、1984年。ISBN 978-4409530047&ISBN 978-4409530054 **新訳『千の顔をもつ英雄』、倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳、[[ハヤカワ文庫]](上下)、2015年 ** ''Flight of the Wild Gander: Explorations in the Mythological Dimension: Select Essays 1944-1968'' New World Library, 3rd ed, 2002.ISBN 978-1-57731-210-9 * [[ミルチャ・エリアーデ]] ** ''Cosmos and History: The Myth of the Eternal Return''. Princeton University Press, 1954. ** ''The Sacred and the Profane: The Nature of Religion''. Trans. Willard R. Trask. NY: Harper & Row, 1961. * Louis Herbert Gray [ed.], ''The Mythology of All Races'', in 12 vols., 1916. * [[リュシアン・レヴィ=ブリュール]] ** ''Lesfonctions mentales dans les sociétés inférieurs'', 1910. ***『未開社会の思惟』、[[きだみのる|山田吉彦]]訳、[[岩波文庫]](上下)、復刊2003年。ISBN 978-4003421314&ISBN 9784003421321 ** ''Primitive Mentality'', 1922. ** ''The Soul of the Primitive'', 1928. ** ''The Supernatural and the Nature of the Primitive Mind'', 1931. ** ''Primitive Mythology'', 1935. ***『原始神話学』、[[古野清人]]訳、[[弘文堂]]、新版1996年。ISBN 978-433-5051159 ** ''The Mystic Experience and Primitive Symbolism'', 1938. * Charles H. Long, ''Alpha: The Myths of Creation''. George Braziller, 1963. * Barry B. Powell, ''Classical Myth'', 5th edition, Prentice-Hall. * Santillana and Von Dechend, 1969. 2nd:1992. ''Hamlet's Mill: An Essay Investigating the Origins of Human Knowledge And Its Transmission Through Myth'', Harvard University Press. ISBN 0-87923-215-3. * Steven F. Walker and, Robert A. Segal, ''Jung and the Jungians on Myth: An Introduction'', Theorists of Myth, Routledge, 1996. ISBN 978-0-8153-2259-7. == 外部リンク == {{Wikiversity|:en:School:Comparative Mythology}} {{Wikisourcelang|en|The New Student's Reference Work/Mythology|The New Student's Reference Work/Mythology, ed. Beach (1914)}} {{Commonscat}} * [http://www.as.ysu.edu/~saleonard/History%20of%20Mythology%201.html Leonard, Scott. "The History of Mythology: Part I"] Youngstown State University. {{en icon}} * [https://www.prometheustrust.co.uk/html/2_-_porphyry.html Porphyry on the Homer's Cave of the Nymphs, tr. Thomas Taylor] {{en icon}} * {{Kotobank}} * [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/children/post_318.html リサーチ・ナビ「神話・伝説(外国)」] - 国立国会図書館<!--2016-05-08--> {{ja icon}} * [https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000083222 英語「myth」の訳語としての「神話」という言葉は、いつ頃から誰が書籍等において使い始めたのか。] - レファレンス協同データベース<!--2016-05-08--> {{ja icon}} {{神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんわ}} [[Category:神話|*]] [[Category:宗教学]] [[Category:文化人類学]] [[Category:民俗学]] [[Category:世界観]]
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Freenode
freenode(フリーノード)は、かつて「オープンプロジェクトネットワーク」として知られていたIRCのネットワーク。サーバにはドメイン名chat.freenode.netからアクセスすることができ、これは利用者を新規接続の受け入れが可能なサーバへ順番に送る。freenodeは現存する最も大きなFOSSによるIRCネットワークで、全体で5万を超える利用者と1万以上のチャンネルを持つ。別のIRCネットワークEFnetから移転する形で1995年にサービスを開始した。 アメリカ合衆国に本部をおく非営利団体ピアダイレクテドプロジェクトセンター(Peer-Directed Projects Centre)によって運営される。ネットワークの改善および他の社会福利目的の非営利団体の支援がフリーノードの目的である。フリーノードはオープンソースプログラマに特に人気がある。フリーノードはその活動に共鳴する支援者からホスティングの提供を受け、そのサーバは北米、ヨーロッパ、オーストラリアなどに点在する。個々のサーバには著名なSF作家等にちなんだ人名が付けられている。
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アダム・オズボーン
アダム・オズボーン(Adam Osborne、1939年3月6日 - 2003年3月18日)は、アメリカ合衆国でコンピュータ関係の企業を経営した実業家である。世界初の商業的に成功したポータブルコンピュータであるOsborne 1を世に送り出したことで知られる。 オズボーンは1939年3月6日にタイのバンコクで、イギリス人の父とポーランド人の母の間に生まれた。父のアーサー・オズボーン(英語版)は、チュラーロンコーン大学で東洋の宗教と哲学の講師をしていた。家族全員がタミル語に堪能であった。彼は第二次世界大戦中は母親と一緒に南インドで過ごした。彼は6年生までコダイカナル(英語版)の学校に通っていた。1950年、オズボーン一家はイギリスに移住した。11歳から、ウォリックシャーにあるカトリックの寄宿学校で教育を受けた。 1961年にバーミンガム大学で化学工学の学士号を取得した。大学卒業後に渡米し、1968年にアメリカのデラウェア大学で博士号を取得した。この間にコンピュータのプログラミングを覚えた。その後、カリフォルニア州のシェル石油で化学技術者としての職を得たが、3年で解雇された。 オズボーンは、コンピュータの読みやすいマニュアルに特化した出版社・オズボーン・アンド・アソシエイツを1972年に設立し、コンピュータの本の分野の先駆者となった。オズボーン・アンド・アソシエイツは、1977年までに40タイトルの本を出版した。1979年、同社はマグロウヒルによって買収され、「マグロウヒル・オズボーン」のブランドとして存続した。また、オズボーン自身も何冊か執筆しており、そのうちの1つ、An Introduction To Microcomputers(邦訳『マイクロコンピュータ入門 <1> 入門編』マイテック、1978)は30万部を売り上げた。 オズボーンは、1975年に設立されたホームブリュー・コンピュータ・クラブの設立メンバーであり、その会合に頻繁に参加していた。 彼は1979年にオズボーン・コンピュータを設立し、世界初の商業的に利用可能なポータブルコンピュータ、Osborne 1を1981年4月にリリースした。飛行機の座席の下に収まるほど小さく設計されており、重さが24.5ポンド(12 kg)、価格が1795ドルで、重さ・価格とも、同等の機能を持つ他社のコンピュータの半分程度だった。オペレーティングシステム(OS)として、当時は一般的だったCP/Mがインストールされていた。オズボーン社は、ピーク時には1か月で1万台のOsborne 1を出荷した。オズボーンは、当時は趣味のためのものと思われていたパーソナルコンピュータに、趣味以外の世界に広い市場があることを理解した最初の人物の1人だった。Osborne 1には、ワープロソフトや表計算ソフトがバンドルされていた。IBMがOSやモニター、さらにはモニター用のケーブルを別々に販売していた当時、オズボーン社のPCはハードウェアとソフトウェアがバンドルされていた。 コンピュータ業界でのアダム・オズボーンの経験は、彼の新しい会社に対する信頼性を与えた。 オズボーン社の広告は、交通インフラにおけるヘンリー・フォードの影響力をパーソナルコンピュータ市場におけるアダム・オズボーンの影響力と比較したものだった。 1983年初頭、オズボーンは同社で開発中の次世代のコンピュータについて発言した。これにより、消費者はOsborne 1を買い控えるようになり、その結果として在庫過剰が生じ、1983年9月13日にオズボーン社は破産に追い込まれた。新製品の情報を事前に発表することが、既存製品への需要を減少させるというこの現象は、オズボーン効果として知られている。ただし、オズボーン社の破産の真の原因はオズボーン効果ではなく、品質管理の低下と不十分なキャッシュフローであったとする説もある。 オズボーン社の破産後の1984年、彼はジョン・C・ドヴォラック(英語版)との共著で回顧録 Hypergrowth: The Rise and Fall of the Osborne Computer Corporation(邦訳『ハイパーグロース:「オズボーンコンピュータ」の興亡』工学社、1988)を発表し、ベストセラーとなった。 オズボーンは1984年に、安価なコンピュータソフトウェアに特化した会社、ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナル(英語版)社を設立した。その広告はオズボーン本人を前面に出したもので、「ソフトウェア会社の価格設定と同じロジックを電話会社が適用した場合、電話は600ドルの費用がかかるだろう」と主張したものだった。その製品の1つに、Lotus 1-2-3の安価なクローンであるVP-Plannerがあった。1987年、ロータスはペーパーバック社を訴えた。この提訴の結果、ペーパーバック・ソフトウェア社は消費者の信頼を失い、1989年には収益が80%減少し、ベンチャーキャピタルからの資金調達ができなくなった。1990年2月、この訴訟は法廷で争われ、6月28日、裁判所はペーパーバック社の製品がLotus 1-2-3のルック・アンド・フィール・インターフェースをコピーしたものであり、ロータス社の著作権を侵害しているとの判決を下した。同年、オズボーンはペーパーバック社の社長を退任し、同社は解散した。ペーパーバック社のデータベースソフトであるVP-Info(英語版)は、別の会社が販売権を取得し、Sharkbaseの名前で現在でも販売されている。 1992年に、人工知能に取り組むNoetics Software社を設立したのが、彼の最後の事業となった。 オズボーンはメンサの会員だった。 彼は2度結婚し、2度離婚した。オズボーンには3人の子供がいる。2人の元妻と子供たちは、彼の死去時に存命だった。 1992年、オズボーンは健康の衰えのため、インドに戻ってきた。彼は、頻繁に軽い脳卒中を誘発する脳疾患に苦しんでいた。彼は2003年3月18日に、インド・コダイカナルで睡眠中に死亡した。64歳だった。
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アダム・オズボーンは、アメリカ合衆国でコンピュータ関係の企業を経営した実業家である。世界初の商業的に成功したポータブルコンピュータであるOsborne 1を世に送り出したことで知られる。
{{Infobox scientist | name = アダム・オズボーン | native_name = Adam Osborne | image = Adam Osborne.png | image_size = 250px | caption = アダム・オズボーン(1983年) | birth_date = {{Birth date|1939|3|6}} | birth_place = {{THA}} [[バンコク]] | death_date = {{death date and age|2003|3|18|1939|3|6}} | death_place = {{IND}} {{仮リンク|コダイカナル|en|Kodaikanal}} | residence = | citizenship = | nationality = | ethnicity = | field = 計算機工学 | work_institution = [[オズボーン・コンピュータ]] | alma_mater = {{Plainlist| * [[バーミンガム大学]] * [[デラウェア大学]] }} | doctoral_advisor = | doctoral_students = | known_for = [[Osborne 1]] }} '''アダム・オズボーン'''(Adam Osborne、[[1939年]][[3月6日]] - [[2003年]][[3月18日]])は、[[アメリカ合衆国]]で[[コンピュータ]]関係の企業を経営した[[実業家]]である。世界初の商業的に成功した[[ポータブルコンピュータ]]である[[Osborne 1]]を世に送り出したことで知られる。 == 若年期 == オズボーンは1939年3月6日に[[タイ王国|タイ]]の[[バンコク]]で、イギリス人の父とポーランド人の母の間に生まれた<ref name="Schofield">{{cite web |last1=Schofield |first1=Jack |authorlink1=Jack Schofield (journalist) |title=Obituary: Adam Osborne |url=https://www.theguardian.com/news/2003/mar/27/guardianobituaries.jackschofield |website=The Guardian |accessdate=28 March 2019 |date=27 March 2003}}</ref>。父の{{仮リンク|アーサー・オズボーン|en|Arthur Osborne (writer)}}は、[[チュラーロンコーン大学]]で東洋の宗教と哲学の講師をしていた<ref name="Schofield" />。家族全員が[[タミル語]]に堪能であった。彼は[[第二次世界大戦]]中は母親と一緒に南インドで過ごした<ref name="Schofield" />。彼は6年生まで{{仮リンク|コダイカナル|en|Kodaikanal}}の学校に通っていた。1950年、オズボーン一家は[[イギリス]]に移住した<ref name="independent">{{Cite news |url=https://www.independent.co.uk/news/obituaries/adam-osborne-36407.html |title=Adam Osborne: Pioneer of the portable computer |date=2003-04-05 |work=The Independent |access-date=2018-06-26 |language=en-GB |df=mdy-all}}</ref>。11歳から、[[ウォリックシャー]]にあるカトリックの[[ボーディングスクール|寄宿学校]]で教育を受けた<ref name="Schofield" />。 1961年に[[バーミンガム大学]]で[[化学工学]]の学士号を取得した<ref name="Schofield" />。大学卒業後に渡米し、1968年にアメリカの[[デラウェア大学]]で博士号を取得した<ref name="Schofield" />。この間にコンピュータのプログラミングを覚えた<ref name="Schofield" />。その後、[[カリフォルニア州]]の[[シェル石油]]で化学技術者としての職を得たが、3年で解雇された<ref name="Schofield" />。 == 出版業 == オズボーンは、コンピュータの読みやすいマニュアルに特化した出版社・オズボーン・アンド・アソシエイツを1972年に設立し、コンピュータの本の分野の先駆者となった。オズボーン・アンド・アソシエイツは、1977年までに40タイトルの本を出版した。1979年、同社は[[マグロウヒル]]によって買収され、「マグロウヒル・オズボーン」のブランドとして存続した<ref name="nyt"/><ref name="independent" />。また、オズボーン自身も何冊か執筆しており<ref name="independent" />、そのうちの1つ、''An Introduction To Microcomputers''(邦訳『マイクロコンピュータ入門 <1> 入門編』マイテック、1978)は30万部を売り上げた<ref name="Schofield" />。 == コンピュータ == [[File:Osborne 1 open.jpg|thumb| [[Osborne 1]]]] オズボーンは、1975年に設立された[[ホームブリュー・コンピュータ・クラブ]]の設立メンバーであり、その会合に頻繁に参加していた。 彼は1979年に[[オズボーン・コンピュータ]]を設立し、世界初の商業的に利用可能な[[ポータブルコンピュータ]]、[[Osborne 1]]を1981年4月にリリースした。飛行機の座席の下に収まるほど小さく設計されており<ref name=atlantic>{{cite web|url=https://www.theatlantic.com/doc/198207/fallows-computer/2 |title=Living With a Computer|first=James|last=Fallows |date=July 1982 |publisher=Atlantic Magazine |accessdate=May 21, 2010}}</ref>、重さが24.5ポンド(12 kg)、価格が1795ドルで、重さ・価格とも、同等の機能を持つ他社のコンピュータの半分程度だった。[[オペレーティングシステム]](OS)として、当時は一般的だった[[CP/M]]がインストールされていた<ref name="byte198209"/>。オズボーン社は、ピーク時には1か月で1万台のOsborne 1を出荷した<ref name=Grzanka84>{{cite journal|first=Leonard G.|last=Grzanka |title=Requiem for a Pioneer |publisher=Portable Computer |date=January 1984}}</ref>。オズボーンは、当時は趣味のためのものと思われていた[[パーソナルコンピュータ]]に、趣味以外の世界に広い市場があることを理解した最初の人物の1人だった。Osborne 1には、[[ワープロ]]ソフトや[[表計算ソフト]]がバンドルされていた<ref name="byte198209"/>。[[IBM]]がOSやモニター、さらにはモニター用のケーブルを別々に販売していた当時、オズボーン社のPCはハードウェアとソフトウェアがバンドルされていた。 コンピュータ業界でのアダム・オズボーンの経験は、彼の新しい会社に対する信頼性を与えた<ref name="hogan19810413">{{cite news | url=https://books.google.com/books?id=Dj4EAAAAMBAJ&lpg=PP1&rview=1&pg=PA1#v=onepage&q&f=false | work=InfoWorld | title=Osborne Introduces Portable Computer | accessdate=April 4, 2011 | author=Hogan, Thom | date=1981-04-13 | publisher=IDG | pages=1}}</ref>。 オズボーン社の広告は、交通インフラにおける[[ヘンリー・フォード]]の影響力をパーソナルコンピュータ市場におけるアダム・オズボーンの影響力と比較したものだった<ref name="byte198209">{{cite news | url=https://archive.org/stream/byte-magazine-1982-09/1982_09_BYTE_07-09_Computers_and_the_Disabled#page/n31/mode/2up | title=The $1795 Business Computer that is changing the way people go to work. | work=BYTE | date=September 1982 | accessdate=19 October 2013 | author=Advertisement | pages=31}}</ref>。 1983年初頭、オズボーンは同社で開発中の次世代のコンピュータについて発言した。これにより、消費者はOsborne 1を買い控えるようになり、その結果として在庫過剰が生じ、1983年9月13日にオズボーン社は破産に追い込まれた。新製品の情報を事前に発表することが、既存製品への需要を減少させるというこの現象は、[[オズボーン効果]]として知られている。ただし、オズボーン社の破産の真の原因はオズボーン効果ではなく、品質管理の低下<ref>[https://web.archive.org/web/20050618022709/https://www.pbs.org/cringely/pulpit/pulpit20050616.html I, Cringely . The Pulpit . The Osborne Effect | PBS<!-- Bot generated title -->]</ref>と不十分なキャッシュフロー<ref>[http://technologizer.com/2011/04/01/osborne-computer/4/ Technologizer ]</ref>であったとする説もある。 ===Hypergrowth=== オズボーン社の破産後の1984年、彼は{{仮リンク|ジョン・C・ドヴォラック|en|John C. Dvorak}}との共著で回顧録 ''Hypergrowth: The Rise and Fall of the Osborne Computer Corporation''(邦訳『ハイパーグロース:「オズボーンコンピュータ」の興亡』工学社、1988)を発表し、ベストセラーとなった<ref>Osborne, Adam (1984). ''Hypergrowth: The Rise and Fall of the Osborne Computer Corporation'', {{ISBN2|978-0-918347-00-8}}.</ref>。 == ソフトウェア == オズボーンは1984年に、安価なコンピュータソフトウェアに特化した会社、{{仮リンク|ペーパーバック・ソフトウェア・インターナショナル|en|Paperback Software International}}社を設立した。その広告はオズボーン本人を前面に出したもので、「ソフトウェア会社の価格設定と同じロジックを電話会社が適用した場合、電話は600ドルの費用がかかるだろう」と主張したものだった。その製品の1つに、[[Lotus 1-2-3]]の安価なクローンであるVP-Plannerがあった。1987年、[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]]はペーパーバック社を訴えた。この提訴の結果、ペーパーバック・ソフトウェア社は消費者の信頼を失い、1989年には収益が80%減少し、ベンチャーキャピタルからの資金調達ができなくなった。1990年2月、この訴訟は法廷で争われ、6月28日、裁判所はペーパーバック社の製品がLotus 1-2-3の[[ルック・アンド・フィール]]・インターフェースをコピーしたものであり、ロータス社の[[著作権]]を侵害しているとの判決を下した<ref>Lotus Dev. Corp. v. Paperback Software Int'l, 740 F. Supp. 37 (D. Mass. 1990)</ref>。同年、オズボーンはペーパーバック社の社長を退任し<ref name="independent" />、同社は解散した。ペーパーバック社のデータベースソフトである{{仮リンク|VP-Info|en|VP-Info}}は、別の会社が販売権を取得し、Sharkbaseの名前で現在でも販売されている<ref>[http://www.intelligentwebware.com/sharkhlp.html Sharkbase/VP-Info User's Manual] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20131224084311/http://www.intelligentwebware.com/sharkhlp.html |date=December 24, 2013 }}</ref>。 1992年に、[[人工知能]]に取り組むNoetics Software社を設立した<ref name="Schofield" />のが、彼の最後の事業となった。 ==私生活と死== オズボーンは[[メンサ]]の会員だった<ref name="Schofield" />。 彼は2度結婚し、2度離婚した<ref name="Schofield" />。オズボーンには3人の子供がいる<ref name="nyt">John Markoff/New York Times. "Adam Osborne 64 Dies Was Pioneer of Portable PC New York Times Website [https://www.nytimes.com/2003/03/26/business/adam-osborne-64-dies-was-pioneer-of-portable-pc.html]</ref>。2人の元妻と子供たちは、彼の死去時に存命だった<ref name="Schofield" />。 1992年、オズボーンは健康の衰えのため、インドに戻ってきた。彼は、頻繁に軽い[[脳卒中]]を誘発する脳疾患に苦しんでいた。彼は[[2003年]][[3月18日]]に、インド・コダイカナルで睡眠中に死亡した。64歳だった<ref name="Schofield" /><ref name="Adam Osborne, pioneer of PCs for people: dead at 64">{{cite web|title=Adam Osborne, pioneer of PCs for people: dead at 64. His sister Katya Douglas (nee Osborne) continues to live in Kodaikanal. |date=March 2003 |publisher=Natural Science |author=Edward Teague |url=http://naturalscience.com/ns/news/news44.html |accessdate=2008-12-20 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090326232813/http://www.naturalscience.com/ns/news/news44.html |archivedate=March 26, 2009 |df=mdy }}</ref><ref>{{cite news|last1=Markoff|first1=John|title=Adam Osborne, 64, Dies; Was Pioneer of Portable PC|url=https://www.nytimes.com/2003/03/26/business/adam-osborne-64-dies-was-pioneer-of-portable-pc.html|accessdate=11 September 2017|work=[[The New York Times]]|date=26 March 2003}}</ref>。 ==脚注== {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20090326232813/http://www.naturalscience.com/ns/news/news44.html Adam Osborne, pioneer of PCs for people: dead at 64] * [https://www.theregister.co.uk/2003/03/25/portable_computer_pioneer_adam_osborne/ The Register – Portable computer pioneer Adam Osborne dies] * [https://archive.org/details/Computer1984_5 The Computer Chronicles (broadcast in 1984) – Adam Osborne is interviewed by Stewart Cheifet and Gary Kildall] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おすほん あたむ}} [[Category:1939年生]] [[Category:2003年没]] [[Category:アメリカ合衆国のコンピュータ関連人物]] [[Category:バーミンガム大学出身の人物]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:メンサ会員]]
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臨済宗妙心寺派
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[[ファイル:Myoshinji-temple.jpg|thumb|240px|right|妙心寺]] '''臨済宗妙心寺派'''(りんざいしゅうみょうしんじは)は、[[臨済宗]]の[[宗派]]。大本山は[[妙心寺]]。臨済宗最大の宗派として知られる<ref>{{cite web|url=https://guide.e-ohaka.com/info/myoshinji/|title=妙心寺|publisher=いいお墓|accessdate=2023-11-20}}</ref>。 == 歴史 == [[1337年]]に[[関山慧玄]]により創設された[[臨済宗]]の宗派で本山は[[京都市]]・[[花園]]にある[[妙心寺]]。塔頭寺院には桂春院・春光院・退蔵院・隣華院などがある。末寺は約3,400を持つ臨済宗最大の宗派であり、[[白隠慧鶴]]もこの法系に属する<ref>{{cite web|url=https://kyukouzi.com/about|title=臨済宗とは|publisher=吸江寺|accessdate=2023-11-20}}</ref>。 大本山である妙心寺は、かつては[[平安京]]の北西部を占める場所にあり、[[花園上皇]]の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、[[1335年]]([[建武]]2年)に落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した<ref>{{cite web|url=https://www.taigakuji.net/rinzai.html|title=臨済宗妙心寺派|publisher=妙心寺|accessdate=2023-11-20}}</ref>。 == 主な寺院 == * [[妙心寺]] * [[難波寺]] * [[寒山寺 (箕面市)|寒山寺]] * [[重秀寺]] * [[大中寺 (沼津市)|大中寺]] * [[禅林寺 (三重県菰野町)|禅林寺]] * [[松禅寺]] * [[一畑寺]] * [[興源寺 (徳島市)|興源寺]] * [[吸江寺]] == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.myoshinji.or.jp/ 妙心寺] * [https://www.jbf.ne.jp/member?id=15628 臨済宗妙心寺派] - 全日本仏教会 {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りんさいしゆうみようしんしは}} [[Category:臨済宗|*]] [[Category:臨済宗妙心寺派の寺院|*]] [[Category:仏教の宗派]] [[Category:伝統宗派]]
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ポインティングデバイス
ポインティングデバイス(英: pointing device)とは、コンピュータ上で"ポイント"するための、つまり入力位置を指し示したり座標を指し示したりするための入力装置の総称。 位置や座標などを指定するために用いる。キーボードなどから文字や数字で位置や座標を指定する方式に比べ、直感的に操作でき、操作法に習熟していない状態でも指定しやすい。 たとえばコンピュータのディスプレイ上で位置や座標を指し示すために使われ、ポインティングデバイスの操作に応じて位置や座標を示す矢印や十字の形状のポインタ(位置を指し示すアイコン)が移動する。 スマホやタブレットなどのタッチパネル(タッチスクリーン)の場合は画面の表面に指の接触位置を検知する透明なセンサーが内蔵されており、指(やタッチ用のペン)などで画面に触れることで位置の指示や操作対象の指示を行なうことができ、画面上にはポインタなどは表示されないことが多い。 入力装置のひとつであり、マンマシンインタフェースのひとつである。ノートPCのタッチパッドのように本体の一部となっている場合もあれば、据置型PCのマウスのように本体とは別になっていていわゆる"周辺機器"となっている場合もある。 最近多くの人々に高い頻度で使われているのは、スマートフォンのタッチパネル、ノートPCのタッチパッド、据置型PCのマウスなどである。コンピュータゲームをする人はジョイスティックも多用する(たとえばPlayStationやXboxのゲームパッドには標準でジョイスティックが組み込まれている)。 基本的には次のような種類がある。 PCなどでは手で操作するポインティングデバイスが多いが、それ以外にも、足で操作するフット型もしくは足踏み型のポインティングデバイスもあり、物を抱えて両手が塞がっていても操作できる。また重度の障害をもつ使用者向けに瞳孔の位置や動きを追尾し視点に従いカーソルが連動し瞬きでクリック相当の動きをする瞳孔マウス、指紋の模様をあらかじめ登録しておき指先を動かした際に生じる微細な指紋の模様のねじれを検出してポインタ移動に変換するもの、航空機の姿勢検出に用いられることの多いジャイロスコープと同等の機構を持つことで上下左右の動きに合わせて3次元方向の信号を検出しポインタとして映し出すもの等、様々な用途・目的に応じた機構のものが生み出されている。 最近では、頭にバンド状の装置を装着し脳波の変動を利用する脳波マウスも販売されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ポインティングデバイス(英: pointing device)とは、コンピュータ上で\"ポイント\"するための、つまり入力位置を指し示したり座標を指し示したりするための入力装置の総称。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "位置や座標などを指定するために用いる。キーボードなどから文字や数字で位置や座標を指定する方式に比べ、直感的に操作でき、操作法に習熟していない状態でも指定しやすい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "たとえばコンピュータのディスプレイ上で位置や座標を指し示すために使われ、ポインティングデバイスの操作に応じて位置や座標を示す矢印や十字の形状のポインタ(位置を指し示すアイコン)が移動する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "スマホやタブレットなどのタッチパネル(タッチスクリーン)の場合は画面の表面に指の接触位置を検知する透明なセンサーが内蔵されており、指(やタッチ用のペン)などで画面に触れることで位置の指示や操作対象の指示を行なうことができ、画面上にはポインタなどは表示されないことが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "入力装置のひとつであり、マンマシンインタフェースのひとつである。ノートPCのタッチパッドのように本体の一部となっている場合もあれば、据置型PCのマウスのように本体とは別になっていていわゆる\"周辺機器\"となっている場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "最近多くの人々に高い頻度で使われているのは、スマートフォンのタッチパネル、ノートPCのタッチパッド、据置型PCのマウスなどである。コンピュータゲームをする人はジョイスティックも多用する(たとえばPlayStationやXboxのゲームパッドには標準でジョイスティックが組み込まれている)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "基本的には次のような種類がある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "PCなどでは手で操作するポインティングデバイスが多いが、それ以外にも、足で操作するフット型もしくは足踏み型のポインティングデバイスもあり、物を抱えて両手が塞がっていても操作できる。また重度の障害をもつ使用者向けに瞳孔の位置や動きを追尾し視点に従いカーソルが連動し瞬きでクリック相当の動きをする瞳孔マウス、指紋の模様をあらかじめ登録しておき指先を動かした際に生じる微細な指紋の模様のねじれを検出してポインタ移動に変換するもの、航空機の姿勢検出に用いられることの多いジャイロスコープと同等の機構を持つことで上下左右の動きに合わせて3次元方向の信号を検出しポインタとして映し出すもの等、様々な用途・目的に応じた機構のものが生み出されている。", "title": "多様化" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "最近では、頭にバンド状の装置を装着し脳波の変動を利用する脳波マウスも販売されている。", "title": "多様化" } ]
ポインティングデバイスとは、コンピュータ上で"ポイント"するための、つまり入力位置を指し示したり座標を指し示したりするための入力装置の総称。
'''ポインティングデバイス'''({{lang-en-short|pointing device}})とは、[[コンピュータ]]上で"ポイント"するための、つまり入力[[位置]]を指し示したり[[座標]]を指し示したりするための[[入力機器|入力装置]]の総称<ref name="e-words">{{e-words|id=ポインティングデバイス|name=ポインティングデバイス|accessdate=2023-08-06}}</ref>{{Efn|英語の「point ポイント」には名詞と動詞があり、[[メリアム=ウェブスター]]のオンライン辞典には、動詞としての用法の4番目に「位置や方向を、特に指を伸ばして示す」という意味がある<ref>{{Cite web |url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/point |title=point |publisher=メリアム=ウェブスター |language=en |accessdate=2023-08-06}}</ref>。pointing deviceの「pointing」は「位置や方向を指し示す」という意味の動詞のpointをpointingという[[動名詞]]の形にして名詞deviceの前に配置することで、目的を表す形容詞として用いている(こういう使い方を「動名詞の形容詞的用法[https://nekoeigo.net/nekohigh/gerund-13]」という)。つまり動詞pointを動名詞形にして名詞の前に配置することで「位置(や方向)を指し示すための〜」という意味になっている。}}。 == 概要 == 位置や座標などを指定するために用いる。キーボードなどから文字や数字で位置や座標を指定する方式に比べ、直感的に操作でき、操作法に習熟していない状態でも指定しやすい<ref name="e-words" />。 たとえばコンピュータの[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]上で位置や座標を指し示すために使われ、ポインティングデバイスの操作に応じて位置や座標を示す[[矢印]]や[[十字]]の形状の[[ポインタ]](位置を指し示すアイコン)が移動する。 スマホやタブレットなどのタッチパネル(タッチスクリーン)の場合は画面の表面に指の接触位置を検知する透明なセンサーが内蔵されており、指(やタッチ用のペン)などで画面に触れることで位置の指示や操作対象の指示を行なうことができ、画面上にはポインタなどは表示されないことが多い<ref name="e-words" />。 [[入力機器|入力装置]]のひとつであり、[[マンマシンインタフェース]]のひとつである。ノートPCのタッチパッドのように本体の一部となっている場合もあれば、据置型PCのマウスのように本体とは別になっていていわゆる"周辺機器"となっている場合もある。 最近多くの人々に高い頻度で使われているのは、スマートフォンの[[タッチパネル]]、ノートPCの[[タッチパッド]]、据置型PCの[[マウス (コンピュータ)|マウス]]などである。[[コンピュータゲーム]]をする人は[[ジョイスティック]]も多用する(たとえば[[PlayStation]]や[[Xbox]]の[[ゲームパッド]]には標準でジョイスティックが組み込まれている)。 == 種類 == 基本的には次のような種類がある。 * [[タッチパッド]] * [[マウス (コンピュータ)|マウス]] * [[タッチパネル]]、[[スタイラス]] * [[ジョイスティック]] * [[ポインティング・スティック]](トラックポイント) * [[トラックボール]] * [[ジョイパッド]] * [[ペンタブレット]] * [[ライトペン]] * [[データグローブ]] * [[スタイラス]] ** [[デジタルペン]] ** [[アクティブペン]] <gallery> File:Touchpad scrolling.jpg|ノートPCのタッチパッド File:Mouse-255.svg|マウス File:Bangalore Wikipedian on phone 5 closeup.jpg|スマートフォンのタッチスクリーン File:Hear Music touchscreen.jpg|タッチスクリーン File:Playstation DualSense Controller.png|[[PlayStation 5|PS5]]のコントローラのジョイスティック(手前ふたつの黒いレバー) File:Hand drawing on a graphic tablet.jpg |ペンタブレット File:Penciling on Wacom Cintiq 13HD by David Revoy.jpg|表示スクリーンとペンタブレットが一体化した装置。 File:Trackball-Kensington-ExpertMouse5.jpg|トラックボール </gallery> == 多様化 == PCなどでは手で操作するポインティングデバイスが多いが、それ以外にも、足で操作するフット型もしくは足踏み型のポインティングデバイスもあり、物を抱えて両手が塞がっていても操作できる。また重度の障害をもつ使用者向けに[[瞳孔]]の位置や動きを追尾し[[視点]]に従いカーソルが連動し瞬きで[[ポイント・アンド・クリック|クリック]]相当の動きをする瞳孔マウス、[[指紋]]の模様をあらかじめ登録しておき指先を動かした際に生じる微細な指紋の模様のねじれを検出してポインタ移動に変換するもの、航空機の姿勢検出に用いられることの多い[[ジャイロスコープ]]と同等の機構を持つことで上下左右の動きに合わせて3次元方向の信号を検出しポインタとして映し出すもの等、様々な用途・目的に応じた機構のものが生み出されている。 最近では、頭にバンド状の装置を装着し脳波の変動を利用する脳波マウスも販売されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <References /> {{Computer-stub|ほいんていんくてはいす}} {{Basic computer components}} {{デフォルトソート:ほいんていんくてはいす}} [[Category:ポインティングデバイス|*]] [[Category:入力機器]] [[Category:パソコンの周辺機器]] [[Category:コンピュータのユーザインタフェース]]
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熱機関
熱機関(、英: heat engine)とは、熱をエネルギー源とした機関である。装置外から熱を取り込むものと、装置内で生成した熱エネルギーを使用するものとがある。 内燃機関は、燃焼ガスが膨張する圧力で直接ピストンを押す・タービンを回転させるなどの仕事をするものである。自動車用の高速機関でも20 %以上、大型船舶用のユニフロー掃気ディーゼルエンジンでは50 %もの熱効率を引き出すなど、熱効率が高い反面、燃料の性質に制約がある。火花点火式等の場合は、点火栓による火炎の伝播によらない異常燃焼(プレイグニッションとデトネーション)が問題であり、オクタン価が主な焦点である。また、火炎伝播速度には限界があり、闇雲にシリンダー容積を大きくすることはできない。一方、ディーゼル式では逆に着火しやすさが焦点であり、セタン価となる。 外燃機関は、熱交換器により熱源の熱を作動ガス(作動気体)に与え、この作動ガスがピストンを押す・タービンを回転させるなどの仕事をするものである。代表的な実用例である蒸気機関車では熱効率10 %程度と効率のよい物ではないが、発電所の汽力発電系では40 %弱の効率を引き出している。なお理論的には、スターリングエンジンはカルノーサイクルに最も近い効率を引き出すことができる。作動流体と熱源・燃料が分離されているという原理から、熱源・燃料については、液体(重油)・固体(石炭・薪など)・原子力・太陽熱・廃熱などなど、自由度がある。 また、作動ガスのエネルギーを仕事として取り出す際、主としてガスの流速による場合、速度形(ジェット、ガスタービン、蒸気タービン等)と呼び、容積変化によるものを容積形(レシプロ蒸気、ガソリン、ディーゼル等)と呼ぶ。
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熱機関(ねつきかん、とは、熱をエネルギー源とした機関である。装置外から熱を取り込むものと、装置内で生成した熱エネルギーを使用するものとがある。
{{出典の明記|date=2011年10月}} {{Thermodynamics|systems}} {{読み仮名|'''熱機関'''|ねつきかん|{{lang-en-short|heat engine}}}}とは、[[熱]]を[[エネルギー]]源とした[[機関 (機械)|機関]]である。装置外から熱を取り込むものと、装置内で生成した熱エネルギーを使用するものとがある。 <!-- [[燃料]]の[[化学]]的[[エネルギー]]を[[燃焼]]という過程を通して[[機械]]的エネルギーに変換する[[原動機]]・[[機関 (機械)|エンジン]] --> {{要検証|date=2010年4月}} == 熱機関の種類 == === 内燃機関 === {{Main|内燃機関}} 内燃機関は、[[燃焼ガス]]が膨張する圧力で直接[[ピストン]]を押す・[[タービン]]を回転させるなどの[[仕事 (熱力学)|仕事]]をするものである。[[自動車]]用の高速機関でも20 %以上、大型船舶用の[[ユニフロー掃気ディーゼルエンジン]]では50 %もの[[熱効率]]を引き出すなど、熱効率が高い反面、燃料の性質に制約がある。[[火花点火内燃機関|火花点火式]]等の場合は、[[点火プラグ|点火栓]]による火炎の伝播によらない異常燃焼([[プレイグニッション]]と[[デトネーション]])が問題であり、[[オクタン価]]が主な焦点である。また、火炎伝播速度には限界があり、闇雲に[[シリンダー]]容積を大きくすることはできない。一方、ディーゼル式では逆に着火しやすさが焦点であり、[[セタン価]]となる。 === 外燃機関 === {{Main|外燃機関}} 外燃機関は、[[熱交換器]]により熱源の熱を作動ガス([[作動気体]])に与え、この作動ガスがピストンを押す・[[タービン]]を回転させるなどの仕事をするものである。代表的な実用例である[[蒸気機関車]]では熱効率10 %程度と効率のよい物ではないが、発電所の[[汽力発電]]系では40 %弱の効率を引き出している。なお理論的には、[[スターリングエンジン]]は[[カルノーサイクル]]に最も近い効率を引き出すことができる。作動流体と熱源・燃料が分離されているという原理から、熱源・燃料については、[[液体]]([[重油]])・[[固体]]([[石炭]]・[[薪]]など)・[[原子力]]・[[太陽熱]]・[[廃熱発電|廃熱]]などなど、自由度がある。 === 動力変換の種類 === また、作動ガスのエネルギーを仕事として取り出す際、主としてガスの流速による場合、[[速度]]形(ジェット、ガスタービン、蒸気タービン等)と呼び、[[体積|容積]]変化によるものを容積形(レシプロ蒸気、ガソリン、ディーゼル等)と呼ぶ。 == 熱機関の特徴と主な用途 == {| class="wikitable" width="100%" summary="熱機関の分類の表。特徴と主な用途などを示している。"> |+'''熱機関の特徴と主な用途''' |- ! width="2%" |構造 ! width="2%" |[[燃焼]] ! width="2%" |動力変換 ! width="12%" |名称 ! width="12%" |[[熱力学サイクル|理論サイクル]] ! width="2%" |速度 ! width="2%" |トルク ! width="2%" |出力制御 ! width="2%" |速度制御 ! width="2%" |始動時間 ! width="2%" |効率 !動作原理 ! width="15%" |特徴 ! width="10%" |主な用途 |- | rowspan=3 |[[外燃機関]] | rowspan=3 |連続 |速度形 |[[蒸気タービン]] |[[ランキンサイクル|ランキン]]・[[再熱・再生サイクル|再熱・再生]] |高 |低 |適 |不適 |長 |中 |外部で発生させた高温の蒸気を羽根車(タービン)に吹きつける | |[[汽力発電]] |- | rowspan=5 |容積形 |[[蒸気機関]] |[[ランキンサイクル|ランキン]] |低 |高 |適 |適 | |不良 |外部で発生させた高温の蒸気をシリンダーに注入しピストンを往復運動させる |始動時のトルクが大きい |[[蒸気機関車]] |- |[[スターリングエンジン]] |[[スターリングサイクル|スターリング]](カーク)・[[ヴィルマイアーサイクル|ヴィルマイアー]]・[[ギフォードマクマホンサイクル|ギフォードマクマホン]] |低 |高 |適 |適 |中 |最良 |二つのシリンダー内の作動気体を外部の熱源で交互に加熱・冷却することにより差動的にピストンを往復運動させる |理論的には[[カルノーサイクル]]と同じ熱効率 |実用化へ向けて研究段階 |- | rowspan=8 |[[内燃機関]] | rowspan=3 |間欠 |[[火花点火内燃機関|火花点火(SI)機関]] |[[オットーサイクル|オットー]]・[[ミラーサイクル]] |中 |中 |適 |適 |中 |中 |燃料と空気の混合気をシリンダ内で圧縮したあとプラグで着火,燃焼・膨張させる |[[スロットル]]で空気と燃料の混合気の量を制限することで出力の制御をする |[[自動車]] |- |高速[[ディーゼルエンジン|ディーゼル(圧縮着火)機関]] |[[サバテサイクル]] | rowspan=2 |低 | rowspan=2 |高 | rowspan=2 |適 | rowspan=2 |適 | rowspan=2 |中 | rowspan=2 |良 | rowspan=2 |空気を圧縮したシリンダ内に燃料を噴射して燃焼・膨張させる | rowspan=2 |[[スロットル]]を必要としないので熱効率が良い反面、空気と燃料の混合が難しく排気が汚くなりやすい |[[貨物自動車]]・[[ディーゼル機関車]]・[[気動車]] |- |低速ディーゼル(圧縮着火)機関 |[[ディーゼルサイクル]] |[[船|船舶]] |- |連続 |速度形 |[[ガスタービンエンジン|ガスタービン機関]] |[[ブレイトンサイクル]] |高 |低 |適 |不適 |中 |中 |[[圧縮機]]で空気を圧縮したところに燃料を噴射して燃焼させた高温気体を、[[タービン]](羽根車)に吹き付けて直接回転運動を得る |体積・質量あたり出力が大きい |[[ジェットエンジン]] |- |} == 関連項目 == {{Wiktionary|熱機関}} * [[熱力学サイクル]] * [[機関 (機械)]] * [[原動機]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ねつきかん}} [[Category:熱機関| ]] [[Category:熱]] [[Category:熱力学サイクル]] [[Category:エネルギー変換]] [[Category:暖房換気空調]]
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インディアナ・ジョーンズ
ヘンリー・ウォルトン・“インディアナ”・ジョーンズ・ジュニア博士(Dr. Henry Walton "Indiana" Jones, Jr.)は『インディ・ジョーンズ』シリーズのタイトル・キャラクター・主人公かつ架空の人物である。 ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグが1930年代のアクション・ヒーローへのオマージュとして創造した。牛追いムチ、フェドーラ帽、レザージャケットといった特徴的な服装がトレードマークである。ユーモアのセンスもあり、多くの古代文明と言語について深い知識を持っている。ヘビ恐怖症でもある。 1981年の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』に初登場し、1984年の『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』、1989年の『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』、1992年〜1996年の『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』、2008年の『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』、2023年の『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』といった続編に登場した。最も有名な映画・TVシリーズの他にこのキャラクターは小説、コミック、TVゲームなどのメディアに登場している。また彼はディズニーランドと東京ディズニーシーにあるテーマパークアトラクション「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」でも見ることができる。 ジョーンズはハリソン・フォードが演じたことでよく知られ、他にリヴァー・フェニックス(『最後の聖戦』での少年時代)、TVシリーズ『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』ではコリー・キャリアー、ショーン・パトリック・フラナリー、ジョージ・ホールらが演じた。ダグ・リーは2つのルーカスアーツのTVゲーム『インディ・ジョーンズ/アトランティスの運命』と Indiana Jones and the Infernal Machine で、デイヴィッド・エシュは Indiana Jones and the Emperor's Tomb で、ジョン・アームストロングは Indiana Jones and the Staff of Kings でそれぞれ声を務めた。 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』での初登場以来、インディアナ・ジョーンズは世界的スターになり、最も尊敬される映画のキャラクターにもなった。2003年、彼はアメリカン・フィルム・インスティチュートの「アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100」で第2位に選ばれた。また、「エンパイア・マガジン」では6番目に偉大な映画のキャラクター、「エンターテイメント・ウィークリー」では大衆文化において最も影響の強いキャラクターの2位、「プレミア・マガジン」では100人の偉大な映画キャラクターの7位に選ばれた。 1992年から1996年まで、ジョージ・ルーカスがプロデュースした『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』というテレビドラマが放送されていた。主にティーンエイジャーと子供向けに、インディアナ・ジョーンズと歴史的に重大な出来事・20世紀の偉人の関わりが描かれた。 物語はジョージ・ホール演じる老人(年齢設定は93歳〜94歳)となったインディアナ・ジョーンズが、回想する形で若き日の冒険を誰かに話して聞かせるというものである。エピソードのほとんどの部分は若き日のインディ(16歳〜21歳、ショーン・パトリック・フラナリーが演じる)か少年期のインディ(8歳〜10歳、コリー・キャリアーが演じる)の話である。“ミステリー・オブ・ザ・ブルース”と題された作品ではホールではなくハリソン・フォードがインディアナ・ジョーンズを演じた。 第一次世界大戦中には16歳〜17歳までベルギー軍で兵隊・諜報活動し、フランス情報局でスパイとして働いた。少年時代は1908年〜1910年まで父親の世界講演ツアーについて世界中を旅したことになっている。 この作品は映画に関する裏話だけでなくキャラクターの新たな設定を作った。インディアナ・ジョーンズは1899年7月1日生まれでありミドルネームはウォルトン(ルーカスと同じ)、幼いころに死亡したスージーという妹がいたこと、最終的には何人かの孫がいることなどである。父親との関係は『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で初めて描かれたが少年時代の関係も描かれた。インディはインディ・ジョーンズと運命のダイヤル(1969年)から1990年代初頭までの間に右目を失う。最晩年の“老インディ”は右目に黒い眼帯をしている。 1999年、ルーカスはエピソードの説明とジョージ・ホール演じる“老インディ”の登場シーンを削除したVHSを発売した。そして時系列順に編集して長編の物語に仕上げた。編集版のタイトルは『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』とつけられた。 インディアナ・ジョーンズは世界のディズニーパークのアトラクションにも登場する。 アナハイムのディズニーランド及び東京ディズニーシーには屋内ライド型アトラクション「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」がある。それぞれ副題とテーマは異なる(アナハイムは“禁断の瞳の魔宮”、東京は“クリスタルスカルの魔宮”)が、遺跡の中をジープ型のライドに乗っていく点は共通している。 また「インディ・ジョーンズ・エピック・スタント・スペクタキュラー!」はウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートのディズニー・ハリウッド・スタジオで1989年に公開されたライブショーである。この25分間のショーでは映画で使われる様々なスタントを行なっている。 ディズニーランド・パリには「インディ・ジョーンズと危難の魔宮」というローラーコースターがある。遺跡の中をトロッコ型のライドに乗り込み走行する。途中には360度宙返りするループもある。 考古学教授として働くとき、ヘンリー・ジョーンズ・ジュニアはツイード・スーツを着る。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』ではインディがマルクス主義の考古学者ヴィア・ゴードン・チャイルドから影響を受けたことが明らかになっている。だが皮肉なことにチャイルドはインディが得意とするフィールドワークを嫌っていた。インディはまた“良き考古学者になるには、図書館から出る事だ”と続ける。このセリフは前作の“考古学調査の7割が図書館で行われる”と対照的である。また、考古学教授としての授業は生徒が多数参加し人気の様子だが、たびたび遺跡発掘に赴いてしまうために手紙や生徒のテストの採点、面接などが溜まってしまい、久しぶりに帰ってくると生徒たちが押し掛けるために嫌気がさして職務から逃げ出すというシーンも『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』にて見られる。 しかし、重要な遺物を発掘するときジョーンズ博士は“インディアナ”になり、「スーパーヒーローではないヒーロー」になる。プロデューサーのフランク・マーシャルは「インディはあてにならないキャラクターだ。彼はミスをすると傷つく(中略)彼はリアルなキャラクターで超能力を持っていない」と語っている。スピルバーグの伝記作家ダグラス・ブロードによればインディは学校で教える事から逃げ出すというすばらしいことをしたという。ハリソン・フォードは、インディアナがロマンティストで皮肉屋であるため演じるのが楽しいと述べた。インディは一匹狼で冒険を求める気高いトレジャーハンター及びハードボイルド探偵、さらには生身のスーパーヒーローで愛国者であると分析できる。 多くのスピルバーグ映画と同じように、ジョーンズもまた一部彼の自伝的要素を持っている。インディアナは父親ヘンリー・ジョーンズとの緊張した関係のため理想の父親像がなく、彼の内なる怒りはマリオン・レイヴンウッドとシカゴ大学の恩師アブナー・レイヴンウッドとの関係を悪化させた。マーカス・ブロディはインディを導く役割を持つ。インディの不安は幼いころに母親を失ったことに由来する。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』ではウィリー・スコットとショート・ラウンドを守って一時的に父親になる。彼がカーリーの魔術に陥った時にはショート・ラウンドが助け出した。その後インディアナは大勢の子どもを救出している。 インディアナ・ジョーンズはジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグが少年時代に愛した昼興行の連続活劇とパルプ・マガジンがモデルになっている(例えばリパブリック・ピクチャーズの映画やドック・サヴェジシリーズ)。サー・H・ライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』の主人公アラン・クオーターメインは1885年作品であるが、注目すべきジョーンズの元型である。ルーカスとスピルバーグは映画『スター・ウォーズ』第1作公開時にハワイでこの計画について話し合った。スピルバーグはジェームズ・ボンド映画のような娯楽作品を作りたいと考えていた。 このキャラクターは当初、“インディアナ・スミス”と名付けられていたが、1970年代にルーカスが飼っていたアラスカン・マラミュート(“インディアナ”)から名前が付けられた。スピルバーグも“スミス”は気に入っておらず、ルーカスの代案“ジョーンズ”に賛成した。 ルーカスはショーン・コネリーが演じた世界的に有名な秘密諜報員ジェームズ・ボンドがジョーンズに大きなインスピレーションを与えたと発言している。このことから『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の父親役はコネリーになった。 衣装デザイナーデボラ・ナドールマン・ランディスは、インディの衣装がチャールトン・ヘストンが『インカ王国の秘宝』で演じたハリー・スティールを参考に決められたと述べた(「私は何度もスタッフと一緒にこの映画を見た。そして私はいつも、スタッフがこの映画を参考にしなかったらおかしいと思っていた」)。 多くの人物がインディアナ・ジョーンズの創造に影響を与えたと言われている。しかしルーカスとスピルバーグが認めたわけではない。 スピルバーグとルーカスはシルエットを見ただけで誰だか分るようなコスチュームを求めた。そこでてっぺんが高く、つばの広いフェドーラ帽子(インディ・ジョーンズ・ハットも参照)を選んだ。『レイダース』のドキュメンタリーで指摘されたようにフェドーラ帽は実用的な役割も果たした。それは『インディ・ジョーンズ』シリーズが参考にしたかつての“B”級映画と同じで、スタントマンを必要とする危険なシーンでは代役の顔を隠してくれるということである。 また、この帽子はスタッフの間ではジョークのネタにもなった。撮影中に帽子が落ちればそのシーンは撮り直しになる。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のドキュメンタリーでは、ハリソン・フォードが冗談で帽子をホッチキスで頭に固定する真似をしている。 映画の衣装に関する話は以下の通り。 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で使用されたフェドーラ帽とレザージャケットはワシントンDCのスミソニアン博物館に収められている。映画の衣装・小道具の収集は一部のシリーズ・ファンの趣味にもなっている。20世紀フォックスが2008年に2000人の映画ファンを対象に行なった調査では、ブルウィップは3番目に人気な映画の武器だった。 もともとスピルバーグはハリソン・フォードを望んでいたがルーカスは『アメリカン・グラフィティ』と『スター・ウォーズ』と『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』で彼を起用していたため反対した。フォードを“ベビー・デ・ニーロ”と呼ばせたくなかったためである(事実、監督仲間のマーティン・スコセッシはたびたびロバート・デ・ニーロを起用した)。配役が決定するまでの間、ルーカスとスピルバーグは多くのオーディションを行なった。そして多少有名だったトム・セレックがインディアナ・ジョーンズに決定した。程なくして映画のプリプロダクションが始まる。しかしCBSは『私立探偵マグナム』でのセレックとの契約解消を拒否し、彼はインディ役を断らざるを得なかった。CBSは『レイダース』が『私立探偵マグナム』と同時撮影になることを快く思わなかったのである。2作品はほぼ同時に制作を始めていた。しかしセレックは『私立探偵マグナム』のインタビューで、撮影は『レイダース』終了後に始まったことを明かした。 スピルバーグが改めてフォードを提案しルーカスも承諾する。フォードは撮影開始の3週間目に役が決定した。 様々な冒険の物語でインディアナ・ジョーンズへのオマージュや彼からの影響がみられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヘンリー・ウォルトン・“インディアナ”・ジョーンズ・ジュニア博士(Dr. Henry Walton \"Indiana\" Jones, Jr.)は『インディ・ジョーンズ』シリーズのタイトル・キャラクター・主人公かつ架空の人物である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグが1930年代のアクション・ヒーローへのオマージュとして創造した。牛追いムチ、フェドーラ帽、レザージャケットといった特徴的な服装がトレードマークである。ユーモアのセンスもあり、多くの古代文明と言語について深い知識を持っている。ヘビ恐怖症でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1981年の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』に初登場し、1984年の『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』、1989年の『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』、1992年〜1996年の『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』、2008年の『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』、2023年の『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』といった続編に登場した。最も有名な映画・TVシリーズの他にこのキャラクターは小説、コミック、TVゲームなどのメディアに登場している。また彼はディズニーランドと東京ディズニーシーにあるテーマパークアトラクション「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」でも見ることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ジョーンズはハリソン・フォードが演じたことでよく知られ、他にリヴァー・フェニックス(『最後の聖戦』での少年時代)、TVシリーズ『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』ではコリー・キャリアー、ショーン・パトリック・フラナリー、ジョージ・ホールらが演じた。ダグ・リーは2つのルーカスアーツのTVゲーム『インディ・ジョーンズ/アトランティスの運命』と Indiana Jones and the Infernal Machine で、デイヴィッド・エシュは Indiana Jones and the Emperor's Tomb で、ジョン・アームストロングは Indiana Jones and the Staff of Kings でそれぞれ声を務めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』での初登場以来、インディアナ・ジョーンズは世界的スターになり、最も尊敬される映画のキャラクターにもなった。2003年、彼はアメリカン・フィルム・インスティチュートの「アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100」で第2位に選ばれた。また、「エンパイア・マガジン」では6番目に偉大な映画のキャラクター、「エンターテイメント・ウィークリー」では大衆文化において最も影響の強いキャラクターの2位、「プレミア・マガジン」では100人の偉大な映画キャラクターの7位に選ばれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1992年から1996年まで、ジョージ・ルーカスがプロデュースした『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』というテレビドラマが放送されていた。主にティーンエイジャーと子供向けに、インディアナ・ジョーンズと歴史的に重大な出来事・20世紀の偉人の関わりが描かれた。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "物語はジョージ・ホール演じる老人(年齢設定は93歳〜94歳)となったインディアナ・ジョーンズが、回想する形で若き日の冒険を誰かに話して聞かせるというものである。エピソードのほとんどの部分は若き日のインディ(16歳〜21歳、ショーン・パトリック・フラナリーが演じる)か少年期のインディ(8歳〜10歳、コリー・キャリアーが演じる)の話である。“ミステリー・オブ・ザ・ブルース”と題された作品ではホールではなくハリソン・フォードがインディアナ・ジョーンズを演じた。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦中には16歳〜17歳までベルギー軍で兵隊・諜報活動し、フランス情報局でスパイとして働いた。少年時代は1908年〜1910年まで父親の世界講演ツアーについて世界中を旅したことになっている。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この作品は映画に関する裏話だけでなくキャラクターの新たな設定を作った。インディアナ・ジョーンズは1899年7月1日生まれでありミドルネームはウォルトン(ルーカスと同じ)、幼いころに死亡したスージーという妹がいたこと、最終的には何人かの孫がいることなどである。父親との関係は『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で初めて描かれたが少年時代の関係も描かれた。インディはインディ・ジョーンズと運命のダイヤル(1969年)から1990年代初頭までの間に右目を失う。最晩年の“老インディ”は右目に黒い眼帯をしている。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1999年、ルーカスはエピソードの説明とジョージ・ホール演じる“老インディ”の登場シーンを削除したVHSを発売した。そして時系列順に編集して長編の物語に仕上げた。編集版のタイトルは『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』とつけられた。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "インディアナ・ジョーンズは世界のディズニーパークのアトラクションにも登場する。 アナハイムのディズニーランド及び東京ディズニーシーには屋内ライド型アトラクション「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」がある。それぞれ副題とテーマは異なる(アナハイムは“禁断の瞳の魔宮”、東京は“クリスタルスカルの魔宮”)が、遺跡の中をジープ型のライドに乗っていく点は共通している。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また「インディ・ジョーンズ・エピック・スタント・スペクタキュラー!」はウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートのディズニー・ハリウッド・スタジオで1989年に公開されたライブショーである。この25分間のショーでは映画で使われる様々なスタントを行なっている。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ディズニーランド・パリには「インディ・ジョーンズと危難の魔宮」というローラーコースターがある。遺跡の中をトロッコ型のライドに乗り込み走行する。途中には360度宙返りするループもある。", "title": "登場" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "考古学教授として働くとき、ヘンリー・ジョーンズ・ジュニアはツイード・スーツを着る。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』ではインディがマルクス主義の考古学者ヴィア・ゴードン・チャイルドから影響を受けたことが明らかになっている。だが皮肉なことにチャイルドはインディが得意とするフィールドワークを嫌っていた。インディはまた“良き考古学者になるには、図書館から出る事だ”と続ける。このセリフは前作の“考古学調査の7割が図書館で行われる”と対照的である。また、考古学教授としての授業は生徒が多数参加し人気の様子だが、たびたび遺跡発掘に赴いてしまうために手紙や生徒のテストの採点、面接などが溜まってしまい、久しぶりに帰ってくると生徒たちが押し掛けるために嫌気がさして職務から逃げ出すというシーンも『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』にて見られる。", "title": "キャラクターの説明と形成" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし、重要な遺物を発掘するときジョーンズ博士は“インディアナ”になり、「スーパーヒーローではないヒーロー」になる。プロデューサーのフランク・マーシャルは「インディはあてにならないキャラクターだ。彼はミスをすると傷つく(中略)彼はリアルなキャラクターで超能力を持っていない」と語っている。スピルバーグの伝記作家ダグラス・ブロードによればインディは学校で教える事から逃げ出すというすばらしいことをしたという。ハリソン・フォードは、インディアナがロマンティストで皮肉屋であるため演じるのが楽しいと述べた。インディは一匹狼で冒険を求める気高いトレジャーハンター及びハードボイルド探偵、さらには生身のスーパーヒーローで愛国者であると分析できる。", "title": "キャラクターの説明と形成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "多くのスピルバーグ映画と同じように、ジョーンズもまた一部彼の自伝的要素を持っている。インディアナは父親ヘンリー・ジョーンズとの緊張した関係のため理想の父親像がなく、彼の内なる怒りはマリオン・レイヴンウッドとシカゴ大学の恩師アブナー・レイヴンウッドとの関係を悪化させた。マーカス・ブロディはインディを導く役割を持つ。インディの不安は幼いころに母親を失ったことに由来する。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』ではウィリー・スコットとショート・ラウンドを守って一時的に父親になる。彼がカーリーの魔術に陥った時にはショート・ラウンドが助け出した。その後インディアナは大勢の子どもを救出している。", "title": "キャラクターの説明と形成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "インディアナ・ジョーンズはジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグが少年時代に愛した昼興行の連続活劇とパルプ・マガジンがモデルになっている(例えばリパブリック・ピクチャーズの映画やドック・サヴェジシリーズ)。サー・H・ライダー・ハガードの『ソロモン王の洞窟』の主人公アラン・クオーターメインは1885年作品であるが、注目すべきジョーンズの元型である。ルーカスとスピルバーグは映画『スター・ウォーズ』第1作公開時にハワイでこの計画について話し合った。スピルバーグはジェームズ・ボンド映画のような娯楽作品を作りたいと考えていた。", "title": "由来とインスピレーション" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このキャラクターは当初、“インディアナ・スミス”と名付けられていたが、1970年代にルーカスが飼っていたアラスカン・マラミュート(“インディアナ”)から名前が付けられた。スピルバーグも“スミス”は気に入っておらず、ルーカスの代案“ジョーンズ”に賛成した。", "title": "由来とインスピレーション" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ルーカスはショーン・コネリーが演じた世界的に有名な秘密諜報員ジェームズ・ボンドがジョーンズに大きなインスピレーションを与えたと発言している。このことから『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の父親役はコネリーになった。", "title": "由来とインスピレーション" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "衣装デザイナーデボラ・ナドールマン・ランディスは、インディの衣装がチャールトン・ヘストンが『インカ王国の秘宝』で演じたハリー・スティールを参考に決められたと述べた(「私は何度もスタッフと一緒にこの映画を見た。そして私はいつも、スタッフがこの映画を参考にしなかったらおかしいと思っていた」)。", "title": "由来とインスピレーション" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "多くの人物がインディアナ・ジョーンズの創造に影響を与えたと言われている。しかしルーカスとスピルバーグが認めたわけではない。", "title": "由来とインスピレーション" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スピルバーグとルーカスはシルエットを見ただけで誰だか分るようなコスチュームを求めた。そこでてっぺんが高く、つばの広いフェドーラ帽子(インディ・ジョーンズ・ハットも参照)を選んだ。『レイダース』のドキュメンタリーで指摘されたようにフェドーラ帽は実用的な役割も果たした。それは『インディ・ジョーンズ』シリーズが参考にしたかつての“B”級映画と同じで、スタントマンを必要とする危険なシーンでは代役の顔を隠してくれるということである。", "title": "衣装" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、この帽子はスタッフの間ではジョークのネタにもなった。撮影中に帽子が落ちればそのシーンは撮り直しになる。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のドキュメンタリーでは、ハリソン・フォードが冗談で帽子をホッチキスで頭に固定する真似をしている。", "title": "衣装" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "映画の衣装に関する話は以下の通り。", "title": "衣装" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で使用されたフェドーラ帽とレザージャケットはワシントンDCのスミソニアン博物館に収められている。映画の衣装・小道具の収集は一部のシリーズ・ファンの趣味にもなっている。20世紀フォックスが2008年に2000人の映画ファンを対象に行なった調査では、ブルウィップは3番目に人気な映画の武器だった。", "title": "衣装" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "もともとスピルバーグはハリソン・フォードを望んでいたがルーカスは『アメリカン・グラフィティ』と『スター・ウォーズ』と『スター・ウォーズ 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ヘンリー・ウォルトン・“インディアナ”・ジョーンズ・ジュニア博士は『インディ・ジョーンズ』シリーズのタイトル・キャラクター・主人公かつ架空の人物である。
{{Otheruses|架空の人物|作品シリーズ|インディ・ジョーンズ シリーズ|その他の名称|インディ・ジョーンズ (曖昧さ回避)}} {{Infobox character | colour = | colour text = | name = ヘンリー・ウォルトン・“インディアナ”・ジョーンズ・ジュニア<br/>Henry Walton "Indiana" Jones, Jr. | series = | image = Indianajones4 (cropped).jpg | caption = ジョーンズ役の[[ハリソン・フォード]] | first = [[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]] | last = [[インディ・ジョーンズと運命のダイヤル]] | voice = '''ゲーム:'''<br/>[[ダグ・リー (声優) |ダグ・リー]](声)<br/>デイヴィッド・エシュ(声)<br/>ジョン・アームストロング(声) '''日本語吹替:'''<br/>[[村井國夫]](1985~現在、ソフト・劇場公開版、[[日本テレビ]]版、[[インディ・ジョーンズ・アドベンチャー#東京ディズニーシー|東京ディズニーシー『インディ・ジョーンズ・アドベンチャー』]]など)<br/>その他は(「日本語吹替」の項を参照) | creator = [[ジョージ・ルーカス]]<br/>[[スティーヴン・スピルバーグ]] | portrayer = '''映画:'''<br/>[[ハリソン・フォード]](36歳〜70歳)<br/>[[リヴァー・フェニックス]](13歳)<br/>'''TVシリーズ:'''<br/>ニール・“ボーリー”・ボーレーン(赤ん坊)<br/>ボウタラト(幼児)<br/>[[コリー・キャリアー]](8歳〜10歳)<br/>[[ショーン・パトリック・フラナリー]](16歳〜21歳)<br/>[[ジョージ・ホール]](93歳) | nickname = インディアナ<br/>インディ<br/>アンリ・デファンス<ref>『[[ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ]]』1992年03月11日[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]]放送"London, May 1916"</ref><br/>マンゴ・キド<ref 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Walton "Indiana" Jones, Jr.''')は『[[インディ・ジョーンズ シリーズ|インディ・ジョーンズ]]』シリーズの[[タイトル・ロール|タイトル・キャラクター]]・[[主人公]]かつ架空の人物である。 ==概要== [[ジョージ・ルーカス]]と[[スティーヴン・スピルバーグ]]が1930年代のアクション・ヒーローへのオマージュとして創造した。牛追いムチ、[[中折れ帽|フェドーラ帽]]、{{仮リンク|レザージャケット|en|Leather jacket}}といった特徴的な服装がトレードマークである。ユーモアのセンスもあり、多くの古代文明と言語について深い知識を持っている。ヘビ恐怖症でもある。 1981年の『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』に初登場し、1984年の『[[インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説]]』、1989年の『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』、1992年〜1996年の『[[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険|ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ]]』、2008年の『[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]』、2023年の『[[インディ・ジョーンズと運命のダイヤル]]』といった続編に登場した。最も有名な映画・TVシリーズの他にこのキャラクターは小説、コミック、TVゲームなどのメディアに登場している。また彼は[[ディズニーランド]]と[[東京ディズニーシー]]にあるテーマパークアトラクション「[[インディ・ジョーンズ・アドベンチャー]]」でも見ることができる。 ジョーンズは[[ハリソン・フォード]]が演じたことでよく知られ、他に[[リヴァー・フェニックス]](『最後の聖戦』での少年時代)、TVシリーズ『ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ』では[[コリー・キャリアー]]、[[ショーン・パトリック・フラナリー]]、[[ジョージ・ホール]]らが演じた。[[ダグ・リー (声優) |ダグ・リー]]は2つの[[ルーカスアーツ]]のTVゲーム『[[インディ・ジョーンズ/アトランティスの運命]]』と '' Indiana Jones and the Infernal Machine'' で、デイヴィッド・エシュは ''Indiana Jones and the Emperor's Tomb'' で、ジョン・アームストロングは ''Indiana Jones and the Staff of Kings'' でそれぞれ声を務めた<ref>https://www.imdb.com/title/tt1363107/</ref>。 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』での初登場以来、インディアナ・ジョーンズは世界的スターになり、最も尊敬される映画のキャラクターにもなった。2003年、彼は[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]の「[[アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100]]」で第2位に選ばれた<ref>{{Cite web|url=http://connect.afi.com/site/DocServer/handv100.pdf?docID=246|title=AFI's 100 Years... 100 Heroes and Villains|publisher=afi.com|date=|accessdate=2010-05-21}}</ref>。また、「[[エンパイア (雑誌) |エンパイア・マガジン]]」では6番目に偉大な映画のキャラクター<ref>{{cite web|url=http://www.empireonline.com/100-greatest-movie-characters/default.asp?c=6|title=''Empire's'' The 100 Greatest Movie Characters|publisher=''Empire'' Magazine|date=|accessdate=2010-05-21}}</ref>、「[[エンターテイメント・ウィークリー]]」では[[大衆文化]]において最も影響の強いキャラクターの2位<ref>{{cite web|url=http://www.ew.com/ew/gallery/0,,20268279_19,00.html|title=''Entertainment Weekly's'' 20 All Time Coolest Heroes in Pop Culture|publisher=Entertainment Weekly|date=|accessdate=2010-05-22}}</ref>、「[[プレミア (雑誌) |プレミア・マガジン]]」では100人の偉大な映画キャラクターの7位に選ばれた<ref>{{cite web|url=http://www.filmsite.org/100characters4.html|title=''Premiere's'' The 100 Greatest Movie Characters|publisher=Filmsite.org|date=|accessdate=2010-05-21}}</ref>。 == 登場 == ; 劇場版 第1作 : インディアナ・ジョーンズは[[ニュージャージー州]][[プリンストン (ニュージャージー州) |プリンストン]]で生まれる。初登場は1981年の『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]]』で1936年の設定。このキャラクターはマーシャル大学(プロデューサーの[[フランク・マーシャル]]にちなんで)<ref>{{cite web|title=Indiana Jones teaches at Marshall|accessdate=2010-06-20|last=Fulks|first=Tricia|date=2008-05-26|work=Charleston Daily Mail|url=http://www.dailymail.com/News/statenews/200805260088|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080528045617/http://www.dailymail.com/News/statenews/200805260088|archivedate=2008-05-26}}</ref>で働き、1930年代の冒険・アクションヒーローを彷彿させる。マーシャル大学は[[コネチカット州]]の架空の大学であり彼は考古学の教授である。第1作目では[[契約の箱]]([[聖櫃]]も参照)を探す[[ナチス・ドイツ|ナチス]]と、マリオン・レイヴンウッドとサラーの助けを得て対決している。ナチスはジョーンズの宿敵でフランス人考古学者のルネ・ベロックと不気味な[[ゲシュタポ]]のアーノルド・トートを利用した。 ; 劇場版 第2作 : 1984年には1作目より過去の設定(1935年設定)で『[[インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説]]』が作られている。前作よりもホラー指向の作品で舞台はほぼ[[インド]]である。今回ジョーンズは、[[タギー]]・カルトによってある村から奪われた[[シヴァ|シャンカラ]]・ストーンを取り戻す。彼は少年ショート・ラウンドとウィリー・スコットの助けを借りた。 ; 劇場版 第3作 : 1989年の3作目、『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』は1938年に設定され、1作目に登場したサラーやマーカス・ブロディが再登場する。ジョーンズ教授(このときはバーネット大学の教授)はナチスがオカルト品を集めていることを知る。このときの彼らの目標は[[聖杯]]だった。映画は1912年から始まり若き日の主人公を描いている。特にヘビを恐れる理由、牛追いムチを使う理由、あごの傷の理由、帽子の入手先が描かれている。また映画のラストではじめて“インディアナ”が本名でなく、犬の名前であると明かされる。これはジョーンズと父親の一種の[[バディ映画]]でもあり、コミカルな要素になっている。このシリーズは当初5部作の予定であったがルーカスが良き[[マクガフィン|プロット・エレメント]]を考え出せず、18年もの間続編は作られなかった<ref name="race against time">{{cite news|author=Nick de Semlyen, Ian Freer, Chris Hewitt, Ian Nathan, Sam Toy|title=A Race Against Time: Indiana Jones IV|page=100|publisher=[[エンパイア (雑誌) |Empire]]|date=2006-09-29}}</ref>。 ; 劇場版 第4作 : 2008年の4作目、『[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]』は1957年に設定され、インディアナ・ジョーンズの敵は新たに[[ソビエト連邦|ソ連]]に設定された。彼の元同僚ハロルド・オックスリーが[[宇宙人]]の[[水晶髑髏|クリスタル・スカル]]を発見し、ソ連のエージェントがそれを利用しようとする話である。彼はかつての恋人マリオン・レイヴンウッドとその息子ヘンリー・“マット”・ウィリアムズの助けを借りる。そして途中でマットが彼の息子ヘンリー・ジョーンズ3世であると明かされる。このときは[[シャイア・ラブーフ]]が主人公を引き継ぐという噂があった。またこの映画で彼が[[第二次世界大戦]]中に[[Office of Strategic Services|戦略諜報局]]([[中央情報局|CIA]]の前身)で働いていたことと、[[アメリカ陸軍]]で[[大佐]]の階級になっていたこと、ソ連でMI6のジョージ・マクヘイルとミッションを共にしていたことが明かされた。 ; 劇場版 第5作 : 2023年の5作目、『[[インディ・ジョーンズと運命のダイヤル]]』では、1969年を舞台に、世間は月面着陸した宇宙飛行士の帰還のパレードで盛り上がっている。また、長年教鞭を取っていたインディだったが、考古学を専攻しているはずの若い生徒たちもまるで授業に興味がなく、冷ややかな態度で授業を受ける始末で、そのまま定年退職となっている。退職後に声をかけてきた旧友であるバジル・ショウの娘ヘレナ・ショウが訪ね、ユルゲン・フォラー率いるナチスの残党との最後の戦いとアンティキティラの時計を巡る最後の冒険がはじまる。 === テレビ === {{see|インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険}} 1992年から1996年まで、ジョージ・ルーカスがプロデュースした『[[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険|ヤング・インディ・ジョーンズ・クロニクルズ]]』というテレビドラマが放送されていた。主にティーンエイジャーと子供向けに、インディアナ・ジョーンズと歴史的に重大な出来事・20世紀の偉人の関わりが描かれた。 物語は[[ジョージ・ホール]]演じる老人(年齢設定は93歳〜94歳)となったインディアナ・ジョーンズが、回想する形で若き日の冒険を誰かに話して聞かせるというものである。エピソードのほとんどの部分は若き日のインディ(16歳〜21歳、[[ショーン・パトリック・フラナリー]]が演じる)か少年期のインディ(8歳〜10歳、[[コリー・キャリアー]]が演じる)の話である。“ミステリー・オブ・ザ・ブルース”と題された作品ではホールではなくハリソン・フォードがインディアナ・ジョーンズを演じた。 [[第一次世界大戦]]中には16歳〜17歳までベルギー軍で兵隊・諜報活動し、フランス情報局でスパイとして働いた。少年時代は1908年〜1910年まで父親の世界講演ツアーについて世界中を旅したことになっている。 この作品は映画に関する裏話だけでなくキャラクターの新たな設定を作った。インディアナ・ジョーンズは[[1899年]][[7月1日]]生まれでありミドルネームはウォルトン(ルーカスと同じ)、幼いころに死亡したスージーという妹がいたこと、最終的には何人かの孫がいることなどである。父親との関係は『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で初めて描かれたが少年時代の関係も描かれた。インディは[[インディ・ジョーンズと運命のダイヤル]](1969年)から1990年代初頭までの間に右目を失う。最晩年の“老インディ”は右目に黒い眼帯をしている。 1999年、ルーカスはエピソードの説明とジョージ・ホール演じる“老インディ”の登場シーンを削除したVHSを発売した。そして時系列順に編集して長編の物語に仕上げた。編集版のタイトルは『[[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険]]』とつけられた。 === テーマパーク === インディアナ・ジョーンズは世界の[[ディズニーパーク]]のアトラクションにも登場する。 アナハイムの[[ディズニーランド]]及び[[東京ディズニーシー]]には屋内ライド型アトラクション「[[インディ・ジョーンズ・アドベンチャー]]」がある。それぞれ副題とテーマは異なる(アナハイムは“禁断の瞳の魔宮”、東京は“クリスタルスカルの魔宮”)が、遺跡の中をジープ型のライドに乗っていく点は共通している。 また「[[インディ・ジョーンズ・エピック・スタント・スペクタキュラー!]]」は[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]の[[ディズニー・ハリウッド・スタジオ]]で1989年に公開されたライブショーである。この25分間のショーでは映画で使われる様々なスタントを行なっている。 [[ディズニーランド・パリ]]には「[[インディ・ジョーンズと危難の魔宮]]」という[[ローラーコースター]]がある。遺跡の中をトロッコ型のライドに乗り込み走行する。途中には360度宙返りするループもある。 == キャラクターの説明と形成 == 考古学教授として働くとき、ヘンリー・ジョーンズ・ジュニアはツイード・スーツを着る。『[[インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国]]』ではインディがマルクス主義の考古学者[[V・ゴードン・チャイルド|ヴィア・ゴードン・チャイルド]]から影響を受けたことが明らかになっている。だが皮肉なことにチャイルドはインディが得意とするフィールドワークを嫌っていた<ref>{{cite book|last=Green, Sally|title=Prehistorian: A Biography of V. Gordon Childe|publisher=Moonraker Press|year=1981|page=64|isbn= 0-239002067}}</ref>。インディはまた“良き考古学者になるには、図書館から出る事だ”と続ける。このセリフは[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦|前作]]の“考古学調査の7割が図書館で行われる”と対照的である。また、考古学教授としての授業は生徒が多数参加し人気の様子だが、たびたび遺跡発掘に赴いてしまうために手紙や生徒のテストの採点、面接などが溜まってしまい、久しぶりに帰ってくると生徒たちが押し掛けるために嫌気がさして職務から逃げ出すというシーンも『[[インディ・ジョーンズ/最後の聖戦]]』にて見られる。 しかし、重要な遺物を発掘するときジョーンズ博士は“インディアナ”になり、「[[スーパーヒーロー]]ではないヒーロー」になる。プロデューサーの[[フランク・マーシャル]]は「インディはあてにならないキャラクターだ。彼はミスをすると傷つく(中略)彼はリアルなキャラクターで超能力を持っていない」と語っている<ref>{{cite news|author=Anthony Breznican|title=First look: Whip cracks over new 'Indiana Jones' movie|publisher=[[USA Today]]|date=2007-12-09|url=http://www.usatoday.com/life/movies/news/2007-12-09-indiana-jones_N.htm|accessdate=2007-12-10}}</ref>。スピルバーグの伝記作家ダグラス・ブロードによればインディは学校で教える事から[[現実逃避|逃げ出す]]というすばらしいことをしたという<ref name="broderaiders">{{cite book|author=Douglas Brode|title=The Films of Steven Spielberg|publisher=Citadel|year=1995|pages=90-98|isbn=0-8065-1540-6}}</ref>。ハリソン・フォードは、インディアナが[[ロマン主義|ロマンティスト]]で[[イロニー|皮肉屋]]であるため演じるのが楽しいと述べた。インディは[[一匹狼]]で[[探索|冒険]]を求める気高い[[トレジャーハンター]]及び[[ハードボイルド]][[探偵]]、さらには生身の[[スーパーヒーロー]]で愛国者であると分析できる。 多くのスピルバーグ映画と同じように、ジョーンズもまた一部彼の自伝的要素を持っている。インディアナは父親ヘンリー・ジョーンズとの緊張した関係のため理想の父親像がなく、彼の内なる怒りはマリオン・レイヴンウッドと[[シカゴ大学]]の恩師アブナー・レイヴンウッドとの関係を悪化させた。マーカス・ブロディはインディを導く役割を持つ。インディの不安は幼いころに母親を失ったことに由来する。『[[インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説]]』ではウィリー・スコットとショート・ラウンドを守って一時的に父親になる。彼が[[カーリー]]の魔術に陥った時にはショート・ラウンドが助け出した。その後インディアナは大勢の子どもを救出している。 == 由来とインスピレーション == インディアナ・ジョーンズは[[ジョージ・ルーカス]]と[[スティーヴン・スピルバーグ]]が少年時代に愛した昼興行の[[連続活劇]]と[[パルプ・マガジン]]がモデルになっている(例えば[[リパブリック・ピクチャーズ]]の映画や[[ドック・サヴェジ]]シリーズ)。サー・[[ヘンリー・ライダー・ハガード|H・ライダー・ハガード]]の『[[ソロモン王の洞窟]]』の主人公アラン・クオーターメインは1885年作品であるが、注目すべきジョーンズの元型である。ルーカスとスピルバーグは映画『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』第1作公開時にハワイでこの計画について話し合った。スピルバーグは[[ジェームズ・ボンド]]映画のような娯楽作品を作りたいと考えていた。 このキャラクターは当初、“インディアナ・スミス”と名付けられていたが、1970年代にルーカスが飼っていた[[アラスカン・マラミュート]](“インディアナ”)から名前が付けられた。スピルバーグも“スミス”は気に入っておらず、ルーカスの代案“ジョーンズ”に賛成した。 ルーカスは[[ショーン・コネリー]]が演じた世界的に有名な秘密諜報員[[ジェームズ・ボンド]]がジョーンズに大きなインスピレーションを与えたと発言している。このことから『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の父親役はコネリーになった。 衣装デザイナーデボラ・ナドールマン・ランディスは、インディの衣装が[[チャールトン・ヘストン]]が『[[インカ王国の秘宝]]』で演じた[[ハリー・スティール]]を参考に決められたと述べた(「私は何度もスタッフと一緒にこの映画を見た。そして私はいつも、スタッフがこの映画を参考にしなかったらおかしいと思っていた」)<ref>{{cite news|author=Mike French & Gilles Verschuere|title=Debora Nadoolman interview|publisher=TheRaider.net|date=2005-09-14|url=http://www.theraider.net/features/interviews/deborah_nadoolman.php|accessdate=2008-04-07}}</ref>。 === 実在のモデル === 多くの人物がインディアナ・ジョーンズの創造に影響を与えたと言われている。しかしルーカスとスピルバーグが認めたわけではない。 *ベロイト大学の教授であり[[古生物学|古生物学者]]の[[ロイ・チャップマン・アンドリュース]]<ref>{{cite book|title=Dinosaurs in the Attic: An Excursion Into the American Museum of Natural History|first=Douglas J.|last=Preston|publisher=St. Martin's Press|year=1993|isbn=0-312-10456-1}}, [https://books.google.co.jp/books?vid=ISBN0312104561&id=CaBxisxbAfwC&pg=PA98&lpg=PA98&sig=v0aO-D_rCrUl-IRZHI0RoexkydQ&redir_esc=y&hl=ja pp. 97–98], "Andrews is allegedly the real person that the movie character of Indiana Jones was patterned after... crack shot, fighter of Mongolian brigands, the man who created the metaphor of 'Outer Mongolia' as denoting any exceedingly remote place."</ref> *イタリアの[[考古学|考古学者]]でありサーカスの芸人[[ジョバンニ・ベルツォーニ]](1778年〜1823年)<ref>{{cite web|url=http://www.filmsite.org/raid.html|title=Raiders of the Lost Ark (1981)|publisher=Filmsite.org|accessdate=2007-12-11}}</ref> *[[イェール大学]]の教授であり歴史家・探検家の[[ハイラム・ビンガム3世]]。 **彼は失われた都市[[マチュ・ピチュ]]を発見し<ref>{{cite news|date=2005-09-22|accessdate=2007-12-11|url=http://www.usatoday.com/travel/destinations/2005-09-22-peru_x.htm|title=The trail less trampled on|publisher=[[USA Today]]|author=Gene Sloan}}</ref>1948年の『失われたインカの都市』はベストセラーになった<ref>{{Cite web|url=http://www.senate.gov/reference/reference_item/LostCity.htm|title=Lost City of the Incas|publisher=United States Senate|accessdate=2007-12-11}}</ref>。 *[[シカゴ大学]]の考古学者{{仮リンク|ロバート・ジョン・ブレードウッド|en|Robert John Braidwood}}<ref>{{Cite web|url=http://maroon.uchicago.edu/news/articles/2003/01/21/obituary_robert_and_.php|title=Obituary: Robert and Linda Braidwood|author=Molly Schranz|publisher=[[Chicago Maroon]]|date=2003-12-21|accessdate=2006-09-21|quote=Some say he was the real life inspiration for Indiana Jones.}}</ref> *シカゴ大学の考古学者{{仮リンク|ジェームズ・ヘンリー・ブレステッド|en|James Henry Breasted}}<ref>{{cite web|url=https://collegeadmissions.uchicago.edu/archived/tour/oriental.html|title=Oriental Institute Tour|publisher=The University of Chicago|accessdate=2009-07-11}} "Some sources say that Breasted was the inspiration for Indiana Jones; others say it was Robert Braidwood."</ref> *イギリス人考古学者{{仮リンク|パーシー・フォーセット|en|Percy Fawcett}} **彼は[[ブラジル]]北部の探索に多くの時間を費やした。1925年に[[失われた都市Z]]を探しに[[アマゾン盆地]]に入って行方不明になった。彼は小説『インディ・ジョーンズ/第七の魔力』でジョーンズと会う<ref name="RMG"></ref>。 *イギリス人考古学者で軍人の[[トーマス・エドワード・ロレンス]]<ref>{{cite web|url=http://www.theraider.net/information/influences/lawrence_of_arabia.php|title=Lawrence of Arabia|last=French|first=Mike|publisher=TheRaider.net|accessdate=2009-07-11}}</ref> *[[ノースウェスタン大学]]の人類学者で教授・冒険家の{{仮リンク|ウィリアム・モンゴメリー・マクガヴェン|en|William Montgomery McGovern}}<ref>{{cite web|url=http://www.northwestern.edu/magazine/northwestern/fall1999/quinn.htm|title=Keeper of the Past|date=1999-09-21|accessdate=2009-03-06}}</ref> *{{仮リンク|フレデリック・アルバート・ミッチェル=ヘッジズ|en|F. A. Mitchell-Hedges}}<ref>{{Cite news|url=http://www.dailymail.co.uk/pages/live/articles/news/news.html?in_article_id=562487&in_page_id=1770|title=Nazi treasure, giant scorpions... and a crystal skull: The adventures of the REAL Indiana Jones|date=2008-04-28|accessdate=2008-05-14|location=London|work=Daily Mail}}</ref> *ドイツ人考古学者{{仮リンク|オットー・ラーン|en|Otto Rahn}}<ref>{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/05/22/sv_rahn125.xml|title=The original Indiana Jones: Otto Rahn and the temple of doom|date=2008-05-22|accessdate=2008-06-02|work=The Daily Telegraph|location=London|first=John|last=Preston}}</ref> == 衣装 == スピルバーグとルーカスはシルエットを見ただけで誰だか分るようなコスチュームを求めた。そこでてっぺんが高く、つばの広い[[中折れ帽|フェドーラ帽子]]([[インディ・ジョーンズ・ハット]]も参照)を選んだ。『レイダース』のドキュメンタリーで指摘されたようにフェドーラ帽は実用的な役割も果たした。それは『インディ・ジョーンズ』シリーズが参考にしたかつての[[B級映画|“B”級映画]]と同じで、スタントマンを必要とする危険なシーンでは代役の顔を隠してくれるということである。 また、この帽子はスタッフの間ではジョークのネタにもなった。撮影中に帽子が落ちればそのシーンは撮り直しになる。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のドキュメンタリーでは、ハリソン・フォードが冗談で帽子をホッチキスで頭に固定する真似をしている<ref>{{cite web | title=Hat and Jacket featurette | publisher=Official site | date=2008-02-08 | url=http://www.indianajones.com/site/?deeplink=videos/1/v28 | accessdate=2008-02-08}}</ref>。 映画の衣装に関する話は以下の通り。 *最初の3作品では、フェドーラ帽はイングランドのハーバード・ジョンソン・ハットの物が使われた。それは“ポエット”と呼ばれていた帽子だった。『クリスタル・スカル』の帽子はミシシッピ州コロンバスのアドベンチャービルト・ハット・カンパニーのスティーヴ・デルクとマーク・キッターが作った。 *レザージャケットは“タイプ440”と“A-2 ジャケット”のハイブリッドのように見える、創作されたオリジナルであり『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』と『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』ではレザー・コンセンショナーズ(現在はウエステッド・レザー)が製作した。『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』のジャケットはロンドンのバーマンズ&ネイサンズが『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の物を基に作った。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』ではアメリカ、カリフォルニアのトニー・ノワックが製作した。ウエステッド・レザーを始めとして、現在では映画のファンが様々なインディタイプのジャケットを製作しており、一般に購入が可能である。 *バッグはマーク7イギリス軍ガスマスク用バッグで、通常はジャケットの下に掛けている。『クリスタル・スカル』ではジャケットの上からバッグを掛けていた。 *鞭は2.4m〜3.0mのブルウィップと呼ばれる[[カンガルーレザー]]で編まれた鞭で、最初の3作品で使用されたのはデイヴィッド・モーガンによって製作された450シリーズであり、現在でも一般に購入が可能である。ただしモーガンの鞭は年代と共に形状が変化しており(より頑丈に、太く重くなっている)、現在の形状は劇場公開時とはかなり異なる。『クリスタル・スカル』では3名のウィップメーカーに製作が依頼された。テリー・ジャッカ、ジョー・ストレイン、モーガンである(長さが違うムチはシーンやスタントによって使い分けられていた)。テリージャッカが製作した鞭は前3作で使用されたモーガンの鞭とは構造が大きく異なる。「よりバリエーションのある鞭捌き」ができるようにハンドル根本が硬く補強され、オーストラリアスタイルに近い形状である。一方で4作品で共通している鞭の構造は、コア、2ベリー(4本編み、8本編み)、2ボルスター、オーバーレイ、と6層で編み込まれていること。そしてオーバーレイは12本編みである。 *ピストルはたいてい[[第一次世界大戦]]時のもので[[ウェブリー・リボルバー|ウェブリー]]・ガヴァメント(『最後の聖戦』と『クリスタル・スカル』)や[[スミス&ウェッソン]][[M1917リボルバー]]ハンド・エジェクター・セカンド・モデル・リボルバー(『レイダース』)、[[コルト・オフィシャルポリス]](『魔宮の伝説』。冒頭でウィリーが車外に落として紛失するが、落ちるシーンのアップのみM1917に変化する)を使用した。また[[ナガンM1895]](『若き日の大冒険』)や9ミリ[[FN ブローニング・ハイパワー|ブローニング・ハイパワー]](『レイダース』)も使用した。銃は普段は軍用ホルスターに収められている。 *靴はオールデン製である。モデル405は映画制作前からフォードのお気に入りだった。それらは今でも“インディ・ブーツ”という愛称で親しまれ、販売されている(映画よりも茶色い<レンガ色>色であるが)。 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で使用されたフェドーラ帽とレザージャケットはワシントンDCの[[スミソニアン博物館]]に収められている。映画の衣装・小道具の収集は一部のシリーズ・ファンの趣味にもなっている。[[20世紀フォックス]]が2008年に2000人の映画ファンを対象に行なった調査では、ブルウィップは3番目に人気な映画の武器だった。 === キャスティング === もともとスピルバーグはハリソン・フォードを望んでいたがルーカスは『[[アメリカン・グラフィティ]]』と『スター・ウォーズ』と『[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|スター・ウォーズ 帝国の逆襲]]』で彼を起用していたため反対した。フォードを“ベビー・デ・ニーロ”と呼ばせたくなかったためである(事実、監督仲間の[[マーティン・スコセッシ]]はたびたび[[ロバート・デ・ニーロ]]を起用した)。配役が決定するまでの間、ルーカスとスピルバーグは多くのオーディションを行なった。そして多少有名だった[[トム・セレック]]がインディアナ・ジョーンズに決定した。程なくして映画の[[プリプロダクション]]が始まる。しかし[[CBS]]は『[[私立探偵マグナム]]』でのセレックとの契約解消を拒否し、彼はインディ役を断らざるを得なかった。CBSは『レイダース』が『私立探偵マグナム』と同時撮影になることを快く思わなかったのである。2作品はほぼ同時に制作を始めていた。しかしセレックは『私立探偵マグナム』のインタビューで、撮影は『レイダース』終了後に始まったことを明かした。 スピルバーグが改めてフォードを提案しルーカスも承諾する。フォードは撮影開始の3週間目に役が決定した。 == 影響 == 様々な[[冒険]]の物語でインディアナ・ジョーンズへのオマージュや彼からの影響がみられる。 *[[ララ・クロフト]] **『[[トゥームレイダー]]』シリーズの女性冒険家。もともと男性の予定だったが途中で変更された。変更の理由としてインディアナ・ジョーンズに似すぎていたことが挙げられる<ref>{{cite video|people=Toby Gard, Jeremy Heath Smith, Ian Livingston (interviews); Keeley Hawes (narrator)|title=Ten Years of Tomb Raider: A GameTap Retrospective|publisher=Eidos Interactive]/ GameTap|date=2007 }}</ref>。 **『インディ・ジョーンズ』を配給した[[パラマウント映画]]は後にゲーム『トゥームレイダー』の映画を2つ制作している。 *『[[プリンス・オブ・ペルシャ (2008年のゲーム) |プリンス・オブ・ペルシャ]]』のプロデューサー・ベン・マッテスは“ハリソン・フォードがやってきたものを参考にした(「インディアナ・ジョーンズと[[ハン・ソロ]]だ<ref>As quoted in Gary Steinman, "''Prince of Persia'': Anatomy of a Prince," ''PlayStation: The Official Magazine'' 13 (December 2008): 50.</ref>」)と述べている。 *TVゲームシリーズ『[[アンチャーテッドシリーズ|アンチャーテッド]]』はインディアナ・ジョーンズから大きな影響を受けている。 **メインキャラクターの[[ネイサン・ドレイク]]はインディアナ・ジョーンズと外見でも内面でもいくつか共通点を持っている<ref>{{cite journal|title=Off The Chart – Uncharted: Drake's Fortune|publisher=Future plc|journal=PlayStation Magazine|issue=129|pages=26-33|month=November|year=2007|first=Randy|last=Nelson}}</ref>。またTVCMにはハリソン・フォードが出演した。 == 他のメディア == === ゲーム === * [[フォートナイト (ゲーム)|フォートナイト]] - チャプター3シーズン3のバトルパスクエストでアンロックすることで入手可能キャラクターとして登場<ref>{{cite web|url=https://www.epicgames.com/fortnite/en-US/news/unlock-world-famous-archaeologist-indiana-jones-in-the-fortnite-chapter-3-season-3-battle-pass|title=UNLOCK WORLD FAMOUS ARCHAEOLOGIST INDIANA JONES IN THE FORTNITE CHAPTER 3 SEASON 3 BATTLE PASS!|work=epicgames|author=The Fortnite Team|language=en|accessdate=September 13, 2022}}</ref>。 ==日本語吹替== *[[村井國夫]](1985~現在、ソフト・劇場公開版、[[日本テレビ]]版、[[インディ・ジョーンズ・アドベンチャー#東京ディズニーシー|東京ディズニーシー『インディ・ジョーンズ・アドベンチャー』]]、[[ツムラ|ツムラインパルス]] 『アメリカがそこにある!!!』、パチスロ『CRFインディ・ジョーンズ』、[[インプレッサ]]「[[SUBARU]]×[[金曜ロードショー]]」コラボCMなど) *[[玄田哲章]](『最後の聖戦』[[フジテレビ]]版) *[[磯部勉]](『魔宮の伝説』『最後の聖戦』[[テレビ朝日]]版) *[[内田直哉]](『クリスタル・スカルの王国』までの一部媒体) *[[山口健]](『最後の聖戦』ソフト版1、少年時代) *[[鳥海勝美]](『最後の聖戦』日本テレビ版、少年時代) *[[草尾毅]](『最後の聖戦』フジテレビ版、少年時代) *[[岩永哲哉]](『最後の聖戦』テレビ朝日版、少年時代) *[[加藤木賢志]](『最後の聖戦』ソフト版2、少年時代) *[[宮本充]](『若き日の大冒険』青年期) *[[田中真弓]](『若き日の大冒険』少年期) *[[浦野裕介]](『若き日の大冒険』少年期、「ジャッカルの呪い」のみ) *[[北村和夫]](『若き日の大冒険』老年期) == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://www.indianajones.com IndianaJones.com] – インディアナ・ジョーンズ公式サイト * {{IMDb character|0001063|Indiana Jones}} * [https://indianajones.fandom.com/wiki/Main_Page The Indiana Jones Wiki]&nbsp;– 『インディ・ジョーンズ』のWiki{{en icon}} {{インディ・ジョーンズシリーズ}} {{ジョージ・ルーカス}} {{スティーヴン・スピルバーグ監督作品}} {{玄田哲章}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよんす いんていあな}} [[Category:映画の登場人物]] [[Category:架空の教員]] [[Category:架空の学者]] [[Category:架空の探検家]] [[Category:インディ・ジョーンズシリーズ]]
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明智小五郎
明智 小五郎(あけち こごろう)は、江戸川乱歩の小説に登場する架空の私立探偵。 『D坂の殺人事件』で初登場。この際の姿は、タバコ屋の二階に間借りしており、喫茶店で冷しコーヒーを嗜む、定職を持たない貧窮書生であった。服装には無頓着で、木綿の着物によれよれの兵児帯、髪はモジャモジャ。にこにこといつも笑顔を絶やさず、痩せ型で、変に肩を振る歩き方をし、興奮するとモジャモジャの髪を掻き回す癖がある(この人物像は、のちに横溝正史が自作の探偵とした金田一耕助によく似ている)。この『D坂の殺人事件』では、着ていた浴衣の派手な縞柄による錯覚から、友人の「私」から犯人と疑われることとなっている。 探偵小説好きで、四畳半しか無い下宿先の自室は、四方を寝る場所もないほどの本の山に埋められている。愛煙家で、歳はこの時点で「二十五を越してはいまい」と劇中察せられている。乱歩は明智の起用をこの『D坂の殺人事件』一作だけにするつもりでいたが、評判が良かったため、『心理試験』で再登場して以後、乱歩の代表的探偵キャラクターとなった。 次に登場した『心理試験』は「『D坂の殺人事件』から数年後」と設定され、すでにしばしば困難な犯罪事件に関わり、その珍しい才能を現して、専門家はもちろん一般の世間から立派に認められた名探偵となっており、前作のような書生ではなくなっていた。 次作の『黒手組』では、再び明智はタバコ屋の二階に下宿する書生として登場しているが、次々作の『屋根裏の散歩者』では洋服を着た姿が見られる。これらの作品はすべて大正14年に発表されたものである。この時期の明智は「天才型探偵」として現れ、「僕の興味はただ『真実』を知る点にある」と語り、警察とそれほど連携もしていない。 明智のこの姿は、翌年大正15年発表の『一寸法師』以後、より一層洗練されたものとなる。ここでは明智は御茶ノ水にある「開化アパート」(架空の建物。モデルは大正14年竣工の「御茶ノ水文化アパート」だとされている)2階の表3室を事務所とし、上海で事件を解決してきたあと暇を持て余す有名な素人探偵として登場。派手な浴衣や木綿の着物姿から、上海で誂えた黒の支那服や、背広を着こなして、貧窮下宿時代からの友人小林紋三から「いくぶん、見栄坊になった」と称される洋装の紳士となっている。 こちらの明智も「モジャモジャの頭」、「にこにことした朗らかな笑顔」、「伯龍そっくりの顔」、「飄々とした行動」、「本に埋もれた生活」は変わらないが、葉巻タバコの「フィガロ」を好み、コーヒーを「カフィー」と呼んで飲むなど、西洋通またはキザなキャラクターとなり、その卓越した推理力から、警察関係者からは「奇人」と呼ばれる存在となっている。 『蜘蛛男』での明智は「『一寸法師』事件から3年ぶりの帰国」となっており、インド帰りで登場したその姿は「鼻の高い日に焼けた顔」、「白い詰襟の上下にヘルメット帽」と、「まるで植民地の英国紳士か、欧州の印度紳士」と形容されるものとなっている。続く『魔術師』では、明智の年齢は「30代後半」となっている。 『黄金仮面』では、明智は「『蜘蛛男』事件の際はホテル住まいをしていたが、このあと御茶ノ水の開化アパートの2階2室を借り、それぞれ事務所と寝室に使っている」と説明されている。この寝室には、明智の変装用の小道具が収納されている。 この『黄金仮面』など、連載当時の挿絵では、明智は口髭を生やした姿で描かれたものがあった。また、文中では「モジャモジャ頭」と記述されているにもかかわらず、なぜかどの挿絵でも、これに反して整髪した頭で描かれていた。 明智の探偵方法は、証拠の科学的な検証は「好きでない」として専門家に任せ、論理的演繹によって犯行や犯人をあぶり出すという手法である。乱歩は時代時代に明智像を合わせていったため、やがて明智探偵は部下や自動車を使って悪漢を追ったり、「石礫で遠方の標的を正確に打ち飛ばす」、「犯人が気づかないうちにピストルから弾丸を抜いてしまう」といった手品まがいの芸当も見せるなど、現実感希薄な天才・英雄タイプの「行動型探偵」に変身していった。また、探偵手法として「変装」を得意とするようにもなり、この変装は友人の波越警部らにも見破れない本格的なものである。 謎と見ると放っておかれず、仕事抜きで事件に関わっていくことも多い。また国家的事件の解決のために、朝鮮やインドなど海外に出張することも多い。「人間豹」などのおよそ人間とかけ離れた半人半獣とも戦った。この明智探偵は子供向けの「少年探偵団シリーズ」と並行して、戦後も引き続き乱歩の探偵小説で活躍している。 1936年(昭和11年)に『少年倶楽部』で「少年探偵団シリーズ」が企画された際、小林少年らの後見人として、明智の名が挙がり、江戸川乱歩もこれに応じてその第一作『怪人二十面相』から明智が登場するようになった。 活動拠点も千代田区采女町(架空の地域。采女町は現在の中央区銀座の旧町名。また麹町区と神田区が合同して「千代田区」が出来たのは1947年)の開化アパート2階に変わり、ここで「明智小五郎探偵事務所」を構えている。助手の小林芳雄を団長とする「少年探偵団」や、警視庁の中村警部に力を貸し、数々の難事件を解決する。妻は文代(ふみよ)で、彼女も「探偵としての資質は高い」と文中説明されている。 この「少年探偵団」シリーズに登場する明智は、ほぼ完璧な超人として縦横無比な活躍ぶりを見せる。髪はモジャモジャで容姿端麗。愛煙家。30歳前後の非常に印象の良い背広姿の紳士となっている。作中では推理の結果は常に人前で明かし、行動の描写が中心で、内面の心理描写はほとんどない。 終生のライバルは怪人二十面相で、二十面相の向こうを張る変装の名人であり、互いに変装合戦を繰り返し、裏をかき合う。柔道の達人で、『怪人二十面相』で明智は「柔道三段」の腕前とされている。二十面相は「柔道五段」(『おれは二十面相だ!!』)、または「柔道三段」(『怪人と少年探偵』)と称されているが、『少年探偵団』で明智の柔道技は「二十面相とは段違いの力量だ」と説明されている。また、強靭な意志によって、二十面相と互角の催眠術を操ることができる。劇中では「怪人」である二十面相に対し、「巨人」と称せられている。 一般的にはこのシリーズにおける明智小五郎が、名探偵の代名詞として記憶されている。ポプラ社版の『少年探偵団』シリーズでは、明智の登場しない乱歩の原典を、乱歩以外の代作者が改変したものがあり、明智が敵の罠に堕ちたりと、乱歩の描く超人としての探偵像にそぐわないものもある。 高木彬光の神津恭介、横溝正史の金田一耕助と並んで「日本の三大名探偵」と称される。 『魔術師』事件で懇意となった文代を妻としているが、その他の家族は描写されていない。『吸血鬼』事件以降、15歳くらいの小林という少年を助手として、潜入捜査や斥候役を担わせている。文代は少年探偵団シリーズの中盤から『長年の病気で高地療養に行っている』という説明で登場しなくなり、以後は小林少年と一緒に明智探偵事務所で暮らしていると説明されている。 『少年探偵団』シリーズでは、怪人二十面相に対抗して「少年探偵団」という学童たちの探偵団を組織し、面倒を見ている。このほかに『青銅の魔人』で、浮浪児たちによる「チンピラ別働隊」という探偵団を組織している。 赤井という名の自分そっくりの影武者がいる。また、文代の姪の花崎マユミという少女を少女助手として使っている。マユミは少女雑誌連載終了後はほとんど留守番役である。 警視庁とも密接に連携し、赤松警視総監以下、捜査一課の「鬼刑事」と異名をとる波越警部や、中村善四郎警部ともども、明智を高く評価し、協力を仰いでいる。 人物像として、『D坂の殺人事件』で「私」(明智の友人の無職の青年)が、講釈師の五代目神田伯龍に「歩き方から、顔つき、声音までがそっくり」と語っている。乱歩は当時、まだ若かった頃の伯龍の講釈をよく聞いていた。 明智小五郎の名は、戦国武将の明智光秀とその変名とされる「荒深小五郎」から採ったとの説、あるいはこの明智と桂小五郎の名を合わせたとする説がある。 (タイトルはポプラ社版のもの) 明智小五郎は、戦前から映像作品に登場している。戦後は子供向けの「少年探偵団」物が数多く製作された。1994頃には「乱歩生誕100周年」に合わせ、相次いで初期作品が映像化された。「もじゃもじゃ頭に書生姿」の明智が登場している作品もある。 江戸川乱歩の小説作品を原作とし、明智小五郎を翻案登場させたテレビドラマは、舞台を現代に変えるなどしてたびたび映像化されている。ことに「少年探偵団」の登場しないアダルト層を対象とした『土曜ワイド劇場・江戸川乱歩の美女シリーズ』(テレビ朝日系)は、天知茂の当たり役となり、長期シリーズ化された。 また「少年探偵団」を主役とする子供向けドラマも、たびたびテレビドラマ化された。どちらの趣向の作品も、登場する明智は「背広姿の名探偵」である。 ※は時代設定を現代にしている 『黒蜥蜴』は乱歩作品の中でもたびたび舞台の演目となった。 ■2022/6月 劇団ヘロヘロQカムパニー 「江戸川乱歩パノラマ朗読劇 5人の明智小五郎」 @こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ 演出:関 智一/野坂 実 脚本:関 智一/大石達也 【出演】 【日替わりゲスト】 ■2023/1 ノサカラボ『名探偵の継承』朗読劇「黒蜥蜴」 原作:江戸川乱歩 / 構成・演出:野坂実 / 脚本:穴吹一朗 / 1月18日 - 22日 シアターミクサ 【出演】 明智が有名な探偵キャラクターであるため、乱歩以外の作家作品にもしばしば明智が登場する。 『黄金仮面』に関しては、ルパンシリーズの派生としての側面も持つため、そちらにもまとめてある。 作品の舞台が昭和初期であるため、映像作品で現代に舞台を移した場合、明智小五郎の代わりに、「明智小五郎の孫」が登場する場合がある。設定などはその作品によって異なる。「明智小五郎の孫」を演じた俳優には以下のような面々がいる。
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"次作の『黒手組』では、再び明智はタバコ屋の二階に下宿する書生として登場しているが、次々作の『屋根裏の散歩者』では洋服を着た姿が見られる。これらの作品はすべて大正14年に発表されたものである。この時期の明智は「天才型探偵」として現れ、「僕の興味はただ『真実』を知る点にある」と語り、警察とそれほど連携もしていない。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明智のこの姿は、翌年大正15年発表の『一寸法師』以後、より一層洗練されたものとなる。ここでは明智は御茶ノ水にある「開化アパート」(架空の建物。モデルは大正14年竣工の「御茶ノ水文化アパート」だとされている)2階の表3室を事務所とし、上海で事件を解決してきたあと暇を持て余す有名な素人探偵として登場。派手な浴衣や木綿の着物姿から、上海で誂えた黒の支那服や、背広を着こなして、貧窮下宿時代からの友人小林紋三から「いくぶん、見栄坊になった」と称される洋装の紳士となっている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "こちらの明智も「モジャモジャの頭」、「にこにことした朗らかな笑顔」、「伯龍そっくりの顔」、「飄々とした行動」、「本に埋もれた生活」は変わらないが、葉巻タバコの「フィガロ」を好み、コーヒーを「カフィー」と呼んで飲むなど、西洋通またはキザなキャラクターとなり、その卓越した推理力から、警察関係者からは「奇人」と呼ばれる存在となっている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『蜘蛛男』での明智は「『一寸法師』事件から3年ぶりの帰国」となっており、インド帰りで登場したその姿は「鼻の高い日に焼けた顔」、「白い詰襟の上下にヘルメット帽」と、「まるで植民地の英国紳士か、欧州の印度紳士」と形容されるものとなっている。続く『魔術師』では、明智の年齢は「30代後半」となっている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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明智 小五郎は、江戸川乱歩の小説に登場する架空の私立探偵。
{{Infobox character | name = 明智 小五郎 | first = 『[[D坂の殺人事件]]』(1924年) | last = | creator = [[江戸川乱歩]] | gender = 男性 | occupation = 私立[[探偵]] | spouse = 明智文代(妻) | nationality = {{JPN}} }} '''明智 小五郎'''(あけち こごろう)は、[[江戸川乱歩]]の[[小説]]に登場する架空の私立[[探偵]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 20頁。</ref>。 ==人物== 『[[D坂の殺人事件]]』で初登場。この際の姿は、タバコ屋の二階に間借りしており、喫茶店で[[アイスコーヒー|冷しコーヒー]]を嗜む、定職を持たない貧窮[[書生]]であった。服装には無頓着で、木綿の着物によれよれの[[兵児帯]]、髪はモジャモジャ。にこにこといつも笑顔を絶やさず、痩せ型で、変に肩を振る歩き方をし、興奮するとモジャモジャの髪を掻き回す癖がある(この人物像は、のちに[[横溝正史]]が自作の探偵とした[[金田一耕助]]によく似ている)。この『D坂の殺人事件』では、着ていた浴衣の派手な縞柄による錯覚から、友人の「私」から犯人と疑われることとなっている。 探偵小説好きで、四畳半しか無い下宿先の自室は、四方を寝る場所もないほどの本の山に埋められている。愛煙家で、歳はこの時点で「二十五を越してはいまい」と劇中察せられている。乱歩は明智の起用をこの『D坂の殺人事件』一作だけにするつもりでいたが、評判が良かったため、『心理試験』で再登場して以後、乱歩の代表的探偵キャラクターとなった<ref>『江戸川乱歩推理文庫 [[二銭銅貨]]』(講談社)[[中島河太郎]]による解説</ref>。 次に登場した『[[心理試験]]』は「『D坂の殺人事件』から数年後」と設定され、すでにしばしば困難な犯罪事件に関わり、その珍しい才能を現して、専門家はもちろん一般の世間から立派に認められた名探偵となっており、前作のような書生ではなくなっていた。 次作の『黒手組』では、再び明智はタバコ屋の二階に下宿する書生として登場しているが、次々作の『[[屋根裏の散歩者]]』では洋服を着た姿が見られる。これらの作品はすべて大正14年に発表されたものである。この時期の明智は「天才型探偵」として現れ、「僕の興味はただ『真実』を知る点にある」と語り、警察とそれほど連携もしていない。 ===『一寸法師』以降の明智探偵=== 明智のこの姿は、翌年大正15年発表の『[[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]]』以後、より一層洗練されたものとなる。ここでは明智は[[御茶ノ水]]にある「開化アパート」(架空の建物。モデルは大正14年竣工の「[[文化アパートメント|御茶ノ水文化アパート]]」だとされている)2階の表3室を事務所とし、上海で事件を解決してきたあと暇を持て余す有名な素人探偵として登場。派手な浴衣や木綿の着物姿から、上海で誂えた黒の支那服や、[[背広]]を着こなして、貧窮下宿時代からの友人小林紋三から「いくぶん、見栄坊になった」と称される洋装の紳士となっている。 こちらの明智も「モジャモジャの頭」、「にこにことした朗らかな笑顔」、「[[神田伯龍#5代目|伯龍]]そっくりの顔」、「飄々とした行動」、「本に埋もれた生活」は変わらないが、[[葉巻きたばこ|葉巻]][[タバコ]]の「[[フィガロ]]」を好み、コーヒーを「カフィー」と呼んで飲むなど、西洋通またはキザなキャラクターとなり、その卓越した推理力から、警察関係者からは「奇人」と呼ばれる存在となっている。 『[[蜘蛛男]]』での明智は「『一寸法師』事件から3年ぶりの帰国」となっており、インド帰りで登場したその姿は「鼻の高い日に焼けた顔」、「白い詰襟の上下にヘルメット帽」と、「まるで植民地の英国紳士か、欧州の印度紳士」と形容されるものとなっている。続く『[[魔術師 (江戸川乱歩)|魔術師]]』では、明智の年齢は「30代後半」となっている。 『[[黄金仮面]]』では、明智は「『蜘蛛男』事件の際はホテル住まいをしていたが、このあと御茶ノ水の開化アパートの2階2室を借り、それぞれ事務所と寝室に使っている」と説明されている。この寝室には、明智の[[変装]]用の小道具が収納されている。 この『黄金仮面』など、連載当時の挿絵では、明智は口髭を生やした姿で描かれたものがあった。また、文中では「モジャモジャ頭」と記述されているにもかかわらず、なぜかどの挿絵でも、これに反して整髪した頭で描かれていた。 明智の探偵方法は、証拠の科学的な検証は「好きでない」として専門家に任せ、論理的演繹によって犯行や犯人をあぶり出すという手法である。乱歩は時代時代に明智像を合わせていったため、やがて明智探偵は部下や自動車を使って悪漢を追ったり、「石礫で遠方の標的を正確に打ち飛ばす」、「犯人が気づかないうちにピストルから弾丸を抜いてしまう」といった手品まがいの芸当も見せるなど、現実感希薄な天才・英雄タイプの「行動型[[探偵]]」に変身していった。また、探偵手法として「[[変装]]」を得意とするようにもなり、この変装は友人の波越警部らにも見破れない本格的なものである。 謎と見ると放っておかれず、仕事抜きで事件に関わっていくことも多い。また国家的事件の解決のために、朝鮮やインドなど海外に出張することも多い。「人間豹」などのおよそ人間とかけ離れた半人半獣とも戦った。この明智探偵は子供向けの「少年探偵団シリーズ」と並行して、戦後も引き続き乱歩の探偵小説で活躍している。 ===『少年探偵団シリーズ』での明智探偵=== [[1936年]](昭和11年)に『少年倶楽部』で「[[少年探偵団]]シリーズ」が企画された際、小林少年らの後見人として、明智の名が挙がり、江戸川乱歩もこれに応じてその第一作『怪人二十面相』から明智が登場するようになった。 活動拠点も千代田区采女町(架空の地域。采女町は現在の中央区銀座の旧町名。また麹町区と神田区が合同して「[[千代田区の町名|千代田区]]」が出来たのは1947年)の開化アパート2階に変わり、ここで「明智小五郎探偵事務所」を構えている。助手の[[少年探偵団#小林少年|小林芳雄]]を団長とする「少年探偵団」や、警視庁の中村警部に力を貸し、数々の難事件を解決する。妻は文代(ふみよ)で、彼女も「探偵としての資質は高い」と文中説明されている。 この「[[少年探偵団]]」シリーズに登場する明智は、ほぼ完璧な超人として縦横無比な活躍ぶりを見せる。髪はモジャモジャで容姿端麗。愛煙家。30歳前後の非常に印象の良い背広姿の紳士となっている。作中では推理の結果は常に人前で明かし、行動の描写が中心で、内面の心理描写はほとんどない。 終生の[[ライバル]]は[[怪人二十面相]]で、二十面相の向こうを張る変装の名人であり、互いに変装合戦を繰り返し、裏をかき合う。[[柔道]]の達人で、『怪人二十面相』で明智は「柔道三段」の腕前とされている。二十面相は「柔道五段」(『おれは二十面相だ!!』)、または「柔道三段」(『怪人と少年探偵』)と称されているが、『少年探偵団』で明智の柔道技は「二十面相とは段違いの力量だ」と説明されている。また、強靭な意志によって、二十面相と互角の催眠術を操ることができる。劇中では「怪人」である二十面相に対し、「巨人」と称せられている。 一般的にはこのシリーズにおける明智小五郎が、名探偵の代名詞として記憶されている。ポプラ社版の『少年探偵団』シリーズでは、明智の登場しない乱歩の原典を、乱歩以外の代作者が改変したものがあり、明智が敵の罠に堕ちたりと、乱歩の描く超人としての探偵像にそぐわないものもある。 [[高木彬光]]の[[神津恭介]]、[[横溝正史]]の[[金田一耕助]]と並んで「日本の三大名探偵」と称される。 ==家族・仲間== 『[[魔術師 (江戸川乱歩)|魔術師]]』事件で懇意となった文代を妻としているが、その他の家族は描写されていない。『[[吸血鬼 (江戸川乱歩)|吸血鬼]]』事件以降、15歳くらいの小林という少年を助手として、潜入捜査や斥候役を担わせている。文代は少年探偵団シリーズの中盤から『長年の病気で高地療養に行っている』という説明で登場しなくなり、以後は小林少年と一緒に明智探偵事務所で暮らしていると説明されている。 『少年探偵団』シリーズでは、怪人二十面相に対抗して「'''少年探偵団'''」という学童たちの探偵団を組織し、面倒を見ている。このほかに『青銅の魔人』で、浮浪児たちによる「'''チンピラ別働隊'''」という探偵団を組織している。 赤井という名の自分そっくりの影武者がいる。また、文代の姪の花崎マユミという少女を少女助手として使っている。マユミは少女雑誌連載終了後はほとんど留守番役である。 [[警視庁]]とも密接に連携し、赤松警視総監以下、捜査一課の「鬼刑事」と異名をとる波越警部や、中村善四郎警部ともども、明智を高く評価し、協力を仰いでいる。 ==探偵道具== ;拳銃 :警視庁公認の拳銃所持者である。腕前は百発百中。 ;変装具 :つけ髭、カツラ、眼鏡などの小道具で、知人にも悟られない完璧な変装を行う。冒険ものの「少年探偵団シリーズ」になると、明智は変装具や拳銃に加え、以下のように様々な探偵道具を使うようになる。 ;棒やすり :細巻き煙草の中に仕込んでおり、縄で縛られた際にこれで脱出する。 ;アケチ一号 :事件解決報酬の500万円を投じて、明智が購入した黒い自家用自動車。座席の下に人が隠れられるように改造されており、通信機や変装小道具も備えられている。小林少年に無免許運転させることもあった。 ;小型ヘリコプター :二十面相がフランスの発明家に特注して作らせた[[リュックサック|背嚢]]型の小型[[ヘリコプター]]。同じものを明智がその発明家を説き伏せて誂え、二十面相同様に装着して空中戦を挑んだ。 ;無線通信機 :小林ら少年探偵団に配り、事務所と連絡させている。 ;麻酔薬入り煙草 :内ポケットに常時麻酔薬入り煙草を二本持つ。『[[人間豹]]』では敵の一味に吸わせて監禁から抜け出した。 ==モデル・命名== 人物像として、『D坂の殺人事件』で「私」(明智の友人の無職の青年)が、講釈師の五代目[[神田伯龍#5代目|神田伯龍]]に「歩き方から、顔つき、声音までがそっくり」と語っている。乱歩は当時、まだ若かった頃の伯龍の講釈をよく聞いていた。 {{要出典範囲|date=2021年3月|明智小五郎の名は、[[武将|戦国武将]]の[[明智光秀]]とその変名とされる「荒深小五郎」から採ったとの説、あるいはこの明智と[[木戸孝允|桂小五郎]]の名を合わせたとする説がある}}。 ==登場作品== ===一般作品=== *『[[D坂の殺人事件]]』 *『[[心理試験]]』 *『[[黒手組 (江戸川乱歩)|黒手組]]』 *『[[幽霊 (江戸川乱歩)|幽霊]]』 *『[[屋根裏の散歩者]]』 *『[[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]]』 *『[[蜘蛛男]]』 *『[[何者]]』 *『[[猟奇の果]]』 *『[[魔術師 (江戸川乱歩)|魔術師]]』 *『[[吸血鬼 (江戸川乱歩)|吸血鬼]]』 *『[[黄金仮面]]』 *『[[黒蜥蜴]]』 *『[[人間豹]]』 *『[[悪魔の紋章]]』 *『[[暗黒星]]』 *『[[地獄の道化師 (江戸川乱歩)|地獄の道化師]]』 *『[[兇器 (江戸川乱歩)|兇器]]』 *『[[化人幻戯]]』 *『[[影男]]』 *『[[月と手袋]]』- 捜査の協力者として花田警部の話の中に出てくるが、本人は姿を見せずに終る。 ;その他 *『大暗室』(昭和11年)- 大曾根竜次が「名探偵・明智小五郎」の名を騙って新聞記者たちをおびき寄せる場面がある。 ===少年探偵団シリーズ=== (タイトルは[[ポプラ社]]版のもの) *『[[怪人二十面相 (小説)|怪人二十面相]]』 *『[[少年探偵団 (小説)|少年探偵団]]』 *『[[妖怪博士]]』 *『[[大金塊]]』 *『[[青銅の魔人]]』 *『[[地底の魔術王]]』(原題:『虎の牙』) *『[[透明怪人]]』 *『[[怪奇四十面相]]』 *『[[宇宙怪人]]』 *『[[鉄塔王国の恐怖]]』(原題:『鉄塔の怪人』) *『[[海底の魔術師]]』 *『[[灰色の巨人]]』 *『[[魔法博士]]』 *『[[黄金豹]]』 *『[[魔人ゴング]]』(原題:『妖人ゴング』) *『[[魔法人形]]』 *『[[サーカスの怪人]]』 *『[[奇面城の秘密]]』 *『[[夜光人間]]』 *『[[塔上の奇術師]]』 *『[[鉄人Q]]』 *『[[仮面の恐怖王]]』 *『[[電人M]]』 *『[[二十面相の呪い]]』(原題:『おれは二十面相だ!!』)『黄金の虎』(原題:『探偵少年』)を併録 *『[[空飛ぶ二十面相]]』(原題:『妖星人R』)『天空の魔人』を併録 *『[[黄金の怪獣]]』(原題:『超人ニコラ』) ===漫画作品=== ;[[高階良子]] :*『黒とかげ』 :*:『黒蜥蜴』の漫画化。1971年「[[なかよし]]」4月~8月号に連載。1999年に講談社漫画文庫で復刻した。 ;[[山口譲司]] :*『江戸川乱歩 異人館』 :*:[[ビジネスジャンプ]]掲載。※印は原作では明智小五郎登場作品ではない。 :**『屋根裏の散歩者』 :**『人間椅子』※ :**『D坂の殺人事件』 :**『魔術師』 :**『白昼夢』※ :**『お勢登場』※ :**『押絵と旅する男』※ ;[[JET (漫画家)|JET]] :*『黒蜥蜴 名探偵登場!』 :*:『黒蜥蜴』の漫画化。2002年12月 ;[[北沢バンビ]] :*『黒蜥蜴』 :*:『黒蜥蜴』の漫画化。2007年「[[Cocohana|コーラス]]」3月号・4月号 ==明智小五郎を演じた俳優== 明智小五郎は、戦前から映像作品に登場している。戦後は子供向けの「少年探偵団」物が数多く製作された。1994頃には「乱歩生誕100周年」に合わせ、相次いで初期作品が映像化された。「もじゃもじゃ頭に書生姿」の明智が登場している作品もある。 ===映画=== *[[石井漠]] **『[[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]]』(1927年、一寸法師:栗山茶迷) *[[藤田進]] **『[[一寸法師 (江戸川乱歩)|一寸法師]]』(1948年、一寸法師:酒井福助)  **『[[蜘蛛男]]』(1958年、蜘蛛男:岡譲司) *[[岡譲司]]  **『[[氷柱の美女]]』(1950年、三谷:水島道太郎)  *[[若杉英二]] **『[[怪人二十面相]] 第一部 人か魔か?』(1954年、怪人二十面相:沼尾釣) **『[[怪人二十面相]] 第二部 巨人対怪人』(1954年、怪人二十面相:沼尾釣) **『[[怪人二十面相]] 第三部 怪盗粉砕』(1954年、怪人二十面相:沼尾釣)  **『青銅の魔人 第一部』(1954年、怪人二十面相:諸角啓二郎) **『青銅の魔人 第二部 謎の夜光時計』(1955年、怪人二十面相:諸角啓二郎) **『青銅の魔人 第三部 恐怖の天守閣』(1955年、怪人二十面相:諸角啓二郎) **『青銅の魔人 完結篇 決闘獅子ケ島』(1955年、怪人二十面相:諸角啓二郎) *[[岡田英次]] **『[[少年探偵団]] 第一部 妖怪博士』(1956年、怪人二十面相:[[南原宏治|南原伸二]]) **『[[少年探偵団]] 第二部 二十面相の悪魔』(1956年、怪人二十面相:南原伸二)  **『[[少年探偵団]] かぶと虫の妖奇』(1957年、怪人二十面相:[[加藤嘉]]) **『[[少年探偵団]] 鉄塔の怪人』(1957年、怪人二十面相:加藤嘉) *[[波島進]] **『[[少年探偵団]] 第一部 二十面相の復讐』(1957年、怪人二十面相:[[小牧正英]])  **『[[少年探偵団]] 第二部 夜光の魔人』(1957年、怪人二十面相:小牧正英)  **『[[少年探偵団]] 透明怪人』(1958年、怪人二十面相:[[伊藤雄之助]])  **『[[少年探偵団]] 首なし男』(1958年、怪人二十面相:伊藤雄之助) *[[梅宮辰夫]] **『[[少年探偵団]] 敵は原子潜航艇』(1959年、怪人二十面相:植村謙二郎) *[[大木実]] **『[[黒蜥蜴]]』 **『[[江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間]]』 *[[木村功]] **『黒蜥蜴』 *[[嶋田久作]] **『[[屋根裏の散歩者]]』(1992年、郷田三郎:[[三上博史]]、[[実相寺昭雄]]監督) **『[[D坂の殺人事件]]』(1998年、蕗屋清一郎:[[真田広之]]、実相寺昭雄監督) *[[本木雅弘]] **『[[RAMPO]]』(1994年、[[横溝正史]]:[[香川照之]]) *[[浅野忠信]] **『[[乱歩地獄]]』(2005年、平井太郎:[[松田龍平]]) *[[塚本晋也]] **『[[盲獣vs一寸法師]]』 *[[仲村トオル]] **『[[K-20 怪人二十面相・伝]]』 *[[草野康太]] **『[[失恋殺人]]』(2010年、みや子:[[宮地真緒]]、[[窪田将治]]監督) **『[[D坂の殺人事件]]』(2015年、悦子:[[祥子]]、郷田三郎:[[河合龍之介]]、[[窪田将治]]監督) **『[[屋根裏の散歩者]]』(2016年、郷田三郎:[[河合龍之介]]、[[窪田将治]]監督) ===テレビドラマ=== 江戸川乱歩の小説作品を原作とし、明智小五郎を翻案登場させたテレビドラマは、舞台を現代に変えるなどしてたびたび映像化されている。ことに「少年探偵団」の登場しないアダルト層を対象とした『[[土曜ワイド劇場]]・[[江戸川乱歩の美女シリーズ]]』(テレビ朝日系)は、[[天知茂]]の当たり役となり、長期シリーズ化された。 また「少年探偵団」を主役とする子供向けドラマも、たびたびテレビドラマ化された。どちらの趣向の作品も、登場する明智は「背広姿の名探偵」である。 ※は時代設定を現代にしている *[[千葉耕市]] - 『少年探偵団 ユキ夫の冒険』(1957年) <!--この作品についてはほとんど資料が残っていない--> *[[佐伯徹]] - 『[[怪人二十面相 (1958年のテレビドラマ)|怪人二十面相]]』(1958年) <!--舞台が現代かどうかは不明--> *[[富田浩太郎]] - 『[[少年探偵団 (1960年のテレビドラマ)|少年探偵団]]』(1960年)※ *[[若柳敏三郎]] - 『少年探偵団』(1960年)※ *[[中田博久]] - 『[[名探偵明智小五郎シリーズ 怪人四十面相]]』(1966年)※ *[[溝口舜亮|滝俊介]]- 『[[江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎]]』(1970年 [[テレビ東京|東京12チャンネル]])※ *[[夏木陽介]] - 『[[明智探偵事務所]]』([[日本放送協会|NHK]])※ *[[浜田柾彦]] - 『[[少年探偵団 (BD7)]]』※ *[[南條豊]] - 『[[怪人二十面相 (1977年のテレビドラマ)|怪人二十面相]]』(1977年 フジテレビ)※ *[[天知茂]] - 『[[江戸川乱歩の美女シリーズ]]』※ *[[堀光昭]] - 『[[怪人二十面相と少年探偵団]]』※ *[[加納竜]] - 『[[怪人二十面相と少年探偵団]]』※ *[[北大路欣也]] - 『[[江戸川乱歩の美女シリーズ]]』※ *[[小野寺昭]] - 『[[黒蜥蜴]]』『[[蜘蛛男]]』 *[[郷ひろみ]] - 『[[D坂の殺人事件]]』 *[[西郷輝彦]] - 『[[江戸川乱歩の美女シリーズ]]』※ *[[伊武雅刀]] - 『[[黒蜥蜴]]』※ *[[佐野史郎]] - 『乱歩-妖しき女たち-』 *[[陣内孝則]] **[[名探偵 明智小五郎]] 『地獄の道化師』~恐怖の裸女連続殺人・愛欲の事件の陰に意外な真実が…あの名探偵が今夜よみがえる~(1994年 フジテレビ) **名探偵 明智小五郎 『吸血カマキリ』~恐怖の猟奇連続殺人・のぞかれた禁断の世界…熱い素肌に殺意が宿る~(1995年 フジテレビ) - 原作は『[[化人幻戯]]』 **名探偵 明智小五郎 『[[暗黒星 天の怒りか地の悲しみか、21年ぶりの日食の日に起きた連続殺人]]・惨劇の夜に潜むがい骨怪人の謎~』(1996年 フジテレビ) **名探偵 明智小五郎 『[[吸血鬼 (江戸川乱歩)|吸血鬼]]』~江戸川乱歩怪奇シリーズ傑作選・墓から消えた遺体と埋葬品…隠れキリシタンの里で今夜、吸血鬼伝説がよみがえる~(1999年 フジテレビ) *[[稲垣吾郎]]※ **土曜ワイド劇場 名探偵明智小五郎『陰獣』(1998年 テレビ朝日) - 原作の『陰獣』は明智小五郎登場作品ではない。 **『名探偵明智小五郎』「エレベーター密室殺人」(2000年 テレビ朝日) - 原作は『三角館の恐怖』。 *[[田村正和]] - 『[[明智小五郎対怪人二十面相]]』 *[[渡部篤郎]] - 『[[黒蜥蜴 (2015年テレビドラマ)|黒蜥蜴]]』(2015年 フジテレビ・関西テレビ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2062608/full/|title=真矢ミキ“黒蜥蜴”VS渡部篤郎“明智小五郎” 乱歩の名作ドラマ化|publisher=ORICON STYLE|date=2015-11-20|accessdate=2015-11-20}}</ref> *[[満島ひかり]] ** [[シリーズ・江戸川乱歩短編集]] 1925年の明智小五郎(2016年、[[NHK BSプレミアム]]) *** 『[[D坂の殺人事件]]』 *** 『[[心理試験]]』 *** 『[[屋根裏の散歩者]]』 ** シリーズ・江戸川乱歩短編集II 妖しい愛の物語(2016年、NHK BSプレミアム) *** 『[[何者]]』 *** 『[[黒手組 (江戸川乱歩)|黒手組]]』 *[[西島秀俊]] - 『[[名探偵・明智小五郎]]』(2019年、テレビ朝日)※<ref>{{Cite news|url= https://mantan-web.jp/article/20181217dog00m200061000c.html |title= 西島秀俊:サイバー犯罪に挑む現代版・明智小五郎に “小林君”は伊藤淳史 |newspaper= まんたんウェブ |publisher= 株式会社MANTAN |date= 2018-12-18 |accessdate= 2018-12-18 }}</ref> **変装中の明智は[[でんでん]]が演じた。 *[[永山絢斗]] - 『[[黒蜥蜴-BLACK LIZARD-]]』(2019年・NHK BSプレミアム、2020年・[[NHK BS4K]])※<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2144441/full/|title=りょう主演『黒蜥蜴』ドラマ化 明智小五郎役は永山絢斗 乱歩生誕125年 |newspaper=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2019-09-14|accessdate=2019-12-18}}</ref> ===舞台=== 『[[黒蜥蜴]]』は乱歩作品の中でもたびたび舞台の演目となった。 *[[市川小太夫]]『黒手組』 *[[芥川比呂志]] - 『黒蜥蜴』 *[[天知茂]] - 『黒蜥蜴』 *[[中山仁]] - 『黒蜥蜴』 *[[北大路欣也]] - 『黒蜥蜴』 *[[草刈正雄]] - 『黒蜥蜴』 *[[津嘉山正種]] - 『黒蜥蜴』 *[[榎木孝明]] - 『黒蜥蜴』 *[[姿月あさと]] - 『結末のかなた』(原作:『[[黄金仮面]]』) *[[名高達男]] - 『黒蜥蜴』 *[[山中崇史|山中崇志]] *[[髙嶋政宏]] - 『黒蜥蜴』 *[[斎藤晴彦]] *[[春野寿美礼]]-『[[宝塚歌劇団によって舞台化された作品の一覧#明智小五郎の事件簿-黒蜥蜴|明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴]]』 *[[松本幸四郎 (9代目)]]-『江戸宵闇妖鉤爪 明智小五郎と人間豹』 *[[小西遼生]]-[[黄金仮面]] *[[加藤雅也]] - 『黒蜥蜴』 *[[林正樹 (俳優)]]-『悪魔の紋章』『恐怖王』『黒蜥蜴』 *[[日出郎]] - 『KAIJIN20?~新・怪人二十面相』 *加藤和樹-『怪人と探偵』 *森本亮治-『RANPOchronicle蜃気楼奇譚』『PANPOchronicle虚構のペルソナ』 *柴木丈瑠-『RANPOchronicle虚構のペルソナ』 *[[矢花黎]](7 MEN 侍/ジャニーズJr.)-『モボ朗読劇 二十面相〜遠藤平吉って誰?〜』 ===朗読劇=== ■2022/6月 劇団ヘロヘロQカムパニー  「江戸川乱歩パノラマ朗読劇 5人の明智小五郎」 @こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ 演出:関 智一/野坂 実 脚本:関 智一/大石達也 【出演】 *関 智一  *置鮎龍太郎  *岩崎諒太 *那珂村たかこ *柗本和子 *飯田誠規 *大石達也 *相原美沙 *櫻井 殊 *稲垣祐希絵 *井上舞香 *光部 樹 *辻原智也 *山本翔太 *加藤絵里香 *三好拓朗 *岡田雄樹 【日替わりゲスト】 *1日(水) 浪川大輔(ステイラック) *2日(木) 畠中 祐(賢プロダクション) *3日(金) 佐藤拓也(賢プロダクション) *4日(土) 森久保祥太郎(アドナインス) *5日(日) 榎木淳弥(アトミックモンキー) ■2023/1 ノサカラボ『名探偵の継承』朗読劇「黒蜥蜴」 原作:江戸川乱歩 / 構成・演出:野坂実 / 脚本:穴吹一朗 / 1月18日 - 22日 シアターミクサ 【出演】 *1/18 18:00 福圓美里、明坂聡美、野島健児、梶原岳人 *1/19 18:00 桑島法子、明坂聡美、佐藤拓也、今井文也 *1/20 13:00 名塚佳織、能登麻美子、吉野裕行、今井文也 *1/20 18:00 能登麻美子、大原さやか、吉野裕行、今井文也 *1/21 13:00 大原さやか、佐藤利奈、関智一、安元洋貴 *1/21 18:00 佐藤利奈、明坂聡美、安元洋貴、関智一 *1/22 12:00 釘宮理恵、福圓美里、竹内栄治、関智一 *1/22 17:00 茅野愛衣、名塚佳織、関智一、竹内栄治  ===アニメ=== *[[江角英明]] - 『[[わんぱく探偵団]]』 *[[小川真司]] - [[青春アニメ全集]]『[[屋根裏の散歩者]]』 『[[心理試験]]』 『[[赤い部屋]]』 *[[小野大輔]] - 『[[TRICKSTER -江戸川乱歩「少年探偵団」より-]]』 *[[細谷佳正]] - 『[[超・少年探偵団NEO]]』 *[[櫻井孝宏]]- 『[[乱歩奇譚 Game of Laplace]]』 ===ラジオドラマ=== *[[勝田久]] - 『少年探偵団』([[ニッポン放送]]、1955年) *[[納谷悟朗]] - 『少年探偵団』他([[ニッポン放送]]、1973、1974年) *[[広川太一郎]] - 『黄金仮面』『魔術師』他([[日本放送協会|NHK]]、1978~83年、1986~89,91年) ===ゲーム=== *[[西田雅一]] - 『[[江戸川乱歩の怪人二十面相DS]]』([[タカラトミー]]、[[2008年]]) ==パスティーシュ・パロディ== 明智が有名な探偵キャラクターであるため、乱歩以外の作家作品にもしばしば明智が登場する。 『[[黄金仮面]]』に関しては、ルパンシリーズの派生としての側面も持つため、そちらにもまとめてある。{{see also|黄金仮面#『黄金仮面』を題材とした作品}} ===小説=== * 名探偵シリーズ - [[西村京太郎]]の推理小説シリーズ。明智小五郎、[[ジュール・メグレ|メグレ元警部<!--当該作では元警部-->]]、[[エルキュール・ポアロ|エルキュール・ポワロ<!--当該作ではポワロ-->]]、[[エラリー・クイーン (架空の探偵)|エラリー・クイーン]]の4人が探偵役で登場。『[[名探偵なんか怖くない]]』、『[[名探偵が多すぎる]]』、『[[名探偵も楽じゃない]]』、『[[名探偵に乾杯]]』の4作がある。 * ''Ex Calce Liberatus'' - Matthew Baugh作の短編。''Tales of the Shadowmen'' Vol.2(2005, Hollywood Comics)所収。世界の名剣を狙う[[アルセーヌ・リュパン]]がテーマ。フォランファン刑事からガニマールへの手紙、及び明智小五郎から「心理試験」の笠森判事への手紙、それに新聞記事から構成されている。文代夫人、黒蜥蜴などの名前も出て来る。 ===テレビ作品=== * 『[[三代目明智小五郎〜今日も明智が殺される〜]]』 - 主人公が「明智小五郎の孫」という設定のオリジナルドラマ。 * 『[[明智小五郎VS金田一耕助]]』 - 明智役は[[松岡昌宏]]。 * 『[[金田一耕助VS明智小五郎]]』 - 明智役は[[伊藤英明]]。 === 漫画作品 === * 『[[ルパン三世]]』 - [[モンキー・パンチ]]の漫画作品。初期のエピソードに登場していた老人の名探偵として登場。 ** 『[[ルパン三世 パイロットフィルム]]』 - 上記エピソードをアニメ化。明智を演じたのは、[[北村弘一]]と[[高木均]]。 ** 『[[ルパン三世 PART6]]』 - 第5話「帝都は泥棒の夢を見る(前編)」・第6話「帝都は泥棒の夢を見る(後編)」に登場。『[[黄金仮面]]』の時代を舞台としている。明智を演じたのは[[鈴木達央]]。 * 『大バカ探偵 はくち小五郎』(『[[冒険王]]』[[秋田書店]]、1974年) - [[赤塚不二夫]]のパロディ漫画。ロイド眼鏡にちょび髭の中年男である。 * 『[[二十面相の娘]]』 - [[小原愼司]]の漫画作品、テレビアニメ化もされた。「明智」という私立探偵が登場する。明智役を演じた[[声優]]は[[浜田賢二]]。 * 『探偵明智は狂乱す』 - [[えすのサカエ]]の漫画作品。2017年より『月刊少年エース』連載・単行本刊行中<ref>[https://web-ace.jp/shonenace/contents/234/ 探偵明智は狂乱す] webエース(2018年3月12日閲覧)</ref>。 * 『キントトハウス』 - [[山科けいすけ]]の[[4コマ漫画]]。オムニバス形式で、諸々のストーリーに探偵「明痴小五郎」と「小林少年」と呼ばれる[[パグ]]の子犬<ref>作中で人間の言葉を話す事は無いが、人間の言葉は理解出来ている様である。 </ref> が登場する。 ===明智小五郎の孫=== 作品の舞台が昭和初期であるため、映像作品で現代に舞台を移した場合、明智小五郎の代わりに、「明智小五郎の孫」が登場する場合がある。設定などはその作品によって異なる。「明智小五郎の孫」を演じた俳優には以下のような面々がいる。 * [[藤井隆]] - 『[[乱歩R]]』三代目明智小五郎 * [[田辺誠一]] - 『[[三代目明智小五郎〜今日も明智が殺される〜]]』明智中五郎 * [[高本歩輝]] - 『[[三代目明智小五郎〜今日も明智が殺される〜]]』明智中五郎 小学生時代 ==脚注== <references /> ==参考文献== 『人間豹 (江戸川乱歩文庫)』、春陽堂書店 [[集英社文庫]]『明智小五郎事件簿 1 ~ 12』[[平山雄一 (翻訳家)|平山雄一]]「明智小五郎クロニクル」(2016年) == 関連項目 == * [[江戸川乱歩]] * [[怪人二十面相]] * [[少年探偵団]] {{江戸川乱歩}} {{小野大輔}} {{デフォルトソート:あけちこころう}} [[Category:明智小五郎|*]] [[Category:日本の架空の私立探偵]] [[Category:日本の推理小説の登場人物]] [[Category:映画の登場人物]] [[Category:テレビドラマの登場人物]] [[Category:漫画の登場人物]] [[Category:アニメの登場人物]]
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